自称カルデア最強マスターとぐだ子の人理修復録 (なまゆっけ)
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第1話 レフ・ライノールの憂鬱

 最近FGOを履修しました。ファーストミッションまでに一週間の猶予がありますが特に意味はないです。


 バルドルは美貌と叡智を兼ね備え、世界に灯明をもたらす光の神だった。

 その神は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という母神(フリッグ)の契約により、如何なる物でも傷をつけること能わぬ、不死の体を手に入れた。

 しかし、世界各地の伝承において、不死とは得てして破られる運命を背負っている。

 アーサー王、ジークフリート、アキレウス、カルナ……数多くの英雄が不死性の陥穽を突かれ、その人生に幕を引いた。そしてそれは、神であるバルドルでさえも逃れることはできなかった。

 ミストルティン──若すぎるが故に契約を外れたヤドリギが、並ぶ者無き美神に死を与えたのだ。

 ロキの策略により、盲目の神ヘズが投擲したヤドリギの矢。バルドルを失った世界からは光が消え、やがては神々の黄昏が訪れる。

 神の命を絶った、罪深きヤドリギのその後を示す記述はない。当然、矢を拾った人間のことも。全ては時間の波に流された。

 

 

 ──だから、何としてでも伝えなくてはならない。何としてでも残さなくてはならない。

 其は神代の秘蹟、奇跡の具現。

 いつか神秘が消え失せるその時まで。

 未だ見ぬ子孫の人生をも犠牲に、この聖枝を護り抜こう。

 

 

 それが悠久の時を刻む守り人の家系、ナーストレンド(死者の岸)家の興りであった。遥か過去の神秘を現代まで伝えきった、数少ない一族のひとつだ。

 ……とは言うものの。魔術師として彼らの実力を見るならば、精々二、三流が良いところだ。先祖の中には、基本とされる『強化』の魔術すらできない者もいたほどである。1000年の歴史もそれでは看板倒れ。単純な魔術の腕前は、平凡な家系の魔術師にも遥かに劣るだろう。

 彼らはヤドリギの強奪を恐れて、自らの魔術工房に千年単位で引き籠もり続けた。外部の血を度々取り込みつつも、ほとんどは近親婚。それ故に一族の魔術、体質が変容し、通常の魔術には適さない家系となってしまったのだ。

 しかも、それだけではない。外界を遮断し続けたことで、他の魔術の知識を更新できなくなった。

 魔術師は研究を秘匿する。それでも共有される基本的な手法というのは、時代の流れの中で発展し、改良される。だが、ヤドリギの継承しか考えていない引き籠もり達がそんなものを知るはずがない。そのため、彼らの研究の歩みは周回遅れとなったのである。

 ところが、偶然か必然か、優れた才能は停滞期に生まれる。自家の魔術を進歩させ、既存の魔術基盤との融合を実現した奇才──彼こそが、暗黒の未来より世界を救う最強のマスターであった。

 

「そういう訳でカルデアで雇ってくれませんか。とりあえずレイシフトAチームのリーダー辺りでお願いします。もし採用されなかったら暴れるんで」

「レフ、この馬鹿を一刻も早く叩き出しなさい」

 

 人理継続保障機関フィニス・カルデア。人類の未来を繋ぐため、魔術と科学の粋を結集して創り上げられた組織である。場所は遥か南極大陸、標高6000メートルの山の地下に居を構えている。

 世界レベルの重要機関であるカルデアの一室を貸し切り、カルデア所長と顧問による面接が行われていた。それだけでも異例と言えるのだが、相手もまた異例と言えるだろう。

 神代からの長ったらしい自己PRを終えたのは、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド。北欧はデンマークの出身。頭髪から眉毛、睫毛に至るまで白く、碧い瞳の青年だった。その身長は190cmはあるが、なぜか中学二年生じみたデザインの軍服風の礼装を身に纏っている。

 カルデア所長のオルガマリーは魔術において、非凡な才能を有している。その辛口な鑑識眼をしても、彼の礼装が逸物であることを認めざるを得なかった。

 が、所長が抱いていた期待は今のやり取りで彼方へ吹き飛んだ。面接の自己PRなど盛った者勝ちではあるが、ノアトゥールのそれは常軌を逸している。

 レフ、と呼ばれた紳士風の男は、困ったような表情を繕う。

 

「人格はともかくとして、魔術回路の質・量ともに彼はカルデアでも貴重な逸材だ。レイシフト適性もあるようだし、手放すには惜しい人材と言える」

 

「人格が伴ってない人材をどう使うのよ。それにしても時期が悪すぎるわ、この後説明会もあるっていうのに」

 

 さらに、カルデアは一週間後に計画の山場を控えている。所長は胃痛の疼きを感じた。

 そんな二人を嘲笑うかのように、

 

「あの、アットホームな職場って聞いたんですけど、募集要項の見間違いですかね」

「どこで見たのよ誰から聞いたのよ!? 」

「さっき廊下で会ったムニエルって人からですね。あっ、残業は月最高20時間ですよね」

「んな訳あるか! カルデアは残業月100時間は余裕で超えるブラック企業よ! 人理修復ナメんな!!」

 

 口調をも捨て去った激しい圧迫面接を受け、ノアトゥールは頭を抱えた。

 

「む、ムニエル……!! 許せねええええ!! 月100時間超えとかブラック通り越してRXだろうが! 続編始まってるじゃねえか!!」

 

 カルデアは秘匿機関ながらも国連に籍を置いている。が、人類の未来を保障するという大義を遵守するため、一般職員であっても多大な労働が課せられるのだ。

 国連というホワイトな職場を連想させておきながら、実態は水底の如きブラック。魔術界のニートであるナーストレンド家はブラック企業の定型句を知らなかったのである。

 レフは深く考え込む素振りをして言う。

 

「ふむ。ちなみに君は自分を物に例えると何だと思う?」

「レフ? この期に及んで面接官ヅラしなくていいから。どうせ潤滑油とかそんなところでしょう、こんな男の答えなんて」

 

 流石はカルデア顧問といったところか、己の胃痛を避ける術には長けていた。相手の知能レベルに合わせることで、ツッコミ役を所長に押し付けたのだ。

 ノアトゥールはレフの目を真っ直ぐ見据えた。

 

「サラダ油です」

「なにちょっと外してきてるのよムカつくわね。あんたでギトギトになったカルデアなんて想像したくもないわ」

「そんな時にこそ、所長という油取り紙が役に立てるのかな、って」

「それ油取る時以外には使えないって言ってる? ぶっ殺すわよ」

 

 思わず身を乗り出しかけた所長を、レフはどうどうとたしなめた。長い付き合いなのか、手綱の握り方は心得ているようだ。

 レフが所長に耳打ちする。大きなため息をついた後、所長はノアトゥールに向き直る。こめかみにはまだ青筋が浮かんでいるがご愛嬌だろう。

 こほん、と前置きして、所長は沙汰を言い渡した。

 

「あなたをレイシフトEチームのリーダーに任命します。ファーストミッションは待機。研鑽に励みなさい。これで面接は終わりよ。とっとと出ていけクソ野郎」

「え、E? なにそれ? Aの言い間違いとかじゃなくて?」

「すまない、そういうことなんだ。南極に放り出されなかっただけ僥倖だと思ってほしい」

「ちょっ、何やってんだよ所長ォォォ!!!」

 

 抵抗する間もなくノアトゥールは面接室から放り出される。出る杭は打たれる、とよく言うが、彼は出る前に打たれたのであった。

 そして、北の問題児あれば、東の問題児あり。

 オルガマリー所長の説明会、もといストレス発散は散々な結末に終わった。

 悠々と遅刻をかましたのは極東の一般人、藤丸 立香。一番前というやんちゃなガキ大将でも大人しくなる席に着きながら、彼女はレム睡眠を始めたのである。

 所長は積もり積もったフラストレーションを晴らすかのように熱弁を振るったが、睡魔の前にはASMRに等しかった。魔術などかなぐり捨てた本気の平手打ちが立香を襲い、説明会は締め括られたのだった。

 張り手をくらった上にファーストミッションからも外された立香だが、幸運が残されていた。それはマシュ・キリエライトというできる後輩がいたことであろう。マシュは撃沈した立香を彼女の個室に運ぶことを買って出たのだ。

 道中でカルデアのマスコットキャラクターこと謎生物フォウくんをパーティに加え、部屋に辿り着いたかと思えば、

 

「やっぱサラダ油とか言ったのが駄目だったんだなアレ。ヘルシーに行こうとしたのが間違いだったか……変に外さずに潤滑油でいっときゃなぁ……」

 

 扉の前で体育座りで愚痴を垂れ流す大男がいた。

 当然だが、男が落ち込んでいる事情などマシュは知らない。傍から見れば、変人以外の何物でもない。

 軽い呪術にも見えそうな様子に、立香もただならぬ背景を察した。ちなみに眠気は所長の一撃で吹き飛んでいた。

 

「あのー、辛いことでもあったんですか?」

 

 先陣を切ったのは東の問題児。対人関係の豊富さなら、この場ではダントツでトップである。

 

「いや、面接でやらかして……どうやら所長を怒らせたらしい」

「あ、それなら私もですよ。あの人の目の前で寝ちゃって、ビンタくらいました」

「マジか、俺以外にもそんな奴がいるんだな! もしかして、ファーストミッションからも外されてたりするのか」

「ええ、もちろん! なんだか私たち気が合いそうじゃないですか?」

「「アハハハハハ!!」」

 

 この時、マシュは心からの同情を所長に捧げた。カルデアには個性的な人物が多いが、所長を最も苦しませたのはこの二人をおいていないだろう。

 マシュがふと注意を戻すと、二人は通路のど真ん中で体育座りをしていた。

 

「はあ~、やっちゃったぁ……国連の職員になってエリート街道まっしぐらだと思ったのに……」

「大体潤滑油ってなんだよ人の仲を取り持とうって時点で他人によく見られたい魂胆が見え透いてんだよ40歳過ぎた組織の潤滑油とかもはや悲惨だろお前のそのヌルヌルの手じゃ誰も救えねえよ」

「そろそろ切り替えてもらって良いですか。同じくだりはもうしましたし、一向に物語が進む気配がありません!」

 

 マシュの一喝により、問題児共はしぶしぶ立ち上がる。すると、無人だったはずの個室のドアが開かれた。

 どことなく軽薄そうな男が、ニヤケ顔を浮かべながらスキップ気味の足取りで出てくる。

 

「うっ、ふぅ……息抜きも終わったし、仕事にもど──」

 

 三人と目が合う。反射的に視線を外した瞬間、彼のほんわかした頭はかつてないほどに回転した。

 

(最後の空き部屋。新人マスターの女の子。その個室から意気揚々と飛び出した不審者…………)

 

 恐る恐る、各人の顔色を伺う。立香は笑顔を取り繕い、

 

「えーと、そこ、私の部屋だって聞いてたんですけど」

 

 ノアトゥールは意地の悪い笑みで、

 

「息抜き? 抜いてたのは別の──ぐわああああ!?」

 

 最低の発言を遮ったのは、フォウくんのロケット頭突きであった。マシュは床に倒れ込んだ白髪男を、養豚場のブタでも見るかのように冷たい目で見下ろした。

 

「……とりあえず、このとっ散らかった状況をどうにかしましょうか」

「うん、そうだね。ボクも弁明したいし。一応そこでのびてる彼も起こしてあげようか」

 

 

 

 現在のカルデアは忙しい。どれくらい忙しいかと言えば、働き過ぎて残業の概念が無くなるほどだ。

 だがそれは一般職員の話。カルデアが世界中から掻き集めたマスターたちは、労働基準法を守るくらいには良い待遇を受けている。来たる人理修復の主戦力を消耗させることを避けるためである。

 カルデアの食堂。昼時ではあるものの、人口密度は低かった。多くの人員が激務に追われているからだろう。

 なお、彼らにそんなことは関係なかった。空の食器をよそに駄弁り散らかしている。

 

「ボクはロマニ・アーキマン。みんなからはDr.ロマン、なんて呼ばれてる。さっきはサボってただけで、何もいかがわしいことはしてないからね」

「それはそれでどうかと思います。こんなのでもカルデア医療部門のトップを務めています。できる限りお世話にならないようにしてください」

「むしろ最大の被害者はボクだと思う。残ってるのはあの部屋しかなかったのに……」

 

 かなりの要職に就きながらも、この緩さ。立香は戸惑いつつも訊いた。

 

「こんなところで呑気にごはん食べてて良いんですか?」

「それについては問題ないよ、みんなボクより優秀だから」

 

 問題しかなかった。マシュもツッコミを放置して、どこか遠くへ視線を送っている。

 立香はノアトゥールへと向き直った。

 

「そ、そういえば名前を聞いてませんでしたね」

「ああ。ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドだ。ノア、でいい。こんなのでもEチームのリーダーを務めている」

「なんて低レベルな対抗心なんでしょう……」

「やめろ、そのツッコミは俺に効く」

 

 未だに現実逃避を続けるダメ人間がここにいた。落ち込む彼を、ロマニはたしなめる。

 

「まあまあ、その分サボれると考えれば役得じゃないか」

「確かに。Aチームの奴らの足でも引っ張ってくるか」

「それをわたしの前で言った時点で、その野望は潰えた訳ですが。ノアさんはともかく、先輩は全てにおいて素人なので、まずは知識を付けるべきかと」

 

 ノアと立香、二人の決定的な違いは魔術への造詣の深さだろう。両者ともカルデアには無知だが、魔術の知識に関してはノアは一家言を持つ立場だ。

 

「藤丸は元一般人だったんだろ、色々と疎いのは仕方ない。……が、それではEチームリーダーとしての沽券に関わる。という訳で鍛えるぞ」

「それは良いんですけど、私っていつからEチームになったんですか!?」

「所長にはり倒された時でしょう。人事部を通して連絡が来るはずです」

「しっかり正式な手順を踏んでのEチーム配属だった……!?」

 

 でも、と立香は付け加える。

 

「魔術……って、私の想像する限りでは、一朝一夕の修行じゃあどうしようもない気がするんですけど」

 

 その言葉は的を射ていた。魔術の世界で物を言うのは、何を置いても『時間』に尽きる。家の歴史、神秘の古さ、鍛錬に費やした年数。一握りの才能がこれらを凌駕することはあるが、例外は少数だからこそ例外なのだ。

 

「そんなあなたにカルデア式礼装! 魔力を通すだけで魔術が使えちゃう! カルデア技術班が寝る間も惜しんで開発した優れ物さ! ボクは全く関わってないけどね!!」

「やったぁ! 魔術なんてちょろいですね! EチームのEはエリートのEだってところを見せてやりますよ!」

「その意気だ藤丸ゥ! ガンドくらいなら人に当てても俺が許す!!」

 

 マシュはツッコミを放棄した。この異常なテンションについていく気力を持たなかったのだ。

 彼女はすごすごとその場を後にしようとする。

 

「では、わたしはこれで」

「なに言ってんだ、おまえも来るんだよ」

「……はあ、教師役は一人で十分なのでは?」

 

 首を傾げるマシュ。言動とは裏腹に、ノアからの提案は断り難いものがあった。

 マシュ・キリエライトはカルデアで産まれ、カルデアで育った少女である。そんな彼女にとって、新しい顔触れは珍しい。特に、魔術師でもなく、技術者でもない藤丸立香という人間は初めて遭遇する人種だ。

 真っ当に産まれ、真っ当に育ってきた少女。何もかもが正反対。マシュにとっての普通は、立香からすれば特殊に見えるだろう。逆もまた然りである。

 故に、興味を抱いた。

 

(もう少しだけ、一緒にいたい)

 

 そんな欲望が生まれるのは当然で。

 ノアはそれを察したように微笑した。

 

「いや、俺らだけだとどこで練習すればいいか分からないだろ。絶対迷う。100クローネ賭けてもいい」

 

 妙にしょっぱい賭け金だった。

 

「え、それだけですか? 」

「それだけだな。あ、なんなら手伝ってくれてもいいぞ。いらないだろうがな。俺天才だし」

「………………」 

 

 この男に人の気持ちを慮れと言う方が無茶だということを、マシュは痛感した。

 更なるサボりの余地を見つけたロマニは柔らかな笑顔で、

 

「じゃあボクも手伝──」

「「「働け」」」

 

 

 

 結果的に言うと、ノアは役に立たなかった。というより、マシュに教師役を乗っ取られた、と言ったほうが正しい。

 

「いいか藤丸。こういうのは日本の諺にあるように、習うより慣れろだ。礼装に魔力を流し続けて、その感覚を身につける」

「へぇー…………なんか、どんどん力が抜けていく!? めまいと頭痛がしてきました!」

「それは魔力が枯渇していく感覚だな。補給する方法はあるから、とりあえず五回くらい気絶するまでやっ──」

「フォーウ!!」

 

 言い切る前に、どこからともなく現れたフォウくんのドロップキックがノアの鳩尾に炸裂した。

 

「うごおおおおお!!!??」

 

 ノアはエビのように背を丸め、悶絶する。その上から、南極の氷よりも冷ややかなマシュの声が浴びせかけられる。

 

「馬鹿ですかあなたは。先輩、この人の話は聞かなくて良いです」

「ま、待て待て、初心者は魔術の怖さを身をもって知るほうが先だろ」

「いつの時代の指導法ですか? 口頭で十分です。し、しかも魔力供給なんて……不潔です!」

「少なくともおまえが考えてるようなR-18な行為はしねえよ! ヤドリギの種を()()に……」

 

 ぴくん、とマシュの耳が動いた。

 

「種を()()に……!? 立派な隠語じゃないですか! R-18じゃないですか! わたしが考えてるような行為じゃないですか!」

「駄目だ、こいつ頭がピンクすぎる。実際はなすびみたいな色してるのに」

 

 レンコンくらい中身のない会話をする二人に、一転鬼気迫る声音が届く。

 

「あの、意識が遠くなってきました! お花畑が見えます助けて!」

「生命維持に関わるほどの魔力は取られないようになってる。安心して気を失え」

「阿呆ですか!? 先輩、今止めます!」

 

 というように、時代遅れのスパルタ特訓は否定されたのだった。ただし、それが立香にとって良い方向に働いたかと言えばそうでもない。

 元々、魔術の訓練など過酷であって当然なのだ。この世の大多数の人間にとって、それは外法なのだから。その点ではノアの主張は間違っていなかった。

 それを踏まえて、彼らは役割を分担した。アクセルを踏むノアと、ブレーキを掛けるマシュ、といった風に。どちらもベタ踏みだったことは言うまでもない。

 不思議と、この方法は功を奏した。立香も未知の技術に触れ、興が乗った結果、

 

「22時48分……」

 

 年頃の少女には辛い時刻になっていた。相変わらずカルデアの職員は辺りを駆けずり回っているが。

 

「主に誰かのせいで時間を浪費しましたからね」

「誰のことだか見当もつかねえな」

 

 この男、本気で言っている。それに気づいたとき、立香とマシュは軽く引いた。

 

「もう夜も遅いですし、そろそろ休みましょうか」

「そうだね。リーダーも早く寝た方が良いですよ」

「そうしたいのは山々なんだが……ロマニが残ってたのは藤丸の部屋だけ、みたいなこと言ってたよな?」

 

 青ざめた表情で切り出すノア。その顔は、珍しく真に迫る焦燥を抱えている。

 

「それがどうしたんですか?」

 

 立香は首を傾げた。

 

「俺は何処で寝ればいいんだ」

 

 立香とマシュは顔を見合わせ、

 

「「…………お疲れ様でした~」」

「待てェェ!! 何その退社間際のOLみたいな反応!? 俺を見捨てるなァァァ!!!」

 

 

 レフは予定されていた業務を終え、自室に戻ろうとしていた。優秀な彼にとってカルデアの仕事は特段難しいものではない。ただ数が多いだけで、それが彼の精神に影響を与えるというようなことは一切無かった。

 そう、たとえノアというイレギュラーが発生したとしても。

 

(神を殺したヤドリギの所有者……処分する人間がひとり増えただけだ。問題はない)

 

 神代の奇跡の残り香、とでも表現すれば聞こえは良いだろう。いかにも好事家が飛びつきそうな話だ。しかし、今この時代において神を殺すなどという剣呑な性質は何ら役に立たない。

 古代の英雄王(ギルガメッシュ)が天との決別を告げた時から、もしくは哲学者(ニーチェ)が旧時代的観念の滅亡を唱えた時から、この地平より神は駆逐されたのだから。

 レフがこれより執行する計画の前には、ノアは路傍の石にも劣る重要度だ。故に恐れるに足らず。レフは意気込み、自室に入る。

 そこには、

 

「お邪魔してまーす」

 

 他人のベッドの上で土足で寝そべりながら、酒を飲み散らかすモラル崩壊男(ノアトゥール)がいた。ちなみに、酒はレフの所有物であり、20年物のワインだった。他にも既に開けられたであろう瓶が辺りに転がっている。

 

「……ここで何を?」

「俺の部屋が無いんだから仕方ない。ああ、おまえは床で寝ろよ」

(よし、こいつだけは念入りに爆殺する)

 

 今ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。怒りに震える拳を握り砕かんばかりに諫め、レフは固く心に誓ったのだった。

 残り六日、自室を占領されることも知らずに。




 ノアくんは性格がゲロ煮込みうどんなのでひとりで人理修復を果たせる器ではありません。


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第2話 キリシュタリアの3分クッキング

 カルデアは人理保障のため、数多くの機能を有する一大施設である。名目上は研究施設なのだが、その防備の堅さは並の要塞を遥かに超えていた。

 人類の歴史を護る箱舟。カルデアにはまた、古今東西の超一級資料を収める図書室がある。そこには一般的な娯楽小説や漫画から、文学者歴史学者たちが喉から手を出して欲する文献が保管されている。

 今日も、彼女は本の頁を手繰っていた。

 (あくた)ヒナコ。人理修復の最精鋭、Aチームのひとり。ここで本を読みあさることが、彼女の日課だった。

 音のしない空間で、古書の匂いに包まれながら空想の世界へ身を投じる。まるで、誰かがいない寂しさを紛らわせるように。

 しかし、そんな時間は六日前に終わりを告げた。

 

「今日は楚漢戦争ですね。お二人はどの程度ご存知ですか?」

「「キングダムの後の時代」」

「……な、なるほど、間違ってはいません」

 

 隣の机を占領する三人組。ヒナコにとって、ひとりはよく見慣れているが、残りはまさしく六日前に初めて見た人物だった。

 

(今日もまた始まった…)

 

 マシュが教師役となった歴史の授業。生徒役は先日まで一般人だったという藤丸(ふじまる)立香(りつか)と、聞いたこともない家系の魔術師ノアトゥールである。

 この情報すらも偶然耳にしたのみで、ヒナコが調べたわけではない。だというのに耳に入ってくるということは、それなりに話題になっているからに違いない。

 なぜなら、藤丸立香という少女はマシュの鉄面皮を引き剥がし、ノアはあろうことかレフの部屋を完全に我が物としていたからだ。

 ノアという男だけ毛色が違う、とヒナコは思う。良く言えば唯我独尊、悪く言えば馬鹿。そんな評価を彼女は下していた。割合としては後者が九割ほどであった。

 それはそれとして。ヒナコにとって今回の授業は、個人的に興味深いものがあった。その眼は紙に印刷された文字を追ってはいるが、大半の意識は聞き耳を立てることに割かれている。

 

「そもそもは始皇帝の死後、趙高(ちょうこう)という宦官が実権を掌握したことが始まりで――」

 

 マシュの語りは非常に聞き取りやすいものだった。知識を頭に入れるだけでなく、体に染み付くまで昇華した証だ。

 随分と様変わりしたものだ、とヒナコは思う。

 

「……こうして、秦最後の名将章邯(しょうかん)韓信(かんしん)によって討たれました」

「秦のために戦ったのに恨まれるなんて悲しすぎる……!!」

「せ、先輩がそこまで肩入れしていたとは…」

 

 少なくとも、マシュ・キリエライトという人間はあんな苦笑を浮かべる人物ではなかった。

 

「このように、謀反を計画した韓信は命を落としました。劉邦(りゅうほう)を天下に導いた稀代の軍略家の最期としてはあまりに呆気ないと言えるでしょう。もっとも、謀反は捏造であったという話もありますが」

「国士無双の英雄、か。俺と通じる所があるな」

「白昼堂々と寝言ですか? 仮眠でも取ります?」

 

 ……少なくとも、マシュ・キリエライトという人間はあんな毒舌を飛ばす人物ではなかった。

 

(…………そうよね?)

 

 相手が相手なので言い切ることはできなかった。陸上選手と戦闘機では後者の方が速いに違いないが、前者の足が遅いとは言えないだろう。

 つまりはそういうこと。マヌケ面であんなことを言われれば誰だって同じような反応を返すのである。しかし、以前のマシュであれば、どう対応したのかは分からない。感情を表に出すことすら稀だったのだから。 

 故に、少女の変化は好ましくもあった。心が抱えておける不満には限界がある。溜め込んで決壊するよりは、吐き出してしまえる方がマシだ。

 

(何様のつもりなのかしら、私は)

 

 心には限界がある。芥ヒナコは、自分の心がとうの昔に決壊していることを知っていた。だが、塞き止める壁も無いというのに不満は積み重なっていく。

 濁流と化した想いは行き場を失っている。そこから彼女を救い出せる者もまた、今の世界には居ない。

 そんな自分がいやしくも睥睨するかのようにマシュ・キリエライトという人間を解釈している。なんて傲慢。矛盾している。

 堂々巡りの自己嫌悪に陥っていると、マシュの授業が終わっていたことに気付く。

 

「にしても、リーダーが歴史に詳しくないのは意外でした」

「義務教育受けてないし、家にそういう本も無かったからな。それを言うなら、藤丸は最近まで学生だったんだろ。どうして俺と同レベルの知識量なんだよ」

「ふっふっふっ、知ってますか? 暗記系のテストは一夜漬けしとけばそうそう悪い点は取らないんですよ。その代わりすぐ忘れますけどね!」

「意味ねえじゃねえか」

 

 ヒナコはカルデアのマスターの質の低下に危機感を覚えた。一方で、悩みも何もなさそうな会話に、憧れにも似た感情を抱く。

 

「まあでも…アレだな」

「なんですか、はぐらかすみたいなこと言って。リーダーらしくないですよ」

「先輩に同意します。モラル崩壊系男子の癖に何を戸惑うことが?」

 

 しばしの間を空けて、ノアは言う。

 

 

項羽(こうう)って色々とお粗末だよな。あくまで結果論だが、范増の言う事聞いてれば勝ってただろ」

 

 

 瞬間、飛来した本がノアの側頭部に突き刺さった。

 

「ギャアアアアアア!!?」

 

 ドクドクと血を垂れ流しながら、辺りを見回すノア。そして、ちょうど横の机にいたヒナコと目があった。

 

「「…………」」

 

 気まずい沈黙が流れる。視線の応酬はほんの一瞬。先に視線を外したのはノアの方だった。

 何食わぬ顔で向き直り、

 

「何がお粗末って、第一に人を殺しすぎたところだ。無駄な恨みを買ったせいで後の滅亡に繋がる訳なんだからな」

 

 そして、当然のように第二撃が飛んだ。

 華奢な体の何処にそんな力があるのか、飛翔する本はメジャーリーガーの剛速球と見劣りしない速度で標的に吸い込まれる。

 

「それに褒賞をケチったのも禍根を残した。将としては文句なしに最強だが、政治家としての才能は無かったようだな」

 

 またもや次撃が放られるも、ノアは微動だにしなかった。頭に本が刺さったその様相はもはや前衛芸術と化している。

 

「後は――」

「まだこのシステムが分からないんですか。馬鹿なんですか。顔面がとんでもないことになってるんですが」

「リーダー。とんでもない項羽ファンがいますよ。ここは褒めておいた方がいいですって」

 

 犯人は火を見るより明らかである。それでもノアが論評を止めなかったのは、負けず嫌いが発症したせいだろう。正直、何と戦っているのかは誰にも分からないが。

 肩を怒らせたヒナコが、どすどすと足音を立てながら三人組に近づいてくる。

 

「項羽様は最強で最高でつよくてかっこいい無敵の英雄よ。誰にも文句は言わせはしないわ!」

「いや、欠点の無さで言ったら光武帝だろ」

「はあ!? ジャンルが違うじゃない! ギャグ漫画とバトル漫画の登場人物同士を戦わせるほどの暴挙よ、それは!!」

「あの、強さ議論は悲しみしか生みませんよ!」

 

 思わず立香が止めに入るが、

 

「黙りなさい! いいわ、これから嫌というほど項羽様の魅力を思い知らせてやるわよ!!」

 

 そんな雑音は届いてすらいなかった。

 闖入者の出現に、三人は目を合わせる。

 

「そもそも誰だよ」

「確かに。でもすごい美人さんですよ」

「私と同じくAチームに所属している芥ヒナコさんです。本を嗜むのが好きな物静かな方だったはずなのですが……」

 

 どこが? というのが立香とノアの感想だった。そんな感情を込めた二人の視線を受け、マシュはさっと顔をそらす。デキる後輩といえど及びもつかないことはあるのだ。

 その後の語りは留まることを知らなかった。平時の姿からは想像もできない饒舌さで話を進め、異様な熱気を察した人々は図書室から去っていく。

 

「まず、項羽様とわた……虞美人(ぐびじん)の馴れ初めは――」

「おい、聞いたこともない話が出てきたぞ。出典はどこだ」

 

 虞美人の情報はとても少ない。彼女にまつわるエピソードは後世の創作であることが多く、その生涯は謎に包まれている。

 そんな中でヒナコがした虞美人の話は、真実であれば研究者が狂喜乱舞し、学会を震撼させるほどの情報であった。とは言っても、彼女の話はほとんどが項羽にまつわるものだったが。

 ノアの反論、もといイチャモンは全て封殺され、ただただ項羽の素晴らしさを頭に流し込まれる。

 6時間にも及ぶ演説の結果、

 

「はい、人類史最強の武将は?」

「……項羽様です」

「リーダーが洗脳された!?」

「こっちの方がマシですね」

 

 マシュの鋭い一言に、立香は妙に納得してしまうのだった。ノアはなにやらもごもごと口を動かすと、白目をむいて仰向けに倒れた。

 立香は何気なく、手元の腕時計を見る。

 

「も、もう19時……明日ってファーストミッションの日だよね。マシュと、ヒナコさんは準備とかしなくていいんですか?」

「今更私たちがすることなんて何もないわ。裏方は今が一番忙しいでしょうけど」

「そうですね。しいて言うなら調子を整えておくくらいでしょうか」

 

 現在絶賛気絶中の男がいるのだが、そもそもミッションから外されているので何も問題はなかった。

 立香はどうしたものかと思案する。気絶した人間を無理やり起こすのは良くないと聞く。医務室にでも連れて行くのが良いのだろうが、ノアは190cmもある男性だ。女子だけで運ぶには辛いものがある。

 放置しようか。そんな考えが浮かび始めた途端に、ノアはむくりと起き上がった。

 

「腹が減った」

「……リーダーが幼児退行を起こしましたね」

 

 まるで小学生である。しかし、それも無理からぬことだろう。なにせ6時間も話を聞かされていたのだから。

 異常な回復の早さに、立香は戸惑いつつも、

 

「それもそうですね、あっ、ヒナコさんもご一緒にどうです?」

 

 意表を突かれ、ヒナコはぎょっと固まる。

 

「わ、私は止めておくわ。読みたい本もあるし」

「まあまあ、そう言わずに!」

「ちょっ、離しなさい! 対人距離の詰め方イカれてるんじゃないの!?」

 

 

 

 そんなこんなで。

 一行は食堂の前にやってきたのだが、どういう訳か人っ子ひとりいない状況だった。

 食堂の扉にデカデカと張り紙がしてあった。そこに書かれた文面を、立香が読み上げる。

 

「『料理人が全員倒れたので臨時休業とします。休憩室としてお使い下さい』……え、何この学園祭みたいなノリは」

「こんなんで良いのかカルデア。他人の腹も満たせない奴が世界なんて救えるわけねえだろ」

「今回ばかりはリーダーに同意せざるを得ませんね。アン●ンマンを見習ってほしいです」

「全く隠せてないんだけど。誰がどう読んでもアンパンマンじゃない。●が逆にメタファーになっちゃってるじゃない」

 

 明らかに取ってつけたような休業の理由に、各々文句を垂れる。そうは言いつつも、誰も自分が作ると言わない辺り料理スキルの低さを表していた。

 とはいえ、彼らもそれなりに空腹だった。四人が口を閉じると、当然沈黙が訪れる。

 俗に言う無言の圧力。誰かがどうにかしろ、という醜い争いが水面下で行われていた。

 そんな状況を打開したのは思いがけぬ人物だった。

 

「……こんなところで何をしている?」

 

 突如、沈黙が打ち破られる。彼らが振り返った先にいたのは、細剣のような杖を持った金髪の美青年。もとい、キリシュタリア・ヴォーダイムである。

 立香とノアがカルデアに来てから約一週間、彼の名前を聞かない日は無かったと言って良い。なにしろ彼はAチームのリーダーで、時計塔でも別次元の才能を示した男だ。

 対するノアはEチームのリーダー。それも1000年以上も引き籠もっていた家系の正体不明の魔術師である。キリシュタリアには並々ならぬ感情を抱いているだろう。

 一方立香は、何だかよく分からないけどすごい、という一般人然とした感想を持っていた。科学を志していない人間が、アインシュタインの相対性理論のどこがどう凄いのかは理解できないのと同じだ。

 最初に口を開いたのはノアだった。意外なことに、その口が吐くのは恨み言ではなかった。

 

「丁度いいところに来たな。メシ作ってくれ」

 

 完全に頼む人間を間違えているとしか思えないノンデリカシー発言だった。

 

「リーダー、それは流石にまずいんじゃ……」

「ふ、良いだろう。手ずから料理を作るのは久しぶりだ」

「えぇ!? 良いんですか!!?」

 

 立香はひとり翻弄させられる。同じAチームに所属するマシュとヒナコはと言えば、信じられないようなものを見る目つきでキリシュタリアを見ていた。

 誘われるままに食堂の席に着かされる。キリシュタリアはてきぱきと準備をしながら、まるで一流の執事のように訊く。

 

「アレルギーなどはあるか?」

「な、ないです」

 

 そう言うと、厨房の裏へ引っ込んでしまう。

 しばらくして軽快な包丁の音や鍋を火にかける音が聞こえてくる。すると、ノアを除く三人は矢継ぎ早に喋り出した。

 

「よりにもよってキリシュタリアに作らせるとか、あんたどんな神経してるのよ」

「ヒナコさんの言う通りですよ。しかも初対面の人に頼むとか、私たちEチームの評判がまた下がりますよ」

「先輩には大変気の毒なのですが、Eチームはもはや評判どうこうではなく終わっています。もはや息をする死体です」

「私の後輩が辛辣すぎる」

 

 ノアは目を細めながら言う。

 

「待てお前ら、あいつとは初対面じゃねえ」

 

 それを聞いて、マシュと立香は思わず声を揃えて、

 

「「引きこもり魔術師なのにですか?」」

「はっ倒すぞ」

「あんたら仲良いわね」

 

 ノアが言うにはこういう経緯だった。

 ……事は二日前の深夜。いつものようにレフ秘蔵の酒を飲み明かしていたノアは、気付けば、何故か半裸で見知らぬ廊下に放り出されていた。

 

「……なんで半裸? 何故かも何も犯人はレフしかいないでしょう」

「ヒナコさん、いちいちツッコんでたら話が終わりません」

「そ、そうね」

 

 人が寝付く深夜、カルデアでは節電のため一部施設の電源が落とされ、廊下の照明も薄暗くなり、暖房の温度も下がることがある。淡く光が照らす廊下を、ノアは酒瓶片手に徘徊していた。

 しばらく歩いていると、体の芯が固まるほどの悪寒が襲ってくる。

 

「いやー、アレは怖かったな。理由も分からないし」

「半裸で夜徘徊なんてしてたら体が冷えるに決まってるでしょうが!? というか完全に不審者じゃない! もし遭遇してたらと思うとゾッとするわ!」

「悪寒だけにな」

「全然うまくないわよ! そのしたり顔をやめろ!」

 

 とにかく体温を確保するために、隅に体育座りの姿勢で座り込んでガタガタと震えるノア。そんな折に舞い降りた救世主がキリシュタリアだった。

 聞けば、手隙の彼は他の部署の仕事を手伝っていたらしい。憔悴…泥酔していたノアはキリシュタリアの介抱を受け、しばし魔術談義に花を咲かせたという。半裸で。

 そこまで聞き終え、マシュは率直な感想を口にした。

 

「憎きAチームのリーダーとよく仲良くなれましたね」

「悪いのは所長だからな」

「そうさせたのはリーダーじゃないですか。自業自得ですよ」

 

 ぐさりと立香の胸に言葉の刃が突き刺さった。マシュの思わぬ流れ弾をくらった彼女は、ふと雑音に耳を傾ける。

 鍋を何度も振り回す音。察するに火力は相当強い。嗅覚を研ぎ澄ませてみると、肉と胡椒の匂いがした。

 

「……もしかして、チャーハン作ってません?」

 

 すると、マシュとヒナコは何とも言えない苦笑じみた顔になる。

 

「あのキリシュタリアさんがですか? 正直、イメージに合わないというか……」

「そうよ。期待はずれにもほどがあるわ」

 

 しかし、ノアだけは頷いて、

 

「案外分からねえぞ。あいつみたいなのが意外と友達の母ちゃんが作るようなベチャベチャのチャーハン出したりすんだよ」

「ですよね!? でも私は水気のあるチャーハンのほうが好みですよ!!」

 

 立香の思わぬ暴露に、ノアの目は一気に汚物を見るような視線を放つようになる。

 

「藤丸、お前は異常者だ。お前はあいつの水っぽいチャーハン食ってろよ。俺たちはパラパラのやつ食うから」

「へーぇ、なら良いですよ。パラパラとパサパサを履き違えたチャーハンでも食べてたらいいじゃないですか。私はキリシュタリアさんのベチャベチャのやつで十分なんで!」

「お二人とも、キリシュタリアさんがベチャベチャのチャーハンを出すと決まったわけではありませんが!?」

 

 愚にもつかないやり取りを見て、ヒナコは大きなため息をつく。食べ物の嗜好ひとつでこれほど言い争えるのは、それほどの熱量があるからだろう。

 

(いえ、ただの馬鹿ね)

 

 一瞬羨望の念が浮かびかけたが、ヒナコはそれをきっぱりと引きずり落とす。

 彼らが駄弁っている内に、厨房からキリシュタリアが姿を現した。全員の視線が一手に集まる。

 果たして、彼が作った料理とは――――

 

 

 

 

「……なんてこともあったなぁ」

「先輩、回想オチは投げやりすぎませんか」

 

 カルデア、管制室。

 この管制室は重要施設が一挙に集まったカルデアの心臓部である。地球を複写した疑似天体カルデアスや、これを観測するレンズ・シバ。さらにはレイシフトを行うためのコフィンまでもが設置されている。

 今は人理修復の第一歩、レイシフトの実証実験が開始される直前。Aチームは先遣隊として特異点に送られる手筈だ。

 そんな重大な場面で、カルデアの問題児ことEチームの二人はずかずかと管制室に入り込んでいた。当然、所長は鬼の形相で止めにかかったのだが、レフが気を利かせたことで難を逃れた。

 立香がマシュにする話はどれも他愛のないものだった。あるいは、緊張をほぐすためにあえて任務の話は避けているのかもしれない。

 マシュの口角が自然と持ち上がる。

 藤丸立香という少女はある意味で最も無垢な存在だ。策謀と悪意が渦巻く裏の世界を知らぬ穢れ無き存在。

 魔術とはすなわち魔道。

 それに手を染める人間は、得てして何がしかの欲望に取り憑かれている。その最たる例が根源への渇望だろう。

 けれど、彼女は違う。自分と他者の平穏を、つまり長閑やかな日常を心の底から願える数少ない存在だ。

 だから、その日常の一員に成りたいと想う。それこそが、マシュが人理修復を志す理由だった。

 

「ところで先輩、リーダーはどこに?」

 

 立香は視線でノアの居場所を示す。そこはキリシュタリアのコフィン。会話の内容は聞き取れないが、ノアの顔は真剣そのものだ。

 初めて見る彼の表情に、立香とマシュが抱いた感情は驚愕であった。

 

「……驚いたな。そんな言葉が飛び出すとは」

 

 キリシュタリアははっきりと言い切る。

 

「―――ノアトゥール。()()()()()()()()()。逆も然りだ。私は君にはなれないし、(ヒト)他人(ヒト)に変わる道理など存在しない」

 

 ノアはそれを受けて、牙をむくように笑う。

 

「……それは分かってる。適材適所だ。俺にできないことをお前はできるが、裏を返せばお前にできないことを俺はできる」

「ああ、その通りだ。そもそも才能の方向性が違う」

 

 キリシュタリアはひとつの例え話をした。

 この人理修復が一本の道だったとして。その道のりには無数の困難が待ち受けている。分かれ道だってあるだろう。

 その前提において、キリシュタリアはあらゆる全ての障害を打ち払い、最適の道を歩くことができる。行動に無駄はない。必ず最適解を導き出し、果断なくそれを実行できる。

 ノアに最適解を選ぶ能力が無い訳ではない。とはいえ、一切の失敗なく道を歩き切ることは到底不可能。そんなことは、この地球上においてキリシュタリアしかいないだろう。彼だけが歩くことのできる道――それはまさしく見る者を惹き付ける完全無欠の覇道なのだ。

 それに対して、ノアは新たな選択肢を創る。道を無視して、空飛ぶ気球を持ち出すといったように。

 その選択肢が最適であるとは限らない。通常考えられぬ速度で目的地に着く最高の結末を導くこともあれば、風に流され遠回りになることもあるし、気球が墜落して最悪の結末を招くことも考えられるだろう。

 

「だが、空からの景色は地を歩くのみだった私には、思いもつかぬ絶景であることに違いはない。その道のりは、得てして劇的だ」

 

 そして、決定的な一言が、

 

「その才能(ちから)は誰かのために使え。さもなくば、終わりに待つのは自分自身の破滅だ」

 

 まるでノアを呪うように。

 まるでノアを言祝ぐように。

 その言葉は、鎖となって彼を縛る。

 最後に、キリシュタリアは微笑んだ。

 

「ノアトゥール。君の導き手は私ではない。力を捧げるなら、その者が良いだろう」

「……俺は」

 

 言いかけた瞬間。

 巻き起こった爆炎が、視界のすべてを赤く消し飛ばした。




キリ様とノアくんの会話の全貌は後々明らかになります


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特異点F 炎上汚染都市・冬木
第3話 英霊召喚


数々の評価をありがとうございます。こんな話を好いてくれる人たちがいることは大変嬉しいです。


 まず最初に感じたのは、鈍痛だった。

 息を吸い込むと、空気が異常に熱い。そのせいか、体内に火を灯されたような灼熱感があった。暗く閉ざされていた視界が徐々に開かれ、ようやく事態を察知する。

 そこはまさしく地獄絵図。

 炎が轟々と燃え盛り、乾いた血がそこらじゅうにへばり付いている。一面が瓦礫の海と化したその世界で、ふと思い至った。

 なぜ、自分は無事なのか。

 その答えは、目の前にあった。

 

「せ…んぱ…………───」

 

 おびただしい血の量だった。

 大きな金属片が腹部を貫き、上半身と下半身が千切れかけている。

 背中は火炎をまともに受けたのか、服の繊維と皮膚が癒着しかけていた。

 医術の心得はないが一目で助からないと理解できるほどの傷。しかし、その少女が今際の際に案じるのは、ある者の安否それのみであった。

 ──ああ、私を救うために。

 

「マシュっ!!!」

 

 瞬間、立香(りつか)は跳ね起きた。焼けた鉄板のような床に転がる少女の体を抱き起こす。

 全身を蝕む痛みも、体の芯を焦がすような熱感も関係ない。この命よりも大切なものなどいくらでもある。マシュという少女はそのひとつだ。

 何に換えても助けなければならない。

 いま、どうして、こんなことになっているのかなんてどうでも良い。

 けれど、立香はあまりにも無力だった。

 己の魔術でこの傷を癒やすことは不可能だ。応急処置が効くような軽傷ではない。これは一刻を争う事態であり、自らの力を過信するようなことは到底できない。

 

「そうだ、リーダーならもしかしたら……!!」

 

 辺りを素早く見回す。

 ノアとの距離はそう離れてはいなかった。この場で頼れるのは彼しかいない。最悪の事態を脳内から排除し、ただひたすらに感覚を研ぎ澄ませる。

 募る焦燥に、心臓は異様な振動を奏でていた。

 そうして、彼女は見つける。

 積み上がった瓦礫の中。そこから、軍服を模した左腕がぶら下がっている。やはり炎を免れることはできなかったのか、所々が焼けていた。

 どくん、と一際大きく心臓が飛び跳ねる。

 

(考えちゃいけない)

 一歩、また一歩とその場所に近づく。

 腕の中に納まるマシュはほとんど息をしていなかった。

 

(終わりだと、分かっているのに)

 

 時間の流れが妙に遅い。

 意を決してその腕を掴み取ろうと手を伸ばす。

 触れるが早いか、その時に、

 

「──あ」

 

 ぼとり、と腕が落ちた。

 不思議と血の量は少ない。出し切ったのかもしれないし、周囲の血痕と混ざっているのかもしれない。

 ただひとつ、残酷な事実がある。

 彼は、腕のみを残し死んだのだ。

 瓦礫に潰され。

 あるいは、業火に巻かれ。

 

「…………せんぱい」

 

 消え入るようなか細い声。

 

「この、一週間……とても、たのしかった…………です」

 

 ──なんだ、これは?

 ──なんだ、この結末は?

 認められない。

 全くもって認められない。

 そもそもが理不尽だ。人理修復の希望となるべきこの機会に、こんな惨劇が起こるなんて。唐突に過ぎるし、救いがなさすぎる。

 

「『システム、レイシフト最終段階に移行します。座標、西暦2004年1月30日、日本、冬木』」

 

 これが偶然なら、神は何を望んでいるのか。

 これが必然なら、その悪意は何処から生まれたのか。

 

「『アンサモンプログラム、セット。マスターは最終調整に入ってください』」

 

 少女が知っている世界は、こんな地獄を許容するようにはできていない。

 誰もが幸福な世界に生きていた、なんて自惚れてはいないけれど。それでも、確かに、これから先の未来は壊されたのだ。

 ──そう、壊された。

 管制室中央に屹立するカルデアスの様子が変化する。

 それはまるで、灼熱の火球。地球全土を投射するカルデアスの表面は、焼けた鉄のように赤光を放っていた。

 

「『近未来百年までの地球において、人類の痕跡は発見できません』」

 

 どこか遠く聞こえる無機質なアナウンス。

 ガラス一枚を隔てたかのような異質さ。人理保障を名目とするカルデアは、たったいま何者かの悪意に敗れたのだと、赤熱する球体(カルデアス)がそう告げていた。

 金属同士がぶつかり合う音。隔壁が閉まった合図だ。もはや管制室から脱出する術はなく、ここで蒸し焼きにされるのを待つしかない。

 立香はマシュの手を握りしめ、静かに慟哭する。

 

「こんなの、絶対におかしい……!!!」

 

 そうだろう。だってジャンルが違う。こんな悲劇に見合う役者なんて、カルデアの何処にも存在しない。否、不出来な脚本に付き合わされる自分たちが迷惑だ。

 これが人為的な災害であることは素人目にも明らかだった。

 

「『アンサモンプログラム、スタート。霊子変換を開始します』」

 

 頬を一粒の水滴が伝う。

 凍てつく氷河のような怒りが、行き場を求めて荒れ狂う。

 マシュの手が、ほんの微かな力で以って握り返してくる。

 

「『全工程、完了。ファーストオーダー実証を開始します』」

 

 直後、何もかもが露と消えた。

 

 

 

 

 冬木は日本に存在する地方都市である。その地理としては大まかに新都と深山町に分けられる。いずれにせよ美しい景観を兼ね備えており、密かに旅行者が訪れる場所でもあったという。

 だが、それももはや過去の話。

 市内至る場所に大きな破壊の爪跡が残り、炎に包まれている。死者が闊歩し呪いを振りまく阿鼻叫喚。

 立香は、気付けばそこにいた。

 有り様の酷さで言えば今までと変わりない。しかし、確実に異なる場所にいることは間違いなかった。

 

「……ここ、どこだろう」

 

 行く宛もなく、ふらふらと歩く。

 息が詰まるような感覚は、おそらく火災によるものだけではないだろう。皮膚の下からじわりと染み込むような嫌悪感が纏わりついて離れない。

 人の姿は何処にもなかった。その死体すらも見かけることはない。まるでこの街から人間だけをさっぱり取り除いたように。

 すると、背後で音が鳴った。立香は身体反射のままに振り返り、それを見る。

 カチャカチャと軽い音を立てて駆動する骨の怪物。──人ではない。示された情報に、彼女の体は即座に行動に移った。

 怪物に向けて指を突きつけ、一言。

 

「ガンド!」

 

 漆黒の魔弾が飛来し、胴体に直撃する。物理的衝撃を伴った呪いは、怪物を無数の骨片に打ち砕く。

 それらは地面に触れた途端に粉々になり、跡形もなく消え去った。

 立香はほっと胸を撫で下ろす。

 ガンドによる攻撃は、この一週間何度も練習してきた。短い期間でこれほどの完成度に至ったのは、ノアとマシュによる指導の成果だろう。

 しかし、特段達成感や高揚感が生まれてくることはなかった。自らをここまで高めてくれた二人は、今はもういないのだから。

 そして、立香にそれを悲しむ余裕は残されていなかった。

 辺り一帯から、堰を切ったように死者たちが地の底から蘇る。この地に安全な場所など存在しない。冬木市全土が彼らの狩場なのだ。

 

(まずい、囲まれてる…!)

 

 立香は歯噛みする。

 あまりにも数が多い。例えガンドを全弾命中させたとしても、到底殲滅するには至らない。魔力が尽きるのがオチだ。

 さらに、撃てる方向は一方向のみ。一箇所に対応している隙に、後背を討たれる可能性があった。

 死者は武器を振り上げながら、じりじりと包囲を狭める。立香は囲まれていた。一気呵成に襲い掛からないのは、既に獲物を捕えたという確信ゆえだろう。

 だとしても、諦めるなどという選択肢は端から眼中にない。

 こんな事態を引き起こした黒幕を糾すまで、自分は死ぬわけにはいかないのだ。

 立香が腕を構えた、その時だった。

 

「──え」

 

 背後から黒き疾風が通り過ぎる。

 それは身長以上の重圧な(ぶき)を手に、死者の群れへと突撃する。猛然と振り抜かれた武器は雑草を刈り取るように敵を砕き散らした。

 その身体能力は人間の域を超越している。風より速く疾走り、巨大な鉄塊を軽々と振るう。何気なく突き出した拳が、鉄板をも貫く威力を有している。

 戦いではなく虐殺。それは、傷ひとつ負うことなく敵勢を鏖殺した。

 

「すみません先輩、遅れました」

 

 初めに、目を疑った。

 次に、耳を疑った。

 見覚えがある。聞き覚えがある。死したはずの少女が、今目の前にいる。

 

「お怪我はありませんか──きゃっ!?」

 

 答えるより先に、立香は飛び付いた。目元に涙を浮かばせながら、叫ぶように言う。

 

「マシューッ!! 生きててよかったあ! なんでそんなコスプレしてるのかは理解に苦しむけど! 個人の自由だもんね!」

「違います! この格好を私の趣味にしようとしないでください! 甚だ不本意です!」

 

 いつもの白衣と異なって、マシュは些か露出の多い格好をしている。黒を基調とした鎧とは見受けられるのだが、人体の急所のひとつである腹部が大胆にもさらけ出されていた。

 とはいえ、傷心の立香にとってマシュの生存ほど喜ばしいことはなかった。数秒の間、へばりつくように抱き着いていたが、あえなく引き剥がされる。

 そこで、カルデアからの通信が入った。医療部門の長を務めるDr.ロマンの声だ。

 

「『もしもし! こちらカルデア管制室だ、マシュ聞こえるかい?』」

「ええ、相変わらず通信は乱れ気味ですが。とりあえず先輩は確保しました」

「『素晴らしい。立香くんのためにも、まずは状況確認といこうか』」

 

 立香は大いに首肯する。今の今まで無我夢中で行動していたが、はっきり言って事態は飲み込めていない。

 

「『カルデアは何者かの攻撃を受け、なし崩し的にレイシフトを行うことになった。その送り先はもちろん特異点F──今回我々が標的としていた場所だ』」

「え、そうだったんですか?」

「『……Eチームには伝えていなかったのか所長ォーッ!! うわっ、ちょっと格好つけて言ったのが恥ずかしい!!』」

 

 ロマンは頭を抱えて悶絶し始める。

 元々、今回のミッションからは外されていたチームである。所長との不仲もあって、連絡する理由も義理も無かったのだろう。

 なんとか発作を収めたロマンに、立香は最大の疑問をぶつけた。

 

「どうして、マシュは無事だったんですか? しかもこんなハレンチな服装になって」

「『うん、当然の疑問だ。特異点F攻略のためにカルデアではサーヴァントを用意していた。けれど、あの爆発の影響でね、そのサーヴァントも消滅寸前だったらしい』」

「そこで抜擢されたのが私です。共に死の淵にあった私とそのサーヴァントは奇跡の融合を果たしたというわけです」

 

 立香はなるほど、と納得する。

 

「つまりウルトラマン、か……」

「何やら変な解釈をしているようですが、全く違うとも言い切れないのがいやらしいですね。もっとも、サーヴァントの意識は私には残っていません」

 

 先程、マシュが見せた超人的な戦闘能力も、そのサーヴァントの力によるものだった。

 カルデア六つ目の実験『デミ・サーヴァント』──おそらくは世界初の成功例。人間と英霊の融合体に彼女はなったのだとロマンは語る。

 

「『現在、マシュはキミと契約している。サーヴァントはマスターが死亡すると消えてしまうから、くれぐれも気を付けてくれ』」

「先輩、そういうことです。()()()()()()()()()()()()()()()()()私はほっとしています」

 

 マシュの言葉を聞いて、立香は目を見開いた。

 

「リーダーも生きてるんですか!?」

 

 驚愕の色を隠せないその発言に、マシュとロマンは頷きで返す。

 

「『さっき彼から通信を繋げてきてね。軽傷は負っているようだったが、戦闘にも支障はないようだから安心して良い』」

 

 立香は疑問を覚える。

 ロマンはノアの怪我の状態を軽傷と言った。だが、あの時彼の左腕は千切れたはずなのだ。腕一本を失う怪我を軽傷とは言わないはずだ。

 

「あの、腕は大丈夫だったんですか」

「『腕? 少なくとも彼は五体満足だったはずだよ。これでも医者の端くれだからね、患者が無理をしているかどうかは分かるさ』」

 

 ならば、あれはどういうことだったのだろう。

 そこで、映像が乱れた。通信が途絶しかけている兆候だ。ロマンは慌てながら、

 

「『とりあえずこの通信状態をどうにかしよう! 指定した座標に移動してくれ、ノアくんもそこに向かっている!』」

「了解しました。では、また後で」

 

 通信が止まる。一転して辺りが静かになり、マシュは小さく息を吐いた。

 

「それでは行きましょうか、先輩」

「…うん」

 

 心に一点の疑念を残しながら、立香は歩き出した。

 

 

 

 

 一方その頃。

 

「だぁぁぁあああ!! 手抜きデザインの癖に数が多すぎんだよクソ骨ェェ!!」

 

 Eチームリーダー、ノアトゥールは崩壊した冬木の大通りを駆け抜けていた。その後方からは、立香が接敵した以上の数の死者が迫ってきている。

 しかし、ノアに追いつくことはできない。魔術で身体強化を施しているからである。強化を体にかける手段自体はさほど珍しくはないが、魔力を消費するため長時間の使用は推奨されていない。

 ノアが全力疾走を続けていられる理由は、豊富な魔力量にあった。彼が持つ魔力の総量の前では、強化を使い続ける魔力はほんの微々たるものであった。

 時折前方から敵が現れるが、無造作に振るわれた拳だけでそれらを処理していく。

 魔術師とは研究者である。業界の性質からして自衛手段は皆備えているが、好んで戦闘を行う者はいない。ノアにとってもそれは変わらなかった。

 懐中時計を取り出して時間を確認する。このまま走っていれば、そう時間はかからない位置に座標は指定されている。

 そう思っていたのだが、

 

「ギャアー!? なんでわたしがこんな目に遭わなきゃいけないのよ! Eチームのアホコンビとか! レフ助けてえ!」

 

 恨み辛みが籠もりすぎた叫び声が横の通りから聞こえてくる。そちらに目を向けると、案の定オルガマリー所長が爆走していた。

 問題はその後ろ。彼女もまた、ノアと同じように敵を引き連れている。

 瞬間、彼らは互いの存在を認め合い、

 

「うおおおお!? おまっ、こっち来んじゃねえ!」

「うるさいわね! 元はと言えばわたしの計画を邪魔したあんたのせいでしょうが! そうよ、全部あんたのせいよ! アハッ、アハハハハハッ!!」

「おい待てこいつ頭おかしいぞ! ロマン精神鑑定頼む!」

 

 依然通信状態は悪いが、無理やりにでもロマンを呼び出す。彼は狂乱した所長を一瞥すると、粛々と切り出す。

 

「『……ノアくん』」

「なんだ」

「『諦めてくれ』」

 

 そう言って、通信は切断される。自然に切れたのではなく、明らかにカルデア側から切断された。

 

「あの野郎切りやがった……!!?」

 

 戻ったら一発殴る。そう心に誓い、ノアは覚悟を決めた。

 所長を路地に蹴り飛ばし、自分もその後に飛び込む。すぐさま背後に向き直り、左手の指で空中に文字を描く。

 

「──eihwaz(エイワズ)

 

 唱えたのは防御のルーン。路地の入り口を塞ぐように無色の壁が立ち現れ、追っ手を阻む。

 何度か壁に向かって武器を打ち付けるが、防壁に傷をつけるどころか武器のほうが刃こぼれするほどの代物だった。

 それを見た所長は、憤慨しながら言う。

 

「そんなことができるなら早くやりなさいよ!」

「やろうとしてたところだったんだよ! 大通りを封鎖しても良かったんだがな、藤丸の進路を妨害する恐れがあった」

 

 だからノアは逃げていたのだ。防壁を張るのに適した場所を探すために。偶然路地があったことは幸運であった。

 所長はぷんすかと立ち上がりながら、

 

「Eチームの片割れも来てるのね。あんな凡人、放っておいたらすぐ死ぬわよ」

「あいつにはサーヴァントがいる。死ぬわけがない」

「そんなはずが──いえ、ロマンに繋ぎなさい。あんたなんかに訊くよりそっちの方が良いわ」

「残念だったな、今はロマンには繋がらない。おまえが不定の狂気を発症した(SANチェックに失敗した)せいでな」

 

 ノアはすたすたと歩き出す。

 オルガマリー所長は唇を噛んで苦悩する。ノアに着いていくべきかどうか。

 理屈で考えればそうするのが正しいし、そうするしかないというのは分かっていた。だがしかし、相手は憎っくき仇敵。助けを求めるように後を追いかけるのは、彼女のプライドが許さなかった。

 プライドを守りつつ、ノアを追いかける方法。所長の優秀な頭脳は一瞬でその答えを弾き出した。

 

「ええ、わたしを守り切れたら昇格も考えてあげるわ! 精々本気でやり遂げなさい!」

 

 妙な空回り方はどこぞの悪役令嬢である。

 ノアはゆっくりと振り向くと、口角を僅かに上げた。

 

「たまには良いこと言うじゃねえか。なら、もしおまえが無事に帰れたら俺がカルデア所長だ」

「はあ!? あんたなんかに任せたらそれこそ世界滅亡でしょう!!」

 

 

 

 

 ロマンに指定されたポイントで、彼らは落ち合う。

 

「ほ、本当に生きてた……」

「ああ、おまえもな。良く生き延びた」

「あれ、リーダーが優しい!? 誰かと脳みそ入れ替わってたりします?」

「俺がおまえに優しくするのは当然だろ、なぜなら──」

 

 顔を合わせて早々コントを始めるEチーム。マシュには二人の顔が何故か少女漫画チックに見えた。

 が、ノアに現代の乙女の初恋相手のようなセリフが吐ける訳がない。その場の誰もが嫌な予感を察知する。

 

「──俺の部下(げぼく)だからな」

「すみません、セリフに反してルビが最低なことになってます」

「キリエライト、おまえもだ。こいつの後輩ってことは俺の命令も聞かなくてはならない。つまりEチームは俺を頂点としたピラミッドで成り立っているんだよォ!!」

 

 発言の隅から隅まで憎たらしい男である。とんでもない支配論をぶちまけたノアに対して、マシュは呆れながら言った。

 

「忘れているようですが、わたしはデミ・サーヴァントです。具体的には一秒でリーダーを肉塊(ハンバーグ)にできます。言葉遣いには気をつけた方が良いのでは?」

 

 マシュは空に向かって拳を振る。ボクシングヘビー級チャンピオンも青ざめる迫力の一撃である。

 

「よーし、待て、落ち着け。俺がカルデア所長に就任した暁には好きな地位をくれてやる。医療部門のトップでもAチームのリーダーでもなんでもくれてやるよ」

「こ、小物すぎる……」

「いつまでやってるのよ! 早くカルデアと通信しなさい!」

 

 所長の一声で、ノアはしぶしぶ通信を繋いだ。

 

「『こちらカルデア。通信の反応は概ね良好だ。もう合流したようだね』」

「はい。所長も発見しました。これからどうすれば?」

「『キミの盾を媒介に召喚サークルを構築しよう。そうすれば、こちらから物資も送れるし、戦力強化も可能なはずだ』」

 

 マシュは同意し、霊脈の集結地に盾を置く。直後、周辺の魔力が活性化し、景色を一変させた。

 

「……召喚実験場と同じね。それで? どうして貴方が仕切っているのかしら?」

 

 所長の冷たい目がロマンに向けられる。

 パワハラの四文字が彼の頭の中をかけ巡るが、そこは医療部門トップのロマニ・アーキマン。権力に従属することは慣れていた。慣れすぎていた。

 

「『い、生き残ったスタッフは20名未満でして……その中で最も階級が高いのがボクだったんですごめんなさいリストラはやめて!!』」

「まあそんなことはどうでも良いわ。レフはどうしたの?」

「『現在捜索中ですが、おそらくは』」

 

 全てを察した所長は、露骨に気分を落ち込ませる。

 レフが死んだ。その事実は、所長にとっては何よりも重い現実なのだろう。顔面を蒼白にする彼女に見かねた立香は、

 

「あの時管制室にいたなら、私たちみたいに生きてるかもしれませんよ! リーダーに一週間部屋を占拠されても耐え抜いた根性は伊達じゃないと思います!」

 

 所長はばっと顔を上げる。その目には涙が浮かんでいた。

 

「わ、分かってるわよ! ロマニ! わたしが帰るまでにカルデアに何かあったらクビだから! あとコフィンに取り残されたマスターを凍結保存しておきなさい!」

「『さ、最悪だ……なんでボクがこんな目に。しかも犯罪の片棒を担がされるなんて……』」

 

 ロマンの胃は既に限界を迎えつつあった。ノアはそんな彼を無視して話を始める。

 

「じゃあ、サーヴァントでも喚び出すか」

「えっ、そんなコンビニ行くみたいなノリでできるの、マシュ?」

「召喚サークルが設置されましたから。コンビニどころかガチャガチャを回すノリでできます」

「へぇー……ガチャ回し放題」

 

 何やら嫌な笑みを浮かべる立香。忘れてはいけないが、彼女もEチームの一員(カルデアの癌)なのである。

 マシュは邪悪なオーラを纏う先輩から距離を取り、リーダーに話しかけた。

 

「どんなクラスを狙うつもりですか?」

「セイバーだ。カルデア最強マスターの俺には最優のサーヴァントが相応しい」

「ケーキとラーメンを混ぜても美味しくなりませんよ」

「おい、どういうことだ。それを言うなら米と卵だろうが。マリアージュだろうが」

 

 軽口を叩きながら、ノアは左手の手袋を外した。そこには確かにマスターの証である令呪が刻まれていた。樹木の枝のような紋様が絡み合い、真円を作っている。

 

「『ヤドリギを触媒に使わないのかい?』」

 

 ロマンが問いかける。ノアはそれに対して首を横に振った。

 

「もし人間に変身したとか言って、英霊に格落ちしたロキが出てきたらどうする?」

「『…………終わりだね』」

「そういうことだ。可能性は0にしておきたい」

 

 次の瞬間、サークルが光を発する。徐々にそれは強くなっていき、ついには視界を埋め尽くした。

 立香は思わず目を瞑り、光が消えたあとに見開く。

 輝きを失ったサークルの上に立っていたのは、白銀の鎧を纏った騎士であった。静かなる湖面のような美貌の裏に、どこか獰猛さを隠した戦士。彼は剣を掲げ、名乗りを上げる。

 

「セイバー、ペレアス。召喚に応じ参上した。よろしく頼む」

 

 ノアはふと微笑み、

 

「………………誰?」

「あーはいはい、そういう感じね。現代だと知られてないパターンかよちくしょう」

「いや、白銀の鎧を纏った騎士って言ったらガウェインだろ」

「よりにもよってそいつと間違えるのはやめろオレのトラウマを口にするな」

 

 気まずい空気が流れた。

 マシュは哀れんだ表情で、ペレアスに声をかける。

 

「……オチの一言をお願いします」

「嫌だァあああ!! オレはもっとチヤホヤされるつもりだったのに!!!」

 

 虚しい叫びは、冬木中に響きわたったという。




ペレアスについて。
ノアくんが契約するサーヴァントの候補は言及されてはいるものの登場していない英霊でした。
strange fakeはまだ二巻までしか手元にないのですが、名前を出されているということで採用しました。ちなみに対抗馬はブラダマンテの夫のロジェロでした。


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第4話 ケルト式スパルタ教育

 全ての発端は、カルデアスが色を失ったことであった。

 地球の魂の複製であるカルデアスは、常に青い光を灯している。カルデアスの光は人類文明が存続しているという証なのだ。

 しかし半年前、唐突に文明の明かりは消えてしまう。それが意味することは、言うまでもなく人類史の終焉。2016年を区切りに全ての文明が滅亡すると宣告されたのである。

 当然、カルデアは原因究明に力を尽くした。その末に発見したのが、2004年の冬木。だが、誰もが疑問に思った。極東の島国の、さらに一地方都市。そんな場所が滅びの原因であると考えられるだろうか、と。

 

「調査を重ねた結果、2004年のこの冬木市で特殊な聖杯戦争が行われたことが分かったわ。本来は一般人にも市街にも被害を与えることなく終わったはずなのだけれど、特異点の発生で結果が狂ったと考えるべきね」

 

 ノアがペレアスを召喚した後、一行は冬木市内の調査に移っていた。サーヴァントが増えたことで格段に効率が上がり、危なげなく任務を遂行できている。

 その間、所長はEチームのマスターたちに対して、特異点F調査計画の発端から説明していた。説明会に参加していた立香はその内容を知っているはずなのだが、寝ていたので覚えているわけがなかった。

 立香(りつか)とノアは声を揃えて言う。

 

「「話が長い」」

「こ、このアホマスターどもは……!! いい、この特異点を発見するまででも色々なドラマがあったんだから! ドキュメンタリー映画一本は楽勝で作れるわよ!?」

 

 今日何十回目かの怒り顔をするオルガマリー所長。オタクと一般人が同じコンテンツの話をしても、熱量に差がありすぎて伝わらない現象の好例である。

 とはいえ、Eチームの頭脳でも話の要旨は理解できる。ノアは呆れた顔をしながら、話をまとめた。

 

「要は特異点発生の原因が聖杯である可能性が高いってことだろ。だったら街中を調べるのは無駄だ。俺なら人目につかない場所に隠す」

「…………リーダー、普段からそうしてくれると先輩もわたしも助かるのですが」

「マシュの言う通りですよ。リーダーの素行のせいでどれだけEチームの評価が落ちたと思ってるんですか」

 

 立香に図星を突かれたノアは、ぴきりと青筋を立てた。

 

「藤丸、おまえにだけは言われたくねえ! 説明会で爆睡してビンタ食らうような奴にはな!! せっかくシリアスムード出そうとしてたのに台無しじゃねえか!!」

「あの時は、時差ボケとか旅の疲れとかその他諸々で人生最大の睡魔が襲ってきてたんです! そもそもその前に面接で所長を怒らせたのはリーダーじゃないですか!!」

「醜い責任の押し付け合いが始まりましたね……人間ああはなりたくないものです」

 

 彼らの頭の中からは、ここが危険な場所であるということはすっぽりと抜け落ちていた。

 見れば見るほど馬鹿な連中に守られているという事実に、所長は頭を抱えた。レフも草葉の陰でこの状況を哀れんでいるに違いない。この状況で少しでもまともそうなペレアスに視線を投げると、

 

「いやアレ王城(ウチ)円卓(テーブル)じゃねえか……? オレがこぼしたスープのシミとかまだ残ってねえよな……」

 

 なんだかよく分からないことを口走っていた。じっとりとマシュを見つめるその姿は 、所長からすれば変態にしか見えなかった。

 だが、ここで挫ける所長ではない。この程度の窮地はいくらでも乗り越えてきたのだ。必ずやEチームの手綱を取り、帰還してみせると意気込んだその時、ロマンから通信が入る。

 

「『みんな、注意してくれ! サーヴァントの反応が接近している! 数は3、北東にひとつと南西にふたつだ!』」

 

 切羽詰まったロマンの声を受け、和らいでいた空気が一気に緊張する。

 この場において、対サーヴァント戦を経験した者はひとりとしていない。加えて、数の上でも遅れを取っている。所長の判断はほとんど撤退の選択肢に傾き掛けていた。

 しかして、サーヴァントの追跡を受けながら探索を行うのは至難の業だ。襲撃の度に逃げていてはジリ貧になるだけだということも、所長は理解していた。

 立香は眉を眉間に寄せながら、提案する。

 

「──戦いましょう。逃げていてもどうにもなりません。ですよね、リーダー?」

「ああ、南西の二体は俺とペレアスで引き受ける。危なくなったら呼べ」

「心配いらないですよ。私とマシュが揃えば向かうところ敵なしですから! ねっ、マシュ?」

「はい、相手から来てくれているのですから、後は見て勝てばいいだけの話です」

 

 

 

 

 立香たちの位置から南西に数百メートル離れた地点。ノアとペレアスは、二体のサーヴァントと邂逅する。

 一方は長い鎖の両端に短剣を取り付けた武器を得物とする長髪の女性。もう一方は髑髏の仮面で顔を、黒いローブで体を隠した英霊であった。

 そしてなぜか、彼らの姿は黒い霧に包まれていた。体や着衣の表面にも濃い影がへばりついている。まるでこの世界からそのカタチだけを黒くくり抜いたかのような異質さを感じ、ノアは眉をひそめた。

 じっと目を凝らして敵を見つめる。

 ──確かに、サーヴァントに近い反応ではある。しかし。霊基が破損しているのか、何かに汚染されているのか、はたまたその両方か。とにかく、純正のサーヴァントに対して、彼らは一歩及んでいない。

 ノアは二体の敵に向けて指を差す。

 

「ペレアス。この程度余裕だ、一秒で片付けろ」

「待て、一秒は流石に無理だ十秒にしろ。というかここは多めに言っといてオレにカッコつけさせるところだろうが」

「うるせえ、剣からビーム出せばあんな奴ら瞬殺だろ」

「剣からビーム出すような連中と一緒にすんじゃねえ! オレは真っ当な剣士だ!」

 

 煽るようなノアの発言に、二体のサーヴァントが反応することはなかった。そもそも意思疎通を図ることすらできないのだろう。

 ノアの言葉に偽りはない。いくらサーヴァント並のスペックを持っていたとしても、英霊の意識がないのなら脅威度は格段に下がる。

 新人のパイロットが戦闘機に乗った場合と熟練のパイロットが戦闘機に乗った場合。どちらがより機体の性能を引き出せるかと言えば後者だ。

 開戦の火蓋を切ったのはノアだった。

 右手の指先に魔力の光が点灯する。流れるような速さで空中にルーンを刻印し、それを唱える。

 

kenaz(ケナズ)isa(イサ)

 

 最初に炎の波が地面を舐めるように迸った。範囲が広いとはいえ、それを躱すことは容易。空中に飛び上がり、難なく回避する。

 次に襲い掛かったのは鋭い氷の弾丸。雹の如く降り注ぐこれも、鎖に阻まれ短刀に撃ち落とされ、一発として到達することはない。

 程度にもよるが、魔術師の攻撃はサーヴァントからすれば脅威にはなり得ない。悠々と初撃を迎え撃った二つの影は、攻撃に意識を傾け───

 

「……thurisaz(スリサズ)

 

 ───ノアが背中に隠し、左手で描いたルーンを見落としていた。

 瞬間、雷撃が落ちる。雷神トールの鉄槌(イカズチ)とは比べるべくもないが、神秘を纏った雷が回避不能の空中にいる二体を打ちのめす。

 二体の明暗は一瞬の内に分かたれた。長髪のサーヴァントは直撃を受けても、傷ひとつ受けていない。

 対して、髑髏の仮面は地面に叩き落とされ、肉体を上手く動かせないでいる。魔術に対する耐性の差が、彼らの命運を分けたのだ。

 その隙はまさしく致命的。背後に回ったペレアスの刃が首元を刈り取った。

 髑髏の仮面も英霊のひとりだ。僅かに残った英雄の矜持か、死に際にペレアスに向けて短刀を投擲する。

 

「お前とは、真っさらな状態でやり合いたかった」

 

 その一投は彼には届かない。短刀の切っ先は剣の柄頭で受け止められていた。

 黒い影が闇夜に溶ける。同時に、鋭い剣閃がペレアスの首筋と膝裏を狙う。

 通常あり得ない角度からの二面攻撃。鎖を巧みに操った、英霊の名に恥じぬ技だ。

 けれど、ペレアスも伝承に名を残した英霊だ。生前幾度となく潜ってきた死線に比べれば、その攻撃は温いとすら言えるほど。

 膝を狙った短剣を足で踏み付け、その場に固定する。首への一撃は、顔をそらすことで回避した。伸び切った鎖を剣に巻きつけることで無力化する。

 距離は互いに目と鼻の先。窮した影のサーヴァントは徒手空拳に移行するが、それより速くペレアスの一撃が敵の顔面を打ち据える。

 

「──!!?!?」

 

 彼女には何が起きたか理解することすらできなかった。振りかぶったのはほぼ同時。故に攻撃が到達するのも同時でなくてはおかしい。否、単純な敏捷力で言えば自らが上回っていたはずなのだ。

 その答えは、ペレアスの左手にあった。握られているのは剣の鞘。これによって生まれた間合いの差が、そのまま勝敗の差となったのである。

 剣を心臓に突き立てる。その女は、自らの名を知らしめることもなく、霧散した。

 ペレアスは剣を鞘に納めると、何かを振り払うように声を張り上げる。

 

「どうだ、見たかオレの華麗な剣術を!! ビームなんて無くてもオレは強い!!」

「どこが華麗なんだよ。勝てれば何でも良い我流の型じゃねえか」

「黙れ、お前が女ならオレに惚れてた」

「抜かせ、俺が女なら警察に通報してた」

「おいやめろ惚れた女に何回も騎士を差し向けられたトラウマを刺激するな」

「……心にいくつ古傷持ってんだよ」

 

 

 

 

 一方、立香とマシュの戦場。

 彼女らが対峙したサーヴァントは、僧侶の風体をした英霊であった。大矛を棒切れでも扱うかのように軽々と振り回し、目にも止まらない連撃を繰り出す。

 斬撃と打撃を織り交ぜた攻撃の数々は、影に汚染された身であっても陰りを見せない。

 褒めるべきはマシュだろう。彼女は大盾を構え、危うげながらも攻撃を防ぎ切っている。死と隣り合わせの戦いを知らなかった少女が、こうもサーヴァントと渡り合っているのだから。

 だが、戦況は良いとは言えない。守勢に回っているだけでは敵は倒せないのだ。

 

(だから、リーダーはセイバーの召喚を狙ったんだ。マシュには足りない攻撃の手を補うために)

 

 彼らはここにいない。いずれにせよ耐えていれば、ノアとペレアスは必ず勝って戻ってくるだろう。立香はそれを当てにするつもりはなかった。

 敵のサーヴァントに指を差し向け、ガンドを放つ。

 呪いの黒弾は過たず敵を捉える。が、皮膚に触れた途端に呪いは弾け飛んだ。敵の身には何ら痛痒を与えられていない。

 

「あれ、効いてない!?」

「サーヴァントの対魔力よ! 魔術は効かないと思いなさい!」

「所長…分かりました、ありがとうございます!」

 

 その時、一際大きい刃金が鳴り響いた。

 マシュは立香の前まで後ずさり、

 

「先輩、このままでは千日手です。何か作戦などはありますか?」

「……うん、ひとつだけ」

 

 立香は小声で作戦を伝える。それを聞いて、マシュは驚いたような顔をするが、すぐに表情を引き締めた。

 

「──行きます!!」

 

 マシュは後ろ手に盾を携え、一直線に突撃する。

 完全に防御を捨てた構え。それ故に、この後マシュが取るであろう行動を読むのも容易かった。

 前のめりになるほど全身を使って大盾を投擲する。敵サーヴァントは低く体勢を屈めてそれを躱し、えぐり上げるように矛を振るう。

 体勢を崩したマシュにそれを避ける余裕はない。

 

「緊急回避! 瞬間強化!!」

 

 筋力と敏捷。マシュはその爆発的な激成を受け、斬撃の寸前で踏み止まった。しかし勢いは殺さず、無我夢中で蹴撃を繰り出す。

 その一撃は、霊核を打ち抜いた。

 サーヴァントにとっての急所を破壊された僧形の男は、地面に膝をついた。一陣の風が吹き、砂像のように塵となってその体は消えていく。

 それを見届け、マシュは糸が切れたように座り込んだ。

 

「か、勝てた……これでリーダーにマウントを取られずに済みますね」

「そうだね! もしリーダーの力を借りたら、一生ネチネチ言ってきそうだし……」

「あ、アナタたちも大変なのね……」

 

 初の対サーヴァント戦で勝利を収めたにも関わらず、なぜか雰囲気が落ち込んでしまう。どこまでも質の悪い男である。

 

「ところでマシュ、アナタ宝具は使わないの?」

「いえ…使えないのです。わたしに力を預けてくれた英霊は、自分の真名も宝具の名も告げずに消えてしまいましたから」

「そんなはずがねえ。英霊が英霊である限り使えるのが宝具ってやつだ。オレの見立てでは魔力が詰まってるだけだな」

 

 不意に割り込んできた声。三人がその方向に振り返ると、青いローブを纏った男がいた。杖を手にし、如何にも魔術師然としている。

 一目見て、彼女らはそれがサーヴァントであることを理解した。

 所長はカルデアに連絡を繋ぎ、掴みかかるように叫ぶ。

 

「……ロマニ? サーヴァントの反応があるなら教えなさいよ!!」

「『ひいいいいいい! ごめんなさい! 気付いてなかったんです!!』」

「あー、言っとくがオレは敵じゃねえ。むしろ協力者だ」

 

 果たして信じさせる気はないのか、なんとも軽いノリで言葉を吐く魔術師。所長は彼を睨めつけた。

 

「わたしたちが簡単に信じるとでも?」

「アンタが信じるかどうかはオレが決めることじゃねえ。ただ、オレは大聖杯の場所を知ってる。そう悪くない条件のはずだが?」

「至れり尽くせりじゃないですか! 是非手を組みましょうよ! この人は良い人な気がします!」

「その心は?」

「勘!!」

 

 という訳で。

 

「オラオラァ! 逃げてるだけじゃ宝具使うなんざ夢のまた夢だぞ!!」

「こ、この人頭がおかしい……リーダーよりスパルタなんですが!?」

 

 マシュは地獄の特訓を受けていた。魔術師と手を組むことになったカルデア一行だが、大聖杯を目指す前に宝具の問題を解決する必要があった。

 宝具とは英雄を英雄たらしめる奇跡の象徴であり、俗な言い方をすればサーヴァントの必殺技である。その効果は等しく強力無比。そのため、サーヴァントとの戦いにおいて宝具を使えないというのは、大きなハンデになるのだ。

 だからこそ、マシュの特訓を否定する者は誰もいなかった。特にノアは食い気味で賛成した。その際、マシュの恨めしげな視線が彼に向けられていたが、気にする素振りすら見せなかった。

 マシュを除く一行は、その様子をただ見守ることしかできない。

 

「あの人はどんな英雄なんでしょうね、リーダー。槍が欲しいとかぼやいてましたけど」

 

 立香はノアに話を振るが、その返事が返ってくることはなかった。

 ノアはひたすらに、青い魔術師の戦いを凝視していた。ただ眺めるのではない。その戦いから、まるで何かを探り取るように見つめている。

 彼らが主に使用する魔術。それはルーン魔術だ。大神オーディンがかつて手に入れた原初の文字。見れば、青い魔術師はルーンを刻むことで戦っていた。

 神秘は古いほど強い。同じルーン文字であっても、両者が扱う魔術には大きな差がある。すなわち、ノアはこの戦いからルーンの真髄を学び取ろうとしているのだ。

 立香は魔術には疎いが、それがどれほど重いものであるかは理解している。

 

「あ…ごめんなさいリーダー。邪魔しちゃいました」

「いや、良い。聞こえてる。本職が槍使いでルーンも使える英雄だろ。複数のクラス適性を持つってことはかなり高名な英雄だ。可能性があるとしたらクー・フーリンだが、正直合ってる自信は無い」

「自信がないって、リーダーらしくないですね。どうしてなんです?」

「ルーン文字はゲルマン人の文字だが、クー・フーリンはケルトの出身だ。ケルト人はオガム文字を使う。……まあ、時代の流れの中で互いの文字が持ち込まれることはあるがな」

 

 そう、ルーン文字とクー・フーリンは源流を異にしているのである。ゲルマン人とケルト人では信仰も異なる。

 ただし、サーヴァントとはクラスに当てはめて、英雄の一側面を具体化したものだ。クー・フーリンといえば槍使い(ランサー)の印象が強いが、魔術師(キャスター)としての彼を見た場合、性質が変わることはいくらでもあり得るだろう。

 そう締めくくると、ノアは立香に鏡を手渡した。それを受け取り、覗き込んでも何ら変哲のない鏡に過ぎない。

 

「……絶世の美少女が写ってますね」

「アホか、自分の顔色見てみろ。血の気が引いてるだろうが。所長のところ行って休んでこい」

「でも、マシュが頑張ってる手前そんなことできませんよ」

「違うな。おまえがここで突っ立っててもキリエライトが宝具を発動できるとは限らない。マスターあってこそのサーヴァントだ、大人しく寝てろ」

 

 立香はしぶしぶと所長のところに行く。幸い物資は潤沢だ。ロマンの指示を受けて休んでいれば、回復は早いだろう。

 そこで、霊体化していたペレアスがノアに声をかける。

 

「おい、少し面貸せ」

「ビームのことまだ気にしてんのか?」

「違えよ。お前自身に関することだ、来い」

 

 彼らは離れた場所に移動する。ちょうど開けた広場に辿り着くと、ペレアスは剣を引き抜いてノアに突きつけた。

 抜き身の剣を人に差し向けることは、冗談では済まされない。張り詰めた空気のなか、切り出したのはペレアスだった。

 

「言っとくが、円卓で一番長生きしたのはオレだ。死んだ人間はそれこそ数え切れないくらい見てきた。その上で言う、お前の目は死のうとしてる奴の目だ」

 

 ノアは笑いも怒りもしなかった。口を閉じ、視線を剣の表面に這わせる。その沈黙は、紛れもなく肯定の意を表していた。

 長く短い時間、ノアは黙り込んでいたかと思えば、呟くように口を開く。

 

「……根拠が薄いな」

「全く薄くねえよ。オレの人生の厚みナメんな。いいか、お前はまるで背負うものがないかのように、傍若無人に振る舞いやがる。それがオレには鼻持ちならねえ。お前が戦う理由は何だ? 本音で話せ」

 

 それを聞くまで剣を退かすつもりはない──ペレアスの澄んだ瞳は、そう語っていた。

 彼は円卓の一員として、数々の戦場を経験した最高峰の剣士だ。目にした死は敵味方問わず千や二千を軽く超えているだろう。

 戦地で死ぬ人間は二つに分けられる。背負うものの重さに押し潰された者か、背負うものの重さを忘れた者だ。そういった人間は、死の重圧から解放され擦り切れるまで自壊し続ける。

 ペレアスが戦う理由を問うた訳。それはノアに背負うべきものを思い出させるためであった。

 

「そうだな──おまえの言うことは()()()()()

 

 右手で剣を掴む。皮膚が切れ、白い手袋を赤に染めていく。

 

「八年前、俺は家の人間全員を殺して旅に出た。行き着いた先がカルデアだ。俺が戦う理由? そんなのは単純だ」

 

 ノアは言う。

 

()()()()()()()()()()()()。それを護るために俺は戦う。それだけだ」

 

 それは、ペレアス以外の誰も知ることがない本音。ノアトゥールという男が背負う真実であった。

 

 

 

 

 

 横になる立香に、ノアはいきなりやってきて、

 

「あいつに宝具を使わせる方法を考えた」

「やります!」

 

 跳ね起き、聞かれるまでもなく同意する。そこに一切の疑いもなければ嘘もなかった。

 一方、マシュは息も絶え絶えに盾を持ち上げていた。魔術師が撃ち出す炎を防いでも、宝具を発動する兆しは全く見えない。

 体力、気力共に極限まで使い果たしている。そんな相手にも、青い魔術師は遠慮することはなかった。

 それどころか、周囲の魔力がかつてないほどに練り上げられていく。純粋な炎が燃え上がり、樹木がのたうつ様は神々しさすら感じさせる。

 

「我が魔術は炎の檻、茨の如き緑の巨人。因果応報、人事の厄を清める社」

 

 宝具の詠唱が高らかに興じられる。

 青い魔術師が有する最大最高火力の必殺技。

 火炎で身を焦がした樹木の巨人が立ち現れ、腕を叩きつけるように振り下ろす。その直前だった。

 

「あっ、あんなところにミキプルーンの苗木がある〜!」

 

 大根役者の三文芝居をしながら、立香がふらふらと巨人の前を横切ろうとする。

 

何やってるんですか(アホなんですか)先輩──!!?」

「倒壊するはウィッカーマン! 善悪問わず土に還りな──! 容赦はしねえ! 『灼き尽くす炎の檻(ウィッカーマン)』!!」

 

 知性なき巨人に攻撃を止める選択肢はない。マシュは咄嗟に立香の前に躍り出て、盾を突き出した。

 守り切れなければ、諸共殺される。

 先程のサーヴァント戦とは違う、他人の命を背負う感覚にマシュの手は震えた。

 

(……死ぬ。殺される。守れない──守りきらなきゃ)

 

 体感時間が引き伸ばされ、脳内を無数の感情が駆け巡る。

 宝具は英霊の偉業の具現。人々の願いの結集体。事ここに至り、マシュはその真髄を思い出した。

 

(──ああ、そうか)

 

 なるほど、こんなに簡単なことはない。

 自分がいま最も望むこと。

 それを表現するだけで良いのだから。

 

「先輩を、守ります!!」

 

 瞬間、白い光が解き放たれる。複雑な紋様を為したそれは巨大な円盾と化し、燃え盛る巨人の腕を押し留めた。

 次第に腕は崩れていき、遂には全身にまで崩壊が及ぶ。マシュは青い魔術師の宝具を防ぎ切ったのである。

 立香の顔がほころび、喜色を露わにする。だが、当のマシュは目に見えるほどの怒りの炎を纏っていた。吹雪のように冷たい声で彼女は言う。

 

「先輩、リーダー、わたしの前に座ってください。今すぐ」

「絶対やだ」

「俺は悪くない」

「どちらも弁解の余地なく重罪です!大人しく裁きを受けてください!!」

 

 ギャーギャーと喚きながら逃げる立香とノアを、マシュが追いかけ回す。もちろん走力でデミサーヴァントに勝てるわけがないため、二人は即座に制裁をくらうことだろう。

 一部始終を見ていた所長とロマンは、安堵のため息をつく。

 

「『所長。マシュの宝具の名前、どうします?』」

「……『擬似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』。うん、あの子にはそれが相応しいでしょう」

「『ロード・カルデアス……、いやあ、大きく出ましたね所長! ツンデレですか!?』」

「ロマニ、クビにするわよ」




今回で決戦の準備が整いました。
次回は早めに更新できると思います。


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第5話 『約束された勝利の剣』

 冬木の聖杯戦争は、一夜にしてその形式を大きく変えた。原因は誰にも分からない。

 ただ、人間が姿を消したという結果だけがそこにある。

 真っ先に戦争を再開したセイバーは、キャスターを除く全ての陣営を瞬く間に全滅させたという。それによって汚染されたサーヴァントたちが、カルデアが交戦した影に包まれた英霊だったのだ。

 それほどまでにセイバーの力は強大だった。なにしろ、その者は聖剣の担い手。人々が願った星のひと振り。かの王の真名を知らぬ者はいない───

 

()()()()()。どうだ、相手に取って不足はねえだろう。槍のオレなら力に成れたんだがな、今回はアンタらに譲ってやる」

 

 大聖杯へと続く洞窟の中を、カルデア一行はひた走る。青い魔術師は、そう言って戯けたように笑っていた。

 セイバーの真名を聞いて、息を呑んだ者は何人いただろう。少なくとも、その脅威は誰もが理解しているし、畏れを抱いたことも事実だ。

 だが、真に恐怖することはない。何かに呑まれた状態で騎士王に勝つなど、どれほど不可能なことか全員が知っていたから。

 故に、青い魔術師は彼らに決戦を託したのだ。聖剣使いを護る最後の砦、アーチャーを食い止めるために。

 立香は、ぽつりと呟く。

 

「……やっぱり、あの人は良い人だったね」

「そうですね。あまり多くを語ることはできませんでしたが、またいつか逢いたいと思えるような人でした」

 

 今や彼らは、多くのものを背負っている。亡くなったカルデア職員の無念、47人のマスターたちの命、そして英霊の覚悟と献身を。

 負ける訳にはいかない。それがたとえ星の聖剣を振るう騎士王であったとしても。

 負けたその瞬間、失われるのは自分たちの命だけではないのだから。

 道が開けてくる。そこでオルガマリー所長は口を開いた。

 

「……まずは感謝するわ。どうしようもない人間が揃ったEチームだけれど、ここまで辿り着いた功績は認めてあげます」

「ふっふっふ、ようやく所長も気付きましたか! EチームのEはエリートのEだったってことに!」

「そこまでは褒めてません。これが最後の戦いよ、聞かせてちょうだい。アナタたちの覚悟を」

 

 彼らは、各々の決意を口にする。

 立香(りつか)はただ真っ直ぐに、

 

「私たちなら絶対に勝てます。なんたってマシュもリーダーもペレアスさんもいるんだから、これで勝てなきゃ嘘ですよ!」

 

 マシュは微笑みながら、

 

「ええ、事ここに至り心配する要素はありません。騎士王の聖剣であろうと、わたしがみなさんを守り切ってみせます」

 

 ノアはあくまで当然のように、

 

「俺がカルデア所長に就任するための運命の一戦だ。誰にも文句は言わせねえ完璧な勝利を収めてやる」

 

 そして、ペレアスは、

 

「嫌だ、オレはあの人に会いたくない! だってオレカムランの戦いに参加してねえし! メレアガンスが王妃様を襲撃した時も結局ランスロット任せになったしよぉ! 後ろめたさしかねえよ!!」

「「「………………………………」」」

 

 積もり積もった王への感情をぶちまける。それがこの場の空気に適したものなら良かったのだが、あろうことか士気を下げるものだった。

 ぶちん、と堪忍袋の緒が切れる音がする。この時、立香たち三人は初めて同じ感情を共有した。

 

「ペレアスゥゥゥ!! おまえっ、せっかくいい感じで決戦に繋がる流れだっただろうが! 冒頭からシリアスな雰囲気作ってたの気付いてねえのか!?」

「本当ですよ! 私とリーダーが珍しくバシッと決めたのに台無しじゃないですか!!」

「あの……もうすぐ出口です。ただならぬ魔力の気配もします。覚悟を決めてください!」

「ほんっとうに締まらないわね! アナタたちは!!」

 

 そして、騎士王が待ち受ける場所へ足を踏み入れる。

 そこは広大な地下空洞。妖しく光る巨大な水晶体が、薄暗く辺りを照らしている。魔術の心得がない人間でさえ感じ取れる、圧倒的な神秘の気配。

 しかし、それですらかの騎士王の放つ威圧感の前では無に等しい。

 漆黒の鎧、極黒の聖剣。血管のように赤い線が鎧の表面を走り、僅かに覗く肌も死人のように白い。そこに清廉な騎士王としての風格はなく、荒れ狂う竜の如き暴君の威容をたたえていた。

 黄金の瞳が闖入者たちを捉える。

 黒き騎士王は、小さく口角を上げた。

 

「──ふ、因果なものだ。縁の力とはこうも運命を曲げるか」

 

 金色の目は、確かにマシュとペレアスを視界に収めている。

 金属が擦れ合う音。ペレアスは剣を引き抜き、かつての主君に対して向ける。セイバーはそれを不遜となじることもせずに、眉を寄せた。

 視線が交わる。そこで何の想いが交わされたのか、余人に知ることは叶わない。

 

「ペレアス。……私は貴様に──」

「やめましょう、我が王よ」

 

 何かを言おうとしたセイバーを、ペレアスは言葉で遮る。たとえ変質していたとしても、彼が王に捧げる忠心は一片たりとも変化していない。

 

「オレは貴方に忠誠を誓い切れず、ひとりの女を選んだ人間です。その言葉は、オレでなく()()()()()()()()()()()()()に贈るべきだ」

 

 それに、と彼は続ける。

 

「オレたちは剣士です。言葉がなくても剣で語り合える」

「……そうか、ならば存分に語り合おう。我らが剣で──!!」

 

 莫大な魔力が嵐となって巻き起こる。

 周囲の光が点滅し、堕ちた聖剣へと呑み込まれていく。

 剣を高く掲げ、その名とともに黒き極光を解き放つ。

 

「『約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)』!!」

 

 漆黒の奔流。

 それは光を奪い。

 闇をさらに深き(やみ)へ染める究極の一刀。

 極大の閃光を前に、マシュは人理の盾となる。

 

「『擬似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』……!!」

 

 白き円盾と黒き斬撃。

 その衝突を制したのは、前者であった。

 全身から冷や汗が噴き出す。あと一歩後ずさっていれば、あと一瞬力を込めていられなければ、確実に消し飛ばされていた。背後に迫っていた敗北の予感に今気付き、マシュは戦慄する。

 

「ほう、我が聖剣を防ぐか、小娘!」

 

 圧倒的な暴威が周囲に撒き散らされる。宝具とは英霊そのものでもある故、それを凌がれたことは矜持を傷つける行いなのだ。

 とはいえ、その戦果は甚だ大きい。星の聖剣(エクスカリバー)を防ぐことは必要条件ではなく絶対条件。その一撃を凌ぐ術を持たぬ以上、どれだけ追い詰めても敗北は必定だからだ。

 盾は役目を果たした。であるのならば、次は剣の番だ。

 ペレアスとセイバーは互いに肉薄する。

 瞬間、無数の剣戟が両者の間で繰り広げられ、橙色の火花が散った。

 二人の剣術はまさに対照的。構えを崩さず剣を振るうセイバーに対し、ペレアスは足払いや拳打も厭わない無形の型。

 セイバーが堅く巨大な岩壁であるなら、ペレアスは絶えず変化する激流だ。

 激流(ペレアス)が岩壁を削り穴を空けるか、岩壁(セイバー)が激流を受け切り真っ二つに断ち割るか。この戦いはそこに帰結している。

 一撃の重さを比べれば、ペレアスのそれはセイバーには及ばない。なぜなら、赤き竜の因子を継いだ騎士王は素の筋力に加えて魔力による推進力を得ているのだ。

 全身にロケットをくくりつけているようなものだ。魔力の放出と同時に振るわれる斬撃は、爆発の如き威力を誇る。

 

「「──!」」

 

 空間が歪むような刃鳴り。両者の頬には、等しく一筋の赤い線が刻まれていた。

 剣術に然程大きな差はない。

 一撃の威力では上回っている。

 だというのに、手傷を負わされた。

 ぎ、とセイバーの口端が吊り上がる。

 

「……強いな、ペレアス」

「鍛錬する時間ならいくらでもあったんでね」

 

 短い問答。それを皮切りに、両者は再度激突する。

 先手を取ったのはセイバー。魔力放出によって音速を超えた突撃を実現し、一秒のうちに数十の斬撃を繰り出した。

 ペレアスはそれらを弾き、受け流し、そして躱す。全てが同居した異形の剣。回避と攻撃が一体となった戦闘法こそ、ペレアスの剣の深奥である。

 

(すごい──これが英雄同士の決闘!)

 

 無尽の刃が織り成す戦場に、マシュは立ち入れないでいた。その理由は二つ。

 ひとつは得物の差。剣と違い、盾を武器とするマシュの攻撃は、重いが遅い。反撃を食らう可能性を考慮して、割って入るのはペレアスが危機に陥った時のみと決めていた。

 次に、聖剣に対する防御。セイバーの宝具を防げるのは、マシュただひとり。後ろに控えるマスターたちのため、彼女は聖剣に対応できる位置につかなければならない。

 実質的な一騎討ち。しかし、ペレアスにはあってセイバーにないものが存在する。

 

berkana(ベルカナ)sowelu(ソウェイル)inguz(イングズ)──nautiz(ナウシズ)

 

 バインドルーン。複数のルーン文字を一体化させ、さらに効力を高める秘法。

 ルーン魔術は、術者によって同じ文字でも意味が異なる場合がある。それはひとつのルーンが複数の意味を持つからであり、術者の傾向を把握しなければならないため、それを解読するのは至難を極める。

 ただし、バインドルーンにおいては意味を読み取るのは比較的容易い。似た意味を掛け合わせることで効果の向上を図るからだ。

 ノアは空中に描いたルーン文字を、束縛(バインド)の意味を表す『nautiz』の掛け声とともに掌中に収めた。意味をまとめることでより効果を純化させたのである。

 対象はペレアス。頬の傷が治り、振るわれる剣の勢いが増していく。

 必要に応じて支援を行うマスター。それこそ、セイバーにはないペレアスのアドバンテージであった。

 

「う、ぉぉぉおおおおおおッ!!」

 

 裂帛の気合いを込め、ペレアスは剣撃を打ち込む。そのいくつかがセイバーの鎧を破り、その肌に傷をつけた。

 セイバーも負けじと打ち返し、見る見るうちに剣が体に届き、血を撒き散らす。防御に回るのは致命的であると判断した攻撃のみ。それ以外は甘んじて受け、剣を振るう腕に感覚を集中させる。

 それを不利と見たか、セイバーは後方へ翔んだ。大きく剣を振りかぶり、魔力を収束させる。

 宝具を警戒し、ペレアスは即座に射線上から遠ざかる。それに合わせて、マシュはマスターたちへの射線を遮った。

 だが、束ねた魔力が宝具として形を成すことはなく、地面へそれを叩きつける。

 暴風と地鳴り。土塊(つちくれ)混じりの砂塵が巻き上げられ、視界が大幅に制限される。口元を腕で抑えながら、立香は叫ぶ。

 

「マシュ! 警戒──」

 

 言いかけて、気付く。

 敵味方の姿を見失ったこの状況。セイバーが狙うとしたら、ペレアスとマシュどちらを攻撃するだろうか。

 答えはそのどちらでもない。この場には、サーヴァントよりも遥かに非力な存在がある。しかも、それを討てばサーヴァントまでもが消滅する最善の一手。

 

(狙われるのは、私たちだ)

 

 影が見えた。

 きっと、死んだことすら気付かないであろう黒の剣閃。

 その直前、立香の体は横からの衝撃に突き飛ばされる。

 

「あ──リーダー」

 

 ノアの右腕が宙を舞う。肩口からすっぱりと切断されたその腕こそが、立香の命を救ったモノだった。

 噴出する血は極めて少量。ノアの肩口からも血は出ているが、ぽたりと数滴の雫が落ちるのみである。

 なぜ。その疑問を解消する間もなく、ペレアスとマシュが飛び込んできた。

 

「お前、その傷」

 

 逡巡。しかしそれは、

 

「ペレアス、決めに掛かれ!!」

 

 その一喝で消え去った。

 脇目も振らず、ペレアスはセイバーへと剣を叩きつける。

 ──勝つ。一も二もなく勝つ。ここでマスターの想いに応えられなければ、戦士でも男でもなくなってしまう。

 彼らは剣士だ。

 言いたいことは剣で語り合える。

 

(貴方には、ひとつだけ足りないものがある)

 

 ……けれど。

 幾千の剣戟を交わしても。

 幾万の言葉で問い掛けても。

 貴方はそれに気付くことはないだろう。

 諸侯との戦いを制し。

 異民族との戦争に明け暮れ。

 そして妖精郷で眠りについてもなお。

 ならば、どう伝える。

 この胸のたぎりを。魂に燃える炎を。

 証明するしかない。

 それを知らないが故に貴方は敗けたのだと───!!!

 

「『約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)』!!」

 

 黒闇の極光がペレアスに向けて放たれる。

 白銀の騎士ひとりのみを狙った斬光。もはや躱す術はない。マシュの防御も間に合わないだろう。

 光に呑み込まれる刹那、ペレアスは囁いた。

 

()()──」

 

 熱線がその身を焼く。

 魂までをも滅する光は、確かにペレアスを直撃した。

 ……もし、装備(つるぎ)の差が無ければ。

 勝負は分からなかった──最強の聖剣使いにそう思わせるほどの、熾烈な戦いだった。胸中に溢れる賛美と畏敬。強敵を打ち破ったという達成感。

 ペレアスという剣士はまさしく全力を以って迎え撃つに足る男だった。だというのに、

 

「三画全部くれてやる。『騎士王を倒せ』、ペレアス!!」

 

 勝利に水を差す、ノアの声。

 ──何を馬鹿な。その男はたったいま消えた。聖剣の極光に呑まれたのだ。

 しかし。令呪が赤光を発し、セイバーの目の前へと吸い込まれていく。そこで彼女は信じられないものを見た。

 

「何だと……!?」

「っ、らァァァああああぁぁああああッ!!!」

 

 ペレアス。彼は低く身をかがめ、今にも剣を振り抜こうとしていた。その輪郭は茫洋として、まるで陽炎のように揺らめいている。

 真一文字の斬撃。令呪三画の強化を得たペレアスは、迎撃の刃を軽々と弾き飛ばす。

 ここからは、セイバーも死力を尽くさなくてはならない。夜空に輝く満点の星空の如く、剣閃が闇の中を踊った。

 打ち合うこと都合百八十。

 時間にして五秒。

 終わりは唐突に訪れる。

 

「……か、は」

 

 血の塊が地面に落ちる。

 彼らは互いの心臓に剣を突き刺した。

 突き刺したはずだった。

 

 

 

 

 

 

「───『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 

 

 

 

 

 セイバーの剣だけが心臓を外れ、ペレアスの脇腹を抉っていた。

 

「…………なるほど、それが」

 

 彼は生前、湖の乙女によって『ランスロットと戦えない』という加護を掛けられた。

 円卓最強の騎士であるランスロットと戦えば、命を落とす可能性があったことを知っていたのか。それとも、己が養育した男と己がひとり愛した男が戦う様を見たくなかったのか。

 ともかく、水の精霊の加護を受けたペレアスは天寿を全うし、幸せな最期を迎える。

 あらゆる騎士が逃れ得なかった──戦死という名の定めを脱して。

 ペレアスの宝具。

 それは『自身の死の運命を回避する』。

 

「湖の乙女……彼女と紡いだ愛───それこそが、()()()宝具(生き様)か」

 

 アーサー王は星の聖剣と鞘を湖の乙女から授かった。

 ガウェインとランスロットもまた同じ。強力な剣を与えられ、無双の力を振るった。

 けれども、果たして、彼女の寵愛を受けた者はひとりしかいない。

 ──ああ、勝てない。

 これほどまでに苛烈で、気高く、溺れるような愛情を私は知らない。

 そんな人間が、彼に勝てるはずがなかったのだ。そんな王が、民を救えるはずがなかったのだ。

 

(…………違う)

 

 愛していた。

 愛していたはずだ。

 誰も彼をも愛していたのだ。

 ブリテンを、民衆を、騎士たちを。

 その結末が、あの丘の光景だ。

 かつての仲間たちをこの手で殺し、屍の山でひとり自責する。

 

       〝王は人の心がわからない〟

 

 なぜだ。

 なぜ、私の愛は伝わらなかった。

 何が悪い、誰が悪い。

 教えてくれ───

 

「いや、貴公は、それを教えようとしていたのか」

 

 剣身が引き抜かれる。

 瑞々しい鮮血が飛び散り、足元を朱に染めた。

 ──そう、結局は。愛は表現しないと伝わらないのだ。受け入れられることを考えないのであれば、それは苛烈であるほど良い。

 であるなら、ペレアスの宝具はその極致だ。

 運命を歪めるほどの(あい)

 (つよさ)など要らない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その想いが結実したカタチが、これだ。

 王としてそれに応えぬ訳にはいかなかった。

 手放しかけた意識を繋ぎ止める。震える手に力を込め、地面をしっかりと踏みしめながら、聖剣を天に掲げる。

 全魔力を、全存在を、その剣に込める。

 聖剣はそれに応えた。先の二発とは比べ物にならないほどの黒光が騎士王を中心に集結する。

 消滅は近い。

 しかし、気力は万全。

 血を吐きながら、セイバーは笑った。

 

「ああ、そうか、愛とはこう表現するのか──!!!」

 

 騎士王は新たに成長し、

 

「『約束された勝利の剣(エクスカリバー・モルガン)』!!!!」

 

 全身全霊を賭けた一撃を放った。

 さながら宇宙を翔ける流星の如き一刀。

 それを受け止めるのは当然──

 

「『擬似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!!」

 

 魂をも震撼させる衝撃。肺の空気が絞り上げられ、全身が異様なほどに震える。

 これは手向けであり、産声だ。

 愛を表現する術を知った騎士王の、最期の煌めき。燦然と輝く星とはまさにセイバーのことであった。

 故に、防ぎきらなくてはならない。

 いつまでも過去の人間に頼っていられないのだと、未来の人間である自分が教えてやらねば、彼らは静かに眠ることさえできないのだ。

 

「令呪をもって命ずる! マシュ、『耐えて』!!」

 

 出し惜しみはない。令呪全画の力を受け取り、マシュは完全にひとつの盾となる。

 守りたい。

 誰をも守ってみせる。

 人が死ぬのはもうごめんだ。不幸故に世界を呪って生きていくなんて、そんな生き方はできやしない。

 なぜなら、マシュという少女はもっと。

 掛け替えのない人たちとの日常を、未来を、一緒に生きていきたいのだ。

 ただ庇うだけではない。

 背負うものすべてをぶつけろ──!!

 

「はああああぁぁぁぁっっ!!!」

 

 渾身の想いを込めて、彼女は吼える。

 熱線は次第に縮小し、遂には放出自体が止まった。

 

「……見事だ、盾のサーヴァント」

 

 騎士王は短く称えた。

 そして、

 

「聖杯は勝者のものだ、好きにしろ。しかし胸に刻んでおけ。グランドオーダー──聖杯を巡る戦いはまだ始まったばかりだということをな」

 

 その存在は黄金の塵となって消える。

 しん、と辺りが静まり返った。

 喜ぶ者は誰もいない。ただただ呆然と、セイバーの去った跡を見つめている。

 最初に声をあげたのは、立香だった。

 

「そうだ、リーダーの傷は大丈夫なんですか!?」

「問題ない。随分と綺麗に斬られたせいで、この程度ならすぐにくっつく。流石騎士王の剣だけはある」

 

 

 ノアは右腕を左手でひょいと拾い上げ、切断面同士を押し付ける。すると、肩口からいくつか樹木の根が飛び出し、右腕の深くまで食い込んだ。

 びくん、と右手の指が跳ねる。腕自体は相変わらずぶら下がったままだったが、少しなら動かすこともできるらしい。

 それを見て、聞き覚えのある声が響く。

 

「生命力の象徴であるヤドリギを自らの体に寄生させているのか! 道理で死なぬはずだ、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド!!」

 

 そこにいたのは、レフ・ライノール。

 死んだとさえ思われていた男だった。




次回、特異点F最終回です。


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第6話 未来を奪い返す物語

 レフ・ライノール。

 管制室の爆発に巻き込まれ死んだと思われていた男は、聖杯の前で怒声をあげた。

 その様子は、普段見かけた紳士然とした印象とは遠くかけ離れている。牙をむくように語気を荒げ、眼光を滾らせる。

 纏う雰囲気は殺気立ち、荒々しく周囲を威圧していた。

 付き合いの浅い立香(りつか)たちでさえ、違和感に身を竦める。オルガマリー所長がどうであるかなど、言うまでもないだろう。

 ノアだけはそれを笑い飛ばし、前に進み出る。

 

「──ハッ、良い表情するようになったじゃねえか。イメチェンか? だったら夏休み明けにでもやっておくんだったな。クラスメイトに白けた目で見られるのがオチだが」

「黙れ! 貴様の言葉はすべて軽々しい。道化の歌を聴いているようで虫酸が走る!」

「ほざけよライノール。俺は相手に応じて言葉を変えてるだけだ。薄っぺらいおまえには軽々しい言葉が似合ってんだろ」

「どこまでも忌々しい人間だ……!! ゴキブリのように殺したと思っても這いずっている! 貴様はなりふり構わずに殺しておくべきだった!!」

 

 言いながら、ノアは立香に視線を送った。彼女は気づかれないように小さく頷き、所長の手を握りしめる。

 その手は氷のように冷たく、汗でじっとりと濡れていた。

 

「所長。絶対に、行っちゃダメです。辛いでしょうけど、今のレフさんは普通じゃありません」

「え、ええ。分かってる、分かってるわ……あんなのがレフなはずないもの……」

 

 自分に言い聞かせるように、所長は何度も分かっている、と繰り返した。

 それも無理はないだろう。アニムスフィアの一人娘として、浅い経験ながらもカルデアを背負ってきた彼女を支え続けたのは、紛れもなくレフなのだから。

 だからこそ、彼の変貌は信じられない。いっそ、偽物であってくれと願うほどに。

 睨み合うノアとレフの間に、ロマンの声が割って入る。

 

「『……まさか、この一連の事件はあなたが原因なのですか。レフ・ライノール!』」

「ああ。そうだよ、ロマニ・アーキマン! これを見ろ、貴様らが希望を抱く未来の地球とやらの姿だ!!」

 

 空間が捻じ曲げられ、カルデアの管制室が現れる。中央のカルデアスは未だ赤く灼け爛れていた。

 所長は、悲鳴にも似た声を出す。

 

「……どうして、カルデアスが真っ赤になっているの?」

「マリー、それは君のせいだよ。私が暗躍していることにも気付かず、思うままに動いてくれたおかげだ。そう、()()()()()()()()人理は焼かれ、人類史は終わりを告げたのだ!!!」

 

 瞬間、ふわりと所長の体が浮いた。

 あたかも磁石が引き合っているかのように、彼女の体はカルデアスへ向かって流されていく。

 立香は必死にそれを繋ぎ止めながら、想いをこぼさずにはいられなかった。

 

「く、ぅっ……どうして!? なんで所長だけが!!」

「人間にも分かりやすいように教えてやる。マリーの肉体は既に死んでいる──あの爆発に巻き込まれてな! 魂だけの人間はカルデアに帰還する際に消滅する。だからこうして彼女をカルデアに戻してやろうというわけだ。感謝しろ、私の慈悲に!!」

「…………そん、な──」

 

 元々、所長にはレイシフト適性がなかった。それが魂だけの状態になることで、初めてレイシフトの適性を手に入れたのだ。

 カルデアスは地球の魂を転写した超高密度情報体だ。人間の魂も似たようなものではあるが、質量が圧倒的に違う。

 人間ひとりの人生が蓄えられる情報と、地球が歩んできた46億年の歴史。もはや比べることすらおこがましい情報量の差があった。

 つまり、遊星がブラックホールに吸い込まれるように、彼女の魂はカルデアスに引きずられているのである。

 所長が生き延びる可能性は全くの無。カルデアスに触れれば永劫の苦しみを味わい魂ごと消滅させられる。カルデアに帰還した途端に戻るべき肉体を見失い、魂も消失する。

 

「ああ嫌だ…!! わたしは何も成し遂げてない、誰にも認められてないのに! 信じてた人にも裏切られて、こうして死んでいくなんて認められない……!!」

 

 それは、所長の数少ない本音だった。

 ひとりで戦ってきた少女の、密かに抱いていた願い。とうの昔に踏みにじられ、二度と手に入れることのできない希望。

 ──あの時、許せないと思った。こんなのはおかしい、と憤ったはずだ。

 だというのに、悪意はそんな想いをいとも容易く打ち砕く。

 自分では彼女の心も命も救えないのだという事実は、何よりも重くのしかかる。

 立香は涙で顔を濡らしながら叫んだ。

 

「リーダー! どうにかならないんですか!?」

 

 ぎり、と歯噛みする。

 オルガマリーが助からないことは、ノアが一番理解していた。

 なぜなら、死後に復活を果たした預言者でさえ、その遺体は手厚く保存されていたのだ。

 肉体とは魂の容れ物。魂をこの世に留める器だ。肉体の死とは、すなわち魂の死なのである。

 ノアは二つのルーンを組み合わせ、『nautiz(ナウシズ)』で締めくくる。左手の中に淡い光を閉じ込め、彼は言った。

 

「……助ける方法がある。藤丸、手を離せ」

 

 立香は笑顔を光らせる。

 彼の人格はともかく、Eチームのリーダーとして、立香はノアに全幅の信頼を置いていた。

 ここまで来るのに、何回も助けられた。最初は辛かった魔術の特訓も、低級の怪物なら退けられるようになり、マシュを援護することだってできる。

 マシュが宝具を使った時だってそうだった。自分を守らせることで、きっかけを与えるやり方は危険だったが功を奏した。

 どれもこれも、彼の助言があったからこそ。

 だから、今回も立香は言うのだ。

 

「──! お願いします……!!」

 

 ノアは左手を所長に向ける。

 彼は勢い良く手を開き───

 

 

 

 

 

      「所長、俺を恨め」

 

 

 

 

 

 ───光り輝く氷の刃が、所長の胸を貫いた。

 

「……あ」

 

 苦痛なく命を断つ眠りの刃。何かを言いかけ、所長は泡となって消えた。

 せめて最期は苦しまぬように。

 直後、レフの哄笑が高らかに響き渡る。

 

「く──はははははははっ!! 助けるなどとほざいておきながら、やることは結局それか魔術師!! カルデアスに呑まれるよりマシだとでも思ったのか!? 死は死だ、貴様ら人間にとっては永劫の喪失に変わりあるまい!!!」

 

 立香は、呆然とノアを見上げていた。

 自分の言葉が何を意味していたのか気が付いたから。

 マシュは顔を覆い、ペレアスは剣を握り直す。

 暫時、ノアは顔を伏せていた。

 みしり、と音を立てて拳が軋む。

 これほどの怒りを感じたのは、いつぶりだっただろう。これほどの侮辱を感じたのは、きっと初めてだ。

 助けられなかったことを悔いる、などという次元の低い話ではない。死ぬべきでなかったはずの人間が死ぬという不条理こそを彼は憎む。

 ……あれも、背負うもののひとつであったのだ。

 荷を失ったというのに、その身にかかる重力は増しているようですらあった。

 ノアは面を上げ、噛み付くように言う。

 

「──これで、おまえを許せない理由がまた増えた」

「……なに?」

 

 一歩、また一歩とレフの元へ歩み寄る。

 

「ひとつは俺のカルデア所長就任を阻んだことだ。あいつを無事に帰す条件がこれでご破算だ。それだけでも万死に値する」

「何を言い出すかと思えば功名心に塗れた薄汚い欲望か! 未だ死を克服できぬ劣等種(にんげん)らしくはある!」

 

 レフはまたもや笑い声を迸らせる。

 人間という種そのものを嘲弄するような絶叫は、もはやノアには届いていなかった。

 

「ふたつ。俺は完璧主義者だ。カルデアの人間全員を支配して人理修復を成し遂げるつもりだったが、おまえのせいで計画の変更を余儀なくされた。俺の未来の部下たちを殺した罪はあまりにも重い」

「くだらんな、貴様の言葉はやはり全てが軽い。まるであの娘のようだ!」

 

 レフはノアの言葉を嘲って切り捨てる。彼はそのことが、ノアにとって何を意味するのか思い至るはずもなかった。

 ノアひとりに対してでなく、カルデアに向けた侮辱。それが、幾人の逆鱗に触れたであろうか。

 

「そして、俺は期待を裏切る人間が嫌いだ。俺はおまえがちょうど良い下僕になると思っていた。その期待を裏切った上に、所長の信頼も不意にした。大人しくここで死ね」

「それは無理な話だな。魔術師風情がこの私を殺すことなどできようはずがない!」

 

 かつ、とノアはレフの目の前に到達した。

 手を伸ばせばすぐに届く。彼らはともに飛び抜けた技量を有する魔術師だ。この距離であれば、相手を殺す手段はいくらでもある。

 如何にして殺すか。レフの思考は一時それに傾いた。

 互いの一挙一動が死に繋がる。その場面で、ノアは呑気に考え込む素振りをすると、思い付いたように手を叩く。

 

「──()()()()()()()()()()()()()

 

 左手に薄青色の光の線が走る。

 

「俺の部下どもを泣かせた罰だ! 死に晒せェェェッ!!!」

 

 乾坤一擲。全体重を乗せた左ストレートが、見事にレフの顔面に突き刺さる。

 使用した魔術は身体の『強化』のみ。後は何ら変哲のないパンチだった。とはいえ、その威力は侮ることはできない。

 ぐちゃり、と粘ついた打撃音が響く。

 レフの体はゴム毬のように跳ねた。地面を何度も転げ回り、10メートルほど先の聖杯に激突して、ようやく止まる。

 

「ぐっ、がぶぅっ……!!!?」

 

 顔の中心からぼたぼたと血がこぼれ落ちる。辺りにはピンク色の肉片と歯の破片が散らばっていた。脳を直接揺らされたことで視界はねじ曲がっている。

 痙攣する手で顔を確かめると、殴られた部分が無残に陥没していた。指が触れた僅かな衝撃で、目玉がずるりと落ちる。

 無論、頭がここまで損傷していれば首も無事ではない。頚椎は粉々になり、振り子のように頭が踊っていた。

 ノアは左手の手袋を噛んで抜き取る。そしてレフへと投げつけ、

 

「おまえ、その怪我で生きてるってことは人間じゃねえだろ。さっさと正体を現せ。汚い脳みその色を見るのも飽きた。俺が相手してやるよ、一対一(サシ)だ」

 

 レフは地を這いつくばりながら考える。

 

(……馬鹿が! 衝動で生きる貴様と違って私がこの程度の挑発に乗るはずがないだろう! もうじき退去が始まる。ここは退いて後の特異点で───)

 

 彼に矜持はない。侮辱されたからといって衝動的に動くこともなければ、判断を違えることもない。

 なぜなら、その精神の何もかもすべてが、彼の主たる者に捧げられている。その者の意思でのみ彼は動き、思考するのだ。

 故に、一個体(じぶん)の感情などいくらでも封殺できる。たとえ相手が殺したいほど憎らしい男であっても。

 

〝油断したな、フラウロス〟

〝マスターを全員殺せず、あの騎士王も役には立たなかった〟

〝全責任は貴様にある〟

 

 その時、レフにある勅令が下る。

 彼以外の誰にも聞こえない、遥か上位存在よりの言葉。この世の何よりも尊いと崇めるそれは、無慈悲に告げた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……ぶわり、と粘ついた汗が噴き出す。

 凍りつくような底冷えした声。取り立てて責めるような語気ではないが、奥底には失望の情が渦巻いていた。

 顔面は蒼白に、全身がガタガタと震え、歯の根も合わなくなる。

 かの王を落胆させた。

 命令を遂行できなかった。

 それだけがただ唯一の存在理由だというのに。

 

「………………殺す。貴様ら全員塵と消えろ!!!」

 

 レフの骨格を折り曲げながら、その体は異形へと組み替えられていく。

 単なる変身ではない。肉が膨張し、魔力量が跳ね上がる。魂の格そのものが上昇する存在の変革。

 

「『なんだ、この数値は……!! サーヴァントですらない、まるで伝説上の悪魔だ!』」

 

 ロマンの声が洞窟内に反響する。

 自己変革を終えたレフの姿は、元の面影をどこにも残していなかった。

 屹立する巨大な柱。暗黒の塔。赤く輝く眼球がその表面を割って、ぎょろぎょろと辺りを覗く。禍々しさ、という一点で言えば堕ちた騎士王すら凌ぎうる醜悪な姿。

 だが、レフはそれを見せつけるようにうねらせ、多数の視線でもって立香たちを射抜いた。

 

「……さて、一対一だったな?」

「──ふっ」

 

 ノアは小さく笑い、

 

「いやそれは無理だろ!!」

 

 踵を返して遁走する。当然、その逃走を許すレフではない。その背中に照準を合わせ、呪いを込めた眼光を発射する。

 熱線の如き視線。だがそれは、マシュの盾によって遮断される。聖剣の一撃に比べれば児戯に等しい威力。彼女は苦もなくそれを凌ぎ切った。

 

「リーダー、退去が始まります! それまで耐え抜きましょう!」

「よし分かった。ペレアス、そいつをぶっ殺せ!!」

「……ええ!!? 話聞いてましたか!?」

 

 ペレアスは逡巡する。

 心は奴を斬れと叫んでいる。今までの問答でアレが碌でもないということは分かっていたし、どちらにしろ殺すつもりではあった。

 問題は立香だ。所長が死んだあの瞬間から、彼女はその場にへたり込んでしまっている。これが戦士であればペレアスも檄を飛ばしたであろう。しかし、生まれてこの方、命の奪い合いに縁遠い少女に立てと言うのは些か不合理だ。

 相手の手の内も分からない内に、マスターたちから離れるのはリスクが高い。

 

「行ってください、ペレアスさん」

 

 堂々巡りの思考を、立香の声が吹き飛ばす。

 目を赤く腫らしながら、歯を噛み締めて、ゆらゆらと立ち上がる。射殺すような眼差しは、異形と化したレフに向けられていた。

 

「あの人は、私たちの未来を踏み躙りました」

 

 脳裏に浮かぶ、キリシュタリアやヒナコ、職員たちの顔。彼らには輝かしい未来があった。共に歩んでいける世界があった。今となっては分からないことだけれど、きっとそれは幸福だったに違いない。

 無念だろう。

 悔しいだろう。

 ……だから、こんなふざけた脚本は書き直す。

 取り戻すでは足りない。この怒りは伝わらない。

 

「──奪い返しましょう、あの人が壊したすべてを!! みんなの無念を晴らすために!!」

 

 少女の宣言に、レフの怒りは臨界点を超えた。

 

「吼えたな小娘─! 人間如きでは埋めることの叶わない力の差を教えてやる!」

 

 直後、衝撃波を伴った黒い霧が撒き散らされた。

 威力はそれなりだが、大きな力を振るっているだけ。カルデアの誇るサーヴァントたちはそれを悠々と回避し、漆黒の柱へ突撃する。

 無数の光線を掻い潜りながら、ペレアスは柱に斬撃を叩き込んでいく。彼は獲物を前にした肉食獣の如く笑った。

 

「随分と三下じみた言葉を吐いたなァ! 実が伴ってねえと見苦しいだけだぜ!」

 

 それにマシュも追随し、

 

「ええ、全くです! まるでリーダーみたいで無様と言わざるを得ません!」

「おい」

「わたしたちの未来を軽く見た、それがあなたの敗因です!!」

「良い感じにまとめようとしてんじゃねえキリエライトォォォ!!」

 

 大盾を膨張したレフの体に突き立てる。

 まさしく会心の一撃。芯に響くほどの打撃を受け、レフは大きく身をよじらせた。

 

 

 

「情報室、開廷。過去を暴き、未来を堕とす──焼却式 フラウロス」

 

 

 

 それは、レフ──否、フラウロスの切り札。人類の積み重ねてきた罪を露わにし、その未来を貶める。人類の原罪を開示するため、サーヴァントであっても人間である以上、それを逃れることはできない。

 この場の人間全員に死を与える必殺の術式。故に、その宝具の影響を避けることはできなかった。

 

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』!!」

 

 自らの死の運命を回避するペレアスの宝具。

 フラウロスは驚愕する。

 

「──焼却式が、発動しない……!?」

 

 聖剣を回避した際の宝具は、ペレアスを中心にしたものだった。今回は他者対象。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それと同時に、カルデアの面々の体が薄れていく。レイシフトによる帰還が始まる証であった。

 彼らがこの特異点を去る瞬間、ノアとレフの視線が交錯する。

 

「おまえは──」

「貴様は──」

 

 濃密な殺気。

 

「俺たちが、」

「この私が、」

 

 滾る殺意。

 

「「殺す!!!」」

 

 宣戦布告。すべての感覚が閉じ、特異点からの退去が実行される。ともに帰るはずだった人間は、もういなかった。

 

 

 

 

 

 

 カルデアで待っていたロマンたちは、彼らの生還を歓迎した。けれど、それは戦いの終わりではなく始まりに過ぎない。

 冬木の特異点は確かに消滅した。だが、未だ人類史の復興は成されておらず、カルデアだけがそれを免れていた。

 

〝シバで観測を行った結果、新たに()()()特異点が観測された。冬木の特異点とは次元の異なる、歴史のターニングポイントともいえる時代と地域にそれが巻き起こっている〟

 

 歴史には修正力がある。ちょっとやそっとの過去改変では、人類の辿ってきた歴史を変えることはできないのである。

 だが、今回カルデアが発見した八つの特異点は、全てが現在の人類を決定付けた歴史の重大事。人類史を破壊し得る巨大な歪みなのだ。

 つまり、Eチームはこれから八つの特異点に挑まなくてはならない。もっとも、彼らの返答は聞くまでもなかったが。

 

「……」

 

 寝返りを打つと、ぎし、と寝台が音を立てる。

 立香の脳内を巡る、所長の姿。

 ──優しい人だった。普段の態度は、周りの期待と重圧に押し潰されていたせいで、余裕を持てていなかっただけなのだろう。

 少なくとも、決戦前の彼女はEチームを気遣ってくれていた。

 けれど、死んでしまった。

 殺させてしまった。

 ──何を勘違いしていたのだろう。リーダーなら何でもできるだなんて、そんな身勝手な幻想を抱いていた。

 

「謝らなきゃ──」

 

 彼女はゆっくりと起き上がり、カルデアの廊下を歩く。

 あれほど賑やかだったこの場所も、すっかり静かになってしまった。あの冬木の街のように、人だけが忽然と消えてしまったかのように。

 しばらく歩いていると、前方に人影が見えた。軍服のような礼装を着込んだ男──ノアだった。

 互いに姿を認め合うと、上手く声を出せないことに気付く。

 氷の刃が所長を貫いた瞬間から、立香とノアは言葉を交わしていなかった。数秒の沈黙。立香は意を決して、

 

「ごめんなさい、リーダー」

「藤丸、悪かったな」

 

 声が被る。

 気まずい雰囲気はまだ消えない。横を通り過ぎようとするノアを、立香は掴んで引き止めた。

 あの時切断された右手。確かに体温が宿った、人間の手。

 

「自分だけで抱え込むのはやめてください。私も一緒に背負います。──せめてこの手だけでも護り切れるように、強くなりますから」

 

 真っ直ぐ見つめる、澄んだ瞳。

 

〝ヴォーダイム、教えろ。どうしたら部下を護れる……おまえのように〟

 

 炎に包まれる前の管制室、ノアはキリシュタリアにそう訊いた。

 

〝その才能は誰かのために使え。さもなくば、終わりに待つのは自分自身の破滅だ〟

 

 キリシュタリアと立香はまるで反対だ。

 前者は究極的に言えば、誰の手を借りずとも歩いていくことができる。失敗など知らない、敵など存在しない。故に人々はその足跡に縋り、追い付こうともがく。

 一方、立香の道には峻厳な山が広がっている。何回でも失敗を積み重ね、体を傷付け、その果てに苦難を踏破したとしても、次に待つのは更に高い山脈。だからこそ、人々は彼女を助けたいと思う。あらゆる人間に支えられ、彼女は困難を乗り越えていくのだ。

 ──そう、彼にとっての(りそう)とは。

 ノアはその手を握り返して、言う。

 

「……藤丸。おまえは死なせない」

 

 その言葉に、立香は呆気に取られた。キャラが違いすぎる。こんな殊勝なことを言う性格ではなかったはずだ。

 そんな考えを見抜かれたのか、もう一方の手で額を弾かれる。地味な痛みに彼らの手は離れた。

 

「そうだ、体にヤドリギを寄生させてるとかって。そんなことして大丈夫なんですか?」

「ああ、それか」

 

 なんでもないことかのように、ノアは言った。そもそも、立香にとっては植物が人間の体に寄生している時点で不可思議なのだが。

 

「正確には寄生じゃなくて共生だ。術式が確立する前は魂ごと吸い取られて、全身が木になった奴もいるらしい」

「え、エグいですね……その共生っていうのは?」

「こっちが魔力を与える代わりに生命力を受け取る。理論上は魔術回路を稼働させ続ければ、寿命で死ぬことはない。魂が腐って死ぬがな」

「魂って腐るんですか!?」

 

 ナーストレンド家はヤドリギの保存を第一義とした家系だ。その栽培方法はもちろん、警戒しなくてはならなかったのが他者による略奪である。

 彼らが引き籠もった理由は後者が大きい。万が一略奪者に遭遇した際の対処として思いついたのが、とにかく死なない体になって逃げることであった。

 ドルイドの信仰では、ヤドリギは生命力の象徴だった。当然、バルドルを殺したそれとなれば、秘めた力は想像もつかない。

 そう考えたナーストレンド家の先祖たちは自らの体にヤドリギを埋め込んだ。しかし、ノアの語ったように逆に魔力を吸われ、生き残った者は少数だった。

 そこで、生存者たちは近親婚を繰り返した。ヤドリギの寄生に耐えられる体質を残し、特化させるために。

 

「……家系図が恐ろしいことになってそうですね」

「良い所に気付いたじゃねえか。俺も一回書き起こしてみたことがある。聞きたいか?」

「いえ、やめときます!」

 

 口に出すことも憚られる、血の所業。その中で徐々にヤドリギとの共生が行われ、完成していった。

 

「だが、俺に言わせれば欠陥だらけの魔術だ。当時八歳だった俺は術式に改良を加え、ヤドリギを外付けの魔術回路として使えるようにした。そんな訳で俺にヤドリギの影響が出ることはない」

「もしかしてリーダーって天才……!?」

「まあな。天才を超えた超天才と言え!」

「超が続いてて超読みにくいんですが」

 

 そこで、立香はノアの腕のことを思い出す。

 

「出血が少なかったのも、ヤドリギのおかげなんですか?」

「そうだ。生きていくために血液に頼る必要がないからな。ただ、魔術的に血ほど便利なものはない。契約に使ったりな」

「だから最低限は確保してると。色々考えてるんですね。……そういえば、リーダーのことを聞くのは初めてな気がします」

 

 その時、二人の背後からロマンが肩を組むようにして絡んでくる。片手に酒瓶を持ち、アルコールの匂いを漂わせていた。どう見てもダメ親父である。

 笑い上戸なのか、常に笑顔なのが逆に恐怖を駆り立てた。

 

「二人ともこんなところで何をしてるんだい!? 男女の逢瀬かなぁ〜!? みんなで飲もうよ!」

「私未成年なんですけど!?」

「世界が絶賛滅亡中なんだから法律なんて無視しちゃっていいんじゃないかな!?」

「おい、ここにとんでもない人類悪がいるぞ!」

 

 二人の抗議もむなしく、ロマンに引きずられていく。途中で何度か抵抗しようとするも、そうすると泣き出すため、空振りに終わらされる。

 辿り着いた場所は、いつもの食堂だった。

 扉を開くと、ペレアスと見慣れない女性が酒の入ったグラスを傾けている。テーブルの上は開けられっ放しのつまみが散乱する地獄絵図であった。

 ペレアスは鎧を脱いでおり、どこで見つけてきたのか半袖短パンのラフな格好をしていた。一歩間違えると夏休みの虫取り少年だが、下手に良い見た目とスタイルのせいで先鋭的なファッションモデルにも見えなくもない。

 彼らはノアと立香が来ると、

 

「よお、とりあえず飲め」

「君たちが世界の脅威に立ち向かうマスターかい? ……良い目をしているな、それに度胸もいい、とか言っておこうかな」

 

 なるほど、つまりカルデアの年長組が酒盛りをしていただけだったらしい。ノアと立香は無理やり席につかされる。

 立香は栗毛の女性に対して頭を下げた。

 

「初めまして! お名前は何と言うんですか!?」

「よくぞ聞いてくれた! 私は世に謳われた万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ! ダ・ヴィンチちゃんと呼んでくれると嬉しいな!」

「…………あの、私でも知ってる名前が出たんですけど。髭もじゃのおじいさんじゃありませんでしたっけ」

「ああ、そこはほら、私天才だから」

「そう言われても分かんないんですが……」

 

 困惑する立香だったが、ノアはなぜか納得したように頷いていた。

 

「天才故の苦悩ってやつだな。俺も超天才だからよく分かる」

「お、イケる口だねえ。私も生前は色々とよく悩んだものさ」

「例えば?」

「「………………」」

「無いのかよ!! もはや気楽なだけのアホだろお前ら!?」

 

 憤るペレアス。サーヴァントにもアルコールは効くのか、酔いが回って感情表現が大げさになっていた。

 そんな彼を見て、ダ・ヴィンチとノアはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「まったく、これだから戦士は困るなあ。学者には学者の戦場ってものが〜」

「違いねえな。学会もまた謀略と策謀渦巻く戦場なんだよ。俺が聞いた話では〜」

「お前ら『〜』に頼ってれば、知らなくてもどうにかなると思ってるだろ。勝手に補完してくれると思ってるだろ」

「「〜」」

「よし、表に出ろ。喧嘩売ってることは分かった」

 

 ノアとダ・ヴィンチは組ませてはいけない。立香はそのやり取りから学んだのであった。

 翌日、立香を除く四人は二日酔いで撃沈。カルデアの業務は大いに遅れた。




次回、閑話をひとつ挟んでオルレアンに行きたいと思います。特異点がしれっとひとつ増えてましたが、キャメロットの後を予定しているので当分先に。舞台は日本です。


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第6.5話 第1回チキチキサーヴァント勉強会!

ほぼギャグです。後書きに簡易的ですがペレアスのステータスなんかも載せています。


 カルデア、レクリエーションルーム。

 職員が最大限のパフォーマンスを発揮するには、適度な息抜きも欠かせない。この部屋には古代のボードゲームから最新のVRゲームまで、古今東西あらゆる娯楽が用意されていた。

 その豊富さたるや、レクリエーションルームに布団と生活用具一式を持ち込む猛者までいたほどである。一方で、忙しい部署の職員などは、ゲーム開始数秒で寝落ちする悲しい事件が絶えなかったという。

 とはいえ。今日はその趣きを変え、空いたスペースにホワイトボードが雑に置かれている。

 ホワイトボードの横にはマシュとロマンが教師然と立っており、立香(りつか)とノアはその前で体育座りさせられていた。

 

「……青空教室?」

 

 立香はぼそりと呟く。ちらりと横を流し見ると、両手を枕に眠りにつこうとしているノアがいた。が、後ろから竹刀で肩を思い切り叩かれる。

 

「ギャーッ!?」

「今回はオレのメイン回だ、粛々とした気持ちで受けてもらう」

「おいこれパワハラだろ! 労基に訴えんぞ!」

「ノアくん、カルデアは所長の方針からしてパワハラを許容する体質だったんだ。諦めてくれ」

 

 二人のさらに後ろ。そこには青いジャージ姿で竹刀を持ったペレアスがいた。パイプ椅子に腰掛けるその様は、まさしく昭和の体育教師であった。

 そう、今日彼らがここに集められたのは、ペレアスのことについてだった。特異点Fの戦いを通じて、彼がまず思ったことは、自分の知名度の無さ。

 召喚された直後の反応を大分気にしていたらしい彼は、マシュとロマンに打診して勉強会を開いたというわけだ。

 あっさりと人に頼るあたり、ペレアスに騎士の誇りはなかったといえる。

 

「茶番も終わったので、始めましょうか。ペレアスさんはアーサー王物語の中では脇役の中の脇役なのですぐに終わると思いますが」

「マシュちゃん? なんでオレに辛辣なのかな?」

「……ペレアスさんが出てくるのは、ガウェイン卿の旅の途中でした」

 

 ……ガウェインが、ひょんなことから15歳の乙女と旅をすることになった道中。知り合った老騎士に〝不思議なことが起きる〟と伝えられた森に差し掛かったところだった。

 大いに嘆き悲しんでいる騎士がガウェインの前を横切ったのである。

 

「……これがペレアスさんです」

「どんな登場の仕方!?」

「ガウェインからすれば恐怖でしかねえな」

 

 ペレアスは森の開けた場所へと歩いていく。そこには、馬に乗った十人の騎士が彼を待ち構えていた。歩兵と騎兵の戦いは絶望的にも思われたが、ペレアスはなんと十人全員を落馬させた。

 だが、どういうわけか、地上戦に移り変わった途端、彼は剣を納めてどこかへ連行される。その間、抵抗する素振りは一切見せなかった。

 ガウェインは同行する乙女に、ペレアスを助けるよう頼まれるが、当のペレアスが助けてほしくないような素振りをするので、申し出を聞かなかった。

 

「11人のアホがコントしてるだけだろ、これ」

「ナチュラルにオレをその中に入れるんじゃねえ!!」

 

 その後、ガウェインは騎士と小人が貴婦人を巡って、言い争う場面を目撃する。貴婦人は小人を選んだが、そこに二人の騎士がやってきて、その内のひとり──カラドス卿がガウェインに戦いを挑んだ。

 

「ガウェインさんがとばっちり過ぎる。というか小人の話は……?」

「それが、小人の話が後の伏線になっていたりはしません。なぜ入れたのか……ちなみに戦わなかった方の騎士は、15歳の乙女をナンパして何処かに行ってしまったそうです」

「渋谷のセンター街とかか」

「どんな世界観ですか!?」

 

 当然、そこら辺の騎士がガウェインに勝てるはずがない。彼はカラドスをボコボコにし、せっかくの縁ということで泊めてもらうことにした。

 ガウェインはカラドスにペレアスのことを聞くと、ペラペラと喋り始めた。

 なんでも、ペレアスはエタードという婦人を愛しているのだとか。ある時、三日間にも渡る槍試合が催された。優勝者には剣と金の輪(冠とも言われる)が与えられる豪奢な大会だったそうだ。

 ただし、優勝者はその槍試合に来ていた最も美しい女性に金の輪を譲らねばならなかった。

 

「……場合によってはとんでもなく揉めるだろうね」

「もしリーダーならどうしてます?」

「まず賞品が剣と金の輪しかないのが気に食わねえな。騎士とか何が楽しくて生きてんだ?」

「うるせえ! オレたちは物より名誉なんだよ! オレの場合はその上に嫁だがな!!」

 

 大会で優勝したのはペレアス。彼はエタード婦人に金の輪を贈った。これが両想いであったなら、話はこじれなかっただろう。

 そう、ペレアスはエタード婦人を愛していたが、エタード婦人からすればそうでもなかったのである。顔がタイプではなかったのだ。

 しかし、そこでめげるペレアスではない。エタード婦人が振り向くまで離れないと誓い、居城の近くの修道院に住み込んだのである。

 

「現代で言うストーカーじゃないですか!」

「勝手に誓ってるのが怖いですね。正直引きます」

「いやこれは若気の至りだから! 変態を見るような目でオレを見ないでぇ!」

「まごうことなき変態だろ」

 

 そこで、エタード婦人はペレアスに騎士を送って戦わせた。質が悪いのが、ペレアスが下手に強かったことであろう。

 騎士を倒してわざと捕まり、エタード婦人に一目会おうと何回も同じことを繰り返していたのだ。その度にエタード婦人はペレアスをなじっていたのだが、もはや彼に言葉は通用しなかった。

 その話を知ったガウェインは翌日、ペレアスに会って事情を訊いた。ペレアスは、捕まるたびに馬と装備を奪われて城門から追放されていた。彼が徒歩だったのは、そのような理由からなのかもしれない。

 彼を哀れんだガウェインは、ある提案を持ちかける。それが、

 

「あっ、ちょっと待って、胸が苦しくなってきた。オレの過去最大のトラウマが蘇ろうとしてるから」

「キリエライト、続けろ」

「はい」

「イヤアアア待ってえええ!!」

 

 ……ガウェインの提案はこうだった。

 ガウェインがペレアスを殺したといってエタード婦人に接近し、彼女の信頼を得た後に真実を伝え、ペレアスを愛してもらおうという作戦である。

 

「「「「ガバガバすぎる」」」」

「オレにとっては一縷の望みだったんだよ!!」

 

 予想外だったのは、エタード婦人の喜びようが異常だったことだろう。ガウェインがペレアスを殺したと伝えると、なんと彼女はガウェインのものになると誓ったのである。

 そして、ガウェインはそれを受け入れてしまう。もしかしたら、婦人のあまりの熱意に押し切られてしまったのかもしれない。

 そんなこんなで、帰りが遅いことを怪しんだペレアスがエタード婦人の幕屋に行くと、二人が同衾しているのを見つけた。

 

「あああああああああ!!! 辛い! 心が痛い!! 寝取られなんてものは所詮特殊性癖なんだよ!! この世には純愛だけで良いだろうが!!?」

「寝てから言えよ」

「素質あるよ」

「カルデアのマスターは鬼畜か!?」

 

 ペレアスは二人を殺そうとするも、寸前で思いとどまった。代わりに自分の剣を二人の喉元に置き、その場を逃げるように後にする。

 そして、ペレアスはショックで寝込んでしまったとも、ふて腐れて旅に出たとも言われている。

 それでも確実なのはこの時期に、湖の乙女との邂逅を果たしたということだ。湖の乙女がいつからペレアスに恋心を抱いていたのかは分からない。

 けれど、キャクストン版では湖の乙女は、エタード婦人に『ペレアスのことが好きになる』魔法をかける。そうして、エタード婦人は求愛するものの、ペレアスは逆に口汚く罵倒して婦人を追い出してしまうのである。

 そんな傷心のペレアスを慰めたのが、湖の乙女だった。彼らはお互いに愛し合い、契りを結んだのだ。

 ところで、キャクストン版のこのストーリーでは、エタード婦人は最後に死んでいる。中々のとばっちりである。

 そこで、立香が手を挙げた。

 

「あの、少し思ったんですけど…」

 

 全員の目が彼女に向く。

 立香は顎に手を当てて、推理するように話し出した。

 

「湖の乙女が、もっとずっと前からペレアスさんに恋していた可能性はないんですか? ガウェインさんの行動に一貫性もないですし、エタードさんに魔法をかけなくても結ばれてましたよね?」

「……どういうことだい?」

 

 ロマンが聞き返す。マシュは察したかのように頷いて、

 

「つまり、湖の乙女はペレアスさんをオトすために、ガウェインさんとエタードさんを同衾させて失恋させたと?」

 

 とすると、湖の乙女はかなりの策士である。懸想する相手が失恋した直後を狙っているのだから。

 

「そうそう! 私が察するに湖の乙女は奥手だけど嫉妬深くて、好きな人のためなら何でもできるタイプと見た!」

「もしそうなら、ボクはガウェインが可哀想だと思う…」

 

 そう、この話でまず目につくのがガウェインの描かれ方である。高潔清廉な騎士が、女性に押されただけで一夜を共にするだろうか。

 後世の我々はテキストにあることを信じるしかないが、やはり人物像の乖離は人によっては疑問に思うはずだ。

 さらに言えば、エタード婦人はほぼ被害者でもある。彼女が魔法をかけられ、死ぬ結末においては、湖の乙女のそこはかとない悪意を読み取ることもできるだろう。

 しかし言えることは、現代の価値観と当時の価値観は全く違うものであったということだ。

 ペレアスは一貫して被害者的に描かれ、最後に愛を得て報われる。現代ではストーカーだが、当時の価値観ではエタード婦人に対する行いは愛に殉じる騎士として、何ら問題はなかったのかもしれない。

 ペレアスは数度手を叩くと、話題を切り替えさせる。

 

「オレの華々しい戦績は流石に現代にも残ってるだろ。それを解説してくれても良いんだぞ?」

「……あの、特に残ってないんですが」

「いやいやいや、何かはあるはずだって。頼むよマシュちゃん!!」

「え、えーとそれでは──」

 

 10人の騎兵に徒歩で勝つなど、先のエピソードでも地味な強さを見せていたペレアス。湖の乙女に『ランスロットと戦えない』という加護を掛けられたのは、逆に言えばランスロット以外なら勝つか生き残るかはできる、ということであろう。

 マロリーによると、フランスの書物にはペレアスはガウェインよりも強い、と記述があるらしいが……

 

「そのフランスの書物は何てやつなの?」

「……さ、さあ? 逸失してしまったのかもしれませんし、単なるでっち上げかもしれません」

「マロリーの生涯もほぼほぼ謎だからね……ガセの可能性も高いとボクは思う」

 

 ペレアスの強さを表す話はもうひとつある。

 ギネヴィア王妃がペレアス含む軽装の騎士10人をお供に連れて出掛けた際、メレアガンスが重装騎士160人を率いて襲撃した。

 10人の中で実力者といえるのは、ペレアスとアイアンサイドという騎士のみだった。彼らの奮戦の末、王妃は連れ去られるものの、ランスロットにそれを伝えることに成功する。

 そうしてメレアガンスを追う旅の途中、ランスロットはやむなく荷車に乗る恥を忍びながらも、メレアガンスを討つのだ。

 160人と10人の戦い。それも王妃を護りながらの状況で生き残ったことは、ペレアスの揺るがぬ強さを示している。

 その話を聞くと、彼は何度も頷いた。

 

「アイアンサイドはオレのズッ友」

「パッとしない仲間ってことか」

「ぶっ飛ばすぞ」

 

 ちなみに。アイアンサイド卿はガウェインと同じく、日が出ている内は筋力が上がるという加護の持ち主だった。

 ペレアスはアーサー王物語では、ガウェインの珍道中に遭遇する騎士のひとりである。だが、幸せな最期を迎えた数少ない人間として、異質な存在と言えるだろう。

 そんな風にロマンは締めくくり、何の気無しに訊いた。

 

「この世に未練とか無さそうだけど、なにかやりたいことはあるのかい?」

 

 ペレアスは少し考えて、指を二本立てる。

 

「二つ、今思いついた。まずは人理修復だな。世界を救う戦いに参加できるなんてのは、これ以上ない名誉だ」

 

 名誉を最上とする騎士には、世界を救うことより箔が付く戦いはないだろう。

 騎士として生き、死んだ人間にとって、それほど重要なことはなかった。

 ペレアスは続けて言う。

 

「二つ目は生前からの夢だ。──竜を殺してみたい」

「……ああ、なるほど。竜殺しは英雄の誉れだからねえ」

 

 竜殺しで名を馳せた英雄は非常に多い。

 竜という分かりやすい悪役を、これまた分かりやすい主役の戦士が打ち倒す。このような話の類型は、誰もが目にしたことがあるに違いない。

 故に、パッとしない戦績のペレアスにとって、竜殺しとは夢なのである。

 

「えーと、ペレアスの戦いはこれからだ! みたいな感じでオチつけますか?」

「立香ちゃん!?」

「これがもうオチだろ」

 

 そんなこんなで勉強会は失敗で幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

(皆さんこんにちは、ムニエルです)

 

 ムニエルはレイシフトを行うためのコフィンを担当する技術スタッフである。技術担当官とはいえ、魔術の知識もそれなりにあり、コフィン担当ということからカルデアに欠かせない人材だ。

 現在、マスターを除くスタッフたちは第一特異点の調査を進めていた。マスターやサーヴァントとは違い、この業務が彼らの戦いなのである。

 当然、人手は全く足りていない。数百人単位で動くはずの組織を、その十分の一以下で賄っている弊害だ。

 ムニエルは数少ない休憩時間を、自室で過ごすことに決めた。

 突然のカミングアウトになるが、ムニエルはオタクである。しかも、かなり特殊な類の。人前ではできないゲームをするため、彼は自室に引き籠ろうとしているのだった。

 だが、得てして現実は残酷である。

 

「さーてノアくん、どうやってカルデアを恐怖のズンドコに落とそうか」

「キリエライトとペレアスが厄介だな。あいつらに勝つ自信はあるか?」

「無いねえ。まあ私? 万能の天才だから? かなり頑張れるとは思うけど?」

「ならいけるな。俺カルデア最強マスターだし、はっきり言って向かうところ敵なしだろ。俺たちは無敵だ!」

「た、確かに……!! 天才かな!? あ、私も天才だった!!」

「「HAHAHA! ナイスジョーク!」」

 

 一言で言うと、

 

(終わったァ! 俺の休憩時間が死んだ! この人でなし!!)

 

 パソコンの前でひとり項垂れるムニエル。いよいよ目当てのゲームを起動しようとしたその時、ノアとダ・ヴィンチが部屋に入り込んできたのだ。

 聞いただけでIQが下がるような会話を繰り返す二人。どうやら、彼らはイタズラの計画を練っているようだった。

 ムニエルは嘆いた。カルデアの未来は暗黒次元である。

 ノアとダ・ヴィンチはさも自室であるかのように冷蔵庫を漁っていた。ノアは魚肉ソーセージを、ダ・ヴィンチはアイスを取り出す。

 

「まあ冗談はここまでにするか。ああ、ムニエル、何かやりたいことがあるならやっていいぞ」

(そう言いながら食ってるの俺の魚肉ソーセージなんですけど!!)

「そうそう。私らは私らで勝手にやっておくからさ。お構い無く〜」

「いやお前らは構えよ!!? それ人のソーセージとアイスだからぁ!!」

 

 ムニエルの怒りが頂点に達する。残念でもないし当然である。

 しかし、彼らにその怒りが届くはずもなかった。

 

「そうだ、まずはこの集まりの名前を決めないかい? いざという時に名乗れたらカッコいいじゃないか」

「百理あるな。『カルデア最強天才コンビ』とかどうだ?」

「う〜ん、いい響きだ。でもそれだとムニエルくんが入ってないね」

「なぜ俺も!?」

「よしムニエル、おまえが名前決めろ」

「うわああああああ!!!」

 

 ムニエルは絶叫する。これは自分が決めないといけない流れである。この人でなしたちを前に、断るという選択肢は彼にはない。

 何かないか──部屋中を見渡し、あるポスターが目に入る。

 

「か、カルデアなかよし部!!」

「「3点」」

「何点満点中の3点!? せめて10点であってくれ!」

 

 無茶振りに答えたにもかかわらず、辛辣な評価を受けるムニエル。オタクは自分のネーミングセンスを否定されるとひどく傷つくのだ。

 ノアとダ・ヴィンチはわざとらしくため息をつくと、仕方がないといった素振りで、

 

「ムニエルくん、カルデアを愉快な地獄に落とすユニークなアイデアはあるかな?」

「おまえが欲しいものでも言ってみろよ。どうせ媚薬とかだろうけどな」

「媚薬かぁ〜、ムニエルくんもなかなか隅に置けないね。正直気持ち悪いかな!」

「妄想で人を評価するのやめてくれます!? いや、確かにちょっと欲しいけど!!」

 

 そこで、ムニエルは一旦落ち着くことにした。この馬鹿たちに合わせていては、いつまでもやられっぱなしになる。まずは冷静になる必要があった。

 媚薬は確かに欲しい。喉から手が出るほど欲しいが、まだ命は惜しい。ここは誰もが抵抗なく、かつカルデアを混沌に陥れるアイデアが求められる。

 それに少し自分の嗜好を混ぜ込むとするなら。ムニエルは答えた。

 

「性転換できる薬とか? 変態に高く売れそう」

 

 自分もその変態のひとりということに気付いていなかった。

 

「なるほど。昼飯にでも混ぜれば全員が苦しむことになるな」

「良いじゃないか。さっそく作ろう!」

「言っといて何だが、そんな簡単に作っていいものではない……」

 

 常人からすれば何を馬鹿な、と笑うような話だ。魔術師からしても理論の構築に手間取り、ひとつの研究として仕上げられるテーマである。

 しかし、彼らはどこからか器具を取り出してきて、薬の調合を始める。その仕事ぶりは恐ろしいほど手際が良い。完全に才能の無駄であった。

 ムニエルは率直に思う。

 

(才能だけは本物なのがムカつく)

 

 単純な話、神は二物を与えなかった。今だけはその懐の狭さに恨みを覚えるムニエルだった。

 何やらおどろおどろしい煙が立ち込め、蒸留した僅かな霊薬を結晶製の小瓶に閉じ込める。

 ムニエルはそれを受け取った。ごくりと喉を鳴らす。この手のひらの上には、あらゆる男たちの夢があるのだ。

 覚悟を決め、彼は小瓶をあおった。食道が熱を持ち、皮膚の下の筋肉がもぞもぞと動くような感覚に襲われる。

 ばさり、と髪の毛が肩にかかる。視点が少し低くなり、どことなく腕の筋肉がすらりとしていた。

 

(ま、まさか俺も念願の美少女に…!?)

 

 姿見の前に立つ。そこに写る姿を見て、彼は言った。

 

「………………ナニコレ」

 

 鏡に写っていたのは、ムニエルだった。目に見える違いと言えば髪が伸びたくらいであり、ToLOVEる的な変化はなかった。

 

「ふざけんなああああああああ!! 髪伸びただけじゃん! え? 俺女の子になってもこんなんなの? 吸引力の変わらないただひとつのムニエルが鏡に写ってるよぉ!!」

「性転換なんだから当たり前だろ。股触ってみろ、ちゃんと()()()()()()はずだ」

「そりゃそうだけどさあ! 違うんだよ、女体化っていうのはただ性別が変わるんじゃなくて、見た目も変わらないと意味がないんだって!! この女体化には救いがないんだよ!! 全国のおっさんの夢を返せよ!!」

「そう言えば良かったのに」

「そこは察してくれよ! ちくしょう、こんなことなら男の娘になる薬でも頼んでおくんだった!!」

 

 ムニエルの悲痛な叫びがカルデアじゅうに響き渡る。

 ……そんな一部始終を見ていた男がいた。管制室のモニターで、ノアとダ・ヴィンチの動向を監視していたロマンである。

 目下、カルデアの要注意人物はあの二人である。彼らが悪い方向に噛み合えば、人理焼却以前にこの施設は崩壊しかねない。それ故の監視だった。

 ロマンは同情の涙を流しながら、

 

「す、すまないムニエルくん……!! ボクにキミは救えなかった!」

 

 ロマンからのささやかな贈り物として、ムニエルには休暇が与えられた。

 無論、その分は他の誰かがどうにかしなくてはならない。その晩、管制室にはスタッフたちが死屍累々と倒れていたという。




クラス:セイバー
真名:ペレアス
属性:中立・善
ステータス:筋力 B 耐久 A 敏捷 B 魔力 D 幸運 A+ 宝具 A
クラス別スキル
『対魔力:C』…詠唱が二節以下の魔術を無効化。
『騎乗:B』…大抵の乗り物は乗りこなせる。幻想種は不可能。
固有スキル
『精霊の加護:EX』…私の愛を数値化できるとでも? by湖の乙女
『心眼(真):B』…これのせいで仕留められなかった byメレアガンス
宝具
『死に逝く騎士に、湖光の愛を』
ランク:A 種別:対人宝具
ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック。
訳すと湖の貴婦人の愛。幸福な人生を送り、安らかな最期で幕を閉じたペレアスの人生を『死の運命を回避する』という形で具現化した宝具。故に生前は宝具と呼べるものは持っていなかった。
なお、訳の通りこれは湖の乙女から向けられている愛なので、使う前に彼女にお伺いを立てると心なしか効果が上がる……気がする。妻の力は偉大である。逆に夫婦喧嘩をすると発動しないかもしれない。


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第一特異点 救国の聖処女 邪竜百年戦争・オルレアン 
第7話 野生の聖女×2が現れた!


 第一特異点へのレイシフト当日、カルデアは緊張感に包まれていた。

 この特異点は人理修復への足掛かり。ただの一度たりとも敗北は許されず、その身に背負うのは世界の命運。それが生き残った人間全員にのしかかっているのだ。

 当然、職員たちの中に楽観的な気分の者は誰もいなかった。朝から緊張した空気が流れ、ロマンでさえも表情を険しくしている。

 カルデアの指揮官を任されたロマンは、いまやこの施設のトップに立つ人間だ。必ずやマスターたちを生還させる義務があった。

 短く息を吐き、管制室に入る。集められたマスターとサーヴァントたちは、何やら一箇所に固まっていた。普段は賑やかな彼らも、言葉をなくしている。

 ──そうか、皆も同じ気持ちなのか。

 ロマンは身が引き締まるような思いだった。ここは年上として、なにより指揮官として彼らを励まさなくてはならない。

 声を掛けようとした直前、ノアが粛々と口を開いた。

 

「……藤丸(ふじまる)

「……なんでしょう」

 

 いつになく真剣な目つきで言葉を交わす二人。曲がりなりにも、ノアと立香(りつか)はマスターなのだ。それも、最前線で命を張って戦う一番危険な立場にある。

 その緊張感は他の職員の比ではないだろう。ロマンの位置からは顔色は見えないが、その背中が覚悟の強さを物語っていた───

 

「ベルばら6巻寄越せ」

「まだ私が読んでます。待ってください」

「遅すぎだろ! どんだけひとコマひとコマじっくり見てんだよ!」

「リーダーこそもっと時間を掛けて読んでくださいよ! ペレアスさんなんかかぶりつくように読んでますよ!?」

「先輩、ペレアスさんは全部飛ばして8巻のベッドシーン読んでるだけです。中学二年生と同レベルです」

 

 ──訳ではなかった。どうやらロマンの目は節穴だったらしい。彼は深く息を吸い、声を張り上げる。

 

「キミたちは何をやってるのかなぁ!!?」

「落ち着けよロマン。俺たちは第一特異点の予習してただけだ」

「そうですよ。フランスといったらベルサイユのばらじゃないですか」

「いやレイシフト先は百年戦争の時代だからね!? フランス革命(ベルサイユのばら)はもっと後の時代!!」

 

 その言葉に、ノアと立香は雷に打たれたように固まる。手が痙攣し、指の隙間からベルばらの単行本が落ちた。露骨に落ち込んだ二人は、床に手と膝をつく。

 そんな馬鹿たちを、マシュは遠い目で見つめた。

 彼女も何度かレイシフト先のことを告げていたのだが、ベルばらに夢中だった二人には声は届いていなかった。言わなければ分からない、とは言うが、言っても分からない人種もこの世にはいるのである。

 ロマンは気を取り直す。変人との付き合いは色々と慣れているのだ。決して慣れたくはなかったが。

 

「それで、百年戦争については知ってるかな?」

「知らん」

「一年戦争なら知ってます」

「……うん、そんなことだろうと思った」

 

 つくづく歴史に疎いマスターたちであった。

 百年戦争とは簡単に言ってしまえば、フランス王国とイングランド王国がフランスの土地を巡って勃発した戦いである。

 およそ116年間続いた戦争だが、その間常に戦闘が行われていた訳ではなく、休止状態の時期もあった。

 

「キミたちが行く時代は1431年。百年戦争の休止期間だね。そして、かの有名なジャンヌ・ダルクが処刑された年でもある」

「ジャンヌ・ダルクなら知ってますよ! スマホゲームでSSRにされがちな人ですよね! 私も何回ガチャを引かされたことか……」

「先輩のそのガチャへの熱意はどこから来るんです?」

 

 ジャンヌ・ダルク。現代では織田信長と並んで、フリー素材化が進んでいる偉人だ。そのような扱いも知名度の高さ故であろう。

 ロマンは腕時計を確認する。予定の時間はすぐ迫っていた。慌ててマスターたちをコフィンに押し込める。

 

「え、えーと、キミたちならやれる! 頑張ろう!」

「おいロマン、ペレアスがまだベルばら8巻読んでやがるぞ!」

「ちょっ、もうレイシフト始まってるから早く!」

「…………この人たちの辞書に平穏という文字はないのでしょうか」

 

 

 

 

 1431年、フランス──オルレアン。

 かつてこの都市で行われた包囲戦は、両国の威信をかけたものであった。

 オルレアンはイングランド王国がフランス中央部へ侵攻するための最後の壁であり、フランス王国にとってはパリの喉元を守る重要な土地。

 ここを失えばフランス全土の征服も近い。そのため、フランス王国は何としてでもこの都市を守りきらねばならなかった。

 しかし、戦況は不利。フランス王国軍はかろうじて占領を防ぐ、綱渡りのような状況。誰もがその敗北を確信したに違いない。

 それを打ち破った英雄こそが、かのジャンヌ・ダルク。半年間続いた包囲戦を、彼女はなんと9日で勝利に導いたのである。

 だからこそ人々は讃えるのだ。

 救国の聖処女よ、オルレアンの乙女よ──と。

 

()()()()()()()。背徳の街ソドムとゴモラの如くに」

 

 今やフランスは退廃している。

 崇めた聖女は灰に。

 偽りの平和を甘受する悪人の巣。

 だが、しかと胸に刻め。

 この身は一切の痛苦を覚えている。

 あの時受けた屈辱も陵辱も、決して忘れはしない。

 故に燃え盛れ。

 故に焼け落ちろ。

 その命の尽くが罪だ。

 貴様らに生きる価値などない。

 男も女も子供も老人も、すべて平等に焼き尽くす。

 

「我らは罪を滅する硫黄の火」

 

 オルレアンは燃えていた。

 空を飛び交う無数の飛竜。

 人の生き血を啜る吸血鬼。

 悔恨と憎悪の果て、狂気に落ちた黒騎士の手によって。

 魔女は逃げ惑う人々へ告げる。

 

「主は言った! 『逃れて、自分の命を救いなさい。後ろを振り返って見てはならない』……あなたたちも逃げなさい──ロトの妻のようになりたくなければ!!」

 

 

 

 

 カルデア一行が転移したのは、どこまでも続く草原の上だった。

 炎に包まれていた特異点Fは全く異なる風景。緑の平原と青い空は実に目に良かった。ともすれば、この場所が世界を滅ぼす原因と信じられないほどに。

 しかし、異常は確かにあった。

 天空に輝く光輪。膨大な魔力で構成されたそれは、煌々と地上を睥睨している。

 だがそれとは別に、カルデア一行は窮地に直面していた。

 

「……あの、とんでもないことに気が付いちゃいました」

 

 立香が青ざめた顔で、恐る恐る手を挙げる。三人の目はそれに集中したが、彼女の真意を汲んだ者は誰もいない。

 一体何があったというのか。立香は真剣な表情で切り出した。

 

「私、フランス語喋れないんですけど」

「「「……あ」」」

 

 言語の壁は現代でも如何ともし難い問題である。

 むしろなぜレイシフト前に気付かなかったのか、カルデアのスタッフたちは憤慨していたのだった。

 ノアはペレアスを指差して、

 

「ぺ、ペレアス、おまえの宝具フランス語だろ。通訳は任せた」

「オレこの時代から数百年前の人間なんだが。文法はいけそうだが発音とか通じんのか?」

「通じない可能性は大いにありますね。発音は誰もが使うものなので、たった百年の間でも大分変化することがあります。それが数百年となると……」

「じゃあ終わりじゃねえか! どうすんだ俺たち!? ボンジュールだけでコミュニケーション取るのは無理だろ!!」

 

 現代の日本人が、鎌倉時代の日本人と会話するようなものと言えば分かりやすいだろうか。

 当然、漢字は楷書体ではないし、発音も全く違う。鎌倉時代でなくとも、もしタイムスリップして織田信長に会えば、言葉が通じずに斬られるはずである。

 が、Eチームはともかくカルデアの精鋭メンバーがそのことを考えていないはずがない。

 カルデアの通信機が音を立てる。

 

「『それについては安心すると良い! ダ・ヴィンチちゃん特製翻訳機があるから大丈夫さ! 人間はついにバベルの塔の試練を超えた!』」

「凄いじゃないですか! 人理修復したら特許取って売りましょうよ! ガチャ引き放題ですよ!?」

「カルデア、もとい俺が人類を支配する時も近いな。パンドラの箱はもう開いちゃってるんだよね」

「『ああ、神がなぜ言語を分断したのか分かる気がする……』」

 

 さあっと涙を流すロマン。彼の背中は悲哀に包まれていた。

 問題を解決したカルデア一行は、特異点初の人間を発見する。鎧を着込んだ青年。どうやらフランス軍の兵士のようだ。

 即座に話しかけようとしたノアをペレアスは掴んで引き止める。

 

「待て、お前が話すと絶対にこじれる」

 

 こくこくと頷く立香とマシュ。Eチームリーダーに対する信頼は、もはや無いに等しかった。

 そもそも、現代人とのコミュニケーションも満足に取れないノアである。1431年のフランス人と良好な関係を築けるはずがないのだ。

 ノアは珍しく、言われるままに引き下がる。

 

「それなら藤丸、おまえが行け。ペレアスは剣持ってて警戒されるし、キリエライトは格好が痴女だ。エグザイルの群れに女優放り込むようなもんだな」

「えっ、私の心配はしてくれないんですか!? そんな朗らかに話す自信ないんですが!」

「リーダー、そんなに血が見たいですか。そろそろ殴りますよ」

「『なんだろう、すごく怒られそうな予感がするぞ……』」

 

 立香はフランス兵の元へ向かう。他の三人は、離れた木陰からそれを見守っていた。

 声は聞こえないが、その様子は見て取れる。現時点では特に問題なく話は進んでいるようだ。

 

「ほら見ろ、良い感じじゃねえか。俺の目は間違ってなかったな」

「まあ消去法だったので。一番最初に脱落したのがリーダーですが」

「それで言うならおまえは二番目だからな。へそ隠してから出直して来い」

「リーダーはまともな脳みそに取り替えてから出直してきてください」

 

 フランス兵が何やら後方に合図を送ると、ぞろぞろと兵士がやってくる。

 特異点Fで逃げ足の重要さを学んだ立香は、ノアたちが隠れる方向に手を振りながら走り寄った。何かを叫んでいるのか、その後ろにはフランス兵たちが追走していた。

 ペレアスはそれを見てにこやかに笑う。

 

「ははは、見ろ、新人の兵士っていうのはああいうことをやりたがるんだよな。ピクト人と戦ってた時も──」

「何言ってるんですかペレアスさん!? どう見ても襲われてるじゃないですか!!」

 

 前の特異点から鍛錬は欠かさなかった立香である。一足先にノアたちの元にたどり着くと、肩で息をしながら、膝に手をついた。

 

「ほらやっぱり駄目だったじゃないですか! フツーに怪しまれてフツーに仲間呼ばれたんですけど!」

「いや、収穫はあったぞ。俺が魔術で暗示かけて喋れば良かったという結論に辿り着いたからな。いま」

「それ絶対知ってて黙ってましたよね!? あーっ、あの時すんなり引き下がったのはそういうことですか!」

「切り替えろ藤丸。降りかかる火の粉を振り払うぞ」

「ど、どの口が……!?」

 

 そう、ペレアスに引き止められた時、ノアがあっさり退いたのをいぶかしむべきだったのだ。

 立香は後悔した。この男を前にして気を抜くということは、オモチャになりに行くことと同義であった。

 なし崩し的に戦闘に入るも、サーヴァントの力は圧倒的だった。兵士ということから普通の人間より強いのは間違いないが、人間の域から外れた存在を相手にしては分が悪い。

 時間にして十秒経たずに、フランス兵たちは地面に転がされていた。まだ気を保っていた兵士を拘束すると、ノアは問い詰める。

 

「暗示をかけるのは俺の趣味じゃない。なんでこんなところにいたか教えろ。怪しい情報を持ってるなら全部話せ」

「お、お前らみたいな不審者に話すわけないだろ! 大方あの魔女の協力者か何かじゃないのか!」

「魔女? 俺は魔術師だが」

「魔術師!? キリスト教的にそれアウトだから!」

 

 無理もないが、完全に怯えきった様子だ。

 これでは話を聞き出す以前の問題だ。ノアは暗示をかけるため、兜を外して視線を合わせようとする。

 それを止めたのは、ペレアスだった。

 

「おいおい、尋問のやり方ってのがなってねえな。こういうのは腕の一本でも折ってやればペラペラ喋り出す奴が多いんだよ」

「えっ」

「なるほどな。じゃあペレアスそっち持て、せーので折るぞ」

「ちょっと待て、せーのの『せ』で行くのか『の』で行くのか教えろ」

「イヤアアアアア誰か男の人呼んでええええええ!!」

 

 そんなじゃれ合いを見て、立香とマシュはため息をこぼした。カルデアから一部始終を覗いていたロマンも、頭を抱え込む。

 

「暗示が趣味でないというのは……」

「うん、苦しんでる姿を見れないからだろうね」

「『な、なんて邪悪なドSなんだ!』」

 

 サディストからすれば反応が淡白な相手ほどつまらないものはない。ノアが暗示を使わないのは、つまりそういうことなのだ。

 これではどちらが悪役なのか。カルデアのスタッフたちは、皆一様に引っかかりを覚えたのであった。

 腕を折られかけた兵士は、結局無傷なまま情報を話した。彼によると、先日オルレアンは無数の飛竜の襲撃を受けたのだという。フランス兵がこんなところにいたのも、哨戒任務に就いていたからだろう。

 竜とは言うまでもなく幻想種。神話の時代、数多の人間を喰らい、数々の英雄譚を彩ってきた超常の存在だ。

 その竜がこの時代に顕現している。およそ尋常な手段では成し得ない、竜の召喚と使役。それを叶えることができるのは、まさに聖杯しかない。

 そして、何よりも重要なのが竜を操る首魁の存在だ。竜の魔女と呼ばれるその女はこう名乗ったという──

 

「ジャンヌ・ダルク……彼女が今回の敵であることは間違いないでしょうね」

 

 マシュはそう断定すると、口を切り結んだ。

 伝承通りの聖女なら、オルレアンの虐殺を行うはずがないだろう。しかし、彼女はいまや処刑されている。それが聖杯の力で蘇ったとなるなら。

 自らに拷問を加え、灰になるまで焼き尽くした人間たちに報復するという可能性は、決して否定できるものではない。

 一行は前の特異点のように召喚サークルを設置するため、霊脈地を目指していた。

 

「俺たちはアーサー王に勝った。ジャンヌ・ダルクだろうと何だろうと恐れる理由は無い」

「これは情緒の問題ですよ。同情とかしないんですか」

「処刑された最期についてはな。今やってる悪行に同情の余地はねえ。俺たちの敵になるなら潰すだけだ」

「それはそうなんですけど、でも、私はあまり割り切れないです」

 

 そこに、ペレアスが口を挟む。

 

「見解の相違、価値観の違いってやつだな。オレはどっちも正しい……いや、正しさを決めることがナンセンスだと思うがな。お前も立香ちゃんをいじめてやるな」

「フォーウ!」

「ギャアアア!? こいつ何処から湧いて出やがった! 顔にへばりつくんじゃねええええ!!」

 

 突然マシュの盾から飛び出したフォウくん。ノアが彼を顔から引き剥がすと、華麗に宙を転がって着地した。無駄に洗練された動きである。

 ロマンはほっと息をつく。

 誰もが知る聖女が敵になると分かった以上、チームワークにしこりを残すのは危険だ。特にマスターたちが迷えば、それはサーヴァントにも伝わる。

 無論、相手に手心を加えるような人間は、このチームにはいない。それでもマスター二人の見解の相違が積み重なると、いつかそれは大きな破綻を招く。

 ペレアスは彼らのまとめ役をしてくれたのだ。

 

「『上手くまとめましたね、ペレアスさん』」

「まあな、諍いの種ってのは大きくなる前にやっつけといた方が良い。後はアイツらがなんとかするだろ。円卓もすれ違いが積もり積もって滅びたようなもんだしな!」

(『わ、笑えない……』)

 

 そう言って笑い飛ばすペレアス。

 彼としては上手い冗談を言ったつもりなのかもしれないが、これほどのブラックジョークはない。ロマンは気の抜けた笑い声で返すことしかできなかった。

 ところで、太陽は地平線の向こうに沈みかけていた。前回は冬木市が特異点だから良かったものの、今回はフランス全土。相応に霊脈地も遠い場所にある。

 この時代には鉄道も自動車もない。ほぼ一日中、徒歩で目的地に行かなくてはならなかった。

 だが、それももはや少しの辛抱。カルデアから指定されたポイントを発見し、

 

「………………なんだこれ」

 

 ちょうどその真上にうら若き乙女が行き倒れていた。

 地面の上にうつ伏せになっているその女性は、微弱ながらもサーヴァントの気配を発していた。傍らには墓標の如く旗が突き刺さっている。

 一行がしばし固まっていると、腹の虫が力なく鳴いた。その発生源は行き倒れ女からである。ノアは小さくため息をつくと、

 

「近くに旗も立ってることだし、埋めて供養してやるか」

「わーっ! ちょっと待ってください! 今起きますから!」

 

 

 

 

 パチパチと焚き火が弾ける。

 太陽はすっかり沈みきってしまい、空の支配権は月に譲られていた。

 明かりの多い現代と異なり、この時代の夜は一寸先も見えないような闇が広がっている。

 しかも彼らが野営するのは森の中。火がどれほど人類の生活を支えてきたのか、立香は身をもって知ることになった。

 先程行き倒れていた女性は、カルデアから送られてきた食料を次々と口へ運ぶ。その食べっぷりは、見ていて清々しさすら感じられる。

 彼女は一息つくと、食器を丁寧に置く。

 

「申し遅れました。私はジャンヌ・ダルクと言います。倒れていたところを助けていただきありがとうございま──」

「敵じゃねえか」

「ひ、ひどい! どういうことですか!?」

 

 マシュはカルデアの事情と竜の魔女がオルレアンを襲撃したことを話した。しかし、ジャンヌはそれに対して首を横に振る。

 

「私が召喚されたのは今日のことです。竜を使役する手筈なんて分かりませんし、やろうとも思いません」

「確かにそうですね。指揮官がひとりであんなところに倒れているはずがありませんし」

「……ま、まあそういうことです」

 

 それに、今日召喚されたというのも嘘ではなさそうだった。ルーラーという特殊クラスで喚び出されたジャンヌだが、その性能を十全に発揮することはできていなかった。

 つまり弱体化している。処刑されたのも数日前であるため、自分がサーヴァントだという自覚も薄いのだとか。

 ちなみに、あそこで倒れていたのは極度の空腹のためであった。

 礼装の手入れをするノアの隣に、立香が腰掛ける。彼女の面持ちは暗く、全身をガタガタと震えさせていた。

 

「リーダー。貞子って知ってますか」

「……日本の映画に出てくる幽霊だろ。それがどうした」

「私、見ちゃったかもしれません」

「何言ってんだ、アレはフィクションだろうが。まあ本当にいたとしても、魔術師が幽霊を怖がってたらお終いだけどな」

「そう言いながら体が震えてますよね。明らかに怖がってますよね」

「オイオイオイ、いいか、そもそも何処で見たんだよ。まずはそれを確かめないことにはどうにもならないだろ。後これは肌寒いだけだ」

 

 立香はノアの横の草むらを指差す。

 しんと静まる闇の向こう。特に怪しい気配も音もしない。ただ茫洋たる暗闇が立ち込めているだけだ。

 彼らはほっと息をつく。その直後、茂みがガサガサと音を立てて揺れた。

 草を掻き分け、暗い青髪の女性が這い寄ってくる。顔面を覆い隠すように垂れ下がった髪の毛は、まさにジャパニーズホラーの金字塔を思わせる。

 それを見た瞬間、二人は飛び退いた。

 

「ギャーッ! 出たぁぁぁ!!」

「ちょっ、俺を盾にするんじゃねえ!」

 

 ノアの足元までにじり寄ると、それはぱたりと力尽きた。よく見ると腹部から出血しており、他の箇所にも手酷い傷を負っている。

 だが、傷ついていても彼女が纏う空気は人間とは違う。サーヴァント特有の雰囲気を持っていた。さらには、ジャンヌと近い──聖人・聖女の風格を有していた。

 その女性は、うわ言のように言葉を呟く。

 

「……竜」

「「竜?」」

「……殴り飛ばしたい」

「「どんなうめき声!?」」

 

 騒ぎを聞きつけて、他の三人が駆けつけてくる。

 まさかの声に呆気に取られていたノアと立香だったが、即座に気を取り戻す。

 

「超天才の俺が最高の治癒魔術で処置する! おまえらは補助しろ!」

「は、はい! 薬とか用意してきます!」

「わたしも魔術の手伝いならできます。任せてください」

「じゃあ俺がその子を運ぼう。ロマンにも診てもらったほうがいいだろうしな」

 

 ばたばたと慌ただしく動く四人を前に、ジャンヌは泡を食った。

 自分も何かできることをしなければならない。そう考えて捻り出したのが、

 

「わ、私は残ったご飯を食べます! お残しはいけないと教えられてきたので!」

「おい、この聖女食い気が強すぎるぞ!」

 

 そんなこんなで、フランスでの初日は終わりを告げたのだった。



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第8話 ベルサイユの白薔薇

「マルタです。世間では聖女などと持て囃されているそうですが、どうぞ気軽にマルタと呼んでください」

 

 翌日、目を覚ました聖女は、世界的な超ビッグネームを言い放った。

 聖女マルタ。かつて民衆を苦しめていた悪竜タラスクを鎮めた伝説を持ち、人類の原罪を背負って死んだ預言者とも縁深い人物だ。

 その知名度たるや、ノアもはたと思い至るほどであった。魔術師で聖書を読んでない者はいないのだとか。

 立香(りつか)はキリスト教にあまり馴染みのない国に住んでいたため、マルタと聞いても首を傾げるばかりだった。横でノアが凄まじいしたり顔をしたことは言うまでもない。

 マルタは昨夜助けられるまでの経緯を語る。

 竜の魔女はフランスを滅ぼすための尖兵として、数体のサーヴァントを召喚した。その内のひとりがマルタであり、強制的に付与された『狂化』とルーラークラスが持つ令呪によって従わされていた。

 竜の魔女はオルレアンを焼いた後、召喚したサーヴァントを将として各地に飛竜を放った。マルタは他二体のサーヴァントを連れ、ボルドーの街近辺の砦を襲ったそうだ。

 

「ですが、その街には私たちの他にもサーヴァントがいました。おそらくは宝具──眩いばかりの光を受けると、私たちの狂化は消え、竜の魔女との契約も断ち切られていました」

 

 そこで、引っ掛かりを覚えたのはノアだった。

 

「契約が切られた? それなのに現界を維持できてるってのはどういう理屈だ」

「もっともな疑問です。正確には契約を必要としない状態になったとでも言いましょうか。そう、ちょうどそこの彼女のように、はぐれサーヴァントと同じ状態になったと理解しています」

「『そんなことができる宝具……一体そのサーヴァントは何者なんだ……?』」

 

 ロマンが口に出した言葉は、おそらく誰もが抱いた疑念に違いない。

 答えを知り得るのはマルタひとりだったが、推理するにも材料が少なすぎる。そのサーヴァントの真名に辿り着くことはできなかった。

 話を戻そう。光を浴びたマルタたちは、引き連れていた飛竜を殲滅した。それによって異常に気付いた竜の魔女は、即座に追手を放ったのだという。

 マルタは囮を務め、二体のサーヴァントを逃した。しかし、かの聖女といえども竜の魔女が率いるサーヴァントには敵わない。

 窮地に立たされたマルタ。彼女が咄嗟に思いついた方法は、

 

「タラスクに私を吹っ飛ばしてもらいました。()()()()()なんですけどね」

「……先輩、こういう時わたしたちはどういう顔をすれば良いんですか」

「笑えばいいと思うよ」

 

 そういうわけで、命からがら逃れた先がこの場所だった。吹っ飛ばされた先がここだったことは、天に愛されているとしか思えない偶然である。幸運A+は伊達ではないのだ。

 朝食を胃袋に収めたジャンヌは、何の気なしに訊く。

 

「一緒にいた二人のことは分からないのですか?」

「真名だけ聞いてそのままね。たしか…シャルル・アンリ・サンソンとシュヴァリエ・デオンだったかしら」

「リーダーは知ってますか? ちなみに私は分かりません」

「あまり俺を舐めるなよ藤丸。……知らないということを知っている」

「無知の知を逃げに使わないでください」

 

 とはいえ、これはカルデア一行にとっても幸運だと言えよう。

 いずれぶつかることになる竜の魔女の軍勢から三体のサーヴァントが離脱し、その内のひとりはこうして仲間にできたのだから。

 彼女らを解き放った謎のサーヴァントの正体も目的も分からないが、敵と決まった訳でもない。立香には、状況が悪いとは感じられなかった。

 

「……竜の魔女には、ファヴニールという邪竜がいます。今のままでは、私たちに勝ち目はないでしょう」

「でも、マルタさんも私たちと一緒に戦ってくれるんですよね?」

「それは無理だな」

 

 否定したのは、ノアだった。周囲から向けられる懐疑の視線を物ともせず、彼は続ける。

 

「表面的に傷は完治したように見えるが、体内には重度の呪いが蓄積している。戦闘行動を取ろうとすれば、直ぐに消滅するだろうな」

「私も同意見です。洗礼詠唱を試したのですが、呪いの進行を止めるだけで解呪には至りませんでした。この呪いを解くにはもうひとり私と同じような力を持つ人が必要です」

 

 同意したのはジャンヌ。彼女とてタダ飯を食らっていた訳ではないのだ。

 マルタ自身が洗礼詠唱を使えればよかったのだが、彼女の容態は想像以上に悪い。英雄故に苦痛を顔には出していないが、常人なら耐え難い苦痛であるはずだ。

 ノアとジャンヌという何から何まで正反対な二人の意見は、だからこそ説得力があった。この場に集う全員の脳が、しばし思考に没頭する。

 考えるのは当然、この後どう動くかということであった。

 最初に発言したのは立香。彼女は高らかに言い放つ。

 

「だったら話は簡単ですね! ファヴなんとかをやっつけられる人と、聖人をもうひとり見つければ、勝ったも同然ってことじゃないですか!」

「そういうことだ。そもそも俺がいる時点で勝利は確定しているがな!」

「……とまあこんな人たちですが、悪い人では……なくもないのでよろしくお願いします」

「「悪人なんですか!?」」

 

 二人の聖女の叫び声を受け、木々にとまった鳥たちが慌てて空へ飛び出す。

 激動のフランス二日目は、こうして幕を開けた。

 

 

 

 

 霊脈地を出発した一行は、南下してリヨンという街を目指していた。

 二つの川が流れるリヨンは古くから交易・商業が盛んな土地だ。そのため、街は成長を遂げ、文化も発展しやすい土壌を備えている。

 美しい街並みと美食。果たして、竜の魔女がいなければ、人々はそれらの楽しみを当たり前に享受できていたのかもしれない。

 青い空が広がる草原の上、ずるずると何かを引きずる音が響く。

 木を削り出して作ったソリ。その上には顔を真っ赤にしたマルタが乗っている。ソリを引っ張る縄の先には、無表情で歩を進めるノアがいた。

 聖人とソリと言えばサンタクロースなのだが、この場合は子供たちに夢と希望を与えられるようなものではない。トナカイからノアに変わっただけで随分と意味合いが邪悪になっている。

 

「……なんで俺が引きずってんだ?」

 

 そう問い掛けるも、Eチームの中で反応する者は誰もいない。唯一ノアに慈悲を見せたのは、ジャンヌのみであった。

 彼女は苦笑しながら、

 

「わ、私が代わりましょうか?」

「是非そうしてくれ。この聖女割とおも──」

「ふぐぅっ! やっぱり重かったんですね私!? プロフィールだと49kgしかないのに! 村でもチヤホヤされてたのに!」

 

 マルタは顔を覆った。彼女がソリに乗っている理由。それは呪いを受けた体を気遣ってのことだった。が、なぜかノアが運び手を任されている。

 度々通る旅人や避難民から冷ややかな視線を投げられ、ノアのトドメであまりの羞恥に打ちひしがれる聖女。

 これを好機と見た立香は、意気揚々と口撃に回った。

 

「リーダーはそういうデリカシーのないこと言うから駄目なんですよ。()()()()黙ってるのが大人じゃないですか。この前辞書でノンデリカシーって調べたらリーダーの名前が載ってましたからね」

「どこの辞書だよ!? プライバシーの概念狂ってんのか!」

「それはアレですよ。私の心の辞書というか、えーと、ナポリタンさんみたいな」

「……せ、先輩、おそらくそれはナポレオンです。不可能という文字がない人です!」

 

 立香はマシュの方を振り向いて固まる。次の瞬間、ソリの上で世を儚む彼女の姿があった。

 

「あーあ、一番恥ずかしいやつだよこれ。ふと思い出した時に悶絶するタイプの失敗だぁ……ふふっ、こんな世界継続する意味あるのかな? いっそ焼却──」

「なんでおまえまで乗ってんだァァァ!!? さっさと降りろ! これはネガティブなやつだけが乗れるソリじゃねえんだよ!!」

「また重いって言われたまた重いって言われたまた重いって言われた」

「いつまで落ち込んでんだ聖女! 寝てろ!」

 

 そんな波乱もありつつ、一行はリヨンが見える位置まで来ていた。やはりと言うべきか、平時の美しい街並みは無く、瓦礫と廃墟だけが立ち並んでいる。

 元々住んでいた人々は既に逃げ出してしまったのか、浮浪者がうろつく有り様だ。

 ばさり、と空を扇ぐ音がする。

 それは人間の手が届かぬ上空。地を這う者共を嘲笑うかのように旋回する。おとぎ話の挿絵からそのまま取り出したような飛竜がそこにいた。

 その姿を認めたペレアスは、空中で大の字になって飛び跳ねる。

 

「よっしゃああああ!! 竜だ! 感謝します神様王様お嫁様! 竜殺しにオレはなる!!」

「『油断しないように! リヨンには三つ、サーヴァントの反応がある! 敵の可能性が高いぞ!』」

「おまえら! ペレアスを止めろ! あいつあのまま突っ込んでく気だぞ!」

「確保! ペレアス、確保ーっ!」

 

 マスターたちの指示を受け、マシュとジャンヌはどうにかこうにかペレアスを引き止める。

 彼らはひとまとまりになって、作戦会議を始める。真っ先に口を開いたのは、ジャンヌだった。

 

「特に弄する策もありませんし、このまま戦うしかないとは思うのですが、どうでしょう」

「戦えるサーヴァントの数は同数ですから、まともにぶつかっても勝機は十分でしょう。先輩とリーダーはどう思いますか?」

「ふふふ、マシュはひとつ見落としをしてるよ。言っちゃってくださいリーダー!」

「ああ、キリエライトとペレアス、そして腹ペコ聖女だけじゃねえ。俺たちを加えれば五対三だ! つまり数的有利! これはもう勝ったな!」

 

 ジャンヌはがっくりと地面を叩いた。彼女とて七つの大罪の暴食に抵触しない範囲で食事を楽しんでいるだけなのだ。問題は人より必要とする量が多いだけなのだ。

 そんな聖女を尻目に、ペレアスは大いに同意した。彼は今にも走り出しそうな様子である。人参を目の前に吊り下げられたロバのようだった。

 

「まあ嫁に『ランスロットと戦えない』加護を掛けられたオレだが、まさかこんなところにアイツがいるわけねえしな!」

「おいおい、英霊が何人いると思ってんだ。今こんなタイミングでランスロットが出てくるとかどんな確率だよ」

「そうだな、心配のしすぎだったか! 念願の竜を前にして、オレも気分が浮き立ってるらしい!」

「「アッハッハ!!」」

 

 ノアとペレアスの笑い声が草原を駆け抜けていった。マシュがこの馬鹿二人を生温かい目で見つめていたことは言うまでもないだろう。

 最後にケチがついたが、方向性は整った。道中、爆睡していたマルタを放置して、カルデア一行はリヨンへ走り出す。

 ワイバーンを引き連れている以上、相手は竜の魔女の軍勢である可能性は高い。

 故に先手必勝。奇襲をかけることで有利に持ち込む。先手に勝る手など無いのだ。

 

「よし、ここで全員ぶっ飛ばして竜の魔女とやらをちびらせるぞ! ついて来いペレアス!」

 

 一足先に抜け出したノアが呼び掛けるが、返事はない。不審に思った彼が振り返ると、ペレアスははるか後方にいた。

 ペレアスはその場で足踏みしているのだが、全く進む気配がない。

 

「…………何やってんだおまえ。昔のドラクエの主人公か?」

「あいつがいる」

「は?」

「ランスロットがいるんだよ! 加護が発動してるからそもそもリヨンに辿り着けねえ!」

「それもはや呪いだろ!!」

 

 何度か解説したことだが、ペレアスは湖の乙女の手によって『ランスロットと戦えない』加護を与えられた。

 ある馬上槍試合。ペレアスとランスロットは対立する陣営に配置されたのだが、彼らが手合わせすることなく試合は終わってしまう。

 というのも、ペレアスはその馬上槍試合の会場に行くことができなかったのである。加護のために道に迷い、ランスロットとの対戦を回避させられたのだ。

 そもそもペレアスとランスロットが戦うことになっていたのかは別なのだが。

 とにかくペレアスは、ランスロットと戦うことになる場所には赴けない、という加護であると解釈するのが妥当だろう。

 ジャンヌはあたふたしながら、

 

「いきなり作戦が破綻したのですが!?」

「うろたえるんじゃねえ、カルデア最強マスターはうろたえない! さっきの理屈で言うならまだ四対三だ! 行くぞ!」

「あれ、私遺書書いてきたっけ……短い人生だったなぁ……」

「先輩!? 不吉なことを言わないでください!」

「うわああああランスロットのバカヤロー! なんでお前が寄りにもよって敵なんかになってんだよ!!」

 

 一行が街に足を踏み入れたその瞬間、無数の杭が飛来する。

 目にも留まらぬ超高速。荒々しく削り上げられた杭の雨のことごとくを、ジャンヌとマシュは防いだ。

 旗が乱舞し、大盾が踊る。無論、背後にいるマスターたちにはかすり傷ひとつ付けさせない。

 一瞬の攻防。それを見届け、ワラキアの王は鼻を鳴らす。

 

「──ああ、これくらい防いでもらわねば、歯ごたえがない」

 

 威厳のある透き通った声。一種の妖艶さすら感じさせるかんばせを歪め、彼は笑う。

 童女を惹き付けるような笑みは果たして、凍りつくような殺意をも内包していた。

 彼の横に、新たなサーヴァントが姿を現す。

 白磁のような白い肌の女性。その美貌は息を呑むほどつややかで、ただそこにいるだけで扇情的ですらあった。しかし、その美は見た者を破滅へと誘う食虫植物の如き危険を兼ね備えている。

 

「抜け駆けなんて、悪いお方ね? 王様」

「弱者を嬲るのにも飽きていた。許せ、血の伯爵夫人。それにこうでもせねば──」

 

 その言葉は、中断されたのではない。

 睨み合う敵味方の間に隕石の如く飛来した黒騎士が奏でた轟音。それによってかき消されたのである。

 もはや騎士の正体は考えるまでもない。

 数々の英雄が集う円卓において、最強と謳われた剣士。

 かつて円卓を二つに割った裏切りの騎士──ランスロット。

 その手に幾多の戦場を共にした愛剣はない。傷付いた槍と両手剣を片手ずつに持ち、それを得物としていた。

 だが、その武器は事実英霊にすら通用し得る。手にした物を宝具化するという破格の力のためだ。

 彼に正気はない。敵を打ち払うために存在する殺戮兵器。その登場に、血の伯爵夫人と呼ばれた女性は、呆れたように言う。

 

「……ええ、そうでしたわね。この狂戦士は他人の獲物も喰らう節操無しですから」

「横取りされぬためには、我らも武器を取るしかあるまい──貴様ら、やすやすと死んでくれるなよ」

 

 殺意が破裂する。

 同時に駆け出したのは、漆黒の狂騎士。空気の壁を突き破るかのような速さで疾走し、ジャンヌ目掛けて刃を振り下ろす。

 空間が軋むとすら思わせる刃鳴り。体の芯を突き抜ける衝撃。旗を握る手が雷に打たれたようにびりびりと震え、ジャンヌは唇を噛んだ。

 ──生前を含めても、これほどの強敵はいなかった。

 その戦慄を見抜いたか。杭と血の棘が一斉に掃射される。

 前者はサーヴァントを、後者はマスターを狙った攻撃。その数は先の二倍どころではない。マシュとジャンヌが取りこぼした射撃が、マスターたちへと向かう。

 

eihwaz(エイワズ)sowelu(ソウェイル)

nautiz(ナウシズ)

 

 防御のルーン。完全性を意味する『sowelu』を組み合わせ、さらに効果を高めた防壁。

 血の棘が光の壁に遮られる。その向こう側にいるノアと立香には、何ら痛痒を与えられていなかった。

 

「マスター狙うなんざセコい真似してんじゃねえ! 正々堂々サーヴァントを倒してから来い!」

「リーダー、それはわたしたちが言う台詞では!?」

 

 ノアとマシュのやり取りを見て、白き美丈夫は口元を歪める。

 

「ふ、向こうには中々愉快な道化がいるようだ。ならば、その挑発に乗るのも悪くない。貴様はどうする」

「お生憎様、暗殺者(アサシン)暗殺者(アサシン)らしくやらせていただきますわ」

 

 二人は互いに視線を切る。男は槍を構えてマシュへと突貫し、女はあくまで後方で杖を振るう。

 示し合わせた訳ではないにせよ、役割分担が行われている。肉食動物の縄張りのような危うい関係ではあるが。

 そこでカルデアから、マスターたちに向けて通信が入った。

 

「『二人とも! やり取りなどから察するに、敵の真名は串刺し公ヴラド三世とエリザベート・バートリーだ!』」

「そう言われても私たちは知らないんですけどね! 何か弱点とか無いんですか!」

「『共に吸血鬼伝説の元ネタになったほどの人物だから、日光とかニンニクとか十字架とか……』」

「昼でもバリバリ動いてるあいつらに効くとは思えねえがな!」

 

 言いつつ、ノアはジャンヌのバックアップに向かう。

 現状、最も危険なのが狂戦士と化したランスロットだ。彼は何かに取り憑かれたように、執拗にジャンヌを付け狙っている。

 狂したりと言えども、染み付いた武芸が衰えることはない。

 鮮烈に、流麗に、体の一部のように武器を操る。

 荒れ狂う暴風が人の形を成している。そう思わせるほどの圧倒的な武の狂乱。

 

「Arrrrrrrrrr!!」

 

 咆哮。

 怒濤の斬風がジャンヌを襲う。

 目で全て追い切ることは不可能。反射と第六感に身を任せ、一心不乱に体を動かす。

 一手間違えれば首が飛ぶ。

 一歩踏み込めば胴が断たれる。

 反撃を差し込む隙など一切存在しない。

 呼吸すらも止めたその時、ランスロットが放った蹴撃によって間合いが空けられる。

 そして、ようやく左肩に走る痛みに気付いた。

 動かせないほどの深手ではないが、数合打ち合えば必ず左腕は機能しなくなる。

 この男を前にしてそれは、死を表していた。

 

berkana(ベルカナ)sowelu(ソウェイル)inguz(イングズ)……nautiz(ナウシズ)!」

 

 彼女の体が淡い光に包まれる。肩の傷が癒え、腕に力が戻る。

 ジャンヌは決して狂騎士から目を離さず、後方の男に礼を言う。

 

「ありがとうございます。助かりました」

「キリスト教にとっては異教の魔術だけどな。そこんところは良いのか?」

「主は汝の隣人を愛せよと仰いました。奉じる神の違いなど、何ら問題ではありません。ましてや私たちは仲間です──良い援護を、期待していますよ」

 

 そう言って、彼女はランスロットの脳天へ旗の穂先を叩き付ける。それは容易く躱され、再度打ち合いが始まった。

 ──ああ、なるほど。

 これが聖女たる由縁。

 人に愛されるという才能。

 彼女の旗下に人が集う理由とは、これなのだ。

 理解して、ノアは口角を僅かに上げた。

 似ている人間を知っている。

 ならば、やることはもう決まっていた。

 

「ロマン、サーヴァントの反応は本当にここにあるので全部か?」

「『うん、そうだけど…何だってこんな時に?』」

「何故、あいつらはここにいた? 俺たちの足取りを追っていたはずでもないだろ」

「『…………そういうことか! 賭けだけどやってみよう! 機器の精度を上げてみる!』」

 

 ノアは懐からいくつかの木板を取り出す。

 手のひらに収まるほどの木板には、一様にルーンが刻まれていた。彼はジャンヌへそれを投げ渡す。

 

「……これは!?」

「魔力を通せばさっきの魔術と同じ効果が得られる。俺は少しここを離れる、あとは任せた! できれば藤丸たちと合流しろ!」

「──はい!」

 

 彼女の返事に迷いは無かった。

 竜の魔女に対抗する仲間として、ノアを信じたのだ。

 良い援護を期待している──彼がその言葉に違うことがないと願って。

 

 

 

 

 剛腕が唸る。

 吸血鬼の隔絶した腕力。それを惜しみなくマシュの盾へ叩き込む。

 如何に人外の力と言えども、聖剣の一撃を防いだ守りを崩せるはずもない。

 ぞくり、と少女の背中に悪寒が走る。

 

「くっ!?」

 

 マシュが立っていた地面から、血の杭が突き出す。森のように群生した杭を回避しきれず、千々に鮮血が飛び散った。

 彼女は転がるように立香の元へ戻る。どうやら直撃は避けたようで、戦闘不能なほどの重傷にはなっていない。

 数多の戦場を経験し、生き延びたヴラド三世とマシュでは、潜り抜けてきた死線の数が違う。単純なスペックでは埋め切れない実力差があった。

 立香は魔術礼装を起動し、マシュの傷を治癒する。

 

「助かります、先輩…!」

「気にしないで。ジャンヌさんの方は──」

 

 言葉を遮るように、横合いからジャンヌが跳んでくる。それに遅れてランスロットが跳び込む。

 不思議と狂騎士が追撃を行うことはなく、鎖に繋がれた獣のようにジャンヌを見据えていた。

 

「おかしいですね。あれほどジャンヌさんを狙っていたのに、急に大人しくなるなんて」

「それもそうだけど、リーダーはどこに?」

「何かすることがあるそうで、どこかに走っていきました。今は彼を信じましょう」

 

 立香とマシュは顔色を青くする。

 

「り、リーダーを……」

「信じる……?」

「えっ、そういう扱いなんですか!?」

 

 立香は大いに頭を悩ませ、

 

「うーん、あれはあれで能力だけは本物だから……ジャンヌさんも騙されないように注意してくださいね!」

「は、はい。もしかして私も騙されて…?」

「──随分と呑気なのね、聖女様は。なんて愚かしいのでしょう」

 

 蒼天に響く乙女の声。それは歌うように軽やかで、隠し切れない……隠そうともしていない憎悪が熱狂していた。

 堕ちた聖女。

 黒き外套を纏い、空を埋め尽くすほどの飛竜を従える。

 竜の魔女とジャンヌ。姿形こそ瓜二つだが、その性質は正反対。決して相容れぬ溝があることを、立香は感じ取った。

 けれど、本人たちの目にその姿はどう映っただろうか。

 竜の魔女は、聖女を愚かで無知な童女と断じ、ジャンヌは───

 

「──誰ですか、貴女は」

 

 分からない。

 その有り様が、心根が。

 彼女の内に渦巻くのは、世界を焼く憎悪のみ。

 感情の波濤を無理やり人型に押し込めて、皮をかぶせたような異質さがあった。

 故に、理解できない。

 たとえどんな人生を送ろうとも、憎しみしか持たぬ人間は生まれ得ぬのだから。

 

「信じられぬのならば何度でも教えましょう。私はジャンヌ・ダルク。祖国フランスを救うため戦い、そして殺された! あの屈辱を忘れたなどとは言わせない!!」

 

 魔女は吼える。たちまち彼女の周囲に炎が燃え広がり、上空の飛竜が鳴動した。

 ジャンヌは呟く。

 

「貴女は、憎しみしか知らないのですね。暴力でしか、生き様を表現できないのですね」

 

 悲痛に顔を歪ませ、かつて多くの同士を導いた旗を握り締めながら。

 

 

 

「私には、貴女のそんな在り方が、ひどく……哀しい」

 

 

 

 ──聖女の慈悲。

 汝の隣人を愛せよ、と。

 それは敵にも贈られるものなのだと、彼女は主張した。

 しん、と辺りが静まり返る。

 嵐の前の静けさか。

 龍の魔女の逆鱗に触れた。それは間違いない。

 どちらにしろ、彼らに勝機はない。

 まず数が違いすぎる。敵サーヴァントは今や四体。さらには空の覇者たる飛竜が軍勢を成して、リヨンを蓋している。

 逃げ場は無く、勝ち目は潰された。

 決着をつけるには一言で良い。

 竜の魔女は言った。

 

「殺しなさい」

 

 言い終わるが早いか。

 瞬間、ふわりと風が吹く。

 この場には似つかわしくない、爽やかな薫風。

 見るも鮮やかな薔薇の花弁を乗せ、それはどこまでも駆け抜けていく。

 魔女は風の生まれた先、廃墟の屋上へ目を向けた。

 そこにいたのは、音楽家を侍らせたひとりの乙女。彼女は初めて恋を知った少女のように笑い、詩を吟じるように言葉を紡ぐ。

 

「わたし、とても感動しました」

 

 穢れがない。

 虚妄がない。

 

「あんな風に敵を愛せるヒトを、わたしは初めて知ったから。子どもの頃憧れた聖女さまは、想像以上に最高なのね!」

 

 喩えるなら、彼女は一輪の華だ。

 我ここに在りと咲き誇る大輪の乙女。

 

「マリー・アントワネット、フランスのために戦います! ()()()()()!」

 

 マリー・アントワネット。非業の運命を辿った王妃は、跪く音楽家へ声を掛ける。

 彼は天上の如き音を轟かせ、名乗りを上げた。

 

「僕はヴォルフガング・アマデウス──」

「『幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)』!!」

 

 ……上げようとした。だが、どこからか巻き起こった蒼き魔力の津波が、空中の飛竜を消し飛ばしていく。その轟音でかき消されてしまった。

 せっかくの口上を不意にされた音楽家は、目を丸くする。

 

「……アレェ!? いま絶対そういう流れじゃなかったよなぁ!?」

 

 あまりにも膨大な魔力ゆえに、その出処を探ることは難しくない。物陰で、こそこそと二つの影がうごめいていた。

 

「今のは俺に向けられた言葉ではなかったのか」

「どう考えてもそうだろ状況的に俺らなわけねえだろ。シリアスな空気が壊れちゃっただろうが」

「こういう時はどうすれば良いんだ?」

「とりあえず表出て謝ってこい」

 

 建物の陰から、ひとりの大男が姿を現す。

 褐色の肌と銀色の頭髪。竜殺しの代名詞とも言うべき大英雄は、ぺこりと頭を下げて、

 

「すまない、空気が読めないサーヴァントで本当にすまない」

「許します! 貴方とっても強いのね!」

「いや、僕は許してないからな!?」

 

 稀代の音楽家は頭を抱えてのたうち回る。

 騒ぎの合間を縫って、ノアはひっそりと立香たちの横に戻る。すると、彼女たちの何とも言えない視線が突き刺さった。

 無論、そんなものに気圧される彼ではない。散歩にでも行ってきたかのような気軽さで喋り出す。

 

「とまあ、こういうことだ。あいつらがこんな街にいたのは俺たちを待ち構えてたんじゃなく、あの竜殺しを探してたってわけだ!」

「あの、過程をすっ飛ばしすぎです」

「先輩の言う通りです。しっかり説明してください」

 

 なぜ、リヨンに敵がいたのか。そもそも奴らの目的はカルデア一行を倒すことではなく、この街に逃げ延びた竜殺しを追うことだったのだ。

 竜の魔女は一行の動向を把握してはいなかった。彼らが出会ったのはここが初めてで、辿るであろう道筋を推定することもできない。

 結果的にリヨンでの遭遇戦はどちらにも想定外のことだった。

 ノアはジャンヌと別れた後、カルデアのレーダーを頼りに微弱なサーヴァント反応を見つけ出した。それがかの竜殺しの英雄であったのだ。

 竜の魔女は、噛み付くように叫ぶ。

 

「なぜ動ける──!? その身には呪いが刻まれているはず!!」

「そこの彼の治療のおかげだ。呪いに侵された体でも、宝具を撃つことくらいはできる」

 

 ケルト民族の神官、ドルイドの信仰ではヤドリギは生命力の象徴とされていた。しかし、ミストルティンは北欧の伝承であってケルトの伝承には登場しない。

 既存の魔術基盤との融合。ノアはヤドリギという一点を以って、ミストルティンをドルイドの魔術と結び付けることに成功していた。

 自己完結していた魔力と生命力の交換・譲渡。それを、他者とも行うことを可能としたのだ。

 ノアは右手の手袋を外す。手のひらの皮膚を突き破って、植物の種が出てくる。

 

「これを飲むことで魔力と生命力の受け渡しができる。ヤドリギに寄生されることなくな。つまりいくら呪いに侵されてようが、耐えられる肉体があれば動くくらいは訳ねえ! ああ、俺の才能が怖い!」

「すみません、手から種出すのグロいんでやめてもらっていいですか!」

「藤丸、おまえも一個いっとくか?」

「遠慮しておきます! 私中学生まで錠剤飲めなかったんで!」

 

 けれど、それは完全な治癒ではない。

 いくら魔力や気力が満ちていようと、呪いは解けていない。綻びた体を動かしても、それは徐々に崩れていくだけだ。

 邪竜の血を浴び、不死身の肉体を手に入れたジークフリートだからこそ、この無茶は通る。ノアがマルタに同じ処置を行わなかったのは、このような事情のためだった。

 つまり、竜殺しの大英雄は万全の力を発揮できていない。それは、竜の魔女とて理解しているだろう。

 

「──退きます。飛竜たちでは、あの剣には対抗できない。総員、矛を収めなさい」

 

 竜の魔女の指示を受け、彼らは武器を収めた。が、ただひとり、ランスロットだけは聖女を斬らんと殺意を漲らせている。

 魔女は、冷ややかに命じた。

 

「退きなさい、ランスロット」

 

 令呪を込めた一声。何かに縛り付けられたようにランスロットは一瞬硬直し、飛竜に飛び乗った。

 飛び立つ寸前、竜の魔女とジャンヌは互いを見据える。

 言葉はなかった。

 しかし。彼女たちの目は、言葉以上に本心を伝え合う。

 

(──ああ、また、神の声は聞こえなかった)

 

 その悔恨が誰のものであるかなど、今は彼女たちにすら分からなかった。



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第9話 ペレアスとドラクル

 一難去ったリヨンの街。

 竜の魔女を退け、新たな協力者を迎えた一行。彼らは適当な広場を見つけ、そこで今後の方針を決めるための会議をしようとした。

 なのだが、そこにはある男の姿がない。不審に思った立香は辺りを見回し、その男を見つける。

 広場の外れ。体育座りで、目に見えるほどどんよりとした暗い空気を醸し出すペレアスがそこにいた。

 彼がそんなことになっている理由は考えずとも察せられる。

 湖の乙女の加護によって、ランスロットと戦うことができないペレアス。何の因果かランスロットがこの街にいたせいで、傍観することしかできなかったのだ。

 目の前に飛竜というエサをぶら下げられながらも、ありつくことができなかった。その悲しみはエタード婦人の例とよく似ていた。

 同情した立香(りつか)は、ノアに問い掛ける。

 

「り、リーダー。ペレアスさん大丈夫なんですか。励ましてあげた方が良いんじゃ?」

「ほっとけ、何か言ってもあいつをさらに惨めにさせるだけだ……そう考えると悪くねえな。よし行ってくる」

「わああああ待ってください! この鬼畜! ドS! ノンデリカシー! Eチームのリーダー!」

 

 そんな二人のやり取りを、マリーは子犬のじゃれ合いを眺めるような目つきで見ていた。

 

「皆さんとっても仲が良いんですのね! 楽しい旅になりそうね、アマデウス!」

「僕は今から胃が痛い……」

 

 モーツァルトからすれば、召喚されたことにも疑問を残している。

 なぜ竜だの魔女だの聖人だのが鎬を削り合う戦いに、音楽家でしかない自分が呼ばれるのか。彼は吐き出しかけたその言葉を飲み込んだのだった。

 それはそうと、この場にはマリー・アントワネットがいる。フランス革命で処刑された悲劇の王妃。その生き様は多くの解釈をされ、作品や論文といった形で現代の世の中に出回っているほどだ。

 立香とマシュはどこからかサイン用の色紙を取り出した。

 

「マリーさん」

「はい、何でしょうお嬢さん?」

「ファンです! サインください!」

「わたしもお願いします。とびっきり大きく書いてください」

 

 マリーはぱあっと笑顔を輝かせて、

 

「あげましょう、何枚でも! ねえ、わたしのどんなところが好きなのかしら!」

「そんなの多すぎて語り尽くせませんよ! 会議とかやめてベルばらを語る会にしないと!」

「強いてひとつ言うならフェルゼンさんとの恋模様がとても美しいです。ドキドキします」

「『……あの〜、話が進まないんですが』」

 

 ロマンの声は誰にも届かず消えていくのだった。

 マリーとモーツァルトはこの時代に召喚されてから、フランスの街々を巡り情報収集と人助けを繰り返していたらしい。このリヨンに訪れたのもその一環なのだとか。

 この街に逃げ延びていた竜殺し──ジークフリートは、マルタと同じように重度の呪いに汚染されている。ノアの魔術と不死身の肉体によって、多少ならば戦闘もこなせるが、発揮できる実力は全力の十分の一にも満たないだろう。

 そのため、なおさら聖人の力を必要とする状況になったのだが、マリーとモーツァルトは手掛かりとなる情報を手に入れていた。

 竜の魔女の軍勢に抵抗する、ふたつの砦。一方はここから西に行ったティエールの街付近。そして、もう一方はオルレアンに近い北の方角にて、抵抗が続いている。

 防戦に徹しているとはいえ、飛竜の群れに反抗できているということはサーヴァントがいる可能性が高い。

 カルデア一行は二手に分かれ、それぞれ北と西を目指すことにしたのだが、

 

藤丸(ふじまる)、俺たちは別れるぞ」

「そ、そんな! 置いていかないで、あなた!」

「引き裂かれる男女の愛……王道ね! けどハッピーエンドでも良いのよ?」

「Dr.ロマン、この人たちは放っておいて話を進めてください」

 

 ロマンはこくりと頷いた。彼らの茶番に付き合っている暇はないのだ。

 

「『とりあえずマスターと、その契約しているサーヴァント、呪いを受けている二人は別々にした方が良いだろうね。問題はどう分かれるかだけど……』」

「なかなか難しい問題ですね。どちらかに戦力を傾けるわけにもいきませんし」

「ジャンヌさん、選べなければくじで決めればいいじゃない!」

 

 ……というマリーの提案で、くじで決めることになった。ちなみに、くじの作成は人柄を考慮して聖女コンビに任されることになった。

 立香はからかうようにノアに言う。

 

「リーダー、魔術でイカサマとかしないでくださいね」

「おまえもな。袖から密造したくじが見えてるぞ」

「…………よ、よく見抜きましたね。これはリーダーを試してたんですよ! あっはっは!」

「『Eチームのマスターたちはなんて浅ましいんだ……』」

 

 

 

 

 リヨンから数km西へ離れた街道。

 そこには、四つの人影があった。その内の二つは、頭上に暗雲が立ち込めるほど、肩をがっくりと下げていた。

 しばらく静寂が続いていたが、ある一言がそれを打ち破る。

 

「──華がない!!」

 

 どこまでも草原に響いていきそうなその声に対する反応は、皆それぞれだった。

 

「どこ見て言ってんだ、俺がいる時点で華しかないだろ。一面の花畑が広がってるようなもんじゃねえか」

「すまない、華がないサーヴァントで本当にすまない」

「……ハハッ、どうせオレに華なんてねぇよ。カムランの戦いに参加してないし、竜も殺せないんだからな! アヒャヒャヒャヒャ!!」

 

 そんな光景を見て、モーツァルトは頭を抱えて嘆く。

 

「ほら言った通りだろ!? 端から端まで地獄絵図じゃないか! こんな綺麗に男女で分かれるとかどんな確率なんだ!!」

「この時代にランスロットが召喚される確率くらいだな」

「ノアお前喧嘩売ってるだろ」

「ランスロットに売られた喧嘩は買えんのか?」

「よーし、ぶっ飛ばす! ブリテン式格闘術見せてやらァ!!」

 

 くじ引きの結果、西へ向かうチームはノア、ペレアス、ジークフリート、モーツァルトの四人となった。何者かの作為が疑われるほどの男所帯だが、イカサマが行われた形跡は一切なかった。

 最後まで粘ったのはモーツァルトである。なんとかして組分けを覆そうとしたのだが、マリーによって却下された。要するにフラレたのである。

 おまけにノアとペレアスはこのザマ。動物のじゃれ合いは微笑ましいが、大の男たちがそれをやると苛立ちが募ってくる。モーツァルトの胃痛は加速した。

 しばらく街道を離れて戯れていたノアとペレアスが、大きく息を吐きながら戻ってくる。

 そして、場は再び静寂に包まれる。土を踏みしめる足音だけが鳴り渡っていた。

 カルデアから通信が入る。この状況を見かねたロマンからだ。

 

「『それじゃあみんなでしりとりでもしようか! ジークフリートさん、りからどうぞ!』」

「りんご」

「ゴマ」

「マリー・アントワネット」

「と…と……ドラゴン殺したかったぁ……」

 

 そう言ってペレアスは膝から崩れ落ちる。トラウマの数だけで言えば円卓の中でもトップクラスなペレアスだが、耐性はまだ付いていないらしい。

 

「おまえはいつまで引きずってんだァァァ!! おまえら、同じ英霊としてなんか言ってやれ!」

「ペレアス、竜殺しはそれ程大層なものではない。長い長い人の歴史のほんの一欠片だ。だから気にするな、機会はいくらでもある」

「……僕個人としては心底どうでもいいんだが、現時点で正面切って戦えるのは君しかいない。元気出してもらわないと僕が死ぬ」

「お、お前ら……! 優しくすんじゃねえ泣いちゃうだろうが!」

「『なんなんだこの茶番は……』」

 

 そんなこんなで。

 彼らは砦を視界に収める場所まで来ていた。目を凝らせば城壁の上には鎧を着込んだ人影が見えた。

 どうやら、マリーとモーツァルトの情報は間違っていなかったようだ。カルデアのレーダーもサーヴァントの反応を捉えており、砦も機能している。

 一行が歩を進めたその時、頭上を何かが横切る。太陽の光が遮られ、一瞬辺りが暗くなるほどの巨大な物体──否、生物。

 反射的に空を見上げ、確信を得る。

 堅牢な鱗に覆われた体表、巨大な翼。今までに幾度と見た飛竜が、砦に向けて進軍していた。

 

「走るぞ! ペレアス、先行しろ!」

「言われなくても! 汚名返上のチャンスが来やがった!」

 

 だが、一行が到達するより早く、砦は飛竜の群れに囲まれる。

 ジークフリートは未だ万全ではない。呪いを受けた体では、宝具の反動は消滅に繋がる。ノアの治療を以ってしても、三発が連続使用の限度だろう。

 三発の内のひとつを今使うのか。その逡巡を掻き消すかの如く、城壁から十文字の閃光が煌めいた。

 

「『力屠る祝福の剣(アスカロン)』!!」

 

 剣を手に竜を引き裂くひとりの英雄。彼もまた竜殺しの逸話を有する英傑の一角であり、キリスト教圏では現代も名を轟かす聖人。

 

「『アスカロン……聖ジョージ、ゲオルギウスか! ノアくん、ビンゴだ! 彼もまた竜殺しの属性を持つ聖人だぞ!』」

「ハッ、やっぱ俺は天に愛されてるってことだな! 派手にかませ、ペレアス!」

 

 言い終わる前に、ペレアスは加速していた。

 放たれた一本の矢の如く平地を疾走する。その勢いを殺さぬまま、垂直な城壁を駆け上がり、瞬く間に剣を走らせる。

 血しぶきと共に墜落する飛竜。都合三体の竜が喉元を切り裂かれ、物言わぬ肉塊と化していた。

 円卓の一員として数多の戦場を生き延びた彼に、この程度の怪物はもはや手慣れたものだった。とはいえ、竜は竜。ペレアスの技量に目を丸くする兵士たちを尻目に、彼は満面の笑みを浮かべる。

 

「念願の竜殺し達成だぁぁぁ!! お前ら運が悪かったな、今日のオレは最高に調子が良い! ロマン、オレの活躍を録画しとけ!!」

「『さっきのネガティブさは一体どこに!?』」

「そんなオレはもういない! 今のオレは竜殺し、いや、竜竜竜殺しだ!!」

 

 ペレアスは生まれ変わったように走り出す。次々と飛竜を堕とし、確実に急所に斬り込む。時には剣を投擲する離れ業を見せ、竜の背から背へ移る曲芸をも披露していた。

 円卓の騎士の肩書きに違わぬ実力。突如乱入したペレアスだが、砦の兵士たちからは疑いの目を向けられてはいない。

 手隙になったゲオルギウスに、ノアたちは接近する。彼はノアたちがペレアスの仲間であると察し、丁寧に礼をした。

 

「救援感謝します。あなたたちもまた竜の魔女に対抗する勢力なのですね?」

「そうだ。詳しく説明してる暇はないがな。俺たちには聖人の力が必要だ。まずはここを切り抜ける」

「了解しました。私も微力ながら剣を振るいましょう」

 

 城壁に取り付いていた飛竜は、ペレアスの活躍によって駆逐されつつある。

 しかし、これで終わりではない。遠方の空から新たなる飛竜の群れが先程とは比べ物にならない規模で迫っていた。

 

「『ノアくん、サーヴァントの反応が接近している。おそらくは次が本命だ!』」

 

 空飛ぶ怪物の軍勢。その最前列の竜の背に、槍を携えた男が乗っている。

 リヨンの街で相見えた槍兵(ランサー)のサーヴァント。ヴラド三世が敵将として竜を率いているとなれば、サーヴァントの数で上回っていようと油断はできない。ジークフリートは弱体化しており、モーツァルトも戦闘に向く英霊ではないからだ。

 

「分かった。砦の指揮は当然ゲオルギウスだ。敵サーヴァントにはペレアスをぶつける。ジークフリートは温存するが、戦況によっては宝具を使って良い」

「僕はどうする? 言っておくが直接戦闘で役に立たないことは保証しよう。大人しく補助に回すといい。曲のリクエストはあるかい?」

「俺の尻をなめろ」

「ははっ! あの曲現代まで残ってたのか! いいね、僕の曲はどれも名作揃いだが、あれは特にお気に入りの作品だ!」

 

 敵のランサーは飛竜の背から飛び降りる。常人からすれば死は免れない高度だが、サーヴァントである彼にその常識は通用しない。

 着地と同時に地が砕ける。立ち昇る土煙を切り裂き、串刺し公と恐れられた血の英傑は姿を現した。

 相対するはペレアス。竜の血に塗れた剣に血払いを施し、肩で刃を担ぐ。

 挨拶代わりとばかりに、ペレアスの眉間目掛けて突きが放たれる。それを難なく防ぎ、彼らは笑みをこぼす。

 

「……ワラキアの王、ヴラド三世だ。貴様の名は」

「ペレアス。一応円卓の騎士をやってたが、これが困ったことに戦場で肩書きほど役に立たないものはねえ」

「ほう、では貴様は戦場において何を必要とする?」

 

 戯れるようなその問いに、ペレアスは獰猛な笑みを顔に貼り付けながら、

 

「当然、相手をぶっ倒すって気概だ! オレはアンタをひとりの人間として倒す──だからアンタも()()()()()()()()()かかってこい!!」

 

 剣の切っ先を、眉間に突きつけ返す。

 ひとりの人間として相手を倒す。その言葉をヴラド三世は咀嚼し飲み込んで、槍を握り直した。

 

「大きく出たな、ペレアス! 良いだろう、貴様の魂をこの槍の錆としてくれる!」

 

 次の瞬間、剣と槍が轟音を奏でた。

 

 

 

 砦の外で剣士と槍兵の戦いが始まったその頃。

 城壁の上では、ゲオルギウス率いるフランス兵と竜が凄絶な争いを繰り広げていた。さすがは竜殺しの英霊と言ったところか、力量差は圧倒的ながらも本人の武勇と指揮によって突破を防いでいた。

 しかし、それもやがては限界が来るに違いない。ジークフリートの宝具に頼るにしても、それにも限度がある。

 何か手を打たなければ、敗北は必至。その状況でノアがすることといえば、

 

「一筆一筆丁寧に刻め! ルーン文字なんざ小学一年生でも書ける! 冬休みの書道の宿題みたく親にやってもらうことなんてできねえぞ!!」

「『こんな時にキミは何をしてるのかなあ!? しかもそれ先生にバレて怒られるやつ!!』」

 

 彼は砦内の非戦闘員を集め、ひたすら地面や壁にルーン文字を刻ませていた。その中には子どもや老人の姿も混ざっている。

 思わずツッコんだロマンに、ノアは微笑でもって返す。

 

「これも適材適所だ。まあ見てろ、戦況をひっくり返す」

 

 しゅる、とノアの袖の下から樹木の根が這い出て来る。それはやがて一本の杖の形を成し、手元に収まった。

 彼は鼻歌でも歌うような気軽さで杖を振り回しながら、ある一点へ歩いていく。

 ノアが書くように命じたルーンは二つ。防御のルーンである『eihwaz(エイワズ)』と勝利のルーン『teiwaz(テイワズ)』。その二つのみを、ひたすらに刻ませた。

 『teiwaz』の元となった北欧神話の軍神テュールは、かつて最高神の地位にあったものの、オーディンなど他の神が流入してきたことにより、その地位を追われたという経緯がある。

 さらには、同じ軍神の属性を持つトールに人気も劣り、混同されることもしばしばある不憫な神だ。が、反面そのルーンは戦士たちに非常に好まれた。

 テュールのルーンを剣に刻むことで、その者は勝利を得ることができるとされたのである。

 ノアは砦の中心、ルーンが書き込まれていない地点に立ち、そこに杖を突き刺した。

 

「〝──大いなる主神オーディンに奉る。我らが砦と戦士たちに、御身が加護を宿し給え〟」

 

 大神へ向けての詠唱。

 傍若無人を地で行くノアが、へりくだった言葉遣いをしている。ロマンは強烈な違和感に襲われたが、その感情は次の瞬間には驚愕で塗り潰された。

 そこらじゅうに刻まれたルーンが発光する。防御のルーンは青色に、勝利のルーンは橙色に。

 透き通った青色の巨大な壁が、ドーム状に砦を覆う。兵士たちの武具に橙色の淡い光が灯る。

 矢を射掛ければ竜の鱗を貫き、鎧は爪を受けても傷が残るだけで破損には至らない。火の息は青い防壁に阻まれる。

 竜に通じる攻撃力と即死しない耐久力を得て、兵士は奮起した。

 劣勢にもつれ込んでいた戦況が、やや優勢にまで持ち直される。

 

「『ノアくん、キミはこんなこともできたのか』」

「できるようになった、だ。それに俺だけの力でもない。少なくとも以前の俺なら無理だった──特異点Fであの魔術師のルーンを見る前まではな」

 

 冬木の特異点で出会った青いサーヴァント。彼もまた本職ではないにせよルーン文字を使う魔術師のひとりだった。

 魔術師にセイバーやランサーの戦い方を真似することはできない。模倣にも満たない粗悪品に成り果てる。

 だが、同じ魔術師、同じルーン文字を使う相手ならば。

 再現できる。再現してみせる。

 魔術とは学問だ。必ず再現性がある。

 

「Eチームのリーダーとして、不甲斐ない姿は見せられねえ。天才は成長性も天才だってことだ!!」

「『その意識を普段の生活でも心掛けてくれれば文句はないのになあ……』」

「完璧な才能は存在しても完璧な人間は存在しない。……おいロマン、これ名言として残しとけ」

「『ごめん、聞いてなかった』」

 

 

 

 鮮血が飛び散る。

 互いの首筋に走った赤い線。この程度の微傷は生前数え切れないほど受けてきた。今更、感じる痛みもなければ感慨もない。

 だというのに、彼らの胸中は高揚感で埋め尽くされていた。

 鍛え上げた剣技が、槍技が、体技が、全力でぶつかり合い火花を散らす。極限の殺し合いの中にあってさえ、その技は閃光のように華々しく輝いている。

 腕には渾身の力を込めている。地が割れるほどに踏み込んでいる。それを以って放つ槍の一撃は己が技の至上だ。

 しかし、ペレアスには当たらない。

 ことごとくがいなされ、躱され、弾き返される。

 それでもヴラドの美貌から笑みが消えることはない。ペレアスの技量を見るたびに、かえって喜色は深まっていく。

 

(ああ──こんな戦いは、初めてだ)

 

 彼は生前、寡兵で大軍を制する戦いを強いられてきた。

 オスマン帝国は当時難攻不落とされたコンスタンティノープルを陥落させ、ヨーロッパを震撼させた。対するワラキア公国は、現在のルーマニアの一地方でしかない小国。その戦力差は絶望的なまでに大きかった。

 そこでヴラド三世はゲリラ戦を仕掛け、二万人の敵兵を串刺しにするという奇策を取る。

 結果、ワラキアはオスマン帝国を撤退させる大勝利をあげることになるものの、類を見ない残虐な手法は後世の悪名にも繋がってしまうこととなった。

 ──だが、それでも良い。それでも良いと、思っていた。

 キリスト教世界の守護者として、異教徒の軍勢は何としてでも退けてみせる。故国の民を守るためならば、如何な汚名も被っても良い。

 その果ては、おぞましき鮮血の伝承。

 人の生き血を啜る吸血鬼。

 陽の光を浴びられぬ怪物。

 反キリストの象徴。

 ……彼を否定したのは、民衆であり、キリスト教だった。

 

「何を──考えてやがる!」

 

 剣の柄頭が額を打ち据える。ヴラドは思わず飛び退き、ペレアスの顔を見据えた。

 湖のように透き通った瞳の奥に、鉄をも溶かす熱が籠もっている。

 

「オレは所詮ひとりの騎士だ。王様の悩みなんてのは、理解できても共感はできねえ。だが、今この戦いには全く関係のない話だ」

 

 ペレアスは挑発的に笑う。それはどこか、好々爺然としていた。

 

「好きにやってみろよ。アンタみたいな王様にはきっと、新鮮な経験になる」

 

 ヴラドの口角が吊り上がる。

 こんな男とは出会ったことがない。

 彼には本音しかない。他人に対しても自分に対しても、ありのままの心を曝け出す。

 自らの考えを押し殺して主君に従う騎士とは真逆。何よりも大切な、優先すべきものを持っているからこその強さがペレアスにはある。

 それで言うならば、ヴラドも負けてはいない。

 心を捧げた神がいた。

 護るべき民衆がいた。

 ならば、放つ宝具は最強に他ならないと信ずる──!!

 

 

 

「『血塗れ王鬼(カズィクル・ベイ)』!!!」

 

 

 

 血の森が顕現する。

 侵入者を貫き食い殺す槍の大群。それらは蛇のようにうねり、ペレアスへと殺到した。

 リヨンで見せた杭の掃射とは比べ物にならない威力と速度。もはや剣一本で防ぐには到底足りず、受ければそこから杭が突き出る必殺宝具。

 ペレアスに迷いはない。力強く地面を踏みしめ、突撃をかける。

 

 

「──『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 

 杭がペレアスを貫いた瞬間、その姿は霞のように薄く消えた。

 死の運命を回避する宝具。しかし決定的な死をもたらさない攻撃は、確かに彼の体に傷をつけていく。

 けれど、彼の足がその程度で止まるはずもない。

 ペレアスとヴラドは肉薄する。

 剣と槍を互いに急所へと振るう。

 その一瞬、

 

()()()()()を、宝具にする人間がいたのか)

 

 ついぞ手に入れられなかったそれを、己が最上の武器とする酔狂な騎士。

 彼への賞賛に心が傾き。

 ヴラドの霊核は切り裂かれた。

 力を失った手から槍が落ちる。地面に膝をつき、甘美なる敗北の余韻に浸る。

 ペレアスは傷付いた体を引きずり、その横に座り込む。

 

「すまねえな、オレの宝具は初見殺しだ。納得の行く結末にはならなかったかもな」

「いいや、そんなことはない。愛を形にする宝具があるのだと知れただけでも、この戦いには意味があった」

「そうか。ならオレも満足だ。今度会った時は一緒に世界のために戦おう」

 

 ヴラドは穏やかに微笑み、

 

「ああ……余もその時が来ることを待ち望んでいよう」

 

 稀代の名将、ワラキアを守り通した男は、人間としてこの世を去った。

 

 

 

 

 

「おいお前ら! 写真撮れ写真!! 『英雄ペレアス竜殺しを達成する』ってな感じで! ほら、モーツァルトもこっち来い!」

「ぎゃあああ汚っ! っていうか血なまぐさっ! 騎士は頭おかしいのしかいないのか!? マスター仕事しろ!」

 

 飛竜の首を両脇に抱え、無邪気な笑顔を浮かべるペレアス。彼はビチャビチャと竜の血を飛び散らせながら、モーツァルトを追いかけ回していた。

 ノアはため息をついて、ペレアスに声をかける。

 

「おい、何やってんだペレアス!」

「そうそう、偶にはやればでき」

「竜の鱗は現代ではまず手に入らない貴重品だから全部剥ぎ取っておけって言っただろうが!」

「ああくそ、そんなことだろうと思った!」

 

 的外れの怒号を飛ばすノアの腕の中には、竜の鱗や爪や牙、血液を入れた瓶がわんさかと詰まっていた。

 ジークフリートはペレアスの前に立ちはだかり、その進路を阻む。すると、彼は竜の鱗を糸に通した首輪を差し出す。

 

「初めての竜殺し記念だ。写真を撮るならこれを付けたほうが見栄えも良いだろう」

「ふっ、さすがは竜殺しの先輩だぜ……オレも見習わねえとな」

「君たちは! 馬鹿なのか!!?」

「『ああ、モーツァルトさんのツッコミが追いつかなくなっていく……』」

 

 ほろりと涙をこぼすロマン。

 勝利の熱狂に浮かれているのは、決して彼らだけではない。砦の兵士たちも戦勝の余韻の中にあった。

 ゲオルギウスはノアの元まで近付き、再度礼をする。

 

「二度目になりますが、助力感謝いたします」

「俺たちも打算ありきで助けたようなもんだ。そこまで感謝される謂れもない」

「あなたたちにも事情がおありのようですね。お聞きしても?」

 

 ノアは説明をロマンに丸投げした。

 カルデアの存在から人理焼却の経緯。呪いを解くには聖人二人の洗礼詠唱が必要であること。そして、この時代が特異点であり、竜の魔女を倒し、聖杯を回収しなくてはならないという情報。

 すべてを伝えた後、ゲオルギウスは頷いた。

 

「分かりました。私も力をお貸ししましょう」

 

 ですが、と彼は砦の人々へ目を向ける。

 ゲオルギウスが去れば、この砦からサーヴァントはいなくなる。そうなれば、飛竜の襲撃には持ちこたえられないだろう。

 そもそも、城壁にも限界が来ている。先程はノアと非戦闘員たちの魔術があったからこそ耐えられたようなものだ。

 

「『では、ここの人々を連れて他の砦に移動するというのはどうでしょう。ここから北東に向かったところに、まだ竜の魔女に対抗している場所があります』」

「……! そうですか、ではそうしましょう」

「『それにしても、ここは人が多いですね?』」

 

 砦内を見渡して、ロマンは言った。

 確かに彼の言うとおり、砦の中には人が溢れている。収容人数はほぼ限界に来ているだろう。

 ゲオルギウスは難しい顔をした。言いづらそうに、彼は切り出す。

 

「竜の魔女から逃れてきた避難民を受け入れたのもそうですが、ここまで膨れ上がった理由はそれだけではありません」

「『ええと、つまり?』」

「私も理解し難いことなのですが……ボルドーの街から逃げてきた人々はこう言うのです」

 

 一拍置いて、ゲオルギウスは言った。

 

「──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と」

 

 それを聞いて、ノアとロマンは同時に、

 

「「……はあ!?」」

 

 間抜けな声が、夕焼け空に鳴り響いた。



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第10話 黒騎士と鉄の処女

「『皆さんどうもこんにちは、ムニエルです。Dr.ロマンに代わって、オペレーターを務めさせていただきます。一応カメラ回しておきますね』」

「『おっと、私を忘れてもらっちゃあ困るなあムニエルくん。美少女サーヴァントたちを録画しようたってそうはいかないぜ?』」

「『グエーッ! 貴様はダ・ヴィンチちゃん!! この録画はカルデアの記録、いや人類史の宝として……ギャアアア!!』」

「あの、初っ端からふざけるのやめてもらっていいですか。どういう状況か分かりづらいです」

 

 マシュの冷静なツッコミが、カルデアの管制室に向けられる。

 ノアたちが西の砦にて、ヴラド三世と飛竜を退けた時から遡り。彼らと分かれたもうひとつのチームは、北にて竜の魔女への抵抗を続けているという砦を目指していた。

 こちらは立香(りつか)、マシュ、ジャンヌ、マルタ、マリーの五人。もう一方のチームとは比べ物にならない華やかさに溢れている。比較対象のレベルが低すぎるというのもあるが。

 ロマンがノアたちのオペレーターに回ったことで、ムニエルとダ・ヴィンチが立香たちを補佐することになった。機器による通信という概念がないジャンヌたちの目には、それは奇異なものとして映っただろう。

 マルタは空中に投射された映像を興味深そうに眺める。

 

「へえー、こんな便利なものが発明されたのね。ラザロが病気になった時も、これがあればもっと早くあの人も来てくれたんでしょうけど」

「ヨハネによる福音書第11章ですね。私も神の声だけでなく、この通信のように姿も見せてくれたらいいのにと思います」

「そうそう、少し抜けてるところがあるのよね、あの人たち」

 

 何とも立ち入りづらい話をする聖女コンビ。ヨハネの福音書第11章は、マルタの弟であるラザロが病死し、洞窟に葬られたところ、駆け付けてきた神の子が彼を復活させるという話である。

 現代ではあくまで伝説として受け止められているが、マルタの口振りから察するに、どうやら現実に起こったことらしい。立香以外の話を聞いていた者は全員、度肝を抜かれる気分だった。

 立香は首を傾げてマシュに問う。

 

「なんでみんな驚いてるの?」

「伝説だと思われていた出来事が本当だった……簡単に言えばツチノコやチュパカブラが発見されたようなものです」

「なるほど! つまり救世主はUMAだった……?」

「どんな思考回路をしたらそうなるんですか!?」

 

 いかにも陰謀論者が沸き立ちそうなトンデモ解釈を言い放った立香に、マシュは更なる驚きに見舞われる。

 とは言っても、Eチームの片割れが別の場所にいることで、いつもの騒々しさはない。それだけでマシュの心労はいくらか軽減されていた。

 すると、マリーがぴょんぴょんと跳ねながら手を挙げる。

 

「はい、はい! ジャンヌさんに質問してもいいかしら!」

「い、一体なんでしょう」

「ジャンヌさんの頭のそれ、どうやって付けているの?」

「………………」

 

 言われて、ジャンヌは固まった。

 マリーの疑問は確かに理解できるものだった。彼女が頭に付けているサークレットと思しき装飾品。それは紐などで固定しているわけでもないため、一見してどう付けているのか分からない。

 しかし、当の本人が答えづらそうにしているのは何故なのか。不審に思った立香は、顎に手を当てながら考察する。

 

「うーん、髪の毛にくくりつけてるとか」

「見るからに金属製の重たそうな材質ですし、それでは毛根が耐えきれないのではないでしょうか」

「聖女なんだから毛根も他の人より強いんじゃない?」

「あなたは聖女を何だと思っているのですか?」

 

 嘆くマルタだったが、竜をも殴り飛ばす彼女も聖女のイメージを歪めていることに気付いていなかった。

 このままでは誤解が加速する。そう踏んだジャンヌは、顔を真っ赤に染めながら言い放つ。

 

「こっ、これは信仰パワー! そう信仰パワーです! 私の信仰心が実り実ってこのような奇跡を可能としたのです! そういうことにしておいてください!」

「聖女としてあり得なくもないラインを突いてきましたね、先輩」

「うん。やっぱり設定が定まってな」

「あー! ほら、砦が見えてきましたよ! そうだ、誰が一番先に着くか競争でもしますか!」

 

 苦しい言い訳を述べたあと、ジャンヌは我先にと砦へ走っていった。その速さたるや、ランサークラスにも負けない敏捷力を発揮している。

 視界の先にある砦は、堅固な城壁と広大な土地を備えた、街とも言うべき場所だった。所々が荒れているが、防御だけは怠っていない。竜の魔女の攻勢を凌げている要因と言えよう。

 ジャンヌを追って一行は街へと足を運ぶ。ちなみに、呪いを受けているマルタはマリーが召喚したガラスの馬に乗っていた。

 門をくぐり、少し行ったところでジャンヌは地面に屈んでいた。その視線の先には、倒れ込んだフランス兵の姿がある。

 即座に一行は駆け寄り、ジャンヌは言った。

 

「大丈夫です、死んではいません。どうやら気絶しているだけのようです」

 

 体を診たところ怪我をしている部位はない。命に関わるような症状は見当たらないが、その顔は苦悶に満ちている。

 立香が不意に横道へ視線を投げると、点々と人が倒れていることに気付く。一行は念の為彼らを調べてみるも、一様に気を失っているだけだった。

 奇妙なのは、道を進んでいく度に倒れる人の姿が多くなっていること。そこで、マシュがびくりと体を震わせる。

 

「先輩、なんだかとても嫌な音がしました」

「嫌な音? ……本当だ、変な音が聞こえる」

「用心して進みましょう! 何かあればわたしの宝具で守ります!」

 

 不穏な空気を打ち破る明るさで、マリーが先導する。

 歩く度にその音は大きく、近くなっていく。まるで耳の奥にナマコを突っ込まれているような不快感を催す音だ。

 そして、それが人の声であることに思い至る。地獄の釜の蓋が開いたとでも思わせるほどの怪音波。

 音の出処は近い。立香はサーヴァントたちに呼びかける。

 

「この先に敵がいることは間違いないです! 力を合わせて勝ちましょう!」

「はい、先輩。この不快な音…相手は悪魔や怪物の可能性もあります。くれぐれも油断はしないように!」

 

 そうして、一行は意気揚々と飛び出した。

 その先では。

 

 

 

 

「恋はドラクル(朝は弱いの)優しくしてね♪ 目覚めは夜の一時過ぎ〜♪」

「おお……!! 悍ましくも心をまさぐる凄絶な歌声──! これもひとつの芸術の在り方か!!」

「安珍様、わたくしもお側に参ります……今度こそ逃しませんわよ……ぐふっ」

 

 

 

 

 見るも地獄、聞くも地獄の悪魔的なコンサートが開催されていた。

 一面はまさに死屍累々。破滅的な歌声にやられた兵士や市民の人々が泡を吹いて昏倒し、積み重なっている。

 そんな観客の事情を知ってか知らずか、竜種の特徴を備えた少女はステージの上で存分にパフォーマンスを披露する。質が悪いのが、彼女の調子が上がると、歌声は酷くなっていくことだ。

 既に聞くに堪えないというのに、底無し沼のように最低値を下回る脅威の音痴。意識を保てているのは、鎧を着た男と着物姿のサーヴァントのみだった。

 後者はほぼ虫の息だが、鎧を着た男だけは眼球が突出するほどに聞き入っている。

 その男の姿を認め、ジャンヌは言った。

 

「…………ジル、何をしているのですか?」

「じ、ジャンヌ!? なぜここに! 処刑されたはずでは……いえ違うのです、これは決して推し変をしたという訳ではなくアイドルなる異文化に触れ──」

偶像(アイドル)!? キリスト教では偶像崇拝は禁止されていますよ!?」

「すごい勘違いをしている……ジャンヌさん、ちょっとこっちに来てください!」

 

 立香に呼ばれ、ジャンヌはとぼとぼと彼女に歩み寄る。生前、全幅の信頼を置いていた男が禁忌を侵した事実は、ボディブローのように効いていた。

 アイドルという言葉が持つ意味は、昨今大きく変わっている。ステージ上で冒涜的な音波を撒き散らす少女は、おそらく近年の意味でのアイドルだろう。

 

「たぶん、この場合のアイドルっていうのは、みんなの憧れの的だったり芸をして人気を集める人とかそういう意味ですよ。偶像崇拝まではいかないと思います」

「そ、そうなのですか。私はてっきりジルが禁忌を破ってしまったのかと」

「むしろジャンヌさんがアイドルですよね! キレイだし熱狂的なファンもたくさんいるし!」

「聖女とはアイドルだった……?」

 

 マシュの呟きを聞いて、ジャンヌとマルタはステージを眺めた。

 

「「流石にアレと一緒にされるのは」」

「ええ、そうでしたね。ごめんなさい」

 

 

 

 

 気を取り直して。

 地獄のコンサートを止めた後、気絶していた人々は続々と意識を取り戻した。彼らにコンサートの記憶は残っていなかった。あまりのストレスに解離性健忘を引き起こしたのだ。

 なぜコンサートを行っていたのかと言えば、

 

「ブタどもへの慰問ライブよ! 本当なら入場料その他諸々を搾り取るところだったんだけど、それをしない優しさもアイドルには必要よね!」

「拷問ライブでは?」

 

 着物姿のサーヴァントが毒づく。

 つい数日前、この街は竜の魔女による襲撃を受けた。ジルを筆頭に防戦に徹するフランス軍だが、敵にサーヴァントがいることであっという間に劣勢に追い込まれる。

 その時、助けに入ったのが二人の少女、エリザベート・バートリーと清姫であった。

 アイドルを自称するエリザベートが、奮戦した兵士たちを慰労する意味で今回の事件は起こった。ともすれば、竜の魔女と戦う前にこのライブで死者が出ていたかもしれない。

 一行はジルに事情を説明した。竜の魔女を倒すための頭数は全く足りていない。極論、竜の魔女が従えるサーヴァントを全て倒したとしても、飛竜を殲滅できなければ多くの人間が死ぬ。それはもはや敗北なのだ。

 さらに言えば、竜の魔女は聖杯の力によって無尽蔵に竜を生み出すことができる。時間を与えればそれだけ敵の戦力は増えていく。

 

「ジル、あなたにもう一度、無謀な戦いに付き合わせてしまうこと、申し訳なく思います」

「いえいえ、気にしないでください。一時とはいえ貴女が復活したことは、かの救世主に並ぶ偉業ですしこの戦いが終わった暁には新たな福音書、否、聖書を編むことも辞さない覚悟です」

「辞してください」

 

 ジルの早口を一言で切って捨てるジャンヌ。

 その様子はさながら反抗期の娘と父親のようだった。共にオルレアンを奪還した戦友として、深い信頼関係が築かれている証だ。

 遠巻きで見守る一行に、ダ・ヴィンチから連絡が入る。

 

「『やあみんな、突然だけど朗報だ。ノアくんのチームが聖人を発見したよ。しかも竜退治で名高いゲオルギウスだ』」

「まあ、これは良い話ですわね! アマデウスがいるということで心配だったのだけれど、新しい仲間を手に入れてパワーアップですね!」

「ええ、偶にはリーダーも活躍するようです。わたしたちも負けてはいられませんね、先輩」

「うん、これでジークフリートさんとマルタさんが復活すれば……」

「『ああそうだ、ひとつ言い忘れてた』」

 

 わざとらしい言葉を吐くダ・ヴィンチ。嫌な予感しかしないそのフリに、立香とマシュは顔色を青くした。

 

「『サーヴァント反応がふたつと、飛竜の大群が接近している。うん、まあ、頑張りたまえ!』」

「「それを先に言うべきでは!?」」

「『いやあ、でもこの報告が先だと悪いサプライズになってしまうだろう? 心優しいダ・ヴィンチちゃんとしては、君たちに良いサプライズをしたかったんだ』」

「上げて落とす最悪の手法ですよね!?」

 

 立香の絶叫とともに、太陽の光を遮るほどの竜の群れが飛来する。

 その中には、リヨンの街で相見えたサーヴァントの姿があった。狂奔する黒き騎士と、雪のように白い妖艶なる美女。エリザベートはその女を睨みつけ、槍を取り出した。

 そして、仰々しい所作で立香に指を突きつける。

 

「そこの子ジカ、私のマネージャーを任せるわ。あの女を倒すためよ、ついてきなさい!」

「えぇ!? それじゃあマシュ──」

「……いえ。行ってください、先輩」

 

 マシュは立香に顔を向けることなく、言葉を返す。その視線の先にはランスロット。彼はジャンヌとマシュを標的に、洪水のような殺気を放っていた。

 一瞬でもその姿を視界から外せば、対応する間もなく殺される。濃密な死のイメージを突きつけられ、マシュは息を呑んだ。

 立香は戸惑いを振り切り、指示を飛ばす。

 

「マリーさんはマシュとジャンヌさんの援護をお願いします。清姫さんは私たちについて来てください。ジルさんには竜の相手を任せます」

「分かりました! どうか気をつけて!」

「あのトカゲ女と一緒に戦うのは癪ですが、これも安珍様に近づくため。全力を尽くしましょう」

 

 

 

 

 

「Arrrrrrrrrrrr!!!」

 

 漆黒の騎士は駆け出す。

 敵の優先順位はジャンヌ、マシュ、マリー。血を分けた子の面影を持つマシュですら、今のランスロットにとっては殺すべき対象にしかならない。

 彼には特殊な能力も、強力な宝具も必要ない。

 超常的な技を本能のままに振るうだけで、並のサーヴァントは木っ端微塵に砕け散る。

 虚実織り交ぜた嵐のような連撃。

 武器と体を一体化させた超絶の技量。

 それを前にして命を繋ぎ止められていたのは、ひとえにジャンヌとマシュが防戦に秀でたサーヴァントだからであろう。

 二人が守り抜くのはマリー。攻防の合間を縫って、ガラスの弾丸や魔力を込めた風をランスロットへ撃ち込む。

 しかし、それらは両手の得物が巻き起こした斬風の前に吹き飛ばされる。

 

「これが円卓の騎士──! 知ってはいたけれど、なんて強さ……!!」

「マリーさん、決して私たちの前に出ないように。守り切れる保証はできません」

「ジャンヌさん、わたしのことはマリーと呼び捨てにしてくださって構いませんわ。だって、仲間でしょう?」

「──はい。攻撃は任せます、マリー!」

 

 ランスロットの剣とジャンヌの旗の穂先が衝突する。彼女は後ずさり、次いで放たれた一撃をマシュが防いだ。

 刹那、無数の乱撃がマシュを襲う。

 全ての攻撃が必殺。だが、彼女の盾の防御を抜くには至らない。

 円卓最強の騎士ですら破ることのできない守り。それでも彼女の攻撃は悠々と躱される。

 元々、マシュ・キリエライトは戦闘に向いた人間ではない。他者を傷つけることなんて、したくもないしされたくもない。

 小さな箱の中で育った彼女にとって、殺し合いなどという行為は吐き気を催すほどに醜いものだった。

 ──けれど、それでは護れないモノがあることを知った。

 それはいつだって唐突に、理不尽に、命を奪っていく。

 脳裏に焼き付く火災の記憶。死んで良い人間なんているはずがなかった。この身を捧げることであの世界を取り戻せるなら、彼女は迷いなくそうするだろう。

 だが、時を巻き戻す術はない。

 

(だから──わたしは、わたしにできることをやるしかない)

 

 ありったけの力を注いで、大盾の尖端を地面に叩き付ける。

 視界を白く染め上げる砂煙。ランスロットの視覚を一時的に停止させるが、彼にこの程度の晦ましは意味をなさない。

 研ぎ澄まされた感覚は、頭上から墜落する大盾を捉えた。

 それとほぼ同時に斬撃が繰り出され、盾を弾き飛ばす──そこに、マシュの姿はなかった。

 

「は、あああぁぁぁっ!!!」

 

 ランスロットの背後。煙に体を隠したマシュの拳が、彼の顔面を打ち据える。

 黒騎士の体がぐらりと揺らぐ。

 マリーはその隙を見逃さなかった。

 

「『百合の王冠に栄光あれ(ギロチン・ブレイカー)』!!」

 

 ガラスの馬に乗り、華の乙女は疾走する。花弁を散らし、薫風とともに突進するその宝具は、王権の敵対者を打ち砕く力の象徴であった。

 王権の敵対者……裏切りの騎士と誹りを受けたランスロットには、国は違えど最大の威力を発揮する。

 漆黒の甲冑が粉砕される。胸の右半分がごっそりと抉られ、おびただしい量の血が噴き出す。

 その一撃は霊核に届いた。

 紛れもなく致命傷であり、消滅は逃れ得ないだろう。

 けれど。

 

「Arrrrrrrthurrrrr──ッ!!!」

 

 蝋燭の火が消える直前、一際まばゆく燃えるように。

 憎悪の魔力が撒き散らされる。

 空間を割るような異音を伴い、その手に一本の剣が現れる。

 それこそはアロンダイト。

 湖の乙女に授けられた、無毀の名剣。

 己が切り札を携え、ランスロットはジャンヌへと吶喊した。

 斬撃の威力、技の冴え。そのどちらもが前とは比べ物にならない。宝具を使う暇も与えず、刃を振るう。

 

「ぐ、うっ……!!」

 

 急所への攻撃はかろうじて防ぐ。しかし、見る見る間にジャンヌの体には傷が刻まれていく。

 殺す。

 問答無用で殺す。

 この女は、この女の魂は、あの王とよく似ている。

 あの剣を引き抜いた時から/神の声を聞いた時から。

 ブリテンのために/フランスのために。

 王として/聖女として。

 ──戦うことを決定付けられた。

 たとえその結末が、悲劇に塗れたものであったとしても。

 自分の働きで、民が救われればそれで良い。

 だから、あの女に惹かれるのは必然だったのだ。

 彼女は道具でしかなかった。王の妃となることで、その地位を確たるものとする道具。

 自らもまた同じ。騎士となるべく育てられ、鍛えられた。民衆のための歯車として、この身はあったはずだ。

 しかして、二人は出会う。

 恋に落ちた。

 その先に未来などない、焼け落ちるような激情。この世界にふたりさえあれば良い。そう思えるほどの愛だった。

 それが露見したとき、王はランスロットを裁こうとはしなかった。その優しさ故に。

 それだから、今もこうして罪を背負い、正気を失ってもなお憎悪に狂っている。

 せめて、願う。

 王よ/聖女よ。

 どうか私を裁いてくれ───

 

「……貴方はもう、休みなさい」

 

 ジャンヌは懐から一枚の木板を取り出す。ルーン文字が刻まれたその板は、リヨンの戦いにてノアに与えられたものだった。

 サーヴァントの傷を癒やし、強化する魔術。魔力を流すとともにそれが発動し、板は砕け散る。

 起死回生の一撃。旗の穂先がランスロットの胸を打ち、彼の体からがくりと力が抜けた。

 全身が光の粒となって空気に溶けていく。

 彼の頬には涙が伝っていた。

 

「……ギネ…………ヴィア───」

 

 ランスロットが最期に呼んだ名は、王のそれではなく、唯一愛した女のものだった。

 

 

 

 

 血の棘が飛び、滑空する竜の爪がエリザベートと清姫を狙う。

 

「瞬間回避!」

 

 立香の礼装による補助を受け、二人は攻撃を回避した。

 サーヴァントの数では立香たちに利がある。だが、エリザベートと清姫の攻撃は一度も敵のアサシンに命中していない。

 それは、アサシンが飛竜を従えているためだ。

 時に竜を盾に使い、時に自らを囮に竜をぶつける。アサシンの手練手管による攻防は、サーヴァントの人数差をものともしていなかった。

 エリザベートと清姫は、一旦立香の元に戻る。

 

「ああ、もう! うっとうしいったらありゃしないわ! あんなのが未来の私なの!?」

「あっちもエリザベートで、こっちもエリザベート……どういうこと?」

 

 立香は首を傾げた。

 敵のアサシンの真名は、エリザベート・バートリーだとロマンが言っていた。しかし、今味方として戦っている少女も同じ名前を名乗っていた。

 返答の代わりに、立香へ向けて棘が射出される。

 愚直なその射撃は、清姫の炎の前に全弾防がれる。殺すことを目的としたのではなく、衝動的な攻撃。アサシンの纏う空気は、冷ややかな憤怒をたたえていた。

 

「私はカーミラ。愚かしい過去の名前で呼ぶな──!!」

 

 ぞくり、と背骨に冷水を流されたような悪寒が走る。

 カーミラの全身から立ち昇る邪悪な魔力。目元を覆う仮面を外し、見るも艶やかな美貌を白日に晒す。

 あらゆる人間の情欲を掻き立てる妖女の美しさは、触れたものを死に追いやる毒の華。

 

「──『幻想の鉄処女(ファントム・メイデン)』」

 

 空中に浮かび上がる、カーミラの象徴(アイアンメイデン)

 錆び付いた音を立て、鉄の処女は己が内面を解き放つ。内部には乾いた血がこびりついた針が所狭しと並び、死臭を帯びた風を吹き上げる。

 その乙女は、空飛ぶ飛竜の一体を自らの体で抱き締めた。

 耳をつんざく断末魔。底から流れ出た血液が、カーミラを紅く染め上げた。彼女は酩酊したようにふらつきながら、血の滴る唇に舌を這わせる。

 

「少女の血でないのが残念だけれど──ふふ、まあいいわ。愉しみは後にとっておかなくちゃあ、ねえ?」

 

 直後、カーミラの姿が消えた。

 次の瞬間、エリザベートは咄嗟に槍を振るった。五感を超越した危機反射が、彼女の体を動かしたのだ。

 カーミラの爪とエリザベートの槍がぶつかり合う。その激突を制したのは、前者であった。

 槍を弾いたその隙。清姫は追撃からエリザベートを守るため動く。

 無造作に振り回されたカーミラの五指が切り裂いたのは、立香の皮膚だった。

 

「ゔあっ…!!」

 

 左肩から血が滲み出す。傷は骨に達するほど深くはないが、その痛みは筆舌に尽くしがたい。

 叫びたい気持ちを抑えつけ、立香は歯を食いしばった。

 カーミラは少女の血で赤く染まった指先をうっとりと眺める。

 ──美しい。この肌の煌めきだけは、他の何にも代えがたい。

 血に塗れた指先を、舌でなぞる。生前幾度となく口にした血の味は、死後も変わらず狂おしいまでに鮮烈だった。

 カーミラは高らかに哄笑を響かせる。

 

「ああ……!! 私はまたひとつ美しくなった! もっと、もっと私に血を寄越しなさい!!」

 

 彼女は血を浴びる度に強くなる。目にも留まらぬ速さで疾走し、鋭い爪を振り回す。

 まさに吸血鬼さながらの戦法を取る未来の自分の姿を見て、エリザベートは歯噛みした。

 

「──醜いわね。貴女はいつからそうなったのかしら」

「この私が、醜い? 何を言っているの貴女は? 全くもって理解できない、頭がおかしいんじゃないの?」

「んなっ!? そこまで言われる筋合いはないわよ! もう絶対に倒してやるわ!」

 

 そう言って突撃しようとしたエリザベートを、清姫は手で制止する。

 

「まともに突っ込んでも竜に止められて終わりです。立香さん、傷はどうですか?」

「…大丈夫です。それよりもエリザベートさん、私に考えが……いえ、マネージャーとしてアドバイスがあります!」

「ふっ、なかなか良い根性してるじゃない子ジカ! いいわ、アイドルとしてマネージャーの声にも耳を傾けなくっちゃあね!」

 

 ……どこまでも愚かだ。

 そう思うことに、もはや感慨はない。

 明日を信じていられる白痴の娘たち。

 かつて自分もそうだった、唾棄すべき幼年期だ。

 だが、世界はそんなものでは回らないことを知っている。

 理想や希望とは全く逆。人間の悪意を煮詰めたようなドス黒い欲望によって、この世の中は成り立っているのだ。

 貴族の暮らしは、まさにその体現であった。

 他者を蹴落とし、弱者を嘲笑い、いつ終わるとも知れぬ退廃に浸る──人の皮を被った獣の巣。

 故に、自らも獣に堕ちた。

 そうするべきだと思ったから。

 誰も止めてはくれなかったから。

 今更、それを変えることなんてできない。

 ──エリザベートは駆ける。

 その様は愚直なまでにひたむきで、その瞳は己の敵だけを捉えていた。

 上空に待機させていた飛竜に命令を下す。

 急降下からの爪撃。身を引き裂く烈風。骨を焼く火炎の息。

 清姫の援護を受けるものの、捌き切れない攻撃は、確かにエリザベートを痛めつけていく。

 捨て身の特攻。そう判断したカーミラは、小さくため息をついた。

 

(煤に塗れて、血を流して、命を捨てる──? なんて醜い。美しさとは真逆じゃない)

 

 もう見ていられない。

 両の十指がビキリと音を立てる。

 愚かな小娘に引導を渡すため、この手で以って殺すことを決めた。

 竜の包囲を抜け出し、エリザベートは槍を振り上げた。

 胸ががら空きになっている。今のカーミラならば、槍が振り下ろされるより速く心臓を貫ける。

 右手の指を束ね、エリザベートの胸へ目掛けて突き出す。

 手刀が霊核を貫く直前、カーミラは聞いた。

 

「──eihwaz(エイワズ)!!」

 

 エリザベートの服に刻まれたルーンが解き放たれる。

 その文字は、血液で書かれていた。

 ルーン文字の染料には血が使われることがある。血に魔力が宿るという信仰は世界各地に存在するが、ルーン文字においては魔術的な意味を高めるため使用されたのだろう。

 

藤丸(ふじまる)、おまえに魔術の才能はない。だが俺は天才だ。そんなおまえでも一端の魔術師にしてやることくらいはできる〟

 

 特異点Fから第一特異点までの間、立香は魔術の訓練に打ち込んでいた。

 他者から課されたのではない。

 強くなりたいと思った。

 強くならなければならないと決めた。

 あの右手だけでも護れるようにと、誓ったのだ。

 ノアから教わったルーン魔術。

 立香の想いを込めた防御のルーンは、エリザベートの身を守る防壁として展開される。

 強化されたサーヴァントの一撃を止める強度はない。しかし、致命傷には至らなかった。

 ざくり、と槍の切っ先がカーミラを袈裟に斬り下ろす。

 

「あ──」

 

 血が溢れていく。

 肌が鮮血に濡れる。

 虚ろな目で、真っ赤に染まった自分の体を見た。

 ──()()

 この身に流れる血は、こんなにも。

 彼女の脳裏をめぐる、生前の日々。

 人が生きているように見えなかった。

 胸を割き、心臓が動く様を見てもなお、何か精密な人形のようにしか思えなかった。

 誰も彼も生きていない。

 平民の少女も、貴族の婦女も、一皮剥けばただの肉塊だ。何ら違いはないというのに、人間には上下が存在する。

 どれもこれも死んでいないだけの血袋が、表面だけは豪奢に取り繕っている。

 だが、果たして、エリザベート・バートリーが胸を張って生きていたと言えるのか?

 カーミラに成り果ててすら、何かが変わったと言えるのか?

 

「私は、こうして生きてるわ」

 

 過去の自分が言う。

 こんな未来の姿を見せつけられてもなお、彼女の目は輝く明日を見据えていた。

 

「私たちの人生(ものがたり)は、もう終わっているのよ?」

 

 所詮、サーヴァントはそんなもの。

 浮世に現れた一睡の夢だ。

 それでも、少女は言う。

 薄暮の空に浮かぶ、月を眺めながら。

 

「──()()()()()()()()()()()

 

 彼女は笑った。

 煤に塗れた黒い顔で、髪の毛をぼさぼさと乱れさせながら。

 美しいとは言えないはずのその笑顔は、何よりも輝いて見える。

 ……ああ、そうか。

 

(あなた)は、生きていられたのね」

 

 最期に、彼女は微笑を形どる。

 その笑みは、誰も見たことのない、エリザベート・バートリーの素顔だった。

 

 

 

 

 

 空はすっかり暗くなり、月が青白い顔を出していた。

 ランスロットとカーミラ。彼らは間違いなく強敵であり、勝ったとはいえ皆の疲労は重かった。

 戦後の処理に追われる中、立香とマシュの声が遠慮がちに響く。

 

「先輩、触りますよ」

「ちょ、ちょっと待って。心の準備が……」

 

 立香は上着を脱ぎ、肩を晒していた。マシュは彼女の背後から手を回す。

 カルデアの管制室で、彼女たちの会話を盗み聞くムニエルは、ひとり心臓を高鳴らせる。

 

(『いいのか……!? そんなR-18な展開をしても! 俺は一向に構わないが、コンプライアンスとかPTAとかBPOとか大丈夫なのか!? 青少年保護育成条例に引っかかっちゃうよぉ!!』)

 

 とは思いつつも、ムニエルは手元のボイスレコーダーをONにした。

 人理焼却以前は確実に罪に問われる悪行であるが、カルデアに法は存在しない。そもそもノアやダ・ヴィンチがいるのだ、罪がひとつ増えたところでノーカウントだろう。

 

「いえ、問答無用です。消毒液かけますね」

「ギャーッ! しみるしみる! もっと優しくしてぇ!!」

「『ちくしょう! そんなことだろうと思ったよ!!』」

 

 ムニエルは机に頭を打ち付けた。

 立香とマシュは傷の手当をしているだけだった。カーミラによって刻まれた切り傷を消毒し、ガーゼを当てて包帯で縛る。

 

「後はリーダーが合流したら治してもらいましょう。憎たらしい人ですが、魔術の腕前は超一流なので」

「し、心配だなあ。こっちの方が良いとか言ってサイコガン取り付けられたりしないよね?」

「それはそれでアリなのでは?」

「コブラみたいなダンディな振る舞いをできる気がしない……」

 

 そんなやり取りをする二人の前に、コブラならぬヘビ女の清姫がお盆を抱えてやってくる。

 盆の上にはカルデアから送られた食料が載っている。どうやら、彼女はそれを届けに来てくれたらしい。

 食料を受け取ると、清姫はにこにこと笑っていた。

 

「トカゲ女を守った魔術、中々冴えていましたわよ。立香さんにはAPを10ポイント進呈しましょう」

「えーぴー? スタミナですか?」

「安珍様ポイントです。100ポイント集めると安珍様になれます」

「私いま十分の一安珍さんなんですか!?」

 

 街の入り口から、ぞろぞろと避難民たちがやってくる。その中にはジークフリートやモーツァルトの姿があった。

 ノアたちが発見した、聖人ゲオルギウスが守る砦。そこから移動してきた人々だ。が、ノアとペレアスはその中には見当たらない。

 立香はカルデアに通信を繋ぐ。

 

「ダ・ヴィンチさん、リーダーとペレアスさんはどこにいるんですか?」

「『彼らは少し用事があってね、今はボルドーの街にいる。……が、まあロマンの様子だと日が変わる前には戻ってきそうだよ』」

 

 立香とマシュは顔を見合わせた。

 ボルドーといえば、ワインの生産地としてかなりの知名度を誇っている。ノアはレフ秘蔵のワインを全て飲み明かしたほどの男だ。

 ということはつまり、

 

「これは遊びに行ってますね」

「私だってベルサイユ宮殿とか行ってみたいのに!」

「『うーん、彼らへの信頼はやっぱりこんなものか。それとベルサイユ宮殿はまだこの時代にはないよ』」

「『残念でもないし当然』」

 

 そうして、夜は更けていく。

 ボルドーの街がある南西の方向。

 その夜空の底は、輝く白い光に照らされていた。

 




次回の更新は少し遅れてしまうかもしれません。申し訳ないです。


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第11話 ルソーの血塗られた手

 ノアたち一行がゲオルギウスとともにヴラド三世の襲撃を防いだあと。

 砦内の避難民たちとジークフリート、モーツァルト、ゲオルギウスは砦を出立し、ジルが守る街へ移動させた。戦力を集中させ、聖人二人の洗礼詠唱によって、ジークフリートとマルタの解呪を行う狙いである。

 ノアとペレアスはと言うと、さらに西にあるボルドーの街へ向かっていた。

 ボルドーから逃れてきた人々は、フランス革命には付き合っていられないと述べていた。この百年戦争の時代には、フランス革命が推し進めた市民社会という概念すらないだろう。

 明らかな歪み。もし竜の魔女を打倒したとしても、この時代にフランス革命が起これば人類史には多大な影響を及ぼす。

 そんなわけで、ノアとペレアスはボルドーの街に潜入したのだが。

 

「おいペレアス。このワイン持って帰ったら585年モノってことになるんじゃねえか。売ったら億越えるぞ」

「マジか、山ほど買ってくる」

「『……キミたち、この時代のお金持ってたっけ?』」

「ああ、それならジークフリートのやつに……」

 

 そう言いながら、ペレアスはごそごそと懐をまさぐる。彼は小さな袋を取り出し、中を開いてみせた。

 袋の中にはまばゆいばかりの黄金が詰め込まれている。換金すればかなりの値打ちになるだろう。

 しかし黄金を見た瞬間、ノアはそれを掴み取り、彼方に放り投げる。薄暗がりの空に、黄金は星となって消えた。

 しばし唖然としたペレアスは、頭を抱えて叫ぶ。

 

「ああああああ!! 何やってんだ馬鹿野郎ォォォ!!!」

「それは俺のセリフだ! ジークフリートの黄金つったらラインの黄金じゃねえか! バリバリの呪物だろうが! というか何であんなもん渡してんだ!?」

「『あ、危なかった…ラインの黄金の呪いが振り撒かれるところだった……』」

 

 ラインの黄金。ニーベルングの指環に登場する黄金であり、ジークフリートが邪竜ファヴニールを倒した際に手に入れた財宝とも言われている。

 どちらにしろ多くの人間がラインの黄金を巡って争い、不幸を撒き散らした呪いの財宝。質の悪さで言えば両面宿儺の指にも引けを取らない。それを高々ワインのために使うなどという愚行が繰り広げられるところだった。

 愚にもつかない言い合いをしていたものの、特に周囲から冷たい視線を向けられるといったことはない。

 ボルドーでは無数の松明が灯され、人々は豪華に飾り立てていた。その様子はまるで何かの祭りのようだ。

 街中で騒ぎが起きているおかげで、今更ノアたちを気にする者もない。竜の魔女の脅威に晒されているフランスで、その光景は異常だった。

 いくら計画性のないノアとペレアスとはいえ、何の考えもなしにボルドーに来たわけではない。

 マルタがこの街の近辺で謎の光を浴び、はぐれサーヴァントの状態に戻された時、共に行動していたという二体の英霊。シャルル・アンリ・サンソンとシュヴァリエ・デオン──彼らの捜索を目下の課題としていた。

 

「『マルタさんとコミュニケーションが取れたということは、彼らも同じ光を受けているはずだ。生きていればボクたちの味方になってくれるかもしれない』」

「オレにはよく分からねえが、カルデアには便利な機械があるんだろ? ちょちょいと割り出せたりしねえのか」

「『ここ一帯にノイズが掛かっていて、レーダーがよく効かないんだ。何かの力場がその街を覆っているような感じで……』」

「「…………」」

「『あっ! こいつ役に立たねえなとか思っただろうキミたち!? ボクには分かるぞ!!』」

 

 結局は徒歩で捜索することになった。ルーンには捜し物を見つけ出す効果の文字もあるが、人の往来が激しい街中で使うにはいささか適さない。

 人の流れに沿って歩いていると、ある広場に辿り着く。そこは、他にも増して異様な光景が広がっていた。

 中央には木材や瓦礫、ステンドグラスの破片混じりの山が築かれていた。中には十字架なども見受けられ、教会を取り壊したのだと察せられる。

 その山を囲うように四つの胸像が建てられており、ギリシャ神話の大英雄ヘラクレスの像を頂く円柱が設置されていた。

 そこだけは松明の明かりが乏しく、人の喧騒も届いてこない。僅かばかりの月光が浅く辺りを照らすのみであった。

 ペレアスは眉を眉間に寄せて、率直な感想を口に出す。

 

「……なんだこれ。時代錯誤にも程があるだろ」

 

 この時代より昔を生きたペレアスにすら、そう思わせる景色。

 円卓の時代ですらキリスト教を崇拝し、聖杯探索を行っていたのだ。多神教の英雄であるヘラクレス像を拝んだことなど、それこそ皆無だ。

 ましてや、教会を破壊するという行為の重さを知らぬはずがない。

 ノアはつまらなそうに視線を切り、ペレアスに問いかける。

 

「ヨーロッパで森の開墾が進んだ理由を知ってるか?」

「そんなの、住む場所が増えるからだろ? 畑に使える土地も広くなるしな。それに木材は色々と便利だ。……他に何かあんのか?」

 

 ノアは頷く。

 キリスト教が広まる以前、ヨーロッパでは自然信仰が盛んに行われていた。

 例えばケルトの神官であるドルイド。彼らは神域たる森を崇め、共存していた。当時の人間にとって森とは、神霊や妖怪の類が闊歩する恐ろしき異界だったのである。

 その常識を打ち砕いたのがキリスト教。偉大なる唯一神の登場によって、異教の神々は全て悪魔とされ、支配する対象となる。それは当然、ドルイドたちの神が住まう森という場所も例外ではなかった。

 つまり、キリスト教は人間たちに自然を支配する大義名分を与えたのだ。

 故にヨーロッパから森は消えた。かつての神域に人々は建物を築き、自然の版図を塗り替えたのである。

 ノアからそれを聞いたペレアスは、苦い顔をする。

 

「……オレ、一応キリスト教徒なんだが。そういうこと言われると複雑な気分になるだろうが!?」

「別に悪いこととは言ってない。実際、人間は森を恐れる必要がなくなったんだからな」

「『そうだね。それにドルイドの樹木信仰はクリスマスツリーや十字架なんかに名残を残しているとも言われている。文化を完全に消し去るなんて出来やしないさ』」

「で、何が言いたいんだよ」

 

 ペレアスが結論を求めると、ノアは気取ったように言う。

 

「これはキリスト教の否定をしてるってことだ! つまり黒幕は反キリスト教の英霊に間違いない!」

 

 ペレアスはしばし沈黙すると、わなわなと肩を震わせて声を張り上げた。

 

「んなもん一目で分かるわ! 教会がボロッボロになってんだからな! 無駄に知識披露してマウント取りやがったな!?」

「ハッ、俺の叡智に恐れおののけ! せめて物を言うならセイバーに相応しい技を身に着けてから言いやがれ! おまえの宝具は地味なんだよ!!」

「うるせえ! お前こそ天才だとか言っておきながら使ってるのルーン魔術ばっかじゃねえか! 味のしないガムじゃねえか!」

「はあ!? ガムは味しなくなっても膨らませて遊べんだよ! ガムのポテンシャル舐めんな!」

「『そこは本題ではないのでは……?』」

 

 取っ組み合う二人を眺めるロマン。ここで介入すれば、傷を負うのは自分であると理解したが故の選択だ。

 ノアとペレアスがゴロゴロと地面を転がりながら、マウントポジションを奪い合っていると、ある一団が人混みを掻き分けてやってくる。

 白い装束を纏った女性たちの列。その先頭には痩身の男が松明を持ち、列を先導していた。

 彼はひとり人混みから進み出て、残骸の山に登る。その右手には松明の火が燦然と輝いていた。光の中に浮かび上がる男の顔貌は見るも美しく、余裕を持った微笑をたたえている。

 一目見て理解する。あの男はサーヴァントだ。その一挙一動には心をざわつかせるような魅力があった。強靭な精神力の持ち主でなければ、男から視線を切ることすら難しいだろう。

 彼は粛々と口を開く。

 

「我らがフランスは竜によって、いくつもの街が滅ぼされた。その旗頭には、蘇ったジャンヌ・ダルクがいたそうだ」

 

 決して荒々しくはない、静かな口調。

 目は口ほどに物を言う。揺らめく火の光を受ける彼の瞳には、果てしない憤怒が宿っていた。

 

「人々は十字架と神に祈ったことだろう。だが、彼らは一人残さず焼き尽くされた……それはなぜか」

 

 足元の十字架を踏み砕き、彼は叫んだ。

 

「端的に言おう、()()()()()()()()()()()()()からだ!!」

 

 かつて神の子は、あらゆる奇跡を引き起こした。

 水上を歩き、死者を蘇らせ、石をパンに、水をぶどう酒に変える。まさに夢のような現象だ。

 

「ジャンヌ・ダルクは神の声を聞き、マルタは竜を鎮め、ペテロは空飛ぶ魔術師を撃ち落とした。結構なことだ。神がその奇跡を少しでも人々に分け与えていたなら、竜の魔女なぞに殺される羽目にはならなかったというのに!」

 

 けれど、神の奇跡を行使できる人間はほんの一握り。敬虔な信徒であっても、それに触れること叶わずに死んでいく。

 信じる者は救われる。確かにそれはそうだろう。だが、信じる者全てが救われる訳ではない。神は不平等に奇跡を与えているのだから。

 本当に神に救う気があるなら、その奇跡は全人類に降り注いで然るべきなのだ。

 それをしないというなら、神は救う人間を選んでいる証左であり。

 それができないというなら、神は全知全能を気取っているだけの偶像に過ぎない。

 

「いつかこの街にも竜の魔女は来る。神に見捨てられた我らは、抵抗する間もなく焼かれるだろう」

 

 しかし、と彼は続けた。

 

「我々は人間だ。人間は自らの理性によって、幸福に向かって進歩することができる。理性と言う名の女神は──平等に、公平に、分け隔てなく人類を救うのだ!!」

 

 その瞬間だった。

 男の頭上から二つの影が飛び出し、白刃を閃かせた。首と心臓。サーヴァントであっても変わらない弱点を狙う斬撃。

 彼は読んでいたかのように身を翻し、刃をすり抜ける。

 振り向きざま、左手に現れた剣が空を掻く。襲撃者は距離を取り、それを躱した。

 男の持つ松明に照らされ、彼らの姿が露わになる。

 一方は白髪の処刑人。彼はまるで仇を見るような視線で男を貫き、今にも噛みつきそうなほどに怒りを漲らせていた。

 もう一方は羽帽子を被った男装の麗人。幅広のサーベルを携え、殺意にも似た使命感を込めて、男を見据えている。

 処刑人は語気を荒げて言う。

 

「貴様は、まだこんなことをしているのか──ロベスピエール!!!」

「サンソン、お前に言われる筋合いはない。無能な王家を盲信し続けたお前にはな。私は覚えているぞ、数え切れないほどの人間をギロチンで殺した日々を!」

 

 三人の間で剣戟が踊る。

 それを遠巻きから眺めていたノアは言った。

 

「おい、俺たちの知らないところで話が進んでるぞ! 主役の座が奪われない内に、どっちでも良いから斬りかかれ!」

「オレ的に二対一は好ましくねえな。ロベスピエールとか言われてた奴に加勢してくるか」

「『ちょっと待った! ロベスピエールといえば恐怖政治を行い、何人もギロチンにかけた独裁者だ! それにサンソンと言ったら目当てのサーヴァントだぞ!』」

 

 それを聞いて、ペレアスは納得したように頷く。

 

「つまり悪人ってことか。ぶった斬る!!」

 

 ペレアスは走り出す。綿密な斬撃の隙間を縫い、彼はロベスピエール目掛けて剣を振るう。

 突如乱入した一撃にロベスピエールは反応しきれず、胸を浅く切り込まれた。

 ペレアスはサンソンたちに振り返って、笑顔で語りかける。

 

「オレは円卓の騎士にして竜殺しのペレアス! 平和を好み愛に生きる高潔な騎士だ! よろしくな!」

「おまえ『戦場で肩書きほど役に立たないものはない』とか言ってただろ。前言撤回か?」

「はいそこ黙れ! 騎士の名乗りはハッタリと見栄で出来てんだよ! こんな時くらいカッコつけさせろ!!」

「……キミたちはここにコントしに来たのかい?」

 

 男装の麗人は肩を落として呆れる。ロマンは苦笑しながら、

 

「『シュヴァリエ・デオンさんとお見受けします。我々は人理継続保障機関フィニス・カルデア。貴女の──』」

「まどろっこしいことは良い。アイツを倒すために俺たちと手を組め。言っておくが俺は役に立つぞ? ペレアスは知らないが」

「おい」

「なるほど、私もそれくらい単純な方が好みだ。背中を任せる理由にはね」

 

 民衆はこの事態を傍観しているだけだった。事を理解していないのか、超常の武技に恐れをなしたのか、不思議なまでに平静を保っている。

 そして、それはロベスピエールも同じだった。サーヴァントの数では三対一。共に切り札である宝具を残したこの状況で、彼はなおも微笑を崩さない。

 故に、ペレアスは一抹の疑問を覚えた。ロベスピエールの剣の腕は並。直接戦闘なら負けることはあり得ないだろう。

 それを理解しておきながら、彼は余裕であり続けた。

 

「カルデア、か。決して勝てぬ戦いに身を投げる愚か者共よ。せめて最期に神の威光を目に焼き付けて死んでいけ」

 

 ロベスピエールの手中にある松明は輝きを増していく。超自然的なその現象は、清らかな神秘を秘めている。

 瓦礫の山の頂上に立つ彼は、民衆へ向けて言った。

 

「これは、人間の理性の闘争である! 我が同士よ、理性の女神に清き信仰心を捧げるが良い!!」

 

 その一言を皮切りに、民衆は跪き手を組んで祈りを捧げる。人民を一手に掌握する、恐ろしいまでの統率力。彼らが今まで沈黙を守ってきたのは、他ならぬロベスピエールの指示を待っていたからだ。

 場の空気が塗り変わる。その魔力は清浄にして清純。白き光の粒子が辺りをまばゆく漂う。

 ロベスピエールは松明を宙に放った。

 

 

 

「人は理想(ホシ)を抱き、果てなき(ミライ)へ──『最高存在の祭典:(ラ・フェット・ドゥ)理性の女神(・レトール・シュプリーム)』!!」

 

 

 

 夜を切り裂く、巨大な光の柱。

 視界が漂白され、世界が塗り変えられる。

 光の柱は次第に人のカタチを成し、ロベスピエールの背後に屹立する。

 白いドレスと花の冠。

 石像のように無機質な肌。

 それこそは人類の叡智であり理想。

 宝具とは、人間の幻想を骨子とした武装だ。その点だけで言うなら、この女神はトップクラスの存在だろう。

 光輝を纏う幻想の姫。その光は包み込むように暖かく、留まることない慈愛を流出させる。

 人が人の手により創り出した神。

 圧政を打破し、世に平等をもたらす最高存在。

 

「理性の女神──! この光を浴びた者はあらゆる戒めから解放され、己が理性に依って立つことを赦される! これが人の道であり人の希望……! 王政では成し得なかった理想だ!!」

 

 ロベスピエールの哄笑が空に響く。

 夜の底を照らす理性の女神。カルデアにてそれを解析したロマンは、思わず目を疑った。

 

「『この数値は……極小規模だが神霊の反応だ! ノアくん、ペレアスさんがあの光を浴びると契約が断たれるぞ!』」

「その通り。言っておくが再契約も不可能だ。理性の女神は人間に自由を保障する。個人の自由を縛る契約など許すはずがない!」

 

 女神は動き出す。

 全身から光を放ち、地上のノアたちへ迫る。

 彼らは全力で光の届かない場所へ走り抜けた。

 

「くそっ、逃げるぞ! おいペレアス、アレどうにかできるか!?」

「無理に決まってんだろ! いくらオレが円卓の騎士で竜殺しだからって、光より速く動ける訳がねえ!」

 

 今や理性の女神は夜に浮かぶ極小の太陽だ。それに近付けば、問答無用で光を受けてしまう。

 晴天の平原で太陽の光を浴びずにいることはできない。ペレアスにとって理性の女神は、絶対に手出しのできない存在だった。

 だが、サンソンとデオンは違う。彼らは既に女神の威光をその身に受けた者であり、契約の問題を考える必要はない。

 人類史に名を残した二人の英霊が取る選択肢は、決まっていた。

 

「ここは僕とデオンが足止めする。貴方たちは早く安全なところへ」

「うん、そうするしかないだろうね。短い付き合いだったけど、ロベスピエールを倒すのはキミたちに任せるよ」

 

 そう言って、踵を返そうとした時、

 

「ペレアス」

「おう」

 

 ペレアスの両手がそれぞれ二人の首根っこを掴んだ。

 

「「ぐえええっ!?」」

「俺は最初に言ったはずだ。アイツを倒すために手を組むってな! だったら俺の命令だけを犬のようにしっかりと聞いておけ!」

 

 それは手を組むとは言わないのではないだろうか。サンソンとデオンは吐き出しかけた言葉を喉元で留めた。

 このまま逃げていても、ロベスピエールを倒さないことには何も変わらない。むしろ、女神が人間の信仰心を糧にするというなら、時間が経つ度に強化されていくだろう。

 サンソンとデオンが特攻して、どうにか痛打を与えられようかという敵。この場での最善策は、二人を犠牲に女神を弱体化させることだ。

 ペレアスに引き摺られながら、彼らはそう主張した。ノアはそれを聞いて、口角を吊り上げた。

 

「最善策はそうだろうな。だが、それは最善であって最高じゃねえ。この場合の最高ってのは誰も失わずにアイツを倒せて、おまえらの因縁も解消できるって結末だろ?」

「だから、そのために今は逃げると言うのかい?」

「そうだ、俺には勝算がある。あの女神に追い付かれればおじゃんだがな!!」

 

 

 

 

 

「…………ということがあったな」

「回想長っ!? 無事で良かったですけど!」

 

 オルレアンにほど近い北の街。立香たちがランスロットとカーミラを撃破した場所で、一行は一堂に会していた。

 とある館の一室。数々の英雄が一箇所に集まる壮麗な場面。ジークフリートとマルタは洗礼詠唱によって解呪を施され、万全の状態に戻っている。

 立香(りつか)はきょろきょろと辺りを見回す。

 

「でも、サンソンさんとデオンさんがいませんね」

「ロベスピエールの動向を見張らせてるからな。ところで藤丸(ふじまる)、おまえ肩怪我してるだろ」

「よ、よく分かりましたね。マシュに聞いたんですか?」

「肩が上がってないし左手も使ってない。超天才の眼力は全てを見通すからな」

「何ですかそのセクハラの化身みたいな能力は」

 

 立香はじりじりとノアから遠ざかる。が、傷を治さない訳にもいかない。立香はため息をつくと、

 

「じゃあ脱ぎますね」

「……、おまえも大概デリカシーがねえな!? 露出狂か!」

「いえ、冗談ですよ!? ちゃっちゃと治してください! それに夜のカルデアを半裸で練り歩いてた人に言われたくないです!」

 

 ノアは立香の左肩に右手の人差し指を当てる。服の上を複雑になぞるように指が動くと、肩に滞っていた痛みはさっぱりと消えた。

 試しに肩を動かしても、何ら違和感はない。マルタの時もそうだったが、ノアの治癒魔術は相当な腕前のようだ。

 

「全然痛くないです、ありがとうございます! でも何かイタズラとかしてないですよね?」

「ポッキーの持つ部分とチョコの部分が逆転する呪いをかけた」

「あ、私コアラのマーチ派なんで大丈夫です」

「あの〜、そろそろ話を始めても良いでしょうか……」

 

 バツが悪そうにジャンヌは言った。立香とノアはたしなめられた子供みたいに黙り込む。

 窓の外の景色は深夜であるにも関わらず、人で埋め尽くされていた。西の砦からの避難民ではなく、鎧を着込んだ兵士が主であった。

 ジルは彼らを指して、話を切り出す。

 

「フランス軍の生き残りが、ジャンヌの噂を聞いて駆け付けて来ています。流石は聖女の力! 聖書に刻むページがまた増えてしまいましたね!!」

「ジル? 怒りますよ?」

「……ですが、状況は良くもありません。オルレアンでは飛竜と海魔が続々と召喚されています。前者は聖杯、後者は『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』によるものでしょう」

 

 『螺湮城教本』。海底神殿に潜む旧支配者に関わる狂気の魔術書だ。ジルが有する宝具のひとつであり、暗黒面の象徴。

 つまりそれは、敵にはジルがいるということ。誰もそのことを口には出せなかった。

 静寂を打ち破ったのはペレアス。

 

「竜の魔女にはまだファヴニールってのがいるんだろ? 誰が相手取るか決めねえとな。まあ当然──」

 

 そこで、四つの声が重なった。

 

「──オレに決まってるけどな」

「ファヴニールの相手ならば俺が妥当だろう」

「カッパドキアで竜退治の経験がある私でしょうね」

「タラスクを殴……鎮めた私よね?」

 

 ペレアス、ジークフリート、ゲオルギウス、マルタはそれぞれ顔を見合わせる。

 

「竜殺しの新人であるオレに譲れよ」

「ファヴニールは新人の手に負える相手ではない」

「ペレアスさんは会社で言ったらまだバイトです。語り継がれてからが竜殺しの本番でしょう」

「腕相撲で決めますか? 私負ける気しないので」

「はい、ではこの四人でファヴニールに当たることにしましょう! 一件落着ですね!」

 

 ジャンヌが無理やり場を収め、四人はしぶしぶと引き下がった。

 竜の魔女との決戦において、最も警戒すべきは後背に位置するロベスピエールだ。ジャンヌたちが交戦した隙を突いて攻められれば、大損害を被ることは間違いない。

 もちろんロベスピエールを狙えば竜の魔女に背を討たれる。かといって、戦力を分割しては竜の魔女の手数に押し切られる可能性が高まる。

 だが、ノアは新たな選択肢を提示した。

 

「ロベスピエール対策は俺だけで十分だ。あとは現地のサンソンとデオンに頼る」

「Dr.ロマンの観測によると、極小ながらも神霊が顕現したとありました。リーダーひとりでは流石に荷が勝ちすぎると思いますが」

「キリエライト、これは適材適所だ。俺にしかできない仕事だから、俺がやるだけだ」

 

 立香は冬木の特異点を思い出した。

 所長がカルデアスに吸い込まれていくあの瞬間、自分の過信が彼に命を奪わせた。そのことがじわりと思考を蝕む。

 今回も、あの時のように背負いきれない物を背負わせてしまうかもしれない。

 周りのサーヴァントたちも、ノアに賛成する者は少なかった。

 視界の端。ペレアスは目配せをした。それに気がついた立香は、くすりと笑う。

 

「リーダー。それは、嘘じゃありませんよね?」

 

 いつになく真剣な語調。ノアは、立香の言葉を首肯した。

 

「それなら心配ないですね! もしダメだった時はみんなで笑ってやりましょう!」

 

 立香の提案に、場は沸き立った。特にモーツァルトやマシュは牛の刻参りの如き怨念をノアに向けている。

 その騒がしさに紛れるように、ノアは立香に言う。

 

「藤丸、こうなったら竜の魔女を倒すのはおまえだ。だが、俺も心配はしてねえ」

「……珍しいですね、リーダーがそんなこと言うなんて」

「俺は当たり前のこととして言ってるだけだ。おまえならやれると俺は信じてる」

 

 碧い眼差しを受け止めて、立香は力強く頷いた。

 

「私も、リーダーのこと信じます。絶対に勝ちましょう」

 

 決戦は間近。

 夜の空、荒廃したオルレアンにひとり立つ竜の魔女は、誰に聞こえるとも知れぬ言葉を呟いた。

 

「──我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」



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第12話 竜殺しの英雄譚

 曙光が大地を赤く染める。

 まだ青白い空を無数の飛竜が飛び交い、海魔が青紫色の触手で地を穢す。

 見るも恐ろしき超常の軍勢。

 その中心には、漆黒の邪竜。

 何人もの勇者をその胃袋に収めた竜種の最強格。

 その爪は山を削り取り、その息は万物を融解させる。その有り様はまさに御伽噺の怪物そのものだった。

 竜の魔女は理解する。

 これらは全て、己の憎悪の一端でしかないと。

 いくら竜を揃えても飽き足らぬ。

 旧支配者の眷属に手を染めてもまだ。

 この憎悪は、この憤怒は、世界を千度焼いてもなお、解消されることはない。

 故に、これは神への叛逆だ。

 貴様が何度奇跡の手先を送り込もうと、我が憎悪で打ち砕いてみせる。

 神は地上の生命を洪水で押し流した。

 勝手に生物を罪深いと見限り、己で創り出したにも関わらず一掃しようとしたのだ。

 なんたる傲慢。傲岸不遜なその態度は、神にあるまじき愚行だ。

 ならば、あくまで傲慢に傲岸に、この世界を焼き尽くそう。神を僭称する愚者を殺すまで、この進撃が止まることはないだろう。

 ……その果てに、何も無いと知っていても。

 

 

 ──対するは人間の軍勢。

 鋭い爪がないから剣を持ち、堅い鱗がないから鉄の鎧で身を守る。

 特別な力など持たない。持ち得るのは敵へ立ち向かうほんの僅かな勇気のみ。

 しかしそれは、祖国を脅かす魔女を倒さんと命を捨てに来た勇者の集まりだ。

 たとえどんな英雄が現れようと、人類の世界を紡ぎ続けるのは歴史に残らぬその他大勢なのだから。

 そして、彼らを率いるのは彼女をおいて他になかった。

 朝焼けの光を柔らかく反り返す、聖女の旗印。

 救国の志と少女の祈り。背後に控える兵士たちと、この旗こそがジャンヌ・ダルクの誇りであった。

 主の嘆きを聞いたあの時から、フランスに身を捧げると誓った。

 気が狂っていると罵られても構わない。

 如何なる責め苦をも受け止めよう。

 紅蓮の炎に焼かれることとなっても、この祈りだけは手放さない。

 ジャンヌは澄んだ双眸をオルレアンに据える。

 

「……この戦いに参じた全ての戦士に、感謝と尊敬を」

 

 ──竜の魔女よ、貴女と私は決定的に違う。

 

「私は敵と戦うのが恐くて仕方がない。足が震え、肩がすくみ、何度も挫けそうになりました」

 

 だって、私は何にも恨みは持っていない。

 どんな残酷な結末も自分が望んだ結果で、つまりは自己責任だ。

 フランスを守るという使命を帯びて戦ったあの日々には、確かに幸福があったのだから。

 

「けれど、何より恐ろしかったのは、仲間の命が奪われていくことでした」

 

 この愛はどうしたら貴女に伝わるだろう。

 否、それならばやることは決まっている。

 憎悪しか持ち得ぬというのなら。

 暴力でしか心を表せないというのなら。

 何度でもそれを受け止めてみせよう。主に愛されぬ者などいないのだと、彼女に伝えなければならない。

 

「故に、私はみなの盾となりましょう。誰も失わぬように、傷つかぬように───小娘の絵空事と笑われるかもしれないけれど」

 

 それは、ひとりの少女としての言葉。

 死なないでほしい。傷つかないでほしい。きっと、貴方たちを守ってみせるから。

 そんな綺麗事を否定する者は、誰もいなかった。

 後方から、聞き覚えのある声がいくつもあがる。

 

「話が長すぎて足が痺れてきたぞハラペコ聖女ォォ! 校長先生の朝会か!」

「ジャンヌさん! 空気が読めないこの人は放っといて話を続けてください!」

「ええ、リーダーはわたしと先輩でシメておきますので安心してどうぞ!」

 

 ──ああ、この人たちは。

 

「誰がファヴニールにとどめを刺すか競争だ! 言っとくが今日のオレは百倍強いぞ! 今なら昼のガウェインを超えられる!」

「すまないがファヴニールを倒すことになるのは俺だ。生前より上手くやってみせる」

「世界を救う戦いに参加できることを喜ばしく思います。それはそれとして、とどめは私が貰いますが」

「タラスクも暴れたがっています。私も鍛え上げた拳……信仰心で邪竜を鎮めてみせましょう」

 

 ──なんて、なんて眩しいんだろう。

 

「ふふ、これだけの大勢の前でのライブは初めてだわ! 天にも昇るような女神の美声を聞かせてあげる!」

「兵士の皆さんが別の意味で天国に行ってしまうので止めてくださいね?」

「L! O! V! E! ジャ! ン! ヌゥゥゥ!! このジル・ド・レェ、全力を以って貴女に尽くします!!」

「うん、まあこんなノリもたまには悪くない! 最高の音色が奏でられそうだ!」

 

 ──私の心など、言わずとも伝わっていたのだ。

 

「さあ、誰もが貴女の号令を今か今かと待ち侘びています! 今日ばかりはわたしも騎士のように叫びましょう──フランス万歳(ヴィヴ・ラ・フランス)!!」

 

 まるで劇を演じるように、花弁を散らし舞う白百合の乙女。目立ちたがり屋な王妃様の激によって、全軍が一気に沸き立つ。

 フランスは幾度も深い悲しみを味わってきた。けれど、その度に幾人もの人々が立ち上がり、国を復活させた。

 今回もそれと同じことをするだけだ。

 全身の強張りがするりと抜ける。

 あれほど早鐘を打っていた心臓が、今はとても落ち着いている。

 ──負ける気が、しない。

 ジャンヌは力強く旗を掲げ、言い放つ。

 

「全軍、突撃!!!」

 

 大地そのものが揺れるような音を立て、全軍が打って出た。

 聖女の旗の下、鬨の声とともに迫り来る人間たち。その姿を見て、竜の魔女は脳髄を侵すような不快感に襲われる。

 運用する兵の数と質。そのどちらも上回る相手にぶつかるなど、正気の沙汰ではない。

 極めて不愉快だ。万死に値する──竜の魔女が抱いたその感情は、ファヴニールによって表現される。

 口腔に収束する灼熱の魔力。

 飛竜が放つ火の息とは比べ物にならない火力を一点に凝縮し、極大の光線として撃ち出す。

 高ランクの攻撃宝具にも匹敵する一撃。常人であれば余波で炭になるほどの熱線。無論サーヴァントと言えど、掠るだけで灰にされるに違いない。

 相対するは二人の少女。

 旗を構え、盾を地面に突き立てる。

 

「『我が神はここにありて(リュミノジテ・エテルネッル)』!!」

「『擬似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!」

 

 ジャンヌが展開した結界と、マシュが創り出した円盾が複雑な幾何学模様を織り成す。

 防御という一点において特化した二つの宝具。これを超える守りは、それこそアーサー王が所有していた聖剣の鞘くらいなものだろう。

 熱線が触れたそばから散らされ、花火の如く消えていく。

 邪竜の一撃はついぞその防護を破ることはなかった。攻撃が止むと同時、両軍はついに矛を交える。

 ジャンヌとマシュは宝具を解き、ファヴニールには目もくれずに敵の戦列を打ち砕く。

 ここから先は竜殺したちの戦いだ。ジャンヌには旗頭という役目がある。

 もはや意思の疎通に言葉はいらない。

 ここに集まったのは一騎当千の英傑。彼らへの気遣いは、ともすれば侮辱にもなりかねない。

 戦いへ飛び出そうとするペレアスに、ノアは言った。

 

「ペレアス、俺はおまえが竜殺しだとは認めてねえ。飛竜(ワイバーン)なんてのは羽根が生えただけのデカいトカゲだ」

「おまっ、この期に及んで!?」

 

 だが、とノアは前置きする。彼の左手の甲に刻まれた令呪は赤い光を発していた。

 

「アレを倒したなら話は別だ。俺だけじゃねえ、誰もがおまえを竜殺しだと認める。ガウェインやランスロットにも並ぶ華々しい武勇だ。騎士風に言えばな」

「ランスロットは良いとしてガウェインはやめろ。顔合わす度気まずい空気になってたのを思い出すんだよ」

「ハッ、だったら『()()()()()()()()()()()()()』──生前から待ち望んだ機会だろ? 絶対に逃すな」

 

 三画の令呪が解き放たれる。

 それら膨大な魔力は全てペレアスに吸収された。

 ノアはこれから戦線を離脱し、ロベスピエールを討たなければならない。これが自らのサーヴァントに贈ることのできる、最後の手向けだった。

 ペレアスの目はファヴニールだけを見つめていた。どこにも気負った様子はなく、いつものように刀身を担いで、鼻歌でも歌うかのような気軽さで歩き出す。

 すれ違いざま、彼らは言葉を交わした。

 

「立香ちゃんたちに伝える言葉はあるか」

「必要ない、アイツらは俺の部下だ。ヘマをやらかす可能性なんて考えてねえよ」

「相変わらず可愛げがねえな。……お前こそしくじるなよ。逃げ帰ってきても叩き返すからな」

「言ってろ、俺の実力を見せつけてやる」

 

 あくまで軽口を叩き合いながら。

 主従は笑って、各々の敵へ向かった。

 

 

 

 

 

 

「まずは場所を変えなきゃね──『愛知らぬ哀しき竜よ(タラスク)』!!」

 

 聖女マルタの宝具解放。

 在りし日、数々の人間を苦しめた悪竜が現世に実体を得て顕現する。

 トゲの生えた堅牢な甲羅をその身に纏う六本足の竜。神が天地創造の際に創り出した最強の生物たるリヴァイアサンの息子とされる怪物だ。

 タラスクの攻撃はシンプル故に強力無比。リヴァイアサンの息子に違わぬ巨体を活かした突進で、ファヴニールを吹き飛ばす。

 激突の衝撃波で地面がめくれ、豪風が吹き荒れる。

 竜種の戦いは、一挙一動が天変地異を引き起こす。常人には立ち入る隙すら与えぬ致死の嵐。

 一度でも打つ手を間違えれば死は免れない。そんな暴虐の隙間を掻い潜るように、英雄たちは駆けた。

 先んじるのはゲオルギウス。彼は魔女に贈られた魔法の白馬に騎乗し、アスカロンを振り抜く。

 ファヴニールの鋼鉄の鱗が裂ける。宙に血液が舞うが、それはほんのかすり傷に過ぎない。

 竜種の恐ろしさはその耐久力だ。全力の攻撃を重ね続けてようやく打倒できる防御力と、サーヴァントすらも一撃で屠る火力。

 人間と竜では戦い方が圧倒的に違う。この戦いは、生身の人間がナイフ一本で戦車を倒すようなものだ。

 タラスクという戦車があってもなお、その差は如何ともし難い。

 ──だが、それがどうした。

 ジークフリートの剣に真エーテルの光が灯る。

 

「『幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)』!!」

 

 叩きつけるように刃を振り下ろす。

 魔剣にして聖剣。歪な特性を持つ竜殺しの名剣は、莫大な魔力を剣気と変えて撃ち出した。

 蒼き光条がファヴニールを焼き穿つ。

 ぐらり、と漆黒の巨体が揺らぐ。

 蜂の一刺し、どころの話ではない。この斬撃は、遥か昔自らを葬ったモノだ。言うなればファヴニールという概念そのものを殺す一撃であり、必滅の呪いであると言えよう。

 鱗が蒸発し、赤い血潮が煙となって立ち昇る。ペレアスは露出した肉に剣を突き立て、千々に切り裂いた。

 しかし、斬り込むそばから傷が修復されていく。治癒ではなく復元と表現すべきか、ファヴニールは異常な再生を果たす。

 蒼蒼たる剣気に手酷く痛めつけられたはずの肉体は、既に元通りとなっていた。

 頬に付着した血を拭いながら、ペレアスは口を開く。

 

「ファヴニールってのは再生能力まであんのか? まあトカゲらしくはあるけどな」

「いや、あれほどの再生力は無かったはずだ。何か仕掛けを施されている」

「マルタさんのタラスクが力尽きる前に対策を講じるべきでしょう。正面から戦うのは分が悪い」

 

 このファヴニールは生前撃破したそれとは些か特性が異なっている。竜の魔女の眷属として、細工が為されていることは疑いなかった。

 だが、その力が無限であるとは考えにくい。

 相手の限界が分からない以上消耗戦を仕掛けるのは愚策だが、カラクリを解く必要がある。

 この場でその仕組みに見当をつけられていたのは、マルタだけだった。

 ──あの人を騙る、偽物の匂い。

 どれだけ隠していても誤魔化しきれない。この世で聖杯と呼んで良いのはただひとつ、かの救世主の血を受けたモノだけだ。

 魔法の釜を原典とした願望器など、彼女に言わせれば何ら特別な道具ではない。

 救世主による死者の復活。およそ現世における最上の神秘に触れたマルタだからこそ分かる。彼と実際に会ったことがあるからこそ感じる。邪竜の内に潜む聖杯との繋がり。

 びきり、とこめかみに青筋が立つ。

 マルタは相棒である竜の背に飛び移り、全速力で突撃をかける。

 タラスクは全身から火を吹き、超高速の回転で以って空を低く飛翔する。

 ファヴニールが迎撃の熱線を放つ。灼熱の光線に呑み込まれる直前、マルタはタラスクの背を蹴り空中へ跳ね上がった。

 ……何より、仮にも聖杯と渾名されるモノを使って人を殺すなど、あの人を侮辱するような行為は────

 

「───ムカつくわね。ブッ潰す」

 

 この身を一本の杭と見立て、右腕を大きく引く。

 狙いはファヴニールの脳天。

 渾身の力を込めた拳を、一直線に叩き落とす。

 殴りつけるのではなく殴り抜ける。

 衝突の瞬間、先に衝撃波が生じ、後から音が追随してくる。目が冴えるような拳撃を受け、邪竜は僅かに怯んだ。

 ペレアスは口をあんぐりと開けて、

 

「…………筋力D?」

「……ボクサーのクラスなのかもしれないな」

「……主婦ではなく拳闘士の守護聖人だった──?」

 

 熱線を耐え切ったタラスクの体当たりが、ファヴニールに突き刺さる。

 装甲のトゲは半数ほどが融解していたが、それでも威力は絶大。胸の肉を派手にえぐり飛ばし、盛大に血飛沫を散らす。

 本来なら勝負を決めるに値する重傷だが、大きく開けた胸の穴は中心から即座に修復されていく。

 そこに生じた違和感を、四人の英霊は見逃さなかった。

 胸の中心から広がる再生。なぜ、中心からなのか。

 

(──要は、心臓が魔力の炉心だからだろ!)

 

 ペレアスは強引に理解する。

 心臓を起点に聖杯の魔力と接続することで、高い再生力を可能としている。……あくまで、マルタならそう説明をつけられただろう。

 ここにノアがいたのなら、色々とうんちくを混ぜて解説することができたかもしれない。

 だが、ペレアスはひとりの騎士である。騎士の家に生まれた以上、それなりの教養はあるが魔術のこととなると流石に範囲外だ。

 それに、あの宮廷魔術師のせいで魔術へのイメージは大暴落。伴侶である湖の乙女も魔術の腕前を悪用しがちであったため、かなり近寄り難い学問だと感じていた。

 しかし、竜の心臓が魔力炉心であることは知っている。なにしろ騎士王がそうだったのだから、円卓の者には常識と言って良い。

 ファヴニールは勢い良く飛び上がる。

 閃光が輝く。ほぼ同時に無数の光線が地上のペレアスたちを襲った。

 軍勢を滅ぼして余りある火力を、たかが四人と一体に差し向けた。土が溶け、空気が焦げる。赤熱する大地を駆け抜ける足を、暴風が巻き取ろうとする。

 今までとは段違いの攻撃密度。空飛ぶファヴニールに手出しできる隙を見出だせない。

 タラスクだけは持ち前の耐久力を活かし、炎を吐いて反撃する。が、それは悠々と回避されてしまう。

 上空の戦闘機を戦車の砲撃で落とすようなものだ。当てることが無謀。ジークフリートの宝具も、避けられれば意味がない。

 攻撃はさらに苛烈さを増していく。

 天より降り注ぐ炎はまさに、ソドムとゴモラの街を焼いた硫黄の火であった。

 死の淵。絶体絶命の状況にありながらペレアスは、

 

「……ははっ!」

 

 遊びに興じる少年のように、笑っていた。

 ──そもそも、なぜ英雄は竜を殺さなくてはならないのか?

 竜=蛇殺しの物語は世界中の伝承に見られる話型のひとつである。ジークフリートを始めとして、竜殺しの話は枚挙に暇がない。それはおそらく、最古の創世叙事詩(エヌマ・エリシュ)におけるマルドゥークのティアマト殺しにまで遡ることができる。

 キリスト教世界における竜の捉え方は単純だ。かつて多神教の地母神のモチーフであった蛇は、霊的存在の証である翼を足され、討つべき敵とされた。

 しかし、根底にあるものはさらに明快だろう。

 例えば、キリスト教の影響を受けずに成立した竜殺しの伝承───記紀神話における八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は、荒れ狂う水害の化身であることが描写から読み取れる。英雄たるスサノヲは八岐大蛇を殺し、妻と神剣を手にするのだ。

 東洋における龍とは水の化身。農耕民族である古代の日本人たちは、川から田に水を引き、作物を育てていた。しかしそれは同時に、川の氾濫に悩まされるということでもある。

 そこで生まれたのが治水業。川を人間の手によって操作しようという試みである。スサノヲの()殺しは、治水を表した物語であるというのが定説だ。

 つまり、竜殺しとは人間による自然の征服行為なのである。

 人間社会を脅かす自然の暴威を竜という存在に仮託し、民衆の代表者たる英雄が現れてそれを討つ。

 キリスト教は主の御名において、異教の神々が住まう森林の開墾を進めた。自然を征服するという考えは、あらゆる地域で共通する理屈であろう。

 それが、意味することとは。

 ──ペレアスの胸中は、歓喜に満ち溢れていた。

 なぜなら、これは()()()()()()()()()だ。

 生前、ペレアスは異民族との戦いに明け暮れていた。ピクト人がその代表であるが、彼らは元々スコットランドの先住民だ。

 現代ではイギリスという国を構成するひとつの国であると聞いたその時、ペレアスの心に浮かんだのは安堵であった。

 彼らとも、手を取れる時代が来たのか、と。

 ペレアスは戦友と共に数々のピクト人を殺した。その中には思わず目を背けるような外道もいたし、尊敬の念を覚えるような戦士の誇りを持った相手もいた。

 斬り殺した彼らの死体を見て、いつも思う。

 ──きっと、この男にも愛する家族がいたのだろう。

 最初は憎しみで戦っていた。途中からそれは疑問に変わり、最後には哀憐になった。

 どうして彼らと戦わなくてはならないのか。剣で斬り合うよりも、酒を酌み交わして語り合う方が何倍もマシだ。

 けれど、彼らにも理由がある。そうさせないしがらみが、拭い切れないほどに溜まってしまっている。

 その点、竜殺しというのはどうだ。

 竜を殺しても誰も悲しまない。殺せばそれだけ人が救われて、名誉も手に入る。

 こんなに素晴らしいことはないだろう。生前は経験できなかった戦いがそこにあるのだ。

 あの人生に悔いはないが、やり残したことは山程ある。

 死に際のあの言葉が忘れられない。

 

〝……あなた様。■■■は最期まで見守っております。息を引き取ったその瞬間に首を裂いて死に(機能を停止し)ましょう。あなた様の(すべて)は私のもの。私以外の誰にも渡しはしませんわ〟

 

 王が眠りにつき、王妃様を追ってランスロットが死んだあの後、ペレアスは静かな湖畔に家を建てて湖の乙女と暮らした。

 目を閉じた直後、嗅ぎ慣れた血の匂いと、覆い被さる彼女の体の重み、柔らかい唇の感触を感じた。共に死んだそのことに、喜びを覚えなかったとは決して言えない。

 まさしくそれは、幸福な最期だった。

 自らの生の全てが、彼女の死の全てが、互いに互いのモノとできたのだから。

 だが、彼女にはもっと教えられたはずだ。

 この世にある無数の素晴らしさ。世界の美しさと生命を大切にすることを。

 …………もし、この生で、この先の特異点で、彼女と出会えたなら。

 それは果てしなく低い確率だろう。それでも0%ではない。可能性が残っているなら、ペレアスに敗北は許されていなかった。

 虎視眈々と、彼はファヴニールを睨む。

 ゲオルギウスは愛馬を疾走させ、剣を構えた。

 彼もまた竜殺しとして名を馳せた聖人。邪竜は容赦なく炎を射出する。

 それに対して、回避行動は取らない。真っ直ぐ走り抜け、ついには火炎に呑み込まれてしまう。

 ──だがしかし、ゲオルギウスは灼熱を切り開いて現れる。

 『幻影戦馬(ベイヤード)』。一度だけ攻撃を無効化する、愛馬の力によるものだった。

 

「───『力屠る祝福の剣(アスカロン)』!!」

 

 ゲオルギウスは毒竜を投槍によって倒したという伝説が残っている。

 砦で見せた斬撃とは異なる、多数の光の槍が剣より投射される。邪竜の全身に槍が突き刺さり、動きを止める。

 槍が体に食い込んでいるために、再生も不可能。マルタは杖を取り、バットのように構えた。

 迷いなくそれをタラスクに叩きつけると、アフターバーナーの如き勢いで火を放射して宙を滑空する。

 タラスクの巨体がファヴニールに直撃し、地上へ墜落させる。既にジークフリートは動き出していた。

 

「……俺はもうツッコまない。いくぞファヴニール───」

 

 剣を邪竜の巨躯に突き立てる。

 真エーテルの極光が溢れ、勢い良く剣を振り上げた。

 

「───『幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)』!!」

 

 流出する黄昏の波動。

 体内からの解放を受け、山のような巨体が大きく仰け反る。

 肉と骨。その中に炉心たる心臓が見た。

 途端に濃くなる魔力の気配。ペレアスは破顔し、砂煙をあげながら爆走した。

 

「チャンス到来!! オレの活躍を見せつけてやらァァァ!!!」

「「「ほぼ横取りでは!?」」」

 

 迫るペレアス。

 ファヴニールは前肢の爪を叩きつける。

 空間を割くような鋭いひと振り。人間からすれば壁が落ちてくるかのように感じられただろう。

 それを前にしても、ペレアスに恐怖の感情が浮かぶことはない。

 ──むしろ、そうではなくては。

 自然(りゅう)人間(えいゆう)の生存闘争。その代表者を名乗らんとする者として、敵に贈るのは敬意であった。

 ノアから受け取った令呪の力。

 自らが持ち合わせる剣の真髄。

 そして、果てしなき想いの丈。

 全てを注ぎ込んだ一刀を振り抜く──!

 

「お前は、良い敵だった!」

 

 邪竜の爪を斬り飛ばし。

 ペレアスは爽やかに笑って、剣を投擲した。

 刃は吸い込まれるように、心臓を貫く。

 魔力炉心の暴走。例えるならそれは、水が送られ続けるタンクに穴を開けるようなものだ。

 傷口から莫大な魔力が漏出する。一度脆い部分ができれば後は容易い。自ら傷を広げるように、心臓は破裂した。

 ファヴニールは咆哮を轟かせると、光の泡となって消えていく。

 からん、と黒焦げになった剣が地面に落ち、無惨に壊れてしまう。ペレアスはほとんど炭になったそれを拾い上げる。

 困ったように眉根を寄せたのは一瞬。

 

「まあいいか、剣なんて消耗品だしな」

「すまないが俺は良くないぞ。アレは納得がいかない」

「幸運EとA+の差だ。運も実力の内って言うだろ」

「なるほど、つまり運に頼らなければいけなかったのか」

「言葉で刺しに来るのはやめろ、エタードを思い出す」

 

 そう言いながら、南西の空を見上げた。

 白い光の柱が屹立している。この場所からでも確認できるほどの威容。考えるまでもなくそれは、ロベスピエールの奉ずる女神によるものであろう。

 

〝ここで背負うものができた。それを護るために俺は戦う。それだけだ〟

 

 冬木の街で聞いた言葉が蘇る。

 背負うもののために戦う──つまり、それは誰かのために命を賭すということだ。

 ……あれだけ好き勝手に振る舞っておきながらどの口が?

 マシュがあの言葉を聞いたなら、きっとそう返したに違いない。

 

「……()()()()()()()()()()()

 

 ペレアスは不意に微笑んだ。

 昔を懐かしむように。

 納得したように。

 

「お前の理想、今はオレが代わりに護ってやる」

 

 呟くと、彼は戦場へ向かった。

 ある男の、背負うものたちを護るために。



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第13話 神を撃ち落とす者

 マクシミリアン・ロベスピエール。

 フランス革命期における最重要人物のひとりであり、独裁者として知られている。

 彼は市民による共和制を急進的に推し進めるジャコバン派(山岳派)に属しており、後に政権を握ることとなった。

 1793年1月──議会を主導した彼らは、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの処刑を決定する。その後も立て続けに反対勢力の粛清を行い、いつしか恐怖政治と呼ばれることとなる。

 テロリズムの語源ともなった恐怖政治は苛烈を極め、共和制を志してきた民衆の心は次第に離れていった。

 ロベスピエールの結末は、皮肉にもギロチンによる処刑だった。彼の終わりを、そして覇権を決定付けたと言える事件。それは彼の盟友でもあるジャン・ポール・マラーの暗殺であろう。

 議会の主流となっていたジロンド派とジャコバン派の対立が深まっていたその頃。

 当時、ジャコバン派のリーダーを務めていたマラーは、面会に訪れたひとりの少女に暗殺される。

 彼女の名はシャルロット・コルデー。

 後世に暗殺の天使とも評される乙女。

 その手口に何ら特別なところはない。隠し持っていた一本のナイフで、マラーを刺殺したのである。

 ジロンド派の支持者とも言われていた彼女が、ジャコバン派のトップであるマラーを殺害する──それは、ロベスピエールにとってこれ以上ない絶好の機会だった。

 ロベスピエールはマラーを神格化し、ジロンド派への弾圧を強めた。友の死を利用することで、彼は敵勢力の追放を実現したのだ。

 加えて、マラーの暗殺を受けて独裁は強化され、粛清の嵐が吹き荒れることとなる。

 とある少女の義憤は。

 もしかしたら、きっと。

 ロベスピエールを恐怖政治へと導くものだったのかもしれない。

 

 

 

 ノアはひとり、草原を征く。

 肌を突き刺すような神霊の気配。カルデアのレーダーに頼らずとも分かる、異質な魔力。数km離れた場所からでも理解できるほどの威圧感が、纏わりついて離れない。

 デオンとサンソンは通信機を通じて、ロベスピエールの動きを知らせてくれていた。

 彼は顕現した理性の女神と一緒に、オルレアンへと移動してきている。その目的はおそらく、ジャンヌと竜の魔女の戦いに横槍を入れることだろう。

 拮抗している戦場に、強力な第三勢力が介入すれば崩壊は免れない。

 そのため、誰かがロベスピエールを止めねばならなかった。

 会敵する地点は、オルレアンまでに点在する小さな街のひとつ。竜の魔女に焼き払われた土地だ。

 彼の両肩には今や多くの責任がのしかかっている。

 ジャンヌたちの戦場を守ること。サンソンとデオンの因縁を晴らすこと。人理修復のため、敗けられない戦いであること。

 最善ではなく、最高の結末を迎えるために。

 どれが欠けてもいけない。ひとつでも成し遂げられなければ、即ち彼にとっては敗北に過ぎないのだから。

 でもそれは、ノアだけが背負うものではなかった。

 

〝自分だけで抱え込むのはやめてください。私も一緒に背負います。──せめてこの手だけでも護り切れるように、強くなりますから〟

 

 冬木の特異点。

 数え切れないものを失った戦いの後、彼女はそう言った。

 だから、これはひとりの戦いではない。例えどんなに重い荷物であっても、分け合って背負うと誓ったのだ。

 カルデアのリーダー、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドとして、ロベスピエールを討つ───他には何もいらない。

 廃墟の街が見える。

 遠くの空には天を突く光の柱。

 革命の夢と人間の自由。そして、遥か未来へと進歩していく理性の女神が、彼を待ち受けていた。

 それは紛れもなく、人々の理想。

 幻想を骨子として創り上げられた貴き神。

 ロベスピエールという男の象徴とも言うべき存在なのだろう。

 だが、だからこそ、その神は打ち砕かなくてはならない。この時代に共和制が誕生することを人類史は認めないからだ。

 街へと踏み出したその時、切っていたはずの通信が入る。

 いつもの間の抜けた顔とは違う、ロマンの真剣な表情。ノアは思わず呆れてため息をついた。

 

「……ロマン、藤丸の方はどうした?」

「『それなんだけど、はっきり言ってボクの出る幕がない! 本職は医者だからね、軍の指揮なんてできるはずもない。だからこうしてやってきたんだ!』」

「体良くサボってるだけじゃねえか! バトルの解説役やりたいだけだろ!」

「『安心してくれノアくん、この日のためにジャンプ漫画を読み込んで解説の何たるかを勉強してきたから!』」

「逆に不安だわ! ジャンプ漫画で解説を学ぼうとする視野の狭さがな!」

 

 緊張していたはずの空気が、見る見る間に弛緩していく。

 そう、ロマニ・アーキマンとはこういう男だ。何も考えていないようなフリをしておきながら、誰よりも他人を見ている。

 本人の気質故か、医者の職業病か。少なくとも信頼はできるとノアは踏んでいた。

 

「『こんなのでも今はカルデアの指揮官だからね。申し訳無いが、キミのことも色々と調べさせてもらった』」

「……シバやラプラスを使えば、分からないことはほぼ無いだろうな。それでおまえはどうするつもりだ?」

「『うん、だからボクはこう言わせてもらうよ』」

 

 彼の声は、包み込むように優しかった。

 

「『──カルデアの仲間として、キミをひとりにはしない』」

 

 ノアは面食らったように、呆けた顔をする。

 その言葉が何を意味していて。

 彼の如何なる核心を突いたのか。

 それはまだ、分からない。

 けれど、ただひとつ確実に言えることがある。

 

「ああ、それなら見てろ。──俺の全力をな」

 

 ロマンもまた、共に重荷を背負う物好きなのだ。

 

 

 

 

 ロベスピエールは逃げも隠れもしなかった。

 武器と言えるのは、左腰に佩いた剣と彼の背後に控える女神のみ。

 彼を信じる民衆を引き連れることもしない。一般人を盾にとって戦えば、サンソンやデオンは動けないと知っていながら。

 むしろそれは敗北だ。

 人間は平等だ。平等でなくてはならない。もし彼らを死なせるなら、自分も死ぬ必要がある。ロベスピエールの誇りがそうさせない。

 故に、これは当然。自らが革命の意志を表現しなければ、人々は着いてこない。この時代にも自由と平等は成るのだと、教えてやらねばならなかった。

 ひとりの魔術師と共に、二人の仇敵が姿を現す。

 処刑人と騎士。フランス王家に忠誠を誓った彼らを前にして、泰然と在り続ける。

 これこそが乗り越えるべき壁。

 我らの自由と平等なる社会の実現を阻む敵だ。

 

「……フランス革命の初期。我々の目的は決して君主制の打倒ではなかった」

 

 ロベスピエールは口を開く。

 女神の威光を後背に、愚者に言い聞かせるように語る。

 

「『国民、国王、国法』──市民と君主が手を取り合うことで、世の中を改革する。その意識の元に我々は動いていた。だが、あの男は、ルイ16世はそれを裏切った! 貴族に振り回され何もできず、挙げ句の果てにはフランスから逃げようとしたのだ!!」

 

 ルイ16世。彼はただひたすら、時代に翻弄された男だったと言えよう。

 彼は工学の知識に明るく、ギロチンの刃を斜めにするよう指示するなど、才覚に溢れた人物だった。

 さらには国民の声に耳を傾ける度量をも有し、身分格差の撤廃や農奴制の廃止を目指して政治を行った。その王の姿は、多くのフランス国民を惹き付けたことだろう。

 しかし、ある事件でルイ16世の評判は地に落ちることとなる。

 ヴァレンヌ事件。国王一家が密かにフランスから亡命しようとした事件である。この亡命の目的は他国の軍隊の力を借りて、激化する革命運動を鎮圧するというものだった。

 自国の王が他国の軍隊を引き連れて攻めてくる。それを理解したフランス国民たちの動揺は想像に難くない。

 ロベスピエールは憤怒を露わにして、何かに食い付くように言葉を吐く。

 

「故に、私は理性の女神を信仰する! 神に見捨てられ、王に逃げられたフランス国民の新たな導き手として!! 無知蒙昧なる愚物、ルイ16世とマリー・アントワネットに代わって私が自由と平等を実現してみせる!!!」

 

 ぶつり、と痛々しい音が立つ。

 サンソンは自らの唇を噛み切っていた。血が滴り、口端から流れていく。燃え滾る感情を前に、一切の痛痒はなかった。

 憎悪を込めた灼熱の視線で以って、ロベスピエールを睨みつける。

 

「その果てが──恐怖政治か」

「然り。だが、アレは無知な女の愚かしさより端を発したものだ。マラーひとり殺したところで何も変わらない。むしろ運動を激化させることは目に見えていたはずだ」

 

 ああ、とわざとらしく、独裁者は笑った。

 

「あの女を処刑したのは貴様だったな、サンソン」

 

 瞬間、甲高い金属音が響く。

 サンソンの剣が振り抜かれ、激突した刃鳴り。その斬撃を受け止めたのは、他でもないデオンだった。

 鍔迫り合いの状態から、持ち前の膂力でサンソンを吹き飛ばした。彼は力なく地面に膝をついて項垂れる。

 

「まともにぶつかって勝てる訳がないだろう。それにキミは、少し乗せられすぎだ。人を煽るのは彼の常套手段だよ」

「白百合の騎士か。生前の決着でもつけに来たか?」

 

 デオンは振り返って、サーベルの先端を突きつける。

 

「そうだよ。あの時、キミを殺していれば処刑は行われなかったかもしれない。王家に仕えた騎士として、命令は果たすつもりだ」

「ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑を行ったのは私ではない。議会の意思だ。ヴァレンヌ事件を思い出せ、善悪で語るなら奴らに否がある」

「キミの理屈ではそうなんだろう。でも、生憎私が剣を振るうのは善悪ではなく好悪の問題だよ。キミが気に入らないから殺す」

 

 そこで、デオンはふと微笑んだ。

 

「……ああ、王家の命令という建前が崩れてしまったね。私の腹芸なんてこんなものか」

 

 ぞくりと肌が粟立つような笑み。

 善悪ではなく好悪で殺す。つまりそれは、どれだけ相手が正しかろうが関係ない。どうあっても死を与えるという宣告だ。

 デオンの殺意を受け止め、ロベスピエールは愉しげに舌打ちした。

 彼の目線はノアに向く。カルデアに残された希望であるマスターは、白い目をして立っている。

 どこか呆然としているように見えるその態度は、ほんの僅かに神経を逆撫でた。

 ノアはその視線に気付くと、大きなあくびをして、

 

「で、話は決まったか?」

「この状況を理解しているのか、貴様」

「誰よりも理解してるに決まってんだろ。おまえが邪魔だからぶっ飛ばす──それ以外に何がある?」

「……呆れたぞ。頭が軽ければ言葉も軽いか。貴様らはこの革命の意志を理解しようともしない愚者だ。そんなことで我らが理性の女神を打ち倒そうとは、蒙昧の極みだな!!」

 

 一瞬、場の空気が静まり返る。その静寂を打ち破ったのは、ノアの咆哮だった。

 

「うっせえええええ!! たかが殺し合いに大層な理屈を持ち込んでくんじゃねえ! 面白くもねえやり取りをゴチャゴチャ続けやがって、尺稼ぎか!? サンソンとデオンもだ、こんな野郎に喋らせるくらいなら俺に回せ、ここ最近出番が少ないんだよ!!」

「……キミ、因縁を解消しろって言ってただろう?」

「話し合いで決着が着くなら戦争なんて起きるか! ましてや今は聖女でさえ戦った時代だろうが!」

 

 ノアはサンソンの腕を取り、無理やり立ち上がらせる。

 

「……どうせロベスピエールはおまえを理解しようとしない。一回くらい馬鹿になって暴れてみろ」

 

 サンソンは前を向き、デオンとロベスピエールの姿を視界に入れた。

 ──そうか、今だけは、大層な理由なんていらないのか。

 処刑人として多くの人間を殺してきた。誰もが罪を侵した人間であり、そこに助かる余地など一片もない。

 心を殺して処刑を執行してきた。

 王を殺し、王妃を殺し、ロベスピエールでさえも生前に殺した。

 誰も彼も同じだ。

 罪業はこの身を、この魂を蝕む毒だ。

 刃を落とすということは、毒杯をあおるということ。

 その度に体の重さが増していく。

 心の痛覚が死んでいく。

 そうして無痛症に成れたなら、きっとこうして思い悩むことはなかっただろう。

 悔恨を止める。ただそれだけのことを、サンソンは拒否し続け、命を奪う痛みに心を摩耗させていた。

 

〝きっと、フランスは良くなりますか?〟

 

 それは、歴史には残らなかった会話。

 処刑の直前、シャルロット・コルデーは朗らかな笑みで、サンソンに問うた。

 彼は一瞬躊躇して、

 

〝……ええ。マラーの死によって、暴力の連鎖は止まるでしょう〟

 

 嘘をついた。

 彼女に悟られないように、微笑で。

 華のような笑顔で、乙女は言った。

 

〝こんな私でも皆さまの役に立てたなら、幸いです───〟

 

 サンソンとシャルロットが共に過ごした時間は、処刑場に移動するまでのおよそ二時間ほどしかなかった。

 彼女はその間、一切の動揺を見せなかった。恐怖が振り切れて、心を麻痺させる罪人は何人もいたが、平時の心境を保ったままの人間は片手で足りる。

 死ぬと分かっているのに、その美しさには一点の曇りもなかった。滅びの美学、なんて擦り切れた言葉では表現できない、生に向かう活力が表情に宿っていたのだ。 

 彼女の矜持は死の瞬間まで揺らぎすらしなかった。その美しさに魅せられると同時に、絶望した。

 ──フランスは、彼女のような悲劇を生み出すようになったのか。

 確かに、彼女の行いはロベスピエールの独裁政治を招くものだった。マラーの死を悲しんだ者もいただろう。

 けれど、だとしても、彼女の行いと在り方が愚かの一言で断定されることはあってはならない。

 ──ロベスピエール、なぜ、お前は。

 あの終わりでは、納得できなかったのか。

 どれだけ議論を交わしあっても、サンソンとロベスピエールが和解することはない。王家に忠誠を誓った者と、市民に革命をもたらそうとした者。その在り方は正反対だ。

 どうあっても交わらぬ平行線だと言うのなら、力でそれを捻じ曲げるしかない。

 結局は野蛮な理屈だと、人々は嗤うことだろう。でもそれで良い。言葉で伝わらない相手を黙らせるには、拳をぶつけ合うしかないのだから。

 この戦いだけは、怒りも憎しみも抱えて良い。

 純然たる殺意で刃を振るえ──!!

 

「お前は、お前だけは、この手で殺す」

「吼えたなサンソン! 首切り人形でしかなかった貴様に何ができる……!!」

 

 理性の女神が起動する。

 人間を束縛より解き放つ啓蒙の光。

 自由と平等の権化。

 唯一神に取って代わる新たな神。

 その玉体が、燃え盛る。

 透き通るような白い炎。宙を舞う火花は雪のように降り注ぎ、そして儚く消えていく。

 それは炎の花弁。理性の女神ここに在り、と爛漫と咲き誇る美徳の照覧であった。

 穢れ無き神の真の姿。

 跪きそうになるほどの圧倒的な魅力。

 思えばそれは当然だろう。理性とは人間全てが持ち合わせるもの。その化身たる女神に頭を垂れることは、何ら可笑しい行為ではない。

 ……そう考えた自分に、吐き気を催す。

 

「それが、おまえの神か」

 

 前とは比較にならない魔力がある。

 霊基そのものも強化されているのか、小規模の神霊と認められる程度の格は有しているようだ。サーヴァント二体など優に蹴散らすことができるだろう。

 それはロベスピエールだけの力ではない。街の人間全員の信仰心を束ねた結果だ。

 宝具が人間の幻想によって構成されるモノならば、この女神はその真骨頂だ。ペレアスのように個人間で紡いだ繋がりとは違う。大衆の力に頼るからこその強さがここにある。

 

「そうだ! 弱き者たちの力で───私は勝つ!! 革命の理想(ユメ)が終わることはない!!」

 

 ロベスピエール自身は反英雄でありながら、矜持とする宝具はどんな英雄にも負けない輝きを放つ。

 この矛盾した在り方が彼の強みなのだろう。ノアは獲物を前にした獣のように、口角を上げた。

 

「その理想(ユメ)───俺が壊す」

 

 ごきり、と右の手首を鳴らす。

 力を込めた右手の五指を自らの心臓に突き立てる。

 唇から一筋の血が伝う。それでもなお笑顔が崩れることはなく、腕を薙ぐように手を引き抜いた。

 人差し指と中指の間。

 そこには、金色の鏃。素材は樹木でできており、淡い光を纏っている。

 それが現れた瞬間、周囲の魔力が塗り替わる。理性の女神から発せられる信仰の光が、ノアの周りだけは鳴りを潜めていた。

 なぜなら、宿している神秘の強度が違う。

 この女神を、この時代を、この世界を塗り潰すに足る神秘を、その鏃は秘めていた。

 魔術に精通していないサンソンやデオンでも本能で理解できる。

 あの鏃は、不可逆の死を与えるものだと。

 ノアの右腕。その表面を、緋と金の線が走る。

 

 

「───〝()()()()()()()()()〟」

 

 

 弑逆の魔言が、奏でられる。

 

 

「〝光輝なる神々の世に終わりを告げる〟」

 

 

 ……『巫女の予言』、三十一節より。

 

 

「〝さらば、バルドル。栄光の美神。無敵にして不死の者〟」

 

 

 オーディンの子、紅に染まる神バルドルに定められた運命をわたしは見た。

 

 

「〝賛辞に満ちた貴様の名を、我が罪業の矢にて奪い去ろう〟」

 

 

 野面に高く、ほっそりと、それは美しい宿り木の枝が生い茂っていた。

 

 

「〝畏れよ。滅びよ。地に落ちよ〟」

 

 

 ほっそり見えるこの木が危険きわまるわざわいの矢にかわり、ヘズがそれを射た。

 

 

「〝我が名と共に、ラグナロクは舞い降りる〟」

 

 

 フリッグは、ヴァルハラの惨事に、フェンサリルで慟哭した。

 

 

「〝無より出でて神を穿つ〟──!」

 

 

 …………そして、弑逆は果たされる。

 

 

 

 

 

 

     「『神約・終世の聖枝(ミストルティン)』」

 

 

 

 

 

 

 疾走する一条の黄金光。

 世界を引き裂き、穴を穿つ。

 神殺しの一撃は、理性の女神を貫いた。

 辺りがしん、と静まり返る。

 女神の心臓。ぽっかりと開いた穴から、向こう側の空が見えた。

 それだけでも致命傷。だが、ロベスピエールだけは理解していた。

 ヤドリギの矢が例え腕や足を貫いていたとしても、理性の女神は殺されただろう、と。

 直撃した時点で、死を免れる術は無い。

 神という存在を問答無用で殺す。これはそういった概念であり、世界に刻み付けられた規則だ。

 故に、逃れ得ない。

 女神は消滅し、炎の花弁だけが残る。

 灼熱の花吹雪の中を、処刑人と騎士は駆け抜けた。

 ノアはただひとつのルーンを、彼らに贈った。

 

teiwaz(テイワズ)──元最高神のルーンだ! 後はおまえらが決めろ!!」

「「──言われなくとも!!」」

 

 戦士へと捧ぐ勝利のルーン。

 後は三人の世界だ。口を挟む余地もなければ、手を出す無粋をするつもりもない。

 ノアは短く息を吐くと、ロマンに問いかける。

 

「ロマン、解説役はできそうか?」

「『……解説を挟む暇がなかったんだけど』」

「だろうな。俺の詠唱が完璧すぎてモナリザにアレンジを施すようなものだったからな」

「『ノアくん、アレは世間一般的には中二病って言うんだよ』」

「少年の心を忘れてないだけだ。まあ俺は世間一般に当てはまらない天才だがな!」

 

 鮮血が飛び散る。

 サンソンとデオンの連撃。ロベスピエールはそれらを捌き切れずに、傷を増やしていく。

 浅いが手数の多いデオンと、遅いが深手を与えるサンソン。彼らの剣を前に、反撃の隙すら見出すことができない。

 それでもロベスピエールは生き延びていた。必死に剣を振るい、傷を無視して体を動かす。

 もはや彼にある武器は、身を焦がすような信念と理想のみ。そのふたつが、操り人形の糸のように体を縛っていた。

 しかし、想いだけで勝てるほど勝負の世界は甘くない。一合の度に血を流し、全身を真っ赤に染める。

 

「──革命を望む人々のために、私は負ける訳にはいかない……!!!」

 

 虚ろな幽鬼のように、ロベスピエールは声にならない叫びをあげた。

 ──誰にも理解されずとも良い。

 彼の生まれは決して裕福ではなかった。平民の家に生を受け、六歳の頃に母が死に、十歳の頃に父が家を捨てた。

 長男であったロベスピエールは十歳にして家長となり、弟や妹を護らなければならなかった。彼は勉強に打ち込み、優秀な成績を残して奨学金を得る。

 進学先は数多くの偉人を輩出した、最高峰の学術機関ルイ大王学院であった。

 そこで、彼は運命的な出会いを果たす。

 ルソーの社会契約論。これまでのキリスト教的世界観と、王権神授説を否定する新しい価値観。

 ──なぜ、人間は平等ではないのか。

 男であるから偉いのか。女であるから卑しいのか。貴族ならば、金持ちならば、他人を踏みにじっても良いのか。

 ロベスピエールは、時代が生み出した怪物だった。

 この夢は、何よりも優先されなければならなかったから。

 ひとりまたひとりと腹心が去っていっても、抱いた理想は捨てられなかった。

 理想の重みは、彼を徐々に呑み込んでいく。沈んで、沈んで、光の届かない水底でも抱え込んだ理想は手放せない。

 溺死して、骨と化してもなお。

 そして、残ったモノは。

 ──神は、なぜ母を連れて行ったのか。

 彼女に何の非があった?

 婚姻の前に子を孕むことがどうして悪い?

 自分の子を必死に愛して育んだ彼女は、周囲から冷たい目を向けられて死んでいった。

 そんな最期を迎える道理がどこにあったのだ。

 神を恨んだ。

 神を憎んだ。

 平民の生き血を啜って、私腹を肥やす貴族たちが許せない。

 フランスを見捨て、あろうことか武力を振るおうとした王家が気に入らない。

 それ故に、ロベスピエールは恐怖政治に走り、粛清の嵐でもって世の中を清めようとした。

 間違いだとは、分かっていながらも。

 そう、結局、私は。

 ───人間が、嫌いだった。

 

「『百合の花咲く豪華絢爛(フルール・ド・リス)』!!」

 

 大輪の百合を描く、華麗な剣舞。

 刹那、ロベスピエールはその美麗な剣技に目を奪われる。

 ──思い出せ、フランス王家は、ルイ16世は国民を見捨てたのだ。

 彼らの悲痛を体現する者としての誇りが、魅了を弾く。

 しかして、刃は砕け散る。

 デオンの膂力から繰り出される斬撃に、ロベスピエールの剣は耐えきれなかったのだ。

 サンソンが間合いを詰める。

 剣を振るったのはほぼ同時。得物の差が、勝敗を分けた。

 

「……またしても、貴様は私の命を奪ったという訳だ」

 

 サンソンの剣がロベスピエールの心臓を刺していた。引き抜かれようとする刃を、力ない手が掴んで止める。

 

「──これでも、満足できないのか」

「人が、真に平等を手に入れるまでは」

「…………そうか」

 

 短い問答。

 彼らは、初めて目を見つめ合い。

 優しく、丁寧に、刃を引き抜いた。

 ロベスピエールの体が地面に横たわる。彼らが視線を交したのはそれきり、サンソンはノアの方を振り向く。

 

「僕はオルレアンへ向かう予定です。デオン、貴方はどうする」

「もちろん、助太刀するさ。フランスの一大事だからね」

 

 ノアは少し考えて、

 

「俺はここでやることがある。先に行ってろ──ああ、その前に」

「「?」」

「俺に感謝の言葉を述べてから行け! 小間使いが主人に媚びるようにな!!」

「「……」」

 

 サンソンとデオンは顔を見合わせて、気持ちの良い笑顔を浮かべた。

 

「「フランス万歳(ヴィヴ・ラ・フランス)!!」」

 

 そう言って、ランサーにも劣らない速さで彼らは走り去る。ノアは遠ざかっていく背中を眺め、倒れたロベスピエールに近寄る。

 傍らに腰を落ち着け、からかうように言う。

 

「……起きろよ。死んだフリはもういい」

「馬鹿め。私は今まさに死んでいる最中だ」

「言い方の問題じゃねえか」

「ふん。それで、貴様の目的は何だ?」

 

 ノアは、突きつけるように言う。

 

「おまえの裏で糸を引いてる奴は誰だ。カルデアのことも知ってる素振りだったな。レフの野郎とはグルなのか?」

「レフなんぞは知らん。私たちはあの女に選ばれただけだ。カルデアという組織のこともその時教えられた」

「随分と思わせぶりだな。ジャンプの敵キャラか? 第二第三のロベスピエールが出てくるなんて冗談は言うなよ」

「貴様は何を言っているんだ……」

 

 ロベスピエールは眉をひそめた。

 彼の体は既に消えかかっており、この世に留まっていられる時間はもう少ない。

 これ以上は情報を引き出せないだろう。ノアはそう判断し、土を払いながら立ち上がる。

 消滅の間際、ロベスピエールはか細い声で訊いた。

 

「貴様の生きる未来の社会は、私たちのものより良くなっているか」

 

 ノアは断言する。

 

「──いいや。形が変わっただけで、おまえの時代と何も変わらねえよ。人間は人間だ」

 

 ロベスピエールは、納得したように苦笑した。

 

「…………ああ、やはり──道は、遠いか」

 

 人間のことは嫌いだ。

 けれど、人間全員が嫌いな訳ではない。

 せめて、母のような人間を増やさぬように。

 そんな優しい未来を抱いて、ロベスピエールは息を引き取った。

 神と王に見捨てられた悲痛と悲哀は、その顔にはなかった。




『巫女の予言』は谷口幸男訳『エッダ─古代北欧歌謡集』より引用させていただきました。


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第14話 愛と憎しみは炎の如く

あけましておめでとうございます。ジークくんとバスに乗る夢を見ました。吉兆で良かったです。


 オルレアンを巡る戦いは、ジャンヌたちの優勢に傾きつつあった。

 元々、サーヴァントの数では圧倒的に上回っていた戦場だ。兵の質では遅れを取るが、将の質は遥かに凌駕している。

 それらを一掃し、戦局を覆す可能性があったのがファヴニール。例え英霊であっても、一撃で屠ることのできる邪竜はまさしく竜の魔女にとっての切り札だったはずだ。

 しかし、その切り札も竜殺しの伝承を持つ英雄たちに敗れた。若干名、とどめを掠め取った騎士もいたが、そこはご愛嬌だろう。

 それでも、勝負を決しきれていないのは、竜の魔女の軍勢が誇る無尽蔵の物量にある。聖杯を利用して生み出される飛竜と、狂気の魔導書より産み落とされる海魔。元を絶たない限り、この戦いがジャンヌたちの勝利になることはない。

 ジャンヌとマシュは、互いの隙を埋めるように得物を振るう。

 徐々に戦列を押し上げてきた彼女たちだが、竜の魔女へ辿り着く最後のひと押しが足りなかった。

 マリーがガラスの馬に騎乗し、突破を試みるも湧き出る敵の多さに引き返さざるを得ない。元凶に近づくほど、接敵する数は跳ね上がっていく。

 時間は味方をしない。サーヴァントの数が揃っているとはいえ、主力は常人の兵士たちだ。彼らが全滅すれば、いくら超常の武力を持つサーヴァントといえど、物量にすり潰されてしまうだろう。

 焦れたマシュは、己のマスターに提案する。

 

「先輩! わたしの宝具で防御を固めて強引に突破するというのはいかがでしょう!?」

 

 立香(りつか)は逡巡した。

 このまま戦っていても、埒が明かない。竜の魔女を倒す余力も考えて、サーヴァントの体力は温存しておきたい。

 だが、マシュは今や守りの要だ。ここで彼女を消耗させたくないというのも事実であった。

 手の甲に視線をやる。赤く刻まれた三画の令呪。これを使うという選択肢もあるが───立香は、首を横に振る。

 

「大丈夫。ここは私たちの仲間を信じよう」

 

 思い出せ。一緒に戦っているのは、人類史に華々しく名前を残す英雄たちだ。百戦錬磨の彼らが、この状況を理解していないはずがない。

 通常の戦ならば、彼女の理屈は通用しないだろう。が、ことこの戦いにおいては、分の悪い賭けではなかった。

 邪竜は倒された。相手をしていた四人のサーヴァントが援軍に来ても良い頃合いだ。

 それに応えるかのように、上空から墜落する人影。なぜか両手に一本ずつ剣を持ったペレアスが、手頃な海魔を切り裂いていく。

 立香とマシュは声を合わせて、

 

「「ペレアスさん!?」」

「よお、二人とも! 良い知らせとめちゃくちゃ良い知らせ、どっちから聞きたい?」

「選り取りみどりじゃないですか。それなら、良い知らせからで」

 

 その会話の合間にも、ペレアスは剣を振るっていた。得物が折れれば近くの武器を拾い、それを使って攻撃し続ける。

 セイバーのクラスにも関わらず、槍や斧も利用する節操なしだった。

 

「良い知らせは、ノアのやつがロベスピエールを倒したことだ。これで心置きなく竜の魔女をやれるぞ!」

「よかった、リーダーの方は成功したんですね! じゃあ、めちゃくちゃ良い知らせっていうのは?」

 

 立香の問いに、ペレアスはできる限りのキメ顔で返す。

 

「オレがファヴニールにとどめを──」

「先輩、これ以上は聞く価値がなさそうです」

「うん、時間もないからね」

「ごめんなさい冗談です!」

 

 軽口を叩きつつも、彼が来たことで周囲の戦況は大分好転していた。

 敵の攻撃の隙間を掻い潜り、編成の弱い部分を突く。ペレアスはその一連の動作が誰よりも速く、洗練されている。度重なる戦争の経験が、彼の体を反射よりも先に突き動かしているのだ。

 ペレアスの戦いは少数対多数で始まることが多かった。その中で培われた勘が、彼の強みだった。

 一見無造作に繰り出した後方への回し蹴りが、海魔を無残に破裂させる。

 立香たちに背を向けて、彼は言った。

 

「ここはオレに任せて先に行け、ってやつだ。竜の魔女は頼んだ!」

 

 確かに、ペレアスならば敵を引き付けたまま生き残ることは可能だ。むしろ、彼の得手とも言えるだろう。

 そうして、敵の手薄な場所ができればそこを貫いて、竜の魔女の元へ辿り着ける。

 立香は力強く頷き、ジャンヌとマリーに叫んだ。

 

「──分かりました。ジャンヌさん、マリーさん、行きましょう!」

「はい! ペレアスさん、ご武運を!」

「ええ、わたし、貴方のことは絶対に忘れませんわ!」

 

 少女たちは飛竜と海魔の包囲網を抜け、オルレアンの街へと走っていった。

 騎士として、これほどの名誉はない。ましてや、可憐な乙女たちの力になれるというのなら、断る者はいないだろう。

 ペレアスは一層腕に力を込めるが、ふと気付く。

 

「……オレ、何気に死亡フラグ立ってねえか?」

 

 

 

 

 

 

 オルレアンの内部は、一面の焼けた廃墟だった。

 どれほどの高温で熱したのか、至るところが真っ黒に染まっている。散乱した炭が元は木であったのか、人であったのか区別が付かない。

 竜の魔女は、逃げも隠れもしなかった。

 居場所を知らせるかのように旗をなびかせ、後方には聖杯を設置している。

 睨みつけるような眼。固く切り結んだ唇。ジャンヌたちの姿を認めると、彼女はすらりと剣を引き抜く。

 追随して、側に控える魔術師──ジル・ド・レェも、外へ向けていた魔導書のリソースを変更した。

 地面から滲み出るように現れる海魔。今更そのような化け物を恐れる彼女たちではなかった。ジャンヌは一歩前に進み出て、もうひとりの自分と対峙する。

 一度目と変わらぬ灼熱の憎悪。視線を交わすことでその奥にあるものを探ろうとするが、堆積した憎しみだけが彼女の全てなのだと思い知らされた。

 何を言おうと最早変わらぬ。互いに血を流し、殺し合うのは定められている。

 ここが分水嶺。彼女たちの勝敗によって、フランスの運命──果ては世界の辿る道が決まるだろう。

 故に、二人のジャンヌが発した言葉は同じだった。

 

「「──もう、終わりにしましょう」」

 

 瞬間、炎が巻き起こる。

 竜の魔女の意のままに動く魔炎。果て無き怨嗟がカタチを成した、彼女の憎しみそのものだ。

 それが地を舐めるように走る。骨肉を灰へと還す火の波。先頭に躍り出たマシュは盾をかざし、立香たちを庇う。

 真っ二つに裂けた火炎を回り込むように竜の魔女は走り、もうひとりの自分目掛けて旗の穂先を突き出す。

 ジャンヌも負けじと得物を手繰り、突きを受け流した。竜の魔女へとガラスの矢玉が降り注ぐが、炎とともに身を翻すことで一蹴される。

 ビリビリと手に残る振動。ランスロットの斬撃と同じかそれ以上の衝撃に、ジャンヌは違和感を覚えた。しかし、思考に没頭する時間は与えられていない。頭上より振り下ろされた巨大な触手を、飛び退いて躱す。

 

「神は大きな過ちを侵した!」

 

 竜の魔女は高らかに糾弾する。

 彼女の目は空の向こう側に坐す神を望んでいるようだった。

 

「この世界を創り出したことこそが、全ての悲劇の始まり……! 完璧な神がなぜ完璧な世界を創れなかった!? 多くの人間が苦しみの渦中にあるこの状況こそが、神の不完全性を示している!!」

「竜の魔女として殺戮を繰り返した貴女が、何を言う!」

 

 ジャンヌは旗を振り上げる。竜の魔女はそれを悠々と回避し、堂々と言い放つ。

 

「ならば私は──神に肯定されている。私の悪行が咎められていないというのなら、神は私の行いを認めているということでしょう? ねえ、ジル?」

 

 背後より立ち昇る魔の怪炎。

 傲岸不遜な物言いに、ジルは疑いようもなく饗応した。

 

「ええ、まさに! ジャンヌ、貴女には復讐する資格がある! 想像を絶する苦しみ、痛み──この世界を焼くには十分過ぎる理由でしょう!!」

「……ジル! 貴方までそんなことを……」

 

 ジャンヌの反論を封殺するように、炎と触手が唸りをあげて襲いかかる。動きが鈍った彼女を、マシュが盾となりマリーが騎馬で拾い上げる。

 目の前にいるジル・ド・レェは実直な武人としての姿ではなく、童話のモチーフにもなった残虐な狂人としての側面が現れている。

 変わり果てた彼を、ジャンヌは信じることができなかった。なぜなら、彼女にとってジルは共にオルレアンを救った掛け替えのない仲間だ。

 竜の魔女が放つ炎と、ジルが喚び出す海魔。その連携は異様なほどに息が合っている。

 騎馬のアドバンテージを活かし、攻撃を掻い潜るマリー。竜の魔女は彼女に目をつけ、嘲弄するように言った。

 

「マリー・アントワネット! 王妃としての人生だけを望まれ、ロベスピエールに殺された貴女にも理解できるでしょう!」

 

 マリーは、確固たる信念でもって言い返す。

 

「あの処刑は、民衆の意思です。滅びゆく王権を最後に担ったのがわたしとあの人だったというだけ。彼らに恨みを抱く余地など、何処にもありはしません!」

 

 否定の言葉とともに、彼女は突撃する。標的は竜の魔女。華々しい薫風を纏い吶喊するも、左手の剣の一撃に押し留められてしまう。

 宝具を使った訳ではないせよ、全力最速の攻撃が防がれた。竜の魔女の表情には未だ余裕があり、実力の底が見えなかった。

 竜の魔女はわざとらしく首を傾げ、マリーに問う。

 

「愛しい愛しいルイ17世(むすこ)が虐待死を遂げたことすら、貴女は許すというのね? ああ……なんて可哀想。あの子には、何の非もなかったでしょうに」

 

 そこで、マリーは口をつぐんだ。

 ルイ16世との間に産まれた子、ルイ17世。彼は8歳にして親と生き別れ、以降壮絶な虐待を受け続けた。

 身体的虐待、精神的虐待、性的虐待──ありとあらゆる悪意をその身に浴びたルイ17世は、結核が原因で10歳の時にこの世を去る。

 彼が亡くなった場所は、汚物に塗れた暗い独房の中だったという。

 人の悪意を煮詰めたような苦痛の果て、孤独に死んでいった我が子を憐れまぬはずがない。そんな仕打ちを行った者へ向ける感情は…………

 思考が乱された、一瞬の硬直。その間に竜の魔女は手のひらに火を灯し───

 

eihwaz(エイワズ)!!」

 

 ──立香の手によって発動された防御のルーンが、直撃から身を守る。

 マリーは咄嗟に飛び退いていたが、至近距離からの火炎放射を避け切ることはできなかった。

 所々に火傷を負う彼女に立香は駆け寄り、すぐさま治療のための礼装を起動する。

 

「マシュ、カバーお願い!」

「はい! 傷ひとつ付けさせません!」

 

 魔術回路を稼働させる。全身をかけ巡る血の温度が上がるような感覚。とうに慣れた感覚だが、この極限状況では煩わしさすら覚えてしまう。

 靄がかかる意識に鞭を打ち、全力で礼装の性能を引き出す。

 マスターの役目はサーヴァントの補佐だ。血を流して戦うことのできない以上、弱音を吐いて良いはずがない。

 ノアは立香を信じると言った。共に未来を取り戻す仲間として、この戦いは負けられないのだ。

 そんな立香のこわばった頬を、マリーはそっと撫でた。

 

「立香さん、落ち着いてください。こんな時にまで、表情を取り繕うことはありません」

 

 炎の海、悍ましき化け物が荒れ狂う戦場にありながら、彼女は慈母の如き微笑みをみせた。

 けれど。

 頬をなぞる指は、小さく震えている。

 

(……ああ、この人は)

 

 なんて美しいのだろう、そう思った。

 王家の偶像。ただそれだけを切望されたマリーにとって、人生はひどく窮屈なものだっただろう。

 事実、彼女は何ひとつ自らの運命を差配することはできなかった。ルイ16世に嫁いだことも、フランスから逃げたことも、常に誰かの思惑が糸となって彼女を手繰っていた。

 きらびやかな華の乙女。身を削ぎ合う戦場など、経験しようはずもない。

 きっと、マリーはいつだって怖かった。

 しかし、彼女は恐怖を押し殺して、王妃としての振る舞いを続けている。その生を捧げた王家も、自分すらも皆から否定されたというのに。

 立香もまた、震える手を重ね合わせる。マリーに負けないような笑顔で、力強く言った。

 

「ありがとうございます、マリーさん。私にどーんと任せておいてください! ばっちり治してみせます!」

「ふふ、どういたしまして。やっぱり笑っている顔が一番きれいね──まるで太陽のよう」

「す、すごい、リーダーの褒め言葉と違って全く嫌味に感じない!」

 

 傷の治癒が終わり、マリーは再び戦場へ飛び出した。即座に竜の魔女の炎が襲うも、舞い散る花弁のように回避する。

 だが、竜の魔女の攻勢は激しさを増す一方だった。

 魔力と体力の消耗を一切考えない、熾烈な攻め。サーヴァントと言えども、常に全力を出して戦っていては身が保たない。上限の桁が違うだけで、そこは人間と同じだ。

 だというのに、竜の魔女は一撃一撃に全身全霊を込めている。狂気から来る暴走ではない。意図的に、理性的に、彼女は暴れ狂っている。

 底無しとまで思わせる魔力量。それが圧倒的な手数を実現しているのだ。

 竜の魔女の背後から、ねじれ曲がった杭が射出される。着弾と同時に爆炎を撒き散らし、地面を削り取った。

 僅かでも立ち止まれば、炎に焼かれるか海魔に足を掬われる。

 神に敵対する者として、これほど相応しい威容はない。竜の魔女と妄執の魔術師の狂宴は、数の不利を物ともせずジャンヌたちを追い込んでいた。

 そこで、立香は違和感を覚える。

 竜の魔女の異常な強さに、ではない。

 

「───あなたはどうして、人を殺すようなことをしたんですか!?」

 

 立香は問い質す。

 ──愚女め、今更分かりきったようなことを糾弾するつもりか。

 竜の魔女は嘲笑を浮かべた。

 

「すべてはフランスへの復讐であり神への叛逆───!! 私の行いが正当であるか否か、それはこの戦いの勝敗によって決まる!」

「それでみんな殺したら、あなたを認める人もいなくなるんですよ!? たった二人ぽっちで、家族も仲間もいない世界に何の意味があるんですか!!」

「家族、仲間……? 私にそんなものはいない、必要ない! この身はただ、神を焼き尽くす炎でさえあれば良い!!」

 

 血の繋がりと、絆の繋がり。

 そのどちらもが、ジャンヌを形成する掛け替えのない要素だ。たとえ死んだとしても、その顔は忘れることができない。

 自らの半身とも言える彼らを否定する魔女の姿に、ジャンヌは───

 

「やはり、貴女は私ではない!!」

 

 掛け値なし、全力の一撃を竜の魔女に叩き付けた。

 旗の穂先と剣身が激突する。漆黒の刃は半ばから砕け、竜の魔女の左肩を打ち据える。

 切り返しの打撃。竜の魔女は上体を反らして避け、剣を捨てると後ずさった。

 

「私に、フランスへの恨みがあったとしても。神への憎しみがあったとしても───共に生きた彼らのことを忘れるはずがない!!」

 

 光があるからこそ、闇は際立つ。

 例えば、産まれた瞬間から悲劇の真っ只中にある人間がいたとしよう。彼にとってはその状況こそが平常であり、それを苦痛と感じることはないだろう。

 幸福だった経験があるからこそ、それを奪われた時、人間は苦しみを自覚するのだ。

 しかし、竜の魔女は家族と仲間を否定した。ジャンヌという人間にとっての幸福の象徴を、存在しないと、いとも容易く切り捨ててみせた。

 竜の魔女が抱える矛盾。それに対して声をあげたのは、ジルだった。無数の海魔がジャンヌたちに殺到し、近寄る側から打ち砕かれていく。

 

「ジャンヌ! 貴女は世界に復讐することを許されているのです! そうでなくては、彼女が焦がれるほどの憎しみを抱いている説明にはならない!!」

 

 ジャンヌは、真っ向から否定する。

 

「いいえ、ジル。竜の魔女が抱く憎悪は───貴方のものでしょう」

 

 核心を突いた言葉。

 竜の魔女の正体は、まさしくそれだ。

 幸福であった記憶を持たぬ欠陥。

 憎しみと恨みだけを抱える歪な在り方。

 ジャンヌは竜の魔女を指して言った。

 

「彼女は貴方が聖杯を使って創り出した存在です。攻撃が尽きないのも、聖杯の魔力を利用しているからなのでしょう」

 

 おそらくそれは、竜の魔女ですら知らなかった事実だ。

 彼女の目は一瞬見開き、その直後にドス黒い感情を滲ませる。傷付いた左腕をだらりと下げ、憤怒の炎を漲らせる。

 

「───それが、どうした。贋作だから真作には勝てないと? 少なくとも、この(怒り)は神に届くと信じている!!」

 

 そう。如何なる糾弾も、存在を否定する真実であろうと、竜の魔女の根幹を揺るがすには至らない。

 勝とうが負けようが、彼女は死の瞬間まで神への怨嗟を吐き続けるだろう。なぜなら、彼女の感情は紛れもなく本物なのだから。

 ──なぜ、こうまでして神に執着するのだろう。

 立香は、ただ単純に、そう思った。

 宗教が心の支えとなることは知っている。現代の日本は宗教観が薄れてはいるが、それを理解できないほどではない。

 それでも、竜の魔女の執着には疑問を覚えずにいられなかった。

 だって、神は決して彼女を否定なんかしていない。

 姿を現して、指を差して、声を出して、おまえを認めないと、そう言われた訳ではないだろう。

 あの処刑の結末は神によるものではなく、人間の手によって行われたものだ。それもジャンヌに勝ち目のない裁判で決められ、人間の悪意に彼女は殺された。

 だから、神は一切そこに介在していない。それでもなお、神を敵視する理由とは───

 

「……神さまに、手を差し伸べてほしかったんだ」

 

 ぼそり、と呟いた言葉。

 それは、重く竜の魔女に響いた。

 彼女の双眸は真っ直ぐに立香を捉える。困惑と驚愕が綯い交ぜになり、今この時だけは憎しみの色は見えない。

 竜の魔女の根幹を揺るがすもの。それは彼女を弾劾することでも、本質を見透かすことでもなかった。

 竜の魔女が抱く激情を理解すること。それが何よりも、彼女の胸に突き刺さった。

 

「そうよ、結局私は、神に認めてほしかった」

 

 がらんどうの笑みを顔に貼り付け、竜の魔女は肯定する。

 

「だって、そうでしょう!? 私には神の声が聞こえない! 何をするべきなのか、全てはこの憎悪に従うしかなかった!! いつか私の悪意が神に届くまで、私を叱りに現れてくれるまで、世界を焼くことしかできないのよ!!!」

 

 子どもが駄々をこねるように。

 竜の魔女は、涙を流していた。

 ジルは、その手から魔導書を落とす。

 彼女を生んだのは自らの憐憫からだ。尊厳を踏みにじるような陵辱を受け、灰になるまで焼かれて捨てられたジャンヌへの憐れみが、竜の魔女を創った。

 行き場のない怒りを、あろうことか彼女に託してしまった。その結果がこれだ。

 ずるりと魔導書から這い出た触手が、持ち主を取り込んでいく。それは捕食であり融合。自身を贄とした大海魔との共生であった。

 灰白色の皮膜と深藍色の多腕。肉の芽がイソギンチャクのように群生する冒涜的な異様は名状しがたいほどに悍ましく、輪郭は茫洋として定形を持たない。

 これこそは彼の絶望の成れの果て。

 大海魔が全てを呑み込むのと、竜の魔女の怒りが爆発するのは同時だった。

 

「これは憎悪によって磨かれた我が魂の咆哮───『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 魔の津波と炎の雨。マシュとジャンヌは、それぞれの攻撃に向かって宝具を展開する。

 

「『我が神はここにありて(リュミノジテ・エテルネッル)』!!」

「『擬似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!」

 

 激突。

 白き円盾は海魔の奔流を防ぎ、聖なる結界が灼熱の嵐を受け止める。

 前者は少しずつ膨大な体積を減少させていく。自分の身を切るような攻撃──マシュが耐えていれば、いつか必ず終わりは来るだろう。

 だがしかし、竜の魔女が放つ灼炎と鉄杭の乱撃は加速度的に威力を上げていく。過剰な魔力の運用により体を損なってもなお、竜の魔女は敵を焼き尽くす腹積もりだった。

 ジャンヌの護りは英霊の中でも文句なしにトップクラスの性能だが、やはり限界は存在する。彼女の旗は受けたダメージを蓄積し、許容範囲を超えると破損する。

 要するに、これは我慢比べだ。

 竜の魔女が身を滅ぼすのが先か、ジャンヌの旗が折れるのが先か。その果てに勝敗は決する──!!

 

「「は、あああああァァァァッ!!!」」

 

 絶叫。咆哮。

 その戦いに、神の介入はなく。

 ひとつの残酷な結果だけがあった。

 まるで、ガラスが割れるように呆気なく───結界は、音を立てて砕けた。

 

「───………!!」

 

 それは、決して。

 想いの力が上回っただとか、そんな無責任な決着ではなかった。

 ただ、ジャンヌの旗は一度邪竜の熱線を受け止めていた。

 ただ、竜の魔女は聖杯からのバックアップを受けていた。

 故に、半ば必然。奇跡の入り込む余地のない、非情にして合理的な結果。

 故に、そのイレギュラーもまた、偶然ではなく必然だった。

 

「マリー」

 

 ジャンヌの声が、か細く途切れる。

 とめどなく溢れ出す鮮血。

 胸の中心を貫く灼けた鉄杭。

 すでに死んでいてもおかしくはないというのに、彼女は気丈に微笑んだ。

 

「…………実を、言うと。わたしはシャルルをあんな目に遭わせた人たちを───憎んでいます」

 

 マリーが胸の内に秘め続けていた火種。その熱は非常に小さく、けれど、いつまでも燻りながら、彼女の内にあったのだ。

 象徴としてではなく、母親として、彼女は言葉を続ける。

 

「あの子に寄り添い、抱き締めてあげられたなら、わたしはどんなことをされても構わなかった。そんな想いを持ってしまったから……王妃として不甲斐ない人間になってしまったのでしょう」

 

 ヴァレンヌ事件。ロベスピエールの台頭を許すひとつの要因となった、国王一家の逃亡。

 ──これは、邪推だ。

 立香たちは、そうと分かっていながらも、考えることを止められなかった。

 マリーは革命運動から家族を護るため、亡命に賛成したのではないか、と。

 竜の魔女は荒い息を吐きながら、それを聞いていた。体が耐え切れないほどに魔力を行使した弊害か、立ち上がる余力も残されていない。

 

「…………一度得た憎しみが晴れることは無い。貴女も、私も、結局同じなのよ──!!」

「けれど、それが全てではありません。民を愛する心もまた、わたしの本心です。……貴女がわたしと同じなら───」

 

 人間とは矛盾する生き物だ。

 全ての行動と感情が一致していることなどあり得ない。

 それは、人の欠陥とも言えることかもしれない。人格を持つ以上、竜の魔女でさえもそれを逃れることはできないだろう。

 しかし、だからこそ。

 

「───()()()()()()()()()()()()! わたしが保証します!!」

 

 包み込むように、マリーは言った。

 あるいは、それが最期の。

 彼女を構成する魔力がほどけていく。

 ふわりと舞う風と共に、マリーは消えた。澄んだ涼風が、竜の魔女の頬を撫でる。

 ジャンヌは折れた旗を握りしめ、竜の魔女の元へ体を引きずった。

 マリーの死に様が彼女たちに何を与えたか、抵抗する素振りはなく。旗を霊核に突き立てる。

 その、直前。

 

「ジャンヌさん、待ってください!!」

 

 立香が、声で制した。

 戦場の目が、一気に彼女に集まる。

 地面に座り込む竜の魔女。その目の前に立香は屈み、その手を重ねた。

 少しでも炎を発すれば、容易く殺せる。そんな危険、彼女は眼中にない。

 

「もう、終わりにすれば良いじゃない。私の敗けよ」

 

 違う。

 聞きたいのはそんな言葉じゃない。

 マリーが伝えたかったことは、敗者に指を差して自分の勝ちだと誇ることではない。

 産まれたばかりのこの人に。

 憎しみしか持たぬこの人に。

 神さまの代わりに手を差し伸べるなら、この瞬間しかないのだ。

 

「私たちと一緒に、世界を救いませんか」

 

 は、と口の端から吐息が漏れる。

 この娘は、何を言っている?

 今の今まで殺し合っていた相手を仲間に引き込むなど、そんなのアレキサンダー大王の真似事にもなっていない。

 

「世界を救えたなら、きっと神さまは認めてくれます。それに、何より……不幸な現実しか知らずに死ぬのは、哀しすぎる」

 

 なんてことはない、素朴な慈悲。

 それが、何よりも。

 竜の魔女は、呟いた。

 

「ええ、そうね」

 

 立香の顔に喜色が浮かぶ。

 ──なんて、間抜けな人。

 最後の力で、立香を突き飛ばす。その指の先から炎が燃え広がり、竜の魔女を包んでいく。

 

「私は、償い切れぬ罪を犯しました。それに少しでも贖うなら、私は神に認められてはいけない」

 

 神に認められたかった。

 でも、罪を犯したこの身が、救われることなどあってはならない。

 これは自らへの罰だ。

 ──共に歩む明るい未来を、私は否定する。

 

「けれど、もし、何処かで出逢えたなら───私の手を取って、くれますか?」

 

 立香は、即答した。

 

「──はい! むしろ喚び出します! 嫌だって言っても絶対に放しませんから! Eチームはしつこいことで有名なんです!!」

 

 それを聞き届け。

 竜の魔女と呼ばれた少女は、笑って消滅した。

 

 

 …………その、間際。

 

 

 どれほどの怨嗟を撒き散らしても聞こえなかった。

 

 

 どれほどの憎悪を表現しても見えなかった。

 

 

 焦がれて、焦がれて、焦がれ続けた。

 

 

 そんな、■が、そこにいた。

 

 

 〝幸くあれ〟と。

 

 

(ああ、貴方は、何時もそこに───!!!)

 

 

 彼女は、その未来を祝福されて──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………ジャンヌは、己を恥じた。

 ルカによる福音書6章27節から30節。

 

〝しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい〟

 

〝悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい〟

 

〝あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない〟

 

〝求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない〟

 

 主は、そう言った。

 敵をも愛せと、誰よりも優しい男は説いたのだ。

 ──私は、その教えを。

 竜の魔女に理解を示そうともせずに、彼女を始末しようとしていた。

 そんなざまで、何が聖女か。主の教えを誰よりも体現していたのは、異なる国の異なる時代、異なる信教の少女だ。

 ──そんな私でも、できることがあるのなら。

 もぞもぞと動く、腐れた肉塊。

 身を切る波濤をマシュに防がれ、残った残滓。その中に、血涙を流すジルがいた。

 彼は、優しすぎた。

 端から見れば気の狂った娘としてしか見られなかった私を信じ、戦場を駆け抜けてくれた。

 右も左も分からぬ私にとって、彼は行く先を示してくれるしるべであり、とても気恥ずかしくて口には出せないけれども。

 ……父親のように、思っていた。

 だから、彼のそんな姿はいたたまれない。

 救ってあげたい───それが、ジャンヌの根源であった。

 彼女は旗の破片を捨て、剣を引き抜く。

 聖カトリーヌの剣。またの名をフィエルボワの剣。ジャンヌが地中より見出した祝福の剣だ。

 ジャンヌは、立香とマシュに振り返って言った。

 

「カルデアの皆さんに、感謝を。私は得難い機会を得ることができました。あなたがたの前途を、私は祈っています」

 

 そうして、彼女はジルの元へ歩き出す。

 立香とマシュは、それを止めることはしなかった。

 

「……マシュ」

「はい、見届けましょう」

 

 海魔の破片に埋もれるジルの手を、そっと拾い上げる。

 重なる四つの手。その中心には、聖カトリーヌの剣が握られていた。

 暖かく握り締めるジャンヌに気付き、ジルは目を伏せる。

 

「おお……! ジャンヌ、私は──」

「良いのです。共に、主の御胸に抱かれましょう」

 

 二人が炎に包まれていく。

 あらゆる罪を浄化する清らかな火。

 澄んだ炎の柱は、どこまでも高く天を突いた。

 

 

 

 

 

 

 

 カルデア、管制室。

 1431年のオルレアンを狂わせていた聖杯は、立香とマシュの手によって回収された。

 レイシフトから目覚めた彼らは、重い体を引きずって一箇所に集まる。間もなくロマンたちが事後処理に現れるだろう。

 言葉はなかった。

 マシュは疲労から。

 ペレアスは自ら口をつぐみ。

 立香とノアは、視線を交差させる。

 最初に切り出したのは、立香だった。

 

「リーダー。私、約束しちゃいました」

「ああ、通信で聞いてた」

 

 続く言葉は分かっていた。ノアは意地の悪い笑みでそれを待つ。

 

「やさぐれた方のジャンヌさんを召喚するのを手伝ってください! 正直、私は何もできないので!!」

「今回のMVPはおまえだ。輝かしいばかりの俺の才能で成し遂げてやる。召喚実験場を少しいじくればどうにでもなるだろ」

「あれ、リーダーが優しい!? 皆既日食並みの珍しさですね!」

「ナメんな、俺の慈悲は皆既日食どころかツチノコ並みの希少価値だ!!」

「誇ることじゃないですからね!!?」

 

 昂っていた心が落ち着く。

 こうして、軽口を叩き合えるのがカルデアの日常なのだ。

 ノアは右手を挙げて、

 

「何はともあれ、第一特異点は修復された。俺たちの勝ちだ」

「はい!」

 

 立香もまた手を挙げて、ノアの右手のひらに触れようとする。

 が、その手はすかっと空を切った。ぶんぶんと何度振るも、立香の手が届くことはない。

 

「……あの、身長差考えてください」

「これは背丈の問題じゃねえ。俺の偉大さがおまえの遠近感を狂わせてるだけだ」

「男塾くらいハチャメチャな理論なんですけど」

 

 それはそうとして。

 ──第一特異点、定礎復元。

 最初の聖杯探索は、ここに終わりを告げた。



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第14.5話 ガチャを回す時、ガチャもまたこちらを回しているのだ

ギャグ回です。今回の後書きは、ロベスピエールのステータスを載せてあります。


 カルデア、召喚実験場。

 職員たちが寝静まった深夜。薄暗くなった施設の中で、そこだけは電気の光に明るく照らされていた。

 守護英霊召喚システム・フェイト。かつて冬木にて行われた召喚式を元に構築された、カルデアの発明のひとつである。

 現在、マシュに力を貸している英霊とダ・ヴィンチはこのシステムを利用して召喚されており、通常はAチームのために使われるはずだった。

 が、レフ・ライノールの爆破工作によって全ての計画は頓挫。何の因果か、最も渡してはいけないEチームの手に収まるという事態を引き起こしてしまったのだった。

 幸いだったのは、召喚実験場の受けた被害は少なかったことだろう。戦力を供給する命綱だけあって、レフもやすやすと入り込めないセキュリティが施されていたようだ。

 そんな場所に、ノアとロマンはいた。前者は何やら機材を弄くり回していて、後者は机の上で手作業をしている。

 ロマンは手を動かしながら、ちらりとノアをのぞき見る。彼の魔術の才能は疑うべくもないが、カルデアの召喚システムは魔術だけではなく、機械を用いた工学・科学的分野とも接点が深い。

 得てして、優秀な魔術師は機械に疎くなりがちである。それはあらゆる電子機器の働きが、ある程度魔術回路で代用できるためだ。

 そんな訳で、ロマンはノアに召喚システムの整備を任せることを不安視していた。

 

「ノアくん、調子はどうだい?」

「所長の部屋からパクってきた資料がある。問題ねえ」

「……何をやってるのかなあキミは! いつものことだけど!!」

「俺たちに有効活用されてこそ、所長も浮かばれるってもんだ。草葉の陰でタップダンスでも踊ってるんじゃねえか?」

「うん、それだけはないだろうと断言できる」

 

 今頃、所長は草葉の陰でほぞを噛んでいることだろう。ロマンは心の中で所長へ合掌を捧げた。

 とはいえ、残された資料だけで召喚式の構築をし直すのも、それはそれで難度が高い。専門的な語彙と知識ばかりの文面を苦もなく理解し、実行する。

 そう言えば聞こえは良いのだが、やっていることは盗人と変わりない。

 カチャカチャと作業音が響く中、ノアはロマンを見咎めて言った。

 

「ロマン、おまえはさっきから何やってんだ?」

「ああ、これはね……」

 

 ロマンは人差し指と親指で、何やら虹色の結晶をつまみ上げる。

 その結晶は星型の八面体ともいえる形状をしていた。机の上を見れば、八面体の角の部分だけを切り取ったような破片が散らばっていた。

 見た目だけならば綺麗なのだが、それが纏い持つ雰囲気はおどろおどろしい呪物のそれである。人間の血と汗と涙とその他諸々が、その八面体には詰まっているのだ。

 

「聖晶石って言うんだ。ボクが夜なべして欠片をくっつけて───」

「いいからiTunesカード買ってこいよ」

「そんなものはウチには存在しません! たとえ正月だろうとね!!」

 

 聖晶石。数々の歓喜と絶望を生み出した悪魔の物体である。カルデアのリソースを費やして、ようやく完成する貴重品でもあった。

 その用途は、召喚の際に必要になるエネルギーを供給する燃料。これを消費することで、カルデアの召喚システムは成り立っている。

 何かを振り払うように頭を抱えるロマン。彼の手の内には、接着剤が握られていた。どうやら、その八面体は破片を繋ぎ合わせてできたものらしい。接合の方法が些か小学校の図工じみているが。

 それを見て、ノアは愕然とした。

 

「おい待て、それアロンアルファでくっつけてんのか!?」

「え、そうだけど?」

「アホか! 接着面から流れ出してパッサパサになってるじゃねえか!」

「ああ大丈夫、お湯に浸ければ取れるから」

「それだと全部バラけるだろうが!!」

 

 そう言っておどけるロマン。ノアは彼の元へずかずかと近寄ると、

 

「よし、今からおまえの目にアロンアルファをたらす」

「何その新手の拷問は!?」

 

 という茶番は後回しにして。

 なんやかんやで召喚の準備は整った。後は動力となる聖晶石を炉に補給すれば、勝手に機械が魔術式を代行してくれるだろう。

 立香の願いから端を発したことではあるが、カルデアにとっての利益は甚だ大きい。これからの戦いに向けて、英霊を喚び出すことで戦力を補強できるのだから。

 そもそも、人理焼却を起こした黒幕すら掴めていないのだ。相手の実力が知れない以上、戦力はどれだけあっても安心できない。立香だけでなく、ノアも契約するサーヴァントを増やす必要に駆られる場合もあるだろう。

 召喚システムの修理が終わり、一息ついた頃。ロマンは口元にコーヒーを運びながら、何の気なしに訊いた。

 

「そういえば、ノアくんは召喚したい英霊とか、憧れの英霊はいるのかい?」

「ソロモン王」

「ブフゥーッ!!!」

 

 水鉄砲の如く、含んでいた液体を吹き出すロマン。彼は激しく咳き込みながら、声をひねり出す。

 

「そ、その人はやめた方がいいんじゃないかな?」

「何でだよ。魔術師なら誰もが憧れるだろ。普通に戦わせても最強クラスだろうしな。人を認めても尊敬はしない俺が唯一敬う人物だ」

「う、うーん、まあ……他には?」

「能力を認めてるって意味なら、パラケルスス、エレナ・ブラヴァツキー、アレイスター・クロウリー、安倍晴明、マーリン…………」

魔術師(キャスター)ばっかりじゃないか!!」

 

 ノアが英霊から技術をかすめ取ろうとしていることが、透けて見える人選である。

 戦っても強いことは確かだろうが、個人の趣味が反映されすぎている。具体的にはライダーのサーヴァントに弱くなることは請け合いだろう。

 だが、これは彼の趣味の問題だけではなかった。

 

「レフの奴が〝焼却式 フラウロス〟だとか言ってやがっただろ。今回の黒幕がソロモン王だと決め付けた訳じゃないが、フラウロスってのは72柱の悪魔の一柱だ。答えには近づける」

「へえ、本音は?」

「指輪が欲しい」

「……だと思った」

 

 その間もロマンは聖晶石の欠片を貼り合わせていたのだが、手元に残っている数を確認して気付く。

 

「しまった、欠片が七個しかない」

「ちょっと貸してみろ」

 

 催促するノアに、欠片と接着剤を手渡す。彼は手の内でそれらをこね合わせると、数秒後には八つの角が揃った聖晶石が手のひらの上に乗っていた。

 

「いち、に……あれ? どういうこと!? もうひとつの角は何処にあったんだ!?」

「知らん。俺に聞くな」

「自分でやったのに!?」

 

 ノアはその石を持ったまま、召喚システムの動力源に向かう。

 

「動作チェックだ。一回やってみるか」

「そんなこと言って、試してみたいだけだろう?」

「おまえもな。顔がニヤけてんぞ」

「あ、バレた? なんだかんだ新顔が増えるのは楽しみなんだよね」

「「フハハハハハハ!!」」

 

 そう、二人は深夜テンションだった。

 ロマンもカフェインでごまかしていたが、それも限界。第一特異点修復の疲労が抜け切らないままに作業を行っていたのだから、当然とも言える。

 半ば暴走気味になっていた二人は、聖晶石を石炭のように動力炉に流し込む。一応かなりの貴重品のはずなのだが、そんなことを考える頭は残されていなかった。

 ノアが手をかざすと、床に描かれた複雑な幾何学模様が宙に浮かび上がり、強烈な光を発する。爆発さながらの発光が収まり、彼らは目を見開く。

 

「「こっ…これはっ……!!」」

 

 

 

 

 

 

 翌朝。ところどころで電気灯が点きはじめ、目覚まし時計の音が鳴り響く。そうして数十分後、職員たちは続々と廊下に出る。落ち着き払った様子の者もいれば、バタバタと慌ただしい者もいた。人の少なくなったカルデアだが、朝だけは人気が多く感じられた。

 さらにその十分後、既に人影のない廊下を徘徊するように練り歩く少女の姿が現れる。

 彼女こそは我らがカルデアのマスター、藤丸(ふじまる)立香(りつか)であった。目は虚ろで髪も寝癖立っており、とりあえず着込んだであろう服もくたくたによれていた。

 体を引きずるように、彼女は食堂を目指す。

 何はともあれ栄養を補給しなくてはならない。そんな動物的勘だけが、彼女の体を動かしていたのだった。

 その道中で、「先輩」と呼びかける聞き慣れた声が立香の背中を押す。振り返ると、久々に露出度の低い格好をしたマシュがいた。

 

「おはようございます、先輩」

「マシュおヴぁひょぉう〜」

「人語を話してください。今朝は一段と低血圧ですね」

 

 立香は朝に弱かった。オルレアンでは何とか早起きを心掛けていたようだが、彼女の化けの皮は剥がれてしまったようだ。

 しかし、Eチームの良心ことマシュにとって、この程度は慣れたものである。立香に肩を貸して、食堂まで運んでいく。

 そして、扉の前に立った時だった。鼻腔を突き刺す刺激的な香り。目頭をツンとつつくような空気が、食堂の中から漂ってきていた。

 ノアかダ・ヴィンチか、はたまた両方か。マシュが訝しんでいると、扉の向こう側から、

 

「ギャアアアアアアアア!!!」

 

 最近のカルデアでは恒例の、決して慣れてはいけなかった、断末魔じみた絶叫が鼓膜を揺らした。

 真に迫った叫び声が、もう一度夢の世界に飛びかけていた立香を引きずり戻す。

 彼女たちは顔を合わせ、率直な感想を述べた。

 

「どうしよう、行きたくなくなってきたよ」

「私もです。でも行かないと話が進みません」

「ここで完結してもいいんじゃない?」

「打ち切り漫画でももう少し上手くまとめますよ!?」

 

 今の食堂に入るということは、拷問室に裸一貫で飛び込むことを意味する。下手をすればオルレアン以上の死地が彼女たちを待ち構えているのだ。

 好んでそんな場所に入りたがるほど破綻した精神を持っているわけではない立香は、大きくため息をついた。

 意を決して、食堂に足を踏み入れる。

 

「ほら、しっかり食え。おかわりもいいぞ」

「いや、ちょっ、まっ、ブホォォォ!!!」

「馬鹿野郎ォォォ! 吐き出してんじゃねえ、生産者の気持ちを考えたことあんのか!? おいロマン、こいつ羽交い締めにしとけ!」

「すまないムニエルくん! 尊い犠牲になってくれ!」

「こ、この人でなしども……」

 

 そこで二人が見たものは、ガタガタと震えるムニエルの口に、スプーンで麻婆豆腐を突っ込むノアの姿だった。

 たまらず吐き出したムニエル。彼の顔色は土気色に染まっており、死体もかくやという有り様である。

 というのも、その麻婆豆腐は目に悪い赤色をしていた。皿にさえ乗っていなければ、マグマと説明されても違和感がないほどに。口に入れた瞬間、口内が燃え盛るような感覚に襲われることは間違いない。そんなものを食して無事でいられるのは、冬木市在住の神父くらいなものだろう。

 致死量に達しているのではとすら思わせる香辛料の合わせ技に、ムニエルは泡を吹いて倒れた。

 陸に打ち上げられた魚のように痙攣する彼の手首にロマンはそっと指を当て、脈をはかる。

 

「……ご臨終だ。今回も駄目だったみたいだね」

「よし、ペレアスの横に並べるぞ」

 

 そう言って、彼らはムニエルを雑に運ぶ。床を見れば、至るところに職員たちが転がっており、その中にはうつ伏せになって倒れるペレアスの姿もあった。

 死屍累々とはまさにこのこと。彼らがあの激辛麻婆豆腐の犠牲になったことは、火を見るより明らかだった。サーヴァントですら耐えられないものを、人間が耐えられる道理はない。

 ムニエルの体が床に横たえられる。彼の顔は五十年は老けて見えた。きっと安らかな最期を迎えたことだろう。

 唖然として立ち尽くす立香とマシュ。ノアたちは二人に気づくと、グツグツと煮え立った皿を持ち上げて言う。

 

「「食うか───?」」

「「食うかああああ!!」」

 

 立香とマシュの全力の蹴りが、それぞれノアとロマンに突き刺さる。

 麻婆豆腐の犠牲となった全員の想いを込めた一撃は見事クリーンヒットし、今回の元凶二人は仲良く床をのたうち回った。

 ノアはいち早く立ち直ると、困ったように首を振る。

 

「オイオイオイ、事情も聞かない内にツッコミかますとはとんでもねえお転婆娘だな」

「どう見ても現行犯ですからね!? 一瞬死を覚悟しましたよ私は!!」

「藤丸、頭に昇った血を一旦下ろして、とりあえず俺の話を聞け。これはおまえが遠因でもある」

「こんな殺人計画に協力した覚えはないんですが!?」

「とうとうやらかしましたね。リーダーの評判は元々地に落ちていましたが、今回の件でマントルまで沈み込みました」

 

 唾でも吐き捨てるかのような勢いで、マシュは言葉の剣を突き立てた。

 嫌な予感を察したのか、管制室に立てこもっていたダ・ヴィンチ。彼女はお手製の胃腸薬を被害を受けた全員に振る舞い、彼らを復活させた。その後にノアとロマンが袋叩きになったことは言うまでもない。

 二人は椅子に縛り付けられ、全員から尋問を受けることになった。

 ノアとロマンは一部始終を暴露した。立香の願いを叶えるため召喚システムを修復したこと。試しに召喚を行ったところ英霊は出てこず、麻婆豆腐とその他諸々が召喚陣の上に残っていたこと。

 前者は良い。が、後者に関しては理解に苦しむような話である。英霊を召喚するための魔術が、あろうことか麻婆豆腐を喚び出すはずがないだろう。

 しかし、それは紛れもなく資料通りに修復を行った結果である。整備に不備があるとは考え難い。

 そんなこんなで、カルデアはようやくいつも通りの朝を取り戻した。取り戻したはずだった。

 食事自体は普段通りだ。だが、視界の端で見覚えのない男性が、優雅に紅茶を嗜んでいる。

 赤を基調とした礼服に、きれいに整えられた髭。その表情からは歳を重ねた男の余裕というものを感じさせられた。そんな良い大人が、まるで最初からいたかのように佇んでいた。

 立香は思い切ってノアに問う。

 

「リーダー。あのおじさんは誰なんですか」

「そういえば言ってなかったな。ほら、自己紹介してみろ」

 

 件の男性にそう促すと、彼はくすりと微笑んで、

 

「──優雅たれ」

 

 ノアはゆっくりと立香に向き直る。

 

「…………なんか優雅なおじさんだ」

「いやだから誰!!?」

 

 ただただ優雅なおじさんがそこにいた。彼は一通り紅茶を堪能すると、すたすたと食堂を出ていってしまう。

 ノアと立香はピシャリと閉まった扉を少しの間見つめ、何とも言えない表情を浮かべた。

 

「……一体、何処に行ったんでしょう」

「倉庫だな。定期的に紅茶淹れてやれば、後は自分で何とかしてくれるはずだ」

「シーマンよりは飼育が楽なんですね」

 

 立香はこの異常事態に慣れつつあった。もはや何が出てきても驚くまいと覚悟が決まったのである。

 そもそもあの麻婆豆腐に比べれば、紅茶を嗜むおじさんなど害がないだけまだマシだ。むしろ引き合いに出すこと自体、彼には失礼であろう。

 心の平静に立ち返った立香は、しばらく考える。

 召喚システムを使えるように、というのは自分が発端の話であり、それを受け持ったのはノアたちだ。

 今のところ損害しか被っていないが、同じEチームの仲間として彼に頼りっきりというのは気が引けた。何より立香の性分として、他の誰かに負担を掛けたままにすることは見逃せない。

 だが、借りを返したいと言っても、ノアは受けないだろう。彼はそれほど殊勝な性格ではないし、ここぞという時に返済させるはずだ。

 悶々と悩んでいると、ノアは素っ気ない表情で言った。

 

「俺は自分がやりたくないことは他人にさせる。おまえの話を請け負った以上、それはこっちの領分だ。俺が勝手にやったことを気にかける必要はない」

「あ、そうやってすぐ自分だけの問題にするのはずるいですよ。さっきもおまえが遠因だ、なんて言ってたのに」

「俺は過去を振り返らない」

「この状況でその言葉は全然カッコよくないですからね?」

 

 ノアの頑固な態度に、ふつふつと対抗心が燃え上がってくる。強情さだけなら、立香は負けない自信があった。

 

「分かりました。だったら、リーダーが私のことを縋って頼るようにしてみせます! これは対決ですよ!」

「望むところだ。返り討ちにしてプラスチックゴミと一緒にガンジス川に流してやる」

「良いですよ、私が勝った暁には阿寒湖の底でマリモを乱獲してもらいますから! もちろん素手で!」

 

 などと、地球環境を一切考えない発言をする二人。屠殺場の豚を見るかのような視線が向けられていたことを、彼らが知る由はない。

 遠巻きで彼らを眺めていたマシュとロマンは、淡々と口を開く。

 

「争いは同じレベルの者同士でしか発生しない……そういうことですね」

「カンガルーの方がまだ良いんじゃないかな?」

 

 

 

 

 

 という訳で。

 召喚実験場にEチームの面々とロマン、そしてダ・ヴィンチが集合した。目的はもちろん、竜の魔女一点狙いの召喚であった。

 ダ・ヴィンチの鑑識によると、召喚システムそのものに異常はないが、人理焼却という事態に際して英霊以外のものが喚び出されてしまう……らしい。

 つまり、目当ての者を召喚できるかは立香の運命力にかかっているのだ。

 

「なるほど、ガチャですね!?」

「うん、端的に言うとそうなるね」

「それなら皆さん任せてください! 数々の爆死を経験してきた私には一片の隙もないですよ!!」

「先輩、それは隙しかないです」

 

 なぜか自信ありげな立香の姿に、周りの期待度は一気に低下した。所長が彼女をEチームに追いやった判断は英断だったに違いない。

 ロマンが両手で大きく抱えるほどのダンボール箱を持ってくる。その中には、まばゆいばかりの光を放つ聖晶石が詰め込まれていた。

 

「立香くん、これが我々が用意できる最大限の聖晶せ──」

「近くのコンビニでiTunesカード買ってきますね」

「そのくだりはもうやったから!!」

 

 わめくロマンを尻目に、立香はダンボール箱を持ち上げる。

 すると、彼女は遠慮なく動力炉にその中身を全てぶち撒けた。入り切らなかった石が横からバラバラとこぼれ落ちていく。その光景にロマンは目を白黒させた。

 

「うわああああボクが苦労して作った聖晶石が!! 何の感慨もなく呑み込まれていくゥゥゥ!!」

「え? こんなのすぐに無くなるものですよ? そう……まるで溶けていくように」

「り、立香ちゃんがトリスタンに出奔された時の王くらい悲しい目をしてやがる……!!」

「大袈裟すぎだろ」

 

 召喚陣が光を放ち、円の中心に五つの麻婆豆腐を顕現させた。場は一瞬で静まり返り、立香は無感情で言った。

 

「……ナニコレ。もしかして私、麻婆ピックアップガチャとか引かされてない?」

「ま、まだまだ序盤です。これくらいの確率の偏りはあると思いますよ」

 

 マシュのフォローを受け、再度召喚が行われる。

 先程とは段違いの輝きが実験場を満たし、収束する。召喚陣は濃い煙に包まれており、いくつかの人影がうかがえた。

 少なくとも麻婆豆腐ではない。そのことに、この場の誰もが期待せざるを得ない。ノアとダ・ヴィンチは、こくりと頷きながら、

 

「流石にこれは来たな。天才の俺の目には分かる」

「ふっ……やるね、ノアくん。キミも私と同じ結論に至ったか」

「能力だけなら信頼できる二人のお墨付き──! これは神引きしちゃいましたかね!?」

 

 立香の顔が晴れやかになる。確率に偏りがあるのなら、良い方向に傾くことだって十分あり得る。ガチャには希望も絶望もあるのだ。

 もうもうと立ち込める煙が徐々に晴れていく。四つの人影が前に進み出てきて、口上を述べる。

 

 

 

 

 

「「「「──優雅たれ」」」」

「なんでだあああああああああ!!! 私何か悪いことしたっけ!!?」

 

 

 

 

 

 少女らしからぬ絶叫をあげて、立香は頭を抱え込んだ。善人だろうと悪人だろうと、確率という名の悪魔は平等なのである。

 マシュは半ば諦観をしつつ、つぶやくように言う。

 

「紅茶の供給量が増えますね」

「ふっふっふ、そこは安心したまえ。私のラボで五人のおじさんをひとつにまとめられるから」

「そんな悪の組織みたいなことを言われても……」

 

 結局、その後も召喚を続けるものの、めぼしい戦果はなかった。

 使い道のないガラクタから、雷をまとった牡牛まで、英霊以外の多種多様な存在が実験場にうず高く積み上げられていく。

 しかし、そんなことで止まる立香ではなかった。無残な結果を見せつけられる度に奮起し、負けじと召喚を行う。

 そしてその末に、

 

「ガチャァァ!! 10連ガチャァ!! いっぱいっぱい回すのぉぉ!! 溶けるぅぅ!! 溶けちゃうううう!!!」

 

 この世で最も悲しい生き物がそこにいた。

 もはやダンボール箱にはひとつの聖晶石も残っていなかった。立香は狂乱しながら箱の中をまさぐり、けたけたと笑い出す。

 

「アッハハハハ!! もう終わりだああああ!! 部屋に戻ってふて寝してやるうううう!!」

「せ、先輩が壊れてしまいました!」

「元からあんなんだろ」

 

 立つ気力も無くなったのか、立香は床をカサカサと這いずりながら実験場を出ていこうとする。人間はどこまでも惨めになれる生き物なのだ。

 その時、召喚サークルが淡く発光する。

 十中八九、麻婆豆腐だろうと踏んだ立香たちは粛々と撤収を始める。が、その光量は加速度的に増加していき、ついには広大な実験場を隙間なく照らす。

 光の質も量も、今までとは比べ物にならない。立香はへたり込んだまま、その光景を呆然と眺めていた。

 こつり、と硬質な足音が響く。

 漆黒の装束に身を包んだ、白き乙女。

 周囲に撒き散らしていた憎悪は鳴りを潜め、研ぎ澄まされた刀身のような静かな威厳と美しさが少女を飾り立てる。

 旗を振り払い、彼女は怜悧な視線を立香に注いだ。

 

「サーヴァント、アヴェンジャー。召喚に応じ参上しました。……どうしました、その顔は」

「いえ、狙い通りのガチャが引けると嬉しさよりまず安堵感が」

「はあ!? せっかくこの私が来てやったのよ!? もっと喜びなさい!!」

「またEチームのメンバーが増えたか。俺の部下(げぼく)として歓迎してやる」

「誰よアンタは!?」

 

 登場早々、マスターたちに翻弄されるジャンヌ。ノアは召喚サークル上の麻婆豆腐を持ってくると、彼女に差し出した。

 

「食え。俺が今決めたEチーム入隊儀式だ」

「……何だかオチに使われそうな雰囲気ですけど、まあいいでしょう」

 

 ジャンヌはスプーンでそれを掬うと、口に運んだ。

 

「ギャーッ! 熱っ! 辛っ! 痛ぁ!? 火刑の時と同じくらい苦しいんですけど!!」

「よくやった、これで俺たちは仲間だ!」

「そのニヤケ面で言われても説得力がないのよ! 燃えろぉぉぉおおお!!」

「おい待てそれは洒落にならねえだろ!」

 

 その後小一時間、カルデアは消火作業に追われた。最後は燃え尽きて灰になったノアが発見され、事なきを得たのだった。




クラス:バーサーカー
真名:マクシミリアン・ロベスピエール
属性:秩序・悪
ステータス:筋力 C+ 耐久 C 敏捷 D 魔力 E 幸運 D 宝具 E〜A++
クラス別スキル
『狂化:A』……意思疎通は可能だが、力業以外で彼の行動を制御することは無理に等しい。
固有スキル
『カリスマ:D』……その甘いルックスからパリ中の婦女から支持を集めていた。女性に対してはCランク相当の効果を発揮する。
『テルール:EX』……テロリズムの語源となったフランス語。それを最初に行った象徴として、ロベスピエールはこのスキルを有する。大衆の統制、煽動に関して絶大な効果を発揮する。
宝具
『最高存在の祭典:理性の女神』
ランク:E〜A++ 種別:対人〜対軍宝具
ラ・フェット・ドゥ・レトール・シュプリーム。ロベスピエールがキリスト教の唯一神の代わりに信仰すべきとした理性の女神。それを讃える祭典が宝具化したもの。
祭典の規模、集めた人口と信仰心の量によって理性の女神は強さを変える。作中で登場したのはCランク相当の女神。竜の魔女という恐怖の対象がいたために、ひとつの都市であってもCランク規模の女神を顕現させることができた。
もし全世界規模の祭典を行うことができたなら。理性の女神は全人類の思考そのものを塗り替え、新たな神話体系をも打ち立てることができるだろう。


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第二特異点 薔薇の皇帝 永続狂気帝国・セプテム
第15話 ローマvsローマvsローマ


二章は原作と大幅に変えてみようと思います。よろしくお願いします。


 カルデア、管制室。

 その入り口の前で、ロマンは深呼吸をした。

 第二特異点における聖杯探索。今日はそのレイシフトを行う手筈になっている。前回と同じように、この日のために職員たちは睡眠時間を削りながら戦ってきた。彼らの気力は十分、心持ちは真剣そのものである。

 しかし、ロマニ・アーキマンという男は知っている。Eチームにシリアスな出発を求めることなど到底不可能だと。

 それを踏まえて、彼はできる限りの下準備を行った。

 今回のレイシフト先は、西暦60年の古代ローマ帝国。賛否両論飛び交う皇帝ネロの治世がなされた時代であり、西洋史特にキリスト教史に多大な影響を与えている。

 ロマンは数日前にノアと立香(りつか)を呼びつけ、ネロについての講義を実施した。ベルばらでフランス史を勉強するという悲劇を引き起こさないためだ。

 軽く咳払いをして、彼は管制室に入った。

 その中では、ノアと立香がジャンヌの両脇を固めて何やらボソボソと囁いている。

 

「皇帝ネロってのはとにかくキリスト教が大嫌いで、信者を見るやいなや捕まえて拷問にかけてたらしい。ああいや、おまえには関係ないだろうがな」

「あ、当たり前じゃない。神なんて信じて……ませんから。むしろ気が合いそうで安心したわ」

「でもジャンヌさん、聞くところによると、ネロ帝はかなりの好色だそうですよ。お眼鏡に適ったらきっと……」

「そそそそれがどうしたのよ!? 逆に手玉に取ってやるわよそんなやつ! 竜の魔女ナメないでちょうだい!!」

 

 人から教わった知識を悪用する、Eチームのマスター(げどう)たちがそこにいた。決して嘘は言っていないところが、さらに質の悪いコンビである。

 あからさまに動揺した表情をするジャンヌ。サディストのノアにとっては格好の獲物であり、立香にとっては愉悦の対象であった。

 マシュは笑いを堪えながら、形だけ止めに入る。

 

「お二人とも、純粋なジャンヌさんをからかうのは止めてあげてください」

「アンタも面白がってんじゃないわよ! 焼きなすびにしてあげましょうか!?」

「な、なすっ!? よりにもよってわたしが一番気にしてることじゃないですか! 最大のライバルじゃないですか! 先輩、どうにか言ってあげてください!」

「私としてはマシュがそこまでなすびに対抗心を持ってたことが驚きだけどね」

 

 いよいよ混沌としてきた状況を、ロマンは鎮静させようとする。が、その前にペレアスが動いた。

 彼は気取った顔でジャンヌとマシュの間に割り込む。

 

「まあまあ、落ち着け。みんなジャンヌちゃんが来て、まだはしゃいでるだけだ。まともに相手してたらキリがねえ」

「……なんか、アレね。年寄りが若作りしてるみたいで違和感があるわ」

「ぐはあああ!! 確かにジジイになるまで生きたけどよお! せっかく若い姿で召喚されたんだから若作りくらいさせてくれ!!」

「あの〜、そこまでにしてもらっていいかな? 今のところ悲しみしか生まれてないし」

 

 悶絶するペレアスに見かねたロマンが止めに入る。ジャンヌの言葉の刃は、少なくともペレアスとマシュの両名の心にしこりを残したのだった。

 それはそれとして。ようやく人の話を聞く態勢になったEチームを前に、ロマンはレイシフト前最後のブリーフィングをする。

 

「今回も適当な霊脈を見つけて召喚サークルを設置。技術部のおかげで中規模の霊脈からでも構築できるようになったからね。後は高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応しよう」

「要するに行き当たりばったりってことですね!」

「まあ計画なんて立てたところで意味がないのは間違いねえ。俺は常に想像を超えていく天才だからな」

「下回るの間違いだろ」

「アフォーウ!」

 

 一部始終を覗いていた謎生物のフォウくんは、ペレアスに同意してそこはかとない人語を発した。

 ノアとフォウくんの視線がバチバチと火花を散らす。両者はまさに犬猿の仲であり、存在を認識すれば仕留めにかかるポケモントレーナーのような関係が築かれている。

 だが、ノアは即座に掴みかかるようなことはせず、ただ指を差して言った。

 

「おい、コイツをカゴかなんかにブチ込んどけ。文字数が嵩張るんだよ。あと俺たちの出番が減る」

「フォウフォウフォフォフォウフォーウフォウ!」

「ここぞとばかりに喋り散らかしてんじゃねえええ!! 今回ばかりはおまえの密航を許してたまるか!!」

「フォーウ!」

 

 もみくちゃに格闘するノアとフォウくん。魔術をかなぐり捨てた男の姿がそこにあった。おそらく人類最初の動物との戦いもこんな感じだったのだろう。

 それを立香たちは遠い目で眺め、いそいそとコフィンに退避した。時刻を見れば、レイシフト実行の時間が差し迫っている。

 そんなことも知らずにプロレスを繰り広げるノアの背後から、ペレアスの鉄拳が脳天に下された。

 ペレアスは気を失ったノアとフォウくんをコフィンに放り込むと、何事もなかったかのように、

 

「この馬鹿が復活しない内にレイシフトやってくれ」

「ありがとうペレアスさん! じゃあみんな、頑張ってくれ!!」

 

 ロマンの手により、レイシフトが実行される。意識が飛んでいく間際、ジャンヌは呆れた顔で立香に問う。

 

「ねえ、アンタたちっていつもこうなの?」

「そうですね。でも大丈夫です! Eチーム最後の希望と言われたこの私がいるんで!」

「……今のでもっと不安になったわ」

 

 

 

 

 

 

 ──西暦60年、ローマ。連合首都改め、()()()()()()()()首都。

 

「……という訳で、僕たちは抜けさせてもらうよ。レフ・ライノールは胡散臭すぎる」

 

 紅顔の美少年。しかして王の風格を纏う若き戦士は、その美貌に好戦的な笑みをたたえていた。

 真っ向からの宣戦布告。大変恰幅の良い体型をした皇帝は、玉座より見下すように言葉を放つ。

 

「ネオローマ連合に降るか、幼き征服王よ。だが良い。共に帝国を築くことも考えていたが、貴様と刃を交えるほうが楽しみだ」

 

 面と向かって裏切りを宣言されてもなお、彼の余裕が揺らぐことはなかった。その理由は二つ。生来よりの気質と、背後に輝く聖杯の存在である。

 だが、例え聖杯の威容がなくとも、彼の表情が陰ることはなかっただろう。

 皇帝たる者、孤高は必定。

 荒れ地にひとり立とうとも、王は王として振る舞わなくてはならないのだ。

 そこで、玉座の側に侍っていた赤いコートの男が素っ頓狂な声をあげる。

 

「えっ、そんな簡単に逃がして良いんですか? どう考えてもここで殺しておいたほうが得でしょう。サウルを見逃したダビデみたいですねえ。その懐の広さに、この(わたくし)ただただ感服するばかりです」

「黙れ。詩人が口を挟んで良い場面ではない。というか、先日兵士と打ち合って負けていただろう。サーヴァントの癖にどういう了見だ貴様」

「…………ちなみに、孔明(こうめい)さんはどうするおつもりで?」

「おい無視するな皇帝だぞ」

 

 赤いコートの男が視線を投げた先。孔明と呼ばれた長髪の男性がいた。が、その姿は多くの人が想像する、かの名軍師のイメージとは全くかけ離れていた。西洋人然とした見た目をしており、見るからに苦労人の相が出ていた。

 彼は不機嫌そうな顔で、頭を掻いた。おまけにため息までついて、感情を抑えるように首を振る。

 

「フ○ック。人類史に名を残す英霊が、まさかこんな人物だったとは……世界中のキリスト教徒が泣いて悲しむぞ」

「言われてますよ、カエサルさん」

「「お前のことだ!!!」」

「……君たち、なかなか相性が良さそうだね」

 

 困ったような少年の声。孔明の答えは最初から決まりきっていた。なぜなら、彼が仕えるべき王はただひとりしかいないのだから。

 彼は幼き征服王の元へ歩み寄ると、玉座に向き直る。

 

「私もネオローマ連合に降ろう。次に会うのは戦場だ」

 

 その発言に、ふくよかな皇帝は意気揚々と笑い上げた。

 

「孔明、お前もか!」

「「「それが言いたかっただけだろ!!」」」

 

 

 

 

 

 

 カルデア一行がレイシフトした地点は、どこかの市街だった。空には光輪が輝き、生物が住まう大地を高々と睥睨している。

 それぞれの建物の軒先には日除けの布が渡され、その下に果物などの商品を並べていた。ここが市場であると認識したのも束の間、数え切れないほどの人の波が一行の目の前を通り過ぎていく。

 街のど真ん中にいきなり現れた妙な風体の連中である一行を無視して、人々は一心不乱に走り去る。その中には幼い子どもを抱えた母親や、杖をついた老人までもが混ざっていた。

 ノアと立香はそんな異様な光景に要領を得ず、首を傾げる。

 

「なんだこいつら、祭りでもやってんのか?」

「マラソン大会じゃないですか? スキップで切り抜けようとしたら、いつもより疲れた思い出があります」

「お前ら、あっち見てみろ」

 

 呆れた様子のペレアスに促され、二人は人々の走っていく方向とは反対側に目を向けた。

 おそらく街の外周をぐるりと囲んでいるであろう城壁。その辺りから黒い煙が空へ立ち込めており、無数の矢玉が降り注いでいる。

 視線を戻せば、武装した兵士の一団が人の流れに逆らって城壁へ駆け付けていた。少なくとも、これが祭りや大会ではない異常事態であるのは確かだ。

 ペレアスたちサーヴァント陣からの無言の圧力が突き刺さる。ずっしりと纏わり付くそれを振り払うように、ノアと立香は声を張り上げた。

 

「……うおおおお誰だか知らねえが許せねえェェェ!! いくぞおまえら! 俺たちでこの街の危機を救ってやる!!」

「いきなり土壇場だけどやるしかない! マシュ、ジャンヌさん、これは人理を守る戦いだよ!!」

「今更取り繕っても遅えよ!」

「こんな時でも平常運転なようでわたしは安心しました」

「アンタら無駄口叩いてる暇があるなら走りなさいよ! 馬鹿なの!?」

 

 カルデア一行はドタバタと走り出す。

 幸いにして街への被害はほとんど出ていなかった。火種が燻っていたり、投石器から撃ち出された破片が建物に刺さっている程度であった。

 城壁への道中、彼らはあるものを目にする。

 例え遠くからでも分かる、特徴的な形状。現代で見られる姿とは異なり、完全な形を残した闘技場が屹立していた。

 

「コロッセオだ! じゃあここはローマで、あそこにポルナレフが……」

「ポルナレフ? どうしてフランス人の名前が出てくるのよ」

「それを説明するには60巻くらいの内容があるんで……カルデアに帰ったら図書館に行きましょうね!」

「そ、そう。別に楽しみな訳ではないですが、頭に入れておきましょう」

 

 そうこうしている内に、彼らは城壁付近に到達する。

 鳴り響く轟音と戦士の咆哮。オルレアンの決戦でも体験した戦場の圧迫感。その空気は肺に重くのしかかるようだった。

 堅く閉ざされた城門。壁の上には弓兵が配され、外にいるであろう敵に向けて矢を撃ち込んでいる。

 戦況自体は悪くはないが、そもそもこの時期にローマが攻撃されているという事態そのものが異常だ。人理崩壊の影響に違いないだろう。

 ペレアスとジャンヌの声が重なる。

 

「「()()()()()」」

 

 反応したのは、マシュだった。

 

「……外に兵力を回しているのでは?」

「だとしても城門は固めるでしょう、普通。走ってきた感じだと、配置が間に合ってない訳でもなさそうですし」

「それか他に数を割いてるかだな。そもそもオレたちがここまで入り込めてるのも人手が少ない証拠だ。とにかく外に出てから───」

 

 ペレアスの続く言葉は、一際大きい破壊音にかき消された。すぐそばの城門が吹き飛び、向こう側から真紅のドレスを纏った少女が地面を転がってくる。

 敵ではない。誰もがそう思った。まさか自分の街の門を背中で破るという珍奇な真似をする人間は、この世にいないだろうからだ。

 ならば、この場で刃を差し向けるべきは。

 破られた門の残骸を腕の一振りで消し飛ばし、黄金の鎧に身を包んだ男は現れる。

 死肉を求めて彷徨うかのような相貌。万軍に向けて余りある狂気的な殺意は、今やたったひとりの人間に注がれていた。

 真紅のドレスの少女は自らの宝剣を杖に立ち上がる。可憐な容貌は土に塗れてなお健気にあり、双眸には澄み切った闘志を宿す。

 彼女はカルデア一行に気付くと、緊張感に満ちた声音で語りかける。

 

「そこの者共、ここは危ない。疾く離れよ!」

 

 注意が逸れたその瞬間を、狂戦士は見逃さなかった。

 跳躍、急降下。放たれた一本の矢の如く、男は強烈な拳撃を繰り出す。

 致命傷を与えるに足る一撃。まともに食らえば五体は四散するだろう威力を秘めたそれは、しかして、少女に当たることはなかった。

 地面に突き立つ黒の円盾。全力の拳を前に揺らがぬその有り様は、小さな要塞が現出したかのようであった。

 ジャンヌの手によって、炎の杭が放たれる。

 狂戦士はマシュの盾を足蹴にそれを躱し、低く唸った。攻撃を仕掛けて来ないのは反撃を警戒してのことだろう。

 ぽかんと口を開けてそれを眺めていた少女は、明るい笑顔を輝かせた。

 

「おお、おおおお!? これはもしや余が夢にまで見た両手に華の楽園ではないか!! どうだ、余の側仕えになる気はないか? 言っておくが後悔はさせぬぞ、贅を尽くした饗宴を毎夜開くと約束しよう!」

「その口振り、もしかして貴女は……」

 

 彼女はマシュの問いかけに、大きく胸を張って答える。

 

「うむ、余はローマ帝国第5代皇帝ネロ・クラウディウスである!」

 

 その時、戦場の喧騒までもが静まり返ったように、場の空気は膠着した。

 ジャンヌは途端に顔色を青ざめさせると、目にも留まらぬ速さで立香の背中に回り込んだ。

 

「ね、ネロって言ったらキリスト教徒を取っては食い殺す悪逆非道の残虐皇帝じゃない!」

「んなっ!? 確かに倒錯的な趣味があることは自覚しているが、猟奇的な性癖はないぞ!? サトゥルヌスでもあるまいし!」

「リーダー、やりすぎちゃいましたね。ジャンヌさんの中で恐怖が増大しすぎてますよ」

「その前にネロ帝の性別が違うじゃねえか。古今東西の歴史書の記述を書き直す必要があるぞ」

「んなことよりさっさと門を塞ぐべきだろ! 敵兵がなだれ込んで来てんぞ!」

 

 ペレアスの切迫した声を皮切りに、狂戦士はネロへと躍りかかった。が、彼の攻撃はことごとくマシュの防御の前に阻まれる。

 しかし、危機を迎えていることも事実だ。ローマの防御網に穴が開いた以上、そこから敵が侵入してくることは間違いない。

 その陥穽を塞ごうと戦力を集中させたところで、別の場所から突破されるということも考えられる。現状は後手に回るしかない戦局だった。

 門へ飛び出そうとするペレアスを、ノアは手で制止する。

 

「待て。確かにおまえが行けば止められるだろうが、それよりも良い策がある」

「……聞いてやるよ、言ってみろ」

「門を塞げばいい。そうすりゃ敵は外と分断されて、俺たちは奴らを囲んで叩ける。数的有利を取った上でな」

「本末転倒って言葉知ってるか?」

「本末転倒、上等じゃねえか。それを可能にするのが魔術師だ。マーリンを思い出せ」

「アイツのことなんか思い出したくもねえよ! 嫁が湖の乙女ってだけで何回絡まれたことか……!!」

 

 ノアはトラウマに苛まれるペレアスを尻目に、立香に合図する。彼らは人差し指に魔力の光を灯した。

 

藤丸(ふじまる)、おまえが一番得意なアレでいく。文字に使う魔力は最低限で良い。声に魔力を乗せることを意識しろ」

「はい! 修行の成果を発揮してみせます!」

 

 宙に文字が刻まれる。

 防御の意味を示すルーン。その利便性故に二人が幾度か使用してきた魔術だった。

 

「「──eihwaz(エイワズ)!」」

 

 立ち現れる防壁。労力を要するまでもなく、薄青色の魔力壁が破られた門を閉ざす。

 余波とはいえ、ヴラド三世の攻撃を防いだこともあるその防壁は、文字通り誰ひとりとして通すことはない。

 混乱した敵兵の中にペレアスは躍り出ると、剣を投げ捨て、鞘を振る。

 人間の目には残像すら捉えることの叶わぬ剣技──使っているのは鞘だが──は、十数人の敵を一度に昏倒させた。

 ネロは感嘆の声を漏らす。

 

「魔術師に、これほどの技を持つ剣士──これは、困った。全員欲しいぞ!」

「なんか目つけられちゃいましたよ、リーダー!」

「ああ、流石ローマ皇帝だ。目が高い。ただし俺の値打ちは値千金じゃ済まないがな!」

「むう、なんと強欲な。しかし欲だけなら余は地上の誰にも負けない自信がある! 値打ち物は何としてでも手に入れたくなるのが浪費家の常だ!」

「すごい…! 全く自慢にならないことをあんなに堂々と言うなんて!」

 

 そう言って、立香はおどけた。

 ネロ帝はドムス・アウレアという黄金宮を建築したほどの浪費癖がある皇帝としても知られている。性別はともかくとして、歴史書の記述は間違っていなかったらしい。

 軽口を叩き合えるほどに、戦況はネロたちの有利に傾いていた。ペレアスによって敵兵は無力化され、サーヴァントの数でも上回っている。

 黄金の鎧の男の周囲をローマ兵たちが取り囲み、武器を向ける。事実、彼に逃げ場は残されていなかった。

 太陽は彼方の地平線に沈みかけていた。東の空は既に暗い色に染まっている。

 白きかんばせを覗かせる月を望み、男は口の端を歪めた。

 

「『我が心を喰らえ、月の光(フルクティクルス・ディアーナ)』!!」

 

 地上に射す、月女神の狂光。

 ──第3代ローマ皇帝カリギュラ。暴君へと堕した王。史にその悪名と悪行を刻んだ狂気の皇帝、その宝具の発露であった。

 西洋では古くから、月が人を狂わせると考えられていた。ギリシャ神話のアルテミスを発端としたその信仰は、狼男や魔女のモチーフに色濃く跡を残している。元々地母神であったアルテミスやアテナの信仰は主神ゼウスよりも古く、キリスト教が成立しても完全に消えることはなかったのである。

 ともかく、月は古代ヨーロッパにおいて、魔術的な存在として畏敬を集めていたのだ。

 カリギュラの宝具はまさしく狂気の月の体現。

 人を狂い落とす月光の投射。

 それを浴びた兵士たちは、目の色を変えると瞬時に殺し合いを始める。

 見境なく剣を振るい、武器を無くせば地団駄を踏むように暴れる。騒然とする集団の中をカリギュラは駆け抜け、ひとっ飛びに城壁を越えた。

 狂気に落ちたとはいえ、彼の勘は狂っていなかったのだろう。その引き際は華麗ですらあった。この切り札さえあれば、単騎で軍を相手にすることも容易い。

 必然、ペレアスたちは狂乱する兵士を鎮圧するしかない。この騒ぎを放置するという選択肢は、彼らにはなかった。

 不意に白刃が立香を襲う。

 刃が到達する寸前、それを振るった兵士の体が地面にすり下ろされるように吹き飛ばされた。

 ジャンヌとノアは互いに目を合わせて、

 

「……サーヴァントの筋力で顔面パンチはまずいだろ。R-18Gにするつもりか?」

「強化した足で鳩尾キックかましたアンタに言われたくないわよ。鎧がひしゃげてるんですけど?」

「どちらもやり過ぎなので反省してください! 先輩、怪我はありませんか!?」

「う、うん。それより他の人を──」

 

 そう言いかけて、口をつぐんだ。

 ネロとペレアスの働きにより、鎮圧は終えていた。傷ひとつ負うことも、殺すこともなく、兵士たちは地面に倒れ込んでいる。

 ネロは楽しげな表情で切り出す。

 

「其方たち、良い働きであった! 今夜は余の館でもてなそう!」

 

 なんかそういうことになった。

 

 

 

 

 

 

 豪勢の限りを尽くしたような酒宴の中で、ネロは語った。

 現在、ローマは三つに割れている。

 ガイウス・ユリウス・カエサル率いる超神聖ローマ帝国と、神祖ロムルス率いるネオローマ連合。元はひとつの連合であったものの、ロムルスの離反によって分裂したという経緯だ。

 両国共に猛将、名将揃いの強軍であり、ネロ率いるローマ帝国は苦戦を強いられてきた。

 ローマに兵が少なかった理由は、両国の侵攻を食い止めるために軍が出払っていたからだという。結果は撤退することになったが、損害はほとんど見られない。

 

「『これで人理崩壊の原因が分かったね。超神聖ローマ帝国とネオローマ連合、この二国の出現は本来の歴史にないものだ』」

「ネオローマ連合の将、諸葛孔明の天下三分の計とも言われているな。つまりローマ三国志の幕開けである!」

 

 当然、カルデアとしてはローマ帝国に助力して、カエサルとロムルスを討つことになるだろう。

 その時、示し合わせたようにローマ軍の凱旋が行われた。先頭には二頭立ての戦車を駆る赤髪の女性と、全身に傷跡を残した筋肉(マッスル)の塊がいた。

 ネロは彼らを呼び寄せると、まるで自分のことを歌い上げるかのように紹介する。

 

「ブーディカとスパルタクスだ! 余の軍にはもはや欠かせぬ将軍だぞ!」

 

 ブーディカ。その名前を聞いた瞬間、ペレアスは口に含んでいた酒を吹き出した。

 

「ぶ、ブーディカぁ!? 俺たちの尊敬する大先輩じゃねえか!! なんでローマに加勢してんだ……してるんですか!!」

「うーん、まあ心変わり? 今はローマの全部を憎んでるわけじゃないから。もしかしてキミ、同郷の英霊なのかな?」

「アーサー王と共にブリテンを護った円卓最強の騎士、竜殺しのペレアスと申します」

「へえ、そうなんだ!キミみたいな若い子に尊敬されるのはとっても嬉し───」

 

 平然と嘘をぶちかましたペレアス。そうとも知らずに、にこにこと笑うブーディカの言葉を、ノアたちは遮る。

 

「おい騙されんな! こいつ盛ってやがるぞ!」

「そもそもペレアスさんの方が歳上ですよね!?」

「知りようもない情報を盛るとか詐欺師の手口ですね」

「どこまでも浅ましいわね。半径10メートル以内に近寄らないでくれます?」

 

 という事件があったものの、ブーディカたちが持ち帰った情報は非常に大きかった。

 超神聖ローマ帝国とネオローマ連合の動向を把握するため、遠征軍は撤退を演じながら両国に間諜を送り込んだ。

 それ故に少ないとはいえ被害を受けたが、代わりにある機密を入手する。

 ローマから北西の地、メディオラヌムにネオローマ連合が侵攻する動きを見せ、超神聖ローマ帝国が対抗すべく軍を編成しているという事実。

 上手く行けば、両軍の不意を突ける貴重な情報である。しかし、ひとつ看過できない問題があった。

 その情報源が、皇帝カエサルの側近である赤いコートの男だということ。わざと機密を流すことで、ネロたちを釣り出そうとしている狙いがあるかもしれない。

 ネロは顎に手を当て思案すると、高らかに宣言する。

 

「決めた、全軍で攻めるぞ! 我らは貴重な協力者を得た。その情報が伝わらぬ内に奇襲すべきだ! ブーディカ、前線には誰が詰めている?」

「エリザベートちゃんかな。あたしは止めておいたほうが良いって言ったんだけど」

「う、うむ。あやつの歌声は歌の女神(ミューズ)にも劣らぬほどだが……なんだか急に心配になってきたぞ!?」

 

 ネロのエリザベート評を聞いて、立香とマシュは驚愕した。

 

「マシュ、今聞き捨てならない言葉が聞こえたんだけど気のせいかな?」

「いえ、先輩は間違ってません。耳からこの世全ての悪を注がれるようなあの歌声を気に入るのは異常者しかいません」

「どんな歌声なのよ!?」

 

 ローマはネロを大将に軍を興すこととなった。エリザベートと合流した後、両敵軍の開戦を見計らって突撃する計画である。

 そして、カルデア一行の待遇については、ネロに委ねられた。

 

「ペレアス、マシュ、ジャンヌの三名は我が客将として迎え入れる。マスターの指示のもと活躍してくれることを祈っておるぞ!」

「じゃあ、私とリーダーも?」

「二人には特別な地位を用意してある。ノアには宮廷魔術師、立香には戦略と戦術を司る軍師の役職を授けよう!」

 

 宮廷魔術師と軍師。ネロの采配による破格の待遇に、二人の反応は対照的だった。

 ノアは微笑をたたえて酒を傾け、

 

「宮廷魔術師か、悪くねえ。キャメロットで言うマーリンの位置だな」

「いや最悪なんだが。この世で一番権力を持っちゃいけねえのがお前だからな」

「男の嫉妬ほど見苦しいもんはねえなペレアス! おまえは所詮この俺の駒なんだよォォォ!!」

「『ああ、ローマ兵が不憫すぎる……』」

 

 立香は床に四つん這いになって落ち込んでいた。

 

「お、終わった……軍師なんてファイアーエムブレムでしかやったことないのに……戦術とか包囲殲滅陣くらいしか知らないよ」

「むしろなぜ包囲殲滅陣を知っているんですか……?」

 

 ジャンヌは考えることをやめた。何より、自分がツッコミ役に回らなければいけないことに絶望した。

 かくして役者は出揃い、舞台は次の場面へ。

 その脚本を執るのは皇帝か悪魔か、それとも。ただ、舞台袖にはひとりの詩人が劇の開始を待つばかりであった。

 



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第16話 ローマ戦線異状なし?

 ローマ街道。紀元一世紀の代物とは思えないほど長く続く道路の上に、カルデア一行はいた。その顔ぶれの中にはネロとブーディカ、スパルタクスが加わっている。

 いずれも高名な英雄たちであり、並大抵の敵では太刀打ちもできないだろう。それは裏を返せば、超神聖ローマ帝国とネオローマ連合が強敵ということになるのだが。

 ところで、人間と馬の歴史は長い。紀元前4000年辺りから既に馬の家畜化は成されており、以降馬は欠かせない存在となった。

 だが、鐙が発明されたのは西暦300年頃。その時まで、人類は足をぶら下げながら馬に乗っていたのだ。アレキサンダー大王が率いた騎兵軍団の恐ろしさが語られるのは、そのためであるとも言えるだろう。

 ジャンヌは馬の首にしがみつきながら、声にならない悲鳴を発した。

 

「こっ、このっ…! 言うこと聞きなさいよこの駄馬!」

 

 当然、人間の言葉が馬に通用するはずがない。何食わぬ顔で、先にいる仲間たちを追っていく。

 ジャンヌの馬の前方には、ちょうどペレアスとマシュがいた。二人は彼女のような無様を晒すことはなく、見事に馬を乗りこなしている。

 ペレアスは苦笑しながら、

 

「馬の腹を足全体でしっかり挟んで、背筋を立てて手綱を握れば落ちることはないぞ?」

「この状態から背筋立てるなんてできるわけないでしょう!? 絶対に落ちるんですけど!」

「ジャンヌさんは騎乗スキルを持っていないんでしたね。いざという時に便利ですよ? 身分証明書や携帯電話の機種変更等々……」

「なによその運転免許証みたいな扱いは!?」

 

 ジャンヌが喚いていると、その斜め後方からノアがやってくる。彼は裸馬の背中の上に寝そべりながら、ジャンヌを嘲笑した。

 

「駄馬すら乗りこなせないとは無様だなァ! 竜の魔女って言ってもそんなもんか!」

「馬鹿みたいな乗り方してるアンタに言われたくないわよ! ってかどうやってるのよそれ!?」

「馬ってのは人間を乗せるように調教された生き物だ。ましてや俺にひれ伏すのは当たり前と言って良い」

「どうしてリーダーはそんなアホな理屈を自信満々に語れるんですか?」

 

 そもそも質問に答えていないノアに、マシュは呆れながら言った。結局、ジャンヌはブーディカの戦車に乗せてもらうことになった。竜の魔女として飛竜(ワイバーン)の背に乗っていた時は無理をしていたのかもしれない。

 立香(りつか)は彼らのやり取りをどこか上の空で聞いていた。馬に揺られながら、背後を振り返る。今日何度目になるか分からない行動だが、それが落ち着きを見せることは無さそうだった。

 街道をずらりと埋め尽くす人の群れ。彼らはみな一様に武装しており、規則正しく隊形を組んでいる。その光景には味方ですら威圧感を覚えるほどだ。

 つまりは、行軍の最中だった。そのことを認識するたびに体にのしかかる重圧が高まり、気分が落ち込む。オルレアンとは違い、自分が指揮官という立場にある感覚はいささか慣れない。

 昨晩ブーディカたち遠征軍からの情報を得たネロは、夜通しで出兵の準備を整えた。全ては超神聖ローマ帝国とネオローマ連合の戦を奇襲するために。彼女の本気がうかがえる采配である。

 自分の過ちひとつで、それらが無為に終わる可能性がある。ブーディカは、思い詰める立香にそっと寄り添った。

 

「何か思い詰めてる感じだね。その悩み、お姉さんに打ち明けてみない?」

「良いんですか? お言葉に甘えちゃいますよ?」

「もちろん。どーんと任せてよ、こういうの好きだからさ」

「じゃあ遠慮なく……そもそも、なんで私が軍師なんでしょうね?」

 

 彼女の疑問に、ブーディカは頷く。

 

「確かに、あたしもそれは思った!」

「えっ!? ここは良い感じにフォローしてくれる流れじゃないんですか!? せっかくシリアスな雰囲気になれそうだったのに!」

「その発言がシリアスを終わらせてるじゃない」

 

 ジャンヌの呟いた言葉が、刃となって立香の背に突き刺さる。吐血するように悶える彼女の姿にブーディカはくすりと微笑んだ。

 

「まあネロなりの期待の現れだと思って気楽に構えればいいさ。あれでかなり不器用だからね、褒美の取らせ方なんて分かんないんだよ」

「アンタはひとりで悩むようなタマじゃないでしょう。なすびなり私なりに頼っておけば良いのよ。あのアホ魔術師は論外だけど」

「ジャンヌさん、そういうこと言うとリーダーが来ますよ」

 

 立香の発言通り、どこからともなくノアが姿を現す。今度は馬の背中の上で直立しながら、彼女たちを見下ろしていた。

 ノアは鼻を鳴らすと、勝ち誇ったように言う。

 

「〝すぐ自分だけの問題にするのはずるい〟……だったか? そっくりそのままおまえに返してやる。大人しくこの俺に助けられとけ、みすぼらしい捨て犬のようにな!」

「もしかしてこれがツンデレってやつなのかな?」

「ブーディカさん、私はこんな邪悪なツンデレ認めませんよ! せめてジャンヌさんくらい可愛らしくなってもらわないと……」

「私に流れ弾飛ばすのやめてくれません?」

 

 立香は体にかかる重圧が軽くなるのを感じた。彼ら全員の命は、自分だけが背負っているのではない。ノアたちにそれを再認識させられたからだ。

 そうして初めて、周りを見る余裕ができた。今までは後ろばかりに目を向けていたが、最前列に位置するネロの横顔が視界に入る。

 金色の髪、宝石の瞳に雪のように白い肌。表現としては陳腐だが、同性でも見惚れるほどの美貌に違いはない。

 胸の内に霧がかかるような既視感。記憶の糸を辿り、ようやくその正体に辿り着く。

 

「ペレアスさん。ネロさんってアーサー王に似てませんか?」

「……言われてみれば確かに。王とは雰囲気も性別も違うから気付かなかったのかもな」

「『あの〜、ペレアスさん。非常に申し上げにくいんですが……』」

 

 ロマンが言いづらそうに通信を繋いだ。立香とペレアスは不審に思いつつ、耳を傾ける。

 

「『この前特異点Fの記録を整理していて気付いたんですが、アーサー王って女性なんですよね』」

 

 ペレアスは眼球が飛び出る勢いで目を見開いた。

 

「……………………はあ!!?!? なんだその衝撃の事実! いやいやいや待て待て、オレはまだ信じない!!」

「あー、そういえばそんな感じはします。すごく綺麗な見た目してましたもん。何か心当たりとかはないんですか?」

「いや、心当たりって言われてもな……」

 

 生前の記憶を掘り起こす。

 彼の人生の中では、アーサー王と共に戦った期間は短いとすら言えた。若い時分に円卓が崩壊し、老いて死ぬまで時を過ごしたのだから。

 浮かんでくるのは湖の乙女との思い出ばかり。それらを一旦脇にやって、円卓での日々を回想する。

 それはいつものように異民族と戦っていた時期。日が暮れたため戦を切り上げ、陣中での会議を終えた時だった。

 キャメロットのコメディリリーフであり、トリスタンの親友のディナダンという騎士が、アーサー王に向けて、

 

〝王よ、私から提案があります〟

〝……聞きましょう。申してみなさい、ディナダン卿〟

〝私と一緒に湯浴みをしていただきたい!〟

〝『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』!!〟

〝ギャアアアアアアア!!〟

 

 その時のアーサー王の顔は、怒りよりも恥ずかしさが先に来ていた。

 確かに王が女性であるとするなら、ディナダンはとんでもない地雷を踏み抜いたことになる。モードレッドに殺されたのもやむなしといったところだろう。

 ペレアスは思わず空を見上げた。

 

「……これじゃねえな!? もっとマシな記憶があったはずだろ! 思い出せオレ!!」

「うわっ、びっくりした!」

「『い、一体何を思い出したんだ……!?』」

 

 そんなこんなで騒いでいると、ネロがふくれっ面をして飛び込んでくる。

 

「余抜きで勝手に盛り上がるな! 余は寂しいぞ!」

 

 その後、寂しがり屋な皇帝のせいで、行軍がほんの少し遅れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 超神聖ローマ帝国首都、会議室。

 そこには、皇帝ガイウス・ユリウス・カエサルが擁する将が揃い踏みしていた。否、揃い踏み、という表現には少し語弊があるだろう。

 なぜなら、神祖ロムルスの離反を発端としてほとんどの将がネオローマ連合に流れたからである。

 結果、超神聖ローマ帝国に残った将はアレキサンダーに深い因縁を持ったダレイオス三世のみとなってしまった。広々とした会議室には、彼と皇帝、その側近の男、そしてレフ・ライノールの姿しか見受けられない。

 閑古鳥が鳴きそうな静寂の中、最初に口を開いたのは、皇帝カエサルだった。彼は赤いコートの男を指して言う。

 

「おい、今の状況を一言で表してみろ。たまには詩人らしいこともしてもらわねばな」

「戦争しようぜ! お前ローマな!」

「……本当に詩作を嗜んでいるのか? 私の方が上手く作れるぞ」

「いえいえ、言葉には本来技法だの何だのは必要ないでしょう。真っ直ぐシンプルに言い表したほうが想いも伝わるってもんですよ。文筆家としても名高い貴方にも理解していただけると思いますがねえ」

「ふん、そこは同意してやろう。必要以上の言葉は時に無粋だ」

 

 詩という文芸そのものを否定するかのような発言だった。詩人である自身をも否定することにも繋がるはずだが、彼がそれを気に止めることはなかった。

 皇帝も彼のそんな物言いを許しているのだろう。続けて咎めることはせず、場を明け渡す。

 その相手はレフ・ライノール。あの日のカルデアで、多くの人間の命を奪った男。彼は先のやり取りにおいて口を出すことはなかったが、全身から殺気じみた怒気を漲らせている。

 しかし、彼らは幾度もの修羅場を潜り抜けた英霊だ。その怒気が向けられる程度で臆する者はいない。

 レフは低く重い声で、

 

「貴様らの話はどうでもいい。カルデアの連中が来る前にネオローマ連合を潰さねばならん。段取りは済んでいるだろうな?」

 

 刺すような眼差し。それを受けてなお、カエサルは余裕の表情を崩さない。

 

「当然だ。私を誰だと思っている」

「国家予算の一割の借金を抱えた男でしょう?」

「それを完済した男と言え! つまり私にとってこの状況、何ら苦境ではない! むしろぬるいほどだ!」

「さすが元老院議員の妻の三分の一に手を出した男! 格が違いますねえ!」

「はっはっは、ここにクレオパトラがいなくて助かったな! また暗殺されかねん!」

 

 付け加えると、カエサルは多数の愛人を持ちながらも女性トラブルを起こすことがなかったらしい。借金の大半も愛人たちに振る舞っていたのだとか。

 とにかく世渡り上手だった彼は、軍事や芸術の方面でも才能を発揮した。その多才さはローマの歴史の中でも屈指の人物だろう。

 皇帝と詩人が笑い合っていると、強烈な音が会議室を揺らす。

 石造りの机が割れ、パラパラと破片が落ちる。それを成したのはレフが振り下ろした拳。彼は釘を刺すように言った。

 

「情報が漏れていたりはしないだろうな」

 

 赤いコートの詩人へと注がれる視線。彼は至って普通の表情で返す。

 

「……()()()()()()()()()()。ネロ帝に伝われば奇襲される可能性がありますので。でしょう、カエサルさん?」

「ああ、()()()()()()()()()()()()()()()()。そこの詩人では不十分故な」

「それよりも軍を率いる将を決めるべきでは? 新たにサーヴァントを召喚できたら一番楽なんですが」

 

 レフはその提案を却下する。

 

「聖杯のリソースの大半は『神の鞭』を制御するのに使われている。召喚に費やす余地はない」

 

 将の数で劣る超神聖ローマ帝国が、なぜネオローマ連合と対抗できているのか。その答えが『神の鞭』だった。

 ローマの神祖でなくては太刀打ちできない最上級の英霊。この両国の戦いは、ロムルスと『神の鞭』両者が生み出す拮抗状態が続いている。

 何しろ、彼らの戦闘は周囲に甚大な被害を及ぼす。それでいて決着がつかないため、両国共に使いどころに苦慮している現状だ。

 

「じゃあダレイオスさんで決まりですかねえ。ロムルスさんが出てくるようなら、最初から戦わない方針でいきましょう」

「となると敵将として現れるのはアレキサンダーと孔明だろう。奴らを相手に将の数で遅れを取るのは不安を残す。皇帝自ら出陣しても良いがな?」

「私は死にたくないので、一向に構いませんが」

「貴様が行け」

 

 レフの一言。それが自分に向けられていると知った赤いコートの男は、ダラダラと冷や汗を流しながら質問する。

 

「……さ、参考までに理由を聞いても?」

「ロベスピエールが第一特異点を乱した。その責任は貴様が取れ」

「誰ですかロベスピエールって。あの女に呼ばれただけで私は関係ないんですが」

「それともうひとつ、万が一白髪碧眼の魔術師を見かけたら真っ先に殺せ。名前はノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドだ」

「無視ですかこんちきしょう! カエサルさん、どうにか言ってやってください!」

 

 そう言いながら、赤いコートの男は皇帝にすがりつく。しかし、

 

「私に異論はない。貴様がやれ」

 

 その希望は一蹴された。自分が助からないことを知ると、彼は地団駄を踏んで暴れ出した。

 

「私のステータス知ってて言ってます? 絶対無理ですよ! 死ぬ死ぬ死ぬ! アレキサンダーさんと相見えた日には、胴体から首がフライアウェイすること間違いなしなんですから!!」

「皇帝からの命令である。ダレイオス、連れて行け」

「あーっ! 困りますお客様! 困ります! 困ります! お客様! あーっ、あーーーっ!!」

 

 

 

 

 

 

 ローマ帝国前線地帯、軍営地。

 空には月が輝き、夜の帳に無数の星が散っていた。

 ネロたちローマ軍が駐屯する場所は、超神聖ローマ帝国とネオローマ連合の激突地、メディオラヌムからは遠く離れていた。奇襲の際に位置を悟られないためである。

 さらに、ローマ軍が野営する陣地は敵となる両軍から発見される可能性を下げるため、鬱蒼とした森の中にあった。

 メディオラヌムはイタリア半島の付け根に広がるロンバルディア平原の中央に位置する。現代ではミラノの名で知られており、古来より交通の要衝として発展を遂げてきた。

 交通の要衝。それはつまり、経済的・軍事的価値が高いということ。紀元前222年にローマ人がこの地を征服するまで、何度も侵略に晒されている。

 そして、三国のローマによる争いにおいても、メディオラヌムの持つ価値は計り知れない。

 ローマ帝国にとってはイタリア半島から打って出るための基地として有用。超神聖ローマ帝国とネオローマ連合にとっては、ローマ帝国が北に領土を伸ばす余地を奪い、両国間の趨勢を決する場所だ。

 …………ということを話していたのだが。

 

「あーはいはい! 勝てば良いんでしょう勝てば! このエリザベート・バートリーにかかればイチコロよ!」

 

 最初にしびれを切らしたのはエリザベートだった。

 勢い良く立ち上がったせいで机の上に配置されていた地図や駒が盛大に吹き飛び、布を敷いた床に散らばる。

 しばし場が静まり返り、エリザベートを除いた全員が視線の応酬を交わす。

 ネロは何事もなかったように続けた。

 

「うむ、それで将の編成だが、余は両翼に集めるべきだと───」

「ちょっと! 無視しないでちょうだい!」

「藤丸、なんだこのチンチクリンは」

「狂気の音痴アイドルです、リーダー」

 

 話題は軍に配置する将についてのことだった。ネロは地図と駒を並べ直し、戦局図を再構築する。

 ノアが手頃な鳥を使い魔にして偵察したところ、超神聖ローマ帝国とネオローマ連合の軍は既に平原で向かい合っていた。翌朝には開戦するだろう。

 彼らの横腹を破るべく、ネロは自らの軍を三つに分けた。中央をネロが担当し、左翼は立香が、右翼はノアが指揮を執るという形である。

 ローマ帝国が抱えるサーヴァントはカルデアの客将を除いて、ブーディカ、スパルタクス、エリザベートの三名。彼らをどう三軍に振り分けるかが議題だった。

 ノアは突きつけるように言う。

 

「エリザベート・バートリー、おまえは俺が上手く使ってやる。右翼に来い」

「……へえ、私に目をつけるなんて、中々の審美眼ね。私のマネージャー足り得る能力はあるのかしら?」

「試してみるか? 幸いここは木が多い。今からでも特注のステージを作ってやるよ」

「なんですって!? いつでもどこでも野外ライブができるの!? アイドル冥利に尽きるじゃない!」

「俺を誰だと思ってる。おまえの美声で人間を地獄の底──天上に送り届けることくらい訳はねえ。天才だからな!」

 

 盛り上がるノアとエリザベートを、立香とマシュは遠い目で眺める。

 

「さ、最悪の二人が出会ってしまった……」

「超神聖ローマ帝国よりもネオローマ連合よりも、あの二人のほうがわたしは怖いです」

「私はこんな奴らに負けたのね……」

 

 ジャンヌは世を儚む。彼女は今更になって、カルデアの召喚に応じたことを後悔したのだった。

 死んだ魚の眼をするジャンヌを尻目に、ネロは溌剌と陣容を口にする。

 

「左翼の指揮官には立香を任命する。麾下にはマシュとジャンヌとブーディカだ。任せたぞ!」

「右翼はどうするんですか?」

「マシュよ、よくぞ聞いてくれた! 右翼側の指揮はノアに、その下にはペレアス、スパルタクス、エリザベートについてもらう!」

 

 その時、ネロ以外の誰もが疑問を覚えた。

 サーヴァントを両翼にまとめた編成。中央の軍をネロが受け持つなら、総大将である彼女の守りは極端に薄くなる。

 

「無論、リスクは承知の上だ」

 

 そして、それを当人が理解していないはずもなかった。

 

「しかし、余の首に釣られて突撃してきたのなら、戦況はこちらのものだ! 余の軍を盾に両翼で挟み込めば良い!」

「──はっ! これが包囲殲滅陣……!?」

「うむ、かつてローマを苦しめたハンニバルの戦術に近いな。今もなお苦々しい記憶ではあるが、ひとりの武人としてあの戦いには尊敬を覚える!」

 

 カンナエの戦い。カルタゴの指揮官ハンニバルがおよそ6万人のローマ兵を殲滅した、世紀の圧勝劇だ。

 包囲戦の有用性を示したこの一戦は、現代でも研究されるほどに重要視されている。立香はぎこちなくマシュとノアに振り返る。

 

「は、ハンニバル? 人肉を食べる殺人鬼だっけ?」

「先輩、ここで言うハンニバルはレクターではなくバルカです」

「ああ、機関銃の──」

「それはバルカンだろ、器用な間違い方してんじゃねえ」

 

 立て続けに自らの無知を指摘された立香は、顔を真っ赤にして涙目で引き下がる。その無様さには、ジャンヌですら追撃を躊躇うほどであった。

 天幕の空気が一転して、いたたまれない雰囲気に包まれる。

 ネロは危機感を察知した。戦において士気は欠かせないものだ。士気が高ければ人は実力以上の力を発揮することもある。指揮官ならばそれは尚更だ。

 皇帝としてこの気まずい空気を見過ごしてはならないだろう。そう考えたネロは、

 

「ここはひとつ、余とエリザベートのデュエット曲を披露するとしよう! マイクを持てぃ!」

「今だけはライバルの立場を忘れて、歌に魂を捧げるわよ! 私の美声を聞けることを光栄に思いなさい!」

「…………えっ?」

 

 立香が呆けた声を出したのも束の間。

 森の木々に泊まっていた鳥たちがバサバサと音を立てて、漆黒の空に駆り出されていく。

 その夜、ローマ軍の兵士たちの間では、森に悪魔が住んでいるとの噂が語られたのだった。

 

 

 

 

 

 

 翌朝、超神聖ローマ帝国とネオローマ連合の軍は相対していた。前者は中央を厚くし横に一直線に広げた陣形を取り、後者は三角形の形に軍を並べた魚鱗の陣形を取っている。

 両軍の最前線を陣取るのは、ダレイオス三世と幼き征服王アレキサンダーであった。

 彼らはかつて幾度となく刃を交えた宿敵。しかしてその戦いに明確な決着はつくことがなく、その物語は幕を閉じた。

 だが、この一戦はもつれた因縁を断ち切る快刀となる。姿形を変え、時代を変え、かたや正気を捨てたと言えども、もはや悔いが生まれることはないだろう。

 なぜなら、彼らは既に生を終えた身だ。

 自分の思うままに生き、殺し、そして死んだ。この生は言わば神より与えられた天佑であり、後も先も存在しない。ただ命を散らす現在のみが連続している。

 戦士としての至福。生死を賭けた戦争は飽きるほど経験してきたが、誇りそれのみを賭けた戦場はしがらみから解き放たれたこの瞬間にしか有り得ない。

 アレキサンダーは背後に控える孔明と、スパルタの王レオニダスに視線を注いだ。

 未熟なこの身に与えられた二人の将。中華に名を轟かせた大軍師と決死の三百人隊を率いた名将。彼らと戦場を共にする名誉に、思わず剣を握る手が震える。

 ───全て、計画通りだ。

 深く息を吸い込み、吐き出す。

 少年は凛と叫んだ。

 

「───突撃!!」

 

 両軍が激突する。

 敵味方入り混じる乱戦と化した戦場を駆け抜けながら、アレキサンダーは南の方角へ目を配った。

 砂塵。地平線を乗り越え現れる大軍。真紅のドレスを纏う薔薇の皇帝。それらを一瞬で把握すると、彼はくすりと微笑んだ。

 ──先生(こうめい)の予測に間違いはなかった。

 

「これ以上ないほどにドンピシャだな! 全軍、存分に食い荒らすが良い!!」

 

 ネロの号令に応えるかの如く、ローマ軍の兵は咆哮した。

 両軍の側面をローマ軍が切り裂く。

 呆気なく奇襲は成功し、瞬く間に戦場を席巻する。虚を突いたにしても異様な攻撃力。孔明は目を凝らし、その原因を解析した。

 ローマ軍の兵は各々の武具に直線で構成された紋様を刻んでいた。武器には橙色の光が、防具には青色の光が宿っている。

 その刃は鉄板を容易く割り、鎧は敵の矢玉を跳ね返す。

 

「……ルーン文字か。これほどの大軍に行き渡らせるとはな」

 

 ルーン文字は書くだけで様々な効果が得られるため、戦士に好まれてきた。

 武具に文字を刻む。それ自体は少し時間があればできることだが、問題は兵士全員のルーンを起動する魔力量だ。

 桁違いの魔力を有する魔術師が敵方にいる。その事実に、孔明は忌々しげに眉根を寄せる。

 

「天才、か。その類いを見るのには慣れている」

 

 軍服風の礼装を着た白髪碧眼の魔術師。孔明はその男の方向へと踵を返した。

 一方、ローマ軍左翼は怒涛の進撃を繰り広げていた。ブーディカの戦車(チャリオット)を先頭にした突撃は兵を蹴散らし、真っ直ぐに敵陣を貫いていく。

 戦車の上には立香たちも乗り込んでおり、さながら矢のように疾走する。

 

「マシュ、ジャンヌさん、敵を近づけないようにして! 敵将を倒してこの戦いを終わらせよう!」

「わたしは飛び道具を防ぎます。ジャンヌさんは──」

「ええ、言われなくても分かってるわよ!」

 

 ジャンヌは指を弾く。周囲に漂っていた鉄杭が戦車の進行上を挟むように林立し、烈火の如く燃え盛った。 

 投槍や矢のことごとくがマシュの盾に防がれ、ジャンヌが炎の壁を作り出せばその進路を妨害することは誰にもできない。

 敵を全く寄せ付けることなく、彼女たちは指揮官の陣地らしき場所へ辿り着いてしまう。

 そこには、最低限の兵すらいなかった。

 この場所だけが戦場からくり抜かれているように、ぽっかりと余白が空いている。

 その空白地帯に穿たれた赤い点。どこか陰鬱さを抱えたひとりの男がそこにいた。

 漂白されたような真っ白な髪の毛。それをぐるりと一周する月桂冠。左腰に差した剣。首からは十字架を提げており、左腕に聖書を挟んでいる。赤いコートを風にたなびかせながら、彼はゆっくりと立香たちに眼差しを注いだ。

 四人の顔を流し見て、男は立香に屈託のない笑みを向ける。

 

「そこの貴女、名前をお教えいただいてもよろしいでしょうか」

「……名前を知られると呪いをかけられる可能性があるとリーダーに教わりました。言えません」

「なるほど、これは失礼。随分と大切にされているようで。モーセの十戒には〝主の名をみだりに唱えてはならない〟とあります。真名の開示を嫌う信仰はどこにでもあるのですねえ」

 

 ですが、と考え込む素振りで彼は続ける。

 

「リーダー、とはおそらくノアトゥールという人のことで間違いないでしょう? レフさんと何やら因縁が───」

 

 瞬間、業火の杭が男の横を通り抜けた。ジャンヌは底抜けた冷たい声で言う。

 

「御託はいいわ。さっさとその剣を抜きなさい。アンタの時間稼ぎに付き合ってる暇はないのよ」

「…………残念ながら、私は詩人です。従軍経験はありますが、根本的に戦いには向かない性分なのですよ」

「そう、なら()えなさい──!!」

 

 ジャンヌが右手を振るい、男目掛けて炎を叩きつける。

 事実、彼にはそれを耐える強さも回避する速さもなかった。灰すら残らないほどに焼き尽くされ、魂は英霊の座へと還っていくだろう。

 炎が到達する直前。

 刹那の言葉を、彼女たちは聞き逃さなかった。

 

 

 

()()()()()()()()()()

 

 

 

 現れたそれを見て、立香は心臓が締まるような錯覚を感じた。

 天を突く巨大な肉の柱。灰色の皮膚を割り、出現する無数の眼球。視覚ではなく魂までもが拒絶するような冒涜的な醜さ。

 先程の男とよく似た、けれど違う声が口上を述べる。

 

「人理の残滓ども。貴様らの存在全てが不要である」

 

 ───魔神柱、出現。

 

「我が名はダンタリオン。知恵と心理、幻を司る魔神なり!!」

 

 そして、戦いが幕を開けた。



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第17話 孔明の罠

 それはさながら、死霊の群れだった。

 一面に広がる漆黒の死兵。彼らは首を断とうとも心臓を突き刺そうとも死ぬことはなく、ただひたすらに武器を振るう。

 側面より奇襲を成功させたはずのローマ軍でさえ、その群れに打撃を与えることはできない。それどころかぶつかる側から兵が殺されていく。

 近づく者全てを屠り尽くす魔の軍団。

 その先頭に立つ偉丈夫は、暴嵐の如き武威を発揮していた。

 得物は両手に携えた斧。それをまるで木の枝のように振り回す。彼の一振りは余波だけで並みいる兵士を宙へ弾き飛ばし、掠めただけで人を砕き散らす。

 彼こそが、アケメネス朝ペルシア最後の王ダレイオス三世であった。

 率いる軍はかの王朝が誇った一万人の精兵、不死隊。かつて征服王イスカンダルと戦いを繰り広げた勇士たちである。

 だからこそ、対抗するのは彼でなくてはならない。

 

「『始まりの蹂躙制覇(ブケファラス)』──!!」

 

 漆黒の軍勢を切り裂く一条の雷光。

 立ちはだかる敵を一直線に打ち砕き、迸る雷撃が一片残らず炭に変える。

 音よりも疾く。

 火よりも烈しく。

 その猛進は誰にも止めることはできなかった。

 雷光が向かう先。常人には知覚できぬ一瞬。アレキサンダーとダレイオスは引き伸ばされた体感時間の中で、己が宿敵の姿を見据えた。

 口角が持ち上がり、武器を握りしめる手に一層の力が込められる。

 もはや言葉は要らない。

 その想いの丈は。

 この昂ぶりは。

 決して言葉で表せるものではないのだから。

 故に、持てる力の限りをぶつけ合うのみ──!

 

「おおおおおォォォッ!!」

「ウォォオオオオオッ!!」

 

 裂帛の気合いと共に、無数の火花が散る。

 ダレイオスの戦斧。吹きすさぶ斬風が周囲のことごとくを細切れに刻む。その乱撃を雷電と化したアレキサンダーは掻い潜り、斬撃を放つ。

 両者の戦闘は対照的な静と動。力で勝るダレイオスは、大地の踏み込みを利用した強烈な一撃を重ねていく。

 速さで勝るアレキサンダーはさらなる加速を続けて相手を翻弄し、致命の機会を狙う。

 一撃を与えれば勝つ。

 一撃を受ければ負ける。

 これはそういう勝負だ。

 どちらの刃が先に魂に届くか、勝敗の差はその程度でしかないのだ。

 全身の肌が粟立つような濃密な死の気配。歳若き姿となったとしても、狂気に身を投じたとしても、その感覚だけは変わることがない。

 数において圧倒的な有利を誇るはずのダレイオスは、不死隊をこの戦いに介入させなかった。

 不死隊はアケメネス朝ペルシアが擁する精鋭部隊だ。が、今の彼らの前には身を挺する盾にすらなりはしない。

 アレキサンダーが纏う雷は、地上に知らぬ者なき全能神ゼウスの雷霆より零れ落ちたモノ。並大抵の英霊では触れた瞬間に炭になるだろう。

 両者の乱舞に踏み込める者はこの場所にはいない。併せて、敵はアレキサンダーだけではないのだ。戦局を鑑みてもダレイオスの判断は妥当ではあった。

 それが、建前。

 本音はもっと身勝手で、個人的な感情。

 ──この敵は己のモノである、と。

 理屈など捨てた。

 舌戦で勝てるならとうにそうしている。

 戦いがあった。

 悔やんでも悔みきれぬ最期があった。

 あの過去を、あの敗戦を雪ぐのは今しかない。

 彼は死の瞬間から焦がれていたのだ。

 血湧き肉踊るこの戦場を───!!

 

「ォォォオオオオオ!!」

 

 空間ごと抉り取るような斬撃。

 

「…………ッ!」

 

 どくり、血が溢れ出す。

 ダレイオスの握る斧の切っ先。そこにから微量の血が滴り落ちていた。

 アレキサンダーは額から顎の先へと伝う血を舌で受け止め、嚥下する。

 ──ああ、この味も変わらないのか。

 それを確認すると、彼は一息に走り出す。

 無邪気に、純粋な笑みを浮かべながら。

 敵が強大であることに感謝するかのように。

 愛馬と共に駆け、刃が一合重ねる度に少年の心は歓喜に打ち震えた。

 これが乗り越えるべき壁だ。

 己の価値はここで決まる。

 この強敵を目の前に、自分という存在を試せること自体が、彼にとっては幸福だった。

 斬撃がぶつかり合う。膂力で劣るアレキサンダーは騎乗する馬ごと吹き飛ばされ、追撃が彼の左肩を斬りつける。

 噴き出す鮮血に彼は目もくれない。

 一瞬でもダレイオスから目を離せば、待ち受けるのは死あるのみだ。

 征服王の自分ならば、この一合も拮抗する程度はできただろう。しかし、この身は若輩の時分。単純な武芸では大きく遅れを取る。

 刃の応酬はさらに密度を増していく。加速度的に両者の技は冴え、気付けば多くの傷が少年の体に刻まれていた。

 弾ける雷撃がダレイオスの肌を灼くが、その技に陰りは見えない。

 だが、未だ命に達する傷は見舞われていない。肉を斬り骨を断ち、そして魂にまで到達する毀傷。勝敗を分けるとしたらその一撃だ。

 アレキサンダーは確信していた。

 今のままでは、先に倒れるのは自分であるということを。

 全力を尽くしても届かない。

 死力を尽くしても、なお。

 ならば、この先は。

 

「───『神の祝福(ゼウス・ファンダー)』」

 

 この身に秘めた未来という名の可能性。

 それを投じて戦うしかない。

 天より降り注ぐ雷。その加護を宿し、彼は剣を振るった。

 拮抗、しかし凌駕には至らず。だが構わないとアレキサンダーは笑う。

 四方八方から襲い来る刃金。彼は愛馬の背を蹴り、その間合いへ跳び込んだ。

 恐怖はない。全身に満ちる高揚感のままに、彼は剣撃の勢いを走らせる。強引に生み出した隙に体をねじ込み、敵の心臓へ剣を突き出した。

 これは分の悪い賭けだ。対処されて終わるか、良くて相討ち。勝利する可能性など十にひとつもないだろう。

 それでも、彼は輝かしき未来を信じていられた。

 ──二度目の生において、この身がどこまで通用するのか。

 両者の違いは、きっとそれだけだった。

 過去を雪ぐ者と、未来を望む者。

 故に、その勝敗も。

 

 

 

 

 

 

「──チェイテの城からガシガシ届け♪ 今夜もアナタを監禁させて♪」

 

 エリザベートは振り返って、

 

「どうかしらマネージャー! 私の美声は?」

「惜しいな。耳の奥でムカデがのたうち回るような感じで頼む」

「よく分からないけど、とにかくエモくしておけってことね!」

「ああ、エモさで言えばおまえの歌は図抜けてるからな。下の方に」

「なんだこの異次元の会話は……!?」

 

 ペレアスの叫び声がこだまするローマ軍右翼側最前線。

 そこでは、西暦60年という時代には全くもってそぐわないモノが爆走していた。

 トラックの荷台の部分がライブステージと化した乗り物。いわゆるステージカーと呼ばれる車両が敵兵を弾き飛ばしながら、陣の奥深くへ切り込んでいく。

 当然、ステージで歌を披露するのは自分をアイドルと思い込んでいるドラゴン娘こと、エリザベート・バートリーである。

 車体に取り付けられた拡声器から彼女の声が垂れ流され、それを耳にした兵士たちは毒を含んだかのように気を失ってしまう。

 戦場を直進するトラックと、そこから発される怪音波。辛い訓練を乗り越えた兵士たちが泡を噴いて倒れていくという異常な光景に、味方すら目を覆いたくなるほどだった。

 もっとも、目を覆うために両手を使うくらいなら、耳を塞ぐ者が大半なのだが。

 ステージカーをよく見れば、素材のほとんどは木材で出来ていた。カルデアから送られた音楽機材以外は、全てノアが現地で加工したものであった。

 その動力源はというと。

 

「圧政者に死をォォォ!! 我らはあらゆる支配に叛逆の旗を翻す殉教者である!」

「おいまさか正気の人間はオレしかいないのか?」

「正気で叛逆は成せぬ! 血肉を切り捨てるが如き狂気の先に自由は待っているのだ!!」

「くそっ! 話が通じねえ! 叛逆繋がりでモードレッドと気が合いそうとか思ったオレが馬鹿たった!」

 

 トラックの運転席に当たる場所。ペレアスとスパルタクスは、ひたすらにペダルを漕ぐ作業に従事していた。

 彼らは共にサーヴァントの中でも平均以上の筋力を有する。その二人が全力で車輪を回せばそれなりの速度が出るのは間違いない。

 そもそもこんなものを用意すること自体が謎だが、一応の戦果は出しているために文句も言えないという有様である。

 

「『どうだい諸君、このダ・ヴィンチちゃんが設計したマッドマックスくん2号は? Amaz○nで星五つは間違いなしの仕上がりだと自負しているけれど』」

 

 愉悦が隠し切れない声音で話しかけてきたダ・ヴィンチ。ペレアスは噛み付くように叫んだ。

 

「おまえが元凶かダ・ヴィンチィィィ!! こんなのはもっと普通で良いんだよ!」

「『あいにく私の辞書に普通という字はなくてね。むしろ普通を目指そうとすればするほど斜め上を行ってしまうというか。かーっ! 天才じゃなければなーっ!』」

「天に愛された者の宿命だな。常人に理解できない発想は時として迫害されることがある。その時俺たちの胸に去来するのは悲しみだ」

「ライブが終わって気付いたらブタどもが感動のあまり気絶しちゃうから、アンコールを経験したことがないのよね。これも天才故の苦悩ってやつ……!?」

「こいつら殴りてえ……」

 

 ダ・ヴィンチ、ノア、エリザベートの戯言を受けて、ペレアスはこめかみに青筋を立てた。狂化しているスパルタクスがツッコミに回れるはずもなく、必然的にペレアスが三馬鹿の相手をしなければならなかった。

 ノアは猛進するトラックの上によじ登り、ダ・ヴィンチに言う。

 

「速度がイマイチだな。もっと速くならねえのか」

「『ふふふ、実はこの車には特殊なギミックを施していてね。ノアくん、あのスイッチを押してみたまえ』」

「おまえら待て、嫌な予感しかしな──」

 

 瞬間、強烈なGがペレアスを襲った。

 車体の後尾にモビルスーツ並のバーニアが生え、青白い炎を噴き上げる。

 結果、莫大な加速を得たマッドマックスくんは自壊しながら彼方へとすっ飛んでいった。近くにいた者は、エリザベートの声がドップラー効果で低く聞こえただろう。

 ノアは悪魔のような高笑いをあげた。

 

「ヒャハハハハ!! 見ろ、人がゴミのようだ!! このまま宇宙の果てまで飛んでけェェェ!!」

「あああああ! 外装とかぶっ飛んでんぞ!? さっさと止めろ!!」

「おいペレアス今何キロォ!!?」

「知らねえよ!!!」

 

 その時、ペレアスの足元でカチリと音が鳴る。

 

「ん──?」

 

 直後、唸るような轟音と同時に爆発が起きた。車体の直下で生じた爆炎はノアたちを巻き込んで、上空へ赤黒い煙を立ち昇らせる。

 唐突な爆発オチを遠巻きから眺める二つの人影。

 ネオローマ連合の将である諸葛(しょかつ)孔明(こうめい)とレオニダス一世は、目を細めて並び立っていた。

 彼らの表情はまさに虚無。史上類を見ない阿呆な作戦を取った挙句、孔明が仕掛けた罠にまんまと引っ掛かった愚者たちに思うところなどない。

 進撃するローマ軍左翼に対抗するために向かってきた二人だが、敵将はたった今消えてしまった。拍子抜けどころの騒ぎではないだろう。

 だが、彼らがその場を離れることはなかった。爆発が起きた地点を静かに見据え、同時にため息をつく。

 レオニダスは孔明に言った。

 

「……終わってませんね」

「ああ、あの手の馬鹿はゴキブリ並みにしぶとい」

 

 彼らを囲う陣形が崩され、そこからノアたちが姿を現した。皆一様に全身を煤まみれにさせながら、何やら言い合いをしている。

 

「私の衣装がボロボロになっちゃったじゃない! これ気に入ってたのに!!」

「全ての物はいつか塵になる。それが少し早まっただけだ」

「オレたちまで塵になるところだったんだが!? 洒落になってねえよ!」

「しかし! 見ろ、敵将の元へ辿り着いたぞ! いざ、圧政者を討ち滅ぼす時は訪れた!」

 

 ローマ帝国の客将たちとネオローマ連合の将が相対する。ここに集いしサーヴァントたちは歴戦の勇士である。一目見れば相手がどの程度の実力なのか、感じ取ることができた。

 かつて圧倒的戦力差の戦争で名を挙げたスパルタの王、レオニダスは満足気に微笑む。

 彼は槍を戯れに振り回し、名乗りを上げる。

 

「私はレオニダス。生前はスパルタの王をしておりました。こちらはネオローマ連合が誇る大軍師──」

「諸葛孔明だ。口上を述べるのは得意ではないのでな。早いところ戦いを始め……」

「いや、ロード・エルメロイⅡ世だろ」

 

 ノアが割り込んだ言葉に、孔明はビクリと震える。明らかに動揺したその様子を見て、全員の視線が一挙に集まった。

 孔明はノアから視線を外すようにそっぽを向くと、ぎこちない発音で繰り返す。

 

「……ショカツコウメイダ」

「グレートビッグベン☆ロンドンスター」

「ぐああああ! なぜそれを知っている!?」

 

 身悶え始めた孔明を尻目に、ペレアスはノアに訊く。

 

「お前らどういう関係だ?」

「カルデアに来るまで一年間、イギリスで何でも屋をやってた時期があってな。その時に知り合った」

「でも、雰囲気からしてサーヴァントでしょう? なんで現代人が英霊になってるのよ」

「あれは英霊の力の依り代にされてると見て間違いねえ。俺たちの世界のロード・エルメロイⅡ世とは限らないがな」

 

 そこで、ノアは自らの回想を語る。彼と同じ出来事を覚えていたなら、この世界のロード・エルメロイⅡ世が英霊の依り代にされたということになるからだ。

 カルデアで所長の圧迫面接を受ける一ヶ月前、ロード・エルメロイⅡ世とノアはロンドンにて、とある話をした。

 

〝……以上の理由から、お前をウチで引き取ることはできない。流石に庇い切れる自信がないからな。代わりにカルデアに紹介状を書いた〟

 

 差し出された封筒の中身を覗いて、ノアは口をとがらせて言った。

 

〝おい、交通費はどうした?〟

〝誰が払うか! つべこべ言わず行け! そして二度と戻ってくるな!〟

 

 ノアはしみじみと語りを終える。彼と孔明を除いたペレアスたちの反応は、

 

「厄介払いじゃねえか」

「厄介払いじゃない」

「厄介払いだな!」

「厄介払いですね……」

 

 見事なまでの満場一致だった。孔明に向けられる視線が、一気に憐れみを帯びたものになる。

 ペレアスは壊れ物を扱うかのような声音で言った。

 

「まあ元気出せよ。これから良いことあるぜ? ……多分」

「くっ! 身に覚えのない出来事のはずなのに、何故か沸々と怒りが湧いてくる……!?」

 

 もしこれが精神攻撃なのだとしたら、多大な成果を挙げていると言えた。同時に、彼は自分に力を託して消えた諸葛孔明に歯がゆい感情を覚える。

 三国志において孔明はあらゆる因縁を持つ人物である。生前に見識のある人物と揉め事になることを厭い、自らの力を押し付けたなら流石の大軍師と言わざるを得ないだろう。

 とはいえ、無策でこの四人の突破を許したわけではない。孔明が待ち受ける場所、それ即ち十重二十重の罠が仕組まれた殺し間なのだ。

 

「これ以上お前らのペースにさせてたまるか! これぞ大軍師の究極陣地───『石兵八陣(かえらずのじん)』!!」

 

 非常に俗な感情を込めて、宝具が展開される。

 砂塵を引き連れ、立ち現れる巨石の迷路。抜け出す隙など無い。ノアたちがここに姿を現した時点で、この宝具の射程圏内に入っていたからだ。

 岩壁によって構成された陣地。陸遜をして戦わずに撤退させた孔明の策。その中に囚われ、ペレアスらサーヴァントは一気に警戒を強めた。

 通路内には砂塵が吹き抜け、地面も水を含んで泥濘んでいた。ペレアスは剣を握り直し、感覚を研ぎ澄ます。

 そんな時、エリザベートは何やら笑い出した。

 

「こんなものが宝具だなんて、大軍師の名が泣くわね! 既に脱出法は見つけたわ!」

「……はあ?」

 

 ペレアスは首を傾げた。こう言っては失礼だが、エリザベートに軍師を上回る知略は無いように思われる。ここにいるのが立香やマシュだったなら、順当に無視していただろう。

 しかし、万が一ということもある。彼女の見つけた脱出法とやらを語るのを遮る者はいない。

 

「名付けて左手法! 左側の壁に手をついて進めば必ず出口に辿り着くって寸法よ!」

「それ元からあるやつだけどな。まあいい、やってみろ」

「トップアイドルは頭脳もトップってことを見せつけちゃったわね……!」

 

 ノアに促され、エリザベートは壁に手をついた。すると、手の触れた部分が奥にへこみ、彼女の真下の地面が二つに割れる。

 落とし穴。底で鋭い刃が待ち受ける穴に吸い込まれかけたエリザベートの腕を、ノアが掴んで止めた。

 宙にぶら下がるエリザベートは、数瞬遅れて叫ぶ。

 

「……ギャーッ!? ししし、死ぬところだったんだけど!? 分かってて止めなかったでしょう、先に言いなさいよ!!?」

「こういうことだ。この迷路は罠が張り巡らされてる上に、常に道を作り変えてる。真っ当な方法じゃ脱出できない」

「良く分かったな?」

「物体の構造把握は魔術師の基礎中の基礎だ。後は魔力の流れと勘でどうにでもなる」

 

 ペレアスは後半を聞いて察する。

 

「……お前、うんちく好きな割に感覚派だよな」

「俺の理屈を他人が理解できないだけだ。それより何か来るぞ、対処しろ」

 

 通路の突き当たりから、半裸の兵士が数人現れる。円盾と槍を携えた彼らは、ノアたちへ槍を投げつける。

 矢よりも速い投槍。ペレアスとスパルタクスはそれらを漏らすことなく打ち落とした。その瞬間には敵兵らは逃げており、曲がり角に姿を消す。

 二人は一足飛びに追い掛けるが、角を覗いた時には敵兵は見えなかった。

 孔明は敵を罠に嵌めるだけではない。テルモピュライの戦いで死闘を演じたスパルタ兵までをも使って、ノアたちを仕留めに来ているのだ。

 一部始終を観察していたダ・ヴィンチは、愉しげに笑った。

 

「『諸葛孔明の石兵八陣は10万人の攻撃に耐えられると言われている。20万人のペルシア軍に300人で対抗したレオニダスの軍が加われば、鬼に金棒どころの話じゃないね』」

「つまり俺たちで30万人分の強さを発揮すれば勝てるってことだな」

 

 ノアはそう嘯きながら、足元に転がる石を拾った。彼はその石にルーンを刻み、地面に落とす。

 すると、ルーンを刻まれた石は生き物のように動き出した。

 

「探索のルーンだ。エルメロイⅡ世、もとい孔明を対象にした。行くぞ」

「そんなものがあるなら早くやりなさいよ!」

「さあ圧政者の元へ行くぞ! 我らの戦いはこれからだ!」

 

 エリザベートとスパルタクスは、我先にとその石を追っていく。ノアはその数歩後を歩いていた。その様子を怪しんだペレアスは最後方を務める。

 いくつかの角を曲がり、エリザベートとスパルタクスは人影を見た。

 即座に二人は攻撃態勢に移り、槍と小剣を振りかぶる。その人影は反撃する素振りすら見せず、彼らに切り倒される。

 手応えも人体のそれではない。見れば、それは精巧に作られた木の人形であった。

 魔力が込められたその人形は、青白く輝くと盛大に破裂した。エリザベートはまたしても黒焦げになり、遅れて到着したノアに向き直る。

 

「……分かってたでしょ」

「爆発するまでは読めなかったけどな」

「こ、このクズマネージャー……!!」

「まあ落ち着け、今のは実験だ。この陣は八卦図……つまり奇門遁甲に基づいて構成されている。異なる魔術基盤で突破しようとすると相性が悪い」

 

 ルーンによる探索は、あくまでもルーン魔術という魔術基盤の法則に則したものだ。

 中国の占術である奇門遁甲に対してルーンを用いるというのは、数学の方程式で文学作品を読解しようとする行為に近い。

 そこで、ペレアスは率直な疑問を口にした。

 

「それなら、最初から奇門遁甲ってのを使えばいいじゃねえか。ルーンは相性が悪いんだろ?」

「もっともな疑問だな。この迷路は奇門遁甲では突破できない、それが答えだ」

「ますます意味が分からなくなってきたんだが。じゃあどうすれば脱出できる?」

 

 ノアは解説する。

 奇門遁甲とは古代中国から伝わる占術のひとつである。陰陽五行説を背景に体系化されたこの占術は、周王朝の太公望や劉邦に仕えた張良、諸葛孔明など名だたる軍師たちに好まれて使用されていた。そのため、奇門遁甲は魔術としてではなく兵法としての側面が強い。

 では、奇門遁甲では何を占うのか?

 それは、自分の願いを成就させるためにどの方位にいつ動くか、ということである。

 決まった時間、決まった方位に移動することで福を招く。ただしそれは、吉が得られる方位でなくてはならない。逆説、正しくない時間、正しくない方位に動けば禍を招くこともあり得るだろう。

 その点で言えば、迷路というフォーマットは敵を凶の方位へ動かすことに長けているのである。中に囚われた時点で術者に与えられた方位へ進むしかなく、自在に凶の方位へ陥れることができる。

 加えて、石兵八陣は孔明の意のままに配列を変更できる。ノアが奇門遁甲を用いて正解のルートを導き出したとしても、迷路を組み替えればそれで事足りるのだ。

 

「つまり、奇門遁甲を使う限り俺たちは後手に回るしかない。孔明が先手を打ち続けられる以上、原理的に脱出することは不可能だ」

「迷路の脱出法を見つけても、すぐに別の迷路を用意されるってことか」

「ああ、そこでルーンでの脱出法を試したが、結果はあの通り煙に巻かれた」

「何よそのチート!? 左手法とか言ってドヤってた私が恥ずかしいわ!!」

「そこで実験その二だ」

 

 ノアは懐をまさぐり、一枚の紙を取り出す。それを手際よく鶴の形に折ると、空へ放り投げる。

 その鶴はぴたりと宙に留まるが、即座に豪風に襲われ彼方へ吹き飛ばされた。

 

「上空からも無理か。予想はしてたが鳥の式神じゃあ通用しねえな」

「八方塞がりじゃない! どーすんのよ!?」

「この状況を突破する気の利いた魔術とかねえのか?」

「無いな。大軍師の肩書きは伊達じゃないってことだ」

 

 そんな窮地で、ノアは笑った。

 動物が牙を向くような笑み。好戦的なその表情に、焦燥はない。

 

「───()()()()()()()()()。それが魔術師だ」

 

 

 

 

 

 

 諸葛孔明の石兵八陣は、言うなれば移動する魔術工房。魔術師にとっての縄張りであり、生物の臓器に例えるなら胃袋だ。

 その中に取り込んだ時点で、勝利はほぼ決まる。

 必殺必勝を期した要塞──それを外に持ち出すという軍師の発想は、後にも先にも類を見ない大奇策と言えた。

 しかし、軍師という生き物は常に最悪の状況を想定する性分を抱えている。己の誇りを賭けた究極陣地でさえ、盲信することはできない。

 なぜなら、孔明は、エルメロイⅡ世は知っている。

 幾重にも張り巡らせた策を児戯のように踏み潰す、圧倒的な武力を。

 かつての聖杯戦争でまみえた、金色の英雄王を。

 無敵と信じ忠誠を誓った征服王の軍勢ですら、英雄王の一刀に敗れたのだから。

 ──故に、この事態も思慮外ではない。

 一直線に続く坂の下。ノアたち四人は迷路を攻略し、遂に孔明とレオニダスの元へ辿り着いていた。

 レオニダスはサーヴァントたちに眼差しを注ぎ。

 孔明はノアの足元を跳ねる小さな犬の木像に視線を向けた。

 

「どうやって辿り着いた?」

「式神を作った。複数の魔術基盤を混ぜてあるがな」

「……なに?」

「陰陽術は当然、ルーンと奇門遁甲と数秘術と占星術と……まあ色々だな。占いの純度を高めて迷路の変化にも対応できるようにした。式神は用途に応じて適切な動物を呼ぶ必要がある。だから嗅覚に優れた犬を形どった。おまえを探知するためにな」

 

 その説明を受けて、孔明は思う。

 

(……あり得ない。フラットのように複数の魔術の良い所取りをしているのか? 否、これは魔術基盤の混合だ。結果として良い所取りになっているだけで、過程は全く違う)

 

 魔術基盤とは世界に刻みつけられた魔術理論。ルーン魔術に代表されるように、世間の認知度が上がることでその魔術の効果は上昇する。

 ただし遠坂の宝石魔術のように、その家系に伝わった魔術は魔術基盤に依らずに発動することができる。一般的に、魔術師が秘匿する神秘はこの家伝の魔術であることが多い。

 一般の学問に例えるなら、魔術基盤とは文学や数学、物理学といった学術領域である。

 今回、ノアが作り出した式神は東西の占術を混ぜることで、奇門遁甲では突破できず、他の魔術基盤では相性の悪い石兵八陣を脱出できるだけの占いを行った。

 その占いを出力するのが、犬の木像。ソフトウェアとハードウェアにおける後者に当たるのが式神である。

 だから、あり得ない。

 魔術の良い所取りをするのは理屈に則している。が、魔術基盤の混合とは、ひとつの体に複数人の臓器を移植するようなものだ。必ず拒絶反応が出る。

 相反する法則がその矛盾のままに成り立つ異常。

 それが、こうして現前している。

 

()()()()()()()()()()()…………)

 

 気付いて、孔明は笑った。

 声を腹から絞り出し、天を仰ぐ。

 

「……なるほど、この世界の私がお前を教室に招かなかったのも理解できる。だが、ここは戦場だ。この場所で相見えた以上───お前は倒す!」

 

 レオニダスが率いる300人の兵隊が出揃う。

 ここから先は、英霊のぶつかり合い。

 勝利条件は単純。精強を誇るスパルタ兵を破り、孔明とレオニダスの首を取ること。

 レオニダスが投槍の号令をかける直前、誰よりも速く動き出した男がいた。

 

「我が筋肉が、我が愛が、熱を帯びて燃え盛る! いざ叛逆ゥゥゥ!!!」

 

 スパルタクスは撃ち出された砲弾の如く駆ける。

 スパルタ兵たちは投槍の構えを解き、盾を重ねて防御態勢を取った。

 その防御の威容はあたかも城壁。如何なスパルタクスの突進といえど、堅牢な守備を抜くには能わない。

 盾の隙間から突き出された槍の穂先。それらはあっさりとスパルタクスの肉に刃を突き立てた。

 血しぶきを噴きながら沈黙する叛逆者の姿を見て、ノアとエリザベートは唖然とする。

 

「何やってんだあいつはァァァ!! せっかく俺が天才的な魔術で見せ場を作ったところだろうが! 話の流れってのを考えろよ!!」

「何よあの筋肉は飾りなの? 見せ筋なの!? どこぞの筋力Dのアーチャーでもあるまいし!!」

 

 しかし、ペレアスだけは彼を信じていた。

 

「……まだだ。まだアイツの筋肉は死んでねえ!!」

 

 スパルタクスの目が見開く。

 全身の筋肉がはち切れんばかりに盛り上がり、円盾の守りをこじ開ける。城壁が如き防御に生じた一点の陥穽。それをペレアスとエリザベートは見逃さなかった。

 剣と槍。ふたつの斬撃が踊る。騎士と竜姫が広げた陣形の綻びを、スパルタクスが突撃することで修復困難な傷にする。

 乱戦に持ち込めば、味方を巻き込む可能性がある孔明の魔術の援護射撃はない。

 そして。

 乱戦と対多数を得意とする英霊はレオニダスだけではなかった。

 

「──『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 ペレアスはスパルタ兵の猛攻を物ともせず、刃を振るう。

 敵の攻撃は当たらず、向こうからの攻撃は通る。そんな理不尽極まりない宝具を目の当たりにして、レオニダスは沸き立つ。

 ──あの時とは、逆だ。

 多勢に無勢。テルモピュライの戦いはその権化のような戦争だった。

 血肉を捧げ、魂を投げ捨てる戦い。苦々しい敗北を迎えてもなお、心の奥底で求めるのは、そんな闘争だ。

 彼の耳に届くのは、空を駆ける雷鳴の音。徐々に接近するその音の主は、おそらく少年の征服王だろう。

 アレキサンダーはダレイオスに勝ったのだ。

 レオニダスは孔明に言う。

 

「お逃げください。あの少年は自身を導く先達を求めています。それは貴方であるべきだ」

「しかし──」

「貴方たちの計画には、ここで死ぬことは組み込まれていないはず。無駄死にを許すことはできない」

 

 レオニダスのその言葉に、反論することはできなかった。

 彼はあの絶望的な戦争を全滅するまで続けた男だ。掛け替えのない仲間たちを失い、自らも討ち果たされるまで。

 そんな男の前で、命よりも矜持を取れるはずもない。

 孔明は踵を返し、万感の想いを込めた一言を贈った。

 

「──感謝する」

 

 ……そのやり取りを見届けていた男がひとり。

 スパルタ兵の包囲をいち早く抜け出したペレアスは、緩やかな笑みを口元に浮かべていた。

 レオニダスは戯れるように問う。

 

「……追わなくてよろしいのですか」

「男の覚悟を不意にする無粋はしねえよ。……オレはペレアスだ。一騎討ちでカタをつけよう。それとも多数で嬲られるのが好みか?」

「経験がお有りで?」

「アンタほどじゃないけどな。あんなのは二度と御免だ」

 

 両者は互いに得物を握り締める。

 それが、決闘の合図だった。

 

「「うおおおおおおッ!!!」」

 

 空間が軋むような金属音。

 無数の斬撃と刺突が衝突し、空気を震わせる。

 掛け値なしの本気。己が技の粋を詰め込んだ、至高の一撃を途切れることなく繰り出し続ける。

 それと同時に、彼らは互いの強さに見惚れた。

 レオニダスの槍盾一体となった堅牢な体術。盾で受け止め槍で刺す、基礎基本をどこまでも突き詰めた究極形。揺らがぬ大樹を思わせるその武は、男の実直さそのものを表しているかのようだ。

 ペレアスの変幻自在の剣技。剣だけでなく拳や蹴りを有効的に使った体技に、回避と攻撃の垣根はない。掴みどころのない雲や霧のように、いくらでも変化し得る我流の剣。騎士のそれとはかけ離れた、行儀の悪い戦い方だった。

 魂がひりつく。

 敵の剣が肌を掠める度に得も言えぬ感動が、頭頂からつま先を突き抜けた。

 国や、仲間や、妻子のために命を尽くしたあの時の強さ。槍を振るう度にそれが取り戻されていき、技を交わすことで相手を知る。

 彼もまた同じ。たったひとつ、護り抜くべきもののために強さを磨いた男だ。

 ──ああ、なんて惜しい。

 そんな剣を見せられてしまえば。

 こうして刃を交えるよりも、共に肩を並べて戦うことを夢想してしまう。

 レオニダスは奪うための戦いをしなかった。

 スパルタという国を、愛すべき妻子を侵略者の手から護り抜く。

 その在り方はどんな英雄にも劣らぬ尊きものだったはずだ。

 虐待にも等しい教育を施されたスパルタにおいて、彼はどこまでも優しく在り続けた。

 そう。

 だから。

 ぽたり、と一滴の血が地面を赤く染め抜く。

 

「……貴方に、賞賛を」

「……それは、こっちの台詞だ。宝具を使ったオレに深手を負わせたのは王様とアンタくらいだ」

 

 レオニダスの胸は袈裟に切り裂かれていた。その傷は霊核へと達しており、消滅を待つのみであった。

 しかし、彼の槍はペレアスの腹部を深々と突き刺している。

 言葉はない。見事に戦い抜いた敵への賛辞に対して、言語はあまりにも無力だ。

 だから、未来のことを。

 ペレアスは、見透かすように言った。

 

「オレたちは、いつか一緒に戦うことになる。……そう思う」

 

 そこには、何の根拠もない。

 けれど、だとしても、二人の間には確信だけがあった。

 

「───ええ、その時を、信じています」

 

 彼の魂が向かう先。

 そこはきっと、魔獣の跳梁から民を守護する城壁だった。



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第18話 ダンタリオンを伐採せよ

投稿が遅れてしまいました。申し訳ありません。


 ノアたちが石兵八陣を脱出した場面から時間は遡り。

 ローマ軍左翼最前線。

 既に超神聖ローマ帝国の横陣に深く切り込んでいたローマ軍左翼だが、その地帯だけは一般兵の姿は見当たらない。

 理由は単純明快。

 一歩でもそこに足を踏み入れれば死ぬからだ。

 炸裂する魔力の嵐。大地を焼き焦がす熱視線。それらは敵味方の区別なく、ただ立香たちを屠るために暴れ狂う。

 津波のように迫りくる暴威を後方に背負いながら、ブーディカは自らの戦車(チャリオット)を加速させる。

 それは反撃のためではない。この状況で最も護り抜くべき人間を救出するためであった。

 

立香(りつか)ちゃん、乗って!」

「───はい!」

 

 差し伸べられたその手を、少女は力強く掴む。

 立香は戦車の上に引き上げられ、即座に後ろを振り返った。一面に立ち込める黒い霧。それは濃密な魔力を孕み、地上に滞留している。

 息をつく間もなく、彼女は叫んだ。

 

「マシュ! ジャンヌさん!」

 

 ブーディカの働きによって立香は危機を免れたが、マシュとジャンヌはその限りではない。定かならぬ安否を確かめるため、声をあげた。

 返答はない。

 しかし、代わりとばかりに炎の旋風が巻き起こる。黒霧を吹き飛ばし、辺りを光と熱で塗り潰す魔炎。せめぎ合う黒と赤の境界に、マシュとジャンヌはいた。

 

「こちらは問題ありません、先輩! いえ、いきなりこんな強敵と戦うことになったのが問題といえば問題ですが!」

「確かに…! こんなことになるならリーダーと代わってもらえば良かった!」

「アンタたち、減らず口を叩いてる余裕があるなら手と足を動かしなさいよ!」

 

 マシュの盾は淡い白光を発しており、それが彼女たちを守ったことは明白であった。元より聖剣と邪竜の息を耐え抜いた防御。立香は自らの心配が杞憂であったことを知り、胸を撫で下ろす。

 一瞬にして破壊の波を撒き散らした敵。

 戦場の中心では、漆黒の悪魔が屹立していた。

 魔神柱・ダンタリオン。

 天を突く醜い肉の巨塔。その表面に群生する眼球は、絶えず視線を彷徨わせている。

 目は口ほどに物を言うとはこのことだろう。黙していても、その眼差しに秘められた殺意と敵意は物理的な威力をも伴っているかのようだった。

 おそらくそれは比喩ではない、と立香は確信する。それと同時に、カルデアからの通信が繋がる。

 

「『立香くんのバイタルに異常が見られる! これはおそらく呪いによるものだ!』」

 

 ロマンの声は緊迫感を帯びていた。

 心拍数が上がり、体の芯に鈍い痛みが響く。じわりと浮く汗を拭い取り、立香は歯を食いしばる。

 ブーディカは戦車の進路を反撃のために折り返そうとしていたが、その半ばで停止させる。

 

「呪い──!? あの嫌な感じのする目のせいか。とりあえずここから離れて……」

「いえ、このまま進んでください! 逃げても勝てません。呪いは私でどうにかします!」

 

 呪いをかける上で、その対象を見るという行為は最もポピュラーな手法のひとつだ。

 邪視。目に人を害する魔力が宿るという信仰は普遍的に存在する。ギリシャ神話のメドゥーサやケルト神話のバロールは邪視の代名詞であると言えるだろう。

 ダンタリオンの邪視にメドゥーサやバロールほどの威力はないが、それでも立香を蝕むのには十分だった。サーヴァントには通用しないようだが、常人である彼女に呪いをかけることはそう難しくない。

 だが、これは魔術による攻撃だ。サーヴァントが振るう剣や槍はどうしようもないが、魔術は対策を立てることができる。

 立香は指先に魔力を集め、光に変換する。それをもって、服の上に紋様を刻んだ。

 横に伸ばした楕円の中に、真円が描かれる。それは人間の目を表しており、邪視の魔除けとして世界中で見られる印であった。

 邪視は多くの地域で信仰されていたため、それに対する防御の手段もまた数多く存在する。動物の角やナイフなど鋭利な物体、目の印もそのひとつである。中東やイタリアでは、手の平に目を描いたものが護符として扱われている。

 魔術師としての立香の腕前は未熟なものの、利用した印は古来より信仰されてきた。対抗策として最上とは言えずとも、最適には近い。

 早鐘を打つ心臓が普段の調子を取り戻し、体内に蓄積された痛みが引いていく。

 立香は安堵とともに息を吐き出す。

 

「ドクター、私は大丈夫です。リーダーに教わった知識が役に立ちました」

「『こちらもバイタルが正常値に戻ったことを確認した。レイシフト前に伝えた作戦は覚えているかい?』」

「高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応、ですよね!」

「それは行き当たりばったりってやつなんじゃないかな?」

 

 言いながら、ブーディカは苦笑いした。

 戦車を引く二頭の白馬がふわりと地面を離れる。それに追随して車体が浮かび上がり、車輪が空を掻く。

 ケルト系のイケニ族の女王であったブーディカの戦車は神々からの加護を受け、強力な防御能力と飛行能力を備えている。かつて二人の娘を乗せたこの宝具は、彼女の誇りそのものだ。

 それに立香を乗せることに、何ら迷いはない。

 血生臭い戦いとは無縁だった少女。流されるままに人理を救う使命を課せられ、戦場に放り出される。その心情を慮り、ブーディカは剣を強く握り締めた。

 ローマに復讐するため戦った。

 ブリテンのため、亡き夫のために剣を取ったあの日。戦場に出る恐怖を憎しみで押し潰したことを、彼女は決して忘れはしない。

 ──二度と、自分のような人間が生まれないように。

 立香を守る。ただそれのみを誓い、ブーディカはそびえ立つ魔神柱を睨んだ。

 数々の戦士を率いた勇敢な笑顔を見せ、彼女は立香に言った。

 

「しっかり掴まってなよ? ここから先は安全運転できそうにないから──!」

 

 それは飛翔というよりは疾走。

 八本の馬脚が空を蹴り、車輪が宙を駆る。

 ダンタリオンの巨躯に比べれば、二頭立ての戦車と言えど蜂が周りを飛んでいるようにしか感じないだろう。

 魔力が悪意を持って渦を巻き、強烈な暴風を引き起こした。

 回避すれば接近は能わず、防御すれば熱線で撃ち落とす魔の渦動。対するブーディカはさらに速度を上げ、その渦中へと突撃する。

 誰もが墜落を予想したが、その時はいつまでも訪れない。

 絶えず変化する風の流れを読み、それに合わせて戦車を走らせる。一度風を読み間違えれば彼方へ跳ね飛ばされ、一歩戦車の操作を誤れば地面に叩き落とされる。卓越した騎乗スキルが無ければ成し得ない絶技だ。

 ブーディカは剣に魔力を込め、真名を解き放つ。

 

「『約束されざる勝利の剣(ソード・オブ・ブディカ)』!!」

 

 剣身より放たれる光弾。ひとつひとつの威力は恐れるべくもないが、問題はその数。

 刃を一振りする度に五つもの光弾が撃ち出され、ダンタリオンを苛む。標的の大きさ故に詳細な見当をつける必要もなく、吸い込まれるように巨体に直撃する。

 蜂の一刺し。それが幾度となく続けば、ダンタリオンにも限界が来る。空飛ぶ戦車にいくつもの視線を差し向け、その瞳に熱を集束させた。

 

「優先順位変更。まずは戦車を───」

 

 それを遮るように、炎の波がダンタリオンの表皮を攫う。

 

「……へえ、私たちは取るに足らない存在ってこと?」

 

 ジャンヌは不敵な笑みを貼り付け、纏う火を一層漲らせる。額には青筋が立っており、般若もかくやという形相にマシュは絶句した。

 剣に炎を灯し、ジャンヌは駆け出す。

 彼女は自らを守る盾であるマシュすら置き去りに、燃え盛る旗と剣の双撃を叩き込む。

 凄絶な炎の乱舞。ダンタリオンの血が流れた瞬間に蒸発する大火力が、連続して浴びせられる。

 オルレアンの戦いでは複数の敵に火力を分散させていたが、今回の敵は一柱。彼女が持つポテンシャルの全てを、眼前の悪魔に注ぐことができた。

 ジャンヌは目を見開いて、

 

「カルデアに来てから、あのアホ魔術師に振り回されてこっちは頭に血が昇りきってるのよ! ダンタリオンだか何だか知ったこっちゃないわ! 大人しく燃えなさい!!」

「「…………」」

 

 立香とマシュは心の底からジャンヌに同情する。

 炎の強さは、ノアへ向けられた恨みの量なのかもしれない。そもそも初対面からして、激辛麻婆豆腐を口にさせられた仲である。彼女の恨みは正当な所しかなかった。

 

「じ、ジャンヌさんがそんなに溜め込んでいたなんて……今度リーダーを麻婆の刑に処しておきますね」

「強く生きてください……ジャンヌさん。わたしは貴女の味方です」

「『うん、まあ、ボクも専門外ではあるけどカウンセリングとかできるから、医務室に来てくれたら相談に乗るよ』」

「憐れまれるのもそれはそれでムカつくんですけど!!?」

 

 彼女の嘆きに呼応して、火炎は勢いを増す。

 それを黙って見過ごすダンタリオンではない。ブーディカへと向けていた意識を割き、ジャンヌの警戒へ回す。

 空を駆ける戦車が蜂であるなら、巨体の直下で暴れるジャンヌは蟻。だが、その攻撃力は魔神柱の命にすら届き得る凶悪な熱を秘めている。

 ──一刻も早く排除すべきはこの蟻。

 ダンタリオンはソロモン王が使役した七十二の悪魔の一柱だ。人間が持ち合わせる痛みも苦しみもなければ、逡巡することもない。

 即断即決。思考から行動に繋げる速度は、この場の誰よりも頭抜けていた。

 網の目の如く走る熱線。ジャンヌは即座に後方へと跳び、それらを潜り抜ける。

 宙に浮いた一瞬。回避行動を取れないその瞬間をダンタリオンは狙っていた。

 ジャンヌの横合いで魔力が弾け飛ぶ。純粋なエネルギーだけを使ったその爆発は、単純故に強力。余波だけで腕や足の一本は奪っていくだろう。

 そうなれば、立香たちの戦力はほぼ半減する。攻撃の要であるブーディカとジャンヌ、その片方が脱落するのだから。

 空気が震えるほどの轟音。

 ダンタリオンにまぶたがあったなら、それは限界まで開かれていただろう。

 

「ジャンヌさん、怪我はないですか!」

 

 身の丈を超える盾を携えた少女。マシュは背後のジャンヌを無傷で守り通していた。

 ダンタリオンの思考回路は即断即決。不合理に動くことはなく、確実に敵を追い詰める一手を最速で導き出す。

 ならば、次に打つ手を読むのは容易い。

 道理に外れた行動を取らないということは、動きをすべて想定できるということ。どのような攻撃をしてくるかは分からないまでも、誰を標的にするかは読める。

 ダンタリオンにとって、現状最も脅威なのは誰か。マシュがジャンヌへの攻撃を警戒することに、何ら不合理な点はなかった。

 ジャンヌはマシュの問いを受けて、顔ごと目を背ける。

 

「ええ、傷ひとつないわ。私ひとりでもどうにかなったでしょうけど。……でも助かりました。あ、ありがと」

「……せ、先輩! パターン青、ツンデレです! リーダーの偽物のツンデレとは違う本物のツンデレがきました!」

「見てくださいブーディカさん! あれが真っ当なツンデレですよ! ウミガメの産卵くらいの希少映像ですよ!」

「『ウミガメの産卵映像はよくテレビでやってるんじゃないかな?』」

「……アンタたち後で燃やすわ」

 

 思わず気が抜けるようなやり取りに、ブーディカは口角を上げた。

 ───ああ、この戦いは、良い。

 彼女の戦争は、いつだって悲愴と憎悪に満ち溢れていた。

 戦車が通ったあとには何も残らない。

 ローマ人は全て敵だ。

 禽獣にも劣る畜生の群れだ。

 捕虜を取ることもしなければ、奴隷として売ることもしない。

 ただ殺して殺して、殺し尽くした。

 ブーディカが起こした反乱では、およそ八万人のローマ人が犠牲になったと言われている。その犠牲の多くは民間人が大半を占めていた。

 火の輝きに魅せられた蛾のように。

 死という名の断崖へ向かって疾走を続けるだけの戦争。後に残した轍を振り返る間もなく、彼女は生を終えたのだ。

 けれど、この戦は違う。

 歌物語のように勇壮で勇猛で。

 世界を脅かす敵を討つための戦い。

 絶望に落ちるのではなく、希望へ向かうことのできる──英雄のように。

 

「うん。やっぱりあたしにはこういう戦いの方が性に合ってるかな!」

 

 煌めく無数の光弾。さながら満天の星空の如くその空域を埋め尽くし、ダンタリオンの肉を削ぎ落としていく。

 滝のように流れる血が巨塔を赤く染めた。

 どこまでも目障りな蝿を撃ち落とすべく、指向性を持った衝撃波が辺りを薙ぎ払う。

 ブーディカはそれを予定調和のように躱し、攻撃の手を緩めない。そのことを、ダンタリオンは理解することができなかった。

 ──なぜ当たらない。なぜ一方的に嬲られている。

 魔神柱の霊基はサーヴァント数体分。単体性能では大きく勝り、一対三のこの状況でも遅れを取ることはない。そのはずだった。

 しかし、現状として痛打を与えることはできていない。持ち前の耐久力で命を繋いではいるが、それもいつかは限界が訪れるだろう。

 ダンタリオンはあくまで機械的に、判断を下した。

 体表に叢生する眼球が、泡のように増える。

 

「──『焼却式 ダンタリオン』」

 

 その時、天より流星が降り注いだ。

 否、それは魔神柱の頂点より地上に散布された極大の魔力塊。とはいえ、晒される側にとっては隕石が落下してくるのと何ら変わりはない。

 攻撃が回避されるというなら、避ける隙間を潰す。攻撃が防御されるというなら、数の暴力で押し切る。

 赤黒く禍々しい光を発する隕石群。空が落ちてくるかのような感覚に、立香は息を呑んだ。

 空気を裂く轟音に負けじと、彼女は声を張り上げる。

 

「全員マシュのところに集まって! 宝具でこの場を切り抜けます!!」

「了解──仮想宝具、展開します!」

 

 全身の魔力を盾に込める。

 これまでの経験で、マシュは自分の宝具を完全にモノにしていた。

 今回相対する流星群は間違いなく最大にして最多。

 だがしかし、最強には程遠い。

 騎士王が操る星の聖剣。あの一撃に比べれば───!!

 

「『擬似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』……!!」

 

 真上へ向けて巨大な円盾が形成される。

 それはまるで咲き誇る華のように。しかして、その有り方は儚さとは真逆の位置にあった。数多の雨に晒されても折れぬ勇壮さを備えた大輪。それを目指して仲間は集う。

 ブーディカと立香は悠々と盾の真下に滑り込む。攻撃のため、ダンタリオンに接近していたジャンヌだけが、未だ避難できないでいた。

 

「ジャンヌさん、令呪を──」

 

 鬼気迫った立香の声。

 数瞬先には隕石に押し潰される。そんな状況で、ジャンヌの胸中にあったのは心が霞がかるような違和感だった。

 全身に炎を灯し、彼女は返答する。

 

「──必要ないわ。取っときなさい」

 

 火炎が瞬き。

 流星が落ちる。

 次の瞬間、世界から色が失われた。

 視界を端から端まで塗り潰す巨石群。次いで衝突音が聴覚の許容できる範疇を超え、音が失われる。

 そんな状況にありながら、胸中に堆積する違和感は消えなかった。

 世界を色づかせるように、疑念を打ち払うように、少女の声が無音を打ち破る。

 

「大丈夫ですか、ジャンヌさん。全身煤まみれじゃないですか! 念のために応急手当かけときますね!」

 

 それでようやく、違和感の正体に気付いた。

 

「ねえ」

「何ですか?」

「なんでアンタ、私に敬語使ってるのよ」

 

 これ以上ない率直な疑問。

 質問を真っ向からぶつけられ、立香は怯んだ。

 

「じ、人類史に冠たる英雄に敬意を払ってですね……」

「そういう割には尊敬の念が感じられないんですけど?」

「誠意は言葉ではなく金額って言うじゃないですか。海より広い私の尊敬の感情も言葉にしたら伝わらないのかもしれません」

「その言い訳が既に敬意を感じさせないのよ!」

 

 これは潮目が悪い。立香は自身の不利を感じ取ると、大げさな身振りで立ち上がった。

 会話の間にも隕石は降り続いていた訳だが、盾と衝突する頻度は徐々に少なくなっていた。じきに攻勢に打って出ることもできるだろう。

 

「さ、さあ! ここが正念場だよ! ジャンヌも前に出過ぎないように注意して! 大丈夫、マシュの背後はセコムも裸足で逃げ出すくらい安全だから!」

「先輩、それは流石に手のひら返しが早すぎます!」

「その手首は、きっとモーターで出来ていた……」

「先輩はサイボーグだった……?」

 

 愚にもつかないやり取り。それを終えて、立香はジャンヌの目を見据える。

 

「とりあえず、こんな感じでどうかな、()()()()。私も、あなたとは尊敬よりも友情で繋がりたいから」

「……ええ、悪くないわ」

 

 ジャンヌはマシュの防御範囲の限界まで歩き出す。両手に旗と剣を携え、彼女は言った。

 

「──令呪を寄越しなさい、()()

 

 その一言に、もはや返答はいらない。

 立香の手の甲から赤い光が解き放たれる。一画を残し、令呪の膨大な魔力がジャンヌの総身に宿る。

 

「敵の攻撃が終わります!」

 

 マシュの合図とともに、ジャンヌは翔んだ。

 炎を進行方向とは逆に噴射し、一直線にダンタリオンを射程に収める。

 ブーディカの戦車ほどの飛行能力はなく、滞空もできないが速度は一級品。隕石に巻き込まれなかったのも、この滑空によるものだった。

 湧き上がる莫大な魔力。追随して炎の勢いが強まり、左手の剣へと集束する。今までとは遥かにかけ離れた炎の純度を目の当たりにしたダンタリオンは、赤いコートの詩人の声で言った。

 

「いや、それは私まで死ぬやつ───」

 

 依り代となった男の声は、届かない。

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 令呪の援護を受けた彼女の炎は限界を超えて勢力を強め、魔神柱の巨体を呑み込んだ。火柱と化したダンタリオンは、煌々と輝きながら崩れていく。

 天を突く巨塔は成す術なく灰へと還される。

 ここに、ローマ軍左翼の戦いは終わりを告げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 三国のローマの激突。

 それを制したのは、皇帝ネロの軍であった。

 ロンバルディア平原の中央に位置する交通の要衝・メディオラヌムを抑えたことで、ローマ帝国はイタリア半島から侵攻の手を伸ばす土壌を得た。

 それだけでなく、超神聖ローマ帝国とネオローマ連合の将を削ることができたのも大きい。ノアと立香両翼の軍が名だたる将を受け持ったことで、ネロの中央軍は存分に活躍することができたのだ。

 結果的にはローマ帝国の大勝利なのだが、

 

「率直に言おう、余は機嫌が悪い!!」

 

 ネロは頬張ったリスのようなふくれっ面でむくれていた。

 戦争の後処理を終えた後、メディオラヌムの街に入ったローマ軍。今後の計画のために軍議を開いた直後の発言がこれである。

 超神聖ローマ帝国とネオローマ連合の主立った将と激突したのは、ノアと立香たちである。今回の勝利にネロ率いる中央軍の活躍も不可欠なのだが、両翼のそれには及ばない。

 つまりは、戦場で目立てなかったことが不満なのだった。

 

「戦果を挙げられるかどうかってのは運の要素も大きいからな。それに中央軍が気張らなきゃオレたちも自由に動けなかっただろ?」

「そうそう。功を焦って空回りすることもなかったんだからさ、気軽に考えれば良いよ」

「そうは言っても、余は目立ちたい! 慰められるのも悪い気はしないでもないが、讃えられてこその皇帝であろう!」

 

 ペレアスとブーディカはフォローに回るが、ネロの表情は晴れない。そんな彼女に、エリザベートはなぜか勝ち誇りながら、

 

「どうやらネロを過大評価してたみたいね。私はこの美声で右の戦場を勝利に導いたもの! 戦果でも歌唱力でも上を行ったことを見せつけちゃったかしら!」

「くっ! 確かに戦果で劣ったことは認めるが歌唱力は認められぬ! どちらがより観客を沸き立たせるか、兵士の前で勝負と行こう!」

「ふふん。トップアイドルとしてその挑戦状、受けて立つわ!」

 

 阿鼻叫喚の地獄絵図が作り出されることが決まった。

 そのやり取りから離れたところで、ノアと立香は絶句していた。

 彼らの視線の先には、何やら神秘的な紙片や歯車、果てには心臓が積み重なっていた。一見すればおどろおどろしいサバトの儀式である。

 立香は粛々と口を開く。マスター二人の顔は心なしか描き込みが多くなっていた。

 

「ダンタリオンを倒したらこんな残骸が……」

「宝の山じゃねえか。魔神柱だったか? 1本と言わずに600万本くらい生えてくれ」

「あの、お二人の作画が劇画調になってるんですが」

 

 ダンタリオンの残骸は、カルデアの運営に欠かせない素材の山だった。礼装として加工するもよし、燃料として活用するもよしの希少素材ばかりである。

 しかし、見てくれはクセのある殺人現場だ。マシュは召喚サークルを通じてカルデアに素材を送り届けようとした。

 ……送り届けようとした。

 

「うわ、見てくださいリーダー! この心臓まだ動いてますよ!? つついたらビクビクしてるんですけど!!」

「甘いな藤丸。動脈の管に指突っ込んでみろ、浜に打ち上げられた魚みたいに跳ねるぞ」

「わぁ本当だぁ〜! 次はこの歯車とか突っ込んでみます?」

「オイオイ何言ってんだ。一応貴重な素材なんだぞ? ……三つまでにしとけ」

「「アヒャヒャヒャヒャ!!」」

 

 そんな悪魔たちの哄笑を遮るように、ジャンヌは二人の頭上から拳を落とす。

 

「アンタたち頭おかしいんじゃないの!? 私より魔女っぽいことやってるじゃない!!」

「いや、いつジャンヌがツッコむかと」

「おまえはツッコミの反応が遅いんだよ。俺たちの欲しいタイミングでできるようにしろ」

 

 ノアの暴論に、立香はこくこくと頷いた。

 

「こればっかりはリーダーの言う通りだよ。じゃあ、それを踏まえてもう一回……」

「今みたいなくだらない寸劇をもう一度見ろってこと!? アホか!」

「なんだよ、結構できるじゃねえか」

「なんでアンタは採点する側に回ってるのよ!?」

 

 ジャンヌは肩で息をしながら、馬鹿二人の相手をさせられていた。その一部始終を間近で見せられたマシュは、かつてない同情を覚える。

 

「いつからわたしたちはお笑い集団になったんでしょう?」

「『それは割と最初からじゃないかな!』」

 

 

 

 

 

 

 ローマ軍左翼、戦場跡地。

 ダンタリオンの焼却式によって平原は跡形もなく掘り返されていた。月の表面のように多数のクレーターが穿たれ、緑の草原は岩場に作り変えられている。

 その戦いに割り込む者はいなかったため、運悪く巻き込まれた者以外の死体はなかった。その死体も、人間の原形を留めてはいない。

 荒れ地の中心には、唯一生存者がいた。

 頭部に戴いた月桂冠。赤いコートで身を包んで座り込み、懐から取り出した紙の束に筆で文章を書きつける。彼の衣服はところどころが焼け焦げ、頬にも浅くない傷が刻まれている。

 彼の集中力は常軌を逸していた。

 瞬きもせず、息すらしていないのではないかと思わせるほどの無表情で、手だけを忙しなく動かす。口の端から垂れ落ちる血にも頓着はしない。

 そこに、アレキサンダーと孔明がやってくる。赤いコートの男は彼らの来訪にすら気付かない。剣を振るえば容易く命を刈り取れるほどに、男は文章をしたためることに熱中していた。

 アレキサンダーと孔明はため息をつく。征服王の手が男の肩を揺すり、ようやく紙の束から視線を外す。

 

「ようやく、君の詩人らしいところが見れたよ」

 

 赤いコートの男は紙と筆を懐にしまう。彼は気だるげに月桂冠を脱ぎ、頭を軽く掻いた。

 

「やあ、これは恥ずかしい。作家にとって、執筆途中の作品を見られることほど歯がゆいものはありません。ところで、アレキサンダーさんは随分と見た目が変わりましたね?」

 

 男の言うように、アレキサンダーは以前の幼い姿ではなく、青年ほどの姿に成長していた。彼は何でもないことのように、

 

「『神の祝福(ゼウス・ファンダー)』の副作用だよ。ゼウスの加護を受ける度に身体が変化するんだ。もう何回か使えば、先生の馴染み深い年齢になれるかな?」

 

 けたけたと笑うアレキサンダー。いたずらな笑みに、孔明は肩を竦めた。

 

「……やれやれ。あんなものに変身して、よく生きていたものだ」

「私自身かなりの物好きと自覚しておりますが、アレと心中するほど酔狂ではありませんよ。依り代になるのも押し付けられたようなものですし。孔明さんも共感してくれるのでは?」

「ああ、全くだ。損な役回りを演じるのには慣れているが、今回は殊更酷かった」

「ですよねえ。私もいつかは振り回す立場になってみたいものです」

 

 そう言って、彼らは苦笑する。

 愚痴を言い合う様は、殺し合う敵同士と言うよりは親交を重ねた間柄のようにも見えた。

 赤いコートの男は笑みを保ったまま問う。

 

「それで、ご用件は? 私を殺しにでも来ましたか?」

「「…………」」

「え、何ですかその何とも言えない目は!? ケンタウロスのケイローンさんからも同じ視線を受けた覚えがあるんですが!!」

「憐れみだよ。そもそも殺すのが目的なら、今頃さっくり斬ってるはずだからね」

「なるほど、合点がいきました。ケイローンさんくらいの人物ともなれば、私の心根を見抜くのも容易かったのでしょうね」

 

 アレキサンダーは愛馬に跳び乗る。孔明もそれに続き、男へ視線を注いだ。

 

「カエサルの代わりに、お膳立てしてくれるんだろう? 」

「ええ、そう時間はかかりません」

 

 赤いコートの男は立ち上がる。

 彼の目は、地面に転がる肉片を捉えていた。

 

「戦争に協力するのは気乗りしませんが、あの男の言いなりになる方が憂鬱ですしねえ」

 

 詩人は、初めて顔貌に感情をにじませる。

 その表情に込められた感情とは───

 

「レフ・ライノール。目に物見せてやりますよ」

 

 ──静かに燃え滾る、怒りであった。



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第19話 天に至りし見神の詩人

 ローマ帝国最前線都市、メディオラヌム。

 先の会戦で大勝を収めたローマ軍は、メディオラヌムの防備の強化に心血を注いでいた。その理由は無論、超神聖ローマ帝国とネオローマ連合の侵攻を警戒してのことである。

 あの戦いから数日が経過したが、ネロたちの敵である二国の動きはなかった。

 軍の再編に手間どっているのか、もしくは動けぬ事情があるのか。現代のような通信手段が無いこの時代において、戦争は思ったよりも緩やかに時間が過ぎていく。

 そもそも、隣の都市に移動するまでに数日を費やすような時代だ。

 現代に溢れる膨大な娯楽は、このような余暇を埋め尽くすために発明されたのかもしれない。のんびりと軍備を整えている陣中の様子を見て、マシュはぼんやりと思った。

 装備の点検を行い、物資を指定の場所に運び、必要な分の糧食を管理する。輜重は軍隊という名の生き物にとっての生命線である。これを怠っては勝敗以前に、戦うことすらままならないだろう。

 そんな折に、ひとりの男が呟いた。

 

「……オレの宝具って地味だよな」

 

 場の視線が一気にペレアスに集まる。彼は虚ろな目で、憎たらしいほどに真っ青な空を見上げていた。

 彼の宝具が強力なことには間違いないが、見栄えの点で言うと他のセイバーには確かに見劣りするだろう。エクスカリバーやバルムンクのような豪華絢爛な宝具に憧れるのも無理はない。

 凍り付いた空気。いたたまれない雰囲気が流れ、ノアが口を開く。

 

「おまえの場合は原作からして地味だがな。セイバーの癖に剣の逸話が少なすぎるだろ」

「お前に言われると無性にムカつくんだが!? くそっ、オレに知名度さえあれば!!」

「確かにペレアスという名前で有名人といえば、ペレアスとメリザンドの方ですからね。いささか分が悪いと思われます」

 

 マシュに容赦ない事実を突きつけられ、ただでさえ虚ろだったペレアスの瞳から、さらにハイライトが失われていく。

 ペレアスとメリザンドとは、20世紀最大のフランスの作曲家ドビュッシーが手掛けたオペラである。もちろん、アーサー王物語におけるペレアスとは何ら関係がない。

 ドビュッシーが傾倒していたワーグナーという作家は、トリスタンとイゾルデというオペラの作曲を担当した。トリスタンの人気がうかがえる結果であろう。

 一部始終を聞いていた立香(りつか)は何の気なしに言った。

 

「思い切ってイメチェンしてみたらどうですか? 宝具はもうどうにもならないので、別のところで地味さを払拭していきましょうよ!」

「良いこと言うじゃねえか。こういうのは地道にやっても意味がないからな。荒療治くらいが丁度いい」

「待てお前は関わってくるな! おもちゃにされる未来しか見えねえ!」

 

 ペレアスが遁走しようとしたその時、幕屋を突き破ってネロが現れる。

 

「話は聞かせてもらったぞ! 皇帝ネロの名の下に、これよりファッションショーを開催する! もちろん主役はペレアスだ!」

「うわあああああ嫌だああああァァァ!!」

 

 そんなこんなで。

 都市の大広場に建てられた特設ステージに、ローマ帝国が擁するサーヴァントとマスターたちが集められた。よほど暇なのか、ステージの前にはちらほらと兵士の姿も見えた。

 カエサル然りカリギュラ然り、ローマ皇帝はかなりの浪費家揃いだが、ネロの浪費癖も負けず劣らずのものだ。64年のローマ大火のあとに彼女は黄金宮殿(ドムス・アウレア)を作り、市民から大顰蹙を買うという事件も起きている。

 ステージの端からペレアスが登場する。彼は豪奢な金ピカの鎧に身を包んでおり、首や手首からきらびやかな宝石をあしらった装飾をぶら下げていた。

 ネロとエリザベートは自信満々にペレアスの横で笑っていた。当の本人が無表情で絶望しているとも知らずに。

 

「どうだ! 余とエリザベートが合同で手掛けたこの戦装束は! 敵味方双方を魅了する戦場の華──うむ、我ながら見事な出来と自負している!」

「アイドルたる者、ファッションにも敏感でなきゃね。私としては血糊とか付いてた方がオシャレだと思うんだけど」

 

 ジャンヌは南極の氷よりも冷ややかな目つきで言った。

 

「悪趣味ね。美的センス崩壊してるんじゃないの?」

「わたしもこれは少し嫌いですね。間違えました、嫌いというより不快です」

「一人称が(オレ)になってそうだよね」

「戦場でこんなの着てたら、真っ先に狙われて危なくない?」

 

 女性陣からの評価は散々だった。相当な成金趣味でない限り、誰でも同じ評価を下すに違いないだろうが。

 

「なっ!? 黄金だぞ、宝石だぞ!? こんなものは付ければ付けるほど美しくなる魔法の物体であろう!」

「そうよ! カレーで言う福神漬けみたいなものじゃない! あったらあっただけ嬉しいじゃない!」

 

 騒ぎ立てる二人に立香は、

 

「すみません、この場合はカレーと福神漬けじゃなくて福神漬けが九割になってるんですが。お皿いっぱいに脇役載せられても困ります」

「え、待って立香ちゃん。オレってそんなに存在感ない? 漬け物程度の男になるのは嫌だァ!」

「自惚れんなペレアス。おまえは食い物に例えたら、カレーでも福神漬けでもなくらっきょうだ」

「結局漬け物かよ!!? 巡り巡ってもカレーのお供じゃねえか!!」

 

 ペレアスの悲痛な叫びがこだまする。

 ネロとエリザベートはよもやここまで酷評されるとは思っていなかったのだろう。二人は地面に手と膝をついて撃沈する。正直、それをしたいのはペレアスのほうだった。

 そこで、ブーディカが立候補する。

 

「じゃあ次はあたしに任せてよ。これでもちゃんと王妃やってた時は、着付けの勉強もしてたから」

 

 ペレアスはブーディカによって、舞台裏へと連れて行かれる。彼は死んだ魚の目をしていた。

 しかし、ネロやエリザベートとは違ってブーディカは真っ当な感性を持っている。少なくとも前より酷くなることはないだろう。

 数分後、ペレアスは着替えを終えて出てくる。

 裸の上半身に布を巻き、右手と左手にはそれぞれ斧と盾。防具と言えるのは頭部の兜くらいで、他はほぼ無防備に近い。伝統的なケルト戦士の装いであった。

 1世紀のケルト戦士はほとんど全裸のような格好をしていたのだが、そこはデキるお姉さんのブーディカ。配慮の見える結果である。

 立香は顎に手を当てながら言う。

 

「なんか蛮族感が凄いですね」

「騎士なんて蛮族みたいなもんだろ」

「リーダーにだけは言われたくないと思いますが」

「何にしろ無難にまとまってて面白くないわね」

「おい、ここまで身を切ったんだからもっと感想をくれ!!」

 

 ペレアスの悲痛な叫びを横目に、ノアはわざとらしくため息をついた。

 

「分かってねえな。ファッションは足し算だけしてれば良いって訳じゃねえんだよ。おまえらがやったことはラーメンにトンカツ乗せるようなもんだからな。どう考えても胃もたれするだろ。ラーメンはラーメンのままで良いんだよ。引き算をする勇気を持て」

「軍服風の礼装着てる足し算男が何言ってるんですか? カロリー高すぎて胃もたれします」

「さっきペレアスさんのことらっきょうって言ってましたよね。らっきょう単品とか絶対に嫌ですよ」

 

 ノアはマシュと立香の口撃を飄々と受け流し、

 

「という訳で俺が暇つぶしに作った魔術をかけるぞ。新たに得た竜殺しの個性を活かしてやるよ」

「でもペレアスさんって対魔力ありましたよね?」

「ほぼほぼ死んでる設定じゃない。ランクCの対魔力とか無いも同然でしょ」

「ジャンヌちゃん、それ以上はオレの心が死ぬからやめようか」

 

 もはやファッションとは遠くかけ離れていたが、それをツッコむ者は誰もいなかった。人間は肝心な時に歯止めがかけられない生き物なのだ。

 ノアは右手に魔力を集めると、それをペレアスに向けて放つ。

 

「オラァァ喰らいやがれェェェ!!」

「ぐあああああああ!!!」

 

 カッ、とまばゆい光が生じた後、ペレアスを中心に大爆発が起きた。ステージが一瞬にして黒煙に包まれ、衝撃波が髪を逆撫でる。

 明らかに死人が出るような爆発だが、ステージには傷ひとつ付いていなかった。何とも都合の良い状況に、マシュはただ目を細めた。

 立香は口元を手で覆いながら、泡を食うように言う。

 

「大丈夫ですか! ペレアスさ……」

 

 そこで、彼女は言葉を失った。

 爆発の中心地に立ちすくむペレアスと思しき人物。黒染めの鎧と外套を纏い、左手は鋼鉄製の義手。何よりも目を引くのは身長ほどの大剣を背負っていることだ。

 ノアは台本らしきものを取り出す。仰々しく咳払いすると、彼はその文面を読み上げた。

 

「それは剣というにはあまりにも大きすぎた。大きく、分厚く、重く、そして大雑把すぎた。それはまさ──」

「おいこれ竜殺しってかドラゴン殺しじゃねえかァァァ!!!」

 

 ペレアス渾身の飛び蹴りをくらい、ノアは地面を転がった。倒れ伏す彼に、ここぞとばかりにエリザベートとネロが追い打ちをかけに行く。

 

「結局足し算してるじゃない! 素材の味がどうにもならないから味付けでごまかそうとしてるじゃない!!」

「しかもパクリとはどういうことだ! 余は芸術家として許せぬ!!」

「待て待て、竜殺しもドラゴン殺しも変わらねえだろ。ちょっと絵柄に書き込みが増えただけだ」

「増えすぎて連載止まってますけどね」

「先輩もリーダーも気軽に第四の壁を越えないでください」

 

 マシュが呆れたその時、ひとりの兵士が馬を駆ってネロの元へやってくる。彼の慌てようは、顔色の見えづらい兜の上からでも読み取れるほどだった。

 馬の息も切れており、相当の距離を飛ばしてきたことが分かる。並大抵の事態ではないことを察し、緩みきっていた空気が引き締まる。

 彼は馬の背から降りると、ネロの前に膝をついた。

 

「ほ、報告! 我が軍が次の攻撃目標としていたマッシリアの都市が消滅しました!」

 

 ネロは何度か目を瞬かせると、首を傾げる。

 

「…………消滅? まさかまるっきり消えた訳ではなかろう」

「いえ、まるっきり消えました」

「なんだその急展開は!? 劇だったらブーイングが飛び交うところだぞ!」

「まあ落ち着きなよ。どうして消えたのかまだ聞いてないんだからさ」

 

 ブーディカに諌められ、ネロは平静を取り戻す。危うく皇帝の威厳を失いかけていたネロは、深呼吸を挟んで経緯を兵士に問い質した。

 それによると、神祖ロムルスと白髪の女性がマッシリアで争い、戦いの末に都市が吹き飛んだのだという。

 ひとつの都市を消すほどの力を持った英雄たちの激突。ネオローマ連合の首領であるロムルスと対抗できる存在───三国の間では『神の鞭』と呼ばれる超神聖ローマ帝国の切り札であった。

 ネロはこめかみを指で揉みほぐしながら唸る。

 

「なぜこのタイミングで切り札を出してきた? 両国共にそこまで窮した訳でもあるまい。立香よ、軍師としてこれをどう見る?」

「何か事情があったのかもしれませんね。どちらかが私たちを狙っていたなら、わざわざ戦わずに無視していれば良かったんですし」

「うむ、余もそう考える。して、その事情とは?」

「さっっっぱり分かりません! 読めなかった……この私の目をもってしても!」

「先輩は南斗五車星だった……?」

 

 頭を悩ませるネロと立香。彼女たちに畳み掛けるかのように、続けて騎馬兵が走り寄って来る。彼は先客がいることを見て口ごもったが、ネロが手で制した。

 

「良い、何があったか報告せよ」

「は、はっ! それが──超神聖ローマ帝国の将を名乗る者が、我が軍に寝返りたいと……」

「…………超神聖ローマ帝国?」

「はい、超神聖ローマ帝国です」

 

 ネロは半ば涙目で立香たちに振り返り、

 

「余は頭痛がしてきた! もう寝るぞ!」

 

 引きこもろうとする皇帝を全員で止める羽目になった。

 

 

 

 

 

 

 

 それは、数日前のこと。

 超神聖ローマ帝国首都、裁判所。

 空には真円の月が昇り、無数に灯された松明が暗い法廷を照らす。

 その部屋の中には、たったの三人しかいなかった。

 議場の中央に立たされた赤いコートの男を見下ろすように、カエサルとレフが並ぶ。

 男の顔面は真っ青に染まり、ダラダラと冷や汗を垂れ流している。氷河に投げ出されたかのように全身が震え、右へ左へ視線を泳がせていた。

 彼は戦場から帰還したばかり。自分で手当てしたのか、包帯が雑に巻き付けられている。

 カエサルは愉悦の笑みを浮かべる。どん、と鞘に収まった剣で床を突き、精一杯の威厳を込めて言う。

 

「何か申し開きは──」

「申し開きしかありませんよォォ!! 私は絶対に敗戦の責は負いませんからね!? ダンタリオンが弱かったのが悪いんですよ、何ですかアレは!? ただのデカいだけの大根じゃないですか!!」

「死刑」

「イヤアアアアアアア!! この鬼畜! 外道! 来た見た太った!」

「よし、そこに首を差し出せ。私手ずから裁きを下してやる」

 

 罵り合う皇帝と詩人。レフは額に青筋を立てると、不毛な言い争いを一喝して収めようとする。

 

「もういい、黙れ! 貴様らには問い質したいことがある。カルデアの連中が来たことは良い。だが、ネオローマ連合との戦いで奇襲を受けたことはどう説明するつもりだ……!」

 

 怒気を越え、殺気をも孕んだ眼差しが赤いコートの男を貫く。

 先の軍事行動の機密を握っていたのは、赤いコートの男だ。何処を何時、如何ほどの規模の軍勢で攻めるのか。ローマ軍が大勝をあげた要因はその情報を握っていたからだ。

 カルデアの戦力が加勢したのも予想外ではあったが、元々レイシフトのタイミングを読むことなどできない。戦術上での奇襲を受ける覚悟はできていた。

 だが、今回の敗戦では、ネオローマ連合を抑えてローマ帝国を落とすという戦略を台無しにされた。情報の流出源に当たりをつけるとするならば、その出処は限られている。

 

「どこから情報が漏れたのか……いやはや、全くもって見当がつきませんねえ。機密の管理はカエサルさんも関わっていたことでもありますし。犯人は私かカエサルさんですよ」

「ならば貴様だな。虚偽の報告書を私に提出し、ローマ帝国に情報を流した。これで説明がつく」

「──えっ? そういう流れになります?」

「他に何が考えられる? 今回の軍事行動の管理者は貴様だ。私は上がってきた書類を確認しただけ。そもそも私が敵国に情報を流すメリットがないだろう」

 

 赤いコートの男は、暫時考え込んだ。しばし沈黙が流れた後、彼は堰を切ったように喋り出す。

 

「…………よっ、よよよよくもそんな詭弁が思い浮かびましたねえ!? 地獄の最下層にどんな罪人が落ちるか知ってますか!? 裏切り者ですよ! イスカリオテのユダと同じですよ、ブルータスですよ!!?」

「裏切り者は貴様だろう」

「証拠はあるんですか!?」

「証拠ならある」

 

 男は糸で引き寄せられたように、レフの方を向いた。

 

「ローマ帝国とネオローマ連合の兵を尋問して訊いた。赤いコートの男が超神聖ローマ帝国の機密を流しているとな」

「ああ、これ赤じゃなくて朱色……」

「お前がそれを朱色と思っていようが関係ない。証言したのは他人なんだからな。以上を踏まえて、もう一度訊いてやる───申し開きはあるか?」

 

 赤いコートの男は右の口端だけをひくつかせながら、顔色を土気色に染める。

 もはやこうなっては言い逃れのしようはない。最初からレフは裏取りを済んでいたのだ。犯人は自分かカエサルか、選択肢を絞った時点で自分がそうであると自白しているも同然だ。

 見事にカマをかけられた。男の表情がレフからどう見えていたかは知る由もない。彼は顔をうつむかせ、すすり泣くような声をあげた。

 力量差は考えるまでもない。男は数いるサーヴァントの中でも、単純な戦闘能力なら間違いなく最弱クラスの英霊だ。腕っ節ひとつ取っても、訓練された人間にも勝つことができない。

 ぎぎ、と左の口端が持ち上がる。腹の奥からせり上がる声を喉で歪め、歯の隙間から押し出す。

 この窮地において彼は────

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 ───笑っていた。

 面を上げ、レフに双眸を向ける。

 

「そういえば、思い出しましたよ」

 

 意図のつかめない言葉。レフはほんの少しだけ眉根をひそめた。

 

「マクシミリアン・ロベスピエール。確かに、彼は本来あの特異点にはいなかったはずの存在でした。人理焼却という人類史の大災害に際して、私たちがあの女に集められるまでは」

 

 詩人は天を仰ぐ。

 まるで、その先にいる何かを見据えるように。

 

「───遥か高次元、永遠の領域(プレーローマ)に坐す知恵の女。人間という生物種の罪業の一端を顕す七人の英霊、『暗黒の人類史』……人理焼却の黒幕──かの魔術王とあの女は繋がっていると見ました」

「……黙れ」

「私をダンタリオンの依り代にして、言うことを聞かせていたのもあの女の入れ知恵でしょう? カルデアの方々を始末しきれなかった失敗を取り返すのに躍起になっているようですしねえ」

「貴様……!!!」

 

 総身を圧迫する濃密な殺気。極寒の冷気にも似たその空気に晒されながら、赤いコートの男は満面の笑みを浮かべた。

 

「そういうことで、今言った情報を持って私はローマ帝国とカルデアに寝返ります!! 特にカルデアの方々には高く売れるでしょうねえ!? ケツまくって逃げるんで、全力で捕まえに来てどうぞ!!」

 

 瞬間、辺りを照らす松明のことごとくが燃え尽きる。

 天井を崩落させ、月光が射し込んだ。

 しかして、その光は別の何かによって遮られた。

 夜空を真っ二つに引き裂く巨塔。

 表面に群れる眼球は血走り、殺意を込めて詩人を睨みつける。

 魔神柱・フラウロスは咆哮を轟かせた。

 

「───殺す!! 貴様の魂を一片残さず焼き尽くし、その後にカルデアの連中を──ノアトゥールを殺す! 小娘共は後回しだ、今は貴様とあの男が最大の障害………!!!」

 

 その啖呵を、詩人は鼻で笑った。

 彼は懐から詩を書き付けた紙の束を右手で取り出す。

 

「そうですか? 私はあの赤毛の少女こそを、最も警戒すべきだと思いますが……たくさんあるその眼も、節穴ばかりでは不便でしょう」

「よく回る舌だ、死に際の強がりは見苦しいぞ!!」

「……いえ、私は死にませんよ」

 

 右手で握り締めた紙の束。それをまとめる糸を歯で引き抜き、天へと紙片を放り投げた。

 夜空を舞う数十枚の詩。

 表面に書きつけられた文字が光となって宙を浮遊する。

 それらは全て、先の戦争の死者を悼むものだった。

 

「お見せしましょう、私の宝具を」

 

 そして、現実は心に塗り潰される。

 

 

 

 

 

 

「───『至高天に輝け、永遠の淑女(ディヴァーナ・コンメディア)』」

 

 

 

 

 

 

 それは、戦いと呼べるものではなかった。

 一方的な強奪、略奪、簒奪。

 逃れる術など存在しない。

 発動させた時点で、結末は確定する。

 理不尽で。 

 不条理で。

 それでいて、美しい。

 勝負は一瞬で決着がついた。

 夜空を二分する巨塔の姿は既に無い。

 レフ・ライノールは地面に四肢を放り投げ、土の味を思い知らされていた。

 実力だけで言うならば、能力を数値で比べたならば、レフ──フラウロスに敗北の余地などない。100回戦って、10万回は殺せる相手だったはずだ。

 それが、こうして。

 目の前が赤く染まるほどの気力でもって立ち上がろうとするが、その体のどこにもそんな力は残されていない。

 かろうじて息をするフラウロスの顔を覗いて、赤いコートの男は素っ頓狂な声を発した。

 

「今ので生きてるとか嘘でしょう……!? 彼女が手心を加えた様子はありませんでしたし……流石、魔術王の眷属と言ったところですね」

 

 そう言い残して、男は崩壊した裁判所を後にしようとする。

 カエサルは密やかに微笑をたたえながら、男の背に向かって言った。

 

「トドメは刺さなくて良いのか?」

「ええ、私が手を下すのはここまでに。彼を裁く剣は、他にふさわしい者がいます」

「そうか、ならば行け。『神の鞭』を差し向けてくるだろうからな」

「そのようですねえ。ロムルスさんが来てくれることに期待しましょう。お言葉に甘えさせていただきます」

 

 ああそうだ、と彼は思い出したように付け加える。

 

「これを言うと狂人扱いされるのですが。私、生前に貴方の姿を見たことがあるんですよねえ。貴方の魂の偉大さは、あの辺獄(リンボ)の中にあって輝いていました」

「ふっ、当たり前だろう。今はこんな姿だが、美青年と謳われていた私だぞ」

 

 おどける皇帝の前に、詩人は跪く。

 一切の諧謔を含めず、道化の仮面を取り払って。

 

「私はかつて政治家を目指していました。一瞬でも貴方に仕えられたことは、この身に余りある栄誉です」

「ああ、存分に噛み締めろ。不忠な部下にくれてやるには、少々値が高くつくがな」

「……では、お別れです。アレキサンダーさんとの戦いはすぐでしょう。不忠な部下の、最後の贈り物です」

 

 

 

 

 

 

 

 

「───という経緯があってですねえ! 是非私めをローマ帝国で取り立ててくださいませ!!」

 

 時を戻して。

 ローマ軍の諸将たちの前で、赤いコートの男はべらべらと口車を大回転させた。

 その気迫たるや、百戦錬磨の英雄たちが割り込むことをためらうほど。……というよりは、彼の舌の回りように引いていただけだった。

 ネロも皇帝として相対したのを後悔したが、すぐさま表情筋を締め直す。

 

「……う、うむ。ここは我らが宮廷魔術師に助言を乞おう。ノアならば如何にする?」

「処刑で良い……と言いたいところだが、俺たちにとって気になる情報があった。それを聞いてからだな」

「ええ、気の済むまで付き合いましょう。あ、そちらの方々は久しぶりですねえ」

 

 数日前、ダンタリオンと戦った立香たちには、男の顔は見覚えがあった。魔神柱へと変貌を遂げ、ジャンヌの炎に焼かれても生き延びた。にわかには信じられないが、こうして目の前にいる以上疑いの余地はない。

 ジャンヌは男と立香の間を遮るように立つ。これみよがしに手に火を灯し、彼女は硬質な声で言った。

 

「少しでも妙な動きをしたら焼くわ。精々真剣に答えなさい」

 

 立香は男の目を覗き込む。

 鏡のような瞳。その男を探るということは、自らの内面を手で掻き乱すことと同義であった。

 見られていることに気づくと、彼は緩やかな笑みを返す。その表情からは邪気も邪念も感じ取れない。命を賭ける恐怖ですら、彼は感じていない。

 その異質さに、立香は畏れを覚える。

 

「暗黒の人類史。おまえとロベスピエールはその七人の内の二人ってことだな。他の連中のことを教えろ」

「そうですねえ、場所が場所だけに曖昧な記憶ですが……おそらく第四特異点と第五特異点に送られた英霊は、特に警戒すべきでしょう。アレは神霊に片足を踏み入れています」

「その場所──永遠の領域(プレーローマ)にはどうやったら行ける?」

「真っ当な手段では不可能でしょう。何せ人理焼却からも逃れるほどです。……ですが、そうですねえ、原初の世界を開闢した一撃──対界宝具によって、あの領域までの次元に孔を開ければどうにかなると思われます」

 

 対界宝具。この世界そのものに影響を及ぼすことのできる、絶大な力を有した宝具。それを持ち得る英霊は、長い人類の歴史の中でも数少ないだろう。

 ノアは無機質な視線で男を射抜く。

 

「ロベスピエールが覚えてたのは、おまえが言う()()()のこととカルデアの存在だけだ。なぜおまえはあいつより多くの記憶を保持していられる」

「経験の違いですかねえ。私は生前、地獄と天国を旅したことがあるので、別次元に連れて行かれるのも慣れています。大抵は異世界での出来事は覚えていないことが多いのですが」

「なるほどな。おまえのことは良く分かった」

「本当ですか! じゃあ───」

 

 ノアは邪悪な笑顔で男の手を取った。非力な彼では抜け出せそうもないほどに、がっちりと力を込められている。

 

「万が一にも裏切らないように、俺が下僕としておまえを飼ってやる。感謝しろ」

「どこに感謝する要素があるんですかねえ!!? 差し出がましいようですがネロさん、これは国家の信用に関わる事件ですよ!」

「余は別に構わぬぞ? 降伏した将の扱いなど古今東西、割と雑であるしな!」

 

 何故か自慢気に言い放つネロ。赤いコートの男は絶望の面持ちで頭を抱え込んだ。

 

「そうだ、こっちもローマでした……!」

「亡命するにせよ、ローマしかないのがこの特異点ですからね。そこは少し不憫というか……」

「マシュ、私はそろそろローマがゲシュタルト崩壊してきたよ」

 

 男の扱いが決まりかけていたところに、ブーディカが口を挟む。

 

「敵国の動きとかは分からないの? カルデアにとっては価値ある情報をくれたけどさ、ローマ帝国にとって利益のある情報は貰ってないよね」

「オレたちに取り入ってローマ帝国を内から崩すなんて見方もできそうだしな。皇帝の側近なんだ、少しは有益な情報は持ってるだろ」

 

 ペレアスとしても、彼を殺すことは望んでいないのだろう。情報を差し出すことを促すような物言いだった。

 赤いコートの男は待っていたとばかりに、笑顔を輝かせる。

 

「近い内にネオローマ連合が、超神聖ローマ帝国に対して攻撃を仕掛けます。両国の陣容と、戦場でどのような陣形を取ってくるかくらいは見当がつけられると思います」

 

 ペレアスとブーディカは納得して頷いた。

 敵が動く時期と、どのように攻めてくるか。この二つが分かっていれば、遅れを取ることは早々あり得ない。

 

「そうか、やっぱり殺すには惜しいな。オレもこいつを引き入れるのに賛成だ。安心しろ、軍に入ってきた間諜を始末したことは何回もある」

「地味に脅すのやめてくれません?」

「おい待て、今のオレに地味という言葉は禁句だ」

「いや何があったんですか!?」

 

 男を除いた全員は顔を見合わせる。そしてゆっくりと向き直り、立香は顔に深い影を落としながら、

 

「……本当に、知りたいですか──?」

「人が何人か死んでるトーンじゃないですか! 私もその犠牲のひとりになりそうな展開じゃないですか!」

「俺の魔術の実験台になるんだろ?」

「誰がいつそんな契約をしましたか!? ブラックにも程がありますよ! 雇用契約は奴隷契約じゃないですからね!?」

「『フフ……カルデアでは職員に人権なんか無いんですよ』」

 

 ロマンの狂気的な発言に、男は震え上がった。何しろ、彼は長年カルデア(ブラック企業)で勤務してきた職員(しゃちく)のひとりである。その言葉には実感が籠もりすぎていた。

 ジャンヌはやかましく喚く男に、釘を刺すように言い放つ。

 

「別にアンタがどうなろうと私は知ったこっちゃないけど、真名も明かさずに寝返ろうなんて虫が良すぎるんじゃない?」

 

 彼女に追随して、ネロも首肯する。

 

「一理、いや百理あるな! そういうまだるっこしいのは余は嫌いだ!」

「……では、遅ればせながら自己紹介をさせていただきましょう」

 

 彼は皇帝と諸将たちの面前で跪き、深く礼をした。

 その顔貌は密やかに咲く花の如く微笑み、磨かれた鏡面のような瞳を煌めかせる。

 

「──我が真名はダンテ・アリギエーリ。戦闘では役に立たぬ穀潰しですが、以後お見知りおきを」



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第20話 薔薇の棘は誰が為に

 ダンテがローマ帝国に降った後、ネロが真っ先に行ったことは彼が自白した情報の裏取りであった。

 数日の内にネオローマ連合が超神聖ローマ帝国に仕掛けるという情報。その信頼性を確かめるために、ネロは幾度か間諜を送り込んだが、成果が上がる前に真偽は確定することとなる。

 なぜなら、ネオローマ連合が軍を興して動き出したからだ。

 しかも、その軍を率いるのは神祖ロムルス。配下にはアレキサンダーと孔明。掛け値なしの全力を注いだ陣容であり、期せずしてダンテの発言は裏付けられた。

 これによって、底を突き抜けていたダンテへの信頼度は大幅に改善された。マイナスがゼロに戻ったようなものだが、改善されたことには違いない。

 彼は浮足立っていた。

 超神聖ローマ帝国に仕えていた頃からの苦節も、ようやく終わる。これからは偉人ダンテの成り上がりサクセスストーリーが開幕するのだ──!!

 

「だからここから出してくださいィィィ!!」

 

 ダンテの叫び声がむなしく響く。

 彼はいま、猛獣用の檻に閉じ込められていた。両手は後ろ手に縛られ、右足首には囚人おなじみの鉄球がくくりつけられている。

 眼前を往来する兵士たちは彼に奇異の目を向け、失笑混じりに立ち去っていく。

 そんな調子で何度か喚いていると、ノアと立香(りつか)が檻の前にやってくる。彼らは鉄板とレンガ、薪を脇に抱えていた。

 対になるようにレンガを置き、その上に鉄板を橋渡しする。下の空洞に薪を入れ、火を点ける。

 

「ちょっと火力が足りないですね。ジャンヌ呼んできます?」

「あいつに任せたら鉄板ごと炭になるぞ。ルーン使っとけ」

「それもそうですね。リーダーがいたらジャンヌ、オルレアンの切れたナイフになりますから。えーと、Kenaz(ケナズ)

 

 宙空にルーンの刻印が走り、火は勢い良く燃え上がる。

 淡々と準備を進める二人を見て、ダンテは戦慄した。

 

「……えっ、なんですかそれ。新手の拷問器具ですか? 焼き土下座でもさせられるんですか?」

「何言ってんだ、昼飯の仕度に決まってんだろ」

「こんなところで!?」

 

 鉄板の上に油を引き、野菜と肉を炒めて麺を投入する。当てつけるように調理を進める光景を見て、ダンテは空腹感が増加するのを感じた。

 ノアは麺にソースを加えると、団扇を持ち出して煙を扇いだ。香りのついた空気がダンテの顔面に直撃し、鼻腔を刺激する。

 生前には一度たりとも嗅いだことのない匂い。それが絶え間なく送られ続け、彼の空腹はさらに加速するばかりだった。

 そして、ダンテは気付く。

 

(こ、これは拷問っ……! 私の食欲を掻き立てながらも……! それを解消する術を与えないっ……! 悪魔……! まさに悪魔的な策……!)

 

 思わず視界がぐにゃあと歪むが、Eチームのマスターたちにそれを知る由はなかった。立香は焼きそばの山から数本を引き抜いて、口に運ぶ。

 

「あの、なんかこの焼きそばもっさりしてますよ! 口の中から水分が失われていきます!」

「焼きそばなんてもっさりしてるもんだろ。ソースで肌黒くしてチャラ男ぶってるけど素顔はドカベンだからな。わんぱく野球少年やってるくらいがちょうど良いんだよ」

 

 二人はダンテに見せつけるように、もさもさと焼きそばを貪り食らう。

 

「でも、アレですよね。海の家とかお祭りの屋台で買って食べる焼きそばって、普段の三倍おいしくないですか?」

「それは焼きそばじゃなくて、その場の雰囲気を食ってるんだよ。つまり触媒だな。野球しかしてこなかったドカベンが祭りのド真ん中に放り出されてみろ、何もできないだろ。焼きそば貪るくらいしかできないだろ。所詮その程度の男だからな」

「リーダー、それ途中から焼きそばじゃなくてドカベンの話になってます。山田太郎になってます」

 

 見る見るうちに減っていく焼きそばの山に危機感を覚えたダンテは、空っぽの腹に空気を吸い込んで抗議する。

 

「ちょっとォォ!! 私の分もあるんですよねえ!!?」

「おまえが入ってるのは何の檻だ? ちゃんと動物らしい言葉で話せ」

「ワン! ワンワン! ワン!」

「す、すごい……! ここまで尊厳を捨てられるなんて!!」

 

 一瞬で人間の尊厳を投げ捨てたイタリア最大の詩人の姿に、立香は恐れおののく。人はどこまでも惨めになれる生き物なのだ。

 ノアは満悦の笑みを浮かべると、焼きそばを皿に盛る。彼は犬と化したダンテの檻を開いて、床に皿を置いた。

 それに手を伸ばそうとして、後ろ手に拘束されていることを思い出す。

 

「……あの、手が使えないんですが」

「は? おまえは犬だろ? 這いつくばって食え」

「ペレアスさああああん!! 貴方のマスター頭がおかしいですよおおおおお!!」

 

 その叫びを聞き届けたのか、呆れた表情のペレアスが飛んでくる。勢いのままにノアの脳天に鉄拳を落とすと、潰れたカエルみたいに地面に倒れた。

 ペレアスは檻の中に入り、ダンテの両手を縛る縄を解きながら、

 

「この馬鹿は気にすんな。もう釈放してやることになったから、おまえも軍議に参加してもらう」

「なんで私は捕らえられてたんですかねえ?」

「実はおまえ抜きで話し合いをしたんだが……」

 

 ペレアスはダンテが投獄されるまでの経緯を語った。

 ダンテがネオローマ連合の動向を言い当てた直後、ネロは諸将を集めて臨時の会議を開いた。議題はもちろん、ダンテのことについてである。

 超神聖ローマ帝国は裏切った彼を始末するため、『神の鞭』を放った。その追手はロムルスと激突し、ダンテは難を逃れた訳だがあまりにも都合が良すぎた。

 さらに、彼がネロに語った回想も問題である。一言一句間違いなく追放の過程を伝えたことで、カエサルがアレキサンダーとの戦いを望んでいること、その手助けをしたであろうことも判明していた。

 ダンテはネオローマ連合と繋がっているのではないか。そんな疑問が噴出するのは半ば当然であったといえる。

 ダンテはペレアスに手を引かれて檻から解放される。悠長に背伸びをする彼に、立香は単刀直入に訊いた。

 

「実際のところどうなんですか? 私は裏切ってはないと思いますけど」

「おや、貴女のようなお嬢さんに信頼されるとは嬉しいですねえ。ダンタリオンを倒した手際、見事でしたよ」

「私はジャンヌに令呪渡しただけですけどね!」

「年頃の乙女が殺し合いの場で正気を保っていられるだけ凄いと思いますが? ねえ、ペレアスさん」

 

 ペレアスは焼きそばの載った皿をダンテに手渡しながら、当然のことのように頷く。

 

「そりゃそうだろ、苦手な奴はどうしたって苦手だしな。立香ちゃんもマシュちゃんもよくやってると思うぞ?」

「や、やけに褒めますね。話題を逸らされてる感が半端ないですよ」

「いえいえ、これは正当な評価です。素直に受け取っておくと良いでしょう」

 

 そう言って、ダンテは焼きそばを口に運んだ。味を確かめるように何度も咀嚼し、嚥下する。

 

「……本当にもっさりしてますね。私からすれば大変美味ですが、未来では大量消費されるもののひとつに過ぎないのでしょう。いやはや、人類の美食への探究心には恐れ入ります」

 

 彼は地面に倒れ込んでいるノアに向き直る。その顔貌には微笑を貼り付けていた。

 

「──さて、ノアさん。私を解放するということは開戦間近なのでしょう?」

 

 示し合わせたように、ノアは起き上がる。

 

「ああ。超神聖ローマ帝国とネオローマ連合、そして俺たちの総決算の戦いだ。今から敵に寝返ってもできることはなにひとつねえぞ」

「万が一逃げてもオレが斬るけどな」

「ふふ、でしょうねえ。でなくば私を解き放ちません。二国の潰し合いを静観する方向に動かなかったのは、あの皇帝らしいことで」

「まあ様子見して挟み撃ちされたら最悪ですからね。私たちが参戦しないなら自分もって風に退却されるかもしれませんし」

 

 彼らは、何の気負いもなく笑った。

 然れども、そこにあるのは清純な戦意。義務でも責任でもなく、戦いに向かう意思だけが満ちる。

 不意にマシュがやってきて、張り詰めた風船のような緊張感を萎ませた。

 

「もうすぐ開戦前最後の軍議なのですが……皆さん、頭をシリアスモードに切り替えてください。特に先輩とリーダー」

「シリアスと言ったら私たちの十八番じゃないの? ですよね、リーダー?」

「その通りだ、藤丸(ふじまる)。俺たちEチームはシリアスで名を馳せたと言っても過言じゃないからな」

「それはどう考えても過言です! むしろ虚言です!」

 

 憤慨するマシュに引きずられるようにして、立香とノアは軍議が行われる幕屋へと連行される。サーヴァントの筋力を最大限に使いこなした所業である。

 ペレアスとダンテは少し離れた距離を保ちながら着いていく。若人の仲に立ち入るべきではないと知っていたからだ。

 ノアは神妙に切り出す。

 

「敵にレフの野郎がいる。使い魔の目を通して確認したから間違いない」

「……やっと、所長とみんなの仇を討てるんですね」

 

 立香の言葉に、ノアとマシュは首肯する。

 レフ・ライノールはカルデアにとって不倶戴天の敵であり、その全てを踏み躙った男だ。

 禍根。

 遺恨。

 果たされぬ想いを遂げるために。

 

「───あいつは俺たちの手で殺す」

 

 彼は、言葉の端々に殺意を込めて言った。

 

 

 

 

 

 

 見渡す限りの平原に、三軍が出揃う。

 皇帝ネロは自ら前線に立ち、その光景を睥睨した。

 これは兵を削る戦いに非ず。

 自軍以外の敵将を殺し尽くす。

 そうしなくては、勝敗が決することはない。

 サーヴァントの力はまさしく一騎当千。精強なローマ軍の兵士であっても、彼らの前では等しく雑兵と化す。

 そのような怪物たちの中で、さらに突き抜けた化け物がこの戦場にいた。

 神祖ロムルス。かつて七つの丘にローマの都を造らしめた大英雄。かの建国王は己が得物、紅き樹槍の切っ先を前方に差し向ける。

 

「───『すべては我が槍に通ずる(マグナ・ウォルイッセ・マグヌム)』」

 

 瞬間、天地を埋め尽くすほどの大樹が顕現する。

 過去現在未来、全てのローマを束ねて放つ超絶の宝具。幾星霜の永き時を重ね、醸成された膨大な質量が大地を席巻する。

 人間ひとりが持ち得る時間は精々が100年程度。しかして、ロムルスが振るうのはローマ全ての歴史だ。

 矮小な個人には、その歴史に爪を立てることすら叶わない。彼の宝具を前にしては、あらゆる敵対者が抵抗する間もなく圧殺されるだろう。

 万物を押し流す樹海(ローマ)

 それを切り拓く一条の閃光があった。

 

「『軍神の剣(フォトン・レイ)』──!!」

 

 積み上げた時間。

 紡いだ歴史。

 なるほど、確かにそれは脅威だろう。

 人類の華々しき栄光の歴史は、人理焼却という異常事態に至るまで途絶えることはなかった。

 星を喰らい、なおも発展を続ける創造の御業。

 ロムルスの宝具はその具現だ。

 自らが打ち立てた国が積み重ねた全存在を解き放つ。こと質量という点においては、あらゆる宝具を上回るに違いない。

 けれど。

 どれだけ輝かしい光を発するモノであろうと。

 気の遠くなるほどの年月を過ごしたモノだとしても。

 人類は、何の感慨もなく打ち砕く。そして、その残骸の上に新たな概念を築くのだ。

 『神の鞭』──彼女が振るうのは一切を蹂躙する破壊の力。

 その様はさながら彗星だった。

 虹色の破壊光を撒き散らしながら、触れた物全てを裁断する魔星。

 広域の殲滅力で言えば、ロムルスの宝具には遠く及ばない。しかし、一点の貫通力では大きく凌駕している。

 ぶつかり合う破壊の余波だけでも、兵の命を奪うに足る。この両者の激突は読めていた。マシュは前方に躍り出て、宝具を展開した。

 

「『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!」

 

 中空に描かれた白き盾の紋様。

 即座に編まれた要塞は、殺到し、炸裂する暴虐の波濤を悠々と受け止める。

 ローマ軍はロムルスと『神の鞭』ほどの攻撃手段を持たない。だが、裏を返せば、両者の宝具に耐えるマシュの盾を抜く手段もまた、この戦場には存在しなかった。

 永遠に続くかと思われた宝具の衝突は、どちらに軍配が上がるわけでもなく中断される。

 ロムルスの首目掛けて振るわれる白刃。

 『神の鞭』を呑まんと迫る火炎の波。

 彼らは瞬間的に沸き起こった殺気を察知し、宝具を解除して回避した。

 ──神祖の前に立つは、騎士と反逆者。

 

「ペレアス! この男は圧制者か? 圧制者だろう? 圧制者だな!?」

 

 スパルタクスに問われ、ペレアスは考える。

 ローマの神祖たるロムルスを圧制者呼ばわりすれば、どんな目を向けられるか分からない。だが、下手に否定してスパルタクスに暴走されるのも困り物だ。

 そんな訳で、ペレアスの返答はこうだった。

 

「ああそうだよ、多分な! しっかり連携とって──」

「うおおおおおお突撃ぃぃ!!!」

「くっそ! これだからバーサーカーは!!」

 

 ペレアスはスパルタクスに合わせ、なし崩し的に斬り掛かる。

 左右からの挟み撃ち。ロムルスは槍を両手で握り直すと、一振りの内に五撃を繰り出した。

 

(───頭と胴と足!!)

 

 一瞬をさらに分割した刹那。ペレアスは自らに向けられた全ての刺突を見切る。

 頭を横に振って躱し、斬撃を修正して胴への一撃を叩き落とす。足を狙った突き。それを逆に踏みつけながら、彼は距離を詰めた。

 目にも留まらぬ回避の妙技。手数が増殖するという奇怪な技を見せつけられながらも、ペレアスは動揺することはない。

 ──カラクリは見抜いた。

 突きの瞬間、樹槍の穂先が五つに分裂した。蛇のようにうねる樹木の杭。それがロムルスの攻撃の正体だ。

 であれば、この勝負には人数差による手数の優位は無い。ペレアスはそのことを頭に叩き込むと、ロムルスへと肉薄する。

 あの宝具は言うまでもなく脅威だ。

 広範囲を一瞬で押し流す質量の波。もう一度発動されれば、ペレアスはともかくスパルタクスは確実に仕留められるだろう。

 故に、宝具を使う隙は与えない。

 攻め続けることで、敵の余裕を奪う。

 ロムルスは接近するペレアスに振り返り、槍撃を打ち出した。

 樹木の分裂などという小細工は弄さない。

 スパルタクスに背を向ける危険は承知の上。襲い来る剛撃は直線的だが、その鋭さは一線を画す。まともに受ければ、防御したとしても体勢を崩されるだろう。

 ペレアスは剣を片手に持ち替え、半身になってそれを避ける。

 槍を突く際、人間の腕は前に伸び切る。その隙を突くため、彼は素早く刃を振るった。

 だが、ロムルスは槍手だ。そんな弱点は槍を握った時から知っていたし、弱みを潰すために技を磨き上げた。

 突くと同時に引く。

 何千回何万回と繰り返したその動作に、もはや隙はない。

 ペレアスの斬撃はロムルスの二の腕を狙う。

 危ういがその切っ先が届くことはない。腕が伸び切った隙。それは剣を扱う者にとっても例外ではなく、間合いに勝る槍使いの前では愚行に等しかった。

 ──斬撃の軌道が、曲がる。

 反撃に傾いたロムルスの意識の天秤を戻したのは、右腕に走る微痛。

 決して深い傷ではない。

 薄皮を切り裂いただけの掠り傷だ。が、神祖の体に傷をつけたという事実に変わりはない。

 ロムルスの頭上に影がかかる。

 スパルタクスが振り下ろした小剣の一撃。すんでのところで躱したロムルスは、唇を弧に歪めた。

 

「──見事。(ローマ)の体に傷をつけた者は数少ない。その剣技、賞賛に値する」

 

 ペレアスは剣を振り抜く最中、小指と薬指以外の指を柄から外していた。その分刃は下を向き、軌道は揺らぐ。

 タネが割れればなんてことはない小細工だ。彼の器用さは当然、軽傷に留めてみせたロムルスこそを賞賛すべきだろう。

 ペレアスは取り繕うように笑った。

 

「……小指くらいは持っていけたと思ったんだがな。というか、え? ローマ?」

「如何にも、(ローマ)がローマである。ブリタニアもまたローマの一部だ。つまり、お前も我が子(ローマ)ということになるな」

「いや、そのりくつはおかしい」

「照れるな、(ローマ)が愛を存分に受け取れ──!!」

 

 樹槍がうねりをあげ、小さな波となる。

 絶え間ない攻撃を捌きながら、ペレアスは悪態をついた。

 

「残念だが、オレが背負ってやれる愛は嫁のだけで精一杯なんだよ!!」

 

 …………ブーディカと共に『神の鞭』と相対していたジャンヌは、肩をすくめてため息をつく。

 その原因は、惚気けたようなペレアスの叫び声だった。

 

「マスターがアレならサーヴァントも、ってことですか。こんな時に惚気けるとか、恥ずかしくないの?」

「あたしはノーコメントで……」

 

 ブーディカは紅潮した顔を伏せて言った。彼女とて枕に顔を埋めたくなるような記憶はある。ペレアスの発言でそれが揺り起こされたのだった。

 とはいえ、ここは戦場。命のやり取りをする場所だ。

 短く息を吐いて、思考を戦闘用に切り替える。

 

「じゃあ、始めようか」

「ええ、立香たちが来る前にケリをつけるわ」

 

 直後、虹色の剣閃と漆黒の炎が激突した。

 

 

 

 

 

 

 兵士の恐慌と憤慨が、手に取るように分かった。

 その男の姿を見て。

 ある者は唇を噛み。

 ある者は視線を尖らせる。

 そこに滾るのは苦々しい憎悪だ。

 誰もが彼の治世に苦しめられ、放蕩に耽る所業に怒りを募らせた。

 ずきりとした胸中の痛みを抑えるように、ネロは愛剣を持つ手に力を込める。

 違う。この人はそんな人間ではないのだと、今すぐにでも叫びたかった。

 第3代ローマ皇帝・カリギュラ。

 月に魅入られた狂気の皇帝。自身を神と称し、忠実な側近をも残虐な手法で殺した暴君。きっと、彼の悪行は千年を超えた未来でも語り継がれているのだろう。

 ネロの記憶にある彼は、他者への愛に溢れた名君そのものだった。

 幼きあの日、小さな自分を膝に乗せて、様々な英雄譚を聞かせてくれた彼を。

 この手で殺さなくてはならない。

 ローマ帝国に叛く悪逆の徒として。

 彼の罪状に、反逆罪をも加えなければならないのだ。

 剣の柄を砕けんばかりに握りしめるネロを横目に、エリザベートは意気揚々と声を張り上げた。

 

「子ブタ共は下がってなさい! 一発でも殴られたら、普通の人間はミンチより酷いことになるわよ──っと!」

 

 彼女は側頭部へ振り抜かれた拳を屈んで回避し、槍の穂先を叩きつける。後ろに跳んだカリギュラを追い、ネロは剣を横に薙いだ。

 悔恨にほぞを噛もうと。

 慚愧に目を伏せようと。

 彼女の剣に一切の狂いはない。

 体から心を切り離す。陰謀と策略渦巻く政治の世界にあって、彼女が真っ先に身に着けた技術のひとつであった。

 あるいはそれは、防御反応だったのかもしれない。元老院の議員たちとの権力闘争の最中、自らも非道に手を染めなくてはならない事実から心を護るための。

 剣撃と槍撃が織り重なる。

 膂力で上を行くカリギュラであろうと、ネロとエリザベートの攻撃全てを捌き切れるはずもない。

 珠の鮮血が散る。刻一刻と彼の体には傷が刻まれ、動きは精彩を欠いていく。

 それでも、致命傷だけは与えられない。

 彼の宝具は月が出ていなくては使えない。軍勢に対してあれほど強力なものはないが、この場を打開する手段は皆無に等しかった。

 どうあがこうと敗北が待ち受けているというのに、カリギュラが止まる気配は微塵も見当たらない。それどころか、反撃の激しさは増す一方だ。

 

(……よい)

 

 より強く。

 より速く。

 

(もう、よい)

 

 一合、また一合と、剣に心が乗る。

 

(早く、倒れよ────!!)

 

 背負うような構えから、真一文字に振り抜く。

 それを振るった途端、理解した。

 剣筋が揺らぎ、腕に余計な力が入った不格好な斬撃。思わず恥じ入るような、そんな剣。

 だというのに、その刃は。

 伯父の右腕を、斬り飛ばしていた。

 肉を裂き、骨を断つ手応え。

 手にまとわりつくようなそれを振り払う暇もなく、彼女は聞いた。

 

「───なぜ泣く、我が愛しき妹の子よ」

 

 月の光は、彼の何を照らしたのだろう。

 月は狂気の象徴であり、古来より人を狂わせると信じられてきた。切り裂きジャックの犯行が、常に満月と新月の日に行われたなどという俗説が存在するほどに。

 狼男という伝承がある。満月の夜、人間が狼に変わるという話であるが、最初から月との関連性を持っている訳ではなかった。

 それではなぜ、狼男と満月のイメージは結び付けられたのか。

 人間が理性なき獣に変化するという現象。それを理由付けるために、古代の人々が狂気の月という信仰を当てはめたのだ。

 人の内に眠る獣性。月の光は人間性を奪い、残虐性を呼び覚ます。

 であるのならば、月明かりが照らすのは人間の本性だ。理性の皮を一枚剥げば、知恵無き獣と同質であるという月女神からの宣告。

 ───そう、これは。

 人を殺すのではない。

 伯父を殺すのではない。

 人の世に迷い込んだ一匹の獣を狩る。

 これはそういう戦い。野を駆る獣を手に掛けて、泣く狩人などいようものか。

 胸に吸い込まれる刃。

 防御に動く戦闘本能を抑えつけ、彼はその一撃を受け入れた。

 

「───」

 

 ずぶり、と剣が肉を掻き分ける。

 引き抜こうとしたその手を、残った左手が掴んで止めた。

 

「余は」

 

 彼女の言葉は、しかして遮られる。

 

「胸を張れ、おまえは皇帝だろう」

 

 穏やかな微笑み。

 彼は割れ物に触れるように、ネロの頬を撫でた。

 無骨で、けれど暖かな手のひら。それは、幼少の砌と変わらぬ感触だった。

 

「進め。この戦場には我らが神祖が、ガイウス帝が、征服王がおられる。かの方々に、おまえの王道を突きつけてこい」

 

 獣はここで果てる。

 覇業。偉業。それらを成し遂げた王たちの面前に、合わせる顔はない。

 しかし、そんな男にひとつだけでも贈れるものがあるとしたら───

 

「───ネロ。我が愛しき妹の子。余は、たとえどんな結末を辿ろうと、おまえの道を祝福する。決して独りにはさせない」

 

 体を構成する魔力がほどけ、空気に溶けていく。

 彼が完全に消えてなくなるまで、ネロは伯父の言葉を何度も反芻した。そして、彼女はエリザベートに向けて一言、

 

「往くぞ」

 

 王としての在り方を問うために。

 滾る想いと溢れる言の葉を、胸に仕舞い込んだ。



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第21話 『神約・終世の聖枝』

「私の宝具は詩を捧げて創った結界に相手を取り込み、魂を奪い去るというものです。取り込める人数に限りはありませんが、魂を奪えるのはひとりだけになります。逃れる術はありません。回避も防御も不可能です。それとこれは副次効果ですが、任意の相手のステータスを強化することも可能です。概ね一段階は上がると思ってください。発動するには数十篇は詩を書かなければいけないので、今回の戦いで使うことはできないでしょう」

 

 ローマ軍、開戦前の軍議にて。

 ダンテは自らの宝具の説明をした。問答無用で対象の魂を奪う。その効果は確かに、魔神柱へと変身したレフを一方的に打倒するに足るものであった。

 彼はサーヴァントだが、素の戦闘能力は訓練した兵士に負ける程度のものでしかない。この宝具だけが攻撃として成り立つ手段であり、戦闘における生命線だ。

 それを晒すというリスク。自身の武器を献上するに等しい行為でありながらも、ダンテは微笑を崩さなかった。

 立香(りつか)は顎に手を当て、ニヤリと笑う。

 

「ほほう、つまり領域展開ですね?」

「先輩、原作が違います」

「だいたいあってる……と言いたいところですが、ええ、この場合は固有結界という言い方をすべきでしょうねえ。擬似的なモノではありますが」

 

 固有結界。術者の心象風景で現実を塗り潰す大魔術にして、魔法に最も近いとされる禁術。一個人が使える魔術としてはまさに破格であった。

 そこで、ジャンヌはダンテに厳しい目を向ける。

 

「対象の魂を奪う、回避も防御もできない……その割には、レフって奴を仕留め損ねてるのね?」

 

 それを指摘されると、ダンテはぎくりと身を震わせた。

 彼女の言は正しい。ダンテの宝具が必中必殺であるのなら、レフが生き残ったことの説明がつかないからだ。

 彼は冷や汗を流しながらも毅然ぶって、

 

「敵は魔神柱、その有り様は限りなく特殊なものですし? 効いていなかった訳でもありませんし、そもそもアレを殺し切れるかと言われれば疑問が残りますし?」

「でもさ、ダンタリオンはちゃんと倒せたよね? あれは死んだのとは違うの?」

「どうでしょうねえ。変身した私に言わせると、アレは殺せるが死なない……そんな存在かと思われます」

 

 ブーディカが率直な疑問をぶつけられ、ダンテはうろたえる。

 ダンタリオンはジャンヌに焼き払われ、文字通り消滅した。が、彼の言い振りはそれを否定するかのようだった。

 今まで異様なほどに大人しかったノアが、口を開く。

 

「──〝未だ死を克服できぬ劣等種(にんげん)らしくはある〟……アイツはそう言ってやがった。その口振りからすると、何らかの手段で不死を実現しているのかもしれねえ」

 

 彼は続けて解説した。

 ダンタリオンはダンテを依り代に喚び出された存在だ。座から召喚されたサーヴァントと同様。それを殺してもあくまで元の場所へ還るだけであり、根本的な撃破にはならない。

 つまり、魔神柱と化したレフを倒したとしても、撃退に留まる可能性が高いのだ。

 幾人もの命を奪ったあの男が、殺すこともできずに生き延びる。そんな理不尽を、立香は、Eチームは、カルデアは、認めることができなかった。

 しかしネロは、晴れやかな笑顔で問う。

 

「だがノアよ、その男を完璧にやっつける方法があるのだろう? 何せローマ帝国の宮廷魔術師であるからな! ローマ帝国の!」

「一度とはいえ私のマネージャーを務めた訳でもあるものね! もう二度と組みたくないけど!」

「というか、リーダーよくそんなこと覚えてましたね?」

「俺は恨みは死んでも忘れない主義だからな。まあそれはどうでもいい」

 

 ノアは獰猛に笑み、

 

「古今東西、死なない不死身はいない。ジークフリート然りアキレウス然りな。アイツにEチームの真骨頂を見せてやる。……なぁ藤丸(ふじまる)

「なぜそこで私に振るんですか───!?」

 

 

 

 

 

 

 思えば、あの二人がカルデアに来た時から、計画は狂い始めていたのかもしれない。

 ひとりは経歴未詳の魔術師。もう一方に至っては、レイシフトに適性があるだけの一般人だ。イレギュラーとはいえその程度。名実ともにEチームに相応しい人材。あの爆発に巻き込んで始末できるはずだった。

 今や、カルデアはEチームを軸として、既に二つの特異点を攻略している。

 本来ならばこんなことはあり得なかった。

 奴らが生き残りさえしなければ、人理焼却という偉業は万全に、盤石に、その全ての計画を終えていたのだから。

 だとしても、かの魔術王は自ら手を下すことはしないだろう。それどころか、敵とすらも認識しない。

 人類史に穿たれた特異点。それを全て潰すまでは、王の面前に立つ資格さえ無いのだ。事実、レフは王の敗北など微塵も考えていなかった。

 必ず勝つ戦い。ならば、この特異点で奴らを屠る意義は何処にあるのか。

 ───決まっている。

 彼はどこまでも機械的に、盲目的に、結論を出した。

 ───奴らが生きているから、殺すのだ。

 部屋の掃除を済ませた後、隅に見落としていたクズ紙をゴミ箱に投げ捨てるように。

 何の感慨もなく。

 何の信念もなく。

 何の逡巡もせずに、その命を摘み取ろう。

 故に、戦場で奴らと相見えたその瞬間も、彼の心は微動だにしなかった。

 軽薄な笑みを浮かべる魔術師。

 取るに足らない普通の少女。

 そして、人間の愚かさによって短命を定められた者。

 

「よお、俺たちにボコられる準備はできたか?」

「貴様こそ、ここで死ぬ心構えは十分か? その貧相な想像力では難しいだろうがな」

「ハァ? 俺の想像力ナメんな。中学二年生男子が裸足で逃げ出すからな。おまえこそ覚悟しろよ、今度こそ逃げられねえぞ」

 

 両者の視線が静かに激突する。

 周囲に兵士の姿はない。レフ自身には魔術的な防護すらなく、その威勢にはどこか陰りが見えていた。

 にわかに殺気立つ空気の中、マシュの盾の後ろからダンテが顔を出す。

 彼はレフに対してじっと目を凝らす。その男の内面を探り、魂を見透かすように。

 あるいはそれは、視覚に依らない第六感を用いた観察なのだろう。確信をもって、彼は宣告する。

 

「魂の総量が減っていますねえ。それでは魔神柱の力を振るうことすらできないでしょう。私はともかく、マシュさんには勝てませんよ」

 

 レフはダンテの宝具によって、手傷を負わされている。身体的な傷ではない。魂という生命の根本の大半を収奪されているのだ。

 こうして四人の前に立っているだけでも、本来は精一杯なはずの致命傷。そんな状態で魔神柱に変身すれば、何が起きるか分からなかった。

 欠けた器に多量の水を注ぎ込めば、水を貯めておくことはできない。水量によっては器そのものが破壊される恐れすらあるだろう。

 今のレフが魔神柱になるのは、つまりそういうこと。彼という器が自壊する可能性すら秘めている。

 

「それは違うな」

 

 否定したのは、レフではなくノアだった。

 

「アイツはソロモン72柱のフラウロスだ。ソロモン72柱といえば『ソロモン王の小さな鍵(レメゲトン)』……第一章のゴエティアだろ。俺たちと戦うくらいは楽勝に決まってる」

 

 立香、マシュ、ダンテは大いに首を傾げて、

 

「「「何言ってるか分かりません」」」

「……ちょっ、おまえらっ、今良い感じに俺の見せ場だっただろうが! 急にハシゴ外してんじゃねええええ!!」

 

 振り返って叫ぶノアに、彼女たちは口撃を続行した。

 

「リーダー、自分が分かるからって説明省くのやめた方が良いですよ。学年一位の子に勉強教えてもらった時もそんな感じでした」

「わたしはわざと説明をしないことで頭良く見せるテクニックかと思いました」

「ノアさん、私は同情しますよ。私も若い頃、才能を鼻にかけすぎて周りから嫌われてたので」

「くそっ、俺が懇切丁寧に解説してやる。耳の穴かっぽじってよく聞いとけ!!」

 

 魔術の典型的なイメージとして、地面に描いた魔法円の中に何かを喚び出すというものがある。それは悪魔や天使であったり、はたまた英霊であったりする。今日、多くの創作作品において共有されるモチーフだ。

 その起源を求めるとするならば、近世に記された魔導書(グリモワール)ソロモン王の小さな鍵(レメゲトン)』が適合するだろう。

 第一章のゴエティアでは術者を円の中に置き、三角形の中に悪魔を喚ぶという手法が紹介されている。現代ではこの手法は召喚魔術と誤認されがちだが、元来それは喚起魔術と呼称されてきた。

 外界に悪魔などの超常的な存在を現界させ、使役させる業。それこそが喚起魔術なのだ。英霊召喚も本来はこれに当たると考えられる。

 ならば、召喚魔術とは何を指す言葉なのか?

 

「──()()()()()()()()()()()()()()()。一般的には降霊術の認識に近い。力の貸し借りという関係上、器の強度は問われない。これが降霊術と違うところだな。術者は自由に力を行使でき、リスクを負う必要がない」

「そうだ。しかも私はフラウロスそのもの……神殿から離れ弱体化していようと、その力を振るうくらいならば訳はない!」

「自分自身がフラウロスであるために、不利な契約を持ち掛けられたりもしないってことだ。だから自由に魔神柱の力を使える……とんだマッチポンプだな。男のひとり遊びほど見苦しいもんはねえぞ」

「ほざけ、私にとっては貴様らとの戦い全てが遊びのようなものだ! どれほど気炎を吐いても、私を真に殺すことはできないのだからな!!」

 

 ───術式、起動。

 全身がざわめき立ち、魔術回路が励起する。肌が煮え繰り返るように泡立ち、燃え上がる真紅の眼が無数に花開く。

 異形と化したレフは、右の手のひらをノアたちにかざす。次の瞬間、空間を割るようにして炎が炸裂した。

 悪魔フラウロスは伝承上において、術者の敵を焼き尽くす力を持つ。それに触れれば最後、魂ごと体を燃やし尽くされるだろう。

 立香はマシュの背後にまわり、ノアはダンテの首根っこを掴んでその場から跳び退いた。彼らはレフを挟むような対角線上に立ち回る。

 

kenaz(ケナズ)isa(イサ)thurisaz(スリサズ)!!」

 

 宙にルーン文字が描かれる。ノアの言霊と共にそれらは解き放たれ、火と氷、雷撃がレフ目掛けて空中を走った。

 そのひとつひとつが、人を死に至らしめるに足る威力。完全な魔神柱ならまだしも、力を降ろしているに過ぎないレフが耐えられるはずもない。

 迫りくる攻撃を前に、彼は呟く。

 

「『喚起印章(Sigil)LV(55)オロバス(Orobas)』」

 

 足元に浮かぶ魔法陣。それはソロモン72柱における序列55位の悪魔・オロバスを表す紋章であった。

 契約者をあらゆる脅威から護る能力の通り、ノアが放った魔術はことごとくがあらぬ方向へ逸らされる。

 神秘は古いほどに強くなる。フラウロスが扱う魔術と、現代の魔術師であるノアとの間には埋めがたい差がある。才能ではどうにもならない。魔術としての格が違うのだ。

 レフ・ライノール、あるいはフラウロスは卓越した能力を擁する魔術師だった。現在もなおカルデアの活動の根幹を担うシステム、近未来観測レンズ・シバの開発者であることからもそれは疑う余地はない。

 

「我らが王は魔術の祖──! その眷属たる私が、貴様らに遅れを取るはずがない!!」

 

 炎が鞭のようにしなり、一帯を焼き払う。

 彼がその身に降ろしているのは、紛れもなく魔神柱の力そのものだ。攻撃をまともに受ければ、サーヴァントとてひとたまりもない。

 立ち込める煙と火を突き破るひとつの影。マシュは盾を前方に構え、レフへと突撃した。

 詠唱する隙は与えない。彼女は盾を振り回す。

 大振りの一撃。サーヴァントの筋力で振るわれたとはいえ、魔神柱の能力を降ろしたレフに見切れないほどではない。

 上体を傾けてそれを躱した途端、彼の視界は反転する。

 

(──崩した!)

 

 盾の一撃はブラフ。上体に意識を向けさせることで、マシュは相手の足を払ったのだ。

 今度こそ本命。身をよじり避けようとするレフに、流れるような動作で盾を叩きつける。

 ぐちゃり、と骨肉を叩き潰した感触が手に伝わる。普通なら勝敗を決する傷。右胸から右手にかけてを粉砕されては、戦闘を続行することすら難しい。

 けれど、それは人間に当てはめて考えた場合だ。

 ブチブチと肉の繊維を引き千切る異音を発しながら、レフは起き上がる。彼は残った左手から、マシュに魔力の弾を撃ち出した。

 驚愕したのは一瞬。彼女は即座に距離を取り、その反撃をやり過ごす。

 

「ソロモン72柱はひとつの欠けも許されない。たとえ失われたとしても復活は容易い。我らには死の概念は存在しない」

 

 怪我を負うことの恐怖、動揺。それらは人間が、その先に死という結末を考えるからこそ発生する。

 死の概念を持たない存在ならば、どれほどの傷を与えられようと頓着することはないだろう。ましてや体を砕かれた程度で、焦燥が芽生えるはずもない。

 肉の糸が布を編むように、損傷が補完されていく。その姿はもはや、魔術師とすら呼べない奇怪なものであった。

 

「私にとっては全てが児戯だ。退屈な流れ作業、その一工程に過ぎない。潰しても潰しても湧いてくる、無能で無識で無価値な人間共の顔を見るのはもう飽きた」

 

 レフは忌々しげに吐き捨てる。

 まるで、悪いのはしぶとく生きている人間の方だとでも言うように。

 立香は思わず歯噛みした。

 

「あなたにだけは、そんなことは言わせません」

 

 怒りに震えた声。それは、彼女の触れてはいけない逆鱗だった。

 何もかもが許せない。

 所長の信頼を裏切ったこと。

 キリシュタリアやヒナコを始めとした、仲間たちを手にかけたこと。

 それを成した犯人が、裁きを受けることもなく存在していること。

 誰がどう考えても悪いのは奴だ。だというのに、その男は煩わしそうに自分たちを見下し、排除しようとしている。理解しようとすらせずに。

 そんな態度が気に食わない。人間を全て無価値と決めつけて、上から目線で人間を語るその行為こそ、愚かしさの象徴ではないのか。

 ──未来があった。

 もう決して実現できない、輝かしい世界があった。

 AチームからEチームまで手を取り合って、みんなを振り回そうとするリーダーがいて、それを止める所長がいる。

 誰だって無駄な人間はいない。成功も失敗も笑って受け止められる関係が、彼らとも築けたはずだった。

 今では、夢見ることしか許されない空想。

 彼女は固く握りしめていた拳に、さらに力を込めた。まぶたに涙すら浮かべながら、強く言い放つ。

 

「───私たちの価値を、あなたに決められたくない……!!」

 

 レフは嘲るように笑い、

 

「護られるだけの荷物が何を──!!」

 

 直後、戦場を席巻する魔力の嵐。火炎の乱舞。

 サーヴァントもマスターも区別なく、全方位を吹き飛ばす魔風。四方八方から襲い来るそれに対して、回避という手段は封じられた。

 これはマスターを狙った攻撃。立香とノアさえ殺してしまえば、その時点で勝利は決まるのだ。

 

「「eihwaz(エイワズ)!」」

 

 青い魔力障壁が出現する。

 あらゆる脅威から術者を防護する壁。しかして、その腕前には大きな隔たりがある。必然、それは防壁の強度を左右する差だ。

 立香が張った障壁が豪風の刃に断ち切られる。千々に分かれた旋風が彼女の肌を浅く裂いた。

 

「ひとりでは自分の身を守ることすらできない女が、よくも大言壮語を吐いたな! 所詮貴様は、サーヴァントの背後で震えているだけの取るに足らない存在だ──!!」

 

 レフの哄笑が響く。

 風と炎が一層勢いを増し、執拗に立香たちを付け狙う。

 ノアは静かな、しかし通る声で言った。

 

「──藤丸は、俺の部下だ。おまえがアイツの何を知ってる」

 

 滲む怒気。

 燃えるような怒りではない。

 氷のように、冷たく、硬質な憤り。

 

「部外者が訳知り顔でアイツを語るな。俺以外の何者にも、藤丸を侮辱させはしねえ……!!」

 

 彼の掌中に、黄金の鏃が現れる。

 かつて無毀の美神を屠った罪業の矢。

 ──申請。

 

「まずは定義する。レフ・ライノールは不死だ」

 

 ──受理。目標に対する特攻概念を構築。

 神気が満ちる。濃密な殺意と敵意に塗れた鋭気が、レフの全身を突き刺す。

 それを目の前にして、彼は合理的に認識を改めた。

 

(成程、バルドルは神性故に死んだのではない───不死故に死んだということか)

 

 

 

 

 

 

 曰く、生と死はバランスが取れていなければならない。

 その昔、アスクレピオスという医者がいた。

 

爾千引石引塞其黄泉比良坂(ここに千引の石でその黄泉比良坂を塞いで)其石置中(その石を間に挟み)各対立而(二人は相対し)度事戸之時(事戸をわたす時)伊邪那美命言(イザナミノミコトは言った)愛我那勢命、為如此者、(愛しい我が夫、貴方の国の人間を)汝国之人草、一日絞殺千頭(一日に千人縊り殺そう)

 

 彼は死者をも蘇らせる医術を持っていた。だが、それ故に世界の法則を乱すとしたハデスの嘆願を受け、ゼウスはその雷霆でアスクレピオスを殺害した。

 アスクレピオスが乱した世界の法則。

 それは、死の不可逆性。

 それは、生命の均衡。

 

爾伊邪那岐命詔(そこでイザナギノミコトは言った)愛我那迩妹命、汝為然者、(愛しい我が妻よ、貴女がそうするならば、)吾一日立千五百産屋(私は一日に千五百の産屋を建てよう)

 

 バルドル。ジークフリート。アキレウス。カルナ。ケイローン。各々形は違えど、不死性を備えていた彼らはみな一様に死んでいる。

 なぜなら、不死とはアスクレピオスと同じように、世界の法則を乱す存在なのだ。

 

是以一日必千人死(そして、一日に必ず千人が死に、)一日必千五百人生也(一日に必ず千五百人が産まれるようになった)

 

 古事記ではイザナギとイザナミが、ある契約を交わした。

 一日に千人が死に、一日に千五百人が産まれるという理。人はなぜ死ぬのか、それに対する記紀神話における回答である。

 古代の人々は知っていたのだろう。

 生の数が死の数を上回りすぎない程度が、世界がうまく回るということを。

 不死は世界の法則を外れている。

 万人に用意された、死という名の終着。他の誰もが死んでいくというのに、彼らだけはその結末から逃がれ続けているのだ。

 不死者は不可逆性を否定し、生死のバランスを破壊する。だからこそ、彼らは死ななければならなかった。

 ならば、北欧神話におけるヤドリギとは、歪んだ世界の理を直す調律者だ。

 神殺しは結果にすぎない。

 その本質とは──────

 

 

 

 

 

 

(──その本質とは不死殺し!! 分かる、アレに貫かれれば、魔術王による復活すらもできないに違いない……!!)

 

 その上で、レフは断定する。

 

(だが、迎撃は能う! その威力と速度自体は通常の射撃宝具程度のものでしかない……なぜなら、ヤドリギが必殺足り得るのは神と不死に対してのみ───攻撃を当てて相殺することは十分に可能!!)

 

 体内で魔力を練り上げる。

 立香に背を向け、ノアの一挙一動を捉えることに全神経を集中させた。

 彼がヤドリギを撃った瞬間、それを相殺して反撃に転ずる。その腹積もりはできている。

 レフの思惑通り、ノアは詠唱を開始した。

 

 

「───〝我は世の理を正す者。此処に裁定を下そう〟」

 

 

 高らかに、凄絶に。

 

 

「〝生と死は表裏一体。誰もがいずれ地に還る〟」

 

 

 この世で唯一、平等に与えられる終わり。

 

 

「〝ああ、汝よ。なぜ死を拒む。其れは万人に定められた終末。永劫不変の真理なり〟」

 

 

 振りかざすは黄金の輝き。

 神の時代を終焉に導く黄昏の光。

 

 

「〝理を外れし者。不死不朽の罪人よ、遍く死者の声を聞け〟」

 

 

 復讐、恩讐、想いを込めて。

 

 

「〝彼らは、汝の死を望んでいる〟」

 

 

 彼は歌い上げた。

 

 

「〝いざ、断罪の矢を放たん。無より出でて不死を穿つ〟───!!!」

 

 

(来る!!)

 

 

 レフは両手を構える。それぞれにソロモン72柱の悪魔の紋章が浮かんでいた。

 片手の術式でヤドリギを防ぎ、もう一方の手で反撃する。

 そして彼は、()()()()()()を聞いた。

 

 

 

「───『神約・終世の聖枝(ミストルティン)』!!!」

 

 

 

 致命的な感覚だった。

 体験したことのない。

 経験するはずもない。

 不可逆の死の気配。

 後方より放たれた黄金の鏃が、フラウロスの心臓を貫いていた。

 今際の際、噴出するのは疑問。

 ──どうして、後ろから。

 力を失い、倒れ伏すフラウロスに、冷たい声が浴びせられる。

 

「バルドルを殺したヤドリギは、元々ロキが発見してヘズに渡したもんだ。所有権の譲渡なんざ、朝飯前にできる」

 

 そうして、理解してしまった。

 ヤドリギを撃ったのは。

 この身に致命傷を与えたのは。

 

「そこに俺の才覚が加われば、遠隔起動も余裕だ。価値を見誤ったな」

 

 立香は傷ついた体を引きずり、ノアの隣に立つ。哀憐と憤怒の入り混じった視線をフラウロスに注ぎ、

 

「あなたを殺したのは、私です。恨んでください、私も同じ気持ちだから」

 

 彼女はほとんどの魔力を使い果たしていた。ヤドリギの術式を起動したのはノアであっても、使用する魔力は立香が負担しなければならなかった。

 この絵を思い描いて、立香は最初から掌中にヤドリギを握り込んでいた。ノアの手元にあるヤドリギだけに、注意を向けさせるために。

 ミストルティンを使ったのは、彼女だった。

 立香は凡人だ。

 ノアが苦もなく消費する魔力を支払うために、全霊を尽くさなければならない。

 けれど。

 だとしても。

 彼女を侮って良い理由にはならなかった。

 

「───糞、が!! 貴様ら如き人間が私を見下すな!! なぜ負ける、なぜ敗けた……!!? その女は無能で、愚図な、魔術師にも満たない実力だというのに!!」

 

 きっと、彼が理解することはない。

 どれほど言葉を尽しても、己の負けを認めることはないだろう。

 それを分かっていながら、ノアは言った。

 

「おまえは藤丸を舐め腐った。それが唯一の敗因だ」

 

 ぽん、と立香の肩にノアの手が置かれる。

 温かく大きな手。立香は、その手が僅かに強張っているのを感じた。

 彼女は、呟くように、

 

「……さようなら。私が夢見た理想の世界には────」

 

 ああ、これは蛇足だ。

 復讐譚を語るのにこれ以上の言葉は必要ない。

 

「───あなたの姿もありました」

 

 手に入らないと思いながらも焦がれる。

 おそらく、それが、彼女の甘さであり、善性だった。

 

 

 

 

 

 

 幼き征服王は信を置く軍師を伴い、戦場を疾走する。

 相対するは、超神聖ローマ帝国皇帝カエサル。彼は剣を携え、自らの軍を指揮していた。

 雷霆を纏い猛進するアレキサンダーにとって、人間の兵士など足止めにならない。幾度の戦場を潜り抜けた勇士でさえ、彼の前では雑兵に等しい。

 

(───それなのに!!)

 

 心が震える。

 歓喜に満ち溢れる。

 それは好奇心を満たすのに近い喜びだった。

 カエサルの用兵術は、弱兵を歴戦の勇者に変える。

 アレキサンダーにとっての雑兵が時に堅牢な壁になり、時に鋭い刃となって足元を掬いに来る。群がる兵を振り払おうとすれば、カエサルは動く。

 その図体には似合わない俊敏な立ち回り。アレキサンダーの隙を突くように、愛剣を振るう。

 ざくり、と肩口から血が噴出する。カエサルの剣から血が滴り、彼は高らかに笑った。

 

「これが人を使うということだ! まさに王に相応しき戦術!! 何の因果かセイバーで召喚されたが、新たにカイザーのクラスを用意せねばならんな!!」

 

 用兵で隙を作り出し、自らが刺す。単騎では発揮できないカエサルの真骨頂。軍勢を指揮することで現れる王の才であった。

 アレキサンダーは傷口を押さえながら、苦笑を返す。

 

「自分が語源だからって無茶苦茶言うなぁ……!! 先生、宝具で一対一に持ち込めるかい!?」

「それが注文なら叶えてみせよう。『石兵八陣(かえらずのじん)』!!」

 

 途端に立ち現れる巨石の迷路。周囲の軍勢を巻き込んで、大軍師の陣地がカエサルから用兵の手段を奪った。

 皇帝と征服王は再度相対する。

 邪魔者はいない、純然たる決闘。

 単純な剣の腕だけが勝敗を決する。

 アレキサンダーは愛馬の腹を蹴り、突進を仕掛けた。

 ブケファラスの巨体に押し潰されるか、アレキサンダーの剣に首を刈り取られるか。

 カエサルが選んだ二択は、どちらでもなかった。

 

「『黄の死(クロケアモース)』!!」

 

 黄金の連撃。

 一瞬の内に放たれた斬撃はブケファラスの足を切断し、その背からアレキサンダーを吹き飛ばしていた。

 ──孔明の知とアレキサンダーの武。その両方を合わせてようやく拮抗し得る敵。

 

「……驚いた。そんな剣術も修めていたんだね」

「当然だ、皇帝だぞ私は。ブルータスに裏切られた時も、剣さえあれば逃げ切れたと自負している」

「そもそも裏切られなければ良かったじゃないか」

「やめろ! 正論を私にぶつけるな!!」

 

 二人は笑みを交わす。

 何のしがらみもない闘争を。

 剣を振りかぶったその時、きんとした高い声が響き渡る。

 

「ま〜たこの迷路!? あのクズマネージャーがいないと脱出できないじゃない!!」

「うろたえるなエリザベート! ローマ皇帝はうろたえない! 知っておるか、迷路には左手法という必勝法がだな」

「それは前に試したわよ! もうこうなったら宝具で全部吹っ飛ばして───」

 

 そこで、四人の視線がぶつかった。

 今にも切り結ぼうとしているカエサルとアレキサンダー。唖然とするエリザベートを置いて、ネロは頭を悩ませる。

 数秒、膠着した場を動かしたのはネロだった。

 彼女は大げさな身振りと共に、

 

「……うむ! その決闘、余が預かった! 第5代ローマ皇帝の名において命ずる、双方剣を収めよ!!」



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第22話 そして、月へ到る物語

レフが死んでから二回も風邪を引きました。第二特異点クライマックスです。


「……うむ! その決闘、余が預かった! 第5代ローマ皇帝の名において命ずる、双方剣を収めよ!!」

 

 青天に高く響く声。

 戦場の喧騒が嘘のように静まり返り、アレキサンダーとカエサルも言葉を失う。

 目を丸くして唖然とする二人の様子を見て、何を思ったかネロは胸を張って得意気にふんぞり返った。

 決闘を仕切るところまでは百歩譲ろう。敵同士が殺し合う分には構わない。むしろ、それは軍を率いる者として歓迎するべきだ。

 が、剣を収めろとはどういう了見なのか。何故か上から目線で命令した上に、元々戦いに割り込んできたのは彼女たちの方である。この小娘は一体何を考えているのか───カエサルの思考回路は、概ねそんな経路を辿った。

 その時、彼は自らの体を縛る契約が消えたことを感じ取る。

 ロムルスたちが離反した後、レフは超神聖ローマ帝国のサーヴァントたちに、裏切りを禁ずる魔術的束縛を掛けていた。

 それが消えたということは。

 

(……死んだか。この乱入者さえいなければ、我らが描いた絵図は欠くことなく完成していただろうに)

 

 そして、レフの死はアレキサンダーも察していた。魔神柱に列なる者が発する異質な気配。それが戦場から失せたことに気付かぬ彼ではない。

 深く息を吐くと、彼は剣を担いでネロに向き直った。

 

「こうなっては言い訳のようなものだけど、ローマを三国に割る計画を立てたのは僕らなんだ。ロムルスの離反が発端ではあったけどね。大軍師・諸葛孔明の天下三分の計ってやつさ」

「第三勢力が睨みを効かせている状況では、やすやすと軍は動かせないからな。カルデアの者共が来るまでの時間稼ぎだ。仮に分裂前の連合とローマ帝国が矛を交えたなら、成す術なく貴様らは敗北しただろう」

「……つまり──余の手助けをしてくれたと?」

 

 ネロの脳裏に湧き上がる疑念。エリザベートはそれを代弁するかの如く、食ってかかる。

 

「そんなことして何の得があるのよ。バンドが音楽性の違いで解散するみたいなこと?」

「ほう。それは中々言い得て妙だぞ、妖怪歌ヘタトカゲ娘」

「誰が妖怪歌ヘタトカゲ娘よ!! この毛根死滅メタボリックカイザー!!」

「黙れ! これはシーザーカットだ! れっきとした髪型だ!! 生え際が後退しているのではなく私が前進しているだけだ!!」

「メタボリックカイザーの部分は良いのか……?」

「そもそも今の姿はハゲてないからね」

 

 突然、罵り合いを始めるカエサルとエリザベート。彼らの姿はまるで縄張りを争う犬のようであった。

 カエサル帝は生前、その頭髪の薄さを政敵から揶揄され続けていた。部下や民衆からもハゲの女たらしとあだ名され、月桂冠を被る許可を得た時は喜んだほどである。

 反面、多くの人間を虜にする魅力の持ち主だったことに疑いようはないだろう。年下の小娘と言い争う姿さえ見なければ。

 カエサルは一旦咳払いを挟み、最低限皇帝の威厳を取り戻そうとする。ネロとて、偉大なる先帝に敬意を抱いていない訳ではない。話の流れを戻す助け舟を出すことにした。

 

「それで、天下三分の計を仕掛けた理由とは一体何なのだ?」

 

 カエサルは額をきらめかせて、

 

「無論、あの男───レフ・ライノールへのあてつけだ! あの詩人ならともかく、あろうことか私を使役しようとするなど、無礼千万にも程がある!! あと純粋に気に入らん!!」

 

 自信満々に言い切る。考え得る理由としては大人気なく、俗っぽい動機だった。しかし、彼の顔には一切諧謔の色はなかった。

 ネロとエリザベートはレフという男のことは、カルデア一行から伝え聞いた程度にしか知らなかった。が、人類そのものを見下すような言動を取るあの男が、英霊にだけ態度を変えるとは考えづらい。

 使い魔の如く扱われたこと。それはまさしく、彼の誇りを汚す行為だったのだ。

 ネロとエリザベートの二人はこくこくと頷く。

 

「ふむ、余は一理あると思うぞ。ブルータスに裏切られた者が言うのは、少々ブーメランしておるが」

「要は人付き合いが下手ってことでしょ? 他人の心が分からないキャラ付けって、カッコいいけど不便よね。ボロも出やすいし、アイドルとしては致命的だわ!」

「……僕はいま、レフ・ライノールに同情してるかもしれない」

 

 なぜかアイドルの土俵に上がらされたレフに、アレキサンダーはそこはかとない同情を感じたのだった。

 彼はわざとらしくため息をついて、三人の注意を自らに集める。

 

「そういう訳でさ、カエサルとの戦いは僕たちにとってのご褒美みたいなものなんだ。剣を収めろって命令は聞けないな」

「当然横槍を入れても構わんぞ? むしろ二人でかかってこい! 後輩にはハンデをくれてやらんとな!」

 

 彼らはともに偉大な王。

 そんな男たちと刃を交える栄誉を、ネロは解していた。

 その上で、断定する。

 それは我が王道ではない、と。

 言わばこれは予定調和。ローマが三分割された時から、彼らが遂行していた計画だ。思えばダンテが逃走してきた際、追手の『神の鞭』とロムルスが激突したのも、彼らが繋がっている証だったのだろう。

 すました顔でそれを語らなかった詩人も腹立たしいが、何よりも癪に障るのは手のひらの上で踊らされていた自分自身だった。

 踊るのは好きだが、踊らされるのは論外だ。それも舞台が誰かの手の上となれば尚更。

 ───ならば、あくまでも、どこまでも、振り回してみせよう。

 それが、自らの王道と信じて。

 

「後輩ときたか……であるならばカエサル帝よ、我らには共に乗り越えねばならぬ敵がいる!!」

 

 ネロは言い放つ。

 溢れんばかりの覇気。カエサルは眉根を寄せて、彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「神祖ロムルス──ローマを作り上げた建国王! 畏れ多くも彼と兵刃を交えることは、今この瞬間、この戦場でしか成し得ぬ奇跡! ローマの皇帝に名を連ねる者として、これほどの壁はあるまい!!」

 

 それを受けて、カエサルは薄く微笑した。

 神祖を打倒する。ついぞこの地上の誰も叶えられなかった功業。無類無欠の建国王を超えるという響きは、彼の芯に深く反響した。

 人間は現実にないものを乗り越えることができない。ローマにおける理想と化したロムルスもまた、そのひとつであろう。どれほどの皇帝が未来に出てこようと、過去の建国の覇業を超越することはできないのだ。

 だがしかし、サーヴァントとは、基本的に既に死した存在が喚ばれるもの。本来有り得ざる対決が、この時だけは叶う。

 ネロは勢い良くアレキサンダーに顔を向ける。

 

「前人未踏の覇業を成し遂げた征服王とて、ローマを手中に収めたことはない! どうだ? 三者手を取り、神祖に立ち向かうというのは!」

 

 アレキサンダーは思う。

 己を試す。身ひとつで、どこまで通用するか知りたかった。

 なぜなら、この姿は大帝国を築く前の未完成品だ。征服王となる以前、可能性だけが秘められた器。

 その器に過ぎない自分が、ローマの権化たるロムルスを討つ。それは征服王ですら手の届かなかった大業に違いない。

 過去である自分が、未来の征服王を凌駕する。

 ───偶には、乗せられてみるのも悪くはない。

 彼らの返答は、寸分の狂いもなかった。

 

「「──乗った!」」

 

 

 

 

 

 

 中空に輝く虹色の剣戟、炎の嵐。

 その爆心地には、『神の鞭』とジャンヌがいた。

 ジャンヌは必死に旗と剣を手繰り、猛然と振るわれる斬撃に対抗する。が、それはひとつでも最適手を踏み外せば崩れる拮抗状態だった。

 常人の域を越えているという点では同じ。単純な攻撃力ではジャンヌがやや上回る。射程距離は比べるべくもない。

 それでも押されているのは、一撃一撃に込められた鋭さの差。

 膨大な火力で敵を圧殺するジャンヌとは違い、その剣は機械の如き精密さで急所へと振るわれる。

 それは無機質と言い換えても良い。

 無機質故に、攻撃に際して発露する殺気が一切存在せず、気付いた瞬間には喉元に刃が迫っている。剣聖の至る無我の境地とは真逆、破壊という概念に特化したがために起こる斬撃の最適化。過程は違えど、辿り着く結果に変わりはない。

 一際大きい刃金が鳴り響く。

 ジャンヌの黒剣が弾き飛ばされ、流れるように虹色の刃が首元を刈り取る───その直前。

 ぴたり、と剣が止まる。苦し紛れに旗を薙ぐが、それは後方に跳んで躱される。

 『神の鞭』は人形のようにその場に立ち尽くしていた。剣先もだらりと垂れ下がり、追撃の気配もない。隙だらけの立ち姿は、戦場にあるまじき様子であった。

 彼女は変わらない仏頂面で、しかしどこか真剣な表情で呟く。

 

「……ひとつ、訊きたい」

 

 剣の苛烈さからは想像もできないような透き通った声。ジャンヌは動揺を悟られぬように短く答えた。

 

「なによ」

 

 『神の鞭』は己の裡から黄金の杯を取り出す。

 

「聖杯が欲しいのか?」

 

 単調な問い。予想だにしなかった一言に、ジャンヌが作り上げたポーカーフェイスは一瞬で崩れ去った。

 

「──はあっ!? なんでアンタがそんなの持ってんのよ!?」

「そう言われても……その、なんだ、困る」

「その台詞、バットで丸ごと打ち返すわ」

 

 聖杯といえばこの時代を歪めている原因。カルデアが回収しなくてはならない最優先の目標だ。決して、引き出物のコップ感覚で出てきて良いものではない。

 ジャンヌもかつてそれに触れたことがある。故に、その聖杯が偽物の類でないことは容易に察せられた。

 受け取る瞬間に斬りかかる算段か。彼女は不意打ちを警戒していると、

 

「私はこれに操られていたが、術者が死んだことで体を縛る力も消えた。もう戦う意味はない。……命は壊さない」

 

 たどたどしく、ぎこちない言葉遣い。

 ジャンヌは呆れたようにため息をつくと、びしっと指を差して言う。

 

「アンタ、名前は?」

「それが必要なのか?」

「分かってると思うけど、聖杯は私たちがこの時代に来た目的よ。提供者の名前くらい聞いておくのが筋でしょう」

「なるほど、そういうしきたりか。礼儀正しいのは良い文明だ」

「い、良い文明……?」

 

 聞き慣れない表現から、ジャンヌは変人の匂いを嗅ぎとった。『神の鞭』は無機質な表情をほんの少しだけ紅潮させる。

 

「私はアルテラ。聖杯を───」

 

 その時。アルテラとジャンヌの間に巨大な筋肉の塊が吹き飛ばされてくる。スパルタクスの急な来訪に驚く間もなく、ペレアスが追随した。

 彼らが来た方向から、朱色の樹槍を携えたロムルスが悠々と姿を現す。

 

「聖杯の受け渡し、今暫く待ってもらおう」

「……敵に言われて待つとでも?」

 

 ロムルスは微笑を返した。

 彼の表情の真意を読み解く前に、聞き慣れた声が背中を叩く。

 振り返ると、そこには敵であるはずのカエサルとアレキサンダー、孔明を引き連れたネロの姿があった。

 彼女は聖杯を手にしかけていたジャンヌを見て、泡を食ったように慌て出す。

 

「待て、ジャンヌよ! 特異点修復は喜ばしいが、今されるととても困る!!」

「見せ場は多い方が良いものね、アイドル的に考えて!」

「私はアイドルじゃないんですけど……」

 

 彼女は困惑した顔で否定する。

 敵の親玉であるカエサルを連れていることもそうだが、孔明が青ざめた顔色で腹を抱えてうずくまっている光景に、ジャンヌの混乱は加速した。

 アレキサンダーは孔明の顔を覗く。

 

「どうしたんだい、先生。お腹でも打った?」

「100%お前らのせいだ! 王が簡単に敵の言葉に乗ってどうする!? どこぞの皇帝は信頼する側近に裏切られたのだぞ!」

「いや待て、私は生前、死に方を問われた際に思いがけない死を望んだのだ。つまり、あの暗殺は予告ドッキリのようなものだろう」

「自分の死を予告ドッキリで片付けるな!!」

 

 ジャンヌはがっくりと肩を落とした。その心境は推して知るべしであろう。隣の芝生は青く見えると言うが、実際はどこも変わらないのだ。

 やんわりと失望していると、上空からブーディカの戦車が飛んでくる。ジャンヌの真横で停止すると、レフ討伐に向かっていた面子がぞろぞろと降りてくる。

 ダンテ、ノア、マシュと続いて戦車から身を乗り出すが、最後尾の立香(りつか)だけは一風変わった見た目をしていた。

 全身を血みどろに染めた姿。何食わぬ顔の四人とは裏腹に、ジャンヌは目を白黒させる。

 

「あ、ジャンヌ久しぶり〜。具体的には二週間くらいかな?」

「何言ってんのよ!? どんな大激戦!?」

「それはもう聞くも涙語るも涙の死闘を──」

 

 立香が謙遜して頭を掻いたその瞬間、彼女の右目がずるりとこぼれ落ちた。

 

「あっ目玉落ちた」

「ギャーッ!! 立香ぁぁぁ!!?」

 

 ぶくぶくと泡を吹いて卒倒するジャンヌ。立香は目玉を手で受け止めると、それをこねくり回しながら言う。

 

「リーダー、ちょっとイタズラやりすぎたかもしれません」

「だから言っただろ、口から心臓まろび出るくらいで丁度良いんだよ」

「どっちも洒落にならないわよ! むしろより重傷になってるじゃない! というかマシュ、アンタこいつら止めなさいよ!!」 

「ジャンヌさん、わたしはもうツッコミ役からは解放されたんですよ……」

「はあ!? 勝手に逃げるとか許されざるんですけど!」

 

 何はともあれ、役者は出揃った。

 ネロはひとり前に進み出て、ロムルスに切っ先を向ける。

 

「いざ、最終決戦! 敵も味方も振り回す───それが余の王道である!!」

 

 もつれた戦いの総決算。彼女の刃はさながら乱麻を断つ快刀だ。

 だとすれば、それを受け止めるが神祖の役目。

 ロムルスはアルテラの横に並び立つ。

 

(ローマ)と共に戦う気はあるか?」

「……私は、私には、相応しくない」

 

 アルテラはかぶりを振る。

 この剣は数多の破壊を成してきた。

 ひとたび鞘から抜けば後には何も残らない羅刹の刃。区別も種別もなく、向かう者すべてを薙ぎ払う。

 そんなモノが、他者の想いを受け止めることなどできない。

 壊すか、壊されるか。

 この身は結局、痛みを与えることしかできないのだ。

 ロムルスは包み込むような声音で、

 

「──剣は、壊すためだけにあるのか」

 

 そこで、何も言い返せなかったのは。

 

「剣も槍も所詮は道具。使い方次第で如何様にもなる」

 

 剣以外の何かを望む少女に、彼は何物をも与えることはない。

 それは彼女が掴むもの。ロムルスが贈ることができるのは、剣の使い方を教授することだけだった。

 だから。

 

「……試してみたくなった。私の剣に、何ができるか」

 

 走る虹色の残像。

 三色の刀身が鞭のようにしなり、ネロたち目掛けて振るわれる。

 直撃すれば間違いなく一掃される。ペレアスは身を屈めながら叫んだ。

 

「お前ら、避け───」

「退け、ペレアス!!」

 

 背後から爆進するスパルタクスに、ペレアスは弾き飛ばされる。彼は脇腹を深く切り裂かれながらも、勢いを緩めることなく突進した。

 ペレアスは空中で体勢を変え、二本の足で着地する。

 

「なんかオレ最近良いところ無くねえか!?」

「おまえはドラゴンボールで言ったらヤムチャだからな。ほら、さっさと突撃しろ。足元はお留守にするなよ」

「黙れプーアル!!」

「……戦ってる最中もこんな感じなんですねえ、この人たち」

 

 ダンテは呆れ半分敬い半分で笑った。

 この戦いは、つまるところ王たちの我が儘だ。

 自らが王道を貫き通すための衝突。

 それ故に、彼らはその宝具を切り抜ける必要があった。

 

「『すべては我が槍に通ずる(マグナ・ウォルイッセ・マグヌム)』」

 

 ロムルスが有する最大最強の攻撃。

 万象を押し流す奔流。

 ローマが積み重ねた歴史を結集した一撃は、まさしく彼の全て。かつて果たした偉業の象徴であった。

 眼前を埋め尽くす樹海を前にして、ネロは好戦的な笑みを浮かべる。

 高揚、歓喜、畏敬。

 あらゆる感情を綯い交ぜに、王たちは並び立ち剣を振るう。

 神秘は古いほどに力を増す。

 ローマという国を打ち立てた英雄。ロムルスはあらゆるサーヴァントの中でも、最強の一角にあることは違いない。

 ローマの始まりであるが故に、ローマのことごとくを手中に収める。その国に列なる者は、誰もが彼の内にあるということになるのだ。

 だが、そんな理屈は魔術の世界で語られるものでしかない。

 ネロ・クラウディウスという人間にとっては、未来こそが至宝。たとえそれが燃え盛るが如く破滅的な美であったとしても、灰と化すまで踊り続ける。

 ローマを興した。故に強い───それがどうした。

 始まりの偉業を否定することは誰にもできない。けれど、この国を、この歴史を形作るのは何時だって後に残された人間たちだ。

 無尽に襲い掛かる樹木を切り払い、しかして体を傷付けられながら、ネロは叫ぶ。

 

「見よ! ローマですらも貴方に牙を剥く! この有り様は想定していなかったのではないか!?」

「否、それもまたひとつのローマの在り方である! 人がこの自然に産み落とされた瞬間より、完全に新しい概念が発生することはない───それでもお前が誇れるモノは、その程度か!! (ローマ)を超克する信念を見せてみろ!!」

 

 人間は解釈する生き物だ。目に見えるあらゆる事物に名前を付けることで、論理的な思考力を獲得した。

 全ては自然より始まり、それを糧に思考することで人類は発展する。高度に発達した科学技術も、過去にあった材料を組み合わせることで成立した概念だ。

 ロムルスは人間の思い違いを正す。

 ローマとは世界。人類が作り出したものは何もかも、世界の変形にすぎないのである。

 それはきっと、絶望だ。

 もはやオリジナルは存在しない。ロムルスですら、世界をローマと解釈する考え方を担うだけに留まるのだから。

 されども、彼は高らかに叫ぶのだろう。

 我が愛しき世界よ、永遠なれ──と。

 

「貴方は本気で、この世界を愛しているのだな」

 

 強欲にも程がある、と彼女は苦笑する。

 しかしそれはお互い様だろう。この胸に渦巻く愛は、とっくに留まることを知らないのだから。

 

「───同じように、余も人間を愛している!!」

 

 樹木の包囲を突破し、ネロとロムルスは己が得物を振り回す。

 縦横無尽に繰り出される槍撃。

 剣を持つ手が重く痺れる。一合打ち合う度に五指から感覚が損なわれていく。

 それとは裏腹に剣撃は勢いを増していく。拮抗から凌駕へ、無我夢中で放たれた斬撃はロムルスの槍を弾き飛ばす。

 

「散華するが如き隣人愛──それがお前のローマか」

「然り。余の愛を受け取れ!!」

 

 一閃。

 赤き刀身が、ロムルスの胴を袈裟に断ち切った。

 

「「───素晴らしい」」

 

 重なる声。

 感嘆の音色。

 ダンテは、アルテラは。

 想いは違えど、同じ感情を得ていた。

 

(こんな殺し合いがあるのか)

 

 情の介在しない殺戮とは異なる戦い。

 何もかもを焼き払う破壊の剣とはまるで正反対。

 ───この剣は、手向けとしよう。

 この一撃を切り抜けられないようでは、人理焼却を引き起こした黒幕に勝つなど夢のまた夢。

 空に浮かび上がる魔法陣。

 アルテラの霊基に許された一度限りの必殺宝具。

 

「『涙の星、軍神の剣(ティアードロップ・フォトン・レイ)』───!!!」

 

 天空から地上へ発射された光の柱。

 拡散し、無数に分かれた光が大地へ降り注ぐ。

 ダンタリオンが放った流星とは一線を画す、神の落涙。

 煌々と輝く流星を眺め、ノアはカエサルとアレキサンダー、孔明を振り返って言った。

 

「おい、おまえらの中でアレ防げるやつとかいねえのか」

「「「…………」」」

「……マシュ、ブーディカさん、お願いします」

「いつも通りですね、先輩」

「これだけ人数いて二人だけっていうのも悲しいなあ……」

 

 マシュとブーディカが前に進み出たその瞬間、ひとつの巨体が二人の間を抜き去る。

 それは案の定スパルタクス。地を震わせるような雄叫びとともに突貫し、落涙の一滴と真正面からぶつかり合う。

 が、ひとつの星とひとりの人間。番狂わせなど起きようはずもなかった。体ごと押し潰される間際、彼は吠えた。

 

「『疵獣の咆吼(クライング・ウォーモンガー)』!!」

 

 霧散する流星。傷付けば傷付くほどに力を高める彼の宝具は、死に際に無類の威力を発揮した。

 単騎で万軍に匹敵する特攻。上空へ向けて飛翔したスパルタクスは花火のように爆散する。笑顔でサムズアップする彼を幻視したノアとペレアスは、声を揃えて叫んだ。

 

「「何やってんだアイツはァァァ!!!」」

「いいなあ、大人の僕だったら勧誘してたよあの人」

「仲間にした瞬間反逆されるだろうがな」

「なんでアンタらそんなに冷静なのよ!?」

 

 緊張感のないアレキサンダーと孔明を尻目に、マシュは盾を地面に突き立てる。

 

「と、とにかく数は減りました! ブーディカさん合わせてください、仮想宝具展開します! 『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!」

「いまいちしまらないけど……『約束されざる守護の車輪(チャリオット・オブ・ブディカ)』!!」

 

 魔力を以って編まれる守護の円盾。

 降り注ぐ落涙は果たして、ひとつまたひとつと円盾に阻まれる。

 スパルタクスの突撃が、もしくはブーディカの支援がなければ、その守りは揺らいでいたかもしれない。この防御は誰が欠けても成り立たなかっただろう。

 ダンテは砕け散っていく涙の星を視界の端で捉えながら、ひたすらに筆を動かしていた。

 ロムルスが謳う世界の輝き。

 ネロが信ずる人間への愛。

 そして、新たな在り方を模索する少女。

 彼はその美しさを目の当たりにし、心を打ち震わせていた。

 立ち位置としては第三者。傍観者にすぎないにも関わらず、その胸中を席巻する嵐は勢力を拡大する。筆を持つ手は震え、眼には涙すら浮かぶまでに。

 ダンテ・アリギエーリという詩人はその卓越した技法だけでなく、他者より遥かに感受性が優れていた。

 ベアトリーチェという少女がいた。

 彼女に恋心を抱いたのは、ダンテが九歳の頃。すれ違っただけの、一度目にしただけの彼女の美しさに、彼は魂を奪われるほどの恋情を燃え上がらせたという。

 外界から美を発見する眼力は、芸術家に欠かせない素質だ。ダンテの鋭敏な感受性が、彼の詩作に大きな影響を与えたことは間違いない。

 だから、分かってしまう。

 他者の善意も悪意も、目を凝らせばすぐに。

 

「私は、皆さんに感謝しています」

 

 ダンテは言った。その手に文字が書き連ねられた紙片を握りしめながら。

 インクも乾ききっていない内に書き上げた即興詩。

 

「ネロ帝。私より至高の芸術を贈らせていただきたく存じます」

「うむ、派手にやれ! そこまで大きく出たからには、終幕に相応しきモノを用意しておるのだろうな?」

「もちろん。目も眩むような絶景をお見せしましょう」

 

 紙片が舞う。

 文字が平面上から解き放たれ、雪花さながらに景色を白く染めていく。

 否、それは空間に干渉しているのではない。世界そのものをキャンバスに見立てて、己の心象風景を塗りつける魔術の秘法。

 固有結界───かつて彼が至りし境地が、ここに顕現する。

 

 

 

「ああ至上の光、いと高く人の思いを超える者よ、汝の現れし様を少しく再び───『至高天に輝け、永遠の淑女(ディヴァーナ・コンメディア)』」

 

 

 

 純白の太陽。

 渦巻く天使の群れ。

 穢れなき光が全天を照らす。

 およそ肉体に囚われたままでは、到底辿り着けない領域。神が坐す第十の天・至高天(エンピレオ)。その光景を表すには、人間の言葉はいささか無力であった。

 

「───天上の薔薇。この大輪こそが、貴女に相応しい」

 

 薔薇の皇帝へ贈る一輪の華。

 思わず息を呑むほどの美景。ネロとカエサルはその眺めを一望すると、訝しげに言った。

 

「これが其方の心象風景か。なんというか……思ったより綺麗すぎぬか?」

「そうだな。硫酸の沼くらいが貴様には似合っているぞ。自分の心まで騙すとは器用なやつだ」

「嘘つきは悪い文明」

「随分とボロクソ言ってくれますねえ! 彼女を見てもそんなことが言えるか楽しみですよ! ブヘヘ……!!」

「あ、悪人面がひどいです……」

 

 マシュは美観を台無しにするようなダンテの表情に怖気が立つ。

 そこに、ひとりの女性が舞い降りる。

 ベアトリーチェ。鮮烈に輝く美しさではない、素朴な雰囲気の乙女。ダンテが信仰に等しい愛を生涯捧げた淑女であった。

 彼女は海中を漂うくらげのように浮かび上がり、アルテラの手を優しく取る。 

 

「貴女に残されたのは破壊ばかりではありません。いつかまた、数多の英雄が集う場所にて逢いましょう」

「……お前の目には、何が見えているんだ?」

「いえ……ただ、予感がするのです。雲を掴むような曖昧なものですが」

 

 ベアトリーチェが手を引く。

 向かう先は透き通った日輪の中。

 天使の群れの只中に聖杯のみを残し、アルテラは誰をも手にかけることなく、現世を去った。

 ネロは聖杯を掴み、マシュに手渡して、

 

「さらばだ、カルデアの勇士たちよ。余はきっと──笑顔の絶えない国を作ってみせる!」

 

 彼女は笑み、そして幕が下りる。

 ──第二特異点、定礎復元。

 

 

 

 

 

 

 カルデアに戻った瞬間、立香は待ち構えていたロマン以下医療スタッフに、たんかで運ばれていった。

 

「ふふふ……最近出番がなかったからね! 張り切らせてもらうよ!!」

 

 その時、ロマンのテンションが異常に上振れていたが、それを指摘する者は誰もいなかった。

 マシュとジャンヌが立香を追って管制室を出た後。無言で佇むノアを、ペレアスは指差して言う。

 

「殺気出てんぞ、さっきから」

 

 ノアはこめかみの辺りを揉みほぐして、

 

「……ほら、収まっただろ」

「いや全然収まってねえよ! 瞳孔がギンギンに開いてるじゃねえか!! 何があった!?」

 

 深いため息。ノアは数秒うつむくと、呟くように言った。

 

「藤丸がレフの攻撃を防げないのは分かってた。それを知りながら、作戦を優先した俺に苛ついてただけだ」

「立香ちゃんは納得の上で乗っただけだろ。自分を責めるより仕事を果たした部下を誇れよ」

「むしろ意外ですねえ、貴方なら仇敵を倒してはしゃいでいるかと思いました」

 

 ノアとペレアスの後方から声が響く。

 ぞわりと悪寒が背中を走り、二人は後ろに振り向いた。

 そこにいたのは、ニコニコと笑みを浮かべるダンテだった。ペレアスは口元をひくつかせて、震えた声で問う。

 

「なんでここにいるんだ!?」

「………………確かに───!! え、なんで私ここにいるんですかねえ!? もう戦いたくないのに!!」

「「知るか!!」」

 

 

 

 

 

 

 それはいつかの時代、どこかの世界の話。

 民衆を振り回した皇帝がその座から追われ、小刀で自らの喉を掻き切ろうとしていた。

 細かく震える指先。

 何度も命を絶とうと思い立ち、直前で留まる。

 幾多の慚愧を繰り返し、湧き上がる涙を抑え込んだ。

 彼女の治世に自由はなかった。

 子どもの地位を盾に政治に干渉しようとする母アグリッピナ。己が利益のために対立する元老院。

 体に結び付けられた鎖を解き放とうともがき、終わりは唐突に訪れた。

 クーデターによって、彼女はローマ郊外へと逃亡することとなったのである。

 小刀を手に取る。

 透き通った刀身に震えが伝わる。

 ひたりと首に触れた冷感に、怖気が走った。

 ───駄目だ、また死ねない。

 だって、まだ何者にも愛されていない。

 誰にも嘆かれず、民衆の敵となって死ぬことなど受け入れられるはずがない。

 なぜなら、この身は産まれ落ちた時から母の権力欲を満たす道具でしかなかったのだから───────

 

〝───ネロ。我が愛しき妹の子。余は、たとえどんな結末を辿ろうと、おまえの道を祝福する。決して独りにはさせない〟

 

 耳に馴染んだ優しい声に、そう言われた気がした。

 飛び散る赤い華。

 彼女は血に沈みながら、空を仰ぐ。

 そこには、月が白く輝いていた。

 ……68年、ネロ・クラウディウスは自決した。

 ひとりの暴君がこの世から失われた。これはただそれだけの話だ。

 だが、その物語は。

 ───がしゃん、と少年/少女が操る人形が崩れ落ちる。

 それは即ち、彼/彼女の死を意味していた。

 たったひとりが残る聖杯戦争、その予選。

 ウィザードとしての才も能も持たない者が勝ち抜けるほど、この戦いは甘くはなかったのだ。

 周囲に積み重なる無数の死体。

 その一角に成り果てる。

 死は逃れ得ない終着だ。どんな人間も、それを否定することはできなかった。

 それならば。

 そうなのだとしても────!!!

 

「諦めたくない……!!」

 

 物語は終わらない。

 彼の、彼女の話は、まだ終わるには早すぎた。

 

「よく言った、名も知らぬ路傍の者よ」

 

 その邂逅は、まさしく奇跡。

 

「その願い、世界が聞き逃そうとも、余が確かに感じ入った!」

 

 それは、遠く離れた別の世界。

 あなたとは、わたしとは、決して交わらない世界線。

 

「───其方が余の奏者(マスター)か」

 

 遥かなる月に、新たなる物語は幕を開けるのだろう。




天上の薔薇、もしくはparadiso cantoと調べれば至高天が描かれた絵画を見ることができます。ダンテの固有結界はそれと同じ風景です。


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第22.5話 第2回チキチキサーヴァント勉強会!

今年はちょうどダンテ・アリギエーリの没後700年です。色々なイベントが企画されていましたが、大体吹っ飛んだそうです。


 カルデア、レクリエーションルーム。

 特異点の修復に取り掛かってからは、この部屋を利用する人間はめっきり減っていた。Eチームを補佐する各部門のスタッフたちに、遊んでいる余裕はないのである。

 それでも熱烈なリピーターというのは居るもので、Eチームのメンバーたちはスタッフの苦労を尻目に、その部屋に入り浸っていた。

 その状況が長く続けば当然、部屋はEチームの使いやすいように手を加えられていく。

 レクリエーションルームの一角。主にビデオゲームを取り揃えた場所の床には、種々のコントローラーや菓子袋が散乱していた。

 そんな折。思春期真っ盛りの中二男子の部屋を一掃する母親のように、ロマンはレクリエーションルームの掃除を敢行した。もっとも、例のように黒歴史が発掘されることはなかったが。

 ある朝、Eチームはレクリエーションルームに集められた。

 ビリヤード台などを除けて作られたスペースにホワイトボードが設置され、その両脇にはロマンとマシュ。立香たちはその前で体育座りさせられている。

 ロマンは咳払いして切り出す。

 

「えーと、それではダンテさんのことを学ぼうということで……」

「リーダー、それよりもスマブラやりません? 私めちゃくちゃ強いですよ」

「上等だ、俺のゴリラで奈落の底に叩き落してやるよ。病み上がりで俺に勝てると思うな」

「はいそこ、すぐゲーム始めようとしない! マシュも何とか言ってやってくれ!」

 

 ゲーム機を起動しようとするマスターたち。ロマンに促され、マシュは二人に言った。

 

「ちょっとお二人とも! わたしも混ぜてください! 悪魔のピンク玉が火を吹きますよ!!」

「ここにボクの味方はいないのか──!?」

「……というのは冗談として。ダンテさんは世界三大詩人にも数えられる人なので、ペレアスさんよりは豊富な紹介ができると思われます」

「マシュちゃんなんかオレにだけ辛辣じゃない? ……というか、そんなに有名な奴なら解説する必要あるか? ジャンヌちゃんの時もやってないだろ」

 

 マシュの言葉の刃に背を刺されながら、ペレアスは疑問を述べる。それまで場を静観していたダンテは、微笑を浮かべて答えた。

 

「ああ、それは簡単ですよ。だって私たち、原作に登場しないオリキャ──」

「それ以上続けたら燃やすわよ」

「はい、ごめんなさい」

「とんでもないメタ発言が飛び出すところでしたが、始めますね」

 

 マシュはホワイトボードにペンを突き立てる。

 ───遡ること2000年前。人間界の支配を目論んでいた魔帝ムンドゥス。無数の配下を引き連れて侵攻しようとしたその時、正義の心に目覚めたひとりの悪魔がいた。

 その者の名はスパーダ。ムンドゥスを封印し、人間界に平和をもたらした彼の名は後世に伝説として伝わるようになった。

 

「スパーダの血と力を受け継ぎ、日夜悪魔と戦うデビルハンター。それがダンテさんです」

「いやこれダンテ違いですよねえ!!? 私はあんなスタイリッシュアクションできませんよ!」

「ふふふ、私は知ってますよ。リザードンを切り札にしてるガラル地方のチャンピオンですよね」

「貴女もですか立香さん! あんな選ばれなかった御三家を大切に使ってくれる人なんて私は知りませんから!」

「その割に知ってるじゃねえか」

 

 というのは冗談として。マシュはようやく真面目に喋り出す。

 ……後の歴史に大きな影響を与えることになる詩人、ダンテ・アリギエーリは1265年5月末、イタリアのフィレンツェにて生を受けた。ダンテという名前は洗礼名ドゥランテの省略であり、『永続する者』という意味を持っている。

 彼の少年時代は断片的な情報しかなく、諸説入り乱れている。ただ推測できるのは、修道院が経営していたラテン語学校で語学を学び、当時一流の学者であったブルネット・ラディーニに師事しただろうということだ。

 

「ちなみに、このラディーニさんは神曲において、男色の罪で地獄に落とされています」

「とは言っても、ダンテさんは最も尊敬する師として慕っているんだけどね。当時としては異端扱いされかねない表現だけど、抑圧されたものを解放するのが文学の役割なのかもしれない」

「……リーダー、なんかドクターが真面目なこと言ってますよ。教養の差を見せつけられたようで悔しいんですが」

「第二特異点で出番がなかったからな。とにかく台詞の量を増やそうとしてる卑しい男だぞ」

「戦闘中のオペレーターなんて、敵の攻撃に驚くくらいしかできないもの。必死すぎて引きます」

 

 ジャンヌの思わぬ追撃を受け、涙目で震え出したロマンを横目に、マシュは解説を続けた。

 九歳の頃、ダンテはまさに運命と出逢う。

 すなわち、ベアトリーチェとの邂逅である。1274年5月1日のことであった。それが一度の邂逅、二度と顔を合わせないような運命だとしたら、鮮烈な初恋で話は終わったのかもしれない。

 だが、神の悪戯は再び二人を引き合せる。ダンテ十八歳の時、彼らは聖トリニタ橋にてすれ違う。会話もなく、ただ一度のベアトリーチェの会釈にダンテは熱病に浮かされるような恋情を覚えた。

 ダンテが初めて世に出した詩集『新生』では、その際のダンテの様子がつぶさに描写されている。

 それを簡単にまとめると、魂が泣きながらガタガタと震えて活動停止宣言をし、食事が喉を通らなくなって生命に危機が訪れるほどの感動を覚えたのだとか。

 以上を聞いたジャンヌはほのかに頬を染めながら、

 

「九年の時を経て再び巡り合う二人……な、なかなか良いじゃない。描写はかなり大げさですけど」

「確かに。フラれた挙句、相手の家の近くに住み込んでストーカー行為を働いたペレアスさんよりは余程ロマンチックだよね」

「え、そんなことしてたんですかペレアスさん。私以上の変態じゃないですか。ブリテンは変態の集う島ですか」

「おいやめろ、アレは若気の至りだ」

「至りすぎだろ」

 

 が、その恋模様はロマンチックとは程遠かった。

 教会は当時の社会では、ある種コミュニケーションの場だった。日曜日のミサなどはその最たる例であろう。

 ある日のサンタ・マルゲリータ教会。ダンテはベアトリーチェに熱い視線を注いでいた。どんな時代も人は他人の恋愛話に目がないようで、ダンテの懸想の噂はすぐに広まった。

 ただしその噂は〝ダンテがベアトリーチェに恋をしている〟というものではなく、偶然彼らの間に座っていた女性がダンテの恋愛対象となってしまっていた。

 当然、それは彼の耳にも入る。常人ならば、その噂を否定するか誤解を解こうとするかもしれない。

 しかし、そこはイタリア最大の詩人。慌てふためくようなタマではない。この状況を好機と見て、ベアトリーチェへの恋心を隠すためにその女性が好きなフリを始めたのである。

 さらには、その女性に向けていくつか詩をしたためるなど、なぜか恋愛感情の偽装に力を入れ始めたダンテ。人類史最大級の詩才の最も無駄な使い道といえるだろう。

 その女性が他の場所に移り住んだ際も、彼は別の女性を見つけて恋慕を抱いているフリをした。その結果、ダンテは移り気な男だという噂が立ち、ベアトリーチェに嫌われてしまった。

 

「このエピソードを隠れ蓑の女性と言います。ベアトリーチェさんに嫌われたのは、残念ですが当然ですね」

「前言撤回、乙女心を弄ぶクズじゃない」

「そもそも普通に誤解を解けば良かったんじゃ? 文豪って思考回路おかしい人多いよね」

「じ、女性陣からの評価が下がっていく……!! ペレアスさんの言葉を借りるようですが、これは若気の至りですよ、私には許嫁もいましたし!」

「「「尚更女の敵では……?」」」

「ぐあああああああ!!!」

 

 そして1285年、ダンテは許嫁のジェンマ・ドナーティという女性と結婚する。ベアトリーチェも銀行家に嫁ぎ、二人の関係は繋がらないまま途絶えてしまう。

 

「知ってますよ、現代ではこういうのをNTRって言うんですよね。大丈夫です、私素質あるんで! 脳破壊されてるんで!」

「あの、両目から涙流しながら言われても困るんですが」

立香(りつか)アイによるとこれはBSSですね。銀行家とベアトリーチェさんの純愛です」

 

 とはいえ、未だベアトリーチェに未練マシマシのダンテである。その新婚生活は羨むようなものではなかったかもしれない。

 狭いコミュニティの中で成立していた昔の社会では、噂が持つ重要度は馬鹿にできない。ダンテの悪評はジェンマにも届いていた可能性がある。

 そうなれば、明るい新婚生活など期待できない訳で。

 ロマンは苦笑しつつ、彼をフォローした。

 

「ダンテさんの結婚生活はネガティブな解釈をされがちだけど、ボクは違う見方もできると思うな。ジェンマさんとの間に4人もの子どもをもうけている訳だしね」

「なんだよ、しっかりやることはやってんじゃねえか」

「生々しい言い方やめてくださいリーダー。私はもっと甘酸っぱい話を所望します!」

「そうですねえ、では今思いつく話だと……」

 

 それは結婚から数日が経った時のこと。書斎の扉を勢い良く蹴破ったジェンマは、ダンテに言い放った。

 

〝お前、まだベアトリーチェのこと好きだろ〟

〝当たり前じゃないですか。1万年と2000年経っても愛してますよ〟

〝即答かよクソが。ところで、さっきあの女が路地裏でイチャついてんの見たんだけど。ありゃもう時間の問題だな。ご祝儀贈っとくわ〟

〝うわあああああああ!!! き、貴様ァァァ!! まさか私の脳を破壊するのが狙いでここに来ましたね!!?〟

 

 それを聞いたノアは死んだ魚のような目で、

 

「バカだろ、登場人物全員バカだろ。ガッツリ尻に敷かれてるじゃねえか。甘酸っぱさの一欠片もねえよ」

「……うん、歴史の裏側なんて大体こんなもんだよね。世のダンテ研究者が聞いたらどんな顔するんだろう」

「普通に一蹴されそうですが……では続けましょう」

 

 戦闘力の欠片もないダンテだが、実は戦場に出たことがある。それが1289年6月、カンパルディーノの戦いである。

 当時、イタリアの政治的勢力は教皇派と皇帝派に二分されていた。この戦争はその二勢力の覇権争いであり、教皇派に属するフィレンツェの騎兵として、ダンテは駆り出された。

 苛烈な争いを生き残ったものの、ちょうど一年後、ベアトリーチェは病気で命を落としてしまう。これがダンテの処女作『新生』を書くに思い至らせた出来事であり、転換期だった。

 先の戦いで勝利を収めた教皇派はその後、市民層から成る白党と貴族層から成る黒党に分裂した。ダンテは白党に所属し、フィレンツェの統領にまで上り詰める。

 だが、彼が教皇庁への特使として市外に出ていた時に事件は起こる。黒党が政変に乗じて実権を握ると、ダンテの子どもたち諸共フィレンツェから永久追放した。

 ダンテの長い放浪生活は、ここから始まるのである。

 

「この放浪生活の中で『神曲』や『饗宴』、『俗語論』、『帝政論』を著しています。皮肉にも、文筆家としての名声は追放されることで上昇したと言えますね。後のルネサンス期の先駆けともされています。死後数百年経ってその名声はさらに高まり、キリスト教圏でその名を知らない人はいないでしょう」

「ちなみに、『神曲』の中ではフィレンツェの黒党の人たちが地獄の罪人として出てくるんだよね。こういう背景を知ると、一層味わい深い名作だ。さらには『俗語論』と合わせて、現代イタリア語の基礎を作ったとも言われている。その凄さは筆舌に尽くし難いね」

「あ、でも『神曲』は私の実体験ですよ。地獄巡りは本当に地獄でした」

 

 ダンテの暴露に、場の空気がしんと静まり返った。

 彼の代表作にして最高傑作『神曲』。作中でダンテは地獄に迷い込み、古代ローマの詩人ウェルギリウスと共に旅をすることとなる。

 各々の地獄で数々の罪人を目の当たりにし、最終的にはベアトリーチェの導きで天の頂にて神の御姿に直面する。これが『神曲』のあらすじだ。

 それが真実であるということは、死後の世界が存在するということ。世を乱しかねない情報だった。

 けれど、ダンテは首を横に振る。

 

「とは言っても、あの地獄は私好みではありません。キリスト教誕生以前の偉人たちが煉獄に落とされているのを知っていますか? 恵みの契約を交しているとしても、あまりにキリスト教徒に都合が良すぎるでしょう。思うにアレは、キリスト教徒たちが望む死後の世界───それに生きながらにして触れてしまったのだと理解しています」

 

 人間がふと異世界に迷い込み、帰還するという話型は現代までに多く見られるモチーフだ。特に現代日本では何かとつけて、異世界に飛ばしたがる傾向があるだろう。

 そもそも魔術などというものが存在するのだ。何が起きてもおかしくはない。立香がそう結論付けようとすると、ノアの足がダンテのももに突き刺さった。

 

「ギャアアアア!! 何してんですか!?」

「急に真面目な雰囲気にしようとしてんじゃねえ。こちとらオフなんだよ、もっかい地獄に叩き落とすぞコノヤロー」

「この人地獄で見たどの悪魔よりも悪魔なんですけど!! サタンと肩組んで談笑できますよ! 地元では負け知らずですよ!」

「ふざけろ、俺だったらサタンも屈服させる。デビルメイクライどころかデビルマストダイだからな。全裸目隠しで三角木馬にまたがってるところをYouTubeにアップしてやるよ」

「その内容ならYouTubeよりもFC2なんじゃないですかねえ!?」

「ツッコむところそこですか……?」

 

 悶絶するダンテを眺め、愉悦の笑みを浮かべるノアとそれを止めに入る立香。ジャンヌは馬鹿共のやりとりに呆れて視線をそらした先で、体育座りで落ち込むペレアスを見た。

 心なしか彼の纏う空気が黒く染まっているようで、その背中には哀愁が漂っている。

 

「ち、ちょっと。ペレアスがとんでもない瘴気を発してるんですけど。どうしたのよ」

「いや……ダンテが思ったよりもガチの偉人で…………オレなんて超脇役だし。国王牧歌では主人公として取り上げられたけど、寝取られて放浪して終わる鬱エンドだし…………」

「キリエライト、他のダンテの逸話持ってこい。追い打ちかけろ」

「はい、了解しました」

「や、優しかったマシュは一体どこに……」

 

 ロマンは密かに落ち込んだ。どれもこれもEチームが悪いのだ。

 それはそれとして、現代にも通用する政教分離の思想は、欧州においてはダンテが発端と言えるのかもしれない。

 『帝政論』。彼の政治理念が詰め込まれたこの書では、皇帝の在り方と宗教的権威の分離が謳われている。

 思想は人民の間で醸成されるものだが、政教分離思想を最初に表面化させたのは彼の功績のひとつであろう。

 

「そうですよ、もっとこういうのを下さい! 掘れば掘るほど偉大なエピソードが出てくるでしょう!?」

「こいつを調子に乗らせるのも癪に障るな。よし、お開きにするぞ。ロマン、うまく締めろ」

「え、えーと、ではダンテさん。人理修復に当たっての意気込みをお聞かせ願います」

 

 突然話を振られたダンテは泡を食いながら、

 

「私はこれを神からの試練と受け取りました! 人理修復の暁にはこの旅路を詩集にでもして、印税収入で豪遊してやりますよ! ついでにノーベル文学賞も狙います!!」

 

 欲塗れの宣言が、レクリエーションルームに響き渡るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「────チョコレートって、おいしいよね」

 

 とある日のカルデア。

 Eチームの男三人衆と昼食を摂っていたムニエルは、不意に戯言を口走った。

 ノアたちの冷たい視線が、ムニエルの豊満な体に突き刺さる。平時なら即座に額を床にこすりつけていたところだが、今日の彼は一味違った。チョコだけに。

 ノアはムニエルの食器のフランスパンをかじりながら言う。

 

「もう三月だぞ。バレンタインネタやるには旬が過ぎてるだろ」

「うるせー!! こっちはまだバレンタインやってんだよ! そういう設定なんだよ! サザエさん形式なんだよ!! あとそれ俺のフランスパン!!」

 

 立ち上がって絶叫するムニエル。彼の悲痛な叫びは、食堂全体に響いた。周囲のスタッフたちは悪い予感を察知したのか、そそくさと退出していく。

 

「俺だってさァ! 色々頑張ってんだから少しくらいご褒美があって良いじゃん! 性転換までして体張ったじゃん! 要するに何が言いたいかと言うと女の子からチョコが欲しい!! リーダーだってそういう欲あるでしょ!」

「甘すぎるもんは好みじゃねえな。チョコとかよりもソロモン王の指輪とかの方がテンション上がるだろ」

「そんなもん渡せるやつがどこにいるんだァァァ!! チョコはチョコでも苦いやつとかあるだろ! 欲しいって言ってくれよ、頼むから! お願いします!」

 

 半ば狂乱しつつあるムニエル。その声は廊下にも突き抜ける勢いだった。そこで、ペレアスとダンテは納得したように頷く。

 

「ああ、さっき職員の子からチョコ貰ったのはそういうことか。ブリテンとは一風変わった風習なんだな。こういうのは男の方からやるもんだと思ってた」

「私も図書館に入り浸ってたら貰いましたよ。古代ローマ文学について、ついつい話し込んでしまいました。女性も平等に学びを得られるとは、良い時代になりましたね」

 

 そう言って、彼らは机の上に数個のチョコレートを並べた。それらを見た瞬間、ムニエルは魂が抜けたように静かになる。

 数秒の沈黙を経て、彼は消え入るような声をひねり出した。

 

「………………え、二人とも既婚者ですよね。顔ですか、結局顔なんですか」

「騎士的に乙女からの贈り物を受け取らない選択肢はねえな。むしろ光栄なことだ。特に甘いものなんて嗜好品の中でもさらに貴重だろ?」

「現代ではそうでもないらしいですよ。大量消費社会の良い面ですねえ。それでも渡し渡されるという関係にこそ特別性を見出すものです。私たちで分けて食べますか?」

 

 ダンテの提案を受けて、ムニエルは頭を抱えて悶え始める。

 体内に巣食う悪魔との格闘を終えたムニエルは、悟りに達したような賢者顔で言った。

 

「───〝他人のパンがいかに苦く、他人の階段の上り下がりがいかに辛い道であるか〟……『新生』でそう言ってましたよね、ダンテさん」

「た、確かに言いましたが」

「他人からチョコを恵んでもらうのも同じなんですよォォォ!! どんなに甘ったるいチョコレートもビターチョコレートに様変わりですよ! そもそも俺が本当に欲しいのはチョコじゃなくて女の子の心なんです! そういう男なんです! アガペーじゃなくてエロスの方なんです!」

「それキリスト教的にアウトなんですが!!?」

 

 元の調子に戻ったムニエルに、ノアは無表情で問う。

 

「あ〜、分かった分かった。チョコレートつっても誰から貰いたいかとかあんだろ、協力してやるよ言ってみろ」

 

 傍若無人の化身から出されたのは、意外な提案だった。

 正気度を喪失していないムニエルなら、彼の真意の裏を読むところだが、今日ばかりはそうもいかない。

 さながら地獄に垂らされた一本の糸。ただし、垂らしているのは仏ではなく悪魔である。

 ムニエルは暫し考え込み、声を絞り出した。

 

「……じ、ジャンヌちゃん」

 

 ムニエルを除いた三人は顔を見合わせる。

 少なくとも、ペレアスとダンテの意見は一致していた。

 

((いや、それは無理だろ!!))

 

 ギャルゲーに例えたなら、選択肢をひとつ誤った時点でセーブデータごと焼き尽くしてくるような相手である。

 立香やマシュの前では態度が軟化するが、それ以外ではまさに鉄壁。ムニエル程度の対人経験では分が悪すぎた。

 しかし、ノアはニタニタと笑いながら口を開いた。

 

「オイオイオイ、どんな趣味してんだ。あんな不良娘のどこが良いんだよ。オルレアンのキレたナイフだぞ」

「そ、そういう子ほどデレた時の破壊力が抜群でしょうが!! 口元に手当てながら目線そらしつつチョコを渡してほしい!! できることならハート型が良い!!」

「んな漫画みてえなことある訳ねえだろ、夢見てんじゃねえ。世間でツンデレなんて言われてんのは幻想だからな。よく思い返せ、夜中のドン・キホーテの前とかでああいう奴いただろ、ジャージ着てたむろってんのが容易に想像できるだろ、隣でチャラい男がタバコ吸ってんだろ」

「──へえ、だったらこれは想像できた?」

 

 唐突に訪れる、底冷えした声。

 いつの間にか背後に立っていたジャンヌは掌中に炎を灯して、高温のチョコレートをびたびたとノアの頭上にぶちまけた。

 

「ギャアアアアアアアア!!! 焼けるゥゥゥ!! 目玉がアッツアツのチョコレートフォンデュになるゥゥゥ!!!」

「自業自得ね。マシュ、行くわよ」

「やっぱりリーダーはどこまで行ってもリーダーでしたね。アポロチョコの一粒でもあげようと思ってたわたしが馬鹿でした」

 

 そう吐き捨てて、ジャンヌとマシュは食堂を後にする。どうやら厨房の方でチョコレートを作っていたらしい。

 顔面を両手で押さえながら転げまわるノアの姿に、彼を除いた三人は息を呑んだ。

 ノアの絶叫をBGMにして、ダンテはぽつりと呟いた。

 

「私、ジャンヌさんだけは絶対に怒らせないようにします」

「……そうしとけ。エタードを追い返した時のウチの嫁くらい怖い顔してたぞ」

「湖の乙女の怒りまで買うとか、エタードさん不憫すぎませんか。元はと言うとペレアスさんのせいですよね」

「やめろ! 今でも夢に出てくるくらい気にしてんだよ!」

 

 思わぬ流れ弾がペレアスに当たった。気まずい沈黙が訪れたその後、食堂の扉が音を立てて開く。

 ジャンヌとマシュが追撃に来たのか。三人は身構えたが、その顔ぶれは立香だった。

 三人は警戒度をぐっと下げる。完全に警戒を解かないのは、彼女もまたEチームのマスターだからだ。

 

「リーダーに魔術教えてもらおうと思ってたんですけど、なんでのたうち回ってるんですか」

 

 ペレアスは一言、

 

「ジャンヌちゃん」

「あ、なるほど。大体分かりました」

 

 と、立香は神速の理解力を発揮した。

 

「うーむ、これは褒めるべきか嘆くべきか……ノアさんを運ぶの手伝いましょうか? 私筋力Eですけど」

「大丈夫です! こんなこともあろうかと台車持ってきたんで! しかもトップシェアのダンディの台車ですよ!! これなら190cmのリーダーも運べます!」

「ペレアスさん、Eチームにまともなのは私しかいないんですか」

「言っとくけどお前も大概だからな」

 

 そんなこんなで、ノアは台車に載せられて運ばれていった。

 立香とノアの魔術特訓は今に始まった話ではない。人理が焼却される前までは主にカルデアの礼装を使いこなすことに重点を置いていたが、以降はそれだけに限らない訓練を行っていた。

 数多存在する魔術の中でも、立香が真っ先に叩き込まれたのはルーン魔術。ノアが好んで使うという理由もあるが、最たるものは習得が比較的容易であるからだ。

 文字を描けば発動するという性質上、いくつかの決まりごとと文字を覚えてしまえば初心者でも扱うことはできるだろう。

 その手軽さ故に、ゲルマン民族の戦士たちがこぞって武器にルーンを刻んだことが、出土品からも確認されている。

 必要な知識を詰め込めば、後は実践。魔術師の世界は才能が第一だが、努力が功を奏さないほどではない。

 立香の自室。ノアは顔面に付着したチョコレートをタオルで拭き取りつつ、訓練の監督をしている。

 とはいえ、今回は魔術回路を酷使するものではなく、敵の魔術から身を守るための講義形式だった。

 

「ハリポタ風に言うと、闇の魔術に対する防衛術ですね?」

「まあ大体合ってるな。よし、じゃあ杖を取れ。まずは死の呪文(アバダ ケダブラ)から始める」

「始まりって言うかそれもう終わってますよね。相手の人生を終わらせてますよね。最初に勉強する呪文じゃないですよ!」

「一撃で敵を殺せば全てがチャラだ。これ以上の防衛術はない」

「防衛術というか殺人術なのでは?」

 

 と、愚にもつかないやり取りを繰り返す。

 死の呪文は抜きにしても、魔術や呪術によって殺人を行おうとした記録は世界各地に残っている。古代中国発祥の蠱毒などはその最たる例であろう。

 つまりは、呪い。日本の歴史ではこれを防ぐために、複数の名前を持つ風習が長らく続いたのだ。

 

「対魔力を持ってるサーヴァント連中は関係ないが、俺たちにとっては生死に関わる問題だ。呪いの種類によって対策を知っておかないとな」

「それもそうですね。ダンタリオンの邪視も一応防げましたし、知識があれば大丈夫ってことですよね」

「そういうことだ。だが、自分で呪いをかけようとは考えるなよ。おまえの腕前だと十中八九返される」

 

 ノアはひとつの話をした。

 それは世にまだ魑魅魍魎が溢れていた平安時代。あの魔人、蘆屋道満ですらも及ばなかった天才陰陽師、安倍晴明の逸話のひとつである。

 内裏の警護を務める近衛府の前を通りがかった安倍晴明は、ある場面を目撃する。それは蔵人の少将という若者がカラスに糞を落とされる瞬間だった。

 晴明はそのカラスは式神であり、蔵人の少将に呪いを掛けたと説明する。彼は加持祈祷によって呪いを解くと、使いが来て事情を明かす。

 それは少将の妻の姉妹の夫による犯行であり、陰陽師を雇って呪詛を行ったのだという。後日、京では陰陽師の死体が転がっていた。

 呪詛返し。呪いは破られると術者に跳ね返るという、陰陽道における絶対的なルールである。

 

「……平安時代の日本って魔境すぎません? 少しでも恨み買ったらアウトとか、ロクに友達も作れませんよ」

「問題は陰陽師のサーヴァントが出てきた場合だな。安倍晴明に呪いを掛けられたら、俺でも返せない」

 

 立香は気楽に笑って、

 

「いやいやいや、キャスターだけでも星の数くらいいますからね? ぴったり安倍晴明引くなんて天文学的確率だと思います」

「確かに、考えるだけ無駄だったな! 仕方がねえ、今日は俺の薀蓄百連発の会にするか!」

「それは絶対に嫌ですけどね!」

「「アハハハハハハハハ!!!」」

 

 悪魔のような哄笑が部屋に響き渡る。

 上がりきっていたテンションが元に戻ると、立香は冷や汗を垂れ流しながら言った。

 

「や、やめておきましょうか。なんか嫌なフラグが立った気が……」

「よりにもよってランスロット引き当てたペレアスの例もあるしな」

 

 気まずい空気が流れる。これまでの経験から、悪い予感は大体的中するということを二人は痛感していたのだった。

 

「でも、魔術のこと話してるリーダーは本当に楽しそうですよね」

「もはや切っても切り離せない関係だからな。クソ映画とアルバトロスみたいなもんだ」

「考え得る限り最高の相性じゃないですか。兎と戦車くらいのベストマッチじゃないですか」

 

 そこで立香は冷蔵庫を漁って、一枚の板チョコレートを取り出す。彼女はそれをノアに差し出すと、

 

「今日バレンタインですよね。作る時間なかったんで購買のやつですけど、ちゃんと苦いの買っておきました」

 

 彼は促されるままに板チョコを受け取る。

 

「……おまえ、これ俺以外に渡したか?」

「いえ? 後でEチームのみんなには渡そうと思ってます」

 

 それを聞いて、ノアは意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「よくやった、これでムニエルのやつにマウント取ってくる」

「所持数一個で戦いを挑むのは無謀じゃないですか!?」

 

 静止する暇もなく、ノアは部屋を飛び出していった。鉄は熱い内に叩けというが、ドSの世界では人間に対しても同じ理屈が通用するらしい。

 嵐が通り過ぎたような自室の中で、立香は大きく息を吐いた。いつもよりほんの少しだけ速い心音を手のひらで確かめ、椅子に腰を落ち着ける。

 

「…………うわ。私、緊張してたかも」

 

 

 

 

 

 

 

 深夜のカルデア。時計の針はもうじき12時を回る頃合いであり、スタッフたちにとっての数少ない就寝時間だった。

 薄暗い廊下を闊歩するひとつの影。ゆらゆらと不安定な上体を振り回し、おぼつかない足取りで宛もなく歩き回る。

 廊下の曲がり角に差し掛かると、その影はぴたりと止まって、叫び声をあげた。

 

「ヒャハハハハハハハ!! どいつもこいつもバレンタインってよォ!! 性欲に塗れた薄汚い資本主義の豚どもが!! 俺にチョコが舞い降りない世界なんて滅べチクショー! あっ、もう滅んでるんだった! ざまあみろ!!!」

 

 バーサーカーにも匹敵する狂気に包まれたムニエルがいた。ノアに盛大に煽られ、彼の欲望は頂点を天元突破して決壊したのである。

 床に突っ伏して泣き崩れる彼の肩を、何者かの手が優しく叩いた。

 どくり、と心臓が高鳴る。

 時刻はまだ23時59分。バレンタインはまだ終わっていない。例え残り少なくとも、チョコの一片さえあれば負け組のそしりは免れることができるのだ。

 

(…………ま、待て待て。こういう時は大体あの悪魔(ノア)が期待を裏切りに来るんだ。チョコを渡されるまで俺は油断しない───!!!)

 

 意気込んだその瞬間、見計らったように背後からチョコレートが差し出される。

 夢にまで見たその物体。ムニエルは即座に振り返り、その者の顔を真っ向から捉えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────優雅たれ」

「優雅なおじさんかよォォォォォ!!! クソッタレ!!!」




クラス:キャスター
真名:ダンテ・アリギエーリ
属性:混沌・中庸
ステータス:筋力 E 耐久 E 敏捷 E 魔力 EX 幸運 E 宝具 EX
クラス別スキル
『陣地作成:―』……私に工房が作れるとでもお思いで? 流浪してからは書斎なんてのもなかったですし。……なかったんですよ。
『道具作成:C』……そりゃあ物書きですから。筆は少し遅めですが、歴史に名を残す程度の文章は書けますよ。
固有スキル
『星の開拓者:EX』……イタリア最大の詩人、ダンテの神曲はルネサンスの先駆けであり、近代文学最初の傑作ともなった。庶民でも読めるトスカーナ方言で書かれたこの作品は、後のキリスト教における天国と地獄のイメージを決定付けた。つまり、後世のキリスト教徒が思い描く世界を規定したのである。さらには、神曲の文体がイタリア語の基礎ともなった。逆説、神曲が無ければイタリア語は成立しなかったかもしれない。シェイクスピアの作品もまた英語に大きな影響を与えたが、現代に至る言語の礎となった文学作品は神曲ただひとつだけだろう。西洋芸術史、文化史、言語史、宗教史のターニングポイント。ひとつの時代を招来した偉大な功績を讃えたスキル。役に立つことはあまりない。
『幽界の旅人:A』……地獄、煉獄、天国を旅し、最終的には至高天にて神を見る。その経験からダンテには常人には見えないものが見えたり、高次元の存在と交信できたりする。若干心も読める。一種の精神感応能力、未来予知能力と言って良い。同ランクの直感スキルを内包する。が、精神干渉には滅法弱い。ルルイエが浮上した時は真っ先に発狂する。
『見神の詩人:A』……素晴らしい詩を紡ぐスキル。これは自らの宝具から零れ落ちた神秘でもあり、文字を使って他人の強化・弱化ができる。彼の紡ぐ文字自体が魔力を帯びており、勝手に世界に刻まれる(一定時間で消える)。魔力のステータスがEXなのは、このように極めて特殊な魔力を持っているため。
宝具
『至高天に輝け、永遠の淑女』
ランク:EX 種別:結界宝具
ディヴァーナ・コンメディア。ダンテが心のままに書き留めた詩を捧げることで発動する。無数の聖人と天使が集まる『天上の薔薇』を背景に、神の栄光に満ちた最愛の淑女、ベアトリーチェを喚び出す。
結界内のひとりを対象に、ベアトリーチェがその者の魂を高次元へと連れて行く。これは攻撃ではなく救済であるため、射程に収まった時点で物理的な防御・回避は不可能。救いを拒む強固な精神を以ってのみ、抗うことができる。しかし、救われたいという願いは普遍のものであるため、完全にその効果から逃れることはできない。副次効果として、結界内の味方に加護を与えてステータスを強化できる。
天国の一部を現世に降ろす、擬似的な固有結界。愛を受けるペレアスとは正反対の、愛を捧げる宝具。ただし一方通行。
ダンテのクラス適性はキャスターとアヴェンジャー。もし後者で召喚されれば、この宝具は地獄の最下層・コキュートスを具現化するものとなる。


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第三特異点 嵐の航海者 封鎖終局四海・オケアノス
第23話 果ての海の海賊たち


「今回のレイシフト先は1573年のとある海域。時期的には大航海時代の真っ只中だね。この時代が歪むことでの人類史への影響は計り知れない。今回も気合い入れていこう!」

 

 カルデア、管制室。

 ダンテを仲間に加え、人数が増えたEチームの前でロマンは意気込んだ。

 特異点攻略もいよいよ三つ目。結果だけを見れば、ここまで順調に事は進んでいる。マスターたちも未知の場所へのレイシフトに慣れたことだろう。

 だが、何事も慣れた頃に重大なミスをやらかすものだ。これは世界を救う一大事、どこぞのヘルメットを被った猫のような精神では達成できない。

 いつになく語気を強めた彼の言葉を背に受けながら、立香(りつか)とノアはなにやら荷物をまさぐっていた。

 

「……藤丸(ふじまる)

「……なんですか」

 

 真剣味に満ちた声音。びっ、とノアは立香を指差して、

 

「ねるね○ねるねはレギュレーション違反だ。せめてブドウ味じゃなくてソーダ味にしろ」

「断ります、私本物のブドウよりブドウ味の方が好きなので。リーダーだってさっき水筒の中にポカリ入れてましたよね。水かお茶以外は禁止ですよ」

「言いがかりはよせ。アレはちょっと甘いだけの濁った水だ。おまえこそ特異点でねるねるしてる暇があると思ってんのか?」

「遠足感覚で特異点修復するのやめてくれるかなぁ!!?」

 

 と、憤るロマンの声を聞いて、二人は気の抜けた表情で振り返る。

 

「おいおい、俺たちがもういくつ特異点修復してきたと思ってんだ。今回も楽勝でいけるだろ。レフもぶっ殺したことだしな」

「そうですよ。ダンテさんも仲間になってさらにパワーアップしましたからね! きっと持ち前の魔剣で敵をばったばったと──」

「あれ? 立香さんまだ私のことデビルハンターだと勘違いしてます? 違いますからね、バージルなんてお兄さんいないですからね?」

「ゆ、油断しきってる……『暗黒の人類史』という新しい敵も判明したんだ、注意していかないと!」

 

 暗黒の人類史。人理焼却に際して産まれた特異点というイレギュラーの中でさえ、想定されていなかった英霊たち。焼却の黒幕と同一人物であるかも定かではないが、警戒しておくに越したことはないだろう。

 ロベスピエールにせよ、ダンテにせよ、彼らはそれぞれの特異点を歪め得た存在である。

 ダンテは何の因果か肩を並べて戦うことになったが、ロベスピエールのような者とは戦闘は避けられないだろう。相手の目的が分からない以上、行動を読むこともできない。

 その危険性を説くロマンの背後から、気楽な笑みを浮かべたダ・ヴィンチが現れる。彼女は鼻息を荒くするロマンを宥めると、Eチームの面々に質問した。

 

「今回の特異点は海上の移動が予想されるけど、みんなは泳げるのかな? 一応、準備の良いダ・ヴィンチちゃんは特製の浮き輪を用意してあるよ」

「日本は学校で水泳の授業があるんで、私は全然泳げますよ。マシュは大丈夫?」

「はい。あらゆる状況を想定した訓練を受けていますので、問題ありません。いざとなれば盾にしがみつきます」

「それ盾ごと溺れるよね」

 

 気軽に肯定する立香とマシュ。ノアは息を吐くように笑うと、自信ありげに言い放つ。

 

「俺は14歳の頃、冬のジブラルタル海峡を二時間で泳ぎ切った実績を持つ。並大抵の海じゃあこの天才を苦しめることなんてできないだろうな……!!」

「あ、私は浮き輪貰いますね。地獄巡りの時におどろおどろしい川を見過ぎてトラウマなんです。ペレアスさんはいかがですか?」

「オレはいらねえ。嫁が湖の乙女だしな、泳いだ経験も船に乗った経験も結構ある方だと思うぜ。……ところで」

 

 ペレアスがちらりと視線を送る。その場の全員がその方向に目線を合わせると、ダラダラと冷や汗を流すジャンヌがいた。

 彼女は向けられる眼差しにはっと気付き、取り繕うように喋り出す。

 

「な、なによ!? 私だってちょっと練習すれば、すぐ泳げるようになりますから! ええ、今回はその時間が無かっただけで!」

 

 紅潮した顔をそむけるジャンヌに、マシュはどこからか取り出したタブレット端末を見せつける。

 

「ジャンヌさん、ここにプールの監視カメラの映像があります。そこでは白髪の女性が夜な夜な悲鳴をあげながら、水面に顔をつけている場面が……」

「マシュ。それ消しなさい。今すぐに。さもなきゃ燃やすわよ」

「無駄だ、映像を消すには俺の作ったロックを突破する必要がある。そのためにプログラミングの勉強までしたんだぞ」

「なんでアンタまで一枚噛んでるのよ! 嫌がらせに労力かけすぎでしょう! その得意げな顔をやめろ!!」

 

 ジャンヌは膨らませたゴム浮き輪をノアに投げつけるが、顔を横にそらして回避される。床やコフィンにぶつかり、跳ね回った浮き輪はペレアスの眼前を通り抜けてダンテの後頭部に直撃した。

 完全なるとばっちりをくらったダンテは、悶絶して頭を抱える。

 

「……え、今の完全にペレアスさんに当たるコースでしたよね。不幸のピタゴラスイッチになってましたよねえ!?」

「オレの幸運はA+で、お前の幸運はE。後は分かるな?」

「くっ! 幸運なんて死にステータスでしょうに!」

「ダンテさん。ジャンヌ喚ぶためにカルデアの聖晶石使い切った私の前でも言えますか?」

 

 そう言った立香の瞳は、クレヨンで乱雑に塗り潰したみたいに黒く落ち込んでいた。心なしか二頭身に見えるその様子に、ダンテは密かに戦慄する。

 そんなこんなで、冬木の特異点から数えれば四回目のレイシフトが実行されたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───迷宮を駆け抜けるひとつの影。

 そこは神話の時代、数多の人間を呑み込んだ死の領域。無数の魔物が跋扈し、一度足を踏み入れれば陽の光を拝むことはあり得ない。

 だが、その迷宮を疾駆する影は一糸乱れぬ走りで最奥を目指す。人を惑わす世界の中で、彼ひとりだけが正しい道筋を確信しているように。

 進路上に湧き出る魑魅魍魎。常人ならば正気を保つことも難しい濃密な殺気に晒されながらも、その猛進に陰りはなかった。

 キン、と黄金の斬光が迷宮を照らす。

 刹那の内に繰り出された幾重もの斬撃を受け、行く手を阻んでいた魔物の群れは微塵と化した。

 何者も、その後ろ髪を引くことすらできない。彼は単騎で軍勢を滅ぼし得る存在だ。知恵無き魔物の群れなど、戦いという土俵に上がることも許されていない。

 それは鋼鉄の義腕を持つ大英雄。

 不死身の英雄アキレウスをも苦しめた、トロイア最強の戦士ヘクトールであった。

 突き当たり。彼の死角から、頭上に剛腕が叩き落とされる。

 殺気だけではない。明確な意志を持った攻撃。それ故に魔物の爪よりも遥かに強く、それ故に気配を察知するのは容易かった。

 砲弾が炸裂したような音とともに、迷宮の床がえぐれる。立ち込める煙の向こうに屹立する巨体を望み、ヘクトールは右手の人差し指をくるくると回す。

 そこには、白い薄明かりを発する糸が巻き付けられていた。

 

「アリアドネの糸───見つけた時は途方に暮れたが、案外役に立つもんだ。ま、これも縁ってやつかねぇ」

 

 それは、この迷宮に対する最悪の天敵。

 かつて英雄テセウスがミノタウロスを討伐するため、ミノス王の娘アリアドネより貰い受けた糸。かつて迷宮を破る道標であったが故に、ヘクトールは一直線に最奥に辿り着くことができたのだ。

 英霊は自らの伝承から逃れられない。迷宮を制したヘクトールは辺りを見回すと、わざとらしくため息をついた。

 彼は槍をゆらゆらと弄び、頭を掻く。

 

「……なるほど、大した宝具だ。あの嬢ちゃんはもう逃したって寸法か」

 

 敵に贈る言葉としては最大級の賛辞。しかして、返ってくるのは物理的な重圧すら感じさせる敵意のみ。

 迷宮の主、雷光の意を持つ巨躯の豪傑──アステリオスは、みしりと拳を軋ませた。

 今にも飛びかからんとする獣の如く牙を剥いて、彼は言う。

 

「そうだ、えうりゅあれは、ここにはいない……!!」

 

 振り子のように揺れていた槍の切っ先が定まる。

 アステリオスの撒き散らすような殺気とは違う。一点を貫く鋭さをたたえた、硬質な殺意。平時と変わらぬ口調で、ヘクトールは告げた。

 

「だったら、お前さんの首ひとつで見逃してやる。こっちも手ぶらで帰るわけにはいかないんでね──!!」

 

 瞬間、剣閃が踊る。

 己が宝具である槍を手元から消し、左腰に佩いた剣を左手で引き抜いた。

 なんてことはない小技と、不意打ち。槍手が槍を捨てるという暴挙ではあるが、アステリオスの思考を乱すには至らない。

 精々がさざ波を立てる程度───その隙間に、ヘクトールは入り込む。僅かな意識の偏りを突く超絶の歩法。敵の油断を誘う彼の戦術の真骨頂であった。

 懐に飛び込んだ外敵を始末するため、アステリオスは拳の乱打を繰り出す。

 掠めただけでもその部位を破壊するであろう剛打の嵐。間合いの内に入られたとはいえ、小指の先でも当てれば勝利に近付く攻防だ。

 だというのに。

 だからこそ。

 ヘクトールは振るわれる拳の全てを避け切った。

 なるほど、確かにアステリオスは強い。放たれる拳打の数々は、まさに雷光が如き威力と速度だ。並大抵の英霊では即座に打ち砕かれるだろう。

 だが、彼は知っている。

 かつて殺し合いを演じた、神速の英雄を。

 手元に槍が現れる。

 機械音を立てて柄が縮み、唱えた。

 

「──『不毀の極剣(ドゥリンダナ・スパーダ)』」

 

 一条の剣線。

 黄金の剣光はアステリオスの右腕を斬り飛ばし、胸を深く抉った。

 その巨体が膝をつく。迷宮を構成する魔力が繙かれ、緑の密林が浮かび上がる。

 それこそが世界の原風景。暗い迷宮の底では見えなかった、青白い月の光が二人を照らしていた。

 ざく、と土を踏みしめる音。遠くでは波が砂浜を打ち、淡々とした静寂が場を支配する。

 

「終わりだ」

 

 ヘクトールが刃を振るおうとしたその時だった。

 

「いや、終わらないよ? 主役が登場せずに終わる物語なんて不興にも程があるじゃないか」

 

 どこか軽薄な声とともに。

 五つの石弾がヘクトールを襲った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燦然と輝く太陽。

 どこまでも続く青空。

 海は陽の光を照り返し、宝石のように煌めく。時々吹き抜ける風が心地よく肌を撫でるその船の上は、騒然としていた。

 

「ぐへえええぇぇぇぇ!!!」

 

 声にならない断末魔をあげて、ひとりの哀れな水夫が甲板と熱烈なディープキスを交わす。

 彼はぴくぴくと痙攣すると、力尽きたように昏倒する。周囲には同じ末路を辿った船員たちが数十人ほど転がされていた。成す術なく一蹴された仲間の姿を見て、未だ無事な水夫たちに動揺が走る。

 彼らは甲板上に突如現れた三人組を取り囲んでいた。逃げ場のないこの状況で、その三人組の内のひとりが気楽に話し出す。

 

「……見事にはぐれましたねえ。カルデアとの通信も途絶……海のど真ん中に放り出されなかっただけマシではありますが、今までにもこんなことが?」

「待てダンテ、優秀なこの俺がはぐれる訳がねえ。この場合は藤丸たちがはぐれたと表現しろ」

「そんなことにこだわってる場合じゃねえだろ! アホか!」

「おいペレアス、これを見てもそんな口がきけるか?」

 

 ノアはニタリと笑うと、懐からねるね○ねるね(ソーダ味)をチラ見せする。

 

「俺の手元にはこれがある……食料も嗜好品も限られたこの状況で一番強いのが誰か分かったか? 今すぐ土下座して謝罪するなら、三番の粉の袋を舐める権利をやるよ……ククク、おっと、早い者勝ちだがな?」

 

 マシュと離れた以上、彼らは召喚陣を通じてカルデアから物資を受け取ることができない。

 盛大な小物ムーブをするノアを見て、ダンテは口端をひくつかせた。

 

「い、いや……ねるねるする権利ならまだしもそんな卑しいことしませんよ。ねえ、ペレアスさん?」

 

 そう言って彼が振り返ると、ペレアスは目にも留まらぬ俊敏な動きでノアの手首を掴んでいた。

 

「バカヤロォォォ!! それをねるねるすんのはオレだァァ!!」

「ペレアスさん!?」

「ハッ、強硬手段に出るとは円卓の騎士も落ちたもんだなぁ!! 安心しろ、おまえには一番の粉に三角カップの水を入れる時に床にこぼしてお母さんに叱られる呪いをかけた!!」

「妙に具体的ですね!? そんな経験があったんですか! あったんですね!?」

 

 敵意を剥き出しにする包囲を受けてなお、緊張感のない三人組だった。水夫たちの彼らを見る目が、どこからともなく現れた侵入者ではなく猫のじゃれ合いを見つめるようなものになる。

 そんな騒ぎを聞きつけ、船長室の扉が勢い良く開いた。

 真っ白な髭をふんだんにたくわえた壮年の男。胸元に十字架をぶら下げ、剣をギラつかせながら目を丸くする。

 

「……なんだこの惨状はァ!? てめーらどっから来やがった!」

 

 ノアは凄まじい剣幕で迫りくる顔面にも動じず、淡々と言い返す。

 

「勘違いすんなおっさん、先に仕掛けてきたのはこいつらだ。俺たちは降りかかる火の粉を払っただけだ」

「勝手に人の船に上がり込んだ奴の言い分を信じるとでも? この損失分はどう補填してくれんだ! 人間を大切にしろ!」

「ああ? そりゃ当然ねるね○ねるね……」

「ノアさん、少しいいですか」

 

 船長らしき人物と睨み合うノアはダンテに肩を引かれる。ペレアスは剣の柄に手をかけており、いつでも戦闘に移行できる態勢を維持していた。

 彼らは船長に背を向けて、ひそひそと話し合う。

 

「私あの人見覚えありますよ。『暗黒の人類史』です。間違いありません」

「まああんな濃い顔、一回見たら忘れねえだろうな。真名は?」

 

 ペレアスの問いに答えたのはダンテではなく、聞き耳を立てていた船長本人だった。

 

「クリストファー・コロンブス。隠れて作戦会議か? 奥手な生娘じゃあるまいし、ンなこたぁ面と向かって訊いてこい」

 

 三人は顔を見合わせた。いぶかしむような表情をするノアとペレアスに反して、ダンテは青い顔色をしている。

 

「すみません、想像以上にヤバい人がきました。コロンブスさんは功績もとんでもないですけど、闇もかなり深いですよ」

 

 コロンブスは三人の間にぬうっと顔を出して、自然に訊いた。

 

「例えばどんな感じで伝わってんだ。言ってみろ」

「闇の部分で言うと、奴隷とか奴隷とか奴隷とか……あと卵とかですね」

「おいそれマジで言ってんのか。半分が優しさで出来てるコロンブス様がそんな評価な訳ねえだろ!」

「そんな面で半分が優しさは無えよ。バファリンナメんな。まさかお前、この船に奴隷積んでんじゃねえだろうな」

 

 ペレアスに問われ、コロンブスは沈黙する。

 長いようで短い静寂の最中、二人の視線は刃を合わせるように衝突する。言葉は交わさずとも、両者は目の色だけで互いの心中を看破した。

 ならば、後は火蓋を切るのみ。コロンブスは酷薄な笑みを顔に貼り付けたまま、半歩下がり────

 

「……チッ。抜きすらしねえか」

 

 ───彼が抜き払った剣は、手首を返され奪われていた。

 ペレアスは奪い取った剣を足元に突き立てる。コロンブスの剣術は確かに磨かれてはいるが、彼の本質はそこにはない。

 航海者として、征服者としての腕前こそが彼の真髄。騎士として、剣と槍を生業に生きてきたペレアスとは、戦いの土俵が違うのだ。

 それはコロンブスも理解していた。分かっていながら剣を抜いたのは、自身の論理に従ったがため。彼は両手を頭上に挙げた。

 

「あーあ、降参だ降参。やっぱ俺ぁまともに戦うなんてガラじゃねえな。ここらで商談といこうぜ」

「……ペレアス、逸るんじゃねえぞ。聞く価値はある」

「お前に言われねえでも分かってるよ。重ねた年季が違う」

 

 ペレアスは苦笑して肩をすくめる。

 奴隷を使うことに怒りを覚えたのは確かだろう。けれど、その激情が頭の芯に達しない術を彼は心得ていた。

 脳の片隅に常に冷静な部分を残す。戦闘者として染み付いた習性だ。

 コロンブスは甲板に尻をつくと、話を切り出した。

 

「今ので分かった通り、俺はお前らには勝てねえ。つまり、俺の生殺与奪はそっちに握られてるってことだ」

「まあな、俺たちは訳あって船が必要だ。何ならおまえをぶちのめして奪ってもいい」

「ところがどっこい、この船は俺の宝具だ。出すも仕舞うも思いのまま……当然、俺が死ねば船は永遠に消える。これがどういうことか理解できるか?」

「俺たちは互いに肝を握り合ってる。船が欲しい俺たちと、殺されたくないおまえ。なるほど、良好な関係が築けそうじゃねえか」

 

 コロンブスとノアは同時に口角を吊り上げる。

 悪人顔で同調する二人を見て、ダンテは心の底から嫌な予感を感じ取った。

 

「こ、これで一件落着しましたね! とりあえず親交でも深めます? 私UNO持ってきましたよ!」

「待て、軟弱優男。俺たちは仲良しグループじゃねぇ。このサンタマリア号に乗る以上は俺が船長だ。その上で決めることがあんだろうが」

「どうせろくでもないんでしょうねえ!」

「そう───お前らがこの船にとってどれだけ価値があるか、面接してやらァ!」

 

 面接。ノアはその響きを頭の中で反芻すると、なぜか自信満々に頷く 。

 

「面接か、悪くねえ。所長は生憎見る目がなかったが、コロンブスのお手並み拝見といくか」

「……お前、マジで所長に呪われるぞ」

 

 ペレアスはハンカチを噛んで悔しがる所長の姿を幻視した。ホラー映画なら、今夜にも祟りが起きる場面である。

 そんな彼の思考を知る由もなく、コロンブスはペレアスに問う。

 

「お前さんには聞くまでもないだろうが、特技は?」

「剣だ。誇れたもんじゃねえがな。……あぁ、奴隷とかやったら次は斬るからな。そこは覚悟しとけよ。代わりにオレもお前の領分には口を出さない」

「ま、船には用心棒も必要だしな。採用だ。次、そこの小僧」

「来たか。こういうのは見せた方が早い」

 

 ノアは掌中に火を灯し、握り潰すように消す。次いで風を巻き起こすと、帆船の進路を自由自在に変えてみせた。

 超常的としか言えないその現象に、水夫たちは悲鳴じみた声をあげる。

 

「俺は種も仕掛けもある魔術師だ。火を熾したり、清潔な水を用意するなんてのは朝飯前だ。天文学の応用で航海術の真似事もできる。分かったら俺を最高の待遇でもてなせ」

 

 日本では平安時代まで遣唐使が続いたが、航海には陰陽師が同行することも多かった。その理由は陰陽師が当時の日本における天文のスペシャリストであり、航海の助けとなるからであった。

 加えて、占星術などは天文学の発展によって形式を変えることがある。魔術師にとって、天体の運行は切っても切り離せない関係なのだ。

 コロンブスは大口を開けて笑うと、ノアと肩を組んで甲板の端に移動する。

 

「……なぁ、良い儲け話があるんだが。お前が魔術を実演して、観客に適当な杖かなんかを売りつけんだよ。学のねえやつらは絶対騙されるぜ」

「取り分は?」

「お前が7、俺が3でどうだ?」

「ふざけんな、俺が9は貰う」

「やめろゲスコンビ!」

 

 ペレアスの拳骨がコロンブスとノアの脳天に落ちる。二人は潰れたカエルみたいに甲板に転がり、苦悶のうめき声を響かせた。

 ダンテはそろりと手を挙げて、遠慮がちに言う。

 

「あの、私の面接は? いえ、机の上くらいでしか活躍できない人間なので、雑用くらいしかできないんですが」

「じゃあ雑用だな。そう気にすんな、人間の使い道なんて奴隷以外にも腐るほどある! 俺ほど人間の価値を知ってる英霊もいねえと断言できるぜ!?」

「ネガティブな意味にしか聞こえないですねえ……」

 

 そこで、ノアたちはコロンブスにここに来た経緯を説明した。人理焼却という事態に始まり、カルデアやレイシフト、聖杯探索の情報を伝えた。

 コロンブスはそれらの情報を咀嚼すると、顔を喜色に染めた。船首に片足をついて風を受けながら、彼は芝居がかったように言う。

 

「この海域には数々の聖遺物が眠っているらしい───黄金に輝く羊毛! 死者をも蘇らせる杖! 動く鋼鉄の島! 古代文明の超兵器! ククク、おまけに聖杯とはなァ!! 全部俺のもんだ……騒いできたぜ、船乗りの血がよォ!! 丁度良いビジネスパートナーも手に入ったんだ、この聖遺物争奪戦を征してやる……!!」

 

 冷ややかな眼差しで突き刺してくるノアたちをよそに、コロンブスは広大な海の彼方へ向けて叫んだ。

 

「略奪王に! 俺はなる!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───はっ! 今どこかで最高に汚いワンピースが始まった気がする!」

「何言ってるんですか、先輩」

 

 日が沈み、朱に染まる海を行く船の上。レイシフトを行った立香とマシュとジャンヌは、現在そこにいた。

 その船は、人類で初めて生きたまま世界一周を成し遂げた大偉人フランシス・ドレイクの黄金の鹿(ゴールデンハインド)号。時の無敵艦隊を大敗に至らしめた英雄は歴史の記述とは異なり───

 

「オラ野郎ども! 久しぶりにアタシ以外の女見たからって鼻の下伸ばしてんじゃないよ! 股間握る暇があんならロープ握って接岸準備しなァ!!」

「姐さん! 下品です! 俺らだってそんな下ネタ言いませんよ!!」

「あ、でもマシュとジャンヌが赤面してますよ! もっとお願いします!」

「『立香くんはなんでそっち側なんだい!?』」

 

 ───驚くべきことに、悪魔とも恐れられたフランシス・ドレイクは女性だった。歴史家も案外アテにならないものである。しかし、既にアーサー王やネロ・クラウディウスが女性ということを知っているからか、衝撃は少なかったといえよう。

 特異点へのレイシフト直後、立香たちはこの船が伝説の巨大イカ・クラーケンに襲われている場面に直撃した。ノアたちと離れ離れになったことを憂う暇もなく、戦闘に身を投じたのだった。

 そんなこともあってか、彼女らはドレイクと意気投合。元々、海賊は昭和のヤンキーと近い論理で生きている連中である。共に喧嘩をした時点でダチ認定されるのは当然の帰結であろう。

 急に飛んできた下ネタに不意打ちされたジャンヌは、咳払いして平静を取り戻す。

 

「ほんっと汚らしい連中ですね。一緒に巨大イカを丸焼きにしたとはいえ、少しでも触れようとするなら燃やしますから」

 

 様式美ともいえる反応をする彼女に、水夫たちと一緒にクラーケンの切り身を焼いていた立香が声をかける。

 

「ジャンヌはイカ焼きの味付けは何がいい? 醤油とソースがあるけど」

「私はソースで……って違うわ! こっち来なさい、手篭めにされるわよ!」

「ジャンヌさんがノリツッコミまで習得するとは……これはいよいよわたしも肩の荷が下りそうです」

「マシュ。この前から私のことナメてるでしょう。決着つけてもいいのよ」

 

 空の色は既に夕暮れ時の朱から夜の黒へと移り変わりつつあった。ドレイクたちが拠点とする島もほど近く、船員たちが連携して帆を畳み、錨を降ろそうとしていた。

 もはや何百何千回と繰り返したのだろう、統制の取れた動きは立香たちの入る隙間はない。下手に手をつければ、逆に足を引っ張ってしまいそうな完成度である。

 そもそも、船のふの字も知らない素人にできることは少ない。海の男がそんな女子たちを頼るという失態をやらかしはしない。その半分は優しさだが、もう半分は若い女子によく見られたいという下心だった。

 ぽつねんと取り残された立香たちは、巨大イカの焼き身を口に運びながら、船の欄干に腰を預ける。

 

「リーダーたち、大丈夫かな。通信も繋がらないみたいだし」

「カルデアの機器では生存証明がなされていますから、少なくとも最悪の事態は免れているはずです」

「『ペレアスさんは言わずもがな、ノアくんだって腕がもげてもくっつくほどの生命力の持ち主だしね。生き残ることに関して、あの二人に並び立てる者はないとすら言えそうだ。……ダンテさんはアレだけど』」

「い、一応地獄を踏破したこともあるので、悪運には恵まれていると思います」

「ウェルギリウスがいなかったら絶対死んでたでしょ」

 

 ダンテの地獄巡りは、彼が敬愛する古代ローマの詩人ウェルギリウスとともに行われた。『神曲』の作中ではダンテは彼に頼りっきりであり、地獄でミノタウロスと遭遇した際もダンテはウェルギリウスの影に隠れている。

 ざざん、とどこへともなく消えていく波間に耳を傾けていた立香は、海に何らかの物体が浮かんでいるのを見た。

 彼女は暗い海面を指差して、

 

「あそこに何かない?」

「わたしにはよく見えませんが……ジャンヌさん、炎で照らしてみてください」

「ライター扱いされてみたいで気に入らないけれど。これでどう?」

 

 ぱちんと指を弾き、滲み出た火の光が海面を明るくする。

 薄暗がりに垣間見える人影。茫洋とした輪郭は段々と実形を帯び、その姿を確たるものへと変えていく。

 潮に濡れた紫色の髪。白魚のような肌。同性であっても思わず見惚れてしまうような、息を呑むほどの美貌の少女が波にさらわれていた。

 瞬間、立香はドレイクに叫ぶ。

 

「ドレイクさん! 海から女の子が!」

「空からじゃなくて!? ただのどざえもんじゃん!」

「言ってる場合じゃないでしょうが! 早く引き上げるわよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある島。

 鬱蒼と生い茂る森の中を、四名の英霊が行く。

 そこは幾多の魔獣が住み着く異郷。常よりも酷薄な生存競争が繰り広げられるその場所にあって、彼らを狙う魔物は皆無であった。

 ひとりは弓矢を携える女狩人。その足運びに隙はなく、一度全力で駆け出せばどのような悪路も容易く踏破するだろう。

 ひとりは見上げるほどの偉丈夫。鍛え抜かれたその肉体は、身に宿した超常の武技を体現するためのひとつの道具。如何なる敵も一刀で屠り去る圧力を有していた。

 ひとりは身の丈以上の杖を持った少女。その動作からは武の匂いは微塵も感じられないが、どこか浮世離れした雰囲気を併せ持っている。

 そして、大手を振って先頭を突き進む金髪の男。四人の中で一番弱いのは誰かと問われれば、物知らぬ赤ん坊でも指を差すであろう人物だ。が、反面誰よりも自信に満ち溢れているのは彼だった。

 森にぽかんと開いた洞窟。その奥地に辿り着く。台座に置かれた金の羊毛を見て、彼は歓喜の雄叫びを喉奥から迸らせる。

 

「ハッハッハー! そう、これは私の手元にあるのが相応しい! 目を覆いたくなるようなトラウマがあるが、モノ自体は美しいからな!」

 

 金羊毛を体に巻きつけてガッツポーズを取ると、人心地ついたのか、吹っ切れたような表情で他の三人に振り向く。

 

「ご苦労諸君! 今日はここをキャンプ地とす───」

「ふざけるな」

「■■■■■■」

 

 キャンプ地宣言を遮るように、女狩人と偉丈夫のつま先が男の尻に突き刺さった。

 男は黒ひげ危機一髪を彷彿とさせる飛び上がりを見せ、地面に倒れ込む。

 

「お、お前ら……それは駄目だろ、特にヘラクレス。危うくケツがミンチになるとこだっただろうが!!」

「ああそうか。お前の尻肉でハンバーグでも作って、そこら辺の魔物に振る舞ってやろうか」

「どこの猟奇殺人鬼だお前は!?」

 

 ぎゃあぎゃあと喚く男を横目に、少女は台座に触れた。そこに何やら複雑な紋様を刻むと、柔らかな光がドーム状に広がり、台座が二つに割れる。

 左右に割れた台座の中央。そこには、二匹の蛇が巻き付いたような意匠の杖が置かれていた。

 少女は割れ物を扱うかのようにそれに触れ、持ち上げる。

 律動する魔力。その宝具が本物であることを悟り、彼女はくすりと微笑した。

 

「安心してください、皆さん。目当てのものは手に入りました」

 

 かしゃん、と杖の頂点が開き、一対の翼が飛び出す。

 

「───『永遠なる双蛇の杖(カドゥケウス)』。これは私たちの切り札になるでしょう」



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第24話 アルゴー号とサンタマリア号

 見渡す限りの大海。

 ダンテは緩やかに吹き抜けていく風を肌で感じ、降り注ぐ太陽の光を一身に浴びていた。

 生前、大型の帆船に乗る機会は得られなかった。小舟程度ならば幾度か乗船の経験はあるが、地獄の川を渡る際に亡者たちが船体に取り付いてきた記憶が長く尾を引いている。

 その点、海上の帆船の何と良いことか。

 船上に居れば海中からは手が届かず、窮屈に足を畳む必要もない。サンタマリア号の航海はダンテにとっては天国だった。実際に天国に行った者が言うのだから間違いない。

 ただしそれは、小舟で地獄の川を渡った経験との比較である。ひとつだけ欠点があるとすれば、

 

「オエエエエエエェェェッッ!!」

 

 彼が船酔いする類の人間だった。ただそれだけだろう。

 〝自然は神の芸術である〟とは彼の言葉だが、今のダンテはその自然に唾どころか吐瀉物を吐きかける存在である。まさに神をも畏れぬ所業だ。

 この場にマシュが同行していない以上、カルデアから酔い止め薬を送ってもらうこともできない。彼にはただ耐えるしか選択肢は残されていなかったのである。

 海へ流れていく今朝の食事を眺めて項垂れるダンテを尻目に、ノアとペレアスとコロンブスは神妙な面持ちで輪を作っていた。

 彼らが取り囲む中心。表面に渦巻き模様がくまなく刻まれた、バレーボール大の果実が置かれている。

 某超大ヒット海賊漫画に出てきそうなその果物を凝視して、ペレアスは言う。

 

「…………まずいだろ。世界観的に」

 

 だらだらと顔面に冷や汗を滲ませる。コロンブスとノアはわざとらしく首を傾げて、

 

「「何がだ?」」

「いや、これ悪魔の実……」

「悪魔の実ってなんだよ。物騒な名前だな。食ったら全身がゴムになったりすんのか? とんだ劇物じゃねえか」

「ノア、お前絶対知ってるだろ! そもそもどこで手に入れた!」

 

 ペレアスに問い詰められ、ノアは薄い笑みを顔に貼り付ける。

 

「おまえ覚えてねえのか? 東の海(イーストブルー)で聞くも涙語るも涙の大冒険をしただろうが」

「してねえよ! 11巻もかけた冒険なんて!!」

 

 コロンブスは肩をすくめて、地団駄を踏むペレアスを諌めた。

 

「おいおい、忘れたとは言わせねえぜペレアス。島の住民を苦しめる魚面のやつをぶっ飛ばしただろ。なんかギザギザの剣使う」

「それアーロンだろ。どう考えてもアーロンだろ。魚面でギザギザの剣使うのなんてこの世でアーロンだけなんだよ」

「「へえ〜、アーロンって言うんだアレ」」

「すっとぼけてんじゃねええええぇぇぇ!!」

 

 ペレアスの放ったドロップキックがノアとコロンブスの顔面に突き刺さる。

 甲板に転がされたノアはボタボタと血を垂れ流す鼻を押さえながら、呆れたように言った。

 

「もういいだろ、俺たちも。レフ倒して一区切りついただろ。これからは心機一転、設定ごと入れ替える気持ちで行かなきゃ駄目だ。テコ入れの時期が来てんだよ。全身ゴムにするくらいの強烈な個性が必要だろ」

「その設定と個性は借りパクしたものだけどな」

「バレなきゃ良いんだよ。まずは簡単な所から変えていこう。例えば口調とかだな。ナルト然り剣心然り、有名な主人公ってのは大体喋りに特徴が出てんだよ。これを『変な語尾にしとけばなんか個性出るよねの法則』と言う」

「その理論からしてもうアホだろ。ネーミングセンスも終わってるんだが」

 

 ペレアスの反論をものともせずに、淡々と持論を展開するノア。コロンブスはこくこくと頷いて、両腕を組んだ。

 

「まあ一理あると思うぜ。現に俺たち、口調被ってるしな。誰が喋ってるか分かりづれえ。差別化を図る意味でも変な語尾にするのは悪くないってばよ」

「そういうことでござる、ペレアス殿。功を奏するのはいつだって地道な努力なんだよ……あっ間違えた、地道な努力なんでござるよ」

「おい逆に誰か分からなくなったぞ。こういうのは付け焼き刃じゃどうにもならねえよ。ありのままを出してきゃ十分だ」

「「オラワクワクすっぞ」」

「それはありのままの悟空だろうがァァァ!!! パクリ元をありのままにしてどうすんだ!!」

 

 その怒号を受けたコロンブスは、子どもの喧嘩を見る親のような目をした。それだけでもペレアスの神経を逆撫でるには事足りたが、彼は大きくため息をつく。

 

「なら、どうしろってんだよ。キャラ被り問題は迷宮入りか? こんなことじゃあ新世界にすら辿り着けねえぞ」

「どうもするなよ。お前が新世界って言うとややこしいんだよ。まさかグランドラインの方じゃねえだろうな」

「男はみんな心の中にグランドラインを持ってんだよ」

「黙れグランドバカ。ノックアップストリームに突き上げられて難破しろ。むしろポーネグリフに足の小指ぶつけて骨折しろ」

 

 そんな馬鹿げた会話をしていると、マストに登っていた船員が声をあげた。彼が身振り手振りで指す方向を見ると、サンタマリア号の後方から別の船が接近していた。

 サンタマリア号よりも遥かに古い様式の船。その船首には高笑いする不審な男が仁王立ちし、コロンブスたちを指差す。

 どことなく傲慢さが見え隠れするその金髪の男は、黄金の羊皮を見せつけるようにはためかせる。

 

「そこの船! 貴様らに二つの選択肢をやろう! すなわち、オレたちに食料及び貴重品を分け与えるか、海の藻屑になるかだ!!」

 

 彼の要請を聞き届けると、ノアは操舵手の手から舵を奪った。そして、そのまま操舵輪を猛回転させる。

 サンタマリア号の船体は急速に旋回し、相手の船の横腹に勢い良く衝突した。その衝撃をまともに受けた相手の船は盛大に揺れ、男はバランスを崩して船首にしがみつく。

 豚の丸焼きのようになった男の体勢を指差し、ノアは悪魔の哄笑を海上に響かせた。

 

「モノを頼む時にはてめーから頭下げに来やがれェ! まあいくら土下座したところで俺は許しはしないがな!! その船を転覆させた後、おまえが持ってるその皮で便座カバーでも作ってやらァ! ヒャハハハハハハ!!」

 

 味方ですら絶句するほどの雑言を吐き散らかしながら、悪魔に手綱を握られたサンタマリア号は体当たりを繰り返す。

 男に成す術はなく、断続的に襲い来る衝撃に備えて船首に抱きつくしかなかった。

 しかし、殴った手が痛むように、サンタマリア号にも相応の揺れは生じる。幾度も嵐の海や荒波を乗り越えたコロンブスと船員たちとは違い、ペレアスとダンテは経験が薄い。

 特に後者。ダンテは近くの物に掴まることすらできず、ゴロゴロと甲板を転げ回りながら絶叫する。

 

「あ、あんなのが世界を救うマスターのひとりで良いんですか!? ショッカーの幹部とかのほうが余程しっくり来ますよ!!」

 

 それに同意したのは、皮肉なことに金髪の男だった。

 

「そ、そうだそうだ! お前こそ謝罪の言葉を考えておけ! あいつの手に掛かればどんな英雄も一瞬で吹っ飛ぶんだからな!! お前なんてイチコロだぞ、いいのか、いいんだな!?」

「ハッ! いちいち確認取る時点でたかが知れてんだよ! ダチョウ倶楽部か!? おまえが叩き落とされるのは熱湯風呂じゃなくて海の底だがな!!」

「くっそ、ナメやがって! やっちゃえバーサーカー!!」

 

 その時、空気が変わった。

 船室から姿を現す偉丈夫。磨かれ鍛え抜かれた筋肉は黒鉄のようですらあった。

 彼にとって船の揺れなどさしたる問題ではない。平地を踏みしめるかの如く歩を進め、船首に取り付いていた男を回収する。

 彼は鋭い眼光をノアたちに向けると、ふと横を向いて二人の女性を手招く。

 緩やかな笑みを浮かべた幼き魔女と、彼女を庇うように立つ狩人。女狩人は金髪の男のところまで歩いていくと、その頭に鉄拳を振り下ろした。

 それとほぼ同時。ペレアスも同じように、ノアにお灸を据える。

 女狩人は小さく息をついて言った。

 

「うちの馬鹿がすまない」

「こちらこそ、うちのアホがとんだ愚行をしでかして……」

「いやいや、こいつなんて認めたくはないが船長だ。今回の一件はこちらに非がある」

「いやいやいや、それを言ったら無理やり止めなかったオレたちが悪い」

「うだつのあがらないサラリーマンみてぇな会話になってるじゃねえか。ここは船長の俺に喋らせろ」

「うだつのあがらないは余計では?」

 

 すると、杖を携えた少女が金髪の男の袖をくいくいと引っ張る。

 

「イアソン様。物資が必要なのも事実ですので、交渉してみるのは如何でしょう? 戦わずして目的を果たす……卓越した弁舌の使い時かと」

「そ、そうだな。お前らに交渉の余地をやる! 使者をひとり送ってこい! ただしそこの白髪のアホはやめろよ、絶対だぞ!!」

 

 イアソン。その名前を聞いて、ダンテはガタガタと震え出した。相手の船に背を向けつつ、彼らは小声で話し出す。

 

「イアソンってあのアルゴノーツの船長じゃないですか!! 一船で一国を滅ぼせるような連中ですよ!」

「ってことは、周りにいる奴らは……」

 

 ちらりと背後を覗き見る。

 イアソン含め、甲板の四人は全員がサーヴァントだ。それぞれ得手は異なるが、誰もが英雄相応の風格を持ち合わせている。

 が、やはり目を引くのは黒鉄の偉丈夫。荒削りの斧剣を手に持ち、寡黙に佇む。

 戦闘を生業としていないコロンブスやダンテですら、一目見て直感する武の気配。ペレアスの目にはより多くのものが見えているのだろう、表情が強張っていた。

 コロンブスはアルゴー号から視線を外す。

 

「あの男が一番ヤベェな。アルゴノーツの一員ってなら、テセウスかヘラクレス辺りか?」

「テセウスにバーサーカー適性は無さそうですし、ヘラクレスが妥当だと思います。……どうですか、ペレアスさん?」

「……絶対に喧嘩売るなよ。お前だったら小指でも殺されるぞ」

「私を仮想敵にするのやめてください。吐き気が加速してきました」

 

 ヘラクレスについて、もはや多くを語る必要はないだろう。数々の偉業を成し遂げた、ギリシャ神話最大の英雄。通常の聖杯戦争なら、召喚した時点で勝利が確定するようなサーヴァントだ。通常の聖杯戦争など見たことも聞いたこともないが。

 ともかく、相手にヘラクレスがいることで下手な手を打つことはできない。交渉するしか道は残されていなかった。

 少女がイアソンの真名を晒したのも、おそらくはこの状況に持ち込むため。沈黙を守っていたノアはダンテに目を向ける。

 

「ダンテ、おまえが行け。政治家としての手腕を見せてみろ」

「ちょっと、勘弁してください! 私を小指で殺せるような人がいるところですよ!? 絶賛船酔い中ですし、アルゴー号に吐瀉物ぶちまけたら洒落になりませんよ!」

「このコロンブス様の口八丁でなんとかしてやろうか? ん? 俺は高く売りつけるのはもちろん、値切るのも大得意だぜ?」

「お前は行くなよ。値切る前に首切られるぞ。物理的に」

 

 ダンテは思った。このままでは本当にアルゴー号に乗り込むことになると。脳裏に浮かぶのは、最悪の未来。彼はペレアスの足にすがりつく。

 

「ぺ、ペレアスさん! それなりに偉い騎士だったら停戦の使者とかやったことあるでしょう!」

「まあ、確かに何回もやったけどよ……」

 

 それは異民族との戦いの最中。ペレアスは会うと気まずい人間がいる王城にはほとんど足を運ばず、最前線を転戦していた。

 そんな折、一時的な停戦を旨とする敵将との会談が設けられ、ペレアスが応対した時のことである。

 

〝まあ、落とし所としてはこんな感じか。アグラヴェイン辺りがゴネなければ、王様も許可してくれるだろう。じゃあ、オレは陣地で嫁と仲間が待ってるからこれで〟

〝ペレアス卿〟

〝あん?〟

〝騙して悪いが、ここで死んでもらう。安心しろ、貴殿の首は丁重にキャメロットに送り届けてやる〟

〝ふざけんなああああああァァァ!! 国際問題だぞちくしょう!!〟

 

 そんなこんなで、ペレアスは敵将の首を取ってから相手の陣地に放火して戻ったのだった。

 

「──大体、こんなのばっかだったな」

「……どこからツッコんでいいか分からないんですが。ペレアスさんって地味に強いですよね。地味に。本当に地味なんですけど」

「三回も言う必要ねえだろぶっ飛ばすぞ」

「ただこれで分かりましたね。やはりペレアスさんの方が適任です。ライター渡しとくんで、いざとなったら船に火つけて逃げましょう」

 

 往生際悪くあがくダンテ。ノアたちは顔を合わせると、彼をアルゴー号に向けて蹴り飛ばした。

 

「「「いいから行け」」」

「あああああああ!! この鬼畜ども、地獄に落ちますよ!!」

 

 びたん、とダンテはアルゴー号の甲板に墜落する。

 なんとか体を起こすと、アルゴノーツの英霊たちの姿が目に入った。その威容に思わず足が竦むが、一度肺に空気を取り入れると心身は平常に戻った。

 悪評を隠れ蓑にする程度には切り替えが早いダンテである。即座に平静を取り戻す術は心得ていた。彼はイアソンへと近づき、手を差し出す。

 

「私、しがない物書きのダンテ・アリギエーリと申します。とりあえず、友好の意味を込めて握手でもいかがです?」

「ふん、あの白髪のアホよりは話が通じそうだな。……って、なんか手湿ってるんだけど」

「あ、ごめんなさい。手汗とその他諸々の液体が……」

「その他諸々ってなんだ! そこが一番重要なところだろうが!!」

 

 イアソンは握手を解くと、何度も手を振る。彼は少女と女狩人の方を向いて言った。

 

「メディア……アタランテでも良い。何か拭く物持ってこい」

「やめろ私たちに近づくな不潔だ」

「金羊毛で拭いたらどうです?」

「おっ、お前らァァ!! アタランテはともかくメディアはどういうことだ!? 仕方ない、ヘラクレスの腰蓑で我慢してやる!」

 

 そう言ってヘラクレスの腰蓑に手を押し付けようとするが、剛腕に呆気なく阻まれる。

 右往左往するイアソンに、ダンテは声をかけた。

 

「すみません、少し良いですか」

「こっちはお前のせいで立て込んでる! 手短に言え!」

 

 ダンテは胸元と口元を両手で押さえながら、喉を鳴らす。

 

「オエッ……あの、エチケット袋とか持ってませんかね……ウプッ」

「ギャアアアア!! 誰か袋持ってこい! 布でも良い! というか海に吐かせろ! オレたちの船を汚させるな!!」

「イアソン、これを使え」

「でかしたアタランテ!」

 

 イアソンはアタランテが持ってきた布を受け取る。掴んだ布を見ると、それは彼の替えの下着だった。

 

「………………これオレの下着じゃね」

「汚物には汚物だ」

「誰の下着が汚物だこの野郎」

「申し訳ありません。もう吐きますね」

 

 ダンテがそう言った瞬間、イアソンは剣の切っ先を相手の眉間に突きつける。

 突如として刃を向けられたダンテは、蛇に睨まれた蛙のように固まり、おそるおそる両手を挙げた。

 

「これ以上オレの船で好き勝手させてたまるか。お前らの物資は貰うが、その前に答えろ。航海の目的は何だ?」

「え、えー、私たちはカルデアという組織でして、単刀直入に言うと探し物をしている最中です」

 

 イアソンの目の色が変わる。

 搾取の対象から、敵対者を見るものに。

 後ずさるダンテを欄干まで追い詰め、彼は言い放つ。

 

「カルデア───そうか、オレたちの他に聖櫃(アーク)を狙っているのはお前らだったか!!」

「盛大な人違いなんですが!? 私たちが探してるのは聖杯です! 聖櫃はインディジョーンズでしょう! 貴方騙されてませんか!?」

「黙れ! そうとなれば話は別だ、ここで叩きのめす!!」

「ひいいいいいい! ノアさん、私を引き上げて下さい!」

 

 ノアは煩わしそうにため息をついた。サンタマリア号の欄干から身を乗り出して、手を伸ばす。

 

「仮にもサーヴァントだ、そっから跳ぶくらいはできんだろ! 置いていかれたくなかったらさっさとしろ!!」

「感謝します!」

 

 ダンテは全力疾走で助走をつけると、ノア目掛けて跳躍する。

 筋力敏捷ともにEランクとはいえ、サーヴァントという存在の型枠に嵌っている以上、身体能力は常人よりも遥かに高い。

 よって、生前は海に吸い込まれていたであろうその跳躍は決して無謀ではなく。

 伸ばしたダンテの五指は、むんずとノアの股間を握り締めていた。不意を突かれた上に成人男性ひとり分の体重が掛かり、ノアは船体の外から欄干にぶら下がる体勢になる。

 

「……ぐあああああああ!! どこ掴んでんだァァァ!!!」

「勢い余って変なところに手がいっただけなんです! こんなことさせられる私の身にもなってください!!」

「おまえこそ悲鳴をあげてる俺の股間の身にもなってみろ! いいからその手を離しやがれ!!」

「離したら私が落ちるじゃないですか! 貴方の股間と私の命、どっちが大切なんですか!?」

「俺の股間に決まってんだろうが!!」

 

 ノアは両足をじたばたと泳がせて、

 

「ああああああもげるゥゥゥ!! 次回から『自称カルデア最強マスター(♀)とぐだ子の人理修復録』になるゥゥ!!」

「おっ、なんだ結構余裕じゃねえか。こりゃあ俺の手助けはいらなそうだな」

「待て俺を助けろコロンブス!!」

「仕方がねえな、ひとつ貸しだ」

 

 コロンブスから差し伸られた手に、ノアは渾身の力を振り絞って右手を突き出し────

 

「お前も股間かよォォォ!! やめろ、俺ぁもうジジイなんだよ! ただ枯れてくだけの身なんだよ! コロンブスのタマだけは許してくれェ! コロンブスの卵だけに!!」

「全然うまくねーよ! それ言いたかっただけだろ!」

「というか私たち大人としてスゴク恥ずかしいことになってるんじゃないですか! 中学二年生と同レベルなんじゃないですか!!」

「ふざけんな、常に前屈みで歩いてるような連中とこのコロンブス様を一緒にすんじゃねえ!」

 

 一部始終を眺めていたペレアスが、呆れた顔で三人を引き上げる。

 そうこうしている間にも、サンタマリア号は逃げ出していた。しかしアルゴー号は追ってくる気配を見せず、距離を空けられるのを待っていた。

 アタランテは己の弓を取り出し、矢をつがえる。ただし狙う先はサンタマリア号ではなく、茫漠と広がる蒼天。

 

「『訴状の矢文(ポイボス・カタストロフェ)』!!」

 

 放たれた二本の矢は、雲を越え蒼穹に到達する。直後、無数の矢玉がサンタマリア号へ降り注いだ。

 ひとつひとつがサーヴァントを滅し得る威力。ノアが防壁を張ったとしても、アタランテの矢は容易く貫通するだろう。

 雨霰の如く飛来する矢は、サンタマリア号の帆を破り船体を削っていく。その様を見て、コロンブスは頭を抱えた。

 

「俺の船がァ! 直すのにいくらかかると思ってんだ! あの女絶対に許さねえ!」

「言ってる場合じゃないですよ! 追いつかれたら一巻の終わりです!」

「俺が風を起こして船を動かす。航行に問題はねえ! 船が完全にぶっ壊されたら終いだがな!」

 

 慌ただしく動く船上。ペレアスは剣を抜き払うと、静かに、それでいてはっきりと通る声で言う。

 

「全員、オレの周りから離れろ」

 

 次の瞬間、甲板の一角が吹き飛ぶ。

 散らばる木片。立ち昇る煙。それらを振り払い、黒鉄の巨人は姿を現した。

 ヘラクレス。神の域に達した大英雄は巨岩の如き斧剣を構え、ペレアスを睨む。

 動き出したのは同時。

 互いの首へ刃を振るう。

 防御や回避は頭にない。先に斬った方が勝つ。

 だが、この勝負にペレアスの勝ち目はない。

 一撃の威力、速さ、間合い。全ての能力で彼は遅れを取っている。より速く一刀を叩き込むこの死合において、それは覆しようのない差であった。

 

「───『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 僅かに速く到達したヘラクレスの刃は、霞を斬ったかのようにペレアスの首をすり抜けた。

 鮮血が飛び散る。ヘラクレスは首を裂かれ、崩れ落ちたところを蹴り落とされる。

 海に浮かぶその姿に、ペレアスは戦慄した。

 

「不死身、かよ……!!」

 

 サーヴァントは致命傷を受ければ消滅する。ヘラクレスの体が消えないということはつまり、首を斬られる傷でさえも彼を殺し得ないという事実を表していた。

 ギリシャ神話では不死の存在は珍しくない。ヘラクレスもまた、十二の功業を成し遂げたことで不死の肉体を得ている。

 

(となれば、ノアのヤドリギ───いや、ヘラクレスには避けられる。何の準備もなしに当たってくれる相手じゃねえ)

 

 今の一撃もヘラクレスが正気を失い、なおかつペレアスの宝具があったからこそだ。彼らは双方相討ちを自らの有利とすることができるが、二度も通用する力ではない。

 ペレアスが逡巡しているその時、視界の端に小舟が映った。乗っているのは緑髪の青年と有角の巨人。青年はサンタマリア号に両手を大きく振る。

 

「今から迷宮を展開する! 死にたくなければ僕たちについてくるんだ! それじゃ、後は頼んだよアステリオス!」

「わかった──『万古不易の迷宮(ケイオス・ラビュリントス)』!」

 

 そして、広大な迷宮が海洋を呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな光が散らばる夜空。

 その無人島の浜辺には半壊したサンタマリア号が流れ着いており、向かいには人の手が加わっていない森が広がっていた。

 浜辺は水位が上がると沈む場合もあるため、ある程度内陸に拠点を作るのが定石だ。木々の隙間から野営の火が点々と見受けられる。

 その明かりの内のひとつ。パチパチと音を立てる焚き火の側に、彼らはいた。

 

「僕はダビデ。別の島で聖櫃を守っていたんだけど、どこからか情報が漏れてね。黒髭くんやイアソンくんから逃げてきたのがこの島なんだ。今は三日前に会ったアステリオスくんの迷宮のおかげで、聖櫃の守りはできているから安心してくれていいよ」

「ノアさん、もう良い感じなんじゃないですか。完全に煮えてますって」

「まだだ、このジャガイモがドロドロになるまで火は止めない。カレーは煮込めば煮込んだだけ旨くなるんだよ」

「アレ? これ僕の話聞いてない? おかしいなー、僕めちゃくちゃ有名な英霊のはずなんだけどなー」

 

 自らの知名度を盾にするダビデ。ノアはカレーの鍋から視線を外さないまま、彼の言葉に頷いた。

 

「確かに有名ではあるな」

「だろう!? だって遠い子孫の救世主(メシア)なんて、ダビデの子って言われてるくらいだし!」

「いや、美術の教科書で全裸晒してる変態くらいの認識だろ」

「……ちょっとミケランジェロくん殴ってくる」

 

 ダビデといえば、キリスト教圏でその名を知らぬ者はいない。宗教の概念が薄い日本であっても、彼の姿は美術の教科書で燦然と存在感を発揮している。

 なぜならば、彼は人類史上の本当の意味での特異点───かの神の子の祖先であり、神と契約を結んだ人物であるからだ。

 ダンテはもちろん、ペレアスやコロンブスも彼についての知識は並以上にはある。キリスト教社会に生きた彼らにとって、ダビデとの出会いは重い意味を持っていた。

 そのはずなのだが。

 

「……非常に申し訳ないんですが、旧約に出てくる人って危険人物ばっかりですよね」

「部下の嫁寝取った時点でオレとは相容れねえぞ」

「俺は聖櫃にしか興味はねえ。生きてる頃だったら名声もうなぎ登りだったのによ」

「助けてあげたのになんでアウェーなのかな!?」

 

 悶絶するダビデを尻目にして、ノアは通信機を起動する。

 幸い、この島は龍脈と繋がっていた。聖櫃の影響か魔力の乱れも少なく、カルデアと連絡を取るには絶好の場所であった。

 空中にスクリーンが投射される。そこに映ったロマンの顔は、なぜか痩せこけていた。

 

「『ああ、ノアくん。通信が繋がって良かったよ。……随分と多くのサーヴァントに囲まれてるようだけど』」

「まずは今までのことを説明する。茶でもしばきながら聞け」

 

 そうして、ノアはレイシフト直後からアルゴノーツに出会い、聖櫃の眠る島まで逃げてきたことを話した。

 事態を咀嚼したロマンはこめかみを揉みほぐしながら、

 

「『アルゴノーツか……今までに負けず劣らずの強敵だね。ノアくんはどうするつもりだい?』」

「当然、この島で迎え撃つ。こっちにはアステリオスの迷宮もあるしな、負けそうなら逃げる選択肢も取れる」

「『そのアステリオスは何処に? 』」

 

 ノアの背後の茂みがざわめく。薄暗がりから剛腕が覗き、アステリオスは全身を露わにした。ヘクトールと交戦した結果、彼は片腕を失っている。

 アステリオスは残った手の親指をぐっと立てると、口角を上げた。

 

「きゃんぷふぁいやー、せっち、かんりょう…!」

「よくやったアステリオス。おまえにはマイムマイムの音頭を取る大役を任す」

「いつの間に仲良くなったんだお前ら」

「『……うん、まあ決戦前夜の雰囲気ではないけどいっか』」

 

 ロマンは無理やり自分を納得させたのだった。そんな彼の顔を覗き込むように、ダビデは疑問を口にする。

 

「……君、どこかで会ったかい?」

「『そんな訳ないでしょう。男に対してもナンパですか。まるでダメな王様略してマダオ』」

「そんな不名誉な称号僕は認めない!」

「ところで、立香さんの方はどうなっているんです? 随分お疲れの様子ですが」

 

 何気ないダンテの質問。それを聞いたロマンは南極に放り出されたかのように震え出した。

 

「『ああ……あっちはね、かくかくしかじかで島ごと吹っ飛んだから』」

「おい、さらっととんでもないこと言ったぞ!」

「『大丈夫、生存確認は取れてるよ。それ以上に特異点に穴を穿ちかねない威力のせいで、空間が乱れて連絡は取れなくなってるけど問題はないかな』」

「問題しか見当たらないんですが」

 

 ノアはカレーをスプーンで掬い、アステリオスの口に突っ込みながら、

 

「ロマン、何があったか話せ。俺たちにはキャンプファイヤーが待ってるから手短にな」

「『それは一大事だ。みんなもカレー片手に聞いてくれ』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時を遡り、早朝。黄金の鹿号での出来事である。

 

「あーあ、なんで私がこんな汚い船にいなくちゃならないのかしら! 助けられたことには感謝してあげなくもないけれど、こんなに美しい私を助けるのはもはや当然よね!」

 

 と、ひとり相撲を行う紫髪の少女──エウリュアレを見て、立香は微妙な笑みを浮かべた。

 

「皆さんどうも、藤丸立香(ふじまるりつか)です。私たちの仲間にツンデレがひとり増えました。この展開、どう思われますかマシュさん」

「そうですね。やはりここは我らカルデアが誇る最強ツンデレ魔女ことジャンヌさんの活躍を期待したいですね」

「ああそう、そんなに火傷したいのね」

「……先輩。聞こえてたみたいです。どうしますか」

「大丈夫、今はまだツンだけどここからデレに持っていければ……あ、やっぱり無理そう」

「今日という今日は逃がさないわよ!」

 

 場の温度が上がる。立香とマシュを追いかけ回すジャンヌは、思わず炎をチラつかせていた。かしましい三人のやり取りを眺めていたエウリュアレは、がっくりと肩を落とす。

 

「少し見ない内に大分人間のレベルも下がったみたいね。カルデアだったかしら? 指揮官も何だか不甲斐なさそうだし」

「『全く返す言葉もございません!』」

「そこ、簡単に認めるな! どざえもん一歩手前だったダメ女神に言われたくないんですけど!!」

「はあ? 私のどこを見たらダメなんて言葉が出てくるわけ!? アンタみたいな放火魔女が調子乗るな!」

 

 いがみ合うジャンヌとエウリュアレ。立香はバチバチと火花を散らす二人の間に割り込み、両手で制した。

 

「二人とも、離れて!」

「「ああん?」」

「ツンデレ同士が接触すると対消滅が起きちゃうからっ……!!」

「「起きるかあああああ!!!」」

「おお、ツンデレがシンクロしましたね」

 

 ロマンは彼女たちから視線を切り、船員の指揮を執るドレイクに問う。

 

「『ちなみに今は、どこを目指しているんですか?』」

「そうさねぇ。お宝を見つけるにはそれなりの冒険を潜り抜けなきゃならない。アタシがこの聖杯を手に入れたのも、ポセイドンを名乗るバカをぶっ潰した結果なわけだ」

 

 ドレイクはこの時代に存在する、正しい聖杯を持つ人間だ。

 それを手に入れた経緯というのも中々にぶっ飛んでいる。曰く、浮上したアトランティスにいた海神をもう一度深海に叩き落として聖杯を掠め取ったのだとか。

 

(『それはもしかして、本物のポセイドンなのでは?』)

 

 船乗りとしてとんでもない罰当たりを犯していることになるが、ロマンはその考察を心の奥底に仕舞い込んだ。

 カルデアの目的である聖杯を持っているドレイクではあるが、それを奪い取ったとしても特異点が修復される訳ではない。

 特異点を生み出す原因となっているレフの聖杯は別にあり、彼女の聖杯を回収したところで意味はないのだ。

 どこからともなく立香はぬっと現れ、ドレイクに同意した。

 

「確かに、ゲームでも伝説の装備はダンジョンの奥地とかにありますよね。ロトの剣が店売りされてたら興醒めしちゃいます」

「立香も分かってるじゃないかい。お宝ってのは相応の場所に眠ってるモンなのさ。そこで狙いをつけたのが、動く島の噂だ」

「『浮き島などは動くと言いますが、噂になるとなればそんな次元ではないんでしょうね』」

 

 ドレイクは首肯する。

 

「その動く島はちょうどこの辺の海域で目撃されたらしい。どいつもこいつもおっかなくて逃げちまうせいで、上陸したって話は聞かないけどね」

「…………ち、ちなみに、どんな見た目してるとか分かりますか? ほんと、参考程度なんですけど」

 

 立香はあらぬ方向へ目を向けていた。マシュもそれに追随し、思わず目を白黒させる。どこからか発生した横波が船の横腹を打ち付け、船体を傾けた。

 

「鋼鉄で出来ているとはよく言われてるねえ。それと、先っぽが三叉に分かれたデカい塔があるとかなんとか……」

「へ、へえー。マシュはどう思う?」

「完全にアレですよね。もう見えてますよね。志村後ろですよね」

「さっさと教えてあげなさいよ。コントやってる暇なんてないんだから」

 

 船の真左に、その島はあった。

 明らかにこの時代にそぐわない近未来的な建造物群。島の中央には先端が三叉に分かれた塔がそびえ立っており、淡い青の光を発している。

 立香はドレイクの肩を叩くと、鋼鉄の島を指差した。

 

「…………マジかぁ!!? 取り舵いっぱい! あの島の宝物はアタシらのもんだよ!」

 

 数十分後、黄金の鹿号は鋼鉄の島に接岸した。

 島とは言っても、その場所に浜辺や森などといった自然は見受けられない。立香の素人目には判断をつけ難いが、建造物群を構成する金属は記憶のどれとも様相を異にしている。

 現代の街並みに近い景観。ドレイクたちの目には、それこそ異質なものとして映っているだろう。

 ただ、この場所はエウリュアレのお眼鏡に適ったらしい。ふわりとステップを踏むように、船から着地した。

 

「ま、船よりはマシね。あの塔が見てみたいわ。私についてきなさい」

「……なんでアンタが仕切ってるのよ」

「でも他に当てはなさそうだし、良いんじゃない?」

「アタシの見立てだとあの塔は匂うね。海賊の勘がそう囁いてる!」

「そうですね。未知の場所ですので警戒は厳に、作戦はいのちだいじにでいきましょう」

 

 そうして意気込んだ直後、横合いから野太い声が響いた。

 

「それでは行きますぞいメアリー氏にアン氏! 我らにはヘクトール先生がおりますゆえ、ウェイ系だろうが半グレだろうが恐れるに足らず! コミケの始発ダッシュで鍛えた拙者の足が火を吹くでござる!!」

「へいへい、作戦はどんな感じで?」

「ガンガンいこうぜ一択!! いのちだいじになど愚の骨頂! 男の力強さを見せてこそ、ビアンカもフローラもデボラも嫁にできるのです! それがカジノで有り金溶かすようなダメ夫であっても!! ただしジャミだけは脳が破壊されるから勘弁な!!」

 

 その方向には、豊かな黒髭をたくわえた半裸の男と義手の槍使いがいた。彼らの背後には、長身の美女と小柄な少女が呆れた表情をしている。

 意気揚々と歩いていた半裸の男はドレイクたちを視界に捉える。すると彼は大口を開けてつんのめった。

 

「バ、BBAァァァァ!!! どうしてこんな場所にいやがる!! しかも周囲にはエウリュアレたん含め、めんこい女子(おなご)ばかり! クソ羨ましい! BBAそこ代われ!!」

「よーし、テメエはアタシの手でぶっ殺す。そこ動くなよ」

「うるせえ! トライデントは他の誰にも渡さん! 止めたくばそこの女子全員の3サイズと連絡先を寄越しやがれくださいお願いします!」

「トライデント……?」

 

 マシュは彼の言葉に引っかかりを覚える。

 トライデントとは三つの刃を持つ槍のことであり、ギリシャ神話では海神ポセイドンの武器として知られている。天候と海を操る力を持っているとされ、トロイア戦争においてもトライデントは用いられた。

 遠方にそびえ立つ塔。その先端は三つに分かれていた。

 

「……みなさん。もしかするとあの塔は、海神の武器であるトライデントなのかもしれません」

「くっ……! なぜバレた!? やはり天才か!」

「「お前のせいだろ」」

 

 二人一組の女海賊コンビに両足のすねを蹴られ、黒髭の男は地面を転げまわる。

 そんな彼を踏み付けながら前に進み出て、女海賊コンビは各々の得物をドレイクたちへ向けた。

 

「わたしたちは海賊! 欲しい物はどんな手を使ってでも奪い取る! どちらが先にトライデントを制するか、競争ですわ!!」



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第25話 『天地震撼す海神の三叉槍』

過去一時間がかかってしまいました。申し訳ありません。


「わたしたちは海賊! 欲しい物はどんな手を使ってでも奪い取る! どちらが先にトライデントを制するか、競争ですわ!!」

 

 アンの凛とした声が島に響き渡る。

 ギリシャ神話の海神ポセイドンが用いていたとされるトライデント。それがなぜこのような場所にあるのかは及びもつかないが、相手の手に渡れば悪用されるのは想像に難くない。

 トライデントは海洋と天候を支配するだけでなく、ポセイドンの起源が大地の神であることから、地震を起こす描写もしばしば見られる。まさに人智を越えた力であり、これを握った者はこの特異点の趨勢をも決することができるだろう。

 立香(りつか)と相対する海賊たちは、話し合いが通じる手合いではない。交渉においては清濁併せ呑むのが海賊だが、それも利害が衝突しない場合のみ。

 その場の全員が身構えた瞬間、誰よりも先に動いたのはエウリュアレだった。

 矢を番え、引いて射つ。

 鏃の向く先は義手の槍使いヘクトール。目にも留まらぬ疾風の如き射撃に対し、彼が取った行動は単純にして明快。

 握り固めた鋼鉄の右拳を振り下ろす。

 半ばから砕けた矢が地面を転がる。

 眉間を狙ったエウリュアレの一撃は、事もなげに防がれていた。彼は口角を上げ、槍を肩に担ぐ。

 

「いきなり射掛けてくるとは物騒だねぇ、嬢ちゃん。オジサン何か悪いことしたかな? ……心当たりはあるがね」

「そう。なら言わなくても分かるわね」

「ま、結局仕留めきれなかっ───」

「アステリオスの仇! 命で贖いなさい!!」

「話聞けや! これだから神ってのは大雑把で嫌なんだ!」

 

 彼女の耳にはもはやヘクトールの言葉は届いていなかった。機関銃の掃射じみた矢玉の雨がヘクトールたちへ見境なく降り注ぐ。

 エウリュアレの矢は男性が直撃した場合、当人の心を魅了する効果がある。真名解放が為されずとも、その威力は健在だ。

 敵勢を率いているらしい黒髭半裸の男は、矢から逃げ回りながら絶叫する。

 

「こんな矢を使わずとも、拙者の心は既にエウリュアレたんにゾッコンですぞ!? 助けてメアリー氏!」

「刺されるくらいなら黒ひげ危機一髪で慣れてるだろう」

「アレはプラスチックでしょうが!! というか今まさに危機一髪だから!」

「樽に詰め込むくらいはしてあげますわよ?」

「久々にワロタ。こういう冗談が飛び交ってたのが昔の海賊なんだよな。今の新参は昔の海賊を知らないから困る」

 

 軽口を叩きながらも、流石は黒髭エドワード・ティーチと言うべきか、エウリュアレの矢はしっかりと回避していた。

 私掠船の船長というのは、無能であろうと有能であろうと常に寝首を掻かれる可能性がある。どんな状況にあろうと、彼が油断することはない。

 黒髭の発言に引っかかりを覚えた立香は、エウリュアレの背に言葉を投げかける。

 

「エウリュアレさん、あのステレオタイプのオタクっぽいおじさんと何か因縁でもあるんですか?」

「今まで何回も付け狙われてるのよ。その度に矢をブチ込んで、しつこいったらありゃしないわ。美しいモノに目が眩むのは人の常だけれど、行き過ぎるとああいうストーカーも生み出してしまうのね……」

「なるほど、デキるオンナの苦悩ってやつですね!」

「どちらかと言えば、追っかけに辟易するアイドルのような気もしますが」

「ああ、エリザベートさんみたいな……」

「アレをアイドルと認める人はいないですよね。良くて音響兵器ですよね。ラヴクラフトの怪奇小説に出てきても驚きません」

「私の後輩が辛辣すぎる件について」

「毎度のことながら緊張感がないわねアンタら……」

 

 ジャンヌは額に手を当てて呆れるのだった。

 エウリュアレの射撃によって敵は釘付けになっているものの、相手は同じサーヴァントだ。このまま押し切れるほど容易な敵ではない。

 ここで戦うか、トライデントへ向かうか。立香は敵が反攻に転ずる前に判断を下す必要があった。

 ぴしゃり、とマシュとジャンヌの臀部が軽く叩かれる。

 

「「んなっ!?」」

「おそろしく速いセクハラ……マスターでなきゃ見逃しちゃうね」

 

 振り返った二人が見たのは、好戦的に笑うドレイクの姿だった。

 

「ボケッとしてないで、アンタらはさっさとあの塔に行きな! アレが海神(ポセイドン)の武器ってんなら、先に押さえた方の勝ちって寸法さ!」

「お尻を触る必要は一体どこに……?」

「それに、アンタはどうするのよ。今頃足止めで死ぬなんて流行らないでしょう」

「おいおい、何アタシがやられる前提で話してんだ。この程度の苦境、楽勝で切り抜けてみせるさ」

 

 フランシス・ドレイクは不可能を可能にする英雄だ。

 持ち帰った莫大な財によって、当時のイギリスを強国に生まれ変わらせ、スペインが誇る無敵艦隊を打ち破るまでに至った。

 その偉業はアーサー王と同一視されるほどであり、一説にはワイルドハントを率いる王として信仰される立場でもある。

 そんな彼女が、任せろと言っている。立香は、ただそれに応えるだけで良かった。

 

「マシュ、ジャンヌ、ここはドレイクさんに任せよう。私たちがあの塔に先に着けば勝てる──そうでしょ?」

 

 問われ、二人は頷く。

 彼女ら主従に、それ以上の会話は必要なかった。三人は弾かれたように走り出し、遠方にそびえる三叉の塔を目指す。

 その遠ざかっていく背中を見て、黒髭は顔面を蒼白にした。

 

「くっ、先手は取られてしまったか……! かくなる上はプランBを発動、拙者はトライデントを押さえにかかるでござる! 女の子の尻を追いかけたいからという理由ではない! 断じてない!!」

「説得力が皆無ですわ!」

「けど、追手が必要なのも確かだ。僕たちが潰れ役になってあげても良い。こんなのでも一応はマスターだからね」

 

 そう言ってメアリーは鼻を鳴らす。目的のためなら感情は横に置くのが海賊の流儀だ。たとえマスターがろくでなしだったとしても、逆らえない以上は全霊を尽くすのが雇い主への義理だった。

 ヘクトールは襲い来る矢のことごとくを槍を使って打ち落としながら、しかし平時と変わらない調子で言う。

 

「黒髭の旦那、俺はどうする。アンタがご執心の女神様を捕まえてみせようか」

「そうですな、ヘクトール先生のご随意のままに───」

 

 そこで、黒髭は言葉を打ち切る。

 彼の目が一瞬暗い色を湛え、そして首を横に振った。

 

「──いえ、先生は拙者と一緒にトライデントへ。あらゆる創作作品で単独行動は第一級の死亡フラグですからな!」

「……了解。そうと決まったらトンズラこくとしましょうか。三十六計逃げるに如かずってな」

 

 瞬間、黒髭の眉間目掛けて一発の弾丸が飛来する。

 狙い澄ました射撃。ドレイクの拳銃が火を吹いた証だった。ヘクトールは槍の柄を跳ね上げることでそれを防ぎ、ドレイクを睨んだ。

 彼女は好戦的な笑みを貼り付けたまま、銃口からゆらめく煙を吹いて飛ばした。

 

「このアタシを差し置いて逃げられるとでも思ってんのかい? ───っと!」

 

 死角を狙って振るわれた斬撃。ドレイクは身を翻して刃を避け、メアリーに視線を注いだ。

 

「それを決めるのはお前じゃない。僕たちだ」

「敵は悪魔と謳われた海賊……相手にとって不足なし! 古ければ強いなどという常識は覆してみせますわ!」

「え? マジで? アタシそんなに有名? めっちゃ嬉しい」

「言ってる場合じゃないでしょーが! ヘクトールが逃げるじゃない!!」

 

 エウリュアレは逃げるヘクトールの背中へ矢を放つが、槍の一振りでその全てが打ち砕かれる。

 トロイア最強の戦士である彼には、戦闘経験の薄い女神の射撃を防ぐなど容易い。それが男性である自分を問答無用で魅了するものであっても、槍技の冴えに一寸の狂いもなかった。

 エウリュアレはかつてアテナの怒りを受けたゴルゴン三姉妹のひとり。ステンノとともに『不死』の性質を持ち、三姉妹──三相一体であることからその由来は古く、地母神の要素が強い。

 地母神とは即ち、大地の豊穣を司る神。作物の収穫量が生死を大きく左右する時代の人々にとって、その神格は広く信仰を集める存在だったはずだ。

 しかし、それ故にエウリュアレの矢は届かない。

 地母神である彼女は、根本的に戦いを望まれていないのだから。

 ヘクトールと黒髭は既に遠景へ消えていた。その距離の差は、戦士と女神の埋め切れない実力の差であった。

 ドレイクとエウリュアレは各々の得物を、行く手を阻む女海賊たちへと向ける。

 弓を握りしめる手に一層の力を込め、彼女はあくまで毅然と言い放った。

 

「人の恋路を邪魔する奴は───とは言うけれど、それは復讐も同じね。邪魔よ、そこを退きなさい」

 

 ───距離の差。実力の差。たとえどちらもかけ離れていようと、埋められない理由にはなりはしない。

 その瞳は、地平の向こうを見据えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 立香たちは舗装された道をひたすらに走る。

 この時代に舗装された道路が一体どれほどあっただろう。それだけでなく、周囲に林立する建造物の数々は少なくともコンクリート製ですらない、何か未知の金属で出来ているようだった。そして、それらは一様に災害に見舞われたように傷ついていた。

 おそらく、世界のどんな国にもこんな場所はない。

 現代よりも進んだ技術で造られたであろう街並みは、この時代が遠くかけ離れた過去であることに疑問を抱いてしまうほどだ。

 だが、険しい山道や植物が生い茂る林道を走らされるよりは、風景が奇異なだけで遥かに良いだろう。逆説、それは敵にとっても追いつきやすいということだが。

 ロマンは近未来SF映画のワンシーンを切り取ったような外景を見渡すと、口元に手を当てていぶかしむ仕草をする。

 

「『1573年にこんな都市があるなんて……海神の武器といい、この島に何かがあるのは間違いなさそうだ』」

「現代の東京でもこんなところないですもんね。建物もビルに似てるけど、ちょっと違いますし。あ、千葉県の夢の国ならあるいは……」

「トゥモ○ーランドですね。わたしもいつか行ってみたいです」

「というか、デ○ズニーランドって東京にあるんじゃないの? なんで千葉県なのよ」

「それは何か大人の事情があったんじゃない?」

「『あの〜、その話題はやめてもらえると助かるんですが……ボクは色々と怖くなってきました!』」

 

 冷や汗を垂らしながら、Eチーム三人娘の会話を打ち切ろうとするロマン。彼は人類史の焼却よりも破滅的な何かをその話題から感じ取っていた。

 遠方に見えていた三叉の塔が徐々に近づいてくる。まず最初に驚かされるのは、その巨大さ。風景の大半を占める白藍色の塔は、空の青色に代わって上空を塗り替えている。

 表面を血管のように走る紺碧の光の線。無機質な金属で構成された塔は僅かではあるが、ただそこにあるだけで空気を揺らした。内部に収める膨大な力が漏れ出しているかのように。

 これが海神が携える武器というなら、その経歴に恥じぬモノであることは誰の目にも明らかだった。

 空気が変わっていくのが分かる。それは精神的な作用だけでは決してないだろう。大気に含まれる魔力の濃度が増していくのを、立香は体感する。

 少しずつ呼吸のリズムを速める彼女の様子を見て、マシュは声をかけた。

 

「先輩、あの塔まではまだ少し距離がありそうです。体力は保ちそうですか?」

「うん、まだまだ走れるかな。いざとなったらジャンヌにおんぶしてもらうってことで。筋力Aは伊達じゃない!」

「そう言われると悪い気はしないわね。もっとも、そんな暇は無さそうだけれど──!!」

 

 ジャンヌは右手に黒炎を纏わせ、後方へ振り抜く。

 轟とうねりを上げる炎の波は一瞬にして道路を埋め尽くした。風を切る音。ジャンヌの思考は立香とマシュの一足先を行き、追随して体は旗の穂先を突き出す。

 ガキン、と甲高い金属音が炸裂する。

 旗と槍の激突。それを征したのは前者であった。

 槍の使い手──ヘクトールは武具が衝突した勢いのままに、背面へ跳んだ。

 相対する両者が睨みをきかせたその時、島中に響くかのような野太い悲鳴があがった。

 

「ギョワアアアアアあっつゥ!! 火攻めはBBAの常套手段であって拙者は違うだろうが! 精々ろうそくプレイが限界だから!!」

「おっとすまん旦那。見てなかった」

「ちょっ、早く消して消して! 髭というアイデンティティが燃え尽きてなくなってしまうでござる!!」

「ヤミヤミの実の力で何とかできるんじゃね?」

「それ別の黒髭!! 黒髭というか黒ひげ!!」

 

 火だるまになって地面を転げ回る黒髭。ヘクトールは彼の横に屈み込むと、乱雑に体を叩いて消火する。

 しばらくして、満身創痍の体で黒髭は立ち上がる。そんな彼の頭髪は細かく縮れて球体のように丸くなっていた。

 マシュは目を白黒させて、

 

「先輩、なんですかあの一昔前の表現は。焼かれてアフロヘアーになるなんて現代では中々お目にかかれませんよ」

「くっ……! 今更あんな古い表現で笑いを取ろうとするなんて! これはEチームとして負けていられないよ!!」

「どこで張り合ってんのよ!?」

 

 騒ぐ三人娘たちの反応を見て、黒髭はヘクトールと隠れるように話し出す。

 

「どうやらツカミは完璧のようですぞ、ヘクトール先生。これはワンチャン脈ありなのでは?」

「恋愛は正攻法がオジサンの手法ですよ。その理屈でいくと旦那はもうノーチャン脈なしだな」

「脈なしとか、そんなのもはや死体じゃん! あまりにモテなさ過ぎて臨終した悲しい男じゃん! 死んでも死にきれないよ! 女子を求めてさまよう質の悪い怨霊になっちゃうよ!!」

「安心しなさいって、俺たちもう死んでるから。英霊が怨霊になったところで一文字違い、大して変わりゃしません!」

「『何を見せられてるんだボクたちは……』」

 

 ヘクトールの言葉のどこが響いたのか、黒髭はぽろぽろと涙をこぼし始める。彼は目元を袖で拭き、さっぱりとした顔で言い切った。

 

「そこの女子たち──とりあえず名前を教えなさい。断ればもれなく、黒髭がこれから毎日君たちのことを想いながら眠りにつくおまけがついてきます」

「「「えっ…キモっ……」」」

「あ〜! 良い! その蔑みの視線がたまりませんぞ〜!!」

 

 ひとりで身悶えする黒髭から、少女たちは無意識に一歩二歩と後ずさる。

 名前を教えるか否か、その天秤をどちらかに傾けるには重大な決意を求められる。当然誰だって名前を教えたくはないが、黒髭の妄想に登場させられることもおぞましい。

 立香は歯噛みして、マシュとジャンヌの前に進み出る。

 

「仕方ない、ここは私が先陣を切るよ。マスターとしての役目を果たさなきゃっ……!!」

「そ、そんな! 『信じて送り出した先輩が』──なんてことは絶対にわたしは認めませんよ!」

「黙りなさい脳内ピンクなすび」

「『名前を教えるだけで何でこんな流れになってるんだ……』」

 

 立香は意を決して、口を開いた。

 

「私はノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドです」

「『いやそれ思いっ切り別人の名前……』」

「ノアトゥール……どことなく中二病の波動を感じますな。そちらの盾の女の子は?」

「ロマニ・アーキマンです」

「『マシュゥゥウウウウウウ!!!』」

 

 ロマンは頭を抱えて叫んだ。この場にいないノアはまだしも、自分が身代わりにされるとは考えていなかったのである。

 黒髭の目がジャンヌに向く。彼が何かを言おうとした直前、足元を灼けた杭が吹き飛ばす。

 

「〝すでに存在する者は名前で呼ばれる。人間とは何者なのかも知られている。人は自分より強い者を訴えることはできない〟……名を知られた者は支配されるという考え方よ。私たちの名前を、アンタなんかに教えるわけないでしょうが───!!」

 

 地を這う灼熱の波。瞬間、ヘクトールと黒髭は即座に思考を切り替え、回避行動に移る。

 射程はジャンヌが圧倒的に勝る。距離をあけた状態では一方的に攻撃されるのみ。故に活路は前方にしかない。しかしそれは、歩兵が生身で弾幕に突撃するに等しかった。

 けれど、彼らは百戦錬磨の英霊。その程度の無茶は何度も潜り抜けてきた。次々と襲いかかる炎を読んで躱し、接近する。

 先に距離を詰めたのはヘクトール。小細工なしの一突きをジャンヌへ放つ。

 

「マシュ、防御!」

「はい!」

 

 突き出された槍の穂先が大盾に弾かれる。トロイア最強の戦士を前にしてさえ、彼女の守りは微動だにしなかった。

 隙とは言えぬまでも、相手に生まれた揺らぎ。しかして、マシュが追撃に移ることはない。なぜなら──

 

「良い盾だ。アイアスの野郎を思い出させる!」

 

 ──手を出す暇がないことを、彼女は知っていたから。

 ギアを上げる、などという次元ではない。最初から掛け値なしの全力で、絶え間ない連撃を繰り出す。

 薙ぎ、突き、払う。ひとつひとつの独立した動作が、極めて間断なく繋がる流麗な槍技。その技量はマシュでは及ぶべくもないほどに磨かれている。

 攻撃を差し挟む隙はない。

 が、それは逆に、マシュがヘクトールを釘付けにしていることと同義だ。

 上空から地上を掃射する杭の嵐。それによって、ヘクトールと黒髭はいとも容易く距離を離される。

 続々と飛来する杭を避けながら、彼は舌打ちした。

 

(離れた相手には杭と炎。近付けばあの盾が後衛を守る、か。さらには指揮官までついてやがる。ますますアイアスを思い返させるな)

 

 前衛が攻撃を受け止め、後衛が強大な火力でとどめを狙う。そう言ってしまえば単純な連携ではあるが、その質は極上。最後方にはマスターが控え、戦況判断と支援を行う。彼女たちを打倒するのは、たとえどんな英霊でも困難を強いられるだろう。

 ヘクトールは槍を構え直す。

 両手で柄を握るのではなく、片手で投射するためのものへと。

 ───曰く、その槍は世界のあらゆるものを貫く。

 かつて無双を誇った槍。後の世ではシャルルマーニュ十二勇士の筆頭ローランの佩剣とも知られる、不毀の刃。

 史上、彼の本気の一撃を防ぐことができたのはたったのひとり。

 英雄アイアス。アキレウスに次ぐ実力を誇る戦士であり、彼は弓と槍の名手である異母弟テウクロスと組んで、トロイア側の将兵を多数討ち取った。

 それを支えたのが、牛革と青銅で誂えたという七枚の盾。ヘクトールとアイアスの決闘において、アイアスの盾は与えられた攻撃のことごとくを受けきっている。

 

「標的確認、方位角固定」

 

 故に、彼の一撃を防ぐには。

 最低でも英雄アイアスの盾に並び立たなくてはならない。

 が、しかし、その投擲はヘクトールの頭部へ向けて放たれた一本の矢によって阻止される。

 彼は咄嗟に顔を背けて躱すが、鏃に頬を浅からず割かれる。まず初めに疑ったのはエウリュアレだが、魅了されていないことからその考えは除外した。

 

「せっかくのダーリンとの蜜月。それを穢した貴方たちには、月に代わってお仕置きしなければなりません」

「月ってお前のことじゃね? マッチポンプじゃね?」

 

 この島には先客がいた。ここにはいないポセイドンに代わって、トライデントを管理する月女神と狩人……らしきクマらしきぬいぐるみ。

 

「このアルテミス、極々個人的な理由で参戦します! 大丈夫、動かなければ足くらいで勘弁してあげるから。最悪アスクレピオスに治してもらえば……あ、今はいないんだった」

「俺を射ち抜いた時もそんなノリだったんだろうなぁ〜、コワぁ〜……」

 

 ヘクトールは歯を軋ませて、

 

「なんだってこういう時にあんなのが出てくるかねぇ。黒髭の旦那、奴さんにはアプローチかけなくていいのかい」

「拙者にも選ぶ権利はありますぞ?」

「俺もこれには納得せざるを得ない」

「ダーリン? 何を言ってるかな? ん?」

 

 アルテミスはクマの首根っこを掴んで、ギリギリと吊り上げる。

 立香は突然の乱入に凝り固まった思考を戻し、月女神を名乗るサーヴァントを見据えた。

 真偽は今はどうでも良い。神霊が格を落として現界することも有り得る。事実、見かけの強さはサーヴァントの範疇に留まったものだ。

 彼女が目を奪われた理由。それは、アルテミスが纏い持つ空気であった。

 今まで会ったどんな人間とも違う。薄皮一枚隔てたかのような拒否感にも似た雰囲気を感じ取り、立香の唇は無意識に動いていた。

 

「二人とも、構えて」

 

 その言葉にマシュとジャンヌが疑問を覚えるより早く、流星の如き無差別射撃がアルテミスを除く全員を襲う。

 文字通り矢面に立つのはマシュ。立香とジャンヌへの射線を切り、盾を突き立てた。

 一旦防御に転じた彼女の守りは、さながら小さな要塞だ。無数の矢を凌ぎながら、マシュは問う。

 

「なぜ攻撃が来ると分かったんですか!?」

「うん、多分……あの人に話は通じないと思ったから。後は、なんとなく」

「ある意味多神教の神らしいわね。つまり、人間のことなんてどうでも良いってことでしょう」

 

 ジャンヌの言葉に頷いたのは、いつの間にか盾の内側に入り込んでいたクマだった。

 

「神様なんて連中は唯我独尊がデフォだからなぁ。あんなのでも純潔の神だし、悪気はないんだよ、本当に」

 

 立香は苦笑いしつつ、言葉を返す。

 

「悪気だけはないの間違いですよね?」

「……そう言われると何も言い返せないのがオリオンさんなわけですが。こんな戦いとかやめて四人でお茶しに行かない?」

「ダーリン、その四人はどういう内訳か教えてもらえる?」

「やべえ、ナチュラルに除外してたのがバレた!!」

 

 心なしか射撃の勢いが増していく。

 黒髭は遮蔽物に身を隠しながら、切実に訴えた。

 

「拙者たちはトライデントを目当てにこの島に来ただけで、お二人の愛の巣を壊しに来たんではないでござるよ! 人妻に興味はねえ!!」

「んー、なら尚更ダメかな。伯父さんの槍なんて人間には過ぎた代物だよ。アトランティスをこんなボロボロにしちゃった人がいることには驚きだけど」

「『……は?』」

 

 驚嘆の声をあげたのは、ロマンだけではなかった。マシュは顔色を青くする。

 

「……ええと、アトランティスって最近どこかで聞いた気がするのですが」

「『ドレイクさんが話してたね。アトランティスにいたポセイドンを深海に叩き落として、聖杯を奪い取ったとか何とか』」

「そうそう、そういうこと。この島は沈み損なったアトランティスの残骸だよ。自動航行システムだけならまだしも、トライデントが残ってたのは予想外かな」

 

 アルテミスの補足を受け、ロマンとマシュは納得した。

 アルテミスとオリオンはどちらもポセイドンと深い関わりを持つ。前者は父ゼウスの兄がポセイドンであり、後者に至ってはその息子である。

 何の因果か、ドレイクによるアトランティス崩壊を免れたトライデントと都市の残骸はこの海域をさまよい、アルテミスとオリオンが引きつけられたということであろう。

 クマのぬいぐるみことオリオンは深くため息をついた。

 

「なーんで親父の槍の管理なんかしなきゃならないのかねえ。そこかしこで愛人作る節操なしなんだから、股間の槍の管理でもしとけっつー話ですよ」

「ダーリンの浮気性は遺伝だったんだね」

「ゼウスの血を引いてるやつよりはマシなんじゃないかなぁ!?」

「……結局、トライデントを渡すつもりはないということでFAですかな?」

 

 黒髭の問いに、アルテミスは首肯する。

 それを受けて彼は自らの得物であるフックを取り出す。冷たい光を反り返す鉤爪は、月女神へと向けられていた。

 

「───だったら、話は早え。神様だろうが悪魔だろうが、奪えるものは奪い取る。海賊のがめつさ見せつけてやる……!!」

 

 吼え、突撃する。

 あまりに愚直に過ぎるその特攻が成る可能性は限りなく薄い。それが全員の共通認識だった。

 額を貫かんとする矢を鉤爪で切り裂き、心臓を狙った一撃をもう片方の手で粉砕する。

 だが、上手くいったのはそこまで。肩が穿かれ、太腿が四散し、脇腹が削られる。一瞬の内に彼は重傷を負い、これ以上の突進は不可能だった───その傷が、癒えなければ。

 黒髭の胸中に輝く黄金色の光。立香がこれまでに二度目にしたその光はまさしく、

 

「聖杯──!? ドクター、反応は!?」

「『間違いなくレフの聖杯だ! 彼が持っていたのか!!』」

「先輩、これは僥倖です! サーヴァントひとり討ち取るだけで特異点の修復を完了させられます!」

 

 言葉を交わすことすらもどかしい。ジャンヌは攻撃態勢を取るが、それをヘクトールの槍が遮る。

 

「聖杯を持ってることがバレたら慌てて横槍? ダッサイわね……!」

「見栄でどうにかできるならそうするが、今はそんなことも言ってられないんでね!」

 

 アルテミスは深く息を吐き出した。

 そこに籠もる感情は失望か、はたまた。

 

「人間は痛い目に遭わないと分からない……遭っても分からないけれど、求める力がどれほど凶悪か、網膜に焼き付けなさい」

 

 三叉の塔が発する光がやにわに強くなる。

 快晴の青空はすぐさま曇天へと変わり、塔の上空で撹拌されるように雲が渦巻いていた。

 この塔は砲身。弾丸は極限まで凝縮された魔力。その規模はかつて見た聖剣と比べてさえ、計り知れない。

 ──多神教における神とは自然や概念の擬人化、神格化である。

 ゼウスが雷霆を象徴するように、天照大御神が太陽を象徴するように、古代の人々にとっては自然こそが神であった。

 本来意思を持たぬ自然に人格を与えることで人々は神と交渉を行い、利益を得ようとした。雨乞いの儀式などはその最たる例であろう。

 けれど、自然は気まぐれだ。人間がいくら頼み込んでも雨を降らせない時もあれば、豪雨による災害を引き起こすこともある。

 その気まぐれさこそ、神が等しく備える傲慢。

 ポセイドン、アルテミスもまた同じ。

 彼らはポセイドンであるが故に、アルテミスであるが故に傲慢なのではない。

 神であるが故に傲慢なのだ。

 それは身勝手さと言い換えても変わりないだらう。

 だからこそ、アルテミスはその宝具を起動した。

 あくまで傲慢に身勝手に、敵を屠る手段を講じたのである。

 

 

 

「『天地震撼す海神の三叉槍(トリアイナ・ネプテューヌス)』──!!」

 

 

 

 天より舞い降りる極光。

 視界が漂白され、音が死ぬ。

 そこで、立香の意識はぷつりと途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 波がぶつかり、砕ける音が耳に届く。

 体はどうやら海水に浸かっているらしい。鈍く働く五感が潮の匂いと水の冷たさを感じ取る。

 頬をぺちぺちと叩かれ、重たいまぶたを開いた。

 眼前にいたのはドレイク。彼女も海神の槍の影響を免れなかったのか、ところどころか煤けている。立香が意識を取り戻したことに気付くと、ドレイクは快活な笑みを浮かべる。

 

「気がついたか。起き上がろうとはしないで良いよ、どうせ力が入んないだろ? 目も濁ってないし、頭を打ったりはしてなさそうだ」

「ありがとうございます……みんなは?」

「全員回収済み。敵がどうなったかまでは分からないけどね。悪運が強い奴なら生きてそうだ」

 

 立香は安堵する。それと同時に、覚醒しかけていた意識が抗いがたい睡魔とともに闇に引きずり込まれていく。

 

「ドレイクさん、寝ていいですか。雪山じゃないから死にませんよね」

「雪山じゃなくても永眠するやつはいるだろ」

「……確かに。何だか変な死亡フラグが立った、気、が………」

 

 呂律も回らなくなり、ついに目を閉じる。

 安穏とした眠りに誘い込まれる。

 霞んだ意識に取り留めのない思考が生まれては消える。その中で唯一鮮明だったのは、

 

(アルテミスさんがいたから仕方ないけど、もっと上手くできたかもしれない。だって、Eチームの半分しかいないんだし)

 

 唇がゆるく弧を描く。

 

(リーダーと、私と……みんな揃ってEチームなんだ)

 

 誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。

 

「ああ、そっちは無事ですか───」



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第26話 不死の大英雄

 アルゴー号の四人は、荒れ狂う海のような森を進む。

 アルゴノーツ。イアソン率いるその一団は、数々の冒険を乗り越えた英雄たちの梁山泊。神話に燦然と輝く煌々の船だ。

 この島は既に敵地。あの忌々しき白髪の魔術師が逃げ込んだ、悪魔の拠点だ。──少なくとも、イアソンにとっては。何しろ大事なアルゴー号に体当たりを繰り返した挙句、ダンテなどという変人を送り込んできた男である。彼の憎悪の大半は、目下ノアとダンテに向けられていた。

 しかし、イアソンはアルゴー号の船長だ。船の利益に繋がらないのなら、個人的な感情は抑える度量も備えている。その島にノアたちがいるというだけなら、手を出さない選択肢も有り得ただろう。

 それでもなお、島に上陸したのは。

 ここに契約の箱がある。サンタマリア号を助けるために、ダビデが姿を現したことでその確信を得たためであった。

 

「──畏れよ、滅びよ、地に落ちよ」

 

 林中より響く、神殺しの詠唱。

 

「我が名とともに、ラグナロクは舞い降りる」

 

 それが意味するところはつまり、宣戦布告。半神半人にして不死の英雄ヘラクレスを殺してみせるという、不遜な宣言だ。

 そして、ノアは傲岸な笑みを浮かべながら、木陰より身を出す。彼は光り輝く金枝を見せつけるように弄びながら、イアソンへ言う。

 

「これでいつでも撃てる。おまえの自慢のヘラクレスだろうが一発で殺す代物だ。不死に期待するのもやめておけ」

「ふん、一撃必殺如きで粋がるなよ魔術師! こいつは触れただけで死ぬ猛毒を持つヒュドラを生身で倒した戦士だ。それに比べればたかが矢一本、当たるはずがない!!」

「上等だ。俺とおまえのどっちが正しいか、今から思い知らせてやる。来い下僕ども!! 仕事の時間だ!!」

「おい、誰がいつからお前の下僕になった」

 

 そう言いながら、ペレアスは霊体化を解いてノアの頭を叩いた。それからコロンブス、ダビデ、アステリオスが次々と木の影から身を乗り出す。

 ダビデはヘラクレスをまじまじと見つめると、感嘆のため息をつく。

 

「流石はヘラクレス、どんなギリシャ彫刻も及ばない肉体美だね。これはダビデ像も恥ずかしさのあまり服を着るレベル」

「だびで。かこは、かえられない」

「うん、君が言うと重すぎるからやめよう?」

「ダビデが股間晒して現代で引かれてるなんざ、俺にはどうでもいい。目的はただひとつ、俺の可愛い可愛いサンタマリア号をボロボロにしやがったそこの女に鉄槌を喰らわしてやることだ!」

 

 コロンブスは激情を全開にして、メディアの横にいたアタランテを指差した。もう一方の手に持った剣はわなわなと震えており、今にも斬りかかりそうな様子であった。

 鬼気迫る威圧を受けても、アタランテは微動だにしなかった。彼女はきゅっと眉根を寄せると、訝しむように指摘する。

 

「その恨みは正当なものとして受け取っておこう。それより、ダンテとかいうあの男はどこにいった。伏兵か?」

 

 その言葉に、ノアたちは顔を見合わせた。

 

「ダンテは俺が置いてきた。ハッキリ言ってこの戦いにはついていけないからな」

「……宝具しか使い物にならねえしな、アイツ」

「ダンテの野郎は砲弾運びでもしてた方がマシだ」

「聖杯戦争であんなの召喚したマスターは絶望しかないよね」

「しょうじき、あしでまといにしか、ならない」

「お前ら本当に仲間なのか!!?」

 

 思わず叫んだイアソン。その時、アタランテはノアの頭上の樹木を射ち抜いた。砲弾のような威力を伴ったそれは、木の幹を叩き折って倒壊させる。

 散らばった枝と葉の中に、赤いコートを羽織った男がうつ伏せになっていた。というかダンテだった。

 ノアは彼の背中に右足の靴底を擦り付けながら頷く。

 

「なるほど、伊達にアルゴノーツの一員じゃねえな。よく見抜いたと褒めてやる」

「いや、森の中で赤い服を着て隠れるやつがいるか。普通」

「ちょっとォォォ! ナチュラルに私のこと踏むのやめてくれませんか!?」

「うるせえ。おまえは俺のサーヴァント、つまり奴隷だ。足拭きマットに使ったところで問題はない」

「自分の発言振り返って見てください。一言一句すべて外道なんですが! それでも主役ですか!?」

 

 言い争うノアとダンテの姿を見て、イアソンは嘲笑する。

 

「く、ははははは!! 拍子抜けだなカルデア! 戦の前に諍いを起こすとは、貴様ら程度の結束でオレたちを破れるはずがない! もはや勝ったも同然だな!!」

 

 揚々と啖呵を切ったイアソン。ペレアスは腰に佩いた剣を引き抜き、その切っ先をアルゴノーツの面々へ差し向けた。

 

「だったら試してみるか? オレたちの友情パワーとお前たちの結束、どっちが勝つかをよ」

 

 解き放たれる濃密な殺気。その矛先は静かに佇む偉丈夫、ヘラクレス。彼は地面に突き立てていた斧剣を右手に取り、前に進み出る。

 たとえ正気を失っていようが、戦士としての矜持までをも消失した訳ではない。彼の魂の輝きは、狂気などで穢されるものではなかった。

 この場に集いし英霊たちは各々の得物を構える。火蓋を切ったのは、騎士の言葉だった。

 

「……円卓番外位ペレアス! この名に懸けて───アンタを斬らせてもらう!!」

「■■■■■■────!!!」

 

 ペレアスとヘラクレスの斬撃が踊る。

 その直後、アタランテとダビデはほぼ同時に動いた。

 二人は共に遠距離攻撃を得意とするアーチャー。手に取る武器の違いはあれど、彼らの一撃は戦局を変え得る可能性を秘めている。

 放たれた矢と石。互いの顔面を掠めたそれには目をもくれず、彼らは視線を交わす。そこに込められた意思はすなわち、

 

「君の相手は僕だ。その弓術は厄介に過ぎる」

「ふっ、私に見合うだけの技量があるのか?」

「不満かい? これでも女性の扱いには自信があるんだけどな……!!」

 

 投石器を振り抜く。

 飛来する弾丸はアタランテの足元を撃ち抜き、無数の土塊を散らす。

 だが、彼女は弓の扱いは元より、瞬足を自慢とする英霊だ。女神の罠に嵌まるまで、どんな男も彼女を追い抜かすことはできなかった。

 音よりも速く、狩人は駆ける。

 瞬く間に三射。ダビデは杖を使ってそれらを凌ぐと、木陰に身を隠すように走り出した。

 ヘラクレスとペレアスたちの戦場から距離を取る彼の行動に、アタランテは数瞬思考を巡らせる。

 

(狙いはこれか。私を誘い出すつもりだな……良いだろう、乗ってやる)

 

 ダビデの行動は、アタランテを主戦場から遠ざけるためのもの。その誘いに乗らぬ選択肢ももちろんあったが、彼女は追うことを選んだ。

 このままダビデを放置すれば、思わぬ奇襲を喰らう可能性がある。何よりも、自分が抜けたところでヘラクレスが負けるはずがないという確信が、アタランテを動かした。

 背後から追いすがる気配を感じ、ダビデは僅かに口角を上げる。

 

「ついて来てくれるとは嬉しいね。こんな状況じゃなかったらもっと良かったのに!」

「その減らず口、射ち抜いてやる!」

 

 矢玉と石弾が雨霰の如く飛び交う。

 両者の間を分かつ森林は見るも無残に荒れ果て、地面もめくれ返っていた。

 彼らの射撃戦はさながら爆撃。サーヴァントという超常の存在のみが辿り着ける戦の形だ。

 ダビデの投石は威力に優れ、アタランテの射撃は速度に優れる。武器の特性上、投石器は弓よりも射程が長い。戦いの趨勢は前者の優勢に傾くかと思われた。

 ──が。

 

「……!!」

 

 ダビデの頬を鏃が切り裂く。矢は背後の木を貫通し、三本目でようやく停止する。

 そこから視線を戻した時、既にアタランテの姿はなかった。

 風切り音。それを認識するより早く、ダビデは横に跳ぶ。サーヴァントの一撃は音速を優に超える。音が聞こえた時には、とうに標的は貫かれている。

 故に、頼るべきは直感。命を預けるにはあまりにも曖昧な感覚、それに彼は身を委ねた。

 直後、数本の矢がダビデの背を通り過ぎた。回避した事実に安堵する暇もなく、彼は地面を蹴る。

 単純な射撃戦ならば、彼が優位に立つことはできたかもしれない。

 しかし、相手は狩人。森という場所は彼女の独壇場だ。音を絶ち、姿を隠す──持ち前の瞬足も相まって、ダビデの攻撃はことごとく躱されていた。

 逃げを打つ彼の背を追い、狩人は言う。

 

「誘っておいて逃げるだけか? その体たらくで女の扱いに自信があるとは、よくも言ってのけたな」

「これは手厳しい。僕のナンパ術も衰えたかな? ───でも、そういう子の方が燃え上がるタイプだよ、僕は!」

 

 鼻腔をくすぐる、香の匂い。

 アタランテの嗅覚がそれを感じ取った瞬間、言葉は紡がれていた。

 

「──『燔祭の火焔(サクリファイス)』」

 

 突如として去来する雷雲。太陽を覆い隠した漆黒の雲霞はしかし、上空より降り注ぐ炎によって打ち破られる。

 それこそは異教徒を焼き尽くす硫黄の火。絶対なる神への供犠にして、かの救世主の祖先たるダビデにのみ許された宝具であった。

 彼は天上よりの光を受け、告げる。

 

「さあ、次は君が逃げ回る番だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その剣技を喩えるなら、暴れ狂う嵐。

 吹きすさぶ風は刃。意志持つ暴威が場を席巻した。

 息つく暇もない。ましてや、瞬きすればたちどころに胴体は泣き別れするだろう。彼の武技はまさしく自然の暴力そのものであり、それを前にしてはあらゆる英霊も凡夫に成り下がる。

 ギリシャ神話最大の英雄、ヘラクレスに挑むとはそういうことだった。

 身ひとつで嵐の只中に突撃する。それが成せぬようでは、彼の前に立つことすら許されない。

 アステリオスとペレアスという実力者に挟まれながらも、ヘラクレスの精彩に陰りが訪れることは一瞬足りとも存在しなかった。

 半ば理不尽のような斬撃からペレアスを逃れさせていたのは、培った心眼と精霊の加護。いかなる状況下においても最適解と幸運を呼び寄せる能力によるものだった。

 反撃すら許さず敵を一方的に追い詰めるヘラクレスの戦いぶりに、イアソンは大口を開けて笑う。

 

「どうだ、これが無双の大英雄ヘラクレスの力だ!! 過去いかなる英傑も奴には届かず、一刀の下に葬り去られた! 掛け値なしの最強! 奴と相対できるというせめてもの栄光を胸に死んでいけ!!」

「──じゃあ、お前はどうなんだ? イアソン!」

 

 コロンブスはイアソンの眼前へと迫り、剣を横薙ぎに振るう。

 

「おわああああああ!!」

「イアソン様、邪魔です!」

 

 尻餅をついたイアソンをメディアは突き飛ばすと、即座に杖を構えた。

 彼女の周囲から紫色の光条が発射され、コロンブスは身を翻してそれを回避した。そのやり取りを見届けたイアソンは一息つくと、メディアの後背に回る。

 彼は泡を食いながら、

 

「よ、よくやったメディア! このままオレを守れ! 絶対に離れるなよ! いいな、絶対だぞ!!」

「おいおい、ヘラクレス自慢の次は嫁に助けを求めるつもりかァ!? 偶にはてめえのタマ張って戦ってみせろ!!」

 

 噛み付くようなコロンブスの発言に、イアソンは怒気を滲ませた視線を返した。

 

「舐めるなよ、どこの馬の骨とも知れない英霊が! 船員全員を束ねた力がオレの強さだ! ヘラクレスの敗けはオレの敗けだ、奴とオレは一心同体───故に、命を賭すなどという低い次元は通り過ぎている!!」

「そりゃあ見解の相違ってやつだな! てめえ独りの力で船を引っ張ってくのが、船長って生き物だろうが!!」

 

 英傑たちの船を率いた男と、新世界へ辿り着いた男は吼える。

 彼らはきっと、この点において分かり合うことはできない。仲間の手を取り苦難を乗り越えた人間と仲間を統制して航海を行った人間、その有り様はまさに正反対だ。

 どちらが正しいという話ではない。むしろどちらも正しいからこそ、彼らはここで戦わなければならなかった。

 ヘラクレスの剛剣がペレアスを襲う。

 刃で斬るのではなく、剣の腹で叩くような一撃。ペレアスの額を掠めたそれは、皮膚を裂き血を飛び散らせる。

 彼は血液混じりの唾を吐き出し、剣を握る右手に力を込めた。

 

「──()()()()()

 

 一閃。今までただの一度も振るわれなかった返しの斬撃。しかしながら、ヘラクレスは後方へと跳んで回避する。

 その先。待ち構えていたアステリオスは軋まんばかりに拳を引き絞り、ヘラクレスへと叩きつけた。

 榴弾が炸裂したような轟音が鳴り響く。

 脳が揺れ、動きが止まる。ペレアスは敵の間合いへと踏み込みながら、唱えた。

 

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 ヘラクレスの間合いの内側は致死圏内。侵入者の気配に、揺れ動く意識は瞬時に回復し、斧剣を払う。

 対して、ペレアスは防御も回避もしなかった。

 死の運命を捻じ曲げる宝具。霞のように刃を通り抜け、斬撃を走らせる。

 体に刻まれる幾条の傷跡。それは多くの人間が挑み、そして叶わなかった難業であった。

 血を纏う狂戦士は叫ぶ。

 

「……■■■■■■■!!!」 

 

 首に、胴に、腿に、ヘラクレスはあらゆる急所へ剣を躍らせる。だが、その全てがペレアスの実体を捉えるには至らず、逆に反撃を受けてしまう。

 宝具を発動したペレアスにとっては、斬りかかるという行為そのものが隙だ。戦闘における駆け引きの概念を潰し、一方的に攻撃することができる。

 

「アステリオス、合わせろ!!」

「わかっ、た!」

 

 ペレアスとアステリオスは互いの隙を埋めるように立ち回り、攻撃を重ねていく。

 ペレアスの剣が敵をかき乱し、アステリオスが強烈な拳を与える。後者へ注意を向ければ、ペレアスはすぐさま急所を狙いにかかる。

 加えて、彼は攻撃が足止めにすらならない相手。幾度必殺の剣を振るおうとも、それ故に斬り伏せることは叶わない。

 ヘラクレスは無数の傷をその身に受けながら、白い犬歯を覗かせた。

 ───こんな敵は、ひとりとしていなかった。

 如何なる刃物を通さぬ獅子がいた。

 不死と再生の力を持つ毒竜がいた。

 地に触れている限り、無敵を誇った巨人がいた。

 そのどれもがヘラクレスの英雄譚を飾る端役に成り下がる。彼は鍛え上げた肉体と類稀な機転で、数多の怪物を下してきた。知勇兼ね備えた強さこそが、彼の真骨頂なのだ。

 けれど、運命や因果を超えてまで生き残ろうとする者は、過去誰ひとりとしていなかった。

 バーサーカーたるヘラクレスには、明瞭な思考は存在しない。狂乱に呑まれた彼は、それでも残った意思を目の前の敵に傾ける。

 不意打ちや奇襲を考慮しない、全身全霊の殺意。

 

「───終わりです」

 

 雪のように空を舞う紙片。

 それに気付いた時にはもう遅い。

 白き薔薇の結界が、世界を覆った。

 

「『至高天に輝け、永遠の淑女(ディヴァーナ・コンメディア)』!!」

 

 聖なる光輝が遍く照らす、天界の景色。ノアの後ろに隠れていたダンテは、前に進み出た。

 

「この結界は内部にいる特定の個人の魂を奪います。誰だろうと逃げることはできません」

 

 滔々と述べる。彼の宝具は発動さえすれば必中。サーヴァント数体に比する性能の魔神柱であっても、例外なく打倒できる。

 あるいは、万全のヘラクレスだったなら、結界が展開される前に察知し、逃れることもできたに違いない。

 この帰結はアステリオスとペレアスが命を賭して戦い、得られたものなのだ。

 それを、イアソンは一笑に付した。

 

「だからどうした。そんなもの、ヘラクレスには通用しない。精々が一殺だ。残り十一回、足掻いてみせろ」

「十二の功業……なるほど、そういうことですか。十二回殺してようやく死ぬ、それがヘラクレスさんの不死の形なのですね」

 

 天より降りたベアトリーチェが、ヘラクレスの魂を抱く。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 肉体は魂の容れ物だ。魂を失った肉体は死ぬ。動かなくなる。ヘラクレスには復活が約束されているとしても、その隙は───

 

 

 

「『神約・終世の聖枝(ミストルティン)』」

 

 

 

 ───致命的だった。

 神殺しの矢がヘラクレスを射貫く。

 巨体から力が抜け、地面に倒れる。

 エウリュステウスより課された十二の試練を成し遂げたヘラクレスは、不死身の肉体を手に入れ、十二の生命を宿すに至った。

 しかして、その一矢は、問答無用で神を殺す。

 苦難の末に手に入れた無敵の肉体、十二の生命。それらの護りを容易く突破し、ヘラクレスを穿ったのである。

 

「……なっ」

 

 唖然とするイアソン。結界が解かれ、植物に満ちた森林へと戻される。息を呑むほかに、音はない。

 ヘラクレスの死。ノアですら口を噤むなか、笑みを浮かべる者がいた。

 

「かつて、ひとつの世界を終わりに導いた一撃───見事です」

 

 メディア。月と魔術の女神ヘカテーに仕える少女は、艶やかな月光のように微笑む。

 

「ですが、あなたは知っているはず。無敵のバルドルが辿る、運命の先を」

 

 彼女は二匹の蛇が巻き付いた意匠の杖を取り出し、抱くように持つ。

 

「ラグナロクによって滅んだ世界は新たに生まれ変わり、その地にバルドルは蘇るのです。死の不可逆性を破壊する存在……この杖もそう」

 

 かしゃん、と少女が抱く杖の頂点から、一対の翼が飛び出す。

 それを見た瞬間、ノアだけが理解した。

 

「───!! ペレアス、その杖を壊せ!!」

 

 弾かれたようにペレアスは走り出す。

 その杖が何であるかなど、今はどうでもいい。

 ただ、己のマスターである男がかつてない語気で命令した。彼が動くにはそれだけで十分だった。

 剣が届く直前に、事は済んだ。

 

「『永遠なる双蛇の杖(カドゥケウス)』────!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 カドゥケウス。ギリシャ神話の伝令神ヘルメスの象徴となる杖であり、二匹の蛇が絡みつく文様を持っている。

 二匹の蛇は古くはシュメール文明から共通するモチーフだ。その意味は二元性の統合、つまり完全性を表現していると解釈されることが多い。

 ヘルメスは神が住まう天界から人間界、冥界を行き来し、死者の霊魂を導いて再生させる存在でもある。そのため、彼の象徴たる杖は死する者を蘇らせるとされ、アスクレピオスの杖と同一視されることすらある。

 蛇はヘルメスとアスクレピオスに関わりが深い生物だ。それは両者が死者の再生を行うことと決して無関係ではないだろう。

 死よりの回帰。絶対無敵の神に死を与えたヤドリギでさえも、その復活までは否定できなかった。

 故に。

 少女の手を通じて真価を発揮した双蛇の杖は、死の淵よりヘラクレスを帰還せしめたのだった。

 

「残り十二回です。それとも、もう一度ヤドリギを当てられますか?」

「っ───くそ!」

 

 ペレアスは咄嗟に振り返った。死者を呼び戻す杖。それを処理する必要があるのは確かだが、ヘラクレスを放置する訳にはいかない。

 再度、ペレアスはヘラクレスと切り結ぶ。

 そのやり取りは先程の焼き直し。防御を捨てたペレアスはヘラクレスの攻撃と同時に剣を振るい、ひとつまたひとつと傷を重ねる。

 さらには、

 

teiwaz(テイワズ)sowelu(ソウェイル)inguz(イングズ)nauthiz(ナウシズ)! ダンテ、おまえも支援ならできんだろ!!」

「詩を作るときはまったり考えるのが好きなのですが……そんな贅沢も言っていられませんね!」

 

 ノアのルーン魔術と、ダンテの詩による強化。それらを一身に受けたペレアスは地が震えるほどの踏み込みで、ヘラクレスの左腕を切断する。

 鮮血が辺りを染める。腕を失い、体勢を崩したその時、アステリオスの拳が鳩尾を抉った。

 追い詰められるヘラクレスを見て、イアソンは哮り立つ。

 

「ヘラクレス! なんだそのザマは!!? 全ての英雄の頂点に立つお前が、そこらの凡俗に殺られるようでどうする! あの技を使えば一網打尽にできるだろう!?」

 

 正気を失ったヘラクレスに語りかけるその姿は、ともすれば滑稽にも映ったかもしれない。

 ギリシャ神話の主神であるゼウスの妃、ヘラに狂気を吹き込まれたヘラクレスは妻と子を手にかけてしまう。彼にとって狂気とは女神の呪いであり、愛した人をも殺してしまうほどに抗い難いものだった。

 ヘラクレスほどバーサーカーに相応しい戦士はいない。拭い去れない呪いこそが今の彼に残ったものだとしたら、友の言葉は果たして届き得るのか。

 ───否、愚問だ。

 師を殺し、妻を殺し、子を殺した。

 栄光の大英雄と言うにはあまりにも血塗られた罪。

 それでも。

 だとしても。

 友の求めに応えられぬ男になったつもりはない───!!

 

「■■■■■■■──ッッ!!!」

 

 体の芯に響く痛み。

 今や両手で剣を握ることもできない。

 しかし、全てが些事。

 武技を振るう障害にすらならない。

 体に染み付いた技の全て。女神の狂気はしかして、それを塗り潰すことはできなかった。

 音もなく、その宝具は解き放たれる。

 

「がっ……は…!?」

 

 どさり、とペレアスは膝をついた。

 全身に強烈な痛みが走る。

 体の至る箇所に切創が刻まれ、左脇腹の肉はごっそりと吹き飛ばされていた。

 理解が追いつかない。

 彼が持ち得る全感覚、全神経を以ってしても、その剣戟の一端すら把握することができない。

 いっそ、魔法の類と説明された方が納得がいくまでに、その剣技は超常じみていた。

 ペレアスの宝具はあくまで致命傷を避けるのみ。それが絶対的に死をもたらすものであれば当たることはないが、致命傷に至らず、かつ彼が捌けない攻撃だけは命中してしまう。

 必然、運命という概念を超越する宝具でなければ彼を殺すことはできないが、怪我による行動不能に追い込むことは可能なのだ。

 ヘラクレスが擁する最強の宝具『射殺す百頭(ナインライブズ)』。

 その正体は瞬時に繰り出された九連撃。無限に首を再生する怪物ですら殺し尽くす、究極の技であった。

 血に染まり、霞む視界でペレアスは辺りを見回す。

 全身に傷を負ったアステリオスは木の幹にもたれかかって、ぴくりとも動かない。それは後方に控えていたノアとダンテも同じ。傷は比較的軽いが、ヘラクレスの斬撃は確かに届いていた。

 立っている仲間はただひとり。肩口から左腕を断たれ、満身創痍と化したコロンブスだけだ。

 その圧倒的な暴威を一望し、イアソンは頷く。

 

「それでいい。これがあるべき姿で、順当な結果だ」

 

 ぎちり、と口角が歪む。

 

「後はダビデを殺して聖櫃を手に入れる。大いなる力に辿り着く準備が整う……そうだろう?」

「……ええ、史上どんな英雄や神も叶えられなかった完全なる無敵。イアソン様はその存在になるのです」

 

 コロンブスの耳が僅かに動き、彼は口を開く。

 

「───聞き捨てならねえな」

 

 咎めるような言葉。イアソンは冷たい笑みで、

 

「ああ、まだ生きていたのか、お前。オレの慈悲に免じて、冥土の土産に訊いてや──」

「聖櫃は俺のお宝に決まってんだろうが! 挙げ句の果てに無敵の力だと!? ハッ、これほど唆られるもんはねえ! テメエには勿体なさ過ぎる代物だぜ、イアソン!!」

 

 相手の言葉など耳に入れず、コロンブスは欲望のままに吐き捨てた。

 反論をさせる間も与えずに、彼は言い続ける。

 

「よーし決めた! お前らをぶっ殺した後、ダビデの野郎もぶっ飛ばして俺が聖櫃を奪い取る!! どうだペレアス、手伝うならおこぼれに預からせてやっても良いぜ!!?」

「…………ふ、ざけろ。お前にそんな力持たせたら、世界滅亡一直線だろうが」

 

 ペレアスは歯を食いしばり、足に力を入れる。剣を杖代わりに立とうともがく中、背後から聞き慣れた声が飛んできた。

 

「おい、俺抜きで話を進めてんじゃねえ。無敵の力なんて俺が欲しいに決まってんだろうがァァァ!! とっくの昔に好き勝手やって死んだ連中が欲張んな、ここは前途ある超天才最強マスターの俺に任せとけ!!!」

 

 驚くほど傲岸不遜に吼えてみせたのは、ノアだった。左肩から右脇腹にかけて深い傷が横断しており、身に纏う礼装も袈裟に刻まれている。

 恐るべき早さで立ち上がってみせたノアを、イアソンは信じられないようなものを見る目つきで睨んだ。

 

「その傷でなぜ立てる。……いや、血が流れていないのはどういうことだ」

 

 ノアは右手で服を裂いて、傷口を露わにする。

 白い素肌を無残に蹂躙する裂傷を植物の根が縫合し、奥に覗く筋肉や骨も極細の植物繊維が繋ぎ止めていた。

 彼は側頭部に親指をあてがう。

 

「生憎、こういう体だ。生命維持に血液を必要としないから、斬られたくらいじゃ死なねえ。頭を潰すのが一番手っ取り早く殺せる。……さしものヘラクレスもそこまでは見抜けなかったようだな」

 

 ノアの右腕を黄金の根が這う。木の板を割るような音を響かせ、掌中でその根は一本の短槍へと変化する。

 彼はそれをペレアスの眼前に放ると、挑発するような語気で言う。その目はメディアに向けられていた。

 

「そこの女に倣って、俺も薀蓄を語らせてもらう。神殺しのヤドリギの形状には諸説ある。矢か槍か、はたまた剣か。それは槍のミストルティンだ。ペレアス、おまえにそれを預ける。──いつまでもしゃがんでねえで、さっさと立ちやがれ」

 

 額に青筋が浮かぶのと同時、ペレアスは力強く立ち上がった。地面に刺さった短槍を引き抜き、曲芸のように回す。

 

「これが剣だったら文句はなかったんだけどな。在庫切れか?」

「そっちはまだ開発中だ。それで我慢しろ」

 

 ペレアスとコロンブスは並び立つ。

 挑むは生前の武技を取り戻したヘラクレス。

 ───敗ける道理などない。

 イアソンは、高らかに命じた。

 

「そいつらを殺せ、ヘラクレス!!」

「■■■■■■■……ッ!!!」

 

 狂戦士の咆哮が轟く最中、コロンブスはペレアスだけに聞こえる声量で囁く。

 それに対する返答は一言で足りた。

 

「任せろ」

 

 地を蹴り、吶喊する。

 もはや余計な駆け引きはいらない。

 時の流れが遅くなる。体を巡る痛みも忘れ、ただただ戦うことのみに没頭する。

 ヘラクレスの剣は今までのそれとは隔絶している。力任せに振り回すだけでも脅威であったというのに、技が加われば鬼に金棒どころの話ではない。

 対抗しようと考えることすら烏滸がましい。それほどの域。

 ヘラクレスが選んだのは、恐るべき速さの突き。二人を相手取るよりも、ひとりを確実に殺す。

 その矛先が向いたことも知覚できない。コロンブスの心臓を、巨岩のような斧剣が貫いた。

 血の華が鮮烈に咲き誇る。

 己の胸を刺し貫かれながら、彼は歪な笑みを顔面に貼り付けた。

 

「『新天地探索航(サンタマリア・ドロップアンカー)』!!」

 

 幾多もの鎖がヘラクレスを縛る。

 〝俺が奴を止める。お前が決めろ〟───それが、コロンブスが囁いた内容だった。

 ペレアスは一層強く槍を握り締め、倒れ込むように突き刺す。

 

「『神約・終世の聖枝(ミストルティン)』────!!」

 

 崩れ落ちる大英雄。

 騎士はそれに目もくれず、流れるように横を通り抜ける。

 少女が持つ死と再生の杖。それを破壊するために。

 腰の入っていない不格好な一振り。杖の半分から上を切り飛ばし、代わりとばかりに紫色の燐光が叩きつけられる。

 幼いが故に扱い慣れていない攻撃魔術。それでも、ペレアスの進路を妨害するには十分過ぎた。

 メディアは直ぐに判断を下す。

 

「イアソン様、ここは一時撤退を。アタランテを呼び戻しますので指揮を」

「……俺は信じない。あいつがやられるなんて、ありえるはずが…………」

 

 呆けたように呟くイアソン。少女の瞳は暗く冷たく落ち込み、思考を巡らせた。

 

(……いっそ、ここで魔神柱に変えてしまいましょうか。いや、相手の警戒が高まりすぎている。変身中に不死殺しのヤドリギを撃たれたらひとたまりもないでしょう)

 

 それに、と彼女は続ける。

 

(ここを凌げば、まだ逆転の目はあります。誰も知らない、私だけの……私だからこそ叶う奥の手)

 

 どちらにしろ、動ける敵は手負いの騎士のみ。逃げることは容易い。そんな逡巡の過程を見抜くように、ノアは告げた。

 

「行けよ。おまえが使った魔術なら現代にも伝わってる。少なくとも、今の俺たちに捕まえられるほどじゃないのは確かだろ」

「獲物を目の前で逃がすような人には見えませんが?」

「逃がすってのは違うな。俺にはおまえがどんな手を使って攻めて来ようが、返り討ちにする自信があるだけだ。だから絶対に戻ってこい。その時に決着をつけてやるよ」

 

 その自信はどこから来るのか。メディアは暫時頭を回し、くすりと笑う。

 

「……藤丸(ふじまる)立香(りつか)さん、ですか。随分と信頼しているんですね、彼女のことを」

「あいつをどこで知ったのかは訊かないでおいてやる。俺には俺の用事があんだよ、さっさと行け」

「はい、ではその通りに」

 

 そう言って、メディアはイアソンを引き連れて去った。別の場所にいるアタランテも、きっと立ち去ることだろう。

 ノアは切断されたカドゥケウスの上半分を拾うと、霊核を貫かれたコロンブスの前に屈んだ。

 

「死なせねえぞ、コロンブス。再生の杖の半分はここに残ってて、幸い俺は天才だ。おまえを治すくらいはできる。おまえの船が無くなったら何かと不便だ。俺の足としてしっかり生き延びろ」

「……は、どこまでも憎たらしい小僧だ。ああ、くそ、他人にでけえ借りを作るのは性に合わねえんだよ」

「そうか、じゃあ治すのはやめておく」

「───ハァ!!!??」

 

 コロンブスは死の間際にありながら、自分でも驚くほどの声量で叫んだ。

 

「ふざけんな待ちやがれェェェ!! ここは軽口叩きながら治療する場面だろうが! 散々お膳立てしておいて死なせるようなマネすんじゃねェ!! 物語の筋ってのをわきまえろ!!」

「おいおい、助けられる態度がなってねえなァ!! おまえの(タマ)を握ってるのは俺だ! それが分かったら精々命乞いでもしてみやがれ!!」

「うおおおおおおアホかお前は!!? 消える消える、コロンブスの(タマ)が消えるゥゥゥ!! コロンブスの卵だけに……とか言ってる場合じゃねええええ!!」

 

 そうして、なんだかんだで彼は助かったのだった。その一部始終を朦朧とする意識で眺めていたダンテは、アステリオスとペレアスの代わりに発言する。

 

「あの〜、私たちの怪我も治してもらえると助かるんですが……」

「唾でも付けとけ」

「つばをつければ、なおるのか? やってみる」

 

 ずい、とアステリオスはダンテの傷口に顔を寄せた。

 

「イヤアアアアア待ってくださいアステリオスさん! それは誰得な絵面になってしまいますから!! ノアさんの言うことを真に受けてたら駄目ですよ! ペレアスさん、なんとか言ってください!」

「オレはもうとにかく寝てえんだよ、大声出すな。ギットギトのフィッシュアンドチップス口にねじ込むぞ」

「イギリスが誇るマズメシじゃないですか。絶対に嫌なんですが!」

 

 そして、ついに寝れないことに業を煮やしたペレアスが暴れ出すのに時間は掛からなかった。その後、輪に入れずに体育座りしていたダビデが発見されたのは一時間経過してからのことだったという。



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第27話 ヘルメスの系譜、魔女の饗宴

「黒髭の旦那。アンタにゃ悪いがここまでだ。聖杯は返してもらう」

 

 霧に包まれた海上。

 アルテミスが起動したトライデントによって、アトランティスの廃墟で構成されていた島は崩壊した。さすがに古代文明の遺都といえど、海神の一撃には耐えられなかったようだ。

 黒髭とヘクトールは何とか一命を取り留めたものの船を失い、仲間とはぐれ、島の残骸を利用して漂流している状況だった。

 その残骸の上。鋼鉄の瓦礫を踏みしめ、彼らは対峙していた。ヘクトールは自らの槍を取り出すと、黒髭の胸へと突きつける。

 黒髭はその切っ先を見つめる。

 生前、武器を向けられてきたことは数え切れない。刃物にせよ銃器にせよ、そこには扱う者の恐怖や殺意といった感情がありありと見てとれた。

 だが、自分自身の心臓を狙っている穂先には、あまりにもそれがない。

 殺気がないから、いつ攻撃が来るか読むこともできない。あくまで飄々と振る舞うヘクトールを見て、黒髭はほくそ笑む。

 

「ようやく尻尾を出しやがったな。お前の企みに、この名探偵黒髭が気付いてないとでも思ったか?」

「……流石は海賊船の船長。人を見る目は確かって訳か。そう、俺はアルゴー号の───」

「エウリュアレたんのことをチラチラ見やがって!! 前から狙ってたことは察してんだ、お前には絶対渡さねえ! 同担拒否!!」

 

 ヘクトールはぽかんと口を開けて、先日の戦いを思い返す。

 

〝黒髭の旦那、俺はどうする。アンタがご執心の女神様を捕まえてみせようか〟

〝そうですな、ヘクトール先生のご随意のままに───〟

 

 そう、あの時、黒髭は一瞬の逡巡を経て、

 

〝──いえ、先生は拙者と一緒にトライデントへ。あらゆる創作作品で単独行動は第一級の死亡フラグですからな!〟

 

 ヘクトールに同行を求めてきたのだった。

 アルゴー号に雇われている身である彼にとって、エウリュアレの捕縛は重要な意味を持っている。

 神霊を聖櫃に捧げた者は大いなる力を得られる──はっきり言って胡散臭いことこの上ないが、イアソンの言には結局逆らわなかった。

 そのために黒髭に聖杯まで与えたものの、エウリュアレを捕まえる機会を逃し続けてきた。一度目はアステリオスの奮闘によって、二度目は黒髭の命令によって。

 それを見越した上で行ったのなら慧眼と言う他ないが、諧謔を含めた黒髭の言い草からはその真意を見極めることは困難だ。

 ヘクトールは槍を引き戻し、口角を上げた。

 

「あんたも中々の策士だな。それだけ強かなら、俺たちの時代でもやっていけただろうよ」

「男に褒められても嬉しくねえよ!」

 

 金属音が炸裂する。

 黒髭が手にした鉤爪とヘクトールの槍。それらが衝突し、深い霧の中に無数火花が散った。

 一合、二合と重ねる度に、ねずみ色の残骸が深い赤に染まっていく。

 勝負を分けたのは、両者の本領。ヘクトールは類稀な軍略を有する将軍だが、その根底にあるのは戦士としての武芸だ。一方、黒髭は自らに従う者がいてこそ真価を発揮する。

 無論、彼とて単騎でも並大抵の敵に負けることはない。

 しかし。

 今日、この日の相手ばかりは。

 抉るように放たれた一刺しが、黒髭の右手を文字通り吹き飛ばす。

 露出する骨と肉。耐え難い痛みに眉を凝らすこともなく、彼の体は生存本能に従って動いた。

 次撃、サーヴァントの急所である霊核──即座に左腕を胸の前にかざし、

 

「言った通り、聖杯は貰っていくぜ」

 

 その防御ごと、ヘクトールの槍は袈裟に薙ぎ払った。

 聖杯が現出し、彼はそれを懐に納める。たとえ勝負が決まろうと、油断はしない。視線の先には、おびただしいほどに血を垂れ流しながら項垂れる黒髭の姿。足は頼りなく、倒れ込むように後ずさる。

 戦闘の余波によって不安定な足場はさらに均衡を失い、黒髭の足元には深い亀裂が入っていた。

 

「俺を殺しても第二第三の黒髭がお前を狙う! 海の底からでも蘇ってやらァ!!」

 

 ぐらり、その体から力が抜け、海へ落下する。

 同時にいくつかの瓦礫が崩れ、海中に沈んでいく。

 濃紺の水面にいくつもの泡が生まれては消え、そしてついに波にかき消される。そこまでを見届けて、ヘクトールは独りごちた。

 

「生き返った奴なんて生まれてこの方ひとりも見たことないんだがね、オジサンは。……さて、ひと泳ぎしますか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───夢を見る。

 朝起きて、まず確認すること。

 鏡の前に立って、口元を緩める。

 いま、私はちゃんと笑えているだろうか?

 そんなことを自分に問う時点で、答えは分かりきっていた。後ろ髪を引かれるような思いで、けれどその感情をルーチンワークで押し潰す。

 歯を磨いて、髪の手入れをして、カルデアから支給された服に着替える。後はいつも通り食堂に行って、みんなと顔を合わせればそんな感情は吹き飛ぶはずだった。

 見慣れた廊下を歩く。一歩二歩と進むうちに、視界が涙で霞んでいた。思わず壁にもたれかかり、袖で水滴を拭う。

 

〝…………あれ?〟

 

 そこからはもう、とめどがなかった。

 管制室が炎に包まれ、冬木の特異点に飛ばされて、他のことを考える余裕なんてなかった。それでも、この瞬間、忘れていたはずの恐怖が蘇ったのだ。

 伝説の騎士王との戦い。

 勝てる保証なんてどこにもなかった。

 今こうして生きているのは、マシュとペレアスの二人が死力を尽くしたからこそだ。

 命を懸けて戦うということ。心臓を冷たい手で鷲掴みにされるようなあの空気が、いつまでもへばり付いて離れない。

 あれを、あと何度繰り返せば良いのか。

 そう思うと足が竦んで、動くことができなかった。

 その時、前から足音が響いた。咄嗟に顔を上げると、そこには右手に酒瓶を握ったリーダーがいた。無言で近づく彼から顔を背けるように、私は笑ってみせる。

 

〝リーダー、こんな朝からお酒ですか? ダメ人間が加速しますよ〟

 

 我ながらぎこちない笑顔だと思った。

 たぶん目元は腫れているし、声だって震えている。

 リーダーはそんな私に不敵な笑みを向けて、

 

藤丸(ふじまる)、────〟

 

 ……そう、リーダーが言ったのは───

 

「昼に起きた時の罪悪感と裏腹にある清々しい気持ちって何なんだろうね」

「……立香(りつか)。アンタまだ寝ぼけてるでしょ」

「わたしは先輩に共感します。貴重な時間を無為にした絶望感がボディブローのように効いてくるのが、何とも言い難い快感を……」

「アホなの?」

 

 ざざざ、と水面を切って進む音が耳に届く。その速度は帆船が得られるものではなく、さながら現代の高速ボートじみている。

 目指す先は、ノアたちが滞在しているという島。彼らは立香たちと合流するため、アルゴノーツと交戦した島からは移動していた。

 立香たち、カルデア三人娘は団子のように並んで海の向こうを眺めていた。まるで、背後の何かから目を逸らすように。

 

「さあ、行きなさいダーリンと私の『愛の逃避行丸』!! 流れ星よりも雷霆よりも速く!!」

「うーんこのネーミングセンス。これならタイタニック号の方がマシだと思う今日この頃のオリオンなのだった」

「『なぜナレーション口調……?』」

 

 ロマンの疑問はごうごうと吹く海風にさらわれていった。

 アルテミスとオリオンが駆る愛の逃避行丸は、アトランティスの残骸を組み換えた巨大な高速船であった。その外観は動く島そのもの。立香たちが最初に訪れた時より、島の大きさは半分以下ほどに縮小されているが、それでも圧倒的な威容には間違いない。

 ドレイクの船も陸地に引き上げられ、愛の逃避行丸にタダ乗りする形になっている。

 容赦なくトライデントをぶっ放してきたアルテミスであるが、意外にも協力を申し出てきたのは彼女だったという。

 立香が気を失った後、ドレイクとエウリュアレは戦闘を覚悟で三叉の塔へと向かった。そこで彼女たちが見たのは、クマのぬいぐるみがアルテミスを叱っている場面だった。

 オリオン曰く、いきなり神器を撃つやつがあるかという至極真っ当な正論によって、アルテミスは考えを改めたのだとか。

 いきなりでなくとも、あんなものを使わないでほしいと立香は思ったが、なんとか自分を納得させた。ジャンヌは不満な様子だが。

 立香はちらりと後ろに視線を投げかける。

 島の遠方には、相変わらず異様な雰囲気を放つ三叉の塔があった。淡く輝いていた表面からは光が失われているが、その存在感は色褪せない。

 かつて海神が手繰った槍と言えば聞こえは良いが、立香たちにとってはトラウマでしかない。海を眺めるのも、それをできる限り視界に入れないためであった。

 海風を受けるアルテミスに、立香は質問する。

 

「あの、トライデントはもう動かないんですか?」

「うん。元々アトランティス崩壊のせいで傷ついてたのか、前の一撃で砲身が焼け付いちゃったみたい。直せないこともないけど……」

 

 口ごもるアルテミスに代わって、オリオンが言葉を引き継ぐ。

 

「アレを直すにはテオス・クリロノミアってのが必要でな。この島にも幾らか在庫はあったんだが、トライデントが全部吹き飛ばしちまった。ま、諦めた方が賢明だな」

「どこかに漂流してる可能性もあるよ?」

「どうやって見つけんだよ。元はといえばお前のせいだし」

「うーん、そう簡単に事は運ばないってことですか」

 

 立香は僅かにその表情を曇らせる。彼女の顔を覗き込むように、ドレイクがやってきた。

 

「どうしたんだい、シケた面して。そんなんじゃあせっかくの美人が台無しじゃないか」

「あはは、ありがとうございますドレイクさん。でも、不思議じゃないですか? いくら特異点でも、あんなものがあるなんて」

「特異点つっても、ここはアタシたちの時代だろ? ポセイドンもアトランティスもトライデントも、元々この時代に存在してたってことじゃないかい?」

「ああ、確かに……」

 

 納得しかけた立香を止めたのは、ロマンの発言だった。

 

「『アトランティス絡みのことはそれで説明はつくかもしれないけど、立香くんの疑問もあながち間違いじゃない』」

「どういうことですか、ドクター?」

 

 聞き返すマシュに彼は頷く。

 

「『ノアくんが戦ったアルゴノーツのメディアは、明らかに真名とは関係のないヘルメス神の杖を持っていたんだ』」

 

 それに、と付け加えて、

 

「『これは後からアステリオスくんに聞いた話だけど、君たちが戦ったヘクトールはアリアドネの糸を所有していたらしい。これも先の例に当てはまるね。つまり、彼らはどこからかそれらの宝具を入手したと考えるのが妥当だろう』」

「杖と糸はこの時代にあった、なんてオチじゃないでしょうね?」

「『もちろん。ラプラスを使っても、この時代にヘルメス神の杖とアリアドネの糸が残っていたという情報はなかった。トライデントはともかく、杖と糸は特異点発生に際して出現したものと見るべきだ』」

「それで、その原因は分かったんですか?」

 

 何の気無しに発された立香の質問を受け、ロマンは動揺した顔で口ごもる。

 

「『え、えーと、その件に関しては可及的速やかに対処させていただく方針をわたくしどもで立てている最中でして……』」

「急に胡散臭くなったわね」

「調査に進展がなさそうですね」

「私たちにできることなんて、いつか敵にネタばらしされて驚くくらいだしね」

「『うん、立香くん、その発言はあまりにも問題だからやめようか』」

 

 カルデア三人娘にバッサリと斬り捨てられ、ロマンの体力は一瞬にして無に帰した。

 マシュは言う。

 

「そういえば、エウリュアレさんは何処に?」

「ああ、それなら……」

 

 立香が視線で指し示した先には、体育座りで項垂れるエウリュアレの姿があった。

 暗い瘴気すら幻視してしまうその光景を見て、立香たちはひそひそと話し出す。

 

「何をあんなに落ち込むことがあるんでしょう。アステリオスさんも生きていたという報告がリーダーからありましたし」

「ヘクトールをまんまと逃がしたからじゃないの。仇だと思ってたんでしょう?」

「いや、あれは恋する乙女の憂鬱だよ! 想い人にどう接すれば良いのか分からない……そんなラブコメの波動を感じる!」

「ラブコメの波動とは真逆の空気を放っている気がするのですが!?」

 

 エウリュアレはぼそりと呟く。

 

「……ない」

 

 三人はその声に耳をそばだてる。

 

「出番が少ない……」

「「「…………」」」

 

 女神エウリュアレの思わぬ闇の側面に触れた三人は、いたたまれない表情で顔を合わせた。

 

「き、聞かなかったことにしようか。嫌な深淵を覗いた気がする……」

「そ、そうね。聞き耳を立てるのはいけないと旧約聖書にもありますもの」

「もうすぐリーダーとの合流地点ですし、気を取り直していきましょう」

 

 マシュがなんとか締めくくると、それを見計らったかのように甲高い声が響く。

 その声の主であるアルテミスはノアとの合流地点である島を指差していた。それに釣られて、その場の全員が指差す方向に目を向ける。

 草木一本生えていない荒れ野の孤島。その上空にはドス黒い雲が立ち込め、時折雷が降り注ぐ。地上に見える町はもうもうと立ち上がる黒煙を吹き上げていた。

 

「ふふ、あそこが私たちの新しい愛の巣になるのね!」

「どこが愛の巣!? どこからどう見ても不穏な予感しかしないんですけど! 不穏という字が褌巻いて仁王立ちしてるんだけど!!」

「物理的に暗雲が立ち込めているのですが、本当にこの座標で合ってるんですかドクター」

「『計器に狂いはないし、残念ながらあの島で間違いなさそうだ。まあ、そのなんだ、頑張れ!』」

「帰還したら一発殴ります」

 

 ロマンがマシュから恐怖の宣告を受けた後、愛の逃避行丸は島に接岸した。傍から見た様子では島が島に体当たりするようにしか見えなかったが、そこは女神のご愛嬌であろう。

 舟を後にして、ざらついた地面を踏みしめる。揺れることのない足元は、それだけでも有り難いものだった。

 嗅覚を刺激する土の匂いも、海上では得難い感覚である。久しぶりの地上を堪能しながら、一行は海上から見えた町を目指すことにした。

 その最中、ドレイクは遠くの町を見つめながら訊く。

 

「ところで、アンタらのリーダーってのはどんな男なんだい?」

 

 問われ、カルデア三人娘は顔を見合わせる。最初に口を開いたのはマシュだった。

 

「一言で表すとアホですね」

「あら、クズって情報を付け加えるのを忘れてるわよ?」

「色々と救いようのない人なのは確かだよね」

「なるほど、とりあえず信頼されてないのは分かった」

 

 でも、と立香は補足する。

 

「何だかんだ決めるところは決めますよ。セーフとアウトの間を反復横跳びしてる人ですから」

 

 そうして、一行は町の入り口まで辿り着く。あたかも西部劇に出てくるような寂れた町並みであり、通りを闊歩する人間も中々に人相が悪い。

 奥へ進むと次第に人だかりが見えてくる。やがて円形の広場に到達すると、燃え盛る燭台を両脇に配置した玉座が中央に鎮座していた。

 すると、豪奢な外套を纏ったノアがどこからともなく現れ、玉座に腰を落ち着ける。

 

「アルゴノーツとの決戦は間近だ。それまでにこの島の防備を整える必要がある。そのために貴様ら愚民どもにはこの俺、世紀末魔王ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド三世に命を捧げてもらう! まずは手始めに近隣の島を略奪する!! ケツの毛一本残っ──」

「アウトォォォォォ!!!」

 

 瞬間、立香の飛び蹴りがノアの顔面に突き刺さった。

 彼は玉座ごと後方に倒れ込んだ体を起こす。ボタボタと血を流す鼻を手で押さえながら、何でもないように言う。

 

「おいおい、久しぶりの挨拶がそれか藤丸。もっとリーダーを敬いやがれ。リーダーだってなぁ、他のメンバーが仕事してる間、D○SH島で遊んでるだけじゃねえんだぞ」

「それ別のリーダーですよね。あれは島で遊んでるんじゃなくて、ちゃんとした仕事の一環ですからね。そもそも世紀末なんたらってどういうことですか」

「勝手に縮めんな。世紀末魔王ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド三世だ。世紀末魔王ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド三世は、世紀末魔王ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド三世以外の何者でも無いんだよ」

「あからさまな文字数稼ぎやめてください」

 

 そんな愚にもつかない問答を繰り返していると、

 

「我らが魔王! 大丈夫ですかァァ!」

 

 顔面を白塗りにしたヘビメタバンド風の厳つい服装の男が駆けつけてくる。その風体を目の当たりにして、立香はぽつりと言葉を洩らした。

 

「……デ○モン閣下?」

「閣下じゃねえ、ダンテだ」

 

 ノアの一言に、立香は目を丸くする。

 

「どんな悪魔合体をしたらこんなのになるんですか!? 一人称絶対我輩ですよね! 世紀末っていうか聖飢魔IIですよね!?」

「落ち着け藤丸。これはダンテ自身が望んで俺の魔改造を受けたんだ」

「犯人はしっかりリーダーじゃないですか。地獄から命からがら生還したダンテさんが、地獄の使者になる経緯が分からないんですけど」

 

 立香の疑念を受け、ダンテは語り出した。

 

「……我輩、先日アルゴノーツと戦ったんですが、宝具使う以外ほぼ何もしてなくね? って思ったんですよね」

「前の特異点からそうだったと思いますよ」

「それです! 分かりますか、他の皆さんが頑張ってる時に突っ立ってるだけの疎外感が! 最近は〝ダンテいらなくね?〟〝二人目のサーヴァント、ダ・ヴィンチちゃんで良かったんじゃね?〟などという声が頭の中に……!! だからこそ魔改造を受けて近接戦闘もこなせるようになったのです!!」

「相変わらず筋力耐久敏捷全部Eランクなんですけど!?」

「す、ステータスなど飾り!! 大事なのはスキルと宝具です! これで我輩は全サーヴァントの頂点に登り詰めっ」

 

 ダンテの言葉を遮るように、彼の額に矢が直撃する。

 その体がどさりと後ろに倒れ、動かなくなるのを見届けるとオリオンは叫んだ。

 

「あっ、アルテミスゥゥゥ!! なにやってくれてんの!? お前っ、これ、閣下が死んじゃったよ! 地獄に逆戻りしちゃったよ! 10万58年の歴史に終止符が打たれちゃったよ!!?」

「うーん、お話が長いなって」

「ノリが軽すぎるだろ! そんなだからアポロンに唆されるんだよ!」

 

 と、気炎をあげるオリオンの首根っこを、ノアが鷲掴みにする。

 

「おい、なんだこのクマは。ウチのマスコットキャラクターはあの謎生物だけで十分だろ」

「コンビにした方が良さそうじゃないですか? ムックとガチャピンみたいに」

「待って、マスコットキャラクターにされるのは構わないけど、俺はガチャピンだよね!? まさか赤い方じゃないよね!?」

「安心しろオリオン(ムック)、悪いようにはしねえ。俺たちの尊い犠牲となれ」

「ルビがムックになってるよォォォ!!」

 

 オリオンの悲痛な叫び声が町を超えて島中に響き渡る。上空に堆積する黒雲は、彼の運命を示唆しているかのようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……という訳でだな、俺たちも何か新しいことをするべきだろ。具体的には金に繋がることがしたい」

「何がという訳なんですか。お金の前に全く話が繋がってないですよ」

 

 アトランティスの残骸改め、愛の逃避行丸。

 結局、一行はあの島を後にして愛の逃避行丸を根城とすることになった。世紀末魔王の野望はむなしくも打ち砕かれたのである。

 トライデントのほど近くに建てられた小屋の中で、ノアと立香はロマンとともに今後の計画を練っていた。が、ノアの急な戯言によってそれは中止されたのだった。

 いつものことながら、ロマンはため息をついて、

 

「『あの、作戦を立てたりとかは……』」

「何言ってんだ、これだけ戦力があって負ける訳ねえだろ。何より俺がいるしな。勝った勝った、負ける未来が見えねえよ」

「『ま、慢心がすぎる……!!』」

 

 どこぞの英雄王ばりの慢心を披露したノア。唐突に小屋の扉が開け放たれ、そこからコロンブスとドレイクが現れた。彼らの間には捕獲された宇宙人のようにダンテが運ばれている。

 

「「話は聞かせてもらった!!」」

「くっ、また茶番が始まってしまう……!

Eチームのシリアス担当である私がなんとかしないと!」

「『立香くん、どの口が言ってるのかな?』」

 

 コロンブスは一枚の企画書をノアと立香の眼前に叩きつける。彼は下卑た笑みを浮かべて、話を切り出した。

 

「金儲けの話なら俺たちに任せろ! これは絶対に売れるぜ!?」

「勿体ぶらずに教えろよ。商談は即断即決が基本だろ」

「その通りだ。言ってやれ姐ちゃん!」

 

 コロンブスにバトンを渡され、ドレイクは自信満々に言い切る。

 

「アタシらが売り出すのは史上類を見ないゲームアプリ───未確認生物を擬人化した、その名も『UMA(ユーマ)娘』だ!!」

「いや、それウマむす……」

「「UMA娘!!」」

「それじゃあ私、アグネスタキオン育ててくるんで」

「待て待て待て! 立香、これは絶対売れるから! 大ヒット間違いなしだから!!」

 

 ドレイクは退席しようとする立香にしがみつく。彼女は企画書を破れんばかりに広げながら、熱弁を振るう。

 

「シナリオライターはダンテ・アリギエーリで、イラストレーターはレオナルド・ダ・ヴィンチ! どうだい、このルネサンス期の二大偉人がタッグを組んだ作品は! 売れる予感しかしないじゃないか!」

「そう言われても、ダンテさんの『神曲』とか割とグロいし、ダ・ヴィンチちゃんは絵の中に暗号とか仕込んできますよね。意味不明な前衛芸術に仕上がりそうなんですけど」

「美味いもんに美味いもん混ぜたらもっと美味くなると思うなよ。おまえらのやってることはラーメンにカレーぶち込んでるのと一緒だからな」

「『その前に意見が衝突して永遠に完成しなさそうだ。ダンテさんは饗宴と俗語論を書き上げてないし、ダ・ヴィンチちゃんはシナリオに口出ししてきそう』」

 

 三人からの反発をくらい、コロンブスとドレイクはうろたえる。いくら人材を揃えたとしても、良いものができるとは限らないのだ。

 すると、アステリオスを伴ったエウリュアレが、儲け話を提案してきた二人を押し退ける。

 

「やっぱりここは女神(アイドル)たる私の美しさと可愛らしさを全面に押し出した──」

「私、アイドルはエリザベートさんでうんざりなんで……」

「なんでよ!?」

「おまえに出番はやらん。次、入ってこい」

 

 ノアに促され、続けて入ってきたのはダビデとオリオン&アルテミスだった。

 

「僕の子孫のとある救世主くんを題材に、十二使徒を全員女体化して攻略していくギャルゲーを開発してみたよ」

「しかも全年齢版とD○M版でイベントが変わるおまけつき! ゼウスも購入待ったなしの大作になるぜ!」

「宗教的に大丈夫なんですか、それ」

「アウトな要素しかねえだろ」

「『ムニエルです。とりあえずユダちゃんはヤンデレだと良いと思いました』」

「『ダビデさんが開発者な時点で聖遺物化不可避だよね。ボクはあまり惹かれないかな』」

 

 一通り英霊たちの話を聞いてから、立香は気付く。

 

「そういえば、さっきからペレアスさんの姿が見えませんね。マシュとジャンヌもどこかに行っちゃったみたいですし」

 

 アルテミスは顎に人差し指を当てながら答える。

 

「逢い引きとかじゃない?」

「お前はなんでも色恋に結びつけるな。恋愛脳め」

「ペレアスさんは既婚者な上に、隙あらば惚気話する人ですからね。流石に無いと思います。……ハッ! もしかしてマシュとジャンヌの掛け算!? 信じて送り出した後輩が魔女に……!!?」

「藤丸、おまえはアホだ」

 

 ごす、とノアの手刀が立香の頭頂を軽く打つ。

 立香の妄想が加速する前に、件の三人が姿を現す。ジャンヌは数十頁ほどで構成された冊子を山積みにして持ってきていた。

 

「ペレアスさんの証言を元に、アーサー王の歴史をゆるく纏めた漫画を描いてみました。題名は『騎士サーの王』です」

「騎士サーの王言いたかっただけだろ」

「ちょっと面白そうなのが狙いに来てる感を醸し出してる」

「『円卓の騎士ってサークル扱いして良いのかな。もしかしてサークルと円卓をかけてる?』」

「現代で知られる分には良いと思うけどな。ついでにオレの知名度が上がれば他に文句無しだ」

 

 勧められるままに、山積みになった冊子が上から取られていく。静寂の中、ペラペラと紙をめくる音だけが鳴っていた。

 アステリオスは仏頂面で言う。

 

「はだかが、おおい」

「確かに……特にランスロット卿とガウェイン卿の絡みが多いね。本当にペレアスさんの言う通りに描いたの?」

「あ、あああ当たり前じゃない立香! 私は互いに信頼し合いながらも、最期は剣を交えるしかなかった二人の非業の運命を描いただけよ!! そうでしょう、ペレアス!?」

「こんな裸のやり取りを書けと言った覚えはないんだが!?」

 

 ノアは目を細めながら、

 

「〝ふふ……ガウェイン卿、昼の貴方はあんなにも雄々しいというのに、夜の貴方はまるで乙女のように愛らしい〟〝……くっ! 貴方のその瞳がいけないのです。湖の光が如き瞳が私を狂わせる……!!〟」

「朗読すんな!!」

「ジャンヌちゃん、これをオレはどんな顔して聞けば良いんだ。他人事なのに恥ずかしすぎるぞ」

「でも、ペレアスさんとガウェイン卿のやつもありますよ。〝ペレアス卿……今はエタードよりも貴方が欲しい〟みたいな感じで」

 

 立香から指摘をくらい、ペレアスは赤面した顔を両手で押さえながら、消え入るような声で言った。

 

「……ボツでお願いします」

「はぁ!? なんでアンタが勝手に決めてんのよ!」

「ジャンヌさん、これ以上足掻いても無駄です。大人しく観念してください」

 

 マシュとペレアスに説得され、ジャンヌは不満気に引き下がった。竜の魔女とはいえ、乙女の部分もしっかりと残っているのだ。

 そんなこんなで英霊たちによる新事業のプレゼンは全てが却下された。こうしてノアの暇潰しも終わり、対アルゴノーツの手はずが整えられることになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルゴー号、船上。

 満天の星を掻き消すように月が輝く夜。その場所は異様な空気に包まれていた。

 船首近くに祭壇が設けられ、むせ返りそうなほどの香料が炊かれる。燭台の光に照らされる祭壇の上には、先日ペレアスに斬り捨てられたカドゥケウスの片割れがある。

 メディアは自らの杖の先で、甲板に複雑な円の紋様を描く。魔術の素養がある者が見れば、それが英霊を召喚するためのものであることは容易に見抜くことができた。

 見守るのは三人。イアソンとアタランテ、そしてヘクトールである。

 いくつかの魔言が紡がれる。それだけで甲板に書き込まれた術式は起動し、眩いばかりの光が船を包んだ。

 

「……嘘だろ」

 

 それは、誰が発した言葉だったか。

 軽装の鎧を着込んだ緑髪の英雄。己が乗騎である三頭立ての戦車を侍らせ、青銅とトネリコの槍を握る。

 その威風ある立ち姿は、あのヘラクレスと比べてさえ引けを取らぬ圧倒的な武を感じさせた。

 ヘクトールは頭を抱えながら呟く。

 

「───アキレウス」

 

 トロイア戦争において、オデュッセウスと並ぶ最大の英雄。かつて一騎討ちを演じた仇敵を見て、彼は獣のように笑った。

 周囲をぐるりと見渡し、メディアに顔を向ける。

 

「……で、俺はこのおっさんと戦えばいいのか? 良いぜ、船上なら逃げ場もないだろうしな」

「いえ、私たちは共に肩を並べて戦う仲間です。その矛は敵に向けるべきでしょう」

「ほう。その敵ってのは?」

 

 そうして、メディアは説明した。

 敵はカルデア。聖櫃と女神を狙う間柄であり、イアソンに大いなる力を捧げるために戦っていることを。

 アキレウスは夜空を見上げ、端的に思う。

 

(胡散臭え)

 

 確かに無敵の力を得られるというのなら、惹かれる人間は数え切れないだろう。が、そんな話に用意されているオチは大抵二つ。

 ひとつはそれ自体が嘘であること。もうひとつは無敵の力を得たものの、陥穽を突かれて死ぬという結末だ。

 自分がそうであったように、そんな都合の良い話は存在しない。だから、アキレウスは猜疑心を抱くことしかできなかった。

 彼は極めて単純に、冷徹に、決断する。

 

(──殺すか。魔女に騙された男は数知れず。世界を救うくらいの大層な目的ならともかく、こんな茶番に付き合う義理はねえ)

 

 所詮は魔術師。この足にかかれば、殺すのに一秒もいらない。

 踵を引く。その瞬間、彼の体は石のように硬直した。メディアはくすりと笑い、普段と変わらぬ調子で言う。

 

「召喚術における最大の要素は契約。あなたが現界する際に、私に危害を加えることはできないという条件を付けさせてもらいました」

「尚更付き合ってられるか。俺は降りさせてもらう」

「いいえ、それも不可能です」

 

 メディアは右手の甲に刻まれた令呪を見せつける。これがある限り、アキレウスは彼女の命令に逆らうことはできない。

 アキレウスはケイローンの教えの中で、魔術についても一定の知識を得ている。令呪の意味を悟り、彼は肩から力を抜いた。

 

「俺が敵前逃亡する可能性は考えてるのか」

「あなたは戦士です。眼前の敵との戦いに嘘はつけない……そうでしょう?」

「……あー分かった、好きにしろ。ただ、アンタの首を常に狙ってることだけは忘れんなよ」

「ええ、肝に銘じておきます」

 

 彼女は杖をくるりと回し、踵を返す。

 相手は狂したとはいえ、ヘラクレスさえも倒した。神殺しと不死殺しがある以上、アキレウスがいたとしても勝利は確信できない。

 

(さあ───ここからが、私の切り札)

 

 祭壇の前に跪く。

 メディアは三相一体の女神ヘカテーに仕える巫女であった。

 エジプトの神ヘケトに由来するその神は月と魔術、冥界を司る権能を有していた。古代ギリシャにおいてヘカテーは熱狂的な信仰を受け、特に魔術儀式においては、まずはヘカテーに供物を捧げることが定例と化していたほどである。

 しかし、キリスト教が浸透することでその位置は大きく変化する。女神ヘカテーは魔女たちの女王として、キリスト教徒たちの憎悪、もしくは恐怖の対象となった。

 女神や魔女とはしばしば性に奔放なイメージがあるが、その由来のひとつはヘカテーに求めることができるだろう。

 古来、神と繋がる役割を女性たちが期待されたのは、子を身に宿す神秘性ゆえ。仏教の尼僧は剃髪を行い、寺に隔離される。それほどまでに、女性性と呪術性は結びつきやすかった。

 そのため、魔術を認めないキリスト教世界では異教の巫女たちは魔女と蔑まれたのである。

 ───だからこそ、理解(わか)る。

 

(あの魔術王ですら、彼女の本質には触れていない)

 

 永遠の領域(プレーローマ)に座す知恵の女。

 本来は存在しないサーヴァントを送り込んだ、『暗黒の人類史』の召喚者。

 ロベスピエールやダンテがあの女と呼んだ、孤高の存在。

 

(彼らの行動は統一されていない。ロベスピエールは結果的にカルデアに敵対したけれど、あの詩人やコロンブスに至っては私たちの敵対者となっている)

 

 ──メディア曰く。

 彼女に明確な行動原理はない。

 彼女は全てがどうでも良い。自分が手を出すことも、出さぬことも。故に確率は50%。これは偶然が重なった結果だ。

 そして、彼女は不完全な根源接続者であり───とある魔術師の寵愛を受けていた。

 

(三相一体の女神であることを望まれた魔女。それが知恵の女)

 

 ヘルメス文書という文献がある。

 ギリシャ神話のヘルメスが時の流れの中でエジプトの知恵の神トートと、錬金術師ヘルメスと同一視され、その人物が記した神秘主義思想の結晶。数々の魔術を収録したこの本は、魔術という潮流にあってその源泉に近い代物だ。

 ヘルメスに連なる聖遺物、カドゥケウスを所有するメディアは言祝ぐ。

 その杖は半身を失っている。彼女自身を呼び出すことは到底不可能。しかし、魔女である彼女と自身の縁、魔術を象徴する神の杖がここにある。

 僅かでも繋がりを持っている自分とこの杖であれば、その半身を降臨させることは決して不可能ではない───!!

 

(…………そう)

 

 魔女という共通点。

 ヘルメスの杖。

 しかして、彼女が共鳴したのは、その願いだったのかもしれない。

 

(全てが、消えてしまえばいい)

 

 光もなく。

 音もなく。

 ただ最初からそこにいたかのように。

 光り輝く月を背に、その女はいた。

 自らの裸体を覆い隠すように包まった亜麻色の髪は爪先を越えてなお長い。その髪の外側は緩やかなカーブで跳ね、目は虚ろ。端正な顔に生気はなく、まばたきのひとつもしていない。

 ぼとり、と空間が歪んで何かが落ちる。

 海上を悠々と歩く白馬。ケルピーと呼ばれる幻獣であった。それを皮切りに大量の海魔が産み落とされる。夜空に降り注ぐ魔の群れは、吐き気を誘う禍々しさを持ち合わせていた。

 

「意思持たぬ力の器──魔物を生み出すという特性は、地母神の面が強く発現したためでしょうね」

 

 名前を与えることは、魔術の世界ではその存在を規定する行為と受け取られる。

 メディアは名付けた。

 

「アカモート。上天より切り離されし分身。あなたにはその名が相応しいでしょう」

 

 知恵の女より分かたれた力の器は答えることもなく、ただ宙を泳いでいた。この夜空を、掻き回すように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 愛の逃避行丸、トライデント近郊。

 アルゴノーツと敵対する全ての者が集まり、東の方角を眺めていた。

 朝焼けを引き連れ、進撃する一隻の船と無数の魔物。津波さながらに襲い来るその光景は、強化を施すまでもなく肉眼で捉えることができる。

 ペレアスは剣を肩に担ぎながら、空いた手でノアを小突いた。

 

「おい、いきなり想定外だぞ」

「負けると思ったか?」

「んな訳ねえだろ」

「じゃあそういうことだ。やることは変わらねえ」

 

 相手はコルキスの魔女メディアだ。並大抵の想定外で驚くほど、彼女を侮ってはいない。

 ダビデは一度伸びをすると、気楽に切り出した。

 

「最後に状況を整理しようか。この戦いでは護らなければならないものがふたつある。聖櫃とエウリュアレだ。聖櫃に神霊を捧げると、特異点ごとこの時代が消滅するからね。これだけは絶対に避けるように」

「『トライデントが使えれば楽勝だったんだけどね。まあ、使えないものは考えないようにしよう』」

「これはこれは、カルデアのロマニくん。僕の活躍を指咥えて見てなよ。男を口説く趣味はないから勘違いしないように」

「『……期待せずに見てますよ。ダビデさん』」

 

 そう言うロマンの声音は、どこか堆積するようなところがあった。しかし、それをいぶかしむ者は、まだこの場のどこにもいない。

 ノアは手袋を両手にはめる。続いて帽子を被り直し、服の裾を払った。

 

「おまえら、配置につけ。聖櫃がどうとか細かいことは今は考えるな。敵を全員倒せば、それで終わりだ」

 

 敵を前にして。

 彼は獰猛な獣のように、不敵に笑う。

 その横顔を見て、立香の中で夢の記憶が蘇った。

 

(ああ、そうだ、思い出した)

 

 ───この人は、今日もまた同じことを言ってくれる。

 

「───()()()()()()()()()



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第28話 その矢が射抜くもの

 海上を突き進む水妖の大群。

 まるで津波のような勢いと速度を保ったまま、上空に鎮座するアカモートの手によって、その数は膨れ上がっていく。

 海を覆い尽くさんばかりの魔物たちの先頭に、アルゴー号はあった。

 大木を思わせるイカの足が船首と船尾に巻き付いており、海上での高速移動を可能にしていた。そのため、いたずらに空気抵抗を増やすだけの帆も畳まれている。

 船上。アルゴー号の面々はトライデントの直撃を受け、目に見えて小さくなった島を望む。

 メディアはにこりと微笑んで、

 

「ということで、先陣を切るのは──」

「俺だ」

「私だ」

「「……は?」」

 

 真っ先に声を上げたのはアキレウスとアタランテ。彼らは互いに視線を鉢合わせると、猫の喧嘩のように噛み付く。

 

「あんたは弓兵(アーチャー)で俺は騎兵(ライダー)。どっちが先陣を切るに相応しいか、そこら辺の子どもでも即答できるぜ?」

「ほう、かのトロイアの英雄がたかが兵科の違いを盾に押し通してくるとはな。自慢の俊足が私に抜かれるとでも思ったか?」

「よーし、上等だ! 人類最速の座を賭けてガチンコ徒競走とでも洒落込もうじゃねえか!!」

「いや、状況考えろよ」

 

 ヘクトールの冷静なツッコミが、アキレウスとアタランテの背中にぐさりと直撃した。

 彼らはともに俊足を大きな特徴とするサーヴァントだ。アキレウスは言わずもがな、アタランテも結婚相手を決める際の徒競走で、卑劣な策に敗れるまでどんな男性にも追い抜かれなかった逸話がある。

 そんな二人にとって、どちらが速いかという話はとてもデリケートな問題である。状況が状況なら殺し合ってもおかしくないほどに。

 事実、ヘクトールは二人のやり取りを見て肝を冷やしていた。彼の記憶の中のアキレウスとは、才能溢れる血気盛んな若者という印象だ。

 何より自分を殺した後、その死体を晒した話まで伝わっている。何の因果か味方となっているが、警戒しない理由はなかった。

 言い合いを続ける俊足二人組を見かねて、ヘクトールは鋼鉄の人差し指をぴんと立てて提案する。

 

「そんじゃあ、先制攻撃と先駆けを分けるってのはどうだ。これなら公平だろ」

「待て、それだと射程の長さからして私が一番槍になるだろう。果たしてそれが公平と言えるのか? それに、先陣と先制攻撃を分けるのは前にもやった気がするぞ」

「ヘクトール、あんたの性格からして自分だけ良い所取りしようってのは分かってんだ。公平という名の不平等だぜ、そりゃ」

「うっせえ! 公平ってのは得てして不平等なもんです! それを経験して人は大人になるもんなんです! 良いからさっさと行きやがれ俊足コンビ!!」

 

 説教をぶちかますヘクトール。彼を諌めるように、メディアは言う。

 

「あなたも行くんですよ? 戦いに。アタランテ、引っ張っていってください」

「そういうことだ。早く向かうぞ。魔物に先を越されるなど話にならない」

「それは良いが途中で降ろせよ。仕留めなきゃならん奴がいるからな」

 

 そう言って、彼らはアキレウスの戦車に乗り込んだ。向かう先は敵の本拠地。その様は天駆ける彗星の如く光の尾を引いていた。

 それを見届けたメディアは緩やかな微笑を貼り付けたまま、後ろに振り向く。

 そこにいたのはイアソン。絶大な信頼を置く唯一無二の親友を失い、俯いた彼はゆっくりと面を上げた。

 彼は海を泳ぐ水妖を視線で指し、刺々しい声音で咎める。

 

「なぜあの時、この召喚術を使わなかった? これだけの戦力とヘラクレスがいれば、あんな奴ら一網打尽にできたはずだ」

 

 その語気は静かな怒気を帯びていた。

 しかし彼の怒りは正当だ。ヘルメスの杖を利用してアカモートを喚び出せるなら、ノアたちと矛を交える前にしておくべきだった。その見解に瑕疵はないだろう。

 魔女は目を伏せ、冷たく硬質な声を突きつける。

 

「一度、私の好きなようにやってみたかったんです」

 

 ──その昔、ひとりの少女がいた。

 緑深き山の中。月と魔術の女神ヘカテーに師事し、彼女は掌中の珠を愛でるかのように大切に育てられた。

 穏やかに、なだらかに過ぎていく日々はきっと、どこか完成されていて。

 それでいて、味気ないものだった。

 けれど、それで良い。

 この身は既に多くを与えられている。

 非凡な魔術の才、純美な着物に豪華な食事。怪我や病気はヘカテーより教授された薬草の知識で、たちどころに治すことができた。

 だから、これ以上を望むことなどない。

 そんな彼女の運命を踏みにじる神がいた。

 愛と美の女神アフロディーテ。その神は英雄イアソンの旅を手助けするため、エロースを通じてメディアに呪いをかけるのである。

 イアソンを盲目的に愛するようになる呪い。それによって彼は金羊毛を手に入れ、さらにメディアを娶ることとなる。彼女は魔術によって多くの冒険の助けとなり、得難い友人と巡り会うこともできた。

 アルゴー号での毎日は山中にいた頃とは真逆。嵐が吹けば服が汚れ、海上ではろくに身だしなみを整えることもできない。

 それでも、数々の英雄たちとともに歩む道は、刺激に満ち溢れた輝かしいものだったはずだ。

 旅を終えた後の安穏とした暮らしも、夫と子どもがいれば退屈ではなかった。

 ……全て、あの裏切りさえなければ。

 サーヴァントは召喚された時点で自らの人生の記憶を持っている。たとえ、幼少の姿であろうとも。

 純粋可憐な少女が神に惑わされ、夫に捨てられ、国を滅ぼすという結末を知ったのなら。その絶望は、計り知れない。

 メディアは笑顔を輝かせる。

 

「でも、全く恨んでいません! あの憎悪は未来の私のものであって、過去(いま)の私のものではない。お門違いも甚だしい……そうですよね?」

「あ……ああ?」

「だから、これはわがままです。許されないこととも、道義に反することとも分かっています。私は、私の手で自らの運命を差配してみたい」

 

 彼女の目は、既にイアソンを見てはいなかった。

 きらめく瞳に映るのは、宙に浮かぶ亜麻色の髪の美女。アカモートと名付けられたモノであった。

 少女は想起する。

 

〝カルデア神託における神々の母、ピスティス・ソフィアにおける第三の偽神(アルコーン)───ヘカテーに仕えた巫女、メディア。……貴女は私の先達という訳か〟

 

 神託を得た。

 目も眩むような、神託を得た。

 

〝同情する。その人生、その絶望。私が肩入れしたいと思うほどに〟

 

 否、彼女は神ではない。

 その身は人間。人間にしか成り得なかった果ての者だ。

 我らとの違いは、人智の及ばぬ(セカイ)にいる。それだけだった。

 

〝この特異点にいくつか聖遺物をばらまいた。ヘルメスの杖を探せ。私は、貴女に力を貸してやれる〟

 

 ならばそれは、天恵に他ならない。

 メディアは、自らの運命を歩めるだけの可能性を手に入れたのだ。

 故に、このわがままは絶対に通す。

 

「いま、この瞬間にヘラクレス様がいたら、私は殺されていたかもしれません。あの方にとって、イアソン様は無二の親友ですから。子どもを手にかける禁忌を犯してでも止めに来たでしょうね」

「……メディア。お前は、まさか」

 

 イアソンは後ずさる。足の震えが腰から肩を伝わり、唇にまで到達していた。

 

「はい。カルデアの方々は流石でした──狂ったとはいえ、あのヘラクレス様に勝てるなんて」

「ッ! だったら、どうしてヘラクレスを生き返らせた! お前が好き勝手やる上であいつが邪魔だったなら、あの時杖を使う必要はなかっただろう!?」

 

 メディアはイアソンの目を見つめる。

 

「イアソン様。あなたは窮地の中でこそ輝く人です。追い詰められた時に発揮する力はきっと、どんな強大な敵にも負けないモノに違いありません。綺羅星の如き英雄たちを束ね上げるアルゴー号の船長は、イアソン様以外の誰にも務まらないと断言できます」

 

 その賞賛は、決して偽りではなかった。

 英雄イアソンの冒険において、彼を最も助けたのはヘラクレスの武力ではなく、メディアの魔術だ。

 イアソンと共にあり続けた彼女が言う言葉だからこそ、そこには重みがあった。

 

「そんなあなたを騙すには、ああするしかなかった。あの状況で杖の力を使わないなんて不自然なことはできなかった。杖を壊されたことは誤算でしたが、賭けは私の勝ちです」

 

 どんな敵よりも、味方よりも、メディアはイアソンを警戒していたのだ。

 油断などしない。一度でも逃がせば逆転を許す恐れがある。

 だから、次に取る行動は成り行きではなく、当然の帰結だった。

 

「目覚めなさい、魔神柱フォルネウス」

 

 イアソンの存在が改変される。

 青空を黒く切り裂く巨塔。

 猛る咆哮が、海に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔物の大群はとうに島に上陸し、アトランティスの遺物にも目をくれずに直進していた。

 陣形もなければ指揮官もいない。数に任せただけの突進は、それ故に強力。ダンテを除くこの場のサーヴァントであれば倒されはしないが、骨が折れる程度には脅威だ。

 そして、それらに対応している暇に敵サーヴァントに聖櫃を奪われる。直接戦闘でも大いに遅れを取ることだろう。

 ならば、それを埋めるのはマスターの役割。

 敵の一群が森林に差し掛かる。

 ノアは指を弾き、唱えた。

 

「『炎森の巨人(ウィッカーマン)』」

 

 森全体を呑み込む真紅の火炎。

 燃え盛る木々が複雑に絡み合い、いつしか巨人の上体を構成する。

 それが都合六体。木の幹を束ねた豪腕がうなりを上げて、水妖たちを灼熱の口腔へと放り込んでいく。

 ウィッカーマン。ガイウス・ユリウス・カエサルのガリア戦記に記された、ドルイドたちの供犠。人型の檻の中に供物となる生贄を取り込み、神々へと焼いて捧げる祭儀である。

 かつて、冬木の特異点でまみえたキャスターのサーヴァントが使用した宝具。それを再現しようと試みた魔術であった。

 ノアは巨人が水妖を蹂躙する光景をトライデント付近の高台から眺め、不満げに鼻を鳴らした。

 

「一晩準備してこの程度か。あの宝具の足元にも及ばねえな。そもそもルーンの出力が違いすぎる……魔力をいくらブチ込んだところで解決できる問題じゃない。神秘の純度が足りない以上、現代のフォーマットじゃ無理だ。それこそ原初のルーンでもないと……まあいい。藤丸、おまえの見解はどうだ」

「天才少女立香ちゃんが思うに、一回発動するだけであんなに木を燃やしてたら、地球が禿げ上がっちゃうと思うんですけど」

「環境破壊は人類の特権だ」

「ラスボスみたいな発言しないでください」

 

 ノアのウィッカーマンは規模、威力ともに大魔術と呼ぶに相違ないものだ。が、それは現代の魔術の範疇を出ない。

 古代の魔術は言わばロストテクノロジー。神秘は古いほど強くなるため、現代の方法論で宝具を再現しても真作に並ぶことはできない。

 しかし、ノアの不満とは裏腹にウィッカーマンは絶大な戦果を挙げていた。取り込んだ魔獣の魂を薪に一層激しく火を噴き上げ、近づくそばから敵を打ち砕く。

 黒煙と野火に包まれた海岸から、二隻の船が出航する。

 ドレイクのゴールデンハインド号とコロンブスのサンタマリア号。島に留まるノアたちが聖櫃を守る盾とするなら、両船は敵の頭を貫く飛矢だ。

 狙いはメディアもまた同じ。

 地上を疾駆する二本の飛矢。電光石火の速度で駆ける弓兵と騎兵は、移動に伴う余波だけで火勢を吹き飛ばしていた。

 ウィッカーマンが炎の巨拳を振るう。

 巨大な図体ではあれど、吹き上げる熱風の後押しを受けた拳は対魔力を持たぬサーヴァントなら重傷を与えられるほどの威力だ。

 そう、当たれば。

 彼らにとってその一撃は、あまりにも緩慢すぎた。

 矢が、槍が、二体の巨人を千々に食い破る。

 炎の壁を突き破って現れた二人の英雄に、毀傷は微塵もなかった。

 武人だからこそ分かる強さの物差し。ペレアスは眉根を寄せて、ただ一言。

 

「ノア」

「ああ、各個撃破する。俺たちであの騎兵をやるぞ。アステリオスとダビデもついてこい」

「それなら、私たちがアーチャーの相手ですね。いつも通り、マシュとジャンヌを連れていきます」

 

 踵を返そうとする立香を、ノアは引き止める。

 

「待て、藤丸。ウィッカーマンの操作権限を二つおまえに預ける。俺の魔力で動くから気にせず使え」

 

 彼はそう言って、僅か小指大の人形を立香に差し出した。木の根で編まれた二体の人形は、ウィッカーマンを操作するリモコンの役割を果たす礼装だった。

 立香はそれらを受け取り、しっかりと右手に握り込んだ。

 

「ありがとうございます。……リーダーの魔力は大丈夫なんですか? リーダーの負担になるなら、私の魔力を使うこともできますよね」

 

 ノアは四体のウィッカーマンを扱う他に、ペレアスとダンテへの魔力供給も担っている。サーヴァントはあくまでカルデアの召喚システムに則ったものだが、ノアはカルデアのリソース節約のためにペレアスとダンテの魔力供給を自分に一存していた。

 立香の懸念は彼の魔力が枯渇してしまうのではないかということ。

 二人が扱うことのできる魔力の量はもはや比べるべくもないが、少しでも負担を肩代わりできるなら迷いはない。

 ノアの人差し指が親指をバネに跳ね、立香の額を優しく打つ。

 

「俺の心配をする前に自分の心配をしろ。ダンテは宝具以外最低限の魔力で済む省エネサーヴァントだし、ペレアスは派手な技も宝具も持ってねえたまねぎ剣士だからな」

「最終的に最強になるたまねぎ剣士ナメんなぶっ飛ばすぞ」

「まあ、そういう訳だ。俺の魔力を枯らしたいなら、百体以上はウィッカーマンを連れてこないと話にならねえ。黙って俺の施しを受けとけ」

 

 傲岸不遜な言葉。立香はしかとそれを受け止めると、力強く頷いた。

 

「絶対に、生きて会いましょう」

 

 それだけ言って、彼女は自らのサーヴァントと一緒にこの場を離れた。足取りに一切の恐怖も焦燥も存在しない。ノアはその背中から視線を切り、上空を睨んだ。

 旋回する翠玉色の流星。空を翔ける三頭立ての戦車は、明らかにノアたちを狙っていた。

 ダビデは手のひらを額の辺りにかざしながら、戦車を眺める。

 

「うーん、アレを撃ち落とすのは手を焼きそうだ。誰か良い考えはあるかい?」

「ぼくが、ぺれあすを、なげる!」

「名案だな。それで行くぞ」

「お前ら待て、オレはいつから人間砲弾になった!?」

 

 瞬間、流星が墜ちる。

 地面が裂けて土塊が舞う。

 神速の英雄は唇の両端を吊り上げて、周囲の土塊を槍で払った。

 

「四人か。神殺しの矢を持ってるってのはそこの白髪だな?」

 

 興味と戦意が綯い交ぜになった視線。常人が受け止めるには重すぎるそれを、ノアは素っ気なく流して肯定する。

 

「そうだ。わざわざ質問してくるってことは、おまえも神性持ちか、それとも不死か? 随分ビビってるじゃねえか」

「抜かせよ魔術師。断言しよう、お前の矢が俺に当たることは決してない」

 

 三頭の馬が蹄で地面を掻く。

 やにわに満ちる殺気。

 音を置き去りに、その突撃は成った。

 

「──さあ、見せてみろ。お前たちの英雄たる由縁を」

 

 雷光が閃く。

 彼の突進に下手な小細工はいらない。

 十二本の馬脚が生み出す速力と破壊力をぶつけ、槍を振るう。それだけで並の英霊を屠るに値するであろう攻撃だ。

 だが、相対する三人のサーヴァントは時代は違えども数々の戦いを生き抜いた歴戦の強者である。

 五感が警告を発するより一瞬早く、直感が体を動かす。

 ペレアスは視界の端に影を捉えると同時、鞘から剣を逆袈裟に抜き放つ。

 甲高い金属音が鳴り、刃がオレンジ色の火花を散らせた。前腕が痺れるような重い一撃。少しでも躊躇えば、剣ごと胴体を吹き飛ばされていただろう。

 それを気にする間もなく、悪寒が肌を粟立たせた。

 一手でも対応を間違えれば、一瞬でも力を抜けば殺される。これはそういう戦いであり、ペレアスがとうに慣れ親しんだ戦場だ。

 横薙ぎの一閃。ダビデは青銅の槍の穂先を杖で受け、宙へ弾き飛ばされる。

 彼は強引に体を捻ると、その勢いのままにいくつかの石を投げつける。空中での神がかり的な技を目の前に、騎兵は笑みを深めた。

 完全に不意を突いた投擲。彼の槍技を以ってしても、全弾を防ぐことは難しい。飛来する弾は四肢のいずれかを撃ち抜くはずだった。

 

「俺に攻撃を当てたことは褒めてやる」

 

 しかし、彼の体に傷はひとつもない。それどころか、衝突した石弾の方が砕け散る有様だ。

 ペレアスは頭をかいて嘆息する。

 

「三頭立ての戦車に神性、おまけに不死(むてき)持ち……アキレウスかよ」

「おお、良い推理だな。俺のファンか?」

「今まさに辞めたくなってきたところだけどな!」

 

 アキレウス。その名について、もはや多くを語ることもないだろう。知名度ならヘラクレスにも並ぶ大英雄。アルゴノーツのひとりを父に持つ、アルゴー船とも関わりが深い英霊である。

 知名度の高さのためにその弱点も広く知られている。伝説では、唯一残った人間の部分である踵を射たれることが死に繋がった。

 彼もまた、不死ゆえにその生を終えた英雄のひとり。

 ノアはヘラクレスとの戦いで使ったヤドリギの槍をペレアスに投げ渡す。

 

「何を狙うか、分かってるな」

「当たり前だ。まずは足を潰す」

 

 ペレアスは短く息を吐いて、一足に飛び込む。

 アキレウスの得物が届く殺戮圏内。

 すれ違いざま、両者の槍が踊る。

 先に届いたのはアキレウスの一撃。

 体を捻ってヤドリギの穂先を躱し、真一文字に胴を断ち割る。

 

(───! 手応えがない)

 

 振り向いた先には無傷の背中。

 

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 アキレウスを前に、出し惜しみする選択肢はない。

 ペレアスは即座に身を翻す。頭を回して瞳が追いついた時、背後にいたはずのアキレウスは消え失せていた。

 俊足を異名とする彼の真骨頂は、生身での走力。半ば瞬間移動のような速さで離脱した彼を目で捉えることは困難だ。

 

「言っただろ、まずは足を潰す!!」

 

 槍を投げる。

 アキレウスが駆る三頭の馬の内、二頭はポセイドンより賜りし不死の神馬だ。ペレアスが放った槍はその一頭を貫き、引き抜くのに合わせて剣と槍を残る二頭へ突き立てた。

 宝具はその英雄の誇りだ。それを傷つけられて憤りを覚えない英霊は極少数だろう。

 この時、アキレウスの中でペレアスはただの敵から絶対に殺さねばならぬ存在へと切り替わった。

 

「殺す」

 

 どこまでも単純な彼の一言は、宣告にも等しい。

 雷電が奔る。

 縦横無尽に駆け巡る彼の姿を捉えられる者は誰もいない。ヘラクレスが近づく者全てを切り刻む暴嵐だとすれば、アキレウスは触れた者全てを両断する稲妻だ。

 宝具で致命傷を回避するペレアスだが、電光が瞬く度に傷を負っていく。

 

「アステリオス! 宝具を使え!」

「……───『万古不易の迷宮(ケイオス・ラビュリントス)』!!」

 

 ノアの叫びにアステリオスが応える。

 この空間そのものを迷宮へと置換する大魔術。

 陽の届かぬ迷宮は狭く、四方に張り巡らされた壁が移動を制限する。縦横無尽に疾走していたアキレウスから、せめて進路の自由だけは奪おうという目論見だった。

 アキレウスは足を止める。自らが囚われた迷宮を見渡し、最後にペレアスを睨みつける。

 彼は頬から流れ出る血を手甲で拭い取り、真っ向から睨み返した。アキレウスは胸中にわだかまった感情を吐き出すように息をつく。

 

「お前、真名(なまえ)は」

「ペレアス。邪竜ファヴニールとヘラクレスを倒した男だ」

「とどめを横取りしただけだろ」

 

 後ろから刺すノアの言葉に、ペレアスはすぐに振り向いた。

 

「はいそこ、黙れ! オレの輝かしい戦績に水を差すな! アーサー王にヴラド三世にレオニダスに……」

「なるほど、王殺しのペレアス。オイディプスみてえなもんか」

 

 アキレウスは顎に手を当てて、勝手に納得する。

 

「いやいやいや、騎士としてその二つ名は不味いだろ! モードレッドか!?」

「安心しなよペレアスくん! 君の知名度はモードレッドの五十分の一もないだろうし、勘違いされることはないさ!」

「ダビデェェ!! おまえどっちの味方だ!?」

 

 そのやり取りを見て、アキレウスは鼻を鳴らした。

 

「……喜べ。俺に狙われてそこまで生き残ったのは、ヘクトールに続いてお前で二人目だ」

「結局殺すってことだろ?」

「当然だ。それに、お前にはひとつ気に食わねえところがある」

「はあ? どういうことだ」

 

 返答はなかった。代わりに、槍を前傾に構えて穂先を差し向ける。

 

「俺の親父に名前が似てんだよ───!!」

「ハッ、とんだ言いがかりじゃねえか───!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 未だ戦火の勢い止まぬ黒焦げた野原で、少女たちは己が敵に出会う。

 翠緑の装束を纏った狩人。その端正な顔立ちは貴人のそれであるが、眼差しは鋭く野生味を帯びていた。

 互い違いのコントラストが彼女の存在を一層際立たせる。

 憂いをたたえた瞳を閉じ、そして開く。

 

「君たちの時代では、君たちはまだ子どもなのだろう。……そこを退いてはくれないか」

 

 彼女の語気には諦観が混じっていた。

 ジャンヌは肩に旗を担ぎ直し、見下すように言う。

 

「聖櫃を狙おうって連中の言葉とは思えないわね。どういう風の吹き回しか知らないけど、ここを通せば全員消えるのよ」

「アタランテさんは知らないかもしれませんが、あなたたちの目的が果たされると特異点そのものが消失します。戦闘の意思がないのなら……」

 

 マシュが言い終わらないうちに、アタランテは否定した。

 

「それはできない。私は全て知った上でここにいる。無敵の力なんて都合の良いものがあるはずがない。──人間が手に入れて良いものでもない。特にイアソンのような奴にはな」

 

 それが、全てを消す道だと知っていても。否、知っているからこそ、彼女はここにいるのだ。

 ──この言葉が届かなければ、手を結ぶ望みは完全に絶たれる。

 立香は。

 急所をえぐるように。

 既に決まった答えを再確認するように、口を開く。

 

「アルテミスさんと敵対することになってもですか」

 

 アタランテは男子を望んだ父王によって森に捨てられ、アルテミスの遣わした雌熊に育てられた。

 それ以来、彼女はアルテミスの信奉者となり、かの月女神にならって純潔の誓いを立てた。アルテミスに弓を引くということは、それらの恩義に泥を塗り自らを否定する行為に等しい。

 アタランテは己に課するように答えた。

 

「無論だ。……メディアが、自分の好きなようにやりたいと言った。神に惑わされ、愛した者に裏切られた彼女がだ。親友として、その願いは果たす価値があるものだと感じた」

 

 だから。

 ぎり、と引き絞られた弓の弦が軋みをあげた。

 

「そこを通してもらう──!!」

 

 空間を引き裂くような矢が飛翔する。

 軌道を変える小手先の技術はない。

 最強の一撃を最速で相手に叩き込む弓術。二の矢を番えることなく獲物を殺す狩人の技であった。

 しかして、それを通すほどカルデアが誇る盾は易くはない。

 不動の盾が矢を弾く。宝具の一撃にも匹敵する衝撃に、マシュは歯噛みした。

 『天穹の弓(タウロポロス)』。アタランテがアルテミスより授かったこの弓は、引き絞るほどに射撃の威力を増す特性がある。

 Aランクすら凌駕するその一矢は、並ぶ者なしと謳われた実力に違わぬ破壊力だった。

 しかも、彼女には俊足がある。

 アキレウスと伍する速さの足。射撃戦においてダビデを封殺し、天より降り注ぐ火の雨からも逃げ切った走力は未だ健在だ。

 加えてその攻撃手段は槍を得物とした近接格闘ではなく、弓矢による遠距離射撃。

 常に位置を変えながら矢を撃ち込む。

 それだけで、立香たちは防戦に徹するしかなかった。マシュの存在がなければ、優に十回は死んでいたに違いない。

 

「一方的に撃ちまくってくれるじゃない……!!」

 

 吐き捨て、ジャンヌは振り払うように腕を薙ぐ。

 腕の軌道に従って炎の波が生まれ、扇状に大地を焼き進む。しかし、その速度はアタランテからすれば緩慢に過ぎる。地を自由に駆け回れる以上、避けるのは容易い。

 

「『炎森の巨人(ウィッカーマン)』!」

 

 木組みの巨人が上体を起こし、アタランテの進路を塞ぐ。

 彼女の足は文字通り目にも留まらぬ速力だが、ここは身を隠す木々もない焼け野原。ノアの手にかかるまでは森そのものであったウィッカーマンの図体ならば、大雑把な予測でも十分障害と成り得る。

 地にいては炎に呑まれ、跳べばウィッカーマンが豪腕を振るう。

 アタランテが選んだ二択は、後者だった。

 

「見事だ」

 

 地面を蹴って跳び、迫りくる拳を踵落としで撃墜する。勢い任せに空中で回転し、矢を番える。

 彼女を狙う灼けた鉄杭。ジャンヌが放ったそれは身動きの取れぬ空中の隙を刺すためのものだった。

 弓の弦を手放す。射出された矢は鉄杭と激突し、破砕する。

 必殺を期した二段構えを凌ぎ、アタランテは悠々と着地した。その際に矢を射掛け、ウィッカーマンは炭となって消滅してしまう。

 ジャンヌは忌々しげに歯を噛み締める。

 

「あれでも当たらないなんて、どんな足してんのよ。矢の威力もおかしいでしょう」

「……先輩。このままでは消耗戦が続くだけです。奥の手を使いますか?」

 

 マシュは敵に視線を注いだまま提案した。

 ──奥の手。確かに、その手段を使えばアタランテを仕留められるかもしれない。

 命を奪えずとも、腕や肩なら弓は引けず、足なら機動力を殺すことができるだろう。

 だが、消耗戦に活路が無い訳ではない。ノアたちがあの騎兵を倒せば、陸に残った戦力を集中させられる。多勢に無勢、圧倒的な優位を得られる。

 立香は浮かびかけた選択肢を、首を振って却下した。

 

(そんな考え方じゃ駄目だ)

 

 所長の死を背負わせてしまったあの後、彼にのしかかる荷物の半分を受け持つと決めた。

 その時点で、立香とノアは対等だ。たとえ天地がひっくり返っても、そこだけは変わらないと断言できる。

 故にこそ。

 対等だと言うなら、彼を助けられるくらいでなくては───!!

 

「ドクター、聞こえますか」

「『うん。奥の手のことかい?』」

「それもありますけど、まずは質問させてください。ペレアスさんとダンテさんはリーダーから魔力供給を受けているので、今カルデアの魔力リソースはサーヴァント二体分は空きがありますよね」

「『そうだね。ノアくんの莫大な魔力を遊ばせておくのは愚策だ。それがどうかした?』」

「その分の魔力を、全部ジャンヌに回すことはできますか」

 

 意図を察し、ロマンは頷いた。

 

「『もちろん可能だ! なら、奥の手のタイミングはボクが指定した方が良いね』」

「はい、お願いしますドクター!」

 

 二人の会話を聞いていたジャンヌは、口角を上げて、

 

「あら、もう悪巧みは終わり? 期待させてくれるじゃない」

「キュートな先輩は突如反撃のアイディアがひらめく、ということですね。わたしの盾がある限り、答え③になることはありえません」

「うん、これでもローマ帝国の軍師だったからね!」

 

 立香の令呪が光を放つ。

 糸が解けるように紋様が宙に消えると、三画分の膨大な魔力がジャンヌに宿った。

 

「魔力が切れるまで宝具を撃って。集中させるんじゃなくて、ばらまくみたいに。後のことは考えないで」

「お安い御用ね。やられっぱなしでムカついてたのよ、ここで精々ストレス発散させてもらうわ……!!」

 

 反転した聖カトリーヌの剣の切っ先を天へ掲げる。

 吹き荒ぶ熱風、青空を黒く塗り潰す魔炎、ギチギチと捻れ狂う鉄の杭。ジャンヌひとりが出せる全力のその先、未だかつてない魔力が彼女を中心に渦巻いていた。

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 暴力の嵐が放たれる。

 アタランテは即座に攻撃態勢を解き、脇目も振らずに走り出す。

 矢を射る暇などない。一度でも足を止めれば炎の渦に追いつかれるか、鉄杭に貫かれる。

 こうして耐え忍べば相手の飛び道具はなくなり、盾の少女との一騎討ちに持ち込める。勝機は依然潰えていない。

 要するに、この勝負はジャンヌが仕留めきるか、アタランテが逃げ切るかに帰結する。

 肌のところどころが焼け、鉄杭が脇腹を掠める。直撃を受けない限りは、戦闘に支障は出ない。ジャンヌの宝具はまともに当たれば魔神柱を焼き尽くすほどに強力だが、消費する魔力も相応に大きい。

 攻防の終わりはそう遠くない。アタランテは確信した。

 バキバキと枝が折れて木が弾ける音を立てて、立香に託された最後のウィッカーマンが体を起こす。

 巨人が上体のみで覆いかぶさるように飛びつく瞬間、アタランテの思考は体感速度を超えて流れる。

 

(またあの巨人……この程度で囲めるつもりか? 私の足ならこのまま走り抜けられ───)

 

 ちょうどその時、彼女は聞いた。

 凍てつく月輪を思わせる一声。

 清廉なる魔力の発露。

 けれど。

 音速よりも速く移動するアタランテが、その声を聞けるはずがなかった。

 幻聴か、はたまた奇跡か。どちらにしろ、それを成すのは得てして信仰という想いだ。

 

 

 

「『月女神の愛矢恋矢(トライスター・アモーレ・ミオ)』」

 

 

 

 ウィッカーマンの壁を貫き、女神の矢がアタランテの左足を消し飛ばした。

 

「っぐ──!」

 

 痛みに顔をしかめたのは一瞬。

 転がるように炎の囲いを離脱し、周囲へ目を凝らす。

 

(あの巨人のせいで発射点が特定できなかった。どうせ通用しないなら目隠しに使おうという腹積もりだな)

 

 ジャンヌの宝具も自分から余裕を奪うための布石。アタランテは、カルデアという組織に出し抜かれたのだ。

 しかし、地面に突き刺さった矢の角度から大まかな方角は特定できる。発射地点に留まる狙撃手はいないが、同じ弓使いだからこそ移動経路も読める。

 培った狩人としての経験と勘。それが、アタランテの瞳を射手へと導いた。

 

「やはり、あなたか」

 

 遥か遠く、建造物群の屋上にその姿はあった。

 信仰を捧げた月の女神、アルテミス。

 こちらが気付けばむこうも気付く。

 場所を特定されたにもかかわらず、彼女はその場を微動だにしない。

 言葉はない。しかし、そこに留まるという行為が意思を示していた。

 撃ってこい、と。彼女は言っているのだ。

 

「神に弓を引く、か」

 

 なんて罰当たりなことだろう。神に弓を引くなど、人間には到底許されない。

 だというのに。

 建前を並び立てる脳とは裏腹に。

 胸の奥が、熱く燃えたぎっていた。

 

〝私のわがままに、付き合ってくれますか〟

 

 彼女の申し出に頷いたその時から。

 何を置いてもそれを果たすと決めた。

 全てが消えれば良い。自分さえも。そんな破滅的な願いであろうと。

 ───誰かが、彼女を止めてくれると望んで。

 

(悪役も、案外悪くないな)

 

 ぎちり、と弓の弦が張り詰める。

 呼応するようにアルテミスも構えた。

 心は夜の湖畔の如く静まり返り、足を苛む痛みも無くなる。

 撃ったのは同時。

 二条の矢が交差する。

 目が追えたのはそこまで。

 月女神の一矢が、狩人の心臓を貫いた。

 全身から力が抜けて、仰向けに倒れ込む。

 荒い息を吐きながら、彼女はまるで乙女のように笑った。

 

「は……はっ! 届いたぞ──!!」

 

 ぽたり、と血が流れ落ちる。

 アタランテが射た矢は、アルテミスの左肩を撃ち抜いていた。

 女神は、その傷を慈しむかのように右手を当てる。

 

「……()()()

 

 呟いた言葉は。

 きっと、彼女が初めて得た類の感傷だった。



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第29話 魔女の嘆き

 この世界にはしばしば、英雄になるべくして産まれる者がいる。

 例えば、ヘラクレス。

 始まりはギリシャ神話における最大の地母神ガイア。先のティタノマキアで自らの子どもたちをゼウスに幽閉されていたガイアは、新たに巨人族を生み出してオリュンポスの神々に戦争を仕掛けた。

 ギガントマキア。巨人族は神々には殺されないという特殊な能力を持っており、その中でも最強の怪物テュポーンには、ゼウスですら一度敗北を喫している。

 しかし、全知全能たる主神は来たる戦争を予見して、人間との間にひとりの子を成していた。

 それがヘラクレス。神々の切り札として投入された半神半人の大英雄は、ヒュドラの毒矢で次々と巨人族を打ち倒し、戦争を勝利へと導いたのである。

 全ては巨人族に打ち勝つために。

 ヘラクレスの運命は、神によって定められていた。

 ……テティスは、父より偉大な者を産むという予言を受けた女神だった。

 彼女が結ばれたのはアルゴノーツの一員でもある英雄ペレウス。アキレウスの父親である。

 アキレウスは出生以前よりペレウスを超える者としての予言を背負い、平凡な人間として長く生きるよりも、英雄として戦場で果てることを選んだ。

 戦場に生まれ戦場に死ぬ。そんなことを本気でやり遂げたのが、ヘラクレスやアキレウスという英雄だった。

 ───ペレアスは荒い息を吐きながら、剣の柄を握る手に力を加える。

 己の技を忘れたヘラクレスなら、まだやりようはあった。直線的で荒々しい剣撃は先読みはできる。強いからこそ、力の向きを変えてしまえば凌ぐことはできたのだ。

 だが、アキレウスは違う。

 経験に裏打ちされた彼の一撃一撃には全て意図がある。一度でもそれを読み誤れば手痛い反撃を叩き込まれる。そこに彼自身の技と俊足が組み合わさり、さらには不死まで有している。

 時間にして一分にも満たない攻防。

 アステリオスが創り出した迷宮の中にあって、アキレウスは相対する三体のサーヴァントを満身創痍にまで追い込んでいた。

 対して、アキレウスの肉体にはかすり傷ひとつ付いていない。不死性に阻まれる以前に、そもそも攻撃が当たらないのだ。

 彼は挑発するように眉を歪める。

 

「……もう終わりか?」

 

 真っ先に噛み付いたのはペレアスだった。

 

「まだまだ始まったばっかりだろうが、ちょっとばかし勝ってるからって調子乗ってんじゃねえ!!」

 

 ダビデは力なく笑い、

 

「これをちょっとと言うのは無理があるんじゃないかな? 現状、手も足も出てないし」

「でも、まだ、まけてない……!!」

 

 彼らの眼にはまだ闘志が宿っていた。

 アキレウスの足はサーヴァントの超人的な反射神経ですら嘲笑うように潜り抜ける。万が一攻撃を当てたとしても、不死ゆえにその身が傷つくことはない。

 逆転の望みはない。彼らの戦いは、いたずらに時間を引き伸ばすだけの負け戦に違いなかった。

 後ろに控える、魔術師さえいなければ。

 

「その通りだ、アステリオス。俺たちはまだ負けてねえ。こっからは反撃の時間だ」

 

 ぴん、と彼の親指に弾かれ、黄金の枝の鏃が宙を舞う。

 神殺しと不死殺しのヤドリギ。それが神であるなら、それが不死であるなら、どんなモノも殺し尽くしてみせる代物だ。

 女神テティスの子であり不死の肉体を持つアキレウスにとっては、ただの一撃で死に至る武器。彼は瞳に殺気を漲らせ、足を肩幅に開いた。

 

「言っただろ、そんなものは俺には当たらねえ。俺の足より遅えなら、ぶっちぎるか叩き落とすだけだ。馬鹿にしてんのか?」

「話はこれからだ。こんなもんが通用するとは俺も考えてない。一発ではな」

 

 だから、とノアは続けながら、自らの心臓に両手を突き立てる。

 その掌中にあったのは。

 

「───五十発分のヤドリギだ。これでも避けられるなら避けてみやがれ」

 

 黄金の鏃を中空にばら撒く。

 それらは空気に縫い付けられたように、ぴたりとノアの周囲に留まった。

 星群の如き輝きは、そのどれもが必殺を秘めている。

 五十という数は、いまのノアが用意できる限界の弾数だ。これを撃ち尽くせば、今回の戦闘ではヤドリギを使うことはできないだろう。

 アキレウスは薄く笑うと、槍を短く持った。

 

「良いだろう。その勝負受けてやる」

 

 じり、と石畳を踏み締める音がする。

 直後、流星雨のような黄金光が迷宮に躍った。

 壁と天井を重力でも無視しているかのように疾走し、槍が一度回れば必殺の鏃は黄金色の星屑と化して辺りに散る。

 アキレウスは迷宮の通路という狭所の不利を物ともしない。自由に走り回れない場所で戦った経験などいくらでもある。射撃の質も師匠であるケイローンのそれとは、比べることすらおこがましい雲泥の差だ。

 だが。

 

「お膳立て、ご苦労様」

 

 アキレウスが英雄となるべく産まれた者だとしたら、彼は王となるべく神に選ばれた者だった。

 彼は四人兄弟の末弟であり、戦争に出ていた兄三人とは違って、羊飼いをして暮らす穏やかな生活を送っていた。だから、鎧を着込んだ巨人が相手であっても、彼は羊飼いの作法で挑んだのである。

 愛用の杖と投石器。そして、拾った五つの石だけが、彼の運命を変えた武装であった。

 

「───私は万軍の主の御名によって、お前に立ち向かう」

 

 ダビデの手より、四度の投石が放たれる。

 それらは黄金の流星雨を掻き分けるように飛んだかと思えば、あらぬ方向に逸れていく。

 極限まで加速した世界の中、アキレウスは背中に冷感を覚えた。

 いまの攻撃は外れたのではない。外したのだ。

 全身が警告を鳴らす。必殺の流星が飛び交う死地に置かれながらも、アキレウスの直感はダビデへと全神経を傾けることを選んでいた。

 ──サムエル記上、第17章45節。

 〝だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」〟

 

(この感じは、()()()と同じ──!!)

 

 不死の英雄アキレウスを打ち破ったのは、アポロンの加護を受けたパリスという弓手だった。

 ダビデもまた万軍の主、つまり神の名のもとにゴリアテと対峙したのである。彼がゴリアテを倒すために用いた本当の武器は石ではなく、神の御名であったのだ。

 奇しくもアキレウスがパリスと同じ殺気を感じたのは、神の威光を感じ取ったからか。

 羊飼いたるダビデの宝具は都合五度の射撃。その内、四度は彼の寛容を表し、敵への警告となる。

 本命は最後の一発。

 巨人ゴリアテをただの一投で打ち倒した石弾。

 その一射は───

 

「『五つの石(ハメシュ・アヴァニム)』」

 

 ───()()()()()()()()()

 ダビデの宝具だけならば、アキレウスが対応することは難しくはなかった。しかし、迷宮という地形の不利と降り注ぐ必殺のヤドリギがそれを阻む。

 全てはこの一撃のために。

 アキレウスの急所、すなわち踵が砕かれた瞬間。ペレアスは既に走り出していた。

 唯一残された人間の部分。アキレウスの踵は彼の不死性と比類なき俊足を支える礎だ。そこを打たれれば、彼は不死性と俊足を失う。

 ペレアスはそんな理屈を知っていた訳ではない。彼の体を動かしたのは、戦士としての嗅覚。機動力を奪われた敵に対して、あくまで追撃を選んだだけだった。

 けれど、彼は節理を知っている。

 弱点を突かれた不死者は例外なく死ぬ。その理を。

 横一直線に剣を振るう。

 斬撃はアキレウスの首元に滑り込み、

 

「『蒼天囲みし小世界(アキレウス・コスモス)』」

 

 パキン、と呆気ない音を立てて、刃が半ばから割れた。

 

「くっ…そ! テティスの盾か!」

 

 斬撃を阻んだのは盾。ヘファイストスによって鍛えられ、女神テティスが息子に与えた防具。ギリシャ神話における宇宙を図示した装飾が施されたその盾は、まさしく極小の世界そのものだ。

 ペレアスは思わず歯を軋ませる。

 

「……一体いくつ宝具持ってんだよ。オレにもひとつくらい分けろ、パトロクロスに鎧渡してただろ」

「よく知ってんじゃねえか。あれ以来他人に武具を貸すのは敬遠してんだよ。安心しろ、これで打ち切りだ」

 

 神が造り出したアキレウスの盾は強力無比。現状、盾の防御を打ち破れる可能性があるのは、それこそ神の武器であるトライデントくらいなものだろう。

 それでも、勝機は確かに生まれていた。

 攻撃が通らないのはアキレウスの盾であって肉体ではない。守りを潜り抜けさえすれば、ペレアスの刃であろうと傷つけることは叶うのだ。

 無論、アキレウスがそれを理解していないはずがない。

 戦車を、不死性を、俊足を失い残ったのは己が肉体と武装のみ。アキレウスに対する必殺と必中が揃っていたからこそ、彼をここまで追い詰めることができた。

 もしヤドリギがなく、ダビデもいなかったなら。ペレアスたちは成す術なく敗北していただろう。

 ペレアスは折れた剣を握り直し、アキレウスは槍を構え直す。

 

「防いだってことは不死は失われたんだろ。これで対等だ」

「ああ、お前たちは強い。そこは認めてやる」

 

 だが、とアキレウスは肉食獣のような笑みを浮かべた。

 

「勝つのは俺だ。そこだけは譲れねえ──!!」

 

 彼の爪先が地面を蹴ったその時。

 密かに、その宝具は開帳された。

 

 

 

 

「『不毀の極槍(ドゥリンダナ・ピルム)』」

 

 

 

 

 宝槍一閃。

 迷宮の壁を濡れた紙を突くように飛翔する刃槍は、ダビデの胸とアステリオスの脇腹をいとも容易く撃ち抜いた。

 サーヴァントの弱点である心臓を破壊され、ダビデは血を吐きながら膝をつく。アステリオスは比較的軽傷だが、動きは確実に鈍るだろう。

 

「っ、ぐ……僕を仕留めるために隠れていたのかい? 仕切り直しの隙まで狙って──」

 

 彼の目は槍が飛んできた方向を向いていた。迷宮の壁は刃の形に綺麗にくり抜かれ、数秒してようやく周縁にヒビが走る。

 崩落する迷宮の壁を無理やり蹴り破って、男は姿を現す。

 

「……そこの騎士と魔術師は致命傷を与えても殺せない。そして、アンタは炎の宝具で、あのアタランテさえも退けてみせた。現実的に、狙えるのは、狙うべきはアンタだけだったんだよ」

 

 鋼鉄の腕に槍が舞い戻る。

 彼はおどけるように肩をすくめて言った。

 

「アキレウスの踵を撃ち抜いたのは誤算だったけどな。誇れよ、史上それを成したのは俺の弟しかいなかったんだぜ」

 

 ヘクトール。彼はアリアドネの糸を使って迷宮を突破し、ダビデを穿った。どこか挑発するような口調はしかし、語気は真剣そのものだ。顔には陰が差し、目線は横へ逸れている。

 奇襲も搦め手もれっきとした戦術。戦場ではそれを咎める者はいない。ヘクトールが最もアキレウスを苦しめたのが、彼の駆使する搦め手だった。

 それでも、彼は人間だ。

 どれほど小さなさざ波であろうと、思わぬところがないとは決して言えない。

 ノアはダビデを一瞥すると、アステリオスの脇腹に手を置いた。くっつければ塞がってしまいそうな傷口は、ヘクトールの一撃が如何に鋭かったかを物語っていた。

 故に、治しやすい。薬草と鉱石を混ぜた秘薬といくつかのルーンを組み合わせた魔術的治療によって、アステリオスの傷が癒えていく。

 ノアは刺すような眼差しをヘクトールに突きつけた。

 

「不意打ちキメてご満悦か? 煽りてえならもっと憎たらしい表情でもしてみせろ。ここには誰も、おまえの戦い方にケチを付けるような奴はいない」

「ふっ、小僧が一丁前にオジサンに説教とはな。そういうことは酸いも甘いも噛み分けられるようになってから言いやがれ」

「ああん? こちとら酢昆布とマックスコーヒーで育ってんだよ。その次元は十年以上前に突破してる」

「……食い合わせ悪すぎだろ」

「食い合わせだの栄養だのを気にして生きてられるか面倒くせえ」

 

 それはそうと、と彼は前置きして、

 

「アステリオス、リベンジだ。俺とおまえでアイツを倒すぞ。……ダビデ、そこで見とけ」

「……も、うすぐ、死にそうなんだけど?」

「だったら尚更だ。気合で俺たちの戦いを見届けてろ」

 

 傷の具合も確かめぬままに、アステリオスは立ち上がった。

 数日前、自らの腕を切り落とした槍使い。エウリュアレを狙う敵であり、一度敗北を喫した男。そして今は、仲間の命を奪った者でもある。

 拳に満身の力を込めて。

 かつての怪物は、英雄に言い放つ。

 

「───おまえを、たおす!!」

 

 化け物でもなく、英霊でもなく、ただひとりの男として、彼は拳を振りかざした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アトランティスの残骸島改め、愛の逃避行丸の沖合。

 コロンブスとドレイクたちが向かった戦場。そこは、魑魅魍魎が跋扈する魔の海域と化していた。

 蠢く海流。黒く濁った海のあちこちに渦が巻き起こり、その向こうから無数の眼光が輝く。

 海面を持ち上げる巨人の頭。船底を引っ掻く薄灰色の半人半魚。海より這い出る巨大な触手。人魚の美しくも狂おしい絶叫が空気を掻き回し、人間の正気を削り取る。

 さらには、それら化け物を産み出す、浮遊する女と屹立する魔神柱。アルゴノーツに残されたサーヴァントはメディアただひとりだが、戦力差は圧倒的だった。

 コロンブスとドレイクが駆る二隻が未だ落とされていないのは、ひとえに彼らの手腕によるもの。そして、魔神柱が未だ動かず、沈黙を続けていたためだ。

 フォルネウスはまるで眠ったように全身の目を閉じ、微動だにしない。

 海から襲い来る魔物に対抗するため、サンタマリア号の船員たちは休む間もなく駆けずり回っていた。絶えず砲弾の音が鳴り響き、それをかき消さんばかりの怒号が耳朶を打つ。

 そんな船の一室。船の荷物置き場である船倉の扉は、鎖と南京錠で閉ざされていた。その様相は魔獣の類が封印されていると思わせるほどに禍々しく、周期的に船の揺れとは無関係に扉が揺れていた。

 が、厳重な戸締まりでも限界はある。

 南京錠ごと木製の扉が吹き飛ぶ。もうもうと立ち昇る埃を押し退けて、ひとりの少女(めがみ)が大股で歩き出す。

 

「埃まみれだしネズミはいるし暗いしで、もううんざりだわ! 女神(アイドル)たる私をこんなところに閉じ込めておくなんて、どういう了見なのかしら!!」

 

 砲撃に船の修復に駆けずり回る船員たちを尻目に、彼女は甲板へと上がる。

 波が船体にぶつかって砕け、雨のように水滴が降り注ぐ。甲板の上には大砲が並べられ、絶え間なく火を吹く。

 自ら指揮を執るコロンブスは、剣を振り回しながら声を張り上げていた。

 

「オラァ! へばってんじゃねえぞダンテェ! ボッカの髪の毛をむしり取った時のバイタリティを見せてみろ!!」

「ひいいいいいいい! あの時はちょっと気が大きくなってただけなんです! 地獄の罪人だからマウント取っても良いと思ってたんです!」

 

 そう言いながら、ダンテは両脇に砲弾を抱えて走り回っていた。彼はサーヴァントながらも、一般的な魔術師にも劣る戦闘力しか持たない。

 その代わりに宝具は魔神柱でさえ単騎で倒し得るが、それを発動するための詩の書き溜めはヘラクレスとの戦いで消費してしまっていたのだった。

 仮にもサーヴァントが砲弾運びに尽力する姿を見て、エウリュアレはどんよりと肩を落とす。

 

「……あなた、本当に魔術師(キャスター)のサーヴァント? もっと魔術とか使いなさいよ」

「私は魔術と呼べるものは宝具くらいしか──ってエウリュアレさん!? どうしてここに!?」

「はあ? 乙女をあんなところに監禁しておいて、どうしても何もないでしょう。見たところ劣勢のようだし、私も加勢するわ」

「そう言われましても……」

 

 口ごもるダンテの頭上に影が落ちる。次の瞬間、彼の眼前にドレイクが降り立った。彼女は顔に付着した汗と海水を拭い、

 

「こりゃ駄目だね。まともに攻めても埒が明かない。あのどデカい悪魔が動き出したら一貫の終わりだ……あれ、なんでエウリュアレが出てきてんだい?」

「そのくだりは今さっきやりましたね。聖櫃に神霊を捧げるとこの時代が消滅する……なので、聖櫃とエウリュアレさんを引き離してしまおうという作戦だったのですが」

 

 エウリュアレがサンタマリア号の船倉に押し込められていた理由は、ダンテの言った通りだった。

 聖櫃を爆弾とするなら、エウリュアレはそれを起動させる鍵。その二つを同じ場所に置くのは、金庫の扉に暗証番号を書いた紙を貼り付けるようなものだ。

 だから、別々の場所に保管する。そのこと自体は理解できたのだが、エウリュアレはどうしても納得できない不満を抱えていた。

 

「……私、何も説明されなかったんだけど。カルデアのマスター連中はどうなってるのよ」

 

 そう、彼女はノアと立香の二人から説明も受けないままに船倉に閉じ込められたのである。

 ダンテは思い当たる節があるのか、苦々しい表情で答えた。

 

「ノアさんが言うには、〝あの高飛車女神が汚い船倉に進んで入ると思うか? 文句言われる前にブチ込むぞ〟とのことで……」

「そりゃそうだな」

「なるほどね」

「なんで納得されてるわけ!? よりにもよってこんなダメ人間たちに!」

 

 大型犬に喧嘩を売るチワワのような形相になったエウリュアレ。今にも飛びつきそうな彼女の機先を、ドレイクは言葉で制する。

 

「ま、出てきたならそれはそれで良いじゃないか。ここまで来たら隠しておく利点もないだろう?」

 

 彼女の意見に、コロンブスも頷いた。

 

「確かにな。幸いなことにこいつはアーチャー、遠距離攻撃はお手の物だろ。海の戦いで使わない理由がねえ」

「ええ、私もその通りだと思いますが」

「なんだい、歯切れが悪いね。何か引っ掛かることでもあんのかい?」

 

 ぎくり、とダンテは古典的な反応を示した。彼は頭を抱えて数秒葛藤すると、吹っ切れて喋り出す。

 

「前々からずっと思ってたんですけど、年端もいかない少女が戦うのはどうかと思うんですよね!?」

「ああ? そんなこと言ってる場合じゃねえだろ。女だろうが男だろうが、若者だろうが老人だろうが戦わなきゃ死ぬ。今はそんな状況だ」

「そうさね。ダンテの理屈は平時に通用するもんだ。それにエウリュアレは女神サマで、アタシらよりもずっと年上だろうし、立香たちのことを言ってんならそりゃあの子たちに失礼じゃないかい?」

 

 コロンブスとドレイクの二人から反駁を受けるが、とっくにダンテのブレーキは故障していた。

 

「いえ、お二人の全く仰る通りなのですが! 戦場って滅茶苦茶恐ろしい場所じゃないですか! 私なんか戦争に行く前日は産まれたばかりの長男と妻を両脇に抱いて泣きながら白目剥いて寝ゲロしましたからね!」

「「「…………」」」

「なんですかその目は!?」

「情報が多いのよ! 泣くか吐くか白目剥くかどれかにしなさい! 危うく脳がパンクしかけたわ!」

 

 エウリュアレは深くため息をつく。

 ダンテの主張は、彼自身ですら悠長であると理解している。が、感情を理性で抑え込めるなら世界はもう少し平和になっているだろう。

 矛盾の根底。そこにあるものが何か、彼が言葉に出力しようとしたその時、エウリュアレは弓を構えていた。

 

「あなたにも思うところがあるんでしょう。そこは共感してあげなくもないけれど、私たちが、あなたたちが戦ってる理由は何?」

 

 答えを待たず、彼女は告げる。

 

「私たちは所詮、過去の亡霊よ。だから、未来へ歴史を繋げるために私は戦うわ。───女神として、信仰する人間がいないのは寂しいでしょう?」

 

 弓の弦がみしりと音を立てる。鏃は群れる魔物の後ろ、メディアを指し示していた。

 少女は桜色の唇を歪める。

 

「未来も過去も必要ありません。人類史はここで終わる」

 

 ヘリオスの孫であるメディアは、黄金色に発光する瞳を持つとされている。それが象徴するのはまさしく太陽であろう。

 太陽は昇り沈むことから不死性を見出され、広く信仰を集めた。

 彼女の瞳が表すのは曙光か落陽か。

 風に揺られた森の木々がざわめくように、水妖は猛り狂う。

 

「…………この世から苦しみを無くす方法を知っていますか?」

 

 その問いとともに、海魔の波が放たれた。

 両船へ襲い掛かる怪物の勢いは一層激しく、数を増した。コロンブスは、ドレイクは、エウリュアレは、各々の得物を躍らせ、視界に映るそばから敵を排除していく。

 ドレイクは半魚人の脳天に銃弾を叩き込みながら吼える。

 

「知らないねそんなことは! そういうのは学者連中の領域だ、アタシら海賊に問うのはお門違いだろう!?」

「ダンテ! テメェなら神学も齧ってんだろ、キリスト教の素晴らしさを教えてやれ!」

 

 コロンブスの提案に、ダンテはだらだらと冷や汗をかきながら、

 

「えーと、神義論と弁護論のどちらの立場を取るかでその回答は変わるのですが、どちらも既に強烈な反論が存在しますし、かといって抗議の神義論を持ち出したとしても結局は精神論に行き着くので、ヨブ記みたいにお茶を濁すしかないというか、そもそも論を構成するために神の方を歪めてしまうのが私としては受け入れがたく……」

「つまりどういうことなのよ!?」

「世界から苦しみを無くす方法はありません!」

「「駄目じゃねーか!!」」

 

 コロンブスとドレイクは声を揃えて嘆いた。全知全能なる唯一神がなぜこの世に悪が存在することを許すのか、それに対する答えは未だ出ていないのだ。

 メディアはくすりと微笑む。反面、彼女の眼は暗く落ち込んでいる。

 

「未来でも結論は出ていないのですね。でも、簡単です。全人類全生物が突然、予告なく消滅すればこの世から苦しみはなくなる。そう思いませんか?」

 

 メディアがにこやかにそう言ってみせると、四人はぽかんと口を開けて、顔を見合わせた。

 

「え〜、それは……どうなの?」

「いや、アタシに訊かれても」

「人類補完計画のパチモンか?」

「苦しみだけを無くす方法って感じがしますね」

 

 そもそも、とコロンブスは切り出す。

 

「新大陸を発見した前人未到の大英雄コロンブス様の偉業が語り継がれねえ世界に意味なんてねえよ!! テメェの盛大な自殺に俺たちを巻き込んでんじゃねえ!」

「征服者は言うことが違いますね。あなたのせいで何万人もの先住民が非道な扱いを受け、惨たらしく殺された。そのことに呵責すら覚えないのですか」

「覚えねえなァ! 商人が利益を追求するのは当然だろうが。金になるなら神だろうと利用し、踏み潰すのが商人だ! 俺がやらなくても、他の誰かがあの大陸を見つければ同じことをする! だからって棚上げする気はねえけどな、俺はたまたまその葛藤がなかっただけだ!!」

 

 全身に力を漲らせ、彼は唱えた。

 

「それになあ、世界滅ぼそうって悪党が大層な方法論語っても聞く耳持たねえよ──『新天地探索航(サンタマリア・ドロップアンカー)』!!」

 

 無数の鎖が船体より展開される。

 煤けた白銀の鉄鎖が海魔の胴体を縛り上げ、大砲の如く突き進む錨が触れたそばから魔物の肉を砕き散らす。

 アルゴー号を守る敵の群れに風穴が生じる。コロンブスとドレイクが率いる両船はその空隙を潜り抜けようと船を走らせた。

 将が討たれる危機にも関わらず、魔神柱は沈黙を保った状態で鎮座している。

 

「おい、あの気色悪い大根モドキはどうして動かない。罠か?」

「そんな回りくどいことせずに、素直に私たちを叩き潰せば良かったじゃない。動けない理由があるはずよ」

「そうですねえ。私は一度アレに変身したので、思い当たる部分はあるのですが」

「経験者は語るって訳かい。勿体ぶらずにさっさと言いな」

 

 そこで、ダンテは説明した。

 魔神柱への変身とは魔神を自らの肉体に降ろすのだから、すなわち霊を外部に呼び出す喚起魔術の反対、召喚魔術の延長線上にある。

 喚起・召喚魔術の根底にあるのは術者の目的を履行すること。術者と被召喚者の関係は契約で結ばれ、必要に応じて代価を支払わねばならない。

 モーセの十戒やダビデの契約など、両者の間で取り決めた約束事は絶対の唯一神ですら縛ることができる。

 しかし、それには両者の合意があることが前提となる。自分が認めたという事実が、魔術的に術者たちを拘束する儀式となるのだ。

 

「あの魔神柱の依り代となった人……おそらくイアソンさんは、合意無しに変身させられたのではないでしょうか。そのせいで、どちらが主導権を握るかが定まっていない」

「つまり、今は絶好の大チャンスってことね!」

「そうです。このまま爆進しましょう!」

「いいや、大砲の射程圏内に入った。このままアルゴー号を沈めるよ!」

 

 ドレイクの号令が飛ぶ。

 直後、全ての砲門が同時に火を吹いた。

 アルゴー号を覆うように薄紫色の障壁が展開される。

 砲弾のことごとくはそれに阻まれ撃ち落とされるが、すり抜けたいくつかの爆風がアルゴー号を揺らした。メディアは目元を庇うように腕をかざした。

 

「くっ…! さすが、イアソン様。まだフォルネウスに主導権を渡していないとは───ですが、私にはアカモートがいます!!」

 

 フォルネウスが本領を発揮すれば、向かう敵は一掃できるだろう。だが、コロンブスたちは今や艦砲射撃が届く位置にまで接近している。

 メディア自身、援護や治療には向くが直接戦闘はこの年齢では心許ない。船への侵入を許せば、勝てる見込みは薄いだろう。

 アカモート。その名を聞いて、ダンテだけが戦慄した。

 

「…アカ、モート!? そうですか、やはり知恵の女とは───!!」

 

 そこで、空に留まり魔物を産んでいた女は、その生産を止めた。

 代わりに、澄んだ紅の唇を静かに動かす。

 

「『───始原の闇に浮かびしピュシスの門よ。デルデケアスの指先に触れ、その(まなこ)を現せ』」

 

 鈴を転がすような、玲瓏たる声。

 にぢゅり。濡れそぼった肉を割り開くように、彼女の背後から漆黒の瞳が浮き上がる。

 太陽を塗り潰すかの如き漆黒の門は、光でさえ吸い込んでしまいそうなほどに暗い極小の天体だった。

 

「『Phorbea(フォルベア)Chloerga(クロエルガ)』」

 

 彼女が呼んだのは、風と悪霊の名。

 暗黒天体より異界の空気が流れ出す。それは激しい勢いを伴って豪風と化し、敵味方問わず彼方へと吹き飛ばしていく。

 続いて、海中より病的な灰白色をした亡霊が泡のように溢れ出す。

 海に落ちれば、待ち構える悪霊に全身を引き裂かれて魂までも食い物にされるのだ。

 アカモートは無造作に右手を薙ぐと、その軌道に追随して風の鉄槌が巻き起こった。

 それはサンタマリア号の帆をいとも容易く食い千切った。折られた帆はそのまま数十メートルは飛翔し、ようやく墜落する。

 海中へと沈んでいく帆に亡霊たちは群がり、ものの数秒で跡形もなく分解されてしまう。

 コロンブスは思わず舌打ちをする。

 

「お、俺の船がァーッ!! くそっ、お前らあの浮かんでる全裸女をぶち落とせ! いや良い、やっぱ俺がやる! やらないと気が済まねェ!!」

 

 そう言って、自ら大砲の照準を合わせて火をつけようとする彼を、ダンテとドレイクは止めに入った。

 

「ちょっと、落ち着いてくださいコロンブスさん! 空に向けて大砲撃っても当たりませんって!」

「そうさ、ここはアタシとエウリュアレに任せておきな!」

「うるせえ! 今日という今日は完全にトサカに来たんだよ! 藤岡弘探検隊でももう少し配慮すんぞバカヤロー!!」

「藤岡弘探検隊はむしろ配慮(ヤラセ)の塊では!?」

 

 と、ダンテがツッコんだ隙に振り払われる。

 懐から取り出したマッチに火をつけ、それを導火線に触れさせる。その瞬間、コロンブスを中心に爆発が起こった。

 

「ぐわああああああ!!」

 

 ぷすぷすと黒焦げになって焼き出されたコロンブス。その姿を見て、三人は絶句する。

 

「えええええ!? こんな時に暴発とかあります!? 幸運EXなのに!」

「あなたの幸運Eが移ったんじゃないの!?」

「こんな大シケであんな爆発が起きるわけないだろ、アレを見な!」

 

 ダンテとエウリュアレはドレイクに頭を掴まれ、ぐるりと回された。

 魔の尖塔、フォルネウスは徐々にその目を開き始めていた。魔術的契約が不完全であろうと、主導権を奪い合うのは当人同士の精神力に委ねられる。

 元より、サーヴァントと魔神柱では霊基の格が違う。むしろイアソンがここまで持ち堪えたことが奇跡であり、フォルネウスの覚醒は当然の帰結であった。

 ダンテは歯噛みする。

 

「爆発はあの魔神柱の攻撃ですか……これは万事休すですね」

 

 アカモートだけならば、届く可能性はまだあった。が、魔神柱が機能を果たす以上は、圧倒的に手が足りない。

 メディアは塩水に濡れた髪を掻き上げて、口端を引き裂くような笑みを浮かべた。

 

「…………いける。これで女神を捕縛し、アタランテたちに加勢すれば勝てる。漂白された人類史のシミ、カルデアを滅ぼして魔術王の偉業は完全なものになる。逆転される可能性は万にひとつもない───!!」

 

 恋を初めて知った乙女のように、心臓が跳ね上がる。

 これは、メディアという人間が初めて自らの手で選び、成し遂げる仕事だ。

 神に運命を仕組まれた少女が、天に中指を突き立てる。この叛逆の成功の他に、彼女が求めるものは何もなかった。

 この世界には、もはや神の栄光も人間の叡智も残ることはない。

 彼らは、彼らの愚かしさによって滅びるのだ。

 

「万にひとつもない、ねえ。それはそれは、大きく出たじゃないか」

 

 けたけたと笑う女海賊がいた。

 それを、魔女は冷徹な視線で貫く。

 

「奇跡でも起こしますか、嵐の航海者」

「いいや、奇跡ってのは起こすもんじゃない。誰がどうあがいても起きちまう、そんなもんさ」

「それは奇跡とは呼べない。何をしても起こるというなら、必然と呼ぶべきでしょう……このように」

 

 呟き、メディアの手繰る杖が燐光を発する。

 その瞬きに呼応して、フォルネウスとアカモートを中心に黒い魔風が席巻する。空を埋め尽くすほどの風。それを一点に凝縮し、撃ち出す。

 サンタマリア号と黄金の鹿号の二隻は半ばより真っ二つに切断され、無数の木片が宙を舞った。

 

「……ほら、起きない」

 

 起こるはずがない。

 捨てられたあの時だって。

 誰も助けてはくれなかったのだから──!!

 

 

 

 

 

 

「それではいきますぞい! 『アン女王の復讐(クイーンアンズ・リベンジ)』!!」

 

 

 

 

 

 

 後方より、砲弾の雨が魔神柱に降り注ぐ。

 

「──は?」

 

 ……だから。

 それに名をつけるとしたら、必然だった。

 黒雲渦巻く空に、軽薄な笑い声が響く。

 

「デューーーフフフフフフフフ!! おい見てっかァヘクトールくゥん!! 今からおまえの主人ぶっ倒すかんな! 泣いたり笑ったりできないくらい後悔させてやらァァァ!!!」

「小物過ぎて引きますわ!」

「もうこいつ置いてかない?」

「あぁ〜メアリー殿とアン殿の罵倒も今は気持ち良い〜! あ、野郎共は溺れてるサーヴァントを回収な。1分以内にやんなかったら鼻そぎ落としの刑で。特にエウリュアレたんは丁重に扱えよ、ラッキースケベとか許さねえからな」

 

 パワハラ極まりない黒髭の号令によって、彼の船の船員は亡霊蠢く海に飛び込んだ。砲撃の余波でいくらか減っているものの、命懸けには変わりない鬼畜の所業である。

 ダンテはレイシフト前に受け取っていたダ・ヴィンチちゃん特性浮き輪を駆使して、いち早く黒髭の船に乗り込む。

 エウリュアレも船に引き上げられる。船首に立つ黒髭を見ると、彼女は表情を凍りつかせた。

 両腕と大きくはだけた胸。それらは確かにヒトの形を取っているものの、その色と質感はまさしく鋼鉄。つるりとした金属が黒髭の体と混ざり合い、本来の機能を為している。

 絶賛気絶中のコロンブスの他三人は、そんな黒髭の姿を見て、思わず言葉を失う。しかし、彼はどんな勘違いをしたのか、気恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 

「え、なに? 拙者そんなにイケメン? モテ期来ちゃったコレ?」

 

 ダンテたちは視線を合わせる。

 

「えーと、作戦前にアルテミスさんから説明受けましたよね。なんでしたっけ」

「あれだよ、トライデントを直すために必要だっていう……テオスなんちゃら」

「テオス・クリロノミアでしょ。確か金属としてだけでなく、万能薬的な役割も果たすっていう」

 

 つまり、黒髭が受けた致命傷はすべてテオス・クリロノミアによって補修されたということなのだろう。

 彼とヘクトールが漂流していたアトランティスの残骸は、まさしくテオス・クリロノミアを保管していた区画だった。黒髭はそれを知る由もないだろうが、事前にアルテミスから説明されていたダンテたちは推理することができた。

 ドレイクは拳銃から水を抜きながら、

 

「トライデントを直せるかもしれないってだけで今は十分だ。後のことはここを切り抜けてから考える!」

「一隻の海賊船程度……フォルネウスとアカモートなら!」

 

 メディアが吼え、従属する二柱が動く。

 先程サンタマリア号と黄金の鹿号を薙ぎ払った風の一閃。それを、黒髭の海賊船は真正面から受け止める。

 宝具『アン女王の復讐(クイーンアンズ・リベンジ)』は搭乗している仲間の力量に比例して、その性能が強化される。総勢七名のサーヴァントを抱えたこの船が堕ちる道理はなかった。

 

「おいおい、そんなそよ風でこの船のATフィールドが破れるとでも!? せめてロンギヌスの槍でも持ってきやがれ!」

「なぁにひとりでイキってんだい。さっさと船を近付けな。メディアを討ち取れないだろ」

「う、うっせえBBA! 俺が気持ち良くなってる時に割り込んでくんなって言っただろうが!」

「自家発電を母親に見られた中二男子みたいなことを言わないでくださいます?」

 

 メディアは歯ぎしりする。フォルネウスとアカモートの攻撃は、決して無効化されている訳ではない。単純に船の防御力で耐えているだけだ。

 だとしても、堕とすのにあと何発必要なのか見当もつかない。

 撤退。その二文字が頭をよぎり、一瞬にして否定する。

 がり、と親指の爪を噛む。

 

(誰も助けてくれない。今ここにある手札でどうにかするしかない)

 

 だというのに、なぜだろう。

 ───イアソン様、こんな時はどうすれば良いのですか。

 切り捨てたはずの男に、助けを求める声が絶えないのは。

 そして、ふと気付く。自らの身に迫る凶刃に。

 思考を挟む間もなく、反射で身を躱す。肩口を深く切り込まれた痛みに、狭窄していたメディアの視界は一気に広がった。

 銀の髪を揺らした男装の少女。メアリーはカトラスに付いた血を払いながら、メディアを睨めつける。

 

「……次で仕留める」

「くうっ──!」

 

 近接戦闘での勝ち目はない。咄嗟に踵を返した瞬間、彼女の右脇腹と左足に弾丸が直撃した。

 銃口より立ち昇る硝煙。アンとドレイクの二人が、背後にいた。

 傷口に灯る熱感は、すぐに痛みへと転じる。

 メディアは背を丸めるように倒れ込み、激痛を託すように杖を握りしめた。

 

「ぐ、ううううう!! アカモート……あか、もーと。私のめがみさま、わたしをおたすけください!!」

 

 悲痛な叫び。能面を保ったままのアカモートはしかし、右目から一筋の涙を流す。

 落涙。その一滴が海に落ちると、たちまち海流は荒れ狂い、強烈な嵐が訪れる。

 アルゴー号に乗り込んだドレイクたちの頭上には雷撃が落ちる。彼女らは転がるようにそれを避けるが、立つことは叶わなかった。

 巨大な水流の手に船体そのものが持ち上げられ、垂直に傾いていく。

 ドレイクたちが振り落とされるまでの数瞬。

 エウリュアレは矢を番えて、アカモートを狙った。

 

(風が強すぎる。まともに狙っても当たらない。──けれど、当ててみせる!)

 

 天候と海を操るアカモートさえ倒せば、ドレイクたちは即座にメディアを討ち取るだろう。

 彼女が手を打つ隙もない。エウリュアレは渾身の魔力を込め、

 

「『女神の(アイ・オブ・ザ)───」

 

 だが、あと一手届かない。

 宝具を解放する、その隙を。

 フォルネウスの熱光線が突き刺す──────

 

 

 

「……()()、足りましたね」

 

 

 

 ────はずだった。

 ダンテはエウリュアレを押し退け、光線をその身に受ける。

 肩から右手の先にかけてが蒸発し、傷口は焼かれて流血すらなかった。

 ダンテは政争に巻き込まれ、生まれ育ったフィレンツェを追放された。後に彼の子息までもがその対象となり、家族が再び生活を共にできたのは、ダンテが亡くなる三年ほど前のこと。

 大人の戦いに子供を巻き込む。次世代に重荷を被せることは、罪でしかない。

 彼が駄々をこねたのはそのためだった。

 立香やマシュ、ノアも含めて。

 彼らを二度と不幸な目に遭わせない。

 それが、今のダンテの戦う意味だった。

 

「褒めてあげるわ」

 

 エウリュアレの唇が弧を描く。

 

「───『女神の視線(アイ・オブ・ザ・エウリュアレ)』!!!」

 

 女神の矢が、アカモートを射抜いた。

 風船を針で突くように呆気なく、アカモートは実体を保てなくなり弾け飛んだ。

 それと同時に水流の手が消え失せ、空に蓋をする黒雲も眩いばかりの青さを取り戻す。

 血に塗れた体を引きずりながら、メディアは自らの唇をぶつんと噛み切った。

 ──敗けた。

 魔神柱の妨害が届く前に自分は殺される。

 額に突きつけられる鉄の感触。目線を上げると、そこではドレイクが銃口を差し向けていた。

 

「……最期に言い残すことはあるかい」

 

 メディアは、ぽつりぽつりと呟く。

 

「命の価値は平等だと思っていました」

 

 コルキスの魔女の最期。

 イアソンに裏切られたメディアは神々を面罵し、夫の再婚相手とその父、そして二人の自分の息子を焼き殺した。さらにはコリントスすらも灰にした後、彼女は荒野を彷徨い続けるのだ。

 けれど、彼女はついぞイアソンを手にかけることはなかった。

 全てを失ったイアソンは放浪の末にアルゴー号の下敷きとなって死んだのである。

 なぜそうしたか、今の自分には分かる気がした。

 この世には、死ぬより辛いことなどいくらでもある。ありとあらゆる生の苦しみを夫に与えることでしか、その復讐は果たされなかったのだ。

 

「でも、違った。信じた人ですら簡単に私を切り捨てる」

 

 命の価値が平等だなんて戯言は、どこの誰が宣ったのだろう。

 私にできるのは、その人ができるだけ苦しんで死んだことを祈るだけだ。

 

「命の価値が平等なんじゃない。命は平等に無価値なんです。だって、そうじゃないと、あの人が私を捨てられる訳がない」

 

 故に、切り捨てた。

 カルデアを利用してヘラクレスを始末し、アタランテを説得し、イアソンを魔神柱へと変えた。

 命は平等に無価値だ。だから、そうすることに何ら罪悪感を覚えはしなかった。

 ───ああ、そうか。人が人を捨てるとは、こんな気分なのか。

 その時の心の有り様はきっと、機械に似ていた。

 与えられた命題に疑問を覚えず、ただ解決するのみ。無駄な部分は削ぎ落として、切り捨てる。

 それでも。

 だとしても。

 彼女は、人間だった。

 

「───寂しい。そう、寂しいです。過去(いま)の私がひとりぼっちを経験するのは、初めてだから」

 

 人間が機械のフリをしても、いつかボロが出る。

 何をも捨てた後に残っていたのは、ただその感情だけだった。

 ドレイクは納得したように微笑んだ。

 

「……そうかい。じゃあ、それがアンタへの罰だ」

 

 かちり。

 どこまでも広がる青空に、一発の銃声が響き渡った。

 

「ごめ……さい。やっ…り……、んなと、いっしょに─────」

 

 金色の粒子となって、彼女の体は風へ運ばれていく。

 

「もし次会うときがあったら、酒でも飲みながら愚痴くらいは聞いてあげるよ」

 

 ドレイクは踵を返し、魔神柱を見やる。

 決意を表明すべく、彼女は言った。

 

「そろそろ、この戦いも終わらせようかねえ」



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第30話 此れは、彼の為の英雄譚

 アタランテを下した後、立香(りつか)たちはもう一方のノアが指揮する戦場へと急行していた。

 元々、二つの戦場の距離はそれほど離れてはいない。サーヴァントの足なら時計の秒針が一周する前に辿り着ける位置だ。

 彼女たちの道を阻むのはアステリオスが展開した迷宮だけだったが、それも今は解除されている。その理由は二つ。ひとつは味方との合流を円滑にするため。

 そして、

 

「アステリオス、念話を繋ぐぞ。合図にあわせて突っ込め」

 

 アステリオスはこくりと頷き、地面を蹴り出す。

 向かう先はヘクトール。彼は腰をためて槍を低く構え、迎撃の姿勢をとる。一方のアステリオスはただ拳を握り締め、一直線に疾駆する。

 その道を彩るように、無数の紫電が迸った。

 空気を焦がす異音。オゾンの異臭が辺りに満ちる。人体程度なら一瞬で炭にする雷電も、ヘクトールにとっては目くらましに過ぎない。

 彼の対魔力はBランク。これは大魔術や儀礼魔術に相当する威力でないと傷付けられないことを意味している。現代の魔術がかろうじて通用する最後の一線。たとえ直撃したとしても、その命を奪うことは叶わないだろう。

 

(だが、俺から詰めるのは愚策だな。万が一にも雷撃で隙を作られたら、あの拳を受けて生きていられるはずがない)

 

 彼は掬い上げるように槍を振り抜いた。長物の振りの速さは遠心力を伴い、拳のそれを優に超える。ましてや槍の英雄であるヘクトールの振りは、音速を遥かに超える速度で放たれる。

 首元を刈り取る斬撃。しかしてアステリオスは、上体を僅かに逸らすことで刃をやり過ごす。

 

「『瞬間強化』」

 

 ノアの一言と同時に、アステリオスの右腕が魔力の灯を帯びる。彼は一切の迷いなく、その拳を叩きつけた。

 ヘクトールは咄嗟に槍の柄で殴打を受け止めるが、踏ん張ることも叶わずに体を吹き飛ばされる。

 槍の穂先を地面に突き立てることで、ようやく彼は地上に足をつけた。その途端に、口端からどろりと血が流れ出す。

 魔獣の怪力をさらに底上げした拳の威力は、生半可な防御で無効化できるものではなかった。全身の骨格を軋ませるかのような衝撃に、ヘクトールは眉根を寄せる。

 先程の攻防でアステリオスが見せた動きは今までにないものだった。

 反応で避けるのみだった以前とは違い、完全に敵の行動を読んだ上での回避。狂化によって理性の大半を失ったバーサーカーにはできない動作だ。

 ましてや、アステリオスは生前多くの人々に恐れられた反英雄(かいぶつ)。人外の暴威を撒き散らす戦法は、英雄の武技とはかけ離れている。

 

「火だの雷だのを出すだけが魔術じゃねえ。精神に作用する瞑想法を応用すれば、狂化もいくらかは抑えられる。その分ステータスは下がるがな」

 

 かつてエレナ・ブラヴァツキーが設立した神智学協会の一員、アレイスター・クロウリーはヨガを実践魔術に取り入れた。西洋魔術において内界に働きかける瞑想術は、近現代に体系化されたものなのだ。

 ノアは念話を介して精神を繋げ、瞑想法を行うことでアステリオスの理性を一時的に取り戻させた。あくまでほんの一瞬、狂化を和らげるだけの効果を活かしたのは、紛れもなくアステリオスの成果である。

 一度は負けた。

 だが、今の彼には共に戦う者がいる。

 それはヘクトールにはないアドバンテージだった。

 

「リーダー!」

 

 畳み掛けるように、立香の声が響く。

 数日前に刃を交えた三人の少女らの姿を認め、ヘクトールは深くため息をついた。

 三人がここにいるということは、アタランテが負けたことを意味する。ヘクトールはここから戦況を巻き返さなくてはならないのだ。

 ノアは敵に視線を合わせながら、立香に言った。

 

「……助かる。よくやった」

 

 素っ気なく、短い称賛。しかし素直なその言葉に、立香は表情を綻ばせる。

 

「──はい! 一緒に勝ちましょう」

「ああ。オリオンとアルテミスはどうした?」

「思ったよりも魔獣が上陸していたので、その掃討に当たってます。援護はあまり期待できないかもしれません」

 

 アカモートが産み出した亡霊はこの島にまで到達していた。悪霊の大群に乱入されれば、戦うどころの話ではなくなる。そのため、オリオンとアルテミスは迎撃を買って出たのだった。

 とはいえ、アルテミスはアタランテに傷を負わされた身だ。この場にいたとしても、精々牽制程度の射撃にしかならなかっただろう。

 ジャンヌは鼻を鳴らして、前に進み出る。

 

「援護なんかいらないわ。そこのアホ白髪に代わって私たちが全員倒して終わりにしてあげる」

「おまえも白髪だろ魔腐女子」

「はあ? アンタなんかと一緒にされたくないんですけど!」

「先輩。アホ白髪の二人は置いといて、わたしたちで敵をやっつけましょう」

「「おい」」

 

 ヘクトールは気の抜けるやり取りを見て、すとんと肩を落とした。

 彼らは整然とした同質性を強さの基幹とする軍隊とは、一風変わった気質だ。トロイア戦争の時代なら間違いなく上官に殴り倒されていただろう。

 それは、思考から排除していたこと。

 今回の敵はまだ、子供なのだ。

 その時、ヘクトールは気付く。自らの心体を縛っていた鎖──メディアとの契約が切れたことに。

 ペレアスと斬り結んでいたアキレウスは、そこから離脱してヘクトールの隣に立つ。

 

「メディアとの契約が切れた。俺は好きにやるつもりだが、アンタはどうする」

「……まあ、普通に考えれば勝ち目は薄いよな。それに誰がどう見ても悪役は俺らだ。聖櫃と女神使って世界を滅ぼそうってんだからな」

 

 アキレウスは微妙な顔をして、

 

「確かにそりゃ正論だな。面白みに欠けるが」

「オジサンはお前みたいのと違って常識人なんです。降伏が受け入れられるならしたい気分だ」

 

 そう愚痴をこぼすヘクトールに反応したのは、ペレアスだった。彼は折れた剣を振り回して言い放つ。

 

「こんな中途半端なとこで終われるか! 折角ならオレたちにぶっ倒されてから降伏しろ!!」

「先輩、素直に降伏させておけば良いのに、ペレアスさんが余計なこと言ってます!」

「くっ、これだから無名騎士は!」

 

 ペレアスの背中にマシュと立香の言葉の刃がどすりと突き刺さる。彼の宝具は致命傷を無効化できるが、心の傷までは防げなかったらしく、密かに悶絶した。

 何にせよ、これで刃を交える以外の選択肢はなくなった。不満げにため息をつくヘクトールを尻目に、アキレウスは言う。

 

「正論好きなアンタにひとつ教えといてやる」

 

 槍を握る手に力が入る。

 

「俺たちに負けるような奴らが世界なんて救えるか?」

 

 ヘクトールは笑い、

 

「……仕方ねえ。乗ってやるよ」

 

 そうして、トロイアとアカイアの両雄は並び立つ。

 彼らは、ともに両軍で最強と謳われた英雄だ。トロイア戦争の激戦を彩ったこの二人の強さは、どんな敵の前でも色褪せはしないだろう。

 ひとりは、全てを貫く槍を。

 ひとりは、誰よりも疾い足を。

 決して交わらぬはずの二人はいま、

 

 

 

「「───()()()()()()」」

 

 

 

 初めて、肩を並べたのだった。

 瞬間。目眩く炎が、拳が、斬撃が躍りかかる。

 けれど、そのどれもが痛痒を与えるには至らない。竜の息を放つに等しいジャンヌの火炎も、世界そのものであるアキレウスの盾の前には小火に過ぎない。

 息を合わせたように、二人は踏み込む。

 数の差は明白。しかも敵はそこらの雑兵ではなく、全員が人々に認められた英霊だ。たとえ一対一であったとしても生半可ではない相手を前にしてなお、彼らは攻めることを選んだ。

 そこには一切の計画も打算もない。ただ自身の技の赴くままに、槍を振るう。

 殺し合ったからこそ分かる、互いの呼吸。どこをどう狙い、何をしたいのかが合図するまでもなく手に取るように感じられた。

 だから、アキレウスとヘクトールに死角は存在しない。彼らが繰り出す武技はあまりにも流麗。ペレアスの剣が、アステリオスの拳が、目を向けるまでもなく捌かれる。

 それどころか、数で上回るはずの相手を防戦に回らせてさえいた。

 喩えるなら、四方に鋼の壁を張り巡らせた要塞。どこにも弱点はなく、攻めればそこから撃ち返される。

 だが。

 炎を纏いながら、ジャンヌは駆け出す。

 

「マシュ! 守ってたらこいつらの思う壺よ、攻めなさい!」

「ですが、先輩とリーダーの守りを外れる訳にはいきません」

「攻撃は最大の防御! いざとなったらアホ白髪が立香の盾になる、これで良いでしょう!?」

「いや、それはさすがに……」

 

 立香は苦笑いを浮かべる。確かにノアは滅多なことでは死なない体を持っているが、ジャンヌの提案は暴論に等しかった。

 しかし、ノアは至って平静に首肯する。

 

「あいつら相手にキリエライトを遊ばせておく余裕はない。どっちにしろおまえらが抜かれれば俺たちは終わりだ。それに、こいつも俺も自分の身くらいは守れる」

「そうだよ、マシュ。私たちのことは心配しないで。私もリーダーも、そんなにヤワじゃないから」

「──分かりました。行きます!」

 

 身の丈ほどの大盾を携え、彼女は走る。

 なぜジャンヌがあんな提案をしたか。それは攻め手を増やして自分が動きやすくなる状況を作るためだろう。

 ジャンヌの火力が活かされない原因は、アキレウスの盾だけではない。彼女に攻撃が向くことで、必然防御に回る必要があるからだ。

 ならば、マシュに求められていることは。

 走る勢いを落とさず、アキレウスとヘクトールの間合いへ飛び込む。

 ペレアスとアステリオスの援護があるとはいえ、間合いの内は一撃必殺の致死圏内。要塞の壁に丸腰で体当たりするようなものだ。

 それでも、マシュの心中には一片の恐怖すらなかった。

 縦横無尽に閃く槍撃。彼女は微塵も怯むことなく、ことごとくを受け止める。

 アキレウスとヘクトールに比べれば、マシュはまだ半人前にも達していないだろう。ほんの最近戦いに身を投じた者と彼らとでは、元々の戦闘経験が違う。

 だとしても。

 この盾は、この力は、疑いもなく英雄だけに許されたモノだ。

 何より、胸中に秘めた熱だけは誰にも負けはしない───!!

 

「く、ら、え───!」

 

 ありったけの魔力を込めて、ジャンヌは炎の鉄槌を叩きつける。

 マシュの奮闘が生んだ、アキレウスとヘクトールの死角。アタランテ戦での消耗を無視するように、ジャンヌは吼えた。

 ぞくり、と背筋が冷える。

 この隙を、敵が認識していたとしたら。攻撃がどこから飛んでくるかなど、一択でしかない。見えないからこそ、予測がついてしまう。

 刹那、ペレアスはジャンヌの前に飛び出していた。

 

「『不毀の極剣(ドゥリンダナ・スパーダ)』」

 

 振り向きざまの一刀。

 巨塊の炎を切り裂き、その先のジャンヌにまで到達する斬風。

 正眼に構えた剣が、柄や鍔ごと砕け散る。ペレアスの得物は何の曰くも持たぬ無銘の剣では、如何に上手く受けようとも到底耐え切れるものではなかったのだ。

 宝具を発動している彼に傷はない。しかし、その背後。斬撃を掠めた左肩を血に染めるジャンヌの姿があった。

 それでも、彼らは淀み無く動く。

 間髪入れず突撃するペレアスの背に向けて、ジャンヌは自らの剣を投げつける。

 

「借りパクは許さないわよ」

「オレは借りた物は前より綺麗にして返す主義だ!!」

 

 それを背面で掴み取ると、一文字に抜き放つ。

 ヘクトールは迫る刃を躱しつつ、舌打ちした。

 

「おいおい、絶対に当てたはずなんだがね! こりゃどういうことだ!?」

「愛の力ってやつだ! どうだ、羨ましいか!」

「同情するぜ、俺は重い女はノーサンキューなんだよ!」

 

 次々と繰り出される槍撃に鞘をあてがい、剣で切りかかる。

 その切っ先はヘクトールの頬を浅く傷つけ、彼は数歩後退する。その陰からアキレウスの槍の穂先が閃いた。

 攻撃の出処を読ませない突き。手先が寸分でも狂えばヘクトールを打ち抜いていたであろうアキレウスの絶技もさることながら、ペレアスもそれら全てを捌き切る。

 アキレウスとヘクトールの意識がペレアスに傾いたその隙、二人の頭上を叩き潰すように拳と盾が飛んだ。

 彼らは弾かれたようにその場を飛び、二つの剛撃を避ける。背中合わせの格好で、アキレウスは息をついた。

 

「ペレアスとかいう剣士のせいで埒が明かねえ。必殺の一撃も隙を晒すだけだ」

「だったら、アレを使えば良いだろ。あいつのインチキ宝具を破るにはそれしかない」

「……やるか」

 

 アキレウスは槍を地面に突き立てる。そして、ペレアスを指差して、

 

「一騎打ちを申し込む。使えるのは互いの得物のみ。その他の加護や魔術、当然宝具も禁止だ。俺も盾は使わねえ。受けるか否か、ここで答えろ」

 

 ペレアスは逡巡する。

 悪い話ではない。アキレウスとの一騎打ちを演じている間は、残りの全員でヘクトールを叩くことができる。負けたとしても──無論、負けるつもりなどないが──アキレウスに相応の手傷を与えられたなら、仲間のためになるだろう。

 そんな建前を吐き出すようにして、ペレアスは笑った。

 相手はアキレウス。ヘラクレスに勝るとも劣らぬ大英雄。それだけで、断るなどという選択肢は毛頭存在しなかった。

 

「オレは受ける。いいな? ノア」

「やるからには勝て。ダビデがあいつの踵を潰したのを無駄にするな」

「分かってる。後は任せた」

 

 ペレアスとアキレウスの視線がぶつかり合う。

 

「決まりだな。──『宙駆ける星の穂先(ディアトレコーン・アステール・ロンケーイ)』」

 

 槍を起点に、外界とは隔絶された空間が創り出される。それは固有結界と似て非なる大魔術であり、公正なる決闘空間であった。

 端から見れば、彼らの姿は消滅したようにしか映らなかった。ひとり取り残されたヘクトールは、頭を掻きながら俯く。

 異様に暗い空気を纏う彼に、ジャンヌの治療を行っていた立香は戸惑いながら声を掛けた。

 

「あの〜、どうしました? あんなにイケイケで戦ってた人が急に病まれると戦いづらいですよ」

「藤丸、あんま話し掛けてやるな。ああいうおっさんには色々あんだよ。腰痛肩こり加齢臭……」

「いや違いますけどぉ!? オジサンはいつだってフレグランスな香りを漂わせてるナイスガイだろうが!」

「あきらめろ、へくとーる」

「くっ…! これが風評被害か!」

 

 ヘクトールは現代のレッテル貼りの恐ろしさに悶えた。マシュは大盾を構え直しながら、

 

「何だか知りませんが効いているようです! チャンスです!」

 

 その言葉に呼応するが如く、ジャンヌは立ち上がる。左肩の血は止まったが、全力を出せる本調子ではない。

 だからこそ、彼女はあえて左手で旗の穂先を突きつけた。

 

「茶番は終わりよ。Eチームのシリアス担当である私がケリをつけるわ」

「随分と甘い考えだな。自分が負ける可能性も考えておくのが戦の常道だ」

 

 ひゅん、と槍が空を切る。

 その切っ先が向くのは一点、マスターたちの前に立ちはだかるマシュだった。

 

「その盾の堅さ、俺が確かめてやる」

 

 槍を担ぐような姿勢。

 右腕の肘から炎が噴き上がる。

 それは正真正銘、彼の全身全霊の一投であった。

 

「『不毀の極槍(ドゥリンダナ・ピルム)』──!」

「──『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!」

 

 視覚より早く、体が動いていた。

 全てを穿つと言われた槍と白色の紋章盾が衝突する。

 同時に、耳をつんざく高音が鼓膜を揺らした。

 

「っ、ぐぅ……!!」

 

 ごりごり、と歪な音と衝撃が脳の中心に響く。

 ヘクトールの槍は単純な破壊力で言えば、アーサー王の聖剣に大きく劣る。しかし、一撃の貫通力はそれこそ比較にならないほどに格が違う。

 星の聖剣が面を焼き尽くす火炎放射器だとするならば、彼の槍は一点を貫き通す切削機だ。

 極限まで無駄を削ぎ落とした一撃。どこまでも鋭さを追究したその槍は、マシュが今までに体験したことのないモノだった。

 宝具とはその英霊が持つ誇りそのもの。個の究極を詰め込んだそれと対抗するには、少女の肉体は矮小に過ぎた。

 それでもなお。

 この世界では、精神が肉体の先を行くことは往々にして起こる。

 

「く、ああああぁぁぁっ!!」

 

 満身の力を込めて、盾を振り上げる。

 白い円盾の表面を槍が滑り、明後日の方向へ飛んでいく。

 それを見届けるや否や、アステリオスとジャンヌは駆ける。ヘクトールは力強く振るわれる鉄拳を躱し、槍を手元に戻すと、迫り来る燃える旗の穂先を弾いた。

 しかして、攻勢が衰えることはない。

 この機を逸せば勝利は遠ざかる。

 絶え間ない連撃の最中、ヘクトールを捉える決定打は生まれずにいた。

 英雄と怪物と人間には三すくみがある。曰く、人間は怪物に勝てず、怪物は英雄に勝てず、英雄は人間に勝てない。

 それに則るなら生粋の英雄たるヘクトールと、クレタ島の怪物であるアステリオスの相性は最悪に近い。あらゆる怪物はどれほど強大な力を持っていようと、英雄の踏み台にされるのが常だ。

 言わば、相剋。怪物が英雄に勝てないというのが世界に刻みつけられた法則なのだとしたら、アステリオスの拳がヘクトールを捉えることはないだろう。

 怪物が英雄に勝つことはない。決して。

 あと一手。ただそれだけが途方もなく遠い。

 ジャンヌも応急処置を施しただけの腕では、全力で打ち込むことができない。加えて、アステリオスは隻腕。敵を仕留めるには文字通り手数が足りなかった。

 負傷した肩が生み出す攻撃の間隙。ヘクトールはジャンヌのそれを突いて、踵蹴りを見舞う。

 アステリオスは拳を振り上げ、ヘクトールは槍を引き戻す。

 後はもう速度とリーチの勝負。

 ヘクトールほどの槍使いが負ける道理はない。得物を突き出す刹那、彼は見た。

 

(どうして、お前がそこにいる)

 

 アステリオスを庇うように立つノアが、そこにいた。

 服には防護のルーンが刻まれ、体表を強化の印である魔力光が血管の如く張り巡っている。

 そこまでしたとしても、ヘクトールの槍を止めるには到底至らない。けれども、魔術の障壁ではなく人間の肉体だからこそできることはあった。

 胸を貫いた槍を掴み、軌道を逸らす。

 サーヴァントがあと一息届かないのなら、その背を押してやるのがマスターの仕事だ。

 そのためなら、何を投げ捨てても良い。

 ノアは不遜に笑った。

 

「おまえは()()だ。アステリオス」

 

 怪物は英雄には勝てない。

 ならば、英雄に勝つ存在とは。

 

「おおおおおおおぉぉぉぉっ!!!」

 

 裂帛の気合いとともに。

 必殺の拳撃が、ヘクトールの霊核を打ち据えた。

 

(…………なんだ。これなら、心配はいらねえな)

 

 意識を手放す瞬間、彼が見たものは。

 拳を合わせる、アステリオスとノアの姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫し時間を遡って。

 観客もいない闘技場に、刃鳴りだけが響き渡る。

 アキレウスが創り出した決闘場では、己の技だけが頼みとなる。ペレアスの宝具はもちろん、湖の乙女より与えられた加護であっても、そこでは意味をなさない。

 

「───ふっ!」

 

 短い呼吸に合わせて、無数の突きが瞬く。

 全てに対応する必要はない。ペレアスは自身に向かってくる攻撃だけを打ち落とした。

 彼は次々と襲い掛かる槍撃の数々を器用に捌いていく。単純な白兵戦において、ペレアスはアキレウスの攻勢を見事に耐え抜いていた。

 彼に特別な武具はない。万軍を一撃で葬る剣も、どんなに深い傷を癒やす鞘もありはしない。

 その宝具でさえ、死後英霊となってようやく得たモノだ。つまり、生前のペレアスは人外じみた英雄と敵が織り成す戦場を、自らの身体と剣技だけで潜り抜けてきたのだ。

 ペレアスはただ自分の技を磨くことだけで、円卓という超人の集団に食らいついてきた。故に、宝具や加護を封じられたとしても、その強さが揺らぐことはない。

 相手の動きを読み、先手を打つ。

 防御を先出しで行う彼の剣は、アキレウスの槍技にも負けてはいなかった。

 瞬間、一際高い金属音が鳴る。

 互いの攻撃に弾かれ、両者の距離が開いた。

 アキレウスは唐突に切り出す。

 

「なぜ俺の槍がお前に通じないか、ようやく理解できた」

「……はあ?」

 

 ペレアスは脈絡のない言葉に首を傾げる。アキレウスはそんな戸惑いには目もくれない。槍の柄で肩を軽く叩きながら、口を開いた。

 

「お前の剣は生きるための剣だ。誰かを倒そうとするよりも、身を守ろうとする。俺が躍起になるほどお前は防戦に徹する。これじゃあ決定打は生まれない」

「そんな理屈付けたところで斬り合いに勝てるとでも思ってんのか? オレは口論で決着をつける気はねえぞ」

「ハッ、これは斬り合いじゃなくて殺し合いだろうが。端的に纏めるとだな───」

 

 アキレウスの姿が視界から消える。

 首元を狙う強烈な殺気。考えるより早く、ペレアスは回避行動を取っていた。

 

「───本気で殺しに来いよ、ペレアス。そんな剣で俺を殺れると思うな」

 

 濃密な殺意を滾らせながら、アキレウスは刺突を繰り出す。

 その穂先に剣身を合わせるが、刺突の勢いは防御を容易く上回り、ペレアスの右上腕を裂いた。

 直後、槍が雨霰の如く打ち込まれる。

 それらは、先程までとは格段に威力が上がっていた。的確に攻撃を捕捉するペレアスの守りを突き破り、徐々に肉体を削っていく。

 鮮血が飛び散る。ペレアスの先読みは自らの経験と相手の動き、そして殺気を感知することで成り立つ技術だ。ただ単に威力の高い攻撃なら、受け流すことも難しくはない。

 しかし、アキレウスが放つ殺気はあまりにも高密度。全ての動作の殺気が同じ以上、ペレアスの先読みの判断材料はひとつ失われる。

 その結果、ほんの僅かに生じる隙が回避を遅らせた。ペレアスの戦い方では生まれ得ない勝ち目を、アキレウスは切り開いたのだ。

 流しそこねた一撃が、腹部に突き刺さる。

 

「がっあ、くそ……っ!!」

 

 どくどくと流れ出す血。傷口は灼熱感を伴い、意識が深みに連れ去られていく。

 それを見逃すアキレウスではない。槍の一振りがペレアスの胸を袈裟に斬りつける。鎧が音を立てて破砕し、おびただしい鮮血と金属片が辺りに散った。

 あらゆる武術は敵を倒すためにある。ペレアスの剣術も我流ではあるが、敵を倒すことを考えて編み出されたものには違いなかった。

 だがしかし、アキレウスはその純度が違う。

 なぜなら、彼は英雄となるべくして産まれた者だ。

 長く平凡に生きるよりも、短い英雄の人生を選んだ。アキレウスには最初から、自分の命を大切にするという感覚が抜け落ちている。

 そんな男が、生きるための技を身につけるはずがない。

 ひたすらに、ただひたすらに、敵を屠るだけの力を追い求め続けた。

 彼にとって、人生とは一本の轍。凄絶に死という名の終着へと疾走し、走り終えた後に翻って見る跡でしかない。

 だからこそ、彼らは強い。

 普通の人間が求める幸福や快楽を切り捨て、ただただ使命を成すために純化された存在。

 ───そんな人間を、二人だけ知っている。

 ひとりはアーサー王。聖剣を抜いたその時からブリテンの運命を背負い、使命に押し潰され、ついには死ぬことすら許されぬ眠りについた。

 もうひとりは、どこまでも無欲だった。神に祝福された聖なる騎士。故に神の子の血を受けた杯を見つけ出し、生きながらにして天へと召された。

 事実、彼らの名は1000年以上先の世でも謳われている。英雄は時を超え、人々の中に生き続けるのだ。

 対して、ペレアスはその名を少しばかり残すだけで目につくような偉業を達成することもなかった。

 

(ああ、気に入らない)

 

 彼らがではない。

 彼らを導いた運命が、どうしても気に入らない。

 ひとりの少女が剣を抜いた。この国を救うために命を賭して戦った。王の元には数々の騎士が集まり、繁栄し、脆く崩れさった。それでも王は納得していただろう。なぜならそれが、自分で選んだ定めなのだから──────黙れ、そんな大層な御託で幕を閉じさせてたまるか。

 彼らは人間だ。人間だった。

 だというのに、使命を終えれば回収され、次の出番まで保存されるのが宿命なのか。

 この世界に本当に神様なんてモノがいるのなら、ひとりの使命を果たした人間くらい幸せにしてみせろ。そんなクソッタレた運命(はなし)しか紡げないなら、オレが代わりに筆を執ってやる。

 王と騎士の物語なんて、優しい絵本みたいに、取ってつけた甘ったるい終わり方で構わない。

 そう。

 

〝───ペレアス様は、こんな私の人生を、めでたしめでたしで終わらせてくれるのですね〟

 

 朦朧とする意識が澄み渡っていく。

 冷たい月明かりを柔らかに反り返す湖の光。

 その時、閃いた斬撃がアキレウスの頬を撫でた。したり落ちる血はまさしく彼のものであり、それを成したのはペレアスの剣に他ならなかった。

 

「生きるための剣───それで何が悪い」

 

 この剣は。

 この技は。

 他の誰かを護るためのモノだから。

 

「お前と違ってオレには、絶対に死ねない理由があるんだよ! あいつの、オレの人生をめでたしめでたしで終わらせるっつう最高の理由がな!!」

 

 ハッピーエンドが良い。

 誰もが笑って終えられる、都合の良い結末が最高だ。

 ただひとつ、ペレアスという英雄が誇れる偉業。

 それは、ひとりの女を幸福な終着に導いたことだろう。

 

「それがお前の在り方か? そんな生温い願いだから、中途半端な英霊にしか成れなかったんだろ」

「ぐふっ! オレが一番気にしてることを……うるせえ、オレはまだ道の途中なんだよ!」

 

 二人は持てる力の全てを結集して斬り結ぶ。

 ペレアスの体力は既に限界。荒々しく剣を振り、血を吐きながら斬りかかる。

 足を止め、腕が千切れんばかりに打ち合う。両者の足元には黒ずんだ血溜まりができていた。

 

「途中もクソもあるか。俺たちはもう死んでる。とっくに全部終わってんだよ」

 

 彼らはきっと、そんな生き方しかできなかった。

 息を止めたまま走り抜け、後悔や反省が訪れるのは全てが終わった後。顔の見えない他の誰かのために英雄となった彼らの祈り(ねがい)は、尊ばれるべきものなのだろう。

 湖の乙女と結ばれた騎士は、天寿を全うし幸福な最期を迎えた。

 

「それでも、オレの話はまだまだ終わってねえ。今度は世界を救う使命を得ちまった。……次は、万人にとっての英雄になってみせる!」

 

 眼前に差し迫る槍を左腕で弾く。

 偶然か必然か、その一撃だけは完全に見切った。

 否、それは既に終着に辿り着いた者と、終着の先を求めた者の差だったのかもしれない。

 

「だから、そこを退けよ大英雄(アキレウス)

 

 血の雫を振り乱して、剣を掲げる。

 ペレアスは叫んだ。

 

 

 

 

「───これは、オレの英雄譚(モノガタリ)だ!!」

 

 

 

 

 一閃。

 死に物狂いの一太刀が、アキレウスの心臓を断ち割った。

 

「…………────!!」

 

 全身を駆け巡る痛み。彼は目を見開き、槍を握る手に力を加える。

 たとえ踵を潰され、心臓を斬られたとしても、アキレウスはしばらくの間全力で戦うことができる。

 ペレアスに回避する余裕はない。全身から血が抜けたように倒れ込む彼の体を刺すだけで相討ちに持ち込める───!

 

「……勝負は預ける」

 

 前のめりに倒れるペレアスを、アキレウスは右腕で受け止める。

 槍を握る指がほどけ、地面に落ちた。

 

「これがお前の英雄譚だと言うのなら、必ず世界を救ってみせろ。俺の名が廃れる」

 

 彼は走り抜けた。

 今回の轍は特に短かったが仕方ない。

 得難い感傷を胸に、アキレウスは言う。

 

「俺の分まで、お前は生きろ」

 

 それは、いつかの昔に聞いた言葉。

 暗闇に落ちかけた意識の中、ペレアスは思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、あれはランスロットが火刑に処される王妃を連れてフランスの城へ逃げ込んだ数日後のことだった。

 円卓が割れ、一角の勢力を成していたランスロット派の騎士たちが抜けたことで、王城はいつもより閑散としていた。

 キャメロット。玉座の間。

 そこに詰め掛けるのはアーサー王についた残りの円卓と、その配下の騎士たち。玉座の間を埋め尽くすような威容も、かつてのそれに比べれば半減どころではない。

 ペレアスはその中心に放り出される。

 彼の両腕両足には枷が嵌められ、一切の武装を剥ぎ取られていた。

 顔を上げる。玉座に鎮座する王と、その両脇を固めるのはガウェインとべディヴィエール。その周囲に残りの円卓の騎士が侍る。

 鉛のように重苦しい空気の中、最初に口を開いたのはモードレッドだった。

 

「ペレアス。なぜ貴様がここに連れて来られたのか、分かるか」

 

 突き刺すような語気。

 ペレアスは素っ気なく答える。

 

「……円卓にスープこぼした件か? あのシミはマーリンに頼み込んで綺麗さっぱり消してもらったはずだ」

「ハ、笑えねえ冗談だな。ディナダンの後釜にでもなるつもりか?」

「じゃあ何だよ。オレには他に心当たりなんてねえぞ。それに多分、ディナダンはお前が───」

 

 ガウェインは焦れたように、しかしてそれをおくびにも出さずに忠告する。

 

「モードレッド。早く本題に入りなさい」

 

 モードレッドは、突きつけるように言った。

 

「これは、お前を追放する裁判だ。かねてよりアグラヴェインが唱えていた、番外位の抹消に関わる話でもある」

 

 おそらく、モードレッドは既に反乱の用意を済ませていたのかもしれない。ランスロットの密通という王宮の醜聞を利用して、騎士勢力を自らの陣営に取り込む工作を行っていた。

 ここに集まった騎士たちも、彼の息が掛かった者ばかりだったのだろう。

 裁判の進行役を任されたのも、暗闘の結果に違いない。

 

「我々が第一に懸念しているのが、お前がランスロットの密偵ではないかということだ。お前とあの男は関わりが深い。ヤツの義母である湖の乙女がお前の配偶者だからだ」

「とんだ言いがかりだな。証拠でもあんのか」

「───前に、王妃が襲撃される事件があったな」

 

 モードレッドは語った。

 メレアガンスによる王妃の誘拐事件。ペレアスやアイアンサイドを含めた10人の騎士と出掛けたところを、メレアガンスは160人の重装部隊で襲い掛かった。

 だが、ペレアスとアイアンサイドの奮闘によって、彼らはことの事態をランスロットに伝えることに成功する。

 結果、ランスロットに追われたメレアガンスは降伏し、後日決闘を申し込んで斬り捨てられた。

 そして、モードレッドは嘲るように笑う。

 

「冷静に考えてもみろ。なぜお前は、我らが王ではなくランスロットに誘拐を告げた? 王妃たるギネヴィアが拐われたのなら、まずは王に伝えるべきではないのか」

 

 その主張に食ってかかったのは、べディヴィエールだった。

 

「あの時は急を要する事態だったはず。即座に動ける人員はランスロットしかいなかったのでは」

「ならば、後日メレアガンスがランスロットの不貞を告発した件はどう説明する。思うに、メレアガンスは二人の不義を暴くために襲撃を起こしたのではないか? ペレアスらがランスロットに事態を伝えたのはつまり、密通が露呈することを阻止するためだったと考えられる」

 

 死人に口なし。モードレッドは物言わぬメレアガンスを使い、理屈を並び立てた。実際にメレアガンスがランスロットと王妃の不貞を知ったのは、降伏した後のことだ。

 しかし、今この場にいる誰もそれを知ることはない。モードレッドでさえも。だからこそ、その主張を完全に棄却することはできなかった。

 何かを言おうとしたべディヴィエールを遮るように、モードレッドはペレアスを指差して、声を張り上げる。

 

「それだけではない! ペレアスを円卓に推挙した騎士はランスロットやボールス、エクター・ド・マリス……王を裏切りフランスへ逃亡したランスロット派の者ばかりだ! 加えて、ペレアスにはランスロットと戦うことのできない加護が、湖の乙女によって掛けられている───目に見える証拠は無くとも、状況がこの男の背信を物語っている!!」

 

 玉座の間がざわめく。

 モードレッドは智者ではない。しかしそれ以上に、決して愚者ではない。ランスロットの裏切りという嘘に揺らぐ王宮で、偽りのないモードレッドの言葉は強く響いた。

 ガウェインは睨みつけるような目つきで、言葉を突きつける。

 

「モードレッド、それは暴論です。ペレアスを円卓に推挙したというなら、私もその内のひとりだ。何より、彼の言葉なしに王への背信を語ることなどできない!」

 

 モードレッドは表情を凍てつかせて、睨み返す。

 

()()()()()

 

 冷たく、硬質な声音で言った。

 

「───()()()()()()()()()()?」

 

 その語調は仲間に向けるとは思えぬほどに研ぎ澄まされていた。

 

「ペレアスを擁護することはすなわち、ランスロットをも庇うことに繋がるぞ。我ら全員を裏切った、あの男を!!」

「っ、だとしても」

「底が見えたな、ガウェイン! 貴様の王への忠誠は、所詮その程度───」

「それは違う!」

 

 ペレアスは、続く言葉を遮った。

 

「ガウェインほどの忠義の騎士は、他のどこにもいない。……それは、それだけは、この場の全員が知ってるはずだ」

 

 しん、と辺りが静まり返る。

 今にも噛みつきそうなガウェインとモードレッドは顔をそらし、ペレアスに視線を注いだ。

 モードレッドは鼻を鳴らし、話を戻す。

 

「…………そもそも、番外位という席は一度抹消されたはずだった。貴公らも話には聞いていよう。円卓結成以前の戦乱を戦った、野蛮なるベイリン(ベイリン・ル・サバージュ)のために番外位は用意され───そして、彼の背徳のために取り消された」

 

 ベイリン。円卓結成以前から円卓の初期において、ランスロットと並ぶと言われる強さを備えた騎士。マーリン曰く、その騎士の力と勇猛に太刀打ちできる者は誰もいないと評された。

 ベイリンは最も優れた騎士にしか抜けぬ剣を抜き、そして、王宮での殺人を行った。リエンス王を捕えた功績で一度は許されたものの、彼は神の子を貫いた槍に触れ、重大な事件を引き起こしてしまう。

 

「ベイリンが円卓に復帰し、死後空位となっていた場所に収まったのがペレアスだ。後は言うまでもないだろう。我らはまた、番外位によって不利益を被ろうとしている。この席を無くすことは、無残にもランスロットに殺されたアグラヴェインの悲願を叶えることにもなるのだ」

 

 故に、とモードレッドは続けた。

 

「ここにペレアスの死刑と、番外位が存在した全ての記録の抹消を求める! 勇敢にもランスロットに立ち向かったアグラヴェインやメレアガンスのために、後の禍根はここで断っておかねばならない!!!」

 

 モードレッド配下の騎士たちは同意を示すべく、鬨の声をあげる。今の王宮の騎士にとって、ランスロットは不倶戴天の敵だ。彼に斬り殺された二人の名は、彼らにどのように響いただろう。

 異様な空気に包まれ、呑み込まれそうになる歓声を止めたのは、他ならぬ王だった。

 王は機械のように平坦な声で言う。

 

「モードレッド卿、貴公はひとつ見落としをしている」

 

 そこに、ペレアスへの慈悲や哀憐は存在しない。

 あくまで合理的に、王は判断を下すだけだ。

 

「それは、湖の乙女のことだ。今ここでペレアス卿を処刑すれば、彼女は間違いなく我々に牙を剥く。そうした場合に頼るのはランスロットだろう。湖の乙女の魔術も無論脅威だが、新たな聖剣の類がランスロットらに渡れば、我らの勝ち目は無くなる」

 

 星の聖剣は湖の乙女に授けられた武器だ。それに類する宝具をまだ持っているとしたら。それを精強なランスロット派の騎士が装備すれば、戦いの行く末は分かりきっている。

 だから、ペレアスは殺せない。王の結論はそこに至った。

 

「王の名の下に、裁定を下す」

 

 まぶたを閉じ、開く。その目に、光は灯っていなかった。

 

「ランスロットとの戦いが終わるまで、ペレアス卿を城の地下牢に幽閉し、戦後にブリテンの地から永久追放。そして、番外位の記録はその一切を焼却処分とする」

 

 …………そうして、裁判は終わった。

 居合わせた全員に箝口令が敷かれる徹底さをもって、ペレアスは円卓の騎士ではなくなった。

 城の地下牢へ連行される道程。王とその両脇に侍るべディヴィエールとガウェインが、向こうから歩いてくる。

 ペレアスの姿を認め、王は視線を逸らしながら、

 

「ペレアス卿。私は──」

 

 言い切る前に、ペレアスは膝をついて礼をする。

 

「我が王よ、寛大な処分に感謝致します。最期までこの命を尽くせぬこと、どうかお許しいただきたい」

「…………面を上げよ。忠誠を尽くせぬことを以って、貴公への罰とする」

 

 そう言って、王は立ち去った。

 後に残るのはガウェインただひとり。王の供をすることなく、ペレアスの眼前に佇んでいる。

 

「……こんなところにいたら不味いだろ。モードレッドにでも見られてみろ、お前まで処罰されるかもしれねえぞ」

「王より許可は頂いています。今はただ、貴方と話がしたい」

 

 そう述べるガウェインの瞳は真剣だった。

 彼の眼差しに射竦められ、ペレアスは観念する。

 

「まあ、そういうことなら付き合うぜ」

「ありがとうございます。では、一杯どうぞ」

 

 ちゃぽん、と水音がする。ガウェインは自分の外套の下に酒瓶を隠し持っていた。あらかじめ用意していた杯に中身を注ぎ、ペレアスに手渡す。

 ゆらゆらと揺れ動く水面を見て、ペレアスは訝しんだ。

 

「……毒?」

「違います」

「じゃあ眠り薬か」

「全くもって違います」

「酔わせて殺すのって暗殺の常套手段だよな」

「違うと言っているでしょう! 良いから飲みなさい!!」

「ぐああああああ! 三倍の力で掴むのはやめろォォォ!!」

 

 という愚にもつかないやり取りを経て、彼らは取り留めのない話をした。

 

「この国って酒だけは美味いよな。酒だけは」

「そうですね。戦場ならまだしも、宴席で肉を親の仇のように焼くのは如何なものかと」

「一回消し炭みたいのが出てきたからな。そこら辺の犬にやっても食わなかったぞ」

「そういえば、王は何食わぬ顔で頬張っていた気が……」

「「………………」」

 

 特に話題があるわけでもなく、湧き上がってくる言葉をそのまま口から出すような会話。それでいながら、何かから目をそらすように。

 長いような、短い話。ペレアスを牢へ引っ張る騎士が急かすと、先に核心に触れたのは、ガウェインだった。

 

「どうやら時間のようですね。ペレアス、貴方はこれからどうするつもりです」

「牢から出たら、嫁と旅に出る。とりあえずローマの方にでも行ってみるかな。それで、暖かくなったら北を見て回ろうと思ってる」

「……私はあの場で何もできなかった。王の騎士であることでさえ、貴方から奪ってしまった。許してほしいとは言いません、ただ、私は」

 

 ペレアスはそれを手で制する。

 

「せっかくの別れだ。湿っぽいのは止めにしよう。それに、オレが勝手に円卓の騎士を名乗るのは自由だろ?」

 

 手枷から繋がった鎖を強く引かれる。投獄が決まったのに、こうしていることは不都合だ。ガウェインの計らいもここまでだということだろう。

 すれ違いざま、ペレアスは確かに聞いた。

 

「私の分まで、貴方は生きてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昔の記憶に浸っていた意識が引き戻される。

 強烈な眠気と倦怠感。半ば引きずられるように、ペレアスはダンテに肩を貸されていた。

 

「おや、起きましたかペレアスさん。気分はどうですか?」

「……思ったより悪くはない。それより、お前がここにいるってことは、海の方は勝ったのか?」

「ええ、勝ったことには勝ったのですが……」

 

 ダンテはちらりと背後を流し見る。それにつられて、ペレアスは後ろに目を向けた。

 水平線の向こうから飛来するフォルネウス。その後ろには、魔神柱の巨体を超える高さの津波がうねりを上げて、島に迫っている。

 黒髭の宝具『アン女王の復讐(クイーンアンズ・リベンジ)』の耐久力なら、津波自体には耐えられたかもしれない。が、船に乗っている人員は別だ。

 ましてや、その津波は魔神柱がもたらした神秘の籠った水流。たとえサーヴァントの身であっても、呑み込まれればひとたまりもないだろう。

 という訳で、黒髭たちは島へと逃げてきたのだった。ペレアスは今まで思考から排除し続けていた眼前の光景を直視する。

 そこでは地面に大の字になるノアにマウントを取り、タコ殴りにする立香がいた。

 ペレアスは借りていた剣をジャンヌに返しながら問う。

 

「剣、貸してくれてありがとな。助かったよ……ところで、あいつらは何やってんだ」

「ヘクトールを倒すために自分の体を盾にしたのよ。独断で動いたから立香の怒りを買ったってわけ」

「う〜ん、青春ですねえ。マシュさんは止めに入らなくて良いのですか?」

「はい、何だかとても心が洗われる気がするんです!」

 

 マシュは太陽のような満面の笑みを浮かべた。年頃の少女らしく可愛らしさはあるのだが、瞳の向こう側にはドス黒い狂気がうごめいている。

 一通りの折檻が済んだのか、顔面をボコボコに腫らしたノアが、涼しい様子で喋り出す。

 

「勝ちはほぼ決まったようなもんだが、まだフォルネウスが残ってやがる。しかも津波のおまけ付きでな。聖杯はあいつが持ってると見て間違いないだろう。つまり、この島が流される前にフォルネウスを倒す必要がある。そこでだ」

 

 ノアは黒髭の首を引っ掴んで、横に立たせる。

 

「このおっさんと融合してるテオス・クリロノミアを使ってトライデントを直し、フォルネウスにぶっ放す」

「ねえなんでこいつが仕切ってんの? しかもよりによってこういう人種は拙者と相容れないタイプなんですけど! 絶対にDQNだろこいつ!!」

「ゴチャゴチャ喚くな鬱陶しい。ワンピースの世界に送り返すぞ」

「いや拙者の元ネタそっちの黒髭じゃありませんけどぉ!? てかむしろこっちが元ネタだし!!」

 

 そうこうしている間にも、フォルネウスと水の壁は接近していた。ここが島でなく、サーヴァントたちが皆万全の状態なら、魔神柱とて恐れる対象にはならなかった。

 しかし、アルゴー号との戦いを経て、サーヴァントは一様に疲弊している。もはや全力の戦闘はできない。トライデントによる攻撃は、一発逆転の秘策なのだ。

 ともかく、黒髭をトライデントまで運べば勝機は見える。

 要は、フォルネウスに追いつかれるか目的地に辿り着くかの競走。トライデントに程近いこの場所からなら、追いつかれる心配は無いに等しかった。

 移動する彼らの行く手を、亡霊と水妖の一群が遮る。アルテミスの駆除を免れた、最後の一団だろう。

 ドレイクは銃に弾を込め直し、先頭に躍り出る。

 

「チッ! 本当にキリがない! 船もぶっ壊されたし、今日だけでとんだ大赤字だよ!」

「よぉし行け、メアリー殿、アン殿! 拙者は応援だけしとくから! 傷ひとつつけさせんじゃねェぞ!!」

「「お前も戦え!!」」

「こんな時に争うとか、本当にアホね」

 

 エウリュアレが思わずこぼした言葉に、全員が心の中で同意した。

 次々と襲い来る魔物はドレイクたちによって駆逐されていくが、圧倒的な数の差は如何ともし難かった。サーヴァントであれば負けることはないが、全ての敵に対応することはできない。

 その時、空間を割り裂くように、光の爆発が巻き起こる。何もない場所から爆発だけが生まれ、周囲の水妖を跡形もなく吹き飛ばした。

 そんな魔術を行使できる人間は、この場にはひとりしかいない。

 

「対サーヴァント戦ならともかく、こいつらはただの魔物だ。楽に殺せる。普段こき使ってるおまえらの代わりに、今回は俺が骨を折ってやる」

 

 そう言って、彼は右手の指を引き絞る。発射される魔力の弾丸は、弾幕を形成して触れたそばから敵を肉塊に変えていった。

 ノアは立香を顎で呼び寄せ、

 

「──手伝え、藤丸。おまえは撃ち漏らしを仕留めろ。ルーンは使うな、ガンドで良い」

「……! はい、リーダー!」

 

 二人は肩を並べ、術式を起動する。

 ノアが敵を薙ぎ払い、それを潜り抜けた獲物を立香が的確に仕留める。言葉は交わさずとも、彼らは互いに自分の役割を理解して、それを全うした。

 立香は気付かぬ間に、息をあげていた。フォルネウスから逃げながら、魔術を使うことは想像以上に神経を使う。カルデアの訓練を受けているとはいえ、彼女は普通の少女なのだ。

 汗をにじませて、立香は笑った。

 

「リーダー。私、みんなの代わりに戦えて、ようやく役に立てた気がします」

 

 サーヴァントとの戦いで、マスターができることは少ない。魔術に熟達していない立香はなおさらだ。

 そのことがずっと、気にかかっていた。仲間が血を流すのを、見ていることしかできない自分が情けなかった。

 そんな自分を置き去りにするみたいに、ノアは傷つきに行く。それが最善だったとしても、自分の痛みを忘れたその行動は見ていられなかった。

 ノアは語気に些かの不機嫌さを込める。

 

「藤丸。おまえはひとつ勘違いをしてる」

 

 いつになく真剣な表情。

 目が、耳が、引き込まれる。

 

「俺たちの中で、おまえを低く見積もってるのはおまえだけだ」

 

 思わぬ言葉に、立香は顔を背けた。

 

「……そんなこと言われたら、私、自惚れちゃいますよ?」

「おまえはそれだけのことをしてる。手本が欲しいなら俺を見習え」

「それは無理ですけど」

 

 優しい否定が、胸に滑り込む。

 そんな言葉に感化されて、視界が晴れた気分になる単純さが気恥ずかしい。

 それでも、それだけで、もう負ける気なんてしなかった。

 道を塞ぐ亡霊と水妖を越え、一行はトライデントの麓に辿り着いた。アルテミスはその表面に手をかざすと、金属同士が擦れ合う音を立てて、四角い穴が開く。

 

「ここにテオス・クリロノミアを放り込めば、後はトライデントが勝手にやってくれるよ」

「でも、この金属拙者の腕とがっちり食いついて離れないんですが。おれがあいつであいつがおれでみたいになっちゃってるんだけど」

「私に良い考えがありますわ!」

 

 黒髭はアンに拘束される。その上で両腕を前に突き出すような姿勢を取らされた。

 メアリーは黒髭に見せつけるようにカトラスを抜いた。これから行われるであろうことを理解し、黒髭は顔を青くする。

 

「ちょっ、ちょっと待てェェェ!! え、何、そんな原始的な方法!? 誰か頼むからバラバラの実持ってきてェェ!!」

「あぁ〜そんなに喚かれると手元が狂っちゃうよォ〜!」

「め、メアリー殿! 謝るから許して! 金でもなんでも全部あげるから!」

 

 刃を揺らめかせるメアリーに、ノアはどこからか取り出した糸鋸を手渡す。

 

「おい待て、より苦痛を与えるならこっちの方が良い」

「お前は黙ってろォォォ!! そんな質の悪い拷問、全盛期の黒髭くんでも三回くらいしかやったことないよ! マジでなんなんだこいつはァ! 目が本気なんだよ、怖いよ!」

「分かった分かった、そこまで言うならひと思いにやってあげるよ」

 

 メアリーは剣を振り下ろして、黒髭の両腕を切断する。彼女はそれを掴むと、トライデントに放り込んだ。

 

「ギャアアアアアアアアア!!!」

 

 盛大に噴き出す血を見ながら、黒髭は気絶する。それとほぼ同時に、トライデントに膨大な魔力の光が点灯した。

 上空の雲が渦巻く。

 青白い光の粒子が周囲に散らばり、海神の槍はその威容を一層漲らせた。

 それは、とうに失われたはずの神の一撃。

 一直線に放たれた極光は進路上の全てを破壊し、余波だけで島を崩壊させる。それを一身に受けた魔神柱は、成す術なく蒸発した。

 

「で、こうなるのか……」

 

 ぷかぷかと海に浮かびながら、ペレアスは呟いた。

 トライデントの威力は誤算だったが、何はともあれフォルネウスは打倒された。今回の特異点は、またしてもカルデアの勝利で幕を閉じるのだ。

 しかし、納得していない男もいた。コロンブスは額に青筋を立てながら、怒声を轟かせる。

 

「おい、何ここで終わろうとしてやがる! 俺はまだ何のお宝も手に入れてねえぞ!! せめて聖杯くらい寄越しやがれ!!」

「共に戦った絆が今回のお宝……という訳にはいきませんかねえ?」

「絆で金が儲かるか! 俺は金銀財宝を手にするまで諦めねえからな!」

 

 猛り立つコロンブスに、ロマンは言った。

 

「『ごめんなさい! もう退去が始まります! お宝は次の機会にしてください!』」

「く、クソがァァァ!!」

 

 ──第三特異点、定礎復元。

 こうして、果ての海の物語は終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カルデア、管制室。

 第三特異点から帰還した一行を待ち受けていたのは、フル装備の医療班だった。

 何しろ、今回は怪我人が多い。ダンテは腕を失い、ペレアスは満身創痍。ジャンヌも負傷している。カルデアの設備ならダンテの腕も治るだろうが、当分は絶対安静を強いられるだろう。

 移動式のベッドに縛り付けられながら、ダンテは慌てて告げる。

 

「そうです、ノアさん。『暗黒の人類史』を召喚した女の正体が分かりました。あの女と全く同じ姿をした敵が向こうにいて、メディアさんはそれをアカモートと呼んでいました」

 

 彼は、その名を口にする。

 

「グノーシス神話における知恵の女神ソフィア。神話では、アカモートはソフィアが物質界に切り離した分身です。決めつけるのは危険ですが、ほぼ間違いないかと」

「ソフィア……全然聞き馴染みのない名前ですね。リーダーは何か知ってるんですか?」

 

 立香に問われるものの、ノアが返事をすることはなかった。彼は口元に手を当てて、一心に考え込んでいた。

 独り言のように、ノアは呟く。

 

「……三年前、中東でシモン・マグスの末裔を名乗る魔術師と会ったことがある。根源に到達する理論と方法が確立したとかで、そのために人間を集めて片っ端から魔力結晶に変えてやがった。紛争地帯だからな、人間がいなくなったところで誰も気にしない」

「お前はそいつをどうしたんだ? まさか逃してねえよな」

「当たり前だ。俺が殺した」

「まあ当然ね。そんなやつ、万死に値するわ。それで、その話の何が関係あるのよ」

 

 ノアとペレアス、ジャンヌのやり取りを聞いて、立香とマシュは複雑な顔をした。他人の生き死にが軽く語られている会話は、恐ろしく現実味がない。

 ダンテはノアの意図を察し、情報を付け加える。

 

「シモン・マグスはグノーシス主義の祖とも言われ、ソフィアとして信仰されていたヘレンという情婦を常に側に置いていたと言います。確かに、関係がないとは言い切れませんね」

「ダンテさん、セクハラですか」

「燃やすわよ」

「ち、違います! 本当にそうなんです! ほら、キリスト教成立以前から初期はまだ神殿娼婦などの風習がありましたし、そう珍しいことではないんですよ!! かのオジマンディアス王も娘を神殿娼婦として捧げていますし!!」

 

 マシュとジャンヌに冷たい視線を注がれ、ダンテは泡を食いながら御託を並べた。

 シモン・マグスの末裔ということが真実なら、ヘレンが血脈に関わっていたとしても不思議ではない。

 ノアはかつて相対した魔術師と、『暗黒の人類史』の召喚者たるソフィアが無関係であるとは、どうしても思えなかった。

 立香は首を傾げる。

 

「その、シモン・マグスって人はそんなにすごい魔術師なんですか? イマイチ、よく分からないというか」

「マグス、という言葉自体が魔術師を表しますからね。ですが、聖書の記述に基づくなら彼はおそらく───」

 

 ダンテの言葉を引き取るように、ノアは頷く。

 

「ああ、シモン・マグスは神の子とほぼ同時代に、空を飛ぶ魔術を使っていた」

 

 つまり。

 

「───奴は、あの時代における()()使()()だ」

 

 ソフィア。ヘレン。シモン・マグス。

 正体に大きく近づいたものの、その真相は霧がかっていた。

 魔法使い。魔術の世界においてその単語が意味するところは知っている。だが、それが持つ重みを、立香はまだ知らなかった。



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第30.5話 劇場版 シン逆襲のムニエル︰|| 〜チェイテ城を添えて〜

綾波派です。でも一番可愛いのはシンジくんだと思います。


 外界とは隔絶されたカルデアだが、昼夜の感覚を忘れないために施設全体で管理が徹底されている。

 カルデア内で定められた時間で、早朝。

 立香(りつか)は久しぶりに柔らかいベッドで眠りにつき、起床した。いつものように準備を済ませて食堂へ向かう最中、彼女はどことなく違和感を覚えた。

 音がしない。いくら職員が減ったとはいえ、それなりに忙しい朝は生活音や談笑の声が聞こえてくるものだ。

 薄暗い不安を抱えながら、ついに食堂の扉前まで辿り着く。普段は聞き慣れた声が響いてくるはずのこの場所も、一切の静寂に包まれている。

 寝起きで鈍った頭でも、流石にこれが異常事態であることは理解できる。取り留めのない思考をまとめようとしたその時、立香は迫り来る足音を聞いた。

 思わず音の方に振り向く。すると、そこには目が据わったノアがいた。彼は寝癖の立った髪の毛を手でガシガシと掻きながら、立香を視界に捉える。

 

「……こんなとこで何やってんだ?」

「おはようございますリーダー。それが、ここに来るまで誰もいなくて。異様に静かで何か不気味じゃないですか?」

「たまにはそんなこともあんだろ。このネガティブ娘が。案外サプライズの準備とかしてるかもしれねえだろうが」

「え、私たちそんなに良いことしましたっけ」

「俺がいる時点で毎日パレードをやるべきだからな、本来は」

「言ってることが小学生なんですが」

 

 二人は食堂の中に入る。が、ノアが言ったような都合の良いことはなく、案の定無人のままだった。

 立香とノアは死んだ目で顔を見合わせる。

 

「これ完全に異常事態ですよね。嫌ですよ私は。ついこの前特異点修復したのに、バトルなんてしたくないです」

「それか新手のスタンド使いの攻撃だな。とりあえずこの状況、確実に言えることがひとつだけある」

「ほほう、何ですか?」

 

 ノアは意地の悪い笑みを浮かべて、

 

「俺たちが好き勝手しても咎める人間はいないということだ───!!」

「……なるほど、確かに───!!」

 

 そんなこんなで、カルデアの悪性新生物ことEチームマスターズは公共の場である食堂を植民地化した。彼らは厨房の冷蔵庫をがばりと開け放つ。

 食材をガサゴソと漁りながら、立香は大いに瞳を輝かせる。その目は無邪気な少女のものというよりも、欲望に塗れた獣の眼光であった。

 

「うわあ、何だかすごくテンション上がってきましたよ! 食パンにとろけるチーズ一袋まるまる乗せていいですか! チーズでトロットロにしてもいいですか!?」

「ああ、さけるチーズを裂かずに食べてもいいぞ!」

「やったああああ! 理想郷(アヴァロン)はここにあったんですね!!」

 

 などという知性をゴミ箱にかなぐり捨てたような言動を繰り返しながら、立香とノアは肥満気味のガキ大将が思い描く理想の料理じみた食品廃棄物を量産していく。

 元々、理性という名のブレーキが故障した面子である。ドッグランに二頭の獅子を解き放つようなものだった。ライオンはサファリパークにいるから可愛らしいのであり、それ以外の場所に連れ出せばネメアの獅子とほぼ相違ない。

 立香とノアを好きにさせるとは、そういうことだった。

 食堂がサバンナと化した数分後、息を切らしたマシュが、その扉を勢い良く開けて叫んだ。彼女は両手でダンボール箱を抱えている。

 

「大変です! カルデアのスタッフがボイコットを始めました!!」

 

 そこで、彼女はテーブルに並ぶ食品廃棄物と、チーズに埋もれたトーストを頬張るマスターたちの姿を見た。

 彼らは唖然とするマシュに暫し視線を注ぐと、何事もなかったように向き合って喋り始める。

 

「マンボウって99.99%は大人になれないらしいですよ。確率にすると宝くじで一等当てる十倍難しいんですって」

「マジかよ、そんなもん食ってんのか俺たち。ヤベーなオイ」

「マンボウ如きにわたしの存在感が負けた……!?」

 

 道端に転がる小石ほどどうでも良いマンボウの豆知識に後回しにされ、マシュは愕然と目を見開いた。

 しかし、その程度で二の足を踏むマシュではない。ダメ人間の扱いは慣れている。慣れたくもなかったというのは言うまでもないが。

 彼女は立香とノアの間を遮るべく、ダンボール箱を力強くテーブルに置いた。その衝撃でチーズ浸しになったトーストと他の食品廃棄物が四散する。

 

「馬鹿野郎ォォ!! 俺たちの理想郷(アヴァロン)を粉砕してんじゃねえ! ドラクエ4のアッテムトくらい荒廃しちゃっただろーが!!」

「あのような食への冒涜を理想郷(アヴァロン)とは言いません! むしろ元からアッテムトでした! 夕張市でした!」

「夕張市の風評被害がすごい……」

 

 マシュはダンボール箱を開ける。その中にはアンケート用紙のようなプリントがぎっしりと詰まっていた。

 立香は怪訝な顔をする。

 

「これは?」

「リーダーと先輩に対する苦情文です。お二人が来てから、カルデアの意見箱は前年比五倍の投書率を誇り、遂に今日ボイコットに繋がったと……」

「ああ? 感謝はされても苦情を言われる筋合いはねえぞ。こちとら世界を救うマスターだからな。勇者が壺壊したところで叱る村人なんていないだろ」

「リーダーはともかく、私は至って普通の優等生を貫いてると思うんだけどなあ」

「こんな惨状を生み出しておいて、よくそんな口が利けますね!?」

 

 どこまでも面の皮が厚いのが立香とノアだった。その鉄壁の皮の前には、生半可な説得は全くの無意味。それどころか反撃されるのがオチだろう。

 マシュは数枚の投書を手に取ると、咳払いを挟んでそれらを読み上げる。

 

「リーダーに関してはこんなクレームが寄せられています。〝いざという時にしか役に立たない〟〝もうずっとミストルティン撃ってろ〟〝カルデア内で人類悪に最も近い男〟〝なんでクリプターじゃないの?〟〝頼むから一発殴らせてくれ〟」

「よし、それ書いた奴ら全員俺の前に連れてこい。ひとりずつしばき倒してやる」

「うーん、でも割と真っ当な意見だと思いますよ? というか、リーダーに比べたら私なんて聖人に見えるんじゃない、マシュ?」

 

 立香に問われ、マシュは咄嗟に顔を背けた。

 

「そ、そうですね」

「あれ!? なんでこっち見ないの!?」

「藤丸のもあんだろ、出し惜しみしないでさっさと出せ。こうなったら俺以外にも犠牲になってもらう」

「くっ! 自分がもう傷を負ったからって……!!」

 

 マシュはダンボール箱の中から用紙を掴み、声に出す。

 

「先輩については、〝たまにそこはかとない狂気がうかがえる〟〝ホットケーキミックスを素材のまま食べるな〟〝距離の詰め方がエグい。アサシンのようにパーソナルスペースに入り込んでくる〟〝もっとちゃんとヒロインらしくしろ〟〝ゴキブリを素手で掴めそう〟などの意見が……」

「ホットケーキミックスそのまま食うとか原始人でもそんなことしねえぞ。ホットケーキになれなかったホットケーキミックスの気持ち考えたことあんのか」

「べ、別に良いじゃないですか! 素材の美味しさが絶妙で昔から好きなんです! そもそも最後のゴキブリ云々は完全にイメージで叩かれてるんですけど酷くないですか!!?」

 

 クレームの内容はともかくとして、カルデアスタッフたちの鬱憤が溜まっていたことは間違いなかった。

 立香とノアが来る前のカルデアは、激務に次ぐ激務とはいえ悩みの種は少なかった。精々がオルガマリー所長による常習的なパワハラ程度であり、概ね平和が保たれていたと言えるだろう。

 それを破壊したのがこの二人であり、人理焼却後は仕事が増えた上に彼らに悩まされるというダブルパンチをスタッフ陣はくらっていた。

 ちなみに、素のホットケーキミックスは含まれているデンプンが消化できないので、食べすぎるとトイレに籠もる羽目になる。決して真似してはいけない。

 立香はダンボール箱の中を覗くと、他の書類の隙間に挟まれた意見書を発見した。

 

「この投書はマシュ宛てみたいだけど?」

「えっ」

「〝最近ツッコミをサボっている。黒い女の子が可哀想。ピンクなすびはピンクなすびらしく煮浸しにされるか焼かれるべき。むしろ焼きたい〟……だって」

「そ、そんなはずは……」

 

 マシュは紙を受け取る。差出人の名前を確認しようと裏面に返すと、そこには黒い煤がべっとりと付着していた。その煤と文面から考えるに、差出人として浮かび上がるのはひとりしかいない。

 

「これジャンヌさんですよね。絶対にあの人しかいませんよね」

「シャドーハウスからの贈り物じゃない?」

「いや、確かにジャンヌさんは黒いですけど!!」

 

 思わぬ一撃にマシュはうろたえる。

 彼女自身、最近はツッコミ役を放棄していた自覚があったのだろう。その反応は図星を突かれたものに違いなかった。

 ノアは肘をつきながら、ため息をもらす。

 

「で、ボイコットした連中はどこにいるんだ」

「箱の上にムニエルさんからの手紙が置いてありました。それによると〝ノアトゥール。お前の大切なものをひとつ預かった。取り戻したくば指定の座標にレイシフトしろ〟という文言が」

「おいおい、誰がオフの日にレイシフトなんてするかよ。もっと俺たちを労れ」

「リーダーがスタッフを労らなかったせいでこうなってるの理解してます?」

 

 立香は何の気なしに指摘する。

 

「でも、リーダーの大切なものをひとつ預かったってありますけど」

「人は誰しも大切なものを失って大人になんだよ。それが人生ってもんだろうが。財布の奥底にあったクーポン券失くした時とかな」

「スケールが小さすぎません?」

「喪失の大きさってのは人それぞれなんだよ。スケールの大小じゃねえ」

 

 そう言って、ノアは立ち上がる。彼が食堂の扉に手を掛けたその時、マシュは言った。

 

「どこに行くんですか?」

「しょんべんだよ言わせんな恥ずかしい」

「とても羞恥心がある人の言葉じゃないのですが!?」

 

 ノアの姿は廊下に消えていく。

 脱走した猫ではないが、今回ボイコットを敢行したスタッフたちもしばらくすれば戻ってくるだろう。立香もマシュも、そこまで問題視していないのが本音だ。

 そうして、一分も経たないうちにノアは食堂に戻る。不遜な顔は鳴りを潜め、どんよりとした雰囲気を纏っていた。

 彼は額の辺りを手のひらで覆い、くぐもった笑い声を捻り出す。

 その異様な様子に、立香とマシュは戦慄した。

 

「おまえら、すぐに準備しろ。レイシフトするぞ」

「急にどうしたんですか。戻ってくるの早いですね。さっきまであんなに乗り気じゃなかったのに」

 

 立香の言い分に、マシュも頷いて同意する。

 そんな二人に、ノアは口端をひくつかせて言った。

 

「───決まってんだろ、俺のタマ取り返しに行くんだよ!!!」

「「…………タマ?」」

 

 数秒を経て、立香とマシュはその意味を理解する。マシュは顔を赤らめて黙り込み、立香は呆れたような無表情になる。

 

「……あの、ド下ネタぶっ込んでくるのやめてくれません? 私たち清楚系女子なんで」

「こちとら大切なものひとつどころか両方いかれてんだよ! キャトルミューティレーションされてんだよ! ムニエルあの野郎絶対許さねえ!! 生まれた時から苦楽を共にした相棒……相玉を連れ去りやがって!!」

「全然うまくないです。リーダーひとりで取り返しに行ってきてくださいよ。私とマシュはご飯食べながら待ってるんで」

「うるせえ、おまえらも道連れにするに決まってんだろ! リーダー命令だ、来い!!」

 

 という訳で、三人はレイシフトを行うことになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ムニエルに指定された座標にレイシフトを行う。

 これまで攻略してきた特異点とは比較にならないほどの規模ではあるが、そこは確かに特異点としての要件を満たしていた。

 夜空を照らす月を背景として、鬱蒼とした森の中に何やらおどろおどろしい城が立っている。

 ノアたちが転移した場所は、ちょうどその城の門の前だった。城門の上には〝この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ〟と銘文が彫られている。ダンテの『神曲』地獄篇において最も知られる、第三歌の名句だ。

 ノアたちはその銘文を眺めて、

 

「……なんであいつまでムニエルの味方に回ってんだ。出番に貪欲すぎるだろ」

「隠れ蓑の女性のエピソードからも分かるように、ダンテさんはほんのりとクズですからね。文豪は得てしてダメ人間が多いですが」

「近頃マシュの言葉のトゲが増してる気がする……」

 

 彼らは門をくぐり、城の扉に手をかける。傷んだ木材が悲鳴のような唸りを立て、城内に足を踏み入れた。

 目を凝らしてようやく視認が能うほどの暗闇。本来なら火が灯されているはずの燭台にはろうそくすら刺しておらず、窓から僅かばかりに射し込む月明かりを頼るに進むしかない。

 心なしか怖気を誘う冷たい空気に、立香は身震いした。マシュは立香に寄り添うように立つ。

 

「な、なかなか雰囲気がありますね。暗闇は人間の恐怖と不安を掻き立てると言いますが、まさかこれほどとは思いませんでした」

「うん、私も昔行ったお化け屋敷よりずっと怖い気がする。というか、スプラッタ映画とかホラー映画だと今の私たちって冒頭に殺される役回りだよね」

「その時はリーダーを盾にして逃げましょう。相手が生物ならまだしも、幽霊の類ならわたしはダッシュで逃げます。全身全霊です」

「リーダーなら寺生まれのTさんみたいに『破ァ!!』とかできるんじゃない? どうなんですか、リー……」

 

 立香の言葉は途中で止まる。

 城に入ってからずっと黙りこくっていたノアは立香とマシュの間に体を入れて、彼女たちの手を掴んでいた。

 立香はその手から微妙な震えを察知すると、端的に言う。

 

「…………えっ、もしかして怖いんですか。幽霊」

「オイオイオイ、何言ってんだ藤丸。魔術師が幽霊怖がってたら終わりだろうが。そもそもサーヴァントが幽霊Lv.99みたいな奴らだぞ。恐れる道理がねえ」

「その割に手汗が手袋貫通してきてるんですけど。がっつり震えてますし。怖いんですか? 怖いんですよね?」

「違う、これは暑いだけだ。もし仮に幽霊が出てきたとしても、霊体に作用する魔術なんざ腐るほどある。一発で昇天させてやるよ」

「語るに落ちるとはまさにこのことですね」

 

 マシュがぼそりと呟いたその瞬間、真っ暗闇の廊下が突然ライトアップされる。

 耳の奥でエイリアンが四重奏を奏でているかのような歌声とともに、ギラギラと輝く色とりどりの光が踊った。

 それが止むと、ひとりの少女と青年がスポットライトに照らされて現れる。三人にとって前者は見覚えがあるが、後者の青年は初めて見るサーヴァントであった。

 頭頂から爪先までピンクの衣装で身を包んだ少女は、自信満々に目配せをする。

 

「よく来たわね貴方たち! 才色兼備のトップアイドルことエリザベート・バートリーのチェイテ城に!!」

 

 エリザベートはちろりと舌を出して、あざとく笑う。それを見たノアたちは声を揃えて率直な感想を述べる。

 

「「「またか…………」」」

「ちょっと! またって何よ!? せっかく私と再会したんだから泣いて喜ぶのがファン心理でしょう!」

「誰がおまえのファンになったんだよ。とうとうギャグ回にまで進出してきやがって、ひな壇で目立とうとする若手芸人か」

「フランスとローマで十分出番はあったじゃないですか。レギュラーならまだしも、こんなところに出演してもギャラは発生しませんよ?」

 

 立香の指摘を受けて、エリザベートは目を丸くした。

 

「えっ!? 私って準レギュラー的な立ち位置じゃなかったの!?」

「んなわけねーだろ。何回出てくるつもりだおまえは」

「てっきり一章に一回は出演させてもらえるのかと思ってたわ……」

「このアイドル、売れようと必死すぎませんか!?」

 

 マシュはエリザベートの貪欲さに驚愕する。

 現代のアイドル業は、下手すれば日本や中国の戦国時代より血みどろの争いを繰り広げている魔境である。その勢力は地下から表まで千差万別、売れるまでにどれほどの苦労を積むのか容易に想像できない。

 始皇帝が中華を統一したと思ったら項羽が暴れ散らかし、劉邦が後片付けをするという流れを何度も繰り返すのが芸能界。どんなアイドルも化けの皮の下には凶暴な獣を飼い慣らしているのだ。

 それはそれとして、ノアたちの目はエリザベートの隣の青年へと向けられる。

 煤けた白髪と褐色の肌。身長はノアに迫るほど高く、板についた執事ぶりで燕尾服を着こなしている。どことなくクラス名詐欺な戦い方をしそうなサーヴァントだ。

 立香は首を傾げて、エリザベートに問う。

 

「エリザベートさん、そっちの人はお仲間ですか? サーヴァントだっていうのは分かりますけど、初対面ですよね」

「ええそうね、子ジカたちに挨拶してあげさない!」

 

 青年は渋々といった表情で口を開く。

 

「アーチャーだ。私は何度も断ったのだが、今回君たちの案内役を押し付けられた。非常に不本意だがね」

 

 アーチャー。言わずと知れた弓兵のサーヴァントだ。格好からすればバトラーと称するのが適当だろうが、しぐさの節々に現れる身のこなしは紛れもなく戦場に身を置く者のそれだった。

 真名ではなくクラス名を名乗ったアーチャーを見て、ノアたちは各々の感想を放り投げる。

 

「すみません、今から真名を解き明かすのは流石に面倒というか……」

「どうせネットで調べればサーヴァントの真名なんて分かりますからね。真名看破スキルなんてスマホ一台で再現できる時代です」

「クラス名でサーヴァントを区別できる時代はもう終わったんだよ。真名を名乗れ真名を」

 

 アーチャーは大いに頭を抱えた。何よりも、この場に真っ当な頭の人間が自分しかいないことに絶望した。

 

「くそっ! 真名予想というロマンを解さない現代人どもめ!!」

「安心しなさい! 今時は覆面アイドルとかも狭い界隈で流行ってるから、逆に真名を隠すのをアイデンティティにすればいいわ! それとも芸名を思いっきり特徴的にしてみるとか?」

「いつ私がアイドルになりたいと言った……!?」

 

 わめくエリザベートとアーチャーの会話に割り込んで、マシュは手を挙げる。

 

「そもそも、お二人はなぜここにいるんですか? 格好も一風変わっていますが」

「ダ・ヴィンチちゃんにチャーリーとチョ○レート工場っぽい衣装を発注したらこうなったのよ。ギャラも出るらしいし」

「なるほど、ジョニー・デップの役回りですね」

「ええ! そういう訳だから、みんな私についてきなさい!」

 

 エリザベートは息巻いて廊下を進もうとする。だが、彼女はアーチャーがどこからともなく造り出した縄に縛られ、床に転がされた。

 

「古今東西、魔王の城に乗り込む勇者パーティは四人が限度と相場が決まっている。君にはここで茶番が終わるまで待機していてもらおう」

「台本が1ページしかなかったのはそういうこと!? 謀ったわねアーチャー!」

「それは自分で気付くべきではないか……? 本音を言うと、ギャラを支払う金が足りんのだよ。どうしても出たいと言うなら、CGと機械音声で後付けするしかない」

「何よそのクソ映画みたいな撮影事情は!?」

 

 とにかく、そういうことらしかった。カルデアのスタッフたちの資金力では、エリザベートを満足に扱うことはできなかった。チェイテ城を貸し切る料金だけで力を使い果たしたのだろう。

 芋虫のようにのたうち回るエリザベートを尻目に、アーチャーを加えた一行は廊下を突き進むことになった。

 立香はそれとなくアーチャーに訊く。

 

「それで、アーチャーさんのことはどう呼べば良いんでしたっけ」

「ジョニデで良いだろ」

「ウィリー・ウォンカはどうでしょう?」

「あー分かったエミヤだエミヤ! ジョニー・デップでもないしチョコレート工場の工場長でもない!!」

 

 半ばヤケクソになったアーチャーは、あっさりと自分の真名をさらけ出した。

 ジークフリートやアキレウスのように分かりやすい弱点がある英霊ならともかく、ペレアスなどは真名が露呈してもデメリットは少ない。アーチャーもそのひとりだろう。

 彼は自嘲的に笑い、

 

「実は冬木の特異点で登場するはずだったのだがな、お前たちがあの魔術師に任せて先に行くから私の出番が丸々カットされてしまった。そう! スタッフ同様私もお前たちに恨みを持つ者であることを忘れるな!!」

「さ、逆恨みにも程がある……」

「それで、あいつには勝ったのか?」

 

 ノアの質問を受けてアーチャーはぎくりと震えた。数秒の沈黙を経て、彼は声を捻り出す。

 

「…………あれはほぼ私の勝ちと言って差し支えないだろう」

「煮え切らない返答だな。勝ったなら俺たちのところに割り込んでくれば良かっただろ」

「そうしたいのは山々だったのだがね。あの時の私は肩こりに口内炎、さらに漠然とした将来への不安などの重荷を背負って戦っていた。故に──」

「言い訳がましすぎるだろ! 精も根も尽き果てた上でのギリギリの勝ちじゃねえか! ほぼ勝ちっつうか精一杯の引き分けだろ!!」

「あの男がランサーならまだしもキャスターのクラスで、私が遅れを取るはずがなかろう! 前日の睡眠不足さえ無ければ完勝していた!」

「この期に及んでその言い訳は通用しませんよ!?」

 

 という無駄なやり取りをマシュは遠い目で見つめていた。だらだらと移動して、一行はチェイテ城の一階大広間に到着する。

 広間の中央から伸び、左右に折れ曲がる上階にあがる大階段の奥の壁に、映画館のスクリーン並のモニターが取り付けられている。一行の来訪と同時にモニターが発光し、見覚えのある下膨れ顔がでかでかと映し出された。

 下膨れ顔の彼は頭の上半分をすっぽりと覆う兜のような仮面を被り、赤を基調とした特徴的な衣装を着込んでいる。

 日本の国民的ロボットアニメの赤い彗星に酷似したコスプレをするモニターの人物に、立香は真顔で言った。

 

「……誰?」

「『ご覧の通り軍人だ』」

「軍人っていうか変人でしょ」

「『これが宇宙世紀0079年のセンスなんだよ! どこからどう見ても純然たるシャアでしょうが!!』」

「そんな下膨れのシャアなんて認めない! ケツアゴならまだしも! コスプレするならアンパンマンとかにすれば良かったのにって皆思ってるよ!」

「『ちょっと待って、それは普通に傷付くからやめよう? この状況でイニシアチブを取るべきは本当はムニエルくんの方だよ? ネタにマジレスみたいになっちゃってるから』」

 

 若さ故の過ちを現在進行形で演じるムニエル。ノアは立香を手で制し、モニター越しにムニエルを指差す。

 

「ムニエル、おまえの陳腐なコスプレなんざ今はどうでもいい。それよりも俺のタマは無事なんだろうな!? 事と次第によってはその服剥ぎ取って全裸にしてから、おまえの股間引き千切ってやる!!」

「『ククク、そう言うと思って俺に危害を加えられないようにしてある! これを見ろォ!』」

 

 モニターの画面が切り替わり、薄暗い部屋が映し出される。

 そこでは、半裸になったロマンが三角木馬に乗せられていた。両手首を後ろ手に縛られ、猿ぐつわで発声の自由を奪われている。その横で、青いジャージを着崩したペレアスが退屈そうに待機していた。

 ムニエルは調子づいて高らかに笑う。

 

「『お前らが俺に反抗するたびにドクターにお仕置きがくだされる仕組みだ! まずは景気付けにやっちゃってくださいペレアスさん!』」

「『本当はこんなことやってる場合じゃねえんだけどな、オレ。次の6章に出る準備があるんだが』」

「『大丈夫です、妖精円卓領域だからってペレアスさんは出ないですから!』」

「『うるせえええええ!! ここ外したらもうオレに可能性なんてねえんだよ! まだ出ないと決まった訳じゃねえだろうが!!』」

 

 ペレアスは嘆きながら、先端が複数に分かれた鞭で、ぺしぺしとロマンの背中を打った。しかし、一打一打に込められた力は明らかに加減されており、衝撃だけを伝えるような鞭打ちだった。

 ノアは額に青筋を浮かべながら哮り立つ。

 

「おい、何やってんだペレアス!!」

「そうですよ、言ってやってくださいリーダー! ドクターでも流石にアレは可哀想ですよ!」

「もっと腰入れて叩け! 鞭打ちの玄人は背中じゃなくて首を狙う! それに男を三角木馬に乗せるときは両足に重りを付けるのが常識だろうがァァ!!」

「うわあ、そうだった、この人ドSだった!!」

 

 立香は少しでも真っ当な反応を期待したことを後悔した。ノアには基本的に人の心というものが存在しない。放っておけばペレアスに代わって鞭を取りに行きかねない勢いだ。

 ムニエルは相手が思った以上の拷問ガチ勢であることを悟り、慌ててモニターを自分の顔面に戻す。

 

「『と、とにかくタマを取り返したくば、道中の二人の刺客を越えてこの城の最上階まで上がってこい!』」

 

 乱雑に吐き捨てて、映像が切れる。

 しんと辺りが静まり返る。明らかにずさんな会話の切り方を咎める者はもはや誰もおらず、四人は無言で歩を進めた。これ以上ムニエルにかける尺など無いのだ。

 そして、二階に待ち受けていた第一の刺客ダンテを激闘の末に打ち破った一行は────

 

「いやちょっと待ってください! そんなナレ死みたいな真似、私は認めませんからね!?」

「分かった。ならばナレ死でなくすれば良いんだな?」

「えっ」

「『偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』!!」

 

 アーチャーが放った一撃は、空間ごとダンテを消し飛ばした。マシュと立香は一瞬で処理されたダンテの残滓に向かって叫ぶ。

 

「先輩、ダンテさんが死にました!」

「この人でなし!」

「処理した私が言うのも何だが、君たちに仲間への情は存在しないのか?」

 

 流れるような速さで次の階に移る。

 一行を待ち構えていたのは、カルデアに来てから完全にカリスマを失ったジャンヌであった。

 彼女は細長い台を勢い良く設置すると、

 

「腕相撲で勝負よ。ひとりでも勝てばここを通してあげるわ! 先鋒、誰でもかかってきなさい! そこのマシュマロなすびとか!」

 

 完全に目の敵にされているマシュは立香たちの方を振り向く。

 

「ジャンヌさんの目がわたしを捉えて離さないんですが。腕相撲に乗じてわたしの腕を粉砕するつもりの目ですよアレは!」

「仕方ねえ。キリエライトが焼き茄子にされる前に決着をつけるべきだな」

「でもリーダー、ジャンヌの筋力はAですよ。私たちじゃとても敵いません」

「忘れたか藤丸。アーチャーの筋肉を見ろ。どう見ても筋力Bくらいはいってるだろ。後は俺たちで強化してやれば勝機はある」

「確かにそうですね! いけますか、アーチャーさん!」

 

 三人の視線がアーチャーに集まる。

 彼は余裕そうに微笑んだ。

 

「私の筋力は───Dだ」

 

 それを聞いて、ノアたちは目を丸くする。

 

「こ、これが噂に聞く伝説の見せ筋……!!」

「わたしよりもワンランク低いじゃないですか!」

「筋肉の密度どうなってんだ。スポンジか?」

「おっと…心は硝子だぞ」

 

 彼の名誉のために言うと、本来アーチャーは遠距離攻撃を旨とするクラスであり、セイバーなどに比べれば筋力はさほど重要ではない。むしろアーチャーのクラスで剣術を使える彼は特異な英霊なのだ。

 武具を投影することで一発限りの『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』を連発できるということからも、アーチャーが並々ならぬ実力であるのは明白だろう。

 にしても見た目の筋肉と数値が釣り合っていないことは間違いないが、そこはご愛敬。それを言い出したらキリがないのである。

 だが、アーチャーはあえてジャンヌと相対した。

 数値の上では決して勝てない力比べ。彼は燕尾服から戦闘衣装である真紅の礼装に切り替える。

 礼装を靡かせるように謎の風が吹き、アーチャーは台詞を吐いた。

 

「───別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」

 

 ノアは一転、真剣な表情で肯定する。

 

「──ああ。遠慮はいらねえ。がつんと痛い目にあわせてやれ、アーチャー」

「そうか。ならば、期待に応えるとしよう」

 

 そして。

 錬鉄の英雄の戦いが始まる───!!

 

「ふんっっっっ!!」

「があああああ! があああああああ!!」

 

 …………数秒後、ありえない方向に折れた腕を抱えて転げ回るアーチャーの姿があった。

 彼の勇姿を見届けた立香とマシュは、わざとらしく涙を流しながら拍手を打つ。

 

「「これはもうアーチャーさんの勝ちということに……」」

「なるかァァァ!! 誰がどう判断しても私の勝ちでしょう! 八百長どころのレベルじゃないわよ! 相撲協会もびっくりだわ!」

「ジャンヌの言ってることも分かるけど、でもアーチャーさんは今泣いてるんだよ!」

「どこのスーパーコーディネイターよアンタは!?」

 

 そんな訳で、一行はアーチャーという尊い犠牲を出しながらも、第二の刺客であるジャンヌを退けたのであった。

 ついに一行は最上階に到着する。アーチャーは脱落したものの、残るメンバーの気合いは十分。これが最終決戦となることは間違いない。

 三人の姿を認めると、ムニエルは両手を広げて低く笑い出す。

 

「ククク……よく来たなEチームのアホ三人衆」

「御託はいい。何で勝負するかさっさと言え、肉まん(シャア)」

「そこはせめて逆にしろよォ! それじゃあもう純然たる肉まんじゃん! シャアがおまけになっちゃってるじゃん! つーか俺のどこが肉まん!? まさか俺の輪郭のことじゃねーだろうな!!」

「別にそことは言ってねえよ。気にしてんのおまえだけだぞ」

「うっせぇぶっ飛ばす!! これでも美顔ローラーは毎日やってんだ、キレたオタクの怖さ思い知らせてやる!」

 

 ムニエルは息巻いて、足元に描かれた魔法陣を起動させる。

 

「出でよ俺のサーヴァントォォォ!!」

 

 まさかの英霊召喚。一度起動した魔法陣は術者すら止められず、英霊の座と接続された。

 まるで火山の噴火のように魔力が吹き上げる。

 それは誰の目から見ても、瑕疵のない儀式だった。当の術者であるムニエルは成功を確信し、密かに心を踊らせた。

 ゆらめく煙。その中に見える影は疑いようもなく人型。それはムニエルの前に進み出て、口上を述べた。

 

 

 

 

 

 

 

「───優雅たれ」

「ふざけんなァァァァ!!!!」

 

 ムニエルの悲痛な絶叫がチェイテ城に轟く。

 優雅なおじさんを喚び出すという禁忌の召喚を行ってしまったムニエルは、倒れ込んで拳を何度も床に叩きつけた。

 

「もう優雅なおじさんに鮮度なんてねーよ! どこがどう優雅なのか全然分かんねえし! 大体優雅なおじさんって何だよ! この前倉庫でアゾット剣見て怯えてたしよォ!!」

 

 ノアはふてくされるムニエルの胸倉を掴み、平手打ちを叩き込んだ。

 

「見損なったぞムニエル。おまえの優雅なおじさんに対する想いがそんな程度だったとはな……!」

「うん、その前に殴った理由を説明しよっか。おじさんを召喚したことよりもそっちの方で今泣きそうなんだけど?」

「触媒を用いない召喚は、術者と英霊の縁が重要になる。思い出せ、おまえにはおじさんとの記憶があるはずだ!」

「それより殴ったことを謝れよ! 父さんにもぶたれたことないのに!」

 

 ムニエルと優雅なおじさんの目が合う。

 優しさに満ちた、青い瞳。まともな言葉を持たぬおじさんだが、その瑠璃の瞳は言葉を交わさずとも慈悲深い心根を伝えてくれていた。

 ──瞬間、ムニエルの脳内に溢れ出した、()()()()()記憶。

 

〝俺、あの子に告白しようと思う〟

 

 いつかのどこか、桜吹雪の舞う校庭。

 

〝正直、勝ち目は薄い。明日学校中に言いふらされてイジられるのも分かってる。でも男の恋愛は玉砕覚悟の特攻が常道だろ?〟

 

 おじさんは何も言わない。ただ優雅な微笑を保ちながら、ムニエルの話を聞いている。

 受け止めるだけの姿勢が、ムニエルには心地良かった。彼は修学旅行で買った木刀をおじさんに手渡す。

 

〝だから…俺の魂を親友のお前に預けるよ。俺がまたここに戻ってこれるように。じゃあ、俺は行ってくる〟

 

 おじさんに背を向け、学校の校舎裏に行こうとしたその時。

 ドスリ、とムニエルの背中を木刀が突き刺した。

 

〝なっ…がっ……!?〟

 

 ぴくぴくと表情筋が痙攣し、眼球が横を向く。

 視界の端で捉えたおじさんの顔は、見たことのない妖しい笑みを象っていた。

 ムニエルは一連の記憶を幻視し、魂が抜けたかのように崩れ落ちる。顔面は青白く、困惑の色だけがそこにあった。

 

「い、意味が分からん……」

「かのエレナ・ブラヴァツキーは霊視の内容を発表してはいるが、解釈自体は自分で行った。おまえが見た記憶にもきっと、何かの意味があるんだろうな……それを読み解くのがおまえに与えられた課題ってことだ」

 

 ノアは優雅なおじさんの元まで歩いていき、華麗にハイタッチを決めた。ムニエルは瞬間湯沸し器の如く怒りを沸騰させる。

 

「あるわけねーだろ!! お前の豆知識は今いらねーんだよ、魔術オタクが! 夢の解釈するとか平安時代の貴族か!? 男根のメタファーか!?」

「まあそれはそれとして」

 

 ノアはムニエルの服の裾を掴み、窓辺に向かってずるずると引きずっていく。ムニエルは抵抗しようともがくが、単純な膂力で制されてしまう。

 ノアは窓を蹴り崩すと、そこからムニエルの体を吊り下げる。ムニエルの眼下に広がる漆黒の森は、強烈な恐怖を彼の心に植え付けた。

 

「五つ数えるうちに、俺のタマの在り処を言え。さもなければ落とす。いち、」

「だ、ダ・ヴィンチちゃんが持ってます! 言ったから助けてえ!」

「ああん? 聞こえねえなぁ! 俺への敬意と謝罪の意が篭ってねえ。窓辺からやがて飛び立たせてやろうか?」

「ま、待ってえええ! 俺の背中には遥か未来めざすための羽根なんてないから! 普通に身投げだから! 熱いパトスしかないからぁ!!」

「あなたは死ぬわ、私が殺すもの」

「そんな綾波嫌だァァァ!!!」

 

 という風に、ムニエルによるクーデターは失敗に終わったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間は生きる上でとにかく疲れ続ける生き物である。

 仕事の悩みや痴情のもつれ、ふとした時に抜け落ちて行く髪の毛への不安感。数え切れない細やかな絶望の積み重ねは、人の心を静かに蝕んでいく。

 だからこそ、人類は娯楽を生み出した。生きていくだけでスリップダメージを受ける人間にとって、娯楽は痛みを鎮めるストロングゼロなのだ。

 時刻は夜更け。職員たちは各々の仕事を終え、少ないプライベートの時間を過ごすため自室に引きこもる頃合い。

 食堂では、大人たちの秘密の会合が催されていた────!!

 

「どうも皆さん、ロマニ・アーキマンです。それでは今週も大人同士で慰め合う会を始めたいと思います」

 

 どん、と未開封のワインボトルがテーブルの上に置かれる。ダ・ヴィンチちゃんは意気揚々とメガネを装着し、きらりと輝かせた。

 

「ほう、今日はワインかい。ワインの歴史は古く、初めて文献に登場したのは紀元前に成立した人類最古の文学作品、ギルガメッシュ叙事詩の中だ。そこでギルガメッシュは大洪水から逃れるための方舟を造っている大工たちに、ワインを振る舞ったという記述がある。当時のワインは糖度が低く、蜂蜜などを混ぜて飲まれていたらしいね」

「どうした急に」

「文字数稼ぎご苦労様です、ダ・ヴィンチちゃん」

「ふふ、どうもありがとうダンテさん。知識をひけらかすことほど楽しいことはないね!」

 

 ノアはこくこくと頷きながら、

 

「それはあるな。ちなみに酒と魔術儀式の関わりは深く、捧げ物とする他に日本では神酒として神との一体感を得るために飲まれていたほどだ。街中で酔っ払ってるおっさんは実は、神をその身に降ろしていたという訳だな」

「なるほど、八百万の神々とは泥酔したおっさんをも内包する言葉だったのか──!!」

「お前らそれで天才名乗ってんのか?」

 

 勝手に盛り上がるノアとダ・ヴィンチの背中を刺すように、ペレアスの言葉が放たれた。

 そもそも泥酔したおっさんは神とは別の位置に属するナニカである。日本には悪霊をあえて祀り上げる御霊信仰という信仰形態があるが、おっさんの場合はそれにも当てはまらない妖怪の類なのだ。

 ロマンは咳払いして、場を鎮める。

 

「実はこのワイン、ここにいるある人と深い縁があるんだ。ラベルを見てくれ」

 

 ボトルを回し、四人にラベルを見せる。そこにはイタリア語で『セレーゴ・アリギエーリ』と書かれていた。

 ノアはペレアスの肩に手を置く。

 

「残念だったな、ペレアス」

「いや別に期待してなかったからな!?」

 

 ロマンは二人を無視する。

 

「そう、これはダンテさんの子孫が作ったワインなんだ! しかも650年以上の歴史を誇る名門! これもまた歴史の面白さだよね」

「ワイン造りというとピエトロでしょうか。まさかあの子がそこまで立派な家を立ち上げるとは……普通に泣いていいですか?」

「フィレンツェを追放された甲斐があったんじゃない?」

「それだけは絶っっ対に無いですけどね! 黒党の連中だけは天地が引っくり返っても許しませんから! 怒りで涙が引っ込みましたよ!!」

 

 ダンテはフィレンツェ市外に出張していた際に、黒党が政変を起こして実権を奪われた。自分がフィレンツェにいれば政変を防げたかもしれないことを考えれば、悔しさもひとしおなのだった。

 現代のフィレンツェはダンテ客死の地であるラヴェンナに遺体の返還を求めているが、彼からすれば〝そもそもラヴェンナで死んだのだから、返す返さないの話ではない〟と熨斗付けて反論するところだろう。

 食堂に集まった五人は早速ワインを口に運ぶ。ロマンとダ・ヴィンチは思わず舌鼓を打った。

 

「私もイタリア人としてワインには一家言持つ身だけど、これはいいね。ダ・ヴィンチちゃんポイントを進呈しよう!」

「口当たりは優しいのに味がしっかり後まで残る……650年の歴史は伊達じゃないね。どうですかペレアスさん?」

「生前有難がって飲んでた酒が搾りカスみたいなもんだと分かった」

「ま、まあペレアスさんは割と古い時代の人ですし……」

 

 ブリテン──イギリスでワイン造りが本格化したのは11世紀の頃だが寒冷な土地がブドウに合わず、長らく低迷していた。おそらくペレアスが生きていた時代のブリテンではワインは高級品であり、蜂蜜酒やエールが食卓に並んでいたと推測される。

 彼にとってはダンテやダ・ヴィンチのルネサンス期ですら遥か未来だ。味覚から得られる感動は現代人の比ではないだろう。

 そんなペレアスの感動に水を差すように、ノアはグラスを傾けた。

 

「もっと度数が高ければ文句はなかった」

「工業用アルコールでも飲んでろ」

「ナメんな、俺くらいになればそれも試したことがある。二日寝込んだがな!」

「よく二日寝込んだだけで済んだね!? 医者目線だと恐ろしいことこの上ないんだけど!」

「レフの爆弾に吹っ飛ばされた時くらい命の危険を感じたからな。二度とやらねえ」

 

 当然、工業用アルコールを飲むことは一歩間違えればダーウィン賞受賞レベルの愚行なので、良い子も悪い子も真似してはいけない。

 大声を出した影響か、ロマンの顔はみるみる内に赤くなり、ぐでんと机に突っ伏すようになる。

 彼の白衣を押し上げる背中を見て、ペレアスが言った。

 

「ロマン……お前、もしかして太ったか?」

「えっ」

「医者の不養生かな。デスクワークが主な仕事だから運動する時間はないだろうね。ダ・ヴィンチちゃん特製体重計でも使うかい?」

「いやいやいやいや、仕事はノアくんにも手伝ってもらってるし、最近は割と健康的な生活を……」

 

 そこで、ロマンは近頃の食生活を思い返す。

 

〝ノアくん、夜食といったらピザトーストだよ。食堂から材料盗んできてくれない?〟

〝春雨スープはいくら食べても太らない。なぜなら透明なものと水だから〟

〝神の子は石をパンに変えた。つまりパンを食べることは石を食べることと変わらない。ノアくん、石を食べて太るなんてことあると思うかい?〟

 

 ロマンはFXで有り金を溶かしたような目で壁を天井を見上げた。仕事を中断して食べる夜食ほど唆られるものはない。それを共にしていたのは、ほとんどがノアだった。

 窮した彼は、他人に矛先を向けることにする。

 

「でも───ノアくんも太ってないとおかしいよね?」

「ヤドリギが肉体と融合してる関係上、俺は代謝機能を操れる。いくら食っても太ることはない」

「何その羨ましい能力!? ボクもヤドリギ欲しい!」

「カラッカラに干からびて人型の木像になるけど良いのか?」

「……やっぱりやめとこっかな」

 

 ナーストレンドのヤドリギとの共生は数世代を掛けて多数の死者を出しながら獲得した体質だ。他人が体にヤドリギを埋め込んだとしても、生き残る確率は非常に低いだろう。

 ダ・ヴィンチは何食わぬ顔で話す。

 

「痩せられることには変わりないだろう?」

「脂肪よりも前に大切なものが失われてるじゃないか! 天秤にかける以前の問題だよこれは!」

「ダ・ヴィンチちゃんの発明品でどうにかならないんですかねえ。自他共に認める万能の天才ですし、冴えた器具とか作れるのでは?」

「いや、普通に運動しろよ」

 

 ダンテとペレアスの会話を耳聡く聞き届けたダ・ヴィンチは、くぐもった笑い声を出して言った。

 

「そこまで言うなら仕方ない。明日までにとびっきりのダイエット器具を用意してあげよう!」

「おお、良かったですねえロマニさん! これで悩みから解放されますよ!」

「い、嫌な予感しかしない……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。昼時の食堂に、マシュの悲鳴が響く。

 

「な、何があったんですかドクター!?」

 

 彼女の視線の先には、首から上以外の全身を鋼鉄のギプスで簀巻にされたロマンの姿があった。異様な厚みのせいで彼の見かけの身長は頭ひとつ分高くなっており、身じろぎするだけで甲高い機械音を奏でている。

 生きるだけで重労働を課す拘束具に苦しめられ、ロマンの顔はげっそりとやつれていた。

 ガチョンガチョンと音を立てながら、ロマンはマシュに顔を向ける。

 

「ん? これ? ダ・ヴィンチちゃんお手製の体型矯正ギプス『ゼッタイニヤセールMV Trinity』だけど?」

「不安にしかならないネーミングなのですが!?」

 

 立香はそれを遠巻きから眺め、横にいる男に恐る恐る訊いた。

 

「もしかして、リーダーの仕業ですか」

「アレはダ・ヴィンチ単独の力作だな。俺だったら霊薬で無理やり脂肪を減らすか、暗示をかけて食欲を失くすように仕向ける。おまえもやるか?」

「正直とんでもなく魅力的なんですが、リーダーに借りを作ると百倍で返さなきゃならないんでやめときます」

 

 ノアが提示した二つの方法は、人によっては喉から手が出るほど求めかねないモノだろう。生産者が闇金業者並に胡散臭いことを除けばだが。

 ブリキ人形のようにぎこちない動きで歩き回るロマンを尻目に、ノアは唐突に言う。

 

「藤丸」

「はい?」

「今から俺の部屋に来い」

 

 立香は一拍置いて答える。

 

「い、嫌です……新しい魔術の実験台にされそうですし」

 

 どう考えてもろくな事にならないことは、火を見るよりも明らかだった。自らの身の安全を考えれば、彼女の判断は賢明である。

 ノアはため息をつくと、懐から一冊の本を手に取った。

 

「それならこっちにも考えがある。今から『ソロモン王の小さな鍵(レメゲトン)』第二部のアルス・テウルギア・ゲーティアに記された31柱の天空の精霊についての講義を聞かせてやる。二日間はノンストップで喋り続けられるから覚悟しろ」

「行きます! 行かせてください!」

 

 そんな経緯を辿って、立香はノアの部屋を訪れることになった。何の変哲もない扉のはずが、どこか息苦しくなる威圧感を放っている。

 招かれた理由も目的も分からないが、人類最後のマスターの片割れである自分が害される可能性は低いと立香は推測した。

 どんなに衰退した家の魔術師であっても、自らの研究室は必ず守り抜く。神秘というものが知られると力を失う性質を持つ限り、研究成果を公表する訳にはいかないのだ。

 とはいえ、仮にノアの秘中の秘を覗いたとしても、そのすべてを立香が理解することは難しいだろう。本人から誘われたということもあり、彼女は気負うことなく部屋に入った。

 

「お、お邪魔します」

 

 そこで、特異な光景に目を奪われる。

 柔らかく薫る香炉の煙。錬金術に用いられるフラスコやビーカー。本棚に整然と並べられた大量の文献。古今東西使われてきた魔術道具の数々が、書店で売っているようなタロットカードから陰陽道の護符まで幅広くガラスのケースに収納されていた。中には明らかに血濡れた人形などもあったが、立香は即座に記憶から消すことにした。

 部屋の照明も蛍光灯や電球、ろうそくなど様々な光源が間接的に辺りを照らしている。ある一角では植物が栽培されていたり、またあるところではソロモン王が考え出したと言われる魔法円が描かれている。

 傍若無人な性格に反して綺麗に整えられた部屋の景観は、まるでお伽話の世界に迷い込んだかのような印象を立香に与えた。

 彼女は最初に感じた違和感を口にする。

 

「なんか…広くないですか?」

「ああ、両隣の壁をぶち抜いて造ったからな。手狭になり次第拡張していく予定だ」

「いつかは私たちの部屋も犠牲にするつもりってことですね。その時は総力をあげて抵抗します」

「望むところだ、返り討ちにしてやる」

 

 戯れつつ、ノアはいくつか設置された作業机の前に座る。その机の上には工具と裁縫道具が機械も含めて配置されている。現代の技術を嫌う者も多い魔術師の研究室にあるとは思えない道具ばかりだ。

 適当に引っ張り出した椅子に立香を座らせると、ノアは喋り出した。

 

「日本にはホワイトデーとかいう男に何の得もない風習があると聞いた」

「そ、そうですね。人によってはチョコひとつが指輪に変わったりする現代の錬金術と言われてます」

「俺は受けた借りは返す主義だ。喜べ、おまえから貰ったチョコレートの借りに、俺が手ずから礼装を作って贈ってやる」

 

 どういう風の吹き回しだ、とつい口に出しそうになる。

 礼装。魔術師が行使する魔術の効果を増幅させたり、それそのものが何らかの特殊機能を持つ道具の総称。最もメジャーなものはやはり杖であろう。サーヴァントの宝具も礼装の類に当てはまる場合があることからも分かる通り、その種類と有用性は千差万別だ。

 

「礼装っていうと、やっぱり杖とか短剣が多いんですかね。四大元素の武器、でしたっけ」

「そうだ。近代魔術の興りと共に儀礼魔術の整理と体系化が進んだことで、それに使われる四大元素武器は一般人の間でも作られるほど広まった。よく覚えてるじゃねえか」

「ふっふっふ、私の記憶力を侮ってもらったら困りますよ! 毎日がテスト前日だと思ったら楽勝です!」

 

 近代魔術において、四大元素は四つの道具と結び付けられることになった。

 火は杖、水は杯、風は短剣、土はペンタクルといったような具合だ。扱う者によっては杖と短剣が入れ替わることもある。

 短剣は杖と並んでよく使われる道具で、アゾット剣を代表としてアサメイと呼ばれる魔女の短剣などがある。が、いずれにしても現代では見つかった瞬間に補導されるので、魔術師には世知辛い世の中だ。

 どこかの世界で行われた聖杯戦争では、遠坂家の魔術師が杖を手に炎の魔術を発動することがあった。彼の属性と使う魔術、そして武器はしっかりと適応しており、よく考えられた設定と言えるだろう。

 

「おまえの魔術属性は火だ。それで言うと、杖と短剣は適していることになる。本来礼装は弟子が一人前になった時に渡すもんなんだがな。チョコレートに感謝しろ」

「こんなことだったらもっと渡しておけば良かったと後悔してます。でも、私が礼装で攻撃したところでどうにもならないというか」

「なら、おまえの希望を言ってみろ。それに合わせて作ってやる」

 

 立香は暫しの間考えて、ぽんと手のひらを叩いた。

 

「エクスカリバー」

「ふざけろ」

 

 それを造れたら誰だって苦労しない。ペレアスだって念願のビームを放つことができてしまう。ビームは発射する側にも相応の格が必要なのだ。

 

「……極まった投影魔術なら微粒子レベルで可能性があるか?」

「すごいじゃないですか、投影魔術! エクスカリバーは無理にしても、かなり汎用性がありそうですよね」

「そんなことはない。効率の悪さが尋常じゃない上にどんなに長くても数分で霧散する。あんなもんを好んで使うやつはただの馬鹿か大馬鹿だ」

 

 再び、立香は頭を悩ませることになる。

 夕食のリクエストを求めたら何でもいいと言われ、かえって混乱する母親の気分である。選択肢が多すぎると逆に何も思いつかない現象が起こっていた。

 

「そういえば、私の魔術属性は火なんですよね」

「それがどうした」

「リーダーの属性は何になるんですか? 魔術師ならひとり一個は必ず持ってるんですよね」

「……俺の魔術属性は───」

 

 その瞬間、爆炎と轟音が部屋の扉を吹き飛ばした。

 もうもうと煙立つ黒煙の中から、ジャンヌとマシュが血相変えて飛び出してくる。

 

「立香、私たちが助けに来たわよ!!」

「大丈夫ですか先輩! 体のどこかを改造されたりしてませんか!?」

 

 盛大な勘違いをした二人はずかずかと部屋に入り込み、立香の両脇を固める。無残にも丸焼けになった扉を見て、ノアの低い沸点はいとも容易く限界突破した。

 

「何やってくれてんだおまえらァァ!! プライバシーもクソもねえ間取りにしやがって! これならマジックミラー号の方がまだマシじゃねえか!!」

「マシュ、マジックミラー号って何なの?」

「それはジャンヌさんが触れて良い話題ではありません。とりあえず先輩が無事なだけでヨシとしましょう」

「うん、ジャンヌもマシュもとりあえず話を聞こっか」

 

 立香はノアの部屋に来てからのことを話した。チョコレートの返礼に礼装を手作りするというくだりを聞いたジャンヌとマシュは、愕然とした顔でノアを見る。

 

「リーダー、一回ドクターに脳のCTスキャンを撮ってもらいましょう。何か重大な疾患があるかもしれません」

「マシュの言う通りね。どこかで呪いでも貰ってきたんじゃないの? ああでも、ドブみたいな性格が矯正されるなら解くのももったいないわね」

「おまえほどじゃないけどな」

「はあああん!? アンタにだけは言われたくないんですけど!!」

「はーいストップストップ! どうどう!」

 

 立香は一触即発のノアとジャンヌの間に割り込んで、どうにか押し止める。何とかして二人を引き離し、マシュが口を開く。

 

「それで、どんな礼装にするか決まったのですか?」

「今さっき決めようとしてたところなんだけどね。中々良いものが思いつかなくて」

「用途を考えると、普段身に着けやすいものが良いのでしょうね。わたしがパッと思いつくのは指輪や首飾りでしょうか」

「それはどうなのよ。そういうのはもっと深い間柄の男女が贈り合うものでしょう。どうせこいつに作らせるなら、ガンダムくらい複雑でデカいのでも良いんじゃない」

 

 ジャンヌの提案を受けて、立香は真剣に切り出した。

 

「じゃあ、νガンダムでお願いします」

「アクシズでも押し返すつもりかおまえは」

「Eチームは伊達じゃない──!」

「伊達ですらない、が正しいかもしれませんね」

 

 このままでは埒が明かない。マシュはアイデアを求めて周囲を見渡し、立香の頭に視線を行き着かせる。

 

「先輩、髪留めはどうでしょう。女性の魔術師は髪の毛に魔力を貯める方が多いらしいですし、手をかけた髪留めは一石二鳥だと思います」

 

 髪の毛は大量にあって、かつ失っても痛くない自分の体の一部だ。

 髪に呪力が宿るという考えは東西を問わず広まっており、宗教によってはしばしば忌避される対象にもなる。魔術の触媒として、これほど適したものも少ないだろう。

 立香は黄色のシュシュを外し、ノアに渡す。

 

「こんな感じでお願いできますか?」

「ああ、二日あれば作れる。精々楽しみにしとけ」

 

 そして、二日後。

 廊下で立香と鉢合わせたノアは雑に髪留めを受け渡した。

 色合いそのものは前のものと大して変わらないが、表面には目立たないように細い金糸で緻密な紋様が刺繍されている。

 見た目と大きさとは裏腹に、高度な魔術理論が編み込まれた髪留めの中には強い魔力の気配があった。

 

「わ、ありがとうございます! つけてみても良いですか?」

「もうおまえのものだ。好きにしろ」

 

 黄色いシュシュを外して、受け取ったそれで髪を結び直す。立香は気恥ずかしそうに笑った。

 

「どうですか、似合ってます?」

 

 ノアは数秒沈黙して、茶化すように、

 

「俺の傑作にモデルがいまいち負けてるな。やっぱ返せ」

「えーっ、絶対に嫌ですよ! もう私のものですから!」

 

 ──分かっている。これは彼にとっては借りを返しただけで、それ以上でもそれ以下でもない。

 それでも。

 だからこそ。

 そこに特別性を見出してしまうのは、きっと気のせいではなかった。




『神約・終世の聖枝』
ランク:D〜EX 種別:対神、対不死宝具
ミストルティン。完全無欠の美神バルドルを死に追いやったヤドリギ。北欧神話のトリックスターであるロキによって見出され、ヘズの手に渡った。光の神であるバルドルを失い、世界はラグナロクへと向かうことになる。
光は世界を構成する重要な要素である。日本における天岩屋戸神話やヨハネの黙示録における終末の風景、そしてラグナロクなど光(≒太陽)が失われることで世界が混乱に導かれる伝承は枚挙に暇がない。つまりヤドリギは、生死のバランスを調律する反面、世界を滅ぼしかねない危うさを兼ね備えている。光の神を盲目の神が殺したという事実は、どこか皮肉めいていると言えるだろう。
神性、もしくは何らかの不死性を持った相手には絶対(EXランク)の力を有する。が、それ以外の相手にはDランクの射撃程度の威力しか発揮できない。ただし、槍の形態だとCランクに攻撃力が上がり、近接攻撃が可能になる。
世界の何者も何物も、バルドルを殺すことはできなかった。なぜ神殺しの武器がヤドリギでなくてはならなかったのか、ミストルティンが何処より生まれ出たのか、その真実を知る者はもはやノアトゥールのみである。
また、ミストルティンの形状は矢とも槍とも、あるいは剣とも言われている。ヤドリギを投擲する際、矢と槍に変化することは確認されているが、剣を造り出す術はノアトゥールをしても発見されていない。
ネーミングは『聖約・運命の神槍』のパクリ。


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第四特異点 ロンディニウムの騎士 死界魔霧都市・ロンドン
第31話  そうだ、ロンドンに行こう


 第四特異点レイシフト当日。

 恒例の如く、Eチームの面々は管制室にて待機していた。

 今回の特異点はいよいよ折り返し地点。これを乗り越えれば長い人理修復の道のりも半分に到達する。前回はだらけていたEチームのマスターたちも、今ばかりは沈黙を保っている。

 半分という言葉は人によっては違う響きを持っている。マラソン大会で半分を切ったことに絶望するか否かは個々人の運動能力に委ねられているのだ。

 厳粛な空気の中、ペレアスはぼそりと呟く。

 

「…………妖精騎士ペレアスってどう思う?」

 

 往生際が悪い騎士にその場の視線が一挙に集まる。

 しかして、誰も声を発することはない。ペレアスという超特大の腫れ物に触れようとする者はここにはいなかった。

 冷ややかな眼差しを向けられながら、ペレアスはかっと目を見開いて叫んだ。

 

「……まだ有り得ないと決まった訳じゃないだろうが!? 諦めんなよ!!」

「誰も何も言ってねえよ」

 

 ノアに盛大な指摘を受けたペレアスだが、彼の口はそれでは止まらなかった。

 

「あーあ、オレだってたまには大々的に取り上げられてみたいィィィ!! 女体化でも王様(アルトリア)顔でも何でも受け入れるからもっとチヤホヤしてくれェ!!」

 

 あまりに必死なその様に、Eチームの女性陣は教室で嘔吐した同級生を見るような目になる。

 

「ここまで来るともう悲惨の一言しかないよね」

「奥さんが妖精じゃないですか。そこでキャラ被りさせるのはないでしょう」

「男の癖にウジウジしてみっともないわね。長生きした人間のメンタルとは思えないんだけど」

 

 それに乗じて、ノアとダンテも口撃を飛ばした。

 

「そもそもおまえに需要なんてねえんだよ。いつまでその話題引っ張る気だ天丼男が」

「相変わらず成長が見られませんよねえ。ポンコツが加速してますよ」

「おい、ここぞとばかりにお前らまで攻め立てんな! というかダンテにだけはポンコツとか言われたくないんだが!?」

「あーっ! 聞きましたか皆さん、誇り高き騎士なのにこんなこと言ってますよ! ド外道の誹りは免れませんよねえ!?」

 

 ペレアスとダンテが取っ組み合いに発展しかけた時、管制室の扉が物々しく開いた。そこからロマンとダ・ヴィンチが歩いてくるのを見ると、二人は何事もなかったかのように居直る。

 ダ・ヴィンチお手製体型矯正器具の効果によって、すっかり健康体になったロマンは有り余る元気を吐き出すように喋り出す。

 

「さあみんな、ついに折り返しの第四特異点だ! 気合い入れていこう!」

「今回は1888年のロンドンが舞台だ。この時代は人類の生活様式から戦争に至るまで、全てを変えた産業革命の真っ只中だね。いやあ、私も行きたかったなあ!」

 

 今回の特異点を攻略するにあたって、歴史に疎いノアと立香(りつか)は事前に講習を受けている。

 人類史における最重要事を挙げろと言われれば、産業革命は必ず選択肢に入るであろう。この時から大量生産大量消費へと社会は移行する兆しを見せ始め、それに伴って働く人々の忙しさも跳ね上がった。

 様々な功罪が混在する産業革命だが、それを牽引したイギリスの存在が揺らぐことは間違いなく、人類史を焼くに足る特異点となるだろう。

 ロマンはノアに笑いかける。

 

「そういえば、ノアくんはここに来るまで数年間ロンドンで生活してたんだよね。19世紀と現代であまり街並みは変わっていないらしいし、土地勘が効くところもあるんじゃないかな」

「拠点にしてたのは郊外で都心の方は滅多に行かなかったがな。協会に所属してない魔術師の肩身は狭いんだよ」

「リーダー。単純に気になったんですけど、どうやって生計立ててたんですか? 社会不適合者なのに」

 

 茶化すような調子で立香は言った。ノアはそれを受けて、何故か得意気に口角を上げた。

 

「俺が社会に適合してないんじゃねえ、社会が俺に適合してないだけだ。俺がやってたのは何でも屋だ。イキり散らかしたマフィアの掃除から呪われたホテルの爆破解体まで、表裏問わず依頼を受けたな……ふっ、今となっては良い思い出だ」

「どっちも裏ですよね。完全に裏社会の住人ですよね。何でも屋の響きが急に恐ろしくなってきましたよ」

「全く先輩の言う通りですが、魔術協会のお膝元でよくそんな乱行ができましたね」

 

 他人事ではあるものの、マシュは思わず冷や汗をかいた。ロンドンには魔術協会の総本山である時計塔がある。

 その近辺で協会に所属しない魔術師が活動することは、警察署の前で痴漢をするに等しい。灯台下暗しとは言うが、時計塔の下は派手にライトアップされているのだ。

 当然、そんな場所でホテルの爆破解体をすれば注意を引くどころの騒ぎではない。とある聖杯戦争ではホテルの1フロアを貸し切って要塞化した工房を爆破させられた魔術師がいたが、それはガス爆発が頻発する冬木市だからこその所業であろう。

 ノアは気軽に頷いて思い出話を語る。

 

「一回、魔術協会に目を付けられてアフリカまで逃げたら、現地の呪術戦争に追っ手ごと巻き込まれて痛い目見たことはあったぞ。結局最後は街ひとつ爆弾で吹っ飛ばして、追っ手と酒飲んで終わったんだけどな」

「どこのハリウッド映画よ!? 現代は魔境なの!?」

「いやいや、ノアさんを基準にしたら、それこそ痛い目を見ると思っ──」

 

 ジャンヌの勘違いを止めようとしたダンテだが、立香とマシュに押し退けられて阻まれてしまう。

 彼女たちの顔は獲物を見つけた獣よりも下卑た欲望に塗れていた。

 

「そうだよ、ジャンヌ。現代は特異点にも劣らない修羅の世界──! そこら辺に手榴弾は落っこちてるし、トゲトゲの肩パッドつけたモヒカンがバイクで疾走してるなんてことは日常茶飯事だからね!」

「治安が良いと言われている日本でさえも、一歩外に出れば誤チェスト上等の大魔界ですからね。ハラキリ、ヤクザ、ニンジャ、スシだけで日本文化は大体言い表せると言われています」

「くっ! これが現代社会に巣食う闇なのね……!!」

 

 ジャンヌは驚愕の真実という名の真っ赤な嘘を教え込まれ、顔色を青くした。その一部始終を眺めていたロマンは、目に涙を溜めながら頷く。

 

「これがEチームのEチームたる所以か……っ!」

「やはりここは、唯一の常識人であるこのダンテ・アリギエーリが何とかしなくてはなりませんね。大丈夫です、政治家もやってたので人の扱いには慣れてます。結局追放されてマラリアで死んだんですけどね! はっはっは!」

「全く笑えないんですが!?」

 

 サーヴァント特有の死人ジョークはロマンには刺さらなかった。というか刺さる人間自体が少ないのだが。

 ノアと立香の目が合う。彼はからかうように言った。

 

「今度ははぐれるなよ、藤丸(ふじまる)

「フラグ建築に余念がないですねリーダーは。まさか二連続で私たちがはぐれるなんてことあるわけないですよ!」

「先輩、その発言がもはや確定させたようなものなのですが」

 

 という訳で、半分の節目である第四特異点へのレイシフトはいつも通りのだらけた雰囲気で行われるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───闇よりなお暗き漆黒の風が夜を駆ける。

 濃霧に包まれたロンドン。

 耐性を持たぬ人間を容易く死に至らしめる魔の霧を引き裂き、塗り潰すように旋風が踊る。

 それは死の黒風。意思無き病魔の化身にして、百鬼夜行(ワイルドハント)の先触れたる嵐の具現であった。

 だが、彼に未だ名前はない。

 否、そんなものを持つ必要がない。

 なぜなら、その全存在は王に追従するだけの道具でさえあれば良いのだから。

 魔の霧。死の風。それら全てを吹き飛ばす、純粋な力の暴嵐が天を突く。

 空間そのものを裂くかのような魔力の奔流は、しかし埃を落とすための前触れに過ぎなかった。

 

「突き立て、喰らえ───十三の牙」

 

 鈴を転がすような声。けれど、そこに可憐さはなく、ただ冷徹な響きがあるだけだった。

 黒き聖槍が唸りをあげる。

 立ちはだかる敵などいない。

 その槍の切っ先はロンドンという地に牙を剥く。

 

「……『最果てにて輝ける槍(ロンゴミニアド)』」

 

 瞬間、極光が爆ぜた。

 音が死に、光が死に、地が抉れる。

 周辺一帯がクレーターと化し、林立していた建物は跡形もなく塵芥へと還った。そこにいたであろう生命の一切を滅ぼすことも厭わずに。

 その光景を目に焼き付ける者がいた。

 

「クッソ、がァ……!!」

 

 彼は人の悪逆をこそ愛する破滅人格。

 王が為した悪業を賛美こそすれど、憎むことなど無い。──そう、それが、人間が為した行いであったなら。

 だが、この聖槍の担い手は違う。

 嵐が家も作物も人間でさえも根こそぎ奪っていくように、ソレはただ人類にとっての害悪で在り続ける。

 理由はいらない。

 ソレにとって、壊すことが生きることであったから。

 一矢報いるべく脚に力を込めるが、膝が応えることはない。こみ上げてきた血を吐き出し、彼の一面である悪逆の人格は鳴りを潜めた。

 聖槍の担い手はその様子を一瞥すると、虚空に向かって口を動かす。

 

「ここに第八のセフィラは刻まれた。メフィスト、ジャック、後は予定通りに」

 

 彼女にとって、手負いの男は警戒するに値しない存在だった。それでもなお、彼は歯向かうように問う。

 

「お前は一体、何者だ」

 

 サーヴァントは真名を隠す。

 その行為は敵に弱点を訊くようなものであり、答える価値のないものだった。

 けれど、自然は気まぐれだ。(しぜん)の体現者である聖槍の王は、暫し考え込んで、

 

「……ふむ、そうだな。嵐の王として、今はこの名を名乗ろう」

 

 病魔の化身を従え、彼女の輪郭は闇に溶け込んでいく。視覚的にだけでなく、存在そのものが夜の暗闇に沈んでいくかのように。

 その中に黄金色の眼光だけを残して、王は言う。

 

「───我が名は()()()()()知恵の女神(ソフィア)より遣わされた人類史の暗黒点だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レイシフト特有の引き伸ばされるような感覚の後、停止していた五感が機能し始める。

 目を閉じたまま息を吸い、両手を握って開く。どこにも異常はない。ゆっくりと目を開けると、そこは濃霧に覆われたロンドンだった。

 霧が太陽光を遮り、日中とは思えない異様な暗さ。立香は目を凝らして周囲を確認するが、周囲には見慣れた人影がふたつあるだけでノアたちの姿はない。

 彼女はため息を噛み殺して、己を奮い立たせる。

 

「ま、またはぐれるなんて……これからは私がカルデア最強マスターを名乗らなきゃいけないみたいだね! マシュ、ジャンヌ、まずはリーダーを探そう!」

 

 そう言って振り向いた先には、

 

「すまん、ここにいるのはイケメン騎士ペレアスとポンコツ作家のダンテだ」

「ええ、残念ながらここには無名騎士のペレアスさんと世界三大詩人のダンテしかいません」

「あれーっ!? そういう入れ替わり方!?」

 

 予想外の事態に立香は目を丸くした。

 どんな風に因果がこじれたのか、はぐれただけではなくサーヴァントまで入れ替わってしまっていた。特異点修復にトラブルは付き物だが、今回はそれ以前の問題である。

 ただ、立香ひとりだけがはぐれるという事態にならなかったのは不幸中の幸いだ。宝具が無ければ立香にすら負けかねないダンテはともかくとして、ペレアスは地味に強い。当面の身の安全は確保されていると言って良いだろう。

 立香は深呼吸して平静を取り戻す。

 

「でも、ペレアスさんとダンテさんが居てくれて良かったです。リーダーに比べたらへっぽこですけど、とりあえず二人に負けないマスターとして頑張りますよ!」

 

 意気込む姿を見て、ペレアスとダンテは困惑と感動を半々にした何とも言えない表情になる。

 

「……オレたちのマスターがこんなに優しい訳がない!! 夢、これは夢だ!」

「落ち着いてくださいペレアスさん! 気持ちは大いに分かりますがこれは現実です!」

「そうですよペレアスさん! 少なくとも私はリーダーみたいに事あるごとにマウント取ったり知識をひけらかしたりしませんから!」

「嘘つけェ! オレは騙されねえぞ! どうせエタードを寝取られた時みたいに上げて落とす作戦だろ!?」

「「寝てないのに寝取られとは───?」」

「おい、唐突な正論はやめろ」

 

 心にざっくりと切り傷をつける正論で、ペレアスの頭は冷えた。荒療治にも程があるが、彼のトラウマの深さの前ではほぼノーダメージに近い。

 近所の吠えがちな番犬から借りてきた猫のようになったペレアスは、咳払いを挟んで仕切り直す。

 

「じゃあ、まずは今後の方針を立てるためにカルデアと通信を繋いでみたらどうだ」

「それが、さっきからやってるんですけど繋がらなくて。この霧のせいですかね?」

「それもありそうですが、皆さん。上を向いてみてください」

 

 ダンテに促され、上空を見やる。

 強化魔術を掛けた瞳とサーヴァントの視力でようやく視認が能うほどに濃い霧の向こう。黒くくすんだ乱気流が幾層にも折り重なり、青い空を覆い隠していた。

 その巨大さは周辺だけに留まらない。おそらくはロンドン全体をすっぽりと包んでしまう規模。嵐の繭とでも形容すべきそれは、全神経を傾けて感じ取れる程度の微かなサーヴァントの気配を孕んでいる。

 立香たち三人は首を同時に戻すと、だらりと冷や汗をかいた。

 

「通信は繋がらない、リーダーたちもどこにいるか分からない。アレ、これ詰んでません?」

「確かにこれは問題が山積みだな。最高に地道な方法だが歩いてみるか? それでノアか味方になってくれるはぐれサーヴァントに出会えれば儲けもんだ」

「現状、それしか方法はなさそうですねえ。ペレアスさんの剣でも倒して行く方向を決めてみますか」

「あ、それとこれが最大の問題なんですけど」

 

 立香は真剣な顔で言った。が、思い当たる節のないペレアスとダンテは首を傾げる。

 

「私とダンテさんの口調被ってませんか。真面目キャラの宿命とはいえ、これは不味いです」

「第三特異点でも問題にしたことがここで響いてきますか……! しかしこの口調をやめるのは真面目という属性を失うに等しいですよ!」

「端からお前に真面目属性なんてねーんだよアホ詩人。失っても痛くない分お前が犠牲になれ」

「私は生前からこの口調なんです! 56年間で培ってきたアイデンティティを捨てさせる気ですか!? という訳なので立香さんに改めてほしい! こんなおっさんたちだからって敬語使って遠慮しなくて良いんですよ!?」

「お前今すげえダサいことに気付いてるか?」

 

 そもそも、天寿を全うしたペレアスと56歳ほどで亡くなったであろうダンテは実年齢で言えばおじいさんである。サーヴァントは全盛期の状態で召喚されるため、二人とも二十代前半程度の見た目だが、どうやら精神は引っ張られていないらしい。

 立香は悩ましそうに眉根を寄せる。

 

「でも英霊に対する敬意って必要じゃないですか?」

「一見聞こえは良いですが逆説的にジャンヌさんへの敬意がないことが露呈してますねえ」

「ジャンヌはジャンヌですからね。それ以上でもそれ以下でもない、吸引力の変わらないただひとつのマスコットです」

「本人が聞いてたら火だるまになりながら襲ってくるぞ」

「もはや妖怪なのですが……?」

 

 思った以上に根が深い問題だった。一行はこの場でそれを処理するのは難しいと判断して、ひとまずロンドンの探索を行うことにした。

 産業革命期のイギリスの景観を支えたのはヴィクトリアン建築である。工業技術の発展によって建材に鉄材やコンクリートを多用するようになった。中世とゴシックの折衷様式であり、近代ヨーロッパと言えばこれを思い浮かべる人が多いかもしれない。

 ロンドン全域にかかる霧も人間にとっては災難に他ならないが、景色の演出としてはそう悪いものではなかった。

 今までにも増してペレアスとダンテには初めて見るものばかりの光景。半ば観光気分で三人は歩いていたのだが、立香はどこか懐かしい感じを覚える。

 先行するペレアスはこまめに振り向いて、

 

「そこ、段差あるから気を付けろよ。さっきから変な気配もしてる。いつでも戦えるようにな」

 

 などと妙に親切だったり、

 

「お二人とも。私、実はお菓子持ってきたんですが要ります? 霧中のロンドンで食べるカント○ーマアムは絶品だと愚考しますが」

 

 ダンテから手渡されたお菓子をもっさもっさと頬張りながら、立香は懐かしい感覚の正体に行き着く。

 

(これは親戚のおじさんにお年玉を貰っている感覚───!! このままではマスターとしての威厳が消滅の危機に……!!)

 

 両手でカントリーマ○ムを貪っている時点でマスターとしての威厳は崩壊しているに等しかったが、その強烈な甘味の前に立香の思考はいつにも増して鈍化していたのだった。

 ペレアスとダンテは何だかんだで良識を備えた男たちだ。普段はノアの抑え役に回っているが、その枷が外れたとなれば気の良さしか残らない。

 立香が乙女ゲーの主人公のような気分を味わっていると、周囲から金属が擦れ合う音がいくつも重なって聞こえてくる。

 ペレアスはすらりと剣を抜き、一瞬遅れて立香も魔術回路に魔力を通す。

 曲がり角から姿を見せたのは、バケツ型の頭部をした鋼鉄の機械兵だった。一体何の動力で動いているのか、関節部から蒸気を噴き出しながらペレアスたちの前に立ちはだかる。意思は見られないが、穏やかならぬ事態であるのは確かだ。

 それが目視できるだけで数十体。今までの敵とは一風変わった敵を見て、三人は口をあんぐりと開けた。

 

「こ、これが産業革命で生まれた機械ってやつか!? ブリテンの科学力は世界一かよ! ちょっと誇らしいぞ!」

「いやあ〜、私の死後500年ほどでこんなものが作れるなんて、人類の技術の発展は目覚ましいですねえ。一家に一台欲しいです」

「いやいや、こんなの超オーバーテクノロジーですよ! スチームパンクすぎて世界観が迷子になってますから!」

 

 目の前の機械が人の手で造られたモノだとすれば、明らかに現代の技術レベルをも飛び越えた代物である。ましてや、この時代に存在するはずがない。

 対応にあぐねていた三人だったが、その認識は直後に固まる。

 機械兵は拳を振り上げると、ペレアスへそれを叩きつけた。

 

「──やっぱ敵か! なかなか男心をくすぐるデザインだが仕方ねえ、ぶった斬る!」

 

 彼は無駄なく拳撃を躱し、機械兵の五体に刃を滑り込ませる。

 鋼鉄の体はばらりと分解され、動くことすらできぬ鉄片へと姿を変えた。それを皮切りに、街路を埋め尽くすほどの機械兵が一斉に襲いかかった。

 

「ガンド!」

 

 簡素な詠唱とともに魔弾が放たれる。

 狙い澄ました一撃は過たず敵の頭部に命中した。

 ガンドに鋼の表皮を貫通する威力はないが、弾丸に込められた呪いが対象の動きを阻害する。ペレアスの白刃が躍り、即座に機械の体が解体される。

 如何に数の差があろうと、乱戦に長けたペレアスを仕留めることは難しい。さらにマスターの援護が加わり、一方的な展開になっていた。

 暴れ回るペレアスの死角をカバーするようにガンドを撃つ。ペレアスは目にも留まらぬ速度で機械兵を斬り刻みながら言う。

 

「立香ちゃん、魔力の方は大丈夫か!? こいつら程度なら援護無しでも十分やれるから無理すんなよ!」

「心配無用です! リーダーから貰った礼装のおかげで、魔力には全然余裕があるんで!」

「……そんな便利なもん作れるなら最初からやっとけよアイツは──!」

 

 悪態をつきながら、ペレアスは手近な機械兵を頭頂から串刺しにする。

 ノアが立香に作った髪留めの効果は魔力の吸収と貯蔵。言わば簡易的な魔力タンクである。当然、際限なく貯められる訳ではないが、立香にとっては絶大な恩恵があった。

 立香とペレアスが連携して敵を葬る様を見て、ダンテは泡を食う。

 

「はい! 皆さん! 不肖この役立たずのダンテめは何をしたら良いでしょうか!? いよいよ戦闘での私の存在意義がなくなってきたんですが!!」

「詩で他人を強化できる死に設定があるだろうが! それ使え!」

「戦闘中に執筆意欲なんて湧かないんですよねえ。魔力で文字を書くと推敲もできませんし」

「こんな時に作家魂発動するのやめてくれません?」

 

 ダンテは渋々宙に文字を走らせた。

 神の姿を目撃し、その祝福を受けた彼の紡ぐ言葉は極小の奇跡。込められた魔力が切れるまで、世界法則に文言を書き加えることができる。

 例えば〝ペレアスは強い〟という旨の詩を詠えば、その通りに極小規模の現実改変が起こる。その逆も可能だが、何ら曰くのないものを強化しようとしても効果は薄い。

 強いものを強く、弱いものを弱くすることは得意だが、言語として特徴のないものを賛美するのには無理があるのだ。はんぺんの見た目を褒めろと言われても困るだろう。

 ダンテからの後押しを受けて、ペレアスの剣戟の勢いが増す。だが、切り倒すそばから機械兵が追加されていき、辺りはスクラップの海となっていた。

 絶えず送り込まれてくる機械の群れに、ダンテは焦りを覚える。

 

「洒落にならないくらい多くないですかこれ!? 大量生産大量消費にも程がありますよ! 資本主義の闇!」

「そうですね。ペレアスさん、一旦退いて様子を見ましょう。この数に付き合ってたら消耗するだけです」

「賛成だ。こいつらを地産地消するのにも飽きてきた。さっさと逃げるぞ」

 

 ペレアスは眼前の機械兵の胴を真っ二つにする。勢いのまま後ろに跳ぼうとした瞬間、上空から人影が機械の群れに墜落した。

 その直後、豪風の如き剣戟が閃く。

 鋼鉄の巨躯が紙吹雪のように千々に吹き飛ぶ。

 局所的に旋風が巻き起こり、霧が晴れていく。中心にあった人影は全身に甲冑を着込んだ剣士だった。それは軽快に三人の方を向くと、

 

「そこのお前ら、ここはオレが引き受けた! 右の角を曲がって真っ直ぐ行けば逃げられ……」

 

 ペレアスに視線を合わせた途端、言葉が尻切れになる。対するペレアスも剣士を見て固まっていた。

 彼らはしばらくの間言葉を失い、堰を切ったように叫んだ。

 

「「あ゛ーーっ!!?」」

「え、なに? どうしたんですか!?」

 

 立香はペレアスと剣士に交互に視線を送りながら困惑した。

 そんな反応も他所にして、彼らは鳩がバズーカ食らったような顔で、同時にまくし立てる。

 

「よくもオレを円卓から追放してくれたな、王様大好きっ子が!!」

「どうしててめえがこんなところにいやがる、万年色ボケ野郎!!」

「「……はぁ?」」

 

 立香とダンテはがっくりと肩を落とす。

 ペレアスの反応から察するに円卓関係者であることは間違いないだろう。しかし見るからに険悪そうな雰囲気を醸し出しており、そこで思い当たる人物はひとりだった。

 ダンテはぽんと手のひらを叩いて、

 

「あ、もしかしてガウェインさんですか? 切っても切れない因縁がありますもんね」

「はあ!? あんな奴と一緒にすんじゃねえ、オレはモードレッドだ! 二度と言うな!」

 

 モードレッドは顔を覆う兜を収納し、ダンテに対して抜き身の刃と眼光をギラつかせた。

 ダンテはアキレウス並の敏捷を発揮して、地面に額を打ち付ける。

 

「はいすみませんでしたモードレッド様!!」

「ふん、分かったなら良い。……お前がマスターだな。ここに来た目的と経緯を答えろ」

 

 立香は頷き、これまでの事情を説明した。

 特異点と化したこの時代を修復する組織であることを伝えると、モードレッドは腕を組んで納得する。

 

「なるほどな。どうやらオレの敵ではなさそうだ。まあペレアス如きいつでも殺れるけどな」

「オレもお前に殺られるつもりはねえよ」

「はん、だったら試してみるか? 馬上槍試合とは違う真剣勝負で──」

 

 そこで、モードレッドの目は立香に向く。彼女は興味深そうにモードレッドの顔を見つめていた。

 

「おい、そんなジロジロ見んじゃねえ。鬱陶しいぞ」

「あ、ごめんなさい。アーサー王に似て凛々しい顔立ちだなと思って」

 

 立香は端的な感想を述べた。すると、モードレッドは喜怒哀楽を複雑に絡めた表情で、しかし口元を緩めながら、立香の背中を叩く。

 

「ま、まあ〜オレは父上の息子だからな! 似てんのは当たり前だろ! つうかどこで会ったんだ、ん? 教えてくれよ!」

「チョロい! この人チョロいですよ!」

「チョロいというより上手い感じにクリティカルしたような気がしますが」

「……お前ら、とりあえず敵を片付けてからにしろよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロンドンには街を横切るテムズ川が通っている。1750年にウェストミンスター橋が架けられるまで、ロンドン橋が市内で唯一の橋であった。

 そのロンドン橋付近。こんこんと流れるテムズ川を体育座りで眺める三人組がいた。

 

「先輩とはぐれるなんて、このマシュ・キリエライト一生の不覚──!!」

「しかもよりにもよってこいつと一緒とか、悪夢にしても質が悪いわ……」

「おまえらみたいな小娘二人の面倒見る俺の立場にもなってみろ。嘆きたいのはこっちだ」

 

 ジャンヌは一層深いため息をつく。

 

「ああ言えばこう言うし、ほんとテン下げなんですけど。マリアナ海溝くらいテンション下がってるんですけど」

「それで言ったら俺なんてマントル到達してんだよ。センターオブジアースなんだよコノヤロー」

「あー! 今地球のコア突破した! 人類未踏の地に足を踏み入れたわー!!」

「どこで張り合ってるんですか? このアホ白髪どもは」

「「黙れピンクなすび」」

 

 光の速さで一触即発の空気になる。それぞれがデッドボールを投げ合うような会話の中、乱闘に発展するのはもはや目に見えていた。

 しかしそこは後輩力53万のマシュ・キリエライト。煮えくり返るはらわたをなんとか鎮めて、話題を提供する。

 

「それで、これからどうしましょうか。このまま黄昏れてる訳にもいきません。何か行動を起こすべきかと」

「そうは言っても何もアテがないじゃない。この霧のせいで人もいないから聞き込みもできないし、足使うのも限界があるわよ」

 

 ロンドン全域を徒歩で隅々まで調べ尽くそうとするのは正気の沙汰ではない。Eチームは全員この時代では珍しい格好をしているため、平時のロンドンなら噂になっていてもおかしくなかったが、霧がそれを阻んでいた。

 ノアはやれやれといった風に肩をすくめて、鼻を鳴らす。

 

「せっかくロンドンまで来たんだ、行き先は大英博物館に決まってんだろ」

「……観光でもするつもり?」

「いえ、魔術協会の総本山である時計塔の本部のことでしょう。確かに、あそこになら何か情報が残っているかもしれません。リーダーにしては妙案ですね」

「そういうことだ。それだけじゃないけどな」

「他に何か目的が?」

 

 ノアは下衆い笑みを顔に貼り付ける。

 

「時計塔に存在するありとあらゆる資料と聖遺物を盗……引き取る! 最大派閥だからって何でもかんでも貯め込みやがって、既得権益クソ食らえだ!!」

「本気で言ってるんですか!? 主人公のやることとは到底思えないんですが! 下手したら歴史が変わりますよ!?」

「そんなもんは特異点を修復したらチャラだ。勇者が村人の家からステテコパンツ盗んだところで誰も咎めないだろうが」

「ステテコパンツどころかロトの剣強奪してるようなものでは……!?」

 

 という一抹の不安を抱えながらも、一行は現代も変わらぬ観光名所大英博物館を目指すことにした。

 時計塔は大多数の魔術師が所属する魔術協会の最大拠点である。超一級品の資料を揃えているだけでなく、世界各地に点在する有力な龍脈のほとんどを協会が握っている。

 カルデアに配属されたマスターの大半も魔術協会出身の魔術師たちであり、魔術と関わりを持って生きる以上、協会を無視することは不可能に等しい。

 最大規模を誇るだけあって、魔術協会の抱える人材も幅広い。部署の多さもあらゆる事態に対応するためであり、協会は盤石の態勢を崩すことはなかった。

 だが、ここは人類史に打ち込まれた楔である第四の特異点。これまでのように、何が起ころうとも不思議ではないのだ。

 つまり。

 

「「「………………」」」

 

 大英博物館の程近く。三人は目の前に広がる光景に愕然とした。

 一面の瓦礫の山。ロンドン屈指のロマンスポットである大英博物館は、世界中から観光客を集める雅さが嘘のように崩壊していた。その惨憺たる様子を受けて、ノアは膝から崩れ落ちる。

 

「ふ、ふざけんなァァァ!! おまえコレゴジラが通った跡くらい崩壊してんじゃねーか!! 怪獣大戦争じゃねーか!! 誰がやったか知らねえが首謀者だけは絶対に許してたまるか! 時計塔の仇は俺が討ってやる!!」

「リーダーなんかに弔い合戦される時計塔の身にもなってください」

「うるせえ! 俺がこの瞬間をどれだけ楽しみにしてきたと思ってんだ! 本能寺行ったら信長いなかったみたいな話だぞ!!」

「これから主君殺そうって時にそんなウキウキ気分な訳ないでしょ、馬鹿なの?」

「は? 威張りくさってる上司始末する時に高揚しない奴はいねえだろ」

「ナチュラルな狂気出すのやめてください。急に冷静になったのがサイコパス味を増してます」

 

 光秀が遠足気分で信長を殺そうとした狂人かはさておき、大英博物館が何者かに破壊されていたことは間違いなかった。

 魔術協会に恨みを抱く魔術師は少なくない。が、この状況で下手人として考えられるのは未だ姿を見せぬ今回の敵であろうということだけだ。

 マシュは瓦礫を払い除けながら述べる。

 

「時計塔の本拠地は大英博物館の地下にあると言います。この惨状では期待できなさそうですが、まだ諦めるには早いですよ」

 

 ナメクジのように地面に倒れていたノアは、がばりと起き上がった。彼は周囲に目を配ると、萎えた語気で指示を飛ばす。

 

「キリエライト、そっから5m左に入り口がある」

 

 ジャンヌは多少の嘲りを込めて、

 

「へえ、どんな根拠があって──」

「ありました」

「なんであるのよインチキ!!」

「魔力の残滓を感じたのと空気があそこに通ってた。むしろサーヴァントのおまえが先に気付くべきだろうが。これで俺がおまえより上だということが証明されてしまったなァ!!」

「ぐ、ぐぬぬぬぬ……後で絶対に燃やすわ!!」

 

 ギリギリと歯を食いしばるジャンヌを最後尾に、彼らは地下への道を突き進んだ。

 燭台が薄暗く照らす通路の中。地上の大英博物館ほどの被害は受けていなかったが、やはりと言うべきか人影は一切見当たらない。

 とうに人の失せた書庫を守るように、浮遊する魔本が次々と駆け付けてくる。それらを認識したと同時に、ジャンヌとノアは動き出した。

 蛇行する炎の鞭と紺青色の燐光が並み居る魔本を灰に還す。

 

「マスターのくせに出しゃばってんじゃないわよ。アンタの手なんて借りなくても私とマシュで事足りるわ」

「おまえがバカスカ燃やして他の本に被害が出たらどうする。今のも俺の方が速かったしな」

「はあ!? 今のは私の方が速かったに決まってるでしょう! 目ぇ腐ってんの!?」

 

 口論を交わしながら、二人はぞろぞろと湧き出す魔本を焚書していく。敵に手番を与えることなく蹂躙する攻撃の勢いに隠れて、マシュはサボることにした。

 

(リーダーとジャンヌさんは混ぜるな危険かと思いましたが、競わせてれば役には立ちますね)

 

 危険な調合も使いようということだろう。毒は自らを害するが、逆に敵を滅するのにも役立つのだ。

 手持ち無沙汰のマシュは警戒も兼ねて辺りに視線を配る。

 本棚がずらりと並んだ書庫。迷路のように入り組んだ部屋の中を、戦火を避けて動く人影が見えた。

 数はふたつ。親子ほどに背丈が離れており、何よりも気配はサーヴァントそのものであった。見るが早いか、マシュは盾を構えて飛び出す。

 彼女が動く人影を先回りして阻むと、彼らは尻もちをついて、

 

「おい見つかったぞ! 何とかしろ!」

「『期待はあらゆる苦悩のもと(Expectation is the root of all heartache.)』。物語の筋としてはここで見つかるのが妥当です。諦めましょう」

「ふざけろ! 演劇脳が極まりすぎてシミュレーテッドリアリティの域にまで達したか!? 虚構に引き篭もってないで現実を見ろ!」

「はっきり言いましょう、この状況はもはや締め切り三秒前です。これが現実なのです!」

「クソがーっ! せめて一矢報いてやる!! 同時だ、同時にやるぞ!」

「『何もしなかったら、何も起こらない(Nothing ventured, nothing gained.)』、ですか。役者の道は諦めたのですが──!!」

 

 そう言って、二人はマシュに飛び掛かった。彼女は咄嗟に身を守るために盾を振るうと、彼らは痛々しい音とともに撃沈する。

 そこから彼らの体はずるずると床に伏せっていき、死んだカエルのような格好で動かなくなった。

 

「……弱っ!?」

 

 マシュは思わず声を発すると、それを聞きつけたジャンヌとノアが駆けつけてくる。

 どうやら魔本の掃討は済んだらしく、戦っていた場所には灰と炭の山が積み重なっていた。ノアはうつ伏せの少年と壮年の劇作家を見て、臨戦態勢を維持しつつ訊いた。

 

「おまえらが大英博物館をぶっ壊した張本人か? 答えなくてもいいが、その時は拷問にかけるから覚悟しろ」

 

 ノアは青髪の少年の顔面を掴むと、五指に力を加える。

 アメリカ生まれの伝統的なプロレス技であるアイアンクローをかけられ、少年は空中にじたばたと足を泳がせた。

 

「ギャアアアア!! これがもう既に拷問だろうがアホなのかお前はァーッ!!」

「シェイクスピアはハムレットでこう言った。『物事に良いも悪いもない。(There is nothing either good or bad, )考え方によって良くも悪くもなる(but thinking makes it so. )』ってな。これが拷問かどうかは俺が決める!」

「それはそういうことじゃないだろうが! お前みたいに自意識を最上に置くやつは、他人の言葉を都合よく解釈するから嫌いなんだ! そうだろうシェイクスピア!」

 

 喚く少年を気にも留めず、壮年の劇作家は起き上がった。彼は先程のダメージが嘘のように笑顔で言う。

 

「吾輩の名言が引用されたと聞いて! ええ、アイアンクローはどうぞ続けてください。苦悶の表情というのも劇の画作りには必要ですので」

「いいから助けろォォ!!」

 

 一連のやり取りを踏まえて、マシュは顔色を驚きで染めた。一方、ジャンヌは合点のいかない目つきで二人を見る。

 

「シェイクスピア……本当ですか!? リーダー、とりあえずアイアンクローはやめて二人の話を聞きましょう。大英博物館を破壊した犯人がこんなところに隠れる利点がありませんし、無実の可能性が高いです」

「ここからが本番だろうが、無実だとしても俺はやめ」

 

 ごすん、とジャンヌの旗がノアの脳天に振り落とされる。頭頂からぷすぷすと煙を出して倒れ込む彼の背中を、ジャンヌは踏みつけた。

 

「これで良い?」

「ナイスですジャンヌさん! 悪は滅びました!」

「ハッ、ざまあみろ! 俺の顔面を圧縮しようとした報いだ!」

「物語の進行上邪魔になる人物は排される。これも作劇の基本ですね」

「主人公の姿ですか? これが…」

 

 マシュはぼそりと呟いた。

 ノアという障害を排除して、四人は情報の擦り合わせを行う。

 シェイクスピアと青髪の少年───アンデルセンははぐれサーヴァントとしてこの地に喚び出された。

 だが、不運だったのはその場所。よりにもよって破壊後の時計塔に召喚され、瓦礫が出口を塞いでいたために脱出もできなかったのだ。

 二人が魔本から身を隠しつつ細々と生活していたところを、ノアたちが乱入したのだった。

 シェイクスピアとアンデルセンは劇作家と童話作家という違いはあれど、現代もなお世界的に最高級の評価を受ける顔ぶれだ。単純に彼らの作品が人類に与えた幸福や感動は、どんな戦争の英雄であろうと及ぶことはできないだろう。

 マシュはどこからか六枚のサイン用紙を取り出した。

 

「サインください。鑑賞用と保存用と布教用で三枚ずつお願いします」

「鑑賞用と保存用はともかく布教用は腑に落ちんぞ。布教という名の転売じゃないだろうな」

 

 ノアはむくりと起き上がって、

 

「俺も布教(てんばい)用で三枚頼む。おまえらとダンテのサインでどれが一番高く売れるか試してやるよ」

「誰が貴様などにやるか、地獄の炎に裁かれろ! それよりも、ダンテのサインとはどういうことだ。ダンテが作品以外に遺したものはほぼ無かったはずだぞ」

「それが、私たちの仲間にダンテ・アリギエーリ本人がいるのです。今ははぐれてしまっていますが」

 

 マシュが補足すると、シェイクスピアとアンデルセンは興味深さを配合した感嘆の声をもらした。

 

「ほう、あの天才詩人がいるのですか! 作品もさることながら、彼の人生は中々に劇的です。是非一度お会いしたいところですな」

「……期待してるとこ悪いけど、きっと後悔するわよ。生きるの下手くそってくらいポンコツですもの」

「実際はそんなところだろうな。何もかもが完璧な人間などこの世には存在しない。作品とは魂の切り売りだが、奴の神曲は魂そのものだ。アレを読めば、不器用な人間であることは分かりきっている」

 

 と、ダンテを扱き下ろすアンデルセンだったが、マシュは疑問を覚える。

 

「アンデルセンさんは著書の中でダンテさんを褒めちぎっていますよね?」

 

 アンデルセンは作家として当初不遇の地位にあったが、『即興詩人』という小説を発表してから高い評価を得るようになる。この小説はアンデルセンの自伝的要素を持っており、イタリアを舞台とした作品内では事あるごとにダンテの話題が取り上げられている。

 中でも神曲からの引用は多く、それだけでアンデルセンがどれほど神曲を読み込んでいたのか察するに余りあるだろう。

 図星を突かれたアンデルセンは顔を背けて鼻を鳴らした。

 

「ふん、私が好きなのはダンテ本人ではなくダンテの詩だ。例えダンテが殺人を犯したとしても、あの詩の感動だけは揺らぐことがないだろうからな」

「詩人としては最高の評価じゃないですか。ツンデレなんですか?」

「あいつのは難しいこと言ってるだけだろ」

「黙れ! 貴様なぞにアレが理解できてたまるか! 神曲を百回写経してから出直してこい!!」

「アホか、神曲写経するくらいならサメ映画の全セリフ書き出してた方がまだマシだ」

 

 苦行に苦行でマウントを取りながら、ノアは書庫の資料を漁っていく。

 ここにある文献の数々は資料的価値だけでなく、カルデアにも収蔵されていない稀覯本が収められている。襲撃を受けた時計塔の魔術師が何らかの手がかりを残している可能性もあり、一行は隅々まで調べる腹積もりだった。

 シェイクスピアははたと気付き、懐から一冊にまとめられた紙束を一行に差し出す。

 

「おお、そうでした。我々も魔本から逃れながら探索を行っていたのですが、異様なタイトルの本がありまして」

「一体どんなタイトルなんです?」

「『超☆天才探偵のワトソンくんでも分かる調査ノート 〜初歩的なことだよ、カルデアの諸君〜』ですね」

「「「…………は??」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロンドンの一角にひっそりと軒を構える古本屋。そこには、誰にも目をつけられぬ一冊の本があった。

 店主とその家族は死んだように眠り、いつまで経っても目を覚ますことはない。

 その本が、ここにいるはずのない誰かを求めていたために。

 それに題名はない。体を表す名がないということは、本質がないのと同じだ。

 だから、誰の目にも留まることはない。

 だとしても、その本が持ち得るモノがあるとすれば、それは寂しいという感情だけだった。

 その感情に惹かれたモノがいた。

 書棚に眠る本を、目とも口ともつかぬ三つの点で見つめる黒い影。ソレにも未だ名前はなく、嵐の王の従者──百鬼夜行(ワイルドハント)がもたらす死の化身としての役割しか持ち合わせていない。

 サーヴァントのクラスで表すならライダー。人に乗り、獣に乗り、風に乗り、あらゆるものを乗騎として病毒を撒き散らす。

 自我はなく、感情もない。けれど、その寂しさに惹かれたのは同じ名を持たぬ存在であるからか。

 寂しさを解消するには他人と繋がるしかない。その本はどこまでも他人を求めていたが、力が届く範囲はあまりに頼りなかった。

 故に。

 病毒を感染させるライダーは、その力を奮った。

 本が抱える願いを人々に伝えるために。

 ───ありすに会いたい。

 

「……私は知恵の女神に好きにしろと言われた。貴様もその通りにしろ、ライダー」

 

 かくして、その願いは伝染を始めた。



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第32話 フランケンシュタインの怪物

 立香(りつか)たちがモードレッドとともにヘルタースケルターを退けた後。彼らはモードレッドが拠点としているアパルトメントに向かうことになった。

 モードレッドが言うには、ロンドンを覆う霧は人体には害となるが、屋内には入ってこない性質があるのだとか。それでなくともヘルタースケルターが街を闊歩しているため、都市機能は停止しているようなものだが。

 その説明を受けて、立香は感心して頷いた。

 

「全部モードレッドさんが調べたんですか。すごいですね!」

「いいや、何から何までオレが調べた訳じゃない。これから行く部屋の家主がインテリ野郎でな、オレはその使いっ走りだ」

「それでもすごいですよ。こんなに危険なロンドンをひとりで駆けずり回るなんて」

「ふっ、まあ悪い気はしねえな。そうだな、代わりにこいつの恥ずかしい話でも教えてやるよ」

 

 そう言いながら、モードレッドはペレアスの右肩を左拳でごすごすと叩いた。ペレアスは遠い目をして目を泳がせる。

 彼は抱えるトラウマの量だけで言うならば円卓最強最多である。一見関心のない風を装っているが、心中では昔の記憶を必死に洗っていた。

 モードレッドはけたけたと笑いながら、

 

「お前ら、こいつの二つ名知ってるか?」

 

 訊かれて、立香とダンテは考え込んだ。

 

「うーん、『毎年ゼクシィ買ってる男』とか? 未だに新婚気分抜けてなさそうですし」

「『事あるごとにノロけるクソボケ騎士』とかですかねえ。お酒入ると一分に一回は湖の乙女の話してきて面倒くさいというか…」

「お前らそれは二つ名っつうか蔑称じゃねえか!! 嘘でももうちょっと当てる気を見せてみろ!」

 

 二つ名の正解かはともかく、ペレアスという人間を表す上ではそう外れていない回答だった。図星を突かれると人間は焦ってしまうのである。

 モードレッドは意地の悪いしたり顔で言った。

 

()()()()()だよ、嘆きの騎士。戦争で敵と殺し合ってる最中も嘆き悲しんでるからってな。確かエタードとかいう女に懸想してる時に付けられたんだったか?」

 

 円卓の騎士で常に嘆いているイメージがあるのはトリスタンではあるが、その同類と言えるのがペレアスである。

 しかし、トリスタンはイゾルデとの悲恋を経ての嘆きであるが、ペレアスはエタードに対するストーカーの末の嘆きである。同じ感情であっても、そこには週刊少年ジャンプと赤マルジャンプくらいの差があるのだ。

 立香とダンテは今までのペレアスの言動を思い返す。定期的にトラウマを発症することや、レイシフト前に妖精騎士がどうの騒いでいたことから、説得力はありすぎるほどにあった。

 それを踏まえて、立香とダンテは頷いた。

 

「そんなぴったりの異名があるならみんなに言ってくれれば良かったのに! 嘆きの騎士なんてかっこいいじゃないですか、由来はアレですけど!」

「ええ、ペレアスさんにしてはまともですね。一応悲恋という共通点もありますし……あ、ごめんなさい。やっぱりペレアスさんのを悲恋とは言えません。生理的に」

「おい生理的にってどういうことだ。恋模様で言ったらお前も大概だろうが。ベアトリーチェとまともに会話したことないだろ」

 

 ここぞとばかりに口撃に回ったダンテだったが、思わぬ反撃に胸をぐさりと刺される。

 作家としても人間としても、ダンテは言うまでもなく変態である。文豪とは少なからず変態性を兼ね備えているが、失恋した初恋の人への想いを人類史に残る傑作にしてしまったのは、後にも先にも彼ひとりであろう。

 ダンテは取り繕うように口元を歪めた。

 

「い、いやいや、私のは恋ではなく愛ですから。そこを履き違えてもらっては困りますねえ。実際、天国では彼女に案内をしてもらったんで」

「それで言ったらオレだって馬上槍試合で優勝してんだよ! しかも聖霊降臨祭のめちゃくちゃデカい大会でな!」

「あの、良い歳したおじさんたちが過去の失恋話でマウント取り合ってるのを見せられるこっちの身にもなってくれませんか。キツすぎてモードレッドさん引いてますよ」

 

 布団にへばりつくダニ以下の争いを繰り広げるペレアスとダンテを、立香は言葉の刃で以って止める。

 彼女の言う通り、モードレッドは今までに見たことがないほどに青褪めた表情をしていた。百戦錬磨の叛逆の騎士は思わず血を吐いた。

 

「へっ……気持ち悪さでオレを吐血させるとはやるじゃねえかお前ら……半径10m以内に近寄らないでくれ。頼むから」

「あのモードレッドがこんな姿を見せるだと…!? なんて無駄なレア映像なんだ!」

「ペレアスさん、反省してます? ガンド撃ちますよ」

 

 そうこうしている内に、一行はモードレッドが拠点にしているアパルトメントの一室に辿り着く。

 扉を開けて室内に入ると、まず最初に薬品の匂いが鼻をついた。居間の真ん中に置かれたベッドの上には、目と鼻と口以外の全身を包帯で巻かれた人間が寝ている。

 男性か女性かも分からないその人は骨折しているのか、両手にギプスをして右足を吊っている。ミイラ男はギシギシと首を動かして、一行を視界に捉えた。

 

「やあ、よく来たね。そちらの方々は新しい協力者かい? モードレッド」

「まあな。不甲斐ないお前に代わって人手を増やしてやった。感謝しろよ」

「こんな姿にされたせいで感謝の純度が鈍るなぁ……あ、気にしないでかけてください」

 

 流暢に喋り出したミイラ男に、立香はぎょっとする。

 

「し、喋った……一瞬エジプトに迷い込んだのかと思いましたよ私は」

「うん、僕もさっきまでミイラの気分を理解してたところだよ。僕だから堪えられたけどハイドなら堪えきれなかった…」

 

 ダンテは顎に手を当てて考える素振りをした。彼は包帯で隠された顔を覗き込む。

 

「おや。その口振り、もしかしてヘンリー・ジキルさんですか? 創作の人物ではなかったのですね」

「はい、僕はヘンリー・ジキルと申します。あなたがたは?」

 

 そこで、彼らは事情の説明も兼ねて自己紹介を行った。

 ヘンリー・ジキル。現代では二重人格の代名詞としても語られる人物である。『ジキル博士とハイド氏』の舞台は19世紀のロンドン。彼はサーヴァントではなく、れっきとした人間としてこの時代にいる。

 小説が現実に基づいていたことは驚くばかりだが、それは三人の自己紹介を受けたジキルも同様だった。

 

「湖の乙女と結ばれた騎士に不世出の天才詩人、そして人類最後のマスター……お手柄だモードレッド。戦力として十分に頼もしいよ」

「チッ、立香といいお前といい、今日はよく褒められる日だ。柄でもねえってのに」

「賞賛は素直に受け取っておくものだよ。それで早速なんだけど、もうひと仕事引き受けてくれるかい?」

「オレはいいぜ。お前らはどうだ?」

 

 立香とペレアスは首肯した。若干一名ヘタレ詩人が渋っていたが、ペレアスに無理やり頭を下げさせられる。

 立香はそもそもの疑問をジキルに問う。

 

「ジキルさんはいつ怪我したんですか? かなり大げさに包帯巻かれてますけど」

「これはモードレッドの雑な治療のせいだけど、そうだね。それも含めて話していこう。……僕が負傷したのは、オティヌスと名乗るサーヴァントと交戦した時だ」

 

 ジキルの話はこうだった。

 ロンドンを覆う霧。これがもたらすのは人体への直接的な害だけではない。

 外出が制限されることで商業活動も止まり、食料の供給が滞る。この状況が続けばロンドン市民の餓死が多発するだろう。

 霧を移動できるモードレッドとジキルが手分けして食料の配給を進めていたところ、ジキルは近頃ロンドンを揺るがすワイルドハントに遭遇した。

 立香は首を傾げる。

 

「……ワイルドハント?」

「ヨーロッパに伝わる伝承のことですね。嵐が発生する冬季に魔物たちが略奪を行うというものです。日本で言うと百鬼夜行に近いでしょうか。こういうのはノアさんの方が詳しいので、何とも言えませんが」

「ノア? 誰だそりゃ。方舟のやつか?」

「「「人でなしの代名詞」」」

「ますます分からなくなったぞ!?」

 

 困惑するモードレッド尻目に、ジキルは続ける。

 ──ワイルドハントは一ヶ月前から不規則的に発生し、破壊を繰り返している。不運にもそれに直面したジキルは応戦するも及ばず、深手を負ってしまったのだった。

 ジキルはギプスで覆われた両手を器用に使って眼鏡をかける。

 

「ロンドンを取り巻く問題は二つ。霧とワイルドハントだ。これらの事件に相関性はなく、霧の発生にはオティヌスとは別の黒幕がいると僕は考えている」

「私もそう思いますねえ。ある種自然災害の体現のようなワイルドハントが、霧なんてややこしい方法は使わないでしょう」

 

 インテリ派のジキルとダンテにあわせて、ペレアスはなぜか誇らしげに腕を組んだ。

 

「やるじゃねえかダンテ。流石はEチームのブレーン、オレも同じことを考えてたぜ」

「……ま、ペレアスの野郎よりオレの方が早く気付いてたけどな」

「あっ二人ともずるいですよ! 私にも頭良いフリさせてください!!」

「な、なんて自己アピールに余念がない人たちなんだ……!」

 

 ジキルはEチームの浅ましさを目の当たりにして絶句した。だが、彼は内に潜むハイドと日夜戦う精神力を活かして心を平静に戻した。

 

「そこで、きみたちにはある場所に向かってもらいたい。この霧の発生源に近付く情報が残されているはずなんだ」

 

 モードレッドは好戦的に笑う。

 

「今からか?」

「ああ。昨日まで連絡を取り合っていたんだけど、つい先程急にそれが途絶えてね。有名な人の屋敷だから行けばすぐに分かると思う」

「どんな奴の家なんだ?」

「ペレアスなんかより有名なことは確かだろうな」

「うるせえ、放っとけ!」

 

 ジキルは包帯の一部を千切ると、咥えた万年筆でその場所の住所と家主の名前を書く。それを立香に渡すと、彼女は文面を読み上げた。

 

「フランケンシュタイン……私でも知ってるじゃないですか! この人も実在したんですね」

「その人はフランケンシュタイン博士の孫に当たる人物だ。連絡が途絶えたことから最悪の事態も予想される。くれぐれも注意してくれ」

 

 そうして、立香たちはフランケンシュタイン博士の孫の屋敷を目指して移動することとなった。

 外に出ると、霧に遮られて分かりづらいが空が茜色に染まっていた。既に日は傾き、地平線の向こうに太陽が沈もうとしている。

 ロンドンは広い。ここからどれほど速く移動しても、日が出ている内に到着することはできないだろう。朱と黒のコントラストが織り成す街を歩きつつ、ダンテはしみじみと語った。

 

「いやはや、まさかジキルさんに続きフランケンシュタイン博士まで実在したとは。作家との関わりが気になりますが、案外こういうことは多いんでしょうかねえ」

「確かに。それで言ったらマシュの大好きなシャーロック・ホームズとかも、本当はいるかもしれませんね」

 

 そもそも、と立香は思い至る。

 

「モードレッドさんもペレアスさんも、現代だとアーサー王伝説の物語の登場人物として理解されてますよね。何が実話か分からなくなってきました」

「マロリーだかキャクストンだかのことか。オレもジキルのやつの書斎で読んだが、やっぱ断片的だな。よくまとめたとは感心するけどよ」

「本人からしたらそう感じるのも無理はないでしょうねえ。ペレアスさんはどうです?」

 

 ダンテに話を振られた途端、ペレアスは苦々しい顔をした。昔話をするときのペレアスは大抵良い表情はしていないのだが、今回は殊更ひどかった。

 

「キャクストンのやつで身に覚えがない話はあったな」

「なんだよ、勿体ぶりやがって。円卓の騎士から外されでもしたか?」

「お前のせいでな! ……聖杯探求ってあるだろ。アレを成就する騎士の中にオレの名前があったのは意味不明だった」

 

 ペレアス以外の三人は顔を見合わせる。

 聖杯探求。アーサー王物語の主題の一部とも言えるこのエピソードでは、一般的に三人の騎士が聖杯を見つけ出すと言われている。すなわち、ガラハッド卿とパーシヴァル卿とボールス卿の三人だ。

 だが、キャクストン版ではペレアスの名前が加わっており、それだけなら良いものの、聖杯探求の物語内ではペレアスは全く関わってこないという異常事態が巻き起こっている。

 つまり、物語を読む限りではペレアスが聖杯探求を成し遂げた騎士というのは、真っ赤な嘘ということになるのだ。この文章の意図についてキャクストンに小一時間問い詰めたい。

 ダンテはペレアスの言に同意した。

 

「言われて思い出しましたが、それはそうですね。昔の書物にはよくあることなので無視しましたが、やはり事実無根だったと……」

 

 ペレアスは両手両膝を地面について、石畳を叩く。

 

「間違いなら間違いでそのまま聖杯探求の話に、オレを登場させてくれれば良かったのに! そこは間違えたままで良かっただろうが! オレも聖杯を見つけた騎士の称号が欲しかった!!」

 

 あまりにも必死なその痴態を見て、モードレッドは顔を青くして後ろにのけぞる。もちろん、立香とダンテも似たりよったりな反応をした。

 

「うっわ、コイツ汚え! 自分の手柄を捏造しようとしてやがる! 恥を知れ!」

「それでも騎士ですか!? ここ最近ペレアスさんに騎士道の欠片も見当たらないんですけど!!」

「だいたい、聖杯ならこれまでに見つけてるじゃないですか! そんなに目立ちたいんですかねえ!?」

 

 ペレアスは三人からの集中砲火から逃れるように、地面を転がりながら叫んだ。

 

「良いよなァお前らは絵画とかにも描かれて! ダンテは本人も作品もモチーフに引用されてるし、モードレッドは王様とツーショットのやつがあるしよォ!」

「いや、モードレッドさんのツーショットのやつはアーサー王に刺されてる場面ですよね。和気あいあいとしたものじゃなくて、がっつり殺人現場ですよね」

 

 立香は思わずツッコんだ。嘆きの騎士の本領を発揮したペレアスはこうなると非常に面倒くさい。彼を置き去りにして進むと、数秒後に子犬のような歩き姿で後ろをついてくる。

 そんな波乱を経験しながらも、一行はフランケンシュタイン博士の孫の屋敷に行き着く。とうに空は暗い色に塗り変わっていた。月の光が届かないせいで、夜の闇は一層深くロンドンを包む。

 立香は錆びた門と前庭を通り抜けて、屋敷の扉を叩く。それなりに広い家だが使用人が出るようなことはなく、虚しく音が響くだけだった。

 ダンテは嫌な寒気に身震いする。

 

「な、なんだか嫌な感じですねえ。やっぱり出直して明るい時間帯に来ません?」

「なーに言ってんだ意気地なしが。この程度でビビってんじゃねえ。良い歳した男がダセえぞ」

「モードレッドさんの言う通りですよ。円卓の騎士が二人もいますし、これくらいノリで行けば大丈夫ですって。失礼します!」

 

 立香は勢い良く取っ手を引っ張る。ぎぎぎ、と古い木扉特有の不穏な音を立てて、室内への道が開く。

 仄暗い広間。その中には妙に顔色の悪い腐った動く死体や見るからに瘴気を放つ猟犬が徒党を組んで闊歩していた。立香はぱたんと扉を閉めると、諦観混じりに笑う。

 

「……お邪魔しました〜。帰りましょうか、ここもじき腐海に沈───」

 

 声を遮るように、扉を粉砕して死体が飛び出してくる。

 立香は咄嗟に腕を構えると、

 

「ギャーッ!? ガンド! ガンド! ガンドォォォ!!」

「落ち着け立香ちゃん! そいつもう粉々になってるぞ!」

 

 パニックになる立香を押さえるペレアス。彼らを横目にモードレッドは白銀の名剣──クラレントを引き抜く。

 

「いきなりこういう展開か。手っ取り早くて助かるぜ!」

 

 踊るような歩調で広間に跳び込む。

 銀の大刀をまるで棒きれでも振り回すかのように手繰る。荒々しい太刀筋の刃は次々と自分以外の動くものを斬り伏せていく。

 それはもはや戦いではなく、虐殺だった。返り血すらも身に寄せぬ圧倒的な武威で、動く死体と猟犬を殲滅した。

 モードレッドは剣に付いた血を振り払い、ため息をもらす。

 

「チッ、殺り甲斐がねえな。これならヘルタースケルターの方がいくらかマシだ。……腰でも抜かしたか、立香?」

「い、いえ……でも、二度とバイオハザードができない体にされちゃいました……」

「立香さん、乙女がそのようなことを言うものではありませんよ?」

 

 ペレアスは鞘に納めたままの剣を担ぐ。

 

「とにかく掃除も済んだことだ、早速ガサ入れといこうぜ」

 

 一行はようやく屋敷の探索を始める。

 フランケンシュタイン博士の孫の家と言うからには特殊な装置が満載されているかと思えば、室内は質素な調度品でまとめられていた。

 魔力が感じられる物品などもなく、家主の名前を知らされていなければ一般人の家庭と見分けがつかないだろう。

 それほどまでに、この家は巧妙な偽装がなされている。

 物置部屋の奥。埃の積もった木箱に紛れるように、地下への階段が続いていた。発見者であるモードレッドは鼻を鳴らす。

 

「ビンゴだな。胡散くせえ匂いがぷんぷんしやがる」

 

 立香は地下に降りようとする背中を呼び止める。

 

「待ってください、モードレッドさん。少し怪しいです」

「あん? 特に異常はないぞ」

「だからこそ、というか。階段の隠し方も雑ですし、研究室に通じる入り口なら魔術的防護を施しているはずです。ほら、魔術師の人って大抵性格歪んでるじゃないですか」

 

 モードレッドはとある花の魔術師を思い浮かべ、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「……あ〜、そりゃ言えてる。ロクな魔術師なんて今までに一回も見たことねえな」

 

 ペレアスはそれと同じ人物に加え、自分のマスターを想像して遠い目になる。

 

「オレはまさかマーリンに負けず劣らずのアホに会うとは思ってもみなかったけどな。それで、隠し方もなってない上に罠もないってことは……」

 

 彼の言葉を引き取って、ダンテは言う。

 

「先に誰かが見つけた、ということでしょうか。さっきのゾンビも、あんなところにいたのは不可解に過ぎます」

「はい、という訳で正解者には豪華賞品をプレゼント! メフィストフェレス特製爆弾をご堪能あれ!!」

「は──!?」

 

 瞬間、爆風が辺り一面に巻き起こった。家の至る場所に仕込まれた爆弾が連鎖的に起爆し、屋敷を含んだ一帯を焦土に変える。

 しかし、直前に二人の騎士は動いていた。モードレッドは立香を、ペレアスはダンテを示し合わせたように抱えて疾走した。

 ほんの一瞬とはいえ爆発にはタイムラグがある。その間隙を突いて常に爆風の空白地帯へと走り込めば、傷つくことはない。そんな馬鹿げた論理を実証してみせるのがサーヴァントという存在だ。

 霧よりなお濃く立ち込める煙の中。地下へ続く階段から小さな人影が飛び出し、モードレッドの首元へ短刀を振るった。

 空を切る刃に騎士の身躱しは刹那の差で遅れを取った。が、その一刀は横合いからの飛翔物に叩き落とされる。

 宙を舞う剣の鞘。それはペレアスが投擲したものだった。

 

「よっしストライク! アーチャーのクラスでもやっていけそうだな!」

「ピッチャーの間違いでは?」

 

 小さな人影は鞘に打たれた衝撃を利用して後転し、四人から間合いを取る。

 死の雰囲気を纏う虚ろな銀髪の幼女。彼女がモードレッドの首を狙った暗殺者の正体であった。年端もいかぬその姿を認識し、ダンテは目を丸くした。

 

「こ、子ども……!?」

「ただの子どもではありませんよぉ? 何せ彼女はロンドンを震撼させた連続殺人鬼ジャック・ザ・リッパー! ワイルドハントの尖兵としてこれ以上ない大物でしょう!」

 

 歌い上げるような語調。メフィストフェレスの哄笑に反して、ジャックは両頬を膨らませてむくれ面になる。

 

「メッフィー! 名前はかんたんに教えたらダメって王様に言われたでしょ!」

「おや、そうでしたっけぇ? 王様がいの一番に名乗ったではありませんか。貴女だって〝我が名はオティヌス……〟とかカッコつけたいでしょう?」

「? わたしたちの名前はオティヌスじゃないもん」

「そういうことではなくて──」

 

 敵前で話し込む二人。モードレッドは鎧から兜を展開し、剣先を彼らに差し向けた。

 

「ごちゃごちゃうっせえぞ、おしゃべり野郎ども。なんだか知らねえがお前らはぶった斬る!!」

 

 地面を蹴り、ジャック目掛けて突撃する。

 その直後、彼女は言った。

 

「──『暗黒霧都(ザ・ミスト)』」

 

 噴出する霧。一瞬にしてジャックとメフィストフェレスの輪郭は霧に溶け込み、モードレッドの剣は空を裂く。

 ロンドンに蔓延する霧とはまた異質な神秘の込められたそれは、肺を焼き目を爛れさせる硫酸が含まれていた。サーヴァントであればダメージを受けることはないだろうが、人間は別だ。

 魔術師であっても数分で命を奪うであろう酸性霧。姿を消した敵よりも優先して、モードレッドは声を張り上げる。

 

「立香! あいつらはオレとペレアスで相手するから地下室に行け! この霧だけは絶対に触れるな!」

「ええと、私は…?」

「ダンテさんは私と一緒に来てください! 二人の足を引っ張るだけなんで!」

「容赦のない事実が私の心に突き刺さる──!! しかし、やるからには身を捨ててでも立香さんの盾になる所存ですよ!」

 

 と言いつつ、ダンテは素早く立香の後を追った。

 この屋敷に来た目的はフランケンシュタイン博士の孫の安否確認と、霧に関する情報の回収だ。ここで敵を倒したとしても、その二つが達成されないままでは本末転倒になる。

 ダンテの宝具による固有結界ならば霧の影響は受けず、必殺に近い効果を有しているが、この濃霧の中では相手を射程に捉えられるとは限らない。

 勝算の薄い賭けに出るにはまだ早い。地下室への階段に向かう二人の背中に、ペレアスはぐっと拳を突き立てた。

 

「その意気だダンテェ! 乙女を守るのは騎士の誉れだ、しっかりやり遂げろよ!」

「いや、私は騎士じゃないですけどね!?」

「……と、とにかくペレアスさんモードレッドさん、後は頼みました!」

「「任せろ!!」」

 

 立香とダンテは階段を下っていく。

 足音が遠ざかっていく。霧中で剣を構える騎士たちを嘲笑うように、メフィストフェレスの声が響き渡る。

 

「円卓の騎士が二人──白兵戦では勝ち目がない。まさしく秒殺されるでしょうね」

「ペレアスのやつはただのはぐれ騎士だがな。ま、よく分かってんじゃねえか、逃げ回るのはてめぇらの方だぞ」

「いいえ、私どもは追い回す側ですよ。この身はワイルドハントの一部、遍く生者を連れ去る悪霊なれば!」

 

 ワイルドハントとは死者や精霊、歴史上の英雄たちで構成された狩猟団。あらゆる生命を枯らす冬の暴威が如き嵐の軍団は、古来よりヨーロッパの人々の畏怖の対象となっていた。

 狩猟団故に、その本質は群体。墨を落としたように地面が点々と染まり、そこから死者が這い出てくる。

 ペレアスは落ちた鞘を拾い直す。

 

「乱戦はオレの独壇場だ。どっからでもかかってきやがれ!」

「お前、王妃誘拐事件でしくじってランスロットに泣きついただろうが。忘れたのか?」

「…………今のオレは昔とは違う! なぜならオレはフランスでファヴニールを殺し、オケアノスでヘラクレスにとどめを刺してアキレウスと引き分──」

「長えよ!!」

 

 その言葉を皮切りに、霧中の戦いが幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 立香とダンテは地下通路をひた走る。

 魔術師の工房は外敵の侵入を阻む罠が仕掛けられているが、その仕掛けは全てが解除されていた。フランケンシュタイン博士の末裔と立香とでは、魔術の腕は比べるべくもない。その点では不幸中の幸いと言えた。

 研究室の扉を押して中に入る。

 石造りの室内には損壊した器具やガラス片が散在し、引き出しに至るまで執拗に破壊されていた。

 極めつけは、床に横たわる死体。肩甲骨から尾てい骨の辺りまでの背中が大きく抉られており、内臓と骨は綺麗さっぱり取り除かれている。傷口の周りは黒く炭化し、高温で熱されたことがうかがえる。

 立香は血に沈む死体の側に屈み込んで、両手を合わせる。ダンテも続いて十字を切ると、荒らされた室内を見回した。

 

「彼がフランケンシュタイン博士の孫ということで間違いなさそうですねえ。研究室は大分荒らされていますが、あの二人がやったのでしょう」

「メフィストフェレスとジャック・ザ・リッパーも、ここの情報を狙ってきたんでしょうか。一体どうして……」

「考えられる可能性は三つ。情報を求めてきたか、彼に用があったか、または別の目的があったか……最後のは考え出すとキリがないですね」

 

 何にせよ、これでジキルからの依頼は失敗してしまったに等しい。本人は既に死亡しており、残されていたであろう情報も抹消されている。

 他の手段はメフィストフェレスとジャックから話を聞き出すことだが、真名から察するに単純な説得や拷問でどうにかなる器量ではないだろう。

 ダンテは何の気なしに言った。

 

「そういえば、フランケンシュタインの怪物は最後北極点に消えたんでしたっけ。博士の血縁者と言っても、ここにいるはずもありませんか。一度会ってみたかったのですが」

「私は原作読んだことないですけど、恐ろしい化け物なんですよね。そんなのに会いたいんですか?」

「いえいえ、フランケンシュタインの怪物はイメージよりは純粋で理性的ですよ。人を襲う怪物という印象は彼が復讐に取り憑かれた後のものでしょう」

 

 事実、フランケンシュタインの怪物は溺れている少女を助けたように、人間に見境ない悪意を持っている訳ではない。人間性と教養を身につけることさえできた彼は、周りの理解さえあれば、博士の求めた『理想の人間』になる可能性もあったのかもしれない。

 しかし、物語では怪物は自ら命を絶つと言い残して北極点に向かっている。ヴィクター・フランケンシュタイン博士の傑作はこの世を去っているのだ。

 ダンテの説明を聞いて、立香は思う。

 

「でも、魔術師にとっての研究成果って自分の人生よりも大切なものじゃないですか。子孫は何をしてでも取り戻そうとしそうですけど。ほら、リーダーなんか独占欲の怪物ですし」

「ノアさんは理性のタガが外れているだけだと思いますが……確かに、魔術師の執念を考えると北極に行くくらいは訳ないでしょうねえ」

「だったら、見つからない場所に隠すくらいはすると思うんですよね。もしかしたらここに……」

「推論に推論を重ねてはいますが、ええ、探してみる価値はあるでしょう。そんな隠し場所があるなら、そこに情報を保管していたとしてもおかしくありません」

 

 二人は散乱する器具を引っくり返して回る。

 魔術師が自身の研究成果を秘匿し護るのは、知られることで神秘が薄れるためだけではない。遥か遠き根源へ至る足跡を子々孫々へと残す、研究者としての意地。

 そして、そのような執念こそが学問を発展させ、人類を導いてきた。人類史を支えてきたのは英霊たちだけではなく、史に残らぬ人々であったはずだ。

 彼らは、その執念に賭けた。

 ダンテは剥がれた石畳の下に、底に薄い朱──おそらく血で魔法円が描かれた円形の窪みがあるのを発見する。円は完全に繋がっておらず、一部途切れていた。彼は横たわる死体に視線を送り、口角を吊り上げる。

 

「……あなたの執念、しかと受け取りましたよ。立香さん、ありましたよ怪しい窪みが!」

「でかした! ……典型的な魔法円ですね。これなら私でもいけそうです」

 

 立香は床の血溜まりを人差し指ですくい、途切れた線を繋ぎ直した。

 円が欠けているのは不完全を表し、それを修復することで効力を取り戻す。そしてそれは、本人の血で描かなければならない。血は魔力を宿す触媒であるとともに、その人間の魂と肉体の情報が詰まった物質だ。

 博士の孫が魔法円を血で描いたのは、自分の血を用いて本人確認が為されなければ魔術を発動できない、一種のセキュリティであろう。

 その目論見通り、魔法円は淡い光を発した。それに反応して近くの壁が開き、隠し部屋が現れる。

 そこには表紙に『魔霧計画』と記された紙束と、白いドレスを着た少女が目を閉したまま立ち尽くしていた。突き立てるように持っていた戦槌に微弱な電気が流れると、彼女は虚ろな瞳を開けた。

 立香とダンテは息を呑む。フランケンシュタインの怪物か、もしくは実は伴侶が造られていたのか、ともかく人体工学の粋がここにあるのだ。

 少女は威風堂々と歩き出すが、ものの数歩でぱったりと倒れた。立香とダンテが恐る恐る近づくと、少女は小さく唸る。

 

「ウゥ……」

 

 何かを伝えようとしていることは分かるが、何を言いたいかは分からなかった。立香の困惑をよそに、ダンテは頷く。

 

「立香さん、どうやら彼女は動くのに電気が足りないようです」

「えっ、なんで分かるんですか!?」

「私、ほんの少しばかり心と未来を読めるスキルを持ってまして。霊感みたいなものですね。戦闘では役に立たないんですけど」

「ああ、本体がナメクジ並の強さだから……」

「立香さん?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 剣風が起こり、濃霧を切り裂く。

 ペレアスとモードレッドは亡者が寄るそばから切り払い、己が拳足で打ち砕く。その度に敵の数は補充されていくが、二人に指一本触れることさえできない。

 それどころか補充が追いつかず、全滅させられることすらあった。が、彼らの刃は未だ敵サーヴァントを捉えてはいなかった。

 どこからか笑い声が響き渡る。

 

「それではご注目! 今からカウントダウンして、ゼロのタイミングで爆弾が起爆しますよぉ! 準備は良いですかァ!?」

 

 二人の騎士を嘲笑うように、メフィストフェレスは哮り立つ。

 

「それではいきますよ。さん、にぃ、いち……ゼロ! ゼロ!! ゼロ!!!」

 

 掛け声にあわせて、各所で爆発が生じる。味方の損害は度外視。補充の効く駒を吹き飛ばすのに何ら躊躇いはなく、爆炎がペレアスを襲った。

 彼は全力疾走で爆破を躱しながら、

 

「何だそれはァァァ!! そういうのは一回でお腹いっぱいなんだよ!」

 

 最後の爆風を転がるように逃れると、ペレアスは即座に剣を逆手に持ち替えた。それをそのまま、左足からすくい上げるように振り抜く。

 ガキン、と一際高い金属音が鳴り響いた。霧より放たれた短刀の一撃は白刃によって、見事に弾かれる。

 銀髪の少女は不満げに呟いた。

 

「ちゃんと隙を狙ったのに。どうやって防いだの?」

「わざと隙を作っただけだ。来るのが分かってれば防げる。次からはフェイントも混ぜてった方がいいな」

「教えてくれるんだ。優しいね。お礼に殺してあげる──!!」

 

 ペレアスはそれを威勢よく笑い飛ばした。

 

「礼ならいらねえよ! どうしてもって言うならモードレッドにツケとけ!」

「お前からぶっ飛ばしてやろうかペレアス!? クーリングオフで叩き返してやる!」

 

 モードレッドは魔力放出スキルで得た推進力を糧に、纏わり付く硫酸霧を斬り飛ばす。

 ジャック・ザ・リッパーの宝具『暗黒霧都』はサーヴァントに対しては殺傷能力を発揮しないものの、敏捷を下げるという効果がある。

 視覚を阻害し、爆弾と亡者に気を取らせてからジャックが仕留めにかかる。彼らの徹底した一撃離脱戦法に、ペレアスたちは敏捷低下も相まって影も形も掴めずにいた。

 現状、不利なのはペレアスたちの方だ。彼らの高い技量で持ちこたえているだけで、敵は幾重もの利を身に着けている。

 いつまで経っても剣が届かないのが良い証拠。揺さぶりをかけるため、メフィストフェレスは声音にこれ以上ない侮蔑を込めて嘲弄した。

 

「随分とイキった物言いですが、逃げるばかりで実が伴っていませんねぇ。逃げ回るのは私どもの方ではなかったのですかァ?」

「ハッ、てめえこそ道化師気取りの癖に煽りが下手糞なんだよ。そういうことは一撃でも当ててから言いやがれ!」

「すぐムキになって言い返すのが沸点の低さをよぉく表しているのですが? 円卓が二人も揃ってその体たらくとは……」

 

 急所を抉るように、一言を放つ。

 

「───主君の程度も知れるというもの」

 

 その時、ペレアスとモードレッドの表情から熱が消え失せた。

 心を乱す舌戦は戦場では珍しいものではない。むしろ、怒号と罵声が飛び交わぬ戦争など存在する方が少ないだろう。

 しかして、彼らは動きを止めた。

 無防備な背に襲い掛かる多数の亡者。

 ペレアスとモードレッドは同時に、同じ行動を取った。

 互いの背を襲う敵を一刀で斬り伏せる。一歩間違えれば味方を傷つけかねない行為。端から見れば両者が斬撃を浴びせたようにすら映る。

 モードレッドは口元をひくひくと痙攣させながら嘯く。

 

「オイオイオイ、どうしたペレアス。キレてんのか? 歳取った人間が寛容になるってのはどうも嘘らしいな」

「はあ? オレがあんな煽り文句真に受ける訳がねえだろ。むしろ自分自身の寛大さに憤りを覚えてるレベルだからな」

「……オレもお前も効いてないってことで良いな」

「ああ、全く効いてない」

 

 どこからどう見ても二人の怒りは脳天に達していた。努めて冷静に振る舞っているが、握られた剣柄はミシミシと軋むような悲鳴をあげている。

 メフィストフェレスはわざとらしく嘆きの声を発した。

 

「ああ、これは残念。まさか私の冗談が通用しないとは! 人間ひとりの心も揺さぶれないとは、悪魔の称号を返上しなくてはなりませんかねぇ!?」

 

 次の瞬間、ペレアスとモードレッドは明確にメフィストフェレスのいる方向へと突撃すると、剣を振り下ろした。

 突如として身を襲う二つの斬撃。泡を食って上体を仰け反らせて回避するが避け切れず、胸に縦一直線の切創が刻まれる。

 

「あれっ……怒ってないはずでは?」

 

 二人は噛み付くように吼える。

 

「「それとこれとは話が別だァァァ!!!」」

 

 視界を制限する霧中にあって、彼らは徐々に敵の姿を捉え始めていた。

 メフィストフェレスは全速力で後退しつつ、居場所を特定された理由を探った。しかし、それに考え至る前にモードレッドはがなり立てる。

 

「あんだけ闘り合ってりゃあ、いくら目が利かなくても地形くらい把握できんだよ! 足音だけはごまかせねえしな! オレたちが霧に慣れるまでに仕留めきれなかった、お前らの負けだ!!」

 

 地形と雑魚の位置を考慮し、最も安全に攻撃できる場所を割り出す。次いでメフィストフェレスとジャックの足音が特定できれば、位置は知れたも同然だった。

 だがしかし。

 距離が詰められたなら、それはそれでやりようがある。

 メフィストフェレスの宝具『微睡む爆弾(チクタク・ボム)』。射程圏内の対象の体内に爆弾を仕込む、一撃必殺に等しい殺戮手段。

 これならば、如何ようにでも逆転できる───!!

 

「『微睡む爆(チクタク・ボ)……」

「『磔刑の雷樹(ブラステッド・ツリー)』!!」

「……ギャアアアアア!!?」

 

 薄緑色の電撃がメフィストフェレスを脳天から打ち据える。

 発生源は白いドレスの少女が持つ得物。立香とダンテは地下室に続く階段からひょっこりと顔を出して、声援を送った。

 

「ナイスですよフランさん! 私と少しキャラが被ってるそこの悪魔をぶっ倒してください!!」

「いや別にどこも被ってませんけど!?」

 

 雷電を浴びたメフィストフェレスはよろよろと頼りない足取りで後ずさる。ジャックは疾風の如く駆け寄り、その首根っこを掴んだ。

 

「もう勝てない。逃げるよ」

「た、助かった……覚えておきなさい、次は絶対に殺しますからねぇ!」

 

 ペレアスとモードレッドは全力で逃げていくジャックの背を追った。モードレッドはフランケンシュタインに顔を向ける。

 

「おい、そこのお前! さっきの雷もっかい出してくれ!」

「…………ごめん、でんちぎれ」

「ちくしょう!」

 

 フランケンシュタインは魔力と電力を燃料として動くが、起き抜けでそのどちらもが足りていなかった。

 曲がりなりにも宝具を発動できたのは立香が雷のルーンで電気を補充していたからだが、先の一撃で全て使い切ってしまったのだ。

 メフィストフェレスを抱えている分、ジャックの速力は落ちていた。が、彼女の霧は未だ健在で、街に逃げ込まれれば追いつくことは難しいだろう。

 ペレアスは逆手に持った剣を担ぐように構え、一直線にそれを投擲する。

 

「くらいやがれ、ペレアス版エクスカリバァァァ!!」

「ただ投げただけじゃねえか! 父上侮辱してんのかばーか!」

 

 矢の如き速度で飛来する剣。ジャックは立ち止まり、右手の短刀で弾き飛ばす。

 だがそれは、戦場において致命的な隙。悪態を飛ばしながらも、モードレッドは既に宝具の準備を終えていた。

 白銀のクラレントの表面を赤い電流が走る。

 

「『我が麗しき(クラレント)───」

「ごめんね、メッフィー」

 

 間に合わない。そう判断を下したジャックは、首元を掴む手をぱっと放した。

 

「───父への叛逆(ブラッドアーサー)』!!」

 

 空間を焼き尽くすかのような災厄の赤雷。

 フランケンシュタインの雷撃を受けたメフィストフェレスが、それを避けることはもはや不可能だった。

 雷光に呑まれる間際、彼は断末魔を残す。

 

「け、計画の大詰めでオティヌスを裏切るつもりだったのに……私を倒しても第二第三のメッフィーが───あああああああ!!!」

 

 赤雷の直撃を受け、メフィストフェレスは金色の粒子を残して焼失する。

 しかし、その代わりにジャックの姿はどこにもなく。酸性霧も引いており、彼女はまたロンドンの闇に潜伏したのだった。

 そこで、立香は異様な違和感を覚える。

 

「……あれ?」

「どうした、立香?」

 

 すっぽりと、何か記憶が抜け落ちたような感覚。

 

「今倒したメフィストフェレスって、フランさんの宝具を受けて動けなかったはずなのに、どうやってここまで逃げてきたんでしたっけ?」

 

 残る四人は困惑し、顔を見合わせる。

 その中の誰も、答えを持っている者はいなかった。

 ダンテはダラダラと冷や汗を流して、

 

「もしかして……記憶が改竄されてます? 私たち」

 

 ジャック・ザ・リッパーは正体不明の暗殺者。

 霧の中に消えるのは姿だけではなく。

 その記憶すら、白く虚ろな霧へと連れ去るのだ。

 彼らの頭上には、漆黒の怪風が蠢いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロンドン、ウェストミンスター宮殿前。

 ぼんやりと見える月は夜空の頂上に来ていた。絢爛豪華な宮殿の威光も、魔の霧が支配するこの地ではいくらか陰ってしまっていた。

 周辺には無数の機械片が散らばっており、その内のいくつかは一体どんな温度で焼いたのか、液状に熔けている。

 大英博物館の地下でアンデルセンとシェイクスピアを仲間に加えたノアたちは、どういう訳かウェストミンスター宮殿にいたのだった。

 作家二人はやはりと言うべきか戦闘能力が低く、宮殿周辺に巣食うヘルタースケルターを倒したのはマシュとジャンヌに一任されていた。

 では、Eチームのリーダーが何をしていたかと言えば。

 

「よーし、よくやったおまえら。今後も俺の手となり足となり奴隷の如く働け」

 

 簡単に言えば、何もしていなかった。

 彼は時計塔の書庫から持ち出してきた膨大な量の書物を背負っていた。広大な風呂敷に包まれたそれは、ノアの身長に比して三倍ほどの大きさを有している。

 ぺらぺらと本のページを手繰るノアに、マシュとジャンヌは恨めしげな視線を突き刺した。

 

「『言葉が役に立たない時には、(When a word isn’t useful, )純粋に真摯な沈黙がしばしば人を説得する(sincere keeping quiet often persuades a person purely.)』。ああいえ、彼を説得するには足りないようですが」

「ふん、お前の名言集でも奴のようなアホはカバーしきれないようだな」

「俺は枠組みに囚われない天才だからな」

「ならばこう言い返してやろう、『慢心は人間の最大の敵だ(Proud, for, the human biggest enemy.)』とな。おっと、今度はシェイクスピアの名言に当てはまったようだな?」

 

 ノアとアンデルセンはバチバチと視線を衝突させ合う。

 それを見て馬鹿らしくなったマシュは落ち着きを取り戻すと、ノアに疑問をぶつける。

 

「なぜウェストミンスター宮殿まで来たんですか? この機械も異様に多いですし、少し疲れました」

 

 ノアは地面に転がるヘルタースケルターの頭部を踏みつけながら、

 

「こいつらは自動操縦ではなく遠隔操作で動かされてる。その魔力を辿った結果がここだ。どうやら司令塔の役割を果たしてたのはこいつだったらしい」

 

 数kgの鉄の塊を足の甲に乗せ、ひょいと蹴り上げる。

 マシュは山なりに飛んだバケツ頭を両手で受け止める。彼女は頭の頂点に刻まれた文章に目を凝らした。

 

「『チャールズ・バベッジ AD.1888』……え!?」

「そいつが黒幕に近い存在なのは間違いねえ。魔力の痕跡はここで途切れてるからこれ以上の追跡は無理だが、ここに来た甲斐はあった」

「そ、そうですね。目的を果たしたなら、一旦書庫に戻りましょうか」

「待て、まだここには用事がある」

 

 ノアは書物を詰め込んだ風呂敷を引きずって、宮殿に突き進む。

 

「今からここにある金目のモノ全部盗むぞ。霊体化できる奴はついてこい。キリエライトは正面から荒らして守衛の目を引け」

 

 サーヴァントの面々は暫く言葉を失った。

 

「絶対に嫌なんですが!? わたしに罪を擦り付けようとしてるのが見え見えですよ!!」

「もういいわ、私たちだけで帰りましょう。少しでも期待した自分が馬鹿だったわ」

「『今後のことなんかは(Future will be that)ぐっすりと眠り忘れてしまうことだ(I forget to sleep sound.)』。吾輩もそろそろ眠たくなってきました。あ、一応作品のネタにしたいので後で話は聞かせてください」

「やめておけ、こんな奴を題材にしたところで駄作確定だぞ」

 

 四人はぞろぞろと帰っていく。ノアは慌ててその背を追い、

 

「勝手に解散しようとしてんじゃねえ! これは人類の遺産を現代に送り届けるための保存活動だぞ!」

「寝言は寝てから言ってくれません?」

「そうよ、今から面倒事抱えるなんて──」

 

 ジャンヌがそう言った瞬間だった。

 彼女の目の前の地面が爆ぜ、土煙が巻き起こる。

 驚愕する間もなく、煙を裂いて馬に乗った騎士が姿を見せる。黒く禍々しい鎧に全身を包んだその騎士は、金色の眼光を輝かせた。

 馬上からひとりずつ視界に収めていき、最後にノアのところで眼差しは硬直する。

 黒き聖槍の王。ソレは凛とした声音で呟いた。

 

「……そうか、あの枝はここに。貴様がそれを手にするとは、皮肉なものだ」

 

 意味深な言葉。ノアはそれを笑い飛ばして、前に進み出る。

 

「いきなり出てきて何言ってんだ。今時そんなムーブは流行らねえぞ。とりあえず叩き潰してから話を聞いてやる」

 

 黒き聖槍の先がノアたちに向けられる。濃密な魔力を纏い、王は言い放つ。

 

「……来い。暫し貴様らの相手をしてやろう」



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第33話 不思議の国の■■■

「……来い。暫し貴様らの相手をしてやろう」

 

 黒き聖槍の王は得物を構える。

 マシュは一目見て、その騎士がサーヴァントの域を飛び越えた存在であることを確信した。

 武術を身に着けた立ち居振る舞いもさることながら、纏う英気はこれまでに出会ったサーヴァントの誰よりも暗い禍々しさに染まっている。

 常人を遥かに超越したデミサーヴァントの目を以ってしても、攻めいる隙が見えない。背後や地中、果ては異界からの攻撃でさえも、黒き聖槍の王は防ぎきってみせるだろう。

 そう思わせる根拠は黄金色の眼光にあった。

 清廉な魔力を孕んだ眼差し。それに射竦められると、自分でさえ気付かぬ筋肉の蠕動、魂の色までもが見透かされているような気分になる。

 纏わり付く殺気、死の気配。それらを振り払うように、ジャンヌは剣を引き抜いた。

 

「──魔力をあるだけ寄越しなさい、アホ魔術師。それだけがアンタの取り柄でしょう」

「誰がおまえなんかに……と言いたいところだが仕方ねえ。その代わりに必ず倒せ」

「あの、リーダーとジャンヌさんは魔力のパスが繋がっていないはずですが?」

 

 マスターとサーヴァントは魔力を供給する目に見えない経路で繋がれている。カルデア式の召喚で現界したジャンヌは、契約者である立香とカルデアから送られる魔力で存在を維持している。ノアはジャンヌの現界において役割を持つ必要がないのだ。

 無論、パスを繋ぐ方法はある。強化や投影くらいしかまともに使えないへっぽこならともかく、一般的な魔術師は軽い接触程度でパスを形成できるだろう。

 マシュの指摘を受けて、ジャンヌは顔色を青くする。

 

「こ、こいつと触れ合うの!? 無理無理無理、絶対に嫌なんですけど!」

「ふざけろ、こっちから願い下げだ。……カルデアからのパスを弄って俺と接続した。これでいけるだろ」

 

 ノアの言う通り、ジャンヌは確かな実感を得た。

 乾いた砂に水が染み込むように、体の隅々まで魔力が行き渡る。膨大な熱を秘めた黒炎を全身から立ち昇らせて、彼女は黒き聖槍の王に宣言する。

 

「どこの英雄だか神様だか知らないけど、私たちの前に立った以上は排除させてもらうわ。立香(りつか)とアンタが鉢合わせないためにもね───!!」

 

 そして、霧の都を炎の嵐が席巻した。

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 先手必勝、宝具の全力解放。

 触れるもの皆熔かす炎の風が吹き荒れ、灼けた鉄杭が雨霰の如く降り注ぐ。

 並のサーヴァントならば余波だけで葬る炎の嵐はたったひとり、黒き聖槍の王を殺すためだけに牙を剥いた。

 甲冑の下で、騎士は口の端を吊り上げる。

 

「……喩えるならスルトの火焔、もしくは堕落の都を滅ぼした硫黄の火か。面白い」

 

 槍を中心に風が渦巻く。

 豪風の中に黒い燐光が夜空の星々の如く瞬き、一本の風の槍と化す。

 聖槍の最大稼働。上級宝具に匹敵する一撃を以って、炎嵐への迎撃とする。

 

「──『風王鉄槌(ストライク・エア)』」

 

 それは、嵐の王としての本領。

 風の大槍が振るわれた瞬間、燃え盛る炎の大嵐に真空の断層を作り出す。

 一瞬の威力ならば上回る。しかし、火力を維持する持久力では大きく遅れを取る。嵐の王は手綱を捌き、風を纏って真空の道へと乗騎を走らせる。

 狙うはノアと二人の作家。堂々と構える前者と違って、作家たちの反応は対照的だった。

 

「く、ははははは! 素晴らしい! なんと心躍る光景でしょうか! 神話の戦いにも引けを取らぬ激突──それをこの目で見られるとは!!」

「お前はアホなのか!? 死は救いだが流石にコレは望んでない! こんなところにいられるか、俺は書庫に戻るぞ!」

「おい死亡フラグ立ててんじゃねえ! こっちにまで飛び火したらどうするつもりだ!?」

「ふん、どうせやられるならお前も道連れだアホ白髪! 見ろ、地獄の門はすぐそこに開いているぞ!」

 

 わちゃわちゃと喚く三人を尻目に、マシュは盾を地面に突き立てる。

 嵐の王によるランスチャージ。意を決したその時には既に、聖槍の穂先は迫っていた。

 腕の感覚が弾け飛ぶ。槍の鋭さに速さと重さが乗り、小隕石の追突に劣らぬ衝撃がマシュを襲った。目も眩むような感覚の中で、彼女の本能は未だ警告を唱える。

 漆黒の流星が描く軌跡。それを視界の端で捉える。嵐の王は鋭い弧を描き、再度の突進を敢行しようとしていた。

 

(切り返して───来る!)

 

 身構え、槍の穂先が迫る直前。

 

「〝ēoh byp ūtan usmēpe trēow, heard hrūsan fæst, hyrde fӯres, wyrtrumun underwrepryd, wynan on ēple〟───eihwaz(エイワズ)!!」

 

 マシュとその盾に青白い光が灯る。

 ノアが詠唱したのは防御のルーン。その成り立ちを遡ることで、古い神秘を扱おうという試みであった。

 守るという行為を概念的に強化する、即席の大魔術。現代のルーンでは成し得ぬほどの護りの加護。それを一身に宿し、マシュはもう一度槍撃に相対する。

 巨岩のような馬体が嘶き、マシュの体を盾ごと打ち据える。押え切れぬ衝撃に後退するが、感覚は正常に働いていた。

 

「リーダー、助かりました!」

「礼はいい。盾の方の加護は一撃で解けた。失敗だ。次はおまえに一歩も動かせない。それより作家どもも働け!」

「無茶を言うな! 今の突進は俺が二千人いても止まらんぞ! 空手家にとっての瓦にすらなれん!」

「『天は自ら行動しない者に(Heaven doesn’t extend a hand of help to)救いの手を差し伸べない(the person who doesn’t behave personally.)』。良いモノを見せてもらった代わりに、吾輩も戦いで報いてみましょう……!!」

 

 シェイクスピアは右手を空に掲げる身振りをする。

 すると、陽炎のように周囲が揺らめき、無数のジャンヌの幻影が現れる。シェイクスピアという英霊が用いる数少ない魔術『劇団』。彼の意思に応じて姿を変え、役を演じる一座であった。

 幻影故に戦闘力は皆無。だが、彼の卓越した作劇が本物と見分けがつかぬほどの真実味を幻影に与えるのだ。

 それらは全て嵐の王へと突撃する。その意図を読むのは容易い。迫る大群を風で薙ぎ払い、槍を背負うようにして背後からの一撃に備える。

 読み通り、槍は本物のジャンヌが放った旗の穂先を受け止めた。平然と鍔迫り合いながら、嵐の王は冷徹に呟く。

 

「やはり偽物に紛れる肚だったか。児戯だな」

「アンタにはそうでしょうね。でも、私はひとりで戦ってる訳じゃないのよ」

「……ほう」

 

 金色の眼は既に吹き飛ばしたはずの幻影の方に向く。ジャンヌの幻影が散っていく中、全面に盾を構えたマシュが接近していた。

 幻影と本物の挟撃。二重のブラフ。盾に遮られたもう一方の手には、黄金のヤドリギで造られた短槍を隠し持つ。

 相手が神性か不死性を有するなら必殺。そうでなくとも、槍が直撃すれば当たり所によっては致命傷になる。加えて、相手の得物は今塞がっている。対応する手はない。

 槍を突き出すと同時に、マシュは真名を唱える。

 

「『神約・終世の聖枝(ミストルティン)』───!!」

 

 対して、嵐の王は槍を持たぬ左手を黄金の穂先にかざし、

 

()()()

 

 獅子の頭部を形どった精霊の魔弾が、槍を粉砕した。

 直後、嵐の王は聖槍を力強く振るうとジャンヌを引き下がらせる。マシュとジャンヌは攻撃を防がれたという事実よりも、先の一撃に驚愕する。

 

「今のが、ガンド……!?」

 

 マシュは喉元にせり上がる疑問を止められなかった。

 ガンド。その魔術は知っている。指を差すことで相手を呪う術であり、熟達したそれは物理的な威力を伴うようになる。立香やノアが過去にも使ったことのある、汎用性の高い魔術だ。

 だが、今のガンドはあまりにも異様。獅子を象るガンドなど聞いたことも見たこともない。事実を目の前にしてもいっそ、別の何かであると説明された方がまだ納得がいく。

 嵐の王はその反応の方が不思議そうに、しかし無機質な声で言った。

 

「これをガンドと言わずして何をガンドと言うのか。そこな魔術師も知っていよう」

 

 ノアの頬を一滴の冷や汗が伝う。

 

「……ガンドが指を差して人を呪う魔術になったのは、おそらく時代が下った後のことだ」

 

 ガンドには複数の意味があるが、その内のひとつはヴァイキングの呪術師が召喚する動物の精霊のことを指す。

 そも、北欧神話の世界蛇ヨルムンガンドの名前は『大いなる精霊』を意味する。その時点でガンドという語が精霊と動物を表すことは明白であろう。

 呪術師は対象に精霊を送ることで呪いを行う。が、指を差すという動作は、精霊を送る対象を指定することに由来すると思われる。つまり、現代におけるガンドとは指を差す動作だけを呪術として切り取ったものなのだ。

 解説に続けて、ノアは口元を歪めつつ、

 

「ガンドの原典を使う魔術の腕前に、ふざけた槍術……おまえは誰だ? オーディンなら馬は八本足のはずだ」

「生憎、今はオティヌスと名乗っていてな。スレイプニルはここにはいない」

 

 ノアは小さく舌打ちした。

 真名を名乗ったということはつまり、自らの弱点を晒したところで脅威はないと判断されている。

 オティヌスにとっては訊かれたから答えたまでに過ぎない。多少の理不尽さを踏まえつつ、ノアは噛み付いた。

 

「俺が一番嫌いなのは他人にナメられることだ。俺たちでおまえを馬上から引きずり落としてやる」

「威勢が良いな、白い魔術師。だが、時間が来た。ここまでだ」

「はあ──?」

 

 ぬるい風が、肌を撫でる。

 湧き上がるのは怖気と寒気。

 黒く濁った怪風が辺りを包むと、途端に抗い難い眠気がノアたちを等しく苛んだ。

 理性や根性でどうにかなる睡魔ではない。アンデルセンとシェイクスピアが最初に倒れ、残された三人も膝をつく。意識を手放しかけている彼らに、オティヌスは声をかける。

 

「命は取らない。寝込みを討つのは趣味ではないからな。しかして思い知れ、貴様らは私の慈悲によって生かされたということを」

 

 その時、ブチンと何かが切れた音がした。

 ノアは唇を噛み切っていた。消え行く意識を痛みでほんの少し取り戻した彼は、怒り心頭の表情でオティヌスに突撃する。

 

「散々上から目線で物言いやがって! せめて一発はおまえの顔面に叩き込んでやらァァァ!!」

「愚かしさもそこまで行くと一種の持ち味か。褒められたものではないが。ああ、むしろゲテモノだな」

「うっせえ! ゲテモノほど美味い法則知らねえのか!? やっぱおまえは二発殴る! サーヴァントだろうが知ったことか!!」

「まさかここまで馬鹿とは、その真名が泣くぞ。……仕方ない、やれ。どうせ死にはしない」

 

 嵐の王の騎馬が嘶き、後ろ足でノアの胸を蹴り飛ばす。

 その打撃で彼はようやく気絶し、マシュとジャンヌも遅れて眠りに落ちる。ウェストミンスター宮殿前は静寂に包まれ、いつの間にか銀髪の少女がオティヌスの側に控えていた。

 ジャック・ザ・リッパー。彼女は麻袋を片手に持ち、それをオティヌスに差し出す。麻袋の底は赤い血がべっとりとこびりつき、表面が赤黒く滲んでいる。

 

「はい、王様。頼まれてたもの」

 

 オティヌスは麻袋を受け取り、いくらか柔らかい声音で言う。

 

「……ええ、確かに受け取りました。ご苦労でしたね、ジャック」

「うん! あ、でも……メッフィーがやられちゃった。ごめんなさい」

「いえ、あの悪魔とは縁の切り時でしょう。油断していればたとえ相手が神だろうと致命的な被害をもたらす。アレはそういう存在です」

 

 受け取った袋を開く。その中には人間の心臓がぎっしりと詰め込まれていた。

 豊潤な魔力を蓄えた臓器。数人の娼婦の心臓を含め、フランケンシュタイン博士の孫のそれも中に入っていた。ジャックとメフィストフェレスはこれを集めるためにロンドンを駆けずり回っていたのだ。

 オティヌスは一本のくたびれた杖を取り出す。

 

「杖一本造るのに供物が必要とは、やはり魔術は手順を踏まえるのが煩わしい」

 

 ぱさり、と萎んだ麻袋が地面に落ちる。

 中に詰まっていたはずの肉塊はもはやどこにもなく、杖への供物としてその全存在を捧げられた。

 赤紫色の硬質な石で造られた王笏。その名を、

 

「──『ゲンドゥルの杖』。これでようやく、神格を取り戻す準備が整いました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぱちり、と目が覚める。

 緩やかな微睡みと微かな倦怠感。

 ふわりとそよ風に乗って、土の匂いがした。

 空はどこまでも青く澄んでおり、息を吸うとロンドンの淀んだ空気ではなく、まっさらな酸素が肺を満たしていく。

 柔らかく大地を照らす陽の光に眩しさを覚え、彼女は勢い良く上体を起こす。

 

「あれ──オティヌスは!?」

 

 マシュは自らの得物である盾を取ろうとするが、見回しても草原があるだけで武器は見当たらない。

 それどころか、サーヴァントに変身した際に着る防具すら身に着けていない。服を着ていない訳ではないが、それも平時のものとは違っていた。

 頭部をすっぽりと覆う赤い頭巾。赤を基調とした衣装に白いエプロンがアクセントになっていた。傍らにはぶどう酒とパンとりんごが詰まったバスケットが落ちており、マシュは頭に胴に手を回して困惑する。

 

「こ、これは一体……変身が解けて……!?」

「何よ、騒がしいわね」

 

 すぐそばにあるなだらかな丘の向こうから、ジャンヌの声が聞こえてくる。まだ眠気が残っているのか、彼女はもそりと起き上がってきた。

 頭にはつばの広いトンガリ帽子。全身を真っ黒なローブで染め、その前面を銀色の装飾が留める。剣はなく、旗の代わりに絵本の魔女にありがちな樫の杖を持っている。

 ジャンヌはマシュの時代錯誤な服装を目にすると、ニタニタとそこはかとなく馬鹿にするような笑みを浮かべた。

 

「……ぷっ。え、何? どうしたのその格好。赤ずきんのコスプレ? まあ子どもっぽいアンタには似合ってるんじゃない?」

「いや、見るからに魔女っぽいジャンヌさんに言われたくないです!!」

「…………本当だ、何よこれ!!?」

「気付いてなかったんですね。ドジすぎるのでは……?」

「ああん!?」

 

 醜い煽り合いに発展しかけた二人の横合いから、これまた聞き覚えしかない声がかかる。

 

「さっきからやかましいんだよ、セミ娘どもが。俺の爽やかな気分を邪魔しやがって」

 

 マシュとジャンヌは反射的に声の方に振り向く。

 案の定、そこに立っていたのはカルデアの癌であるEチームのリーダーことノアトゥール。彼は白地に金の刺繍と肩章が施されたチュニックに赤い肩掛けを羽織った、おとぎ話の王子様のような格好をしていた。

 あまりにもキャラからかけ離れたコスプレ。マシュとジャンヌは自分たちを棚に上げて、ぎょっとした顔になる。

 

「リーダー……ぜんっぜん似合ってないですね。着こなしてはいるのに本人の性格が伴うとここまでミスマッチになるとは思ってもみませんでした」

「それ白馬の王子様のつもり? アンタの役回りは盗賊とか悪い魔法使いとかでしょう。半端に着こなしてるのもムカつくわ」

「現在進行形で魔女のコスプレしてるやつに言われたくねえよ。それ以上ガチャガチャ言ったら、全裸になって草原駆け抜けんぞ」

「ダメージ受けてるのリーダーだけなんですが。なんの脅しにもなってないんですが。ブーメランどころか切腹です」

 

 会話に無理やり一区切り付けると、彼らは示し合わせたかのように沈黙した。水面下で視線による暗闘が行われ、三人は同時に呟いた。

 

「「「ここどこ……?」」」

「真っ先に考えるべきはそれだろうが、お前らはアホなのか!!?」

「作劇においては多少のリアリティを損ねてでも、登場人物の思考を操らねばならぬ時もあります。彼らは単純にアレなだけでしょうが!」

 

 三人の足元から声が響く。

 視線をそのまま下げると、ノアの膝下に届かない身長のアンデルセンとシェイクスピアが立っていた。ドワーフとでも言うべきだろうか、青一色のぼってりとした印象の衣装を着ている。

 それよりも異様な背の低さに、ジャンヌは目を見開いた。

 

「ちっさ! 何がどうなったらそうなるのよ!?」

「知るか! そんなものこっちが訊きたいに決まっているだろうが!」

「おまえは元から小さかったんだから別に良いだろ。マイナスの値がさらに増えただけだ」

「黙れ全身マイナス男!」

 

 アンデルセンはノアに飛びかかるが、右足一本で転がされてしまう。彼は倒れたアンデルセンの尻に、そのまま右足の裏を置いた。

 

「とりあえずこれからどうするか決めるぞ。ここが現実かどうかも分からねえしな。十中八九現実とは違うだろうがな」

「そうですね。ここに来る前に感じた眠気といいこの衣装といい、現実である可能性は低いと思います」

「と言っても、手掛かりなんか一切ないわよ。行き当たりばったりで行動するつもり?」

「それならば、吾輩に提案があります」

 

 シェイクスピアは草原の向こうに見える城を指し示す。その城は大理石のように白く、城下の街を厚い壁が取り囲んでいる。

 この草原にそれ以外の人工物は見当たらず、街に続く街道のようなものもなかった。

 

「英雄の旅路は得てして冒険への召命から始まりますが、あの城下町はまさしくそうでしょう! 具体的にはひのきのぼうと50ゴールドをくれそうな予感がします!」

 

 他にアテがない以上、シェイクスピアの提案に乗らない選択肢はない。ノアはアンデルセンの後ろ襟を掴んで、城の方角へ歩き出す。

 

「行くぞおまえら、俺が勇者だ。まずはルイーダの酒場で仲間を増やす。僧侶と戦士と魔法使いがベストだな」

「アンタは勇者じゃなくて精々遊び人でしょ。ロマリアの地下格闘場で一生ギャンブルやってるのがお似合いよ」

「オイオイ、遊び人ナメんな。いつかは賢者になってパーティの大黒柱になるだろうが。おまえこそ一生アリアハンでスライムと戯れてろ」

「──どうやらスライムより先にアンタを焼く必要があるようね」

「上等だ、ここでマスターとサーヴァントの上下関係を叩き込んでやる」

 

 マシュは両手に持ったバスケットでノアとジャンヌの脳天を叩く。

 

「「ぐああああ!!」」

「あの、そこまでにしてもらって良いですか。わたしの赤ずきんバスケットが火を吹きますよ」

「もうすでにやられてるんだけど!? そのカゴどんな威力してるのよ!」

「こいつはともかく俺の天才的な頭脳に問題があったらどうする! 人類の損失だぞ!!」

「心配しなくてもリーダーの脳みそは問題しかありません。ブライ(リーダー)トルネコ(ジャンヌさん)は馬車の中で大人しくしておいてください」

 

 ノアはマシュの発言を笑い飛ばして、

 

「それで言うならおまえはクリフトだけどな! ザラキ撃つのが生きがいの暗い人生送ってろ!」

「今度こそただのしかばねにしてあげましょうか?」

「お前らのくだらない口論よりも、とっとと話を進めろ! 尺を伸ばそうと必死すぎるぞ!」

「メタ発言は吾輩の役割では……?」

 

 そんな訳で、一行は街を目指して歩くことになった。

 天に輝く太陽、風に流れる雲、澄み切った青空。どれも美しいことに変わりないが、空気に淀みのないこの世界はどこか完璧すぎている。

 喩えるなら、綺麗に加工した写真の風景がそのまま眼前に立ち現れているかのような。

 理想化されすぎた世界は、時にシュルレアリスムの絵画よりも歪な違和感を見る者に与える。おそらくは、それこそがノアやマシュがこの場所が現実ではないと推測した原因だった。

 城下町を囲う城壁。傷ひとつ、汚れひとつない壁に設けられた城門がゆっくりと開き、一行は足を踏み入れる。

 ゴシック様式の建築群。そこにもやはり瑕疵は存在しなかった。道行く人々の衣装も整ってはいるが年代や地域もバラバラで統一感がない。

 そして、視界に映る人の顔は皆一様に暗かった。軒先に商品を並べて商店を開いている者もいたが、呼び込みをすることもなく、椅子に座って項垂れていた。

 それらを流し見ながら、マシュは口を開く。

 

「なんというか、活気がないですね。どこのお店も営業努力の欠片も見えません」

「……というよりは、どうして良いか分からないのだろう。見ろ、あそこの八百屋など直射日光の下に商品を晒しているぞ」

「ええ、本業ではないのでしょう。吾輩、当然演技のプロでもありますが、彼らからは真に迫った戸惑いだけが伝わってくるようです。これが劇なら折檻モノですが、さて……」

 

 と、シェイクスピアがあらぬ方向へ目をやる。マシュとアンデルセンも釣られて視線を傾けると、ノアとジャンヌが八百屋の店主に詰め寄っていた。

 

「おっさん、この世界について知ってること全部話せ。嘘ついたら横にいる女が火を吹くぞ。文字通りな」

「火を吹くのはアンタに対してですけれど。目の前で焼死体を見るのが嫌だったら素直に話してちょうだい」

「ヒエッ……脅してるのか脅してないのか分からないんですが……」

 

 異様なことを口走る二人に、八百屋の店主は顔を青ざめさせた。マシュは二人を押し退けて割って入り、慌てて頭を下げる。

 

「す、すみませんウチの非常識人たちが! 出来ればわたしたちの聞き込みに協力して貰いたいのですが、良いでしょうか?」

「まあ、それくらいなら……」

 

 そこで、八百屋の店主は語った。

 まず、この世界に来たのはノアたちと同様に、黒い風に包まれて眠りについてからのことだった。屋内に入ってこない霧と違い、その風は窓を難なくすり抜けてきたらしい。

 目を覚ました場所も草原。しかし、ノアたちと違うのは周囲に大勢のロンドン市民がいたというところだ。彼らもみな同じように黒い風に意識を奪われた者だった。

 縋るように城へ向かった彼らは、そこでひとりの少女に出会う。

 

「……名無しの女王?」

 

 マシュが訊き返したその言葉に、店主はこくりと頷く。

 城の玉座に坐す名無しの女王。彼女はその称号が示す通り名前を持っていなかった。城に訪れた人間たちから名前を奪い、この街で暮らす職掌を与えたのだった。

 名無しの女王は名前を呼ぶことで他人を支配する力を持っており、彼女に逆らうことができる者はこの街にはいない。各人の職業も無根拠に割り振られ、八百屋の店主は現実では役人を務めていたと言う。

 そこまで聞いて、ジャンヌは首を傾げる。

 

「偽名を名乗る人はいなかったの? 支配されたフリをしていれば良かったじゃない」

「それが、女王には真っ黒な影みたいな近侍がいて……恐ろしすぎて嘘とかつけませんね。私なんかちょっとチビりましたし」

「……お前のシモの事情はいらんだろう。他に何か特徴的なところはなかったか?」

「玉座の後ろに茨の檻みたいなのがありましたね。中は見えないんですけど、時折〝リーダー助けてください〜。あ、やっぱりマシュとジャンヌが良いなぁ〟とか〝今週のジャンプ買ってきて〜〟という女の子の声が……」

 

 Eチームの三人はそれを聞いて絶句する。数瞬置いて、ノアは叫んだ。

 

「なにやってんだアイツはァァァ!!? 女王に捕まっておいてやることがジャンプの催促かよ! ニートやってるだけじゃねえか! 赤マル持ってこられて絶望しろ!!」

「というかこの時代の人間が未来の日本の漫画雑誌なんて知ってるわけないでしょう、アホ立香! 伊達にEチームやってないわね!!」

「ロンドン市民がここにいることで予想はしてましたが、まさか先輩が囚われの姫になっているとは思ってもみませんでした……」

 

 アンデルセンは南極くらい冷えきった眼差しを向けつつ指摘する。

 

「お前らのもうひとりのマスターか。どうしようもない人間であることは重々理解したが、他のサーヴァントは奴を守らなかったのか」

「助けられる状況になかったのでは? そもそもこの世界にいない可能性も一応ありますが。まあ待ちましょう、次の展開が訪れるはずです」

「そんな都合よく話が進むか、演劇バカめ。もつれた話を強引にシメるオベロンのような存在が、現実で現れると思うなよ」

 

 その時、八百屋が面する通りの奥から絶叫が響く。

 

「「あああああああああああ!!!」」

 

 もうもうと砂塵を巻き上げながら、こちらへと走ってくる一団。その先頭には二人の騎士とバレエの衣装を着た少女、そして白いウサギがいた。

 三人と一匹は血相変えた表情で疾走する。彼らの後ろには不思議の国お馴染みのトランプの兵隊が追走しており、その列はコミケのそれに匹敵するほどである。

 その一団が近づくにつれて、先頭の騎士とノアの目が合う。騎士は大きく手を振って声を張った。

 

「奇遇だなノア! 前置きは省く、オレたちを助けてくれ!」

 

 自らが契約したサーヴァントであるペレアス。何があったかトランプの兵隊に追われる彼の求めを聞き届けて、ノアは即決する。

 彼は手で横顔を隠すようにして、マシュたちにひそひそと話す。

 

「おまえら無視しろ、ここは無関係を装え。あいつらの面倒事に付き合ってられるか」

「わたしも賛成です。ペレアスさんにはここで犠牲……囮になってもらいましょう」

「生存力だけはピカイチですものね。どうせ死なないでしょうし、私も異論ありません」

「おいガッツリ聞こえてんぞォォォ!! 平然と見捨てる選択してんじゃねえ!

Eチームの良心はどこに行った!?」

 

 マシュは深い闇に沈んだ笑みを浮かべる。

 

「良心ではどうにもならない相手がいる。ペレアスさんのマスターが教えてくれたことです……ふふふ」

 

 オルタ化しそうなほどの闇を纏うマシュ。ノアはわざとらしく義憤に駆られた表情をした。

 

「まさかそこまで汚染が進んでいたとはな。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ!」

「お前のせいだろうが! すっとぼけるにも程があんだよ! くそっ、助ける気がないならこっちにも考えがあるぞ!」

 

 ペレアスはトランプの兵隊を引き連れたまま、八百屋目掛けてヘッドスライディングを敢行した。さながらボーリングのピンのように野菜が辺りに散乱する。

 彼はノアの両足を掴んで、トランプの兵隊へと放り投げる。人間砲弾と化したノアと兵士が激突し、後続の兵隊は雪崩を打って転倒した。

 手の埃を払うように手を叩き、ペレアスは鼻を鳴らす。

 

「よし───一件落着!」

「どこがだ!!」

 

 で。

 Eチームの放火魔ことジャンヌはその火力を活かして、身動きの取れなくなったトランプの兵隊を焼き払った。体の大部分が紙製の彼らは良く燃え上がり、天へと運ばれていく。

 煌々と燃え盛る炎を眺めながら、ペレアスたちはモードレッドと出会い、メフィストフェレスと交戦したところまでの事情を説明した。

 この世界に迷い込んだのは、ジキルのアパルトメントに戻る途中だったという。ノアたちと同じような経緯で立香の居場所を突き止め、城に乗り込んだ彼らだったが……

 

「全く歯が立たなかった、と」

 

 マシュの言葉に、モードレッドは忌々しげに首肯する。

 

「ああ、名無しの女王も影野郎も身のこなし自体は並以下だが、いくら斬ってもまるで通じなかった。特にあの影野郎は宝具級の攻撃を絶えずぶっ放してきやがる。ありゃタイマンでも骨が折れるだろうな」

「それでここまで逃げてきた、と。モードレッドさんやペレアスさんでも敵わないとなると、相当の強敵ですね。それにしても、なぜ先輩だけが囚われているのでしょう」

「名無しの女王が言ってた。〝仲間がいるようだから、誘き出すために捕らえてる〟ってな。オレたちはまんまとそれに引っかかった訳だ」 

「女王はそこまでしてでも、名前を集めようとしているのですか……ところで、ダンテさんはどこに?」

 

 マシュはきょろきょろと辺りを見回す。この世界に来るまで立香と行動を共にしていたはずのダンテの姿は見つからない。が、ペレアスが説明した口振りからすれば、ダンテはこの場にいるはずなのだ。

 生前、ダンテの詩を嗜んでいたアンデルセンも彼を探していたのか、そこかしこに視線を送っていた。

 フランケンシュタインは足元の白ウサギを両手で掬い、マシュとアンデルセンに突き出す。

 ウサギは器用に口を動かして、

 

「どうも、ダンテ・アリギエーリです」

 

 衝撃の告白に、アンデルセンは雷に打たれたように固まる。

 

「こ、これがあのダンテ・アリギエーリだと!!? 後世の歴史家は何をしている! 女体化くらいまでなら想定していたが、人間ですらないとは……誰ひとりとしてこいつの詩は超えられなかったんだぞ!?」

「『眼前の恐怖も想像力の(Present fears. Are less )生みなす恐怖ほど恐ろしくはない(than horrible imaginings.)』……いや、やっぱり眼前の恐怖の方が恐ろしい気がしてきました。このような冒涜的で名状しがたい宇宙的恐怖(コズミックホラー)を目の当たりにするとは」

「お、落ち着いてください! 少なくともわたしたちが知ってるダンテさんは人間でした!」

 

 ノアは顎に手を当てて、ダンテの顔を覗き込む。ヘアリップと呼ばれる縦に割れた唇と、どこかふてぶてしさを感じる顔。それはどこからどう見てもウサギそのものだった。

 

「そうか? 元々こんな顔だっただろ。見れば見るほどウサギに似てんなオイ」

「似てるどころかそのものなんですが!? カルデアにフォウさん以外のマスコットキャラクターを増やす余裕なんてありません!」

「そんなに驚くほどのことか? ナメクジ以下の強さの男がウサギにまで成り上がったんだから、むしろ進化だろ」

「モードレッドさん? 人間がいくら進化しても他の哺乳類になることなんてありませんからね? 私でも少しは傷付きますよ?」

 

 やいのやいのと騒ぐマシュたちを留めるように、アンデルセンが呟く。

 

「待て。ようやく確信が持てたが、この世界は童話をモチーフにしているのではないか? 俺たちがこんなコスプレをさせられているのも、この世界の登場人物としてのキャラクター付けをされているのだろう」

 

 それに快い反応をしたのは、同じ作家であるダンテとシェイクスピアだった。他の面子はいまいち納得がいかない顔をする。

 

「なるほど。凶行に走る権力者とそれに従う側近、トランプの兵隊……まさしくその通りではありますねえ。名無しの女王は年端もいかぬ少女でした。あの年頃の女の子ならば、このような世界観になってもおかしくないでしょう」

「……確かに、この服についてはそうですね。若干名おかしい人たちがいますが」

「マシュちゃんの言う通りだな。オレとモードレッドがそのまま騎士ってのは分かるが、フランケンシュタインのバレエ衣装は異質じゃねえか? ノアとダンテは論外として」

「……令呪を以って命ずる。自害しろ、ペレア──」

「やめろ!!!」

 

 童話にとって騎士は確かに欠かせないモチーフだ。水の精と結婚する騎士の話もあるため、ペレアスにはドンピシャなコスプレだろう。

 バレエの発祥はルネサンス期のイタリアとされているが、現在のような形になったのは17世紀辺りのことである。そのため、バレエの衣装が童話の世界に出てくるのは些か新しすぎるのだ。

 意外なことに、ノアが答えを言い当てる。

 

「フランケンシュタインのはコッペリアだろ。ジャンルは童話じゃないが、子どもたちに受け入れられたって部分では同じだ。バレエ作品も物語性の塊だからな」

「コッペリウス博士に造られた自動人形のコッペリア──まさしく、ですね。もしかしてバレエを嗜んだことが?」

「クソ似合わないわね」

ウゥ……(想像したくない)

「バレエやってた奴に、昔教えられただけだ。俺が手を出したら世界一のバレエダンサーになってたはずだがな!」

 

 ジャンヌはその戯言を華麗にスルーして、

 

「でも、名無しの女王が名前を呼んで人間を操るなんて物騒な力を持ってるのはどういうこと? 聖書になら近い表現はありますけど。これも子どもが知る物語だから?」

「童話にも近いものはありますよ。トム・ティット・トット、もしくはルンペンシュティルツヒェン……どちらも名前を当てられた小人が死ぬ物語です。名前を知ることは相手を支配すること。世界各地に存在する信仰の遺伝子を受け継いだ話と言えましょう」

 

 シェイクスピアはしたり顔で語った。例えば諱の文化は名前による支配を恐れたために生まれたものであり、日本にも鬼の名前を当てる『大工と鬼六』という昔話が存在する。

 ジャンヌはなぜか顔を赤らめながら、口元を押さえた。

 

「攻撃が通じない上に名前を知られたら一発アウトとか、さっき戦ったオティヌスくらいインチキじゃない。このままだと立香があんなことやそんなことに……!!」

「ジャンヌさん、脳内をピンク色に染めるのやめてください。心配しなくても、BANされるのでR-18なことにはならないはずです」

「み、身も蓋もないことを……問題発言にも程があるわ!!」

 

 キャットファイトになりかけるマシュとジャンヌ。ノアは手を何度か打ち鳴らして場を締める。

 

「現状確認はそこまでだ。こんなところで時間を潰すのもアホくせえ、さっさと藤丸救出に向かうぞ」

「策は?」

 

 ペレアスは端的に問う。

 ノアが唐突なことを言い出す時は大抵、自分の中で結論が出てからだ。過程を飛ばしがちな彼の性格を見抜きつつ、ペレアスは問いを振ったのだった。

 

「作戦は簡単だ。名無しの女王に名前をつけて倒す。人間は事物に名前をつけることでそれを認識する。称号しか持たない名無しの女王は、この世に存在してないも同然だ。だから斬っても斬れない」

 

 名は体を表すというのは、決して大げさな表現ではない。

 古代エジプトでは墓などに描かれた肖像画や名前を削り落とす刑罰があった。死後の世界観を大切にする古代エジプトの社会において、名前を削除する行為は個人の存在を抹消することと同義だ。

 だから、そこにあってそこにない名無しの女王を害することはできない。誰も認識できないモノを斬ったからといって、それを証明することは誰にもできないのだから。

 アンデルセンは小さく口元を歪める。

 

「ふん、誰も気付かないようなら俺が言うつもりだったが、手間が省けた。命名なら俺の宝具に任せろ。殴り合いはできんがな」

「名無しの女王を倒す策がある。それは良いが、アイツを守る影野郎はどうやって突破するつもりだ? そこのヒョロ作家の護衛をすんのは骨が折れるぞ」

「名無しの女王には、名前を献上する名目なら謁見はできるはずだ。俺とアンデルセンで城に潜入する。他は合図があるまで城の外で待機だ」

「それは……良いのですか? 名前を教えることは避けられませんよ」

 

 躊躇するマシュに対して、ノアはさも当然のことかのように、

 

「それくらいは承知の上だ。敵を油断させるためには、身を切る必要がある」

 

 名無しの女王はこの世界に取り込んだ者の名前を片っ端から集めている。彼女を守る影の実力が未知数であるため、奇襲という選択肢は取れなかった。

 しかし、女王に会うのは自分の名前を捧げることに他ならない。ペレアスは呆れと感心が複雑に混ざった息を吐く。

 

「まあお前のことだ、何か奥の手があんだろ。問題はアンデルセンをどう隠すかだ。姿を見られたら不意を突くどころじゃない」

「ノアさんの背中にしがみつけば良いのでは? ちょうどマントで隠れますし」

「そうね。コイツの体の大きさならもうひとりくらいはいけそうじゃない? シェイクスピアかダンテかってことですけど」

 

 ジャンヌがそう言うと、シェイクスピアとダンテは先生に不意に当てられた生徒のようにビクついた。現実の体よりも格段に小さくなっている彼らなら、ノアの背中に隠れることもできるだろう。

 潜入する人数は多いに越したことはない。戦闘力が皆無に等しい作家たちであっても、サーヴァントはサーヴァントだ。

 瞬間、ダンテとシェイクスピアはカッと眼光を閃かせて、

 

「「最初はグー! じゃんけんぽん!」」

 

 当然、握っているのか開いているのかも曖昧なウサギの前脚で人間の手に勝てるはずもなく、ダンテはあっさりと負けた。

 

「がああああ! 負けたあああああ!!」

 

 ペレアスは冷たい視線をダンテに突き刺す。

 

「むしろなんで勝てると思ったんだよ。バカだろ、普通にバカだろ」

「忘れていました……今の自分が人間ではなくウサギであるということを……!!」

「いや、今のお前はウサギ以下の悲しきモンスターだけどな」

「こんなにウサギと人間で機能の差があるとは思いませんでした…! これじゃ私、じゃんけんをしたくなくなってしまいますよ!」

(ミスト)が出てきましたね……」

 

 そうして、ノアとアンデルセンとダンテが女王の城に乗り込むことになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名無しの女王の居城。

 茨の檻。

 ウバの爽やかで鮮明な香気が薫る。

 

「ジョン、ケイト、ルイーズ、パトリック……駄目ね、どれもこれもしっくりこないわ。ああ、いつになったらあたしの名前は見つかるのかしら」

「……名前は与えられるものだから。多分、世界中を探してもあなたに合う名前は見つからないと思う」

「そうかもしれないわね。でも、だとしたら、あたしのこのぽっかり空いた喪失感は、どうやって埋めたら良いのかしら」

「空いたところが埋まらないのは───」

 

 かちゃり、とティーカップをソーサーに置く。

 

「──最初から、探すものを間違えてるからじゃないかな」

 

 空気が固まった。

 微笑み、沈黙を静かに破る。

 

「…………知っていたの、全部」

 

 この世界はひとりの少女の白昼夢。

 あの時のあの子は、決してここにはいない。

 

「けれど、求めることをやめたら、今度こそあたしには何もなくなってしまうから」

 

 茨がざわめく。

 風穴のような通り道。少女は椅子を立つと、その前で振り向いた。

 

「リツカ。アナタの仲間は来るかしら」

「来てくれるよ。絶対に」

「そう、羨ましいわ───長かったでしょう?」

「……分からない。長いようで短いような……夢を見てるみたいな感じかな」

 

 くすり、と少女は笑う。

 この世界は名無しの女王が見る夢だ。時間の流れは現実世界とは決して同じではない。

 

「その髪飾り、キレイね。ここに来ても変わらず着けてるなんて、よっぽど思い入れが深いのね」

 

 かつり、と女王は檻の外へ一歩を踏み越えた。

 取り巻く黒い影は彼女に寄り添うように。しかして、微量の殺気を立香に差し向ける。

 

「アナタとのお茶会、楽しかったわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名無しの女王の城。その門構えは荘厳壮大と言う他なかったが、テーマパークの人気アトラクション並の人の列が城内から伸びていた。

 彼らは皆、名無しの女王に自らの名前を献上するために城を訪れている。ロンドン中の市民が集まりきればこの程度では済まないだろうが。

 城に潜入するノアたちはその列に紛れ込んでいた。人の群れはじりじりとしか進まず、ノアは苛立たしげに顔を引きつらせる。

 

(おい、どんだけ続いてんだこの列は。暗示でも掛けて順番飛ばすか)

 

 背中に隠れているアンデルセンとダンテだが、普通に会話をしては存在を知らせるようなものだ。故に、彼らは発声しない会話方法である念話を使って、意思の疎通を行う。

 頭の中に響くノアの声に対して、アンデルセンは言った。

 

(トランプの兵隊にでも見られたらどうするつもりだ、アホが。お前はできるからと言って何でもやるつもりか? 行動力は正しい方向を向いてこそ、善い結果に繋がるのだ)

(ノアさんは何も考えてないだけだと思いますよ? 待ち時間が苦痛なのは分かりますが。忍耐力を身に着けたいなら地獄巡りがオススメです)

(……お前の地獄巡りはほとんどウェルギリウスに頼りっきりだっただろう。ミノタウロスと遭遇していた時なんかは全く役に立っていなかったぞ)

(アステリオスさんはとても心優しい方でしたが、ミノタウロスは話が通じませんからね。結局、先生が罵倒して怒らせた隙に逃げたんですけど)

(おまえが身に着けたのは忍耐力じゃなくて他力本願だろ)

 

 ちなみに、ダンテはミノタウロスに追われた先にあった地獄の第七圏に横たわる血の川プレゲトンにて、アキレウスの師匠であるケイローンと面識を得ている。

 その際にもウェルギリウスの仲介があって、ケイローンが率いるケンタウロスたちの力を借りて血の川を渡ることができた。ダンテは基本巻き込まれ体質であり、他人に助けられる躊躇がない。

 サーヴァントよりもマスターの方がよほど合っているが、そんな泣き言を許されるはずもなかった。

 ダンテはふと思い至る。

 

(そういえば、お二人は同じデンマーク出身ですよねえ。ノアさんもアンデルセンさんの童話を読んだことがあるのでは?)

 

 アンデルセンの出身地はデンマークのフュン島中部、オーデンセという街である。その名に面影があるように、オーディンにちなんだ地名となっている。そのため、デンマーク最古の都市のひとつであり、一時期は首都にもなっていた。

 ノアは不穏に目を細める。

 

(まあな。子どもの頃はうんざりするほど読み聞かせられた。コペンハーゲンまで人魚姫の像を見に行ったら、小さすぎて素通りしたのは良い思い出だな)

(ああ、確か世界三大がっかり名所でしたっけ? 三回首を切断されて、五回ペイントされて、一回爆破させられたことで有名ですよね)

(なんだそれは、初耳だぞ!? 切断とペイントはなんとかイタズラの範疇で理解できるが、爆破は何の恨みだ!?)

 

 世界三大がっかり名所で有名な人魚姫の像だが、簡単に近づけることから、数々の被害を受けてきた。

 ペンキやスプレーで塗装されるのはもはやご愛嬌、腕や頭を切り取られたり落書きされるなど、やりたい放題の扱いをされている。

 アンデルセンの童話人魚姫は悲しい結末で幕を閉じるが、そのようなイタズラはハッピーエンドを求める過激派ファンによる犯行だったのかもしれない。

 三人がのんべんだらりと雑談を続けている間に、彼らは城内に入り階段を上がっていた。警備もそれに比例して厳重になり、トランプの兵隊が薄い体を活かして通路の両脇を挟んでいる。

 女王との謁見は最上階で行われる。対峙する時までには、いくらかの猶予があった。

 とはいえ、一時間ほども話し込んでいると流石に会話のネタもなくなる。言葉数が少なくなるのは必然なのだが、アンデルセンはダンテの異様な様子に気づく。

 彼は冷や汗を流し、全身が小刻みに震えている。

 

(お、おいどうした。様子がおかしいぞ)

(う、腕の力が抜けてきました! やっぱりウサギの手でしがみつくのは無理があったんですよ!)

(んなこと言われてもどうしようもねえぞ。もうすぐ玉座の間だ、気合いでこらえろ)

(む、無理ですよ無理無理! あああああ肉球が憎い!!)

 

 そもそもウサギの腕は人間のように組み付くことができない。指の形も物を掴むようにできていないため、この状況は当然の帰結と言えるだろう。

 玉座の間まで来て、ノアはブツブツと独り言を唱える。前にはひとりの女性が今まさに名無しの女王に謁見している最中だった。

 玉座の後ろには隙間なく茨で覆われた檻がある。それこそが立香が囚われている牢獄なのだろう。

 

(もしかして魔術の詠唱ですか!? 私を助けてくれる気が利いたやつがあるんですね!?)

(は? 違うに決まってんだろ。これは敬語を使えるようにする自己暗示だ。女王にタメ語で接したら大事になるだろうが)

(お前はどれだけ他人に敬意を払いたくないんだ!?)

(くっ……どうあっても私を助けるつもりはないようですね。ならば!)

 

 肉球から爪が飛び出す。それは服の壁を抜けて、ノアの背中にぐっさりと突き刺さる。

 

「それでは次、白髪のアナタ──」

「いっっっってえ!!? なにしやがるクソウサギ!!」

「えっ?」

「……あ、ヤベっ」

 

 名無しの女王は目を丸くして固まった。心なしか、傍にいる黒い影も呆然と硬直していた。

 突如の痛みに念話を忘れたノアだが、すぐに自己暗示の効果で表情を取り繕う。手を後ろに回し、ダンテの首を引っ掴んで足元に投げ捨てる。

 

「実はサプライズをするつもりだったのですが、失敗してしまいました。はっはっは! ……早く起きろクソウサギ。皮剥ぐぞ」

「最後の方に不穏な言葉が聞こえた気がするのだけれど!?」

「いえいえ、こちらは世にも珍しい人語を解するウサギでして、是非女王に御覧になっていただきたく存じます」

「そ、ソウダヨ、ヨロシクネ! ジョオウサマ!」

 

 ガッチガチに緊張したダンテの口上を聞いて、名無しの女王は笑顔を輝かせて言った。

 

「あら、それは素敵ね! 名前はあるのかしら?」

「いえ。後で焼いて食おうと思ってたので」

「人語を解するウサギを食べるなんて、ほぼカニバリズムな気が……」

「ウサギはどれほど知能が高くてもウサギですから。DNAが違うのでセーフです。なっ、そこのおっさん」

 

 ノアはいきなり後ろを振り向いて、順番を待つ中年男性に話しかけた。彼はびくりと驚いて反応する。

 

「えっ!? そ、そうですね」

「何がそうですねだ、適当なこと言いやがって。俺だって喋るウサギなんざ食わねーよ」

「り、理不尽すぎる……」

 

 名無しの女王は咳払いして、場を仕切り直す。

 

「それで、アナタの名前を教えてもらえるかしら。大丈夫、悪いようにはしないわ」

「……ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド」

 

 名前を聞き、女王はその響きを数度口の中で転がした。ごくりとそれを飲み込み、彼女は息をつく。その表情には擦り切れた淡い落胆だけがあった。

 名無しの女王は微笑みの仮面を被る。

 

「ありがとう、良い名前ね。……そうね、世にも珍しいウサギを見せてもらったお礼をしていなかったわ。何か欲しいものは───」

 

 ノアは静かに、しかし力強くそれを遮る。

 

「欲しいものは自分で手に入れる。おまえの施しは要らない」

 

 だが、と彼は続けた。

 

「俺の慈悲は天よりも高く海よりも深い。おまえが一番欲しいものをくれてやるよ───やれ!!」

 

 ノアの背後から飛び出す小さな影。

 アンデルセンは利き腕を回し、筆を執る。

 

「お前に恨みはないが、昏睡した現実世界の俺たちはいずれ衰弱死を迎える。故にここで倒す。代わりに貰っていけ、これがお前の名前だ───『誰かの為の物語(ナーサリー・ライム)』!!」

「なっ……!?」

 

 女王の顔が歪む。

 ナーサリー・ライム。わらべうたの君。おとぎ話の世界に生き、子どもたちの夢を彩る形而上の英雄は、今ここにそのカタチを得た。

 少女の輪郭は、幼女のそれへと変わる。少し大人びた外見は丸みを帯び、存在そのものの変質へと繋がっていく。

 しかして、それは劣化でも退化でもない。

 彼女にあるべき名前。体を表す名を得たことによる、存在の最適化。『名無しの女王』という称号だけがあった今までよりも、上の霊格に鍛えられたのだ。

 ノアの右手が無色の輝きを発する。

 魔術の発動。それよりも速く黒い影はナーサリー・ライムの盾となり、彼女は淀み無く命令した。

 

「止まりなさい、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド!!」

 

 名前を呼んだ相手を支配する力。名前を得たとしても、この世界にある限り彼女は名無しの女王の性質を併せ持つことができる。

 繰り出した命令は単純にして簡潔。名前を呼ばれた者は即座に硬直する言霊だ。

 ───だが。

 

「『Zayin(ザイン)』」

 

 ぶしゅり、と鮮血が噴き出す。

 

「──っ、どうして……!?」

 

 ナーサリー・ライムは肩口に切創を負っていた。黒い影の防御は意味を成さず、命令はノアの小指一本さえも止めることがなかった。

 それもそのはず、ノアが使った魔術は視界を介して設定した空間の座標に斬撃を発生させるというもの。影が覆ったことで多少の誤差は発生したが、直前までそこになかった攻撃から逃れるには、防御ではなく回避するしかない。

 ノアは左手にも光を灯すと、光球を城の窓へと放り投げた。それはガラスを突き破り、中空で閃光弾のように煌めく。

 城外の仲間への合図。ノアは一歩踏み出して、牙を剥くように笑んだ。

 

「こっからはあいつらの仕事だ。脳筋どもに恐れおののけ、ナーサリー・ライム!!」

 

 

 

 

 

 

 時間を少し遡り。

 一方、名無しの女王の城の外。

 城内の潜入組からの合図を待つサーヴァントたちは、突入に備えた態勢を作っていた。

 一切の感情が消え失せた瞳のジャンヌとモードレッド。二人は腰に巻きつけた縄を持ち上げ、一言、

 

「「……ナニコレ」」

 

 マシュは何を言っているんだと抗議するような目をする。

 

「縄ですが……?」

「なんで縄を巻いてるのか訊いてんのよ! そんなことくらい見れば分かるわ!!」

 

 二人の腰に巻かれた縄はそのまま後方に伸びており、それをマシュたちが握るという構図になっている。上から見ると八の字のような形だ。

 マシュはやれやれといった風体でため息をつくと、説明を始める。

 

「リーダーからの合図があった時、スムーズに城内に突入するための陣形です。モードレッドさんの魔力放出とジャンヌさんの火炎放射で、ロケットの如く最上階に突っ込む作戦ですね」

「おい待て、誰だそんなアホな作戦立てたのは。まさかペレアスお前じゃないだろうな」

「いや、オレだが?」

「脳みそ茹だってんのか!?」

 

 狼のように牙を剥くモードレッドをどこ吹く風に、シェイクスピアは切り出す。

 

「ふむ、これは作戦名を決めるがよろしいでしょう。エヴ○ンゲリオンのヤ○マ作戦くらい記憶に残るやつでお願いします。これはそのエピソードの再読性に関わりますよ!」

「『それいけ! ジャンヌ&モードレッド号作戦』はどうですか?」

ウウゥ〜(星の屑作戦)

「パクることしか頭にねえのかこいつらは!? くそっ、なんでオレがツッコミ役に回らされてんだ!!」

 

 モードレッドが愚痴った瞬間、ガラスが割れる音がして、空に閃光が散った。

 ノアからの合図。それを見たマシュは顔を紅潮させて、両手に力を込める。

 

「さあ! 作戦決行です! ライト兄弟に先駆けて世界初の飛行をしましょう!!」

「……異様に興奮してるんですけど。そんな状況じゃないって分かってるの? このピンクなすびは」

「もえあがれ〜、もえあがれ〜、もえあがれ〜、ジャンヌ〜」

「いつから私は機動戦士になったのよ!?」

 

 ジャンヌとモードレッドは意を決して、腰の縄を掴む。

 

「もうヤケクソだ! 見ててください父上! オレの勇姿をーーっ!!」

 

 ───1888年、おとぎの国にて、世界初の有人飛行が成功した。非公式ながら、ライト兄弟の偉業より五年先駆ける成果である。

 それを見た人々はこう評した。

 〝鳥人間コンテストなら四位くらいで終わりそう〟と。

 

 

 

 

 

 

 凄まじい轟音とともに、城壁が破壊される。

 玉座の間にいたロンドン市民は悲鳴を上げて逃げ惑い、扉の外に掃けていく。立ち込める煙に咳しながら、モードレッドとジャンヌが剣と杖をナーサリー・ライムに突きつけた。

 

「今のオレは機嫌が悪い! 上品に殺られると思うなよ!」

「私も手加減ができなさそうだわ! この苛立ち、久々に良い火力が出せそうね……!!」

 

 理不尽な怒りを向けられたナーサリー・ライムは肩口の傷を押さえながら、

 

「何のことか全く分からないのだわ……けれど!」

 

 黒い影が呼応する。

 一瞬にして辺りが闇に染まり、床から壁から、無数の武器が形成される。それらに時代の区別はない。剣や槍、銃、果てはミサイルに至るまで、人が畏れる死の具現がそこにあった。

 名無しの女王が支配するはずの世界を再構築する力。黒い影がこの世界と半ば融合しているために行える荒業だ。

 

「ジャバウォック」

 

 ナーサリー・ライムが呼んだその名は、鏡の国のアリスにて語られた怪物。

 らんらんと燃える目、鋭い鉤爪、強靭な顎。しかして、それ以外の全てが不明の生物。理解できないからこそ怖い、名状しがたき魔獣であった。

 作家たちは全力疾走でノアの背後に回る。彼らはその足をがっしりと掴んだ。

 彼らの戦闘力はあまりにも場違い。故に後衛に回る選択肢は最善策であるのだが、マスターに守られるサーヴァントという世にも珍しい構図になっていた。

 

「おまえらサーヴァントだろうが! 俺より後ろにいるとか恥ずかしくねえのか!?」

「ハッ、俺の心には一点の恥辱も存在しない! 作家に殴り合いをさせるなど、たこ焼き屋にタピオカ作らせるようなものだぞ!」

「ペンは剣よりも強しと言いますが、それは限られた状況下のみです。吾輩の文才ならエクスカリバー並の被害を出すのもできるのですが、いやはや、運に恵まれませんね」

「大抵の怪我はすぐ治るんですし、これくらいは良いでしょう。適材適所ですよ、適材適所。ノアさんこの言葉好きですよねえ?」

「……現実に帰ったら覚えとけよ、おまえらの体を現代アートにしてやる」

 

 呑気なやり取りを背中で聞きながら、ペレアスたちは各々の得物を構える。

 マシュの盾も彼女が変身することで手元に戻る。十字の円盾を見て、モードレッドは一瞬目を見開くと、小さく笑った。

 

「お前、その盾どこで手に入れた?」

「いえ、これはわたしと融合している英霊のもので、真名すらも分からない状態です」

「はあ? んなもん円卓の連中なら誰でも知って───」

「よーし、行くぞお前ら! 名無しの女王を倒して囚われのマスターを救う! オレに続けェェェ!!」

「こいつ、ごまかしやがった!」

 

 先駆けたペレアスに追随して、マシュたちは走り出す。

 幾百にも及ぶ武器が差し向けられる。剣槍の雨に爆撃が混ざり、目も眩むような熱波が周囲を席巻する。

 下手な攻撃宝具を容易に上回る一撃。広範囲を一手に焼き尽くすそれは、並のサーヴァントなら刹那の内に塵へと還すだろう。

 

「『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!」

 

 しかし、それらは白き壁の前に阻まれた。

 1ミリの揺らぎも、一点の汚れもないその守り。それは完全に熱波を防いでみせたが、逆の見方をすれば、宝具を使わなくては防げないほどの攻撃ということになる。

 つまり、勝機は短期決戦。ナーサリー・ライムだけを速やかに排除しなくてはならない。

 ジャバウォックが地を蹴り、ペレアスに肉薄する。剛腕から繰り出される横の大振りを屈んで躱し、通り抜けざまに脇腹を叩き割る。

 その斬撃に怪物が動きを止めた直後、モードレッドの剣が首を断ち、フランケンシュタインの大槌が胸を砕いた。

 ──が、ジャバウォックは時間を巻き戻したかのように傷を再生させてしまう。

 ペレアスは舌打ちする。

 

「まぁた不死身かよ! そういうのはヘラクレスとアキレウスでこりごりだっつうのに!」

「──不死殺しの槍を渡す。受け取れ」

 

 金色の枝がノアの右腕を這い、一本の槍に形成されていく。シェイクスピアは彼の腕を握って、それを止めさせた。

 

「ジャバウォックは不死身の怪物ではありません。アレを倒すのに必要なのは不死殺しではなく、弱点を突く概念武装でのみ打倒が為せるでしょう」

「ジャバウォックを殺した武器──つまり、ヴォーパルソードか。そんなものはここにはないぞ」

 

 アンデルセンは挑発気味に問い、シェイクスピアは意気揚々と答える。

 

「『行動は雄弁である(Action is eloquence.)』。言葉を尽くすよりも実際にやって見せた方が早い。そうでしょう、天に至りし見神の詩人」

 

 ナーサリー・ライムがいる限り、不用意に名前を呼ぶことはできない。仰々しい呼び名をダンテはしかと受け止めた。

 

「ええ、たまには良いところを見せなくては桂冠詩人の名が廃るってもんです。……剣をこっちに投げてください! ジャバウォックを倒せる剣を造ります!!」

「ああ、任せた!」

 

 ペレアスは剣を放り投げ、見計らったようにノアの足元に突き刺さった。

 シェイクスピアのスキル『エンチャント』。彼が物品についての文章を書くと、例えそれが何の曰くを持たぬモノであっても、概念武装に仕立て上げることができる。

 ペレアスはご存知の通り、特別な武装を一切持たない。もちろん、その剣は無銘であり、普通の刀剣と切れ味は変わらない。

 だからこそ、今回のエンチャントには適している。シェイクスピアは無銘の剣をジャバウォックを殺した剣に仕立て上げようと言うのだ。

 剣に言霊を彫り込む。鈍色の刃は水晶の如く透き通り、淡い光を灯していた。

 そして、それを仕上げるのは、もうひとりの詩人。

 

「……やはり、ヴォーパルソードを彩るのはあの詩でなくてはならないでしょうねえ。ルイス・キャロルさん、あなたの傑作をお借りします」

 

 世界に刻まれる極小の奇跡。

 神の祝福が零れ落ちた言の葉は、未だ定かならぬ剣を完成へと導く。

 

「〝(One)(two)(One)(two)貫きて尚も貫く(And through and through)ヴォーパルの剣が刻み刈り獲らん(The vorpal blade went snicker-snack)ジャバウォックからは命を(He left it dead)勇士へは首を(and with its head)彼は意気踏々たる凱旋のギャロップを踏む(He went galumphing back)〟──!」

 

 それなるはヴォーパルソード。

 意味を持たず、外観も描写されぬ正体不明の一振り。

 だが、それ故に名状しがたき怪物を穿つ、御伽の剣であった。

 ノアはそれを引き抜くと、槍投げの要領でペレアスに向けて投擲する。彼はそれを難なく受け取り、ジャバウォックに振り向く。

 

「させないわ!」

 

 ナーサリー・ライムの叫びとともに、黒い影は新たな武装を顕現させる。

 長大な金属の杭がリボルバー状に装填された機械衛星───『神の杖』。架空上であるはずの宇宙兵器は紛れもなくそこにあり、ペレアスたちに切っ先を向けていた。

 一度放たれれば、直線上の全てを一直線に破壊するであろう必殺兵器。発射される直前、一瞬の差で漆黒の炎が黒い影に襲いかかる。

 

「この私が、二度も見逃すと思った?」

 

 純粋な強さだけで考えるなら、黒い影はこの場の誰よりも強いだろう。

 物理的手段が通じず、宝具級の殲滅攻撃を苦もなく連発する。サーヴァントとしてはまさしく規格外の性能を誇る病毒の化身だ。

 しかし、今の彼はナーサリー・ライムの守護に取り憑かれている。彼女の意思に動かされるか、脅威に対する防衛でしか攻撃することはない。

 だからこそ、ジャンヌは先んじて神の杖を排除できた。

 その一手の差は何よりも大きく。

 ペレアスの剣閃が、ジャバウォックの胴を真っ二つに断ち切る。

 瞬間、モードレッドとフランケンシュタインは抜け出し、

 

「……お前みたいなガキが王を演じるなんざ、二十年早い」

 

 ───わらべうたでも歌っていろ。

 斬撃、打撃。

 ナーサリー・ライムの霊核に致命的な亀裂が生じ、彼女の体は床に伏せる。

 守るべき女王を失い。

 黒い影は、それでも動かなかった。

 ……否、動けなかった。

 彼に感情という機能は存在しない。

 だから、庇護の対象が討ち取られたことへの怒りも憤りも生まれるはずがない。

 持ち主を失った道具のように、彼はただナーサリー・ライムの傍で立ち尽くすことしかできなかった。

 今際の際、その小さな手が彼を撫ぜる。

 震える唇を動かし、言った。

 

「───アナタの名前も、きっと見つかるわ」

 

 ありすは見つからなかった。

 時間軸も世界線も違うこの場所で、その子を探すことがどれほど無駄なことかも理解していた。

 わがままな少女は最期に、名も無き彼に寄り添う成長を見せたのだ。

 金色の粒子が散っていく中、誰かが呟いた。

 

「……サーヴァントの体は厄介だな。耳が良すぎるのも考えものだ」

 

 

 

 

 

 

 暗い茨の檻。

 何かが軋むような音を立てて、積み重なった茨が強引にこじ開けられる。

 かすかに射す光はいつもより眩しく感じられ、思わず彼女は目を細めた。

 左腕と右足で茨を押さえつけながら。

 彼は口の端を吊り上げて笑い。

 その、ボロボロになった右手を差し出した。

 

「───よお。助けに来てやったぞ、藤丸」

「…………っ!」

 

 立香は表情を綻ばせて、彼の右手を取る。

 

「リーダーのこと、信じて待ってました」

「知ってる。八百屋のおっさんから訊いた。どうやら囚人生活を満喫してたらしいな」

「あ、あれは現代人にしか伝わらない言葉なら、私だと気付いてくれるかもしれないと思ったんです! 知的なファインプレーです!」

「まあいい。それよりも、この借りはデカいぞ。どうやって返済するか今から考えておけ」

 

 ぐっと力を入れて立香を引っ張り、茨の檻から抜け出す。

 外はナーサリー・ライムが消えた影響か、世界の崩壊が進み、景色が薄く白んだ向こうにロンドンの街並みが映っている。

 そこにマシュとジャンヌが走ってきて、立香に飛びついた。

 

「せっかくの再会ですが、おそらくわたしたちは元の場所で目を覚ますはずです。互いの位置はペレアスさんに伝えてありますので、現実でもう一度会いましょう」

「うん! ……なんかジャンヌ焦げくさいけどどうしたの?」

「ちょっと人間ロケットになっただけよ……ふっ」

「な、なんて悲しい目をするんだ!」

 

 立香は両手に花を抱えたまま、ノアに問う。

 

「……そういえば、リーダーはなんで名前を呼ばれたのに操られなかったんですか?」

 

 彼は飄々と答えを返す。

 

「俺は生まれた直後に、おまえらが知ってるのとは別の名前をつけられた。呪いを避けるためにな。魔術的にはその名前が本当の名前だ。女王に操られなかったのはそういうことだ」

 

 もや、と。

 立香は胸中に霧がかかったような気持ちになった。

 ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド。その名前は偽りのもので、自分はそれを本物と思い込んでいたのだから。

 そんな心根を見透かすように、ノアは補足する。

 

「ただ、俺が気に入ってるのはおまえらに教えた方の名前だ。俺もそっちが本当の名前だと思ってる」

「……なら、私も聞きたいなんて思いません。リーダーはリーダーですから」

「それでいい。俺の真名なんておまえが知る必要はない」

 

 立香は思う。

 

(いつかは、()()()()じゃなくて、名前で──)

 

 世界の輪郭がほどけていく。

 次にまばたきをした時、既にそこは現実のロンドンだった。

 ノアたちは即座に起き上がる。

 オティヌスと交戦した時のままの位置関係で彼らは立っており、体には傷ひとつ付いていなかった。

 黒い風が吹く。五体を通り抜ける怖気と寒気は相変わらずだが、あの耐え難い眠気はない。

 暗闇に三つの白い点が浮かび上がる。

 目とも口とも似つかないそれらは、つい先程戦った黒い影の感覚器官であった。実体のないはずの彼は、その体からボタボタと赤黒い液体を垂れ流す。

 攻撃ではない。血のように見えるそれは、まさしく彼が傷ついていることの証左だ。

 ナーサリー・ライムの世界の一部を構成していた彼は、その崩壊に巻き込まれることでダメージを負っていた。そのためか、動きも鈍い。

 これを好機と見たジャンヌは掌中の炎を黒風に叩きつける。が、ソレは霧散して火球を避け、再びひとつにまとまった。

 

「炎ならと思ったけど、あんなのどう倒せって言うのよ!」

 

 アンデルセンはそれを鼻で笑い、

 

「決まっているだろう、アレにも名前を与えてやれば良い。そうすれば奴も実体を得るはずだ」

 

 ──少女の最期の献身を叶えるために。

 黒い風はジャンヌの火炎をするりと躱しながら、空へ飛び立っていく。自らが従う聖槍の王、オティヌスの元へ帰る腹積もりなのだろう。

 ノアは令呪の光をアンデルセンに与える。

 

「大盤振る舞いだ、三画全部持っていけ! とびっきりの名前をつけてやれ!」

「──承知した。少女の願いをロンドン中に感染させる性質、死の具現たる武具を生成する力……お前の名はこれだ!」

 

 宝具の再演。

 対象を理想の形へと作り変える幻想の筆。

 アンデルセンは宝具に黒い風の名を託した。

 

「地上の人間に死をもたらす黙示録第四の騎士(ペイルライダー)───『貴方の為の物語(メルヒェン・マイネスレーベンス)』!!」

 

 その時、黒い風の茫洋とした輪郭がくっきりと定まる。

 青褪めた馬に乗る漆黒の騎士。

 ヨハネの黙示録に記された終末の騎手。

 人々が恐れ、思い描く、想像上の黙示録の騎士がここにカタチを成したのだ。

 ペイルライダーはその勢いのままに飛び去っていく。背を追う炎を身軽に躱し、青褪めた馬が空を蹴って、朝焼けの向こうに消えていった。

 そこで、マシュは気付く。

 彼女はその場にへたり込むと、目の前を指差して言う。

 

「み、みなさん! 見てください!」

 

 指が差す方向に顔を向けると、他の四人も驚愕して口を開けた。

 彼らの視線の先。

 絢爛豪華なるウェストミンスター宮殿があったはずの土地は、真っさらなクレーターと化していた。



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第34話 霧の都に刻まれた傷跡

 ナーサリー・ライムの世界から脱出したEチームは、事前に伝えていたジキルのアパルトメントにて待ち合わせを行っていた。

 僥倖だったのは、今までうんともすんとも言わなかったカルデアとの通信が回復したことだ。おそらくはペイルライダーの存在が変質した影響で、ロンドンを覆っていた黒い乱気流が消えたためだろう。

 通信が途絶えていた間、カルデア側はサボっていた訳ではなく、マスターたちの存在証明や録画、音声記録の確保などに動いていた。通信が繋がらないならば、復旧は現地に任せて他の機器の修復に努めたのである。

 その努力が報われるかは別にして、結果的に通信を妨害していた原因を取り除くことに成功したのは、ロマンたちの目論見通りだった。

 そんな訳で、ジキルのアパルトメント。

 彼の部屋は間取りが広く、書斎の他にも客室が用意されている。数人が寝泊まりする分には何ら問題はないのだが、ある誤算があった。すなわち、ノアたちの合流である。

 それにより、ジキルのアパルトメントは三密などクソ食らえな過密状態になっていた。彼は重傷の身を引きずりながら、黒板を引っ張り出して言う。

 

「ええと、それでは、これまでに手に入れた情報の確認を踏まえて、作戦会議を……」

「うおおおおお! ペレアスのマスター、てめえイカサマしやがっただろ!! どうしてジョーカーのファイブカードなんて状況が発生すんだ!?」

「イカサマなんて言い掛かりはよせ、これは俺が引き寄せた当然の結果だ。俺ほどの人望になればジョーカーが五枚集まってくることだって不思議じゃない」

「その前にまずポーカーのルールが破壊されてんだろうが!!」

「凝り固まった常識を壊すのが天才の宿命だからな。ああ自分の才能が憎い……!!」

 

 ジキルの声はモードレッドとノアの口論に呑まれて消えていく。直後、モードレッドの鉄拳が机を叩き壊し、その破片がダンテとアンデルセンの顔面に命中した。

 ちなみにディーラーをしていたペレアスには一発も当たらなかった。ほぼ魔界のようなブリテンを生き抜いた男の幸運は格が違うのだ。

 ノアとモードレッドによって、居間は混沌とした惨状に早変わりする。そこに、台所からEチーム三人娘とフランケンシュタインが、床に飛び散った木片とトランプを避けつつやってくる。

 彼女たちはエプロンを着て、色とりどりのドーナツが載ったお盆を両手に持っていた。

 立香(りつか)は目の前の惨状が視界に入っていないかのように、お盆を床に置く。ダンテは赤くなった額を左手で擦り、もう一方の手でドーナツを取る。

 

「ほう、ドーナツですか…大したものですね。ドーナツは手を汚さず簡単に糖分を摂れるらしく、米軍のレーションにも採用されているほどです」

 

 彼は手に取ったドーナツをかじると、その瞬間に口から吹き出す。

 

「ぶっほォ!! 辛っっ!!?」

 

 ノアとペレアスは咳き込むダンテをニタニタと眺め、順に言った。

 

「オイオイオイ」

「死ぬわアイツ」

「二人とも、少しは心配しようという気概を見せてください!! 立香さん、これはどういうことですか!?」

「盛り上がるかなと思って生地にラー油を練り混んだやつをいくつか作ったんですけど、まさか初手で引き当てられるとは思いませんでした」

「食への冒涜───!!」

 

 このやり取りを経て、アンデルセンは伸ばしかけていた手を直前で止めた。彼も幸運の低さには定評がある。下手に手を出せば外れを引くことは間違いないだろう。

 ノアはドーナツの地雷原から無造作にひとつ取り出す。それを口に運ぶと、黒板の前に立つジキルに指図する。

 

「作戦会議はいいがその前に、おまえは前回どこで何やってたんだよ」

 

 ナーサリー・ライムの世界はペイルライダーの力を借りることで、ロンドン全土に行き渡っていた。黒い霧に触れれば意識を奪われ、名無しの女王の支配する地に行き着く。

 それで考えれば、ジキルも例外なくあの場所にいたはずなのだ。魔霧は屋内に入ってこないが、黒い霧はそれに当てはまらない。

 ジキルはげっそりとした表情を隠そうともせずに答える。

 

「ミイラのコスプレさせられて、誰も助けてくれずに草原で転がってたんだ。おかげで僕は暗所恐怖症に……出番も貰えないなんて──!!」

 

 彼は恐怖の記憶を思い出し、部屋の隅でガタガタと震え始める。予想よりも悲惨なことになっていたジキルに、一同は口を噤んだ。

 今も全身に包帯を巻いているジキルの姿は未だにミイラのそれである。奇妙なオブジェに成り果てた彼に代わって、ロマンが進行役を引き継ぐ。

 

「『ジキルさんがこんな状態なので、とりあえずはボクが進めますね。まずはノアくんが時計塔の書庫から持ち出してきた大量の盗品についてだけど』」

「人聞きが悪いな。アレは人類の功績を残すための慈善事業だろうが」

「『という戯言は置いといて、問題はやはりアレだろう。マシュ』」

 

 マシュは呼び掛けに応じて、ひとつの冊子を取り出して見せる。

 

「こちらは時計塔の書庫に残されていた『超☆天才探偵のワトソンくんでも分かる調査ノート 〜初歩的なことだよ、カルデアの諸君〜』という本です」

「…………シャーロック・ホームズ?」

 

 立香がぼそりと呟くと、マシュは目の前にニンジンを垂らされたロバの如く食い付いた。

 

「そうです! 流石は先輩ですね!! タイトルは中々にふざけていますが、これはかの名探偵が実在した可能性を示す一級資料に成り得るのではないでしょうか!? ちなみに『初歩的なことだよワトソンくん』という台詞は原作では一度も使われておらず、俳優のウィリアム・ジレットが舞台で言ったのが初出だそうです。他にも───」

「一気に早口で喋り始めたわね。厄介なオタクの習性そのまんまじゃない。立香は分かるのかしら」

「いや、私もそこまで詳しいわけじゃないんだよね。小学生の時、なんとなく頭が良さそうに見えるから読んでたというか」

「なんという不純な動機!?」

 

 膝から崩れ落ちるマシュ。小学生の考えることなので仕方ないといえば仕方ないが、それにしてもあんまりな理由である。

 作家陣の三人は納得したように頷く。

 

「確かに動機としては淀みに淀んでいるが、作家としては印税が入ってくれば万々歳だからな」

「むしろ、現代では吾輩たち墓の下で腐り果てて骨になってるので、どう読まれようが知りようがないですからね」

「私なんか作家業で生計を立てていたわけではないですからねえ。追放されるまでは政治と土地転がしがメインでしたし」

「『ダンテさんは奥さんが資産家一族の生まれでしたもんね! アリギエーリ家の家主は実質的には奥さんだったとか』」

 

 政治家としてフィレンツェの統領にまで登り詰めたダンテだが、実は彼の家はそこまで裕福ではなかった。事実、妻のジェンマ・ドナーティの持参金は少なく、二人の結婚は両家の同盟としての意味合いが強かった。これが、二人の結婚生活がネガティブに語られる大きな根拠であろう。

 とはいえ、後ろ盾なくして政界に足を踏み入れることはできない。それを利用して成り上がったダンテの政治手腕は中々のものであったと推察できる。

 ロマンの発言を聞いて、Eチーム三人娘とフランケンシュタインはじとりとした目つきになった。

 

「ヒモかぁ……」

「ヒモですね」

「ヒモじゃない」

ウゥウゥゥゥ……(これは紛れもなくヒモ)

「な、なんて人聞きの悪い! 話が横道にそれまくってますし、私はちゃんと働いてましたから!」

 

 もはやEチームの中では固定化されつつあるダンテのダメ人間疑惑が強くなったところで、ロマンは話を元に戻す。

 

「『それで、あの冊子には興味深い情報があったんだ。──題して、英霊召喚の真の目的』」

 

 サーヴァントとは、あくまで英霊の一側面がこの世に具現化した存在だ。ペレアスのようにいるかどうかも分からない英霊を、それぞれのクラスに当てはめることで現実の使い魔として使役する。

 それら七騎のサーヴァントを戦わせることで聖杯の降臨を促すのが、冬木市を発端とした聖杯戦争。これが英霊召喚術の目的とされてきた。

 しかし、資料によると、本来の降霊儀式・英霊召喚とは七騎を競い合わせるものではなく、何かひとつの脅威に対して七つの力をぶつけるものなのだと言う。

 したがって、冬木の聖杯戦争における召喚術はそれを扱いやすく改造したもの、ということになる。

 ペレアスはむくれっ面でドーナツを頬張りながら、

 

「……オレを例にする必要あったか?」

「妥当だろ。こんなことなら円卓の騎士として活動した記録だけじゃなくて、他のも処分しときゃ良かったな」

「それは洒落になってねえだろうがモードレッドォォォ!!!」

「ハッ! 丁度良い、ここでどっちが上か決めてやるよペレアスゥゥゥ!!」

 

 プロレス技を掛け合う円卓の騎士たちを尻目に、ロマンは話を続ける。

 

「『まあ今のはアンデルセンさんの分析の受け売りなんだけどね。我らがマスターたちの意見を聞こうか』」

「特に異論はねえな。ソロモン王ファンの俺からすれば気になるのは、召喚魔術と喚起魔術の用法が逆になってることくらいだが、そこはまあいい。召喚術が喚起術の意味合いを含むようになって久しいからな」

「私もリーダーと同じで特には……誰が資料をまとめてくれたかの方が気になります」

「先輩、わたしには分かりますよ」

 

 マシュは自信ありげに言い切る。ルール無用の残虐ファイトを繰り広げるペレアスとモードレッド以外の目が彼女に集まった。

 

「それは当然シャーロック・ホームズに違いありません! 数々の難事件を解決してきた彼は、この人理焼却という事件にとうとう重い腰を上げたのでしょう! これはもはや解決したも同然ですよ!!」

「盛り上がってるところ悪いけど、ホームズっていうのは小説の登場人物なんでしょう。実在するはずないじゃない」

「考えが甘いと言わざるを得ませんね。ジキルさんにフランケンシュタインさん、ナーサリー・ライム……架空の人物だと思われていた人たちがこんなにもいるというのに!」

「ま、マシュ! 目がバッキバキになってるから! ストップストップ!」

 

 暴走したマシュをなんとか立香が諌める。若干名を除いて、再度聞く態勢が整えられると、ジキルが復活してきてチョークを手に取る。

 

「そろそろ出番消滅の危機を感じてきたから、僕が話を進めよう。もうひとつはフランケンシュタイン邸で発見された資料についてだ」

「私たちが苦労して取ってきた情報ですね! いやあ、あの激戦をリーダーにも見せたかったですよ! 褒めてくれても良いんですよ?」

「その後にナーサリー・ライムにとっ捕まってたじゃねえか。赤点ギリギリの及第点だな」

「でも、もたらしてくれた情報は及第点どころか合格点と言って差し支えないよ。なんて言ったって、ロンドンを覆う霧の黒幕に迫ることができたんだから」

 

 フランケンシュタイン(孫)が遺した文書。そこにはこう書いてあった。

 〝私はひとつの計画の存在を突き止めた。名は『魔霧計画』。実態は未だ不明なままだが、計画主導者は『P』『B』『M』の三名。いずれも人智を超えた魔術を操る、恐らくは英霊だ〟──そこで、ジキルは黒板の裏から両手で抱えるほどの鉄塊を持ち出してくる。

 それは、ノアたちがウェストミンスター宮殿前で交戦したヘルタースケルターの頭部だった。この時代の西暦と『チャールズ・バベッジ』という名が彫られていた。

 アンデルセンは鼻を鳴らす。

 

「なるほど。ロンドンを闊歩する機械人形と魔霧計画とやらの主導者が繋がったという訳か。イニシャルをコードネームにするとは、随分と杜撰だな」

「もしくは、バレても構わないという意思表示かもしれない。魔術に長けているなら、名前を介した呪いへの対抗策も当然有しているだろう」

「そいつらが英霊なら、確かに呪っても意味がねえな。逆に呪詛返しでこっちが殺られるまである。で、チャールズ・バベッジってのは誰だ?」

「『チャールズ・バベッジはイギリスの数学者で計算機科学者だね。蒸気機関を用いて、階差機関と解析機関という世界初のコンピュータを考案した人物だ』」

 

 バベッジは現代ではコンピュータの父と称されるほどの偉人である。

 彼の生きていた当時、実験や事業に使う計算は数十人もの計算手を必要としていた。そこに疑問を覚えたバベッジは機械に計算を任せるという発想を生み出し、そのために階差機関と解析機関を考えた。

 それが実現することはなかったが、彼の閃きは後の機械文明を招来する──まさにプロメテウスの火であったに違いない。

 立香は顎に手を当てて述べる。

 

「スチームパンク系の話だと大体触れられますよね。蒸気と霧も繋がりますし、他の二人も何とか当てられそうですけど、イニシャルだけだと選択肢が多すぎるかも」

「それはそうですねえ。提示されているヒントも高度な魔術を使うということくらいです。私よりは真っ当なキャスターではあるのでしょうが」

「『望みなしと思われることもあえて行えば、(Without hope, when also mixing and doing to seem, )成ることしばしばあり(there is often a thing it'll be.)』。的中せずとも、予想くらいはしておくべきでしょう」

 

 ノアは目を輝かせて、

 

「Pから始まる名前で最も有名な魔術師はパラケルススだろうな。ここより後の時代も含めるならポール・フォスター・ケースやパメラ・コールマン・スミスか。その繋がりで行くとMはマクレガー・メイザースと妻のモイナ……メディアの再登場もワンチャンあるな」

「『おお……流石魔術オタク。人選がマニアック過ぎる……』」

「ひとつ確実に言えるのはここからリーダーのうんちくが始まりそうなことくらいですね。その前に別の話題に行きましょう」

 

 マシュの提案にノア以外の全員が同意する。一方、デスマッチを演じていたモードレッドとペレアスは、それぞれ天井と床に上半身をめり込ませた奇っ怪なオブジェと化していた。

 凄惨な現場を背景に映しつつ、ジキルは黒板に地図を広げた。ロンドン全土を網羅したその地図には、いくつかのマーカーが施してある。

 

「現状確認が済んだところで、やってもらいたいことは二つある。ひとつは娼婦連続殺人の調査と、もうひとつはワイルドハントが破壊行動を起こした地点の記録だ」

「『同時に、立香ちゃんたちが記憶改変を受けた可能性について、こちらで調査を進めておく。もしかしたらフランケンシュタイン邸での記録が残っているかもしれないからね』」

 

 ノアは片手に持っていたドーナツを口の中に放り込み、すっくと立ち上がる。

 

「善は急げだ。そこで突き刺さってるアホ二人も回収して、さっさと行くぞ」

「Eチーム再始動ですね! これだけサーヴァントがいたらもはや負ける道理なんてないですよ!」

「あ、私どもはここに残りますね」

 

 うなぎのぼりになる立香のテンションに水を差すような一言。それを言ったのはダンテだった。

 彼を含めた作家陣は示し合わせたかのように、これみよがしにジキルの介護を始める。

 

「いえ、こちらとしても着いていきたいのは山々なのですが、ジキルさんがこの通り怪我を負っているので介抱する人間が必要だと思うのです!」

「全くその通りだ。万が一この部屋を敵に突き止められた場合、ジキルひとりではどうにもならないだろう。誰かが護衛に回らなくてはな!」

「くっ……一分の隙もない理論武装! これにはシェイクスピアも諸手を挙げて降参するしかない!!」

「人として恥ずかしくないの? アンタらは」

 

 そうして、Eチームの調査は始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 吹けば飛ぶような詭弁を並べ立てる作家たちを置いて、モードレッドとフランケンシュタインを加えたEチーム(ダンテ抜き)は霧の都に繰り出した。

 与えられた任務は二つ。ロンドンを騒がせる娼婦連続殺人の調査と、ワイルドハントの破壊の形跡を辿ることだった。ジキルの伝手により、連続殺人の情報はスコットランドヤードで手に入れられることになったが、問題は後者である。

 なにしろ、オティヌス率いるワイルドハントは神出鬼没。ロンドンの各地に突如として現れる彼らは、その特性を駆使して捕捉されることなく破壊を撒き散らしてきた。

 そうなると、その足跡を記録するためにはひたすら地道な作業が求められる。ジキルが負傷した地点とウェストミンスター宮殿の分は既に判明しているが、それでも骨が折れることは違いないだろう。

 そんな訳で、Eチームは人手を二つに分けてロンドンを調べることにした。

 茫々たる景色に、どこか気楽な声が響く。

 

「1888年ロンドンでの殺人事件といえば、やっぱり切り裂きジャックですよね。さしずめ、私たちはそれを追う少年探偵団!」

「ペレアスは間違っても少年なんて歳じゃねえけどな。若作り騎士」

「おい、誰が体は大人頭脳は老人だ」

「へえ、ボケてる自覚はあったのね。意外だわ」

 

 厳正な組分け(グーとパーで分かれるアレ)の結果、結局いつもと変わらないメンバーになっていた。唯一外れたマシュがその瞬間気絶したことは言うまでもない。

 マスター二人が固まることは危険に思われたが、サーヴァントほどの体力は人間にはない。ロンドンを歩き回る方はもう一方の班に任せ、彼らはスコットランドヤードを目指していたのである。

 棘に溢れたジャンヌの言葉は、しかしペレアスのメンタルを傷付けるには至らない。というより、彼は自分の剣に頬ずりして話を聞いていなかった。

 ジャンヌは良い歳こいた大人の奇行に、顔を引きつらせる。

 

「えぇ……本当にボケたの? 前々からその気はあるように思ってましたけど」

「どうしちゃったんですか、ペレアスさん。そんなことしてもエクスカリバーにはならないですよ」

「おまえら、そんなに言ってやるな。なまくらソードを聖剣だと思い込んでる一般はぐれ騎士だぞ」

「違えよ! これを見ろ!!」

 

 ペレアスは剣をすらりと引き抜く。

 済んだ水晶のような刀身。それは、ナーサリー・ライムの世界にて、ジャバウォックを打倒するためにシェイクスピアとダンテが造り出したヴォーパルソードだった。

 立香たち三人は絶句する。あの世界で得た物体は何ひとつとして、こちらに持って帰ってくることはできなかった。ヴォーパルソードもその例に漏れず、あの世界の消滅とともに失くなったはずなのだ。

 

「もしかして、わざわざ造ってもらったんですか!? それだったらエクスカリバーとかガラティーンみたいにしてもらえば良かったじゃないですか!」

「いや、オレも最初はそう思ったんだが、それだと光って王様の真名解放ボイスが鳴るだけの『DXエクスカリバー』になるって言われてな」

「希望小売価格6000円とかですかね。そっちの方がすごいんじゃ……!?」

「モードレッド辺りに高く売れそうだな。とりあえず円卓の騎士全員呼んで来い。ああ、おまえは追放されてるから無理か」

「お前で切れ味試しても良いんだぞ?」

 

 そうして歩いていると、ロンドン警視庁本部であるスコットランドヤードの庁舎が見えてくる。

 この時期のロンドン警視庁の本部は、組織の規模の拡大に土地の容量が追いついていない状態であった。事実、二年後に本部庁舎は別の場所に移転し、人数は創設当時の1000人から13000人にまで膨れ上がっていたと言う。

 そんなスコットランドヤード。本来ならアポイントメントなど取れるはずもない社会不適合者の四人はジキルの名前という大義名分を得て、ずかずかと庁舎に入り込む。

 前回のコスプレも大概だが、この時代の人間にとって四人の服装も奇異なものに見えたのだろう。彼らを見る周囲の目は冷たかった。

 そこで、代表者らしき中年男性が小走りで出迎えてくる。彼の顔を見て、立香以外の三人は声を揃えて言う。

 

「「「八百屋のおっさん!?」」」

「はい、どうも皆さん。八百屋のおっさんです」

「あれ、知り合いなんですか? 話が早くて助かりますけど」

「おまえが檻の中でニートやってるのを証言したおっさんだ」

「なるほど、私の天才的ファインプレーはこのおじさんを通じてみんなに伝わったんですね。お手柄じゃないですか!」

「……アンタも大概よね。ええ、本当に」

 

 そして、四人は応接室に招かれた。

 机には犯行現場が示された地図と、それぞれの現場に残された遺体の写真が置いてある。

 被害者は五人。遺体は共通して生前売春を行っていた女性であり、心臓が取り除かれていた。凶器から指紋に至るまで証拠は残されておらず、犯行の目撃者もいなかった。

 

「犯行は全てここ三週間で行われています。犯人の手口の巧妙さもさることながら、霧のせいで一向に捜査が進んでいないのが現状ですね」

「これだけ見ると切り裂きジャックで決まりっぽいですけど……」

「『切り裂きジャックの仕業とされている五人の殺人は三ヶ月ほどの期間を掛けて行われている。これほどの短期間ではないはずだ』」

「だからといって、違うとも言い切れないでしょう? ただでさえ史実とは違う場所なんだから」

「『……なんだろう、ジャンヌちゃんに正論を言われるとは思ってなかった』」

「は??」

 

 ジャンヌは空中に投射されたロマンの像を睨みつける。

 すると、一時的に映像が乱れて切羽詰まった声だけが響いた。

 

「『ギャアーッ! コンソールが燃えた!? 誰か消火器持ってきて!!』」

「『私が今飲んでるアイスティーでもいいかい?』」

「『その程度の水量で消火できるとでも!?』」

 

 異様な光景を目の当たりにして、八百屋のおっさんことスコットランドヤードのおっさんは固い苦笑いを浮かべる。

 

「あ、あの。ところで事件解決の糸口は見えそうですかね」

「藤丸、おまえの推理力とやらを見せてみろ。具体的には次の犯行の予測だな」

「全く見当がつきませんね。私、逆転裁判でも攻略サイト見ながらやってたくらいですし」

「ゲームの面白味が死んでるじゃねえか、現代っ子が。おまえみたいなのがネタバレを氾濫させんだよ」

「私はネタバレとか気にしないんで……あ、でも私が切り裂きジャックだったら、ここに残った証拠を消しに行こうと考えます」

 

 その時、一発の銃声が鳴り響いた。

 一拍置いて、立て続けに火薬の爆発音が鼓膜を揺らし、怒号が入り混じる。ノアはいち早く立ち、応接室の扉を蹴破って負けじと怒号を飛ばす。

 

「パンパンパンパンうっせえんだよ!! 中国の爆竹大会でもやってんのか!!?」

「楽しそうですよね、アレ」

「どう考えても殺人犯が襲撃に来てるに決まってんだろうが!?」

 

 ペレアスはノアを押し退けて、エントランスホールに乗り出した。

 室内を縦横無尽に駆け巡る銀髪の少女。飛び交う銃弾はその影すらも捉えることはなく、虚しく壁に弾かれる。

 少女の身のこなしの巧みさというのもあるが、警察官たちの銃の腕も並以下だった。銃撃の姿勢が整っているだけで、他は素人に毛が生えた程度だ。

 

「イギリスの警察は銃を持たないって聞いた覚えがあるんですけど!?」

「街に変な機械人形が練り歩いてる状況で、そんなことも言ってられなかったんですよ! 正直付け焼き刃以下ですが!」

「あんなんじゃ百年やっても当たらねえぞ。射的でもやらせとけ。そもそもサーヴァントに神秘の籠ってない攻撃は効かないがな」

 

 弾丸の雨を悠々と掻い潜り、少女は逆手に持った短剣を警察官の首を刈り取ろうと振るう。

 ギン、と鈍い金属音。ペレアスの剣が寸前で少女の刃を食い止めていた。

 

「なぜあなたがここにいるの?」

「オレがどこにいようがオレの勝手だろ」

「……やっぱり、あの時殺しておかなきゃだめだったんだ」

 

 銃弾が割った窓から濃霧が流れ込む。

 魔霧とは異なり、殺傷性においてはそれすらも上回る濃硫酸の霧だった。霧に巻き込まれた警察官は次々に倒れていく。

 ジャンヌは炎を纏わせた剣で硫酸霧を切り払うが、その進行がいくらか遅れるだけで消滅することはない。

 

「あんなのを人間が吸ったら直ぐに死ぬわよ。外の霧の方がまだマシね」

「う〜ん、残念なことに、逃げる訳にもいかなそう」

 

 立香の言葉の通り、警察署の壁を突き破って動く死体が現れる。ワイルドハントの尖兵たる死者の狩人であった。

 ペレアスは銀髪の少女を追っている最中であり、彼の援護は期待できそうになかった。が、死者の尖兵が何人束になろうと、ジャンヌには傷ひとつ付けられないだろう。

 最大の脅威は硫酸の霧。ノアは四本の木の杭を掌中に形成すると、自らを囲うように足元にそれらを打つ。

 さらに続けて、紙垂の付いた縄を投影魔術で用意すると、彼はエントランスホール中に響く声で言った。

 

「全員、目を閉じて口と鼻を隠せ! 動ける奴は俺の近くに来い! 動けない奴は回収されるのを待ってろ!!」

「私が回収役ってことね。アンタに使われるのは気に入らないけど、やるしかないか」

 

 ノアは縄に魔力を込めると、それはひとりでに動き、円になるように周囲に張り巡らせる。

 立香は言われるままにしながら、

 

「リーダー! 常人が目瞑ったまま動くのは無理があるんですが!!」

「魔術師の目は必ずしも肉体のそれには頼らない。第六感を研ぎ澄ませ。霊視に長けたエレナ・ブラヴァツキーなら、目隠ししても電流イライラ棒くらいはクリアできるぞ」

「私に今その境地に至れと───!?」

 

 立香は口と鼻を押さえる右手の代わりに左手を前に出しつつ、よろよろとあらぬ方向に進んでいく。

 ノアは立香の左手を乱暴に掴み、近くに引き寄せる。彼はもう一方の手の人差し指と中指を立て、親指で他の指を隠した手印を作った。

 仏教や道教、陰陽道で多用される、刀を模したと言われる印相であった。ノアはその手に力を込め、唱える。

 

「〝掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓へ給ひし時に、生り坐せる祓戸の大神等諸々の禍事・罪・穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと、白すことを聞こし召せと───恐み恐みも白す!〟」

 

 室内を満たす霧は縄の縁から逃れるように逸れていく。

 穢れを祓う言の葉。かつて黄泉の国より生還したイザナギが、体の穢れを祓うために水で清めた際に生まれた神々に、清浄を乞う呪文であった。

 縄の内側は簡易的な結界。不浄なるものを遠ざける安全地帯だ。宝具である硫酸霧の効果から完全に逃れることはできないが、絶命は免れる。

 ノアの手を握り締めて、立香は口を開く。

 

「日本語、喋れたんですね」

「英語で詠唱する訳にもいかねえからな。同音異義語が多すぎて苦労したが……藤丸、手ぇ離せ」

「……あ、はい!」

 

 立香は慌てて手を離す。ノアは体内に少量しか血を回していないためか、その体温は他人に比べて低い。それでも皮膚に残る温かさを確かめて、彼女は目を薄く開ける。

 結界の影響で粘膜の痛みはない。立香も魔術師の端くれ、常人よりは霧の効果も薄く、呼吸に小さな違和感が残るだけだった。

 結界に群がる死体たちはジャンヌの火炎にその側から焼き払われる。彼女は両腕に抱えた警察官を縄の内側に放り込んだ。

 その折に、ロマンからの通信が入る。

 

「『消火完了! 状況を報告してくれ!』」

「ナイフを持った銀髪の幼女のサーヴァントが攻め込んできた。恐らくは藤丸の考察が正しい。ペレアスが今追ってるが、逃げられる可能性も考慮すべきだろうな」

「『堂々と姿を現したということは、記憶改変能力を持っているかもしれない。ここで仕留めたいところだけど……』」

「そういえば、その記憶改変の調査はどうなったんですか?」

 

 立香に問われ、ロマンは沈黙した。

 彼は冷や汗を滲ませて、弱気に言う。

 

「『それについてだけど、音声録音のログに不自然な部分があったんだ。おそらく、敵には記憶だけじゃなく記録にまで作用する力があると推測される』」

「切り裂きジャックは遺体以外何の証拠も残さなかったんでしたっけ。せっかく正体が分かるかもしれないのに」

「だったら、改変能力がどこまで影響を及ぼすか試すまでだ」

 

 ノアは右腕の袖をまくると、肘の裏から這い出た木の根が皮膚に『Jack the Ripper』という文言を縫い込む。

 

「それに、ペレアスがまだアイツを逃したと決まった訳じゃない。腐っても円卓だからな」

 

 ───一方、スコットランドヤード警察署の外。

 霧中に閃く無数の銀閃。空を滑る刃の礫を剣で以って叩き落とし、少女に迫る。

 単純な近接戦闘ではペレアスが上回るが、霧の影響で彼の敏捷は低下している。姿を消して奇襲に徹する鬼出電入の戦法と相まって、互いに決定打のない戦いが続いていた。

 どこからともなく少女の声が反響する。

 

「ここまで死なないヒトはあなたが初めて。……どうして?」

「どうして…って言われてもな。それに対する答えはいくつか持ってるけどよ」

 

 かん、と剣の腹で肩を叩いて軽妙な音を鳴らす。

 

「──そうだな、お前にはこう返してやる。どんなことがあっても死にたくないからだ。参考になったか?」

 

 それは、彼女にどう響いたのか。

 少女は無機質な声音で返す。

 

「全然、わからないよ」

 

 だって。

 

()()()ことなんて、一度もないんだから───!!」

 

 短刀を構え、背後から突撃する。

 狙うは喉元。

 最速無音の一撃。

 彼女が見たのは、見計らったかのように踵を返すペレアスの姿だった。剣と肩の甲冑で打ち鳴らした音。その反響を分析し、少女の位置を特定したのだ。

 彼は短刀を持つ手首を押さえる。

 

「お前は、ここでは殺さない」

 

 どうして、と再度問わせることはなかった。

 

「ウチの詩人はビビリでヘタレでポンコツだが、腰抜けじゃない。あいつならオレよりもお前のことを分かってやれる」

 

 だが、と彼は付け加える。

 

「騎士として、無辜の民を苦しめた罰は与えさせてもらう」

 

 白刃が踊り、血の華が咲き乱れた。

 少女の右腕が肩口から断たれ、ペレアスに手首を掴まれたまま、だらりと垂れ下がる。

 直後、悲鳴をあげることすらなく少女は逃げた。硫酸の霧も引いていき、ロンドンの街角にペレアスだけがぽつねんと取り残される。

 彼はふと気がついたように辺りを見回し、握っている腕を見て絶叫した。

 

「…………なんだこの腕!? 怖っ! しかもここどこだよ!」

 

 ペレアスがひとり右往左往していると、後ろからノアたちが駆けつけてくる。

 人間の片腕を持って佇むペレアスと、腕の表面に『Jack the Ripper』という文字を書き込んだノアの目が合う。

 

「オレの時代でもそんなダサいタトゥーしてるやつはいなかったぞ。中二病拗らせすぎだろ」

「おまえこそ純然たる不審者じゃねえか。人の腕ぶら下げるとか猟奇殺人鬼か?」

「こんな時にまで煽り合うとか馬鹿なの? 逃げられたせいで、多分また記憶を弄くられてるわよ」

「そうですよ。私なんか綺麗さっぱり忘れちゃってます」

「『……ん? みんなは覚えてないのかい?』」

 

 現地の四人と違い、ロマンだけはスコットランドヤードでの一部始終を記憶していた。何か珍しいものを見るような視線を受けながら、彼は考察する。

 

「『通信を介しているからか、そっちとは次元を異にしているからか……直接対峙していない第三者は改竄されないってことなのかな』」

「久々にやったじゃないですかドクター! これで次会ったとしても、対策が立てられますよ! いつもそんな活躍をしてくれればいいのに!」

「初めて役に立ったじゃない。てっきり中身のない言葉で会話を長引かせる、壊れたラジオだとばかり思ってました」

「『なんだろう、素直に喜べないぞ……!!?』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロンドン、リージェントパーク。

 リージェントパークはロンドン北部の王立公園とその周辺地域を指す。無数の薔薇が咲く庭園を有し、ロンドン市民の憩いの場となっているその公園は、今や見る影もなかった。

 荒涼たる灰色の砂漠。オティヌスの聖槍を受けたであろうリージェントパークは、大きなクレーターだけになっていた。超高温で熱されたためか、砂礫の中にはガラス片が入り混じっている。

 マシュはクレーターの縁から周囲を見渡し、手に持っていた地図に赤く丸を示す。

 彼女がそうして記した円はウェストミンスター宮殿とジキルが傷を負った地点を含めて、都合九つ。それらはロンドン全体に点々と置かれているのではなく、北部から南部にかけて、繋げると縦長の六角形になるように印が付けられている。

 どこかで見たことがある、とマシュは思った。確信できないのは、それにどこか欠けた部分があったからだ。

 

(この六角形にはまだ先がある。魔術的記号としては六芒星(ヘキサグラム)の暗喩? いや、この先があるとしたらまだ……)

 

 黙考するマシュの頭に、モードレッドの高笑いが響いてくる。

 

「オティヌス……許せねえ! 父上とオレの島をこんなことにしやがって!!」

ウウゥウゥウウゥ……(唐突な高潔な騎士ムーブだと!?)

「モードレッドさんが義憤に駆られるのも当たり前でしょう。主君の土地が他者に踏み躙られているのですから」

 

 モードレッドは犬歯がきらりと輝くくらいの爽やかな笑顔で、

 

「ああ! なんてったって、ブリテンを穢していいのはオレだけだからな! オティヌスだとか言う奴に先を越されて黙ってる訳にはいかねえだろ?」

「まさかのヤンデレだった──!?」

ウゥウゥゥ……(中に誰もいませんよ?)

 

 思わぬ闇を垣間見たマシュとフランケンシュタインは顔を青くした。

 ひょっとしたら円卓の騎士にまともな人間はひとりもいないのではないか。マシュの脳内にはそんな考えばかりが募っていく。

 不信感で満たされた脳内とは裏腹に、彼女の胸中は何やら奇妙な親近感で満たされていた。その出処は判然としない。けれど、彼女たちの共通点に由来することは間違いなかった。

 フランケンシュタインはすっと手を挙げる。

 モードレッドとマシュの視線が集まり、彼女は言った。

 

「ぶっちゃけずっと唸ってるのも面倒くさいから普通に喋っていい?」

「「──キャラが壊れたァーッ!!」」

「……うなるの、めんど、くさい。これからは、こうやってしゃべるから」

「今更取り繕ったところで意味ないですよ!?」

 

 フランケンシュタインは青褪めた顔で呟く。

 

「じゃあどうしろと……?」

「自分からボロ出したアホに言うことなんて何もねーよ! 聞き返してくんな!」

「ひ、ひどい。なんでそんなこというの……? かなしい……」

「こっ、これは自分を弱者に見せることでモードレッドさんを悪くする高等テクニック──! フランケンシュタイン博士はこれほどまでに高性能な人造人間を生み出していたんですね!」

「お前はなんで興奮してんだ」

 

 モードレッドは呆れてため息をつく。

 すると、後方で砂利が擦れ合う足音がする。即座に振り向いた三人が見たのは、白衣を纏った長い黒髪の美青年だった。

 彼は三人の顔触れを確認すると、緩く微笑む。

 

「貴女がたも私と同じ調べ物をしていると愚考します。ここで情報交換をするというのは如何でしょう」

「──ほざけよ、下郎」

 

 目にも留まらぬ速度でモードレッドは踏み込んだ。

 風も音も追いつかぬ一刀。青年の喉元に滑り込んだ刃はしかし、するりと空を斬る。

 空虚な手応え。確実に命中したはずの一撃は、一歩も動いていないというのに何の痛痒も与えられていなかった。

 得心がいったモードレッドは忌々しそうに吐き捨てる。

 

「魔術師か。己の像だけを遠隔地に飛ばすシケた技だ」

「我らの世界では『星幽体投射』と言います。他者に物理的作用を引き起こすことはできませんが、後ろ暗いこの身にとっては重宝する魔術です」

「知るか、さっさと引っ込め。オレたちの捜査の成果をてめぇに渡してたまるか」

「───ワイルドハントの王が貴方の父君であるかもしれないとしても?」

 

 滲み出る怒気が急速に冷えた。

 しかし、それは怒りという感情そのものが消え失せたのではない。噴火を待つ火山のように、激情が内側に押し込められただけだ。

 それを前にしてなお、男は流暢に喋り出す。

 

「ワイルドハントは別名『オーディンの渡り』……北欧神話の主神に端を発する伝承ですが、死者の軍団を率いる頭領と伝えられているのはオーディンばかりではありません」

 

 みしり、とクラレントの柄が軋みをあげる。

 

「フランシス・ドレイク、フィン・マックール、テオドリック大王……そして、アーサー王。ブリテンを護った王がその土地に暴威を振るうとは、これほどの皮肉はないでしょう」

「──は! なんだよ、怒って損したぜ」

 

 モードレッドは刀身に赤い雷を込め、男を切り払う。それだけでその像は解けていった。

 

「その魔術の対処法は良く知ってる。マーリンの野郎が好んで使ってたからな。魔力で作った映像は魔力をぶつければ霧散させられる」

 

 叛逆の騎士は笑う。

 

「王は何をしようとも王だ。オレ以外の誰にもあの人を解釈することは許さない。てっきりオーディン如きに父上の存在が上書きされたかと思ったぜ。それに憶測は信じない質でな。お前の話に惑わされるとでも思ったか」

「──安易に手を出した私が愚かでしたね。揺さぶりを掛けようと思いましたが、ここは退くとしましょう」

 

 男の姿は消える。それを見届けて、フランケンシュタインは実直な感想を述べた。

 

「う〜ん、すなおに、かっこいいとはおもえない……」

「うるせえ! 記録も済んだだろ、とっととジキルのとこに戻るぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジキルのアパルトメント。

 外出組の帰宅を待ちながら、ジキルは作家たちの饗宴を見せつけられていた。

 彼らはジキルが冷蔵庫で冷やしていたシードルを無断で持ち出した挙句に目の前で酒盛りを行い、雑談に耽っていた。

 顔を真っ赤にしたダンテは軽やかな口調で語る。

 

「現代では作家論の時代はとっくに廃れて、もっぱらテクスト論の文脈で新しい読みが試みられていますが、それもそれで手詰まりな感が否めませんねえ。そもそも情報化社会のせいで民族意識が希薄になってきた今、もう一度文学研究の在り方を問うていくべきではないでしょうか? 学問にもカビは生えます。新風を吹き込まねば、文学の地位はますます揺らいでいくことでしょう」

「ふむ、作家というよりは学者寄りのダンテ氏らしい意見ですね。ですが吾輩は生粋の劇作家、研究は領分ではありません。その立場で言わせてもらうと、言語のみを使った創作という形態に民衆が飽いてきているのでは? 演劇や漫画、アニメーションのように視覚や聴覚に訴えかけられる表現効果が誕生した以上、ノベルや詩の分野も何か新たな手法を考え出すべきかと」

「なるほど、文芸も何らかの進歩を行わねばならないということですねえ。確かにそれをしようとした者はいます。ライトノベルもその流れにあり、商業的には一定の成果を挙げたとも言えますが……やはり小説という型に当てはめる上で、どうしても限界はあります。私としては言語が持つ本来の魅力を活かしてほしいですねえ。そろそろ私やシェイクスピアさんを過去の遺物にしてほしいものです」

「いやいや、それは難しいでしょう! 我らは人類史に冠たる世界三大詩人なのですから!」

「ああ、そうでしたね! 失念していました!」

「「ハーッハッハッハ!!!」」

 

 恍惚の表情を浮かべてうわ言を吐き散らかす二人。グラスを口に運ぼうとするも、酔いのせいで遠近感が掴めないのか、顔面に中身をぶち撒けてしまう。

 ジキルは何か可哀想な生き物を見る目で二人を眺め、何やら黙りこくるアンデルセンに眼差しを送った。

 彼は澄み切った涙を流しながら、唇を震わせる。

 

「……ここが、天国か───!!」

「えぇ……」

 

 世界三大童話作家、アンデルセン。彼は即興詩人という作品の中でダンテを賛美しているが、それに負けず劣らずのシェイクスピアファンでもある。

 彼らは共に貧困家庭に生まれ、そこから成り上がるためにまず俳優を目指したという過去がある。アンデルセンはシェイクスピアの作品を好み、それにのめり込んでいたという経緯も無視できないだろう。

 さらに、俳優を断念したアンデルセンは次に詩の道を志してもいた。生憎その分野で芽が出ることはなかったが、彼の創作人生の大きな礎となったのは、まさしくシェイクスピアとダンテなのである。

 ジキルも文学をそれなりに嗜む立場だが、眼前のそれはただのイタイおっさんたちの酒盛りである。素面の時はまともに話していただけに、ダメージは大きかった。

 ふと気付くと、酔いが頂点に達した作家たちは手を繋いで踊っていた。中央のアンデルセンの背が低いせいで、宇宙人の有名な捕獲写真のように見えなくもない。

 

「「「Amazing grace how sweet the sound〜♪」」」

「誰か助けてくれええええええ!!」

 

 ジキルの悲痛な叫びが轟く。

 その直後、アパルトメントの扉が開いて外出組が帰ってくる。彼らは室内の惨状を目にして、思わず言葉を失った。

 沈黙も束の間。アメイジンググレイスを叫び歌う三人を薙ぎ倒すように、ノアがドロップキックを放つ。

 

「オラァァァ!! 俺抜きで酒盛りしてんじゃねえ! その林檎酒は俺のもんだァァァ!!」

「僕のだけどね!? 本当は!!」

「おまえのものは俺のものだろうが」

「急に冷静になってジャイアン理論振りかざすのやめてくれないかな?」

「『……そこの精神年齢ガキ大将は置いといて、情報の確認といこうか』」

 

 一同は持ち帰った情報を共有した。

 最大の手柄は記憶の改竄を行うサーヴァント──ジャック・ザ・リッパーの外見的特徴とその力の一端が判明したことだろう。

 ペレアスが奪った腕からジャックの体格や年頃も予測が立てられ、年端もいかぬ子どもであることも分かった。

 

「子ども、ですか。世も末ですねえ」

「……同情でもしたか? 奴は殺人者だぞ」

 

 ダンテは眉根を寄せる。アンデルセンの問いは彼の答えを引き出すためのものであり、決してそれが本心だけだとは言えない。

 

「どんなに純粋な存在でも──だからこそ、過ちは犯さずにはいられないでしょう。ジャック・ザ・リッパーには何か、大きく欠落した部分があるのだと思います」

「俺たちが言えたことではないがな。奴が何を抱えているのか、問うてみる必要があるようだ」

 

 そしてもうひとつの成果物は、マシュが記録した地図だ。六角形になるように配置された九つの印。そのことは理解できるのだが、逆に言えばそこまでしか理解できなかった。

 ペレアスは眉間に皺を寄せて言う。

 

「……さっっっぱり分からん!」

「わたしはどこかで見た覚えがあるのですが……単に六角形を作りたいなら点は六つで事足ります。九つであるというところに何か仕組みがあると思うのですが」

「だろうな。これの完成形は六角形でも六芒星でもない」

 

 ノアはそう言うと、ペンを取って新たに円を書き込む。地図上ではウェストミンスター宮殿から、真南の離れた地点であった。

 それを見て得心したのは数人。ジキルは目を丸くして、

 

生命の樹(セフィロト)──!」

「そうだ。生命の樹(セフィロト)は十個のセフィラで構成され、カバラでは宇宙的真理を表すとされる。根源流出説に則り、これを用いて根源を目指す魔術師もいる」

「これが完成したら……どうなるんですか?」

 

 ノアはほんの一瞬考え込み、

 

「…………重要なのはこれの意味じゃない。十個目の地点が判明したことだ。つまり、オティヌスを待ち構えて奇襲できる」

 

 オティヌスがロンドンに刻んだ九つのセフィラ。しかして、未だそれは完成には至らず、最後の地点が証明された。要するに、ワイルドハントの王を仕留める決戦の地が呈示されたのだ。

 立香は目を輝かせる。

 

「ついに敵の尻尾を掴んだんですね! ところで、生命の樹を使った儀式ってエヴァのパク──」

「『よーし! みんな頑張ろう! いつオティヌスが来るかは分からないけど、その時が今回の分水嶺に違いない!』」

「語るに落ちてますよ、ドクター」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロンドンの地下に張り巡らされた鉄道網。地下を走る列車は1860年代では夢物語とされていたが、それを叶えたイギリスの国力がうかがえる施設である。しかし、当時の掘削技術では事故が多発し、何人もの作業員が身体の欠損や肺病に罹患した。

 ロンドンを巡る鉄道網には、人の血がこびりついている。

 陽の当たらぬ淀んだ闇は、この街で暗躍する者にとってはこの上なく好都合であった。闇の深奥、地下鉄よりも深き場所に彼らはいた。

 蒸気を噴き上げる鋼鉄の鎧を纏った男は聞き返す。

 

「……生命の樹?」

 

 白いローブの男と、濃紺色の髪の鋭い目つきをした男が答える。

 

「ええ。これは言わば根源へ至るための道標です。第一のセフィラより段階的に世界が流出し、物質界である第十のセフィラに行き着く」

「第一のセフィラとはすべての流出源であり、すなわち根源だ。魔術師の活動はしばしば生命の樹になぞらえて、この樹を登る作業とも言われる」

「──オティヌスは根源を目指している、と?」

 

 黒ずんだ壁に白色のチョークで描かれた生命の樹の図。鋭い目つきの男はその頂点である第一のセフィラを指す。

 

「否、これは手順を逆にしている。本来底辺から頂点を目指すのに対し、オティヌスは第一のセフィラからこの図を描いている。これが意味するのは、自らを根源へ到達させるのではなく根源から何かを引き出すために儀式を行っているということだ」

「オティヌスを名乗る者が根源より引き出すモノはいくつか考えられます。ひとつは北欧神話の主神としての神格──もしくは、その宝具」

 

 生命の樹の十個のセフィラは四つの世界に分類される。

 上から流出界(アティルト)創造界(ブリアー)形成界(イェツラー)活動界(アッシャー)。これを下るごとに霊的要素は薄まり、物質的な側面が強まる。中国や日本の神話で混沌の世界が撹拌されることで物質が生まれるように、世界は曖昧な状態を経て実体を得るのだ。

 故に、オティヌスが根源より取り出そうとしているモノは物質である可能性が高い。

 そう締めくくり、白いローブの男は言った。

 

「必中必殺の神槍グングニル……それがオティヌスの手に渡ったならば、私たちに勝ち目はありません。最大限の戦力を以って迎え撃つべきです」

()()の召喚も最終段階にまで進んでいる。残すは───」

「───動かすか、アングルボダを」

 

 脈動する大聖杯。

 霧が充満し、世界の位相を歪める。

 アングルボダとは北欧神話においてロキとの間に、世界蛇ヨルムンガンドやヘル、そしてオーディンを喰い殺した大狼フェンリルを生んだ女巨人。

 その名を冠した蒸気機関は静かに胎動し、目覚めの時を待っていた。



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第35話 人の世に神は無し

 茫洋たる月の輪郭。

 星の光も届かぬ霧の都。

 暗黒の夜に、怪風が巻き起こる。

 微風がやがて豪風へ。黒ずんだ空気が白いキャンバスに絵の具を撒くように渦巻き、魔の霧を弾き散らす。

 それはまさしく台風の目。その一帯だけが透明な空気を取り戻し、青白い月明かりが降り注ぐ。

 凍てつく光の中に、嵐の王は顕現した。その背後には煌々たる銀盤。王は淡く赫う瞳を以ってロンドンの地を睥睨し、軽やかに降り立った。

 ぽつりぽつりと、雨粒が地面を湿った暗い色に変えていく。徐々に雨音は勢いを増し、黒雲が空を覆い隠す。雲の間には雷電が瞬き、轟音が木霊する。

 閃電が地上を照らす度に、ワイルドハントの担い手である死者の軍勢が冷たい地の底から這い出した。

 それこそは嵐の王、亡霊の群れ。

 見た者は必ず死ぬと言われる、オーディンの渡りの再来であった。

 雨が降りしきる最中、オティヌスは睨みを利かせて言い放つ。

 

「───そこにいるのは分かっている。暗殺者でないにしては上等な隠形だが、私の目を誤魔化すことはできん」

 

 夜闇から浮かび上がるように、ノアは現れる。彼は堂々とオティヌスの前に立ってみせ、獣の如く獰猛に笑う。

 

「おまえこそ分かってんのか? この前偶然遭遇した時とは違って、俺たちは準備万端だ。余裕気取ってられんのも今のうちだぞ」

「ふっ、人が如何な備えをしようとそれら全てを打ち砕いていくのが嵐だ。言葉を返してやろう、貴様こそ私を討ち取れるとでも思っているのか?」

「愚問だな。俺たちはそれをやりに来てんだよ───『神約・終世の聖枝(ミストルティン)』!!」

 

 神代より伝わりし宝具の真名解放。

 オティヌスにとって致命傷となり得る黄金光が閃く。ただし、それはノアの手元からではなかった。

 オティヌスを取り囲むように四方八方から矢が放たれる。星屑の如き閃光はひとつひとつが必殺。掠りでもすれば、その瞬間に命を絶たれるだろう。

 矢が到達するまでの一瞬。それを切り取った刹那、嵐の王は一瞥しただけで逃げ場がないことを悟る。

 ならば風で吹き飛ばすか、否、

 

()()()()()()()

 

 嵐の王に付き従う一騎。青褪めた馬に乗り、疫病を引き連れた死の騎士がその声に応える。

 

「■■■■■■■■■■」

 

 彼の言葉には砂嵐のようなノイズがかかっていた。

 人間の理解の範疇を飛び越えた呪言。ペイルライダーの全身から瘴気が噴出する。それは病毒が可視化したものであり、ある種の死の具現だ。

 瘴気に触れたヤドリギは次々に枯死し、粉々になって崩れ落ちる。

 あらゆる致命傷を瞬時に回復するノアとて、それに触れればひとたまりもない。彼は舌打ちを挟みつつ、背を向けて逃げ出す。

 

「藤丸、プランBだ!! 囲んで殴るぞ!」

「はい! Eチームアッセンブルです!」

 

 立香の声が夜闇に響鳴する。

 冷えた空気を裂いて、現れるは三人の英雄。

 ダンテを除いたEチームのサーヴァントが揃い踏み、マスターたちはその後方に回る。彼らの盾たるマシュはオティヌスから片時も視線を外さずに告げた。

 

「別地点で待機していたモードレッドさんたちが到着するまで、時間がかかります。皆さんが来るまで持ち堪えましょう」

「『地点が予測できていたとはいえ、ここでワイルドハントと遭遇できたことはかなりの僥倖だ。なんとか時間を稼いでくれ!』」

 

 今回、Eチームは手勢を二つに分けた。それぞれの軸となるのはノアとダンテ。神殺しの枝を持つ者とあらゆる魂を高次元へ召し上げる宝具を持つ者。性質は違えど共に必殺の武器を有する二人を別々に据え、オティヌスの首を取る作戦である。

 嵐の王の破壊行為はリージェントパーク一帯を更地に変えたことからも分かるように、非常に広範囲に及ぶ。ワイルドハントの襲来を予測できたとしても、その正確な座標までは特定できない。

 どこに来るかも分からない襲撃に対応すべく、Eチームは戦力を二分したのだった。

 ワイルドハントに対抗するための苦肉の策。一度手を合わせたマシュだからこそ感じ取れる、オティヌスの力量。彼女とロマンの判断は堅実だ。

 ジャンヌは鼻で笑い、旗を構える。

 

「持ち堪える? 冗談でしょう。前回あんなにコケにされておいて、今更守りに入るつもりなんてさらさらないわ」

「それは今更とさらさらをかけた高度なギャグ?」

「立香、黙ってなさい」

 

 ペレアスは小さく笑って、前に踏み出す。

 

「ま、そういうことだな。何より耐えてるだけはオレたちの性に合わねえだろ。王様だかオティヌスだか紛らわしいが、ここではっきりさせとくのも悪くねえ」

「当たり前だ、やられっぱなしで引き下がれるか。雑魚は俺と藤丸で処理する。いけるな?」

「もちろんです! 私たちの底力見せつけてやりましょう!」

 

 漲るような戦意を向けられ、オティヌスは黒き聖槍に風を纏わせた。傍らに控えるペイルライダーもそれに倣って、瘴気を発する長剣を両手に顕現させる。

 両者の乗騎が低く嘶き、前脚で地面を掻く。

 相対する五人が身構えたその時、オティヌスはあらぬ方向に視線を飛ばした。

 星無き漆黒の夜空。ノアたちが遅れて違和感を感じたその瞬間、虚空に二つの巨大な燐光が灯る。追随して月光を遮るように濃密な魔霧が空に噴き上がり、甲高い駆動音を響かせる。

 天を突く鋼鉄の巨人。腕を動かすだけで大気が震え、一歩踏み出せば地上を平らにする。その頭部、二つの眼光の間に鎮座する鎧の男は高らかに命を下した。

 

「行け──アングルボダ!! 我が技術の粋を結集させて改造した決戦兵器! 全てを踏み潰し、オティヌスの首を取ってみせろ!!」

 

 砂塵を巻き上げながら、鋼鉄の巨人──アングルボダは疾走する。瓦礫が礫となって降り注ぎ、着弾して破裂した。

 その巨体が足を踏み出す度に地響きは強さを増していく。オティヌスとの激突に臨戦態勢を取っていたノアは肩を震わせて喚き散らす。

 

「なんだアレはァァァ!! 少しは世界観ってもんを弁えろ! こっちはスーパーロボット大戦やってんじゃねえんだよ!!」

 

 マシュは冷や汗を流して、

 

「リーダー、世界観を弁えないのはわたしたちEチームにも突き刺さる言葉だと思うのですが。脳天に鋭いブーメランが食い込んでます」

「いやいやいや、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! このままだとぺしゃんこになるわよ!?」

「落ち着いてジャンヌ。ジョースター家の伝統的な戦法を忘れたの?」

「……ってことは───」

 

 意図を察したペレアスは顔を引きつらせる。立香は満面に笑みを貼り付けて言った。

 

「そう、逃げる! あわよくばモードレッドさんたちとも合流して、フルメンバーで戦いに割り込めます!」

「それも俺たちが逃げ切れればの話だけどな。お前ら、足が千切れる準備はできたか?」

 

 ノアのおどけるような言葉に、全員は力強く頷く。

 オティヌスは遠ざかっていく背中に目を向けると、ペイルライダーに言付ける。

 

「白い魔術師──今回は引き際を弁える仲間がいたか。ペイルライダー、奴らを追え。名無しの女王の仇を討ってみせろ」

 

 それは戦士へのはからい。一度取り逃した相手との再戦を手向けにする、オティヌスからの褒美であった。

 しかして、ペイルライダーは何も言わない。彼はただ馬の手綱を引くと、腹を蹴ってノアたちの背を追った。砲弾の如き勢いで夜闇の向こうに去ったペイルライダーを見送り、嵐の王は小さく息を吐く。

 率いていた軍勢は鋼鉄の巨人に蹴り砕かれ、残るのは王ただひとり。だが、前座に過ぎない死者を倒したところでオティヌスが揺らぐことはない。

 

「アングルボダ……フェンリルを産んだ女巨人か。成程、確かに私を討たんとする者の名には相応しい」

「猛き嵐の王よ。人類の叡智たる機械の拳で貴様の五体を打ち砕いてやる」

「図体ばかりが発達して視力は衰えたか? ヒトが労した仕掛けを一掃するのが嵐だ。人間が自然を超えるなどという驕りの代償は貴様の命で払ってもらおう」

「それがおまえの慢心だ、オティヌス」

 

 会話に割り込む一刺しの声。

 オティヌスをアングルボダと挟むように、濃紺色の髪の男はその鋭い目つきを一層研ぎ澄ませた。

 嵐の王の黄金の眼光が彼を捉える。

 

「…………マキリ・ゾォルケン」

 

 名前を言い当てられたことにも動じず、彼は平然と言い返す。

 

「知識の神であるオティヌスの力か。もっとも、今は弱体化してその程度でしかないようだな」

「こんなものは手遊びに過ぎんよ。それとも勝機でも見出したか?」

「その必要はない。この状況こそが我らにとっての必勝だ……!!」

 

 ごきり、と骨が軋む。

 空気を入れた風船のように肉が膨れ上がり、内包する魂さえもが革命的な変質を遂げる。

 月にまで届かんとする禍々しき巨塔。

 無数の眼差しを漲らせ、第八位の魔神柱は猛った。

 

「我が名はバルバトス───あの方の偉大なる計画に貴様は不要だ! 故にここで潰す!!」

「ふ、見掛け倒しで終わってくれるなよ」

「ほざけ!」

 

 瞬間、魔力の暴風と隕石の如き鉄塊が嵐の王を襲う。

 建造物は跡形もなく吹き飛ばされ、衝撃波が地を舐める。振り落とされた鉄拳が地脈を打ち抜き、舞い上がる砂煙の中にオティヌスの影はあった。

 嵐の王の乗騎は当然のように空を蹴り、自在に宙を駆け巡る。

 それはさながら暗黒の彗星。

 怒濤の暴虐はしかし、彗星の尾を掴むことすらない。一陣の旋風と化したオティヌスは、虚空に槍の穂先を突き出す。

 空を埋める巨体とはいえ、その槍は標的には届かず。だが、風を支配下に置く嵐の王の刺突に間合いという概念は当てはまらない。

 豪風の大槍。空気が悲鳴を発し、不可視の矛先がバルバトスとアングルボダの体躯を打ち据える。

 オティヌスの超常の武技を受けてなお、両者の巨体は僅かに揺らぐのみ。耐久力に物を言わせて、息つく間もない連撃を繰り出す。

 天地を揺るがす轟音の最中、バルバトス───マキリ・ゾォルケンは言葉を紡ぐ。

 

「貴様は一体何が目的だ! 魔術王と手を結んだ知恵の女神の眷属であるなら、計画の一翼を担ってみせろ!」

 

 暴嵐を振るい、オティヌスは答える。

 

「まずは否定しよう。知恵の女神が魔術王と手を結んだ……それは間違いだ。あの女には何かを成す信念もなければ、体を突き動かす激情もありはしない。人理焼却が起き、気が向いたから動いたに過ぎない」

 

 迫る魔霧を気勢ひとつで払い除け、己を狙う鉄拳を回転するように躱す。伸び切った腕に槍を叩きつけると、少量の金属片が散った。

 

「もしくは、奴すらも気付かぬ原動力があったのかもしれないが───私の知ったことではないな」

「ならば、貴様は」

 

 アングルボダに搭乗するバベッジの問いに先回りする。

 

「嵐がモノを壊すことに理由が必要か? 私がワイルドハントの王として呼び出された以上、それは息をすることと変わらない」

「生命の樹を完成させることもそうなのか」

「オティヌスを名乗ったからには、その神格は取り戻さねばなるまい。できるからやっただけのこと。貴様ら人間もそうだろう」

 

 その言葉を聞いて、マキリ・ゾォルケンの心中に小さな激情の火が芽生えた。

 否、彼が憤懣を覚えたのは言葉に対してだけではない。

 嵐の具現たるオティヌスの振る舞い、その在り方。できるからやる、というだけで数多の魔術師が望み散っていった根源の一端に指を掛けようとしているのだ。

 今や人の枠組みを大きく飛び越えた魔神柱の肉体。人間の感覚では例えようもない思考回路で魔術を紡ぎ上げていく。

 この力自体は魔術王より下賜された魔神のもの。だが、それを操縦するのは紛れもなくマキリ・ゾォルケンだ。

 ダンテは変身の際に主導権を乗っ取られたが、彼と違って自らが納得済みの変身。

 肉体の形など意味がない。

 魔術で最も尊重されるのは精神だ。

 とうにこの身は蟲に侵されている。人間の範疇からは既に離れていた。目的のためならば、何もかもを捨ててみせるのが魔術師という生き物だから。

 

「逆に問おう。マキリ・ゾォルケン……貴様は一体何のために戦っている?」

 

 バルバトスの体表に群生する眼より放たれた光線。莫大な熱を伴ったそれを掻い潜り、オティヌスは問いかけた。

 

「決まっている───魔術王の偉業を完全にし、次なる計画へ歩を進めるためだ!」

 

 その時、オティヌスは初めて明確に感情を表した。短く息を吐くような笑い。そこに籠もる感情は失望と落胆、嘲り。

 荒れ果てた大地に嵐の王の黒馬が足をつける。

 

「私が予想した返答の中では最も下等だ。魔術師たる者がよもやそんな理由で戦うとはな。つまらん」

 

 激情の火が煽られ、急速に勢いを増す。

 下底から頂点に怒りが突き上げる。敵が戦う意味を認められぬのは彼もまた同じ。それどころか、オティヌスは厳密には戦う理由など持ってはいない。

 そんな者に、己を貶めされてたまるものか───!!

 

「っ、おおおおおおおおッ!!!」

 

 鋼鉄をも融解させる熱を秘めた魔力の波濤。

 光が歪むほどの風が黒き聖槍に集まる。陽炎の如く槍が曲がり、空気ががなり立てる異音が鳴り響く。

 全ての力を前方に。嵐の王は真空の一撃を放つ。

 

「───『風王鉄槌(ストライク・エア)』」

 

 熱波の中央が渦を巻いて屈曲する。

 二股に分かたれた熱風がオティヌスの周囲の瓦礫を跡形もなく蒸発させた。

 だが、この戦いは二対一。

 他方に気を取られれば背を討たれるは必定。

 嵐の王の頭頂目掛けて、機械の巨拳が振り落とされる。防御や回避を意にも介さない、圧倒的な質量の暴力。オティヌスとてまともにそれを喰らえば、成す術なく死に至るだろう。

 オティヌスは宙から一本の王笏を引き抜く。

 重厚な赤色をした金属の杖。それを掲げる。拳が触れようかという直前に一言、

 

eihwaz(エイワズ)

 

 鋼同士を強く打ち付けるような音が響き、頭上に一枚の障壁が展開した。

 アングルボダの拳は一枚の壁に阻まれて止まる。

 あらゆる物理的攻撃から自身を守る防御のルーン。ノアが好んで使うルーン文字でもあるが、その効果は彼のそれを遥かに凌駕していた。

 かの杖の名前はゲンドゥル。

 精霊の意味のガンドを召喚するとされる杖であり、オーディンの別名であるゲンドリルは『ゲンドゥルの使い手』という意味を持つ。

 まさにオティヌスが手にするに相応しき宝具であろう。が、その意味を察したのは魔術に通暁するゾォルケンのみであった。

 この地に破壊の傷跡を刻むという条件は達成されている。

 例えるなら、安全装置を外して撃鉄を起こし、弾を込め終えた拳銃。後は引き金を引けばソレは為される───!!

 

「さらばだ。魔術王の下僕。貴様らはただ無為に死んでいけ」

「させるか……!!」

 

 魔神柱の体内で編まれる超高密度の魔術式。其は一切合切を無に帰す焼却の論理だった。

 

「『焼却式 バルバトス』!!」

 

 万物を分解する破滅の光。

 正真正銘、全てを込めた一撃。

 それを迎撃するに足る手札は、オティヌスにはひとつしかなかった。

 

「『最果てにて輝ける槍(ロンゴミニアド)』」

 

 無色と黒色。

 二つの極光が激突する。

 その力は全くの互角。空間がひしゃげて世界が白紙に戻る。けれども、その衝突は留まるところを知らずに加速していく。

 後は単純な力比べ。

 少しでも相手を上回った方が勝つ。

 ───勝てる。

 純粋な出力勝負ならば、魔神柱に負ける道理はない。

 オティヌスは規格外の強さを誇るものの、その存在はサーヴァントという枠に押し込められている。対するバルバトスはサーヴァント数騎分の霊基を宿している。

 次々と溢れ出る魔力をひとつの式に送り込む。

 絶頂にも等しい力の高まりを感じ、彼は既に失った手を伸ばすように目を細めた。

 視界が真っ白に閉ざされた瞬間、彼らの意識は邂逅する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、夢か幻か。

 白色の空間に彼らはいた。

 星幽体の交信か、強者特有の時間感覚の矛盾か。

 歯を剥き出しにして、彼は唸った。

 

「なぜだ───なぜ負ける!? 出力では私が完全に勝っていたというのに!!」

 

 オティヌスは静かに告げる。

 

「それは、貴様が負けたままで私と戦ったからだ」

 

 意図の読めぬ言葉。

 王は続ける。

 

「故に、貴様は私に勝てなかった。勝算とは得てして当てにならぬものだが……確率だけで言うなら私が敗北する可能性の方が高かっただろう」

 

 ならば、その勝敗を分けた差とは。

 ゾォルケンの脳はあらゆる記憶をひっくり返してその要因を探すが、思い当たるのはどれも唾棄すべき子どもの妄言に近いものだった。

 彼は喉を痛めつけるように、声を捻り出す。

 

「想いの強さなどという不確実な幻想が、勝負を決めたとでも言うのか」

 

 否定されることが前提の答え。

 オティヌスは一瞬の沈黙を挟み、

 

「……そこまで理解しておきながら、貴様は見誤ったのか」

 

 肯定され、ゾォルケンは噛み付くように言った。

 

「そんなことが、有り得るはずがない! 想いが力になるなどという理屈が通るなら、過去幾人もの魔術師が根源に辿り着いていたはずだ!!」

「随分と過大評価をしてくれたものだ。私如きを殺すことと根源への到達を同じにしてくれるな。それこそ魔術師の誇りが穢されるぞ」

 

 刺殺するような視線を向ける彼に、オティヌスは小さく首を傾けて、

 

「もう一度問うてやる。貴様はなぜ戦っている」

「魔術王の───」

()()だ、マキリ・ゾォルケン」

 

 遮り、続く言葉は彼の心臓を抉った。

 

「───貴様は、一体いつから()()()()()()()()()戦うようになったのだ?」

 

 冷水を浴びせかけられたみたいに、頭蓋が冷える。

 ……理想があった。誰にも止められないほどに燃え上がる、大願があった。

 第三魔法『魂の物質化』。

 魂とは物質界の上にある星幽(アストラル)界に属し、本来は永劫不変の存在である。肉体という器を得ることで物質界への干渉を実現しているが、肉体を得た魂はいつか必ず死ぬことが決定づけられてしまう。

 魂の物質化とは肉体という軛から解き放たれ、それのみで物質界への干渉を可能とする秘法。これによって、人間は不老不死となることができるのだ。

 マキリ・ゾォルケンはそれを追い求めた。

 いつの日かヒトが第三魔法を手に入れた時、人類種は進化し、この世に存在する全ての悲しみを取り除くことができる───そんな理想(ユメ)は、容易く踏み躙られた。

 人理焼却という大偉業を成し遂げた魔術王。

 魔術師であるなら、それがどれほどの大業か理解できぬはずがない。

 救うべきモノを焼き払われ。

 追い求めた理想は行き場を失い。

 そして、彼は魔術王の前に膝を折ったのだ。

 

「…………愚かだな、私は」

 

 あの理想は、誰かに踏み躙られた程度で止まるようなものだったのか。

 

「初めから、敵はおまえではなかった」

「ああ。貴様が真に戦うべきは私ではなく、魔術王だったのだ」

 

 その時点で、勝てるはずがなかった。

 どんなに強い力であろうとも、それを向ける方向が定まっていなければ意味がないというのに。

 

「───だが、まだ終わってはいない」

 

 本当の敵が魔術王だと言うならば、いつか彼と相対するカルデアを失ってはならない。オティヌスは彼らの行く手に立ちふさがる障壁のひとり。

 命脈を断つまでには至らずとも、手傷は負わせてみせる……!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荒涼とした風が吹きすさぶ。

 がしゃん、と黒い鉄片が地面に落ちた。

 その傍らには黒馬が無残な姿で倒れ伏し、低く嘶いて息を引き取った。オティヌスは膝をついて、その頬をゆっくりと撫でる。

 

「…………生温い一撃だったが───最後だけは私を上回ったか。賞賛を贈ろう、マキリ・ゾォルケン」

 

 オティヌスの顔面を覆う兜の表面に、深いヒビが入る。金属が耐え切れずに割れ、甲冑の下の左眼を露わにした。

 遥か頭上から声がかかる。アングルボダに搭乗したバベッジのものだ。

 

「これで勝負は振り出しだ」

「手傷を負った私ではそれの相手は難しいな。……だが」

 

 ぞぶり、とオティヌスは左の五指を左眼に突き入れた。うめき声も出さずに眼をむしり取ると、横合いにそれを捨てて王笏を足元に突き立てた。

 すると、地面に複雑な紋様が浮かび上がる。

 空を飛ぶ鳥は気付いたかもしれない。

 ロンドンに刻まれた十の紋章が繋ぎ合わさり、一本の木を象る。それこそは生命の樹。エデンの園に在りその実を口にした者に不老不死を与えると言われる樹の紋様であった。

 オティヌスは呟く。

 

「この意、この理に従うならば応えよ」

 

 生命の樹の魔法陣が輝きを失う。

 直後、オティヌスの左手に光球が現れる。その表面には紫電が這い回り、徐々に細長い光線へと形を変えていく。

 光が弾ける。

 くすんだ白銀の槍。トネリコを素材としたその造りは最低限の装飾が施されたのみで、凶悪な用途を見ただけで伝えるような無骨さを兼ね備えていた。

 穂先から石突にかけて刻まれた模様は、失われて久しい原初のルーン文字。絶大な神威を放つその槍は、必ず敵を貫き手元に戻る伝説の武具。

 必中必殺の神槍・グングニル。

 嵐の王はその槍を左手に携え、宣告した。

 

「この槍は狙った獲物は外さない。その身に刻め───『大神宣言(グングニル)』!!」

 

 神槍が手元から掻き消える。

 巨人の両腕を咄嗟に頭部に回し、本体であるバベッジを守った。

 アングルボダは五体から噴き出す魔霧の影響で、魔術的な防御力をも得ている。一度守りに入れば、オティヌスの『風王鉄槌(ストライク・エア)』をも難なく防いでみせるだろう。

 しかし。

 それを嘲笑うように、バベッジの心臓を槍が貫く。

 機体に傷はついていない。まるで最初からそこにあったかのように、グングニルは胸を貫通していた。

 

「な、に……!?」

 

 ──曰く、グングニルは〝正しい場所に止まったままではいない〟とされる。

 その語義は『揺れ動くもの』。

 

「グングニルはあらゆる時間と空間を超越する」

 

 それはつまり、どんな時のどんな場所にも存在できるということ。

 全ての空間に偏在するために、狙いを外すことはなく逃れることもできず。

 全ての時間に偏在するために、槍が放たれた瞬間より過去に敵は穿たれている。

 全次元を揺れ動き、標的を刺し殺す───これが、神槍の必中必殺のカラクリであった。

 が。

 生命の樹の術式によって神格を引きずり出し、サーヴァントの枠を一歩踏み越えたオティヌスだが、今振るった力は神の権能と呼ぶに相応しいもの。

 魔術の心得がない者にも目に見えて分かるほど、体に秘めた魔力が激減していた。立て続けに放てば、オティヌスは消滅するだろう。

 鋼鉄の鎧から鮮血が飛び散る。

 残った命の灯火。

 その使い道は、既に決まっていた。

 

「汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者……」

 

 喉からせり上がる血の塊を強引に飲み込む。

 アングルボダは本来、魔霧を吐き出す巨大魔術炉。機体の核は炉に埋め込まれた聖杯であり、大部分がバベッジが付け足した部品だ。

 故に、サーヴァントを呼び出す機能は健在。

 魔霧計画の三人が切り札と定めた英霊が、ここに降臨する。

 

「汝三大の言霊を纏う七天。抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ……!!!」

 

 そして、目も眩むような雷電が空を覆った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オティヌスの戦いが始まった頃。

 遠目からでもくっきりと視認できる巨体を眺めて、ダンテら作家三人組は肩を抱き合った。

 

「「「あっちにいなくて良かった〜〜!!」」」

「喜んでる場合じゃねーよ!! むしろハズレくじだ! くそっ、オレがペレアスの野郎に遅れを取るなんて有り得ねえ!」

 

 モードレッドは頭を抱えて嘆いた。フランケンシュタインは呆けたような顔で提案する。

 

「それじゃあ、もういっかい、にんげんロケットで……」

「あんなこと二度とやってたまるか! お前ら行くぞ、ついてこい!!」

「しっかり守ってくださいよ!? 私たちは実は一回刺されただけで死にますからねえ!!」

「むしろ、にんげんならそれでしんでおくべきなのでは……?」

 

 モードレッドとフランケンシュタインを先頭にして、彼らは遠景に見える巨人と魔神柱を目指して走った。

 辺りにはヘルタースケルターやホムンクルスが散らばっている。皆一様に機能が停止しており、無残な損壊を受けていた。おそらくはオティヌスの戦いに巻き込まれたためであろう。

 壊れた道を走る途中、彼らは濃霧に見舞われる。

 瞬時に全員が理解した。先日の報告にあったジャック・ザ・リッパーの能力。サーヴァントですらも影響を免れえない硫酸霧であると。

 最も速く反応したのはモードレッド。天性の直感を働かせ、半ば無意識的に剣を振るう。

 振り下ろす軌道の斬撃は半身を引いて躱される。追撃が入る前に暗殺者は霧の中に姿を消した。

 モードレッドは舌打ちする。

 

「この状況で一番厄介な奴が来やがったか…! 仕留めるぞ!」

「まっはで、おわらせる!」

「──いえ、お二人は先に行ってください。彼女は私たちで対処します」

 

 ダンテはキメ顔でそう言った。

 アンデルセンとシェイクスピアは血走った目を彼に差し向ける。

 

「俺は付き合わんぞ。殺人鬼がいるかもしれないのにこんなところにいられるか」

「吾輩も金魚にエサやりをしないといけないので……」

「ちょっ!? 上手いこと逃げようとしてもそうはさせませんよ! 前回アンデルセンさんも〝奴が何を抱えているのか問うてみる必要がありそうだ〟……とか言ってたじゃないですか!」

「人間は過去を忘れる生き物だ。そんな発言はとうに記憶から消した!」

 

 そんなことを言っている間に、モードレッドとフランケンシュタインは霧の向こう側に歩を進めていた。二人は大きく手を振りながら、

 

「後は任せたぞ! お前らの死は無駄にはしねえ!」

「みんなのこと、ぜったいにわすれないからっ……!」

「おい待て勝手に死んだことにするな! 俺たちも連れて行けええええ!!」

「聞いてください、アンデルセン」

 

 追い縋ろうとするアンデルセンを、ダンテは言葉で引き止める。

 彼はいつになく真剣な表情をして、言い諭す。

 

「私は政争に敗れ故郷を追放されました。何よりも苦しかったのは愛する子どもたちまでもが巻き込まれたことです。何の罪もない幼子が悲しむ世界など見たくない。どうか、彼女を救う手助けをして頂きたいのです」

 

 取り繕わぬ本心の吐露。

 シェイクスピアは緩やかな笑みを浮かべ、確かめるように問う。

 

「ジャック・ザ・リッパーは五人の娼婦を殺害しました。これは罪に当たるのでは?」

「──もし、天使のように純粋な存在がこの世に堕ちてきたとしたら。その子はきっと悪事を成してしまうことでしょう。善悪の概念とは社会集団の中で形成されるもの……それを知る機会がなかったであろう彼女を責めることは、私にはできない」

 

 大抵の子どもは善人でも悪人でもない。

 彼らとて人間、何もかもが綺麗な存在であるはずがない。それでも、物を知らぬ幼子の愚かしさを追及する大人は少ないだろう。

 なぜなら、それは彼らに何も教えることができなかった大人の責任でもあるからだ。

 これは果たさなければならぬ責務。

 アンデルセンが口を開こうとした瞬間、白刃が宙に躍る。

 冷たい刃が首に滑り込む寸前で、ダンテは転がるようにそれから逃れた。高い直感を有する彼だからこそできた回避。しかし、いくら反応が良かろうと戦闘を生業とする肉体ではないが故に完璧な回避とはならなかった。

 左の首の付け根から鎖骨にかけて、浅からぬ傷が走る。

 

「優しいんだね、お兄さんは」

 

 どくりと溢れる血を右手で押さえながら、ダンテは立ち上がった。

 

「でも、それが何になるの? 世界はこんなにも醜いのに」

「それは違う。世界は何物でもない。醜いのは人類です」

「そんなの、言葉を変えただけで何も違わない」

「そうかもしれません。ですが、人類には変化する余地が残されている。これは私たちに与えられた限りなくか細い希望です」

 

 ぎぢ、と歯の音が軋む音がした。

 

「じゃあ、わたしたちは永遠に救われないってことじゃない───!!」

 

 力任せに繰り出される斬撃。

 血とともに右手が飛ぶ。

 アンデルセンは欠けた右腕をベルトで縛りながら言う。

 

「──脚本ができた。やるぞ」

 

 その様を見て、シェイクスピアは表情を崩した。

 

「〝楽しんでやる苦労は、苦痛を癒やすものだ(The labor we delight in cures pain. )〟……ここまでの覚悟を見せられたら、吾輩も手伝う他ありませんね。劇の幕開けとしましょう」

 

 ──世界が閉じる。

 

「『開演の刻は来たれり、此処に万雷の喝采を(ファースト・フォリオ)』」

 

 劇の主演はジャック・ザ・リッパー。

 これは、彼女が内包するいくつもの過去、そのひとつの再演であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前は、あたしのために金を稼ぐのよ。そのために産んでやったんだから」

 

 顔に布を巻いた女はそう言った。

 18世紀後半から始まった産業革命が行き渡り、イギリスは19世紀のヴィクトリア朝に爛熟期を迎えた。後の世も続く植民地の争奪の戦いにおいて抜きん出たことで、英国はかつてない栄華を築き上げたのである。

 だがその一方、庶民の暮らしは悪化していった。

 子どもや婦人までが炭鉱に駆り出される労働問題。前時代とは比較にならぬほどの生産力を得た英国社会の富は、労働者に回されることはなかった。ロンドンのイーストエンドには貧民街が形成され、売春と犯罪が横行する。

 彼女は、そんな場所に生を受けた子どものひとりだった。

 昼でもなお暗い霧の都ロンドン。

 多くの人が肺を病み、医者にかかれず死んでいく。

 

「…………うん」

「分かったならさっさと行きな。今が稼ぎ時なんだ」

 

 母親は春を売ることを生業とする女性だった。

 けれど、当時不治の病であった梅毒に罹患し、唯一の仕事も失ってしまった。鼻は欠け落ち、背中をびっしりと膿疱が埋め尽くす。傍目にも永くないことは明白だ。

 いつこの人が死ぬのか、それだけを考える人生。最初に得た感情は憎悪と苦痛。手を下すまでもなく、母親は梅毒に有効とされていた水銀を高値で買い、衰弱死を遂げた。

 ───この世は、地獄だ。

 そう思ったのは、母親の死体を川に捨てる時。夜闇と霧に紛れて、幾人もの子どもが自分と同じように亡骸を冷たい水の底に放り投げていた。

 いずれ自分もこうして死ぬ。そんな折、彼女はロンドンの路地裏で金属でできた小さな十字架を拾う。

 人に死後の幸福を確約する救世主の象徴。

 それをささやかな誇りとして、彼女は生きた。

 終わりは唐突に。

 

「お前のようなゴミが、天国に行ける訳がないだろうがっ!! 人の物を盗みやがって!」

 

 ああ、しまった。

 痛みに揺れる脳で思う。

 今回の客を取ったのは失敗だった。

 命の終わる時が来たのだと、ぼんやりと確信する。

 握り締めていた十字架がこぼれ落ちる。男はそれを奪い取ると、何度も何度も拳を振り下ろした。その衝撃に、視界が赤黒く停止してしまう。

 今際の際、聞いた言葉は。

 

「地獄に落ちろ」

 

 ───救いの余地はどこにもなく。

 生きるためには何でもした。罪を重ね続け、死後の幸福は閉ざされた。

 世界が、人間が、こんなにも醜いというなら、その救いは死んだ後にしかないのに。

 故に世界よ呪われろ。

 この怨嗟が、お前らにとっての死とならんことを願う。

 そして、次に目を開けた時。

 透き通る空気。煌めく太陽を取り囲むように天使が飛び回り、清浄なる光が世界を照らす。

 天上の薔薇。

 神の坐す至高天。

 柔らかな雰囲気の女性に抱き止められ、彼女は、ジャック・ザ・リッパーは思った。

 

「……本当に優しいんだね」

 

 密やかな眠気。

 柔らかい死の気配が、ジャックを包む。

 

「せめて虚構の中だけでは、あなたは安らかに眠るべきです。こんなことをしても無意味というのは理解していますが───」

「そうだね。結局、わたしたちは憎悪に塗れて死んでいったから」

 

 だから、と彼女は手を差し伸べた。

 

「見せてよ。あなたの望む世界を」

 

 ぞわりと漆黒の瘴気が差し伸べた手を黒く染める。

 それは彼女が抱える無数の怨嗟。絶望のままに死んだ子どもと世に出てすぐさま命を絶たれた嬰児たちの嘆きであった。

 物質化するほどの呪い。如何に天国であろうとも、直接触れれば蝕まれるのは避けられないだろう。

 

「ええ、共に行きましょう。我が旅路の果てへ」

 

 しかし、彼はその手を迷いなく握った。

 呪いが右手に移る。皮膚から肉に浸透し、骨を染めていく黒き怨み。彼の右手は墨を塗ったようになり、痛みも忘れて穏やかに微笑む。

 

「……おやすみなさい」

「──うん」

 

 少女が頷いた時、彼は意識を埋没させた。

 本来、自己のみで簡潔する魂に他者の魂が流れ込んだ影響だろう。その失墜は抗い難く、倒れ込むようにダンテは意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───夢を見る。

 否、その表現は妥当ではない。

 サーヴァントは夢を見ない。であるならば、これは自分が契約しているマスターの記憶を覗いていると解釈すべきだ。

 つまり。

 

(これは……ノアさんの記憶?)

 

 夢の共有は両者が意識を失っていなければならない。ということは、彼の身に何かがあったのか。

 ダンテの目には、そこは暗い地下牢のように見えた。明かりは乏しく、生活用品の類も簡素。背丈は低く、今のノアの腰辺りまでしかなかった。

 これは彼が幼い頃の記憶なのだろうか。

 そんな思考をしていると、固く重い扉が開く。

 僅かな光とともに白い髭を生やした老人が左手に何かを持って入ってくる。彼は扉を閉ざすと、それを幼いノアの足元に叩きつけた。

 目の光を失った、白い体色の子犬。その毛並みはおびただしい血に染められ、短い舌をだらりと放る。

 子犬の無残な死体を見せつけて、老人は物々しく口を開く。

 

「外界に出るなと何度も言ったはずだ、ノアトゥール。穢れ多きあの場所に足を踏み入れるから、こうなる」

 

 ノアは何も言わない。

 ただ眉根を寄せて、老人を睨みつける。

 

「ましてや、外の存在と関わりを持とうとするなど言語道断。お前の神秘が薄れる。であるならば、こうして繋がりを断つしかない」

 

 枯れた声でノアは言い返した。

 

「犬に神秘が理解できる訳がない。神秘が薄まるのは人間が知った時だけだ」

「……お前はこのような下等生物に手をかけている暇などない」

 

 老人は言う。

 タブーとは決して邪悪なものに対してだけではなく、その逆である聖なるものに対しても適応される決まり事だ。

 触れてはいけない、見てはいけない、訪れてはいけない───神道に穢れという概念があるように、近寄ってはいけないものは確かに存在する。

 すなわち、それがノアトゥールという少年だった。

 なぜなら、

 

「お前は我らが一族に生まれた特異点。天才と呼ぶのも生温い才能と、平均を遥かに超える魔術回路を宿した突然変異だ。その魔術の腕は300年を生きた私を優に超えている。その白い髪と青い目は一族の者にはない身体的特徴。お前こそが我らを不老不死に導く者であり、いつの日か復活すると言われた無敵の神の生まれ変わりに違いない。純白の美神の生まれ変わりたるお前が、他の穢れたモノに触れるなどあってはならないことだ」

 

 ダンテは思わず拳を握り締める。

 唾棄すべき賞賛。

 耳に障る美辞麗句。

 老人は、彼を人間としては見ていなかった。

 

「私とてこんなことはしたくもない。二度と外には出てくれるな。いいな、ノアトゥール……いや────」

 

 暗く落ち窪んだ瞳を歪めて、彼の名を呼んだ。

 

「───……()()()()()



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第36話 『終約・黄昏の天光』

 ヨハネの黙示録第六章七節から八節。

 〝小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」と言う声を、わたしは聞いた〟

 〝そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言いい、それに黄泉が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた〟

 ───黙示録にて語られた終末の騎士。死の具現たる病魔が、荒廃したロンドンの一角を青褪めた馬とともに疾走する。

 アンデルセンの宝具によって肉体を得たペイルライダー。彼らは煌々と燃える赤い瞳を自らが怨敵に差し向ける。名無しの女王の居城にて一度取り逃した相手。赤毛の少女の背に、長剣の刃を叩きつけた。

 鈍い金属音が鳴り響く。

 ペイルライダーが振るった剣はマシュの盾に受け止められていた。彼女は地面が割れるほどに爪先を踏み込むと、馬体ごと相手を押し出す。

 青褪めた馬は四つの蹄を地に突き立て、マシュから数メートルのところで停止する。それを刈り取るように炎の波が押し寄せ、ペイルライダーは空中へ跳んだ。

 ジャンヌは密かに口角を上げる。

 

「お膳立てはしてやったわよ───ペレアス!!」

「ああ、任せろ!!」

 

 白銀の鎧を纏った騎士が建物の外壁を駆ける。半ば重力を無視したような挙動。ペレアスは得意気に笑い、左腰に佩いた剣を抜き払う。

 彼はそのまま、外壁を蹴って空中のペイルライダーへと突撃した。

 刃が照り、剣閃が光る。

 両者の体が交差した一瞬の後、ペイルライダーの左肩から血が噴き出す。剣を低く構えた姿勢で着地したペレアスに毀傷はない。

 一連の流れを見て、マシュはぼそりと呟く。

 

「任せろと言った割にはしょっぱいダメージな気が……」

「大口叩いたんだから、首落とすくらいはしなさいよ」

「ぐふっ! カッコつけてごめんなさい!!」

 

 ペイルライダーよりもダメージを受けているペレアスをよそに、ノアは詠唱を紡ぐ。

 

「〝hægl byp cwicera hwītust corna(霰は粒子の中で最も白い); hwyrft hit of heofones lyfte(それは天空より舞い降り), wealcap hit windes scūra(風の運び手によって乱舞する); weorpep hit tō wætere syððan(そして、水へと姿を変える).〟───hagalaz(ハガラズ)!!」

 

 冷たい風が吹き、無数に拡散した氷の弾丸がペイルライダーを襲う。

 ノアが唱えたのは霰を表すルーン。建物や車を破壊し、時には生物を傷つける霰や雹といった自然現象は古代北欧の人々にとっては死活問題であり、大いに恐れられた。

 彼が振るったのはそのほんの一部。ペイルライダーは氷の散弾を両の長剣でいくつかはたき落とすと、駿馬の速力で霰の範囲から離脱する。

 ノアは右手の内に新たに術式を構築しながら、ペイルライダーから視線を外さずに言った。

 

「対魔力はないようだな。好都合だ。藤丸(ふじまる)、おまえも適当にぶっ放せ。他はウチのサーヴァントどもに任せる」

「ペレアスさんもマシュも対魔力持ちですし、一発だけなら誤射で済みますからね。ジャンヌは今回は後衛で!」

「ええ、あなたの判断に従いましょう。私の炎は誤射ではすまないけれど……!!」

「ジャンヌさんの目がわたしを狙っているのですが!?」

「これが本当の熱視線だな!」

「「「「…………」」」」

 

 ペレアスの発言に空気が冷えきった瞬間、ペイルライダー目掛けて熱線が放たれる。それに追随するように魔弾とルーンが発射された。

 それらよりも速く、ペレアスとマシュは突進する。彼らは視線のみで示し合わせたように敵を挟み込み、各々の得物を振るう。

 青褪めた馬が嘶き、ペイルライダーは一陣の風と化す。

 ペレアスとマシュと打ち合えば、その間に焼かれる。その判断は的中していた。

 Eチームに対する彼のアドバンテージはライダークラス故の機動力。ロンドンの街を自由自在に走り抜け、斬撃を重ねていく。

 それでも、剣士と盾使いは揺るがない。

 騎馬の弱点を知り尽くしたペレアスは速力の差を物ともせずに食らいつき、強引に振り払おうともマシュの鉄壁の守りが控える。

 ノアの十指に光が灯る。彼はそのまま両手を前に出すと、一言唱えた。

 

「ガンド」

 

 魔弾の雨が乱れる。

 さながら機関銃の如き乱射はしかし、ペイルライダーの尾をも捉えることはないが、その分だけ進路を制限されてしまう。

 後衛の三人の射撃を本命とした動き。圧倒的な数的有利を活かした連携は、生身を得たペイルライダーにとって対応しきれないものだった。

 だが、彼には与えられている。

 使徒ヨハネが啓示された終末の風景。

 そこに描かれた死の騎士が持つ権能。

 彼は赤い眼光を複雑に動かし、初めて人間に理解できる言葉を述べた。

 

「『第四封印(コヴェナント)───」

「───Ateh(アテー) Malkuth(マルクト) Ve(ヴェ)-Geburah(ゲブラー) Ve(ヴェ)-Gedulah(ゲドラー) Le() Olah(オラーム) Amen(アーメン)

 

 声を遮る高速詠唱。

 ペイルライダーの背後。夜闇に十字の光線が発露し、その中央から一条の白光が飛び出す。

 それが狙うのは他の誰でもなく、ノアを目掛けていた。

 

「……──ッ!!」

 

 予期せぬ攻撃に反応が遅れる。咄嗟に編み出した防御術式も間に合わず、ノアの胸を白い光が打った。光条が着弾した瞬間、込められた魔力が破裂し、彼の体を後ろに大きく吹き飛ばす。

 ノアは後方の建物に激突し、衝撃に耐えかねた瓦礫が崩れ落ちた。

 思考に空白が生まれる。立香はそれすらも他所にして、ノアの元に走る。

 

「リーダーっ!」

 

 彼女とは逆。ペレアスは隙を晒すことを承知でペイルライダーの横を通り抜け、光源に剣先を突き出した。

 鈍い金属音。ペレアスの突きを短剣で受けた男は体勢を崩しながらも、動作無しに旋風を発生させて追撃を阻む。

 白いローブを纏い、アゾット剣を携えた魔術師。ペレアスは眉をひそめる。

 

「キャスターの癖にやることはアサシンじみてやがるな。魔術師」

「……湖の乙女と結ばれた騎士、ペレアス卿ですか。私は貴方と戦うつもりはない」

「戦場に出てきてその言い分は通用しねえよ!」

 

 白いローブの男は袈裟に振るわれた刃を背後に跳んで躱す。

 キャスターがセイバーと白兵戦を行うのは愚策以外の何物でもない。ペレアスの剣が届く間合いに留まることは、遠くない未来の敗北を意味している。

 男を追うペレアスの機先を制するように、地面を突き破ってヘルタースケルターが現れる。一体や二体では利かない大群。その中には戦闘用に調整されたホムンクルスも混ざり、白いローブの男はそこに身を隠した。

 戦場の混乱。合間を縫うようにペイルライダーは馬を走らせるが、標的である立香とノアに届く前にマシュに遮られる。

 二刀とせめぎあいながら、彼女は口を開く。

 

「先輩、今のうちにリーダーを!」

「うん! リーダー、今治します!」

 

 かつてない速度で魔術回路を稼働させようとしたその時、ノアの右手がそれを止める仕草をした。

 

「魔力の無駄だ、やめとけ」

 

 彼は小さく咳き込むと、気怠げに立ち上がる。

 相変わらず血が出ることはない。しかし、彼が身に着けた礼装の上着は見るも無残に朽ち果てていた。その裏地にはルーン文字が刻まれており、淡く発光すると輝きを失う。

 上着と同様、帽子も布切れ同然に破壊され、ノアはそれを頭から外して地面に捨てる。

 立香は血の気の引いた表情で、彼の袖を掴む。

 

「大丈夫なんですか」

「……礼装の防御機能が働いたからな。一撃でお陀仏だが、最低限の役割は果たした」

「本当ですよね? 怪我してる時くらい、辛い顔してください」

 

 ノアは立香の手を柔らかい手つきで外す。

 

「おまえに嘘はつかない。心配してる暇があるなら構えろ」

 

 彼らの眼前に迫るのは多数のヘルタースケルターとホムンクルス。さらには白いローブの魔術師までもが控えている。雑事に気を取られれば命を落とすのは間違いない。

 立香は治療用に回す予定の魔力を攻撃用の術式に流す。ジャンヌの火力があればヘルタースケルターやホムンクルスは敵ではないが、彼女が雑兵に手を回せばそれだけ時間が失われてしまう。

 この戦いは目の前の敵を倒せば終わるものではない。

 ワイルドハントの王、オティヌス。あの暴嵐の如き騎士を仕留めなければならないのだ。

 そんな立香の思考を読み、魔術師はさらなる一手を繰り出す。

 

「元素変換。土の乾きは反転する」

 

 どぷり、と地面が波打つ。

 アリストテレスの四大元素論において、土の属性は冷たく乾いた性質を持つとされる。この性質を入れ替えることで物質は相互に転化し、万物を成すと解釈された。

 土の乾いた性質の反転。つまり、湿った特性に交換した場合、それは水となる。

 その効果が適用されたのはノアの周囲。足元が硬度を失い、体が沈んでいく。

 彼は確信する。

 

「おまえは、パラケルススか……!」

 

 魔術師は肯定した。

 

「そうだ。魔術王の命を受け、貴方を殺しに来た」

 

 端的な、それ故に明快な返答。

 泥のような粘性は純粋な液体へ。ノアは足先で地下の空洞を感じ取り、パラケルススの殺意に偽りがないことを理解した。

 彼が望んでいるのはノアを味方から分断すること。ロンドンの地下鉄網に誘い込み、一対一で始末する腹積もりだ。

 立香は遅れてパラケルススの意図を理解する。

 

「リーダー、私も行きます!」

「駄目だ。パラケルススが相手じゃあ、おまえを守り切れない」

「だったら、ジャンヌを…」

「それだとペイルライダーを倒す手数が足りない。あいつを倒しても、すぐにここに戻ってこれるとは限らないしな」

 

 少女の胸に無力感が去来する。その前に、いつもと変わらない表情でノアは言った。

 

「だから、おまえが俺を助けろ。名無しの女王の時の貸しはそれでチャラだ」

 

 そして、地面が水滴となって弾ける。

 夜よりもなお暗い闇。

 その中に五体が投げ出され、ノアは拳を握り締めた。

 地上から地下への落下。共に落ちてきた水流は巻き戻したかのように地面を塞ぎ、元の土へと変換される。

 それは、現代の魔術師が再現するには常軌を逸した錬金術の腕前だった。ここまでの技を事も無げに操ることで、あの男がパラケルススであるのに偽りはないと確信を強めた。

 体術だけで姿勢を制御して、綺麗に着地する。

 最低限の明かりだけが灯された地下の鉄道路。当然だが魔霧の影響で運行は停止しており、列車や人影は見当たらない。

 ノアから離れた位置に、彼を落としたのと同様の手段を使って、パラケルススが降り立つ。

 硬質な光をたたえるアゾット剣。表と裏の両方の歴史に名を残した伝説の錬金術師は唇を動かした。

 

「貴方が助かる道はひとつだけです。人理焼却を引き起こした黒幕に忠誠を誓いなさい」

「聞く価値がねえな、パラケルスス。むしろそいつを俺の前に連れてこい。今なら半殺しからの拷問フルコースで済ませてやる」

「…………その才能は一瞥しただけでも分かります。同じ魔術師として、そのような大樹の芽を摘み取るのはこちらとしても心苦しい」

「ハッ、尚更興味が失せた。俺に聞く耳を持たせたいなら別の話をしろよ。おまえの魔術講義とかな。それだったらこっちから頭下げてやらァ」

 

 パラケルススは口元を引き締める。

 

「貴方もあの方の正体を知れば納得するでしょう。なぜなら──」

sowelu(ソウェイル)!!」

 

 ノアは手のひらに生み出した光球を、パラケルススに向けて投擲した。

 空気を焦がすほどの熱球は、魔力で作り上げられた即席の爆弾だ。それはパラケルススにほど近い中空で弾け、熱風と閃光を撒き散らす。

 アゾット剣が緑色に輝く。真空の壁に熱が遮断され、彼の体に何ら痛痒を与えることはなかった。真価はむしろ光の方。目くらましをくらった一瞬の混乱を、ノアは見逃さない。

 右手で剣印を作って十字を切る。

 

「Ateh Malkuth Ve-Geburah Ve-Gedulah Le Olah Amen──お返しだ、くらいやがれ!!」

 

 カバラ十字による追儺儀礼。魔術を行う場を清める術式だが、それはしばしば魔術を発動するための前置きに用いられることがあった。

 ノアが切った十字の中央から光線が射出される。

 パラケルススが使ったものが狙撃銃だとすれば、ノアのそれは大砲。多量の魔力を詰め込んだ荒々しい一撃だ。

 

(一瞬見ただけで完璧に模倣してみせるとは)

 

 カバラ十字を攻撃に転用するのはパラケルススが独自に生み出したものだ。ノアがそれを使うことは、言うなれば彼流の意趣返しなのだろう。

 

(彼はルーン魔術を好んで使うのだったか)

 

 パラケルススの口角が緩く持ち上がる。

 キン、とアゾット剣の刀身に紫電が走った。

 

「───eihwaz(エイワズ)

 

 パラケルススの短剣を中心に薄く延ばされた透明な盾が形成される。

 盾に光線が触れた途端、それは粉々に砕け散った。ノアはその様を見ると、距離を取るために鉄道の奥へ走り出す。

 その折、カルデアからの音声通信が彼の耳に届いた。

 

「『ノアくん、無事かい!? 今、ロンドンの地下鉄の地形マップを送った! 逃げ切れそう……』」

「……ではないな。あいつの他に敵性反応があったら教えろ」

「『うん。ロベスピエールの時はデオンとサンソンの二人がいたけれど、今回はそうもいかない。サーヴァントとの戦闘は絶対的に避けるべきだけど、そんな状況じゃないか』」

「ああ、しかも相手はパラケルススだ。逃げるつもりで戦ってたら殺される。やる以上はあいつを倒すぞ」

 

 通信機の向こう側で、ロマンは頷いた。サーヴァントと人間の戦闘。その勝ち目は限りなく薄い。とはいえ、いくつかの条件が揃えばノアとてサーヴァントを打倒できる可能性はあるが、前段階として入念な準備と有利な状況が必要だ。

 今回はそのどちらもが存在しない。

 加えて、敵は魔術師の最高峰。純粋な魔術の腕でパラケルススを上回らねば、彼を倒すことなどできないだろう。

 だが、ロマンはそれを止めることはしなかった。

 最後のマスターの片割れがやると言っているのだから、彼を支援するのが役割。大人として、理性の女神に挑んだ時のようにロマンはその背中を押す。

 

「『キミはひとりじゃない。ボクたちがひとりにはさせない。だから、絶対に勝ってくれ!』」

 

 故に、返す言葉も決まりきっていた。

 

「当たり前だ。俺の全力を見てろ」

 

 そして、幕を開けるのは錬金術のある種の到達点との魔術戦。

 

「「───殺す!」」

 

 その言葉を皮切りに、目も眩むような魔術の応酬が繰り広げられる。

 最初の激突を制したのはやはりパラケルスス。ノアの攻撃を遥かに超える物量で押し潰し、彼の元に燐光が殺到した。

 しかして、それらのひとつ足りともノアに当たることはない。まるで疾風の如き速度で動き回り、着弾に伴う破片をも容易に避けていく。

 回避の間もルーンによる攻撃を挟むが、瞬時にノアの三倍以上にも及ぶ数の迎撃が用意される。

 彼は即座に防御のルーンを展開した。が、それは精々が時間稼ぎ。障壁を突破した鋭い土塊が、ノアの右頬の皮を薄く裂いた。

 劣勢の要因は単純に手数の差だ。ノアは詠唱を簡略化できるルーン魔術を主に用いたが、パラケルススの高速詠唱はそれを優に上回る。

 彼が持つアゾット剣は魔術の詠唱を一手に担う礼装。その速度は人間の動作の比ではない。

 魔術の詠唱を計算に例えるなら、ノアが電卓を使っている一方でパラケルススはスーパーコンピュータを稼働させているようなもの。計算が速いということはそれだけ多くの演算を行えるということであり、パラケルススはその分だけ多くの魔術を発動できるのだ。

 ノアが攻撃を通す手段は二つ。

 パラケルススの手数を凌駕するか、物量を物ともしない威力の一撃を放つか。

 

(……まずは後者から試す)

 

 膨大な量の魔術回路が一斉に励起する。準備運動で現代において一流と言われる魔術師の魔力総量を大幅に超える量が生産された。

 彼は走りながら、呪言を構成する。

 

(オン)阿毘羅吽欠娑婆呵(アビラウンケンソワカ)

 

 それは、仏教の真言。

 大日如来に祈る際の呪文であり、最初に唱える決まり文句だった。

 しかし、続く言葉は。

 

「〝ðorn byp ðearle scearp(サンザシは触れる者皆にとって), ðegna gehwylcum anfengys yfyl(極めて鋭く手厳しく), ungemetun rēpe manna gehwylcun ðe him mid resteð〟(あらゆる者に計り知れなく強烈である)……thurisaz(スリサズ)

 

 アングロサクソンルーン詩。およそ9世紀に成立としたとされる、ルーン文字を解説する詩であった。

 thurisazはサンザシなどにある棘を表す。ノアの周囲にいくつもの拳大の針が生成され、その切っ先をパラケルススに向ける。

 火薬を詰め、弾丸を装填し、撃鉄が上がった。

 だが、引き金は未だ引かれず。

 ノアは次の一言とともに魔術を発動する。

 

「───()()()()()

 

 疾く律令の如くせよ、という意味の言葉。その意味は早々に失われ、日本では陰陽師が呪文の最後に添える語として用いられた。

 つまりは、それが詠唱の区切り。仏教の真言とルーン、そして陰陽術の三つの魔術基盤が混成した歪な魔術。音に迫る速度で射出された針は、一直線にパラケルススに迫る。

 アゾット剣を介した大規模な迎撃。綺羅星の如き輝きに多くの棘が燃え尽きるが、たったのひとつだけは彼の眼前に到達した。

 ところが、刀身に阻まれてその進撃は終わる。

 掟破りな術式を目の当たりにして、パラケルススは白い歯を見せて笑う。

 

(……面白い。今のは混沌魔術(ケイオスマジック)か? いや、それにしても威力が高すぎる。複数の魔術基盤の混合など、私でもしようとは思わなかった)

 

 ノアが使った魔術は歪んでいるように見えるが、ひとつの式として完成されている。第二特異点でも似た原理の魔術を融合することで孔明の罠を突破した。

 複数の全く異なった手法を材料にする魔術は確かに存在する。20世紀に始まった混沌魔術がそれであり、世界各地の魔術のいいとこどりをした体系だ。

 ノアの魔術も同じように見えるが、実情は違う。混沌魔術はあくまで混沌魔術という魔術基盤に則ったものであって、決して異なる魔術基盤を混合させるものではない。

 ひとりの体に不特定多数の臓器を移植するが如き技。混沌魔術が足し算で威力を算出するなら、ノアのそれは掛け算だ。

 なぜ、そんなものが成り立つのか。パラケルススは浮かび上がった疑問を他所に置いた。

 

「対立する概念を調和させ、より高次の段階に高める……混沌魔術(ケイオスマジック)ならぬ『止揚魔術(サブレイトマジック)』とでも言いましょうか。ひとりの魔術師として、賞賛しましょう」

「おいおいおい、今から死ぬかもしれねえのに上から目線で余裕アピールか? ぶっ転がす!!」

「故に、口惜しい。その才を摘み取らねばならぬとは」

 

 アゾット剣を掲げる。

 赤、青、黄、緑。それぞれの色を有した光球が発露し、融け合う。

 その色は銀。液状の球体が剣先に留まる。錬金術の世界において四大元素の前にある三原質の中の一種、水銀。

 パラケルススは考えを改めた。四大元素の元素変換だけでノアを殺害することは難しいと。

 ノアは思わず舌を打つ。パラケルススは本気ではなかった。片手落ちの手札でも殺せると算段を講じていたのだ。

 全身の体温が上がる。

 その感情の正体はまさしく怒り。

 殺意の匂いを嗅ぎ取り、パラケルススは剣を振り抜く。

 

Fervor, mei, sanguis(沸き立て、我が血潮)───Scalp()!」

 

 それは奇しくもエルメロイに伝わる月霊髄液への命令と同様の詠唱。

 だが、パラケルススの斬撃は刃と言うにはあまりにも大きすぎた。

 地下鉄の天井を抉り、埋め尽くすほどの質量。水銀の刃が蛇のように暴れ狂い、ノアを貫かんとする。

 防御はもはや意味をなさない。ノアは半身で水銀の剣山を躱し、地が弾けるほどに跳び退いて距離を空ける。その判断は正しく、剣山の間の僅かな隙間を埋めるように水銀が躍った。その場に留まっていれば全身を串刺しにされていただろう。

 直後、パラケルススは更なる一手を見舞う。

 

「元素変換。万物は流転する」

 

 瞬間、全ての水銀が淡く透き通る深い黄色の結晶に置換される。

 三原質のひとつ。水銀とは対に置かれる硫黄。ただしそれは化学の世界で用いられる物質とは違い、錬金術の理によって作用する神秘の硫黄であった。

 錬金術では水銀は揮発性・可溶性などの受動的性質を持ち、逆に硫黄は可燃性・腐食性などの能動的性質を持つとされる。

 万物を構成する三大要素の一角を成す物質。小さな火花がそれに触れると、極大の爆発が巻き起こる。地下を崩落させるに容易い火力であったが、周囲の壁に傷をつけることは一切なかった。

 それは爆発の方向性のみならず、伴って発生する熱や爆風をも操ったということ。

 無用な破壊をもたらさない故に、発生した力の全てが熱線と化してノアへと向かう。

 攻撃に応じて発生する轟音をかき消す勢いで、彼は哮り立つ。

 

「ナメんじゃねえええええっ!!!」

 

 パラケルススが全力を出した?───否、サーヴァントが有する最強の切り札である宝具。それを使わせないことには、奴と戦いの土俵に上がったとは言えない。

 ノアは左手を前に突き出す。

 魔術回路の最大稼働。全霊を込め、彼は叫んだ。

 

「───『wird(ウィルド)』!!」

 

 火の粉を含んだ噴煙が立ち上る。

 パラケルススは風の元素変換で煙を払う。赤熱した地面が露わになり、その中心でノアが両膝をついていた。

 白いシャツは煤で黒ずんでいる。左手にはめていた手袋はぼろりと灰になり、その下の皮膚は痛々しく焼けている。

 

「……生き残りましたか」

 

 パラケルススが呟いた言葉には、隠し切れない高揚が滲む。

 彼は土の下に潜り込むでもなく、真っ向からあの爆発を受けて命を繋いでみせたのだ。

 

「よもや現代の魔術師が私を前にして、ここまで生き延びるとは思いませんでした」

 

 過去を生きたキャスターと現代の魔術師を隔てる最大の要因───神秘の純度。

 神秘は古ければ古いほど強くなる大前提。

 双方が抱える神秘をぶつけ合う魔術戦において、その差は果てしなく大きい。基本的に過去の存在が喚び出されるサーヴァントは、その時点で現代の魔術師の遥か上を行っているのだ。

 だからこそ、パラケルススはノアを賞賛した。

 サーヴァントとの殺し合いの中で、生存していることを。

 ノアは蒼い視線を敵に注ぎ、両足で地を踏む。

 

「まだやりますか。結果は見えているというのに」

「パラケルスス。今のうちに言っておく」

「……ほう」

「おまえに悪役は似合わない」

 

 刹那、思考が空白になる。

 隙にもならぬ思考の間隙。それを縫って、ノアは短い詠唱を終えた。

 

「wird」

 

 一言。それだけで、宙にいくつもの光の爆弾が浮かび上がる。

 前に彼が『sowelu』のルーンで作った閃光弾。それを別のルーンで、しかも複数を用意してみせた。

 一体どんな方法で。その答えを出すよりも速く、パラケルススの生存本能が警鐘を鳴らし、アゾット剣に魔力を浸透させる。

 幾度目かの衝突。閃光弾と火の元素がかち合い、それぞれを喰らい合う。

 炎が光の壁を突き抜ける。しかし、今までと違ってその勢いは弱く、鉄道の奥へ移動するノアの背に届く手前で消え失せてしまった。

 パラケルススはノアを追う。その合間にも魔術の衝突が起きるが、やはり彼には届かない。

 ノアを劣勢に立たせていた詠唱速度の差が埋まりつつあることをパラケルススは見抜いた。

 

(wird……ブランクルーン! 他の文字の強調にしか使い道がなかったアレをそう解釈するか!)

 

 wirdは、ルーン文字の中で唯一書くことができない。なぜなら、それは白紙。文章の空白であり、解釈によってはルーン文字の分類には認められないともされる。

 その語義は『運命』。人の思慮が至らぬ未来や決して逆らうことのできぬ天運、無限の可能性を表す。

 空白、故にどんなモノにでも成り得るワイルドカード。

 他の何物にも変化するwirdというルーンを、ノアはトランプのジョーカーのような使い方をした。

 他のルーン文字ならば、一単語ひとつの魔術しか発動できないところを、wirdを用いることで一度に複数の魔術を行使できる。

 

(ですが、それは無から有を生み出すようなもの。どうしてこんなことができる!?)

 

 それはルーン魔術の分野において、革新的な詠唱の簡略化だ。けれど、ブランクルーンとは本来意味を持たぬモノであり、無を利用するに等しい。

 二人は吼える。

 

「───尚更口惜しい!!」

「wirdォッ!!」

 

 数え切れないほどの魔術が二人の間で火花を散らす。

 パラケルススの詠唱速度に追い縋ることのできていたノアだが、やり取りを繰り返す度に、また差が開いていく。

 詠唱を行うのはアゾット剣だけではない。剣を手繰る自分自身の詠唱をも上乗せし、ノアを突き放しにかかっている。

 当然と言えば当然の帰結だ。が、それを見てノアは好奇心に満ちた少年のように瞳を輝かせた。

 

(まだ俺は、高みに登れる)

 

 自分と隔絶した技量を持つ魔術師と戦うのはこれが初めてだった。

 ルーン文字で先手を取れない相手はいなかった。魔術基盤を融合させた我流の魔術が通用しない相手もまた、経験の中に存在しなかった。

 そこに来て、自分の何歩も先を行く魔術師と腕前を競う機会を得られた。wirdを用いた詠唱の簡略化も、彼との戦いがなければ創る必要性がなかったものだ。

 新たな発想は、外部からの刺激によって生まれる。

 ニュートンがりんごの落下から万有引力の法則を見出したように、アインシュタインがグロスマンから助言を受けたように、他者が思いがけぬヒントを与えることは往々にして存在する。

 ノアにとってパラケルススとは、そんな他者だった。

 wirdによる高速詠唱は確かに通用する。それでもなお、パラケルススの身に届かせるには数歩足りない。彼はまだ、かすり傷ひとつ負っていないのだ。

 だからそれは、正真正銘の───

 

「───全身全霊だ!! wird!!」

「そんな付け焼き刃で───!!」

 

 奇しくも、両者が扱った魔術は似通っていた。

 水銀と光線。槍衾の如く揃った射撃が相争い、

 

「くっ!」

 

 パラケルススは反射に身を任せて顔を背ける。乱れた髪の毛の先、ほんの数ミリを通り過ぎた光線が蒸発させた。

 攻撃の強さで言えば、軍配が上がったのはパラケルスス。事実、光線を食い潰した水銀の槍がノアの左脇腹を抉っていた。

 しかしながら、用意した攻撃の数はノアの方が少しだけ多く。

 手数の有利が、パラケルススの髪の先を捉えるに至らしめた。その動揺に追い打ちをかけるように、ノアはこの戦いで初めて敵の方向に歩を進める。

 パラケルススの足が後ずさる。それは魔術師としての性。敵の技を見抜くことで己の糧にしようという知的欲求だった。

 一歩、二歩と下がり、もう一度足を出そうとしたその時、背中が壁に当たる。

 

(行き止まり!? 開発中の場所か!)

 

 なぜ、と強烈に思考を回転させる。

 地下鉄の地形は全て把握している。この行き止まりも、パラケルススの知らぬ所ではなかった。

 魔術とは非常に広範に渡る学問だ。その中には表の歴史の人間が使ったとされる分野もある。

 そう、例えば。

 然るべき時に然るべき場所に動き、敵を思いのままに操る兵法。

 

()()()()───!!)

 

 ノアが第二特異点、諸葛孔明との戦いで触れた大軍師の知恵。あれには遠く及ばないものの、その効果は確かだった。

 彼がパラケルススから遠ざかろうとしていたのは、単に距離を作るためだけではなく、ここに敵を誘導するためだったのだ。

 それも、ロマンがノアに地形データを与えなければ実現しなかっただろう。

 時間の流れが極端に遅くなる。

 パラケルススに接近する最中にも、ノアは魔術を行使した。

 

「もういっちょ追加だ! wirdッ!!」

 

 白色の燐光がパラケルススに殺到する。

 

(迎撃は間に合わない。ですが!!)

 

 彼を包むように、魔力の障壁が多重展開する。ノアは即座に右手を前にかざすと、燐光が列を成して障壁の一点を突き穿つ。

 ブランクルーンだけでは成し得ない高速詠唱の正体。それは、ノアの全身に張り巡らされたヤドリギだった。

 彼の生命線であるとともに、擬似的な魔術回路としても作用する神殺しのヤドリギ。これを体内で操作し、魔法陣を作ることで言語を介さない詠唱としたのだ。

 魔術を発動させる方法は発声だけではない。ペンタグラムのように図形そのものが力を発生させることもある。

 一度魔法陣を作ってしまえば、後は魔力を通すだけで良い。その分、事前に用意した魔術しか使うことはできないが、その速度はブランクルーンの先を行く。

 一点集中の連続射撃を受け、パラケルススの防壁は崩れ去る。

 もはや両者の距離は目と鼻の先。

 ノアはヤドリギの槍を右手に携え、自らの自壊をも厭わぬ極限の強化を肉体に課した。

 

「お、らああああァァッ!!」

 

 魔術戦の定石を破る近接格闘。

 それが、ノアが選んだ詰みの一手。

 槍の穂先がパラケルススの首に迫る───!!

 

 

 

 

 

 

 

「……手習いは、終わりにしましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 アゾット剣が一瞬、かつてない魔力の胎動を予感させて、

 

「『元素使いの魔剣(ソード・オブ・パラケルスス)』!!!」

 

 虹色の魔光が、解放された。

 

「がっ、は…………っ!!」

 

 賢者の石を最大限に稼働させて生み出した神代の真エーテル。

 ノアの体はノーバウンドで後方の壁に激突する。背骨が砕け、割れた肋骨が内臓を散々に突き刺す。

 全身に少量しか回していなかった血のほとんどが口元から溢れ出し、首元を伝って襟を赤く染めていく。

 限界値の苦痛を訴える痛覚を飛びかけた意識で無理やり停止させ、ノアは歯を食いしばった。

 立ち上がる力は微塵も湧かない。あらゆる致命傷を修復するその体も、真エーテルを受けた影響か、治りが極度に遅くなっている。

 

「…………直撃の寸前、自らの魔術で体を吹き飛ばして逃れましたか。私が生前取った弟子の中で、貴方ほど筋が良い者はいなかった」

 

 パラケルススはアゾット剣をノアの前に突きつけた。

 目が合う。満身創痍、絶体絶命の状況だというのに、ノアの瞳に宿る闘志に一片の陰りもない。それどころか、その灯火はなお盛んに燃えようとしている。

 ───説得が通じる相手ではない。

 錬金術師は、そう確信する。

 やることは決まっている。

 この剣で彼の首を落とせば決着はつく。

 カルデアは彼を失い、あの少女ひとりに全てを任せることになるのだ。

 魔術王が出張れば彼女らを潰すのも容易い。これで、人理焼却の偉業は今度こそ確定し、次なる計画に進むことができる。

 だというのに。

 パラケルススの唇は、そんな考えとは無縁に動いていた。

 

「貴方を殺した後は、あの少女……藤丸立香の番です」

 

 薪をくべるように。

 

「思えば、あんな凡人に目をかけていた貴方の落ち度だ。その時間を自身の鍛錬に費やしていれば、ここで終わることもなかったかもしれないというのに」

 

 火に油を注ぐように。

 

「私たちは魔術師。根源の追究に人生を捧げた者。あんな凡俗など捨て置いて、こちらに戦力を回せばこうはならなかった」

 

 怒らせるに足る言葉だけを、彼は選ぶ。

 

「───無価値なモノを護った気分はどうですか、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド」

 

 自分がもう、どんな表情をしているのかも分からない。

 ノアは体内に残った全部の血を吐き出して、笑い飛ばす。

 

「俺を怒らせたいなら、もっと感情を込めて言ってみせろ。おまえの悪意は俺には刺さらない」

 

 ぐぐ、と放り出していた両足が震える。

 手を支えにして、彼はもう一度起き上がった。

 

「だがまあ、今回だけはおまえの挑発に乗ってやる」

 

 全力は尽くした。

 限界の壁を超えてなお、届かない相手。

 

「あいつの価値を、おまえが決めてんじゃねえ。魔術がなんだ、俺たちは所詮裏の人間だろ。その程度の価値観で、あいつを計るのがどんなに見当違いか、おまえに分からないはずがないだろうが!!」

「その考えは甘い! 裏の世界に踏み込んできているのだから、その世界の道理で価値を判定されるのは当たり前だ!」

「望まないままに連れてこられたとしてもか? あいつが生きる世界に、俺たちはいるべきじゃない───!!」

「ならばなぜ、貴方は彼女と共に戦うというのです!」

 

 しかしそれは当然だ。

 眼前にいるパラケルススは全盛期の実力と人生の戦闘経験を兼ね備えた存在。

 すでに完成した者と、これから成長する者。その隔たりは果てしなく広い。

 

「おまえほどの人間がそんなことも分からないのか? 俺が戦うのは、あいつをいるべき場所に帰してやるためだ!!」

 

 全力を出し尽くしたノアが賭けられるものは、ひとつしかなかった。

 

「───ここからは死力を尽くす!!」

 

 彼の猛りに呼応するように、周囲に炎が燃え盛る。

 それは。

 ルーンの火でも。

 止揚魔術でもなく。

 魔術基盤を経由しない、家伝の魔術。

 

「謝罪の言葉でも考えておけ。これが俺の切り札だ……!!」

 

 炎が蛇行し、敵を呑み込まんと迫る。

 火勢は確かに強い。だが、元素変換を得意とするパラケルススには如何な魔術の火であろうとも対処は難しくない。

 アゾット剣による高速詠唱。周囲の土塊と空気を変換し、水を作り出す。

 科学的な観点に基づくなら、あまりにも高熱の火に水をかけても効果は薄い。

 しかしながら、魔術の世界においては水は火に対しての相剋。世界に刻みつけられたルールとして、水が火に勝つことは運命付けられている。

 なればこそ、パラケルススの判断に誤りはなかった。

 水の壁が紅炎を受け止める。

 

「その火は消えない」

 

 炎の牙が水の防壁を食い荒らし、水蒸気へと気化していく。

 パラケルススはうねる炎を躱して後方に跳ぶ。

 

「ありえない。絶対に消えないとでも言うのか……!!」

 

 ノアが操ったのは魔術の火。それは間違いない。風の元素変換で酸素を除いたところで、消えるようなものでもないだろう。

 故にこそ、ありえない。

 科学の火は酸素を失えば消える。

 魔術の火は水を用いれば消える。

 そこで、パラケルススの脳内に蓄積していた疑問の数々が連結した。

 

(……魔術基盤を混成した止揚魔術…………無から有を生み出すブランクルーン……理から外れた炎……)

 

 魔術師には必ず五大元素に応じた魔術属性がある。

 どの属性を持つかは個人によって異なり、ひとりで複数の属性を宿すこともある。パラケルススは五大元素全てを併せ持つアベレージ・ワン。そんな彼でも、決して有し得ない二つの例外があった。

 ひとつは架空元素・虚数。

 ありえるが、物質界にないもの。

 そしてもうひとつは────!!

 

「───『架空元素・無』! ありえないが、物質化するもの……それが貴方の魔術属性ということか!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間を少し遡り、地上。

 パラケルススが引き連れてきたヘルタースケルターとホムンクルスにより、地上は乱戦と化していた。しかし、雑兵が増えたところで歴戦の英雄たちを傷つけることは叶わない。

 多対一の乱戦を得意とするペレアスは側の敵兵を切り払いながら、ペイルライダーとの剣術戦を演じていた。

 彼らの剣戟は苛烈に交錯し、四方から迫りくる雑兵を巻き込む。両者の剣筋に一切の乱れはなく、辺りに鋼鉄と肉片が散らばっていく。

 ぎり、と奥歯が軋む音がする。

 ペレアスもマシュもジャンヌも、各々が最大限に戦っている。それでもペイルライダーを討てず、パラケルススの思惑通りに時間を稼がれてしまっているのだ。

 ペイルライダーは強い。受肉し物理攻撃が効くようになったとはいえ、ただ病魔を体現するしかなかった彼は、黙示録の騎士として数段上の域に到達している。

 自らの能力を機械的に出力するだけだったペイルライダーはもういない。今の彼は、単なる有利不利ではなく戦場の機微を見抜く眼力を備えていた。

 膠着した状況を打破できるのは。

 

(私しかいない。私がやらなきゃいけない!)

 

 側にはマシュとジャンヌがいる。

 マシュはシールダーの称号に劣らぬ守りで危機を遠ざけ、ジャンヌは圧倒的な火力で雑兵を蹴散らし、ペイルライダーと切り結ぶペレアスへの支援も行っている。

 だからこそ、自分が動かなければならない。

 真っ先に思いついたのは、ジャンヌの宝具を令呪で増強した広範囲攻撃。彼女の宝具は雑兵など壁にならないが、ペイルライダーならば魔力の発露を感じ取って退避することは朝飯前だろう。

 相応の隙を作らなくてはペイルライダーは仕留められない。

 立香が出した苦肉の結論は、自身が攻撃に参加して一刻も早く敵を減らすことだった。

 ───それこそが、パラケルススの策に嵌っていると分かっていながらも。

 

「それでも……っ!!」

 

 渾身の魔力を右手に掻き集め、火を司るルーンに乗せて放つ。

 火球が一体のホムンクルスを炎上させる。苦悶の呻きを漏らしてもがくように両腕を振るい、ばたりと事切れた。

 これがノアの火なら数十体を焼き、ジャンヌの炎なら優に数百体を炭にしたであろう。

 つまるところ、彼女の魔術の腕はそんなもの。山を成す塵のひとつにしかならない。

 ノアのような膨大な魔術回路があるならともかく、質・量ともに平均の立香が全力で放てる魔術の回数もさほど多くはないだろう。

 そうなのだとしても。

 

〝ああ嫌だ…!! わたしは何も成し遂げてない、誰にも認められてないのに! 信じてた人にも裏切られて、こうして死んでいくなんて認められない……!!〟

 

〝所長、俺を恨め〟

 

 あんな悲劇は、もう二度と、どこの誰にも起こさせてはいけないのだから。

 募る焦燥。早鐘を打つ心臓の鼓動。指先が痺れる感覚のままに、立香は続いて魔術式を構築しようとする。

 振り上げた右手を止めたのは、ジャンヌの手だった。

 彼女は諭すように言う。

 

「立香、落ち着きなさい」

 

 一瞬、思考が止まって、

 

「でも」

「でもも何もないわ。指揮官のアンタが冷静を欠いてどうするの。大方、どうして焦っているのは察しがつくけれど。ねえ?」

 

 ジャンヌは顎でマシュを示す。

 すると、盾の少女はこくりと頷いた。

 

「はい。確かにリーダーのことは心配ですが、わたしたちはあの人のしぶとさを知っています。はっきり言ってゴキブリ以上の生命力ですし、死ぬなんて考えられません!」

「そうそう、比較されるゴキブリの方が可哀想なくらいの男なんだし、焦りすぎは禁物よ。アンタは魔術師じゃなくてマスターでしょう。頼るなら魔術よりも私たちにしておきなさい」

 

 そして、マシュは花のような笑顔を咲かせる。

 

「───先輩ほど、守り甲斐がある人はいませんから!」

 

 一際高い金属音が耳に届く。

 少量の血を零しながら、ペイルライダーの右手の小指が飛ぶ。騎士たるペレアスの意地の一撃。彼は好戦的に口角を上げて、立香の方を振り向いた。

 

「ま、二人の言う通りだな! それにあいつも男だ、少しは信じてやってくれ!」

 

 立香は袖で目元を拭き、曇りなき眼で戦場を捉える。

 彼女の顔色にはもう、焦燥なんて微塵も存在していなかった。

 

「……倒そう! みんなで!!」

 

 思い違いをしていた。

 人間ひとりの力なんて、たかが知れている。

 それでも結束し、協調し、挑戦することで人は遥か強大な敵を乗り越えてきた。

 自分ひとりの力で戦局を変えるなんて、おこがましいにも程があったのだ。

 三人が力強く首肯した時、ペイルライダーの全身から息が詰まるような気勢が発せられる。

 

「■た■」

 

 遍く人類に死という終着を与える病。

 

「き■れ」

 

 人を殺す権威と使命を帯びた騎士の力。

 

「きたれ」

 

 すなわち、黙示録の騎士・ペイルライダーが備える宝具の開帳であった。

 

「───『第四封印・終焉招く死病の風(コヴェナント・アルマゲドン)』」

 

 漆黒の霧が満ちる。

 その予兆から危険を察知したペレアスは射程圏内から離脱していた。だが、周囲に留まっていたホムンクルスは音もなく次々と倒れ伏していく。

 触れただけで問答無用に殺す死の霧。四人はいち早くそれを見抜くと、徐々に広がっていく霧の範囲から逃れるために走る。

 これこそがペイルライダーの真価。

 死そのものの擬人化である黙示録の最後の騎士は、人知の及ぶところにない。

 しかして、立香は垣間見た。

 霧の中で蠢くヘルタースケルター。機械の体の彼らだけは霧を意に介さず動作しているところを。

 ペイルライダーは双剣を以って今なお動くヘルタースケルターを両断する。それが意味するのは、単純にして明快な結論だ。

 

「あの霧は、生き物にしか効かないんだ」

 

 思えば、ペイルライダーがノアのヤドリギを枯らしたあの時もそう。植物であったから死の霧によって防ぐことができたのではないか。

 マシュは立香の呟きに同意する。

 

「わたしもそう思います。ジャンヌさんの炎を避けるだけだったのは、あの霧が無生物には効果を持たないからに違いないでしょう」

「〝つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた〟……ね。ますますペイルライダーらしいじゃない。あんなのを放っておいたらアイツを助けるどころじゃなくなるわよ」

「つっても、オレたちが近づいたら一発アウトだ。マシュちゃんの宝具で防ぐにしても限度がある」

「ええ、わたしの盾は一方向しか防げませんから。ああいう霧状の攻撃は厄介です」

 

 サーヴァントの存在は人間によって規定される側面がある。ヨハネの黙示録に基づいて考えると、青褪めた馬に乗るのは『死』という概念が具現化した騎士だ。

 彼には黄泉(ハデス)──地獄とも言い換えられる──が付き従う。ハデスとはギリシャ神話の冥界の神であるが、キリスト教の解釈ではしばしば死後の世界そのものに置き換えられる。

 つまり、ペイルライダーの宝具の正体は現世を冥界に塗り替える変則的な固有結界。可視化するほどの『死』を世界に散布する、魔法の域にも手をかけた大魔術であった。

 このまま冥界化が進めば、彼と死者を率いる嵐の王、その眷属以外の全生物が死に絶えるだろう。

 そこで、立香は思い至る。

 

「はい! 不肖藤丸立香、ペイルライダーを倒す作戦を思いつきました!」

「流石です先輩! ローマ帝国の軍師を務めた経験は伊達ではありませんね!」

「伊達でしょ」

「……で? 立香ちゃんの冴えた立案を聞かせてもらおうか」

 

 得意げに笑うペレアス。立香は平坦な声で彼に言った。

 

「ペレアスさん、突撃してください」

「オレに死ねと!?」

「大丈夫です、絶対に死にません! ペレアスさんの宝具なら!」

 

 ペレアスは得心し、剣を肩に担いだ。

 ──時間はかけていられない。多少の博打を孕んだ策だが、もはやこれ以上はないだろう。

 戦を経験してきた数はこの場の誰も彼には遠く及ばない。味方を助けるために眼前の敵を準備もなしに打ち破る。そんな状況はいくらでも乗り越えてきた。

 故に、その心に焦りや恐れはなかった。

 

「……よし。さっさとあいつを倒して、オレらのマスターを助けに行くぞ」

「あんなのでも一応私たちの仲間ですものね。日頃の鬱憤をぶつけてやるわ」

「わたしもジャンヌさんの意見に賛成です。あの人を見返す絶好のチャンス、逃す選択肢はありません!」

「うん! リーダーは失わせない!」

 

 少女たちは思い思いに返答する。

 その声を背に、ペレアスは勢い良く地面を蹴り飛ばした。

 絶対的な死が待ち受ける終末領域。

 霧に触れる直前、彼は言の葉を紡いだ。

 

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 騎士は乙女の加護を呼び寄せ、冥界を駆け抜ける。

 世界を死で塗り潰す宝具と、それそのものを否定する宝具。正反対の有り様はこの戦いにおいては決して対等ではなく、後者が前者を克するものであった。

 相性は最悪。己の領地に踏み込んでくる人間に対し、ペイルライダーは力強く双剣を構える。

 空気を割るように、刃金が鳴り響く。

 一合、二合と両者の刃が重なる最中、立香はマスターの証である令呪に赤光を発現させた。

 

「令呪──装填っ!」

 

 出し惜しみはしない。

 二画分の魔力をペレアスに、残る一画をジャンヌに割り当てる。

 ペレアスの剣が血に濡れた。ペイルライダーの脇腹に一直線の傷が入る。令呪による能力の向上が、ペレアスの斬撃を一層強くしていた。

 刃が火花を散らす度にペイルライダーの鎧が破損し、鮮血が地面を赤く染めていく。

 ペレアスの強化と宝具は必ずしも永遠に続く訳ではない。この攻勢を耐え抜けば、ペイルライダーの宝具は過たず騎士の命を刈り取るだろう。

 守りに入ると決めた双刀の使い手は堅牢だ。騎馬と歩兵という高所の利も合わさって、ペイルライダーはペレアスの猛攻を紙一重で凌ぎきっていた。

 もうひと押し。マシュは強く踏み込むと、陸上のハンマー投げさながらに体を回し、加速と遠心力が頂点になったところで両手を放す。

 

「新陸上競技、盾投げです!」

 

 ライフル弾のような勢いで飛来する盾を見て、盾の由来を知るペレアスは思わず顔面を蒼白にした。

 

「それは投げちゃいけないやつだァーッ!!」

 

 そんな叫びも虚しく、直線を描いて盾は飛んでくる。

 霧に踏み入れないマシュは必然、遠距離から盾を投げつけるしかない。ペレアスとの攻防の最中とはいえ、ペイルライダーに躱せぬ投擲ではなかった。

 軽やかに跳んで盾を避ける。それが向かう先はペレアスの正面だった。彼はなぜか冷や汗をかきながら、

 

「すみません王様ァァァ!!」

 

 野球の打者顔負けのスイングで剣の腹を盾に叩きつける。

 盾が飛んでいく軌道上にはペイルライダー。身動きの取れない空中で、彼は両手の剣を十字に重ねて盾を防いだ。

 しかし、それは多少の隙を生む。

 令呪の魔力を糧に、ジャンヌは切り札を使用した。

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 灼けた鉄杭の雨、業火の嵐。

 複数体のサーヴァントに向けてさえ余りある超火力が、ペイルライダーの五体を突き刺し焼き払う。

 灰へと還る刹那、彼は胸に仕舞いこまれた心臓の高鳴りを感じた。

 およそ感情を持たぬ病原体。

 肉の器を得てもなお、無感無情なのだと認識していた。

 果たして、ソレに名を付けるなら一体どのような感情になるのか。結局、この短い時間では答えは出なかった。

 ───それでも構わない。

 ヒトは周囲のあらゆる事物に名前をつけることで世界を認識する。言葉は存在を縛る鎖だ。

 ならば、名前は要らない。

 胸の奥より沸き立つ想い、魂の感情に言葉は相応しくない。

 名も無き情動を抱き、黙示録の騎士は世を去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バルドルを不死不朽たらしめたのは、母フリッグの契約だった。

 全世界の全生物と無生物は、バルドルを傷付けることができないよう忠誠を誓う。

 しかして、その神が辿った結末は血濡れた惨劇。ロキの策謀によって光の神は、光無き盲目の神に射抜かれ殺された。

 それを成した武器こそがミストルティン。フリッグが交した契約から唯一逃れた、神殺しのヤドリギである。

 なぜ、ヤドリギだけが契約の外にいたのか。それは簡素にこう語られている。〝幼いが故〟と。

 しかし、ここにはひとつの問題が存在している。

 世界のあらゆる生物・無生物と契約を果たしたというなら、幼いといえどヤドリギも含まれて然るべきなのではないか。そもそも、幼いが故とするのなら、動物の赤子もバルドルを殺す可能性を備えていることになるのだ。

 ヤドリギはその名の通り、他の木に寄生することで生き延びる植物だ。何かに寄りかかることでしか生きていけないヤドリギを、古代北欧では特異な植物と見なすことがあった。

 この世を構成すると考えられていた四大元素。あらゆる植物は土から生まれ、土に還る。だが、ヤドリギはどこからともなく他者に寄生し、地中にも水中にも根を伸ばすことはない。そのため、ヤドリギは四大元素から外れた植物であると定義された。

 四大元素に属さないということは、この世に属さないということ。だからこそ、フリッグの契約にも参加することはなかったのである。

 フリッグは予言の力を持っていたにも関わらず、息子の死を止めることはできなかった。それもそのはず、森羅万象から孤立した存在を見通すなど出来はしないからだ。

 世界から外れたヤドリギ。

 それを肉体に宿した一族が、その影響を受けてしまうことは必然であったと言えよう。

 ───パラケルススは奥歯を噛んだ。

 

「この世に属さないモノが存在する矛盾───故に『架空元素・無』! 神殺しのヤドリギを肉体に移植するという狂気の恩恵がそれですか!」

 

 彼は思う。それならばノアが今まで使った魔術にも説明がつく、と。

 魔術師が扱う魔術の根底には必ず本人の魔術属性がある。物品の強化は同じ力量なら火属性だろうと水属性だろうと、同等の効果を示すだろうが、属性の違いは確かにある。

 ノアの魔力を色で喩えるなら無色。他の色と干渉することのない透明だからこそ、魔術基盤の混成という離れ業ができるのだ。

 ノアは気丈に笑い、

 

「そうだ。これだけは使いたくなかったがな! おまえを倒すためならクソ一族の魔術でも何でも利用してやる!」

 

 彼の手のひらの上に透明なエーテル塊が現れる。純粋な魔力の塊はぐにゃりと歪み、新たな火種に生まれ変わった。

 これがナーストレンド家に伝わる魔術。科学でも魔術でもありえない特性を持った現象・物質を精製する秘法。

 火種は盛大に燃え上がり、鞭のようにパラケルススを狙う。風と土の元素変換は通用しない。彼は全身に強化を施すと、単純な速力で追尾を振り切る。

 勝負は振り出し。如何に相手に攻撃を当てるかに終始した機動戦へと切り替わった。

 追う者と追われる者が逆転する。ノアが繰り出す炎や氷、雷撃の数々は物理と魔術の両方に反して、パラケルススの迎撃と防御を打ち砕き、彼の身に迫る。

 神秘の強度の差を、『消えない』『砕けない』といった特性のみで凌駕する荒業。無論、その代償はあった。

 魔力の生産が追いつかない。

 一回魔術を行使するだけで、ルーン魔術に比べて数百倍の魔力が消費される。それはノアの規格外の質と量を誇る魔術回路でも、命数を削るが如き所業だ。

 パラケルススの右肩の近くを氷柱が通り抜ける。白い布地が綺麗に裂け、裏地に刻まれていた防護術式が宙に解けて消えた。

 彼は反撃の勢いを上げながら、

 

「その魔術……今は発展途上のようですね。炎も絶対に消えないのではなく、大方『込められた魔力を消費するまでは外部の干渉を受けない』という条件付けがなされていると見ました」

 

 ノアは舌打ちする。

 パラケルススの考察は過不足なく的中していた。ただでさえ世の理を捻じ曲げるような術。『絶対に』『何でも』のような特性を付けた事象を創造した場合、どんな反動が来るのかノア本人にも思いつかない。

 この魔術は家伝ではあるものの、先代たちの力量の低さから遅々として研究が進んでいなかった。満足に発動もできないのがほとんど、残りは精々一度の行使が限界だった。

 つまり、この魔術に本格的に手を付けたのはノアが初。それも今からであり、普段の緻密な式の組み立てより格段に、荒々しい乗りこなし方をしている。

 そのことはパラケルススの目にも明らかだった。無に属する魔術。それを今まで研究していなかった───彼は怒りを滲ませて哮った。

 

「それを極めたなら、魔法……いや、根源にすら手が届き得るかもしれない!! なぜ使いたがらないのです──貴方は魔術師の使命を忘れたのですか!?」

 

 激情とともに放った水銀の弾丸。ノアは姿勢を屈めて掻い潜るが、体の至る所を鋭く切り裂かれる。

 彼は痛みを感じていないかのように、獰猛に笑った。

 

「安心しろ、俺も根源を目指す一端の魔術師だ」

「ならば、愚かであると言わざるを得ない! 手元に到達する可能性を残しながら、あえてそれを放置するなど!!」

 

 苛烈に、凄絶に、互いの魔術が衝突する。

 その中で、パラケルススは聞き捨てならない発言を耳にした。

 

「それは、俺ひとりで根源に辿り着くって話だろ。この俺の目標がそんな程度に留まるわけねえだろうが!!」

 

 ───何を言っている、この男は。

 根源とは人生を、一族の過去と未来を投げ捨ててでも到達すべきもの。魔術師とはそういう生き物だ。そこに情はない。

 遠い未来、ひとりでも根源に足を踏み入れることができれば良い。

 ノアは追い打ちをかけるように、自らの願いを零す。

 

「───俺は、()()()()()()()()()()()()

 

 瞬間、パラケルススの思考は漂白され、取り繕わない言葉がするりと抜け出した。

 

「そんなこと、できるわけがない」

「魔術ならな。おまえも知ってるはずだ、世界の魔術基盤は徐々に衰退していっている。地球のマナもいつかは枯れる時が来る。そんな学問にしがみついてるのが俺たちだ」

 

 西洋に魔術という学問が生まれて以来、数え切れない魔術師たちが根源を目指してきた。しかし、未だそれに辿り着いた者はなく、そもそも到達できるかも不明確だ。

 

「魔術はこれ以上発展しない。なぜなら個人の研究成果が学問の進歩に寄与しないからだ。神秘は知る者が増えると薄れる───このクソッタレなルールが、俺たちの道を阻み続けている」

 

 魔術には絶対的な大原則が存在する。

 神秘の陳腐化。知られると純度が低くなるという、学者にとっては呪いのような枷がある。時計塔という組織では魔術の教授も行われているが、自分の研究を公表する人間はひとりとしていない。

 ただ現物を見せられて、それを評価することでしか功績にならないのだ。そこに他者からの理解は置き去りにされる。

 これが、魔術という学問に定められた限界。

 個人がどれほど革新的で革命的な発明をしようとも、恩恵を受けるのはその人物とその家系だけなのだ。

 これを物理学の分野に置き換えてみると、アインシュタインが相対性理論を思いついたとしても、その知識を活用できるのは彼ひとりということになる。これではパラダイムシフトは起きようがない。

 事実、世界の魔術基盤は衰退している。終わりは緩やかに、近づいてきているのだ。

 

「だったら、俺が作ってやる。古ぼけた魔術を踏み台にして、人類が根源を目指すための新しい学問をな!! 身分も人種も性別も国も関係ねえ、成金のおっさんだろうが飢えて死にかけてる孤児だろうが、根源に行きさえすれば全員が平等だ!!」

 

 その響きに、何か熱を覚えかけて。

 パラケルススは否定の視線を真っ向から指し示す。

 

「貴方が──魔術師(あなた)が、それを言うのか!! 自分をも否定することになるというのに! 仮に新しい学問が作れたとして、根源に行くには何年かかるのです! 貴方は根源を見ずして死ぬことだってありえる!」

 

 問われ、ノアはともすれば冷徹と取られかねないまでの声音で答える。

 

「それでも良い。可能性が残りさえすれば、どこかの誰かが必ず手を付ける。皮肉なことに、現在進行形でそれを証明してるのが魔術師(俺たち)だ」

 

 最後に、彼はおどけた表情で無属性魔術を起動した。

 

「───まあ、超大天才の俺がいて辿り着けないなんてことはねえだろうがなァ!!」

「戯言を……!!」

 

 炎の波と硫黄の爆発が交錯する。

 もはやこれ以上の問答に価値はない。

 相手をちからずくでねじ伏せ、自身の意見を通す。およそ殺し合いの域には当てはまらない、子どもじみた喧嘩だ。

 だとしても、賭けるのは己の矜持。

 魔術師として、眼前の敵に屈するわけにはいかない。

 ───まだ、足りない。

 莫大な魔力を消費する無属性魔術。それを賄うだけの魔術回路が。

 体内の奥深くにまで根を下ろした金色のヤドリギが、さらに先の毛細血管、細胞にまで根を伸ばす。擬似魔術回路であるヤドリギを増やすことで、魔力量を底上げしたのだ。

 幾度かの激突を経て、ノアは無属性魔術の本質を掴む。

 ありえない特性を付与した現象・物質を生成する魔術。ただただ振るっていただけのものが、自分の一部として癒着するかのような感覚が確かにあった。

 頭の中で書き上げられる魔術理論。そして、自分の残りの魔力残量。これらを総合的に判断して、ノアは肚を決める。

 

(後、三手で詰ませる)

 

 遠ざかっていく触覚を離さないように、彼は右手を握り締めた。

 大抵の傷は治る体であっても、事ここに至り修復に回す魔力の余裕はない。体が動く内に敵を仕留めなければならない。

 爆発が巻き起こる。寸前にノアは飛び退いたが、赤く黒い爆風を割って水銀の槍衾が突進してくる。

 ノアは肩口を、手のひらを、胸を裂かれながらも身を捩って回避し、地面に手を叩きつけた。

 

(残り、二手!)

 

 炎の壁が瞬時に二人を囲う。

 それが自らに追尾しないことを悟って、パラケルススは冷静に剣を構える。

 

「閉じ込めたつもりかもしれませんが、この状況は私に好都合です」

「うっせえ、見てろ……!」

 

 啖呵を切った時、ぐらり、と脳が揺らぐ。

 魔力が乏しい。残した二回分の魔力はそれでも平均の魔術師よりは多いはずだが、ノアの総量と比較してはあまりにも少なかった。

 ここで止まれば何もかもが終わる。

 パラケルススの剣が虹色の光を灯したのとほぼ同時、ノアは雷球を手にして全身の力を捻り出す。

 

「『元素使いの(ソード・オブ)───」

「おおおおおぉぉぉッ!!」

 

 宝具の開帳、アゾット剣の高速詠唱よりも遥かに速く、雷撃がパラケルススの体を打ち抜いた。

 

「なっ……に──!?」

 

 生命線である剣を握り締めたまま、彼は膝をついた。雷撃の威力が低かったことと、ローブに魔術的防護が施されていたことで重傷には至らない。

 異常なのはその速さ。魔術のスーパーコンピュータとも言えるアゾット剣の詠唱速度を軽々と超越して、この身を打った。

 それこそは光速の電気。無属性魔術が実現した、殺傷力を切り捨てた最速の一撃だった。これがもしキャスター以外の武芸に長けたサーヴァントであったなら、ノアの動作から予測して躱してみせただろう。

 全身の筋肉が痙攣し、硬直する。

 パラケルススは見た。神殺しのヤドリギを鏃に、弓矢を引くノアの姿を。

 ───残り、一手。

 黄昏の光を、再現しよう。

 

「〝……失墜せし荘厳の世界樹〟」

 

 ヤドリギを媒介に、魔術を行使する。

 パラケルススのアゾット剣と同じように。

 

「〝ひとたび…この聖なる樹に激しく赤い火が付けば……炎は光輝に満ちた戦神の館(ヴァルハラ)を焼き尽くす〟」

 

 黄金の鏃に赤い火が付く。

 それが発するのは夕焼けの如く辺りを茜色に染め上げる黄昏の陽光。

 

「〝そして、永久を生きる……不死の神々の終末が始まるのだ〟」

 

 美しきその光が、神々の世を終わらせたのだ。

 揚々と歌い上げる声は途切れ途切れ。

 視界がかすみ、手から力が抜けていく。

 紛うことなき限界。気合や根性でどうにかなるのはここで終わり。ノアの体は強制的に眠りに落ちようとしていた。

 

(くっ……そ!! あと、ほんの少しで───)

 

 そんな彼の耳に届くように、叫ぶ者がいた。

 

「『行け───()()()()()()!!!』」

 

 ロマニ・アーキマン。

 彼の声が、ノアの視界を晴れ渡らせる。

 他の何者でもない、自分の名前。

 それをこうして呼ぶ人が、側にいた。

 その、刹那にも満たない時間。

 ノアは暖かい夢を見た。

 木漏れ日の中、その人の膝を枕代わりにして。細い指が頭を撫で付ける。

 

〝……ノアトゥール。あなたは、ひとりでなんでもできる子だから。私でも■■でも、誰かを頼らなきゃね〟

〝……なんでだ?〟

〝だって、ひとりは───寂しいでしょう〟

 

 ……そして、ノアは薄く微笑み、

 

「ああ、そうだな」

 

 今度こそ、最後。弓矢を砕かんばかりに握り締め、

 

「〝この灯火こそが原初の破滅〟!!」

 

 ぎりぎりと軋む弦を、手放す。

 

「〝無へと還れ〟───『終約・黄昏の天光(ミストルティン・ラグナロク)』!!!」

 

 炎を纏った矢が駆ける。

 世界を終末に導いたヤドリギ。

 神々の終わりたる黄昏の光。

 この矢は、その具現だ。

 あり得ざる光の再演。ヤドリギと無属性魔術の両方が無くては実現しない奥義。

 

「く、おおおおおお!!」

 

 パラケルススは硬直した筋肉を強引に動かし、もっとも簡単な迎撃、火の元素変換で迎え撃つ。

 光の矢は苦し紛れの火炎をやすやすと破る。

 次の瞬間、血の華が咲いた。

 

「…………っ、く」

 

 滝のように流れ出す血液。それが降り注ぐのは、二の腕の真ん中から食い千切られたパラケルススの右腕。

 額に脂汗を浮かべながら、彼は短くなった腕の先を縛った。出血を止める応急処置。右腕を失った体はバランスを崩す。

 彼らを囲う炎の壁はとうに消えていた。パラケルススは近くの土壁に身を預け、荒々しく息を吐く。

 ノアも投影した弓が粒と消え、パラケルススと同じく壁に背を預けた。

 二人が吐く息の音のみが連続する。

 最後の一撃。パラケルススに魔術を使う暇がなければ、ノアの体調が万全であったなら、結果は異なっていただろう。

 戦場に言い訳はない。

 死力をも使い果たしたノアと、右腕だけに被害を留めたパラケルスス。

 勝敗は、決まっていた。

 

「……貴方たちの───」

「……俺たちの───」

 

 ……そう、勝敗は決まっていた。

 

「「───勝ちだ」」

 

 二人の間に火柱が突き刺さる。

 天井の石と土がどろどろと焼け落ち、次第に火柱は細くなって失せた。

 吹き抜ける風。パラケルススとノアは示し合わせたように上を向き、落ちてくる人影を視認する。

 真っ先に叫んだのは、赤毛の少女。

 

「リーダー!!」

 

 マシュの補助を受けて着地すると、立香はいの一番にノアに駆け寄った。

 彼女はノアの負傷の具合を見て息を呑む。それに何かを言う前に、ノアは立香の頭に左手を置いて、緩く口角を上げる。

 

「……よく来たな、藤丸。褒めてやる」

「褒めてやる、じゃなくてもっと具体的な言葉で言ってください」

「…………あ~、おまえは俺の自慢の部下だ。約束通り、名無しの女王の件の貸しは無しにしてやる」

 

 立香はノアの左手首を両手でがっしりと握り、彼の手のひらに親指の爪を食い込ませた。

 元々、焼かれて治りかけの部位である。傷を抉るのは治りかけが一番痛いといったように、ノアは悶絶する。

 

「ギャアアアア!! 何やってんだ! せっかく人が褒めてやったところだろうが!」

「リーダーはいっつも風情がないんですよ! 少しは貸し借りとかなしで物を語れないんですか!? そもそも女の子の頭を汚れた手で触るとか正気を疑います!」

「ああ、そういえばおまえ女だったっけか。なんとなくボタンひとつで性転換できそうな面してんなオイ」

「どういう顔ですかそれ!? 聞き捨てなりませんよ!」

「『ここは感動の再会の場面では!?』」

 

 マシュとジャンヌは二人のやり取りを死んだ魚の眼で見つめていた。

 

「ちょっとは良い雰囲気を期待した私が馬鹿だったわ」

「やることなすこと小学生と変わりませんからね」

「……まあ、とりあえず安全は確保されたってことで喜んでおくか」

 

 ペレアスは呆れつつ、パラケルススに顔を向ける。錬金術師は左手にアゾット剣を携えて、ノアたちの方に体を向けた。

 その瞳に灯るのは戦意。ペレアスは簡潔に問う。

 

「まだやるつもりか?」

「ええ、彼を始末するのが私の使命ですから」

「……なるほどな。抜けよ、それで終わりにしよう」

 

 パラケルススは迷いなく宝具を起動した。

 

「『元素使いの魔剣(ソード・オブ・パラケルスス)』!!」

 

 虹色の極光。彼が持つ最大火力。

 しかし、その刃が振り抜かれることはなく。

 目と鼻の先にまで接近していたペレアスは、パラケルススの手首を押さえる。振るう途中で手を止められ、真エーテルは明後日の方向に飛んでいった。

 その首にペレアスが刃を当てて引き切ろうとするのを、背後からの声が止める。

 

「待て、ペレアス」

 

 立香に支えられ、かろうじて立っていたノア。彼は間断無く続けた。

 

「パラケルスス……おまえが最初から宝具を使えば俺を楽に殺せたはずだ。どうしてそうしなかった? 最も効率的な手段を取るのが魔術師だろ」

 

 パラケルススは自嘲気味に笑う。

 

「───迷っていたのです。本当に世界は、人類は、滅ぶべきか否か。私に簡単に殺されるようなら諦めるつもりでしたが……ふ、中々どうして、若人の成長とは目覚ましいものです」

 

 彼は荒い息を吐いて、壁に寄りかかる。

 

「行きなさい。まだこの戦いは終わっていない。私のような敗者は捨ておきなさい」

「……分かった。おまえのお陰で俺は限界を超えられた。そこは礼を言っておく」

「…………それは、貴方の力ですよ。もし次があるなら、その時はもっと力を付けてきなさい。でなくては、あの方は超えられない」

 

 せめてもの餞。彼らの周辺の地面を隆起させ、地上に送り届ける。天井が塞がれたことで射し込んでいた月光が遮られ、暗闇に戻った。

 パラケルススは右腕の断面を縛る縄を解く。どぽり、と血が流れ、意識も暗い水底に吸い込まれていく。

 

「魔術の先の学問、ですか」

 

 彼はくすりと息を吹き出す。

 

()()()()()()を継ぐとは、並大抵の覚悟ではありませんね……」

 

 仄かな高揚感を胸に。

 パラケルススは、目を閉じた。

 所変わって、地上。

 残る戦場に合流しようとしていたノアたちだが、いざ向かおうとしたその時、立香に支えられていたノアの体がぐらりと揺らぐ。

 彼は目を瞬かせて、気だるげに言った。

 

「……くそ、少し寝る。何かあったら起こせ」

 

 返答を待たずに、ノアは目を瞑った。静かな寝息を立てて、その体から力が抜ける。

 立香は無意識に、彼の胴に回した腕の力を強くした。

 

「はい。私たちのこと、もっと頼ってください」

 

 その言葉は聞こえたかどうか。

 ぐぐぐ、とノアの体が傾いていく。立香のしんみりとした気分が続いたのはそこまで、大の大人の体重を一挙に引き受けることになり、背中を仰け反らせた。

 

「ち、ちょっ……うわーっ!? 重い重い! 誰か助けて!」

「わたしは盾の手入れがあるので……」

「私は生理的にムリ」

「なんという信頼のなさ!!? ペレアスさん!」

「あ~はいはい、結局オレか。このまま行くとセクハラになりかねないしな」

 

 彼らが歩く先。

 その上空では、黒雲と蒼雷が渦巻いていた。




『終約・黄昏の天光』
 ミストルティン・ラグナロク。世界を調律する光の神を堕とした黄金の光、神々の黄昏における終末の光の一欠片──その一端を現世に再現する奥義。
 ミストルティンとあり得ざるモノを造り出す無属性魔術の両方が揃って、初めて辿り着く可能性のある技。対生物・対無生物において無類の強さを誇るが、矢に秘めた光量に応じて威力が左右される。その光は対象を喰らうごとに減衰するため、咄嗟に魔術を発動したパラケルススの判断はこれ以上ない正解だったと言える。また、進路上のあらゆる生物・無生物に効果が適用されるという特性上、空気をも呑み込んでしまい、発射地点から遠ざかるほどに威力は急速に弱まる。それ故、弓で撃ち出す見かけに反して有効射程距離はかなり短い。
 パラケルススが腕一本で済んだのは、彼が取った選択肢が適切であったことと、進路に存在する魔霧が通常よりも威力を減らしたことが大きい。
 分類としては宝具というよりも、宝具を介して発動する魔術。パラケルススの宝具と同じ。彼の宝具を垣間見たことで、ノアはこの技に至ることができた。しかし、世の理を歪めるほどの魔力を必要とし、その全てが術者に依存しているので燃費は非常に悪い。近距離で直撃すればサーヴァントでさえ一撃で消滅させられるかもしれないが、ノアとしてはペレアスを突撃させた方が魔力が嵩まないしサボれるのでお得。そもそもサーヴァントと殴り合うのが間違いである。
詠唱はワーグナー『神々の黄昏』のセリフから抜粋し改変したもの。


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第37話  雷鳴、そして

 鼓膜をつんざくような鋭い雷音が響く。

 ロンドンの上空に寄り集まった紫電の黒雲は、さながらこの地を閉ざす天蓋。雷雲だけでなく、地上に散布されていた魔霧さえも一か所に集結していた。

 鉄屑となったアングルボダから、光り輝く聖杯が摘出される。それは導かれるように浮遊すると、あるひとりの男の心臓に吸い込まれていく。

 そして、目眩く雷光が迸った。

 彼こそが雷電の主。

 雷霆を人類の手に授けた男。

 オティヌスは無機質に、しかし微量の苛立ちを込めて彼の名を呼んだ。

 

「───ニコラ・テスラ。神の権能たる雷電を人の手に貶めた星の開拓者か」

 

 儀式を経て北欧の主神の力を引き出した嵐の王は、狂い無く男の真名を見抜いた。

 

「然り。嵐の王よ、その専横もここで終わりだ。これより先の時代に神の存在は要らない。故に、我が稲妻を以ってその身を焼き尽くしてやろう」

 

 空気を焦がす異音。

 漆黒の魔霧をちかちかと照らす蒼雷は、かつて神の手にあった稲妻。否、遥か太古の時代には神そのものであった。

 雷を体現する神格は非常に多い。その捉え方は武神と豊穣神の二つに大別することができる。北欧神話のトールなどは両方の性格を併せ持つ神であり、苛烈に敵を打ち砕く一方で農民に恵みをもたらす側面がある。

 天候は気まぐれだ。雷に打たれた家屋が火災を引き起こすことがあれば、伴う雨が作物を潤すこともある。それ故に人は雷を恐れ、神として信仰したのだ。

 だが。

 ここにあるのは神ならぬ人が操る電撃。

 荒れ狂う暴威をねじ伏せ、人類にとっての恵みだけを抽出した人理の雷。自然の脅威を表す竜が英雄に討たれるように、神たる稲妻は彼の手によって調伏された。

 すなわち、それは神を殺したと言っても良い。雷の神秘を剥ぎ取り、己がモノにしたニコラ・テスラはまさしく、人類最新の神殺しだ。

 彼とオティヌスの視線が交差する。

 視線のやり取りは数瞬。刹那に巻き起こった暴風と雷電が夜空を撹拌した。

 両者は目にも留まらぬ高速で疾駆し、轟音とともに破壊を撒き散らす。

 

「手負いだろうが容赦はしない。天のサーヴァントである貴様は、人の手によって追い落とされるが定めだ!」

 

 真空の断層を破り、電光がオティヌスの側を抜ける。黄金の瞳はそれを確認すると、僅かに息を吐いた。

 

「なるほど、確かに貴様は私を殺すに相応しい英霊だ。しかし、その傲慢こそが人の拭えぬ業と知れ」

「…………傲慢だと?」

 

 魔霧を纏い、テスラは笑う。

 ひときわ膨大な雷電を放射状に発し、彼は哄笑とともに言った。

 

「傲慢なくして何が人間か! 世界を滅ぼしかねない、飽くなき可能性への探求──それこそが人の業と呼ぶべきだろう! そう、地球をリンゴのように真っ二つに割ることすらも、私のような大天才には造作もない!!」

「……ふっ、黙って聞いていれば、論理の帰結はそこか。いささか思い上がりが過ぎるのではないか?」

「何を言っている。私は天才として当然のことを述べたまでだ!!」

 

 必殺の神槍と黒き聖槍。オティヌスは二つの槍を用いて電撃の波を打ち払う。

 隻眼の神を模倣するために捨てた左眼。残った右眼はテスラではなく、横合いを向いていた。視線を即座に戻し、オティヌスは兜の下で唇を歪めた。

 

「天才と何とやらは紙一重と言うが、貴様もその類だな。直流と交流くらい些細な違いにすぎない」

「ほざけ! 後の主流となったのは私の交流送電だ、天と地ほどの差がある! あの悪鬼のプロパガンダに苦しめられはしたが……この際だ、貴様にも交流の素晴らしさを教えてやろう!!」

「へっ! だったら地獄の鬼にでも教えてろ───『我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)』!!」

 

 紅の雷撃が帯電する魔霧を切り裂き、辺りを赤く染め上げる。

 その穂先が襲うのはテスラ。斜め後方からの不意打ちに反応が間に合わず、赤雷が弾けた。

 モードレッドの宝具。王剣クラレントの最大解放は触れた者を灰燼に還す焦熱の雷。サーヴァントの防御力をしても抗い難い死の一撃だ。

 赤光が鳴りを潜める。そこにあったのは焼死体ではなく、なお健在のテスラであった。彼が纏う魔霧は消し飛び、衣服のところどころが焦げているが、被害はただそれだけに留まっている。

 

「よもや、我が活性魔霧の鎧を打ち破ってみせるとは。返礼だ」

「チッ──!」

 

 テスラはモードレッドに視線を送る。それに追随するように電気が迸り、無数の矢となって騎士を襲う。

 反撃は想定していた。モードレッドは自らの宝具が破られた屈辱を感じる間もなく、風となって地面を駆ける。

 テスラが生み出す雷電に際限はない。

 聖杯を取り込み、それを動力源となした彼の魔力量は規格外。さらに、発生する余剰魔力もスキル『ガルバニズム』によって無駄なく再利用される。

 空より落ち、地を舐める雷は瞬く間に勢力を増していく。

 騎馬を失ったとはいえ、オティヌスが回避と防御に専念せざるを得ないほどの超高密度の雷光。それはまさしく、かつての雷神たちが振るった得物に相違なかった。

 だが、それが人の手が及ばないものではないことは、他ならぬテスラが証明したのだ。

 常人ならば近付いただけで炭にする雷霆の独壇場を、白いドレスに身を包んだ少女が走り抜ける。

 彼女こそは人の叡智の結晶。

 完全な人間となるべくして造られた生命体。

 フランケンシュタインは雷電に身を焦がされるどころか、自らの糧として吸収し、より速く力強く次の一歩を踏み出す。

 テスラに肉薄し、紫電を纏う大槌を振り上げる。

 自己強化を経たバーサーカーの全力攻撃。それでも破壊力はモードレッドの宝具には及ばず、魔霧に守られたテスラの肌を傷つけることはない───そのはずだった。

 

「……──!」

「つぎは、あてる」

 

 テスラが選んだのは回避。振るわれた大槌は彼の鎧を吸い上げ、動力へと変換していく。もしその場に留まっていれば、彼の上体は無残に吹き飛んでいただろう。

 

「周囲の魔力と電力を取り込み、己の力とする──『ガルバニズム』。同じ能力の使い手か!」

 

 フランケンシュタイン博士が造った人工生命体である彼女は魔力と電力を動力源とし、第二種永久機関を擬似的に実現する。

 テスラとフランケンシュタインが持っていたのは奇しくも同じスキル。しかし、テスラが生み出す電気を取り込み、身体能力を強化するフランケンシュタインは彼にとっての天敵に等しい。見境なく攻撃を撒き散らせば、その分だけフランケンシュタインを強くしてしまうのだ。

 絶え間なく降り注いでいた雷霆がぴたりと止まる。

 彼女はモードレッドに駆け寄ると、得意気に鼻を鳴らした。

 

「こんかいは、わたしがしゅやく。おとなしく、えんごして」

「……ああ、あの雷ヤローはお前にくれてやる。その代わりオティヌスはオレに寄越せ」

 

 こくりとフランケンシュタインは頷く。

 名指しされたオティヌスは淡く光る右眼を細める。

 

「因果が行き着いたか」

 

 その呟きは誰の耳にも届くことはなく。

 

「役者は出揃った。私の心臓に刃を突き立て、聖杯を手に入れた者が勝者だ。足掻いてみせろ、直流送電の欠点を認めようとしなかったエジソンの如くに!!」

「さっきからどんだけ根に持ってんだてめぇ──!!」

 

 モードレッドが額に青筋を浮かべて吼えたその時、テスラの周囲に散らばっていた瓦礫が空中に浮遊する。

 大小数十の破片のそれぞれに電流が走ると、煌めく灼熱の光雲が生成される。それはプラズマと呼ばれる物質。5000度にものぼる温度の気体が、一斉に解き放たれた。

 モードレッドとフランケンシュタインの二人は泡を食って逃げながら、

 

「おい、アレは吸収できねえのか!?」

「ぷらずまと、でんきはまったくのべつもの。りかのきょうかしょ、よみなおして」

「んなもんオレの時代にあるわけねーだろ! なんだプラズマって!」

「喜べ叛逆の騎士よ! それが学びだ!」

「うるせえ!」

 

 高笑いをあげ、テスラは磁力の反発を利用した砲弾を撃ち出す。

 プラズマに続き、フランケンシュタインのガルバニズムを対策した攻撃。亜音速で飛来する砲弾はしかし、三者各々の得物によって叩き落とされる。

 空気の流れが強引に捻じ曲げられる。黒き聖槍に風が集まり、オティヌスはそれを真一文字に薙ぎ払った。

 

「『風王鉄槌(ストライク・エア)』──!」

 

 豪風が吹き荒れる。

 不可視の斬撃は空気ごとテスラの鎧を剥ぎ取り、周囲を更地に変えた。

 電気を通した活性魔霧による防御壁。これを無効化しないことには、テスラを傷つけることは難しいだろう。

 この戦いは三つ巴。劣勢に回った者を叩くのは当然、突出した者を集中的に狙うのもまた道理だ。それ故に、モードレッドとフランケンシュタインはテスラ目掛けて疾走する。

 白刃と大槌が風を切る。魔霧の衣を失った今なら二人の攻撃は通る。テスラはかろうじてそれを躱していくが、一閃。

 

「身のこなしがなってねえな……!!」

 

 テスラの肩から血飛沫が舞い上がり、

 

「───『人類神話・雷電降臨(システム・ケラウノス)』」

 

 網膜を焼き潰すような雷光が、顕現した。

 今までとは比べ物にならない電磁投射。大気が震え、世界の位相が歪み、とめどなく電流が溢れ出す。轟音と形容するにも生温い雷鳴はモードレッドの聴覚を強かに痺れさせる。

 フランケンシュタインは無理やり攻撃動作を止めると、モードレッドの腕を掴んで引き寄せる。騎士に殺到する雷撃を受け止め、動力に換えて後方に跳んだ。

 拡散する電光は規模、密度ともに桁違い。だがしかし、それすらもほんの予兆にすぎなかった。

 みしり、とモードレッドの鎧が歪む。

 不可視の手に内臓が掻き乱され、喉の奥から血の塊がせり出した。

 

「っづ……!?」

 

 テスラが発した電流は確かに強力だが、それはモードレッドを掠りもしていなかった。だというのに、鎧が拉げて口から血を吐くという異常。

 振り返れば、フランケンシュタインとオティヌスでさえも思わず膝をついている。

 テスラは静かに、それでもはっきりと通る声音で言う。

 

「〝宇宙の秘密を見つけたいのなら(If you want to find the secrets of the universe)エネルギー・周波数・振動について考えよ(think in terms of energy, frequency and vibration)〟───電磁気を操るだけが私の本領ではない」

 

 大地が揺れる。

 彼の立ち位置を中心に地面に深い亀裂が入り、大気がびりびりと波打つ。

 

「共振現象を知っているかね? 物体には固有の振動数があり、外部から与えられた刺激がそれに近いほど強く反応を示すというものだ。詳しい説明は理科の教科書を読み直すと良い」

「ハッ、ナメんじゃねえ!!」

 

 立ち上がろうとしたモードレッドの機先を制するように、テスラは手をかざす。

 モードレッドの鎧の表面にヒビが走り、砕ける。その体は首筋を強く引っ張られたかのように押し飛ばされ、左の肋骨から嫌な音が響いた。

 オティヌスは神槍を杖に立ち上がる。

 

「なんてことはない。肉体の固有振動数と同じ振動を与えることで、五体を破壊するという訳だ。大層な宝具の割には随分と陰湿だな」

「所詮は殺し合い、使う手に陰湿も何もないだろう。そういう言葉はエジソンのような男に向けて言ってもらいたいものだ」

 

 それに、と彼は続けた。

 

「我が宝具の真髄はこの程度ではない。共振現象は慣らしだ」

 

 ニコラ・テスラは現代の文明に繋がる数々の発明を生み出したことで知られているが、彼のエピソードの中には陰謀論めいた話が点在している。

 そのひとつが地震発生装置。テスラが研究していたオシレーターという発電機の開発の一環で、彼は振動を起こす発振器の実験を行っていた。

 1898年、ニューヨークのヒューストン通りでテスラは研究室の梁に発振器を取り付けると、建物全体が揺れ始め、発振器が宙を飛び回り始めたという。それに伴って起きた地震は警察や消防を巻き込んだ騒動となり、発振器は後に地震発生装置に流用されたのだとか。

 真偽はともかく、その話が語られるのはテスラならばやりかねないという信頼ゆえだろう。

 雷電という名の神を人類文明に授けた超常の科学力。共振現象と地震すらも準備運動でしかないと言うのなら。

 オティヌスは黒き聖槍を掲げ、自身の周囲の大気を吸い取る。

 テスラの共振を利用した攻撃は、物体に振動を与えなくてはならない。彼から発された振動が対象に辿り着くまでには空気を経由する必要があるため、それを取り払うことで無効化する目論見だった。

 

「たてる?」

 

 フランケンシュタインが差し伸べた手を、モードレッドは荒々しく掴んだ。

 

「ああ、空気が震える予兆は分かった。二度と当たってたまるか」

 

 風を操るオティヌスと異なり、二人に共振に対する明確な防御手段はない。

 けれど、空気を通るということは対象を破壊するまでにタイムラグがある。常人には無に等しい時間差だが、彼らサーヴァントにはそれだけで十分だった。

 テスラの宝具が最大解放を迎える前に決着を付ける。

 紫電と振動、磁力の影響を受けた砂鉄の嵐が吹きすさぶ。

 オティヌスは聖槍に風を集めながら、悟られぬように神槍を持つ手に力を込めた。

 グングニルは切り札だ。使えばひとりは仕留められるが、その代償は大きい。

 

(名を変え、眼を捨てた───それでもやはり届かぬか)

 

 魔神柱バルバトス……マキリ・ゾォルケンとチャールズ・バベッジの奮闘は、嵐の王に確かな痛痒を与えていた。もはや全力を出せるのは数度だろう。

 磁界が渦巻き、致死の黒雲が地上を席巻する。

 王剣と大槌が赤色と翠緑色の雷光を纏う。二人は荒れ狂う磁界の中心に向けて、稲妻を放つ。

 一点突破の雷槍。渾身の魔力を込めた一撃は磁気の壁を抜け、テスラの眼前に迫った。

 

「──最大解放」

 

 その瞬間、空間が割れた。

 比喩ではない、時空の断層。

 三次元上の現象が、断絶した空間の先を超えることはできない。モードレッドとフランケンシュタインの雷撃はここではないどこかに消え去った。

 テスラの宝具の真骨頂。世界ごと対象を断ち割る空間の裂け目。超極小規模の現象ではあるが、その威力は〝地球をリンゴのように真っ二つにする〟という言に恥じぬものだ。

 なぜなら、ソレに物質の硬度など意味を成さない。対象がこの三次元上に存在するのなら、テスラは一切の例外なく切り裂いてみせるだろう。

 

「それがどうした」

 

 びしり、と亀裂が入る音がした。

 右脳と左脳が割れ、間に仕切りを立てられたような感覚。

 それら一切が無実。

 この身は嵐の王。

 全てを押し流す暴風。

 三つ巴など知ったことではない。

 すなわち、オティヌスが取った一手は。

 

「『大神宣言(グングニル)』─────『最果てにて輝ける槍(ロンゴミニアド)』」

 

 二つの宝具の同時解放。

 霊基に深刻な空隙が生じながらも、オティヌスは真名解放を成し遂げた。

 あらゆる時間と空間に偏在する神槍は過たずテスラを貫き、聖槍から放たれた莫大な極光がモードレッドたちに降り注いだ。

 

「──()()()()()()()……!!」

 

 眼前に迫る死の光を前に、モードレッドは驚愕した。

 忘れもしない。

 忘れるはずがない。

 あの時、臓腑を貫き、命を奪った槍。

 予想はしていたというのに、心臓を握り潰されるような圧迫感がこみ上げる。

 しかし、オティヌスの一撃を防ぐ手段はない。

 

「『磔刑の雷樹(ブラステッド・ツリー)』!!」

 

 だから、その献身は。

 攻撃を防ぐためではなく、望みを繋ぐための。

 漆黒の光波を雷の十字架が食い止める。

 右腕が捻じれ、左腕が吹き飛び、左の足首から先が灰に帰す。霊核へのダメージはそれこそ致命的。光波が途切れると同時に、フランケンシュタインの手から大槌がこぼれ落ちた。

 モードレッドは即座にテスラに目を配る。

 彼は胸をグングニルに貫かれ、地面に伏していた。が、オティヌスの消耗は目に見えて明らか。好機を逃す手は無いと逸る戦士の本能と、身を挺して望みを繋げたフランケンシュタインへの憂慮。ほんの一瞬、逡巡するモードレッドの背を彼女は声で押す。

 

「──いって!!」

 

 これ以上なく簡潔に。

 騎士は迷いなく足を踏み出した。

 オティヌスはふらついた足取りで聖槍を構える。この状況で二つの槍を扱う利はない。そう判断しての行動だ。

 クラレントとロンゴミニアドが衝突する。

 次撃に備えて振りかぶった直後、モードレッドの拳がオティヌスの兜に突き刺さった。

 砲弾が炸裂したかのような音を立て、漆黒の甲冑が崩れる。

 その下にあった顔貌は、

 

「やはり、貴方か」

 

 生前に忠誠を捧げ、そして自らが滅ぼした国の王であった。

 少年のような純朴さと少女のような純真さを残したあの顔はいまや見違え、年相応の大人びた風貌になっているが、それでも見誤るはずがない。

 端正な眼を歪め、オティヌスは呟く。

 

「あの時とは立場が逆だな、モードレッド卿」

 

 万感の想いがある。

 到底語り尽くせぬほどの感情が、感傷がある。

 だからこそ、叛逆の騎士は剣の切っ先を敵へと差し向けた。

 

「オレが貴方の前に立った以上、やることは変わらない」

「そうだろうな。私も卿と変わらずに事を成すだけだ」

 

 王剣と聖槍。双方の先端が交わり、

 

「「故に、殺す」」

 

 両者共に手負い。

 その攻防は、時間にして一分に満たなかった。

 白刃が閃き、黒槍が躍る。

 一刻も早く相手の首を刈り取るため、一合一合が掛け値なしの全力。風切り音が鳴る度に赤い血が地面を濡らし、鎧の破片が散乱する。

 互いの剣術も槍術も見抜かれている。勝敗の行方は単純な力の差、根性、時の運───それら全ての不確定要素を捻り潰すため、両者は一層強く武器を打ち込む。

 何もかもが同じで、変わらない。

 一心不乱に槍を振るう姿、冷たい眼差し。

 宝石を思わせる瞳は、何を捉えているのか分からない。いくら覗き込んでも、見えるのは自分の姿だけだ。

 ───その瞳を、壊したいと思った。

 何を見ているのか、誰を追っているのかなど関係ない。知ったことか。

 王の、父上の視線が注がれるべきはたったひとり。

 円卓の騎士、モードレッドという人間のみで良い。

 死ぬ直前。槍に貫かれ、息を引き取るあの時でさえ王は一瞥もくれなかった。

 だったら、その瞳をモノにするのは、王を殺すことでしか成し得ない。今際の際を看取り、死を見届けることでこの存在は認められるのだ。

 モードレッドは大上段に剣を振り上げ、

 

「オレを、見ろ───!!!」

 

 オティヌスは低く身構えて突進する。

 刹那、モードレッドの本能が警笛を鳴らした。間合いの分、槍が速く到達する。何よりもこれは、生前のやり取りと同じ、最期の────

 

 

 

 

「……天才を甘く見たな」

 

 

 

 

 オティヌスの足元の地面が陥没する。

 共振による物体破壊。

 僅かに生まれたその隙は、勝敗を左右するに足りるものだった。

 鮮血が飛沫を上げる。クラレントはオティヌスの右腕を肩口から切り離していた。腕を失ってもなお嵐の王は膝をつかず、槍を杖に地を踏みしめる。

 王はただ一言、

 

「モードレッド卿。貴様の勝利だ。この首貰ってい───」

 

 その言葉を遮るように、モードレッドはテスラの横っ面を張り倒した。地面と熱烈なキスを交した彼の体を胸倉をつかんで起こし、揺さぶりながら、

 

「てめえ、よくもオレと父上の決闘に水を差しやがったな!! 死んで償え!!」

「騎士の誇りが汚されたかね? 私が生きていることを見抜けなかった其方の落ち度だろう」

「……それだ。グングニルを受けて、なぜ貴様は生きている」

 

 テスラはオティヌスの問いに、薄く微笑む。

 

「神槍は全ての時間と空間に偏在するのだろう。それを我が時空断層で以って干渉し、着弾点をズラした。サーヴァントの弱点である霊核を狙ってくるのは読めていたからな」

 

 だが、その代償は大きかった。テスラは左の鎖骨から右胸の下辺りまでをおびただしい血で染め、平静を装っているものの顔色は青褪めていた。

 聖杯を取り込んでいなければ、今にも命を落としていたであろう毀傷。もはや本気は出せないだろうが、疲弊したモードレッドとオティヌスを討ち取るだけなら十分に過ぎる。

 テスラの右腕を紫電が這う。

 それを見て、オティヌスは言った。

 

「この期に及んで勝負を諦めない気概は好ましいが、やめておけ。ここが因果の袋小路、結果を変える権利は私たちにはない」

「それは私が決めることだ。この天才の頭脳には逆転の秘策などいくらでも浮かんでくるぞ!」

「───天才だと? 聞き捨てならねえな」

 

 猛るテスラの耳に届く、男の声。

 その方向に視線を傾けると、ペレアスの肩を借りるノアの姿があった。彼らの後ろにはこれからの展開を予感したEチーム女子陣と作家たちが、生温かい目で佇んでいた。

 テスラとノアは互いを値踏みするように見つめ合う。

 

「おまえがいつの時代のどこの英霊か知らねえが、天才と名乗るに値する才能を持つのは俺を置いて他にはいない。せめて秀才くらいにしておけ、称号の重みで潰れる前にな!!」

「ふっ、才ある者故の高慢か。若いな。貴様の慢心はかつての私も経験したものだ、その驕りも許そう。簡単に聖杯を渡す訳にはいかないがな」

「そんな死に体で俺たちに勝てると思ってんのか?」

「他人の肩を借りている貴様が言うべき台詞ではないな。ともかくこの最終戦、構図は単純明快…………」

 

 二人は声を揃えて、

 

「「天才対決だ───!!」」

「何言ってんだ! アホども!!」

 

 ペレアスはノアを一本背負いして、その勢いのままテスラに投げつける。

 彼は剣を引き抜いて近付き、テスラに切っ先を突きつけた。

 

「とにかくこいつを倒せば今回は終わりだろ? さっさと聖杯取って帰るぞ」

「待て、ペレアス卿」

「待てと言われて待つやつが何処にいるんだよ。オレを止めたいなら王様でも連れてこい」

「私がその王様だが?」

 

 オティヌスの顔を見て、ペレアスは電池が切れたラジコンのように硬直した。彼はそこからアキレウス顔負けの速度で土下座に移行する。

 

「おっ、王様ご無礼お許しくださいィィィ!!!」

「モードレッド卿、どう思う」

「死刑が妥当かと」

「それだけはご勘弁ください! というか召喚されてからこっち、黒くなった王様しか見たことないんだが!? 黒くしとけばどうにかなると思うなよエ○本の修正みたいにしやがって!!」

「……ペレアス卿、そこになおれ。私手ずから叩き斬ってやる」

 

 という円卓コントを眺めて、立香はダンテの右手が真っ黒に染まっていることに気付く。

 魔術師としては半人前の立香だが、それが魔術的に善いか悪いかくらいは見分けることができる。その感覚に従うなら、ダンテの右手は後者に属する呪いの類のように見えた。

 

「ダンテさん、その右手大丈夫ですか? 中学二年生なら喜びそうですけど。〝くっ! 鎮まれ俺の右腕……!〟みたいな感じで」

「ええ、これはジャックさんの手を取ったらこうなりまして。今のところ危害を加える気配はありませんが、もしかしたら感染るということもあるかもしれませんね」

 

 冗談めかしたその言葉を聞いて、五人は青い顔をして後ずさる。

 

「ダンテさん、先輩とわたしの半径10メートル以内に近寄らないでくれますか」

「なんで呪いなんか貰ってきたのよ、返してきなさい」

「そんな捨て猫拾ってきたみたいに言われても……ねえ、アンデルセンさん?」

 

 話を振られて、アンデルセンは唾を吐き捨てる勢いで言い返す。

 

「身の丈に合わない善行をしたツケだな。俺の腕もジャック・ザ・リッパーにやられたんだ、ざまあみろ!」

「ここは諦めるが得策かと。なに、右手に呪いをかけられたくらい、煉獄篇で額に七つの大罪の刻印を刻まれた時と比べたら大分マシでしょう」

「それとこれとは話が別ですよ! いや、あの時はあの時でかなりヘコみましたけど!」

「『あの~、早めに聖杯を回収してくれるとスタッフ一同とても助かるんですが……』」

 

 ロマンの控えめな懇願をよそに、オティヌスはゲンドゥルの杖を取り出す。テスラの眼前に王笏の先で、アルファベットの『F』に近いルーン文字を上下左右逆さまに描く。

 

「『feoh(フェオ)』」

 

 feohとはルーン文字で家畜を含めた財産、広く解釈した場合は『所有』を意味する。オティヌスはそれを逆に描くことで意味を所有の反対、喪失や分離の効果を発揮する魔術を行使した。

 テスラの肉体から聖杯が分断され、王の手に収まる。つややかな唇の端を持ち上げ、金色に輝く杯を掌中で弄ぶ。

 

「ここからさらに一戦……というのも一興だが、生憎そんな余裕はない。白い魔術師、貴様らにくれてやる」

 

 そう言って聖杯が差し出される。

 立香はぱあっと笑顔を輝かせて、ノアに駆け寄った。

 

「やりましたねリーダー! これで今回の特異点も攻略完了ですよ!」

「ああ、貰えるものは貰っておく。だがその前にオティヌス……一発、いや二発殴らせろ。この前会った時に散々コケにされた仕返しがまだ済んでねえぞ」

「……おいおい、ペレアスのマスター。本当にやるつもりなら先にオレが相手になるぜ」

「上等だァァァ! この際サーヴァントとのタイマンが増えたところで関係ねえ、やってやる!!」

 

 立香はノアの臀部に指先を向けて、

 

「弱めガンド!」

 

 希釈されたとはいえ呪いの魔弾が尻に直撃し、ノアは患部を押さえてのたうち回る。

 

「馬鹿野郎ーっ! 藤丸誰を撃ってる!? ふざけるな!!」

「こうしたら大人しくなるかなって」

「ケツに撃つやつがどこにいんだ! 元々穴だらけの人体にひとつ増やしてどうする!!」

「───黙って見ていれば、くだらん。終末を迎えてさえ、人の愚かしさは治らなかったのか」

 

 その時。

 空気が、塗り変わる。

 その声には重圧があった。

 まるで世界が圧を掛けているかのような、抗い難く逃れ難い悪寒。

 

「羽虫の如く、よくぞここまで意地汚く生き延びたものだ。死を遠ざけて恐れることしかできぬ人間の愚昧も、そこまで行けば一種の特徴だ。汚らしい」

 

 その眼には諦観があった。

 迂愚な下等生物を見下す侮蔑混じりの視線は、もはや強力な呪い。

 この場の生者は等しく呼吸を忘れ、裏腹に心臓の鼓動は激しく痙攣する。

 いっそ、ここで寿命を使い果たしてしまえとでも言うように。

 神の如き威容、悪魔の如き眼光。

 隆々とした肉体は神域の芸術であり、胸の中心に華開く眼孔は直死を予感させる魔の代物。

 虚ろになっていく五感の中で、全員が確信した。

 この男こそが人理焼却の黒幕。人類とその歴史を鏖殺してみせた超越者であると。

 一滴の冷や汗を流し、アンデルセンは悪態づく。

 

「……まさか、ここで出てくるとはな。中々に作劇の妙を押さえているな───ソロモン王」

 

 王は、どこまでも冷たい声音で。

 

「如何にも。我こそは全ての英霊の頂点に立つモノ。貴様ら格落ちの劣等品とは次元を異にする最大最強の英霊……グランドキャスター」

 

 元々、七騎の英霊とはあるひとつの敵を討ち果たすために喚ばれる天の御使い。霊長の世を護る決戦術式を経て呼び出されるモノであり、聖杯戦争はそれをダウングレードした縮小版の術式に過ぎない。

 通常のサーヴァントが人間同士の戦いに用いられる武器だとするならば、冠位の名を有する彼らは全世界、全宇宙規模の最終兵器。

 理より産まれ、それをも超越する。面前に立つ魔術王ソロモンとはそういう存在なのだ。

 マシュは膝の震えを捨て置いて、彼を睨みつける。

 

「旧約聖書に記された、イスラエルの賢王ソロモン……そのあなたが、どうして世界を滅ぼそうなどとしたのですか」

「私は世界を滅ぼしたのではない。人を滅ぼしただけだ。人類を絶対的な物事の中心に置く視座に留まっている限り、私の計画を明かしてやるつもりはない」

 

 ジャンヌは不快感を露わにした表情で舌を打つ。

 

「アンタ、自分が人の上に立ってるとでも思ってんの? 神様気取りの馬鹿ね」

「その台詞、そのまま貴様に返してやろう。神を気取るという言い回しは誤りだ。この世で唯一、私だけが神たる資格を有している。よく聞け無知蒙昧、人間と神の最大の違いとは何かをな」

 

 ソロモン王は語る。

 旧約聖書において、人類の始祖であるアダムとイヴは知恵の樹の実を食すことで知恵を身に着け、楽園を追放された。誰もが知る失楽園の物語である。

 しかしながら、楽園には知恵の樹と対になるもうひとつの樹木が存在した。

 生命の樹。神は生命の樹に繋がる道に智天使ケルビムと『回転する炎の剣』とを置き、封印した。なぜ、神がそうしてまで生命の樹を守る理由があったのか。

 それは、生命の樹の実を食すことで人間が不老不死を得ることを防ぐためであると言われる。

 永遠の存在とはこの世にただひとつ、絶対の唯一神のみ。人間が不老不死を手に入れ、永遠の命を宿すことはすなわち、神と同じ存在になるということなのだ。

 神が神たる資格。

 それは、永遠性。

 

「私は死後、肉体のみでこの世に復活した。何万年の時を刻もうと死という概念すら克服できなかった人類とは違う! 世界に冠たる永遠を持つ私だけが、神の位地に相応しい!!」

 

 ソロモン王は哄笑を轟かせる。

 己が神の位にあるという宣言。ダンテは深くため息をついた。

 

「神の姿を見た私からすれば、あなたはいささか品性と美性に欠けますねえ。それに、あのダビデさんからこんな人が産まれるとは疑問でしかないのですが……どう思います? ペレアスさん」

「グランドキャスターだかソロモン王だか知らねえし興味もねえ。ただオレたちは人間だからな、人類に優しくない神様なんてとっちめるに限る」

「人間にありがちな視野狭窄だ。自らで自らの可能性を限定する……だから人類は性懲りもなく争い、殺し、死に続けているのだ。一個体の経験が他の個体に引き継がれない。これも人間の欠陥であろう」

 

 人間は学ぶ生き物だ。

 けれど、人生で経験した痛みと悲しみはその人間だけが持ち得るもの。話し伝えることはできるが、実感として刺さることは少ない。

 それだから、人は過ちを繰り返す。

 戦い、争い、容赦なく他者を踏み躙る。

 なぜなら、先人の痛みと悲しみなど今を生きる人々にとっては路傍の石にも劣る塵芥でしかないからだ。

 そう付け加える魔術王。ノアは歯噛みして、ソロモンの視線を遮るように立香の前に立つ。

 

「御託は良い。今更慌てて出てきて大物顔か? そういうのはオティヌスの野郎でうんざりだ。少しはマシな設定考えて出直してきやがれ」

「人間の汚点を煮詰めたような男だな、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド。しかしそんな屑ですら殺せなかったパラケルススは貴様以下の塵か」

「はあ? 他人任せにしたツケが回ってきただけだろ。こうなってんのは全部、おまえの失敗のせいだ。グランドキャスター様は下等な人間も意のままにできないハリボテってことになるな」

「よく回る舌だ。貴様の下劣な精神をよく表している。だが許す、その突き抜けた頭の悪さは興味深いぞ。後ろに控える小娘よりはよっぽどな」

 

 立香は魔術王の眼光に負けじと睨み返し、僅かに震える声で言う。

 

「私も、他人に価値を見出すことから逃げたあなたに言うことは何もない。そうやってわがままに結論を出して、勝手に絶望して、こっちの迷惑も考えてみたら?」

 

 王の瞳が反り返す光の色が、微々に変わる。

 

「…………物を知らぬ小娘だ。余暇の解消に訪れたつもりだったが、無聊の慰みにもならん。用事を済ませて帰らせてもらう」

 

 無機質な光を灯した瞳がノアを捉える。魔術王は周囲に濁流のような魔力を脈動させて、

 

「神殺しのヤドリギ。それは我が計画遂行において───ほんの少しばかりだが───障害に成り得るモノだ。本来はパラケルススの役割であったが、貴様の突出した愚かさに敬意を払い、我が眷属が直々に手を下してやる」

 

 抗し得ない死の宣告。

 王はそれをさも当然であるかのように語り、数十にも及ぶ魔神柱を背後に展開する。

 詳しく状況を把握し得ないロマンですら理解できるほどの圧力。彼は手元のコンソールを叩きながら、Eチームに向けて叫んだ。

 

「『聖杯はすでに回収された! 間もなくレイシフトが実行される! そうすればグランドキャスターにも手出しができないはずだ!』」

「ほう、レイシフト。確かにカルデアはいまや我が千里眼を以ってすら見通すこと叶わぬ要塞だ。この世から外れた存在である神殺しのヤドリギと同じようにな」

「ぺちゃくちゃ時間をかけすぎたんじゃねえか魔術王! 残り四つの特異点、お前の終わりは案外近いかもな!」

 

 哮り立つモードレッド。魔術王は極めて冷静に、冷徹に、言葉を返した。

 

「救いようのない馬鹿か、貴様は? たかが四つ、こんなものはゲームにも満たん児戯だ。我が神殿に足を踏み入れてようやく脅威として認識してやる。ヤドリギを含めたとしても、貴様らは地を這う虫以下の存在だ」

「貴様がいくら言葉を並べようと、彼らは逃げ切るぞ」

「ニコラ・テスラ。私がいつ逃亡を許さぬと言った? レイシフト───良いではないか、そら、虫は虫らしく巣に帰れ」

「は、ぁ───!?」

 

 果たして、その声は誰のものだったか。

 魔術王がまとわりつく小虫を払うように手を動かすと、次々とEチームのレイシフトによる帰還が実行される。

 

()()()()()()()()()()()()。ノアトゥール」

 

 そう。ただひとり、ノアを除いて。

 彼は呆れたように息を吐くと、左手で後頭部を掻いた。

 

「一、二……数えんのも面倒くせえな。どうせなら七十二柱全部出してこい。ああいや、レフの野郎が死んだから今は七十一か。締まりが悪いな、死を克服したってんなら大根一本くらい蘇生させてみろ」

 

 魔術王は淡い殺気を滲ませる。

 それは赤子の泣き声に大人が抱く嫌気に等しい濃度だったが、他者に与える重圧は絶大。

 

「あまり私を見縊るなよ、魔術師。貴様の狙いがソレであることは承知の上だ。神殺しのヤドリギの本質を、私が知らぬとでも思ったか」

「……ミストルティンの本質だと?」

 

 オティヌスは訝しんだ。

 北欧の主神の神格を得た身、ノアのヤドリギが神殺しと不死殺しの性質を持ち、この世界の外部から産まれたものであることは当然理解している。

 しかして、それがオティヌス──アルトリアの限界。オーディンそのものでないが故に、ノアと魔術王が共有する視座に踏み入ることができなかった。

 とはいえ、それが魔術王がヤドリギを警戒する理由に他ならないことは誰にも予想がついていた。彼ら以外でその真実に辿り着いたのは、この場ではただひとり。

 

「チッ、なるほどな。最悪だ! お前ら、極めて癪だがそいつを必ず生還させろ! 俺は援護しかできんからな!!」

「アンデルセン、お前何か気付いたのか」

「ああ、魔術王が余裕こいてる間にお前みたいな脳筋にも分かるように解説してやる!」

「……てめえ、この状況じゃなかったら一発殴ってたぞ」

 

 青筋を立てるモードレッドを無視して、アンデルセンは語り出した。

 

 

 

 

 ───世界各地の神話・伝承には、死から復活する存在が少なからず見受けられる。

 最も有名なのはキリスト教の救世主。

 彼は人類の原罪を浄化するために磔にかけられ、死の三日後に死者の中から蘇ったとされる。

 日本の神話で言うなら、オオクニヌシ。

 皮を剥がれた因幡の兎を助けたことで、彼は兄たちを差し置いてヤガミヒメの夫に選ばれた。それにより兄たちの恨みを買ったオオクニヌシは、策略によって灼けた大岩に焼き潰されてしまう。

 だがしかし、彼の死を悲しんだ母のサシクニワカヒメは嘆願によってオオクニヌシを蘇らせる。その後、オオクニヌシはスサノヲの試練を乗り越えて国造りの偉業を果たすのである。

 死と再生の神。北欧神話のバルドルもまた、その類に含まれる神であった。

 バルドルはラグナロク後の新世界にて復活を果たす神であるが、実はヤドリギに貫かれた直後、復活のチャンスがあったことはあまり知られていない。

 彼の死を嘆いたフリッグは冥府の神ヘルに頼み込んで〝全世界の生物・無生物がバルドルのために泣くのなら、彼を生き返らせる〟という契約を結ぶ。

 だが、巨人の女に化けたロキだけはバルドルのために泣かず、復活の契約が履行されることはなかった。

 ここで考えるべきは、なぜ新世界での復活が許されたのか。それは、救世主とオオクニヌシの例を当てはめれば見えてくる。

 両者の共通点は『自分の過失によって死んだのではない』ことにある。片や人類のために、片や兄の恨みのために、彼らは死んだ。

 バルドルは罪の穢れなき存在となって再生するとされる。

 つまり、自らの行動に由来しない最期を迎えた、穢れなき純白の魂だけが死よりの復活を許されるのである。これは最後の審判の日に善人が再生するというキリスト教の教義にも繋がる。

 ───ならば、神殺しのヤドリギとは。

 

 

 

 

「……神殺しのヤドリギとは、死を以って魂の穢れを祓う浄罪の矢──!! 魔術王が欠けた魔神柱を復活させたとすれば、その存在は間違いなく変革される! それがお前には不都合だということだ、そうだろう!!」

 

 アンデルセンの声は張り詰めた緊張と高揚を含んでいた。

 

「そうだ、即興詩人。ミストルティンは殺した相手の魂の罪を祓い、復活の可能性を与える宝具。私がフラウロスを再生させることは容易いが、そうして新生したヤツが前と同じ存在となることは決してない」

 

 七十二柱のソロモンの悪魔。

 彼らは七十二柱揃ってひとつの概念を成すため、その一角が欠けようと即座に修復することができる。

 しかし、それは真の意味の再生ではない。

 水を飲み干したコップに、同様の水を注いだようなもの。復活というよりは補充という表現の方が近いだろう。

 フラウロス、レフ・ライノールは復活の可能性を与えられて死んだが、罪の穢れのない彼が前世と同じ人格となることはないのだ。

 魔術王は奥歯を軋ませる。

 

「神殺しのヤドリギは連続性を破壊する。それは()()()()()───故に、砂粒の如き矮小さであっても目端につく。その煩わしさ、ここで取り除く」

 

 呪いを孕んだ眼差しがノアを射抜く。

 内臓をかき乱されるかのような不快感を表情にも出さず、彼は濃密な怒気を込めて言い返した。

 

「やってみろよ───ソロモン王を騙る偽物が!!」

 

 そして、ロンドンでの最後の戦いが幕を開ける。



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第38話 ソロモンの遺志を継ぐ者

「やってみろよ───ソロモン王を騙る偽物が!!」

 

 ノアの怒声が響き渡る。

 それを受け止めるのはグランドキャスター・ソロモン。全ての魔術師の頂点に立つ賢王であった。

 彼の背後には一柱だけでも強大な脅威となる魔神柱が揃い踏み、無数の眼光で以ってノアの五体を突き刺す。

 すなわち、それは宣告。神にも等しい力を持つ魔術王に逆らう、矮小なる愚者を葬り去らんとする物理的重圧すら伴うような威圧であった。

 そんな眼差しを受けても、ノアは身じろぎひとつしない。一点の曇りもない戦意に満ちた瞳で以って、林立する魔神柱と魔術王を睨み返す。

 魔術王は噛み締めるように唇の端を歪める。

 

「……偽物だと? 貴様の目は節穴か? 我が御業を目の当たりにして、そんな言葉を吐けるとはな。劣化を極めた神秘に縋る現代の魔術師には理解できぬ境地か」

「グロい大根数十本並べた程度で粋がってんじゃねえ。おまえ如きがソロモン王だと? 笑わせんな、にわかが!」

「根拠も理屈も無しによくもそこまで言い切れるものだ。感情に任せて喚くしかできないとは、やはり人間は合理的ではない」

「……根拠ならある」

 

 そこで、ノアは嘲るように笑った。

 

「民衆のために生きたソロモン王が、そんなこと言う訳ねえだろうが!! すっこんでろ解釈違い野郎───wird(ウィルド)!!」

 

 ルーン魔術の高速詠唱。

 光の弾丸が銃列の如く出揃い、勢い良く掃射される。

 対魔力を持たぬサーヴァントであれば相応の深手を負わせられるだろう射撃。だが、流星雨のような輝きはその全てが瞬時に抹消させられてしまう。

 

「グランドキャスターたる私に貴様の児戯(まじゅつ)が通用すると思ったか」

 

 背後の魔神柱が蠢く。数多の瞳がまばゆい光を灯し、荒れ狂う熱線を照射する。

 ノアに光線を防ぐ術式はない。人類と隔絶した魂を有する魔神と彼では、単純に出力の差が桁違いだ。

 戦力差を理解していないノアではない。彼はその場から一歩も動くことはしなかった。それは諦めではなく、背後に控える英霊たちへの信頼。

 熱線に焼かれる寸前、二つの影が躍り出る。

 巻き起こる雷電と豪風。膨大な熱が散らされ、その余波が周囲の大地を赤く焦がした。

 嵐の王は風を、星の開拓者は雷を纏い、獲物を品定めする獰猛な笑みを浮かべる。

 

「いい加減、貴様の声を聞いているのも飽きた。少しはディナダン卿のような冗談を吐いてみせろ、神気取りの俗物が」

「聖杯を捨て、狂化の軛から解き放たれた私には一分の隙もない。電気文明の父たる私の才覚をもって、彼を生還させてみせよう!」

「死にかけの犬がいくら吼えたところで響くはずもない。我が眷属の威光に平伏せ、英霊風情が!」

 

 魔神柱の胎動。爆発的な魔力の高まりは、しかしてその真価を見せることはなかった。

 

「『我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)』!!」

 

 赤雷の波濤がいくつかの魔神柱を打ち据える。

 空気を詰めた風船に針を突き立てるかのように、魔神柱の体内で魔力が暴れ、表面が破裂した。

 満身創痍の体で軽快に剣を振り回し、モードレッドは口の端を吊り上げた。

 

「おいおい、魔術王サマご自慢の悪魔ってのも大したこたぁねえなァ! 父上の円卓とは大違いだぜ!」

「生きが良いな、モードレッド卿。我らが誇りにかけて、そこの男を送り届けるぞ」

 

 手を貸せ、と嵐の王は言う。

 その眼は他の誰でもなく、モードレッドだけを捉えていた。

 生前、あれほど欲した眼差し。

 ランスロットでもガウェインでもなく。

 誰にも向けられていなかったそれを独占しているという事実に、モードレッドは得も言われぬ高揚を覚えて。

 だから、返す言葉も決まりきっていた。

 

「───はい! 父上がここまでお膳立てしたんだ、ペレアスのマスター、勝手に死んだら許さねえぞ!」

「ハッ、誰に言ってやがる。そもそも死にそうなのはおまえらの方だろうが。全員寄れ、治してやる。そこに隠れてる作家共もな」

「くっ! せっかく今の今まで良い感じに気配を消していたところを! 俺たちがいたところで賑やかしにしかならんぞ!」

「ええ、どうやら天運はまだ我らが舞台から降りることを望んでいないようです。もう一踊りすると致しましょう」

 

 シェイクスピアとアンデルセンは引き攣った笑顔で言った。魔術王が如何に強大であるかなど百も承知、贅を凝らした修飾語を用いて表現せずとも見えるだけで存分に理解できる。

 だが、言ってしまえばその程度。自分たちよりも人を殺すのが何億倍も上手いだけだ。敵に立ち向かわない理由には成り得ない。

 ノアは手の平の上に無色透明のエーテル塊を現出させる。

 家伝の無属性魔術。魔術王を前にして出し惜しみはない。パラケルススとの戦いを終えてから回復した分の魔力の大半を注ぎ込み、エーテル塊を白く濁った泥のような物質に変容させた。

 それはひとりでに動き、サーヴァントたちが負った傷口を塗り固める。オティヌスとアンデルセンが失った右腕も、まるで粘土を成形したかのように補填されている。

 オティヌスは右の五指を数度開閉し、鼻を鳴らす。次の瞬間には、その手にはグングニルが収まっていた。

 

「……今、この時ばかりは私は貴様のサーヴァントだ。命令を寄越せ、マスター!」

 

 ノアは不遜な笑みを浮かべて、嵐の王の横に並び立つ。

 

「あのスカした野郎の顔面に一発入れる。散々ナメられといて、のこのこ帰るわけにもいかねえからな」

「ふむ、では誰が先に拳を振るうかの競争だな。電流戦争と比べればこれ以上なく分かりやすい勝利条件だ」

「遠距離でぶっぱなすしか取り柄のないやつにそんなことができんのか? ここは父上第一の騎士であるオレに任せとけ」

「…………醜いな。死を前にした人間の足掻きは」 

 

 軽蔑に溢れた魔術王の嘆きに呼応して、魔神柱たちが一斉に光り輝く。

 夜の闇を打ち払う、無数の煌めき。しかしてそこに荘厳さは存在せず、眼球の奥をまさぐるかのような悍ましさだけがあった。

 差し詰め、それは怪光。万物を等しく焼き尽くす魔の閃光だ。

 ノアとモードレッドはそれぞれアンデルセンとシェイクスピアの襟首を掴んで、その場を離脱する。直後、妖しき熱線が彼らの立ち位置を薙ぎ払った。

 オティヌスはノアの周囲で迎撃に回りながら、通信機の向こう側にいる男に問う。

 

「聞こえるか、カルデアの指揮官。この男のレイシフトによる帰還は進んでいるか」

「『いえ…おそらくは魔術王の術式の影響か、こちらがノアくんを引き戻すより強い力で、彼がその時代に留められています』」

「つまり、レイシフトのシステムそのものは無事に稼働しているということだな」

「『はい。何とかして魔術的拘束を解くことができれば……』」

「相分かった。私が魔術王の術式を乱す。レイシフトの実行は絶え間なく続けよ」

 

 オティヌス───オーディンは多数の性格を持つ神である。

 戦争の神、詩文の神、知識の神、そして魔術の神。北欧神話世界の魔術は全て彼より始まったモノであり、その権能はもはや人間の及ぶところにはない。

 彼女はグングニルを具現化するとともに、その力の一端を手に入れた。魔術王が操る神域の術に歯向かうことができるのは、この場ではオティヌスのみだろう。

 アンデルセンは呆れたように鼻で笑った。

 

「ふん、オティヌスと大層な名を騙った割には神性が低いようだが? その体たらくで魔術王の術式に対抗できるか見物だな」

「下手な挑発だな、即興詩人。何か策があるのだろう。言ってみろ」

「俺の宝具を使う。お前たちは魔術王の気を惹くなりして時間を稼げ。1分で良い」

「これは大きく出ましたな。光陰矢の如しとはよく言いますが、アレから1分奪うのは至難の業ですぞ」

 

 シェイクスピアはおどけて言う。

 魔術王から1分をかすめ取る。普段は気付けば過ぎているような時間だが、相手を考慮すればそれは値千金。途方もない価値のある時間だ。

 ノアはテスラとモードレッドに視線を送って、

 

「俺はまだアイツと話し足りない。おまえらを治したせいで、魔術は使えて二発だ。その貸しはここで返せ」

「どっちにしろ、オレたちゃお前を護らなきゃなんねえんだ。着いてってやるよ」

「然り。天才の先達として導いてやろう───『人類神話・雷電降臨(システム・ケラウノス)』!!」

 

 再臨する神雷。

 先の戦いで既にギアの上げ方は心得ている。迸る蒼き雷は魔神柱の怪光を凌ぐ勢いで拡散し、あらゆる攻撃を遮断する次元断層を空間に走らせた。

 この世界に亀裂を刻む、テスラの唯一にして絶対の切り札。単純な出力や手数でいくら上回ろうと、突破不可能な一撃。

 魔術王とノアは歪んだ空間の面を挟んで向かい合う。

 

「我が魔神の威光を前にしてなお、恐れはないか。その頭の悪さも役に立つことはある。蛮勇を遺憾なく発揮できるという一点においてはな」

「うっせえ、おまえとの口喧嘩もそろそろ賞味期限切れだ。さっきの根拠で言い忘れてたことを伝えてやる」

 

 周囲で炸裂する赤と蒼の雷撃、そして妖しく輝く光条。それらが織り成す戦場で、数メートル離れた彼らの間だけは静寂に包まれていた。

 

「ソロモン王は神に背いた人間だ。旧約聖書の神ではなく他の多神教の神を信仰するようになり、唯一神の怒りを買った」

「それがどうした。唯一神と言えど所詮は数ある神の中の一柱。人類史とともに消え逝く塵芥のひとつだ。唯一神への背信など取るに足らない」

「───だったら、ソロモン王は復活なんてできるわけがない」

 

 旧約聖書の神と新約聖書の神は趣を異にする。

 ユダヤ教の神である前者は『嫉妬する神』であり、そこから派生したキリスト教では人類への慈悲と大愛に満ち溢れた『愛の神』に再解釈された。

 なぜなら、嫉妬する神は人間にとって優しくない。何の罪もない義人であるヨブを己が都合で不幸に叩き落としたように、ユダヤ教の神は決して全ての人間の味方ではないのだ。

 ソロモン王は必ずしも神を味方につけた王ではなかった。

 彼は妻たちと一緒に異教の神々を拝み、嫉妬する神の怒りを買った。モーセの十戒における第一の戒律〝主が唯一の神であること〟に反する行いをしたからである。

 とはいえ、罪を犯したというのなら父のダビデもまた同じ。部下の妻との不貞を犯し、行いを悔い改めたダビデは彼女との間にできた第一子を奪われることで罰を受け、罪を雪がれたのだ。

 だが、ソロモン王は罪を悔悛する機会を与えられず、国土を取り上げられたのである。彼はその土地を回復することもできずに生涯に幕を下ろした。

 罪を犯して死んだ魂が復活することはない。

 つまり。

 

「契約を破って死んだ男の復活を、よりにもよって嫉妬する神が見逃すはずがねえ。そもそも聖書に死んだって書いてあるだろ、ソロモン王ファンナメんな!!」

「……しかし、貴様の主張は私の存在の破綻には結びつかない。そんな理屈を並べ立てようと、私がここにいることが何よりの証明だ」

「魂が死んでも肉体は残る。ソロモン王の遺体を弄んだ奴がいるなら、おまえの存在も疑問じゃない。誰かは知らねえけどな」

「…………───薄弱な根拠だ。聞くに値しない」

 

 ノアは落ち着き払った様子で後頭部を掻くと、ニタリと意地悪く口角を吊り上げた。

 

「さて、言いたいことは終わりだ。薀蓄も語ってスッキリしたことだしな。後はおまえをぶっ飛ばす!!」

「馬鹿が、この間合いなら次元断層があったところで───!!」

 

 魔術王の猛りは眷属へと伝播し、かつてない威力の閃光を解き放つ。

 散発的に現れる次元断層では到底捌き切れないほどの広範囲に渡って、膨大な熱を秘めた光が満ちる。

 視界が白く染まる。常人なら見ただけで視力を失い、心を砕かれるであろう光波。それが到達する直前、アンデルセンは自らの宝具を発動させた。

 

「『貴方のための物語(メルヒェン・マイネスレーベンス)』!! 今更即興詩を書く羽目になるとは思わなかったが十分だろう、やれ!!」

「───raido(ライゾ)

 

 オティヌスは赤色の王笏を振るう。

 唱えたルーンの意味は車輪。転じて旅行などの遠く離れた土地への移動を表す語となった文字でもある。

 アンデルセンの宝具によって高まった魔術神(オーディン)の力と主神の杖を用いた、ルーン魔術。それは本来多大なリソースを消費して実現されるはずの空間転移を、事も無げに成し遂げてみせた。

 ノアとテスラ、モードレッドの三名はオティヌスの側に導かれる。

 嵐の王はゲンドゥルの杖を自身の鳩尾に突き刺すと、微かに血を吐いて言った。

 

「この杖と私の魂を基点に魔術王の術式を妨害する。強固な城壁に穴を開けるようなものだ。いささか時間がかかるぞ」

 

 魔術王の術式に穴を開ける前に自らの腹に穴を開けたオティヌスの行動を見て、モードレッドは顔面を蒼白にする。

 

「ち、父上。その自傷行為は一体何の意味が?」

「この杖は言わば城壁を削る掘削機、その周囲でのみ妨害が働く。身動きが利く私に固定すれば戦闘も行えて一石二鳥という訳だな。これで魔術王の横面を張り倒せる」

「本気で言っているのか? 大言壮語を吐くのはそこのアホ魔術師だけでキャパオーバーだぞ」

 

 アンデルセンは顔をしかめながら言った。

 ノアが話を聞かないことは今までの付き合いの中で重々理解しているが、この場でトップクラスの実力を有するオティヌスまでもが彼に同意するとなると、意見を通す余地がなくなる。

 一刻も早くノアを帰らせたいアンデルセンにとって、これ以上の荒事に巻き込まれるのは本意ではなかった。

 モードレッドは不意に彼の頭を左の五指で鷲掴みにして、ぐしゃぐしゃと掻き回す。

 

「父上がやるって言ってんだ。お前は黙って力を貸しゃ良いんだよ」

「円卓特有のパワハラを俺に押し付けるな! 労基か弁護士を呼んで来い!!」

「ここがアメリカだったなら、エジソンの裏工作にも屈しなかった良い弁護士を紹介できたのだがな。流石の天才と言えどもできないことはある」

 

 テスラは肩をすくめて、アンデルセンの頭を撫で付けた。彼はその手を払い除けて、諦観混じりのため息をつく。

 オティヌスは右手に神槍を、左手に聖槍を構えた。そこに一切の隙はなく、まさしく槍の穂先のように研ぎ澄まされた殺気が噴出する。

 

「私とてやられっぱなしは性に合わん。それに、マスターの命令でもあるしな。あの高慢な顔を歪めさせてやる」

「ですが、ここは所謂負けイベントでしょう。そう簡単に上手くいきますかねえ?」

「随分と弱気じゃねえか、シェイクスピア」

 

 ノアは右手に黄金色のヤドリギの短槍を作り出す。

 魔術王が本当に不死であるというなら、この場で唯一彼を殺し得る武装。それを携えて、本来最後方に控えているべき彼は高笑いしながら飛び出した。

 

「───案外やってみたらボロ勝ちするかもしんねーだろっ!!」

 

 全身を魔力が駆け巡る。

 その踏み込みは荒々しく砂を蹴り上げ、爆発的な加速をもたらした。

 短槍の形成と身体の強化。サーヴァントたちを治した無属性魔術も合わさり、ノアは意識を落とさない最低限の魔力しか保有していない。

 それでも彼は駆けた。ただひとりここに残されたカルデアの一員として、姿を現した黒幕を仕留めるために。

 

「……ああ、偶にはそんな博打に乗ってみるのも悪くはないだろう」

 

 その動きをカバーするように、電磁気を纏った時空の断層が走った。

 テスラの宝具の最大稼働。聖杯を失った彼には多大な負荷をもたらすが、魂をも燃料に注ぎ込んで全力を維持する。

 それでも、敵の圧倒的な物量は処理しきれない。

 ひたすらに駆け抜けるノアの前方をモードレッドとオティヌスが先行する。

 時空の裂け目をすり抜けてくる光条と爆風を、二人は合図もなく連動して斬り伏せていく。

 その様を見て、魔術王は思った。

 

「……()()

 

 殺す。

 跡形もなく殺す。

 完膚なきまでに殺す。

 頭蓋の裏をざらついた不快感が撫でる。

 あの男を視界に入れる度に、あの男の声を聞く度に、それは強くなっていった。

 ならばもう、除くより他はない。悪性の腫瘍を切り取るように、欠片も残さず取り除かなくては気が済まない。

 ───貴様が私の存在を否定するというのなら、私は貴様の夢を否定する。

 抱いた願いが無価値であると痛感させ、命を賭してもなお我が眷属にすら敵わぬという無力感と絶望の中で死んでもらう。

 それが、ノアにとっての最悪だと信じて。

 

「全人類を根源に連れて行く、そのための学問を創る───人間が抱くには余りある夢だ。貴様の愚かしさには底がないようだな」

 

 距離が詰まる。

 三騎のサーヴァントとひとりの人間が迫ったところで、それは無謀な特攻。多数の魔神柱に守られた魔術王には決して届かない。

 

「如何にも、魔術に進歩はない。科学がこの世の法則を解き明かす度にその力は弱まり、いつか消えてなくなることが確定した学問だ。結局、幾多の魔術師たちは魔術の始祖たる私を超えることはできなかった。当たり前だ、偽物が本物に勝てる道理などない。であれば、魔術の先にある学問とやらは魔術のデッドコピーにならざるを得ないだろう」

 

 ───さらに、と彼は続ける。

 爆煙に紛れたノアの表情を見据え、魔術王は嘲りを込めて小さく口角を上げた。

 

「全人類を根源に連れて行く……これもやはり愚かと言わざるを得ない。そんなことは絶対の神でさえ、救世主でさえ出来なかった……やろうともしなかった。なぜなら、それは狂人の思い描く夢想───()()()()()()()()()()()()という破綻した願いに違いない」

 

 誰をも見捨てないという想いは、誰もが救われるべきであるという願いに変わりない。

 攻撃は苛烈さを増す。

 防ぎ切れなかった余波が彼らの肌を焼き、血を流させた。

 苦痛を表情にも出さずに向かってくるその姿は、魔術王の脳髄を蝕む不快感を一層強くする。

 故に、彼は氷の如き冷笑を顔に貼り付けて言った。

 

「誰もが幸せであってほしい願いなど空想のおとぎ話だ! 貴様はその欺瞞と虚飾に塗れた理想を抱いて死んでいけ!!」

 

 魔神柱がノアたちに殺到する。

 隕石が墜落するかのような衝撃。夜の天蓋が落ちてくるかのような威容。オティヌスは迷うことなく右の神槍を投擲した。

 

「『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』」

 

 主神の槍が弾ける。凄まじい轟音とともに槍は極小の恒星と化し、魔神柱による壁を吹き飛ばす。

 一度限りの切り札、『壊れた幻想』。サーヴァントの最強の武装たる宝具を魔力爆弾として利用する技であり、通常まず用いられることのない手段だった。

 大神オーディンの槍が秘めた魔力は極大。夜を昼の如く照らし、熱を伴った烈風が周囲に拡散する。

 雨のように降り注ぐ魔神柱の肉片と血を突き抜けて、ノアは言葉を吐き捨てた。

 

「俺が全員の幸せを願う甘い人間に見えたか? 確かに誰もが幸福なんてことが叶うなら、それは成されるべきだが、俺の部下になるはずだった奴らを殺したおまえの幸せだけは肯定できない」

 

 短槍を握る手がみしりと軋む。

 

「それに、俺はおまえみたいに独りよがりな考えで、世界だの人類だのをどうこうしようなんて気はねえ。おまえと違って、俺には顧みなきゃなんねえ奴らがいるからな───!!」

 

 ノアは魔術王に肉薄し、槍を突き出す。

 だが、彼は見逃してはいなかった。背後に迫る気配を。

 クラレントを振りかぶるモードレッド。前後を挟み撃ちにする攻撃はしかし、魔術王には奇襲足り得ず、また、脅威となることもありはしなかった。

 彼の足元の地面が隆起し、魔神柱が突き出る。

 二人を払い除け、直後に放った光がノアの上半身を灰燼も残さずに蒸発させる。下半身は力なく倒れ、

 

「───シェイクスピア……!!!」

 

 同質量の木屑となって崩れた。

 これは限りなくノアに近い贋作。最高の劇作家であるシェイクスピアが操る、劇団と呼ばれる幻影であった。

 魔術王は殺意を込めてシェイクスピアを睨む。極度の呪いを纏ったその視線は彼の霊核に致命的な損傷を与え、吐血させる。

 消滅の寸前、シェイクスピアはほくそ笑んで、

 

「〝運命とは、最もふさわしい場所へと、(Your soul is carried to the most suitable)貴方の魂を運ぶのだ(place with destiny)〟───作家とは運命を仕組む者のこと。その点では、あなたよりも吾輩が一枚上手のようでしたな」

 

 それとほぼ同時、身を隠していたノアは今度こそ神殺しのヤドリギを構えて突進した。

 

「俺がやろうとしてることは何ら新しいことじゃない」

 

 黄金の切っ先が魔術王の眼前に迫る。

 

「約3000年前にソロモン王が提唱した、古きを捨て新しきを得る術───アルス・ノヴァの実現。それこそが俺の使命だ!!!」

 

 『ソロモン王の小さな鍵(レメゲトン)』を締めくくる第五部では、ソロモン王が天より授けられた知恵の数々が記されている。

 その題こそがアルス・ノヴァ。

 古きを捨て、新しきを得る術。

 ノアはこれを魔術の先にある術法と解釈した。だが、それが本人の意図と一致しているのかは、今となっては知る術が無い。

 けれど、どうしようもなく憧れた。

 才能があるが故に分かってしまう、魔術の限界と陥穽。それを打ち破る方法を、魔術を生み出した当人が考え出していたとしたら。

 きっと、魔術師たちに残された希望に違いない。

 どこまでもソロモンは他人のために、誰かのために生きた王だったのだろう。なぜなら、自らの偉業のひとつである魔術を古いものとして捨てさせることを良しとしたのだから。

 もしくは。

 それこそを、望んでいたとしたら。

 ───叶えてやれるのは、自分しかいない。

 

「だから俺は、おまえがソロモン王だなんてことは絶対に認めねえ!! カルデアの最強グランドマスターとしてなァ!!」

 

 未来を切り拓く王の遺志を乗せた刃。

 だがしかし、それはなんてことのない一撃だ。

 あまりにも遅く、あまりにも弱い。

 魔術王の能力ならば、寝ていても防げる程度のものでしかない。

 だというのに、踵は僅かに後ずさっていた。

 

(この私が、人間に対して後退するだと)

 

 振るわれた槍を手で受け止め、握り潰す。

 

(この私が、人間に対して防御するだと!?)

 

 ふざけるな。そんなことは認めない。

 感情の発露は魔力の波濤となって辺りを襲う。

 絶死の波がノアに到達する刹那、磁気に操作された砂鉄の手が彼の体を中空に投げ飛ばした。

 電気を操るテスラの能力の応用。彼はノアが免れたことを確認すると、息をつく。

 魔力は全て使い切った。今の磁気操作が最後の一手。自らの電磁浮遊を維持する力さえも失い、テスラは魂の燃焼を終える。

 

「今回はここまでか。後は任せるぞ……オティヌス」

 

 名指しされた嵐の王はノアの体を受け止める。パラケルススからの連戦で日に二度も魔力を使い切った彼の意識は限界近く、繋ぎ止めるのがやっとの状態だった。

 命からがら逃げ延びたモードレッドが、オティヌスの側に侍る。

 ゲンドゥルの杖と彼女の魂を基点にした妨害術式は構築が完了した。後はスイッチを押してやるだけで、レイシフトは実行されるだろう。

 身に刺さった杖を引き抜く。

 オティヌスはそれをノアの目の前に差し出した。

 

「受け取れ。私のような紛い物が持っているより、貴様が持っていた方が有用だろう」

「俺は貰える物は貰う主義だが、おまえに施しを受けるのは気に入らねえ。それとおまえを殴る予定は無効になってねえからな」

「そんなことを言っている場合か、阿呆が。ならば、これは貸しだ。いつか私に返しに来い。その時は貴様の挑戦も受けてやる」

「……俺は根に持つ質だ。後から言い訳は効かねえぞ」

「承知の上だ。現代で言う借りパクだけはしてくれるなよ……()()()()()

 

 嵐の王はノアに杖を押し付ける。

 

「貴様がもし神殺しの魔剣を求めるなら、影の国の女王に会え」

「──おまえ、は」

 

 その言葉が最後まで紡がれることはなく。杖に書き込まれた術式が発動し、彼をカルデアへと送還した。

 デンマーク人の事績において語られた半神半人の英雄、バルデルス。彼は邪神オティヌスの息子であったという。

 最後の言葉はブリテンの王に宿った、オティヌスの神格が口走らせたものだったのか。オーディンの槍と杖を失い、主神の力が弱まったアルトリアには知る由もない。

 彼女は、血を分けた存在であるモードレッドを見遣る。

 

「なあ、モードレッド。私は何かを……残せただろうか」

 

 選定の剣を抜き、王として生きた日々に嘘はない。

 だが、悔いは残る。

 ああしていたら、こうしていたら……そんな想いが尽きることはないだろう。

 その問いにモードレッドは目を伏せて。

 そして、純粋で屈託のない笑顔で言った。

 

「少なくとも、ペレアスのアホは幸せに生きたらしいですよ」

 

 悲劇の物語の隅に残された、埃を被った幸福は確かにあった。あの過去から生まれたもの全てが恵まれぬ結末を辿った訳ではない。たとえどんなに些細であろうとも、アーサー王が守り抜いたものは繋がれたはずだ。

 ぐし、と王は前髪を掻く。

 

「…………そうか。そうだな。私の道にも、小さな幸せを護れる程度の価値はあったのか」

 

 それが、どれほど高い価値なのかをついぞ知らずに、魔術王の暴威が彼女らを包んだ。

 ──第四特異点、定礎復元。

 混乱に包まれた霧の都は夢のように溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第四特異点の修復から二日後。

 ノアはカルデアに帰還した途端に意識を失い、集中治療室に運び込まれた。執刀医はロマン。魔術王の視線による呪いを受けた部分の治療と折れた骨の破片の摘出を行った。

 ただし、その程度の手術で済んだのは幸いと言えただろう。何せ、パラケルススには途中まで圧倒され、魔術王の至近距離に接近したのだから。

 ヤドリギによる自己補完。大半の傷を自動的に癒やしていたその機能は、医者の立場からすれば喉から手が出るほど欲しいものであった。

 その手術が終わったのが一日前の早朝。

 絶対安静なことには変わりないが、その日の内に数時間意識を取り戻したことで、Eチームリーダーのゴキブリの如き生命力を示したのだった。

 そんな訳で。

 立香はノアを冷やかすべく、彼の病室を目指していた。

 日頃の恨みはもちろん、マスターの鉄の禁則事項である『単独によるサーヴァントとの戦闘』を犯したのだ。これはもう、文句のひとつでも言ってやらなければ気が済まないというものだ。

 病室の前に差し掛かった時、ロマンの声が響いてくる。

 ノアはベッドの上に寝そべり、その側に置かれたパイプ椅子にロマンが腰掛けていた。

 

「───アルス・ノヴァ。魔術の欠点を克服した、人類全員で根源に至るための術法、か。キミはそう解釈したんだね」

「まあな。ほとんど名前を借りただけみたいなもんだが、新しく言葉を考えるのも面倒だろ」

「うん。昔の言葉から名称を持ってくるのはよくあることだしね。きっとソロモン王も喜ぶはずだ」

「おい、おまえがソロモン王を代弁するな。解釈違いだ」

「くっ! なんて過激なファンなんだ……!?」

 

 扉に掛けようとしていた手が止まり、慌てて隣の壁に背中を預ける。まるで身を隠すように。

 

(いや、別に盗み聞きなんてしなくたって!)

 

 立香は妙な気恥ずかしさを覚える。

 神経の図太さには自信があったのだが、病室に入るまでの簡単な動作がどうしようもなくもどかしい。

 ロマンの柔らかな声音が耳に届く。

 

「……できると、思うかい?」

 

 ノアは傍らに置かれたカゴの中からリンゴを手に取ってかじる。

 

「じゃなきゃアイツの前で大見得切らねえよ。何年かかるか分からないが、魂が腐って死ぬまでは全力を尽くす。……それよりも」

 

 彼はじとりとした眼差しをロマンの横に向ける。

 

「ダンテ。おまえ天国でソロモン王の魂見たことあんだろ。どうしてあの時黙ってやがった」

 

 ぎくり、とロマンの横に立っていたダンテは震えた。リンゴの皮剥き用のナイフに手を添えるノアの姿に、彼は泡を食いながら、

 

「いやいやいや! よく考えてください!

あの状況でそんなこと言ったら絶対殺されてましたよ!? 正直、地獄でサタン見た時くらいビビりましたからね!?」

「ああ、帰還した瞬間にパンツ履き替えてたのはそういう……」

「それノアさんの前で言う必要ありませんよねえ!? むしろ小の方で留めたことを褒めてほしいくらいですよ!」

「いや、良い大人が漏らした時点で負けだろ。留められてないだろ。膀胱が決壊してんじゃねえか」

 

 病室の隅で冷蔵庫を漁っていたペレアスは、清涼飲料水を取り出して口に運ぶ。

 

「戦場で漏らすやつは何人もいたから良いけどよ、お前の見立てからしてアレは本物なのか? 前々から魔術王のことも知ってるみたいだったが」

「後者の質問から答えると、召喚された時に知恵の女神から仄めかされてはいましたから。魔神柱のこともありますし、皆さんも予想はしていたのでは?」

「まあそうですね。前者はどうです?」

「魂の感じからして、十中八九別人だとは思うのですが……」

 

 ダンテは言い淀んで、

 

「ほら、キリスト教の評価ではソロモン王は堕落した人間とされていますから。そのような面が表に出てきていたとしたら、あの振る舞いも腑に落ちる部分もあります」

 

 言いながら、ダンテはノアに視線を送っていた。過激派ファンである彼の報復を恐れた最大限の警戒である。

 ソロモンは父のダビデと比べて、後世のキリスト教による評価はあまりに低い。ダビデは救世主の祖先として崇められているにも関わらず、ソロモンは手厳しい見方をされることがほとんどだ。

 それは、犯した罪に対してソロモン王が痛悔を行った描写がないことに起因する。

 罪を犯したことは大した問題ではない。それを悔い改めたかどうかが重要なのだ。神の赦しを得たかも定かでないことから、彼が地獄に落ちたとする解釈まで存在する。

 ノアは首を縦に振った。

 

「700人の妻と300人の側室抱えてたようなやつだからな。色好きだったのか、求婚も断れないヘタレだったのかは知らねえが、ロクデナシだったことは間違いないだろ」

「妻の多さに関しては婚姻政策や戦争の未亡人を保護する方便だとか、地に満ちよという神の命令を実行するためだとか色々フォローの余地はありますがねえ。私としては彼の人間らしさは好感が持てますよ」

 

 ロマンは鈴を転がすように笑う。

 

「あるいは、彼には何もなかったのかもしれない。神の声を聞いて、その通りに動くことしかできなかったんだから。操り人形のような王様だよ」

 

 ほんの僅かに落ち込んだ声。いつもとは温度の低い声音に、ノアは目を細めた。

 

「だとしても、ソロモン王の功績は人類史に不可欠だ。自由意思がなかったとしても、俺だけはその行いを肯定する。神の声を聞いたってことは、ソロモンじゃなきゃできなかったってことだからな」

「…………本当に、好きなんだね。彼のことが」

 

 ロマンは小さく顔を伏せる。ペレアスは彼に同意して言う。

 

「確かに、お前がそこまで肩入れするのも珍しいな。なんかあんのか?」

義母親(ははおや)が絵本作家で、動物と会話できる指輪の話を書いてたのがきっかけだ。後は語るまでもない」

「ソロモンの指輪の伝説ですか。ノアさんにもそんな可愛らしい時代があったんですねえ…………あの、果物ナイフを構えるのはやめてくれません?」

「……まあこんなところで良いだろ。後がつかえてるみたいだし、オレたちは退散するぞ」

 

 そう言って、ペレアスはロマンとダンテを病室から引きずり出す。

 腐っても人外魔境のブリテン島を生き抜いた騎士。外にいる立香の気配にもしっかりと気付いていた。紳士的な振る舞いを忘れない騎士ならではの計らいである。

 とは言っても、Eチームで彼を騎士として見ているのは誰もいない訳だが。

 そんな残酷な真実を胸に秘めおいて、立香は病室を出るペレアスの背中に頭を下げた。男は背中で語るとは半ば慣用句的な表現だが、現代っ子の立香はそこはかとない古臭さを感じてしまうのであった。

 入れ違いで病室に足を踏み入れる。

 ノアはそれを気に留めず、カゴからブドウを取って口に運んだ。

 短く、長いような時間。立香はロマンが座っていた椅子に腰掛けて、沈黙を破る術を探る。

 そうして見つけたのは。

 

「お兄ちゃんが私の部屋に、キツめのジャンルの同人誌隠してた話でもします?」

「帰れアホ」

 

 苦渋の末に捻り出した秘策が一蹴され、立香は撃たれたみたいに硬直した。そもそもが愚策であることに彼女は気付かなかった。

 ノアは鼻を鳴らすと、カゴからみかんを一個取り、半分に割いて立香に渡す。

 

「おまえ、兄貴がいたのか?」

「あ、はい。六つ年上の兄がいます。私がここに来る前は、サハラ砂漠でエジプト人の占い師と一緒に永久機関の研究をしてるとかなんとか……」

「なるほど。おまえのアホさ加減は兄貴由来か。永久機関より先に自分の脳みそをどうにかしろよ」

「それはもう、その通りなんですけど」

 

 脳みそのおかしさを指摘している本人の脳みそがおかしいという二重構造。驚くほど客観視ができていない男であったが、立香はそれを口に出すことはなかった。

 彼女は得意げに胸を張る。

 

「これでも学校では優等生でしたからね。バレー部の赤い彗星とは私のことですよ! 一応県大会にも行ったことがあるんですから!」

「通常の三倍の高さのジャンプでもしたりすんのか? どうしてカルデアに来たんだよ。俺も行ったことはあるが、日本は裕福な国なんだろ」

「留学扱いで海外に行けるって言うので……英語も得意でしたし、今思えばカルデアが色々根回ししてくれたんでしょうか」

「……おまえのレイシフト適性の高さから察するにその可能性は高いな」

 

 ノアは真剣な目つきになる。口元に手を当て、思考を回しながら唇を動かす。

 

「世界中から有資格者を集めてた訳だから、そうか。おまえも不運だったな。こんな事件に巻き込まれさえしなければ───」

 

 その先に続く言葉を、立香は彼の手を掴んで止めた。

 

「それは、違います」

 

 確固たる意志で、彼女は否定する。

 確かにノアの言い分は正しい。

 レイシフト適性さえなければ。

 カルデアの調査から漏れていれば。

 少なくとも立香は、英雄や魔物が鎬を削り命をぶつけ合う戦場を知らずに生きていられた。東の島国で、普通の日常を送っていられたはずなのだ。

 けれど、ノアにだけは。

 全部が悪いようには、言わせたくなかった。

 

「リーダーがひとりで戦っている時の記録を見ました。私をいるべき場所に帰すために戦う、って。そう言ってましたよね」

 

 パラケルススとの戦い。挑発にあえて乗ったノアは、伝説の錬金術師に自らの戦う理由を零した。

 沈黙は同意。立香は言葉を続ける。

 

「それ自体はすごく嬉しかったです。でも……」

 

 彼女の心に食い込んだのは、その前。

 〝あいつが生きる世界に、俺たちはいるべきじゃない〟───それだけは、絶対に認められなかった。

 だって。

 

「私が生きたいと思える世界には、リーダーが、みんながいないと駄目なんです。カルデアの人たちがいない日常なんて、私には何の価値もありません。だから、勝手に私が不運だなんて、言わないでください」

 

 顔を見知った多くの人が死んだ。

 世界を救うという重圧は、きっと慣れることはないだろう。

 普通に生きていれば知るはずもなかった戦場は、そこに置かれるたびに癒えぬ苦しみを突きつけてくる。

 それでも。

 そうなのだとしても。

 この出会いは唯一無二で。

 誰にも否定なんてさせやしないと、そう思った。

 

「……悪かったな、藤丸。俺はおまえを勘違いしてた」

 

 ノアは軽く手を握り返す。

 その感触を放してしまわないように、立香は指に力を入れた。

 

「良いんです。なんだかんだで、今まで助けてくれましたし……残り半分、これからも助け合っていきましょう」

「ああ。おまえの世界とやらのために、誰も欠けさせはしない」

 

 理想のために、彼らは手を取り合った。



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第38.5話 エドモンズブートキャンプとフォウくんの事件簿

メレアガンスの王妃襲撃事件に居合わせた十人の騎士の中には、ペレアスとアイアンサイドの他にケイやアグラヴェインもいたという話があるそうです。ケイは死んだふりしてやり過ごしてそうですが、アグラヴェインはさらに闇が深くなりそうです。


 第四の特異点を攻略したカルデア。

 彼らはついに人理焼却の黒幕であるグランドキャスターと相見え、命からがら聖杯を持ち帰ることに成功した。

 魔術王の力はまさしく神域だ。魔術師の祖である彼にはあらゆる魔術は通用せず、その眷属たちは一体だけでも複数のサーヴァントを上回る。ロンドンで猛威を振るったオティヌスやテスラですら、彼にかすり傷ひとつ付けられなかったのだ。

 この先の戦いが激化するのは必至。カルデアの戦力強化は急務であった。相手は神にも等しい力を持つ。いくら強くなったとしても油断はできない難敵である。

 ロクデナシが揃いも揃ったEチームの奇跡とも言える快進撃は、いつまでも続きはしないだろう。

 なぜなら、Eチームには救いようのない三銃士がいる。

 肥溜めの底を煮詰めたような人間性の白髪アホマスター。

 最近ヒロイン面がしつこい女マスター。

 剣からビームも出せないセイバーの恥。

 今後予想される激闘において、彼ら三人は足を引っ張る可能性が高い。霊子演算装置・トリスメギストスを用いた予測演算ではその確率が150%であると示された。一度アホをやらかすと連鎖する確率が50%の意味である。

 スタッフ一同は危機感を覚えた。

 誰かがこの三馬鹿をどうにかしなくてはならない。が、自分たちが行動しても、クーデターを起こした時のように叩き潰されるのがオチだ。

 絶望したその時、立ち上がった男がいた───!!

 

「さあ、目覚めろ! 人理を救う勇者たちよ!!」

 

 カルデアで設定された時間で早朝。

 ノアと立香、ペレアスは仰々しい芝居がかった声に眠りの淵から引きずりあげられる。

 何処とも知れぬ、暗い石造りの一室。三人は布団もカーペットもない殺風景な床に転がされていた。

 立香は寝起きの重いまぶたをこすりながら、ぼそぼそと小さい声で言う。

 

「…………今何時ですか、リーダー」

 

 ノアも負けず劣らずの気の抜けた声で、

 

「……六時くらいじゃね」

「まだ仮面ライダーすら始まってないじゃないですか……二度寝キメます」

「俺もサザエさん始まったら起こしてくれ」

 

 そう言って、ノアと立香は二度寝の体勢に入った。ちなみにペレアスは一度だけ気怠げに目を開けると、即座に睡眠を再開した。

 彼らを叩き起こした声の主。ポークパイハットを被った色白な青年は、全員が眠りについてから一拍置いて言い直す。

 

「さあ、目覚めろ!! 人理を救う勇者たちよ!!!」

 

 しん、と無音が響く。

 本気で大声を張り上げたにも関わらず、彼の声は虚しく空気に溶けて消えた。

 三人は起きることすらなく、ただ煩わしそうに寝返りを打つだけだった。これがマシュやジャンヌであったなら即座に鉄拳を振りかざしていたところだが、青年の忍耐力は伊達ではない。

 何しろ、十四年の雌伏を経て脱獄し、その九年後に華麗なる復讐を成し遂げた男である。この程度の苦難は慣れたものなのだ。

 彼は鉄の忍耐力を以って言い放つ。

 

「さあ、目覚めっ」

「うっせーんだよ寝かせろボケ!!!」

 

 寝たままの体勢から放った飛び蹴りが青年の顔面にめり込んだ。彼は蹴りをかましたノアを見て、鼻から流れる血を押さえる。

 

「よし、起きたな。それでは今回の主旨を説明する」

「なに普通に始めようとしてんだオイ。その頭刈り上げてカツオくんみたいにしてやろうか」

「人類最後のマスターの片割れであるというのにその程度か? 俺の手にかかれば相手を『ですぅ』しか言う能がないタラちゃん状態にすることも可能だぞ」

「おまえこそ俺の手にかかったらおよそ意味のある言葉を発せないイクラちゃん状態になるからな。タンパク質でできた哀れなスピーカーになる覚悟はいいか?」

 

 イクラちゃんの台詞くらい中身のない会話を繰り広げる二人の声を聞いて、立香とペレアスが起き上がった。

 立香は寝癖立った髪の毛を手櫛で直しながら、不機嫌そうに言う。

 

「あの、こんな朝っぱらから騒がないでもらっていいですか。サザエさん症候群患者なんで、今から憂鬱になりたくないんですけど」

「おいおい、これだから現代っ子は困るんだよ。サザエさんは絶望のエピローグじゃなくて、明日へ飛び立つ希望のプロローグなんだよ。分かったら録画ボタン押してこい」

「サザエさんの魅力を理解しないとは……これは座学からやり直すべきか? そこの白髪魔術師の方がよほど日曜日の過ごし方を心得ているぞ」

「なんでいきなり手組んでるんですか!? 今どきサザエさんと日曜日をイコールで結びつけてる人間なんていないんですよ! しかもどっちも白髪だし!!」

 

 白髪二人とサザエさん症候群患者の立香の間に横たわる溝は深かった。テレビ以外の娯楽が豊富な現代っ子である立香にとって、サザエさんは月曜日の魔の手に近しいのだ。

 そこで、だんまりを決め込んでいたペレアスがうめき声をあげる。彼は四つん這いの姿勢から右手を胸に当てて嗚咽していた。

 

「ちょっ……静かにしてくれ…………あーこれもう完全に二日酔いだろ……なぁにがラモラック最強説だ、ダンテのやろ、」

 

 不自然に言葉がつっかえる。

 

「うぼおろろろろろろ!!!!」

 

 次の瞬間、ペレアスは床に吐瀉物をぶちまけていた。

 

「ギャアアアアア!! 何やってんですかこの人! 昨日食べたであろうサザエさんやカツオくんの残骸があああああ!!」

「なに魚介類つまみにして酒飲んでんだよこいつ! 消化されかけの食いもんとか誰も見たくねえよ! どっかいけ!!」

 

 青ざめた顔で後ずさるノアと立香。しかし、白髪の青年は四つん這いのペレアスに近づくと、彼の背中を優しい手付きで擦る。

 

「おまえたち、吐いている人間を無碍にするのは良くないぞ。洗面台から湯を入れたバケツとタオルを持ってこい。おっと、もらいゲロだけはしてくれるなよ?」

「いや、しないですけど。そもそも誰なんですか?」

「訊かれたか。ならば答えよう!」

 

 白髪の青年は大仰な身振り手振りで歌い上げるように言う。

 

「我が名は巌窟王エドモン・ダンテス! 恩讐の彼方より来たりし、永久の復讐者である!!」

 

 彼の演技じみた動きは変人そのものでしかなかったが、煌々と燃え盛る瞳と体の芯に響くような声がそれを陳腐と感じさせなかった。

 惜しむらくは足元で胃の内容物を垂れ流している男がいることか。ノアと立香はクレオパトラが肥溜めの上で踊っているような違和感を覚える。

 二人はエドモンに背を向けて、ひそひそと話し出す。

 

「知ってますか、リーダー?」

「さあな。だがアヴェンジャーってことは分かった」

「ジャンヌと同じですね。そう思ったら何だかラスボス面してるような感じがしてきましたよ」

「殴り合うにしてもあいつの逸話を1ミリも知らないのが問題だな。ペレアスもあのザマだ」

 

 という話をする二人に、エドモンのそれとは違う類の声がかかる。

 

「───ふっ。知らぬのならば教えてやろう。この私がな!!」

 

 そう言って現れたのは赤い外套を纏った褐色の男。色の抜けた白髪はこの場の白髪率を過半数にした。

 いきなり現れたその男だが、ノアと立香は初対面ではなかった。ムニエルのクーデターにてチェイテ城の案内役を任され、ジャンヌに腕を叩き折られた抑止力の派遣社員である。

 立香は特に感慨なく、

 

「あ、エミヤさん。あれから少しは筋肉つきました?」

「会っていきなり煽ってくるとはどういう了見だ!? 私の筋肉はすでに完成形、パンプアップする余地などない!!」

「いーや、俺の見立てだとまだまだいけるな。霊薬を混ぜた特製のプロテインでも譲ってやろうか?」

 

 ノアはいぶかしむような表情でエミヤ──アーチャーの肉体を品定めした。無論、英霊の体や戦闘能力は召喚された時点で固定されるので、今更筋トレに励んだところでDランクから逃れることはできない。

 

「…………それは後で貰うとして、まずはそこの男の解説……もとい文字数稼ぎをさせてもらう!」

「「正義の味方の姿か? これが…」」

「黙れ!」

 

 ……エドモン・ダンテス。アレクサンドル・デュマが手掛けた世に名高き復讐劇『モンテ・クリスト伯』の主人公。日本では明治期に、数々の翻案小説を生み出した黒岩涙香の『巌窟王』として知られた。

 その長大かつ壮大な物語はこの場では到底語り尽くせない。ただ、文学研究的な観点から言うと、ダンテの神曲との繋がりが少なからず存在するとされる。

 デュマが小説を執筆した当時のフランスでは神曲、とりわけ地獄篇が流行していたこと。罪を清めるために登った煉獄の山と、キリストの山(モンテ・クリスト)というモチーフ。ダンテスという名前など、ダンテの影響を見て取る人は少なくない。

 もっとも、巌窟王本人が実在していたとなるとその話は大きく変わってくるのだが、作家論からテクスト論に移り変わった現代の文学研究では詮無い指摘である。

 もちろんエドモンとて、作品を楽しんでいる人に口出しするような類の人間ではない。復讐者であろうと彼は紳士なのだ。

 ノアは自らの知識(聖杯産)を語るアーチャーを冷めた目で見る。自分が薀蓄をひけらかすのは好きだが、他人の話を一方的に聞かされるのは性に合わなかった。

 アーチャーが話し込んでいる間に床の清掃は完了し、薬を処方することでペレアスの二日酔いも大分収まっていた。ノアは眠気を吐き出して、エドモンに問う。

 

「……それで? こんなシケた場所に呼び出して何のつもりだ。おまえに復讐されるようなことをした覚えはないぞ」

「ああ、それこそが今回の主題だ。時におまえたち、自分たちに足りないものは何か分かっているか?」

 

 逆に質問され、Eチームの三人は顔を見合わせた。

 

「俺に足りないものなんてある訳ねえだろ」

「私はガチャを回す資金力ですかね」

「派手な逸話。あとエクスカリバー」

「君たちに足りないのは自分を省みることではないかね?」

 

 アーチャーの痛烈なツッコミは三人には届かなかった。エドモンは妖しく微笑んで、頭を振る。

 

「ひとつ答えに近いものはあったが、やはり自らを捉えきれていないようだな。おまえたちに最も足りないもの、それは───必殺技だ!!」

「必殺技って……私はともかく、リーダーとペレアスさんは持ってるんじゃないですか?」

「ふむ。確かにヤドリギは必殺技と言えなくもないが、ペレアスの宝具はどうだ。キメの場面を作れない、話に起伏も作れない、使い勝手最悪の宝具だぞ」

「おい待てェ! 人様の宝具をさらっとディスってんじゃねえ! オレはこれ一本でここまでやってきてんだよ!」

 

 憤るペレアスに、アーチャーは諭すように言った。

 

「他の仲間の宝具と比較してみたまえ。『あらゆる攻撃を防ぐ円盾』、『触れたもの皆焼き尽くす炎の嵐』、『現世を天国に塗り替える固有結界』…………見ろ、絵面の時点で負けているだろう。あと、ぶっちゃけ『死の運命を回避する』という映像が想像できない」

「それに関してはオレの責任じゃねえだろ! マシュちゃんとジャンヌちゃんは良いけどダンテのアホに負けたのはなんか腹立つ!」

「いいや、一理あるな。攻撃手段が剣振り回すだけってナメてんのかおまえ。せめて全集中の呼吸でも覚えて、斬撃にエフェクト付けれるくらいになってきやがれ」

「うっせえ余計なお世話だ! オレだってそりゃあ剣からビーム出そうと頑張ったよ! エクスカリバーとかガラティーンとかアロンダイトとか叫んでみたかったよ! あーあ、オレにも聖剣があったらなァ!!」

 

 ペレアスは膝を抱えて泣きじゃくる。

 中々に万感の想いがこもった独白だったが、立香は前から気になっていた疑問をぶつけることにした。

 

「それだったら、奥さんに頼めば良かったんじゃ? 湖の乙女なら聖剣くらいポンとくれそうだと思いますよ?」

 

 すると、ペレアスは一転無表情になる。

 

「…………聖剣持ってる人間って、大抵ろくな最期にならないから……」

 

 いたたまれない空気が流れる。円卓の崩壊を間近で目の当たりにした人間が言うと、とてつもなく重い一言だった。

 人間は矛盾した感情を持つ生き物である。ペレアスはその言動の一方で、聖剣への憧れを未だに抱き続けているのだろう。

 誰もかける言葉が見つからず、居心地の悪い静寂が続いた。エドモンはばつが悪そうに咳払いして、一枚のホワイトボードを引っ張り出して来る。

 

「い、一概に必殺技と言ってもその様相は多岐に渡る。そこで、要望に応じて主に二つのコースから選んでもらうことにした」

「え、そんな塾みたいな感じなんですか。放課後に勉強するくらいのノリで必殺技習得しちゃっていいんですか」

「近頃は修行編は好かれないからな。それにいざとなったら『あれから三年後……』みたいにテロップを挟んでおけばなんとでもなる」

「なんとでもなってねーよ! それやったら全てが終わりだろうが! ドラクエなんて『魔王倒した』の一文だけで終わらせられるだろうが!!」

 

 ノアの指摘にエドモンはニヤリと笑い、

 

「ふっ、気付いたか。それが第一の必殺技『二年後にシャボンディ諸島で』だ。あらゆる状況に対応できる便利な技だぞ」

「どこが必殺技だよ。話自体を殺してるじゃねえか。ひとりだけシャボンディ諸島に置き去りにしてやろうかこの野郎」

「リーダー、いちいちツッコんでたら話が進まないですよ。とりあえず聞いてみましょう」

 

 エドモンはホワイトボードにペンを走らせる。

 

「それではドラゴンボールコースと、いちご100%コースのどちらかから選んでもらうことになるが……」

「「ジャンルが違いすぎるだろォォォ!!」」

 

 ノアとペレアスの蹴りがエドモンに炸裂し、彼の上半身はホワイトボードを設置した壁に突き刺さった。

 浜に打ち上げられた魚の如く痙攣するエドモンの下半身を尻目に、アーチャーはわざとらしく首を傾げる。

 

「一体何が不満だ。西野の可愛らしさはそれこそ必殺だぞ」

「別にオレたちゃそこに不満は抱いてねえよ! それよりなんで悟空の横に西野が並んでんだ! ミスマッチにも程があるだろ!」

「む、もしかして東城派か。東城はいかんぞ。青少年の健全な成長を妨げる恐れがあるからな」

「青少年なんざ脳みそピンク色なくらいが身の丈に合ってんだよ。頭の片隅に常に東城のパンツが置いてあるくらいが逆に健全だろうが」

「健全という言葉の意味とは……?」

 

 ノアの言い草に、アーチャーは思わず正気に戻った。

 

「───待ってください」

 

 真剣味を伴った立香の声が響く。

 彼女は顔に深い影を落として、

 

「ToLOVEるコースはないんですか……っ!?」

「ある訳ねーだろ!! よしんばあったところでおまえは何の必殺技を学ぶつもりだ!?」

「局部を謎の光で隠す技があるじゃないですか! 私にはアレを利用してマシュとジャンヌの裸体を守るという義務があるんです!!」

「必殺技の定義がこんがらがってきてないか?」

 

 ペレアスは独りごちる。彼は壁にめり込んだエドモンの両脚を掴んで引き抜いた。身についた汚れを手で払うと、エドモンは何事もなかったかのように立ち上がった。

 彼は帽子を深く被り直す。

 

「……仕方がない。必殺技を学ぶ気がないというのなら、俺にも考えがある」

「いや、学ばせたいならそれなりの態度を取れよ」

 

 ペレアスの冷静な指摘を、エドモンは華麗に無視した。

 

「そう───この俺、巌窟王を打倒して、必殺技を必要としないほどの強さを示してみろ!!」

 

 エドモンの全身から蒼く黒い炎が立ち昇る。

 復讐者たる巌窟王が抱える怨念の発露。熱風が放射状に拡散し、ノアたちに吹き付けた。向けられる戦意は偽りなく純粋。説得が通用しないであろうことに、立香は戦慄した。

 

「まさかの本格バトル展開!? いやいやいや、戦うくらいなら必殺技習得しますって!!」

「今更遅い!おまえたちの仲間にはダンテ・アリギエーリがいるのだろう。言うなれば、我が宝具はかの詩人の旅路を体現するもの! すなわち、この世の地獄を脱する鋼の矜持である!!」

「「「過大評価にも程がある!!」」」

 

 ノアたちは思わず叫んだ。

 ダンテの人となりを知っている彼らからすれば、エドモンの言葉は過大評価にしか聞こえなかった。とはいえ、現世と幽世の違いはあれど地獄を切り抜けた二人だ。遠からずはあるだろう。

 エドモンは自身が誇る宝具の名を唱える。

 

「『虎よ、煌々と燃え盛れ(アンフェル・シャトー・ディフ)』!!」

 

 彼の実像が失われる。五感による捕捉を悠々と凌駕し、超高速の黒炎が乱舞した。

 エドモンの移動が発する余波のみで、四人は冷たい床に転がされる。腐っても円卓に名を連ねていたペレアスはぬるりと戦闘態勢に入る。

 相手の動きは視覚では捉えられない。

 ペレアスの卓越した先読みを以ってしても、凌ぐのがようやくだった。

 

「速すぎだろ! 少なくともアキレウスと同等くらいはあるぞ! なんでそんな宝具持ってんだ、モンテ・クリスト伯ってのはジャンプで連載されてたのか!?」

「ほう、かのアキレウスと比べられるとは光栄だな! しかし俺はサンデー派だ!!」

 

 エドモンが繰り出す連撃を受けて、ペレアスの体は型をはめたように石壁に激突した。

 謎のカミングアウトを聞いて、立香とノアは歯噛みする。

 

「くっ……これだからサンデー派は手に負えないんですよ!」

「全くだ。サンデー派さえいなければ世界は平和だっただろうな……!!」

「おい、このご時世にそういう風評被害はやめろ! 敏感な時代なんだから!」

 

 アーチャーはそう言って止めに入る。が、ノアは眉をひそめて口をとがらせて文句を言う。

 

「あん? おまえもサンデー派か? いつもそうやって俺たちジャンプ派を目の敵にしやがってよ。チャンピオンもコロコロもおまえの悪口言ってたからな。学校の帰り道で」

「黙れェェェ!! コロコロがそんなこと言うはずがないだろう!! あいつはラジオ体操のスタンプを網羅するほどの優等生だぞ! 貴様らジャンプ派が漫画界の主流だと思うなよ! ちなみに私はボンボンが好───」

 

 その言葉を遮るように、黒炎がノアとアーチャーを呑み込んだ。次いで、エドモンは立香を狙った一撃を繰り出すが、ペレアスの剣に阻まれる。

 瞬時に持ち手を変えて刃を薙ぐ。

 だが、横殴りの斬撃は空を切り、エドモンの外套すら傷つけはしなかった。

 部屋を縦横無尽に駆け巡り、彼は哄笑する。

 

「我が宝具は時空を含めたあらゆる縛めを超越する! それを駆使すれば、時間停止に比する速度での連撃も可能という訳だ!!」

 

 エドモンの主観では時間停止に等しい速度域の駆動。しかし、それはサーヴァントの肉体であってもかなりの負荷を強いる技だ。人形にブースターを付けて無理矢理動かしているのと同じく、度を過ぎれば自壊する可能性もあった。

 アキレウスはエドモンがそこまでして実現した高速移動と素の状態で競い合える。さしもの巌窟王の鋼の精神もひやりとするような話だ。

 立香は唇を切り結ぶ。

 

「必殺技の解説! 教えようとしてた立場だけあって、お約束は弁えてますね!」

「───ならば、当然このお約束も知っているだろうな?」

 

 全身が煤で黒ずんだアーチャーが立香の前に進み出る。遅れてノアも立ち並ぶと、遠隔でアーチャーにパスを繋いで魔力を送り込んだ。

 ノアはニタリと笑い、

 

「必殺技は先に出した方が負けるって相場が決まってんだよ! やれ、アーチャー!」

「『無限の剣製(アンリミテッドブレイドワークス)』!!」

 

 赤い弓兵の言霊とともに、世界が色を変える。

 空に浮かぶ巨大な歯車。一面の荒野に突き立つ剣はまるで墓標。乾いた風が肌を撫で、埃っぽい土の匂いが鼻腔を擽った。

 無数の剣の全てはアーチャーが記憶したいわくつきの武装。しかして、ありとあらゆる名剣・魔剣が揃い踏みしたこの場所に絢爛さはなく、ただ寂寞とした荒涼の空気だけが世界を色付けている。

 立香とノアはペレアスの肩を叩いて、哀れみの目を向ける。黙して語るその瞳に、ペレアスは額に青筋を立てた。

 

「べっ、別に気にしてねーし! どんな大層な武器も結局使い手の力量次第っていうかァ!?」

 

 なお、言うまでもなくアーサー王もガウェインもランスロットも、使い手としては超一流である。

 ペレアスには知る由もないが、アーチャーは憑依経験によって武器の本来の使い手の技量を引き出すことができる。彼の主張は正しくはあるが、アーチャーにはあまり刺さらない。

 

「剣をいくら並べたとしても、振るう身はひとつ! 俺にその刃は届かぬぞ!」

「いつから私が剣を振るうと錯覚していた? こうするのだ───『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』!」

 

 この固有結界の中に存在する剣はどれもが贋作。アーチャーの卓越した投影魔術による産物だ。そのランクは真作より一段階落ちるが、逆を言えば宝具を思う存分に使い捨てられるということでもある。

 唯一無二の武装を使い捨てる『壊れた幻想』。アーチャーは荒野に在る全ての剣を魔力の詰まった爆弾として利用したのだ。

 目にも留まらぬ速度で攻撃を避けるというのなら、逃げ場を与えなければ良い。

 しかしそれは、ひとつの事実を指し示していた。

 

「あの、これ私たちも巻き込まれるんじゃ……」

 

 周囲の剣が爆発の前兆として発光する。

 アーチャーはゼンマイ人形のようにガタついた動きで振り向くと、口元をひくつかせて言った。

 

「…………そ、そう。これが最強の必殺技。その名も『爆発オチ』だ」

「「「……嘘ォォォ!?」」」

 

 ノアたちの叫び声も虚しく、荒れた大地を光が包んだ。

 爆発に巻き込まれる寸前、エドモンは口の端を歪める。

 

「何から何まで滅茶苦茶だ……が、それこそが彼らの強さか。魔術王に与するのは癪だったから鍛えてやろうとしたが、余計なお世話だったようだな」

「意味深なこと言って勝手に納得して死んでんじゃねえええええええ!!!」

 

 そして、ノアたちの脳裏にエドモンの存在は不審人物として刻みつけられたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある日のカルデア。

 非戦闘員のスタッフたちが次の特異点の調査とレイシフトの準備を進めている間、Eチームもサボっている訳ではない。

 そもそも想定されているよりはるかに少ない人数で施設を回している状態である。人手はいくらあっても足りない。それに加えて訓練などもあるため、Eチームも程々に忙しいのだ。

 午前の訓練を終えたEチームは、いつも通り食堂で昼食を摂っていた。

 そんな折、マシュが神妙な面持ちで切り出す。

 

「最近、フォウさんの姿が見えないのですが……」

 

 カルデアに住まう謎の生命体・フォウくん。文字数稼ぎとステータスアップに定評のある、猫とも犬ともつかぬ四足獣である。

 ぴたりと、食事を口に運んでいた全員の手元が止まった。

 嵐の前の静けさのような沈黙の中で、ノアと立香は顔を見合わせる。

 

「フォウって……」

「……誰だっけ」

 

 マスター二人のとぼけた物言いに、マシュは目を白黒させた。

 

「…………え、忘れたんですか!? あんな謎生物一度見たらなかなか忘れられませんよ! そうでしょう!?」

 

 と言って、彼女はペレアスとジャンヌ、ダンテに視線を向ける。

 

「見たような見てないような……出番が少なすぎて覚えてないわね」

「私も同じような感じですねえ。最後に見たのがいつかすら思い出せません」

「まあ猫みたいなもんなんだから、放っときゃいつか出てくるんじゃねえか?」

「そ、それはそうなのですが、実は第三特異点辺りから一切見かけないので……というかリーダーも先輩も本当に忘れたんですか」

 

 野良猫のような扱いになっているフォウくんだった。幸い、カルデア内には命を脅かすような脅威は無い……とは主にノアのせいで言い切れないが、現代の街中よりは生きやすい環境であろう。

 ノアは聞くからに無関心さが溢れた声音で答える。

 

「おいおい、天才の頭脳ナメんな。覚えてるに決まってんだろ」

「じゃあ、フォウさんのことについて何か話してみてください」

「…………ほら、アレだよ。……俺はカミーユのヒロインはファよりフォウの方が適任だと思う」

「それ別のフォウですよね。強化人間の方のフォウですよね。フォウ・ムラサメですよね!?」

 

 食いかかるマシュに対して、ノアは仏頂面で言う。

 

「フォウもフォウ・ムラサメも大して変わらねえだろ。精々、夏休み明けの友達がちょっと大人びて見えるくらいだろ」

「大人びてるどころか種族まで変わってるんですが!? 夏休み中にモロッコでも行ったんですか! 股間の突貫工事でもしたんですか!」

「…………話がズレてません? フォウさんの姿が最近見当たらない、というのが本題だったはずでしょう」

 

 モロッコまですっ飛んでいった話題を、ダンテが無理矢理引き戻す。ジャンヌは呆れたように鼻を鳴らし、がたりと頬杖をついた。

 

「ダンテの言う通りね。そこのアホの話聞いてたら日が暮れるわ。何か手掛かりとかはないの?」

「そういえば、わたしの盾の中にこんなものが……」

 

 マシュが白衣のポケットから取り出したのは、一枚の手紙だった。紙は何の変哲もない材質だが、特筆すべきは裏面に滲み出た赤黒い染みである。

 血が乾いたような染みは点々と散らばっており、ほのかに鉄くさい匂いを漂わせていた。

 見るからにおどろおどろしい表面。マシュはそれを何食わぬ顔で見せびらかすと、場の空気が一瞬で冷え込んだ。

 誰もが言葉を失った中で、ペレアスが詰まりかけながら言葉を捻り出す。

 

「…………誰かツッコめよ」

「ペレアスさん。現代には言い出しっぺの法則というものがあるそうです」

「ふざけんな、こんなダイイングメッセージ的な代物に誰が触れられるか! 呪いとか籠っててもおかしくねえぞ!」

「とりあえず少年探偵団か寺生まれのTさんでも呼んできます?」

 

 立香はからかうように言った。前者を呼べば確実に死人が、後者を呼べば一瞬にして物語が終わる危険な人選である。

 ノアは若干の嘲りを込めて笑い飛ばす。

 

「たかが血糊がついた手紙程度に英霊がビビってんじゃねえ。見掛け倒しだろこんなもん。ダンテ、おまえが開けろ」

「えっ、なんで私なんですか。ノアさんがやってくださいよ」

「Eチームのリーダーに万が一があったらどうすんだ。人類の損失だぞ」

「Eチームのサーヴァントに万が一があるのも人類の損失なんじゃないんですかねえ!? そりゃあ戦闘力はナメクジ以下ですけど! あっ、ちょっと言ってて悲しくなってきました!」

 

 役目をなすりつけ合うノアとダンテ。Eチームというあまりに使いづらい集団がカルデアの主戦力となっている現状の歪みが表出した会話である。醜く争う姿に立香は深いため息をついた。

 

「良い大人が二人して何やってるんですか。こんなもの大したことないですよ。というわけでジャンヌ……」

「ふん、この流れで私がビビるとでも思った? そこら辺の呪いなんかアヴェンジャーの意地で跳ね返してみせるわよ」

 

 手紙に呪いがかかっていると決まった訳ではない。ジャンヌは無造作に手紙を手に取ると、勢い良く開封する。

 そこに書かれていた文面は一言。錆びた血文字で大きく〝ここから出して〟と綴られていた。その横には肉球の判が押されており、ずるずると力なく引きずったような跡が紙の端まで続いている。フォウくんが無事でないことはもはや明白だった。

 それが目に飛び込んできた瞬間、ジャンヌは手紙を机に叩きつけた。

 

「きゃあーっ!? 呪われるゥ!!」

 

 手紙の内容を見たマシュは顔色を青くして、

 

「た、確かにフォウさんはわたしの盾の中にいることが多かったはずですが……ということは、登場していない間ずっとあの中に閉じ込められて……?」

「ま、まさか数々の激闘の裏でこんなとんでもない事件が起こってたなんて……読めなかった、この立香の目をもってしても!!」

「一匹の命が失われてるんですけど!? その節穴アイ、指突っ込んでこじ開けてあげましょうか!?」

「視力を取り戻す秘孔はあっても眼球そのものに秘孔はな……ああああああ!!!」

 

 ジャンヌは立香の両目をぎりぎりとこじ開けようとする。立香はもがいて抵抗しようとするが、サーヴァントの筋力に勝てるはずがなかった。

 ノアはそれを眺めながら言う。

 

「待て、早とちりすんなおまえら。フォウがこれを書いたとは限らないだろうが。あの謎生物に言語を操る能力があると思うか?」

「いや、割と知能高そうだったろ。横に肉球あるし」

「そうですよ。そもそもフォウさんがいなくなったらどうするんですか。我々が代わりに画面の右下で走らされることになるかもしれないんですよ」

 

 ダンテがひとつの可能性を提示する。生憎、Eチームの男たちが画面の右下で走らされることについて心配する必要は全くもってないのだが。

 ノアは平坦な声で、

 

「……別に良くね? あのナマモノがいなくても」

 

 瞬間、マシュの手によって真っ赤に燃え滾る麻婆豆腐がノアの顔面に投擲された。

 マシュは何事もなかったかのように立香の方を向いて、話しかける。

 

「では、全員でフォウさんを探しに行きましょうか。死んでたとしても亡骸を葬るくらいはしてあげないといけませんから」

「フォウより前に俺が亡骸になりかけてんだけど。おまえこれもうアレだよ、目の前が真っ赤だよ。真っ赤っつーか真っ暗だよ」

「ポケモンセンターにでも連れて行ってあげましょうか? ああ、シオンタウンの方が良さそうですね。とびっきり深く埋葬してあげます」

「上等だ地の底からでも這い上がってやるよ。背中に気をつけろよキリエライト」

 

 そんなこんなで。

 Eチームの面々は生死不明のフォウくんを探し求めて、カルデアを隅々まで歩き回った。しかし、彼の姿は影も形も見当たらず、体毛一本すら発見することができなかった。

 第三特異点から一切の姿を消したフォウくん。そのステルス能力は並大抵のアサシンをも凌駕すると言えるだろう。

 Eチームが藁にもすがる想いで最後に訪れたのは、カルデアのドラえもんことダ・ヴィンチちゃんの工房だった。ここではかつて、複数人の優雅なおじさんをひとりに合成する狂気の実験が行われたこともある。

 マシュが勢い良く扉を開いた時、目に飛び込んできたのは、

 

「物体転送装置を利用した、異なる生物種の合体実験───準備は良いかな? ムニエルくん、フォウくん!」

 

 工房の真ん中に用意された二台の機械。それは高さ二メートル大の筒状になっており、双方が雑多なケーブルで連結されている。

 それらの装置には、それぞれムニエルとフォウくんが閉じ込められている。切腹を待つ武士のような面持ちのフォウくんとは対照的に、ムニエルは焦った様子で装置の半透明の壁を叩いていた。

 

「だっ、出してェェェ!! 訳も分からず連れて来られて合体ってどういうことだチクショー!! 俺なんてあっちの合体もまだなのに! いきなり合体なんて風情がないよ、エ○本でもそうそうないよ!? こんなザ・フライ的な合体が初めては嫌だァァァ!!!」

「…………フォフォウ(是非もなし)

「何言ってっか分かんねーよクソ謎生物!! というかなんでお前は覚悟決まってんだ! 言っちゃなんだけど俺だぞ!? もっと他にあるだろ! だいたい約半年ぶりに出演した第一声がそれで良いのか!?」

「往生際が悪いなあ、ムニエルくんは。サプライズにしようと思っていたのに、ノアくんたちにバレてしまったじゃないか」

 

 眼前の恐怖に視野狭窄に陥っていたムニエルは、ダ・ヴィンチの言葉によってEチームを視界に捉える。

 常人なら一も二もなく土下座して助けを求めていたところだろうが、彼はムニエル。スタッフの中でノアによる被害を受けた数はダントツの一位。とにかく他人の不幸が好きなEチームリーダーが、この状況を止めるようなことはしないと理解していた。

 無意識の内に、ムニエルの両膝は力を失っていた。まさに目の前が真っ暗になったのである。

 ノアは呑気に喋り出す。

 

「オイオイオイ、なに俺抜きで面白そうなことやってんだ。合体実験だと?」

「バレてしまったなら仕方がないか。これはフォウくんたっての希望でね。人間の体を得て言語を操れるようになり、出番を増やそうという試みさ」

「なるほど。ほとんど意味のない鳴き声にセリフを回す余裕はありませんからね。成功すればフォウくんの欠点を消せる大実験じゃないですか!」

フォウフォフォウ(微妙にディスるな)

 

 立香の言葉にフォウくんが同意する。

 それに食ってかかったのはムニエルだった。

 

「いや、俺の人権は!?」

 

 ダ・ヴィンチとノアは同時に首を傾げて、

 

「「じん……けん……?」」

「ぶち殺すぞドグサレマッドサイエンティストども!!!」

「口の利き方がなってねえ実験体だな。これが実行ボタンか?」

「うん。それを押せばなんやかんやで瞬間移動が行われて、ムニエルくんとフォウくんが分子レベルで融合することになるよ」

「イヤアアアアアごめんなさいィィィ!! 調子乗ってすんませんっした! あの、他の皆さんも何とか言ってやってください!!」

 

 話を振られて、マシュを含めたEチームのサーヴァント陣は答える。

 

「フォウさんを見つけ出すという目的は達成されたので、わたしはミッションコンプリートと判断します」

「どうでもいい」

「ま、合体ってのもそう悪いもんじゃないぜ?」

「安心してください。こういうのは大抵、時間が経ったらしれっと戻ってますから」

「こいつら本当に英霊なんですかァ!?」

 

 ムニエルは思わず頭を抱えて叫んだ。英霊といえど人類に恩恵をもたらすばかりの存在ではないが、特に今回の彼に運が向くことはなかった。

 抗議する間もなく、ノアの手によってボタンが押される。

 二台の物質転送装置が青い光を放つ。

 工房が隅々まで照らされ、数秒して徐々に元の明るさを取り戻していく。

 

「…………あれ?」

 

 ムニエルは呆けた声を出す。

 この世の終わりを覚悟していたが、その体には何の変化もなかった。慌てて横を見ると、やはりフォウくんの外見にもおかしいところは見受けられない。

 ダ・ヴィンチは落胆したように肩を落とす。

 

「う~ん、失敗か。生物から始めたのは性急だったかな?」

「まずは無機物同士で実験するべきだったな。ムニエル、今日のところはここまでにしてやる」

「明日も明後日もお前らの実験に付き合うことなんてねーよ! ばーか!!」

 

 罵詈雑言を吐き捨て、ムニエルは転送装置を乱暴に開けて工房を後にする。その背中を見送り、マシュは言った。

 

「何はともあれ、フォウさんが見つかってよかったですね。あの手紙は未だ謎ですが」

「ああ、あれは私のイタズラだよ。ダ・ヴィンチちゃんの天才ジョークさ」

「お騒がせ者ですねえ、ダ・ヴィンチちゃんは。これで一件落着、なべて世はこともなしということですか。はっはっは!」

 

 ダ・ヴィンチの工房に笑い声が響き渡る。

 こうして、フォウくんを巡る騒動は集結したのだった。

 

 

 

 

 

 

 その日の夜。ムニエルが就寝する前に、トイレで用を足そうとしたその時であった。

 

「………………」

 

 ムニエルのムニエルがフォウくんのフォウくんになっていた。何がとは言わないがナニがそうなっていた。

 

「───なんでここだけ入れ替わってんだァァァ!!!」

 

 彼の悲痛な叫びがカルデア中に響く。

 その悲しみは、誰にも伝わることはなかった。




クラス︰ライダー
真名︰ペイルライダー(黙示録の騎士)
属性︰混沌・悪
ステータス︰筋力 B 耐久 B 敏捷 A+ 魔力A+ 幸運 B 宝具 A++
クラス別スキル
『騎乗︰A+』……竜種を除くすべての獣、乗り物を乗りこなすことができる。
『対魔力︰E』……魔術の無効化は出来ない。ダメージ数値を多少削減する。肉体を得たことで魔力の干渉を受けやすくなっており、魔術的な防御力が低下している。原典の黙示録の騎士はA++ランクの対魔力を持つ。
固有スキル
『黙示録の騎士︰A+』……ヨハネの黙示録に記された第四の騎士。地上の四分の一の支配と、人間を殺す権威を与えられている。その土地の魔力を吸い上げることでマスター無しでも活動可能な単独行動スキルと、同ランクの魔力放出スキルを内包する。
『殺戮の権威︰B』……人類に対する特攻を有する。また、人類からペイルライダーに対しての攻撃を遮断する効果も併せ持つ。サーヴァントの霊基でこのスキルを再現できるのはBランクまで。原典通りの黙示録の騎士には人の作り出した道具や概念では、一切の傷を与えることができない。殺すには神造兵装などの人以外の手によって作られた武装でなくてはならない。
『死病の風︰A』……黙示録第四の騎士が持つ、疫病を操る能力。サーヴァントにも感染し、対魔力で防ぐこともできない。ただし、どこかの婦長には全くの無力である。
宝具
『第四封印・終焉招く死病の風』
 ランク:A++ 種別:対人類宝具
 コヴェナント・アルマゲドン。黙示録に語られた終末の騎士が側に連れていると言われる黄泉(ハデス)を具現化し、現世を冥界に塗り替える固有結界。彼が発する黒い瘴気は可視化するほどの『死』であり、常人ならば触れただけで、サーヴァントでも数秒で死に至る。が、死そのものと死を回避するペレアスの宝具とでは相性が悪すぎた。
 基本的に対象が人間、もしくは人間の血が入った存在なら問答無用で、その他の生物でも尽くを殺すことができるが、無機物には効果を発揮しない。
 人間への殺意に満ち溢れた宝具だが、ペイルライダーの本質は主の遣いである。世界に終末をもたらすことで救世主が統治する千年王国を打ち立て、主が行う最後の審判にて全ての善き人を救う。彼の破壊の裏には常に再生があるのだ。


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第五特異点 鋼鉄の白衣 北米神話大戦・イ プルーリバス ウナム
第39話 アメリカよいとこ一度はおいで


 気付いた時から、息苦しさがあった。

 四方を壁に囲まれて。

 ケースの中のマウスを飼育するように。

 籠の中のカブトムシが死んでいくさまを眺めるように。

 要は、わたしの存在はそんなものでしかなかった。

 英霊との融合が叶わなかった実験動物は、もはや失敗作ですらない廃棄物だ。ただそれが、世界でおそらく唯一の廃棄物であったから、生きることを許されたに過ぎない。

 普通に生きていれば得られるはずの喜びも悲しみも苦しみも、そこではすべてが無味無臭。あの人の働きによって施設を歩くことを許されても、それはさして変わらなかった。

 本当の空の色を、真実の土の匂いも知らない人間が何を糧に生きろというのか。

 わたしにとって生きるという行為は、真っ白なキャンバスに白い絵の具を塗りつけることと同じだった。

 けれど、いつからかわたしのキャンバスは鮮烈に彩られるようになって。

 そこで、明確に思ったのだ────

 

「───マシュの寿命はもう一年も持たない。……ごめん、キミたち二人には、もっと早く伝えておくべきだった」

 

 第五特異点へのレイシフトの前日、いつになく真剣な表情でロマンは言った。

 時刻は深夜。廊下は今までの静寂が嘘のように静まり返る。立香(りつか)が初めに覚えた感情は思考を空白にする驚愕。そして、後に続く悲哀が表層に現れる前に、ノアは鼻を鳴らす。

 

「だったら、俺たちがやることはひとつだな。あいつを延命させて、その間に治す方法を見つける」

 

 一拍の間を置いて、立香は素っ頓狂な声を出した。

 

「できるんですかそんなこと。私今から泣こうと思ってたんですけど」

「……マシュは元々30歳程度で寿命を迎えるはずだったのが、さらに短くなったんだ。彼女が短命なのはむしろ正常で……ボクも二人と一緒に泣こうと思ってたんだけど」

「アホかおまえら。泣いてる暇があったら頭を動かせ」

 

 ノアは壁に背中を預ける。

 

「俺の一族はヤドリギを使って不老不死を実現しようとしていた。俺が改良する前の粗悪な術式でも五百年は生きられたしな。そもそも、死ってのは万人に定められたことだろ。それを引き延ばすのはむしろ得意技だ」

「でも、ヤドリギで長生きできるのはリーダーの一族の人だけですよね? 体質が合わないから、生命力を吸い取られて死んじゃうって言ってたじゃないですか」

「うん。流石にマシュが木像にされるのは困るね」

「……ヤドリギにもうひとつ無属性魔術を加えて、あいつの体とも共生できるようにする。今思いつく中だとこれが最善策だ」

 

 まあ、とノアは続けて笑った。

 

「何はともあれ、まずは目先の特異点だ。俺たちが負けたら、あいつを助けるどころの話じゃなくなるからな」

 

 そう語る彼の姿はどこか眩しくて。

 

「俺たちが目指すのは、完全無欠の大団円だ。誰ひとりとして欠けさせてたまるか」

 

 何の気負いもなく、普段通りに言ってみせる。けれど、軽々しい印象は微塵も見受けられず、むしろ重い覚悟さえ感じられた。

 あの日、奪われたものはもう二度とは戻ってこない。だからこそ、今残ったものだけは護り抜くと。彼はそう言っているのだ。

 

「…………っ」

 

 じくり、と何か熱のようなものが込み上げて。

 立香はノアとロマンの手を取って言った。

 

「二人も、体に気を付けないと駄目ですよ。ドクターは過労気味だし、リーダーはどうせ治るからって怪我ばっかりしますし。誰が欠けてもいけないんですから」

 

 それを聞いて、ロマンは苦笑する。

 

()()()()()()()()()()、か。……うん、その通りだ」

 

 握り返すその手の力は、弱かった。

 

「───という訳なので、みなさん存分にわたしを労ってください。ええ、遠慮はいりません」

 

 第五特異点へのレイシフト当日。

 いつも通り管制室にEチームとロマン、ダ・ヴィンチが集まったときのことである。

 マシュは妙に据わった目で言った。ハムスターのように頬を膨らませながら、両手の菓子パンをむしゃむしゃと口に運ぶ姿には普段の真面目さの欠片も見当たらない。

 憎たらしいほどにふてぶてしく育ったなすびを見て、ノアは他のメンバーに振り向いて言う。

 

「おい、やっぱやめるかこいつ助けるの」

 

 ロマンは苦々しい笑みを浮かべて、

 

「いや、それは流石に……なぜこんなになってしまったかはとても疑問だけど、人間らしさは増したというか……」

 

 成長した娘の朝帰りを心配する父親のような心境だった。小一時間問い詰めたいことは確かなのだが、その結果相手の不興を買うことを恐れた心持ちである。

 それを知ってか知らずか、マシュはコフィンの上に腰掛ける。円筒状の装置の上に座ることになるため、自然と他の人間を見下ろす形になった。

 

「なぜわたしがこんなに柄でもないことをしているか分かりますか? 普段はあんなに優等生真面目系後輩キャラなのに」

「自分で言うな。それにアンタは普段から割とアホ寄りじゃない」

「そこですよ、ジャンヌさん。リーダーや先輩に対抗するため、わたしはあえてIQを下げたのです」

「人はそれを本末転倒と言う……」

 

 ロマンはさあっと涙を流す。

 争いは同じレベルの者同士でしか発生しないとはよく言うが、マシュは相手と同じレベルに成り下がって戦いを挑むバーサーカーである。本末転倒の極みだ。

 しかし、自分たちがマシュより下にいると言われたノアと立香が黙っているはずがない。実際その通りなのだが。

 彼らは示し合わせたかのように反論する。

 

「妄言もここまで極まると清々しいな。測ったことはないが、俺のIQは八兆は行くだろうからな」

「本当ですよ。私なんてローマ帝国の軍師までやったんですし、偏差値に換算したらそれこそ六億はくだらないんじゃ……?」

「お前ら、その発言がもう馬鹿だってことに気付いてるか?」

 

 冷静に指摘するペレアスにダンテが続く。

 

「まあまあ、マウントの取り合いほど醜い争いもないでしょう。今回の特異点も激闘が予想されることですし、ここらで復習しておくのはどうですか」

 

 マシュまでもがマスター二人に追随し始めた今、この場の抑え役は彼しかいなかった。混乱を避けるために話題を切り替えるファインプレーである。

 向かうことになる特異点については、例のように予習をしている。が、今回は敵の黒幕が判明した直後という事情がある。改めて兜の緒を締める必要があった。

 ダ・ヴィンチは頷くと、手元のタブレット端末にアメリカの地図を映し出す。

 

「これから向かうのは1783年の北米大陸だ。この年はアメリカとイギリスの間でパリ条約が結ばれ、アメリカの独立が認められた。ここが歪めば後の世界の歴史を主導する国が存在しなくなる……まさしくターニングポイントというわけだ」

「特異点の規模も人理定礎値も今までで最大だ。現代におけるアメリカの立ち位置を考えると、当然と言えば当然だね」

 

 ダ・ヴィンチとロマンはそう説明した。

 人理定礎値とはその時代の歴史への影響度、重要度を表す。今回の特異点はこれまでで最大の重要度を誇る場所ということだ。

 アメリカの功罪は別にして歴史を鑑みた場合、この国の消失は現代の世界を根底から作り変えてしまうだろう。数々の発明も娯楽も無くなってしまうのだから。

 立香は腕を組みながら、頭をひねる。

 

「パリ条約っていくつもあって分かりづらくないですか? たまにはハワイとかでやれば良いのに」

 

 パリ条約と名のつく条約は中世から近代までいくつも存在する。もちろん内容もそれぞれ違うため、立香のような学生には鬼門であった。

 マシュは菓子パンの袋をガサガサとまとめて、ゴミ箱に放り込む。

 

「パリは何かと国際会議の舞台になることが多いので、条約も増えてしまったという経緯があります」

「どうせ特異点では殴り合いしかしないんでしょう。覚えておく必要はないわね」

「それは流石に脳筋が過ぎるのでは……? オルレアンのキレたナイフは伊達じゃないですね」

「まあ、それが真理であるとは思いますがねえ。アメリカの特異点も一筋縄ではいかないでしょうし」

 

 ジャンヌの言う通り、今までとやることは変わらないのは確かであるが、第五特異点はまたさらに異なる事情を孕んでいた。

 ダンテは補足する。

 

「この特異点にも存在するであろう『暗黒の人類史』のサーヴァントですが、今回はより注意してもらうことになると思います。私の記憶の限りだと、少なくともオティヌスと同等の力を持っているはずなので」

 

 かつて彼は第四と第五の特異点に送られた英霊は警戒すべき、と言っていた。前回、圧倒的な猛威を奮ったオティヌスと同等以上の力を持っているとなれば、その言は妥当と言えよう。

 聞いて、立香は訝しんだ。

 

「いつも思うんですけど、ダンテさんの記憶ってあまり当てにならないですよね」

「はうっ!?」

「確かに。言うことがイチイチ抽象的なんだよ。そういうのはお前の作品くらいにしておけ。天国篇意味分からなかったぞ」

「ペレアスさん、私が本当に気にしてることを言うのやめてください。研究者が色々考えてるの見て心苦しいんですから!」

フォフォウフォウフォウ(理解しづらいって言ってるから仕方ないね)

 

 どこからともなく現れたフォウくんが、ダンテの頭の上に着地する。長らく姿を消していた彼だが、どうやら出てくるのも自在らしい。

 フォウくんは我が物顔でコフィンの中に入り込む。さも当然かのように座る彼を見て、ノアはじとりとした目つきを向けた。

 

「こいつまた着いてくるつもりか? おまえみたいな下等動物にやる出番はねえぞ」

フォウフォウ(黙れクズ人間)

「よーし、よく言った。おまえにはEチームの非常食として役に立ってもらう」

「なんで人外と会話できてるんですか。それよりもリーダーは私たちとはぐれないようにしてくださいね」

 

 立香は口を尖らせて咎める。

 第三特異点、第四特異点と続けて、彼らのレイシフト初期位置は大いにかけ離れているのが現状だ。

 歪みの強度が強い特異点故の現象であろうが、常にイレギュラーに巻き込まれるのはもはや呪いの域であった。

 ノアはなぜか得意気に鼻で笑う。

 

「そりゃこっちの台詞だ、藤丸。リーダーのいる場所が常に正しいんだよ。つまり、俺がはぐれたという表現は当てはまらない。俺がルールだ」

「それ言って良いの釈迦とジャイアンくらいだと思うんですけど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紅き魔槍が閃く。

 肩口を割られ、鮮血が飛び出す。

 しかし、彼は神の分け身たる大英雄。その程度の傷は足を止める理由にもならなければ、剣を振るう障害にもなりはしなかった。

 

「───『羅刹を穿つ不滅(ブラフマーストラ)』!!」

 

 光輪の刃が奔る。

 かつて、人にしか倒せぬ不死の魔王を斬り裂いた勇者の一撃。空間を割るかのような威容は、あらゆる生命にとっての致命傷となる威力を秘めていた。

 だが、

 

「破れかぶれだ」

 

 狂王はその一刀を些事と切り捨てる。

 四足獣の如き駆動を以って光輪を潜り抜け、徒手となった相手へ槍を繰り出した。

 眼前に迫る打突。決して逃れ得ぬ死の予感。頚椎に氷柱を差し込まれたかのような悪寒が走る。

 無意味な足掻きと知りながらも足を運んだその瞬間だった。

 

「『大地を創りし者(ツァゴ・デジ・ナレヤ)』」

 

 絢爛たる猛き陽光が降り注ぐ。

 一軍を滅して余りある光がひとつの束となり、狂王と大英雄との間合いを断ち割った。

 追撃を一足飛びに躱し、狂王は不満気に息を吐く。その視線の先には、巨躯のコヨーテを従える褐色の男がいた。彼が背負う太陽はなおも猛々しく、まばゆいばかりの光を放っている。

 がくり、と大英雄は膝をつく。

 見れば、彼の体には肩口だけでなく至る所に傷が刻まれていた。それでも、身に纏う気勢が少しも衰えていないのは、彼の英雄たる由縁であろう。

 男は手負いの英霊の元に駆け寄ると、己が得物を構えて狂王に向き直る。

 

「逃げろ。ここはじきに死地と化す」

 

 簡潔な要請。男の声音は至って冷静であるものの、どこかに焦りがあった。

 同時に、その言葉は端的な事実を指し示している。魔槍を振るう狂王との相対をしても、この場所が未だ死地ではないということを。

 大英雄は改めて敵を睨む。

 禍つ凶槍を携える偉丈夫。

 殺気、邪気、鬼気。あらゆる不吉な言葉を以ってしても、彼が放つ死の空気には程遠いとすら思える凶兆。

 その肉体は至上の鎧と見紛うほどに磨かれ、圧倒的な武の瘴気を撒き散らしている。

 これに加えて新たな脅威が訪れるとすれば、後はまつろわぬ邪神くらいなものだろう。だとしても、魔王を討った勇者に撤退の選択肢はなかった。

 ここで狂王を討たねば、殺戮の嵐が吹き荒れることが目に見えていたから。

 首を振って立ち上がろうとしたその時、赫々と大地を照らしていた陽光が消え失せ、辺りが一瞬にして薄暗い闇に染まる。

 ぴしゃり、と遠雷が高鳴った。

 冷えた空気が流れ込み、身を打つ弾雨が地面を暗い色に塗り変える。

 狂王は舌を打ち、吐き捨てた。

 

「来やがったな───亡霊が」

 

 はたたく雷電。

 雨雲の隙間に、二つの眼光が灯った。

 蒼き閃電がその輪郭を浮かび上がらせる。

 地上を覆い隠すのではないかと思わせる巨大な体躯。血に塗れた牙から滴る毒液は落ちた途端、たちまちに地を抉る。

 きらびやかな虹色の鱗は星の輝きにも劣らぬ凄艶さを発している。が、思わず目を背けてしまいたくなる凶相をたたえていた。

 それが身をよじるだけで大気は撹拌されて唸りをあげ、周囲の草木は風に煽られてのけぞる。

 ありとあらゆる自然の暴虐を体現する存在。

 その正体は空を泳ぐ大蛇。虹色に輝く蛇神であった。

 空気を震わせ、その口が大きく開く。それはまるで冥府の穴。並び立つ牙は地獄の針山よりも一層刺々しい。

 

「ここは、我らの土地だ。化外の者が踏み荒らすことは許さぬ」

 

 雷鳴を吹き飛ばす怒声が響き渡る。

 世界そのものを揺らすかのような大音声(だいおんじょう)は、ずしりと腹の奥に振動を伝えた。

 言の葉に込められた感情は、この世の地獄をも幻視させるほどのとめどない殺意。

 

「最悪を想像しろ。それを絶する苦痛を以って、その薄汚い生命を散らしてやる」

 

 ───その巨眼は白く濁っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 砂を含んだ乾いた風が吹く。

 西部劇の町並み。舗装されていない大通りを回転草がころころと移動し、物寂しい風情を織り成す。

 簡素な木造りの酒場の中、堅い雰囲気が取り巻くカウンターに、ひとりの女が腰掛けた。彼女は一息つくと、酒場のマスターに話しかける。

 

「水と、何か空腹を満たせるものを」

 

 ───彼女の名はマシュ・キリエライト。荒野を身ひとつで流浪する、凄腕の仕事人であった。

 否、身ひとつという表現には誤解がある。

 女が脇に立て掛けた得物は拳銃でもライフルでもなく、身の丈ほどの巨大な盾。数々の戦いを共にしてきた立派な相棒だ。少しばかり無口なところが玉にキズなのだが。

 周囲の客がざわめき立つ。華奢な体でそれほどの大きな武器を振り回せるのかという疑問が原因だ。が、眉目秀麗な彼女にちょっかいをかけようとする者は誰もいなかった。

 ひとりで荒野を抜け、この酒場に辿り着いた。それこそが何よりの実力の証明であるからだ。

 そんな喧騒は気にも留めずに品を待っていると、マシュの右手の甲に何かが当たった。

 琥珀色の液体が注がれたショットグラス。おそらくカウンターを滑ってきたであろうそれを見て、彼女は右を振り向く。

 

「……これは?」

「荒事を生業にする先輩からのプレゼント、ってところさ。お嬢ちゃんには刺激が強すぎたかな?」

 

 そう言ってはにかんだのは、綺麗に染め抜いたかのような赤毛の少女。マシュと年頃は変わらず、しかしどこか浮世離れした雰囲気を纏い持っていた。

 どくりと心臓が高鳴る。

 これは果たして何を意味するのか……

 

「…………そう、これこそが後に荒野の麗しき狼と呼ばれる二人の出会いだっ──」

「やっとる場合かーっ!!!」

 

 瞬間、ジャンヌの手によって立香とマシュの頭がカウンターに叩きつけられる。

 二人の頭部は見事に木製の机にめりこみ、辺りに破片がぱらぱらと溢れる。酒場のマスターは場慣れしているのか、淡々とグラスを磨いていた。

 ジャンヌは持ち前の黒炎をも立ち昇らせる勢いでまくし立てる。

 

「長いのよ茶番が! 新手の西部劇を始めてる場合じゃないでしょうが!! 誰が荒野の麗しき狼!?」

 

 マシュはまず自分の頭を引き抜くと、立香の胴体を持ち上げるようにして救出する。彼女たちは血で真っ赤になった顔をとぼけた表情に歪めた。

 

「まずは流石のツッコミと褒めておきましょう。もう少し優しくしてくれると助かったのですが。おかげで寿命が一週間は縮まりました」

「う〜ん、荒野の麗しき狼はダメかぁ。他にも色々あったんだけどね。『荒れ地に咲く彼岸花』とか『美しすぎる死神』とか」

「どれも絶妙にダサいんですけど。誰が考えたのよ」

フォウ(私だ)

「露骨に前に出るようになったわねこの謎生物……センスも終わってますし」

 

 ジャンヌのじとりとした視線がフォウくんを貫く。

 どこかの黒髭や被虐的な趣味を持つ人々にとってはご褒美以外の何物でもなかったが、あいにくフォウくんはそこまで倒錯的な趣味は持ち合わせていない。丸焼きにされる自分の未来しか見えなかった。

 マシュは顎に手を当てて、頭を悩ませる。

 

「フォウさんのネーミングセンスはジャンヌさんのお気に召さないようですね。何なら良いんですか?」

「別に何でもいいわよ、アンタらのコンビ名なんて」

「「じゃあ、チャゲアンドアスカで……」」

「西部劇要素が死んでるじゃない! 性別も変わってるし、これならさっきのがまだマシだったわ!」

フォウフォウフォフォウ(どっちがどっちなのか分からない)

 

 立香とマシュは互いに向き合う。

 

「マシュがチャゲじゃないの?」

「え、てっきりわたしは先輩がチャゲかと」

「そこ、チャゲの押し付けあいをするな! 角が立つわ、色々と!」

「『あの〜、楽しそうなのは結構なんですが、外にサーヴァントの反応があるんですよね。三つほど』」

 

 見かねたロマンから通信が入る。直後、酒場の扉が勢い良く開け放たれ、ドアベルが軽快な音を立てた。

 三人と一匹は反射的に後ろを振り向いた。

 そこにいたのは、

 

「美少女の気配がするから来てみれば、なんと大当たりではないか! おまけに珍妙な生物までいる始末──やはり余の見立ては間違っていなかったな!」

「あれ? オレらの目的って大陸縦断美少女探しの旅でしたっけ? そりゃ男としてはありがたいことこの上ないんですがねぇ」

 

 ウェディングドレスのような白い装束を着た少女と、緑衣に身を包んだ明るい茶髪の男。目を爛漫と輝かせる少女とは裏腹に、後者は呆れたように頭を掻いていた。どことなく苦労人の雰囲気がする男である。

 三人の目を惹いたのはその少女。端に目立つからということではなく、彼女の顔が忘れようもない既視感を掻き立てたからであった。

 立香は目を見開いて声をあげる。

 

「ネロさんじゃないですか! 久しぶりですね! ローマ帝国軍師の藤丸立香です!」

 

 けれど、ネロは小首を傾げるばかりだった。

 

「むぅ、ファーストコンタクトが良好なのは何よりだが、我が軍にそなたのような可憐な軍師はいなかった気がするのだが」

「……覚えてないの? 任命したのは自分でしょうに」

「いえ、覚えていないというよりは知らないのでしょう。サーヴァントとは英霊の座から喚び出される写し身なので、必ずしもあのネロさんの記憶を持っているとは限りません」

「『そうだろうね。装いも新たにしているようだし、ボクらが出会ったネロ皇帝とは少しばかり事情が違うんだろう』」

 

 マシュとロマンの解釈を聞いて、立香とジャンヌは納得する。一方的に理解を進める彼らだったが、そこそこの事情を察したネロはうずくまって床を叩く。

 

「くっ! 何をやっておるのだ英霊の座は! 気の利かないやつめ! せめて余が出会った全世界線の美男美女の記憶くらいは入れておけ!!」

「えー、そこのイモムシは置いといて、アンタらは何者だ? 初対面同士、自己紹介といこうぜ。ちなみにオレはロビン・フッドな」

 

 そこで、立香たちは自らの名前を名乗るとともにカルデアの事情を説明することになった。現地のサーヴァントに対する恒例のイベントである。

 これまでに攻略してきた特異点の簡単な概要と、世界を取り巻く危機。ロビンは想定していたより遥かに重い事件に巻き込まれていたことに気付くと、力なく項垂れていた。

 

「世界を救う戦い、かぁ〜……オレにはちょっと荷が勝ちすぎる話だ。大統王とケルトの連中だけでも胃が痛いっつうのに」

「『萎えているところ悪いんですが、こちらの情勢も説明してもらえませんか?』」

「うむ。とはいえ、そこまで複雑な話でもないぞ」

 

 復活したネロが語ったのは以下の通り。

 戦争の勝利によって晴れて独立を勝ち取ったはずのアメリカだったが、突如発生したケルトの軍勢の攻撃を受けて、アメリカ軍は半壊滅状態に追いやられてしまった。

 ケルト軍の首魁は世に名高き妖婦、女王メイヴ。アメリカの独立が阻まれたことがこの特異点が発生した原因と見て間違いないだろう。

 メイヴ率いるケルト軍に対抗するべく立ち上がったのが、大統王を名乗るサーヴァントが立ち上げた新生アメリカ軍であった。現在、この北米大陸は女王と大統王の勢力が鎬を削る戦乱に包まれている。

 立香は考え込む素振りをしながら言う。

 

「ってことは、私たちはその大統王に味方すれば良いんですか?」

 

 本来の歴史を歪めたのはケルト軍だ。彼らが聖杯を抱えている可能性は非常に高い。アメリカ軍に協力することで事態の解決を図ることは当然の流れと言えた。

 だが、ネロは気難しい表情で答える。

 

「余も初めはそう思った。しかし、大統王も大統王できな臭い雰囲気がするのだ」

「『それは、一体どうしてですか?』」

「奴らが掲げる目標がケルト軍の打倒よりも、アメリカの存続を優先しているからだ。国の在り方としては理に適っているが、大敗北を喫した後でその言い草は不気味にすぎる」

「なるほど。未だ危機的状況にあるのにも関わらず、その目はケルト軍に向いていない……何か事情がありそうですね」

 

 マシュの意見にネロは頷いた。

 話の最中、ジャンヌはそこかしこに目を配っていた。ネロとロビンが敵でないことが分かった以上、詮ないことのように思えたが、彼女は重要な事実を指摘する。

 

「事情は理解しました。ところで、サーヴァントの反応は三つだったんでしょう。残りのひとりはどこにいるのかしら」

 

 問われ、二人はぎくりと震える。ロビンは億劫さを隠しもせずに、両の手のひらを数度打ち付けて呼び出す。

 

「非常に気乗りしませんが、オレらの最後の仲間を紹介しまーす。ほら、入ってこい」

 

 酒場に乗り込んでくる少女のシルエットは、ある意味ネロよりも立香たちの記憶に残っていたものだった。

 目に優しくない色合いのシルクハット。服装も同じく毒々しい色味で、年頃の少女でも憚られるコーディネートである。

 彼女はあざといウィンクをして言い放つ。

 

「アメリカに舞い降りたトップオブトップアイドル───荒み切った人の心に光を灯すハイパーウルトラ超絶美少女───そうっ! 私はエリザベート・バー……」

「「「うわでた」」」

「何よその反応!!?」

 

 ライブと称してジャイアンボイスを振りまく破壊の権化がそこにいた。

 立香は眉をひそめて、

 

「もう何回出てると思ってるんですか。フォウくんなんか最近まで空気以下の存在感だったのに」

フォフォフォウ(あれ、なんだか涙が)……」

「味のしないガムですね」

「なんとか爪痕残そうとするひな壇芸人ね」

「『ボクもこの流れに乗っかって……あ、ダメだ。何も思いつかない』」

「それが一番傷付くわっ!!」

 

 もしここにノアがいたなら、ありとあらゆる罵詈雑言が飛び出していたところだろう。四度目の登場となったトカゲアイドルを放っておいて、マシュはネロを向く。

 

「そうだ、ネロさんに訊きたいことがあるんです」

「む、余のスリーサイズか? 趣味は芸術鑑賞と劇場公演と後先考えぬ浪費と……」

「お、多い……そうではなく、シモン・マグスという人物のことについてなのですが」

 

 シモン・マグス。新約聖書の使徒行伝に登場する人物であり、グノーシス主義の開祖とも言われる魔術師。ファウストなど、後世に登場する悪魔と契約した人物の原型とする説もある。

 反キリスト教の人物として知名度が高く、最期は十二使徒のひとりであるペテロによって、空を飛ぶ奇跡を使っていたところを撃ち落とされて墜落死した。

 シモンは常に側に連れていた聖娼ヘレンをソフィアと呼んで崇拝していた。人理焼却事件のカルデアに続く第二のイレギュラー『暗黒の人類史』。それを各特異点に送り込んだ知恵の女神ソフィアとシモンに関係があることから、マシュの質問の真意はそこにあるのだろう。

 ネロはその名前を聞き、顔を晴らす。

 

「おお、シモンか! それなら余に訊いたのは正解だ。シモンは余の宮廷魔術師であるからな。魔術の腕前を褒め称えて石像まで造ったこともある!」

「宮廷魔術師……第二特異点のアイツと同じじゃない。嫌な予感しかしないわ」

「ノアトゥールというマスターのことか。余が認めたのなら、その者もかなりの魔術師なのであろう。それで、訊きたいこととはなんだ?」

「はい。シモン・マグスが常に側に置いていたというヘレンという女性のことを教えてください」

 

 ネロはむっと唇を結んだ。

 

「ヘレン……()()()()ではなくてか?」

 

 全員の頭に疑問符が浮かび上がる。

 エリザベートはなぜか上から目線で、

 

「ヘレネーって、トロイア戦争の絶世の美女でしょ。時代が違うじゃない。ま、美しさなら私の方が上なんだけど」

「そこのトカゲ女の妄言は知らねえが、そのシモンだかはヘレンのことをヘレネーって呼んでたんだろう。多分」

「そういうことになりそうですね。どんな人だったんですか?」

 

 立香が問いを投げると、ネロは胸を張って答える。

 

「うむ、それはもうとびっきりの美人であったぞ! 後宮にもあれほどの美女はいなかった。流石の余もうっすら憧憬を覚えたくらいだ。魔術もおそらくシモンと同等以上には使いこなしていたな。ただ、人柄についてはよく分からぬ」

「というと?」

「ヘレン…ヘレネーは無口でな。余が彼女と言葉を交した数は片手で事足りる。おまけに表情も乏しかった。余の劇を見てもくすりともしないのだぞ、信じられるか!?」

「なんですって!? 感情がないのかセンスが明後日の方向にぶっ飛んでるとしか思えないわ!」

 

 エリザベートは目を丸くして驚いたが、彼女以外の全員は心を一緒にしていた。それは信じられる、と。失笑すらしないのは確かに驚愕に値するが。

 ともかく、ネロから得られる情報は打ち止めだった。シモンとソフィアの関係性と、ヘレネーの人となりを知れたのは有益なやり取りと言えるだろう。

 ロマンはこれからの方針を提案する。

 

「『まずはノアくんとの合流を目標に設定しよう。彼らと通信は取れないが、幸い現在位置は掴めている。かなり遠い地点だから、情報を集めつつね』」

 

 立香たちは力強く首肯した。

 

「よし! では行くぞ!」

 

 勢い良く踵を返そうとしたネロだったが、時間が止まったようにぴたりと停止する。

 

「……そういえば、グループ名を決めていなかったな。単にレジスタンス、では趣がないであろう」

「ユニット名ね。『エリザベートとゆかいな仲間たち』は?」

「ちゃっかり主役の座を奪うなよ。センターはカルデアの三人娘に譲ってやれ」

「私は名前なんかどうでもいいわ。立香、決めなさい」

 

 ジャンヌに唐突に振られ、立香は泡を食って、

 

「えーっと……ろ、ローマ! ローマ合衆国で!」

フォウフォフォフォウフォウ(センターを明け渡してるんですが)

「ローマ合衆国───なるほど、これは北米大陸に新たなローマを建国せよということだな!? 悪くない、むしろ良い! この地に神祖ロムルスと余の名前を轟かせてみせようではないか!!」

「『ああ、心配だ…………』」

 

 管制室のロマンは無意識にポケットの中の胃薬をまさぐっていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ノアたちが降り立ったのは、一面の荒野だった。

 アメリカには二つの顔がある。

 様々な事情を抱えた人間が行き交う大都市と、のどかで雄大な自然が広がる田舎。1960年代のアメリカでは数多の放浪者を産んだヒッピー文化が花開いたが、彼らが自然の景観に魅せられたのも頷ける絶景であった。

 ただし、男三人のむさ苦しいパーティでは感動できるものもない。自然を神の芸術であると言い切ったダンテだけは例外だったが、ノアとペレアスはどこまで歩いても変わらない光景に不満を隠しきれていない。

 緩やかな風の流れだけが音を奏でる静寂の場を打ち破ったのはペレアスだった。

 

「なんかこう……アレだな。人間の住む場所なんて手狭なくらいがちょうどよく思えてくるな。現代人の気持ちが分かった」

「良いことを言いますね。私は子どもが四人いたので、使用人を困らせてばかりでしたから。ただ、彼らのために部屋を多くしてあげたいというのも親心でして。難しいものですねえ」

「……別に現代人全員が好き好んで狭い部屋に住んでる訳じゃねえけどな。どの国も都会と田舎じゃあ比べ物にならないくらい地価が違う」

「人が増えたことも影響しているのでしょうねえ。ペレアスさんもそうだと思いますが、私の時代では少子化が問題になるとは思ってもみませんでしたよ」

 

 ペレアスは気のない声で同意する。

 

「単純に娯楽が少なかったからな、ブリテンは。食うか寝るか戦うかくらいだ。一回、オレの部隊の奴が娼婦にハマって大変な目になってた」

「昼ドラみてえなのはランスロットだけにしておけよ」

「そもそもアーサー王の生まれも昼ドラじゃありません? よく立派な王様になれたなと思うくらいには」

「まあ、そこはケイ卿がいたからな。王妃が襲撃された時、死体と一緒に死んだふりしてたのは流石に殴ったが。……というか」

 

 彼は立ち止まって、

 

「なんか、いつもより真面目じゃねえか。オレたち」

「…………話すこともなくなってきましたからね。実を言うと、どのタイミングでしりとりを始めようか迷ってました」

「仕方ねえな。ダンテ、UNO出せ。リーダー命令だ」

「いや、歩きながらできねえだろ」

 

 三人の間に何とも言えない空気が流れる。

 鬱々とした感情に支配されそうになるが、それを止める気力のある人間はここにはいなかった。

 ペレアスとダンテは気の短い方ではないのだが、ノアはその真逆。魔術師らしく意味のある待ち時間なら堪えることはできるが、反対に目的も何もない今の状況はまさに不得手だ。その不満がペレアスとダンテに伝染するのも半ば必然と言えよう。

 鈍化した思考では無理やりテンションを上げることもできない。頭の回転が鈍くなった方が真面目になるという逆転現象が起きていた。普段、どれほど無駄なことに頭を使っているか端的に表す現象だ。

 ダンテは気恥ずかしそうに手を挙げた。

 

「私、ちょっと小の方が催してきたので、そこの林の方で済ませてきますね」

「……そう言われるとオレもしたくなってきたな。ノア、お前は」

「待て、おまえら。良いことを思いついた」

 

 ノアは顔に影を落とす。その表情は真摯そのものであり、鬼気すら発している。

 

「荒野のど真ん中で用足したらめちゃくちゃ気持ちいいんじゃね───?」

 

 重ねて言うが、彼らの頭はほとんど回っていない。

 だから、

 

「「確かに────!!!」」

 

 こうなるのも、当然の帰結なのだ。

 もはやこのアホ三人を止められる者は存在しない。立香たちがいたならペレアスとダンテは断っただろうが、無人の場所では周囲への配慮も何もなかった。

 小高い丘の上に登り、彼らが自然への冒涜に手を染めてから数秒後。出すものを出している真っ只中で、ダンテは正気を取り戻す。

 

「…………いや、私たち何をやってるんですかねえ!!?」

 

 ノアは平坦な声で返事する。

 

「見て分かんねえのか、何ってナニ以外の何物でもないだろ」

「そうですけれども! え、危機感とか覚えないんですか大人として!?」

「おいおい、危機感の話をするならまず目を向けるところがあるじゃねえか。こんなくだらない話を39話も続けてるという事実に」

「あの、ペレアスさんまでそういうことを言われると私の立つ瀬がなくなるんですが!? せめて私たちだけは誇りを持っておきましょうよ!! あっ、少し手にかかった!」

 

 慌てふためくダンテに、ノアはへらへらと笑いながら唇を動かす。

 

「誇りを持てって言い分も理解はできる。なんたって男は股間にライトセーバーぶら下げてるジェダイの騎士だからな。おまえもフォースと共にあれよ」

「私たちのはフォースというかホースですから! シスの暗黒卿の方がよっぽど合ってますよ!」

「うるせえ俺のフォースライトニング喰らいたくなければ黙ってろ」

「どこから出すつもりですか!? え、もしかしてあそこからじゃないですよねえ!?」

 

 道端に転がっている犬の糞以下の会話を行う彼らの背中を、聞き慣れない声が叩く。

 

「おい、そこで何をやってる! ここはケルト軍の領地だぞ! 名を名乗れ!」

 

 振り向いた先には、軽装のケルト兵。ケルトの一般的な兵装である槍と盾を手にしており、その穂先はノアたちに向いている。

 思わぬ闖入者。三人は視線を交差させると、同時に言葉を返した。

 

「「「……ルーク・スカイウォーカーです」」」

「貴様らのようなルークがいるかァァァ!! 下半身を丸出しにしているジェダイなど見たこともないぞ! フォースの前にパンツと共にあれ!!」

「チッ、細けえ奴だな。穿けばいいんだろう穿けば。直接的な描写をしてなければセーフだろうが」

「その前に人として大切なものを失ってるだろうが!」

 

 平時なら、ほぼ蛮族に近いケルト兵が言っても説得力はなかっただろう。狂人はより深淵の狂気に触れた時、常人に戻るのだ。

 大声で騒ぎ立てていると、ケルト兵がぞろぞろと集まってくる。中にはケルトの祭祀を司るドルイドまでもが紛れていた。

 ノアの目に光が戻る。ケルト民族もヤドリギを信仰対象とし、彼もドルイドの魔術を扱うことから興味がそそられたのだろう。

 衝突は避けられない。膀胱を空にして万全の状態となったペレアスはすらりと剣を引き抜いた。彼は剣の腹で肩を叩きながら口角を吊り上げる。

 

「ようやく第一村人発見だな。ひとしきりボコって情報を聞き出すぞ」

「ペレアスさんは蛮族の気がありますよね。円卓の騎士はみんなそうなんですか」

「尋問は戦場の基本だ。手頃な奴を叩いて情報を搾り取るなんて、円卓に限らず誰でもやってたよ。いけるな、ノア」

「当たり前だ。オティヌスの杖の性能を試してやる」

 

 ノアの手には重厚な赤色の王笏──ゲンドゥルの杖が握られていた。前回の特異点の最後、オティヌスより貸し与えられた主神の杖。オーディンの魔術神の神格を象徴する礼装だ。

 杖の先をケルト軍に差し向ける。

 一瞬、莫大な魔力が膨れ上がり、簡潔な詠唱を口にした。

 

()()()

 

 魔狼の咆哮が響く。

 人に指を差して呪うガンドの原典。精霊を送り込むことで対象者に害をなすという、現代では失われたはずのガンドの真価がここに蘇った。

 狼の形をした魔弾が一直線に駆ける。

 直線上のケルト兵を蜘蛛の子を散らすように薙ぎ倒し、敵の陣形を真っ二つに切り裂いた。

 開戦の号砲としてはこの上ない戦果。宙を舞うケルト兵を見て、ペレアスは抗議の意味を込めてノアに視線を送る。

 

「……死んでねえよな、アレ」

「思ったより出力が強かったな。まあ全身粉砕骨折で済むだろ」

「済んでるんですかねえ、それは。あ、ペレアスさん、強化は掛けておいたので後は頼みます。後ろで見てますね」

「分かった。お前は詩でも考えてろ!」

 

 そう言って、ペレアスは敵陣に飛び込んだ。

 相手はケルト兵。一般的な兵士とは隔絶した実力の敵であるが、ペレアスからすれば数え切れないほど倒してきた雑兵と変わらなかった。

 数では圧倒的に勝っているはずなのに、彼には掠りすらしない。剣の腹で的確に相手の意識を刈り取り、雑に拳足を振るって敵を無力化していく。

 ケルト兵を一掃するのに時間はかからなかった。むしろその後の拘束に手間取ったくらいだ。

 三人は先程、用を足していた最中に話しかけてきたケルト兵に近付く。

 

「くっ…殺せ!」

 

 ペレアスはこくりと頭を縦に振った。

 

「そうか。じゃあ頭を垂れろ」

「ちょ、ちょっと待って! 本当に殺す奴がいるか!?」

「私、なんだか彼にシンパシーを感じてきました。ヘタレなところとか。ですのでノアさん、その拷問具をしまってあげてください」

 

 どこから取り出したのか、ペンチやノコギリ、果てにはアイアンメイデンまで準備していたノアの手が止まる。

 その姿にダンテは疑問を覚えた。

 乗り気になっている彼は言葉で止まるような男ではない。先の発言も半ば諦め気味のものだったため、言いなりになったことに強烈な違和感を感じたのだ。

 しかして、その疑問は即座に解消されることとなる。

 

「妙な気配がするから来てみれば、中々の手前だ。カルデアとはお前たちのことただろう」

 

 黒いタイツのような装束に身を包んだ戦乙女。人形のような端正な見た目とは裏腹に、発する空気は烈女のそれ。すらりとした体はしかし、誰にも見て取れるほどに高度な武の練度を物語っていた。

 ペレアスの警戒度が上に突き抜ける。彼はいつでも迎撃を行えるよう、寝かせていた剣の刃を立てて言う。

 

「妙な気配? さっきのガンドのことか」

「いいや、お前とそこの男のことだ」

 

 彼女が顎で指したのはダンテ。怜悧な視線に射竦められ、彼はびくりと震えた。

 

「そんな気配は出しているつもりがなかったのですが。まずは土下座でもしましょうか」

「阿呆か。その右手、呪いを受けているだろう。魂にまで浸透しているようだが、死んでいないのは奇跡だな」

「ああ、右手のことですか。これは盲点でした。それで、ペレアスさんの方については?」

 

 死に際のジャック・ザ・リッパーから受けた呪い。それはダンテの右手を黒く染め、魂にまで入り込んでいた。今は害をなしていないようで、特に彼に影響はない。

 その女性はわざとらしく鼻を摘む。

 

「女の匂いが濃すぎる。どこの女神に魅入られたのだ、お前は?」

 

 ノアとダンテは無言でペレアスを見た。かつてない誤解の予感を受け、ペレアスは慌てて否定する。

 

「ま、待て待て! オレは嫁一筋の一途な男だから! 召喚されてからこっち、女と触れ合った記憶なんて微塵もねえよ!!」

「語るに落ちた……と言いたいところだが、精霊の類に加護を掛けられているようだな。そこまでいくともはや呪いの域だぞ」

「湖の乙女のことですね。やっぱり呪いなんじゃないですか」

「人聞きの悪いこと言うんじゃねえ! これは加護だっつーの! 融通が効かないところもなんだかんだで可愛らしいだろ!!」

「流れるように惚気けましたね……」

 

 ダンテは肩を落として呆れた。他人の家庭に深入りすることほど無粋なことはないが、それでも彼と湖の乙女の関係がうかがえる発言だ。

 妙な空気感になりそうなところを、ノアは突如現れた女性を指差して、

 

「なんでそんな格好してんだ、おまえ。痴女か?」

 

 さっきまで下半身を露出していた男が言えたことではない。

 次の瞬間、超高速の豪拳がノアの顔面に叩き込まれた。

 見事一発で彼をノックアウトしてみせた女性は、その首根っこを掴んでどこかへ歩いていく。これ以上なく自業自得な結末を目の当たりにしつつも、ペレアスとダンテは彼女の後ろについていく。

 

「この男、才は目を見張るものがあるが性根が腐りきっているな。私の目的ついでに叩き直してやる」

 

 ノアのサーヴァント二人は全カルデア職員の希望を背負って即答する。

 

「「是非お願いします」」

「では着いてこい。拠点に案内する。道すがらこの土地の事情も説明してやる」

 

 北米大陸の情勢。大統王のアメリカ軍と女王メイヴのケルト軍が戦うこの場所に、彼女はケルト軍のサーヴァントとして召喚された。

 しかし、とある事情からケルト軍に付くことを思い止め、軍を離れようとしていたらしい。ダンテは思わせぶりな言い方を軽く指摘する。

 

「離れようとしていたということは、まだケルト軍に属しているのですよね。さっき言っていた目的と関係が?」

「その通りだ。この地の土着の神が召喚され、ところ構わずあらゆる戦線を荒らし回っている。神殺しとして、アレを見逃す訳にはいかん。奴を仕留めるためには軍の情報網があった方が都合が良い」

「土着の神、ですか。……まさか」

「───『暗黒の人類史』か。お前やコロンブスみたいに協力はできなさそうだな」

 

 ダンテはペレアスの言葉に首を振って同意した。彼が別次元で得た情報はきっかけさえあれば思い出すことができる。彼は何かに操られるように言葉を述べた。

 

「名を虹蛇(にじへび)と言います。アイダやエインガナ、ユルルングル……世界各地に存在する雨と創造を司る虹の蛇神を統合した神格。彼女に話は通じないと思った方が良いでしょう」

 

 ペレアスは眉をしかめる。

 

「……彼女? その虹蛇ってのは女なのか」

 

 答えたのはダンテではなく女性だった。

 

「古来より蛇は地母神の象徴だ。ティアマトやコアトリクエ、意外なところだとアテナなども蛇を象徴とすることがある。虹蛇が女であることも疑問ではない。……おっと」

 

 異常に回復が速いノアは飛び起きると、女性の手を振り払った。しかしその顔面は潰れたアンパンのようになっており、流石に全快はしていないようだ。

 彼はふらふらと歩きながらぼやく。

 

「前が見えねェ」

「自業自得だ。反省しろ」

「ええ、全くです。ファッションは人それぞれですからねえ。ところで、あなたの名前を訊いてもよろしいですか?」

 

 そして、女性は言った。

 

「───()()()()。影の国の王だ」

 

 その名乗りを受けて、ノアは口角を引きつらせた。

 第四特異点の最後。オティヌスよりもたらされた預言。

 

 〝貴様がもし神殺しの魔剣を求めるなら、影の国の女王に会え〟

 

「───……いきなりかよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北米大陸。アメリカ大統王軍、本拠地。

 その場所に、なんとも呑気な少女の声が響き渡った。

 

「いやぁ〜、乱世乱世! 今日もマハトマ占いが捗るわね! えーっと、この並びは……『新たな出会いがあるかも』?」

 

 大人びた雰囲気の少女は顎をつまんで考える。

 

「新たな出会い……地球外生命体……未知との遭遇……はっ! つまり人類は滅亡する───!?」

 

 何やらとんでもない解釈をしかけていたところをライオン頭でムキムキの大男が話しかける。

 

「毎日のマハトマ占いかね、エレナ女史。結果をお聞かせ願おう」

「あら、エジソン。とんでもないことが分かったわ! 人類が滅亡するみたいだからシェルターの準備をして!」

「既に滅んでいるようなものでは……?」

 

 面食らいかけたエジソンだが、すぐに気を取り直す。大統王はうろたえないのだ。

 彼はひとりで盛り上がっているエレナをそっとしておいて、部屋の隅に視線を投げかける。

 黄金の鎧が肉体に食い込んだ白髪の青年。神格にも近い隔絶した雰囲気を有する彼は、静かに佇んでいた。

 

「カルナくん。連日すまないが偵察を頼む。虹蛇の所在は常に掴んでおきたい」

「了解した。任せろ」

「地味な任務だが、このアメリカを救う大事な仕事だ。抜かりなく頼むよ」

「…………ああ、そうだな」

 

 カルナ。インドの神話に燦然と名を残す施しの英雄は、曇りなき眼でエジソンを見つめていた。



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第40話 ケルト・インド戦士大集結

 立香(りつか)たち、ローマ合衆国が発足して翌日。彼女らはひたすらに北米大陸を突き進んでいた。

 土地の広さで言えば今まで最大。移動に時間を掛けたのは第三特異点も同じだが、今回は徒歩での移動を強いられる。海戦の名手であるドレイクの一団が操作する船上は揺れも少なく快適だった分、こちらでは自分たちの足を酷使しなくてはいけない。

 無論、ここに集ったサーヴァントたちはひとりももれなく強者だ。多少の行軍が体調に響くようなやわなつくりはしていない。

 ただし、マスターである立香は別だ。

 彼女とてちょっとやそっとで音を上げる根性ではないし、日々の鍛錬も欠かしてはいないが、それでも人間とサーヴァントでは隔絶した差がある。

 そんな訳で、ローマ合衆国の一団は立香の体力を考慮して、途中の町々で適宜休憩を挟みながら移動していた。

 その最中の一幕。立ち寄った小さな町で、昼の食事を摂っていた時のことである。

 

「…………()()()()?」

 

 マシュは思わず聞き返した。

 屋外のテラス席。立香たちの手によって、マシュの目の前に雑に皿に盛られた料理が並べられていく。

 立香は対面に座ると、ナイフとフォークで、妙に硬い塩漬け肉と格闘しながら答える。

 

「うん。お店の人に訊いたら、このまま東に進んでいくとケルト軍との国境付近らしいんだけど……」

「そこで虹色の蛇が暴れ回ってるらしいわね。噂によると、とんでもないデカさで空を飛んでるとか、常に雷雲を引き連れてるとか、瞬きしたら空の彼方に飛んでいってたとか……情報が錯綜してそうだわ」

「で、わたしたちは今からその地帯を突っ切ってリーダーたちを回収しなくてはならないということですか。毎度、ろくなことになりませんね、あの人は」

 

 カルデア三人娘は我らがEチームのリーダーの不甲斐なさにため息をついた。

 ケルト軍とアメリカ軍の支配領域はそれぞれ東西に分かれている。ノアたちはアメリカ東部、ケルト軍の領地に転移させられていた。そのため、立香たちは東を目指し、いよいよ国境付近に差し掛かるところである。

 国境とはそのまま、戦線とも言い換えられるほどに緊張度の高い地域だ。彼女たちはこれからそこを通り抜けなくてはならない。今までの経験からして、立香はこれ以上なく悪い予感を感じていた。

 マシュはポテトを口に運びながら、エリザベートに視線を投げかける。

 

「それにしても、蛇ですか……エリザベートさんはトカゲでしたっけ?」

「どっちでもないわっ!! 私をそこら辺の爬虫類どもと同じにしないでくれる!? この尻尾は竜よ、竜!」

「じゃあ何類なんだよ。そもそも哺乳類なのか?」

 

 杯を傾けていたロビンから冷静なツッコミが入る。立ち上がっていたエリザベートはすとんと座り込むと、何やらブツブツと考え始めた。

 

「私は断じて蛇でもトカゲでもないけれど、竜……人間……? 私は一体何者でどこから生まれてどこに行くのかしら……!?」

 

 顔面蒼白で頭を抱えるエリザベートを見て、立香とマシュは言う。

 

「人のアイデンティティってこんなに簡単に破綻するんだね」

「ええ、人が壊れる瞬間を目の当たりにした気がします」

「なんでそんな凄惨な場面を平常心で受け止められるのよ!?」

「カルデアでは人が壊れるなんて日常茶飯事ですからね。特に心が動くこともありません」

「……アンタがそれを言うと色々と重いわ」

 

 ジャンヌは据わった目をするマシュにぼそりと呟く。

 カルデアの闇は別にしても、ペレアスとダンテは過去に脳を破壊されているコンビである。おまけに二人のマスターは誰が何を言うまでもなく破綻しているため、立香たちが動揺することはなかったのだった。

 そこで、立香は視界の端でネロを捉えた。彼女はナイフとフォークを握りしめながら、沈痛な面持ちで塩漬け肉と向き合っている。

 

「食べないんですか?」

「うむ……余は美男美女と同じくらい美食も嗜んだがこれは口に合わぬ! 塩味が濃すぎるし、身も硬い! 持病の頭痛が出そうだ。アメリカとは豊食の国ではなかったのか!?」

 

 あからさまに不機嫌になるネロ。ロビンはわがまま皇帝のそんな姿を鼻で笑い、肉を齧り取った。

 

「そりゃアンタが皇帝だったからだろ。オレら庶民はこんなのでもごちそうだったんですがねえ」

「でも、私はネロさんの気持ちも分かりますよ。現代人には少しつらい食事です。私なんて小学生の時、グミかじっただけで歯が折れましたからね!」

「『それは生え変わりの時期だっただけでは……? もうすぐケルト軍の領地に入るけど、その前にみんなには向かってほしいところがあるんだ』」

 

 アイデンティティの崩壊に陥りかけているエリザベートを除いて、全員の目がロマンに集まる。

 彼の手元のモニターにはこの町からほど近い地域が移されており、東寄りの位置に弱々しい光点が点滅していた。ロマンはそれを指して説明を行う。

 

「『国境近くにサーヴァント反応を確認した。おそらく瀕死のはぐれサーヴァントだろう。ケルト軍の領地への最短ルートからは北上する形で外れるが、これを見逃す選択肢はない。保護して協力を求めよう』」

 

 立香たちは力強く首肯した。

 このサーヴァントは必ずしも味方とは限らない。ケルト軍の策略ということも十分考えられるが、彼女たちも総勢五体のサーヴァントを擁する状態だ。ここで薄いリスクを恐れるよりも、戦力増強を図ることを選んだ。

 ノアたちのバイタルはカルデアが常に監視している。彼らについての言及がないのは差し当たって問題が起きていないということだろう。

 立香は心の中でそう結論付けて、すっくと立ち上がる。

 

「善は急げ! 体も休まりましたし、早速出発しましょう!」

「そうね。そこのアイドルは未だに精神崩壊してますけど」

「まあ放っときゃ治るだろ。そういや、そこの猫モドキにエサはやらなくて良いのか?」

 

 ロビンが足元のフォウくんを指差す。

 自分の存在を消すことに定評のある彼は器用に皿を口で咥えて、食料を催促していた。Eチームのリーダーならそこら辺の雑草を振る舞うところだが、ここにそんな狭量な人間はいなかった。

 ネロと立香は塩漬け肉を含めた残飯を皿の上に置いた。前者に至ってはほとんど手を付けていなかったが、フォウくんには僥倖である。彼は即座に肉にかぶりつく。

 

「…………フォフォウフォウ(めっちゃしょっぱい)

 

 口の端からボタボタと肉片がこぼれ落ちる。肉は保存用にかなり塩気が効いているために、現代の食事で肥えた舌には辛いものがあった。が、フォウくんの咀嚼は止まらなかった。獣の悲しい性である。

 今の今まで撃沈していたエリザベートが跳ね起きる。自分の分の食事が無くなっていることに目を丸くして、

 

「待ちなさい、私も食べてないんだけど! 自己肯定に気を取られて全然手を付けてなかったわ!」

「もう全部こいつにあげちゃったわよ。夜まで我慢したら?」

「エリザベートはアイドルであろう。一食抜くくらい体型維持でお手の物ではないか?」

「痩せるために食事を抜くなんて手法は古いのよ! むしろ栄養を吸収しやすくなって、さらに太るなんてこともあるんだから!」

「う~ん、困りましたね……」

 

 立香は何かないものかとポケットをまさぐる。細長くすべすべした感触のものを見つけると、それを引き抜いた。

 

「そういえば、フォウくんにあげようと思ってた『ちゅ~る』がありました。食べます?」

「人間が食べてもいいものなの!?」

「大丈夫です。この前、リーダーと一緒にウソついてペレアスさんとダンテさんにあげたら笑顔で食べてましたから」

「『ネコ用おやつを笑顔で食べる英雄の話なんて聞きたくなかったなあ……』」

 

 ペレアスはともかくとして、厄介なフォロワーが多いダンテのファンが聞けば怒り狂いそうな話である。

 エリザベートは歯を軋ませて悩み、意を決してそのネコ用おやつを掴み取る。勢い良く封を開けて中身を口の中に絞り出すと、大股で歩き始めた。

 

「さあ、行くわよ!」

「ほ、本当にやりやがった……」

「望んで人を捨てましたね。わたしもこの覚悟には敬意を表さなくては」

「ただのアホでしょ」

 

 そんなこんなで、立香たちローマ合衆国はまだ見ぬはぐれサーヴァントを目指して進軍を開始する。

 代わり映えのしない一面の荒野。幸い、カルデアが捕捉したサーヴァント反応はその場所から動くことはなく、四半刻程度で目的の地点に迫ることができた。

 しかし、注目すべきところはそこではなく。

 淡々と進めていた歩がぴたりと止まる。果てしなく続く土の野原の中心に、鬱蒼とした深い緑をたたえる密林が壁のように立ちはだかっていた。

 手付かずの原野と言ってしまえば本質は同じ。だが、その密林の大気や大地からはマナが可視化するほどに溢れ、木々の合間には現代の地球上では確認されていない魔獣・幻獣の姿がうかがえる。

 豊潤な自然が織り成す緑の園。神代にも匹敵するマナの濃度は、1783年のアメリカにおいては異常そのものでしかない。

 砂漠の中心に海があるかのような違和感。密林は取ってつけたように広がり、その場所だけが異彩を放っていた。

 景色に目を奪われていたマシュは、困惑しながらもカルデアとの通信を繋げようとする。

 

「ドクター、映像を共有してください。不可解な場所を発見しました。…………ドクター?」

 

 ロマンの声が返ってくることはなかった。代わりに通信機からは砂嵐のようなノイズが響くだけで、何ら意味の見出だせる音は聞こえない。

 マシュは通信機に故障がないことを確かめながら、

 

「繋がらない……マナの濃度が原因でしょうか」

「む。ならば、引き返して迂回するか? 時間は食うが、通信が繋がる可能性もある。森を進むのにも体力を使うであろうしな」

 

 マシュはネロの提案に頭を悩ませる。

 サーヴァントの反応は遠くない。ほんの数分歩けば辿り着ける距離だ。危険はあるにしろ、森を通る選択肢もあるだろう。

 だが、この森が広大に続いていれば。迂回したところではぐれサーヴァントがいる場所を過ぎてしまうかもしれないし、その分だけ時間は無駄になる。

 考え込んでいたその時、ロビンが目の上に手をかざしながら言った。

 

「見た感じ、この森はそう広くねえ。突っ切ろうぜ、オレが案内してやるよ」

「……ああ、そういえばそうでした! ロビン・フッドといえばシャーウッドの森を根城にする義賊の類話がありますからね。森の地形を読むのはお手の物ということですか」

「そういうこった。大した技術でもないがね。問題はマスターの嬢ちゃんにとって、この森の魔力が濃すぎるところだが」

 

 カルデアから支給される礼装はレイシフト先の気候風土に合わせて調整される。現代から二百年以上離れたこの時代であろうと、環境はほぼ変わらない。神代の環境は今回の作戦では想定されていないのだ。

 立香はノアから貰い受けた礼装である髪留めに触れた。淡い黄色の布地に目立たないように織り込まれた金糸の刺繍がほのかに発光する。

 

「私のことなら問題ありません。リーダーに貰った髪留めが周りの魔力を吸収してくれるんで! むしろ充電もできて一石二鳥ですね!」

「なるほど、そりゃいい。オタクらのリーダーもなかなかやるじゃねえか」

「その言葉、今のうちに撤回しといた方が良いわよ。クズのロクデナシだから」

「おまけにアホですからね」

 

 真顔で言い切るジャンヌとマシュ。ロビンはそこはかとない恐怖を覚えた。彼はEチームの底知れない闇を感じながら、密林に足を踏み入れた。

 大した技術でもない、と謙遜するロビンだが、事実その案内は見事なものだった。未知の森をまるで散歩でもするかのような気軽さで先導し、時折迫る魔獣を弓も使わずに口笛で追い立てる。

 多少の戦闘も覚悟していた立香たちの心配は杞憂に終わった。生い茂っていた木々が途切れ、見慣れた荒野の風景に戻る。ロビンの言う通り、そう広い森ではなかったようだ。

 そして、彼女たちは燃えるような赤髪の少年が行き倒れているところを目撃する。彼は息をしているのが不思議なほどの深手を負っていた。

 立香は礼装を介して治癒魔術を起動しながら、彼に駆け寄る。

 

「大丈夫ですか! 今治します!」

 

 体に刻まれた切創と、雷に打たれたかのような火傷。髪留めに貯まった魔力をも総動員して、それらの傷を塞いでいく。

 カルデアが感知したサーヴァントの反応とはまさしく彼のことなのだろう。息も絶え絶えに、少年はうわ言を呟いていた。

 

「う、く……シータ…………」

 

 人の名前であろう単語。立香は脊椎に氷柱を打ち込まれたかのように戦慄する。

 

「───()()()!? マシュ、今の聞いた!?」

「ええ、しかとこの耳で聞きました。まさかこんなところであの人と出会えるとは───!!」

「何、知ってるの二人とも!?」

 

 エリザベートの問い掛けに、二人は焦燥しながらも目を輝かせて答えた。

 

「「間違いありません、この人は───パズーです!!」」

 

 冷めた目つきのロビンとジャンヌとは対象的に、エリザベートとネロは鼻息を荒くしてパズー(仮)に詰め寄る。

 

「なんと、かの天空城(ラピュタ)を発見した大英雄ではないか!! それをこのように痛めつけるとは、許せぬ! 立香、決して死なせてはならぬぞ!!」

「意識をしっかり保ちなさい! 貴方がここで死んだらシータは誰が守るつもり!?」

「い、いや……余はラーマ……」

 

 なんとかして声を捻り出した赤髪の少年。その顔色は失血とは別の要因で青白くなっていた。

 マシュは歯噛みして、止血を行う。

 

「くっ…! 先輩、意識の混濁が見られます。相当危ない状況かと!」

「うん! ムスカの野望は絶対に止めてみせる……!!」

「ら、ラーマ! ラーマだ! 余はラーマ!! パズーとは一体誰だ!?」

 

 鬼気迫った声。盛大な勘違いをしていた四人はぴしりと硬直する。彼女たちは冷や汗をかきながら、目を泳がせて取り繕う。

 

「「「「だ、だと思ったぁ~~」」」」

「嘘をつけェェェ!! 完全に勘違いしていたであろうが!! 今更取り繕ったところで無駄であるぞ!?」

「あの、そんなに大声出したら傷口が」

「ぐはあああああ!!」

 

 パズー改めラーマは開いた胸の傷口を押さえながら足をバタつかせた。一連の流れが逆に気付けになったのか、儚げな気配は消え失せていた。

 そうして、大方の治療が完了した後。ふらつく体をロビンに支えてもらいながら、ラーマは口を開く。

 

「余はコサラの王、ラーマだ。窮地を救ってくれたことには感謝するが、決してパズーなどという名前ではないからな」

 

 正気を取り戻したマシュはけろりとした表情で頷いた。

 

「ラーマ……インドでは今なお人気のある大英雄ですね。羅刹の王を倒す勇者で、ヴィシュヌ神の化身で、ガンジーさんも死の際に名前を呟いたという、逸話モリモリの超有名人です。ペレアスさんが劣等感を刺激されること請け合いでしょう」

「なぜそこまで知っておきながら人違いをしたのだ……!? ま、まあいい。余も事情を説明したい。早くこの場から離れよう」

「どうしてそうも急ぐ? 怪我は繕っただけで血も足りていないだろう。まだまだ本調子ではあるまい」

「それは───」

 

 と、ラーマが言いかけた時、立香たちは気付く。荒涼たる地平線の向こう側。猛烈に砂塵を巻き上げながら、走ってくる人影に。

 筋骨隆々とした糸目の大男。磨き抜かれた筋肉を見せつけるように半裸であり、螺旋状に捻れた刀身の大剣を背負っている。

 彼は右手をぶんぶんと振りながら、輝かしいばかりの笑顔で叫んだ。

 

「おぉ~~いそこの女子たちィ!! 俺と○○○を○○しながら○○○して○○○○せぬかァ!!!」

 

 放送コードを天元突破した言葉が乱舞していた。もはや何を言っているか分からない半裸の変態を前にして、立香は大いに喫驚する。

 

「うわああああああ変態だァァァ!!」

「立香、下がってなさい! あんなのに触れられたら穢れるわよ!」

「安心しろ、俺は無理やりは好まぬ! 自他ともに認める紳士だからな! ただしケルト流のだが!!」

 

 そう言って猛進する糸目男の後頭部を、後ろから追ってきた二刀の美男子が打ち据える。ごしゃり、と痛々しい音が響き、糸目男は地に伏せた。

 

「ケルト流の紳士とはそれ即ち蛮族を表します。普通にアウトです」

 

 そのさらに後から続いて、金髪の青年が美男子の肩を叩く。

 

「よくやったディルムッド。私の親指かむかむによると、R-18発言は禁句だからな」

「親指噛まないとそんなことも分からないのですか、我が王よ」

「そう言うな。実は私も危機感を覚えているのだ。親指を口に含むと何となく安心する。これは赤子の頃の記憶だろうな」

「赤子と同レベルということが露呈したのですが!?」

 

 彼らのやり取りを見て気が抜かれたようになる立香たちだが、ラーマだけは警戒を強めていた。

 

「奴らはケルト軍のサーヴァントだ。狂王との戦いで負傷した余を追ってきたに違いない」

「色々訊きたいことはあるが、つまりは敵ってことか。ついてねえな」

「会話から察するに、あちらの金髪の人はフィン・マックールでしょう。神霊に勝利したことすらある強敵です!」

 

 フィン・マックールとその騎士ディルムッド・オディナ。彼らは無数の勇士が名を連ねるケルト伝承の中でも稀有な実力を持つ英雄であり、神から授かった武装をも携えている。

 九世紀に語られ始めたアーサー王物語はケルトの逸話を吸収したものが多く、神秘の古さが影響するサーヴァント戦においては無類の強さだ。

 大剣を背負った糸目男はむくりと立ち上がり、溌剌と喋り出す。

 

「無駄な駆け引きは好かん! ラーマを渡せ。俺とて可憐な少女に剣を振るうのは心が痛む!」

 

 ネロは鼻で笑い飛ばす。白き花弁とともに己が愛剣を呼び寄せ、正眼に構えた。

 

「ふん、その駆け引き自体が無用なことは気付かぬのか? 我らの答えはとうに決まっておる。立香!」

「───はい! 絶対に断る、です!!」

 

 その瞬間、炎が爆ぜる。

 

「死ね、変態!!」

 

 ジャンヌが繰り出した黒炎の一撃。

 遍く生命を焼き尽くす波濤を、男は大剣の一振りで斬り伏せる。

 自らの技を誇るわけでもなく、彼は笑った。

 

「潔し! ますます気に入ったぞ! 我が名はフェルグス・マック・ロイ───しかと覚えておけ!!」

 

 地面が砕ける。

 強烈な踏み込みを以って、フェルグスは剣先をジャンヌへと叩きつけた。

 旗の柄を傾けて刺突を受ける。伸ばしていた両腕は折り畳まれ、彼女は衝撃に逆らわずに背面に跳んだ。

 完璧に受け切ったにも関わらず、両腕はびりびりと痺れていた。後方に押し込まれたジャンヌと入れ替わる形で、ネロとエリザベートが飛び出す。

 剣と槍。二つの斬撃。フェルグスを狙ったそれは、手前で停止する。

 赤と黄の双剣。海神マナナン・マクリルより授かった対の魔剣を手繰るディルムッドは、端的に告げた。

 

「今です」

 

 宝槍を片手にしたフィン・マックールが太陽を背に跳び上がる。

 短く息を吐き、敵へ向けて槍を投擲した。

 

「──ッ!」

 

 果たして、息を呑んだのは誰だったか。

 着弾と同時に十数メートルにも及ぶ水の柱が巻き上がる。それはまるで天より降る流水の剣。大地を深々と抉り取り、小規模のクレーターを作り出す。

 地面に突き刺さった槍はひとりでにフィンの元に飛び、その手に収まる。

 

「ほう、これで無傷とは。随分と防御に長けたサーヴァントだ」

 

 彼の目線が射抜くのはマシュ。彼女はその盾で投槍を防ぎ、マスターたちを守り抜いていた。

 ラーマを除くとしても、サーヴァントの数だけで言えば五対三。十分に勝機のある状況であり、逆に言えば敵の勝ち目は薄い。

 それでもなお、三人は余裕を崩していなかった。泰然とする敵の姿に、マシュは思わず歯噛みする。

 彼らは生粋の戦士。命を奪い奪われることに何の疑問を持たない類の人間だ。だから、数的不利を理解こそすれど恐怖することなど無いし、そんなものは幾度も引っくり返してきただろう。

 その身は死地に置かれてこそ正常。経験の差ではなく、戦いに対する心構えからして常軌を逸している。

 殺すか、殺されるか。彼らとて無為に命を投げ捨てることはしない。圧倒的な劣勢に置かれれば、撤退することもあるだろう。それをしないということはつまり、三人で倍の敵を相手取っても勝てるという自信があるからに違いない。

 ロビンはラーマを立香に託し、冷静に言い放つ。

 

「そいつらと馬鹿正直に戦う必要はない。全員で森に退がるぞ。数の差を活かそうぜ」

 

 ディルムッドは僅かに口角を上げる。

 

「それをみすみす見逃すとでも?」

 

 腰を低く落とし、双剣を広く構える。全神経を手先にまで行き渡らせ、彼は相手の一挙一動を捉えることに専念していた。

 

「隙がないわね。良いわ。私のライブ、見逃さないことより聞き逃さないことに努力しなさい───!!」

「み、みんな! 耳を塞いで!!」

 

 しかし。

 それが仇になると理解した時には、もう遅かった。

 

「『竜鳴雷声(キレンツ・サカーニィ)』!!」

 

 轟く不協和音。

 悪魔の歌声よりもなお寒々しく、火山の噴火よりも一層恐ろしいド下手糞な歌が響き渡る。

 全くの無防備だったケルト軍の三人は苦悶の表情を浮かべて、耳穴に指を突っ込んだ。

 

「うおわあああああ!! 頭が割れる!! 前言撤回、あの娘だけは無理ィィ!!」

「こんな歌声がこの世に存在するとは……!! 神への冒涜、いや世界への反逆です!」

「……………………ちゅぱちゅぱ」

「親指から口を離しなさい!!」

 

 ディルムッドは体育座りしながら虚ろな目で親指を吸うフィンを止めにかかる。

 そして、ある意味で世界トップクラスの歌声が途切れた頃には、立香たちの姿は忽然と消えていた。

 三人は頭の中にじんじんと響く鈍痛を落ち着けると、ラーマを追うべく森に入る。

 ディルムッドが数歩踏み込んだ直後、四方から放たれた矢が彼を襲う。

 おそらくは全てに毒が塗りこまれている。ディルムッドはひとつと掠ることなく、群がる矢を一息に叩き落とした。彼は薄く笑みを浮かべながら、剣を持つ手に力を込める。

 

「あの短時間で罠を仕込んでおくとは、信じ難い技量だ。この場所は彼の独壇場。注意して進みま───」

「「面倒だ」」

「…………はい?」

 

 思わず聞き返すと、フェルグスは至って冷静に、

 

「であるから、面倒だ。この分だと罠は一層数を増していくだろう。その全てに付き合っている暇などない」

「敵の長所を受けて立とうとする癖、悪癖だぞディルムッド。かっこいい騎士ムーブをしたくなるのは分かるが、相手と状況を考えろ。ホクロ引き千切るぞ」

「我が王? なんかいつもとキャラ違いません? 私のチャーミングポイントを削ろうとするのやめてください」

「お前のそれはウィークポイントだろう。グラニアを巡って争った時も……いや止めておこう。あの日以来私の脳は壊れたままなんだ」

「私が悪かったですすみませんでした!」

 

 ディルムッドの泣きぼくろは妖精から与えられたものであり、女性の心を虜にする魅了の力を持っている。それだけ聞くと世の男は羨みそうなものだが、裏目にしか出ていないのが悩みどころだった。

 フィンの三人目の妻であるグラニアはもちろん、とある聖杯戦争ではマスターの婚約者を魅了してしまっている。フィンがホクロを引き千切ろうとするのも仕方ないところである。

 フェルグスは大剣に篭もる魔力を解放する。荒れ狂う虹色の魔力。燦然と輝くそれは、空をも呑み込まんとする無双の刃であった。

 彼らから離れた地点。ケルト軍の三人から距離を離そうとしていた立香たちは上空に達する虹の巨剣を目撃する。

 

「何アレ!? 私の宝具よりキレイじゃない! ムカつくわ!」

「むしろアレ以下の宝具など想像もしたくないのだが!? くっ、余が万全であったら!」

「想定はしていたが──あれほどとは聞いておらぬ! どうする立香!?」

「全員マシュの後ろに! 孤立したら死ぬと思ってください!」

「それしかないわね。頼んだわよマシュ!」

「はい、任せてください!」

 

 ここが相手にとって有利な環境ならば、それを押し潰してしまえばいい。

 盤面をひっくり返すほどの暴力。フェルグスは宝具の真名とともに、勢い良く剣を振り下ろした。

 

「『虹霓剣(カラドボルグ)』───!!」

 

 その、寸前。

 

「『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!」

 

 大気が弾け、森が死に、大地が崩れる轟音。

 破滅の虹霓が通り過ぎた後は更地しか残っていなかった。破壊を免れたのは間合いに入っていなかった僅かな森林のみ。

 更地に立つ敵の面子を見て、フィンは呟く。

 

「……あの男の姿がない。そうか」

 

 どんな武器にも間合いがある。フェルグスのカラドボルグは長大かつ広域を殲滅するが、その範囲は前方に留まっている。

 であるのなら、フェルグスの後方・横方向ならば攻撃を受けることはない道理。

 破壊を逃れた木の上。自身の宝具『顔のない王(ノーフェイス・メイキング)』で隠形を果たしていたロビンは、既に矢を放っていた。

 

「『祈りの弓(イー・バウ)』……!!」

 

 サーヴァントをも滅する猛毒を含んだ一矢。

 それに気付いていたのはフィンのみ。だが、彼は槍を振るうでも身を躱すでもなく、ただひとりの名前を呼んだ。

 

「……───ベオウルフ」

 

 彼の横の空間が歪み、ぱしゃりと水が落ちる。現れたのは全身に傷跡が残る戦士。彼は剣を握ったままの右拳を矢に向けて振り抜いた。

 軽妙な音を立てて矢が折れる。

 それと同時に、戦士の拳が風船を割るように破裂した。

 

「だあああああ痛え!! やっぱ斬りゃよかった!!」

 

 ロビンは思わず舌打ちする。

 フィン・マックールはその鮮烈な武勇に限らず、魔術にも精通した戦士だ。水を使用した幻影魔術でベオウルフの姿も隠していたのだ。その足跡と足音、息遣いまでも偽装して。

 キャスターに匹敵する魔術。フィンが腰の水袋の中身をベオウルフの右手にかけると、傷付いた手が立ちどころに癒えた。

 フィンが手で掬った水は癒やしの力を持つという逸話に由来する宝具。ネロは眉根を寄せて、立香の前に出る。

 

「いよいよ後がなくなったな。もはやここで決着をつけるしかあるまい」

 

 その時、カルデアとの通信が回復する。焦った表情のロマンは短く告げた。

 

「『みんな! オティヌスに匹敵する規模のサーヴァントが接近している! 注意してくれ!』」

「はあ!? そんな急に言われても───」

 

 ジャンヌが焦燥を抑えつつも辺りを見渡すと、太陽の光の中に大きな槍を携えた人の影が瞳に映った。

 染め抜いたような白髪。肉体と融合した黄金の鎧。彼が放つ眼光は、いっそ陽光よりも輝かしい。

 それは比喩ではなく。

 彼の眼光は極大の熱線と化した。

 

「『梵天よ、地を覆え(ブラフマーストラ)』」

 

 咄嗟に防御に入ろうとしたマシュの横を過ぎ、陽光の槍がケルト軍の手前で炸裂する。

 絶叫を轟かせながら吹っ飛んでいく四人に、白髪の青年は言った。

 

「退け、ケルト軍。彼女たちはオレの客人だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、ケルト軍の領地。

 ケルト兵をのしてスカサハと協力関係を結んだノアたちは今───

 

「ヒャハハハハハハすっこめ雑魚ども!! 俺の力にひれ伏せェェェ!!」

 

 ───アメリカ軍の機械化歩兵を蹴散らしていた。

 オティヌスに押し付けられたゲンドゥルの杖を枝切れでも扱うかのように振るい、数倍にも強化された魔術で敵を物言わぬ鉄クズに変えていく。

 それに加えて。

 

「野郎どもォ! ノアの兄貴に続けェェ!!」

「「「ヒャッハー!!!」」」

 

 なぜかケルト軍から鞍替えしたケルト兵たちが、ノアの後方に続いて爆走していた。

 彼らはみなケルトの衣装を脱ぎ捨て、強烈なモヒカンに半裸の肩パッドという世紀末スタイルに変貌していた。しかもこの時代にはない鋼鉄のバイクに乗っている。

 心なしか画風も変化しており、劇画調の顔つきになっていたのであった。

 それを遠目から眺めていたダンテは、いたたまれない表情になりながら顔を手で隠した。

 

「ケルト軍の兵士を調略することで、内から腐らせていく作戦……ノアさんに任せたのが間違いでしたかっ! いえ、見方によっては大成功ですが!!」

 

 嘆くダンテの横で、バイクの排気音が低く鳴る。それにまたがっていたのは、先日ノアたちに絡んだ挙句ペレアスに首を斬られかけたケルト兵だった。

 彼も例に漏れずモヒカン肩パッドの世紀末スタイルであり、くちゃくちゃとガムを噛み鳴らしている。

 

「あん? どーしたんすかダンテの兄貴。バイブスブチ上げていきましょーや!!」

「ヒィ! 元のヘタレだったあなたに戻ってください! その口調はもはやモヒカンというよりチンピラですから! どうしてそんなになってしまったんですか!!」

「兄貴たちにボコボコにされて目覚めたんすよ。アレっす、最近流行りのわからせってやつ?」

「ケルト兵のわからせとか需要がなさすぎるんですよねえ……バイクもガムもどこから持ってきたんです?」

 

 変貌したケルト兵は地面にガムを吐き捨てると、葉巻を吸い始める。肺を煙で満たすと、彼は空中に紫煙をくゆらせた。

 

「ケルトバイクとケルトガムっすよ。何だったら良い売人紹介しましょうか。なんか白い粉とかも売ってるらしいっす。あとチャカとかいうよくわかんねーのも」

「ゴリゴリの闇売人じゃないですか!! 裏にギャングが繋がってるじゃないですか! ケルトって付ければセーフなことにはなりませんからね!? 自分を強く保ってください!!」

「いや、お前もなってただろ。デー○ン閣下に」

「ぐふっ!」

 

 かちかちと通信機を弄っていたペレアスに痛い部分を突かれ、ダンテはうろたえる。

 ノアに人格を改造された被害者という点ではケルト兵たちとダンテは同じだった。後者は自分から頼み込んだのだが。

 ダンテはペレアスにすがりつくように頭を下げる。

 

「ノアさんを止められるのはペレアスさんしかいません。殴るなり何なりして止めてきてください」

「……まあ、あいつは良いだろ。他人がどうにかして止まるやつでもないし、好き勝手にやらせてやれ。本当にヤバいのはあっちだ」

 

 そう言って、ペレアスが顎で指し示す方向にはスカサハがいた。

 ノアとは反対の戦場。彼女は二本の紅槍を操り、機械化歩兵を近づく側から木っ端微塵にしていた。その体運びに狂いはなく、踊り子の舞踏のような気軽さで敵を打ち砕いていく。

 あれでは雑兵が何人いたところで、スカサハに触れることすら叶わないだろう。ダンテはペレアスに視線を合わせて戦いを見ていたが、素人目にも危なげな様子はなかった。

 

「達人の目には常人より多くのことが映る、ということですか? 私の目では毛程も分かりませんが」

「実力のことじゃねえ。あれは死のうとしてるやつの目だ。そう遠くないうちに何かやらかすぞ」

「マジっすか。俺はどんな目ぇしてますかペレアスの兄貴」

「知るか! お前はノアのとこ行ってろ!!」

 

 ペレアスにバイクの排気筒を蹴られ、ケルト兵は逃げるように走り去っていった。そこで、ダンテはペレアスの手にある通信機に目線を向ける。

 

「そういえば、さっきから通信機持ってますけど、繋がらないはずでは?」

「今はな。さっき一瞬繋がったんだよ。通話はできなかったけどな」

「本当ですか!? 今までうんともすんとも言わなかったのに。……考えられるとしたら、私たちの位置でしょうか。西から東に移動して、アメリカ軍の領地に近付きました」

「ケルト軍の領地に近付くほど通信が効かなくなるのかもな。機械の不具合だったらオレにはお手上げだが」

 

 その二人の元に、ノアとスカサハが近付いてくる。どうやらアメリカ軍の機械化歩兵の掃討が終わったらしく、この場で動いているものは人間しかいなかった。

 彼らはバチバチと火花が立つほどに視線をぶつけ合いながら、

 

「俺の方が多く始末した。おまえの負けだ」

「抜かせ。貴様はモヒカンを率いていただろうが」

「あのモヒカン共は俺の下僕だ。つまり俺の手足と変わらない。負け惜しみは見苦しいぞ」

「モヒカンの分を足したとしても私の勝ちだが? もう一回数え直してこい。その場合は負けを認めることになるだろうがな」

 

 なんとも無駄な争いを繰り広げるノアとスカサハ。それに巻き込まれないことを祈りつつ、ダンテは二人に話しかける。

 

「まあまあ、敵は倒せたんだから良かったじゃないですか。これからどうします? トランプとUNOならありますよ」

「お前たちは野営地に戻れ。私はここに残る」

 

 端的に告げたスカサハの言葉には、何か確信めいた響きがあった。

 ぽつり、と天から零れた水滴がダンテの頬に落ちる。

 空を仰げば、薄暗い黒雲が漂っていた。太陽の光が遮られることで気温が冷え込み、徐々に雨脚が強くなっていく。遠くの空ではごろごろと唸るような雷鳴が轟く。

 ダンテは赤いコートのフードを被りながら、

 

「ほら、雨も降り出してきましたし、全員で戻るべきですよ。サーヴァントはともかく、モヒカンさんたちは風邪を引いてしまうかもしれませんし」

「……ダンテ、構えろ。どうもそんな状況じゃないらしい」

 

 ペレアスが言った直後、腹の奥底を揺らすかのような雷声が鼓膜を叩いた。空気が電気によって分解される異臭。突風が吹き、全員の髪を強く撫で付ける。

 バケツをひっくり返したような雨。さながら夜の闇の中で、一際光り輝く虹が空にかかる。凄絶に煌めく虹の光が大地に注ぎ、荒野にしぶとく生えていた枯れ草が緑を取り戻す。

 虹の直下ではざわざわと新しい木々が立ち上がる。それはまさしく豊穣の光。あらゆる動植物に生命力を吹き込む豊穣神の威光だ。

 だがしかし。

 その虹───否、虹色の鱗の蛇が纏い持つのは、天を塗り潰すに値する濃度の殺意と殺気。白濁の巨眼が発する眼力は物理的な衝撃すら伴って、ノアたちを叩いた。

 雨に打たれながら、スカサハが言う。

 

「あれが、虹蛇(にじへび)だ。己が土地と民を奪われた零落神。古来よりこの北米大陸に住まう人間以外は、全てが奴の仇だ。私もお前たちも、例外なくな」

 

 彼女の瞳は、焦がれていた。

 黄金の宝物を目にした冒険者のように。

 薄暗い光をたたえる眼差しを横目に、ペレアスは剣を抜いた。

 

「思ってた百倍デケえな! ノア、ダンテ、強化かけろ!」

 

 意気込む彼の眼前に、紅い槍の穂先が突きつけられる。

 

「───待て。お前たちは手を出すな」

「……あんたの技を疑う訳じゃないが、虹蛇相手に単騎は勝ち目が薄いだろ。そんな戦いは何度もやってきた、なんてのは無しで納得がいく説明をしてくれ」

「ならば、これ以上なく簡潔に説明してやろう。私が、虹蛇と、一対一で戦いたい───これで十分か?」

「ですから、その理由を───」

 

 ダンテが詰め寄ろうとしたその肩を、ノアは掴んで止める。彼は一瞬だけスカサハと視線を通わせると、鼻を鳴らして言った。

 

「もういいだろ、放っとけおまえら。今はそいつの心配よりも、モヒカン共を逃がす手伝いをしろ。あいつらが虹蛇と向き合うには荷が重すぎる」

「ですが……」

「ダンテ、今回ばっかりはオレもノアに賛成だ。強敵とサシでやりたいって気持ちは分からないでもない。ここはあの人を立ててやろうぜ」

 

 ノアとペレアスの目を見て、ダンテは理解する。

 

「え、ええ! そうですね! 私たちはモヒカンさんを逃がすのに専念しましょう! 後は任せましたよ、スカサハさん!!」

「ようやく理解したか。巻き込まれぬうちに行け」

 

 三人は背を向けてモヒカンたちの元に走っていく。スカサハはそれを見送ると、いよいよ虹蛇と対峙した。

 漆黒の天空に蠢く虹の蛇。

 サーヴァントという枠に当てはめられてはいるものの、その力は神霊と遜色ないに違いないだろう。

 影の国の女王、スカサハは数多の敵を斬り捨ててきた。数え切れないほどの命を奪い、その身は人間の規格を飛び越え、神霊の領域に近付いた。

 その果てに得たのは、自らの手で死ぬこともできぬ不滅の肉体。やがて彼女は世界の外に弾き出され、影の国の空虚な玉座に座ることしかできなくなったのだ。

 言うなれば、それが彼女への罰だったのだろう。万人に定められたはずの終着から逃れる代わりに、亡霊の国に閉じ込められた。

 故に、望むのは自らの死。

 壮絶な戦いの末に死ぬことこそが、スカサハに残された希望だった。

 唇が引き裂くような笑みを形作る。

 雨と創造の蛇神ならばこの命を終わらせられる、と────!!!

 

 

 

 

 

 

「「んな訳あるかあああああァァァ!!!」」

 

 

 

 

 

 

 虹蛇とスカサハが激突する瞬間。

 色とりどりの魔弾と真っ直ぐな斬撃が、虹蛇の横面に突き刺さった。その顔面の半分が痛々しく焼け、一直線に断ち割られた眼球から鮮血が噴き出す。

 

「…………は?」

 

 細まっていた瞳孔が拡大し、引きつっていた表情筋が弛緩する。

 ノアは呆けた顔のスカサハを指差して、悪人じみた下衆な笑顔になった。

 

「ククク、ざまあみろ全身タイツ女ァ!! 俺たちがあんな言葉を素直に聞くとでも思ったか!? 死んでもおまえの思い通りにさせてたまるか! 絶望しろ! ヒャヒャヒャヒャ!!」

「ノアさん! 発言があまりにもクズなんですが!? 悔い改めてください!」

 

 ペレアスは無言でノアの頭に拳骨を落とすと、スカサハに向き直る。

 

「ま、そういうことだ! あんたにも願望があるんだろうが、オレたちには信念がある! 他人が死のうとしてるところを見逃すなんてEチームじゃねえよ!!」

「ですね。何より他の仲間たちに顔向けできませんから。私たちの目が届く場所ではそう簡単に死ねませんよ」

「…………馬鹿者が」

 

 スカサハは顔を背けて、

 

「覚悟しておけ。この戦いが終わったら全員制裁だ」

「望むところだ! 逆におまえを奇怪なオブジェにしてやらァ!!」

「この男はいつもこの調子なのか。知性の欠片も見えないぞ」

「はい、残念ですが仕様です。返品もできないので我慢してください」

「無駄口叩いてないで構えろ! 来るぞ!」

 

 虹蛇が吼える。

 落雷の雨が降り、泥濘んだ地面が黒く焼ける。その攻撃の隙間を、スカサハとペレアスは縫うように掻い潜っていた。

 この程度ならばいくら続けようと、彼らに攻撃は当たらない。サーヴァントならば雷撃程度は悠々と躱して然るべきだろう。

 が、ここに例外がいた。

 ダンテは享年から三十歳ほど年下の男の足にすがりつく。

 

「こんなの無理です! 無理! ノアさん全力で私を守ってください!!」

「纏わり付くな鬱陶しい。雷避けならもう掛けてる。ついでに雨避けと風避けもな。分かったら突っ込んでこい」

「それは無残な死体がひとつできあがるだけなんですが!?」

 

 気の抜けるような会話を思考の端で捉えながら、ペレアスは虹蛇を睨む。

 雷撃だけならば恐れるに足らない。が、相手は少なくとも神霊に位置する格を有している。むしろ虹蛇が動かないことに、彼は警戒を強めた。

 巨体による攻撃はそれだけで脅威だ。スカサハ相手に接近したことからも、雷撃が虹蛇の本領でないことは推察できる。

 虹蛇が空でその身をよじる。光の反射によって体色が変化したように見えた。濁った眼差しがペレアスに狙いをつけ、体を伸ばしたその瞬間、眼前に虹蛇の顔が迫っていた。

 

「マ、ジか──ッ!?」

 

 大質量の突進。ペレアスは反射的に剣を振るい、それを受け流す。

 直線に横方向の力を加えることで、その向きを逸らす。その淀みのない行動は、彼が生前に磨き上げた技の結晶だ。

 思考を挟む暇も、先読みを駆使する隙もない。防御と回避に長けた剣技を使うペレアスだからこそ、凌げた攻防だった。

 頭部を過ぎ、がら空きになった胴体に刃を振り抜く。

 蛇の身体特徴では躱すことのできないはずの一刀はしかし、刃が当たる時には虹蛇の姿はそこにない。

 ペレアスの頭上を照らす虹色の光。脳天を刺激する殺気を感じ取り、虹蛇が一瞬にして上空に移動したことを知った。

 

(───瞬間移動か!? だったら……)

 

 地面ごとペレアスを呑まんとする噛みつき。最小限の動きで逃げるように躱しながら、斬撃を合わせる。

 移動先を読んだ一撃。だがそれは虹蛇が急停止することで空振りに終わった。

 そこで、ペレアスは思い出す。

 

〝我が宝具は時空を含めたあらゆる縛めを超越する! それを駆使すれば、時間停止に比する速度での連撃も可能という訳だ!!〟

 

 結局、無為に終わってしまった必殺技特訓。巌窟王エドモン・ダンテスは時間の縛めから解き放たれ、アーチャーの自爆以外では彼に掠り傷も与えられなかった。

 

(虹蛇は明らかに俺の攻撃を見てから躱した……つまり)

 

 その戦いを見ていたノアは呟く。

 

「───()()()()()()()()()。しかもあの速さ、固有時制御まで併用してんな。少なくとも倍速にはなってるか?」

 

 虹蛇の巨体は確かに脅威だが、逆に的が広く攻撃を当てやすい。その弱点を補うのが、時間停止と固有時制御。止まった時の中を倍速以上の体捌きで動くという、反則に近い能力だ。

 ペレアスとスカサハは虹蛇との攻防から、ノアは魔術的知識と洞察から敵の能力の正体に辿り着いた。

 だが、それならば説明のつかないことがある。未だ確信を持てていないダンテはその疑問を口に出す。

 

「……どうして私たちは生きているのです? 時間を止められるなら、もっと長時間止めてしまえば全員苦もなく始末できるはず」

「時間を止めるなんてのは魔法でもなきゃ実現できない。世界からの修正力が働くからな。虹蛇が止められる時間は修正力が干渉するまでの短い時間ってことだろう」

「なるほど。反対に自分の時間ならば修正力の干渉も薄いから、常に使えていられるということですね。それなら……」

「───ああ。おまえの出番だ」

 

 虹蛇の体がうねる。大牙をスカサハに差し向け、尾でペレアスを潰そうとする。

 二人は攻撃を予見していたかのように回避し、それと同時に一閃を叩き込んだ。

 分厚い虹の鱗を引き裂き、血が流れ出す。

 敵が時間を止めてしまうなら、それを想定して動けば良い。長時間、連続での時間停止ができない以上、相手の思考と動きを読み切ってしまえば、必然的に攻撃も当たるだろう。

 しかしながら、それには相手の何手先をも予測する洞察力が不可欠だ。少しでも間合いを見誤れば、成す術なく噛み砕かれる。これを戦いながらするのだから、その負担は計り知れない。

 だとしても、ペレアスとスカサハはそれをやる。

 仕留めきれないことに焦れた虹蛇は狙いを変更した。後ろに控えるノアとダンテ。本能として、弱い敵から排除するのは当然の流れと言えた。

 停止した時の中を泳ぎ、ノアの真横に移動する。

 再び時間が動き出した刹那、虹蛇が見たのは目の前を埋め尽くすほどの光球だった。

 

「───ナメんな」

 

 空気を潰すように右手を握り締める。

 それと同時に光球が弾け、膨大な熱と閃光が虹蛇の表皮を炭に変えた。

 ヤドリギの根を使って体内に魔法陣を描くことで発声を省略し、魔術発動までのタイムラグを極限まで削る。パラケルススとの戦闘で編み出した高速詠唱術のひとつだ。

 そして、それは後の前奏に過ぎず。

 

「『至高天に輝け、永遠の淑女(ディヴァーナ・コンメディア)』」

 

 天界が現世に降りる。

 天使と聖人の魂が織り成す天上の薔薇。

 神の威光が満ちるその空間は、遍く魂を救済する必中必殺の領域だった。

 

「あなたの憎しみと怒りは、あなたを苛むものでしかない。───終わりです」

 

 永遠の淑女、ベアトリーチェが舞い降りる。

 虹蛇の魂を抱き、天へ連れ去る。魔神柱と化したレフやアルテラ、ヘラクレスでさえ逃れ得なかった絶対の救済。この固有結界に囚われるということは、終わりを意味し────

 

「ふざけるなよ、海の外の人間」

 

 鉄の糸をノコギリで挽くような声。

 ベアトリーチェの手先が黒く染まり、やがて全身へと伝播していく。

 

「貴様ら十字架を崇める人間の救いを!!! 私にッ、押し付けるなああああァァァッ!!!」

 

 ぱりん、と固有結界が砕け散る。

 スカサハを除いた三人は目を剥いて声をあげた。

 

「「「…………はぁ!!?」」」

 

 絶対無謬の救済を打ち破り、虹蛇は哮り立つ。

 

「この地の罪なき民を痛めつけ、凌辱し、無残に殺しまわった一神教───血も涙もない唯一神の救いで、私を打ち倒せると思うな……!!」

 

 号哭。

 虹蛇の宣言を受け、ダンテは膝から崩れ落ちた。

 

「わ、私の存在意義……宝具だけが取り柄だったのに。ははっ……見てますか神様ァ! これがインフレってやつですよォ! 私のベアトリーチェをあんなにして、絶対許しませんからねえ!!!」

 

 そう言って虹蛇に向かっていこうとするダンテを、ペレアスは羽交い締めにして食い止める。

 

「おい、ヤケになるな馬鹿!! 突撃したところでどうにかなるような敵じゃないだろうが! あとベアトリーチェはお前のじゃねえぞ!」

「手を放してください! 虹蛇は私の唯一の活躍の機会とベアトリーチェを奪ったんですよ!?」

「元々おまえが役に立つ場面なんてそう無かっただろ。発狂すんな見苦しい」

 

 騒ぎ立てるダンテとは逆に、至って冷静な面持ちでスカサハが言う。

 

「落ち着け。お前の宝具は完全に無効化された訳ではない。少量だが、虹蛇の魂を掠め取ったはずだ」

「ということは……」

「ああ、今が攻め時だ。幸い、奴は怒りで我を忘れている。動きを読むのも容易いだろう」

 

 さらに、ダンテの固有結界の副次効果である味方への支援効果で全てのステータスが一段階上昇している。

 跳ね上がった身体能力を以って、スカサハは地面を蹴った。

 槍の持ち手を変え、上空高く跳び上がる。

 

「『貫き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク・オルタナティブ)』」

 

 紅き魔槍の投擲。

 血濡れた光条が、虹蛇の心臓を射抜く。

 それをしても、その命を奪うまでには至らなかった。心臓の九割を破壊され、赤黒い血の雨を降らせながら、虹蛇は一本の矢となって飛翔する。

 

(時間を止めて打点をずらしたか。ならば───)

 

 次は脳を壊す。

 しかし、それが成されることはなく。

 

「『炎神の咆哮(アグニ・ガーンディーヴァ)』」

 

 荒天を切り裂く炎の矢玉が、虹蛇の頭部を跡形もなく爆散させる。

 黒雲の切れ間。燦々と降る太陽の光を浴び、空に留まる褐色の青年。誰にも気付かれずに蛇神の頭を焼き潰した弓手は、空虚な瞳をしていた。

 その眼差しは息絶えた虹蛇を見下ろす。

 

「待っていろ、カルナ。貴様も今すぐに…………!!」



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第41話 狂気の婦長とライオン大統王

「待っていろ、カルナ。貴様も今すぐに…………!!」

 

 ぶすぶすと黒い煙を発しながら、頭を失った虹蛇(にじへび)の巨体が墜落していく。

 褐色の青年が放った一撃は虹蛇の頭を焼き潰すに飽き足らず、貫通して着弾した地面を赤熱する溶岩に変貌させていた。

 虹蛇ほどの質量の墜落は小隕石のそれと変わりない。灼けた大地にその巨躯が落ち、強烈な突風と衝撃がノアたちを襲う。

 ペレアスとスカサハは瞬時にその場から離脱することで、ノアはルーンの防御壁を張ることでそれらを凌いだ。が、Eチームが誇るヘボ詩人だけはろくな防御手段もなく、背中から倒れ込むように地面をごろごろと転がっていった。

 

「ウギャアアアアア!! だっ、誰か助けてええええええ!!」

 

 西部劇お馴染みのタンブルウィードが如き回転で荒野を疾走するダンテ。サーヴァントとは思えない無様を晒す彼を見て、感情のない眼差しを向ける青年を除いた三人は目を見開いて、

 

「おい、なんだあの男は!? とても同じサーヴァントとは思えん!」

「同じサーヴァントつっても天と地ほどの差があるからな。人間ボーリングになるのも当然だろ」

「納得してる場合か!?」

 

 ペレアスは地面を蹴り、絶賛回転中のダンテを追い越すと、その襟首を掴んで止めた。

 土だらけ痣だらけになったダンテは荒々しく息を吐く。着衣も乱れ、優れた詩人に与えられる桂冠も薄汚れて千切れかかっている。

 

「た、助かりました。ありがとうございますペレアスさん」

「おう。これからは絶対にノアから離れるなよ。セミみたいにピッタリくっついておけ」

「是非そうします。人に頼るのは慣れてますので」

「やっぱりお前、サーヴァントよりマスターやった方が良いんじゃねえか?」

 

 ペレアスがダンテと戻ってくる間。ノアは空中に留まる褐色の青年に目を向ける。無言で佇む彼に、勢い良く指を差してがなり立てた。

 

「そこのおまえ、いきなり出てきて手柄を横取りしてんじゃねえ!! それは俺の役割だ、すっこんでろ!!」

「…………」

「無視されているようだが?」

「この俺を前にして無視なんてさせるか! くらいやが───」

 

 魔術回路を起動し、青年に魔術をぶつけようと思った時、ぴしりと何かが割れる音が響く。

 荒野に横たわる虹蛇の死体。背の部分をなぞるようにヒビが走り、潰れた頭の断面から白濁した眼光が灯る。変わらぬ殺気を宿した眼差しがノアとスカサハを射抜いた。

 ──ウロボロスという古代のモチーフがある。自らの尾を噛み、円環をなした蛇。蛇神信仰にはしばしば見られる象徴であり、アステカ神話のケツァルコアトルもこれに当てはまる。

 その意味は多様に解釈され、永遠性や完全性、無限性を表すとされることが多い。それらは蛇の不死性と直結する。虹蛇もまた、死と再生の神の一柱なのだ。

 虹蛇が抜け殻を割って姿を現す。まばゆいばかりの七色の光が辺りを照らし、己が命を奪った青年へと飛び立とうとしていた。

 逡巡する暇はない。

 ノアは右手を胸に突き刺して、ヤドリギを摘出した。

 虹蛇は再生の力を持つ神格だ。神殺しと不死殺しのヤドリギならば、絶対的な死を与えることができる。

 そして、今は再生直後。必殺なれど必中ならぬヤドリギを当てるのは今しかない。

 

「───『神約・終世の聖枝(ミストルティン)』!!」

 

 光条一閃。

 神殺しの一矢が蛇神の眼前に迫る。

 虹蛇の視線が黄金の鏃を射抜き、空間が軋んだ。それは局所的な時空異常。海に渦が起こるように空間が渦巻き、ヤドリギをねじ切った。

 虹色に輝く巨体が声帯を震わせながら一直線に青年を狙う。衝撃波に等しい音の振動。それが届くより一瞬早く、彼がかつて火の神に授けられた神弓が業火を放つ。

 

「『炎神の咆哮(アグニ・ガーンディーヴァ)』」

 

 空を駆ける灼熱の流星。

 虹蛇は眼球が赤く染まるほどの眼力を以って、炎神の一矢を真っ向から睨んだ。

 

「──────()()!!」

 

 空間が、歪む。

 燃え盛る炎が不自然にゆらめく。

 火勢は急激に衰え、その攻撃自体が折り畳まれるように強引に圧縮されていく。やがてそれは小さな火種になり、虹蛇に到達する頃には完全に消滅していた。

 空間ごと対象を捻じ曲げる眼力。自らの宝具を防いでみせた空間歪曲現象を認めるやいなや、弓手は蛇の下を潜り抜けるように飛行する。

 振り向きざまに十連射。空に瞬く星のような火矢はしかし、蛇体を曲げることで全てが回避される。そのどれもが紙一重。最小限の動きで攻撃をすり抜け、矢が空の彼方へ飛んでいった。

 ごく短時間の時間停止であろうと、強者同士の戦いにおけるその猶予は驚異的だ。神弓の担い手を前にしても、優位性は崩れることはない。

 虹蛇は褐色の青年と地上のノアを一瞥すると、頭を振って雲の向こう側に飛び去ろうとする。

 いっそ清々しいまでの逃げ足を目の当たりにして、スカサハは訝しんだ。

 

(逃げただと? あれほどの殺意を向けておきながら)

 

 脳裏に疑問を抱えつつも、彼女の体は追撃のために動いていた。

 束ねた右の五指が深紅の魔槍の表面をなぞる。

 

「wird、wird、wird────teiwaz」

 

 他の文字の強調としてのブランクルーン。架空元素・無という特異な魔術属性が可能にするノアの高速詠唱とは異なった、本来の使用法。三重にもなる強化は、全て最後の文字に捧げられた。

 輝かしい橙色の光が槍を包む。

 teiwazは勝利のルーンと呼ばれる。ヴァイキングなどは自分の武器にこのルーンを刻み、武運を祈念した。ノアは一連の詠唱を見て、僅かに眉を上げる。

 ルーンによる武装強化。スカサハの投擲と合わされば、上空の虹蛇を貫くのも訳はないだろう。

 彼が目を奪われたのはルーンの質。すなわち、神秘の強さ。現代のそれとは比べ物にならない効力を一目で見抜き、強く確信する。

 

(原初のルーン、か)

 

 北欧神話の最高神オーディンが片目と引き換えに得た知恵の秘奥。北欧世界における魔術の源流。それが今、ここに現前していた。

 スカサハは一息に槍を投げつける。

 音速を遥かに超えた速度で飛翔する槍は狂いなく胴を射抜こうとするが、鱗に触れる直前で不自然に軌道が曲げられた。

 投げた槍を手元に戻しつつ、彼女は舌打ちする。

 

「……視界に捉えずとも空間を曲げられるのか。なぜ今まで使わなかった?」

 

 が、先程のものと比べて出力は低下している。メデューサ然りバロール然り、視線が呪いと化す伝承は枚挙に暇がない。虹蛇はその形式に則ることで、空間歪曲の威力を高めているのだ。

 つまり、邪視であって魔眼ではない。むしろその白く濁った眼はもはや正常な機能は果たしていないだろう。

 褐色の青年は逃げる虹蛇に数度矢を射掛けると、追撃を打ち止める。深追いは双方に利がないと判断した結果だった。

 虹蛇の撤退に続くように、空を閉じ込めていた黒雲が流れていく。一転して晴れ渡る青空の下、ペレアスは上空の弓手に向かって呼び掛ける。

 

「そこのあんた、降りてこいよ! オレたちと一緒に勝利の喜びを分かち合おうぜ!」

 

 スカサハとダンテは眉をひそめて、

 

「虹蛇を仕留めきれなかった以上、勝ったとは言い難いだろう」

「ええ。現に私、宝具を破られた敗北感に打ちひしがれたい気分ですし」

「良いんだよ細かいことは。虹蛇は手傷を負って逃亡、こっちはほぼ無傷だろ。あいつを逃げるまで追い詰めたんだから勝ちだ」

 

 その会話の間に、褐色の青年は空から地面に降り立つ。

 気難しい表情をする彼は真摯な声音で言う。

 

「私は貴方たちを監視する任を受けてここに来ました。つまるところは敵……馴れ合う意味もないでしょう」

「御託はいい。それよりも俺たちの獲物を横取りしようとした釈明をしろ」

「結局逃したんだからそこはチャラだろ。……というか」

 

 ペレアスの目が横を向く。それに釣られて一同も視線を合わせると、地平線の向こう側から爆走する人影が見えた。

 最初は米粒大、数秒後にはくっきりとその容姿がうかがえるようになる。

 二十世紀初頭のイギリスの赤い軍服に身を包んだ女性。端正な顔立ちは鋼鉄で出来ているかのように固まり、深い影を落としていた。

 鮮やかな赤色の瞳の眼は一切瞬きせず、ノアたちを見つめている。その時、ダンテは彼女の背後に地獄でまみえた悪魔たちの姿を幻視してしまう。

 

「怪我人───発見ッ!!」

 

 軍服の女性はアメフト選手が如きタックルでダンテに突っ込んだ。

 

「おぼふっ!!?」

 

 草食系男子どころか植物そのもののような男がその追突に耐えられるはずがなかった。彼の体は地面に叩きつけられ、白目を剥いてぶくぶくと泡を吹いている。

 

「意識レベルは昏迷。全身に擦過傷多数。奇異呼吸も確認……容態は厳しいですがまだ間に合います。そこの貴方たち、彼の命を救うために介助を!」

 

 迫真の表情で詰め寄る女性。ノアは目を細めて冷静に指摘した。

 

「おまえのせいで死にかけてるんだが。つーか誰だよ」

「むっ! 右手が黒く壊死していますね。一刻も早く切断しなければなりません。どうしてこれほど悪化するまで放置したのですか!」

「話聞かねえぞこいつ! 耳詰まってんのか!?」

「…立香ちゃんの気持ちが分かっただろ」

 

 ペレアスは呆れて言った。人の話を聞かないことで言えばノアも相当なものである。立香含め普段から彼に苦しめられている人間の気持ちを味わうことになるとは思いもしなかっただろう。

 ダンテの右手がひとりでに動き、女性を払い除けようとする。が、見た目に反して彼女の力は強いようで、簡単に手首を掴まれる。それでもなお、右の五指はわさわさと動いていた。

 

「壊死した手が屈筋反射を……!? 初めて見る症例ですね。これは是非とも切り取って病理解剖にかけなくては」

 

 そう言って清潔に研ぎ澄まされた刃物を取り出したと同時に、ダンテは目を覚ます。

 視界に飛び込んできたのは、真顔で刃物をギラつかせる不審者だった。ダンテは目を見開いて騒ぎ立てる。

 

「誰なんですかこの人!? なんでそんなもの持ってるんですか!」

「フローレンス・ナイチンゲールと申します。貴方の右手は重篤な症状を抱えているので、とりあえず切断に入ろうかと」

「とりあえずで切断はおかしいでしょう! もう終わりじゃないですか、ゴールテープ切ってるじゃないですか! 切断だけに! あとこの手はジャックさんの呪いで……」

「呪い? 何を馬鹿なことを言っているのです。そんなオカルトに取り憑かれて命を落とした人を私は何人も見てきました。医療において迷信は害悪でしかないのです!!」

「び、微妙に反論しづらい……本当に呪いのせいですのに!!」

 

 揉み合いになるダンテとナイチンゲールを一同は冷たい目で眺める。下手に割り込めば自分が標的にされる可能性がある。火中の栗を拾おうとする者は皆無だった。

 ペレアスは顎に手を当てながら、記憶の糸を引っ張り出す。

 

「ナイチンゲール……有名な看護師だったか? ロマンが前に話してた気がする」

「おまえからすれば大抵の英霊は有名だがな」

「うるせえ放っとけ! 無名は無名で良いことだってあんだよ!」

 

 肩を怒らせながら、ダンテとナイチンゲールに歩いていくペレアス。いよいよ右手が切り落とされるところを、なんとか止めに入る。

 なんとかしてダンテの右手が正常であることを伝え、ナイチンゲールに諸々の事情を説明する。神秘や魔術といった存在にはあまり納得がいっていないようで、ノアが実演してみせても表情は曇ったままだった。オカルト的なものへの意識はなかなか変わらないようだ。

 彼女はダンテの傷を念入りに消毒しながら、ここに来た経緯を説明する。

 

「あの黒雲が通り過ぎた後には不思議と無数の傷病者がいましたので、それを追っていた次第です」

 

 ダンテとペレアスは絶句した。あの雷雲の発生源は考えるまでもなく虹蛇だ。それの後を付いてきていたとなれば、いつあの蛇神と遭遇してもおかしくはない。ノアたちに会うまで生きていたことはかなりの幸運だ。

 無論、ナイチンゲールも危険性は理解しているはずだが、彼女はクリミア戦争において数多の人間を救った英雄。小陸軍省とまで喩えられた胆力と苛烈さには、命を脅かされる状況など歩みを止める理由にはなりはしなかった。

 ナイチンゲールはダンテの処置を終える。青空の遠方に黒いシミのような雲を見つけると、その方向に踵を返した。

 

「では、私はこれで。あの雲を追わねばなりませんので、貴方は毎日の手洗いうがい消毒殺菌切断は忘れないように!」

 

 その場を後にしようとする彼女を、ペレアスが止める。

 

「ま、待て待て! オレたちと一緒に来てくれ! このままじゃすぐに死ぬぞ!?」

「お心遣い感謝致します。ですが私に心配は無用! この身はとうに命を救う職務に捧げたものですから!!」

「うわー! ダメだ、説得できねえタイプの人間だこの人! アグラヴェインとかと同じニオイがする!!」

 

 ペレアスは思わず嘆いた。説得が通じない人間は往々にして、どんな時代にもいる。そんな人を言い宥めるのに必要なのは、感情やその人自身ではなく他の要素で訴えかけることだ。

 ダンテはその方法を心得ていた。仮にもフィレンツェの統領にまで登り詰めた政治家、話を聞く気がない相手を味方につけねばならないこともあった。詩才だけでなく政治手腕も、彼を語る上では無視できない。

 

「ナイチンゲールさん。あなたの信念は誰にも否定できるものではありません。ですが、私たちも滅びた世界の数十億人を救わねばならない。人命の優先度を数で付けろと言っている訳ではなく、特異点という病巣を切除するために私たちと共に戦っては頂けませんか」

「…………なるほど。この世界に在るのですね? 人命を脅かす病原体が」

「ええ。命を救いたいあなたと世界を救いたい私たち。目指すところは同じと思いますが?」

「分かりました。この私も貴方たちと共に往きましょう。ミスター・アリギエーリ」

 

 どうやら話はまとまったようだ。それを傍目に眺めていたスカサハは、小さく頷いた。

 

(ただの惰弱な男と思っていたが、人の心に触れる才があるのか。生きる世界が違うのだろう。……自らを戒めなくてはならんな)

 

 ダンテのような人間は平時でこそ、その能力を輝かせる。戦いを宿命とする人間の尺度で計ること自体が間違いだ。そして、スカサハはそれを認めて正すこともできる。それはそれとして戦闘で役に立たないことは問題なのだが。

 考え込む彼女の背中にぶっきらぼうな声がかかる。

 

「おい」

 

 視線を傾けた先にはノア。彼は強烈な上から目線で言い放つ。

 

「おまえのルーン魔術を俺に教えろ」

 

 簡潔な言葉。スカサハは向き直り、

 

「剣は使えるか」

「……は?」

「弓と槍はどうだ? 見れば上背もあるし体はそれなりに仕上がっているようだが、ルーンを使うとなれば武術は不可欠だ。影の国ではな」

 

 彼女はわざとらしく口元を歪める。

 

「ああ、お前は魔術師だったか? ならば武器を使えぬのは仕方ない。訊いた私が悪かった。気にするな、魔術師」

 

 スカサハはノアの肩を叩く。もったいぶった適当な煽りに、彼は瞬間湯沸し器のように沸騰した。

 

「上等だ、俺の槍テクを見せつけてやらァァ!!」

 

 ヤドリギの短槍で切りかかる。不意打ちじみた一撃だったが、スカサハは槍を振るうことすらなく、踵でノアの顎を打ち抜いた。綺麗に回し蹴りを決められた彼の体は仰向けに崩れる。

 そもそも、人間がスカサハほどのサーヴァントと同じ土俵に立つこと自体が愚行である。この結果はノアの煽り耐性の低さに起因していたと言えよう。

 スカサハは地面に大の字になるノアに、冷静な評価を下す。

 

「魔術師が片手間に使う槍術にしては悪くはなかった。現代では通用するだろう。現代ではな。つまり、私にとっては児戯だ」

 

 彼女は槍をノアの鼻先に突きつけて言う。

 

「立て、一から鍛え直してやる。制裁のこともあるしな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 立香(りつか)たちローマ合衆国がケルト軍との遭遇戦を行った後。敵を眼光だけで撤退させた白髪のサーヴァントは、彼女らに言った。

 

「オレはカルナだ。アメリカの大統王、エジソンがお前たちと話をしたいと言っている。助けた恩を振りかざすようで悪いが、同行してくれ」

 

 立香たちは目を合わせて無言のやり取りをする。人は視覚から多くの情報を仕入れる生物である。その間で得た共通認識はただひとつ。

 

「情報量が多い───!!」

 

 立香は思わず声を口に出していた。目の前の男があっさり真名を明かしたこと、超ビッグネームのエジソンが大統王であること、何やら彼についていかなければならないこと等々、突然の展開に彼女の頭はパンクしかけていた。

 勢い良く振り向き、マスターらしくマシュに指示を出す。

 

「と、とりあえず解説を!」

 

 Eチーム女子サイドの名解説役ことマシュはしたり顔で頷いた。

 

「はい。カルナさんはインドの叙事詩マハーバーラタに登場する英雄です。人間の妃と太陽神の間に産まれた子で、生まれながらにして黄金の鎧を身に着けていた不死身の戦士ですね」

 

 しかし、古今東西不死身の者というのは必ず死する運命にある。カルナはバラモン僧に化けたインドラとの取り引きで鎧を失い、決闘相手の矢にその身を貫かれて命を落とした。

 マハーバーラタの中では彼は弓を用いることが多いが、ここでは槍を携えている。その槍こそは無敵の鎧と引き換えに手に入れたインドラの槍であろう。

 マシュが語り終えると、カルナは表情をぴくりとも動かさずに述べる。

 

「目の前で自分の人生を語られるのは少々気恥ずかしいな」

「その割には無表情極まってるわね」

「アイドルにはなれないタイプね。厄介なファンにも分け隔てなく微笑みかける愛嬌とスキャンダルを起こさないことが第一だもの」

「お前にはどっちもないけどな」

フォウフォウフォフォフォウ(どうせ人気出るタイプだよ、ケッ)

 

 何やらふてくされたフォウくんは人間のような二足歩行で、腕を組みながら小石を蹴り飛ばした。

 マスコットキャラクターの闇は置いておいて、カルナの申し出を断ることは不可能なように思われた。彼の実力は一目瞭然、全員で戦ったとしても多大な被害を受けるだろう。

 無意味に敵に回すことは避けるべきだが、ノアたちとの合流を急がなくてはならない。あまり時間を掛けていられる状況ではないが、背に腹は替えられなかった。

 ネロは悩ましげに眉根を寄せる。

 

「立香、これは受けるしかあるまい。時を要するのはやむなし、大統王との語らいもそれはそれで貴重だ。協力関係を結べるやもしれぬしな」

「そうですね。ちなみに大統王のところまではどれくらい歩くんですか?」

「無理に移動を強いることはしない。そうだな……この中に空を飛べる者はいるか」

 

 マシュは即答した。

 

「ジャンヌさんが飛べます」

「ぶっ飛ばされたいの? アホなすび」

「名無しの女王の城に突入する時に共に風になったじゃありませんか。あの飛びっぷりはまさに圧巻の一言でした」

「アレのどこが飛行!? ああいうのはただの自殺行為って言うのよ! 二度としませんから!」

「何やらよく分からんが、仕方ない。文明の利器を使うとしよう」

 

 そう言って、カルナは手のひら大の通信機を操作した。この時代にはそぐわないと思われる現代的な機械。彼はそれに向かって声を発する。

 

「すまないが力を借りたい。アレを送ってくれ」

「『ええ、よくってよ! 私の神秘の根源、有効活用してちょうだい!』」

 

 すると、上空から異様な機械音が鳴り響き、太陽光が遮られて大地が影に包まれる。かと思えば、神秘的な強い光が辺りを照らした。

 ほぼ同時に、立香たちは顔を上げる。

 梔子色に発光する鋼鉄の円盤。それはゆっくりとだが回転しており、無機質に佇んでいた。過去の英霊たちには見覚えどころか概念すらないような飛行物体。しかし、立香とマシュは強烈な既視感をその円盤に掻き立てられた。

 二人はひしと抱き合う。

 

「もうダメだぁ~! 私たちは今からエイリアンにアブダクションされて人体実験されるんだぁ~!!」

「人体実験……!? くっ、そんなマニアックなジャンルはまだわたしの辞書にはありませんね……サンプルの提示を求めます!!」

「……そろそろ本当に焼きなすびにしようかしら」

 

 本調子ではないラーマはさらに調子が下がっていくのを感じた。この集団において、常識人は割りを食うばかりなのだ。かといって、彼女らの位置まで下がるのは断固として拒否するが。

 そんな騒ぎがありつつも、結局ローマ合衆国は円盤に乗り込んでアメリカ軍の本拠地に連行もといアブダクションされることになったのだった。

 円盤の上で風に吹かれながら、ラーマはあんな場所で行き倒れていた経緯を打ち明ける。

 

「この地に召喚されてすぐ、余はケルト軍のサーヴァントと交戦した。奴はケルトの狂王と名乗り、軍門に下るか否かを突きつけてきたのだが……」

 

 彼はその申し出を断り、狂王との戦闘になった。万全のラーマはカルナにも劣らぬ戦力を有し、全サーヴァントの中でも最高峰に位置する英霊だ。が、狂王は彼を追い詰めるほどに強かった。

 その窮地を救ったのが、輝くコヨーテを従えたサーヴァント。直後に乱入した虹色の蛇と狂王からラーマを逃がすために駆け付けたのだという。

 そのサーヴァントの行方はようとして知れないが、生存している可能性が低いことは確かだ。

 ラーマは決意を表すように拳を握り固める。

 

「二度も救われた命だ。余はこの世界を救うために戦うぞ。ではなくては、シータに顔向けできぬからな」

 

 真摯な彼に、マシュは強く首肯した。

 

「ええ。わたしたちは、わたしたちを育んでくれた世界と人のためにも、戦わなくてはなりませんから」

 

 そうして、アメリカ軍の本拠地が見えてくる。

 防衛を旨とした要塞。その屋上にはヘリポートよろしく飛行円盤のための発着場が設けられており、全員はそこに降り立つ。

 役目を果たした円盤は無数の光の粒となって消えた。サーヴァントの武装は自由に出し入れできるが、この円盤も同様の扱いのようだ。発着場の必要性が疑問になってくるが、立香はそれを飲み込んだ。

 ローマ合衆国一同が案内されたのは適度な装飾が施された応接間。そこに入ろうとする寸前、ロマンは立香に忠告した。

 

「『立香ちゃん、くれぐれも失礼のないようにね』」

「誰に言ってるんですか。リーダーじゃあるまいし」

「『いや、アレは論外だから……』」

 

 君は君で大概だ、とは言わなかった。ロマニ・アーキマンは気遣いのできる大人なのだ。

 応接室の扉が開く。対面するように並べられた椅子と机。立香の向かい側にはカルナと快活な雰囲気の紫髪の少女。そして、

 

「よく来てくれた、紳士淑女たちよ。私が大統王エジソンである。どうぞかけたまえ」

 

 ───自らを大統王と名乗るライオン頭の大男だった。

 立香はつい思ったことを口に出してしまう。

 

「……埼玉の球団でマスコットキャラクターとかやってました?」

「何のことを言っているんだね君は!? もし肖像権の侵害をしているなら私も出るところに出ねばな! 何しろアメリカは訴訟の国だ!」

「映画の撮影機とフィルムの特許を無理やりもぎ取ったものね、あなた。正直どうかと思うけれど!」

「そう言うな、エレナくん。私もあの頃は若かった……」

 

 エジソンは発明家としてだけではなく、事業家としても優れた才能を発揮した。ニコラ・テスラとの電流戦争が有名だが、他にも彼のしたたかなエピソードが残っている。

 映画には覗き箱方式と映写方式というのがある。前者はエジソンが発明したもので、現代では後者の方式が採用されている。新しい方式の登場により、エジソンも映写方式を導入せざるを得なくなった。だがその後、彼はお抱えの法律顧問団の力によって一度は却下された特許申請を強引に認めさせ、映画関係者たちから特許使用料を巻き上げたのだ。

 立香の前にいるのは、そういう人間だった。搦手も正攻法も惜しみなく効果的に使い、目的を達成しようとする曲者。彼女の握り締めた手のひらにじわりと汗が浮かび上がる。

 

「エレナって、もしかしてエレナ・ブラヴァツキーさんですか?」

「ええそうよ。割とマイナーなのに、現代の子がよく知ってるわね!」

「リーダー……私たちの仲間の魔術オタクが結構話題に出すので。今はここにいないんですけど」

 

 エジソンは髭をつまみながら口角を上げた。

 

「ほう、他にもまだ仲間がいるのか。これは建設的な相談ができそうだ」

「もったいぶってないでさっさと本題に入りなさい。そんなんじゃトーク番組に呼ばれないわよ」

「お前が喋るとさらにややこしくなるから黙っててくれませんかね?」

「う、うむ。話というのは他でもない。ケルト軍に対抗するため、我々で手を組もうというのが本題だ」

 

 その申し出は立香の想定内だった。無闇に戦闘を仕掛けて来ない時点で剣呑な言葉が飛び出すとは思っていなかったが、アメリカ軍の協力が得られるとなれば断る選択肢は無いように思われる。

 立香がネロに視線を送ると、彼女はエジソンに向き直った。

 

「確かに、それは魅力的な提案であるな。手を組む他に余地はないとも思うだろう。しかし余は皇帝だ。まだ仲間の命を預けるに足る問答をしておらぬ」

「ならばすると良い。歴代大統領の魂に誓って、如何なる問いにも虚偽なく答えると約束しよう」

 

 ネロはエジソンの瞳を真っ向から捉え、

 

「大統王エジソン。ケルト軍に勝利し、その後に何を望む」

 

 彼はそれを受け止めると、ゆっくりと立ち上がる。背後の窓から射す陽光に包まれながら、エジソンは一冊の本を取り出した。

 その本は聖書。人類の原罪を背負い死んだ救世主の物語が描かれた、奇跡の伝承。彼はその表紙に右手を乗せる。

 

「我が国の長は聖書に手を置いて就任を宣誓する。慣習として形骸化しようとも、その根底にあるのは神への誓い。この国が未だ唯一神の威光の元にあるという証左だ」

 

 ネロの視線に込められた熱が冷え込む。

 彼女はキリスト教を苛烈に弾圧した皇帝。後の世では悪の象徴として伝えられることもあるほどに、教徒からは畏れられ憎まれた。

 弾圧の真意がどこにあるにせよ、その事実は変わらない。ネロの眼差しが冷たく研ぎ澄まされていくのを感じながら、エジソンは続ける。

 

「ヨハネの黙示録には救世主による千年王国が訪れるとある。だが、世界はそれを待たずして滅んだ。この国を残して───これがどういうことか分かるかね?」

 

 その問いに答える者は誰もいなかった。ただ、強烈な不穏さだけを秘めていることだけは誰の目にも明らかで。

 エジソンは鬼気を孕んだ瞳で断言する。

 

「これは我ら人間の手で千年王国を建国せよという運命の啓示! ケルト軍が擁する聖杯を手にし、私は合衆国を永遠のモノとするのだ!!」

 

 大統王は意気揚々と宣誓する。この場のほとんどの人間が呆気に取られる中、立香だけはこくこくと頷いていた。

 

「なるほど。エジソンさんの言いたいことはよく分かりました」

「分かってもらえたようで幸いだ、レディ。合衆国は来るもの拒まず。勝利の暁には諸君らに永住権を贈ろうと思」

「あっ、それはいいです。私たちは帰るんで。行こっか、みんな」

 

 大統王の言葉を遮って、立香は席を立つ。彼女に続いて、他のメンバーも離席していった。それを唖然と眺めていたエジソンは正気を取り戻すと、扉の前に立ちはだかる。

 

「ちょっ、待ちたまえ! えっ? 話の流れを理解していないのか!? どう考えても私の申し出に乗る場面だっただろう!!」

 

 泡を食って喚き立てるライオン頭。デフォルメされていない獅子の顔が歪むのは相応の恐怖感を覚えるはずだが、立香たちはそれを据わった目で見つめていた。

 ラーマはため息をつくと、エジソンに向けて言う。

 

「貴様こそ理解しているのか? 我らが救おうとしているのは世界だ。この国を含めた、な。一国だけを保存しようとしている貴様と我らでは最初から袂を分かつしかあるまい」

「全くね。一部のファンだけ贔屓するなんてアイドルのやることじゃないわ。敵対するつもりもないし、さっさとそこを退いたら?」

「ならば尚更に認められん! 敵対することはないにせよ、その後にあるのはどちらが先にケルトの聖杯を奪うかという競争だ! みすみす逃す愚行はしない!!」

 

 両手を広げて扉を塞ぐエジソンに、マシュは告げる。

 

「アメリカ合衆国は資本主義の国でしょう。その行為は競争原理を破綻させることになるのでは?」

「それとこれとは話が別だ! そもそもだ、お前たちは人理焼却を引き起こした黒幕に本当に勝てるとでも思っているのか!?」

「愚問ですね。カルデアEチームはそのために戦っているのですから。そうでしょう、先輩」

「うん。私たちはもう何も失わせないって決めたから。今のアメリカに協力する気持ちはこれっぽっちも湧いてこない!」

 

 意志の表明。立香は誓ったのだ。もう他の誰ひとりとして奪わせはしないと、誰が欠けてもいけないのだと。故に、アメリカ以外の世界を切り捨てようとするエジソンだけは認められない。

 その語気はエジソンすらもたじろがせるほどに強かったが、彼の合衆国を永遠の国とする目的もまた強固。扉の前から動くことはなかった。

 

「もういいわ。これ以上の言い合いは無駄でしょう。立香、これ持ってなさい。私に良い考えがあるわ」

 

 そう言って、ジャンヌは微笑みながら自らの旗を立香に渡す。

 怜悧な空気をまとった魔女はエジソンのもとまでつかつかと歩いていくと、

 

「おらああああぁぁぁっ!!!」

「ぐっはああぁぁあああぁぁっ!!?」

 

 全盛期のマイク・タイソン並の右アッパーをライオン頭の下顎に叩き込んだ。

 エジソンの体は垂直に飛び上がり、天井に頭がすっぽりと埋め込まれる。不出来な振り子のように揺れる頭から下の体を目撃し、エレナは顔色を青くした。

 

「え、エジソンが邪教が崇めてそうな奇怪なオブジェに!! ちょっとやりすぎじゃないかしら!?」

 

 ジャンヌは立香の手から旗を受け取り、カルナとエレナに穂先を向ける。

 その唇が形作るのは挑発するような好戦的な笑み。炎が顕現を果たしていないというのに場の空気は熱され、カルナとエレナに吹き付けた。

 

「さあ、攻撃する大義名分はくれてやりました。掛かってくるというならどうぞお好きに。私たちも全力で抵抗するわ。消耗した戦力でケルト軍に勝てると思うなら、存分に戦いましょうか!!」

 

 燃えるような宣言。カルナはインドラから得た槍を引き抜くと、その切っ先を突きつけ返す。

 

「この身は今はアメリカの戦士だ。大統王に傷をつけたお前たちを、ただで帰すわけにはいかない」

 

 旗と槍。それぞれの得物に込められた殺気がぶつかり合う。

 衝突はもはや一寸先。相手の呼吸、視線、筋肉の蠕動までをも見抜いて隙をうかがう。余人には立ち入ることの許されない読み合いであり、先に動いたのはカルナとジャンヌのどちらでもなく。

 かつり、と硬質な音が響く。即座に振り向いた先にはロビン・フッド。彼は右足の裏で床に矢を突き刺していた。

 猛毒を秘めたイチイの矢。滲み出した毒が床を染め始める。

 

「動くな。この矢は周囲の空間を毒で染め上げる。そこのアホ娘は先走っちまったが、お互いここで戦うのは得策じゃねぇだろう?」

「……だとしても、これは利害ではなく誇りの問題だ。オレが槍を収める理由にはなりはしない」

「御託は良いわ。ごちゃごちゃ言ってないで仕掛けてきなさいよ。不死身だか何だか知らないけど───」

 

 ジャンヌの言葉はそこで遮られた。目がぐるんと裏返り、床にぱったりと倒れる。その後ろには盾を構えたマシュがいた。のびたジャンヌを米俵のように抱えると、彼女は頭を下げる。

 

「これでおあいこということで如何でしょう。わたしたちはすぐにここを去りますので」

「……先を越された、か。良いだろう。オレもお前たちを追うことはしない」

 

 カルナは構えていた槍を引く。

 ぷらぷらとぶら下がるエジソンをのれんのように避けながら、立香たちは扉を開けた。その際に、エレナは彼女らに言付ける。

 

「アメリカとケルトの戦線を荒らしている虹蛇のことは知っているかしら? もし国境を越えようとしているなら気を付けなさい。アレは恐ろしいわよ」

 

 おそらくは本心からの忠告。立香はそれに対して、笑みで返す。

 

「ありがとうございます。気を付けますね!」

 

 ばたん、と扉が閉じる。その際の衝撃でエジソンが床に落ちたが、意識は未だに戻っていないらしく、うつ伏せのまま寝転んでいた。

 エレナは紅茶で唇を濡らすと、カルナに微笑みかける。

 

「笑顔が素敵な子ね、彼女。エジソンも反省してくれると思ったのだけれど」

「……相手の信念を曲げるために自分の信念を持ち出すのは逆効果だ。感情論は時に馬鹿にされるが、偽りなき感情の発露は理屈を凌駕する」

「つまり、エジソンを変えるには感情をぶつけてくれる相手が必要ってことね。テスラがいれば……」

 

 悩ましげなうめき声を聞きながら、カルナは目を伏せた。

 目蓋の裏に浮かぶのはかつて自身の命を奪ってみせたひとりの弓使い。彼にとって、彼らにとって、偽りなき感情をぶつけられるのはもはや旧敵のみ。

 今度こそ、何の文句のない戦いを。

 それだけが、カルナの望みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 所変わってケルト軍領地。

 日はすでに傾いており、地平線の向こう側に沈み始める時間帯。夕焼けに照らされる地上とは逆に、空は薄く暗い青に染まりかけている。

 そんな情景を彩るのは鳥の鳴き声や風の音であるべきはずだが、今この時ばかりは事情が違った。

 岩を鋼の刃で削るかの如き打撃音。その合間には情けない悲鳴が挟まり、凛とした激が飛んだ。

 

「ノアトゥール、お前は感覚で動き過ぎだ! 一流の武芸者にそれは通用しない! 私の動きを目で見て盗め!! それとダンテ、お前はまずそのへっぴり腰をどうにかしろ!!」

「ひいいいいい!! なんで私まで巻き込まれてるんですか! 魔力と宝具以外のステータスが全部最低値のサーヴァントにやらせることじゃありませんよ!!?」

 

 スカサハとノア、そしてなぜかダンテは槍を携えて苛烈な稽古を行っていた。一応は訓練の体を取っているので槍は刃引きされた模造品だが、当たれば痛いことには変わりない。

 元々はスカサハとノアだけで打ち合っていたはずが、何の関係もない詩人が巻き込まれる悲劇。シェイクスピアがここにいたなら、愉悦の笑みを浮かべていたことだろう。

 スカサハは腰が引けたダンテを槍ごと蹴り飛ばす。

 

「そんな意識だから宝具を破られただけで戦意を失うのだ! 戦いに必要なのは武具だの技術だのではなく第一に根性だ! 根性さえあれば神霊にさえも勝てる!!」

「無茶言ってんじゃねえええええ!! 今時根性論なんて流行らねえんだよ、体育会系の極みが! 時代に乗り遅れるぞ年増ァ!!」

「…………そうかそうか。お前のように血気盛んな男は何人もいた。そういう奴の扱いは慣れている。とりあえず九割殺しだな。死ね」

 

 彼女の姿が一瞬にして消え失せる。

 瞬間移動かと見紛う速度の歩法。ノアの背後に現れたスカサハは格闘ゲームでもお目にかかれない連撃を加えた。ピクピクと地面に伏せるノアの尻に槍を突き刺し、一旦は溜飲を下げた。

 それと同時に動くのはナイチンゲール。両手に手袋をはめ込み、ずっぽりと入り込んだ槍の柄を握り締める。

 

「引き抜きます。覚悟はいいですね?」

「おい待て、おまえに任せると血塗れの未来しか見えねえんだよ! そのまま引き抜くとか切れ痔どころの話じゃねえぞ! せめてローションかボラギノール持ってこ───」

「摘出ッ!!!」

「ギャアアアアアアアア!!!!」

 

 尻から大量の血を噴き出して白目を剥くノア。見るもおぞましい光景を目にして、彼らの監視役である褐色の青年は思わず自分の臀部に手を当てた。

 そんな彼の横で共に一部始終を観察していたペレアスは、ばつが悪そうに話しかける。

 

「ウチのアホどもがすまねえな」

「い、いえ。これも必要なことと割り切っています。気にしないようにしましょう。お互いに……」

「だな。ところで、あんたはどうしてケルト軍にいるんだ。ケルトゆかりのサーヴァントって感じでもなさそうだしな。何か理由があるんじゃねえか?」

 

 青年の落ち着いた声音に僅かな感情が籠もる。それは本人すらも気付かない無意識下の発露。だが、ペレアスには初めて見えた彼の変化だった。

 

「アメリカに、必ず決着をつけなくてはならない敵がいるのです。奴と戦うためなら、私は世界を滅ぼす側にだって付く」

「……それは───」

「カルナ、ですか? その人の名前は」

 

 どこからともなくダンテの声が響く。ペレアスが視線を下げると、かさかさと地面を這いずって寄ってくるダンテがいた。スカサハとの特訓で立ち上がる気力すらも使い果たしたようだ。

 ペレアスは彼の手を掴んで強引に立たせる。虫の息のダンテに肩を貸してやりながら、質問した。

 

「誰だ、そのカルナってのは」

 

 ダンテは青年に目線を投げかける。

 

「その前に、話してもよろしいですか。目の前で自身のことを語られては気分を悪くすることもあるでしょう」

「……問題ありません。叙事詩に書かれている以上、隠しておく意味もないでしょうから。私の名はアルジュナと申します」

「ダンテ、なんで分かった?」

「真っ当に宝具名からですね。ガーンディーヴァとはアルジュナさんが神から貰い受けた弓のことを言います。インドの二大叙事詩の主要人物ですから、すぐに分かりました。何より、私に残った役割は解説役くらいしかないので!!」

「「…………」」

 

 アルジュナとカルナは浅からぬ因縁で結ばれている。それは二人が命を奪い合った最後の決闘に集約されると言っても過言ではない。

 アルジュナの父であるインドラはバラモン僧に化けてカルナの無敵の鎧を奪った。生まれながらに肉体と一体化していた鎧を失うということは、自らの肉を削ぐ行為に等しい。カルナは圧倒的に不利な状況での決闘を強いられ、己が乗る戦車の車輪が轍に嵌ったところを射殺されるのである。

 

「戦えない者を攻撃してはいけない───そんな規則がありながらも、私は矢を放ちました。あの決闘は私にとって恥でしかない。故に今度こそは何のしがらみもない中で、カルナを超える」

 

 それを聞いて、ペレアスは気難しい表情で顎をさすった。

 

「そりゃあ確かにケルト軍につきたくもなる。周りに邪魔された決闘のことも不完全燃焼だろうしな。インドラは親馬鹿すぎだろ」

「多神教の神様はみんな人間臭いですからねえ。それにしてもカルナさんにしたことはどうかとは思いますが。あ、ごめんなさい。父君をディスっているわけではないのです」

「……で、ですから、私は貴方がたの敵になります。いずれは殺し合う間柄、言葉を交わすのは不要でしょう」

「じゃあ行くか? カルナのところに」

 

 ペレアスの何気ない一言。会話が全く繋がっていない発言に、アルジュナは唖然として、声帯をぎこちなく震わせる。

 

「全く話が繋がっていないのですが!?」

「いや、だから行こうぜ。カルナのところに。こんなケルト軍に従ってても機会を逃すだけだろ。アルジュナが頼めばカルナも快く受けてくれるはずだ」

「そ、それは……しかし……」

「それにアルジュナが勝てば晴れてオレらの仲間に、負けても両者満足できる。ワンチャン一石二鳥の完璧な作戦だな! 心配すんな、邪魔立てするような奴は斬ってやる」

「不確定要素がある時点で完璧な作戦ではないのでは……!?」

 

 微妙に嘆くアルジュナと詰め寄るペレアス。その二人の構図にダンテは割って入って、

 

「まあまあ、そうすぐに決断を求めては酷でしょう。それよりも少し散歩に出るのはどうですか? 実験したいこともありますし」

 

 そんな訳で、ノア一行は散歩することになったのだった。行き先はケルトの国境を越えてその先、アメリカの領地である。

 それというのも、カルデアとの通信を行うためであった。これまでノアたちはアメリカ東部から西へ移動してきたが、その間に一瞬カルデアとの通信が繋がるということがあった。

 そこでダンテが立てた仮説がケルトの領地から遠ざかるほど通信が繋がりやすくなるのではないか、というものだった。それを検証するため、ノアたちは散歩に繰り出したのである。

 とはいっても、国境まではかなりの距離がある。そこに目をつけたひとりのスパルタ教師がいた。実際にはスパルタではなくケルトだが。

 満点の星空に閉じ込められた荒野。ダンテを背負ったノアが常人ではあり得ない速度で駆けていく。周囲にはペレアスやナイチンゲール、アルジュナが帯同し、スカサハは後ろから芝刈り機のように槍を振り回していた。

 彼女は体育教師さながらにジャージを着込み、気の抜けた笛の音を鳴らす。

 

「ほら〜走れ〜お前の後ろから死神が迫っているぞ〜〜」

「くっそ、調子に乗りやがって! ダンテ降りろ、あいつだけは叩きのめさないと気が済まねえ!!」

「すみません無理です。私、敏捷のステータスがアレなので。軽自動車でF1カーと競走するようなものですよ」

「魔術師に足の速さで負けるとか恥ずかしくねえのか?」

「やめてください。虹蛇に宝具効かなかったせいでかなり心に傷を負ってるんですから」

 

 己の宝具に誇りを持っているサーヴァントは多い。特にダンテは初恋の人と信じる神までもが否定されたようなもので、そのダメージは計り知れなかった。

 置物と化した詩人を背負い走ること数十分、一行は国境を越える。すると即座に通信機が反応を示す。

 空中にロマンが像を結び、焦った顔で喋り始める。

 

「『ノアくん、よく連絡を取ってくれた。無事で何よりだ!』」

「無事ではないがな。主にケツが」

「『と、とりあえずお尻のことも含めて説明を頼めるかな?』」

 

 そこで、ノアは今までの出来事をロマンに伝え、立香たちの現況についての説明を受ける。彼は安心したような、呆れたような顔をした後、粛々と告げた。

 

「『うん、ノアくんは安静にするのとスカサハさんに逆らわないように。それにしても監視が付いてるならノアくんから合流することは難しそうか。そこは立香ちゃんに任せるとしよう』」

「立香ちゃんと連絡は取れねえのか? マスター同士の意思共有は必要だろ」

「『そうですね。色々と積もる話もあるだろうし、時間も多くはないので二人に話してもらいましょう』」

「では私たちはババ抜きでも……」

 

 ダンテが言った瞬間、彼の右肩ががしりと掴まれる。

 おそるおそる振り向いた背後には、感情のないスカサハの真顔があった。悲鳴すら出せずにダンテは引きずられていき、直後に断末魔が轟く。

 それをBGMにして、立香との通信が始まる。

 

「『ドクターから聞きましたよリーダー。お尻大丈夫ですか? なんか中腰になってません?』」

「まあな。中腰のことは言うな。おまえこそエジソンと揉めたらしいな」

「『でも、断ってなかったら絶対怒ってましたよね』」

「当たり前だ。その点はあの放火女も役に立ったな。火葬まですれば文句なしだったが」

「『そんなことしたら私たちの方が悪役なんですが!?』」

 

 ところで、とノアは早口で切り出す。

 

「あのエレナ・ブラヴァツキーに会ったらしいな。どんな魔術を使ってた? マハトマの解釈については当然訊いたんだろうな。表の歴史におけるブラヴァツキーの功績といえば最初に挙げられるのがシークレット・ドクトリンの影響だが、その底本になったと言われているジャーンの書の実在性については誰もが疑問に思うところだ。当時流布していた資料の寄せ集めにすぎないとされているが、あのエレナ・ブラヴァツキーがそんなものを出典にして本を書くとは考えづらい。特にアトランティスとレムリア大陸に言及した第四根源人種の知識は緻密だ。底本がないとしたらブラヴァツキーお得意の霊視で知ったと見るべきだろうが、どのような方法で知ったのか───」

「『あの、オタク特有の早口やめてください。なんかUFOは呼び出せるみたいですけど』」

「オイオイオイ、どこの陰謀論だ藤丸。ウソつくんじゃねえ。そんなのに俺が騙されると思ったか」

「『いやいや、本当なんですって! 実際にアブダクションまでされましたからね!? リーダーも一回見たら分かりますから!!』」

 

 立香は自身の劣勢を感じ取った。確かにUFOなんてものが実在すると言っても信じる人は少ないだろう。彼女は話題を切り替えることにした。

 

「『全然関係ない話ですけど、リーダーの好きな食べ物ってなんですか?』」

 

 途端に、ノアはどこか遠くに視線を投げかけて答える。

 

「……シチューだな。それがどうした」

「『え、なんか意外ですね。人の生き血とか言うかと思いました』」

「どこの吸血種だ。十七分割してやろうか」

「『その前にジャンヌに消し炭にしてもらうので大丈夫です。シチューなら私作れますよ。この特異点が終わったらカルデアのみんなと食べませんか?』」

「……ああ、期待しないで待ってやる」

 

 ノアは素っ気なく首肯した。立香は彼に見えない位置で拳をぐっと握る。

 

「『それじゃあ、次はリーダーが私に質問してください。セクハラ以外なら何でも答えますよ。リーダーが好きな貸し借りってやつです』」

「そうか。じゃあおまえがなんでそんなにアホになったか聞かせろ」

「『私はアホじゃないんでそもそも答えられませんね。他のでお願いします』」

 

 ノアはため息をつき、少し考え込んで言った。

 

「よく英語なんて勉強する気になったな。日本は外国語なんて習わなくても生きていけるだろ」

「『そうかもしれませんけど、単純にもったいないなって』」

 

 要領を得ない言葉。ノアが小さく首を傾げるのを見て、立香は言葉を付け足す。

 

「『世界にはいっぱい人がいるのに話すらできないなんてもったいないじゃないですか。それに、みんなと話せるのも言葉のおかげですから』」

 

 だから、と彼女は続けた。

 

「『リーダーに、みんなに会えて良かったです。私の努力が無駄じゃないことも知れたし、大切な仲間を持つこともできたから。こういうことを言うのは、少し恥ずかしいですけど』」

 

 立香はほのかに紅潮した顔で笑う。

 ノアはほんの少しだけ黙りこくって、応えた。

 

「…………俺も同じだ。()()

 

 その時、どくりと心臓が跳ね上がる。

 

「『─────、え。いま、名ま』」

 

 そこで、ぷつりと通話が切れる。

 立香はすぐにかけ直すが、通信機は黙ったままでノアが出てくることはなかった。

 心臓は相変わらずうるさく胸を叩いていて。頬に手を当てると、風邪をひいた時みたいに熱くなっていた。さやかに吹く夜風もそれを鎮めるには力不足だ。

 浮ついた心と足に任せて、立香は幕屋の布団に入り込む。明日も早い。夜更かしはいけないと頭で理解してはいても、脳は微塵も眠気を訴えていなかった。

 立香は隣で横になる少女に声をかける。

 

「ジャンヌ。まだ起きてる?」

「ええ。アンタらの話し声がうるさくて眠れなかったわ。何か用?」

「ちょっと、イイ感じに気絶できる具合に私のこと殴ってくれない? ちょっとでいいから」

「そんなことしたら私が寝れなくなるわっ!!」

 

 ほんの少し時間を遡って。

 ───反射的に通信を切る。

 通信機を懐に仕舞い込んで、ゆっくりと息を吐いた。

 

「なんだ、もう終わったのか? まあ夜も更けてきたしな。オレたちもそろそろ戻るか」

 

 無防備な背中から、ペレアスの声がかかる。

 

「ああ、帰るぞ」

 

 それに答えながら振り返ったノアの顔を見て、ペレアスは口元をひくつかせた。

 

「……お前、もしかして照れてんのか?」

 

 その瞬間、ノアは僅かに紅潮した顔の下半分を隠すように右手をあてがった。脳裏に浮かぶのは、少女の顔。

 ───あいつの笑顔に、心が緩んだ。

 眉根を寄せて、忌々しげに呟く。

 

「…………くそ。油断した」



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第42話 『夢幻の刻』

 ローマ合衆国がアメリカ軍の本拠地を発ってから一日。

 彼女らはこつこつと移動を繰り返し、アメリカとケルト両軍の領地の境目にまで到達した。ラーマの怪我も大方回復し、戦闘を行えるまでに調子を取り戻していた。全力を出すのは難しいが、それでも大きな戦力の向上と言えるだろう。

 残すはノアのチームとの合流。ロマンが定めた目標の達成をもはや目前にして、立香(りつか)たちは立ち竦んでいた。その理由は眼前に広がる光景にあった。

 躍動するアメリカ軍の機械化歩兵とケルト兵。命持たぬ兵士と狂乱する兵士が油と血をふりまく戦場。それが見渡す限りの大平原を埋め尽くすように広がっている。

 この場所はカルデアが定めたEチームの合流地点。立香は小高い丘の上から戦を眺めて、口をぱくぱくとさせた。

 

「ご、合流地点ドンピシャで戦争やってるなんて……読めなかった、この立香の目をもってしても!!」

「ドクターと連絡を取ろうにもケルトの領地に入っているので難しいですね。わたしだけ全速力で引き返して指示を仰いできましょうか?」

「立香を守るアンタが行ってどうするのよ。やるならそこのアイドルもどきにでも行かせなさい」

「エリザベートさんはコミュニケーションに問題が……」

「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでくれる!?」

 

 冷めた目つきをするマシュにエリザベートは突っかかった。ネロとラーマもマシュと同様の目を向けるばかりだったが、ロビンの視線ははたと背後の空に飛ぶ。

 紫電を帯びる暗雲。黒雲を断ち割るように伸びる一筋の虹。それは未だ遥か遠景にあったが、深い木々の中で米粒ほどの標的を仕留める森の弓手にとって視認することはそう難しくはなかった。

 想像しうる限りの不吉さを孕んだ蛇の凶相。ロビンは鬱屈した感情を息に乗せて吐き出す。

 

「はい、全員ちゅうもーく。アメリカとケルトがドンパチやってるってだけでも頭が痛いっつうのに、虹蛇サンまでお出ましだ。こりゃいよいよ引き返すのもアリになってきたぜ」

 

 ネロは頭痛を抑えるようにこめかみを揉みながら同意する。

 

「うむ。ノアトゥールとやらには悪いがそれも視野に入れるべきであろうな。しかし、あれほどの大軍を率いる将はどこにいる?」

「と、言っている間にお出ましのようだぞ。あそこを見ろ」

 

 一同はラーマが指差した方を向く。

 アメリカ軍の横陣を凄まじい勢いで真っ二つに切り裂く五人のサーヴァント。その顔触れは立香たちにも覚えがある者ばかりだった。

 二日前に遭遇した四人のケルトの戦士。彼らは己が得物を振るい、薄紙を裂くように敵を千切り飛ばしていく。

 その先頭を走るのは白い衣装に身を包んだ少女。彼女は二頭立ての牛の戦車を操り、並み居る敵を木っ端の如く砕き散らしていた。

 

「進撃! アンド爆進!! アメリカ軍の機械なんて私と私の勇士たちの前ではガラクタにすぎないわ! 場末の骨董屋でジャンク品やってるのがお似合いよ!! さあみんなも一緒に〜?」

「「「「…………」」」」

「メイヴちゃんサイコー、でしょうが! ほんっとに女の気持ちが分からない男たちね! それでも私はひとりでも言い続けるわ! メイヴちゃんサイコー!!」

 

 陽気な高笑いが戦場に響く。動かぬ欠片となった機械化歩兵の残骸の雨の中、彼女の笑顔だけは燦然と輝いていた。

 この世のあらゆる男を魅了するかのような無垢な笑みはしかし、その底に秘めた悪辣を隠し切れてはいなかった。立香はそれに気付くと戦慄する。

 少女に目を向ける立香とは逆に、その戦車を観察したマシュは言った。

 

「クーリーの牛争い……あの人が女王メイヴで間違いなさそうですね。エリザベートさんとどこか同じ波動を感じます」

「どこが? 私の方が美しいじゃない」

「余には負けると思うぞ?」

「アホの連鎖やめろ。で、どうするお嬢ちゃん?」

 

 立香は数秒考え込んで、

 

「戦いましょう。アメリカ軍が負けるのは私たちにとっても不都合ですし、暴れ回ってればリーダーも見つけてくれるかも」

 

 アメリカはこの北米大陸で唯一ケルト軍と大規模な組織的抵抗ができる勢力だ。その戦力が削られることは聖杯を有するケルトの優勢を決定づけてしまうことになる。

 懸念があるとすれば虹蛇の存在だが、それは相手にとっても同じ。ここはリスクを背負ってでもケルト軍の猛攻を止める必要があると立香は考えた。

 ジャンヌは好戦的に口角を上げると、旗を右肩に担いだ。

 

「そうね。ここでイモ引いて逃げるなんてできるもんですか。Eチームにそんな人間はいないわよ」

「ダンテさんは真っ先に逃げそうですが……傍観が最悪手であることは確かです。博打を張るのも悪くありません」

「博打……つまりガチャ! これは私も本気を出さざるを得ない!」

「急に先行きが不安になってきたのですが!?」

 

 緊張から一転白けた顔になるロビンとラーマをよそにして、ネロは不敵に笑う。

 

「余も賭けは好きだ。賽を振る前から怖気づくなど将器に非ず! ルビコン川を渡るは今ぞローマ合衆国! いざ突撃ィィィ!!」

 

 彼女は周囲の反応を待たずに丘の上から飛び降りる。

 大将自ら飛び込んだ以上、ついていかぬ訳にもいかない。いささか気の抜ける出陣であるものの、今更そんなことで士気を落とす者はいなかった。

 立香はマシュの手を借りて着地する。視覚に強化をかけてメイヴの一団を注視すると、やはり以前会敵したサーヴァントで間違いないようだった。彼らはアメリカ軍の陣形をあわや両断するところまで追い詰めている。

 その傷口を埋めるより先にケルト兵が入り込めば最後、前と横からの挟撃で戦いは決してしまう。

 そして、立香が気付けば向こうも当然気付く。メイヴは手綱を引いて戦車を急激に停止させる。彼女の瞳が一瞬暗い光をたたえると、周りを囲う四人のサーヴァントに告げた。

 

「ベオウルフ。あなたはここに残りなさい。他の三人は予定通り虹蛇退治。()殺しは戦士の誉れよ、必ず首を獲ってくること。いいわね?」

「うげ、俺かよ。確かに竜だの蛇だのは苦手だが、こりゃとんだハズレくじだな」

「私と共に戦う大役よ? 一般コノート国民なら泣き叫んで五体投地するところなのに!!」

「ホラ見ろ、やっぱハズレ以外の何物でもないじゃねえか」

 

 フィンとディルムッド、フェルグスはいたたまれない様子で腐るベオウルフの肩を叩くと、黒雲渦巻く虹蛇の方角へと駆けていく。

 その途上で彼らと立香たちの目が合う。しかして彼らは一言たりとも言葉を発することなく、横を通り過ぎていった。狙うは虹蛇のみであり、無為な消耗は望んでいないのだろう。

 それを止める理由もなければ、追う動機もない。あるのはただひとつ、敵が戦力を分断したという事実だけだ。

 ネロはいぶかしむように眉をひそめる。

 

「マシュ、前のように伏兵が潜んでいるやもしれぬ。立香の傍から離れるでないぞ」

「了解です。それにしても、女王メイヴはなぜあんなことを? わざわざ不利な状況にするなんて、合理的とは言えません」

「どうせ何か隠してるに違いないだろうよ。相手は悪名高い毒婦だからな」

 

 メイヴは英雄クー・フーリンの物語に登場するコノートの女王だ。彼女は夫のアリルに負けない牛を求めて戦争を引き起こすが、若き日のクー・フーリンによってその野望を打ち砕かれてしまう。

 が、メイヴは彼にゲッシュ──誓約を課すことで、魔槍の英雄を死に追いやるのである。

 英雄殺しの悪女。あらゆる伝承のモチーフを遺漏なく体現するメイヴが、考えなしに戦力を分けるとは思えなかった。

 彼女は戦車の上でふんぞり返り、立香たちの顔を眺める。

 

「ふぅん、中々粒揃いじゃない。女は召使いに、男は戦奴にしてあげてもいいわよ?」

 

 不遜、なれど虚飾のない女王の一声。ロビンは弓に矢を番えながら、

 

「考えるまでもなく返答はノーだな。アンタの下に付くくらいなら、そこの皇帝サマに仕えた方がまだマシだ」

「そもそも余は王であるからな。他所の国の女王に降るなどすれば、シータに何をされるか分からぬ。それを抜きにしても論外だが」

「ある意味究極の二択ですね。わたしはどっちも嫌です」

「うんこ味のカレーとカレー味のうんこみたいなものよね」

 

 マシュとジャンヌは味方であるはずのネロまでばっさりと切り捨てる評価を下した。思わぬ流れ弾にうろたえるネロとは逆に、メイヴは怒髪天の様相で牙を剥いた。

 

「行くわよベオウルフ。二人だろうが知ったこっちゃないわ! このうんこ味のうんこ共を叩き殺すわよ!!」

「やれやれ……汚え戦に巻き込まれたもんだ!!」

 

 地面が弾ける。

 竜殺しの王とコノートの女王。先に仕掛けたのは戦車を駆るメイヴであった。

 二頭の牛がジャンヌを目掛けてひた走る。策も何もない愚直な突進。武器を振るうまでもなく、ジャンヌは黒炎を放射する。

 その寸前、戦車は鋭角に進路を切り替た。取り回しの悪さという車の弱点を一笑に付すかのような機動を以って炎をやり過ごし、二頭の牛は目標を定め直す。

 新たなる標的はロビンとラーマ。

 メイヴの操車技術は認めよう。だが、その攻撃は単純な突進であり、何ら特筆すべき点はない。

 回避と同時に剣を叩き込む───ラーマが地を蹴ろうとしたその時、がくりと膝が脱力する。

 

「なっ───!?」

 

 そしてその現象は、ロビンにも同様に起きていた。

 張り詰めた筋繊維が強制的に撓む。

 酩酊にも似た感覚に五感が塗り潰される。

 致命的な隙を晒しているというのに、その危機感すらもが曖昧。肉薄する鋼鉄の戦車を避けることは、もはや不可能であった。

 鋭利な角に二人が貫かれる。それを阻止したのは、地を割って現れた城壁だった。

 

「『鮮血魔嬢(バートリ・エルジェーベト)』!!」

 

 エリザベート・バートリーが生前に居城とした、血塗られた舞台。しかしながら、城壁が役割を果たしたのはほんの一瞬。障子紙を指で突くように城は粉砕されていく。

 一瞬の内にロビンとラーマは下がることができたが、メイヴはそれを気に求めずに鼻を鳴らした。

 

「焼き菓子みたいに脆い城ね! 予算をケチって違法建築業者にでも掴まされたのかしら!」

「はああん!? 私のチェイテ城は耐震工事済みの一級品よ、保証書だってついてるんだから! 馬鹿にしないでくれる!?」

 

 すぅ、とエリザベートは息を吸い込む。

 それを見て悟ったのはローマ合衆国のメンバーのみ。目を輝かせるネロを除いて、彼女らは一様に両耳を満身の力で塞いだ。

 『鮮血魔嬢』は防御のための宝具ではない。

 むしろ本質はその真逆。鮮血の伝説が残る自らの根城をアンプ兼ステージとすることで行われる────

 

「私の歌を!! 聞きなさい!!」

 

 ────地獄のライブである。

 大気が捻じれ狂い、声の振動が何万倍にも増幅されて放たれる。歌声などという生易しい表現はそぐわない。大地がえぐれるほどのソニックブームが巻き起こり、大勢の機械化歩兵とケルト兵が大空の星となって飛んでいく。

 メイヴが手繰る牛が嘶いて歩を止める。主人の意に反する行動も、咎めることはできなった。

 

「最っっっ悪な歌……! シマウマのおっさんみたいな鳴き声がオーケストラに思えてくるわ……!!」

 

 メイヴは無意識に唇を噛んでいた。顔面は青白く、冷たい汗が肌から噴き出す。

 振り返れば、ケルトの軍勢は泡を吹いて失神するか正気を喪失して恐慌に陥っていた。下手に意思のない機械化歩兵だけは変わらず駆動し、徐々に戦線を戻されている。

 それでもなお。

 メイヴが信頼を置く勇士のひとり、ベオウルフだけは果敢に突撃していた。

 

「まさかここまでのハズレとはな! この鬱憤は晴らしておかねえとなあ!!」

 

 彼の両手に握られているのは赤色と鈍色の魔剣。双剣の柄がぎしりと音を立て、エリザベートを襲う。

 豪と唸る対の斬撃。小癪な駆け引きを排した一撃。エリザベートが槍を回して受けると、彼女の体は踏ん張ることすらてまきずに後ろに飛ばされた。

 入れ替わるように、ネロとジャンヌがベオウルフの前に躍り出る。

 エリザベートへの追撃を警戒した行動だが、まさしくベオウルフの読み通り。彼は一層強く剣の柄を握り、乱撃を繰り出す。

 

「余に合わせよ!」

「お安い御用──!」

 

 皇帝の刃が滑り、旗の穂先が閃く。

 相対するベオウルフの剣技は止まらない。

 相手が何人だろうと圧し潰す。力任せに殴り付けるような剛を突き詰めた斬撃は、彼女たちを相手取っても色褪せなかった。

 ジャンヌは小さく舌打ちする。

 ステータスの上なら筋力は同じ。しかも二人がかりで打ち込んでいるというのに、一撃たりとてベオウルフを傷つけるには至らない。

 金色の瞳が赤の魔剣を睨めつける。攻めきれない理由はその剣にあった。

 ベオウルフの双剣の片割れ、『赤原猟犬(フルンディング)』。それは血を啜るごとに強固になっていくと伝えられる魔剣だ。故に人の生き血を求め、そのために常に最適な攻撃を繰り出すことができる。

 魔剣が嗅ぎつけるのは防御の隙間。だからこそ、二人は何としてでもそれを防がなくてはならず、結果、対応が一手遅れてしまう。

 ならば、下がって間合いの外から攻撃を浴びせるか。ジャンヌの判断が傾きかけたところを、イチイの矢が走った。

 視界外からの狙撃。ベオウルフは間一髪のところで頭を反らして矢を掻い潜る。彼は首を鳴らして怒号を飛ばした。

 

「危ねえなオイ! 働け女王!」

「少しくらい待ちなさいよ! あんな歌聞いてよく平気でいられるわね!?」

「平気じゃねえよ! 今も脳みそがひっくり返りそうだわ!」

 

 メイヴは手綱で牛の背をぴしゃりと叩き、戦車を走らせる。

 しぶしぶ走り出した牛たちは後方に控えていたマシュへと向かった。大盾を構える彼女の後ろには立香の他にロビンとラーマ、エリザベートがいた。

 戦車が迫ると、やはりロビンとラーマは酩酊したように体の支えを失ってしまう。立香は二人の腕を掴んで地面に膝をつくのを押し留める。

 

「大丈夫ですか!? さっきから二人とも様子がおかしいというか……」

「あの女王の戦車に迫られると全身の力が抜けてしまうのだ。不甲斐ない……!」

「でも、ラーマでそうなるなら私や立香がどうにもなってないのはおかしいんじゃない?」

「だったら、性別で違うのかもな。メイヴって名前の由来を考えると、二日酔いみてえなこの感覚にも説明がつく」

 

 メイヴという名前の由来には二つの説がある。蜂蜜酒を意味する『medu』、もしくは酔わせるという意味の『medua』。そもそも彼女の信仰の源流は主権の女神としてのものであり、アルスター伝説で人間の女王として、クー・フーリンの敵役に落ち着いた。

 メイヴの戦車は戦士たちの女王たる主権の象徴。数多の勇士を虜にした魅了の結晶体。その突撃の前では、あらゆる男性は戦意を失い酩酊してしまう。

 超高速の鉄塊がマシュへと突撃する。

 マシュに戦車の魅了の力は通じないが、その威力は十二分。少しでも受け逃せば蹄と車輪の餌食になるだろう。

 真っ向から受け止めるのではなく、受け流す。

 盾を斜めに構えて戦車の進路を逸らす。牛の角が大盾の表面をなぞり、橙色の火花が散った。それと共に撒き散らされる衝撃波の中、マシュと立香は言葉を交した。

 

「先輩、アレをやりましょう!」

「うん! エリザベートさん、マシュが防いだら突っ込んでください!!」

「何かあるのね? 了解したわ!」

 

 ロビンとラーマがメイヴに無力化される以上、この場は相手と同じ性別同士で戦うのが有効だ。

 しかし、ネロとジャンヌはベオウルフに縫い止められ、メイヴの突進は絶えることがない。それぞれが相手を入れ替えるためには相応の時間が要る。

 それを生み出すため、切り返して突撃してくる戦車に対して、マシュは力強く一歩を踏み込んだ。

 メイヴは鞭を取り出す。

 猛者を屈服させるための調教具こそが彼女の得物。鞭が与える激痛は余人の想像を絶する。マシュの盾を痛みで機能停止に追い込むための一手だった。

 再度の激突。先程と異なるのは、マシュが盾を振り回す迎撃の姿勢を取ったことだった。

 掬い上げるような一撃と鋼鉄の角が衝突する瞬間、

 

「───『瞬間強化』」

 

 魔力の光を灯したマシュとその盾が、戦車を跳ね上げた。

 

「はあ!?」

 

 急斜面と化した床にへたり込みながら、メイヴは驚愕する。

 全霊の突進を防がれるどころか、跳ね返された。認めがたいその事実は、紛れもなくこの時に起こっていた。

 対象の存在を補強することで性能を上げる強化魔術。瞬間強化はその発動時間を極端に絞ることで通常の強化よりも高くステータスを上昇させることができる。

 立香が用いたのは一秒の半分にも満たない強化。衝突の瞬間だけを狙い澄ました魔術行使だった。

 立香の目ではメイヴの攻撃を見切れない。たとえ強化があったとしても、人間の動体視力でサーヴァントの動きを追うのは至難の業だ。だが、これまで戦いを共にしてきたマシュと息を合わせることなら。

 エリザベートは一足飛びに戦車に乗り込み、メイヴの首に槍を振るう。

 

「さあ、覚悟しなさい!」

 

 刃が首に触れる。

 咄嗟の防御も間に合わない。

 死を覚悟したその時、

 

「なんだ、その体たらくは」

 

 ───空を切り裂いて飛翔する紅き魔槍が、エリザベートの胸元を貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荒れ狂う天候を背景に、虹蛇が乱舞する。

 白濁した瞳が睨むのは三人の戦士。フィンとディルムッド、フェルグスだった。

 弾幕のような豪雨。天よりいくつもの雷が撃ち落とされる。敵を噛み砕かんと吼える虹蛇は、その巨体を鞭の如く振り回す。

 時間の停止という絶技を駆使する虹蛇の暴虐。狂乱の蛇神との戦いは、一方的な展開になりつつあった。

 かり、と親指を噛む。

 

「ディルムッド、三歩下がって待機しろ。フェルグスは斜め右前に五歩移動。叩き斬ってやれ」

 

 虹蛇の姿が消え、三人の目前に突如として現れる。

 がちりと両顎の牙を打ち鳴らすが、それはフィンの目と鼻の先。まさしく紙一重の位置で届いていなかった。

 直後、三ヶ所で血飛沫が噴く。

 虹蛇の胴体に二つ、口元を縦に割るようにひとつ。それらの傷は見紛うことなく三人がつけたものであり、その他にも虹蛇は無数の傷を負っている。

 対して、フィンたちの体は無傷。虹蛇の猛攻はそのどれもが彼らには通じていなかった。

 たとえ時間を止めていようと、停止した最中の動きまでをも読んでしまえば回避も反撃も能う。無論、常人には不可能な芸当であるし、サーヴァントであってもそれが叶う者は少ないだろう。

 なれど、知恵の鮭を口にしたフィンは判断を間違うことがない。常に正解を導き出すことができる彼の力の前には、虹蛇の時間停止は無力だ。

 フィンはまたしても紙一重で虹蛇の移動を見切り、雨粒を束ねた水の刃で左眼を切り裂く。

 銀の腕の神ヌアザの曾孫である彼はランサーのクラスながら数多の魔術を使うことができる。その中でも得手とするのが水を用いた魔術。雨天の場は彼の独壇場だ。

 噴出した血液に含まれる水分までもが支配下に置かれる。それは一本の綱のようになってフィンと虹蛇を結ぶ。フィンが血の綱を握り潰すと、虹蛇の顔面の左半分が勢い良く破裂した。

 相手の体内の水分さえ操る水の魔術。苦悶する虹蛇の前に、三人は集まる。

 

「フィオナ騎士団は上王の国を脅かす魔性の退治を任されてきた。お前は中々に強いが、我らには届かなかった。なあ、ディルムッド」

「はい、我が王よ。できることなら、復讐に囚われる前の彼女と刃を交えたかった」

「いやいや、それは俺が許さぬ。元の虹蛇がとびきりの美人という可能性もあるのだからな」

「なるほど、そういう考え方もあるか。どうだディルムッド? 今回はグラニアの二の舞にはなるまい。フィオナ騎士団は自由恋愛推奨だからな」

「その話は止めましょう。互いにとってのトラウマを穿り返しても共倒れするだけですから!」

 

 談笑する彼らの姿を見て、虹蛇の口角が持ち上がる。その表情は笑みなどではなく、込み上げる怒りが出力された結果の凶相であった。

 

「何故笑っている……何故笑うことができる!? 私の民を無残に殺し回った貴様たちが!!」

 

 果たして、その瞳には何が映っていたのか。

 残された右眼が血走り、その眼差しは絶死の邪視と化す。

 ぐるり、と三人の体が右回りに捻じ曲げられる。本来足があるべき位置に頭が、頭があるべき位置に足が折れる。内臓が圧縮されて血が絞り出され、見るに堪えない肉塊が血の海に放り出された。

 その、途端。

 血の海に浮かぶ臓物と肉塊の像が霞のようにほどける。

 水を使った光の屈折を利用した幻影。虹蛇による空間歪曲の邪視は、フィンの手で作り出された幻を歪めただけだった。

 ならば、本体はどこに────

 

「……やはり使ったな、空間操作を」

 

 中空に三つの影が躍り出る。

 そこは虹蛇の視界の外。音もなく現れた彼らの姿を捉えることは片目を失った虹蛇にはできなかった。

 時間と空間は一体不可分。アインシュタインは時空という言葉を使って、その二つの概念を四次元上の空間にまとめ上げた。式の上では時間と空間は全く対等に扱われ、それらの区別はない。

 虹蛇の空間歪曲はあくまで時間操作の延長線上にある。それ故、この二つの能力を同時に使用することはできないのだ。

 つまり、連続して時間を止めることができないインターバルは今の瞬間にも適用されている。

 時間操作による回避は不能。この必殺の機会を作り出すことこそが、フィンの狙いであった。

 ディルムッドが操る武具の中で最強の魔剣。真紅の刃が上空より降り注ぐ。

 

「『憤怒の波濤(モラ・ルタ)』───!!」

 

 海神マナナン・マクリルの秘剣モラ・ルタは、曰く一太刀で全てを倒すと謳われた。

 その伝承に相応しき一撃。鮮烈なる怒りの魔剣が、虹蛇の頭から心臓を唐竹割りに断つ。

 虹蛇は微動だにすることなく即死する。真っ二つにされた断面から滝の如く血が溢れ出し、地面を暗い赤に色づけていく。

 それでも、フィンたちの表情は晴れない。

 なぜなら、虹蛇は死と再生の神。彼女にとって死は次の生への過程であって、永遠のものではない。

 フィンは死体からゆっくりと距離を取りながら語る。

 

「虹蛇は通常のサーヴァントを遥かに上回る霊基を擁しているが、その本質は私たちと同じ。座から喚び出された写像に過ぎない。おそらく、世界の神話に語られる虹蛇とは比べることすらおこがましいほどに弱体化しているだろう」

「……何が言いたい? 俺は小難しい話はさっぱりだぞ」

「そう逸るな。この虹蛇が復活を果たす際、代償がないとは考えづらい。肉体の再構成に使う材料があるのなら、サーヴァントである限りそれはひとつ───魔力だ」

 

 硬直した表皮が破られる。まばゆく輝く虹色の鱗が死体の奥から浮かび上がった。

 

「聞けば、二日前に虹蛇は一度死んでいる。そして、これで二度目の復活というわけだ。どれだけの魔力を消費したか、見当もつかんな」

「まさか、虹蛇には魔力切れがないということですか」

「……もしくは」

 

 雨がぴたりと止む。

 空を閉ざす黒雲が引いていく。

 代わりに顔を出すのは太陽。燦々と降る暖かな光が、雨で冷えた体に熱を与える。

 太陽を遮るように虹のアーチが空にかかる。虹を通して地上に注ぐ陽射しは急速に気温を上昇させ、地面に生える瑞々しい植物は瞬く間に枯れていった。

 土が含んだ水分が失われ、干上がった大地の至る場所にひび割れが起こる。

 見かけ上はその程度の現象。けれど、サーヴァントであるフィンたちはさらに致命的な予兆を感じ取っていた。

 地面のひびの隙間。

 枯死していく植物。

 そこら中から魔力が抽出され、虹蛇の死体に集結していく。

 それは龍脈と呼ばれるマナの流れの強制徴収、魂を魔力に変換する生命の強奪。生命体のみならず、この星をも喰い物にする虹蛇の奥の手。

 その影響は、フィンを含めサーヴァントにも及んだ。体から生命力、すなわち魔力が抜けていく感覚を抱えながら、フィンは言い切る。

 

「失った分の魔力を補充する術がある───どうやら間違っていないようだな」

 

 同時に、虹蛇は古き体を脱ぎ捨てて空へと飛び上がった。

 ありとあらゆる生命を吸い付くしながら、燦然と発光する体をくねらせ、彼女は高らかに叫ぶ。

 

「この土地は、誰にも渡さぬ!! 豊穣の大地に鉄の森を建て、資源を喰らい尽くすだけの愚者───そんな罪人に、負けてたまるものか!!!」

 

 自らの行いを省みぬ発言。フェルグスは気まずそうに口元をひくつかせて指摘した。

 

「待て待て待て、奴は己のしていることを理解しているのか? この土地を殺しているのはむしろあっちの方だろうに」

「バーサーカーのクラスなのでは? 狂化の影響でまともな言動が取れなくなっているのでしょう」

 

 フィンは自嘲気味に笑って、

 

「いいや、虹蛇はアヴェンジャーだよ。あの眼を見ろ。あれが復讐と妄執に取り憑かれた者の瞳だ」

 

 その眼はまるで、晩年の自分に似ている。

 ディルムッドとグラニアを巡った騒動。上王との戦争。孫の死。度重なる不幸に見舞われ、晩年のフィンは行き場のない感情を抱えていた。

 しかし、孫の死からも立ち直った彼は単騎で多数の敵を屠り動けなくなったところを、敵の槍を受け入れて満足に最期を迎えるのである。

 ディルムッドは剣を一層強く握り、フィンに語りかけた。

 

「だというなら、虹蛇は死ぬことでしか憎悪から解き放たれることはない。戦いましょう、騎士として」

「ああ、行くぞ」

 

 炎天の下、戦いが再開する。

 天候が変わったとはいえ、戦法までは変わらない。

 しかし、この陽射しの下ではサーヴァントが駆動する燃料である魔力を奪われるため、短期決戦が条件となる。加えて、その魔力は全て虹蛇の力に変換される。時間制限があるにも関わらず、時を掛ければ掛けるほどフィンたちは不利になるのだ。

 命の光が虹蛇に集まる。膨大な魔力が口腔に蓄えられ、極大の熱線が発射された。

 それを前傾姿勢で潜り抜け、フェルグスは笑う。

 

「なんとまあ、多芸な奴だ! 俺には及ばぬがな!」

「フェルグス。ここに来て出し惜しみはない。宝具で決めるぞ」

 

 フィンとフェルグスは各々の得物に魔力を込める。

 本来なら一瞬で準備が済むはずの宝具の展開。サーヴァントの切り札、真名解放に注ぎ込む魔力すらも、虹蛇の陽射しは徴収していた。

 それを認めるや否や、虹蛇は時間を凍結させて二人の元に飛ぶ。

 宝具行使の隙。自身の主の窮地を救うため、ディルムッドは迷うことなく二人の前に滑り込んだ。

 血の華が咲く。

 ディルムッドの左腕はその武具ごと喰い千切られていた。

 

「ディルムッド────」

 

 宝具の発動が滞りかけたフィンの眼に、騎士の横顔が映る。

 その顔は、晴れやかな笑みを浮かべていた。

 

(……そうか)

 

 彼との確執は既に終わったこと。恨む気持ちなど今はもう一欠片も残っていない。

 この身は生まれついての戦士。

 戦場でしか生きられぬ欠陥を抱えた魂だ。

 その場に在る限り、彼らに後ろ暗い感情が生まれるはずがなかった。

 魂が輝く時はこの一瞬をおいて他はない。

 注ぐ魔力が足りない? そんなことは些事だ。胸中に灯る生命の火をこの槍に捧げる────!!

 

「『無敗の紫靫草(マク・ア・ルイン)』」

 

 絢爛たる水の奔流が虹蛇を撃ち抜く。

 ヌアザより受け継いだ神秘の解放。

 魔力の吸収による威力の減衰を差し引いても、虹蛇を仕留めるに値する一撃。

 それを総身に浴びながら、虹蛇は絶叫した。

 

「ぐ、が、ああああああああああッ!!!」

 

 視界が明滅する。

 痛覚が上限値を振り切り、意識が水底に引きずり込まれる。

 全身を駆け巡る死の予感。復活するだけの魔力は未だ貯蔵されていない。今死ねば、再生することはできないのだ。

 薄く引き延ばされる意識で、虹蛇は思った。

 

(こんなものではない)

 

 肚の奥から憎悪が湧き起こる。

 

(この地に住んでいた民が受けた苦痛は、こんなものではなかった!!!)

 

 彼女は、呟く。

 

()()()()─────」

 

 

 

 

 

 オーストラリア。アボリジニの人々は、とある特別な感覚を持っているとされる。

 その感覚を説明しようと多くの学者が挑んだが、現代でもその全てが我々に伝わるようには言語化されていない。

 けれど、判っていることだけを言うのなら。

 曰く、彼らには()()()()()()()()()()()()()

 アボリジニの世界観において、存在するのは現在という時間軸のみ。

 それはなぜか。

 アボリジニの人々は気の遠くなるほどの昔、天地創造の時から伝わる物語を子々孫々に語り継いできた。虹蛇の一種であるエインガナという母神が世界を創り、全ての生命を生んだという神話を。

 そして彼らは個人の人生さえ、神話の中にあると位置づけたのである。老人も子どもも、全ての人間の人生はその物語の中にあり、色褪せることはない。それが信仰の中心であり、彼らは皆、今もなお神話の時代を生き続けている。

 つまり、アボリジニの人々にとっては、天地創造から息をして生きているこの瞬間までが現在なのだ。

 彼らは〝何時に待ち合わせをする〟とか、〝何時から何時まで仕事をする〟といった考え方はしない。過去や未来の概念がないため、時間を使って予定を立てることができないのである。

 我々にとって、現在という時間軸は常に移り変わる。こうして過ごしている間にも膨大な過去が積み重なり、膨大な未来が待ち受けている。だからこそ、その感覚を外部から理解することは難しい。

 現在という一瞬にも満たない刹那の時間を無限に引き延ばす。

 それこそが虹蛇の時間停止の仕組み。

 アボリジニの人々が持つ感覚はこう言われる──────

 

 

 

 

 

「────『夢幻の刻(ドリームタイム)』!!!」

 

 水流の勢いが完全に失せる。

 彫刻のように固まった世界の中を、虹蛇だけが知覚して動いた。

 都合三秒の時間停止。

 世界の修正力を無視することができたのはそこまで。

 だが、虹蛇にはその時間だけで事足りた。

 牙を用いて、三人の胴を噛み砕く。

 疑いようもない致命傷。再び時が動き出し、虹蛇は確信した。

 

「勝っ」

「───まだだ!!」

 

 血と臓物を振り乱し、フェルグスは全身全霊の一刀を叩きつける。

 

「『虹霓剣(カラドボルグ)』!!」

 

 虹の大剣が蛇神の体を半ばから両断する。

 最期に残った戦士の意地。死を目前にしても勝利を求める本能。虹蛇はそれを読み違えた。

 死神に袖を引かれながら、三人は虹蛇の急所である脳と心臓に武器を突き立てようとする。

 

「なぜだ、なぜ負ける!? 正しいのは私だ、数百万の民の怒りを背負った私が、負けるはずが……!!」

「───否、戦いの勝敗は正しさでは決まらない。彼らの方が強かった、ただそれだけのこと」

 

 上空より響く声。

 フィンは持ち上げられるように顔を上に向けた。

 

「だが、しかし!!」

 

 浮遊する円盤の上に、彼らはいた。

 黄金の鎧の男。大人びた雰囲気の幼女。

 そして、獅子の顔をした男は高らかに宣言する。

 

「我がアメリカを苦しめる暴虐の蛇神───お前を倒すのは私たちだ!!!」

 

 からり、と槍を落とす。

 致命傷と魔力を奪う陽射しの影響で、とどめを刺すだけの余力はついに無くしていた。

 消滅の間際、フィンはくすりと微笑む。

 

「…………来たぞ、虹蛇。最も殺したい人間が」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間を遡り、立香たちがメイヴとの交戦を開始する直前。

 ノアたちは、無数のケルト兵に追われていた。

 

「追えー!! ケルト軍からの逃亡を許せば戦力比が大きく傾くぞ!」

「囲め! 囲んで殴るのが人類が生み出した最強の戦術だ!!」

 

 ぞろぞろと列を成すケルト兵は見る見る間に数を増やしていく。それはもう大軍という言葉では済まないほどに膨れ上がり、一面の荒野を埋め尽くしている。

 大軍で済むならばペレアスやスカサハの敵ではなかったのだが、倒してもキリがないとなると事情は変わる。負けはしないだろうが、多くの時間を費やすことになるのだ。

 一刻も早く立香たちと合流しなくてはならない。そのため、ノアたちは敵に背を向けて走っていた。

 顔色を土気色にしたダンテは胸と口を押さえながら言う。

 

「ウブッ……オエッ…ち、ちょっとペース落としてください! もう私の足は生まれたての子鹿ですよ!」

 

 モヤシどころか豆苗の如き貧弱さのダンテでは、ノアたちと同じペースで走り続けられるはずもなかった。

 スカサハはダンテに顔だけを向ける。

 

「軟弱を絵に描いたような男め。私の手にかかれば、フルマラソンを一時間で走り切れるようにしてやれるというのに。特訓から逃げ続けたツケだ」

「ケルト基準を押し付けないでもらえますかねえ!? あああああ無理無理、これ以上走れませんんんんん!!」

 

 駄々をこねる子どものようにうずくまりかけたその時、ダンテの体がお姫様抱っこの形で抱え上げられる。視線を上げた先にあったのは、ナイチンゲールの顔だった。

 彼女は冷静に診断を下す。

 

「これは考えるまでもなく走り過ぎですね。体を冷やして水分補給すべきです」

「そ、そうですか。助けてくれたことにはもちろん感謝しているのですが、既婚者としてとんでもなくまずい体勢になっている気が…………水なんてありませんし」

 

 そう言った彼の目の前に、水袋と濡れたタオルが差し出される。

 それらを与えたのはペレアスとノア。意外な面子にダンテは涙ぐみながら、

 

「ペレアスさんはともかく、ノアさんまで……!? やっぱり、何だかんだ言っても人の心は残ってたんですね!」

「「ダンテ」」

「はい?」

「「恥を知れよ」」

「泣いていいですか!?」

 

 スカサハがアホさ加減に頭痛を覚えかけていた頃、ひた走るノアたちとケルト兵の間にバイクの集団が割り込む。

 特徴的なモヒカンと幅広の肩パッド。ノアによって調略、もとい調教されたケルト兵たちである。

 彼らは満面の笑顔でノアたちに言った。

 

「ここは任せて先に行ってください! 悪逆非道のケルト兵は俺らが食い止めてみせます!」

 

 どうやら調教の成果は上々だったらしい。ノアは満足げに頷く。

 

「ふっ、モヒカンもたまには役に立つじゃねえか。調教した甲斐があったってもんだ」

「いやまあ、どっちが悪逆非道か分からないですけどね。ここにひとり邪悪な世紀末覇王がいることは間違いないですが」

「モヒカン! お前らも危なくなったら逃げろよ! ノアのために命賭けるなんてやめとけ!!」

 

 ペレアスの忠告は果たして届いたのか、モヒカンとケルト兵の衝突を見届けて、ノアたちは走った。

 ダンテは抱きかかえられたまま、スカサハに問う。

 

「そういえば、ケルト軍とは決別する形になりますが良いのですか?」

「……ああ、近い内に離れようと思っていた。それが早まっただけだ。それより、お前たちの仲間の位置は分かるのか」

「藤丸の位置なら掴める。俺について来い」

 

 それはどんな理屈で、とダンテが訊こうとした瞬間、彼らの進路を遮るように熱線が走る。

 ノアたちは急ブレーキをかけ、その出処を見やった。

 神に愛された弓手、アルジュナ。

 地面に真っ直ぐ刻まれた線に彼は降り立った。

 

「私には、貴方たちを止める義務がある。この線を越えれば貴方たちを追うことはしない。ですが、私は全力で止めにかかる。それが唯一の取り決めです」

 

 アルジュナは神弓ガーンディーヴァを低く構えて言った。

 きっと、その言葉に偽りはない。

 これはアルジュナ自身が定めたルール。戦いにおいて、彼が生前の二の舞をするとは思えない。取り決めを破るということは、自身の魂を殺すことに等しいのだから。

 スカサハは深く笑み、槍を引き抜く。

 

「成程、それが貴様なりのゲッシュという訳か。誓約を破った者には天罰が下る。その言葉、信用に値しよう」

「オイオイオイ、何勝手に始めようとしてんだ」

 

 ノアは戦闘態勢に入ったスカサハを言葉で止める。彼はあくまでも傲慢に、アルジュナと向き合った。

 

「別に俺はおまえとルール無用の残虐ファイトをしてやってもいい。ルール決めて殴り合うなんざ喧嘩じゃねえだろ。それとも手加減でもしてるつもりか? ナメんな」

「いやあ、でも、アルジュナさんには色々と事情が……」

 

 回復したダンテはアルジュナとノアの間に入ろうとするが、

 

「うっせえ黙ってろ。大層な事情があるところでそれがどうした。そもそもなあ、ペレアスはストーカーでダンテは二回挨拶しただけの女を引きずる変態、そこの女二人は精神破綻だ、脛に傷抱えてねえ人間なんてこの世にひとりもいねえんだよ!!」

「脛どころか全身傷だらけのお前にだけは言われたくねえけどな」

「アルジュナさん、気にしなくていいですよ。こんな人でも生きていけるってだけ知っておけば十分ですから」

「私が精神破綻ならお前は精神崩壊だがな。何人もの戦士を育ててきたがここまでのアホはいなかったぞ」

「自己愛性パーソナリティ障害の疑いがありますね。早めに診断を受けさせなくては……」

 

 アルジュナは歯を食いしばり、矢を番えた弓をノアたちに差し向けた。

 

「貴方たちとの問答は、調子が狂う……!!もういい、戦えばそれで終わることだ!!」

 

 蒼炎の矢が解き放たれる。

 即座に対応したのはペレアスとスカサハ。彼らは向かってくる矢を打ち落とし、アルジュナに接近する機会をうかがう。

 当然だが、矢は初速の方が速い。アルジュナに近付く度に相対的に矢は速くなり、距離が詰まることで対応する猶予も失われる。

 何事にも機というものがある。ペレアスとスカサハが安易に詰めないのは、勝機を見極める最中であるからだ。

 が、ナイチンゲールにそんなことは関係なかった。彼女は肩を怒らせながら、大股でアルジュナの方に歩いていく。

 

「私には使命があります。この時代を狂わせる病巣を切除するという使命が!! そのためなら私は何でもするわ……そう、何でもっ!!!」

「いや、その前に矢に射抜かれて死ぬだろ! 矢の中を歩くとかアレキサンダー大王か!?」

 

 ペレアスは悪態をつきながらも、ナイチンゲールを狙う矢玉を剣で弾いた。

 その間に、彼女はどこからともなく取り出したベッドを両手で掲げ、

 

「貴方も悩む暇があったら、回りくどいことをしてないで即行動に移しなさいっ!!」

 

 あろうことか、それをアルジュナに投げつける。意表を突かれはしたが、不意を突かれた訳ではない。彼は飛来するベッドを冷静に射抜き落とした。

 攻撃の手がそれに囚われた瞬間、スカサハは弾かれたように走り出す。

 その突撃に合わせて、ダンテは強化のための詩を空中に綴る。

 極小の世界改変。強化を捧げるのはペレアスとスカサハの二人分。両手で全く異なる文言を書き連ねるのも、詩人の手にかかれば造作ないことだ。

 そこで、彼はふと気付く。

 呪いに侵食された右手によって書かれた文字が、黒く染まっていることに。

 

「これは……ジャックさん───!?」

 

 同時に確信する。

 これは祝福のための文字ではなく、呪いのための文字であることを。誰かに捧げてしまえば、その者に悪事が降りかかる。これはそういう類のものだ。

 おそらく、この黒い文字はアルジュナに与えるのが正しいだろう。敵を脅かす悪意が詰め込まれた呪い。ダンテはそれを握り潰した。

 

「彼は今も苦しんでいる。その人を呪うことなんて、私にはできませんよ」

 

 誰かに語りかけるような言葉。

 それを肯定するように右手の文字は漂白され、祝福の光が騎士と女王に宿る。

 爆発的な加速。アルジュナの眼が急速に詰めてくる標的の姿を捉えた直後に、その手は無数の矢を弾き出していた。

 彼の弓の前には複数の標的を射抜くのは難しいことではない。冴えた思考は冷徹に体を動かし、最高の技術を出力する。

 ───そうだ、これでいい。

 戦いに嘘はない。

 心がありのままでいられるこの環境だけが、自分に許された場所なのだ。

 神弓が莫大な魔力を発する。遍く敵を滅する炎神の流星。それが解放されるより前に、ノアは動いていた。

 

「───元素変換。土の冷気は反転する」

 

 アルジュナの足元が赤熱し、火柱が噴き出す。

 

「くっ……!?」

 

 飛び退いて躱す。アルジュナの対魔力のランクはC。大方の魔術は無効化されるが、ノアの元素変換はアルジュナにもダメージを与えられるだけの威力を秘めていた。

 彼を追うように立て続けに火柱が起こり、思考が揺さぶられる。攻撃に回避、線の防衛。ペレアスはその揺らぎに付け入り、アルジュナの真正面に移動する。

 その時、声が聞こえた。

 ───()()()()

 彼の心に潜むもうひとつの人格。

 『(クリシュナ)』の囁きが、アルジュナを操った。

 

「『炎神の咆哮(アグニ・ガーンディーヴァ)』……!!」

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 流星が騎士を呑む。

 その光景に、アルジュナは目を見開いた。

 

(私は今、何をした)

 

 否、解っている。屈したのだ、あの囁きに。

 勝ちを求めて、自分の意志を明け渡した。

 これではまるで。

 

(あの時と、同じではないか)

 

 沈んでいく心。彼の背後から声がかかる。

 

「オレたちの勝ちだ、アルジュナ」

 

 振り返った先。地面に刻まれた線の向こう側で、ペレアスは澄み切った晴れ空のような笑顔を向けていた。

 彼は言う。

 

「お前は悪くない。あの時も、この時もな。勝負の場で全力を尽くすのは当たり前だろ? 間違いだってある」

 

 弓を構えた手がだらりと下がる。

 

「本当にやりたいことが見つかったら言えよ。オレたちが手伝ってやる」

 

 勝負は決した。ノアたちはペレアスに駆け寄り、戦場へと去っていく。

 アルジュナに言葉はない。

 ただ遠ざかっていく背中を眺める。

 その、無防備な背中を見て。

 ───がら空きだ。殺せ。

 

「…………黙れ」

 

 あの勝負は公正なものだった。

 全力の一撃を凌がれた、その時点で結果は決まりきっている。

 戦いに嘘はつかない。結果が出た後でそれをひっくり返そうなんて、そんな駄々が通じることはない。

 

()は、自分にも、誰にも、嘘はつかない」

 

 誓約めいたその言葉は胸に留まり、声が空に溶けて消えた。



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第43話 カスターはその罪ゆえに死んだ

 エリザベートの体が地面に落ちる。

 彼女の心臓を貫いた紅き魔槍は意思を持ったように動き、持ち主の元に帰っていく。

 その先は上空。太陽の光を遮る黒い影がひとつ。

 ぱし、と浅黒い手が槍を掴む。

 砂塵と衝撃を撒き散らし、彼は着地した。

 立香(りつか)の背筋がぞくりと寒くなる。

 これまでに見た何者よりも鋭く光る眼差し。どれほどの研鑽を積もうとも辿り着くこと叶わぬ天性の肉体。そして、臓腑を握られたかのような嗚咽を誘う濃密な凶気。

 ゆっくりとこちらに振り向く動作ですら、空恐ろしい感情を覚える。彼の一挙一動はその度に死を連想せざるを得ない不吉さを孕んでおり、震えを通り越して全身が凍ったように脳の命令を跳ね除けた。

 しかし、彼の殺意じみた気勢が向けられたのは、立香やマシュではなく。

 横転した戦車の傍でへたり込む、メイヴであった。

 

「さっさと立て直せ。俺を惚れさせようって女がその程度か」

 

 冷たく、硬い声音。

 たったの二言。それだけで、メイヴは襟を掴まれたかのように立ち上がる。その顔に先程までの快活さはない。代わりに冷徹なまでの戦意が漲り、立香たちを見る目はまるで仇のようですらある。

 

「ええ、もう二度とあんな無様は晒さないわ」

「当然だ。次、不覚を取るようなら殺す」

 

 彼こそが、メイヴの奥の手。

 幾万の勇士よりも、己が駆る戦車よりも、その強さを信頼する最強の切り札。

 たとえ立香たちが万全の状態で、彼ひとりと戦ったとしても勝てるかどうか。この男さえいれば、敵の目の前で戦力を割ったとしても大したことはないだろう。

 彼は無造作に槍の穂先を立香たちに突きつけた。

 

「クー・フーリンだ。覚える必要はねえ。全員死ね」

 

 ざり、と右足の踵が土を削る。

 瞬時にマシュは意識を集中させた。

 

(来る───!)

 

 それは瞬きにも満たない時間。マシュの思考は恐怖を忘れ、いくつもの攻防の選択肢が浮上する。

 ほんの少しでも見逃せば命取り。一瞬の差は勝敗の差ではない、生死を分ける境目だ。

 指の先、足の爪先の隅々まで集中が行き渡る。マスターを守るため、どんな動作も逃さない───そう決めた瞬間、既にクー・フーリンの姿はなかった。

 

「────、え」

 

 神経網が強烈な危機感を訴える。

 しかし、実戦においてその感覚が形を為した時にはもう遅い。

 全身が死の予感に硬直しかけたその時、後方で凄まじい金属音が響いた。

 踵を返し、眼に映る光景は、立香に振るわれた槍を受け止めるラーマ。彼は全力を込めて、押される剣を留める。

 マシュの全霊の警戒を嘲笑う超絶の技巧。ただ速く動いたのではこうはならない。相手の裏を掻き、急所を突くために研磨した技術の粋を見切ったのは、この場ではラーマだけだった。

 

「会うのは二度目だな、ケルトの狂王よ。貴様が奪った命のツケはここで支払ってもらうぞ!」

「知るかよ。命に値があるっつうなら踏み倒すしかねえ。俺もてめぇも、誰だってやってることだろうが」

 

 舌戦が途切れ、無数の剣戟が交わされる。

 人智の及ばぬ決闘。大英雄同士が巻き起こす刃の嵐はもはや付け入る隙が見当たらない。超常の膂力と技量を以って織り成される剣槍の舞踏はしかし、先が見えていた。

 ラーマの動きが鈍い。彼が持つ本来の実力に、体が追いついていなかった。怪我は大方癒えたとはいえ、体力や魔力は別だ。このままではいずれ、狂王の前に敗れ去るだろう。

 鋼が砕けるような悍ましい音とともに、ラーマの一刀が弾き返される。クー・フーリンは返す刀で槍を振り上げようとするが、即座にその場から飛び退いた。

 遅れて、一本の矢が通過する。

 それを放ったのは他の誰でもない。

 ロビン・フッドは矢を番え直して、

 

「お前ら二人でイチャついてんなよ、俺も混ぜろ!」

「余はそっちの趣味はないが、助かる! 存分に射つが良い!」

 

 目にも留まらぬ速度で矢が射ち出される。彼が得意としたゲリラ戦で身につけた、一度で複数の矢玉を飛ばす技だ。

 恐るべきはクー・フーリン。ラーマと打ち合う最中、全身に目でも付いているかのように矢を躱し、片手間とばかりに槍で打ち落とす。

 矢避けの加護。視界内に捉えた飛び道具ならば、どんな状況であろうと対処することができる能力。とうに五十を超える矢のことごとくをかすりもせずに凌いでいた。

 しかして、ラーマの剣技は持ち直す。ロビンの矢には強力な毒が含まれている。サーヴァントであっても命に関わる毒だ。クー・フーリンとてそれは変わらぬことであり、対処するために僅かに隙ができる。

 命を落としかけた恐怖を抑えつけ、立香は逡巡なく判断した。

 

「マシュ! 私たちはメイヴを!」

「了解です!」

 

 ラーマとロビンがクー・フーリンを止めている以上、最も警戒すべきはメイヴ。男性を魅了し酩酊させる彼女の戦車がラーマやロビンに向かえば、この状況は容易く瓦解する。

 翻して、メイヴにとっては己の行動如何で勝利にも敗北にも繋がる。女王はきつく唇を切り結び、手綱を叩いた。

 猛牛に牽かれた戦車が空気の壁を突き破って突撃する。

 弾丸の如く直進するメイヴから発せられる、磨き上げられた殺気。それは闘争の他の全てを切り捨てた心血の一撃だった。

 だが、マシュには萎縮も迷いもない。

 戦車でクー・フーリンのような歩法を使えるはずもない。前方から飛んできた攻撃を跳ね除ける、マシュの得意分野だ。

 ───もう二度と失敗しない。

 その想いは両者同じ。メイヴは短く息を吐き、手綱を引いた。

 停止のための命令ではない。二頭の猛牛は正しく主の意図を理解し、それを実行する。

 嘶き、前脚が上がる。四本の後ろ脚が土を弾き、戦車は高く跳び上がった。

 

「潰れなさい!」

 

 鉄槌が落ちる。

 盾で防がれようが、その後ろの立香を仕留める一手。

 マシュの体は思考を置き去りにして反射した。振り向かずに地面を蹴り、立香の体を抱えて離脱する。

 戦車が落ちたのは目と鼻の先。落下の衝撃と突風が二人の体を叩き、背後に吹き流される。咄嗟に地面に盾を突き立てるが、足の踏ん張りが効かずに流され、ジャンヌの背に当たって止まった。

 

「ふぐっ!? アンタら何やってんの!?」

 

 背後を向いたジャンヌの目に、血溜まりに伏せるエリザベートとラーマと切り結ぶクー・フーリンが飛び込む。

 歯がぎしりと音を立てる。ジャンヌは額に青筋を立てながら、マシュと体の位置を入れ替えた。

 

「……だいたい事情は掴めたわ。マシュ、私と相手代わりなさい」

「ですが、先輩の守りが」

「攻撃は最大の防御よ。いいでしょ、立香?」

「うん、やろう。実際、相性はジャンヌの方が良いと思う」

 

 口裏を合わせる三人に、ベオウルフの斬撃が走る。

 左の魔剣、フルンディングによる一撃。マシュはその剣閃を危なげなく弾き、相手の鳩尾に前蹴りを繰り出す。

 大樹の幹を叩くかのような感触。ベオウルフは僅かに後ずさるのみで、体に与えられた痛痒は微々たるものだろう。

 むしろ、蹴られた衝撃を利用して上体を回し、右の魔剣を背後に叩きつける。

 金属の断末魔が高鳴り、ネイリングの刃に深々と亀裂が入る。ベオウルフの後ろから首を狙ったネロは、未だに振動を伝える愛剣を手遊びに振り回しながら言った。

 

「今のを防ぐとは中々の豪傑よ。剣技の美しさでは余に劣るがな!」

「道具の扱いに美しいもクソもあるか! 目立ちたがり屋の性分が出てるぜ、暴君さんよ!」

「目立たずして何が王か! 少なくとも慢心するよりはマシであろう!」

「敵を目の前にして慢心する王がどこにいるってんだ!?」

 

 戦の真っ只中でも自然体を崩さない二人の会話を横耳で聞きながら、ジャンヌは旗を両手で掲げる。

 その姿を捉えたメイヴはジャンヌに向けて駆け出した。本来ならばラーマとロビンを狙うのが最善手だが、それを捨ててでも潰すのが第一だと決断した。

 澱みない方向転換。最低限の減速から爆発的に加速し、戦車は走る。

 戦車はスピードに乗れば乗るほど突進の破壊力が増す。それは強みだが、逆にその攻撃はどうしても直線的になってしまう。

 つまり、ジャンヌを狙うこの一撃だけは、立香にも予測が能うものだった。

 

「───()()()()!」

 

 元素変換は物質の転換に扱う錬金術においては、基礎中の基礎とされる技術だ。

 アリストテレスの四元素説では火・水・風・土の属性に熱と冷、湿と乾という性質を加え、これらの配合を整えることで他の物質を黄金に作り変えようとした。極端な話、元素変換を極めれば如何なる物質をも作ることができるだろう。

 無論、立香にそれほどの腕はない。パラケルススやノアのような大規模な元素変換を行うこともできない。

 けれど、この世界は必ずしも大きな力だけが役に立つようにはできていないのだ。

 戦車の車輪が通る位置の地面が、人間の頭部ほどの大きさの火に変換される。

 小火に過ぎないそれでメイヴの進撃を止めることは不可能だ。しかし、土が火に変わったことでできた窪みに車輪が沈んだ。

 僅かに速度は落ちるが、戦車の突進は止まらない。それでも、常人には一瞬の遅れであろうとサーヴァントには十分だった。

 

「後で頭を撫でてあげる」

 

 旗が勢い良く地面に突き立てられる。

 その瞬間、旗を中心として巨大な火柱が放射状に膨れ上がり、大地を割った。

 

「くっ……!」

 

 メイヴは手綱を強く引いて戦車を止める。並大抵の炎なら恐れるべくもないが、ジャンヌのそれは別だ。その炎を受けたなら死は免れえないだろう。

 そして、炎の壁で戦車の進路は大いに制限される。左右を火に囲まれたメイヴとジャンヌの視線が衝突する。

 戦車は急に後退することはできない。ジャンヌが取る行動はただひとつ、有無を言わさぬ黒炎の放射であった。

 漆黒の炎がメイヴを呑み込む、その直前。クー・フーリンはラーマの間合いから一足飛びに離脱し、

 

「───しゃらくせえ」

 

 メイヴの前に躍り出て、槍を袈裟懸けに振るう。

 空間を抉るが如き刃風が飛ぶ。迫り来る炎が真っ二つに切り裂かれ、ケルト兵を巻き添えにしながら後方へ流れていく。

 メイヴは血が滴るほどに唇を噛み締め、

 

「……ごめんなさい。私、また不覚を取ったわ」

「自惚れんな。これはあの女を止められなかった俺の責任でもある。恥じ入るくらいなら構えろ」

「ええ、あなたがいて、負けるはずがないもの……!!」

 

 二人の元にベオウルフが合流する。

 彼は二本の魔剣を掌中で弄びながら言う。

 

「で、こっからどうするつもりだ? 斬り結ぶのも飽きたぞ」

「俺の宝具と一緒に突っ込め」

「はあ!? パワハラにも程があんだろ!」

「できねえのか? だったら良い。隅っこで用足してる犬みてえにガタガタ震えて待ってろ」

 

 その煽り文句を受けて、ベオウルフの血液は沸点を突破した。

 

「ふざけろ、できねえとは言ってないだろうが。──やれよ」

 

 空間を塗り替えるほどの殺気が膨れ上がる。

 クー・フーリンは原典を読み取るに多数の宝具を持っていたことが分かるが、彼が手にしている槍はその中で最も名を馳せ、恐れられた武具だ。

 槍を握る手が上からではなく、下から持ち上げるような形になる。それを視認するが早いか、マシュは仲間に向けて叫ぶ。

 

「みなさん、わたしの後ろに!!」

 

 自分でも驚くような、今までに出したこともない大きな声。彼女の求めに、仲間たちは迷いなく呼応した。ロビンはまだ命を繋ぎ止めているエリザベートの体を引きずって、マシュの後方に退避する。

 エリザベートの傷を見て、立香は思わず治療のための魔術を起動させた。彼女の腕ではほんの少しの延命にしかならない。が、何をも失わせないという覚悟がその手を動かした。

 それを嘲笑うように、クー・フーリンは跳び上がる。彼の右腕が自壊さえ厭わぬルーンの強化に包まれ、必殺の魔槍が解き放たれた。

 

「『抉り穿つ鏖殺の槍(ゲイ・ボルク)』」

 

 正真正銘、全力の投擲。

 槍が手を離れた途端、それは幾千にも及ぶ赤光の鏃となって降り注ぐ。

 クー・フーリンの代名詞であるゲイ・ボルクは海獣クリードの骨から造られた。その槍は投げれば三十の鏃となり、突けば三十の棘となって破裂するとされる。

 しかして、今ここに現出するは一軍を滅ぼしてなお余りある鏃の雨。人々の畏れを集め、ルーン魔術の後押しを受けた魔槍は原典を遥かに超える威力を実現した。

 マシュは力強く盾を突き立て、満身の魔力を練り上げる。

 

「『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』───!!」

 

 空中に白き円盾の紋章を紡ぐ。

 玲瓏たる白亜の盾と惨憺たる凶禍の槍。両者の激突は鼓膜を裂くほどの金切り音を振り撒き、弾かれた鏃が周囲で花火の如く四散する。

 敵味方問わず、辺りに存在する雑兵は攻防が生み出す二次被害だけで、等しく死んでいった。

 マシュがすべての攻撃を防ぎきった時には既に、一帯は骸で埋め尽くされていた。皆一様に物言わぬ肉塊となり、血の霧が漂う中を突き進む男がひとり。

 彼は絶死の雨を潜り抜け、マシュの目前にまで到達していた。

 

「ようやくヒリついてきやがったぜ! そろそろ良いところも見せねえとなァ!!」

 

 両手の魔剣を惜しむことなく手放す。

 全身を針のように突き刺す悪寒と殺気。体の芯が凍結するような感覚はしかし、彼の闘争本能を燃え上がらせる材料に過ぎなかった。

 マシュの堅牢な防御に対し、ベオウルフは右半身ごと腕を引き絞り、

 

「『源流闘争(グレンデル・バスター)』!!」

 

 ───一直線に叩きつけた。

 何の飾りも曰くもない、徒手の一撃。

 だがそれは榴弾の炸裂をも超える威力を伴ってマシュの盾を揺らし、彼女の腕を痺れさせた。

 ベオウルフはかつて、荒野と沼地を根城とする醜悪な巨人グレンデルを素手で打ち破った。そうして王となった彼は五十年後、老体の身でありながら火竜と相討ち、国と民を護り抜いてみせたのである。

 だが、しかし。

 彼にとってそんな逸話は所詮、後からついてきたものだ。

 グレンデルを倒し、人々から求められて王になった。そのことは褒められはしても、恥じるものでは決してない。だとしても、彼が真に求めたのは強者との闘争だった。

 火竜と相討った時もそう。その行為に民への愛と庇護が無かったと言えば嘘になるが────人は結局、死ぬ時はひとりだ。

 だからこそ、何の柵もないこの闘争は彼を沸き立たせてやまない。

 死地を愛し、死地に眠る戦士の本望。

 狂気という表現すら生温い激情。

 死に向かう者と抗う者。まるで両極端の有り様にマシュは底知れぬ威圧感を覚え、その隙を突く剛撃が彼女の体を盾ごと吹き飛ばした。

 

「……よくやった」

 

 短い賞賛を告げ、クー・フーリンはマシュという防壁を越えて、敵のマスターを仕留めるために駆ける。

 目にも留まらぬ疾走。射ち出される矢と黒炎を蚊を払うかのように斬り刻む。

 彼の機先を阻むためにネロとラーマが同時に切り掛かるが、その動きも想定の範疇。瞬く間にルーンの光が体に宿り、肉体の限界を超越した強化を己に課す。

 そうして、二つの槍撃はほぼ同時に放たれる。それらに迎撃は意味をなさない。ネロの両手は文字通り吹き飛び、ラーマの左腕が削り抜かれる。

 二人の傷の違いは技量の差。クー・フーリンは残った右腕を振り抜こうとするラーマを蹴り飛ばして前に進む。

 その間にも、クー・フーリンの体は壊れ続けている。肉体のリミッターを無視した強化は指一本動かすだけで強烈な痛みをもたらすだろうが、彼の表情は微塵も変わることはない。

 全身から血を噴きながら戦うその姿に、立香は足の裏から脳天まで突き抜けるような怖気を感じた。

 即座に気を取り直し、右の指先に魔力を集める。

 魔術を発動するまでの隙。その時間はクー・フーリンにとって欠伸が出るほどの時に等しかった。

 ロビンは懐から短剣を引き抜いて立香の前に出る。

 

「これ以上好き勝手にさせてたまるかよ……!!」

「遅えよ雑魚が───!!」

 

 短剣の刃が割れ、ロビンの体に袈裟の傷が走った。

 眼前に咲く血の華。

 ほんの一瞬、極僅かな間隙。

 それだけで、クー・フーリンは敵を瓦解せしめた。

 咄嗟にジャンヌが踏み出したと同時に、立香の魔術は完成した。

 

「ガ───」

()()()

 

 凛と響く、簡潔な詠唱。

 狼の遠吠えが耳朶を叩き、立香の横を精霊の魔弾が駆け抜ける。

 クー・フーリンはガンドを槍で弾き、さらに踏み込もうとしたが、ジャンヌの炎がそれをさせなかった。後方に大きく跳んで火炎を躱す。

 狂王の眼差しが貫く先。

 彼は、いつもと変わらぬ声音で言った。

 

「よし、良い感じに間に合ったな」

「どこがだ! ほぼ全滅させられかけてたじゃねえか!!」

「ヒーローは遅れてやってくるとは言いますが、本当に手遅れになるところでしたねえ。相手がケルトの大英雄では仕方ないところではありますが」

 

 うんざりするほどに聞き慣れた声。立香は何かに引っ張られるように振り返る。

 ゲンドゥルの杖を持つノアと、彼が従える二体のサーヴァント。さらには先日仲間に加えた狂気の婦長と双槍の女王が立ち並んでいた。

 緊張で強張っていた全身がほぐれる。立香は胸の奥で詰まる閉塞感を吐き出すように、彼を呼んだ。

 

「リーダー……!!」

「藤丸、よく持ち堪えた。後は俺らに任せろ。ダンテ以外のな」

「ふふっ……どうせ私は役立たずですよ! 今となっては宝具も使えないし強化も掛け終わってますからねえ!!」

「そんなことはありませんよ、ミスター」

 

 ナイチンゲールはダンテの左肩をがしりと掴む。

 

「この現状を見なさいッ! そこかしこに要治療者が散らばっているではありませんか! 貴方も戦争を経験したなら最低限の処置は心得ているでしょう!?」

「せ、戦争と言っても、私は馬に乗って逃げ回ってただけと言いますか」

「問答無用! まずは手分けして怪我人の回収です、さあ行きなさい!」

「ヒィィーッ!!」

 

 悲鳴をあげながらどたどたと走り回るダンテを見届け、ペレアスは剣の腹で肩をこつこつと打ち鳴らす。

 彼は緩やかに口角を上げて、スカサハに視線を流した。

 

「アンタがやりたいのはクー・フーリンだろ?」

「……ああ。援護は無用だ。今の奴は私の好みではない。ここで仕留める」

「だったらオレは戦車の女か半裸男だな」

「戦車に乗ってる女はメイヴよ。アイツは私に任せなさい。男を魅了する力を持っているから、相性が悪いわ」

 

 静かに猛るペレアスに、ジャンヌは言った。その言葉に何か納得のいかない様子のペレアスはかっくりと首を傾げる。

 

「いやいや、嫁一筋のオレが他人に惚れるなんてあり得ないだろ。他の女に見惚れてるなんて知られたらこっぴどくとっちめられるぞ。相手の女が」

「こんな時にまで惚気けないでくれますぅ!? シータがいるラーマにも効いたんだからゴチャゴチャ言うな!」

「というか、相手の女の人が酷い目に遭うんですね。理不尽すぎませんか?」

「エタードも湖の乙女にやられただろ。妖精は男も女もロクなやつがいねえからな」

「お前が言うな! ……そこまで言うなら仕方ねえ、オレはあの半裸男をやる!」

 

 地面を蹴り、ペレアスはベオウルフへと突撃する。ジャンヌはため息をつくと、剣を引き抜いてメイヴの元へと走った。

 彼らに続いてスカサハもクー・フーリンとの戦闘を始めると、ダンテとナイチンゲールの手によって怪我人が集められる。

 ネロとラーマ、マシュ、そしてロビン。ノアは三人の傷に目線を走らせるが、それはすぐに別の方向を向く。

 彼は今もなお立香が治療を続けるエリザベートの横に屈み込んだ。

 

「藤丸、治療魔術はもういい」

「……助からないんですか?」

 

 立香は縋るようにノアの顔を見上げる。

 少女の青褪めた表情とは真反対の、自信に満ち溢れた不遜な顔で彼は告げた。

 

「俺が誰だか忘れたか? 天才の中の天才、カルデア最強マスターだぞ。こいつらの怪我なんて俺に掛かれば膝を擦りむいた程度だ」

 

 それに、とノアは続ける。

 

「こいつはまだ、戦おうとしてる」

 

 疑問を覚える間もなく、エリザベートの手が立香とノアの手を握り締めた。

 そこに籠もる力は瀕死とは思えないほどに強く。荒い息を吐き、脂汗を滲ませながら彼女は言い放った。

 

「───ええ、私はまだ、やれるわ……!!」

 

 瞳に宿る光は煌々と輝く。

 それはろうそくの最後の灯火ではなく。

 幾年月の生を重ねる、星の輝きに似ていた。

 ナイチンゲールは人形のように固められた無表情で言い切る。

 

「は? 普通に絶対安静に決まっていますが? 傷が治るまでは指一本足りとも動かさせはしません」

「ちょっ……今イイ感じに私の覚悟の強さを演出できてたのに水を差さないでくれる!?」

「つうかオレらの怪我も治してくれませんかねえ!? こっちも割と重傷なんですがァ!」

「そうだそうだ! 余は涙目になりながら痛みに堪えているというのに!! こんな手では筆も取れぬしマイクも握れぬぞ!」

 

 ロビンとネロは切実な声で訴えた。その背後でラーマは呆れた顔をしていたが、彼も大怪我を負っていることには変わりない。マシュは軽い脳震盪で意識を失っているが、起きていたなら真っ先に文句を付けていただろう。

 サーヴァントたちから抗議を受け、ノアは嫌気が差した表情をしつつも、術式を構築して出力した。

 彼の手のひらに透明なエーテル塊が生まれる。

 この世の理に囚われぬ事象・事物を創り出す無属性魔術。魔力で構成されるサーヴァントの肉体を癒やす上で、これほど効果的なものは少ない。

 ノアは獰猛に笑う。

 

「おまえらを治したらすぐに反撃開始だ。目に物見せるぞ」

 

 ───その光景を視界の隅で捉え、ベオウルフは小さく舌打ちする。

 あの魔術師が重傷のサーヴァントを治療してしまえば、この場の戦力は取り戻しがつかないほどに傾く。

 誰かがそれを邪魔するしかないが、それも難しいだろう。

 メイヴの戦車による攻撃は火炎に対しては必ず回避行動を取らねばならないために相性が悪い。

 スカサハとクー・フーリンは互いが互いの技を知り尽くした仲だ。故に戦況は一進一退。攻守が瞬く間に何度も入れ替わり、言葉も交わさずに必殺を期した一撃を打ち込んでいく。

 ならば、自分が動かなくてはならない。

 その考えのままに振り回されるベオウルフの拳は、果たしてペレアスに届くことはなかった。

 傍から見れば、攻めているのは圧倒的にベオウルフ。ペレアスは時折反撃をするだけで、行動のほとんどを回避と防御に費やしている。

 けれどそれは、異常事態だ。

 ベオウルフの『源流闘争(グレンデル・バスター)』は徒手にてグレンデルを降した逸話が昇華された宝具。拳足は人間に与えられた最古にして最後の武器。歳若い子どもや戦いを知らぬ女性であっても、誰もが使うことができる。

 それ故、ベオウルフの拳は攻撃を見切るといった類の宝具やスキルを無効化する。ペレアスが持つ心眼も、ベオウルフには無為な能力だ。

 なぜこの拳は届かないのか。

 並外れたベオウルフの直感は、その答えを即座に導き出した。

 

「お前からは妙な気配がする。加護というより呪いの類か。どこの夢魔に唆された?」

「最近似たようなことを言われたよ! 分かってねえな、愛の力ってやつを!!」

「お前が恥ずかしい奴ってのは十分分かったぜ……!!」

「うるせえ!」

 

 ペレアスは眼前に迫る右ストレートをすんでのところで避ける。

 危機的な状況において、優先的に幸運を呼び寄せるスキル『精霊の加護』。これをEXランクで保有するペレアスは持ち前の幸運の高さも相まって、如何なる状況でも逆転を可能とすることができた。

 横薙ぎの一閃。ベオウルフの胸に一筋の赤い線が走る。

 表皮を傷付けるに留まる浅い傷程度で、彼の動きに澱みは起こらない。返す拳が飛び、それを剣の柄で受けたペレアスは衝撃を殺し切れずに間合いの外へ押し出されてしまう。

 彼らの戦いは互いに逆転を繰り返す。それは一種の膠着状態であり、両者が強みを押し付け合うからこそ生まれる状況だ。

 ベオウルフがペレアスに飛びかかろうとしたその時、冷徹な声が響き渡る。

 

「面倒くせえ。逃げるぞ」

 

 どこまでも単純な言葉。クー・フーリンの言い草に、メイヴとベオウルフは瞠目した。

 スカサハは鬼気迫る眼光で以って、かつての弟子を射抜く。

 

「……私が敵を前にして逃げろと教えたことがあったか? 戦士の誇りすら失ったのか、お前は」

 

 クー・フーリンは鼻で笑い、吐き捨てる。

 

「───戦士の誇り? ハッ、戦いでしか興奮できねえアンタらしい言葉だな、師匠。戦士なんて連中は人殺しを正当化して名声を得るだけの屑の集団だろうが」

「……貴様」

「だが、悲しいことにそんな屑共が英雄と称えられちまってる。俺も含めてな。他人に人を殺させ、自分だけが利益を得る。そういう醜い仕組みを造るのが王の役割だ」

 

 それがきっと、ケルトの狂王として君臨する彼の有り様なのだろう。

 争いという手段を効率化し、他者に強制した上で一握りの人間だけが恩恵を受ける。古代より変わらないシステムを彼は醜いと断じながらも、行っていた。

 その矛盾こそがクー・フーリンが狂王に堕したことを表す。原因を探り、スカサハの瞳は戦車にまたがるメイヴに行き着く。

 

「メイヴ。貴様の仕業か」

「……ええ、そうよ。批判は聞くわ。受け入れないけど。だって、欲しいものを手に入れるために全力を尽くすのは当然でしょう?」

「戯言を。貴様は壊れたモノを手にして喜ぶことができるのか?」

「壊れてるかどうかは人の基準によるけれど……でも、そうね。壊れたモノに価値を見出だせない、あなたらしい言葉だとは思うわ」

 

 メイヴは純真無垢に、それでいて悪辣に微笑む。

 

「───だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()ものね? どちらが強いか試してみたくなったのかしら。強い勇士を得るためには手段を選ばない……私とあなたは同じじゃない」

 

 みしり、と槍が軋みをあげた。

 それは果たして、クー・フーリンとスカサハ、どちらの得物だったのか。

 戦場の喧騒がまるっきり消え失せてしまったかのように静まり返る。息が詰まるほどの殺気が場に満ちた時、盛大に水を差す、気の抜けた声が響く。

 

「話は終わりか? ケルト三馬鹿トリオ」

「「「………………は?」」」

「そういうのは同窓会でも開いてやってろよ。こっちはおまえらを倒せればそれでいい。ここで死んどけ!!」

 

 彼の声に呼応し、ローマ合衆国のサーヴァントたちが立ち上がる。

 クー・フーリンは腰をためて、メイヴに言う。

 

「何でもいいから壁になるやつを出せ。それに乗じて逃げる」

「ええ、任されたわ! こういう時のために、持ってて良かった聖杯!」

 

 メイヴが輝く聖杯を掲げると、空間に孔が穿たれ、四足歩行の巨大な竜が召喚される。

 地響きを起こす咆哮。しかしそれは相手を威嚇するためのものではなく───

 

「『羅刹を穿つ不滅(ブラフマーストラ)』」

 

 ───死に際の断末魔だった。

 飛翔する光輪が巨竜の心臓から腹部をすっぱりと斬り開く。

 立香は大量の光粒に還っていく竜をぼんやりと眺めて、

 

「……弱っ!?」

「否、余が強いのだ! ようやく調子が戻ってきたぞ!」

「さすがラーマさん! もうインドだけでいいんじゃないんですかねえ!?」

「ローマはインドと交易をしていたが、攻め込まなかった理由が痛いほどに分かるな……」

 

 メイヴはぎりぎりと歯を食いしばり、聖杯を用いた召喚術を起動する。

 一体で足りないのなら、十体でも百体でも用意してみせる。聖杯がある限り、ケルト兵はほぼ無限に補充することができる。出し惜しみなどという言葉は存在しない。

 数体の巨竜と多数の飛竜。意識を取り戻したマシュは第一特異点以来の怪獣大行進を目の当たりにして、顔色を青くした。

 

「そ、そんな……まさか裏切ったのですかジャンヌさん!?」

「んな訳ないでしょうが!! 今の私は竜なんて喚び出せないわよ!」

「あの時と比べるとジャンヌも大分ポンコツになったよね」

「誰のせいだと思ってるんですかァ!?」

 

 立香とノアは互いに顔を見合わせる。

 

「こいつのせいだろ」

「リーダーのせいだよね」

「どっちもよアホマスターコンビ!! 罪をなすりつけ合うな!」

「全く、見苦しいことこの上ありませんね。わたしくらいですか、ジャンヌさんに優しくしているのは」

「……アンタ後で私のところ来なさい」

 

 復活したサーヴァントたちは次々と襲い掛かる竜の群れを撃破していく。が、竜に手を取られている分、クー・フーリンたちには逃げる時間を与えてしまう。

 スカサハが追撃しているが、クー・フーリンにメイヴまでもが加勢したせいで、防勢に回らされていた。

 

「〝遅えよ雑魚が〟……だったか? そこまで言われて引き下がる訳にはいかねえよなあ────!!」

 

 顕微鏡のピントが合わさるように、ロビンの視界はクー・フーリンを中心に絞られていく。

 矢避けの加護は視界に捉えた飛び道具は如何なる時においても対応することができる。ロビンはその加護を知識として知っているわけではなかったが、今までの攻防から気がついていた。

 狙うのは敵の視界の外。かつ、防御しようとも間に合わぬ意識の隙間。悟られぬように弓に矢を番え、弦を引き絞る。

 この一矢に全てを賭ける。男として、戦う者として、コケにされたままではいられない────!!

 

「『祈りの弓(イー・バウ)』」

 

 雲の上から針に糸を通すが如き難行。

 されど。

 

「チッ……!!」

 

 スカサハとの攻防。その間隙を突き、矢がクー・フーリンの右の二の腕に食い込む。

 イチイの鏃はその身に宿す猛毒を敵の体内に送り込み、風船を割るように破裂させる。

 治療を必要とする毀傷。ロビンはひとり満足感に浸る。敵は自ら撤退を選ぶのではなく、あの一矢によって撤退という選択肢を取らなければなくなったのだと。

 ……そして、それと同時。

 ベオウルフは額に汗を滲ませていた。

 拳を叩き付ける。一秒に数十発を越える数。そのどれもが全力であり、一撃でも喰らえば致命傷は免れない。

 だというのに、直撃しない。ペレアスは体を屈め、地面を滑るようにしてベオウルフの後ろに回り込むと、足目掛けて剣を振るう。

 彼はその剣を跳んで躱しながら、

 

「転がって太腿狙いにきやがったな!? 騎士の癖に随分と泥臭え戦い方をするじゃねえか!!」

「アンタ相手に見てくれを気にしてる余裕なんてねえんだよ! それよりも尻尾振って逃げなくていいのか!?」

「良いさ、ここで死ぬならそれまでだ! 逃げるにしても、てめえの顔面に一発入れてからじゃねえとなァ!!」

 

 大気を刈り取るかのような左アッパー。ペレアスの額を掠め、どろりと血が流れ出す。彼は血濡れた眼でベオウルフを睨んだ。

 

「……じゃあ、教えてやるよ。死ぬ覚悟より生きる覚悟の方が強えってことをな!」

 

 剣先で土を掬い上げ、ベオウルフの顔面に飛ばす。

 彼がそれを払った瞬間、眼前に見えたのはペレアスの姿ではなく、血みどろの衣装を身にまとったエリザベートだった。

 意表を突かれる。彼女は魔槍に霊核を貫かれた。ノアの無属性魔術でそれを治したとしても、欠けた歯に詰め物をするように、もはや本来の性能は出せないだろう。

 だが、彼女の動きは絶好調そのもの。

 迎撃の拳を繰り出すベオウルフの眼が視認したのは、二画分の令呪が欠けた立香の手の甲だった。

 つまり、エリザベートは令呪の魔力で無理やり体を動かしているのだ。迎撃を避けもせずに接近し、倒れ込むように槍の穂先を突き刺す。

 喉の奥から血が込み上げる。

 ベオウルフの口角は無意識に持ち上がり、エリザベートも応えるように笑った。

 

「心臓をやられたくらいで、私が諦めるはずないでしょう……!! 世界中の人間を私のファンにするまで、歩みを止めることなんてできないんだから!」

「おいおい、そんなことのために俺は殺られたのかよ───イカれてるぜ。だが気に入った、俺がお前のファンになってやる」

「へえ……じゃあ新しいファンのために鎮魂歌(レクイエム)でも歌ってあげなきゃね」

「いや、それは断る」

 

 ベオウルフの体から力が抜け、地面に落ちて崩れ去る。

 クー・フーリンに傷を負わせ、ベオウルフを仕留めた。しかし、メイヴは聖杯を使って今この瞬間にも手駒を増やしている。やがてクー・フーリンとメイヴの姿が小さくなっていくと、ノアは言い放った。

 

「全員集まれ! 速攻でトカゲどもを駆逐してからクー・フーリンとメイヴを追う! まずはダンテ、おまえが突撃しろ!!」

「無茶を言わないでくれます!? ドラゴンのおやつになりに行くようなものですから!!」

「でも、地獄の最下層ではユダとブルータスとカシウスがサタンのおやつになってますよね?」

 

 地獄の最下層ジュデッカでは裏切りの罪を犯した者が収容される。中でも救世主を裏切ったユダ、カエサルを裏切ったブルータスとカシウスは四六時中魔王に噛み砕かれるという拷問を受けている。

 そんな恐ろしい光景を間近で見たことのあるダンテは泡を食って否定した。

 

「私もそうしろと!? 裏切りの罪なんて犯したことはありませんよ!」

「超神聖ローマ帝国を裏切ってローマ帝国についたじゃない。忘れたとは言わせないわよ」

「…………」

「ミスター・アリギエーリ、安心してください。上半身と下半身が断裂したくらいなら私はどうにかしてみせます」

「やられる前提じゃないですか! 嫌ァァァ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「我がアメリカを苦しめる暴虐の蛇神───お前を倒すのは私たちだ!!!」

 

 虹蛇を巡る戦場。

 淡く発光する円盤の上から、エジソンの宣言が轟く。

 虹蛇を寸前まで追い詰めたケルトの戦士たちは消滅していた。残るのは地上を這う虹蛇と上空より彼女を見下ろすエジソンらのみ。

 赫々と照りつける太陽は今もなお動植物と龍脈から魔力を強奪し、虹蛇へとそれを送っている。サーヴァントとてその対象からは逃れられず、時間を掛けるとエジソンたちも消滅する恐れがあった。

 しかし、彼らの中のひとりはエレナ・ブラヴァツキー。アレイスター・クロウリーやマクレガー・メイザースが学んだ近代魔術の始祖であり、根源の一端に触れた大魔術師だ。

 彼女は円盤を介して、エジソンとカルナに魔力を供給することで陽射しを無効化していた。とはいえ、基本的には穴の空いた桶に水を足し続けるのと変わらない。活動時間は遥かに伸びるが、それでも限界はあるだろう。

 故に、エジソンは躊躇わずに宝具を使ってみせた。

 

「虹蛇よ、貴様の信仰の源流───今ここに暴き落とす! 『W・F・D(ワールド・フェイス・ドミネーション)』!!」

 

 人智の光が地上を覆う。

 命を奪う魔の陽射しよりも一層きらめくその閃光は、この世にかつて存在したあらゆる神秘を暴き立て、失墜させるスポットライト。

 時を止めて逃げようとももう遅い。

 半身のみで這って逃げようとする虹蛇の体は徐々に透けていく。人々の信仰から成り立つ虹蛇という名の神は、ここにその存在を紐解かれようとしているのだ。

 

「貴様の存在はすなわち、虹という自然現象に基づく信仰によって成り立っている。虹が発生する原理を知らぬ古代の人間は考えたのだろう……空に浮かぶ虹は神であると」

 

 だが、とエジソンは否定する。

 

「虹とは空気中の雨滴に反射した光のことだ。何ら神秘的な要素は兼ね備えていまい。人類の無知がゆえに生まれた虚構の神よ────貴様の神性は地に落ちた!!」

 

 エジソンはあらゆる神にとっての天敵となりうる英雄だ。

 隠されていた、知られていないからこそ力を発揮する神秘を白日の元に晒し、その信仰を虚構に貶める。

 虹蛇の巨躯は蜃気楼のように消え去り、後に残されたのはひとりの人間の女性。ちょうど虹蛇の霊核の位置に、彼女はへたり込んでいた。

 

「エジソン……ッ!!」

 

 天に輝く星雲のように波打つ銀の髪。大地の豊穣を思わせる小麦色の肢体。脚や腕、胸元には白い刺青が刻まれており、その体を彩っている。

 彼女が身に纏うのはインディアンの女性が儀礼用に着るドレス。

 ふんだんに装飾が施されていたであろうその服は、見る影がないほどに朽ちていた。宝石を用いた首飾りはくすんで千切れかけ、服は大きく裂けて褐色の肌を露わにしている。

 かろうじて残る神性は彼女の後背で虹の輪として力なく現れる。彼女───虹蛇は、端正な顔を憎悪と憤怒で化粧して、銀色の柳眉を歪めた。

 

「貴様は、私から信仰すらも奪おうというのか。あの時のように!!」

「…………何を言っている。私と会うのはこれが最初だ」

「いいや、分かる! 見えるぞ! 貴様の中に渦巻く悪鬼の魂が!!」

 

 エレナは眉をひそめて言う。

 

「エジソン。どうやら本当に見えているようだわ。悪鬼というのはつまり、あなたの中に在るアメリカ歴代大統領の魂のことなんじゃないかしら」

 

 それを横耳に聞いたエジソンは虹蛇に憤怒の面を返す。

 

「何を宣うかと思えば……!! 綺羅星の如き合衆国の威光も、貴様のような女には届かぬか!」

「合衆国の威光……はっ、そんなものを誇っているのか。貴様らは他人を陥れるのが上手かっただけだろう」

「人民の競争こそがアメリカの原理だ。我らはその戦いに勝ち続けたに過ぎない。たとえどんな手段を用いようとも、勝てば良い。勝利こそがアメリカを正義と位置付けるのだ!!」

 

 虹蛇は唾を吐くように笑った。

 

「そうか───血と死体の上に築かれた栄華を、精々誇るが良い」

「……何だと?」

「言った通りだ。この地で何が起きたか、もう忘れたのか? 道理で、納得がいったよ。貴様らが厚顔無恥にも正義を謳い、血に塗れた手を洗おうともしない生まれながらの殺戮者であることにな!!」

 

 エジソンは犬歯を軋み鳴らす。静かに佇むカルナに振り向くと、真剣な声音で命令した。

 

「もはやこれ以上の問答は無用だ。カルナくん、虹蛇を仕留めたまえ!」

 

 カルナは鏡のような瞳をエジソンに向け、首を横に振る。

 

「……まだ話は終わっていない。虹蛇と向き合うことから逃げるな」

「な──っ!? ぐ……ではエレナくん、円盤の光線でヤツを吹き飛ばせ」

「ごめんなさい。無理よ。話が終わったら、全力で戦ってあげる」

 

 カルナとエレナ、二人から否定を受け、エジソンの目線が泳ぐ。それが辿り着いたのは、研ぎ澄まされた刃のような殺気を向ける虹蛇だった。

 彼女はぽつりぽつりと喋り出す。

 

「〝大人も子どもも、全て殺して頭の皮を剥げ。シラミの幼虫はシラミになるからだ〟……あの男はそう言っていたな」

 

 それは、アメリカ合衆国が西方へと勢力を伸ばしていた頃。

 彼らは元々この大陸に住んでいた民を保留地に追いやり、次々と入植地を広げていった。しかしそれだけにインディアンの反発は強く、いつしか入植者との戦いにまで発展してしまう。

 順調に勢力を拡大するアメリカにとって、先住民は邪魔者でしかない。特に先住民の排除が過激であったコロラド州ではインディアン絶滅を掲げ、市民たちは先住民の資源を奪うために殺戮を始めることとなる。

 悪意と殺意の暴走。それが行き着いた場所が、

 

()()()()()()()。私が今立っている場所だ。貴様の国の軍人は無抵抗の女子供を無残に殺し、体の一部を切り取って装飾品とした。殺された子の中にはまだ乳歯も抜け切らぬ幼児もいた」

 

 虹蛇はため息をつく。彼女の瞳に映るエジソンは、苦虫を噛み潰したような苦悶の表情を浮かべていた。

 

「まあ、これも競争なのだろうな、貴様らにとっては。謳えよ、星条旗を。誇れよ、自由と正義を。地の底に埋められた我が民の嘆きなど、どうせ届きはしないのだろう?」

「ぐ、ぬ……だが、人類史において民族の浄化は決して珍しくは───」

「───だから我慢しろ、とでも? それならそうと言ってみせろ! 〝歴史上、民族の虐殺は多かったのでお前たちが殺されたことは仕方ない。終わったことを掘り返すな〟と……貴様は本当に言い切れるのか!!?」

 

 エジソンの内に宿る、アメリカ歴代大統領の魂。彼らは虹蛇の言葉を受け、思い思いの意見をエジソンに伝える。

 

〝先住民の戯言だ。人間ではないのだから殺してしまえ〟

〝彼女の怒りと憎しみは正当なものだ。戦うよりも対話の道を選ぶべきだ〟

 

 議論が紛糾し、頭の中が掻き乱される。否、乱されているのは脳みそではなく己が抱いた理想だ。

 このアメリカを永久に保存する、という目的。けれどそれは、この上なく残酷な願いだ。

 この世に存在するありとあらゆる人間の痕跡、業績、功績をアメリカ以外は消し去って、自分たちだけ生き延びようというのだから。

 それは虐殺。人類史を焼却してみせた魔術王に次ぐ、最大級の虐殺だ。

 がくりと膝が折れ、手のひらをつく。

 ようやく虹蛇の痛みが理解できた。土地と文化と生命を奪われた人々の嘆きを体現する化身こそが虹蛇。どうにもならないことを押し付けられ、それ故に暴力をふりまくことしかできぬ妄執の神だ。

 胸の奥を串刺しにする痛み。虹蛇は血涙を流すと、神性を失った身でありながら戦闘態勢を取る。

 

「もう、いい」

 

 太陽の光が黒雲に遮られる。砂礫と化した大地に天よりの落涙が降り注いだ。

 魔力の簒奪が止まる。虹蛇は復活できるだけの余力を蓄えたのだ。陽射しが生命力を強奪するとしたら、この雨は生命力を与える。

 この雨中において、虹蛇はあらゆる損失を回復することができる。肉体のみならず魂、そして失った神性さえも。

 だがしかし、その雨を以ってしても、エジソンに貶められた神性は戻らない。生半可な傷ではないということだろう。時間をかけなければ、大蛇の姿に変身することは不可能だ。

 だとしても、この身でもサーヴァントを屠ることはできる。黒雲より雷を呼び寄せ、両手の中で刃の形に成形する。

 ただそこに在るだけで空気を焦がす閃電の双剣。それらを携え、虹蛇は円盤へと駆けた。

 空気を足場にすることなど造作もない。中空を跳ね回り、エジソンの首を刈ろうと接近する。だが、虹蛇はカルナの大槍の一振りで地面に叩き落とされた。

 

「が……っは──!?」

「そう簡単に手を出させはしない。彼は今、変わろうとしている最中だ。オレが相手になろう」

 

 カルナは円盤を飛び降りる。

 地面に着地する寸前で、虹蛇は時を止めた。

 停止した時の中で、雷撃の刃をカルナの体に突き立てた。その切っ先は彼の体にぶつかると、花火のように弾けて消える。

 無敵を誇った黄金の鎧。インドラ神ですら奪うという選択肢しか取れなかった太陽神の神秘は、雷の刃であろうと通しはしない。

 時間停止の利点を無に帰す最高峰の防御能力。大規模な攻撃手段を持たぬ人の身の虹蛇に、カルナを打倒することのできる手札は皆無だ。

 エジソンは震える声音でエレナに告げる。

 

「……降ろしてくれ。彼女と、対等の位置で語りたい」

「ええ。よくってよ!」

 

 飛行円盤が気の抜けた音を発しながら、二人を地面へと降ろす。

 エレナは他のすべてを捨てて合衆国を残す方針に賛成はしていなかった。彼女が言葉で伝えてもエジソンはきっと考えを改めない。

 この国の罪を突きつける虹蛇だけが。

 エジソンの心を揺らすことができたのだ。

 

「……エジソン」

「すまない。虹蛇ともう一度だけ話をしたい」

「ああ、分かった」

 

 しかして、彼だけが見る。

 紫電を纏う黒雲。

 豊穣の雨を切り裂き、飛来する紅き魔槍。

 考えるまでもなく、エジソンは動いていた。

 

「カルナくん────!!」

 

 カルナを押し飛ばした瞬間、エジソンの鳩尾を魔槍の穂先が貫通する。

 彼の体は泥濘んだ地面に倒れる。足首まで水嵩が増していた大地に血の色は残らない。

 魔槍がひとりでに動き、クー・フーリンの手に収まる。その横にはメイヴが控え、彼は地面に横たわるエジソンを見て舌打ちをした。

 

「……外したか」

「あの毒をくらったからよ。万全ならカルナの心臓を貫けてたでしょうね」

 

 メイヴは虹蛇に向けて、

 

「ちょっと……かなり見た目が変わってるようだけど、あなたが虹蛇ね。ひとつ取り引きをしない?」

「私が乗るとでも?」

「ええ。アメリカを倒すために手を組みましょう」

「断る。私は貴様らも殺すつもりだ」

 

 虹蛇にとってはアメリカもケルトも等しく侵略者だ。この土地を侵す異物は一掃するのが彼女の目的であり、地の底に追いやられた人々の求めだった。

 そっけない態度を取る虹蛇に、メイヴはわざとらしく頬に人差し指を当てて提案する。

 

「それなら、こういうのはどう? 殺す優先順位をアメリカが先にするのよ。アメリカを滅ぼした後は私たち……って具合に」

 

 虹蛇は少し考え込み、桜色の唇を開く。

 

「良いだろう。ただしひとつ条件がある」

「何かしら?」

「できるだけ残虐に、残酷に殺せ」

「…………承ったわ。ケルトの拷問術を見せてあげる」

 

 そうして話が纏まり、カルナとエレナに六つの眼光が当たる。

 各々が武器を構えた時、小さな声が響いた。

 

「させ、るか」

 

 エジソンは血を吐きながら、ゆっくりと立ち上がる。

 

「罪を背負うのは私だけで良い。この地に住まう無辜の民が、残酷に殺される謂れなどないはずだ!!」

 

 後ろ暗い過去がない国はない。

 無数の罪を積み重ねていたとしても、この国に住む人間は当事者ではない。そんな彼らの幸せが虹蛇の手によって奪われることは、到底承服できなかった。

 だからこそ、罰を受けるのは歴代大統領の魂を宿す自分だけで良い。合衆国の栄光だけを語り、苦しめた人々のことを忘れて生きるなんてことはできないから。

 

「それがどうした───!!」

 

 虹蛇が雷を呼び寄せる。

 カルナはともかく、エジソンとエレナがそれを受ければ致命傷だ。咄嗟にカルナが前に出た瞬間、雷撃は虹蛇に直撃した。

 場を困惑が揺らす。天候を操る虹蛇が、よりにもよって自らの雷撃に苛まれるはずがない。その答えは、上空より降り注いだ。

 

「ククク……そう、その通りだエジソン!! 死ぬなら貴様だけで死ね! 何なら私がこの雷で引導を渡してやっても良いぞ!!」

 

 雷電を纏う男は高らかに哄笑を轟かせる。

 その姿を見たエレナは瞠目して叫んだ。

 

「───テスラ!? どうしてここに!?」

「それを語ると長くなる。後に説明しよう。……実はここに来たのは私だけではない」

 

 電磁浮遊を行うテスラはすぐ横に視線を投げかける。空間から浮かび上がる男の姿。神からもたらされた弓を携えた褐色のアーチャーは霊体化を解き、冷たい眼差しをクー・フーリンに向けた。

 

「カルナは私の獲物だ、なぜ狙った」

「一番厄介なやつだと判断しただけだ」

「…………横紙破りは罰を受けるぞ。それを知らない人間ではないでしょう」

「教えてもらおうじゃねえか。どんな罰を受けるってんだ?」

 

 アルジュナは小さく笑い、

 

「運命が貴方の敵になる───というのはどうです?」

 

 思わず訝しむ間もなく、遠くから騒がしい声が聞こえてくる。

 

「おい! ありゃあどういう状況だ!? テスラもいるぞ!」

「アメリカとケルトのトップ同士が激突! みたいな場面だったんでしょうかねえ」

「ううむ、情報量が多すぎて頭がこんがらがる! 誰か余の頭痛薬を持ってまいれ!」

「とにかく全員ぶっ潰せば終わりだ! そして俺たちがアメリカをぶんどる!!」

「リーダー、目的が変わってます!!」

 

 エジソンは呆けたような顔をして、

 

「そうか、彼らが……」

「怪我人確保ッ!!」

「ぐふぅ!?」

 

 何か良い台詞を言おうとしていたところをナイチンゲールに捕まえられた。雰囲気が一瞬にして弛緩し、場を包んでいた殺気が引いていく。

 アルジュナははっきりとした意思で言い切った。

 

「ペレアス、貴方は言いましたね。〝本当にやりたいことが見つかったら言え〟と」

「───ああ! お前はどうしたいんだ!?」

「カルナと決着をつける。それは譲れませんが、その前に貴方たちとともにケルト軍を倒す! それが私の、偽りない本心だ!」

 

 轟く雷鳴より強く、その宣言は響き渡る。

 雨足は常人なら立っていられないほどに激しく、地面の上を水流が暴れ回る。それは雨と創造の蛇神である虹蛇の能力。水害を巻き起こす天変地異の権能であった。

 波が地上の全てを浚っていく。

 平原に生まれた大河がクー・フーリンたちとノアたちの距離を突き放す。ケルトの狂王は眼光に殺気を込めて言った。

 

「ホワイトハウスだ。そこに全軍で来い」

 

 ───そこで決着をつける。

 立香は痺れるような感覚を覚える。息が詰まりかけた彼女の肩をノアが叩き、

 

「藤丸、何か言い返せ」

「え、私ですか!? いつもみたいにリーダーが言ってくださいよ!」

「おまえだから意味がある。相手はあのクー・フーリンだ。言ってやれ」

 

 突然の無茶振りに立香の脳みそはぐるぐると回った。彼女はびしりと人差し指を前に突き出して叫ぶ。

 

「の、望むところだ! ぶっ潰してやる!!」

「先輩、リーダーっぽくなってます!」

「もうひとりのマスターはマシかと思っていたが、こんなものか……」

 

 スカサハの嘆きは雨音に呑まれて消える。

 そうして、サンドクリークでの戦いは終わりを告げた。



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第44話 マハトマックス・怒りのデスロード〜ケルト式スパルタ教育スカサハ編〜

 サンドクリークでの戦いを終えて三日後。

 アメリカ合衆国の永久保存という目的を改め、ケルト軍の打倒を誓ったエジソンはダ・ヴィンチの名画にも劣らぬ見事な土下座を披露し、Eチームとその他諸々のサーヴァントたちと円満に手を結ぶこととなった。その際にテスラが渋ったことは言うまでもない。

 彼らはクー・フーリンが言い残したホワイトハウスでの決戦に備え、一旦アメリカ軍の本拠地に身を寄せた。その道中、ノアに調教されたケルト兵たちも加わり、飛行円盤の下をモヒカンが爆走するというカオスな情景が描かれ、それを目撃したロマンは椅子から落ちた。

 兎にも角にも、仕事は山積みである。とりあえず現地に行って敵を殺す思考のケルト軍とは違い、アメリカ軍はれっきとした近代の軍隊だ。

 サンドクリークの戦いで被害を受けた軍の再編成、怪我人の治療、敵地の偵察、フォウくんのエサやり等々の任務に、アメリカの事務処理部隊と最近出番のなかったロマンは忙殺されていた。

 とはいえ、切り札であるマスターとサーヴァントたちは最低限の業務くらいで残りの時間は暇そのもの。アメリカ軍の本拠地では平和な時間が流れている。

 しかし、その中に暗い情念を滾らせるひとりの男がいた。

 彼の名はダンテ・アリギエーリ。言わずと知れたEチームの穀潰しである。

 ダンテの最近の悩みといえば、戦闘も解説もこなせるマシュに自分の役割を奪われる不安くらいであった。が、この特異点において彼は大きい悩みを抱えることになった。

 レフをボロ雑巾にし、アルテラとヘラクレスをも昇天させた宝具。それが虹蛇に打ち破られ、アイデンティティの喪失に見舞われたのである。

 しかし、この程度で屈するダンテではない。脳内でかつて自分を追放した黒党の連中を懲らしめると、彼はすぐに筆を執った。

 今度こそ宝具で虹蛇を仕留めてみせる。人類史最高峰の詩文の才はその一点に注ぎ込まれようとしていた────!!

 

「ドロー4だ。引け、アルジュナ」

「残念だったな、ドロー4返しだ」

「返ってくるのオレだけどな。オレもドロー4で。テスラ、あるか?」

「当然だとも。天才はいつかいかなる状況でも未来を見通すことができる。私もドロー4だ! 滅べエジソンンンンンン!!!」

「ぐわああああああああ!!!」

 

 アメリカ軍本拠地、書斎。その部屋ではダンテが執筆に勤しむ後ろで、いい歳をした大人たちが全力でUNOを繰り広げていた。

 インドの不仲コンビと電流戦争の勝者と敗者、そしてペレアス。ダンテは紙に走らせていたペンをぽろりと落とし、勢い良く振り返る。

 

「他の部屋でやってくれませんかねえ!!? あと公式ルールだとドロー4をスタックすることはできませんから!!」

 

 五人が静謐の書斎に古今東西のボードゲームを持ち込んできてから、ダンテの執筆はたったの一行しか進んでいなかった。普段は湯水の如く文章が湧いてくる詩人の本領も形無しだ。

 よりにもよってテスラにしてやられたエジソンは散らばったカードの中に倒れていた。さながら闇のデュエルの敗者である。

 テスラは得意気に微笑むと、ダンテに言った。

 

「落ち着きたまえ、ミスター・アリギエーリ。私たちはなにも貴方に嫌がらせをしようと、ここで遊戯に興じているのではない」

「その割には本気で楽しんでいるように見えましたが……?」

「いいや、これはそもそも遊びではない」

「ええ、カルナと決着をつける前哨戦です」

「それはそれで重いんですよインドコンビは!二人とも目が血走ってますし!」

 

 ペレアスは散乱したカードをまとめ直した。六人分に手札を分けると、その内のひとつをダンテに差し出す。

 

「よく考えてみろよ。オレたちがここにいなかったら、あの人に特訓させられてたぞ」

 

 そう言われて、ダンテはちらりと書斎の窓を流し見る。

 十字に仕切られたガラスの向こう側には中庭が見える。そこでは、スカサハによる凄惨な特訓が行われている。立香やマシュが傍観する横で、今まさにノアがスカサハに小足からの昇龍を決められている場面だった。

 何かまた余計なことを言ったに違いない。彼の大きな体が紙切れの如く吹き飛んでいくのを目撃して、ダンテはカードを受け取る。

 

「ま、まあ、もうすぐお昼ですし、ここいらで休憩するのも悪くないでしょう。私、ほんの少し人の心が読めるのでこういうゲームは強いですよ」

「そんな特技があるのですか。キャスターのサーヴァントなだけはありますね」

「あ、アルジュナさんの褒め言葉が心に沁みる……最近は散々なことしかなかったですからねえ!!」

 

 ダンテの目にはうるうると涙が溜まっていた。外見は二十代後半程度だが、精神が五十六歳の人間がする表情としては中々に無様であった。

 未だショックで気絶しているエジソンのたてがみをわしゃわしゃと弄くりながら、ペレアスは指摘する。

 

「ある意味いつも通りだろ。散々じゃなかったことがあんのか?」

「ペレアスさん、どんな時でもそこそこ地味な活躍をしてるあなたには私の気持ちは分かりませんよ。ええ、地味なあなたには分かりませんとも」

「おい地味って言うんじゃねえ! 途中からオレが地味キャラみたいになってるだろーが!!」

 

 思わず吼えるペレアス。アルジュナとカルナはこくこくと頷きながら、

 

「確かに、山の三つ四つは消し飛ばせないとインパクトに欠けますね」

「目からビームを出せないサーヴァントは二流」

「インド基準で物を語るな! 剣からビーム出せないのに目から出せる訳ねえだろ!!」

 

 相変わらずぶっ飛んだ世界観のアルジュナとカルナの言い草に、ペレアスは辟易した。

 インドの二大叙事詩ラーマーヤナとマハーバーラタには『ブラフマーストラ』という戦士たちの必殺技が登場する。ブラフマー神の加護を受けた武器・攻撃の総称であり、その形態は使い手によって多種多様だ。

 神の加護を基本技にしているインド戦士からすれば、ビームの市場価値は低いのだろう。アーサー王やガウェインの聖剣を指咥えて見ていたペレアスには、果てしないカルチャーショックである。

 ようやく目覚めたエジソンはむくりと起き上がると、満面に笑みを広げて言った。

 

「案ずるなペレアス卿。発明王と謳われた私の超技術に掛かれば、剣からビームを出すことなど造作もないぞ!」

「超技術? ふ、誇張表現も甚だしいな直流馬鹿め。交流の素晴らしさも見抜けなかった貴様は超技術(笑)くらいが妥当だ。頼るなら私にするといいぞ、目を改造して殺人光線を照射できるようにしてやる」

「黙れ! 死ぬ寸前まで資金繰り如きに苦労していた貴様に言われてたまるか!! テスラ(死)!!」

「おおっと、凡骨(馬)の嫉妬は見苦しいなァ〜? 貴様程度の技術力の男はワクワクさんと一緒にガラクタを製造しているのがお似合いだ!!」

「ワクワクさんがとばっちりを受けているのですが……?」

 

 天才(笑)の口喧嘩を目の当たりにしたアルジュナは、思わずワクワクさんに同情した。彼とて好きで微妙なおもちゃを作っているのではない、背後に汚い大人の事情が潜んでいるからこそなのだ。

 ダンテは何の気なしに言った。

 

「……ということらしいですよ? ひとつここは地味っぽさを払拭するために、サイボーグ化も悪くはないのでは」

「ダンテ、お前はひとつ勘違いしてる」

 

 ペレアスは鋭い目つきで言いつける。

 その真剣さたるや、コンビニで昼食の弁当を吟味するサラリーマンに匹敵していた。青い眼差しに射竦められた四人はごくりと息を呑む。

 ペレアスは叫ぶように声を発する。

 

「いいか、ビームなんてのはただのおまけだ。たとえメガ粒子砲を貰ったとしてもオレは嬉しくねえ。……そう! オレが本当に欲しいのはエクスカリバーなんだよ!!」

「もうこの人騎士辞めた方がいいんじゃないですかねえ!!?」

「顧客のニーズに応えるのが商品開発のコツだが、流石にエクスカリバーは厳しいな」

「聖剣を求めるよりも眼輪筋のトレーニングをした方がまだ有意義だろう」

「眼輪筋のトレーニングくらいでビーム撃てるんですか!?」

 

 慌てふためくダンテとは対照的に、テスラは落ち着いた顔で疑問を口にした。

 

「確か、エクスカリバーはベディヴィエール卿の手によって湖の乙女に返還されるのだろう。アーサー王の死後はペレアス卿の細君が持っていたのではないか?」

「湖の乙女ってのは実は三姉妹でな。オレの嫁は次女なんだが、エクスカリバーを受け取ったのは長女……義姉さんだったんだよ」

「では、アーサー王に聖剣を渡した湖の乙女は長女だったのですか?」

「いや、それはオレの嫁だ。ランスロットの義母でもあるから、アロンダイトも持ってたらしいぞ。義姉さんは聖剣の受け取り役だったって訳だ」

 

 ダンテは顎をつまみながらうなり声を上げる。

 

「私はペレアスさんから話を聞いて知っていましたが、いつ聞いてもややこしいですねえ。神曲の天国篇くらいややこしいのではないでしょうか」

「あんなお前の神学論をぶちまけた意味不明な詩よりは遥かに明快だろうが!! 湖の乙女にも色々と事情があったんだよ!」

「ペレアスを全面的に支持する訳ではありませんが、キリスト教徒でない私には煉獄篇辺りから割と理解不能でした……」

「くっ! アルジュナさんも地獄篇が好きなのですか! 私が苦しんでいる姿を見るのがそんなに楽しいですか!!?」

 

 カルデア屈指のアホ詩人は仇を見るような目でペレアスとアルジュナを睨んだ。神曲の中ではダンテは天国に到達するまでほぼほぼ苦しみっぱなしなのだが、今更指摘する気力はなかった。

 エジソンは芯の固い髭を右手の人差し指と親指で、くりくりと弄くりながら言う。

 

「神曲といえば、1911年にイタリアで地獄篇をモチーフにした映画が公開されていたな。一足先にワーナー兄妹に輸入されてしまったが。惜しい金脈を逃したものだ」

「ふ、結局金儲けか。星の開拓者であるミスター・アリギエーリの作品がそんなことに使われるとは、彼も浮かばれまい」

「私としてはとっくに死んでるので別に良いのですが……なぜ私が星の開拓者なんでしょうかね? 交流送電を発明した訳でも、世界一周をした訳でもないですし」

「ほとんど死に設定だからな」

「ペレアスさん、余計はことは言わないでください」

 

 首を傾げるダンテに、テスラは紳士然とした笑みを向けた。

 

「世界一周ならしたではないか───地獄、煉獄、天国とな」

 

 テスラは続ける。

 

「現代イタリア語の礎を作ったこともそうだが、あれら三つの異界を人の身で踏破し、その存在を証明した。おそらくキリスト教世界では初めてな。これを星の開拓者と言わずして何と言う」

 

 彼の説明を聞いて、五人は納得した。

 数多の罪人と悪魔が巣食う地獄を抜け、煉獄にて自らが背負う罪を祓い、神が坐す至高天に辿り着く。生きながらにしてその旅路を経験したダンテは、キリスト教徒が恐れ敬う世界が実在することの生き証人なのだ。

 それは、聖書に書かれた世界だけを信じるしかなかった西洋諸国の人々の蒙を啓くに等しい。事実、カトリック圏ではダンテの神曲は聖書とほぼ同列に扱われることが多い。

 ダンテは得意気に微笑みつつ、ペレアスたちを流し見る。

 

「いやいや、そんな大したことはありませんよ。私はただ三人しかいないフィレンツェの統領で、世界三大詩人で、近代文学を誕生させて、現代イタリア語の源流になっただけの人物ですから! そういえばペレアスさんはどんな偉業を成し遂げられたので?」

 

 果てしなく調子に乗るダンテ。相変わらず無表情のカルナを除いた四人はその変わり様に顔色を青くする。人間とはここまで恥知らずになれる生き物なのだ。

 とはいえ、普段の彼ならここまで調子に乗ることはなかっただろう。それもこれも、虹蛇に宝具を無効化されたことで、自己不信に陥っていたことが原因なのである。

 それを差し引いても、享年五十六歳の男がする態度ではないが。

 露骨に煽られたペレアスは言い返すでもなく、すたすたと書斎の窓へ歩いていく。それを勢い良く開け放つと、彼は戦場さながらの大声を飛ばした。

 

「スカサハさあああああん!! ここでダンテのやつがサボってましたァァァ!!!」

「ああああああ何やってくれてんですか!! 私をあの地獄に叩き落とそうなんて絶対に許しませんよ!」

「二度目の地獄巡りということか」

「カルナさん、そういうことを言う暇があるならペレアスさんを止めてください!」

「自業自得では……?」

 

 アルジュナがぼそりと呟いた瞬間、書斎の床をばりばりと突き破って、スカサハが突然現れる。

 罪人を氷漬けにする地獄の冷気にも等しい殺気。ダンテの全身を突き刺す気配は、かつて地獄の最深部で味わった感覚を思い起こさせた。

 ダンテは首の筋肉をぎこちなく動かして背後を向く。そこにいたのは、顔面を般若の面そのものに歪めたスカサハだった。

 

「ギャーッ!? ひ、表情筋に鬼が宿ってるゥ!」

 

 気圧されたダンテは思わず尻餅をついた。戦士の威圧は時として人の精神に作用するのだ。スカサハは彼の赤いコートを掴んで書斎の外に歩いていく。

 

「昼まで時間がないからな、1秒が365秒に感じるほどの修行をさせてやる」

「精神と時の部屋───!?」

「いや、単純にそれだけ辛いだけだ」

「そんなの拷問以外の何物でもないじゃないですか! イヤアアアアアア!!」

 

 ずるずると引きずられていくダンテの無様な姿を見て、アルジュナはぼんやりと思った。

 

(…………寝返ったのは失敗だったかもしれない───!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アメリカ軍の本拠地に着いてから、立香(りつか)たちEチームかしまし三人娘はノアが受けていたスカサハの特訓に付き合わされていた。

 幾多の戦士を育て上げた影の国の女王だけあって、人を鍛えることには血が騒ぐらしい。立香はスカサハに対してお節介な親戚のおばさんのような親近感を抱いていた。鉄拳が飛んでくることは間違いないので、決して口に出すことはなかったが。

 そんな修行はサーヴァントたちの目を引いたようで、初日はかなりの盛況ぶりを誇っていた。が、一日目にロビンが真っ先に逃げ出し、二日目にネロが涙目でスカサハに敗走。そして三日目の今日はダンテが書斎に引きこもり、中庭は閑散としていた。

 結局連れ戻され、見るも無惨な肉の塊となったダンテを尻目に立香たちは昼食を摂った。そして、午後の特訓を再開しようと中庭に向かった時のことである。

 

「スカサハさん! リーダーが消えました!!」

「それは聞き捨てならんな。然るべき仕置きを下さねば……手分けして捜すぞ! 私は外を見てくる!」

「先輩、わたしたちも行きましょう! これはリーダーを合法的に苦しめるチャンスですよ!」

「Eチームで一番恐ろしいのはアンタな気がしてきたわ……」

 

 ニンジンを目の前にぶら下げられたロバの如く興奮するマシュを見て、ジャンヌは内心寒気を覚えた。

 しかし、ノアに恨みがない人間はカルデアにはいない。Eチームのヴォルデモートとは彼のことである。そんなわけで、ジャンヌも今回のノア捜索には並々ならぬ情熱を燃やしていた。物理的にも燃えていた。

 ジャンヌは顎に手を当てながら考える。

 

「とは言っても、どこに行ったのかしら。建物の中で鬼ごっこになったら面倒ね」

「食い意地の張ったリーダーのことですし、厨房や食糧庫では? 魔術を使って姿を隠蔽している可能性もあるので、感覚を研ぎ澄ましていきましょう」

「う〜ん、厨房か食糧庫か……エレナさんの部屋とかは? 魔術オタクにとってはアニメキャラがテレビから飛び出してきたようなものじゃない?」

「それはそうかもしれませんね。今までまともなキャスターが仲間になったことがありませんから。ダンテさんは宝具しか取り柄がなかったくせにそれも通用しなかったですからね」

 

 マシュがダンテを扱き下ろすと、彼女たちの元に人間大のハンバーグがのそのそと歩いてくる。現実離れも甚だしいコズミックホラーじみた肉塊はダンテの声で喋り出し、

 

「ふふふ……そう言っていられるのも今のうちですよ、マシュさん」

「「「ギャアアアアアアア!!!」」」

「スカサハさんに地獄を見せられて新しい詩の天啓が降りてきたのですよ……書く気がもりもり湧いてきました!! 今なら源氏物語にも負けない傑作ができそうです!!」

 

 そう言うと、人間大のハンバーグことダンテは颯爽と走り去っていった。途中通りがかったアメリカ軍の人間は泡を吹いて倒れていくが、それもやむなしだろう。

 抱き合って怯え竦んでいたEチーム三人娘は落ち着きを取り戻すと、互いに目を見合わせた。

 

「人ってあんな状態になっても生きられるんだね」

「人なのアレは!? 人と言って良いの!?」

「…………今日の夕食はハンバーグですね。チーズが入ってるやつが良いです」

「だったら付け合わせは焼きなすびね。火加減はウェルダンで」

 

 異形という言葉すら生温い存在になったダンテを記憶の隅に追いやりつつ、立香たちはエレナの部屋を目指して進んだ。

 道中で青い顔で慌ただしく動く職員と何度かすれ違う。

 普通の人間より遥かに能力が高いサーヴァントだが、それでもできることには限りがある。

 彼らは基本的に人間だ。代わりはどこにもいないし、それはこの時代に住む人々も同じ。アメリカという巨大な組織を運営する以上、エジソンひとりの手では務まらない。

 だからこそ、この本拠地は人で溢れているのだが。立香はエレナの部屋のほど近くに着いたところで異常に気付いた。

 鼻腔を擽る、香料の柔らかな香り。それは歩を進める度に強くなり、嗅覚が痺れるような感覚に陥る。

 立香は顔の下半分を右手で隠して呟く。

 

「……そういえば、ここまですれ違う人はいたけど、こっちに来てる人はいなかったよね」

「言われてみれば、そうね。忙しそうなのも逃げてるだけだったのかしら。嫌な予感しかしないわ」

「待ってください、何か音が聞こえます」

 

 マシュはエレナの部屋の前で両脇の二人を止める。しんと辺りが静まり返ると、確かに部屋の外まで聞こえるほどの物音が響いていた。

 ギシギシと何かを揺らすような音。断続的に鳴り響くそれはどこか叙情的な含みを孕んでいる。

 意図の読めない音の羅列に、三人は揃って小首を傾げた。部屋の中の物に悟られないように、小声で話す。

 

「わたしはこの部屋の中でリアルムカデ人間の実験をしている可能性に賭けます」

「なんでいきなり賭けが始まるのよ。まあここにアイツがいるとしたら、十中八九人体実験系でしょうね」

「リーダーへのマイナス方面での信頼がすごい……」

 

 彼女らは部屋の扉に耳をくっつける。

 耳をそばだてて聞こえてきた音は、

 

「ええ……とってもいいわ、ノアトゥール……上手よ……」

「おいおい、才能ありすぎだろ。イくのが癖になってんじゃねえか」

 

 全身が凍り付く。立香とマシュが虚ろな目になって数秒後、ジャンヌは盛大に鼻血を垂れ流しながら黒炎をチラつかせる。

 

「これは焼くしかないようね…………」

「ジャンヌさん、表現が古いです。えっちな場面に遭遇して鼻血垂らすとか、最近は中々お目にかかれませんよ。ねえ、先ぱ───」

 

 マシュは立香の横顔を覗いて、言葉を中止した。

 血の気が引いた顔。瞳孔が収縮し、親指の爪を噛む。立香は即座に表情に熱を取り戻し、拳を力強く握り締める。

 

「ま、まだそういうことだと決まってはいない!! 突入しよう!」

「行くんですか!? もしそうだとしたら、いたたまれない空気になりますよ!?」

「大丈夫、年齢制限的にR-18な展開はありえない───!!」

「立香、そういうことを言うのは止めなさい!!」

 

 立香は扉を彼方へ跳ね飛ばす勢いで開く。

 

「警察です! 青少年健全育成条例に対する違反行為はただちにやめなさい!!」

「三人に勝てるとは思わないことです!!」

「こいつらとひとくくりにされたくないわ……」

 

 人質と犯人が立てこもる建物に乗り込む機動部隊のように突撃した三人は、そこで異様な光景を目撃した。

 大量に設置された香炉。色付いた煙が閉ざされた室内を埋め尽くし、床には複雑な幾何学模様が隅々まで行き渡っている。

 その中心には拘束具付きの椅子に括り付けられたロビン・フッドがおり、その後ろにはエレナとノアがそれぞれ片手をロビンの側頭部にあてがっている。女児体型のエレナは身長が足りないのか、小さい台に乗っていた。

 ノアは五指でロビンの頭をまさぐりながら問う。

 

「今、何が見える?」

「あっく、蜘蛛、蜘蛛が見えます! 水晶の渓谷に、あっ、いる蜘蛛が、あっあっあっこっちに迫ってきて……うわあああああああ!!」

「あら、変ね。ちょっと六千年前の水星に意識を飛ばしただけなのに。霊視だと蜘蛛はあんまり良い解釈はされないから、次は思い切ってM78星雲辺りに行ってみましょうか!」

「待て、惑星ニビルも捨てがたいぞ。こいつにアヌンナキと接触させてシュメール文明の真実を解き明かすのはどうだ?」

「ええ、とってもマハトマね! それなら、ロビンの意識を二つに分裂させてそれぞれ別の星に送り込んでみましょうか」

「ちょ、もうやめ……あっあっあっ、お、オレがオレでなくなるゥゥゥ!!!」

 

 ロビンの全身が感電したようにガタガタと震える。その瞬間、立香とマシュの拳がノアとエレナの顔面にめり込んでいた。

 二人の体は激しく後方に吹っ飛び、壁に当たって止まる。彼らは潰れたアンパンのようになった顔を両手で押さえて叫ぶ。

 

「「ぐふうううううう!!」」

「とうとう禁忌の実験に手を出しましたね!? 危うくロビンさんが廃人になるところでしたよ!!」

「落ち着け藤丸。これは人類の歴史の謎を解明する一大プロジェクトだぞ。ロビンを人柱にすることで古代宇宙飛行士説やイルミナティの人類支配の真相を知れるなら安いもんだろうが」

「リーダーがついに陰謀論に脳を支配されてしまいましたね。頭にアルミホイルでも巻きます?」

 

 マシュは道端の痰を見るような目をノアに向けた。凍てつかんばかりの視線はかのメデューサの魔眼に匹敵するほどの不吉さを含んでいる。

 椅子の上で震えたままのロビンを横目に、エレナは立ち上がる。彼女は不敵に笑うと、どこからともなく黄金色の缶を取り出した。

 立香は脈絡のないアイテムの登場に眉根を寄せて、

 

「なんですかそれ? 礼装でもなさそうですし」

「ふっふっふ……頭にアルミホイルを巻くなんて手法はもう時代遅れなのよ。今の時代はこれ、テスラ缶! 万病を治すと言われる人類最新の聖杯よ! テスラの科学力は世界一ね!」

「う、胡散臭すぎる……近代魔術の祖が霊感商法にハマってどうするんですか!?」

 

 ニコラ・テスラは何かと陰謀論の話題にされやすい人物である。本人も生前、スピリチュアル方面に傾倒していた時期があったため、疑似科学の理由付けとして適していたのだろう。本物の神秘を扱うエレナが騙されていては本末転倒なのだが。

 しかし、エレナが掲げた缶だけを撃ち抜くように室内に雷が落ちる。床に黒焦げになった缶が転がり、その上に被さるように一枚の紙が落ちてきた。

 立香はそれを拾って読み上げる。

 

「〝私に風評被害を撒き散らす商売人どもに裁きを下してくる〟……ですって。そもそも誰から買ったんですか」

「え、ノアトゥールからだけど?」

「金色に塗った缶にコンクリ詰めるだけで売れるってすげえよな。パラケルススも真っ青の錬金術じゃねえか?」

「くっ! 金の亡者め! テスラさんには内緒にしてあげるんで私にも分け前をください!!」

「アンタの方が金の亡者じゃない! どうせガチャに消えていくだけなのに!」

 

 アホ四人のやり取りを背中に受けながら、マシュは囚われのロビン・フッドを椅子から解放する。彼は数度皮膚を痙攣させ、ゆらりと立ち上がった。

 どんな狂気的な体験をしたのか、頬は痩せこけて肌は土気色になっており、瞳の焦点はどこにも定まっていない。幽鬼という表現がぴったりな有様だ。

 これまでとは別人のようになってしまったロビン。マシュは立っているだけでおぼつかない背中に向けて話しかける。

 

「た、体調はいかがです?」

「行かねえとな……」

「え?」

「エリア51でレプティリアンがオレを呼んでる……」

「一体何の情報を受信したんですか!?」

 

 マシュの制止もむなしく、ロビンは扉を開けてどこかに旅立ってしまった。

 それと入れ替わるようにスカサハが現れる。彼女は睨めつけるような目つきでノアに向かって歩いていく。

 ダンテなら一瞬で土下座の体勢を取っていたところだが、そこはEチームのリーダー。不遜に口元を歪め、膨大な魔術回路を励起させる。

 

「来るのが遅かったなァ! 俺は既にエレナ・ブラヴァツキーの薫陶を受けてマハトマに触れた! 這いつくばって謝んなら今のうちだぞ!!」

「『貫き穿つ死翔の槍(ゲイ・ボルク・オルタナティブ)』!!」

「宝具はズルだろうがァァァ!!」

「むしろノアトゥールはなんで勝てると思ったのかしら!?」

 

 ノアの体は背後の壁ごと外に投げ出され、中庭に墜落する。空中を滑って戻ってくる二本の槍を受け止め、スカサハは立香たちに言った。

 

「さあ、午後の訓練を始めるぞ!!」

 

 そんなこんなで、舞台を中庭に移して。

 ノアとエレナ、Eチーム三人娘はスカサハの前で正座させられていた。彼らの後ろの茂みには、目を赫々と輝かせたナイチンゲールが怪我人の発生を待ちわびている。

 

「まずは手始めに、1秒間に100発のパンチを打つことからだな」

「どこが手始め!? ペガサス流星拳使えたら人としてはもうゴールしたようなものですよ!」

「おいおい、情けねえな藤丸。おまえの小宇宙はペガサス流星拳如きで満たされんのか?」

「それ以前の問題ですけど!?」

 

 立香の嘆きにマシュはこくりと首肯した。

 

「マスターが戦闘できるようになるとわたしたちサーヴァントの出番が減りますからね。フォウさんのように空気化するのはなんとしてでも避けなくてはなりません」

「一理あるわね。あの哀しきモンスターには絶対になりたくないわ」

フォフォウフォウフォウ(ディスられてると聞いて来ました)

「やだ……この子たち、出番に貪欲すぎるわ……!!」

 

 エレナがジェネレーションギャップに戦慄する中、スカサハは呆れたため息をついて、

 

「これだから現代っ子は。しかし、影の国も昔のようなスパルタ教育一辺倒ではない。最近は少子化が進んで、めっきり戦士が減ったからな。私の城も寒風が吹く有様だ」

「影の国も時代の煽りを受けてたんですね」

「ああ、世知辛い世の中になったものだ。近頃の子どもはやれゲームだのパソコンだのをピコピコやっているのだろう。己の身一本で戦場を駆け抜けようという気概が足りん」

「べ、別にそこまでは求めなくていいんじゃない? 時代とともに社会も価値観も変わってきているのだし」

 

 何やら面倒くさい感じになってきたスカサハをエレナは宥める。見た目は子どもとはいえ、中身は大人の彼女は数少ない常識人だった。

 そこで、スカサハは右手に槍を、左手にチクワを出現させる。

 

「新しい知識を取り込み、私は現代っ子向けの修行を考えた。今からチクワとゲイボルクを投げるから、うまく槍を避けてチクワだけを食え」

「今更ハットリくん方式!? まだまだ全然古いんですけど!!」

「長く生きすぎて時間感覚バグってんのか!? 今はもう昭和平成飛ばして令和なんだよ! ハットリくんもハットリおじいさんになってんだよ!!」

「な、なんだと……!? しかし案ずるな、もうひとつ考えてきたものがある。このお立ち台に乗ってジュリアナ東京を百倍速で───」

「まだ古りーんだよ! バブルになっただけじゃねえか! 男をナンパする特訓でもするつもりか!?」

 

 マスター二人から非難の嵐をくらったスカサハは逆上して槍を振るうでもなく、地面に体育座りになった。

 若々しい外見とは裏腹に、その背中には往年の哀愁が漂っている。彼女は地面にのの字を描きながら、ぼそぼそと喋り出す。

 

「ふ、ふふ……そうか、あの輝かしい昭和はもう終わったんだな……影の国からラジオ中継でシンザンのラストランを聞いていた頃が懐かしい……」

「なんで影の国で競馬やってるのよ!? しかも日本の! 本当にケルトの英雄なの!?」

「先輩、わたしは何だか可哀想になってきました」

「うん。あんなに強いスカサハさんがこんな闇を抱えてたなんて……」

 

 何気ない立香の一言に、エレナは目を剥く。

 

(今の子にとっては古い=闇……!? まずい、まずいわ!)

 

 エレナもスカサハほどではないが、実年齢はアレである。気の良い彼女の習性として、若者から白い目で見られることは避けたかった。

 エレナは帽子を外して顔を扇ぎながら、これみよがしにノアたちに視線を差し向ける。

 

「あ、あー! なんだか喉が渇いてきたわね! ここは若い子が多いみたいだし、最近流行りのタピオカが飲みたくなってきたわ!」

「エレナさん、タピオカはもう古いです」

「ぐはぁ!! 私も結局古い人間だったのね!? ちょっと自分は流行に詳しい感じを出してたのが余計に恥ずかしいのだわ!!」

フォフォウフォウフォフォウ(サーヴァントだから古いのは仕方ないね)

 

 エレナは赤面して地面を転がりまわった。本来ならばノアたちを教導すべき年長者が揃って自爆するという異常事態。お開きになりかけたその時、Eチームの前に緑衣の男が飛び出す。

 森の英雄、ロビン・フッド。ノアとエレナの強制霊視実験によって正気を失っていた彼は、目に爛々とした光を取り戻していた。

 ただし、どんな冒険を潜り抜けてきたのか緑衣はボロボロに朽ちており、総身に浅くない傷を負っている。

 元凶であるノアは自らの行いを忘れたかのように言う。

 

「なんだ、戻ってくるのが早かったな。エリア51はどうだった?」

「ふざけんじゃねえアホ白髪!! こちとら宇宙人にUFOで連れ回されて銀河一周の旅を終えてきたとこなんだよ! オレを実験台にした責任を取れ!!」

「人類初の偉業じゃねえか。非難される謂れはねえぞ。むしろ泣いて感謝するのが筋だろうが」

「うっせえ! その腐った性根を叩き直してやる!」

 

 意気揚々と放たれた一矢をノアはすんでのところで躱す。その矢は真っ直ぐ飛んでいき、座り込んでいたスカサハの後頭部にぐっさりと突き刺さった。

 

「……あ、やべっ」

 

 空気が凍りつく。

 極寒の夜を思わせる静寂。その静けさが逆に恐ろしい。スカサハは微動だにしないで佇んでいた。

 ロビンはミイラのような顔色になって、震えた声を絞り出す。

 

「お、オレとお前のどっちが謝るべきだ…?」

「おまえ以外にいるかァァ!! 俺を巻き込むんじゃねえ、更年期の女の恐ろしさを知らねえのか!? さっさと土下座しろ!!」

「おい馬鹿、この状況で更年期というワードを出すな! 余計怒らせちゃうだろうが!!」

「……………………ノアトゥール、ロビン・フッド」

 

 その時、二人の運命は決定していた。

 スカサハが音もなく立ち上がる。

 彼女の後ろに影の国への門がブラックホールのように開く。魔の豪風が吹き荒び、ノアとロビンは脱兎の如く逃げ出した。

 しかし、スカサハは一歩で二人の前に回り込む。彼らが最期に見た光景は、

 

「逃げられるとでも思ったか? 死ね」

「「うわああああああああ……!!!」」

 

 名状しがたく冒涜的な、慄然たる憤怒の形相であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『えー、それでは! これより対ケルト軍作戦会議を始めます!!』」

 

 夜、アメリカ軍本拠地の食堂。

 アメリカが擁するサーヴァント全員が揃い踏みした部屋の中に、ロマンの気の抜けた声が響き渡る。

 そこらでまばらな拍手が起こる。彼の補佐役であるはずのマシュは会議そのものよりも、目の前の食事に夢中になっていた。だが、その程度の塩対応でめげるロマンではない。ここ最近のマシュの反抗期もようやく慣れ始めた頃だ。

 彼はきょろきょろと辺りを見渡し、疑問を投げかける。

 

「『……若干名、姿が見えない人たちがいるんだけど』」

 

 若干名という言葉が指すのはノアとダンテ、そしてロビンのことだった。

 何気ない疑問も、午後の特訓の顛末を知る者からすればタブーに違いない。鉛のように重い空気が食堂に流れる。

 立香はどこかに目をそらして言った。

 

「ダンテさんは書斎にいるらしいです。リーダーとロビンさんはミンチになりました」

「『一体何があったんだ!? 人がミンチになったことを冷静に受け止められるほどボクは大人じゃないぞ!』」

「もうやめましょう、ドクター。あの人たちは土に還ったんです。わたしたちにできることは、そう、祈りを捧げるだけ……」

「いえ、諦めるのはまだ早計です。忘れましたか、ここには私がいるということを!」

 

 そう言って、ナイチンゲールは席を離れた。数十秒後、彼女は両肩に二人の包帯男を担いで戻ってくる。

 一見して見分けはつかないが、その二人がノアとロビンであることに間違いはなかった。一方の片割れは自力で歩き、立香の横の空いた席に倒れ込むように座った。どうやらこちらがノアらしい。

 スカサハの後頭部を突き刺した下手人であるロビンはノアよりも重傷のようで、簡易的なベッドに寝かされる。

 立香はノアから漂う薬品臭さを手で払い除けた。

 

「相変わらずすごい生命力ですね。てっきりダンテさんみたいにハンバーグ状態で出てくるかと思いました」

「そこはヤドリギ様々だな。死にかけたのはレフの爆弾以来だ。ダンテの野郎はサボりか? ペレアス」

「いや、あいつは本業の詩作中だ。オレらがいくら話し掛けても聞こえてなかったみたいだから、とりあえず置いてきた。ハンバーグ状態は解けてなかったぞ」

「よくペンを握れたわね……ウサギになった時もあまり気にしてなさそうだったし、適応力イカれてるんじゃないの?」

 

 何はともあれ、ノアとロビンは復帰した。ロマンは長年カルデアでパワハラを受け続けた人物、気の取り直し方には長けている。彼は咳払いを挟んで、

 

「『そ、それじゃあまずはカルデアで解析した情報の報告から始めよう』」

 

 その報告の内容は以下の通り。

 レイシフト直後。アメリカ領にいた立香たちは通信ができたものの、ケルト領にいたノアたちは通信が繋がらなかった。ダンテの実験によってケルト領以外なら通信ができるという証明がなされたが、ここには根深い問題が潜んでいた。

 それは、ケルトの支配領域が特異点を固定化する楔となる性質。端的に言えば、ケルト軍が一定範囲の領土を占有した場合、それだけで特異点が成立し、修復が効かなくなってしまうのだ。

 北米大陸を舞台とした陣取り合戦。さらには、虹蛇もそこに関係している。

 虹蛇は魔力の量に応じて、豊穣をもたらす雨と生命を簒奪する日照りの天候を使い分ける。この土地の古き民の嘆きの化身である彼女が天候によって影響を及ぼした地域は、ケルト軍と同じように特異点となってしまう。

 立香たちが荒野の真ん中でまみえた森は、虹蛇の豊穣の雨が育てたものだった。

 虹蛇は取り戻そうとしているのだ。

 海の外の人間に穢される前の、自然豊かな北米大陸を。

 

「『ケルト軍は戦力を集中するためにホワイトハウスに撤退したようだけど、共に北米大陸を特異点化する虹蛇が加わったことは最悪に近い。何しろ、虹蛇はそこにいるだけで一帯を特異点にしてしまえるからね』」

「ふむ、こちらが大分優勢と思っていたが、まだまだ逆転敗北の芽はあるということだな。あの麗しい姿の虹蛇と触れ合う夢は諦めなくてはならぬか……」

「美人なら何でも良いのか? とにかく、虹蛇をどうにかしなくては戦争の形にすら持ち込めぬだろう。余が相手をしても良いが」

 

 ラーマの言葉には誇張も慢心も一切なかった。実際、インド勢の三人は最強格のサーヴァントだ。埒外のしぶとさを誇る虹蛇でも、その三人を同時に相手取るのは悪夢でしかないだろう。

 エレナもその提案に同意する。

 

「いくら虹蛇と言っても死ぬことには死ぬわ。〝インドの先制攻撃だべ!〟みたいな具合で倒せそうではあるわね」

「でも、私は少し危険だと思います」

 

 立香の元に視線が集まる。注目にうろたえることなく、淡々と話を続けた。

 

「ケルト軍は四人もサーヴァントを失ったのに、気にしてる素振りがなかったですよね? ここにいる全員を敵に回しても勝てるくらいの奥の手があったりしそうです」

「立香ちゃんが可能性として考えてるのはあるのか?」

「魔神柱が出てきてないのは怪しいですね。わざと虹蛇に戦力を集めさせて一気に……って素人の考えですけど」

「仮定を元にしてはいますが、その上で筋は通っている。問題はどうやって虹蛇だけを誘き寄せるか、ですね。乱戦は味方にも被害を出してしまいますから」

 

 アルジュナの言にエジソンが反応する。

 

「虹蛇は私に恨みを抱いている。私を囮とすれば自ずと寄ってくるはずだ」

「そのまま食われても良いぞ? 凡骨だけあって噛みごたえはあるだろう」

「今ここで貴様を噛み砕いてやろうかテスラァァァ!!」

「ほざいたなエジソン! 我が雷で炭にして世界を回すエネルギー源になってもらうぞ!!」

「『どんだけ仲悪いんですかあなたたちは!?』」

 

 殴り合いに発展したエジソンとテスラを無視して、ノアはエリザベートを指差した。

 

「囮に使うならそこのトカゲ女も入れとけ。クー・フーリンの槍に霊核を貫かれたせいで戦えない」

「それはお前が治したんだろ?」

「魔槍の呪いのせいで霊核を全取っ替えする必要があった。他にも事情があったが……とにかく、今のそいつはポルシェに軽自動車のエンジン積んだみたいな状態だ。あの馬鹿みたいな声量も出せねえぞ」

「なにそれ!? ハリボテにも程があるわよ! みんなに歌を届けられないなんてアイドル失格だわ!!」

「あの天上の美声は聞けぬのか……なんたることだ、世界の損失と言う他ない!」

 

 揃って嘆き悲しむエリザベートとネロ。彼女ら以外の全員が安心感を覚えたことは言うまでもないだろう。

 エリザベートの霊核は魔槍の呪詛に侵されていた。ノアがエリザベートの霊核と全く同じ物質を創ることは可能だったが、初めて見るモノを複製する際には実物を参考にする必要がある。猫を知らない人間が猫を絵に描けないのと同じだ。

 その時、ノアが参考にすべき霊核は呪いによって穢されていた。呪われた霊核は複製できても、その前の正常な霊核は情報がないため創ることができなかった。

 ただし、壊れた物体であってもその元の形を推測することはできる。

 ノアは推測を基盤に霊核を創り、エリザベートに与えた。あくまで推測は推測、本物と同じものにはならなかったのだ。

 カルナは静かに主張する。

 

「虹蛇はオレとアルジュナに任せると良い。あの日照りだけは厄介だが」

「生命を奪う日照りですか……許せませんね。私が治療します」

「『じゃあ、虹蛇を倒すメンバーは決まったということで───』」

「待ったあああああ!!」

 

 食堂の扉が荒っぽく開け放たれる。

 人間大のハンバーグが飛び跳ねながら、ホログラムのロマンに近づいていく。

 

「『うわっ、グロっ!? 誰なんですか!』」

「見て分からねえのか? ダンテに決まってんだろ」

「そうですよドクター。どうしちゃったんですか」

「『え、ボクがおかしいのこれ!?』」

 

 困惑するロマンに追い打ちをかけるように、ハンバーグが喋り始める。

 

「虹蛇討伐、私にも一枚噛ませてください! 私の新作で二殺はしてみせます!!」

「一回も殺せなかった挙句戦意喪失したお前がか?」

「スカサハさん、私も男です。やると言ったからにはやってみせましょう。虹蛇を瞬殺できれば、カルナさんとアルジュナさんを他の戦場に加勢させることもできるでしょう」

「……そうか、ならばやれ。戦いを本領としない男がそれを言うのだ、お前に任せよう」

 

 いつになく真剣な声音。ハンバーグになったダンテの表情をうかがい知ることはできないが、それだけでもスカサハを説得するには十分だった。

 そしてそれは、Eチームの人間も同様だった。ペレアスは小さく笑う。

 

「それでこそ男だ。ディナダン卿もケイ卿もやる時はやる人だったからな。ほんの少しだけ見直したぜ」

「ボルボックスからミジンコくらいには株が上がったな」

「微生物の域は出ないんですか!? 顕微鏡で見ないと存在を認識できないんですか!?」

「わたしはゾウリムシが好きです」

「アンタの好みは聞いてないわよ」

 

 ハンバーグが人語を発するという異常事態にも慣れ始めてきた頃、アルジュナがおそるおそる手を挙げる。

 

「あの、作戦に異論はないのですが、私とカルナがひとまとめにされているのは何故です?」

 

 彼らの因縁はこの場では誰もが知るところだった。神の介入を受けた決闘の勝者と敗者。マハーバーラタにおける不朽のライバルだ。

 ペレアスは水で唇を濡らして、

 

「殺し合ったことはあっても共闘したことはないんだろ? 試しに一回やってみればいいじゃねえか。ランスロットとガウェインみたいなもんだな」

「たとえが悲惨すぎないかしら……確かにその二人は共闘も殺し合いもしたんでしょうけど」

「その点円卓ってすごいですよね。ランスロットさんの離反で割れたのに、モードレッドさんの叛逆でさらに分裂したんですから。テーブル粉々ですよ」

「『そういう気が滅入る話はやめませんかダンテさん』」

 

 場の雰囲気が奈落に落ちかける。テスラとの喧嘩を終えたエジソンは、腫れ上がった顔を晒しつつ咳払いした。

 

「と、とりあえず配置は決まったな。今回の戦場はホワイトハウスと虹蛇の二つ。前者に関しては私が参謀本部と擦り合わせておこう」

「では、ここからは固いのは抜きにしたパーティだな! マイクを持ってまいれ! エリザベートの代わりに余の歌を披露しよう!!」

「もはやツッコむ気力すら起きないわ」

「と言いつつそれがツッコミになるという高等技術。さすがですジャンヌさん」

 

 その後、自前のコンサート場を用意するために宝具を使おうとするネロと他全員との格闘が巻き起こった。

 夜更け。コンサート会場から命からがら脱出した立香はノアを探し回っていた。特に用があるわけでもなかったが、寝る前の暇潰しとして辺りを歩き回る。

 ノアは自室にもいなければ、エレナの部屋にもいなかった。魔術オタクらしく、三日間の夜時間はエレナと魔術の手習いをしていたそうだが、今夜に限ってその姿はないと言う。

 どうせまたろくでもないことをしているのだろうが、万が一がある。立香はエレナと共にノアを捜索することになった。

 

「私、人探しは得意よ? ノアトゥールは多分外にいるわね。第六感がビンビンに反応してるわ!」

「私のゴーストが囁いてるんですね!? 早速行きましょう!」

 

 玄関を通り、外に抜ける。

 呪術師にとって人探しや物探しといった行為は、古来より生業のひとつとして確立されていた。並々ならぬ霊感を持つエレナからすれば、それらはお手の物だろう。

 彼女が第六感に導かれた先は建物に隣接する雑木林の中だった。

 暗い木陰の間に、ちらちらと揺らめく灯火が見えた。同時に、何か不吉な言葉が連なって立香とエレナの耳に届く。

 ぼんやりとした明かりに蠢く人影を発見し、立香は上擦った声を出した。

 

「ええと、リーダー?」

 

 不意の呼び掛けに、人影はくるりと振り返る。

 真っ白な着物を纏ったノア。頭頂には二本のロウソクが角のように突き立っている。右手に藁人形が、左手には金槌と五寸釘を握りしめていた。

 日本の伝統的な呪詛のスタイルを踏襲したコスプレをするアホの姿を見て、立香は恐怖より困惑が勝った。

 

「………………何やってるんですか」

 

 ノアは今日イチの真剣さで告げる。

 

「スカサハ……俺は今からあの女を────呪う」

「いつになくアホですね!? 味方をガチで呪おうとする人なんて見たことないですよ!!」

「あいつには正面から掛かっても勝てねえ。となれば、呪いしかないだろ。俺を散々コケにしやがったあの女に鉄槌を下してやる!!」

「か、完全に逆恨みじゃない……!!」

「俺に上から目線で接すること自体が罪だ! おまえらに見られようが知ったことか、俺はあいつを呪うぞ藤丸ゥーッ!!」

 

 木の幹に取り付けた藁人形に釘を打ち付けようとした刹那、どこからともなく飛来した紅き魔槍がノアの尻に突き刺さった。

 彼は生まれたての子鹿のように震えながら絶叫する。

 

「ギャアアアアアアア!!! なんでまたケツだァァァ!!?」

「あ、なんか槍のお尻に紙が付いてますよ。〝呪詛返しを心得ていないとでも思ったか馬鹿め〟って書いてあります」

「こんな物理的な呪詛返しは私も初めて見たわ。ちょっと解析させてくれる?」

「それより前にボラギノール持ってこい!!」

 

 ノアの気迫に圧され、エレナはボラギノールを求めて建物に走っていった。

 立香はノアの尻に刺さった槍を掴みながら、

 

「本当にアホですねリーダーは。相手はサーヴァントですよ?」

「サーヴァントなんざ関係あるか。あいつらも突き詰めれば俺たちと同じ人間だろ───おい待て、優しく抜けよ」

「ふんっ!」

「ぐああああああ!! 藤丸てめえ何やってんだァーッ!!」

「締まりが良かったんでつい……」

「俺のケツのことを少しは考えろ!!」

 

 とは言っても、ゴキブリ並の生命力を誇るノアである。中腰になりながらもゆっくりと二本の足で地面に立った。

 エレナが戻る気配はまだない。この時代のアメリカにボラギノールは存在しないため、マシュの盾を利用した召喚陣を使わなくてはならない。

 立香はサンドクリークの戦いを思い返して言う。

 

「そういえば、あの時なんで私の位置が分かったんですか? 通信も繋がらなかったのに」

「……おまえの髪留めは俺の魔力を込めた糸で編んである。その気配を感知しただけだ」

「じゃあいつでも私の位置は丸分かり…? それはそれで恐ろしい気が」

「そこは気合い入れてないと分からないようにしてる。じゃないと鬱陶しくて仕方ないからな。おまえを守るのはリーダーとして当然の役目だ」

 

 肌の温度が高くなるのを感じた。

 役目、役割。たとえそういう理由があったとしても、彼は自分を守ろうとしてくれているのだ、と。

 気恥ずかしいような、嬉しいような、名前の付けられない感情が湧き上がる。けれど、胸の片隅にはもやりと堆積した想いがあった。

 それを口に出そうとした瞬間、近くの茂みが葉の擦れ合う音を立てる。

 反射的に視線を傾けた先には、しゅるしゅると舌を巻く蛇がいた。

 

「ギャーッ! へっ、蛇ィィィ!!」

 

 立香は思わずノアの腕に飛びつく。

 ノアは蛇と立香に冷たい視線を送る。

 

「……素手でゴキブリ掴めるやつが蛇を恐れるか?」

「マシュとジャンヌの手前ずっと隠してたんですけど私、蛇だけは無理なんです! 虹蛇なんて見たら卒倒間違いなしなくらい苦手ですから!!」

 

 立香は蛇に対するトラウマをつらつらと語り始めた。

 それは彼女が小学校に入学する直前、休みの日に藤丸一家で動物園に繰り出した時のことである。

 藤丸(兄)は爬虫類コーナーで、ある看板を見つけた。

 

〝ニシキヘビに巻き付かれる体験──!? これはやるしかない!!〟

〝私は縄の方が……〟

〝お母さん、何を言ってるのかな? 子どもの前だよ?〟

〝いこう、これはわたしのじんせいにおいて、かけがえのないものになるとおもう──!〟

〝妹がこの年で達観してる件について〟

 

 そんなやり取りを経て、一家はニシキヘビに巻かれることになった。当たり前だが、動物園の蛇は人間に危害を加えないようにしっかりと調教されている。むしろ、次々と訪れる人間に巻き付かなくてはいけない蛇の方が大変だろう。

 人間に巻き付き疲れたニシキヘビの体験を終えた時、事件は起こった。立香と藤丸(母)が目についた屋台に疾走したところを、藤丸(兄)が制止する。

 彼は立香の背中を指し示して、

 

「───お兄ちゃんは私の服に蛇のうんこが付いてるって言ったんです。絶対あのニシキヘビの仕業です。それから私は蛇が苦手に……」

「…………………………クッッッソくだら」

「くだらなくないですよ! 服に汚物を付着させながら歩き回ってたことに気付いた私の気持ちを考えてください!!」

「尚更くだらねえよ! 百歩譲ってトラウマになるのは蛇のうんこであって蛇じゃねえだろ!!」

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いんですよ! むしろこの場合は逆ですけど!!」

 

 不毛な言い合いを続けることに嫌気が差したのか、ノアは足元の枝を拾うとそれを使って蛇を追い払った。

 森の中に虫や鳥の鳴き声が響く。

 ノアは右腕にしがみつく立香に告げた。

 

「ほら、行ったぞ。さっさと離れろ、藤丸」

 

 しかし、彼女が離れることはなく。

 小さな声で、立香は言った。

 

「……名前」

「は?」

「名前で呼んでくれないんですか」

 

 空気がしんと静まり返る。

 ノアは煩わしげに息を吐き、左手の人差し指で立香の額を小突いた。

 

「頼み込んでる内は呼んでやらない。どうしても俺にそうさせたいなら、名前で呼びたいと思わせてみろ」

「…………勝負ってことですね。分かりました、絶対に名前で呼ばせますから」

 

 それを、木陰から覗く少女がいた。

 彼女はボラギノールの箱を握り締めて、踵を返す。

 

「若人のやり取りは眩しいわね……エレナ・ブラヴァツキーはクールに去るわ!」

「待て、ボラギノールは置いてけ!!」

 

 そうして、決戦前の安穏とした時間は過ぎていった。



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第45話 嘆きの雨に虹はかかる

 サーヴァントは夢を見ない。

 人が眠るのは脳を休めるとともに、その日得た記憶や知識の整理をするためだ。けれど、サーヴァントはとうに死んだ人間。英霊の座より引き出された写し身にすぎない。

 だから、この現世にいるということが彼らにとっては夢なのだ。虚ろな座に存在する本体が見る、邯鄲の夢。泡沫の記憶。

 

〝…………進む道を変えてはならない。誰にも名を明かしてはならない。如何なる挑戦にも応えねばならない、か〟

 

 ならば、この血濡れた光景は一体何だ。

 鮮血の海に沈む子ども。

 心臓の一点を穿たれ、瞳に影が落ちる。

 それは紛れもなく己の手によるもので。紅き魔槍を滴る血液が真実と告げていた。

 師匠より授けられた槍の秘技。必中必殺の奥義───ゲイ・ボルク。今にも死に絶えようとしている子は、その技を使わなければ勝てないほどに強かったのだ。

 

〝くそったれ───…………!!!〟

 

 子の体を抱えて走った。

 総身の傷も思考の彼方、足が折れ、肺が裂けようとも走った。

 もう彼は助からない。魔槍の一刺しを受けて生き延びた者などいなかった。なぜならこれはそういう技で、自身の誇りでもあったからだ。

 それでも走ったのは。

 子への慈しみか。

 師への憤りか。

 自分への怒りか。

 はたまた───運命への憎しみか。

 

「……チッ。らしくもねえ」

 

 脳裏にこびりつく記憶を、クー・フーリンは切って捨てた。

 この身はもはや走狗ではない。

 人の命を数と身分と金で判断して効率的に操る、狂った王だ。

 故に忘れろ。

 自分がただの戦士であった頃の記憶など。

 己の欲望のままに他人を使い潰す。そんな傲慢で愚かな罪深き所業を続けるために。

 そうすればきっと、理解できるのだろう。

 あの日、あの時、師が仕組んだ決闘の真意を。

 ───こじ開けるように両の目蓋を上げる。

 内界への潜航を終え、意識は皮膚の隅々にまで行き渡る。サンドクリークの戦いで失い、修復した腕もいつもと変わらぬ反応を示した。

 己が信ずる至上の戦士。悪辣を地で行く女王は初めて恋を知った乙女のように、ほのかに頬を染めて微笑む。

 

「……あら、いつになく殺気立ってるわね。犬食べた夢でも見た?」

「軽口叩く暇があるってことは準備は終わったんだろうな」

「ええ、もちろん。奥の手もいけるわ」

「不意を討つ。前線がかち合った時に使え」

 

 ホワイトハウス。眼下に広がる自軍と敵軍を睥睨し、彼らは短く言葉を交わした。

 この館の上に滞空する虹蛇が言葉を発することはない。エジソンに貶められた神性を豊穣の雨にて回復した彼女は、虹の蛇神の姿を取り戻している。

 漆黒の雷雲に蓋をされた天。

 冷たい雨が降り、奇怪な雷鳴が轟く。

 それは、怨敵を前にした虹蛇の咆哮。もしくはこの土地に渦巻く無念と憎悪、悲痛の叫び。天にまで降り積もる恨みを背負い、彼女はいま哭いているのだ。

 アメリカによる先住民狩りが激化するのはまだ先のこと。独立戦争の時代に現れた虹蛇は、無数の悲しみを生む未来を否定するためにここにいる。

 故に、この暗雲が指し示す未来がどちらのものかなんて、女王には分かりきっていた。

 

(世界が滅ぶ? 正しい歴史が消える? そんなの、取り立てて言うことじゃない)

 

 世界を、歴史を守ったところでこの想いは満たされない。

 自分ひとりが苦労して、他の全員が笑い合えるような世界があったとしても、何も意味がない。見ず知らずの他人のことを考える時間があるなら、自分を幸せにするために生きるのがメイヴという人間だ。

 生前、どれほど焦がれても手に入れられなかった戦士。聖杯を用いてさえ、心を意のままに操れない男。彼女の意識は暫時、愛しき勇士にだけ向けられて。

 誰にも聞こえないような声で、小さく呟いた。

 

「────私は、絶対に勝つわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホワイトハウスの前に厚く広げられたケルト兵の横陣。アメリカ軍は数百メートルの空白地帯を挟んで、その対面に陣を敷いていた。ずらりと並んだ機械化歩兵の中に、世紀末的なモヒカンの一団とアメリカが擁するサーヴァントとマスターたちが紛れ込んでいる。

 その一角だけでは降りしきる雨の音をかき消すようなラッパ音がけたたましく鳴り響いていた。暴走族がよくバイクに取り付けているミュージックホーンと呼ばれる警笛の一種だ。

 スカサハは眉根を寄せながら苛立たしげに言う。

 

「……おい、この音を止めさせろ。気が散る」

 

 彼女はノアの右足を咎めるように蹴りつける。無論本気ではないが、衝撃を確実に伝える蹴り方だ。振り子みたいに揺れるノアは平坦な声で言い返した。

 

「そんな野暮なことを俺にさせるつもりか? これはモヒカンにとって重要な儀式なんだよ。例えるなら武士の戦名乗りみたいなもんだ」

「どこがだ! 自らのアホさ加減を露呈しているだけだろうが!」

「自分がアホなんてことは暴走族なら誰でも知ってるんすよ。その上で社会や自分への不満を解消するためにやってるんす、スカサハの姉貴」

「黙れモヒカン! 私がいつ貴様に発言を許可した!?」

 

 どこか煤けた顔のモヒカンの額に槍の穂先が突き刺さる。

 顔面を流れ落ちる血で真っ赤に染めるモヒカン。立香は彼にタオルを手渡して、ノアに振り返った。

 

「そういえば、モヒカン軍団の指揮は誰が執るんですか? リーダーなんて突撃の指示しかできなさそうです」

「見くびるなよ藤丸。俺が出す指示は特攻命令だけだ。奴らのバイクにはダ・ヴィンチお手製の自爆装置が取り付けてあるからな」

「『やっぱり機動兵器に欠かせないのは自爆だよね! 自爆さえあれば話的にも絵面的にも、いい感じに盛り上がるし!』」

「え、私たちって世界を救う側ですよね!? やってることが悪役そのものなんですけど!!」

フォウフォウ(今更じゃね?)

 

 カルデアの二大マッドサイエンティスト、ダ・ヴィンチとノアの言い草に立香(りつか)は戦慄した。いつの間にか会話に割り込んでいたフォウくんの神出鬼没さも恐ろしいことこの上ない。

 今までの一部始終を遠い目で眺めていたペレアスは自信ありげに提案する。

 

「じゃあ、オレがやるよ。これでも軍を率いて戦うのが仕事だったしな。ブリテンの国境警備と防衛はオレの担当だったんだぜ? なんたって円卓の騎士だからな!」

 

 そう言って、ペレアスは鼻を高くした。

 国境の防衛を任されていたと言えば聞こえはいいが、僻地の駐留は見方によってはほぼ左遷を意味する。

 そこには円卓内において湖の乙女の影響と、ランスロット側の勢力が増すことを危惧したアグラヴェインの思惑があったが、ペレアスは見栄を張るためにその経緯を伏せていたのであった。

 しかし、そこは他人の急所を執拗に突くことに定評があるEチーム。ペレアスの後ろめたい感情を察知すると、一斉に攻撃を開始する。

 

「でも、番外位ですよね。モードレッドさんに記録を消されたとかも言ってましたし」

「ええ、番外位ですから。円卓の騎士になったのも湖の乙女のコネだったのでは?」

「番外位のくせに見栄張らないでくれる? エリートのガウェインと落ちこぼれのペレアスっていう私の妄そ……創作の邪魔にしかなりませんから」

「オレはちゃんと王様主催の聖霊降臨祭の馬上槍試合で優勝して円卓の騎士になりましたァ! 王城に取り立てられる前も領地はそれなりに広かったからな!?」

 

 過去の栄光を押し付けてくるペレアスを、ノアは鼻で笑った。

 

「そもそも番外位ってなんだよ。どう見ても苦し紛れの設定だろうが」

「うるせえ! 数字がない位階ってのもそれはそれでカッコいいだろ! オレが気に入ってるから良いんだよ!」

 

 そう反論するペレアスの背中はどこか暗い影を背負っていた。嘆きの騎士である彼の後ろ暗い部分は死後もなお堆積しているということだろう。

 マシュは現在進行形で汚点を増やしていくペレアスに冷たい目線を突きつけ、

 

「これ以上ペレアスさんに割いている尺もありません。早めにエジソンさんに始めてもらいましょう」

「虹蛇を誘い出す必要があるものね。ダンテの威勢が本物か、この目で見れないのが残念だけど」

「と言う割にはエジソンらの姿が見えぬぞ? 虹蛇をどうにかしなくてはならぬのは確かだが、余が風邪を引いたらどうするつもりだ」

「いや、サーヴァントだから大丈夫でしょうよ」

 

 ネロの妄言にロビンがツッコんだその時、両軍が挟む空白地帯に雷が落ちた。

 虹蛇が操る雷雲によるものではない。

 それは真実、ヒトが手にした神の威光。

 雷霆という神秘を人類に手渡した星の開拓者、ニコラ・テスラによるモノだった。

 虹蛇を除いた戦場の全員が上空に目を向ける。そこには雷撃の担い手であるテスラと、金属製の十字架に括り付けられたエリザベートとエジソンが電磁浮遊していた。エジソンは若干雷撃に巻き込まれたのか、ところどころが黒く焦げている。

 テスラは高笑いをあげて、虹蛇を指差す。

 

「喜べ、虹蛇! 天才ニコラ・テスラが貴様の仇を連れてきてやったぞ! しかも前菜には世にも珍しいトカゲ娘アイドルだ、存分に召し上がると良い!!」

「ちょっとォォ!! 私が前菜ってどういうこと!? こんな美少女サーヴァント、メインディッシュ以外の何物でもないでしょうが! ライオンの丸焼きなんて食べたら胸焼けするわよ!!」

「文句を言うところはそこではないだろう!虹蛇を誘き出すとは言ったがこれはどういうことだテスラァァァ!!」

 

 エジソンは獲物を目の前にした獅子の形相で吠える。その声よりも万倍響き渡る怒声で、虹蛇は憤怒を露わにした。

 

「来たかエジソン!! この国のすべての罪業を体現する咎人───その中に在る薄汚い魂ごと貴様を喰らってやる!!!」

 

 大気が痺れ、大地が震える。

 彼女の怒りと憎しみ───否、アメリカに土地と文化を奪われ、生きていた証拠すらも消し去られてしまったすべての犠牲者の嘆き。その想いが、この世界を揺らしていた。

 豪雨は雷雨へ。

 雨の如く降り注ぐ雷はいまや、自らのものであったはずの土地をも焼き尽くそうとしている。虹蛇はその命を失わない限り、この国に暴虐を撒き散らし続けるだろう。

 偽りなき純粋な殺意と憎悪を受け止め、エジソンは虹蛇を真っ向から見据える。

 

「…………貴女の意見は道理だ。大統王を名乗る者として、私にはそれを受け止める義務がある」

「ならば────」

「───だが」

 

 合衆国を背負う男は力強く言い切った。

 

「貴女がふりまく殺戮を止めるのもまた、大統王たる私の義務だ! 貴女は貴女の意のままに私を殺しに来るが良い!!」

 

 虹蛇の怒声がこの世界を揺らすものだとすれば。

 エジソンの宣言は、この場すべての人間に届いた。

 

「望み通りにしてやる───!!」

 

 時を止め、不動の世界を駆け抜ける。

 彼女の目にはもう、他の何も写っていなかった。

 冷たい地の底に追いやられた人々の望みを叶えるために。

 死した人間の復讐を成し遂げるために。

 固有時を何倍にも加速させる。自らの肉体の崩壊をも厭わぬ疾走。割れた表皮から溢れる血の雫は空中でぴたりと止まり、紅蓮の軌跡を描き出す。

 自壊を伴う奔走は一秒にも満たない時間停止であっても、虹蛇をテスラたちの目の前に運ぶことに成功した。

 彼女が峰のような毒牙を突き刺そうとしたその時、時空を断つ裂け目が口腔を逆袈裟に引き千切る。

 時間が動き出す。

 テスラは不敵な笑みを貼り付けていた。

 

「『人類神話・雷電降臨(システム・ケラウノス)』」

 

 虹蛇の口腔から噴き出す血の滝。しかして、テスラがそれに染まることはなかった。身にまとう電流が触れたそばから血液を蒸発させていたからだ。

 

「我が宝具は時空に断層を創り出す。三次元空間と一次元時間で構成されるこの世界を停止させたとて、断層の発生を食い止めることはできまい」

 

 ばちり、とひと際大きく雷電が弾ける。

 それとともにエリザベートとエジソンの周囲にバネ状に渦巻く電流が展開される。次に何が起こるかを予測できたのはエジソンのみ。待ち受ける未来を想像し、彼は顔色を真っ青に染めた。

 

「テスラ、待っ」

「エジソン。貴様がこの国にかける想いを見せてやれ」

 

 真摯な声音が胸を打つ。

 電流戦争で相争った仇敵の言葉は、誰のそれよりもエジソンの肚にすとんと落ちた。

 テスラは十字架の二人に手をかざし、高らかに声を張り上げる。

 

「───()()()()()()()だっ!! 第一宇宙速度で飛翔するこの二人に見事追いついてみせろ、虹蛇!!」

「え、何!? 何が起こるの!? 第一宇宙速度とか意味分からないんだけど! ハンガリー語で説明して!」

 

 当惑するエリザベートをよそに、テスラはマスドライバーを発動させた。

 高音と同時に空気が破裂する。

 直後、エリザベートとエジソンは目にも留まらぬ速度で空の彼方へと射出された。

 マスドライバー。磁気の反発力によって物体を高速で撃ち出す架空の装置である。本来は発射する物体を次々にコイルに通していく必要があるが、テスラは電磁気を操作する能力でその問題を突破した。当然、生身の人間をこんな方法で放り投げれば跡形もなく四散するだろうが、サーヴァントならば死ぬことはないという判断であろう。

 ソニックブームを引き連れて飛ぶ二人は瞬く間に視界から消える。その前に虹蛇は眼前のテスラをも忘れて、彼らを追いすがった。

 流れ星と化したエリザベートとエジソンが辿り着くのは、ホワイトハウスから遠く離れた平原。彼らの体は空中で待ち受けていたカルナの両腕に押し留められる。

 それはマスドライバーの弾丸を直撃するに等しい行為だったが、その黄金の鎧には一筋のヒビも入ることがない。カルナは平然と頷いた。

 

「どんな方法でやってくるかと思えば、かなり乱暴だったな。腕が痺れたぞ」

 

 激突の瞬間を地上から目の当たりにしていたダンテは口元をひくつかせる。

 

「今ので腕が痺れるだけで済むんですか……流石はインド戦士ですね」

「いえ、アレをやれるのは私の国でもそうはいません。決して勘違いしないように」

「多からずいるというだけでも空恐ろしいですねえ」

 

 会話を交わすダンテとアルジュナのもとにカルナが降りてくる。彼が両脇に抱えるエリザベートとエジソンは白目を剥いて口から泡を吹いていた。

 高速飛行による加圧により、二人は失神したのだった。全身は小刻みに震えており、テスラのマスドライバーがいかに過酷だったかを物語っている。彼の私怨に巻き込まれたエリザベートにはとばっちりでしかない。

 ナイチンゲールはそれを見ると、カルナの腕からひったくるように二人を確保する。

 

「特に外傷は見られませんね。サーヴァントのカルテは少ないので正確な診断は下せませんが、しばらく安静にしていれば意識を取り戻すでしょう」

「では、この二人はナイチンゲールさんに任せるとしましょう。素人が触っても変なことになりそうですからね」

「ええ、私たちは虹蛇の相手です」

「ダンテには秘策があるのだろう。まずはそれに任せるぞ」

 

 そうして、カルナとアルジュナ、ダンテは並び立つ。

 彼らの視線の先、西の空が急速に黒く染め上げられていく。

 それは虹蛇が到来する予兆。ほのかに見える虹の輝きが揺るがぬ事実を語る証拠だ。ダンテは言いづらそうに切り出す。

 

「あの、なんとなく横並びになりましたけど、私だけ場違いじゃありません?強さ的に」

「怖気付いたか?」

「まさか。私には虹蛇を打倒してノアさんたちを見返すという崇高かつ偉大な目的があるのです! 怖気付いてなんていられませんよ!!」

「動機が不純すぎる……」

 

 一帯の空が完全に雷雲に覆われる。

 弾丸のような雨が降り、どこからともなく虹蛇が現れる。時間が止まった世界は彼女以外の誰にも知覚することはできない。カルナとアルジュナは突如の出現に驚くこともなく、各々の得物を構えた。

 対して、ダンテは懐から隙間なく文章が書き連ねられた紙束を取り出す。

 それこそは彼に与えられた唯一の武器。

 己が魂の照覧。かつて到達した世界を現世に喚び出す、無比の結界宝具。詩人が持つ攻撃手段はこのただひとつのみだ。

 

「まずは、謝っておきましょう。異教の救いをあなたに押し付けてしまったことを」

「それが貴様らの本質だ。神の救いの名のもとに他の神を否定し、悪魔へと貶める。この世界に神がただひとりと宣う傲慢故の悪逆だ!」

「確かにモーセの十戒では〝主を唯一の神とする〟という文言がありますが、それはあくまでイスラエルの民とのみ交わされた契約───言わば旧約です」

 

 旧約聖書と新約聖書には七つの契約の場面が描かれている。その内四つは神とイスラエルの間に交わされたものであり、キリスト教の前身であるユダヤ教にとっての契約という側面が強い。

 それは人類への大愛の神となる前の唯一神によるもの。嫉妬する神が交わした契約であって、その内容も人間に行動を要請する形が多い。しかも、契約破りへの裁きは死のみであり、他の判決はない。なぜなら、嫉妬する神は人類への無償の愛を持っていないからだ。

 

「しかし、救世主は十字架に掛けられた際に人類の原罪を浄化するとともに、新たな契約を交わしました。それは救世主の行いのもとに、全人類の救済を約束するというものです。この教えが後世悪用されたことは間違いありませんが、救世主の願いはきっと、優しいものだったに違いありません」

 

 がぎり、と虹蛇は牙を軋ませる。

 ダンテの言葉は残酷な真実を秘めていたから。

 

「そして、キリスト教が異教の神々を悪魔としたのは神や救世主が言ったのではなく、ローマ帝国の教父アウグスティヌスの影響です。彼の悪魔に関する解釈が半ば公式化したことで、謂れのない誤解が────」

「ならばそれは、貴様らの罪だ。正しかったはずの教えを悪用し、誤解し、異なる人々を排斥する……生まれついての侵略者だ」

 

 ダンテは目を伏せ、そして開ける。

 

「…………ええ、そうかもしれません。私も今からあなたを殺します。けれど、これだけは覚えておきなさい」

 

 静かに、そしてはっきりと断言した。

 

「醜いのは人であり、神ではない」

 

 ───故に、その醜さをもってこの戦いを終わらせよう。

 紙束を介して、冷たく硬質な魔力が発露する。

 その瞬間に、虹蛇は駆け出していた。幾度となく死を経験した彼女でさえも、五感すべてが警告を発するほどの危機感。脳が発する警鐘のままに時間を止めようとしたその時、蒼炎の矢が全身を穿った。

 

「今は私が彼の盾だ。通させはしない」

「くっ…!」

 

 体の矢傷を即座に修復し、停止した世界の中で彼らの背後に回り込む。

 再び世界が動き出したと同時、カルナの総身から噴き出した炎が虹蛇を灼いた。

 

「オレを忘れてもらっては困る。……勝負だ、虹蛇」

 

 そして、無数の詩篇が荒天に舞い上がった。

 

「〝我を過ぐれば憂ひの都あり。我を過ぐれば永遠の苦患あり。我を過ぐれば滅亡の民あり〟」

 

 空に揺蕩うのは純白の詩文。

 しかし、ダンテが呪われた右手を掲げた瞬間にそれらは色を変えていく。

 

「〝義は尊き我が造り主を動かし、聖なる威力、比類なき智慧、第一の愛、我を造れり〟」

 

 その色は黒。

 暗雲よりもなお暗き漆黒。

 遍く光を吸い込み、幽閉する結界がここに織り成されようとしていた。

 

「〝永遠の物のほか、物として我より先に造られしはなし〟」

 

 言の葉が紡がれていく度に虹蛇の焦燥は募り、血液を送り出す心臓の鼓動は早くなっていく。

 天より雷撃を降らせ、空間を歪め、命を賭した突貫をかけようとも尽く詩人には届かない。蒼き炎の弓手と黄金の戦士が峻厳なる壁として立ちはだかっていたからだ。

 

「〝しかして、我、永遠に立つ〟」

 

 闇の光が像を結ぶ。

 

「───〝汝この門をくぐる者、一切の望みを棄てよ〟!!」

 

 それはとこしえの苦しみが待つ場所。

 

 

 

 

 

「『無間氷獄(コキュートス)永劫凍結する第九魔圏(リンフェルノ・デル・ルチーフェロ)』」

 

 

 

 

 

 ───すなわち、あり得ざる地獄の再演であった。

 その時、虹蛇と詩人の体は空中に放り出される。

 

「な…ッ!?」

 

 星ひとつない夜空。そこにはカルナやアルジュナの姿はなく、彼ら二人だけがその世界に囚われていた。

 咄嗟に地上に目を向けると、そこには大地の奥深くまで漏斗状の孔が広がっていた。地平線の向こうまで続くその孔は、かろうじて真円をなしていることが上空から見て取れる。

 問題はその深さ。漏斗状に切り抜かれた孔の中心は微かな光もない暗闇。原始的な恐怖が虹蛇の心に滲んだのを見透かすように、ダンテは告げた。

 

「もう一度この場所を訪れることになるとは悪夢でしかありませんが、あなたにも付き合ってもらいますよ。地獄への潜行に」

「落ちるのは貴様だけだ。天空の虹たる私が地を這ってたまるか!」

「いいえ、墜ちるのですよ。あなたも私も、最深部まで一直線にねえ!」

 

 空の虹を体現する神格である虹蛇はこれまでも見せたように、自由自在に飛翔することができる。空に留まる手段を持たないダンテのみが落ちるのは道理だろう。

 だが、この場所は道理や条理とはかけ離れた世界。そこでは余人の推測など何ら意味をなさない。

 ずしり、と虹蛇の体躯に重力がかかる。

 鉛のように重いという表現は適切ではない。いくら脳が命令を下そうとも体が微動だにせず、その加重は遥かに増していく。

 まるで山脈や大陸を載せられているような、圧倒的な重圧。時間を止めてそれを振り切ろうとしても、一切行動できずに僅かな停止時間が過ぎてしまう。

 

「私は現代の科学に明るくはありませんが、時間と空間を超えられる力は重力のみだそうです。私がここで殺されていないことを鑑みるに、それは正しいようですね」

 

 墜落が始まる。

 天より地の底へ、真っ直ぐに降りていく失墜。虹蛇はそれに抗うことすらできずに、光跡を残して地獄の穴へと吸い込まれていく。

 そこで彼らは地獄を見た。

 永遠の責め苦を受け続ける罪人。

 第七圏を守護する牛頭の番人。

 見るもおぞましき血の川。

 失墜の最中、ダンテは虹蛇に問う。

 

「あなたはこれを見てどんな感想を抱きますか。ここは人の業が裁かれる場所。つまり、現世のありとあらゆる人間の醜さが集まる世界です」

 

 彼女は、あらん限りの憎しみを込めて答えた。

 

「───何も、何も変わりはしない。西洋人が我らの大陸に作り出した光景と同じだ」

「……そうですか。私がいくら詩をもって地獄の恐ろしさを伝えようとも、それを省みて行いを改める者は少ないでしょう」

 

 彼らの肌を冷ややかな空気が撫でる。

 視界に広がるのは一面の氷原。透き通った地面の下には、無数の人間が氷漬けにされていた。

 

「ただ、私も今回は感傷に浸るつもりはない」

 

 彼らの墜落はそこで終わり。

 明けることのない夜闇に閉ざされた最後の領域。

 虹蛇とダンテは毛穴を突き刺すような寒気をまといながら、相対した。そこに行き着いた途端、ダンテは寒気に似合わぬほどにガタガタと震え始める。

 

「あぁああぁああ〜……恐ろしい! まさか死んでからもここに来ることになるなんて思いもしませんでしたよ!! こんなことならカルナさんとアルジュナさんも連れてくるんでした!!」

「……は?」

 

 男の急な豹変に、虹蛇は呆然とした。

 自らが展開した宝具の中にありながら、ダンテは本気で恐れおののいている。その表情に嘘はなく、演技をしている訳ではなさそうだった。虹蛇は歯を食いしばって我を取り戻す。

 相変わらず体は動かない。加重は止まったが、それはむしろ最高潮に達したということ。重力の楔は未だ彼女を強く繋ぎ止めている。

 ダンテは震えた声で喋り出した。

 

「こ、ここは地球の重力が集まる地獄の最下層。たとえあなたでも逃れることはできません。アハッ、アハハッ、アハハハハハハ!!!」

「狂人め……!!」

「狂いでもしなきゃやってられませんよ! あなたもすぐに思い知ります、悪魔の王の恐ろしさをねえ!!」

 

 狂った笑い声をあげるダンテの背後で、二つの眼光が閃く。

 物理的な圧力すら与える眼差し。双眸の他は濃密な闇に包まれており、その輪郭さえもうかがい知ることはできない。

 ソレは悪意も殺意も彼らに向けてはいない。だというのに、ただそこに存在するだけで逃れ得ぬ死の予感を五感すべてに突きつけてくる。

 虹蛇が身震いをしたその時に、既に攻撃は終わっていた。

 

「…………────!!」

 

 凍る。

 凍る凍る。

 凍る凍る凍る。

 肉が、骨が、血が、魂が。

 何もかもが余さず凍っていく。

 地獄に君臨する魔王の冷気。

 唯一神ですらその力を恐れ、地の底に磔にした堕天使の威圧。

 条理も不条理も超えた異次元の力が、不死の虹蛇を氷像へと変えた。

 かくして、魔王の双眸は消え失せる。

 残るのは魂魄までをも氷漬けにされた虹蛇と、立ち竦むダンテのみ。宝具は徐々に効力を失い始め、その像が紐解かれようとしていた。

 

「……さて、まだ立ち上がれるのでしょう?」

 

 答える声はない。

 けれど確実に、彼はその復活を見抜いていた。

 ───当たり前だ。

 たとえ肉体と魂を凍結されようと、民から捧げられる嘆きの念は途切れることはない。

 果てなき憤怒と憎悪。それらだけが、彼女を突き動かす原動力なのだから。

 凍りついた肉体を破り、虹蛇は新生する。

 宝具の力が薄れたいま、虹蛇は重力の軛を強引に打ち破り、霧が覆う地獄の中空に浮かび上がった。

 

「今なら貴様は無防備だ! ここで殺す!」

「そのようですね。それでは、後は任せます────」

 

 言い切る前に、虹蛇は突撃する。

 この身にかかる重力はまだ残っている。一度の時間停止では致命傷を与えるまでには至らないが、防御手段を持たないダンテにはそれで十分。接近するだけで仕留められるだろう。

 彼の目の前に現れ、噛み潰す。

 間断なく詩人の命は奪われる。

 

 

 

 

「───『解体聖母(マリア・ザ・リッパー)』」

 

 

 

 

 ……そのはずだった。

 虹蛇の巨大な体躯が輪切りにされ、ばらばらと地面に落ちる。

 茫洋たる霧に見える少女の影に、ダンテはゆっくりと十字を切った。

 

「…………ありがとうございます。ジャックさん」

 

 地獄を顕現するこの宝具は本来、キャスターのクラスのダンテには使用できないはずだった。それを可能としたのは、右手に宿るジャック・ザ・リッパーの呪い。人を呪う文字を持たないダンテが呪詛を得たことで、この宝具は封印を解かれたのだ。

 名も無き少女はくすりと微笑む。

 

「あなたの旅路の果てを、見せてくれるんでしょ? 無茶したらダメだよ。弱いんだから」

「ぐふぅ! ですが、ええ、きっとあなたに私たちの行き着く先を見せるつもりです。神に誓って」

「うん。また呼んでね」

 

 その声音は、優しかった。

 地獄の環境を借りて、顕現を成し遂げた少女。彼らの再会にはどのようにでも理屈をつけることはできるだろう。が、ダンテはあえて理屈や理論を飛び越えた名前をつける。

 

「地獄でも、奇跡は起きる。あなたは確かに、人類の希望を体現していましたよ」

 

 結界が解け、現世の光景が映し出される。既に虹蛇は再生を始めており、天候は雨から日照りへと移り変わっていた。

 輪切りにされた体が寄り集まり、再生を成す。

 カルナとアルジュナは虹の輝きを見上げた。

 

「オレが前衛だ。後ろに下がっていろ」

「……背中に気を付けるといい。場合によってはお前ごと貫いてやる」

 

 中天に輝く太陽が強い光を発する。

 完全なる復活を遂げた虹蛇は声にならない咆哮をあげ、カルナとアルジュナに突進した。

 

「『梵天よ、地を覆え(ブラフマーストラ)』」

 

 焦熱の眼光。たった一撃でケルト軍を退けた熱線はしかし、急速に規模を失い、虹蛇に到達する寸前で消えてしまう。

 それは地上の生物から魔力、生命力を簒奪する魔の陽光。魔力を使った攻撃は無効化され、虹蛇の糧となってしまう。その対象は当然カルナとアルジュナ以外も含まれ、ダンテは身悶えした。

 

「ヒィィィ! 消える消える! 私みたいな雑魚サーヴァントなんて秒で昇天させられるんですが!?」

「静かにしなさいッ! せっかく二人が安らかな表情で寝ているというのに、起きてしまったらどうするのですか!」

 

 ナイチンゲールは焦り散らかすダンテを注意するが、地面に伏せるエリザベートとエジソンがうっすらと透けてきていることには気付いていなかった。ダンテは即座に二人に駆け寄る。

 

「見てくださいナイチンゲールさん、二人の体が消えかかってます! 安穏とした死を迎えつつあります! パトラッシュです!」

「そういえば、何だか体が重い気がしますね」

「気付いてなかったんですか!?」

 

 ナイチンゲールは天に召されつつある二人から視線を切る。その目が向かうところは空中。カルナとアルジュナ、虹蛇が争う晴天だった。

 この陽射しはサーヴァントにとっての毒だ。魔力を奪うということは攻撃の威力が減衰するだけではなく、現界を維持する力さえも失っていく。

 さらには、失われた魔力がそのまま虹蛇に吸収される理不尽。乾きを与える太陽の光こそは、自然を象徴する虹蛇の悪性と攻撃性を表していると言えよう。

 だからこそ。

 その陽射しは、ナイチンゲールが否定すべきものであった。

 

「『我はすべて毒あるもの、害あるものを絶つ(ナイチンゲール・プレッジ)』」

 

 白衣の女神が降臨する。

 荘厳なる碧の光は陽光とはまさしく対極。

 現代に通底する医療の概念を生み出した看護師、ナイチンゲールへの崇敬と彼女の精神が形をなした女神。医の神性は両の手に持つ長剣を高く掲げた。

 しかして、それは誰かを傷つけるための刃ではなく。

 すべての毒あるもの、害あるものを絶つ救済の一刀───!!

 

「『梵天よ、地を覆え(ブラフマーストラ)』!!」

「『炎神の咆哮(アグニ・ガーンディーヴァ)』!!」

 

 熱線と流星。

 二人が同時に放った一撃は陰ることなく虹蛇へ飛んでいく。

 

「凶れ!!」

 

 視線を介した空間操作で攻撃を捻じ曲げようとするも、それらは彼女の巨躯を無残に削り取る。

 ナイチンゲールの宝具はあらゆる毒性、攻撃性を無効化し、味方の傷を癒やす。自軍に対する絶対安全圏の構築こそが真価であり、虹蛇の陽射しはその力を失った。

 これを一瞬にして察知したカルナとアルジュナはただちに宝具を解放した。卓越した戦士の感覚が、その対応を可能としたのだ。

 つまり、それは彼らの実力が虹蛇を超えていることを示している。

 躍る火矢が肉を撃ち抜き、神槍が骨を断つ。

 時を止めて逃れようとも、二人はその動きを見越したように先手を打たれてしまう。

 かつて殺し合ったからこそ、彼らの連携に隙はない。相手より一手先を取るために思考は加速し、積み重なる戦術は虹蛇を置き去りにする。

 虹の光が陰っていく。雨と創造を司る蛇神は奥の手である陽光さえも奪われ、今度こそ這い上がることのできない死の淵へと追いやられていた。

 意識を回復したエジソンが見たのは、血肉を振り乱して空を舞う虹蛇。

 

「起きましたか、エジソンさん。お体の具合はいかがですか?」

「うむ……あれが、虹蛇の最期か」

 

 エジソンは表情に影を落とす。

 虹蛇に如何な理由があろうとも、彼女を倒さなくては特異点は修復されない。魔術王によって滅ぼされた世界を救うためには、虹蛇の死は絶対条件だ。

 ナイチンゲールは芯の通った声音で言う。

 

「ですが、彼女の最期を彩る権利は貴方にある」

 

 咎めるのではなく、諭すように。

 

「私にも救えない命はたくさんありました。医療の歴史とは病に対する敗北の歴史です。無数の死者を糧に、未来の病人を救う───私たちは永遠にそれを繰り返す運命にあるのでしょう」

 

 人類は二本の脚で歩いたその時から、病という名の敵と戦い続けてきた。

 その中で誤った治療法や術式が広まり、助かるはずの人々を失った事例は絶えない。それでも、彼らの根底にあったのは苦しむ人々を救いたいという願いだったに違いない。

 

「死への対抗薬はありません。もし貴方が絶望のままに死を迎える虹蛇を憐れむなら、それを救う方法はたったひとつ。無償の献身です」

 

 カルナの槍が虹蛇を横から断ち割り、蒼の矢が頭を吹き飛ばす。

 失墜。ばらけた体が次々と光の粒子へと還り、残った心臓───霊核の位置から、褐色の女性が浮かび上がる。

 全身を血に染めた彼女は弱々しく地面を這いずっていた。

 

「まだだ……まだ、まだ私は負けられない……!!」

 

 繰り返されるうわ言。瞳に宿る光は未だに強く、煌々たる殺意に溢れている。

 もはや手を下さずとも消滅する。この場の誰も、とどめを刺そうとはしなかった。

 ナイチンゲールはエジソンの背中を勢い良く押し出す。

 

「彼女の心を治療してみせなさい、大統王エジソン!!」

 

 その勢いのままにエジソンは虹蛇へと歩を進め、彼女の前に座り込んだ。

 エジソンは絞り出すように声をかける。

 

「死にゆく貴女に、私ができることはあるだろうか」

 

 返答は、これ以上なく簡潔に。

 

「死ね……! 自らの手でその心臓を抉り取ってみせろ!!」

「───わかった」

 

 血の雨が虹蛇に降り注ぐ。

 唖然とする彼女の眼前に蠕動を繰り返す心臓が落とされた。

 息を呑み、目を見開く。自らの民を裏切り続けた合衆国を目の当たりにしていた虹蛇にとって、それは予想だにしない展開で。真っ白に漂白された思考にエジソンの言葉が突き刺さる。

 

「すまない……それしか言う言葉が見つからない。許してくれずとも良い。私は、私の殺意で貴女を殺したのだから」

 

 それが、彼の献身だった。

 時を置かずに死ぬ状況。

 最も憎んだ者が自身を殺す異常。

 目的が無くなり、意識を取りこぼしかけた虹蛇に天よりの託宣が下る。

 

〝───貴女の憎悪はそんなことで絆されるのか、虹蛇〟

 

 彼女以外の誰にも聞こえないその声は、永遠の領域に坐す知恵の女神ソフィア。語調は重たく、暗い感情が煮凝っていた。

 

〝ここで死ねばすべてが奴らの思い通りになるぞ。合衆国はまたしても正義と自由を謳うだろう……暴虐の蛇神を斃した英雄エジソンに栄光あれ、とな〟

 

 その感情の正体は、今の虹蛇になら分かる気がした。

 

〝人間の愚かしさは螺旋を描いて止まることはない。無数の敗者が抱いた哀しみを忘れ、英雄譚だけを尊ぶような連中に貴女が負けることなどあってはならない〟

 

 なぜなら、彼女もまた同じだった。

 山のように積み上げられた憎しみ。

 忘れられたすべての敗者に寄り添う女神。

 ソフィアもまた、勝者が紡ぐ歴史を何よりも疎ましく思っていたのだ。

 

〝殺せ!!! 貴女にはその権利がある!!〟

 

 一瞬、虹蛇の腕に力が篭り、

 

「…………ッ!!」

 

 脳裏に響いたのは、輝かしき知恵の女神による神託ではなかった。

 それは、かつて彼女が愛した民の最期の言葉。

 

〝虹蛇……お前のやり方では、敵を増やすだけだ〟

 

 ───ジェロニモという男がいた。

 古くより北米大陸に定住していたアパッチ族のシャーマンであり、白人への抵抗を繰り返した戦士。彼はアメリカ軍とメキシコ軍との戦いを演じ、多数の戦果を打ち立てる。

 ジェロニモの戦いの始まりは母親と妻、そして三人の子どもをメキシコ軍に惨殺されたことから始まる。彼は復讐のままに部族を率いて敵を打ち破り、時にはナイフ一本でメキシコ兵に立ち向かった。

 しかし、相手の物量は圧倒的。数人の被害を数百人にも膨れ上がらせて民衆に伝える白人の情報戦も相まって、先住民族への憎悪はいや増し、彼は次第に追い詰められていく。

 1886年、アメリカに投降したジェロニモは生涯見世物として扱われた。彼は故郷に帰るという望みも果たされずに人生を終える。

 それがどれほどの屈辱であったか、想像に難くない。

 

〝お前の気持ちは私には痛いほどに分かる。私たちへのあの行いは、糾弾されて然るべきものだ〟

 

 血まみれの体で。

 死にかけの声で。

 ジェロニモは確かに虹蛇に告げたのだ。

 

〝憎しみだけでは、怒りだけでは、どうにもならない。分かり合うことはできない。愚かな復讐に身を捧げた私だからこそ、お前の行為は間違いだと断言することができる〟

 

 きっと、彼はあんなところで死ぬ男ではなかった。

 この北米大陸をケルト軍の魔の手から救うため、戦っていたはずなのだ。

 それを、その役目を奪ってしまったのは。

 紛れもなく、虹蛇本人だった。

 

「ああ、そうか……私は、私の手で愛する民を殺したのか」

 

 白く濁った瞳が晴れる。

 蟠った復讐心が昇華する。

 彼女にはもう、ソフィアの声は届いていなかった。

 

「…………エジソン」

 

 五体が金色の粒子へと変換されていく。

 消滅の間際、エジソンと虹蛇は手を取り合って、

 

「私の方こそ、すまなかった────」

 

 復讐に囚われた心は、とうに救われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間を遡って、マスドライバーで撃ち出されたエジソンとエリザベートを虹蛇が追った直後のこと。

 アメリカの軍勢とケルトの軍勢の狭間で浮遊するテスラは、朗々と自軍に促す。

 

「さあ、開戦の号令を告げろ! ケルトの狂王の首を獲るぞ!!」

 

 意気揚々と喋るテスラ。地上のノアとサーヴァントたちは泡を食って、お互いの顔を見合った。

 

「とうとう来てしまいましたか、マシュ・キリエライトがかに星雲のように輝く時が」

「超新星爆発の残骸じゃない! ここで終わってどうするつもりよ!?」

フォフォフォウ(ついに出番が来たな)……」

「おまえな訳ねえだろ! すっこんでろ自己主張謎生物が!! こいつにやらせるくらいならペレアスの方がマシだ!」

「おい、妥協でオレを選ぶんじゃねえ! こういうのは王様がなんだかんだやってくれる場面だから経験が少ねえんだよ!」

「くっ! こんなアホ集団と肩を並べることになるとは……シータに見限られてしまう!!」

 

 混乱するアメリカ軍の前に、白装束に身を包んだネロが飛び出す。

 彼女は愛用のマイクを口元まで持っていくと、戦場全体に響き渡るような大声で言った。

 

「最終決戦の始まりを告げる役目を担えるのは、皇帝である余を置いて他にいない!! 華麗に、そして美しく、ローマ万歳と叫びながら突撃するぞ! 良いな!?」

 

 ネロは満面の笑みで振り向く。

 だが、返ってくるのは南極点なみに冷え込んだ沈黙だけだった。

 思った反応が返ってこなかったことに取り乱した皇帝は涙目になって、

 

「で、ではここから爆笑皇帝ジョーク十連発を───」

「こっから冷めた雰囲気を挽回できるとでも思ってんですかねえ!? さっさと退け、変人皇帝!!」

「ぬうううう嫌だ、余はもっと目立ちたいいいい!!」

 

 ずるずるとロビンに引っ張られていくネロ。エレナは共感性羞恥に悶え、顔を両手で隠した。

 

「もう可哀想で見ていられないわ! 誰か早く開戦の合図を出してちょうだい!」

 

 彼女の悲痛な叫びに応じるように、軍の先頭でスカサハは槍を掲げる。

 

「総員、私の背中を追ってこい。それで十分だ、それだけで勝たせてやる! 命を賭して前に走れ!!」

 

 比較的まともな檄が飛び、アメリカ兵たちはなんとなくそれに乗ることにした。彼らとて戦闘のプロ、自分を奮い立たせる術を心得ているのだ。

 スカサハの踵が土を蹴る。彼女に続いて、全軍が前に飛び出した。

 数秒後、マシュが鬼気迫った声を飛ばす。その後ろでは灰色になった立香が目を見開いたまま、人形のように硬直している。

 

「り、リーダー! 先輩が立ったまま気絶してます!」

「虹蛇見たせいか!? 蛇嫌いにも程があんだろ! 引きずってでも連れてこい!」

「……変人マスターは放っておいて、モヒカンどもはオレに従え。最初のかち合いは騎馬なら適当にやり過ごしたら何とかなる。気張るなよ!」

「騎馬っつーかバイクっすけどね」

 

 最初に切り込んだのはスカサハ。槍の一振りでケルト兵が木っ端微塵に散らされる。全方位から迫る敵も彼女の間合いに入った途端に打たれ、骸に変えられていく。

 女王にとって、戦場は舞台。湧き出る端役を華々しく蹴散らしていくだけの独壇場。返り血を一滴も浴びずに敵を屠る姿は、怒号と罵声轟く戦場にあって異質だった。

 しかしながら、ここに揃った英霊は彼女のみならず。迸る閃電や飛行円盤の光線が敵陣を散々に打ちのめしていく。地味な攻撃手段しか持たないペレアスは淡々と敵を斬っていくだけだったが。

 戦況はアメリカの圧倒的優勢。サンドクリークの戦いでサーヴァントを失ったケルト軍は、対抗する戦力を有していなかった。

 しばらくして、立香は正気に戻る。頭を振って周囲を確認すると、みるみるうちに青ざめた。

 

「あれ、いつの間に戦いが始まったんですか?」

「先輩の記憶が飛んでる……!?」

「ケルト軍をぶっ飛ばしてホワイトハウスに乗り込もうって場面よ。ま、この分なら楽勝そうね」

 

 と、ジャンヌが言ったその時。

 

「───『二十八人の戦士(クラン・カラティン)』」

 

 メイヴの詠唱が響き、魔神柱が召喚される。

 ホワイトハウスの前方。一柱の魔神が空間を裂いて現れ、立て続けに二十七度の召喚が行われる。出揃ったのは合計二十八の魔神柱だった。

 かつて、クー・フーリンを苦しめた怪物クラン・カラティンは、女王メイヴが二十八人の兄弟をひとつの怪物にするという狂気の末に産み落とされた戦士だ。

 これはクラン・カラティンの枠に魔神柱の召喚式を押し込めることで、多重召喚を成し遂げたメイヴの魔術。

 ノアは術式を紐解きながら、咎めるように言った。

 

「……誰が楽勝つった?」

 

 辺りの視線が一挙に集まる。ジャンヌは顔を背けて、

 

「ま、まだ余裕よ余裕! 私が本気出せばあんなグロ大根の詰め合わせなんて一発で炭に変えてやりますから! アンタこそビビってんじゃないの!?」

「おいおい図星か放火魔女? 毎度毎度ワンパターンな見た目の量産型如きを恐れる道理がどこにある。おっと、そういやおまえは腹ペコ聖女の2Pカラーだったなぁ!」

「こぉんの……今日という今日は絶対に燃やすわ!!」

「こら、喧嘩はやめなさい! このエレナ・ブラヴァツキーが最高の作戦を思いついたからそれで行くわよ!」

 

 エレナは取っ組み合いになるノアとジャンヌを押し退けると、頭上に飛行円盤を移動させる。

 

「これに乗って上空からホワイトハウスに突入するの。魔神柱を相手取る必要もないわ。名付けてアブダクション・アタック!」

「流石はエレナ女史。一分の隙もない完璧な作戦だな。天才ニコラ・テスラが言うのだから間違いない」

「まあ俺も今提案しようとしてたところだけどな。やっぱ天才が見る景色は同じってことか」

「リーダーのお墨付きとか不安でしかないんですけど!? むしろアブダクションされるのはこっちですし! ロビンさんだって震えてますよ!」

 

 立香が指し示した方向では、ロビンが血の気の引いた顔で立ち竦んでいた。

 何しろ彼は先日、ノアとエレナにマインドコントロールされた挙句、宇宙人と銀河一周の旅をしたトラウマがある。未確認飛行物体はもうこりごりなのだ。

 とはいえ、エレナの作戦が成功すれば魔神柱との戦闘を省略して、クー・フーリンとメイヴを討つことができる。二の足を踏む理由はない。

 

「そんなデケえ的を俺がみすみす見逃すかよ───『抉り穿つ鏖殺の槍(ゲイ・ボルク)』」

 

 ホワイトハウスのバルコニーから一条の紅槍が放たれる。

 空間そのものを抉り裂くかのような投槍は飛行円盤を障子紙のように破り、撃墜した。

 立香は黒煙を噴き上げて墜落する円盤を虚ろな瞳で眺めて、一言呟く。

 

「かくして宇宙人との戦争は終わった……」

「勝手に終わらせてんじゃねえ。俺たちの戦いはこれからだ!」

「それはそれで終わってんじゃねえか!」

「そうだぞ、余の舞台はまだまだこれからだというのに!」

「カルデアには変人しかいないのか!?」

 

 ラーマは思わず嘆いた。変人たちに囲まれたこの状況は常識人であるラーマには非常に辛い。カルキ抜きをしていない水に金魚を放り投げるようなものである。

 二十八柱の魔神柱が一斉に瞳を発光させる。それは今までに幾度となく見た、攻撃の予兆であった。

 マシュはすかさず前に出ると、魔神柱から視線を外さずに叫ぶ。

 

「わたしの宝具で防御します! みなさんは後ろに!」

 

 目も眩むような閃光。攻撃が到達するより早く、マシュは宝具を展開していた。

 

「『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!」

 

 それはさながら流星の集中砲火。

 白の円盾を光線が絶え間なく打ち据え、護りを突き崩そうとする。

 息が詰まるような攻撃の波濤を受け、マシュは思った。

 

「───生温い、です!」

 

 二十八の魔神柱による一斉砲火。それは確かに、単純な威力だけで言えば一、二を争うかもしれない。

 だがしかし、威力が高いだけだ。

 アーサー王の聖剣ほど恐ろしくもなければ、ヘクトールの投槍ほど鋭くもない。

 彼らの一撃には理屈ではない重さがあった。

 ただそれのみを突き詰めた者だけが到れる境地。その位置にない、火力に物を言わせただけの一撃に、マシュが敗北することはない。

 彼女は獰猛に笑う。

 人生で一度もしたことがないような顔色。表情筋が引きつる感覚を覚えながらも、湧き上がる衝動に身を任せる。

 

「わたしたちを絶望させたいなら、あと十倍は揃えてこいっ、バカヤロー!!」

 

 柄でもない咆哮とともに、腕を押し出す。

 その瞬間、盾は光線を照り返す鏡面のように魔神柱の攻撃を反射した。

 熱線は複雑に跳ね返り、魔神柱に激突する。もうもうと立ち込める煙の中で、マシュは頬を赤らめて振り向く。

 

「さあ、道は開けました! 突撃です!」

 

 立香はぱくぱくと口を動かして、

 

「ま、マシュが不良になっちゃった……一体誰の影響でこんなことに!!」

「……私はツッコまないわよ」

「ふっ──やっぱりあの宝具を任されただけあるな。オレは鼻が高いぜ」

「ペレアス、おまえ今なんて言った?」

 

 ノアの疑問がペレアスの背中にぐさりと刺さる。

 ペレアスはだらだらと冷や汗を流して、取り繕うように剣を掲げた。

 

「よ、よぉし! 絶好の機会だ! 魔神柱はまだ生きてるだろうから、ここから先はマスターとサーヴァントだけで行くぞ! モヒカン軍団は主力と合流して、いつでも退路を確保できるようにしておけ!!」

「ペレアスは完全に何かを隠しておるな。余には分かるぞ」

「いや、むしろ分かりやすすぎるであろう、アレは」

「と、とにかくペレアスの言う通りよ! 走りましょう!」

 

 エレナの号令に続いて、後方に離脱したモヒカン軍団を除いた全員が戦場を走り抜ける。

 マシュが敵の攻撃を反射したことで、邪魔立てするようなケルト兵は消えていた。彼らは時を置かずにホワイトハウスの正面に辿り着く。

 茫漠たる煙が晴れ、魔神柱の姿が現れる。

 傷付いてはいるものの、その全てが健在。山岳の如く立ちはだかる魔神の群体を前に、ネロはステップを踏むように躍り出た。

 

「二十八体の魔神か───余の舞踏に付き合う相手としては悪くない! 誰ぞ余のバックダンサーを務める者はおらぬか!?」

「ふむ、それならば私がお相手を務めさせていただこう。私は悪鬼エジソンとは違って紳士だからな」

「私も混ぜてもらうわよ! ソロモン王の魔神と私のマハトマ、どちらが上か競う良い機会だわ!」

「これは放っておけぬな……仕方ない、余もここに残ろう。狂王を討つ役目は任せたぞ」

 

 相手は二十八体の魔神柱。仮に勝てたとしても、消耗した状態で勝てるほどクー・フーリンとメイヴは甘くないだろう。

 故に、彼らは潰れ役を買って出た。この戦いの目的はクー・フーリンとメイヴを打倒し、聖杯を手に入れること。それさえ達成できれば良い。

 ロビン・フッドは口角を吊り上げた。

 

「ここはオレたちに任せて先に行け、ってやつだ!」

 

 スカサハは眉根を寄せて問う。

 

「……死ぬ気か?」

「いいや、死ぬ気はねえよ! アンタら生粋の戦士と違って、オレたちは生きるのが仕事だ!」

 

 ペレアスはロビンの言い分に同意する。

 

「それを言うってことは安心だな。虹蛇組の奴らが来るまで持ち堪えれば勝ちだ」

「ああ、行くぞ。おまえも来い」

 

 ノアはスカサハの淡い迷いを断ち切るかのように言った。

 スカサハを加えたEチームはホワイトハウスへとひた走る。その背中を遮るようにネロは剣を振り落とし、

 

「『招き蕩う黄金劇場(アエストゥス・ドムス・アウレア)』───野外ステージバージョン!!」

 

 皇帝ネロ・クラウディウスは自身の公演を民衆に見せるため、劇場の出入り口を全て封鎖するという強硬手段を取った。

 これはその逸話が昇華した宝具。世界という土台の上に、自分だけの戦場を構築する大魔術。仲間とともに魔神柱を迎え撃つための場所を創り出したのだ。

 華美な装飾に彩られた広大な円形闘技場。花吹雪を舞い上げ、皇帝は紅顔を愉悦の色に染めた。

 

「余はこの戦いが終わったら結婚するのだ……まだ見ぬ運命の相手と!」

「「「「ここに来て死亡フラグ───!?」」」」

 

 …………ホワイトハウスの前。重厚な扉を目にして、ノアたちはカルデア管制室のロマンと通信を繋げていた。本来、ケルトの領地であるこの場所では通信は繋がらないが、アメリカ軍と占有権を争っていることで、一種の浮き島と化している。

 ロマンは手元のコンソールを指先で叩きながら、

 

「『……うん。敵はホワイトハウス一階と四階にいる。サンドクリークの戦いのデータと反応を照らし合わせるに、一階がメイヴで四階がクー・フーリンで間違いなさそうだ』」

 

 その情報を聞いて、立香は首を傾げた。

 

「あれ、てっきり二人で組んでくるかと思ってました。これなら各個撃破すれば良くないですか?」

「どうだろうな。メイヴ相手には男のオレとノアは無力だ。オレらが二手に分かれないようなら、クー・フーリンは床なんてぶち破って来ればいい」

「それじゃあ、アホ白髪とペレアスだけ四階に行って、私たちでメイヴを速攻で倒すのはどう?」

「わたしは賛成ですが……リーダーはどうです?」

 

 ノアは気の抜けたような表情で言う。

 

「概ね賛成だ。ただし、スカサハは俺たちと一緒にクー・フーリンの相手をしてもらう。理由は二つ……ひとつはあいつの技を知ってるからだ。互角ならペレアスがいる数の差で勝てる。十中八九奥の手はあるだろうがな」

「……もうひとつは?」

 

 決まりきったことを訊くようなペレアスの口調に、ノアもまた決まりきったように返す。

 

「弟子の間違いは正してやるのが師匠ってもんだろ。いつもみたいにぶっ飛ばして説教でもしてやれ」

 

 スカサハは咄嗟に反論する。

 

「……そんな理由でか?」

「その言葉、バットで丸ごと打ち返してやる。俺が目指すのは完璧な勝利だ。ただ倒すだけで満足できるか。縛りプレイを達成してこそのEチームなんだよ」

「私それ初めて聞いたんですけど」

「リーダーの職権乱用には断固反対です」

 

 立香とマシュに言葉の刃を突き刺され、ノアは沈黙した。彼の代わりにペレアスが口を開く。

 

「これは死んでも勝てば済む戦いじゃない。世界を救うための戦いだろ。それをやろうとしてる奴らが師匠と弟子の問題くらい解決してやれないでどうする? ……ってことだと思うぞ、たぶん」

「あら、これからはアホ白髪の代わりにペレアスが喋れば良いんじゃない?」

「それは嫌だ! オレのイメージが悪くなる!」

「『悪くなる以前に知られてませんけどね……』」

 

 そんなやり取りを聞いて、スカサハはため息をついた。

 

「…………良いだろう。お前たちの策に乗ってやる」

「───よし、作戦開始だ」

 

 ノアとペレアス、スカサハの体術なら外壁を伝って四階に移動することができる。戦いはほぼ同時に始まるだろう。

 立香は壁に飛び移ったノアに向けて言った。

 

「気を付けてください、リーダー」

「……ああ、おまえも怪我はするなよ。治すのが面倒だ」

 

 言葉と視線を交わす。

 それだけで想いは伝わる。

 互いの想いを胸に、最後の戦いが始まった。



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第46話 鳥は卵の中から抜け出ようと戦う

 女王メイヴの印、トリスケリオン。

 膝を直角に曲げた三本の脚が風車の羽のように繋がったこの印章は、メイヴが持つ三つの側面───悪・権威・狂気を象徴すると言われている。

 アイルランドのスライゴーを流れる川の源流はメイヴの聖泉とされ、その水面は彼女の処女・母親・老女の三つの姿を表すとされた。

 三つの性質、三つの姿をもって一と為す。まさしくそれは三相一体。女神に多く見受けられる神格の形に違いない。

 たとえば、ゴルゴーン。ステンノ、エウリュアレ、メドゥーサの三姉妹を総称するその呼び名は、いつしかゴルゴーンという一柱の女神として示されることにもなった。

 一柱の女神が三つの属性を有することがあれば、三柱の女神がひとくくりにされることもある。ゴルゴーンはその両方を満たした稀有な神格だ。

 このような三相一体の女神の例は枚挙に暇がない。モイラやグライア、カーリー、日本では海上の交通を守護する宗像三女神がいる。メイヴの三相一体は彼女が女神として信仰されていた可能性を示唆していると言えるだろう。

 だが、北米大陸に現れたのは女神ならぬ人間のメイヴ。

 人の身にして女神の性質を宿した女王は、不遜な笑みを浮かべて己が敵に向かい合った。

 

「あの時の小娘三人衆ね。……なるほど、見れば見るほどアホ面が揃ってるじゃない」

 

 一切気取らない挑発。否、彼女はそれを挑発とも思っていないだろう。本心からするりと抜け落ちた言葉であり、不遜を隠そうともしていない。

 それこそは女王の性。

 傲岸不遜、傍若無人を可憐に成し遂げる女の業。

 本来、女神にあるはずの三相一体を宿すメイヴゆえの発言だった。

 その異質さを感じ取った立香(りつか)とマシュは咄嗟に身構えた。ジャンヌは不敵に笑うと、旗の穂先をメイヴに向けて言う。

 

「前回、私に手も足も出なかったやつが大きく出たわね。その御尊顔をアンタが言う私たち以上のアホ面に叩き直してやるわ」

 

 彼女に呼応するように、マシュはぐっと拳を握りしめる。

 

「ええ、アメリカを脅かすケルトの女王の顔面を歪めてやりましょう! ジャンヌさんのアホ面のように!」

「うん。事ここに至って、私も躊躇はしないよ! ジャンヌのアホ面みたいにしてやろう!」

「アホ面のそしりを私ひとりに押し付けないでくれます!? アンタらも同類よ!」

 

 興奮した子犬のように喚くジャンヌを見て、メイヴはがっくりと肩を落とした。

 

「ねえ、こんなバカトリオと戦う私の気持ちにもなってくれる? この私に倒されるんだから、それなりの格がないとこっちの評判が下がるのよ」

「バカなのはそこのなすびとマスターであって私は違うわ。表現を改めなさい」

「ジャンヌさん、わたしにはレイシフトAチームで首席だったという過去があります。そして、先輩はアホなところがチャーミングポイントなのです。これがどういうことか分かりますね?」

「結局すべての罪が私に被さってるんだけど!?」

「…………私の戦意を下げる作戦なら大したものね。かなり失望したわ」

 

 メイヴは数々の勇士を従える女王だ。彼女の仕事は宮廷にて辣腕を振るうことではなく、戦場で戦士を率いることにある。

 サンドクリークの戦いで刃を交えた経験、戦士の女王としての審美眼は確かに立香たちが強敵であることを囁いていた。が、蓋を開けてみれば取るに足らない小娘の集まり。戦いに生きたメイヴとは対極に位置する人間たちだ。

 立香は女王をきっと睨んで言い返す。

 

「戦う前から失望されても困ります。食わず嫌いは痛い目を見ますよ!」

「アンタと違って私たちは世界を背負ってるのよ、こんなところで足止め食らってなんかいられないわ───!!」

 

 黒炎の波濤が解き放たれる。

 サンドクリークの戦いでは、女王メイヴはジャンヌの炎を突破することができなかった。身を守る盾であるマシュがいる以上、敗北の可能性は限りなく薄い。

 ───それが、今までのメイヴだったなら。

 空気を焦がす炎撃を目前にして、女王はゆらりと微笑む。

 

「『虹霓剣(カラドボルグ)』」

 

 虹の一閃。壁の如く迫り来る炎を切り裂き、七色に輝く斬撃が飛翔する。

 かつて見たほどの規模はない。フェルグスのそれと比べれば、メイヴの斬撃はか細い一筋の閃光に過ぎなかった。

 だが、その光は紛れもなく虹霓の剣がもたらした一撃。

 マシュは盾で以ってそれを受け止める。鳩尾の奥にずしりとした衝撃が刺さり、彼女は黒炎の向こう側を見やった。

 身の丈を超える巨大な螺旋状の刀身。それは何度見ても間違いなく、英雄フェルグスの愛剣そのものだ。困惑を深める立香たちを嘲るように、メイヴの唇は微笑を形作る。

 

「『太女神の印章(トリスケリオン・トリニティ)』───世界がどうだとか、私には一切興味がないのよ。だからここで死んでちょうだい」

 

 笑みを深める女王の背後には、メイヴの印であるトリスケリオンの光芒が紡がれていた。

 立香は眼球に強化を掛けてメイヴを視界に捉える。

 そうして見えたのは、上階から伸びる魔力の経路。それはメイヴの体と繋がり、魔力を送り込んでいた。送り元として考えられるのはただひとつ、聖杯だろう。

 立香は自らのサーヴァント二人に呟くように伝える。

 

「メイヴは聖杯と接続して魔力を受け取ってる。サンドクリークの時と同じとは思わない方がいいと思う」

「あの剣といい紋章といい、聖杯が関係してるのは間違いなさそうね。聖杯を持ってるのはクー・フーリンってところかしら」

「間違いないと思います。ケルト軍が擁するサーヴァントは二人だけなので、聖杯のリソースを分け合っているのでしょう」

 

 ジャンヌの言葉に答えたのはメイヴだった。

 

「それ、正解よ。私の勇士は私だけのもの……何もかもね。聖杯のおかげでこの宝具が使えるようになったの。手に入れたと言っても良いわ」

「ハッ、必殺技はネタバラシしたら負けるって知らないの? 敗北フラグが立ったわよ」

「旗持ってるヤツに言われたくないわね───!!」

 

 手綱のしなりとともに、二頭の戦牛が嘶く。

 乾いた破裂音が鼓膜を揺らす。空気が弾け、車輪が唸りをあげる。ぎらりと殺意に塗れた光を放つカラドボルグは本来の持ち主の手から離れてもなお、冷徹にして華やかな鋭気を帯びていた。

 小細工を弄さぬ愚直な突進。ただしそれは、女王の手にある得物によって最上の攻撃へと化ける。

 衝角と化した虹の剣は掠りでもすれば、間違いなくその命を奪うだろう。黒炎による迎撃も容易く食い破るに違いない。

 ジャンヌは灼けた鉄杭を展開する。

 メイヴに新たな武装が増えたとはいえ、手数までもが増える訳ではない。それならば、彼女が対応しきれぬ数の弾幕によって押し潰すのみ。

 真っ直ぐに走り抜けるメイヴに、白熱した鉄の杭が霰のように降り注ぐ。それでも、彼女は手綱を引くことはなかった。

 

「───『無敗の紫靫草(マク・ア・ルイン)』」

 

 三脚巴の紋章より、水流の槍が発射される。

 フィン・マックールが神霊アレーンを倒した際に用いたとされる魔法の槍。触れるものみな削り飛ばす激流が、灼けた鉄杭の雨を跡形もなく打ち砕いた。

 『太女神の印章』。聖杯と接続することで、メイヴが新たに得た宝具。三相一体の女神の性質を有する彼女の神性を引き出し、『女神メイヴ』としての権能の一部を限定的に使用することができる。

 その能力は自身が従えた勇士の武具の借用。あらゆる男たちを魅了し、従属させ、戦いへと赴かせた女王の権威を象徴する力であった。

 ───愛しき勇士のすべては私のもの。武器も身体も技量も、何もかもが女王への供物。ならば、それをどう扱おうが勝手だ。

 彼女にとって戦士とは恋しき人間であり、ただの道具。彼らに与えた数々の褒美は恋人に捧げる贈り物でありながら、武具の手入れをするのと変わらない。

 相反する感情と理屈。二律背反を恥じもせずに受け入れ、矛盾した存在であり続ける───それこそが女神の多面性。戦士の女王たる資格なのだ。

 戦車はさらに加速し、音に等しい速度を得る。メイヴはその勢いのままに螺旋の大剣を振るった。

 マシュは盾を斜め気味に構え、メイヴの斬撃を受け流す。

 空間が割れたかのような音響。車輪が床を削り取り、立香たちの横を通り過ぎる。

 戦車の弱点は小回りが効かないことだ。最高速の一撃の破壊力は歩兵とは比べ物にならないが、走り抜けざまに攻撃しなくてはならないため、どうしても単発になってしまう。

 三人の背面へと移動したメイヴ。マシュは体の正面を後ろに捻りながら、咎めるように言った。

 

「世界に興味がないと言いましたね。それなら、あなたはなぜ戦っているのですか!」

「ふ、愚問ね」

 

 メイヴは鼻を鳴らした。淡い恍惚に顔を染め、彼女は言い放つ。

 

「───クーちゃんをオトす! それ以上でも以下でもないわ!!」

「「「…………」」」

「鳩がマグナムくらったみたいな顔して、相当驚いたみたいね! 無知なあなたたちも少しは女王の威光を理解したんじゃない?」

「呆れてんのよ、こっちは!」

 

 ジャンヌは旗を薙ぎ払う。その軌道に沿って火礫の飛沫が撒き散らされ、メイヴはそれらを弧を描くように旋回して回避した。

 そこで、立香はメイヴの紋章の性能を完全に把握する。

 なぜ、今の攻防においてフィン・マックールの槍を使わなかったのか。聖杯と接続していることで魔力の心配はなく、本来の使い手よりも数段落ちる威力であっても、まともに受ければサーヴァントの命を刈り取って余りある。そんな宝具を温存した理由……それは、霊基への負担を避けたからに違いない。

 紋章と槍。二つの宝具の真名解放がサーヴァントの霊基にもたらす影響は計り知れない。聖杯のブーストをもって耐えてはいるが、乱発はできないということなのだろう。

 ならば、まだまだ勝ちの目は薄くなっていない。立香がひとり考え込むなか、ジャンヌは吼える。

 

「死んだ後も手に入らないモノに手を伸ばすなんて、毒婦の恋にしても質が悪いのよ! アンタの恋路に私たちを巻き込むな!!」

「分かってないわね。手に入らないから何? アメリカが滅ぶからどうしたっていうの? そんなくだらない文句で私を止めようなんて、愚かしさの極みね。ああ、道理で脳みそが軽そうな顔してると思ったわ」

「…………完全にトサカに来たわ。燃やす!!」

 

 マシュは飛び出そうとするジャンヌの肩を掴んで、

 

「ジャンヌさん、この人は恋愛に関してはストーカーのペレアスさんや初恋をこじらせすぎたダンテさんより厄介です。素数を数えて落ち着いてください」

「え、えーと、いち、に……」

「1は素数に入らないんじゃない?」

「し、知ってるわよ! ちょっと立香を試してみただけですから!」

 

 必死に取り繕うジャンヌの醜態に、立香とマシュは冷めた無表情になる。ジャンヌも立派なEチームの一員であることを再確認させられたのだった。

 そんな三人をよそに、メイヴは覇気を漲らせて口を開く。

 

「いいわ、あなたたちみたいなアホにも分かるように教えてあげる」

 

 どこまでも純粋で、快活な殺意。

 その笑顔は今までに遭遇したどんな敵よりも異質。乙女の可憐さと毒婦の悪辣さを綯い交ぜにして、彼女は言い切った。

 

「恋愛っていうのは、他の何を犠牲にしてでも望む物を手に入れることよ。私が私であるために、戦士の女王たる私に惹かれない男がいるなんて許せない。感情はどれだけ大層な理屈や理論でも踏み躙ることができるの」

「だから世界を滅ぼすことになっても構わないと?」

「当たり前じゃない。男をオトしたいのも、世界を救いたいのも、結局はエゴでしょう。その点で私たちは対等よ。だから───」

 

 メイヴの瞳が暗い情念をたたえる。

 

「───私は恋情の炎でこの大陸を焼き尽くしてみせるわ!!!」

 

 その宣言と同時に、メイヴの戦車は爆発的に加速した。

 七色に煌めく繚乱の剣戟が舞い踊る。

 戦車の負担を省みぬ音速の連撃。直線ではなく円を描くように走ることで、戦車の弱点を解消した。が、それは裏を返せば常に敵と密着していることに他ならない。

 マシュが斬撃を防ぎ、ジャンヌの反撃でメイヴが後退する。それが目まぐるしく繰り返され、戦況は千日手になりつつあった。

 立香は思案する。ジャンヌの宝具ならこの状況を覆せるかもしれないが、その性質上、上の階で戦っているノアたちに被害が出る可能性がある。最後の奥の手として取っておくべきだろう。

 冷静に戦況を分析する脳とは逆に、胸中は湧き上がる戦意の熱で埋め尽くされていた。

 

(あの人が本気で戦ってるのは分かる。でも、それならこっちだって本気だ)

 

 故に、自分たちは戦わなくてはならない。

 メイヴが全力で自分の願いを貫き通すと言うのなら、それを全力で阻止するのがEチームだ。

 膠着した状況を破る。マシュとジャンヌが戦局を打開するために、メイヴに隙を作り出さなくてはならない。

 

(私の小さい脳みそでも、少しは使わないといけない場面! まずは……)

 

 魔力を練り、指先に集める。

 一直線に距離を詰めてくるメイヴの鼻先目掛けて、魔弾を放った。

 

「ガンド!」

「そんなへなちょこ弾が効くわけないでしょうが!」

 

 吸い込まれるように直撃した弾丸はしかし、水晶玉を割ったように崩れ去ってしまう。女王の体には一切の痛痒も与えることはできない。

 

(だけど、これでいい)

 

 立香とて、ガンドが通じるとは思っていなかった。対魔力の有無を確認し、有効手がないと思わせてメイヴの油断を誘うための一手だ。

 問題は対魔力をどうするか。立香は魔術の知識を総動員するため、日常的に受けているノアの魔術講座の記憶を引っ張り出す。

 

〝服だけ透けるメガネ作ってムニエルに売ったらいくら儲かると思う?〟

〝魔術は最低限の知識を詰め込めば、後は実践とフィーリングだ。今教えた五種のルーンでできるだけ上手くダンテを消し炭にしてみろ〟

〝この前クーデターを起こした奴ら全員に悪夢を見る呪いをかける。おまえも手伝え〟

 

 立香は思わず頭を抱えた。

 

(ロクな記憶がない……!!)

 

 一応真面目な講義もしていたはずなのだが、愚にもつかない記憶がそれを何倍にも希釈してしまっていた。さながらおばあちゃんが作るカルピスである。

 ノアの魔術の悪用は今に始まったことではない。何かあれば呪いをかけようとするのは、もはや恒例行事だ。

 最近もそう。彼はスカサハに対して、

 

〝あいつには正面から掛かっても勝てねえ。となれば、呪いしかないだろ。俺を散々コケにしやがったあの女に鉄槌を下してやる!!〟

 

 そこで、立香は引っかかりを覚えた。

 スカサハのクラスはランサー。セイバー、アーチャーと並んで三騎士と称されるこのクラスのサーヴァントは、対魔力のスキルを保有している。

 問題はそこだ。小さな引っかかりが、徐々に色濃い疑問として心を侵食していく。

 

(……どうして、リーダーは対魔力があるスカサハさんに呪いをかけようとしたんだろう)

 

 ランクにもよるが、対魔力を持つ相手に魔術は効かない。そんな情報をノアが知らないはずもないだろう。

 それならば、彼には呪いが通用するという確信があったのだ。結果的にスカサハの呪詛返しによって野望は閉ざされたが、そもそも魔術が効かない彼女が呪詛の対策をする必要はないはずだ。

 するすると記憶が糸となって紐解かれる。

 そうして辿り着いたのはやはり、ノアに教えられた言葉だった。

 

「〝対魔力を過信してるサーヴァントは与し易い〟……そうでしたよね」

 

 立香は一枚の折り紙を懐の中で掴む。紙は魔術の世界では主要な道具のひとつであり、魔術師は大量の紙を聖別───霊的な属性を付与することである───して保管することが多い。

 その折り紙も魔術道具として聖別されたモノだ。それを手早く人型に折りたたむと、メイヴに悟られぬように掌中に隠した。

 メイヴの攻勢を凌ぐマシュとジャンヌ。立香は攻防の音に紛れるように、ジャンヌに囁く。

 

「ジャンヌ、目くらましをお願い」

「───ええ、マスターの望みとあらば!」

 

 ジャンヌは旗の柄頭を床に突き立てた。

 白く磨かれた床に赤熱したヒビが入り、それをなぞって火柱が噴き上げた。ついでとばかりに鉄杭を地面に掃射し、土埃を発生させる。

 立香は先程握り込んだ人型の紙に、魔力を込めた指先で『Maeve』と書きつける。人型の紙は言わば形代。神道において人間の身代わりとなる依り代だ。

 依り代にメイヴの真名を刻むことで、立香はこれをメイヴの身代わりとした。名前とはこの世で最も短い咒であり、そのモノの本質を表す言葉である。呪術をなす触媒として、名前ほど優秀なモノはない。

 準備は終わった。

 立香はメイヴの形代をルーンの火で燃やしながら、あらん限りの戦意を乗せて言霊を発する。

 

()()()()()()()()()()

 

 その一言とともに、形代は灰となって地面に落ちる。拍子抜けするほど呆気なく、呪詛は完成した。

 儀式が完了した直後、火柱と土埃を切り裂いてメイヴが現れる。

 

「負けてもないのに煙幕なんて、小癪ね! 『虹霓剣(カラドボルグ)』!!」

「くうっ───!」

 

 虹の剣光が閃く。即座に反応したマシュは間一髪で斬撃を凌ぎ切る。ジャンヌが迎撃を放つよりも速く、メイヴは次の一手を指していた。

 

「『無敗の紫靫草(マク・ア・ルイン)』!」

 

 息をつかせぬ宝具の連続解放。

 それはメイヴにとっても負担になりかねない行為。しかし、彼女は天秤にかけて選んだのだ。霊基に傷が入るリスクよりも、防御の要たるマシュを突破すべきであると。

 カラドボルグの一撃で体勢を崩した彼女に次の防御は間に合わない。背後に控える立香さえ討てば、ジャンヌを相手取るまでもなく勝利できるだろう。

 ───だが、それをさせないためにマスターがいる。

 立香は手の甲に残った最後の令呪を切った。

 

「マシュ、防いで!!」

「はい、マスター!」

 

 マスターによる絶対命令権の補助を受け、マシュは体を持ち直した。迫る激流の穂先を盾が遮り、分かたれた水の刃が周囲の物体を千々に切り刻む。

 メイヴの口元が歪んだのも束の間。ジャンヌが打ち上げるように鉄杭を撃ち出し、戦牛の片割れを貫いて天井を穿つ。

 ほぼ同時にメイヴは戦車から飛び降る。牽き手を失った戦車は荷物にしかならない。カラドボルグと女神の紋章が光を強め、宝具を解き放とうとする。

 その時。

 天井から崩落した瓦礫が、メイヴの後頭部を打った。

 

「は、ぁ……!!?」

 

 ぞくり、と冷えた怖気が背筋を貫く。

 視界がぐらつく。死に至るほどの傷ではないにもかかわらず、メイヴの体は一瞬硬直した。なぜなら、それは彼女の死因を連想させたから。

 女王メイヴは毎朝の水浴びの最中、投石器から射出されたチーズに頭を砕かれて死んだ。死因とはサーヴァントの弱点。その逸話を再現された英霊は死因に逆らうことはできない。

 だが、彼女の頭を打ったのはチーズではなく瓦礫。投石器も用いておらず、偶然、頭の上に落ちてきただけ────

 

(────今のは、偶然じゃない)

 

 立香だけが確信していた。

 これこそが呪いが成就した結果であると。

 ジャンヌは逡巡を隔てず、腰に佩いた剣を抜きざまに振り投げた。炎をまとい、回転する黒剣の刀身が、メイヴの右腕を切り離す。

 柄を握った右手ごと、カラドボルグが落ちる。

 瞬間、マシュとジャンヌはメイヴへと走り出していた。

 

「秒で仕留める! 良いわね!?」

「もちろんです!!」

「まだ、よ……!!」

 

 メイヴは女神の紋章から背負い投げるように剣を抜き放つ。ディルムッド・オディナの双剣の一振り、モラ・ルタであった。

 ───呪いの真髄とは、対処不可能なことにある。

 東洋呪術にはいくつかのルールがあるが、その中でも不文律とされるのが『誰にも知られてはいけない』という決まり事だ。

 それは術者を守るためのルール。知られた呪いは呪詛返しされると、その災いは術者に降りかかるのである。術者に返された呪いを回避する手段は存在せず、どうあがいても因果応報を受けなければならない。

 けれど、裏を返せば誰にも知られていない呪いは誰にも返すことができないということでもある。完璧に隠蔽された呪詛は悟られぬことなく対象を蝕んでいくのだ。

 そして、東洋呪術の最大の特色は呪いが間接的に降りかかることである。

 ガンドは指差した人間を呪う魔術だが、東洋呪術は対象にとっての不運や事故となって結果が現れる。つまり、魔術でありながら、純然たる物理現象を引き起こすことができるのだ。

 だから、対魔力は通用しない。神秘が籠ったサーヴァントの打撃をそのスキルで防げないように、呪術もまた神秘が籠った物理現象として引き起こされるから。

 立香の呪いは賭けに近かった。ひとつの動作でも視認されていれば、メイヴは呪詛返しを行っただろう。そうすれば負けていたのは、三人の方だったかもしれない。

 綱渡りの勝利。メイヴは果敢に剣を振るうも、マシュの盾に弾き飛ばされる。

 得物を失った女王の心臓を、旗の穂先が穿った。

 

「───か。あ、はっ…………」

「……終わりよ」

 

 旗が引き抜かれる。胸の中心から血をこぼし、メイヴは背中から倒れた。白い装束が赤く染め抜かれ、弱々しい息が口の端から漏れる。

 どくどくと広がっていく血の円。マシュは一度目を伏せると、立香に顔を向けた。

 

「行きましょう。リーダーの援護に」

「ううん、まだ……終わってない」

 

 立香の視線はマシュの背後に注がれていた。マシュが向き直ると、そこには幽鬼の如くに立ち上がるメイヴ。血が抜けたことで肌は青白く、目元にはクマが出来ている。

 立つのがやっとの傷で、メイヴはなおも気丈に笑った。

 

「そ、この子は……よく分かってる…みたいね。死ぬくらいで……私が諦めきれるはず……ないでしょう」

「それも、恋ですか?」

 

 メイヴは立香の問いに力なく頷く。

 

「あなたにもきっと、分かるときが来るわ」

 

 メイヴは喉にせり上がる血の塊を飲み込んだ。

 この戦いの決着はついた。完敗だ。自分の実力では彼女たちには届かなかった。

 ───それでも、この想いはまだ決着していない。

 

「どうせ死ぬなら……とびっきり後悔させてやるわ。こんな良い女を死なせた俺は馬鹿だ、ってね……!!」

 

 メイヴの左手の甲に刻まれた令呪が発光する。

 

(あなたは、ずっと縛られていた。それは私の罪)

 

 …………だから、その戒めを解いてあげる。

 自らのサーヴァントに対する三度の命令権を、彼女は惜しみなく全て解放した。

 

「───本当の自分を取り戻しなさい、クー・フーリン!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホワイトハウス、最上階。

 異界化したその場所は空間が拡張されており、戦場として耐え得るように作り変えられていた。

 が。

 

「おおおぉぉぉっ!!」

 

 裂帛の咆哮が轟き、無数の刺突が放たれる。その踏み込みだけで床は割れ、振動がびりびりと足元を揺らした。絢爛の戦場は戦闘の余波で煤け、荒廃していく。

 クー・フーリンの刺突を剣の腹で受けたペレアスは地面を滑りながら悪態をつく。

 

「なんつー馬鹿力だよ! 槍捌きもますますキレてねえか!?」

「聖杯と接続している。あいつはまだまだ上げてくるぞ」

「昼飯前のガウェインみたいなもんか──!!」

 

 ペレアスの眉間目掛けて槍が飛ぶ。側面から刃を当てて軌道をそらした直後、視界に全身から血を振り乱しながら拳を上げるクー・フーリンが映り込む。

 腕を十字に組んで拳を受け止める。と同時にペレアスは地面を蹴って背面に跳んだ。

 まともに受ければ腕が折れる。あえて衝撃に逆らわずに後方に跳び、威力を流したのだ。入れ替わるようにスカサハが躍り出て、双槍を振るう。

 しかし、クー・フーリンの師匠であり、彼の技を知り尽くしている彼女さえ、まともに切り結ぶことはしなかった。正面から打ち合えば膂力で押し切られるからだ。

 彼は聖杯と接続してさえ、肉体が自壊するほどの強化を己に課していた。体が傷つくそばからルーンによる治癒が働き、そしてルーンの強化がまた肉体を壊す。

 それはもはや、人間というよりも魔獣の戦い方だった。

 ただしその魔獣が振るうのは力任せの爪牙ではなく、鍛え上げた至高の槍技。剛柔相備わった無双の槍だ。

 が、しかし。対するのは数多の神殺しを成し遂げた影の国の女王。単純な性能で上回る敵など、それこそ数え切れないほどに下してきた。その意地が、神より授かったルーンが、彼女の槍の冴えを磨き上げる。

 空中に無数の突きが交差する。平行して行われるのはルーンの攻防。敵の弱体化を自らの強化で塗りつぶし合う。空間を齧り取るような槍の応酬は、一瞬にも満たない早業であった。

 両者の肩に一筋の切り傷が走る。

 二人はその傷を一瞥し、獰猛に唇を歪めた。

 

「俺はまだ本気じゃねえぞ。いよいよボケが始まったか? 師匠」

「抜かせ。貴様こそ王などと似合わないことをやっているから腕が落ちたのではないか?」

 

 くすんだ空気が流れる戦場に、寸刻の静寂が訪れる。

 額に青筋を立てた師弟は示し合わせたように口を開いた。

 

「「───掠り傷程度で調子に乗るな!!」」

 

 槍の振りが大気を撹拌する。

 先に届くのは身体能力で先んじるクー・フーリン。スカサハの頭を断ち割るべく振り下ろされた穂先を、横合いから伸びた剣があらぬ方向へと流した。

 

「やっぱアンタら仲良いだろ。だがオレを忘れてもらっちゃ困る!!」

 

 ペレアスとスカサハは剣槍を交えて切りかかる。

 怒涛の勢いで繰り出される刃のことごとくを防ぎ、躱しながら、クー・フーリンは舌打ちした。

 即席の連携とは思えぬ密度の攻撃。それを支えているのは紛れもなくこの騎士だ。手のひらで転がしているかのように敵味方の位置を調整し、攻めと守りを瞬時に判断する。

 ペレアスから崩そうとすれば卓越した機転でやり過ごし、斬撃を浴びせにかかる。二対一のこの状況において、彼の存在は厄介に過ぎた。

 クー・フーリンは距離を詰める二人を遠ざけるように槍を払う。

 

「てめえ、どこの英雄だ」

 

 ペレアスは表情を澄み渡らせて、

 

「アーサー王の覚えめでたき円卓の騎士ペレアスだ! クー・フーリン、アンタのことは尊敬しちゃいるがここは勝たせてもらう!」

「知らねえ名だな。円卓の騎士ってのもフカシじゃねえのか?」

「そういう文句はモードレッドのやつにツケとけ! オレは真っ当な騎士だ!」

「自分が真っ当と宣うやつほどイカれてんだよ、ペレアス!!」

 

 クー・フーリンは姿勢を低くかがめ、一陣の風と化した。

 ペレアスとスカサハは単純な特攻が通じる相手ではない。踏み抜くように地面を蹴ると、そこから放射状に複雑なルーンの紋様が花開く。

 瞬間、ルーンの紋様に沿って分厚い氷の壁が顕現する。

 目的は敵の分断。短時間ながらも、クー・フーリンはペレアスとの一騎討ちを実現した。

 瞬く間に十合、橙色の火花が散る。ペレアスが突き出した剣を、クー・フーリンは左の掌で遮った。手を貫いた刀身をそのまま左の五指で掴み、ペレアスの鳩尾に前蹴りを見舞う。

 宙に飛んだ彼を追撃するより速く、スカサハが間に割って入った。

 クー・フーリンに蹴り飛ばされたペレアスは勢いを殺し切れず、ノアの肩にぶつかって止まる。

 

「危ねえぞ、下がってろノア」

 

 ノアには遥かに高い生命力があるとはいえ、クー・フーリンの槍をくらえばただではすまない。サーヴァントの周辺からは離れているべきなのだが、今のノアは敵に狙われてもおかしくない位置にまで近づいていた。

 傍若無人の極みのような男でも、マスターとサーヴァントの役割には厳しい。そんな彼が身を乗り出していることにペレアスは違和感を覚える。

 ノアからの返答はない。ペレアスは訝しんで振り向いた。

 

「おい、聞いてんのか……」

 

 ペレアスは自身のマスターの顔を見て、ぎょっとする。

 ノアは瞬きもせずにクー・フーリンとスカサハを注視していた。口元を右手で隠し、何か取り留めのない言葉を呟き続けている。ペレアスと衝突したことも、声をかけられたこともまるで認識していなかった。

 五感のすべてを余すことなく観察に注ぎ込んでいる。思えば、この戦いで彼は一度も魔術による援護を行っていない。魔術の腕を存分に振るう普段からは考えられない怠慢だ。

 ペレアスは小さくため息をつくと、子を励ます父親のようにノアの頭を掻き回した。

 

「お前は好き勝手やってる時が一番強い。任せたぜ、マスター」

 

 届かない言葉を送り、ペレアスは駆け出す。ノアには援護を捨ててまでも観察に回る事情があるのだろう。何をするつもりかは知らないが、マスターの手助けをするのもサーヴァントの役目だ。

 やることはただひとつ。

 クー・フーリンを仕留める。

 そのために、ペレアスは言の葉を紡ぐ。

 

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 湖の乙女による至上の加護が騎士に宿る。

 剣を大上段に構え、切りかかる。がら空きになった胴の隙を見逃すクー・フーリンではない。ペレアスの上体を両断せしめんと薙いだ槍は、雲を掴むようにすり抜けた。

 一刀。クー・フーリンの左肩から右の脇腹にかけて、深い刃傷が刻まれる。

 

「チッ!!」

 

 思わず後退した彼を追撃するため、ペレアスとスカサハは前のめりに武器を振り上げた。

 これは千載一遇の好機。

 多少の反撃を覚悟してでも致命傷を与える───!!

 

 

 

 

「『噛み砕く死牙の獣(クリード・コインヘン)』」

 

 

 

 

 刹那、血走る極黒の甲冑が狂王を包み、

 

「───ぐ、がっ…………!?」

 

 紅の魔爪がペレアスとスカサハを斬りつけた。

 裂かれた箇所から花火のように棘が発生し、傷口を食い荒らす。彼らは致命傷を避けたものの、棘が肉体を固定することで大きな隙を晒す。

 クー・フーリンは動きを止めたスカサハに貫手を振り抜く。

 

「させるか!!」

 

 硬直する体を無理やり駆動させ、ペレアスは渾身の力でクー・フーリンを蹴りつける。

 スカサハの心臓を狙っていた爪は軌道を外れ、代わりに彼女の左脇腹を削り抜いた。

 

「横槍が入ったが……これで戦えねえだろ」

「そんな技は……教えていないぞ」

「これは俺だけの技だ。俺が何でもアンタの思い通りになると思うな」

 

 クー・フーリンはだらりと両腕を垂らす。

 無数の棘が群生した姿はまさしく異形。魔槍ゲイ・ボルクの元となった海獣クリードの骨で構成された甲冑を着込み、そのシルエットはもはや人間のそれではなかった。

 これは身を守るための鎧ではなく、敵を殺すための鎧。攻防一体と言うには、この甲冑は前者に振り切りすぎている。

 脱力した構えから、予兆を見せずにペレアスの眼前へ踏み込む。

 その瞬間、血の雫が空中に散った。

 超常の膂力に物を言わせた超高速の乱撃。ペレアスは本能のままに剣を振るい、紙一重の命を繋いでいく。

 宝具が無ければ殺されていたであろう威力と速度の攻勢を凌ぐ内に、傷口から噴き出した血滴が舞う。

 一度でもまばたきをすれば死ぬ。

 ルーン魔術を併用して襲いかかる狂王

 死へとひた走る戦士とは逆の生にしがみつく騎士の覚悟が、未だクー・フーリンのトドメを遠ざけ続けていた。

 狂王は焦れたように吼える。

 

「厄介な野郎だ、とっとと死にやがれ───!!」

「オレは戦場じゃ死なねえって決めてんだよ───!!」

 

 横薙ぎの爪撃がペレアスの鎧を砕く。

 そして、続く一撃を受けた剣が半ばから折れる。

 魔爪を振り抜くクー・フーリン。身を翻そうとするペレアス。一か八か、槍を投擲しようとするスカサハ。

 勝敗の分かれ目が一極に集中したこの局面。

 誰よりも速く動いた男が、ここにいた。

 

 

 

 

 

 

「──────『Ansuz(アンサズ)』」

 

 

 

 

 

 

 極光が解き放たれる。

 強烈な光に照らされた世界は一瞬色を失い、遅れて到達する轟音が世界から音を奪う。

 果たして、その魔術の正体は光でも音でもなく、焦熱の火炎。ペレアスごとクー・フーリンを焼き尽くす、ルーンの火であった。

 しかして、宝具を発動していたペレアスに傷は付かず。火山の噴火の如く立ち込める噴煙の中で、総身に火傷を負った狂王が立ち尽くしている。

 甲冑の面は砕け、死の大爪を備える篭手には深い亀裂が刻まれていた。

 誰もが唖然とする最中、くぐもった笑い声が響く。

 

「く、ククク……ヒャハハハハ……アーッハッハッハッ!!!」

 

 お手本のような三段笑いが腹の底からとめどなく溢れる。

 ペレアスは唇をひくつかせて、

 

「お、おい……その笑い方をやめろ。誰がどう見ても悪役だぞ、今のお前」

 

 そんな言葉はノアの耳には届いていなかった。

 彼は強く拳を握り固め、噛み締めるように言う。

 

「───掴んだ!! やっぱ教えを請うなんざ俺らしくねえよなァ! 欲しい物は自分で手に入れてこそだ!!」

 

 ノアは狂った高笑いをあげた。先程まで黙り込んでいたのが嘘のように、絶え間ない笑い声が荒廃した戦場に響き渡る。

 未だに要領を得ないのはペレアスのみ。スカサハとクー・フーリンはノアが成したことの何もかもを把握していた。

 脇腹の傷を抱えて、スカサハは言葉をこぼす。

 

「……原初のルーン。信じられん、現代の魔術師がなぜそんなものを再現できる──!?」

 

 それを聞いて、ペレアスはようやく得心した。

 己の声が届かないほどに集中していたノア。彼が観察していたのは正確にはクー・フーリンとスカサハではなく、彼らが戦闘の最中に扱っていたルーン魔術なのだ。

 そもそも彼がスカサハと行っていた戦闘訓練は、ルーン

 スカサハとクー・フーリンのルーン魔術は原初のルーンとそれに準ずるモノ。おそらくは冬木の特異点で遭遇した青い魔術師もそうだろう。

 魔術の世界にはルーンリーディングという言葉がある。

 意味はそのままルーンの読解行為を表す。ルーン文字はひとつの文字が複数の意味を持ち、同じ文字でも術者や解釈によって異なる効果を発揮することがある。個々人の解釈で意味が変わるため、ルーン文字の文章はほぼ暗号に近い。

 ノアはスカサハとクー・フーリンの戦闘から、彼らが使うルーンの傾向を読み取ったのだ。が、そんなことで原初のルーンが使えるのなら、この世は大魔術師で溢れている。

 ノアトゥールだけがそこに至れた理由は、複数の魔術基盤を掛け合わせる止揚魔術と家伝の無属性魔術にあった。

 

「ルーンの魔術基盤に無理やり無属性魔術を流し込んで発動した。ついでに類感呪術の理論も加えれば、お手軽原初のルーンの完成だ。擬似的だがな」

「呆れたやつだ。そこまでして原初のルーンが欲しいか」

「うるせえ、元はと言えばおまえのせいだろうが! 俺は目当てのモノはどんな手を使ってでも分捕る主義だ!!」

「ますます悪役っぽくなってるぞ!?」

 

 ペレアスは肩を怒らせる。

 ルーンの魔術基盤に則って無属性魔術を発動する。それは無属性魔術の万能性を捨てる代わりに、膨大な魔力消費をルーン魔術の範疇に抑えることになる。無色透明である無属性の魔力が成し得た裏技だ。

 言わばルーン魔術と無属性魔術の良い所取り。しかし、出来上がるのは精々高性能なルーン文字だ。原初のルーンに比する力はない。

 そこで、ノアはひとつの魔術理論を持ち出した。社会人類学者のジェームズ・フレイザーが定義した、呪術のふたつの性質。すなわち、類感呪術の理論である。

 丑の刻参りという呪術がある。丑の刻に、相手に見立てた藁人形を御神木に釘で打ち込む呪いだ。

 その根底にあるのは、相手に模した人形を傷付けると、実際に相手に危害を加えることができるという考え方である。

 つまり、形や役割が似ているモノ同士は互いに影響を与え合う。

 投影魔術も同じこと。本物の模造品を投影するから似ているのではなく、本物の力を借り受けるために模造品の形は本物と同じでなくてはならないのだ。

 ノアはルーンリーディングで読み取ったスカサハとクー・フーリンのルーンを模倣し、類感呪術の魔術理論を使って、自分のルーンに適用した。

 結果、少なからず原初のルーンの力を持ったルーンを生み出すことに成功したのである。

 クー・フーリンは吐き捨てるように言った。

 

「それがどうした、魔術師。てめえの首くらい一瞬で刈り取れる」

「ハッ、わざわざおまえとタイマン張るかよ。負け惜しみじみた台詞はそこに転がってる俺の下僕を殺してから言え」

「「誰がお前の下僕だ!!!」」

「だったら、さっさと立って戦いやがれ! ペレアス、スカサハ!!」

 

 令呪の赤光がペレアスとスカサハに宿る。

 命令をくだされる瞬間に二人は動く。なれど彼らは満身創痍。クー・フーリンも相応の手傷を負っているが、互することはできないだろう。

 ノアは騎士と女王にひとつのルーンを贈った。

 

「『Wird(ウィルド)』」

 

 何物でもないがゆえに何にもなれるブランクルーン。

 治癒と強化の効果が捧げられ、大きな刃鳴りが反響する。

 これより幕を開けるは剣槍織り成す舞踏。偽りが介在する余地など存在しない、英雄同士の殺し合い。一合、また一合と武器がぶつかるたびに、世界が悲鳴をあげているかのようだった。

 ルーンの爆撃が三者の衝突を彩る。

 ランサーのクー・フーリンならば、対魔力を盾にして強引に戦うこともできただろうが、狂王たる彼にそのスキルは持ち得ない。

 形勢が傾く。ノアの魔術を避けるたびに一手ずつ遅れを取り、刃が体を掠める頻度が高くなっていく。

 クー・フーリンは奥歯を強く噛み締めた。

 ───殺す。それ以上もそれ以下もない。どれだけ傷つこうが、血反吐を吐こうが、目の前の敵を完膚なきまでに叩き潰す。

 この身は王。

 弱者も強者も等しく蹂躙する怪物。

 国を省みずに悪逆を遂げる邪悪の化身。

 少なくとも、クー・フーリンという英雄が見てきた王はそうだった。

 己の意思ひとつで世界を捻じ曲げられると、本気で思っているような俗物。

 

「つくづく、くだらねえ!!」

 

 紅爪と魔槍が激突する。

 狂気の仮面が、剥がれていく。

 

「それは誰に対しての言葉だ、クー・フーリン!」

「俺もアンタも、何もかもだ!!」

 

 知っていたはずだ。

 こんなことに意味はないと。

 理解していたはずだ。

 戦士とはそういう生き物だと。

 柄にもない記憶。息子のコンラを自分の手で殺し、ひた走ったあの時。

 開戦の前、どうしてあの記憶を思い出したか、ようやく分かった。

 自分を縛り続けた運命という名の戒め。

 人の世の因果の悪辣さ。

 それら一切を狂気の王として打ち砕けという意思の発露が、そうだったに違いない。

 だとしても、こんな無様を晒している王にそれは成し遂げられない。人の世の悪辣を失くすためにアメリカを滅ぼすという本末転倒がそうだ。

 ならば、この感情に行き場はない。

 その時。

 令呪に乗せて、ひとつの声が頭に響いた。

 

〝───本当の自分を取り戻しなさい、クー・フーリン!!!〟

 

「…………馬鹿野郎」

 

 それでも、思い出した。

 運命という鎖が。

 誓約という枷が。

 何もかもがどうにもならないと知っていたとしても─────!!!

 

(俺は、誰かのための英雄になりたかったはずだ!!!)

 

 しかして、無情に光は舞い降りる。

 

「『Wird』、『Wird』、『Wird』、『Wird』、『Wird』────吹き飛べ」

 

 正真正銘、乾坤一擲の魔術。

 リソースの全てを威力というただ一点に注いだ攻撃が紡ぎ上げられ。

 白き光の柱が、ホワイトハウスを突き刺す。

 最上階から一階へと、彼らは一直線に墜落する。見れば、天井は円形に削り取られて青い空が覗いていた。

 

「…………リーダー!?」

 

 今しがたメイヴの最期を見届けたばかりの立香は、瓦礫の山に寝転がるノアを見て悲鳴をあげた。ノアはむくりと起き上がると、忌々しげに頭を掻く。

 

「調子乗って魔力を使い過ぎた。ただ威力が高いだけの魔術なんてのは愚の骨頂だったな……何やってんだおまえら。揃いも揃ってマヌケ面しやがって」

 

 とぼけた言い草をするノア。立香たちは一瞬前の心配を彼方に飛ばして、

 

「リーダーの仕業なんですね!? ホワイトハウスが崩壊するとか、下手なハリウッド映画でもやらないんですけど!!」

「上階のことも考えてジャンヌさんの宝具を封印していた先輩とは天と地の差ですね」

「私たち以上のアホがいるってこと、メイヴに教えてあげたかったわ。もしかしたらケルト軍の方が性に合ってるんじゃないの?」

「オイオイオイ、一斉に喋り出すんじゃねえ、かしまし三人娘が。俺の才能に嫉妬してんのか? まあ仕方のないことだ、許してやるよ! クハハハハ!!」

 

 途端に、周囲で瓦礫が吹き飛ぶ。

 ペレアスとスカサハ。彼らは大股でノアに近付くと、その頭の上に拳を振り下ろした。

 ノアは頭頂からどくどくと血を流して倒れる。

 

「少しは自重しろ! 魔術バカが!!」

「ああ、この状況でなかったらもう一度ミンチにしていた」

 

 言い終わると、彼らの背後でホワイトハウスの残骸が崩れた。

 

「随分と賑やかじゃねえか。オレも混ぜろよ」

 

 ノアたちは弾かれたように振り向く。

 そこにいたのはクー・フーリン。しかし、今までの禍々しさや周囲へ振りまいていた殺意は鳴りを潜めていた。

 彼の右腕は千切れており、全身に負った傷から鮮血が流れ出している。死に体と表現すべき重傷だが、ことクー・フーリンという男に限ってそれは正しくない。

 なぜなら、彼は生前、魔槍の一撃を腹に受けながらも、柱に自らの体を括り付けて死ぬまで戦い続けたのだから。

 その魔槍も健在。クリードの骨鎧は纏っていないが、十分に戦える状態だ。

 ノアたちは咄嗟に身構えた。

 

「相手は致命傷を抱えても戦い続けたクー・フーリンです! 決して油断しないように!」

「ま、そりゃそうだよな。アレでくたばるなら英雄の称号は伊達ってことになる」

「だとしても、あいつを討ち取れば私たちの勝ちよ。風通しが良くなったことだし、私の宝具も使えるわ」

 

 戦意を漲らせるEチームを前にして、クー・フーリンは苦笑する。

 

「そうだな、お前らとやりあうのも魅力的だが……」

 

 彼は魔槍の先をスカサハに突きつけた。

 

「師匠、決闘だ。受けてくれるか」

 

 弟子の申し出を断る理由はどこにもなかった。スカサハは口元の血を拭い、

 

「……形式はどうする。死に体の無様な戦を見せるわけにもいくまい」

「目は見えるし、手足は動く。何より槍がここにある。となったら、アレしかねえだろ」

 

 クー・フーリンの足元に五つの円が十字に組み合わさった紋章が浮かび上がる。

 それなるは四枝の浅瀬(アトゴウラ)

 ケルトに伝わる投槍の決闘法であった。

 スカサハは同様の紋章を刻むことで同意を示す。

 その決闘を止める者は誰もいなかった。師弟が満足する形がこれであるなら、異論を挟む余地はどこにもない。

 スカサハは問う。

 

「女と主君を殺したことがないのがお前の誇りではなかったのか?」

「そりゃあな。だが、裏を返せばそれ以外は殺したってことだろう。敵も味方も……息子もな」

 

 二人の脳裏に、子どもの顔が浮かぶ。

 クー・フーリンとアイフェの間に産まれた子、コンラ。彼は後に父親と戦い、そして命を落とすことになる。

 何より。コンラをクー・フーリンの元へ送り込んだのは、スカサハだった。

 その目的は如何なものだったのか。愛弟子クー・フーリンの力を測るためか、親子を殺し合わせてどちらが強いかを確かめるためか。

 

「私は───」

「だがな。ゲッシュをかけたのはオレで、実際に手にかけたのもオレだ。その事実は揺るがねえ。アンタのやったことはただのきっかけだ」

 

 彼は、言葉を続ける。

 

「誰もが悪い。オレはあのことにこれ以上ケチをつけるつもりはねえ」

「それならば、どうして決闘を持ちかけた。事ここに至り、私と貴様にあるのは戦いのみ───否、戦士であるからにはそれしかない。だから決闘を申し込んだのだろう」

 

 クー・フーリンは獣のように唇の端を引きつらせた。

 

「いいや、これはクソッタレな運命への八つ当たりってところだ。……なあ、師匠。本当にアンタには戦い以外何もなかったのか?」

 

 心の臓を突かれるような感覚。

 思い返すのは、影の国で彼と過ごした日々。

 類稀なる戦の才を持った若者が綺羅星の如く集い、そして潰れていく地獄の鍛錬。誰もが暗い瞳で歩く中、クー・フーリンただひとりは底抜けた笑顔で修業を重ねていった。

 面白い小僧だと、最初は思った。

 己の技の粋を叩き込み、彼は次々に技をものにして、先へと進んでいく。

 しかして、死ねぬ体の自分と彼とでは生きる時間が違う。瞬く間に少年は大人になり、力強い男になる。

 その時、確かに思ったのだ。

 置いていかれたくない、と。

 子を成し、妻を娶る我が勇士に、スカサハという忘れ得ぬ存在を刻みつけたい。

 コンラを送り出した時の私は、嗚呼、どんな顔をしていたのだろう。

 ───本当に、私には戦いしかなかったのか?

 死ぬことすら許されぬ体になるまで神を、魔を斬った、原初の想いはとうに忘却の彼方だ。

 一筋の涙を流し、彼女は槍を構える。

 

「…………私も、探してみるよ。他にあったかもしれない可能性を」

 

 呼応するようにクー・フーリンも槍を構える。師弟は澄み切った笑顔で、叫んだ。

 

「「その心臓───貰い受ける!!」」

 

 彼らの技は同じ。

 放たれた槍が交差し、どちらが先ともなく両者の心臓を貫いた。

 沈む意識に響くのは、愛弟子の声だった。

 

「生きる、ってのも悪くないもんだぜ、師匠…………─────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 微睡みが絡みついた意識が、ゆっくりと引き上げられる。

 重たいまぶたを開き、最初に飛び込んできたのは、

 

「『梵天よ、地を覆え(ブラフマーストラ)』!!」

「『炎神の咆哮(アグニ・ガーンディーヴァ)』!!」

 

 澄み渡る青空の真ん中で、己が技を競い合う戦士の姿だった。

 全身を蝕んでいた棘や傷はさっぱり修復されており、起き上がるのに苦労もなかった。ただ、霊核を穿たれた影響か、以前のような力は出せないだろう。

 それでも良い。この特異点の決着は、とうについたのだから。

 

「あ、起きたみたいですよ。リーダー」

「俺が直々に処置したんだから当然だ」

 

 顔をのぞき込んでくる立香と、上空の戦いを見上げるノア。周囲にはケルト軍を倒すために集ったサーヴァントたちもいた。

 

「……お前が治したのか?」

「そうだ。泣いて感謝しろ。クー・フーリンは女と主君を殺したことがないのを誇りにしてんだろ。おまえが死んだらそれを汚すことになるだろうが」

 

 スカサハはくすりと笑う。

 

「……ふん。馬鹿め。素直に物を言えんのか、貴様は」

「スカサハさん、これはリーダー流のツンデレです。全身ミンチの刑は勘弁してあげてください」

「どちらにしろ、この体では無理だ。治療については感謝はしておく」

 

 スカサハが目を覚ましたのを聞きつけ、ダンテとエレナが寄ってくる。

 

「なんだか雰囲気が変わりましたか? 私をハンバーグにした人とは思えないくらい落ち着いてますねえ」

「気付いてたらハンバーグから戻ってたあなたも大概だけれどね!?」

 

 気まずい表情をしたロマンは言いづらそうに、

 

「『ま、まあ今回最大の謎は置いといて、ケルト軍も倒したことですし、後は二人の戦いを見届けるだけですよ! どっちが勝つか賭けますか!?』」

「駄目ですよドクター! 賭けなんてしたらリーダーがイカサマして勝たせようとしますから!」

「分かってるじゃねえか、藤丸。やるとなったらカルナ辺りに呪いでも仕込んどくか」

「『やめなさい! それは二人のアンタッチャブルな部分だから! ここからインドコンビと戦闘なんてごめんだぞ!!』」

フォフォウフォウ(ケルト軍より強くね?)

 

 とはいえ、カルナとアルジュナの戦闘を見て手を出そうとする者はどこにもいないだろう。青空に輝く無数の爆発の全部が彼らによるものなのだから。唯一割り込めるとすればラーマくらいなものだ。

 立香はくるりと振り返ると、そのラーマに訊いた。

 

「そういえば、魔神柱との戦いはどうだったんですか? 私たちはカルナさんとアルジュナさんに伐採されてるところしか見れなかったんですけど」

「うむ。数が揃っているだけあって中々に手強かったが、余には届かなかったな」

「まさかUFOをフリスビーみたいに投げるとは思わなかったわね」

「おっと、私とネロ皇帝による合体攻撃を忘れてもらっては困るな」

「うむ、アレこそ新世界の夜明け──いや、世界システムの完成形と言えよう!」

「『一体何があったんですか!?』」

 

 雑な話を続ける立香たちに、ペレアスからの声が飛ぶ。

 

「お前ら、目ぇかっぽじって二人の戦いを見ろ! 世紀の一戦だぞ!」

「ペレアスさん、目をかっぽじったら何も見えなくなります。メガネっ子属性を備えた私が言うのだから間違いありません」

「別にアンタじゃなくても誰でも分かるわっ!!」

 

 ……というアホなやり取りは置いておいて、カルナとアルジュナの戦いは佳境に差し掛かっていた。

 飛び抜けた強者同士の戦いの趨勢は二つに分けられる。早期に決着がつくか、逆に大きく長引くか。

 生前ならいざ知らず、彼らはサーヴァントの身だ。それぞれのクラスに押し込められた二人の性能は生きていた頃とは程遠く、持久力も制限されている。

 故に、長期戦はない。

 自らの心臓に燃え滾る魂の一片まで絞り尽くす。

 そのような短期決戦にこそ勝機はある───!!

 

「カルナ……!!」

 

 一度の射撃で二十を超える矢が撒かれる。

 どれもが並のサーヴァント数体を消滅させるに能う威力。この体で出せる全力の掃射であった。

 だがしかし、カルナには掠りすらしない。両手に携えし大槍で矢を払い、弾幕を潜り抜けて旧敵の目の前に接近する。

 

「アルジュナ……!!」

 

 瞬く間に数十の打突を繰り出す。

 アルジュナが放つ蒼炎の矢とはまるで反対、赤く煌めく炎を纏った槍撃はたとえ躱していようが敵を仕留める威力を秘めていた。

 それでも、アルジュナに傷をつけるまでには至らない。瞬時に迎撃を用意し、卓越した体術をもって刺突から逃れる。

 両者は共に掛け値なしの全身全霊。

 だというのに、その殺意は一向に成就することはない。

 否、この状況は当然の帰結だ。全力だからこそ、双方が短期決戦を望んでいてもその通りにはならない。そしてそれは、彼らが切望した戦いに他ならなかった。

 ぎちり、と歯の根が軋む。

 

(なぜ……お前の存在はここまで気に障る!!)

 

 授かりの英雄、アルジュナ。

 彼の人生が何もかも神の助けを受けていたかと言えば、それは大きな間違いだ。

 アシュヴァッターマンを溺愛するドローナの元で修業をした時は持ち前の知恵で自らの才能と実力を認めさせ。

 放浪生活を送っていた時はインドラ神を筆頭とする多数の神々と争い、その全員を退却させた。

 アルジュナはいつだって、本気で生きて戦った。だからこそ、カルナとの戦いだけは彼の心にとてつもない苦痛を残した。

 だが、それだけでカルナへの殺意を説明できるのか。

 カルナとの決闘。

 生まれながらに身に着けていた黄金の鎧を抉り取り、数々の呪いを掛けられながらも、彼は何でもないように言ってみせたのだ。

 

〝……さあ、始めよう〟

 

 肉が削れた枯れ枝のような体で。

 血の気が引いた幽鬼のような表情で。

 それでも彼は、戦いに向かった。

 その時、胸に抱いた感情は─────

 

「このまま戦っていても決着はつかない」

「ならば、どうする。勝負を捨てるか」

「冗談を言うな。宝具だ。オレとお前の因縁を断つに相応しきはそれしかない」

「…………良いだろう」

 

 ────そう。

 俺があの時抱いた感情は。

 

「『日輪よ、死に随え(ヴァサヴィ・シャクティ)』!!!」

「『破壊神の手翳(パーシュパタ)』!!!」

 

 太陽の槍が堕ち。

 破壊神の鏃が飛翔する。

 その激突は誰も見たことのない世界の終わりに喩えられる光景だった。

 手の先が崩れ、肩に進み、魂に到達する。

 消滅の間際、アルジュナに残った感情はひとつ。

 

(俺は、きっと、お前に憧れていた)

 

 大空に巻き起こった神話の激突がもらたした余波は大きかった。衝撃波と熱風が大地を舐め、水分を失った土がびしりと割れる。

 それを間近で観戦していたノアたちは言うまでもなく被害を受ける訳で。

 土に塗れたノアは地面に突っ伏しながら、声を漏らした。

 

「……爆発オチかよ」

「何もオチてないですけどね」

「二人の因縁はオチたんじゃないですかねえ」

「全然うまくないですから、それ」

「『もうインド戦士だけで良かったんじゃ……』」

 

 ペレアスは身を起こしながら、

 

「まあ、良いものを見せてもらったってことでいいんじゃねえか? 誰も悲しまない戦いなんてそうそうないだろ」

「うむ、全くその通りであるな! 余の次の舞台公演はカルナとアルジュナの一代記で決まりだ!」

「死者の冒涜やめろ馬鹿皇帝」

 

 ロビンは力無い声で言った。静寂が包むその場に、どこからか足音が響いてくる。

 

「いやいや、ペレアスくんの言う通り、良いものを見せてもらったよ。録画もしておいたから、後でキミたちに焼き増して送ってあげるとしよう」

 

 軽薄な性格がそのまま現れたかのような声。

 全員が咄嗟に声の方向を振り向き、その姿を捉える。杖を携え、白いフードを被った紅顔の男。どこか浮世離れした雰囲気を纏う彼の登場に、この場のほとんどの人間が首を傾げた。

 その男の正体を知っていたのは、ひとりと一匹。

 ペレアスはムンクの叫びもかくやというほどに顔面を歪め、叫び声をあげた。

 

「どぉぉしてお前がここにいるんだァァァ!! マーリン!!!」

「ははは、良い反応をありがとう! キャスパリーグも元気なようで何よりだ」

死ねェェェェェ(フォォォォァァァァッ)!!!」

「いやそれ台詞とルビが逆───」

 

 フォウくんは全速力で助走をつけると、マーリンの顔面に飛び蹴りを放つ。が、それは霧に手を突っ込むようにすり抜けてしまう。

 彼は割と焦った顔で息をついた。

 

「ふっふっふ、ここにいる私は幻影! いくらレベルを上げようと物理で殴ることなど不可能なのさ!!」

フォォォォォォウッ(クソがああああああああ)!!!」

「なんて卑劣な野郎だ! アヴァロンに引きこもりすぎて、ますます悪知恵が増してやがる!!」

「あ、それは禁句だよペレアスくん! 幽閉されてるのは湖の乙女三姉妹のせいでもあるんだぞ! 妖精にロクなやつはいないのか!?」

「お前も夢魔のハーフだろうが! 自業自得だ、ばーか!!」

 

 Eチーム含め、彼らを除いた全員が遠い目になる。

 とりあえず情報を整理すると、いきなり現れたこの男はアーサー王伝説の魔術師マーリンのようだ。円卓関係者のペレアスはともかく、フォウくんが殺意を迸らせているのは謎だが。

 立香は困惑しつつも、話に割って入る。

 

「あの、コントをするのは良いんですけど、ここに来た目的とか言ってくれます?」

「ああ、そうだった。私はここに届け物をしに来たんだ」

「どうせイタズラアイテムか呪物だろ。回れ右して帰れ」

 

 辛辣な対応をするペレアス。だが、マーリンは目元をきらりと光らせて、非常に癇に障るしたり顔をした。

 

「おおっと、話を聞く前に帰すのは良くないなあペレアスくん。せっかく、キミの奥さんからの手紙を持ってきてあげたというのに」

「…………はあ!? ちょっとそれ寄越せ!」

「嫌だね! 当然これは事前に盗み見した訳だが、かなり恥ずかしい文面だったからここで読み上げることにしよう。私の計らいを無碍にした罰さ!」

「よし、やれ。ペレアスのマスターである俺が許す」

「こ、こいつら……!!」

 

 そうして、マーリンは手紙の内容を読み上げた。

 

「〝第五特異点の攻略おめでとうございます、あなた様♡ ペレアス様の活躍を聞くたびに惚れ直す勢いですわ! エタードとかいうクソ女の見る目の無さはつくづく愚かしいですわね♡♡ 砂漠のオアシスで私たちが初めて会った場所に似た湖を発見しましたので、そこで待っております。次の特異点が待ち遠しいですわ。一万年と二千年、いいえ一億年と二千年経っても愛しております♡ あなた様の世界一可愛いお嫁さんより〟」

 

 ペレアスは真っ赤になった顔を両手で隠していた。背中をぐさぐさと突き刺す視線はクー・フーリンの爪なみの苦痛を心に刻む。

 ノアと立香はニタニタと意地の悪い笑みを浮かべて、

 

「ギャハハハハハ!! おいおい、想像以上のバカップルだなァ、ペレアス! いい年した大人がいつまで新婚気分でいる気だ!? 乳繰り合うために特異点修復なんざ聞いたことがねえぞ!」

「プクク……やめてあげましょうよリーダー。アツアツなのは良いことじゃないですか。私は清楚系女子として応援しますよ。ペレアスさん、とりあえずカルデアに戻ったら今年分のゼクシィ揃えましょうか!!」

「ぐああああああああ!! いっそ殺してくれええええええ!!」

「いやあ、笑った笑った! 大魔術師マーリンもこれにはニッコリだよ! じゃあ私は帰るんでよろしく! キミたちとはこの先で会うことになるだろうからね、さらばだ!!」

「次会ったらぶった斬ってやるからなマーリン!!!」

 

 そうして、マーリンの幻影は消えた。

 エレナは共感性羞恥で顔を赤らめながら、

 

「と、とんでもないことになったわね……マーリンっていうくらいだから、厳格な人物を想像していたのだけれど」

 

 その言葉に同意するようにテスラは首を振る。

 

「私がこの特異点にいるのは彼のおかげだから、優秀であることは間違いないのだろうがな」

「あら、そうだったのね。それでも私のマーリン像が崩れたわ……」

「ううむ。同じ宮廷魔術師でも、シモンとはまるで違うな。余もあまり近づきたくない」

 

 思い思いの感想をこぼすサーヴァントたち。ロマンはこれ以上収集がつかなくなる前に帰還を実行することにした。

 

「『え、えーと、若干名致命傷を負った人がいますが、聖杯を回収して戻ることにしましょう。マスター二人はペレアスさんをいじめないように』」

「少し待て、カルデアの指揮官」

 

 スカサハの声がロマンを止める。

 彼女は一通りペレアスをからかったノアに、右手を差し出した。

 

「ノアトゥール。お前のルーンは摸倣にすぎない。私が直々に原初のルーンを与えてやる」

「どういう風の吹き回しだ。お前の施しを受けるのは気に入らねえ。取っとけ」

「ならば、施しではなく誓約(ゲッシュ)だ。お前にひとつ試練を課す。逃げると言うならそれでもいいがな」

「ああ!? 誰が逃げるなんて言った。大天才に畏れるものがあるか! 鉄骨渡りでも焼き土下座でも何でもやってやるよ!!」

 

 スカサハの掌中にルーンが浮かぶ。

 ゲッシュ。それはケルトにおける制約だ。何らかの縛りを自身に課すことで祝福を受けられるが、破った場合は相応の天罰が降る。

 ノアは重ねるように手を突き出した。

 

「『お前は必ず魔術王に勝利しなくてはならない』……成し遂げられるか、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド」

「当たり前だ。俺たちをナメるな」

「───成立だ。これで原初のルーンはお前のモノになった」

 

 ルーンがスカサハからノアへと渡る。

 儀式を終え、彼女は背中を向けようとした。

 

「待て。俺からも渡すものがある」

 

 ノアは胸に手を突き入れ、神殺しにして不死殺しのヤドリギを取り出す。 

 

「死ねないのが悩みだったな。他の可能性とやらを探して、終わりたくなったらこれを使え」

 

 彼はそれを押し付けるように渡して、言った。

 

「……ルーンの借りは返した。一応、感謝はしてやる」

 

 スカサハはヤドリギを両手で握り締めて。

 苦々しい笑顔で呟いた。

 

「…………この、馬鹿弟子が」

 

 ───第五特異点、定礎復元。

 北米大陸の戦争は、こうして終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 存在が解けていく。

 北米大陸に渦巻く災厄は取り払われ、役割を終えたサーヴァントは座に帰還する。

 良い道のりだった、と彼女は微笑む。

 惜しむらくは、運命の相手を見つけられなかったことか。

 まあそれは仕方がない。運命というのは気まぐれで、過度に期待するのは後悔するだけだと知っているから。

 体が消えて、意識も暗い水底に沈む。

 ───だがしかし。

 次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのはコンクリート造りの街並みだった。その街には人間の姿はなく、背景の空も絵の具で塗りたくったような灰色をしている。

 彼女が立つのは交差点。

 無音、無人の道路で、役割を失った信号機がちかちかと点滅していた。どことなく物悲しい風景を見て、胸の奥から寂寥感がこみ上げてくる。

 持病の頭痛が出てきそうな異常事態。彼女は深いため息をついて、こめかみの辺りを指で揉みほぐした。

 

「余は……夢を見ているのか?」

「いいや、これは夢などではない。現実だよ、ネロ・クラウディウス」

 

 不意に響く声。まるでそこにいるのが当然とでも言うかのように、黒い肌の男がガードレールに腰掛けている。

 その男はマーリンと似て非なる異質さを身にまとっていた。山高帽と燕尾服の簡素な服装。それらは黒一色でまとめられており、細い体の曲線に沿って拵えてあった。

 誰だ、と訊くより早く彼はうやうやしく挨拶する。

 

「俺はゲーデ。性と死を司る神だ。この永遠の交差点の管理をしている」

「生と死……? とっくに死んだ余に何の用だ?」

「おっと、そっちの生ではない。性別の性、性欲の性だ。つまりセッ……」

「あ~、良い! 言わずとも分かる!! 神という割には随分と俗だな!?」

 

 ゲーデはニヤリと笑った。

 

「まあな。これでも俺は生きていた全ての人間を知っていてね、俗世には詳しいつもりだ。特に下ネタは最高だな。下品であればあるほど良いと思っている」

「げ、下品なやつめ…! それより余の質問に答えよ! 如何な目的で現れたのだ!?」

「せっかちだな。早いのは嫌われるぞ、何事もな」

「それは下ネタのつもりか? 冗談のセンスはないようだな」

 

 まあいい、とゲーデは話を打ち切る。

 彼がぱちんと指を鳴らすと、点滅していた信号機に青色の光が灯る。ブロックを組み替えるみたいに街並みが変形し、彼の背後に二つの道が作られた。

 

「ネロ・クラウディウス。お前には二つの道がある。すなわち、『座への道』と『楽園への道』だ」

「……座への道というのは分かる。しかし、楽園への道というのは何だ?」

「知らないな。知っていたとしても伝える気はないが」

「───何故だ」

 

 ネロがほのかに殺気を尖らせる。ゲーデは飄々とした顔で言葉を続けた。

 

「運命というのはそういうものだからだよ。今日、交通事故に遭うと知っていたらその日は外出しないだろう。だが、現実にそんなことはあり得ない。運命を選ぶ時は、誰もが無知であるべきだ」

「ならばミスをしたな。座への道があると分かれば、そちらを選ぶだけだ」

「ああ。だから、どちらが座への道かは教えない」

 

 ネロはぱくぱくと口を開閉すると、むくれっ面になる。

 

「な、なんだそれは! ずるいぞ!!」

「何とでも言ってくれ。正直、俺は脇役未満の存在でな、名前を覚える価値もない。こうして顔を出すことすら本来はなかったはずなんだ」

「むぐうっ……もう良い! 余の幸運を見ておれ! 絶対に座への道を選び取ってやるからな!!」

 

 ネロは肩を怒らせて、右の道を突き進んでいく。

 数歩歩いて、意識が飛びかける。手足を動かす感覚もなくなる。魂だけで空を泳いでいるようだと、彼女はぼんやりと思ったのだ。

 視界が白み、聴覚以外の五感が失われる。

 

「……もう五つか。オマエの実験場(とくいてん)にカルデアの勇士が辿り着くのは次の次だな」

「実験場は実験場だがな。アレはもう用済みだ。彼らに捧げる最初の試練としては妥当だろう。全ては魔術王の企みが潰れてからだ」

「そうか。にしても退屈だ。少し面白い話をしよう」

 

 聴覚だけが残っていると分かったのは、声が聞こえてきたからだ。

 

「───なあ。なぜ神はジャンヌ・ダルクを選んだのだと思う? 戦争に正義はない。神はイングランドよりもフランスに肩入れしたのか?」

 

 ひとつは耽美な声。聴覚を揺らす低い音響はあらゆる楽器の調べよりも優美だった。

 

「……私にそれを訊くなよ。そもそも現世というのは偽りの造物主によって造られた救いなき世界だ。どちらかに肩入れする神など、偽物に違いない」

 

 ひとつは気怠げな声。先程の声とは違って、女性のものに感じられた。気力のない声の裏には、何か薄暗い感情が透けている。

 

「神がなぜジャンヌ・ダルクを選んだのかという疑問に意味はない。重要なのはジャンヌが神の声を聞き、フランスを救うという使命を受け入れたことだ。先に待つ運命をそれでも良しと受容したその時に、彼女は永劫回帰を克する超人となった───そこの愚者には理解できないだろうがな」

 

 ひとつは厳然とした声。それは硬い鋼を思わせると同時に、悪性の病巣を抱えているようだった。

 耽美な声は納得がいったように唸る。

 

「なるほど。運命を超然と受け容れることに意味があるというのか。確かにそれは、人間の強さであり美しさよな」

「勝手に納得するなよ。お前のことだ、自前の答えを用意しているのだろう?」

「……そうだな、おれはこう思うよ───あの時代のイングランドとフランスで、見ず知らずの他人のために無条件で命を捧げられる人間はジャンヌ・ダルクしかいなかった、とな」

「なんだそれは。私より質が悪いじゃないか、悪魔め」

「そう機嫌を悪くするな。……そら、オマエの大好きな主君がやって来たぞ」

 

 かちり、と。

 暗い部屋の照明をつけたみたいに、五感が取り戻される。

 景色が広がり、息を呑んだ。

 そこは所謂玉座の間。豪華絢爛な装飾が施され、奥には黄金で華美に彩られた椅子が鎮座する。床は鏡のように磨かれた白い大理石だ。

 けれど、彼女の目を奪ったのはそのどれでもなく、天井。

 ドーム状の屋根は一面が透明なガラス張りで、その向こう側には数え切れない星々が輝く漆黒の大海が広がっていた。

 呆然とするネロの前にひとりの女性がやってきて、臣下の礼を取る。

 

「お待ちしておりました、我が王よ」

 

 あの気怠さはどこへ行ったのか、その声は真剣そのものだった。

 その女は肩の辺りで切り揃えた金髪に、褐色の肌をしていた。黒地に幾何学模様が描かれたローブを羽織り、首元には色とりどりの宝石が散りばめられた銀の首輪を提げている。

 ネロはたじろいで、

 

「ま、待て、余はそなたのことを知らぬぞ」

「本当にそうですか? 聡明な貴女なら分かるはずです。私が誰か」

 

 そう言われて、女の顔をじっと見る。

 金色の髪と褐色の肌。試すような口調とどこか見覚えのある服装。それらの情報を繋ぎ合わせ、ネロはぞくりと震え上がった。

 

「まさか……シモン。シモン・マグスか!?」

「ご明察です。我が王よ」

「自分で言ったというのに信じられぬ! 余が知っているシモンはなんというかこう、野性味のある男であった! 余としてはその姿の方が好みではあるが……」

「性別の違いなど些細な問題でしょう。男も女も等しく愛でるのが貴女ではないですか。あの北米大陸をよくぞご無事で」

「う、うむ。そなたのほかに二人いたはずだが、どこに行ったのだ? そもそもここはどこだ?」

 

 ネロはひたすらに困惑していた。交差点に飛ばされたことから始まり、座への道と楽園への道を選ばされ、ここに辿り着いた。そのどれもが彼女の理解を超えている。

 シモンは朗らかに笑むと、ゆったりと喋り出す。

 

「後々紹介する予定ですが、私と貴女の再会に彼らは不要。この場所から強制的に追放致しました。ここは『破卵の天球儀(ディアプトラ・コスモス)』───私の固有結界です」

「固有結界……? そんなものを使えたのか」

「使えるようになった、と言うのが正しいでしょう。座への送還に干渉し、貴女を呼んだのも私です。途中で下品な神の職場を経由したようですが」

 

 ネロは眉根をひそめて反応する。

 

「そなたが余を呼び出したのか。一体何のために」

「無論、王となって頂くためでございます」

 

 かつり、かつりとシモンは玉座へと歩いていく。その瞳はただひたすらに星の海を見上げていた。

 

「人類史で最も偉大な王は誰でしょう。古代の王ギルガメッシュか、太陽の王オジマンディアスか、はたまたローマのカエサルか。私にとってその答えはひとつしかない。議論するにも値しない。ネロ・クラウディウス……貴女こそが至高の王だ」

「そうおだてるな。褒められるのは嬉しいが、王になろうにも治める国がない。とうに死んだ人間にそのような権利があるとも思わぬ」

「貴女が統べるのはこの世界だ。この世全ての悪を体現し、十字架の祈りを破壊する魔王になるのです」

 

 ネロは暫し呆気に取られると、怒気と殺気を込めた眼差しをシモンに向ける。

 

「シモンよ、もう一度問うぞ。そなたは一体何のために余を呼び出したのだ……!!」

 

 シモンはゆらりと微笑む。

 

「我らの世界は偽神(アルコーン)によって支配された、救いなき世界だ」

 

 ───ヘルマン・ヘッセ、デミアンより。

 

「でなくては、この世に悪が存在する理由がない。本当に善なる神がこの世界を創造したというのなら、苦しみや悲しみは生まれ得ないはずだ」

 

 〝鳥は卵から抜け出ようと戦う〟

 

「そうすると、不完全なこの世界は不完全な神が創ったと見るべきでしょう。物質界に囚われている限り、人類に真の幸福は訪れない」

 

 〝卵は世界だ〟

 

「故に、壊す。不完全な世界から脱出するために、人類を救うために」

 

 〝生まれようと欲する者は、ひとつの世界を破壊しなければならない〟

 

「きっと、その先に真の神がいるのです。我ら人類を絶望の底に叩き落とした愚昧なる造物主などとは全く異なる、真の神が」

 

 〝鳥は神に向かって飛ぶ〟

 

「我らは真の神の御座へと羽ばたく。そのために────」

 

 〝神の名はアプラクサスという〟

 

「───()()()()()()()()()()()()()()




『太女神の印章』
ランク︰A 種別:対人宝具
 トリスケリオン・トリニティ。捏造宝具。聖杯のバックアップを得たことで使用可能になったという設定。女王メイヴとしてではなく、三相一体の女神メイヴとしての権能の象徴。
 自身が従えた勇士の武具を召喚し、扱うことができる。ランクが数段落ちるものの、真名解放もできるスグレモノ。メイヴ的にはクー・フーリンはオトせていなかったので、ゲイボルクは使えなかった。
 作中では本来の性能を発揮できておらず、女神メイヴの場合は武具だけでなく勇士そのものを喚び出せる。また、この能力はメイヴの三相『悪・権威・狂気』の権威を表す力であり、悪と狂気にもそれぞれ権能が存在する。後々披露される予定。

『無間氷獄︰永劫凍結する第九魔圏』
ランク︰EX 種別︰結界宝具
 コキュートス︰リンフェルノ・デル・ルチーフェロ。かつてダンテが訪れた地獄の最下層、正確には第九圏コキュートスの最終円ジュデッカを召喚する疑似固有結界。本来はアヴェンジャーのダンテでなくては使えないが、ジャックの呪いの影響で呪詛の文字を習得したキャスターのダンテも使えるようになった。つまり、アヴェンジャーのダンテの文字は呪詛がデフォで、祝福は使えない。その違いは精神年齢。キャスターの方は神曲を書き上げた晩年の精神だが、アヴェンジャーの方はフィレンツェを追放された頃の精神。端的に言ってこの世のすべてに絶望している状態であり、神のことすらもうっすら疑っている。ただし強さは相変わらず。宝具と呪詛さえなんとかすれば、最初期の士郎でも強化したポスターで殴り倒せる。体はモヤシでできている。
 地獄の魔王ルシファーの根城であるジュデッカは無数の罪人が氷漬けになっている。この場所に落とされた敵対者は魔王の冷気で魂の芯まで瞬間冷凍される。対魔力で多少軽減できるが、魔王の理を超えた権能の前では無効化は不可能。また、ジュデッカは地球の重力が全て集まる中心であるため、敵は動けなくなる。さらに、アヴェンジャーの場合は倒した相手の魂を地獄に幽閉する効果を有する。ダンテの右手に住んでいるジャックちゃんは例外。聖杯戦争で使った場合はダンテを倒さない限り、聖杯にサーヴァントの魂が供給されることもない。何かの間違いでダンテが最後まで残った場合、令呪で自害を命令しない限り儀式は頓挫する。そういう意味でもアヴェンジャーのダンテは地雷。
 ジュデッカの中心にいるルシファーはすなわち地球の中心に磔にされている。地獄そのものが魔王を閉じ込める場所ともいえる。ダンテとウェルギリウスは魔王の体を登って地球の裏側(=煉獄の山)に到達する。ちなみにこの時、ダンテはウェルギリウスの首にしがみついて、登ること自体は人任せにしていた。どこまでも他人頼りの男である。煉獄に着いた途端にベアトリーチェになんだかよく分からない理由で長々と説教された。自業自得。


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第46.5話 カルデアの日常・炎の料理対決

ダンテを女の子にしておけば良かったと最近後悔しています。
今回で全体の章立てとしては半分が終わります。次の第六特異点はおよそ12、3話ほどになる予定です。


 カルデアの朝は早い。

 魔術王による人理焼却が起きてしまったこの状況で、相変わらず仕事は山積している。数日前に第五特異点の定礎復元が行われた歓喜に浸る間もなく、職員たちは次の特異点の調査に取り掛かっていた。

 時は金なりとはよく言うが、お金で失った時間を取り戻せるなら誰もギャンブルやガチャに手を出してはいないだろう。時間は何物にも代えられないのだ。職員たちが特異点攻略の調査と準備に時間を注いでいたのもそのためだ。

 とはいえ、人は休暇なしで働き続けられる生き物ではない。世の中には働かずに休み続けている人種もいるが、それはそれとして、カルデアの人間は全員ロマンの体調管理に基づいて業務を行っている。

 そんな勤務体制で、一日の中で全員が顔を合わせる数少ない機会が朝食の時間だった。

 起床して支度を整えたマシュは見慣れた廊下を歩く。曲がり角の先には鬱屈とした姿勢のジャンヌがゾンビのような足取りで食堂を目指していた。服を選ぶ余裕もなかったのか、無駄に達筆な太字で『フランス万歳』と背中にプリントされたダサさの極みのようなTシャツを着こなしている。しかも文字色はフランス国旗でお馴染みのトリコロールである。

 竜の魔女がフランスを背負うとは何の冗談なのか。前面の模様が気になるが、こんなことにイチイチツッコんでいるようでは昨今のカルデアは生き残れない。マシュはジャンヌを華麗にスルーし、そそくさと食堂に駆け込んだ。

 ジャンヌを加えて、ノアとダ・ヴィンチ以外の面子は既に揃っていた。トラブルメーカーである天才コンビがいないことで、食堂はまさしく平和。ムニエルも柄に似合わず紅茶を嗜んだりなんかしている。

 マシュは自分用の食事を盛り付けると、うつらうつらと船を漕ぐ立香(りつか)の横に腰を落ち着けた。

 

「おはようございます、先輩」

「@&#¯*>~;"☆〜〜」

「文字にすらならないとは、過去最高レベルの低血圧が観測されましたね……」

フォウフォウ(天気予報かな)?」

 

 もっとも、外界全てが消滅した今の状況では天気予報も何もないのだが。

 立香は朝が弱い。もはや天敵と言っても良い。どれくらいの天敵かと言うと、バルドルに対するヤドリギ、メイヴに対するチーズ、ムックに対するガチャピンといったところである。

 そんな状態にあっても、食事を口に運ぶことは忘れていないのだから、常軌を逸した食い意地だ。マシュは密かに戦慄した。

 この体たらくでどうやって学生生活を送っていたのか甚だ疑問だが、反対に朝に強い人間もここにいた。

 

「おはようございます。立香さんは相変わらずですねえ」

「特異点の時はしゃんとしてるのにな。オレの嫁も朝には弱かっ」

「あ、それは良いです。もう知ってるんで」

「マーリンさんにあれだけやられておいて、まだ惚気る気力があるんですね。早くも次の特異点が憂鬱になってきました」

 

 ペレアスとダンテ。彼らはいつも朝から快調な人間だった。昔は室内も室外も明かりが少なかったため、夜が来ればさっさと寝て朝早く起きる生活が基本だった。現代文明に染まりきったジャンヌと違って、二人はその辺りの感覚を残しているのだろう。

 ついでに言えば、ペレアスは騎士でダンテは下級ながらも貴族の生まれ。体に染み付いたテーブルマナーが無意識に現れており、そこはかとない高貴さを感じさせる。

 いつもの醜態と言動で損をしている、とマシュは思った。既に彼らの株はストップ安。いくら細かい点で挽回しようとも後の祭りなのだ。

 そこで、遅れてジャンヌがやってくる。

 彼女が着るTシャツの胸元には妙にスピード感のある字体で『オルレアンのてっぺんとったる!』と書かれていた。コンセプトがジャングルの密林で遭難したシャツの柄を見せつけられ、和気あいあいとしていた食堂が静まり返った。

 ジャンヌはボサついた髪の毛を手で直しながら、低い声で言う。

 

「……何よ、みんなしてジロジロ見てきて。私の顔に何かついてる?」

 

 とぼけた顔をするジャンヌ。寝起きで機嫌が悪い彼女に触れることは爆弾解除をすることに近い。比較的立香には甘いが、その彼女は白目と黒目を行き来しながら懸命に眠気と戦っている最中だった。

 立香に頼ることはできない。マシュはダンテを真正面から捉えて、小声で促す。

 

「ダンテさん、ツッコんであげてください。Eチームのツッコミ役はダンテさんなので」

「え、私がですか!? 嫌ですよ、あんな全身地雷原に特攻するのは! ペレアスさんお願いします!」

「…………『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

「宝具使うほどですか!? 死を覚悟するほどなんですか!?」

 

 ダンテが深く絶望したその時、食堂の扉ががばりと開け放たれる。

 姿を現したのは頭から爪先までを宇宙飛行士のような防護服で包んだ二人組。顔から人物を判別することはできないが、背の高さと消去法でノアとダ・ヴィンチであるとマシュは判断した。

 二人は同時に注射器を取り出すと、

 

「「これより強制献血を開始する!」」

 

 意味不明なことを宣う天才コンビ。ダンテは勢い良く立ち上がって抗議する。

 

「いきなり出てきて何言ってんですか! 強制献血とか献血の概念が壊れてるんですが!?」

「おまえらが俺に血を献上するから献血なんだろうが。どこか間違ってるか?」

「逆に間違ってることしか言ってないんですよ! 無理やり血を奪い取る人なんて神話でも中々見かけませんよ!」

「いいから黙って従え。これは人類、ひいては俺のためになる重要な研究に使うんだよ。その礎になれることを精々喜べ!!」

「そうだぞ、これは私とノアくんによる魔術の歴史を変える偉大な研究なんだ! ダンテさんもぎせ……協力してもらわないと!」

「私には魔術王よりあなたたちの方が危険に思えてきたんですが。世が世ならラスボスじゃないですか! 人の心を取り戻してください!!」

 

 どうやらカルデアでは考え得る限り最悪の組み合わせによる共同研究が進められていたらしい。マシュはハムエッグを貪りながら指摘した。

 

「ダンテさん、この二人は道徳の成績で0を取れるような人たちです。人間の心をいくら説いても無駄でしょう」

フォウフォフォフォウ(それはもはや人間と言えるのか)?」

「オレたちのマスターはフォウくん以下か……」

「今更ですか?」

 

 食堂に言葉の銃弾が飛び交う。その真っ只中にいたジャンヌは徐々に苛立ちを募らせていき、防護服に隠れたノアの顔面に裏拳を炸裂させた。

 痛々しい音を響かせて宙を舞うノア。ぐしゃりと墜落し、小刻みに痙攣する体をダ・ヴィンチが抱き起こす。

 

「な、なんてことをしてくれるんだジャンヌちゃん! ノアくんの顔が幼稚園児が描いた自画像みたいになっちゃったじゃないか!!」

「いや……うるさいわ、朝っぱらから」

「そんな理由でかい!?」

 

 とは言うものの、彼を心配する者はここには誰もいなかった。日頃の信頼の無さというのもあるが、大抵の重傷はしれっと回復してしまうしぶとさ故である。

 一部始終を厨房の隅に隠れて偵察していたロマンは、これ以上の波乱が起きる前に話を進めることにした。

 

「それじゃあ、全員揃ったことだし今日の業務連絡と行こうか。と言っても、Eチーム以外は引き続き特異点の調査をしてもらうことになる」

「で、私たちは?」

「Eチーム諸君はいつも通り、ボクが練ったメニューでトレーニングだね」

「本当にいつも通りですね。もう少しテコ入れをしようという気はないんですか、ドクター」

 

 ロマンはきらりと目を煌めかせて答える。

 

「テコ入れとはいかないけど、今日は午後の業務は全面休止だ! 働き詰めだと仕事の能率も下がるからね、今日の夜はみんなで第五特異点祝勝会といこう!」

 

 食堂が歓声に包まれる。休みは前から知っているよりも急に伝えられた方がお得感がするあの現象である。特に所長の機嫌ひとつで勤務時間が引き延ばされる地獄を生き抜いてきた職員たちは、喜びもひとしおだった。

 睡魔と格闘していた立香は歓声に叩き起こされる。据わった目を左右に動かして、ふと空になった食器に視線を落とす。

 すると、彼女は青ざめた顔で深いため息をついた。一挙一動を間近で観察していたマシュが真意を問うより早く、立香は声を絞り出す。

 

「私のご飯がいつの間にかなくなってる……まさか妖怪の仕業!!?」

「いえ、それは紛れもなく先輩によるものです。口元についたオムレツのケチャップが何よりの証拠です」

「どうしてご飯って食べるとなくなっちゃうんだろう───?」

「答えを知ってるはずなのに答えられない問題ですねえ。救世主に説教されてる十二使徒はこんな気持ちだったのでしょうか。立香さんの隠れた才能が見えた気がします」

「まだ寝ぼけてるだけだろ」

 

 立香の新しい可能性という名のアホ発言はペレアスによってずばりと切り裂かれた。

 何やらこの空気感に置いていかれそうになったノアとダ・ヴィンチ、ジャンヌは慌てて自分の朝食を用意して席に着いた。先程、強制献血を始めようとしていた二人は防護服を脱ぐのに手間取り、結局ヘルメットを叩き割って食事を始める。

 立香はジャンヌのTシャツを眉をひそめながら覗く。

 

「……何このTシャツ? ちょっとかわいい」

「良いところに目をつけたわね。私のオリジナルTシャツ試作号よ」

「センスが終わってますね……」

「ふっ、所詮はマシュマロなすびね。これはあえてダサさを演出しているの。お笑いで言うところの裏笑いってやつよ。ま、こういうハイセンスな着こなしはアンタには分からないでしょうけど」

「そうですね、自分がその良さが分かる人間でないということにとても安心しています」

 

 立香を挟んでマシュとジャンヌの視線が火花を散らす。微妙に流れ弾をくらった立香はすごすごと肩を竦めた。マシュとジャンヌの闇が垣間見えた瞬間である。

 今のこの二人に触れたところで活路はない。立香はもそもそと食事を口に運ぶノアとダ・ヴィンチに目をつけた。

 

「そういえば、リーダーとダ・ヴィンチちゃんは何の研究をしてたんですか? 魔術の研究だから人には教えられないかもしれないですけど」

「いや……教えてやってもいいが、まだ秘密だ。いずれおまえにも実験体になってもらうから、心の準備だけしとけ」

「い、嫌すぎる……内容伝えないで準備だけさせるとか、不安しか募らないですよ!」

「でも、立香ちゃんにとっても悪くない研究だよ? 方向性が今すこしマッドでサイコな方面に入りかけてるだけで、基本はハートフルだから! ペレアスさんもどうだい?」

「一言一句不穏過ぎるだろうが! 王様の姉のモルガンくらい胡散臭えよ!!」

 

 ダ・ヴィンチは見事に提案を突っぱねられ、抗議の意味を込めて、唇を尖らせて唸り始める。

 ノアとダ・ヴィンチがいかにマッドサイエンティストなのかは、カルデアにいる者なら全員が知っている。彼らの口から出る言葉は宗教勧誘とねずみ講の合わせ技よりも胡散臭かった。

 ダンテは食後の紅茶をティーカップに注ぐ。ふわりと漂うカモミールの香りで鼻腔をくすぐりながら、彼はゆったりと喋り出す。

 

「それにしても、祝勝会ですか。純粋に楽しむだけの祝宴は良いですね。私は政治絡みの謀略策略何でもありの宴席ばかりでしたので」

「その点、騎士は楽かもな。立ち振る舞いに気を付けとけば大体なんとかなる。飯も普段よりはマシな味になるしな」

「円卓の騎士の祝宴は興味があるわね。どんな感じだったのよ」

「騎士なんて言っても、下世話な話ばっかりだったぞ。ランスロットとトリスタンが禁断の恋がどうとかで絡んでくるのが面倒だったな」

 

 ペレアスは円卓の騎士に面倒でない面子はほとんどいないという事実を呑み込んだ。マシュはこくりと頷いて、

 

「異類婚姻譚は大抵破局しますからね。日本の昔話もそういった傾向がありますし、ある意味禁断の恋と言えるでしょう。ランスロット卿とトリスタン卿はそういった意味で絡んだのでは?」

「それにしてもランスロット卿にとって、ペレアスさんのお相手は自分の義母ですよ!? もしかして彼は変態なのでは……」

「ランスロットもダンテみたいなのに変態とか言われるなんて思ってもみなかったでしょうね」

「ははは、嫌ですねえジャンヌさん。私はEチームイチの紳士じゃないですか」

 

 というダンテの戯言を置いて、立香はノアに話しかける。

 

「あ、そうだリーダー。シチュー好きなんですよね。特別に私がいつもよりおいしいシチューを作ってあげます」

「言っとくが俺は辛口だからな。海原雄山を相手にすると思え。生のトマトをそのまま出すくらいのインパクトがないと認めねえぞ」

「マジですか。ホットケーキミックスそのまま出していいですか。至高のホットケーキミックス見せていいですか」

「先輩、その食べ方まだやってたんですか!?」

 

 マシュは絶句する。立香は未だに何物にも変われるホットケーキミックスをホットケーキミックスのまま消費するという悪行に取り憑かれているのだ。

 ジャンヌは根拠のない自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。

 

「どうせ宴席ですし、ええ、私も腕を振るってみましょうか。そこのアホ白髪のバカ舌をぎゃふんと言わせてやるわ」

「ジャンヌさんの料理ですか。不安にしかならないですね」

「あら、口だけならどうとでも言えるわよ? ま、アンタに作れるのはなすの煮浸しくらいでしょうけど。アレ苦くて嫌いなのよね」

「…………わたしもやります。わたしの同胞であるなすの魅力を教えてあげましょう!」

フォウフォフォウフォウ(いつの間にナス科になったんです)?」

 

 マシュは瞳に炎を灯した。同胞とは言うが、なすびからすれば、彼女は自分の体を切り裂き煮えた湯に落とす地獄の獄卒である。そんな女が同胞ヅラしてくる事実には恐怖しかないだろう。

 ダンテは空のティーカップを皿に置くと、ニタリと微笑む。

 

「なるほど、料理対決という訳ですか。私も参戦しましょう。トスカーナ地方が誇るフィレンツェ料理の素晴らしさを教え込んであげますよ……!!」

「くっ! ダンテさんまで!? こうなったら私は今から仕込みをします! クレアおばさんのシチューも顔負けなくらい煮込みますから!!」

「わたしはレイシフトして最強のなすびを探してきます」

「アンタだけ趣旨が違うじゃない! グルメ界にでも行くつもり!?」

 

 ロマンは四方八方に散らばっていこうとするEチーム女子とダンテに向かって言う。

 

「…………あの、Eチームのみなさん。トレーニングがあるってこと忘れてませんか」

「「「「…………あ」」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カルデア、トレーニングルーム。

 このトレーニングルームは人理修復前は筋肉に魅了された者が男女問わずひしめき合っていた魔窟である。器具もゴールドジム顔負けなほどに充実しており、密閉空間であるカルデアでの運動不足を解消するのに一役買っている。

 それだけではない。人理修復の途上で待ち受けるであろう脅威を排除するため、マスターたちが戦闘訓練を受けていたのもこの場所だ。所長から目の敵にされていたEチームのマスター二人には縁のない場所だったが。

 間取りとしては豊富な機材が揃ったジムのような施設と隣接して、広く平坦な空間が設けられている。その間は現代技術の粋を結集した強化ガラスの壁で仕切られていた。

 ただ、トレーニングというものが効果的なのは人間だけだ。座から投射された写し身であるサーヴァントは生前の姿を再現した存在であり、いくらベンチプレスを上げたところで筋力DがBやAになったりすることはない。

 その事実を痛いほどに体現する男がここにいた。

 

「ふっ───燃え尽きましたよ……真っ白に」

 

 ジムの隅に設置されたパイプ椅子。バンタム級世界王者との死闘を終えたように真っ白なダンテが項垂れていた。ダンテシンパの画家なら思わず絵画にしているであろう構図だ。

 サーヴァント故に筋トレの意味がないジャンヌは五個のダンベルをジャグリングしながら、呆れた目つきになる。

 

「カンパルディーノの戦いでしたっけ? そんな虚弱でよく生き残れたわね」

「そうですか? 馬を全速力でかっ飛ばして泣きわめきながら槍振ってたら向こうから退いていきましたが。ふふふ、皇帝派の奴らを分からせてやりましたよ」

「引かれてただけでしょ、それ」

 

 カンパルディーノの戦いは当時のイタリアを二分していた皇帝派と教皇派の衝突だった。結果は騎兵含めた兵数と兵の練度で勝っていた後者が大勝を収めた。死者は五千人とされており、八十年後に戦地を農地として耕した際は大量の人骨が見つかったという。

 約二万人が争い、五千人が死んだ。両軍合わせて総数の四分の一が欠けた事実は、戦争の凄惨さを物語っている。当時二十四歳のダンテがそこで戦死していれば、後の歴史は大きく変わっていたかもしれない。

 戦場のど真ん中で泣き叫ぶダンテの姿を想像して、ジャンヌはさらに呆れの感情を増大させた。

 そこにロマン謹製の訓練メニューを完了させた立香とマシュがやってくる。立香はほのかに上気した頬に伝う汗をタオルで拭う。

 

「また死んでたんですか、ダンテさん」

「サーヴァントなのでもう死んでますけどね。この程度、地獄巡りに比べたら余裕も余裕ですよ」

「速攻で力尽きた男が言わないでくれます?」

「さすがに筋トレだけはウェルギリウスさん任せにできないですからね」

 

 マシュは言葉の刃でダンテを突き刺しにかかるが、

 

「侮ってもらっては困りますねえ、マシュさん。私は力仕事は妻のジェンマに任せていたのです。彼女はリンゴを素手で砕き、キレた時は丸太一本を軽々と振り回す怪力の持ち主だったので!!」

「アンタのクズ度が増しただけなんですけど!?」

「資産家一族の令嬢とは思えないエピソードが出てきましたね……アリギエーリ家の家庭事情がなんとなく見えてきた気がします」

「彼岸島でもやっていけそうだよね」

 

 という無駄話はよそにして、四人はジムに隣接した戦闘訓練場に目を移す。

 そこでは、木剣を手にしたノアとペレアスが派手に斬り合っていた。斬り合うと言っても、ノアが繰り出す斬撃はペレアスに届くことはなく、ペレアスは最低限剣を振るだけだった。

 彼は伊達に円卓の騎士をやっていない。ペレアスは緩慢とも取れる動きながらも、立ち回りだけで連撃を悠々と躱す。振るう剣も隙を突いて相手の動作を修正するためのものだ。

 要は教練。ペレアスにとっては部下や新入りの騎士を手ほどきする感覚なのだろう。が、気位だけはバベルの塔並に高いノアは苛立ちを募らせていく。

 彼は前のめりに剣を振り上げて叫んだ。

 

「内臓ぶちまけやがれペレアスゥゥゥ!!」

「おい、誰がそこまでガチでやれと言った!?」

 

 ペレアスは一直線に突っ込んでくるノアの横に体を入れて、ついでに足を引っ掛ける。

 坂道の上から蹴り落とした石のようにノアは転がり、強化ガラスの壁にぶつかった。

 

「スカサハさんに指導されただけあって槍は良いが、剣はまだまだだな。振りを意識しすぎて、上半身と下半身の動きが合ってねえ。まあお前ならすぐにコツを掴むだろ。今日はここまでだな」

「勝手に終わらせようとすんじゃねえペレアス。このままじゃ俺の気が収まらねえ。一発殴らせろ」

「趣旨が変わってるだろーが! サンドバッグでも殴ってろ、ドS男が!!」

 

 ペレアスはノアの腕を掴んで強引に立たせると、戦闘訓練場から出てくる。

 ロマンに指示されたトレーニングをこなした後でも、二人の息は切れていない。Eチームのリーダーとその第一のサーヴァントはしぶとさに定評があるのだ。

 彼らが四人のもとに辿り着くと、ペレアスはからかうように言う。

 

「にしても、どんな風の吹き回しだ? お前が剣の稽古だなんてよ」

「別に、必要ができただけだ。おまえの余裕がいつまで続くか見物だな。剣使いという個性を奪って、さらなる地味キャラへと転落させてやる!」

「それだけはやめろ!! オレの数少ないアイデンティティを奪うんじゃねえ! あっ、数少ないとか言っちゃったじゃねーか!!」

「ペレアスさん……自分でも地味なことは分かってるんですね……なんだか泣けてきました」

 

 嘘くさい涙を流す立香。そこから一気にペレアスへの視線が憐れみを帯びたものになる。自ら地味キャラを露呈した男に掛ける言葉はなかった。

 ペレアスは頭を抱えてうずくまる。

 

「そんな目でオレを見るな! 同情するなら派手さをくれ!!」

「……持病の発作が起きたペレアスさんは良いとして、わたしたちはこれからどうしましょう。昼食を摂るにもまだ早い時間帯です」

「私はもうちょっと運動していこうかなあ。リーダーはどうします?」

 

 ノアは懐中時計を見て答えた。

 

「ダ・ヴィンチのラボで研究の続きだ。機材の準備くらいで急ぎでもないがな」

「例のマッドでサイコな研究ですか。私には恐ろしいことこの上ないのですが」

「見方を変えると、こいつとダ・ヴィンチが一か所に留まるってことでしょ。その分私たちの被害が減るならいいじゃない。妙なことをするつもりなら私が焼くわ」

「察するところ、昨晩からずっと二人で作業をしていたみたいですからねえ」

 

 その時。

 立香はかすかに胸の突っかかりを感じて。

 

「じゃあ、リーダーの魔術講座出張編やってください。知ってますか? 私が女王メイヴ相手に見事に呪いをキメた場面を!!」

 

 気付けば、そんな言葉を口に出していた。

 ノアとダ・ヴィンチが一緒にいることが悪いのではない。ただ、またすぐに会えるとしても、ここで別れるのは惜しいと感じた。それだけだ。

 ノアは小さく口角を上げた。

 

「ああ、あの呪いは悪くなかった。合格点をくれてやってもいい。真名を呪術の触媒にした発想も一端の魔術師らしくなってきた。つまりはそれを教えた俺の手柄だな」

「手柄を不労所得するのやめてください。でも、私はリーダーのツンデレも分かってるんで大丈夫です。もっと褒めてくれてもいいんですよ? さあ!」

 

 立香は無邪気な笑顔でノアの顔を見上げる。

 それは北米大陸の荒野、満天の星空の下で通信機越しに見た笑顔と全く同じで。

 じくり、とどこかからこみ上げた熱をノアはため息にして吐き出した。

 

「……よし、頭でも撫でてやる」

 

 ノアは右手をぬうっと突き出す。それを立香の頭の上に乗せると、前後に激しく揺さぶった。残像でブレたようになる立香は震えた声をあげる。

 

「うああああああ!! 脳みそがシェイクされる! 脳震盪になっちゃいます!!」

「おまえの小さい脳みそで脳震盪になるわけねえだろ! くらいやがれ!!」

「リーダーにだけは脳みそが小さいとか言われたくないんですが!?」

 

 立香は割と余裕だった。もしかしたら本当に脳みそが小さいのかもしれない。

 マスターたちの戯れを止める気力も失せたジャンヌは、呪いということを思い浮かべながら話を切り出す。

 

「…………それにしても。名前を使った呪いなんてものがあるなら、どんどん使っていけばいいじゃない。ロンドンの時のオティヌスなんて自分から真名を晒したんですし」

「確かにな。真っ当な聖杯戦争ではサーヴァントはクラス名で呼ぶんだったか? 王様とかはバレたところで意味なさそうだが」

「それを言ったら私もですねえ。むしろ名前を明らかにするまでもなくやられそうです」

「マシなサーヴァントがいないわね、ここ」

「ペレアスさんとかですね」

「お前だろ」

 

 魔術の世界において、自分の本当の名前を明かすという行為は非常な危険性を伴う。だからこそ、サーヴァントが名前を隠すというのも当然な流れだ。

 しかし、ここにいるのは無名サーヴァントのペレアスと、知名度だけはあるダンテ。そして、竜の魔女ジャンヌである。真名を明かしたところで大差ない面子だった。

 Eチーム一番の有能を自負するデミサーヴァントのマシュはきらりと眼鏡を輝かせる。

 

「オーディンが最初に手に入れたルーンには、呪いによって受けた傷を倍にして相手に返すものがあります。原初のルーンを操るオティヌスに呪いを掛けていたら、逆にイチコロだったでしょう」

「……久しぶりにアンタの知的な部分が垣間見えたわ」

「何を言うのです、ジャンヌさん。私は全身知能の塊で武装した有能の化身ではないですか」

「その発言が既にアホでしょうが!!」

 

 ジャンヌが怒声を張り上げたのを仕切りに、ノアは立香の頭から手を離した。

 三半規管が乱され、平衡感覚を失った立香がよろよろと動き回るのを背景にノアは語る。

 

「藤丸が使ったような東洋呪術は対魔力で防げない分、効きが遅い。よくホラー映画で呪われたやつが交通事故に遭って死ぬなんてのがあるが、裏を返せば東洋呪術は『車に轢かれる場所にいる』みてえなきっかけが必要なわけだ。ガンドなら直接ブチ当てればいいだけだしな」

「ふぅん、メイヴの時は私が天井を崩したのがきっかけだったのね」

「そういうことだ。藤丸がそこまで考えてやったなら大したもんだが……」

 

 ノアたちは前後不覚になっている立香に視線を集める。その姿はどこに出しても恥ずかしい、まさしくEチームそのものを体現していた。

 立香は平衡感覚を取り戻し、哀れみ混じりの眼差しに気付く。

 

「も、もちろん全部計算ずくだったに決まってるじゃないですか! いつまでも私がへっぽこだと思ったら大間違いですよ!」

 

 必死に取り繕うへっぽこマスターを見て、マシュは無言で白衣の内から小さな機械を取り出す。手のひらに収まる程度の板状の機器。それはボイスレコーダーだった。

 首を傾げる立香たちをよそに、彼女は遠い昔を懐かしむような声音で振り返る。

 

「あれは三日前の深夜、先輩とフォウさんと一緒に食堂でお菓子の盗み食いをしていた時のことです」

「前提からおかしくねえか!? オレたちに内緒で何やってんだ!」

「その時、ちょうど今のような魔術の話になったのですが……」

 

 マシュはボイスレコーダーの再生ボタンを押す。

 

〝食堂に人払いをかけるとは、先輩の魔術もだいぶ板についてきましたね。一体どういう理屈なんです?〟

〝ぜんぜんわからない。私は雰囲気で魔術を使っている〟

 

 そこで停止ボタンが押される。立香の魔術に対するスタンスが見え隠れした記録だ。元々魔術という分野は個々人の感性が重要になってくるため、立香が間違いとも言い切れないが、それにしてもあんまりである。

 ダンテは引き攣った顔でマシュに問う。

 

「い、色々ツッコミどころはありますが……どうしてそんなものを持っているのです?」

「もちろん、皆さんの失言を収集するためです。カルデアのありとあらゆる恥部を握った私は何者にも侵されない無敵の存在となるでしょう」

 

 このカルデアは失言と醜態のオンパレードである。マシュの計画が成就した暁には、彼女は絶対的な存在としてカルデアに君臨することになるだろう。マシュが失言と醜態を晒していないかと言えばそうではないのだが。

 心なしか二頭身化したマシュ。思わぬ危機に直面したノアたちは口々に声をあげた。

 

「おい、こいつが一番の邪悪だろ! 人の皮を被った人類悪じゃねえか!!」

「やってることがほぼマーリンなんだが!? 依り代にしてるサーヴァントの気持ちも考えてやってくれ!!」

「人によってはどんな地獄の刑罰よりも恐ろしいですねえ」

「まさかマシュがここまで堕ちきってたなんて! 薄い本が厚くなってしまう……!!」

「なりませんけどぉ!? って、それよりもあの機械を奪うわよ、聖杯より厄介だわ!!」

 

 マシュは怒涛の勢いで襲い掛かるノアたちをぬるりと躱して、トレーニングルームの扉を開け放つ。

 ノアと立香がカルデアに来るまで戦闘訓練は居残り常連だった彼女だが、その身のこなしからはそんな事実はうかがえなかった。ふてぶてしさを身につけたマシュは凡俗のなすびとは一線を画したのだ。

 彼女は無駄にアクロバティックな動きで部屋を飛び出す。そこから全速力で逃げようとした瞬間、その足はぴたりと止まった。

 遅れて追いついてきたノアたちはマシュが足を止めた原因を目撃する。

 

「優雅たれ……優雅たれ……」

 

 かつかつ、と革靴の上品な音が響く。高貴な雰囲気を纏う赤い礼服を着た男性。フォウくんと双璧を張るカルデアのマスコットキャラクター、優雅なおじさんが血走った目で歩いていた。

 それだけならば気にも留めなかったが、問題は彼の右手。赤い液体が付着した金槌を握り締めて、優雅なおじさんは廊下の奥に消えていく。

 場の温度が急激に冷え込む。立香は廊下の奥に目を送りながら、

 

「何ですか今の。何が起きたんですか!? もしかして殺人事件が……」

「おおお落ち着け藤丸。優雅なおじさんがそんなことするはずねえだろ、みんなの憧れの優雅なおじさんだぞ!?」

「お前の優雅なおじさんに対する信頼はどこから来てんだ!? ただの紅茶好きなおっさんだろうが!!」

「訂正しろペレアス。よしんば優雅なおじさんがただの紅茶好きなおっさんだとしても、それは優雅なおっさんなんだよ! 優雅という修飾語を忘れんな!」

「結局おっさんじゃねえか! 吸引力の変わらないただひとつのおっさんじゃねえか!!」

 

 すると、優雅なおじさんが歩いてきた方向から、ムニエルが床を這いずってやってくる。何があったのか、下着だけを残した半裸の状態だった。

 

「う、うう……」

 

 彼は額から血を流し、荒々しい息を吐いていた。ダンテは青褪めた顔を両手で挟む。

 

「ムニエルさん!? 頭から血を流してるじゃないですか!」

「身ぐるみまで剥がされてんな、許せねえ!」

「状況証拠からして間違いなく優雅なおじさんの仕業ね……!!」

「リーダー、助けましょう!」

「ああ!!」

 

 ノアは見るからに死にかけのムニエルの側に駆け寄り、その体を助け起こした。

 

「大丈夫かムニエル! 何があった!?」

「り、リーダー……気をつけてください。ベッドに横たわりながら、床のティッシュを取ろうとしたら落っこちちゃいました……」

「おまえそれ完全に別件だろうがァァァ!!! 何やってんだ! いや、ナニをやってんだ!!?」

「あ、安心してください……パンツは履いてます」

「知るか! そのまま寝てろ、二度と起きてくんな!!」

 

 ノアはムニエルの体をげしっと廊下の隅に蹴り転がす。

 ムニエルはうめき声を漏らすと、そのまま動かなくなった。数秒前まで彼を心配していた女性陣の目つきはドス黒く変色し、絶対零度にまで落ち込む。

 

「これから金輪際私たちに近づかないでください」

「普通に引きます」

「火葬されないだけありがたく思いなさい」

「こ…これはこれで良い…………」

 

 ペレアスとダンテは哀れな男ムニエルに十字を切った。かける言葉はどこにも見当たらなかった。

 

「と、とりあえず優雅なおじさんの生息地……倉庫に行ってみましょうか。何か分かるかもしれません」

 

 ダンテの提案に異論を示す者はいなかった。一行はムニエルを放置して倉庫を目指す。

 倉庫はその名の通り普段は使わない道具や予備の機材などを置いておく場所だが、カルデアにおいては少し意味が違う。

 立香がかつてジャンヌを喚び出した際に生まれた数々の廃棄物。その中でも唯一と言って良い成果物の優雅なおじさんが住処にしているのが倉庫だ。

 彼が倉庫に住み着いてから、紅茶の匂いが染みついたということで職員たちには概ね好評を得ている。

 彼らが倉庫に入り込むと、床には惨憺たる光景が広がっていた。

 無数の破片に砕かれたアゾット剣。血の海の如く広がる激辛麻婆豆腐。どちらもジャンヌの召喚の前座となったものである。

 マシュは探偵然とした笑みをこぼす。

 

「なんとなく事情が見えましたね。優雅なおじさんは手に持っていた金槌でアゾット剣と麻婆豆腐を破壊したのでしょう。あの赤い液体は麻婆の汁だと思われます」

「動機がないように思いますが……単なるストレス発散でこんなことをする方ようには見えませんよ?」

 

 負けじと立香も冗談めかした雰囲気で推理を披露する。

 

「きっと過去の怨恨ですよ! 麻婆豆腐が好きな人にアゾット剣で刺されたことがあるんです!」

「おいおい、それはないだろ。優雅なおじさんがそんなヘマをするか?」

「ですよね! あはははは!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カルデア内部時間で夜。

 普段は疲れきった職員が虚ろな目で栄養だけを補給する悲しい食事を行う食堂は、かつてない熱気に包まれていた。

 サーカスの団長のような仮装に身を包んだロマンはマイクを握り締めて宣言する。

 

「始まりました! 我らカルデアの特攻野郎Eチームによる料理対決の時間です! まずは厳正なる判定を下す審査員の紹介から参りましょう!」

 

 薄暗い食堂にスポットライトが灯る。その光に照らし出されたのは着慣れないスーツを纏ったペレアスだった。

 

「世界で最も美味い料理は嫁の手料理と言ってはばからない! マズメシの国からやってきた円卓の騎士、ペレアスさんです!!」

「会食の時は何回か抜け出して嫁の弁当食ってました」

「おおーっといきなりのカミングアウト! ブリテンの料理は噂に違わぬ不味さのようです! ちなみにバレたことはなかったんですか?」

「一度ガレスにバレたことはありますね。それから抜け出す時はガレスの分も作ってもらうようになりました」

「なんと微笑ましいエピソード! しかし次の審査員はこうもいかないでしょう!」

 

 スポットライトが切り替わり、ペレアスの隣に座るノアを照らす。彼はどこの美食家を意識したのか、前髪を上げて日本風の着物を羽織っている。

 

「薀蓄でも詠唱でも、文字数稼ぎなら俺に任せろ! 彼に涙を呑まされた人間はいざ知らず、中二病を患った傍若無人のドSリーダー、ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドです!!」

「料理の極意は美味○んぼで習いました」

「デンマーク生まれのノアトゥール審査員、意外にも日本の文化に精通している! 何かきっかけはあったんですか?」

「子どもの頃の友人の影響ですね。それと近頃はネットで無料で読めるサイトが───」

「はい次に行きましょう! 後でボクの部屋に来てネットリテラシーの勉強をしましょうね、そういうのは大体違法だから!!」

 

 ロマンは強引に問題発言を押し流した。

 スポットライトが最後のひとりを薄暗い影から浮かび上がらせる。胸元の開いたドレスを着た茶髪の女性。つまりはダ・ヴィンチちゃんである。

 

「言わずと知れた万能の天才! それは美食においても発揮されるのか!? 暗号大好き、モナ・リザはもっと好き、ダ・ヴィンチちゃんです!!」

「お色気担当で来ました」

「なんでだァーッ!! これは料理対決だから! お色気要素なんて邪魔なだけなんですが!?」

「いやでもほら、料理漫画はおいしい物を食べたら服がはだけるのがお約束だろう?」

「六十七歳の元男性が何言ってるんだ!? それこそ美○しんぼから学んできてくれ!!」

 

 審査員紹介だけで疲労困憊のロマンは咳払いして、食堂の電灯を点ける。観客の職員たちは既に死んだ魚の眼をしていた。

 だが、ここで自分が音を上げるわけにはいかない。幾度となくパワハラを受けてきた社畜の根性を発揮して、彼は仕切り直す。

 

「し、審査員の皆様にはお手元のプレートで0〜10の点数をつけてもらいます。それではトップバッター、マシュ・キリエライト!」

 

 マシュは厨房から銀の釣り鐘型の蓋をされたお盆を持ってくる。それを三人の前に置き、彼らは蓋を持ち上げた。

 醤油とバターがふわりと香る。子どもの二の腕はあろうかという巨大ななすびと、取ったら残機がひとつ増えそうな緑色をしたきのこの炒め物だ。

 調理方法は真っ当なのだが、使っている素材が常軌を逸している。唖然とする審査員たちを前に、マシュは料理の説明を始めた。

 

「今さっきレイシフトして収穫してきたなすびときのこを醤油バターで炒めてみました。捕獲レベルは1000くらいでしょうか」

「マシュ、誰が本当にグルメ界に行けと言ったんだ!? 得体の知れない食材をここまでまとめ上げたのは感心するけど!」

「料理名はなすときのこの醤油バター炒め……は安直ですから、なす&きのこ──いえ、なすきのこにしましょう」

「うん、マシュ、その名前だけはやめようか。色々とまずい気がしてならないから。これ以上変なことを言い出す前に審査の方をお願いします!」

 

 ノアたち審査員は神妙な面持ちで料理を口に運ぶ。

 特徴的な見た目からは意外なことに、味は中々のものだった。なすびのとろりとした食感ときのこの弾力が対比された、まとまりの良い一品だ。

 審査員たちは順番にプレートを挙げる。

 

「ブリテンの画用紙みたいな食感の野菜とはまるで違うな。8点」

「なすびのスポンジみたいな歯応えが嫌いなので3点」

「私もなすびは皮がキシキシしてる感じが好きな食材じゃないなあ。醤油バターのおかげで5点かな」

 

 思い思いの点数を下す審査員。マシュはノアとダ・ヴィンチに向かって言う。

 

「ペレアスさんはともかく、好き嫌いが点数に反映されすぎなんですが!!? 再審を要求します!!」

「キリエライト、おまえはひとつ勘違いをしてる。醤油バターなんてのはコンクリートでも美味くする反則技だ。ボクシングのキドニーブロー然り、定規でボタン連打然り、それに頼った時点で負けなんだよ」

「い、意味不明な理論を……!! この恨みはいつか晴らしてみせます!」

「…………という訳で、二人目に行きましょうか。ダンテさん!」

 

 なんだかよく分からない理論で敗北感を味わわせられたマシュが引き下がるのと入れ替えに、ダンテが台車を押してきた。

 彼が出したのは意外にも分厚い豪快なステーキだった。付け合わせにはポルチーニ茸のオーブン焼きが添えられ、炭火の香りが食欲をそそる。

 ダンテはペラペラと語り始めた。

 

「私がお出しするのはフィレンツェ名物のビステッカ・アッラ・フィオレンティーナでございます。ロース肉とフィレ肉を塩と胡椒でカリッと焼き上げました。バルサミコ酢とオリーブオイルをかけて召し上がってください。付け合わせはポルチーニ茸ですね。ちなみにポルチーニ茸には四つの種類があり、今回はその中でも最も美味しいとされるボエタス・アエレウスを使用いたしました。ただ、この辺りの評価は専門家の間で意見が分かれるところで、栗の木に生えたボエタス・エスティヴァリスが最高と言う人もおり、さらに見た目の面も考慮すると───」

「ポルチーニ茸小話はその辺にしてもらって良いですか、ダンテさん。まるでプロみたいなお手並みですけど、何か事情が?」

「ええ、放浪生活を送っていた時は自分で作るしかなかったので。それと子どもたちにはよく手料理を振る舞っていましたよ」

「なるほど。ダンテさんの時代は家で雇った使用人や奥さんが家事を担当しているイメージが強いんですが……ジェンマさんはそういうことはしなかったんですか?」

 

 ロマンが気軽に放った質問はダンテを震撼させた。彼は肌の色を青白くして、ガタガタと震え出す。

 

「じ、ジェンマの料理ですか……? ハハッ、アレは食への冒涜です! 海底の泥と便所の土を悪魔合体して大腸の中身をふりかけたみたいな味ですからねえ!!」

「……えー、どうやらダンテさんのトラウマを刺激してしまったようなので、審査員は実食に───」

「「「おかわり」」」

「もう食べ終わってる!!?」

 

 ステーキときのこが盛り付けられた皿の上はさっぱり綺麗になっていた。料理そのものが持つポテンシャルもそうだが、ダンテの腕前がそれを引き出した結果である。

 ノアたちはナプキンで口を拭いてプレートを取り出した。

 

「「「普通に美味くてムカつくので0点」」」

「なんでですかァァ!! おかわりまで要求しておいてそれは通用しませんよ!」

「10点でも良かったんだけどな。肉食ってる時にお前のドヤ顔がチラついて純粋に楽しめなかった」

「私は薀蓄は聞くよりも語りたい派だから」

「黒党の奴らに受けた裁判くらい酷い判定なのですが!?」

 

 騒ぐダンテをマシュは引きずっていく。一応最下位は免れたという姑息な優越感が今のマシュを支配していたのだった。ロマンは強制退出を見届け、司会を続行する。

 

「それでは三人目、Eチームのメイン火力ジャンヌちゃんお願いします!」

 

 その直後、不気味な爆発音が鳴り響き、厨房から黒々とした煙が立ち込める。この場の誰もが犯人としてジャンヌの顔を思い浮かべた。Eチームのメイン火力とは決してそういう意味ではない。

 煙の中から、煤に塗れたジャンヌが咳き込みながら現れる。爆風を間近で受けたのか、髪の毛が三度寝した後みたいに乱れていた。

 両手で抱え込むようにして持っていたお盆を審査員の前に叩きつけると、ペレアスは恐る恐る蓋を開けた。その瞬間、濃厚な焦げくささが鼻の奥を貫く。

 そこにあったのは平たい球体のような炭の山。かろうじて在りし日の形が残っているものの、あまりにも黒く焼けているせいでそれが何であったのかは見当もつかない。

 ノアが右手の人差し指と親指で炭のひとつを取り上げた途端に、それはぼろりと崩れ落ちた。

 

「……何だこれ。まっくろくろすけか?」

「………………エスカルゴですけど。何か文句でもあんの?」

「どこがエスカルゴだァァァ!! エスカルゴっうかただのカタツムリの火葬現場だろうが!! 珍味っうかゴミだろうが!!」

「食べる前から決めつけないでくれます!? ちょっと火力をミスっただけで、無事なやつはいくつかあるはずですから! 食べないと燃やすわよ!?」

 

 めらめらと炎をたぎらせるジャンヌに威圧され、審査員たちはしぶしぶ実食に移ることにした。炭と灰の山を掻き分け、どうにかして食べられそうな哀れなカタツムリを選び取る。

 中身をフォークでえぐり出し、口に突っ込む。ざりざりとした炭の感触とゴムのような身が奇跡的な不協和音を奏でていた。

 

「戦場で食わざるを得なかった雨水と泥まみれになった干し肉よりは食えなくもなかった。1点」

「論外」

「⧿800000000点」

「えー、では、ペレアスさんの甘口評価もあって合計得点は⧿799999999点ですね。すぐに立香ちゃんを呼びましょう。口直しのために」

「ぐ、ぐぬぬぬぬうううう……!!」

 

 今回初めての真っ当な評価だった。どこに悔しがる要素があったのか、ジャンヌはぎりぎりと歯を軋ませながら下がっていく。

 ロマンは食堂の換気装置を最大限に稼働させる。煤けた空気が一瞬にして浄化された。カタツムリたちの怨念は未だその場に留まっているが。

 立香はじっくり煮込んだシチューを運びつつ、この状況を好機と確信する。

 炭化したカタツムリを口にした後は何を食べても美味しく感じるに違いない。さながらブッダが断食の後に乳粥を食べて苦行を放棄したように。

 ノアたちは次々に水をあおっていた。その光景を見て、立香はどきりとする。

 美味しいと感じてほしい。

 ───誰に?

 それは、たぶん、もう決まっていた。

 

(クレアおばさんよ、私に勝利を!)

 

 この時、彼女の中ではクレアおばさんはマルタやジャンヌに並ぶ聖人として崇められていた。そこはかとなくとばっちりである。

 立香はシチューを注いだ皿を三人の前に並べて言う。

 

「藤丸立香とクレアおばさんの合作シチューです! ずずいっとお召し上がりください!!」

フォフォウ(お酒かな)?」

「ようやくまともなのが出てきてボクは安心だよ」

「いや、私のもまともでしたよねえ!?」

 

 ダンテの悲痛な叫びは誰にも届くことはなかった。所詮はジャンヌの前フリ、彼に構っている余裕などないのだ。

 審査員たちは黙々とスプーンを動かし、プレートを手に取った。

 

「嫁の料理に似てるので10点」

「私は8点かな。横に倒して∞とかはないよ?」

フォウフォフォウ(まるで八丸くんみたい)

「…………そ、それでノアくんはどうだい?」

 

 ロマンに促されるも、ノアは無言のまま遠くを眺めて黙りこくっていた。皿の上にあったシチューは綺麗に腹の中に押し込められている。

 立香はからかうような笑顔で、

 

「あれ? あんなに辛口だとか言っておいて全部食べてるじゃないですか! やっぱりこれは私の腕がなせる技ですね! さあ、採点をどうぞ!!」

「…………おまえの態度が気に入らないので0点」

「態度が0点ということは味は良かったんですか? 良かったんですよね? おかわりよそってあげましょうか? まだまだいっぱいありますよ?」

 

 しつこく煽ってくる立香に、ノアは額に青筋を立てて言った。

 

「じゃあ、クレアおばさんに10点」

「くっ……往生際が悪いですね! クレアおばさんと私はもはや一心同体、切っても切り離せない関係ですから! 実質それは私の10点です!!」

「まさか先輩がクレアおばさんのデミサーヴァントだったとは、嬉しいです。目から鱗が落ちました」

フォウフォフォフォウ(クレアおばさんとは一体)……!?」

 

 話題がクレアおばさんの哲学論に移りかけた時、ロマンは両手を鳴らして場を収める。

 

「何はともあれ、優勝者は決定しました! クレアおばさんの分を差し引いたとしても、18点で立香ちゃんの優勝だ、おめでとう!」

「えーっ!? なんだか釈然としない!!」

 

 ロマンが立香に王冠と赤いマントを被せる。あまりにもレベルの低い大会だったが、優勝は優勝だ。そこらじゅうからまばらな拍手が巻き起こった。

 敗者たちはせめて惜敗感を出すために、腕を組んで言い訳を述べる。

 

「先輩より優れた後輩など存在しない……わたしが負けるのは必然だったようですね」

「今回は審査員に恵まれませんでしたねえ。私、昔から地元では負け知らずだったので」

「どんな世界でも勝負はひとつのミスが命取りになるってことね。火力さえ間違えなければ私の優勝だったわ」

「「いや、それだけはないです。それだけはないです」」

「うっさいわ!! 二回も言うな!!」

 

 そんなこんなで、料理対決は幕を閉じた。

 最終順位は一位が立香、二位がマシュ、三位がクレアおばさん、四位がダンテで、ダントツビリがジャンヌという結果だ。次回の優勝候補はクレアおばさんとの見方が強い。

 ロマンとペレアスは祝宴を眺めて、

 

「そういえば、立香ちゃんの料理が嫁に似てるってどういう意味なんです?」

「そのままの意味だよ。あれからは真心とか……そういうものを感じた。たまにはロマンチックなことも言っとかねえとな」

「それって、つまり───」

「そっから先を言ったら野暮ってもんだ。こういうのは口に出さないのが粋だろ?」

「……そうですね。なおさら、魔術王を倒さないと」

 

 ロマンの瞳に薄い影がかかる。ペレアスはそれを流し見ると、わざとらしく声をあげた。

 

「ああ、野暮といえばオレのスープに血が入ってたことがあってな。それは実は嫁が……」

「ぐっ、せっかく良い感じで終われそうだったのに!!!」




・虹蛇のステータス
クラス:アヴェンジャー
真名:虹蛇
属性:中立・悪
ステータス:筋力 A 耐久 EX 敏捷 EX 魔力 A+ 幸運 C 宝具 A++
クラス別スキル
『復讐者:A』……復讐者として、人の恨みと怨念を一身に集める在り方がスキルとなったもの。周囲からの敵意を向けられやすくなるが、向けられた負の感情は直ちにアヴェンジャーの力へと変化する。
『忘却補正:A++』……人は多くを忘れる生き物だが、復讐者は決して忘れない。忘却の彼方より襲い来るアヴェンジャーの攻撃はクリティカル効果を強化させる。
『自己回復(魔力):B』……復讐が果たされるまでその魔力は延々と湧き続ける。微量ながらも魔力が毎ターン回復する。
固有スキル
『蛇神の神核:A』……神性スキルを含む複合スキル。仮に虹蛇そのものが召喚された場合はEXランクとなるが、アヴェンジャーのクラスに押し込められたので、Aランクに留まっている。
『地に恵みを:A』……虹を由来とする創造と雨の蛇神が持つ権能。雨を呼び寄せ、豊穣をもたらす。その雨は生物の傷を癒やし、植物の成長を促進させる。また、降雨中の虹蛇はたとえ致命傷を受けてもたちどころに治るほどの再生力を有する。耐久がEXなのはこのスキルの恩恵。
『天に災いを:A』……虹を由来とする創造と雨の蛇神が持つ権能。旱魃を引き起こし、大地に死をもたらす。『地に恵みを』が虹蛇の善性を表すなら、こちらはその逆。周囲の気温を急激に上昇させ、大地を干上がらせる。その範囲ではマナさえも死に絶えるため、魔術や魔力を利用した攻撃は威力が格段に低下してしまう。さらに範囲内の生物の生命力を奪い、自らの攻撃に転用することができる。並のサーヴァントなら寝てるだけで完封できる。並のサーヴァントってなんだ?
宝具
『夢幻の刻』
ランク:A++ 種別:対時空宝具
 ドリームタイム。虹蛇という神格が持つ複数の権能のうちのひとつ。霊基の限界で、この宝具しか持ってくることができなかった。加えて、この宝具自体も不完全なものとなっている。本来の性能なら過去や未来にも翔ぶことができる上、大規模な空間操作もついてくる。フルスペックの場合は世界中の神話や伝承にある虹を象徴する蛇神の権能を全て扱える。その上、止まった時間の中を光速で動きながらワープする芸当も朝飯前。そこまでして戦う敵はいるのか。
 オーストラリア、アボリジニの人々は過去と未来の概念を持たない。彼らにはただ現在のみがあり、そこに時間の連続性はない。真名を解放することで虹蛇は止まった時間の中を動くことができる。つまりは、現在という一瞬にも刹那にも満たない時間を引き伸ばす能力。また、真名解放をせずとも、ごく短時間の時間停止が可能。敏捷がEXなのはこの宝具のおかげ。
 ドリームタイムの他の宝具は、あらゆる植物と動物を産むものや、季節と天候を概念的に支配するもの、脱皮することで直前に受けた攻撃を克服して再生するものなどがある。どれも相応に強力だが、神殺し不死殺し竜殺しが天敵なので割と弱点を取られやすい。虹という自然現象を象徴する虹蛇はその性質上、世界中のどこでも最大限の知名度補正を受けることができる。虹を知っていれば虹蛇を知っていることになるインチキ理論。今日から君も虹蛇博士だ。ずいぶん勉強したな…まるで虹蛇博士だ。


 虹蛇に人間形態があるのは、他に考えていたfateの二次創作で主人公のサーヴァント兼ヒロインの候補だったため。
 神は何らかの概念に人格を与えられ、祀り上げられて神になるというプロセスを取る。つまりは概念→擬人化→神格化。虹蛇はその過程を行き来して人間の姿になれる。故にエジソンの宝具を受けた時は信仰を剥奪され、強制的に擬人化のところに戻されたので人間になった。もう一度宝具をくらった場合は消滅していた。
 原作の登場人物で例えるならお竜さんのような感じだろうか。


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第六特異点 輝けるアガートラム 神聖円卓領域・キャメロット
第47話 最果ての地に騎士は集う


あけましておめでとうございます。
六章だけ主役はペレアスになります。地味な彼の派手な活躍を見てあげてください。


 ───()()()()()()()()()()()

 ブリテン、辺境の城砦。

 王は正しい。

 王は間違えない。

 戦えば勝ち、弁舌を振るえば民心を掴む。

 この島を治める王とはそういうモノだった。そして、その下に集いし騎士たちもまた王によく付き従い、その采配を遺漏無く成し遂げた。

 だが、正しいだけでは、間違えないだけでは、この世界は回らない。時として人は誤りと知っていても、その選択を取らざるを得ない場合がある。

 その城砦にいたのは、そういう人々だった。

 度重なる不作。終わりの見えぬ異民族の襲来。枯れた土地をそれでも守り育て、ようやく芽吹いた命が無慈悲に奪われる。

 それを繰り返すこと三度。彼らの心は萎え、最後に残った遣る瀬無さを糧に、人々は立ち上がったのだ。

 砦を占拠するところまではうまくいった。僅かな兵糧と腹の足しにもならない武器を得て、王からの援助を乞うために立てこもる。

 その反乱はひとりの騎士の手によって、ものの数分で終わりを告げた。

 

〝あー、ウチのアホ共に告ぐ! 全員ありったけの食料を持って入ってこい! オレらはこっから飲まず食わずでキャメロットに帰るからな、覚悟しとけ!!〟

 

 砦に備え付けられた尖塔の屋根の上から声を飛ばす騎士。

 鮮やかな金の髪に透き通る湖面のような碧眼。今よりもほんの少し青臭い顔をしているが、間違いなくその男はペレアスだった。彼は騎士の誇りたる剣を佩いてもおらず、鎧を着てもいなかった。

 敵を殺す刃と身を守る鎧。その双方なくして、彼はここにいた人々を鎮圧せしめたのだ。

 砦の外で待機していたペレアスの部下はせかせかと準備を始める。その内のひとり、じとりとした目つきの男が指揮を執りながら言った。

 

〝副指揮官として皆の意見を代弁させてもらいます。騎士の癖に一切の武装をしてないのはどういう了見ですか。カッコつけですか、イキってるんですか〟

〝剣を使うのは敵に対してだけだ。この人たちは王の国民であって敵じゃねえ。だったら、防具もいらないって寸法だ〟

〝騎士っぽい建前だけは上手くなりましたね。王妃様の護衛を務めていた経験の賜物ですか。この私、感服いたします〟

〝騎士っぽいじゃなくて騎士なんだよ! しかも、ついこないだ円卓にも座りましたァ!! 知ってるか、あそこめっちゃピカピカなんだぞ!〟

 

 副指揮官はペレアスに背を向けると、ぼそりと呟く。

 

〝番外位なんてよく分からない席で調子乗って……〟

〝おい何か言ったかぶっ飛ばすぞ〟

 

 尖塔の上で苛立ちを募らせていると、後ろから軽薄な声がかかった。

 

〝やあ、ペレアスくん。円卓の騎士就任おめでとう!〟

 

 振り返った先には白いローブを着た花の魔術師。得体の知れない笑みを浮かべたマーリンの表情を視界に入れて、ペレアスは困ったように頭を掻く。

 

〝マーリン……さん〟

〝おや、さん付けで呼んでくれるのかい? 最近は私に敬意を払う人もめっきり少なくなってね。これからもそうして貰えると助かるよ。どうせだったら、マーリン様でもマーリン殿でも構わないよ?〟

〝じゃあマーリンで〟

〝あれ、敬意が消え失せた……!?〟

 

 ペレアスはこれみよがしにため息をついて、屋根に座り込む。彼の胸中を察するまでもなく、マーリンへの敬意や遠慮といったものは失われていた。

 さすがの花の魔術師も説得は無駄と感じたのか、彼の横に腰を落ち着ける。ふわりと漂う花の香りが風に乗って運ばれていく。

 

〝小規模とはいえ、徒手による反乱の無血鎮圧。これで王都に住まう者以外の人間もキミの実力を認めるだろう。……とはいえ、なぜ殺さなかったんだい? そちらの方が手っ取り早いと言うのに〟

〝オレは騎士なんて大層な称号はあっても所詮人殺しだ。けどな、一応は誇りを持ってるつもりだ。見境なく殺すなら悪魔にでも任せれば良い。そもそも、民に裁きを下すのは王であってオレじゃないだろ〟

 

 マーリンは緩やかに口角を上げる。

 

〝───それは王が彼らを殺してもやむなし、とも聞こえるけど?〟

 

 ペレアスはさも当然のように答えた。

 

〝この国で正しいのは王だけだ。王だけが正しい。あの人がそうと決めたならオレに文句はない〟

 

 その瞳に嘘はない。

 王だけが正しいというのは、裏を返せば他の誰もが間違いを孕んでいるということだ。自らをも否定する言葉を、彼はさらりと言ってのけた。

 ペレアスは鼻を鳴らして苦笑する。

 

〝まあ、その正しさもこの国にとっての正しさだ。視点が変われば正しさも変わる。全ての人間が救えるはずがない。救世主サマが現れでもしない限りな〟

〝……くくっ。似てる、似てるなあ。キミは王への忠誠の形という点において、番外位前任者と全く同じだ。性格は全く違うのに、不思議だよ〟

 

 一口に忠誠と言っても、それには種類がある。主君への尊敬、盲従、崇拝、憧憬……抱く感情が一定の形に出力される機構が身分関係であるが、その根底には確かに各人の色が存在する。

 マーリンはその心映えを見透かすように言う。

 

〝番外位の役割は遊撃。王の利益だけを考えて己を殺す潰れ役。……うん、どうやらキミが相応しかったようだ。さて、満足したことだし私は帰るよ〟

〝勝手に納得して勝手に帰るなよ。忠誠の形なんて言われてもオレは少しも理解できてないぞ〟

〝それは自分で考えるべきだ……と言いたいけど、面白そうだから教えてあげよう〟

 

 妖しく目を細める花の魔術師。

 その仕草には微塵の熱も篭っておらず、鋭い鋼の刃のような冷たさだけがあった。

 

〝ある存在をこういうモノだと規定し、滅私の奉公を捧げる。そのカタチはまるで─────〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カルデア、中央管制室。

 人類史に穿たれた特異点の楔を五つ打ち砕いてきたカルデアは、ついに六つ目のそれに手をかけようとしている。この戦いもいよいよ終盤戦に入り始め、ロマンはいつになく闘志を燃え立たせていた。

 しかし、彼は知っている。自分が気合いを入れれば入れるほどに、アホ面が揃いも揃ったEチームは確実に裏切ってくることを。

 そのためにロマンはいくつかの手を打ってきた。マスターたちに開いた歴史講座ではさりげなくやる気のない風を装ってみせたり、Eチーム全体の会議ではできる限りふにゃついた喋り方を心掛けてみたりといった具合だ。

 天邪鬼な彼らはこれで真面目になるに違いない。他にもっと力を入れるところがあったのではないかと思えてくるが、ロマンはその考えを即座に深海に叩き落とした。

 奴らは期待すればするだけそれを裏切ってくる悪魔のような連中だ。ロマンは首元を締め直すと、短く息を吐いて管制室の扉を開ける。

 そこで、彼は思わず尻餅をついた。

 視界を埋め尽くす、円錐形の装甲を持つ戦車。その下部にはぐるりと一周するように大砲の口が迫り出している。

 不思議と、ロマンにはそれに見覚えがあった。ルネサンス期、とある万能の天才が設計図に起こした発明品のひとつに、似た兵器があったことを思い出す。

 彼は額に青筋を立てて叫んだ。

 

「なんてモノを作ってるんだダ・ヴィンチィーッ!!!」

 

 円錐の先端がぱかりと開いて、ダ・ヴィンチの上半身が飛び出す。

 

「そう言われたなら答えるしかあるまい! 生前は日の目を見ることがなかった私の傑作が、ノアくんの無属性魔術の力を借りてこうして実体を得たのさ!」

「それはおめでとう! すぐにその粗大ゴミをしまってくれ!!」

「これを見て粗大ゴミだとぅ!? 目が腐ったかロマニ! この美しさを理解できないとは……!!」

「いや、『ぼくのかんがえたさいきょうのへいき』を図面から出されても困るっていうか……どこで使うんだこんなもの」

 

 ダ・ヴィンチが生前図面に描いた発明品は、そのほとんどが現実になることはなかった。発明を形にする作り手がいなかったことがダ・ヴィンチ最大の不幸とする見方もあるが、単にぶっ飛んだ発想に当時の技術力が追いついていなかったのであろう。

 しかし、現代に召喚されたダ・ヴィンチはカルデアの技術力とノアという悪魔の協力者を得てしまった。この組み合わせは塩素系漂白剤に酸性洗剤を混ぜるようなものである。

 ロマンがダ・ヴィンチの装甲車に目を奪われていると、いつの間にか背後に回り込んでいたノアがわざとらしいため息をついた。

 

「おいおい、ロマンなんてアダ名してるくせに男のロマンが分かってねえようだな? こういうのは実用性じゃねえ、好奇心が満たせたかどうかなんだよ。ジオングに足付け足してみたりな」

「そうそう、キミだって粘土で理想の女体を作ったことくらいあるだろう? あのほとばしる熱いパトスを思い出せ!」

「やったこと無いけど!? 中学二年生男子の美術制作じゃないんだから!」

「いざ作ろうとすると自分の下手さに絶望して投げ出したくなりますよねえ、アレ」

 

 装甲車の裏で話を聞いていたダンテはひょっこりと現れて同意した。彼に続いて残りのEチームメンバーも芋づる式に顔を出す。

 全員が全員不測の事態に慣れ切った面子だ。管制室の真ん中に巨大な戦車があることなどいちいち気にしてはいられない。

 立香(りつか)は戦車の表面を右の人差し指でつついて、

 

「魔力まで通ってるじゃないですか。この気合いの入れよう、今回はダ・ヴィンチちゃんの本気が見れるということですね!」

「その通りさ立香ちゃん! 私の精神テンションは今、モナ・リザを描いていた時に戻っているッ! なんたって今回は私もレイシフトに同行するからね!」

「俺とタメを張る天才がひとり追加、か。これはもう勝ったな。どんな相手が来ようと秒殺だ。なんなら今回は丸々スキップしても良いぞ」

「し、心配すぎる……!!」

 

 ロマンはだらだらと冷や汗を垂れ流した。Eチームとダ・ヴィンチの化学反応が何を引き起こすのか、彼には予想がつかない。

 そう、第六特異点のレイシフトにはダ・ヴィンチも同行するのだ。普段は右往左往するロマンを肴にお茶を飲むのが仕事だが、今回はEチームと共に戦うのが仕事だ。

 巨大戦車を建造したのもそのやる気の表れなのだろう。もっと有意義なものに労力をかけてほしかったところだが。

 ジャンヌは装甲車に背中を預けて、ダ・ヴィンチの顔をじとりと見上げる。

 

「アンタがいきなり参戦なんて、どんな風の吹き回し? 魔力は誰が持つのよ」

「俺だ。地味なペレアスと宝具しか使いようのないダンテはその分省エネだからな。そこにダ・ヴィンチが加わったくらい大したことねえ。メロンソーダの上にアイス乗っけたみたいなもんだな」

「それはだいぶ変わりますよ! メロンソーダとクリームソーダは別次元の存在ですからね! 進化形ですらないです!」

「マスター二人の食への貪欲さは相変わらずだねえ。それで、私が参戦する理由については……」

 

 ダ・ヴィンチはマシュとロマンを流し見る。マシュはこれみよがしに眼鏡を持ち上げて呼応した。

 

「はい、いつものブリーフィングですね。今回わたしたちがレイシフトするのは十三世紀のエルサレムです。内ゲバを極めた第九次十字軍がぐだぐだした終わりを迎え、西洋諸国への防波堤である十字軍国家を全て失った時代となります」

「エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとっての聖地だ。そして、非常に危ういながらも現代までかろうじて形を残してきた遺産でもある。人類史を脅かす上で、エルサレムほど効果的な場所はないだろう」

「…………それが、ダ・ヴィンチがついてくる理由? そんなに信心深い人でしたっけ」

「う〜ん、そこら辺はデリケートな話になるからノーコメントにするとして、理由は全く別だよ」

 

 ぱちんと指を弾くと、飛び出す絵本を閉じるみたいに装甲車がぱたぱたと畳まれていく。ロマンはどんな超技術だと文句をつけたくなったが、ロクな回答が得られないことを予見して口をつぐんだ。

 邪魔な巨体が消え、管制室の中央に鎮座するカルデアスが剥き出しになる。地球の魂をコピーした疑似天体、そのエルサレムのある地中海地域周辺だけが削り取られたように消えかかっていた。

 地球のコピーであるカルデアスに現れた傷は、そのまま実物の地球に刻まれつつある傷だ。ロマンは地球表面の瑕疵を眺める。

 

「現在、エルサレムとその周辺地域は空洞化しかかっている。この現象を止めない限り、たとえ定礎復元を成し遂げたとしても人類史には多大な被害が及ぶだろう。今までとは全く異なる事態を鑑みて、人理定礎値は文句なしのEXだ」

「そんな訳だから私も助太刀に入ろうと思ったのさ。少し、大分、かなり好奇心があることは否定しないけどね!」

「少しは隠そうという気概がないのですか?」

「最近のマシュマロなすびにしてはまともにツッコんだわね。ま、大体分かったわ。トラブルメーカーがひとり増えて胃が痛いってことがね」

 

 ジャンヌは茶化すような語気だったが、その芯には切実な想いが滲んでいた。Eチームの中では常人よりの感性を持つがゆえの苦悩だ。

 エルサレム。宗教観の薄い日本出身の立香でも、その場所は知っている。と言ってもロマンが話した以上のことは知らないが、宗教的政治的にデリケートな場所という印象を持っていた。

 立香はノアの側に寄る。

 

「リーダーは世界中旅してたみたいですけど、エルサレムには行ったことあるんですか?」

「一回だけ行ったことはある。キリスト教徒のフリして観光してたら、聖堂教会の代行者にバレて追いかけ回されたがな」

「ノアくんの辞書に平穏という文字はないのかい? 聖堂教会と魔術師は今でも水面下で殺し合いを続けてる犬猿の仲だぞ!?」

「それで俺も周辺の魔術師にそのことをチクってやったら、他宗教も巻き込んで危うく聖墳墓教会が全焼しかける事態に───」

「全焼しかけるってことは燃えたんですか!? ちょっとは燃えたんですか!? 聖墳墓教会って言ったら救世主が復活した場所ですからね!?」

 

 敬虔なキリスト教徒であるダンテは頭を抱えて絶叫した。

 エルサレムは二度に渡るユダヤ戦争によって破壊された経緯がある。聖墳墓教会が本当に救世主の墓のあった場所かどうかは定かではないが、それでも信仰的には重大な意味を持っている。

 そんな場所が自らのマスターの手によって崩壊しかけていたという事実。ダンテの心中は推して知るべしだろう。

 マシュはショックに悶えるダンテに冷たい視線を差し向けて言った。

 

「それでは、今回もあまり役に立たないであろう『暗黒の人類史』情報をダンテさんに聞いてみましょう。どうやら現世で本人の顔を見ないと真名も思い出せないようですし」

「そ、そうですねえ。かなり個性的な男性というか……生前の鎧のデザインに飽きたとかで知恵の女神に服を作ってもらってましたね。知恵の女神は知恵の女神で裁縫が上手でした」

「本当にどうでもいい情報じゃない。服にこだわりがある人物なんて腐るほどいるでしょう。どれくらい強そうとか分からないの?」

 

 ジャンヌは至極真っ当な指摘をする。

 知恵の女神による召喚というイレギュラーな状況に置かれてなお、服をねだる精神力は中々の強者には違いない。

 

「それが、私には武術を身につけた人の強さが理解できないんですよねえ。柔道を極めた人は握手するだけで相手の実力が分かったり、歩き姿だけで体幹のバランスを見抜いたりするそうですが……ほら、私はご存知の通りアレなので」

 

 ダンテはもごもごと言い淀んだ。

 確かに、武人の強さというのは達人同士でしか伝わらない部分がある。剣の振り方ひとつ取っても、凡人と達人ではそこから得られる情報は全く違うだろう。

 自然の暴威そのものを体現したオティヌスや虹蛇は台風や地震のようなもので、誰の目にも強さが明らかに見て取れる。そのため、前回と前々回は多少なりとも有益な情報を出すことができたのだった。実際役に立ったかは別として。

 そこで、彼らは今まで一声も発していない男がいることに気付く。

 その男の名はペレアス。普段は騒がしいはずの彼は鬼気迫る真剣な顔で佇んでいた。

 立香はその姿を見て、ごくりと息を呑む。

 

「ペレアスさん、いつもより断然気合いが入ってますね……!! 心なしか派手さがアップしてる気がしますよ!」

「マーリンさんが読んだ手紙によると、この特異点に奥さんがいるそうですからね。これは期待できると思います」

「愛の力は人を強くするって言うものね。少しでもまともになってくれるのを期待してるわ」

 

 Eチーム三人娘のコメントを受けてなお、ペレアスは微動だにしなかった。立香とダンテは冷えて固まったようになる彼を両側から揺さぶる。

 

「……あの、聞いてますペレアスさん? マシュとジャンヌがこう言ってくれることなんてそうそうないですよ?」

「そうですよ。せっかく妻に会えるかもしれないというのに、ペレアスさんらしくないですよ。いつもの嫁バカを発揮してみせてください」

「───()()()()()()()

 

 ペレアスはぼそりと呟いた。

 この場の全員が首を傾げたその時、彼は堪忍袋の緒が切れたように喋り出す。

 

「いいやこれは予感どころじゃねえ、確信だ! なんか……加護が発動しててめちゃくちゃ動きづらい! 間違いねえ、今回の特異点にはランスロットがいるぞ!!」

「待てペレアス。おまえの加護が発動してるってことはランスロットは───」

「───敵にいるってことだね! 円卓最強の騎士が敵とは、さしもの万能の天才も少し嫌になってきたぞぅ!」

「も、もうすぐレイシフトの時間だからペレアスさんをコフィンに詰め込もう! ひとりだけ取り残されるなんて洒落にならないぞ!」

「なんでまたお前が敵になってんだランスロットォォォ!!!」

 

 ノアたちは石像と化したペレアスをぐいぐいとコフィンに押し込んでいく。ペレアスにはフランスで加護が発動し、竜を目の前におあずけされた過去がある。その時はレイシフト中の出来事だったから良いものの、そもそも特異点に行けないという事態は何としてでも避けなくてはならない。

 おもちゃ箱の奥底で放置されていた仮面ライダーのような姿勢でコフィンに閉じ込められたペレアス。ダ・ヴィンチは一息つくと、ボタン型の機械と手のひら大のモニターを取り出した。

 ボタン型の機械は七つ、モニターは二つ。前者はEチーム全員に、後者はマスターコンビに手渡される。

 立香は怪訝な顔でモニターと機械を弄った。

 

「何ですか、これ?」

「発信器と、それを読み取るレーダーだね。これまで互いの位置が分からなくて苦労しただろう? それさえあれば発信器の場所からみんなの位置が特定できるってわけさ。通話機能はないけどね」

「さすが万能の天才ダ・ヴィンチちゃんですね! どうせならもっと早く作ってくれれば良かったのに!」

「ははは、それは言わないお約束だよ立香ちゃん! あ、ちなみに発信器は電気に弱いから、くれぐれも注意するように!」

 

 電気に弱くない電子機器など存在するのかと誰もが思った。ともかく、これが有用なことは確かである。オケアノス、ロンドン、アメリカとはぐれてきたEチームには必要なものだ。

 立香はダ・ヴィンチから受け取った機器を仕舞い込むと、ノアの顔を見上げてはにかんだ。

 

「今回もたぶん、また合流からですね。リーダーが来てくれるのを待ってます。もちろん、私からも探しに行きますけど」

 

 ノアは一瞬、唇を切り結び。

 

「……ああ、おまえはいつも危なっかしいからな。上司としての役目は果たす。だから」

 

 自分にだけ囁くような声。

 自分だけを見つめる蒼い瞳。

 

(そんな表情─────)

 

 それを見せられて。

 わけもわからず、胸の奥が沸き立った。

 

「何度でも、おまえを迎えに行ってやる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこは、命という命が死に絶えた無人の荒れ野だった。

 ただただ、骸だけが散らばる死の地平。

 未だ燃える野火はその土地に舞い降りた災いの苛烈さを今なお物語る。灰色の地面を闊歩する人影は全てが亡者。怨念と無念に取り憑かれた行き場なき魂が当て所なく彷徨う辺獄。その彼方には、絢爛なる白き都が燦然と輝いている。

 一度その地に足を踏み入れれば最後、亡者に骨の一片血の一滴までをも喰らい尽くされるだろう。

 死が死を産む叫喚の荒野はいま、死者の叫びすらも塗り潰す轟音に包まれていた。

 

「『我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)』ァァーーッ!!!」

 

 災厄の赤雷が奔る。

 天を焦がし、地を焼く魔の雷。四方八方へと縦横無尽に繰り出されるその様相はまるで、生命が生まれ得ぬ原始の地球を再現したかのようであった。

 雷雲の内部をも凌駕する密度の電撃はしかし、獲物を掠ることすらない。静と動を組み合わせた最小限の体捌きでことごとくを躱し、叛逆の騎士へと接近していく。

 真紅の甲冑を纏った双剣の騎士。両腕をだらりと垂れ下げ、土を舐めるような前傾で野を駆け抜けるその姿は、もはや人間のカタチをした獣だった。

 叛逆の騎士の直感は絶え間なく警鐘を打ち鳴らしていた。これは掛け値なしの全力、王より与えられた祝福が実現した宝具の連続発動だ。

 が、それを以ってしても敵には届かない。両手の剣を一度足りとも振るうことなく、ヤツは距離を縮めている。

 白銀の刃に超高熱の赤雷が凝縮される。近付かれるのならそれでいい。打ち合うと同時に雷撃を解放し、そのまま焼き尽くす───!!

 

「───生温い」

 

 左の刃が閃く。

 クラレントの剣先を殴りつけるような軌道を描き、雷電が明後日の方向に解放される。剣柄を握る両手が途轍もない衝撃に震え、皮膚の感覚が消し飛んだ。

 叛逆の騎士は瞠目する。

 切っ先を狙ったとはいえ、片腕の振りのみで斬撃の軌道を捻じ曲げる膂力。しかも一瞬にして敵の意図を見抜き、先の先を取ってみせたのだ。

 双剣の騎士が右の剣を振り上げる。痺れた両腕では防御は不可能。一歩退くより早く、右の剣柄が叛逆の騎士の兜を打ち砕く。

 破片が辺りに散らばる。叛逆の騎士の相貌が露わになり、モードレッドは吼えた。

 

「てめえ……なぜ斬らなかった。情けをかけたつもりか!!」

 

 魔力放出。その踏み出しは初速から音の壁を超え、無数の斬撃を空中に走らせた。対する双剣の騎士は一歩も動くことなく、二刀を以って剣戟を凌ぐ。

 否、凌ぐどころではない。モードレッドを上回る力と技巧で刃を跳ね返し、強引に隙を作り出す。瞬間、踵が飛び、叛逆の騎士を吹き飛ばした。

 真紅の甲冑の奥底から灯る眼光がモードレッドを射抜く。

 

「貴様の顔……大方、あの魔女の仕業か。───哀れな」

 

 叛逆の騎士は呪詛のように、

 

「───殺す……!!!」

「だが」

 

 双剣の騎士は腹の底から湧き上がる忌々しさを吐き捨てるように言った。

 

「その剣は王のものだ。貴様が手にして良いものではない」

 

 ばぢり、と空気が弾ける。

 その根源は二刀の片割れ、左の剣。

 純白の刀身を這う黄金の電閃。それは瞬く間に勢いを増していく。

 

「去ねよ、王権の簒奪者」

 

 切っ先が天を突き、大雷が落ちる。

 黄金の輝きをたたえる雷の一刀を前に、モードレッドは頭に上り詰めた憤怒をも忘れて目を剥いた。

 

「『雷光耀う(エクスカリバー)─────」

「てめえ、その剣はまさか───ッ!!!」

 

 言い終わるより早く。

 黄金の極雷が、解き放たれた。

 

「─────勝利の剣(コールブランド)』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茫漠たる熱砂の世界。

 レイシフト直後、視界に飛び込んできたのはどこまでも広がる砂漠と砂嵐だった。

 どうせ最初の流れは決まっている。マスターたちは離れ離れになり、そこからドタバタしつつ合流を目指さなくてはならないのだ。

 マシュは意気込むように両の拳を握り締める。

 

「先輩、ジャンヌさん、気合い入れて行きましょう! 特異点修復の流れはもはやテンプレ化していますので、わたしたちならRTAをキメることすら不可能ではありません! わたしのチャート通りに行けば魔術王もワンパンです!!」

「はい、よーいスタート……ってなるかァァ! これ一応世界を救う戦いですから! どうして訳もなく時間に追われなきゃならないのよ!?」

「よっしゃあ体が動く! ランスロットがいようが知ったことか、嫁に会えることに比べたら屁でもないぜ! 今のオレは文句なしに最強だ! ノア、ダンテ、行くぞ!!」

「ペレアスさんが調子に乗ってるのが不安ですが、いつものように嘆きの騎士の本領発揮されるよりはマシですねえ。まずは立香さんたちを探しましょうか」

「「「「…………ん?」」」」

 

 マシュたちは顔を見合わせる。見慣れた顔つきの連中が立ち並び、少し離れた場所にはノアと立香もいた。

 ダ・ヴィンチは手を打ち鳴らしてケタケタと笑う。

 

「いやあ、今回は全員勢揃いで始められるようだね! 私の作った発信器がガラクタと化したのは悲しいけど!」

「最初から勢揃いなのは何気に初めてですねえ。コロンブスさんの船に転移した時からこっち、初っ端はずっとはぐれっぱなしでしたから」

「……もしかしてお前のせいなんじゃねえか? 幸運Eが感染ったんだろ」

「よしんばそうだとしてもペレアスさんも責任を感じてください! どうして私にあなたの幸運A+を感染させられなかったのですか!?」

「ダンテさん、流石にそれは無茶です」

 

 そんなやり取りを遠巻きに眺めながら、立香はぼそりと言った。

 

「…………リーダー」

「…………なんだ」

 

 彼女はニタリと片方の口角だけを持ち上げて、

 

「何度でも、おまえを迎えに行ってや」

「黙れその口縫い合わすぞ」

「大丈夫です、ちゃんと私の心のノートに書き留めておいたんで」

「じゃあ消しゴム貸せ。おまえの記憶ごと過去を消し去ってやる」

「今日消しゴム忘れたんで無理───むぐうおごごごご!!」

 

 ノアは右手で立香の両頬を挟んで力を込める。十秒後、顔のパーツが妙に中心に圧縮された立香は一同に呼びかけた。

 

「よぉし、Eチームは全員揃えば無敵です! さっそくドクターと連絡して方針を決めましょう!」

「先輩。やる気に水を差すようですが、ドクターとの連絡がつきません。砂漠という土地、もしくは砂嵐が通信を妨げていることが可能性として挙げられますが……そもそもこの特異点では通信が効かないというのは考えたくありませんね」

「ダ・ヴィンチちゃんの考えでは砂嵐説が有力だ。ほら、ロンドンの時も霧が通信を妨げていただろう? まずは砂嵐を抜けることを提案するよ」

「そうね。正直、ここで話してるだけでも砂が飛び込んできて鬱陶しいですし……徒歩で行かなきゃならないのが憂鬱だわ」

 

 口と鼻を手で隠すジャンヌ。砂と風はノアの魔術でどうにでもなるだろうが、移動手段だけはそう簡単にはいかない。

 ダ・ヴィンチはニヤリと笑い、某猫型ロボットのような裏声で言う。

 

「しょうがないなぁ〜、ジャン太くんは」

「ダヴィえもんが降臨しましたね……」

フォウフォウフォフォウ(マスコットの座は渡さんぞ)

 

 ルネサンスからやってきた万能の天才は杖の先で足元の砂を叩いた。

 すると、低い地鳴りとともに足元の土が盛り上がり、円錐形の装甲車が飛び出してくる。先程カルデアの管制室を占拠していたお手製の戦車だ。

 

「てれれれってれ〜『抹殺轢殺アーマードカー』」

「名前が邪悪すぎるんですけど!? 二十二世紀はマッドマックスみたいな世界になってるわけ!?」

「ジャンヌさん、よく考えてみてください。二十二世紀といえど人は人……悲しいことに未来の超技術は軍事方面にも転用されているのです」

「あの、子どもたちの夢を壊すようなことを言わないでくれませんかねえ?」

 

 一部から不評が殺到するが、ノアは満足げに頷いた。

 

「ま、この良さは天才にしか分からねえだろうな。こんなアホみたいな見た目なのに厳つい名前してるのとかギャップ萌えの極致だろ」

「お、ノアくんはやっぱりイケるクチだねぇ。この間抜けなフォルムと凶暴な名前のミスマッチ感が良いんだ。もはや存在そのものが萌えといえる」

「どこに萌えの要素があんだよ! 何から何まで殺意の塊だろうが! ギャップが殺意で埋まってるだろうが!!」

「ペレアスさん、いちいちリーダーの妄言に反応してたら話が進みません。とりあえず車の中に入ってみませんか?」

 

 一行はぞろぞろとアーマードカーに搭乗する。

 意外にも車内は真っ当な造りをしていた。一言で例えるならキャンピングカーの内部と言ったところだが、広さとしては一般家庭のリビングをそのまま持ってきたようなものだ。

 マシュはフォウくんを抱いて速攻でソファに寝転がり、むふーと鼻息を吐いた。

 

「中々の寝心地ですね。わたしはここに住むことにします」

「…………そこのマシュマロなすびは置いといて、良い造りなのは確かね。いつもこういう有意義な発明をしてくれれば良いんですが」

「全くですねえ。ダ・ヴィンチちゃんの背後にサタンが見えるようになって久しかったので、少しばかり安心しました。ところで、この車はどうやって動かすんです?」

「ああ、こっちに運転席が───」

 

 そう言ってダ・ヴィンチたちが運転席に目を向けると、既にノアと立香、ペレアスが機器をいじくり回していた。

 ノアはハンドルとシフトレバーを交互に動かして、

 

「なるほどな、大体理解した」

「おい馬鹿やめろ! お前がハンドル握ったら何が起きるか分からねえんだよ! ここは騎乗スキル持ちに任せろ!」

「というか理解したのって今ですよね。今までは理解してなかったんですよね!? リーダー運転免許持ってるんですか!?」

「───フッ。おまえらは何ひとつ分かっちゃいねえようだな。運転に必要なのは免許じゃねえ、心意気だ!!」

 

 重厚な排気音が鳴り響く。

 アクセルは当然ベタ踏み。ダ・ヴィンチちゃん特製魔力炉心を積み込んだエンジンが極限まで稼働し、アーマードカーは発進した。

 空気を切り裂きながら砂漠を爆走する装甲戦車。急激な発進のせいで内臓が浮いた感覚を味わい、立香は虚ろな目になる。

 

「大きい星が点いたり消えたりしている……彗星かな? いや、違うな。彗星はもっとこう、バーッと動くもんな……」

「先輩の精神が崩壊した……!?」

「立香が大人しくなる分には良いけどね。これ何キロ出てんのよ」

「そうだねえ、300キロくらい? 砂漠だから多少遅くなってるとは思うけど」

「それでも新幹線並みじゃない!」

 

 砂漠の景色は代わり映えしない。街中と違って目印になるものがなく、地形の起伏が激しいため、迷いやすい上に体力も使う魔の地帯だ。

 そのため、砂漠を移動する時は必ず案内人をつけるのだが、とにかく砂嵐を抜けることを目的としたEチームには関係のない話だった。

 精神崩壊した立香に代わって助手席に座り込んだダンテは、ノアの見張り役であるペレアスに話しかける。

 

「そういえば、奥さんは砂漠のオアシスにいるそうですが、身の安全は大丈夫なんですかねえ。まだこの特異点の状況も把握できていませんが」

「まあ、心配はいらないだろ。精霊としての力を差し引いてもかなり強いしな。知ってるか、ランスロットに剣技を教えたのは湖の乙女だぞ?」

 

 そこに、耳聡いジャンヌも入ってくる。彼女はその昔、ガウェインとランスロットのいかがわしい本を描いた実績がある。円卓の事情には興味があるのだろう。

 

「湖の乙女はランスロットの義母ですものね。教えてたとしても何ら不思議じゃないわ。アンタのお墨付きなら、かなりの腕前なんでしょう?」

「ランスロットは剣を握って三日で嫁の実力を超えたらしいけどな」

「やっぱり俺と同じ天才の類か。段々とこの特異点が見えてきたな。古今東西の天才が集まる天才特異点と言ったところか?」

「ノアさんの目には幻影でも見えてるんですか? 砂嵐見すぎておかしくなってません?」

 

 その時だった。

 砂嵐の中に二つの人影が見える。

 新幹線ほどの速度で走るこの車を超えようかという素早さで切り結ぶ二つの影。常人には立ち入ることすら許されぬ域の戦いながらも、その趨勢は誰の目にも明らかだった。

 真紅の甲冑に身を包む騎士と、深くフードを被った銀色の義手の騎士。前者が後者を圧倒し、砂漠の地を血の赤で染め上げていく。

 ダンテは顔面を蒼白にする。

 

「第一村人発見かと思ったらガッツリ殺し合ってるじゃないですか!! どうします!?」

「どうするって、どっちが敵なのかもわからないのに決められないでしょ!?」

「ノア、赤い方に突っ込め! フードの方はもう死にかけだ、両方から話を聞き出すぞ!」

 

 ノアは不敵な笑みを浮かべて、

 

「ペレアスの案で行く。ヒャハハハハハぶっ潰れろォォォ!!!」

「「「殺すな!!」」」

 

 高速で疾走する装甲車に先に気付いたのは真紅の騎士。一拍遅れて義手の騎士が察知し、両者は後方へ大きく飛び退いた。

 

「逃がすか!!」

 

 ノアは勢い良くハンドルを回転させる。それに伴って車体がコマのように旋回し、真紅の騎士の方へ直角に曲がる。

 そんな機動をして中の人間に影響がないはずがなく、運転席にいるノアとダンテ以外の人間はごろごろと床を転げまわった。

 

「うわあああああ!! ちょっと楽しい!!」

「これが宇宙飛行士の感覚───!!」

フォォォァァァァッ(ガッツリG掛かってるんですが)!?」

「はっはっは! これは酔い止めも持ってくるべきだったかな!」

 

 時速300キロで猛回転する戦車を前に真紅の騎士は動きを止めた。刹那、その上体は深く沈み────

 

「……はぁ!?」

 

 ────跳ね上げた右脚が、戦車を空中に蹴り飛ばした。

 ふわりと宙に舞い上がった戦車は直後、自重で激しく墜落する。その一部始終を目撃していた義手の騎士は全身に走る痛みも忘れて叫ぶ。

 

「ぶ、無事ですか!!?」

 

 数秒後、戦車の装甲が爆発によって吹き飛ばされる。

 黒い煙の中から、次々とノアたちが這い出てくる。彼らは皆一様に煤に塗れていた。ノアは咳き込んで、大声でがなり立てた。

 

「よくも俺たちの愛車を壊してくれやがったなクソ野郎!! おまえだけは絶対に生きて帰さねえぞ!!」

「そうだそうだ、私が丹精込めて作った作品なんだぞアレは! 『抹殺轢殺アーマードカー』の墓前で泣いて謝れ!!」

「なんておぞましい名前なんだ……!!」

 

 義手の騎士は思わず震え上がった。這い出してきたノアたちへの心配より、装甲車が臨終したことへの安堵が勝った瞬間である。

 ダンテを除いたサーヴァント陣は意気揚々と進み出る。八つの眼差しが注がれるのは双つの剣を携えた真紅の騎士。ペレアスが剣の先を差し向けた時、義手の騎士は密かに息を呑んだ。

 

「───貴方は……!!」

 

 けれど、その声は誰にも届かず。

 真紅の騎士はペレアスの顔を睨め付け、煮えた言霊を吐き出す。

 

「…………匂う。匂うぞ。貴様からは忌々しい匂いがする。ブリテンを掻き回した湖の精霊────魅入られたか、貴様」

 

 気まずい表情をするペレアス。周りから向けられる視線は気遣いの色がありながらも、どこか冷ややかだった。心なしか義手の騎士もいたたまれない雰囲気を醸し出している。

 

「スカサハって人にも同じようなことを言われたがな、オレのこれは純愛だ! 外野からゴチャゴチャ言ってんじゃねえ!!」

「というかどんだけ匂いが染みついてるんですか。それもスカサハさんに言われてましたよねえ。ファブリーズかけてあげましょうか?」

「うるせえ! オレは毎日香水使ってんだよ!」

 

 赤い甲冑から覗く眼光が細くなる。真紅の騎士は双剣の先を地面すれすれに下げた。

 

「貴様ほど湖の精霊に心を囚われた人間を見たのは二度目だ。よもやそこまで呪われているとはな」

「いや呪われてねえよ!! 加護だ加護! これ言うの何回目だ!?」

「……その妄執、斬り捨ててやる」

 

 瞬間、砂が空高く弾ける。

 それとほぼ同時、ペレアスは背後に剣を振るった。

 軋むような刃鳴り。真紅の騎士は瞬時にペレアスの背後に回り込んでいた。交差する二つの刃をペレアスの剣が押し留める。が、それは途端に押し返されていく。

 

「──なんて馬鹿力だよ!」

「貴様こそ、これで倒れぬとは余程力の逃がし方が上手いな。褒めてやる」

「そりゃどうも、っ!」

 

 ペレアスは足を前に蹴り出し、真紅の騎士を蹴り飛ばす。が、即座に踏み止まり、返しの一刀が走る───その寸前、

 

「二人でイチャついてんじゃないわよ!」

 

 大盾の一撃が、真紅の騎士の刃を跳ね返した。

 マシュはきっと目を細める。

 

「……と、ジャンヌさんなら言うところでしょう。清楚系女子の誇りとしてそんな言葉遣いはしませんが。七対一ですが、わたしは容赦しません」

「く、くく……」

 

 真紅の騎士は顔を伏せてくぐもった笑い声を絞り出す。その視線はマシュと彼女が持つ盾に注がれていた。騎士はその盾を指差して言う。

 

「はは…っ! そんなものを盾にしているとはな。それを盾にするなら、剣は椅子か? これは傑作だ。面白い少女だ。私が笑うことなどそうそうない。小銭でも持っていたら投げてやるところだ」

「な、なにがおかしいというのです!? 先輩、わたしにはこの人の笑いのツボが分かりません!!」

「たまにいるよね、そういう人。リーダーとか人が苦しんでる場面で絶対笑うし」

「笑いのツボがイカれてんのはおまえもだろ。喋るみかん(アノーイングオレンジ)で笑い転げてただろうが」

フォウフォフォフォウ(おかしいやつしかいねえよ)……」

 

 真紅の騎士は空を仰いで吐息を漏らした。

 

「七対一か。生温いな。戦場ではその何倍もの敵を斬り伏せねばならんというのに」

「それは正論ね。大勢で押し潰すのも戦場の習いだけれど────!!」

 

 ジャンヌは黒炎を振りかざす。

 あらゆる生命にとっての弱点である灼熱の劫火。真紅の騎士は剣風を以ってそれを切り払い、炎の隙間から脱出する。

 その先に待ち受けるのはダ・ヴィンチの杖による殴打。しかし、真紅の騎士は頭突きで杖を打ち返した。ダ・ヴィンチは痺れた腕をぱたぱたと振った。

 

「うへえ、本当にとんでもない馬鹿力だなあ! 今のは完全にホームランだったろうに!」

「全員で囲んで叩くぞ! ダンテは支援早くしろ!」

「ええ、やりますとも。それしかできませんからね。ええ、ええ」

 

 サーヴァントたちが交戦を開始したのを見て、ノアと立香は義手の騎士の元に走った。彼に命の別状はないものの、負った傷は浅くない。

 ノアは無属性魔術を使うまでもないと判断し、スカサハから与えられた原初のルーンのひとつ、癒やしのルーンを騎士に刻んだ。

 

(……こいつ。この傷の治り方は───)

 

 全身の切創が時間を巻き戻したように修復されていく。ノアはその傷口をいぶかしむように観察していた。義手の騎士はフードを取り、うやうやしく頭を下げる。

 

「助かりました……感謝いたします」

「……ああ。泣いて感謝してたら文句はなかったがな」

「ごめんなさい、アホなんですこの人。気にしないでください。ところで、どうして戦ってたんですか?」

「それが私には見当も……この身はただの流離人、狙われるようなものは何も持っていません」

 

 ノアはじとりとした目つきで騎士の義手を見やる。白銀の光沢を放つその義手は彼の意に合わせて自由自在に駆動していた。

 

「そうか? この義手とかよく売れるだろ。見たこともない材質で出来てるしな。何なら俺が欲しい」

「だ、駄目です! これだけは恩人であっても渡せません!」

「本当ですよ、何言ってるんですかリーダー! 腕をもぐならせめてあっちの赤い方にしてください!」

「貴女も貴女でおかしいですね!?」

 

 義手の騎士は口をあんぐりと開けて驚愕する。

 ノアの無属性魔術にかかればサーヴァントの腕一本程度は容易く治せる。立香の意図としてはそこにあったのだが、言ってないことが分かるはずもなかった。

 そこで、彼らの後ろから声が響く。

 

「……やつは騎士狩りと呼ばれている。聖都の勢力を手当たり次第に攻撃する狂犬。察するに、その成形を見て襲い掛かったのだろう」

 

 振り返ると、そこには髑髏の意匠の仮面をつけた黒衣の女性。彼女はどこからともなく現れた訳でもなく、ただ最初から立っていたのだ。

 息をも気取らせぬ隠形。髑髏の面も合わさって、アサシンのサーヴァントであることはあからさまに見て取れた。

 立香は怯えることなく問う。

 

「聖都って何のことですか? お姉さんは味方……で良いんですよね」

「その説明をする前に今の状況を理解する必要がある。少し長くなるぞ」

「んな長ったらしい話を聞いてられるか! 簡潔に説明しろ!」

「……仕方ない。まずは騎士狩りを撃退するとしよう」

 

 女暗殺者の像が歪む。

 手ブレした写真のように無数に像が重なり、それは実在の分身として分裂していく。

 それこそは彼女が持つ至高の暗殺技巧。

 自己に潜む無数の人格に分け身を与え、個体を複製する秘中の秘技。総勢八十にも及ぶ群体が、雪崩を打って真紅の騎士へと殺到した。

 続いて義手の騎士も飛び出し、敵へ刃を浴びせにかかる。

 それをしても、真紅の騎士が傷付くことはなかった。二刀流とは元々防御に優れた型。その卓越した身のこなしも相まって、怒涛の攻撃を紙一重で捌き切っていた。

 ペレアスの守りが柔だとすれば、真紅の騎士のそれは圧倒的な剛。単純な力と速さで相手の機先を制する鉄壁だ。

 左の剣が金色の雷を纏い、周囲の敵を吹き散らす。そして一言呟いた。

 

「私は逃げる」

 

 ペレアスは軋むほどに剣の柄を握り締めながら、

 

「勝手なこと言ってんじゃねえ! みすみす逃がすとでも思ってんのか!?」

「哀れだな貴様は。湖の精霊の魅了に騙されていることも気付かずに、その剣技を腐らせていくとは」

 

 真紅の騎士は殺意と憎悪を語気に迸らせる。

 

「───だが安心しろ。湖の精霊は私が殺す」

 

 ペレアスが叫ぶ驚愕の声は、雷鳴に掻き消された。黄金色の雷光が真紅の騎士を呑み込み、それとともにその姿は消失する。後に残ったのは砂漠に深々と刻まれた、焦げたクレーターだけだった。

 ペレアスはわなわなと肩を震わせ、頭を抱えて吼える。

 

「なんなんだアイツ!? 頭から尻まで意味不明なんだが!!?」

「わたしもペレアスさんに同意します! この盾を馬鹿にされた屈辱は一生忘れません!!」

「なんだかやりたい放題されてしまいましたねえ。兎にも角にも死人が出なかっただけヨシとしましょうか?」

「そうですね。私も危ないところを助けて頂き、感謝しております」

 

 義手の騎士は再度ペレアスたちに向けて礼をした。

 彼はなぜか非常に言いづらそうに自己紹介する。

 

「わ、私の名前はルキウ」

「いやべディヴィエールだろ何言ってんだお前」

「はい私はべディヴィエールですすみませんでしたペレアス卿」

「どうして嘘ついたのよ!? あっさり認めるし!」

 

 速攻で嘘を見抜かれたべディヴィエールは五体投地のような姿勢で謝罪した。その速さたるや、団長の手刀を見逃さなかった人も見逃すレベルであった。

 ダ・ヴィンチは眼鏡をすちゃりと装着する。

 

「べディヴィエール卿、アーサー王の円卓の騎士のひとりだね。王の側近を務め上げ、主君の最期にはエクスカリバーを湖の乙女に返還した忠義の騎士だ。当然、ペレアスさんよりは有名だろう」

「最後の情報はいらねえだろ!!」

「ペレアス卿、たとえ記録が処分されていようと貴方の活躍は私が覚えています。そう落ち込まれぬよう」

「優しくすんじゃねえ! あっ、ちょっと泣けてきただろうが!!」

 

 涙ぐむペレアスと彼をたしなめるべディヴィエール。無名を極めたペレアスにとって、かつての仲間からの励ましは良くも悪くも沁みたのだった。

 マシュは円卓の光と闇を同時に見せつけられ、ぼんやりと懐かしさに近い感情を覚えた。出処不明の懐旧心に、彼女は小さく首を傾げる。

 騎士狩りを撃退できたことは良いとしても、Eチームの前には疑問が山積している。真紅の騎士の正体、聖都という言葉の意味、女暗殺者の目的。それらの疑問の大半を解消してくれそうなのは、やはり髑髏面の女性しかいない。

 立香はその女ににじり寄った。

 

「それで、さっきのことですけど」

「ああ。騎士狩りは退けたが、ここは未だ危険だ。この先に難民のキャンプ地がある。移動しつつ話すことにしよう」

「罠じゃねえだろうな?」

「ここに揃ったサーヴァントたちが手を組めば私を仕留めるなど容易だろう。こちらも切羽詰まっている。騙す理由も余裕もない」

 

 それでも猜疑心が抜け切らないノアに、ダンテは言付ける。

 

「嘘はついてないと思います。心も魂も揺れていませんから。ここは彼女を信頼しましょう」

 

 ダンテ・アリギエーリという詩人は感受性に優れた作家だった。この世ならざる異界を旅したことでそれは霊感の域にまで磨かれ、不完全ながらも他者の心を読み、魂を感じる技能を身に着けた。

 話術や詐術を極めた人間ならば、嘘をつく時も全くの平常心を保つことができるだろう。だが、ダンテは心のさらに奥、魂までをも感じ取ることができる。

 人は自分の心を騙すことはできても、魂までは難しい。自己の存在を自在に偽る詐称者(プリテンダー)でもない限り、ダンテの霊感を欺くことはできないだろう。

 ノアはようやく納得し、警戒を解いた。とはいえ、奇襲に即座に反応できる程度の警戒心は残しているが。

 

「まずは名乗ろう。私はハサン・サッバーハ。十九代目の山の翁だ。百貌の、とでも呼んでくれ」

 

 ハサン・サッバーハ。立香は聞き馴染みのない名前に、疑問符を浮かべた。その仕草を見抜いたマシュとダンテは、バチバチと視線をぶつけ合う。

 

「マシュさん、私が説明します。Eチームの解説役なので」

「いえ、ダンテさんは黙って詩でも作っていてください」

「ハサン・サッバーハとはイスラムの伝承に名を残す暗殺教団の教主のことだね。複数の王朝と十字軍の要人を次々と暗殺したことから、教団の名が暗殺者を意味するアサシンの語源となったとも言われている。そのため、普通の聖杯戦争で喚ばれるアサシンはクラス名が触媒となって、ほとんどがハサンを襲名した英霊になるんだとか。場合によっては彼らが最強のサーヴァントかもね」

「「ダ・ヴィンチィィィ!!!」」

 

 マシュとダンテは解説役の座をかすめ取ったダ・ヴィンチに掴みかかった。煙の中でボコスカと殴り合う古典的な喧嘩表現を横目に、立香は感心する。

 

「暗殺教団の教主ですか。なんだかかっこいいですね! 暗殺者なのに名前が売れても大丈夫なんですか?」

「我らにとって名前とは移ろうものだ。むしろハサンという虚名を恐れてくれた方が楽に仕事が進む」

「複数のハサンを用意することで呪詛避けにもしてんのか。よく考えてやがる。それで、聖都ってのはエルサレムのことか」

 

 百貌のハサンは首肯した。

 

「正確には獅子王がエルサレムに築いた都のことを言う。元々、この地は我ら山の翁と十字軍が争う場所だったのだが……」

 

 彼女は語る。

 この特異点は聖杯を手にした十字軍と暗殺教団が争う戦火にあった。が、十字軍が召喚した古代エジプトの王が一瞬で裏切り、第三勢力を樹立。しかも、その十字軍はどこからともなく現れた獅子王によって壊滅させられてしまった。

 史実の第九次十字軍の顛末を勉強させられた立香は目を細めて肩を落とす。

 

「……史実よりは酷い状況? 一応勝ったことには勝ったらしいし……」

「勝ち切れなかったのが問題なんでしょう。内部対立で普通に帰るとか呆れます」

「神の名を利用して戦争ふっかける寄生虫ですからねえ。神を血濡れたものにするとか私的には酌量の余地がないトップオブギルティなんで。当然の帰結かと」

「うーん、ダンテさんもこの言いよう」

 

 ダンテの祖父は第二次十字軍に従軍し、そこで命を落としている。彼にとって十字軍は祖父の死のきっかけであり、後世において神の名を汚すものであった。その語気が強まるのもやむを得ない。

 百貌のハサンは言いづらそうに説明を続ける。

 十字軍を打ち砕いたのは獅子王とその軍勢だった。戦いの趨勢はもはや戦争と呼べるものではなく、虐殺に近いほどの圧勝だったと言う。

 十字軍にも実力者は揃っていた。それにも関わらず、完膚なきまでの全滅を果たしたのは獅子王の元に集う英雄たちの仕業によるものだった。

 百貌のハサンはペレアスとべディヴィエールを見据えて、告げる。

 

「……()()()()()。十字軍を滅ぼしたのは獅子王が率いし円卓だ。今は、私たちの敵でもある」

 

 磁石に引きつけられる砂鉄のように。

 全ての目がべディヴィエールに向いた。

 彼の前で仁王立ちするペレアス。ノアはびしりと指を突きつけて言いつける。

 

「ペレアス、そいつ捨ててこい。獅子王の間者(スパイ)だ」

「嫌だ、こいつを捨てるなんてオレにはできねえ! ちゃんとエサもやるし毎日散歩もするからここに置いてくれ! そもそも円卓が敵って決まったわけじゃないだろ!!」

「オイオイオイ、捨て犬拾ってきた子どもみてえなこと言ってんじゃねえ。おまえの加護が反応してたってことは、少なくともランスロットは殺る気満々だろうが」

「それはランスロットがオレの敵になる可能性があるってだけだ! べディヴィエールは関係ねえ!」

 

 ノアはべディヴィエールに視線を送る。彼の像を透かして向こう側を覗くように。  

 口元を手で隠し、誰にも聞こえない音量で呟く。

 

「…………そういうことか──?」

 

 数秒後、ノアは目線を切った。

 

「ここはおまえを信用してやる。ちゃんと首輪付けとけ」

「リーダーにしてはあっさり引き下がりましたね。わたしはてっきり喧嘩になるかと思いました」

「猫のじゃれ合いみたいなものよ。真面目に見てたらIQがマッハで下がるわ」

「猫のじゃれ合いは癒やされるけどこっちはそんな効果の欠片もないからなあ。暗殺教団はなぜ獅子王と戦っているだい? 十字軍を倒したんだから味方になりそうな気もするけど」

 

 百貌のハサンはダ・ヴィンチの言葉にこくりと頷く。

 

「それはもっともだ。が、獅子王は許されぬことを始めた」

 

 彼女は砂漠の彼方、おそらくは聖都を方角を振り向いて、

 

「───聖抜。必要な人間だけを選別する殺戮の儀式だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Eチームが特異点を訪れる一週間前。

 ……聖都。

 壮麗にして絢爛なる白壁の都。聖地に現前した楽園の正門には、大勢の人間が群がっていた。生後間もない赤子から年老いた老人まで、ありとあらゆる人間が門に詰め寄せている。

 彼らはか細い希望を求めて、砂漠と荒野を乗り越えてきた旅人。道中で家族や友人を亡くした者も少なくない。

 それでも過酷な道のりを歩んできたのは、この聖都に受け入れてもらうため。地平線に太陽が沈み、夜空に月と星が浮かんでもまだ門は開かれなかった。

 白壁の上にひとりの騎士が現れる。

 精悍な顔つきをした白銀の騎士。彼だけはこの夜にあって、天より降り注ぐ陽光をその身に浴びていた。

 それはまるでスポットライト。

 忠義の騎士此処に在り、と彼を照らす光の柱。

 太陽に愛されし騎士は熱を帯びた剣をすらりと抜き、かつりと地面に突き立てた。

 眼下に広がる光景を彼は噛み締める。ひとりひとりの顔を脳裏に焼き付けるように総覧し、側に控える騎士に伝える。

 

「総員、配置につきなさい」

「───ハッ!」

 

 配下の騎士たちは淀みなく動く。彼らは聖都正門に詰めかける難民たちを取り囲むように陣形を組んだ。

 太陽の騎士は夜の冷えた空気を吸い込み、眼下の難民に告げる。

 

「長く苦しい旅路を越え、見事この聖都に辿り着いた貴方がたに敬意を」

 

 民衆はざわめき立つ。

 空腹に苛まれることもないのだと。

 亡者に怯える必要もないと。

 真っ当な住処を得られるのだと。

 ───ようやく、救われるのだと。

 

「しかし、聖都に立ち入ることができるのは王の赦しを得た者のみ。悪の病巣に犯されぬ純白の魂のみが、最果てに導かれる資格を得るのです」

 

 歓声がぴたりと止む。

 唖然、呆然。誰しもが救われる訳ではないという理を突きつけられ、民衆は思考を空白にした。

 太陽の騎士に嘘はない。冷徹な声音がそれを何よりの真実と物語ってしまっている。

 民の感情が無から怒りへと変わる直前、まばゆい閃光が彼らを包んだ。

 白む視界。だというのに目は焼かれず。

 その光が途絶えた時、獅子王による選別は終わった。

 太陽の騎士はゆっくりと目を伏せ、力強く開く。

 

「────導かれるべき魂は存在しなかった」

 

 穢れなき魂を持つ者は聖抜の光に包まれる。その資格を有する人間は、ここにはひとりとしていなかった。

 

「これよりは()()。始めなさい!」

 

 号令を受け、騎士たちは得物を手に躍りかかった。

 その対象は救いを求めてやってきた難民。

 血飛沫が上がる。絶叫と悲鳴が轟き、人という人が冷たい刃に身を裂かれる。そこに救いはない。ただただ、選ばれなかったから殺しているだけだ。

 殺す人間に区別はなく。

 赤子も老人も、血の海に命を落とした。

 全員を掃討するのに時間はかからなかった。元より相手は長き旅路で疲弊している。聖都の騎士たちが仕損じることはない。

 ───何たる罪事か。

 浮上する想いを、太陽の騎士は切り捨てた。

 この身は王に捧げたモノ。

 生前の間違いを二度と犯さぬように、ひと振りの刀剣として在ることに決めたのだ。

 刀剣に迷いはいらない。

 人斬り包丁は主に使われることこそが至上なのだから。

 太陽の騎士は壁を降り、撤収の指示を始めようとする。

 

「何たる残虐。何たる暴虐。人の業、醜さの一端がここにある」

 

 くつり、くつり、と。

 愉快げに喉を鳴らす男がいた。

 黒を基調とした燕尾服。右眼に嵌め込んだ銀の片眼鏡。その両腕は鋭く研ぎ澄まされた刺々しい籠手に包まれている。

 色気のある面を歪めて、その男は聖罰の光景をせせら笑う。

 どこから来たのか、いつの間にいたのか。そんな疑問を捨て置いて、太陽の騎士は初めて感情を声に出した。

 

「何故、貴方がここにいるのです……!!」

 

 配下の騎士たちは指示されるまでもなく、太陽の騎士と男の間に人の壁を作った。男は大げさなほどに表情を怒りに染めて、芝居がかった言葉を述べる。

 

「無論、貴様を殺しに来たのだよ! ガウェイン!! おれは今もなお覚えているぞ、貴様に背中を貫かれたあの時の痛みを!!」

 

 男は右の人差し指を突き出す。

 

「四人がかりで襲った挙句、背を討つとは騎士の風上にも置けぬヤツ! 円卓の騎士とはどうやら虚名のようだな!」

 

 挑発を繰り返す男に堪えかねた配下の騎士たちは、敵意とともに刃を向けた。

 

「貴様、黙って聞いていれば!」

「これ以上の愚弄は到底聞き逃せぬ! その償いは貴様の命で支払ってもらうぞ!」

 

 剣を、槍を携えて、騎士たちは男に襲い掛かる。

 

「駄目です、待ちなさい!!」

 

 太陽の騎士ガウェインの制止は届かず、刃が振るわれた。

 鋼鉄を岩に打ち付けるような痛々しい音が響く。数瞬して、騎士たちはばたばたと倒れていく。彼らの鎧は武器で殴ったように歪み、手足がありえない方向に折れ曲がっている。

 対する燕尾服の男は全くの無傷。身じろぎひとつすることなく、ただ立っているだけで相手を蹴散らしたのだ。

 

「安心しろ、殺しはしていない。否、殺されもできなかったと言うべきかな」

 

 彼は地につくばう騎士たちを一瞥し、適当なところで背中を丸めてひと振りの剣を拾った。

 

「これでいい。さあ、やろうか」

「戯れを───!!」

 

 一陣の風が吹く。瞬間、ガウェインの姿は消え失せ、男の背後に回っていた。振るうは灼熱の聖剣。超常の膂力を持って振るわれる斬撃は、正しく必殺の威力を秘めている。

 燕尾服の男は剣を背面に回して受け、さらに身を捩って衝撃を流す。

 男とガウェインの瞳が重なる。男は太陽の騎士がまたもや背後を取ることを予期して、疾風の如き剣刃を閃かせた。

 ガウェインは迎撃するでもなく、愚直に防御と回避を行う。刃が衝突する瞬間も押し返さず、受け止めるだけに留めている。

 太陽の騎士ガウェインは日中、その力が三倍に増すという加護を持っている。現在は夜だが、獅子王に授かった祝福『不夜』により常時三倍の力を発揮している。

 そのガウェインが、防勢に立たされ続けている。否、この男を目の前にしては、誰もが受けに回らざるを得ないのだ。

 故に、ガウェインは徹底して防御に専念していた。反撃の機会を捨ててまで。

 一際大きな金属音が高鳴り、二人は間合いを空ける。

 

「おれは満足した。もう良いぞ、ガウェイン」

「……貴方はいつも挑発がすぎる。ここに来た理由は」

 

 問われ、男の顔から喜色が消えた。

 

「───王に忠誠を尽くすため。貴様に殺された時と同じだ」

「それを信じろと?」

「決めるのは王だろう。聖抜がおれを選ばなかったというならそれまで」

「な……っ」

 

 聖抜に慈悲はない。

 たとえ忠義を捧げた部下であろうと、条件にそぐわぬなら一切の容赦なく罰が下る。

 男はその実態を間近に見てさえ、それを受けると言ってみせた。

 彼は血溜まりの中で臣下の礼を取る。その目が望むのは虚空。未だ姿を見せぬ獅子王に対してだ。

 

「王よ。この度の遅参、弁解の余地もありませぬ。我が身は王の剣槍、使い物にならぬ武器は廃棄されるが必定。誠に勝手ながら、もう一度私を王の手元に置いて頂きたく存じます」

 

 騎士の臣従を受けて。

 夜空に、無機質な声が響き渡る。

 

「『聖都が選ぶは揺るがぬ魂のみ。貴様の事情が如何ほどの罪になろうか』」

 

 天に光点が灯る。それは獅子王が振るう光のほんの一欠片。燕尾服の男の真上に点いたそれは、一欠片といえど果てしない魔力を内包していた。

 

「『だが、ガウェイン卿に対する挑発と私闘は目に余る。武器ならば武器らしくその身を研いでいよ』」

 

 ぎちり、と空気が引き締まる。

 それは光点が渦巻いたのと決して無関係ではないだろう。

 

「『故に、我が聖罰を以って選別とする。見事耐え抜き、我が手元に戻ってくるが良い』」

 

 その声は、男の名を呼んだ。

 

「『────不退転の騎士、ラモラック卿』」

 

 圧倒的な威容。

 神霊すら慄く力の奔流。

 上空を席巻する光の渦を見上げ、男は短く答えた。

 

「────有り難き幸せ」

 

 渦が引き絞られ、一筋の光条と化して不退転の騎士の頭上に落ちる。

 あまりの轟音に聴覚が機能を停止する。ガウェインは思わず目を細め、吹き荒ぶ豪風を耐え抜く。

 その衝突は刹那。並の英霊なら掠めただけでも致命傷を負う光の槍。極度の高温に砂が焼かれ、ガラス化した地面の中心に男はいた。

 満身創痍。全身からおびただしい鮮血を流し、火傷を負っている。それでも、彼は五体の形を保ち、聖罰を生き抜いたのだ。

 くつくつ、と喉を鳴らす音。

 ラモラックは血を振り乱し、破顔した。

 

「……クッ、ハハハハハハハハッ!! 聖罰、感謝致します我が王よ! あまつさえ登城を赦されるとは、この身に余る光栄!!」

 

 あろうことかそのまま立ち上がり、聖都への道を突き進む。ガウェインはその背を追いかけ、自らのマントをラモラックの肩に掛ける。

 ───この男が選ばれることは分かっていた。

 何者にも侵されず、揺らぐことなき不動の魂を擁する者ならば彼を置いて他にない。いついかなる時でも自身の信念を貫いた英霊、一本の槍の如き在り方がラモラックだ。

 彼は顔だけをガウェインに向けて問う。

 

「ガウェイン。おれの死後、第七席に就いたのは誰だ?」

「……ガレスです」

 

 ラモラックは愉悦に浸るように口角を上げた。

 

「おれを排除し、ガレスを据えたか。彼女は優秀な騎士だ。立派に使命を遂げたことだろう。それもまたアグラヴェインの策謀なのだろうな。クク、聡いやつだ」

「恨んでいないのですか。私たちは四人で貴方を襲撃し、手にかけました。如何なる非難も受け入れる覚悟です」

「恨んでなどいないさ。むしろ、貴様らが騎士の誇りに悖るような行いをしてまで殺しに来たことが嬉しいのだ」

 

 だからこそ、彼は知恵の女神(ソフィア)に選ばれた。

 人類の罪業を顕す七人の英霊、『暗黒の人類史』に。

 彼は脳裏にとある魔女を思い浮かべる。

 

「───おれは、醜いモノをこそ美しく感じる質だからな」



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第48話 あつまれハサンの村

 騎士狩りを撃退したEチームは百貌のハサンの案内を受けて、難民たちのキャンプを訪れることになった。

 百貌のハサンによると、そう遠くない場所にキャンプ地はあるらしい。だからこそ、彼女が対処に出てきたのだろう。騎士狩りが聖都の勢力しか狙っていないとはいえ、危険な行為には違いない。

 立香(りつか)は百貌のハサンとべディヴィエールにカルデアの事情を説明した。もはやはぐれサーヴァントと遭遇した際の恒例行事である。

 これまでの経緯を聞いた二人は感心して頷いた。

 

「なるほど。獅子王に対抗する上で、これほど力強い味方はいないな。私の幸運も捨てたものではなかったか」

「ペレアス卿も流石ですね。今まで数々の英雄と共に戦ってきたのでしょう。同じ円卓として誇らしく思います」

「なんたってオレはファヴニールも斬った竜殺しだからな! それにヘラクレスやアキレウスとも戦ったし、最近はクー・フーリンとも……」

「それ以上に無様な姿を晒してますけどねえ、ペレアスさんは」

「ダンテ、お前にだけは言われたくねえ!!」

 

 ……キャンプへ向かう道中。

 我らがEチームのメイン盾にして妖怪ピンクなすびことマシュ・キリエライトは、肩を怒らせて大股で先頭を突き進んでいた。その後ろ姿からは轟々と燃え盛る怒気が誰の目にも見て取れる。

 彼女が何に対して怒っているのか、立香には何となく見当がついていた。

 全身を真紅の甲冑で包んだ双剣の騎士。マシュは騎士狩りと呼ばれるあの騎士に、自らがこれまで苦楽を共にしてきた盾を笑われたのだ。

 しかもその相手にはまんまと逃げられる始末。時間が経つごとに憤りは高まり、マシュのフラストレーションは爆発寸前であった。

 立香は忍び足でマシュの背後を取り、首筋を人差し指でなぞり下げる。

 

「ふおっ!? な、何をするんですか先輩!」

「ブヘヘ……いい声出すじゃねえか姉ちゃん。そうは言っても体は正直だぜ?」

「くっ! ジャンヌさん待っててください、わたしは絶対に負けません……!!」

「なんで私が寝取られる側になってるんですかァ!?」

 

 というEチーム三人娘の茶番を見て、初恋のベアトリーチェが銀行家に嫁いだことを思い出したダンテは頭を抱えて唸り出した。

 

「の、脳を破壊されたトラウマが……っ!!」

「おまえは違うだろ」

フォフォウ(BSSだよね)

「それは分かってますけどォ!? わざわざ傷を抉り出そうとしないでください! 脳は特定のジャンルに限らずいつだって壊れる可能性を秘めているんです!!」

(どうしてこいつらに協力を要請してしまったのだろう)

 

 百貌のハサンはEチームのアホさ加減を痛感した。その表情は仮面に隠されて見えないが、少なくともマイナス方面のものであることは確かだろう。

 べディヴィエールはペレアスに視線を流す。

 同じ円卓の仲間として、彼の事情は知っている。というか何度も聞かされている。過去に脳を破壊された経験があることも、度々トラウマを発症することも織り込み済みだ。

 そんな訳でペレアスが嘆きの騎士の本領を発揮しないか監視しようとしたのだが、彼は見るからにどんよりとした暗雲を背負っていた。がっくりと肩を落とし、とぼとぼと歩くその姿は子犬のようですらある。

 先程まで怒りを漲らせていたマシュとは正反対。ペレアスはマリアナ海溝まで意気消沈していた。肌も土気色で生気が失せており、ゾンビの様相を呈していた。

 だが、長年王の側近を務め上げたべディヴィエールは気遣いの達人である。騎士とは得てして周りに気を遣う生き物だが、彼は特に他人の心持ちを察する術には長けている。

 

「心中察します、ペレアス卿。かつての主君と仲間が敵となり、伴侶を狙う者まで現れる始末。私も微力ながら力を……」

「三度目だ」

「え?」

「王様と戦うの、これで三度目なんだよ!」

「えぇ……」

 

 べディヴィエールは驚愕した。今更ペレアスの言葉を疑う余地もないが、それにしても信じがたい気分だった。何の因果で主君と三度も刃を重ねなければならないのか。

 ご愁傷さま、という言葉すら出てこないほどにいたたまれなくなるべディヴィエール。ペレアスはぶつぶつと言い続ける。

 

「二回目は直接戦ってはないけどな……なんかどっちも全身黒染めだったし。つうかオティヌスとか誰だよ……王様のキャラが迷子になってるじゃねえか」

「おまえの方がよっぽど叛逆の騎士だろ。竜殺しより王殺しの称号が似合ってんぞ」

「おい、べディヴィエールの前でそういうことを言うな! 王様ガチ勢なんだから! ガウェインだったら決闘仕掛けられてもおかしくねえぞ!?」

「むしろ貴方は王様ガチ勢ではないんですか!? 円卓の騎士にまでなっておいて!?」

 

 ペレアスは自嘲的に笑み、

 

「まあ……カムランの戦いにいなかったしな、オレ。ハハッ。お前は良いよな、聖剣の返還なんて最高の役目貰って。オレなんて本当は円卓追放されてるからな。にわかもにわかだろ……」

「……実力の割に卑屈すぎないか? この男」

「百貌さん、ペレアスさんの異名は嘆きの騎士ですから。調子乗ってる時とヘコんでる時の差が極端なんですよねえ。無視してあげてください」

「下手に優しい言葉をかけても逆効果だからね」

 

 ダ・ヴィンチがこくこくと頷く横で、ノアは気取られぬようにべディヴィエールの顔を覗いた。

 眉根を寄せて、唇を切り結ぶ。注意していなければ気付かないような表情の変化は、ノア以外の誰の目に入ることなく元に戻る。

 ノアは帽子を外して、それで顔を扇ぐ。

 

「湖の乙女に返した聖剣はその後どうなったんだ、べディヴィエール?」

「さ、さあ……それはペレアス卿の方が詳しいのでは? 剣を渡したのは湖の乙女ですから」

「いや、剣を受け取ったのは湖の乙女の長女だろ? 聖剣の行方はオレも嫁も知らない。湖の乙女は全員顔も声も同じだから勘違いしたのか……頭の良いお前でもそんなことあるんだな」

「……そうですね。少し失念しておりました」

 

 べディヴィエールは俯く。ノアはその顔を見届けて視線を切った。密かに眉をひそめて思案する彼の前には、気付くと立香がいた。

 彼女はいぶかしむような目つきでノアを見上げる。

 

「リーダーが悩み事なんて、珍しいですね。何かあったんですか?」

「……おまえはアサシンか。人のパーソナルスペースを軽々と飛び越えてんじゃねえ」

「悩み事があるのは否定しないんですね。私が相談に乗ってあげてもいいですよ?」

「おまえに相談するくらいならシーマンと話した方がまだマシだ。ケリがついたら教えてやるから、ルーンリーディングの練習でもしてろ」

 

 そう言って、ノアは内ポケットからルーンを書き付けた紙を手渡した。

 ルーン文字の意味は使い手や用途によって変わるため、ルーンの読解は暗号の解読をするに等しい。立香はその紙を難しい顔で眺めると、それを折り畳んでしまい込む。

 さっさと諦めたと思ったのか、ノアは咎めるような視線を送った。立香はその視線を飄々と受け流す。

 

「こういうのってその人の癖が出ますよね。私、リーダーが書いたやつならすぐに読めるようになっちゃいました」

「あまり俺を舐めるなよ藤丸。自己暗示をかければ文章の癖なんていくらでも変えられる。それがいつ書いた文なのか俺も分からないくらいだからな……ククク」

「いや笑ってる場合じゃないですよ! 別の人格に乗っ取られるフラグじゃないですか!?」

「わたしたちにとってはメリットしかありませんね。むしろどんとこいです。次のリーダーはうまくやってくれるでしょう」

フォウフォウフォフォウ(これをマシュと言い張る度胸)

 

 最近隠す気すらなくなってきたマシュの闇はひとまず、一行の前に砂塵に紛れた目的地が見えてくる。

 いくつもの幕屋が立ち並んだキャンプ地。少なからず人影が点在しているものの、活気は見受けられなかった。難民という事情を鑑みれば仕方のないことではあるだろう。

 一行がそこに足を踏み入れようとした時、どこからともなく声が響く。

 

「そこで止まれ。如何な目的でここに来た、異邦者たちよ」

 

 厳然とした声音。静かな拒絶感の奥にはどこか無理をしているような響きがあった。

 ジャンヌはペレアスとべディヴィエールをじとりと見つめる。

 

「アンタらの格好のせいで獅子王の手下だと間違われてるんじゃないの? 脱ぎなさいよ」

「砂漠のど真ん中で裸になれと!?獅子王の手下より全裸の不審者の方が怪しいだろ!」

「とりあえず全裸になってみてから考えたらどうだい? 減るものでもないしさ」

「どこがとりあえずなんですか!? こんなところで裸になるなんて、人間としては終わったようなものですよ!」

 

 ダ・ヴィンチの言い草に、べディヴィエールは思わず叫んだ。ここは良識のある者が割りを食う理不尽な空間なのだ。

 百貌のハサンは彼らを押し退けて前に出る。

 

「彼らは一応協力者だ。騎士狩りを退けるために共闘といえることも行った。少なくとも敵ではない……と思う」

「う、うむ。いちいち歯切れが悪いのが気になるが、まずは良しとしよう」

 

 黒い影が像を結ぶ。一行の前に現れたのは、髑髏の仮面を被った男。右肩から右手の先までを黒い布で覆った不気味な外見をしていた。

 が、単に不気味な見た目をしているだけならEチームの害悪度の足元にも及ばない。立香とノアは彼の目の前でひそひそと話し出す。

 

「なんか右腕怪我してませんあの人? 治してあげたらどうですか」

「おいおい見て分かんねえのか。あんな風に右腕隠すやつなんて中二病以外の何物でもないだろうが」

「マジですか。その幻想をぶち殺したり邪王炎殺黒龍波撃てたりするんですか。巻き方を忘れちまったりするんですか」

 

 すると、腕を布でぐるぐる巻きにしたハサンはくぐもった笑い声を鳴らした。

 

「ククク……如何にも、我が右腕は魔神シャイターンのそれを移植したモノ。これを一度解き放てば、あらゆる生命を食い尽くすまで止まりませぬぞ?」

 

 シャイターン。その単語を聞いた途端、ダンテは楳図かずお風の恐怖顔で震え始める。

 

「ヒィィ! シャイターンといえば英語でサタンを意味します! あんな強大な悪魔の王の右腕を取り込むなんて、外法も外法! なんて恐ろしいことに手を染めたのですか!!?」

「おや、そこな赤いコートの御仁はよく分かっているようで。呪腕のハサンと謳われた私の───」

「シャイターンはシャイターンでも魔王などと大層なモノではなく精霊だがな、そこの男の右腕は」

「あ、そうなんですか。ビビって損しました」

フォフォウフォウ(それでも十分怖えよ)

 

 急に落ち着きを取り戻したダンテ。フォウくんは彼の頭頂に登ると、その肉球で頭皮をべしりと叩いた。

 ノアはダ・ヴィンチから眼鏡を受け取って装着する。

 

「そもそもサタンという言葉は様々な意味を内包している。堕天使ルシファーの称号であったり、サタンという悪魔の個体を指す言葉だったり、はたまたサタンそれ自体が悪魔という意味を示すこともある。つまり、一口にサタンと言っても魔王から雑魚悪魔までピンキリってことだな。ちなみに1969年にアントン・サンダー・ラヴェイが出版したサタンの聖書という魔導書の中では、サタンはキリスト教の権威を否定する存在の象徴として扱われている。そこのハサンの腕がシャイターンのものと言っても、ダンテが見たサタンのモノとは限らない。ちなみにサタンの聖書の続編にはラヴクラフトの創作神話の影響が───」

「長えよ!! お前のうんちくを垂れ流すにしてももう少し脈絡ってのを考えろ!」

「良いなあノアくん。私も役に立たない知識を見せびらかしたかったよ」

「あの、そろそろ話を進めてもらって良いですか。ペレアスさんのツッコミもなんだか煩わしくなってきました」

 

 マシュは大盾の先で砂をどすどすと叩きながら言った。立香のイタズラで戻った平静だが、やはりあの騎士への苛立ちは根深かった。魔神柱も裸足で逃げ出す殺気を放つ彼女の威容に圧され、呪腕のハサンはキャンプ地の案内を始めた。

 難民たちの顔に笑みはない。怪我をしている者も少なくなく、彼らは皆一様に沈痛な面持ちをしている。

 呪腕のハサンは一行に語りかけた。

 

「彼らはみな、聖都にて行われた聖抜から逃亡してきた者です。身ひとつでここまで逃げ延び、私共山の民が保護いたしました」

 

 彼と百貌のハサン以外の全員が首をひねる。

 聖都と聖抜、そして聖罰のことは百貌のハサンから聞いている。獅子王と円卓の騎士の根城である聖都、そこで行われる民の選別───聖抜と聖罰。その選別は一度受ければ最後、聖都への立ち入りを許されるか命を落とすかしかない。

 特別な力を持たぬ人間がサーヴァントに抗うのは不可能だろう。ジャンヌは率直な疑問を口にした。

 

「聖抜から逃げたっていうの? どうやって?」

「話を聞いたところによると、赤い甲冑を着た二刀流の剣士に助けられたとか。つまるところ、我々が騎士狩りと呼ぶあの騎士ですな」

「またあの人ですか!? 今度は普通に善行を成し遂げているのが一層わたしのムカつきを加速させますね……!!」

「マシュの恨みが深すぎる件について」

 

 立香は口元をひくつかせた。それと同時に、ある種の違和感をマシュに覚える。

 マシュ・キリエライトは変人を相手にするスペシャリストである。その経験はノアがカルデアに来てからさらに磨かれ、ペレアスやダンテと戦えるまでに成長している。その原因が立香にもあることは明白だが、彼女自身はそのことに全く気づいていなかった。

 そんなマシュがあの真紅の騎士に執着している。普段の彼女なら気分を切り替えて然るべきが、これほどまでに苛立ちを引きずっているところに立香は違和を感じたのだ。

 とはいえ、それが何に起因するのかは立香にも分からない。

 ペレアスとべディヴィエールは他の誰にも聞こえないような小声で相談する。

 

「あの盾を馬鹿にしてたってことは円卓の関係者かもな。オレは話にしか聞いたことがないが、べディヴィエール、騎士狩りはもしかして……」

「ええ、私も同じ考えです。あの剣と実力、ほぼ間違いないでしょうが……かの騎士はあんな鎧を着ていなかった。顔が見えれば良かったのですが」

 

 そこで、一行は密集した幕屋から離れた位置にある広場に辿り着く。その広場では多数の怪我人や病人が簡素な毛布の上に寝かされていた。

 重篤な容態の者をここに集めているのだろう、戦場さながらの異臭が漂っている。聖抜を逃れる際に負った傷、そしてここまでの道のりで病んだ体。けれどこれは、獅子王の選別がふりまく不幸のほんの一部に過ぎない。

 呪腕のハサンは言った。

 

「これが獅子王がもたらす選別の結果。否、彼らはまだ運が良い。他の人間は全員、聖都へ入るという希望を奪われた末に殺されたのですから」

 

 もっとも、こうして苦しむくらいならば生き延びずとも良かった、と願う人間もいるだろう。どちらにしろ、この光景に救いはない。

 ペレアスは深いため息をついてその場に座り込んだ。その顔色に混じるのは失望と落胆。気の抜けた声で彼は呟く。

 

「……円卓は何やってんだ? こんなことに手を貸すなんてらしくないぞ」

 

 それに応える者は誰もいなかった。王と円卓を知るべディヴィエールでさえも、口をつぐむことしかできない。

 ノアはゲンドゥルの杖を右手に握ると、杖の先で地面にルーンを刻んでいく。うめき声だけが響く静寂の中、しばし砂と土を削る音が連続した。

 彼は呪腕のハサンを向いて言う。

 

「この特異点に存在する勢力はおまえたち暗殺教団と獅子王、そして十字軍が召喚したエジプトの王……で間違いないな?」

「ええ、そのはずです」

「俺たちの目的は聖杯の回収だ。どこの勢力が聖杯を握ってるか分かるか」

 

 呪腕のハサンは首を横に振った。カルデアの目的はあくまで聖杯。獅子王以外の勢力が聖杯を所有していた場合は手を組むことだってあり得るだろう。

 だが、聖杯の所在は未だ判明していない。ダ・ヴィンチは大きく伸びをして、地面にへたり込んだ。

 

「流れで考えるならエジプトの王が十字軍から離反する時に聖杯を奪ったのかな? 何にせよやることはいっぱいだ。これからどうするつもりだい?」

「難民を連れて我らの村に行こうかと。聖都の追手から逃れられますし、戦力強化の目処もあります故」

「いたれりつくせりじゃないですか! この人たちを運んでいくのはちょっと大変そうですけど……」

「これを見てもそう言えるか?」

 

 ノアは地面に刻んだルーンにヤドリギから作り出した槍を突き刺した。

 オーディンが得た十八のルーンの内のひとつ。傷と病を治す癒やしのルーン。曰く、ルーン文字とは最適な場所に最適な文字を書き込むことで、たったひとつの文字でも絶大な効果を発揮するという。

 地中の穂先から無数の根が伸び、病人たちに絡みつく。ヤドリギの槍に魔力を注ぎ込むと、途端に槍は黒ずみ、粉々に崩壊する。黒い塵の山に向かって火のルーンを刻み、それを燃やした。

 すると、伏せっていた傷病人たちが続々と身を起こしていく。

 呪腕のハサンは感嘆の声を漏らす。

 

「ほう、治癒の魔術ですか。これは有り難い。感染呪術の接触の法則を利用したのですかな?」

「ああ、一度触れあったモノは遠隔でも影響を及ぼす。さらに怪我と病気を槍に肩代わりさせたって訳だ。ハサンってのは魔術にも精通してんのか?」

「私の切り札は共感魔術の理論を応用したものでして。特に呪術は人並みには扱えるかと」

「我々に殺し方のこだわりはないからな。魔術も立派な暗器のひとつに成り得る。魔術師としては認め難いか?」

「いいや、魔術使いってだけだろ。現代にも魔術師殺しなんてやつがいるくらいだしな。むしろおまえたちが使う魔術に興味がある……つーことで」

 

 ノアはくわっと目と口を見開いて、

 

「さっさと起きろ難民どもォォ!! 俺の完璧な魔術で健康体になったことに毎秒感謝しながら、常に平身低頭で着いてこい!!」

「せっかく良いことしたのに台無しなんですけど!!? もう少しその鬼畜成分を我慢できなかったんですか!!」

「焼いて黙らせる? ヤドリギと融合してるくらいだしよく燃えるんじゃない?」

「ジャンヌさん、わたしも協力します。色々溜まった鬱憤を晴らすチャンスなので」

「上等だ、スモール脳みそ三人娘どもが! この際だからEチームの上下関係ってもんを叩き込んでやるよ!!」

 

 一触即発を優に過ぎた空気感になった四人の間に、べディヴィエールは身を呈して割り込む。猫のじゃれ合いを眺める目つきのペレアスたちとは大違いだった。

 べディヴィエールはぐるぐると目を回しながら、四人の間で揉みくちゃにされる。

 

「お、落ち着いてください! 仲間同士で争っても何も始まりませんよ!! ランスロット卿の裏切りとモードレッド卿の反乱を立て続けに見てきた私が言うのだから間違いありません!!」

「悲しいほどに説得力がありますねえ……」

「しかもべディヴィエールは最古参のひとりだからな。何ならオレより歳上だし……あれ、涙が……」

「二人とも、見てないで手伝ってくれませんか!?」

 

 ヤケクソになったべディヴィエールの奮闘によって、四人はなんとかじゃれ合いを止める。王の最期の時まで仕え続けた忠義の騎士は伊達ではないのだ。

 一行の短期目標はハサンたちの村に着くこと。こんな砂漠に長期間滞在する理由もない。難民たちは慌ただしく準備を始めた。

 その最中、ペレアスの元をノアが訪れた。彼は難民たちの持ち物から調達したひと振りの長剣を持っている。

 

「ペレアス」

「あん?」

「おまえの剣とこれを交換しろ」

 

 ペレアスはぽかんと口を開けた。

 彼が今使っている剣はロンドンにて、ジャバウォックを倒すために造り出されたヴォーパルソードと呼ばれるモノである。

 ジャバウォック以外にはほとんど意味のない礼装だが、ペレアスはそれなりに愛着を持ってそれを使っていた。彼は赤子を抱く母親のようにヴォーパルソードを抱き締めると、

 

「嫌だ、これはオレの剣だ! 『エクスカリバー Mk-2』は誰にも渡さねえ!!」

「そのナマクラのどこがエクスカリバーだ!? しかもちゃっかり後継機にしてんじゃねえ! 良いからそれを寄越せ、おまえの剣なんてしょっちゅう折れるだろうが!!」

「いーや、オレはこの剣だけは絶対に折らない! そんなどこの馬の骨とも知れない剣を使えるか!!」

「……ビームを撃てるようになってもか?」

 

 瞬間、ペレアスは目を剥いた。

 今まで憧れ続けてきた必殺技。その可能性をチラつかされ、心の動揺が体の震えとして現れる。

 

「べっ、べべべ別に羨ましくねーよそんなもん!」

「だったら良い。あーあ、せっかくこの俺がおまえの剣を作り変えてやろうってのに」

「よし待て、この剣を貸してやる。その代わりに傷つけるなよ、絶対だぞ!」

「…………意思が弱すぎるだろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茫漠と広がる砂漠。

 広大な砂の大地にいくつか点在するオアシスには、エジプトの王の手が及んでいる。

 灼熱の光輝を宿す幻獣。王家に仇なす存在に牙を向く守護聖獣───スフィンクス。人の顔に獅子の体が組み合わさったその幻獣は、下手なサーヴァントならば一撃で屠る武力を有していた。

 どさり、と砂に倒れる巨体。数少ない砂漠の緑地を守るために配置されていた三体のスフィンクスは、真紅の騎士の手によってその命を終えた。

 二つの刃が空を切る。剣身を汚す血と脂が振り払われ、斬れ味を取り戻した抜き身をそのまま引きずっていく。三体のスフィンクスを倒した疲れは一切見えない。

 真紅の騎士は鬱蒼と立ちはだかる植物を払って進む。森を分け入っていくと、眼前に湖が立ち現れる。

 騎士は空を仰いで鼻を鳴らした。その様はまるで狼の高鼻に似ていた。

 

「───魔女め」

 

 森が、地が、湖がざわめく。

 真紅の騎士が土を蹴ったと同時に、周囲の自然そのものが武器と化して襲い掛かった。

 葉の矢玉が放たれ、根が鞭のように振るわれ、水が網となって降りかかる。地面は全てが落とし穴。足元が崩壊するより前に地を蹴り、攻撃を潜り抜ける。

 雷霆を纏う剣。それが振り抜かれると、辺りは一瞬にして更地と化す。

 化かし合いは彼女たちの本領。生半可な覚悟で太刀打ちできるものではない。焼けた地面を踏みしめ、真紅の騎士は憎悪を吐き出した。

 

「貴様は、必ず見つけ出して殺す」

 

 ───どこかの湖。

 森の隙間から覗く空を見上げ、彼女は答えるように呟いた。

 

「そんなあなたに、私は殺せない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カルデア一行がハサンたちの村を目指して一日と半分。

 砂漠地帯を抜け、険しい山道を乗り越えて、一行はハサンたちの山間の村を目前にしていた。

 通信を阻害する砂嵐から逃れたことでカルデアとの連絡も可能になり、情報共有も行うことができた。ダ・ヴィンチ特製アーマードカーの臨終を最も喜んだのは言うまでもなくロマンである。

 日は既に沈みかけ、山麓を朱と黒のコントラストが彩っていた。そんなこんなで村に入った一行が遭遇したのは、

 

「俺はアーラシュ。よろしくな」

「私はハサン・サッバーハのひとり、静謐の異名を持つ者です。その……私には触れないようお願いします」

 

 立香は目を丸くして言った。

 

「棚からぼた餅ならぬ村からサーヴァント───!! ジャンヌの召喚の時もこんな簡単に出てきてくれればよかったのに!!」

フォウフォウ(嫌な事件だったね)……」

「『ボクも夜なべしてアロンアルファでくっつけた聖晶石が全て無くなるとは思ってもみなかったよ……』」

「───え? アロンアルファ? そんな石で私喚ばれたの? 嘘でしょ!?」

 

 ジャンヌの葛藤は別にして、立香の言う通りこれは思いがけぬ幸運だった。最悪、エジプトの王と獅子王を相手取らなくてはならない今の状況で戦力はいくらあっても足りない。

 それに、アーラシュといえば西アジアでは高名な大英雄だ。ダ・ヴィンチはきらりと眼鏡を光らせる。

 

「アーラシュはペルシャとトゥルクの国境を作った英雄だね。最高の弓手のひとりと言っても差し支えないだろう。イラン人の間でアーラシュという名前がよく名付けられるほどだ。ペレアスさんとは比べ物にならない知名度───」

「やめろオレをオチに使おうとするな。人理修復の暁には世界を救った竜殺しとして有名になるつもりなんだよ!」

「ほう、竜殺しか。これは頼もしいな。ペレアスは西洋の名前か、そっちじゃ大層有名な英雄なんだろうな」

 

 アーラシュの善意に満ちた言葉がペレアスの胸にぐさりと突き刺さる。ペレアスは両目からだくだくと涙を垂れ流した。

 

「まあな、オレは竜殺しで円卓の騎士だからな! アハッ、アハハッ、アハハハハハハ!!!」

「哀れすぎて何も言えませんねえ。下手に見栄を張っても自分が辛くなるだけですのに」

「なんか、すまんかった」

「アーラシュさんは気にしなくていいですよ。そっちの静謐さんはどうして触っちゃいけないんですか? 潔癖症? ウェットティッシュあげましょうか?」

 

 立香は静謐のハサンにずいと近づいた。彼女は髑髏の仮面の下で顔を引きつらせて、そそくさと距離を取る。

 それに応じて立香も詰め寄るが、静謐のハサンはさらに後ずさった。さながら猫とルンバの対決の構図である。見かねた呪腕のハサンは助け舟を出すことにした。

 

「彼女は全身が毒の塊でして……よほどの耐性がないと触れるだけでへんじがないただのしかばねになってしまいますので、どうかご理解を」

「な、なるほど。さすがにそれは困りますね。現実は教会でお金払っても復活できませんし……静謐さんもごめんなさい」

「大丈夫です。慣れてますから。それよりもお疲れでしょう? 食事の準備をしますので、ぜひ召し上がってください。……私は手伝えないんですが」

「い、色々と大変なのね……」

 

 ジャンヌは不憫な静謐のハサンを哀れんだ。

 全身が毒そのものである彼女の五体は触れただけで生命を死に至らしめる。毒とは滞留するものであり、その手で触れたモノにも毒性が宿ってしまう。料理の手伝いなどすれば、すぐさま全員が食中毒待ったなしだろう。

 人生全てを暗殺の業に注ぎ込んだような存在。仮面の下の美貌としなやかな肢体に釣られて命を落とした人間は数が知れない。およそ普通の生活を捨てて得た肉体なのだから、彼女にとって普通の日常というものは限りなく生きづらいものなのだ。

 立香は両の拳をぐっと握り締めた。

 

「でも、ご飯は一緒に食べられるんですよね。触りさえしなければ良いんですから!」

「ですが、私は吐息までもが毒です。なるべく近寄らない方が良いかと」

「大丈夫ですよ! ちょっとくらいならリーダーに治してもらえばバッチリなんで!」

「毒の類をルーンで治したことは少ないからな。貴重なサンプルが取れそうだ。むしろ俺が触ってデータを取っても良い」

「それはセクハラなんで普通にやめてください。許可なく女の子に触るとかノンデリカシーの極みです」

 

 立香は静謐のハサンに近寄るノアをぐいぐいと引っ張る。その様子を見て、ダンテは吹き出した。マシュは彼の顔面を見て視線を尖らせる。

 

「ダンテさん、なんでそんな気持ち悪い笑顔をしてるんです?」

「いえいえ、微笑ましい光景を見てしまったもので。ところで、呪腕さんが言っていた戦力強化の目処というのはアーラシュさんと静謐さんのことですか?」

「いえ、我ら山の翁の初代様の力をお借りしようと思っていたのですが……」

 

 百貌のハサンが言葉を引き継ぐ。

 

「この近くにあるアズライールの廟だな。初代山の翁は以降に続く我らとは比べ物にならないほどの力を誇るお方だ。俗世より離れられた初代様に助力を求めることは自らの力不足を露呈するに等しいからな、できれば使いたくない手段ではある」

「まあその時は私の首が物理的に飛ぶだけですので、貴方がたは気楽にしておられるとよろしい。俺、この戦いが終わったら結婚するんだ……金魚の餌やりもしないとな……」

「死亡フラグを死亡フラグで打ち消そうとするのやめません?」

 

 ダンテは冷静にツッコんだ。

 初代山の翁とは言うなれば真のハサン。彼よりハサン・サッバーハという名が始まり、暗殺者の技が連綿と紡ぎ上げられてきた。今では初代はアズライールの廟に隠居し、教団を監視する任に就いている。

 そんな彼に後塵を拝する立場の山の翁が助けを求めるとあらば、断罪を受ける可能性は高い。なぜなら自分の役目を放棄して、他人に縋ろうというのだから。

 アーラシュは呪腕のハサンの覚悟に賛同する。

 

「助勢を求めるなら早めが良い。聖都の騎士の手が及ぶのはそう遠くないはずだ。この村は隠れるにはうってつけだが、防衛となると心許ないからな」

「確かにこの村はなんか違うんだよね……貧弱すぎるというか……ひねりがないよねぇ……私が魔改造を施してあげないと可哀想だよ!!」

「『ダ・ヴィンチがまた何か変なこと考えてるぞ!? みんな止めてくれ!!』」

 

 ダ・ヴィンチは持てる限りの資材を持って彼方へとすっ飛んでいく。思わず顔面を蒼白にするロマンに、追い打ちをかけるようにノアは言った。

 

「俺もダ・ヴィンチに賛成だ。結界くらいは張らないとおちおち夕飯も食えない。藤丸と……べディヴィエールは着いてこい」

「私は別に良いですけど、べディヴィエールさんもですか?」

「俺たちと肩を並べて戦うんなら少しはしごいておかねえとな。俺たちマスターの仕事ぶりを見て恐れおののけ。そして平伏せ」

「お、お手柔らかにお願いします……」

 

 そうして、彼らは村の外周を回ることにした。結界を結ぶ方法はいくつかあるが、最も単純かつ効果的な方法は境界を区切ることである。

 結界という考え方は世界共通であるが、言葉そのものは仏教用語だ。元の意味は聖域や修行場を定めることであり、密教ではさらに魔を退ける意味も加わった。かつて仏陀の瞑想をマーラが妨害したように、仏教の修行者にとって修行の妨げとなるのは超常的な存在も含まれるからだ。

 そのために、彼らは境界線を引いて外界と聖域を区別した。結界は修行者の周りを囲むだけのものもあれば、山ひとつをまるごと収めてしまうものまで存在する。

 ノアは紙垂を取り付けた縄を用意して、木から木へと渡していく。立香とべディヴィエールも同じ縄を持たされていた。

 

「結界という概念が最も根付いた国はおそらく日本だろうな。神社の鳥居は代表的だが、茶室のにじり口も結界の一種だ。この結界も神道の方式に則ることにする」

「神社でよく見かけるしめ縄ですね!」

「そうだ。これで村とその外を区切って結界を作る。効果は侵入者を知らせる警報と、ルーンも混ぜて防壁にでもしておくか」

「それは良いのですが……ここまで分かりやすいと気付かれてしまうのでは?」

 

 べディヴィエールは率直な疑問を投げかける。

 敵の侵入を告げる警報ならば、敵に気付かれては元も子もない。相手が魔術師であれば解除するか抜け道を作りそうなものだ。

 ノアは不敵に笑い、縄を木に縛り付けた。

 

「この結界は気付かれることに意味がある。俺たちがやってるのは文字通り縄張り───つまり敵への示威行為だ。縄をどうにかしようとした時点でそいつは敵に違いねえ。縄に干渉しようとした時点で警報と防壁が発生する仕組みにしてある」

「なるほど。魔術というのは奥が深い。勉強になります。私たちの宮廷魔術師はその……ほら、アレでしたので」

「リーダーも似たりよったりだと思いますよ?」

(貴女も大概な気がする……とは言ってはいけないのでしょうね、多分)

 

 べディヴィエールは喉元で言葉を呑み込んだ。世の中では事実を指摘しても罪になることがある。彼はこの場の誰よりも遥かに大人の理屈を弁えているのだ。

 立香は背伸びして縄を巻きつけながら、

 

「それで、どうしてべディヴィエールさんを呼んだんですか? 人手が要るなら宝具だけが取り柄のダンテさんでも良かったんじゃ?」

「そうですね。私もそこが気になっていました。もちろん、騎士として求められた仕事はきちんと受けるつもりですが」

「確かに、宝具だけが取り柄のアホのダンテでも良かった。俺がべディヴィエールに訊きたいことがあるから呼んだ。答えても答えなくてもいいがな」

「……それは、一体?」

 

 ノアは何でもないように、平坦な声で告げた。

 

「───おまえ、人間だろ」

 

 その言葉を受けて、立香とべディヴィエールは氷像のように硬直した。数秒後、氷が溶けた立香はぼそりと声をこぼす。

 

「…………いや、見れば分かりますけど」

「そういうことじゃねえ! そいつはサーヴァントじゃなくて人間なんだよ!」

「ええーっ!? そうだったんですか!?」

「せっかく俺がシリアスな感じにしようとしたのに台無しにしやがって! どうしてくれんだ! べディヴィエールが微妙な顔になっちゃってるだろうが!!」

 

 冷や汗を流すべディヴィエール。彼はもつれる舌を強引に動かして、問い返した。

 

「……な、なぜ分かったんですか。私がサーヴァントではない人間だと」

「俺はなんでもできる大天才だが、傷を治す魔術には特に自信がある。医学が発達する前は呪術師なんかが病気の治療をしてたから、ある種魔術の本領ではあるがな」

「意外ですね。性格的にはどう考えても真逆なのに」

「黙ってろ。俺は人間もサーヴァントも治したが、両者の傷の治りは必ずしも同じじゃない。サーヴァントは言っちまえば魔力の塊だからな。その上でおまえが人間だと判断した」

 

 サーヴァントは魔力で肉体を構成しているため、人間と同じように体温があり、傷付けば血を流す。だが、肉体が魔力で作られている以上、同じ治癒魔術を掛けたとしても実体の肉を持つ人間と比べて差異が生じる。

 それは微細な違和感。気にも留めないような感覚だったが、数々の人を治した経験と妙なところで細かい性格がべディヴィエールに災いしたのだった。

 ノアは懐に手を入れ、続けて言う。

 

「おまえが抱えてる事情も見当はつく。俺は寛大だ、やりたいようにやらせてやるよ。だが、その体でサーヴァントと戦うなら準備が要る」

 

 ルーンが書きつけられた護符を押し付けるように渡す。べディヴィエールは義手でそれを受け取ると、深く俯いて全身をわななかせた。

 

「私の罪のせいで貴方がたにここまで気を遣わせてしまうとは……謝罪の余地しかありません。あ、こんなところに都合よく縄が……」

「うわー! ストップストップ! その縄はそういう使い方をするものじゃないですから! 輪っかにしたら駄目ですよ!」

「ネガティブなのはペレアスで十分なんだよ! 円卓はこんな奴らばっかりか!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖都中央、獅子王の居城。

 その一室にて、六人の円卓の騎士が一堂に介していた。

 空気が斬れ味を帯びるほどに張り詰める。円卓を囲む騎士たちに言葉はなく、鋭い眼差しだけが飛び交っていた。そんな静寂を打ち破ったのは、燕尾服を着た片眼鏡の男───ラモラック。

 彼は組んだ両足を卓上に載せ、銀の柳眉を歪める。

 

「円卓がたった六人になるとはな。つまらん。ガヘリスやパーシヴァルは……ああ、貴様らが殺したのだったか。せめて半殺し程度に留めておいてくれれば、話し相手には困らなかったものを」

 

 視線が射抜くのは、赤い長髪の騎士。彼の両眼は二度と開くことがないように閉じられていた。ラモラックは憂いと失意に塗れたその顔を指して、

 

「我が友トリスタンもこの調子だ。目を潰し、生来の人格すらも変えてしまった。なんと律儀で繊細な男よ、かつての仲間を殺した程度でこうなってしまうとは。おれは悲しい」

 

 言葉とは裏腹に、声音と顔色は喜色に満ちていた。

 円卓の騎士が数を減らしたのは十字軍との戦いによるものではない。獅子王に召喚されたその時、彼らは殺し合ったのだ。

 獅子王に味方する者と、獅子王を否定する者同士で。

 モードレッドは獰猛に牙を剥き、身を乗り出す。

 

「トリスタンはオレたちと違ってお優しかったからな。理解なんてできねえし、する必要もねえ。───ああいや、もう一度てめぇを殺せば少しは感傷ってやつも出てくるか?」

「貴様がおれを殺す? ククッ、構わんぞ。ガウェインとアグラヴェインも連れてくると良い。ガヘリスはここにはいないがどうする? 墓でも掘り返してくるか?」

「…………オレに殺れねえとでも思ってんのか」

 

 殺気が満ちる。

 両者はまるで対極。怒りを隠しもしないモードレッドと、微笑が仮面の如く貼り付いたラモラック。二人の激突は避けられないように思われたが、太陽の騎士の一声がそれを打ち消した。

 

「───やめなさい。ここは王の居城、剣を抜くなどあり得ない」

「そこな問題児の言葉を本気で受け止めている。その時点で器が知れるぞ、モードレッド」

 

 太陽の騎士ガウェインに続いたのは、黒い甲冑の男。切り立った目つきと厳めしい面構えをした彼は冷たい瞳をラモラックに向ける。

 ラモラックは笑い、大げさな仕草で顔を背けた。

 

「やめてくれ、アグラヴェイン。おれ如きが問題児などと言われては困る。モードレッドやランスロットに比べたらな」

「口の減らねえ野郎だ。遊び相手がいなくて寂しいのか?」

「そうかもな、モードレッド。おれは寂しい。ペレアスのように打てば響くやつはいないものか……あいつは良い玩具だった」

「そりゃあ残念だったな。あの色ボケ野郎ならオレが番外位の席ごと追放した。誰かが円卓を割ってくれたおかげですんなりいったぜ」

 

 モードレッドの目線がランスロットに飛ぶ。

 裏切りの騎士ランスロット。王妃との不義に始まり、仲間をも手にかけた騎士はモードレッドの言葉と瞳を黙って受け入れる。

 その様を見て、アグラヴェインは小さく息を吐いた。

 

「……本題に入る。モードレッドの偵察によって山の民の拠点が割れた。エジプトとの不可侵条約がある今、山の民だけが王を脅かす勢力だ。聖都の防衛としてガウェインを置き、残りの全軍で奴らを叩く」

 

 ラモラックは笑みを深め、トリスタンへと顔を傾ける。

 

「ふむ、これは盛大な祭りになりそうだ。非戦闘員はどうする? 捕らえて聖抜にかけるか?」

「否、根絶やしがよろしいでしょう。人の恨みは禍根を残します。何より、女子供といえど聖都に仇なす王の敵……見逃す理由などありはしない」

 

 そう言うトリスタンの声音に温度は存在しなかった。鋼のような冷徹さだけが彼の心を物語る唯一の手掛かりだ。

 以前の彼とはまるで正反対。昔のトリスタンを知るラモラックは友の変わり様に、喉を鳴らして目を細めた。

 アグラヴェインは頷き、変わらない調子で告げる。

 

「然り。トリスタンの言葉通り、此度の戦いにおいて敵にかける慈悲はない。根切りだ。兵にもそれを徹底させろ」

「ハッ、言われるまでもねえな。王の威光を理解しない愚か者にくれてやるのは死くらいなもんだ」

 

 不敵に笑うモードレッド。根切り……皆殺しの提案に反対する者は誰もいなかった。ガウェインは面を伏せ、話し合いを行方を見守るに留めるのみだ。

 ランスロットは強張った表情で言い放つ。

 

「待て、それを決めるのは早計にすぎる。敵とはいえ、中には聖都に導かれるべき魂も存在するはずだ。彼らを聖抜無しに殺すというのは王の目的に反するのではないか」

 

 直後、空気が固まる。

 殺意にも等しい冷気。アグラヴェインの鉄面皮の下からは、覆い隠せぬ感情が溢れ出していた。

 最初に口を開いたのはモードレッドだった。室内を埋め尽くすかの如き哄笑を轟かせ、叛逆の騎士は言い返す。

 

「いいか、聖都に導かれるのは罪の穢れ無き純白の魂───王という絶対の正義に歯向かう敵対者にそんな資格があると思うか?」

「それを決めるのは王であるはずだ。無闇に命を奪うなど、正しい騎士の在り方とは言えない!!」

「───貴様が、騎士の正しさを語るか」

 

 ずぐり、と。腹の底を突き刺し、心の奥に硫酸を流し込むような。痛みすら帯びた重い言葉が、アグラヴェインの口から這い出した。

 

「王の敵は我らの敵だ。騎士とは王の手足だ。それ以上でもそれ以下でもない。無闇に剣を振るい、闇雲に殺せ。それ以外は求めない。求めてはならない」

「それではまるで、傀儡だ……!!」

「そうだ。それのどこに問題がある。傀儡に徹し切れなかった貴様に最も必要なことだろう。それともまた刃を向けるか? 過ちを繰り返す恥知らずの汚名を避けぬならば、そうすれば良い」

「────貴様!!」

 

 その時、彼らが取り囲む卓に深い亀裂が入り、真っ二つに裂ける。

 それを成したのはランスロットでもアグラヴェインでもなく、ラモラックだった。彼は卓上に足を載せた姿勢から踵に力を込めただけで、これを破壊してみせたのだ。

 くつくつと愉快げに笑みを広げ、ラモラックは立ち上がった。

 

「おれが一番嫌いなことは他人の喧嘩を傍観している時だ。割り込みたくなってしまうからな。という訳で、おれはどちらから先に殴ればいい?」

「……座りなさいラモラック。そこの二人は既に、貴方のせいで萎えています。おかげで、とは言いませんが、この弓を使う事態にならなかったことに関しては感謝しましょう」

「──ククッ! そうか、それは勿体無いことをした。我ながら堪え性がない。モードレッド、この机を片付けておけ」

「ふざけんな、てめぇがやれ!」

 

 急速に弛緩した雰囲気を引き戻すように、アグラヴェインが言う。

 

「配置は追って伝える。すぐに部隊をまとめて準備しろ」

 

 そして、円卓の騎士たちは次々とその部屋を出ていく。トリスタンが扉を開けようとすると、ラモラックは彼の肩を掴んで引き止める。

 

「トリスタン、頼みがある」

 

 その顔は、どこまでも微笑に満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カルデア一行が山間の村に到着した二日後。

 呪腕のハサンと百貌のハサンを加えたEチームは初代山の翁がいるというアズライールの廟の前にいた。険しい山の間にあるこの寺院に着くため、彼らは二日の時間をかけて山を歩いた。ダ・ヴィンチやべディヴィエールなどの他の面子は村の守りとして居残りになっている。

 寺院は重厚な石造りをしており、きらびやかで華美な印象は全くと言って良いほど存在しない。入り口から流れ出して来る空気はひんやりとして、否応なしに冥界のそれを想起させた。

 廟としては簡素ながらも、漂う雰囲気は厳然そのもの。決して贅を凝らした装飾のみが美しいのではないと分かる見た目だ。

 燦々と照りつける太陽の下、マシュは身の丈ほどの巨大なしゃもじを肩に担いでいた。

 

「それでは『突撃! 隣の昼ご飯』特別編、アズライールの廟からお送りいたします。聞くところによると、初代山の翁とはハサンを始末するハサンなのだとか。そんな人がどんなものを食べるのか、非常に興味深いですね」

「それじゃあ早速突撃しよっか。お邪魔しま」

 

 意気揚々と踏み込もうとした立香の言葉を遮るように、百貌のハサンが怒号を飛ばす。

 

「いやちょっと待てェェェ!! そんな奇っ怪な板を持って突撃するアホがどこの世界にいるんだ!? 不敬にもほどがあるぞ!」

「百貌さん、今のはヨネスケさんへの侮辱と受け取って構わないですね? 確かにあの人は見知らぬ家庭の晩ご飯にあやかるようなプライドの欠片もない人ですが、巨大しゃもじを背負い続けてきた屈強な男でもあります」

「それはしゃもじというにはあまりにも大きすぎた。大きく、分厚く、重く、そして大雑把すぎた。それはまさにしゃもじだった───」

「結局しゃもじじゃない! 巡り巡ってしゃもじに帰ってきてるじゃない!」

 

 なぜか自分のことのように絶望するジャンヌ。呪腕のハサンは髑髏の仮面を貫通するほどの冷や汗を噴出させる。

 

「あの……本当に洒落でなく私の首が飛びそうなのですが。大丈夫ですか。こんな形で退場するとか流石のハサンも遠慮願いたいというか……どこぞの金ピカや腹ペコ蟲少女にやられるならまだしも」

「日本では他人の家にお邪魔する時は巨大しゃもじを携えていくのが一般的なんじゃないですか? ヨネスケなる人物はきっと日本の国民的英雄なのでしょう」

「あいつは世が世なら托鉢僧として活躍できただろうな。『しゃもじ持って突撃したらタダ飯食えた件〜おかわりなんて言われてももう遅い〜』 みたいな感じで」

「ノア、お前の発言の節々からヨネスケへの敬意の無さが見て取れるんだが!? もう少し尊ぶフリくらいしてみせろ!」

 

 ペレアス渾身のツッコミも虚しく、ノアたちはぞろぞろと霊廟の中に突入していってしまう。ハサン二人は渋々その後を追った。

 石造りの寺院は特に変わったところはなかった。が、そこに入った途端、鉛の膜を被せられたような重圧が襲い来る。

 生命が、魂が、全存在がここにいることを拒んでいるかのような感覚。ダンテは身震いして辺りを見回した。

 

「な、なかなか雰囲気がありますねえ。なんとなく地獄の空気に似ている気がします」

「『計器は特に異常を示していないのですが……今までの経験からして、嫌な予感しかしないですね』」

「ええ。初代ハサンというのはどういうお人なんですか? 教団を監視し、教主が衰えた時に始末しに来るそうですが」

「初代様はある意味死の化身のようなお方だ。武器や技で人を屠る我らなど、初代様からすれば未熟も良いところだ。何しろ、あの人は刃を振るう標的の運命を殺す」

 

 百貌のハサンが言い終わると、Eチームは顔を見合わせた。運命を殺す、とはすなわちどうあがいても逃れられぬ死を与えるということだろう。

 マシュは無表情で言う。

 

「……もう初代様だけで良いのでは? 運命を殺すなんて言われたら、獅子王もイチコロでしょう」

「今回の特異点も長かったね。次回で最終回かぁ……」

「待てそれは困る! まだ嫁にも会ってないのに!」

「───然り。魔術の徒……汝らの旅路は未だ途上、我が剣の振るわれる時ではない」

 

 不意に響く声。瞬間、ハサン二人は即座につくばった。暗殺教団の長が捧げる最敬礼。それに値する人物はひとりしかいない。

 初代山の翁。対象の運命を殺すという、およそ暗殺者の頂点に位置するかの如き力を誇る真のハサン。その声だけで、一行を取り巻く重圧は遥かに増加する。

 未だ姿を現さぬ彼に、マシュは堂々と立ち向かった。

 

「突撃隣の昼ご飯です! 名高き初代山の翁様とお見受けしますが、ずばり好きな食べ物はなんですか!?」

「…………」

「やめてェェェ!! 初代様困ってるから! 本当に冗談でなく私の首が飛びますから! 初代様はそういうのを超越した存在だから答えるはずが───」

「暗き死こそが我が馳走。振る舞う側だがな」

「答えちゃったよ! しかも暗に殺すって言ってるよ! やるならどうか私ひとりの命でご勘弁を!!」

 

 喚き立てる呪腕のハサンを咎めるように、百貌のハサンは視線を送る。

 

「やめろ、初代様の前で見苦しい。自分のキャラをしっかりと保て」

「むしろそれだけ冷静な方が疑問なのですが……?」

「───ふっ。諦めたのさ、何もかもをな」

「先に諦めるなんてずるいですぞ! せめて共に汚名を被って死にましょう!」

 

 ノアは半狂乱になっているハサン二人の口を後ろから手で塞ぐと、姿無き初代ハサンを望むように虚空を見つめた。

 

「単刀直入に言う。俺たちに手を貸せ」

「『……ノアくん、大人の交渉っていうのは自分の要求を伝えるだけじゃなくてね?』」

「ロマンの言いたいことは分かるが、この人相手に腹の探り合いが通用すると思うか? こういうのはずばりと物を言った方が楽だ」

 

 ペレアスはそう言って、ノアの頭を強制的に下げさせた。姿も見せていない初代ハサンだが、Eチームはとうに痛感していた。彼は今まで会ったどの英霊よりも異質であると。

 最強、などと陳腐な言葉は似合わない。彼とはきっと戦いにすらならないからだ。武器を振るい鎬を削り合う───そんな真っ当な戦いの概念とは、明らかにかけ離れている。

 初代ハサンはこの場の誰に向けた訳でもなく、独り言のような調子で呟く。

 

「因果が捻じれている。獅子王の軍勢と一度も刃を交わさずに此処に辿り着いたか、魔術の徒よ。晩鐘の音が遠退いていく……告死の剣、振るうべきは母なる獣でなく、楽園に潜みし天魔の王か」

「おいおい、おまえも意味深なこと言って去るクチか? そういうのはオティヌスの野郎でうんざりだ。老人の独り言は───」

 

 その言葉が最後まで紡がれることはなかった。呪腕と百貌、二人の肘が跳ね上がり、ノアの顎を打ち据える。ノアはカエルの死体をひっくり返したみたいな格好になり、ぴくぴくと痙攣を繰り返した。

 ハサンたちが跪こうとしたその時、大剣のひと振りが彼らの眼前を薙いだ。

 

「「ッ───!!」」

「呪腕、百貌。浅ましくも我が助勢を請う驕傲、今は赦そう」

 

 彼はその五体を露わにしていた。

 人々が思い描く死神の典型。漆黒の外套を纏う骸がそこにいた。ひとつ異なるのは彼が持つ得物。命を刈り取る鎌でなく、分厚い一本の大剣を携えている。

 彼は確かにそこにいる。だというのに、瞬きをしたらその姿を見失ってしまいそうなほどに隠形が染み付いていた。

 

「魔術の徒よ、我が力が欲しくば答えよ。汝らの信念が魔術王の首を刎ねるに足るか、此処で見極める」

「『……あの、ちなみに答えがお眼鏡に適わなかったら?』」

「示す必要があるか、魔術師」

「『まっっったくありません!!!』」

「毎度のことながら、ヘタレですねドクター」

 

 マシュは肩を落とした。ロマンとて好きでヘタレなのではない。魂の芯からヘタレなのだ。付け加えれば、彼はEチームの存在証明等々雑務をこなしているのだが、あまり目立たない地味な仕事である。

 ノアは何事もなかったかのように起き上がると、調子を確かめるために首を鳴らした。

 

「ロマンのアホのどこが魔術師なんだっつう話ではあるが……藤丸、おまえが答えろ」

「なんで私!?」

「私は文句ないわ。立香の答えなら斬られても納得できるし」

 

 ダンテとペレアス、マシュはジャンヌに同意して頷いた。

 

「ノアさんはアレなので立香さん一択ですねえ。大丈夫です、こういうのは大抵何とかなりますので」

「わたしも先輩なら安心です。リーダーとは天と地の差です」

「だな。ばーんと答えてやれ!」

 

 立香は腕を組んでうなり声を上げる。

 そうは言われても、大層な信念なんて持っていない。あるのは小さな願い。それも素朴で、意外性なんて全くない願望だ。

 だとしても、それで良いのなら。

 彼女は真っ直ぐな瞳で答えた。

 

「もう誰も失いたくない、それだけです。つまらない答えかもしれませんけど、これ以外思いつきません」

 

 それを、数多の命を奪い続けた男はどう受け止めたのだろう。

 彼は大剣の柄を音が立つほどに握り締めた。

 

「何故自分の願いを卑下する。それなるは汝が掴んだこの世で唯一の宝であろう。然らば───」

 

 切っ先が石の床を抉る。大剣を地に突き立て、彼は命ずる。

 

「───それを貫き通してみせよ。青臭い願望も貫き通せば究極の一と転じる」

「それじゃあ……」

「砂に埋もれし知識の蔵。アトラス院を目指せ、魔術の徒よ。其処で汝らは人理焼却の因果を知り、その先に待ち受ける災いの兆しを見るだろう。それが叶った時、我はこの剣を振るおう」

「……その先だと?」

 

 ノアは訝しんだ。その先という言葉が示すのは人理焼却の末に起こる出来事なのか、もしくはこの事態を収めた後に起こる出来事なのか。どちらにせよ、聞き逃すことはできなかった。

 初代ハサンは蒼き炎のような瞳をノアに向け、静かに述べる。

 

「遥か北欧、白き神の名を冠する者よ。その手に在りし黄金の枝が何を撃ち抜くべきものか、ゆめ忘れるな」

 

 そして、彼はその場を去った。

 去った、という表現が果たして適切かは分からない。ただ姿を消しただけでそこにいるのかもしれないし、現世ならざる幽世に還ったのかもしれない。

 それを知覚する術を持たない一行には、答えがどうであろうと詮無いことだった。彼らは強張った体を引きずって廟の外に出る。

 ハサンたちは重たい息を吐きだして、地面にへたり込んだ。

 

「あれ……生きてる……ナンデ……?」

「あの世の景色って現世と変わらないんですな……」

フォウフォウフォウ(この二人が不憫すぎる)

「根性がねえな。仮にもハサンだろうが」

「私は二人の気持ちが痛いくらいに分かりますよ! あの人の前に立ってたら、どっと疲れが……」

 

 立香の精神的ダメージもかなりのものであった。生ある者が死の化身と向かい合ったのだから、その疲労は当然と言えるだろう。

 マシュは手持ち無沙汰になった巨大しゃもじを廟の壁に立てかけながら、

 

「ここからまた二日かけて帰るのですが……わたしも憂鬱になってきました。せめてこのしゃもじは廟に供えておきましょう」

「初代様の廟にゴミを置いていくな」

「用事も済んだことだし、オレたちはすぐに戻るべきじゃねえか? 村も心配だしな」

 

 村にいるべディヴィエールに通信機を持たせてはいるが、敵の襲撃を受けている可能性は常につきまとう。対抗馬としてはダ・ヴィンチの暴走が考えられるが、一行は深く考えることはしなかった。

 ダンテはペレアスの言に首肯する。

 

「いやあ、飛行機が欲しいですねえ。空をひとっ飛びして目的地に行けるなんて、まさしく夢の機械ですよ」

「こんな時に願望を垂れ流してどうするのよ。空を飛ぶなんて便利な手段があるはずないでしょうが」

「あるぞ」

 

 言い放ってみせたのはノアだった。場の視線が一気に集まり、彼は空中にルーンを描いて見せる。

 

「戦士の魂を運ぶワルキューレの伝承を参考に原初のルーンを派生させてみた。これを使えば目的地までひとっ飛びだ」

 

 立香はにっこりと笑って、

 

「最高じゃないですか! タケコプター的なやつですよね!?」

「いや、カタパルト的なやつだな。もっと言えばミサイル的ですらある」

「あ、やっぱりいいです。みんな、徒歩で帰ろっか」

「ここまで話を聞いといて使わないなんて選択肢はねえなァ!! おまえら全員俺の魔術の実験台だ! 覚悟決めろ!!」

「というかワルキューレが飛んでいく先ってヴァルハラですよね!? 思いっ切り死後の世界ですよね!? 嫌な予感しかしないんですけど!!」

 

 直後、立香の嫌な予感は的中することになる。

 ふわりと内臓が浮き上がる感覚。天地の上下が喪失し、吹き付ける豪風と疾走感が思考の自由を奪う。そして、襲うのは急激な落下。ジェットコースターを遥かに凌駕する高低差への下降に苛まれ、気づくと両手両足が地面に触れていた。

 恐る恐るまぶたを開く。視界に映し出されたのはハサンの村の光景だった。どうやら移動自体は上手くいったらしく、体には傷ひとつついていない。

 

「よし、実験大成功だな。俺の才能が留まることを知らなすぎて恐ろしい……」

 

 が、そんなことでこの悪行が許されるはずもなく。

 マシュとジャンヌ、ペレアスに加えて二人のハサンがノアに飛びかかった。彼らが一通りノアをタコ殴りにしていると、妙に焦った顔のべディヴィエールが走り寄って来る。

 

「皆さん、どうしたのですか!?」

「ノアのアホがオレたちを空高くぶち飛ばした。こんなことなら普通に二日歩いて帰ればよかった」

「そうならそうと言えよ」

「お前が! 話を! 聞いてねえからだろ!!」

「……いえ、もしかしたら正解かもしれません」

 

 ノアたちはべディヴィエールの言葉に疑問を覚える。それと同時に、陶器が割れたような音響が鼓膜を揺らした。

 

「チッ───襲撃か、ノア!?」

「ああ、これは確かに正解だったかもな」

 

 先日、ノアが仕掛けた結界。その警報装置が作動した証であり、村をドーム状に覆う魔術防壁が展開される。

 その直後に、目も眩むような赤き雷が上空より降り注ぎ、天蓋が砕け散った。その雷は防壁を砕いてなお勢いを止めず、村の中心に突き刺さった。

 湧き上がる絶叫。鼻腔を貫く血と肉の焦げた匂い。散らばった死体の中心にいる騎士の顔を視認して、立香は叫んだ。

 

「───モードレッドさん!?」

「気安く名前を呼ぶんじゃねえ。だが、この名を覚えることは許そう。王の威光とともに我が名を刻みつけて死ね!!」

 

 叛逆の騎士、モードレッド。かつてロンドンの地で共に戦った騎士は、あらん限りの敵意と戦意を以って立香たちを睨みつけた。

 ペレアスたちサーヴァントは咄嗟に武器を構えて前に出る。この場に限るなら数は圧倒的に有利。モードレッドといえど、敗色は濃いだろう。

 しかして、運命はそれを許さない。

 破れた天蓋より、燕尾服の男が舞い降りる。

 執事風の服装に似合わぬ刺々しい籠手を両腕に纏い、彼は破顔した。

 

「なんと、これは当たりも当たり、大当たりだ!! 旧知の仲間が二人もいるとはな! おれは寂しかったぞ、是非とも慰めてくれ───ペレアス、べディヴィエール!!」

「よりにもよってアンタかよ───ラモラック!!」

 

 不退転の騎士、ラモラック。

 彼の笑みは圧倒的な数の差を前にしても、揺らぐことはなかった。



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第49話 騎士が捧げる王への献身

 モードレッドとラモラックがハサンの村を襲撃する一刻前。

 山中に築かれた陣の中で、アグラヴェインとモードレッドは先行させていた斥候の報告を受けていた。敵の陣地を攻める際の情報収集は何よりも重要だ。それはどんな英雄の戦であっても変わらない。

 斥候からの報告を聞き終え、モードレッドは小首を傾げた。

 

「───紙切れがついた縄が張り巡らされてる? なんだそれ」

「内界と外界の仕切り、結界だ。既に発動している結界を気取られずに掻い潜る術はこちらにはない。これで奇襲は不可能になった」

「力押しか。いいじゃねえか、オレはそっちの方が性に合ってる」

「……陣触れを出す。先陣を切れ、モードレッド」

 

 奇襲が効かないと分かった以上、思索に時間を掛けるのは愚策だ。相手がこちらに気づいている場合、対応する隙を与えることになってしまう。

 アグラヴェインとモードレッドはそれぞれ自らの配下を率いて出撃した。もはや襲撃を察知されることは確定している。彼らは陣形を組みつつ結界の手前まで接近する。

 その時、ひとりの先客が目に入る。アグラヴェインは鉄面皮を歪め、呪いを吐くように言葉をこぼした。

 

「なぜ……貴様がここにいる。ラモラック!」

「そう無碍にしてくれるな、アグラヴェイン。皆まで言うな、持ち場を離れたことを咎めているのだろう」

「分かってんならとっとと戻りやがれ。部隊の指揮まで放り出しやがって、それでも円卓の騎士か?」

「おれの部隊の指揮ならトリスタンに任せた。持ち場は同じだったからな。これは言うなれば我らのため───共に戦い、友誼を深めようではないか」

 

 アグラヴェインは奥歯を噛んだ。

 これは苛立ち。生前、ラモラックに抱いていた黒い感情。死後に英霊となった今もなお火種として残り続けていた憤りに、新たな燃料が注がれていく。

 彼の言葉は何もかもが胡散臭さに満ちている。そんなものが通ると思っているふてぶてしさも、常に自信と微笑に満ちた顔も、何もかもが憎らしい。

 脳裏をよぎる、醜悪な魔女の存在。それにつきまとうのはいつだって、ラモラックの笑みと喉を鳴らす音だった。

 ───そう、だからこそ、私はこの男を殺したのだ。王の利にならぬと知っていても。

 

「仲良く肩を並べて戦えと言うのか、貴様は。生前の因縁を忘れた訳でもあるまい!」

「生前のことは水に流そう。我らは人間だ。愛し合いもすれば殺し合いもする。それとも、まだ貴様らはあの女に囚われているのか?」

「てめぇがそれを言うのかよ、色ボケ野郎その二。死んで女の趣味も少しは変わったか、ラモラック」

「答えてもいいが、下世話な話になるぞ? 戦いの前に士気を下げることになってしまう。騎士としてそれはあまりにもな……」

 

 くつくつとラモラックは喉を鳴らした。

 その音がアグラヴェインの心臓をざわつかせ、苦い感情を沸き立たせる。彼はぶつりと唇を噛み切り、熱くなった頭を痛みで冷ます。

 一口に円卓の騎士と言っても、その性質は十人十色だ。文官としても傑出しているアグラヴェインは事実上の最高責任者だが、それぞれの階級は同等。作戦立案までは彼が描いた図絵の通りに進んだとしても、指揮権はそれぞれの現場と部隊で独立している。

 ラモラックがトリスタンと合議して加勢に来たというなら、アグラヴェインにそれを無理やり断ることは難しかった。

 

「貴様が我が方の加勢に来たことは了解した。それならば、貴様は私の指揮下に入ってもらうぞ。共に戦うと言ったのだ、文句はあるまい」

 

 この男は見透かそうと躍起になればなるほど泥沼にはまる。

 奴にかける時間すらも煩わしい。ラモラックが何を企んでいようが、自らの手駒として利用する。アグラヴェインはそう肚を決めた。

 ラモラックは恭しく胸元に手を当て、小腰をかがめる。

 

「かのアグラヴェイン卿の采配の下で戦えるとは、恐悦至極。この命、如何様にでもお使いください」

「…………この結界はおそらく半球状に展開される。モードレッドに続いて上空から村を攻めろ。少しは不意を突けるだろう」

「了解した。では」

 

 ラモラックは背面の縄に右手の甲を当てる。ばちりとした衝撃が走り、耳を劈くような高音が鳴り響いた。薄水色の魔力障壁が村をすっぽりと収め、ラモラックとモードレッドは同時に宙へと飛んだ。

 結界の天蓋が赤雷によって破られたのを確認し、アグラヴェインは全軍へ命令を下した。

 

「───行け」

 

 鬨の声が森を揺らし、聖都の騎士隊が突撃する。

 如何に巧緻な結界があろうと、内部にモードレッドとラモラックという毒を抱えた敵を滅するのは取るに足らない。外から小突けば簡単に倒れる相手だ。

 しかも、アグラヴェインが操る兵にはサーヴァントにおけるバーサーカーのような狂化が付与されている。連携によっては英霊も相手取れる実力だ。彼らを一糸乱れぬことなく統率する、それがアグラヴェインの強さだった。集団として見れば、円卓最強のランスロットにも引けを取らないだろう。

 結界の破壊も時間の問題。敵勢が集結するまでに済むだろう。そう思った矢先、彼らの頭上に薄暗い影が降りる。咄嗟に空を仰ぎ、目に飛び込むのは太陽を背に滑空する機械───オーニソプターと呼ばれる、鳥のように翼を羽ばたかせる航空機であった。

 機体の背の上にはひとりの女性。腕を組み、大地を睥睨する。

 

「孫子曰く、城攻めはやむを得ず行う最後の手段である! 準備に手間取って仕方ないし、下手に突っ込めば多数の兵を失うからね。……ん? 城なんかないだろって?」

「…………」

「そんな君たちに特別にお見せしよう、ダ・ヴィンチちゃんお手製の城壁を!!」

 

 ダ・ヴィンチは左手の指をぱちんと弾く。

 地響きが起こり、土が盛り上がる。石造りの防壁が地面を割って現れ、村を取り囲んだ。ノアたちが村を留守にしていた間に造り上げた仕掛けであった。

 この状況で唯一全ての戦況を見渡す存在であるロマンは、仕掛けの規模に若干辟易しながらも褒め称える。

 

「『良いぞ、腐っても流石は万能の天才! これでかなり余裕ができる! モードレッドとラモラックを倒すまでなんとか持ち堪えてくれ!』」

「いやあそれは難しいんじゃないかな? だって壁用意しただけだし。矢なり石なりで迎撃しないと、城壁と言ってもただのアスレチックだよ」

「『最悪じゃないか!! ここで敵に攻め込まれたら数で押されて一巻の終わりだぞ!』」

「───それをさせないために俺がいるんだろ?」

 

 その時、無数の矢玉が空を埋め尽くす。

 それらは弧を描いて地上の軍勢に襲い掛かる。突風を伴い、木を砕いて地を削る矢の雨は狂化が施された兵を次々と撃ち抜いていく。

 アグラヴェインは剣を抜き放ち、自分を狙う矢を切り落とす。その目が睨むのは城壁の上、深紅の弓を手にする男の姿。彼は矢を番えることなく、弓の弦を弾いた。

 だというのに矢は撃ち出され、兵の頭を貫く。彼の弓には装填の隙がない。自らの魔力を手元で矢に換えることで、弓術の常識を嘲笑うが如き連射を可能としているのだ。

 彼は突き上げるような声で言った。

 

「我が名はアーラシュ! 俺がいる限り、ひとりもここを超えられると思うな!」

 

 ここに立つは、かつて究極の一矢を叶えし救世の勇者。

 一騎で一軍を優に滅ぼす技量の持ち主。想定よりも遥かに高い壁を前にして、押し寄せる兵士の波は急速に鈍りつつあった。

 アーラシュの射撃はひとつひとつが下級宝具に匹敵する威力を持つ。盾で防ぐ、木陰に隠れる……全てが一切の無為。彼の千里眼は瞬時に敵の位置と急所を見抜くことができる。

 山肌に倒れ、転がる死体が徐々に増えていく。それでも、アグラヴェインだけは顔色ひとつ変えることがなかった。

 

「……確かに、外からでは落とせぬな」

 

 彼の周囲に黒き鉄鎖が蛇群の如く展開される。鉄の戒めと呼ばれるその鎖は本来敵の捕縛用に使うものだったが、それらは味方である騎士の死体に絡みつく。

 鎖に縛り上げられた死体が、がちゃがちゃと音を立てながら前進する。まるで操り人形のように、ぎこちない動きでソレは駆動させられていた。

 これならば兵が死のうと関係ない。むしろ命無きモノになった分、体の一部が千切れようが細切れになるまで動くことができるだろう。

 そこに慈悲はない。キリスト教の教えでは肉体とはいつか来る審判の日に復活するための器だ。故に死体であろうと保存されねばならないが、アグラヴェインが信ずるのは神でも救世主でもなく、自らの主君のみ。

 王の騎士ならば、死した後をも王に捧げよ。

 数いる円卓の騎士の中でも、アグラヴェインだけが取れる非情の戦術。彼は傍らの部下に囁くように伝えた。

 

「作戦変更だ、時間を稼ぐ。あの弓兵と女を釘付けにしておけ。私は暫し退がる」

「モードレッド卿とラモラック卿との挟撃が整うまで……ですか?」

「否、聖罰を要請する。王の手を煩わせることになるが、それだけの価値があると判断した。連絡を終えて戻ってくるまでこの場を保たせよ」

「はっ、了解致しました!」

 

 そして。

 ここからは、誰にも告げられぬ本音だった。

 

(ラモラック……貴様も王の光に裁かれるのなら本望だろう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 村内、中央部付近。

 上空より結界を破り侵入したのは、たった二人の騎士。ラモラックとモードレッドだった。しかし、彼らはともに円卓に名を連ねたその時代有数の実力者。聖都の騎士では足手まといにしかならないだろう。

 サーヴァントの数で言えば圧倒的に不利な状況でありながら、二人に萎縮や恐怖は全く存在しない。その顔貌には戦いの高揚があるのみだ。

 ラモラックは鞘に納めた剣を担ぎ、横に頭を傾けた。

 

「ふむ、思っていたよりも数が多いな。共闘といくか? モードレッド」

「てめぇと息合わせて戦えってか? 冗談じゃねえ。オレたちはここの人間を全員殺るために来たんだろうが、あいつらに構ってる暇はねえ」

「そうか、残念だ。おれひとりで彼らを相手取らねばならんとはな、骨が折れるぞ。比喩ではなくな」

「そういうことは気持ちの悪い薄ら笑いをやめてから言いやがれ」

 

 モードレッドはラモラックの肩を叩き、村の東側へと一直線に跳んだ。魔力放出を利用した跳躍は銃弾のように速く、一瞬で姿が見えなくなってしまう。

 即座に反応したのは呪腕と百貌、二人のハサン。この村を守る者として、モードレッドの行動は何よりも見過ごせなかった。

 

「おのれ、村人を狙うとは……奴を止めるぞ! 呪腕の!」

「うむ。ここは任せますが、よろしいですかな」

「アサシンのおまえらがモードレッドと正面切って戦うのは分が悪い。誰か真っ向勝負できるやつを連れていけ」

 

 べディヴィエールはノアの提案に同意する。

 

「それでは、私が。モードレッド卿の戦い方は知っているので、連携すればそう不利な戦いにはならないはずです」

 

 ノアはその目を覗き込むように見つめた。

 べディヴィエールは人間だ。肉体を魔力で構成するサーヴァントとは異なり、都合よく怪我を治すことは難しい。

 だが、それは彼も望むところ。べディヴィエールの瞳に潜む覚悟の強さを感じ取り、ノアは小さく頷いた。ペレアスはそれに続いて笑いかける。

 

「無理するなよべディヴィエール! 死んだら何もねえぞ!」

「ええ、ペレアス卿も気をつけてください!」

「───悪いが、それを見過ごす訳にはいかんな」

 

 土が爆ぜ、ラモラックは矢のように飛び出す。

 剣を抜くとともに鞘を打ち捨て、狙うはべディヴィエールの背中。しかし、刃の間合いに届く前にその進撃は止まることとなる。

 火竜の息にも等しき熱線の射出。白く輝く熱線は呆気なくラモラックに直撃し、炎の渦に巻かれてその姿は覆い隠される。ジャンヌは旗の石突で地面を叩いた。

 

「ふん、アンタこそそんな見え見えの突進を私が見過ごすとでも思った? 消し炭になりなさい」

「さすがジャン───」

 

 立香(りつか)が表情を晴らしたのとは対照的に、ペレアスは青ざめた顔で彼女の言葉を遮るように叫んだ。

 

「───まずい、跳ね返りが来る!! 防げマシュちゃん!!」

「な、なんだかよく分かりませんが防ぎます!」

 

 マシュは言われるままに最前方へと移動し、盾を構える。

 燃え盛る炎の中からくつくつと喉を鳴らす笑い声が響く。火炎は急速に勢いを失い、吸い込まれるように消えていった。

 炎が渦巻き、呑まれていく先はラモラックの前方に展開された半透明の盾。血に濡れたように赤いその盾は、ジャンヌが放った炎を余さず取り込んだ。

 

「竜の息吹にも匹敵する威力……素晴らしい。良い仲間を得たな、ペレアス」

 

 ラモラックは口の端を引き裂いたように笑む。

 赤盾が目も眩むような閃光を発し───

 

「『我が驍勇の前に敵は無し』(キャバルリィ・オブ・フェイス)

 

 ───熱線を解き放った。

 豪と唸る炎の一撃はまさしくジャンヌのそれと相違なく。

 大気を焼き、地を焦がして突き進むそれは、マシュの盾に当たってその進撃を止める。

 盾一枚を隔てた先は焦熱地獄。真っ向から受け止め続ければ、その余波が村を焼くだろう。彼女は背中を反らして盾を斜めに引き、上空へと流した。

 ジャンヌの頬に一筋の汗が伝う。

 

「私の炎を吸収して反射した……アレがラモラックの宝具ってわけ? ペレアス」

「そうだ。あの盾に当たった攻撃はそっくりそのまま跳ね返る。しかも実体化するのは攻撃を受けた時と返す時だけだ。アイツ以外の目には見えない」

「赤き盾の騎士。その異名に恥じぬ宝具ですねえ。いささか真っ当なモノには見えませんでしたが。あ、とりあえず強化はかけときますね」

 

 左手で文字を綴るダンテの表情は強張っていた。

 攻撃を反射する。この上なく単純ではあるが、それ故に打ち破り難い能力だ。武術を心得ない彼であっても、その脅威は肌身に沁みて理解できる。

 ラモラックは艷やかな仕草で首を縦に振る。

 

「この盾は魔女が鍛え直したものだからな。貴殿が感じたように、外法を詰め込んだ代物に仕上がったのだろうよ。おれが知ったことではないがな」

「口数が多いわね。余裕ぶってるつもり?」

「いえ、見たところ完全に余裕な気がしますが」

「それよりも、魔女が鍛え直したってもしかして……」

 

 立香は半ば確信に近い疑問を抱く。

 かつて、ラモラックはとある悪習が根付いた城の騎士たちをひとり残らず打ち倒した。その悪習とは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()というものだった。

 初めはパロミデスとディナダンという二人の騎士が挑もうとしていたところを押し退けて、ラモラックは城の悪習に終止符を打ったのである。

 その城の城主とは。

 マシュは盾を握る手に力を込めて答える。

 

「───モルガン・ル・フェ。魔女とはその人のことでしょう。あの盾がどことなく騎士狩りの鎧と似ているのがわたしの癪に障ります」

「貴女こそそんなものを盾にして冗談のつもりか? クラスはさしずめ道化師と言ったところか。ククッ! 貴様らしいなペレアス。何故教えてやらぬ、彼女の……」

 

 その瞬間、ラモラックの足元から火柱が立ち昇った。彼は足の裏に目がついているかのようにそれを躱し、微笑を深めた。

 土を火へと変化させる元素変換。ノアはゲンドゥルの杖を片手に、赤き盾の騎士を睨みつける。

 

「生憎、こっちはおまえとお喋りしてる暇はねえ。モルガンが手を加えた盾に興味はあるが、大人しく俺たちに殺られろ」

「ラモラック、アンタに恨みはないが……いや、数え切れないくらいあるが、とにかく死んでも文句は言うなよ。今のオレらは敵同士だ」

「フッ、何を今更当たり前のことを。それならば有無を言わさずかかってくれば良いだろう。随分と優しいのだな?」

「いや、リーダーが優しいとかは絶対にないですけど。こっちはEチーム勢揃いです! 勝てるとは思わないでください!」

 

 立香はびしりと人差し指を突きつける。ラモラックはステッキを扱うように剣を弄び、瞳の奥に暗い光を覗かせた。

 

「ああ、おれは貴様らのことが───好きになってきた」

 

 ゆらり。騎士の像が陽炎のように揺らめき、音もなく地面を踏み込んだ。

 立香の目には強化を以ってしても、その場から消えたとしか思えない速さ。否、単純に速いだけでなく、その踏み込みには尋常の世界では及びもつかない技量が秘められていた。

 背筋に悪寒が走る。マシュは獲物を前にした獣の如き殺気を感じ、遅れて目が気づく。

 目と鼻の先、盾を隔てた前にラモラックがいることに。

 彼が右肩に担いだ白刃が僅かに揺らぐ。思考を挟む余地もなく、斬撃に備えてマシュの体は動いた。

 薙がれる刃に盾を合わせる───その瞬間、マシュの左脇腹にラモラックの爪先が食い込み、彼女を大きく吹き飛ばす。

 

「かはっ……!!」

「反応は良いがまだ甘いな。こうもあっさりと引っ掛けに惑わされる」

 

 言いながら、振り向きざまに斬撃を放つ。

 甲高い金属音が鳴り響き、ジャンヌは旗の穂先を引き戻した。間髪入れずに振るわれる剣を凌ぎながら、彼女は舌打ちした。

 ラモラックの赤盾は前方しか防げないとはいえ、こうして相対した状況ではとてつもなく厄介だ。反撃をしようとも反射されるのなら、ただ敵の攻撃を耐えるしかない。

 近距離の一対一では無敵に近い能力。一度捕まれば抜け出せず、そのまま磨り潰されるのを待つのみ。だが、これは一対一でもなければ、ひとりで戦っているわけでもない。

 ジャンヌはラモラックの肩越しに切りかかるペレアスを確認し、旗を振りかぶった。前後からの挟み撃ち。相手がどちらに振り向こうと、必ず背に一撃を与えることができる。

 ラモラックはジャンヌに背を向ける。左手で旗の穂先を掴み取り、逆手に持ち替えた剣でペレアスの一撃を受け止めた。

 ぎしぎしと両腕を軋ませながら、赤き盾の騎士は二人の得物を押さえ込む。

 

「片腕で止めるなんて、どんな力してんのよ!?」

「貴女の旗を馬鹿正直に受け止めていたら、今頃おれの腕は粉々になっているだろうな。力を流し、操作する……貴様に教えてやったことだ、ペレアス」

「そりゃ感謝してるが、アンタのことはまっっっったく尊敬してねえぞ! 何回殴り倒されたか知らねえからな!!」

「懐かしいな。アレが青春と言うのだろう? よせ、柄にもなく面映い気分になってしまう」

「相変わらず人の話を都合よく解釈しやがって───!!」

 

 言い放ち、ペレアスが放った足払いをラモラックは悠々と躱す。距離が空き、ペレアスは仲間たちに言った。

 

「この人との戦い方はオレが一番知ってる! オレが打ち合うから、他は各自隙を狙って攻撃しろ!」

「それしかないみたいね……! まだいけるでしょう、マシュ!?」

「先輩に治してもらったので問題ありません! 騎士狩りに続いてわたしを馬鹿にしたあの人をボコボコにします!!」

「よし、行くぞ!」

 

 三人は同時に飛びかかる。ラモラックも呼応して構えを取り、剣を振るう。ペレアスと打ち合う最中でさえも、彼は顔も向けずにマシュとジャンヌの攻撃を捌いていく。

 全身に目がついている。そう言われても納得してしまうほどに、ラモラックの勘はずば抜けていた。連携が取れた三人を相手にして、未だにかすり傷負っていないのがその証拠だ。

 単騎で複数を相手取るサーヴァントなら今までにもいた。踵以外は無敵の体を持つアキレウスや十二個の命を宿すヘラクレス、不死性を有する英霊は数の差を物ともしない。

 けれど、ラモラックは不死ではない。

 ペレアスの、マシュの、ジャンヌの武器が急所に当たれば必ず死ぬ。

 ただの一撃。それが、どこまでも遠く果てしなかった。

 立香はその戦いを後方から眺め、焦りを覚える。四者が入り乱れる乱戦。下手な援護は逆に劣勢を招きかねない。

 

「なんですかあの人。あの三人相手にまだまだ余裕そうですよ!?」

「あいつの盾が問題だな。正面を警戒しなくていい分、余力を他のところに回せる。単純な守りの堅さだけならキリエライトと張るぞ」

「どうやら、あの逸話は伊達ではなかったようですねえ。この状況では最悪の相手かもしれません」

「……あの逸話?」

 

 ダンテはこくりと頷いて説明する。

 それは、円卓の騎士ラモラックの死に様。彼はある時、王の名誉のために向かった馬上槍試合で優勝し、その帰路で襲撃を受けて殺された。

 馬上槍試合とは一般的にはトーナメント制である。優勝者となれば、多くの相手を倒さなくてはならない。帰り道に就くラモラックは体力を使い、万全の状態ではなかったと思われる。

 彼を襲撃したのは四人。その四人はどれも、史に名前を残す強者たちだった。

 

「───ガウェイン、ガヘリス、アグラヴェイン、モードレッド。ラモラック卿はその四人と三時間戦った末に、ガウェイン卿に背を打たれて死んだそうです」

 

 立香は目を丸くし、ノアは眉をひそめる。

 

「みんな円卓の騎士じゃないですか! あんなに強いモードレッドさんもいますし、そんな人たちに三時間粘るなんて、どうしたら……」

「確かに彼が強いことには変わりないですが、そう思い詰める必要もないかもしれませんよ。ねえ、ノアさん?」

「ああ、円卓の騎士が四人なら俺たちは六人だ。余裕こいたあいつに思い知らせてやるぞ。寄れ、俺たちがやることは簡単だ」

 

 三人は顔を突き合わせて、ノアが手順を説明する。ダンテが氷のように固まったのをよそに、立香はこくこくと首肯した。

 

「あの人は見たところセイバーですよね。対魔力で魔術が無効化されるから、やれることは実際それくらいしかないと思います」

「あの」

「そういうことだ。後はあいつらの機転に任せる。賭けとしては悪くねえ。準備は良いな?」

「はい! ラモラックだがヴェポラップだか知りませんが、ぎゃふんと言わせてやりましょう!」

「ちょっとォ! 無視しないでくれませんかねえ!? 私の役割がこの上なく雑なんですが!!」

 

 腫れ物扱いの壁を乗り越えて、ダンテは強引に割り込んだ。

 マスターコンビはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて、ダンテの肩を両側から優しく揉む。

 

「落ち着け、ダンテ。既に強化をかけたおまえが役に立てるのなんて宝具くらいだが、今回はそうでもない。これはでかいチャンスだぞ」

「そうですよ! せっかくの活躍できる機会を無駄にするつもりですか? こんなこともう二度とないかも……」

「くっ、仕方ありません。やりましょう! 決して活躍のチャンスに目が眩んだ訳ではありませんが!!」

 

 一方その頃、ペレアスたちとラモラックの戦闘は千日手を極めつつあった。

 ペレアスがラモラックの攻撃を凌ぎ続け、マシュとジャンヌが隙を狙う。死角より繰り出される攻撃の数々を対処しながら、ラモラックは片手で剣を振るい続ける。

 しかし、ラモラックの刃もまたペレアスを抉ることはない。彼らはともに攻めよりも守りに長けた騎士故に、互いの防御を突破できずにいた。

 

「……ク、ハハハハハッ!! 良いぞペレアス!おれが死んだ後によくぞそこまで練り上げた! 剣術だけならばおれを超える───さぞ王の役に立ったことだろう!」

「うっせえ!! アンタが言うと嫌味にしか聞こえねえんだよ!」

「貴様のトラウマの多さは知っているとも。しかし気にするな、おれが他人を褒める時はいつだって本気だ!!」

「だから質が悪いって分かんねえのか!?」

 

 口うるさく喚くラモラックとペレアス。マシュとジャンヌが微妙に割り込みづらい空気を感じ取ったその時、彼女たちは視界の端で赤いコートがひらつくのを捉える。

 桂冠詩人ダンテ。彼は詩を書きつけた紙束を握りながら、ラモラックへと爆走していた。

 

「聞きなさい! 私の宝具は相手を結界に取り込んで、問答無用で魂を昇天させるというものです! その盾で跳ね返せるとは思わないでください!!」

「なるほど、それは当たる訳にはいかぬな。おれに近付ければの話だが」

「ふふふ、そうです! 精々恐れなさい! 私の最強究極宝具を!!」

「普通に邪魔なんですけど!? 戻りなさいよ!」

 

 ジャンヌは怒声を飛ばす。が、マシュには見えていた。ラモラックの体捌きが微妙に変化しているのを。

 虹蛇の例は別として、ダンテの宝具は相手を結界の中にさえ収めれば、必中必殺と言っても過言ではない。ラモラックはダンテの宝具から逃れるため、その分の意識を割かなくてはならないのだ。

 マシュはぐっと目を凝らす。敵にある僅かな隙を突くために。

 ノアはゲンドゥルの杖を用いて、ルーンを描く。それはオーディンが最初に手に入れた十八のルーンのうちのひとつ。盾に彫るものであり、戦士に勇気と無事を与えるとされていた。

 

「……行け」

 

 ルーンの後押しを受けて、マシュはラモラックの間合いに滑り込む。

 刹那、ラモラックは初めてペレアスに背を向けようとする。それよりも速く、マシュの盾が振り上げられた。

 

「『瞬間強化』───!!」

 

 一秒の半分にも満たぬ、瞬間的で爆発的な強化。地面の間近くから頭の天辺まで振り抜くような打撃が、ラモラックの剣を粉砕する。

 燕尾服の一部が千切れ、布が宙を舞う。

 得物は奪ったが、生身には届いていない。ラモラックがマシュへと意識を傾けた一瞬の隙に、ペレアスは一刀を叩き込んだ。

 潰れるような打撃音。鋭い鋼鉄の籠手に包まれたラモラックの左手が刃を押し留めていた。その横合いから炎を纏った黒剣が飛来し、彼らを引き剥がす。

 ラモラックの頬を一筋の血が伝う。彼は頬に刻まれた切り傷から流れる血を拭い、舌で掬って嚥下する。

 

「使い魔と化したこの身でも、血の味は変わらぬか。剣も失った。これは不利というやつだな?」

「よく分かってるじゃない。セイバーが剣を無くしたらおしまいよ。円卓の騎士なんて割には歯応えがなかったわね」

 

 ジャンヌの挑発を受け、赤き盾の騎士はくつりと喉を鳴らした。

 

「茶を濁すようで悪いが……おれはセイバーではない」

「会話が通じるバーサーカー……? いえ、わたしと同じシールダーという線も───」

「いいや、そのどれでもない」

 

 ペレアスは確信をもって言い切る。

 

「アンタはランサーだ。そうだろ?」

「然り。おれのクラスはランサーだ。大した意味のある分類には思えぬがな」

「おいおい、槍なんてもんがどこにある。舐めプで隠してやがったのか? 下ネタに走ったら許さねえぞ」

「心配するな。おれは常に全力だ。股間に槍を隠していたなどと言うつもりもない」

「言ってんじゃねえか!! アンタのそういうところは死んでも治ってねえな!?」

 

 ペレアスは剣先を差し向けてツッコんだ。女性陣は蔑みを込めた冷徹な目つきになる。ラモラックはほくそ笑み、マシュを指差した。

 

「構えるといい。おれの槍をお見せしよう」

 

 マシュの警戒が最大値を超えて上り詰める。

 ラモラックは地面が砕けるほどに強く踏み込み、弓のように引いた右腕を突き出す。マシュは盾の表面を使って、その突きを滑らせた。

 髪の先がはらりと落ちる。逸らしてもなお、顔の間近を打ち抜く打撃。彼女は背筋に冷たいものを覚える。

 

「……ボクサーの間違いじゃないんですか!?」

「言ってる場合!? また囲んで叩くわよ!」

 

 ダンテを除いたサーヴァント三人の攻撃が殺到する。盾が潰し、旗が突き、剣が裂く。ラモラックはそれら一切を両腕で以って防ぎ切った。

 彼は流れるように貫手を放つ。ジャンヌはそれに対して旗を叩きつけるも、その手応えは鋼鉄そのもの。

 ラモラックの貫手は槍の刺突に等しい。彼の両腕の籠手は防具であると同時に、敵を貫く武器でもあった。

 開いた五指を振るえばそれは獣の爪となり、敵の得物を掴みにかかる。鍛え抜いた五体こそが彼の剣となり槍となる。故にこそ、ラモラックはランサーとなったのだ。

 マシュが背後を取る。視界に入れることなくそれを捉えたラモラックは、虚空に数発の突きを打つ。

 赤盾が姿を現す。反射された刺突が持ち主の横を通り過ぎ、マシュの攻撃を押し返した。

 自らの攻撃を反射し、背後への迎撃とする。マシュは思わず目を見開いた。

 

「なっ……!?」

「盾にはこういう使い方もある。どこをどう突けばどのように反射するか、おれには手に取るように分かる」

「べらべらと手の内を明かして……!! 絶対泣かす!!」

 

 ジャンヌの武器が炎を纏い、振り落とされる。

 籠手があろうと超高熱の打撃を受け止めることは腕を捨てるに等しい。ラモラックは半身になってそれを避けた。

 戦いの流れが押し戻される。ノアが次の策を練っていると、通信機が反応した。即座に通信を繋げると、短く問う。

 

「……どうした」

「『べディヴィエールさんたちの戦況が危ない。援護に行けそうかい?』」

「ラモラックが思った以上に厄介だ。サーヴァント連中は無理だな」

「『じゃあ……』」

「俺と藤丸が行く。それでいいな?」

 

 ノアは立香に言った。不意に話を振られた少女は泡を食って答える。

 

「は、はい! 準備万端です!」

「良し。おまえら聞け! 俺たちはべディヴィエールの援護に行く! 戻ってくるまでにそいつの腕一本くらいはもぎ取っておけ!!」

 

 マシュとジャンヌ、ペレアスは額に青筋を立てて怒鳴った。

 

「「「無茶振りがすぎる!」」」

「嬉しいな、貴様らのような強者にそう言われるとは!」

 

 斬撃が衝突し、橙色の火花が散る。

 三人に取りつかれている以上、ラモラックがノアと立香を追うことはできない。ロマンに指定された方角へ走りながら、立香は仲間たちに告げた。

 

「とにかくみんな頑張って! 一応ダンテさんもいるから!!」

「一応とかつけるくらいなら除外されてた方がまだマシだったんですが!?」

「ダンテ、おまえはいるだけで鬱陶しい。死ぬ気でラモラックにへばりつけ!」

「ノアさん、言い方を考えてください! 私の心はいま泣いていますよ!」

 

 ダンテの訴えも虚しく、ノアと立香は走り去っていった。がっくりと肩を落としたのも束の間、ダンテは右手に違和感を感じ取る。

 呪いを受け、黒く変色した右手。その皮と筋肉の境目で何かが蠢いているかのような感覚を覚える。考えるまでもなく、その正体はジャック・ザ・リッパーの意思だった。

 今の右手で文字を綴れば、それは対象を陥れる呪詛となるだろう。前回の特異点、アルジュナとの戦いで発露しかけた症状が再発している。

 否、とダンテは頭を振った。

 これは症状などではない。あの少女が力を貸そうとしてくれているのだ。

 だとしても、人を呪うという行為はダンテにはあまりにも重く。

 しかし、戦う仲間たちの姿を見て。

 拮抗した天秤を傾けるため、ダンテはラモラックに訊く。

 

「ラモラック卿。あなたを呪っても良いですか」

 

 ほんの一瞬、ラモラックは呆然とする。そして、今までの艶やかな笑みとは正反対、少年のように爽やかな笑い声をあげた。

 

「ふ、はははっ!! これはこれは、何と実直な男なのだ貴殿は! ここは戦場で敵同士だぞ!?」

 

 彼は不敵に言い切ってみせる。

 

「───ありったけの殺意と悪意を込めて、存分にこの身を呪うがいい。月桂冠を賜りし詩人よ」

「……感謝します。ラモラック卿」

 

 そして、ダンテは宙に漆黒の文字を走らせた。

 人類史有数の詩才。神秘の域にまで達した詩人の言葉。その祝福が世界に刻みつけられるものだとしたら、呪詛もまた同じ。

 世界に書き込まれた言葉が法則となって敵を呪う。三騎士のランサークラスには対魔力スキルがあるが、ダンテの呪詛に対しては全くの無意味だ。

 ラモラックの足取りがぐらりと揺れた。目と口の端から赤黒い血が流れ落ちる。

 踏み込みがままならぬ身では攻撃の勢いを殺せない。ペレアスが横薙ぎに放った一刀に押され、ラモラックは口内の血を地面に飛ばした。

 ペレアスは剣の腹で肩を軽く叩きながら、

 

「そんなに血を流すアンタは貴重だな。そろそろ体力も切れてきただろ」

「確かに生前のおれは力を使い果たしてあの四人に殺されたが……今のおれには王からの祝福がある。体力切れは期待するな」

「……王からの祝福だと?」

 

 ラモラックは遥か彼方の聖都を望み、返答した。

 

「おれが与えられた祝福は『無尽』。永遠に尽きぬ無限の体力。これがあればガウェインたちに殺られることもなかっただろうが、今となっては女々しい言い訳だな」

「なんで王様にそんな力があるんだよ。あの人は人間であって神様じゃないだろ」

 

 その言葉を聞いて、ラモラックは何かを笑い飛ばすように鼻を鳴らした。

 

「それは違うぞ、ペレアス。今の王は神に成り果てた。ひとつの目的を成し遂げるための歯車……ククッ、生前とそう変わらぬな?」

 

 そして、恍惚とした顔で、

 

「───故に、今の王は美しい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間を遡って。べディヴィエールとハサンたちはモードレッドを追い、騎士と相まみえる。

 ばちり、と紫電が弾けた。死体と血の海で覆われた地面はなおも帯電し、モードレッドの雷撃の威力を物語っている。何人死んでいるのかすら判別がつかないほどに、凄惨な光景が広がっていた。

 べディヴィエールは胸の奥に蟠る嫌悪感と怒りを吐き出すように叫んだ。

 

「モードレッド卿───これが騎士の行いと言えるのか!?」

 

 モードレッドは返り血を拭い、瞳だけを向ける。

 冷たく暗い光に閉ざされた眼に、敵への慈悲やかつての仲間に対する旧懐が介在する余地はない。

 

「王に歯向かう敵に与えてやれるのは死くれえなもんだろう、べディヴィエール。仮にも円卓に名を連ねた貴様がなぜ敵に味方する。騎士ならば王に忠誠を捧げろ」

「私は、虐殺に加担することが忠誠とは思わない」

「ハッ! 何が出るかと思えば綺麗事かよ、くだらねえ。王の命令を全うする以外に忠誠の形があるか。大層な理屈をつけて立派に振る舞えば騎士らしくなれるとでも? オレは見てきたぜ、王の名を利用して女を抱き、酒に溺れ、それでもなお騎士を名乗るクズ共をな! 今の王に従えぬというなら、所詮貴様もそんな奴らの一種だったってことだ!!」

 

 ───騎士たるならば、王にその全存在を捧げよ。モードレッドはそう宣い、哄笑を轟かせる。

 べディヴィエールは奥歯を噛みしめる。騎士王の治世であっても、反乱を起こす者はいた。モードレッドはそんな人間たちを余さず殺し、王に血を捧げる過激派だった。

 それこそが、モードレッドの忠誠の形であったから。

 百貌のハサンは息を吐くように笑った。

 

「忠誠がどうの騎士がどうのと煩わしい。貴様は獅子王の騎士であることに誇りを持っているようだが、そうやって血の中で笑う貴様は女を抱き、酒に溺れ、それでもなお騎士を名乗るクズ共と同じようにしか見えんぞ?」

 

 笑い声が途切れる。

 空気に亀裂が入るほどの殺気。それを一身に受けながらも彼女は動じることすらなく、言付けた。

 

「騎士の忠誠も見下げたものだ。そうしてかつての仲間にマウントを取るだけの道具と成り果てるとはな……同情を禁じ得んよ」

「───、殺す」

 

 モードレッドを中心に赤雷が巻き起こる。

 それはまるで血塗られた雷の塔。一帯を焼き払うに余りある莫大な雷をクラレントの刀身に凝縮し、解き放った。

 

「『我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)』!!!」

 

 世界がカタチを失う。

 その斬撃の前に障害物となるモノは存在せず。一直線に飛んだ雷撃が更地を作り出した。

 だが、如何に威力が高くとも、怒りのままに放ったそれは単調に過ぎた。結果として騎士の宝具は誰をも仕留めることはできず、べディヴィエールは剣を引き抜いて突撃する。

 呪腕のハサンは黒塗りの短刀を左手に、

 

「煽りすぎだ、百貌の! 敵を本気にしてどうする!」

「怒りに任せて暴れられた方が読み易い。真っ向勝負では勝てぬのだから、これくらいの仕込みは当然だろう」

 

 百貌のハサンの像が幾重にも重なる。個体で群体を成す彼女の御業が此処に顕現した。

 

「『妄想幻像(ザバーニーヤ)』」

 

 合計八十にも及ぶ群像が実体を獲得する。

 まともにモードレッドとぶつかっても勝てない。暗殺者と剣士では戦いの土俵そのものが違う。だからこそ、彼女は数で押すことを選んだ。

 それと同時、べディヴィエールとモードレッドは互いの剣をぶつけ合う。前者はその勢いに跳ね返され、足踏みした。

 力負け。魔力放出を駆使するモードレッドと打ち合えばこうなるのは当然の帰結だ。

 

「てめえ如きの剣技でオレに敵うと思ってんなら、そりゃ間違いだ!! もう一本の腕も切り落としてやるよ───!!」

 

 無数の剣戟が閃く。

 赤き電光を纏った刃が躍る様はまるで大輪の華。一合凌ぐ度に流れ込む電撃が五体の肉を焼いていく。べディヴィエールに出来るのは、ハサンの援護が届くまでの永遠にも思える一瞬を耐え抜くことだけだった。

 返しの太刀がモードレッドの右手に弾かれ、がら空きの首に剣が振るわれる。死の予感が足元に絡みついたその時、モードレッドは後方に大きく跳んだ。

 眼前を通り抜ける漆黒の短剣。ダークと呼ばれる暗殺者の得物だった。開いた間合いを埋めるように百貌の群体が雪崩れ込み、べディヴィエールは思わず膝をつく。

 呪腕のハサンは彼を労るように、手を引いて立ち上がらせた。

 

「アレと打ち合えばこちらが一方的に傷付く。付かず離れず戦うがよろしいでしょう」

「……ありがとうございます。ですが、心配は無用。こちらにも秘策がありますので」

 

 べディヴィエールは懐から護符を取り出し、魔力を注いで術式を起動した。先日、ノアから手渡された護符に刻まれていたのは、大神オーディンの守護のルーン。戦士の身を清め、敵の刃を防ぐと言われる文字だ。

 筋肉の痺れが失せ、傷口が閉じる。曰くルーン文字の真髄は物体に刻むこととされるが、それに違わぬ効力だった。

 これならばモードレッドとも打ち合える。確信を得たべディヴィエールに、呪腕のハサンは言う。

 

「一撃……掠り傷でも良い。それさえ成し遂げられたならば、勝ち筋が見えます。無茶のしどころはよくよく考えるように」

「承知致しました。必ず、一撃を加えてみせます!」

 

 百貌のハサンの群像に紛れ、べディヴィエールはモードレッドに切りかかる。最上段からの振り落としは、木の葉を払うように弾かれた。

 ハサンたちが放つ投剣の弾幕も、赤雷の一閃によって灰燼に帰す。

 

「雑魚がまとまれば獅子を喰えるとでも!? 暗殺者なら影に隠れてろ。餌は餌らしく喰われるのが定めだ!!」

 

 魔力放出による高速機動。類まれな直感で全方位からの攻撃にも対処し、赤雷で敵陣を散らす。モードレッドの言葉は決して傲慢などではなく、事実を悪辣に告げていた。

 べディヴィエールはかつて、隻腕でありながら普通の騎士の三倍の強さを誇ると言われた。人間の体ではあるが、その謳い文句に恥じぬ能力がある。

 が、円卓の騎士という集団にあっては、それは実力不足。尋常ならざる神秘の加護も、彼らに食らいつけるほどの剣技もない。

 …………けれど、一太刀。たったの一刀だけならば、彼らを超えられる。超えてみせる。

 

「纏めて死ね。『我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)』」

 

 視界に広がる魔の雷撃。

 この身が一体どれほどの盾になろう、敵勢全てを焼き焦がすに相応しい。

 

(───それでも!!)

 

 肉体の内で激痛が膨れ上がる。魂が削り取られる。もう二度とは戻ってこない致命的な感覚。取り返しのつかない傷と引き換えに、騎士は黄金の輝きを再現する。

 

「『一閃せよ、銀の腕(デッドエンド・アガートラム)』!!!」

 

 振るうのは腕。人のモノならざりし銀腕こそが剣と化す。

 夜空を裂く流星の如き剣光が、赤き雷の波濤を正面から掻き消した。

 

「貴様、そんなものをどこで……!!」

 

 鮮血が飛び散る。モードレッドは顔を歪めて、左の鎖骨から切り下げられた傷を押さえた。べディヴィエールの一撃は雷撃を断ち切るだけでなく、敵にすら届いていたのだ。

 しかして、べディヴィエールは膝をつく。その身に走る激痛が、彼から体の操縦権を喪失させた。自らの首を差し出すに等しい姿を前に、モードレッドは剣を振り下ろそうとする。

 瞬間、その背後に黒い影が忍び寄る。モードレッドの直感が警鐘を鳴らし、弾かれたように後方へ剣を振るった。

 横薙ぎに通過する剣を姿勢を低く屈めて避け、傷口目掛けて掌底を叩き込む。

 

「チッ!」

 

 そうして、モードレッドは敵の顔を見る。

 端正な顔つきの少女。静謐の異名を戴くハサンであった。その右手は彼女自身の血に塗れており、もう片方の手には両刃の短刀が握られていた。

 彼女は百貌の群れに紛れて、交戦時から今まで虎視眈々とこの機会を狙っていたのだ。

 モードレッドは静謐のハサンからすぐに視線を切る。今の掌底はただ押された程度、何の支障にもならない。それよりも取り立てるべきは。

 

「その腕、どこで手に入れた」

「……貴方の想定と同じだとして、どうするというのです」

「ク、ハッ! だとしたら笑い者だ、忠誠の意味を理解してねえのも納得できる───!!」

 

 べディヴィエールは激情を込めて、叛逆の騎士を睨んだ。

 

「確かにこの腕は私の罪……だが、それを貴方に言われる筋合いはない。王から何もかもを奪い、国を滅ぼした貴方だけには!」

 

 それで、気付いた。

 

「なぜ、貴方がそこまで忠誠に拘るのか……それは、王への叛逆という拭い切れぬ罪への償いだ。足元に転がる骸を見なさい。それこそが貴方がかつて、いや、今もなお刻み続けている罪の証だ!!」

 

 噛みつくように吼え、激昂する。

 モードレッドは砕けんばかりに歯を噛み締め、剣柄を握り、刃を振り上げた。頭頂まで上がった切っ先が小刻みに揺れる。両腕がだらりと下がり、足が地団駄を踏んだ。

 呪腕のハサンは右腕の戒めに手をかけながら告げる。

 

「静謐の五体は全てが毒。それを巡る血液ともなればその強度は計り知れぬ。傷口から取り込んだ毒は血流に乗って全身に回る。終わりだ、聖都の騎士よ」

 

 モードレッドは薄く笑み、武器を構えた。

 

「それが、どうした。この体でもてめえらを屠ることくらいはできる……!!」

 

 空気が破裂する。

 音を凌駕するほどに強く速く地を蹴り、モードレッドは渾身の一刀をべディヴィエールに叩きつけた。 

 

「がっ!?」

 

 べディヴィエールはかろうじて義手で防ぐ。しかし、剣戟の衝撃を殺し切れずに背後へ飛ばされる。

 モードレッドはその勢いのまま、ハサンたちに切りかかった。

 毒が回った体はろくに動かせない。それでもモードレッドが戦えているのは、魔力放出スキルの恩恵。武器や肉体に魔力を通し、放出する───モードレッドは全身に魔力を帯び、噴射することで無理やり体を操っているのだ。

 人形に爆竹をくくりつけて飛ばすが如き愚行。しかし、その分だけ繰り出される攻撃は強力だ。モードレッドは百貌の群像を切り裂きながら、絶叫を轟かせる。

 

「オレはあの人に───王に、忠誠を尽くす! そう決めた!! 今更戻れるはずもねえ! どいつもこいつも邪魔だ、オレの道を塞ぐ奴は誰も彼も殺してやる!!」

 

 さらに、剣は赤き雷を纏った。

 

「『我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)』!!」

 

 赤光が天地を穿つ。 

 モードレッドが獅子王より授かった祝福は『暴走』。かつての行いを咎めるかのようなこの祝福は、騎士に宝具の連続解放を許した。

 

「『我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)』───ッ!!」

 

 けれど、その激情は留まるところを知らず。

 灼熱の雷光が白銀の王剣より放出される。

 

「『我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)』ァァッ!!!」

 

 あるのは焦土だった。遍く敵対者を焼き滅ぼし、モードレッドは炎が照らす漆黒の大地に立つ。

 唯一残った百貌のハサンの群像は霧のように白け、消滅する。呪腕と静謐、そしてべディヴィエールをモードレッドの宝具から守り、その命を終えた。

 

「人の死なんてのはこんなもんだ。劇的な要素なんてどこにもねえ。英雄だからと格好つけて死ねると思うな」

「まだ、そんなことを……!!」

「黙れ、オレはもう生き方ってやつを決めた。説き伏せようなんて無駄だ」

 

 残された三人の余力は僅か。モードレッドの剣に再度赤雷が灯り────

 

「『破刃の呪法(Elder Rune Ⅲ)』」 

 

 ────霞のように消え失せる。

 宝具の強制停止。その異常事態に、モードレッドの目は闖入者へと向いた。

 ノアは杖を手繰り、原初のルーンを描いていた。敵の武器を鈍らにする、オーディン第三の秘法だ。彼は味方の人数を確認して、眉間に皺を寄せる。

 遅れて追いついてきた立香は眼前に広がる惨状を見て僅かに顔を伏せ、影を落とす。ノアは忌々しげに呟く。

 

「……くそ、遅かったか。藤丸、あまり死体を見るな。後に引きずるぞ」

「大丈夫です。私だってそんなにヤワじゃありません。モードレッドさんが、これをやったんですね?」

「答えるまでもねえな。お前らが誰か知らねえが、ここに来た以上は獲物だ。生きては帰さねえぞ」

「それはこっちの台詞だ。おまえも生きて聖都に戻れはしねえぞ」

 

 モードレッドはノアの啖呵を鼻で笑う。

 

「そりゃこっちも承知済みだ。近い内にオレは聖都には入れなくなる。所詮野垂れ死ぬなら何処だろうが変わりはしねえ」

 

 騎士の全身から電撃が迸り、地面を駆け抜けた。

 皮膚を、鎧を這う電流の勢いは加速度的に増加していく。それはクラレントの暴走であり、自分自身を燃料にする自殺行為だ。

 

「オレの全魔力と霊基を暴走させて、ここを吹っ飛ばす! 山ひとつは余裕で蒸発だ、絶対に逃がさねえ!!」

 

 その宣言を受けて、ノアたちは目を見張った。         

 味方ごと敵を殺すような自爆攻撃。それでも、この場所に結集した戦力を全滅させられるならばお釣りは来る。それどころか、人理修復の旅すらも終わらせる最悪の一手だ。

 立香は血の気が引くのを感じ、慌てて言った。

 

「り、リーダー! さっきのルーンで何とかできないんですか!?」

「あれは武器にかける魔術だ。本体にかけるのは本来の用途じゃない上に対魔力のせいで効き目が薄い。原初のルーンを全部使えば止められるが、準備する時間がねえ!」

「ならば、私共が。倒してしまえば自爆も止まるかと」

「そうでなくとも、私の痺れ毒も可能性があります。やるしかありません」

「それしかねえな。腹括るぞ!」

 

 呪腕と静謐、二人のハサンは一直線にモードレッドを目指す。

 無論、黙ってそれを許すモードレッドではない。溢れんばかりの魔力で体を傀儡のように動かし、電撃を放つ。  

 その密度はまさしく雷電の巣。立ち入る者をことごとく滅する必殺の領域。一手誤れば間断なく雷の牙に噛み砕かれるだろう。

 赤雷が巡り、呪腕のハサンを取り囲む。電流の檻に押し潰されるその直前、二つの声が重なって響いた。

 

「「───『Eihwaz(エイワズ)』!!」」    

 

 マスター二人による二重防壁。身に迫る雷撃を凌いだ呪腕のハサンは右腕の拘束を解除する。

 通常の二倍はあろう長さの異形の腕は、シャイターンのそれを移植したモノ。モードレッドまでの間合いを瞬時に埋め尽くし、その指先が触れた。

 

「『妄想心音(ザバーニーヤ)』!!」  

 

 掌中に現れるのはモードレッドの心臓を模したエーテル塊。魔神の右手はそれをぐしゃりと握り潰す。

 類感呪術では、同じ形、同じ役割の物体はたとえ離れていようが相互に影響を及ぼす。エーテル塊も同様に、それが潰されればモードレッドの心臓も潰れるのだ。

 叛逆の騎士を守るように迸っていた赤雷が途絶える。霊核はサーヴァントにとっての急所。毒に侵され、心臓を失ったモードレッドに出せる力は残っていなかった。

 

「───なんて、考えてんじゃねえだろうなァ!?」

 

 クラレントが振り上がり、シャイターンの右腕を斬り落とす。    

 

「なっ……!?」

 

 呪腕のハサンは腕を失ったことすら忘れて驚愕する。

 モードレッドに残された最期の切り札、戦闘続行スキル。たとえ急所である霊核を失おうが、即死を免れ、命を繋ぎ止める力であった。

 自爆に足る出力まではあとほんの少し。僅かな命であろうと、そこに手をかけることはできる───!!

 

「……『妄想毒身(ザバーニーヤ)』」        

 

 静謐のハサンはモードレッドに唇を重ねた。

 彼女の毒で最も強力なのは粘膜。唇を合わせるその様は蠱惑的である以上に、対象に死を注ぎ込む静謐に満ちている。

 

「く、そっ…………」

 

 霊基と宝具の暴走が停止し、モードレッドの手から剣が滑り落ちる。その時、行き場を失った雷電が直下を貫き、大地を割った。

 

「……え。う、わ───!?」

 

 地面の亀裂に呑まれかける静謐のハサン。咄嗟に伸ばした指先は土を掬うに留まり、墜落する。

 その寸前、

 

「静謐さん!」

 

 全速力で走り寄った立香が静謐のハサンの手を掴み、後ろに倒れ込むように体を引っ張り上げた。        

 

「ふう、間一髪でしたね! 危なかった〜」

「あの、私に触れたので、毒が……」

「あっ」

 

 立香はさあっと青褪める。ノアはすぐさま駆け寄ると、彼女の両手首をそれぞれ掴んだ。

 

「わっ、いきなり触らないでください! びっくりしますから! せめて一言かけるとか……」

「んなこと言ってる場合か。手が使えなくなったらどうするつもりだ。良いから診せろ」

「でも、何ともないですよ。ほら」

 

 ノアの目の前で両手をぱっと開く。見た目に変化はなく、その手に痛みや違和感などもなかった。ノアは目を凝らして観察するも、結局は立香と同じ結論に至る。

 

「……どうやらそうらしいな」

「ですよね? だから、その、ずっと握られてると困ります」

「研究材料として興味深い。手の皮を剥いで調べてもいいか?」

「いいなんて言うはずないじゃないですか!! 普通に心配するとかできない病気なんですか!?」

      

 空気が弛緩したその時、遠くの空が光り輝き、轟音と地響きが起こった。

 彼らが反射的に顔を向けた空にはいくつもの光点が渦巻き、そこから落ちる光の槍が周囲の山脈を次々と削り、消滅させている。

 地面に倒れたモードレッドは自身が消える間際、言い残す。

 

「あれは獅子王が下す裁きの光。どっちにしろ逃げ場はなかったってことだ。残念だったな」

「……モードレッド卿」

「べディヴィエール。仮にも忠義の騎士なんて言われてるくらいなら、それを果たせ。……敗者からの、負け惜しみだ」 

 

 叛逆の騎士は光の粒子となって消滅する。

 それを見届け、立香はノアに視線を傾けた。

 

「どうしましょう。ここが吹き飛ばされるのも時間の問題ですよ」

「…………とりあえず生存者を全員この場所に集めろ。あれだけの規模なら敵も巻き込まれないように撤退するはずだ。ロマン」 

「『分かってる。連絡は任せてくれ。ダ・ヴィンチとアーラシュさんも呼び戻すよ』」

「頼んだ。俺は少し用事がある。集まるまでには戻ってくるから、藤丸はべディヴィエールと呪腕の治療をしてやれ」

 

 空を照らす聖罰の光。

 それはこの村での闘争に終わりを告げる号砲であり。

 新たな戦いを呼び起こす先触れでもあった。                                                            



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第50話 恋は運命の矢に苦い毒を塗る

 空にはいくつもの光点が輝いていた。

 その正体は超絶の魔力。かつてオケアノスにて起動したトライデントの一発とも互する超常の出力。黄金の槍が一度地上に落ちれば、山が平らに均されるほどの威力を秘めている。

 見渡す限りの山脈は次々と破壊されていく。思うがままに自然を蹂躙する獅子王の弾雨は、かの王がもはや人間でなく神であることを何よりも物語っていた。

 マシュの盾であっても、その一撃すら防ぐことは難しいだろう。ノアたちに光の槍から逃れる術は存在しない。

 この村を襲撃した獅子王の軍勢は既に撤退していた。無論、聖罰の光から逃れるためである。元より彼らの目的は皆殺し、聖罰が下るというのなら深追いする理由はないのだ。

 モードレッドと交戦した場所に、この村の生存者はみな集まっていた。元々ここに住んでいた村人と戦士、そして難民たちは戦いの影響でその顔ぶれをいくばくか減らしている。ノアの結界とダ・ヴィンチの防壁がなければ、死者は増えていたに違いない。

 ノアは全員の前で、じとりと据わった目で言う。

 

「…………という訳で、このままだと俺たちは死ぬんだが」

「リーダー、一生の終わりをという訳でで済ませないでください。妙にジト目で言われるとひとりだけ覚悟決まってる感じで怖いんですけど」

「わたしとしてはそこまで冷静にツッコめる先輩が怖いのですが……?」

「圧倒的な力を前にしても怯まぬ度胸。存外戦士なのだな、カルデアのマスターよ」

 

 朗々と歌い上げるような、愉悦に塗れた調子の声。その方向には、いつもと変わらない微笑を浮かべるラモラックがいた。

 彼は空に点々と輝く黄金光を見上げる。

 

「アレは聖罰の光だ。おれが受けたモノとは比べ物にならぬ威力……おれの盾では逆立ちしても凌ぐことなどできまい」

「チッ、アンタまだやる気!? 巻き込まれるのも覚悟で私たちをここに縫い止めようってわけね!」

「本当に嫌なところで出てくる人ですね! 地味にわたしの盾を馬鹿にした気がしますし、一発殴らないと気が済まないです!」

 

 武器を構えようとするジャンヌとマシュを、ペレアスは手で制して止めた。

 

「まあオレも二人の気持ちは大いに分かる。だけど、アンタはこんな時に喧嘩売るような人じゃない。どう考えても不完全燃焼で終わるからな」

「フッ、おれのことを理解しているようで嬉しいぞペレアス。抱き締めてやりたいところだが、手短に行こう。せっかく塩を送りに来てやったのだしな」

「……それはどういうことですか、ラモラック卿。貴方は聖都の騎士のはず」

 

 べディヴィエールが問う。ラモラックは顔に仄かな喜悦を貼り付けて、普段のうそぶくような調子とは異なる重厚な声音で答える。

 

「これは世界の行方を占う戦い。獅子王が神の如き力で一方的に己の理屈を通すなぞ、人類には不公平に過ぎるだろう。そんなものは騎士の戦いではない。せめて対等だ。人が人の命を選別するという傲慢を犯したからには、我らも相応に苦しまねばな」

 

 個人としての理屈、騎士としての忠誠。彼は自らをその二つの板挟みにし、敵に塩を送ることを選んだのだろう。

 試練なくして理想は叶えられない。試練なくして成就した理想というのは、彼にとって何ら価値を持たないモノなのだ。だからこそ、こうしてここにいる。王や仲間への苦難を与えると知っていても、知っているからこそだ。

 ラモラックは何があろうとも我を曲げない。それでも、べディヴィエールは目を伏せて、

 

「私たちが、ともに戦うことは……」

「それは無理だ。おれは貴様もペレアスも好いているが、此方にも立場というものがある」

「だろうな。アンタは殺されると知ってる癖に槍試合に行くようなやつだ。で、用件は何だ?」

「貴様らに教えてやるのは二つ。しかと聞け」

 

 ラモラックは右手の人差し指と中指を順に立てた。

 

「ひとつ、我らは聖杯を持っていない。ふたつ、聖都はエジプトの王と不可侵を結んでいる。どうすれば良いか、後は分かるな?」

「……なるほど。おまえは貴重な情報を俺たちに伝えた挙句、次に取る行動も示したって訳だ」

「ああ、是非とも喜んでくれカルデアのマスターよ。ではさらばだ、おれはこれから尻をまくって下山せねばならんのでな」

「いやいや、敵同士とはいえ施しだけ受け取って帰せるか。俺からのせめてものお礼だ、存分に貰っていきやがれ───!!」

 

 瞬間、ノアは空気を引っ掻くように右手を振るった。ルーンの加護を得た手袋、強化魔術を施した五指は鉄板ですらバターのように抉り取ってしまうだろう。

 問題はその間合い。身長に比例して長い手足も、十数メートル先のラモラックには物理的に届かない。星の聖剣の一撃でも地球の裏側の相手には当たらないように、ノアの指を空を虚しく掻く。

 所詮は警戒に値しない行動。しかし、背後の攻撃を難なく見切る心眼を持つラモラックは瞬時に飛び退いた。彼の上着の裾が鋭利な刃物で裁断したように裂ける。

 間合いを無視した一撃。円卓の騎士ラモラックといえどその正体は看破できず、喜悦のままに少しばかり短くなった上着の裾をつまむ。

 

「これはこれは、奇な魔術よ! モルガンにしろマーリンにしろ、魔術師という人種にはいつも驚かされる! 良いマスターを得たな、ペレアス!!」

「ああん!? 俺は良いマスターどころじゃねえ、カルデア最強のグランドマスターだ! 二度と間違えんな!!」

「おいラモラック、こいつのどこが良いマスターだ!? 悪いことは言わねえから訂正しとけ!」

「仲も良いようで何よりだ。自慢の一張羅を布切れにされては困るのでな、今度こそおれは退散する!」

 

 ラモラックは全速力でその場から離脱する。元々、ランサーの英霊は敏捷に長けたサーヴァントが多い。彼もその例に漏れず、目にも留まらぬ逃げ足を発揮していた。

 ノアは苛立たしげに舌打ちする。戦闘ではラモラックに痛打を与えることすらできず、さらには塩を送られる始末。彼の内心は屈辱に満ちていることだろう。

 行き場のない殺気を放つノアに代わって、立香は得た情報をまとめて自分の考えを述べる。

 

「とりあえず、次の行き先は砂漠に決まりましたね。聖杯の在り処はそこしか考えられないですし、エジプトの王様とも協力できるかもしれないですよね?」

「わたしも先輩と同じ考えです。アトラス院を目指す必要もありますし、ペレアスさんの奥さんも砂漠にいるそうなので、一石四鳥のお得な作戦です」

「まあ、それはそうなんですがねえ……」

「そもそもこの状況を切り抜けないと机上の空論、捕らぬ狸の皮算用だ。流石のダ・ヴィンチちゃんもあんな攻撃はどうしようもないんだけど、何かいい案はあるかな?」

 

 ダ・ヴィンチは周囲に問う。それに対して明確な答えを持つ者は誰もいなかった。

 獅子王の光輝はまさしく神の威光。対抗しようなどと考えることがもはや愚か。人間に許されるのは形振り構わずつくばうことか、全てを捨てて逃走することのみ。

 しかして、獅子王はそのどちらをも焼き払う。

 一度敵対した人間にかける慈悲は存在しない。誰も彼をも見逃すことなく、王の威光は人間を滅ぼし尽くすだろう。

 アーラシュは後頭部を掻きながら切り出す。

 

「あー、俺の宝具なら一発はどうにかできるぜ。知ってるか? 俺の最期の一射なんだが」

「ペルシャとトゥランの間に国境を作ったという一射ですな。確かに伝説の通りならば対抗できるでしょうが……」

「『伝説の通り、というのが問題ですね。最期に矢を放った後、比喩じゃなく体が飛び散ったと言われてますし』」

「だが他に方法があるか? まあ紳士淑女たちの前で臓物をぶちまけちまうのは申し訳なく思うが、ここで撃たない選択肢はないだろ」

「『むしろ申し訳ないのはこちらなんですが……!?』」

 

 かつて、アーラシュが放った最期の一矢は二つの国を分かつ究極の一撃を実現した。その飛距離は実に2500kmを超え、一説によると夜明けから日没にかけての時間飛び続けたという。

 だが、アーラシュはその奇跡と引き換えに自分の生命を失った。宝具の真名解放とは伝承の再現。その一矢を放った時、彼はもう一度命を落とすことになるのだ。

 彼ひとりの命と獅子王の一撃。その交換は果たして、等価ではない。ノアは平坦な調子で言った。

 

「やめとけ。おまえの一発がブチ抜くのは獅子王だ。こんなところで安く死なせてたまるか。仮に一撃凌げたとしても、連射されたら全員跡形も無くなるぞ」

 

 既にこの村の位置は敵に知られている。一度の攻撃を凌げたとしても、二発目は防げない。

 ノアがこういう言い方をする時は既に策を有している時だ。それを理解しているペレアスは単刀直入に問いただした。

 

「で、どうするつもりだ? そろそろ時間がねえぞ」

「全員で砂漠に逃げる。位置がバレてる以上、ここに留まり続けるのは無理だ。俺たちの最善手は逃げの一手しかねえだろ」

「それは良いですけど、どうやって逃げるんですか? サーヴァント以外の人もいるのに、抱えて走るにも限界がありますよ」

「おいおい、忘れたか藤丸。俺たちはどうやってここに帰ってきた?」

 

 立香は記憶のページをめくっていく。間にラモラックとモードレッドとの戦闘を挟んだものの、村に帰ってきた時の記憶は未だ深く刻まれている。

 空中ジェットコースターならぬ人間ミサイル、という名の投身自殺。アズライールの廟に向かったメンバーはノアの創作魔術によって帰還したのだ。

 立香含め、空の旅を経験した面子は顔色を青白くする。

 

「え、アレをもう一回やるんですか!? 無理無理、絶対嫌です! ほら見てください、べディヴィエールさんだって微妙な顔しですよ!」

「いえ、私は逃げるならある程度分散させた方が良いと思いまして。一か所に固まると、聖都の追手に追跡されやすくなってしまうので」

「よし、べディヴィエールの案を採用する。サーヴァントが均等に配置されるように集団になれ。それぞれにダ・ヴィンチ特製発信器とカルデア直通通信機をワンセット配る。失くしたら女子供だろうが折檻してやるから覚悟しろ。ちなみにダンテはサーヴァント扱いしない」

「なんでですかァァ!! 確かに私はそこら辺の魔術師にもボコボコにされかねない貧弱サーヴァントですが、そこまで言われる筋合いはないですよ!」

「だからでしょ。本当は分かってるじゃない。自分で答え言っちゃってるじゃない」

 

 すこん、とジャンヌの旗がダンテの頭を叩いた。後頭部を抱えてうずくまるダンテを尻目に、ノアはゲンドゥルの杖でルーンを描き出す。

 頭上を照らす光は影という影が駆逐されるほどに強く輝き、空が丸ごと落ちてくるような威容をたたえていた。

 

「細工は流々、仕上げを御覧じろ。準備はいいなおまえら!!」

 

 猛るノアに水を差すように、ペレアスは言う。

 

「そういえば、オレがお前に渡した剣はどうなった? まさか置いてきてねえよな」

「…………細工は流々、仕上げを御覧じろ。準備はいいなおまえら!!」

「おい仕切り直そうったってそうはいかねえぞ!? オレのエクスカリバーMk-2があああ!!」

「え、エクスカリバーMk-2……?」

 

 ペレアスの悲痛な叫びとともに、その場にいた全員の体が浮き上がる。思わず疑問を覚えたべディヴィエールだが、その声が届くことはなかった。

 戦士の魂を天上のヴァルハラへ運ぶワルキューレの伝承。それを流用──もとい悪用し、スカサハから授かった原初のルーンを詰め込んだ狂気の飛行魔術。一行は宙に飛び上がり、南西の方角へ急激に加速していく。

 ぐるぐると回る視界の中で、立香は叫んだ。

 

「リーダーは一回、スカサハさんに怒られてくださいっ!!」

 

 直後、天空より落ちた光の鉄槌が、ひとつの村をその山ごと叩き潰した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空は黒く染まり、中天には月が輝く。

 アグラヴェインとモードレッドを除く他の部隊はそれぞれ、別の村を襲撃していた。それらはいずれも山間に位置する隠れ里の様相を呈しており、各地点を同時に攻めることで取りこぼしを無くすための作戦である。

 ランスロットの部隊が攻め込んだのは、アグラヴェインたちの場所から数里東に離れた拠点だった。

 円卓最強の騎士がランスロットだとするならば、彼が率いる兵もまた精強。その才は武術のみにあらず、戦場における配下の指揮も彼の勇名を支える所以だ。

 その光景は殺し合いと言うよりも獣の狩猟に近かった。計画的に相手を追い詰め、捕縛する。戦いは瞬く間に終わりを告げ、捕らえた人々を連れて下山する。

 聖都の軍が合流する野営地を目前にして、ランスロットは思惟に耽っていた。

 獅子王の殲滅攻撃から退避した際、砂漠の方角へと飛んでいった人間の群れを見た。最初は目を疑った、否、今も信じがたい光景だったが、ランスロットを悩ませていたのはそのことではなかった。その中にかろうじて見えた顔触れに思いを馳せる。

 

(私の見間違いでなければ、べディヴィエールとペレアスがあの中にいた。なぜ二人はあの時王に召喚されなかったのだ? ペレアスは生前、私との繋がりを疑われて円卓を追われたというが……)

 

 どれほど思考を巡らせても、彼は疑問を解消させる答えを見出だせなかった。ペレアスが獅子王の元に召喚されなかったことに説明はつくとしても、べディヴィエールのことは不可解だ。

 そして、彼らが聖都にいないということは必然、王と敵対しているということ。彼らの忠誠は王に否定を突きつけることで果たされるものなのだろう。

 どのような忠義を尽くすかは騎士個人に委ねられている。忠誠とは王から求めるものではないし、他人が軽々に口を出して良いものでもない。

 べディヴィエールとペレアスが敵対する道を選んだのなら、全力を以って相手になるのがランスロットの流儀だ。

 だが。

 彼は背後を流し見る。

 縄に繋がれ、手枷をされて歩く女子供。彼らの表情はみな一様に暗く落ち込み、深く俯いていた。それを見て、一抹の疑念が脳裏に浮かぶ。

 

(……本当にこれが、騎士の行いなのか)

 

 馬の手綱を握る手が軋む。

 騎士道と他人の不幸は切っても切り離せない。このような光景はそれこそ何度も見てきたし、あの時代にはあまりにもありふれた悲劇だ。

 ───けれど、自分はそんな不幸を救う側であろうとしたはずだ。決して、こんな悲劇を作り出そうと剣を取ったのではない。

 思わず目を伏せたその時、不意に響く悲しげな声。

 

「ああ───なんと愚かな。我らが王に仇なす罪人を生かして連れてくるとは」

 

 中空を踏み、月を背負う赤髪の弓手。

 冷たい月光で身を濡らし、銀弦に指をかけるその様は寒気を覚えるほどに妖艶。

 誰もが思わず息を呑んだ瞬間、ランスロットだけが青褪め、夜空をつきぬけるような怒声をあげた。

 

「その指を一本足りとも動かすな、トリスタン!!」

「ふ、貴方のその声音……何を恐れているのですか? そも、貴方はひとつ思い違いをしている。此度の作戦は敵の捕縛ではなく殲滅。王自ら手を下されたのがその証左であり意向です」

「だと言うなら、選別もまた同じだ。あれもまた王自ら聖都に相応しき魂を選んでいる。……いいや、騎士が主君の意を汲むことはあれど、主君の意を語ることはあってはならない!」

「なるほど。確かに貴方の言う通り、騎士が王の御考えを語るべきではありません。私が閉じるべきは、この口であったのかもしれませんね」

 

 ただし、とトリスタンは付け加える。

 

「───鏖殺は王よりの勅命。故に言葉でなく行動で語ってみせましょう」

 

 一滴の涙がぽつりと地を濡らす。

 そして、人差し指が弦を爪弾いた。

 凍てつくような音響。それと同時に十個の首が飛んだ。

 血の華が鮮烈に咲き誇る。銀の弦を掻く指は一本また一本と増えていくごとに音が重なり、その度に倍の数の首が鮮血を芽吹かせる。

 指が奏でる旋律に合いの手を打つように亡骸が倒れる。殺戮の狂騒はいっそ幻想的な様相をも演出し、劇的に屍の山と血の河を築いた。

 全身の血が沸騰する。灼熱の血潮が脳髄に浸透し、ランスロットは躊躇いなく剣を引き抜く。

 義母である湖の乙女より与えられた聖剣アロンダイト。最高の騎士の名をほしいままにした無双の一刀。しかし、その凶刃は振るわれることすらなかった。

 ぎしり、と漆黒の鎖がランスロットを縫い止める。

 アグラヴェインが操る『鉄の戒め』。関節に巻きつけることで動きそのものを封じられたランスロットは、最後の意地か己の得物だけは握り締めていた。

 今の彼には肉体の損壊すら些事に過ぎない。縛られた状態で顔を後方に傾ける。鬼気迫る眼差しが身体を射抜くのを意に介さず、アグラヴェインは告げる。

 

「言ったはずだぞ、此度の戦いにおいて敵にかける慈悲はないと。貴様の情に流される質は死んでも治らなかったようだな」

「私たちは騎士である前に人間だ! このような殺戮が許されて良いはずがない!」

「否、私たちは人間である前に騎士だ。王の道具であることに人の情は不要。誰もが機械のようでさえあれば、ブリテンは滅ぶことはなかった」

「そんな理想論があってたまるか! 人がいてこそ国があり、人を治めるからこそ王がいるのだ! それを否定する貴様のどこが騎士だというのか!!」

 

 トリスタンは二人の会話を聞き、薄い唇を弧に歪めた。

 指の先が痺れ、胸の奥がざわつくような感覚。いつの間にか、その表情は悦に浸り恍惚とする。

 

(…………ラモラック。貴方の趣味がようやく理解できました)

 

 トリスタンとラモラックはかつて決闘の末に友となっている。

 醜いモノをこそ美しく感じる矛盾した感性。生前は一片足りとも理解が及ばなかったが、今この時、この瞬間だからこそラモラックの性質を実感できた。

 なぜなら、トリスタンに与えられた祝福は『反転』。慈悲深き高潔な性格は今や冷酷非道に堕し、何もかもが真逆の人間へと生まれ変わったのだ。

 騎士道物語に謳われたトリスタンはもはやどこにもいない。

 ここにあるのはひとりの外道。笑って殺し、泣いて生かす破綻者。

 なればこそ、美しいモノを醜いと感じ、醜いモノを美しいと感じるのもまた必定だった。彼は腹の底から湧き上がる笑い声を喉元で押し留めようとする。

 そうすると、くつりくつり、と喉が鳴る。友と同じような笑い方をしていることに気付くと、トリスタンは獰猛に微笑んだ。

 

「嗚呼、私が生きる場所は、こんなにも美しかったのか」

 

 しかし。

 閉ざした両の眼から滴る涙を、彼は知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時を遡って、ノアたちが獅子王の攻撃から逃れた直後。

 山ひとつを更地に変えるほどの一撃から逃れることはできたが、その余波は別だ。大気が荒れ狂い、衝撃波が果てしなく拡散する。

 ノアの魔術には無傷で着地するための防護術式も搭載されている。それなりの振動はあるものの、衝撃波のせいで命を落とすことはなかった。

 不幸中の幸いは叩き潰された山の破片が飛んでこなかったこと。獅子王が放った光の熱によって、山ひとつがさっぱり蒸発してしまったのだ。

 アニメでもなかなか見ない冗談のような景色を目の当たりにしながらも、立香の心中に大した恐れは生まれなかった。トライデントの発射を二度も間近で見ているのだから、そろそろ慣れてもこよう。

 そんなこんなで、立香は地面に墜落した。上体を起こし、土埃を手で払いながら周囲を確認する。そこは一面の焼けた荒野。どこまでも広がる荒涼とした風景に、思わず目を擦った。

 行き先は砂漠のはず。決してこんな焼け野原ではないし、周囲には仲間たちもいたはずだ。

 立香はこれまでの人生経験と照らし合わせて、見知らぬ場所にひとり迷い込んだ今の状況を以下のように表現した。

 

「私ひとり、迷子、はぐれた。何も起きないはずがなく……っ!」

 

 両手を地面について項垂れる。誰もはぐれることなく始まったこの特異点だったが、結局その運命から抜け出すことはできなかったらしい。

 むしろこのままでは何も起きるはずがないのだが、生憎と天運はまだ彼女を見放してはいなかった。

 背後から人を小馬鹿にした憎たらしい声が響いてくる。

 

「アホがアホなこと言ってんな、目を覚ませ」

「人を食ったようなその言動、私の交友関係でそんなダメ人間はひとり! もしかしてリーダー……」

 

 くるりと立香が振り向くと、目と鼻の先にしゃれこうべがあった。ノアの右手で鷲掴みにされたそれを、彼女は即座に手で打ち払う。

 

「……ギャーッ! なんでそんなもの持ってるんですか! 織田信長ですか!? 骸骨で乾杯するつもりですか!!?」

「オイオイ誰が第六天魔王だ。あんな中二病と一緒にすんな」

「リーダーにだけは中二病とか言われたくないと思います。色々と設定詰め込みすぎて渋滞してるじゃないですか」

「人のキャラ設定に文句言ってんじゃねえ! 今更もう変えられねえんだよ! おまえこそ中二の時、自分が吸血鬼の設定で───」

「ああああああ!! なんでトマトジュースを常飲してた頃の私の黒歴史を知ってるんですか! リーダーにだけは知られたくなかったのに!!」

 

 他人の恥部を掌握することに心血を注いでいるマシュの仕業なのだが、立香がそれを知る由はなかった。

 双方の心に深い傷をつけ、二人の言い合いは終わった。蟠った感情を発散して落ち着いた立香は、冷静に話を切り出す。

 

「それで、どうして頭蓋骨なんて持ってたんですか? 割と違和感はなかったですけど」

「この辺りは瘴気が吹き溜まってる。冬木の街と同じだ。そのせいでガイコツ剣士やら腐った死体やらが歩いてやがったから、掃除してきたんだよ。五体投地して感謝しろ」

「そういうことを言わなかったら普通に有り難かったのに……ドクターに連絡しました?」

「真っ先にやったが、話にならなかった。あちこちから通信を受けてるせいであいつのCPU使用率が上限突破してたからな」

「ドクターとかただでさえスペック低そうですもんね」

 

 ロマンも立香には言われたくなかっただろう。仮にもカルデアの最高責任者に辛辣な二人だった。彼の人望の無さが浮き彫りになった結果と言えよう。

 元々、一行は聖都の追跡を躱すために分散した。それぞれに通信機を持たせたため、対応を求めるのは必然的に管制室になる。そうして通信が集中し、ロマンの脳みそは処理落ちしたのだった。

 ノアは両手の汚れを叩いて落とす。

 

「ただ、処理落ち状態のロマンでも合流地点を設定する余裕くらいはあったらしい。とりあえずそこを目指すぞ」

「急がないと不味そうですね。私たちなんて余波のせいでここまで飛ばされたくらいですし」

 

 立香は両足に力を込める。すると、右の足首にずきりとした鈍痛が起こった。

 

「い、た…っ」

 

 咄嗟に足首を押さえる。着地した際に挫いたのか、患部は熱を持って腫れていた。ノアは素早く立香の側に座り込み、治癒のルーンを刻む。

 怪我を治す魔術が得意という言に嘘はないらしい。瞬く間に痛みが消え、腫れが引いていく。

 立香は唇を噛む。

 

「ごめんなさい、急がないといけないのに……」

「謝るな。これは俺の責任だ。獅子王の攻撃のせいで防護術式が弱まった。俺の落ち度だ」

「……ありがとうございます」

 

 ノアの手が患部を離れる。捻挫の痛みと腫れはどこへやら、僅かな違和感もなく足首は元通りになっていた。立香は勢い良く立ち上がり、とんとんと右足の先で地面を蹴る。

 足の調子は普段通りどころか絶好調。立香は気丈な笑顔をノアに向けた。

 

「それじゃあ、行きましょう! みんなが待ってますよ!」

 

 だが、ノアは顎に手を当てて怪訝な表情で考え込んでいた。いつになく真剣な彼の雰囲気に、立香はごくりと息を呑んだ。

 ノアは鋭い視線を立香に向けて、重厚な声を捻り出す。

 

「…………藤丸」

「な、なんですか」

「抱かれるなら前か後ろ、どっちがいい?」

「────はあ!!?」

 

 立香は顔を耳まで真っ赤にして、後ずさる。両手を某光の巨人が光線を発射する時のように構えて、

 

「リーダーっていつもそうですね…! 私のことなんだと思ってるんですか!?」

「なに下品な勘違いしてんだ。おまえの足だと限界があるだろ。俺がおまえを抱えて走った方が速いだろうが」

「そ、それならそう言ってください! おんぶかだっこってことですよね!? ノンデリカシーにも程がありますから!」

「おまえは早とちりにも程があるだろ! 脳内ピンクはあのマシュマロなすびだけで十分なんだよ!」

「ぐぬっ…!」

 

 勘違いはともかく、提案としては悪くない。身体に強化をかけて走ったとしても、どうしてもその走力には差が出る。真っ当な人間の体である立香と違い、ノアはヤドリギと融合した肉体の持ち主だ。

 体が疲労の限界を迎えたとしても、魔力さえあれば体内のヤドリギを操り人形のように操って走ることができる。

 そうまでして走らせることに後ろめたさはある。が、そんなことを言っていられる状況ではないし、それよりも重大な問題が立香に差し迫っていた。

 すなわち、抱きかかえられるか背負われるか。

 小さい脳みそを回転させて、立香は答える。

 

「お、おんぶの方でお願いします。リーダーを上から見下せる機会なんて滅多にないんで」

「ふっ、言動には気をつけろよ藤丸。背負う側である俺の胸先三寸でおまえをどうにでもできることを忘れるな」

「リーダーこそ私が人体の最大の急所である首を狙えることを忘れないでください。……というかしゃがんでくれませんか。おんぶする気あるんですか」

 

 ノアは馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

 

「仕方ねえな、これだから短足は」

「足の長さは関係ないですが!? 誰が短足!? 私のカモシカのような足を馬鹿にしないでください!」

「おまえ本物のカモシカの足見たことあんのか? 意外とずんぐりむっくりしてるからな、おっさんみたいな足してるからな」

「カモシカにもおっさんにも角が立つようなこと言わないでください」

 

 言いながら、渋々しゃがんだノアの背中に身を預ける。

 ノアは立香の両足に手をかけて、軽々と立ち上がった。一気に視点が高くなり、彼女は小さく声を漏らした。

 

「きゃ…っ」

「…………今、女みたいな声が聞こえたんだが気のせいか?」

「う、うっさいですね! 思ったより目線が高くてびっくりしただけです! ほら、早く行ってください!」

 

 騎手が馬に鞭を打つように、立香はノアの肩をぺしぺしと叩いた。すると、彼の体に魔力の光芒が走り、一度の踏み込みで最高速度に到達する。

 足を繰り出すごとに土が深く抉れ、周りの景色が高速で後ろに流れていく。ノアはルーンを結び、前方に風避けの壁を作り出した。

 この地球上にある限り、高速の物体の前にはどうしても空気という壁が立ちはだかる。戦闘機などは如何に空気による抵抗を抑え、速く飛翔するかに重きを置いた形状に設計されている。

 空気の壁に衝突すれば、全身に強化を施したノアはともかく立香はただでは済まない。より速く走るため、立香を守るため、ノアは防壁を張ったのだった。

 振り落とされぬよう、彼の首に両腕を回してしがみつく。凄まじい勢いで荒野を走り抜ける最中、立香は口を動かす。

 

「みんなのことが心配ですね。ドクターが何も言わなかったってことは少なくとも無事だとは思いますけど」

「ダンテ以外はよっぽどのことがなければ大丈夫だろ。それよりもおまえは敵と鉢合わせないことを祈っとけ。流石に護り切れるとは断言できねえからな」

「その時は私も一緒に戦います。いざとなれば令呪もありますから。リーダーをひとりにしたら大変なことになりそうですし」

 

 野暮な言葉と分かりつつもそう言った時、ノアの口元が緩やかな弧を描いたように見えた。

 ともに同じ重荷を背負うと決めたのだから、どちらか片方を見捨てる選択肢なんて彼らには存在しない。今更言う必要なんてないだろう。

 助けられるのも護られるのも一度ではすまない。

 黒き騎士王と戦った時は腕を犠牲に護ってくれた。

 名無しの女王に捕まった時は仲間と一緒に助けてくれた。

 ケルトの狂王に追い詰められた時も間一髪で救ってくれた。

 柄でもないと分かってはいるけれど、訊かずにはいられなくて。立香は呟くように言葉をこぼす。

 

「……どうして、いつも助けてくれるんですか」

「はあ? Eチームのリーダーが部下を助けなくてどうする。誰もがこの俺みたいに有能な訳じゃねえからな。ボランティアは才を持つ者の義務だ。俺の貸しは高くつくがな」

「それボランティアじゃないですよね。悪徳高利貸しですよね。闇金ですよね」

「人は誰しも借金背負ってんだよ。罪という名の借金をな。十字架にかけられて死んだロン毛もアレ借金取りに追われただけだからな、ローマ兵ってのもヤクザの喩えだからな」

「人類の原罪を借金扱いしないでください」

 

 愚にもつかないやり取り。幾度となく繰り返したことだが、なぜか今だけは特別なものに感じられた。

 心地の良い沈黙が流れる。

 そこにある音は激しい足音と風切り音のみ。どこか懐かしい振動と温かさに釣られて、立香は完全にその身を預けた。

 引き締まった筋肉のついた背に触れ、ぼんやりと思う。

 

(背中、広い……)

 

 心がほだされるような感覚。

 生暖かい感情が胸の奥にずくりと染み出す。

 建前をつけることも忘れて、本音がするりと口をついて出た。

 

「その、さっきの質問ですけど、私のことどう思ってるんですか」

「ホットケーキミックスを生で食う妖怪女」

「ぶっ飛ばしますよ?」

「がああああ!!」

 

 両手でノアの耳を千切れんばかりにつねる。

 ノアは勢い良く頭を振って、耳に食い込む指を払った。彼は当てつけのようにスピードを上げて、上体をがくがくと揺らした。

 ノアは深くため息をついて、嫌々返事をする。

 

「おまえは俺の自慢の部下だ。ロンドンの時にそう言っただろうが」

「そうですけど、何か他にないんですか。ほら、日頃の感謝の気持ちを表してください」

「残念だったな、俺は人に感謝しないことを信条に生きてんだよ」

「どんな無頼漢ですか。クズ以外の何物でもないんですが」

 

 この男がクズであることはもはやカルデアでは常識である。ム○クとガチ○ピンで言えば、赤い方はいらないということくらいに常識になっている。それもひとえに性格の悪さが原因だ。

 ノアは少し考えて、つらつらと喋り出す。

 

「俺は人類を根源に連れていくために、魔術の欠点を克服した学問を作る。研究成果の共有すらできない魔術は今のところ学問とも言えない粗悪品だからな。俺が目指すのは、知識を共有しても神秘が薄れない魔術だ」

「……よく分からないですけど、みんなで研究ができるようにするってことですよね」

「そうだ。アインシュタインもノイマンも、イチから発明を始めた訳じゃない。先人の研究成果が積み重なってたからこそだ。人間独りでできることはたかが知れてる」

 

 ひとりの人間に定められた限界は低い。アーサー王の円卓然り、水滸伝の梁山泊然り、人智を超えた英雄ですら集まらなくては大事は成せなかった。

 人の強みは知識の共有と継承だ。先人の努力がなければ、如何なる天才も偉大な発明はできなかっただろう。

 だが、魔術における知識の共有と継承はそれぞれの家系の中に留まる。人類全体で研究結果を持ち寄って経験を蓄積できる他の学問に比べれば、発展のスピードは遥かに遅い。それどころか停滞して劣化しているのが魔術という世界だ。

 だから、ノアが考える新しい学問に必要なものは決まっていた。

 

「俺に必要なのは仲間だ。俺の哲学を理解できる人間がいる。おまえはその第一号だ。おまえは俺が初めて持った弟子だからな」

「私がリーダーの一番弟子なんですね。へえ……だったらもっと可愛がってくれてもいいんですよ? 何たって一番弟子ですからね? 一番闇堕ちしやすいポジションですからね?」

「……そのムカつく態度を何とかしたら考えてやるよ」

 

 立香は小さく笑い、ノアの背中に額を当てた。その笑みとは裏腹に、靄がかった感情が心臓にへばりつく。

 そして、ぽつりと思う。

 

(でも、そういうのじゃなくて)

 

 そこで、立香は疑問を覚える。

 自慢の部下で一番弟子。それで良い、良かったはずなのに、満足できない自分がどこかにいた。

 思考を巡らせて、自分が本当に求めるものを探す。霞の向こうにある答えを近づいていく度に、心臓の鼓動がどくりどくりと早まっていった。

 そうして、理解する。

 甘い電流の如く迸るソレの正体を。

 

(…………控えめに言って、最悪)

 

 それでも、もうこの気持ちを後戻りさせる術なんて知らなかったから。

 

(私、この人のことが好きだ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひとりの騎士がいた。

 砂漠の王の眷属である光輝の幻獣スフィンクスを膾切りに始末し、赤き鎧の騎士は木々が生い茂る場所に足を踏み入れる。

 その瞬間、ぞくりと背筋が震え立った。騎士が備える類稀なる第六感、獣の如き嗅覚が憎き仇の気配を刺すように伝えているのだ。

 ───ここにいる。ブリテンを掻き乱した、あの精霊が。

 精霊とは自然の触覚。その寿命は計り知れない。化かし合いの腕では到底及ばない。しかして、騎士が仇を探し当てたのは狂気の如き執拗さが成せた奇跡であった。

 顕現する二刀。左に携えし剣は白磁のような純白の刀身。黄金の雷を秘めた聖剣。対する右の剣は神秘の欠片もない無骨な両刃剣。対照的な二つの剣を手に、騎士は気配の元に辿り着く。

 磨かれた鏡面めいた湖、その傍らに佇むひとりの女。腰まで届く濡羽色の長髪に、淡く照る紅玉の瞳。薄いベールのような白色のドレスは、柔らかく流麗な体の曲線を浮かび上がらせる。人間離れした美貌は同じ空間に立っていることすら違和感を覚えるほどに現実離れしていた。

 しかし、騎士の魂より来たる感情は後ろ暗い殺意と憎悪。草木すらも恐れおののく殺気を放ち、腰を低く落とす。

 その女は艷やかな柳眉を和らげ、瑞々しい桜色の唇を歪めた。

 

「───追いかけっこは終わりですね」

「然り。貴様の命はここで終わる。最期に望みはあるか」

 

 彼女は胡乱げに微笑む。

 くすくす、くすくすと。どこか見下すような声が辺りに反響する。揺れて、擦れ合う草木が笑っているかのように。

 

「では……お教えください。なぜ私を殺そうとするのか。草木(かれら)もそれを知りたがっていますわ────」

 

 わざとらしく首を傾げ、騎士の名を呼ぶ。

 

「────ねえ、()()()()()?」

「…………女狐め」

 

 それは、遥か昔の記憶。

 脳髄に刻まれて癒えぬ、忌まわしき光景。

 ベイリンはノーサンバーランドの領主の子として生を受けた。戦乱に包まれたブリテンにあっても自ら兵を率いて戦う父親と、聡く優しい母親。弟にも恵まれ、戦火の時代に負けぬ幸せを築いた自分の家を、ベイリンは何よりも誇りに思っていた。

 騎士としての教育も辛くはなかった。生まれつきの鋭い感覚と剛力はその剣才を開花させ、数日にして師匠である父を超えた。しかし驕らず、子供心ながらに決心したのだ。

 ───いつか、このブリテンを救う騎士になる、と。

 厳しくも幸せな生活が陰り出したのは、ある戦争から父が帰ってきた時のことだった。

 

〝私に名前はありません。ヴィヴィアンでもニミュエでも、好きなようにお呼びください〟

 

 その女は、自身を湖の乙女と称した。

 濡羽色の髪と紅く妖艶な瞳。人間離れした美貌の女は正しく人間ではなく、伝説や伝承に語られる精霊であったのだ。

 戦場で父に救われたという彼女は恩を返すと言って家に居着いた。全てが変わったのはそこから。女はたちまち家中の人心を掌握し、戦においても常勝をもたらした。

 精霊の御業は人智の及ばぬ奇蹟。超常の魔術をも修めた彼女にとって、単なる地方領主の小競り合いを勝利に導くことなど児戯に等しい。

 領民までもが女を敬うようになった頃、家の空気はがらりと変わっていた。強烈な色香を漂わせるその女と、それに目が眩んだ父の姿。

 猛々しく勇敢な父は骨抜きにされ、いつしか女と母親の地位は入れ替わっていた。そうして、彼女は父親に寄り添いながらベイリンと弟に告げたのだ。

 

〝その人の一番大切なモノになる方法を知ってる?〟

 

 艶のある唇をなまめかしく動かして、女は言った。

 

〝───その人の一番大切なモノを壊すことよ〟

 

 聞いた瞬間、足元が崩れ、吐き気が込み上げる。背筋を這いよる得体の知れぬ予感に導かれ、ベイリンは弟の手を引いて走った。

 館の中心。熱狂する領民たちと父の部下。彼らは轟々と燃え盛る十字架を眺め、気色に満ちた絶叫を響かせる。

 人混みを掻き分け、見たのは見るも無残な母の姿。灼熱の業火に包まれ、かろうじて人の形を保つソレを眼前にして、抱いた夢は書き換えられた。

 ───殺す。どんな手を使ってでも殺す。何を犠牲に差し出してでも殺す。

 女は父の一番大切なモノを奪うことで、父の一番大切なモノに成り果てた。

 精霊にとって剣技はおままごとのようなもの。真っ当に戦ったとしても勝機はない。

 ベイリンは弟ともに故郷を離れ、戦いに明け暮れた。人智を超えた存在を人間の手で屠るために、人間を超えた力を求め続けた。

 

〝その力、王のために使ってみる気はないかい?〟

 

 あの女に似た雰囲気を纏う、花の魔術師。人の心を見透かしたような瞳をする男は、ただそれだけを言って彼が仕える王の元に案内した。

 復讐。それだけが生き甲斐。戦いで名を馳せようとも満たされるものは何一つとしてない。

 その誘いに乗ったのは単なる打算。求める力があるかもしれないという愚考だ。

 けれど。

 

〝ベイリン、そしてベイラン。私は貴殿らの力が欲しい。ブリテンを救うため、共に戦ってはくれぬか〟

 

 あろうことか、王は純粋な瞳で言いきってみせた。己がかつて捨てた無垢な夢を、無垢なまま語る王は誰よりも何よりも眩しくて。

 

〝───貴方が、私の王だ〟

 

 王の理想のために戦う。

 そうと決めてもなお、運命はベイリンを手放すことはなかった。

 ブリテンを統一するため諸侯と戦っていたある日、宮廷をひとりの乙女が訪れた。彼女は一振りの剣を抱えたまま、王の前で礼を取る。

 

〝この剣は私の苦しみと悲しみのもと。行いに優れた騎士で、悪事にも逆心にも縁がなく、裏切ることのないお方によってしか、この剣から解き放たれることはありません。どうか、剣を抜ける者を連れてきてください〟

 

 その乙女は剣の呪いに蝕まれていた。刀身を抜き放つことでしか呪いは解けず、剣を抜くことができる騎士を求めて各地を彷徨っていたのだ。

 王の配下は次々と挑戦するも、剣を抜いた者は誰もいなかった。

 

〝私にお任せください。その剣、必ずや抜いてみせましょう〟

 

 鞘と帯を手にかけ、柄を握る。

 ただ確信があった。この剣は我が手に収まるために来たのだと。

 それに違わず、ベイリンはびくともしなかった剣をすらりと引き抜いた。

 その内に灼熱の黄金を秘めたる純白の聖剣。どんな名工にも打てぬであろう尋常ならざる名剣を眺め、素直に思った。

 

〝この剣ならば、王のお役に立てる〟

 

 そして、

 

〝あの女を、殺せる────!!!〟

 

 剣を持ち寄った乙女はそれを返すことを望んだが、ベイリンは申し出を断った。

 

〝なぜこの剣を渡さねばならぬ。この世でただひとり私が抜いたのだから、我が物とするのは当然のことではないか〟

〝……そこまで言うのなら。ですが、その剣はあなたの身を滅ぼす。ゆめお忘れなきよう〟

 

 その時はすぐ訪れた。故郷に赴くための準備をしていると、母を奪い父を籠絡したあの女がアーサー王のもとに登城したのだ。

 湖の乙女はかの聖剣エクスカリバーを授けることと引き換えに、ひとつ望みを叶えることを約束させていた。

 

〝先日、剣を持ってきた乙女がいたはず。その女の首か、剣を勝ち得た騎士の首を所望致します〟

〝……約束を違うようだが、その望みは聞けぬ。何か別のものであるなら何なりと取らせよう〟

〝私の望みはどちらかひとつの首。他のものはいただきたくございません。横紙破りは王の器を問われることになりましょう。約束を守らぬ王に付き従う臣下がどこにいましょうか〟

 

 あろうことか、女は王をも脅かす存在となった。ブリテンを救うという理想を阻む障害。押さえつけていた憎悪と憤怒が溢れ出し、気付いた頃には女を斬り殺していた。

 おびただしい血に塗れながら、女はとことん笑顔で言い残した。

 

〝愚かな子ね、ベイリン。その剣には呪いがある───あなたはいつか、自分の手で最も大切な者を斬り殺すわ〟

 

 その言葉は嘘ではなかった。

 ベイリンはその手で、この世で一番大切なモノを壊した。

 

「───そう、私は剣の呪いによって弟を殺した。血を分けた肉親をこの手で壊したのだ」

「……私たちは共に同じ湖から生まれた姉妹。あなたを悲劇に導いたのは紛れもなく私の妹です。エクスカリバーを渡したのは私ですが、妹は私の振りをしてアーサー王のもとに行ったのでしょう」

「ならば、何故止めなかった! あの女の姉と言うのなら、それを止めるのが役割のはずだ!」

「返す言葉もございませんわ。もし知っていたら、私もお姉様と一緒にあの子を叱ったはずです。けれど、あの子を止めることはできなかったでしょう」

 

 殺気に塗れたベイリンの視線に疑念が入り混じる。

 揺らめく水のように、女は立ち上がる。そのかんばせには影が落ち、ゆらりと傾いた。

 

「あなたは、恋をしたことがありますか」

 

 返答はない。その沈黙こそがベイリンの答えであり、揺るがぬ殺意の証左だった。

 女は両の十指を白い肌の顔に這わせる。暗い熱を帯びた瞳は森の隙間に映る青空を見つめ、頬がほのかに赤らんだ。

 

「恋情は太陽よりもなお激しく燃え盛る。私が何をしようとも、あの子は決して止まらなかった。恋とはそういうもの……世界を燃やし尽くす激情は絶対に消えない。こればっかりは、経験のない人には分からないことですわね」

「…………だから見逃せと?」

「いいえ、あなたの憎しみと怒りは全てが妥当。それを受け止めるのはあの子の姉である私の義務ですわ」

「良いだろう、死ね」

 

 ざり、と土を踏む。殺気が満ちる。達人にとって殺気は先手を読む材料になり得るが、ベイリンのそれは別格。あまりにも濃密な殺気故に、どこから攻撃が飛来するか読むことができない。

 相手が精霊であろうと、今のベイリンならば倒せぬ相手ではない。張り詰めた弓の弦の如く腕が引き絞られる。一度それを放てば、湖の乙女の首は一瞬にも満たずに斬り落とされるだろう。

 

()()()

 

 新たな気配が現れる。

 周囲に目を配るも、その実体は見えない。

 それもそのはず、その気配が迫るのは地上からではなく、上空であったからだ。

 

「───あなたには、私は殺せない」

 

 瞬間、轟音が鳴り響く。湖の乙女とベイリンの間に何かが墜落し、土煙がもうもうと立ち込めた。

 何度も咳き込む声が響き、煙の向こうから白銀の鎧に身を包んだ男が現れる。

 

「あ~、死ぬかと思った! なんて魔術考え出してんだあのアホは! 航空会社の関係各位に土下座しろ!! ……ん?」

 

 突如降ってきた男とベイリンの目が合う。彼は赤い鎧の騎士を指差して、目を丸くしながら絶叫した。

 

「お前は騎士狩り!? どうしてこんなところにいやがる!」

「…………それは此方の台詞だ。退け、貴様には関係のない話だ」

「いや、そんな殺気放ってるやつを放置したら不味いだろ。交番の前で盗み働くみたいなも」

 

 そこで彼の言葉は途切れた。湖の乙女は砲弾の如き勢いで彼の背中に飛びつき、先程までとは打って変わった猫撫で声をあげる。

 

「ペレアス様っ! ずうっとお待ちしておりましたわ~っ!!」

「ぐふぅっ! その声、その顔、まさか───」

「はい! この世でたったひとりのあなた様の伴侶ですわ! ご飯よりもお風呂よりも一択の私ですっ!」

「マジか、もうちょっと劇的な再会になると思ってたんだが!? 土産とか何も持ってきてねえぞ!」

「いいえ、あなた様が何よりのお土産です。という訳でまずはあちらの茂みに……」

「何でだ! どう見てもそういう空気じゃないだろ! 騎士狩りが置いてけぼりになってんだろ!!」

 

 ペレアスは湖の乙女を引き剥がすと、ベイリンに向き直る。赤い甲冑の奥から覗く眼光は一層鋭く研ぎ澄まされていた。

 

「……これが貴様の仕込みであろうと偶然であろうとどうでもいい。まとめて斬るだけだ」

「仕込み? 偶然? そんな言葉で表されては困りますわ。これは運命───決して歪まぬ因果律。私たちを結ぶ赤い糸がペレアス様を引き寄せたのです」

 

 ぶつかり合う視線がばちりと火花を散らす。

 それを見たペレアスは大体の事情を把握し、腰に佩いた剣を抜き放った。

 

「荒事は避けられないみたいだな……オレはペレアス! 前人未到の竜殺しを成し遂げた円卓番外位の最強騎士だ! アンタも騎士なら名を名乗れ!」

 

 ベイリンはごきりと首を鳴らし、

 

「番外位だと? ハッ、その席に座る者が私の他にもいたとはな。アレは宮廷で殺人を犯した私が罪を償うために用意されたモノだ。同情するぞ」

「うるせえ! アンタにとってはそうでもオレにとっては違うんだよ! つーか、そうか。やっぱりベイリンか。二刀流であんな強さの騎士なんて、アンタ以外に聞いたことがねえ」

 

 マーリンはベイリンを褒め称え、こう言った。〝かの騎士の力と勇猛に太刀打ちできる者はいない〟と。

 二人の間に面識はないが、自分が就いた席の前任者として、ベイリンのことは知っている。抱える事情も、湖の乙女が犯した罪のことも。

 ペレアスは湖の乙女とベイリンを遮るように立ちはだかり、言った。

 

「アンタがこいつを狙うのは、呪いのことだけか? 仮にも聖剣を抜いた騎士が、私情に囚われるなんて思えねえ。……ランスロットは別として」

 

 ベイリンは僅かに面を伏せて、返答する。

 

「湖の乙女は宝具を人間に与え、その行方を見守った。しかし、果たしてそうか? 王を脅し、マーリンを異界に幽閉した。あの魔術師はろくでなしだったが、国には必要な人材だったはずだ。お前たち精霊は国を乱すことしかしていない」

「幽閉の件についてはお姉様にちょっかいをかけたあの人が悪いと思いますが……ええ、一応その批判は受け取っておきましょう」

「…………ペレアス。これが精霊だ。自分勝手に人間を食い物にする人外の姿だ。湖の乙女に魅入られた者の末路を知らぬ訳でもあるまい」

 

 ───そう、我が父は湖の乙女に魅了され、白痴の骨抜きにされた。

 刃を首元に突きつけるが如き問い。ペレアスは爛漫と咲く向日葵のように笑って、

 

「ああ、知ってるぜ。湖の乙女に愛された者は安らかな最期を迎えるってな! アンタの親父さんのことは気の毒だが、生憎オレたちはハッピーエンドで終わってんだよ! これが純愛のなせる業だ!!」

 

 きっぱりと言い切った彼の背後から、約一名による黄色い歓声があがる。

 

「ペレアス様……!! 今サイコーにキマってますわよ! また惚れ直しましたわ!」

「もっと真面目な合いの手はないのか!? ま、まあいい」

 

 予想外の妨害が入ったものの、ペレアスは続けてまくし立てた。

 

「アンタこそ復讐で周りが見えてないみてえだが、ここでは随分と毛色の変わった王様が虐殺を起こしてるらしい。それについてはどうだ?」

「無論、貴様らを排除した後に王を始末する。アレはもはや以前の王ではない。あんなモノが王を名乗っているだけで吐き気がする」

「なるほど、よく分かったぜ先輩」

 

 ペレアスは剣の先をベイリンに突きつける。開戦の合図に等しいその仕草には迷いがなく、彼の瞳には純粋な光が灯っていた。

 

「かかってこいよ。アンタの怒りと憎しみはオレが受け止めてやる」

「……ほざいたな、番外位の後任者が。望み通り、我が二刀で以って切り裂いてやる」

「だが、ひとつ条件がある」

「命乞い以外ならば聞いてやろう、言え」

 

 敵は野蛮なるベイリン。

 ランスロットが円卓の騎士で最強だとすれば、ベイリンは円卓の騎士結成以前から初期における最強の騎士だ。

 しかし、そんな前評判はペレアスを止める道理にはならなかった。

 

「オレたちが勝ったら、アンタには仲間になってもらう! 以上だ!!」

 

 刹那、刃が交わった。



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第51話 黄金の輝き

 ベイリン・ル・サバージュ。

 アーサー王がブリテン統一のため、並み居る諸侯たちと血で血を洗う戦争に明け暮れていたその時代。野蛮なるベイリンと謳われたかの騎士は、弟とたった二人で北ウェールズの覇を唱えたリエンス王と四十人の精鋭を打ち破った。

 戦乱の時代、王の懐刀として大いに武勇を打ち立てたベイリン。しかし、その功績とは裏腹に、蛮人という騎士にあるまじき評価を受けている。

 ペレアスはそれが王の目の前で湖の乙女のひとりを殺すという蛮行に由来するとは、必ずしも限らないことを知った。

 

「……斬る」

 

 それはまさしく、人の形をした暴風。

 息つく暇もない怒涛の剣戟が疾風の如く繰り出される。

 ベイリンにとってその二刀は獣が爪牙を振るうに等しい。鋼の剣はもはや身体の延長線上。直線曲線入り混じる剣撃は息遣いすら宿っているようにすら感じられた。

 微塵の隙間もない攻撃に対して、ペレアスは剣を突き出した。双方の剣先が激突すると、ペレアスを狙ういくつもの斬撃が明後日の方向に逸れていく。

 力の流れを操作し、四方八方より飛来する刃を一刀で捌く絶技。ベイリンの打ち込みのことごとくがペレアスにかすり傷すら与えることはなかった。

 しかし、それは一手誤れば体が真っ二つになる綱渡りの攻防。ベイリンは左手の剣で斬り払うと同時に体を回し、

 

「オオオオッ!!」

 

 咆哮とともに放たれる双剣。本来両手で扱うはずの両刃剣を片手で、しかも小枝のように振り回す。その膂力は鬼か魔か、いずれにしろ人を超越した無双の剛力であった。

 まともに受ければ刃ごと五体は四散するだろう。ペレアスは剣を逆手に持ち替え、上体を倒して二刀を刃の上で滑らせる。

 身体全体を使って受け流す。ベイリンと真正面から膂力で争うのは愚策以外の何物でもない。逆手持ちのまま殴るように斬りつけるが、赤い甲冑の表面に傷をつけるだけに留まった。

 その怪力が人外じみたものだとすれば、その反応もまた同じ。生前、姿を自由自在に隠す騎士と戦ったことのあるベイリンにとって、目に見える攻撃はそれだけで生易しいのだ。

 故に、騎士は知覚していた。

 背後から振り落とされる刃の存在を。

 ベイリンは身を翻し、飛び退く。遅れてその場を切り裂いたのは、透き通る水の剣であった。それを手繰る湖の乙女は小さく頬を膨らませた。

 

「むう、流石はベイリン卿ですわね。私の剣技では及ぶべくもありませんか。あの子……ランスロットの前に円卓最強と呼ばれた実力は伊達ではないようです」

「みたいだな。オレが前に出るからお前は後ろにいてくれ。じゃないと安心して戦えない。アレは使えるか?」

 

 湖の乙女は赤らんだ頬に手を当てて、体を左右にくねらせる。

 

「そんなに心配してくれるなんて……ええ、水辺なので元気百倍です! いつもの戦い方で行きましょう! 私とあなた様の必殺ラブラブ剣ですわっ!!」

「その名前だけは生きてる頃から認めてねえからな!?」

 

 言動とは裏腹にペレアスは笑い、剣を順手に持ち直して突撃した。

 ベイリンは兜の奥から覗かせる眼光を歪め、舌打ちする。

 

「犬も食わんな、貴様らは───!!」

 

 突貫するペレアスと待ち構えるベイリン。分かりやすい攻守交代の構図だが、しかしそんな常識は双剣の騎士には当てはまらない。

 野に生きる獣の如き神速の危機感知。これを防御ではなく攻撃に転用すれば、それは敵のありとあらゆる隙、行動の予兆を一瞬で丸裸にする知覚と化す。どのような戦況においても先手を取り続けることができるのだ。

 本来ベイリンに防御という概念はない。必要ない。常に先手を取ることができる以上、極論剣を振るい続けてさえいれば、必ず敵は死ぬ。

 全感覚、全神経がペレアスの先の先を取るために集中する。その時、冷たい水のような声が脳髄の奥に流れ込んだ。

 

「……『遥か永き湖霧城(シャトー・デ・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 世界が、がらりと切り替わる。

 ベイリンが見たのは一面に広がる湖と、その湖上にそびえ立つ白亜の幻想城。濃い霧が揺らめき、しとりとした空気が肌を撫でていく。

 刹那、ベイリンは己の目を、耳を、五感すべてを疑った。一帯の空間そのものを丸きり別の物に入れ替えてしまったような劇的な変化。しかして、それは紛れもなく現実───この世界の表面にカタチを得た空想であった。

 ペレアスは袈裟懸けに剣を振るう。それよりも一瞬速く動いたベイリンの右腕は、振り上げる際にがくりと減速する。

 結果、先に届いたのはペレアスの剣。軋んだ金属音が響き、赤い甲冑の胴が割れて数滴の血が落ちた。

 直撃は左の聖剣によって阻まれていた。二刀を持つ手数の利は攻防に活きる。ベイリンは剣を受け止めた衝撃で後退り、確かめるように手を開閉する。

 

「精霊だけに許された世界改変現象───『空想具現化(マーブルファンタズム)』。貴様の本領発揮という訳か、湖の乙女」

「そうですわね。今の私が出せる全力はこの程度、張子の虎にすぎません。お姉様や妹に見られたら笑われてしまいますわ」

 

 湖の乙女はしゅんとする。ベイリンの五感を騙すほど巧妙かつ迅速にこの異界を展開してみせたにも関わらず、その表情は晴れなかった。

 『空想具現化(マーブルファンタズム)』。自然の触覚である精霊が有する能力のひとつ。自己の意思と世界を直結させ、因果律を操作することで己の思うままに環境を書き換える。

 突如現れた湖上の城は疑う余地もなく現実のモノ。その昔、ランスロットがアーサー王と対立した際にギネヴィア王妃を連れて籠城した『幸福の護り』という城と同質の存在だ。

 アーサー王とその軍勢でさえ落とすことができなかった霧の城。これを張子の虎と呼ぶ湖の乙女の言を疑わぬなら、相当の弱体化を経ているに違いない。

 だとしても、それはベイリンの警戒を緩める理由にはならなかった。ペレアスは剣の腹で肩を叩きながら言う。

 

「城の中に引きこもるなんてつまらない戦い方はしねえ。男らしく剣で勝負だ!」

「男らしく? 騎士らしくの間違いだろう。我らは王の騎士だったのだから。どちらにしろ私には似合わん言葉だがな」

「……アンタ、思ったよりネガティブだな」

「貴様より現実を見ているにすぎない。恋は人を盲目にするらしいが、今ようやく実感したよ」

 

 嘲り気味な言葉を受けて、湖の乙女は薄暗い笑みを浮かべた。

 

「〝恋が盲目というのなら(If love be blind)暗い夜こそふさわしい(It best agrees with night)〟……これはシェイクスピアというお方の言葉ですが、恋に限らず濃密な感情というものは視野狭窄を引き起こします。あなたが盲目でないと誰が言い切れるので?」

「少なくとも、一寸先も見えていないような貴様に言われる筋合いはない」

「いいえ? 私の目がばっちり利いているのはペレアス様が保証してくれます。そうですわよねっ、あなた様!!?」

「……ちょっとシェイクスピアに謝ってくる」

「こんな時に!? 私も連れて行ってくださいませ!!」

 

 湖の乙女はペレアスの両肩に手を置いてがしがしと揺らした。ベイリンの表情はうかがい知れないが、良いものでないことは確かだ。ペレアスはやけに手慣れた動きで脱出すると、剣を構え直す。

 彼は苦笑いして、

 

「まあ、こういうのがオレたちのノリだ。呆れただろ。復讐心も薄れてきたんじゃねえか」

「呆れはしたが、それが戦意を希釈させる理由にはならんな。私を負かすと言ったのは貴様だ。その剣は飾りか?」

「はああん!? ペレアス様の手中に燦然と輝く剣が見えていないのですか!? その鎧を脱ぎなさい、目ん玉バールでこじ開けてやりますわ!!」

「頼むから黙っててくれェ! 今はそういう空気じゃないから! 今からは真面目にやるぞ、いいな!?」

「私は最初から真剣ですのに……」

 

 むすっとした顔になる湖の乙女を尻目に、ペレアスは駆け出した。それは攻勢に転じる意思表示。彼の行動に呼応して、周囲に満ちる霧が寄り集まり形を変える。

 霧の槍が群れを成す。空中に立ち並ぶ薄白い槍は古代ギリシアの戦闘陣形であるファランクスのように密集し、その穂先をベイリンへと差し向けた。

 ペレアスは敵の胴体目掛けて剣を薙ぐ。それに対しても先手を取るはずのベイリンの行動はまたしても一拍遅れ、刃を叩き込まれる。

 すんでのところでそれを防いだベイリンは舌打ちし、自らを制限する力の正体に至った。

 

(霧と……この環境そのものか。やはり湖の乙女、手口は妹と同じだな)

 

 体にまとわりつく霧が行動を阻害し、常ならぬ一帯の環境がベイリンの体から力を奪う。

 ここは人ならざる妖精、精霊が住まう人外の異郷。人間は異物であり、排斥されるべき障害物だ。それ故に湖の乙女と彼女の加護を受けた者以外はその存在を世界から補正される。

 ベイリンは異界の脅威を我が身を以って知っている。父親を籠絡し、母親を火にかけた魔女はノーサンバーランドを丸ごと水の庭園に作り変え、かつてのベイリンとベイランを小指一本動かすことなく撃退した。

 次々と襲い来るペレアスの連撃を紙一重で凌ぎながら、ベイリンは眼光を細める。

 

「温い。精霊が創り出す異界は、こんなものではなかった。弱いぞ、このような虚仮威しで私を止められるものか!!」

 

 ばちり、と金色の電流が聖剣の白磁のような刃の上を這う。

 体が動く。息ができる。それだけで精霊が全てを支配するあの異界とはまるで劣る。

 人生の大半を湖の乙女を殺すことに費やしてきた。精霊の脅威を誰よりも知るベイリンは、この劣勢が虚飾に塗れたものであることを知っていた。

 手はある。後は機を見るのみ。

 絶え間なく刃を交わす最中、ペレアスは気丈に口角を吊り上げる。

 

「オレたちはサーヴァントだ。無念や後悔を抱いて死んでいった名も無き人々と違って、やり直す機会を与えられてる。そんなズルをやってんだ、何もかもが生きてた頃と同じって訳にはいかねえだろ!」

 

 いつの間にか、霧の槍はペレアスとベイリンを覆うように展開されていた。それらは一斉に発射され、無慈悲に二人の上に降り注いだ。

 ベイリンは瞠目する。

 自らの伴侶をも貫く愚行。

 やはり精霊は人間を食い物としか思っていない────だが、槍の穂先がペレアスに当たることはなかった。

 己の目が届かぬ頭上や背後の刺突を、手に取るように感知して躱す。槍の雨の隙間を補うように斬撃を織り交ぜ、息もつかせぬ攻撃の波濤がベイリンを圧していく。

 以心伝心とはまさにこのこと。合図を介さずとも互いの意思を狂いなく把握できる二人だからこそ、この連携は実現する。

 それを見て、ベイリンはただ思った。

 懐かしい、と。

 ペレアスは剣を切り上げ、交差した双剣をこじ開ける。その間隙を縫って、白き槍の穂先がベイリンの肩口を貫いた。

 

「それに、アンタは弟と、オレは嫁と一緒に戦ってきたから分かるはずだ」

 

 剣柄を両手で掴み、横に振りかぶる。

 大振りなその一撃はたとえ動きを阻害されていようと、優に防ぐことができるだろう。

 けれど。

 眼前に現れるは刀身を包み込むように形成された霧の大剣。防御ごと叩き潰す巨大な刃であった。

 

「───互いの足りないところを補い合うのが醍醐味だってなァ!!」

 

 一直線に剣を振り抜く。

 みしりとベイリンの体がくの字に折れ曲がり、弾丸のような勢いで吹き飛ばされる。木々を薙ぎ倒してようやく止まり、立ち込める土煙の中へ点々と血液の道が続いていた。

 手応えはあった。並大抵の敵なら決着がつくほどの一撃。だが、相手は無類の強者が跳梁跋扈するブリテンの戦乱期において、数多くの敵を討ち果たした双剣の騎士だ。

 何よりも、この程度で終わる円卓の騎士は誰ひとりとして存在しない。湖の乙女はペレアスの半歩後ろで、土煙を見透かすように眉根を寄せる。

 

「私とペレアス様の必殺ラブラブ剣……決まりましたが、まだまだ元気のようですわね。あの赤い鎧が発する嫌な匂いがさらに強くなりましたわ」

「オレにはさっぱり分からないが、あの鎧に何かあんのか?」

「はい。ベイリン卿が如何に弟君を手にかけたか、ご存知ですわよね?」

「ああ、確か……」

 

 ベイリンは最も大切な者を殺すという聖剣の呪いによって、弟の命を奪った。

 数々の罪を犯したことで王宮に戻ることを諦めたベイリンは独り放浪の旅を続ける途中、通りがかった城にて歓待を受ける。

 その城にはひとつの悪習があった。

 それは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という内容だった。

 その掟に従ったベイリンは城に用意された武具を手に取り、赤い甲冑を着た騎士と戦った。互いが七つの致命傷を刻まれながらも戦う死闘───二人は同時に倒れ、そして知る。

 赤い甲冑の騎士とは他ならぬベイリンの弟、ベイランだった。二人はそれぞれが肉親であることを知らずに殺し合ったのだ。

 弟の死を看取った後、ベイリンは決闘の傷が原因で息を引き取った。これこそが双剣の騎士の最期である。

 そこで、ペレアスははたと気付く。

 

「……そういえば、どうしてあの人が弟の鎧を着てるんだ?」

「それこそが城の因習の要だったのでしょう。あの甲冑は殺された者から殺した者へ、より強い戦士を求めて持ち主を変え、『島を守る騎士』にする。鎧は先に亡くなったベイラン卿からベイリン卿に乗り移ったのです」

「なんだ、その質の悪い呪物は。弟と相討ちになってなけりゃ悪習はずっと続いてたってことか? というか、思い出した。その風習他にも聞き覚えがあるぞ」

「ええ、ラモラック卿の話とほとんど同じですわ」

 

 ラモラックの盾は最初から超常的な能力を持っていたのではない。彼の赤い盾は魔女が侍らせる配下全員を倒し、魔女によって造り変えられた呪物だ。

 その魔女が住む城にはとある因習があった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ラモラックがベイリンと異なったのは、その城の騎士を全員倒してしまったこと。彼にもパーシヴァルという兄弟はいたが、殺し合うことにもならなかった。

 否、むしろ重要なのはその城の主。ラモラックと道ならぬ恋に落ちた城主の名は、キャメロットの人間なら誰もが知る名前だ。

 

「……()()()()。あの鎧はモルガンが造ったのか! だったら、まともな武具なはずがねえな───!!」

「はい! ここからが本番です!」

 

 その直後、黄金の雷撃が墜落した。

 呪われた聖剣が発する光輝に辺りが照らされ、白んだ世界に真紅の霧が噴き上がる。

 土を踏み締める音。ベイリンが身に纏う赤き武装は刺々しく禍々しく様相を変え、その輪郭を歪めていく。全身から立ち昇る紅の霧はベイリンの鮮血が蒸発している証だ。

 異形と化したソレはもはや騎士でなく、とうに人間でなく、まるで魔人。

 

「今の貴様ならば、槍を使うまでもない」

 

 ヒトの領域を一歩踏み越えた狂戦士への変貌を遂げたベイリンは、目も眩む輝きを放つ聖剣を天高く掲げた。

 

「『雷光耀う勝利の剣(エクスカリバー・コールブランド)』!!」

 

 空を焦がす灼熱の雷電が解き放たれる。

 その一閃は霧を消し飛ばし、森を焼き、地を砕く。しかし、辺りに撒き散らしているだけで狙いは曖昧。一瞬速く、ペレアスは湖の乙女を抱えて電撃から逃れる。

 それを見るやいなや、ベイリンは回転する独楽のように体を捻り、第二撃を繰り出した。

 

「『雷光耀う勝利の剣(エクスカリバー・コールブランド)』!!!」

 

 それは雷の渦と形容すべき威容。

 湖の乙女は自身を抱えるペレアスに妙にべっとりとくっつきながら、冷や汗をかいた。

 

「ペレアス様、あの人の狙いは私たちではありません! ここ一帯を荒らして異界から力を奪うつもりですわ! 今の私は水辺でないと力が出せないので、あなた様のお嫁さんという属性以外何もなくなってしまいます!!」

「焦ってるのか呑気なのかどっちかにしてくれるか!? とりあえず降ろすぞ、宝具の連打を止める!」

 

 ペレアスは湖の乙女を降ろすと、その足でベイリンへと駆ける。都合五度の電撃が迎え撃つが、彼はそのいずれをも潜り抜けて剣を振りかざす。

 

「オレの前で聖剣を見せびらかしてんじゃねえ!!」

 

 ベイリンが乱雑に右の剣を振るう。ペレアスの一撃は遥かに速く飛来した刃によって叩き落とされる。今までにも増して強く速い斬撃。弾かれた刀身を衝撃が伝って、腕をびりびりと痺れさせる。

 返す純白の聖剣が閃き、剣線に沿って電光が散った。

 それを半身になって躱したペレアスに、ベイリンはさらなる追撃を加えながら告げる。

 

「聖剣などというモノに憧れるのはやめておけ。人の身には余る力だ。分不相応の力を手に入れた者が辿る道は破滅しかない」

「もしかして、王様のことを言ってんのか!? それともアンタのことか!? 確かにオレの周りで良い結末を迎えた聖剣使いはいねえけどな!」

「それが道理だ。人の領分を超えた力に頼る国に未来はない。たとえどれほど偉大な王であろうとも、ブリテンの滅びは避けられなかっただろう」

 

 人間の領分で治められぬ国はその時点で終わる。なぜなら、国とは人が治めるものだからだ。事実、アーサー王はモルガンの手によって聖剣の鞘を失い、破滅へと転がり落ちていく。

 

「結局、私たちがしていたことはブリテンを救うという大義名分の名の下に、罪を重ね続けていただけだ。分かるだろう。誰かから与えられた力で、誰かを虐げて良いはずがないと!!」

 

 ならば、

 

「湖の乙女は……私たちは間違えた。本当に何かを救いたいのなら、特別な武装に頼らずに自分の力だけで成し遂げるべきだったのだ───!!」

 

 だとしても、気付いた時には遅くて。

 そうしなくては、あまりにも多くの人が苦しんだ。

 ベイリンは知っているのだ。弟を殺した悲劇の始まりは聖剣にかけられた呪いなどではなくて、自分の心だったことを。

 

(そこまで理解してても、もうアンタは戦わずにはいられないんだな)

 

 言葉を吐き出す度にベイリンの剣は強くなる。捨て去ることのできぬ後悔と憎悪を乗せて、その刃は一層猛々しく煌めいた。

 二刀の猛攻がペレアスの体を掠める。けれど、その傷がもたらす痛みは微塵もない。ベイリンの剣が斬ろうとしているモノが本当は自分でも伴侶でもないことを理解したから。

 

「どんな王だろうと滅亡は避けられなかったってところには賛成だ。だけどな、王様のことでひとつ重大なことを忘れてるぜ」

 

 一度の瞬きが命取りになる攻防。十字に放たれた斬撃を受け止め、ペレアスは言った。

 

「王様はカムランの戦いの後に聖剣を還した。本当は自分のモノじゃないって思ってたんだ。だから、あの人は選定の剣を抜いた時から分かってたんだよ! 誰かから貰った力で誰かを虐げることの罪をな!!」

 

 ベイリンが一瞬揺らぐ。ペレアスはその隙を突いて相手の剣を押し除け、返す刀を振るう。

 

「それに、オレが憧れたのは剣を振るう王様の────黄金の輝きだ!!」

 

 ベイリンの聖剣とペレアスの剣が激突する。

 その一合に偶然が入り込む余地はなく、剣技に差はなかった。

 ぱきん、と呆気ない音を立ててペレアスの剣が半ばから砕ける。

 それは二人の膂力の差がもたらした結果か、それとも衝突するタイミングの違いか。

 否、そこにあるのは残酷なまでの、武器の差であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し時間を戻し、一方その頃。ノアは立香を背負って、ただひたすらに走っていた。相変わらず代わり映えのしない景色が続く中、彼は神妙な面持ちで述べる。

 

「…………折り鶴だ、藤丸」

「…………」

「おい聞いてんのか。折り鶴だぞ」

「……リーダー、ダメです」

 

 立香(りつか)はぎゅっと唇を噛み、沈痛な声音で答えた。

 

「るから始まる日本語はもうこの世に存在しません……っ!!」

「いや、あるだろ! もっと気合い入れて探せ! これからどうやって暇潰すんだ俺たちは!?」

「そんなことは言われてもないものはないですよ! デンマーク人の癖になんで私と渡り合えるくらいしりとりできるんですか!?」

「そんなに褒めるな。それもこれも俺が天才たる所以だろうが。言っておくが、俺は世界のありとあらゆる罵倒語を網羅した男だぞ」

「自慢になってないんですけど。どれだけ汚いコミュニケーション取ってきたんですか」

 

 彼らは暇潰しの最終手段であるしりとりに興じていた。しりとりというのは日本語と外国語では大分形式を異にするのだが、憎たらしいことにノアはそれにも対応できていたらしい。

 彼はどことなく馬鹿にしたため息をつくと、口をとがらせて言いつける。

 

「というか、腕に力が入り過ぎてんぞ。俺を絞め落とす気か?」

「……っ!」

 

 指摘され、立香は慌ててノアの首に回していた両腕を解いた。行き場を失った両手は彼の肩に軟着陸する。そうして、立香は口をつぐんで黙りこくってしまった。

 ノアは小さく鼻を鳴らした。立香のこんな様子は今に始まったことではない。しりとりを始める前もしている間も、心ここにあらずという状態だった。彼女はそれに逆戻りしている。

 

「おいおい、さっきから口数が少ねえな。いつもの発情期の犬みたいなやかましさはどこに行った? 腹でも痛めたか?」

「……別に、そういうのじゃないですけど」

 

 二人の間に沈黙が降りかけたその時、ノアの懐の通信機が電子音を奏でた。

 

「『もしもし、ノアくん。こっちはようやく落ち着いたよ。状況はどんな感じかな』」

 

 ロマンの声には隠し切れない疲れの色が滲んでいた。各地点に散らばった集団の面倒を見たのだから、当然と言えば当然だが。

 そこで、彼はモニターを介してノアが立香を背負いながら爆走する現地の映像を見た。予想だにしなかった光景に、ロマンは面食らうとまごついた口調で呟く。

 

「『あの……お邪魔しました』」

「おい待て、勝手に切るな。ったく、どいつもこいつも余計なことばっか考えやがって。状況は見ての通りだ、必死こいて合流地点に向かってる」

「『うん、それは何よりだ。立香ちゃんの方はどうかな?』」

「私も見ての通りおぶられてるだけですから。むしろこの揺れのせいで眠くなってるくらいです」

「絶対に寝るなよ。置いてくぞ」

 

 ノアは立香を右に左に揺さぶる。前方に空気の衝突を防ぐ障壁があるとはいえ、高速で走る車上に身ひとつでへばりついているのとそう変わりはない。

 そんな時に眠気を催すふてぶてしさ。しかし元気のないよりはマシだろうと判断して、ロマンは話を切り出した。

 

「『二人ともいつも通りで安心したよ。二つばかり伝えることがあって連絡したんだけど……』」

「どうせろくなことじゃねえだろ。おまえの報告は波乱の幕開けとほぼ変わらないからな」

「『そ、そう言われてもそれ以外に話を進める方法がないんだから仕方ないじゃないか! ボクは悪くない!』」

「見事に開き直りましたね。それで、次の厄介事は何なんですか?」

 

 ロマンは卓上の紅茶で唇を湿らせ、ぬるい息を吐いた。そしてカップを置くと、直前に吐いた息同様ぬるい声で伝える。

 

「『キミたちの進路上にサーヴァント反応がある。どうやら長時間そこを動いてないみたいだ』」

「そういうことは早く言え! 呑気に紅茶キメてんじゃねえ!!」

「『それは大丈夫だと思うよ? 反応もかなり弱いし、ラーマさんの時みたいに怪我をしてるのかもしれない』」

「あ、本当に誰か倒れてますよ。血は出てないみたいです」

 

 人差し指を立てた立香の右手がノアの肩の後ろから伸びる。彼女が指差す方向を見ると、確かにそこには人間が倒れていた。

 ノアは足を横にして急ブレーキをかける。土を削り、ちょうどその行き倒れの傍で停止する。ノアと立香は

 半ば水着のような袈裟をまとった女僧侶。傍らには遊行僧が持つ錫杖が落ちており、両手で腹部を抱えるようにしている。彼女は眉根を寄せて、苦悶の声を捻り出した。

 

「く、うう……」

「大丈夫ですか、お腹痛いんですか?」

 

 立香が心配したその瞬間、ぎゅるるるると行き倒れ女の腹の虫が大きく長く鳴いた。ノアと立香は顔を見合わせた。彼女は掠れた声で呟く。

 

「どうしてここには無限にお米を出せる弟子がいないのかしら……」

「いや、そんな人どこにもいないと思いますけど!?」

 

 そんな訳で。

 行き倒れていた女性はノアと立香が隠し持っていたお菓子を托鉢されることで、腹の虫を満足させることに成功した。いつの間に食べ物を隠していたのか、全く気付かなかったロマンは密かに戦慄した。

 明るい雰囲気を纏う尼僧は施しを胃袋の中に収めると、勢い良く手のひらを合わせた。流石は僧侶と言ったところか、その様はなかなか堂に入っている。

 彼女は気の良い快活な笑顔を浮かべた。

 

「ごちそうさまでした。いやあ、危うく入滅するところだったわ! 助けてくれてありがとう。あたしは三蔵法師の玄奘、よろしくね!」

 

 ノアたち三人は目を見開く。

 三蔵法師といえば釈尊の教えをまとめた経蔵・律蔵・論蔵を修めた僧のことを意味するが、今となってはその三つを含む経典を求めて天竺を目指した唐の玄奘を指すことのほうが多いだろう。

 日本では中国の長編白話小説、西遊記に登場する人物として親しまれている。三蔵法師が三人の弟子とともに辿った旅路は実に三万キロ。しかも、その間に数多くの妖怪に襲われるという珍道中であった。

 現代では玄奘は男性として伝えられているが、目の前にいるのはどこからどう見ても女性。自分を三蔵法師だと思い込んでいる一般サーヴァントでもない限り、歴史書が書き換えられる事態だ。

 ノアはじとりとした目つきになる。

 

「また男だと思ってたやつが女だったパターンか。これ何回目だ? 正直ドレイクの時点で食傷気味だったからな」

「え、私は三蔵法師って女の人だと思ってました。ドラマでも女優さんが演じてましたし……深夜の飯テロ番組の人が孫悟空役のやつなんですけど」

「『う〜ん、立香ちゃんの知識が古い……まあ日本だと三蔵法師は女優の人が演じることが多いから、そういう勘違いもあるかもね』」

「……で、どうしてこんなところで倒れてた。腹ペコ聖女と言い、徳の高い女は行き倒れる癖でもあんのか?」

 

 咎めるような視線を受けて、玄奘三蔵はこくりと頷いて語り始めた。

 始まりは二ヶ月ほど前、この地に呼び寄せられた彼女は当て所なく彷徨い、辿り着いた聖都にて賓客として招かれた。が、ちょうどEチームが特異点を訪れた頃に彼女はこの特異点の全貌を知るため、砂漠を目指して聖都を後にしたのだと言う。

 砂漠の探索を終えた後、この荒野で盛大に迷子になり、行き倒れたのだとか。天竺まで大冒険をした三蔵法師とは思えない体たらくである。

 しかし、ノアたちにとってはこれ以上ない僥倖であった。

 彼らが次に目指すのはエジプトの王との謁見と、砂漠にあると言われるアトラス院。砂漠の探索をしてきた三蔵との出会いはまさに千載一遇だ。

 

「恩を押し付けるみたいで申し訳ないですけど、私たちと一緒に来てくれませんか? 無限お米製造機はない代わりに、カルデアから物資は送れますから」

「モチのロンでオッケーよ! 施しを受けておいてお礼もなしじゃあ、御仏的にも人間的にも駄目だしね!」

 

 そこまで語り終えると、彼女は腕を組みながら頬を膨らませた。

 

「それにしても、砂漠では酷い目に遭ったわ! 湖で休もうとしたら獅子頭の魔獣には襲われるし、赤い鎧の騎士には人違いで斬りかかられるし! ほんと悟ってほしいわね……!!」

「要求が難しすぎるだろ。免許取るくらいの感覚で悟り開けるか?」

「でも、私たちも赤い鎧の騎士には襲われましたよ。私たちの仲間の奥さんを狙ってるらしいです」

「うわあ、そんなの三日三晩ノンストップ説法コースじゃない! 次にまた会ったら緊箍児はめてお仕置きしないと!」

「『それもまた無理難題な気がしますね。その話で思い出したんだけど、もうひとつ伝えることがあったんだ』」

 

 三人の目がロマンに向く。彼がノアと立香に通信をしてきたのは二つ連絡事項があったからだ。三蔵との遭遇で後回しにされていたが、元々はこちらが本命である。

 

「『ノアくんの魔術でいくつかの集団に分かれたんだけど、その中にペレアスさんの姿がなかったんだ。広大な砂漠では探知にも限界があって、彼の居場所が掴めていない』」

「それはちょっと妙かもしれませんね。最低ランクの幸運のダンテさんならともかく、ペレアスさんが迷子になるところは想像できないです」

「……カルデアの通信機とは別にダ・ヴィンチが俺たちに持たせた発信器があったはずだ。藤丸」

 

 そう言われて、立香は手のひらほどのモニターを取り出す。ダ・ヴィンチ製の発信器の信号を受信して位置を映し出すレーダーだ。

 彼らはその画面を覗き込む。最大まで距離を広げると、ひとつだけはぐれた光点が右上辺りに点灯していた。

 おそらくはその点がペレアスだろう。ノアは顎に手を当てて考え込む仕草を取りながら、ロマンに命令する。

 

「カルデアで観測した地図と照らし合わせろ。それであいつがいる座標が把握できる。迎えに行く手間がひとつ増えたな」

「『みたいだね。今やるよ、時間は取らせない』」

「よく分からないけれど、未来の技術ってすごいのね。こんなものがあったら経典集めももっと楽だったのに」

「それどころか飛行機でインドまでひとっ飛びですよ! 経典もUSBっていう親指くらいのものにまとめられちゃいます!」

「嘘でしょう!? それはそれでご利益というか有り難みがなくなるような……でも、教えが変わることも良しとした御仏的にはオールオッケーなのかしら……!?」

 

 三蔵はひとり禅問答に入りかける。そもそも、覚者とは全ての執着から解き放たれた者である。教えの形が変わったとしても、人の世の輪廻として受け容れてしまうだろう。

 彼らが画面とにらめっこしていると、不意にペレアスと思われる光点が点滅し、直後に消える。

 脳裏に浮かぶのは最悪の想像。立香は顔色を青くして、面を上げた。

 

「あれ、消えちゃいましたよ!? もしかして、やられちゃったんじゃ……」

「それはない。あいつとのパスはまだ繋がってる。やられたのは発信器の方だ」

「そういえば、電子機器だから電気に弱いんでしたっけ。でも、電気なんてどこに───」

 

 言いかけて、立香は気付く。彼女と同じ結論に至ったのはノアも同じ。遅れて、カルデアの観測結果と光点の照合を終えたロマンが言う。

 

「『───前に交戦した赤い鎧の騎士かもしれない。反応が消えた地点にちょうど緑地が確認できた。きっと砂漠のオアシスだ』」

「あいつは雷を発する剣を持ってた。それに湖の乙女の手紙ではオアシスにいるんだったな。あいつの狙いからしても、邪推に近いが繋がりはするか」

 

 ノアが推理を述べ、場に緊張感が走る。

 特異点を訪れて初めて交戦した双剣の騎士。Eチームのサーヴァントと百貌のハサンが協力しても仕留められなかったことを鑑みても、その実力は疑う余地がない。

 その騎士とペレアスが戦っているとしたら。そこまで考えて、立香は提案する。

 

「令呪で呼び戻しますか? ピンチだったとしても助けられます」

「もしそこに湖の乙女がいたとしたら、ひとり置き去りにすることになる。それは最終手段だな。ここからペレアスを援護する」

「『位置は分かるけど、そんなことできるのかい? 対魔力があるなら魔術による攻撃は無効化されてしまう』」

「言っただろ、援護だ。攻撃する気は毛頭ねえ」

 

 そう言って、ノアは立ち上がる。ぼそりと詠唱を呟くと、彼は自身の鳩尾に右手を突き刺した。

 引き抜いた手が掴んでいたのは、ひと振りの刀剣。ソレは柄頭から切っ先まで神殺しのヤドリギに包まれている。

 ヤドリギが宿す神代の神秘の奥から、濃密な凶兆が溢れ出す。その剣は刃を見せていないというのに、触れれば指が落ちてしまいそうな剣気を秘めていた。

 三蔵はごくりと喉を鳴らして問う。

 

「な、なに? その剣は。牛魔王より嫌な空気がするわ」

「元はペレアスのアホがエクスカリバーMk-2とかいうふざけた名前をつけてた剣だ。ジャバウォックを斃したヴォーパルソード……つっても分からねえか」

「リーダーが持ってたんですか!? 村から逃げる前にペレアスさんが何か喚いてましたよね!?」

「全員を集める前に回収した。あの時用があると言ったのはこれのことだ」

「『置いてきてなかったんだね……渡してあげれば良かったのに』」

 

 ロマンがこぼした感想に、ノアは首を横に振った。

 

「これはまだ試し切りを済ませてない未完成品だ。性能が判明してからあいつに渡すつもりだった。今はそうも言ってられねえがな」

「『モノ自体は出来上がってるのかい?』」

「ああ、俺の無属性魔術と原初のルーンとヤドリギをふんだんに詰め込んだ自信作だ。素材がヴォーパルソードってのも良い。名前以外一切が不明の剣だから、弄るのにもってこいだった。この剣の製作秘話と伝承を語ってやってもいいが……」

「そんな時間ないですよ! 薀蓄披露は後にしてください!」

 

 そう、ここに剣があったとしても、ペレアスが使えなければ意味がない。どうにかして彼に実物を送り届ける必要がある。

 ノアはカルデアから送られた座標を確認しながら、剣に向けていくつかのルーンを刻んだ。

 彼は振り向き、空を見上げる。そうして、手に持った剣を三蔵に渡した。ノアは空の一点を指差して告げる。

 

「あの方向に向かって全力で投げろ。それで届く」

「え、適当すぎませ───」

「承ったわ、御仏パワー全開!!」

 

 止める間もなく、三蔵は宙に放った剣を錫杖をフルスイングした。背後に螺髪頭で福耳の人が見えた気がするが、きっとそれは気のせいであろう。

 ともかく、超常的な力を借りた彼女の錫杖は剣を空の彼方に打ち飛ばした。野球なら文句なしのホームランだ。

 自らの渾身作を雑に扱われたノアは青筋を浮かべてがなり立てる。

 

「投げろっつっただろーが!! ホームランダービーでもやってるつもりか! ヒビでも入ってたらどうすんだ!?」

「これでもあたしキャスターだから非力なのよね。だからああするしかなかったって言うか……」

「とりあえず非力という言葉を辞書で調べて赤線引いてきてください! あんな腰の入ったスイングなかなかできませんから!」

「『すごい雑な飛ばし方だったけど、本当にペレアスさんのところに届くのかな?』」

 

 もっともな疑問を口走るロマン。ノアは眉間を揉みほぐしながら答えた。

 

「村から逃げる時に使った飛行のルーンをアレンジして加えてある。ミサイルのセンサーみたいに勝手に角度と方向を補整してくれるはずだ。それに、忘れたか?」

 

 彼はニタリと口角を上げる。

 

「───あいつの幸運は湖の乙女お墨付きだぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 バーサーカー、ベイリン。

 その狂化のランクは最高峰のA。

 それなのにベイリンは人語を、機微を理解し、技巧を操ることができる。有り余る力を振るうだけなら獣と変わらない。ベイリンが騎士であり魔神たる所以は彼が培った技術があるからだ。

 狂化を受けてなお、なぜ理知的に振る舞えるのか。それはベイリンの異常な精神性にあった。

 本能と理性の融合、思考と反射の一体化。

 考えながら動く、ということを極限まで突き詰めた結果、ベイリンは狂ったまま冷静に振る舞えるようになったのだ。

 全ては人智を超えた精霊を殺すため。

 力を求め続けたベイリンはその鍛錬と才覚によって、思考する反射を身に着けた。

 ───折れた刀身の半分が宙を舞う。

 その断面は赤熱していた。雷を纏う聖剣の電熱によって、刀身が焼き切られたのだ。

 ベイリンは右腕を振り上げる。

 一瞬にも満たない時間、双剣の騎士は己の殺意の陰りを覚えた。

 両腕を斬り落とす。自分の目的にペレアスを殺すことは含まれていない。何かを振り払うように、ベイリンは剣柄に力を加えた。

 

「───幕だ!!」

 

 半減した刃長ではこの一刀は防げない。

 だが、その手は寸前で止まる。眼前に迫る半分に折れた剣。ペレアスは間合いを不利と見て、即座に剣を投げつけたのだ。

 頭を横に振り、それを回避する。直後、ペレアスの放った後ろ回し蹴りがベイリンの五体を空中に弾き飛ばした。

 距離が開き、ペレアスは冷や汗の伝う頬を吊り上げる。

 

「大層な剣使ってるアンタらは知らねえだろうが、剣ってのは折れるしヘタれるもんなんだよ! ひとつ勉強になって良かったな!!」

「そんなことは知っている。私の弟もよく刃を取り換えていたからな」

 

 殺意が薄まった理由が分かった。

 この男は、弟によく似ている。

 窮地で笑うところも、口調も、戦い方も。

 何もかもが、懐かしい。

 予想もしない言葉が、するりと口をついて出た。

 

「どうしてお前は、獅子王に刃を向ける」

 

 その問いは、理由を聞くためでなく。

 彼の忠誠の在り方を詳らかにするための。

 

「王様が王様でなくなったからだ。あの人はとことん正しかった。全を救うために一を切り捨てるやり方がそうだ」

 

 だけど。

 

「魂を選別して、合格した人間だけが救われるなんてのはその真逆だろ。獅子王は一を救うためにそれ以外の全てを切り捨ててる。そんなの王様と言えるか?」

 

 湖の乙女はマーリンの言っていたことを思い出す。

 ペレアスが円卓に名を連ねた直後の初仕事で、マーリンは彼の忠誠の在り方をこう表現した。

 

〝……くくっ。似てる、似てるなあ。キミは王への忠誠の形という点において、番外位前任者と全く同じだ。性格は全く違うのに、不思議だよ〟

〝ある存在をこういうモノだと規定し、滅私の奉公を捧げる。そのカタチはまるで─────神への信仰心だ〟 

 

 故に、ベイリンの反応も決まりきっていた。くすり、と小さな笑い声が響く。

 

「ああ───私もそう思うよ」

 

 その時。

 その瞬間。

 ペレアスとベイリンの間に、上空より飛来した一本の剣が突き刺さった。

 金色の神気を発するヤドリギに包まれた剣。鞘たるヤドリギは蕾が花開くように割れて、刀身を顕にする。

 透き通る緋色の刃に、樋は煌めく金。刀身の片面それぞれに九つの原初のルーンが刻まれ、柄と鍔は金枝が絡みつくように構成されていた。

 しかし、目を見張るべくは剣気。世界を切り裂くことでそこに存在しているかのような、神域の凶気だ。

 騎士たちは弾かれたように動き出す。

 ペレアスはその剣へ走り出し。

 ベイリンはただちに宝具を解き放つ。

 

「『雷光耀う勝利の剣(エクスカリバー・コールブランド)』……!!!」

 

 天を突く金雷の大剣。

 ペレアスとその後ろにいる湖の乙女までをも切り捨て、焼き尽くす聖剣の全力解放。

 たかがひと振りの剣、と侮る余裕などどこにもない。

 ベイリンの本能が告げていた。

 この剣は、何よりも危険であると。

 けれど、ペレアスは全くの逆。どこからか墜落した剣が、誰からの贈り物であるか確信していた。

 

(どうせお前だろ───ノア!)

 

 それはある種の呆れにも似ていて。

 だがしかし、根底にあるのは間違いなく信頼であった。

 なぜなら。

 

(こんなものを造れるやつは、お前しかいねえ!!)

 

 ペレアスの手が剣を掴む。

 刹那、彼はその剣の記憶を見た。

 

 

 

 

 

 

 ────ホテルスという英雄がいた。

 スウェーデンの王の子として生を受け、王の死後、彼はノルウェーの王に養子として引き取られ養育された。

 ホテルスは幼い頃より武勇に優れ、聴く者を魅了する竪琴の腕前を持ち合わせていた。彼はノルウェー王のもとで美青年へと成長し、ある時、スウェーデン王の娘ナンナはホテルスに恋をする。

 だが、半神半人のバルデルスがそれを許さなかった。彼もまたナンナに恋をし、恋敵であるホテルスとの戦いが幕を開けるのだ。

 バルデルスは半神故に不死身であり、如何なる武器も彼を傷つけることがない。どれほど武勇に優れたホテルスでも、彼を殺す術はなかった。

 そこで、ホテルスはノルウェー王に導かれ、遠く離れた雪の山野を訪れた。その地に住まう森の神ミミングスが持つ二つの神器を求めて。

 ひとつは神をも殺す必勝の剣。

 ひとつは無限の富をもたらす腕輪。

 ホテルスは自らの腕のみで森の神を捕らえ、二つの神器を奪った。

 そうして、ホテルスはバルデルスとの決戦に挑むこととなる。

 バルデルスが率いるのは神々の軍勢。彼の父であるオティヌスや雷神トールさえ名を連ね、ホテルスの軍勢とは言わずと知れた絶望的なまでの戦力差があった。

 しかし、必勝の剣を携えたホテルスは神々の軍勢に立ち向かい、雷神にして英雄神トールの鎚であるミョルニルを真っ二つに断ち切ってしまう。

 神々の軍勢を敗走させ、彼はナンナと結婚してスウェーデンの王となる。ワルキューレに魔法の帯を授かったホテルスはついにバルデルスのもとに辿り着き、不死身の半神半人を斬ったのだ。

 必勝の剣が与えた傷はあらゆる手を尽しても癒えることなく、不死身のバルデルスは三日後に呆気なく息を引き取る。

 こうして、ホテルスは人の身にして神を打ち破ったのである。

 この話は北欧神話をベースにしている。絢爛なる光を放つ美神、絶対無敵にして不死不朽なるバルドルを盲目のヘズがヤドリギにて撃ち抜いた神殺しの神話。

 バルドルとはバルデルスであり。

 ヘズとはホテルスであり。

 必勝の剣とは、神殺しのヤドリギなのだ。

 

〝───まあ、めでたしめでたしとはいかないんだけどね。僕はこの後、オティヌスのもうひとりの息子と決闘して相討ちになるんだ〟

 

 どこか気弱な声。けれどその芯には一本の鋼が通っており、高貴な響きを伴っていた。

 

〝でも、それは仕方がない。誰かから奪った力で戦い続けた罪過の結集だ。そのツケを払ったんだよ。ナンナとの幸せな未来という代金でね〟

 

 ここまで言われればその声が誰であるかなんてはっきりしている。

 神殺しの英雄ホテルス。剣に宿りし彼の意思が話しかけてきているのだ。

 

〝けれど、君は違う。幸せな結末を迎えた君が受け取ったその剣は仲間との信頼と友情の結晶だ。僕たちのようなクソッタレな運命なんて絶ち切ってしまえ。君たちの剣ならそれができる〟

 

 ペレアスはにっと笑い、

 

〝この剣なら───ビームも出せるか?〟

〝さあ、それは使ってみてのお楽しみだ。ただ、その剣は少しばかり荒々しいよ〟

 

 ホテルスは手を差し伸べて、言った。

 

〝…………ついてこれるかい?〟

 

 

 

 

 

 

 意識は現実へと引き戻される。

 視界を埋め尽くす雷撃の一刀。人の力など及ぶべくもないそれに対し、ペレアスはただ横殴りに剣を振るう。

 

「ついてこれるかじゃねえ、お前の方こそついてきやがれ!!」

 

 いま、ここに。

 神を殺し、神具を斬った究極の一撃が、現世にカタチを得る。

 

 

 

 

「『運命絶す神滅の魔剣(ミストルティン・ミミングス)』!!」

 

 

 

 

 とうに斬るべきモノは決まっていた。

 ベイリンが囚われている全て。

 妄執。

 後悔。

 復讐。

 呪詛。

 運命。

 ────そして、聖剣。

 剣の軌道に合わせて世界の位相がズレる。

 空を覆わんほどの雷光は見る影もなく切り刻まれ、ベイリンは驚愕した。

 全力の攻撃が無に帰したことにではない。

 自らが手繰る聖剣が甲高い音を立てて折れた、そのことに。

 ペレアスが放った剣閃は彼がかつて見た光と同じ───黄金の輝きだった。

 間合いを詰める瞬間、ペレアスは叫ぶ。

 

「出ねえじゃねえか、ビーム───!!」

 

 ベイリンは聖剣を捨て、右の剣を両手で構えた。刹那、無数に交わされる剣戟。生まれ持った膂力が、積み重ねた技巧が、今のペレアスには通じない。

 

「だが、気に入った!!!」

 

 かぁん、と澄み切った金属音が響き渡る。ベイリンの剣が空中に弾かれ、くるくると飛んでいた。

 ペレアスは振りかざした剣をベイリンの首の横で止める。

 

「オレたちの勝ちだ」

「……貴様が言ったことだぞ、剣は折れるモノだとな!」

 

 ベイリンは五指を槍のように揃え、ペレアスの首を撃ち抜く。

 確実に当たった。その予感は五指が空を切った実感によって否定される。貫いたはずの手は、ペレアスの首を霞のように通り抜けていた。

 湖の乙女は両手を組んで目を伏せ、

 

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 ペレアスの宝具は伴侶より捧げられる愛であり、死の運命を逃れることを希う乙女の願い。なればこそ、その本質はペレアスが要請するモノでなく、湖の乙女から与えられるモノに違いなかった。

 ベイリンの剣が地面に突き立つ。

 得物を失い、悪あがきも通じなかった。

 しかもペレアスは、自身が呪われた結末へと堕ちた元凶をも叩き斬ってみせた。

 ベイリンの全身から力が抜け、膝をつく。

 騎士はただ一言、

 

「……私の負けだ、ペレアス」

 

 呪いから解き放たれたその言葉は、湖水のように純粋だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二日後。カルデア一行は合流地点に集結すると、ペレアスたちを迎えに行った。その間、三蔵が集まったサーヴァントたち全員を弟子にしようする事件が勃発したが、些細な出来事であろう。

 それよりも危険だったのはペレアスの隣に赤い鎧の騎士、ベイリンがいたことだった。一触即発の空気になったところを、ベイリンに助けられた難民たちが止めることで事無きを得たのだった。

 エジプトの王に謁見するまでには日を要する。ベイリンの聖剣によって荒らされはしたが、数少ないオアシスということで、一行はそこをキャンプ地にした。

 夜空に銀色の月が昇る。

 パチパチと火花を散らす焚き火、その上で煮えるカレー。それを取り囲むのはEチームの連中と湖の乙女とベイリン、べディヴィエールだった。

 彼らの眼差しが集まるのはカレーの煮え具合ではなく、新たに得た剣を赤子のように抱えて頬擦りするペレアスの姿。

 

「ふふふ……名前はどうする? エクスカリバーMk-3か? それとも真エクスカリバーか? ネオエクスカリバーなんてのもいいな……」

「ペレアスさんはリチャード獅子心王と気が合いそうですねえ。彼も自分の剣にエクスカリバーと名付けていたらしいですし」

「もうひとつくらい聖剣を確保しておけば良かったですわね。そんな剣なんかよりずっと私の方がペレアス様のためになりますのに……」

「ん? そんなの当然だろ?」

「───! ペレアス様ーっ!!♡♡」

 

 湖の乙女はペレアスの背中に飛びつく。犬も食わない光景を見て、ジャンヌとマシュはげっそりとした顔つきになる。

 

「…………なんか食欲がなくなってきたわ」

「奇遇ですね、わたしもです。甘ったるいクリームを全身の毛穴から注がれてる気分になります」

「これから先このイチャつきを見せられると思うと憂鬱だよね」

 

 湖の乙女は立香たちに顔だけを向けて言った。

 

「安心してくださいませ。今の私はペレアス様の付属品のようなものですから。スキルのひとつみたいな扱いですわね。なので、生前の十分の一の力も出せません。変な幽霊がいると思ってお気になさらず!」

「そんなに自己主張が激しい幽霊なんていないわよ! どうしたって目につくわっ!」

「まさしくペレアスさんと一心同体ということですか。なぜ召喚された時からついてこなかったんです?」

 

 ダンテは首を傾げる。二人で一体のサーヴァントは今までにもいた。メアリー・リードとアン・ボニーのような形式なら、冬木で召喚された際に湖の乙女がいたはずである。

 

「ほら、冬木の街は炎上していたので……湖の乙女的に乾燥したところは苦手なのです」

「じゃあ、第三特異点はどうだったんですか? 海だから水がいっぱいありましたよ?」

「海水より淡水の方が……」

「金魚かな?」

 

 立香は訝しんだ。無論、生前の湖の乙女ならばそんな制約はなかったのだろうが、今の彼女は縁日で手に入れた金魚くらい儚い存在である。湖の乙女の生前の力を知るべディヴィエールとベイリンはつらつらと語り出した。

 

「私はランスロット卿との戦争の際に、湖の乙女の居城を攻めたのですが……あれほどの地獄はありませんでした。一軍が丸ごと凍りついたのはトラウマですね」

「末妹の異界も地獄だったぞ。水がまとわりついてくる上にそこらじゅうから魔獣が飛び出してくるからな。貴様も苦労したようだな」

「いえ、ベイリン卿の方こそ……」

 

 二人の語り口にはどこかヤケクソな雰囲気がにじみ出ていた。心なしかその背中も煤けている。

 ノアはダンテの方を向いて、

 

「ダンテ、地獄ソムリエのおまえとしてはどうだ?」

「なんですかその不名誉な資格は!? ま、まあ地獄の一階層として存在していても全くおかしくはありませんが……その点霧の城は良いですねえ。景観も美しいですし」

「いや、アレもアレで酷いぞ。霧の中で息しただけで肺の中で水になって溺死するからな」

「エグすぎませんか!? 地上で溺死なんて悪夢以外の何物でもないですよ!」

 

 ダンテは戦慄した。経験した地獄のバリエーションなら世界でもダントツな彼だが、湖の乙女の異界は辞書になかったのである。

 完全に煮え切ったカレーを盛り付けながら、立香はベイリンに訊いた。

 

「その赤い鎧は脱がないんですか? カレー食べられます?」

「脱ぐことはできるが、これは弟を手にかけた戒めとして着ている。私はこのままでいい。カレーとやらは貰おう」

「どうやって食べるのよ……!?」

「わたしは盾を馬鹿にされた恨みは忘れていませんよ。必ずやその素顔を暴いてみせます」

 

 戦意の篭った眼差しを受けて、ベイリンはカレーを手に挑発する。

 

「いつからそれを盾だと錯覚していた? 王に仕えた者ならば誰もが失笑を───」

「あー!! こう気分が良いと昔の話でもしたくなってきたな! 何の話が聞きたい!? パロミデスがラモラックにボコボコにされたやつとかオススメだぞ!!」

 

 続く言葉を遮るように、ペレアスは大声を出した。彼の顔面にはだらだらと冷や汗が流れ、目の焦点も定まっていない。

 明らかに様子がおかしいことはよそにして、立香は何の気なしに言った。

 

「ペレアスさんの馴れ初めとか興味あります! 現代では詳細が分かってない話なので!」

「こいつらの恋バナなんざ犬も食わねえぞ。おまえがそんなのに興味あるクチか?」

「リーダーは黙っててください。わ、私だって、恋くらい……」

 

 立香はもごもごと口ごもった。彼女の本意を見抜いたのは、心を読めるダンテと湖の乙女。ダンテは思わず顔を背け、湖の乙女は艷やかな笑みを形取る。

 

「あらあら……では、語って聞かせましょう。立香様のお勉強にもなるかもしれませんので」

 

 湖の乙女はくるりと振り返ってカメラ目線になると、爛漫とした笑顔で宣言した。

 

「次回、私とペレアス様の一大スペクタクルノンフィクション恋愛ショーですわっ! 是非お楽しみあれ!!」

「誰に向かって言ってんだ!!?」




『遥か永き湖霧城』
 シャトー・デ・ダーム・デュ・ラック。湖の乙女(次女)が『空想具現化』で創り出す本領。湖の乙女が住まうと言われる幻の湖上の城を顕現させる。ペレアスに付随するおまけのような形で召喚されたため、大幅に弱体化している上に水辺でないと発動することができない。アーサー王の時代にはこの城がフランスに実在していた。
 この城は魔力を帯びた水滴(霧)によって構成されており、並大抵の城壁より遥かに堅牢かつ固体のように触れることができる。形状も自由自在に変化させられ、周囲の水分を使って体積を増やすこともできるため、防衛力においては他の追随を許さない。そして、水分があるところならたとえ打ち破られても即座に、無限に再生できる。ついでに言えば武装も霧で賄えるので、これと相対した軍は常に攻撃に晒されながら、絶え間なく変化する堅固な城壁を突破しなくてはならない理不尽を強いられる。
 アーサー王と事を構えることになったランスロットはギネヴィアと自身の軍とともに『幸福の護り』という城に籠城し、王はこれをついぞ落とすことができなかった。それもそのはず、『幸福の護り』とはすなわち、湖の乙女三姉妹がそれぞれの持つ異界を組み合わせて作り上げた要塞だった────という設定。
 湖の乙女(長女)は雪が降る氷の塔を。
 湖の乙女(末妹)は暗雲立ち込める水の庭園を。
 これら二つと霧の城を合わせて『幸福の護り』と成した。こんなものを作る必要がどこにあったのか。もしかしたらアーサー王の時代が始まる以前に湖の乙女が戦っていた相手がいたのかもしれない。ただしひとつ言えるのは、気に入った人間にはとことん甘いのが湖の乙女なのである。
 湖の乙女にとって水の操作は前日の朝飯前だが、特に長女は固体の操作に、次女は気体の操作に、末妹は液体の操作に長けている。霧は正確には液体? …………。
 〝『ペレアス様と私の風雲ラブラブ城』に改名しておけばよかった〟と思っているとかいないとか。

 次回、一話だけペレアスの過去話にお付き合いください。この章の前半と後半の分かれ目となります。


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第51.5話 死に逝く騎士に、湖光の愛を

「───私、恋をしたの」

 

 あの時、彼女はそう言った。

 同じ湖より生まれた妹のような個体。

 ソレは見たこともない表情で、聞いたこともない声音で、その人間への恋情を言葉にする。

 私にはまだその感情は分からなかった。

 だから。

 

「それは、良いことですわね」

 

 そんな無責任なことを口にしてしまったのだ。恋という感情がもたらす欲求がどれほどに抗い難いか、身をもって知ることになるとも思わずに。

 彼女は太陽のように笑顔を輝かせて、私の手を自らのそれで包む。

 

「ありがとう! お姉様ならそう言ってくれると思ってたわ!」

 

 彼女の背を押してしまったことの後悔は、深く私の胸の奥に堆積している。

 

「お礼にひとつ、私も良いことを教えてあげる。お姉様もきっと恋をした時に役に立つはずよ」

「男性の口説き方なら、魅了の魔術を心得ていますので……」

「いいえ。それだとその人のものにはなれても、その人の本当の心を手に入れることはできないでしょう?」

 

 その時の私には思いもつかなかった。

 

「だから、思いついたの。その人だけの大切なモノになる方法」

 

 白百合のように笑うあの子が、

 

「───その人のいちばん大切なモノを壊せば良いのよ」

 

 あれほどに醜い花をつけることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブリテンは戦乱の火に包まれていた。

 多数の王が乱立し、敵の領地を求めて日々血で血を洗う闘争を続ける。

 殺し合いは人の常だ。千年前はその愚かしさに涙を流したこともあったが、いつしかそれも枯れてしまった。蕾が花をつけるように、殺戮が彼らの習性だと理解したから。

 人はその愚かしさ故に殺し合うのではない。人間だから人間を殺すのだ。

 その連鎖を止めるためには、圧倒的な力が必要だ。星によって鍛造された最強の聖剣。来たるべき運命の王にそれを渡すことが、私の使命なのだろう。

 だが、王は臣下を従えてこその王だ。決してひとりではブリテンの統一は叶わない。数々の英雄が孤高を理由に死んできたのを目にしていた私は、ひとつの仕込みをすることにした。

 ───王を支える最強の騎士を育てる。

 私の手にある剣は二振り。

 星の聖剣・エクスカリバー。

 不壊の剣・アロンダイト。

 このアロンダイトに見合う戦士を育て、運命の王の元へ送り込む。そのために島の外にまで手を広げて、見込みのある子どもたちを探し回った。

 そうして、行き着いたのはフランス。

 ベンウィックのバン王の息子、ランスロット。

 

「……あなたには、才能がある。この世界で最強の剣士になれる才能が。その力は大義のために使いなさい。早逝した両親の代わりに、私がその道を指し示しましょう」

 

 必要とあらば、魔術で彼の精神を操ることも考えていた。

 

「あなたに着いていけば、私は多くの人を救えますか」

 

 けれど、その目論見は杞憂に終わった。

 ランスロットは力ではなく苦しむ人々の救済を求めた。彼は才能だけでなく、慈悲深い精神をも併せ持っていたのだ。

 その時、私はこう思った。

 ……大当たりだ、と。

 王の道を狂わせる要因。それは大抵の場合、外患のみならず内憂にある。この子ならば、運命の王を裏切ることはない。

 決して王に叛くことなく、内に潜む敵も外に在る敵も等しく討ち果たす。彼こそがいつか生まれる運命の王を支える金剛の剣となるのだ。

 

「ええ。ですが、私が与えることができるのは力のみ。それをどう扱うかはあなたの自由です」

「ならば、私は貴女に教えを乞いたい。無辜の人々を、少しでも笑顔にするために」

「良いでしょう。私のことはヴィヴィアンでもニミュエでも、好きなように呼びなさい。名前は、持っていませんので」

 

 そうして、私はランスロットを鍛え上げた。彼の手足となる未来の部下たちも含めて。

 座学に始まり、剣術、槍術、馬術───騎士に必要なこと全てを。

 彼の才覚は予想を超えた。

 剣を握って三日で私の技量を上回り。

 馬に乗せればまさしく一心同体。平原を誰よりも速く駆け、山間や森林などの険路も意に介さない。

 私とてこの千年間、無為に時間を過ごしていた訳ではない。それなりに武術は積み重ねてきたし、定期的に世俗の知識を取り入れるようにして技も磨いていた。

 だけれど、ランスロットの剣技は私の千年を一瞬で追い抜かし、はるか先の高みへ雷の如き速さで駆け抜けていく。

 得てして英雄とはそういうモノだが、彼は私が見てきた英雄の中でも一、二を争う才覚を有していた。

 これこそが理想の騎士。

 彼こそが無双の英雄。

 この時の私は、そう信じて疑わなかった。

 

「とうに教えることは無くなっていましたが……体は出来上がり、軍を指揮する術も身に着けた。後は実戦で磨くのみです」

 

 精霊である私にとって、月日が流れるのは恐ろしく早い。気付けば、ランスロットの出立の日が訪れていた。

 

「今までの御指導、感謝致します。義母上(ははうえ)

 

 ブリテンへの武者修行。そう理由をつけて、彼を送り出した。船に乗る義息子の瞳は理想に燃えていて、私は目を合わせることができなかった。

 なぜなら、知っていたから。

 理想の王と無双の騎士。その両雄を以ってしても、ブリテンの滅びは決定していることを。

 必要だから探して。

 必要だから育てた。

 意味のないこととは言えない。王と騎士の活躍によって失われる命は確実に減るはずだ。けれども、国が滅ぶのなら存在しないのと一緒ではないのか。

 フランスのとある湖畔。憎たらしいほどに冷たく輝く月を眺めながら、慚愧の念が浮かび上がってくる。

 私は、無意味で無価値な存在なのだと。

 これでも昔は女神と称えられたこともあった。決して多くはない、精々がひとつの村程度の人数だったが、私は彼らと寝食を共にしたこともある。

 しかし、ある時、目を離した隙に軍が通りかかって、彼らの命は奪われた。女は犯され、男はひとり残らず首を斬られた。

 声をあげて泣く女たちを介抱して、私は言った。

 

〝傷は治しました。男たちに穢された場所も。ですから───〟

〝殺してください〟

 

 肺の空気が搾り出されるような感覚。

 

〝────え……?〟

〝体じゃない。心が痛いんです。彼のための体を穢されて、売女と蔑まれて……もう、生きていたくない〟

〝で、ですが〟

〝お願いします。この先ずっと、痛みを抱えて生きるなんてできないのです〟

 

 お願いします、お願いしますと頼む彼女たちの懇願に、私は逆らうことができなかった。

 ……死体の山の前で立ち竦む私を抱きしめて、お姉様は言ったのだ。

 

〝───ばかね。人間なんかに、目をかけるから〟

 

 欠けてしまったものを埋めれば修復できる城壁のように。人間の心は、それだけで治るものだと思っていた。

 なんて間違い。とんだ愚かしさ。

 ───私には、人の心が分からない。

 なにも知らない。

 なにひとつ、護れやしない。

 この世の理不尽と不条理は、誰にも等しく降り注ぐ。

 そんな世界でのうのうと生を享受している醜いこの身は、もはや要らないモノとしか思えなかった。

 できるだけ苦しめるものが良い。

 錆びた短刀を握り締めたその時、背後の林ががさりと音を立てた。

 獣ではない。化生の類でもない。

 目の下を、真っ赤に泣き腫らした少年がそこにいた。

 寝間着はぼろぼろで、枝葉に切りつけられたのか肌に少なくない傷がついている。ここは平和だったから、戦火に追われた訳でもないだろう。

 彼の顔には表情というものが見受けられなかった。涙と一緒に全ての感情を流し切ってしまっていたのか、普通の子どもなら泣き怯えるはずの痛みを感じていない。

 その少年と私の目が合い、そして、

 

「───きれいだ」

 

 彼は、そう言った。

 どくり、と全身を巡る血液の温度が高くなった気がした。

 これはただ、不意を突かれて驚いただけ。この時はまだ、そうだった。

 私は少年の傷を手当てして、共に湖のほとりに座り込んだ。うつむいて黙る彼に、できるだけ柔らかい声音で話しかける。

 

「こんなところで、一体どうしたのですか。夜の森は危険です。子どもがひとりで出歩いて良い場所ではありませんわ」

「…………お母様が、死んだんだ」

 

 彼の表情を見て、私は息を呑んだ。

 その内容にではない。

 唯一の肉親が亡くなったことを告げたというのに、その心は揺らぎもしていなかったことに。

 それはきっと、冷淡なのではない。瞳の奥に宿った信念のような歪な柱が、彼を支えてしまっている。

 私がかける言葉を見失っていると、少年は続けた。

 

「でも、それは良いんだ。元々体が弱かったし、人が死ぬのは当然のことだから。寂しいけど、悲しくはない」

「……そ、れは」

 

 人の世は、こんな小さな子どもにそんなことを言わせるほどに腐っているのか。

 義憤のようなものを覚えかけて、何かを否定するように口走る。

 

「けれど、あなたは泣いていたのでしょう」

「うん。でもそれは、おれの心が弱かったせいだ。今は……割り切れたと思う。お父様が死んだ時は違かったけど、もう大丈夫だ」

 

 訊けば、彼は父親をも亡くしていた。

 少年の父親はブリテンの騎士で、諸侯との戦いの中で命を落としたのだと言う。ついには他領の軍が攻め込み、遺された母子は親戚を頼って、フランスまで落ち延びてきたのだ。

 そして、生まれつき弱かった体と夫を亡くした心労のせいで母は亡くなってしまった。

 何の慰めにならないと分かっていても、言わざるを得なかった。

 

「ブリテンの争いは、じきに収まります。私のような部外者が言っても詮方ないと思いますが、あなたの父君の死は決して無駄ではなかったはずです」

「……優しいんだな、お姉さんは」

 

 包み込むような声音。何歳も離れた年頃の少年の言葉に、私は気恥ずかしくなって。

 

「い、いえっ、そんなことはありません。優しいという言葉は、私には似合いませんから」

「おれを慰めようとしてくれてたのに?」

「あ、当たり前のことです。あなたが、悲しそうな顔をしていたので」

「───それは、お姉さんもだろ? 教えてくれよ。おれの話を聞いてくれたお礼だ」

 

 父親が子どもの頭を撫でてやるように。

 私の口からは、するりと言葉が出ていた。

 

「人の心が、分からないのです。愛していた人たちのことも護れなかった。そんな私に価値はないんです。人間より大きな力を持っているはずなのに。今も私は、死にきれずに無意味で無価値なことに手を染めている。そのために、人を騙して……だからっ」

 

 錆びた短刀を握る私の手は、赤く染まっていた。それはまるで、自らの罪を表しているかのようだった。

 彼は私の手から短刀を奪って、ひと思いにへし折る。それを地面に放ると、足で踏み付けて粉々にする。

 絶望が、砕ける音がした。

 

「人の心が分からないなんて嘘だ。そんなのは誰にも分からない。ただ分かった気になってるだけで、何が真実かなんてのは自分で決めることだ。無価値なことに手を染めたってのも何か知らないけど、同じことだと思う」

 

 少年は初めて笑って、

 

「お姉さんはどうしてそうしたいと思ったんだ。それはきっと、優しい願いのはずだろ」

 

 視界が濁る。

 頬を熱いものが伝う。

 

「助けたいと思ったんです。無駄だと知ってても救いたいと思ったんです。ともに笑い合いたいと思ったんです。全ては、私の愚かしさ故に……そう、思って、」

 

 そこから先は、あまり覚えていない。

 すがりついて泣く私を彼は緩やかに抱き留めて。

 流れ出す涙の熱は間違いなく、この心から分け与えられたものなのだと、そう思った。

 私は人ならざる超常の力を持つ妖精。誰かに縋ることはなく、姉妹以外に弱味を見せることもなかった。

 こんな醜い人外の女を、初めて受け止めてくれた人間。思えば、この時すでに、私は心を奪われていたのかもしれない。

 気付けば、月は静かに傾いていた。

 この身に降り注ぐ月の光はこれまでと違って柔らかく、静謐なまでの心地よい冷たさを纏っていた。

 涙の跡が残った顔を見られないようにそっぽを向いて、彼の手を引く。

 

「大分、夜が更けてしまいましたね。心配する者もいるでしょう。家まで送り届けて差し上げますわ」

 

 彼はこくりと頷いた。

 静かな夜の森を二人で歩く。

 キリスト教が興る以前、森とは神霊や魑魅魍魎が跋扈する異界だった。唯一神の名のもとに自然の支配が進んでからは徐々に信仰を失っていったが、この時はまだ神秘が色濃く残る時代。魔性が活動する夜の森を子どもがひとりで歩き回るなど、自殺行為でしかない。

 今思えば、それは彼の才能の片鱗だった。

 己の身に迫る危険を素早く察知して対応するということに、彼は天賦の才を与えられていたのだ。

 にじり寄る魔の気配を自らの気勢でもって威圧し返す。精霊たる私に敵う者はこの森にはいない。視線に呪いを込めて始末することもできたけれど、そうはしなかった。

 この手を握り返す五本の小さな指。肉親を失くした彼に、私が必要とあらば躊躇いなく命を奪う女だということを、知られたくはなかったから。

 森の出口が見えてきたところで、少年は遠慮がちに言った。

 

「お姉さん、名前は?」

「私の名前は……────」

 

 答えようとして、喉が詰まった。

 私たちに個人を指す名前はない。私と妹は何度かお姉様にかけあったことがあったけれど、お姉様は許してはくれなかった。本当の名前というものを持ってしまうと、それを介して呪いを掛けられる恐れがあるからだ。

 ヴィヴィアン、ニミュエ、エレイン、ニニアン……それらは私たち三人を包括した呼び名にすぎない。だから、彼の求めに応じるための名前を持っていなかった。

 

「名前は、ありませんわ」

「そっか。そういうこともあるか」

「気にならないのですか」

「だって、訊いてほしくなさそうだから」

「…………ありがとうございます」

 

 言葉を交しているうちに、森の出口に辿り着いてしまう。

 森が人外の世界だとしたら、森の外は人間の世界。その境目を隔てて、私と彼は向き合った。

 

「あなたの周りの人も心配しているかもしれませんわ。寄り道せずにお帰りください」

「うん、ありがとう。お姉さんに会えて、おれも何だかすっきりした気がする」

 

 そう言って、彼は微笑む。

 胸の奥からじくじくと熱が染み出した。

 その熱の正体を分からぬまま、指が解ける。

 彼の手が離れていく。

 触れ合っていた面積が狭まっていく。

 得体の知れぬ焦燥感。一瞬が何秒にも引き延ばされて、思わず私は森の境目を飛び出していた。

 

「あ、あのっ!」

 

 自分でも驚くような大声。

 彼は振り返り、困惑の色を露わにする。

 

「あなたのお名前は、何と言うのですか」

 

 そして、私は─────

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()。おれの名前はペレアスだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────運命と、出逢った。

 ペレアス。ペレアス、ペレアス。私は何度もその名前を脳の中で反芻した。

 心に彫り込むように。

 魂に刻みつけるように。

 硬直した私を心配したのか、ペレアス様は顔を覗いてきて、

 

「急に固まったけど、大丈夫か?」

「は、はいっ。どこも悪くありませんわ」

「それなら良いけど……そうだ、またお姉さんのところに行ってもいいか?」

 

 答えなんて決まりきっている。

 

「ええ───あの湖で待っておりますわ。何日でも、何か月でも、何年でも……」

「いや、それは待ちすぎだぞ」

 

 そうして、ペレアス様は帰っていった。

 私はその背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。鮮明な思考を取り戻したのは一時間は後のことだったと思う。

 闇に包まれた森の道を通って、彼との待ち合わせ場所に向かう。

 暗い闇の中でも気分は雲ひとつない快晴だった。浮足立つ気持ちは自分ですら止められない。どくどくと動く心臓が血の巡りを速くして、このままどこへでも飛んでいけそうなくらいに体が軽くなる。

 湖のほとり。さっきまで命を絶とうとしていた場所。私はそこに座り込んで、彼を待ち続けることにした。

 だって、無闇に出歩いたりなんかしていたら、ペレアス様と入れ違いになってしまうかもしれない。

 自然の触覚であるこの身には、人間がするような食事は必要ない。この世界から直接エネルギーを汲み上げるだけで、息をせずとも生きていられる。

 懸念があるとすれば身だしなみだろうか。彼はどんな服が好きなのだろう。派手なのが良いのか、それとも落ち着いた服装が好みなのだろうか。

 考えることが溢れ出して止まらない。

 日々を茫洋と生きていた私には、慌ただしさは無縁のものだったから。

 太陽が昇り、夜が明ける。

 彼は今頃寝ているだろう。来るとしたら昼か夜に違いない。そこで、私は重大なことに気が付いた。

 

「…………あの子を害する魔物は排除しないといけませんわね」

 

 先程も言った通り、森は危険が多い。

 昼にしろ夜にしろ、あそこから湖を目指す道中で危機に見舞われてしまうかもしれない。

 魔性に属する存在は当然、凶暴な動物も排除すべきだ。かと言って、殺しはしない。そこまで剣呑な性格ではないし、あまりにも効率が悪すぎる。

 危ない魔物と動物をこの森から追い出す。

 この時の私は指一本動かすことなく、それを実行できる力があった。

 

「『空想具現化(マーブルファンタズム)』」

 

 精霊種だけに許された秘法。己の意思と世界を直結し、自然を思うがままに作り変える。

 目に見える変化は起こさない。

 しかし確実に、静かに、一帯の環境は改竄された。

 時間にして一秒もいらない。人間がまばたきをするように当然に、この森は安全な環境に作り変えられた。

 この力は喩えるなら小説の地の文を書き換えるようなもの。森を海に、海を山に、山を谷にでもしてしまえる力だ。だからこそ、みだりに使うことはなかったのだが。

 

「仕方ありませんわよね。考えることがいっぱいあるのですから」

 

 私は物思いに耽りながら、ひたすら待ち続けた。

 意識の海から浮かび上がってくる疑問をひとつひとつ解消していく。物思いに耽ることは何度もあったが、誰かのためだかにせわしなく頭を動かすのは初めてだった。

 でも、悪い気はしない。考えることがなくなり始めた頃、太陽は空の中央に移動していた。つまりは昼間だ。

 

「…………昼間?」

 

 おかしい。あんなに長く考え込んでいたのだから、とうに一日は経っているものだと思っていた。

 あんなにも早かった月日の流れが、急に滞ってしまったかのような。そう、今までの時間の感覚だと、目を閉じて開けば日が沈んでいて、気付けば季節が移り変わっている。そんな程度のものだったはずだ。

 目を閉じて、開く。それでも太陽は微動だにしていなかった。

 

「ああ、そうか」

 

 一日とは、こんなにも長かったのか。

 この状況を一言で表すのなら、手持ち無沙汰。もっと簡単に言えば暇だ。

 暇、という感覚は厄介だと初めて知った。今までは暇を覚えることすらないほどに曖昧な時間を生きていて、どんなに辛い時も一瞬で時間が過ぎてしまっていたから。

 太陽は中天にくっついたかのように動かないまま。あまりにもすることがないから、いっそ眠ってしまおうと地面に背中を預ける。

 誰にも見られていないからと手足を大の字に広げたちょうどその時、湖に波紋が生じる。湖面からひとりの精霊が浮かび上がり、私を見下ろした。

 

「…………何をしているの」

 

 私と同じ声。私と同じ顔。同じ湖から生まれた三つ子のお姉様は戸惑いの表情をしていた。まあそれも無理ないだろう。

 

「少しお昼寝をしようと思っていましたの」

「元々ぼんやりしていた貴女だけれど、無防備に過ぎるわ。ランスロットを送り出して、気が抜けたのかしら」

「どうでしょう。あの子は手の掛からない子でしたから、気を張り詰める必要もありませんでした」

「そういうところがぼんやりしてるのよ。……ところで、私たちの妹がここに来なかった?」

 

 言いながら、お姉様は結った髪の先を弄っていた。

 私たちは顔も背丈も体つきもまるで同じだ。魔術で体の形を変えることはできるが、元の体に対する愛着はある。

 そこで、私たちは髪型と口調を特徴付けることで個性を作った。お姉様は髪を二つ結びにしている。私と妹で決めた髪型だ。

 

「半年前くらいに来ましたわ。どうやら恋をしたとかで……」

 

 お姉様は深いため息をつく。

 

「昔からあの子が一番ませてたわ。聖遺物の管理はしているようだけど……恋なんて私たちから最も遠い感情じゃない。次に会ったら叱ってあげないと」

「ええ、でも羨ましくもありますわ。恋というのは一体どんな感情なのでしょう。巷の本を読んでみても、あまりよく分かりませんでした」

「さあね。本当に物語に書かれている通りなら、ろくでもないことは確かだわ。恋わずらいなんて言われてるくらいだし病気よ、病気」

「……でも、お姉様は祝福してくれるに決まってますわ」

 

 私がそう言うと、お姉様は頬をほんのり赤く染めてそっぽを向いた。

 

「───当たり前じゃない。私の妹だもの」

 

 お姉様は、優しい。

 私はその優しさに付け込んで、頼みごとをした。

 

「私もお姉様の妹です。ひとつだけお願いを聞いてくれませんか」

「良いわよ。ひとつだけなら」

「では、もっとお話をいたしましょう。私の暇潰しに付き合ってくださいな」

「……もう。そんなことなら、お願いするまでもないのよ。あなたが満足するまで付き合ってあげる」

 

 そうして、私たちは気の済むまで語り明かした。

 なんてことはない、とりとめのない話。湖の乙女の使命も忘れて、まるで人間の姉妹のように言葉を交わした。どこか退廃的で、けれど心地の良い時間はすぐに過ぎ去ってしまう。

 気付いた頃には辺りは暗くなっていて、中天の座は太陽から月に明け渡されていた。お姉様は私にひとつの忠告をする。

 

「古きケルトの末裔に気をつけなさい。唯一神の法が広まり、救世主が原罪を持ち去った今でも、彼らは復古を望んでいるわ。いずれ現れる、運命の王の障壁となるかもしれない」

「……お姉様がそう仰るということは、何か心当たりが?」

 

 お姉様はこくりと頷く。

 

「───モルガン。あの女だけは得体が知れない。もしかしたら、あの魔女は私たちと同じ……」

「……同じ? それは一体、」

 

 私の問いが最後まで紡がれることはなかった。背後の茂みがかさりと音を立てて、咄嗟に目を向けた場所にはペレアス様がいた。彼は怪訝な顔つきで、

 

「約束通り、遊びに来た。そこの人は?」

 

 じとりとした視線を背中に感じる。

 伝えんとすることは分かっている。人と関わって痛い目にあったあの経験を忘れたのか、と咎めているのだ。

 お姉様は不機嫌そうに翻って、湖の中に溶け込んだ。

 

「本当にしようがない子。後悔だけは、したら駄目よ」

 

 耳が痛くて、ばつが悪くて、返す言葉もない。

 お姉様は怒っただろうか。失望しただろうか。台無しとはまさにこのことを言うのかもしれない。あんなに楽しく会話をしていたのに、こんな最後で終わってしまった。

 ペレアス様は氷像のように固まる私の側に座って、小さく笑う。

 

「優しい人なんだな。姉さんのこと、心配してた」

「心配、ですか? 私はてっきり、怒らせてしまったのかと」

「後悔したら駄目なんて心配してないと言わないだろ? 呆れてたとは思うけどさ」

「そう、なのですね……」

 

 胸の中が安堵で満たされていく。

 それを察したのか、ペレアス様は愛らしく笑って、

 

「じゃあ、何をする? 姉さんの好きなものはなんだ?」

「私の好きなもの……ですか」

 

 頭の中を引っくり返して考える。が、最初の一歩でつまづいた。好き、という感情がどのようなものであるか理解できなかった。

 彼と目が合う。さらりと流れる金の髪、煌めく湖面のような碧い瞳、結ばれた薄い唇───怪訝そうにこちらを見上げるその仕草が、あの時の熱を蘇らせる。

 私は鼓動を早める心臓を抑えるように胸に手を置いた。

 

「あ、あなたの好きなものが、知りたいですわ。そうしたら、何か思いつくかも……」

「おれの好きなもの? いっぱいあるけど、この前知ったのだと聖ジョージの話だな! 毒の息を吐く竜を、生贄たちを守りながら槍で倒すんだ!」

「竜殺しの話ですか? ですなら私、いくつか知っていますわよ。毒の竜というとヘラクレスでしょうか」

「ヘラクレス?」

「ええ、竜殺しだけでなく数々の怪物殺しを成し遂げた英雄ですわ。語って差し上げましょうか?」

 

 ペレアス様は首肯した。その瞳はきらきらと期待感に溢れている。

 私は語った。英雄ヘラクレスが如何にして生まれ、そして死んだのかを。

 戦いに彩られ、血に濡れた英雄の人生。十二の功業を成し遂げ、アルゴノーツの一員として冒険し、ギガントマキアにて神々の天敵たる巨人たちを屠り尽くす。

 物語を語り終えると、ペレアス様は興奮を隠し切れない様子で喋り出した。

 

「……すごいな! ヘラクレスはどれかひとつでも達成したら英雄ってことを、何度も成し遂げたんだ! かっこいいな!」

「ふふ、ヘラクレスは不世出の英雄ですから。肉体の強さだけでなく、どんな敵にも対応する機転、類稀な技量……どれが欠けてもヘラクレスはヘラクレス足り得なかったでしょう」

「そっか、全部引っくるめたのがヘラクレスの強さなんだ。どんな人だったのか、見てみたかった。巨人に力比べで勝ったくらいだし、とんでもない筋肉してるんだろうな!!」

 

 そこで、彼は初めて年相応に笑った。

 大人びた、浮世離れした表情は見る影もない。その顔は、私が初めて見る類の彼の笑顔だった。

 どこかくたびれた笑顔より、こちらの方がずっと良い。その顔がもっと見たい。

 その思いのままに探り当てたのは、私の中に残る最も煌めく記憶。

 

「思いつきましたわ。私の好きなもの」

 

 彼の手を取る。

 さくりさくりと四つの足が土を踏む。

 

「水と戯れること……よくお姉様と妹とこうしていたのを思い出しましたの」

「そんな大切なことを忘れてたのか? 結構ぼんやりしてるんだな」

「お姉様にも同じことを言われました。それに、もう何百年も前のことですから、自然の触覚たる精霊には必要のないものと切り捨てていたのかもしれませんわ」

「普通じゃないとは思ってたけど、精霊だったのか」

「驚きましたか?」

「うん。でも、それだけだ」

「……良かった」

 

 足首が湖面に沈んでいく。

 月の光が明るく照らす水面。ひやりとした心地の良い冷たさが腰にまで達した時、彼は私の手を握る力を強めた。

 

「泳いだことは?」

「な、ない。言っとくけど、怖くはないからな」

「ふふふ、分かっておりますわ。さあ、私に身を委ねて力を抜いてくださいな」

 

 幼い体の小さな重さが私にのしかかる。足の裏で水を蹴り、体が水面を切って移動する。

 

「心の恐れは体の動きに現れます。まずは水に慣れていきましょう」

「分かった。こうしてて沈まないのか?」

「問題ありませんわ。水流を操作すれば溺れることはないですから。望むなら水面を歩くこともできますわよ」

「もうそれでいい気がしてきたぞ……!?」

 

 彼の筋肉の強張りが解ける。私は体を立てて、小さな手を引いた。

 

「両足を上下に交互に動かしてみてください。力まずに、できるだけ細かくしますのよ。力を入れ過ぎては沈んで、魚の餌になってしまいますわ」

「……こうか?」

「ええ、上手ですわよ。それでは水面に顔をつけて離してを繰り返してみましょう。人の子は息継ぎをしないと死んでしまいますので。溺死は一番苦しい死に方らしいですわよ」

「ちょくちょく怖いことを言ってくるな!?」

 

 そうしてペレアス様が顔を水につけて数秒後、ぼこぼこと勢い良く気泡が溢れ出してきた。

 彼は慌てて面を上げると、顔色は耳まで真っ赤に染まっていた。

 

「どうしたのです?」

「いや…胸が透けて……ごめん!!」

「ああ、乳房のことですか。別に乳房を見られるくらい気になりませんわ。体型を変えて乳房を小さくすることもできますが、どういたします? 乳房」

「四回も言う必要がどこにあったんだ!? と、とりあえず岸に上がろう。もう遅くなってきたし!」

「むう、仕方ありませんわね……ではこちらに」

 

 湖から上がり、私はペレアス様に手をかざした。水を含んだ衣服と濡れた髪から水分を吸い取り、手のひらで塊にしてまとめる。

 同様の手順で私自身の処理も終え、水を元の場所に還した。

 

「今日も送って差し上げますわ。少々作り変えたとはいえ、子どもひとり夜の森を歩くのは心配です」

 

 ペレアス様は黙って肯定する。私たちは手を繋いで夜の森を進んでいった。未だに頬を赤く染めた彼はそっぽを向いて呟く。

 

「……楽しかった。その、見てごめん。次は明後日に来てもいいか?」

「もちろんですわ。今度はもっと準備をして待っております」

「それじゃあ、またな」

「ええ、また」

 

 それから、私たちは幾度も逢瀬を重ねた。

 ブリテンを統一する運命の王が現れるまでの限られた時間。されど、目を伏せればありありと描かれる。過去の情景や交わした言の葉、匂いまでもが。

 ───たとえば、彼が好きだった英雄の話。

 

「───こうしてアキレウスはパリスの矢に踵を射抜かれ、その人生に幕を閉じました。もっとも、彼は死に際に大暴れして多数の将兵を道連れにしたそうですが」

「クー・フーリンといい、往生際が悪いやつが多いんだな。それにしても、どうして英雄の話はめでたしめでたしで終わらないんだ?」

「全く無い訳ではありませんが、確かにそういう傾向はありますわね。救世主が産まれる前の昔は、アイスキュロスなどの手によってギリシャ悲劇が栄えていましたから、大衆に好まれる話ばかりが残ったのかも……」

「……生きてれば、悲劇なんて見飽きるくらいあるのに?」

 

 まだ達観するには早すぎる彼の背を私は抱き締めた。

 

「そんなことを言ってはいけませんわ。私は泣いてしまいます。あなたの未来にはこれから、たくさんの幸福が待っているのですから」

「ありがとう。やっぱり優しいな、姉さんは」

「……あ、あなたのためなのでっ」

 

 ───たとえば、自然との戯れ。

 

「魔術をかけて服が水を弾くようにしましたの。これで透けたりしませんわ。泳ぐ時間ですわ!」

「……おれの服にはその魔術かけなくていいのか?」

「泳ぎ心地が変わってしまうので……それとも脱ぎます? いえ脱ぎましょう。さあ脱ぎましょう!」

「目が血走ってるんだが!?」

 

 すると、湖からお姉様が飛び出してきて、

 

「……アホなことやってるわね」

「あらお姉様。お姉様も脱ぎますか?」

「寝言を言うにはまだ早い時間帯よ?」

「少しでもまともな人がいてくれてよかった……」

 

 ───たとえば、剣術の修行。

 

「握りはこう。剣先がブレないように。振りは小さくすることを心掛けましょう。足はしっかり開いて、右足を前に出し、左足は引きます」

 

 ペレアス様は私が言った通りに構え、真っ直ぐに木剣を振るう。なんてことのない動作だが、その様はまるで老練の剣士のように堂に入っている。

 剣才がある。おそらくはこのまま戦場に放り出しても通用するほどの才能が。流水のように滑らかな一刀が次々と繋がる様は芸術的ですらあった。

 でも、それは彼が戦いに身を投じることを避けられぬことと同じであり、言い換えれば人殺しの才能があるということだ。

 その手が赤い血に濡れるなんて、私には想像もしたくない出来事だった。

 

「……どうして、いきなり剣の稽古をしたいと?」

「母さんと、友だちのためだ。ブリテンから逃げてきた時に奪われた領地を取り戻して、母さんを故郷の土に埋めてやりたい」

「友だちのためというのは?」

「代々おれの家の従者をやってた家系なんだ。将来、一緒に戦場に出ることになるから、おれが強くなって守りたいんだ」

「……私は守ってくれないんですか?」

「おれよりずっと強いのに? ……でも、そうだな。姉さんを守れるくらい強くなるさ」

 

 彼と会う度に。

 彼に触れる度に。

 私の中で燃え上がっていく黒く暗い感情。

 

「今日は、姉さんに贈り物を持ってきたんだ」

「贈り物、ですか? 私なんかにもったいないですわ」

「お金はかかってないけど、気持ちは込めた。受け取ってくれないか?」

「そこまで言われたら、私に断る理由なんてありませんわ」

 

 心臓をじりじりと焦がす熱はいつしか大炎へと変貌を遂げていた。

 精霊の本質が囁く。

 ───欲しい。

 

「花冠……家のお手伝いさんに教えてもらったんだ。おれの方こそ、こんなものでしか返せないけど」

「いえ、とても…とても嬉しいですわ。この気持ちを言い表す言葉が見つからないほどに。被ってみても?」

「うん、絶対に似合う。飾り付ける土台が最高だからな」

「ふふっ、そんなに褒めても何も出せませんわよ?」

 

 シロツメクサの白い花をつけた冠。小さな手で精一杯作ったのだろう、細部の出来は甘いが、それが逆に微笑ましい。

 花冠を被った私を見て、彼は言った。

 

「ああ───やっぱり、きれいだ」

 

 その瞬間、世界ががらりと変わる音がした。

 ───欲しい。

 もう他に何もいらない。

 もう他に何も考えられない。

 この男を。

 この人間を。

 永久に我が物としたい───!!

 

「……ついに選定の剣を抜いた人間が現れた」

 

 けれど、運命はそう簡単に動いてはくれない。

 ある日、唐突に、お姉様は私に告げた。

 

「ウーサーの落胤、アルトリア。マーリンに相当手を加えられたのか、赤き竜の因子を宿した希少品よ。私たちもブリテンに行きましょう。ペリノアやヴォーティガーン相手に、カリバーンでは敵わない」

「お姉様の聖槍と、私の聖剣がなくては卑王は倒せない……」

「それだけじゃないわ。ブリテンの諸侯は右から左まで生き馬の目を抜く妖物揃い……選定の剣(カリバーン)一本で戦い抜けるとは思えない。本当は今すぐにでもブリテンへ飛びたいところだけど……」

「一日だけ。一日だけ時間をください。せめて、あの子とのお別れをさせてください」

 

 お姉様は震える私を抱き留めて、優しく囁く。

 

「お別れをする必要なんてないのよ。運命の王が見つかったのだから、平和になったその時に───」

「───いいえ、これは私のためです。別れを告げないと、私はきっと使命を果たせない」

 

 来たるべき運命の王に、星の聖剣を譲渡する。

 それこそが私の使命であり、姉妹の中の役割だ。この役目はあの子との繋がりを保ったままでは果たせない。なぜなら、使命よりも彼の方が大切に思えてしまうから。

 翌日の夜。満月の光が照らす湖畔で、私とペレアス様はいつものように話をした。

 いつもと変わらぬ安穏とした時間。私は彼の手に指を絡ませて、想いを伝える。

 

「私はあなたのおかげで救われました。私にも人の心があると、教えてくれた」

「ど、どういたしまして?」

「それに、素敵な贈り物まで頂いてしまいました。だから……お返しをさせてくださいませ」

 

 体を密着させて、顔を寄せる。

 

「───好き」

 

 勢いのままに、唇を押し付けた。

 口づけで呪いが解ける、なんて話はありふれているけれど、これは逆。キスを介して魔術をかける。

 私が彼にかけた魔術はふたつ。

 ひとつは、たった一度きり、純潔の口づけを捧げることで幸運を与える加護。

 もうひとつは、彼の記憶から私の存在を消す魔術だった。

 人間と人外の恋は悲劇で終わる。人間と人外の住む世界は区切られているから。前者は此岸に、後者は彼岸に。断絶された関係をそれでも繋げようと望んだ者たちに待ち受けるのは、少しの幸福と深い絶望だ。

 そんな業を、彼に負わせるなんてことはできなかった。

 

「…………もう、いいの?」

 

 お姉様の言葉に頷いて返す。

 貰った花冠に魔術を施し、枯れぬようにする。私はそれを首に掛けて、覚悟を決めた。

 迷いは、ない。

 そして、ブリテンではカリバーンを携えた王が勝利を挙げていた。彼女のもとには次々と仲間が集まり、破竹の勢いで実力者たちを打倒していく。

 だが、王の進撃を阻む者がいた。その者の名はペリノア王。子息にラモラック卿やパーシヴァル卿といった精強な騎士を有し、本人も無類の武勇を誇る強敵だった。

 ペリノア王の手によってカリバーンは折られ、運命の王は新たな武器を求めた。

 ブリテンのとある湖。花の魔術師に手引きされ、この島の命運を背負う少女はひとり小舟を漕ぐ。

 王は、少年のような顔立ちをしていた。

 理想に燃える瞳と、固く切り結んだ唇。

 彼女の張り詰めた表情はこれから和らぐことはなく、また、瞳に燃える理想もいつかは熱を失う。そう思うと、途端に同情心が湧き上がった。

 これはペレアス様との出会いが無ければ持ち得なかった感情だ。精霊が人間に同情を抱くことなど、ありはしない。

 鞘に収まった聖剣を抱き、私は王と向き合った。

 

「人の子よ、契約です。この剣を渡す代わりに、一度だけ私の望みを叶えると誓いなさい」

「それが私にできることなら、力の限り応えましょう。湖の乙女よ」

「…………剣を振るうことに、後悔はありませんね?」

「───無論。この身が灰となろうとも、歩みを止めるつもりはありません」

 

 こうして、聖剣の譲渡はなされた。

 舟を漕いで去っていく背中を眺める私の横に、お姉様と妹が並び立つ。妹は女の私ですら寒気を覚えるほどの色香を漂わせ、艶やかに微笑む。

 

「あの王様、いつかどこかでつまずくわね。あの人に必要なのは優れた騎士でも、万軍を滅する武器でもなく、恋人よ。恋の妄執が国を滅ぼすことを知らないから」

「久しぶりに会ったと思ったら、言い出すのはそんなこと? 恋人を必要とする王には見えなかったわよ」

「そんなことないわ。氷のお姉様は恋をしたことがないから言えるのよ。ねえ、霧のお姉様?」

 

 妹は私の腕に抱きついてくる。

 

「確かに、色に溺れて破滅する王は何人もいましたが……私も同意しかねますわね」

「ウソ。だってお姉様、私と同じ顔してるもの」

「それは、どういう?」

「女の顔。大切なモノのためになんでもできる女の顔よ」

 

 心臓の鼓動が跳ねる。私たちは同一存在。姉妹の心根は手に取るように分かるが、探られた感覚も生じる。妹はその力を使わずして、私の図星を突いてみせた。

 妹は私の耳に唇を寄せる。

 

「───()()()()()()()、忘れちゃ駄目よ?」

 

 …………新たな力を手に、運命の王は諸侯を併合していく。円卓の騎士たちの助力もあり、王はカリバーンを手にして十年でブリテンの統一に王手をかけた。

 要害であったノーサンバーランドもベイリン卿の凶刃に妹が殺されたことで異界化が解け、王の統治下に置かれた。ベイリン卿の父親との恋に生きた妹のことをお姉様は理解できなかったが、私には痛いほどに分かってしまう。

 感情とは、理屈を粉砕するのだ。

 他の何をも凌駕するほどの感情。それを次に抱いたのは、ブリテン統一戦争の最終戦。私たちは王と敵軍の戦いを遠目から眺めていた。

 

「あの王様で、間違いはありませんでしたわね」

「元より選定の剣が選んだのだから当然と言えるわ。王にとって大変なのはこれからよ。創業は成せたとしても、守成がどうなるか」

 

 とはいえ、この戦いに勝たなくては捕らぬ狸の皮算用。残存勢力の精鋭が集まった敵軍は決して容易な相手とは言えない。目の前の問題をどうにかしなくては、王の理想は理想のまま終わるだろう。

 私が開戦前の戦場を睥睨していると、その中に忘れ得ぬ面影を見た。

 大人たちの戦列に混ざる少年。周りと比べて頭ひとつ分は背が低く、顔立ちはさらに幼い。彼の顔を視界に捉えたその時、私は悲鳴のような声をあげた。

 

「あの子は────!!」

 

 駆け寄ろうとすると、お姉様は慌てて私の手首を掴む。

 

「落ち着きなさい。私たちが手を貸しては意味がないわ。王が独力で勝ったという権威に傷がつく。こらえなさい」

「それでも、ひとりくらいは助けてもバレはしませんわ」

「……どうかしら。案外、その必要はないかもしれないわよ」

 

 私は身体に強化をかけ、飛躍的に上昇した視力と聴力を彼に傾けた。

 彼は隣の老騎士に話しかける。

 

「この戦いに勝ったら、ブリテンは平和になりますか」

「そりゃあ、一応はな。新しい国ができても異民族は構わず攻め込んでくるさ。それでも、今よりは遥かにマシだがな。見たところ初陣だろ? そう気負わねえで後ろにいな」

「……ありがとうございます」

 

 突撃の号令がかかると同時、少年は周囲からの制止を振り切って最前列に躍り出た。否、それは最前列からも突出した暴走。身ひとつで軍勢の壁に激突するが如き愚行だ。

 

「……そんな」

 

 ───圧倒的だった。

 彼が剣閃を迸らせる度に敵の血飛沫が舞い上がり、陣形が真っ二つに切り裂かれていく。一本の飛矢を思わせる彼の突進はその場の誰も止める術を持たなかった。

 常に眉間に皺を寄せ、敵を一刀のもとに斬り伏せるその姿にかつての幼さはない。私が何よりも目を奪われたのは彼の剣技。無駄という無駄が一切なく、最小限の振りだけで的確に急所を打ち抜く洗練された技巧。その根本には、確かに私が教えた剣が息づいていた。

 だが、その土台の上に築かれたのは、彼がかつて目指したモノとは異質。

 

「中々使うわね。心配するところなんてどこにもないわ」

 

 満足気に口角を上げるお姉様とは裏腹に、私は思い知っていた。

 

「……違う」

 

 人の記憶を消してしまうことが、何を意味するのかを。

 

「アレは誰かを守るためでなく、人を殺すための剣───」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無数の死体が打ち捨てられた野原で、荒々しく息を吐く。

 その戦いはいつも通り、アーサー王の勝利で幕を閉じた。指揮官の差、数の差、兵の質の差。どれを取っても上回っていた。

 しかし、相対する敵が弱かったと言えばそれは違う。たとえあらゆる要素で劣ろうとも、侵略を受ける側の人間は死に物狂いで武器を振るうからだ。

 時として精神は肉体を凌駕する。

 致命傷を与えぬ限り、這ってでも戦う。少年が初陣で相手にしたのは、そういう類の将兵だった。

 剣を杖に、肺に堆積した重たい息を吐き切り、彼は歩き出した。戦場の血混じりの空気から一刻も早く逃げ出したかった。

 左肩がずきりと痛む。血が流れている感覚はないが、その部位は大きな熱を伴っていた。思い返すのはひとりの男の顔。首を刎ね飛ばしたにも関わらず、彼の体は駆動し、この左肩を剣で打ったのだ。

 誉れ高き死とはあのことを言うのだろう。たとえ死しても敵を討とうとしたのだから、それは騎士の在り方の究極と言えた。

 陣地へと戻る途中、その耳はか弱い息遣いを捉える。その方向に首を振れば、ひとりの老騎士が腹からおびただしい血を流して倒れていた。

 もう助からない。そうと分かっていても、少年は彼の体をおぶって帰路についていた。老騎士は絶え絶えの息で囁くように言う。

 

「アンタ、戦いが始まるなり突っ込んでいったやつか。その歳で大したもんだ」

「……あなたはどうして戦場に? 後ろで指揮を執っていればこんなことにはならなかったかもしれない。死地を定めたのですか」

 

 取り繕おうともしない物言いに、老騎士は苦笑した。

 

「いいや、単に義務感だよ。戦って死ぬのはアンタみたいな若いやつじゃなくていい。王様が作る平和な国に娘と孫が生きられるってんなら、ここで死んだ甲斐もある」

「騎士とはあなたのような人を指すためにある言葉だ。死んでも未来を繋げようと……」

「いいや、それとこれとは別だ。俺は生きようとした。生きようとしたんだ。死んでも、なんて妥協の言葉だろ? 救世主サマじゃあるまいし、俺たちは常に生きて未来を掴まなきゃいけないんだ」

「だったら、あなたはここで死ぬ訳にはいかない……!!」

 

 陣地で手当てすれば、そう言って走りかけたその時、老騎士の体がぐらりと崩れ落ちる。

 返ってくる言葉はなく、息遣いも絶えた。それらが意味するのはたったひとつ、分かりきったことだ。

 

「…………くそっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、少年はこの戦いで挙げた勲功によって父親の領地の一部を与えられた。元の土地を考えれば猫の額のような場所だが、それでも故郷には変わりない。

 一年後、母の墓を改葬し、彼はブリテンに仕える騎士のひとりとして体制に組み込まれた。王が作った国は一応の安定を見せ、大多数の人間にとっての平和が訪れた。

 そんな情勢の中、彼らは相変わらず煤けた戦場に身を置いていた。異民族の散発的な威力偵察に対抗するためである。

 

「ペレアス様、知ってますか」

「あん?」

「キャメロットには古今東西の美女が集まって店を開いてるらしいですよ」

「いや、古今東西ってどういうことだよ。ざっくばらんにも程があるぞ」

「需要と嗜好の問題ですかね」

「適当すぎるだろ!?」

 

 ペレアスに下世話な話を切り出したのは、代々彼の家に仕えていた従者の家系の出。名をアルフ。史に名前を残すことはなかったが、ペレアスの第一の臣下である。

 彼は石のようになった干し肉と悪戦苦闘しながら、

 

「……つまり、私たちもたまには羽目を外して良いのでは? どうせ今頃円卓の騎士も遊びまくってますよ。騎士なんて美女と戯れるのが生き甲斐の人ばかりですからね」

「それお前にもブーメラン突き刺さってることに気付いてるか?」

「いえ、私の生き甲斐は…………何なんですかね? どうして必死になって戦ってるんですかね? あ、なんか何もかも嫌になってきました」

「自分に跳ね返ってきたブーメランで死ぬやつを初めて見た」

 

 ペレアスは自己嫌悪のドツボにはまっていく部下に言い聞かせる。

 

「お前も知ってるだろ。外敵の動きがきな臭くなってる。まだこの国は出来たてホヤホヤだから、崩れたら建て直しが効かない。収穫期になったら絶対攻め込んでくるぞ」

「無敵のガウェイン卿とランスロット卿がどうにかしてくれる……とは言い切れないのが辛いですね。連戦続きで動員できる兵数も少ないですし」

「ヘラクレスやアキレウスがいたらもっと楽だっただろうけどな」

「それ、キリスト教以前の英雄ですよね。教会関係者に聞かれたらコトですよ。そもそも、なんでそんな人たちを知ってるんですか」

「………………なんでだろうな?」

「コワ〜……」

 

 ともかく、国の根幹が作り上げられていく過程の中では、あらゆる勢力の思惑が入り乱れる。王に権力を一極化させようとする者、利権をかすめ取ろうとする者、新たに自分の根を張ろうとする者。それら不安要素を抱えた上で、この国は外敵と戦わなくてはならないのだ。

 全軍で打ち合えば負ける要素はないが、国が全力を出して戦える状況は少ない。外患と内憂のどちらにも警戒し、残った戦力を敵に当てるしかない。

 そして、数ヶ月後。キャメロット本営の予想通り、作物の収穫期に北方より敵の襲撃が到来した。

 ブリテンの北にはハドリアヌスの壁がある。ローマ帝国時代のハドリアヌス帝が建設したことに因んで名付けられたこの長城は島の東海岸から西海岸を横断する長大な防壁であり、ピクト人やスコット人などの異民族に対する恐れの表れだ。

 つまり、ハドリアヌスの壁を超えた先はアーサー王の治世下にあらぬ異郷の地。王が戦った諸侯でさえ、その地に手出しすることはなかった。

 王の前に立ちはだかるのは未知の敵。地を埋め尽くすかのような大軍の前に、王はまたもや剣を取ることを強いられたのだ。

 場所が変われば戦い方も変わる。異民族の戦法は戦い慣れた騎士のそれとは一線を画す異様さを以って、王の軍勢を苦しめる。

 今までとは何もかもが違う相手。そこでペレアスは数々の悲劇を見た。

 無惨に弄ばれた死体。足の腱を裂かれた女たち。あまりにもありふれた不幸のすべてが心を蝕み、募っていく憎悪がペレアスを突き動かす。

 ひとつまたひとつと死体が増えていく苛烈な戦場。ペレアスとその部隊も例に漏れず、戦争に動員させられていた。ペレアスは鞍上から槍を横に薙ぎ、一度に三人の首を刎ねる。

 

「くっそ! 数が多すぎるだろ! 殺しても殺してもキリがねえ!!」

「奴らの兵士は畑から獲れるんですかね!? というか王様や円卓の騎士はどうしたんですか!」

「こいつらも王様と円卓の強さは分かってる。そっちに数を割いてるんだろうな、多分!」

「目の前にいるのは主力じゃないと!? 差がありすぎるでしょう!」

 

 王と円卓の騎士に兵の大部分を当てる戦術。極論、その戦場以外の全てで勝利すれば、王の軍は建て直せないほどの被害を受けるだろう。

 だが、ここに誤算があった。

 敵が脅威と見た円卓の騎士の実力に届き得る存在。ペレアスの武勇は眼前の軍を突破し、犠牲を出しながらも敵勢を撤退に追い込んだ。

 ペレアスは馬の足を止めて、アルフに言う。

 

「伝令に行け。敵の本陣に奇襲をかける。オレたちは敵の目から唯一浮いた駒だ。ここの敗報が届く前なら、奴らの大将の虚を突ける」

「なぜ私なんです!? 副官として着いていきます!」

「オレの部隊で二番目に強いのがお前だ。ケイ卿でもアグラヴェイン卿でもいい、必ず本陣に伝えにいけ!」

「はいはい、話通じないモードですね! 行ってきますよ! 死なないでくださいね!」

 

 ペレアスとその配下は敵の本陣を目指す。

 この戦いに勝ったとしても、それで異民族の侵攻が永遠に止まる訳ではない。収穫期が訪れれば、軍勢の規模に関わらず敵は攻めてくるだろう。

 そうだとしても、ペレアスが歩みを止める理由にはなりはしなかった。

 戦いが決着することで死んでいたであろう兵士は助かり、作物を奪われて飢え苦しむ人々の数は確実に減る。敵将さえ討ち取れば、結果的に死ぬ人間の数は少なく済むのだ。

 しかも、敵は人を人と扱わぬ外道の集まり。武器に込められた力は一層強まり、剣戟は留まることなく勢いを増していく。

 ついに本陣を捉え、ペレアスは後方に続く配下たちに向かって叫んだ。

 

「奴らを皆殺しにすれば戦争は終わる! 準備はいいな!?」

 

 応えるように雄叫びが響く。

 ───殺す。手足が裂けても殺す。死んでも殺す。

 敵軍の将は精悍な顔立ちをした男。身の丈ほどの長大な斧を疾風の如き速度で振るい、瞬く間に人間を肉片に変える剛力の持ち主だった。

 それはペレアスが初めて出会った強敵。何度も死を覚悟し、無数の手傷を負い、槍も剣も砕かれた末に討ち取った相手。

 ペレアスは横合いに血に濡れた肉片を吐き出す。武装を失った彼は敵の喉笛を噛み千切ることで致命傷を加えたのだ。

 体から力が抜け、血の泥中に膝をつく。

 

「…………勝った」

 

 瞬間、湧き上がるのは勝利の喜悦。

 

「……勝ったぞ。鬨の声をあげろ!」

 

 応える者はどこにもいなかった。

 振り返れば、あるのは物言わぬ骸の群れ。

 誰も彼もが死に絶えた死の平原に、ペレアスただひとりが生き残っていた。

 ぶつり、と右の犬歯が下唇を噛み破る。

 死んでも殺す、と意気込んだ結果がこのザマだ。守るべき部下を全員失い、得たのは小さな小さな勝利のみ。

 戦争なのだから人は死ぬ───そう言ってしまえるには、目の前の惨劇はあまりにも重すぎた。

 騎士の誓いを立てたその時に、死ぬ覚悟はできていた。共に戦った彼らは褒められこそすれど、蔑まれるものでは決してない。

 でも、自分がもたらしたこの結果は、苦渋以外の何物でもなかった。憎しみと怒りのままに剣を振るったのだとしても、死に逝った彼らが何を想って戦っていたのか、とうに知る術はない。自らのエゴを他人に背負わせればどうなるか、未だ若き彼は知らなかったのだ。

 彼らの未来を奪ったのは自分だ。

 それはごく当たり前の結論。人を殺すための剣で、どうして人を救けることができるというのか。

 真に必要なのは、真の騎士が振るうべきは、きっと────

 

 

 

「『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』!!!」

 

 

 

 ────人を守るための剣だ。

 しかして、彼は見た。

 この世界を貫くが如き星の輝き。

 黄金の剣気を放つ聖なる剣と、その担い手を。

 立ちはだかる軍勢を消し飛ばし、王は傷だらけの騎士に手を差し伸べる。

 

「……よくやってくれた、若き騎士よ。卿の働きによって、我らは救われた」

 

 自分より一回りも小さい手。

 

(ああ、そうか)

 

 騎士は王の手を取り、痛感する。

 

(この人こそが、真の騎士だ)

 

 ……遥か北壁、ハドリアヌスの長城を超えた先の防衛戦争は終わりを告げた。

 三日後、ペレアスは王の幕屋に招集された。敵の総大将を討伐した勲功を労うため、簡略ではあるが特別に設けられた式だ。

 そこに招かれるべきだった仲間たちはもういない。ペレアスとアルフのみが王の御前に拝謁することができた。騎士王の側を固めるのは、湖の騎士ランスロットと王の義兄であるケイ。ペレアスたちの両側には、ベディヴィエールやアグラヴェインの姿があった。

 彼らは皆、王の切り札たる円卓の騎士。ベディヴィエールだけは未だその地位になかったが、最初期から王の側仕えとして活躍した知将だ。

 褒賞と勲章の授与と一通りの儀礼が完了した後、喋り出したのはベディヴィエールだった。

 

「ペレアス卿。貴方には是非王都へ来て頂きたい。その武勇は王の下でさらに発揮されることでしょう。これは、あの時貴方に救われた皆の願いでもあります」

 

 ペレアスの返答はとっくに決まっていた。

 

「もったいなきお言葉、感謝致します。ですが、私は自らの憎しみと怒りに部下を付き合わせた愚か者……私のような者を王の手元に置けば、必ずや同じことを繰り返すでしょう」

 

 辺りがしんと静まり返る。この申し出を断るということは、王の誘いを無下にすることと等しい。

 一端の騎士であるペレアスにそれを覆す余地はなく。アグラヴェインは眉根を寄せて、身を乗り出す。

 

「その愚かしさは卿自身が被るべきものだ。言い訳をするな」

 

 しかし、ランスロットはそれを手で遮って、

 

「確かに、貴方は同じことを繰り返すかもしれない。だが、それは未来の貴方もそうだと言えますか?」

 

 そこで、ペレアスは理解した。

 初陣で言葉を交わした老騎士の意見を。

 あの場所で命を拾った自分がやるべきこと───それは、生きて未来を繋ぐことだと。

 

「いいえ、ランスロット卿。私は人を守るための剣を振るってみせます」

「そうでしょうとも。貴方はきっと、その剣を手にすることができる。私が保証します」

 

 この場で王の選択を覆し得るのは円卓の騎士のみ。さらに、最高の騎士と謳われるランスロットの言ならば、王とて無視することはできない。

 その時、ケイは鼻を鳴らして笑った。

 

「青いな、ペレアス。分かっているだろうが、お前が成したことはお前だけが成せることではない。王やランスロットでさえも、お前と同じ状況なら相応の被害を出しただろう」

 

 ケイは瞳に静かな輝きを灯して言付ける。

 

「くれぐれも自分が部下を殺したなどと自惚れるなよ。それは、お前が敵将を討つために命を捧げた彼らへの侮辱だ」

「……その金言、我が胸に刻みます」

 

 ───そして、二年後。

 体制も盤石となったブリテンでは、戦時下では行えなかった催し物が開催されるようになった。今までは非日常的だった平穏は、日常へと置き換わったのである。

 前のめりに敵を討つペレアスの武技もその様相を変えた。静と動、柔と剛を織り交ぜた武術。以前と比べていささか地味にはなったが、彼はそれでいくつもの功績を挙げた。

 キリスト教には聖霊降臨祭という祝い事がある。

 聖霊降臨とは救世主が昇天の際、彼に祈りを捧げていた信徒たちに神の第三の側面である聖霊が降った出来事を言う。後世の人々はこれを祝い、祭日を設けた。

 祭りと言えば、民衆を楽しませるための興行が開かれる日でもある。この時代の興行として大人気だったのは、騎士たちによる馬上槍試合だ。

 ペレアスが住む地方でも聖霊降臨祭の日には槍試合が催された。ペレアスとアルフは馬の背に乗って、その出番を待っていた。

 

「今回の馬上槍試合は三日間の大会……しかも賞品は名工お手製の剣と純金製の輪らしいです。ペレアス様、是非頑張ってください」

「いや、お前も頑張れよ。何人参加者いると思ってんだ」

「まあ、金の輪はその場にいる最も美しい婦人に与えなければいけないそうですが。誰が考えたんですかね、こんなこと。絶対角が立ちますよ」

「それはそうだな。まあ、オレたちは騎士だからな。名誉が賞品みたいなもんだろ。そもそも名工お手製の剣とやらも、家の蔵で埃被る未来しか見えねえ」

「仲間との絆が本当のお宝だったんだ! みたいな感じですか。萎えますね」

「仲間との絆は宝物だろうが! ひねくれすぎだろ!!」

 

 そんなこんなで、ぱからぱからと歩いていると、アルフは突然切り出した。

 

「ところで、結婚とかしないんですか。いつ死ぬか分からない仕事ですし、跡取りは残すべきですよ」

「嫌だ、オレはそんな打算で結婚したくねえ! 吟遊詩人が歌ってるみたいな劇的なロマンスを経て愛を育んだ上で一生を誓い合いたい!」

「夢見がちな乙女ですか、あなたは。騎士の結婚なんて実情は九割打算でしょう。ほら、好みのタイプとかないんですか」

 

 何気ない質問に、ペレアスは頭を抱えて悩んだ末に答える。

 

「長い黒髪で瞳が紅玉みたいに綺麗で、身長が高くて浮世離れした雰囲気の女性が良い」

「訊いたのが間違いでした。望みが高すぎるでしょう。長い黒髪で瞳が紅玉みたいに綺麗で、身長が高くて浮世離れした雰囲気の女性なんて……」

 

 そう言った矢先。祭りでごった返す人混みの中に、導かれるように二人は視線を流す。

 そこには、長い黒髪で瞳が紅玉みたいに綺麗で、身長が高くて浮世離れした雰囲気の女性がいた。

 二人は顔を見合わせて、もう一回視線を戻し、

 

「「…………いたァァァ!!?!?」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ということで、ペレアスは失恋した。

 彼らが発見した女性は名をエタードと言う。ペレアスは執拗なストーカー行為の果てにエタードとガウェインが同衾する様を見せつけられ、〝死ぬまで起きない〟と言い残して寝台に潜り込んだのである。

 

 ───最初は、諦観混じりの好奇心だった。

 この身は精霊。人間との恋路は既に諦めている。彼が選んだ相手なら、口出しする道理も動機も存在しない。

 だからこれは、余計なお節介。自分が彼に諦めをつけるために、どのような相手なのか調べようという浅ましい考えだ。

 エタードは森の中の城に住んでいた。周囲には結界が張られていたが、突破することは容易い。ついでに容姿も平凡な人の子に変えれば、侍女として容易に忍び込むことができた。

 エタードの側仕えに選ばれるまでに三日。彼女から不動の信頼を得るまでに一週間。私とて千年を生きた精霊、魔術を用いずとも人の子から信用される術は心得ている。

 鏡台の前で化粧をするエタードの髪を梳かす最中、彼女はぺらぺらと喋り出した。

 

「くふっ、男なんてチョロいわね。少し乙女を気取ってあげれば、円卓の騎士でも簡単に手玉に取れるもの」

「……円卓の騎士、ですか?」

「そうよ。しかも相手はガウェイン。ちょっと誘惑してやればころっと落ちたわ」

「あの太陽の騎士がそうそう簡単に心を射抜かれるとは思えませんが……いえ、エタード様を貶めている訳ではなく」

 

 エタードは紅い唇を歪めて、化粧台の棚からひとつの小瓶を取り出した。小瓶の中には植物を砕いた粉末が詰まっている。彼女は小瓶をうっとりと眺めながら、浮かれた声を出す。

 

「私、魔女なの」

「…………は?」

「元々、ブリテンはケルトの土地よ。ケルト人の聖地は森。妖精や神霊が闊歩する異界。キリスト教のせいで森は減ってしまったけれど、それでも私たちは生き残っている。魔術や霊薬の製法を子孫に伝えてね」

「では、その瓶にあるのが霊薬なのですね」

「そ。オークの木から切り取ったヤドリギを素材にした薬よ」

 

 ケルトの神官ドルイドは森を聖域としていた。キリスト教にとって異教の神が宿る森は大開墾の憂き目にあい、宗教弾圧と相まってドルイドはかつての隆盛を失った。

 彼らが特に神聖視したのは、オークの木に寄生したヤドリギ。ドルイドはそのヤドリギをオークの木に宿った神の生殖器に見立てて、金の小刀で切り取り、それを儀式に利用したのである。

 古きケルトの末裔。エタードは、お姉様が警戒しろと言った存在そのものだ。

 

「オークの神の生殖器(ヤドリギ)を砕いた粉末……効能は分かるわね? ふふふっ、次はランスロットでも狙ってみようかしら。ガウェインの兄弟をコンプリートしても良いわね。そうしたら私が円卓の弱味を握ることに───」

(……愚かな)

 

 ドルイドたちはヤドリギを薬に利用したが、その効能は媚薬などではなく、万病に通用する万能薬としてのものだった。

 魔術の劣化が早くも始まっている。かのソロモン王が創始した西洋魔術の衰退が、万能薬が媚薬に凋落する事態を招いているのだ。全く馬鹿馬鹿しいことだが。

 とはいえ、だからこそエタードは森に居城を構えているのだろう。結界で一帯の森を聖別し、聖域としての効力を高めている。一端の魔女らしくはあるようだ。

 

「その……ペレアス卿のことは?」

「ああ、顔がタイプじゃないわ」

(ぶっ殺すぞクソアマ)

 

 思わず髪留めを喉に突き刺しかけたが、鋼の精神力で持ち堪える。千年の人生経験は伊達ではないのだ。

 

「だって、まだまだ若いでしょう? アレ。童顔は好みじゃないの。あと五年くらいしたら相手してあげなくもないわ。何ならアナタにあげてもいいわよ、いらないし。ちょっと味見はさせてね」

(このアバズレ、絶対泣かす)

 

 そういうことで、私はエタードに鉄槌を下すことにした。

 ───所変わって、ペレアスの領地。

 死ぬまで起きないと宣言したペレアスの様子を探るため、湖の乙女はエタードに数日の休暇を申し出て、その場所に転移していた。カルデアより百倍従業員の待遇が良いと言えるだろう。

 街道から領地に入ると、そこには巨大な立て札が建設されていた。湖の乙女は立て札の文章を読み上げる。

 

「〝ペレアス卿を起こすことができた者には金一封贈呈。近々オーディション開催〟…………これしかねえですわーっ!!」

 

 黄色い声がブリテンに轟いた二日後、ペレアスの副官を務めているアルフは沈痛な面持ちで参加者たちを眺めていた。

 金目当ての山賊崩れやホームレスは丁重にお帰り願い、書類審査と屋敷のお手伝いさん(八十五歳)の一次面接を経て、最終面接に辿り着いた猛者は三人。男女比は三対一だ。

 眼前にずらりと並んだ三人。過酷な試験をくぐり抜けてきただけあって、その顔つきは精悍そのものだった。アルフは咳払いして、面接を始める。

 

「え、えー、それでは早速始めましょうか。まずはエントリーナンバー005の紫色のターバンを巻いた貴方から。自己紹介と特技をお願いします」

「グラ○バニア王をやっています。妻と二人の子どもがいます。特技は魔物を仲間にすることです。よろしくお願いします」

「初っ端から飛ばしすぎだろォォォ!! 誰がドラ○エ5の主人公連れてこいっつったよ!」

「え、でもイオナズン使えますよ。嫁が」

「ちゃっかりフローラ選んでんじゃねーよ!! あんなポッと出女を嫁にしてる時点で信用できるか! ウチは主従ともどもビアンカ派なんだよ、さっさと魔王倒してこい!!」

 

 紫ターバン男の顔面を蹴り飛ばし、面接室から叩き出す。アルフは一息ついて、次の受験者に話題を移し替えた。

 

「はい次! これといって取り柄のなさそうな地味な人!」

「僕、これといって取り柄のない地味な人間ですけど、病気のおばあちゃんがいるんでお金だけくれないですかね」

「病気のおばあちゃんを盾にするなよ! 帰したらこっちの名誉が傷つくだろうが!」

「じゃあ、ついでに父親と母親もなんか死にかけてるってことにしておいてください」

「死にかけてる両親放り出してこんなところに来てるとかサイコパスか? 金ならやるから帰れ!」

 

 財布の中の貨幣を鳥のエサやりのように投げつける。取り柄のなさそうな地味な人はそれらを拾いながら、ぼそりと呟いた。

 

「チッ、これだけかよ…………」

「おいなんか言ったかぶっ飛ばすぞ」

「あの、茶番はそこまでしてもらって良いですか?」

 

 アルフは強靭な精神力で頭に昇った血を下に押し戻した。残った希望はただひとり、主君の好みをそっくりそのまま絵に描いて出したかのような女性だけだ。

 彼女はさらりと言う。

 

「私、湖の乙女と申します。ランスロットは私が育てました」

「…………え? 本当に?」

「はい。王様が持ってる剣も私があげました。このオーディション、決まりでよろしいですわね?」

「もちろんです! アホ主君をどうにか救ってやってください!」

 

 二人は面接室を出て、ペレアスの寝室の前に移動する。アルフは扉に手をかけて、唇の前に人差し指を立てた。

 

「今のペレアス様に〝エタード〟や〝ガウェイン〟は禁句です。円卓の騎士などの連想ワードも危ないですね。最悪、〝女〟と〝男〟からでも繋がるので気をつけてください。あ、それと〝素質あるよ〟なんて言うと地団駄を踏んで暴れ出します」

「かなり試したような口振りですわね!? 相当病んでるようですが、騎士の仕事はどうしてるのです?」

「戦いの時だけひとりでに起き上がって準備するんですよね。最近では泣きながら敵を倒すので、嘆きの騎士なんて異名が……」

「傍から見たらバーサーカー以外の何者でもありませんわね」

 

 呟きつつ、ゆっくりと扉を開けて寝室に忍び込む。光源となるものはどこにもなく、窓も分厚いカーテンに遮られていた。

 寝台の毛布は人型に盛り上がっているが、寝返りもなく微動だにしていない。

 ペレアスの顔を覗き込むと、彼は目を見開いたまま、だくだくと涙を流し続けていた。見れば、枕はぐっしょりと涙に濡れている。少なくとも一日は泣き続けたであろう具合だ。

 

「…………クソヤベーですわね」

「ど、どうですか。何とかなりそうですか」

「とりあえず泣くのをやめさせましょう。このままではミイラになってしまいます」

「おお、これで洗濯の手間が……!!」

 

 湖の乙女はペレアスの額に手のひらを乗せる。

 水を操るのは湖の乙女の得意技。体重の60%を水分で構成する人体は事も無げに操作できる。ペレアスのまぶたは閉じ、とめどなく溢れていた涙もぴたりと止まった。

 瞬間、湖の乙女の脳裏に浮かぶのは、妹の言葉。

 

〝───その人のいちばん大切なモノを壊せば良いのよ〟

 

 湖の乙女は妖しく笑う。

 

「……ええ、そうですわね」

「はい?」

 

 困惑するアルフを尻目に、彼女は眠りこけるペレアスに口づけをした。

 今度は記憶を奪うのではなく、吹き込む。幼少の頃、ともにあの湖で逢瀬を重ねたかけがえのない思い出だ。

 彼にとって一番大切なモノがエタードだというのなら、必ず壊す。あの記憶が、ほんの少し容姿が似てるだけの女に負けるはずがない。

 唖然とするアルフを引っ張って、寝室の外に出る。

 

「あの魔女を懲らしめに行きましょう。恋の妄執の恐ろしさ、教えて差し上げますわ」

「私もついていくんですか!?」

「適当に執事の格好をしておけばバレませんわ。行きますわよ!」

 

 湖の乙女は水辺から水辺へと転移することができる。現代では考えられないほどの魔術行使も、この時代と精霊の力ならば息をするほど簡単だった。

 エタードの城の間近に移動した湖の乙女は軽々と結界をすり抜け、彼女の前に立ったのである。

 

「───という訳で、あなたを分からせにきました。覚悟してください」

「テンポが良すぎませんかねえ!!?」

「黙りなさい優男。これは女と女の戦いよ」

「あ、ツッコまなくていいんですか。置物で良いんですか。じゃあ黙ってます」

「エタードの言うことを聞くんですか? あなたの主君の脳を破壊した女ですよ?」

「私にどうしろって言うんですかァァ!!」

 

 主従揃って嘆きの騎士になったアルフを尻目に、湖の乙女とエタードは向かい合う。

 

「アナタ、従者に姿を変えて私を見張ってたんでしょう? あの男と同じでストーカー気質なのね。ダサイ花冠なんて首に提げてるし。キショいわ、恥を知ったらどう?」

「あら、あなたのような恥知らずからそんな言葉が飛び出してくるとは思いませんでしたわ。簡単に股を開く尻軽女はどうやら頭も軽かったようですわね」

「アンタみたいな胸と尻にだけ栄養が行った女に言われたくないんだけど? 精霊だか何だか知らないけど、何百年も生きた割にできたことは肥え太ることだけなのかしら?」

「あなたこそドルイドの魔女の割にはヤドリギを媚薬にすることしかできない無能ですわよね? 北欧では不死の神を殺したとまで言われるヤドリギをああも無駄遣いできるなんて、あなたの家系は相当なマヌケ揃いなようで……ああ可哀想」

 

 彼女たちの額にはピキピキと青筋が立っていた。異次元の居心地の悪さを感じたアルフはへらへら笑いながら割り込んだ。

 

「では、この喧嘩は引き分けということで」

「「あ゛?」」

「ごめんなさい土下座します許してください」

 

 部屋の隅で土下座する男を背景に、湖の乙女は憎たらしい笑みを浮かべる。

 

「いつも思っていたのですけれど、あなた化粧の時間が長すぎませんか? 厚化粧は肌に悪いですわよ? 開き切った毛穴に水分を注いであげましょうか?」

 

 あまりに鋭い言葉の刃がエタードの胸に勢い良く突き刺さる。今まで体裁だけは余裕を崩さなかった彼女は、初めて笑みの上に怒気を上塗りした。

 それを目ざとく察知した湖の乙女はくすくすと微笑み、

 

「怒っているのですか? ああ、ごめんなさい、分かりませんでした。だってあなた、そんなにも化粧が濃いので表情が見えな───」

「テメェは絶対にぶっ殺す!!!」

 

 湖の乙女の言葉を遮り、エタードは哮り立った。直後、彼女は耳をつんざくような指笛を吹き、室内にいくつもの黒い影の渦が生まれる。

 その渦が形取るのは、禍々しい爪牙を誇る漆黒の狼。一瞬にして魔狼の群れを用意してみせたエタードは、高らかに笑い声を轟かせた。

 

「この子たちは私たちが先祖代々受け継いだ森に棲む魔獣! より強く速く、濃い神秘を受け継ぐように品種改良を施した特別品よ! アンタみたいに脂肪の多い肉は好みじゃないけれど、一瞬で喰い尽くすわ!!」

 

 室内を唸り声が埋め尽くす。獣性に満ちた涎が滴り、取り繕わぬ殺気が相対する二人に向けられる。

 アルフは袖の下に仕込んでいた短刀を構え、湖の乙女の前に躍り出た。

 

「くっ…! 逃げましょう、これは流石に多勢に無勢です!」

「ハッ! 私の領域に入り込んでおいてみすみす逃がすとでも!? 円卓の男を侍らす私の夢を阻もうとした報い、しっかりと受けていきなさい!!」

 

 エタードの号令とともに、従僕が飛びかかる。

 魔獣の血を色濃く残す狼にとって、人の肉や骨は紙切れも同然。噛みつかれれば最後、振り払う間もなく肉体は削り取られるだろう。

 しかし、引き裂かれる直前。湖の乙女は魔力を乗せた声で、一言命令した。

 

()()()()

 

 その瞬間、魔狼は地面に叩きつけられるように平たくつくばう。

 獰猛な魔獣は怯え震え、湖の乙女は手頃な一匹の頭をさらりと撫でた。指が触れた途端にびくりと震え上がり、抵抗する気力すら失せていた。

 

「可愛らしいですわね。よく訓練されているようで、感心いたします」

「この子たちに命令した──!? あり得ない、一匹残らず契約魔術で縛っているのに!」

「……命令? いいえ、これは召命ですわ。自然から生まれた魔獣の仔と言うのなら、より上位に立つ精霊の言うことを優先するのは当然ではなくて?」

 

 召命とは、神から召されて新しい使命を与えられることを言う。自然の触覚故に魔獣の上位存在である湖の乙女は、狼に〝おすわり〟という使命を与えて動きを止めた。つまりは契約を使命で上書きしたのだ。

 契約が真価を発揮するのは理性を持った存在同士で交わされた時に限る。なぜなら、互いが条件を認め合うという儀式を行う上で重要なのは理性だからだ。獣との一方的な契約は、絶対的な拘束力を有し得ない。もしエタードの魔獣に理性があったなら、召命は通用しなかっただろう。

 湖の乙女は恐怖に竦む狼を抱きかかえながら、にこりと笑む。

 

「で、終わりですか? 魔女を名乗るなら、奥の手のひとつやふたつは用意していますわよね?」

「ッ……当たり前よ!」

 

 エタードの腹部に刻まれた魔術刻印が光を放つ。

 ずしりと地鳴りが響き、城の床が割れる。その裂け目から覗くのは輝く双眸。瓦礫を突き破り、現れたのは多腕多眼の巨人。

 アルフは思わずへたり込み、驚愕した。

 

「なんだこの化け物!?」

「クラン・カラティン!! 女王メイヴが二十八人の兄弟を素材に生み出した怪物よ! とは言っても、私が独自に再現した模造品だけどね……アンタらを葬るには十分でしょ!」

 

 左右三本、合わせて六本の剛腕が叩きつけられる。それらは人の腕を無数に束ねたような異形をしていた。女王メイヴは二十八人の兄弟を使ったが、エタードのクラン・カラティンの犠牲となった人数は計り知れない。

 湖の乙女は超高速で迫りくる巨拳を眺めて、ため息をついた。

 

「……期待外れ」

 

 彼女は右の人差し指で円を描く。

 その途端、クラン・カラティンは前のめりに倒れた。放たれていた拳は明後日の方向に伸び、ぐったりと倒れた体は小刻みに痙攣している。

 外傷は存在しない。魔術を発動した気配もない。だというのに、その巨人は息絶えていた。

 言葉を失ったエタードに歩み寄りながら、湖の乙女は述べる。

 

「私たちは水の精霊。水の操作はお手の物。ですので、脳みその水分を沸騰させてみました。結果はこれこの通り……言う必要はありませんわね?」

 

 彼女は崩壊した瓦礫の中から化粧台を見つけると、その引き出しからヤドリギの霊薬こと媚薬を取り出す。

 

「さて。クラン・カラティンの犠牲になった人々の仇討ちをしても良いですが、あなたが知るべきは恋情の恐ろしさ。ひとつだけ魔術をかけさせていただきます」

「…………び、媚薬は?」

「私が個人的に押収します。何かに使えるかもしれませんので」

「媚薬の使い道なんてひとつしかないじゃない!?」

 

 喚き散らかすエタードの額を人差し指でなぞる。すると、彼女の瞳から光が消え失せる。目の前で指を弾くと光が点灯し、エタードは胸元を押さえてうずくまった。

 ───その人の一番大切なものを壊せば良い。……否、この女が味わうべきは一番大切なものを得るという苦痛だ。

 

「ペレアス卿を愛する呪いをかけました。ヤドリギの万能薬とて恋の病には効かないでしょうが、ええ、媚薬を使い切った頃に呪いを解いてあげますわ」

「使う気満々じゃないですか」

 

 こうして、湖の乙女による個人的な制裁は完了したのだった。

 数日後、湖の乙女との思い出を取り戻したペレアスはのそりと寝台から起き上がる。時刻は夜。腫れぼったい目を擦りながらカーテンを開けると、窓には某蜘蛛男さながらの体勢でエタードが貼り付いていた。

 ペレアスを愛する呪いをかけられたエタードはすぐさま屋敷に直行し、ストーキング行為を働いたのだ。

 ペレアスの思考は一瞬で凍りつく。十数秒して正気に目覚めると、彼は盛大に尻餅をついて絶叫した。

 

「ギャアアアアアア!! 窓に! 窓に!」

 

 名状しがたき宇宙的恐怖を目の当たりにしたペレアスは一撃で不定の狂気に陥った。直後、背後の扉が勢い良く吹き飛ぶ。

 

「どうしたのですかペレアス様っ!」

 

 目と目が合う。十数年ぶりの再会は窓に貼りつくエタードを背景にした異様な光景だった。

 ペレアスは窓枠を蹴りつけた振動でエタードを落とすと、取り繕うように振り向く。

 

「……久しぶり?」

「はい、久しぶりですわ」

「全然変わってないんだな。びっくりしたよ」

「ふふ、精霊ですから。とりあえず座りましょう?」

「そ、そうだな」

 

 二人は寝台に腰を落ち着ける。湖畔での逢瀬のように寄り添い、手の指を深く絡める。

 

「身長、すっかり追い抜かれてしまいましたわね。昔はあんなに小さかったのに」

「オレも少しは成長したってことだな。今回の黒歴史は一生悶えることになりそうだが、こんな結末なら悪くない」

 

 そうだ、とペレアスは前置きして、

 

「オレも姉さんのことが好きだよ。何か返せるものがあると良いんだが」

「名前。名前をつけてくださいませ。ヴィヴィアンでもニミュエでもなく、あなた様が好いてくれる私を表す、たったひとつの名前を」

「名前、か。そうだな……」

 

 ペレアスは思考を巡らせる。

 名前をつけるという行為はその存在の性質を規定することでもある。さらには、魔術の世界において真名を呼ばれることは魂を掴まれることと同義だ。

 無論、それらの理屈を隅に置いても名前を決めるというのは重大な出来事。間違っても気軽に行って良いことではない。

 揺れる視線が定まる。湖の乙女が首に掛けた花冠。かつて昔、ペレアスが彼女に贈ったモノだった。

 

「これ、まだ着けてたのか」

「捨てるなんて一度も考えたことはありません」

「そうか……いや、むしろ考えてみたらぴったりかもな」

「決まりましたか?」

「ああ。この花冠にちなんで───」

 

 ペレアスは湖の乙女の目を真っ直ぐ見据える。

 

「───リース」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 焚き火が火の粉を散らす。湖の乙女ことリースの語り口はますますヒートアップし、留まるところを知らなかった。

 

「そして二人は名前を呼び合い───きゃーっ! これ以上は言えませんわ! R-18ですわ! 薄い本が厚くなりますわ!」

「『言ってるようなものなんですけどね!?』」

フォウフォフォウフォウ(なにこの脳内ドピンク精霊は)

 

 ロマンとフォウくんは思わずツッコんだ。精霊に対する神秘的なイメージが完全に壊れた瞬間だ。かなりの長編を聞かされたEチームの反応は多種多様に分かれている。

 マシュは盛大に鼻血を噴き出しながら、妙に達成感のある表情で言った。

 

「大丈夫です、わたしは最後まで想像しました」

「でしょうね。鼻の穴から欲望という欲望がダダ漏れだもの。真っ赤な誓いだもの」

「これが……感情───!?」

「いつから無感情キャラになったんですかァ!? このなすびは!!」

 

 マシュの介護役に奔走するジャンヌを横目に、ノアはもったりとした目つきになっていた。それは眠気から来るものではなく、苛立ちと呆れが込められている。

 

「つーか話が長すぎだろ。主人公誰だと思ってんだ。ペレアスに興味あるやつなんてそこのアホ精霊しかいねえんだよ」

「うるせえ! お前のサーヴァントの過去話くらい文句言わずに聞いてろ! ゲスマスターが!!」

「ペレアスさん、私はなかなか興味深かったですよ。エクスカリバーに執着する理由も分かりましたし。副官の方が不憫なのはアレでしたけど」

 

 意外に高評価を述べるダンテ。しかし、彼とは裏腹に、立香は腕を組んで唸っていた。

 

「要するに、逆光源氏ですよね。それにしても、私の考察は的外れだったみたいです」

「どういうことです?」

「そういえばダンテさんはいなかったですか。ペレアスさんの勉強会をした時に、湖の乙女がわざとペレアスさんを失恋させて、傷心に付け込んでオトしたんだと思ってたんですけど……」

 

 その時、湖の乙女はあんぐりと口を開けて、

 

「その手がありましたか───!!」

「おい藤丸、こいつに閃きという名のエサを与えんな。これ以上化け物になられたら困るぞ」

「リーダーも負けず劣らずの化け物なんで一匹増えたくらい問題ないです。同類のフォウくんもそう言ってますよ」

フォウフォフォウフォフォウ(化け物の正体が人間だったパターン的に)フォフォウフォウフォウ(お前らの方が化け物だけどな)

 

 というフォウくんの主張を華麗にスルーして、ノアはロマンを指差す。

 

「ロマン、そろそろ締めろ。もう尺が限界だ」

「『ええ!? じ、じゃあ次回から心機一転、エジプトの王様目指して頑張ろう! エイエイオー!!』」

「「「………………」」」

「『誰か返事くらいしてくれェェェ!!!』」



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第52話 ファラオと名探偵とテーブル女

 ファラオの朝は早い。

 衆目に晒すに足る身だしなみを整え、意識を晴々と覚醒させる。

 仕事は山積している。自らが仕える太陽王のご機嫌取りにスフィンクスのエサやり、謁見の間の清掃と暗黒の鏡の手入れ。どれも欠かせない業務だ。

 古代エジプト文明におけるヒエラルキーの頂点、ファラオたちは為政者としてだけではなく、天上の神々と地上の人々を繋ぐ仲介者としてホルス神の化身と称されるまでの崇敬を受けていた。

 人の身でありながら神性を宿した現人神。政治と宗教を一手に司る重責を担うことこそが古代エジプトのファラオの在り方であり、王という称号とは区別される理由なのだ。

 第六特異点、獅子王が坐す聖都とは対極に位置する砂漠の地。この特異点を二分するもうひとつの勢力の拠点が、そこにあった。

 獅子王による祝福を受けた円卓の騎士たちですら、容易に手を出すことはできない。

 黄金の居城を煌々たる陽光が照らす。この砂漠を統べる王は光を戴く玉座にて、薫酒が注がれた杯を胡乱げに傾けていた。

 退屈に細まり、薄く切り開かれた目蓋から覗く瞳が宿すのは太陽の光輝。古代エジプト文明において多くが名を連ねたファラオの中でも、最大級の英雄である王の顔は倦怠感に満ちている。

 そんな倦んだ光景でさえ、彼が放つ神気は絶大。緊張感などどこにもない緩み切った姿にも、その力の粋は染み付いていた。彼は常人ならば一瞥で屈服させ得るだろう。

 という事実はいざ知らず、玉座の間に褐色の少女が走り込んでくる。彼女は荒々しく息を吐いて、無礼を承知で叫んだ。

 

「た、大変です! 城の前で何やら不敬な賊たちが〝城に入れるまで居座り続ける〟〝物売るってレベルじゃねーぞ〟などと訳の分からないことを……!!」

 

 褐色の肌に珠の汗を浮かべ、肩で息をする様子から、かなり急いできたことは間違いない。頭頂にくっついた兎耳のような魔術触媒も、心なしかふにゃりとへたれていた。

 玉座にもたれ掛かる王は僅かに居直ると、眉を静かに細める。

 

「そう慌てるなニトクリス。普段なら容赦なく殺していたところだが、幸運なことに余は暇だ。無聊の慰めとして奴らの命を使い潰すには悪くなかろう。全員縛って連れて来るがよい」

「そ、それが、奴らの中にはサーヴァントがおりまして、追い返そうにも追い返せず……逆に返り討ちにされたと言いますか……」

「ほう。おまえは賊如きに叩き返された挙句、ここに逃げ込んできたと。ファラオの名を貶める行為である。後でスフィンクスの肉球地獄の刑に処すが故、覚悟しておけ」

「どんなに屈強な戦士もひとり残らず天上へ送ったと言われる悪夢の刑ですか……!? くっ、甘んじて受けさせていただきます!」

「生き残れるか否か、見物だな。せいぜい足掻いてみせろ」

 

 ニトクリスと呼ばれた少女は顔色を真っ青にして震えた。適度な暖かさと雲のような感触を併せ持ったスフィンクスの肉球は、如何な人間も腑抜けにする魅了効果を秘めている。ニトクリスの戦慄もやむなしであろう。

 王は手元に曇った鏡を出現させる。魔力の灯を込めると、くすんだ鏡面は澄み渡り、元の輝きを取り戻した。

 ただし、鏡が写し出すのは王の顔ではなく城外の光景。そこには相変わらずのアホ面を晒す、とあるマスター二人と思い思いに時間を潰すサーヴァントたちがたむろしている。

 

「ふん、古今東西の愚か者を集めたような連中だ。壊しても代わりが効くという点では救いはあるがな。さて……」

 

 そこで、王はひとりの男を見て表情を強張らせた。それは王を注視していたニトクリスですら違和感を覚える程度の変化だったが、次に彼が取る表情は誰の目にも明らかだった。

 

「存外、あるではないか。路傍の石の中にも輝く宝玉が」

 

 緩やかに弧を描く唇。標的を見据える瞳は喜色をたたえ、光を深める。

 

「───アーラシュ。東方の大英雄よ」

 

 そして、数分後。

 王からの命令を受けたニトクリスは全速力で城の前まで疾走し、アホ共を玉座の間まで案内することになった。王の機嫌次第ではとうに抹殺されていてもおかしくない状況だが、悪運には愛されているらしい。

 息を切らして辿り着いた先で見たのは、さながらデモ隊の様相で待ち構えるノアたちだった。いつの間に作り出したのか、手持ち看板や横断幕を掲げる彼らはニトクリスの姿を認めると、一挙に騒ぎ立てる。

 ノアは拡声器を持ち出して、けたたましい大声を飛ばす。

 

「ようやく出てきやがったな死体操り女が! こちとら世界救うために戦ってやってんだ、さっさと親玉を出せ!」

「黙りなさい無礼者! 貴方たちのせいで私はスフィンクスの肉球地獄に放り込まれることになったのですよ!? あのプニプニに囲まれると思うと、今から恐ろしい……っ!」

「それただのご褒美だろ!! 俺だってそんな地獄があったら行きたいに決まってんだろうが!! 肉球に囲まれるためなら三千世界の鴉もブチ殺してやるよ!」

「自ら堕落の道を志すとは、見下げ果てた精神ですね! カラスに謝りなさい! ついでに私にも! そしてファラオを崇め奉りなさい!!」

「俺は他人に謝らせたことはあっても謝ったことはねえんだよ。ファラオなんて人間の無防備な後頭部見んのが生き甲斐だろ」

「急に冷静になってクズ発言するのやめてくれます!?」

 

 ニトクリスは目を見開いて叫んだ。ファラオの風格はどこへやら、周囲から同情を含んだ冷たい視線の雨あられが降り注ぐ。

 どことなく苦労人の雰囲気を感じ取った立香(りつか)はノアの手から拡声器をもぎ取った。

 

「肉球は良いとして、王様にはまだ会えそうにないんですか? 」

「そ、そうでした……こほん! 寛大なるファラオは貴方たちとの謁見をお許しになられました! 感謝感激の極みを心に刻みながらついてくるように!」

 

 ニトクリスは瞳をぐるぐるとさせながら宣言した。そうしていじけたように踵を返して、玉座の間まで歩いていく。

 デモ隊は粛々と撤収すると、ニトクリスの後を追った。その途中、ノアはしてやったり顔で小さく笑う。

 

「ファラオとやらもようやく俺たちの価値を理解したようだな。まあ、それもこれも俺の才覚が導いた結果だが」

「おっと、各種道具を用意したダ・ヴィンチちゃんのことも忘れないでくれよ? 天才の手にかかれば諸葛孔明も三度と言わず一礼でオトせるからね!」

「もう二人を天才と思ってる人はいないですけどね。バカのデュエットですからね」

「『そもそも三顧の礼は目上が格下を訪ねる話だからね? むしろこっちが下というか……』」

「は? ファラオだろうが何だろうが俺の方が上に決まってんだろ」

フォウフォフォウフォフォウ(お前絶対ファラオの前で喋るなよ)

 

 一連の会話を背中で聞いていたニトクリスはビキビキと青筋を立てていた。世が世なら処刑も当然な言動である。

 そんな人間たちを迎え入れるという、妙に都合の良い展開に不信感を覚えたマシュは眉根を寄せて囁く。

 

「いきなり手のひらを返してきましたね。こういう時は大抵ろくなことにならない気がします」

「今すでにろくでもない状況だと思うけど? 呂布の最期みたいにならないことを祈るばかりだわ」

「ふふふ、そんなに心配することはありませんよ、お二人とも」

 

 マシュとジャンヌは何やら自信有りげなダンテに目線を合わせる。彼はニヤリと口角を吊り上げて、

 

「なぜなら私たちには暗殺教団の教主や円卓の騎士、かの三蔵法師に加えてアーラシュさんまでいるのです! たとえどんな罠が待ち受けていようと恐れるに足りません!」

「いや、お前は? 交渉術くらい心得てるだろ」

「ペレアスさん。今更私に何かできるとでもお思いで? 私が政治家人生で学んだことは人の靴を舐めることと土下座だけですよ?」

「そんなんでよくフィレンツェの統領になれたわね!? アンタが口を開くたびに株が下がってるじゃない!」

 

 ジャンヌは思わずツッコミを入れた。ダンテのストップ安は今に始まったことではないが、それにしてもあんまりな体験談であった。

 思うところがあるのか、べディヴィエールはいたたまれない様子になった。彼を尻目に、静謐のハサンは遠慮がちに切り出す。

 

「その……どうして私の毒は立香さんには効かなかったのでしょうか。幼い頃から日常的に毒を摂取していた経験がおありで?」

「そんなゾルディック家みたいな殺伐とした家庭じゃないですよ!? うっかりしてカビが生えた麦茶を飲んだことはありますけど!」

「カビを含んだことなら私もあります。食道に残る異物感と胃が蠢く感じが何とも不快、ですよね?」

「まさか共感されるとは思わなかった……でも、どういうことなんですかね? もしかして私の隠れた才能が芽吹いちゃいました?」

 

 そう言ってノアに向くが、難しい顔をするばかりで答えはしなかった。それに対して返答したのは、意外にもロマン。彼は顎に手を当てながら言う。

 

「『もしかしたら、マシュと契約した影響かもしれない。マシュに憑依した英霊の力がパスを通じて流れ込んでる、とかね。デミサーヴァントと人間は立香ちゃんが史上初だから、そういったイレギュラーも起こり得るだろう』」

「おお、そう言われるとかっこいい気がする……マシュと私の友情パワーが成せる業ってことだね!」

「はい、わたしと先輩は一心同体です。しかも海賊ゴム人間然り、地上最強の生物の息子然り、毒が効かないのは主人公の特権と言えるでしょう」

 

 それに頷いたのはアーラシュだった。

 

「確かに、毒が効かないってのは良いこと尽くめだ。気にせず食事ができるし、毒味役が死ななくて済むからな」

 

 彼はその弓の腕もさることながら、肉体の頑強さも飛び抜けている。

 アーラシュは神秘が薄れていた当時のペルシャにありながら、神代の肉体を持ったイレギュラー中のイレギュラーだ。普通の人間にとっての致死量の毒は彼には微々たる影響も与えない。

 しかし、三蔵法師は風圧が届くほど高速で首を横に振った。

 

「いいえ毒を侮っちゃダメよ、特にキノコ! 御仏だってキノコに当たって入滅したんだから! しっかり火を入れてよく噛んで食べなさい!」

「『あの、途中から話が変わってます』」

フォフォウフォフォウ(しかも結局食べるのかよ)

 

 仏教の祖である目覚めた人の死因の一説として、キノコを食べたことによる食中毒が挙げられる。ガチガチの仏教徒の三蔵にとって、毒には敏感にならざるを得ないのだろう。

 ノアは思考を巡らせる。立香に静謐の毒が効かなかった理由はあくまでロマンの推測に過ぎない。が、それを正しいとするのであれば、考えるべきことはひとつだ。

 

「キリエライトに憑依した英霊ってのはどこのどいつだ? 毒に強くて盾に縁があるやつなんてそうそういねえだろ。なあペレアス?」

 

 急に話を振られたペレアスはぎくりと痺れた。彼はわざとらしい口振りと大げさな身振りで頭を抱える。

 

「ああそうだな、全く見当もつかねえ。くそ、マシュちゃんに憑依してる英霊は一体誰なんだ! 頭の良いお前にだって分からないだろべディヴィエール!!?」

「……えっ!? そ、そうですね! 相当格の高い英霊には違いないでしょうが!」

 

 泡を食って答える二人をノアは冷ややかな眼差しで見つめていた。隠し事をしていることが露呈している。ベイリンは真紅の甲冑の奥で嘲り気味に鼻を鳴らした。

 

「誰だろうが変人なことには変わりないだろう。手に持ってる道具からしてな。それでよくここまで戦い抜けたものだ」

 

 マシュの心臓に言葉の槍が突き刺さる。

 彼女は口元をひくつかせながら殺気に溢れた笑顔を形作る。表情とは裏腹にどっしりと盾を構える様子は臨戦態勢そのものだった。

 

「あなたが何を知っているのかは知りませんが、この盾を揶揄することだけは許しません! 今ここでタイマン張っても良いですが……!?」

「貴様と私がか? やめておけ、貴様は守る者だ。仲間がいないと真価を発揮できない類の人間だろう。まあ、その盾とやらでできるのは茶会くらいだろうがな」

「茶会? この盾をテーブルか何かだと勘違いしているのですか? 断言しておきましょう、これは盾であってそれ以上でもそれ以下でもありません!! もし違っていたら一日中なすびの着ぐるみで過ごします!」

「それほぼノーダメージじゃない?」

 

 立香は冷静に指摘した。マシュがなすびのコスプレをしたところでなすびの上塗りでしかない。紫色に紫色を重ねるように、ただ深みが増すだけだ。

 思うところがありすぎるペレアスとべディヴィエールはだらだらと冷や汗を流しながら、消え入るような声で言った。

 

「「…………なんか、ごめんなさい」」

「どうしておまえらが謝ってんだ」

「とりあえず謝っておけばどうにかなりますからねえ」

「アンタはどうかしてますけどね」

 

 そこで、ニトクリスは足を止める。

 カルデア一行の前に立ちはだかるのは物々しい重厚な入り口。ニトクリスは全身からなけなしの威厳をかき集め、杖で床を突いた。

 

「この先に砂漠を統治される太陽王がおられます! くれぐれも! くれぐれも失礼のないように!!」

 

 彼女の眼は執拗にノアを睨んでいた。しかし図太さにかけてはカルデア最強のEチームリーダーは立香に向かって、

 

「分かったな、藤丸。礼儀の欠片もないおまえのことだ、気をつけろよ」

「存在自体が無礼なリーダーに言われたくありません」

「人が心配してやってるのになんだその言い草は? リーダーの御厚意はありがたく受け取っておけ」

「……私のことを心配してくれるなら、悪い気はしないですけど」

 

 というやり取りを経て、一行は玉座の間に足を踏み入れる。

 最初に目に飛び込んできたのは光。柔らかく降り注ぐ暖かな光だった。だが、直後に襲うのは体の芯を打ち据えるかのような威圧感。その源は王座で不敵な笑みを浮かべる太陽王だった。

 一行も王を名乗るサーヴァントは幾人か見てきたが、彼はその誰よりも異質。太陽の紅炎の如く果てしない輝きを秘めた瞳は、一切の虚妄の存在をも許さなかった。

 王は当然のように一行を見下して、ニトクリスとは比べ物にならない圧を発する。

 

「ファラオ・オジマンディアスである。平伏せよ、カルデアより来たりし使者たちよ」

 

 王からの命令はこの地において何よりも優先されるべき、絶対的な要求だ。オジマンディアスの胸先三寸でどうとでもなるこの状況、無視する選択肢はありえない。

 Eチームの反応は各人各様だった。立香やマシュ、ペレアスはすごすごと体勢を低くするのに対して、ノアとジャンヌは直立不動を保っていた。

 一番早く動いたのはダンテ。王の言葉に食い気味で額を床に擦り付け、見事な土下座を完成させる。指先をきっちりと揃え、背中を水平にしたその土下座はコク、キレ、喉越し、どれをとっても完璧な芸術品である。

 オジマンディアスは満足気に唇を歪めた。

 

「……中々見込みがある者がいるではないか。面を上げよ、余に名を告げることを許す」

「ダンテ・アリギエーリと申します、ファラオよ。この土下座に免じて、仲間たちの不敬をお許しください。何でしたら靴も舐めますので」

「人間の舌で靴を磨く趣味はない……が、貴様が無様を晒すのは面白そうだ。ニトクリス、後で余のサンダルを持って来い」

「えぇ……は、はい!」

 

 この場の誰もが引いた空気の中、ダンテは後ろを振り返って盛大なしたり顔を向ける。

 

「見ましたか皆さん、これが土下座の力です……!!」

 

 立香たちは興奮した様子で拳を握って、

 

「す、すごい! あんなに人間の尊厳を捨てられるなんて!!」

「人はどこまでも惨めになれるんですね」

「もはや泣けてきたわ……大の大人の土下座ってあそこまで醜いのね」

「この特異点で初めてあいつが役に立ったな。やればできるじゃねえか」

「おい、あいつは腐っても世界三大詩人だぞ!? こんなことが知られたら関係各所に怒られる未来しか見えねえよ!」

 

 Eチームは一瞬にして沸き立つ。数々の地獄を潜り抜け、現世に帰還したダンテにはこの程度の苦痛はとうに無いも同然だった。

 オジマンディアスは騒然とする彼らを手振りひとつで諌める。

 

「貴様らがなぜここを訪れたのかは知っている。これまで五つの特異点を修復してきたということもな。アホ面の間抜け揃いの割には良くやるようだ」

「随分と話が早いじゃねえか。聖杯を持ってんのはおまえか?」

 

 敬意の欠片もない言い草をするノアに、オジマンディアスは横を向いて一言告げた。

 

「ニトクリス」

「ハッ! 出ませい!!」

 

 ニトクリスの掛け声とともに、どこからともなく射出された死霊がノアの上半身に突き刺さった。そこから流れるようにマウントポジションに移行すると、拳の雨を降らせる。

 凄惨な暴行現場を眺めつつ、オジマンディアスは右の掌中に黄金の杯を浮かび上がらせた。

 それを見て立香たちは喫驚する。王が持つ黄金の杯こそはカルデアが求める特異点の歪みの根源、聖杯であるからだ。

 

「これは十字軍から奪った代物だ。貴様らの用件とはすなわち、聖杯の在り処と獅子王に対する共同戦線の要請であろう」

 

 一行の思惑はすでに余す所なく見抜かれていた。聖杯がオジマンディアスの手にある以上、両者の立場はより明確になっている。

 ダンテは動揺を微塵も明かさず頷いた。

 

「王の慧眼、お見逸れ致します。我々は太陽王の威光をただ借り受けようとは思っていません。それなりの勝算を立てた上でやって参りました。……立香さん」

「そ、そうです! 結構ノリの良い初代ハサンのお爺ちゃんがアトラス院に行けば協力してくれるって言ってました!」

「証拠にわたしが手作りした巨大しゃもじを置いてきた画像も……」

「アンタは黙ってなさい」

 

 初代ハサンとの共闘の約束を取り付けたことを聞き、オジマンディアスは笑みを深める。

 

「謙遜をするな、詩人よ。初代山の翁の協力を取り付けたとなれば、勝算はそれなりでは済まぬぞ。それに、後ろに控える者の中には東方の勇者まで揃えているのだからな」

 

 彼の視線はEチームの後方を射止めた。途中でノアにマウントを取る死霊を引き剥がそうと悪戦苦闘するべディヴィエールが映るが、王は華麗にスルーした。

 東方の勇者と言われれば、この場で当てはまるサーヴァントは限られている。三蔵は照れくさそうに頬を指先で掻く。

 

「えっ、もしかしてあたし?」

「貴様ではないすっ込んでいろ尼僧。自意識過剰はこのファラオだけが持ち得る特権だ」

「ひ、ひどーい! あたしだって頑張って天竺までお経集めに行ったのに! しっかり修行して悟ったのに!!」

「それじゃあ、俺のことか? エジプトの王様に知られてるとは嬉しいぜ。どこかで会ったことでもあるか?」

 

 アーラシュの問いを受けて、オジマンディアスは眼を細める。

 

「───無い。おそらくはな。だが、貴様のような勇者は余の好みだ。壁にサインを残すことを許そう」

「……ヒエログリフで俺の名前はどうやって書くんだ?」

「気にするところはそこなんですかねえ!?」

「と、とにかくオジマンディアスさんは私たちに協力してくれるんですか?」

 

 王は立香の言葉に頷き返す。

 

「共闘の件については受諾しよう。だが、貴様らはそれだけでは納得すまい。聖杯を手に入れねばたとえ獅子王を討ち果たしたとして、勝ったとは言えんのだからな」

「つ、つまり?」

「余を打ち負かし、聖杯を奪ってみせよ! 人理を救う勇者たる器量を神王の前に示すのだ! 端的に言えば決闘である!!」

「終わった、私の活躍の機会が───!!」

 

 ダンテは絶望した。神王オジマンディアスとの決闘、化け物が入り乱れる戦いで一介の詩人が活躍できようはずもない。できることと言えば解説役くらいなものだ。

 彼がすごすごと引き下がろうとした時、赤い影が横を通り抜け、突風が頬を撫でる。

 反射的に振り向いた瞬間、ベイリンは二刀を以って玉座ごとオジマンディアスを斬り倒していた。

 ペレアスはムンクの叫びのようなポーズで叫ぶ。

 

「ちょっ……何やってんだァァァ!! まだ始まってないのにいきなりファラオ斬り殺してどうすんだ! アンタ本当に騎士か!?」

「生温いぞ、ペレアス。戦う意志を表明した瞬間、それは開戦の号砲となる。私はそのルールに従ったまでだ」

「なんだその自分ルール!? 騎士道という共通の尺度に従えよ! 他所の王様でもファラオだぞ、殺してどうす───」

「───誰が死んだと?」

 

 朗々と響く声。直前、間髪入れずにベイリンは大きく後方に跳び去った。本能と理性が一体化した思考を持つベイリンには、戦闘における迷いは存在しない。

 裏を返せば、それはベイリンに撤退の選択肢を選ばせたということでもあり。

 オジマンディアスは何事もなかったかのように起き上がる。切り裂かれたはずの体は傷ひとつなく、血痕すらも残っていなかった。ベイリンの斬撃を喰らって、血の一滴も流すことはなかったのだ。

 王はごきりと首を鳴らし、聖杯を持ち上げる。

 

「我が神殿の内では王は不滅!! 正真正銘の不死だ! たとえ最強の聖剣であろうが余の命を断つことはできぬ!!」

 

 その宣言の直後、オジマンディアスの足元にニトクリスが放った死霊が突き刺さる。頭頂から腰までを地面に埋めたソレは、ぴくぴくと痙攣を繰り返していた。

 死霊と格闘していたノアは乱れた衣服を直しながら、オジマンディアスを睨みつける。

 

「不死だと? そんなもんは俺たちにとっちゃアドバンテージになるどころか弱点そのものだ。降参するなら今の内だぞ」

「でも、ヤドリギなんて使ったら殺しちゃうかもしれないんじゃないですか?」

「然り。不死と不死殺しが相見えれば待ち受けるのは殺し合いだ。それは双方が望むところではない。故に見せてやろう、最高神の御姿を!!」

 

 オジマンディアスは金の小刀を取り出し、左の手のひらを浅く裂く。滴る鮮血を聖杯が受け止めたその時、目も眩むような閃光が辺りを包んだ。

 そして現れるのは、黄金の尖塔。表面に無数の眼球を群生させた悪魔───魔神柱が、顕現していた。

 元の姿など見る影もない存在に変貌を成し遂げた王は、高らかに笑いながら言い放つ。

 

「これぞアモン・ラー!! キリスト教に堕落させられた悪魔などとは一線を画す、太陽を司りし最高神! ファラオの威光を畏れよ!!」

「……だとよ。どうだ、藤丸?」

「畏れるに足りませんね! 私が知ってるファラオはヒトデみたいな頭した闇のゲームプレイヤーなんで!」

「だとしても、わたしたちがマインドクラッシュされることはありえません!」

 

 アモン・ラーとはエジプトの神、アモンとラーが習合したことで産まれた存在。

 ファラオは太陽神ラーの化身ともされていた。アモンもまたエジプトの神々の王であり、キリスト教ではソロモン七十二柱の七番目に位置する地獄の侯爵と解釈されている。

 ラーの化身であるファラオがその身にアモンを召喚した結果、起きたのは擬似的な習合。唯一神の手先に貶められる前の、最高神たる神性を宿した魔神柱がここにカタチを成したのだ。

 オジマンディアスことアモン・ラーは勝ち気に声を発する。

 

「ククク、その威勢がいつまで保つか見物だなァ! 決闘(デュエル)開始の宣言をしろ、ニトクリス!」

「デュ、決闘(デュエル)開始ィーッ!!」

 

 当然のように先攻を取ったのはアモン・ラー。全身の光を束ね、一本の巨大な槍として撃ち放つ。それは、サーヴァント数体を一度に屠り得る膨大な熱を秘めていた。

 しかし、ここには今まで数々の窮地を凌いできたマシュという名の盾が在る。

 彼女は僅かに盾を後ろに倒し、光条を上方へ受け流した。反射した光の槍は天井を撃ち抜き、風通しを良くしてしまう。

 ペレアスはノアのお手製の剣を抜き放つ。

 

「オレの剣の切れ味は過去最高だ! 行くぞ!」

 

 そう言って駆け出そうとする彼の首を、ノアが掴んで止める。その際にごしゃりと鳴ってはいけない音が鳴った気がしたが、些細な問題である。

 

「その剣で斬りかかんじゃねえ。不死身の半神を斬り殺した代物だぞ。今のオジマンディアスにはぶっ刺さりすぎてんだよ。とりあえずそれ置いてけ」

「待て、オレこれ以外に剣なんて持ってないんだが。……先輩、アンタの剣片方貸してくれ」

「断る。元はと言えば貴様が私の宝具を壊したのが悪い。左手になまくらを握らねばならぬ私の気持ちも考えろ」

「あの聖剣呪われてただろうが! だったらなまくらの方がいくらかマシだろ!」

「まあ、どれもこれもやんちゃな私の妹が悪いんですけどね」

 

 という笑えない精霊ブラックジョークが飛んできたところで、ジャンヌは腰に佩いた剣を鞘ごとペレアスに投げ渡した。

 

「貸すのは二度目だけど、今回もきちんと返しなさいよ。刃こぼれなんてさせようものなら怒りますから」

「ああ、任せろ。言っちゃなんだが、円卓の騎士で一番剣を折ったのはオレだからな! 丁重に扱う術は心得てるぜ!」

 

 べディヴィエールは頷いて、

 

「確かに、ペレアス卿が同じ剣を持っているところを見た覚えがないですね。円卓の騎士に就任した時に貰った儀礼剣はどうしたのです?」

「あー……あれか。寝室に飾ってたら嫁が放つ湿気で錆びてたな。水の精霊ナメてた」

「まさか私の水気があそこまでとは思いませんでしたわ」

「…………王には内緒にしておきますね。色々と」

「アホなこと言ってないで構えなさい! あのファラオをぎゃふんと言わせるわよ!」

 

 ジャンヌは旗の穂先でペレアスの尻をべしりと叩く。その勢いのままに飛び出す彼に続いて、一斉にサーヴァントたちが追随した。

 

「多勢に無勢だ、いっけぇ!!」

 

 矢、拳、剣、炎、果ては毒───これら全てを一度に叩き込まれながらも、アモン・ラーは揺るがなかった。それどころか、一層体表の輝きを増して反撃の光条を迸らせる。

 激しい戦闘の風景を眺めるのは司令塔であるマスター二人と、土下座で力を使い果たしたダンテだった。彼は赤いコートの裡からハンカチを出して、額の汗を拭く。

 

「ふう……成し遂げましたね。後は私はバトルの解説役に専念します」

「おい、こいつにガンド撃て。俺が許す」

「撃たないですよ? というか私たち、ここで見てるだけで良いんですか。勇者だって認められないといけないみたいですし……マスターとサーヴァントの役割分担は分かりますけど」

「だったらそれで良い。俺たちの仕事は死なないことだ。前に出る必要はない」

 

 だが、とノアは不敵に笑む。

 

「それでファラオにナメられんのは俺の沽券に関わる。とっておきの魔術をぶっぱなすぞ」

「ついに来てしまいましたか、私の修行の成果を見せる時が!」

「え? 何のことです? 私は?」

「「…………」」

 

 と、くだらないやり取りをしている最中にも、サーヴァントたちは激闘を繰り広げていた。

 絶え間なく空を走り、地を舐める熱線。ひとつひとつが宝具にも匹敵する威力でありながら、その手数は無尽。投網の如く襲い来る光条を潜り抜け、ベイリンとペレアスは黄金の魔神柱に斬撃を浴びせる。

 さらにはアーラシュによる矢の雨、ジャンヌの炎が命中するが、アモン・ラーは苦悶の声ひとつあげることはない。泥沼に剣を打ち込むような不毛さを味わっていると、ニトクリスはおずおずと提案した。

 

「要らぬことと存じますが、私も加勢致しましょうか? その、端から見てると形状も相まって、盛大なサンドバッグにされてるようにしか見えな……」

「不要だ! 向かい来る敵の何もかもを受け止め、粉砕することこそがファラオの戦いよ! この程度のダイレクトアタックで余のライフポイントを削り切れると思うてかァーッ!!」

 

 彼が発した威勢とともに、いくつもの閃光の爆発が巻き起こる。それは自らをも巻き込むような攻撃だったが、アモン・ラーの果てしない耐久力の前には微々たる影響だ。

 ジャンヌは好戦的に唇の端を吊り上げる。

 

「それって要は痩せ我慢でしょ。案外底は浅いと見たわ!」

 

 彼女は旗を振り上げる。竜の魔女の所以たる黒炎が舞い上がり、数十もの赤熱した鉄杭がその穂先を金色の巨塔へ差し向けた。

 漆黒の炎と捻くれた鉄の杭が魔神柱と化したオジマンディアスに殺到する。莫大な熱の波濤が到達する寸前、彼は言う。

 

「───ならば、この身が底とやらをその目に刻め」

 

 瞬間、アモン・ラーの五体より鮮やかな赤炎が破裂する。

 黒炎を真っ向から食い破ったそれは勢い衰えず、猛然と直進した。

 

「『疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』!!」

 

 マシュの体は思考を挟まず、勝手に動いていた。この炎を素通りさせれば全滅は免れない───確信に近い予感のままに。

 白き円盾が赤き輝炎を防ぎ切ったその向こう、灼然と佇むアモン・ラーは歌い上げるように言の葉を紡ぐ。

 

「『太陽神の火(ラー・レケフー)』。魔神柱如きには到達し得ぬ神性を宿した火よ。これは天上に座す太陽より零れ落ちた欠片と知れ」

 

 燃え盛る巨体から放たれる熱気によって、周囲の石が次々と砂へと崩れ落ちる。

 ジャンヌの炎とはまるで対極。神性と聖性が赤き炎として現世に現れた

 ダ・ヴィンチは眼鏡越しにその炎を観測し、高揚を隠し切れない面持ちで唸った。

 

「あの霊基で再現できる限界ではあるが、アレは確かにラーの火と言っても相違ないね。魔神柱アモンの性質を塗り潰し、飼い慣らすほどの神性とは、流石ラーの子孫と謳われたファラオだ」

「そう、オジマンディアス様はすごいのです! 我々ファラオは神の化身とは言えど、こんな芸当を実現できるのはオジマンディアス様をおいて他にはいないでしょう! 私にはできません!」

「段々あの子が不憫に思えてきたぜ……」

 

 アーラシュがぼやいたその裏で、湖の乙女は某黄色電撃ネズミのようなしわしわ顔になる。

 

「乾燥しすぎててクソつれーですわ……今の私にこの陽気はミイラになれと言っているようなものです」

「そう言うと思って、霧吹きを用意してあります。わたしは先輩のデキる後輩なので」

「あぁ〜生き返りますわ! いっそバケツごと持ってきてくださいませ!!」

フォフォウフォウフォフォウ(こいつもう黙ってた方がいいんじゃねえか)?」

 

 マシュは盾の中に隠していた霧吹きを湖の乙女に吹きかける。さながらサボテンの水やりだ。

 赤き火が地面を砕き、放射される。サーヴァントたちは散り散りにそれを回避し、アーラシュは空中で矢を放つが、炎の前に炭と化してしまう。

 ベイリンは左の剣を逆手に持つと、槍投げの要領でアモン・ラーに投擲した。空気を裂いて飛翔する刃はしかし、ラーの火に触れた途端に跡形もなく蒸発する。

 それを見て、ベイリンは舌打ちした。

 

「攻防一体と言う訳か。小癪な」

「まずはあの炎をどうにかしなきゃならないのか。アンタは策とかあるか?」

「策と呼べるモノではないが、ひとつある。上手く当てれば一撃で決着がつくだろう。……だが」

 

 ベイリンは後方を流し見る。

 真紅の兜から覗く眼光を受け、ゲンドゥルの杖を構えるノアは獰猛に答えた。

 

「───ああ、いらねえ。おまえらは指咥えて眺めてろ!」

 

 彼は勢い良く右足を踏む。すると、色とりどりの光芒が円陣を描いて放射状に広がった。それらは一切がルーン文字で構成された紋様であり、破格の魔力を秘めている。

 立香はその横で、拙いながらも魔力を乗せた言霊を唄う。その声は日本語でも英語でもなく、古代北欧のルーンに定められた特別な韻律を紡ぎ上げていた。

 ルーン文字は書くだけでなく、発声することで効果を発揮させることもできる。北欧においてはガルドルと呼ばれた魔術であり、(まじな)い歌の一種だ。

 しかして、ガルドルは魔術を発動するための道具に過ぎない。

 ───セイズという魔術がある。

 古ノルド語で魔術の一種を表す言葉。その効果は多岐に渡るが、神霊や精霊をその身に喚び出す降霊・召喚術としての側面が強い。

 セイズはヴァイキングの間で広まり、その使い手のほとんどが女性であった。キリスト教で魔女と悪魔が結び付けられたように、日本で巫女が神事に通じたように、降霊術は女性の領分であったのだ。

 言霊が流れていくのにつれて、ルーンの紋様がゲンドゥルの杖の先に収束する。

 魔術師としては並の才能、並の魔力しか持たぬ立香でも、セイズを使った補助ならば十分以上に役割を遂行できる。

 その魔術の本質を見抜いたのはアモン・ラーと化したオジマンディアス。魔神柱の体では表現し得ぬ微笑をたたえた。

 

「……なるほど、考えたな。それならば、現代の魔術師であろうと古き時代の神秘を扱えよう」

 

 セイズとは降霊術。

 ならば、喚び出すのは。

 

「───『大神刻印(マトリクス・オーダイン)』……!!」

 

 ノアは目眩く魔力の砲撃を解き放つ。

 原初のルーンを媒介とした、オーディンの神秘宿りし一撃。

 オジマンディアスがラーの神性を利用するというのなら、彼らはオーディンの神秘を叩きつける。

 十八の原初のルーンを注ぎ込んだ射撃はラーの火による迎撃にすり減らされながらも、魔神柱の巨体に直撃した。

 それと同時、アモン・ラーの体表から『太陽神の火』が消え失せる。

 原初のルーン十八全ての同時解放、『大神刻印』。これは敵の魔力を利用した強化、攻撃、宝具さえも一時的に停止させるルーンの秘法。

 攻防一体の火が失われたその時、動いたのはジャンヌと三蔵。彼女らは示し合わせたように、宝具を解放した。

 

「『五行山・釈迦如来掌』!!」

 

 覚者の力の一端を引き出した掌底と、

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 邪竜の咆哮に等しき魔炎の開華。

 聖邪相乱れる一撃に晒され、アモン・ラー改めオジマンディアスは、

 

「認めざるを得んな、お前たちは強い。あくまで本気は出していないがな! 手加減をした余によくぞ勝ったと褒めてやる!!」

「この期に及んで負け惜しみ言ってんじゃねえ!!」

 

 そうして、ファラオとの決闘は終結した。

 その後、見るも無残に崩壊した神殿を修復するため、ニトクリスが使役する死霊による修復作業が行われた。死霊たちはヘルメットに作業服という、安全に配慮した格好をしている。

 死んでいるのに安全に配慮する意味はあるのか。立香はそんな疑問を抱いたが、それを言ったノアが角材で突かれているのを見て口を噤んだ。

 とんてんかんとお手本のような工事音が鳴り響く最中。オジマンディアスはテープで貼り付けただけの雑な補修を施された玉座に座りながら、Eチームに言いつけた。

 

「しばらく体を休めた後、貴様らはアトラス院を目指せ。場所は伝えておく。他のサーヴァントは待機させよ」

「アトラス院には私も行くからね。魔術師たちの知識の蔵……これはダ・ヴィンチちゃんとしては行くしかない!」

「それは大歓迎ですけど、急ぎすぎてないですか? ここは安全なんですよね?」

 

 立香の問いに、オジマンディアスは傲岸に答える。

 

「少しは頭を使え、小娘。ラモラックとやらに唆されて我が城を訪れたのだろう。聖都に貴様らの動向は筒抜けだ。獅子王は既に軍を動かしているだろう」

「呑気にしている暇はない、ということですねえ。ここに来るまでにも日を費やしましたので、聖都の刃は喉元に迫っているかもしれません」

「アグラヴェインがいるってならそうだろうな。あいつは行動するのに迷いがなければ容赦もない。こういう勘の良さに関しては図抜けてる」

 

 立香たちはこくりと頷いた。

 武勇に関する逸話は少ないアグラヴェインだが、いち早くランスロットとギネヴィアの不義を見抜いたことからしても、その眼の鋭さは確かだ。結果的にその勘の良さが彼の最期を招いてしまったが、最強の騎士ランスロットを相手にしては分が悪いと言えるだろう。

 円卓の騎士の司令塔でもある彼の動向は、相対するカルデアにとって最重要事項のひとつである。

 Eチームを除いたサーヴァントを残していくのも、この砂の聖地を防衛するため。もはや二つの勢力を残すのみとなったこの地で、口約束の不可侵条約ほど頼りないものはない。

 マシュは巨大な木材からしゃもじ状のしゃもじを削り出しながら、

 

「いよいよ決戦が近くなってきましたね。アトラス院ではどんな晩ごはんが待っているのでしょう」

フォフォフォウフォウ(もうツッコまねえぞ)

「リーダー、最近マシュのキャラが迷走してる気がします」

「今に始まったことじゃねえだろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなこんなで、アトラス院。

 アトラス院とは時計塔に並ぶ魔術協会の三大部門のひとつ。天才だけが入門を許される禁忌の穴倉。錬金術を特色として、人類の滅びを一分一秒でも遅らせるという目的の下に設立された組織だ。

 その点、組織理念としてはカルデアの先駆者に当たる。が、閉鎖的な体制から他の部門との交流は途絶えて久しく、その研究成果が外部に漏れぬことを徹底している。

 なぜなら、アトラス院はその知識を外部に流出させないための構造を持っている。地下深くに広がる広大な迷宮は複雑極まり、二又の分かれ道が振り返れば三本に分かれていることなどザラだ。

 ……という情報を事前にカルデアから受け取っていたEチームだが、

 

「ああ? 俺を誰だと思ってんだ、俺だぞ。アトラス院の連中がどれほどの天才だとしても、俺以下なのは間違いねえからな」

「うん、イケるイケる。迷ったら迷ったでその時考えよう。大丈夫、いざとなれば天井をブチ抜いて脱出すればいいから!」

「『し、心配すぎる……!!』」

 

 という、天才たちの判断によって特に策を持たずに突入することになった。アトラス院の内部は通信が通じないことが予想されているため、待ち続けるしかないロマンの胃は崩壊寸前を迎えていた。

 弱々しい灯明が点々と続く薄暗い道。人影はひとつもなく、冷然たる雰囲気だけが延々と漂っている。

 江戸時代、人々の無知や恐怖から多くの妖怪が生まれたように、見知らぬ不気味な場所は後ろ暗い思考を掻き立てるものだ。

 それにまんまとハマり、在りし日のホラー番組を見て夜眠れなくなった状態になった立香は無意識に指先でノアの袖を手繰り寄せた。

 

「な、なんか気味が悪い場所ですね。真っ直ぐ進んでるはずなのに曲がってる感じがします」

「お、なかなか鋭いねえ立香ちゃん。その通りだよ。私たちは今曲がり道にいる」

「……えっ!?」

「私たちが普段歩いてるような曲がり道じゃないぜ? とてつもなくなだらかなカーブがぐるっと続いてるんだ。直進していると思い込んでいると、途中の分かれ道に引っかかってアウトって寸法さ」

 

 それを聞いて、ダンテは喉を唸らせる。

 

「なまじ魔術に頼っていないところが恐ろしいですねえ。一般人だろうが魔術師だろうが決して外には出さないという意思を感じてしまいます」

「神秘は知られると薄まる、でしたっけ? ここまでの執念となると恐れ入るわね」

「こういうネチネチした仕組みは人の子の方が上手ですわね。私たちガイア側の存在は超常パワーで解決してしまいがちなので、破り方も単純ですわ」

「……いや、それは良いんだけどよ」

 

 ペレアスはちらりと後ろを見る。ノアたちもそれに倣うと、そこには一心不乱にパンを千切って床に落とすマシュがいた。

 彼女は視線に気付くと、ニヤリと白い歯を見せる。

 

「ヘンゼルとグレーテル作戦です。如何にアトラス院といえど、これで迷うことはなくなりましたので、安心してください」

「……一応聞くけど、しゃもじはどうしたのよ」

「入り口に入らなかったので放置してきました」

フォフォウ(不法投棄乙)

 

 ジャンヌは呆れた表情になって、

 

「最初からこんなだったの、このなすびは?」

「少なくとも初対面の頃は純真だった……と思う。昔はあんなに可愛らしかったのに」

「人というのはいつまでも純真じゃいられないんですよ……フッ」

「ソロモン王(仮)よりも闇に満ちた瞳をしてますねえ」

 

 ダンテはしみじみと述べた。

 そうこうしている内に、周囲の光景も徐々に変わってくる。両壁に等間隔に扉が並ぶようになり、光量も足元が見える程度には増している。

 アトラス院の魔術師たちが利用する研究室が立ち並んでいるのだろう。ただし、扉の数からしてその大半は偽装。侵入者を捕らえ、囲い殺すための罠だ。

 ダ・ヴィンチはずらりと奥へ続く扉に目を配る。

 

「流石にここは念入りだね。神秘の秘匿を徹底しているのだから当然か。どうする、ノアくん?」

「イチイチ探索してる暇はない。このまま最奥部を目指すぞ。侵入者を逃さないための施設なら、本当に重要なブツは奥に隠すはずだからな」

「私もそれに賛成だ。演算装置と言うからにはそれなりの敷地を費やしているだろうからね」

「ああ、何としてでも手に入れるぞ」

 

 下卑た笑みを浮かべるノアとダ・ヴィンチ。二人の言い草に違和感を覚えたペレアスは咎めるように言う。

 

「……お前ら、もしかしてその演算装置とやらを目当てにしてるんじゃねえだろうな?」

「「バレたか」」

「神秘が薄れるっつう原則はどうした? 魔術師にとっては死活問題だろ」

「俺たち二人程度なら大したことはない。しかも、それは俺が将来解決する問題だ。未来への投資くらいに思っとけ」

「そうそう、疑似霊子演算装置ならカルデアにもあるけど、私とノアくんの共同研究的にはオリジナルのサンプルも欲しい。結果的に人類の役に立つことは保証するよ」

 

 などと耳触りの良い言葉をつらつらと並べる二人の言い分に、ダンテは茫洋たる不安を募らせる。政治家時代の経験の賜物だ。

 

「一体何の研究をしているんでしょうかねえ、あの二人は」

「嫌な予感がすることは間違いないわ」

「一度家宅捜索する必要がありますね。叩けば叩くほどホコリが出そうです」

 

 もっとも、叩いてホコリが出ない人間などカルデアにはいないのだが。

 道が若干開けてくる。施された明かりも段々と数を増し、重厚な扉が見えた。ようやく警戒せず歩くのに十分な光量になり、ジャンヌはあることに気付いた。

 

「……立香。そいつの袖掴んでどうしたのよ」

「───はうっ!!」

 

 立香は上体ごとノアから離れる。

 辺りが静寂に包まれる。差し向けられる視線のいくつかは生暖かかった。

 そんな空気を読む能力がノアにあるはずもなく。彼はニタニタとした意地の悪い笑みを顔に貼り付ける。

 

「ハッ、暗がりが怖いとかビビリの子どもか? 図太さの化身みたいな女のくせに気取ってんじゃねえ」

「はああ!? 私のどこ見て言ってんですか!? 繊細さを絵に描いたような存在じゃないですか! 食べ物で喩えたらティラミスじゃないですか!」

「おまえのどこがティラミスなんだよ。上等なスイーツで喩えんな。かりんとうか月餅が関の山だろうが」

「わたしを食べ物で喩えたら何になりますか?」

「「…………刺し身についてる白いヤツ」」

「そこはなすびでしょう! 分かってて外しましたよね!? でもあの白いヤツは醤油つけて食べると美味しいんでちょっと嬉しいです!!」

フォウフォフォウ(よかったじゃねえか)

 

 三馬鹿と謎生物を無視して、ジャンヌたちは扉を開ける。慌てて三人と一匹も後を追い、アトラス院の中央部に到達した。

 目に飛び込んでくるのは、今までの息苦しさとは打って変わった広大な空間。天井には作り物の青空が光を伴って描かれている。

 アトラス院に籠もる魔術師たちが生きていくために必要なすべてがここに揃っている。しかし、彼らの目を引いたのはその空間の中心だった。

 偽りの青空を高く突く三本のオベリスク。それこそは疑似霊子演算装置・トライヘルメス。カルデアが擁するトリスメギストスのオリジナルに当たる装置だ。

 賢者の石と言われるフォトニック結晶で構成されたそれは、アトラス院最大の記録媒体。ノアとダ・ヴィンチの目的であるトライヘルメスの前には、ひとりの男が佇んでいた。

 彼はゆっくりと振り返る。落ち着いた雰囲気の美青年。片手にパイプを持ち、インバネスコートを着ている。

 

「一足早くトライヘルメスを使わせてもらったよ、カルデアの諸君」

 

 パイプを吸い、紫煙をくゆらせる謎の男。戦闘の意思はないようだが、無人のはずのアトラス院においては何よりも異質な存在だ。

 マシュは盾を握る手に力を込めて問う。

 

「……あなたは、一体?」

「ふむ、素直に名を明かしてもよいが……そうだな。ロンドンの置土産は役立ててくれたかな、ミス・キリエライト」

 

 ノアたちの脳裏に浮かぶのは第四特異点、時計塔の地下に置かれていた一冊の本。『超☆天才探偵のワトソンくんでも分かる調査ノート 〜初歩的なことだよ、カルデアの諸君〜』のことだった。

 そこから導き出される真実はいつもひとつ。立香は何の気無しに呟く。

 

「シャーロック・ホームズ、さん?」

「如何にも、私はシャーロック・ホームズ! ローストビーフとワインを愛する、しがない顧問探偵だ!」

「本当に当たってた!? あのふざけたタイトルの本はどうしたんですか!」

「ちょっとしたイギリス風探偵ジョークだ。楽しんでくれたかな?」

「困惑しかなかったですけど!?」

 

 立香の横で、どさりという音がする。

 マシュは盾を取り落とし、心臓を貫かれたように膝をついていた。彼女は出処不明の汗を流し、途切れ途切れの息を吐く。

 

「お、おふぅ〜〜……」

「彼女はどうしたのかね?」

「気にしないであげてください、ホームズさんの大ファンなんです」

「とりあえず立ちなさい。このままじゃ五体投地しかねないわよ」

 

 ジャンヌはマシュの両腕を掴んで、無理やり引き上げる。ぐでんとした猫のように伸び切ったマシュは力の限り立ち上がった。

 彼女は立香の耳元に唇を寄せて、何かを囁いた。立香は流れてきた言葉をそのまま出力する。

 

「サインください、ですって。……え? できれば盾にでっかく書いてほしい?」

「それは駄目だァァァ!! その盾は大事なものだから!」

「え、でもあなた様。たしかスープこぼして……」

「あ、それはやめてくれ! 内緒にしてることなん───」

 

 その瞬間、ペレアスの両肩をそれぞれジャンヌとノアが掴んだ。

 

「ねえ、ペレアス」

「やっぱり何か知ってんだろ」

「前々からそんな感じはしてましたからねえ」

「私に言わせればペレアスさんは嘘が下手すぎるなあ」

「…………やっちまったぁ〜〜!!」

 

 ペレアスは両手で顔を隠してうずくまる。

 その光景を生温かい目で眺めていたホームズは、パイプを袖の下にしまって言った。

 

「ふむ、まずはその話からしよう。とは言っても、ペレアス卿の口から語ってもらった方が早そうだが」

 

 マシュのスピーカーと化した立香はペレアスに視線を送りながら、言葉を連ねる。

 

「何のことですか? ……とマシュは言っています」

「他でもない、キミのことだよ。ミス・キリエライト。その身を依り代とした英霊の真名をまだ知らないのだろう?」

「分かるのですか!? わたしに憑依した英霊の真名が! ……あ、これは先輩の台詞ではありません!!」

 

 耳元で大声を出された立香は、右耳を押さえてしゃがみこむ。

 耳鳴りに襲われた彼女を尻目に、ホームズは頷いた。

 

「ああ、分かるとも。じっちゃんの名にかけて……とはいかないが、私の真名をかけてもいい。ついでにワトソンのもね。受け止める覚悟は?」

「まあ、あると言えばありますが。そうですね、今となっては知らなくても私は大丈夫です」

「……その心は?」

「Eチームの仲間が助けてくれるからです。若干名いざという時にしか役に立たないアホが混じっていますが、それだけは言い切れます。ですよね、先輩?」

「うん。けど、とりあえずこの耳鳴りから助けてほしい……」

 

 自分もそのアホの仲間に入っている事実に気づいていないことはさておき、マシュの覚悟は固かった。英霊の格に足る強さはもう手に入れているのだ。

 ホームズは満足気に微笑む。

 

「よろしい。言うなればこの場所はサスペンスドラマのフィナーレ、荒波押し寄せる崖の上と言う訳だ。時にキミたちは、カルデアのシステムを用いて英霊を召喚したことが?」

「ジャンヌがそうですよ。優雅なおじさんとか麻婆豆腐みたいに余計な物ばっかり出てきました」

「ロマンが夜なべしてアロンアルファでくっつけた聖晶石でな」

「───は!? アロンアルファ!? そんなので喚ばれたの私!? 初耳なんですけどぉ!! どうして誰も言わなかったのよ!!?」

「真相を話す前に驚かれると、探偵としてはとても困る……」

 

 史上最大の驚きを見せるジャンヌに、ホームズは妙は話しづらさを感じた。謎を詳らかにすることが生き甲斐の探偵は、盛り上がりどころには敏感なのだ。

 それはともかく、自分を召喚する材料にアロンアルファの手が加わっていることを伝えられる者はどこにもいなかった。

 地面に両手足をついて落ち込むジャンヌを背景に、ホームズは仕切り直す。

 

「英霊召喚システム・フェイトは彼女の持つ盾を利用している。なぜその必要があるのか。それはその盾が、かつて数々の英雄を集めたモノだからだ。そこにいるペレアス卿はこれ以上なく良い例と言える」

「そういえば、ペレアスさんはマシュの盾の召喚陣から出てきましたよね?」

「……ほぼ答えは言ったようなもんだな。ラウンドシールドとはぴったりじゃねえか。なあ、円卓の騎士ペレアス卿?」

「あー……聞こえねえ」

「その盾は元々は別のモノだった。カルデアの研究者はそれを改造して盾という武器に仕上げ、依り代となる少女にその一部を埋め込んだ」

 

 そして、とホームズは続ける。

 

「これは運命と言うべきだろう。カルデアは今まで五つの特異点で五度の聖杯探索を成し遂げた。かの騎士と同じ偉業を、かの騎士を宿した少女が達成したのだから」

「……ということは───」

「───ギャラハッド。ランスロット卿の血を引き、ベイリン卿を陥れた聖剣を抜いた円卓の騎士。それが、キミの命を救い、力を与えた英霊の真名だ」

「こ、この盾は……カルデアが改造したということは、この盾はギャラハッド卿の赤十字の盾ではなく……」

「聖遺物の円卓を流用した、ということだね」

 

 未だに落ち込んでいるジャンヌの横で、マシュは同じように両手足を地面に突き立てた。

 

「そ、そんな……っ!!」

「気持ちは察する。キミのような少女が背負うには、重い名だ」

「このままじゃわたしは、なすびのコスプレで一日を過ごすことに───!!」

「………………それは読めなかった。この名探偵の目をもってしても!」

 

 名探偵とて分からないことはある。それがアホの思考回路となれば尚更だ。数々の難事件を解決してきたホームズは初めて敗北を味わったのだった。

 一方、ホームズの種明かしを聞いていたノアたちは、ペレアスを簀巻きにして縛り上げていた。ノアは鋭い眼光をペレアスに差し向ける。

 

「おい、どうして黙ってた。その反応だと召喚された時から気付いてただろ。五十話近く隠し通した気分はどうだ?」

「まあ要所要所で怪しい感じはありましたが……欺瞞者がどんな地獄に落ちるか知ってます?」

「待て待て、言ってなかっただけで嘘はついてねえ!! それにほら、英霊の名前なんだから自分で気付くのが重要だろ! 宝具も使えてたし良いと思ってたんだよ!」

「リースさんがスープこぼしたとか言ってましたよね。大事な円卓に何やってんですか」

「あの時はぼーっとしてたというか……シミ消しを頼んだマーリンのやつが言いふらしたせいでバレて……」

「結局隠そうとしてんじゃねえか!!」

 

 ノアは簀巻きになったペレアスを蹴り転がした。

 思いもよらなかったマシュの反応に加えてその光景を見せつけられ、ホームズは肩透かしな気分を味わう。

 そんな彼に、ダ・ヴィンチは言った。

 

「ところで、さっき〝まずはその話からしよう〟と言ってたけど、他に話すべきことがあるのかい?」

「ああ、むしろ私にとってはそちらが本題だ。その前に、これを渡しておこう。過去の聖杯戦争と、獅子王の情報をまとめておいた。おまけもあるが、それはカルデアに帰還してから読んでくれ」

 

 ホームズは一冊のノートを差し出す。それはワトソンくんでも分かる調査ノートその二と書かれていた。そこはかとなくシールでデコレーションが施されたそれを、立香が受け取る。

 彼女はノートを抱えながら、

 

「それで、ホームズさんの本題って?」

「初代山の翁はこう告げたはずだ。〝その先に待ち受ける災いの兆しを見るだろう〟と。私がする話とは、その先───人理焼却を解決した後に起こる現象のことだ。それは、私が今取り組んでいる事件でもある」

「随分気の早い話だな? おまえの口振りだと、その事件が起きることは確定してるように聞こえるぞ」

「そうだとも。ソレが起きることは決定している。否、この瞬間にも起き始めている。トライヘルメスを使ったのは、その計画が何時から始まったのかを知るためだ」

「……明言を避けるような言い方ですね?」

 

 ダンテは指摘する。その事件が本題であるというのに、ホームズは内容を語らない。探偵は回りくどい言い回しをするものだが。

 しかし、彼の言い回しは名探偵の性根からくるものではなく。何かを警戒しているようだった。

 

「ミスター・アリギエーリの通り、私は言葉を選んでいる。奴にとってのセーフとアウトの線引きが曖昧でね。……だが、恐れていては手に入るものはない。ここは博打を打つとしよう」

「危険ならやめても良いんじゃないかい?」

「いや、私はできる限りの情報を伝えたい。なにせ、次の特異点は魔術王の手によるモノでなくシモン・マグスが作り出した特異点だ。しかも、その事件はいずれ必ず人類の前に立ちはだかる」

「───シモン・マグスだと?」

 

 ノアは眉をひそめる。

 シモン・マグス。知恵の女神ソフィアと崇められていた聖娼ヘレンを常に側に置き、皇帝ネロの宮廷魔術師であった反キリスト教の人物。

 『暗黒の人類史』を召喚したソフィアと決して無関係とは言い切れないことから、カルデアでは以前から調べを進めていた魔術師だ。

 ホームズは首肯して、ノアに向き直った。

 

「ミスター・ナーストレンド。貴方は三年前に、根源に到達する理論と方法を確立したシモン・マグスの末裔を殺害したそうだが」

「俺ひとりじゃなかったがな。獅子劫っつうおっさんもいた。それがどうした」

「シモンの末裔が確立した根源へ行く方法を語って欲しい。それこそが事件の本質なんだ。私の口から語ると線引きに抵触する恐れがある」

「……仕方ねえな」

 

 ノアは語る。

 彼がカルデアを訪れる三年前、中東ではシモン・マグスの子孫が老若男女問わず人間を集め、片っ端から魔力結晶に変換していた。

 シモン・マグスは空を飛ぶ魔術を実演していたところを、十二使徒のひとりにして初代ローマ教皇シモン・ペテロの祈りによって地面に墜落させられた。

 そんな魔術師の血を引く家系が相伝していたのは飛行魔術。重力の軛から放たれ、空を舞うことを可能にする魔術だ。

 が、それは時が経って血が薄まり、神秘が劣化した末の魔術に過ぎない。シモン・マグスが可能としたのは肉体を上空ではなく別の次元へと飛ばす魔術。

 

()()()()。現代では第二魔法の領分に近い魔法級の神秘だ」

 

 シモンの子孫は飛行魔術のみならず、次元跳躍も受け継いでいた。だが、成せるのは命を削るほどの魔力を消費した上に、一瞬で三次元に戻ってしまう不完全極まりないモノだった。

 さらには、上の次元の環境に身体が耐え切れず、重傷を負う有り様。根源に届き得る力がありながら、それを扱うことができなかったのだ。

 

「それでもあいつは問題をクリアしようとした。自身を固有結界で囲うことで外部の影響を遮断し、魔力結晶から引き出した魔力で次元跳躍を繰り返す。そして、根源に着いたところで固有結界を解除すれば終わりだ」

「……イカれてるな。何人分の魔力を集めればそんなことができるんだ?」

「さあな。奴の研究室に残ってた結晶の量から推測すると四千人は犠牲になってるはずだ」

「ふざけた数字ですねえ。……次元跳躍で根源に着いたというのはどうやって知覚するのです? 固有結界で自らを覆った状態では目隠ししているようなものでしょう」

「そんなのは簡単だ。ロンドンでオティヌスが描いたものを使えば良い」

 

 そう言われて、立香は思い至る。

 

「生命の樹、ですか?」

「そうだ。生命の樹は頂点を万物の根源として、底辺をこの物質界に置いている。つまりは根源流出説だ。次元跳躍を行う時は、生命の樹の理論に則って遡れば迷うことも、結界を解くタイミングを誤ることもない……こんなところだ、お気に召したか?」

「過不足ない説明で助かるよ。これで事件の全貌は見えたに等しい。さて、ここでキミたちに問おう」

 

 ホームズは真実を見透かす瞳をほのかに輝かせて、ノアたちに問いかけた。

 

「───もし、その固有結界が地球を包んだとしたら?」

 

 返答はなく、ただ聞こえる音は息遣いのみ。けれど、だからこそ、嘘偽りない驚愕と困惑が席巻する感情が空気を介して伝わる。

 

「それでも結果は変わらない。地球ごと根源に到達するだけだ。───正しく、全人類を根源に連れて行くことができる。ただし今は、連れて行くための人類が滅んだ状態だ。魔術王の企みが潰れない限り、その計画が本格的に動き出すことはない」

「…………そんなことできるやつが、どこにいるのよ」

 

 ジャンヌがこぼした一言は彼女らの心情をこれ以上なく端的に表していた。

 ホームズは目を閉じ、そして開ける。その頬に伝うのは一滴の冷たい汗。彼は今、線引きの寸前を見計らっている。

 意を決したのは数秒後。ホームズは重い息を吐き出すように口を動かす。

 

「『三位一体の獣(トリニティ・ビースト)』と、私は呼称している。人類史を脅かすその獣たちこそが、事件の犯人だ。第一の獣は赤き竜、第二の獣はバビロンの大淫婦、そして────」

 

 言葉が途切れたその時、ホームズは血を吐き、崩れ落ちる。吐いた血はドス黒く染まっており、口のみならず涙腺からも流れ出していた。

 ノアたちが駆け寄る間もなく、ホームズの背後から声が響く。

 

「そこまでだ、シャーロック・ホームズ。話も始まっていないのに推理をひけらかす探偵がどこにいる」

 

 空間を割って姿を現したのは、女だった。金色の頭髪を肩の辺りで切り揃え、つややかな褐色の肌が衣服の合間から覗く。黒地に幾何学模様が描かれたローブを着て、首元には種々の宝石をあしらった銀の首輪を提げている。

 女はホームズの横に立つと、ノアたちにうやうやしく礼をした。

 

「私はシモン・マグス。性別が変わっているのは気にしないでくれ。男だろうが女だろうが、私が私であることに変わりはないのだから」

「呑気に自己紹介か? ぶっ殺す!!」

 

 ノアが威勢を発して空中に腕を振るうと同時、マシュとジャンヌ、ペレアスは得物を振りかざす。

 金属音が鳴り響く。マシュたちサーヴァントが放った攻撃は、虚しく床を叩いただけだった。いるはずの場所にシモンは存在していない。

 一瞬とかからず姿を消した芸当。それが次元跳躍によるものだとノアが気付いた時には、シモンは彼の隣にいた。シモンは僅かに切れたローブを見せつける。

 

「良い魔術を使う。離れた場所に不可視の攻撃を出現させるとは。共感呪術の遠隔作用の理論を大気に当てはめたのかな? 古い人間には無い発想だ」

 

 ノアはシモンの顔面目掛けて裏拳を打つが、次元跳躍で軽々と回避される。シモンが次に出現したのは、ホームズの上。飛行魔術によって浮遊し、探偵を見下ろしていた。

 

「……少しお仕置きを────」

 

 シモンはホームズに向けて手をかざす。

 ノアたちが動くよりも早く、魔力が練り上げられ。

 それよりも遥かに早く、通り抜けた影がシモンの右手をもぎ取った。

 

「……ふっ、なるほど。時空の隔たりを超えられるのはお前もそうだったか。虎視眈々と狙っていたな?」

 

 右腕を押さえながら、言葉をかけるシモン。影はゆらりと立ち上がり、ノアと立香とペレアスが以前に見知った姿を作る。

 

「然り。次元跳躍を駆使する貴様を痛めつけることができるのは、不意打ちくらいなものだからなァ!!」

 

 ポークパイハットを被った白髪の青年。シモンの腕を千切った際に拾ったのか、脇にホームズを抱えている。ペレアスは忘れ得ぬ不審者の名を叫ぶ。

 

「お前は、エドモン・ナントカ!?」

「エドモン・ダンテスだ!! 故あってホームズを助けに来た! 悠長に話している時間はないのでな、これで退散させてもらう! また会おう!!」

「何しに来たんだお前!?」

 

 ペレアスの訴えも響かず、エドモンはホームズとともに消え去ってしまう。

 ひとり取り残されたシモンは小さくため息をつくと、ノアたちに顔を向けた。それに呼応して、彼らは戦闘態勢に入る。

 

「そう警戒せずとも、私では君たちには勝てないさ。お騒がせして悪かった。根源が流れ出す極みの天にて、再会しよう」

「んなもんこっちからお断りだ。二度とそのツラを俺たちの前に出すんじゃねえ」

「これは手厳しい。君と私は相性が良いと思うのだがな。目的は同じで、魔術を愛するところも同じ……きっともっと共通点が見つかると思う」

 

 シモンがノアに歩み寄ろうとすると、その顔面目掛けてガンドの魔弾が飛んだ。シモンは軽々とそれを素手で受け止め、五指で魔弾を握り潰す。

 その目線が向くのは立香。彼女はガンドを放った体勢のまま、シモンを睨みつけて言った。

 

「帰って。あなたの下手な口説き方を聞いていると、神経が苛立つから」

「……私も君のような小娘を見ていると頭に血が上りそうだ。だが、私は君たちが魔術王に勝利することを祈っているよ。あんな偽物などに負けるな。ああ、それと」

 

 空間に裂け目が生じる。シモンはそこに足を踏み入れながら、

 

「───ヘレネーを、救ってやってくれ」

 

 次元跳躍。

 シモン・マグスはここではないどこかへと、移動した。

 辺りが冷たい静寂に包まれる。誰もこの事態を把握しきれていない……というよりは、次々と情報を口に押し込められたせいで胃もたれを起こしている状態だ。

 その中でも、もっとも不可解なことをマシュは呟いた。

 

「エドモン・ダンテスって……誰なんです? モンテ・クリスト伯が英雄として実在していたと?」

「なんだかジャンヌさんとキャラが被っていましたねえ」

「どこが!? あんなの一緒にしないでちょうだい!」

「そこの三人は面識がありそうな感じだったけど、彼について何か知っているのかい?」

 

 ダ・ヴィンチが首を傾げる。ノアと立香、ペレアスは交互に顔を見合わせて、同時に述べる。

 

「「「…………不審者?」」」

 

 それを聞いた四人は、

 

「「「「それは見れば分かる」」」」

フォフォフォウ(仲良いなお前ら)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃、オジマンディアスのピラミッド。

 ニトクリス工事隊の神殿修復作業も無事終わり、オジマンディアスの居城はいつもの絢爛さを取り戻していた。彼女とて一介のファラオ、サーヴァントの格は結構高いのだ。

 新築の匂いが漂う玉座の間は、けたたましい喧噪に包まれていた。

 

「フハハハハハ!! これで上がりだ! 東方の勇者も盤上遊戯には疎いか!? ハッハッハ!」

「なにせファラオは遊戯の王ですからね! あらゆる分野に精通してこそのファラオなのです!」

「いや、ルールが分からないぞ!? なんだセネトって! すごろくかコレ!?」

 

 アーラシュは頭を抱えて盤上に顔を打ちつけた。オジマンディアスとその取り巻きのニトクリスは王様らしい三段笑いをぶちかましている。

 セネトとは古代エジプトのボードゲーム。すごろくの一種であると推測されている。現代では学者の努力によってそのルールについての説が考えられているが、そんなことをアーラシュが知るはずがなかった。

 それを遠巻きに眺めていたベディヴィエールは、きょろきょろと周囲を探し回る静謐のハサンがいた。彼は少女に歩み寄る。

 

「何か困り事でも? お力添えをいたしましょうか?」

「あ……ありがとうございます。呪腕さまの姿が見えず、探していたのですが、どこにもいないのです」

「そういえば、ファラオと戦っていた際もお見えになられませんでしたね。心配です、手分けして探しましょう」

 

 と言ったそのすぐ後、ベイリンが部屋の隅を指差して、

 

「奴ならあそこにいるぞ」

「「……本当だ!!?」」

 

 静謐とべディヴィエールは急いで駆け寄る。ベイリンはのそのそと二人の後を追った。

 呪腕のハサンは角に押し込まれたみたいに膝を抱えて体育座りしていた。彼はどんよりとした暗い空気を纏っており、心なしか仮面の目元が下がっている。

 静謐はおずおずと彼に尋ねた。

 

「あの、ここで何を? いつからそうしていたのですか?」

「この話の最初から気配遮断してスタンバっておりました……」

「何のために!?」

 

 呪腕のハサンは悪態づく語調で喋り出す。

 

「皆さんはもう覚えておられないでしょうが、村で戦った時、モードレッドに宝具の右腕を切り落とされたんですよね。それで思ったのですが……私、この先役立たずじゃね? 的な。役立たずキャラもダンテ殿がほしいままにしているので、これ詰んでね? みたいな」

 

 静謐とべディヴィエールは泣いた。アイデンティティを奪われることは死と同義だ。真の役立たずであるダンテが立ちはだかっている以上、呪腕に勝ち目はなかった。

 ベイリンは平坦な口調で告げる。

 

「そう気を落とすな。貴様の隠形はなかなかのものだぞ。生前にガーロンという透明になれる騎士と戦ったが、貴様の隠密はそれを超えている」

「べ、ベイリン卿……!!」

 

 呪腕は髑髏の仮面をぽっと赤らめる。彼はそっぽを向いて、

 

「べっ、別に嬉しくなんかないんだからねっ! ギャップ萌えを狙おうとしても無駄ですぞ、兜を脱いだら女の子だったとかいうテンプレ展開でもない限り好きになったりしません!!」

「そ、それは……」

「答える必要はないぞ、べディヴィエール。褒めて損した」

「ごめんなさい、今の彼は迷走してるんです」

 

 静謐は割と辛辣な言葉を呪腕に放った。呪腕に対する同情心が別の意味に変わっていくのをべディヴィエールが感じていると、慌てた様子の三蔵が部屋に駆け込んでくる。

 彼女はところどころが煤けており、荒々しい息を吐いていた。

 

「た、大変よ! 聖都の軍が攻めてきたわ!」

 

 弛緩した場の空気が張り詰める。オジマンディアスはセネトを後ろに放り投げて、毅然と居直る。

 

「数は?」

「えーと、いっぱい?」

「………………円卓の騎士は何人いる」

「五人よ、それは本当! 強そうだからすぐ分かったわ」

 

 それを聞いて、オジマンディアスは獰猛に笑う。

 

「カルデアの者を探すために全員を投入してくるとは、獅子王も大胆な手を打つ。ニトクリス、迎撃に出ろ」

「ハッ! ファラオの兵士を預からせていただきます!」

「ベイリン卿、私たちも行きましょう! ランスロット卿と戦えるのは……あれ!?」

 

 べディヴィエールが見たその時には、ベイリンはそこにはいなかった。おそらくは三蔵が駆け込んできたのとほぼ同時に外へ走り出していたのだろう。

 本能と理性が一体化したベイリンの行動はとにかく速い。承知していたはずのべディヴィエールだが、双剣の騎士はその予想をも凌駕していた。

 ───迷わず突き進むベイリンは、眼下に聖都の軍勢を捉える。

 知った顔も混じる五人の円卓の騎士。その誰もが比類なき強者であり、一騎で戦局を変え得る存在だ。

 ベイリンは警鐘を鳴らす本能に導かれ、ピラミッドの頂点から飛び降りる。

 敵勢で最も脅威となる相手であり、そして────。

 赤き流星が地面に衝突する。ベイリンの眼光が貫くのは、紫黒の甲冑を身に着けた騎士。突如現れた双剣の騎士に目を剥く彼は、ペレアスや因縁の精霊と同じ湖の気配を纏っていた。

 ああそうか、とベイリンは納得する。

 面識はないが、その気配だけで確信した。

 彼こそが円卓最強の騎士。湖の乙女が育て上げた無双無敵の剣────

 

「───貴様が、ランスロットか」

「…………あなたは」

 

 ランスロットは不壊の聖剣、アロンダイトを引き抜く。

 湖の騎士は一瞥で勘付いた。

 かの騎士こそはかつて、マーリンに最強と謳われた者。呪いの聖剣を抜き、神の子を貫いた槍を解き放った騎士であると。

 

「ベイリン・ル・サバージュ───!!」

「余計な問答は必要か、ランスロット」

「……いえ。騎士が戦場で相見えた以上、語らうは刃にて」

「助かるよ、私は口下手だからな」

 

 湖の騎士と、双剣の騎士。

 共にその強力無比を謳われた怪物。

 

「「───征くぞ!!」」

 

 今ここに、(ふた)つの最強が激突する。



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第53話 薤露行の騎士、無毀なる湖光

 ランスロットとベイリンの激突より時間を遡って。

 山脈を本拠地とした勢力を壊滅させた今、聖都の敵はカルデアの来訪者たちのみ。彼らを排除しさえすれば、もはや獅子王を止める者はいなくなるだろう。

 彼らの行き先は分かっている。ラモラックがカルデアに塩を送ったこともそうだが、人間が空を飛んでいく奇怪な光景を多数の兵士が目撃したことが大きかった。

 砂の聖地と聖都、すなわち太陽王と獅子王の間には不戦不可侵の約定がある。

 しかし、それは書面で交わされたものでもなければ、魔術的な拘束力を有するものでもない。いつでも互いが手を出せる微妙なバランスの上での均衡は、カルデアの来訪によって崩れ去った。

 拘束力を持たない条約の締結はある事実を指し示している。二人の王は理解していたのだ。いずれ自分たちが刃を交わすであろうことを。

 先手を打つ絶好の機会を逃すアグラヴェインではない。予期し得ぬ外敵の襲来に晒され続けたブリテンの騎士たちは、常に後手の戦いを強いられてきた。だからこそ、その不利は彼らが押し付ける番だった。

 砂の大地を征くは聖都の軍勢。その先頭に並ぶ五人の騎士は、獅子王が誇る無双の刃たちであった。一騎当千という表現すら生温い彼ら円卓の騎士が揃い、場の空気がぎちりと張り詰める。

 その緊張感は味方同士のそれではなく、息が詰まるほどに殺気立っていた。

 なぜなら、円卓の人員の大半は生前に殺し殺されたという関係性を持つ。ランスロットは言わずもがな、アグラヴェインとガウェインもまたラモラックをその手にかけた人間だ。

 彼らの間には決して拭い切れぬ過去が堆積している。たとえ死を経験しようと色褪せることはなく蟠る記憶が、彼らを遮るように横たわっていた。

 馬上で揺られるラモラックは首元のタイを緩めながら、小さく鼻を鳴らす。

 

「この暑さとは裏腹に我らの間柄は冷え込むばかり、か。まったく、困り果てたものだ。稚児の喧嘩でもあるまいし……誰でも手っ取り早く仲直りする方法を知っているか?」

 

 そう言って他の四人に問い掛けるが、返ってくるのは沈黙ばかり。ラモラックの暇潰しに付き合おうという者はいなかった。が、横っ面を性懲りもなく突き刺すラモラックの視線に耐えかねたトリスタンは、呆れて答える。

 

「……貴方の言うことだ、殴り合いでしょう。それこそ稚児の喧嘩でもあるまいし、諍いの種を増やしてどうするのです」

「その種を腹の底に隠しているよりは大分マシであろう。どうせなら四対一でも良いぞ、それもまた面白そうだ」

「呆れて物も言えないとはまさにこのこと……」

 

 トリスタンはため息をついた。

 ラモラックは手当り次第に喧嘩を吹っ掛ける狂犬だ。かつて彼はちょっとしたすれ違いから、トリスタンの恋人であるイゾルデに不貞を働いている者が触れると必ず飲み物が溢れる魔法の角杯を送りつけた。その行為に怒りを覚えたトリスタンはラモラックと血で血を洗う決闘を行い、しかしその末に互いを認め合って友誼を結ぶのだ。

 さらには、同様の諍いをランスロットとギネヴィア相手に引き起こす始末。ラモラックの言動を本気にすることほど無意義なことはないだろう。

 その一方で、彼はランスロットとトリスタンに続く円卓三強の騎士に数えられているのも事実だ。ガウェイン含む四人の円卓の騎士と三時間に及ぶ死闘を演じたことからも、その実力は疑う余地がない。

 ラモラックはガウェインに視線を送る。

 

「聖都の護りの要である貴様が王の御許を離れるとはな。戦いの匂いに釣られでもしたか?」

「いいえ、この身は王の刀剣。斬れと命じられたならば斬るのが役割です。余計な迷いは切れ味を鈍らせるのみ。貴方も同じはずだ、ラモラック卿」

「それは頼もしいことだ。しかし聞いたか、トリスタン。この男の糞真面目さを。おれは息が詰まりそうだ」

「それで貴方の血気が収まるのなら、むしろ歓迎するところ。もっとも、天邪鬼な貴方には詮無い期待でしょうが」

 

 ラモラックは愉快げに喉を鳴らした。

 

「王の祝福を受けた今のお前ほどではないさ」

 

 その声音はいつにも増して柔らかく、密やかな愉悦を伴っていた。トリスタンに与えられた『反転』の祝福、生前とは変わり果てた親友の姿に。

 トリスタンは笑う。くつくつと小さく喉を跳ねさせて。視力を失ったはずの双眸を開かせて、色を失った瞳の視線がラモラックの肌に刺さる。

 

「ええ、そうかもしれません。けれど、こうなってようやく理解できました。世界が、人間が、こんなにも美しいのだと」

 

 空気がひたりとした静謐を帯びる。茹だるような熱気が漂う砂漠の中心にあって、彼らの周りだけは鋭く研がれた氷の刃の如き雰囲気を伴っていた。

 さくりさくりと、馬の蹄が砂を掻く音だけが響く。言葉が交わされることは一度もなく、容赦なく降る太陽光の熱も無実に帰す。

 そうして望むは太陽王オジマンディアスの居城、光輝の複合神殿。灼熱の大地を支配する王の根城であった。

 五人の騎士は行軍の足を緩めた。攻撃地点を目の前にして急ぐ理由は今はない。各々が簡素な合図を下すと、指揮下の部隊は整然と陣形を構築する。

 アグラヴェインは他の四人、特にランスロットに視線を送りつつ喋り出した。

 

「今回の作戦目標はカルデアの追討、そして可能な限り太陽王の戦力を削ることだ。いずれ奴らは聖都を攻めるだろう。我らは守っているだけでも勝てるが、ここでできる限り勝算を上げておく。私が退けと言えば必ず退け」

 

 獅子王にはあるひとつの計画がある。聖都の勝利とは敵対勢力を滅ぼすことではなく、王の目的を叶えることだった。その障害となるであろう太陽王の機先を制する。それが此度の戦いの目標だ。

 ランスロットはアグラヴェインの咎めるような視線に睨み返す。

 異論はない。反論もない。ガウェインの言った通り、騎士とは王が振るう刀剣であり、そうあるべく湖の乙女に育てられたのだから。

 生前の過ちを二度と繰り返さない───それでもランスロットの胸中には濁り、固まった違和感が積み重なっていた。

 

「最後にカルデアの戦力を確認しておく。ラモラック」

「彼らは六人ひとつの部隊だ。ジャンヌという黒衣の少女は炎を操る。まともに喰らえば誰であろうと消し炭だ。おれ以外はな」

「……ペレアス卿もいると聞きましたが」

 

 ラモラックはガウェインの一言に頷く。

 ペレアスとガウェインにはある種の因縁がある。アーサー王の部下ならば誰もが知るような話であり、二人の関係の微妙さもまた同じだった。

 ラモラックは微笑を深める。

 

「ああ、いたとも。奴の剣術はおれたちが知る以上に練り上げられている。手の内を把握しているからと侮れば痛い目を見るぞ」

「ペレアスは我々の中でもかなり若い騎士でした。国が滅びた後も腕を磨き続けたのでしょうね」

「そういうことだ、ランスロット。おれの前で宝具は見せなかったが、何かしらの切り札はあると心得ておけ」

 

 一般的に、サーヴァントは全盛期の状態で召喚される。多くの場合は肉体と技の完成度の釣り合いが取れた状態で現界するが、ペレアスはラモラックたちが知るより未来の姿で喚び出されたのだろう。

 そうとなれば、彼らの記憶より強くなっていたとしてもおかしくはない。

 ガウェインは手綱を握る手に力を加えた。それを流し見つつ、ラモラックは口を開く。

 

「後衛は白髪の男と赤毛の少女……この二人はマスターだ。その後ろにいる赤い外套の詩人は呪詛と祝福を使い分ける。全員が厄介な働きをする曲者だ。油断はするなよ」

「しかし、マスターさえ屠ったのならばこちらの勝ちでしょう。話を聞く限り、私の弓が有効なように思いますが」

「ああ、だが彼らには大盾を携えた少女がいる。彼女の守りはそう易々と突破できまい。それに……」

 

 言いかけて、ラモラックは口を閉ざした。盾の少女と、彼女に力を貸す英霊の正体は円卓の騎士に名を連ねた者ならば一目で理解できるだろう。

 その英霊と切っても切り離せぬ関係の男がここにいる。他者が違和感を覚える前の一瞬、ラモラックは思考を巡らせた。

 果たして、その結論は他の誰にも知られることはなく。

 彼は何食わぬ顔で言ってみせる。

 

「……いや、おれが分かるのはここまでだ。戦いを始めるが良い、アグラヴェイン」

「…………行くぞ。配置は予定通りだ」

 

 軍勢の進撃が始まる。太陽王と獅子王、互いに交渉の余地は存在せず、あるのはただ己の生存圏を賭けた殺し合いのみだ。

 馬を駆り、それぞれが定められた目標へと歩を進める。ラモラックはトリスタンを追い抜く一瞬、囁くような声で告げる。

 

「───きっと、面白いものが見られるぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽王の膝元に位置する城下街。

 オジマンディアスから迎撃を言い渡されたニトクリスは即座に兵を集め、城の外に打って出た。平時は賑わいを見せる街中も、突然の襲撃によって悲鳴と怒号入り混じる喧騒が轟いていた。

 騎士たちが市民に手を出している様子はなかった。統率された聖都の軍勢は機械的なまでに指揮官の意に沿い、陣形を築いたまま沈黙を貫いている。

 騎士道とは決して綺麗事だけで構成される概念ではない。必要とあらば敵に対しては無慈悲に殺し略奪を行う、戦士たちの決まり事と言い換えても良い。

 単に街に被害を出すことが目的なら、聖都の騎士たちは迷いなくそれを実行しただろう。不気味なまでに静寂を保つ彼らの佇まいは、その目的が略奪ではないことを端的に示していた。

 漆黒の鎧を身に纏った騎士。異様な殺気を放つ騎士たちの只中にあって、隔絶した存在感を示す彼こそが指揮官であるとニトクリスは見抜く。

 

「貴方が名にし負う円卓の騎士のひとりですね! 我らが砂の聖地を土足で踏み荒らしたその罪、如何なる懺悔をしようとも決して許されぬものと知りなさい!」

「貴様の王の許しなど誰が乞うものか。この地に王はひとりで良い。なけなしの忠誠心を胸に死んでいけ」

「どこまでも侮辱を────!!」

 

 ニトクリスが杖を振るうと、彼女の周囲に使い魔たる死霊が出現する。

 杖の一振りで複数の使い魔を召喚する洗練された魔術は古き神秘を扱うファラオならではの御業であった。

 死霊の群れは冥界の瘴気を帯びた牙と爪を剥き出しに、アグラヴェインへと迫る。肌を掠めるだけでも人体に致命的な害をもたらす爪牙を目前にしてもなお、騎士は微動だにすることはない。

 寸前、上空より二人の騎士が堕ちた。疾風の打撃と灼熱の斬撃の応酬。間隙なき攻撃の嵐に晒され、死霊たちは成す術なく霧散する。

 ガウェイン、そしてラモラック。オジマンディアスの領地にあって、燦然たる太陽の騎士は短くアグラヴェインに言った。

 

「私とラモラックはこのまま太陽王の居城を目指します。この場は貴方に任せました」

「負けるようなら退け。それを軍の退却の合図とする」

「……だそうだが、止めなくて良いのか? 麗しき魔術の姫君よ」

 

 頬に小さな笑みを浮かべ、ラモラックは問いかける。

 太陽王の首を狙うという不遜余りある宣言がもたらす情動の火は、ニトクリスの脳天に達する前に弱々しく見る影を失くしていった。

 彼女はあくまでファラオらしく、厳然とした余裕を以って言い返す。

 

「止める? どこにそんな理由がありましょう。オジマンディアス様の手に掛かれば貴方たちなどけちょんけちょんのぎったんぎったん! 私の手間が省けて助かります!」

「なんと、それは楽しみだ。ますます血が沸き立つというもの」

「……行きますよラモラック。これ以上は時間の無駄です」

 

 ガウェインとラモラックはニトクリスを抜き去り、一直線に王の城を目指す。

 彼らが強敵であることに違いはない。特にガウェインの力は円卓の騎士全員の中でも頭抜けている。だとしても、オジマンディアスの圧倒的な優位は揺るがないだろう。

 カルデア一行とのいざこざのような戯れならともかく、こと本気の殺し合いにおいてかの王を超える者など、ニトクリスの辞書にはひとりもいなかった。

 ならば、むしろ心配すべきは我が身。アグラヴェインは剣を抜き、照る刃の切っ先をニトクリスへと差し向ける。

 

「───殺せ」

 

 瞬間、咆哮が地を揺らす。

 雪崩を打って殺到剣槍の群れ。足並み乱れぬその突撃はおよそ人の意思が介在せず、息遣いのある絡繰のような異質さだけがあった。

 ニトクリスは術式を紡ぎながら、オジマンディアスに借り受けた兵士たちに命令を伝える。

 

「盾を構えて防御しなさい! 私の魔術で吹き飛ばします!」

 

 その直後、彼女は自分の目を疑った。

 生温かな血飛沫が中空に舞い散る。それらの一切が自陣から巻き起こったものであり、一度の衝突で前列は壊滅させられていた。

 彼女は思わず声をこぼす。

 

「なっ……!?」

 

 ニトクリスを守る兵はオジマンディアスに選び抜かれた精鋭だ。一線級のサーヴァントには及ばないものの、決して一方的に斃されるような雑兵ではない。

 だが、アグラヴェインの配下たちは容易く防陣を食い破ってみせた。その膂力は下級ながらもサーヴァントに匹敵するだろう。

 魔術を打ち出すまでの僅かな時間。薄く引き伸ばされた感覚の中で、次々と突破される戦列を目に焼き付ける。

 ぎしりと歯の根を揺らしたその時、背後から駆け抜けた旋風がニトクリスの濃紺の髪を大きくなびかせた。

 風の正体は清らかな袈裟を纏った僧侶、玄奘三蔵だった。彼女はなぜか弟子の得物であるはずの如意金箍棒を両手に、敵勢へ向けてそれを薙ぎ払う。

 持ち主の意に従い、自在に伸縮する特性を活かした一撃。強大な遠心力を得た打撃は、蜘蛛の子を散らすように敵の進撃を払い除けた。

 彼女は片合掌を構えて、

 

「玄奘三蔵ここに参上! 他人の土地で狼藉を働くような悪い子を見逃しはしないわ! 宗教的に殺生はNGだから、肉体説法を受けてもらいます!!」

「……その棒は弟子の武器なのでは?」

「弟子のものはあたしのもの、あたしのものはみんなのもの。これ即ち喜捨の精神を表す! ふふふ、完璧な理論武装ね!」

(意味が分からない)

 

 ニトクリスは理解を諦めた。そもそも三蔵本人もよく分かっていないのかもしれない。彼女としてはなんとなく使えるのだから使ったまでだろう。

 ともかく、三蔵の増援で敵の突撃は停止した。ニトクリスは一層の魔力を費やし、頭上から新たな使い魔を召喚する。

 太陽の如き光輝を放つ、金色のスカラベ。

 日本ではタマオシコガネ、フンコロガシとも呼ばれるこの甲虫。エジプトでは獣糞の球体を転がす姿を天体に見立てて、暁日を司る神ケプリとして神格化された。

 スカラベは冷たい夜という名の冥界から復活する太陽の象徴である。死霊の使役を得手とするニトクリスは暗き冥界より、輝ける太陽を呼び寄せたのだ。

 日の出の神話を短時間で再現する超常の魔術。現代では到底成し得ぬそれはファラオの威光と呼ぶに相応しき神秘の発露だった。

 故に、この使い魔が宿す光は太陽のそれと同じ。現世に零れ落ちた太陽の破片が狙うはアグラヴェインただひとり。

 後は、その力に方向を与えてやれば良い───!!

 

「ファラオの威光を思い知りなさい!」

 

 その啖呵に続き、スカラベが飛翔した。

 膨大な熱を秘めた黄金の甲虫は立ちはだかる全ての騎士を灰燼に帰し、アグラヴェインへと到達する。

 それは時間にして一秒にも満たぬ飛行だった。聖都の騎士は肉の壁にすらならず、サーヴァントひとりを焼いて余りある熱をその身とともに四散させた。

 網膜が焼き付くような光の散華。音は死に、吸い込む空気が喉と肺を炙る。

 この爆発を受けては、人の形を維持することすら難しいだろう。視界が正常さを取り戻した時、ニトクリスと三蔵が見たのは左手を突き出すアグラヴェインの姿だった。

 

 

 

「───『騎士は徒手にて砕けず(ナイト・オブ・ザ・ハードハンド)』」

 

 

 

 その騎士にはひとつの異名がある。

 曰く、『堅い手』のアグラヴェイン。文官でありながら数々の戦場を生き延びるだけでなく、優れた武勇を発揮した彼を称える呼び名だ。

 これはその逸話が昇華した宝具。自らの手を起点に相手の攻撃を減衰させ、受け止める。言ってしまえばただのそれだけだが、アグラヴェインはスカラベの特攻を防ぎ切ってみせた。

 その籠手はどろりと溶解し、指先に至っては黒く炭化している。目を覆うような重傷を負いながらも、彼の顔には苦痛の色すら見受けられない。

 ニトクリスは驚愕に染まる心を即座に漂白する。

 

「一度で駄目なら何度でもやるまで…!」

「そうそう思い通りになると思うな───!!」

 

 アグラヴェインの騎士たちが様相を一変させる。全身を黒き影に侵食され、狂騒を吐き出す。

 人か鬼か、正しくそれは魔道の所業。命を燃やし尽くすが如き強化に次ぐ狂化。およそ人たる意思を兵卒から奪い取り、殺意だけを持つ獣へと仕立て上げる。

 ニトクリスは右足を僅かに下げた。これでは先の光景の焼き直し。無為に兵を死なせるだけだ。

 

「貴方たちは後退しなさい! ここは私たちで持ち堪えます!!」

「もしかしなくても、多勢に無勢ってやつ……!?」

「否ッ! 目には目を、歯には歯を、多勢には多勢をぶつけます! 出ませい!」

 

 杖の先で地面を打つ。それと同時に影に塗れた騎士の部隊は走り出し、続いて地の底から無数の死霊が這い出る。

 再度の激突。なればまた、もたらされる結果も変わらなかった。狂乱の騎士たちが死霊の群を露と打ち払う。しかし、異なるのはその後だった。

 

「まだまだ!」

 

 ニトクリスの足元を中心に暗い霧が広がり、一斉に死者が蘇る。それらもまた騎士の手によって打ちのめされるが、彼女の召喚は止まらない。

 使い魔の連続・平行召喚。尋常な魔力では成せぬ規格外の魔術行使であった。

 質で凌駕されるというのなら、量を揃えて迎え撃つ。如何に聖都の騎士を狂化したところで、永遠に戦い続けられる訳ではない。肉体の限界を超えた強化を強いている以上、耐えてさえいれば相手は遠からず壊れるのだ。

 が、それはニトクリスも同じこと。自前の魔力と土地のバックアップを受けているとはいえ、魔力が枯渇すれば彼女は負ける。

 死霊と死兵。死したる者と死を恐れぬ者の戦いは、凄惨な消耗戦の様相を呈していた。

 三蔵はその合間を潜り抜け、アグラヴェインへと肉薄する。

 腕を引き絞り、騎士の顔面目掛けて拳を打つ。アグラヴェインはそれを左手で止めると、返しの一刀を払った。三蔵は半身で斬撃を躱し、剣の間合いから飛び退く。

 

「自分の部下をあんなにして、少しは罪悪感とか感じないの!? 来世で餓鬼道とか地獄道に落ちちゃうわよ!」

「生憎、私は貴様にとっては異教徒だ。輪廻転生とやらは他所でやっていろ」

「貴方たちの教えにも地獄はあるでしょうに! 生きながらにして地獄に落ちたダンテさんなんて不憫な人もいるのよ!?」

 

 アグラヴェインの追撃。三蔵は三日月型の刃の杖、宝杖を取り出して振るわれる刃を凌ぎ切る。

 

「ならば、地獄に落ちるのは私だけで良い。私の部下は皆望んで狂うことを選んだ。これは王へと捧げる鋼の忠誠だ!!」

「忠誠を捧げるのは良いけど、周りの被害ってものを考えてくれないかしら! 下手しなくても人類が滅びるの、何十億の命に勝る忠誠なんてどこにもないでしょう!」

「それは貴様の理屈だ。王への忠誠は何にも勝る。国よりも、王よりも、ひとりの女を優先した愚か者が滅びを招いたように、この世は誰かの愚行で脆く崩れ去る。揺ぎなき王への忠義こそが多くの人を救ける結果になるのだ」

「騎士って忠誠を理由にしておけば何やっても良いと思ってない!?」

 

 鉄の戒めと呼ばれる黒き鉄鎖が縦横無尽に空間を駆けずり回る。三蔵ひとりに集中させるのではなく、その動きを制限すべく張り巡らされた鎖は狙い通り、彼女の足を止めた。

 その時点でアグラヴェインの手中に入ったも同然。鎖の間隔が急速に狭まり、三蔵を縛りにかかる。

 宝杖の刃を用いて迫る鎖を打ち払うも、地面から飛び出した縛鎖に足を取られ、瞬く間に全身を拘束される。総身に食い込む黒鎖は無理に引き千切ろうとすれば、その肉ごと体をむしり取るであろう。

 アグラヴェインは長剣の刃を引きずり、三蔵に接近する。サーヴァントの急所である霊核を貫き、とどめを刺すために。

 

「騎士の存在意義は王と民への奉仕。私たちはただそれを理由にして戦うだけだ……!!」

「あなたが何に固執しているかは知らないけど、残念。それだけじゃ世界は回らないのよ。私たちみたいに全ての執着を捨てる修行をしろとは言わないけど、少しは柔軟になってみたら?」

「……知った口を」

 

 剣先が白い肌に触れ、血の雫が線となって伝う。白刃が食い込む間際、アグラヴェインは何かに弾かれたように後ずさった。

 どくり、と彼の首筋に刻まれた一本の傷から鮮血が溢れ出す。濃密な殺気を込めた双眸が睨むのは、二人の暗殺者。呪腕と静謐の異名を冠する稀代の凶手だ。

 呪腕が左手に握る黒色の短剣は赤い血に濡れていた。標的の意識の狭間を突く暗殺技術の粋。アグラヴェインは忌々しげに呟く。

 

「山民の生き残りか。次から次へと!」

「あの時仕留め損なった貴様の失態だ、円卓の騎士よ。次はその手を切り落とす」

「そして、終わりです」

 

 静謐がそう告げた頃には、アグラヴェインは膝をついていた。毒の娘たる彼女の体液を傷口から送り込まれ、血流に乗って効果を発揮したのだ。

 視界が荒々しく撹拌される。今や彼の意識を繋ぎ止めるのは鋼鉄の如き戦意のみ。毒への備えは当然用意しているが、その隙を敵は見逃さないだろう。

 ひたり、と敗北の予感が背筋をなぞる。

 息が詰まる。

 手が震える。

 そんなことは、剣を手放す理由になりはしなかった。

 これは自分のための戦いではない。生前果たせなかった王への責務を果たす、主君のための戦いだ。

 この身は自らのモノではなく、王に捧げた道具。だから、どんな苦境にあろうと、かの君に命じられぬ限りは動かせぬ道理はない。

 黒色の鉄鎖がアグラヴェインの体を吊り上げた。無理やり四肢を稼動させ、剣を構える。

 

「この程度では終わらない。終われるはずがない。たとえ何が立ちはだかろうと、王に理想の国を献上すると決めたのだ!」

 

 その姿はまるで、操り人形だった。

 

「とても綺麗ですよ、アグラヴェイン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 敵襲の知らせを聞いたべディヴィエールは剣の柄に手をかけて走っていた。

 彼はサーヴァントならぬ人間の体だ。そうでなくとも、他の円卓の騎士には実力で劣る身でしかない。べディヴィエールを走らせていたのはそんな打算ではなく、命を賭して誰かを護る騎士の誇りだ。

 だから、彼は悲鳴が聞こえる方へと足を進めた。それを引き起こしているのがかつての仲間たちであるという現実に立ち向かうために。

 その道中、建物の屋根を足場に跳ぶアーラシュが合流する。

 

「俺も加勢するぜ。一人よりは二人の方が強い、当然の理屈だろ?」

「はい、ご助力感謝致します!」

 

 そうして、彼らはひたすら音の響く方向へと進む。

 一歩また一歩と進む度に鼻腔をくすぐる血の匂いは強くなり、言い表せぬ不安が後ろ髪を引き寄せた。

 鼓膜を揺らす、幽玄なる音色。どこまでも澄み渡っていくような儚い旋律を聞き、べディヴィエールとアーラシュは音の源流に行き着く。

 人が、踊っていた。

 ゆらゆら、ゆらゆらと、音の響きに合わせてステップを踏む。

 時に優雅に、時に鮮烈に、真っ赤な華を散らして舞い踊る。

 狂宴を指揮するのは赤き髪の詩人。彼が竪琴の弦を弾き切ると、演者たちは血の大輪を芽吹かせて飛び散った。

 薄い唇が弧を描き、

 

「……待っていましたよ、べディヴィエール。いかがでしたか、この演目は」

 

 べディヴィエールは剣柄が折れんばかりに握り締め、強く大きく叫ぶ。

 

「貴方は、貴方が───何をしているのです! トリスタン卿!!」

「見ての通りですよ。せめて最期は麗しく、黄泉への花路を彩ったまで。それにほら、こうして獲物を呼び寄せることができました」

「たったそんな理由のためにこの惨状を生み出したというのですか! 民のことを想い、心を痛めていた貴方が!!」

 

 失望と義憤。深い落胆に沈んだ声が空を突く。

 

「……ふ、そうですね。私は嘘を吐きました。本当の理由をお教えしましょう」

 

 しかして、トリスタンは妖しい笑みを浮かべた。

 肌が粟立つような悪寒が全身を駆け抜ける。細く長い指が弦にかかり、

 

「───貴方のそんな声が聞きたかった」

 

 弾く。

 ほぼ同時にべディヴィエールは跳んだ。透明な大剣を薙ぎ払ったように周囲の建物がすっぱりと切断される。べディヴィエールの左肩に切創が浮かび上がり、勢い良く鮮血を散らす。

 トリスタンが放った不可視の斬撃。アーラシュは答えを聞くまでもなく、その正体を看破する。

 

「音か。厄介な武器を持ってやがる!」

「まさしく。我がフェイルノートの奏でる音は刃と化して相手を撃つ。貴方がどこの英雄であろうと、逃しはしない」

「そういうことは決着がついてから言うもんだ!」

 

 アーラシュとトリスタンは示し合わせたように矢を撃ち出す。

 一方は山をも削る威力の射撃。もう一方は巨岩すらも膾切りにする神妙の音波。アーラシュの放った矢は音を裂き、トリスタンの横を通り抜ける。

 だが、音とは空気の振動。拡散した律動の波はアーラシュが足場にしていた家屋を散々に薙ぎ倒した。

 互いの実力の程を確かめるには、その一度の攻防で事足りた。刹那、両者は平行に走り出し、無数の矢玉を撃ち交わす。

 

「感服致します。私の時代に、貴方ほどの弓使いは存在しませんでした」

「俺の時代にもお前みたいな武器を持った奴はいなかったけどな!」

 

 二人の間合いは既に死地と化していた。無数の矢玉が交錯し、太陽王の街を更地に変えていく。

 アーラシュとトリスタンの条件は同等。たったの一撃加えることができれば、戦局は取り返しがつかないほどに傾く。必殺の一矢をどちらが先に中てるか、勝負はそこに帰結した。

 べディヴィエールは簡易的に傷口を縛ると、フェイルノートの間合いの外から彼らを追走する。

 彼にとって両者の射程は致死圏内。超高速で迫る矢を躱し切る技量はなく、アーラシュのような頑健な肉体も持ち合わせていない。

 音を武器とする性質上、その威力は距離を取れば取るほどに減衰する。現にトリスタンはアーラシュの射撃に対して迎撃ではなく回避という手段を取っていた。

 だが、近間の攻撃範囲と連射速度は他の追随を許さない。フェイルノートは指一本さえあれば、全方位に絶え間ない斬撃を繰り出すことができる。

 べディヴィエールにできることは遠巻きから射撃戦を眺めることだけだった。

 

(…………この右腕は、使えない)

 

 銀腕の解放は魂を燃料とすることで成り立つ、自爆に近い技だ。既に一度、モードレッドに使ったせいで彼の命の限界は大きく縮まっている。

 

(けれど)

 

 残り少ない命だとしても。

 それを賭けることしか、彼にはできなかった。

 

(───間合いに飛び込む!)

 

 べディヴィエールは懐中の護符を握り締めた。ノアから貰い受けたルーンの護符に魔力を通し、その効力を体に宿す。

 傷口の治癒と身体の強化。左肩の痛みが引き、地を踏みしめる足に一層の力が籠もる。

 剣を片手に目指すは、トリスタンの背後。音波が得物であるために背を討つ利は少ないが、挟撃の形にはなる。べディヴィエールの気配を感じ取ったトリスタンは、背を向けたままに言った。

 

「軍略家の貴方といえど、この状況で取れる行動はそれしかない。───ええ、貴方ならそうすると分かっていましたよ」

「では、こうすることも想定済みでしたか」

 

 べディヴィエールは腕を薙ぐように振るい、剣を投擲する。

 回転しながら飛ぶ剣。妖弦が震え、虚空に現れた衝撃が剣を明後日の方向に打ち上げる。トリスタンは竪琴を爪弾きながら、ため息をついた。

 

「モードレッドやペレアスのような真似をするのですね。たかが数歩稼ぐために武器を捨てるとは、愚かとしか言いようがない」

 

 旋律が巻き起こり、放射状に斬撃が拡散する。その狙いはべディヴィエール。それもアーラシュとの攻防の片手間だ。

 並の弓使いならば剣を投げたことで一手遅れを取っただろうが、トリスタンは違う。フェイルノートの弦は六本あり、その内のひとつを差し向けただけに過ぎない。

 多少の不意を突いたとしても、トリスタンの妨害にはならなかった。

 それでも、べディヴィエールは前に進むことをやめなかった。アーラシュとトリスタンは互角。その天秤を傾けるのは自分の役割だと理解していたから。

 

「武器なら此処に。私の腕こそが貴方を貫く剣です」

「次はラモラックの真似事でもするつもりですか。その義腕、我が弓で切り落としてみせましょう」

「……やはり、見えていないのですね」

 

 言いながら、べディヴィエールはアーラシュに視線を送った。

 

「なるほど。大した勇気の持ち主だな、あんたは。……気に入ったぜ」

 

 アーラシュはその瞳が語る意思をしかと読み取り、不敵に笑う。深紅の弓に五本の矢を番え、背中を押すように告げる。

 

「───行け!」

 

 そして、矢を射る。音よりもなお速く駆け抜ける五つの矢はトリスタンの五体を貫かんと襲い掛かった。

 フェイルノートの弦が五つ勢い良く奏でられる。壮麗な音響とともに発した衝撃波が五つそれぞれの矢と激突し、その軌道を逸らす。

 音波は距離を経るごとに拡散する。それは強みでもあるが、遠距離の標的を切り裂くためには音を収束させなければならないということでもある。

 ならば、トリスタンが近距離の敵に手数を割けば、距離に伴って拡散する音波は威力を失い、アーラシュに届くことはない。

 故に活路は前にのみ存在する。べディヴィエールができる最大の援護は、身命を賭してトリスタンの注意を引くことだった。

 べディヴィエールが間合いに入る寸前、トリスタンは思う。

 

(……愚かな)

 

 アーラシュの射撃を回避するために五つの弦を用いたが、残る一本で迎撃は十分に成り立つ。フェイルノートの真髄は一度に六回の射撃が叶うことだ。彼らはまだ、一手すら奪い切れていない。

 宣言通り、べディヴィエールは義手を握り締めて殴り掛かる。

 それよりも速く、音の刃が義手を断─────

 

「貴方はいい加減、目を覚ませ!!」

 

 ────銀の拳が、トリスタンの顔面を打ち抜く。

 

「ぐ、ぅ……!?」

 

 確かに音波は義手を斬った。寸分の狂いもなく、べディヴィエールの腕は宙に舞うはずだった。

 だが、目を潰した彼には分かるはずもなかった。べディヴィエールの腕が尋常なる材質ではないことを。

 斬れるはずがない。

 斬れる訳がない。

 かつて果たせなかった願いが、今生叶えんとする使命が、べディヴィエールの銀腕なのだから。

 全身が警鐘を鳴らす。大気に穴を開け、一本の矢が飛来する。

 一撃。二人の弓手が勝敗を分けると確信した必殺の一矢が届く。

 しかし、たった一度の窮地に陥った程度で命を落とすなら、トリスタンは円卓の騎士に数えられてはいない。身を捩り、その一撃を回避する。

 脇腹近くを通り抜けた一射はその衝撃波だけで、トリスタンの肋骨を粉砕した。

 次の瞬間、彼は血を吐きながら竪琴を弾き、音の衝撃で自らを上空へと打ち上げた。アーラシュは矢を番えながら目を見張る。

 

「空まで飛ぶのかよ。何でもありか!?」

「貴方のでたらめな威力の射撃ほどではありませんよ。こんなものは小技でしかない」

「そりゃ嬉しい限りだが、見下しながら言われてもな!」

 

 アーラシュが射るとともに、トリスタンは竪琴を奏でる。ただし撃つのは敵ではなく自分自身。振動で自らを動かすことで、相手の射撃を躱す。

 トリスタンは空中での機動を成し遂げ、べディヴィエールに告げた。

 

「目が覚めましたよ、べディヴィエール。律儀に戦うのはもう止めです。貴方はそこで指を咥えて眺めているがいい」

 

 そして、血に塗れた曲目が幕を開ける。

 フェイルノートの銀弦を狂ったように掻き鳴らす。響き渡るのは燦爛優美にして、冷然たる調べ。それは斬撃の嵐を引き起こし、相対する二人を襲う。

 街が崩れ、至る場所で血の飛沫が噴き上がる。おそらくは逃げ損ねた人々。トリスタンは見境なく音を奏でていた。

 

「───クッ、ハハハハハハッ!!!」

 

 哄笑を轟かせ、彼はとめどない殺戮の演奏を披露する。

 べディヴィエールの体にはいくつもの傷が刻まれていた。トリスタンに制空権を取られた今、その間合いから脱することは不可能に等しい。

 血を振り乱しながら、べディヴィエールは哮る。

 

「何が貴方をそこまで変えたのです! 今の貴方は外道そのものだ!」

「しかし、それこそが人の原初の姿。いくら取り繕おうとも、この性だけは永遠に変わることはない」

「そんな理屈は今更通りはしない。貴方と他の人間を一緒くたにしている時点で間違いだ。人の性という言葉に逃げて、己の罪から目を逸らしているだけでしょう」

「いいえ、その逆だ。己の罪と向き合うために私はこうして存在している。それ故に受け入れたのです───獅子王の『反転』の祝福を」

 

 それを聞いて、べディヴィエールはようやく得心した。

 生前とは変わり果てた彼の凶行は、『反転』の祝福によるものなのだと。

 トリスタンは息の根を止めるまで、人の醜さを体現し続けるだろう。それこそが王への懺悔であり贖罪と、彼は理解している。

 

「ああ、貴方は、本当に────」

 

 だから、言うべきことは決まっていた。

 

「───人の心が、分からなくなってしまったのですね」

 

 消え入るような声は果たして、彼の耳に届いたのか。

 それを確かめる前に、彼らが見聞きしたのは鉄鎖にて自身を縛るアグラヴェインの姿。首元を血で濡らす彼は強く叫んだ。

 

「この程度では終わらない。終われるはずがない。たとえ何が立ちはだかろうと、王に理想の国を献上すると決めたのだ!」

 

 どこまでも実直で、愚直な願い。操り人形となってもなお意志を貫くその宣言に、トリスタンは密やかに微笑んだ。

 

「とても綺麗ですよ、アグラヴェイン」

 

 だが、べディヴィエールが抱いた想いは。

 

「誰かを殺してまで、生前の焼き直しを望むのか」

 

 そんな、冷めた激情だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 剣戟が交錯する。

 数え切れぬ斬撃が織り成す殺し合い。

 その役を演じるのは、どちらも最強を謳われた二人の騎士。

 湖の騎士、ランスロット。

 双剣の騎士、ベイリン。

 両者が繰り出す一刀は、その全てが必殺神速。その間に割って入れる者はこの場のどこにもおらず、ひたすらにその間合いから逃げるしかなかった。

 両者の戦い方はまるで正反対。

 孤剣と双剣。ベイリンが繰り出す連撃をランスロットは受け、弾き、そして躱す。十重二十重の斬撃はいずれもランスロットには届かず、しかし、彼の刃もまたベイリンに命中することはない。

 ベイリンの剣技は喩えるなら激しく燃え上がる大炎。対するランスロットは澄んだ清流の如き流麗の剣技だ。

 刃がぶつかり合う度に空間が軋みを上げる。攻勢と防勢が目まぐるしく入れ替わる果し合いの最中、ランスロットの脳裏をよぎる、息子の姿。

 円卓の騎士ギャラハッド。ただひとり聖杯探索を成し遂げた聖なる騎士。ベイリンは知る由もないだろうが、ランスロットにはギャラハッドを介した因縁があった。

 ベイリンはとある槍を武器として用いたことで天罰を受け、三つの国に呪いを振り撒き、聖杯の継承者たるペラム王に癒えない傷を与えた。漁夫王とも称されるペラム王は長く苦しみ、彼とその王国を救うためアーサー王は騎士たちを聖杯探索の旅へと送り出すのだ。

 そう。

 ベイリンが槍に触れさえしなければ、ギャラハッドは聖杯探索に行く必要はなかった。

 ギャラハッドの偉業は賞賛されて然るべきものだ。聖杯を手にし、けれど何も願わず、天へと召されたのだから。

 生きながらにして天に召されることは、およそ現世における最大級の栄誉。なぜなら、それはかの救世主と同じ最期を辿ったということだからだ。

 それでも、ランスロットにとってギャラハッドはただひとりの血を分けた子で。

 救世主と同じになることなんて、望んではいなかった。

 分かっている。これは八つ当たりだ。ベイリンとて必死に行動した末に天罰が発動したのだから、それを責める気はない。

 だけど、そうして結論付けてしまったなら、この想いはどこに行けば良いのか。

 

「───温いぞ、ランスロット」

 

 ベイリンは二つの刃が交差するように斬撃を見舞う。

 すんでのところでそれを防いだランスロットはその衝撃までをも殺し切ることはできず、大きく後退した。

 つう、と頬に走った赤い線から血の雫が線を描く。

 なんてことはない掠り傷。しかしそれは、伯仲した実力の両者にとっては何よりも重い事実だった。

 

「剣に迷いが見えるぞ。ペレアスの剣よりもなまくらな刃で、私を斬れると思うな」

「……謝罪を。私は個人的な理由で剣を鈍らせました。あなたとの戦いに、水を差した」

 

 ベイリンはランスロットに歩み寄りながら、否定する。

 

「個人的な理由? どうとでも受け取れる言葉を使うな。私は頭が良い方ではないが、貴様の剣を鈍らせている原因くらいは感じるぞ」

 

 ランスロットは耳を疑い、困惑を覚える。王の治世を見ることなく死んだベイリンが、ギャラハッドのことを知るはずがない。だというのに、自らの迷いを見抜いたと言うのだ。

 ベイリンは兜の奥から覗く眼光を細め、問いかけた。

 

「───お前は、何故戦っている?」

 

 知らず、息が詰まる。ランスロットはどこか他人事のように口を動かして、その問いに答える。

 

「無論、獅子王と聖都のために。人理焼却が行われた以上、せめて救える人間は救うのが騎士の務めだ」

「救える人間を救うのが騎士の務めならば、貴様がやるべきことはひとつだ。王を裏切り、私たちと共に戦うが良い」

 

 裏切り。その言葉がランスロットにとって何を意味するのか、当然ベイリンは知らなかった。

 ランスロットは視線に殺気を込めて、双剣の騎士を睨みつける。

 

「……私に二度も王を裏切れと言うのか」

「貴様の事情は知らん。これは単純な算数だ。獅子王が勝つことで救われる人数よりも、カルデアが勝つことで救われる人数の方が多い」

「カルデアが勝つという保障はない。相手は人類史そのものを滅ぼした存在です。獅子王の計画が成就するのは間近に迫っている……私たちが負けることはない」

「そうなのか? だが私にも確実に言えることがあるぞ」

 

 ベイリンはびしりとランスロットを指差して、

 

「お前のような強い騎士がいれば、私たちは絶対に勝てる。そして、ペレアスたちは私に勝った。だから人理焼却とやらの黒幕にも勝てる。完璧な理屈だ」

 

 苦し紛れのような理論を堂々と語るベイリンを見て、ランスロットは歯噛みした。真逆なのは剣術だけではなく、その性根もそうなのだと。

 ランスロットの剣先が僅かに下がる。

 その変化を、ベイリンは見落とさなかった。

 

「話は終わりだ」

 

 体勢を低く屈め、爆発的な踏み込みを以って突進する。

 その勢いをたった二振りの剣に乗せ、叩きつける。単純にして明快な一撃はそれ故、威力と速度を以って相手を屠る。これを真っ当に防いだ者はいなかった。

 ───しかし、対するのはランスロット。そして、不壊の聖剣アロンダイト。

 けして折れぬ刀身は最硬の盾となって、ベイリンの爪牙を止めていた。

 次の瞬間、三つの白刃が無数の流星となって交差する。

 有り余る剛力を以って放たれる剣撃の数々を、ランスロットは無心で捌く。

 迷いを挟めば殺される。湖の騎士は全神経全感覚を闘争という行為に費やしていた。如何なる状況下にあろうとも十全たる戦闘力を発揮する無窮の武練。一時代において無双の域に到達した戦士にのみ与えられるスキルだ。

 だがしかし、それを有するのは彼だけではない。ベイリンもまた、円卓結成以前から初期において、無双の腕前を誇った剣士であった。

 なればこそ、これは偽りなき頂点同士の戦い。

 王の創業を最も助けた騎士と、王の守成を最も支えた騎士。カタチは違えど、その実力には微々たる差も存在しない。

 この戦闘に奇跡や偶然が入り込む余地はなく。

 限界が訪れるのは、早かった。

 ベイリンは全身の捻りから、左の剣を薙ぎ払う。

 

(───ここだ!)

 

 それこそを、ランスロットは狙っていた。

 ベイリンはどういう訳か、湖の乙女から奪い取った聖剣を握っていない。つまり、左手の剣は何の変哲もない鉄剣。強度も切れ味も遥かに劣る武具だ。

 ランスロットは下段からアロンダイトを跳ね上げ、その剣を叩き折った。手数を半減させ、反撃の隙を生み出すために。

 追撃の一刀を叩き込む───視界からベイリンは消え失せていた。ランスロットが双剣の騎士の位置を知ったのは、下から響く声を聞いた瞬間だった。

 

「これは私もつい最近教えられたことだが」

 

 ベイリンは極限まで姿勢を低くし、その姿が敵の視界に映らぬように仕組んでいた。そのままベイリンは回転し、鞭のように右脚を振るう。

 

「───剣は、折れるものらしいぞ」

 

 鋭い蹴りがランスロットの胸を穿つ。

 ランスロットの五体は弾丸の如く後方へ吹き飛んだ。民家の壁をノーバウンドでいくつも突き破り、なおも抗しきれずに進む。

 ベイリンはそれを全速力で追いかけながら、独り言を呟いた。

 

「防いだか。大した男だ」

 

 右脚にじくりと鈍痛が染みる。ランスロットはインパクトの寸前、アロンダイトを合わせることで直撃を免れていた。見た目は派手だが、そこまでのダメージは負っていないだろう。

 着地したランスロットは即座に態勢を立て直し、ベイリンは疾走の勢いそのままに一刀を叩き込まんとする。

 もはや二人の意識にあるのは相手を斬ることのみ。周囲の光景など二の次だ。

 同時に剣を振りかぶったその時、両者の頭上から声が響いた。

 

「……おや。これは勢揃い、ですね」

 

 朗々たる声の裏には、敵味方の区別なく降り注ぐ殺意が秘められていた。ランスロットとベイリンはそれに釣られ、上空を仰ぎ見る。

 銀の竪琴を抱く赤き髪の騎士、トリスタン。視線を下げれば、そこには離れていた二つの戦場のサーヴァントたちが一堂に介していた。

 アグラヴェインの軍勢を相手するニトクリスは魔術を発動しながら、全身で言い表せぬ感情を体現する。

 

「も、もう何がなんだか……こんなぐちゃぐちゃな状況をどう収拾つければ良いんですか!?」

「こうなったら出すしかないようね、あたしのファイナル如来掌を!」

「俺の宝具と同じ匂いがするんだが、本当に使っていいのかそれ!?」

「一か所にまとまったおかげで分かりやすい構図にはなりましたが、暗殺者にとっては活躍しづらい状況ですな」

 

 そんな愚痴に答えるように、大気が鳴動した。

 

「『良い機会だ。こちらの二人も送り届けてやる』」

 

 不遜を隠そうともしないオジマンディアスの言葉。その直後、王の居城が光輪を輝かせ、地上へ熱線を射出する。

 赤熱化した地面から灼けた煙が立ち昇る。その煙幕の只中にはガウェインとラモラックが片膝をついていた。

 城外へ弾き出された二人は熱線を受けてさえ、人の形を保つどころか軽度の火傷を残すのみだった。太陽の加護と赤き盾の防御が成し得た結果だ。

 ラモラックは服についた煤を払い、熱でひしゃげた片眼鏡を横合いへ放り投げた。

 

「流石はオジマンディアス王、反射しきれんな。おれたちだけでは敵わぬか」

「…………ここは退くべきでしょう。太陽王の抑えが解けた以上、もはや深追いにしかならない」

 

 ガウェインは冷静に考えを述べる。

 ラモラックは肯定も否定もしなかった。誰もいない後方に怜悧な視線を飛ばす。その様はここにはいない人間を待っているかのようだ。

 何かを隠している。ラモラックの表情の微妙な変化からそれを読み取ることができたのは、ランスロットのみだった。

 その意図の手掛かりを得たのは数瞬の後。肌を撫でる郷愁、回顧の念。言いようのない感覚に導かれ、手引きされるように顔を向ける。

 

「ほら、見てください! やっぱり聖都の軍が襲ってきてたんですよ! 私たちもすぐに加勢しましょう!」

「ペレアスが真反対に走り出すからおかしいとは思ったがな。ここで円卓の騎士を皆殺しにして獅子王を丸裸にするぞ」

「『ようやく主役のお出ましか、ノロマどもめ。もう少し遅れるようなら余が手を下すところであったぞ』」

「こっちもこっちで色々あったんですがねえ。名探偵とかラスボス臭のする魔術師とか、モンテ・クリスト伯を名乗る不審者とか……」

「アンタは何もしてないですけどね」

 

 ランスロットが見たのは、肩で息をしながらどたどたと走り寄ってくるEチームの面々だった。湖の乙女の加護が発動しているペレアスはノアに首の後ろを掴まれて引きずられていた。

 忘れもしない。ランスロットの郷愁を駆り立てる、ペレアスとリースの顔。けれど、何よりも誰よりも彼の心を掻き乱したのは。

 

「ギャラハッド───!?」

 

 大盾を携える、少女だった。

 彼女は小首を傾げて、

 

「……わたしのことですか? ペレアスさん、あの人は誰なんです?」

「ランスロットだよ。オレがこんなことになってる原因だ」

「元を辿れば私の加護のせいですわね」

フォウフォウ(自分で言うな)

 

 ランスロットは思考を回す。

 眼前にいるこの少女は間違いなく、ギャラハッドそのものではない。おそらくはその力を借り受けた存在だ。息子を知る円卓の騎士なら一目で気付くだろう。

 ということは。

 ランスロットはラモラックに殺気じみた眼差しを送る。

 

「隠していたのか、ラモラック!!」

 

 ラモラックは怒号と視線を飄々と受け流して首肯した。

 

「まあな。肉親が敵にいると知れば、さしものアロンダイトも鈍るだろう。おれからの計らいだ」

「私が敵に手心を加えると言うのか!?」

「応とも。おれのような人間ならともかく、貴様は情に厚い男であろう。迷いが生じぬとどうして言い切れるのだ。無論、根拠はこれだけではないぞ」

 

 彼は服の懐に手を入れると、予備の片眼鏡を取り出して右眼にかけた。ランスロットの心を見透かす、そう宣言するように。

 

「貴様は獅子王のやり方に疑問を抱いている……そうだな? 王の目的は善なる魂の人間を選別し、滅びた世界に人類が存在した証拠を残すことだ。だが、これはその場しのぎの計画でしかない」

「……アンタはどっち側なんだ? そんなことを言ってるくせにどうして今の王に従ってる」

「それとこれとは別の話だ、ペレアス。騎士とは王の剣でさえあれば良い。迷いなどもっての外だ。ランスロット───貴様はなぜ戦っているのだ?」

 

 奇しくも、それはベイリンの発言と違わぬ問いであった。

 自分はなぜ戦っているのか。迷いを抱えたまま剣を振るい、王に従い続けているのか。

 それを何度自分に問い掛けても、返ってくる答えは変わらない。

 

「…………またしても、王を裏切る訳にはいかない」

 

 ランスロットを獅子王の使命に繋ぎ止めているのはそんな理由でしかなかった。

 王国を滅ぼしたのは他の誰でもなく、道ならぬ恋に落ちた自分だ。それが死後仕える機会を得て、忠誠を誓った挙句にもう一度叛くなど恥でしかない。

 国を滅ぼした罪を贖うために、王に叛くわけにはいかないのだ。

 マシュは平坦な口調で言う。

 

「いや、普通にわたしたちの味方をすればいいのでは?」

「……は?」

「だから、カルデアの手伝いをすれば良いでしょう。どうせわたしたちは勝ちますから。何ならこれまで破竹の五連勝を成し遂げている訳ですし、何を迷うことがあるのですか? 意味が分かりません」

 

 場の空気がもったりと沈み込む。周りからの視線をふてぶてしく受け止めながら、彼女は容赦なく追撃を叩き込んだ。

 

「わたしが知っている騎士は困っている人を助けて巨悪を挫くヒーローです。主君が間違っているのなら、何度でも刃を向けるのが騎士の役目です。王妃との不倫は流石にどうかと思いますが。せめてバレないようにするのが大人なんじゃないですか。過去にバーサーカーのランスロットさんと戦いましたが、ウジウジしてない分あっちの方がまだ見ていられました」

「『……あの、マシュさん。その辺にしておいてあげた方が』」

「邪魔しちゃ駄目ですよドクター! こういうのはガツンとやってあげないと! いっちゃって、マシュ!」

 

 立香の声援を受けて、マシュは頷いた。

 彼女は盾を地面に置くと、つかつかとランスロットに近付く。そうして拳を振り上げ、顔面を狙って一直線に振り下ろす。

 

「こっちは毎日毎日アホ共に付き合わされて大変なんです! いちいちカウンセリングしてる余裕なんてありませんんんんっ!!!」

「ぐっはあぁぁあああぁああ!!?」

 

 ランスロットは大の字になって地面に転がる。ピクピクと痙攣する最強の円卓の騎士を見て、立香とノアはぼそりとツッコんだ。

 

「ガツンととは言ったけど、そういう意味ではない」

「すっかり暴力なすびに育ちやがったな、あいつ」

 

 そんなマスターたちをよそに、湖の乙女はランスロットの顔を覗き込む。

 

「……義母上(ははうえ)

「ランスロット。私はあなたを責めませんわ。恋の激情が如何に抗い難いかを、知っていますから。けれど、ひとつだけ聞かせてください」

 

 リースは優しく、囁く。

 

「───あなたはどうして私の教えを受けようと思ったのですか」

 

 その時、脳内に浮かぶ、幼少の記憶。

 湖の乙女は運命の王を支える無双の騎士を求めて、フランスに行き着いた。ベンウィックのバン王の息子であるランスロットは、そうして湖の乙女に養育されるのだ。

 彼女の申し出を受けた時、自分は何と答えたのか。

 自らが抱いた原初の信念。それは、王のためでも国のためでもなく。

 

〝ならば、私は貴女に教えを乞いたい。無辜の人々を、少しでも笑顔にするために〟

 

 ───人のために。

 救われぬ無辜の人々を笑顔にするために、戦いの道に進むと決めたのだ。

 ランスロットは息を呑む。

 そうだ。

 人々を笑顔にするはずの騎士が、なぜ人類を救う戦いから逃げているのか。

 人を守るために在る剣ならば、たとえ無上の忠誠を捧げた王であろうとその間違いを糾すのが理想の騎士の在り方だ。

 ランスロットはゆらりと立ち上がる。アロンダイトの切っ先をラモラックたちに差し向け、言い切った。

 

「私は二度、王に叛く。これよりは、貴方たちの敵となります」

 

 その宣言に対する反応は。

 ラモラックとトリスタンは口角を持ち上げて深く笑み、ガウェインは驚愕に震え、アグラヴェインは溢れんばかりの憤怒を顕にした。

 アグラヴェインは傷ついた肉体を引きずり、激しく哮り立つ。

 

「貴様は、またしても王を裏切るというのか!! 死してもなおその穢れた性根は治らなかったようだな……!! 自らの意思を殺して身を捧げる騎士の職分を果たせぬのならば、今すぐその首を斬って死ぬが良い! 女に溺れ、逆上の末に仲間を殺戮した貴様には恵まれた死に様だろう!!!」

 

 剣を振り回そうとする彼の手を、ペレアスは掴んで遮る。ランスロットがカルデアに対する戦意を失った今、加護は発動していなかったからだ。

 

「一番最後の意見に関してはそうかもしれねえが、お前が護ろうとしてる王は人間で、国は人間で造られたモノだろ。自由意思を否定したら王も国も成り立たねえぞ」

「王よりも女を選んだ貴様に言われたくはない……!! ペレアス、貴様もまたランスロットと同類だ!」

「うるせえ、こっちは真っ当な恋愛だろうが! ランスロットと一緒にすんじゃねえ!!」

 

 ペレアスはアグラヴェインを押し退けるように勢い付けて、手を放す。

 

「こんなところで決着だなんてオレは望まねえぞ。お前らは聖都に帰って決戦の準備でもしてろ! 先輩だろうが情けはかけねえからな!!」

「───ククッ。ペレアスのくせに言うものだ。おれは構わんぞ」

「私も異論はありません。ええ、我が妖弦で彼らを引き裂くのが楽しみです」

 

 ガウェインはアグラヴェインを片手で制しながら、ペレアスたちに告げる。

 

「貴方たちに猶予はない。戦うつもりなら、それだけは覚えておくように」

「……ガウェイン」

 

 ペレアスは振り返ろうとするガウェインの名を呼んだ。

 ぴたりと足を止めた彼は顔を向けようとはせず、次の言葉を待っていた。

 

「オレは、お前との約束を果たしたぞ」

 

 ガウェインの表情はうかがい知れず。

 

「…………どうやら、そのようですね」

 

 太陽の騎士は小さな同意だけを残して、去っていった。

 獅子王との決戦は間近。円卓の騎士たちはそれぞれの信念を胸に、かつての同胞を迎え撃つ。




『騎士は徒手にて砕けず』
ランク︰C 種別︰対人宝具
ナイト・オブ・ザ・ハードハンド。メイヴに続く第二の捏造宝具。『堅い手』のアグラヴェインという異名が基となっている。自らの手を起点に敵の攻撃を減衰、防御する宝具。ただそれだけの宝具だが、常時発動型であり使い勝手は良い。マロリー版のアグラヴェインは悪役として書かれているが、『ガウェイン卿と緑の騎士』という話では武勇に優れた立派な騎士として描かれている。『傷知らず』、『鉄』という異名もあるそうで、どうやら守りに優れた騎士だったようである。


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第54話 藤丸立香はわからない〜リースさんのトキメキ☆恋愛相談室〜

 球技の歴史は古い。

 現代の生活に慣れ切った人類には想像もしづらいことだが、古代にはインターネットがなければアニメや漫画もない。絵や彫刻は作品が置かれている場所に行かなければ一目見ることも叶わなかったのだ。

 人間の心の安定に娯楽は必要不可欠だ。とはいえ、昔の芸術品や嗜好品は大多数の人々には敷居が高かった。そこで誰もが手頃にでき、体を鍛えることにも繋がるスポーツが生まれたのである。電子機器にかじりついている現代人よりよほど健康的だと言えよう。

 確認されている中で最古の球技は約5000年前に遡る。古代エジプトとギリシャの文献上に、真鍮製の球を用いた競技の存在が書かれている。

 現代ではスポールブールと呼ばれるスポーツ。そのルールはいたって簡単。目標となる球を置いて、それに別の球を転がすなり投げるなりして最も目標球に近かった者が勝利するというものである。要はカーリングに近い。

 なぜこんな話をしたのかと言うと、決して文字数を稼ごうという浅ましい考えをした訳ではなく。

 円卓の騎士の襲撃から二日後。燦々と陽の光が照りつける屋外。オジマンディアスの城の前の広場では、数人のサーヴァントとノアが集まっていた。

 

「『球体一条(ステラ)』ァァーーッ!!!」

 

 アーラシュが放ったボールが地面を猛然と転がる。砂塵を巻き上げて爆走する一投は、目標球の目前で急激なバックスピンをかけて停止する。

 二つの球がぴったりと隣り合う。流石は東方の大英雄と言ったところか、最高峰のアーチャーに相応しい神業だった。掛け声が不穏にも程があるが。

 驚異の横付けを成し遂げたアーラシュは爽やかな笑顔でガッツポーズを取った。

 

「どうだ、見たか俺の入魂の一投! 五体が飛び散る覚悟で投げれば何事もうまくいくってもんだ!!」

 

 見事な技前を見せつけられたギャラリーたちは諸手をあげて沸き立つ。

 

「いやはやアーラシュ殿、結構なお手前で。かーっ! 右腕があったらなぁーっ! 転がすまでもなくビタ付けできたんですけどなぁ〜っ!!」

「一芸に秀でる者は多芸に通じる、ということですね。我が王も言っていました……〝サルミアッキが食べられるならこの世の大抵のものは美味しく感じられます〟と」

フォウフォフォウフォウ(確かにアレすげえ不味いよな)

「これはもうあたしも御仏パワー全力全開でやるしかないわね! 悟空の觔斗雲を借りられれば良かったんだけど!」

「くっ! こ、このままではファラオの威厳が消滅の危機に!! 遊戯とはいえファラオが負けるのをオジマンディアス様はお認めになられないでしょう……!!」

 

 ニトクリスは顔を真っ青にして、両腕で自分を自分で抱く。つややかな褐色の肌はガタガタと震えていた。いかなる勝負事であろうと、ファラオに敗北は許されないのだ。

 彼女がここまで真剣になっている理由は他にもあった。彼らが和気あいあいとスポーツを楽しんでいたところ、突如大気が震え出し、オジマンディアスの声が響いた。

 

〝古今東西の英雄が織り成す遊戯、ファラオの目を汚すに足る値打ちがある。勝者には我が宝物庫から景品をくれてやろう。精々骨肉を削るが良い〟

 

 そうして、この戦いは友誼を深めるためのものから、物欲に塗れた汚い大人たちの醜い争いに変貌した。途中で儲け話には天才的に敏感なノアまでもが加わり、試合の様子は殺伐としつつある。

 ファラオのものはファラオのもの。お前のものはファラオのもの……ということで、ニトクリスにとってオジマンディアスの宝物を誰かに渡す訳にはいかない。ましてやノアなどという男が勝つくらいなら、盗掘者に奪われた方がまだ納得がいく。

 三蔵は小さく首を傾げた。人差し指は下唇に。絵に描いたような疑問の表れだった。

 

「スカラベに運んでもらえばいいんじゃない? 別名フンコロガシなんだし、うんこ転がすのも球転がすのも変わらな……」

「エジプトの神聖な虫をうん……とか言わないでくれます!? スカラベが転がす球体は太陽の象徴、決して汚いアレではないのです! というか羞恥心とかないんですか!?」

「大丈夫、仏教で修行すれば羞恥心なんて塵芥も同然よ! やりすぎると執着とか無くなって、人間がうんこの入れ物にしか見えなくなるけど……」

「おいおい、クソみたいな話してんじゃねえ。次は俺の番だ。目かっぴらいて見てろ」

フォウフォフォウ(いや、クソの話してたけど)

 

 ノアは真鍮製の球を握って前に進み出る。

 スポールブールにはいくつかのルールに分かれているが、彼らが興じていたのはひとり四球でどれだけ多く近く移動させられたかを競うものだった。そもそも、古代エジプトにどこまでルールが整理されていたのかは新しい資料が発見されない限り、永遠の謎だ。

 つまり、これは失われた古代版スポールブール。無駄に神秘が籠っていそうな無駄に価値の高い無駄な遊びであった。

 アーラシュは近くの壁に寄りかかりながら、キザに鼻を鳴らす。

 

「まさか人間が俺たちサーヴァントに挑もうとはな。その勇気は褒めてやるが、それは蛮勇の類だぜ?」

「いいか、蛮勇なんて言葉は失敗したやつがされる事後評価だ。成功者にそんな枕詞はつかねえ。ましてや、俺みたいな天才にはな!!」

「これが天上天下唯我独尊ですな?」

「暴走族が長ランの背中に書いてる方の意味の唯我独尊ね」

 

 呪腕と三蔵はぼそりと呟いた。釈迦が誕生直後に言ったとされるこの言葉は世の誰もが尊いという意味なのだが、騒音被害上等の不良たちにそんな精神があるはずもなかった。

 ノアは真鍮製の球体を右手で包み、そのまま腕を振り上げた。その瞬間、べディヴィエールは冷や汗を垂らして戦慄する。

 

「まさかの上手投げ───ッ!! コントロールが容易い下手投げが主流のところを、あえてという訳ですか! これは戦術的な奇襲と言っても相違ありません!!」

「えっ、何か急に解説役の座を奪い取りに来たんですがこの騎士!? 汚いなさすが円卓の騎士きたない!!」

「やっぱり円卓の騎士って……」

 

 ニトクリスはもごもごと口ごもった。続く言葉がポジティブな内容でないことは確定的に明らかである。ここまでに一秒、ノアの指先から球が離れていく。

 

「wirdォ!!」

 

 意味深な掛け声とともに、球が空中で放物線を描く。べディヴィエールたちはその軌跡を目で追った。放物線の頂点に達した後、球体は浮遊するみたいに落下し、目標球の上に腰を落ち着ける。

 場が一瞬で静まり返る。もはやそこに黒い目をしている者はノアしかいなかった。

 転がして横につけるのではなく、投げて上に置くという物理法則をナメきった異常事態。まるでテレビゲームのバグ技を間近で披露され、三蔵とニトクリスは大口を開けて騒ぎ立てる。

 

「酷いイカサマの現場を見たわ! 私の弟子たちと張るくらいのやんちゃ坊主ね……!! 緊箍児からの説法コース決定よ!!」

「あの掛け声魔術の詠唱でしたよね!? ファラオたる私の目はごまかせませんよ! よくも堂々とズルをしましたね、許しません!」

「ワーキャー騒ぐなへなちょこどもが。この世の中は勝ったやつが正義なんだよ、ヒャハハハハ!! 所詮おまえらは敗北者、この俺に頭を垂れて平伏するだけの存在だ!! 負け犬の遠吠え以上に心地良い音楽は存在しねえなァ!!!」

「敗北者……?」

 

 悪魔の形相で高笑いをぶちまけるノアの言葉に、呪腕が目ざとく反応する。彼はハァハァと息を荒げながらノアににじり寄った。

 

「取り消せよ……!! 今の言葉……!!」

 

 呪腕が左手を伸ばそうとしたその時、彼の顔面ど真ん中に真鍮の球体が直撃する。ぐしゃりと痛々しい音を立てて、漆黒の五体は銃で撃たれたように背中から倒れ込んだ。

 その犯人はノアではなく。少し離れた場所で、ベイリンが腕を振り下げたポーズで停止している。強い陽射しの下でも赤い甲冑で全身を包んだベイリンの両脇では、べディヴィエールとアーラシュが頭を抱えていた。

 ベイリンは脇の二人に不機嫌な調子で言う。

 

「おい、軽すぎて狙ったところに飛んでいかないぞ。なんだこの武器は。不良品を掴まされた」

「ベイリン卿、それは武器じゃないです」

「大体何で投げたんだよ。どこに投げたんだよ。殺意の塊じゃねえか」

「そう褒めるな、私は照れやすい質だ」

「俺がいつ褒めたんだ!? 修羅の国出身か!?」

 

 アーラシュの心中にはベイリンが天然ではないかという疑念が持ち上がっていた。強者が円卓の騎士に選ばれるのではない。強い変人だけが円卓に引き寄せられるのだ。

 顔面から溢れる血に溺れる呪腕を背景に、べディヴィエールは新しい真鍮の球を手に取り、ベイリンに渡す。

 

「コツとしてはしっかり握って軽く投げる、でしょうか。決して野球選手のようなフォームで投げてはいけません」

「俺みたいな天才以外はな」

「貴方はただのイカサマ師でしょう!? 天才は天才でも闇に降り立った天才です! 一夜が十九年明けない方です!!」

「スポールブールみたいな単調なゲームを十九年し続けるのはキツいわね。苦行スイッチ入れないと」

フォフォウフォフォウ(全スポールブール選手に謝れ)

 

 ベイリンは言われた通りに指に力を込める。

 すると、バギョ、という嫌な音が響いた。いくつもの真鍮の破片が指の間をすり抜けて地面に落ちる。無言でノアたちを見るベイリンは、いかにも物悲しい風情を演出していた。

 双剣の騎士はふてくされたように腕を組んだ。さながら駄々をこねる子どもである。高所から落ちるように砂の地面に座り、深く嘆息する。

 

「……つまらん。知っているぞ、こういうのをクソゲーと言うのだろう」

「どんな馬鹿力してるのよあなた!? 猪八戒だってここまで酷くはなかったわ!」

「撫でただけで小動物を殺すタイプの悲しきモンスターか?」

 

 ノアは平坦な声で言った。今まで生きれてこれたことが不思議なくらいの馬鹿力加減だった。

 ともかく、このままではノアが優勝者に決まってしまう。それは誰にとっても避けたい事態だ。何か悪いことが起きるのは目に見えているのだから。

 ニトクリスがスカラベの召喚を決意したその時、彼女たちの頭上をまばゆい光が照らした。光の幕から現れるのはオジマンディアス。彼は全員を見下ろしながら、高笑いをあげる。

 

「まだ決着がついておらぬとは呆れたぞ! 余は飽き性なのだ、貴様らの低レベルな争いをいつまでも観ていられるか!! 余がこの戦いに収拾をつけてやろう!」

 

 単に輪に入れてほしいだけなのでは。ニトクリスはその言葉を喉元で留めた。

 オジマンディアス突然の参戦。そうとなれば他の参加者は黙っていない。ノアを筆頭とした汚れた大人たちは目を血走らせて抗議する。

 

「今更出てきて乱入なんざ認められるか、すっこんでろファラオ! とっくのとうに俺の優勝でカタはついてんだよ! 御託並べるより前に宝物庫の鍵を開けやがれ!!」

「そうだそうだ、ファラオなんだから人前で言ったことには責任を持て! 俺の宝具で国を真っ二つにしても良いんだぞ!」

「それをやるとアーラシュ殿が死ぬんですが……?」

「うむ、無駄死にはいけないぞ。私がそうなったのだから間違いない。弟を手にかけた無念と後悔で心が押し潰されるからな」

「ベイリン卿、話が重いです」

 

 さらりと闇を現したベイリンに、べディヴィエールは辟易する。オジマンディアスはそんなやり取りを視界に入っていないかのようにスルーして、不遜に口端を吊り上げた。

 

「呆れたことに、貴様らの誰ひとりとしてこの競技の真髄を理解していない。ニトクリスでさえもな。そんな烏合の衆が勝ち負けを語るなどと、片腹───否、全身が大激痛であるわ!!」

「病院行けよ」

「黙りなさい無礼者! オジマンディアス様、スポールブールの真髄とは一体何のことでございましょう。王の広く深い見識のほどを私めにも分けていただきたく存じます!」

「良いだろう。しかと拝聴せよ!」

 

 オジマンディアスはカラオケでひとり熱唱するように喋り始める。

 

「スポールブールにおけるフィールドとは宇宙……となれば球体は星を指す。ならば中心に位置する球とはすなわち、遍く世を照らす太陽! ラーの化身たる余のことに他ならぬ!!」

「つ、つまり……?」

「余こそが真のフィールドの中心! なればこそ、余は初めから、不動の勝者であったのだ!! 偽りの目標に向かってせこせこと球を放る貴様らの姿は中々に滑稽であったぞ!」

「なんという超理論───!!」

 

 ニトクリスは絶句した。球を目標に近づける競技ならば、目標そのものであるオジマンディアスに勝てる道理はない。結局のところ、彼は宝物庫を開けるつもりはなかったのだ。

 ただ、ここに揃いしは一癖も二癖もある曲者。ノアと呪腕は冴えたアイディアを同時に閃き、下卑た眼光を煌めかせた。

 

「あいつが中心ということは────」

「───ファラオに球を投げつければ私の勝ち……?」

「え、おかしくないですかこの二人。今とんでもなく不遜なことを口走りませんでしたか!? 私の聞き間違いですよね!?」

 

 と、ニトクリスが右往左往している間にもノアと呪腕は金属球を握り締め、オジマンディアス目掛けて投擲する。

 

「「おらぁぁぁああああっ!!」」

「ああああああ何やってんだァァァ!!!」

 

 もはや口調(キャラ)などかなぐり捨てたニトクリスの絶叫が大空に響き渡る。空は彼女を嘲笑うように、底なしに綺麗な青色をしていた。

 飛来する真鍮の球を、オジマンディアスは腕を組んだまま体で受け止める。ファラオの肉体には傷ひとつなく、微動だにしていない。

 彼は哄笑を轟かせて、

 

「フハハハハ効かぬわ!! 太陽に小石をぶつけたところで蒸発するのが道理であるからなァーッ!!」

「クソがぁぁぁ俺は諦めねえ! エジプトの秘宝は何もかも俺のもんだァァ!!」

「オジマンディアス様もうこいつ処刑していいですか!!?」

「パッとしない方のファラオが俺を止められるとでも思ってんのか!? 黄金長方形を利用した回転エネルギーの極致を見せてやるよ!!」

「どこのツェペリ一族!?」

 

 ノアとニトクリスは球を手に、容赦なくそれを投げつける。戦いはスポールブールの域を超え、真鍮球を使った雪合戦の様相を呈していた。

 このままでは本気の果たし合いになる。そう直感したアーラシュは遠巻きから二人に声をかける。

 

「よ、よお。そこまでにしておいた方が良いんじゃねえか? どうやってオチつけんだこれ───」

 

 言葉が途切れる。アーラシュの両眼には流れ弾が突き刺さっていた。さしもの神代の肉体とはいえ、やはり目は柔らかい。彼は足をバタつかせながら、地面を転がった。

 

「ぐあああああ!! 目が、目がぁ〜!」

 

 ベイリンは絶賛悶絶中のアーラシュを見て、こくりと頷く。

 

「…………なるほど、これはそういうことか。私にとってはこういったノリの方が好ましい」

「ベイリン卿? 違いますよ? 目の前の光景はただの喧嘩ですからね? 血風吹き荒れる殺し合いですからね!?」

「どちらにせよ止めないと! 喧嘩なんて不毛の極みだわ! ソースは御仏!」

 

 ということで、その場の全員を巻き込んだ乱戦が勃発した。球の在庫が尽きて拳を持ち出してくるのはそう遠い未来ではないだろう。

 そんなアホたちの戦場を、建物の陰から眺めている者がいた。

 その者の名は藤丸立香。人類最後のマスターの片割れにして、ようやくヒロインとしてのスタートラインを切った変人女である。

 その視線が射抜くのは、騒動の渦中にあるノアだった。普段は混ざるか止めるかしていたところだが、今日の立香は珍しく攻めあぐねていた。

 彼女の図太さとコミュ力は常人離れしている。この場に乱入することなど造作もない。しかし、足裏が地面に縫い付けられたように動いてくれなかった。その原因がどこにあるかなんて、もうはっきりしている。

 時に、イギリスの政治家で小説家のベンジャミン・ディズレーリは言った。〝初恋の魅力は恋がいつか終わることを知らない点にある〟と。

 いかにもイギリス人らしく小洒落た皮肉な物言いだと立香は思う。恋の終わりには色々な結末があるはずだ。全部が全部、悪いものであるはずがない。

 だから、この気持ちが行き着く先はせめて、良いものにしたかった。

 とは言っても、相手はクズの中のクズ。およそ慈悲の心を持たぬ、人の形をした悪魔だ。漫画やドラマで擬似的に蓄積しただけの恋愛経験で太刀打ちできる相手ではない。

 それでも、と思わされてしまうのだから、恋という感情は厄介だ。秘め置くことはもどかしく、伝えることは怖い。矛盾した二律背反。どんな病気よりもたちが悪い。

 特別なことをするべきなのか、するとしても何をするべきなのか。答えのない疑問が頭の中でぐるぐると渦巻く。

 立香が物陰でもんもんとしていると、突然耳元で声が響く。

 

「ふふふ……分かりますわよ、立香さん」

「ほぎゃあっ!?」

 

 振り返ると、そこには湖の乙女リース。今の彼女は幽霊のような存在。精霊としての力はほとんど残っていないが、出るも消えるも思いのままだ。その力を以ってして、彼女は立香の背後を取ったのだ。

 無駄なイタズラは妖精の本領でもある。心臓の鼓動を波打たせる立香に、リースはひっそりと咲く花のような笑みを近づけた。

 

「あなたのその気持ち、私には痛いほどに共感できます。胸をじくじくと刺す恋心をどうしたらいいのか分からない……けれど何もせずにはいられない。そうでしょう?」

「ま、まあ、そんな感じですけど。まるで地の文を読んできたかのような正確さですね?」

「私は三度のご飯よりもコイバナを愛する湖の乙女! ええ、何せ精霊ですから! 私には第四の壁を超えることなど造作もありません!! ということで相談に乗らせていただきますわよ立香さん!!」

「相談に乗るというか乗り込んできてますよね。飛び込み営業ですよね。相談の押し売りですよね!?」

 

 立香はぎょっとした。恋愛暴走列車である湖の乙女から逃れる術はない。何しろこの女、ペレアスの幼少期から死ぬまでをみっちりと味わい尽くした逆光源氏の権化だ。紫式部もひっくり返るだろう。

 それとは裏腹に、この行動が単純な善意から来ていることも立香は理解していた。

 相談相手としては悪くはない。マシュやジャンヌに知られるのは論外だし、ロマンはロマンなので望み薄である。

 どうせまともな人間がいないなら、一番経験豊富な精霊を。立香は頬をほのかに赤らめて言う。

 

「その、リースさん的に恋愛のコツとかあるんですか?」

「もちろんですわ。エタードという巨悪を打倒し、私が掴んだ恋愛の極意。それは───」

 

 立香はごくりと息を呑む。リースは両の拳を力強く握り締めた。

 

「───攻めて攻めて攻めまくることですわっ! 押しも押されぬほどに押し、引くに引けない状況に引きずり出す! どうぞ私のことは恋愛界の諸葛孔明とお呼びくださいませ!!」

「つまり恋愛包囲殲滅陣ですね! 具体的にはどうしたら?」

「そうですわね。まずはやはり簡単な攻めから試してみましょう。最初に相手の寝床に全裸で潜り込」

「どこが最初!? 初手から王手掛けてるんですけど!!孔明っていうより呂布みたいなバーサーカーじゃないですか! R-18は厳禁ですよ!?」

「そ、そんな……っ! これが駄目となると私に打てる手はありませんわ!」

「それもう恋愛脳じゃなくて淫乱脳なんですが!?」

 

 湖の乙女にまともな手段を期待したのが間違いだった。彼女が有する策はその全てが必殺技。さながら地球が壊れないように警戒して戦う悟空のように、リースがもたらす技はこの物語を終わらせ得る力を秘めている。

 大体、ノアとペレアス、立香とリースでは前提からして色々と異なる。立香がノアの部屋に忍び込もうとしても、研究資料を守るための魔術に阻まれるだろう。

 リースはがっくりと肩を落とし、眉間にしわを寄せた。

 

「では、他の方に意見を訊いてみるしかありませんわね。何人か心当たりがありますので連れて参りましょう。大丈夫です、立香さんの事情は伏せておきますから!」

「不安しかない───!!」

 

 湖の乙女はその場から霧散してしまったかのように姿を消す。数十秒後、リースは颯爽と現れた。走り回ってきたのか、額には汗が浮かんでいる。

 

「という訳で、『恋愛こじらせ三銃士』を連れてきました!」

「れ、恋愛こじらせ三銃士?」

「はい、私が選んだとっておきの強者たちですわ。では、ご登場くださいませ!」

 

 言いながら、リースは背後に視線を送った。

 眼差しの先の物陰でごそごそと音がすると、見知った顔がぞろぞろと団子のようにつらなって出てくる。

 彼らはみな一様に沈痛な面持ちをしていた。

 

「ダンテです。その気もないのに複数の女性にラブレターを贈って、他人の心を弄びました」

「ペレアスです。エタードにストーカー行為を繰り返した挙句、ガウェインに寝取られました」

「ランスロットです。主君の妻と不倫をしていたら現場を押さえられて円卓を分裂させてしまいました」

 

 罪人が並べられた処刑場のような空気が蔓延する。とっておきの強者というのは間違いではなかったようだ。否、見方によってはこれ以上ない弱者なのだが。

 地獄の雰囲気にも関わらず、湖の乙女は相変わらず笑顔だった。エタードという単語が出てきた一瞬、とてつもない殺気を感じたがそれは気のせいだろう。気のせいに違いない。

 立香は無理やり自分を納得させると、率直な感想を述べる。

 

「……ランスロットさんだけ洒落になってないですよね。恋愛よりも国の方をこじらせてますよね。そんな扱いでいいんですか」

「心配する必要はありません。事が終結した暁には自刃する覚悟なので。これも罪を雪ぐ機会と思えば……」

「覚悟が重い! ダンテさんとペレアスさんの可愛らしいこじらせ具合を見習ってください!」

「ストーカーを可愛らしいとは言えなくないですか!? 立香さん、感覚が麻痺していますよ! 気の迷いで済むのは私くらいなものですから!!」

「気の迷いでラブレター量産するはずねえだろ! お前も大概なんだよ!」

 

 ペレアスはダンテの尻を蹴り上げた。正直彼らの中では上も下もないのだが、そこは同族嫌悪というやつだった。

 尻を押さえながら悶絶するダンテ。リースはこてんと首を傾げて問う。

 

「ダンテさんは許嫁がおられたはずですが、他の女性に恋文を送ってお叱りなどされなかったのですか?」

「全身の関節を三回転ひねりされた上に、一晩中ベランダから物干し竿で吊るされました。思えばアレが最初に経験した地獄でしたね。怒ったジェンマはミノタウロスより怖いかもしれません」

「私としてはそれを淡々と語れるダンテさんの方が怖いんですけど?」

「この件に関しては私が全面的に悪いですから。それ以来体が柔らかくなったので、怪我の功名ですよ! はっはっは!!」

 

 晴れやかな笑顔とは真逆に、彼の両足は生まれたての小鹿のように震えていた。当時味わった恐怖がダンテの預かり知らぬところで再発しているのだ。

 心なしかその目は笑っておらず、瞳はドス黒くなっている。急なホラー風味を感じた立香は思わずダンテから距離を取った。

 ペレアスは湿っぽい目つきで、近くの塀に腰を乗せる。湖の乙女は即座にその隣を確保した。

 

「まあ、オレとランスロットはともかくダンテは色々と持ちネタがあるんじゃねえか。新生とかいう詩集でベアトリーチェとの初恋を書いてただろ」

「書きましたが、アレは神曲の前段階という側面があったので、私としては納得がいかない部分が多いんですよねえ。どんな技法を試したとか聞きたいですか、立香さん?」

「いやあ、あんまり理解できそうにないので……でも詩を書けるってすごいですよね。私にはできそうもないです」

「そんなことはありません。詩文は万人に開かれたものです。特に日本にはハイクやセンリューなどの誰にとっても分かりやすい形式の詩があるではないですか! 私自身現界してから東洋の詩を学びましたが、漢詩も和歌もまさしくアジアの精神を表した神秘の塊です!! むしろ日本語を扱う点では一日の長があるでしょう、どうですか立香さんも!!」

「くっ、そういえばこの人も変人だった……!!」

 

 しかし、ランスロットはこくこくと頷いて、

 

「詩もまた騎士の教養のひとつですからね。かくいう私も、出会った女性には必ず詩を贈っていました」

「さすが円卓屈指のプレイボーイですねえ。私の時代でもランスロットさんの物語はフィレンツェ中の婦女たちに大人気でしたよ」

「イタリア……芸術の都フィレンツェの……麗しき婦女たちに……!? その話を詳しくお聞かせ願えますか!?」

「おい、さっきまでの反省の心はどうしたんだこいつ」

 

 ペレアスがぼそりとツッコむが、ランスロットの耳には届いていなかった。ダンテは記憶の糸を辿るように上を向いて語り始める。

 

「そもそも、騎士道物語自体女性に好まれていましたから。ランスロット卿は特にそうですね。ご婦人方が同じ話を読んで、お茶会で語り合うことも多かったそうで……妻のジェンマなんかは騎士たちの血みどろの戦いが好きでしたが」

「ペレアス。カルデアのレイシフトとやらは私にも使えるのですか。ダンテ殿が生きていた時代に飛ばせてください」

「次元の狭間に送り飛ばしてやろうか?」

「ランスロット卿がお茶会に乱入したらきっと黄色い歓声が起こるでしょうねえ。何と言っても道ならぬ恋の代名詞、貴族の子女が羨む不倫劇の主人公なので!!」

 

 言った瞬間、ランスロットは石化の魔眼にでも魅入られたかのようにびしりと固まった。

 立香はランスロットの体を揺さぶるが、一切の反応を示さない。瞬きすら停止しているせいか、まぶたには涙が溜まっている。

 

「し、死んでる……」

「どうせまた女の話したら復活するだろ。ほっとけほっとけ」

「円卓最強の騎士の扱いがこんなのでいいんですかねえ」

 

 騎士道物語における宮廷恋愛の構成要素はほぼほぼ不倫であると言っても良い。親の意向によって婚姻が定められる時代、自由な恋愛というのは不倫にしか見出されなかったのだ。

 そんな人々に、ランスロットの物語はストライクど真ん中に突き刺さった。ダンテの神曲地獄篇にも、ランスロットとギネヴィアの話を読んでいたという女性が登場するほどである。

 湖の乙女は停止したランスロットの代わりに、単刀直入に質問した。

 

「それで、ダンテさんの恋愛の極意とは?」

「〝女の愛というものは、見たり、触ったりすることによって燃やし続けていなければ、どれほども続かないのである〟───つまり、どんな形であろうと想いを伝えることが重要なのではないでしょうか。私なんか地獄行くまでベアトリーチェとは赤の他人だった訳ですし! アハッ、アハハハハハハッ!!!」

 

 ダンテの両眼からはだくだくと涙が流れ出していた。享年五十六歳の姿であることを考慮すると、中々にクる映像である。

 立香は湖の乙女の耳に囁く。

 

「これもう恋愛こじらせ三銃士じゃなくて恋愛トラウマ三銃士になってません?」

「恋愛とトラウマは表裏一体ですわ。電車内で人目も憚らずにイチャついたり、恋人の名前を入れ墨した挙句別れたり、恋とは常に痛みを伴うのです」

「この人初めてまともなことを言った気がする……でも、三銃士からタメになる話を聞き出せそうにないんですが」

「ま、まだペレアス様とランスロットが残っています。二人に希望をかけてみましょう。ペレアス様っ♡ 私とあなた様の恋の極意を立香さんにお聞かせくださいませ〜っ♡」

「こ、これが精霊の変わり身……!!?」

 

 湖の乙女は団長の手刀を見逃さなかった人でも見逃しそうなほどに速く態度を変えてみせた。ペレアスは少し考えて、平坦に述べた。

 

「人に迷惑をかけないこと、じゃねえか? ストーカーもそうだしな。それに……」

 

 石化から生還したランスロットはペレアスの言葉を遮る。

 

「ペレアス? それ私のことですか? 私のことですよね? 私の目を見て今の言葉を言えますか?」

「勝手に勘違いして勝手に傷ついてんじゃねえ! いやまあお前も関係各所に迷惑かけまくったけどな! オレもほぼお前のせいで円卓追放されたけどな!?」

「ほう、では貴方は私に迷惑をかけたことがないと? いいえそんなことは決して言わせません! 覚えていますか、貴方と義母上が初めて王都を訪れたときのことを!!」

 

 ペレアスと湖の乙女は顔を見合わせて、互いの心当たりを探る。立香とダンテには何のことかさっぱりだが、重大な事件があったに違いない。

 思い当たる記憶を発見し、ペレアス夫妻はぽんと手の平を叩いた。

 

「あれか、ガウェインが城からスライディング土下座しながら来たせいで顔面血まみれになってた……」

「ああ、私がマーリンさんと魔術対決して街中を水浸しの花まみれにしてしまった……」

「いや、そうではなく! 二人が私に挨拶しに来たでしょう!」

「「あぁ〜……」」

 

 二人は記憶を補い合うように、当時の出来事をつらつらと口に出す。

 それはエタードが湖の乙女に完膚なきまでの敗北を喫した一ヶ月後のこと。地味に強いペレアスはガウェインに脳を破壊されながらも、数々の戦場で戦果を打ち立てていた。その途中で嘆きの騎士という余計な異名もついた。

 ガウェインの名前を聞くだけで発狂していたペレアスだったが、その傷もとりあえず癒え、再三要求されていた王都への士官を実現した時のことである。

 湖の乙女はペレアスを伴って、ランスロットを呼び出していた。

 

〝ランスロット。今日はあなたにお話があって参りました〟

〝久しぶりです、義母上。幼少の頃から変わらぬようで何よりです。ペレアス卿との話は今や王都の中では持ちきりになっていますよ〟

〝それでは話は早いですわね。……実はこの度、ペレアス様と結婚することになりましたの〜っ♡ ハネムーンはフランスで、式はエタードの城の真ん前にある教会で行うことに致しました!♡ 二次会はお姉様の氷の塔でお酒と氷菓が出る予定ですわ! ランスロットももちろん来てくださいますわよね?〟

〝き、キャラが……義母上のキャラが……あの神秘的で無口な姿は一体どこに……!!?〟

 

 笑ってはいけないキャメロット24時でもやっていたのか。立香は心の中でそう独りごちた。ランスロットは血涙を流しながらペレアスに詰め寄る。

 

「分かりますかペレアス。久しぶりに会った義母が、年下で後輩の騎士に恥知らずな嬌態を晒している光景を見せつけられる気分が……!! 得も言われぬ不安感と正体不明の焦燥感が心に湧き出し、その、結論から言うと正直興奮しました……!!」

「どこで新しい扉開いてんだァァァ!! ただお前の性癖暴露しただけじゃねーか! 結論に至るまでの過程をすっ飛ばしすぎだろ!!」

 

 ランスロットの衝撃的なカミングアウトをくらい、ペレアスは絶叫した。そこで、どこからか響いた声が彼らの不意を突く。

 

「皆さん、こんなところで集まって何をしているのですか?」

 

 それは聞き慣れた少女の声、Eチームの野菜担当マシュ・キリエライトのものだった。

 彼女はランスロットの顔面に鉄拳を叩き込んだ豪傑である。事態の収拾をつけることを期待し、立香は声の方向に視線を送る。

 

「マシュ、今ランスロットさんが性癖を───」

 

 それを視界に入れたと同時、立香は絶句した。

 その様を一言で表すなら、人間大のなすび。茄子をかたどった巨大なきぐるみから、マシュの顔面と四肢だけが飛び出している。

 巨大なすびが放つ圧倒的な威容を受けて、立香は思わず地面に尻もちをついた。

 

「うわあああああなすびの化け物!!?」

「いえ、先輩の頼れる後輩マシュ・キリエライトです。なすびのコスプレをすると言った手前、逃げるわけにもいかないのでダ・ヴィンチちゃんに作ってもらいました」

「これに関しては逃げてもよかったと思うけど? なすの化け物にマシュが吸収されてるみたいになってるから。……ダンテさんが一瞬地獄に迷い込んだみたいな顔してたし」

「ダンテさん、新しい詩のインスピレーションをわたしのこの姿から受け取ることを許可しましょう」

「しないですよ!? ただでさえ天国篇が分かりづらいと言われているのに、なすびの怪物なんて登場させたら現代の読者たちがどれほど苦しむことか……!!」

 

 ダンテの葛藤を尻目に、ランスロットはマシュに寄っていく。彼は女たらしな笑顔を浮かべながら、

 

「貴女は私の息子よりずっとユーモアに溢れた人のようですね。ギャラハッドは私に対して塩対応がデフォだったので」

「はあ、そうですか。ギャラハッドさんが全面的に正しいと思いますが。ところでランスロットさん、親切にしてくれるのはありがたいのですが、少し距離が近いです」

「父娘の距離が近いのは当たり前では───?」

 

 などと意味不明な供述をしたランスロット。マシュはきぐるみに包まれているのが嘘のように、高速で立香の背中に回り込んだ。

 

「先輩、助けてください! 父を名乗る不審者がここにいます!!」

「ランスロットさんの名誉を考えて、110番はまだしません。一体なぜそんな主張を?」

「私の息子であるギャラハッドが憑依しているのですから、もはや私の娘も同然だと思いませんか!?」

「えっ、その理屈で行くと……」

 

 立香はペレアスと湖の乙女を流し見る。

 

「私がマシュさんの祖母で」

「旦那のオレがじいちゃんで」

「ランスロットさんは二人の息子ということになりますか。しかも生前、ペレアスさんは年下の父親で、寿命を全うした今は年上で……かなりややこしい関係性ですねえ」

「ってなると思うんですけど、ランスロットさん?」

 

 とてつもなく複雑な家庭が出来上がっていた。細かい関係性を追っていると収拾がつかなくなる良い例である。マシュは密かに戦慄した。

 ランスロットとペレアスは互いに視線を送り合う。円卓に在任した年数の違いこそあれど、二人は共に戦った仲間だ。胸に支えるものがあるのか、彼らは鏡写しのように胸元に手を置く。

 湖の乙女は和やかに微笑む。

 

「そう考えると、何か込み上げてくるものがありますわね。ペレアス様、ランスロッ───」

「「ゔお゛えええええッ!!!」」

「別のものが込み上げてきやがりましたわ!!」

 

 ランスロットとペレアスは同時に吐血した。こじれた関係の歪さが両者の心に大ダメージを与えたのだ。真っ赤な血の海の中に、二人は浜に打ち上げられた魚の如く痙攣している。

 自分の血に塗れたランスロットは息も絶え絶えに切り出す。

 

「ぺ、ペレアス……私たちは先輩後輩の関係でいましょうね」

「そ、そうだな……お前のことを息子と呼ぶなんて想像もしたくねえ」

 

 そうして、両者は気絶した。立香とマシュはそれを冷ややかな目で見つめながら、ぼそぼそと話し出した。

 

「……それで、ここで何をしていたんですか?」

「……恋愛こじらせ三銃士から恋愛の極意を教えてもらおうと思って」

「どうして先輩がそう思ったのかは別にして……男性の恋愛の極意を女性が訊いてもあまり身にならないのでは?」

「その発想はなかった」

 

 思い返してみれば、ダンテはがっつり男性目線な上にペレアスは過去の懺悔だ。気絶したランスロットから訊き出すことはできないが、どうせプレイボーイ的なアレだろう。

 こうなったら物は試し、立香はマシュに問うてみることにした。

 

「じゃあ、マシュの恋愛の極意は?」

「訊かれてしまいましたか。ずばり答えましょう! 髪の毛に芋けんぴをつけたり、一晩で法隆寺を建てられたり、頭がフットーしちゃいそうになることです!! 先輩やジャンヌさんと一緒に読んだ少女漫画の受け売りですが!!」

「………………やっぱり私に恋は分からない!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖都王城。白亜の壁に青白い月明かりを写すその城は、まるで自ら光を発しているかのように輝いていた。

 漆黒の夜のカーテンを切り裂くように屹立し、遍く地上を見下す。

 それこそが獅子王の在り様。

 人ならぬ神へと成り果てた、王の偉業だった。

 並び立つ尖塔。そのひとつの頂上に、ラモラックは腰掛けていた。聖なる都を、無人の荒野を、その果てにある砂の地を望むその顔は微かな笑みに満ちている。

 風はない。まるで大気そのものがこの城に畏れをなしたかのように。

 胸元に手を入れ、ペンダントを抜き出す。細い銀の鎖の先には透き通るような蒼い結晶が括られていた。

 右へ、左へ、蒼の振り子が夜空を掻き混ぜる。向こう側には虚白の月。結晶は踊る。不動の月を捕らえようと、滑稽に揺れる。

 ラモラックはそれを胡乱げに眺めていた。

 

「……これはあの女に託されたモノだ。死の運命より逃れられるようにとな。まったく、つまらん女だよ。魔女は魔女らしく呪いを編んでいればよかったものを」

 

 赤き盾の騎士が語りかけたのは後方。黒き甲冑の騎士、アグラヴェイン。彼は腰の剣に手を添える。

 

「醜く淫蕩なあの女がそんな(まじな)いをするとはな。まるで童女の願掛けだ」

「醜く淫蕩───貴様でさえもそう思うか」

「国盗りの妄執に取り憑かれた愚物。それがあの女の全てだ」

 

 ラモラックは答えなかった。

 肯定も否定もせず、彼はただ告げる。

 

「アレは醜く、濁った性根の女だった。だが、淫蕩ではなかった」

「……何を言っている。お前を含め、ロット王、アコロン、多くの男と契りを結んだあの魔女が淫らではないと言うのか」

「簡単なことだ、アグラヴェイン」

 

 音もなく立ち上がる。

 薄くたなびく雲が月を覆い隠す。

 キン、と銀の鎖が解ける。ラモラックはペンダントを右手に握り込んだ。

 

「あの女は、モルガンは、おれに()()()()()と名乗ったのだ。それがどういう意味か、分からぬ貴様ではあるまい」

 

 右の五指が軋みを立てる。くぐもった破砕音が響く。もう一度手を開いたその上には、銀と蒼の砂が積もっていた。

 ラモラックはその破片を指の隙間から流した。風がない故にそれはただ真っ逆さまに落ちていくのみ。堕ちて堕ちて見えなくなって、騎士は唇を歪める。

 

「勝つぞ。お前の理想の果てをおれに見せてみろ」

 

 アグラヴェインは目を伏せ、答えた。

 

「私はお前が嫌いだ。故にその命、王の御為に存分に使い潰してやる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 所変わって、太陽王が治める砂の聖地。玉座の間には長大な机が設置され、Eチーム他サーヴァントたちはそれぞれ両側で顔を突き合わせていた。多数の英霊が並ぶ様はまさに壮観だ。

 オジマンディアスは玉座の上から全員を眺めていた。王なのだから当然と言えば当然なのだが。むしろ立香にとっては、ファラオなのに自分たちに混じっているニトクリスが不憫に思われた。

 しかし、卓上に贅を凝らした料理が並べられた瞬間に同情心は雲散霧消した。他人よりも食い意地が張った立香の心は一瞬にして目の前の料理に奪われていた。

 古代エジプトの食生活で主食とされていたのはパンとビール。上流階級は牛肉や鶏肉を口にすることもあったという。

 無論、未成年の立香やマシュはビールを嗜むことはできない。Eチームとて遵法精神くらいはあるのだ。リーダーは別として。

 立香は斜め向かいに眼差しを送る。正面には未だに巨大なすびを纏っている後輩がいたが、もう慣れたものである。視線の先ではすっかり出来上がったダンテとダ・ヴィンチが顔を真っ赤にしてルネサンストークに興じていた。

 

「───そこでジョットは私に言いました。〝絵を描くのは昼間だけど、子を成すのは夜だからね〟と!」

「ド下ネタをありがとうダンテさん! ジョットは私が感銘を受けた数少ない画家だ。私がもっと生まれるのが早かったらフィレンツェでお目にかかれたかもしれないね」

「となると、私も生前のダ・ヴィンチちゃんとお会いできた可能性がありますねえ」

「ははは、嫌だなあ! ダンテさんはフィレンツェを追放されたんだから会えるわけないじゃないか!」

「そうでしたね! ちょっと黒党のアホ共を殴ってきていいですか!?」

 

 などと非常に耳障りな会話を繰り返す二人。しかし、この程度に気を取られているようではカルデアの日常は到底生き残れない。立香は気にせずエジプトパンを頬張る。

 ちなみに。ジョットは西洋絵画の父と呼ばれるほどの偉大な画家である。彼の功績を極めて短く言うと、初めて空間と人物を実物的・立体的に表現したこと。その名声は高らかに謳われ、ダンテも神曲の中で彼を褒め称えるほどであった。ルネサンス文学の祖がダンテだとすれば、ルネサンス絵画の祖は間違いなくジョットだろう。

 立香の左隣には静謐のハサン。毒をその身に宿した少女はビールの入った杯を不思議そうに見つめていた。

 

「立香さん。これは……毒ですか? なんだか体が熱くなってきました」

「いいえ、アルコールです。飲みすぎると毒になると思いますけど、飲んだことないんですか?」

「暗殺の際に手元が狂うといけないので、口に入れるとしても少量でした。酔うという感覚はこのようなものなんですね」

「うーん、そう言われると気になってくる……」

 

 すると、マシュはこてんと首を傾げた。その際になすびのきぐるみにおけるヘタの部分が隣のジャンヌの脳天に直撃したが、彼女は気にせずに言う。

 

「疑問なのですが、耐毒スキルがある先輩は酔うことができるのでしょうか。アルコールの酩酊作用自体が毒と判別されてしまった場合、ビールはただの苦い水になってしまうと思います」

「……その前に、今アンタのクソデカなすびアーマーが私の頭に当たったんですけど。っていうか普通に窮屈だし! 脱ぎなさいよそれ!」

「どうせ今回限りの特別フォームです、気にしないでください。わたし自身このキャラに限界を感じ始めていますので」

「だったらここで燃やし尽くしてあげましょうか!?」

 

 眼前で炎が燃え盛る。じりじりとした熱を感じつつ、立香は右隣のノアに顔を向けた。

 

「マシュの言うことは一理ありますよね。リーダーはどう考えます?」

「んなことは簡単だ。実際に飲んでみて確かめればいい。やってみろ」

 

 そう言って、ノアは自分のコップを差し出す。

 瞬間、立香の脳内では無数の煩雑とした情報が猛然と行き交った。これはつまりアレだ。昨今ではあまり見かけることのない定番の胸キュン展開というやつだろう。

 立香は瞳をぐるぐる模様にして、

 

「リーダー、あまり見くびらないでください。こんなものに私が踊らされるとでも!?」

「何言ってんだこいつ」

「『ノアくん、お酒は二十歳になってからだぞ! ただでさえカルデアはコンプライアンス意識が底辺なんだから!』」

 

 そこで、通信機を介してロマンが止めに入った。彼の言を訂正すると、カルデアのコンプライアンス意識は底辺どころか無に等しい。

 ロマンは左手に箸が突っ込まれたカップラーメンを持っていた。立香たちが摂っている豪勢な食事とは雲泥の差のさもしい食事である。

 そして、彼が出てきたということは。

 

「『食事をお楽しみのところ悪いですが、これより聖都攻略作戦会議と諸々の情報の整理を行いたいと思います!』」

 

 その直後、オジマンディアスが漏らした呆れと嘲り混じりの笑いが出鼻を挫いた。

 

「この二日間で戦力の編成と戦支度は済んでいるがな。後は行って戦うだけだ。これが王の手際よ!」

「流石ですオジマンディアス様! 数々の戦争で勝利したその手腕、誠に恐れ入ります!」

「先輩、なんだかニトクリスさんがスネ夫に見えてきました」

「ファラオとしては先輩のはずなのにね」

 

 オジマンディアスは戦争によってエジプトの領土を拡大する一方で、いくつもの神殿を建造した。古代エジプトの最盛期を築いた王の辣腕は、しがない社畜のロマンを遥かに超えていたのだ。

 ロマンはカップラーメンの汁を飲み干す。

 

「『そ、それじゃあ、警戒すべき敵サーヴァントと獅子王の目的だけおさらいしておきましょうか。前者に関しては円卓の騎士たちの意見をお伺いしたいのですが』」

 

 ランスロットは間髪入れずに答える。

 

「それは当然、ガウェインです。太陽の加護がある内は私でも防戦に徹するしかないほどの実力を誇りますから」

「では、なぜ円卓最強と呼ばれているのですか? ランスロットさんを殴り倒したわたしは円卓最強ということになりますよね」

「ふふふ、マシュのチャーミングさはまさしく円卓最強ですが……ガウェインの加護には時間制限がありました。なので、加護が切れるまで耐えた後に攻めれば私の勝ちという寸法です」

「なんという脳筋理論」

 

 ガウェインは日中、能力が三倍になる加護を有している。午前9時から正午、午後3時から日没までのそれぞれ三時間が加護の有効時間だ。

 ランスロットの言うことはもっともらしくはあるが、机上の空論も同然だ。それを実現してしまうのが湖の騎士の恐ろしさなのだが。

 ただし、とランスロットは付け加える。

 

「今のガウェインは獅子王の祝福により、加護の時間制限がありません。常に三倍の状態です」

 

 場の空気が張り詰める。ガウェインの対策として最も有力だったのが、夜間に戦うこと。加護の効力がない間に倒してしまうという作戦だった。

 しかし、常に三倍となれば夜戦の利は存在しない。ペレアスは顔面を青くして叫ぶ。

 

「なんだそのチート!? 完全にズルじゃねえか!!」

 

 全員の心情を代弁するかのような言葉。ベイリンだけは勇ましく首肯した。

 

「面白い。獅子王の前座としては最高だ。私とランスロットの二人で掛かれば勝機はあるか?」

「私とベイリン卿のどちらかが死ぬのは確実。悪くて三人相討ちでしょう」

「悪くない見立てだ。それでこそ血肉を撒き散らす甲斐がある」

「円卓最強コンビは戦闘狂の気でもあるんですか?」

 

 マシュは小さく言った。意気込むランスロットとベイリンの横から、べディヴィエールが意見を差し挟む。

 

「……初代ハサン様の助力を得たことを忘れていませんか? 私たちもいるのですから、捨鉢になる必要もないかと」

「初代様は山の翁にて最強ですからな! 後輩にちょっと厳しいのがアレですが……あ、今のはオフレコでお願いします」

「後輩といえば、ペレアスさんも円卓ではそうですよね。敬語とか使わなくていいんですか? アットホームな職場?」

 

 立香の指摘を受けたペレアスはぎくりと震えた。今でこそ最年長のペレアスではあるものの、円卓の中では後輩も後輩だ。

 べディヴィエールは頭の中で記憶のページをめくっていく。

 

「ペレアスの後に円卓に着任したのは……モードレッド、ガレスちゃん、ギャラハッドでしたか。いえ、私は全く気にしていませんよ?」

「私は気にするぞ。番外位の前任者である私にもタメ口だろう。騎士ならば礼儀を守れ」

「アンタに礼儀云々は言われたくねえ! 尊敬してるケイ卿とべディヴィエールには使ってもいいが、それ以外は何か嫌だ!」

「ペレアス? 私は? 無双の騎士ランスロット卿は尊敬していないと?」

「そういうところだぞ?」

 

 ロマンは何やら面倒くさい感じになりつつある空気を察し、強引に話題を変えた。

 

「『じゃあここで次、獅子王の目的について確認しておきましょう! これについてはシャーロック・ホームズから貰った調査書が詳しいかな?』」

「はい、Eチームの頭脳担当ことわたしが引き継ぎます。調査書はアトラス院探索の成果になります。突然現れ突然去った不審者や意味深なことだけ言って帰った魔術師にも遭遇しましたが、今は獅子王に集中しましょう」

「あ、トライヘルメスのデータはもちろん私とノアくんが根こそぎ取っていったからね。これで研究が捗るぞう!」

「藤丸、おまえが実験台になれる日も近いぞ。良かったな」

「私が前から待ち望んでたみたいに言うのやめてくれません? 全力で逃げますからね?」

 

 自分のマスターがしれっと危機を迎えているのをよそに、マシュは『ワトソンくんでも分かる調査ノートその二』の内容をかいつまんで説明する。

 

「過去の聖杯戦争……こちらは帰還してから確認しましょう。本題は獅子王の武装、これですね」

 

 マシュはそれを読み上げた。

 ───曰く、聖都とは聖槍ロンゴミニアドの外殻に過ぎない。アーサー王は星の聖剣の他に多数の宝物を所有していたが、聖槍もそのひとつ。叛逆の騎士モードレッドを突き殺した槍のことを指す。

 それがただ強力なだけの槍ならばここまでの事態にはなっていなかった。なぜならロンゴミニアドとは最果ての塔───惑星上に貼られた人類世界というテクスチャが剥がれないように縫い止める、一本の安全装置だからだ。

 聖槍は言わば最果ての塔の影。子機のようなものであり、塔の権能を行使する操縦機。獅子王はその力を以ってこの特異点を世界から切り離してしまった。

 いずれ聖槍は特異点を収束させ、魔術王の手から逃れるため、聖都と言う名の完全な世界を構築する。

 タイムリミットはその収束が終了するまで。それまでに獅子王を打倒しなければ、カルデアは敗北する───そこまで言って、マシュは意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「聖槍なんて大層なモノを使っていても、わたしたちが負けるはずはありません。限られた人間を保存しようとする獅子王と、全人類を救おうとするわたしたちでは、最初の心意気からして格が違います!!」

 

 真っ直ぐな瞳。

 少女の闘志に一切の淀みはなく。

 太陽王ですらも、その覚悟に口を挟む余地はなかった。

 

「アンタにしては良いこと言うじゃない。なすびのきぐるみなんて着てなければ文句はなかったのに」

「だけどマシュの意見に全面賛成! むしろ格下をボコる構図になって悪いくらいだもん! ですよね、リーダー!」

「ああ、俺の前には何もかもが格下だからな。そういう奴らの扱い方は手慣れてる」

 

 ノアは続けて、

 

「勝つぞ。獅子王の理想の果てはこの世の誰も見なくていいものだ」

 

 彼の言葉に誰もが頷く。

 静寂が辺りに立ち込める。

 もはや彼らに言葉は必要ない。

 静かな広間に、鼻を啜る音が響く。その音源はロマン。彼は全身を震わせながら、溢れ出る涙を袖で拭っている。

 

「『あ、あのマシュがこんなに成長するなんて……!! ボクは今人生で一番感動してる!!』」

「ドクター、大人のガチ泣きは見苦しいのでせめて通信は切ってください」

「『わあい良かった、いつものマシュだぁ!!』」

 

 ロマンは泣きながら笑った。それはともかくとして、聖都攻略作戦会議はおわったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月も大分傾いてきた頃、立香は城の廊下を歩いていた。

 彼女は首元にタオルを巻き、普段のカルデア式制服より幾分かラフな格好をしていた。頬はほのかに上気し、小気味良い鼻歌を奏でている。

 長らく日本で生きてきた性として、立香は湯に浸からなくては夜の寝付きが悪い体質になっていた。水が貴重な砂漠地帯でそんな機会に恵まれることは少なかったのだが、ここには救世主がいた。

 その名もリース。水の精霊としての力を遺憾なく発揮し、地下から水を汲み上げて温水にし、即席の浴槽に移してくれたのである。これで生前の十分の一の力もないというのだから、精霊という存在の強大さがうかがえる。

 ちなみにノアに頼む選択肢は絶無だった。悪魔と契約した者は大概不幸になる。先人たちの二の轍を踏む訳にはいかないだろう。

 ということで、立香は上機嫌になっていた。明日からは聖都を目指した行軍、この特異点における最後の安穏とした時間だ。

 曲がり角を折れると、床に座り、壁にもたれかかる人間がいた。というかノアだった。

 

「うげっ」

 

 無駄に大きい図体のせいで、無作法に伸ばされた両足が廊下の横幅の半分ほどを占めている。

 これをどうするべきか。いつでも飛び退けるように腰を落として、忍び足でノアの顔を覗き込む。

 あのやかましさはどこへやら、彼は眠りに落ちていた。寝息はとても小さく、寝ている合間だというのに指一本動いてはいない。

 起きてさえいなければ、端正な顔立ちをしている。普段は性格の悪さが顔に滲み出ているが、それを取り払った今は精巧な人形のようだ。

 突如、立香の脳内に落雷の如き閃きが舞い降りる。

 

「やるしかない、イタズラを───!!」

 

 日頃の恨み、ここで晴らさでおくべきか。どこからともなくマジックペン(油性)を取り出し、キャップを抜く。

 

「パンダ目、青ひげ……いや、やっぱりここは王道の額に肉!」

 

 白い肌にペンの先を突き立てる。が、反射的に動いたノアの右手が立香の手首を掴んで止めた。

 背筋に悪寒が走る。その感覚が襲ってきた時にはもう遅く、ノアの両眼がバチリと開眼する。

 

「十秒以内におまえが何をしようとしてたのか言え。さもないとアホ毛引っこ抜くぞ」

「リーダーの顔に落書きするつもりでした! だから私のアイデンティティだけは助けてください!」

「どんな落書きだ?」

「ひ、額に肉……?」

 

 自供を聞き届け、ノアは立香の手に収まったマジックペンを抜き取る。そして、その額に肉と書き込んだ。

 そうしてようやく解放される。タオルで額を擦ってもインクが落ちている様子はなかった。わざわざ油性を選んだことが裏目に出てしまっている。

 

「け、汚された……乙女の体が……! リーダー、どうやって責任取ってくれるんですか」

「乙女? 俺の目に映ってんのはキン肉マンただひとりだ。新シリーズでも始まんのか? むしろ始まってくれ」

「この人、もう私をキン肉マンとして認識している───!!」

 

 気を取り直して、立香は訊く。

 

「で、どうしてここで寝てたんですか。リーダーは風邪とか引いたことないですよね?」

「それはおまえだろ。おまえを待つ間に仮眠取ってただけだ。日本人は全員長風呂なのか?」

「そんなことはないと思いますけど……私を待ってたってどういうことですか」

 

 がつん、と音が響く。立香の逃げ道を塞ぐように、ノアは右足を彼女の脇の壁に打ち付けていた。

 

(壁ドン!? しかも足バージョン! 普通に柄が悪い!!)

 

 そんな思考が流れたのは刹那。口を挟む間もなくノアはまくし立てる。

 

「ひと目見た時からおまえのことはアホだと思ってたが、俺の想定通りおまえはアホだった。なぜなら生のホットケーキミックスが好物のアホだからな。そのアホさ加減は俺も予想してなかった。世界中のアホ因子を集めてできたアホがおまえってことだ。だが、最近おまえのアホの毛色が少し変わってきた」

「あの、すみません。そろそろアホの二文字がゲシュタルト崩壊してきました」

「───つまり。おまえ、何か隠してるだろ」

 

 言われ、立香は口をつぐんだ。

 それこそが何よりの答え。返事を待たず、ノアは言う。

 

「様子がおかしくなったのは、獅子王のふざけたビームから逃げた時だ。あの時ほど露骨じゃねえが、天才の目をナメんな。昼間も物陰から覗いてただろ」

「…………なっ、ななななななるほどぉ〜〜!! バレてましたか! 見事見抜いたリーダーには立香ちゃん人形を進呈してもいいですよ!?」

「はいボッシュートになります」

 

 ノアは右の五指で立香の頬をぎりぎりと挟んだ。

 

「むぐううううう!!」

「このまま隠し続けるなら俺の拷問体験ビギナーコース一時間一万円を受けることになるぞ。俺は楽しめて稼げるからいいがな!」

「どんなドMが申し込むんですかそれ!? い、言います言います!」

 

 顔面の圧縮が解ける。立香は両の手の平で頬を擦りながら、軽い頭を必死で回した。軽い分回転数には自信がある。

 ここが正念場。なんとか他の隠し事をでっち上げてこの場を凌ぐしかない。

 

「た、ただ訊きづらいことがあっただけです。リーダーは誰もが認めるロクデナシのアホですけど、そんな人にも初恋はあったのかなって」

「……はあ?」

「覗いてたのも、言い出せなかったんです。あと単純に球投げ大会に巻き込まれたくありませんでしたし」

 

 ノアは黙りこくる。その反応を見て、立香は心の中でガッツポーズを取った。

 我ながら悪くない、自然な返答だった。それらしければ何でも良かったのだが、わざわざこれを選んだのは純粋な想い。

 

(だって、私はこの人のことを何も知らない)

 

 彼がどんな人生を歩んできたのか。

 彼がなぜカルデアに来たのか。

 そんなことも、まだ分かっていない。

 だから、それを知りたいと思うのは当然の欲求だった。

 言ったことは嘘でも、その想いは本物だ。

 ノアは足を外し、立香の側の壁に背中を預けた。

 

「……それらしきやつはいた。だからどうした」

「どんな人だったんですか? あ、せっかくだから楽しみたいんで、少しずつ言ってください! 年下とか、一番弟子とか、要素だけで!!」

「年上」

(終わった───!!)

 

 初手から詰んでいた。深刻なダメージを負いつつも、立香は笑顔を維持する。

 

「ど、どうぞ。続けてください」

「ニコチン中毒。ギャンブル依存症。無職。偏食。酒乱。アホ、バカ、マヌケ。ああ、あと女だったな。一応」

「最後に出てくるのが性別……!? でも、素敵な人だったんですね?」

「おい正気かおまえ。ダメ人間以外の何者でもないだろうが」

「だって、高飛車なリーダーが好きになった人なんだからそうに決まってるじゃないですか」

 

 立香は当然のように言い切ってみせた。

 偽りなく本心から出た言葉。

 その時、ノアの口角がほんの少しだけ上がった気がした。

 

「…………とりあえず疑問は解けた。俺は仕事に戻る。おまえはさっさと寝ろ」

「今から仕事ですか?」

「ロマンは要領が悪いからな。あいつの仕事を俺がこっちから手伝うのと、城の見回り、寝る前に研究を進めておくくらいだ」

「城の見回りはしなくてもいいんじゃ? オジマンディアスさんの懐みたいなものですよ」

「だからこそだ。アグラヴェインの陰気臭い顔見たか? 何をしてきてもおかしくねえぞ、あいつは」

 

 アグラヴェインへの評価は置いといて、確かにあの騎士ならば何をやってもおかしくはないだろう。

 立香はアグラヴェインを一度しか見たことがないが、それでも分かることはある。

 彼が騎士道や人道よりも、王の理想を優先する男だ。故にこそ、恐ろしい。

 立香はノアの目前に立って、彼の顔を見上げる。

 

「リーダー、帽子取ってちょっとしゃがんでください。疑問に答えてあげた借りは返してもらわないと」

「……妙なことしたら反撃するからな」

 

 思惑通り、彼は姿勢を屈めた。

 貸し借りには夏のセミくらいうるさいのがこの男だ。それを利用すれば、頼みごとくらいは聞かせられる。

 立香はノアの頭に手を置く。そのまま、新雪のように白い髪を左右に優しく撫でた。

 

「頑張ってくれてるリーダーを、私が特別に褒めてあげます。泣いて感謝してくれてもいいですよ?」

 

 ノアは目を見開いた。その眼差しはここにはなく、はたまた現在を見てすらいない。

 それで、思う。この人はまた、自分が知らない誰かを見ているのだと。

 そのやり取りがいつまで続いたのかは、二人だけしか知らない事実だった。



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第55話 最果ての王と円卓の騎士 前編

 いつからこうしているのだろう。

 いつからこうなったのだろう。

 ───それはイフ。

 ───唾棄すべきもしもの可能性。

 大切な何かを失い。

 護るべき誰かを喪い。

 この身は未だ、此処に在る。

 中身のない抜け殻の君。故に、自らの騎士が殺し合おうとそれは瑣末な出来事に過ぎず。また、無辜の人々に裁きを下すことに、何の疑問も持たなかった。

 ───かつて犯した、罪のせいで。

 ───王は神へと堕ちた。

 世界は焼け落ちた。

 ヒトの歩んだ歴史は否定され、灰さえも残らない。

 そのことにさしたる驚きはない。喩えるなら、まだ満たされていると思って呷った杯が空だった時のような、白けた動揺だ。

 なぜなら、知っていた。

 この世のあらゆるモノは脆く崩れ去る。

 一切の例外はない。あるとすれば、それは死だけだ。万物万象に定められた終わりという名の結末はいつまでも変わらず存在し続けるだろう。

 ───しかし、王は死ねず。

 ───私は終わることすらも、かの君より奪い取った。

 そうと知っているのに、なぜ聖都などという入れ物まで創ったのか。愚問だ、それしかすることがないからそうした。人であった頃と同じく、その場その場で最善の判断をしただけだ。

 人は死に、世界は亡びた。単にそのことを紙面に書かれた殺人事件のように受け止め、聖都を造り上げた。

 これはその場しのぎですらない。言ってしまえば敗戦処理だ。終わりが決定した最中で、微かな痕跡を残すための作業。家族に一目会わせるために、患者の胸骨を砕きながら心臓マッサージをする行為に近い。

 心臓が動いている。たったひとつの救いにもならない事実を作り出す、虚しい行動だ。とうに患者は、世界は助からないというのに。

 だが、舐めるな魔術王。

 痩せていく土地しかなく、枯れていく作物だけしか穫れなかったあの国を延命させた王の執念を。既に終わりゆくモノを引き延ばすことにかけては、誰にも負けやしない。

 ───ならば、終わらせるしかない。

 ───その先に何もないと知っていても。

 ───王は、理想の果てを求め続けるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空は不気味なほどに澄み渡っていた。

 雲ひとつない快晴。絵の具の中身をそのまま撒き散らしたみたいな青。その色の深みに魅入られれば最後、空に吸い込まれてしまいそうになる。

 虚ろなほどに青い世界を、聖都が白く切り抜いていた。それは嘘のような純白。一枚の精巧な切り絵の如くそびえる聖なる都は、粛々と大地の上に鎮座していた。

 その出で立ちに一片の穢れもなく、荒野の砂埃でさえ白き肌に色を加えることはない。ヒトが造った建築物は等しく劣化する定めにある。たとえ新築の家でも、完成した途端に薄汚れていくのが道理だ。

 朽ちず、穢れることなき白亜の聖都。

 完璧な芸術品なんてどこにも存在しないように。そんなモノを創れる存在があるとすれば、ソレは人間という生物の限界を超越している。

 しかし、その都は純粋なる魂を持つ人間たちのために存在している。であれば、聖都を打ち砕くのもまた人間以外にあり得ない。滅びた世界に人類が生きた証を残すなどという題目を掲げていても、その行いは他者の否定と廃絶に過ぎないからだ。

 純白の城が睥睨する荒野。その一面に数万の軍勢が広がっていた。太陽王が擁する武力と、命からがら獅子王の追撃から逃れた山民の兵が入り混じる顔触れはてんでバラバラだ。中には製作者がひとりしかいないような円錐形の戦車まで配備されている。

 対する聖都の騎士は統一された甲冑を身に纏い、一分の乱れもない陣形を敷いていた。彼らに野戦を仕掛ける利はない。城壁と城門、そして獅子王が坐す城を護るだけで世界の収束は完了するのだから。

 ちかり、と太陽が一際強く輝く。

 日輪の祝福を受け、現れるは騎士ガウェイン。聖都正門、城壁の上から敵を見下ろす彼の瞳は冷たく研がれた刃のように光を反り返していた。

 太陽の騎士は聖都を一身に背負い、告げる。

 

「この戦いで、必ずどちらかが滅びる。今や私に正義はなく、また誇りも存在しない。あるのはただ我欲で人を殺す醜さだけだ」

 

 人を護るはずの騎士が人を選別する矛盾。獅子王に忠誠を誓うということはこの世のほぼ全ての人間を見殺しにすることと相違ない。

 聖罰によって命を落とした人々の顔を思い返す。

 生まれたばかりの子を抱えた母親がいた。足の悪い弟を背負った男がいた。親も兄弟も亡くしてかろうじて聖都に辿り着いた子どもがいた。

 彼らは皆、死んだ。

 騎士の剣に刺されて、弓に射抜かれて、槍に頭を潰されて。

 それでも、ガウェインは王に跪いた。

 いつか求めた理想の残滓を胸に。

 太陽の聖剣を抜き、彼は言い放つ。

 

「───来い。もはや取り繕うべきものは何もない。世界の敵と化した我が身に刃を突き立ててみせろ!!」

 

 後戻りはできない。する気もない。この身朽ち果てるまで、王の刀剣として戦う。それだけがガウェインの心臓を動かす理由だった。

 青空に響き渡る宣言は誰にも等しく衝撃を与えた。獅子王のためだけに存在する騎士───まさしく、カルデアの責務を阻む世界の敵だ。

 己をそう位置づけたかつての仲間を見て、ペレアスは乾いた音を喉元で鳴らした。

 

「そりゃ分かりやすくて助かるぜ。オレも騎士の誇りだの忠誠だので言い争うのは飽き飽きしてたところだ! どうせ口喧嘩じゃあ決着はつかねえんだ、だったらもう殴り合うしかねえだろ!!」

 

 ガウェインは答えない。それが何よりの肯定であると知っていながら。

 否、知っているのは答える資格が自分にはないということ。故に彼は唇を閉ざし、代わりに眼差しに力を注ぐことしかできなかった。

 マシュはガウェインをじっと目で捉える。

 彼の実力を疑う余地はどこにもない。その五体の強靭さと聖剣に宿る灼熱の輝きの前には自分ひとりの力なんて呆気なく弾き飛ばされてしまうだろう。

 だが、そんなことはどうでもいい。ひとりで戦う訳じゃないのだから、今更ガウェインがいくら強かろうと関係はない。

 彼女の心に引っかかったのは、騎士の物言いだった。

 

「気に入らない物言いですね。自ら世界の敵を気取るなんて、物語だけでなく現実でも悲劇を演じるつもりですか。ペレアスさんの言う通り、わたしたちがするのは殴り合いでしょう。〝御託はいいからかかってこい〟くらいのことは言えないんですか?」

「…………ギャラハッドが器に選んだにしては、苛烈な少女のようですね。多くの人を切り捨てた私にとて恥はある。貴女の期待に応えることはできません」

「ほう、では舌戦はわたしの勝ちですね。円卓の騎士のくせに案外手応えがないものです。ウチのマスターたちなら屁理屈をこねくり回してでも言い返していましたよ!!」

「当たり前だ。あんな一方的に言われて黙ってられるか。開戦前にまたしても格の違いってやつが露呈したな」

「リーダー、別に私たち褒められてないです」

 

 確かに格の違いは露呈していた。どちらが上であるかなど語る必要はないだろう。

 そこで、城壁に黒い影が登る。怜悧な眼をした騎士はアグラヴェイン。いつも固く強張っていた顔からその面影は薄らぎ、ほんの僅かに頬を緩めていた。

 静かで、しかしこれ以上なく劇的な変化。この場の誰にも明らかな異質さに気付かぬのは本人のみ。何が彼に微かな変容をもたらしたのか、彼にさえも知る術はない。

 

「格の違いと申したか、魔術師。なるほど、確かに───カルデアのEチームとやらは随分と間の抜けた面が揃っているようだ」

 

 その言葉は反吐を吐くようなものだった。が、彼の声音には侮蔑も軽蔑もなく、単に事実を述べた平坦さしかなかった。

 指名された六人はきょとんとした様子で互いを見合う。そこにはまさに間の抜けた面が六つ揃っていた。暫し沈黙が続くと、ノアと立香は弾かれたように向き直る。

 

「おまえの主張は概ね正しい。こいつらはすべからくアホだからな。特にこっちの藤丸は天才の俺でも匙を投げるほどのアホの最高傑作だ。ただし俺を含むんじゃねえ! 目ぇついてんのか!?」

「とか何とか言ってますけど、この人が一番のロクデナシですから! アホの詰め合わせのEチームを率いる人だから当然ですね! まあ私だけは違いますけど!!」

「アンタらは少しでも他人を擁護しようっていう気はないんですかァ!? ウチの汚点が二つ晒されたことになってるじゃない!!」

「その発言によってジャンヌさんが二人を汚点だと思ってることが明らかになった訳ですが……天才デミ後輩ことマシュ・キリエライトがリーダーになる日は近いですね」

 

 ダンテとペレアスは肩を落とした。ただし呆れたのはほんの一瞬、二人は一転好戦的な顔つきになる。その表情には自信さえも浮かび上がっていた。

 

「……ということですが、ええ、まあ私たちほどのデコボコメンバーも珍しいでしょう。そんなのが獅子王と円卓の騎士と戦う訳ですが、勝算はありますかペレアスさん?」

「ハッ! 負ける気がしねえな───!!」

 

 戦場の空気が張り詰める。

 膨れ上がった風船。針の一刺しで破裂する戦意。開戦を告げるに相応しきはひとり。聖都の上空に見るも絢爛な光が渦巻き、大気を力尽くで撹拌していく。

 ごう、と烈風が吹き荒れる。底なしに青い空は時化た大海の如く波打つ。

 それは空に開いた砲口。相対する敵軍すべてを屠り尽くす、光の顎だ。

 

「『有象無象が聖都を害する驕傲の罪、その命で以って贖え』」

 

 聖槍ロンゴミニアドより零れ落ちた神威。

 神の権能の前に抗う術を持つ者は皆無。逃げることは叶わず、祈りすらかの獅子王には届かない。

 神たる存在が等しく備える傲慢。かつて月の女神が海神の三叉槍を起動した時のように、獅子王もまた最適かつ最善の手段を取ったにすぎなかった。

 騎士の誇りや忠誠は塵芥。情緒など今の王には何ら意味をなさない。捧げられる忠義も殺意も、聖槍の女神は余さず粉砕するだろう。

 ───しかし。

 

「『貴様にしては腑抜けた一手だ───獅子王!!』」

 

 遥か砂の聖地。高き御座に君臨する太陽王はその宝具を解き放つ。

 『光輝の大複合神殿』。神王オジマンディアスが擁する宝具の中で、最大最強を誇る建造物群。いくつもの神殿が折り重なり、異形をなした神の大殿はやにわに発光する。

 全長数kmにも及ぶ石造りの肌が、灼熱の光輝に彩られる。その威容は地上に生まれ落ちた太陽に他ならない。だが、それは言わば余剰エネルギー。本命より漏れ出た光の一片にも満たなかった。

 複合神殿の中央に位置するピラミッド。オジマンディアスが生前争ったヒッタイトの神鉄で覆われた装甲が開き、究極の武装が姿を現す。

 デンデラの大電球。それは世界の位相そのものを焼いてしまうかのような膨大な熱と輝きを秘めていた。そこに在るだけで目を焼き潰す極小の太陽はなおも駆動し、超越的な魔力を生産する。

 獅子王と太陽王。二人の切り札が場に出されたのは同時。ならば、それらが放たれるのもまた─────

 

「『逝け、我が聖都の騎士よ』」

「『征け、カルデアの勇士よ』」

 

 瞬間。

 聖槍と太陽。二つの輝きが、聖都上空にて衝突した。

 それが開戦の号砲。王たちの手によって戦いの火蓋は切って落とされた。間髪入れずにノアたちは走る。空に三つの太陽が浮かんだかのような光景の中を。

 あまりの轟音に人の声は虚しく。

 熱風が土を翻す環境では人はあまりにちっぽけで。

 それでも、聖都に仇なす彼らは歩みを止めることはなかった。

 愚直なまでの突進を受けて、ガウェインは配下の騎士へと叫ぶ。

 

「弓兵隊、私の号令を待つ必要はありません。矢玉を使い尽くすまで射ちなさい!」

 

 打って出る必要はない。城壁と高所の利を捨てるなど愚の骨頂。矢を射掛け続ければ、敵は着実に数を減らしていく。

 聖都の城壁は聖槍の外殻。その硬度は並の宝具でさえ容易く弾き返すだろう。さらに、この城壁は『善なるもの』という要素を結集した概念武装。通常の攻撃はおろか、魔剣魔槍の類は蚊の一刺しにすらならない。

 故に、聖都の壁を砕くことが叶うのは同じ『善なるもの』。それが概念である以上、同属性でない限り、如何なる出力を以ってしても通用しないのだ。

 聖都の敵において、聖都城壁を突破する手段を持つのは玄奘三蔵の命を賭した掌底のみ。

 

「───私の出番だな」

 

 だが、それはここではない場所の話だ。

 ここには、ひとりの騎士が存在する。

 戦列の最前線から飛び出す赤い影。ガウェインは戦慄とともに騎士の名を口走った。

 

「ベイリン・ル・サバージュ……!!」

 

 若きアーサー王を二本の剣で支えた赤き騎士。ベイリンとその弟ベイランの戦いぶりを見た王はかつてこう言った。〝あの二人は私が今まで見た中で、最高の騎士だ〟と。

 呪われた聖剣を抜き、血に塗れた結末を辿った双剣の騎士のことを知らぬ者はいない。故にこそ疑問だった。善なるものしか通さぬ壁を、かの騎士が抜けるはずがないのだ。

 けれど、呪われのベイリンは駆ける。

 両手に剣はない。徒手の特攻。あるべき武器を持たず、騎士は言の葉を継いだ。

 

「〝しかし、ひとりの兵卒がその脇を槍で突き刺すと、ただちに血と水とが溢れ出た〟」

 

 ぎぢり、と大気が悲鳴を上げる。

 総身に纏わり付く空気が流動する鉛に入れ替わったかのような重圧感。指先が痺れ、ガウェインは悪寒に息を詰まらせた。

 

「〝それを見た者が証をした。その証は真実である。その人は自らが真実を語ったことを知っている。あなたがたも信ずるようになるために〟」

 

 ベイリンが受けた呪いは聖剣に留まらない。

 アリマタヤのヨセフの子孫、ペラム王の居城。ベイリンはその地下深くに保管されていた聖遺物を手に取り、発動した呪いによってペラム王の国を滅ぼした。

 

「〝彼らは、自分が刺し通した者を見るだろう〟」

 

 その聖遺物とは。

 救世主の肉体を貫き、血を受けた一本の槍。

 それ故、資格無き者が触れることを許さず、手に入れた者は世界を手中に収めるとも謳われた、人類史最大級の聖具。

 ガウェインは喉が張り裂けんほどの声で命じる。

 

「総員退避!! 近接戦に備えなさい───聖都の門が崩れます!!」

 

 ばきり。空間が割れる。

 虚空より覗きしは、ねっとりと赤い糸を引いた鉄の穂先。

 鮮血に濡れた真白い槍の柄を、ベイリンは遠慮なく鷲掴みにした。

 マシュの脊椎に電流のような怖気が走る。この世の禍々しさを詰め込んだかのような槍に怯えたのではない。この戦慄は、自身を依り代としているギャラハッドのものだ。

 聖なる騎士と呪われた騎士。ギャラハッドとベイリンは真逆の性質を持つ。それは異質なるモノに対する、聖騎士の警戒の表れだった。

 

「…………()()()()()()()()

 

 血に塗れた槍を掴み、ベイリンは跳躍する。

 切っ先が狙うは聖都城門。

 あらゆる攻撃を拒む絶対防壁。

 刹那、天より黒雷が堕ちた。獅子王の光槍にも匹敵する規模の雷撃。暗く輝く電光は余さず槍に収束する。

 電熱が血を蒸発させ、ベイリンの掌を焼き焦がす。槍は五指から逃れるかのように小刻みに震え、ついに無数のヒビが表面を割っていく。

 双剣の騎士は槍を投げ飛ばすとともに唱えた。

 

「『光絶つ運命の槍(ロンギヌス・カウントゼロ)』!!!」

 

 ───神罰が、聖なる都を穿つ。

 黒き極光が白き聖壁を喰い破る。

 城門を砕いてもなお破壊の波濤は止まらず、聖都中枢まで黒々とした災いの跡を刻み込んだ。

 その昔、ベイリンはペラム王の城に安置されていた聖槍に触れ、その国を滅亡させた。ペラム王はその時から不具の体となり、日がな釣りをして暮らすことになる。

 その聖槍の名はロンギヌスの槍。こと聖槍のカテゴリーにおいて、世に並ぶモノ無き神血の武装だ。

 ペラム王の城と国を襲った災いは天罰だった。救世主を刺した槍を、あろうことか武器として使ったベイリンへの呪い。

 ならば、その罰を下したのは唯一神に相違ない。

 父なる神は絶対的にして根源的な善。これはキリスト教における大原則であり、決して覆されることのない前提だ。

 だというのなら、たとえ神罰であろうとそれは究極的な善ということになる。むしろ、そうでなくてはならない。神の行いの真意を、人間が見抜けるはずがないのだから。

 それ故に、聖都の城壁は崩れ去った。

 善なるものとして、より上位に在る神罰の名のもとに。

 

「よし、門が開いたぞ。後は野となれ山となれだ!」

「やるじゃねえか先輩! 少し見直したぜ!」

「円卓の騎士としては当然だ。この程度のことはな。お前も派手な技のひとつやふたつは用意しておけ」

「……オレには生まれ変わったエクスカリバーMk.2がある! もう二度と地味とは言わせねえ!!」

「それ俺が造ったやつだろ。後で返せよ」

 

 人の波が聖都になだれ込む。

 ここからが真の戦争。人と人が醜く凶器を振るう戦場の幕開けだ。

 城壁を破られたとはいえ、依然地の利は聖都の騎士にある。王城へ続く道を塞ぎ、林立する家屋の上には弓兵が配置されていた。

 ぎり、と弓の弦が引き絞られる。矢の雨が降り注ぐその寸前、地上から放たれた射撃がことごとくを吹き飛ばす。

 

「東方の勇者アーラシュ、ここに健在ってな! 敵の飛び道具は俺が抑える。安心して進め!!」

「流石ですねえアーラシュさん! 私は戦場の空気で吐きそうですよ! 実際生前は吐きましたが!」

「ダンテ殿は後ろに。右腕を失くした不覚者なれど、露払い程度はこなしてみせましょう」

「そう卑下するほどでもないさ。ここには魔神の右腕を補って余りある天才がいるんだから、ね!!」

 

 ダ・ヴィンチは左腕の籠手と右手の杖を振りかざす。

 オーケストラの奏者のような動作。巻き起こるのは律動ではなく、魔力を変換した炎と光条の重奏だった。

 迫りくる騎士の壁が宙に踊る。それでも後続は臆せず向かって来ている。

 兵の数で勝っているのは獅子王の側だ。ならば、敵に勝る要素である将の数を活かす。それが太陽王の立てた作戦だった。

 呪腕のハサンは短刀を、ダ・ヴィンチは杖を構える。

 

「それじゃあ、獅子王と円卓の騎士はみんなに任せた! 死ぬなよ!」

「ああ、おまえもな。ここで死なれたら俺たちの研究が頓挫する」

「呪腕さんも気をつけて! 後のことは私たちがやりますから!」

「ええ、御武運を。今度は貴女も交えてスポーツをしたいものですな」

 

 暗殺者はあらゆる部位が削ぎ落とされた顔で笑う。

 王城を目指す味方たちの背中を見送る。殺到する騎士の群れを薙ぎ払いながら、ダ・ヴィンチは唇を歪めた。

 

「今のセリフ、死亡フラグっぽかったけど大丈夫かい? リテイクはきかないぜ?」

「いえいえ、死そのものであるかのような初代様に比べればフラグなど恐るるに足りませぬ!」

「そうかい、それは良かった!」

 

 万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチはひとつの言葉を呑み込んだ。

 その内容は個人的な予感を口にするものだった。今この場においては不要な上に、学者として根拠のない持論を述べることはできない。

 ひたりと冷たい手が足首を掴む直感。予感の正体は、まだ万能の天才にすらも分からなかった。

 ───視点をEチームに戻し。

 

「『Wird』」

 

 純粋な魔力の爆発が騎士の戦列を押し開く。

 ノアはサーヴァントたちから僅かに先行して、次々と魔術を放つ。膨大な魔力を注ぎ込んだ大魔術を絶え間なく発動し、騎士の海原を強引に進んでいた。

 白い魔術師の爆撃を潜り抜けたとしても、

 

「ガンド」

 

 後方から飛来する魔弾に撃ち落とされる。

 幾度となく繰り返されたそのやり取りに、合図はいらない。ノアの動きを補正すれば事足りる。

 共に向くのは前。

 男は敵を、少女はその背を見るだけで良い。

 静謐のハサンは驚きとも笑いともつかない表情で目を見開いた。

 

「驚異的、ですね。よく連携が取れています。ここまてま敵を寄せ付けないなんて」

「あの息の合いよう、弟子を思い出すわ。けど、あんなに魔術を使ってこの先保つのかしら?」

 

 ノアは三蔵の疑問を意識の隅で捉えていた。ルーンの詠唱を発声と記述の併用から記述のみに移行させて、彼は答える。

 

「この程度の魔力消費、屁でもねえ。サーヴァントを倒すのはおまえらの役割だ。血と臓物を撒き散らす覚悟をしておけ」

「私も礼装の魔力があるので、まだまだいけますよ! サーヴァント組はゆっくり休んでいてください!」

「これは頼もしい。我が湖の聖剣、振るうべきはまだ先ですか。マシュもペレアスも、良いマスターを得たようですね」

 

 ペレアスとマシュは目を平たくした。

 

「…………女が絡まないとまともだよな、お前」

「最高の騎士たる所以を初めて見た気がします」

「私と違って、強いだけが取り柄なのではないんだな」

「ベイリン卿、それはそれで辛辣です」

 

 デミサーヴァント含む円卓の騎士たちは思い思いの感想を吐いた。ランスロットは皮肉な笑みを浮かべ、地面を強く蹴る。

 ギン、と高鳴る金属音。ランスロットは不壊の聖剣によって、八方から迫る黒鎖を打ち砕く。

 そんな得物を操る者はひとり。湖の騎士が見据える先にはアグラヴェイン。数十の配下に囲まれた彼も、視線を返していた。

 眼差しの応酬を遮るように、太陽の騎士が立つ。

 ガウェインは敵を透かして空を眺める。立香が一瞬振り返ると、遠方の空に無色の光の壁が突き立っていた。

 

「……世界の収束が始まった。全ては最果ての塔に閉じ、聖都が完成する」

 

 太陽の聖剣が揺らぐ。

 空気を焦がす熱の切っ先は前方へ。

 

「ここは、通さない」

 

 瞬時に全員が戦闘態勢に入る。向けられた殺気を堪えるように。ひとり、応じなかったのは静謐のハサン。彼女は虚空に意識を飛ばしていた。

 無論、それが愚行であることは理解していた。敵の前で気を逸らすなど、山の翁にあるまじき失態だ。

 気を引きつけたモノの正体を理解して、安堵が心を包む。静謐のハサンは緩んだ意識を引き締め、力強く伝えた。

 

「皆さん、止まっている時間はありません。行きましょう」

 

 呼応するように、ソレは現れる。

 初めからそこにいたかのような自然さで。

 眼孔より青き炎を立ち昇らせる髑髏の死神。アサシンらしからぬ無骨な大剣を手に、夜空の如き外套を翻す。

 

「ハサン・サッバーハ、盟約に基づき馳せ参じた。太陽の騎士よ、暫し我が剣に付き合ってもらうぞ」

 

 周囲一帯を塗り替える死の気配。超常の気勢を叩きつけられたガウェインは一切の雑念を捨て去り、全身を強張らせた。

 無上の暗殺者は立香たちに眼の照準を合わせる。

 

「急ぐがよい。汝らの命数を使い果たすは此処に非ず。以前告げた願いを果たさんと望むならば、今は成すべきことを成せ」

「時は金なりってことですね! ありがとうございます!」

「然り。漫然と時を過ごすは愚者の在り方よ。戦いも同じことだ。汝が何のために身を擲っているのか、ゆめ忘れてはならぬ」

「普段からやるのは難しそうですけど……でも、今は何のために戦ってるのか、ちゃんと分かってます。意外と心配症なんですね?」

 

 立香は微笑みかけた。息が詰まるほどの死の気配の中にあっても、その笑顔だけは陰ることがない。

 アグラヴェインとガウェイン。それぞれの相手は定まった。残された者たちはひたすらに王の御座を目指す。

 その、間際。静謐のハサンと初代ハサンの視線が交わる。二代目からの山の翁は等しく彼に命を奪われ、代替わりを行った。

 彼らは殺した者と殺された者。かつて終わりを与えた少女へ、死神は言葉を贈る。

 

「───その毒の身で、誰かを護ってみせよ」

 

 それは、ひとりの少女を山の翁と認める一言。契約者たちの助けとなれ。そう求める声に、聞こえた。

 

「はい───!!」

 

 かつてない感情を秘め、毒の娘は駆ける。

 足取りに躊躇や迷いは存在しない。

 この毒の身で、誰かを護るために。

 彼女は、命を懸けることに決めた。

 ……アグラヴェインとランスロットは向かい合う。

 彼らはもう、互いを排除することしか考えていなかった。

 

「今度は、逃さん」

 

 あの時は逃げられた。

 力及ばず殺された。

 国を滅ぼした。

 

「私も、今度は逃げるつもりはない」

 

 あの時は逃げた。

 自らの弱さ故に。

 自らの犯した罪故に。

 だが、今度こそは──────!!

 

「「貴様を───倒す!!!」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 獅子王が待つ王城は高く聳えていた。

 その頂点からは断続的に聖槍の砲撃が撃ち出されている。太陽王との超遠距離砲撃戦。星と星をぶつけ合う戦いは留まるどころか、激しさを増してすらいる。

 獅子王でさえも手を使い果たしている。砲撃戦を演じている間ならば、あの光輝がEチームに向けられることはない。つまり、近接戦が成立する唯一の好機だ。

 今こそが絶好の機会。

 王手を掛ける一歩手前。

 だが。

 王を守護する二枚の駒が、残っていた。

 

「歓迎しよう、我らが愛しき好敵手よ。やはり面白い男だよ、アグラヴェインは。嫌悪する人間に王の護衛を任せるとはな」

 

 赤き盾の騎士、ラモラック。

 くつくつと喉を鳴らし、彼は愉悦に濡れた笑みを浮かべる。

 両腕を肩まで覆う銀色の籠手がぬらりと光を返していた。彼の五体は全てが凶器。抜き身で置かれた刀剣のように、立っているだけで空気を鋭く研ぎ澄ます。

 

「嫌いだからこそ、でしょう。存分に貴方の命を使い潰すために、王の喉元に配置した……身を呈して刃を食い止めろと。私は巻き込まれた身ですが、ええ、これは悪くない」

 

 妖弦の騎士、トリスタン。

 潰した目は開かない。代わりに残る全感覚を以って敵を把握し、妖しく唇を歪ませた。

 静寂。それが何よりも恐ろしい。彼の独奏が始まれば最後、音は長大なる刃と化して世界に解き放たれる。

 とどのつまり、獅子王の最後の盾が彼らであった。

 

「この城の頂上に王はいる。今は太陽王との戯れに興じておられる最中だ。不意を討つ機会はこの瞬間にしかない」

「その淡い勝ち目ですらも、私たちが潰す。世界が閉じきるにせよ、砲撃が止むにせよ、耐え切ればこちらの勝利が確定する」

 

 どこか期待感に満ちた語調。

 彼らの言葉は絶望を与えるためのものではなく。

 敵対者の戦意と殺意を煽るためのものだった。

 ペレアスとべディヴィエールは同時に剣を差し向ける。

 

「それは時間稼ぎか? 回りくどい小細工なんてアンタらしくねえぞ、ラモラック。照れてるのか知らないが、はっきり言えよ。オレたちと殺し合いたいってな」

「トリスタン、貴方もだ。今の貴方が外的要因による粘り勝ちを望む性格であるはずがない。私たちを無様に叩き潰したいのでしょう」

 

 前者は昔、教えを受けた男をからかうように。

 後者は昔、友情を結んだ男を咎めるように。

 しかし、その反応は全くの同じ。ラモラックとトリスタンはからりとした笑みを顔に貼り付ける。

 それは嵐の前の静けさ。不吉な予兆がそわりと後ろ髪を引く、嫌な感覚。

 

「そうか。では望み通り────」

「────殺し合うとしましょう」

 

 地面が爆ぜる。

 大気が跳ねる。

 ラモラックは弾丸の如くその身を撃ち出し、トリスタンは銀なる妖弦を爪弾いた。

 獅子王からの祝福があるとはいえ、絶望的なまでの兵数差があるにも関わらず、二人は攻めることを選んだ。

 ラモラックは一直線に敵陣へ飛び込む。正面からの攻撃を防ぐ赤盾に守りを委ね、雷の如く躍りかかる。

 迎撃は逆効果。ラモラックの戦い方を最も知るペレアスが、貫手による刺突を受け止めた。

 その直後、ラモラックを取り囲むように斬撃、打撃、炎と矢の雨が襲いかかる。逃げ場のない飽和攻撃。常人の可聴域を超えた音が鳴り響き、それらは防がれる。

 トリスタンが放った音の凶器。銀のつるを指でなぞるだけでその攻撃は完了する。なればこそ、人数差はあれど手数の差は存在しない。むしろ上回りかねないほどだ。

 ベイリンは短い攻防から情報を得て、思考予測を完了させる。

 あの二人とまともに戦えば、自分たちは負ける。これは強さの問題ではなく時間の問題だ。奴らは間違いなく、勝利条件が整うまで時を稼いでみせるだろう。

 ならば、今すべきことは。

 思考と反射、本能と理性の一体化。ベイリンは誰よりも早く次手を講じた。

 無造作に伸ばされた手が、アーラシュの腕を掴む。

 

「来い。獅子王を殺す。貴様が必要だ」

「……は!? ちょっと待っ」

「援護しろ、カルデアのマスター!」

 

 返事を待たず、ベイリンは跳んだ。

 アーラシュの腕を掴んだまま、双剣の騎士は王城の外壁に取り付こうとする。

 

「悪くない手ですが、方法がいささか乱暴だ」

「『Wird』!!」

 

 妖弦の震えに先んじて、ノアの高速詠唱が紡がれた。

 数十層にもなる多重障壁が展開する。一言で幾重ものルーン魔術を発動する絶技。しかし、フェイルノートの矢は立て続けに障壁を破壊し、最後の一枚に到達する。

 防壁が切り裂かれる。その寸前、ベイリンは壁を足蹴に加速する。王城の窓を突き破り、二人は城内に転がり込んだ。

 

「私たちは獅子王を討つ。そこの二人を倒して追ってこい」

「俺は同意してないぞ!? だが、ああくそ、やるしかねえか! 頼んだぞEチーム!!」

 

 ラモラックとトリスタンを相手していては時間がなくなる。獅子王の不意を突くために双剣の騎士は動いたのだ。行動の意図は分かるが、問題はそのためらいのなさ。ジャンヌは歯ぎしりする。

 

「どんだけ自己中なのよアイツは……!? よく騎士なんて職業やってこられたわね!?」

「ふ、騎士とはそういうモノだ! 自由に愛しもすれば殺しもする、騎士道という曖昧な概念で取り繕っていても本性は獣と変わらん!!」

「話を広げすぎですよラモラック。貴方のようなろくでなしはそうそういない。私や他の騎士に迷惑です」

「どっちもどっちで迷惑だってこと分かってるのかしら、この二人は!?」

 

 言いながら、三蔵は如意棒を大きく振りかぶる。使い手の意に応じて間合いを伸ばす宝具の一撃は、トリスタンの脇腹を薙ぐ。

 しかし、ラモラックがそれを許さない。赤き盾が打撃を受け止める。盾が反射するのは衝撃そのもの。不可視の一撃が鞭のように荒れ狂い、周囲の建造物を倒壊させた。

 

「うわあ、やっちゃった! ごめんなさいみんな!」

「キャスターのくせにどういう筋力してんだ坊主女!? 片眼鏡野郎の動きは常に見てろ!」

「坊主女って……私の髪の毛はフサフサよ! 剃髪は嫌いなのよね、アレ!」

「良い心掛けです。女性の髪は大切にすべきですから」

 

 騎士の指が弦を鳴らす。

 地を走る音の斬撃。その先には立香。マスターを狙う一撃を、マシュは大盾の一振りで弾いた。

 

「言動と行動が真逆ですね……!! 先輩、大丈夫ですか」

「うん。私よりも、マシュも攻撃に参加しよう。手数が足りないと思う。私たちは魔術で身を守れるし……」

「駄目だ、キリエライトはここにいろ。ラモラックはともかく、トリスタンの攻撃は俺たちじゃ防げない」

「それでは、私が前に出ます。貴方から頂いたルーンの護符もありますし、ラモラック卿の気を引くくらいはできるかと」

 

 ノアはべディヴィエールの提案にも頷かなかった。彼の碧い目線はトリスタンの竪琴に注がれる。

 

「それも却下だ。そもそも、トリスタンの弓モドキと魔術は相性が悪い。さっき魔力障壁を蹴散らされたのが良い例だ」

「私は彼の手の内を知っていますが……トリスタンに魔術を無効化する技があるとは聞いていません」

「だろうな。あれは技じゃなくて武器の方の特性だ。フェイルノート、だったか?」

 

 楽器の種類として、楽弓というものがある。楽弓とはその名の通り、弓の弦を鳴らす楽器のことだ。その発生は新石器時代。世界最古の弦楽器であり、ハープやリュートに派生したと言われる。

 日本の梓弓もその一種。弦を鳴らすことで魔除けの儀を行ったように、音を立てるという行為と魔除けの儀式は繋がりやすい要素であった。

 西洋においても、教会の鐘や楽器の音は妖精や悪魔を退けるものとされていた。なればこそ、神秘の籠もりし騎士の旋律はあらゆる魔を裂く刃と成り果てる。

 トリスタンは甘く笑った。

 

「一度の攻防で見抜かれていたとは。これは仲間にさえも隠していた奥の手のひとつだったのですが。現代の魔術師も侮れませんね」

「何せ彼はカルデア最強グランドマスターだそうだぞ? ペレアスにはもったいないくらいだ」

 

 ラモラックは会話の最中もペレアスと打ち合っていた。横合いから放たれるジャンヌの炎を、三蔵の打撃を事も無げに捌き切る。

 両腕の籠手は時に槍と化し、時に刃となって敵を襲う。開いた五指の一撃は獣の鉤爪だ。さらには蹴り、投げ、極め技までもが織り混ざり、流れが途切れることはない。

 舞踏の連撃を、ペレアスは隅々まで見切って捌く。それはさながら演武。四方から襲い来る火炎も打撃も、赤き盾の騎士を飾り立てる演出に成り下がる。

 

「分かってねえなラモラック。あいつの下水道みたいな性格を! もったいないのはあいつの方だろ、オレは最優のセイバーなんだからな!!」

「クッ、貴様が最優だと? 冗談はそこまでにしておけ。長く生きたそうだが、おれにとって貴様はまだ尻の青い小僧だ!」

「年上には気ぃ遣えよ、礼儀って知ってるか!?」

「一年経ってもテーブルマナーを覚えなかった貴様から礼儀という言葉が出てくるとはな! その鼻っ柱、もう一度叩き折ってやる!」

 

 その意識がペレアスに傾いた瞬間、背後から毒の影が忍び寄る。否、忍び寄ると言うには動的すぎる不意討ち。無音で飛び込む短刀はラモラックの意識の隙間を縫い────

 

「……ッ!」

 

 ────毒の鮮血が空中に噴き上がる。

 静謐のハサンは左肩を深く切り裂かれていた。ラモラックは彼女を見てすらいない。反撃どころか防御すら間に合わないタイミングだった。

 それを見ていた人間がいたとすれば、

 

「大分場も温まってきましたね。そろそろ、ミドルパートに移るとしましょう」

 

 トリスタン。フェイルノートが撃ったのは静謐ではなく、ラモラックの盾。攻撃を反射する赤盾の性質を利用して、背後の暗殺者を射抜いたのだ。

 反響をも駆使する超常の技量。彼は赤き盾の騎士の舞踏に合わせるように、旋律を奏でた。

 

「『痛哭の幻奏(フェイルノート)』───!!」

 

 そして、二人の独壇場が始まる。

 縦横無尽に駆け抜ける斬音。疾風迅雷の速度で跳ね回る赤盾の騎士は、奏者へ近寄ることを許さない。互いが互いの一挙手一投足を予知し、鉄壁を成した。

 両陣営の数の差など彼らには有って無いようなもの。比類なき手数と射程を誇るトリスタンは敵陣を釘付けにし、ラモラックがそれを散らす。

 ラモラックとトリスタンはかつて本気で殺し合ったことがある。

 トリスタンとの槍試合を断られたラモラックはイゾルデに『不貞者が飲むと飲み物がこぼれる杯』を送りつける。当然怒ったトリスタンは、自らラモラックに決闘を挑むこととなった。

 血で血を洗う闘争。その戦いの決着がついたのは日が沈み、そして登り始めた後のことだった。両者はその武勇を認め合い、友誼を結んだのである。

 彼らを結ぶのは血濡れた友情。殺意と殺意をぶつけ合い、撒き散らしていく異形の連携。それに立ち入る隙は微塵もなく、見境なく他者を巻き込む。

 

「…………ク、ッ」

 

 口角が吊り上がる。喉が鳴る。

 

「ク、クッ」

 

 指が蜘蛛足みたいに狂い、弦を掻く。

 

「「────ク、ハハハハハハッ!!!」」

 

 哄笑、狂奏。

 きっと狂騒に、終わりはない。

 世界が閉じるまで、閉じてもなお、彼らは止まらないだろう。

 破綻していた者と破綻した者。ついぞ分かち合うことのできなかった醜さの美を理解した二人は、自分たちがそうであるように振る舞い続ける。

 それは断崖絶壁への道を全速力で走り抜けるかのような快感。いつか堕ちていくために全力を尽くす、破滅への絶頂。

 それが、べディヴィエールには、ひどく哀しく思えた。

 その行動がではない。

 その行動を好んで取る彼らの心根が。

 だって。ラモラックが、トリスタンが、今こうしているのは自分の過ちのせいだ。

 終わらせる。終わらせたい。

 彼らもまた、何かの果てを求め続けているというのなら。

 

「べディヴィエール卿」

 

 柔らかな一言で、現実に引き戻される。

 終わらせると言っても、この体で何ができよう。円卓の騎士に見合わぬ実力。肉体を駆動させる燃料(たましい)は風前の灯火だ。

 

「あなたはとても重いものを抱えているのでしょう。私、ほんの少しだけ人の心を読めるのですが、その力を使わずとも分かります」

 

 見神の詩人、ダンテ・アリギエーリ。

 彼の口調は諭すでもなく、宥めるでもなかった。ただただ、包み込むように優しく言った。

 

「私たちに、その荷を軽くする手伝いをさせてください。これでも、厄介事を背負い込むのには慣れていますので。詳しくは神曲を読んでください」

「か、感謝致します。ですが」

 

 言いかけた騎士の肩を、拳が叩く。割と強めに。しかも生身の方を。

 

「ここに来て無粋なこと言おうとしてんじゃねえ。おまえは俺たちの施しを黙って受け取ればいいんだよ」

「そうですよ。ヘタレで腰抜けのダンテさんがここまで言うんですから、応えてあげないと。マシュもそうでしょ?」

「はい。他人を助けるのはEチームの得意技です。ダンテさん、策は?」

 

 ダンテはこくりと首肯し、短く打ち合わせをした。

 時間にして一分にも満たないやり取り。ノアは獲物を前にしたケダモノのように獰猛に笑み、仲間たちへ声を飛ばす。

 

「───決着をつけるぞ! 俺たち五人はトリスタンを片付ける。おまえらはラモラックを仕留めろ! しくじったらぶっ飛ばす!!」

 

 ペレアスたちは目を剥く。が、それは一瞬。

 

「簡単に言ってくれるじゃない……!!」

「───ですが、時間がありません」

「そうね、やるしかないわ!」

「お前らこそしくじるなよ!」 

 

 ───これより。最後の狂奏が、始まる。

 

 

 

 

 

 

 べディヴィエールは懐の小さな重みを確かめた。

 目標は鳴弦の源、トリスタン。不可視の斬撃が荒れ狂う死の渦へと、身を投じなくてはならない。

 ラモラックの妨害は考えない。決着をつけると言ったのだから、仲間たちは確実に赤き盾の騎士を押さえつけてくれているはずだ。

 その距離は約45メートル。人間の身とはいえ、ノアと立香、ダンテからありったけの強化を貰っている。数秒も掛からずに到達できるだろう。

 だが、その数秒でトリスタンは無数の攻撃を放つことができる。仲間の援護を鑑みても、少なくとも四度、命を賭す場面が訪れる。相手が距離を空ける可能性もあるが、それは考慮の内だ。多少の間合いなら、ダンテの策は通用する。

 短く息を吐き、べディヴィエールは踏み出す。

 

「死に急ぐつもりですか、べディヴィエール!」

 

 10メートル地点。最初の死地。全身を突き刺す殺気に肉体は勝手に動く。横薙ぎの音波を極限まで上体を屈めて躱す。

 これはトリスタンの戦法を熟知しているからこその奇跡だ。近づけば近づくほど攻撃は速くなる。もう二度と自力の回避はできない。

 

「────は、あっ!」

 

 18メートル地点。二度目の死線。今度は無数の音の弾丸が襲う。どこに逃げようが確実に死ぬ。故に前に進むしかない。

 

「ここはわたしが!」

 

 少女が空中で翻り、疾駆する騎士のために盾を捧げる。音の弾幕はコンクリート壁に水風船を叩きつけたみたいに拡散した。

 続いて、25メートル地点。三度目の窮地。物体の反響を利用した、全方位からの一斉射撃。過たず騎士の肉体は肉片の山となるだろう。

 

「元素変換。風は我が意に従え」

 

 騎士の周囲から空気が奪われる。局所的な真空状態。振動を伝える媒質がないため、音の刃は無に帰した。

 そして、31メートル地点。最後の難局。トリスタンに次の手は打たせない。三度目を凌いだ時点で、少女は王手を指していた。

 

「『瞬間強化』、『緊急回避』!」

 

 筋力と敏捷の爆発的な飛躍。最高速を遥かに超える加速は相手の目算を誤認させ、一気に彼我の距離を詰める。

 代償はある。肉体の強度を飛び越えた強化によって、骨は軋み、筋繊維は千切れ、血は沸騰していた。

 ただし、それでも、べディヴィエールはトリスタンへの接近を成し遂げ、

 

「虚仮威しですよ、それは」

 

 妖弦の音が響く。斬撃が巻き起こり、義手の騎士を真っ二つに両断する。相手が向かってくるというのなら好都合。手札を使い切らせたと見せて、こうして罠を仕込んでおくだけでいい。

 これこそが円卓の騎士。

 たとえ如何なる状況でも、致命の一手を仕込む。彼には油断はなかった。

 トリスタンに誤算があったとすれば。

 

「貴方ならこうすると、信じていました────!!」

 

 彼もまた、心を通わせた友であったということ。

 べディヴィエールは最後の最後、相手の手を読んで体を捻っていた。結果、被害は左腕の喪失。おびただしい量の血を迸らせ、彼は懐に忍ばせた右手を空中に掲げる。

 ばさりと何かが舞う。視覚を失ったトリスタンには見えなかったそれは、詩篇が書きつけられた幾枚もの紙だった。

 詩人は、呟く。

 

 

 

 

「───『至高天に輝け、永遠の淑女(ディヴァーナ・コンメディア)』」

 

 

 

 

 世界が塗り替わる。

 白く白く、無上の愛が満ちた天界へと。

 そこに到達するのは、べディヴィエールとトリスタンの二人きりだった。

 天に咲く大輪の白薔薇。無数の聖人と天使の魂で構成された薔薇より、二人を祝福するかのように花弁が振り落ちる。

 

「…………な、っ」

 

 驚愕の声すら出なかった。

 敵に必殺の結界宝具があることは知っていた。山間の村を襲撃した際、詩人はラモラックに向けて自身の手の内を晒したのだ。

 ブラフであることは警戒していたが、それでもこの事態は異常に過ぎる。

 

「術者を内包しない固有結界…………そんなものが存在し得るはずがない!!」

 

 固有結界とは術者の心象風景の投影。自らの内界を外界と入れ替える、魔法に近い大魔術だ。そして、自分の内側に在るモノを自身を起点に外に展開する原理上、術者は必ず結界の内部に収納されていなくてはならない。

 この宝具は、その大原則すら無視している。純白の結界は術者本人ではなく、紙片を起点に展開しているのだ。

 べディヴィエールは荒々しい息を吐いた。

 

「ありえない……本当にそう思いますか。貴方も詩人ならば、分かるはずだ。いいや、分からないとは言わせない」

 

 ダンテにとっての詩とは。

 永遠の淑女へ捧げる愛であり。

 読み手に伝える魂の情動であり。

 自分自身の心を表現する写しであった。

 

「あらゆる難行が不可能なまま、実現可能になる星の開拓者───彼がそうであるから、と理屈付けるのは簡単でしょう。けれど、彼にとって詩とは魂の感情を、心の熱量を紙上に写したモノだったのです。固有結界が心象風景を投影するのであれば、彼の詩こそが中心となっても何らおかしくはない!!」

 

 トリスタンは唇を噛み、竪琴の弦に手をかける。

 

「だから、どうしたと言うのです。私の武器はここにあり、私の指はまだ動く。死に体の貴方ひとり程度、道連れにするのは造作もない」

「そうしたいのなら、そうすればいい。ですが、トリスタン……貴方にはあったはずでしょう」

 

 永遠の淑女が温かな光とともに降臨する。べディヴィエールは血に染まった肩の断面を強く握り、言葉を紡いだ。

 

「恋しい誰かへ抱く愛が、王のために懸けた魂が、王国の民を救おうとしていた心が!! 貴方を貴方足らしめる理由を忘れて死ぬなど、私は決して許さない!!」

 

 こぼれる、熱い涙。

 こめかみに銃弾を撃ち込まれたかのように、トリスタンは揺れた。

 イゾルデという二人の女性がいた。

 ひとりは美しい金の髪の王妃。

 アイルランドへ向かう船の途中、媚薬によって心を掻き立てられたトリスタンと王妃イゾルデは愛を重ね、心を通わせた。

 もうひとりは王妃と瓜ふたつの王女。

 トリスタンは金髪のイゾルデへの想いを断ち切るため、ブルターニュの王女であったイゾルデと結婚する。

 しかし、彼はその女性───白い手のイゾルデを心の底から愛することができなかった。かの王妃と紡いだ恋情が燻り続けていたから。

 最期、トリスタンは白い手のイゾルデの嫉妬によって命を落とすことになる。

 ……思えば、当然の帰結だ。

 王妃と道ならぬ恋に落ち、その思い出を払拭するために王女と結ばれた。

 

〝王は人の心がわからない〟

 

 ひとりの人間もまともに愛せぬ男が、どうしてそのような言葉を吐けるのか。

 本当に人の心が分からなかったのは自分だ。そうでなくては理屈が通らない。人の心がわからないなどと言えるのは、人の心の痛みがわからないからだ。

 だから、獅子王に跪き、外道に堕ちた。

 それもこれも、人の心が───自分の心さえ理解できていないからなのだろう。

 

(嗚呼、それでも)

 

 こんな自分でも。

 誰かを慈しむことを、諦めなくても良いのだろうか。

 

「…………べディヴィエール」

 

 心をほぐすような声。

 トリスタンはべディヴィエールの頬に手を伸ばし、友の涙を拭い取る。

 ───そうだ。こんなにも簡単なのだ。泣いている誰かの涙を、拭うことは。

 

「王を、どうか救ってほしい」

 

 こんな私のために泣ける貴方なら、きっと。

 騎士は、微笑みと一緒に消えた。

 

 

 

 

 

 

 ラモラックは一層笑みを深める。

 その原因はまさに目の前、輝きを放つ女にあった。

 

「『記別(きべつ)旃檀功徳(せんだんくどく)』……!!」

 

 玄奘三蔵の切り札、第二宝具。

 中国の神話・伝承では長く生きた動物や修行を行い徳を積んだ人間が、龍や仙人に変身することが多い。

 三蔵法師もそのひとり。彼女は天竺の霊山にある川を渡る際、常人の肉体から仙人や仏と同じ体に昇華した。

 そして、釈迦如来から旃檀功徳仏に成るという記別を与えられたのである。つまり、この宝具は人の体を捨て、仙人と仏の体を得るという存在の変革に等しい。

 三蔵はかつてない速度でラモラックの裏に回る。一瞬で視界外へ脱出した彼女の気配を感覚で捉える。背中を狙った掌底にカウンターの手刀を叩き込んだ。

 が、僧侶の体はびくともしない。鳩尾を打った感触はまるで鋼鉄の大地のようだった。

 数瞬先に旗の穂先と毒の刃が迫る。その予感のままに飛び退くと、その通りに二つの武器が空を切る。

 三蔵が得たのは身体能力の向上と無類の耐久力。だがそれは、命を燃焼させることで実現する最期の悪あがき。上昇する力に反比例して、生命力は刻一刻と目減りしていた。

 何としてでも敵を倒す。それが、玄奘三蔵の覚悟だった。

 

「……貴女は美しい」

「あら、それはどうも。ひねくれてる人かと思ったら、案外素直なのね」

「女性に対する礼儀は真摯であることが真髄だと、色好きの父親に教わった。ああ、もちろんそこの少女たちも可憐だぞ?」

「アンタに褒められてもクソほど嬉しくないわね!」

 

 炎の舌が大地を舐める。まともに喰らえば死ぬ攻撃だが、ラモラックにとっては容易い。体勢を変えるだけで、後は盾が反射を実行する。

 盾が炎を吸収し、そっくりそのまま叩き返す。この隙を見逃す相手はここにはいない。騎士の意識が防御に移りかけたその時、

 

「お、らぁ───っ!!」

 

 ジャンヌは空気を殴るように右手をかざす。噴き出す黒炎は反射された炎を呑み返し、ラモラックを焼きにかかる。

 反射よりも高い威力の攻撃で敵をあぶり出す力技。莫大な火力を有するジャンヌだからこその無茶苦茶だ。

 

「ククッ! なんと剛毅な少女よ!」

 

 空中に跳び上がった騎士を、如意棒の一突きが刺す。斜め後方、腎臓を打ち抜く軌道に指先を合わせ、力のベクトルを変更する。

 盾の裏側を棒の先が突く。過たずそれは反射し、三蔵の足元を貫いた。

 

「チッ! 今ので焼かれときなさいよ、ヒラヒラ片眼鏡!」

「こんなにも楽しいひと時を終わらせるわけにはいかぬな! おれは何日でも何ヶ月でも続けられるぞ!」

「その前に世界が閉じるじゃねえか! 何言ってんだ戦闘狂!」

「円卓の騎士だけあってアホなのね、この人も!」

 

 苛烈さを増す攻めの嵐を、ラモラックは物ともしない。

 彼の言葉に嘘はない。獅子王の祝福『無尽』。騎士は無限に尽きぬ体力を与えられているのだ。

 サーヴァントであろうが、戦闘を行えば疲弊する。疲れは意識を鈍らせ、技の精度を低下させ、身体機能を鈍化させる。

 ラモラックにそれはない。常に意識は冴え渡り、最高の技を繰り出し続けることができる。生前、限られた体力でも四人の円卓の騎士と三時間戦い抜いた強さは、陰ることすらない。

 静謐のハサンは敵の間隙を見抜くために目を凝らす。

 直接戦闘であの中に割って入る技量はない。暗殺者ならば、最期まで暗殺者らしく戦う。

 長期戦と防戦に長けたラモラックはこの状況下では悪夢のような相手だ。故に、命を懸けるのはこの場面。毒の身であっても、誰かを護れることを証明しなくてはならない。

 命を懸ける時は漫然と懸けてはならない。命を懸けることと命を捨てることは同義ではない。同じ死に向かう行為だとしても、目的とするものが違うからだ。

 ラモラックに致命の隙を作り出す。そのために、暗殺者は跳んだ。

 騎士の頭上から奇襲をかける。短刀の刺突は見るまでもなく躱された。だがそれでいい。本命はこの後だ。

 貫手が振りかざされる。静謐のハサンは、それを避けることをしなかった。

 

「皆さん、お願いします───!!」

 

 血の華が咲き誇る。

 少女の体は魚の開きの如く四散し、紅き毒を散らした。

 

「……!」

 

 赤き盾の騎士に降り掛かる鮮血。血で彩る死化粧。血液の流れが遅滞し、後頭部を殴られたみたいに世界が揺れる。

 静謐の毒とはそういうもの。抗い難く、暴力的な血毒。常人ならばこの時点で命を絶たれていただろう。が、ラモラックは強靭な精神力で意識の純度を取り戻す。

 少女の体を貫いた右腕を引こうとするが、その動きはあまりに緩慢。静謐のハサンは臓物までもが毒。籠手の隙間からこぼれ落ちた血と肉片が、右腕の自由を奪っていた。

 致命的な隙。ラモラックがそれを自覚した頃にはもう遅く。空に、ひとりの僧侶が舞い上がっていた。

 

「『五行山・釈迦如来掌』!!」

 

 三蔵法師、最期の真名解放。

 全存在を注ぎ込んだ掌底が、騎士の五体を砕き散らす。

 

「『我が驍勇の前に敵は無し(キャバルリィ・オブ・フェイス)』」

 

 ラモラックに残された最期の意地。宝具の盾と少女の体を咄嗟に防御に回し、掌底への備えとした。

 しかして、彼はゴム鞠のように打ち出された。何度も地面をバウンドし、王城の門に突き刺さる。

 掠れた視界が捉えるのは、接近するペレアスの顔。ラモラックは血を吐き出しながら、大いに笑った。

 

「ここからが本番だ! なあ、そうだろうペレアス!!」

「───いいや、アンタに付き合ってる暇はねえ」

 

 赤き盾の騎士は右腕を振りかざす。

 とうに感覚もなく、小指一本すら動かない肉の塊を。

 それは全身の回転で鞭のように腕を振るう荒業だった。

 動かない、だからこそ意表を突ける。

 血に塗れている、だからこそ毒を与えられる。

 しかし、その肉の鞭は炎を纏った黒剣に焼き切られた。

 

「…………ようやく一発! ブチ当ててやったわ!」

 

 竜の魔女が投擲した剣。刀身の炎が切断された腕に燃え移り、一瞬にして炭と化す。

 それで、終わりだった。

 

「『運命絶す神滅の魔剣(ミストルティン・ミミングス)』」

 

 魔剣が赤盾ごと騎士の心臓を貫く。

 ごぶりと喉から血が溢れ出す。胸元を赤く染め、騎士は純粋に微笑んだ。

 

「まさか、おれを殺すのが貴様だとはな」

「ただの成り行きだよ。偶然こうなっただけだ」

「……ハ、ロマンを理解せんやつだ。それこそを運命と人は表現するのだろう」

「かもな。アンタとの運命なんて、背筋が寒くなるぜ」

 

 脳裏に蘇る、過ぎ去りし日々。

 

〝貴様が湖の乙女と結ばれた男か? 若いのだな。丁度いい、相手がいなくて困っていたところだ。訓練場に来い、殴り倒してやる〟

〝なんでだ!!? キャメロットに新人いじめがあるなんて聞いてね……ないですよ!!〟

〝そんな陰湿なことをする人間はいない。ただ単に、おれが体を動かしたいだけだ。ああ、貴様は真剣を使うと良い。それくらいのハンデはくれてやる〟

〝せ、先輩だからって舐めやがって……!! 吠え面かくことになっても後悔すん、しないでください!〟

〝敬語も使えんのか、貴様は。呆れた〟

 

 幾度となく刃を、拳を交わした。

 自分が持つ技を叩き込み、鍛え上げた。

 彼に興味を惹かれた理由は、今となっては分からない。

 けれど、考えてみるとしたら、それは一種の憧憬だったのかもしれない。まともな恋をできず、真っ当に人を愛せぬ自分と、まるで対極にいるのがこの男だったのだ。

 ラモラックはペレアスの頭を左手で寄せ、額を合わせる。

 

「勝てよ。おれを殺したからには」

「アンタに言われるまでもねえよ。……師匠」

 

 ズッ、と魔剣が引き抜かれる。

 それとともに左手は落ち、瞳の色は虚ろになっていく。

 朦朧とする意識で、ペレアスたちが玉座の間を目指していくのが見えた。

 

(ああ、くそ)

 

 ……今になって思い返すのが、貴様の記憶か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 凍てついた月明かりが射し込む寝室。

 甘く色づいた空気が室内を漂う。

 熱く乱れた閨の上で、女はじっとりと濡れた肢体を起き上がらせた。

 

〝…………何を、見ているの?〟

 

 なまめかしく動く唇。引かれた紅は薄くなっている。

 窓辺で空を眺めていた男は言う。

 

〝月だ。今宵の月は美しい。貴様なんぞより、よほどな〟

〝そう、でも良いわ。あんな石ころ、大きいだけで抱かれることもできないんだから〟

 

 女の声には確かな嫉妬があった。単な諧謔ですら、虚しき月にすら、女は妬みを覚えるのだ。目の前の男を独り占めしているという事実が揺らいでしまいそうで。

 何よりも揺らいでいるのは、女の方だというのに。

 

〝行くのね〟

〝ああ〟

〝殺されるわよ〟

〝それが、どうした〟

 

 女は一瞬詰まり、声に深い憎しみを織り交ぜる。

 

〝……アルトリアなんかのために?〟

〝我が王の名誉がかかっている。……次、侮辱をすれば殺す〟

〝────そ、う〟

 

 その瞬間、女は枕元の短剣を握り、男の背を突き刺しにかかった。

 混じり気のない純粋な殺気。女は、愛し合った男に本気の殺意を抱いていた。

 男の手が刃を掴んで止める。鍛え抜かれた五指には掠り傷すらついていない。

 

〝何故、刺そうとした〟

 

 白刃を握り潰す。女は悪びれもせずに答えた。

 

〝あの女のために死ぬくらいなら、私があなたを殺すわ〟

 

 男は、自分の口元が吊り上がっていくのを感じる。

 

〝……ええ、あなたがここで死ねば、あなたの心にいたのは私だけ。あなたの忠誠がアルトリアに向けられているのが許せない。あなたの力がアルトリアに捧げられているのが許せない〟

 

 それは妹に対する怨嗟の声だった。

 王の地位を奪った挙句、男さえも従えるのかと。

 

〝だから、殺すの。そうしたらあなたの全ては私のもの。アルトリアには、少しだってくれてやらない……!!〟

〝───ク、クククッ〟

 

 男は女の首を右手で掴む。

 

〝良いぞ、やはり貴様は(うつくし)い! どこまでも低俗な魔女め!〟

〝こんな私だから、愛したのでしょう〟

 

 唇を押し付け合う。女は男の唇に歯を突き立て、溢れた血を舌ですくい取る。

 そうして、血で紅を引き直す。妖艶に顔を上気させていた女はしかし、徐々に熱を失い、男の胸に顔をうずめた。

 妖女は、か細い少女のような声で、

 

〝死なないで。いかないで。私をひとりにしないで〟

〝…………それは無理な話だ、モルゴース〟

 

 そうして、男は死んだ。

 王の名誉のために向かった槍試合の帰り道。四人の仲間たちに襲撃されて。

 

「───くだらん、人間、だ」

 

 嗜虐心が掻き立てられる。

 冷たい体に血が通う。

 この命を一片までをも王に捧げきったとしたら、あの女はどんな醜さを見せてくれるだろう────?



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第56話 最果ての王と円卓の騎士 中編

 聖都主街区。

 絢爛の都はいまや見る影もない。戦火に焼かれ、死体が路傍の石のように打ち捨てられる叫喚の戦場が繰り広げられていた。

 世界の趨勢を占う争いとは、かくも醜い。騎士道物語に描かれる壮麗さはどこにもない。互いが互いの正しさを認められぬ故に手を血に染める、ヒトの暴力的な本能があるだけだ。

 戦争の醜悪さは、騎士道や理想、誇りといった綺麗な言葉では到底取り繕えない。むしろ、汚物を飾り立てるように、その汚さがより際立ってしまうだろう。

 しかし、取り繕うべきモノを持たぬ男がここにいた。

 太陽の騎士、ガウェイン。灼熱の聖剣を振るい、騎士は黒き死神と斬り結ぶ。

 建物の屋根から屋根へ、渡り鳥のように翔びながら剣技をぶつけ合う。白銀と漆黒の激突は一合ごとに大気の悲鳴を響かせる。

 騎士道を捨て、理想を捨て、誇りを捨てた。残ったのは、かつて果たし切れなかった王への忠義のみ。激情の如く燃え盛る忠心はまさしく、輝く炎の束となって解き放たれた。

 

「『転輪する勝利の剣(エクスカリバー・ガラティーン)』!!」

 

 触れたもの皆焼き焦がす業火。聖剣の一閃は太陽のプロミネンスじみた威容を以ってハサンへと襲いかかる。

 至近距離から薙ぎ払われた炎の刃を回避する術はない。ましてや生半可な防御は無意味だ。熱したナイフでバターを切るように、聖剣は一太刀で敵を解体するだろう。

 たとえ相手が超常の暗殺者であろうと、それは変わらない。自らの矜持たる刃はあらゆる敵を滅する───騎士の確信はしかし、一瞬で裏切られた。

 髑髏の死神は踵を返し、昏き夜の外套を翻す。

 ただそれだけで、聖剣の一撃は中空に受け流された。さながら蝋燭の火を息で吹き消すように。

 

「くっ、私の宝具ですら……!!」

 

 動揺が思わず顔を出す。ガウェインの加護『聖者の数字』は太陽が中天に輝く時、最大の力を騎士に与える。つまり、今の一刀は掛け値なしの全力だったのだ。

 それをたった一動作で対処された。これが意味する事実は甚だ大きい。

 悲嘆に暮れる暇はない。他の手を考える余裕もない。この敵を前にしては、僅かな意識の揺らぎでさえも死に直結する。

 ハサンは返す刀を留め、騎士から距離を取る。蒼き炎の双眸が微かに上空へと向いた。その直後、太陽王と獅子王の砲撃が青空の中で煌々たる光の大輪を咲かせた。

 

「互いに時は残されておらぬようだ、太陽の騎士よ」

「……互いに? 急がねばならないのは其方の側でしょう」

「同じことだ。終わりは近い───構えよ、我が剣の粋を見せよう」

 

 予告と同時にガウェインは動いていた。相手に先手を渡せば凌ぎ切れる保証はない。脊椎が丸ごと氷の塊に入れ替わった寒気を振り払うように、剣戟を繰り出す。

 両者の剣が幾度となく衝突する。太陽の騎士の連撃は神速にして必殺。なれど、死神の処刑剣は決まりきった楽譜に拍子を合わせるかのように捌き、返しの刃を放つ。

 隔絶した剣技。太陽を中天に頂くガウェインを以ってしても、相手は遥か高みに位置していた。

 だとしても、その事実は負けを認める理由にはならない。それどころか、騎士は淡く微かな勝利を求めて一層激しく聖剣を走らせる。

 

(この剣は───王の喉元に届き得る!)

 

 神と化した獅子王に対しても、死神の凶刃は変わらず在り続けるだろう。未だ底すら見せぬ暗殺者は王の首を断つに違いないと、直感が叫んでいた。

 人のための騎士であることを捨てた彼に残されたのは、王の騎士であることだけだ。

 ソレが、王を護り切れぬことなどあってはならない。

 思考を研ぎ澄ませる。

 時間の流れが遅滞する。

 聖剣の柄に埋め込まれた疑似太陽が駆動し、目眩く光を刀身に流し込む。

 そして、顕れるは怒濤の斬撃。太陽の熱を宿す白刃が無数に閃く。赫赫たる剣舞は炎の嵐を巻き起こし、王の敵対者へと降り注いだ。

 

「……見事」

 

 賞賛のみを告げ、暗殺者は剣を振るう。

 その技に太陽の騎士ほどの苛烈さはなく、きらびやかな輝きなどは一切見受けられなかった。敵の攻撃が最高速に達する前に留め、炎の嵐を正面から突き進む。

 質実剛健を絵に描いたような剣技。合理性を突き詰めたその剣に、一軍を一撃で滅するような威力は不要だ。

 ガウェインの全身を粘着質の焦燥感が包む。

 相手を突破する一手がない。光の届かぬ深海の底で冷たく重い水を掻き分けるように、剣の勢いが鈍っていく。

 あと数歩踏み込まれれば間合いが潰されかねないほどに接近を許す。しかしそれは、ガウェインの望むところでもあった。

 聖剣の真名解放は外套の一振りで防がれる。が、これはハサン・サッバーハであろうと直撃すれば命はないということだ。

 ならば、通常の剣戟に織り交ぜる形で宝具を解放する。疑似太陽は既に臨界、魔力の流れから次撃を予測されることはない。

 太陽の騎士は小さく剣を引き戻し、

 

「『転輪する(エクスカリバー)────」

 

 その意識の傾きを、暗殺者は見逃さなかった。

 流れる風のように距離を詰め、騎士の眼前に迫る。

 

「……ッ!」

 

 忘れていた。この男はアサシン。影に潜み、対象の虚を突く技を修めている。相手の意識の狭間に滑り込む戦いこそが真髄だ。

 ハサンは聖剣の持ち手である右手首を左の五指で押さえる。人体の構造上、関節を鎧で覆うことはできない。手首を潰されることを警戒したガウェインは咄嗟に腕を振り払おうとした。

 全身に鈍痛が走る。骨を折られたのではない、神経網を駆け巡るような痛みに騎士の動きは硬直する。

 ハサンが押さえたのは、東洋医学で言うところの経穴。ただしそれは人を癒やすためのものではなく、効率的に人間を殺めるための外法だった。

 ガウェインが体の操縦権を取り戻すまでの一瞬は、サーヴァントにとって致命的な隙だ。

 騎士は死を覚悟するが、ついぞその瞬間が訪れることはなく、地上に放り投げられた。

 地面に墜落したその時、呆けた声が辺りから上がる。

 

「呪腕さん、空から円卓の騎士が!!」

「いやそれ普通に大ピンチですぞ!?」

 

 ダ・ヴィンチと呪腕のハサン。軍勢の指揮と足止めを担当していた二人は思わぬ乱入者に目を剥く。

 ガウェインはすぐさま体勢を立て直す。三対一、なおさら勝ち目は薄くなった。彼の意識が思考に費やされようとした時、上から声が降り掛かった。

 

「汝の天命は此処に在らず。人の騎士たることを捨て、王の騎士たらんとするならば、己が意のままに進むが良い」

「……貴方は一体、どこまで見抜いておられるのですか」

「この身は晩鐘に従うのみ。右も左も分からぬ若輩者と変わらぬ。この目に映るものなどそう多くはない」

 

 蒼い眼差しを向ける告死の剣士の言葉には、淡々と事実を述べる無機質さがあった。太陽の騎士は深々と礼をする。

 

「貴方のような剣士と一時なれど鎬を削り合えたこと、感謝致します」

 

 ガウェインは剣を納め、王城へと駆け出した。ダ・ヴィンチと呪腕のハサンにそれを止める力はない。万能の天才は鼻を鳴らして戯けた。

 

「謙遜も度を過ぎると嫌味だぜ? そういうのが許されるのは私みたいな天才だけってね」

「それオール傲慢なんですが! というか初代様に気軽に話しかけられるのすごくないですか!?」

「ほう。呪腕よ、汝は我に対して隔意を抱いていると。そういうことか?」

「どう答えても角が立つ質問……!!」

 

 呪腕はだらだらと冷や汗を垂れ流した。初代山の翁はとにかく身内には厳しい。ひとつ返答を誤れば、素っ首を叩き落とされる可能性もあるのだ。

 

「君を前にして隔意を抱くなという方が難しいだろう。しかも彼は山の翁、初代の偉大さを知らぬ方がおかしい」

 

 愉悦を孕んだ声。反射的に視線を送る。太陽と聖槍の光が炸裂する青空の真ん中に、ソレはいた。

 シモン・マグス。魔術王の偉業の裏で蠢く、もうひとりの敵。巌窟王エドモン・ダンテスに千切られたはずの腕は元通りになっていた。次元を超える魔術師はヒトの手が届かぬ空から地上を睥睨する。

 その瞳が見つめるのは、この場に存在する三人のサーヴァント。なぜここにいるのか、そんな疑問を考慮する時間はない。彼らは身構え、魔術師を睨み返す。

 

「……アレがアトラス院で遭遇した魔術師で?」

「ああ、間違いないよ。伝承とは性別が違うけど、そこはまあ私もお互い様か。造形美に関しては私の方が勝ってるとして」

「私は目的、君は性癖。動機としてはそんなものだろう? 君のルッキズムで勝敗をつけられるのはいささか不愉快だね」

 

 言葉とは裏腹にシモンの声音には相手を試す優越の色が滲んでいた。話題の逸れ方に理解が及ばない呪腕は視線を右往左往させる。

 そんな暗殺者を尻目に、ダ・ヴィンチは得意気に笑った。

 

「私がこの体になった動機が性癖だなんて見当違いにも程がある! 私の女体化はすなわち愛! モナ・リザへの溢れんばかりの愛情さ!」

「ならば私も同じだ。人類への愛ゆえに私は体を造り変えた! その点では私と君は対等という訳だ!!」

「なるほど、私たちは相容れぬ敵同士ってことか……!!」

「これ何の話!?」

 

 呪腕のハサンが叫ぶ横で、ダ・ヴィンチは確信する。Eチームを見送った際に抱いた嫌な予感は、このことだったのだと。

 互いに重なる部分がある。自分と同じでねじれ曲がった性根を持つ相手。それ故に、万能の天才は限りなく薄い予感を得ていたのだ。

 

「ところで、物語の筋を弁えられないのかい君は。大ボスっていうのは最後の最後までふんぞり返って主人公を待つのがお決まりのパターンだろう? 神秘性を失った敵なんて噛ませ以下だよ」

「ふっ。我が王に比べれば、私は所詮中ボスだよ。前回は私の独断だが今回は違う。安心してくれ、Eチームの戦いに手を出すつもりは毛頭ない。彼とはもっと劇的な再会をしたいんだ」

「おいおい、微妙に会話が噛み合ってないのに気付いてるかい? 私はこう言ってるんだ、君みたいな部外者は引っ込めってね───!!」

 

 ダ・ヴィンチが携える籠手と杖。それらは瞬時に詠唱を紡ぎ上げ、魔術を発動する。

 綺羅星の如き光条が、空飛ぶ魔術師の五体を寸分違わず射抜く。人体の構造に精通したダ・ヴィンチの攻撃は、一発でも当たれば敵の命を奪うに余りある精密さを秘めていた。

 だが、光の束は魔術師の体をすり抜ける。シモンは微動だにしていなかった。その体には一切の傷はなく、衣服は揺れてすらいない。

 魔術を行使した気配はない。躱した可能性なんてないことはこの目が見届けている。立て続けに呪腕が短刀を放るが、結果は変わらなかった。

 何故。ダ・ヴィンチが答えを導き出すより早く、魔術師は告げる。

 

「空間の層が違うのさ。セル画やレイヤーに喩えたら分かりやすいかな。レイヤー1を黒く塗りつぶしたとしても、下のレイヤー2には何の影響もないだろう? それと同じことだと思ってくれ」

 

 つまり、シモンとダ・ヴィンチたちとではそもそも存在している場所が異なる。視覚的には目の前にいるように見えても、両者の間にはいくつもの空間が隔たっているのだ。

 通常の空間(レイヤー1)からあの魔術師を倒すには、それこそ次元や空間を超える一撃でなければならない。

 ダ・ヴィンチと呪腕がそう結論付けた瞬間、髑髏の死神は飛び掛かった。

 その手にありしは告死の剣。振るわれる斬撃に小細工は一切無い。だというのに、魔術師は初めて表情を固め、横薙ぎの刃から後退る。

 

「っ、く────やはり貴方は、格が違う」

 

 その首には一本の切創が走っていた。瑞々しい褐色の肌を真紅が彩る。細長い五指を首にかざすと、動画を巻き戻したみたいにゆっくりと傷口が閉じていった。

 この世で不変にして普遍の概念、死。存在する限り、逃れ得ない宿命。山の翁の手に在りしは告死の剣、普遍の死を与える刃は如何に空間が隔たっていたとしてもその役割を執行する。

 シモンは大きな身振りで初代山の翁に向き直る。

 

「我が王の勅命だ。冠位のアサシン、ハサン・サッバーハ。貴方の命を貰い受ける」

 

 殺気が膨れ上がる。その源流は山の翁のひとり、呪腕のハサン。彼は強く短刀を握り締め、怒りと殺意混じりの気勢を声とともに吐き出した。

 

「……その言葉、本気か」

「もちろん冗談だとも、呪腕のハサン。今ので分かっただろう、私に彼を倒す力はない。威力偵察さ。強さを測っておかねばならないのでね」

「じゃあ早く帰ってくれないかな? 正直蛇足だよ、君の存在は」

「ただ、私にも闘争心というものがある。やられっぱなしでいられないし、王に面目が立たない。故に」

 

 魔術師を中心に魔法陣が展開される。

 青い空に描かれる幾何学模様。それはまるで大木が広げる枝葉のようだった。

 緻密かつ膨大な魔術式の全てはたった数秒で書き上げられた。天に刻みつけられた紋章はこの世界に穿たれた孔であり門。人ならざる獣を喚び出す方陣だ。

 

「接続、解錠」

 

 陣が横に切断される。門を開ける、などという生易しい表現は似合わない。向こう側から何かが錠前を食い破り、虚空の底から眼光を輝かせる。

 ぴしり、と空間に亀裂が入る。蜘蛛の巣のように張り巡らされたそれは、ヒトが未だ到達し得ぬ異次元の景色を覗かせていた。

 空に切り開かれた絶遠のクレバス。心臓が鼓動を速め、全身がここから逃げ出せと騒ぎ立てる。人間が文明を持たぬ頃の原始的な生存本能が、アレには敵わないと叫ぶ。

 動いたのはただひとり、初代山の翁。冠位の暗殺者は自らの衣を解き、辺り一帯を陽の光すら遮断する砂嵐で覆う。

 しかして、魔術師の一言により、術式は完成した。

 

活動界(アッシャー)へと降りて来い。第一の獣よ」

 

 ガラスの板を金槌で叩くように。

 穢れなき新雪を足で踏むように。

 その獣はこの世界に実像を得た。

 すなわち、それは────

 

 

 

「■■■■■■■■────ッ!!!」

 

 

 

 ────()()()()()

 咆哮が、砂塵を消し飛ばす。

 白日の下に晒されしその色は赤。

 血の滴るような赤。

 皮膚を剥いだ肉のような赤。

 あるいは、世を滅ぼす火のような赤。

 ありとあらゆる凶々しさをその体色に表した獣は、竜のカタチをしていた。

 一般的な最強の幻想種である竜などとは異なる、純粋な力の塊。その圧倒的な威容と振り撒く恐怖とは反面、存在そのものには不安定さがある。

 この世界に実像は得たものの、実体を得ることはできていない。竜は不完全さを表すように、塗り絵を乱雑に塗り潰したような姿だった。

 けれど、その不安定さを補って余りある部位がある。

 それは頭部。鋭く切り立つ七本の角。頭頂には天使の輪の如き十個の光輪が輝く。その光輪は竜が戴く王冠のようであった。

 終極を告げる赤き竜。

 人類種の天敵。

 獣はその咆哮だけで冠位の暗殺者の衣を容易く裂いてみせた。

 

「…………、あ」

 

 その声は、誰がこぼしたモノだったか。

 時が凍りついたみたいに戦いが停止する。相争う両軍はサーヴァントだけを残して、全員が地面に倒れ伏した。

 彼らの目からは一様に光が失われていた。筋肉が弛緩しているのか、だらりと四肢を放り出して両顎は開きっぱなしになり、舌が外へ放り出されている。

 それはもはや人間ではなく、肉の塊だった。

 莫大な音量で気絶したのではこうはならない。

 彼らは砕かれたのだ。

 肉体という器に注がれた、魂そのものを。

 

「さあ、追ってこい。カルデアが魔術王を騙る偽物を打ち倒し、楽園に足を踏み入れるまで───私たちが貴方の試練となろう!!」

 

 竜の像が霧散し、虚空の門が魔術師の半身を呑み込む。

 次元を渡る、魔法級の魔術。わざわざ入り口を造り出したのは、山の翁を誘い出すために違いない。

 山の翁は独り呟く。

 

「……やはり、この未来に辿り着くか。晩鐘は原初の母でなく天魔の王を指し示した」

 

 果たして、その瞳には何が見えているのか。

 今はシモンとハサン以外に知る由はなく。

 山の翁は自らの後進に言い残した。

 

「呪腕よ。腕を失くした不覚者なれど、今や後を託せるのはお前のみ。我らの民と土地を、頼む」

 

 自分以外の全ての山の翁を斬った彼らしからぬ発言だった。アズライールの霊廟にて暗殺教団を見守る男は、初めて後進に頼るということをしたのだ。

 それは、あの魔術師を追うことで初代山の翁たる役目を果たせなくなる可能性があるということ。

 呪腕のハサンは直ちに跪いた。

 

「我が身命を賭し、その役目を果たすことを誓います」

 

 山の翁は頷き、次元を繋ぐ門に飛び込んだ。

 しん、と辺りが静まり返る。上空に輝く砲撃の衝突音もどこか、壁を隔てたみたいに他人事だった。

 

「……気に入らないな」

 

 ダ・ヴィンチは端正な顔を歪め、握り締めた手のひらに爪を突き立てる。

 その怒りにも、憎しみにも似た激情がどこに行き着くのか。それは万能の天才にすらも予期し得なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「貴様を───倒す!!!」」

 

 円卓の騎士、アグラヴェインとランスロットは同時に吼えた。

 殺すのではなく倒す。相手を完膚なきまでに叩き潰し、己の優位を示す行為。ただ殺すだけでは生温いからこそ、二人はその言葉を選んだのだ。

 殺し、殺された騎士たちは二度目の生を得てもなお、命を奪い合う。

 湖の騎士は不壊の聖剣を手に、一直線に突進する。

 

「その剣を、私に向けるか」

 

 その突撃は、アグラヴェインの配下たちによって遮られた。狂化を施された従騎士は主の意のままに隊列を組み、聖剣の一刀に我が身を晒す。

 噴き出す血飛沫。従騎士は仲間の死を目の当たりにするも、動揺する者は誰ひとりとしていなかった。

 剣槍が湖の騎士を刺し殺さんと迫る。

 肉体の限界を超える狂化と強化を施されているとはいえ、ランスロットはそれら全てに反撃を叩き込むこともできた。が、彼は地面を蹴って後退する。

 黒き鉄鎖が地面を突き破る。ランスロットが足を止めていたら、この鎖に捕縛されていただろう。そうなれば一巻の終わり。無数の刃に体を貫かれて、勝敗は決していた。

 単純な剣の腕前で湖の騎士に勝る者はいない。真っ当に斬り合えば、勝負がどう転ぶかなんて目に見えている。

 だからこそ、アグラヴェインは配下とともに戦った。数で押し、鎖で拘束するために。

 ひとりまたひとりと湖の聖剣は従騎士の命を散らす。ランスロットは単騎ながらも多数の敵と互角以上に渡り合っていた。

 アグラヴェインは仲間の亡骸に鎖を巻きつけ、傀儡のように操作する。

 

「見ろ! 貴様はまたしても王を裏切り、仲間を殺した!! その剣が生み出すのは罪だけだ! ベイリンなどはまだ生温い……貴様こそが真に呪われた騎士であることを思い知れ!!」

「過去の罪を取り繕うつもりはない。だが、今は人の世を救うために剣を振るう!」

 

 四方八方より襲い来る黒鎖。雪崩を打つ騎士の壁。一切を狂いなく対処しながら、湖の騎士は叫んだ。

 

「それこそが間違いだとまだ気付かないのか。人の世のために剣を振るうというのなら、王に付き従うことが最善の道だ」

「王が、そうしろと何時望んだ」

「……何だと?」

「忠誠とは主君が求めるものでなければ、周囲から押し付けられるものでもない。王は人に助力を求めることはあっても、それを強いることはなかった。貴様の忠誠の形を他人に押し付けるな」

 

 その言葉はあの時の刃よりも深く鋭く、アグラヴェインの胸に突き刺さった。

 ばつん、と脳の奥で何かが千切れる音がした。鉄の鎖をカッターで切断するように荒々しく。汚泥の底を掬った感情が、背骨を伝って血管の隅々に流れ出す。

 嘔吐感にも近い混濁した激情。それを知ってか知らずか、湖の騎士はさらなる一刀を叩き込む。

 

「開戦前にペレアスが言ったことを忘れたか、アグラヴェイン。これは答えの出ない問題だ。所詮忠誠とは自己満足、それを高尚なものとして扱うのは誤りだ」

 

 それが、限界だった。

 どこまでも相容れない。

 人のための騎士と王のための騎士。

 互いに互いを認められぬ、対極の存在。

 ランスロットはあろうことか、アグラヴェインの根幹を切って捨てた。

 

〝アグラヴェイン。貴方は円卓の内部に入り込んで奴らを破滅させなさい。配下を失った王ほど脆いものはないわ。こんな国は滅んだ方が良いと思うでしょう?〟

〝アグラヴェイン。私には卿の力が必要だ。組織は清らかな水だけでは成り立たない。辛い役目を押し付けることになりますが、私だけは貴方を見ている。共に、この国を生き永らえさせましょう〟

 

 魔女は円卓の崩壊と王国の滅亡を我が子に望み。

 騎士王は共に国を栄えさせることを騎士に望んだ。

 王こそが希望の体現だと思った。滅びに向かって突き進むブリテンを救うことが叶うのは騎士王ひとりなのだ。そう信じてやまなかった。

 ただの人間であったアグラヴェインは、王と出会うことで騎士となったのだ。

 そこで、初めて思った。この体に流れる魔女の血。他人を省みず、己が妄執だけに囚われたあの女と自分は同じではないのだと。

 ───私も、他人のために生きることができる。

 だが、辿った結末は。

 ランスロットの不倫を暴いた挙句に円卓を崩壊させ、王国の滅亡を招いた。

 そう、結局は、あの女の目論見通りだったのだ。

 アグラヴェインは自らの忠誠の果てに滅亡の引き金を引いた。否、それ以前からもその予兆はあったのかもしれない。魔女の愛人であるラモラックを仲間とともに殺したのは、本当に王のためだったと言い切れるのか。

 魔女の大切なものを奪うことに少しも愉悦を感じなかったと、王の前で言い切れるのか。

 だからこそ、アグラヴェインは獅子王に剣を捧げた。

 今度こそは完璧な理想の国を創る。それこそが騎士の忠誠であり、贖罪なのだ。

 

「貴様は、それを────!!!」

 

 視界を赤く染める殺意。

 生温かったのは自分だ。相手を倒すためならば、どれほど非情な手段でも選んでみせるのが自らの騎士道だったはずだ。

 足元にいくつもの黒斑が浮き上がる。影が渦巻く点から次々と騎士が這い出し、漆黒の狂化を施される。

 獅子王の下僕たる粛正騎士。その実力は一般兵とは数段異なる。王の手駒でさえも、騎士は彼らを自分の色に染め上げた。

 アグラヴェインが手を前に出すと同時に、粛正騎士は突撃をかける。先頭の騎兵は味方の死体を踏み潰し、槍の穂先を打ち出す。

 頭部を狙った一撃。湖の騎士は紙一重でそれを躱し、すれ違いざまに騎兵の腹を断ち割った。

 

「…………ッ!?」

 

 割られた体の断面から血濡れた黒鎖が飛び出し、ランスロットの左腕を絡め取る。

 部下の体内に鎖を仕込む荒業。ランスロットが敵を斬る度に拘束の手は増え、強制的に詰ませる一手だ。

 湖の騎士は即座にそれを看破し、鎖を切断しつつ後退する。それより僅かに速く、粛正騎士たちは自らの体を切開した。

 顎の下から下腹部まで、一直線に切り下げられた傷口から鉄鎖が奔る。都合五十人の命を犠牲に、黒鎖は奔流となって湖の騎士を追う。

 氾濫する黒き鉄の河。もはや打ち払うという行為は無為。激流に放り込まれた人間のように、力なくもがくことしかできない。

 しかし、立ち向かうのはランスロット。湖の乙女より聖剣を賜りし、円卓最強の騎士。

 物量で圧されることには慣れている。ハドリアヌスの北壁を超えた先の異民族はいつだって数倍の戦力で以って攻め込んできていた。

 それに比べれば────!!

 

「う、おおおおおおっ!!!」

 

 果てしない物量を、神速で以って凌駕する。

 湖の騎士、その全身全霊を懸けて剣戟を放つ。それはランスロットという存在が持ち得る最大限の可能性を費やし、迫りくる鋼の河を切り裂く。

 此処にいない誰かのために。

 断末魔さえあげられず散っていった人々のために。

 騎士は、その魂を燃焼させた。

 視界が晴れる。

 鋼鉄の闇が砕ける。

 その時点で、勝敗は決まっていた。

 

「……づ、ぐ」

 

 ずぶり、と腹の肉を掻き分ける冷たい鉄。

 ざくり、と背中を突き刺す鋼の槍。

 湖の騎士の五体は数人の従騎士の狂気に串刺しにされていた。

 英雄は全てを注ぎ込んだ。

 己の魂と命を糧に戦った。

 なれど、それは決して選ばれし者の特権ではなく。

 むしろ、歴史の波に呑まれ消えていった名も無き誰かの本領であった。

 

「とどめだ」

 

 アグラヴェインが剣を振り上げ、ランスロットの首には刃をかざす。

 回避は不可能。決死の騎士たちが心血を注いで縫い止めていたから。

 勝利の天秤は、一方に傾いた。

 

 

 

「■■■■■■■■────ッ!!!」

 

 

 

 瞬間、赤き竜の咆哮が轟く。

 魂を砕く声。従騎士の指先から力がこぼれ落ちる。

 その機会を、湖の騎士は見逃さなかった。

 刃金が鳴る。

 必殺を期した一撃を聖剣が弾き返す。

 神経を巡る痛みなど二の次。遠くない先に待つ死など恐れるに値しない。ランスロットは淀みなく返しの太刀を放った。

 

「く、そ……!!」

 

 そうして、二人の騎士は剣を交わす。

 一合の度にアグラヴェインは追い込まれる。分かりきった結果だ。両者の剣技はそれほどまでに隔絶している。

 ────認めない。

 この男に負けることだけは決して。

 ────気に入らない。

 その力を王のためだけに使わなかったことが。

 溢れる衝動。増えていく傷。アグラヴェインは従騎士に施していた狂化を、自らに課した。

 目の前の男を超えるために。

 目の前の男が犯した罪に手を染めた。

 

「───ランスロットォォォッ!!」

 

 脳の片隅で大事な何かが弾けた。

 全身の骨が爆ぜ、その勢いのままに剣を薙ぎ払う。

 威力、速度ともにアグラヴェインの限界を超えた一撃。

 肉を裂き、骨を断つ感触。宙を舞うのはランスロットの左腕。血濡れた視界の片隅でそれを捉えるが速いか、二の太刀を構える。

 爆ぜた骨と砕けた脳を補強するように、騎士の五体を鎖が覆う。

 肉体がガラクタと化しても、これならば問題はない。鎖に動作をプログラムし、敵に最期の一刀を繰り出す。

 

「『縛鎖全断・過重湖光(アロンダイト・オーバーロード)』」

 

 光の斬撃が、その一撃ごと騎士を断ち切った。

 決して折れぬ聖剣に膨大な魔力を込めた斬撃。傷口より見るも輝かしき青の光が溢れ出し、アグラヴェインの肉体を崩壊させていく。

 地に伏せた騎士に、ランスロットは言った。

 

「……私は王のもとに行く。それが、私なりの贖罪だ」

 

 死にかけの体を引きずり、湖の騎士は王城への長い一歩を踏み出す。

 薄れゆく視界でその背中を追い縋る。

 とうに動かぬはずの手は、肌を裂くほどに強く握られていた。

 最期に残った感情。それを留める理性は霞み、口をついて零れた。

 

「まだ……まだ終わっていない……!!」

 

 その言葉は空気に溶けて消えていく。

 負けない。負けたくない。そんな子どもじみた想いは、ランスロットに届くことはなかった。

 

「その言葉、おれが聞き届けた」

 

 掠れた声が、静寂を裂く。

 湖の騎士の前に。その男は、ラモラックはいた。

 彼からは生気という生気が失われていた。肌は死人のように青白く、失った右腕の断面からはもはや血液すら流れていない。

 死んだ体を引きずって、赤き盾の騎士はここに辿り着いたのだ。

 

「……何故です、ラモラック。どうしてその体で動ける」

 

 唇の血を拭い、騎士は答える。

 

「王の祝福だ。無限に尽きぬ体力があるのなら、死なぬ限りどこまでも戦える。おれの生き汚さは知っているだろう」

 

 アグラヴェインの目には、かつての死に際のラモラックと今の彼が重なって見えた。

 ガウェイン、ガヘリス、モードレッドとともにあの男を襲撃した時。ラモラックは致命傷をいくつも受けながら、ガウェインの加護が切れるまで戦い抜いてみせた。

 戦闘続行スキル。そう言ってしまうのは容易い。ラモラックが今こうしていられるのは、単純な理由だった。

 

「おれは捧げるぞ。この命の一片までをも、王に!」

「ラモラック、貴方はまだ───!!」

 

 赤き盾の騎士と湖の騎士は互いに互いのみを見据え、激突した。

 宝具の赤盾がある以上、正面からラモラックを倒すことはできない。必然、ランスロットは防戦に徹するしかなかった。

 勢いの衰えた突きを、力なき聖剣がかろうじて受け流す。二人の技は明らかに精彩を欠いていた。ランスロットは致命傷故に、ラモラックは静謐の毒故に。

 死が決定した者同士の戦い。ラモラックは冷たい体をなおも動かし、ランスロットは熱い血潮を飛び散らせる。

 

「それが貴方への罰か。王の刀剣として死ぬまで戦えという祝福……だからこその無限の体力!」

「いいや、それすらも祝福だ。おれの騎士道にはこれが相応しい。貴様もここで死ぬのなら本望だろう。自らの罪を償えぬと知っているなら、王に裁かれることなく死んでいくのが真の罰だ!」

「だとしても、私はそこを通る」

「ならば、ここを通す訳にはいかぬ」

 

 誰のために、とは言わなかった。

 ラモラックにはもう何もない。ペレアスに心臓を貫かれた時点で、王の盾たる役目は終わっていた。王の騎士たるラモラックは死んだ。契りを結んだ女の形見も捨て、血の通った志をも弟子に託した今、ここにいるのはひとりの幽鬼。ラモラックの形をした残滓だ。

 毒の影響で左眼の視力は完全に失われ、右眼も茫洋とした像を捉える力しか残されていない。

 それでも、彼を動かしていたのは。

 祝福ではなく。

 スキルでもなく。

 

〝死なないで。いかないで。私をひとりにしないで〟

 

 愛という、曖昧模糊な力だった。

 一瞬、元の精彩を取り戻した貫手がランスロットの胸を刺す。

 糸の切れた操り人形のようにもたれかかる男に、赤き盾の騎士は呟いた。

 

「おれは、醜いな」

「私も、貴方と同じだ」

 

 この距離ならば盾は防げない。ランスロットはラモラックの喉元を噛み千切り、正真正銘のとどめを刺す。

 

「私たちは共に愛してはならぬ(ひと)を愛した。その果てに破滅が待ち受けていると知っていても。だから、ですが……ああ────」

 

 ────あれは、綺麗な記憶だった。

 政略の道具に使われた女がいた。

 玉座を我が物にしようと企んだ魔女がいた。

 きっと、彼らの出会いは運命と呼ぶに相応しくて。

 その運命は、滅びを望んでいた。

 けれど、せめて、全てを自分のせいにできるなら。

 その罪罰をもって、あの愛だけは嘘偽りないと認めることはできるだろうか。

 

「───理解できぬ。忠誠を超える愛などというモノが……求める度に奪われる関係が、王国を滅ぼしたのだぞ」

「本当に、そうか?」

 

 お前の中に、愛という言葉に置き換えられるモノは何ひとつとして在りはしないのか。

 続くその言葉を、ラモラックは眼差しに込めた想いで補った。

 魔女がアグラヴェインに吹き込もうとした、国を滅ぼすほどの激情。その対極に位置するのは、王に誓った揺ぎなき忠誠。

 それが終わりを招くモノなのだとすれば。

 彼にとっては反対の忠誠こそが、■と呼べるのかもしれなかった。

 

「……認めない」

 

 認めてたまるものか。

 認めてなるものか。

 そんな感情が騎士の中に存在して良いはずがないのだと、彼は最期の最期まで否定しきって。

 三人の騎士は、同時に命を手放した。

 今際の際に想うのは、我が子の力を受け継ぐ少女のこと。

 仲間とともに笑い合える彼女ならば。

 聖槍を大したことがないと切って捨てられる彼女だからこそ。

 きっと、真に人のために生きられる。

 確かな勝利の予感を胸に、湖の騎士は瞼を閉した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時を遡って。聖都王城、玉座の間。

 双剣の騎士と救世の勇者はついに、獅子王に相対する。

 その身に纏うは純白の鎧。碧き瞳は星の輝きを閉じ込めたみたいに淡く煌めいていた。手に携えた聖槍は待機状態ながらも、宝具に匹敵する神威を放っていた。

 凍りついたような表情にはおよそ人の感情は見受けられない。変わり果てた王は冷たい眼差しを向けて、平坦な調子で述べる。

 

「…………ベイリンか。そなたは、私に敵対する道を選んだのだな」

「それが私の騎士道だ。貴様を斬ることに躊躇いはない。虚飾に塗れたこの都とともに滅びろ、現代風に言うと貴様は解釈違いというやつだ」

「現代風に言う意味あったか?」

 

 刺々しい空気が肌を刺す。獅子王は眼前に敵を捉えつつも、殺意や殺気の一欠片さえ向けてはいなかった。

 存在としての強度の差がまるで違う。向かい合うだけで精神が警鐘を鳴らすほどに、彼らの力は隔絶しているのだ。

 カッ、と空中で閃いた砲撃の光が玉座の間を照らす。優位に立っている点があるとすればひとつ、この戦いは太陽王とニトクリスを含めた四対一だということ。

 遥かな距離を介した砲撃戦がいつまで続くのかは分からない。最強の一角に違いない太陽王とて英霊、神霊たる獅子王との地力の差は明白。故に、ベイリンは走った。

 数十メートルの距離を一歩で埋め、騎士は双剣を叩きつける。

 人外の膂力を込めた斬撃は、聖槍の一振りで弾かれた。

 

「あの剣はどうした、ベイリン卿。湖の乙女がかけた呪いは手放した程度で消失するものではなかろう」

「それはこちらの台詞だ。星の聖剣はどうした。折られでもしたか?」

「戯言を。我が槍を忘れたか」

 

 大気が破裂する。

 瞬間、無数の流星が輝いた。

 獅子王が繰り出したのは秒間数百の刺突。音速を優に超える速度の槍は伴う衝撃波だけで、この王城を揺らした。

 さらにその穂先はサーヴァントであっても、一度受ければ原子に分解されるほどの光を湛えていた。双剣の騎士はそれらを掻い潜り、間合いを空ける。

 足を止めて打ち合うのは愚の骨頂。現に、一合でベイリンの剣は融解を始めていた。

 なるほど、確かに獅子王の疑問も当然だ。

 湖の乙女に授けられた聖槍に対抗するには、同じ湖の乙女から奪った聖剣が必要不可欠だと。

 ベイリンはそれを鼻で笑った。

 

「あんなモノに頼るのはもう辞めた。言っておくが今の私は聖剣を持っている頃より強いぞ。頼れる球投げ選手がいるからな」

「俺の本業は弓だ! 変な風評被害はやめろ!」

 

 矢玉の雨が降る。

 ひとつひとつが下級宝具の一撃に匹敵する威力。人体の急所全てを狙ったそれはしかし、聖槍より発せられた魔力が全弾を撃ち落とす。

 小さく舌打ちしながら、アーラシュは即座に次弾を射つ。獅子王がここまでやることは想定していた。後は、如何に射撃を通すか。

 命を懸けた宝具ならば通用する。が、それは正真正銘の切り札。たった一度の最終手段だ。

 獅子王を取り巻く斬撃と射撃。絶え間ない連撃の渦に囲まれてもなお、その表情が変わることはなかった。

 刹那、聖槍に光が集まった。ベイリンとアーラシュが身構える間もなく、それは解放される。

 

「「がっ───!!」」

 

 膨大な熱が全身を叩く。路傍の石を蹴り飛ばしたみたいに体が弾かれ、床を転げた。

 その速度は光速。

 それ故、回避は不可能。

 

「この程度では仕留められぬか。些か貴公らの実力を見誤っていた。私に光槍を使わせることを誇るが良い」

 

 再度、槍に光が灯った。

 拡散させるのではなく、収束させる。

 もはや獅子王に通常の間合いの概念は通用しない。

 聖槍が虚空を突き穿つ。直前、ベイリンは転がるように回避していた。攻撃が躱せないのなら、動作を予測して事前に避けるしかない。

 だが、それは光という現象の前には余りにも遅かった。

 光の槍は双剣の騎士の左脇腹を蒸発させ、城の窓を突き破って空の彼方へと消えていく。

 

「……これで思い出しただろう、我が槍を。聖槍の加護を受け入れよ、ベイリン。私が貴様の王だ」

 

 王はあくまで冷たく言ってみせた。

 これで理解できぬのなら仕方がない。もう一度槍を向け、塵も残さずに消滅させるだけだ。

 ばきり、とベイリンが纏う鎧が音を立てた。

 魔女モルガンが作製した呪いの甲冑。着装者の血を吸い、力を高める呪物が騎士の傷に根を張り、その輪郭を変化させていく。

 

「貴様は、仲間を覚えているか」

 

 端的な問い。獅子王は眉をひそめる。

 

「愚問だ。我が刀剣たる円卓の騎士を忘れることがあるものか。モードレッドの策略により番外位は抹消されたが、貴様とペレアスの記憶はしかと在る」

「───()()()()()()()()

 

 赤血の鎧はより禍々しく、凶相を形作る。狂戦士ベイリンが抱える憤怒が、失望が、見るも悍ましき魔人を作り上げていく。

 

「貴様の仲間とは円卓だけだったのか。否、王はいつも眉間に皺を寄せていたぞ。死に逝く兵を悼み、飢え苦しむ民を想い、心から血を流し続けた」

 

 ベイリンが知る騎士王とは、そういう存在だった。

 何もかも完璧にできる人間はいない。戦の度に犠牲は出る。国の何処かで人は死んでいく。全員に手を差し伸べることなんて、できるはずがない。

 だから、王は常に悲しんでいた。

 途絶えていく命を。

 己の無力さを。

 

「お前の目に人は写っているか、獅子王!! こうしている合間にも聖都の兵と民は傷付き倒れていくぞ! お前が私の王だと言うのなら、少しは悲しむ素振りでも見せてみろ!!」

 

 そんな人間だからこそ、支えたいと思った。差し伸べられた手を取った。人々のために、国のために心を砕いた王のことを忘れるなんてあり得ない。

 

「王は人間だ。人間だった。貴様の如く大上段から人間を見下ろす神が───人を守るための剣を振るえるものか!!」

 

 そうして、騎士は立ち上がった。

 殺意に塗れた凶相で、悲痛なまでの叫びを響かせて。

 アーラシュはその背を叩き、

 

「行けよ。俺が援護してやる」

 

 頷くが早いか、ベイリンは赤き雷と化して駆けた。

 その疾走を飾るのは無数の射撃。獅子王が光の槍を放つには、力を収束させなくてはならない。それは刹那の内に完了するが、迎撃と防御を一手で両立できないということでもある。

 ベイリンに対処するか、矢を撃ち落とすか。

 二者択一を迫られた獅子王が選んだのは、そのどちらでもなかった。

 

「愚かな」

 

 確かに光の槍は収束という過程が必要だ。だが、拡散させる場合は溜めた力を解放するだけで事足りる。

 ベイリンの突進を阻み、射撃を防ぐ一挙両得の手。もう一度、輝く熱波が玉座の間を埋め尽くす。

 白んだ視界が元の色を取り戻した時、双剣の騎士は獅子王の眼前に迫っていた。鎧に傷を走らせて、肉を焼き焦がして、それでもなお騎士は剣を手放さなかった。

 剛力が剣柄を握り潰す。ベイリンは満身の力を込めて、それを振り抜こうとして、

 

〝駄目だよ、剣はもっと丁寧に扱わないと〟

 

 いつかの言葉のままに、優しく刃を薙いだ。

 ぽたり、と床に血の雫が落ちる。それは獅子王の左頬に刻まれた赤い線から流れ落ちていた。

 続く太刀を槍の一突きで粉砕し、ベイリンを跳ね飛ばす。王は頬を拭い、視線を鋭く研いだ。

 

「───聖槍、抜錨」

 

 告げる言葉はない。

 聖槍を抜いた以上、敵は死ぬと確定していたから。

 純白の穂先に光り輝く星の光が集まる。遍く敵対者を焼き尽くす滅びの燐光。空間が絶叫し、軋みを立ててもまだ臨界には到達しない。

 

「オジマンディアスと撃ち合ってる最中でも使えるのかよ……!!」

 

 アーラシュは歯を軋ませた。

 聖槍とは最果ての塔の子機。権能を行使する操縦機に過ぎない。ならば、最果ての塔からの砲撃と聖槍の解放は両立して然るべきだ。

 問題はその範囲。山間の村で見た規模の一撃がここで生じるなら、その被害は計り知れない。Eチームがそのまま消し飛ぶことだってありえる。

 ベイリンはアーラシュの服の裾を縋るように掴む。

 

「アレに対抗できるのはお前の一射だけだ。頼めるか」

 

 それが何を意味するのか、知らぬベイリンではなかった。

 東方の大英雄アーラシュの宝具。

 自身の命と引き換えに放つ究極の一矢。

 ここで死ねと言うのに等しい懇願。英雄は爽やかに口角を吊り上げた。

 

「ああ、頼まれちゃあ仕方ねえ! 困った人を助けるのは英雄の得意技ってな、俺に任せておけ!!」

 

 アーラシュは短く息を吐き、矢を番えた。

 穿つは星。

 この世の収束を望む滅びの光星。

 人の力など及ぶべくもない、神の力による破滅。

 しかし、見よ、此処に立つは救世の勇者。

 相争う二つの国に国境を刻み、安寧をもたらした大英雄。

 2500kmの距離を飛翔し、大地を割ったその絶技は誰かを害するためでなく、人々を救うために使われた。

 なればこそ、彼は正しく英雄だった。

 犠牲にしたのは自分自身のみ。誰をも殺すことなく、誰をも悲しませることなく平和を実現した彼の偉業を後の世の人々は高らかに祝福した。

 その宝具は誇りだった。戦争に明け暮れた自分が、殺した敵の数ではなく助けた人の数を数えることができるから。

 それを使えと求められたならば、断る理由なんてない。

 だから、アーラシュは底抜けに爽やかな顔で笑った。

 かくして、二つの光が出揃った。

 片や万の軍勢を跡形もなく消滅させる光。

 片や万の人間に安らかな平和を与えた光。

 その衝突は、一瞬だった。

 

「『最果てにて輝ける槍(ロンゴミニアド)』」

「『流星一条(ステラ)』────ッ!!!」

 

 輝ける星の墜落。

 指が弓の弦を離れた側から勇者の体は瓦解していく。

 その顔は、最期まで笑みを崩してはいなかった。

 ────教えてやるよ。誰かを殺そうとする力よりも、誰かを救おうとする想いの方が強いってことを。

 極大の熱を撒き散らす恒星を、飛翔する流星が撃ち抜く。

 光の粒が宙に舞う。あれほど暴力的な魔力はいまや、世界を彩る装飾へと転じていた。

 

「…………貴公こそが、最高の弓手だ」

 

 獅子王は敵に賛辞を贈った。その左腕は黒く焼かれ、だらりと垂れ下がっている。流星は聖槍の一撃を貫くだけでなく、その先の獅子王に届いていたのだ。

 

「───だが」

 

 これで相手は聖槍に対抗する手段を失った。

 太陽王が砲撃を行おうが、戦局が集中した今、権能を分割しても対処できる。向かい来る双剣の騎士に先んじて、獅子王は魔力を紡ぎ上げる。

 誤算があるとすれば、それは。

 

「『入射角良し、出力全開! 最大戦速で突っ込みます!!』」

「『───フ。一手仕損じたな、獅子王!!』」

 

 決死の攻撃を仕掛けるのは、アーラシュだけではないということだった。

 天より落下する黄金の神殿。

 自身の加速と重力の相乗効果。

 導き出される威力はかつて恐竜を絶滅させた、天体の衝突と同等。

 最果ての塔と聖槍の分割・並列起動。神としての合理的な判断はこの瞬間、悪手に成り下がった。太陽王の特攻は片手間で防げるほど生易しくはない。

 純白と黄金が交錯する。発生した衝撃波が聖都を席巻し、空間を揺るがす大音量が天へと鳴り響いた。

 倒壊する王城。瓦礫の雨に紛れ、赤い鎧が落ちていく。

 

「私では、届かなかったか」

 

 ───マーリン。お前は今も、王を見ているのか?

 ベイリンとその弟ベイランは互いに血を分けた肉親であることに気付かずに戦った。その身に七つの致命傷を与え合う凄惨な殺し合い。

 

〝───その人の一番大切なモノを壊すことよ〟

 

 呪われた聖剣に定められた運命は、最も愛する者を手にかけるというものだった。湖の乙女が最期に残した呪いは騎士を悲劇へと追いやったのだ。

 それでも、救いがあるとすれば弟の死に顔を看取りながら逝けたことか。

 ベイリンは七つの致命傷を負った体でも、夜から明朝まで生き延びた。騎士が息を引き取った後、マーリンはベイリンが埋葬された墓を訪れた。

 マーリンは呪いの聖剣を引き取り、柄を取り替えた。これが後のギャラハッドの佩剣である。

 その墓にベイリンの名前は刻まれていなかった。騎士は埋葬を頼んだ司祭に弟の名前は教えたものの、自らの名前は語らなかったからだった。

 ───私のような呪われた騎士の名など、残らぬ方が良い。

 その想いは果たして伝わったのか。花の魔術師は双剣の騎士の塚に金文字でこう刻んだ。

 

〝嘆きの一撃を成した騎士、ベイリン・ル・サバージュここに眠る〟

 

 墜落の最中、ベイリンは目を伏せて唇を歪めた。

 

(…………それは余計なお節介だよ、マーリン)

 

 あいつはロクデナシだったが、悪い奴ではなかった。

 戦場を転々としていた自分を見つけてくれたのは彼で、聖槍の呪いによる被害から助けてくれたのも彼だ。その上、あんな贈り物などをされては、何を返せば良いか分からなくなる。

 全身を貫く衝撃。思わず意識が飛びかける。けれど痛みはない。痛みを感じられないほどの死の際に立っているのか。

 

(お前のように、私も何かを残せるかな)

 

 そこからどれくらいの時間が経ったのかは分からない。一瞬だった気がするし、長い眠りについていた気もする。

 声が聞こえる。耳元で騒ぎ立てる大きな声。幸せなあの頃、布団を剥ぎに来た父親のような、毎朝私を起こしに来てくれた弟のような、優しい声。

 薄く目を開き、その顔を確かめる。

 

「───おい、大丈夫か先輩! 生きてるよな!?」

 

 …………ああ、お前か。ペレアス。

 陽射しが眩しい。逆光に照らされた男の顔は焦燥と不安に満ちていた。

 慈しむように、その頬を撫でてやる。そして、もう一方の手でペレアスの剣を掴んだ。

 

「最期に見るのが、お前の顔で良かったよ」

「何言ってんだ、そんな傷くらいノアが治せる。オレたちで獅子王を倒すぞ」

「……そうだな。でも、違うんだ。お前の旅路の果てまで、私の想いも背負っていってほしい」

 

 ───何か、私に残せるものがあるとすれば。

 ずぐり、と掴んだ剣身で自分の心臓を貫く。ペレアスは青褪めて、

 

「何やってんだ馬鹿!? 自殺なんてするタマじゃねえだろ!!」

 

 鎧がほどけていく。ベイリンを覆っていた枷が外れていく。

 ばさり、と長い金の髪が踊る。切れ長の柳眉に赤い瞳。白磁のような白い肌にはその戦歴が見て取れる傷が残っていた。

 双剣の騎士は桜色の唇を吊り上げて、咲き誇る花のように微笑む。

 

「…………アンタ、もしかして、おん」

「ペレアス。私と弟の鎧をお前に託す」

 

 殺された者から殺した者へ乗り移る甲冑。

 ───今の私には、これくらいしか残せないけれど。

 

「だから───私たちも、連れて行ってくれ」

 

 その瞬間、ペレアスの表情は引き攣り、澄み渡った戦意と決意が表れた。

 

「分かった。オレの英雄譚(モノガタリ)を見てろ」

 

 …………うん、楽しみにしているよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 金色の風が吹く。

 空高く舞い上がっていく双剣の騎士の残滓。

 一面を覆い尽くす瓦礫の丘の上で、ついに獅子王とEチームは邂逅した。

 

「此処が、最果ての地だ。貴様達にとっても、私たちにとっても。全ての因縁に決着をつけよう」

 

 体の芯を突き刺す濃密な殺気。

 そんなものに怖気づく人間はここにはいない。大理石の塊を強く踏みつけながら、ノアは切り返した。

 

「初対面のくせにどこかで見たことがあるような顔しやがって、作画コストの削減でもしてんのか? ここで終わるのはおまえだ、ぶっ潰してやるよ三下が!!」

「その言い方だとこっちが三下です! でも、神様だろうが何だろうが負けるつもりはないですよ!!」

「そうね。そもそも神と戦うのも今更って感じですし、数が多い方が強い法則を知らないのかしら?」

「まあ、カルデア最強デミサーヴァントであるわたしにかかればどんな敵もワンパンですが。サクッと倒して終わらせてみせましょう!」

 

 マシュが地面を踏みしめたその時、背後からの声がそれを咎める。

 

「その言葉は、私を倒してから言ってもらいましょう」

 

 太陽の騎士ガウェイン。陽光の輝きを宿す騎士は聖剣を抜き、王の敵へ切っ先を差し向けた。

 獅子王と太陽の騎士。

 彼ら双璧こそが最後に立ちはだかる宿敵。

 ベイリンを看取ったペレアスはゆっくりと振り向く。呼応するように剣を構え、ガウェインを見据える。

 

「こっちはオレが受け持つ。べディヴィエール、王様はお前に任せた」

「…………承りました、ペレアス」

 

 円卓の騎士は背中を預け合う。

 べディヴィエール。その名前を聞いた獅子王は、眉を寄せた。

 

「そこな騎士はべディヴィエールと申すのか。その死に体で何ができる」

 

 場が糸を張り詰めたような緊張に包まれる。

 この特異点に円卓の騎士を召喚し、十字軍を打倒した獅子王。聖剣ならぬ聖槍を携えしアーサー王が、円卓の騎士たるべディヴィエールを忘れるなどということがあるのか。

 ダンテは言いづらそうに切り出す。

 

「そういえば、疑問だったのですが……なぜ獅子王はべディヴィエール卿を召喚しなかったのです? ペレアスさんやベイリン卿は円卓を追放されていたので理屈は通りますが、べディヴィエール卿は────」

 

 騎士王の最期を看取った、忠義の騎士ではないか。

 その続きは紡がれず。べディヴィエールはただ首肯した。

 

「お教えいたします、私の罪を」

 

 ───妖精郷には、人型の岩があった。

 アーサー王の最期。カムランの丘の戦いで命数を使い果たした王は、星の聖剣を湖の乙女に返還することを言い残した。

 その担い手はべディヴィエール。しかし彼は二度聖剣の返還をためらい、三度目にしてようやく湖の乙女に聖剣を手渡すこととなる。

 それが本来の筋書き。伝説や物語に記された、騎士の行いだ。

 

「ですが、私は三度目すらも躊躇った」

 

 聖剣の返還。それを三度果たせなかった騎士が戻った時、王はそこにいなかった。

 それで、気付いたのだ。

 王が最期に与えた使命を三度も裏切ったばかりに、王は妖精郷に辿り着くこと叶わず、現世を彷徨う亡霊になってしまったことに。

 星の聖剣には不老の加護があった。王を探すこと実に1500年、それでも在りし日の王は見つけられず、この世ならぬ妖精郷に着いた時には肉体も魂も朽ちていた。

 マーリンは言った。

 聖槍の女神と化した王を止めるには、今度こそ聖剣の返還を成し遂げるしかない────花の魔術師は星の聖剣をべディヴィエールの右腕に造り替え、この特異点へと送り出した。

 

「これが、私の全てです。自らの心の弱さ故に王を聖槍の女神に仕立て上げ、それを貴方がたに打ち明けることもしなかった」

「───……べディヴィエール」

 

 ガウェインは呆然とその名を呟いていた。獅子王に仕えたことに後悔はない。使命を遂げられなかった彼を責めるなど以ての外。

 言葉に込められていたのは、悪辣な運命への諦観。ペレアスは、それを笑い飛ばした。

 

「ハッ! マーリンの野郎もたまには粋なことをするじゃねえか! 何度失敗しても最後にはやり遂げるのが円卓の騎士だろ、そんな小せえことを気にすんな!!」

「ええ、ペレアス様の言う通りですわ! 三度も待ちぼうけを食らわされたお姉様が不憫ではありますが!」

「…………ペレアス────」

 

 べディヴィエールは唇を噛み締める。

 全ての悔恨を出し切り、騎士は澄んだ瞳で力強く頷く。

 ノアはそれを見届けて、ペレアスの横に立った。

 

「話は終わったな。ガウェインは俺とペレアスとアホ精霊で仕留める。おまえらは獅子王をやれ」

「リーダーもそっちに行くんですか?」

「不安か? 藤丸」

 

 立香はにこりと笑って、ノアの背中を軽く叩いた。

 

「いいえ! 私が言いたいのはしくじるなよってことだけです!」

「俺がしくじるなんて天地が引っくり返ってもありえねえな。三倍だろうが三億倍だろうが知ったことか。……おまえは死ぬなよ」

「はい! これで勝って終わらせましょう!」

 

 盤上に駒は出揃った。

 今、最果ての地にて最後の戦いが幕を開ける。



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第57話 最果ての王と円卓の騎士 後編

 

〝神よ、私の霊をあなたの御手に委ねます〟

 

 現代よりおよそ二千年前。その男が十字架に架けられたその時、私たちは神代が終わりゆくのを確信した。

 ヒトはヒトの手によって、自らの救いを切り捨てた。茨の王冠を被せ、その体を鞭打ち、罵詈雑言を吐き捨てた。それでも人類に救いがあるとすれば、その男がどこまでも自己犠牲を貫き通したことだろう。

 彼は人間が生まれながらにして背負う原罪を己の死と引き換えに持ち去った。アダムとイヴの失楽園から続く宿業に終止符を打ったのだ。

 ……それで、何が変わった訳でもないが。

 人間は人間を殺し、犯し、奪う。その性だけはいつまで経っても変わらない。おそらく人間が最後のひとりになるその日まで、殺戮の輪廻は止まらない。

 選定の剣を抜いた理想の王とて、その螺旋の一部分に過ぎなかった。

 神代の終わりを担う王。

 赤き竜の因子を宿す子。

 当時の私にとって彼女とはその程度の認識でしかなく、聖槍を始めとした聖遺物を与えたのもそうする必要があったからそうしただけだった。

 どうやら、私たち姉妹の考え方はそれぞれ少し違うらしい。最初に産まれた私は精霊としての感性が強く、リースは半々、末の妹は人間としての感性が勝るようだ。

 だから私にヒトを愛することはできなかった。できないものだと諦めていた。

 けれど。

 あの王は、私に美しいものを見せてくれた。

 純白の装束を纏い、ヴァージンロードをゆく花嫁。

 人と人ならざる者の恋は悲劇に終わるというのが筋だけれど、少なくとも今の彼女には輝かしい未来に祝福されていた。

 願わくば、彼女が選んだ人間と添い遂げられるように。潤んだ視界で、そう希った。

 

〝新婦リース。貴女は病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、妻として愛し敬い、慈しむことを誓いますか〟

〝はいっ! 何兆回でも誓いますわっ!〟

〝……新郎ペレアス。貴方は病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、夫として愛し敬い、慈しむことを誓いますか〟

〝ち、ちちちち誓います〟

 

 後で聞けば、それはランスロットやガウェイン、べディヴィエールが仕込んでいたことだった。義弟と妹のために神父役を王が務めていたのだ。

 ガウェインには罪悪感があったのだろう。古きケルトの末裔たるエタードに媚薬を盛られていたとはいえ、まあ、あんなことがあったのだから。……いや、うん、巻き込まれただけな気はするが、そこは仕方ないだろう。特に言うことはない。私はそういうことに興味がないから。ないと言ったらない。

 私が造り出した氷の塔。祝宴で騒ぎ立てる人間たちを、王は遠巻きから眺めていた。

 

〝……驚いたわ。あんなことをする王を見たのは初めてよ〟

〝部下の慶事を祝わぬ王が何処に居りましょうか。彼は未だ国が安定しない時期に、私の異民族との初戦を勝利に導いた功労者です。これくらいの報いは受けて然るべきです〟

 

 彼女は僅かに微笑んでいた。張り詰めた表情が弛緩しただけとも取れるが、それは確かに笑みのようなものに見えた。

 そうか。この人間は誰かの幸せで心を満たすことができるのか。

 

〝人の子は王冠を被ると変わってしまうわ。元の人格は関係ない。王冠の重さに押し潰されて、人は人でなく王という生き物になってしまう。あなたは今、どっちなのかしら〟

 

 意地悪な質問だと分かっていても、訊かずにはいられなかった。王冠がもたらす力が智者を愚者にしてしまうのを何度も見てきたから。

 ひとつの国の頂点に立つということ。その魔力は私が知るどんな魅了の魔術よりも質が悪く、抗い難い。

 

〝……分かりません。ただ、日に日に体の中を巡る血の温度が冷たくなっていくのを感じます。これがきっと王になるということなのでしょう〟

〝それじゃあ、あなたは───〟

〝ですが、私はそれが誇らしい。私は人のための王になりたい。そのためなら、この身が鉄となろうと、力を尽くしてみせます〟

〝…………それが、あなたの結論?〟

〝はい。先に、どんな運命が待ち受けていようと〟

 

 …………ああ、あなたは、悲しい人なのね。

 あの子の愛は広すぎる。誰にも平等に分け隔てなく注がれる愛など、神のそれと同じだ。そんなものを人間が持ってしまったなら、行き着く結末は見えている。

 あの子にとって王とは、自らを国を動かす機関とし、法と秩序を体現する存在だったのだろう。歯車に成り果てる前の王にはどこか、あったかもしれない別の未来の少女の姿が重なっていた。

 そして。白百合の少女が鋼鉄と化したのは、そう遠い日ではなかった。

 ───とある城壁。獣と人の境界を分かつ絶対防衛線。私は、満天の星空を見上げていた。夜の清涼な風が体を撫でる。纏められた二つの髪束がそよぎ、吐く息が空気に溶けていく。

 聖槍の鼓動が聞こえる。私にはあのロクデナシほどの千里眼はないけれど、槍の元々の所有者は私だ。その繋がりを辿れば、別の場所を覗くことくらいはできる。

 

「それでもまだ、違う結末を望めるのなら───」

 

 祈りを捧げよう。

 義弟のために。

 リースのために。

 そして、一等輝く星のために。

 

「───きっと、あなたたちは善い未来に辿り着けるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖都中心部。

 かつて絢爛を誇っていた王の城は見る影もなく崩壊していた。戦場の喧騒は既に絶えている。赤き竜の咆哮により、大半の兵が魂を砕かれたためである。

 もはや軍勢の激突はない。必然的にこの特異点の決着は二つの戦場に委ねられた。

 聖槍の女神、そして太陽の騎士ガウェイン。かつて騎士王だったモノと、王に無上の忠誠を捧げた騎士。諦観された理想を成し遂げんとする主従は、聖槍聖剣を携え敵を望む。

 最果ての地における最後の決闘。湖の乙女の加護を受けた騎士ペレアスとそのマスターは、聖都に残された最後の円卓の騎士に向かい合う。

 

「ノア、ファヴニールと戦う前に話したこと覚えてるか」

「竜殺しはガウェインやランスロットに並ぶ武功っつう話だろ。それがどうした」

「もしオレがガウェインに勝ったらどうなる?」

 

 ペレアスは好戦的に口角を吊り上げた。仲間を手にかけることを躊躇することはない。各々の立場の違いがあるし、一度殺し殺された程度で変化する関係性でもないからだ。

 ノアはぶっきらぼうに返した。

 

「別に」

「おい、おい」

 

 臨戦態勢のガウェインを他所に、二人は顔を突き合わせる。

 

「マロリー版によるとおまえはガウェインより強いんだろ。むしろ勝つのが普通だろうが。ああ、もしかして負けるかもとか心配してんのか? 随分小せえ性根してんだな」

「はあ!? 誰がそんなこと言った、やる前から負けることを考えるアホがいるか!」

「おまえ」

「ガウェインより先にぶっ倒してやろうか?」

「あの、お二人とも。敵前ですわよ?」

 

 碧と蒼の視線がバチバチと火花を散らす。良い年した大人が睨み合うその様は、ガウェインを置き去りにして殴り合いを始めかねない殺気を放っていた。

 止めるべきか否か。湖の乙女が居心地の悪い気分を味わっていると、くすりと小さな笑い声が重なって響く。

 その発生源はノアとペレアス。彼らは弾かれたように向き直り、同じ敵を視界に収める。そこに直前までの刺々しい雰囲気はなかった。

 湖の乙女は胸を撫で下ろす。これは要はいつものじゃれ合いだ。太陽の騎士を相手にしても、二人の振る舞いは全く変わっていない。

 

「負ける気なんざ微塵もねえ。オレとお前が揃って勝てない奴が今までにいたか?」

「これからもいる訳ねえだろ。まあ、ほとんど俺の手柄だがな。おまえは俺のおこぼれに甘んじてろ」

「そりゃお前の方だろうが。何なら後ろで見てるだけでもいいぞ、マスターらしくな」

「ナメんな。俺を誰だと思ってんだ?」

 

 そんなことは言われなくても知っている。カルデア最強というふざけた自称。これまでは否定していたし、これからだって納得することはないだろう。

 だが、今この時だけは。

 

「……だったらオレは、カルデア最強セイバーってところか?」

「俺のサーヴァントならそうであって当然だ。()()()()()()()()()()()()ぞ」

 

 令呪の光が解き放たれる。自らの従者に捧げる、マスターが持ち得る最終手段。虎の子の三画は全て、その一言に費やされた。

 同時に、紅き甲冑がペレアスを覆う。

 それはベイリンとベイラン、そして名も無き戦士たちの想念が継承された鎧。その形に以前の禍々しさはない。流麗な曲線で構成された騎士の戦装束だ。

 主従は力強く拳を合わせ、

 

 

 

「「行くぞ─────相棒」」

 

 

 

 ───弾丸の如く、走り出す。

 真紅の砲弾が迫り来る。その初速は日輪を負いしガウェインにすら驚異的。令呪と鎧により、ペレアスは目覚ましい進化を遂げていた。

 ガウェインは思わず目を細めた。戦場においてそれがどれほどの愚行であるかなど百も承知だ。が、太陽を肉眼で捉えた時のようにそうしなくてはいられない。

 太陽よりも輝くものが、そこにあったから。

 

(眩しいですね、貴方たちは)

 

 きっと彼らは多くのものを背負っているのだろう。自分の命、全存在を獅子王に捧げたガウェインが背負うのはただひとつ、王への果たされなかった忠誠のみ。数では及ぶべくもない。

 その道が愚かだと分かっていながらも、太陽の騎士は剣を執ることを選んだ。無数の人間の命よりも、王への忠誠を取ったのだ。

 故に。背負う想いの数で負けていようと、懸ける想いの重さで負けるつもりはない────!!

 

「おおおおおっ!!」

 

 魔剣と聖剣が交差する。

 神殺しの魔剣と太陽の聖剣の衝突は互角。

 みしりと両腕の感覚が吹き飛ぶ。ペレアスとガウェインはそれを意に介さず、次撃を放つ。

 言葉は要らない。

 互いの正しさはもう伝わった。

 これは相手に理解を求める馴れ合いではなく、自分の正義で敵をねじ伏せる戦いだ。そこに感傷や同情は存在しない。

 力が全てを決する場。野蛮と罵られようが、前時代的とそしられようが、それが今も変わりない戦場の真理だ。

 剣戟が折り重なる。蒼天に響き渡る刃鳴り。一合ごとに激しさを増す剣舞は静謐の空気を纏っているようですらあった。

 騎士たちは想いの丈を己が剣に注ぎ込み、一刀を叩きつける。

 この状況は令呪の強化があるからこその拮抗だ。令呪の効果は単純に膨大な魔力による強化だけではない。マスターからサーヴァントへの召命を兼ねた、概念的な存在の昇華だ。英霊の強化手段として、令呪ほど効果的なものはないだろう。

 望むのは短期決戦。拮抗した天秤をこちらへと傾け、勝利へ導く───その役割を担うのはマスターの仕事だ。

 

(つまり)

 

 全身の魔術回路が励起する。

 人間という生物を、魔術を成すための機関へと造り変える。

 魔術回路を起動するイメージというのは人によって異なる。撃鉄を落とすような感覚もあれば、心臓をナイフで刺す感覚もある。ノアのそれは極寒の吹雪に足を踏み入れる感覚であった。

 手先が凍りつき、体を駆け巡る血潮が冷えていく。

 なれど、心は中天の日輪よりもなお熱く。

 

「俺が、ブッ壊す」

 

 天秤を傾ける、などと生易しいことをするつもりはない。

 ───騎士は騎士の戦いをしていろ。おまえらは所詮俺の脇役、主役の戦い方を教えてやる。

 刃を重ねる騎士たちの横に飛び出す。魔力を手の平に束ね、振り払う。

 

「『Wild』」

 

 白き光が炸裂する。騎士の戦いに水を差す、魔術師の一撃。自身のサーヴァントをも巻き込む爆発に対して、二人の騎士が取った行動は真逆だった。

 ガウェインは退き。

 ペレアスは前進する。

 光を裂く真紅の騎士と神殺しの刃。空を滑る白刃が、太陽の騎士の頬を掠める。紅き甲冑は爆破から着装者を無傷で守り抜き、一刀を浴びせるに至ったのだ。

 ノアは顔をしかめて舌打ちする。

 足りない。この程度では。

 今のは勝負にさざ波を起こしただけだ。そんなことでは、勝敗を決する天秤を破壊するには至らない。

 魔術師の原点に立ち帰れ。

 力を力として振るうだけならば、誰でもできる。遥かな過去、人間が人間となる以前、火を火としてしか扱えなかったように。

 人間ならば火を用いて鉄を鍛え、鋭き鋼としてみせろ。自分が持つ力を自覚しないままに扱うのは、知恵無き獣と変わらぬ蛮行だ。

 そのために必要なことはもう、分かっていた。

 ───最初に壊すのは、自分自身だ。

 縛られた思考からは自由な発想は産まれない。コペルニクスがプトレマイオスの宇宙観を脱して不動の地面を動かしたように、解き放たれた発想は常識を破壊する。

 魔術師ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドを縛る鎖とは、

 

〝すごいじゃないですか、投影魔術! エクスカリバーは無理にしても、かなり汎用性がありそうですよね〟

〝そんなことはない。効率の悪さが尋常じゃない上にどんなに長くても数分で霧散する。あんなもんを好んで使うやつはただの馬鹿か大馬鹿だ〟

 

 いつか、立香に語ったその言葉だった。

 

「……クソ。馬鹿は俺か」

 

 その常識を作ったのは何処の誰だ。

 何処かの誰かの常識に囚われていたのは自分だ。

 そして、閃いた。

 パラケルススとの魔術戦で生み出した高速詠唱術よりも、遥かに鮮烈かつ劇的な進化を。

 全神経全細胞を駆け抜ける稲妻。

 その場の誰も気付かぬほど密やかに。

 超常の才能が蕾を割り、花開く。

 

 

 

 

 

 

「────投影(トレース)開始(オン)

 

 

 

 

 

 

 脳髄から可能性を引きずり出す。

 たとえ一度も見たことのないモノでも。

 ───構成材質、想定。

 自身が抱く理想をカタチにする。

 それが魔術の本質であり、ヒトの可能性。

 ───無属性魔術、並列起動。

 この世ならざるモノを創る無属性魔術と、オリジナルの贋作を物質化させる投影魔術。その混成。それは自身が有する才能の本質の一端を、ノア自身に知らしめた。

 ───構成材質、創造。

 魔力が幾何学模様を描き、形作るのは黄金の腕輪。魔術師の両手首に顕れた金の輪は、淡く発光していた。

 

工程完了(ロールアウト)────『無限を象る黄金(ドラウプニル)』!!」

 

 それなるは北欧の主神オーディンが擁する神具。

 九つの夜を経るたびに、八つの同じ重さの腕輪を滴らせると言われる無尽の金。かつて闇の妖精ドヴェルグの兄弟が鍛造したソレを、ノアは現世に再現したのだ。

 斬り結んでいたガウェインとペレアスは脳の片隅でその光景を捉える。唯一彼を注視できていたのは、湖の乙女。人ならざる精霊は驚愕とともに呟く。

 

「……人の子の進歩は、目覚ましいですわね」

 

 奇しくも、ノアの脳内に響いた声はそれとは正反対の内容だった。

 

〝……バルデルス。白き神の名を冠するお前が、穢れ多き人間のようなことをするな〟

 

 かつての言葉を砕くように、地面を踏みしめる。額に青筋が立ち、冷えていた脳みそに煮え滾る血が昇る。

 バルデルス、つまりはバルドル。ヤドリギに射抜かれた不死の神は葬儀の際、父オーディンからドラウプニルを贈られた。その後、冥府のバルドルはオーディンに腕輪を返還するものの、不死の神もまたドラウプニルの所有者であったのだ。

 だからこそ、その神の名を継ぐ魔術師は黄金の腕輪を投影できた。

 

「うるせえな、クソ野郎……!! どうせテメエに付けられた名前なら、とことんまで使い倒してやらァ!!」

 

 それは原典ならぬ贋作。

 しかし。

 誰かが言ったのだ。

 偽物が本物に敵わないなんて道理はない、と。

 

「投影、『必勝の剣(フレイ・ヴェルンド)』」

 

 どぷん、と右の腕輪が波打つ。

 平たく細い黄金はやにわに変化し、一振りの剣を生じる。

 晴天の煌めきを宿すその剣はひとりでに震え、太陽の騎士へと飛翔する。剣戟の隙間を掻い潜る刺突。灼熱の聖剣はそれを強烈に弾き返す。

 中空に踊る晴天の剣。だが、その剣はくるりと向きを変えると、ガウェインの左肩に一閃を見舞った。

 

「ぐっ……!?」

 

 鈍痛が走る。身に装う白銀の鎧が軋みを上げる。剣は太陽の加護を受けた騎士を切断してはいなかった。万全であれば聖槍の一撃にも耐え得る彼の命を断つには力不足だ。

 けれど、恐ろしいのは剣の性質。一度弾いたにも関わらず、あの剣はガウェインを追尾した。物理攻撃故に、高い対魔力も意味をなさない。

 ペレアスとの戦いに注力していたガウェインにとって、それはこの上ない脅威だ。目の前の敵と打ち合いながら、死角から飛来する斬撃をも防がねばならないのだから。

 マスターの覚醒を目の当たりにし、ペレアスは紅い兜の下で笑った。

 

「ようやく調子が出てきたじゃねえか。どうだガウェイン、やるだろアイツは! 性格はゴミ溜めの底みてえな奴だがな!!」

「ええ、認めましょう。私は今まで侮っていました。彼は脅威です」

「だったら目ぇひん剥いとけ! 俺はペレアスごとぶっ飛ばしても構わねえからなァ!!」

「ふざけろアホマスター!!」

 

 晴天の剣が奪い取った間隙。ペレアスは相手を斬り伏せるべく、剣を大振りに薙いだ。

 太陽の騎士はそれを辛くも受け止めるとともに、衝撃を利用して後方へ跳び去る。

 間合いが開く。ガウェインは着地直後、深く腰を沈めて聖剣を構えた。

 ペレアスは瞬時に相手の意図を理解する。間合いを空けたのは立て直すためではない。ノアと自分を一手で殲滅するために距離を取ったのだ。

 

「ノア!!」

 

 その一言で、主従の意思は重なった。

 ノアの左腕に残された腕輪が液状化する。

 そこからは、同時だった。

 

「『転輪する勝利の剣(エクスカリバー・ガラティーン)』!!」

「投影、『凍結の盾(スヴェル)』!!」

 

 燃え盛る炎の一閃。

 それはまさしく曙光の輝き。

 陽の欠片が地上に墜落したかの如き紅炎の波濤が地を焦がす。

 その前にはだかるのは一枚の盾。雪の結晶の意匠が彫られた氷の盾であった。

 スヴェル。語義は『冷やすもの』。オーディンの別名、グリームニルの歌にて、その盾はこう語られている。

 

〝輝く神、太陽の前に、さえぎり立つ楯はスヴェルという。それが落ちれば山も波も燃えねばならぬことをわしは知っている〟

 

 太陽の火と熱から、地上を守る盾。

 これは単純な攻撃力と耐久力の競い合いではなく、相性の問題だ。ならば、太陽の聖剣と凍結の盾の激突がもたらす行く末は決定していた。

 ガウェインとペレアスを分かつ、黒白のコントラスト。前者は焼けた大地に、後者は霜が降りた地面に立つ。

 スヴェルの盾は役目を終えて霧散する。いくつもの氷粒がノアの左手首に舞い戻り、腕輪の姿に変わる。

 

「単なる腕輪の形態変化ではない……北欧の神々が持つ道具を再現する。それが貴方の魔術の正体ですか」

「さあな。そこら辺の雑魚ならともかく、おまえに手の内を晒すとでも思ったか。ということでペレアス、俺の魔術講座を聞いていけ」

「遠回しにオレがそこら辺の雑魚って言ってるだろそれ!? おまえのうんちくなんか聞いてられるか!!」

 

 そのやり取りを見て、ガウェインは頬を緩めた。

 

「……ペレアス。貴方は、変わりませんね」

「流石はガウェイン卿。敵ながらあっぱれですわ。ペレアス様の魅力はたとえ何万年何億年経とうが色褪せないものなのですっ!」

「進歩のない地味男ってことだろ」

「お前は余計なことしか言えねえのか!?」

 

 ペレアスは突撃する。その姿はまるで何かから逃げるようだった。が、彼は騎士だ。意味なく攻めることはしない。

 ガウェインの背後に晴天の剣が忍び寄る。自動的に敵を追尾するフレイ神の剣に合わせて、ペレアスは魔剣を振るう。

 前後の挟撃。太陽の騎士は魔剣を聖剣で受けるとともに、腰から一本の帯を引き抜いた。

 苔むした緑の帯。それはかつて、魔女モルガンに呪われた騎士ベルシラックより贈られた礼装であった。その帯は蛇の如くフレイの剣に絡みつき、地面に縫い止める。

 

投影(トレース)解除(オフ)

 

 所有者に降りかかる災難を排する、緑の騎士の帯。それに絡めとられたのを見て、ノアは即座に剣の投影を解除した。

 しゃりん、と右手首に腕輪が戻る。

 やはり不完全。この魔術は発展途上。本物のフレイ神の剣ならば、いくら頑丈なガウェインと言えど一太刀で切断してみせただろう。

 元より、人間のイメージとは不安定で不完全だ。抽象を具象とする投影魔術に必要なのは、何よりも揺るがぬ想像力。滅多に扱うことのない魔術故に、練度が足りていないのだ。

 しかし、それはそれでやりようはある。

 ドラウプニルはフレイの金猪グリンブルスティとトールの鎚ミョルニルと一緒に創り出された。その製作者はドヴェルグという妖精の種族である。

 基本的に、北欧神話の神はその神性の象徴たる道具を己の手で創り出すことはしない。主神オーディンの槍でさえも、ドヴェルグが製造したモノである。

 つまり、北欧世界において神性を表す道具とは所有者を変えて当然なのだ。だからこそ、ノアは北欧神話の武具を贋作なれど投影することができる。無論、それは無属性魔術という要素があってのものだが。

 どうせ、それが原典に至らぬのなら。

 自らが思うままに、解釈するままに、作り変えてしまえばいい。

 

「ペレアス、次で決めるぞ。いい加減そいつをぶった斬れ!」

「言われなくてもやってやるよ───!!」

 

 ノアが術式を構築するまでの間。

 ペレアスとガウェインは幾度となく続けた剣舞を再開した。

 交わる魔剣と聖剣の閃き。両者の剣閃はまるで対象的だった。直線的な剛剣を放つガウェインと、それを曲線で絡め取るペレアス。

 喩えるならそれは、澄み切った水面を雷が穿つようなものだ。圧倒的な速度と威力の剣を、水はその表面だけで受け流す。

 湖の乙女とラモラックに教わった技の粋を完全に我が物とするその剣技は、ガウェインには見覚えのないものだった。

 相手の生きた跡が言葉を交わさずとも伝わる。

 ───私の分まで、貴方は生きてください。

 別れの間際、太陽の騎士は仲間にそう告げた。

 ペレアスは、その約束を確かに果たしたのだ。

 互いの剣が互いの五体を掠める。飛び散る鮮血。肉を裂く痛み。その時、ガウェインの想いが溢れ出した。

 

「私は、負ける訳にはいかない! 王を滅ぼしたのは私だ、私怨に囚われたが故に、私は王を殺した……!!」

 

 王はランスロットを赦した。妃を奪い、仲間を斬り殺した男に慈悲を示した。王の騎士たるならば、自分はその時点で全ての怨恨を捨てなければならなかった。

 だというのに、騎士は恨みを捨て去ること叶わず。カムランの丘に駆けつけようとしたランスロットの援軍を拒み続け、最期は彼から受けた古傷を打たれて死んだ。

 もし、あの時、ランスロットとともに戦えていたなら。

 王は、永き眠りにつくことはなかったのかもしれない。

 瞬間、ペレアスの左拳がガウェインの顔面を殴り飛ばす。真紅の騎士は兜を横合いに投げ捨て、汗に濡れた髪を掻き上げた。

 

「うるせえええええッ!! 何もかも自分のせいにすれば丸く収まるとでも思ってんのか若造が!! 仮にお前が悪かったとしても、お前を排除すれば上手く行くなんて風に出来てねえんだよ! なんたってこの世界は生身の人間が集まってできたもんだからな!! 言っとくが異論は認めねえぞ、ジジイの意見には素直に頷いとけ!!」

 

 どろり、と頬の内側から血が滲む。ガウェインはそれを飲み込みもせずに言い返す。

 

「人が人であるが故に王が滅びたというのなら……それでも私の考えは変わらない! 私は今度こそ、忠実な王の右腕として在り続ける!!」

「───お前が仕えてたのは、人間の王様だろ」

 

 胸を突き刺す言葉。喉元で声が詰まり、飲み込むのを待たずしてペレアスは言う。

 

「獅子王に仕えるのが悪いとは言わない。実際、オレたち(カルデア)の存在がなかったら最善手ではあるからな。だが現実はそうじゃねえ。魔術王っつう元凶がいて、そいつを倒せば人理焼却は丸く収まるらしい。…………だったら、騎士王と円卓がやることはひとつだろ」

 

 術式の構築が完了する。

 戦場の空気を塗り潰す気配。

 己のマスターを背に、サーヴァントは剣を握り直した。

 

「全員で力を合わせてソロモン王モドキを倒す!! オレが憧れた王様ならそう言ったはずだ、あのめちゃくちゃかっこいいエクスカリバーを携えてな! お前は円卓の騎士だろ、悪役なんざこれっぽっちも似合ってねえんだよ!!!」

 

 そして、最後の攻防が始まる。

 大気が鳴動する。

 大地が身震いする。

 右の腕輪が光の粒と化して散りばめられる。

 それは、ノアトゥールが現在行使できる魔術の中で最大最強。

 本来、魔術には派手な見た目も過剰な攻撃力も必要ない。ひた隠しにする神秘が露わになる可能性が高く、自らの破滅を招きかねないからだ。

 故にナンセンス。最大も最強も魔術師にとっては余計な修飾語でしかなく、自分の技はただ最高でさえあれば良い。

 だがしかし、特異点という場所であればそれは異なる。ましてや、相手がサーヴァントならばそれは尚更だ。神秘の露呈を心配することもなく、敵が人知を超えた英雄であるならば、最大や最強はこれ以上ない意味を持つ。

 無属性魔術と投影魔術の協奏。無色透明の魔力を有するノアだけが叶えられる絶技。異なる魔術の合わせ技を、かつてパラケルススは止揚魔術(サブレイトマジック)と名付けた。

 手法はとうの昔にできていた。それを使って、どう材料を料理するのかは魔術師の意向が左右する。

 

投影開始(トレースオン)────『炎星の首飾り(ブリーシンガメン)』」

 

 中空に輝く七つの蒼き恒星。

 それは豊穣の女神フレイヤでさえも魅了した首飾り。フレイヤはこれを手に入れるためにドヴェルグと一夜を共にし、オーディンの怒りに触れた。ベオウルフの物語を含めていくつかの文献に名を残すこの首飾りは、マクガフィンとしての役割を脱しきれてはいない。

 その語義は(ブリーシンガ)装飾品(メン)。美しき首輪は今此処に、敵を穿つ炎の星となって現れた。

 否、ノアの発想はそれだけには留まらない。彼は左の腕輪を解放する。

 

「『無限を象る黄金(ドラウプニル)』」

 

 告げられた一言は短く。

 拡大解釈と自己解釈の極み。九夜ごとに八つの複製品を滴る黄金の腕輪は、魔術師の意のままに歪んだ特性を行使した。

 

「…………ッ!」

 

 太陽の騎士は息を呑む。

 爽やかな青空を蒼き炎の光が暴力的に塗り替える。

 視線の先には、数十もの恒星が浮かんでいた。

 すなわち。

 ノアトゥールのドラウプニルは。

 ()()()()使()()()()()()()()()()()───!!

 

「────行け、ペレアス!!」

 

 計六十三個の首飾りが一斉に墜落する。

 流星雨を征くは真紅の騎士。

 理想の影を背負い続ける太陽の騎士を斬るため、彗星の絨毯爆撃へと身を投じる。

 ガウェインを倒すにはこれくらいはしてもらわねば困る。何より、自分のマスターであるならば当然だ。

 

「『転輪する勝利の剣(エクスカリバー・ガラティーン)』……!!!」

 

 炎の斬撃が放たれる。

 流星雨から自身を守ると同時に、ペレアスを排除するための一手。中天の輝きを宿した炎の刃は、太陽の騎士に定められた限界をも超越していた。

 星の聖剣にも匹敵する一刀を前にしてもなお、真紅の騎士は歩みを止めることはなく。

 ただ、一生を誓った伴侶にその命を委ねた。

 

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』!!」

 

 降り注ぐ流星群、擬似太陽の刃、それら一切が無為。

 長い人生を経て、騎士ペレアスが掴んだたったひとつの宝具。湖の乙女の祈りこそが、あらゆる害悪を退ける加護となる。

 ガウェインは流星を打ち落としながら、奥歯を噛み締めた。

 今更驚きはない。切り札があることは想定していた。ならば今、最も警戒すべきは眼前に迫るペレアスだ。

 炸裂する炎星。体を焼く熱と光。並のサーヴァントなら直撃せずとも消滅しているはずの爆撃を、太陽の騎士は幾度も耐え抜く。

 それこそがガウェインの覚悟。サーヴァントとしては規格外の存在を誇る騎士は、迫り来る真紅を見据えた。

 

「ペレアス────!!」

「ガウェイン────!!」

 

 互いの名を呼び、騎士は剣を振りかざす。

 一瞬にも満たぬ刹那、ふと、思った。

 ───私は一体、何のために剣を振るっているのか。

 

(否。無論、王のためだ)

 

 だとしても、その剣を手繰るのはまさしく自分自身だ。

 私怨に囚われ、王を破滅の道へと引きずり込んだ人間。聖剣を持とうとも、絢爛なる加護で装うとも、その本性までをも取り繕えるはずがない。

 ラモラックを討った時もそうだった。母との不義を成した騎士。王に仇なす魔女と円卓の騎士が契るという禁忌を犯した男を、兄弟とともに手にかけた。

 ランスロットと戦った時も同じ。アグラヴェインとガヘリス、ガレスを殺され、ただ憤怒と憎悪のままに剣を振るった。

 全ては王のために。

 自分の行動が何もかも王に忠実であったなら、きっと。

 時計の針を逆に戻すことはできない。

 都合良くやり直すことなんてできない。

 それでも。

 そうなのだとしても。

 あの時、あの日、王はいつも何を想っていたのだろうか。

 …………私は、そんなことすらも知らない。

 そして、騎士は見る。

 

「『運命絶す(ミストルティン)─────」

 

 太陽よりもなお眩しい、黄金の輝きを。

 

「─────神滅の魔剣(ミミングス)』!!」

 

 鮮血の華が咲く。

 その勝負に偽りはなく。

 故に、この結果に嘘はない。

 剣が指の隙間からこぼれていく。この世で誰に対しても平等な結末、死。神殺しの魔剣もまた、生物・無生物の区別なく終わりを与える。

 だけど、その一撃はどこまでも清純で。

 ちょうど、今日の青空みたいに綺麗だった。

 崩れ落ちる騎士の体を、ペレアスは柔らかく受け止める。

 

「人を守るための剣───貴方は、手に入れることができたのですね」

「そんな大層なモノじゃない。現に、こうしてお前を殺すことしかできなかった」

「それでも、私は確かに貴方の剣に見ました。星の聖剣の如き、黄金の輝きを」

 

 ぽつり、ぽつりと心の雫を滴り落とす。

 

「多分、オレたちに足りなかったのは、人間としての王様を見てやることだった。せめて、あの人に何か、王として以外の関係を結べる相手がいたら…………」

「良いのです。結局、私たちは王と騎士でしかなかった。誰もが王の真意を慮るだけで、直接問うことはできなかった。私たちの最大の罪は────あの人の人格を蔑ろにしてしまったことでしょう」

 

 でも、騎士王は人間としての自分を削り取ることでしか、あの国を護れなかった。

 そんなことは分かっていて。

 ガウェインは縋るようにペレアスの肩を掴む。その力は、痛々しいほどに弱かった。

 血を吐き、震えた声で告げる。

 ───ああ、こんなことは言ってはいけないと、知っているのに。

 

「私は貴方に最期まで王のために戦ってほしかった……!! 王命に背いてでも、あの丘に来てほしかった……!! そうしたら、あるいはっ!」

 

 あの戦いにペレアスが駆け付けたとしても、王は喜ばなかっただろう。

 人並みの幸せを手に入れられた男が再び殺し合いの輪廻に戻るなど、あの心優しい人は決して許してくれない。

 だから、溢れ出した言葉と涙は、騎士ではなく人間としての本音だった。

 ペレアスは血が染みるほどに唇を噛み、

 

「────子どもがいたんだ。言い訳はしない。オレは王よりも、国よりも、家族を選んだ」

 

 その後の人生で、王と仲間を想わぬ日はなかった。

 あの時代の記憶は数十年の年月でさえも色褪せることはなく。

 もし、何かが違っていたら。

 もし、誰かが死んでいなかったら。

 そんな考えを数え切れないほど繰り返した。

 けれど、その傷に苛まれることはあっても、抱えきれない幸せに包まれた人生を送ることができたのは間違いなく。

 

「あの時、お前は言っただろ。自分の分まで生きろってな。…………お前のおかげで、オレは最高の人生を最高の死に方で終えられた」

 

 でも、と彼は翻す。

 

「今生のオレは一味違う! 二者択一なんてクソくらえだ! 魔術王っつう分かりやすい悪役をぶっ飛ばして、世界を救ってやる!!」

 

 死に逝く騎士に、ペレアスは優しく告げる。

 

「────だから、今度は、みんなのための英雄になってみせるよ」

 

 それは、ペレアスからガウェインへの誓い。

 曇りなき決意の眼に、騎士はただ、微笑みを返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 王はなぜ、聖剣の返還を望んだのか。

 英雄とは得てして、その使命から逃れられぬ運命にある。人ならざる力を振るい人を殺すという罪過の代償を、英雄は自らの運命で支払わなければならない。

 サーヴァントにそれぞれ宝具があるように、ある英霊にとって武具とは己の存在に欠かせない。騎士王を騎士王足らしめる武具とは他でもなく、湖の乙女より貰い受けた星の聖剣であった。

 王はその剣で数え切れない戦果を打ち立て、王国を造り上げた。あらゆる流血と屍でできた道の末に、絢爛なるキャメロットは現れたのだ。

 英雄を英雄足らしめるのが武具であり、王を王足らしめるのが星の聖剣だとするならば。

 モルガンの手によって聖剣の鞘を失ったその時、英雄たる騎士王はその半身を削り落とされたに等しかった。

 それこそが破滅の始まり。

 ロキが盲目の神を唆し、バルドルを射殺させたように。

 王国は、悲劇へと転がり落ちていく。

 ────だが、最期の願いだけは、陛下御自らが望まれたことだった。

 湖の乙女への聖剣返還。それだけは奪われるでも盗まれるでもなく、王自身が最後の臣下に命じたことだった。

 だというのなら。

 王は聖剣を還すことで王たる自分に決別し。

 人間としての死を迎えたかったのではないだろうか。

 それは果たせなかった四度目の望み。

 べディヴィエールをべディヴィエール足らしめる、最後の使命。

 王命を果たした時、今度こそ。

 彼は、確実に、此処で命を終える。

 

「五つの特異点を乗り越え、よくぞ我が御前に辿り着いた」

 

 獅子王はあくまで傲岸に、不遜に、言ってみせた。

 

「しかし、その旅路も幕引きだ。世界は最果ての塔に収束し、何者にも侵されぬ純白の聖都が顕現する」

 

 聖槍に光が集まる。

 あらゆる敵を撃滅する聖なる槍は、一瞬の内に臨戦態勢を整えた。その行為に殺意はない。なぜなら、人を選別し続けた女神にとって人を殺すということは取り立てて意識するべくもないからだ。

 ジャンヌは嘲るように鼻を鳴らして、旗の穂先を突きつけた。

 

「その聖都はこんなにボロボロになってますけど? 私たち程度にやられるなんて、案外脆いのね。虚飾の城ごと燃え落ちなさい、獅子王!」

 

 立香とマシュ、ダンテは湿度の高い目つきでジャンヌを見る。

 

「ジャンヌさん、その言い方だとわたしたちが悪役になります」

「久々に竜の魔女モードのジャンヌを見た気がする」

「べディヴィエールさん、主君を侮辱したこと、私が代わりに謝ります。ジャンヌさんはツンデレなだけなのです」

「…………アンタら三人は後で絶対に火炙りにするわ」

 

 べディヴィエールは走り出した直後に襟を引っ掴まれた気分になる。短い付き合いではあるが、彼女たちがこういう人間だとは理解していた。まさかそれを獅子王の前でもやるとは思っていなかったが。

 張り詰めた空気が和らぐ。ロマンは口をもごもごとさせながら、

 

「『すみません、こういう人たちなんです。彼らなりのルーティーンというか……』」

「い、いえ。大丈夫です。おかげで冷静になれました」

 

 そうだ。獅子王は激情に身を任せる戦いが通用する相手じゃない。ここで終わる命ならば、毅然と挑むのが王に対する礼儀というものだ。

 王の瞳に碧き光が灯る。

 その色に慈悲はなく。

 長き時の中、懐き続けた理想の残骸だけが煌々とした残光を放っていた。

 

「もはや、この場を決するのは力のみ。我が理想(ユメ)を否定するというのならば───それに足る力を示してみせよ」

 

 虚空を穿つ、聖槍の刺突。

 その速度は人知を超えた光速。

 放たれし光槍は空間を刳り貫き、両者の間合いを埋め尽くした。

 しかし、煌めく切っ先は円盾の前に砕け散る。英雄たちの誇り、円卓の盾を担いし少女は光速の刺突から仲間たちを守り抜いてみせたのだ。

 マシュは一筋の冷や汗を流し、気丈に白い歯を覗かせる。

 

「ふ───遅すぎてあくびが出ますね! 拍子抜けです! これくらいなら好物を目の前にした先輩の手の方が速いですが……!?」

「……舌がよく回る。余裕を装うのは自由だが、道化師に私は倒せぬぞ」

「倒す? 何を言っているのです、獅子王。これはあなたの目を覚ますための戦い、倒すつもりなんて毛頭ありません!」

 

 続けて五撃。数を増した光条はしかし、その全てが前回と同じ結末を辿る。

 辺りを弱々しく照らす光槍の欠片。その中に在りし盾は揺るぎなくはだかっていた。

 獅子王の冷徹な思考はひとつの事実を手繰り寄せた。これは偶然ではない。一度ならともかく、あの少女は五度に渡る連撃を完璧にいなしてみせた。

 ベイリンさえも躱せなかった一撃を、なぜ。

 果たして、聖槍の女神が答えに至ることはない。

 否、分かるはずがなかった。

 

「───ジャンヌ!」

「ええ、ようやくぶっ放せるわ!!」

 

 周囲に満ちる熱気。その根源はただひとり、竜の魔女ジャンヌ・ダルク。彼女がその炎に込めるのは憤怒でも憎悪でもなく、純粋な感情だった。

 

(ようやく、憂さ晴らしができるわね……!!)

 

 その感情の名は苛立ち。鬱憤と言い換えても良い。

 いい加減、我慢の限界だ。円卓の騎士の内輪揉めなど見飽きた。確かに、彼らの末路を考えれば生前の因縁と無念に取り憑かれるのは当然だろう。そこを責める気はさらさらない。

 誇りというのは最高の精神安定剤だ。誇りを持っていれば自分の行動にいちいち理由をつけなくて済むし、誇りを持っていない人間に対して強く出られる。

 だけど、騎士の誇りとはもっと高潔で、普遍的で、優しいものだろう。そんな誇りを持っていたはずの彼らが悪逆非道を成してどうするというのだ。

 もし、聖都が完成すれば、彼らはきっと未来永劫苦しむことになるはずだから────

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 その苦しみに囚われぬため、ジャンヌは宝具を解放した。

 新月の夜の如く燃える漆黒の炎。この聖都全域を焼くに足る火焔を、余すことなく叩きつける。

 獅子王は網膜を焦がす火の塊を真っ向から捉える。純白の穂先が狙いを定める。過たず放たれるのは目も眩む、神威の閃光。

 黒と白の激突。極光が弾け、世界をモノクロに染め上げる。

 聖槍の女神といえど、ロンゴミニアドの穂が貫くのはひとつの対象に限られる。その範囲と速度は脅威だが、武器がひとつであるという事実は変わらない。

 故にこそ、隙が生じるのは激突の瞬間。黒き光が作る影をなぞり、騎士は銀腕を振るった。

 

「遅すぎる」

 

 だがしかし、獅子王は。

 その算段を、一突きで打ち砕く。

 甲高い金属音を響かせ、べディヴィエールの体は砲弾の如く弾き飛ばされる。直撃の寸前、騎士は義手を用いて聖槍の一撃を防いでいた。

 奇跡に等しい偶然。彼が右腕を振っていたからこそ、聖槍はそれを打ち落としたのだ。

 立香は即座に魔術を行使した。

 

「げ、元素変換!」

 

 疾風が吹き、騎士の五体にまとわりつく。

 あの速度で飛ぶ人間の体をまともに受け止めることはできない。それは受け止める側の問題ではなく、べディヴィエールの体が衝撃に耐え切れない可能性があるからだ。

 人の身でここまで戦い抜いてきた彼の肉体は既に限界を迎えている。その命を繋いでいるのは精神だが、肉体という器が崩壊すれば戦うことなどできはしないだろう。

 立香の魔術属性は火。風属性の元素変換にその属性の魔術師ほど適性はない。が、ノアの教えの賜物か、本人の努力の成果か、騎士を減速させるにはかろうじて足りた。

 守りの要であるマシュの手を煩わせる訳にはいかない。ダンテは身を挺してべディヴィエールを止めた。

 

「……ッ、助かりました」

「いえいえ、このくらいは当然ですから! ね、ダンテさん?」

 

 ダンテは地面に突っ伏しながら、途切れ途切れに言う。

 

「え、ええ……どうやら私の腰は崩壊しましたが、このくらいどうということはありません」

「それならわたしの後ろに! 宝具を使い切ったダンテさんはアレなので! 何とは言いませんが! 言いませんが!!」

「その優しさが痛い───!!」

 

 詩人はずりずりと地面を這って移動する。その様はまるで芋虫の行進だった。

 獅子王は僅かに眉をひそめる。表情筋を動かし慣れていないような、機械的な顔色の変化。その視線はべディヴィエールの銀腕を射抜く。

 

「その腕ごと貫くつもりで刺したが……なるほど、それが星の聖剣とやらであることに間違いはない、か」

「……だからこそ、私は貴方に剣を還すのです、王よ」

「…………余計なことを」

 

 最後の騎士の忠節。獅子王はそれを一言で切って捨てた。

 

「貴様は、私の最後の理想(ユメ)までをも奪おうというのか」

 

 聖槍の女神が抱く理想の果て、聖都の完成。

 魔術王に滅ぼされた世界に人類の痕跡を残すという作業。それは、魔術王を斃して世界を救わんとする者たちが現れた時点で意味を失ってしまいかねい、泡沫の夢だ。

 でも、女神にはそれしかできることはなかった。

 立香は胸に灯る憤りのままに言葉をぶつける。

 

「べディヴィエールさんはあなたのためにここまで来たんです。それを余計だなんて言葉で切り捨てて良いはずない」

「カルデアのマスターよ、それは違う。騎士たちは私に王であることを望んだ。今の私は騎士の願いの結晶、王であれと望まれた末に神へと成り果てた。今更その聖剣なぞを還してどうなる。私にもう一度、不完全な人の王になれと言うのか」

 

 それは、聖槍の女神が初めて露わにした感情だったのかもしれない。

 人のために王となった。王であれと望まれたから王となり、そして神の位地へと行き着いた。聖剣を還すということは獅子王の何もかもを否定するということだ。

 王に王としての役割しか期待しなかった騎士という存在が、完全なる聖都の歯車となった獅子王を否定する矛盾。それを糾弾する女神にあった感情は、おそらく────

 

「故に私は潰す。我が足を引く理想の影法師ごと、裁きの光で以って掻き消してやろう」

 

 ────彼女すらも気付かないほど微かで淡い、悲哀だった。

 息が止まる。血の通わぬ義手さえも。べディヴィエールは暫時、己の使命の意味を考えて。

 

「聖槍、抜錨」

 

 瞬く閃光。

 降臨する神の威光。

 聖槍の光を見据えながら、マシュは言った。

 

「べディヴィエールさん、気にする必要はありません。たとえあの人が拒んだとしても、あなたはあなたの願いを押し通せば良いのです。わたしはそういうことしかしない人たちを知っていますので!!」

「リーダーとか?」

「アンタもそのフシはあるわね」

「『あの、緊張感は!?』」

 

 聖槍は臨界へと。焦るロマンに、マシュは告げた。

 

「それを言うのは百年遅いですよ、ドクター。結局みんなわたしが守るんです。ドンと構えていてください」

 

 そうして、世界を貫く光槍が撃ち出される。

 

「『最果てにて輝ける槍(ロンゴミニアド)』───!!」

 

 聖槍の女神が放つ極光。

 その威力は文句なしに最大級。

 ───だからどうした。この盾を舐めるな。

 つまるところ、マシュ・キリエライトという少女はどこまでも守る者だった。守るべき誰かを背に負うことで真価を発揮する人間。それが彼女だ。

 他人がいなくては戦えない。

 人を傷つけるためには力を振るえない。

 戦士としては失格。きっと彼女はその不器用な性格を変えることはないだろう。

 だけど、それは決して欠陥ではない。

 純粋に誰かを守りたいと思えるからこそ。

 正直に人の想いを背負って戦えるからこそ。

 

「それは全ての疵、全ての怨恨を癒やす我らが故郷─────」

 

 その宝具は、彼女のもとに舞い降りるのだ。

 

「────顕現せよ、『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』!!!」

 

 立ち現れるは白亜の城。

 騎士王の御座、絢爛なるキャメロット。

 裁きの光が直撃する。サーヴァントの域を遥かに超え、神霊となった獅子王の一撃はもはや対抗しようとすることすら愚か。

 その熱量を一身に受け、マシュは歯噛みする。

 

「んぐっ……中々やると褒めてあげましょう! ええ、全っ然キツくありませんが!?」

 

 べディヴィエールは彼女の背に向かって、

 

「その宝具は持ち主の精神力がそのまま強度になります。逆に心に迷いや穢れがあると正門は綻び、破壊されてしまうでしょう」

「じゃあダメじゃない! こいつは私たちの弱みを握るために盗撮盗聴やってるようなやつよ!?」

「こんな時に気が散ること言わないでくれますかジャンヌさん!? わたしほど純粋無垢で可憐な少女はいないじゃないですか!!」

「自分で言ってる時点で説得力がないですねえ……」

 

 冷や汗を滴らせるマシュ。踏ん張る足は徐々に圧され始めていた。

 ───こんな時、マスターができることは。

 立香はマシュの隣に立つ。手の甲に灯る令呪の光。彼女はただ、自分のサーヴァントへと、親友へと、頼んだ。

 

「マシュ……()()()()!!」

 

 令呪とともに贈られる声援。

 瞬間。肌から吹き出る汗も、体の震えも、全身を焼く熱も、消え失せた。

 

「はい───!! がん、ばります! マスター!!!」

 

 裁きの光を押し返す。

 一秒が何時間にも思えるせめぎ合い。

 何者も踏み入れぬ、獅子王と少女の意地の張り合い。

 その最中にありながら、マシュは澄んだ笑みを浮かべた。

 

(ああ、負ける気がしない)

 

 聖槍がその一撃を保っていられるのはあと何秒? 何時間? たとえ神に等しい存在でも、これだけのエネルギーを永遠に維持できるはずがない。

 その勝負の結末は誰の目にも明らかで。

 マシュ・キリエライトという少女を見続けてきた男は、モニターの向こう側で確信した。

 

「……うん。キミはもう、あの時のキミじゃないんだね」

 

 視界を埋め尽くす光が揺らぐ。

 底無しにも思えた光量が先細りしていく。

 

「ぐっ…………!!」

 

 その呻き声が、獅子王の限界を表していた。

 騎士べディヴィエールは煌々たる眼光を漲らせる。銀色の五指を確かに握り締める。

 

「貴方たちに、感謝を。私はようやく、この旅路を終えられる」

 

 その身を投げ出す。

 彼は摩耗しきった魂の全てを右腕に注ぎ込んで。

 

「『一閃せよ、銀色の腕(デッドエンド・アガートラム)』!!」

 

 彼のみに許された黄金の輝き。

 迸る流星が破滅の光を断ち切る。

 ぱん、と星が弾ける。雪の如く降る星屑の中を、騎士は走り抜ける。

 もう目は見えない。耳は聞こえない。魂すらも使い切った今、抜け殻の体を突き動かすのは果てしなき執念。そして、

 

「べディヴィエール卿。御身の旅路の終焉に、祝福を」

 

 見神の詩人が紡ぐ、忠義の騎士への凱歌であった。

 獅子王は騎士を眼前に捉える。

 既に死んだ体でひた走る騎士の姿。

 頭の奥で刺すような痛みが走り、胸の奥が逆撫でられる。

 

「どうして、そこまで」

 

 もういい。やめろ。そんなに壊れて何ができる。おまえが戦う必要なんてない。戦わなくていい。…………そんなおまえの姿なんて、見たくない。

 

「王よ、今こそ────聖剣をお返しいたします」

 

 だから。

 獅子王は、捧げられた聖剣を受け取った。

 

「…………─────!!」

 

 脳髄を巡る電流。

 蘇る記憶。

 選定の剣を引き抜き、ただひたすらに傷ついて戦った。円卓のもとに集った仲間たちとともに国を守り治め、しかし、魔女の奸計によって破滅に至ったあの日を思い出す。

 最後に行き着いたのは。

 ────力を使い果たし、眠る私を泣き腫らした目で見守る騎士の顔だった。

 そう、ついに、彼は使命を果たしたのだ。

 崩れ落ちる騎士を抱き留める。全存在を尽くしたその体は土塊のように壊れていく。

 もう、彼の耳にこの声は届かないかもしれないけれど。

 

「べディヴィエール。我が最後の騎士に賛辞を。貴方はついに、運命に決着をつけたのです」

 

 それが、終着だった。

 王は聖剣返還によって聖槍の女神たる資格を失う。聖槍と最果ての塔を起点としていた世界の収束はもはや実現する手段はない。

 聖都の終焉。未だ熱の冷めやらぬ静寂。誰もが紡ぐべき言の葉を探っていた頃、

 

「ノア、どうやらべディヴィエールはしっかりやったらしいぞ!」

「だろうな。じゃなきゃ獅子王が聖剣を持ってるはずがねえ」

「あれは正真正銘エクスカリバーですわね。私の目に狂いはありませんわ」

「曇りまくってるどすけべ精霊の目なんか信じられるか。とりあえずあの剣は俺が貰う」

「おいやめろ馬鹿! 貰うならオレだ! エクスカリバーMk-2とエクスカリバーの最強二刀流をやらせろ!!」

 

 という、アホな会話をする三人が走り寄って来る。立香はぱあっと笑顔を輝かせると、真っ先にノアに向かっていった。

 

「勝ったんですねリーダー! 怪我はしてないですか?」

「ペレアスが馬車馬の如く働いたからな。おまえもよくやった」

「みんなが頑張ってくれたおかげです。まあその言葉は受け取っておきますけど!」

 

 それで、と言い継いで、少女はノアの顔を覗き込む。

 

「……褒めてくれるだけですか?」

「は?」

「この前のお返しで撫でてくれてもいいんですよ? さあ! さあ!!」

「寄ってくんなアホ! 発情期の犬か!?」

 

 勢い良く詰め寄る立香の頭を、ノアは右手一本で掴んで止める。ぎりぎりとせめぎ合うマスター二人のじゃれあいに、その場の誰もが生温かい視線を向けた。

 王はくすりと笑い、暖かな声音で告げる。

 

「ペレアス卿。私の前に」

 

 星の聖剣がきらりと陽光をなぞり返す。

 ペレアスはガタガタと震えて、

 

「き、斬られるんですか。それとも戦うんですか。黒い王様とは殺し合いましたけど」

「それも一興ではありますが……貴方は円卓を追放されていたでしょう。どうかもう一度、我が円卓に名を連ねてはくれませんか。つまり、騎士の誓いです」

 

 その時、ペレアスは息を呑んだ。

 遥か昔、王宮の政治的闘争によって彼は円卓を追放させられた。番外位という地位は記録と記憶から抹消され、ペレアスは王国を去ることとなった。

 しかし、今此処に、王は誓いを成すと言うのだ。

 姿形は異なれど、その瞳はまさしく騎士王のもので。

 ペレアスの顔色が変わる。騎士としての真摯な表情。彼は清らかな声音で答える。

 

「ひとつ、願いがあります」

「無論、聞きましょう」

「我が先達、ベイリン卿にも誓いを立てていただきたく存じます。私は、かの騎士を旅路の果てに連れて行くと誓いました」

 

 ベイリンはこれを余計なお節介だと言うかもしれないけれど、せめて。

 王は優しく頷く。騎士は主君の前に跪き、礼を取った。

 

「誓いを此処に。騎士ペレアス、そしてベイリン。両名を我が円卓の一員に任命する」

 

 騎士の叙任式。王は聖剣の平で騎士の両肩を軽く叩く。静謐にして厳かな儀式を経て、確かにペレアスとベイリンは円卓の座へと復帰した。

 王は湖の乙女の顔を見据える。

 

「湖の乙女、リースよ。貴女たちの力なくして私は戦えませんでした。心よりの感謝を」

「身に余る光栄ですわ。私は力を授けただけ。あなたの偉業はまさしく、あなたにしか成せないことであったでしょう」

 

 それに、とリースは付け加える。

 

「あなたが善き国を造ってくださったおかげで、ペレアス様と私は幸せになれました。感謝を贈るのは、むしろこちらの方でございます」

 

 王の頬を伝う、一筋の水滴。

 ───良かった。こんな私でも、ひとつの幸せを生み出すことが、できていたのか。

 

「面を上げなさい、ペレアス卿」

 

 その声は、震えていた。

 目元に残る赤い線。溢れ出る涙を押し留めて、王は、アルトリアは騎士に言う。

 

「貴方にひとつの使命を授けます」

 

 それこそは彼女が自らの騎士に望む願い。

 彼らならば果たせると信じて、

 

「我らが円卓の遺志を継ぎ、見事魔術王を討ち果たしてみせなさい、ペレアス!」

 

 答えなんて、考えるまでもなかった。

 なぜなら、これは…………

 

「───御身の意のままに!!」

 

 …………オレが、世界を救う英雄譚(モノガタリ)だ。

 第六特異点、定礎復元。

 最果ての王と円卓の騎士の物語は、ここに新たな始まりを迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ざざん、と寄せる波が砂を押す。

 

〝…………本当に、頑張ったわね。えらい子よ、王様〟

 

 戦いに傷つき、永き眠りについた彼女は、どこか満足気な笑みを浮かべていた。私はその子の頭を膝に載せ、そっと撫でる。いつの日か、妹たちにしたように。

 私たちはこれから世界の果てのアヴァロンへと向かう。王様の働きによって神代は終わりを迎えた。これからは正真正銘、人の時代が始まるのだ。

 妹の聖剣は私の手に。氷の鞘で剣身を覆い、同じく氷で造った小舟に載せる。

 この子は本当に頑張った。選定の剣を抜いたあの時から、人の身に余る多くの悲しみと苦しみを背負いながら、道の果てに辿り着いた。

 これからは、もう苦しむことはない。

 体の傷も心の傷も、永い時をかけて癒やせば良い。

 ───いいえ、もしかしたら、心の傷はとっくに癒えているかもしれないけれど。

 

〝あなたもそう思うでしょう?〟

 

 私は虚空に向かって声を投げかけた。背景が歪み、人影を形作る。

 

〝さあね。私にはどうでもいいことよ〟

 

 モルガン。魔女と謳われた彼女がそこにいた。

 

〝あら、それならどうしてここにいるのかしら。どうでもいいんでしょう〟

〝…………馬鹿な男がいたのよ。自分が死ぬと分かっているのに、アルトリアなんかのために戦いに行く馬鹿な男が〟

 

 モルガンは私の横に座り込む。髪の毛の先を指で弄びながら、忌々しげにその男の話をする。

 

〝私の城を発つ前、言われたのよ。一度でもいいから王の助けになれ、ってね。あなたのせいで無駄になったけど。……ああ、思い出したらますます腹が立つ。醜く淫蕩な魔女に、そんなことを頼むなんて〟

〝それは、違うでしょう?〟

 

 私はモルガンの言葉を否定した。

 

〝あなたは淫蕩と言われるけれど、そうじゃない〟

〝───へえ、私の何を知っているのかしら。湖の乙女?〟

〝あなたは、多重人格者よ。ひとつの体に複数の人格を宿した人間……いえ、人間と妖精の合いの子(ハイブリッド)ね〟

 

 モルガンは答えなかった。しかし、その反応が何よりの証拠だ。

 

〝だから、淫蕩と呼ばれるのは少し違うわ。複数の人格が、それぞれ別の男を愛していただけなのだから。あなたたちはロット王にも、アコロンにも、ラモラックにも、真摯で在り続けた〟

〝……嫌な女ね。どこまで私のことを調べたの〟

〝色々よ。この世に残る古きケルトの末裔……その極致、ブリテン島の化身。あなたたちのひとりもまた、湖の乙女と呼べる存在なのかもしれないわ〟

 

 彼女は私から顔を背け、舌打ちする。

 

〝うん、そうなの〟

〝私たちは私たちでひとりだ〟

〝流石は水の精霊ですね〟

〝その性格の悪さ、褒めてあげる〟

 

 代わる代わる口走る、モルガンたち。

 思わず目を見開いた私を見て、彼女は意地悪く笑った。

 

〝───こんなところよ。ふふっ、こんなにいるとは思わなかった?〟

〝そうね。私の予想では三人だったわ。私たち湖の乙女のように、女神の古き形である三相一体を取っているものとばかり思っていたから〟

〝それは惜しかったわね。三相一体の私も、確かにいるわ〟

 

 なるほど、これは魔女だ。淫蕩であることは間違いだけど、魔女という謂れはこれ以上なく的を射ている。

 モルガンは人差し指で、アルトリアの頬をつつく。

 

〝それにしても、憎たらしい顔。あんな終わりを迎えといてこんな顔ができるなんて、どういう神経してるのかしら〟

〝…………出逢えたのかもしれないわね。彼女を王としてではなく、ひとりの人間として、女の子として扱ってくれる人に〟

〝はっ、そんな出会いが何時あったっていうのよ。私はアルトリアをずっと見てきたのよ?〟

〝ええ、そうね。そんなことはありえない。でも───そっちの方が夢があって救われると思わない?〟

 

 私は笑った。きっと、前まではこんな顔はできなかった。妹の晴れ姿を見るまでは。それも、アルトリアのおかげだ。

 彼女を抱えて立ち上がる。

 名残惜しくはあるけれど、そろそろ出発しなくてはならない。

 脳裏をよぎるたくさんの記憶。

 どれもかけがえのない宝物。

 最近、特に良かったのは小さな赤子の顔だ。義弟と妹の子。産まれたばかりだというのに、とても元気な女の子だった。あの子は美人に育つだろう。絶対に。私の妹の子どもなのだから間違いない。あの子をいじめるような奴がいたら、アヴァロンからでも呪ってやる。

 これからも家族は増えるのだろうか。あの家族は幸せに暮らしていけるだろうか───未練に溢れる思考を打ち切り、私はモルガンに振り返って言う。

 

〝さあ、一緒に行きましょう〟

 

 モルガンは一瞬、呆けた顔をして、

 

〝…………千年以上も生きて、ボケが始まったの? どうして、あなたとアルトリアに着いていかなきゃならないのよ〟

〝独りは寂しいでしょう? それに、この子とあなたは姉妹なんだから〟

 

 モルガンは私とアルトリアの顔に何度も視線を泳がせて、何かを噛み締める。数十秒はそうしていると、無言で私の舟に乗り込んだ。

 これはそういうことなのだろう。私も続くと、氷の舟を滑らせる。

 アヴァロンへと。これから世界の神秘は急速に薄れていき、私たちと現世は取り返しがつかないほどに隔絶していくだろう。

 全て遠き理想郷。エクスカリバーの鞘がどうなったのか、私は訊かなかった。

 ただ、モルガンは物言わぬ妹を見つめ、

 

〝…………今のあなたなら、愛せるかもね〟

 

 全てのしがらみから解き放たれて、そう言った。




『無限を象る黄金』
 ドラウプニル。北欧神話の主神オーディンが所有する、九つの夜ごとに八つの同じ重さの腕輪を滴らせる黄金の腕輪。尽きることのないオーディンの富の象徴。また、デンマーク人の事績においてホテルスが森の神から奪った腕輪もこれのことだと思われる。
 バルドルの葬儀において、オーディンはバルドルの遺体とドラウプニルを世界で一番大きな船フリングホルニに載せて火葬した。その後、冥界のバルドルを連れ戻そうと使いが来るのだが、バルドルはドラウプニルを使いに押し付けて帰してしまう。これはつまり、自分の後継者たるバルドルへの富の譲渡と、それを返還されることでオーディンの豊かさを保証するという話であると思われる。
 ノアが編み出した魔術では、まずこれを投影することで他の武具が投影可能となる。投影魔術だけならばただの劣化となるところを、無属性魔術を加えることで原典にない特性を発揮できる。
 北欧神話において特別な道具というのは大抵ドヴェルグが創るか、巨人が持っているのを奪うかといった形で神々に渡る。これは資源に乏しい北欧の人々が周辺地域に襲撃を繰り返したことが反映されているのではないだろうか。ノアがなぜ見たこともない北欧神話の武具を投影できるのかは、次章で明かされる予定。
 以下、本編で投影した武具の解説。
 『必勝の剣』……フレイ・ヴェルンド。ヴェルンドとは異説でこの剣を創ったとされるドヴェルグの名前。夏と晴天を司る豊穣神フレイが持っていた、自動的に敵を討つとされる勝利の剣。ルーンが刻まれ、太陽のような輝きを発しているとされる。巨人すらも容易に倒せる武器だったが、フレイは巨人の娘ゲルズに求婚する際、この剣を手放している。そのせいでラグナロクではスルトに敗北してしまう。また、スルトの振るう剣はこの勝利の剣であるという説がある。裏を返せば、勝利の剣さえあればスルトに勝てたということだろうか。
 『凍結の盾』……スヴェル。グリームニルの歌に登場する、太陽の前にさえぎり立つ盾。本編では太陽の火と熱から地上を守っているという解釈をしたが、太陽を支えている盾という見方もできる。その特性から、炎や熱を纏う攻撃に滅法強い。飛び道具全般に強いロー・アイアスとは一長一短。
 『炎星の首飾り』……ブリーシンガメン。フレイヤが一目惚れした綺麗な首飾りで、これを入手するためにドヴェルグの兄弟に体を許した。他の話にも度々登場するのだが、これといって特別な力を持っている描写はない。そもそも、それぞれのブリーシンガメンが同一のものである保証もない。イアソンにとっての金羊毛皮のように、物語の動機付けとなる物品以上の役割を求められなかったのだろう。ノアはこれの語義を辿って攻撃魔術に転用した。


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第57.5話 灼熱のサーヴァントパラダイス〜忘れもしませぬ、あれは拙僧が海の家で裏バイトをしていた頃〜

今更ながら月姫リメイクをプレイしました。しばらくの間物語を摂取できなくなるくらい面白い危険なゲームでした。
ギル様に会う前にオリジナル特異点を挟みます。次回から一章だけお付き合い頂けると幸いです。


 サマーシーズン到来!!

 夏。それは色とりどりの思い出が紡がれる季節。気になるあの子と祭りに出掛けたり、キャンプに繰り出したり、流れるプールで周囲にバレないように尿意を満たしたり、フライパンと化した道路の上で大量に死滅しているミミズたちの姿に震えたりと、夏の記憶は浮かべども沈むことはない。

 しかしその反面、大いなる闇を抱えてもいるのが夏である。異常気象、上がり続ける平均気温、なぜか最高気温をアイデンティティにする熊谷市など、照りつける太陽は同時に影も生み出してしまうのだ。

 とある常夏の島。からりと渇いた熱気を刺々しい陽光が彩る。砂浜と水平線を一望できるベンチに、水着一丁のEチームリーダーはもたれかかっていた。その隣には先程まで着ていたであろうシャツやジャケット、デニムパンツが打ちやられていた。

 いつものセミのようなやかましさはどこへやら、ノアは棒アイスを咥えて呻き声ともつかない声を出して項垂れていた。白い髪の隙間から、殺気に満ちた瞳がぎらぎらと輝く太陽を睨みつける。

 

「あっちぃなクソが……太陽(あいつ)ぶっ壊れてんじゃねえか? そろそろあのポンコツも換え時だろ。相も変わらず温めるだけが能とかナメてんのか? 履歴書の特技欄になんて書くつもりだ? 学生時代最も力を入れたことが地球温めることとか人生の意義を疑うだろ。今時の電子レンジでも機能増やしてってんだろうが。少しは向上心を持てアホ太陽。エアコン先輩のフィルターの埃を煎じて飲んどけ。使用年数四十七億年とか中古品どころの話じゃねえんだよ、そりゃ不具合のひとつやふたつはあって当然だろうが。人間なんか四十七歳でも不具合しかねえからな。救いようのないジャンク品だからな。ただただ壊れていくだけのリビングデッドだからな。さっさと現役辞めて後進に道を譲れよ年増天体が」

 

 太陽相手に愚痴を吐き散らかすアホがそこにいた。この世界は絵本のように無機物が喋るメルヘンな場所ではない。ノアを嘲笑うかのように、陽射しは燦々と照りつけていた。

 デンマークは高緯度に位置するが、冬は比較的温暖で夏は大体20℃程度の過ごしやすい気候である。そんな国で幼少期を過ごした彼にとって、常夏の島というロケーションは灼熱地獄に等しかった。人一倍我慢ができない性格というのも多分にあるが。

 目の冴えるような日光とは裏腹に、ベンチの周辺はブラックホールの如き底無しの闇が漂っている。通りがかった通行人は皆一様にそそくさと離れていく。

 

「…………つーか」

 

 バキリ、と上下の犬歯がアイスの棒を噛み砕く。ノアは額に青筋を浮かべて、島中に響くような大声で叫んだ。

 

「何がサマーシーズン到来だァァァ!! 頭茹だってんのか!! 微妙に季節感外してんの気付いてねえのか!? ネタ切れが丸見えなんだよ!! あ゛ぁ〜、それにしても暑い! おいロマン、俺はもう帰るぞ! こんなところにいられるか!!」

 

 熱を持ったベンチの上で転げまわる成人男性。その姿は痛々しいを通り越して、一種の哀れみを感じさせた。人通りは完全に消え失せ、遠巻きから怖いもの見たさの見物人が携帯端末のカメラを向けている。

 数秒間を置いて、名ばかりのカルデア指揮官が立体映像で投射される。彼は異次元の居心地悪さに普段の三分の一は小さく見えるほど縮こまっていた。

 

「『い、いやでも、そこ一応微小特異点だし……なんとか原因を探ってきてもらわないと、放っておいて良いのかどうかも分からな───』」

「おいおいおい、ここに来て新しい設定出してきてんじゃねえ。普段の特異点が特大のクソだとしたら、ここは道端に転がる犬のクソ程度だろ。無視しときゃ良いだろうが」

「『例えが汚い!! というか犬のうんこでもまともな飼い主なら捨てるくらいはするだろう!? ここもそういうことだよ!』」

「問題は飼い主が俺たちじゃないってことだ。誰が好き好んでどこの犬のクソとも知れないうんこを回収すんだよ。ボランティアじゃねえんだぞ」

「『人理修復はある意味ボランティアの極みだけど!?』」

 

 ノアとロマンの口論は泥沼に陥っていた。泥沼というか肥溜めだが。泥中の蓮とはよく言うが、彼らのような肥溜めのラフレシアはただ汚いだけである。

 ロマンの考えとしては、人理修復中のささやかな休暇としてノアを向かわせたつもりだったのだが、現実はそうではなかった。

 不毛な口論でノアに勝てる人類はいない。しかし、対抗できる人材はいる。その到来を待ち望んでいると、肥溜めの中に赤い影が滑り込んだ。

 

「良い大人が二人して何やってるんですか。周りの人たち引いてますよ」

 

 汎用アホ型決戦兵器、藤丸立香のエントリーだった。彼女は紅白のアロハシャツに換装し、常夏の島らしくトロピカルな装いに変貌を遂げている。

 ロマンは状況を打開する存在をその目に捉え、

 

「『よく来てくれた立香ちゃん! ノアくんはボクの手に負えそうにないから後はキミに任せた!』」

「おい! まだ話は終わってねえぞ! さっさと俺をカルデアに帰せ!!」

「『……それじゃあこの特異点の調査は頼んだぞ! 頑張ってくれ、人類最後のマスターたちよ!』」

「おまえには恥という感情がねえのか!?」

「リーダー、それブーメランです」

 

 正確には立香も同類なのだが、彼女はそれに気付いてはいなかった。人は自分を省みることができない生き物なのである。

 ロマンを形作っていたホログラムが空気に溶けて消えていく。クー・フーリンの槍の如く全身を突き刺してくるノアの視線を他所に、彼は立香に向かって微笑みかけた。

 ノアは深いため息とともにうなだれる。どうやら大声を出す気力もないらしい。相当猛暑に堪えているのか、虚ろな声音で喋り出す。

 

「……おまえこそ何やってんだ、アロハシャツなんて着やがって。今の俺におまえみたいな特濃のアホを相手する余裕なんかねえぞ」

「こういうところに来たらアロハシャツを着るのが礼儀じゃないですか! むしろこれが正装です! リーダーも着ます? 向こうにある露店で売ってましたよ」

「観光地の店なんざ十割ボッタクリだろ。そもそもこんな暑いのに服なんか着てられるか。ただでさえ股間と水着が汗で融合してんだぞ。ムカデ人間みたいになってんだぞ」

「普通にセクハラ発言するのやめてくれません?」

 

 すっかり大人しくなったノアの頭頂から爪先を流し見る。

 本人の言動と性格を抜きにすれば、確かにどこに出しても恥ずかしくない体つきをしている。頑健な骨格の上にまとわりついた筋肉。自分の体の実用性を極限まで突き詰めたような、ある意味魔術師らしい体躯だ。

 立香はその横に腰を落ち着ける。とくりと調子を早めた心臓の鼓動を気取られぬように。

 

「それで、どこから見て回ります? この島の地図があったんで持ってきました」

「見せてみろ」

 

 折り畳まれたパンフレットを開く。そこにはこの島の地形と施設が掲載されていた。ノアが上半身を傾けてそれを覗き込むと、二人の肩が僅かに触れ合った。

 立香は跳ね上がりそうになる体を根性で押さえつける。元々一般人とはいえ、もう数々の修羅場を潜り抜けてきたマスターだ。これしきでうろたえはしない。

 無論、そんな心の動きをノアが知るはずもなく。

 彼は地図のある一点に目をつける。

 

「よし、決めた。俺は今から『アヴィケブロンのゴーレムカフェ』で涼んでくる。後は任せたぞ藤丸隊員」

「ひとりでサボろうとしないでください! どんだけ暑いの苦手なんですか!?」

「暑さだけなら魔術でどうにもなるがな、今の俺はやる気というやる気が消え失せてんだよ。魔術回路を起動することすら面倒くせえ」

「終わりだこの人……いつにもましてダメ人間度が増している……!!」

 

 そもそも『アヴィケブロンのゴーレムカフェ』とは一体何なのか。そこにツッコむ余裕すらなかった。

 アヴィケブロンには女性型のゴーレムに身の回りの世話をさせていたという伝説がある。パンフレットをめくってみると、その紹介欄には見目麗しいゴーレムたちの写真が掲載されていた。受け取る人によってはいかがわしい店と勘違いされなくもない画像である。

 むっ、と立香は眉をしかめる。魔術オタクのノアのことだ。こんな精巧なゴーレムを前にして、調べないという選択肢はないだろう。その際にどんな暴挙に出るか分かったものではない。

 それは良心と乙女心が許さなかった。二つの感情が配合されている割合は後者に偏ってはいたが。

 彼女はパンフレットを破りかねない勢いで、人差し指を紙上に突き立てる。

 

「ほ、ほら! ここなんてライブ会場がありますよ! 『人類史有数のアーティストたちによる一日限りの共演』ですって。一緒に行きましょうよ!」

「…………俺以外にもキリエライトと放火魔女がいるだろ。そいつらと行ってこい」

「んぐっ、ああ言えばこう言いますね……!」

 

 この男はこうなったら難攻不落だ。いくら言葉を投げかけても、それは城壁に体当たりするようなもの。あっけなく一蹴されるだろう。

 ───だが、藤丸立香という少女はその程度で諦めるほど潔くはない。

 ノアとの付き合い方はこれまでに痛いほど身に沁みている。何かを命令することは不可能だが、貸し借りに厳しい性格を利用するのだ。

 ちょうど、オジマンディアスの城でやったように。

 そう決めて切り出すと、

 

「私は、リーダーと一緒じゃないと嫌です」

 

 するりと口をついて出たのは、わがままじみた願望だった。

 

(あれ)

 

 こんなことを言うつもりではなかった。

 感情ではなく理屈で訴えかける。そのはずだったのに。

 心臓が早鐘を打つ。ひた隠しにしていた感情が露わになってしまったのではないかと、甘ったるい電流が胸の内で迸る。

 この顔の熱さは、陽射しのせいではない。

 ノアはニタリと口角を吊り上げる。その顔面には隠す気もない嗜虐心が浮かんでいた。

 

「…………なるほど。だったら仕方ねえ、付き合ってやるよ」

 

 返ってきたのは、予想だにしない言葉だった。その意図も理解できないままに、立香は表情を晴らす。

 

「い、いいんですか?」

「ああ。いや、考えてみれば当然だったな。微小とはいえ特異点、おまえがひとりで解決するには手に余る」

「……ん?」

「だからこそ、おまえは俺の力を頼ったって訳だ。なんてったって俺はカルデア最強マスターだからな。ようやく俺の部下としての自覚が出てきたじゃねえか。良い兆候だ」

(この人がアホで良かった〜!!!)

 

 したり顔で的はずれな考察を語る姿には苛立ちを覚えるが、とりあえず致命傷は免れたようだ。思えば、この男に乙女心を理解しろと言う方が難しい。

 部下の言動に気を良くしたのか、ノアはもそもそと着替え始めた。

 普段の礼装を纏っていない彼の姿はどこか新鮮だった。いつもは帽子のせいで見えないことがある表情も、今ははっきりと見て取れる。

 ぼんやりと着替えを眺める。いつの間にかノアは着衣を終え、ベンチから立ち上がった。

 

「行くぞ。まずはライブ会場から調べる」

「はい! Eチームマスター調査隊発足です!」

 

 湖の乙女リースは言った。恋愛の極意は攻めて攻めて攻めまくることだと。彼女の攻め方がR指定に足を踏み込んでいることに目をつむれば、アドバイス自体はそう悪い内容ではない。

 ロマンの去り際のあの顔。ダメ人間度で言えばカルデアでもかなりの男だが、ヤツも大人だ。ある程度の察しはついているのだろう。

 このチャンスを無駄にするのは愚の骨頂。

 故に今日、立香は攻めるのだ。

 前を行くノアの左手を自分の右手で掴む。

 

「……何やってんだ?」

「リーダーって目を離したらすぐ奇行に走るじゃないですか。だから、こうして捕まえておかないと危ないです」

「実はおまえが一番危ないことを忘れるなよ。俺が本気出したらおまえの腕なんてガンプラみたいにもぎ取れるからな」

「その時は私のゴッドフィンガーで握り潰すんで大丈夫です」

 

 じくりと、苦しくも心地よい熱が右手の血管を伝って心臓に流れ込み、じんわりと融かしていく。横目で見上げるノアの目は、また、ここではないどこかを見ているような気がした。

 …………そんなこんなで。二人は島を移動し、ライブ会場のほど近くに到着する。島の地図上では、東側の端に当たる場所だ。

 パンフレットの情報で分かったことだが、この島では英霊たちがそれぞれ店を開いたり、イベントを運営しているらしい。『人類史有数のアーティストたちによる一日限りの共演』という誇大広告著しい謳い文句も、過去の英霊がいるとなれば決して誇張表現ではない。

 歌が呪術的な意味を持っていた古代の歌手から、近現代のミュージシャンが音楽を披露する。いつも血みどろの英霊たちを見ている立香からすると、これ以上平和的なサーヴァントの活用方法はないように思われた。ダンテだって然るべき場所に置けば、素晴らしい作品を生み出せるのだ。

 立香とて人並みに音楽を嗜む。流行りの曲から少しマニアックな洋楽まで、守備範囲はそれなりに広い。隣にノアがいることを差し引いても、その心は浮足立っていた。

 しかし。

 淡い期待というものは、どんな時も打ち砕かれるためにあるのだ。

 

 

 

 

 

 

「ハァーイ♡ 元気してたかしら私のペットたちぃ〜? 今日も今日とて冴えない窓際社員みたいなおいたわしい人生送ってる貴方たちに、一時の安らぎを届けてあげるわ! それじゃあまずは声出しから行くわよ! ん、んんっ…………ボエ〜〜♪♪」

 

 

 

 

 

 

 阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。

 ステージに舞い降りたのは美少女としか形容しようがないドラゴン娘。黒を基調とした衣装に着替えた竜人型音響兵器は、遺憾なくその性能を発揮する。

 海底神殿に住まう魚人の鳴き声もかくやとばかりのおぞましい歌声。熱気に包まれていたであろう会場が絶対零度にまで冷え込み、哀れな観客たちは雪崩を打って倒れていく。

 名状しがたき狂気の怪音波もさることながら、ステージの奥にはおどろおどろしいオブジェが屹立していた。

 この世全ての悪に汚染されていそうなゆるキャラ風のナニカ。それが魔神柱のように青空を突き刺している。大きく開け放たれた口からは得体の知れない汚泥が滝の如く流れ落ち、舞台を染め上げている。

 邪教の信徒も裸足で逃げ出す光景だった。ミュージシャンのライブでは興奮のあまり気絶するファンもいるが、こちらはその真逆。どんなに偉大なアーティストでも、観客全員を気絶させることは不可能だろう。

 思わず意識を飛ばしかけた立香に対して、ノアの行動は素早かった。

 

「『無限を象る黄金(ドラウプニル)』からの『炎星の首飾り(ブリーシンガメン)』!!!」

 

 六十三個の彗星がステージ上に墜落する。

 世界が白く染まるほどの爆発が巻き起こり、膨大な熱と炎が奇怪なオブジェごとドラゴン娘を呑み込んだ。

 

「ほんぎゃあーっ!!?」

 

 間抜けな断末魔が響き渡る。

 光が途絶え、熱風が過ぎ去った後、そこにはうつ伏せになった女性版ジャイアンしか残っていなかった。黒の衣装はさらに黒く、ぷすぷすと全身から煙をあげている。

 明らかに過剰な火力だったが、それに文句を言う人間はどこにもいなかった。というか言える人間はいなかった。

 オブジェは砂の城のように崩壊し、手のひらに載せられるサイズになって地面に落ちる。それはころころと転がり、自称アイドルの頭に当たって止まる。

 それで意識を取り戻したのか、彼女は勢い良く起き上がった。

 

「ちょっと! 私の大事なライブで何してるのよ! こんなの台本になかったわ! ワンチャンインターネットで大炎上からの賠償請求謝罪引退コースよ!? 昨今の民衆は厳しいんだから!!」

 

 などと、妙に現実味のある悲しい反論をする怪音波発生器。アイドルにとっては、物理的な大炎上よりもネットで大炎上する方が怖いのだ。

 ノアは負けじと大声を張り上げる。

 

「アレのどこがライブだァァ!! ただの名状しがたい冒涜的な儀式だろうが! とうとう五回目の登場を果たしやがって、今日という今日は準レギュラーの座から追放してやる!!」

「くっ、なんて酷い弾圧なの!? ローマ兵に追いかけ回された救世主の気持ちが分かったわ……!!」

「エリザベートさんはとりあえずその人に謝ってください! 何回も出てきてる癖に音痴に磨きがかかってるのはどういう了見ですか!?」

「エリザベート───? ふっ、そんな古い名前はもう捨てたわ!」

 

 もはやエリザベートですらなくなった少女は足先から手先まであざとさで構成されたステップを踏み、ばちこーん☆と、マグナムのようなウィンクをぶっ放した。

 

「今の私はエリザベートを超えたエリザベート───悪魔(ドラクル)を超えた悪魔(ドラクル)! そう、ダークエリザと呼んでちょうだい!!」

「ところで、エリザベートさんはどうして急なキャラ変更を?」

「ダーク! エリザ!! よ!!!」

「黒くなっただけでキャラの差別化ができると思うなよ。どっかの騎士王と聖女と違って、おまえがオルタビジネスで儲けられるわけねえだろ」

「はああ!? その発言、私と私のファンの逆鱗に触れたわよ! SNSのアカウントを荒らされる覚悟の準備をしておきなさい!!」

 

 急なキャラ変更はアイドルの特権だが、それにしてもあんまりな出来栄えだった。下手なキャラ付けとは敬遠されるだけの産業廃棄物。並み居るクソ映画やクソゲーのように、ワゴンに押し込まれることすら許されていないのだ。

 立香は単純な疑問を抱き、首を傾げる。

 

「さっきから大分インターネットの炎上を気にしてますけど、何かあったんですか?」

「べっ、別に!? 『アイアンメイデンの中に入ってみた』とか『ハンガリー国歌を自由の女神の前で全力で歌ってみた』をやってたら燃えたとかそういうわけじゃないから!」

 

 意外とコツコツした積み重ねで燃えていた。彼女の炎上はもはや避けようがない状態だったに違いない。

 

「で、本音は?」

「───絶対バズると思ったのに!! どうしてこの世の中は私に厳しいのかしら……こうなったらダーク化、いえ、オルタ化もやむなしよね……!!」

 

 ダークエリザことエリザベートは鼻息荒く立香とノアを睨みつける。その眼差しには遣る瀬無い感情が籠っていた。自業自得この上ないのだが。

 すると、彼女の足元に転がるオブジェが包丁を吐き出す。ふらふらと刃物を手に取るエリザベートに、ソレは妙に可愛らしい声で囁く。

 

「『うふふ、思い通りにならないなら……ひと思いに殺っちゃえばいいんだよ』」

「ふ、ふふ……そうよね。この世で唯一ワガママを許される職業がアイドルだもの……」

 

 自称アイドルの瞳はハイライトを失い、渦巻き模様を描いていた。その顔は紅潮し、生暖かい吐息が漏れる。うっとりと刃紋を眺めていた目は、徐々に立香たちへと向いた。

 そんな視線を受けて、立香はぞくりと震えた。彼女は目にも留まらぬ速さでノアの背中に回り込む。

 

「リーダー! なんかあの変な置物がエリザベートさんを誘惑してます! 完全に特級呪物ですよねアレ!?」

「落ち着け藤丸。こういう時やることはひとつだろう───がっ!!」

 

 蹴撃一閃。ノアの右足が包丁の刃を粉々に打ち砕く。サンダルを履いているにしては威力が高すぎる気がするが、立香は深追いしないことにした。

 エリザベートの目から狂気の色が消え失せる。元々狂気じみた少女ではあるものの、やはり直前の言動はあのオブジェによるものだったらしい。

 彼女は青褪めた肌から冷や汗を流す。

 

「……ハッ! 私は今まで一体何を!? クソ動画を乱発したせいで炎上したり、黒化ビジネスに手を染めたあの記憶は夢だった……ってコト!?」

「いいえ、それは紛れもなく現実です」

「おい。アイドル気取りトカゲ娘、この特級呪物はどこで手に入れた。詳しく話せ」

「確かあれは炎上の対応に追われてた時のことなんだけど……」

 

 ある日、エリザベートは広大なネット世界に燃え広がる火の手を止められずにいた。何しろ、その火は消火器や消防車の放水で消せはしない。英霊とはいえ少女ひとりの手に負えるものではなかった。

 そんな彼女が取った最終手段はほとぼりが冷めるまで眠りにつくこと。株やFXで言う気絶投資法のメソッドである。

 その折、床についたエリザベートの夢枕に、神妙不可思議にして胡散臭い男が立っていた。

 

〝お聞きなさいエリザベート・バートリー。拙僧……ンンッ! 私は貴女の味方をしにやって参りました。貴女の心を苦しめる炎上を解決する方法を授けましょう〟

〝なんですって!? どうすればいいの!?〟

〝それはこの『なんちゃって聖杯くん』がご教授召されるでしょう。貴女に幸あれ!!〟

 

 そうして目が覚めた時、枕元には特級呪物ことなんちゃって聖杯くんが置かれていたのだと言う。

 第六特異点の激闘の裏でそんなことが行われているとは夢にも思わなかった立香は、苦笑と言うにはあまりにも苦々しい顔になる。

 

「それで、まんまと聖杯くんに洗脳されてああなったってことですね」

「ええ。しかもあの泥に触れたら黒くなるし、後でシャワー浴びないと……」

「リーダー、もしかしたらこの特異点と関係があるんじゃないですか? 聖杯くんにしても夢に出てきた胡散臭い人にしても、明らかに怪しいです」

「ああ、早くも核心に迫った訳だ。とりあえずそいつの居場所を炙り出すぞ」

「どうやってよ?」

 

 エリザベートの疑問に答えるように、ノアは聖杯くんを掴み上げた。

 

「聖杯くんはつまるところ呪いの塊だ。そして、おまえの夢に出てきた奴はこれをおまえに渡した。その時点で呪いは成立してる。つまり、呪詛返しの出番だ!!」

 

 ノアは聖杯くんにルーンを刻んだ。オーディンが得た原初のルーン。その内のひとつ、第六のルーンは掛けられた呪いをより強力にして術者に返す能力を持つ。

 呪いは術者と被術者の繋がりを辿る。それの恐ろしいところは、相応の繋がりさえあれば地球の裏側からでも対象を呪えることにある。だが、呪詛返しの場合はそれがそっくりそのままメリットに転じるのだ。

 久々にスカサハも納得するルーンの使い方だった。聖杯くんから飛蝗の群れのように泥が立ち昇り、鉄クズの塊になったステージ裏に殺到した。

 

「ちょっ、現代の魔術師が原初のルーン使えるとか聞いてな────ウギャアアアアア!!!」

 

 夏の青空に絶叫が轟く。

 考えるまでもなく黒幕だろう。立香たちはすかさずステージ裏に駆け寄った。

 そこでは、ノアを凌ぐほどの長身の男が地面に横たわっていた。呪詛返しの効果は凄まじく、聖杯くんの泥が彼の全身をぎちぎちと締め付けている。

 鼻と口までをも覆われているせいで、まともな呼吸ができていない。男は涙目で声にならない声をあげた。

 

「ンンンン! ンンンン! ンンンンンンンン!!」

「この目元、モノクロの髪の毛、全身から発するこの上ない胡散臭さ、間違いないわこいつよ!」

「黒幕の姿ですか? これが……」

「とりあえずそいつを縛り直すぞ。窒息されても困るからな」

 

 というわけで、彼らは泥をモップで拭き取って男を荒縄で拘束した。まるで時代劇の罪人である。彼の頭の上に聖杯くんを乗せると、ノアは冷たい声音で問う。

 

「おまえの名前は?」

「………………あ、安倍晴明です」

「今の絶対に嘘ついてる間ですよね。あ、のところで言い直しましたよね」

「嘘ついたら痛い目見るわよ。写真と一緒にあることないこと書き連ねてネットの海に放流してやるわ」

「嘘です! 本当は蘆屋道満と申します!!」

 

 蘆屋道満。どうやら彼でも炎上は怖かったらしい。その真名を聞いて、三人は顔を見合わせる。

 

「蘆屋道満って確か……」

「安倍晴明のライバル兼当て馬だな。アンパンマンに対するバイキンマンと言い換えても良い」

「え、じゃあライバルの名前を騙って評判を落とそうとしたの!? とんだ卑怯者じゃない!!」

「ゴフゥッ!!」

 

 エリザベートの鋭い言の葉に切り裂かれ、道満は盛大に吐血した。

 一応彼のフォローをすると、大抵の説話で晴明に負かされる道満だが、裏を返せば晴明に対抗できるほどの陰陽師は道満しかいなかったということでもあるだろう。

 また、彼は藤原道長に呪いをかけたことを晴明に見抜かれて都を追放される。江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃などで悪人のキャラ付けをされるのはそれに由来する部分が大きいが、民間伝承では持ち前の知識と術で民草を救っていたりもする。一概にバイキンマン扱いされるような人物ではないことは確かだ。

 しかし、今この場ではそんなことは関係なかった。

 

「蘆屋道満。正直、俺はおまえのことは嫌いじゃねえ。安倍晴明との呪術対決はよく知ってるからな。おまえの知識を全部俺に教えたら許してやる。ついでにそこのトカゲ娘を呪った目的も話せ」

「なんで私のことはついで扱い!?」

「そうですよリーダー! エリザベートさんのことはついでとしても、この特異点に来た理由を訊かないと駄目じゃないですか!」

「アレ? もしかして私無視されてる? 五回も出演したからって出番減らされてる?」

 

 Eチームマスターコンビの邪悪さに惑わされるエリザベート。彼女をよそに、道満は暗い闇のような微笑みを浮かべる。

 

「フフッ……こうなったら語る他ありませぬ。そう、聖杯くんをそこな竜人娘に授けたのはまさしく拙僧! この安穏とした特異点を恐怖の坩堝に陥れることが目的でありますれば!!」

「よし、じゃあおまえを倒せば万事解決だな。藤丸、あの放火魔女呼んでこい。こいつを薪にしてキャンプファイヤーするぞ」

「はい。えーっと、ジャンヌの連絡先は……」

「お、おやめなされ!! それはもはやヒューマンファイヤー、否、オシシ仮面なれば! まだ話は終わっておりませぬぞ! 拙僧がバラまいた聖杯くんがひとつだけなどと、何時申しましたかなァ!?」

 

 立香の端末を弄る手が止まる。差し当たっての窮地を脱した道満はすぐさま笑みを形作った。表情筋にジャイロでも仕込んでいるかのような速さだ。

 エリザベートは道満の胸倉を掴んで、がくがくと揺らす。

 

「なんですって!? 私みたいな被害者を増やそうなんて許せないわ! 今すぐ吐きなさい!!」

「ンンンンン! その絶望、実に甘露! 故に、貴方がたを更なる絶望に叩き落とすためお教え致しましょう! この島に仕込んだ聖杯くんは五つ! 晴明桔梗の陣の頂点に当たる位置にそれはあるのです!!」

 

 晴明桔梗、別名五芒星。魔術や呪術に用いられる紋様で、真っ先にこれを思い浮かべる者は多いのではないだろうか。

 つまり、道満はこの常夏の島に巨大な五芒星の陣を刻み、その起点となる五つの頂点に聖杯くんを置いたのだ。ライバルである晴明の印を悪用していることからも、彼への鬱屈した感情がうかがえる。

 その衝撃はノアや立香にも等しく伝播した。二人はあからさまにうつむき、強く拳を握り締めた。

 

「そ、そんなっ……だったら私たちはこれから島中を巡って────」

「────残り四つの聖杯くんを回収しなきゃならねえのか……くそっ!!」

「さらにもうひとつ! 聖杯くんは言わば時限爆弾……日没までに全てを集めなければ、それぞれが街ひとつを滅ぼすに余りある呪詛を振り撒くのです! さて、この蘆屋道満の計画を止め切れますかなァ!?」

 

 その時、マスターたちは小さく呟いた。

 

「「……めんどくさっ」」

「……………………ン?」

 

 道満は両目をしぱしぱと開閉する。

 この二人、今何かとんでもないことを口走らなかったか。最高潮にまで達していたテンションが停止し、思考がまっさらに漂白された。

 

「な、何と仰られました?」

「だから面倒くせえっつってんだろーが!! 残り四つもクソ暑い島中駆け回ってられるか! どう考えても尺が収まらねえんだよ!! せめて合計三つにしとけアホ陰陽師!!」

「そうですよ! こんな閑話でまともに計画立てるとか正気を疑います! せっかくり、リーダーと遊べると思ったのに、これじゃいつもと変わらないじゃないですか!!」

「この二人本当にカルデアのマスター!?」

 

 道満にはひとつの誤算があった。それはノアと立香が想像を絶するアホだということである。

 かの平安時代、京の都で好き勝手暴れた挙句、後始末を晴明に押し付けていた道満は他人に振り回される経験が少なかった。ロクデナシは得てして同族に弱いのだ。心理的には晴明が道満を振り回していたのだとしても。

 しかし、それはそれ。気が進まないとしても、聖杯くんは回収しなくてはならない。宿儺の指がひとところに集まっているようなものである。

 ノアは道満の縛めを解く代わりに、犬の散歩に使うような首輪を取り付けた。ドS七つ道具のひとつだ。

 四つん這いになった道満のリードを引っ張り、ノアは哮り立つ。

 

「とっとと呪物を集めて帰って寝るぞ! おら、次の場所に案内しろ!!」

「やめなされ! こんな変態プレイはやめなされ! 新しい扉を開いてしまいまする!!」

「私も行くわ! まだギャラも払ってもらってないんだから!」

「このアイドル……出番に貪欲すぎる!」

 

 ということで、一行は次なる目的地を目指して出発した。無論、道中で奇異の眼差しを向けられたことは言うまでもない。

 稀代のアホマスター二人に平安のバイキンマン、炎上系トカゲアイドルと、属性の大渋滞を起こしたパーティは島の北側に辿り着く。

 びゅう、と冷たい風が肌を撫でる。

 雲ひとつない晴天とは打って変わって灰色の空はしめやかに純白の雪を降らせ、吐く息もまた、白く色付いていた。

 眼前に広がるのは雪と氷で構成された街。家屋までもが透き通る氷で造られており、常夏の島の風情は跡形もなく消滅している。

 立香はガタガタと震える体を両腕で抱え、虚ろな目で呟いた。

 

「…………私たち、いつからさっぽろ雪まつりに来たんですっけ」

 

 道満は謎のしたり顔で答える。

 

「ここが第二の聖杯くんが眠る土地───『氷の皇女アナスタシアの極寒! ラーメン横丁』ですが?」

「いや常夏の島は!? あの眩しい太陽は!? サマーシーズンはどこに行ったんですか!?」

「休暇取って沖縄でサーフィンでもしてるのでしょう」

「返答がテキトーすぎるんですけど!!」

 

 頭に血を昇らせる立香の横で、エリザベートはただただ固まっていた。変温動物の悲しい性である。ノアは首輪の締め付けを強くしながら、

 

「いいから早く聖杯くんのところに連れてけ。時間食ってる場合じゃねえんだよ」

「急いては事を仕損じる。目的地はすぐ目の前です」

 

 一行は促されるままに視線を上げた。

 すると、そこにはまたもや氷で造られた巨大な館……もといラーメン屋があった。自重という概念を無視しているのか、マンモスを人型にしたような巨人の氷像が屋根の上に立っている。

 その巨人はこれまた大きな看板を掲げている。それにはデカデカと『らぁめん あなすたしあ』と何故かひらがなで書かれていた。

 もはやツッコむ気すらない。というか、もたもたしていたら凍死する。一行は店内に駆け込んだ。

 

「あら、いらっしゃい! 四名様でいいかしら」

「いえ、三人と一匹です」

「この変態プレイ中の陰陽師のことね?」

「人間とトカゲのハイブリッドの貴女のことでは?」

 

 雪の皇女の謂れに一切劣らぬ白髪の美人が、中華鍋を豪快に振り回してチャーハンを炒めていた。店内に立ち込める肉と胡椒の匂いが実に食欲をそそる。タオルを頭に巻き、エプロンを着用したその姿は中々堂に入っていた。

 見た目に反して店内は暖かかった。四人はいそいそとカウンター席に座る。立香はチャーハンに目を奪われつつ、アナスタシアに身を乗り出す。

 

「あの、ここに聖杯くんがあるって聞いたんですが」

「聖杯くん……ああ、あの無限包丁製造機のことね。もちろんあるわ。ただし、大食いチャレンジの景品としてだけれど!」

 

 そう言って、アナスタシアは一枚のチラシを差し出した。道満を除く三人はその紙面に目を走らせる。

 チラシにはA4の幅を埋め尽くすかのような特盛りのラーメンが印刷されていた。

 

「〝『イヴァン雷帝のペタ盛りラーメン』を完食したお客様に豪華景品をプレゼント〟…………ですって。ちなみに複数人でひとつのラーメンを食べることはできないらしいです」

「ふざけてんのか。豚の餌に等しいぞこんなもん」

「というか、ペタ盛りって何よ? 平たく盛ってるみたいでもないし」

 

 エリザベートは首を傾げた。待っていたとばかりにアナスタシアは胸を張る。

 

「ペタとは国際単位系における接頭辞のひとつで、基礎となる単位の千兆倍の量であることを示す────要するに、めちゃくちゃ多いという意味よ!」

 

 ふんす、と氷の皇女は誇らしげに語る。立香は感嘆して両手を打ち鳴らす。

 

「おお、まるでウィキペディアで調べたみたいな解説……!!」

「感心してる場合か。とりあえずこの陰陽師に食わせるぞ」

「おおっと、それはいけませぬ。拙僧が試練を乗り越えたところで、聖杯くんは貴方たちのモノにはなりませぬので。それでは元の木阿弥ですぞ?」

「こんなくだらねえことにどこまで理屈付けてんだ! 意外と真面目か!?」

「リーダー、どうどう」

 

 立香は文句を垂らすノアを諌める。彼女とて大食いチャレンジに挑戦したくはないが、そんな泣き言を言っている場合ではない。

 気乗りしないマスターコンビに反して、やる気を見せたのは意外にもエリザベートだった。

 

「大食い系は数字を稼げると聞いたことがあるわ! このラーメンをみんなで完食したところをアップして、今度こそバズってみせるのよ!」

「天丼になりますけど、本音は?」

「───これで炎上を上書きしたいぃぃぃ!!」

「駄目だこのアイドル。早くなんとかしないと」

 

 エリザベートに冷たい視線を向ける立香。炎上とはかくも人の心に傷を残すのだ。ノアは彼女の肩に手を置いて、首を左右に振る。

 

「藤丸、人の意気込みを邪魔してやるな。三人で完食、良い響きじゃねえか。俺が一番好きな言葉、友情努力勝利を体現してる。ここで戦うのも悪くない」

「……そうですね。私が間違ってました。エリザベートさん、誰かひとりでも攻略できればいいんです。みんなで頑張りましょう!」

「ふ、二人とも……!! これが友情という概念なのね、今なら何杯でも食べられる気がしてきたわ!!」

「ふふふ、闘志は十分ね。さあ、このアナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァが注文をうかがいましょう!」

 

 彼らの目に迷いはなかった。

 たとえ他の仲間がラーメンの前に膝をつこうとも完食してみせる。その気概に満ちた勇者たちを止めるものは何もない。

 いざゆかん、決戦へと────!!

 

「私はこの『イヴァン雷帝のペタ盛りラーメン』に挑戦するわ! 二人は!?」

「「チャーハンで」」

「なんで!!?!?」

 

 立香とノアは平坦な口調で述べる。

 

「「だってチャーハンおいしそうだったから……」」

「せめてラーメン頼みなさいよ! 最初から私を人柱にするつもりだったのね!?」

「ペタ盛り一丁にチャーハン二丁ね。ヴィイ、お願い!」

「ま、待っ」

 

 エリザベートの静止も虚しく、ロマノフ王朝の使い魔・ヴィイが厨房に飛び込む。それから数秒経たずして注文の品をカウンターに並べた。

 二連チャーハンからの超大盛りラーメン。それは圧倒的な威容をもってエリザベートの前に立ちはだかった。視界を埋めるモヤシの山は大陸の峻厳な雪山を想起させ、その下に胎動する太麺とチャーシューはマントルの蠢動に等しい。

 対して、少女に与えられた道具は一対の箸とレンゲのみ。無酸素かつ普段着でロシアのコーカサス山脈最高峰エルブルス山を踏破せよと言っているようなものだ。

 だが、エリザベートはそれをやる。

 今更後に引けぬヤケクソじみた想い。

 先の見えない炎上から脱する希望。

 そして、全てのラーメンを愛する人のために。

 数十分後。

 山はもう、消えていた。

 エリザベートは粛々と立ち上がる。

 

「トイレ、どこ」

「つ、突き当たりを右よ」

 

 彼女は何も言わずにすたすたと歩いていく。

 その背中はまるで、歴戦の英雄だった。

 トイレの扉が強く閉められる。その直後、

 

 

 

 

「おぼおろろろろろろろ!!!」

 

 

 

 

 ────第二号聖杯くん、回収。

 後日、エリザベートがSNSにこのことをアップしたところ、多大な反響を呼び、炎上は終結。彼女は大食い系アイドルとしての第一歩を踏み出すことになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 所変わって、島内中心部。

 近代的な街並みの中に、いくつもの露店が軒を連ねている。わたあめや射的といった定番の店もあれば、かなり怪しげな占い屋もあるバリエーション豊かな市場だ。

 ここは島の中心。聖杯くんの被害が一切ない、約束された勝利の地である。それ故、マスターたちが島を駆けずり回っているとも知らずに、ペレアスは露店に立っていた。

 それがノアと立香よりも幸福かと言われれば、そんなことはないのだが。

 立ち込めるソースの香り。熱い鉄板の上で踊る麺と肉。それらを色とりどりの野菜が飾り立てる。

 そう、ペレアスは今────焼きそばを焼いていた。

 

「……なんでオレが焼きそば作ってんだァァァ!!!」

 

 蒼天を貫くが如き咆哮。そう言いながらも、彼の手は正確無比に焼きそばを量産していた。私情と行動は切り離す騎士の悲しい習性だ。

 猛然と働くペレアスの背後には二つの人影。その一方は言わずと知れた円卓最強の騎士ランスロットだった。

 湖の騎士は苛立たしいまでの爽やかな笑顔で、ペレアスの左肩を叩く。

 

「ふふふ、何を言っているのですかペレアス。ここは我らが王の勅命によって開かれた店、『円卓やきそば』です。ならば貴方が焼きそばを作るのは当たり前でしょう」

「円卓と焼きそばに繋がりがねえだろうが!! お前は生前に一度でも焼きそばを口にしたことがあんのか!?」

「いいえ、これは理屈ではありません。焼きそばの味とは人類の魂に刻みつけられた圧倒的な旨味───!! 連綿と受け継がれてきたものなのですから。おっと、ここは連麺と言うべきですね。焼きそばだけに」

「冗談がくだらねーんだよ! お前の穴という穴にソースぶち込んでやろうか!?」

 

 ピキピキと額に青筋を立てるペレアス。空いた右肩に、またしても手が置かれる。

 

「貴方はいつも騒がしいですが、今日は特別ですね。まあ、爛々と輝く太陽の下では仕方ありません。しかも、そこかしこに水着の女性がいるのですから……おっと、ペレアスは既婚者でしたね」

「お前もそうだろうがガウェイン!! つうか前回良い感じで死んだ癖に、すぐ登場してくるとか恥ずかしくねえのか!?」

「なんと野暮なことを言うのです。この時空では一切のしがらみなく交流し合えるというのに。再会を喜ぶ気はないと……?」

「こんな形じゃなかったら少しは喜んでたがな! 風情ってもんを考えろ! 頼むからもう少し死んでてくれ!!」

 

 ……というのが、現在の露店『円卓やきそば』の面子だった。ちなみにアグラヴェインは早々に帰り、モードレッドはサーフボード片手に海に繰り出して行ったらしい。

 堂々と先輩ムーブをかましてくるランスロットとガウェインに、ペレアスの怒りは急速に上限に達しつつあった。いくら歳を重ねようと、ムカつくものはムカつくのだ。

 二人の手を振り払い、深呼吸で精神統一を図る。

 肺の空気を一片まで出し切って、ペレアスはとりあえずの平静を取り戻した。

 

「それで、本当に王様がこんな店開けって言ったのか」

 

 ランスロットはこくりと頷く。

 

「ええ、王はこう仰られました。〝私は閉店間際の水分という水分を失って、しなしなになった焼きそばが好きです〟と。故に我ら、命を賭して王の望みに応える所存! 必ず王にしなしなの焼きそばを献上するのです!!」

「どんな趣味してんだあの人……というか体の良い厄介払いだろ! そもそも王様どこ行った!?」

 

 ペレアスが何の気なしに放った質問。それを聞いた瞬間、ランスロットとガウェインは感情を急転直下させて、大人しくなる。

 その瞳を満たす感情は悲哀。切り結んだ唇は僅かに震え、目線をどこかに逸らしている。あまりの変わり身に、ペレアスは眉をひそめた。

 ガウェインは落ち込んだ声で言う。

 

「───実はこの店を設営した時、王はまだおられたのです。しかし、何やら見知らぬ赤毛の少年がやってきて、彼とともに食い倒れの旅へお行きになられたのです」

「…………別に良くねえか? 王様がついてくなら悪い子じゃないだろ」

「問題はそこではありません。少年と並んで去っていく背中から見える王の、僅かに赤らんだ横顔───あれは完全に乙女でした! 私たちが見たこともない顔でした!」

「よし、分かった。止まれ。それ以上余計なことを言うな」

 

 顔面を両手で覆い、泣き伏せるガウェイン。そんな彼が言葉ひとつで止まるはずもなく。

 

「何よりも罪深きは私の心……主君がどこの馬の骨とも知れぬ男に私も知らない特別な表情を向けているのを目の当たりにし、その、結論から言うと正直興奮しました……!!」

「お前もかよォォォ!! ランスロットと同じ流れじゃねえか! ただ新しい性癖見つけただけじゃねえか!!」

 

 ペレアスはガウェインをげしりと蹴り飛ばす。一部始終を静聴していたランスロットは腕を組んで首肯していた。

 

「ガウェイン。ようやく貴方もこの境地に至りましたか。私とペレアスは生前に達していましたが」

「待てお前らの性癖にオレを巻き込むな」

「ええ、我が身の不甲斐なさを思い知りました。我ら産まれた時は違えど、性癖は同じということですね」

「おいマジでもう一回斬っていいかコイツ!? オレは純愛派なんだよ、劉備と関羽と張飛とオレに謝れ!!」

 

 ペレアスは調理中の焼きそばを掬うと、ガウェインの顔面に叩きつける。熱々の麺と具材の衝突により、さしもの太陽の騎士も悶絶せざるを得なかった。なお、食べ物を無駄にしてはいけない。

 ランスロットは出来上がった焼きそばをパックに詰めながら口を動かす。

 

「そういえば、義母上はどちらに?」

「ああ、『良妻賢母の会』とかいうのに出席してるらしいぞ」

「ほう、とても良い響きですね。願わくば私も混ざりたいものです。どのような婦人方が?」

「確か玉藻の前、ブリュンヒルデ、アルテミス……」

「あ、やっぱりやめておきます。どういう集まりか大体分かったので」

 

 円卓きってのプレイボーイ、ランスロットをもってしても手に余る面子だった。古今東西ヤンデレ選手権でもやっているつもりなのか。そんな感想が喉元にせり上がったが、義母と後輩の手前それは言えなかった。

 ガウェインは顔面に投げつけられた焼きそばをもさもさと頬張る。太陽はばっちり中天、絶好調の彼に隙はない。

 太陽の騎士は黙々と焼きそばを増産するペレアスに、ニコニコと笑いかける。

 

「それでは男三人水入らずで話ができるのですね。是非とも性癖について語り合いましょう」

「いや、オレはこれ作り終わったら上がるからな」

「……はい?」

「嫁と『紫式部と清少納言のWサイン会』に行く予定があるんだよ。その後はプールで泳いでディナーっつう完璧なプランだ」

 

 幸せ満載な計画を語り、ペレアスは焼きそばに青のりを振りかけてパックに詰めた。背後の二人が凍りついていることには全く気がついていなかった。

 額に巻き付けていた鉢巻を外し、エプロンを脱ぐ。ペレアスは夏の陽射しのような眩しい笑顔を輝かせる。

 

「じゃあな。王様が来たら呼んでくれ。その時は顔出しに来────」

 

 第一歩を踏み出そうとした両足に、ランスロットとガウェインが飛びついた。

 屋台を盛大に粉砕しながら倒れ込む。空中に舞い上がった焼きそばの雨が彼らの頭上に降り注いだ。

 

「……ぐああああああ!! いきなりなにしてんだ!!?」

 

 ペレアスは怒りと困惑を配合した顔で振り向く。足にすがりつく湖の騎士と太陽の騎士は目の端から血涙を流し、モルガンの呪いにも匹敵する濃密な瘴気を発していた。もはや英霊ではなく悪霊である。

 ランスロットはわなわなと震えて、

 

「行かせませんよペレアスゥゥ……!! 貴方はここで永遠に焼きそばを焼き続けるのです!」

「ふざけろ馬鹿!! こんなとこで焼きそばなんか売ってられるか! ガウェインも放せ、三倍の力を無駄にすんじゃねえ!!」

「ククク、そんな説得で私が止められるとでも? 貴方はなんだかんだで円卓屈指のリア充、カチグミ・ナイト・オブ・ラウンズ!! せめて今だけは負け組になっていただきます!!」

「お前らそれでも騎士か!?」

 

 カルデアでは不憫な扱いのペレアスだが、悲劇非業まみれの円卓内では間違いなく勝ち組のひとりである。そんな彼に対するガウェインとランスロットのひねくれた感情は根深かったようだ。

 ペレアスは両足に力を込めるが、びくともしない。いっそ剣で斬り落とす選択肢も脳内に浮かんだその時、彼らを冷たい目で見る二人の女性がいた。

 すなわち、マシュとジャンヌであった。常夏の島らしく水着にフォームチェンジした彼女たちは、それぞれ盾と旗を構える。

 

「人混みの往来でアホやってますね。それでも円卓の騎士ですか、ランスロットさん」

「こいつらがアホなのは今に始まったことじゃないでしょう。普通に軽蔑しますけど」

 

 唾でも吐くかのような口調。しかし、ランスロットとガウェインにはご褒美以外の何物でもなかった。

 彼らは即座に起き上がり、きらりと白い歯を光らせて詰め寄る。

 

「また会えましたね、マシュ。私は最期の瞬間まで貴女の勝利を信じていましたよ。さて、父娘水入らずで焼きそばでも食べましょう」

「そちらのお嬢さんもご一緒にどうですか? ペレアスの作った焼きそばは格別ですよ。……おっと、屋台が崩壊していますね。ペレアス、建て直してください」

「自分でやれ」

 

 ナンパ騎士たちの脳天にペレアスの鉄拳が落とされる。頭を抱えてうずくまる円卓の騎士を尻目に、マシュとジャンヌは廃墟と化した屋台を覗いた。

 

「焼きそばを食べるも何も、辺りに散乱しまくっているのですが。控えめに言って食への冒涜です」

「円卓やきそばって……他にもっとあったでしょ。何の関わりもないじゃない」

「我ら円卓の物語に正典はありません。どんな話でもバリエーションのひとつとして受け容れられるでしょう。故に! 円卓の騎士が焼きそばを焼いていたなら、それを事実にしてしまえるのです! 私の異名が太陽の騎士でなく焼きそばの騎士となる日も近いでしょう……!!」

「焼きそばの加護で力を三倍にするんですか!? ポパイ的なヒーローにでもなるつもりですか!?」

 

 マシュは絶句した。太陽が昇っている間だけの加護よりも、焼きそばを食べてパワーアップする方が使い勝手が良さそうではあるが。

 ジャンヌは呆れに呆れる。実物の有名人を見てがっかりする現象に近い。無事な焼きそばだけ奪って行こうかと考えた時、通りに悲鳴が湧き上がる。

 大通りの向こう側から全力疾走してくる巨大な狼。その上に黒衣を纏った首無し人間が騎乗している。両脇にはだばだばと泥を吐く特級呪物を挟んでいた。

 通行人を次々と跳ね飛ばし、狼と首無し人間は一瞬で駆けていく。その後ろでは、見知った顔が息を切らして猛追していた。胡散臭い陰陽師風の男がリードで引きずられている。

 

「待ちやがれェェェ!! それは俺たちの聖杯くんだ! 皮剥いで煮込んでやろうかクソ犬!!」

「さ、さっき食べたチャーハン吐きそう……おやつカルパスあげるから止まって!!」

「ンンンンン! 首、首がもげるゥ!!」

 

 マシュたちに気づく余裕もないのか、彼らは脇目も振らずに過ぎ去っていった。

 荒廃した大通りに砂混じりの風が吹く。

 ぽつねんと取り残された気分になったジャンヌは小さく言う。

 

「……ナニアレ」

「先輩とリーダーと……変態ですね」

「立香、私たちと別行動してアイツのところに行ったのね」

「まさか───いえ! わたしは認めません! 断じて認めませんよ! わたしの先輩がそんなはずはありません……!!」

 

 マシュは頭を抱えてしゃがんだ。ガウェインとランスロットは自然に両隣に座り込んだ。

 

「「ようこそ、こちらの世界へ……」」

「ペレアス。こいつらアホなの?」

「間違いなくアホです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Eチームマスターたちの聖杯くん回収戦争は最終盤に差し掛かっていた。

 楽な戦いなど一度もなかった。ペレアスが焼きそばを焼いている間、島の各地では想像を絶する過酷な戦いが繰り広げられていたのである。

 第三号聖杯くんの在り処では『シグルドとジークフリートの邪竜討伐体験ツアー』に参加してファヴニールが守る聖杯くんを盗み取ったり。

 第四号聖杯くんの在り処では『狼王と上に乗ってる変な人のワンワンパニック』に挑んで聖杯くんを取り損ねた挙句脱走されたり。

 その結果、脱走した狼には一年分のおやつカルパスを献上することで、上の人から聖杯くんを受け取ることができた。その出費によって立香とノアの財布が氷河期を迎えたことは言うまでもない。

 道満が最後に指し示した場所は透き通るような海を一望できる砂浜だった。疲れ果ててボロボロになった立香とノアは、肩を落として歩く。

 

「長く苦しい戦いでしたね……邪竜討伐体験ツアーで、銀髪の男の子がファヴニールに変身した時は腰が抜けるかと思いました」

「結局あの犬の上に乗ってたやつは誰だったんだ。首無しライダーとか都市伝説出身か?」

 

 二人の背中は煤けていた。聖杯くんを集めるために島中を奔走していたのだから当然ではあるが。砂浜ということで喜色に満ちた周囲の人々とはまるで対照的だった。

 太陽は随分と下がってきているものの、未だ日没には至っていない。最後の試練を達成する時間は十二分に残されている。

 長らく四つ足歩行をしていた道満は久々に二足歩行に戻る。首輪とリードをいとも容易く引き千切り、彼は拍手を打った。

 

「フフ、フフフフッ! 見事四つの聖杯くんを集め、最後の地に辿り着いたこと、賞賛致す! こうなってはどの道、晴明桔梗の陣は成らず───まさしく拙僧の敗北と言えましょう!」

「ようやく負けを認めやがったな、平安のムックが! うだうだ言ってねえで聖杯くんを渡せ!!」

「平安のムックなどという不名誉な謂れはやめなされ! 拙僧はあの不人気な赤き畜生に非ず、稚児の人気を恣にする緑のガチャピンなれば!」

「ハッ! そりゃあ妄言にも満たねえ戯言だ! おまえ自身の血で赤く染め上げて正真正銘の不人気に改造してやる!!」

「とりあえず二人はムックに謝ってくれません?」

 

 ノアと道満は殺気に塗れた視線を火花の如く散らす。

 ふざけきってはいるが、相手は安倍晴明と壮絶な呪術戦を演じた怪人、蘆屋道満。数々の逸話を有する日本有数の呪術師であり陰陽師だ。油断できる要素など微塵も存在しない。

 道満は咒を書き付けた数枚の札を取り出す。彼の足元から地割れが走るように禍々しい魔力が噴出した。

 

「いざ、最終戦! 出でよ決戦のバトルフィールド────ハアッ! 急急如律令!!」

 

 異常な振動が砂浜を激しく揺さぶる。

 道満とノアの間にバレーボール用のネットが地中から現れ、面妖な模様を施されたボールがどこからともなく落ちてきた。

 怪人蘆屋道満は両手を掲げて、

 

「『第五回聖杯くん争奪! チキチキビーチバレー対決』ッッ!!」

 

 砂浜じゅうに響き渡る宣言。立香とノアは思わず目を白くする。最終戦だというのに、限りなくほのぼのした対決内容だった。

 しん、と場が静寂に包まれる。周囲から向けられる目線が痛い。

 立香は勢い良く挙手した。

 

「し、質問があります!」

「ンンンンン! 受け付けましょう!」

「ビーチバレーって二人組でやるスポーツですよね。そっちはひとり足りなくないですか」

「御心配には及ばず! 二人目はこれから喚び出すのです! 貴女も日の本の人間ならば知っているであろう、あの大怨霊を!!」

 

 魔力の込められた札が茜色の空に散りばめられる。

 その数は先程とは比べ物にならない。

 まさしく空を塗り替えるが如き膨大な物量。

 故に、符に宿る魔力も絶大。妖しき光を放つ無数の星屑は、ただそこに在るだけで空間を歪めていた。

 かつてない力の胎動。

 紡がれる咒は天上へと。

 どくり、と。形成された召喚陣が脈動する。

 ───ソレは、時の朝廷への反逆者。

 東国にて反旗を翻し、新たな皇を名乗った武人。

 死してなおその憎悪は醒めやらず。

 いくつもの伝説を遺した怨霊の王。

 その名は─────!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───優雅たれ」

「誰だァァァァァ!!!!」

 

 顕現を果たしたのは、優雅としか言いようがないおじさんだった。召喚条件の違いか、普段の真紅の礼服ではなく漆黒のスーツを着こなしている。

 がっくりと崩れ落ちる道満。日本三大怨霊の一角を召喚したかと思えば、知らないおじさんが出てきたのだ。それもやむなしであろう。

 深い絶望と落胆に沈む彼とは反対に、ノアと立香はシリアスな顔つきでおじさんを見据える。

 

「さすが蘆屋道満───!! 優雅なおじさんを召喚してみせるとはな。これで戦力は五分五分……いや、優雅な分あっちの方が有利か」

「優雅なおじさんは人類史最大級の優雅さを誇りますからね……しかも、いつもと雰囲気が違います。優雅は優雅でも優雅じゃない優雅というか」

「優雅がゲシュタルト崩壊してきたのですがァ!?」

 

 道満の雄叫びを無視して、ノアは考察を述べた。

 

「組んだ術式、もしくは聖杯くんの影響だろうな。あのおじさんは俺たちが知るおじさんじゃねえ、優雅の方向性が反転した状態───言うなれば、優雅なおじさんオルタだ!!」

「需要がなさすぎませんかねぇ!!? それならば拙僧がオルタ化した方がいくらかマシというもの!!」

 

 優雅なおじさんオルタはボールを掴み、サーブを行う位置まで移動する。勝手に先行を取っていることに関して、彼に限って文句を言う人間はいない。

 道満は渋々位置につく。真夏のビーチにスーツでやってくる見知らぬおじさんに後衛を任せることは不安でしかなかった。

 優雅なおじさんオルタはボールをじっと見つめて囁く。

 

「コトミネ……コロス……」

「いやだから誰ェ!?」

 

 道満の叫びとともに、おじさんはサーブを放った。それは相手の反応を置き去りにし、立香の足元をバウンドしてコートの外に飛んでいく。

 バレー部員としての自負を粉々に打ち砕くような一撃。背筋に悪寒が走り抜ける。

 

(速い! 優雅すぎてまったく反応できなかった!)

「競技の趣旨が変わっているのですが!?」

「ナチュラルに心を読むな」

 

 道満とおじさんのミスマッチはあったものの、勝負自体は彼らの優勢で進んだ。

 ビーチバレーは1セット21点先取。これを2セット取るまで続けるのである。細かい攻防をいちいち描写していては何文字あっても足りないのだ。

 そんな訳で2セット目。スコアは10対20。Eチームマスターズは窮地に立たされていた。そのほとんどが優雅なおじさんによる得点である。

 ここまで来ると道満のおじさんへの不信感も拭えてくる。二人は一蓮托生、比翼連理と化しつつあった。

 

「フフフフフ! この蘆屋道満、どうやら神引きをしてしまったようですねえ! カルデアの者共よ、貴方がたは我らに手も足も出ぬという絶望を刻みつけられながら敗北するのです!!」

 

 果てしなく調子に乗った笑い声が響いていく。道満とおじさんは優雅にハイタッチをキメていた。非常に神経を逆撫でられる光景である。

 立香は歯噛みして、頬の汗を拭った。

 

「くぅっ、どうしましょう。このままじゃまずいです!」

「焦るな。俺には一発逆転の秘策がある。キマればどんな点差があろうが俺たちの勝ちだ」

「リーダーのことだからやろうとしてることは分かりますけど……私はどうすれば?」

「次のサーブを全力で防げ。後は俺がやる」

 

 そうして、両チームは向かい合う。

 空中に白球が上がる。追随しておじさんは優雅に跳んだ。

 優雅なおじさんとの実力差はもはや語る必要もない。

 ここを外せば負ける。

 けれど、そんなプレッシャーは無いに等しかった。

 仲間が任せたと言うのだから、自分はそれに応えるだけでいい。

 故に、立香は淀みなく動くことができた。優雅に打ち出されたボールを、彼女は揃えた両腕で泥臭く跳ね返す。

 ノアは既に空中で待ち構えていた。その右手には帯電する鎚。さらに、右手は鋼鉄の手袋に覆われていた。

 ノアが掴んだ無属性魔術と投影魔術の混合。再現された武具は北欧神話最強の武神が有する武器と、それを扱うための道具。

 空に舞うボール目掛けて、ノアは雷電を帯びた鎚を振り抜いた。

 

「『雷神の鎚(ミョルニル)』!!」

 

 莫大な熱と雷が弾け、相手コートに球が落ちる。

 ノアの秘策。それは相手を戦闘不能にして強制的に勝利するというものだった。

 それを迎え撃つ道満は冷たく微笑んだ。

 

(愚か! 実に愚かなりノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド!! 威力は目を見張るが、拙僧に掛かればこれを凌ぐ手など幾千万も思いつく! 我が呪術を用いて、その傲慢ごと貶めてくれようぞ!!)

 

 呪符に魔力を浸透させる。

 その瞬間、彼のつむじに矢文が突き刺さる。

 結び付けられた紙が解け、目の前で開かれる。そこにはただ一文、

 

〝あのSMプレイはどうかと思う〟

 

 とだけ書かれていた。

 ぶちん、とこめかみの血管が切れる。

 迎撃用の術式を編むことも忘れて、激しく叫んだ。

 

「────せっ、晴明ェェ!! 貴様、貴様貴様貴様ァッ!! いつから見ていたァァァ!!!」

 

 空間を引き裂くような雷撃の球が直撃する。

 蘆屋道満の対魔力はAランク。たとえこれほどの一撃であっても、彼には決して通用しない。が、ボール自体は神秘を宿しただけの物理攻撃だ。これを軽減することはできない。

 顔面に球が打ち込まれる。着弾とともに雷電が拡散し、優雅なおじさん諸共吹き飛ばした。

 黒焦げになった相手コート。ノアは暫時視線を注ぎ、そして切る。Eチームマスターズは手のひらを打ち合わせた。

 

「これが優雅な勝利だ───!!」

「黙祷を捧げましょう。優雅なおじさんオルタのために……」

 

 で。

 全ての聖杯くんを回収し、平和が取り戻された常夏の島。無事日没を迎え、満天の星空が広がる砂浜で宴が開かれていた。

 聖杯くんの処遇については、カルデアの倉庫で最厳重態勢で収容されることになった。収容違反が起きた場合、ただちにサーヴァントたちが駆り出される手筈になっている。クラスは現時点ではSafeといったところだろう。

 今回の騒動の解決を押し付けた元凶であるロマンは夜になってようやく島を訪れた。上手い話には目がないダ・ヴィンチちゃんと所詮食欲には勝てないフォウくんも同行している。

 パチパチと火が弾ける。上に置かれた鉄板には見ただけで高いと分かる肉が脂を滴らせていた。

 今回まったく登場がなかったダンテは聖杯くん回収戦争のことを聞いて、

 

「そんなことがあったんですねえ。私は『文学者の集い』に参加していたのでさっぱり知りませんでした。マシュさん、こちらコナン・ドイルさんのサインです」

「本当ですか!? ありがとうございます! 必ず家宝にします!!」

「それと、ジャンヌさんには中原中也さんのサインを……」

「ふぅん、普段役に立たないアンタも中々やるじゃない。褒めてあげます。重力を操って戦う姿がイイのよね」

フォウフォフォウ(それ別の作品ですよ)?」

 

 立香とノアは肉を貪りながら、恨めしい視線をダンテに送る。奴は出番がなかったくせに唯一真っ当にこの島を楽しんでいたのだ。

 悪辣な感情をひしひしと感じつつ、ダンテは某NERV総司令官のように手を組んだ。

 

「…………ところで、道満さんと私の口調が被ってません!? 絶対に会いたくないんですが!」

「どこがだよアホ」

「何を言うのですペレアスさん! 私は嫌ですよ、キャラを喰われてフォウさんのように出番が減るのは!!」

フォフォウ(ぶっ飛ばすぞ)

 

 フォウくんはダンテの頭に飛び蹴りをかまし、テーブルに叩きつける。

 ダンテの頭部は板の裏側にまで突き抜けていた。ダ・ヴィンチちゃんとロマンは彼を引っこ抜く。

 

「まあまあ、蘆屋道満は倒したんだろう? どこかのアイドルじゃあるまいし、再登場なんてしないさ。彼の呪術は面白そうだけどね」

「うん、その言葉でとてつもなく嫌な予感がしてきたぞボクは」

「あ、そうだドクター。ひとつ聞きたいことがあるんですけど。ちょっと場所変えていいですか」

 

 立香は唐突に切り出した。ロマンは要領を得ないながらも頷き、二人は距離を取る。

 

「その、ドクターはリーダーがカルデアに来るまでのことを知ってるんでしたっけ」

「うん。曲がりなりにもカルデアの指揮官だからね。彼のことはラプラスを使って調べてある」

 

 それに、と言葉を区切る。

 

「実は第四特異点の後に、彼から身の上話を聞いたんだ。だから、ボクは全部の事情を知っていた。黙っててすまない」

「謝らなくていいですよ。その……少しだけあの人の話を聞かせてもらえませんか」

 

 卑怯だとは思いつつも、それを口に出すことは止められなかった。

 彼のことをもっと知りたい。

 その衝動に嘘を吐くことなんてできない。

 ノアトゥールという人間がカルデアに来た経緯。その全てを知る男は、優しく微笑んだ。

 

「……その必要はないかな。立香ちゃんが訊けばきっと、ノアくんは教えてくれるよ」

「…………そうですかね?」

「うん。そうだよ。尻込みする気持ちは分かるけど────勇気を出すのはキミの得意技だろう?」

 

 彼の目は、どこか暗かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 島のどこか。

 鬱蒼とした熱帯林のど真ん中で、彼は目を覚ます。

 

「フ、フフフ、フフフフフフゥゥ……」

 

 特徴的な笑い声。その声音は思わず身震いするほどの不吉さを伴っていた。

 ───許してなるものか、晴明。そしてカルデアのマスター。

 たとえ何度もあの男に負けたこの身なれど、敗北の苦渋はいつだって同じ味だ。

 

「なればこそ、なればこそ! なればこそォ! この味、必ずや奴らに与えてみせようぞ!! 知恵の女神より授けられた力に手を染めたとしても!!」

 

 使えるものはすべて使う。

 自分の力だけで勝つ。そんな綺麗事にこだわっているのが間違いだったのだ。その論理は武人のモノであって、外法を司る呪術師のモノではない。

 漆黒の森に、彼は宣言する。

 

「我こそは最後の『暗黒の人類史』───この蘆屋道満、恩讐の彼方より舞い戻ってみせよう!! フフ……ハハハハハハッ!!!」




・ベイリンのステータス
クラス:バーサーカー
真名:ベイリン
属性:中立・中庸
ステータス:筋力 A+ 耐久 A+ 敏捷 A+ 魔力 C 幸運 E 宝具 A++
クラス別スキル
『狂化:A』……バーサーカーのベイリンは自分の理念でしか動かない。一応忠誠や親愛や友情という概念はあるので、それに従うこともある。完全な自由主義。本能と理性が一体化した異常な精神性により、意思疎通は可能。セイバーやランサーのクラスで召喚されると多少マシになる。どのくらいマシになるかというとデフォで敬語が使えるようになる。性格が絶望的に騎士に向いていない。
固有スキル
『無窮の武練:A+』……円卓結成以前から初期において、最強を誇った武芸の手練。あのマーリンが諧謔なしで褒め称えたほどの技量を誇る。ベイリンとほぼ相討ちになった弟のベイランもかなり強いが、このスキルは持っていない。対戦相手が弟なのではないかという疑念があったため、ベイリンは意図的に力をセーブしながら戦っていた。
『勇猛:A+』……精神干渉を遮断するスキル。また、格闘ダメージを向上させる。個我を突き詰めたその有り様の具現化。と言えばかっこいいが、とてつもなく自己中ということ。
『心眼(偽):A』……第六感による危険予知。戦闘の天才たるベイリンは生まれつきこの能力を有していた。姿の見えない騎士・ガーロンとの戦いでさらに磨かれ、特に魔術に対しては未来予知レベルの反応を発揮する。
宝具
『雷光耀う勝利の剣』
ランク:A+ 種別:対城宝具
 エクスカリバー・コールブランド。湖の乙女(末妹)が管理していた聖剣。真名解放によって例のごとくビームを撃つことができる。ベイリンの場合は掬い上げるように撃つ。コールブランドとはエクスカリバーの別名。エクスカリバー、ガラティーン、アロンダイトに続く第四の聖剣。
 ベイリンの死後はマーリンがこの剣の柄を取り替え、『最も優れた騎士にしか抜けない剣』となった。その後も愛する者を殺す呪いはあったのだが、絶対聖杯見つけるマンのギャラハッドに剣を抜かれて解呪されてしまう。聖騎士は格が違った。
 マロリー版ではこの剣がランスロットの剣ということになっている。最も愛する男を殺す呪いがかけられているので、ランスロットがガウェインを手にかける伏線になっている。
『輪廻の紅鎧』
ランク:B 種別:対人宝具
 エンドレスペイン。元はベイリンの弟、ベイランが決闘の際に着ていた鎧。装備者の生命力を高め、魔力を送り込むことで一時的に筋力と耐久のステータスを上昇させる。この鎧は殺された者から殺した者へ、次から次に持ち主を変える呪いが掛けられており、ベイリンを倒した者は強制的に鎧を移される。ベイリンは弟を殺した罪を戒める意味で常に鎧を着ていたが、脱ぐことはできる。が、戦闘時になると自動的に出てきて装備される。ペレアスに自分を殺させて鎧を移した。
 人の旦那を勝手に呪うとか何考えてんだ?(湖の乙女談)
 聖剣に呪いを掛けるとかお前の妹何考えてんだ?(ベイラン談)
『光絶つ運命の槍』
ランク:A++ 種別:対国宝具
 ロンギヌス・カウントゼロ。ベイリンがペラム王の城で手に取った、神の子の肉体を貫いた槍。三つの国を滅ぼし、ペラム王を不具にしてしまうほどの威力を持つ。三つの国を滅ぼしたと言うとキャメロットにも被害が及んでいそうだが、ペラム王の城は異界にでもあったのだろうか。
 パーシヴァルのように使いこなすことはできない。というのも、ベイリン版ロンギヌスは手にした際に降り注いだ神罰を再現するものであり、一度の召喚に一度限りの使用しかできないからである。その性質上、拘束もなく威力は絶大。本編では聖都の壁を一撃で打ち破った。
 ベイリンが聖槍を手にした時に呪いが降り掛かったのは、聖具を武器として使ったからだと言われている。ペラム王の城で追い詰められたベイリンはやむを得ずこの槍を手に取ったのだが、そんな言い訳は通用しないらしい。
 私も武器として使いまくってるのですが大丈夫なんですかね……!?(パーシヴァル談)
 ベイリンとマーリンは何かと関わりがある。どちらも特に嫌がらせをし合ったりしている訳ではなく、天罰をくらった時はマーリンに助けられたりもしている。そのため、ベイリンは珍しくマーリンに悪感情を抱いていない。墓に名前を刻んでくれたことには感謝すらしている。
 だってベイリンは天然だから冗談通じないし……戦争では毎回大活躍してアルトリアを助けてくれたからこれくらいはね。でも普段の素行はどうかと思う。(マーリン談)

・ラモラックのステータス
クラス:ランサー
真名:ラモラック
属性:秩序・善
ステータス:筋力 B+ 耐久 A+ 敏捷 A 魔力 D 幸運 C 宝具 B+
クラス別スキル
『対魔力:B』
固有スキル
『心眼(真):B』……宝具と組み合わさると、とんでもない堅守を実現する。圧倒的な実力差でもない限り、真っ向勝負でラモラックを突破することはほぼ不可能。囲んで殴るのが最適解だが、それでも異常にしぶといというクソゲーを強いてくる。ダンテのような即死系宝具は弱点。即死系宝具が弱点じゃないやつとは?
『勇猛:A』……精神干渉を遮断するスキル。また、格闘ダメージを向上させる。勇猛というか蛮勇。よりにもよってランスロットとトリスタンに喧嘩を売る狂犬。モルガンとギネヴィアのどちらが美しいかメレアガンスと言い合いになったこともあり、止めに来たランスロットも内容を知るとラモラックに決闘を挑む始末。結局プリオベス卿が〝自分が好きな婦人が一番美しいと思うのが普通じゃん〟という大人の理論で場を収めた。
『戦闘続行:A』……往生際が悪い。とにかく悪い。まさしくラモラックを体現したスキル。アーサー王の名誉のために向かった槍試合で全員フルボッコにして優勝した後、殺しに来たガウェイン・モードレッド・アグラヴェイン・ガヘリスの四人と疲弊した状態にもかかわらず、三時間斬り結んだ。つまりガウェインの加護が切れるまで粘った。死に物狂いという言葉すら生温いほどに激しく戦っていたと推察されるが、その三時間でラモラックは文字通り全てを使い切ってしまったのだろう。
宝具
『我が驍勇の前に敵は無し』
ランク:B+ 種別:対人宝具
 キャバルリィ・オブ・フェイス。Bランク以下の攻撃を反射し、真名解放によってAランクでも防げる優れもの。ただし反射はできない。ラモラックの前方に常に展開されている赤い盾であり、攻撃を受けた時にしか現れない。ラモラック自身は自分の攻撃が盾に反射されるか透過されるか選ぶことができる。
 拡大解釈の末に生まれた宝具。コンセプトはタイマン最強。
 ラモラックの最期はガウェイン・モードレッド・アグラヴェイン・ガヘリスの四人を同時に相手取り、ガウェインに背中を斬られるという壮絶なものだった。こうなるに至った理由はラモラックとモルガン(モルゴース)が肉体関係にあったこととされる。しかもラモラックはモルガンの夫のロット王を殺したペリノア王の息子であり、ロット王の子らは良い感情を持っていなかった。話によっては、二人の不倫現場を抑えたガヘリスがモルガン(モルゴース)を殺してしまうことも。そのため、ラモラック殺しを先導したのはガヘリスと思われる。身内で殺し合ったこの事件は、後の王国の崩壊の予兆だったのかもしれない。物語的にも、ランスロットの不倫発覚と似た流れなので、ラモラックはランスロットを意識して作られたキャラクターなのかもしれない。王位の簒奪を狙っていたモルガンではなく、ギネヴィアの不倫がその決定打となってしまったのは酷い皮肉である。

『運命絶す神滅の魔剣』
ランク:A+ 種別:対運命宝具
 ミストルティン・ミミングス。かつてスウェーデンの英雄ホテルスが振るった、神をも倒せるという必勝の神剣。半神半人の英雄バルデルスに癒えない傷を刻んで死に至らしめ、雷神トールの槌ミョルニルすらも断ち切ったと言われる。
剣のミストルティンを造り出す業は長らく実現できなかったが、ノアがスカサハから原初のルーンをパク……賜ったことで復活。ただし、原典はホテルスがサテュロスから奪った剣であり、こちらは限りなく精巧なレプリカということになる。ビームは出ない。なぜかノアの家系はこの剣の造り方を知っていた。
 真名解放によって、間合いの内にいるなら回避・防御不能の一斬を放つことができる。その斬撃は対象の硬度やあらゆる防護を無視し、癒えることのない傷を刻む。単純な殲滅能力や威力では星の聖剣や竜殺しの魔剣に大きく引けを取るが、単に『殺す』という点では勝る。また、トールの槌であるミョルニルを断ち切った逸話から、宝具破壊の効果がある。こんなものを森の神から奪えたホテルスはとてつもない英雄である。
 この剣が斬るモノは運命。この世のありとあらゆる全ての万物に定められた崩壊・消滅・停止といった死に至るまでの寿命を強制的に断絶させる。あえて言うなら、直死の魔眼ならぬ直死の魔剣。アルクェイドも十七分割できるぞ!


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■■特異点 叛逆の英雄神 化外覆滅東征・葦原中津国
第58話 レッツゴー! 本能寺


 ここはどこ?

 わたしはだれ?

 目を覚まして最初に抱いた感想はあまりにありきたりすぎて、一生使うことはないと思っていたセリフだった。

 ここには何もない。何もない、というのは曖昧な表現だが、本当に何もないのだからそう言うしかない。自分が感じるもっとも適切な語句を用いるなら、無としか言いようがない場所だ。

 光がないから暗い、だとかそんな次元ではない。そもそも色がない。虚ろな白さえここには存在しない。

 だったら、なぜ自分はこうして生きていられるのか。完全なる無に放り込まれたなら、きっとどんな生物だって生きていられないだろう。

 溢れ出るばかりの疑問は、

 

「自覚しろ。オマエは疑似サーヴァント。三つの神格を宿した肉の器だ」

 

 その声で、一瞬にして解決した。

 …………ああ、そういうこと。

 理解した。

 自分がどうしてここにいるのか。

 この肉体は依代。本来有り得ぬ神霊の召喚、しかも三柱のそれを融合した複合神格を注ぎ込むためだけの魂の器にすぎない。

 あのような神をよりにもよって人間の体に移し替えるなんて、悪趣味にも程がある。

 でも、良い。確かにあの神は肉の器に入れてこそ真価を発揮する。否、あの神という言い方も変だ。なぜなら、私こそがソレなのだから。

 依代の意識を埋没させ、私は聞いた。

 ───何をすればいいの?

 

「オマエは造物主だろう。ならば、やることはひとつだ…………などと血も涙もないことを言うつもりはない。おれは血も涙もあるからな。好きなようにしろ。おれはオマエに何ひとつ強制するつもりはない」

 

 大体分かりました。

 でも、くだらない冗談ですね。

 つまらないです。

 

「これは手厳しい。我が娘たちを思い出す。そんなところも愛らしいのだが……おっと、これはいかんな。愛情が止まらなくなってきたぞ。抱きしめさせてくれないか?」

 

 死んでください。

 そこら辺の雑草よりどうでもいいです。

 あなたの愛ほど価値がないものはないでしょう。そんなだからあの人にも無視されるんですよ。とっとと帰ってひとり寂しく自分を慰めていたらどうですか?

 ……私のやることは、決まっていますから。

 

「そうか。では、オマエに名前をつけてやろう」

 

 要りません。キモいです。

 

「名は体を表す。特に英霊や神霊といった連中はな、名前があるからこそ存在できるのだよ。歴史に名を残さぬ英雄など誰が召喚できる? これはオマエの存在を安定させる儀式と知れ」

 

 はあ、理屈だけはいっちょまえですね。あなたのことだから、どうせ考えてきたんでしょう?

 

「うむ。これ以上はないというやつを考えてきた。喜べ、これは運命だぞ。依代の少女とオマエたちにとって、馴染み深い名前だからな」

 

 へえ……それは、つまらなくないですよ。

 

「行くがいい、三相一体の偽神(アルコーン)────()()()よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある日のカルデア。

 藤丸立香はぎこちない足取りで廊下を歩いていた。

 いつもの訓練を終え、夕食までの少ない自由時間。フォウくんをモフるか、湖の乙女が作る料理をつまみ食いするか悩んでいたところ、彼女の端末に一通のメールが届いていた。

 送り主はノア。内容は〝至急ダ・ヴィンチのラボに来い〟というものだった。さらに同じような文章がもう一通、ダ・ヴィンチ本人から送りつけられていた。まさしく悪魔の宣告である。

 時に、真に護身術を極めた者は自分より強い敵と戦おうとする際、潜在意識のレベルからそれを阻止しようとするのだという。具体的には周りが溶岩の海に見えたりだとかするらしい。

 それが、必ずしも護身術の達人に限った話ではないことを立香は知った。

 ダ・ヴィンチちゃんの研究室へと続く道。何の変哲もないはずの廊下が、無数の骸が打ち捨てられた屍山血河の様相へと変貌している。

 ごくり、と思わず息を呑む。肺を満たす空気は毒々しく粘ついていた。人間の思い込みがもたらす効果は何となく知っているが、ここまで来ると幻術を疑うレベルだ。

 とはいえ、行かなければそれはそれで何をされるか分からない。進むも地獄、退くも地獄とはまさにこのことだ。実際に地獄に行った経験があるダンテの話を真面目に聞いていればよかったと後悔する。

 足首にまとわりついたイマジナリー亡者たちを引きずりつつ、立香はダ・ヴィンチのラボの前に着いた。着いてしまった。

 扉に耳を押し当てる。

 敵を知り己を知れば百戦危うからず。

 孫子の教訓に則って耳をそばだてたところ、室内の話し声が聞こえてくる。

 

「まずは立香ちゃんの────に───を接続して────」

「そうだな。後はあいつに────で──させれば、────」

「これが発展したら世界が変わるぞぉ! テンション上がってきた!」

「俺たちが歴史に刻まれる日も遠くねえな! 俺とおまえ、そして誉れある実験体藤丸……ふっ、悪くねえ」

「「ゲヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!」」

 

 前半は聞き取れない部分があったものの、後半部分だけで立香の行動を決定させるには十分だった。

 

(よし、帰ろう!!)

 

 今時あんなお手本のようなゲス笑いをする人間が、ろくなことをするはずがない。〝藤丸立香は改造人間である〟などということになったら、人理修復を果たしたとしても意味がない。そもそもタグを変える必要がある。何のとは言わないが。

 魔術王より先にあの二人をどうにかした方がいいのでは。そんな考えを抱きつつ、立香は踵を返そうとした。

 その瞬間、研究室の扉が勢い良く開かれる。

 ぬう、と顔を見せたのはノアとダ・ヴィンチ。両者の顔は青白く変色し、ナイフで削ぎ落としたみたいに頬がこけていた。

 さらに、その眼球はギョロギョロと挙動不審な動きをしている。どこぞの聖女の右腕兼厄介なファンである男が乗り移っているかのようだ。

 

「……ギャーッ!」

 

 明らかに正気を失っているマッドサイエンティストたちを目撃し、立香は絶叫とともに飛び退いた。が、それも虚しくノアの右手に肩を押さえつけられてしまう。

 そのまま背後の壁まで追い詰められ、

 

「オイオイオイ、どうした藤丸。いきなり叫んで逃げ出そうとするなんてらしくねえな。何か悪いもんでも見たか?」

「今目の前にいるのがそれなんですけど!? リーダーとダ・ヴィンチちゃんは一回、自分の顔を鏡で見てください!」

「嫌だなあ立香ちゃん。私はこの通り、いつもの完璧に美しいモナ・リザフェイスじゃないか。ルーブル美術館に行って見比べてきても構わないよ?」

「眼球引っ込めてから言ってくれませんか!?」

 

 という痛烈なツッコミも、今の天才コンビには届いていなかった。

 周りに人影はなく、援軍も期待できない。よしんば誰かが通りがかったとしても、ダンテやムニエルのような不憫枠では火に油を注ぐだけだろう。絶体絶命の窮地に立たされた立香の顔を覗き込むようにしながら、ノアは焦点の定まらない目で言う。

 

「引きつった顔なんかやめて笑え! 今日という日は歴史に残るぞ! なんたってようやく俺たちの共同研究が完成したんだからな!」

「理論と方式と設計が確立してから五日───一睡もせずにモノを造り上げたんだ! アレが真の完成を見るには立香ちゃんのから……力が必要なんだよ!」

「今、体って言いましたよね!? 完全に実験体じゃないですか! ここはショッカーの本拠地ですか!?」

「ああん? 一号逃したのに二号でも同じ失敗したマヌケどもと同列に語るんじゃねえ。安心しろ、俺たちは改造人間だろうがバッチリ手元に置いて管理してやる」

「ショッカーを超えたショッカー───!!」

 

 立香は大いに戦慄した。このままではカルデアが悪の組織となる日も近いだろう。実際、カルデアは悪の組織とは言い切れずとも、表に出せない闇の組織ではあるのだが。

 1964年、アメリカの学生が264時間にも及ぶ断眠実験を行った。その記録には二日目で早くも目の焦点が不安定になり、四日目には幻覚が見えるようになったという。狂気の五徹を敢行した彼らがいつにも増してアホなのも当然の帰結だった。

 そこで、はたと気付く。

 距離が近い。少し背伸びすれば唇が触れ合ってしまうほどに。

 五日間に渡る徹夜のせいで、距離感が狂っているのか。せめてそのゾンビのような面をやめれば、赤面のひとつでもしてやったものを。

 何故か上から目線で呑気に考えていると、廊下の奥から、ズドドドドと冗談のような足音が響いてくる。

 咄嗟に六つの視線が音の方向を差す。その内の四つが正しい像を捉えられていたかは定かではない。

 

「ジャンヌさん、なにやら先輩がピンチに陥っています!」

「若干名見覚えのある眼球の飛び出し方してるんですけど!? 怖っ!」

「マシュ、ジャンヌ、助けて! この人たち頭おかしい!」

「それはいつものことでは……?」

「くっ、そうだった!」

 

 マシュとジャンヌは訝しみつつ、走る勢いのままに片手の人差し指と中指を突き出した。

 ずぶり、とノアとダ・ヴィンチの両目に指が刺さる。共同研究とやらでとうに体力を使い果たしていた彼らにとっては、それがとどめだった。二人は悲鳴もあげずに倒れる。

 立香は床に横たわる二つの亡骸から目を背ける。同情する余地などどこにもなかった。

 

「で、マシュとジャンヌはどうしてここに来たの?」

「はい。ドクターが緊急のブリーフィングを管制室で行うとのことで、わたしとジャンヌさんが呼びに来た次第です」

「もうアンタら以外は全員揃ってるらしいわよ。さっさと終わらせて夕食にしましょう」

「緊急のブリーフィング? ドクターがそんなに真面目だったなんて……」

 

 Eチーム三人娘は床に転がった天才コンビの足首を掴んで引きずっていく。

 スケジュールにない打ち合わせは今までにも何度かあった。優雅なおじさんのエサやり当番を決めたり。ただでさえ前例のない特異点修復という異常事態、予定通りに進むことの方が珍しい。

 今回もどうせ聖杯くんの管理担当を決めたりするのだろう。三人娘は根拠もなく、そんな予想をしていた。

 管制室の扉が開く。棺桶のように並んだコフィン。中央に座する地球の魂の複製体、カルデアス。それを取り囲む近未来観測レンズ・シバ───特に変わらぬ光景が広がっている。

 しかし、カルデアスの麓にはロマンを含めた全カルデア職員が召集されていた。ダンテとペレアス、湖の乙女もしっかり顔を見せていた。

 ロマンは立香たちと下に引きずられているモノを目にして、こくりと頷く。

 

「うん、全員揃ったみたいだね。……そこの二人がアレなのは聞かないでおくよ」

「お言葉ですがドクター、食事前にこんなガチガチのブリーフィングを開くことに関して、わたしは疑問を覚えています」

「マシュ、血糖値が上がった立香ちゃんがボクの話をまともに聞けるとでも?」

「そうでしたね。わたしが間違っていました。本題に入りましょう」

「マシュ、もうちょっと粘ろう?」

 

 鉄壁を誇るデミサーヴァントでもロマンの言い分には引き下がるしかなかったらしい。自分のサーヴァントに後ろから刺された哀れなマスターを尻目に、ロマンは話を切り出す。

 

「キミたちを呼んだのは他でもない。次の特異点攻略についてだ。これまでその特異点で得た聖杯を道標にして、レイシフトを行っていたんだけど、今回は事情が違う」

「嫌な予感しかしない言い方ですねえ。何があったのです?」

「第六特異点の聖杯から繋がるのはバビロニアの特異点だったのですが……そこに行くためのプログラムを組もうとしても、打ち込んだそばから数値が書き換えられてしまうというか」

「え、オカルト的な話ですか!? ヒィィ!!」

「地獄行ったやつがこの程度の怪奇現象で怖がるなよ」

 

 ペレアスはダンテの頭を軽く叩いた。地獄篇はスプラッタホラー的な様相を呈しているが、今回の事案はジャパニーズホラーに近い。ダンテにはそういった恐怖への耐性がなかったのだ。

 湖の乙女は顎を手に置いて、首を傾げる。

 

「問題はその数値が意味をなさない数列かどうか、ですわね。レイシフトに介入するということは、全く未知の時代に飛ばされてしまう可能性がありますから。魔術王の千里眼でも見通せないカルデアに干渉できるとは考えづらいですが……」

 

 普段脳みそが茹だっている精霊が真面目なことを口走っていた。精霊としての力のほとんどを失っていても、その経験と知恵は衰えていない。

 できることなら当分そのモードでいてくれると助かるのだが。ロマンは希望的観測を抱きながら、彼女に同意した。

 

「試しに改ざんされた数値でのレイシフトをシミュレートしてみると、行き先は今までは手出しができなかった特異点に繋がることが判明しました」

「そういえば、冬木から帰ってきた後に出てきた特異点って八つだったんですよね。もしかして……」

「そう、立香ちゃんの推測通り。その数値はバビロニアともうひとつ、最後に残った場所───日本へのレイシフトを可能にするモノだったんだ。というよりは、先にその特異点を片付けないとバビロニアには行けないと表現すべきかな」

 

 ロマンは解説する。

 要はすごろくと同じだ。魔術王が人類史というボードを利用して創り上げた七つのマス。カルデアはそれをひとつずつ進み、ついに最後のマスに辿り着くことを可能とした。

 だが、日本に現れた特異点───番外特異点とでも名付けよう───が新たなマスとして挟まってきた。残念ながら、カルデアが出せるサイコロの目はどこぞのピンゾロ賽よろしく、1しかない。これを無視して進むことはできないのだ。

 もっとも、無視できない理由は他にもある。ロマンが手元の機器を操作すると、カルデアスがぐるりと回転して極東の島国を前面にした。

 

「見てくれ。これが番外特異点に起きている異常だ」

 

 管制室がどよめきに包まれる。

 それはまるで、シールを剥がそうとしたところを途中で止めたみたいに。カルデアスに貼り付けられた島は、九州の西端から中国地方の東端までめくれあがっていた。

 人理そのものが剥ぎ取られている。それは視覚的に、計り知れない異常を脳裏に刻みつける。世界を閉じようとしていた獅子王でさえも、こんな事態は起こしていなかったのだ。

 周囲の目が立香に向けられる。なにしろ彼女はその国の出身者だ。受けるショックは大きいに違いない。

 

「先輩、これは───っ!」

「うん……もう二度と鳥取砂丘に行けないなんて!!」

「鳥取砂丘は二度も行きたくなるような大層な場所じゃないでしょうが!! もっと他に驚くなりしなさいよ!」

「ジャンヌさん、鳥取砂丘に失礼ですよ」

 

 ダンテはぼそりと呟いた。そもそも、砂漠は前回でこりごりである。鳥取砂丘などという緑化しつつある観光地を目指す人間など誰もいなかった。

 予想通りに予想外の反応をした立香に、ロマンは呆れた視線を飛ばした。哀れな指揮官は咳払いして場の空気を元に戻す。

 そして、彼は一冊の本を取り出す。それはアトラス院で名探偵から手渡された、『ワトソンくんでも分かる調査ノートその二』であった。シールでデコレーションされているのがそこはかとなく癪に障る。

 

「ノートのおまけ編によると、番外特異点はシモン・マグスが実験として創ったらしい。その目的までは調べ切れていなかったようだけど、次元を操る魔術師なら第六特異点の聖杯から繋がる道筋を書き換えることも可能だろうね」

「つまり、カルデアのことは認識できてないくせに、道を作り変えて強制的にレイシフトさせようってことか?」

 

 ペレアスの疑問に反応したのはロマンではなかった。今の今まで撃沈していたダ・ヴィンチとノアはがばりと起き上がり、シモン・マグスへの愚痴を吐き散らかす。

 

「ま〜たシモン・マグスかい!? どこまで構ってほしいんだアイツは! 自分で実験しておいて後片付けもしないなんて研究者の風上にも置けないやつだなぁ!! くそ、一発殴っておけばよかった!!」

「黒幕気取ってるアホが一番手に負えねえんだよ! 人の迷惑も顧みないで好き勝手しやがって! 次元跳躍のしすぎでまともな感覚失ってんじゃねえか!? もうおまえが人理修復しろ!!」

「うん、全面的に同意だけどキミたちにもブーメラン突き刺さってるかな!!」

 

 ノアとダ・ヴィンチのシモンに対する意見は大体カルデアの総意を表していたが、同時に誰もが思った。お前らが言うな、と。

 これでシモンの特異点を無視することはできなくなった。しかも、彼がそこにいる可能性は限りなく薄い。役目を終えた実験場に、わざわざ足を運ぶ研究者などいないだろう。

 実験場の処理をカルデアに押し付ける。魔術師らしく合理的かつ自らの労力を最低限に抑えるやり方は芸術的ですらあった。

 ロマンは目の色を変える。

 

「番外特異点に生じているのは他に類を見ない事態だ。これを便宜的に『人理剥落』と呼称、人理定礎値は異常性を鑑みてEXに決定した」

「ドクター、わたしたちが行く時代は何年なんです? それによって現地での対応も変わると思います」

「それが……ターニングポイントとなる時代が二度改変されているんだ。最初は672年だったのが、次は995年、今は1868年になっている。このままなら1868年かな」

「最後で随分飛びましたねえ。まるで聖杯が意思を持っているかのような……時代が切り替わるとは、本当に何から何までこれまでの特異点とは違うようです。ダ・ヴィンチちゃんは今回も来るのですか?」

 

 ダンテが気軽に問うと、ダ・ヴィンチは首を横に振った。

 

「ここはパスしとこうかな。シモン・マグスを直接殴れないんじゃ意味ないし……新装備の兼ね合いもあるから、こっちでサポートさせてもらうよ」

「新装備って、まさか」

 

 立香は背筋に寒気を覚えた。想起されるのは先程の呼び出し。ノアの手が肩に置かれ、びくりと震え上がる。

 

「おまえの考えてる通りだ、藤丸。レイシフト決行日までみっちり訓練するからな」

「リーダーと一緒に、ですか?」

「当たり前だ。弟子の面倒を見ない師匠がいるか。言っておくが、スカサハ並にスパルタだからな」

「……最初からそう言ってくれれば、私だって断りませんでした」

 

 ……といったやり取りを、ロマンとダ・ヴィンチ、ダンテとペレアス、湖の乙女の大人組は生温かい目で眺めていた。

 

「…………あっ、そういうことか!! え、嘘!!?」

「今更気付いたのかい? というか、私も訓練に関わるつもりなんだけど、どうしようかこれ」

「お邪魔虫かもしれませんねえ。立香さんは優しいですからそうは思わないでしょうが」

「う〜ん、じれったいですわね。やはり私の必殺技を伝授して……」

「絶対やめてくれよ!? 色んな意味で世界が終わるぞ!!」

 

 そんなこんなで、一週間後。

 カルデアの職員たちはバビロニアの解析を打ち切り、日本の特異点の調査に心血を注いだ。ここまでに六つの特異点を探ってきた職員の手練はもはや手慣れたもので、余計な仕事を増やしたシモンへの憎悪も相まって普段の倍の能率を実現したという。

 しかし、彼らの感情ももっともだ。思わせぶりな言動をするだけで何ひとつ重要なことを語らないシモンのせいで、並のブラック企業が裸足で逃げ出す重労働を課せられたのだから。

 職員の怒りと憎しみが結集し、レイシフトの準備は整った。特異点攻略においては石橋を叩き壊して別の橋をかけ直す慎重さが求められるが、それをEチームに期待するのは酷というものだ。

 つまり、何もかもが前例とはかけ離れた特異点で、人類の運命はまたもやEチームに託された。魔術王が設置した最後にして本命の特異点、バビロニアを修復するために。

 その日の管制室は静寂に包まれていた。

 とは言っても、完全な静寂ではない。

 葬式のお経のように、静かな空気に控えめな音が昇っていく。

 Eチームにロマンとダ・ヴィンチを含めた面子は、何か哀れなものを見るかのような目でソレを見つめていた。

 

「目標をセンターに入れてスイッチ……目標をセンターに入れてスイッチ……」

 

 立香は虚空に向かって身振り手振りしながら、ぶつぶつと取り留めのない言葉を呟いていた。おぼつかない足取りで管制室を歩き回り、時折コフィンに衝突している。彼女の奇行は今に始まったことではないが、それにしてもあんまりな光景である。

 その服装にはいくつかの変化が見られた。カルデア式礼装に加えて、腰回りにポーチが追加されている。右手は幾何学模様が走る黒い手袋に包まれ、前腕部に機械的な縄状の機器が巻きついていた。

 変わり果てた自分のマスターの姿に、マシュは目を剥いてノアとダ・ヴィンチに詰め寄った。

 

「これはどういうことですか!? 先輩が完全に壊れているのですが!!」

「いや、元からあんな感じだっただろ。夏休み明けのクラスメイトがちょっと大人びて見える現象と同じだ」

「あの夏の日はもう戻らないんだよね……」

「大人びてるどころか幼児退行なんですが。人格が土台から崩壊してるんですが。戻らないのはあの夏の日じゃなくて元の先輩なんですが。適当なこと言ってごまかそうとしても、そうはいきませんよ」

 

 マシュはじとりとした目つきになる。ノアは大仰に手を打ち鳴らして、

 

「そんな喪失を経験して人は大人への階段を上がるんだよ。常に前屈みで歩いてた中学二年生も直立するようになるんだよ。おめでとう、おまえはついに中三になった」

「マジで殴りますよ? わたしの拳はランスロットさんでさえも沈めましたからね?」

「落ち着きなさいマシュマロなすび。立香を正気に戻すならアレしかないでしょう」

 

 そう言って、ジャンヌは懐から小袋を抜いた。その袋の中には、きめ細かい白色の粉が詰まっている。職質されたら警察の目の色が変わりそうな見た目だ。

 マシュには見当もつかなかったが、とりあえずその動向を見守ることにした。

 小袋から粉をつまみ出し、立香の背後で宙に振り撒く。すると、彼女は獲物を発見したハイエナのような速度で振り向いた。

 

「この匂い……ホットケーキミックス!?」

「ほらね?」

「これで何を納得しろと!?」

「あ、あの。そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか!」

 

 ロマンは言いづらそうに叫んだ。これ以上彼女たちのアホに付き合っている暇はないのだ。

 

「今回レイシフトする場所は日本の京都に設定してある。比較的どの時代でも安定した人口が見込めるから、情報収集にはもってこいだろう。この特異点は時代が書き換わるからね」

 

 と言うと、サーヴァントたちは思い思いに口を滑らせる。

 

「京都ですか。こう言っては不謹慎ですが、楽しみですねえ。いきなり歌を詠まれても即座に返し歌できるように訓練してきました」

「エクスカリバーほどじゃないがカタナはかっこいいよな。オレも一度振ってみたかったところだ」

「私も欲しいわね、カタナ。なんとなく水着に合いそうな気がするわ。別の宝具も生えてきそうですし」

「紫式部さんと清少納言さんのサインを手に入れた私には一分の隙もありませんわ! ペレアス様とのデートプランもしっかり組んできましたのでっ!!」

 

 ロマンは遠い目になる。観光気分のレイシフトは今に始まった話ではない。むしろこれが彼らの本調子なのだと自分を納得させた。

 ジャンヌはホットケーキミックスの小袋を仕舞いながら、

 

「いつもアテにならないダンテの『暗黒の人類史』情報を聞いておきましょうか。一応。召喚されたサーヴァントは七体だから、これで最後よね?」

「ええ、この特異点にはいない可能性もありますが。たしか、言動から外見から特徴的な人でしたねえ。全身から胡散臭さが立ち込めていました」

「……ラモラックほどのロクデナシでないことを祈るわ」

「思うのですが、ダンテさんの情報が役に立った覚えがありません」

「マシュさん、その言葉は私に効きます。やめてください」

 

 英霊とは必ず何らかの分野で突出した存在だ。特徴的と言われても、地味なペレアスのように特徴的でないサーヴァントなど少ないだろう。

 そこで、立香はノアの目を覗く。

 

「私は修学旅行で行ったきりですけど、リーダーは京都に行ったことあるんですか?」

「いや、京都はない。魔術触媒の競売で所沢には行ったがな。その参加者のひとりが子どもの魂を詰めた呪詛の箱で霊脈を汚染しようとして、危うく関東の霊的機能が全滅するところだった。アレは大変だったな」

「待ってください。そんな一大事件を気軽に語られても困ります! 詳しく説明してください!」

「立香ちゃん、残念ながらそんな時間はないんだ。レイシフト実行が差し迫ってる」

 

 ロマンに勧められ、Eチームはコフィンに詰め込まれた。

 番外特異点へのレイシフト。自己が分解される感覚。とうに手慣れたそれを味わいながら、立香は溶けていく意識の中で思う。

 ロマニ・アーキマンは言った。自分が訊けば、ノアは自分の過去を教えてくれると。

 結局、あれから勇気を出して問うことはできなかった。彼にとって自分の過去が忌むべきものであるとしたら、それは古傷をえぐるのと同じだから。

 けれど、知りたいという欲求は日に日に募っていく。それでも一歩を踏み出せないのはきっと、過去を知って何かが変わってしまうことを恐れる心の弱さのせいだ。

 つまるところ、自分は自分が傷つくことを避けている。ロマンは勇気を出すのが自分の得意技とも言ったけど、それは他人のためならばであって、自分は含まれていない。

 だから、きっかけを待つしかない。浅ましくも、都合の良い展開を期待するしかない。

 その行為には代償があるだろう。

 北欧の主神が片目と引き換えにルーン文字を得たように。

 失うことなしに得ることはできない。望む展開が起きるのだとしたら、誰かが必ず割りを食う。故に、立香はまたしても、都合の良く願うことしかできなかった。

 ───せめて、その代償を支払うのは自分であるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。冷えた空気が肺を満たす。

 鼻腔を擽る戦火の匂い。燃え上がる赤炎が闇夜を明るく焼き焦がす。銀盤の月はどこまでも虚ろに、地上を見下していた。

 ───懐かしい風だ。

 燃え尽きる命、戦場に満ちる汚泥のような人の情念が空気に乗り、肌を撫でる。

 誰もが呪いを抱いて死んでいく。

 誰もが恨みを抱いて殺されていく。

 武器が衝突する金属音。苦痛に悶える呻き声。それを嘲笑うように弾ける火の粉。男は、五感すべてを用いてその惨状を堪能していた。

 小高い山の頂上。遠くの空を眺めていると、眼差しの先で天を貫く柱の如き雷撃が墜落した。遅れて甲高い落雷の音が鳴り響く。

 だが、轟く雷光はそれで終わらなかった。縦横無尽に駆け巡る蒼き稲妻。その中心には刀を振るうひとりの武者。彼女の目に色はなく、入力された命令を実行する絡繰のように、技の粋を出力する。

 対峙するのは幼い少女の形をした鬼。十重二十重に炸裂する雷電を掻い潜り、必殺の一撃を狙う。

 人と鬼。どちらが戦いにおいて有利であるかなど、語るべくもない。当たり前だ。生物としての格が違う。蟻が象に挑むようなものだ。勝てるはずもない…………その前提が、正しかったなら。

 その武者は人ならぬ神鳴りの化身。

 故に迸るのは神雷。人間の意思など及ぶべくもない、天上の雷霆。

 なればこそ、その戦いの結末は見えていた。

 男は目を細め、唇を吊り上げる。

 

「───フ、フフッ。成程。これはこれは……水が合わぬ者同士、戦いは避けられぬ運命。かくも皮肉な殺し合いがあろうとは」

 

 男の名は、蘆屋道満。

 平安最高の陰陽師、安倍晴明と幾度も呪術を交した怪人。彼は柳眉を歪め、つややかな妖しい微笑みを浮かべる。

 

「さて、どちらの側に付くべきか。……否、ここはあえて潜伏し、横面を張り倒すも一興。ンンンンン、選り取りみどりとはまさにこのこと! 迷いますねぇ」

 

 蘆屋道満とはどこまで行ってもそんな男だった。

 まともな手段など取れぬ。最高の一手ですら興に乗らなければ、ゴミのように捨て去る。

 求めるのは最悪。そして混沌。

 阿鼻叫喚の地獄を見なければ、魂が満たされることは決して無い。

 だからこそ、男は正しく、人類史の暗黒点であった。故にこそ、知恵の女神は彼を最後のひとりに据えた。

 ロベスピエールも、ダンテも、コロンブスも、オティヌスも、虹蛇も、ラモラックも────すべてすべて、前座に過ぎぬ。

 

〝お前は、私に似ている。私と同じ、しようのないろくでなしだ〟

 

 奴らに足りぬのは浅ましく醜く低俗な執着心。高尚な理念や信念で取り繕うこともしない、剥き出しの愚かさだ。

 黒く輝く錯綜した感情、感傷。それに水を差すのは、背中から浴びせられた声だった。

 

「…………貴方は、こんなところで何を?」

 

 道満はゆっくりと振り返る。

 そこには身の丈ほどの大弓を携えた少年。常人ならば一瞬で心を盗まれるであろう美貌。その肩には、一羽の雉が停まっていた。

 周囲への注意は怠っていなかった。この少年は道満が張り巡らせた警戒網をすり抜け、この場所に至ったのだ。

 殺すことが目的ならば接近する必要はない。その手にある大弓で遠巻きから射抜いてしまえば良いはずだ。道満は身構えもせずに、口車を回す。

 

「この地に召喚されたばかりでして、事情を伺っておりました。其の方は?」

「大体同じですよ。俺は戦いなんて嫌いですから、血を流すのは他に任せているんです」

「それはそれは、気が合いますな。戦など百害あって一理なし、為政者の都合で民草を翻弄する愚行に過ぎませぬ」

「ええ。お互い、あんな場所とは無縁でいたいですね」

 

 奇しくも、両者の表情は似通っていた。

 貼り付けたような微笑。表向きは話題を合わせつつも、互いの肚の内を弄り合う。

 限りなく細い綱渡り。小さな火花ひとつで、次の瞬間殺し合っていてもおかしくはない。それをおくびにも出さず、少年は笑みを深める。

 

「ところで、失礼ですが貴方の名前は?」

 

 そこで、道満は一瞬思考を巡らせた。

 名前とはそのものの存在を確定させる、この世で最も短い咒だ。名前を使った呪詛を警戒しない魔術師は二流である以前に、魔術師として認めることも憚られる。

 道満にとって下手な呪詛は逆効果。呪詛返しによって、術者を死に至らしめることも容易い。他の英霊に比べれば、真名を告げるリスクは少ないと言えるだろう。

 ならば、いっそ正直に教えてしまった方が後に引かぬというもの。

 

「安倍晴明と申します。以後、お見知りおきを」

 

 だが、やめた。つい一瞬前まではそのように思っていた。本当に。だが、まあ、やめた。

 理由はその場のノリが九割と実利が一割。

 この特異点には安倍晴明がいるかもしれない。もしそうならば、奴を踏み躙ることが第一だ。眼前の少年にカマをかけ、晴明についての情報を引き出す。

 安倍晴明と信じ込まれたとしても、それはそれで好都合。その立場を利用できる。

 少年は微笑を貼り付けたまま、

 

「───テメエ、嘘吐きだろ」

 

 大弓に矢を番えた。

 心臓を狙う鏃が月明かりに照り映える。

 道満はわざとらしく腕を組み、首を傾げた。

 

「はて、何を根拠に偽りと断ずるのです?」

「ああ、俺も嘘吐きだから。お仲間の匂いは何となく判るんだよ」

「……おや、おやおやおや。こちらは根拠を求めたのですが? 匂いがする、などと主観的かつ感覚的な言い分で返されても困りますねぇ」

「ハッ、そりゃそうだ。じゃあ手っ取り早く決めようか」

 

 ばさり、と翼をはためかせ、雉が舞い上がる。

 月輪を背負う両翼。少年の端麗な紅顔が月光に濡れる。その表情には寒気を覚えるほどの不吉さがこびりついていた。

 

「『誓約(うけひ)』。アンタも鬼道に通じるなら知ってるだろ」

 

 道満は答えなかった。答えられなかった。五体が縫い付けられたように停止し、微動だにしない。

 咒を紡ぐことすら奪われた陰陽師に、少年は告げる。

 

「汝が語りしが偽りの名ならばこの矢当たれ。汝が語りしが真の名ならばこの矢外れよ」

 

 そして、弓の弦が弾かれた。

 

「────『天下る糾罪の矢(あめのはばや)』」

 

 その矢の前に偽証は不可能。

 遍く罪を裁く、高天より下りし一矢。

 それはあらゆる因果を否定し、咎人の心の臓を貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人はスリルを味わいたがる生き物だ。

 山に魅せられた登山家が危険なルートを切り拓いたり、学校からの帰路、白線以外は煮え滾るマグマに埋め尽くされていると仮定したり、誰も見ていないからと奇声をあげてみたりと、古代から人間はひりつくスリルに魅了されてきた。

 時代が移ろおうとも、その性根は変わらない。麻婆豆腐を見るたびに心が引き裂かれるのに、画面をタップする指を人は止められないのである。

 レイシフトが円満に実行され、ノアたちが辿り着いた場所もそんなスリルを求める人間が集まっていた。

 からん、と軽妙な音を立て、壺皿の中でサイコロが回る。

 

「さあ、丁か半か!」

 

 畳が敷かれた長屋に思い思いの予想が入り混じる。行われているのはサイコロの出目が偶数か奇数かを当てる賭博。最もポピュラーな賭けのひとつだ。

 ノアは着物を着た男たちに混ざり、目を血走らせていた。彼は周囲の喧噪を打ち消す大声でがなり立てる。

 

「丁ォォォ!!」

 

 その時、障子が破られ、

 

「賭けやってんじゃねえアホマスター!!」

 

 ペレアスはノアの背中を蹴りつける。190cmを超える大男が畳を転がり、まさに開示されようとしていた壺皿とサイコロを空中に吹き飛ばした。ついでに何人か巻き込まれてもみくちゃになった。

 となれば、黙ってはいないのが賭けに興じていた参加者たちである。彼らはペレアスに向けてガラの悪い文句を飛ばす。

 

「いきなり割り込んでくんじゃねえ南蛮人! なんだその鎧、大道芸人か!?」

「俺ァこれで借金返して、家出てった嫁と子どもを呼び戻すつもりだったんだぞ! 金払え馬鹿!!」

「ノーカウント……っ! この勝負はノーカウント……!! 認められるはずがない、こんなデタラメ……っ!」

「うっせえダメ人間ども! 昼間っから博打打ってねえで働け!!」

 

 負けじと言い返すペレアスに、次々と雑貨が投げつけられる。が、相手は円卓の騎士。四方八方から飛来する物体を難なく避けきった。

 こんな場所に長居するつもりはない。マスターの首根っこを引っ掴み、賭博場を後にしようとするが、ノアは地団駄を踏むように暴れる。

 

「放せペレアス! こっからが良いところだろうが! せめてもう一勝負やらせろ!!」

「あー聞こえねえ。腕が良いのは認めるがな、十分軍資金は稼いだだろ。お前がこれ以上やると店の元締めが出てくるぞ」

「令呪を以って命ずる。ペレアス、博打をさせ」

「おいバカやめろ!!」

 

 ぴしゃり、と障子を閉めて外に出る。後ろでは未だに騒いでいるが、ペレアスは鍛えられたスルースキルで無視した。

 ノアは土埃を払いながら立ち上がる。賭場で一体どれほど稼いだのか、じゃらじゃらと銭の擦れ合う音が響く。

 

「とりあえず立香ちゃんのとこ行くぞ。ついてこい」

「背中に気をつけろよ。少しでも隙を見せたらアゾット剣ブチ込むからな」

「上等だ円卓の騎士ナメんな。背負い投げで華麗なカウンターキメてやる」

「そのカウンターですら俺は読んでるけどな。アメリカ仕込みのパワーボム喰らう覚悟はできてんのか?」

「いーや、お前のパワーボムなんかオレにかかれば余裕も余裕だ。投げっ放しジャーマンで吹っ飛ばすからな」

「投げっ放しジャーマンなんて大技が俺に決まるとでも思ってんのか? 俺なら────」

 

 小学生以下の言い合いをしながら、二人は異国情緒溢れる街並みを進む。

 通行人の目線が密かに注がれる。この国は長年西洋人との関わりが薄かった。元々、現代でも目を引くような二人だ。注目を集めてしまうのも無理からぬことだろう。

 目に映る家屋のほとんどはどこかが破損していた。火事でもあったのか、ある一角では区画が丸ごと消し炭にもなっている。

 とにもかくにも情報が足りない。あの魔術師が関わっている以上、真っ当な特異点でないことだけが現時点で断言できる情報だ。

 ノアとペレアスが街角を曲がると、上から水を浴びせられる。その通りでは、

 

「遠からん者は音に聞け! 近くば寄って目にも見よ! 『円卓の騎士と湖の乙女の純愛劇場』の山場ですわよ〜〜っ!!」

 

 神秘の秘匿などクソ食らえの精神で水を操る精霊がいた。

 空中に浮かぶ巨大な水のスクリーン。光の屈折率を操り、まるでアニメーションのような映像を映し出している。無駄に洗練された無駄のない無駄な技術だ。内容は題名が物語っている以上のことはない。

 場面はちょうどエタードがシメられるところだった。スクリーンの両側で派手に水が噴き上がり、煌めく水滴がエタードの絶望の表情を彩っている。

 立香は湖の乙女の隣で虚ろな目をして佇む。彼女が両手で抱える箱には絶え間なくお金が投げ込まれていった。

 

「……リースさん、本当に弱体化してるんですか。こんなド派手な魔術使えるなんて聞いてないですよ」

「ええ、何だか私調子が良いみたいですの! それと、水を操るのは湖の乙女にデフォで搭載された機能ですわ! こんなの魔術の範疇に入りません!」

「リースさんってもしかしなくても、当時のブリテンを一番楽しんだ人ですよね?」

「言われてみれば、楽しい思い出ばかりですわね。それもこれもペレアス様と王様のおかげですわっ!」

「皮肉が通じない……この精霊、無敵すぎる……!!」

 

 遠くからその光景を見つめるノアはペレアスに一言言った。

 

「おまえの嫁だろ、早くなんとかしろよ」

「よせ、オレもアレに関しては諦めてる。そんなところも可愛いよな」

「惚気けんなぶっ飛ばすぞ」

 

 で。

 リースの上映会が終わった後、四人は暖かくなった懐で近場の団子屋に入った。賭博で稼いだ金だろうが、精霊の力で得た金だろうが、金は金だ。有り余る財力によって、団子屋の店主は光の速度で品物を用意した。

 立香はもさもさと団子を頬張りながら、話を始める。

 

「リーダーとリースさんが遊んでる間に聞き込みをしたんですけど、1868年なのに戊辰戦争が起きてないらしいですよ。代わりに、西から敵が攻めてきてるみたいです」

「京都にも二週間前に来たらしい。そいつらが特異点を作り出してる元凶で間違いないだろうな。そして、追い返せたってことはサーヴァントもいるってことだ」

 

 立香とペレアスとて、何もしなかった訳ではない。街の人々に聞き込みをして情報を集めていた。結果、浮き彫りになったのはこの特異点の異常性。立香は言葉を続ける。

 

「不思議なのが年代を訊いても人によってバラバラなんです。弘仁何年とか永禄とか……中には西暦で答える人もいて」

「それは不思議ですわね。色々な時代から人間を集めているのでしょうか。全員がこの時代に馴染めているのがおかしすぎますわ」

「まるでテレビゲームのNPCだな。町人の役割を果たせれば、中身は何時代でも関係ねえ。賭場ではノーカウントなんて英語使ってたやつもいたくらいだ。シモンの野郎はアホなのか?」

「じゃあ、年代が書き換わってたのも大した意味はないのかもな。ただ時代を進めてるだけで、歴史上の事件は起きてないんだろ。……言ってて頭がおかしくなってきた」

 

 そう、この世界はどこか杜撰だ。

 箱庭を用意して、そこに雑多な演者を放り込んでいるかのような違和感。一行はジオラマに迷い込んだ気分になっていた。

 ノアは湯呑みに茶を注ぎ、唇を湿らせる。

 

「そうでもねえぞ。このまま時代が進めば、いずれ2016年の人理焼却にブチ当たる。そうなったらこの特異点は修復できずじまいで終わりだ。魔術王を倒しても、日本だけは焼け野原なんてオチになりかねない」

 

 以上のやり取りを管制室で聞いていたロマン。彼は複雑な感情で顔面を塗りたくり、口元をひくつかせた。

 

「『…………皆さんにはいつもそれくらいの真剣さでいてくれると、スタッフ一同とても助かるんですが!!!』」

「ふっふっふ、私たちの知的な部分をドクターに見せつけちゃいましたね! 見直してくれても良いですよ?」

「ロマン、そんな目で俺を見るな。俺が天才なのは最初から分かりきってたことだろうが。ほら、褒めろよ」

「『ああ、元のアホに戻ってしまった……』」

 

 どうやら彼らの真面目さはこの場限りのものだったらしい。三分の制限がある光の国の巨人も、もう少し働けと叱るレベルだ。ロマンは思わず頭を抱える。

 

「マシュとジャンヌとダンテさんは大丈夫なんですよね?」

「『うん、初めてのはぐれ方だったけど、なんやかんやで不良集団が出来上がりそうだから大丈夫だよ。ノアくんにパスを経由してるおかげで、当面の魔力も問題ない。合流は急ぐべきだけどね』」

「なんやかんやの部分が意味不明すぎるだろ! 何をもってして大丈夫だと判断してんだ!?」

 

 ペレアスは盛大に困惑した。

 今までにないはぐれ方をした。それは良い。魔力の心配がないのも僥倖だ。だが、マシュたちが不良集団を作り上げていることを無視できるほど、彼は大人ではなかった。

 異常事態への耐性があるマスターコンビは遠慮なく団子を口に運ぶ。

 故に、一行は気付かなかった。

 周りを浅葱色のだんだら羽織を着た集団に取り囲まれていることに。

 

「そこの四人組、神妙にしろ」

 

 重厚な声が冷たく浴びせかけられる。

 黒衣に身を包んだ男。腰には大小の刀を差している。獰猛な目つきは常に鬼気迫った風情を纏い、全身から発せられる威圧感が肌を刺してくる。

 ノアは即座に彼を睨み返した。

 

「おいおい、穏やかじゃねえな。アイサツは大事って古事記にも書いてあんだろ。どこの田舎侍だ? 芋でも食いながら古典の勉強して出直してこい」

 

 びきり、と男の額に青筋が立つ。

 彼は刀を引き抜き、大上段から振り下ろして言った。

 

「新選組副長、土方歳三! これで十分か賭場荒らし南蛮人!!」

「ギャアアアアア!! いきなり刀振り回してんじゃねえ!! 俺たちの団子が見るも無残な姿になってんだろうが!!」

 

 辺りに団子が散乱する。今回ばかりはノアが正論だったが、土方は鬼の形相で詰め寄る。

 

「ああ? サマで稼いだ金で食った分得したと思いやがれ。こちとら市民からのタレコミが届いてんだ、言い逃れはできねえぞ」

「よしんば俺がイカサマをしてたとしても、そこら辺の一般人に見抜かれるはずねえだろ。サツが冤罪かけてなぁなぁで済まされると思うなよ。藤丸、何とか言ってやれ」

「ウチのリーダーがどうもすみません」

「俺の味方をしろォォ!!」

 

 土方歳三。言わずと知れた新選組鬼の副長である。その剣の腕もさることながら、男女問わず人の心を掴み、部隊の指揮にも長けた将才に恵まれた人物だった。

 その反面、彼は冷酷さをも併せ持っていた。必要とあらば容赦なく苛烈な手段を取り、目的を遂行する。拷問ひとつ取っても、ノアは満足すれば打ち切る可能性があるのに対して、土方は標的が目当ての情報を吐くまで続けるだろう。

 好き好んでやっていない分、彼にはどうあがいても逃げられないという恐ろしさがある。立香がノアを売るのもそんな側面を知っていたからだった。

 しかし、このままノアが拷問されるのを見過ごすのも人道に悖る。立香は試しに訊いてみることにした。

 

「たくあんあげたら見逃してくれたりします?」

「…………んな訳あるか。そんなんで見逃してたら新選組の名折れだろうが」

 

 少し考え込んでいたのは指摘しないことにした。ペレアスは深くため息をつくと、ノアと土方の間に割り込む。

 

「まあ、アンタの気持ちは大いに分かるが、こいつは自分に関する嘘はあんまり言わないやつだ。剣を納めてくれねえか」

「いや、お前も賭場荒らしのひとりだろ。変な鎧着た不審者が乱入してきたっつう情報が入ってきてんだよ。アレか、騎士気取りか?」

「気取りじゃねえよ! 晴れて名実ともに円卓に復帰した騎士で竜殺しのペレアスだ!」

「知るか」

「くそっ、オレにもっと知名度があれば!!」

 

 土方はペレアスの言をばっさりと切り捨てた。アーサー王物語の中でもマイナーなペレアスを、本格的に西洋の文化が流入する以前の日本人が知っているはずがなかった。

 一触即発の空気になりかける。そこに、腰に剣を差した少女が駆け寄ってくる。彼女は浅葱色のだんだら羽織を纏っていた。どうやら新選組の隊士のようだ。

 

「あれ、こんなところで会うなんて奇遇ですね土方さん! そちらも仕事ですか?」

「おう、沖田か。ちょうどいい、お前も手伝え。こいつらしょっぴくぞ」

「沖田……? え、その人沖田総司なんですか!?」

 

 沖田と呼ばれた女性は立香の問いに煌めくような笑顔で返した。

 

「ふふーん、その通り! 私こそが新選組一番隊隊長、沖田総司です! 鬼より怖い壬生の狼ですよ!!」

「えええええ!? あの肖像画と全然違うじゃないですか! また女の子だったパターンじゃないですか!!」

「雰囲気がほんのちょっとだけ王様に似てる気がしますわ」

「つーかどこが壬生の狼だよ。壬生のチワワだろ」

「え、なんですこの人たち。初対面の人間に対してめちゃくちゃ失礼じゃありません? 肖像画って何のことなんですか!」

 

 立香は電子端末を操作して、沖田総司の肖像画と言われる画像を本人に見せつける。

 その画像に映る沖田(仮)は日本画でデフォルメされた人物像をそのまま取り出したみたいな顔をしていた。ぽったりとした唇に下膨れの輪郭。当然だが、目の前の沖田とは似ても似つかない。

 彼女は全身の力を失い、地面に膝をついた。

 

「ナニコレ……ダレコレ……? まさか私、後世ではこんな風に伝わってるんですか。やだァァ!!」

「『あ、安心してください! その肖像画は沖田みつさんのお孫さんをモデルにしたものですから! みつさんが孫の顔を見て、〝どことなく総司に似てる〟と言ったらしいですよ!』」

「なんてこと言ってるんですか姉さん!? ひっどおおおおい!! 私のどこがこんな下膨れ顔なんですか!!?」

 

 それはそれで姉の孫に失礼である。

 一通り嘆き悲しむと、沖田は愛刀を抜いて立ち上がる。メンタルを掻き乱された状態ではあるものの、流石は天才剣士。刀を握る姿は研ぎ澄まされた殺気を一行に叩きつけた。

 ペレアスは即座に神殺しの魔剣を構える。その戦意に反応し、ベイリンに託された赤鎧が五体にまとわりつく。

 それを見て、沖田は口の端を吊る。

 

「おお、中々使いますね。仕事のついでにこんな人と斬り合えるなんて、僥倖です!」

「待て沖田、仕事っつうのは何のことだ。どうしてここに来た」

「さっき屯所に子連れの親御さんたちが駆け込んできたんですよ。この辺りで青少年健全育成条例に反した映画を上映してるとかで」

「あ? どういうことだ」

「簡単に言えば子ども相手にぬ、濡れ場を見せてたみたいで……」

「マジかよ、最高のご褒美じゃねえか!」

 

 喜んではいるものの、犯人には辿り着いていない様子の土方と沖田。しかし、立香たちには心当たりがありすぎるほどにあった。気付いていないのは当の本人だけだった。

 湖の乙女は顔色を青くする。

 

「恐ろしいですわね……人類の宝である子どもたちに悪影響を与えるなんて……!!」

「どう考えてもおまえだろドスケベ精霊」

「この人ほんとに1000年も生きたんですか」

「……オレはノーコメントで」

 

 一連の流れで全てを察した土方は額に血管を浮かび上がらせた。

 

「賭場荒らしに加えてそんなことまでやってやがったとはな! 沖田ァ!」

「───おふざけはここまでです。行きます!」

 

 沖田は一歩を踏み出す。

 ペレアスがその予備動作から動きを予測するよりも早く、壬生の狼は懐に入り込んでいた。

 縮地。多くの武道武術に存在する、相手との間合いを一瞬で詰める歩法。現代では体を深く前傾することで重力を借り、距離を詰める技と解釈される。

 が、沖田のそれは短距離の空間跳躍に等しい。

 この不意打ちは一度限り。相手の観察眼が研ぎ澄まされているほどに、効果は高くなる。

 一度限り───沖田には、それで十分だった。

 刃が閃く。

 鎧の隙間を狙った突き。

 一点を貫く剣閃はしかし、円卓の騎士の命脈を断つには至らなかった。

 ざり、と刀が鎧を削る。

 ペレアスは咄嗟に身を捻り、剣士の突きを回避していた。不意の一撃、それで命を落とすようなら、彼は円卓に名を連ねてはいない。躱せたのはつまるところ、騎士の意地だ。

 返しの剣撃。癒えぬ傷を与える魔の剣風を前に、沖田が選んだのは前進。縮地を用いて騎士の背後へ回り込み、刃を横に薙ぐ。

 瞬間、耳をつんざくような金属音が鳴り響く。ペレアスは剣の腹で一撃を受け止めていた。

 

「沖田総司、だったか? サムライってのは恐ろしいな! そんな剣を使うやつは円卓にもいなかったぞ!」

「お褒めいただき光栄です。私も、まさかあれを躱されるとは思ってもみませんでした。重そうな鎧でよく動けますね?」

「ハッ、騎士はこれでも軽装だけどな!」

 

 鍔迫り合いの状態。沖田が力でペレアスに勝る道理はない。騎士の指を折ろうと片手の握りを解いたその時、甲冑の肩当てが沖田を突き飛ばした。

 ペレアスは指を絡める直前の隙を突いて、体当たりを叩き込んだのだ。

 土方は地面を踵で削る沖田の体を、片腕で受け止める。

 

「ただの大道芸人じゃねえみてぇだな。助太刀は要るか」

「いえ、私の相手です。土方さんは副長らしくふんぞり返って見ててください」

 

 円卓の騎士と幕末の天才剣士。彼らの斬り合いは仕切り直しを経て、再度の激突を見る。沖田の突きの構えにペレアスが呼応し、睨み合いが生じた。

 ひゅう、と時代劇じみた風が吹く。

 この膠着状態は嵐の前の静けさ。自らの機と相手の隙が重なった刹那のみ、彼らは動くだろう。

 睨み合いが続く。沖田の頬を一筋の汗が伝う。それを皮切りに、彼女はだらだらと冷や汗を垂れ流し、ただでさえ白い肌を真っ青にする。

 次第に全身が震え出し、ついに抑えていたモノが溢れ出した。

 

「ごふううううう!!」

 

 沖田は盛大に喀血する。

 生まれたての子鹿のように四つん這いになって、

 

「あっやっぱり無理でしたさっきの体当たりけっこう良いトコに入ってました肺が痛いんで後は任せてもいいですか」

「侍が自分から相手を決めといてそれは通らねえだろ。さっさと立って戦え」

「ちょっと鬼畜すぎませんか土方さん!?」

 

 新選組コントを間近で見せられたペレアスは赤鎧を解いて剣を仕舞った。

 

「あー、ここは止めとくか? そっちにはサムライの誇りがあるんだろうが、オレにも騎士の誇りがある。そんな状態のやつと戦う訳にはいかねえ」

「目の前で倒れた敵をみすみす逃すのが騎士の誇りだと? 西洋の武士ってのはみんなお前みたいな甘い男なのか」

「いいや、オレが特別優しいだけだ。まあ、無駄な殺しをしないのも騎士の仕事でな。おサムライさんはこういうノリは嫌いか? アンタらの誇りを教えてくれると助かるんだが」

 

 その言葉は、異国の武士にどう響いたのか。土方は暫時黙り込み、忌々しげに舌打ちする。

 

「分かった。お前が手を引く代わりに、俺たちも今回の件は不問にする。これでいいか」

「もちろんだ。和解の印に握手でもするか?」

「ハ。女ならともかく、野郎と触れ合うなんざ御免だ。だがまあ、名前は覚えておいてやるよ、ペレアス」

「そりゃ良かった。是非新選組にオレの名前を広めておいてくれ。騎士は名誉と知名度が大好物だからな」

 

 土方は波打ち際の魚みたいに痙攣する沖田を乱暴に抱え上げ、円陣を形成する隊士たちに退却の命令を出す。

 去り際、彼は思い出したかのように告げた。

 

「本能寺に行ってみろ。南蛮かぶれのアホ殿がふんぞり返ってやがる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間を遡り、レイシフト直後。

 マシュとジャンヌ、ダンテは焼けた山の中腹で、一列に体育座りになっていた。カルデアのマスコットキャラクター、フォウくんはダンテの頭の上で正座している。

 山の澄んだ空気が、彼らの放つ瘴気に汚染される。水に絵の具を落とすように、爽やかな大気がすぐさま毒々しい色に塗り替えられていった。

 

「…………こんなことってあります?」

フォウフォウフォフォウ(奇跡も魔法もあるんだよ)

 

 マシュが絶望のままに口をこぼす。

 答える人間は誰もいなかった。ダンテもジャンヌも、眼下に広がる山々の風景を気怠げに見渡している。その背中はダービーで有り金を使い果たして、徒歩で帰ることになったおっさんのように煤けていた。

 ジャンヌは乾いた笑い声をくぐもらせる。

 

「サーヴァントだけはぐれるとか、レイシフトの技術はどうなってるのよ。本末転倒にもほどがあるでしょう」

「ま、まあ私はお二人と一緒で助かりましたよ。私独りでは死亡確定なので。魔力もしっかり送られてきていますし」

「『ノアくんのおかげですね。彼がパスを自分に経由させて、魔力を上乗せして送ってくれているようです。戦うのにも問題ないですよ』」

「ああ、そうでしたか。ノアさんはやればできる子なんですよねえ。ロマニさん、私たちに指示をくれますか?」

 

 ロマンはこくりと首肯する。彼の心中は安堵感に満ちていた。

 ダンテはカルデアではめっきり見なくなった絶滅危惧種の常識人だ。まともに話ができるというだけで護り抜く価値がある。

 手元のコンソールを操作して、解析が完了した一帯の地図を三人に共有した。

 この地域で一体何があったのか、地図に映る場所の大半が黒く焼け落ちていた。ダンテたちの目に見える範囲の焼け跡は氷山の一角にすらなっていない。

 

「わたしたちがいる場所は大江山の付近のようですね。源頼光が酒呑童子を征伐したとの伝承がある場所です。ドクター、これは俺の屍を越えてゆけ、ということですか?」

「『うん、全然違う。三人にはこの地域が焼けた原因を調べてほしいんだ。山火事ではないようだしね。しかも、ここは大江山だろう? はぐれサーヴァントをゲットできるかもしれない』」

「焼けた原因を調べるなんて言われても、私たちには見当もつかないわ。そういうのは学者の仕事じゃないの」

「この辺りに人が住んでいないとも言い切れませんよ?」

 

 ダンテがそう言うと、マシュはニタリと笑った。

 

「ダンテさん。そこは鬼が住む、でしょう。ここは大江山なのですから」

「おや、これは一本取られましたねえ。鬼の方々も見境なく命を奪うことはしないようですし、友誼を結べると良いのですが」

「その場合はまず上着を渡すことからですね。虎柄のパンツ一丁では冬を越すのは少々不憫です」

「……いやいや、何言ってるんですかアンタたちは。この御時世に、虎柄のパンツ履いてるテンプレみたいな鬼がいるはずないでしょう」

 

 ジャンヌは人を小馬鹿にするような笑顔になる。

 すると、彼らの背後でがさごそと林を掻き分ける音がした。

 出てきたのは見上げるような巨躯を誇る、虎柄のパンツを履いた二人の鬼だった。片方は赤く、もう片方は青い体色だ。前者にはイッカククジラのような一本角が、後者には牛のような二本の角がそれぞれ頭部に生えている。

 要素だけを切り出せば絵本に描かれている鬼と相違ないのだが、リアルの鬼は可愛らしくはなかった。ダンテたちとは絵柄が違う程度には凶悪な風貌をしていた。

 マシュは意地の悪い表情でジャンヌに詰め寄る。

 

「すみません、聞こえませんでした。もう一度言ってくれませんかジャンヌさん。ん?」

「うっさいわ寄るな! ええ、これで目的は達成できそうじゃない。第一村人発見よ!」

 

 マシュとダンテの首を掴んで立ち上がる。青鬼は彼らに気付くと、下卑た笑みで相方の肩を小突いた。

 

「アニキィ! なんかこんなとこに人間がいますよ! シメます? シメます?」

「男は身ぐるみ剥いで捨てとけ。そこの犬だか猫だかよく分からん謎生物はあんま肉もなさそうだし、放っとけ。どうせ大した出番もないだろ。空気だろ」

フォウフォフォウフォフォウ(おいそれは禁句だろぶっ飛ばすぞ)!!」

「フォ、フォウさん落ち着いてください! 今のあなたは輝いてますよ!」

 

 ダンテは無謀な突進をしようとするフォウくんの胴体を掴み上げた。こうなると四足獣には何もできない。だらりと猫のように胴が伸び、足が虚しく宙を掻く。

 ただし、と赤鬼はマシュとジャンヌにねっとりとした視線を送った。

 

「そっちの嬢ちゃんらには俺たちの住処に来てもらうぜェ! ブヘヘヘヘ!!」

「さすがアニキ! クズすぎて憧れます! 俺もおこぼれに預っていいですか!」

「は? キモ」

 

 ジャンヌは同時に旗を赤鬼の顔面目掛けて振り抜いた。壁に水風船を叩きつけたような水気のある音が響き、赤い巨躯が後ろに倒れる。

 ポキ、とあっけなく赤鬼の角が折れ、地面に転がる。その顔面は潰れたトマトよりも酷いことになっていた。

 青鬼は見るも無残な姿になった同胞を抱き締める。

 

「なっ、なにさらしてくれとんじゃァァァ!! アニキの立派なバベルの塔がポッキリいってもうてるやないか! 中折れしとるやないか!」

「はあ? こんな貧相なのが何本折れようが素材にすらならないんですけど? 粗大ゴミとして打ち捨てられるのがオチでしょう」

「健全の極みであるわたしたちに、不健全な言動をぶつけてきたのが悪手でしたね。ジークフリートさんにドラゴンをけしかけるようなものです」

「平然と鈍器ぶつけてくるお前らが健全なわけないだろ!!」

 

 青鬼決死の抗議もマシュの耳には届かなかった。次の瞬間には盾で脳天を打ちのめされ、滝のように血を流しながら気絶する。青鬼でも血は赤かった。

 マシュは彼の頭の上に移動し、花を手折るかのような気軽さで二本の角をもぎ取った。ついでに赤鬼の貧相な一本角も回収して、盾の内部に収納する。

 

「さて、出発しましょうか。この二人……二鬼? の足跡を辿れば、住処に行けるはずです。そこで聞き込みフェイズです」

フォウフォウフォウ(鬼よりも鬼じゃねえか)

「『マシュは本当にふてぶてしくなったなぁ……』」

 

 ということで、彼女らは鬼の本拠地を目指すことにした。

 日本の妖怪の中でも、最も知名度が高い妖怪のひとつが鬼だろう。鬼という漢字が使われだしたのは、古くは奈良時代。当時は広く怨霊や悪霊などの人ならざる存在を指していた。この字に〝おに〟という発音が付いたのは平安以降であり、和名抄によると隠が転じてこの形になったのだという。

 角に虎柄の下着、金棒といったイメージがいつから生み出されてきたのかは定かではないが、それ故に鬼という存在は尋常ならざる神秘を秘めてもいる。

 なればこそ、油断はできない。非礼を働いてもいけない。後者に関しては今更感溢れることではあるが。

 マシュたちが山中を進んでいると、何やら泣き喚く声が聞こえた。その声音は幼い少女のようであり、深い悲嘆の色に染まっている。

 三人の脳裏をよぎるのは最悪の情景。歩みは自然と早まり、徐々に視界が開けてくる。そうして、一行は本物の鬼を見た。

 

「清姫ェ! 酒だ、酒を持ってこい! とびっきり濃いやつをなあ!!」

「茨木さん、お酒弱いくせにここ数日ずっと飲みっ放しではありませんか。さっきみたいに吐瀉物ぶち撒けても知りませんわよ?」

「良いもん! 吾の悲しみと怒りは酒でしか誤魔化せぬのだ! この苦しみから逃れるためなら三千世界の鴉にゲロぶっかけてみせるわ!! 汝も鬼ならば分かるであろう、鬼の頭領を失った吾の気持ちが!!」

「いや、ですからわたくしは鬼ではなくて……」

「だって角あるじゃん」

「確かにそうですけれども!! これは龍的なアレであって鬼のそれではないと何度言ったら分かるんです!?」

 

 酒を瓶ごと飲み干す幼女姿の鬼と、第一特異点で共に戦った蛇娘がコントを繰り広げていた。最悪の想定を予想外の形で裏切られたマシュたちは、作戦会議を開くべく木陰に身を隠す。

 以下、三人は小声で、

 

「……なんか、どこにもアホっているのね」

「第一特異点のログを見たので清姫さんは知っているのですが、あちらのお嬢さんもサーヴァントですよねえ。マシュさん、ご存知ですか?」

「はい。わたしはデキる後輩なので。会話から察するに、酒呑童子の手下の茨木童子でしょう。相当高名な鬼のはずです」

「ダンテなんて一瞬でひねり潰されそうね」

「私を一瞬でひねり潰せないサーヴァントの方が珍しいですからね。……あっ、自分で言ってて悲しくなってきました」

 

 ともかく、とダンテは前置きする。

 

「あの様子なら普通に聞き込みをしても良いのでは? あんなに泣き腫らしていては戦うのにも一苦労だと思いますが」

「いえ、茨木童子は渡辺綱という剣士に腕を切断された逸話があります。もし、彼女が人間に恨みを抱いていたら……」

「結局、ダンテはひねり潰されるってことね」

「えっ、なんで私が行くことになってるんですか! やられる前提なんですか!? 私は悪魔会話はできても鬼は無理ですよ!」

 

 と、大声を出しかけたダンテの口を、フォウくんが押し止めた。

 茨木童子と渡辺綱。二人は一条戻橋の上で一騎討ちを演じた。茨木童子は渡辺綱に襲い掛かるも、逆に名刀髭切によって腕を落とされてしまう。その後、茨木童子は七日間の物忌みを行っていた渡辺綱からどうにかして腕を奪い返すことに成功する。

 その執念たるや、余人には計り知れない。マシュの言う通り、彼女が人間に恨みを抱いている可能性は否めない。

 

「なので、ダンテさんには鬼になってもらいましょう。茨木童子さんが何をもって鬼を区別しているのか分かりましたし」

「はい? 凄まじく嫌な予感がするんですが」

「……ああ、そういうこと。ほら、こっち向きなさい」

 

 待って、と言う前にダンテの頭に先程の赤鬼の一本角が刺さった。額から川のように血が流れ出し、顔面を赤く染めていく。彼は一拍置いて、大江山に絶叫を轟かせる。

 

「ウギャアアアアアア!!!」

 

 木陰から飛び出すダンテ。あまりにも急すぎる闖入者の出現に、茨木童子と清姫はびくりと体を震わせた。

 

「むっ、何奴!?」

「何奴というかほぼ死体ですわ!!」

 

 二人はダンテに駆け寄る。ドクドクと血を垂れ流す詩人は地面を這いずり、掠れた声で言う。

 

「た、助けてください……鬼畜なすびと暴力魔女に殺されかけてます……」

「ぐううう、吾の同胞をここまでいたぶるとは許せぬ! 清姫、こやつに手当てを!」

「……お酒かけて消毒しますわね」

 

 数分後、手当てを受けたダンテは清姫と茨木童子と酒盛りをすることになった。こうなればしめたもの、魑魅魍魎が策謀を巡らせる政界を登り詰めた手腕の見せ所だ。

 ダンテは茨木童子の酒器に並々と酒を注ぐ。

 

「私、こちらに来てから日が浅いのですが、一体ここで何があったんです?」

 

 茨木童子はまたしても涙を浮かべ、滴る水滴が酒器の水面にこぼれ落ちた。

 

「二週間前に東征軍が攻めてきて……あの卑劣な武者が、酒呑を討ってしまったのだ! 神の力に頼り、この大江山をも焦土に変えた奴らは決して許せぬ!!」

「…………()()()?」

「ええ、高千穂に召喚された英霊たちは自らを東征軍と名乗り、侵略を始めたのです。今では神州のおよそ西半分が手中に収められていますわ」

(……なるほど、これが特異点を成立させている歪みですか)

 

 ダンテは納得する。今回の敵はその東征軍で間違いない。シモンの特異点と言えど、歴史に存在するはずのない敵が発生して時代を歪める方式は変わっていないようだ。

 酩酊して思考能力の大半をドブにしている茨木童子と異なり、清姫はダンテの事情を幾ばくか見抜いているのだろう。彼女はさらに言葉を続ける。

 

「東征軍が勢力圏を伸ばす度に……何と言いましょう。昼夜が目まぐるしく入れ替わるのです。最初に彼らが出現してから、何年経ったのか、もう誰にも分かりません」

「そうですか。貴重な情報、感謝致します。あなたがたはこれからどうするおつもりで?」

「無論、酒呑の仇を取る! 我ら鬼がやられっぱなしで黙っていられるか!」

 

 茨木童子の決意は固かった。

 酒呑童子の仇を取る。彼女の戦意はカルデアにとって好都合だ。戦う理由がある以上、茨木童子はどこまでも命を燃やし続けるだろう。

 けれど、それはその覚悟と決意を利用する行為に他ならない。たとえ世界を救う大義名分があろうと、ダンテにとってそれは許せない行いだった。

 詩人は額に刺さった角を抜き、傅く。

 

「茨木童子さん、あなたに謝罪を。私は人理保障機関カルデアのサーヴァント、ダンテ・アリギエーリと申します。同胞を騙り────」

「角引っこ抜くとか阿呆かああああ!! 鬼の誇りだぞ!? 戻せ戻せ!!」

 

 茨木童子はダンテの言葉を遮り、角をもう一度彼の額に突っ込んだ。

 

「うがあああああ!! え、これ脳にまで達してません!? 前頭葉貫いてません!? プチロボトミー手術じゃありません!!?」

 

 このままでは埒が明かない。マシュとジャンヌは青鬼の角をそれぞれ額に貼り付けると、木陰から体を出す。牛の角が単品で額から生えたその格好は絶妙に間抜けだった。

 

「い、茨木童子様! わたしたちも仇を取るのに賛成です! 微力ながら共に戦ってもよろしいですか!?」

「言っておくけど私は強いわよ? そこのアホよりかは何百倍も」

「おう、戦力はいくらあっても足りぬからな! 歓迎するぞ! こうなっては新しい名前が必要か……」

「あぁ、胃が痛くなってきましたわ……」

 

 清姫は袖を濡らす。こんな調子で愛しの安珍様には巡り会えるのか。そう思うと、涙が止まらなかった。

 どんちゃん騒ぎの様相を呈してきた山中。茨木童子は初めて笑顔で、

 

「大江山愚連隊、ここに結成を宣言するっ!!」

 

 一部始終をモニター越しに眺めていたロマンは、すかさずポケットから胃薬を飲み込んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地平線の向こう側に太陽が沈んでいく。

 時刻は黄昏時。現代のような明かりもないこの時代ではこの時間帯でさえ、相当に暗かった。朱に染まるのは空ばかりで、地上には闇の帳が降り始める。

 ノアたちは土方の助言を受けて、本能寺を訪れた。

 もはやそのキーワードだけで、誰が待ち構えているか想像がつく。この国で最も有名な人物の話になったら必ず挙げられるであろうあの武将である。

 ジャンヌ・ダルクと並ぶ、もしくは超え得るフリー素材。その名を冠した者はいまや星の数ほどいるが、運命のイタズラか、彼らは元ネタと相まみえることができるのだ。

 本能寺の門の前。立香は心の疼きを抑えるように拳を握る。

 

「ついに来ましたね、本能寺! 本物の織田信長に会えるなんてとんでもないですよ! サイン貰っていいですかね!? ツーショット撮ってもいいですかね!?」

 

 他の三人とは明らかにテンションが異なっていた。特にノアはまとわりつくように騒がれ、なけなしの高揚感にも冷水をかけられた気分になっていた。

 彼女とて歴史マニアほど織田信長に詳しくはないが、それでも幼い頃から存在を知っていた人物だ。創作物にも引っ張りだこな信長に会うことは夢だったのだろう。

 ノアはもったりと上のまぶたを下げる。

 

「どうせ織田信長も女なんだろ。火縄銃使って戦ったりすんだろ。第六天魔王とか名乗るんだろ。展開が読めてんだよ、つーことで帰るぞ」

「リーダー、変なこと言わないでください。あの織田信長ですよ? きっと私たちが予想だにしない空前絶後で前人未踏な人に決まってます!」

「オレはよく知らないが、日本でもかなり凄い殿様なんだろ? ノアの予想通りの人なわけねえな」

「ええ! 何と言っても戦国時代を代表する人物ですもの! 私たちの予想なんて軽々しく裏切ってくれるに決まっていますわ!!」

 

 そう。なぜなら、ここにいるのは織田信長。革新的な思考を有し、並み居る強豪相手に自らの勢力圏を伸ばし続けた英雄の中の英雄だ。

 彼ならば、必ずや期待を超えてくれる。

 一行は希望を胸に本能寺へと突撃した────!!

 

「うむ、よく来たのう! カルデアの者共よ! 我こそは第六天魔王織田信───」

「よし、帰るぞ」

「なんでじゃァァァ!!」

 

 残念ながら、ノアの予想通りの織田信長が待ち受けていた。高すぎるハードルを超えるのは、ヘラクレスの難業にも匹敵する難易度なのだ。

 信長は金ヶ崎の戦いの時くらい狼狽した。大物らしく待っていたのにこの始末。とても大人気戦国武将の扱いではない。

 

「わし織田ぞ? 第六天魔王ぞ? 普通ここは〝あの織田信長が女性だったなんて……!〟とか言ってひっくり返る場面じゃろうが!!」

「他の英霊なら少しはそんな反応もするがな、おまえに限っては見飽きてんだよ。女の信長が何人いると思ってんだ。沖田総司が女の方が衝撃的だったぞ」

「なにぃ!? 沖田だって女の設定になることはあるじゃろ! 幕末純情伝とか!」

「んな昔の映画誰が知ってんだ! たとえが古いんだよ!!」

 

 立香はノアを押し退けて、信長にサイン用紙を差し出す。

 

「ここにサインお願いしてもいいですか! 私、信長さんが巨大化して目からビーム撃つところが大好きで!」

「それ別の信長だけどネ! しかし、わしは松永の裏切りを二度許すほどの寛大さを誇るからの。花押(サイン)くらいならいくらでも書いてやろうぞ!」

「おぉ……人理修復したら絶対、お兄ちゃんに自慢します!」

 

 信長はどこからともなく筆を執り、真っ白なサイン用紙に慣れた手つきで花押を書きつけていく。

 その間、ペレアスと湖の乙女は辺りをきょろきょろと見回していた。

 

「へし切長谷部さんがいらっしゃいませんわね」

「そういえばそうだな。どっかで茶でもしばいてるのか?」

「え? わしこれにもツッコまないとダメ? 人間みたく言ってるけど刀なんじゃけど。へし切長谷部とか黒田にあげたんじゃが」

 

 怒涛のボケに苛まれ、信長は早くも疲弊し始めていた。これでは敦盛を舞う気力もないだろう。

 彼女はどっかと座ると、自ら茶を湯呑みに注いで一服する。

 

「で、本題入っていい?」

「もちろんです! まさか、一緒に戦ってくれるんですか」

「うむ。いくらわしが第六天魔王で最強だとしても、東征軍……この特異点の敵には分が悪いからの。二週間前の襲撃も、わしが跳ねっ返りのサーヴァントを束ねてギリ撃退できたくらいじゃ」

 

 信長は語った。

 二週間前、東征軍は京の都を手中に収めるべく大攻勢をかけてきた。大江山の鬼たちや新選組という戦力はあったものの、戦況は劣勢に立たされていたという。

 そこで、信長は強引に指揮系統をまとめて彼らを動かし、何とか東征軍を撤退させることができた。あくまで強引に指揮を乗っ取ったため、今ではその地位は雲散霧消。本能寺でひもじい暮らしをしていた。

 ノアはそこまで聞いて、首を鳴らす。

 

「おまえはどうしてカルデアのことを知ってた?」

「妥当な質問じゃな。では質問を返すが、わしはどうやってバラガキだの壬生狼だのに命令を聞かせたと思う? わしのカリスマが高いのは当然として」

「……さあな。弱みでも握ってたんだろ」

「ふふん、ハズレ。答えはそう、あの芋侍でも言うことを聞かざるを得ない旗頭がいたからじゃ!」

 

 四人は眉をひそめる。新選組でさえも無視できない存在。土方の振る舞いを見た以上、それこそ近藤勇でもない限り無理な話だろう。

 が、それでは新選組を従えられても、大江山の鬼は別だ。リースは天井を向いて考え込む。

 

「江戸の将軍様や、やんごとなき方々でしょうか。全く思いつきませんわね。私はペレアス様の命令にはどんなものでも従いますが」

「オレがリースに無理やり命令することなんてないけどな。……そうだな、発想を飛ばして、いっそ人間以外のやつだったりするんじゃないか?」

「お、それはほぼ正解じゃ! あまり尺をかけてもダレるからの、早速ご本人に登場していただこう!」

 

 信長は柏手を打つ。

 がらり、と天井の板が開き、床に小さな影が着地した。

 白い装束を纏った男児。年齢にして十にも満たない幼い子どもだった。長い髪の毛を後ろでまとめ、腰には身の丈に合わない剣を提げている。彼は輝く星のようなウィンクをして、両手の人差し指と中指を立てる。

 

「どうも、スサノオで〜す!!」

 

 空気が凍りつく。

 この男児、とんでもない名前を吐いた気がする。

 これが嘘ならばどれほど良かったことか。しかし、彼が発する空気感や微小ながらも英霊とは違った雰囲気。感情とは裏腹に、理性はそれらを考慮して真実であると判断していた。

 外で鳴いているカラスの声が大音量に聞こえるほどの静寂。

 四人はそれぞれ目を見合わせ、落ち着いた息を吐く。そして、声を揃えて、

 

「「「「はあああああああ!!?!?」」」」

 

 ばさばさ、とカラスが飛んでいく。

 彼らの番外特異点攻略は、こうして始まりを告げたのであった。



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第59話 コードキャスト

 化外。

 ひとつの視点において、自らの法に染まらぬ場所を指す。

 その地に住まうは、まつろわぬ民。異なる価値観、異なる習俗、異なる神とともに生きる人間たちだ。そして、人類史の常として、異なる価値観を抱く集団が出逢えば血が流れた。

 同じ法を戴けぬというのなら。

 服従させ、恭順させなくてはならない。

 たとえどれほどの命が燃え落ちるとしても。

 誰も彼をも認められぬから、誰も彼をも殺すしかない。

 この国でも、それはあった。

 時の薩摩藩は貿易の利益を求めて琉球王国を攻めた。

 征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷と呼ばれた異民族を平定した。

 化外を我が色に染め変える。

 理由と目的の違いはあれど、規模の大小に関わらず、そのような戦いはいつだって存在しただろう。それこそ世界中で、人は人の土地を求めて無数の骸を築き上げてきたはずだ。

 かつて、神が神に、そうしたように。

 人はその行為を、なぞり続けるのだ。

 葦原中津国における最古の生き場の奪い合い。

 それは───────

 

「…………高天原から伝令です。俺とクラミツハ、あと誰かひとりで京を攻めろと。ということで、ちゃっちゃと選んでください」

 

 日向の国の霧島連山、高千穂峰。

 現代の宮崎県と鹿児島県の県境に連なるこの火山群は古くから山岳信仰の対象となり、霊峰として崇められてきた。多くの修験者が修業を行ってきた場所でもある。

 高千穂峰の頂上には雲にまで届こうかという巨大な木造の柱が突き立っていた。表面に魔力を秘めた幾何学模様が血管のように駆け巡っている。継ぎ目ひとつない霊木の柱。それが人の手によって造られたモノではないことは誰の目にも明らかだ。

 身の丈ほどの大弓を背負う少年は頭の後ろで手を組む。眉と唇が垂れ下がり、いかにも気怠げな風情を演出していた。退廃的に歪む紅顔は常人ならば性別問わず魅了されてしまうような魔力を秘めている。

 男は魔貌とでも呼ぶべきそれを真っ向から見据え、

 

「もちろん拙者が……と言いたいところですが、何故全員で攻めぬのです? 一気呵成に攻め取ってしまえばよいものを」

「さあ。神様のお考えなんて考えるだけ無駄ですよ。俺としてはアンタに代わってもらいたいですけどね。弓の腕ならそっちが上だと思いますし」

「そう謙遜なされますな。貴方ならば龍神を喰らう大百足なぞ射抜くことは容易いでしょう?」

「嫌味にしか聞こえないんですが?」

 

 少年は不穏な微笑みで言い返した。男はおどけたように肩をすくめるが、瞳に灯す光に諧謔の色は存在しなかった。もっとも、そんなものがあれば少年は即座に弓を手に取っていただろう。

 空気が微弱に震える。少年の機嫌ひとつがこの世界に直結しているように。白髪の剣士は腰に佩いた剣の柄に指を添える。

 

「頼光様は大江山の一戦で傷ついておられる。俺が出ましょう」

「いえ……あのアホ神のせいで頼光四天王はもう貴方ひとりです。今の彼女と意思疎通できるのは貴方しかいない。留守を任せても?」

「承知した。では……」

「うむ。私が行こう。これもまたとない語らいの機会、無碍にする選択肢はありませぬな」

 

 進み出たのは、背丈にも及ぶ長刀を携えた男だった。

 少年は頷く。その表情からは弛緩が消え、一定の緊張を取り戻したように見えた。すると、電波が乱れた液晶画面のように上空にノイズが走る。

 彼らの頭上を光が照らす。雲間を横切るノイズから、山岳に匹敵する巨体を誇る船が現れる。その船を構成するのは葦。黄金色の葦が無数に編み込まれ、船体の両側から天を覆うが如き翼が展開された。

 これなるはアメノトリフネ。さる争いにおいて、猛る神鳴りの武神に随伴する伝令神である。

 その来訪を歓迎するかのように、遠雷が轟いた。遠け離れた山の頂上。ひとりの武者が、溢れ出る涙とともに雷を撒き散らす。その目に正気の色はない。かといって、狂気ですらない。ほとばしる電流に載せた悲壮だけが、彼女が心を表現する唯一の手段であった。

 ───自分を連れて行け、と。

 少年は拳を強く握り締め、唇を噛む。

 

「これだから、神ってやつはどうしようもねえ」

 

 無自覚に吐き捨てたその言葉は、自らの胸を抉っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼と言えば、どんなイメージを持つだろうか。

 人間に害をなす恐ろしい存在か。傍若無人に振る舞う荒くれ者か。奪った金銀財宝を肴に宴を催すお調子者か。はたまた、体良く主人公に懲らしめられるだけの悪役か。

 きっと、そのどれもが間違いではない。

 彼らには彼らなりの生き方がある。それは得てして刹那的で破滅的だが、だからこそ円熟した果実が燃え落ちるかのように鮮烈だ。

 その結果、犬と猿と雉を連れたディスカバリーチャンネルの化身に蹂躙されることもあれば、縫い針で体内を滅多刺しにする残酷極まりない方法で退治されることもあるが、そこはご愛嬌。負ける姿も劇的なのが鬼の人気の秘訣だと言えよう。

 竜の魔女、ジャンヌ・ダルクが当初持っていた感想はそんなところだった。

 その在り方に思うところはある。同情などと柄ではない感情を抱いてすらいる。あのフランスで悪の華を咲かせた者として、一抹の感傷を禁じ得ない。

 なぜなら、彼らは多くの物語で悪であれ、敵であれと望まれたが故の存在だ。非業の運命を遂げた聖女が、復讐の魔女へと堕した彼女とはまるで同質。違いがあるとすれば、真作と贋作であるということくらいだろう。

 どこぞの脳内花吹雪な皇帝や五十個の星を背負うライオン大統領、太陽系ファラオに比べればよっぽど水が合う、かもしれない。ジャンヌはそんな淡い期待を脳の隅っこに押し込めていた。

 昼。太陽の騎士が元気三倍絶好調になる頃合い。深夜まで飲み明かしていた茨木童子は二日酔いを気合いで鎮めると、妙に落ち着いた表情で言う。

 

「思ったのだが、大江山って住みづらくないか。なんかどこも焦げてるし……清姫もそうであろ? 鬼として」

「最後の一言は余計です。まあ、鬼でなくとも焼けた山の中で暮らしたい物好きは少ないと思いますわ。私は安珍様とならどこでも極楽浄土ですけれど」

「私も地獄の風景が蘇るので移住したいところですねえ。京の都にでも行ってみます?」

「やはり京都か……いつ出発する? 吾も同行する」

「そこは大江山愚連隊の頭領である茨木さんが主体になるべきなのでは……?」

「待てマシュ。酒呑がやられたことを思い出して泣いてしまうであろうが!!」

 

 と言って、いじけ始めた茨木童子にアルコールを投与し、一行こと大江山愚連隊は京の都を目指した。二週間前の戦いで生き残った配下の鬼を連れたその姿はまさしく百鬼夜行である。夜ではないのだが。

 京都の街は碁盤の目とよく言われる。中国における都市計画の思想、条坊制に端を発する言葉だ。風水の考えとも結びつき、当時の街作りでは基本となった。

 大江山愚連隊の百鬼夜行が真っ先に向かったのは羅城門。後世では羅生門とも呼ばれ、かの文豪が今昔物語集をベースにして、死体の髪の毛を引っこ抜く老婆をボコボコにする下人の話を描いた舞台ともなっている。

 加えて、茨木童子とも何かと縁深い場所だ。渡辺綱が羅城門で鬼の腕を切り落とした話が残っており、その鬼と茨木童子は同一視されることが多い。

 そんな因縁の場所で、一行は深夜のコンビニの前の不良のようにたむろっていた。

 茨木童子はどこからか巨大な筆を持ち出して、門に自らの似顔絵を書きつける。乾いていない墨が流れ、低い画力と相まって恐怖的な風情を醸し出していた。

 

「うむ、中々良い感じだ! 吾らの縄張りとするなら一目でそれと分かる目印が必要だからな!」

 

 振り向く茨木童子。取り巻きの鬼たちは一瞬前まで微妙な顔をしていたが、強引に表情筋を笑みで固めた。下っ端の悲しい性である。

 

「ゲヘヘへへ! 流石です茨木童子様! 昨今のなんだかよく分からない絵を描けば売れる現代アートブームに乗れば億は行きますよ!」

「すげえっす! 魔除けになりそうなくらい恐ろしいっす! 安倍晴明の呪術も形無しっすよ!」

「魔って俺たちのことじゃね? 除けられるのこっちじゃね?」

「いやあ、幼い娘が描いてくれた私の似顔絵を思い出しますねえ。温かみを感じます」

 

 その時、ジャンヌは思った。

 ───ああ、こいつらはアホだ。

 しかも、Eチームの穀潰しであるダンテは違和感なく鬼たちに溶け込んでいる。政治家時代に培われた下っ端精神の賜物だった。額に角が刺さっていることを抜きにしても、とてもサーヴァントの姿ではない。

 ジャンヌは胸の内で鬼への同情と共感が冷え込んでいくのを感じた。竜の魔女とて期待を裏切られれば落ち込みもするのだった。

 彼女はそのまま目線を横に傾ける。そこでは、昨日角をへし折られた赤青鬼コンビが駕籠を担いでいた。その中にはマシュがだらけたジャージ姿で寝そべっている。

 

「良い揺られ心地でした。褒めてあげましょう」

「お褒めに預かり光栄です! マシュの姉貴なら火の中だろうとあの子のスカートの中だろうと運んでいけますよ!」

「ええ、わたしが今行きたいのは先輩の腕の中ですが。青鬼さんもご苦労でした」

「いえいえ! 俺たちはもはや去勢された犬みたいなもんですから! ジャンヌの姉貴もどうですか?」

 

 赤青鬼はニタニタと卑屈な笑みを浮かべていた。去勢された犬に比べれば可愛らしさに欠けている。ジャンヌの木綿糸より脆い堪忍袋の緒はそれでブチ切れた。

 旗の一振りとともに炎を放ち、駕籠を炎上させる。ジャンヌはアフロになったマシュの胸元を引っ掴んで前後に激しく揺さぶる。

 

「いつからこいつらの姉貴になったんですかアンタはァァ……!?」

「落ち着いてくださいジャンヌさん、これは合理的な判断です。わたしたちが消耗していては勝てる戦いも勝てません。なので、こうしてお二人をパシ……駕籠かきにしているという訳です」

「ああそう、だったらそこのパシリにアンタを1話の状態に戻す薬でも持ってきてもらおうかしら」

「ジャンヌの姉貴、いくらなんでもそれは無理ですよ。漫画や小説じゃないんですから」

「アンタらには訊いてねーわよ!!」

 

 黄金の瞳がぎらりと青鬼を睨みつけると、彼は光の速さで土下座した。人間でも妖怪でも、生物は敵わない相手を前にするとどこまでも惨めになれるのだ。

 ダンテは青鬼のそばに屈み、難しい顔で顎をつまむ。

 

「ふむ、良い土下座ですが隅々にまで意識が届いていませんねえ。指先をきっちり揃えて背中は真っ直ぐにしましょう。すすり泣きができれば文句なしなのですが」

「土下座ソムリエの解説なんていらないわっ! アホなの!? アホだったわ!」

「指摘するには遅すぎますね。ダンテさん、茨木さんはどうしたのですか?」

「ああ、彼女なら羅城門の上で阿波踊りを……」

 

 ダンテの視線の移動に合わせて、マシュとジャンヌは羅城門に首を振った。

 そこでは、

 

「沖田ァ、今何時だ」

「えー、二時三十三分です土方さん」

「よし、二時三十三分器物破損その他諸々の罪で現行犯逮捕だ。おら、御用改めだぞアホ鬼」

「なんでだああああああ!!」

 

 茨木童子がだんだら羽織の一団、新選組のお縄についていた。両手首を手錠で拘束され、上半身を荒縄でぐるぐる巻きにされている。清姫は生温かい目でそれを眺めていた。

 マシュたちは絶句しながら、とぼとぼと歩いていく小さな鬼の背中を見送る。

 

「……え、普通に逮捕されてるんですけど。鬼が鬼の副長に連行されてるんですけど」

「不良と警察は水と油ですからね」

「ゾクの終わりって儚いっすよね」

「あなたはそれで良いんですか赤鬼さん!? 仮にも現在の大江山のトップですよ!?」

「ダンテの兄貴、俺たちが壬生狼相手に何かできるとお思いで? カリカリにすらなれませんよ。せめて留置所にジャンプ差し入れに行くくらいしかできません」

 

 赤鬼は真顔で言った。無論、鬼より恐ろしい壬生の狼とて鬼を喰らうのは遠慮願いたいところだろう。カリカリとは比べることすら失礼だ。

 確かに、茨木童子のやったことは犯罪と言えなくもない。そこら辺の建物に落書きをして許されるのはバンクシーくらいなものだ。もちろん作品の出来は雲泥の差である。

 物悲しい雰囲気に辺りが包まれる。茨木童子の調子はどこへやら、まぶたに涙を溜めてマシュたちに助けを求めている。

 マシュは盾を手に取り、黒の甲冑で身を包む。暴発した髪の毛は微塵も変わっていなかった。

 

「茨木さんを取り戻しましょう。人を助けるのはEチームの得意技ですから。つまり、大江山リベンジャーズです!!」

「あのアホリーダー以外はね」

「ノアさんも助けるとは思いますよ? その恩を百倍で売りつけてくるだけで」

 

 言いつつ、三人は新選組の前に立ちはだかる。

 土方はギロリと鋭い眼差しを注いでくる。相対する者全てを射竦める殺気に晒され、ダンテは思わず身震いした。

 マシュはそんな殺気にも臆さず、

 

「お待ちください、新選組の皆さん。その人は少し精神不安定なだけで、情状酌量の余地があると思われます!」

「いや、お前はまずそのへそ出しスタイルをなんとかしろよ」

「「たしかに」」

「今更歩く公然猥褻みたいに言われる筋合いはありませんが!? もっときわどい服装の人はいたでしょう、ネロさんとか三蔵法師さんとか!!」

「きわどい格好してる自覚はあるじゃないですか」

 

 沖田の刀よりも鋭い言葉がマシュの心臓を貫いた。流石は突き技の名手といったところだ。

 痴女の領域に踏み出しつつある格好の少女は盾の後ろに身を隠し、顔だけをひょっこりと出す。安珍との追走劇で磨かれたストーキング技術によって、いつの間にか隣に忍び寄っていた清姫は密やかに微笑む。

 

「やはり最近の流行りは清楚系───!! 安易な露出など悪手に次ぐ悪手、あなたもわたくしのようなお清楚美少女になるべきですわ……!!」

「やめてくれませんか清姫さん。わたしはどこからどう見ても清楚の極みです!」

「なすびのきぐるみ着てたやつが言えたことじゃないわね」

「現在進行形でアフロ頭ですからねえ」

 

 一連の会話を聞いて、沖田は首を傾げる。

 

「清姫って、どこかで聞いた覚えが……」

「……あれだろ。イイ面した坊さんに一目惚れして追い掛けて、最後は龍に変身して坊さんを寺の鐘ごと焼き殺したっつう」

「めちゃくちゃヤバい人ですね。どこが清楚なんですか。ヤンデレの権化じゃないですか」

「ふふふ、分かっておりませんわね。人とは表と裏のギャップにときめく生き物なのです。そう、わたくしの清楚は言わば前フリ! 龍に変化する衝撃を底上げするためのものなのです!!」

「それ結局清楚捨ててるじゃねえか! これ以上付き合ってられるか!!」

 

 土方は剣を抜き放つ。合わせてジャンヌや清姫も身構え、唯一得物のないダンテは地面に四肢をついて土下座の準備態勢を取った。

 

「昨日に続き今日も南蛮人の相手をしなきゃならねえとはな! 斬られたくなかったらそこを退け!」

「…………もしかしてその南蛮人って、白髪と赤髪と金髪と黒髪のアホのハッピーセットだったりしない?」

「あ? なんで知ってんだ。ついでに言うなら白髪のアホは賭場を荒らして、黒髪のアホは公衆の面前でR-18映画を上映してやがったぞ」

「リーダーはともかくリースさんまで!? やっぱりあの人もやらかす側の存在でしたか……恋愛で頭バグった精霊ほど質が悪いものはありませんからね……!!」

フォフォウフォウ(ひでえ言われようだ)……」

「なんだか親近感を感じますわね」

 

 清姫の目がきらりと光る。その様子を見て、マシュたちは背筋が寒くなるのを感じた。清姫と湖の乙女。この組み合わせは明らかに混ぜるな危険だ。

 はぐれたノアたちとの合流は最優先事項のひとつだが、このままでは東西の恋愛モンスターを引き合わせてしまうことになる。

 マシュたちが計画のどん詰まりを予感したその時、茨木童子が手枷と荒縄を引きちぎる。彼女は両腕を車輪のように振り回して、拘束しようとする沖田をはね飛ばした。

 見た目は可愛らしいものの、鬼の膂力が伴えば威力は凶悪だ。沖田は腹部を抱えて地面にうずくまり、背中をダンゴムシみたいに丸める。

 

「ぐふぅーッ!! え、なんか昨日もこういうことありませんでしたか!? 沖田さんの体はもうボドボドですよ!!」

「フハハハハ! 人間の分際で吾を簀巻にしたツケだ田舎侍め! ダサいだんだら羽織なぞ着おって、京の流行りが分かっておらぬ! 吾らシティーオーガとの格の違いが露呈してしまったなあ!!」

「はああああ!? この鬼、聞き捨てならないことを口走りましたよ土方さん! この羽織カッコいいですよね!?」

「………………いや、まあ、正直、初めて見た時は俺もダサいと思った」

「えええええ!?」

 

 新選組のシンボルとして扱われることもあるだんだら羽織だが、土方を含め隊員からの評判はすこぶる悪かった。池田屋事件では敵味方識別のために着用していたが、以降は黒装束を主な隊服としていたのだとか。

 なお、このだんだら羽織を作る費用として近藤勇と芹沢鴨は大坂の庄屋から百両もの大金を押し借りしている。巨漢二人に迫られた心情は推して知るべしであろう。

 そんな経緯のあるだんだら羽織だが、道半ばにして命を落とした沖田にとっては新選組とのかけがえのない繋がりだ。彼女は剣を抜いて茨木童子に向き直った。

 

「ふふふ……あなたは渡辺綱に腕を叩き斬られたそうですね。右ですか? 左ですか? まだ繋がっている方の腕を私が斬り落とします!」

「えーその、私の土下座でなんとか」

「ダンテ、黙っておれ! これは悪くないぞ。汝と吾が奴らの前後にいる……つまり挟み撃ちの形になるな」

「その前に戦いを回避しようとしないのですかねえ!!?」

 

 土方は適当な調子で指摘する。

 

「他の女どもならともかく、そこの南蛮人が挟み撃ちの役を果たせる訳ねえだろ。どう見ても雑魚だぞ」

「間違いないわね」

「ジャンヌさん、同意するのはやめてあげてください。わたしたちの仲間を甘く見てもらっては困ります!」

「ま、マシュさん……!!」

 

 マシュは鬼より恐い鬼の副長に啖呵を切ってみせる。見事な気の入りようにダンテは瞳を潤わせて感激した。

 巨大なピンク色の毛玉と化した髪の毛を振り乱し、マシュは叫んだ。

 

「なぜならダンテさんの宝具は世にも麗しい美女を呼び出し、相手を強制的に天国へと絶頂させる恐ろしいモノですから!!」

「天国へと……絶頂、だと!? くっ、なんて羨まし───恐ろしい宝具だ! ちなみに胸はデケえのか!?」

「ちょっと待ってください! 表現に悪意があるんですが!? あと胸の大きさはよく知りません、ほぼ他人なので!」

フォフォウ(答えるなよ)

 

 沖田と土方は背中を預け合う。それぞれが見据えるのは茨木童子とダンテ。かたや鬼の腕を落とすために、かたや美女に昇天させられるために標的に目をつけた。

 

「よっしゃ行くぞ沖田ァァ!!」

「来い、新選組ィィ!!」

 

 英霊同士の激突が巻き起こり、京都の街を衝撃波が撫ぜた。何の罪もない町民にとっては良い迷惑だ。

 そこから幾ばくか離れた地点。群立する建物の上で、そんなアホたちのじゃれ合いを眺める複数の人影があった。

 ノアたちEチームと織田信長、そして、

 

「う〜む、やっぱ人の子は面白いのぉ。やることなすこと全てが痛快で興味深い! 必死こいて戦った甲斐があるというものよ!」

 

 妙にテンションが高い、スサノオだった。

 建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)。三貴神の一角を担う神である。最も有名な逸話はやはり八岐大蛇の討伐であろう。スサノオは日本の神代で最大最古の怪物を討ち果たし、伴侶となるクシナダヒメを救った。ペルセウス・アンドロメダ型神話の一例としても語られる怪物退治の物語だ。

 この国における最古の英雄。それは彼のことを指すのかもしれない。現代に至るまで絶えることなく信仰を集め、歴史にその名を深く刻み込んでいる。

 そんな神様が、現在はどこにでもいそうな男児の姿で屈託のない笑みを浮かべていた。ノアたちからの何とも言えない視線に気付くと、スサノオは得意げに唇を歪めた。

 

「お、なに? 儂がおっさんになるまで泣き続けた話でもする?」

 

 ノアはぶっきらぼうに返事をする。

 

「いらねえよマザコン神」

「あぁ!? マザコンで何が悪いんじゃ! 誰だってお母さんは大好きじゃろうが! なんか全身腐ってたけど! 蛆とか湧いてたけど!!」

「父親に言い渡された海原の統治もしとらんじゃったろ。三十過ぎまで大工やってたジョニデ似の救世主を見習えぃニート神が」

「うっせー! うつけのノッブに言われとうないわ!! 未来の民草なんてニートだらけじゃろ! あの頃の儂と大して変わらんじゃろ!」

「神様と同列に語られるニートたちのプレッシャーを考えてあげてくれません?」

 

 立香は冷静にツッコんだ。ヤマタノオロチを斃したスサノオと言えば彼女も聞いたことはあるが、もはや尊敬の念は消え失せていたのだった。

 スサノオは生後、父のイザナギに海原の統治を命じられる。だが、彼は母のイザナミに会いたいと言ってはばからず、髭が胸元に達する年齢まで仕事もせずに泣きじゃくっていた。しかも、その泣き声に合わせて海が荒れ狂い、悪霊が大量発生し、山が枯れるというはた迷惑な所業を成し遂げている。

 ノアと信長の言い様は完全にスサノオの心を打ち抜いていた。途中でニートたちにも流れ弾が飛んだが、そこはコラテラルダメージだろう。

 立香は体育座りで泣く寸前のスサノオに問う。

 

「それで、どうしてそんな姿になってるんですか? 昨日は蹴鞠とか花札に付き合わされたせいで教えてくれませんでしたけど……あまり強そうに見えないというか」

「おお、そうじゃったの。とはいえ長い話ではな」

 

 彼の言葉を湖の乙女の声が横切る。

 

「私は子どもの姿も良いと思いますわ。初めて会った頃のペレアス様なんて小さくて可愛らしくて……あ、もちろん私はどんなペレアス様でも大好きですわよっ?」

「そんなこと言われなくても知ってるよ。オレからも伝えた方がいいか?」

「ここでは些か恥ずかしいですわ。人目につかないところで……」

「え? ナニコレ? いま儂が喋る流れだったよね。普通に惚気けるのやめてくんない? これ割と重要な話なんじゃが」

「そこのバカップルに構ってたら日が暮れるぞ。良いから話せ」

 

 ということで、スサノオは気を取り直して喋り出す。

 東征軍が高千穂に現れた672年。史実では壬申の乱が起こり、大海人皇子が大友皇子から国家支配の座を奪うターニングポイント。

 敵は英霊のみならず、高天原の神々をも引き連れて侵攻を開始した。壬申の乱で疲弊していた朝廷に対抗する力はなく、あっさりと敗北してしまった。そこで、スサノオは抑止力に召喚され、東征軍に単騎で攻撃を仕掛けたのだという。

 

「九割方儂が仕留めたんじゃが力を使い果たしての。こんな体になってしまった。ずるずると敗戦が続いて京の喉元にまで迫られたという訳じゃ」

「…………あの、さらりととんでもないこと言いませんでした?」

「儂、控えめに言ってめっちゃ強いし? まあ、敵も手練れじゃったな。なんかゴールデンな武者とか死ぬ気で特攻してきてビビったのう。まさか人間に傷をつけられるとは思わんかったわ」

 

 単騎で敵の九割を殲滅する神を相手に傷をつけられるゴールデン武者とは一体何者なのか。立香の脳裏でそんな疑問が浮かび上がった。

 ノアはスサノオの話を呑み込むと、率直な感想を述べる。

 

「で、今のおまえは何ができんだ? 大手企業の面接に挑む就活生の気持ちで答えろ」

「え、えーと、学生時代最も力を入れたことは姉ちゃんにイタズラすることで……」

「不採用」

「クッソォォ! これだから面接官は嫌いなんじゃあ! 選ぶ側だからといって調子に乗りおって!」

「いや、誰がやっても不採用じゃろ。わしがクビにした佐久間父子より使い物にならんのじゃが」

 

 立香はスサノオを励ますように彼の背中を優しく叩いた。

 

「まあまあ、そこまで言うことはないですよ。新選組と大江山の鬼にも命令できる旗頭なんですから! リーダーも99%邪悪なツンデレなだけで慣れればへっちゃらです!」

「うん、慰めてくれて嬉しいけどそれもう邪悪の化身じゃね?」

「藤丸、人聞きの悪いこと言ってんじゃねえ。俺ほど慈悲に満ち溢れた人間はいないだろうが」

「……それじゃあ、私にも優しくしてくれますか?」

 

 細い指先がノアの袖を掴む。

 交錯する視線。無遠慮にこちらを覗く碧い瞳を、縋るように見つめ返す。自らの心根の一部でも伝わってほしい、と。

 言葉を介さずにこの想いに気付いてもらおうだなんて、ずるいことは知っている。

 でも、この男は普段から散々やりたい放題にしているのだ。少しくらいわがままを言っても、バチは当たらないはずだ。

 その時間は一瞬。されど、少女にとっては数分にも感じられるほど長く。

 ノアはどこか、意表を突かれた表情をしていた。

 彼が口を開こうとしたその瞬間、

 

「■■■■■■■■───!!!」

 

 天に響き渡る咆哮が、鼓膜を揺らした。

 

「「…………ん?」」

 

 取っ組み合いの喧嘩をしていた沖田と茨木童子までもが、絡み合った状態で空を見上げる。

 蒼天を切り裂くが如き巨龍。それは体躯の一切を透き通る純水によって構成していた。降り注ぐ太陽光を体内で複雑に反射し、まるでソレ自体が発光しているように見えた。

 水龍は鎌首をもたげる。透明な双眸が地上を睨めつけた。たったそれだけの動作で周囲の大気が押し出され、突風が街中を吹き抜けていく。

 存在の格が違う。弱体化の極致にありしスサノオとは全くの逆。溢れんばかりの神威が龍より発せられていた。

 新選組と不毛な争いを繰り広げていたマシュは優先順位を入れ替える。

 

「何か来ます! 皆さんはわたしの後ろに────」

 

 少女の横を二つの影が追い抜く。

 沖田と土方。彼らは先程までとは一風異なった真面目な顔で告げる。

 

「一時休戦だ! お前らはそこら辺で隠れてろ! くれぐれも邪魔すんじゃねえぞ!」

「あれは東征軍が有する神の荒魂(あらみたま)です! 後詰めが来るので注意を!」

 

 その背中を追う者は誰もいなかった。直前まで拳を交わしていた茨木童子でさえも、怒気を鎮め見送るのみ。それが東征軍の出現が無関係でないことは想像に難くなかった。

 新選組はあくまで水龍の対処のために。後詰めに対応できるとしたら、大江山の面々しかいない。

 マシュはそこまで思考すると、横合いへ視線を投げた。

 長大な刀を背負う剣士。彼は荒れた街並みに目を配り、優美に笑む。

 

「栄枯盛衰とは真に儚きものよ。人の命までもがそうだ。何事も何者も、滅び朽ちていく様こそが雅らしい」

「……あなたも、わたしたちの敵ですか」

 

 剣士は背より長刀を抜く。常人ならば───否、たとえ剣技に長けた者であっても、このような刀を握れば人間の方が振り回される。

 彼はそれを、小枝を振り回すかのような気軽さでマシュへと差し向けた。

 

「佐々木小次郎。それが今の私に与えられた名だ」

 

 その真名を受け止め、ジャンヌは口角を吊り上げる。

 

「へえ、今回は巌流が敵ってこと。日本の剣豪は私の炎も斬れるのかしら───!?」

 

 火炎が噴き上がる。波打つ炎の鞭が剣豪佐々木小次郎に叩きつけられた。

 

「生憎、我が剣は巌流でなく我流。孤剣あるのみよ」

 

 彼はただ微笑み、剣を薙ぐ。ふぉん、と風を切る音。剣風が迫り来る炎を切り裂き、宙へ霧散する。

 

「吹けばそよぐ火など斬るは容易い。吹けども扇げども空を往く燕に比べればな。何しろ、アレを斬るために幾年月をかけたのだから」

「どんな燕よ!? 魔界にでも住んでたのアンタは!?」

「ふっ、ならば大江山在住の鬼は斬れるか!?」

 

 身を翻して襲い掛かる金髪朱瞳の鬼。その手には業火を纏う骨刀。焦熱の旋風とともに剛剣が唸りを上げた。

 その一撃はもはや斬撃というより打撃に近い。鬼の膂力を以ってして振るわれる大刀は、相手の長刀など一合で叩き割ってみせるだろう。

 故に、剣士は刀を下段に置いたまま全ての攻撃を躱していく。反撃を封じられた彼は瞬く間に追い詰められ、得物を振り上げた。

 しかし、続く一撃が放たれることはなく。

 下げられた刃先が地を這う。足を削ぐ一刀。茨木童子が跳ねた瞬間、ほぼ同時に長刀が彼女の右腕を撫で切る。

 腕が中空を舞う。が、それはひとりでに動いて元通りに接合する。彼女は大きく後方に跳びながら、顔色を真っ青にした。

 

「うおおお!? あっぶな! 吾の右腕を狙うなんてどういう当てつけだ!?」

「生前に斬られといて良かったではありませんか」

「何を言うか清姫ェ! あの痛さを知ればそんなことは口が裂けても言えぬわ! 全員で囲んで殴るぞ、良いなダンテ!」

「なぜ私に振るんです!?」

 

 佐々木小次郎の力量に疑うところはない。が、この戦いは五対一。ダンテを抜いたとしても四倍の差がある。決して勝てぬ相手ではない。

 マシュは盾で前面を遮りながら突撃する。

 

「わたしと茨木さんで釘付けにします! ジャンヌさんと清姫さんは隙を見て焼いてください!」

「あの、私は?」

「土下座でもしててください! 作戦名、『ダンテ以外はガンガンいこうぜ』です!」

「マシュさん、私の心にはヒビが入っていますよ! 『ダンテだいじに』でお願いします!」

「それ以上無駄口叩いてたら『ダンテにガンガンいこうぜ』にするわよ?」

 

 とはいえ、ダンテは全くの役立たずという訳でもない。空中に白き祝福の詩を走らせ、四人のステータスを底上げした。

 四騎のサーヴァントは一気に加速する。剣聖の心眼であろうと囲い込んでしまえば、物理的に回避することは不可能。散開しようとする直前、初めて剣士は自らの得物を構える。

 そこに殺気など欠片も存在しない。戦意も殺意も消え失せ、ただただ冷たい刃が陽光を照り返していた。

 脳内に鳴り響く警笛。心臓が縮み上がり、体内を巡る血の温度が下がる。まるで時間の進みが遅くなったように、目が極限まで彼の一挙一動を追おうとする。

 それは脳が肉体に強制した生存への一手。マシュは半ば無意識に動いた。

 

「『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』!!」

 

 聖なる城の正門が顕現し、

 

「『降神(こうじん)経津主(フツヌシ)』」

 

 剣神の一刀が空を裂く。

 聖壁と斬撃が衝突したのは刹那、横殴りの一斬は理想の城に傷ひとつ付けることさえできなかった。

 全身を駆け巡る悪寒が収まり、マシュは息をつく。安堵も束の間、突如轟音が背中を押す。

 マシュは後方を見やる。

 宝具で防げたのはあくまで斬撃の一部のみ。あの一撃は刀の刃長を遥かに飛び越えていた。延長線上の家屋を薙ぎ倒し、さらにその先、地平線にそびえ立つ山をも真っ二つに切り裂いていた。

 崩落していく山の上半分を見て、マシュたちは口をあんぐりと開けた。

 

「…………燕斬るのにこんな威力が必要なんですか!?」

「恥ずかしながら、これは私の力ではない。これは────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────『御厳(みいつ)』、とでも呼ぼうかの。東征軍のサーヴァントが有する切り札じゃ」

 

 大江山愚連隊と佐々木小次郎の戦いの一部始終を見ていたスサノオはそう言った。

 

「儂に斃される前に天津神(あまつかみ)が一計を案じおっての。英霊に分霊を降ろすことで、人の子に権能を与えたのじゃ。経津主に見込まれるとはあの男、とんでもない剣の使い手じゃのう」

 

 彼は髭を撫でるような手付きで顎を擦る。

 立香は顔をしかめて、

 

「まるで獅子王の祝福みたいですね。リーダー、どうします?」

「俺たちはあの龍を何とかする。ニート神、あいつの情報を教えろ」

「せめてマザコン神にしてくれ! ……あれは闇御津羽(クラミツハ)の荒魂じゃの。見ての通り水の神で、龍神でもある。話は通じないと思うとけ」

「オレらからすればそっちの方が気兼ねなくぶっ倒せるが、荒魂ってのはなんだ?」

 

 ペレアスの問いに、スサノオは答える。

 神道において、神霊は二つの異なる側面によって構成されているとされる。それが荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま)。前者はその神の猛々しく荒ぶる属性であり、後者は対照的に柔和で慈しみに満ちた面を指す。

 例えば、雷は家屋を焼いたり山火事を起こすことがあるが、反面雨を伴うことから作物の育ちを助けることもある。こうした自然の特性から、この国の神々には相反する属性があるとされたのだ。

 ペレアスは得心して頷いた。

 

「なるほど。あのクラミツハは水害の化身みたいなもんなのか。そりゃ野放しにはしておけねえな」

「そういうことじゃ! 儂は戦えぬからな、気張れよ人草よ!!」

「つーことで、こっからはわしが指揮を執るぞ! ここが我らの桶狭間じゃあ!」

「はい! 私たちに本能寺の変はありえません!」

 

 と、意気込んだその時、上空のクラミツハが顎を開く。

 縦に裂けた口腔内には光り輝く割れ目のような断層があった。断層から覗く景色は目も眩む白。そこから大量の水が湧き出し、球状に圧縮される。

 遠く離れた地上からでも肌を突き刺す魔力の蠢動。瞬間、龍は圧縮した水球を束ね、扇状に薙ぎ払った。

 それは極大のウォーターカッター。矮小なる人間の作り出した建造物などいとも簡単に破壊する。人の骨肉は濡れ紙を突くより容易く千切られる。

 水流が都を切り払い、無数の人の命を散華させる。天より地を見下ろす龍には、土地が赤く染まっていく様が見えたことだろう。

 これぞまさしく神の暴虐。

 傲慢な気まぐれさ故に塵の如く人命を奪う、自然の化身であった。

 間一髪、先制攻撃を凌いだノアたちは怒気を以ってクラミツハを睨みつける。

 

「これは……マシュたちの援護には行けませんね。全員で対処しないと」

「藤丸、アレの準備しとけ。クラミツハに近付いてぶっ放すぞ。……ロマン、ダ・ヴィンチ、聞こえてるか」

「『もちろん。技術的なことは任せておきたまえ。私たちが揃えば鬼に金棒、いいやアーサー王にエクスカリバーさ!』」

「『そう言ってる間にクラミツハの魔力反応が増大してる! 第二射来るぞ!』」

 

 水龍の口腔に位置する裂け目から、再度水が溢れ出す。

 しかし、此度は圧縮の過程を経ず。

 滾々と湧く水を、ただ解き放つ。

 結果、撃ち出されたそれは地を走る巨大な津波となって現れた。

 何もかもを押し流す清浄の波。死体を、瓦礫を巻き込み突き進む水の壁は加速度的にその激しさを増していく。

 そこで、ノアたちは津波に背を向けて走る顔見知りを発見した。

 

「へばってんじゃねえぞ沖田ァ! 血反吐撒き散らしてでも走れ!」

「怒鳴られなくてもやりますよ! ……あ! 見てください土方さん、昨日のやらかし南蛮人たちがいます! あと炎上系戦国大名とニート神も!」

「誰が炎上系戦国大名じゃァァ!! 確かに比叡山とか焼いたけど!」

 

 砂塵を巻き上げながら爆走してくる新選組コンビ。通常の津波なら巻き込まれたところでダメージはないが、これは神秘を伴った水流だ。如何にサーヴァントと言えどひとたまりもない。

 ノアたちへと向かってくる二人とは反対に、湖の乙女は波へ向かって歩き出す。

 

「こんなにもたくさんの水を用意するだなんて、悪手ですわね。───『遥か永き湖霧城(シャトー・デ・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 がらり、と世界が入れ替わる。

 立ち現れしは湖の精霊が住まう霧の城。

 変幻自在の防壁が水流を受け流し、さらには己の糧としていく。新選組を含め、仲間たちは城壁によって津波の難を逃れていた。

 今のリースには水辺でしか扱えぬ『空想具現化』。世界を己の意のままに作り変える精霊の特権。一度放たれた水にクラミツハの支配権は存在しない。水の精霊たる彼女はそれを利用して、自らの居城を顕現させたのだ。

 水が増える度に霧の城は体積を増大させ、一層護りを固めていく。城の出現を知覚したクラミツハはただちに水の放射を停止した。

 信長は高らかに笑う。

 

「これは一夜城どころではないのう! 生前であれば一国を分け与えても惜しくない逸材じゃ!」

「お褒めいただき光栄ですわ。ですが、私にできるのはこの城を操る程度。後はお任せいたします」

「うむ、城を盾にしながら接近する。一向宗徒の気持ちになって突撃せい! 欣求浄土厭離穢土って感じで!」

「『大敗したのによく言えますね!?』」

 

 自在に変形する霧の城は言わば移動要塞。水のあるところなら、どこまでも進むことができる。

 霧が蠢き、突撃のための陣を組む。

 それを、空から観察する弓手がいた。

 

「…………んな簡単に行くかよ」

 

 大弓に矢を番え、五度射掛ける。

 霧の城は完成すれば堅牢だが、変形には多少の隙を生じる。針の穴に糸を通すが如き難事なれど、彼の矢は防壁を掻い潜り、標的の喉元に滑り込んだ。

 すなわち、城主たるリースの元へ。

 しかし。

 黄金の剣閃が瞬く。五つの矢はことごとくが切り刻まれ、残骸となって地面に落ちた。

 ベイリンの鎧を纏ったペレアスは弓手へ向けて剣先を突きつける。

 

「残念だったな。オレがこいつから目を離すとでも思ったか!」

「…………チッ。良い勘してますね、異国の武士。その鎧ごと貫いて───」

「きゃーっ!♡ ペレアス様かっこいいですわぁーっ!♡ またまた惚れ直してしまいました……っ!!」

「クソ、別の奴狙えばよかった!」

 

 少年は空中で頭を抱える。随行する雉は慰めるように、彼に頬を擦り付けた。

 スサノオは少年を見て、眉をひそめる。

 

「むう、あいつはまずい。ノッブ、人員を二つに分けよ。無視してクラミツハを倒せるほど奴は甘くないぞ」

「分かっとるわい。背を取られた時点でそんなのは決定事項じゃ。カルデアの白髪マスター、そなたの意見は?」

「俺とおまえと沖田でクラミツハを叩く。あっちのアーチャーは藤丸たちが何とかする。できるな?」

「当然です! 私もマスターで一番弟子ですから、リーダーはドンと胸を張っていてください!」

 

 立香は精一杯自信げに答えた。ノアはほんの少しだけ口角を上げると、帽子を外して少女の頭にぐりぐりと押し付けた。

 

「よし。ロマンは俺、ダ・ヴィンチは藤丸をサポートしろ。行くぞ、南蛮かぶれと壬生のチワワ」

「チワワって意外と凶暴ですからね? 沖田さんの三段突きが火を吹きますよ?」

「言っとる場合か壬生のポメラニアン」

「ちょっと! だんだん小さくするのやめてください!」

「『はいはい、ふざけるのはそこまでにして戦いますよ! ちなみに一般的にはポメラニアンよりチワワのほうが小さいです!』」

 

 かくして、標的は定まった。

 三人はクラミツハ目掛けて走り出す。リースは城壁の一部を切り取り、彼らの周囲に追随させた。未だ上空に浮かぶ龍は三度、口腔に水を溜める。

 

「『無限を象る黄金(ドラウプニル)』」

 

 ノアの両手首に金色の腕輪が投影される。その目が見据えるのは水龍のみ。

 

「『炎星の首飾り(ブリーシンガメン)』」

 

 蒼き星の輝きが灯り、流星群が墜落する。

 ───まずはクラミツハのスペックを確かめる。

 荒れ狂う水の化身たる荒魂と言えば聞こえが良いが、神とは荒魂と和魂の両方が揃ってこその神だ。どちらか一方だけで成り立っている存在など、半身を削り取られているに等しい。

 ノアが用意した首飾りはしかし、クラミツハが放つ水の散弾に撃ち落とされてしまう。

 だが、それこそが彼の狙い。敵の一手を迎撃に消費させ、本命の一撃を与えるための陽動。手首に戻った腕輪をひとつに融かし、三分割する。

 

「『武神の手甲(ヤールングレイプル)』、『戦神の力帯(メギンギョルズ)』────『雷神の鎚(ミョルニル)』!!」

 

 トールが擁する三種の武具。その神性を象徴する鎚と、それを扱うための手甲。そして、力を二倍にすると言われる腹帯であった。

 今回は振るうのではなく、投げる。そのためにリソースを三等分してまで帯を投影した。身体への強化魔術と帯の効果により、雷神の鎚は一直線にクラミツハへと突き刺さる。

 同時に、雷撃が弾ける。龍の体を電流が巡り、強烈な閃光を発した。

 雷神の鎚が手元に戻る頃には、水龍はいくらか体積を減らしていた。水の電気分解が生じた結果だ。が、減少した分の水量は即座に回復してしまう。

 

「『解析結果が出た。どうやらクラミツハを構成する水は鎧のようなものらしい。水に魔力を通して操っているだけだから、ミストルティンも効かないだろう』」

「逆に考えれば水を操る本体があるってことだ。そこまで調べはついてんだろ?」

「『す、スタッフ一同可及的速やかに調査に当たらせていただきます……』」

「おお、いつの時代でもはぐらかし方は変わらぬのう」

「新選組ならぶん殴られてましたよ」

 

 信長は両手と周囲に火縄銃を出現させる。

 銃列が龍に向き、立て続けに火を吹く。

 銃弾がクラミツハの体躯を削り取る。切り離された水が落ち、それは二度と戻ることはなかった。

 必要とあらば神仏すら意に介さず踏み潰した彼女の攻撃は、神性や神秘を有する相手に特攻を得る。銃弾はクラミツハが纏う水の神秘そのものを殺したのだ。

 信長は銃弾を浴びせ続けるが、その度に龍は水を生み出して体積を補填していた。

 

「このまま撃ち続けても千日手じゃのう。本体のアテはあるか?」

「口の中の裂け目が怪しそうです。散々あそこから水を飛ばしてるじゃないですか」

「クラミツハは渓谷の水源を表す神だ。水の供給源───あの裂け目が本体の可能性は高いな」

「つまり、口に入ってあそこをぶった斬ればいいんですね! …………無理ゲーでは!?」

 

 沖田は自分で言って自分で目を丸くした。口腔の断層を斬ろうと飛び込んでも、水圧に押し潰されて目も当てられないことになるだろう。

 

「その無理ゲーをヌルゲーにするのがマスターの役割だ。俺があいつを引きずり落とすから、うつけは撃ちまくって水の鎧を剥ぎ取れ」

「とどめは沖田さんですか。良いですね、滾ってきました!」

「『と言ったところ悪いんですが、クラミツハが降りてきてます!』」

 

 ロマンの声に触発されて、三人はクラミツハに視界を戻す。

 高所の利を捨て、地上に降り立つ水龍。鋭く尖った尾をしならせ、地深くに差し込む。

 

「おい、カルデアの指揮官! クラミツハは何をやっとるんじゃ!?」

「『え、えー……地下水脈と接続しているようです。確か京都盆地の地下には約211億トンの水があるので、これ全部をクラミツハが手中に収めて地中から攻撃したら……』」

「どうなるんです!?」

「『何もかも雲の上まで吹っ飛びます!!』」

「「「…………はああ!?」」」

 

 京都盆地の地下に埋蔵された水量は琵琶湖の総量に匹敵する。極論、その全てがクラミツハの体となれば身動ぎしただけで地面は崩落し、ノアたちは生き埋めになるだろう。

 

「じ、じゃが計画に変更はナシ! 戦国大名はうろたえない! こっちは本体さえ殺ればいいんじゃ、やるぞ───『三千世界(さんだんうち)』!!」

 

 長篠の戦いにおいて武田勢を完封した銃列陣。三千丁の火縄銃による一斉射撃がクラミツハを襲────

 

「■■■■■■ッッ!!」

 

 ───それよりも早く、無数の水滴が発射される。

 横殴りの豪雨。その雨粒のひとつひとつが高圧で研ぎ澄まされた鋭利な水の針。如何に三千丁の一斉射撃といえど、数の差は比べるにも値しない。

 

「……一瞬で仕留めろ、壬生狼」

 

 告げて、ノアは両の腕輪を解いた。

 

「投影、『無の淵源(ギンヌンガガプ)』」

 

 バギリ、と耳障りな音を立てて空間が割れる。

 突き出した手の先に開いた極黒の断層。それは雨の針を吸い込み、ここではないどこかへと追放していく。

 ギンヌンガガプ。北欧神話において、世界創造の前から存在していた巨大な裂け目を指す。ノアは独自にこれを仮想的に再現し、投影した。

 もっとも、それが実在したであろう裂け目の劣化品であることには変わりない。大きさは彼の身の丈ほどで、機能も作り出した隙間へ吸い込む。ただそれだけなのだから。

 けれど、これは物質や道具の複製を造り出す投影魔術の領分をも超えた魔術。もはやその特性を借り受けているのは、想像を現実へ引きずり出すという点にしかない。

 故にその代償は大きく。

 『無の淵源(ギンヌンガガプ)』を投影していられるのは最大で0.5秒。さらに腕輪を使い捨てる形で発動するため、一定時間武具を投影することはできない。

 しかし、沖田総司にはそれが当然だった。

 時間が足りない、なんてことはもう飽きるくらい経験してきた。

 肺を結核に冒されたあの日から。

 剣を極める時間が足りない。

 誠の旗に捧げる命が足りない。

 それでもなお、磨き上げた剣技は此処に。

 京を護るという使命はまだ、終わってはいない。

 信長の宝具が放つ弾雨がクラミツハの頭部を弾き、本体を露出させる。

 彼我の差は30間。0.5秒でこれを埋める────!!

 

「───十分すぎます」

 

 一歩、狼は音を越え。

 二歩、既に彼我の間は無く。

 三歩、剣先が閃いた。

 

「『無明三段突き』!!」

 

 秘剣、三段突き。

 三度の突きが全く同時に重なる、事象飽和現象。

 その剣の軌跡に存在するモノは例外なく消滅する。

 血風吹き荒れる幕末の世、襲い来る剣客を仕留めるために編み出された対人魔剣はしかし、

 

「■■■、■■■■■■────ッ!!」

 

 神をも、貫いた。

 びしり、と輝く断層から空間が放射状にひび割れる。その割れ目から血が溢れ出し、壬生の狼を赤く洗い流す。

 彼女は快活な笑顔で振り向き、ガッツポーズを取って飛び跳ねた。

 

「いぇーい! 沖田さん大勝利〜!! 見ましたか、私の最強技!?」

 

 全身血塗れで走り寄ってくる沖田。ノアと信長はその姿に、害虫や害獣を獲って見せてくる犬猫を幻視する。

 その途中で沖田は突然立ち止まり、膝をついて倒れた。

 

「……こふっ!!?」

「あーあ、結核持ちなのに走り回るから」

「血みどろで寄って来られても困るがな。これが本当の赤セイバーか?」

「わ、私はあんな赤とは違う桜セイバーです……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間を巻き戻して。

 宙を舞う少年は雨霰の如く矢を撃ち落とす。

 彼を捉えようと追い縋る霧の壁。少年は間隙のすべてを見抜き、容赦なく矢玉を射る。リースと立香、スサノオを狙った射撃はしかし、土方とペレアスの剣によって切り払われていた。

 少年の足元に風が渦巻く。彼はそれを自在に操り、空を飛翔していた。迫る霧を突風で打ち払い、舌打ちする。

 

「あぁ〜めんどくさっ! 手足で済ませてやるからさっさと射たれてくれませんかね!?」

「ナメたこと言ってんじゃねえぞガキ! 街を荒らしといてその言い分が通るとでも思ってんのか!」

「……ハッ、そりゃそうだ!」

 

 土方は長銃を撃つが、少年はその弾丸を軽々と手で受け止める。彼を囲う風圧の壁が銃撃を減衰させたのだ。

 こちらからの攻撃は届かず、敵は安全圏からの射撃を敢行できる。この戦いの主導権は少年の側にあった。

 ペレアスは背を向けたままスサノオに疑問を投げかける。

 

「スサノオさん、あいつは風の神様か何かなのか!?」

「いいや、あいつは死んだ時に『疾風(はやち)』という風で高天原に上げられての。おそらくその逸話を利用してるんじゃろう」

「『その口振りだと、真名は知っているんだろう?』」

「うむ。だが、まだ言わぬぞ。せっかく明かしてやるなら、奴の心を揺さぶれるようなタイミングが良い。これでも戦の妙味は知り尽くしておるからな」

「……さすが、竜殺しの先輩だけあって意地が悪いな!」

 

 ペレアスとスサノオは示し合わせたかのように悪い顔をした。

 舌戦もまた戦いの内だ。相手の士気を下げ、怒らせることができたならしめたもの。激情した敵ほど与し易いものはない。

 モニターの向こう側で、ダ・ヴィンチは微かに笑んだ。

 

「『さて、立香ちゃん。相手はスサノオも知る神様だ。私たちの新戦力の見せ所としては悪くない。敵をあっと驚かせる準備はできたかい?』」

「───はい! 敵どころか味方まで驚かせてみせます!」

「『良い返事だ。さあ、ノアくんに良いところを見せてやろうじゃないか!』」

「どうしてリーダーの名前が出るんですか!?」

 

 立香は右腕に巻き付いた銀の鉄鎖を左手で引き抜く。

 それは引き抜かれた途端に淡い蒼色の光芒を発した。カシャカシャと音を立ててパーツが繋がっていき、一本の銀色の棒へと変形する。

 

「カルデア式融合礼装『魔女の祖(アラディア)』、起動」

 

 棒の先端が幾重もの層になって開く。

 まるで、爛漫と咲き誇る蓮のように。

 立香の手中に収まる蓮の杖。金属で造られた華は、目覚めるかのようにその中心に球状の光を灯した。

 ───個人認証、完了。

 ───バイタルリンク、起動。

 ───疑似魔術回路、構築。

 ───霊子演算装置、シミュレートを開始。

 

「『遠隔補助術式のセットアップ、終了だ』」

 

 ───魔術基盤、接続。

 杖の側面が戸のように開き、端子を露出させる。

 立香は腰のポーチから手のひら大のカートリッジを取り出し、杖の端子に差し込んだ。

 ───術式、装填。

 杖の先端に灯る光の色が鮮やかな赤色に変化する。

 立香は杖を手繰り、弓手へと向けた。

 

刻印術式(コードキャスト)───『shock(32)』」

 

 杖の先端より赤色の弾丸が飛ぶ。

 少年はそれに対して、目を向けることすらしなかった。

 彼の対魔力はA+ランク。現代の魔術師が傷をつけられるレベルにはない。ノアの『炎星の首飾り』でさえ、彼は無傷で耐え抜いてみせる。

 そして、サーヴァントとはいえ神格を持つ彼の神秘にもまた、現代の神秘は格落ちも甚だしい。

 これを超えることなど、現代の魔術師……ましてや英霊の影に隠れているような小娘には不可能だと、彼は嘲りも油断も込めずに、あくまで合理的に判断した。

 故に無為。

 無意味。

 無価値。

 ────だが。誤算というのは、いつだって劇的に起こるものだ。

 

「っ、が……───!?」

 

 鳩尾にめり込む弾丸。

 赤き火花が弾け、少年から肉体の操縦権を奪い取る。

 彼を浮かび上がらせていた風も消失する。困惑のままに着地したその時、白刃が閃いた。

 袈裟に切り込まれた胸板から血が滴る。下手人は鬼の副長、土方歳三。彼は般若にも劣らぬ形相で言い放つ。

 

「何が何だか分からねえが……地に堕ちた気分はどうだ? クソガキ!」

「クソッ……!!」

 

 傷は浅い。戦闘に大した支障はない。消失していた感覚も戻っている。首を狙った斬撃を屈んで躱し、再度飛び上がろうと風を呼び出す。

 

「させるか」

 

 しかし、その目論見はペレアスの一刀に阻まれた。

 神殺しの魔剣が頭上を通過する。不死身の半神半人を斬ったその剣は少年にとっての致命傷になり得る。故にこそ、上空へ退避するよりも回避を優先しなければならない。

 土方とペレアスによる挟撃。絶え間なく振るわれる斬撃の鳥籠に、少年は押しやられた。

 ───カルデア式融合礼装『魔女の祖(アラディア)』。

 ノアとダ・ヴィンチの共同研究の成果。魔術と科学、本来相反する二つの学問を混成した、誰でもどんな人間でも魔術を使えるようになる装備である。

 杖の先端に搭載された霊子演算装置とカルデアのトリスメギストスで世界のシミュレーションを行い、カートリッジに刻まれた法則の通りに、マナを用いて物理現象を引き起こす。

 だからこそ、対魔力は意味が薄い。物理現象であるが故に、完全な無効化が不可能なのだ。

 使用する魔術基盤は、科学信仰。表の世界を支配する科学に対して培われた信仰を用いて、電脳世界の理を現実に当てはめる。

 物理現象をプログラムし、マナによって出力する。扱う言語がルーンであるか機械言語であるかという差だが、それは見事に効力を発揮した。

 これは科学が発展することで効果を強める。科学への信仰が人類の中から消えない限り、この魔術は科学の進化に相乗りできるのだ。

 

「ゆ、故に融合礼装! アラディアとはウィッカの信仰における魔女たちの救世主! 廃れゆく魔術世界を救うことを願い、この名を与えられたのだ───!!」

 

 そうして、立香は解説を終える。その表情は耳まで真っ赤に染まり、恥辱で全身が打ち震えていた。

 リースとスサノオはぎこちない笑みを形作る。

 

「え、ええっと……か、かっこいいですわよ?」

「う、うむ。儂も昔はそういうのやってたのう。自分の剣に天羽々斬(アメノハバキリ)とか名付けてたし」

「んぐぅーッ! その気遣いが痛い! リーダーとダ・ヴィンチちゃんに解説しろって口酸っぱく言われてたんです! そもそもなんですかこの中二病みたいな名前は!」

「『何を言うんだい立香ちゃん! 私とノアくんで辞書をひっくり返して考えたんだぞ! これ以上のネーミングはないと断言できるよ!!』」

 

 研究成果の実戦お披露目を目の当たりにできたダ・ヴィンチのテンションは少々おかしいことになっていた。立香はノアがいないことに安堵する。

 思考の端でそのやり取りを捉えていた少年は舌打ちした。理屈はともかく、あの少女も脅威だ。ペレアスと土方に比べれば優先順位は落ちるが。

 顔を歪めて連撃を避ける彼に、スサノオの声がかかる。

 

「ふん、必死じゃのう。お前のそんな顔は珍しい」

「何か用ですか? マザコン神。戦えもしない木偶の坊は黙っててくれませんかね?」

「二週間前の戦いでサボってた奴に言われたくないわい。思うにお前、殺し合いは嫌いであろう?」

「好きな奴がどこにいるんです?」

 

 スサノオは嘲るように、

 

「───ならば貴様、何故戦っている」

 

 少年は沈黙し、彼は続けた。

 

「国譲りをけしかける尖兵としてやってきた貴様は結局高天原を裏切り、オオクニヌシに付いたであろう。それが、何故今更高天原の味方をしているのかと……そう問うたのだ」

「答える義理がありませんね。俺はあなたに付いたことは一度もありませんから」

「そうか。ふ、見損なったぞ。貴様が国津神に付いたのは、女の色仕掛けに籠絡されたからなのだな。そうでなくては、一度裏切った場所に出戻りするなどという恥知らずな真似はできまい」

「……テメエ」

 

 少年の表情から一切の熱が消え失せる。

 眼光は冷徹に染まり、無表情に殺意の色を塗りつける。それとは裏腹に、スサノオは影に満ちた笑みを向けた。

 

「儂は悲しい。貴様の理想がそんなにも低俗なものだったとは」

 

 逆鱗を撫で、弄くり倒す。

 

 

 

 

「───のう、天若日子(アメノワカヒコ)よ」

 

 

 

 

 その瞬間、弓手を中心に竜巻が生じる。

 挟撃を行う二人を弾き飛ばし、天若日子は叫んだ。

 

「────殺す!!」

 

 例外はない。

 全員の息の根を止める。

 スサノオも。

 ペレアスも。

 湖の乙女も。

 土方も。

 そして─────

 

(あの娘が、いない)

 

 スサノオは目を伏せて、

 

「……お前は、他人の話を聞きすぎる」

 

 赤き髪が翻る。

 霧の階段を踏み場に、少女は杖を振るう。

 

術式(コード)装填(セット)

 

 その声に導かれて振り向いた時にはもう、遅かった。

 

「───『mistilteinn_ragnarøk』!!」

 

 第四特異点、ノアがパラケルススとの魔術戦で編み出した奥義。

 神殺しのヤドリギを用いた魔術。

 プログラム化された秘術が此処に、神を穿つ。

 黄昏の光が少年の半身を呑み込む。

 おびただしい量の血が流れ、肉片が風に巻き上げられて飛んでいく。風が止むとともにその体は地につくばった。

 上半身の右半分を消し飛ばされた死体。サーヴァントだろうが即死だ。生き残る術はない。

 しかし、立香は違和感を覚える。

 サーヴァントの死とは消滅。肉体を織り成す魔力が霧散し、粒子となって座へ還る。今まで幾度も見てきた現象が、彼に限っては訪れない。

 天若日子の左手が動く。五本の爪が土を掻き毟り、徐々に立ち上がる。

 ふらふらと、振り子のように残った左半身が揺れる。その目は立香でもスサノオでもなく、景色の向こう側。死に逝くクラミツハを望んでいた。

 

「貴様、死ねぬ体にされているのか」

「天の使いなんて職業は辛いんですよ。……帰ります。今回はこれくらいで十分でしょう」

「このまま帰ろうだなんて虫が良すぎるだろ───!!」

 

 土方は少年の首目掛けて刀を振るう。

 驚くほどあっさりと、その首は泣き別れた。

 頭が転がり、体が仰向けに倒れる。

 その時、地を照らす柔らかな光。白く青い空を刳り貫く葦の大船が、別次元から浮かび上がった。

 

「……アメノトリフネ」

 

 スサノオはその船の名を呟く。

 葦の翼より、二条の光線が投射される。

 一方は天若日子。もう一方は、

 

「これで終わりか。是非もなし、勝負は預けよう」

「勝負は預ける、だと? 馬鹿め! 汝がおめおめと逃げ帰るなら、紛れもなく吾らの勝ちよ!」

「当然の論理ですね。これはわたしたちの完全勝利です!」

「五対一だということを忘れていませんか?」

 

 清姫はがっくりと肩を落として、ため息をついた。

 佐々木小次郎は周囲からのブーイングを飄々と受け流し、アメノトリフネが照射する光に呑まれる。

 光が先細り、失せた時には既に彼の姿はなかった。天の葦船はノイズにまみれ、テレビの電源を落としたように姿を消す。

 天若日子の体も回収され、後に残されたのは荒廃した街と人間のみ。

 立香は杖の端子からカートリッジを排出し、礼装の稼働を停止させる。役目を終えた杖は縄状に戻り、右前腕に巻き付いた。

 深く息を吸い込み、そして吐く。

 自分が倒した、などと自惚れるつもりは毛頭ない。

 この力はみんなのものだ。仕組みからして、カルデアの霊子演算装置の計算能力を借り受けている。それに、ノアとダ・ヴィンチから教えられなければ扱えなかった。

 だから───そう思って、自分を戒める。

 けれど、ほんの少しだけ。

 

「話は聞いたぞ。藤丸、よくやった」

 

 この人に、もっと褒めてほしいと思うのは、いけないことだろうか。

 

「リーダーって罵倒の語彙に反して褒めるの苦手ですよね。いつもよくやったとか、褒めてやるとかだけじゃないですか」

 

 ノアは一瞬、目をそらして述べる。

 

「……オーディンの箴言92節〝女の愛を得んとする者は、きれいごとをいって贈物をし、女の美しさをほめよ。お世辞をいう者は首尾よくいく。〟───オーディンが残した言葉だ。どう思う?」

「神様のくせに随分俗っぽいというか……女の子のこと舐めてません?」

「そういうことだ。おまえを褒めるのに余計な言葉を使う必要なんてない」

「それじゃあ、これからは都合の良いように解釈しちゃいますから!リーダーは褒めるの苦手だから仕方ないですよね!」

 

 そう言うと、ノアは微かに笑った。

 

「……それだけか?」

 

 口の端から息が漏れる。

 脳裏をよぎる、いくつもの可能性。

 ───それは、勘違いしても良いということなのだろうか?

 動けないまま、視線が重なる。

 しばらくそうしていると、

 

「……クッ」

 

 ノアは意地の悪い顔で吹き出す。

 立香に預けていた帽子を被り直し、煮え切らない目線で見守るペレアスたちの方へと歩いていく。

 そこで、彼は捨て台詞を吐いた。

 

「俺と駆け引きしようなんざ百年早え! 褒め言葉を引き出そうとしたんだろうが、残念だったな! ヒャハハハハハ!!」

 

 立香の頭の中で何かが切れる。

 

「ガンドォォォ!!」

「うがああああああ!!!」

 

 魔弾を撃ち込まれ、のたうち回るノア。それを呆れ混じりに眺めながら、ロマンはスサノオに話しかける。

 

「『その、聖杯について訊きたいことがあるのですが……』」

「聖杯は天に在る。西洋の魔術師殿は分かるであろう? 東征軍の首魁が誰か」

「『……敵に回っているのが天津神と聞いた時から、見当は』」

 

 スサノオはこくりと頷いた。

 

「───そう。敵は、我が姉だ」

 

 ただし、と彼は付け加える。

 

()()()()()()()()()()()()()()()。こんなやり方を好む人ではない。……おっと、人ではなく神だったな! これは失敬!」

「『すみません、笑えません!!』」




・コードキャストの補足説明
 ノアとダ・ヴィンチの共同研究。要は科学の力で魔術の現象を再現するというもの。ただし、魔術である要件を満たすために科学主義への信仰を擬似的な魔術基盤として扱っている。そのため、対魔力で無効化できるのはコードキャストの魔術要素のみであり、最高峰のランクであっても半減させるに留まる。もちろん当たってくれるかは別問題。
 道具にカートリッジをセットするだけで扱えるため、誰でもプログラムに書き込まれた魔術を発動することができる。杖には霊子演算装置であるフォトニック結晶が埋め込まれているが、これはノアがトライヘルメスとトリスメギストスのデータを解析して、無属性魔術で再現したものである。ダ・ヴィンチが言っていた遠隔補助術式というのは、トリスメギストスの演算能力を杖に上乗せするためのもの。杖だけでも魔術を行使できるが、その場合は再現できるモノが限られてくる。高威力だったり複雑な工程を経る魔術がそれに該当する。
 言語化できるなら大抵の魔術は再現できるため、ミストルティン無しで『終約・黄昏の天光』をも発動できる。ただし、神殺し・不死殺しの特性を切り捨てて威力を追求した魔術であるため、死ねない体にされていたアメノワカヒコを仕留めるには至らなかった。また、これは遠隔補助術式がなければ使用できない。
 画期的な技術だが、魔術の欠陥そのものを改善するには至っていない。これがクリアできていない問題点はおおよそ三つ。
 ①そもそも神秘の衰退を防げない。
 ②マナを利用しているため、地球のマナが枯渇した場合はガラクタになる。
 ➂現代の技術レベルで量産化を目指す場合、無属性魔術でフォトニック結晶を用意しなくてはならないノアが過労死する。
 ノアが目指すアルス・ノヴァにはまだまだ程遠いのが現状である。
 …………ということから、EXTRA世界のコードキャストとは名前が同じだけの別物。今回登場した『shock(32)』だが、使った記憶がない。

・神様解説、クラミツハ編
 古事記では闇御津羽、日本書紀では闇罔象と書く。イザナギがカグツチを斬った際、剣の柄についた血が指の間からこぼれ落ちた際に、クラオカミとともに生まれた神である。日本書紀ではクラヤマツミという神も同時に生まれている。この三神をセットと捉えるなら、クラミツハもまた三相一体の女神であると定義できるかもしれない。
 クラミツハが水神となっているのは血と水の液体としての繋がり、また、剣柄から滴り落ちたことから刀鍛冶で刃をそそぐ水を表している、などの説がある。
 クラミツハが象徴するのは峡谷や渓谷の水の出始め。水の神が龍神とされるのはよくあることで、古代中国の竜神信仰に端を発していると思われる。
 山間を流れる川の女神であるクラオカミと一緒に成った(スサノオにやられた)、かつ、本編では荒魂だけの状態だったので大体四分の一くらいのスペックだった。もし二神揃った完全体だったなら、総力戦でなくては勝てなかっただろう。


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第60話 朱に染まる魁星

『うけひ』は登場人物は『うけい』と発音していると思ってください。


 東征軍の襲撃を防いだ数時間後。

 太陽はすっかり地平線の向こうに沈み、空は黒々とした闇に染まりきっていた。

 合流を果たしたEチームと、共闘するに相成った新選組と大江山メンバーは本能寺にいた。本能寺の変以外にも何度か炎上したこの場所だが、幸運にも今回の戦いの被害からは逃れていた。炎ならまだしも水にやられる訳にはいかないのだ。

 それはともかく、時刻は夜。各地の家庭は夕餉の準備を始める頃合いである。本能寺の前庭でもすっかり牙の抜け落ちた鬼たちが調理に取り組んでいた。若干二名牙どころか角まで失っているが。

 どこぞのライオン発明王がトースターの売上を伸ばすために一日三食を広めたのは有名な話だが、日本でそれが一般的になったのは江戸時代のことだ。古代から中世の終わりまで、人々は朝と晩の二回食事を摂っていたと言われる。

 つまり、昨日から一日信長とスサノオと行動していた立香は昼食を抜かしていた。食い意地だけならば英霊にも劣らない彼女にとって、それは拷問に等しい。戦闘を行ったこともあり、その空腹感は最高潮に達しつつあった。

 だが。

 

「───……そしたらペレアス様ったら、私のことを抱きすくめて何度も愛の言葉を囁いてくれたんですの〜〜っ♡♡」

「きゃーっ! 砂糖よりも蜜柑よりも甘酸っぱいですわ! 体が火照りすぎて龍になってしまいそうです! あなたもそう思いませんこと、立香さん!?」

「お、おもいマス……」

 

 脳みそがピンク色に茹だった精霊と蛇女に両脇をがっちりと固められ、空腹を感じるどころではなくなっていた。心なしか周囲の空気が梅雨頃のように湿度を増しているような気もする。

 蛇といえば暗く湿った場所を好む。そしてリースは水の精霊である。この二人は東西の恋愛モンスターというだけでなく、そういった意味でもコンボが生じてしまうのだ。

 料理をつまみ食いしようと人気のない場所を通ったのが運の尽き、じめじめと恋愛トークに興じていた二人に立香は捕まってしまったのだった。

 

「ええ、ええ! そうでしょうとも! さすがは六つの特異点を攻略してきた勇士ですわね! 私とペレアス様の睦み合いをもっとお聞かせして差し上げますわ!」

「別に頼んでないんですけど。いつも聞かされてますし」

「言うなれば私たちは同類……果てしない恋情に取り憑かれた仲間ですわ。誰でも本気を出せば龍くらいにはなれますのよ?」

「別になりたくないですけど!? 同類判定がガノトトスの当たり判定くらいガバガバじゃないですか!」

 

 恋や嫉妬に狂った女性が人ならざる怪物に変化するのは日本ではよくある話だったが、ここにいるのはその頂点とも言うべき清姫と純度100%精霊のリース。普通の人間である立香がこの境地に至るのは無茶振りも甚だしい。

 逃げ出そうにもべったりと貼り付かれているせいで身動きもできない。そもそも清姫から逃げ出そうと考えること自体無意味だ。安珍の末路が何よりの証拠である。

 徐々にヒートアップしてきたモンスターたちは息を荒くして立香に迫った。その目は見たことがない色に染まっている。

 

「まあまあ、そう言わずに。私たちが立香さんに想い人の追跡方法から───」

「ありとあらゆるシチュエーションの立ち振る舞い方まで───」

「「手取り足取りしっかりと教えて差し上げます……!!」」

「イヤアアアアアア!! 恋キメてる変質者に襲われる! 誰か助けてェェェ!!」

 

 立香は迫真の表情で絶叫した。すると、上空から黒い影が落ちる。それは彼女が契約したファーストサーヴァントにして時々頼れる後輩のマシュ・キリエライトだった。

 彼女はどこで手に入れたのか、ぶつ切りにされた食材が連なった串焼きをハムスターのように貪っていた。もう片方の手にも同じような串焼きを握っている。

 

「そこまでです、お二人とも! そっちの世界へ先輩を引きずり込もうとしても、そうはいきませんよ!」

「マシュ……!」

「防戦に優れたマシュさんとはいえ、装備が盾でなく串焼き二本なら恐れるに足りませんわ!」

「弱体化したからと侮られては困ります。未来への素質に満ちた立香さんを手放す訳にはいきませんわ!!」

「この人たちの目には一体何が映ってるの!?」

 

 手放す。その言葉を聞いて、マシュはチベットスナギツネのようなじっとりとした目つきになる。その瞳には一切の感情の色が見えなかった。

 そうして、ぽつりと呟く。

 

「手に入れるのが勝利なら手放すのは敗北でしょうか───?」

「少なくとも恋においては敗北では?」

「…………先輩、どうしましょう。リースさんに論破されました」

「諦めるのが早い! もう少し粘って!」

 

 無論リースの意見であり主観的なものではあるのだが、マシュにはこれといった反論が浮かばなかった。しかも、ここには大追走劇を演じた清姫までもがいる。想い人を繋ぎ止める握力は計り知れない。

 そこで、マシュは思い出したかのように、口をつけていない串焼きを立香に差し出した。

 

「あ、それとこちらの串焼きは先輩に。赤鬼さんに調理中のやつを分けてもらいました」

「それ今やること!? いただきます!」

「立香さんの手首にはモーターでも仕込まれているのですか?」

 

 超高速の手の平返しを見て、清姫は訝しんだ。当たり前のように赤鬼をこき使っているマシュはともかく、ただの食欲で自分たちの押しを打ち破られたことには戦慄を禁じ得なかった。

 狂気を上回られた清姫はもはや一般美少女サーヴァントでしかない。我が魂の先輩を奪還したマシュはハムスターみたいに膨らんだ頬をもちゃもちゃと動かして、

 

「ところで、スサノオさんから本堂に皆さん集まるようにとのお達しがありました。ご馳走が続々と運び込まれていますので、食い荒らされる前に行きましょう」

「よし行こうすぐ行こう! リーダーなんて他人の好物を狙い撃ちして取っていく人類悪の化身だからね!」

「くっ、立香さんをこちら側に引き込む作戦が……!!」

「いいえ、まだです。いずれ必ず、リースさんと私のしつこさをお目に入れてみせましょう……!!」

 

 立香とマシュは冷たい情念の炎を燃え盛らせるモンスターたちに寒気を覚えながら、本能寺本堂へと歩を進めた。

 そこには毎日顔を合わせている面子に加えて、新選組の二人と茨木童子が殺気の篭った視線をぶつけ合っていた。上座のスサノオと信長は全てを諦めた目でその様子を眺めている。

 彼らの前にずらりと並べられた膳。土地柄当然といえば当然なのだが、非の付け所がない和食が盛り付けられている。立香は妙な懐かしさを覚えた。カルデアの献立でも和食が並ぶことはあるが、こうも豪勢なのは久しぶりだ。

 立香は無意識にノアへと視線を送る。彼はペレアスとダンテ、ジャンヌとともに、茶色い物体が載せられた小皿を見下ろしている。彼らは一様に何かを食いしばるような表情をしていた。

 

「……腐った豆の塊か? これ。流石のブリテンでもこんなもん食ったことないぞ」

「っていうか普通に臭いんですけど。誰が食べるのよこんな汚物」

「じ、ジェンマの豆スープを思い出しますねえ。アレは口に入れた瞬間トイレに駆け込むほどの劇物だったのですが、これもその同類である予感がします」

「劇物じゃねえ、納豆だ。等しくはあるがな。これを食うくらいだったらフォウの汚えケツの穴舐めてた方が百倍マシだ」

フォウフォウ(風評被害やめろ)

 

 フォウくんはノアの顔面を蹴り上げる。

 しかし、そんなことで動じるようではEチームのリーダーは果たせない。鼻からボタボタと血を垂れ流しながら、納豆の小皿をスサノオに押し付けた。

 

「おまえ腐っても日本の神だろ。このナウシカの腐海みたいな食いもんをどうにかしろ」

「ちょっ、儂納豆とか無理だから! なんか吐き戻した豆みたいな見た目じゃろ、そういうのオオゲツヒメの一件でトラウマになっとるんじゃ!!」

 

 スサノオは青褪めて後ずさった。彼はオオゲツヒメという女神に歓待を受けた時、その食材が彼女の口や尻から出てきたものであることを知り、斬殺するに至っている。現代の価値観ではやり過ぎ感が否めないが、排泄物を食べさせられたとなると怒るのも詮方ないことだろう。

 何か感じ入るところがあるのか、信長はこくこくと頷いた。

 

「まあゲロとかうんこ食わされたらわしもぶった斬るわい。にしても、やっぱ南蛮人に日本食は合わんのかのう。ルイス・フロイスとか弥助も苦労しておったし」

「オレはそうでもなかったけどな。ツナマヨのおにぎりとかうまいよな」

「ペレアスさんは食の荒野出身ですからねえ。私も日本食の中だと特に抹茶ラテが好きですよ」

「結局日本食はラーメンが最強だろ」

「は? カレーこそナンバーワンでしょう」

「なんか全部微妙に外してね?」

 

 信長は口元をひくつかせた。当たらずも遠からず。明後日の方向に的を外している訳ではないのだが、どこか釈然としない感覚である。

 立香と湖の乙女はぬるりと会話に滑り込む。

 

「リーダー、納豆苦手だったんですね。次からイタズラする時は落書きじゃなくて納豆を使うことにします」

「やるならおまえも相応の被害を受ける可能性を考えておけよ。全身の毛穴にネバネバを注ぎ込まれる呪いをかけてやる」

「けれど、ペレアス様が一番好きなのは私の手料理ですわよね?」

「まあな、言うまでもない。嫉妬でもしてくれたか?」

「……もう、今日のあなた様はいじわるですわ」

 

 そこはかとなくしっとりとした空気が辺りに漂う。マシュは口内に砂糖の塊を突っ込まれたような気分になり、どっかと膳の前に腰を置いた。

 

「……ケッ。茶番はここまでにして、本題に入りましょう。スサノオさんが呼びつけたということは無駄話をする気はないのでしょう?」

フォウフォフォフォウ(急に知性を見せつけてくるな)

 

 というフォウくんの言葉も伝わることはなく。土方はたくあんを丸ごと齧りながら、マシュに追随する。

 

「俺たちはここに馴れ合いに来た訳じゃねえ。スサノオ、アンタがやりそうなことは分かってる。そこのチビ鬼を呼んだのもそういう理屈だろ」

「吾にそれは禁句だぞ人間! 一度痛い目に遭わせないと分からぬか!? かーっ、これだから田舎上がりの芋侍は!」

「おう上等だアホ鬼! 俺を痛い目に遭わせてえなら胸を盛ってから出直して来やがれ!!」

「土方さん、それ痛い目というかエロい目です」

 

 光の速さで乱闘になりかける。犬猿の仲とはまさにこのこと。人と鬼の隔たりは未だ深かった。そこにスサノオが強引に割り込んで、

 

「あーやめいやめい! 喧嘩なんてしてもまったく得にならんぞ、古事記にもそう書いてある!」

「高天原を追放されたやつの言葉は含蓄が違うのう」

 

 信長に背を刺されつつ、スサノオは咳払いして仕切り直す。

 

「お、お主らを呼んだのは他でもない。東征軍に対抗するため、是非我らで手を組もうではないか! 戦において数は多ければ多いほど良いからのう!」

 

 それはカルデアにとってはこの上ない提案だった。東征軍のサーヴァントは天津神の分霊を与えられている。彼らの戦力は通常の英霊を遥かに超えるだろう。スサノオがほとんどの敵を討ち滅ぼしたというのに、国土のおよそ西半分を奪われているのが良い証拠だ。

 まさしくスサノオの言う通り、戦力は多いに越したことはない。大江山の鬼と鬼の副長率いる新選組が加わるとなれば、心強さは百人力では済まない。

 茨木童子と土方は物理的な衝撃すら伴うかのような視線をぶつけ合った。その鬩ぎ合いは留まることはなく。できる限りドスの利いた声を互いに向けて捻り出す。

 

「吾には酒呑の仇を討つという大義がある。そのためなら、人間どもと組んでやるのもやぶさかではない。精々吾の下で働くが良いぞ、新選組ィィ……!!」

「ガキみてえなナリした小娘に睨まれたところで微塵も怖くねえなァ! 殴る蹴るしか能がないお前らに戦の指揮ができんのかァァ……!?」

「もうやだこの蛮族たち…………」

 

 スサノオはほろほろと涙を流した。母親に会いたい以外では泣かなかった神を泣かせるという偉業が成し遂げられている。正直、蛮族度合いで言えばスサノオも大概なのだが。

 立香はその姿に憐れみを感じた。このまま険悪でいられては、誰にとっても得はない。右手で串焼きを口に運びつつ、もう片方の手を勢い良く挙げた。

 

「はい! 不肖藤丸立香、僭越ながら提案があります!」

「おう、威勢が良いな立香! 儂がいくらでも聞き届けようぞ!」

「誰が私たちの指揮官になるか決めるべきだと思います! 一番上が決まっちゃえばこうやって争うこともないですよね。カルデアはドクターがアレなのでアレですけど!」

「『立香ちゃん! それだけで言葉のトゲを隠し切れるとでも!?』」

 

 強烈な流れ弾がロマンに突き刺さった。呑気にコーヒーを飲んでいた彼はコップの中身をすべて床に撒いていた。ムニエルの業務がひとつ増えた瞬間である。

 立香の主張は妥当といえば妥当だ。かたや鬼の頭領を酒呑童子に譲った存在、かたや旧幕府軍の指揮官。茨木童子にしろ土方にしろ、そういった決まり事には厳しい。

 二人は背を向け、カチャカチャと己の得物を用意しながら同意した。

 

「アホの仲間にしては良い提案じゃねえか。とりあえずそこの鬼を叩きのめせばいいんだな?」

「ほざいたな人間! 吾の剣でタコ殴りにしてくれるわ!!」

「い、いや、そういう決め方じゃなくてもっと平和的な方法にしましょう! くじ引きとかじゃんけんとか!」

 

 手を組むための会合で血みどろの戦いを演じられては元も子もない。茨木童子と土方は渋々武器をしまった。それを見て、沈黙していた信長は瞳に野心の火を灯す。

 

「やっぱトップはわしがやるしかないじゃろ、常識的に考えて。裏切り者にも優しいし、褒美はちゃんと取らすし、手柄を立てれば昇格もアリアリぞ?」

「『カルデアよりホワイトですね。この三人から決めるとなると、立香ちゃんが言ったようにくじ引きかじゃんけんが無難そうですが……』」

「おいおい、何言ってやがる。ここにカルデア最強マスターがいるだろうが。サーヴァントを使うのはマスターの仕事だ、こいつらを従えるのに最適なのはどう考えても俺だろ」

「アンタがトップ張るくらいなら私は裏切るわ」

「ええ。敵は本能寺に在り、です。カルデア大炎上編です」

 

 ジャンヌとマシュは容赦なく口撃した。Eチームのリーダーに人望などあるはずもない。立香は何度目になるか分からないカルデアの危機を感じ取った。

 ともかく、候補は四人。全員一癖も二癖もある面子だ。ノアは論外としても、土方と信長の将器にもはや疑いようはない。集団のまとめ役という点から考えれば、茨木童子も相応の働きができるだろう。

 そこで、スサノオはどこからともなく寿司が並べられた木製の台を持ってくる。

 

「ここはいっちょ神様らしく人草の仲介をしてやろう! あ、もちろん儂が指揮を執ってやっても良いぞ?」

「「「「すっこんでろニート神」」」」

「え、何こいつら。神への尊敬とかないんか? ちょっと泣いていい?」

「旗頭はふんぞり返ってるくらいが丁度ええんじゃ。余計に動かれても困るわ」

「傀儡にしてた足利義昭に包囲網作られただけはありますね。それで、どうやって決めるんですか?」

 

 沖田の問いに、スサノオは頷いた。

 

「うむ。時にお前たちは『誓約(うけひ)』というものを知っておるか?」

 

 その場の大多数の人間は釈然としない反応をした。これを受けて、彼は解説する。

 『誓約(うけひ)』。万葉仮名では宇気比と表記される。これは古代日本で行われた占いの一種である。記紀神話においては度々登場する概念だが、一義的に語の意味を定義することは難しい。

 その一例としてはニニギノミコトとコノハナノサクヤビメの逸話が挙げられる。ニニギはサクヤビメを娶り、褥を共にすると、彼女はその一夜で子を身篭った。妊娠までの期間が短すぎることから、ニニギはその子が自分の子ではなく、国津神との子ではないかと疑ってしまう。

 そこで、サクヤビメは出産の際に産屋に火を放ち、〝この子がニニギの子でなければ無事に産まれない。この子がニニギの子であるなら無事に産まれる〟と宣誓し、ニニギとの子を産んだ。

 AならばBである、と条件を定義し、自らの行動で証明することで、それが真実であることを問答無用で確定させる。

 子がニニギとの子であることと、産屋に火を付けて無事に出産することに論理的な妥当性は存在しないが、『誓約(うけひ)』はそれを無理やり保証するための占術なのだ。

 

「ま、そもそも神話に論理性を求めても仕方ないよネ」

フォウフォウ(お前が言うな)

 

 神様として身も蓋もないことを言ったスサノオ。彼はニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべる。

 

「この寿司のいくつかは大盛りのわさびが仕込まれておる……これを占いに使うのじゃ」

 

 急に空気が不穏になる。場の全員が抱いた不安は見事に的中した。

 

「───つまり、ここで行う『誓約(うけひ)』とは〝わさび寿司を引き当てた者は指揮官に相応しくない。わさび寿司を引き当てなかった者は指揮官に相応しい〟という史上類を見ない全く新しい占いなのじゃあ!!」

「「「どこがだァァァ!!!」」」

 

 信長、土方、茨木童子のジェットストリームアタックという名のドロップキックをくらい、スサノオは床に転がされる。

 彼らはその胸倉を掴むと、激しく前後に揺さぶった。

 

「なぁ〜にが史上類を見ない全く新しい占いじゃ、このアホ神が!! パクリにも程があるじゃろ!!」

「こちとらそんな使い古された罰ゲームやりに来てんじゃねえんだよ! 少しは新しいものを生み出そうとしやがれ!」

「神のくせに食べ物を粗末にするとはどういう了見だ!? 人間のくだらぬ遊びに毒されおって!」

「う、うっせー! 人の子のバラエティ番組に憧れてたんじゃ! 儂だってそれくらいの夢は見てもいいじゃろうが! はよう食え!!」

 

 もみくちゃになる英霊と神霊。サーヴァントに対する畏敬の念がまたしても失われた場面だった。立香はノアの顔を覗くと、彼は心底興味が失せたような表情をしていた。こういう時は真っ先に飛びかかるはずだというのに、今は嘘のように大人しい。

 

「リーダーは行かなくていいんですか」

「誰があんなことやってられるか。俺以外がやる出来レースは嫌いなんだよ」

「…………()()()()()?」

 

 立香は首を傾げる。

 バラエティ番組の罰ゲームじみた占いだが、何かが仕組まれているようには思えない。本当にバラエティ番組ならヤラセがあるだろうことは別にして。

 発言の意図を尋ねる前に、信長ら立候補者たちは寿司を手に取る。その足元には大の字になったスサノオが白目を剝いていた。

 サーヴァントであろうが味覚は人間のそれと同じだ。辛いものを食べれば辛いし、酸っぱいものを食べれば唾液が分泌される。

 つまり、彼らとてわさび寿司を食せば苦しむのは避けられない。三人は恐る恐る寿司を口に運んだ。

 小さな咀嚼音ですら反響する静寂。

 寿司をごくりと嚥下する。

 咀嚼音すら絶えたその瞬間、信長と土方の肩が小刻みに震え出し、

 

「「ぐぼおおおぉぉぉッッ!!!」」

 

 凄絶な断末魔とともに無残な姿になった寿司を吐き戻した。

 砂浜に打ち上げられた魚みたいに痙攣する二人を一瞥し、茨木童子は満面の笑みでガッツポーズを取る。

 

「よっしゃぁぁぁ!! ふはは、見晒せ人間ども! 東征軍なぞ一撃で粉砕してくれるわ! のう、清姫!!」

「なぜそこで私に振るんです!? あなたが指揮官なんて悪夢にも程がありますわ!!」

「悪夢上等ォ! 吾らこそが奴らにとっての悪夢になるのだからな!」

「第六天魔王と鬼の副長に勝つなんてすげえっす! マジパネェっす! さすが茨木の姉貴!」

 

 いつの間にかここにいた赤青鬼が茨木童子を胴上げする。途端に室内がやかましい喧噪に包まれた。

 その騒音に紛れて、立香は先程の疑問をノアに投げる。

 

「出来レースってどういうことだったんですか? 誰も怪しい動きをしてるようには見えませんでしたよ?」

 

 茨木童子に公衆の面前で隠し通せるようなイカサマの技術があるようには思えない、とは彼女の名誉のために言わなかった。

 

「……『誓約(うけひ)』ってのは支離滅裂な証明に妥当性を保証する儀式だろ。だったら、誰がその妥当性を保証すると思う?」

「え───儀式を見てた私たち、とか……?」

「惜しいな。答えはこいつだ」

 

 ノアはスサノオの首根っこを掴んで、立香に突きつける。

 

「こいつはひとつ大事な説明を省いてやがった。それは『誓約(うけひ)』が()()()()()()()()()()ということだ」

 

 神意を窺う。『誓約』は術者が真であると証明したい出来事に対して、神という絶対的な後ろ盾を付けることで正しさを得るものなのだ。

 だからこそ、ニニギはサクヤビメが産んだ子を自分の子どもであると認めざるを得なかった。彼らの儀式においてどの神が介入したかは定かではないが、この場ではそれは明白だった。

 『誓約』は神意を窺う儀式───であるならば、その神とはスサノオに他ならない。

 

「異邦の魔術師がよく勉強したのう。そう、この集団の長に茨木童子を選んだのは儂じゃ」

「それは、どうしてですか? 人を率いることに関しては信長さんと土方さんの方が適任な気がしますけど」

「そうじゃの。あやつらはまったく見上げた人間よ。ノッブは天下の礎を築き、土方は負け戦でも幕府のために命を捧げた。神代なら儂の剣を譲ってやっても良いとすら思える武士たちじゃ」

 

 しかし、と彼は翻す。

 

「敵は東征軍。化外の地を統一せんと目論む英霊じゃ。ならば、奴らを相手取る首魁は化外の者でなくてはならん」

 

 この国の始まり。西の地より大和を目指したかの東征はそういうものであったはずだ。

 天照らす光を味方に付け、高天原の法下にあらぬ土地を侵略する。仮にもその東征を掲げる戦士と刃を交わすのなら、化外に住まう者こそが相応しい。

 

「───のう、鬼とは不憫な連中だと思わぬか? 奴らは確かに傍若無人で悪逆無道の怪物じゃが、生きるためにはそうするしかなかった。大江山なぞに引き籠もっていたのが良い証拠じゃ。そして朝廷に目をつけられ、桃太郎だの源頼光だのに討伐される」

 

 けれど、それもまた仕方のないことだ。

 彼らが人を虐げたのは事実で、人はそんな怪物を討たねばならない。

 どちらが正義であるかなど、傍観者に過ぎない自分たちが一方的に決めることは許されない。だが──────

 

「儂はここに証明するぞ。蔑まれた鬼であろうと、この地に住む全ての者に天照らす光は降り注いでいるのだとな」

 

 ─────その鬼こそが、この特異点を救うのだとしたら。

 ノアは鼻を鳴らす。不機嫌にも見える仏頂面。しかし、立香には高揚が滲んでいることが分かった。

 

「時の権力者に敗北した、という点では土方もアリじゃったがな。異名も鬼の副長じゃし……」

 

 それを遮って、ノアは言う。

 

「名前を決めろ。東征軍を震え上がらせるようなやつをな。格好もつけられないんじゃあ示しがつかねえ」

「……ふっ、そんなことなら考えてあるわ。儂の大好きな母上にちなんで───」

 

 スサノオは獰猛に歯を剥いた。

 

「───黄泉軍(よもついくさ)。死者の国が擁する鬼が、東征軍を討つのだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茨木童子率いる黄泉軍が発足して数日後。

 彼らは鬱蒼と木々が生い茂る山中を徒歩で突き進んでいた。天空に輝く太陽は爛々と地上を照りつけ、茹だるような熱気を醸し出している。

 しかし、黄泉軍の軍容は名だたるサーヴァントと新選組、大江山の鬼たちである。この酷暑もなんのそのであった。ペレアスは名だたっていないという指摘は禁句だ。

 それでも、湿度の高い日本の暑さは慣れない人間にとっては辛いものであることに変わりない。

 

「「「あ〜〜…………」」」

 

 気の抜けた声が弱々しく溶け込んでいく。

 それを発したのはノアとダンテ、そしてジャンヌであった。彼らは上着や外套を脱ぎ捨て、項垂れたまま歩いている。

 力ない足取りでは集団に置いていかれるばかりだった。ノアとジャンヌは悠々と先を行く仲間の背を忌々しげに睨んだ。

 

「……ねえ、アンタいっつも無駄な魔術ばっかり開発してるでしょう。こんな暑さくらいどうにかしなさいよ」

「うるせえ、こんなジメついたところでモチベなんか出せるか。おいダンテ、空飛んで日光遮って来い」

「無茶言わないでください。天使じゃないんですから。私だって放浪生活を思い出して鬱々としてるんです」

「というか、あのなすびはどうして平気なのよ。南極出身のくせに」

 

 耳聡くそれを聞きつけたマシュは胸を張って答える。

 

「わたしは確かに南極人ですが、皆さんみたいな根性なしと一緒にしてもらっては困ります。それにほら、へそ出しスタイルなので。ギャラハッドさんの趣味でしょうか」

「あいつはそんなんじゃないと思うぞ? ランスロットと違って」

「あまり人間らしい面を見せない人でしたから、案外良い趣味してるのかもしれませんわよ?」

「あのランスロットさんの息子ですからね」

 

 ダンテはランスロットが草葉の陰で血涙を流している情景を想像した。彼とて最高の騎士、そこまで言われる筋合いはない……のかもしれない。

 ノアたちが呻きながら歩いていると、沖田と土方が水を持ってやってくる。

 

「おら、飲め。少しは楽になんだろ」

「熱中症は怖いですからね。池田屋の時とか猛暑で沖田さんも吐血しましたから」

「沖田さんの吐血は熱中症のせいではないと思いますが……ありがたくいただきます」

 

 ダンテは水を受け取り、ノアとジャンヌに手渡した。二人はそれを豪快に飲み干して、ダンテに突き返す。

 水を摂取したことで多少回復したのか、彼らの足取りにも力が戻る。全員が先頭集団に復帰したところで、狙い澄ましたかのように立香は訊いた。

 

「随分歩いてきましたけど、目的地はまだなんです?」

「安心せい、もうすぐじゃ。ここを登ったら見えてくる」

 

 スサノオに導かれるまま、彼らは坂を登る。

 爽やかな微風が吹き抜ける。森林を抜け、晴れた視界には豊かな緑地の奥にどこまでも続くような海原が広がっていた。

 人の手が加わっていない自然の風景。しかし、そこにはあまりにも巨大な異物が紛れ込んでいた。

 地から天へと伸びる木造の柱。こと長大さだけで言うならば、あのトライデントですらそれには及ばない。地面を踏み台に、その柱は雲の上にまで到達している。

 

「───天御柱(アメノミハシラ)。あれがこの国を人理から引き剥がしている張本人よ」

 

 レイシフトの前。カルデアスに投影されていた日本列島はおよそ西半分がシールのように剥がれるという事態を示していた。

 魔術王の人理焼却とも異なる現象。それをロマンは『人理剥落』と呼称した。あの異常は聖杯によるものではなく、天御柱が引き起こしたのだ。

 

「天御柱は自身を起点に周囲の土地を高天原の環境へと塗り替える。あれが設置された場所は三つ。東征軍が最初に現れた高千穂と、長門国の須佐────そして、ここ、出雲大社じゃ」

「『なるほど……アメリカの時と似ていますね。東征軍の勢力圏に応じて特異点が広がってしまう。この特異点の年代が何度か書き換えられたことに関係が?』」

 

 そこで、Eチームはダンテに共有された情報を思い出す。

 清姫は言っていた。東征軍が勢力圏を伸ばす度に、昼夜が目まぐるしく入れ替わると。これは特異点の年代が672年、995年、1868年へと変遷していったことと呼応する。

 

「あめりかと違うのはそこじゃな。天御柱が影響範囲を拡大させると、時代だけが進む。2016年の滅びへと向かってな」

「あの、前も思ったんですけど、995年から1868年って飛び過ぎじゃないですか? 大体900年近く経ってることになりますよ?」

 

 立香は首を傾げた。

 日本の国土が特異点と化しているなら、出雲……現在の島根県を占領したところで、天御柱が影響圏を伸ばすとしても、時間の進みが早すぎるように思われる。

 天御柱が北海道の最北端まで手中に収めた時に2016年に達するのではないか。そんな考えを、スサノオは否定した。

 

「奴らは東征軍じゃからの。東征は大和に辿り着いて終結したであろう? 現代では奈良県じゃったか?」

 

 それが意味する事実は。ノアは額に青筋を立てて、

 

「…………ってことは、奈良県まで侵食されたら2016年になんのか?」

「あ、うん。そうじゃけど」

「大ピンチじゃねえかァァァ!! よくもここまで黙ってやがったなアホ神が!!」

「ウギャアアアアア!! 言っても焦るだけだと思ったから黙っとったんじゃああああ!!!」

 

 スサノオはノアにバックブリーカーを仕掛けられ、山中に絶叫を轟かせた。メキメキと背骨が嫌な音を立てる。

 東征軍は大和までの国土を掌握すれば良い。故に西半分が天御柱の影響下に置かれた今、1868年まで時代だけが飛んでいるのだ。信長はだらだらと冷や汗を垂らして言った。

 

「……東征軍だから大和まで占領すれば終わり、と。は? 天下布武ナメてんの? 武田と上杉に胃を痛め続けたわしの苦労は?」

「生前に台無しにされてるんだから慣れてるじゃないですか」

「何を言うか沖田ァァ!! あんな勝ち確ムードの時に裏切るなんか誰も思わんじゃろ! あ、思い出したらなんかムカついてきた、ちょっとあの金柑頭ぶっ殺してくる!!」

「それはそれで新たな特異点ができそうなので、わたしとしては御免被りたいのですが」

フォフォフォウ(むしろ異聞帯じゃね)?」

 

 という会話の裏で、スサノオの背骨は真っ二つに叩き折られていた。彼はくの字形になった体でも生存しているのはまさに神の御業である。

 

「じ、じゃから天御柱をみんなでぶっ壊して回るんじゃ……アレが蓄えとる魔力を奪えば、儂の力も多少は戻るし……」

「…………で。どうすんだ、黄泉軍の総大将?」

 

 くの字になった体を元に折り曲げつつ、土方は茨木童子に目線を配った。

 

「ふん、そんなことも分からぬのか? 全員でバーッと行ってガーッとやってドーンで終いよ!」

「高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応、ということですかねえ」

「小難しい言い方をするとそうなるな!」

「普通に行き当たりばったりですわ!」

 

 清姫は思わずツッコんだ。ここ最近ペースを掻き乱されてばかりの事実に気付いて、がっくりと項垂れる。

 茨木童子が立案したのは作戦とも呼べぬ行動だ。出雲大社に待ち受けているであろう東征軍には心許ない。が、信長は愉しげに口元を歪めた。

 

「総員で攻めるのは悪くない。戦力を分散させる理由もないからの。力押しも立派な戦術よ」

「『では、このまま出発する段取りで……』」

「しかし! 戦の勝敗を分けるのはどれだけ準備したか、これに尽きる! 策とも呼べぬ仕込みじゃが、やるべきことはしておかねばのう!」

 

 そうして。

 一時間後、黄泉軍は目的地の間近まで接近した。

 八雲立つ出雲の国の大社。此処に祀られしは国造りの大偉業を成し遂げた神、大国主(オオクニヌシ)。スサノオから与えられた数々の試練を達成し、一度は葦原中津国の支配者としても認められた大神だ。

 彼は太陽の女神に国を譲り、その見返りとしてこの社を贈られた。かの太陽神と似せて造られた宮殿は『天日隅宮(あめのひすみのみや)』と呼ばれるなど、支配者の地位を退いてなおその存在は強大だった。

 国を造った者と、それを託された者。

 両者の間に憎悪はなく。

 託された以上、かの女神は国造りの意志をも受け継いでいたはずだ。

 ───けれど。

 天と地を繋ぎ止める大社は、跡形もなく破壊されていた。

 かつての姿は見る影もない。散々に焼かれ、潰された社を背後から見下すように、天御柱が輝く。

 柱がたたえる光は無情にして冷徹。

 遍く天地を包み込む陽の光とは真逆の凍てつく光だけを発していた。

 ペレアスは剣の柄に手をかけた。敵の奇襲を警戒しながらも、その目は社の残骸に向けられている。

 

「これは……徹底的だな。敵はこの神殿に恨みでもあるのか?」

 

 スサノオは顔をしかめる。眉間に込められた感情は怒気とも殺気ともつかぬ、月のような凍気だけがあった。

 

「…………姉にとってオオクニヌシのやつは国譲りの大恩人じゃ。こんなことをするはずがない」

「しかも弟の子孫でもある。そんな存在を誰も無碍にはできぬであろう。部下が暴走したとかでもなければのう」

「分からないことを考えていても仕方ないですよ。それより敵は何処です? 沖田さんの三段突きがまたしても火を吹きますよ!!」

「などと可愛らしい顔をしているが、この女、実は狂犬である……」

 

 と、立香が独りごちたその時。

 鼓膜を揺らす風切り音。咄嗟に上空を見上げ、瞠目する。

 鋭く尖った木の杭が烈風を伴って落ちる。十階建てのビルにも相当する規模の杭。それが六本。圧倒的な質量の暴力が地上を蹂躙する─────その直前、

 

「お、らああぁぁぁっ!!」

 

 炭も灰も残さぬ絶大な火力。

 黒き炎の波濤が、ことごとくを焼き払った。

 総身に火を纏い、ジャンヌは吼える。

 

「いきなり不意打ちとは随分なご挨拶じゃない! 辺り一帯を焼かれたくなかったら姿を現しなさい!!」

「竜の魔女ムーブやめてくださいジャンヌさん!!」

 

 マシュの悲痛な訴えの直後。彼女たちの視線の先の地面から芽が突き出した。

 それは急速に成長し、人間の形を取る。漲る新緑のように青い髪を棚引かせ、胸元を大きくはだけさせる純白の装束を纏う。胸から背を貫く一本の杭。その表面を慈しむかのように撫でさすり、男は微かな笑みで顔面を覆う。

 

「くくく、なんとも剛毅よな。人の身で我が一撃を焼き払ってみせるとは」

 

 柔らかな声音。しかし、そこから受け取れる感情は。

 立香は『魔女の祖(アラディア)』を構える。

 ───サーヴァント、ではない。 

 魔術師としては未熟な彼女にもありありと伝わる、幽玄にして清廉な神秘の気配。その存在の在り方は東征軍の英霊、あのアメノワカヒコと比べてさえ一線を画すほどに異質だった。

 スサノオは口をあんぐりと開けて、

 

「ゲエーッ! ツヌグイとイクグイ!」

「だ、誰なんですか!?」

「奴らは神世七代(かみよななよ)───天地開闢の時に産まれた神じゃ! こと神秘の古さだけなら儂や姉にも勝る!」

 

 角杙神(ツヌグイノカミ)活杙神(イクグイノカミ)。国産みを成したイザナギとイザナミよりも前に生まれた、神世七代の第四代。男女一対の双神である。

 土方は刀と長銃を両手に、ツヌグイを睨みつけて言った。

 

「……二人いやがるのか? あいつはどう見ても一人だぞ」

「あの胸に刺さっとる杭がイクグイじゃ。男女一対、つまり陰陽一体となることで自らの力を底上げしとる」

 

 陽神と陰神の合一。互いに欠けたものを補い合い、神格を完成させている。己が半身と魂の半分を失っていたクラミツハとは同じ神であれど、存在の格が違う。

 

「───じゃあ、オレたちの出番だな。ノア」

「ああ、相手が神なら好都合だ。一発当てれば殺せる」

 

 真紅の鎧を装った騎士は神殺しの魔剣を抜き、白き魔術師は神殺しのヤドリギを心臓から取り出す。

 神も不死も一刺しで殺す武装。

 それは紛れもなく天敵。神が神である限り、その死から逃れることはできない。

 ツヌグイは表情を凍てつかせ、黒く濁る汚泥の如き言の葉を紡いだ。

 

「───不敬である。それは人草の手に余る代物だ」

「ハッ! 上から目線で宣いやがって、ビビってんのか!? やれペレアス!!」

「おう!」

 

 真紅の騎士は駆ける。

 その一刃はたとえかすり傷であろうが、ツヌグイには致命傷になる。向かい来る騎士を前に、神は両の掌中より人間大の杭を顕した。

 

「来い───渡辺綱、源頼光!!」

 

 杭が砕ける。

 雷撃がほとばしり、剣風が吹き荒ぶ。

 身を捩って電撃を躱し、剣風の隙間を掻い潜る。顔を上げたその瞬間、既に白髪の武者は剣を振り抜いていた。

 刃が重なる。鳴り響く轟音。激突の刹那、突風が辺りを席巻し、騎士の五体を軽々と後方へ打ち飛ばす。

 

「ど、んな馬鹿力だよ……ッ!?」

 

 踵を地面に突き立て、ブレーキをかける。

 脳裏をよぎるベイリンの存在。あの騎士もまた常軌を逸する怪力の持ち主だったが、白髪の武者のそれはベイリンを凌いでいる。身体能力を超越した異能の域だ。

 ───おそらくは、分霊を与えられたが故の。

 後方へ下がるペレアスと入れ替わるように、茨木童子が跳び掛かる。

 

「ここで会ったが百年目!! この手で引き裂いてくれるわ! 綱、頼光ォォォ!!!」

 

 武者は応えず。ただ、己が主君に前衛を明け渡した。

 酒呑童子征伐の英雄、源頼光。

 鬼を斬り、土蜘蛛を斬った彼女の目に色はなく。

 打ち込まれた命令を実行する機械のように、総身に漲る力を解き放つ。

 

「『■王■来・天■■々(降神・建御雷)』」

 

 英霊の自己証明たる宝具。

 それさえも荒ぶる雷の武神に染められた一刀はまさしく、天下る神雷に相違なかった。

 蒼き極光が満ちる。その一撃に指向性は不要。猛る神鳴りを制御する必要はない。何者にも手を付けられぬ力なのだから。

 ただ、堆積した感情を吐き出すように。

 放射状に拡散した雷轟は、成層圏にまで到達した。

 光が収束し、世界が元の明度に戻る。周辺は隕石が墜落したかのようなすり鉢状に蒸発し、焼けた土の中にきらきらと透明な粒が輝いていた。

 頼光が放った電撃は、その熱で以って地中に含まれる珪砂をガラスに変えたのだ。

 

「───『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』……!!」

 

 なれど、少女の盾は仲間たちを護り抜いていた。

 その心が折れず、穢れぬ限り、絶対の守護を実現する円卓の盾。ジャンヌは左の口端を吊り上げ、肩を竦めて呟く。

 

「……なんでゲスなアンタがそんな宝具使えるのよ」

「助けられておいて言うことがそれですか!? ぶん殴りますよ!?」

 

 ツヌグイはくぐもった笑い声をあげる。

 

「あの雷を凌いでみせるとは、これは神の名も形無しか。茄子のような髪の少女よ、貴様は確かに仲間を護り抜いてみせたのだろう。人間にしてはよくやった」

「先輩、あの人殴っていいですか。わたしを完全に馬鹿にしてますよね」

「髪の毛がなすびみたいなのは本当だけどね」

「───しかし、見よ! 貴様らの仲間のひとり、茨木童子は建御雷の神雷に焼かれ、塵すらも残らなかったぞ! 愚かしくも独り先駆けたおかげでなァ!!」

 

 轟く哄笑。ツヌグイは空を仰いで高らかに嗤った。十数秒の間それは続き、渡辺綱は初めて口を開く。

 

「ツヌグイ様。前を御覧に」

「……ん?」

 

 促されるままに面を下げる。マシュの背後、サーヴァントたちのさらに後ろ、ノアと立香の間に呆けた顔の茨木童子が立っていた。

 彼女はきょろきょろと左右に首を振る。

 

「……いつの間に!? 吾、完全に死んだかと思ったのだが!!」

「俺がおまえを助けてやった。泣いて感謝しろ」

 

 ノアの掌の上には折り畳まれた布があった。木目模様の布は溶けるように液状化し、金色の腕輪となって彼の両手首に戻る。

 『天佑の大船(スキーズブラズニル)』。ドヴェルグが造ったと言われる、全ての神々を乗せられるほどの大船である。それは布のように折り畳んで持ち運べるという特性を有する魔法の帆船であった。

 ノアはこれを開き、茨木童子を船に乗せた瞬間に畳むことで彼女を瞬時に手元に移動させた───そこまで説明すると、彼は鬼の頭に拳骨を落とす。

 

「いだぁ!? 何をする人間!!」

「それはこっちの台詞だ。おまえは一応俺たちのアタマだろうが。何も考えずに前に出てんじゃねえ。角引っこ抜くぞ」

「それリーダーが言います?」

 

 ツヌグイはピキピキと脳天に熱い血を昇らせた。

 

「ぐ、くっ……綱、頼光、そいつらを殺れ! 俺も本気を出す!!」

「おいおいおい、アテが外れた瞬間に怒り心頭か!? 神のくせに肝が小せえな! やれ、俺の英霊(げぼく)ども!!」

「土方さん、この人性格がゲロ煮込みです!」

「放っとけ、そいつは芹沢と同類のアホだ!!」

 

 そして、乱戦が幕を開ける。

 地を、空を、縦横無尽に走る雷電。かすりでもすれば最期、肉体は炭と化して崩れ落ちる。源頼光を中心に広がる電流の鳥籠は敵の一切合財を始末する殺意に溢れていた。

 それでも、土方と沖田は臆さず走った。紫電飛び散る雷雲に単身で特攻するかの如き疾走にはしかし、恐れも迷いも存在しない。

 なぜならば、それこそが彼らを突き動かす誠の意志そのものであったから。

 縮地による短距離瞬間移動。雷轟の化身たる女武者の背を取り、いくつもの突きが閃く。

 が、正気を失いながらも身体に染み付いた技量が陰ることはなく。剣閃を躱し切り、背後に迫る土方へ一刀を見舞う。

 白刃が交差したとほぼ同時、土方の全身を電流が這いずり回る。

 肉が焼け、血が蒸発する音。その身に莫大な雷を蓄える頼光の斬撃は、全てが防御不可能。ただ打ち合う、それだけで敵の五体を焦がす。

 英霊の身にあっても、彼女と正面から斬り合うことは死を意味する。

 

「───それがどうした」

 

 硬直する筋肉を意志の力で捩じ伏せ、返す刀を振り抜く。

 再度の衝突。

 体の芯を貫く痛みは無為。

 死への直滑降を、彼は突き進む。

 

「投影、『武神の手甲(ヤールングレイプル)』」

 

 腕輪を溶かし、一対の手甲を二組複製する。雷神トールがあまりに強大な鎚から己の身を護るための防具。ノアはそれらを沖田と土方に投げつけた。

 

「さっきの水の借りは返す! それを両手に着けろ、少しはマシになるはずだ!」

「……ハ、ちったぁ気が利くじゃねえかアホ白髪!!」

「でも、戦ってる間にどう着ければいいんですか!」

「知るか」

「急に雑!?」

 

 沖田は頭上を通り抜ける雷撃を屈んでやり過ごすと、慌ただしく防具を装着する。

 その様を見て、ペレアスは剣の腹で肩を軽く叩く。甲冑の奥から覗く眼光は白髪の剣士、渡辺綱に移り変わった。

 

「あっちは当分保ちそうだな。オレは渡辺綱ってのとやってくる」

「また吹っ飛ばされるなよ。おまえの無様はカルデアの記録にしっかり残ったからな」

「うるせえ、アレは忘れろ!!」

 

 真紅の騎士は剣士へと突撃する。

 それを黙って見ているはずがない。下段に構えた剣が跳ね、真空の刃を弾き出す。

 神に授かりし剛力と、彼自身の技量があって初めて成立する剣風。騎士は魔剣を以って切り返し、間近へと接近する。

 互いの剣が容易く届く間合い。刹那、両者の視線が交錯し、剣戟の華が咲く。

 怪力はなるほど、確かに脅威だ。大抵の敵は一閃で片がつくだろう。けれど、それ以上に彼の剣技はおよそ余人には及びもつかぬ超常の領域に在る。

 つまり、渡辺綱の技の前には神より与えられし剛力でさえも付属品に成り下がる。繰り出される斬撃はとうに英霊の域をも外れていた。

 だが。

 

「知ってるぜ。怪力馬鹿も、とんでもない剣を使うやつもな!」

 

 流す。流す流す流す。

 嵐と見まごう剣舞の一切を、己が剣によって逸らす。

 日中、自らの全能力を三倍にする太陽の騎士がいた。

 他を寄せ付けぬ圧倒的な技を誇る湖の騎士がいた。

 彼らの戦い方は、彼らとの戦い方は、たとえ死んだ後でも記憶にへばりついている。

 要は、ガウェインとランスロットが合わさった敵を相手取ると考えれば良い。

 ───いや、それは大分無理があるが。

 思考を過ぎるツッコミを振り払うように、ペレアスは剣を叩きつけた。

 一際大きな刃鳴りが響き、間合いが開く。渡辺綱は腕をだらりと下げると、静かに告げる。

 

「俺に憑いた分霊は『天手力男神(アメノタヂカラヲノカミ)』。かの太陽神を岩戸から引きずり出した神だ」

「……そりゃ有り難い情報だな。言ってよかったのか?」

 

 綱は首を横に振る。ゆっくりと剣を構え、呟くように続く言葉を述べた。

 

「ただ、貴殿とは対等に死合いたい。それだけだ」

 

 愚直にすぎるその在り方を、ペレアスは胸に受け止めて。甲冑の下で、白い歯を覗かせる。

 

「なるほど、おまえみたいなやつは好きだぜ───!!」

 

 剣が交わる。織り紡がれる斬撃を眺めていた茨木童子は、

 

「吾も行くぞ! あやつも大江山を攻めた酒呑の仇だ!」

 

 激情のままに言い切った。走り出そうとする彼女の肩を、黒い右手が掴んだ。

 振り向いた先にはダンテ。彼は咎めるでもなく、言い含めるでもなく、ひたすらに柔らかな声音で伝える。

 

「茨木さん。あなたは私たちを率いる人物です。それをお忘れなきよう」

 

 詩人は多くを語らなかった。

 否、余計な言葉は不要と断じた。

 彼女は賢者ではないが、決して愚者でもない。

 だからこそ、黄泉軍の首魁として在るべき姿は自分で導き出せる。

 茨木童子は呪いに染まった右手に自らのそれを重ね、力強く頷いた。

 

「分かった。吾は、この戦いの大将だ」

 

 ───これは、鬼の在り方ではないかもしれないが。

 黄泉軍の総大将は、真っ直ぐに戦場へ躍り出た。

 その背を見送り、感心したように信長は微笑む。

 

「ふ、小娘を一介の将に仕立ておった。案外侮れぬ男じゃな、ダンテ・アリギエーリ」

「その代わりに戦力としてはアレだけど」

「ジャンヌさん? 余計なことは言わなくていいんですよ?」

「もはやこのやり取りが余計ですが。わたしたちの相手はツヌグイです!!」

 

 マシュは空中を仰ぎ見る。

 ツヌグイは周囲に何本もの杭を浮かべ、彼女らを見下ろしていた。その一本一本が宝具に匹敵する威容。神気に満ち溢れた凶器だ。

 

「最初の一手はくれてやる。如何様にでも攻めろ。誰でも良いぞ?」

 

 彼はすっかり余裕を取り戻していた。武器を滞空させ、今まで手を出さなかったのは絶対的な自身の現れに違いない。

 立香は杖を固く握り締めた。

 

「私たち、完全にナメられてますよ。なんだかムカムカしてきました」

「奇遇だな、俺もだ。あいつの顔面を原型がなくなるくらい歪めさせてやる」

「こればっかりは賛成ね。絶対に燃やすわ。木みたいなものだからよく燃えるでしょ」

「武士的にナメてきたやつは殺すのがデフォじゃからな。あいつのしゃれこうべを盃にしてやるわい」

「で、誰がやるんじゃ?」

 

 スサノオが疑問を投じると、四人はそれぞれ顔を見合わせた。沈黙すること数十秒、視線による暗闘を終えた彼らは示し合わせたかのように、ツヌグイへ向き直る。

 

「『終約・黄昏の天光(ミストルティン・ラグナロク)』!!」

「『mistilteinn_ragnarøk』!!」

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

「『三千世界(さんだんうち)』!!」

 

 二条の黄昏が飛翔し。

 燃え盛る黒炎が噴き上がり。

 神秘殺しの弾丸が降り注ぐ。

 予想通りの結果に、マシュとダンテ、スサノオは冷めた目つきでそれを眺めていた。

 ツヌグイは微動だにしなかった。

 動く必要すらなかった。

 黄昏の光が神の周囲を取り囲む幾層もの薄い球体の膜を浮かび上がらせ、黒炎がその輪郭を彩る。神秘殺しの弾雨も、その膜を貫通してツヌグイに辿り着くことはなかった。

 

「約束通り、一手だ。今度はこちらから仕掛けるぞ」

 

 杭が流星雨の如く墜落する。

 サーヴァントはともかく、人間の身では余波だけで細切れになる。マシュは躊躇いなく宝具を解放した。

 

「『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』!!」

 

 ツヌグイが撃ち出した杭は白亜の城壁に阻まれ、次々と木片に化していく。

 神は散乱する杭の破片の隙間を縫うように飛び、城壁の間合いの内側に滑り込む。

 マシュの宝具を破ることはできない。ならば、大元を潰してしまえば事足りる。

 右手より杭を放とうとした彼の前を、ジャンヌと信長が遮る。二人は剣を抜き、ツヌグイ目掛けて一直線に斬りつけた。

 ギン、とガラスを踏み砕くような音が高鳴る。ツヌグイを覆う球体膜。それは彼女たちの斬撃を傷ひとつなく防いでいた。

 

「無駄だ! 貴様ら如きに我らが権能を破れるものか!!」

 

 そうして、ようやく立香はツヌグイの力を得心する。

 

「あれって……結界、ですか?」

「ああ、単なる魔術的防御とは訳が違う。本来土地を護るための結界を、自分の周りだけに張って動かしてやがる」

「縄張りをどこにでも移せる感じですね。やっぱり、難しいどころじゃない……?」

「当たり前だ。結界を動かすなんて芸当ができる人間は噂でしか聞いたことがねえ。あいつは神だからそれくらいはやってのけるだろうな」

 

 ノアは目を細めて、ツヌグイの胸を貫通する杭───イクグイを見通す。

 あの杭を起点として結界を張っている。極論、あれを破壊してしまえばツヌグイの防護は失われるだろうが、車の鍵を車内に閉じ込めたようなもの。結界を無効化するために結界を破らねばならないという、本末転倒の結果になりかねない。

 おまけに、結界は幾重にも張り巡らされている。目算ではおよそ千。これを正面から打ち破るなど夢物語だ。

 

「ようやく理解したか、人間!! 神たる我を殺す、傷付けるなど思い上がりも甚だしい! 貴様らの敗北を以って、高天原の法をいま一度地上に知らしめてやる!!」

 

 天下に轟く宣言。

 地上の神々の代表であるオオクニヌシが天上の太陽神に国土を譲ったその時から、否、その前からもこの地は天照らす光を受けていた。

 しかし。いつしか人は神の威光を忘れ、自らの権力を不動のものとするために神話を編纂し、神を利用し始めた。ツヌグイの言葉は傲慢なれど、人の道具に成り下がった神の悲哀に満ちている。

 この地上を、神の手に取り戻すのだと。

 それを、信長は一笑に付す。

 

「くだらぬ。栄枯盛衰は世の常よ、終わったことを引っくり返して喚くでないわ。……まあ、それはそれとして光秀は許さんが」

「自己矛盾。人草が抱える病だ。故に貴様らはここで敗ける」

「敗ける? ふ、わしらと貴様らの勝利条件は全く別じゃ。そら、後ろを見てみるが良い。面白いものがあるぞ?」

 

 振り向くまでもなく、異常は明らかになる。

 大気を揺らす咆哮。音に気付いた時にはもう遅く、地から天へ伸びる長大な柱は真っ赤な炎に焼かれ、燃え盛っていた。柱の麓には一匹の大蛇。竜への転身を遂げた清姫だった。

 唖然とするツヌグイ。もはや天御柱の焼失は免れない。信長は大口を開けて高笑いをあげる。

 

「フハハハハハッ!! こんな単純な陽動に引っかかるとはのう! ツヌグイよ、貴様確かに強いが腹黒さがちと足りんわ!!」

「いやあ、誰かの仕事を待つというのもなかなか辛いですねえ。私はハラハラしっぱなしでしたよ」

「アンタ何かしましたっけ?」

「とりあえず作戦成功ならオールオッケーだよ! ですよね、リーダー!」

「一応はな。あいつらをぶっ倒す楽しみ……仕事はまだ残ってるぞ」

 

 黄泉軍の目的はあくまでも天御柱の破壊。時代の進みを止め、スサノオの力をを復活させることが第一義。それに比べれば東征軍の討伐は二の次だ。

 故に、たとえ不利であろうが粘ってさえいれば良かった。スサノオが戦力に復帰すれば、逆転できる可能性はいくらでもあるのだから。

 ツヌグイは唇を噛み、一筋の血液を流す。

 人間に出し抜かれた。

 それは事実として受け止めよう。

 それでもまだ、滅ぼされぬ限りは負けではない。信長が告げたように、両者の勝利条件は異なるのだ。

 天御柱が焼かれたとしても、スサノオはその魔力を取り込まなくては力を取り戻せない。

 今のスサノオならば、杭の結界を用いて二度と出られぬように封印できる────!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『狂瀾怒濤・悪霊左府』!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗黒太陽の顕現。

 やにわに夕空は暗く塗り替えられ。

 京の都ひとつを呪殺せんとした大呪術が、東征軍・黄泉軍を区別なく呑み込んだ。

 これを逃れ得たのは、超多重結界を有するツヌグイ。そして、咄嗟に宝具を展開したマシュを含め、ツヌグイと相対していた者だけだった。

 

「…………クッ。クククク、フフフハハハハハハハハハッ!!!」

 

 怪人は嗤う。

 心底愉しげに。

 彼はすり鉢状に窪んだ地面の縁にいた。

 慈しむように両手を広げ、呪いを受けて倒れゆく英霊たちを存分に視界に収める。

 

「ンンンンンン!! これぞ! まさしく!! 絶景!!!」

 

 恍惚とした笑みで、彼は叫声を轟かせた。

 その目は呪詛を逃れた者たちへと向き、相も変わらぬ笑顔のままに告げる。

 

「さて、ここで名乗りをひとつ! 我が名は蘆屋道満! 人間の罪業を背負いし『暗黒の人類史』最後のサーヴァント!! 若干名見知った顔はありますが───ともかくともかく! 以後、お見知りおきをォッ!!」

 

 ノアと立香は唖然とその光景を捉えていた。

 蘆屋道満。あの微小特異点で聖杯くんを使った悪事を目論んでいた陰陽師。彼は間違いなくビーチバレー対決で消滅したはずだ。

 だというのに、道満はまたしても現れた。しかも、カルデアの人間しか観測できていなかったこの特異点に。

 不幸中の幸いか、頼光さえも今は停止している。ノアは腕輪を戻すと、道満を真っ向から眼光で突き刺す。

 

「一回俺たちに負けた雑魚が何の用だ。もしかして負けるのが大好きな異常者か?」

「拙僧、倒錯した趣味を抱えている自覚はありますが、好き好んで負けを選ぶほど後ろ向きではありませぬ」

「気取ってんじゃねえ。おまえの趣味は十分後ろ向きだろうが。この程度で満足するようなら安倍晴明に負け続けたのも納得だがな」

「……フッ。死に急ぐというのなら、よろしい。ええ、存分に踏み躙って差し上げましょうや!!」

 

 人差し指と中指を立て、剣印を結ぶ。

 途端に道満の足元の影が蠢き、渦巻いた。

 

「急急如律令! 出でよ、悪路王(あくろおう)!!」

 

 漆黒の影が飛び出す。

 泥のような瘴気に包まれた黒き武士。両目はくり抜かれたみたいに空洞が開き、そこから血の涙が溢れる。無事なところなどひとつもない。全身を剣や矢、折れた槍に突き刺されていた。

 その手に携えしは身の丈ほどの大刀。刃は乱雑に欠けており、付着した血が黒ずんでこびりついている。

 自らの傷を知らぬかのように、武士───悪路王と呼ばれた妖物はノアたちへ躍りかかった。

 大振りの斬撃。マシュはそれを防ぐとともに弾き返す。その瞬間、ずしりと五体の駆動が鈍化する。全身にまとわりつく空気全てが鉛に入れ替わったみたいに。

 

「くっ……皆さん、気を付けてください! アレと打ち合うと体が重くなります! 女子の天敵です!!」

「ごめん、今は笑えない!!」

「だったら私かそこの第六天魔王が遠くから仕留めるしかないわね!」

 

 ツヌグイは眼前の敵に目もくれず、道満を見据えた。

 

「人間の術師風情が! 貴様の骸は切り刻んで地に撒いてやる価値もないわ!!」

 

 結界を纏い、神は空を翔ける。

 さしもの道満といえど、千以上にものぼる防壁を展開した彼を殺す手段はない。それを貫通する威力の魔術も、結界を超えて神を蝕む呪術もありはしない。

 だが。自分にそれがないのであれば、奴を殺し得る者を用意すれば良いだけのこと。

 道満は知恵の女神の言葉を反芻する。

 

〝───異星の神と異星の使徒、か。くくっ、中々どうして難儀な世界もあったものだ。……いや、こちらも大概かな〟

 

 人の視座を超越した彼女はなぜか、虚ろな白に染まった地球を見て愉しげに微笑っていた。

 

〝アルターエゴ、ハイサーヴァント……面白い。お前もその通りに作り変えてやる。堕ちることが望みならばな〟

 

 そして、女神は無感情かつ無気力に。

 

〝教えてやるよ。低俗な英霊召喚などとは異なる、反魂の法を。ただしこれは外法中の外法。世界の理を騙せるのは二回が限度だろうな〟

 

 反魂の法。一度天寿を全うした生命を再びこの世に呼び戻す、究極の術法。

 既に一回、悪路王のためにこの力は使った。

 残りはただ一度。道満は、それを惜しげもなく使い潰す。

 

()()()()()()()()九十(ここのたり)

 

 〝……ああ、異星の神か?〟

 

布留部(ふるべ)由良由良止(ゆらゆらと)布留部(ふるべ)

 

 〝残念だが、ここには顕れんよ。ビーストⅦの位地は既に埋まっている〟

 

「かく為せば、死れる人は返りて生きなむ」

 

 〝だから、お前はただ好きにやれば良い〟

 

「ソラの彼方より来たれ───天津甕星(アマツミカボシ)!!」

 

 朱色の空に堕ちる、一条の流星。

 太陽を喰らわんほどに輝くソレは光の尾を引き、地上の山々を消し飛ばしながらツヌグイへと迫る。

 天津甕星。星を体現するまつろわぬ悪神は此処に復活を果たした。その身にたたえしは灼熱。山岳を容易く蒸発させてなお余りある膨大な熱量。

 小細工は不要。通り抜けるだけで、遍く敵は一掃される。

 その進撃を阻むように、天より二本の杭が舞い落ちる。それらを繋ぐように白き光の幕が降り、防壁を形成した。

 あちら側とこちら側を隔てる境界。

 世界を切り分けることによる絶対防御。

 それを、天津甕星は己が身ひとつで難なく破壊した。

 

「な───ッ!?」

 

 まつろわぬ悪神はツヌグイの眼前に到達する。

 江戸時代の国学者、平田篤胤によれば天津甕星は金星を表す神であるとされる。三貴神の二柱を除いて、唯一星を象徴するこの神は太陽の座を奪わんと煌めく金星の光であった。

 故に。

 振るわれる拳には金星の総質量4.867 × 10^24 kgが与えられ──────

 

「が、あああああああああッ!!!」

 

 ツヌグイの超多重結界を破り、空の果てまで殴り飛ばす。

 ノアたちは絶句する。彼方へ消えたツヌグイを見て、ダンテは全身をガタガタと震わせた。

 

「な、何ですかアレは!? あんなのどうやって倒せと!?」

「あ、アンタの宝具でなんとかしなさいよ! 仮にも一撃必殺でしょう!?」

「いや、あんなバケモノに近付くとか無理なんですが!!」

「…………落ち着け。確かにあいつは規格外だが、さっきまでいた悪路王が消えてる。一体までしか使役できないか、もしくは────」

「────現界させる魔力は自分で支払わないといけない、ですよね?」

 

 立香の言葉に、ノアは頷きで返す。

 その考察は果たして、道満はまぶたと唇の端から血を流していた。天津甕星の顕現は、ハイサーヴァントたる彼にすら極度の負担を強いているのだ。

 が、道満はそれを気軽に笑い飛ばした。

 

「フ、フフフウウゥゥ……たかが魔力程度、屁の突っ張りにもならぬ! 天津甕星ならば数秒あれば全員を滅殺するに足る!! そう───私自身が害されぬのなら何秒だろうと維持してみせよう!!!」

 

 そこで、マシュはすっとんきょうな声をあげて、道満の背後を指差した。

 

「…………あっ」

「ン─────?」

 

 ざん、と白刃が閃き、道満の首が飛ぶ。

 崩れ落ちる怪人。彼の体躯に隠されていた下手人の姿が露わになる。

 

「いやはや、この世界に来て数秒も経たぬ内に剣を抜くなんて……なんか悪そうなやつだから斬っちゃったけど、多分これで良いのよね!」

 

 二刀流の女剣士。明朗快活な雰囲気を纏い持ち、澄んだ瞳は凛と煌めく。両手の白刃がきらりと光を返し、彼女は晴れやかな笑みを浮かべた。

 

「二天一流、宮本武蔵ここに推参! カルデアのみんなの味方をするためにやって来ました!!」



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第61話 『神剣・天羽々斬』

いつもより遅れてしまいました、申し訳ありません。後書きは興味があったら読んでください。


「二天一流、宮本武蔵ここに推参! カルデアのみんなの味方をするためにやって来ました!!」

 

 散華する暗黒太陽。周辺を覆っていた道満の呪詛が解けていく。天津甕星(アマツミカボシ)は目も眩む金星の輝きをその体表から消滅させる。まつろわぬ悪神はとうに肉体を構成するだけの魔力を失い、吹いて飛ぶように霧散した。

 そんなことよりも、立香たちが何よりも目を奪われたのは突如現れた女剣士だった。しかもその名前は多くの人間が知る剣豪。沖田や信長がいる手前、性別が伝承と違うことは今更指摘すまいが、続く言葉は聞き逃せない。

 カルデアの味方をする。彼女はそう言った。今までの特異点で共に戦った英霊は数多いが、最初から自分の意志で味方になるために来たサーヴァントはいなかった。

 

「わたしたちのことを知っているような口振りですが、武蔵さんは一体……?」

 

 マシュが投げかけた疑問は立香たちの心境を代弁していた。それを問われることは予想内だったのだろう、武蔵は待っていましたとばかりに頷く。

 

「私自身ちょっと複雑な事情なんだけど……ホームズさんとナントカ・カントカさんに言われて来たのよ。線引き? に抵触するだとかで詳しいことはまだ言えないの。ごめんなさい」

 

 妙に折り目正しく頭を下げる武蔵。立香はかの剣豪とのイメージの乖離をそこはかとなく感じた。意外に几帳面なのだろうか。名探偵の後に続く人物の名前はさっぱり原型が残っていなかったが。

 しかし、前者については、ここに三日放置された鍋の底を掬ったかのような濃度のファンがいた。彼女はきらきらと目を輝かせる。

 

「やはりホームズ……!! さすがホームズ……!! おそらくシモン・マグス案件なのでしょうが、ライヘンバッハの滝からも生還したホームズさんはその恐るべき頭脳でわたしたちを助けてくれたのですね!!」

「それは良いんだけど、ナントカ・カントカさんってナニモン・ナンデス?」

「エドモン・ダンテスさんですよ!? 分かってて言ってますよねえ!?」

 

 わざとらしく首を傾げる立香に、ダンテは声を飛ばした。モンテ・クリスト伯は神曲を下地にしているという説もあるため、一目見ただけでもその存在は印象的だったのだろう。

 ダンテの言葉にピンときたのか、武蔵はぽん、と手のひらを叩いた。

 

「そうそう、そんな名前よ! いやあ、外国の人の名前ってなんだか覚えづらくて」

 

 彼女は笑顔で語った。屈託のない表情に一同は毒気を抜かれかけるが、そこはEチーム。フグの卵巣のように糠漬けにしても、彼らから毒が消え去ることはない。

 

「いや、この場の半分くらい外国人なのですが。わたしに至っては南極人ですし」

「ほぼUMAだよね」

「人理修復が終わったら南極なすびとして売り出すか」

「じゃあ私が焼き上げて出荷するわ」

「え、もしかしてこの人たちってヤバい感じ?」

 

 武蔵は表情を引きつらせる。颯爽と登場した出鼻をくじくカウンター。これがボクシングだったらダウンを取られていたところだ。

 ダンテは苦い顔で武蔵に同情した。仲間を止める術は彼にはない。心の中で十字を切りながら成り行きを見守ることしかできなかった。

 すると、両手にずしりとした重さがのしかかる。反射的に握っていたそれを見ると、一振りの刀が信長に手渡されていた。ダンテは思わず目を細める。

 

「……ジャパニーズカタナ?」

「おう。道満もやられたことじゃ、あいつの呪いで動きが止まった東征軍にとどめを刺すぞ。手伝え」

「えええええ!? なんで私なんですか! 宗教上の理由でお断りしたいのですが! 〝剣を取る者は皆、剣によって滅びる〟と言われてますし」

「ならばわしはこう返そう。〝たとえ私が死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない〟とな。そもそもサーヴァントなぞ全員死人じゃ、消えて当然であろう。なに、喉を突けば素人でも殺れるわい」

 

 ぐ、とダンテは言い詰まる。信長が当時の大名の中では先進的な考えを持っていたことは知っていた。が、この切り返しは予想外だった。

 旧約聖書詩篇23篇4節。かつてダビデが神を牧者とする仲間たちへ述べた心構えだ。神がついているのだから、どんな場所で何をしようとも恐れることはない───信長のそれは十字架の教えからは離れた用法だが、ダンテが真に慄いたのはそこではなく。

 異国異教の考えであろうと取り込み利用する。彼女の恐ろしさとは武力でも知略でもなく、その姿勢にあることをダンテは知った。

 

「───ほう。誰がやられたと?」

 

 悩ましげに響く声。

 首から断たれた道満の頭が唇を動かし、かっと目を見開いていた。声帯を介さずしてどのように発音しているのか、その声は空気そのものを揺らしているかのようだ。

 陰陽師の頭と体がいくつもの咒となって解けていく。サーヴァントの消滅にも似た現象。しかしそれは、真逆の結果を術者にもたらした。

 呪文が寄り集まり、怪人の骨肉、そして服までをも形成する。

 その現象は再生というよりも、存在の巻き戻し。武蔵に斬られた首は傷跡ひとつ残っていない。それは自らを構成する肉体、精神、魂の情報までをも術式に置き換える秘術。

 答えに辿り着いたノアは吐き捨てるように言った。

 

生活続命(しょうかつぞくみょう)の法、か。不死性だけなら第三魔法にも近い魔術だ。どこでそんなもんを手に入れた?」

「これなるは拙僧が編み出した法術。貴方も見たでしょう、我が反魂の法を。であるならば、自らの魂魄を手中に収めることは容易にすぎるというもの」

 

 知恵の女神より授けられた反魂の法。他者の魂を呼び戻し、術者の魔力で肉体を用意することで英霊召喚よりも高性能な形で故人を再現できる。

 道満の生活続命の法は、言わばそれを流用したもの。魂への理解を深めることで、自身の全情報を術式に変換した魔法級の絶技であった。

 反魂の法をどこで手に入れたのか。ノアはその答えを確信することができず、ただ黄金のヤドリギを掌中に握り込んだ。

 道満は数枚の呪符を両手に用意してそれに応え、不敵に口角を吊り上げる。

 

「神殺しのヤドリギ。成程、確かにその宝具ならばこの命脈を絶つことも可能でしょう。それは遍く神と不死に終わりをもたらす……ただし、この身を貫くことが叶いますかな!!?」

「叶うに決まってんだろうが。おまえが動けなくなる程度にボコってからヤドリギをぶっ刺してやる」

「───貴方にそれができるとでも? ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド」

「……誰が自分でやるなんて言った?」

 

 その直後、二刀の剣士が突撃する。道満は咄嗟に咒を紡ぎ上げ、剣士へと放った。

 撃ち出した呪いは合計六つ。触れたが最期、魂をも蝕む呪詛の弾丸。音の速度を超えて飛来する六つの殺意を、武蔵はひとつ残らず叩き斬る。

 

「出会ってほんの少しだけど、私は彼らの味方よ、だから斬るわ! それに、なんだかその顔見てるとムカつくのよね!」

 

 そこに来るのが分かっていた、などというレベルではない。予定調和のように剣を振るい、刃に吸い込まれるかのように呪詛の弾丸が霧散する。それは戦いというよりも、互いの応手が定められた殺陣のように流麗だった。

 瞬きよりも速く、武蔵は敵を間合いに捉える。

 閃く剣刃。鮮血とともに道満の両腕が飛び、左剣の突きが眉間・心臓・鳩尾の正中線を貫いた。どぶり、と血が溢れ、陰陽師は苦痛を微塵も表さずに口唇を操った。

 

「来やれ、悪路王!!」

 

 道満は術師。希代の剣士たる宮本武蔵を相手取った接近戦では後手を踏むしかない。

 ではどうするか。呪術だろうと陰陽術だろうと、魔術師ならば考えることは同じ。自分が最強である必要はない。自分が倒せない敵がいるなら、倒せる手駒を用意するだけのことだ。

 影より顕現する漆黒の武者。悪路王は身の丈以上の大刀を振り上げる。刀身に込められた呪いは傷つけることはおろか、打ち合うのみで相手を冒す。

 しかし、その一撃が放たれることはなかった。

 銃声とともに鉛の弾丸が武者の頭を撃ち抜き、遅れて到達した炎の波がその全身を包み込む。

 次の瞬間、背後から叩きつけられた盾を道満は再生した両手で受け止めた。

 

「落ち武者や神様に任せずのこのこと出てきたのは失策でしたね。先輩はともかく、リーダーならこういうことは部下に任せてふんぞり返っていましたよ!!」

「あまり褒めるなキリエライト。敵に俺の有能さを露呈させてどうする。能ある鷹は爪を隠すんだよ」

「ノアさん、クズが露呈してます」

 

 という会話をよそに、マシュとジャンヌ、信長と武蔵は道満を取り囲む。如何に生活続命の法を得た不死身であろうと、神殺しのヤドリギはその不死こそを殺す。

 故に、道満の動きを止めさえすれば良い。

 だが、四方を囲まれてもなお彼の余裕は崩れなかった。

 

「ンンンンン、まさしく正論!! ですが、こうは考えなかったのですかな? 拙僧が姿を現す理由があったと!」

 

 暫時、彼以外の全ての人間が思考を巡らせる。

 道満の言葉に応えるように、雲間を裂いて金の葦船が降臨する。アメノトリフネと呼ばれる天の御使いから二条の光が射し、渡辺綱と源頼光をその裡に取り込んだ。

 アメノトリフネの背後の空間にノイズが走る。金色の船体が黒いさざめきに呑まれる寸前、小さな人影が葦の翼からこぼれ落ちた。

 一羽の雉を伴った弓手。少年は身の丈に合わぬ大弓に矢を番え、素早く射掛ける。

 山をも削り飛ばす豪風を纏った一矢。それが狙うのはただひとつ、蘆屋道満の額だった。

 豪風が生み出す真空の刃から逃れるため、包囲を築いていた四人は即座に退避する。対して道満は前方に呪符を展開し、真っ向から射撃を迎え撃つ。

 即席の結界。単純な攻撃力で言えば呪符の壁など障子紙のように貫いてみせたはずの矢は果たして、結界に触れることすらなく明後日の方向へと軌道を変えた。

 少年───アメノワカヒコは嘲りの色を顔面に塗りたくり、道満を中空より見下ろす。

 

「矢避けの呪術ですか。わざわざそんな対策をしてくるなんて、相当ビビってます? 流石、晴明とかいう陰陽師に呪詛を見破られて都から逃げただけはありますね」

「おや、そこな小娘に半身を消し飛ばされた不覚者に揶揄されるとは思いもよりませんでしたねぇ。一度神に逆らった貴方が今や神の使いとは……滑稽なザマを晒すのはやめていただきたい。腹が捩れますゆえ」

「滑稽? それはこっちの台詞ですが。そちらこそどこぞの神に唆されているんじゃないですか。自分を棚に上げるのは小物の常套手段ですよ」

「フ、東征軍の神でなくサーヴァントとして召喚された惨めな下僕の貴方に何を言われようとも響きませぬ。その様子だと分霊をも与えられているのでしょう?」

「いきなり出てきてなに喧嘩してんだこいつら」

「やるなら別のところでやってもらえません?」

 

 並々ならぬ因縁を覗かせる道満とアメノワカヒコ。ノアと立香は眉間に皺を寄せて鋭い言葉の刃を彼らに突き立てた。

 道満が姿を現した理由。それはまさしく、アメノワカヒコを誘き出すためだったのだろう。二人の間に何があったのか、ノアたちに知る由はない。

 アメノワカヒコは立香の顔を一瞥する。磨かれた水晶を思わせる瞳と目が合い、底知れぬ不穏さが彼女の胸中に湧き上がった。

 少年は道満と立香の双方から目を外し、言い捨てる。

 

「テメエみてえなバグは消せとの高天原のお達しだ。───もう一度殺してやるよ、アホ陰陽師」

「良いでしょう。まずは貴方の態度を踏み躙らせていただきます。───人間ひとりも仕留められぬマヌケ神よ」

 

 ノアたちを置き去りに、アメノワカヒコと道満は激突する。上空より降り注ぐ矢玉の雨と、地上から飛び立つ無数の呪詛。二人の目に他の人間は映っていない。ただ、目の前の敵を手にかけることだけを考えて戦っていた。

 敵と敵の敵が殺し合うというのなら好都合。横槍を入れれば彼らを倒せるかもしれないが、ここには道満の呪いを受けた仲間がいる。

 相手の戦力を減らすことよりも、自分たちの戦力を維持する。ノアはEチームのリーダーとしてその決断に至り、指示を飛ばす。

 

「倒れてるやつらを確保して一旦退避するぞ。あいつの呪いは伊達じゃねえ。今はまだ大した支障はないが、放っとけば間違いなく死ぬ」

「安全なところで治療するんですね。それじゃあ、力持ちのジャンヌにみんなを運んでもらいましょう」

「ええ、私の筋力はAランクだもの。どこぞのメイン盾や貧弱詩人とは格が違います」

「マシュさんはともかく、私と比較したらほとんどの英霊が超一流サーヴァントですけどねえ」

 

 などと言いつつ、彼らは呪いの影響で昏倒したサーヴァントたちを引きずって戦地を離れる。目指すは清姫の炎によって絶賛炎上中の天御柱。スサノオに柱の魔力を吸収してもらい、力を取り戻すことも視野に入れた行動だ。

 その最中、信長は顎に手を当てて眉根を寄せ、うめき声とも唸り声ともつかない声を喉の奥から捻り出した。しかもその横では、先程から黙りこくっていたスサノオも似たような険しい表情をしている。

 シンクロ競技なら文句なしの満点を取れるであろう光景。立香は何の気無しに問い掛けた。

 

「ど、どうしたんですか?」

 

 信長は面を上げて半ば独り言のように、

 

「おかしいのう。東征軍はなぜ、京を襲った時に戦力を全ツッパしなかったのか? ツヌグイとクラミツハが同時に攻めてくるだけでもわしらには悪夢じゃ」

「それは、私たちを侮ってたとか? ツヌグイなんてガッツリ人間のこと見下してましたよ」

「ま、あんな態度で空の果てまで殴り飛ばされてたら世話ないわね」

 

 立香の返答にジャンヌが忸怩たる感想を付け加えた。とはいえ、立香の説明は納得がいくものではなかったのか、信長は再び考え込んでしまう。

 思えば、確かに引っかかるところはある。東征軍にとって先日の戦いは決勝戦になり得たはずだ。大和までを占領すれば勝てるのだから、全戦力を投入して反攻勢力を叩き潰してしまえば良かった。

 そして、今日の戦いも同じだ。出雲大社の天御柱は前哨基地であるとともに、東征軍の勢力圏を伸ばす霊的兵器でもあった。だというのに、ここでも敵は戦力を分散させていた。アメノトリフネを使えば援軍など容易く配置できるはずなのに、である。

 普段1ミリも使用していない脳をフル稼働させて、立香も思考を巡らせた。ぷすぷすと思考回路をショートさせる彼女を尻目に、ノアは不満げに鼻を鳴らす。

 

「神なんて連中は大抵人間にマウントを取るのがデフォだろ。多神教も一神教もな。詳しくは旧約聖書を読め」

「旧約と新約の神を同質な存在として語るのは、私としては疑問が残りますがねえ。ただ、多神教の神様は自然の化身でもあるので人間に辛辣な方は多いですね」

「はい。ギリシャ神話が良い例です。アルテミスさんに軽いノリでトライデントを発射されたことからしても明白でしょう」

 

 神と人間では、同じ人間に対する接し方に違いがあるのは当然だ。前者は後者に絶対的な存在として信仰されていた者なのだから。

 神の傲慢さ故に東征軍はこの状況を招いたのか。

 ───否。信長は論理を数段飛ばしで答えに至る。

 

「…………奴ら、わしらを誘い出しておるな」

 

 それは武将としての勘がもたらした天佑。

 その呟きを聞いたスサノオは、ただ拳を握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 道満とアメノワカヒコの争いから退避した黄泉軍は天御柱(あめのみはしら)にて、別行動していた清姫と大江山の鬼、新選組の隊士たちと合流した。

 ごうごうと燃え盛る天御柱の麓でノアは呪いに冒されたサーヴァントたちの治療を行った。道満の呪術に呪詛返しのルーンが効くことは常夏の島で実証済み。呪いを返された道満がアメノワカヒコと如何に戦うのかは定かではないが、

 

「ククク、あのアホ陰陽師のツラが見れねえのは残念だ。呪い返しで悶絶するあいつの顔は最高だったからなァ! ゲヒャハハハハ!!」

「あれ? 儂らって世界の敵だったっけ? こんなゲスい顔する味方いたっけ?」

「おいおい、神のくせに知らねえのか? 人間の世界で正義を語るやつは大体悪でも正義でもないバケモノなんだよ」

「『いよいよ悪役みたいになってるけど!?』」

 

 かくして、ゲスなマスターにより、期せずしてアメノワカヒコが援護されることになった。道満ほどの術者ならば誰が下手人か分かることだろうが、無論手出しできるはずもなく。

 治療はスキルになるほどの病弱さを抱えていた沖田から行われた。

 彼女が生きたほんの少し後の時代、結核は日本の国民病と称される重大な不治の病だった。当時の人々が結核をどれほど恐れていたかは想像に難くない。

 沖田という英霊にまで刻みつけられたそれを治すことはノアにもできなかった。無属性魔術で健康な状態の肺と入れ替える案もあったが、沖田の必死の抵抗により案は案のまま立ち消えした。ここにどこぞの小陸軍省な婦長や蛇遣いの医神が居れば、狂気の開胸手術が実施されていただろう。

 そんな訳で、最初に復帰したのも沖田だった。彼女の肌は普段より青白く、頬はげっそりとやつれていた。それが身体的理由だけでないことは明らかだ。

 心身ともに疲弊し、手持ち無沙汰の沖田は信長と武蔵と並んで、天まで伸びるキャンプファイヤーを眺めていた。

 

「次は土方か。左腕サイコガンになるか、全身赤タイツになるか選べ」

「普通に治せェェェ!! どっち選んでも結局コブラじゃねえか! 後者に至っては着替えただけだろうが!!」

 

 ……背後で行われている惨劇は無視するとして。

 呆けた顔で盛大な焚き火を眺める信長はほう、と息を吐く。

 

「いやぁ〜、やっぱ火を見ると落ち着くのう。延暦寺の生臭坊主どもを焼いたあの日を思い出すわ」

 

 と言って、彼女はしみじみと茶を嗜んでいた。信長家臣団の間で一大ムーブメントとなった、利休仕込みの茶の湯である。もっとも、ほのぼのとした風情は発言の不穏さによって打ち消されていたが。

 それを聞いていた沖田と武蔵は平坦な調子で言った。

 

「「本能寺で焼かれたのに?」」

「おうそれはライン越えじゃぞ貴様らァ!! あの金柑頭の話はするな、わしは今めちゃくちゃ機嫌が悪いんじゃ!!」

「情緒がジェットコースターすぎません?」

「精神統一には瞑想がおすすめよ?」

「ジェットコースターに乗せたのはお前らじゃろうが!!」

 

 そんなこんなで、出雲大社での戦いは終わった。これ以来、信長は火を見るたびに光秀を思い出すようになったという。この戦いの代償は甚だ大きかったと言えよう。

 そこから四日後、黄泉軍は現代で言う島根県出雲地域を抜け、石見地域の大田市に移動していた。かの有名な石見銀山のある土地だ。

 石見銀山は一時期、世界の銀産出量の三分の一を占めていた宝の山だった。その名は大航海時代、ヨーロッパの船乗りたちにも知られていた。

 石見銀山の銀は江戸時代でほとんど掘り尽くされてしまったが、ここは特異点。時代だけが進むという異常な特性により、手付かずの銀山には大量の銀が埋まっているに違いない。

 その情報に食いついた人間は意外に多かった。中でも特に気合いが入っていたのは、案の定金の亡者であるEチームマスターコンビであった。

 二人は麦わら帽子に薄手の作業着という、鉱山をナメているとしか思えない格好で待機組に告げた。

 

「俺たちは石見銀山の銀という銀を取り尽くしてくる。後で分け前を要求しても一厘足りとも分けてやらねえからな」

「これはガチャを引いて引いて引きまくるための千載一遇の好機───ジャンヌ、私はここで一生分のガチャ資金を稼ぐことに決めたから!」

「なんて虚しい人生───!!」

 

 ということで、鉱山組は出掛けていってしまった。リースとのヤンデレ恋愛話に花を咲かせようとしていた清姫や日本の風景を糧に詩を綴ろうとしていたダンテも、金に目が眩んだ茨木童子に引きずられていってしまう。

 ここ数日、彼らが根城にしていたのは物部神社という場所だった。その名の通り、物部氏の祖神を祀った神社である。彼らがそんな場所を間借りすることができたのは、スサノオの力だった。

 

〝物部神社の主祭神はウマシマジ。ウマシマジの親はニギハヤヒで、ニギハヤヒの親はアメノオシホミミ。アメノオシホミミは儂が産んで姉ちゃんが養子にした神じゃ。だったらもう儂のものみたいなもんじゃね?〟

 

 ジャイアンもひっくり返る暴論だった。

 史実と地続きになっている構造で書かれた記紀神話において、神々の血統の重要さは計り知れない。なぜなら、それこそが壬申の乱に勝利した権力者の正統性を保障するものであったからだ。

 そんなものを持ち出されては、物部神社の一同も言い返せるはずもなかった。ジャンヌの脳内には神主の笑っているような泣いているような表情が未だにこびりついていた。今回一番不憫なのは間違いなく彼だろう。

 物部神社の境内前。広く場所を取られた庭では、数十もの巻藁が林立していた。その中心に佇むのは沖田と武蔵。二人はそれぞれ一本の剣を差し、腰を落とす。

 閉じていた両目が眼光を放ち、二人は交差する。その数秒後、周囲の巻藁が等しく真っ二つに断たれ、ごろりと地面に転がった。

 彼女たちの手に剣は握られていなかった。抜刀し、納める。その動作を突き詰めた神速の抜き打ちは斬撃の視認を置き去りにしたのだ。

 そんな技を見せられたペレアスとリースは両手を打ち鳴らして褒め称える。

 

「抜く手も見せぬ居合斬り、お見事ですわ。お見逸れいたしました」

「こんな使い手はキャメロットでもほとんどいなかったぞ。基本的に剣というものを勘違いした奴らばっかりだったからな」

 

 妙に影があるペレアスの発言は置いといて、沖田と武蔵は照れくさそうに頬を掻く。

 

「私の本領は突きなんですけどね。まあ、褒められるのは悪い気がしないです!」

「ええ、武芸上覧なんてどこも堅苦しい雰囲気だったから、気が軽くて助かるわ」

「まさか私は、宮本武蔵が女性だとは思いもしませんでしたけどね」

「沖田が言えたことじゃないじゃろ」

「お前が言えたことでもねえよ」

 

 変なコンボが決まっていた。正確には武蔵だけは事情が違うのだが、シモンの到来を警戒した彼女は口をつぐんでいた。

 武芸上覧とは誤解を恐れずに言ってしまえば権力者の娯楽とご機嫌取りである。穢れとされていた血を流すことなどもってのほか、剣を抜く前も抜いた後も常に礼儀を求められる。隻腕の剣士と盲目の剣士がやったような殺し合いは無いに等しい。

 

「武芸上覧……騎士で言う馬上槍試合か。オレたちのは祭りみたいな感じだったけどな。エタードの時も────」

「あなた様?」

「……い、いや、この国の試合もそう悪くないんじゃねえか!? 少なくとも痴情のもつれに発展したりすることはないだろ!? ハハッ、ハハハハハッ!!」

「尻に敷かれてんのか?」

 

 土方は目の形をのっぺりさせて言った。ペレアスは尻に敷かれているのではない、ただトラウマの数が人より何倍も多く、嫁に振り回されているだけなのだ。

 ジャンヌはいくつか用意されていた打刀の一振りを掴むと、磨かれた鏡面のような刀身を鞘から引き抜く。数度軽く振り回し、得心する。

 

「細身な割に重さはあるのね。軽いものとばかり思っていたから、意外です」

「鋼を何層も折り返して造るから、当然それなりの重さになる訳じゃ。モノにもよるがの」

「へえ、見かけによらないってこと。にしても、こんなに細かったら簡単に折れるんじゃないの?」

「受け方を間違えたらすぐに折れますよ。池田屋の時なんて、永倉さんでさえ剣を折られましたから。まああの人すぐに敵の得物奪って戦ってたんですけど」

 

 日本刀は取り扱いを誤れば脆く折れてしまう武器だった。池田屋事件は圧倒的人数不利の状況から始まったため、刀を酷使するのも必然だったのだろう。

 ペレアスは感心したように頷いた。

 

「こっちの剣とは全く違うんだな。刀身を掴んで鍔の部分でぶっ叩くとかできなそうだ」

「どんな使い方しとるんじゃ。刀でそんなことやってたらしばき倒すわ」

「鈍器と間違えてんのか?」

「せ、西洋剣術のハーフソードと呼ばれる構えですわ。籠手を着けていれば手を切ることもありませんから」

 

 リースは冷や汗を浮かべて補足した。柄ではなく刃を掴む奇異な構えだが、取り回しの易しさから防御に優れた型でもある。

 異国の剣術にも興味があるのか、武蔵はきらきらと瞳を輝かせた。

 

「剣あるところに歴史あり。戦法ひとつ取っても先人たちの積み重ねが生きている……くうーっ! ロマン、ロマンを感じるわ!」

「『え、呼びました?』」

「誰も呼んでないわっ! すっこんでなさい!」

「『ぼ、ボクもたまにはボケたかっただけなのに……』」

 

 涙目になって退出するロマン。良い歳してポニーテールにしている男性の泣き顔はなかなかに無様だった。気を取り直して。ジャンヌは意地の悪い笑みを形作り、ペレアスを顎で指す。

 

「ところで、ここにしょっちゅう剣を折ってる騎士がいるんですけど」

 

 はぐれ騎士はぎくりと揺れる。彼は取り乱した様子で、

 

「ふ、普通の剣じゃあオレの技にはついてこれなかったって言うかァ!? 西洋の甲冑は関節にも鎖帷子あるから強引に斬らないといけないしィ!? そもそも剣なんて折れて当然の消耗品だからな!!」

「おお、随分とペラが回るのう。サルを思い出すわ」

「つーか折れないように戦うもんだろ。消耗品であることを盾にしてんじゃねえ」

「直すのも新しく拵えるのもお金かかっちゃうのよね。やっぱり騎士様ともなるとお金持ちなのかぁ……」

 

 ペレアスを見る周囲の目の色がにわかに変わる。彼とて円卓の騎士で、王の名のもとに自分の領地を持っていた人物だ。清貧を旨とするキリスト教徒といえど、困窮した生活は送っていなかっただろう。

 脳裏をよぎる、生前の記憶。ペレアスはランスロットの部隊と連携して行動を取っていた時、同じような話になったことを思い出した。

 

〝剣? 折れる? ハハッ、何を言っているのですかペレアス。アロンダイトは不壊の剣、折れることなどありえません。貴方も聖剣を持てば分かります。というか普通に使ってれば折れないと思いますが。折れるんですか? あ、折れるんですね。新しい知見を得ることができました。感謝いたします、ペレアス卿〟

 

 その後、とりあえず馬から蹴り落としたことは言うまでもない。喧嘩の匂いを嗅ぎつけてラモラックがやってきたのは予想外だったが。

 相変わらず過去のトラウマに弱すぎるペレアスは青褪めた顔面を隠すようにうなだれた。

 

「剣からビーム撃てる連中にオレの苦労が分かってたまるか……!! 結局ミミングス使っても多少派手になっただけだしな……!!」

「……アンタの旦那でしょ、早くなんとかしなさいよ」

「こうなったペレアス様は止まりません。そんなところも愛おしいのですが」

「流れるように惚気けるのやめてくれます?」

 

 ペレアスを見る目に同情の色が混ざり始め、武蔵は呟いた。

 

「……剣からビーム───?」

 

 まさか武蔵も剣術を勘違いした人種なのか。ペレアスの疑念が表出するより速く、彼女は右の人差し指をうねうねと動かして、

 

「武と云うよりは舞、舞踊ね。しかし何故剣からビームを……?」

「飛び道具が欲しいなら弓なり銃なりを持ってればええじゃろ」

「努力の方向性間違ってません?」

「大体剣から光線出してどうすんだ。源為朝みてえに船でも堕とすのか?」

 

 ペレアスの期待は良い意味で裏切られた。召喚されてからこの方、ノアに散々厭味ったらしく愚痴を吐かれていた記憶が浄化されていく。

 一転、彼の表情は明るくなる。リースとジャンヌに振り向いた笑みは晴れやかだった。

 

「もうこいつらが円卓の騎士で良いんじゃねえか───!?」

「アホなの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃、石見銀山。

 魔術の灯に照らされた坑道は、むせ返るような熱気と熱狂に包まれていた。

 

「掘れえええええ!!! 掘った分だけ俺たちの財産が増えるぞ! 手が千切れたら足で、足が折れたら齧りついてでも目の前の岩を砕け!!」

「リーダー、まずいです! 目の前の岩盤が全部ガチャを回す石に見えてきました! もしかしてここが天国…………!!?」

「しっかりしてください先輩! それはただのクズ石です! 一銭にもならないガラクタです! シルバーラッシュに乗り遅れますよ!!」

「鬼と言えば金銀財宝! 人間どもには銀粒一粒もたまるかァ!! この戦に勝利した暁にはここを新たな大江山としてくれるわ!!」

フォウフォフォウ(もうだめだこいつら)

 

 猛然と砕けていく岩盤。雑然と盛られていく土。サーヴァント二体を擁した金の亡者たちは恐るべきスピードで銀を掘り出していた。

 やはり目を見張るべきはマシュと茨木童子。ツルハシを使うことすら煩わしい二人はかたや盾で、かたや素手で堅い岩壁を豆腐のように粉砕していく。

 石見銀山の内部を虫食いにするまで彼らは止まらないだろう。銀の魔力はかくも恐ろしい。場合によっては銀塊争奪戦が起きてもおかしくはなかった。

 スサノオと清姫、ダンテは放っておけばどこまでも突き進んでいきそうな連中を後ろから眺める。

 

「……良いのですかスサノオ様。このままだとトンネルを開通させかねない勢いですわよ」

「まあ良えじゃろ。血気盛んな奴らにとやかく言っても火に油を注ぐだけじゃ。ソースは儂」

「説得力がありすぎますねえ……確か高天原で悪行を犯したんでしたっけ」

 

 ダンテは額から流れる変な汗をハンカチで拭いた。

 スサノオはこくりと頷く。

 

「うむ。姉ちゃんの田んぼを荒らしたり、それを印立ててパクったり、神殿にうんこ撒き散らしたり……それで姉ちゃんが拗ねて天岩戸(あめのいわと)に引き篭もったんじゃが」

「やってることが小学生以下ですわ! 日本最古のヤンキーであらせられまして!?」

「完全に末っ子気質ですねえ。東征軍と戦うより先にお姉さんに謝った方が良いのでは?」

「わ、儂だって反省しとるわい! それに謝ろうと思っても高天原から追放されてる上に連絡しても着拒されとったんじゃ!」

フォウフォウ(ケータイねえだろ)

 

 ちなみに、その他にもスサノオはここでは言えないような狼藉をやらかしている。さらに彼は追放される際に高天原での財産全てを没収され、髭を剃られ手足の爪を抜かれた状態で地上に落とされている。命を取られなかっただけマシだろう。

 

「ですが、追放の後に八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を倒していますよねえ。何か心境の変化があったので?」

 

 それとなく紡いだ詩人の言葉に、スサノオはただ視線を返した。

 その瞳は、凪いだ海原の静謐を宿していた。

 返答に窮しているのではない。

 昔の記憶を探っているのでもない。

 返すべき言葉は決まっている。記憶など探らずとも蘇ってくる。その全てを承知した上で、スサノオは言葉を使うという選択をしなかったのだ。

 激しい掘削音を背景に、会話を織り成していた声は止まる。どちらともなく口を開きかけたその瞬間、前方から怒号が飛んでくる。

 

「おまえら、雑談してる暇があったら手を動かせ!! 俺たちがこの特異点で何しに来たのか分かってんのか!?」

「稼ぐためとでも言いたげですが、私たちは聖杯を手に入れに来たんですよ!?」

「この世の大抵のものは金で手に入る。だったら金と聖杯はほぼ同じだろうが」

「う〜む。この男、屁理屈を言わせたら天下一品じゃな」

「感心してないで言い返してくれませんかねえ!?」

 

 ダンテは思わずスサノオに縋った。少年期に幾度も神学論争を繰り返した彼でも、ノアは相手が悪かった。常人の理屈は狂人には通用しないのだ。

 だが、スサノオは乱雑に転がされていたツルハシを拾うと、ノアたちのもとへ歩いていく。

 

「天御柱の魔力を取り込んで少しは力が戻ったからの。ここいらでいっちょ神様らしく強いところを見せてやろうではないか!」

 

 道具を肩に担ぎ、ドンと胸を張る。

 見た目は子どもだろうと、全身より発する覇気はまさしく神のそれだ。今までとは打って変わって頼もしい様子に、立香たちは感嘆の声をあげた。

 

「ついに見られるんですね、ヤマタノオロチを倒したスサノオさんの力が!」

「登場してからこっち、株を下げ続けていましたが、なんだかんだ日本ではトップクラスに人気な神様です。きっと上手くやってくれることでしょう」

「情けない動きをするようなら吾が旗頭の地位まで乗っ取ってやるからな!」

 

 茨木童子は限りなく不遜な言葉を吐いた。が、スサノオはひたすら余裕に微笑んで、

 

「ふふん、そう言われてはガチらぬ訳にはいかぬな。心して見るが良い! 荒ぶるスサノオの飄風を────ッ!!」

 

 さながら野球の打者のように構え、勢い良く振り抜く。

 ごう、と狭い坑道内を暴風が跳ね回る。極大の嵐をひとつに固めて打ち出したような一撃。それはあっさりと分厚い岩石の壁を打ち破り、銀山にトンネルを作り出した。

 神の名に違わぬ威力であることは疑いようもない。これでまだまだ力は戻っていないというのだから、スサノオの凄まじさがうかがえる。

 ただし。

 

「……あっ。やべっ」

 

 通常山の中を掘り進める際は、崩落を防ぐために道を補強しながら作業を行わなければいけない訳で。

 ズシン、と低く重たい音を立てて周囲の壁が振動する。ぱらぱらと天井からこぶし大の土塊が降り注ぎ、揺れは次第に大きくなっていく。

 そこで、ようやく事態を把握したノアたちは皆一様に表情を歪めた。ノアは真っ先にスサノオに駆け寄ると、その胸ぐらを掴み上げる。

 

「オイオイオイ、誰がこの穴貫通させろなんて言った!? 突貫工事にも程があんだろ、開発がガバガバすぎんだよ! 俺たちが逝く羽目になってんだろうがァァ!!」

「うごご……ちょ、こんな命の瀬戸際に下ネタはやめい! いや、こんな時だからこそかもしれんけど!」

「こんな時に下品な会話は慎んでくださいませ! 逃げないと全員生き埋めですわよ!?」

「あれ……こんなにガチャ石が降り注いでる…………百連でも二百連でも引き放題だぁ! アッハハハハハハ!!!」

「あああああ! ただでさえポンコツな先輩の頭が完全にぶっ壊れました!!」

 

 地獄の釜の底でも見れないような惨状が広がる。一部始終をモニター越しに眺めていたロマンは全てを諦めた顔で、胃薬を混ぜたコーヒーを啜るのだった。

 人はパニック状態になると正常な判断ができないものだが、生存本能の命じるままに彼らは出口へ向かって全力疾走した。発狂した立香はマシュが背負っている。

 坑道の外へ走る一同の姿はまるで崩落する魔王城から脱出する勇者パーティだった。面子が勇者どころか新たな魔王を生み出しかねないことを除けば。

 

「ヒィィィィ!! 地獄の森で狼に追いかけられた時よりキツいんですが!! 誰か助けてくださいィィ!!」

 

 カルデア文句なしの最弱サーヴァント、ダンテが盛大に出遅れていた。サーヴァントはともかく、ノアの走力にも負ける体たらくである。地獄の森で追い詰められた時は師と崇めるウェルギリウスと運命の出会いを果たすが、生憎ここに彼はいない。

 空中を駆ける赤い右手がダンテの服の胸元を握り、一息に牽引する。坑道が土砂で埋め尽くされる寸前、ダンテの体は外へと引っ張り出されていた。

 赤い右手はひとりでに茨木童子の右腕に戻る。まるで昭和の巨大ロボットである。

 ダンテは地面に四つん這いになり、荒々しく肩を上下させた。

 

「し、死ぬかと思いました……助けていただき感謝いたします、茨木童子さん」

「ふ、吾は東征軍の大将だからな! 配下を助けるのは当然だ! もっと感謝するがいい!!」

「神様救世主様茨木童子様!! 心よりの謝意をあなたに!!」

「誇りとかないんですか?」

 

 言いながら、清姫はぱたぱたと扇子でダンテの顔を扇いだ。マシュに背負われていた立香ははたと意識を取り戻し、辺りを見回す。

 

「……ここはどこ!? 私たちが集めた銀は!?」

「残念ながら、土砂に埋もれてしまいました。その前にもスサノオさんのゴッドパワーで吹き飛ばされたので回収は困難でしょう」

「これまでの努力は水の泡ってこと!? 聖杯で時間を巻き戻せたら……!!」

「本末転倒の極みでは? 埋蔵金で造った機械で埋蔵金を掘るみたいな話ですわ」

 

 そもそも、と清姫は前置きする。彼女が目線を投げた先、先程まで掘り進めていた坑道は埋没し、岩石が流れ出していた。

 

「この惨状を関係各所にどう説明するか……」

「スサノオがやったのだからそう言えば良いであろう。何を心配することがある」

「物部神社の人に怒られる、ということですね。お膝元でこんな狼藉を働いた訳ですから、勝手に唐揚げにレモンをかけられた時くらいキレると思われます」

「それはもう、誠心誠意謝るしか……」

 

 と、ダンテの真っ当な意見をノアの提案が遮る。

 

「道満に罪をなすりつけるぞ」

 

 一同は目を見張る。当事者でない赤の他人に押し付ける下衆の手法である。スサノオとダンテは口の端をひくつかせた。

 

「張本人の儂が言うのもなんじゃが……」

「さすがにそれは……」

 

 それに対して女子たちは、

 

「「「「じゃあ、それで」」」」

「ええ!? 良いんですか!? こんなの完全に悪役ムーブですよ! しかも結構小物がやるやつですよ!?」

「ダンテさん、よく思い返してみてください。あの人の言動と顔を」

 

 立香に促され、渋々記憶のページをめくる。

 

〝ンンンンンン!! これぞ! まさしく!! 絶景!!!〟

〝おや、そこな小娘に半身を消し飛ばされた不覚者に揶揄されるとは思いもよりませんでしたねぇ。一度神に逆らった貴方が今や神の使いとは……滑稽なザマを晒すのはやめていただきたい。腹が捩れますゆえ〟

〝フ、東征軍の神でなくサーヴァントとして召喚された惨めな下僕の貴方に何を言われようとも響きませぬ。その様子だと分霊をも与えられているのでしょう?〟

 

 ダンテは口元を手で擦りながら、

 

「………………まあ、確かに」

 

 なんか、そういうことになった。

 身の振り方を決め、一行は物部神社に帰ることになった。言い訳は考えたものの、努力が無に帰したことでその足取りは果てしなく重い。中でもガチャ天国から現実に引き戻された立香の落ち込みようは群を抜いている。

 幸せな夢を見た朝のような喪失感。酔ってもいないのにふらついた動きをする彼女に話しかけられる者は誰ひとりとしていない。

 帰路の途上。きゅるるるる、と茨木童子の腹の虫が鳴く。彼女は恥ずかしがるでもなく、肩を深く落とした。

 

「そういえば銀の採掘を始めてからこっち、何も食べていなかったな……しかも銀も無くなるし、無一文だし」

「それでしたら私、軽食を持ってきていたのですが」

 

 と言って、ダンテは懐から布の小包を手に取る。

 上面の結び目が解かれ、素朴な甘い香りがほのかに漂う。布に包まれていたのはドライフルーツやナッツが練り込まれた細長い形状の焼き菓子だった。

 意外と甘い物には目がないのか、茨木童子は瞳をきらめかせて覗き込む。

 

「おおお……!! ダンテ、これは何という食べ物なのだ!?」

「カントゥッチ、もしくはビスコッティという名のお菓子です。地元のトスカーナ発祥で、ちょうど私が生きていた時代に生まれたものですね。本当はお茶と一緒にいただくのが良いのですが」

「まさか自分で作ったのか? マメな男じゃのう」

「宝具が本体にしてはやるじゃねえか」

「ノアさん? 普通に褒められないんですか?」

 

 四方八方から手が伸び、ビスコッティを摘んでいく。クッキー生地のザクザクとした食感、ドライフルーツの自然で優しい甘味、どこをとってもそつがない絶品だった。

 茨木童子は両頬をリスのように膨らませて、ビスコッティを咀嚼する。ダンテは微笑をたたえて語る。

 

「茨木童子さん、人間も捨てたものではないでしょう?」

 

 鬼の少女はふいと顔を背けて、

 

「…………こういうものを生み出す腕に関しては認めてやらぬでもない」

「良いにしろ悪いにしろ、生み出すことにかけては人の子は一流じゃからな」

「スサノオさんも含め、日本の神様はしょっちゅう生み出しているとわたしは思いますが」

「儂らが用意できるのは実物だけじゃ。万人に再現できぬその場限りのものにすぎぬよ。その点、こういう料理はレシピと材料があれば誰でも作れるじゃろ?」

 

 マシュは得心して頷いた。

 神は人智を超えた道具を創り、何らかの技術や文化の祖となることはあるが、具体的な方式や手法を伝えてくれることは少ない。あくまで概念を生み出すだけで、発展させるのは人間の手に頼らざるを得ないのだ。

 ダンテはスサノオの言を補足する。

 

「スサノオさんは日本最古の和歌を歌った神様ですよねえ。一介の詩人として私、尊敬しております」

「このアホをか?」

「おい」

「ま、まあそれとこれとは別です。私の師匠も男色の罪で捕まりましたが、それで何が変わる訳でもないですから」

「愛は何者にも止められないのですわ」

 

 清姫が暗い目で言い切ったところで、赤いコートの端から手元の布へと小さな粒が転がり落ちた。

 儚げにきらめく白い粒。人差し指の先に乗せてもなお小さな銀の欠片だった。立香とノアはそれを見て、盛大なため息をつく。

 

「……ガチャ一回分にもなりませんね」

「精々駄菓子一個買えるくらいか?」

「そうですねえ。では、これは茨木童子さんに」

「……良いのか?」

 

 ダンテは優しく首肯して、

 

「もちろんです。私には必要のないものですから。それに、こうもあります。ルカによる福音書6章38節、」

 

 続く言葉を、一行の誰でもない声が引き取る。

 

「───〝与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう〟……良い言葉ですね」

 

 柔和な男の声音。全員が後ろを振り返ると、赤い衣にカソックを着た男が微かに笑っていた。漂白されたような白髪と褐色の肌に服装も相まって、日本人離れした風貌だ。

 ノアは両腕にドラウプニルを出現させ、神父風の男を睨む。

 

「この時代の日本にキリスト教の神父がいるはずがねえ。名前を言え」

「シロウ・コトミネ───というのは捨てた名でしたね。……私は天草四郎時貞と申します」

 

 天草四郎時貞。島原の乱を先導し、数々の奇跡を起こしたと言われる少年だ。人を人とも思わぬ重税と暴政を強いていた時の藩主に反旗を翻した英雄でもある。

 スサノオは虫眼鏡越しに覗くように天草四郎を見透かした。

 

「分霊は憑いておらぬな。東征軍のサーヴァントではないようじゃが」

「私は幕府に逆らった罪人ですから。化外の地を侵略せしめんとする東征軍───権力の象徴とは水が合いませんよ」

「じゃろうな。お主はむしろこちら側よ。して、用件は?」

 

 天草は用意してきたかのように言の葉を継ぐ。

 

「貴方がたが次に攻める天御柱は長門国の須佐。地名から分かる通り、スサノオ、貴方にちなんだ場所です。そこにランドマークを置くことで貴方を一層弱体化させている」

「大陸の方に出掛けるときに名付けた場所じゃからな。そのせいで儂の海神としての力は未だに戻っておらぬ」

「黄泉軍でツヌグイに敵うのは貴方だけだ。その貴方も多少力を取り戻したとはいえ、父より与えられた海神の側面を奪われている……そこで、東征軍に勝つための策を献上したく存じます」

 

 それはつまり、仲間になるも同然だった。

 願ってもない展開だ。同時に、あまりに黄泉軍にとって都合が良い。一同が警戒心を高まらせる中、茨木童子が腰に手を当てて仁王立ちする。

 

「話は物部神社で聞く! 少しでも不審な動きをしたら刻んで犬のエサにしてやるゆえ、覚悟しろ!!」

「初めて大将らしい言動をしましたわね……」

 

 で。

 物部神社にて銀山採掘組と待機組は合流した。戦果があまりに少なすぎることに関してツッコむ人間はいなかった。

 天草にサーヴァントたちが自己紹介している最中、

 

「邪竜ファヴニールを倒した円卓の騎士ペレアスだ。よろしくな」

「ジャンヌ・ダルク。あの聖女サマとは別物だから、間違えたら燃やすわ」

 

 これを聞くと天草は顔面を蒼白にして頭を抱えた。

 

「邪竜……ジャンヌ・ダルク……グゥッ!! 頭が!!」

「いきなりどうしたんじゃこいつ。わしが長政に裏切られた時みたいな顔しとるけど」

「少し、いえ、かなり色々あったもので……気にしないでください」

 

 天草に対する目が冷たくなる。別世界の記憶でも持っているのか、その顔貌は混沌とした感情に塗れている。

 立香は言いづらそうに問う。

 

「それで、天草さんの策っていうのはどんな感じなんですか?」

 

 天草は深呼吸して、心に平静を取り戻す。閉じ、開いた眼の色は清廉さに満ちていた。

 

「───『黄泉(よもつ)落とし』。スサノオとツヌグイを冥界に落とします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アメノワカヒコと蘆屋道満の戦いは三日三晩続いた。

 共に死ねぬ体、決着がつかぬのは必然であった。幾度も殺し殺され、滅し滅された。その戦いは凄絶というよりは不毛。互いの血肉を削り合う、生と死の寸劇だ。

 四度目の朝日を見た時、両者はどちらともなく戦いを切り上げた。戦士としての勘か、霊的な啓示か───次なる戦いに備えるため、彼らは溜飲を下げたのである。

 弓を携えた少年神は肉混じりの血を吐き出し、地面に倒れた。

 道満の呪詛に魂が軋む。悪路王の刀剣に込められた憎悪が血を沸騰させる。天津甕星(アマツミカボシ)の拳に潰された骨肉が泡立つ。

 彼はもはや、人の形をしていなかった。

 息をする肉塊。死んでいるはずの体は徐々に再生し、元の形へと作り直していく。

 散らばった骨を組み換え、付け足し、肉を纏わせていく。その作業は常人なら発狂しかねない苦痛を伴っていた。

 アメノワカヒコは伏したまま、無事な右目だけを上に向ける。

 視界の中心にありしは一羽の雉。

 かつて自分が殺した、鳴女(なきめ)という名の神鳥であった。

 

「…………く、そっ」

 

 それは太古の昔。

 オオクニヌシは国造りの偉業を成し遂げた。

 その国を支配しようとした高天原の神々はアメノホヒという神を地上へ送り、オオクニヌシに懐柔され、命令を果たすことがなかった。

 アメノワカヒコは次に地上へ遣わされた神だった。しかし、彼はあろうことかオオクニヌシの娘と契りを交わし、そのまま地上に住み着いたのである。

 これを神々は〝アメノワカヒコが我らに取り代わり、葦原中津国を手中に収めんとしている〟と考えた。

 ───高天原への邪心はなかった。

 

〝あなたを葦原中津国へ遣わしたのは、国津神たちを説得して地上を平定するためのはず。それなのに、なぜ八年もここに留まっているのか〟

 

 それでも、ただ、思ってしまった。

 この地に降り立ったそのときに。

 

〝……ああ、この鳥の声はなんて煩わしいのでしょう。こんなものは、射殺してしまえばよろしいのです〟

 

 天照らす光が敷く法よりも。

 オオクニヌシの世界の方が良い、と。

 かくして、アメノワカヒコは天より与えられた弓矢で鳴女を射殺した。

 高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)はその矢を拾い、ひとつの『誓約(うけひ)』を行った。

 

〝アメノワカヒコに逆心があるならば、この矢は当たる〟

 

 アメノワカヒコは、そうして死んだ。

 高木の神が放った返し矢によって。

 彼は鳴女を見やる右眼に渾身の憎悪を込める。

 

「愉しいか、タカミムスヒ。お前に心の臓を貫かれた男は、天の遣いとして血肉を撒き散らしているぞ」

 

 鳴女は答えない。

 その声は虚しく響くだけだった。

 タカミムスヒとは天地開闢の折に産まれた最古の神、造化三神の一柱。あらゆる万象の生成を司り、その意思はすなわち高天原の法則となる。

 ならば、神意を問う『誓約(うけひ)』とはタカミムスヒの意思によるものに他ならない。

 天の神を裁く権利は、天界の法にあるのだ。

 

「貴様は審判を誤った! 俺には逆心も邪心も存在しなかった! 貴様は恐れたのだ────天の法に染まらぬオオクニヌシの国を!!!」

 

 アメノワカヒコは立て続けに叫んだ。

 

「俺の死後に武神を遣わしたのがその証拠だ! お前たちは結局、武力を盾に脅すことでしかこの地上を支配できなかった! 反吐が出るんだよクズが───!!」

 

 そこで、終わりだった。

 不可視の力が彼の全身を縛り上げる。

 その間も、体は修復されていた。

 天の御力を受け入れろとでも言うように。

 ───アメノワカヒコに与えられた分霊は高御産巣日神。

 それはかつての戒めか、それとも裏切りの神への天罰か。

 だが、どちらにしても。

 彼は、死してなお天の奴隷で在り続けるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ふふっ。ああ、なんて、カワイソウ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長門国、須佐。

 東征軍の支配の象徴である天御柱は厳然とそびえ立っていた。

 国土を走る龍脈から膨大な魔力を吸い上げ、天へと献ずる。人が物言わぬ自然に対して雨乞いを行うように。

 ツヌグイは上空より黄泉軍の配置を観察していた。

 天津甕星に殴り飛ばされた傷は完治していた。千層の結界を壊されたとしても、この体を壊されたとしても、あれは負けではない。むしろ渾身の一撃を耐え抜いたのだからこちらの勝ちだ。アホ面を引っ提げた魔術師たちの一斉攻撃なんて傷ひとつ付けられなかった。そもそもあれは油断していたからであって─────そんな思考を打ち切り、ツヌグイは目を見開いた。

 山間の狭い平地。そこには前に見覚えのある面子が顔を揃えていた。赤髪のアホと白髪のアホ、炎上系魔女になすび系盾女、そして第六天魔王とスサノオだった。

 スサノオは両手を拡声器のように口に添えて叫ぶ。

 

「おぉーい!! 聞いとるかツヌグイ! お主なぁ、神世七代とは言うがその後の神話には全く出てこないし正直影が薄いぞぉーー!! え、つーか誰がお前みたいなやつ知ってんの!? 祀られてる神社少なすぎじゃね!!?」

 

 ────よし、殺す。

 逆鱗をガシガシと掻き回され、ツヌグイはマッハの速度で空を飛んだ。

 神への侮辱は同じ神であろうと許されることではない。それが自分より後に産まれた神であるなら尚更だ。その殺意は留まることを知らなかった。

 大地を揺らすかの如き怒気を纏い、ツヌグイはスサノオたちの前に降り立つ。

 

「口先だけが取り柄か、スサノオ! 貴様が高天原で犯した狼藉は後世にしかと刻まれているぞ、俺とは違ってな!!」

「有名すぎるのも考えものじゃのう。わしなんてフリー素材にされてるし」

「女体化もされてますもんね!」

「うん、立香、それは元々じゃからな?」

 

 呑気に話す立香と信長。ツヌグイの怒りは一層高まった。ノアはさらに馬鹿にするような笑みを見せつけて、黄金の腕輪を投影する。

 

「おまえ程度のぽっと出キャラに取ってる尺はねえ。今回限りでおまえの出番は終わりだ。覚悟はいいか」

 

 ツヌグイは心に燃え滾る憤怒の火に身を任せ、数十本の杭を展開する。長大かつ巨大な杭の群れは流星雨の如くに地上へ落下した。

 圧倒的な天の暴威。だがしかし、それを今更恐れる者はここに存在しない。マシュは微笑み、盾を構える。

 

「───『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』」

 

 如何に天津神の力であろうと、純白の城壁の前には全てが無為。杭の絨毯爆撃はその直撃も爆風も破片も、彼女らに届くことはなかった。

 砂塵の幕の向こう側から、漆黒の光が煌めく。

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 火山の噴火を思わせる邪竜の息吹。

 その奔流を余すことなく受けてなお、ツヌグイを取り囲む千の結界は揺らぎさえしなかった。

 ツヌグイは思う。芸が変わらぬ、と。

 どちらも攻撃が通じぬ防御を有しているというのなら、勝敗を分けるのはその防御を維持する力だ。

 マシュの盾は宝具である以上、必ず魔力を消費する。それを供給するのは立香とカルデア。後者のエネルギーは膨大だが、仲介するマスターはと盾を担う少女は人間だ。いつまでも戦い続けられるはずがない。

 故に、無敵の盾に陥穽が生じる。

 盾が無敵であっても、それを支える人間は無敵ではないのだから。

 炎の奔流を抜け出し、敵を視界に収めようと考えたその直後、ツヌグイの体は固定されたように自由を奪われていた。

 

「……投影、『獣縛の幻鎖(グレイプニル)』」

「『elder_rune_Ⅹ』!!」

 

 神喰いの魔狼を拘束した鎖が結界に巻きつき、オーディン第十の秘法がツヌグイを空に留める。

 

〝魔女が空中を舞うのを見るときは、第十のまじないをわしは知っている。わしは、彼らが、家に残してきた体に、その住居に戻れぬようにしてやる〟

 

 空飛ぶ者を空に縛り付ける秘術。幽体離脱を駆使する魔術師を無力化するためのものでもあるが、今回行使されたのは前者。電子化された原初のルーン。それは遺漏無くその性能を発揮した。

 炎が陰る。

 黒塗りされた視界が捉えた地上に、スサノオはいなかった。

 ならば────考えるまでもなく、ツヌグイは頭上を睨む。

 

「儂とお主でタイマンじゃ! 夕焼けの河原とはいかぬが、とびきりの舞台へ招待してやる!!」

 

 スサノオは固く握り締めた拳を叩きつける。

 そこに込められた力は凝縮された大気。神威の暴嵐を宿した拳は余波だけで地上の木々を吹き飛ばし、大地をめくれ上がらせた。

 けれど、その一撃を喰らっても砕けた結界は一枚。残り999もの結界を破壊してようやく、ツヌグイを傷つけることが叶うのだ。

 加えて、魔力を送り込めば結界は再構築される────その余裕を打ち砕くように、スサノオは続けて拳を振るった。

 乱打に次ぐ乱打。

 連撃に次ぐ連撃。

 ツヌグイを地面に叩き落とし、地中を掘り進めてもまだ攻撃は終わらない。

 時間にして十二秒。

 砕けた結界は再構築した数を含め2965。

 そこで、彼らの潜行は終わりを告げた。

 岩盤を突き破った先、眼下に広がる広大な空間。暗く冷たく、死の匂いを纒った岩肌の荒野。

 それこそは神話に語られた地底の国、根の堅州国または黄泉の国。死者の住まいし冥界であった。

 

「天御柱は侵食した領域を高天原───神代の環境へ塗り替える。神代であるなら、冥界は地下に存在する。そういうことで儂の隠居所に到着という寸法じゃ!」

 

 ハデスの冥府、ヘルヘイム、そして黄泉の国。多くの神話において、死者の行き着く場所は地下に存在する。

 人は死ねば大地に還る。冷たく暗い土の中へと。

 だがしかし、スサノオにとってはその冥界こそが泣いてまで求めた母の住処であり、国造りの英雄神との出会いを果たした場所であった。

 だからこそ、根の国はスサノオの本領。弱々しく衰えた権能の数々を補強する独壇場だ。

 

「荒ぶる嵐の化身にして海原の支配者、そして根の国の領主───なけなしの力を底上げしようと必死だな、スサノオよ。以前の貴様であったなら、息吹ひとつで我が結界を全壊せしめたものを」

「ふん、スペックしか見れぬのかお前は。結界が何枚あるから強いだとか、ステータスが低いから弱いだとか、そんなことに囚われているようではまだまだよ」

「…………ならば貴様は何を見る」

 

 スサノオは掌中に剣を出現させる。

 青銅の両刃剣。片側の刃の一部は小さく欠けていた。

 

「何がなんでもやってやる、そんな根性よ。貴様にそれはあるか、ツヌグイ」

 

 応酬は杭の乱射。

 青銅剣が閃き、ことごとくを斬り刻む。

 それを幕開けに、彼らの戦いが始まった。

 息もつかせぬ杭の乱撃をスサノオは剣一本で防ぎ切る。攻撃の発生、迎撃、それだけで自然を荒らす神の戦いは、命無き冥界にて存分に振るわれる場を得た。

 

「なぜ貴様は化外の者に力を貸す! 天照らす光の法下にあってこそ、この国は存続を成し得たというのに!!」

「出たー、神特有の上から目線!! そういうの辞めた方がええぞ、人草に嫌われるから! あ、だから神社少ないんか!」

「黙れ!!」

「黙らぬとも。儂は荒ぶる神、嵐のようにやかましいのが特徴じゃ!!」

 

 迸る風の神力。

 結界ごとツヌグイを吹き流し、スサノオは空を蹴って接近する。

 

「この国の人草にあった選択肢は二つにひとつ!」

 

 迎撃の杭が飛び、スサノオの進撃を停止させる。止まった足を貫くように大木の如き杭が飛来する。それを彼は右脚で蹴り返した。

 

「姉ちゃんの光のもとに天の支配を受けて生きるか、オオクニヌシとともに地の恵みを育て生きるか、これだけじゃ!!」

「そうだ。結果は前者───オオクニヌシは高天原に国を譲り渡した。それは自らの法が天よりも劣っていると認めたからには他ならぬ!!」

「いいや、それは違うぞ。国譲りは間違いだった」

「……なんだと」

 

 睨め返すツヌグイ。スサノオはきっぱりと言い切る。

 

「どちらの法を選ぶか……これを決めるのは人間でなくてはならなかった。姉はオオクニヌシに天津神を送り込み、オオクニヌシは天津神に息子が負けたことで高天原の支配を認めた」

 

 オオクニヌシの二人の息子。事代主(コトシロヌシ)は天より送られた神の前に戦うことなく国譲りを認め、建御名方(タケミナカタ)は両腕を奪われ諏訪の地から出ぬことを誓った。

 それを経て、オオクニヌシは国譲りを認めたのである。

 

「故に、どちらも間違いじゃ。この話に人間は介在しておらぬ。神々が身勝手に争って身勝手に支配者を決めたのだからな。国のトップを決めたいのなら、人草の前でプレゼンでも選挙でもすれば良かったじゃろう」

「それが神だ。神は人を支配し、人は神を戴く。人が神を選別するなど、思い上がりも甚だしい」

「果たして本当にそうか? 我らが幽世に隠れた遥か未来でも、神無き世で人は生きている。それをもう一度手元に置こうなど、巣立った鳥を鳥籠に引き戻すが如き愚行よ!」

 

 その言葉をツヌグイは噛み締め。

 重く、苦しい声音を絞り出した。

 

「人は弱い。人は争う。人は死ぬ。人は苦しむ。人は忘れる。故に、我らが管理しなければならない。それが、彼らにとっての幸せだ…………!!!」

 

 そこで、スサノオは思った。

 ツヌグイは。

 弱く、争い、死に、苦しみ、忘れる人が。

 苦痛を得ることなく生きていて欲しいのだ。

 

「……お前は、優しすぎる」

 

 それは停止だ。

 それは退化だ。

 尽きることなき幸福を甘受し、穏やかに生きる。それは素晴らしいことに違いないけれど、代わりに進化の余地を奪われる。

 何より、その世界に至るのだとしたら。

 人が人の手によって辿り着かなくてはならない。

 

「故にスサノオ、貴様はここで死ね」

 

 八本の杭がスサノオを包囲する。

 杭の間に光の膜が生じる。八角形の方陣はまたしても結界。荒ぶる神を閉じ込める断絶の壁であった。

 古代の日本では、村や家屋の入り口に杭が打たれることがあった。その杭は外界を内界を区切る仕切りであり、生活圏を主張する役割を担っていたと考えられている。

 そして時代は下り、生きる世界を区切る杭は外より来たる魔性を阻む魔除けとなった。

 つまり、ツヌグイとは人を守り、魔を退ける防塞神であったのだ。

 あちらとこちらを仕分ける境界の神。

 それを越えることはすなわち、世界を移動することと同義。

 

「……ここに顕現せしは魔を斬滅する究極の一」

 

 だが。

 スサノオはかつて境界を越えた。

 地上の海原から、天上の世界へと。

 天と地。その狭間を人類が乗り越えたのは長い人類史で見ればつい最近のこと。

 幾人もの犠牲を出し、しかし夢物語は現実となった。

 それは神の手元で寵愛されていたままではできぬことだったはずだ。

 焼却された世界で。

 人類の可能性を護り抜くために。

 スサノオは、剣を振るった。

 

「────『神剣(しんけん)天羽々斬(あめのはばきり)』!!」

 

 一閃。

 その斬撃は日本最強最古の怪物、八岐大蛇を斬った一刀。

 この剣に距離の隔たりは意味をなさず。

 この剣に境界の壁は通用しない。

 なぜなら、スサノオの権能の本質とは、嵐と海原を司ることでも、冥界の神であることでもなく、何にも縛られぬことにこそあった。

 身を守る千層の防御結界。

 世界を断絶する境界。

 ───そんなものは、自分以外でやっていれば良い。

 相性や特性、能力といった全てを例外なく踏み躙る理不尽の化身。とめどなく荒ぶる圧倒的な力がスサノオという神の根源だ。

 スサノオを囲う結界とツヌグイを護る結界。そのすべてを、神剣は容易く斬り裂いた。

 

「……ッッ─────!!」

 

 ツヌグイの体が横真っ二つに断たれる。

 泣き別れた下半身が消滅し、即座に再生する。が、その隙は最古の怪物殺しの前には致命的だった。

 トン、と胸を突き刺す金色のヤドリギ。

 口端からか細い音が漏れる。

 遍く神と不死を滅するヤドリギに例外はなかった。

 ヤドリギは生き返りそのものは否定しない。バルドルは新世界での復活を約束されていたから。けれど、それは他者による蘇生であって独力での蘇生を否定する。

 ───ツヌグイが擁する再生の力はここに否められた。

 スサノオは告げる。

 

「人はいつか、天の果てにも手をかけるだろう。それは()たち神にはできないことだ。星より巣立つ日が来るならば、神はとうに忘れられているかもしれない」

 

 だけど。

 

「星々の海を越えて、世界の裏側にさえも到達した時……神と人は再会する。神と人は対等に生きられる」

 

 ───俺は、その日を待っている。

 ツヌグイは笑って、

 

「なんと甘い夢だ。不条理の体現たる貴様にそんな願いがあったとは。……そんなものをどこで手に入れた」

「───ハッ、こっ恥ずかしい。んなこと言えるかよ」

 

 人を守る神、ツヌグイの体が消滅する。

 きっと、いつの日か、守る必要のなくなった彼らと会うことを夢見て。




・神様解説、タカミムスヒ編
 タカミムスヒは神世七代よりもさらに前に生まれた最古の神の一柱。アメノミナカヌシ、カミムスヒとともに造化三神としてカテゴライズされている。
 その性格としては司令神であり、ムスという生産と生成を意味する動詞があったという推測から生成や生産を司っているともされる。ただし、ムスという語については諸説あるので注意。基本的に天津神の地上への派遣を決めているのはタカミムスヒであり、アメノワカヒコを遣わした場面から高木神という別名でも呼ばれるようになる。アメノミナカヌシと違って出番が多いのも特徴。大体その出番は国譲りや東征の際に派遣する神を決めることだったりするので、高天原でも相当偉い神様なのだろう。
 タカミムスヒとカミムスヒは前述の生成・生産を名前に持っていること、そして最初に生まれた神の一柱であることから、天と地における根源的な力であると捉える説がある。本編ではこちらの説に則り、タカミムスヒを日本の神話世界のルールそのものと設定している。タカミムスヒとカミムスヒを祖神としている氏族も多かったらしく、人気は相当高かったと思われる。

・神様解説、ツヌグイ・イクグイ編
 造化三神を含む別天津神の次に生まれた神様のグループ、神世七代の第四代。神世七代はクニノトコタチとトヨクモノ以降は男女一柱ずつ生まれ、それをワンセットで一代と数える。ツヌグイとイクグイはその四代目。ちなみに最後の七代目がイザナギとイザナミである。
 クイという名前には、地面に打ち込む杭や地中から植物が生えてくる様子を表しているなどの説がある。本編で結界を使っていたのは前者から、再生の力があったのは後者から取っている。
 記述が少ない神様なので特にエピソードが存在しない。しかし古事記と日本書紀にしっかり記されているので、有力な氏族が祖神としていたりしたのかもしれない。古代の豪族は祖先に神を持っていたので、古事記や日本書紀を読んで「ウチの神様出てるじゃん、すげー!」となっていた可能性がある。


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第62話 苦き運命の矢が射止めるもの

「おぉーい!! 聞いとるかツヌグイ! お主なぁ、神世七代とは言うがその後の神話には全く出てこないし正直影が薄いぞぉーー!! え、つーか誰がお前みたいなやつ知ってんの!? 祀られてる神社少なすぎじゃね!!?」

 

 自分の親よりも年上の神に対して、果てしなく無礼な訴えが天を突いた。その音量たるや、木々を揺らし大気を痺れさせるほど。いかにも嵐の権能を有するスサノオらしい宣戦布告だ。

 ツヌグイが駆ける。その目には他の一切が写っていなかった。染め上げたような青空を横切っていく神の姿を眺め、陰陽師は小さく息を吐く。

 ───スサノオとツヌグイをぶつけ合わせ、その間に天御柱(アメノミハシラ)を制圧する。単純な作戦に思えるが、小細工を用いない分、勝敗を決める要因も単純だ。

 黄泉軍が東征軍に勝るのはサーヴァントの数。天津神の分霊が憑いた東征軍のサーヴァントに単体の戦力は譲るが、そう絶望的な戦いではない。

 数を活かす、という前提が成り立つなら。

 

「スサノオとツヌグイが盤面から外れるというのなら好都合。存分に主戦場を嬲り倒せるというもの。今度こそ潰して差し上げましょう!!」

 

 ここに、あの男はいない。

 焦がれ、超えんとする仇敵がいないのならば、この特異点は己が愉悦の糧とするためだけの箱庭だ。

 東征軍の大義も、黄泉軍の信念も、全て全て知ったことではない。人類史奪還を旨とするカルデアもまた同様に。

 世界は燃え尽きた。

 人類の痕跡はことごとく滅された。

 いかなる神話の大英雄であろうと、魔術王が創る新世界には一片の影すらも残らないだろう。

 これはあの男も例外ではない。

 ───奴が消え、自分だけが残る。

 正真正銘、全人類が燃えたのならば、奴の記憶を持つのは蘆屋道満ただひとり。

 それは紛れもない勝利だ。何もかもが新しく創世された場所で、自分だけがあの男の存在を抱えていられるのだから、相手の全てを手中に収めたに等しい。

 故に滅ぼす。

 未だ醜く元の世界にしがみつくカルデアなぞ、蟻にも劣る害虫。

 この蘆屋道満が、人類史に引導を渡すのだ───!!

 

「独白が長げえんだよ!!」

「ン……───!?」

 

 背後から首筋を狙う白刃。道満は呪術を発動させる間もなく、山の斜面を転がり落ちるように攻撃を躱した。

 枯れ葉と土まみれになりながら、斜面の上を見上げる。黒装束を纏った剣士。狂犬のように鋭く殺気に満ちた眼光が臓腑を串刺しにする。

 新選組鬼の副長、土方歳三。彼は距離を保ったまま、長銃の銃口を道満に突きつけた。

 

「ウチの大将はアホだが、俺は違う。てめぇみてえな俗物のやることなんざ分かりきってんだよ」

「フ、何人もの遊女を口説き落としていた貴方から俗物などという言葉が出てくるとは。同族故の直感ですかな?」

「おう、それは間違ってねえ。近藤さんが囲ってた愛人の人数知ってるか? お前が呪った人数よりは少ねえだろうがな」

「これはこれは、五十歩百歩……!!」

 

 道満は周囲に呪符を張り巡らせ、防御術式を組み上げる。時間にして一秒の半分も費やさぬ早業はしかし、それより速く剣の雨が呪符を射抜いた。

 その剣は異様な形をしていた。短く赤い柄に、杭のような刀身。刃はなく、見るからに投擲用の武装であることは明らかだ。

 それは道満と土方の知識にはない武器だった。

 聖堂教会の代行者が用いる洗礼兵装、黒鍵。道満が術式を組むより前に剣を放った張本人は、樹木の上から陰陽師を見下ろす。

 

「貴方のような妖物は早々に仕留めるに限ります。恨みはありませんが、ここで消えなさい」

 

 赤の外套を羽織った、聖意の執行者。天草四郎時貞は両手の指の間に黒鍵を携えていた。ずらりと並んだ白刃はまるで肉食獣の爪のようであり、しかしながら清廉な魔力を湛えている。

 びゅん、と風切り音が鳴る。天草の黒鍵が陰陽師を囲うように地面に食い込む。

 

「『右腕・悪逆捕食(ライトハンド・イヴィルイーター)』」

 

 黒鍵の群れが秘蹟の光を開帳する。

 蒼く発光する剣はさながら十字架。救世主の死と復活、勝利を意味する十字剣は自らを起点に半透明に輝く結界を造成させた。

 道満は眉をひそめ、手指の先を結界に掠める。ばちり、光と衝撃が弾けた。その指先は焦げた煙を吹き上げ、黒く炭化している。

 

「本来は死徒に対して用いる魔術……おっと、奇跡ですが、黒鍵は霊体にも作用する代物です。貴方とて簡単に抜け出せるモノではありませんよ」

 

 仮に天草と道満が東洋呪術で争えば、軍配が上がるのは考えるまでもなく後者だ。だが、彼は聖堂教会の秘蹟を知らない。知らないということは術式の解析、対策に時を要するということ。

 そして、その隙を見逃すほど敵は甘くない。いかに不死身であろうと、二人が神殺しのヤドリギを持っていればそれで終わりだ。

 しかし、道満は嘲るように笑った。

 

「笑止! この程度の小技、我が咒の前には児戯にも劣ろうぞ!」

 

 右手で剣印を結ぶ。陰陽師の影が細く弛み、足元を頂点とした三角形を作り出す。後方に伸びた二つの頂点には、じわりと円形の影が染み出ていく。

 右手の甲に幾何学的な赤い紋様が浮かび上がる。三画で構成される令呪とはまったくの異質。それは六芒星をいくつも重ねたような異形の円を形作っていた。

 その時、天草と土方は首筋に氷柱を打ち込まれたかのような悪寒を覚える。

 前者は一種の未来視能力。後者は幾度もの死線を潜り抜けた戦士の勘。発端に違いはあれど、彼らはほぼ同時に動いた。

 

「反魂法、起動! 四柱推命───三合火局!!」

 

 巻き起こる衝撃。魔力の閃光が結界ごと辺りの木々を吹き飛ばし、地面を揺らす。

 光が収まり、正常な視界が戻ってくる。

 彼らは見た。道満の背後の頂点それぞれに、大刀を担いだ漆黒の武者とまつろわぬ金星神。天津甕星は腕を軽く振るうだけで、山を倒壊させてみせた。

 岩石と土塊の雨が宙に浮かぶ。天草と土方は身を叩く豪風を利用し、空中の岩塊に着地した。つう、と唇の端から血滴が垂れる。星神の拳風はその衝撃波のみで二人の内臓を打ち据えたのだ。

 天草は血を拭いもせずに言う。

 

「悪霊と邪神の同時使役───三合火局にそれぞれを対応させることで魔力を循環、能力の強化も兼ねている訳ですか。流石、安倍晴明の対を張った術者なだけはありますね」

「感心してる場合か!? このままじゃ殺られんぞ!」

「三合火局は一角が崩れれば、後は衰退していくのみ。私があの悪霊を仕留めます。時間稼ぎを頼んでも?」

「…………お前のことはまだ信用してねえ。伊東と同じ匂いがするからな」

 

 だが、と土方は翻して、

 

「戦場じゃあ戦わなきゃ死ぬ。お前がどこから来たか知らねえが、死にたくなかったら仕事を果たせ」

 

 足場にしていた土塊を蹴り、彼は道満のもとを目指す。天草はその背中を見据え、小さく独りごちた。

 

「……ええ。こんなところで三度目の死を迎えるのは遠慮したいものです」

 

 その手に立ち現れるは、左右合わせて六本の黒鍵。神の聖典を具現化した武装を手に、悪霊の武者悪路王と天草四郎は互いに互いを敵と認識する。

 土方とて蘆屋道満と天津甕星(アマツミカボシ)を前にしては、死は免れない。精々が三十秒───そのリミットを超えれば、彼らは間違いなく敗北するだろう。

 つまり、これより始まるのは一分の半分にも満たぬ殺し合い。空中に広がる無数の岩塊を飛び移り、赤い影と黒い影が数度の邂逅を果たす。

 破砕する金属音が立て続けに鳴り響く。

 ぱらぱらと重力に従って、白い刃の破片が落ちる。一合重ねる度に天草の黒鍵は容易く粉砕されていた。その都度彼は新しい黒鍵を取り出し、得物を用意する。

 

「───私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す。我が手を逃れうる者はひとりもいない。我が目の届かぬ者はひとりもいない」

 

 四柱推命において、三合火局とは十二支の内、午・寅・戌の三つの方位の組み合わせを言う。その意味は火気の隆盛、運気の向上。季節においては夏を指す。

 道満はこれに自身らを対応させ、魔力を循環させることで悪路王と天津甕星の同時使役を成し遂げた。一度三合火局を形成してしまえば、手駒を維持する魔力は永遠に陣を流れ続ける。術者への負担は無いに等しい。

 さらに、概念的なエネルギーの興隆を上乗せされた三者の実力は平時のそれではない。一際大きな打ち合いを経て、天草の肩に切創が走る。

 

「打ち砕かれよ。敗れた者、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え」

 

 悪路王。古くは鎌倉時代、東国に住まい、朝廷の統治を拒んだ蝦夷たちの王。征夷大将軍坂上田村麻呂によってその命を奪われ、しかし、彼の怨念が消え去ることはなかった。

 傷を起点として、天草の体がぐらりと揺れる。鉄塊を括り付けられたかのような不可視不可触の重量が全身にのしかかる。

 それこそは、悪路王の果てなき怨念。

 化外の者として朝廷に討たれただけではなく。

 後の時代、鬼にまで貶められたという非業そのものを相手に押し付けているのだ。

 

「休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる」

 

 天草の両腕が発光する。生前、数々の奇跡を起こした彼の宝具が、加重に押し潰されぬよう肉体を補強する。

 だが、悪路王と天草の戦いは既に大勢が決していた。

 打ち合う度に重くなる体。単純な技量においても劣っている以上、彼の勝ち目は潰えている。

 遥か上空の戦いは頂点へと。

 赤と黒の軌跡が絡み合いながら岩石群の上面に飛び出す。

 墜ちる赤い影。黒き武者はただ、大太刀の切っ先を敵へと差し向けた。

 

「装うなかれ。許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を」

 

 ズン、と天草の脇腹を錆びた刃が刺し通す。

 体内に浸透する呪い。数秒前とは比べものにならぬほどの加重が聖人を襲う。

 それを物ともせずに、彼は微笑んだ。

 怒りも憎しみもなく、ただただ超然とした慈愛だけで顔貌を染め上げて。

 天草の右手が悪路王の顔面を掴む。

 

「休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ、印を記そう。永遠の命は、死の中でこそ与えられる」

 

 急転直下、地上への墜落。

 空を裂き、岩石を砕き、地面へ真っ逆さまに赤の軌道を描く。増加し続ける重量を糧に、悪霊と聖人は一条の流星と化した。

 

「許しはここに。受肉した私が誓う」

 

 上空からの直滑降は四秒と経たずに終わりを迎えた。

 大地と天草に挟み込まれた悪路王の五体が四散する。唯一原形を留めていたのは頭部。未だなお、尽きぬ憎悪を表現する目と口とを残す顔面だけだ。

 そこへ、天草は黒鍵を突き立てる。

 

「────この魂に憐れみを(キリエ・エレイソン)

 

 聖堂教会の洗礼詠唱。

 主の威光のもとに迷える魂をあるべき場所へ還す浄化儀式。

 それは魂を術者の手中に囚える反魂術とは対極に位置する。魂を拘束する法と魂を解き放つ祈りがぶつかり合ったなら、結末は決している。

 二十五秒。それが、決着までに費やされた時間であった。

 飛び散った肉体が瘴気を放ち、断末魔もなく消滅する。天草は荒々しい息を吐き、腰に差した刀を引き抜く。

 その目が捉えるのは蘆屋道満。相手もまた、己が手駒のひとつを消し去った男を瞳に収めた。

 

「三合火局は崩れた。代償なき魔術は存在しない。ツケを払う時です、蘆屋道満」

「否! これしきで我が咒を破ったなどとは思わぬことです! 一角が欠けたのであれば、補填するだけのこと───ハッ! 急急如律令!!」

 

 三角形が形を変える。欠けた一角が移動し、場所を定めたのは土方の足元。道満と天津甕星の対処に疲弊していた彼に気力と活力が戻り、莫大な魔力が流れ込む。

 土方は戦場にも関わらず、気の抜けたような表情になった。

 

「…………いや、敵を強くしてどうすんだよ。アホが極まったか?」

「貴方ひとりを強くしたところで屁の突っ張りにもなりませぬ! ただし、再度この陣が破られた際は貴方も道連れに不幸を被ることでしょう!!」

 

 道満はニタニタと毒々しい笑みを見せつけて、

 

「これからは拙僧と一蓮托生ですぞ、土方殿……?」

「ふざけんな気色悪ィィィ!! おい天草、これをどうにかしろ!!」

「すみません、無理です。気色悪いことは間違いありませんが」

 

 土方と天草は顔色を青くする。

 苦し紛れにしか見えない一手だが、これは悪辣だ。三合を構成する一角として土方を取り込み、陣の崩壊を防ぐ。敵ひとりが陣の恩恵を受けたとしても、差し引きで言えば釣りは十分だ。

 最悪、土方が自死という手段を取ったとしても、道満は不死。如何なる反動が襲ってきたとしても問題はない。

 

「貴方方は三合の陣のことを考えるよりも、どう生き残るかに集中すべきでしょう。なぜなら、我が方にはまつろわぬ邪神────天津甕星が存在するのですから!!」

 

 その時だった。

 三者は同時に東の方向に振り向く。

 何かが来る。その姿を目視しなかったにも関わらず、彼らはその思考を共有していた。

 しかして、サーヴァントの視覚はそれを捕捉する。

 数は一騎。馬を駆る武者。右手で手綱を掴み、左手に弓を携える。威風堂々としたその一騎駆けに淀みはなく、ひたすらに清冽な気勢だけを纏い持っていた。

 が、遠間の彼らにも感じ取れるほどの気勢となると、それはもはや殺気だ。

 動いたのは悪神と謳われた天上の星神。

 金星そのものを体現する天津甕星は、一挙一動が天変地異。腕を振るえば嵐が起こり、歩を進めれば大地が割れる。ならば、その突進は隕石の墜落にも引けを取らぬ大異変にもなろう。

 故に、ソレを止められる者は誰もいなかった。術者である道満でさえも、勝利の確信を持ってかの悪神を見送るに留める。

 迫り来る破滅の光星。相対する武者は天を埋め尽くすが如き金色の光に臨み、口角を吊り上げた。

 

「まつろわぬ邪神、天津甕星! 奴を斃すのはやはり、我らでなくてはなりますまい!!」

 

 誰かへ語りかけるような言葉。

 神の威光を前に狂したのではない。どこまでも愉しげに、勝利を確信した笑みをもって、彼は言い切った。

 天津甕星。記紀神話において、唯一悪神と評された神。天津神でありながら、高天原に反旗を翻したまつろわぬ星。タケミカヅチとフツヌシという神話有数の武神を相手取り、返り討ちにしたこの神の武力は計り知れなく強力だ。

 人の身で星の神に挑む無謀。

 なれど、彼はそれをやる。

 矢筒から一本の矢を取り、番えて、引き絞る。

 ───星を落とすものは数あれど、星を砕く神技は。

 

「南無八幡大菩薩! この矢当たれることを願い奉る!」

 

 星の墜落が大気を撹拌し、空間を軋ませる。

 天津甕星に言葉はない。遥かソラに輝く星の神に、ヒトの言語など必要ない。だから代わりにその眼光で感情を表す。

 瞳にありしは静かな水面の如き戦意。

 武者の顔を透かして、奥にあるモノへと意識を向けていた。

 彼はそれを見逃さなかった。

 

「『八幡祈願・大妖射貫』」

 

 番えた矢に尋常ならざる神力を込め、手放す。

 果たして、その矢が星を砕くことはなく。

 ───だが、星を射止めることは。

 天津甕星の眉間に矢が突き刺さる。

 神の五体が不出来な振り子のように崩れ落ちる。額を射抜かれ、力を失ってもなおその突進は止まらない。否、本体の統制が奪われた以上、暴走となるのは当然の帰結だった。

 まつろわぬ星神は地面を削りながら突き進む。そのすれ違いざま、武者は袖の内より白き織物を抜き出す。

 それは空に棚引く雲のような。

 はたまた、夜空に輝く天の川のような。

 

「『降神(こうじん)建葉槌(たけはづち)』!!」

 

 それこそが、彼に与えられし分霊。

 雷の武神と剣の武神。高天原有数の戦神も以ってしても落とせぬ星神を下した、ただ一柱の神だった。

 天津甕星の肉体が、神威が、平面となって布に織り込まれる。

 これはかつてありし戦いの再現だ。神霊や英霊が伝承の影響を受けるのなら、たとえ如何なる強化を果たしていたとしても、自らに設定された弱点は打ち破れない。

 此処に、まつろわぬ神は封印された。

 タケハヅチの力を宿していたとはいえ、事も無げに天津甕星を封じてみせた。そんな彼に、道満らは驚愕の面持ちで眼差しを向ける。

 そこで、道満と土方は男の真名を思い出す。カルデアがこの世界にやってくる前。京を襲撃した東征軍の中に、彼はいた。

 

「俵藤太……!!」

 

 土方は敵意と、ある種の畏敬を込めて言い切る。

 龍を喰らう百足を、不死身の魔人を討ち果たしてみせた英雄は笑顔で応える。

 

「生憎、今は武将として藤原秀郷と名乗っていてな。ここで会ったのも何かの縁。腕比べと参ろうか」

 

 三者は思わず後退る。すいーっ、と天津甕星を失った三角形の頂点が、天草の足元に移動する。道満は死んだ目で無言を保っていた。天草は引き攣った笑みで、道満に言う。

 

「……さて。一蓮托生、ですね?」

「ンンンンンン!! こんな! こんなはずではァ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 視点を変えて、天御柱付近。

 ツヌグイの対処に行ったノアたちと、道満の抑えに回った土方天草コンビを除いた全員が、天御柱破壊のために殺到していた。

 空と地を席巻する雷轟。雷電で構成された津波が、直線上の全てを焼き焦がして進む。

 柱に近付く遍く敵を討ち滅ぼす固定砲台。猛き雷の武神───その力を注ぎ込まれた器である彼女に正気はなく、機械的に敵を屠る手段を講じていた。

 それを見て、ダンテは戦いの前にスサノオが語っていたことを思い返す。

 

〝源頼光……アレは不憫な人間よ。自らの戦い方というものを奪われておる。儂とも少なからず関わりがあることじゃし、できればシラフに戻してやりたいのう〟

 

 大地を次々と焦土に変えていく様に視線を移し、ダンテは叫んだ。

 

「……いや、無理では!!?」

 

 最後方でガタガタと震えていた享年五十六歳英霊男性が大声をぶち上げたのを受けて、沖田ら一同は肩をびくりと痙攣させた。

 

「うわあ、いきなりどうしたんですかこの人!? 情緒不安定すぎません!?」

「ダンテェ! 汝は誇り高き鬼、大江山愚連隊の一員であろうが! たかがこれしきで喚くでないわ!!」

「ダンテのこれはいつもの発作だ! 放っとけ!」

「ペレアスさん、少しはフォローしようという気概を見せてください!」

「他人の助けを前提にしているのが駄目なのだと思いますが……」

 

 清姫の鋭い言葉がダンテの胸を刺す。

 そんな間にも雷撃による遠距離砲火は一層勢いを増していた。頼光の側に控える二人の剣士、渡辺綱と佐々木小次郎は剣を抜くことすらなく佇む。

 それも当然だ。Aランクの対軍宝具にも匹敵する一撃を連発できる頼光がいるのだから、彼らは彼女を守る盾となれば良い。

 このまま逃げ続けていても、こちらの体力が尽きる。そうでなくとも、源頼光は敵を一掃するまで手を緩めることはないだろう。

 ペレアスは赤の甲冑の兜を下ろし、背後の仲間たちに告げる。

 

「ライコーだっけか。オレがあいつの手を止める。後はお前らに任せた」

「単騎で? それは少し無茶じゃない?」

 

 武蔵の言に、騎士は首を振った。

 

「いいや、ひとりじゃねえ。リース!」

「はいっ! 夫婦の共同作業ですわ! ……フヒッ。敵には申し訳ありませんが、私たちのラブラブぶりを見せつけてしまうことになりますわね!」

「ちょっと、緊張感とかないんですか!? 新選組なら士道不覚悟で切腹ですよ!」

「それは今更ですねえ」

 

 騎士と精霊はその身を雷光の巣に投げ込む。

 過たず、目も眩む閃電が瞬く。魔女の鎧を纏ったサーヴァントとて刹那で焼き尽くす暴威はしかし、

 

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 騎士にかすり傷すら付けることはなかった。

 剣を担ぎ、焦げた大地を疾走する赤い砲弾。土を蹴る度に放たれる電撃は全て、彼を通り抜けてその後方だけを焼く。

 迎撃は一切が無為。ペレアスの宝具が死を回避する概念であるならば、相手の攻撃が強ければ強いほどにその真価を発揮する。

 因果逆転、運命の否定。神の雷光といえど、それが純粋な暴力である以上、騎士を屠るなど夢のまた夢だ。

 極光の雷火が世界を無色に染め上げる。その向こう側から、赤き騎士は現れる。一足一刀の間合いに踏み込む直前、頼光の盾である二人の剣士はその腕を振るっていた。

 疾風の如き斬撃が閃く。刃が騎士に食い込んだ瞬間、ばしゃり、と騎士の像が水となって解きほぐれる。

 水の幻影。妖精の悪戯じみた技に化かされたと気付いた時には、もう遅かった。

 

「よし───届いた!」

 

 水の魔術によって光を屈折させることで、簡易的な透明化をしたペレアスは、頼光の背から剣を薙ぐ。

 が、彼女は図ったかのようにそれを躱し、返しの一刀を叩きつける。

 灼熱の稲妻を宿す刀身は触れるだけで相手の神経を硬直させ、筋肉を炙る。直接的な死に直結しないそれはペレアスにも有効であったが、騎士は変わらぬ動きで剣を弾き返した。

 その理由は彼の両手を篭手の上から覆う水。純水は電気を非常に通しにくい。精霊が生み出した混じりなき水が、騎士を護ったのだ。

 佐々木の唇が密やかに弧を描く。

 

「成程、比翼連理とはまさにこのこと。独りで技を磨くでなく、他者を求めたが故の強さか」

 

 自らの真名でさえ偽りを装うしかできぬ彼は、試すように剣風を放つ。だが、刃を振り抜く寸前、地を走る火炎が剣士の機先を制した。

 敵陣を分かつ炎のカーテン。それは清姫によるものだった。とはいえ、東征軍の三者がそれを切り裂くことは造作もないだろう。

 ただし、その一刀に費やさねばならぬ時間と隙は、両軍をそれぞれの敵へと引き合わせた。

 三重の斬撃が佐々木を襲う。我が身を狙う三つの殺意に対し、彼は返す刀を振るうでもなく、ただ一歩下がる。

 それで十分。白き刃の切っ先が眼前を通り抜ける。さらに数歩間合いを取り、彼の瞳に映るのはだんだら羽織、そして二刀流の剣士だった。

 安易に間合いに入るのは危険だ。沖田は剣の刃長を見測りつつ、

 

「この人が佐々木小次郎その人らしいです。三尺余りの剣を使っていたというのは、どうやらフカシじゃないみたいですね」

「というか……若くない? 私が知ってる佐々木小次郎はもっとおじいちゃんだったんだけど。どうせならもっと若くなってくれても良かったのに!!」

「ふ、随分と良い趣味だ。年端もいかぬ稚児に逸楽を見出すとは。私は花鳥風月を愛でるが、そこまで倒錯してはおらぬよ」

「倒錯上等! 趣味は迷走してこその趣味ってもんです!」

 

 沖田はぎっと頬を引きつらせた。

 

「もしかして御用改め案件? お縄頂戴いたします?」

「人の性癖に貴賤はなし! 宮本武蔵、参ります!!」

「くっ、ここからシリアスに持っていかなきゃならないなんて……!!」

 

 そう言って、二人は左右から挟み撃ちをかける。

 心は揃っていないが、足並みは揃っていた。二方向からの挟撃に逃げ場はない。加えて、佐々木の長刀は強度に欠ける。武器を用いて凌ぐのならそれを壊し、距離を取って躱そうとも沖田の縮地には通用しない。

 彼の一手は単純明快。長刀故の間合いの長さを活かし、敵が到達する前に斬撃を放つ。

 半月を描く長刀。一手で首を刈り取る刃をもって、挟撃の足を止める。

 そこからは斬撃入り乱れる剣戟戦だった。三者共に思考を洗練し、眼前の敵を斬ることのみを追求する人切り包丁と化す。

 いくつもの剣閃が綺羅星の如く瞬く。頼光が撃ち出す雷撃に比べればその規模は遥かに小さい。けれど、稲妻が渦巻く嵐は見る者を立ち寄らせないが、彼らの戦いは見る者に立ち寄ってはいけないと確信させるものだった。

 なぜなら、綾のように織り成される斬撃の数々は周囲の理解を置き去りにする。相対する者にしか分からず、武術の高みに立つ者でしか目で追えない。

 天より降る雷が人々に畏怖を与えるのだとしたら、綾なす斬撃は畏敬をもたらす。

 そして、そのほとんどが佐々木の剣によるものだった。

 武蔵と沖田は仕掛けたとしても、即座に飛び退き剣を振り切ることがない。

 佐々木の剣は常に首を狙う。相手の警戒を嘲笑い、執拗なまでに。そこにあり、そうするのが当然であるように。

 だから、二人は攻め切れなかった。たとえ相討ち覚悟で踏み込んだとしても、先に落ちるのは自分の首だ。先に死ぬのが自分であるなら、それは相討ち以下。捨て身は敵の死を見届けてこその捨て身だ。

 

「ならば───!!」

 

 二刀の剣士の瞳に光が灯る。

 宮本武蔵の魔眼、『天眼』。本来無数に枝分かれする未来を、対象を斬るという結末に収束させる天佑の瞳。その眼が引き寄せた未来は、胴を真っ二つに割られる敵の姿────では、なかった。

 刃風が首筋を撫でる。どろりと肩を伝う赤い液体。長刀の先から血の雫が地面に点々と滴り落ちる。

 

「……勝負を焦ったか」

 

 佐々木は短く述べた。

 ぎり、と二刀の柄が軋む。

 ───相手の言葉に不足はない。確かにあの瞬間、自分は勝機を掴むため無心を捨てていた。かつて斬った、吉岡道場の門弟たちのように。

 数的有利をして、勝負を焦らせるほどの相手。佐々木小次郎……過去相見えた剣士と同じ名なれど、その剣技は一線を画している。

 宮本武蔵がただひとつ追い求める境地、空位。強弱の話ではない。眼前の男は既にその位地に達している。自分はそれを見抜けていなかった。

 彼女は肺の中の空気を底まで絞り尽くして、晴れやかに笑む。

 

「よし、反省終わり! 私が斬るべきもの───それは貴方よ!」

 

 だというのなら、彼は乗り越えるべき壁にして、自らを高みへと運ぶ糧。さながら獲物の死骸を運ぶ鳥のように、その役割を佐々木小次郎へと見い出したのだった。

 ───一方、その頃。

 頼光四天王、渡辺綱は生前の仇敵と刃を交わしていた。

 

「オルァァァ!! 死に晒せ綱ァァァ!!」

 

 業火を纏った骨刀が踊る。

 触れれば骨まで炭にする火炎の乱舞。鬼種の暴虐を体現するかのような茨木童子とは裏腹に、渡辺綱は清廉そのもの。返す刀は凪いだ湖面の如き静けさすら思わせた。

 ダンテは右手に紙束を握り締めて、剣風入り乱れる立ち合いの最中へと走っていく。

 

「わ、私の宝具は必中必殺! フン族の大王やヘラクレスさんですら昇天させました! しかとその身に受けなさい!!」

 

 ごう、と剣が衝突し、突風が吹きつける。ダンテの筋力で踏ん張れるはずもなく、辺りに紙をぶちまけて地面を転がった。

 

「うがああああああ!!」

「筋力Eにしても貧弱すぎません!?」

 

 清姫は目を剥いて叫んだ。茨木童子の援護として炎弾を撃ち込んでいた彼女は、さっと右足を出してダンテの体を止める。

 サッカーボールの気分を味わったダンテは肩で息しながら立ち上がった。

 

「ふふふ、これで分かりましたね。私の仕事はもう終わりました……!!」

「普通に転んだだけに見えましたが!?」

「清姫さん、結果は所詮物事の帰結にすぎません。戦う意志を示したという過程と事実が重要なのです」

「言い訳にしてもキレがありませんわ!」

 

 綱はその会話を感覚の端で捉えていた。茨木童子の一刀を真っ向から弾き返し、彼は述べる。

 

「……賑やかな仲間を持ったな」

「ふん! 神の器となり、配下を失い狂った頼光とは違うということだ! 受けた借りは返す───汝にそのような激情はあるか、綱!!」

「戦いに感情は不要。迷いは剣を鈍らせ、思考を融かす」

 

 ───この身はただ、ひと振りの剣でさえあれば良い。

 鬼殺しは、そう語った。

 茨木童子は牙を見せつけるように笑う。

 

「そんなものは人でも鬼でもない、物言わぬ絡繰と同じではないか!!」

 

 炎剣一閃。綱の頬を掠めた切っ先。流れ出すはずの血は一瞬にして蒸発し、火傷の跡が刻まれた。

 それを意にも返さず、彼は反撃を繰り出した。咄嗟の迎撃も甲斐無く、鬼が振るいし剣は大きく跳ね飛ばされる。

 鬼殺しに宿りし天津神は天手力男神。天岩戸に籠った太陽の女神を、引きずり出した剛力の神。それは鬼の怪力を優に超える力を人間に与えた。

 体を回し、空いた胴に剣を滑り込ませる。綱の技量、神の力、その二つが合わさった一撃は鬼の知覚すらも越えて、骨肉を断つ。

 ただし、相手が独りであったなら。

 

「わたくしはダンテさんとは違いますので!」

 

 迸る烈火が綱へ向かう。ついでに投げつけた扇が茨木童子を間合いの外へ突き飛ばした。

 身を焼く火炎。それを視認し、鬼殺しは迷うことなく足を踏み出す。

 必然、その五体は炎熱に焦がされる。五体を焼かれる痛みは容易く意識を飛ばすはずが、彼は涼しい顔でそれを耐え抜いてみせた。

 敵は目と鼻の先。剣の刃にて鬼を断つことはできない。渡辺綱は柄頭を用いて、茨木童子の鳩尾を打ち据える。

 

「ぐ、ぶっ……!!」

 

 血の塊が喉をこじ開ける。思わず後退する茨木童子を、鬼殺しは間断なく追い詰めた。

 ───そう、この身は絡繰。ヒトのカタチをした機械だ。

 かの時代、無数の魔と呪詛が飛び交う平安の世。人面獣心、生き馬の目を抜く怪物が人魔問わず跋扈する京の都では、武士とはそういうものだった。そうでさえあればよかった。

 余計なモノはいらない。

 奴らはそこにつけ込んでくるから。

 欲も快楽も切り捨て、鍛え上げられた一本の刀。

 護国の刀剣。その在り方はある意味、哄笑とともに暴虐を成し遂げる鬼たちよりも、遥かに怪物的だった。

 怜悧な鋼の視線と燃え滾る熱の視線が交差する刹那、はらりと紙がなびき立つ。

 

「ダンテ、やれぃ!!」

 

 地面より浮き上がる光の文字。そこは先程、ダンテが紙を撒いた場所だった。

 誘き出された。それに気付くと同時、

 

「『至高天に輝け、永遠の淑女(ディヴァーナ・コンメディア)』!!」

 

 固有結界の遠隔展開という絶技が、ここに成された。

 ───白き花弁が世界を覆う。

 現実を塗り潰す幻想。イタリアという局所ながらもバベルの塔より続く言語の壁を破壊した詩人の言葉の前には、この世界はあまりにも脆かった。

 花弁が弾ける。

 光輝が辺りに満ちる。

 無数の魂で構成された白薔薇の大輪が、無上の天にて爛漫と咲き誇る。

 無尽無辺にして全ての初発たる神の愛が覆う至高天にて、鬼と剣が抱いた想いは奇しくも同じだった。

 

「「人は、こんなものを紡げるのか」」

 

 異教の神なれど、此処に至った詩人の想いは伝わる。

 それは一時、両者の頭から戦いというものを忘れさせた。

 そして、永遠の淑女は降臨する。

 鬼殺しの刀剣の魂を抱き、彼方の空へと。

 糸が切れた操り人形のように全身から力が抜ける。ダンテと清姫が勝利を確信したその瞬間、綱の足が天国の地を強く踏み締めた。

 本来なら消滅するはずの体も、その気配はなく。むしろ全身に戦意を漲らせ、彼の威容を増している。

 茨木童子はダンテを睨みつけて、

 

「おいダンテェ! 必殺と言ったのは嘘か!? ガッツリ生きておるではないか!!」

「まさかそこもフカシだったとは……」

「ち、違います! 確かにベアトリーチェは魂を連れていきました! 彼が生きているのはつまり……分霊! 神の魂が身代わりになったのだと考えられます!」

 

 永遠の淑女ベアトリーチェが天へ上げる魂はひとつ。天手力男神は自らの魂が消える代わりに、渡辺綱を生かしたのだ。

 

「これで、俺たちは真に対等だ。戦いを再開しよう」

「……望むところだ!!」

 

 天上の薔薇咲き誇る世界にて、剣戟の応酬が起きる。

 分霊の力は失われた。もはや渡辺綱に残されているのは、己が鍛え上げた剣技のみ。それも、先に負った傷が影響して本来の技の冴えは期待できないだろう。

 相手が、茨木童子でなければ。

 ───この技は、たったひとり、目の前の鬼を斬るためのモノだ。

 その昔、刀剣たる自分が初めて焦がれた女性がいた。

 命を奪うこの手では触れられぬ、触れてはならぬと思わせるほどの御方。結ばれずとも良い。報われずとも良い。ただ、あの人が生きて、幸せであれば他に望むことはない。

 それだけが、冷たき鋼のような心に熱を与えてくれたから。

 やがて彼女は子を産んだ。その子が育つ度に彼女の表情は色を失い、天女のような相貌は儚さを増していった。

 しかして、彼女は死んだ。

 鬼と化した我が子に、体を引き裂かれて。

 錯乱する思考はじきに一本の妄執へと収斂した。

 ───あの鬼は、俺が斬る。

 その時から、男が握る剣は鬼を斬るためのモノになった。

 彼女の子を斬ることに負い目はある。

 だが殺す。

 アレは何もしなかった自分の罪だ。

 だから殺す。

 それで、何が救われる訳でもないのに。

 それでも殺す。

 斬る。斬る。斬る。それだけを考えて剣を振るう。体の傷など関係ない。全身を走る痛みなどとうに忘れた。

 今度こそ、その首を獲る────!!

 

「『大江山・菩提鬼殺』」

「『大江山大炎起』!!」

 

 宝具の同時解放。

 鬼を殺す絶死の一刀と、灼炎逆巻く十十連撃。

 手数では勝負にならない。しかし、刃のひと振りに懸ける速さ、鋭さは前者が圧倒している。

 脳裏をよぎる結末は相討ち。この一撃が鬼の首を跳ね飛ばした直後、十連撃が自身を灰に変えるであろう。

 互いに互いの命が欲しい。

 互いに互いを殺したい。

 なら、その結果はきっと、これ以上ないものだ。両者の望みがどちらとも果たされることになるのだから。

 

「───『転身火生三昧』」

 

 …………それが、少なくとも、今この場においては間違いであったことを彼は知った。

 刹那の攻防に大蛇の顎が割り込む。龍への変身を成し遂げた清姫は下顎を切り裂かれつつも、綱の左肩から心臓までを喰い破る。

 

「綱よ。汝が知る吾であったならば、相討ちも是としただろう」

 

 薄れゆく意識。求め続けた鬼の声が頭に響く。

 

「しかし、今の吾は黄泉軍(よもついくさ)の総大将だ。道半ばで死ぬわけにはいかぬ。それが、勝敗の差だ」

 

 綱は微かに頬を上げる。

 ───ああ、俺は見誤っていたのか。

 俺は鬼を相手にしていたのではない。

 敵軍の大将を相手にしていたのだ。

 最初から敵の姿を捉えられていなかった。

 それが、偽りなき敗因だ。

 

「……見事なり、茨木童子」

 

 確かな感情を込めて、そう告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し時間を巻き戻して。

 地面に穿たれた大穴は暗い闇に埋め尽くされ、底を覆い隠している。

 スサノオがツヌグイを冥界に落とすために掘削した穴。荒ぶる神の名に恥じぬ、圧倒的な暴力。それを目の当たりにさせられたノアたちは、スサノオの拳風の余波で地面に転がされていた。

 マシュは平たい目で空を眺める。

 

「……もうあの人だけで良いのでは?」

 

 応える声はなかった。ノアは服についた土を払いながら立ち上がる。忌々しげに眉根を寄せ、ズレた帽子を目深に被り直した。

 

「あんなアホに任せてられるか。俺たちが汗水垂らして掘った銀を台無しにするやつだぞ」

「力の使い方が乱暴ですよね。さすが、荒ぶる神だけはあるっていうか。他の神様とは違う感じがします」

「アルテミスは普通にトライデントぶっぱしてきたけど?」

「あれは頭ギリシャだから……」

「お前らどんな体験してきたんじゃ?」

 

 本人の預かり知らぬところでスサノオと張り合わされるアルテミス。信長は思わず呆れた。実感を持ってこんな話ができるのはEチームくらいだろう。

 

「スサノオ任せにしないのは正解ですよ。アレは所詮戦う者、人間にとっては……いえ、神にとっても良い迷惑にしかなりませんから」

 

 上空より響く少年の声。もはやその声の主が誰であるかなど、考えるまでもなかった。信長は挑発するかのような口調で言う。

 

「アメノワカヒコ。一度儂らに負けた貴様が何の用じゃ? そのしぶとさは評価するがの」

「貴女は俺と戦ってないでしょう。そこの娘にしてやられたのは認めますが、人の手柄を横取りするとか恥ずかしくないんですか?」

「藤丸の手柄は俺の手柄だからな。こいつの武器も俺とダ・ヴィンチが造った以上、おまえは俺が倒したに等しい」

「なんですかその理屈!? 私の手柄はいつからリーダーの税率がかかったんですか!?」

「安心しろ、俺がかける税率は常に100%だ」

「手柄どころか会話を横取りするのやめてくれます?」

 

 アメノワカヒコは唾を吐き捨てるように言った。頭上を飛ぶ雉、鳴女を一瞥すると彼はだらりと下げた弓に矢を番え、不満げに鼻を鳴らす。

 

「じゃ、殺し合いますか。手加減はできないのでそのつもりで」

 

 どこまでも軽薄に、少年は矢を解き放った。

 語気とは裏腹に、鏃に込められた殺気は重厚。鋭い風の刃を纏う一射は、山をも容易く削り取る威力を秘めている。

 マシュはがばりと起き上がり、アメノワカヒコの一矢を盾で跳ね返す。

 

「チッ、良い盾ですね! 俺一応神なのに自信なくすんですが!?」

「神様だろうが何だろうが知ったことではありません。純真無垢の化身にして清らかな心を持つわたしの盾は無敵ですから!」

「寝言は寝て言いなさいアホなすび!」

「サルと張るくらいの自信家じゃのぉ!」

 

 ジャンヌと信長はマシュを押し退けて、それぞれ黒炎と銃弾を撃ち出す。

 先に到達するのは黒き熱線。アメノワカヒコを取り巻く旋風がカタチを変える。自由自在に空を舞う天の弓手は悠々と黒炎を回避した。

 続けて銃弾の雨をすり抜ける───その思考は肉体に連動せず、アメノワカヒコは空中に縫い止められたみたいに停止する。

 

「……『elder_rune_Ⅹ』!!」

 

 科学と魔術の融合術式、コード化された原初のルーンがアメノワカヒコの動きを止め、神秘殺しの弾丸が風の防壁を抜けて肉体を穿つ。

 日ノ本の神仏、権力者を時に利用し時に蹂躙した織田信長は神性や神秘に対しての特攻を有する。天より降りた神であるアメノワカヒコにとってはまさしく天敵。風の防壁も意味をなさなかった。

 ノアは黄金の腕輪を投影し、それを二振りの剣に成形する。

 『必勝の剣(フレイ・ヴェルンド)』。自動的に敵を討つフレイ神の剣が空を滑り、アメノワカヒコを付け狙う。

 

「藤丸、おまえはあいつの動きを止めることに専念しろ。いくら不死身だろうがヤドリギをぶち込めば死ぬ。とにかく動けなくすればこっちの勝ちだ」

「はい! それじゃあ、ジャンヌと信長さんはなんとかして撃ち落とすってことで!」

「ま、それしかないわね。私が消し炭にして終わらせてあげるわ」

「しかし油断は禁物じゃぞ! 今川義元然りわし然りな!」

「それ自分で言っていいんですか!?」

 

 立香の声を背で受けながら、信長は展開した銃列から砲火を噴き上げた。

 アメノワカヒコが選んだ手は急降下。大気に風の波紋が広がり、地面の間近を滑るように飛行する。

 一秒間に二十度の射撃が放たれる。それらひとつひとつが天津風を纏った風の槍となって、敵陣を襲った。

 ノアはゲンドゥルの杖を引き抜くとともに、オーディン第五の秘法を唱える。

 

「『矢避けの呪法(Elder Rune Ⅴ)』」

 

 大神オーディンが得た第五のルーン文字は投げ槍をひとにらみで落とすと言われる。転じて、それは飛び道具から戦士を護る意味を持ち、その通りに風の矢のことごとくを撃ち落とした。

 そして、二振りの剣がアメノワカヒコの胸を裂き、左腿の肉を削り飛ばす。

 血の粒が風に乗る。無数の赤い雫が少年の周囲を彩り、彼は笑った。

 

「この程度か、人間。そんなので俺を殺せると思うな……!!」

 

 ───それこそが、自分の願いだ。

 見ろ、タカミムスヒ。

 人間はこんなにも強い。サーヴァントという存在に固定された身であれ、彼らは俺を圧倒している。

 何が東征軍。何が高天原だ。お前らのためになんて戦ってたまるか。一度武力で支配したこの土地を、もう一度武力で取り戻そうなど、その愚かしさに反吐が出る。

 そう、結局。お前たちは自分の都合しか考えていない。神が神であるのを良いことに、人から供物を搾り取っているだけだ。

 だからこそ、俺は天の法ではなく地の理を選んだ。

 遥か高みから人を見下ろすだけの貴様らよりも、この地上で人とともに生きることを選んだオオクニヌシに付き従った。

 だけど、俺はどこまでも馬鹿で。

 他人の言葉にそそのかされて、天の使者を射殺してしまった。

 使者を殺すということは実質的な宣戦布告だ。俺の行いが原因で、高天原は武力行使の大義名分を得た。

 そう、つまるところ。オオクニヌシが天に国を譲ったのは、俺の愚盲さが故だ。

 そんな俺に、こんなことを望む資格はないかもしれないけれど。

 この戦いで、俺は誰も殺したくない。

 たとえ天の命令に肉体を操作されていても、その意志だけは貫き通す。

 だから、頼む。人間たちよ。

 愚かで、幼稚で、能無しで、役立たずで、救いようがなく、どうしようもないこの俺を。

 お前たちの手で─────グッチャグチャに、ブッ殺してください。

 

 

 

 

〝───天の下僕如きが、何考えてるんですかぁ?〟

 

 

 

 

 頭の中に響く声。

 その冷たさに、息を詰まらせたその瞬間、肉体の操縦権は完全に天の意思へと手渡された。

 

「 あ 」

 

 右脳と左脳の間に仕切りが立てられる。

 思考はできているのに、体が動いてくれない。

 否、体は動いている。前よりも強く速く矢を射ち、一帯の全てが肌で知覚できるほどに感覚が研ぎ澄まされている。

 風の後押しを受け、飛行速度は音速の十倍に達する。炎も、銃弾も、必勝の剣も置き去りにして、アメノワカヒコは飛翔する。

 

「く……いきなり動きが変わって───!?」

「立香、ノアトゥール、さっきの相手を止める魔術はいけるか?」

「やろうとはしてるんですけど、すぐ逃げられるというか……そもそも速すぎて狙いが定まりません!」

「アホ白髪、いつも大口叩いてるアンタでしょう。なんとかしなさい」

「おまえに言われるまでもねえ。俺の天才たる所以を目に焼き付けろ」

 

 アメノワカヒコを追っていたフレイの剣が溶けた黄金となってノアの元に帰る。腕輪の形状に戻す過程を省略して、新たなる神具を投影する。

 

「『夜天の星眼(スィアチ・アーガ)』」

 

 輝く二つの光球が上空に打ち上がる。まるで花火のように空を飛ぶソレは弾けることはなく、雲の下で滞空した。

 それこそはオーディンが天空に浮かべたスィアチの双眸。神々の花嫁スカディを娘に持つ巨人である。

 北欧神話の神々に不老を約していた黄金の林檎。スィアチは林檎を管理する女神イズンを攫い、その咎で殺害される。しかし、後にかの大神はスカディとニョルズの婚約の際に、バルドルを夫として望んでいた彼女の心を癒やすため、父の目を空に上げて星としたのだ。

 故に、スィアチの眼球は地上を見通す。

 ノアの視覚には、マッハ10で移動するアメノワカヒコの姿さえもはっきりと映されていた。

 

「藤丸、手を貸せ。視覚を繋げる」

 

 無作法に伸ばされた手を、立香はおずおずと握る。

 自分のそれよりも一回り以上は大きく、骨ばった左手。自然と緩みそうになる表情を必死に締めつける。この距離なら、心臓の鼓動も悟られないと確信して。

 アメノワカヒコの対魔力はA+ランク。ノアが扱う原初のルーンは魔術である以上、敵には効かない。だが、立香のコードキャストならば十全とは言えぬまでも効果を発揮するだろう。

 立香はノアを介して、上空に瞬く星の眼に接続する。普段とは全く異なる視界。膨大な情報量に頭が眩むのを、気力で何とか抑えつけた。

 視界を絞り、アメノワカヒコを捕捉する。吊るような笑みを張り付けていた彼の顔に、彩りは存在しない。石膏で固めたような無機質さはマネキンや人形のようだ。

 

「三つ数えたらコードキャストを使います。後はジャンヌと信長さんに任せます」

 

 頭上からの視界で、二人が頷くのを確認する。立香はアメノワカヒコの変わりように違和感を覚えつつも、術式を起動した。

 

「さん、に、いち───『elder_rune_Ⅹ』!」

 

 合図に合わせて、焦熱の火線と神秘殺しの銃弾が標的に殺到する。

 アメノワカヒコがそれを避けることはできなかった。竜の息吹に等しい熱線が風の防壁を突き破り、五体を炭に変える。直後に無数の弾丸が脆く炭化した肉体を崩壊させた。

 再生の隙を突く。ノアは立香の手を放して視界の接続を切り、ヤドリギをアメノワカヒコの残骸へ撃ち込む。

 

〝タカミムスヒの権能は確か、これでしたね〟

 

 だがしかし。

 黒い炭の山と化したはずのアメノワカヒコは、時間を巻き戻したかのように元の姿に戻り、弓矢を構えていた。

 

「〝俺が愚か者であるならば、この矢は当たる〟」

 

 アメノワカヒコの宝具は『誓約(うけひ)』の一矢。自分からして相手に関する不確定的な事柄を推理し、言い当てることによって、その一射は因果を捻じ曲げて敵の心臓に必中する。

 だが、それは到底『誓約(うけひ)』とは呼べぬものだった。占いとは未知を知るためのものであり、自明な事実を占うことはない。

 それでも、これは宝具の発動条件を満たした。

 なぜなら、彼を依り代としているのはタカミムスヒ。高天原における根源的なエネルギーであり、法則そのもの。日ノ本で行われる全ての『誓約(うけひ)』の決定権を、この神は持っている。

 

「『天下る糾罪の矢(あめのはばや)』」

 

 だから。

 その矢は、絶対に当たる。

 どさり、と誰かが崩れ落ちる音がした。

 血に濡れた一本の矢。胸の中心を深々と突き刺す。少女は、声を詰まらせて叫んだ。

 

 

 

 

「────先輩!!」

 

 

 

 

 鮮血を流して倒れる赤毛の少女。その目は限界まで見開き、瞳孔が小刻みに揺れる。息を吸い、出てくるのは粘ついた血液。じわりじわりと、服の白地が赤く染め上げられていく。

 マシュとジャンヌが咄嗟に駆け寄るのを、ノアは漂白された感覚の端で捉えていた。

 ───唇からか細い息が漏れる。脳髄が凍りつき、指先が感覚を失う。周りで響く声はどこか遠くのことのように聞こえる。

 こんなことは、前にもあった。

 一族の全員を皆殺しにしたあの日。

 しんしんと雪の降るクリスマス。

 血の海に伏せる親子の死体。

 魂の芯まで凍るような寒さの中、泣いたことを覚えている。

 これはその再演か。

 否。断じて認めない。

 その絶望は、とうに乗り越えた。

 

「俺が治す。おまえらは、あいつを殺せ」

「……応。いけるな、二人とも」

 

 ジャンヌは旗の柄をへし折らんばかりに軋ませて、立香の側から離れる。彼女の下唇は噛み切ったのか、一筋の血が伝っていた。

 

「当然よ。マスターをこんなにされて、サーヴァントが黙ってられるはずないでしょう。……ええ、ブッ殺すわ」

 

 一拍、間を置いて。マシュもジャンヌに続く。まぶたに滲む涙を流れる寸前で堪えて、

 

「治療を行うなら、守る役割が必要です。いつも通り、わたしにやらせてください」

「分かった。すぐに取り掛かる。死ぬ気で俺を……こいつを、守れ」

「───はい!」

 

 ノアは立香の横にしゃがみこむ。

 周りの状況を把握する必要はない。

 Eチームの盾を疑う余地など一切ない。

 胸元をはだけさせ、患部を解析する。その折、カルデアからの通信が入った。

 

「『ノアくん、ボクも手伝うよ。ここからでもサポートくらいはできるから』」

 

 ノアは傷から全く視線を外さずに返答する。

 

「ああ、頼む」

 

 短く、素っ気ない返事。しかしそれは集中の表れだ。ロマンも当然理解しているし、咎めるつもりは毛頭ない。

 だからこそ、彼は大人としてやるべきことを見極める。ノアが立香を治療するというのなら、彼を助けるのが自分の役目だと。

 ノアの邪魔をしないように、優しく、柔らかく言う。

 

「『キミなら大丈夫だ。もう、あんなことは二度と起こらない』」

 

 ───ああ、知っている。

 この世界に、都合よく人間を救ってくれる存在なんていない。

 眼前の不幸を変えられるのは自分だけだ。自分しかいない。自分しか頼れない。いくら神や世界に文句を吐こうとも、何かが変わって誰かが救われることなんてない。

 言葉は無力だ。

 人を殺すことはできても、人の傷を治すことはできない。

 そこで、立香と目が合う。胸を貫かれた痛みと、呼吸ができない苦しみの最中で、彼女はそれでも意識を手放していなかった。

 すがりつくような眼差し。けれど、目が合った途端に目の色は柔らかくなり、血濡れた口元が気丈に微笑む。

 

(…………くそ)

 

 一体、いつから。

 おまえは、俺の心に住み着くようになったんだ。

 ───言葉は無力だ。だが、それこそを望んでいるとしたら。

 

「冬木の特異点から戻った後に言ったことを覚えてるか。……今、それを果たしてやる。安心して眠れ」

 

 …………うん。確かに、覚えている。

 あの時、リーダーは私の手を握り返して。

 

〝……藤丸。おまえは死なせない〟

 

 大丈夫。覚えている。絶対に忘れない。

 いつもヘンテコなことばかりを言うけど、あの言葉が嘘じゃないってことだけは絶対に信じられる。

 だから、ああ。あなたに、そんな苦しそうな顔をさせたくはなかった──────

 

「…………は、ははっ。くそ。ああ、結局また、これか」

 

 脳の真ん中に立てられた仕切りが取り払われる。

 アメノワカヒコは何もかもを諦めたように笑う。そんな彼を嘲るかのように、ひとりでに肉体が動き、矢を弓に番え放った。空を裂く一射。ジャンヌはそれを真っ向から叩き落とし、空中へ跳ね上がった。

 自らの炎を推進力として飛翔する荒業。しかしそれ故にアメノワカヒコの意表を突き、

 

「堕ちろ!!」

 

 黒炎を宿した旗のひと振りが、彼を墜落させる。

 打撃をくらった頭部は一瞬にして燃え尽き、それでも首から下はなおも動く。自身に対する特攻を持つ火縄銃の弾も、修復される体には無意味。発砲音とともにゆらゆらとステップを踏みながらも、矢を撃ち返す。

 頚椎が生え、頭骨が足され、肉と皮がその上を覆っていく。復元された少年の顔を見て、信長は眉をひそめた。

 

「アメノワカヒコ。貴様は、なぜ戦う」

「それを訊く意味が、どこにある」

「なに、単なる疑問じゃ。狂を発したかと思うたが、少々込み入った事情があるのじゃろ」

「人の心が分からない故に死んだ貴女に、何が分かる」

「分かるとも。お前の頬に伝うものを見れば、何かがあることはわしにも分かる」

 

 ふと、アメノワカヒコは手を顔に添えた。皮膚を濡らす熱い液体。それが何であるかなど、誰の目にも明白だ。

 ばきり、と顔の奥で音がする。砕けた奥歯を飲み込み、少年は表情筋を歪める。

 それは笑顔とも、憤怒とも似つかぬ異形。

 ───俺は、この役目を貫き通す。

 

「愚かで、幼稚で、能無しで、役立たずで、救いようがなく、どうしようもない人間たちよ」

 

 そこから先は、泥沼だった。

 

「───俺を、殺してみせろ」

 

 夢遊病のように戦う。既に地に落とされた彼に、勝ち目はなかった。行動のことごとくを叩きつぶされ、それでも踊ることだけはやめない。踊らされることだけはやめられない。

 何度も血を流して再生して。

 終わりが見えぬ舞踏は、

 

「投影、『大神の魔槍(グングニル)』」

 

 どこからともなく現れた槍に心臓を貫かれ、幕を閉じた。

 一度手を離れれば、必ず敵を突き刺すオーディンの槍。かつて霧の都で見た神具の模倣。それはノアの無属性投影魔術によってさえ、一秒しか形を保てぬ武装であった。

 傷口から染み込むルーン文字が、アメノワカヒコの肉体に死を刻み込む。いくら修復を成そうとも、魂が死に誘われる以上、動かすことなどできない。

 ノアは神殺しのヤドリギを突きつける。

 

「言い残すことはあるか」

 

 ───地上の日々が、脳裏に蘇る。

 

 

 

 

 

 

 高天原の司令を受け、出雲に降り立ったその時、真っ先に抱いた感情は嫌悪感ただそれだけだった。

 何もかもが清らかで、完成された天の世界とは比べ物にならぬ異郷。日々変わる天候に左右され、この地に住まう人々はいつも何かに追われている。

 こんな世界は、天の威光のもとに掌握されるのが妥当だ。そう思った。

 けれど、それはひとりの男に出会ったことで変わった。

 

〝天上の御使いですか。それはそれは、長旅だったでしょう。是非、おもてなしをさせていただきたい〟

 

 オオクニヌシ。前人未踏の大偉業、国造りを成し遂げた英雄は拍子抜けするほどに柔らかい笑みで、天の遣いを受け入れた。

 他の神には警戒する者もいたが、彼はそれを宥めて、アメノワカヒコを歓待した。

 その宴は天上のそれと比べれば質素にすぎる代物だったが、人間たちが育てたという作物を使った食事は、

 

〝……あたたかい〟

 

 太陽の女神の完璧な統治のもとに育てられたモノよりも、よほど。

 神よりも弱く、不完全な人間が、こんなものを作れるのだと、初めて知った。

 そこからの時間は、矢のように過ぎ去っていった。この地上を支配せよという天の命令を果たすためにはまず、人間のことを知らねばならないと考え、オオクニヌシのもとで生活を送った。

 椀一杯分の稲を育てるだけでも、果てしない労力が要る。種を撒く時期を見極め、突然の嵐に備え、稲が病気にかからぬように目を配る。

 そうして穂を垂れる稲を収穫しても、少し油断すれば容易く腐り、鼠に食い荒らされることもあった。

 稲作ひとつ取っても、地上の生活はこんなにも過酷だ。

 だけど、国津神の恵みを護り育て生きる人々は、当然であるかのようにそんな生活を送っていた。

 ある時、オオクニヌシは言った。

 

〝アメノワカヒコ。私の娘を娶る気はありませんか〟

〝…………はあ? 懐柔策にしても下劣ですよ、それは〟

〝そういう訳ではなく。貴方なら娘を任せられるのと……私の理想のためです〟

 

 目を細めて訊き返す。それはどういうことか、と。

 

〝この国を率いるに足る神は三柱。天に坐す太陽の女神と、我が祖神スサノオ。それと、まあ、私です〟

〝自意識過剰、とは言いませんよ。自分でそれを言うかとは思いましたけど〟

 

 オオクニヌシは微妙な顔をして続ける。

 

〝私たちの特性はそれぞれ異なります。太陽の女神は『統治する者』、スサノオは『戦う者』、私は『産み育てる者』……さて、人間たちにとって誰が良いと思います?〟

〝とりあえずスサノオは駄目ですね。絶対に。やることなすこと滅茶苦茶で、権能の使い方も下手な馬鹿ですから〟

 

 オオクニヌシの顔がさらに微妙な表情になっていく。祖神を揶揄されたにも関わらず、彼は思うところがあるのか、その話題に踏み込むことはしなかった。

 

〝私はこう考えます。我ら三柱の神が、共にこの地上に法を敷くべきだと〟

 

 国家の頂点として太陽の女神が君臨し、武力機構はスサノオが担う。そして、自分はその下で生産者としての立場を果たす───オオクニヌシは、そう語った。

 

〝……ですから、天の神である貴方と地の神である私の娘とで、その架け橋になってほしい〟

 

 彼は、手を差し伸べて。

 

〝────共に、理想の世界を創りましょう〟

 

 オオクニヌシの国造りは終わっていなかった。彼が理想とする三神の統治こそが、国造りの終わりなのだ。

 アメノワカヒコはその手を取った。

 この男が創る世界を見てみたいと、痛感した。

 

〝で、あなたと結婚するのね。顔は良いけど、性格の悪さが滲み出てるわ〟

〝貴女は性格の悪さを隠そうともしないようですね? その目元のキツさは化粧でもどうにもならなそうですが〟

〝ああ、ごめんなさい。あなたみたいな背の低い男に言われても全く響かないわ。力しか取り柄がないスサノオ様に頭を引っ張ってきてもらえば少しは伸びるかもしれないわよ?〟

〝は? そんな訳ないでしょう。理屈で物を考えられないんですか貴女は。どうやらまだまだ勉強が足りないようですね。今の貴女はスサノオと同じくらいアホですよ〟

〝え? ねえなんでこいつら儂に流れ弾当ててんの? 酷くない?〟

 

 …………オオクニヌシの娘、下照比売命(シタテルヒメノミコト)

 軽口を叩き合う彼女との生活は、まあ、悪いものではなかった。父と同じように草花を愛で、民を慈しむ姿は俺にはもったいないくらいだった。

 

〝……ふふっ。どうせなら、この国をあなたのものにしてみる? なんてね〟

 

 いたずらっぽく笑うその顔が、愛おしかった。

 それでも、終わりは訪れる。

 俺は天の使者である鳴女を、他人の言葉にそそのかされて撃ち殺した。

 それが叛逆の証であると見做され、タカミムスヒの矢に胸を貫かれたのだ。

 分かっている。俺の天への憎悪は逆恨みだ。───人間と育てた稲だって、天の太陽がなければ育たないのだから。

 全ては俺の愚かしさが招いた罪。赦しは望まない。裁き続け、償い続けることだけが望みだ。

 でも。

 これだけは信じてほしい。

 俺には天への逆心と邪心もなく。

 ただ───────

 

 

 

 

 

 

「────ただ、俺はあの暖かい場所にいたかっただけなんだ」

 

 地面に倒れ、太陽を見上げる彼はそう呟いた。

 ノアの瞳孔が開く。

 表情が固まり、薄い唇が強く引き締まる。

 …………くそ。おまえも俺と、同じか。

 ヤドリギをアメノワカヒコの左胸に突き立てて、告げる。

 

「喜べ。おまえは誰も、殺さなかった」

 

 顔は見ない。即座に踵を返し、立香のもとへ戻っていく。

 その途中で、土を擦る音がした。

 

「……リーダー」

 

 マシュの視線に目線を合わせる。

 そこには、胸をヤドリギに貫かれながらも立ち上がるアメノワカヒコの姿があった。彼は最後に残った矢を引き絞っていた。

 ヤドリギが効かなかったのか。否、彼はとうに死んでいる。神であり、不死であるなら、ヤドリギは問答無用でそれらを殺す。

 ならば、最後の最後、彼を動かしているのは天の意思でも何でもなく、アメノワカヒコ自身の意地だった。

 その鏃が向く方向は大きく広がる青空の中心、輝く太陽。

 最期の一矢。アメノワカヒコは力強く、タカミムスヒへと宣誓した。

 

「〝()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!!〟」

 

 果たしてその矢がどこへ、どこまで翔んでいったのか、射った本人にも知る由はない。

 だが、天の法たるタカミムスヒはこの場の誰にも知られることなく。

 

〝…………痛い、痛い。痛いです。神如きが、私の玩具風情が、よくもこんな───!!!〟

 

 その矢を、返してみせた。

 アメノワカヒコは消滅の間際、意地の悪い笑みを浮かべて、

 

「ハッ! ざまあみろ……!!」

 

 命中の感覚を手に、金の粒子となって解けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗く、粘ついた泥の中から引き上げられるように目を覚ます。

 ゆっくりと上体を起こし、ぼやける目を手で擦る。その拍子にずるりと掛け布団が落ち、そこで自分が寝ていたのだと言うことをぼんやりと思い知った。

 なんとなしに胸に手を置く。背中まで貫通した傷はそれが嘘だったみたいに塞がっていた。むしろ傷跡もなく元通りになっている。

 頭を左右に振って、周囲を把握する。どこかの建物の一室であることは確かだが、見覚えがない場所だった。

 ───とりあえず、こういう時にやることは決まっている。

 がばりと上体を後ろに倒し、布団を掛け直す。天井を見上げ、呆然と呟く。

 

「知らない、天井だ……」

「何言ってんだアホ」

 

 べしん、と冷水を含んだ手拭いが顔面に叩き落とされる。

 立香はそのまま口をもごもごと動かして、

 

「何するんですかリーダー。せっかく私がロボットアニメ主人公の気持ちを味わってたのに」

「おまえのジャンルはロボットアニメじゃねえ、鼻毛系ギャグ漫画だ」

「そんなのひとつしかないんですけど!? あの世界でやっていける自信なんてないですよ!」

 

 手拭いと布団を跳ね除けて起き上がる。

 隣には帽子を外したノア。左手にはなみなみと粥が注がれた赤い茶碗を底から持ち上げている。白い米粒の中にこれまた赤い匙が突っ込まれていた。

 手袋のおかげか手の皮が厚いのか、熱くはないらしい。面の皮が厚いことは確かだが。

 

「それで、ここは何処なんですか」

「太宰府だ。残りの天御柱は高千穂にあるからな。おまえが眠りこけてる間に関門海峡を越えてここまで来たんだよ」

「太宰府……歴史苦手な私にはさっぱり分かりませんね。ところで、お腹空いたんですけど」

 

 そう言うと、ノアは無言で茶碗を差し出した。立香は真っ直ぐにノアの瞳を見て言う。

 

「食べさせてください」

「……子どもか、おまえは」

「高校生なんてまだまだ子どもです。さあ、その白くて熱いモノを私の口に突っ込んでください!!」

「おいやめろ!! この世界が終わる(BANされる)ぞ!!」

 

 ノアはため息をついて、匙で粥を掬う。立香は餌付けされる雛鳥のように、唇でそれを受け止める。すると、じゅっととてつもない熱感が迸った。

 

「あっつぅ!!? なんで冷ましてくれなかったんですか!!」

「おいおい、注文が多いな。オプションが欲しいならそれなりのもんを払いやがれ」

「いかがわしいお店みたいなこと言わないでください」

 

 仕方がないので、自分で息を吹きかけてから粥を口に運ぶ。

 数分、無言の時間が続き、立香は米粒ひとつ残さず粥を平らげた。ほう、と息をついて、ぬるい水を嚥下する。

 

「ごちそうさまでした。リーダーも、ありがとうございます。私の怪我を治してくれて」

「Eチームのリーダーだからな。当然のことをしたまでだ。……それはそれとして、五体投地して感謝しろ。俺の恵みを受けたことを日々思い知りながら生きていけ」

 

 立香はくすりと微笑み、右手でノアの手を取る。

 

「……はい。良いですよ。私だって、感謝してますから」

 

 思わぬ肯定。ノアは面食らった顔をする。その面持ちはすぐ取り繕うように変わるが、動揺は隠せていなかった。

 彼は小さく舌打ちする。

 

「…………他の奴らを呼んでくる。手を離せ」

「嫌です」

「はあ?」

「まだ、二人きりが良いです」

 

 心の内から浮かぶ想いを、繕うことなく言葉に乗せる。俯いて彼の顔を見ることはできないけれど、言葉は無力ではないと思うから。

 

「リーダーって、自分の過去のことは深堀して喋らないですよね」

「……偶々その機会がなかっただけだろ。それがどうした」

「だから、私に教えてください」

 

 右手の上に、左手をさらに重ねる。

 

「どうしてカルデアに来たのか……あなたのことが、もっと知りたいんです」

 

 勇気を出して、その顔を見上げて、そう言った。

 

「…………面白さは期待するなよ」

「知りたいだけだから、そんなのどうでもいいです」

 

 ノアは嘆息して、微かに笑んだ。

 

「仕方ねえな。話してやる。耳の穴かっぽじってよく聴け」




・アメノワカヒコのステータス
クラス︰アーチャー
真名︰天若日子
属性︰中立・善
ステータス︰筋力 B 耐久 B 敏捷 A+ 魔力 A+ 幸運 D 宝具 B
クラス別スキル
『単独行動︰A+』……マスター不在でも十二分に活動できる。アメノワカヒコは高天原から地上に降って、八年間オオクニヌシの国を満喫していたのでこのランクになっている。
『対魔力︰A+』……神様で神秘が名古屋飯の味くらい濃いので当然対魔力が高い。コードキャストが直撃しても動きを止められたのは一瞬だけだった。
固有スキル
『神性︰A』……神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊の混血とされる。アメノワカヒコは天津国玉神という天津神の息子で、自身も天津神として生を受けている。なので神性は文句なしの最高クラス。
 ちなみに、記紀神話にはよくあることだが、天津国玉は果てしなく影が薄い。一応、アメノワカヒコの葬儀の際には天から駆け付けてきてくれているので、親子仲は悪くなかったのだろう。
『疾風の葬送︰B』……アメノワカヒコの喪屋を天へと飛ばした風。喪屋とは遺体と家族が喪中に籠もる建物のこと。死とは最大級の穢れなので、それが母屋に伝染しないように新しく喪屋を建てる。大変。
 古事記では登場せず、日本書紀にだけ見受けられる。自分を天へ上げた天津風を操ることができる。また、高天原に吹く聖なる風なので穢れや呪いを跳ね除けることもできる。矢に纏わせて射つことで、山を削り抜く威力にもなる。矢を射るだけでは地味なのでなんとかこじつけたスキルである。
 ここではアメノワカヒコ死亡→地上で葬儀が行われる→アヂスキタカヒコネが喪屋を斬る→疾風に打ち上げられるという流れに改変している。
『紅顔の貴公子︰A』……とっても美形。アメノワカヒコの名前は〝天の若い男〟という漠然すぎる意味なのだが、美しく若い男の悲劇という、カレーにカツを載せてチーズまで追加したような彼の話は昔の人々にとてもウケた。また、若い男というイメージから少年の姿で召喚されることが多い。時に七夕伝説と結び付けられて御伽草子に天稚彦物語があったり、宇津保物語や狭衣物語にも天から舞い降りて来る音楽上手な美男子として、アメノワカヒコは登場する。つまり、ある種イケメンのテンプレートとして扱われた。…………のだが、本編で会った女性がEチーム三人娘に恋愛脳精霊、敦盛ダンサーの変人揃いだったので特に役立つことがなかった。その美貌で女性を狂わせたディルムッドのような逸話がないので、魅了効果を持っていないのも一因である。アメノワカヒコが飛べるのはこのスキルのおかげでもある。
宝具
『天下る糾罪の矢』
ランク:B 種別:対人宝具
 あめのはばや。アメノワカヒコがタカミムスヒから譲り受けた弓矢を使い、『誓約』を行うことで発動する。『誓約』に勝利した場合、相手の心臓に回避・防御不可の矢が出現する。心臓、もしくは心臓にあたる部位がない場合は強制的に弱点を創り出し、それを撃ち抜く。
 『誓約』を行う条件は何でも良いという訳ではなく、アメノワカヒコの主観では確定していない相手の事実について、それが真か偽か当てなくてはならない。なので、ノア相手に「地球が回っているならこの矢は当たる」などといったことはできない。「ノアがクズならこの矢は当たる」であればイケる。判定はタカミムスヒが行う。
 例えば、アメノワカヒコがアストルフォを見て「どう見てもこいつは女だろ。絶対」と思えば、それについて『誓約』をすることはできない。逆に、「伝承では男? どっちだ!?」となれば、それはアメノワカヒコの中で確定していない情報なので宝具を使用できる。が、その上でアストルフォの性別を当てなくてはならない。もちろん外れたら不発になる。また、性別を当てる『誓約』の場合では、女性の体で性自認が男性といったカイニスのような存在は性自認を当てる必要がある(見た目が女性なのは分かりきっているため)。デオンのような性別不明組も同じ。果てしなく難しいので、これを当てるくらいならアメノワカヒコは別のことを予想するだろう。
 正直、外れてもデメリットがないので片っ端から予想して宝具を連発できるのが強みではある。魔力消費も格段に安く、一般的な魔術師なら普通に戦わせていた方が魔力の消費がキツいほど。しかし、単独行動スキルのおかげでそれも解消できる。初心者に優しいサーヴァント。
 アメノワカヒコは自分の幸運がアレなのを理解しているので、あまりこの宝具を使いたがらない。あと単純にタカミムスヒが嫌い。
 アメノワカヒコの葬儀にはアヂスキタカヒコネという神が唐突に登場する。彼はアメノワカヒコに瓜ふたつの容姿をしていて、親戚一同はその顔を見てアメノワカヒコが生き返ったと勘違いしてしまう。が、古代の日本では死者=穢れなので、そんな死者と間違えられたアヂスキタカヒコネはキレてアメノワカヒコの喪屋を剣で切り倒してしまう。怒って去っていくタカヒコネだが、アメノワカヒコの妻のシタテルヒメは自分の兄だと説明する……というのが記紀で共通する流れ。古事記ではタカヒコネが喪屋を斬った後に蹴り飛ばすのだが、それがなんと美濃国まですっとんで喪山になったという。筋力A++は固い。実際に現代の岐阜県には喪山天神社という神社がある。
 これは古代の農耕儀礼を色濃く残した神話であるという説がある。アメノワカヒコが亡くなった後に、似た顔のタカヒコネがやってくるのは冬に枯れた穀物が春に復活する流れを表しているのだとか。こじつけにも思えるが、アメノワカヒコは穀物神として祀られることがあったり、日本の神々は外国と比べて圧倒的に農耕神が多いので、可能性は高いと思われる。

・神様解説、アマツミカボシ・タケハヅチ編
 アマツミカボシは記紀神話に登場する数少ない星の神である。古事記には登場せず、日本書紀にだけ見られる。天津甕星(天上にある甕のような星、天上の神威の盛んな星)や、天香香背男(天上で光り輝く男性)などといった名前を持っている。
 アマツミカボシが金星を表す説は平田篤胤など、江戸時代の国学者が発端。広く星を表す神である説もあるが、金星説が優勢なようである。この金星を象徴する、天に叛逆するというだけでルシファーと結びつけたりする説もあるらしい。こじつけがすぎる。
 タケミカヅチやフツヌシといった、スサノオを除くならトップクラスの武神を返り討ちにした。その後にアマツミカボシを服属させたのがタケハヅチである。タケハヅチは織物の神様であり、とても戦闘には向かなそうなのだが、二大ビッグネームの武神ができなかったアマツミカボシの服属を成し遂げている。
 これにはいくつかの説がある。
 ①建葉槌は文字を入れ替えると武刃槌とできるため、実は武神であったという説。
 ②織物の中にアマツミカボシを織り込んで封印したという説。
 ③戦いによって服属させたのではなく、他の搦め手を使って籠絡した説。
 武力では従えられない相手なので籠絡する……といった③が流れとして綺麗だと思われるが、本編では見栄えを考えて②の説を採用した。


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第0話 disillusion

 北欧神話にはドヴェルグという妖精が登場する。

 アースガルズの神々が所有する宝具。人智を超えた機能を持つ武具・生物の多くが彼らの手によって創り出された。

 彼らはこの世ならざるモノを生み出す。それはアースガルズの神々ですら不可能な事象であり、しかし彼らは太陽の光を浴びると石になるという特性故に地下での生活を強いられたのだ。

 だから、数々の神具を造る力がありながらも───しばしば対立することはあるが───神に搾取される対象で在り続けるしかなかった。

 ……事の始まりは、神代の終わり際だった。

 北欧世界の神代の終わり、ラグナロク。

 全ての神が、巨人が、互いに互いを殺し合う終末戦争。ラグナロクとは神々の運命を意味する言葉だ。神々が辿る運命の結末は既に、巫女の予言によって決められていたのである。

 ラグナロクを経て滅び。

 そして、新生する世界に。

 光の神バルドルは戻り来たるのだ、と。

 

〝我が子はロキの奸計によって命を落とした。ラグナロクが始まる。全ての神々が死に、世界が絶える終焉の黄昏が〟

 

 それは、神話には記されぬ指令であった。

 とあるドヴェルグの一族の前に、その神は現れた。

 

〝ドヴェルグよ。お前たちは人の子と交わり、子を成すが良い。お前たちの子孫は太陽への耐性を得るだろう〟

 

 オーディンの妻にしてバルドルの母、フリッグ。北欧神話世界における最高位の女神は矮小なるドヴェルグへ、密かに告げたのだ。

 

〝───お前たちにふたつの命令を下す〟

 

 なぜなら、これを知られる訳にはいかなかった。

 狡猾なる神、ロキ。バルドルの殺害を計画し、連鎖的にラグナロクをも引き起こしたトリックスターがこれを知れば、如何な妨害をしてくるか想像もつかない。

 ラグナロクが始まればロキは洞穴より解き放たれる。ヘイムダルと相討ちになるまでに、この計画を悟られれば終わり。

 故に、このタイミングしかなかったのだ。

 

〝ひとつ。新たなる世に現れるヤドリギを見つけ出し、誰にも渡すな〟

 

 結局、彼女が動いた理由はひとつなのだろう。

 

〝ふたつ。遥かな時を超え、お前たちの子らより生まれる我が子バルドルの到来を待つがいい〟

 

 どこまでもフリッグは母であり神だった。

 夫たるオーディンは死ぬ。終末の魔狼フェンリルの顎に呑まれて二度と戻らぬ運命にある。

 だが、これは取り返しのつかぬ問題ではない。

 神々にとって何よりの痛手は、オーディンの王位の後継者であるバルドルを失ったことに尽きる。王の死が決定しているとしても、後継者さえいれば世界は続く。

 その存続の可能性を絶たれた時点で、北欧世界に先はなかった。

 フリッグは母であったから、いずれ復活する息子の安寧を望んだ。

 フリッグは神であったから、新生した世界で神の治世が戻ることを望んだ。

 そして、フリッグは母であり神であるから、矮小なる妖精や人間のことを理解していなかった。

 ───そうして、北欧の神代は終わった。

 母神の使命を授かった一族はヤドリギの探索を始めたが、それは難航を極めた。

 神殺しのヤドリギとは元よりこの世界に存在しなかった異物。ソラの外より来たりしモノであるが故に、それは世界から弾かれ、行方を晦ましたのである。

 それでも、その一族はヤドリギを探した。

 フリッグの使命とはすなわち運命の強制であり、預言であり、呪縛のようなものであったからだ。

 彼らは世界を巡った。

 ドヴェルグが持つ力を駆使して。

 茫漠と広がった砂漠を。

 神魔が闊歩する樹海を。

 幽玄なる極東の秘境を。

 閉ざされし北の絶海を。

 そして、海の果てに待つ氷の大地を。

 各地で人間の血を取り込み、子孫に望みを託していく。その過程で妖精の血は次第に薄れていき、超常を創り出す力も失われていった。

 長き旅路の果てに、彼らが神殺しのヤドリギを見い出したのはブリテン島。西洋において、最後まで神秘が残った島に、ヤドリギはあった。

 その理由は分からない。

 単なる偶然か、島に住まう妖精たちが先に発見していたのか、神秘の残り香に惹かれたのか、はたまた、定められた運命の導きか。

 

 

 

 

 ──だから、何としてでも伝えなくてはならない。何としてでも残さなくてはならない。 

 其は神代の秘蹟、奇跡の具現。 

 いつか神秘が消え失せるその時まで。

 未だ見ぬ子孫の人生をも犠牲に、この聖枝を護り抜こう。

 

 

 

 ともかく、それがきっかけだった。

 ドヴェルグの血を引く一族は生まれ変わったのだ。

 魔術師の家系、ナーストレンド家として。

 彼らの目的はヤドリギの保存。血統の維持。そのためにドヴェルグたちが住んでいた地下の村に戻り、外部との交流を遮断した。

 それだけでは足りない。この場所とて誰かに見つかる可能性がある。そこで、彼らはヤドリギを肉体に埋め込んだ。一時期は一族のほぼ全員が死に絶えながらも、血脈を繋いだ。

 ヤドリギとの融合はナーストレンドの魔術師たちにひとつの可能性を与えることとなる。

 架空元素・無という魔術属性。

 そして、この世ならざる物質・事象を創る無属性魔術。

 ヤドリギという神代の神秘を取り込むことで、擬似的な先祖返りを起こしたのであろう。それが、何人もの先代たちによる考察だった。

 数百年を掛けてヤドリギとの適合を果たし、およそ1000年が経った頃。

 暗く冷たい地の底で、ひとつの産声があがった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────最初の記憶は、自分の体にまたがる母の顔だった。

 

「…………バルデルス。バルデルス、バルデルス」

 

 唇の端から息が漏れる。

 体が跳ねる。

 意識が沈み、感覚が凍る。

 ぎしりと首に突き立つ十本の指。爪が皮膚を破り、血を滲ませる。それでも痛くはなかった。苦しくはなかった。そんなことを伝える感覚は途絶えていたから。

 肺に残ったなけなしの酸素を絞り出す。吐息めいた言葉が冷たい空気に溶ける。

 

「ありがとう、ございます」

 

 母は狂っていた。

 彼女は外の世界の人間だった。

 ヤドリギに適合する体質を、一族だけで継承させるには無理がある。近親間による血の繋がりは妖精の血を濃くする反面、遺伝的に重大な障害を子孫にもたらす。

 後者のデメリットは前者のメリットを遥かに上回る。それを解決する苦肉の策が、外部からの血を取り込むことだった。

 魔術師が求めるのは見目の美しさでも人格の清らかさでもなく、母体として如何に優秀であるか。一族は定期的に外の世界から母体として耐え得る人間を攫い、子を成してきた。

 元よりヤドリギを移植することで300年以上の寿命を得ている。頻繁に外に出る必要もなく、外部の目がつく可能性も低い。ヤドリギの保存を旨とするのなら、悪い手段ではないだろう。

 ただし、それは外道の理屈であって、外の世界に生きる者の理屈ではない。

 ある日突如連れ去られ、地の底に幽閉される。その苦痛と恐怖は余人の想像の及ぶところにはない。

 ましてや、他人の子を孕まされるなど。

 だから、これは仕方がない。

 そんな人に母としての役割を求める資格なんて、自分にはない。

 でも、嬉しかった。

 首元に残る指の跡。それだけが、母がくれたぬくもりだったから。

 

「明日は、雨が降るわ」

 

 母の部屋からはいつもそんな声が聞こえてきた。

 彼女の精神の構造はとっくに壊れていた。

 無理やり産まされた我が子を憎むと同時に、かの母神の役割にすがりついて生きていたのだ。

 すなわち、予言の力を持つフリッグとして、当たらぬ予言を繰り返し続けていた。この地の底では、空の色も見えないというのに。

 ドヴェルグは闇の妖精。故に太陽の光を浴びれば石となり、光の届かぬ場所をこそ好む。そんな連中が造り出した場所だ。隠蔽性、防御力は現代の魔術工房とは比べ物にならない。

 けれど───だからこそ、澱が溜まる。

 一族の住処には常にどろどろと重い空気が漂っていた。最低限の明かり。岩肌が露出する湿った地面。およそ1500年もの間、冥府の如きこの場所で昨日と同じような今日を、今日と同じような明日を繰り返し続けていた。

 そこは陰鬱で。

 鬱屈としていて。

 それでいて、不幸に満ちている。

 

「お前のせいだ、バルデルス」

 

 だから、これも仕方がない。

 

「お前さえいなければ、お前さえ先に産まれなければ、その名を与えられていたのは俺だったのに!!」

 

 自分には双子の弟がいた。

 皆が寝静まる頃になると部屋にやってきて、固く閉ざされた扉の向こうで喚きを散らす。

 

「どうしてオレの目は見えない!? どうしてオレにはヤドリギがない!?どうしてオレには名前がないんだ! お前の弟というだけで才能を奪われ、外の下等な人間程度の寿命で死ななければならないオレの不幸がお前に分かるか!?」

 

 弟は生まれつき目が見えなかった。

 新世界に再来すると予言されたのは必ずしもバルドルだけではない。その弟にして殺害者である盲目の神、ヘズ。惨劇を招いた神もまた、バルドルとともに復活を果たすのだ。

 故に、彼にヤドリギと名前は与えられなかった。かつての神話の再現を恐れて。魔道に接する機会もなく、狂った母と牢に押し込められていた。

 しかし、ここまで来れたのは、自分が毎日牢の鍵を開けていたからだ。

 かり、かり、と、枯れ木のような指から突き出た爪が鉄の戸を掻く。最低限の食事しか口にしていない彼の力はあまりにも弱々しい。

 

「死ね。死ね。死ねよバルデルス」

「……ごめんなさい」

「その名もその力も、全部全部ぜんぶ!」

「…ごめんなさい」

「オレから取り上げたものだろうが───!!」

「ごめんなさい」

 

 仕方がない。仕方がない。仕方がない。

 彼と自分を分かつ鉄の板にすがりつき、謝罪を述べ続ける。その度に、脳みそと心臓の奥が軋んで歪んでひび割れるような気がした。

 生まれたことが罪なのだから、それを償う手段は自分で自分の命を絶つか、この苦しみを抱えて生き続けるか。そのどちらをも選んでいない自分に嫌気が差す。

 扉の向こう側で、物音が立つ。

 荒々しい足音とともに弟の怒号が遠ざかっていく。

 きぃ、と扉が開き、橙色の光が射した。魔力による寂れた灯火を提げた老人は、へたり込んだ少年に微笑みかける。

 

「気にするな、バルデルス。アレの戯言など忘れろ」

 

 老いたその男こそが、父親だった。

 根源への到達ではなく、ヤドリギの保存を第一義とした家において、この男は魔術の才を有していた。己が子が生まれた直後に、副作用も拒絶反応もなく魔術刻印を移植できる程度には、肉体を弄る術に精通していた。

 元よりこの家の魔術刻印はヤドリギの移植と同義だ。適合に耐え得る体とそれを改良する術式は1000年前に完成している。男はその術式を限りなく高い精度で行えるというだけだ。

 

「お前は神代より待ち望まれた光輝の神の生まれ変わりだ。現に、これまで誰ひとりとして考えつきもしなかった、ヤドリギを擬似的な魔術回路として利用する方法を考え出してみせた」

 

 その言葉は、どこか他人事のように聞こえた。

 自分はただこの世に生み落とされただけだ。母と弟を苦しめてまで、この才能を得たいと思ったことなんて一度足りともありえない。

 

「お前は唯一の弱点であるヤドリギを取り込んだ。もはや何者にも侵されることのない絶対の存在、原典を超えている。お前は孤高であれば良い。母の腹を利用しただけで繋がりはない。弟なぞ才能を吸い尽くされた出来損ないだ」

 

 この男に、名前を贈られた。人の子より産まれしバルドル。オティヌスの息子である半神半人の英雄になぞらえて、バルデルスと名付けられた。

 もうひとつの名前は、使ったことがない。外の人間には真名を名乗るなと言われていたが、そんな機会なんて一度もなかった。

 まるで自分のことのように舌を回す男の目は、こちらを見てはいない。熱に浮かされたみたいに悦に浸り、そこにはない何かを眺め続けている。 

 

「だが、私にはお前が理解できる。お前がバルドルだとすれば、私はオーディンだ。我らならば、一族の悲願へと辿り着ける」

 

 だから、こんなことが言える。

 自分だけはお前のことを分かってやれると、その相手を見もしないで男は言い切った。

 

「───不老不死。それこそが、私たちが目指すただひとつの願いだ」

 

 なまじ数百年の寿命を持ってしまったが故に、一族には死への強烈な忌避感と恐怖が蔓延していた。死とはどうあがこうが人間である限り避けられぬ宿命。死の恐怖から逃れるため、不老不死を手に入れようとしていたのだ。

 そして、神代よりの予言が達成された今、その渇望は臨界を迎えていた。

 老人たちは口々に言う。

 自分たちが死ぬ前に、何としてでも不老不死の法を完成させろ、と。

 

(…………こんな地の底で、永遠に生きたいのか)

 

 そのことに、何の意味があるのか。

 何度も疑問に思ったけれど、これだけが自分にできることなのだとしたら。

 口は、勝手に動いていた。

 

「はい、お父様」

「良い子だ。愛しているぞ、バルデルス」

「……はい」

 

 そうとなれば、寝ている暇なんてない。

 これだけが生きて良い理由。自分の生を許せる目的だったから。他者ではなく自己を犠牲にするなら辛くはない。そう言い聞かせる。

 男が去った後、冷たい石の机に紙を広げる。途絶えた部屋の灯りに魔力を注ぎ込み、光をつける。羽根の先に古臭いインクを漬けて、いざ理論を書き進めようとしたその時、指の間から羽根のペンがこぼれ落ちた。

 手先の感覚がない。小刻みに揺れる振動は体の末端から広がり、すぐに全身を支配する。

 

 

 

「…………()()

 

 

 

 心臓さえも止まってしまいそうなほどに寒い。骨が氷柱と入れ替わったみたいだ。こんなに寒くてはらちが明かなくて、ペンすら拾えない。

 何度も何度も力が抜けそうになりながら、手袋をはめて上着を重ねて、帽子を被ってマフラーを巻く。これで少しはマシになった。

 どうして皆は寒くないのだろう。そんな余計なことを頭の片隅に置いて、ようやく研究に取り掛かる。

 まずは手付かずの資料の整理から始めた。魔術の家としては1500年程度でしかないが、伊達に神代から続いてはいない。何かヒントがあるかもしれなかった。

 ミミングスの剣の製法───これは現代では再現できないだろう。材料は揃えられても、それを鍛えるルーンがない。原初のルーンが失われているなら、これはただの紙くずだ。

 それに、不死身のバルデルスを斬ったホテルスの剣を造ろうとしても、周りが許さない。戦いの少ない現代では造ったとしても高く売れる程度だろう。

 集中すれば一読で内容は覚えられる。紙束と化した資料を適当な箱に放り込んだ。

 本命の不老不死────ヤドリギを利用する方針でこれ以上の長命は見込めない。肉体と紐付けされた魂が時間の経過によって腐敗するため、これからは肉体ではなく魂にアプローチする必要がある。

 もっとも望ましいのは第三魔法。本来不滅である魂を物質化させることで、正真正銘の不老不死を実現できる。ヒトに無限の未来を約する魔法だ。

 

(…………だけど、第三魔法には懸念がある。後塵を拝するおれたちにとっては、根源への遠回りに──────)

 

 そこで、頭を振って思考を止める。

 第三魔法の懸念点など今はどうでもいい。不老不死の法が最優先なのだから、第三魔法の再現を求めれば目的は達成できる。この思考は余計だ。

 だが、研究において思い込みは最大の敵だ。第三魔法以外にも可能性を考えておくべきかもしれない。

 

「……無属性魔術か、ヤドリギ」

 

 小さく呟いた内容に、自分で驚く。

 この世ならざる事象・物体を創る無属性魔術に可能性があるのは分かる。だが、ヤドリギの利用はこれ以上できないと結論付けたはずだ。

 否、それこそが思い込みだ。肉体とヤドリギの共生ができるなら、その先、魂とヤドリギの共生に望みはないのか。

 

(そもそも、ヤドリギは〝幼いが故〟に世界との契約を逃れた。幼いってことは、成長する余地があるんじゃないか?)

 

 遍く神と、あらゆる不死を殺すヤドリギ。

 それが成長したなら、一体、これは()()()()()()()()()()のだろう────?

 途中で思考は打ち切られた。見えない手に導かれるように、目が扉の方を向く。いつの間にガタが来ていたのか、錠前の部分が壊れて落ちていた。

 ぎしり、と椅子が軋みを立てる。この程度なら、魔術で治すのは造作もない。たとえ鉄扉が粉々になっていても元通りにできる。

 魔術回路のスイッチを入れる。首が細い指で締められる感覚。唯一、母と触れ合えた記憶。それが魔術を使うための儀式だった。

 魔力を通し、ほぼ無意識的な感覚で最適な魔術を行使する。それで錠前は復元された。懐の鍵で閉め直そうとした瞬間、脳裏にひとつの考えがよぎる。

 

(今なら、外に出られるかもしれない)

 

 どくり。心臓が跳ね上がり、額から冷や汗が噴き出す。

 この時間は誰もが寝静まる。そうでなくとも、自分の部屋を訪れる人間は少ない。日によってはひとりも来ないことも多い。

 なぜなら、あの男は言っていた。〝聖なるものは邪なるものと同じか、それ以上に遠ざけられる〟と。後者が穢れに染められるから遠ざけられるものなのだとしたら、前者は穢れを移さないためのものだ。

 言うなれば、聖なるタブー。神の居所にみだりに近づく者は必ず代償を払う羽目になる。畏れ多くも天に到達しようとしたバベルの塔の教訓のように。

 しかし、聖なるものが穢れ多き地へ移動するということは──────

 

「違う。おれは、人間だ。……人間でありたい」

 

 たとえ、この願望が間違いだったとしても。

 毛糸に包まれた手でゆっくりと扉を押す。暗く堅い岩の道を一歩進む度に、心臓の鼓動が加速していく。走っている訳でもないのに息が上がる。

 禁忌を破る。禁断を踏み躙る。足元が崩れていくみたいな不安感の裏腹には確かな高揚があった。

 地上と地下を隔てる壁に辿り着く。

 この場所には出口も入口も存在しない。壁に埋め込まれた魔術式を解き明かすことによってのみ、地上への道は開かれる。さらに、これが解かれた場合は全域に警報が鳴るおまけ付きだ。

 解き明かす、という前提すら煩わしい。自らの手で魔術式の全てを瞬時に解析・掌握し、自分だけを無条件で通すように書き換える。

 壁に小さな光が灯る。神の時代から用意されたそのセキュリティはものの数秒で突破された。警報も鳴らない。見直すまでもなく、早々と歩き出す。

 ずぶり、と全身が岩壁に呑まれる。一瞬の潜行を終え、足の裏が冷たく柔らかいものを踏んだ。

 目の奥に飛び込む光。反射的にまぶたを閉じて耐えていると、徐々に光量が収まっていく。そうして、ようやく外の世界を目にすることができた。

 

「…………しろい」

 

 そこは雪化粧に彩られた森林。ほう、と吐く息でさえ白く、太陽の光を反射する銀雪がきらきら優しく輝く。

 目に映るもの全てが新しい。樹木の一本一本が塔みたいだ。さくり、さくり。踏まれる雪の音も小気味よい。肺を満たす空気は冷たいけれど澄んでいて心地が良い。

 分厚い雲の間から覗く太陽と青空を見て、初めて空の色を知った。

 雪が木の葉っぱから落ちる。鳥が囀る。森そのものが歌っているかのようで、その音に合わせて自分も雪上でステップを踏む。

 さくさく。さくさく。さくさくさく。───どさっ。さくさくさく。

 自然と口角が吊り上がる。この時、生まれて初めて心の底から笑えた気がした。

 だって、ここは。

 広くて、明るくて、澄んでいて、新しい。

 木の間を縫って走り回る。

 ───疲れているのに、苦しくない。

 雪面に飛び込む。

 ───冷たいのに、つらくない。

 自然の呼吸に応えて遊び回っていると、森の境界に達する。どうやらここは山の中で、折り重なった木々の向こうにはまだまだ世界が広がっているようだ。

 そこから見えたのは。

 

「……あ、はっ」

 

 乾いた笑いが、口をついて出る。

 数えきれないほどの人の群れ。石で覆われた道を、いくつもの鉄の箱が行き交う。大地に敷き詰められた建造物は、塔のようだと思った木々よりも巨大だった。

 暗い影に染められた地下とは何もかもが異質。雑然とした色彩に目が眩みそうになる。

 雪の中に膝をつく。この情報を処理するには時間と知識が足りなすぎる。全く知らない言語で書かれた文章を読まされているかのようだ。

 ……魔術も、根源も知らない人間があんなにたくさんいるなんて。一族の住処だって、地の底なんかではなく山の中身をくり抜いただけなんだ。

 ああ、もう、すべてが、くだらない。

 一族が神と崇める自分も、不老不死に至るための研究も、こんなにも広い世界の前では陳腐で矮小でちっぽけだ。

 漠然と雑踏を眺めていると、枝葉が擦れ合う小さな音が聞こえた。

 咄嗟に音の方向を向く。

 真っ白な体毛の子犬。よたよたと頼りない足取り。よく見ると、その左後脚が血で赤く染まり、雪上に点々と赤い雫を垂れ流している。

 

「くだらない魔術でも、おまえくらいは助けられるかな」

 

 腹から手を回して自分の胸元に寄せる。怪我のせいか、抵抗も警戒もできないほどに弱りきっていた。

 自分の手首を魔術の斬撃で裂く。魔術の触媒のために体内に残していた血液を絞り出し、拒絶反応が出ないように構造を組み換えて傷口に注いだ。

 犬が流した血はこれで補填された。傷口をそっと撫で、裂けた皮膚を元通りに修復する。

 

「よし。……ほら、もう治ったぞ」

 

 人間の言語が伝わるはずもないけれど。

 そう言って、白い体毛から手を離す。どこかに行くような素振りはない。犬はくるりと振り返って、先程裂いた手首の辺りを舌で舐めてきた。

 別にこの程度痛くもない。

 血がなくても生きていける。

 けど。

 誰かに労られたのは、これが初めてだった。

 自分と同じ、真っ白なその犬を抱き寄せる。じくじくと伝わってくるその熱は、とても小さくて。でも、あの世界の何処よりも、何よりも─────

 

 

 

「────()()()()()

 

 

 

 その日から、外に出て子犬に会いに行く生活が続いた。

 その白い犬はいつも出口で待っていた。律儀に雪の中で座って、自分が来るとぱたぱたと尻尾を振りながら近付いてくる。その姿に胸の内をまさぐられるような庇護欲を覚えて、枝葉を組んで小屋を作ってやった。

 彼とともに山中を探索して回る。言葉を介さないやり取りは気が楽で、何も押し付けてこないその在り方が心を軽くしてくれた。

 この子がどうして独りでいたのかは分からない。群れからはぐれたのか、親に捨てられたのか、その親が先に死んでいたのか。孤独な者どうし、傷を埋め合っていた。

 でも、彼は日に日に弱っていった。その理由は単純で、食料がないから。

 ヤドリギとの共生は魔力を与える代わりに概念的な生命力のエネルギーを受け取る。極論、酸素を運ぶ血液も必要なく、食事さえ不要。

 いつしか、先祖たちは食事すら切り捨てた。しかし完全に失ったわけではなく、たまの娯楽として、村の一角に作物を育てる区画が設けられている程度だ。

 自分は神への供物として捧げられる食料の全てを犬に与えていたが、それも限界がある。

 他の動物を殺す…………それも、できなかった。既に母の未来を、弟の可能性を奪っている自分が他者の命を害するなんてどうしてもできなかった。

 日々疲弊していくその様子が見ていられなくて。頼れるのは、あの男しかいなかった。

 

「お、お父様」

 

 男はぜんまい仕掛けの人形のように振り向く。

 

「掟を破ったことは謝ります。だから……だから、この子をっ」

 

 腕の中から弱った子犬が取り出される。男は首の皮をつまみ上げながら、暫時その顔を眺める。

 

「……バルデルス。白き神の名を冠するお前が、穢れ多き人間のようなことをするな」

 

 ばぢん、と魔力が迸った。

 悪意に満ちた閃光が小さな体を駆け巡り、破裂した血管から鮮血が辺りに飛び散る。

 男は冷たい声音で命じた。

 

「部屋に戻って身を清めよ。話はそれからだ」

 

 そこから先は、あまり覚えていない。

 声を荒げて反論する気力もなかった。

 部屋の中で男の戯言を聞いた後、冷たくなった体をずっと抱いていた。血の巡らぬ体ではぬくもりも分けてやれなかった。

 頬を伝う涙でマフラーがぐしゃぐしゃになって、胸元を暗い色に染め上げた頃、鉄扉をか掻き毟る音と怨嗟の声が響いてくる。

 ごめん、と返す余裕もない。

 涙の重みでマフラーが床に落ちても声は止まなかった。

 両腕で抱える白く赤い体もぐしゃぐしゃになって、ようやく音と声が止んだ。

 そこからまた泣き続けて、ふらふらと外を目指す。弟は体力を使い果たして気を失っていた。

 その道中で、幾人かの取り巻きを連れたあの男と擦れ違う。自分が何をしようとしているのか分かりきっている表情で、奴は呟く。

 

「やはり、我らの計画を進めておくべきか」

 

 地下から地上に出ても、世界は相変わらず白くて。

 ただ、この子が待っていないだけだった。

 小屋を崩して、代わりに墓標を立てる。

 穴を掘って亡骸を埋めようとして、土を被せようとしたところでもう一回抱き戻してしまう。

 ───ここに眠らせてしまったら、こいつはまたひとりぼっちだ。

 

「う、あああああぁぁぁ……!!」

 

 母に首を絞められた時。

 弟に罪を糾される度。

 本当はつらかった。苦しかった。痛かった。自分を騙してただけだった。

 おれだってあんな場所に生まれたかったわけじゃない。神代から続く命令なんて知るもんか。それなのに、なんで、こんな苦しみを押し付けられなきゃいけないんだ。

 こいつのおかげで、おれはあたたかさを知れたのに、何も返すことができなかったじゃないか────!!!!

 

「───もう、埋めてやらないと。この子は何処にも還れない」

 

 そっと、後ろから手が重なった。

 同じ年頃の少年。真っ黒な髪の毛の、サファイアのように蒼い瞳をした彼は優しく言った。

 名前も知らない、初めて見た少年の提案に小さく頷く。

 命は地面に還る。そうして自然の一部になる。その理から外れているのは、世界の外から生まれたヤドリギしかない。

 この子が生命の輪廻から外れて、永劫に彷徨い続けるほど残酷なことはないだろう。

 穴の中に小さな体を寝かせて、少年と一緒に土を被せる。白い世界にひとつ、土の色が混ざった。

 会話を交わすことなく立ち上がる。

 外の人間と何を話せばいいのか。そんな迷いを抱く前に、彼は空に輝く太陽みたいに笑った。

 

「じゃあ、おれの家でも行くか!」

「は……?」

 

 反論する間もなく、少年はこちらの手首を掴んで走り出した。

 白亜の斜面を、駆けて下る。

 透明な風が肌を撫でる。

 太陽の光が眩しい。

 なにがなんだか分からない。

 それなのに、この手を振り払うことができなかった。

 視界を流れる風景が移り変わる。

 色彩に満ちた街並み。名も知らぬ人々が闊歩する雑踏の一部になる。異物だと思っていた自分の存在は、誰も咎めることなくすんなりと受け容れられていた。

 それは突き詰めれば無関心。たとえ見知らぬ子どもが走り回っていたとしても、見知らぬ人間がいるのは彼らにとって当たり前のことなのだ。

 そうして、コテージのような木造りの家に辿り着く。少年に手を引かれ、訳の分からぬまま玄関に上がらされた。

 ドヴェルグなんかじゃなくて、地上の妖精はこんな家に住んでいたのかもしれない。そう思わせるほど、そこは綺麗だった。

 暖色で統一された室内を歩く。居間の戸が開くと、嗅いだこともない匂いが鼻先をくすぐる。部屋自体のそれではなく、居間の奥の台所から、忘れていたはずの食欲を誘発する香りが漂っている。

 そこからひとりの女性が顔を出す。少年と同じ、黒い髪に青い瞳。丸い眼鏡をかけた彼女は目を細めて、

 

「……おかえりの前に、えーと、その子は?」

「この前言った、雪の妖精! 捕獲に成功した!」

「ジブリ映画の始まりかな?」

 

 まあいいか、と彼女は気を持ち直して、気楽に告げた。

 

「とりあえず手洗っておいで。すぐご飯できるから。服はそこら辺にかけておいて」

 

 果てしなく奇妙な感覚に襲われる。

 いきなり連行されたのはもう諦めるとして、子が子なら母も母らしい。こんな異物をなんとなしに許容して、さっさと台所に消えてしまった。

 現実味に欠けたまま、洗面所まで導かれる。

 レバーを上げると水が流れて、見たこともない材質のボトルの上を押すと泡が出て、それを手につけて擦り、また水で流す。

 頭がパンクしそうだったが、見様見真似でやり遂げる。泡をつける意味はないように思われたが、なるほど、これは神話的要素を取り込んだ儀式なのかもしれない。

 例えば、水をせき止める邪竜ヴリトラは泡によって殺害されているし、美と愛の神ヴィーナスは泡から生まれている。邪なるものを打ち倒す、美しいものを生むという側面を切り取って儀式化しているのだ。

 

「いや、雑菌を退治するためだぞ?」

 

 無意識のうちに思考を口から垂れ流していたのを、横から指摘される。

 

「ザッキン?」

「うん。菌っていう目に見えない生き物がそこらじゅうにウジャウジャいて、そいつらの中に悪さをするやつがいるんだって」

「……種類の数は?」

「それが、今の科学者でも全部は見つけられてないとか……」

 

 科学。その言葉は知っている。曰く、魔術とは対極に位置する学問だ。あの男は科学のことを〝凡俗の学問〟と罵っていたが、現にこうして、魔術師が思いもしなかった生物の存在を発見している。

 魔術がマクロな世界に作用する技術だとすれば、科学はミクロの世界にも干渉できる技術だ。この性質において、科学は魔術と隔絶した差を有していた。

 

(神秘が衰退するのも当然か。目に見えなかったから分からない現象も、科学は解き明かしてしまう。過去にしがみつくしかない魔術はいずれ無くなる)

 

 そう考えると、自分たちがますます馬鹿らしく思えてきた。何が凡俗の学問、滅びが決定した魔術よりは遥かにマシだ。

 密かな落胆。それももう慣れた。魔術の限界なんて、毎日の研究の度に思い知っていたから。

 居間に戻ると、三人分の食事が食卓に並べられていた。

 真っ先に目についたのは、先程と同じ香りの料理。白いスープの中にごろごろと野菜が転がっている。

 椅子の前で立ち竦んでいると、丸眼鏡の女性は柔和に微笑みかける。

 

「食べていいのよ。おなか、すいたでしょう?」

「…………そ、外のものは食べてはいけないって言われてる」

「変な決まり事だなぁ。そりゃ拾い食いとかしたら腹壊すだろうけど」

 

 少年の率直な感想とは裏腹に、その女性は興味深そうに瞳を輝かせた。

 

「イザナミの黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)、ペルセポネのザクロ───もしくは千と千尋ね! むむむ、これは妖精疑惑が高まってきた……!!」

「だから言っただろ? 写真撮って新聞社に送りつけよう。うまく行けば一大センセーションが巻き起こるぞ!」

「コティングリー妖精事件も目じゃないわね! きっとコナン・ドイル先生もまた騙されるわ!」

(こいつら、アホなのか?)

 

 とはいえ、彼女の考察は的中していた。ペルセポネが少量のザクロを食べさせられただけで一年の三分の一を冥界で過ごさねばならなくなったように、その世界の食べ物を食すと元の場所に戻れなくなってしまう。

 だが、勝手に盛り上がっている二人の様子からして、そういう訳にはいきそうもなかった。渋々席について、スプーンを手に取る。

 ───どうせ時代遅れの掟だ。既に禁忌を破っているなら、ひとつもふたつも変わらない。

 とろみのあるスープを掬って、口に運ぶ。

 

「……あたたかい」

 

 じわり。喉を、胸元を通って熱が全身に広がっていく。

 そのぬくもりは、小さくて、白いあいつを抱き寄せた時のそれと同じだった。目頭に力を込めて、溢れ出そうな涙を必死にこらえる。

 二人はぎょっとした顔でこっちを見て、ひそひそと話し出す。

 

「うそ、私の料理うますぎ……!? 副業始めようかしら」

「不味すぎて泣いてる可能性もある」

「息子よ、母の愛が詰まった味を信じられぬのか」

「母よ、あなたが信じているのは化学調味料でしょう」

 

 会話の内容はともかく、このあたたかさの正体が理解できた。

 月並みで、平凡な言葉だけど、それは多分愛というやつだ。親子の間に繋がれたそれを、自分は食事を介して感じ取ったのだ。

 

「これは、なんて言う食べ物なんだ」

「シチューよ。正確にはクリームシチュー。フランスから伝わって、日本ではこういう白いのが一般的なの」

「じゃあ白飯にぶっかけていいのか? パンしかないけど」

「いけません、そこから先は戦争です。とある山と里のような血濡れた歴史を繰り返してはいけぬのです。ちなみに私はシチューにはパン派なので今日はご飯は炊いていません」

「小麦原理主義者め、一体どの口で不戦を……!?」

 

 フランス、日本。それすらも知らなかったが、会話から推理するにおそらくは国や地域を指しているのだろう。日本で一般的なシチューを作っているのだから、この二人はそこの人間なのかもしれない。

 右の袖で目を擦って、二人に問う。

 

「ふたりの、名前は?」

 

 親子は顔を見合わせて、屈託なく笑う。

 

「私は百合」

「おれは立夏」

「…………ユリ、リッカ」

 

 聞き馴染みのない響きを舌に馴染ませる。

 少年は顔を覗き込んできて、問い返した。

 

「おまえの名前は?」

 

 口をするりと抜け出したのは。

 誰にも呼んでもらえなかった、もうひとつの名前だった。

 

「───ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド」

 

 きっと、この時から。

 おまえたちに教えたこの名前が、俺の本当の名前になったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、出された料理は綺麗さっぱり完食した。

 ユリとリッカの姓は橘と言うらしい。白い花をつける柑橘類の植物。小さな実をつけた橘の鉢植えが居間の隅に置かれていた。寒さに弱い種なので冬の間は室内に移さなければいけないのだとか。

 食事を終えて帰ろうとするのをやんわりと引き止められ、なぜか家の中の案内をされた。地の底で暮らしている自分にとっては物珍しいことこの上ないが、明るい世界との差異が明確になるようで、好奇心の裏の憂鬱が拭えない。

 最後に見せられたのは、二階の奥まった部屋。そこはユリの仕事部屋だった。

 地下の図書館を思い出す。書棚が整然と並べられた空間のさらに奥に、作業机と勉強机が寄り添うみたいに隣り合っている。

 さっぱりと片付けられた勉強机とは逆に、作業机の方はいくつもの画材が雑然と散乱しており、資料用の図鑑や聖書が開きっぱなしになっていた。

 リッカは作業机に訝しむような視線を送る。

 

「……やっぱり、いつ見てもきたな」

「いいえ、これが私にとってのベストポジションだから! 一見無秩序な様にこそ実は秩序がある───ふふ、これぞ哲学!」

 

 このアホな会話にももう慣れた。勉強机の方はリッカのものなのだろう。机の上に並べられた本の背表紙を見るに、大人が勉強する内容ではなさそうだ。

 この部屋で二人は仕事を、勉強を共にしているのだと思い至る。憧憬を覚えつつ、画材に紛れた一枚の絵に目がいった。

 五指のそれぞれにきらびやかな指輪を嵌めた右手が、犬の頭を撫でている。写実的とは言い難いが、柔らかく温かみのあるタッチでそれは描かれていた。

 その隣、聖書の開かれたページを見て、この絵が何を描いているのかを確信する。

 

「動物と話せたっていうソロモン王の話か」

「ええ、そうよ。私は絵本作家だから、やっぱり動物の話は鉄板よね!」

「動物の言葉が分かるソロモン王を主人公にすれば、動物を擬人化する必要がない。親子が一緒に読むことを想定して、大人にも違和感を抱かせないようにしてるんだな」

「そ、その発想はなかった……」

「それでいいのか絵本作家」

 

 続けて、リッカは首を傾げた。

 

「で、ソロモン王って誰だ?」

「七百人の妻と三百人の妾を持ったロクデナシ」

「マジか。そこまで行くと羨ましくもないな。下半身の強度どうなってんだ」

「うん、君たちにその話はまだ早いかな。誰にも負けない知恵と知識を得た王様って言いましょう?」

 

 神はソロモン王に知恵と知識、そして彼が求めなかった富と名誉までをも与えた。赤子を巡って争う二人の女性に対して機知に富む裁きを下したことで、イスラエルの民は王の中に神の知恵を見出し、彼を畏れたのである。

 

「それでも、老いた時には異教の神々を拝んで神の怒りを買った。その理由は〝その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせた〟とある」

「つまり?」

「女に唆されて神の掟を破った」

「なんか俗物にしか見えなくなってきたぞ……!?」

 

 ユリはくすりと微笑む。

 

「ノアトゥールは物知りなのね。でも、こうは考えられない? ソロモン王は心変わりさせられるほど、奥さんたちを愛してたって」

 

 その時代、神への信仰心は何よりも優先されるべきものだったはずだ。これを他の神に向けることは到底許されず、ましてや、ソロモン王が娶った妻たちは外国の者も多かったという。

 それほどの障害を越えた理由が愛と言われても、自分には実感が湧かなかった。

 

「それに、旧約聖書の神様は『嫉妬する神』。きっと、自分以外に心を向けちゃったソロモン王にやきもちを焼いたのよ」

「自分で野放しにしておいて、言うことを聞かなかったら縛り付けるのか。どいつもこいつも、碌でもない」

 

 もしそうなら、ソロモン王は自分と同じだ。縛り付けてくる相手がオーディンを気取る人間か、唯一神を気取る神かの違いしかない。

 自己嫌悪。同族嫌悪。自分が彼に向けていた感情の答えは、それだった。

 自嘲的に笑うと、リッカの手が伸びてきて頬を挟んでくる。

 

「でも、ノアがどうしたいかは自分で決められるだろ。ソロモン王とは違う」

 

 答えることは、できなかった。

 けれど、そうだったら良いと望むことだけは、許されるだろうか。

 掟を破っている手前、あまり長居することはできない。帰ろうとした時、ユリはいくつかの白い花をつけた橘の枝を渡してきた。

 

「供えてあげて。あなたみたいに白い花だから、きっと寂しくないわ」

「…………あ、ありがとう」

「また来いよ。今度は本格的に遊ぼう」

 

 その提案に、小さく頷き返す。

 日が沈み始め、燃えるような朱で照らされた街の中を走る。

 もう、いなくなってしまったけれど。早く、この花をあいつに見せてやりたいから。

 ヤドリギの操作の延長上。肉体のリミッターを外して、街路を走る鉄の箱をも追い抜く。浮き足立つ心のままに駆け抜ければ、すぐに墓前に来ることができた。

 花に強化と、状態維持の魔術を施す。寒さに弱いこの白さが、決して枯れぬように。

 

「おれは、人生を懸けておまえの命の償いをするよ」

 

 地の底へと帰還する。

 自室に戻る前に、図書館に向かった。この家には先祖たちが世界を旅する道程で集めた資料が蔵されている。母胎を探す過程においても資料の収集は怠っていなかったらしく、聖書の知識もこの場所が由来だ。

 雑多に並んだ本棚を見て回り、目的の一冊を探し当てる。

 古寂びた装丁。古書特有の匂いが鼻を突く。こびりついた埃を手のひらで丁寧に落とす。

 その題はこうあった。

 

「『ソロモンの小さな鍵(レメゲトン)』……これだ」

 

 二十世紀最大のオカルト組織、黄金の夜明け団。その創設者のひとりであるマクレガー・メイザースは、大英博物館に収蔵されていたソロモン王に関する文書を纏めて、二冊の本を出版した。

 それが『ソロモンの大いなる鍵』と『ソロモンの小さな鍵』。大鍵と小鍵とも言われる。後者を選んだ理由は、前者が魔術書として基本的な内容しか書かれていないためである。裏を返せば、大鍵の知識が基本となったということでもあるのだが。

 部屋に戻って本を開く。

 この書は全五部で構成されていた。

 第一部、ゲーティア。かのソロモン王が使役したと言われる、七十二柱の悪魔とその召喚に必要な魔法円や呪文が記されている。

 だが、神秘が薄れた現代ではこれを利用できないだろう。自分たちがこの召喚術を扱うにはおそらく、世界の裏側への回廊を開かなくてはならない。

 それよりも、気を引かれたのはソロモン王と七十二柱の悪魔の最後についてだ。

 曰く、ソロモン王は支配下に置いていた全ての悪魔を真鍮の壺に封印し、湖の底に沈めた。後世、この壺がバビロニア人の手によって開かれたことで、悪魔たちは封印を解かれたのである。

 

「じゃあ、悪魔は何処に行った? 地獄に戻ったか、あるいは……」

 

 脳内に浮かびかけた考えを、小さく笑い飛ばす。

 そんなことはありえない。この世界に留まったにせよ、悪魔たちは神代の終わりとともに世界の裏側に隠れたはずだ。

 書を読み進めていく。悪魔から身を守る術、三十一の天空の精霊についての知識、そしてそれを使役する術。さらには、黄道十二宮の天使たちの力を借りる術───その途中で、自分が笑っていることに気がついた。

 ぐに、と頬を指で押さえる。

 笑っていた。この自分が。地の底で。

 たかが写本。情報が真実とは限らない。なのに、ソロモン王の知識に触れる度にくすぐったいような心の疼きが止まらない。

 手が紙を捲る。目が文字を追い、脳がそれを吸い込む。最終部に差し掛かり、ある文言を目にしたところで、全てがかちりと当てはまる感覚がした。

 

「───アルス・ノヴァ。古きを捨て、新しきを得る術」

 

 それ以上の情報は記されていなかった。

 だけど、理解できる。理解した気にはなれる。

 西洋魔術を創始したかの王は、王だけは、魔術の先を考えていたのだ。

 生み出した当人だからこそ、魔術の限界は知っていた。魔術が古きものとなることは予想していた。現に、科学が世の主流となったように。

 古きを捨て、新しきを得るとは魔術を捨て、その先にあるものを掴むということ。

 しかし、創始者は古きものを捨てようとしていたのに、自分たちは魔術にしがみついている。それは矛盾と言うべきではないのか。

 これは所詮、子どもの考察にすぎない。神算鬼謀に長けたソロモン王の胸中を、誰が見抜けると言うのだろう。

 だが、魔術を超えた術法というのは。

 この地の底に射した、一筋の希望だった。

 

「おれが、おまえを継ぐ」

 

 おまえが神に自由意志を与えられなかったが故にアルス・ノヴァを成せなかったのだとしたら、おれがそれを叶えてやる。

 魔術を捨てても良い。それは全ての魔術師にとっての絶望であり、新たな可能性を与える希望だ。

 他の神を拝んだおまえの気持ちが分かる。神に縛られ、運命を握られ、王となるべくして生まれたおまえだからこそ、唯一神の法下から脱却しようとしたんだ。

 こんなおれが自分をおまえに重ねるなんておこがましいかもしれないけど、アルス・ノヴァはやり遂げてみせたい。

 ───そうすれば、背負う罪が雪がれて、外で生きることを許してもらえるかもしれないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから数週間後、定期的にユリとリッカの家を訪れていた。もちろん、外出が露呈しないように偽装処理は完璧に施した上で。

 やることと言えば、その日の気分で決めることが多かった。ゲームをしたり、テレビを見たり、公園に行ったり、本を読んだり。外の世界の娯楽はどれもが新鮮だった。

 ユリは絵本作家という職業柄家にいることが多かったが、出版社や編集者とのやり取りでどうしても外出しなければならない時がある。

 この日はちょうどそうだった。

 居間のテーブル。教材とノートを広げ、リッカに日本語を教わる。古今東西の魔術書を読むために複数の言語を修めているが、表音文字と表意文字が組み合わさった言語は新鮮だった。

 外から鉄の箱───車と言うらしい───の重厚な排気音が響き、どたどたと足音がこちらに近付いてくる。

 

「ふう〜、今日の打ち合わせはいつにも増して難しかった……」

 

 防寒具を慣れた手つきで脱ぎながら、ユリは机の上に広げられた教材を覗いた。

 

「ほほう、勉強とはなかなか殊勝なようで。若くしてこの心意気、将来は総理大臣かしら?」

「そんなことより、やっぱりノアはすごいぞ。夏場外に放置したスポンジより飲み込みが早い!」

「天才じゃったか……どんな言葉を覚えたの?」

「うんこ、糞、便、ばば」

「ちょっと???」

 

 脳内に殺到する汚言に、彼女の頭はパンクした。数秒して情報を処理しきると、泡を食って、

 

「まあ確かに子どもの青春にうんこは欠かせないけど……私もそうだったけど……せっかく学ぶならもう少し素敵な言葉を、ね?」

「言葉狩りか? うんこをうんこ以外の言葉でどうやって表わせばいいんだ?」

「そうだそうだ! うんこ無くして今の人類はありえない! うんこだって生きてる!」

「くっ、これは分が悪い! だったら二人に綺麗な言葉、綺麗な物語というものを教えてあげましょう!」

 

 そう言って、彼女が仕事用の鞄から取り出したのは一冊の絵本だった。

 

「我が心の師、アンデルセン大先生の超傑作・人魚姫! 学生の頃、朗読会で鍛えた迫真の演技で読み聞かせてあげる!」

 

 ずい、と波打ち際の人魚姫が描かれた表紙を押し付けてくる。しかも、ちゃっかりと自分が絵を担当した本だった。そこはかとなく商売っ気がうかがえる。

 この国、デンマーク出身の童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン。彼が自身の失恋を題材にしたとも言われる人魚姫は、ユリの評価に違わぬ傑作だ。

 そこに疑いようはないのだが、ひとつ問題点があった。リッカはそれを指摘する。

 

「もううんざりするほど聞いたからいいや。ノアが来るようになってからだって何回も読んだし」

「それよりド○ゴンボールの朗読してくれ。今ナメック星最後の五分間のところだから」

「流石にそこまでの演技力はない! というか、え? 漫画読めるくらい言葉覚えちゃったの!?」

「だから言っただろ? こいつは飲み込みが早いって。公園行った時なんて三回転宙返りしてたからな!」

「それは飲み込みが早いとかの次元じゃなくない!?」

 

 リッカの言に、ユリは納得するしかなかった。

 でも、これは誇ることじゃない。神代からの預言を抜きにしても、弟の可能性と母の未来を喰い潰して与えられた才能だ。

 

「うん、えらい子ね。ノアトゥール」

 

 なのに。

 こうして頭を撫でられると。

 気恥ずかしくて、申し訳なくて、嬉しくて、あたたかくて。少しだけ、自分を許してしまいそうな気分になる。

 これ以上の幸福はいらない。頭をぶんぶんと振って、手を跳ね除けた。

 

「別に、えらくなんてない」

「おおっと、せっかくの褒め言葉を受け取らぬとは、謙虚も度を越すとイヤミになるというもの! 立夏さん、やっておしまいなさい!」

「了解!その陰気臭さ、吹き飛ばしてやる!」

 

 四方八方から手が伸びてきて、髪と頭と体をまさぐられる。

 跳ね除けようにも手も意思も足りなくて、ヤドリギで得たはずの強靭な肉体はユリとリッカを成すがままに受け入れてしまう。

 たとえ仮初めだとしても、この暖かい場所の一員になれたような気がした。

 ……また、ある時は。

 その日は、珍しく会いに行く時間を事前に決めていた。家の前まで行くと、何やらただならぬ様子で二人が待っていた。車庫のシャッターが上がっており、ゴテゴテとした真っ赤な車体が煌めいている。

 虚ろな目で震えるリッカを尻目に、静かに興奮した様子のユリは言い放つ。

 

「今日はコペンハーゲンまで行って、かの有名な人魚姫の像を観光します!!」

「……また人魚姫か。この車で行くのか?」

「然り!こうしてる時間も惜しいわ、早く乗って!」

 

 ユリが車の鍵を押すと、がちゃりという音とともに施錠が解除される。

 内部は高級感のあるレザーシートと木目調の装飾で構成されていた。外の世界の相場は分からないが、相当の金額を費やしたのだろう。

 ユリの指示に従い、後部座席でシートベルトなるものを着用する。隣のリッカはその間も無言を貫いていた。それどころか、顔面蒼白になっている。

 

「どうした? 様子がおかしいぞ」

「ノアもすぐにわかる」

「……は?」

「母さんの運転は───この世の終わりだ」

 

 鳴り響くエンジン音。腹の底に来る重低音にリッカの評が合わさり、とてつもなく嫌な予感が背筋を走った。

 見れば、ユリの目が見たこともない色に変わっていた。夜行性の獣みたいに瞳孔が開き、口元は狂気的な笑みを形作っている。

 

「お、おい! 本当に大丈夫なのかこれ!? こんなところにいられるか、おれは帰るぞ!」

「安心して、ノアトゥール。私はハマのロケットガールと呼ばれた女……!! 安全運転でぶっ飛ばすから、喋ったら舌を噛むわよ!!」

「どこが安全運転!?」

 

 しかし、その叫びが功を奏すことはなく。

 

「ユリ、いっきまぁーす!!」

「「ギャアアアアアアアア!!!」」

 

 一条の赤い閃光と化して、真紅の車体は街を横切った。

 暴走に等しい運転の甲斐あってか、一行は驚異的な速さでコペンハーゲンに到着した。これもまた驚くことに違反をくらいもしなかった。走り屋の習性故に、警察の気配には異常なほどに敏感なのが質が悪いところである。

 適当な場所に車を停め、人魚姫の像を目指す。リッカはホットドッグを貪りながら、不動の地面への感謝の念を抱いていた。

 

「やっぱ移動手段は徒歩が最強だな。健康的だし、金もかからないし、揺れないし」

「ふっ、まだまだ甘いわね若人よ。移動において最も重要視すべきは速さ! 速ければ速いほど時間に余裕ができる! ノアはどっちが良いと思う?」

「どこでもドア」

「禁止カード出すのやめろ」

 

 海岸線近くを練り歩く。

 周囲の人通りは増えてきていた。コペンハーゲンの観光スポットは数あれど、国葬まで行われたアンデルセンの著作にあやかった像はさぞ豪華なのだろう。

 

「……まあ。なんだかんだここまで来ると楽しみだよな、人魚姫。多分自由の女神くらいデカいんじゃね?」

「人魚は不吉の象徴だ。セイレーンやローレライなんて歌声で船を沈める。恐ろしい見た目をしてるに違いない」

「いや、元ネタはそうでも───」

 

 そこで、リッカは先程まで隣を歩いていた母親が忽然と消えたことに気付く。視線を迷わせるのも束の間、遠くから声が響く。

 

「お二人さん! 目的地はとっくに通り過ぎてますよ!?」

 

 慌ててユリのいる場所まで戻る。

 海岸のほど近く。積み上がった岩の上。そこに人魚姫がぽつんと腰掛けている。潮が引けば直接触れそうな距離にそれはあった。

 銅像をカメラで激写するユリの横で、平坦な声が上がった。

 

「「……しょっぼ」」

「しょぼくない! 全くもってしょぼくない!!」

「なんでもっとお金使わなかったんだ?」

「もはや人魚姫への冒涜」

「やめて! 私の心が痛いから! 多分アンデルセン大先生はもっと痛いだろうけど!!」

 

 リッカは懐から携帯電話を取り出すと、検索エンジンを開いて人魚姫の像の成り立ちについて調べる。

 

「彫刻家エドワード・エリクセンは劇場のプリマドンナを顔のモデルに、体の部分は妻を参考にしてこれを作製した……なるほど」

「羞恥プレイか?」

「だとしたら性癖が高度すぎる」

「あの、もっと子どもらしい会話をしてくれます?」

 

 今更なツッコミだった。

 結局、人魚姫の像に大した見どころはなかったので、適当なレストランに入って食事をして時間を潰すことになった。誰が悪いというわけではない。ただ、人魚姫のイメージに対して像がシンプルすぎただけなのだ。

 だが、像の出来はどうでもいい。

 二人とこうして一緒にいられるというだけで十分だった。

 ───暖かな光が降り注ぐ、家の縁側。

 日向を浴びて寝ながら、二人とともにのどやかな時間を過ごす。全身にかかる木漏れ日が複雑な影を編み上げている。

 前髪を撫ぜる手を振り払う意思は生まれる前に消えていた。

 こんな時間がずっと続けば良い。

 他には何もいらないとさえ思えた。

 

「……ノアトゥール。あなたは、ひとりでなんでもできる子だから。私でも立夏でも、誰かを頼らなきゃね」

「……なんでだ?」

「だってひとりは───寂しいでしょう」

 

 そうだ。こんなあたたかさを知ってしまっては、もうひとりになんて戻れない。

 小さく頷き返す。その事実を認めてしまうとなけなしの強がりが剥がれたみたいで、体温が上がって、きっと顔は赤くなっている。

 

「実は、初めて声をかける前からおまえのことは知ってた。その時は妖精が実在するんだって思ってたけど……」

 

 ……犬を抱えて泣くお前を見て、おれと同じ、ただの人間なんだと知った。

 ぽつりぽつりと降る言葉が心に溶け込んでいく。

 

「何だったらおれより弱いかもな。常識ないし、どっかズレてるし、危なっかしくて見てられないからな」

「ぶっとばすぞ」

「うん。だから、おまえは絶対に死ぬなよ」

「……縁起でもない」

 

 寝返りを打って、二人に背を向ける。ユリはくすりと笑い、

 

「それじゃあ、縁起が良い話でもしましょうか。一週間後はクリスマスでしょう? その日、ノアは来れる?」

 

 まどろんだ頭を動かして、今まで忘れていたことに思い至る。

 

「二十五日……おれの、誕生日だ」

 

 母と、弟の全てを奪った日。

 それでも二人は、

 

「じゃあ、お祝いね! 腕によりをかけておもてなしするわ!」

「ああ、プレゼントも用意してやるから絶対に来いよ!」

 

 そう言ってくれたから、

 

「楽しみに待ってるよ」

 

 自分を、肯定できそうな予感がした。

 

「……でも」

 

 ああ、だから、これは余計なことだと知っているのに。

 

「おれは、本物の家族じゃないのに、二人に祝ってもらってもいいのか……」

 

 言った途端、二人は覆い被さってきた。

 溢れんばかりのあたたかさに包まれて、欲しい言葉を何の打算もなく言ってくれた。

 

「そんなことを気にしちゃ駄目よ。それに────」

「────おれたちは、もう家族だろ?」

 

 泣きそうになるのを必死に我慢して、震えた声で応える。

 

「…………うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 待ちに待ったクリスマス。

 街にはしんしんと雪が降り積もる。

 空が灰色なのは残念だけど、その分気持ちは晴れやかだ。

 だって、今日は生まれて初めて誰かに誕生を祝ってもらえる日だから。

 すっかり慣れきった道を辿る。いつにも増して足は軽やかで、気を抜けば空に浮いてしまいそうだった。

 二人に贈るクリスマスプレゼントが入った箱を、落としてしまわないようにしっかり抱える。

 ヤドリギで作ったブローチ。魔術的な要素は加えていないけど、だからこそ本気で作った贈り物だ。

 喜んでくれるかは分からない。不安と期待が入り混じり、歩みを急かせる。

 見慣れた街もクリスマスに色づいていて、そこらじゅうが特別な装いに変化していた。人混みの声も、車が走る音も、今日この日を祝福しているかのようだ。

 この一週間、ずっと落ち着かなかった。

 視界が希望の色で彩られて、心臓の鼓動は穏やかで、何をしていても楽しかった。

 なぜなら、自分は独りじゃない。

 寒さから守ってくれるマフラーも手袋も今は要らない。二人にあたたかさを貰えたから。

 本当の家に戻る。見れば、昼間だというのにきらきらとしたイルミネーションが点灯していた。あまりの気の早さにはにかんでしまう。

 貰った合鍵で玄関の施錠を解く。

 きぃ、と軋む扉。靴を脱いで、居間までの廊下を足早に急いだ。

 居間の戸を開いたその時。

 

「…………──────っ、は」

 

 鼻腔を突く濃厚な血の香り。

 全身の力が一気に抜ける。

 呼吸さえも忘れて目を開く。

 箱がからりと落ちる。床に広がる血溜まりにふたつのブローチがこぼれる。

 天井にまで飛んだ血が頬に滴る。この日のために用意したであろう飾り付けは赤く染まっていた。

 揺れる視界。

 止まる思考。

 どこからか発生した震えが頭の先から爪先まで浸透していく。

 凍りついた脳みそはしかし。

 その、血の海に横たわる、ふたつの肉の塊を見て。

 

「──────魔力の、残滓」

 

 一瞬にして、全細胞が沸騰した。

 一も二もなく踵を返す。

 神秘の秘匿───知ったことか。五体に魔力を行き渡らせ、建物を飛び越えて、最短距離で目的地まで疾駆する。

 まるで右脳と左脳が切り分けられたみたいだ。

 濁流のような感情はそのままに、肉体は冷徹に駆動している。

 悲しみを感じる余裕はない。殺意と、憤怒と、疑念とがぐちゃぐちゃに入り組んで、それがかえって脳を冷やす。

 冷たく、冷たく、どこまでも冷たくなっていく。

 体内に張り巡らされた骨が全部氷の柱に入れ替わったと錯覚するほどに。

 あいつの墓も素通りして、地の底に飛び込む。黒く染められた景色はすぐに正常な色を取り戻す。

 そこに、奴らはいた。

 自分の帰りを待っていたかのように。

 母と弟を除いた一族の全員が、マネキンみたいにこちらを見ている。

 その先頭に立つのは、あの男だった。

 

「戻ったか、バルデルス」

 

 その一言で、視界が赤く染まった。

 感情の津波が体に流れる。

 殺意にわななく手をすんでのところで止めて、声を捻り出した。

 

「あれは、どういうことだ」

「それは私の台詞だ。外の世界に足を踏み入れ、外の世界のモノと関わりを持ち、あろうことか食物を口にした。神秘を穢す真似をしたのは貴様だ。すべて貴様に累がある」

「だから、殺したのか」

「そうだが? まさか、情をかけていたわけではあるまい。いや、そんなことよりも、だ。外界に穢れきった貴様はもはやこの聖地の住人ではない」

 

 そうか、理解した。

 こいつは、人の心が分からない。

 屈折し、ねじれ曲がった精神。他人が自分と違うということすら知らず、知ろうともしない怪物。

 あえて外道を往く魔術師としてなら、満点をくれてやっても良いくらいの俗物だ。

 男は受け容れるように、許すように、両腕を広げた。

 

「だが、私はお前を許そう。子の不出来は許すのが親だ。我らと同じように禊を行い、もう一度こちらへ帰還することを認めよう」

「……禊、だと」

「ああ、お前は知らんのだったな。協力者を招き入れるのは不服だったが……ついに、私は不老不死に到達する光明を得た!!」

 

 男は、自らの有能さに酔いしれるように、笑った。

 唇から垣間見える犬歯が、鋭く磨かれた錐のように突き立っている。それで、この男の不老不死への道筋に勘付いた。

 

「───死徒か……!!」

「やはり優秀だなバルデルス。私の子だけはある。そう、そうだよ、死徒ならば血液を補充さえすれば不老不死となれる!! そうして得た膨大な時間を使い、何にも頼らぬ完全な不老不死を完成させるのだ!!」

「それじゃあ、後ろにいる奴らも全員」

 

 死徒と化したのか。そう言う前に、彼らは手を組んで祈りを捧げ始めた。

 

「我らが神子、バルデルス」

「どうか愚劣なる人間の穢れを祓い、」

「私たちの光明となってください」

 

 ぶつり、と頭の奥底で大事な何かが途切れる。

 男は懐から注射器を取り出す。その中身は赤黒くどろどろした液体で満たされていた。

 

「さあ、私に寄れ。私がもう一度お前に生を与えてやる。これからも生きることを許可────」

 

 その、クソに塗れた言葉は最後まで紡がれることはなかった。

 この人間擬きの目に突き刺した二本の指を引き抜く。ずりゅりと白い半固形の物体がこぼれ落ち、その奥からピンク色の肉片が流れ出す。

 

「…………が、かっ───?」

 

 崩れ落ちた体を容赦なく踏み潰す。

 顔を、手を、足を、胴体を、丹念に丁寧に踏み躙る。

 それでもこいつは人間擬きだ。死徒特有の再生力にヤドリギが合わさり、見る見る間に肉体を復元していく。

 なので、首を蹴り抜いて頭を切り離し、火のルーンで体の部分を跡形もなく蒸発させる。最後に床に転がした頭を踏みつけて終わりだ。

 

「え」

 

 どこからかそんな声が上がった。

 馬鹿が、おまえらも同罪だ。

 人間であることを捨て、ヤツの殺人を見逃したおまえらも当然死ぬべきだ。

 

「───全員殺す。逃げたいなら逃げろ。どこまでも追って殺す」

 

 瞬間、絶叫が闇の中に轟いた。

 これは戦闘でも虐殺でもない。

 ヒトならぬモノを作業的に殺す、屠殺だ。

 逃げ遅れた奴がいた。

 全身をバラバラに切り刻んで燃やした。

 歯向かってくる奴がいた。

 内臓をひとつずつ引きちぎって脳を潰した。

 出口の鍵を解こうとした奴らがいた。

 多すぎて面倒だったのでまとめて炭にした。

 体が返り血で真っ赤に染まった頃、母と弟が閉じ込められていた牢に向かった。目に映ったのはぴくりとも動かない弟の首を執拗に絞め続ける母の姿だった。

 

「…………あなたも、私が産んだのよ」

「誰が、産んでくれなんて頼んだ?」

「ねえ、バルデルス。私、ずっとあなたに─────」

 

 母は微笑んで、

 

「────死んでほしいって、思ってた」

 

 それを遺言に、喉に短剣を突き刺して死んだ。

 視線を切り、牢を出る。元の場所に戻ると、殺したと思っていた男は首だけで声にならない声を漏らしていた。

 その頭を掴んで、脳内で魔力を暴れさせる。あの日、こいつが子犬にそうしたように。

 破壊と復元を数十回繰り返すと、外界への通路が物理的に破壊され、警報が鳴り響いた。

 古風な外套を纏った銀髪の男。瞳は血のように赤く、体内に満ちる力は人間のそれを遥かに超えている。

 吸血鬼は高らかに手を打ち鳴らした。

 

「素晴らしい。その齢で、これほどの力を誇るとは。その真名に疑いようはないらしい」

「……おまえが、協力者の死徒だな」

「その通り。神殺しのヤドリギ、その可能性は限りない。研究素材としては最上だ」

「不老不死の、か」

 

 銀色の吸血鬼は首肯する。

 首だけになった同盟相手の絶叫を意にも介さず、ヤツは提案した。

 

「私と手を組み、研究を行わないか? そこの首と違い、死徒になることを強制するつもりもない。無論、根源を目指すならそれもよかろう」

「寝言は死んでから言え、欠陥生物」

「……ほう、三百年を生きたこの身を欠陥と評すか」

 

 掴んだ首を吸血鬼の足元に放り投げる。

 

「死徒の生態は効率が悪い。人を超えたと宣う癖に、人の血を吸わないと生きていけない矛盾を抱えてる。極論、人が滅びればおまえらも道連れだろうが。そんなものを不老不死と呼べるか、馬鹿が。東洋の仙人にでもなった方がまだマシだ」

 

 死徒は常に吸血衝動に苛まれる。人の社会が未熟だった頃はそれでも良かったのだろう。しかし、こと現代においては聖堂教会が存在する。

 人を超えた存在が、人の目を避けながら血を吸わねばならぬ宿業。この世に何人といない上級死徒ならばともかく、多くの死徒は生存に向いていない───そう語ると、吸血鬼は笑い出した。

 

「確かに、こと不老不死に限れば君の話は誤りではない。だが、知っているか? 死徒とは英霊の真逆に立つ者。人類史を否定する者だ」

「……だから?」

 

 外套の裡より、赤色の武装が群生する。

 槍や剣、果ては銃。己が血液を呪いによって固めた武器の数々は、ひとつ余さず少年を狙っていた。

 

「相剋だよ。ヒトは死徒には勝てぬ」

 

 人類史の流れの中に生きる人間と、人類史そのものを否定する死徒。単なる強さの話ではない。相性として、死徒は人間の上にいるのだ。

 

「今から君の血を吸う。安心しろ、私は眷属を作るのが得意でな。その才能の輝きは一片足りとも失わせない」

「御託だけは一丁前だな、死徒」

「殺すつもりでやる。あっさりと死んでくれるなよ、人間」

 

 吸血鬼は一足飛びに襲い掛かった。

 死徒の社会は人間の貴族社会のそれに近い。

 すなわち、階級階梯こそが全て。ヒトと異なるのは個体の戦闘能力までもがそれによって決まることだ。

 彼の階梯はⅥ。英霊召喚を可能とするこの世界においては、最高位に次ぐ位を有する死徒であった。

 だが、完全なる不老不死を手に入れたならば、その概念は崩れ去る。

 自分だけが、自分こそが最高位に腰を落ち着け、並み居る上級死徒たちの上に立てる。

 そう。

 かのアカシャの蛇、転生無限者でさえ届かなかった一個体による永遠の命。

 これを掴み、死徒の頂点を掌握する────!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

「『神体化・断罪の光明(アルス・テウルギア・バルドル)』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………あ、あれ?」

 

 戦いは、ものの三秒で終わりを迎えた。

 吸血鬼は千を超える武装と超常の膂力を余すことなく叩き込んだ。

 しかし、その結果は。

 一歩も動かず、無傷で立つ人間と。

 四肢を消し飛ばされ、顔面を潰された死徒。

 誰の目にも、勝敗は明らかだった。

 路傍のゴミみたいに転がされた死徒の目に映る、白き影。

 背後に日輪を顕し、体表を彩る真紅の紋様。それで、吸血鬼は直感した。

 

「神代回帰……!? ありえない、なんだそれは! なぜ現代の環境でそんな────ッ!!」

 

 その事実を肯定できない。

 遅れて、自分がどのように負けたのか思い出す。

 彼は全力の攻撃をことごとくその五体で受け止め、光によって四肢を焼き切り、最後にその拳を突き刺した。

 人間など一撃で肉塊に変える攻撃の応酬は、彼の皮膚に傷を残すどころか纏う服さえ裂いてはいない。

 だが、死徒の横に転がる首は理解していた。

 吸血鬼は最初から間違えていた。

 相手取っていたのは人間ではない。

 神話に語られた白き光の神。遍く罪に調停をもたらす裁きの光に、立ち向かっていたのだ。

 なればこそ、勝ち目はなかった。

 公平に罪を裁く神には人間も死徒も同じこと。

 男は、絶望と諦観を込めて呟く。

 

「バルドル……─────」

 

 白き神は、ただ、告げる。

 

「死ね」

 

 この要塞の外。

 天上より、一本の光条が飛ぶ。

 それは山の頂点を刳り貫き、地の底の何もかもを塵へと還した。

 後に残るのはたったひとり。世界との契約によって無敵の体を得たバルドルのみ。

 日の光輪が消え、真紅の紋様もどこかへ溶ける。

 全ての光を失くした地下。彼はふらりと歩き出した。

 他人の目も気にせず、血塗れの体であの家から遺体を運び出した。

 犬の墓の横に、新たな墓標をふたつ。

 だけど、遺体は寄り添うようにして埋めた。

 土で見えなくなって、雪の中にひとり。

 日が傾くまで立ち尽くしていると、ようやく感情が思考に追いついてきた。

 唇からか細い息が漏れる。

 脳髄が凍りつき、指先が感覚を失う。

 

「…………()()

 

 あまりに寒いから、雪の地面に膝をつく。

 黄昏の光の中で、改めてその墓標を見た時。ぽつりと、致命的な言葉を吐き出した。

 

「───おれが、殺した」

 

 他の何者でもなく、おれが殺した。

 この、ふたりを。

 

「おれ、が、殺したっ…………!!」

 

 自分を突き刺す言葉を繰り返す。

 ユリとリッカが死んだのはおれのせいだ。

 あの時、外にさえ出なければ。

 あの日、あの場所を求めてしまったから。

 掟を破った。

 禁忌を破った。

 それでも、あの場所から離れたくなかった。

 だって、あそこは、あたたかかったから。

 ───おれはただ、あのあたたかい場所にいたかっただけなんだ。

 自分の存在さえ無ければ、あのふたりは今も幸せに暮らしていたはずだ。

 自分の存在さえ無ければ、あのふたりが殺されることなんてなかったはずだ。

 自分の存在さえ無ければ、他の誰もが死なずに済んでいられたはずだった。

 全て、この不幸の根源はおれだ。おれでしかありえない。

 だから、どうか。ユリとリッカは関係がなかったんだ。だから。

 

「神様、神様、お願いします! おれはどうなってもいいから、このふたりを生き返らせてください!!」

 

 墓標に縋りついて、喉が張り裂けるほどに泣き叫ぶ。

 けれど、返ってくるのは無音。雪は無情に降りしきり、街はクリスマスの明かりに満ちていた。

 吐く息は白くなかった。体の芯まで、魂の芯まで凍りついて、白くなるまでの温度を持っていなかった。

 かつて、オーディンは言った。

 

〝不毛の地に立つ樅の木は枯れる。樹皮も針葉もそれを保護しない。誰にも愛されない人間もこれと同じだ。どうして長生きしなければならぬのか〟

 

 それは、たぶん、その通りだ。

 もう、生きてなんていられない。

 このまま雪に埋もれて、夜の闇の中で、誰にも見つからずに死んでいく。

 それで良い。

 本当に地獄があるのなら、そこで裁かれるはずだから。

 そんなことで許されるとは思っていないけど、もしかしたら、ふたりの気も少しは晴れるだろう。

 魂まで凍りついて、意識を手放そうとすると、あのあたたかい声が聞こえた。

 

〝うん。だから、おまえは絶対に死ぬなよ〟

 

 止まりかけていた呼吸が、元に戻ろうとする。

 体に積もる雪を握り締め、腹の底から感情を捻り出す。

 

「…………っ、く、そっ────」

 

 死ぬことで楽になると言うのなら。

 おれは、生き続けなきゃならない。

 生きることは苦しみで、つらいことだから。

 だから。

 きっと。

 おれはこの先ずっとずっと苦しみ続けて、どこかの路傍でゴミのように死のう。

 そう思って、死にかけの体で歩き出した。あたたかさをくれた三つの印を置き去りにして。

 空はとっくに夜だというのに。

 二羽の烏が、おれの上を回るみたいに飛んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから二週間くらい休まずに歩き続けた。

 動いていないと、足を止めてしまうと、死んでしまいそうだった。

 行く宛がないから、とにかく進めなくなるまで歩き続けた。気付けば街の様相も変わり出して、看板や店先に書かれている文字もデンマークのそれとは違っている。

 ユリとリッカに教わった地理をぼんやりと反芻し、ここがドイツの国であることに考え至る。だからどうしたというわけでもないが。

 すると、空は分厚い雲に覆われて、雨を滴り落とす。

 別に濡れてもよかったけど、寒くて冷たいのは嫌だったから、路地裏に逃げ込んだ。

 しとしと降る雨が水溜まりを作っていく。水面に広がる波紋を目で追いかけていると、ふと、打ち捨てられた四角い箱に目がいった。

 大きくはない。手のひらより少し小さい程度のサイズ。手に取って上部を開けてみると、何本かの白い棒が詰まっている。

 濡れていない無事な一本を抜き出し、観察する。茶色い葉っぱを紙の筒に包んだモノ。要はたばこだ。街中で吸っている人をよく見かけるから知っている。ユリに教えられた。

 

「……そんなにうまいのか?」

 

 多分、吸い方も分かる。フィルターが詰まった方とは逆にルーンで火をつける。

 白い煙が昇るのを見て、ゆっくりと吸ってみた。

 

「…………まずい」

 

 思わず咳き込んでしまう。口の中が苦い。これを吸っている大人たちの気持ちはまだ理解できなかった。

 水溜まりの中に火元を近付ける。

 

「それ、吸わないならあたしにちょーだい」

 

 不意の声に、手が止まった。

 路地裏の先、降りしきる雨の中に彼女はいた。

 腰まで伸びた、燃えるみたいに真っ赤な髪。キャミソールと上着を着崩し、下半身はジーンズにハイヒールを履いている。指輪やネックレスで着飾り、耳のピアスは軟骨にまで装着されている。

 しかし、何よりも指摘すべきは。

 

「───なんで傘差してないんだ」

「あたし、傘差さない派だから」

「そんな派閥があってたまるか……」

「それがあるんだな、困ったことに」

 

 彼女はつかつかと歩いてきて、たばこをかっぱらった。

 鮮やかな口紅をさした唇が吸い口に触れ、白い煙が抜け出す。雨中のその姿はどこか映画のワンシーンめいている。

 

「あ゙〜……やっぱ酸素よりニコチン吸った方が美味いわ。クラクラしてきた」

 

 ───アホだ、この女。

 たぶん、ユリとリッカよりも飛び抜けて頭がおかしい。しかもその方向は斜め上だ。そんな雰囲気を感じ取った。

 しばらく女がたばこを吸う光景を見せつけられていると、雨が引いていく。どうやら通り雨だったようだ。

 

「お、晴れた」

 

 雲間の光を浴びながら、女は微笑む。

 吸い殻を爪先で踏み潰して、こっちの顔を覗いてくる。

 

「あたし、アンナ・フォーゲル。あんたは?」

「ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド」

「じゃあノアね。ご飯食べに行こーぜ」

 

 嫌だ、と言う前に両脇から手を差し込んで、体を持ち上げられる。長身の彼女にそうされると、足が地面から離れて空を掻いた。

 振り払おうとするが、意外にもその力は強かった。……というか、肉体のリミッターを外しても拘束から抜け出せない。

 

「どんな馬鹿力してんだ……!?」

「ふ、これでも元バレリーナでね。モスクワの鬼コーチに鍛えられまくったのさ! 今は無職だけど!! 今は無職だけど!!!」

「いや、鍛えただけでこんな力出るはずないだろ!」

「はいはい、問答無用! 今日はピザの気分だからピザ屋行くぞ〜! やっぱ牛肉とたまねぎにマヨネーズかけてコーン載せたギットギトのピザが最高だよねえ〜!!」

「豚の餌でも食ってろ……!!」

 

 ずだだだだ、と水しぶきを撒き散らしながらアンナは疾走した。

 そのままピザ屋になだれこみ、席に座らされた。逃げられないように隣でがっちりと肩を組まれる。

 ピザ屋の店員は顔見知りなのか、怒りの表情でタオルを投げつけてきた。誰だってずぶ濡れで店に入ってきたら同じことをしたいと思うだろう。

 もう観念した。魔術をこの場で使うわけにはいかない。

 

「……逃げないから、手ぇ離せ」

「あ、寒くて無理。湯たんぽ代わりになって。注文はいつものやつにマルゲリータとパスタでよろしく! 三十秒で支度して!」

 

 ピザをナメた発言。ふざけろボケ、と厨房から罵声が飛んでくる。完全に同意だった。

 アンナはぐいぐいと腕で引き寄せてきながら、

 

「つーか、体冷たくね? 温まんないんだけど」

「……これがデフォだ。文句言うなら離れろ」

「へえ〜、面白い体。後で見せて?」

「ふざけんなアホ」

 

 せめぎ合いを続けていると、注文した料理が運ばれてくる。

 ユリのシチューと同じように食欲を掻き立てられはしなかったが、惰性で料理を口に運んでいく。

 肘をつきながらピザをかじっていると、サラダの皿が目の前に移動してくる。元の位置にそれを戻すと、すぐさま逆戻りしてきた。

 不毛なやり取りを繰り返すこと数度。

 

「おい」

「拙者、火の通ってないものは食えないでござる。サラダなどいらぬ。ドレッシングなど愚の骨頂でござる」

「……今まで会った人間の中でおまえが一番アホだ」

「マジで? 世界狭すぎない? いや、あたしがヤバすぎるのか?」

 

 とりあえずヤバいことには違いないだろう。もちろん良い意味ではないが。

 

「そもそもさ、なんであんなとこにいたのよ」

「答えたくない」

「ん、まあ、そういうこともあるか。込み入った事情があるなら、あたしも無理に聞こうと思わないさ」

 

 言って、アンナは水を呷った。

 こん、とコップの底が机を叩く。彼女は一息つくと、真っ直ぐな視線を差し向けてくる。

 

「……やっぱ聞かせて! めちゃくちゃ気になってきた!!」

「本当にアホだな、おまえ」

 

 だが、このまま黙々と食べ続けるのも飽きてきたところだ。

 隠しておく話でもない。誰かに自分が犯した罪を聞いて、なじって貰えればそれでもう十分だろう。

 それで、話した。今までのすべてを。魔術の存在をも明かすことになるが、それはどうでもいい。研究が露呈した場合でなければ神秘は薄れない。そもそも、この世界のどこかには一般人でもオカルトを信じている人間がいるはずだ。UFOが本気で実在すると主張する連中もいる。……ただ、個人的にUFOは実在してほしい。

 アンナは黙ってその話を聞いていた。黙って、というにはいささか豪快に食事を摂っていたが。

 一通り喋り終えると、アンナはたばこに火をつけて一吸いする。

 

「色々とややこしい問題は置いといて」

 

 ───あたしも、同じことをするかな。

 彼女は何の気無しに、そう言った。

 

「ま。運が悪かったね、運が。あんま気にしない方がいいよ、今までのことは」

「運で片付けるのか?」

「うん。生まれる場所も、産んだ両親も、生まれ持った才能も、全部運でしかないじゃん? 現に、この世界じゃ生まれてすぐ死ぬ人もいるんだし」

「……随分と能天気な考え方だ」

 

 けれど、それ以上否定することはできなかった。どれもこれも運に左右されるという考えは身も蓋もないが、強く跳ね除けることもできない。

 自分だって、生まれる場所を選べるならあんなところを選んではいなかっただろうから。

 

「だからさ、自分に都合良く生きていこうぜ〜? 生まれた場所も親もクソだったけど、自分の才能は自分のモノって具合にさ」

 

 たばこを灰皿に押し付ける。

 空気に溶け込んでいく煙を眺めて、思った。

 そんな生き方もあるのか、と。

 財布から紙幣を数枚取り出し、テーブルに置くと、アンナは立ち上がった。

 

「よし、帰るべ。ほら行くぞ」

「は、な、せ!!」

 

 襟を掴まれて引きずられていく。

 その力は未だ健在で、店を出て街路を歩いている途中でようやく抜け出せた。

 しばしの無言。街の環境音だけがアンナとの間に満ちていく。彼女は立ち止まって、告げる。

 

「あたし、もうすぐ死ぬんだよね。末期がんってやつ」

 

 その告白はあまりに唐突で。

 凡庸な表現だけど、驚いてしまった。

 

「ひとりは寂しいからさ、付き合ってよ。一ヶ月くらい」

 

 断るとか断らないとか、それ以前に。

 

「どうして、そんな平然としていられるんだ」

「自分で決めたことだから。それにほら、自分のことならいくらでもコントロールできるでしょ」

「痛く、ないのか」

「全然。痛覚なんて閉じれば終わりだよ」

 

 この世界には、本当に色んなやつがいる。

 魔術世界で言う超能力。先天的に生まれ持った才能であり、呼吸をするように超常現象を引き起こすことができる。彼女のそれは外界ではなく内界に向けてのモノだ。

 そうでなければ、末期の病巣に侵されてこうしていられるはずがない。それなら、自分を押さえつけられるほどの力にも説明がつく。どこぞの魔術師には研究対象にもなるだろうが、内界に向く力故に勘付かれることはなかったのだろう。

 これを指摘することはしなかった。伝えたところで彼女はどうにもならないし、どうもしない。

 ただ、その事実を隠すという罪を償うために。

 

「仕方ない。おまえが死ぬまで、付き合ってやる」

 

 アンナは気恥ずかしそうにはにかんだ。

 

「よっし! それなら明日からみっちりオトナの遊びってのを教えてあげよっかな! 子どもにはちょっと刺激が強すぎるかもしれないけど!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、翌日。

 会場に満ちる熱気、熱狂。鮮やかな芝の上を、強靭な肉体が駆け抜けていく。人ならぬ彼らのレースはしかし、その大きさも合さって張り詰めんほどの気迫を巻き起こしていた。

 第四コーナーを曲がり、最後の直線。群体にバラつきが見え始め、辺りを包む狂乱は臨界点を飛び越えて氾濫する───!!

 

「うおおおおおお差せェェェェ!!!」

「なんで競馬!!?」

 

 漆黒の馬体が馬群から抜け出し、ゴールを切る。それとほぼ同時に、アンナは握り締めていた数枚の馬券を地面に叩きつけた。

 

「クッソォォォ!! そんなの当てられるかァァァ!!!」

 

 この世で最も醜いもののひとつがそこにあった。

 くしゃくしゃになった馬券を一枚拾う。

 単勝、10番。ゴールを切ったのは3番の馬だった。ものの見事に外れている。他にも馬券は落ちているが、軸にした馬からして外れているのだから当たっている訳がない。

 見れば、周囲でも同じような反応が起きていた。歓喜と絶望が入り混じった空間はまさしくカオスだ。

 アンナはしれっと振り返る。

 

「どうだ、ノア。これがギャンブルだ……!!」

「うるせーアホ。金溶かしただけだろ」

「おっと、こうしてる場合じゃない。次の勝負のためにパドックに行かないと」

「話聞けよ」

 

 パドックに移動する。次レース発走予定の各馬が狭い円周を何度も回っていた。

 当然、馬が持って生まれた気性やコンディションによって粗相をするやつもいる。アンナは落ち着かない芦毛の馬を眺めて、

 

「次はアイツだな。間違いない」

「どこがだ。暴れまくってるぞ」

「分かってないなあ、戦意の裏返しだって。勝つ気概もない馬がどうして勝てようか。いわんや……ってことだよ、反語だよ」

「おまえはまずその目を裏返せ」

「えっ? どういうこと? もしかしてあたしがずっと白目剥いてるとでも思ってた?」

 

 肩を掴んでがしがしと揺らしてくる。非常にうっとうしい。それを無視して、観察した結果を述べる。

 

「1番、2番、5番。三連複で突っ込んどけ。あと三連単で5番アタマの2パターン」

「えぇ〜? そう上手くいかないでしょ。そもそも未成年禁止だし。あたしはアイツに賭けるから」

 

 で。

 

「んがああああああ!! 外れたァァ!!」

 

 着順は目論見通り、5番1番2番の順だった。未だにざわつく会場。鉄柵に寄りかかって、七転八倒するアホ女の額を小突く。

 

「ほら見ろ、おれの言う通りにしてれば当たってた」

「い、いやいやいや、ビギナーズラックでしょ。よくあるじゃん。そうやってみんなギャンブルにハマっていくんだから」

「一発も当ててないおまえがギャンブルにハマるなよ」

「それを言ったら戦争だろ!! まだ二回しかやってないのにイキられても困りますなあ〜!!?」

 

 鬼の形相で詰め寄ってくるアンナ。掴みかかってくる腕と悪戦苦闘していると、カン、と甲高い音が鳴った。

 音の方向には、ビールの缶を握り締めた中年男性もとい小汚いおっさん。ヤツはニヒルな笑みを浮かべて、鼻を鳴らす。

 

「いいや。そこの小僧が正しいぜ、嬢ちゃん。勝負ってのは最初の流れがキモなのさ」

「誰だよ」

「毎日ここに来てるおっさん。嫁と娘に逃げられた悲しき過去を持つ男……」

「ねえ、やめて??」

 

 おっさんは一筋の涙を流した。嫁と娘に逃げられた十字架は今もなお背中に重くのしかかっているのだ。

 今日全敗中のアンナはなぜか上から目線で言う。

 

「まあ、社会的ステータスではあたしの圧勝だけど、どっちが上かは馬が決めてくれる! 勝負と行こうぜおっさん!」

「無職だろおまえ」

「ふっ、調子に乗りやがって若造が。俺は絶対に狙いを逃さない男だぜ?」

「嫁と娘には逃げられたけどな」

 

 おっさんとアンナの視線が向く。それは獲物を捉えた獣の目だった。子ども相手に。

 

「何か言いたいことでもあるのかなノアくぅん? ここは稼いだ者しか発言を許されない鉄火場だよ?」

「それなら金貸せ。おまえみたいなアホと、嫁と娘に逃げられたおっさんにも分かるように格の違いを見せつけてやる」

「男に二言はないぜ? あたしはともかく、嫁と娘に逃げられたおっさんにすら勝てるかどうか……」

「ねえ? もう四回も逃げられてるんだけど? 分かってて言ってるよね。俺のキャラ像がそれしかなくなってるよね」

 

 そんなこんなで、仁義なき戦いが幕を開けた。

 ちなみに、子どもでは受付で断られたのでアンナに馬券を買ってもらった。受付の人が養豚場のブタを見るみたいな目になったことは言うまでもない。

 その成り行きもまた言うまでもなく。

 

「あたしが馬乗った方が速いわ。ちょっと行ってくる」

「「おい馬鹿やめろ!!」」

 

 アンナが鉄柵を乗り越えようとしたり、

 

「ねえ、パドックって何見ればいいの?」

「筋肉の動かし方、目線、呼吸の頻度、毛並み───色々だな。逆に何見てるんだ」

「ごめん、四本足の札束が歩いてるようにしか見えない」

「嬢ちゃん頭イカれてんのか?」

 

 嫁と娘に逃げられたおっさんよりも悲しい生き物を見たり。

 それで、最終レースの後。

 勝負の明暗ははっきり分かれていた。ゾンビじみた血色で項垂れるアンナとおっさん。血走った白目が赤くなっている。札束を抱えるおれを恨めしい目つきで睨んでいた。

 

「何か言うことは?」

「「私が雑魚でしたごめんなさい」」

 

 ということで、仁義なき戦いはお開きになった。帰りの交通費もなくなったおっさんは徒歩で家に帰る運びになった。

 アンナの住処はアパートの一室。内装は簡素で、生活用品も最低限。服や下着も床に投げ捨ててある。

 単にものぐさというだけではない。

 どうせ死ぬから、掃除の必要がないのだ。

 それでも、大事に取ってある物品はあった。部屋の隅に積み上げられた数十本のビデオテープ。バレリーナ時代の映像が詰まっている。

 遊び疲れて帰った夜、それを見るのが定番の流れだった。

 演劇にも舞踊にも詳しくはないが、それでもアンナの演技の異様さは際立つ。同業者の目にはより明らかだったのか、彼女が主役を演じていないテープは三本ほどしかなかった。

 役そのものになりきるとはよく言うが、アンナのそれは度を越している。壇上の演技は本物を演じれば良いわけではない。遠くの観客にも伝わるように、誇張を挟む必要もある。

 要は、現実と虚構の使い分けが上手いのだ。役そのものに成る時もあれば、役を飛び越えて感情に訴えかけてくる時もある。故に、その演技は役そのものではない。その役の本人よりも本人らしく、理想的なイメージを脳に叩き込んでくる。

 バレエに台詞はない。自らの肉体のみによって、感情を表現する。小さい画面の中で躍動する彼女の姿は、とても────

 

「ぐあー! やっぱこれっすわ! 結局ビールと焼いたソーセージがベスト・オブ・ベスト!!」

 

 ───……同一人物には思えなかった。

 テレビの中で演じているのはサロメ。かの救世主に洗礼を行ったヨハネの首を所望した女だ。

 バレエ『サロメの悲劇』はほとんどがサロメの一人芝居で構成されている。それ故に劇が作られた当時の評価は芳しくなかったが、アンナが演じるサロメは透明感のある妖艶さで、そこにいないヨハネやヘロディアを作り出しているかのようだった。

 

「今まで見た中だと、これが一番かもしれない」

「ふふん、どうも。サロメなんて映画とかオペラでやりつくされてるから、新しさはないけどね。好きな人の首を求めるとかすごくない?」

「聖書では母のヘロディアがヨハネの首を望んだから、サロメが王に頼み込んだ。好きでもなかったんじゃないか」

「純粋すぎたんだよ、サロメは。母ちゃんに言われただけで誰かの首が欲しいなんてさ。純粋かつマザコンだったんじゃない?」

 

 幕が閉じ、ビデオの映像が移り変わる。

 

「まあ、その気持ちは分かるよ。あたしもそうだったし」

「おまえのどこが純粋?」

「マザコンの方な!? ……女手ひとつであたしを育ててくれたの。お母さんが褒めてくれるから頑張って、大体の賞は総ナメにしたんだけど。あたし天才だから」

「自分で言うな」

「けど、死んじゃった。ブノワ賞の授賞式の前に、交通事故で」

 

 淡々と、アンナは言った。

 アルコールが回りに回り、顔を真っ赤にした彼女はぐでんとテーブルに突っ伏してしまう。

 卓に置いたソーセージを唇だけで口内に送り込みながら、その時のことを話す。

 失意のままに授賞式を終え、アンナは貰った賞状も、バレエダンサーを象った彫像も、ゴミ箱に捨てて帰ろうとしたという。

 

「で、今の映像の隅に映ってる子……あたしの友達が話しかけてきて」

 

 彼女はひしゃげた賞状を突きつけて、怒気とともに言い放った。

 

〝これ、どういうこと。これを貰うために、どれだけの人間が努力してるか知らないの〟

〝…………欲しいんだったらあげるよ。そんな紙切れケツ拭く紙にもならないし、何ならあのダサい像も拾ってくれば。そもそも、あたしのモノをどうしようが勝手じゃん〟

〝───っ。あんた、辞めるの〟

〝うん。マスコミとかパパラッチとかめんどくさいから、ウガンダでも行ってくるわ。じゃあね〟

 

 そうして、携帯電話もパソコンも全部捨てて、逃げるように業界を引退したのだとか。

 ソーセージをかじりつつ、話の感想を述べる。

 

「……それは、流石におまえが悪い」

「だよなぁ〜!! ガキ過ぎたなぁー、あの頃のあたし! 今でも思い返すと鳥肌が立つ黒歴史だわ……!! なんかパパラッチもアフリカの奥地まで追ってきたし!」

「でも、おれも同じ状況ならおまえと同じことをしてたかもしれない。親が死ぬ辛さは、おれでも分かる……と思う」

 

 すると、アンナはがばりと起き上がって抱きついてくる。

 

「もしかして慰めようとしてくれてんすかぁ〜!? 少しは可愛げがあるじゃん! もっと言って!」

「寄るな! 酒くさいし、たばこくさい!」

 

 しかし、その攻防も長くは続かなかった。アンナは酒が進みすぎたせいで見事にノックダウンされ、泥のように眠りについた。

 この家にベッドはひとつしかない。いつもは湯たんぽ代わりだとか言って引きずり込んでくるが、今日に限ってそれはなさそうだ。

 考えるのは、アンナとその友達のこと。友達の名前はアリサと言うらしい。寝言で呟いていた。

 アンナがもうすぐ死ぬとしても、友達との喧嘩別れは未だ心に残っている。どうせ死ぬなら、もっと穏やかで、悔いがないものにしたいはずだ。

 体の病気を放置していたのだって、母が亡くなった影響なのだろう。誰かのために頑張っていたのに、その誰かがいなくなったのだ。その絶望は、分かると思う。

 いま、自分にできることは。

 

「……やるか」

 

 ───その日は雲ひとつない晴れ模様だった。

 カジノを行脚するというアホの極みのような遊びに付き合った夕方、アンナと並んで帰途に就く。

 

「あー、負けた負けた! 負けまくった! 金が溶けてく絶望ってクセになるよね!」

「よく毎日溶かせるだけの金があるな?」

「現役時代に稼ぎまくったからね! 金ならある! むしろ金しかない!!」

「───ケツ拭く紙にもならない金はあるのね」

 

 大股歩きで街を闊歩するアンナの前に立ちはだかった、ひとつの影。奇しくも、彼女はアンナと同じ格好をしていた。違いは髪型くらいで、黒髪のボブカットにしている。

 アンナの動きががちりと固まる。おそらくメデューサとにらめっこした人間もこんな感じになるだろう。

 

「アリサさん? ナンデ!?」

「そこの男の子に呼ばれたのよ。若いツバメ囲ってるみたいね」

 

 アンナは強張った顔で振り向き、

 

「ノア、説明して!」

「インターネットって便利だよな」

「どこでそんなものを!? あたしの家なんてパソコンはおろか携帯電話すらないのに!!」

「近所のネットカフェ」

「要領良すぎない!?」

 

 そこで、アリサは口を差し挟む。

 

「ねえ、あなたたちのコント見に来たんじゃないんだけど」

「そこの喫茶店にでも入って話してきたらどうだ」

「そうね。さっさと行くわよ」

「ち、ちょっと待って! ノアも来て!」

 

 気まずい雰囲気のまま、喫茶店の席につく。じろりと怜悧な眼差しのアリサとは対照的に、アンナは挙動不審極まっていた。

 どろどろと渦巻く空気の中、店員がやって来る。

 

「ご注文はお決まりですか?」

「私はコーヒー」

「オレンジジュース」

「こ、この店で一番強いお酒を」

「お客様? ここ喫茶店ですよ?」

 

 アリサと二人がかりで困惑する店員をやんわりと帰らせる。いくら接客経験があろうと、喫茶店で酒を頼むような人間の処理は荷が重いだろう。

 品物自体はすぐに運ばれてきた。アリサがコーヒーを一口味わい、口を開きかけた瞬間にアンナは頭をテーブルに打ち付ける。

 

「す、すみませんでした! あの時のことは何卒お許しを!!」

「いいわよ。私も悪かったから。振り付け師の車蹴っ飛ばすくらいにはムカついたけど」

「そ、そうですか。フヘへ……では、拙者はこれにてドロンいたすでござ」

「逃げるなよ」

 

 立ち上がろうとするアンナの腕を引っ張って座らせる。初めて会った頃とは逆の立場。まさか許す許さない程度の話で、積もり積もった負債を支払えるはずがない。

 鮮やかな橙色の甘い水を口につけながら、二人の会話をただ聞いた。

 最初はぎこちないやり取りも、太陽が地平線にかかる時刻にはすんなりと滑り出して。日が沈んだ時には、店員が虚ろな顔をするほど饒舌になっていた。

 それは取り留めのない話で、理解できない部分もあったけど。

 不思議と、疎外感はなかった。

 別れ際、アリサは言った。

 

「アンナ。あんたは自分のことだけ考えなさい。あんたが残した功績も名誉も、いつか、私の演技でみんなの記憶から消し去ってあげる。───じゃあね」

 

 その言葉に、アンナがどんな感情を得たかは分からない。

 帰り道。煌々と存在感を現す月の下を共に歩く。彼女の足取りは映像で見た時よりも流麗で、ひとつの音楽みたいに足音が重なっていった。

 満面に笑みを広げて、小踊りするアンナはどこか子どもじみていながら、ぞっとするほどに艶やかだ。

 

「むふふっ……ありがとね、ノア。こんなに良い日、初めてかも!」

「ああ、精々感謝しろ」

「うん。こりゃあお返ししないと。ねえ、何かあたしにしてほしいことある?」

 

 その返答は、自分でも驚くくらい速く出た。

 

「───おまえの踊りが見たい」

 

 アンナは不意を突かれた表情で、

 

「……ここで?」

「ここで」

「衣装とか、ないけど」

「衣装なんて、なくてもいい」

 

 分かった、と彼女は頷く。酒を飲んでいない彼女の赤面は珍しかった。

 おれは地面に腰を置いて、自分ひとりのための劇が始まるのを待つ。

 

「やっぱり、サロメが良い?」

「おまえの好きなやつがいい」

「…………それじゃあ、白鳥の湖」

「うん。踊ってくれ」

 

 そして、彼女は翔んだ。

 石畳の湖面を、白き鳥のように。

 月明かりに照らされ、思うがままの振り付けで舞い踊る姿の前に言葉は無力だった。

 悪魔ロットバルトに呪いをかけられ、白鳥に変えられたオデット。白鳥の湖はオデットと王子ジークフリートの悲恋の物語だ。

 だが、ここには呪いをかけたロットバルトも、ジークフリートもいない。

 ひとり、白鳥と化したオデットだけが舞い続ける。

 現世のあらゆるしがらみから解き放たれたオデットの───アンナの舞に目を奪われ、心を釘付けにされ、魂を昂ぶらせる。

 月に届かんと跳躍する白鳥。

 まばたきすら煩わしいと思わせる光景。

 バレエに台詞はない。自らの肉体のみによって、感情を表現する。だけど、彼女は一度だけ、目を輝かせて、言葉を口にした。

 

「あたし、いま死んでも良い───!!」

 

 死に向かって飛び立つ。

 この光景を網膜に焼き付ける。

 それで、気付かなかった。

 この心臓が、甘く震えていたことに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝。カーテンの隙間からまばゆい光が射し込む。ひとつの布団の中で抱き合うみたいに眠っていた自分たちは、全く同時に微睡みから覚醒した。

 もぞりと気怠さが見える緩慢な動きで、腕と脚が絡みついてくる。

 それで、直感した。

 ───ああ、終わりなんだ。

 

「なんだかんだ、一ヶ月半も生きちゃった」

「悔いはないか」

「……、あるといえばあるかも」

 

 ほっそりとした左手が頬に触れる。

 

「ノアの、これからのこと」

「それは、おまえが心配することじゃない」

「優しいね。でも、聞かせて。ノアがこれからどうやって生きるのか」

「……わからない」

「なら、今決めて」

 

 言われて、考えた。

 一寸先も見えない、未来のことを。

 どうやってこの世界を生きるのか。その方法はきっと、自分の中にしか答えがない。

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶとは言うが、経験から学ばない在り方もそれはそれで歪だ。どちらも、自分が得たものであることに違いはないのだし。

 自分が得た経験───母に首を絞められた最初の記憶、弟の悲痛な叫び、初めてあたたかさに触れたあの日、誰かの家族になれたこと、一族の皆殺し、雪の中の涙。

 自分が学んだ歴史───唯一神の束縛を受け、無窮の知恵と知識を授かってなお、愛する者のために叛逆を成そうとした王。

 そして、決めた。

 この先の、未来の進み方を。

 

「俺は───もう、ひとりは嫌だ。誰も置いていきたくない、誰にも置いていかれたくない。そのために、自分を取り繕いたくもない」

 

 だから。

 

「ただ、ありのままで。俺は生きていく」

 

 この想いは、誰にも穢させやしない。

 視界が潤んで歪んで。

 それでも、こぼれないように堪えた。

 

「ああ、よかった……!!」

 

 それは彼女も同じだった。

 絡みつく腕がきつく締まる。

 額に、柔らかい感触が生まれる。

 長く、短く続いたその感触が離れると、白い指が俺の唇をなぞった。

 

「こっちは、いつかノアを好きになった子のために、残しといてあげる」

 

 ゆっくりと。

 ゆっくりと、彼女の目が閉じていく。

 

「あたしの体は……ユリさんとリッカくんの隣に埋めといてよ。話、してみたい」

 

「うん」

 

「ノアと会ってから、ずっと楽しかった」

 

「うん…」

 

「本当に、ありがとう。───好きだよ、ノア」

 

「うん……!!」

 

 目を閉じて。

 温度が消えて。

 ひとり、取り残されて。

 俺の初恋は、終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生き方は、決まった。

 後はこの力で、何を目指すか。

 ソロモン王が提唱した、俺なりのアルス・ノヴァ。その形を、見定める時だ。

 魔術を超えた術法。

 もしそれができたとして、何を成す。

 デンマークの街の一角。寂れた図書館の隅で、世界地図を開く。六つの大陸、それを取り囲む蒼い海。世界は、こんなにも広い。

 アンナが言ったように、人生を生きる要因は運で決まる。生まれた場所、産んだ両親、生まれ持った才能。この仕組みこそが上下を作り、その不平等こそが人に歪みをもたらす。

 ならば、それを解消することはできないか。

 魔術の先の学問を考え出し、世界に広めたとしても、これが学問である以上、知識層との分断は起こる。誰もが使えるというのは絶対的な条件だが、例えばパソコンは多くの人が使えるが、その内部がどんな素材でどんな仕組みで動いているのか理解している人間は少ないだろう。

 だとすれば、手を加えるべきはアルス・ノヴァではない。それを用いて目指すべき目的だ。

 人類が未だ到達していない場所は多い。この地球の外の宇宙など一例で、人間はまだ地球の深海最奥まで辿り着くことすらできていない。

 …………いや、そうか。

 目標は高く持つべきだ。低い目標は幼稚な満足感と不遜な全能感を与える。

 ───根源だ。すべての魔術師が目指すモノ。魔術を超えた学問ならば、根源に辿り着く目標は踏襲しよう。宇宙や深海を研究する学問は誰もが知っているが、根源は裏の世界の者しか知り得ぬことだ。

 だが、ただ根源を目指すだけならそれは魔術と変わらない。

 そう、どうせならいっそ、誰もが思ってはみてもやろうとしないことを。

 

「───全人類を、根源に連れていく」

 

 これはあくまでも目標だ。

 ひとりの人間が持てる視座は少ない。魔術を除いた学問の強みとは、常に他人の目に晒され、修正を受けて精度を収斂させることにある。

 この世にはきっと、俺が思いつきもしない考えをするやつだっているだろう。俺の才能には流石に及ばないだろうが。

 全人類の根源への到達。これを表の目標とする。

 裏の目標は人類のあらゆる格差の浄化。表の目標を叶える過程で、人類は進化を余儀なくされる。それによって、少しは不平等が埋まるかもしれない。

 そのためにはまず、何をするべきか。

 世界地図を一望して、決めた。

 まだ、俺は何も知らない。この世界を変えるなら、この世界のことを知っていなければならない。

 

「さて、最初はどこに行くか」

 

 ブリテン島……イギリスは時計塔の本拠地がある。表の歴史のオカルト神秘主義においても大きな役割を担った。

 アメリカ……この世で最も力を持つ国家。魔術の歴史は浅いが、表の学問の粋を知るには良い場所かもしれない。

 と、そこで思考を打ち切った。

 俺は、ありのままに生きる。

 だったら感情で、最初に行きたい場所を決める。

 

「エルサレム。ソロモン王のロマンには抗えねえな……!!」

 

 世界地図を畳み、元の書棚に返す。

 図書館を出る、その前に。

 枷を、自分にかける。

 ───魔術回路を作り変える。

 自分が根源に到達するだけなら、無属性魔術と固有結界があれば叶う。だが、それは自分だけが使える手段だ。誰も置いていかないと誓ったのだから、できる限り万人に近い視座を持たねばならない。

 そして、あの死徒を殺すために編んだ術式。これは自分の体を召喚式としたモノだ。魔術回路も同様。故に魔術を作り変え、発動できなくする。

 神の力は、いらない。

 結果、自らを繋ぐ枷はふたつ。

 無属性魔術と、神体化術式の封印。

 いつかこれを使わねばならない日が来るまで、発動すらできないように意識にロックを掛けた。

 新しい魔術回路のスイッチはあの夜、雪の中の寒さにした。あの出来事を一生、魂が腐り果てても忘れないように。

 

「じゃあ、行くか」

 

 そして、カルデアに来る三年前、ロンドンに行くまで俺は世界を旅し続けた。

 三大宗教の巡礼者が集まるエルサレムでは、真っ先に嘆きの壁へ足を運んだ。ソロモン王が建設した第一神殿はとっくの昔に破壊されているが、嘆きの壁はその後ヘロデ王が建設した第二神殿の遺構だ。

 嘆きの壁の入り口にはキッパーという帽子が配られていた。ユダヤ教の習わしで、男子は聖所に入る前はこれを被らないといけない。そこら辺で作った十字架をかけて、キリスト教徒のフリをして入ることにした。

 嘆きの壁は言ってしまえば古い壁だが、悪くはない。少なくとも人魚姫の像よりは。

 

「ここにソロモン王が立ってたのかもしれねえのか……テンション上がってきた」

「ソロモン王が好きなのかい、ぼくぅ?」

「誰だよおっさん」

「ソロモン王なんて王としては下の下さ。父のダビデ王に比べたら、偉大さも何もかもガタ落ちだよ。罪を悔い改めてないんだから地獄に落ちただろうしね。ダンテの神曲では天国にいたけど、あんなのカトリックのプロパガンダだよ。煉獄なんてカトリック教会が金儲けのために作ったもので、プロテスタントにはそんな概念ないしね。ダビデ王にしときなさいダビデ王に」

 

 ぶちん、と頭の血管が切れ、全力のアッパーを繰り出す。

 

「ソロモンパンチ!!!」

「ぐっはあああああっ!!?」

 

 その後、騒ぎを聞きつけた警備員が駆けつけた。流れで裏の世界で最もめんどくさい組織のひとつ、聖堂教会の代行者まで姿を現し、エルサレムは騒乱に包まれた。

 

「いたぞ、あのガキが標的だ!」

「えぐるようにして射つべし、射つべし!」

「おまえらの武器なんざ当たるか! 術式を付与できるようになってから出直してこい! ヒャハハハハハハ!!」

 

 代行者の追撃を躱しながらエルサレム旧市街を走り回っていると、魔術協会の構成員にも情報が伝わったようで、聖地は一気に緊張に包まれる。

 幸いだったのは、聖堂教会と魔術協会が犬と猿より仲が悪かったことだろう。得られた情報に差異があり、俺ひとりを狙う展開にはならなかった。

 灯台下暗しという日本のことわざがある。

 教会と協会の追っ手から逃れて、事前に釣ってきていた魚を焼くために聖墳墓教会の裏で焚き火を行っていた。聖墳墓教会とはジョニデ似の救世主の墓とされている場所だ。

 焼き上がった魚をかじりながら悪態をつく。

 

「くっそ、あいつらしつこすぎるだろ……ソロモン王のために正義の拳を振るっただけだぞ。代行者が死徒殺してるのと変わらないだろうが」

「ふ、ふふふ……わ、私だってアイツに頼らなくたってやれるのよ……ここで手柄を上げて木っ端代行者から抜け出してやるんだから……!!」

「……ん?」

「……え?」

 

 何やら陰険なことを呟く代行者と目が合う。

 ヤツは鉄のハルバードを抱くようにして持っていた。外見から評するなら、年上で包容力はないけど経済力もなくて、才能はとくにないうえ努力家でもなさそうな女だった。

 

「み、見つけたあああああ!! 待ちなさいこのクソガキ! 私の出世の贄となりなさい!!」

「ふざけんな年増! 誰がおまえなんかに捕まるか!!」

 

 横薙ぎに振るわれた鉄槍を跳んで躱す。

 すると、焚き火を辺りにぶちまけて、

 

「「───あっ」」

 

 …………逃亡後。新聞を確認したところ、〝聖墳墓教会で出火事件〟との見出しが大々的に打ち出されていた。

 自分はともかく、あの女がどんな処分を受けたかは想像に難くない。あれでいてふてぶてしそうな見た目だったから、上手くやっているかもしれないが。

 とりあえず逃げる先はアンナに倣ってアフリカ大陸にした。エジプトのピラミッドを見て回ったり、ボツワナでダイヤを掘り出したり、モロッコで股間の突貫工事を受けそうになりながら、次はアメリカに飛んだ。

 アメリカほどそれぞれの地域で色が変わる国はないかもしれない。都会から出たと思えば一面の荒野が待ち受けていたり、荒野の中にきらびやかな摩天楼がそびえていたり、これが一種の豊かさの象徴なのだと思い知らされた。

 アメリカ大陸西部、ネバダ州のラスベガスから北、スノーフィールド。ラスベガスのカジノを荒らして出禁になった末に向かったのが、その土地だった。

 スノーフィールドにもカジノはある。そこで荒稼ぎをしていると、麻薬を売りつけてきたアホがいたのでとりあえず懲らしめたら、

 

「……お前がヤクの売人をのした男か」

 

 無機質な機械のような男が、数人の手下を連れて宿に押しかけてきた。

 見るからに表の人間ではない。推察するにマフィア組織に属しているようだが、魔術の心得があることは見て取れた。

 

「何の用だ? ウチのモンに手ぇ出したからケジメ付けに来たってか」

「いいや、礼だ。お前のお陰で手間が省けた。あいつらはシマを荒らすチンピラだったからな」

「礼か。じゃあ美味い飯でも奢れよ。部下を動かす金に比べたら雀の涙だろ」

「……ついてこい」

 

 聞くところによると、男はスクラディオ・ファミリーというマフィアの構成員のようだった。マフィアの源流と言うとシチリアだが、この組織はアメリカに手を伸ばした挙句裏の魔術師とも関わりがある強大な力を持つに至ったのだとか。

 連れられた場所は食肉工場。パンにソーセージを挟み、ケチャップをかけただけの簡素なホットドッグを出してきた。

 

「……マジで言ってんのか?」

「本気だ。このホットドッグが、一番美味い」

 

 渋々口に運ぶと、確かに悪くなかった。肉の塩っ気にパンと甘さとケチャップの酸味が釣り合いの取れたバランスで主張しあっている。素材で勝負しているということだろう。

 背後では男の部下たちがダンボールを運んでいた。上部が包装されていないせいか、ぺらぺらとめくれて中身が見えている。

 その中身とは白い粉が詰まった透明なパックだった。

 

「おい、アレ」

「小麦粉だ」

「嘘つけ絶た」

「特別製の小麦粉だ」

「いやどう見てもヤ」

「キメたら火星まで吹っ飛ぶ小麦粉だ」

 

 それ以上追及することはしなかった。一度は聖堂教会と魔術協会に睨まれた身だ。その上、魔術に通じたマフィアに目をつけられるなど、面倒どころの話ではない。

 ヤクの出荷先に思いを馳せながら、アメリカの次はカナダとメキシコを回ってから中国に飛んだ。東洋魔術・呪術の多くはこの国の影響を受けている。大昔の冊封体制の賜物だろう。

 中国もアメリカのように都会と田舎の差が激しい。だが、アメリカの田舎が横に広いのだとしたら、中国は峻厳な山脈を擁するが故に縦の大きさを意識させられた。

 地平線の奥まで続く険しい山々。霧がかった大地に太陽の光がかかると、月並みな言葉だが、幻想的な風情が演出される。

 山から降りると、枯れ木を繋ぎ合わせたみたいな老爺が話しかけてきた。

 

「兄ちゃん、才能ありそうだから拳法やんね?」

「断る」

「ウチに来たら金稼げるけど。あとブ○ース・リーとジャ○キー・チェンのサインあるよ。アルアルヨ」

「マジかよ行くに決まってんだろ」

 

 で、拳法の修業をすることになった。ちなみに二大カンフースターのサインは明らかにこの老人が書いたものだった。なので、俺がもっと精巧なサインを偽造して道場に掛けておいた。念の為数枚造ったが、適当にネットで売れば高値がついたかもしれない。

 修業開始二日後、老人と一緒に金を稼ぐ方法を実行した。とある道場の壁を蹴り破って、

 

「オラァ! 道場破りだ、看板と金寄越せ!!」

「普通に入り口から入ってきてくんない!?」

「ふ、汝の底が見えたぞい。道とは己で創るモノ。それも知らぬ時点でお主らの負けじゃ。ほら、アレが足りんよアレが。……なんだっけ」

「ほら、アレだろ。…………功夫」

「そうそう、功夫が足りんよ功夫が」

「お前らは功夫より前に頭が足りてねーだろ!!」

 

 道場主は顔の血管を浮かび上がらせながら吼えた。負けじとジジイも言い返して、

 

「この弟子とお主で勝負じゃ! 負けたら壁代の弁償、勝ったらお主の敗北を言いふらさない代わりに有り金を貰う!」

「俺に得がなくない!? エロい催眠術でもかけられてないとそんな条件受けないよ!?」

「うっせえ早くしろ。なんでもいいぞ。素手か? 三節棍か? それとも棒か?」

「ぼ、棒! 棒で滅多打ちにしてやんよ!」

 

 棒術の歴史は長い。誰もが手軽に入手できる武器であるため、汎用性があり金もかからなかったのが要因だろう。

 棒を携え、向かい合う。動き出したのはこっちが先だった。

 

「棒の重量を投げ捨て身軽になった体から繰り出される必殺の前蹴り───!!」

「武器を使えェェェ!!!」

 

 受けた棒を蹴り砕いて鳩尾に足裏が突き刺さる。道場の端まで吹き飛ばすと、這う這うの体で金を献上し、それを受け取る。

 暖かくなった懐で酒を飲んでいると、

 

「お客さん、これ偽札だけど」

「……え?」

「警察呼ぶから大人しく待って───」

「やりやがったあの野郎ォォォ!!!」

 

 ということで、中国にいられなくなったのでインドに逃げた。フォローしておくと、自分が会った連中の民度が低かっただけでこれが中国のスタンダードではない。インドではインド映画のバックダンサーに抜擢されたり、マレーシアではマーライオンを見て人魚姫の像のショボさと比べたりした。どちらが下かは言わないでおく。

 赤道近くの国をうろついて、中東に移動すると獅子劫界離というおっさんとともにシモン・マグスの末裔を殺し、ようやく魔術協会の総本山があるイギリスのロンドンに辿り着いた。

 当然ではあるが、赤道周辺の国に比べるとイギリスは圧倒的に寒冷だ。半袖短パンの虫取り少年スタイルで空港から降りた瞬間に後悔した。長らくワインの原料となるブドウも栽培できなかった国の気候は厳しいのだ。

 震えながらバスを待っていると、フードを被った白髪の少女を伴った長髪の男が話しかけてきた。

 

「お前がノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドだな」

「誰だおまえ?」

「極めて不本意だが、今はロード・エルメロイⅡ世と呼ばれている。獅子劫界離を通じて、この時期にお前がイギリスに上陸すると聞いて来た」

「……なるほどな。シモン・マグスの人造天使は元気してるか」

 

 ロード・エルメロイⅡ世はたばこを取り出し、寒空に紫煙をくゆらせる。

 

「ああ、こちらの教室で預かっている。彼の」

「彼女、ですよ」

「───彼女の魔術、浄化術式は驚異的だ。エルメロイの源流刻印をも単独で復活させる可能性がある」

「……それで、本題はなんだ?」

 

 不機嫌な顔つきをした彼は肺にたっぷりと煙を溜めると、一息に吐き出した。

 

「私なりの恩返しということだよ、ナーストレンド。お前に住処を用意してやる。だからこの土地で騒ぎを起こすな」

「おいおい、人のことを爆弾みたく言いやがって。俺がいつどこで騒ぎを起こしたんだよ」

「フ○ック! 聞けば聖墳墓教会出火事件の発端もお前だそうだな!? あの事件がどれほど後を引いているか知るまい!!」

「はあ!? アレに関しちゃ俺が被害者なんだよ! おまえらがいくら困ろうが俺の知ったこっちゃねえなァ! こちとら中国で贋札偽造犯の烙印押されてんだぞ!!」

「どんな旅をしてきたんだお前は!?」

「あの、周囲の目が痛いです」

 

 フードの少女は居心地が悪そうに体を縮ませる。

 確かに人々の哀れみと蔑みを込めた視線が集まっている。エルメロイⅡ世は懐から折り畳まれた紙と携帯端末をこちらに押し付けてきた。

 

「お前の住居を用意してくれた人の住所と、連絡用の端末だ。定期的にやらかしをしていないか確認するから絶対に無くすな」

「機械に頼る魔術師か。珍しいな」

「形振り構っていられんのだよ。私は、才能がないからな」

 

 薄い影を落としたその言葉を笑い飛ばす。

 

「ハッ。魔術はそうでも他の分野なら分からねえぞ。俺が創る術法ではな」

 

 紙と端末を受け取り、停車したバスに乗り込む。その直後、ロード・エルメロイⅡ世とフードの少女も後についてくる。

 

「……なんで着いてきてんだ」

「私たちも乗るからに決まっているだろう」

「せっかくいま俺が良い感じに締めくくってやっただろうが! 風情を考えろ風情を! 次のバスに乗れ!!」

「ふざけるな! お前と違って私は忙しい! 片付けねばならぬ仕事が山ほど残っているからな、お前と違って!!」

「仕事の多さをダシにするなんてのは無能の証明だなァ! 時計塔のロードってのはそんなんでも務まんのか!?」

「あの、普通に迷惑です」

 

 とはいえ、二人との相乗りは長くは続かなかった。街中で下車したロード・エルメロイⅡ世とメンチを切り合い、バスはそのまま突き進んでいく。

 バスが終点に着く。空は既に黒く染まりかけていた。そこからさらに数十分歩くと、紙に書かれていた住所に到着した。眼前には三階建ての古風な喫茶店。扉には『CLOSED』の札が下がっていたが、無視して開ける。

 ちゃりんと軽快な鈴の音が響く。鼻腔をくすぐる茶葉の香り。年季が入った店内で待ち受けていたのは、アンティークな服装の老婆だった。

 

「貴方が、ノアトゥールさん?」

「ああ。おまえはねるねるねるねの魔女か?」

「いえ、一般的なババアです。アリス・テイラーと申します。古臭い名前でしょう?」

「自分で言うな」

 

 アリスと名乗った老婆、自称ババアはティーポットを傾けて紅茶を注ぐ。差し出されたそれを手に取り、唇を湿らせる。

 

「悪くねえな。合格点をくれてやる」

「老人を労らぬ不遜な態度ですが、合格点はいただきましょう」

 

 アリスは自分の分の紅茶を注ぐと、一口だけ嚥下する。その動作は堂に入っていた。英国淑女のテンプレートとして提出しても、誰もが認めるであろうマナーの高度さだ。

 

「亡きマイダーリンは魔術師の家系でして、その縁でこういう頼みごとを請け負うこともあります。私自身は元一般人で、ちょっとしたおまじないしか使えないのですが」

「没落した家系にはよくあることだ。少しでも魔術との繋がりを残しておくのはな」

「ええ。今まで色々とちょっかいを出されましたが、大抵そういった雑魚の場合、社会的地位はこちらが圧倒的に上なのでダーリンへの愛で乗り越えてきました。魔術師の方は陰気な学者肌が多いですが、貴方はちゃらんぽらんで考えなしのアホな気がします」

「ふざけろ」

 

 彼女は余裕な笑みを浮かべた。

 憎らしいことに、そんな仕草まで妙齢の淑女らしかった。アンナをサロメだとすると、こちらは楊貴妃のような悪女性を備えている。

 

「ということで、明日からよろしくお願いします。貴方の部屋は三階の奥です。お腹は空いていますか?」

「ああ。紅茶の腕は合格だが、料理の方はどうか試してやる」

「貧相な食事しか摂っていない若造の舌をあっと驚かせてみせましょう。好物はありますか?」

「シチュー」

 

 と言うと、彼女は頷いて調理に取り掛かった。

 それで出てきたのは、

 

「……なんだこの茶色いの」

「ビーフシチューですが。イギリスでシチューと言ったらビーフシチューです。異論は認めません」

「シチューつったら白いやつだろ! なんだこの色!? まるでうん」

「ぶっ飛ばしますよ?」

 

 という食事を経て、イギリスでの初日は終了した。ビーフシチューは完食した。何ならおかわりもした。

 二日目、朝早くからアリスに叩き起こされ、二階のクローゼットルームに引きずり込まれる。

 言われるがままに用意された服を着る。それは黒を基調とした礼服だった。燕尾服ほどかしこまってはいないが、それでも普段着にするにはハードルが高い。彼女はてきぱきと手直しをしながら語った。

 

「一室を貸す以上、貴方には働いてもらいます。借りは返す、分かりますね?」

「当たり前だ。天才の俺が借りたままでいられるか。つうかこんな服着せてどうするつもりだ? 執事でもやれってのか」

「はい。今日はそういう設定でお願いします。貴方は言動と行動さえ何とかすれば、残るのは品の良い顔立ちだけなので」

「老眼か? 俺は普段から品の良さに満ち満ちてるだろ、品の権化だろ。老眼鏡でも買ってこい」

「そうですね。品には満ちています。下の方に」

 

 などと言葉のドッジボールを繰り広げながら、一階へ向かっていく。階下からは喫茶店らしからぬ賑やかな声が響き渡り、多数の人の気配が蠢いている。

 階段を降り、目にした光景は極彩色。決して危ないクスリをやっているのではなく、昨日の落ち着いた風情を消し飛ばす色鮮やかさに包まれていた。

 それぞれの色を担うのは従業員と思しき人間。彼らは喫茶店にそぐわぬコスプレをしていた。ひとつの席にひとり以上が帯同し、客を楽しませている。

 

「……なんだこれ」

「日本のメイド喫茶から着想を得まして。お客さんの要望に応えたキャラクターをお出しして、理想のひとときを過ごしていただこうと」

「手間のかかることしやがって。俺にケチャップでオムライスの上にハートでも描けなんて言うんじゃねえだろうな」

「もちろんお金は出します。実のところ、この商売でかなり儲けているので」

「いくらだ?」

 

 ちょいちょい、と手招く動作。体を屈めて、耳打ちされた金額に計らずも目を見開いた。

 

「…………嘘つけ」

「残念ながらマジのガチです。システムの都合上予約制ですが、宣伝の甲斐あって収入は今も増え続けています。すごいですね、Y○uTubeとTw○tter」

「ハイテクババアが。……ケチャップとオムライスはどこにある? ハートどころかベラスケスくらい精巧な絵を描いてやるよ」

「まずは注文を受けてください。貴方の担当はあそこです」

 

 アリスが指差したテーブルへ足早に移動する。

 その席にはコピペで生成したかのような三人の老婆が座っていた。予約制というくらいだから料金も割高なのだろう。なんとなく客層が予想できる面子だ。

 

「……注文は」

「アナタの靴下で」

「棺桶に叩き込むぞボケ」

 

 すると、三人組の老婆は目を輝かせて黄色い声をあげた。

 

「キャアアアア!! ほんとに要望通りのキャラが来たわ! 性根が腐り切ってる俺様系執事だわ!!」

「この子、見るからにクズよ! 本物じゃないと出せないオーラを放ってるわ! レアモノだわ、レアクズだわ!」

「好き勝手言ってんじゃねえゲテモノ集団が!! 棺桶すっ飛ばして火の中に放り込まれてえのか!?」

「あら、そんなこと言ってカワイイじゃない。私たち、これでも若い頃は黒い三連星って、オトコたちに持て囃されてたのよ?」

「黙れグロい三連星!!!」

 

 店主が店主なら客も客だ。湿った石の裏に虫がたかるように、この店という石に名状しがたき虫たちが寄り集まってきているのだ。

 黒い三連星が店をあとにするまで三時間ほど彼女たちに翻弄された。ジェットストリームアタックならぬジェットストリーム老婆である。それら怪物を御すことは如何な人間でも難しいだろう。

 喫茶店の形態としては、この催しが終了した後に通常の業務を開始する。借りを返す側としてはその仕事も手伝わなければならないのだが、

 

「───見事に撃沈してますね」

「…………一年分のババア成分を摂取した気分だ。少し休ませろ」

「ええ、どうぞ。昨今、従業員に休みを与えないブラック体制では、SNSで告発されて炎上しますから」

「どんだけネット使いこなしてんだこいつ」

 

 そんな仕事をこなしつつ、夜は研究を行い、たまにエルメロイⅡ世に口出ししたり口出しされたりといった生活を送ること二年。

 二階の応接間に呼び出されると、アリスは唐突に提案した。

 

「ノア、自分の仕事を持ってみませんか」

「……どういう風の吹き回しだ?」

「人の下で職務を果たすことを覚えたのなら、次は自分の手で仕事を進めるステップです。そうですね、何でも屋とかどうでしょう。私の動画のネタにもなります」

「勝手に話を進めてんじゃねえ。どうせおまえのことだ、根回しはもう済ませてんだろ」

 

 彼女は薄く口角を持ち上げる。その表情は意地の悪さと小悪魔的な色があった。

 

「はい。記念すべきファーストミッションはずばり、呪われたホテルの事態収束です。依頼主の方にもお越しいただきました」

 

 がちゃりとドアを開けて入ってくる、冴えない見た目をした男性。年の頃は三十ほどだろうが、纏う雰囲気のせいで十歳は上乗せされているように見える。

 

「私は親の代から不動産屋を営んでおりまして、事業の一環でホテル経営にも手を出したのですが、近頃幽霊が出るという噂が……」

「例えば?」

「洗面台の前で歯を磨いてると鏡に変な女が映ってるとか、寝ていたら何かに足を掴まれたりだとかですね。調べてみたら、大昔にそこで殺人事件があったみたいで」

「よし、分かった。車出しとけ婆さん。俺は部屋で必要なものを取ってくる」

 

 限りなく迅速な流れ。冴えない男性は歓喜の色をあらわにした。

 免許を持っていないので車を運転することはできない。アリスによるドライブが十分ほど続き、件の呪われたホテルの前に停車する。

 そのホテルは異様な輝きを放っていた。

 毒々しいまでのピンクの光を発する照明。シンメトリーで構成された城塞のような外観。町外れにぽつんと立つそのホテルに周囲の人影は見られず、偶然通りかかった親子は子どもの目を隠して立ち去っていく。

 

「……これ、呪われたホテルじゃなくて呪われたラブ───」

「まあ、そうとも言いますね。大方昔殺された人の霊が集まってきてるんじゃないかと」

「オイオイオイ、死んでまでこんな場所に来る幽霊なんてロクなやつじゃねえだろ。色情霊以外の何物でもないだろ。エロ本でも供えときゃ勝手に成仏するだろ」

「どんな除霊の仕方!? この世に悔いしかないじゃないですか! 性欲という名の執着に塗れた悪霊になっちゃいますよ!」

「下品な会話はそこまでにして、とっとと始めてくれませんか?」

 

 アリスは手に持った杖でぺしぺしと足を叩いて急かしてくる。

 車のトランクから荷物を引き出し、

 

「十分くらいここで待ってろ。準備してくる。一応訊くが客はいないんだよな」

「は、はい。今は営業停止中なので」

 

 で、用意したものを設置し、ホテルをぐるりと取り囲むように結界を刻んで戻る。

 アリスはじっとりとこちらを見据えてきた。

 

「……何をしたんです?」

「ただでさえ死に急いでる老人がそう急かすな。見てりゃ分かる。あと五秒だ」

「五秒? とてつもなく嫌な予感が───」

 

 瞬間、ロンドンの曇り空にくぐもった轟音が鳴り響いた。ホテルの基礎の部分から爆発が巻き起こり、だるま落としのように建物が崩壊した。

 当然、周囲に影響が出ない配慮はしている。ホテルを囲む結界によって突風や瓦礫を押し留める完璧な計画である。

 さっきまでホテルだったものが辺り一面に転がる。冴えない男性はがっくりと膝をつき、頭を抱えて叫んだ。

 

「ちょっ……何やってんですかァァ!! 普通除霊って言ったら〝破ァ!〟とかじゃないの!? 十字架突きつけたりするんじゃないんですか!?」

「いちいち部屋回って昇天させてられるか面倒くせえ。このホテルで昇天するのなんて人間だけで十分なんだよ。根本から更地にして新しいの造れば万事解決だろうが。伊勢神宮の式年遷宮って知ってるか?」

「いや、ホテルが昇天しちゃってるよね!? メイドインヘヴンだよね!? とんでもない損害なんですが!!」

 

 そんな呪われたホテルの爆破解体が、何でも屋としての初仕事だった。その評判は後を引き、しばらくは壊し屋としての仕事が絶えなかった。業者より遥かに安価で解体を請け負ってもらえるという理由だった。

 爆薬として使用したのは、アメリカ滞在中になんかできそうだったから造った魔力爆弾だった。持ち運びに難はあるが、威力はお墨付き。ケーブルもスイッチも必要なしに遠隔操作できる優れ物だ。

 が、ある日エルメロイⅡ世から協会に目をつけられたという旨の激怒のメールが送られてきた。その長さは下手な小説を超えていた。

 

「ということで、俺はしばらくアフリカに逃げる。金くれ婆さん」

「ファ○クと言っておきましょう。ドーヴァー海峡を泳いでいきなさい」

 

 アフリカは今でも呪術師が信仰されている土地だ。逃げた先では現地のマフィアも介入した呪術戦争に巻き込まれたりしたが、それが返って協会の目を撹乱し、短期でロンドンに戻ることができた。

 解体事業を一旦打ち切ると、比較的穏当な依頼が来るようになった。無論、何でも屋の仕事は毎日あるわけではない。そういった日は喫茶店を手伝わされていた。

 定期的にホワイトベー……店に襲来してくる黒い三連星を相手取っている時だった。

 

「アナタが来てから、アリスさんが元気になって嬉しいわ」

「アフリカに高飛びしたって聞いた時はどうなることかと思ったけどねえ」

「最近はアイスランドまで行って仕事してきたらしいわね。お土産とかないのかしら。靴下でもいいわよ?」

「老いぼれの分際で尖りきった嗜好を押し付けてくんじゃねえ」

 

 脳裏によぎる、ひとつの写真立て。アリスの部屋に置かれた白黒の写真には、若かりし頃の彼女と亡き夫が並んで写っている。

 老いた現在も感じる気品というものが、その当時からあったように思われる。くだらないルッキズムや年齢で判断するわけではないが、紙に閉じ込められた彼女は若々しさから来る美を宿していた。

 年頃からして、戦争も経験しているのだろう。夫がいつ亡くなったかは定かではないが、戦中も戦後も女ひとりで生きていくには厳しい世の中だったに違いない。

 

「あの歳でネット使いこなすような女だぞ、俺がいなくても景気良くやってただろ」

「経済的にはそうだと思うけど。心の方はどうかしら」

「きっと、息子さんにアナタを重ねてるのよ」

 

 彼女に息子がいたというのは初耳だった。黒い三連星の言い草からして、今どうなっているかは大体想像がつく。

 この家のどこにもそんな痕跡はなかった。むしろ徹底的に痕跡を消したのだろう。写真の一枚もないということは、忘れたい過去があるから。

 おそらくは、子が流れたのか。

 だからといって、何ができるわけでもない。既に亡くなった者を蘇らせる術はない。アスクレピオスはいないのだ。

 そもそもそんな術があったとして、彼女がそれを望むとは限らない。死者の蘇生は人類にとってのタブーだ。エウリュディケも、イザナミも、バルドルも、冥界から帰ることはできなかった。

 店じまいの後、夕食の最中にアリスは訊いてくる。

 

「そういえば。貴方がどうしてここに来たのか、聞いていませんでしたね」

「まあな。大した話でもない。聞きたいなら聞かせてやる」

「はい。興味があります」

 

 話すことはアンナの時とあまり変わらない。三人と一匹があたたかさをくれた、ただそれだけの代わり映えのない物語だ。

 長すぎてあくびが出るような話を、アリスは無言で聞いていた。語り終えると、彼女は微笑んだ。

 

「今の貴方はともかく。過去の貴方には、よく頑張ったと褒めてあげましょう」

「過去に贈る言葉ほど無意味なものはねえな。現代人が古代人にマウント取るみたいなもんだ」

「逆もあるかもしれませんよ。ほら、魔術は古い方が強いのでしょう」

「魔術ではな。所詮は数ある学問のひとつだ」

 

 くすり、と小さな笑い声。

 

「ダーリンのプロポーズを思い出しました。〝魔術以外にも真理を知るための学問はある。君とともに生きていきたい〟と」

「やめろ、歯が浮く」

「それではお返しに、私とダーリンの超長編ラブストーリーを……」

「途中で寝ていいか?」

 

 彼女が語る超長編ラブストーリーは本当に超長編だった。具体的には十八時から二時まで話し続けていた。

 それから数ヶ月が経ち、カルデアに来る三週間前。

 いつもは起こしに来る彼女が、その日は静かだった。

 朝焼けに包まれた廊下。光の中を歩いて、アリスの部屋の扉を開ける。彼女は寝台の中でゆったりと寝ていた。手頃な椅子を取り、寝台の横に座る。

 

「もう休むのか、婆さん」

「……はい。少し、疲れました」

「そうか。天寿を全うしたってやつだ、誇れ。式は盛大に挙げてやる」

「そうですね……生放送でスーパーチャットでも投げてもらいましょうか」

「じゃあ、その稼ぎは俺のもんだな。安心しろ、有意義に使ってやるよ」

 

 目がうっすらと開き、唇が弧を描いた。

 

「せっかく安心して眠ろうとしていたのに、貴方の金遣いが心配で少し目が覚めました」

「ハッ、99年も生きたくせにとんだ生命力だ。金の使い道については心配すんな、何倍にも増やす方法を知ってる」

「どうせギャンブルでしょう? 増やすなら投資にしておきなさい。FXは人間がやるものではないので手を出してはいけません」

「最近開発した俺のネット魔術ならどうにでもなるがな」

「犯罪ですよ?」

 

 それはいつもと変わらぬ会話だった。

 死は万人に定められた終着だ。特別なことではない。ただ、あるべきところに還るだけだ。

 だから、このやり取りもいつも通り。

 

「手を、握ってくれますか」

 

 手袋を外し、アリスのしわついた左手を自分のそれで握り込む。

 

「……あたたかい、ですね」

「血の巡りを良くしてやったからな。今は、体温も常人と一緒だ」

「そういうことではありませんが、まあ、良いでしょう」

 

 弱々しい指が手を握り返してくる。

 

「ごめんなさい。貴方を、ひとりにしてしまいます」

「もう慣れた。余計なこと考えてないで笑って寝ろ。───俺が見てきた死の中で、おまえは一番美しいから」

 

 殺されるでもなく。

 自分から死を望むでもなく。

 ただ、それを平然と受け容れている姿こそが。

 彼女は笑って、

 

「貴方は、誰かにあたたかさを与えられるようになったのね」

 

 息を、引き取った。

 その二日後、宣言通りに盛大な葬式を挙げてやった。リオのカーニバルにも負けないくらい盛大なやつを。

 その様子を配信していると、相変わらず険しい顔つきのエルメロイⅡ世がやってくる。ラブホテルの解体を頼んできた冴えない男にカメラを押し付け、離れた場所で話した。

 

「良い式だ。品性には欠けるかもしれんが、少なくとも死の寂しさは吹き飛ぶ」

「衣装から何まで俺が考えた。当然だろ」

「ふ、戯言だ。……さて、ノアトゥール。少し世界を救ってみる気はないか?」

 

 それで、何を言わんとしているかが分かった。

 

「カルデア、だったか? 名前は悪くないが、胡散臭さしかねえぞ」

「ああ、そうだろう。だが、最高峰の才能が集まる場所だ。お前に必要なのは知識ではなく刺激だ。高みを目指すなら常識外の経験こそが役に立つ」

「おまえ、自分の生徒にもそんなこと言ってんのか。煙たがられてるだろ」

「黙れ。お前はホテルを爆破解体するアホで、ミストルティンの所有者で、私の見立てだといくつか最悪の奥の手を隠し持っている……以上の理由から、お前をウチで引き取ることはできない。流石に庇い切れる自信がないからな。代わりにカルデアに紹介状を書いた」

 

 封筒を差し出してくる。それを取り、中身を覗いた。例の紹介状の他にはコイン一枚すら入っていなかった。ケチくささがうかがえる。

 

「おい、交通費はどうした?」

「誰が払うか! つべこべ言わず行け! そして二度と戻ってくるな!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 婆さんの葬式を終え、デンマークの墓標に花を添えて、俺は南極に飛んだ。

 そこからは、知っての通りだ。

 

〝あのー、辛いことでもあったんですか?〟

 

 ただ、南極という地の果てにもこんなアホがいるのは驚きだった。過去何人ものアホを目撃した俺だからこそ分かるが、所長の手形がついたそいつのアホ面は初対面から天元突破していた。

 まあこいつがアホなのは自分でも知るところなのでどうでもいいだろう。

 あともうひとり、アホといえばあいつだ。

 

〝君は例の新人か。こんな夜中にパンツ一枚でどうした。追い剥ぎにでも遭ったか?〟

 

 キリシュタリア・ヴォーダイム。

 レフ秘蔵の酒を飲み明かして極寒の廊下で震えていたところを助けられたのがこいつだった。

 俺とキリシュタリアは部屋で魔術談義したが、話について来れるやつがいたのはこいつが初めてだった。

 

〝なるほど、アルス・ノヴァ。全人類の根源への到達を掲げた、人類の不平等の解消。それが君の理想か〟

〝ああ、方法は違えどやりたいことはおまえと同じだ。仲良くできそうじゃねえか〟

〝ふ、そうだな。……実は私からひとつ提案があるのだが〟

〝なんだ?〟

 

 キリシュタリアはブラウン管テレビと古臭いゲーム機をどこからともなく用意して、興奮した顔で言った。

 

〝マ○カーをしよう……!! 友誼を深めるにはこれが一番だと聞いた。カドックを誘ってもゲテモノを見る目で断られてしまってな〟

〝オイオイ、俺とマリ○ーで勝負だと? バナナで永遠に滑り続けて泣かれても俺は慰めねえぞ?〟

〝君こそ飲酒運転でいつものハンドル捌きができるとは思わないことだ。さあ、行くぞ!!〟

〝〝ヒアウィゴォォォォォ!!!〟〟

 

 夜が明けるまでマリカ○で勝負した。どちらが多く一位を取れるかの勝負だったが、途中で寝落ちしたので決着は未だついていない。

 だが、その時はキリシュタリアにはあって俺にはないモノがあった。それは人を率いた経験だ。ひとりで熟してきたからこそ、それしかしなかったからこそ、俺はヤツに訊く必要があった。

 

〝……どうすればおまえみたいに部下を護れる?〟

〝……驚いたな、そんな言葉が飛び出すとは〟

 

 その話を最後にレフの爆弾が起動し、人理修復の旅が始まった。

 キリシュタリアは言った。

 その才能は誰かのために使え、と。

 ならばやることは単純だ。

 俺の人類史最強最大の才覚をもって。

 ユリとリッカと同じ国に住んでいた、ただの人間で、アホで、バカで、マヌケで、巻き込まれただけの一般人なのに、それでも逃げることを選ばなかった────

 

「────おまえのために、力を使うことにした。話は、終わりだ」

 

 そうして、長い長い話は終わった。

 色々とツッコミたいところはあったけど、私は黙ってその話を聞いていた。

 慰めの言葉は要らない。もう、この人は全部を乗り越えてから私に出会っているから。

 ずきずき、と胸が焼けるみたいに痛む。

 心臓を矢に刺されたせいじゃない。

 ずっと隠してた気持ちが外に出たがっている。

 ───おまえのために、なんて。そんなこと、もっと前から言ってくれればよかったのに。本当に、性格が悪い。

 私だけがこんなに焦がれていることが悔しくて、癪だったから、少しは思い知らせてやることにした。

 彼の背中に腕を回して、抱き着いた。きっと、この距離なら胸の鼓動も伝わるはずだから。

 

「……今は、寒くないんですか」

「さあな。とりあえず今、おまえのせいで暑苦しいのは確かだが」

「ひとりは、寂しいですよね」

「……」

 

 彼は答えなかったけど、それは返事をする必要がないからだ。分かりきった質問なのだから、答えを返す必要なんてない。

 この人にとって、私はまだ部下で弟子でしかないのかもしれない。

 

「私は、絶対にいなくなりません」

 

 だから、もっと。

 

「これから寒い時なんてありません」

 

 もっともっと、特別にならないと。

 

「───ずっと、私があたためてあげます」

 

 その、碧い瞳を真っ直ぐ見据えて、言い切った。

 

「なに言ってんだアホ。冗談はやめろ」

「冗談じゃないです。私が本気だってこと、その、分かってください」

「……とりあえず離せ、藤丸」

「…………藤丸、じゃ分かりません。私のお父さんもお母さんもお兄ちゃんも藤丸ですから」

 

 彼は顔をしかめて、小さく舌打ちする。

 二十秒くらい悩み苦しんで、忌々しげに言った。

 

「───チッ。立香、離せ」

「嫌です」

「ふざけんな! そこは離す流れだろ!!」

「じゃあリーダーから離れたらいいじゃないですか。私は引きずられてでもしがみつきますけど」

 

 そう言うと、彼は黙り込んだ。

 …………うん。この手は、これからも使える。

 そう目論んだ瞬間、部屋を仕切っていた障子が音を立てて崩れた。そこからなだれ込んでくるのはEチームのみんなだった。

 

「そ、そそそこまでの接触はもう一押しでR-18です! 禁止です! 青少年健全育成条例に従って離れてください!!」

「え、なに? もしかして脳破壊されてます? このなすび」

「盗み聞きは騎士らしくねえが、まあノアの普段の悪行からしてノーカンだろ」

「ええ、こうして良い光景も見れたことですし。いやまあ視界が潤んで何も見えないんですけど」

フォフォウ(涙拭けよ)

 

 良いところだったのに、邪魔されてしまった。

 私は渋々離れようとして、

 

「きゃっ……!?」

 

 肩を掴まれて、引き戻された。

 耳元で低い声が囁かれる。

 

「今日のところは、俺の負けだ。だから」

 

 ───こいつの言葉に偽りがないのだとしたら。嘘がないと思ったから。

 

「もう、手放さない」

 

 その一言だけを、こいつに告げた。



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第62.5話 ノッブのテコ入れ大作戦

 あれから三日が経った。

 茨木童子率いる黄泉軍(よもついくさ)は太宰府という施設を根城にしていた。残す天御柱(あめのみはしら)はあとひとつ。東征軍が最初に現れた高千穂のみなのだが、彼らはしばし太宰府に留まることにしていた。

 その理由は来たる決戦に向けての休養と準備、そしてアメノワカヒコの一矢を受けた立香のリハビリ。戦いで体を張るのがサーヴァントであったとしても、その要たるマスターが不安定ではどうにもならない。寝不足かつノー勉で試験を受けるようなものだ。

 たった一週間寝込んでいただけでも、人間の筋力は15%落ちると言われている。立香はそれを取り戻すため、マシュやジャンヌたちとともに運動に励んでいた。ノアは〝これを飲めば筋力を取り戻すどころかクマもひとひねりにできる〟と毒々しい緑の液体を渡してきたが、それはダンテに渡した。貧弱なステータスも多少はマシになるだろう。少なくともDになればアーチャーと腕相撲はできる。

 彼女らは適当な広場を見つけて、そこでリハビリをすることにした。

 点々と雲が浮かぶ青空に、気の抜けた笛の音が鳴り響く。

 

「よし、次は腕立て伏せ3000回だ。へたばるにはまだ早えぞ小娘ども!!」

 

 なぜか全身が土や埃で薄汚れた土方が、真剣を竹刀に持ち替えて怒号を飛ばしていた。おまけに頬や手には擦り傷がついている。服で見えない部分も同じような傷があることだろう。

 つい数秒前に地獄のマラソン訓練を終えたEチーム三人娘は荒々しい息を吐きながら、地面にへたり込んだ。

 

「この鬼の副長、鬼すぎる……!!」

「ふっ……変身していないわたしだったら五回はコンティニューしていたことでしょう。無敵付与があって助かりました」

「…………アンタの発言はひとまず。どうしてあの副長は小汚い格好してるんです?」

 

 ジャンヌは息を整えつつ、素朴な疑問を口にした。会話のターゲット集中は発動していなかったマシュを隅に置いて。

 立香とマシュは示し合わせたみたいに首を横に振った。二人とて気になってはいたが、下手に口答えすれば竹刀が飛んでくる可能性がある。魔術を飛ばしてくるノアとは五十歩百歩だ。

 不意に、彼女らの背後から声が起こる。

 

「それについては私が説明しましょう」

 

 天草四郎時貞。彼もまた土方と同じだった。衣服と肌に少なからぬ傷を持っている。合戦の帰りと言われても納得してしまいそうな有様だった。

 

「いつの間にわたしたちの後ろに……もしかしてニンジャ!?」

「いいえ、一般的な聖職者です」

「英霊を一般的な聖職者とは言わないような気がしますけど。リーダーが一悶着起こした聖堂教会、でしたっけ? 天草さんはそこの人だったんですか?」

「生前はそうではなかったのですが、色々ありまして。……ええ、色々と」

 

 天草はごぷりと吐血した。底知れぬ闇を抱えた彼の姿を目の当たりにして、立香は表情を引きつらせた。微笑みを浮かべながら血を吐く様子はまさしくホラーである。

 

「なんで唐突に血ぃ吐いてんの? この男は」

「すみません、貴女の顔を見ると気分が……」

「は?」

 

 ジャンヌは殺気に塗れた目線を彼に差し向ける。聖女と邪竜について何か重大なトラウマを抱えているらしい天草は、その視線を受けてぎこちなく説明する。

 殺気に震えていた天草の話を立香なりに要約すると。須佐の天御柱を巡った戦闘で、蘆屋道満は悪路王と天津甕星を失い、俵藤太───藤原秀郷の乱入に対処するためにやむを得ず土方と天草を味方に取り込んだ。

 その方法が三合火局の陣。陰陽五行説に基づいた四柱推命という占術において、能力の向上やエネルギーの隆盛を表す。自身と二人を合わせてそれを形作ることで、藤原秀郷に対抗した。

 ツヌグイやアメノワカヒコ、渡辺綱を討たれて撤退した東征軍。土方と天草は道満を捕まえようとしたが、身ぐるみを剥いだだけで逃げられたのだとか。

 禍福は糾える縄の如し。三合火局によって最高潮に高まった能力・運勢はそれが変動すれば、後は落ちていくのみ。先程その陣が解除された結果、二人は────

 

「───全ステータスがダンテさん並みになっている、と」

「救いようがないわね」

「運勢は変化するものだから時が経てば戻るそうだがな。それにしてもあの野郎、ろくなことをしやがらねえ」

「全くもって同意ですね。しかも幸運に至ってはEランクすら下回っている状態です。なので、こうして歩くだけでも」

 

 天草はおそるおそる一歩踏み出す。すると、その足はつるりと滑って地面を転がり、土方を巻き込んで馬屋に激突する。

 倒壊した壁から何頭もの馬が脱走し、土方と天草を踏みつけていった。もうもうと立ち込める砂煙から血塗れの天草がはい出してきた。

 

「……こ、こうなる訳です」

「ふ、不憫にも程がある……」

「もはや不運とかそういうレベルじゃないのですが。世界が悪意を持って殴りに来てるのですが」

「ダンテは口癖のように〝ステータスなど飾り。幸運などご都合主義〟なんて言ってますけど、それが極まるとこうなるのね。ああはなりたくないわ」

 

 ジャンヌがそう言葉を漏らすと、マシュは口元を意地悪く歪める。

 

「でも、ジャンヌさんも幸運の値はEランクですよね?」

 

 急所を貫く一言。ジャンヌは銃弾で撃たれたみたいに肩を飛び上がらせる。お手本のような図星である。彼女は泡を食って答えた。

 

「だ、だからどうしたってんですかァ〜? 今の話に関係あります? それ」

「いえ、別に。今までダンテさんの幸運が触れられる度にビクビクしてたのかなとかそういうことを考えていたのではありませんが?」

「そそそそそんな訳ないでしょ!? 大体アンタみたいな特に面白味のない能力値のやつに言われたくないんですけどぉ〜!?」

「サーヴァントが物理じゃなくてステータスで殴り合うところなんて見たくなかった……」

 

 立香はすこんと肩を落とす。

 このままではマシュとジャンヌによる模擬戦という名の決闘に発展しかねない。すっかり目的のリハビリが頭から抜け落ちていたその時、視界の端に人影を捉える。

 濃紺の礼装に身を包んだ真っ白な男。それがノアであると認識するまでに時間はかからなかった。即座に寄っていきたい気持ちを抑え、見て見ぬフリをしつつ、彼がここに来るのを待つ。

 ヤツは人の弱みを把握・掌握することに長けたバケモノだ。そう簡単に尻尾は振れない。湖の乙女リースは尻尾を振りすぎて千切れてもなお突撃するタイプだが、アレもアレでバケモノなので参考にはならないだろう。

 ノアは一直線に近付いてくると、ぶっきらぼうに切り出した。

 

「藤丸、来い」

 

 しかし立香はそれを華麗にスルーして、

 

「……そういえばジャンヌ、サーヴァントって走っただけで疲れるものなの?」

「人によるとしか言えないわね。まあ、さっきのは全身に重りつけてたから、それなりに疲れたわ。頭につけてるコレとか普段の200倍の重量よ」

「なにそのドラゴンボールみたいな修行法!? かっこいい! 私もやりたい!」

「聖女の方といい、ジャンヌさんの毛根の強さはどうなってるんです?」

 

 目の前で完全な無視を決められたノアは一連のやり取りを苛立たしげに眺めていた。口元をひくつかせて、呟くように呼ぶ。

 

「……()()

「はいっ! なんですか?」

 

 立香は何食わぬ顔で笑みを向けた。まるで今気付いたとでも言うように。わざとらしさを隠そうともしないそのふてぶてしさに、ノアの苛立ちはただでさえ低い上限を突破した。

 赤い髪から飛び出したアホ毛を右手で握り込む。感情を取り繕いもしない眼差し。低い声で脅すように彼は言う。

 

「おい、このやり取り繰り返すの何回目だと思ってんだ。名前呼ぶたびにいちいちいちいち面倒くせえんだよ。今度こそアホ毛引っこ抜くぞ」

「いくら私のアイデンティティを人質に取ったとしても、リーダーの脅しには屈しませんから。立香って呼んでくれるだけで時間の無駄は減らせますよ?」

「ああ? この俺がおまえに合わせる時点でこの世の法則が乱れてんだよ。おまえは俺の部下(げぼく)弟子(どれい)だろうが、俺に従え」

「久しぶりにルビが最低なことになってるんですけど」

 

 相変わらずの天上天下唯我独尊ぶりだった。釈迦も助走して説法するレベルだ。この場に三蔵法師がいないことが悔やまれる。

 アホ毛を掴んでいた右手が移動し、立香の左手首を引っ張った。

 

「こんな余計な会話してられるか。いいから来い」

 

 その横暴に抵抗する気はなかった。が、良いようにしていると思われるのも癪だ。手首を握る五指を軽く振りほどいて、互いの手を握り合う。

 こちらの指が緩く畳まれる。一瞬だけ逡巡し、自分のそれよりも太く大きい五本の指が強く握り返してきた。力加減が分かっていないせいか圧迫感がある。

 自然と笑みがこぼれる。元よりこの男に丁寧なエスコートなんて求めていない。手放さないと言ったのだから、これくらい強くなくては困るというものだ。

 去っていく二つの背中を見て、マシュは膝から崩れ落ちる。その顔は絵の具を塗りたくったみたいに暗く青褪め、真昼中だというのに冷凍庫に放り込まれたように震えていた。

 

「……ジャンヌさん」

「……なによ」

「今ようやくペレアスさんとダンテさんの気持ちが分かりました」

「半数が脳破壊経験あるチームとか悪夢にも程があるわ!!」

 

 で。

 ノアが立香を連れ出した目的はそんなロマンチックなものではなかった。ノアにそんなものを期待するだけ無駄ではあるが。

 コードキャストを扱う礼装『魔女の祖(アラディア)』。カルデアが誇る二大マッドサイエンティスト、ノアとダ・ヴィンチによる一品だ。何でも、最近ダ・ヴィンチが新たにアイディアを閃いたそうで、礼装の改造のために呼び出されたらしい。

 今回ばかりはダ・ヴィンチに感謝しよう。マッドでサイコな方面に入り込みさえしなければ、比較的真っ当な万能の天才なのだ。

 屋内の一室。杖の内部を開き、見たこともない器具で中身を弄くり回すノア。立香は彼の横でその作業を眺めていた。レイシフト前にみっちりと長い講習を受けたから構造自体は理解しているが、ノアは一旦骨組みから組み直していた。

 

「───そもそも、魔術師が根源を目指す方法として魔術を採用しているのは、最もメカニズムが知れ渡っていない学問だからだ。呪術的な観念ってのは人類の根源的な思想だ。当然ではあるがな」

「コードキャストが科学信仰を魔術基盤にしてるのも、科学はみんなが知ってるけど仕組みはよく知らないからですよね。私が相対性理論の論文とか読んでも意味分からないでしょうし」

「ああ。あくまで科学信仰であって科学そのものじゃないのがミソだ。水素をブチ込んだだけの水がエビデンスもなしに、美容や健康に良いなんて言う連中も存在するくらいだからな」

「色々と角が立ちすぎです。私はソシャゲのガチャは絶対に遠隔操作してると思いますけど、これも科学信仰みたいなものですよね」

「おまえは頭にアルミホイル巻いてこい」

 

 あれから何かが劇的に変わったかと言えば、そうではない。

 目に見えて変化したところは距離感だろうか。どちらが意識しているわけでもなく、二人でいる時は軽く触れるくらいの位置に落ち着く。

 僅かに寄りかかる立香の体温を、ノアは何も言わずに受け止めていた。

 

「というかこれ、私を連れてくる意味ありました? 礼装さえあれば手直しできたんじゃ?」

「仮にも俺の一番弟子なら師匠の研究くらい把握しておけ。おまえほどのアホが理解できるってことはこの世の全員が理解できるに等しいだろ」

「ほほう、つまり私がアルス・ノヴァの希望、と。お兄ちゃんがエジプト人の占い師と研究してる永久機関とどっちが早いか競争ですね!」

「俺の高尚な研究をおまえのアホ兄貴のおままごとと一緒にすんじゃねえ」

 

 あんまりな言い草だったが、反論はなかった。できなかったと言った方が正しい。

 藤丸兄からの最後の便りはカルデアに来る前、空港で手渡された写真。サハラ砂漠を背景に例のエジプト人と肩を組んでガッツポーズを取っている光景だった。その手前にはSF映画のセットのようなブリキの機械があったが、まさかアレが永久機関という訳ではないだろう。

 くだらないやり取りを繰り返す。くすぐったいような、もどかしいようなこの感覚が心地良い。

 胸中にじわじわと滲み出していく熱に身を任せていると、どこからともなく声が響いた。

 

(聞こえますか立香さん……今あなたの脳内に語りかけています)

(フ○ミチキください)

(この時代にファミ○キはありません……2006年まで待つのです……藤丸立香よ……)

(念話までしてするのがこんな話でいいんですかリースさん)

 

 声の主は死後もなお恋愛脳が治るどころか悪化している暴走精霊、リースだった。いたずら好きな妖精らしく、その力を乱用している。弱体化している設定はどこにいったのか、甚だ疑問である。

 あるいは近傍から念話を発しているのかもしれないが、神出鬼没の湖の乙女を立香の実力で見つけ出すのは難しい。黙って彼女の金言を受けるが吉だろう。

 リースはその声音に力一杯精霊の威厳を漂わせ、お告げを伝えた。

 

(攻めるのです立香さん……彼のひねくれ、腐った心の牙城を突破するには攻めるしかありません……星占いによると押し倒すが吉と出ています……)

(腐った城壁に突撃するとか嫌なんですけど。攻める前にボロボロなんですけど。放っておいただけで倒壊しそうなんですけど!?)

(故にこそチャンスなのです……取り柄といえば才能と見た目だけの他は邪悪の権化、『約束された敗北の屑(エクズカリバー)』な彼に惹かれる物好きはいません……廃城を攻める軍はいないのです……)

(地味に私までディスってません? アーサー王まで流れ弾喰らってません?)

 

 元々は自分が所有していた聖剣をもネタにする精霊に端から勝ち目はなかった。二の句を継ぐ前に念話の感覚が消える。どこまでもお騒がせな妖精である。

 立香は今の横槍を忘れることに努めた。この妖精の言うことを聞いていたら、少なくとも破滅が待ち受けていることは確かだ。

 しかし、だからといって退く選択肢はない。

 ノアの横顔をちらりと覗き見る。鼓膜になだれ込んでくる魔術講座、もというんちくを聞き流して、決めた。

 そっと手を伸ばして帽子を摘み、彼の頭から抜き取る。

 

「……何やってんだ、返せ」

「え、嫌です。この帽子のせいでたまに目が見えなくて邪魔なんです」

「俺が丹精込めて作った礼装にケチつけんじゃねえ。防御術式と魔眼避けと低気圧頭痛防止と安眠効果が備わった逸品だぞ」

「でも、リーダーならもっと良いモノを作れますよね? あ、別に無理ならいいですよ無理なら。天才なんていうのも嘘だったんだなってだけですから。はい、じゃあ返してあげます」

 

 目の前で帽子をチラつかせる。すると、ノアの顔色は途端に変わった。彼の豆腐より脆い堪忍袋の緒が切れ、額に青筋が浮かぶ。

 

「オイオイオイ、誰に向かって物言ってると思ってんだ? 日々常に進化する天才をナメんな、そこらの宝具にも見劣りしねえ礼装を作り上げてやるよ!!」

「本当にアホだこの人……」

「あ? なんか言ったか」

「何でもないです。あ、どうせならピアスとかネックレスが良いんじゃないですか。目も隠れないし、せっかく綺麗な髪の色してるんだからもったいないですよ」

 

 立香は自身の髪飾りを見せつけるように触れる。ノアが自分のために作った、特別な品だ。

 

「それとも、私とお揃いにするとか」

「……今から1000匹のゴキブリに囲まれる夢を見る呪いをかける。動くなよ」

「私ゴキブリ平気なんで大丈夫です」

「じゃあ蛇だな。巻きついてきたニシキヘビにうんこ擦り付けられたおまえのトラウマを再現してやる」

「それだけはやめてください!! 泣きますよ!?」

 

 ───あれから何かが劇的に変わったかと言えば、そうではない。

 けれど、こんなふとした時、いつも自覚させられることがある。心臓の奥で確かな温度を持った想いが、日増しに熱くなっていることに。

 だから、自分の心の温度が相手に伝えるように、伝わるように、より体重を彼に預ける。

 いまはまだこれくらいしかできないけれど、きっと───ぼんやりと考えたその時、出し抜けに伸びてきた手が触れていない方の肩を掴んだ。

 胸の鼓動が跳ねる。全身を巡る血の温度が上がる。石像のように固まった少女に、ノアは小さく言った。

 

「……なるほど。そのやかましい口を黙らせる方法が分かった。───意外と雑魚だな、おまえ」

 

 性根の邪悪さを満面に押し出した笑み。腐り切った性格が存分に表現された顔を見上げて、立香は忸怩たる想いを抱く。

 

(……や、やられた───!!)

 

 それでも、文句を言うこともできず。

 ただ、その手の感触を受け止めるしかできなかった。

 

「いや、わしらの出番は!!?」

「いきなりどうしたんですか、大きい声出して。場面飛んだかと思われますよ」

 

 …………一方その頃、黄泉軍が駐留する太宰府の一角で、天上の高天原にも届くような声が轟く。

 その張本人は女体化、ロボ化、悪魔化等々の可能性を兼ね備えたシュレディンガーの猫ならぬシュレディンガーの織田信長だった。その隣には今も昔も婦女の心を惹き付けてやまない天才剣士、沖田総司。彼女は虚ろな目でばりぼりとせんべいを貪っていた。

 

「いやまあ、言わんとすることは分かりますよ。でも、ああいう睦み合いに割り込むのは人としてどうかと思いますよ。馬に蹴られて死んじゃいます」

「そういう問題ではないわい! これは由々しき事態なんじゃあ!!」

「前言撤回します。何言ってんだか理解できません」

 

 沖田は片腕に抱えた皿からせんべいをつまむ。流れるように口に運ぼうとしたところで、横から伸びてきた手がそれを奪い取る。

 神速の突きを誇る剣士といえど、さすがに不意を突かれてはどうにもならない。かすめ取られたせんべいは信長の口に消えていった。

 ぼりぼりと音を鳴らして噛み砕く。沖田はその様子を変質者を見るような目で睨んだ。

 

「沖田。お主、何をされたか言うてみよ」

「……アホ面晒した第六天魔王(笑)にせんべいを横取りされました」

「そう、そういうことじゃ沖田ァ!! そのせんべいはすなわち出番! そして出番とは限られた資源、尼子や毛利が争っとった石見の銀山に等しい! わしらはその骨肉の争いに負けたんじゃあ!!」

「回りくどっ!? そんなことしてるから裏切られるんですよ!」

「織田の家系は回りくどいのが特徴じゃ! 姉川の時のお市とか酷かったからネ!? あんな小豆袋送られてどうしろっつうんじゃ! まあわしは天才だから気付いたけど!!」

 

 そもそも裏切られなければ良かったのでは。沖田は口を抜け出しかけた言葉を寸前で押し留めた。裏切り云々の話では、新選組もあまり言えた口ではない。伊東甲子太郎とか。

 いつの間にか信長のペースに持ち込まれていたことに気付き、沖田は一旦深呼吸を挟む。こめかみに走る微痛は病弱のせいではないだろう。

 とりあえず、このめんどくさいうつけをどうするか。剣士の冴え渡る直感は瞬時に最善の一手を導き出した。

 

「武蔵さんと手合わせしてきます。こんなアホな会話に付き合ってられないんで」

「おまっ、それは自分で出番を捨てる行為じゃぞ!? わしらはなあ、出番がない間は死んでるのと同じなんじゃ!!」

「私たちもう死んでるじゃないですか」

「……つまり、何が言いたいかと言うとじゃな」

「話聞けよ」

 

 沖田は刀の鞘でうつけの脇腹を小突いた。信長はしばし悶絶したのち、息を浅く繰り返しながら言の葉を継ぐ。

 

「わしらはもっと出番を奪えるようなキャラになるべきじゃ。幸い主役二人はアホ面晒して機械弄ってる最中……この隙にわしらが主役の座を奪うんじゃあ!!」

「そんなに見せ場が欲しいですか!? 大体、私たち原作や漫画でメイン張って───」

「うん、そこを持ち出すのはやめよっか。いまのわしらはグレーゾーンで戦ってるから」

 

 信長は人理焼却レベルの破滅を感じ取った。額からだらだらと流れ出す汗は沖田の突きのせいではないだろう。沖田は顔に深い影を落とす信長に訊く。

 

「それで、具体的に何がしたいんですか」

「うむ。よくぞ聞いた、壬生のチワワよ。要するに、わしらも主役を奪えるキャラ付けを考えようという訳じゃ!」

「はあ、テコ入れですか。ですけど、それだとかなり高い壁があるっていうか」

 

 得心しない信長は首を傾げた。沖田は淡々と理屈を述べる。

 

「織田信長のキャラ付けなんて、もうやりつくされてるじゃないですか。主役の座を奪う前に、並み居る何人もの織田信長たちを超えないとそもそも影が薄いですよね。正直女体化くらいだったら薄味にも程が……」

「う、う、うるせー!! そんなサメ映画みたいなキャラ付けされとうないわ! 逆に訊くが、どうしたら他の織田信長に勝ったことになるんじゃ!?」

「世界線超えて殴り合うのは設定的にキツいんで、やっぱり知名度とか?」

「知名度だったら本物に勝てる気がせんのじゃが。まだまだキツいんじゃが。今更設定とか気にしとるんか」

 

 むむむ、と沖田は唸る。どうして信長が信長に勝つために信長の戦い方を考えなくてはならないのか。そんな思考は脳内からすっ飛んでいた。

 そして、彼女は手を打ち合わせる。

 

「映画ですよ! この時代、大衆の目に触れやすい形式で宣伝を行えばいいんです!」

「例えば?」

「『ダブルヘッドノッブ』とか『ノッブネード ラスト・本能寺』とか……あとは『ゾンビノッブ』も良いですね」

「結局サメ映画じゃん!! 巡り巡ってもB級じゃん!! そんなの一部の煮凝りみたいなクソ映画愛好家しか知らんじゃろ!!」

 

 変なキャラ付けをされるという意味では織田信長もサメも同じだった。巨大化して目からビームを撃つ信長も、続編の度に頭が増えるサメも大して変わりはない。

 こんな調子で二人が騒いでいると、いきなり部屋の障子が開け放たれた。

 

「話は聞かせてもらいました! 二天一流宮本武蔵、面白そうだから協力するわ!」

 

 現代もなお語り継がれる伝説の剣豪、宮本武蔵。彼女はうどんを啜りながら現れた。話を聞いていたにも関わらず妙に登場が遅いのは巌流島のオマージュだろうか。

 武蔵はうどんとつゆを全て腹に収め、お椀を脇に置いて座り込む。食欲を満たした彼女にもはや隙はなかった。

 

「いつの世も小さくて可愛いものは愛されてきたわ。かの清少納言も〝ミノムシとかめっちゃエモくね?〟と書き残しています」

「清少納言そんな口調じゃないじゃろ」

「確かに小さくて可愛いものは母性や父性を刺激するわ。我ら人間が最も庇護欲を掻き立てられる存在……それは美少年! 美少女!! 織田のお殿様もそんなキャラ付けをすべきよ!!!」

「それ武蔵さんの性癖じゃありません!?」

 

 沖田の言を受けて、武蔵はニタリと笑う。

 

「大丈夫、私的にはあなたたちも守備範囲内だから!」

「そういう話じゃないんですけど!?」

「このストライクゾーンの広さ、無敵か……!?」

「ふふふ、お困りのようですねえ」

 

 にわかに割り込んでくる声。信長たちは天井に目を向けた。天井の板が開き、覗いたのは月桂冠を被った男の顔。ダンテ・アリギエーリその人だった。

 

「私とて作家の端くれ、キャラ付けの妙味は心得ています。このダンテが信長さんを仕立てて差し上げましょう……!!」

「おお、イタリア最大の詩人と謳われるお主か! わしはイエズス会とも繋がりがあったからの、南蛮の知恵とやらを聞かせてもらおうではないか!!」

「信長さんって本当に外国かぶれだったのね?」

「新選組的には攘夷の対象ですね。私はそこまで過激じゃないですが」

 

 不穏なことを宣う壬生の狼。ダンテはそこはかとない危険を感じながら、自身の考えを告げる。

 

「人気が出る、もしくは出番を貰えるキャラ付けというのは必ずしも主人公だけではありません。私は地獄を旅する中で様々な人物と出会いましたが、最も助けられたのは我が師匠、ウェルギリウス大先生です」

 

 ローマの詩人、ウェルギリウス。その最高傑作と称される『アエネーイス』は、ラテン文学の頂点の一角に置かれ、以後のヨーロッパ文学史に多大な影響を与えた。

 地獄に迷い込んだダンテを煉獄の終点まで導いてくれるのがウェルギリウスだ。ダンテは自らの詩の根源をウェルギリウスとするほどまでに彼を尊崇している。事あるごとに師匠に助けられるダンテが描かれた『神曲』は世界で一番知られた夢小説といえるだろう。

 

「そう、信長さんは師匠ポジションになるのです! ちょうど秀吉さんという良い弟子になれそうな人もいることですし、かっこいい師匠キャラはきっと人気が出るはずです!!」

 

 ダンテは天井裏から自信満々に言い切った。

 信長らは無言で顔を見合わせ、同時に、

 

「「「…………なんか地味」」」

「えっ」

「悪くないとは思うんじゃが……」

「なんか、期待を裏切ってきませんでしたね」

「生来のまともさが出てる感じがあるわ」

 

 ダンテの表情からありとあらゆる感情が消え失せる。Eチームに変人数多しと言えども、彼は比較的まともな類なのだ。精々がヘタレなだけで、生前の地獄巡りも実直な態度を保っている。

 

「ぐっ、Eチームの地味キャラ担当はペレアスさんで十分ですのに……!!」

「ンンンンン! では、貴方も新しいキャラ付けを模索してみてはどうですかな? 見神の詩人ダンテ・アリギエーリよ!」

「───はい?」

 

 ぴしゃりとダンテが顔を出していた板が閉まる。十秒間ほど屋根裏でガタガタと振動が巻き起こると、凄まじい轟音とともに天井が崩壊した。

 木片が雨のように降り注ぐ。散乱した木片の中には赤いコートを着たダンテの姿もあった。その全身はところどころが黒く煤けている。

 白目を剥いて気絶する彼を尻目に、三人はそれぞれの得物を抜く。

 

「その胡散臭さときな臭さと臭さが悪魔合体したみたいな声は、蘆屋道満ね!」

「のこのこ私たちの陣地に入り込んでくるとかナメてます? ぶった斬って晒し首にしてあげます」

「おうおう! この剣豪コンビに狙われたくなかったら大人しく降りて来い! さもなくば乳首焼き討ちにするぞ!!」

 

 信長による恐怖の宣告。最悪の未来を想像した天井裏の声は少し震えながら、

 

「ンンソンン……それは困りますねぇ。しかしィ! マスターさえ始末すればこの軍を壊滅せしめるには事足りまする!」

「なんかソが混じってない?」

「なんと卑劣なやつじゃ! 芹沢の寝込みを襲った沖田くらい卑劣じゃのぉ!」

「芹沢と取り巻きの新見は局中法度無視するアホでしたからね。斬ったことに後悔はないです」

「恐ろしや、壬生の狼! 拙僧の乳首が比叡山と化すのを免れるためにも、ここは退散させていただきましょう!!」

 

 屋根裏からどたどたと物音が響く。未だ姿を見せぬ怪人蘆屋道満を追うため、信長たちはボロ雑巾と化したダンテを放置して部屋を後にした。

 所変わって、立香とノアがいる部屋。障子は開ききっており、白い煙が流れ出していた。白んだ空気の中には時折、オレンジ色の火花が散っている。

 蠢く二つの人影は頭部をすっぽりと覆う金属製のマスクを着用していた。その内の片方、ノアは工具を手にし、深く息を吐いた。

 

「後は仕上げだな。目ぇかっ開いて見てろ藤丸」

「……」

「……立香」

「はい! ドライアイになるくらい注視します!」

 

 室内の煙が外に逃げていく。日本家屋の魅力のひとつは風通しの良さだ。なお、障子が使われ出したのは平安時代後期頃とされている。壬申の乱直後のこの時代に存在している可能性はとても低いが、そこにツッコんではいけない。

 二人はマスクを脱ぎ、床に置かれた金床に視線を注ぐ。その上にはピンポン玉ほどの大きさの円盤が銀色に輝いていた。

 立香にはそれが何であるか即座に気がついた。伊達にノアの長ったらしい魔術講座を受講してはいない。

 

「ふふふ……天才美少女立香ちゃんには分かりますよ。ペンタクルですよね、これ」

 

 ノアは首肯する。

 

「黄金の夜明け団の流れを組む近代儀式魔術では、ペンタクルは四大元素の地属性と結び付けられた。アレイスター・クロウリーが確立したセレマ魔術ではより解釈を広げて、ペンタクルに各術師が想像する宇宙を描くことになっている。アキレウスの盾と同じだな。そもそも現代で見られるペンタクル……魔法円の元ネタのほとんどはソロモン王だ。漫画やアニメで出てくる魔法陣なんかの源流と言ってもいい。そして当然、俺が意識するのは当然ソロモン王だ。黄金の夜明け団とアレイスターの用法も中々悪くねえが、俺が唯一尊敬するソロモン王には及ばない。ソロモン王の魔法円と言えば人類誰もが知るのが六芒星と円の組み合わせだが、俺はここにシジル魔術とカバラ数秘術を混ぜ合わせる。シジル魔術は象徴を利用するから魔法円とも相性がいい。なぜ数秘術を使うのかというと─────」

「す、ストップストップ! 文字数稼ぎはもういいです! 早く作業を進めてください!!」

「ここからが良いところだろうが。俺の緻密な魔術理論を一言一句覚えろ」

「聞かせたいなら少なくともオタク特有の早口は自制してください」

 

 とめどない情報の濁流をくらい、立香の脳みそは破裂の危機を迎えていた。次々と登場した専門用語の意味は知っているが、それを咀嚼する前に情報を詰め込むという拷問に等しい時間だった。

 ただでさえ容量の低い立香の脳は立ちくらみを起こしかけ、ふらりと上に目を向ける。

 眼球に飛び込んできた光景を認識した直後、彼女は腰から床に崩れ落ちた。

 

「ギャッ……ギャアアアアアア!! り、リーダー! 上に全裸の変態がいます!!」

「んな訳ねえだろ、アホが極まりすぎて魂にまで侵食したか? よしんば妖怪だったとしても人前に出てくるはずが……」

 

 ノアは馬鹿にした笑顔で立香に目線を合わせる。

 天井の端から端まで渡された梁。仄暗い闇が覆うその場所に、見覚えがありすぎる男が全裸でしがみついていた。

 ノアがそれを呑み込むまでに数秒。そして、彼は大口を開けて叫び出す。

 

「うおわあああああ!? どうしてこんなところにいやがる、蘆屋道満!!」

「フフフ、式神を使役するは陰陽師の十八番にて! 貴方がたを潰しに来た次第でございます! そちらの有力な術師は貴方ひとり、魔術防護の薄さが仇となりましたな!!」

「つーかなんで全裸なんだよ。最近イベント出たからってハイになってんのか?」

「おやめなされ! それ以上のメタ発言はおやめなされ! 世界観が壊れてしまいまする!」

「言うのが60話は遅いですよ」

 

 何はともあれ、道満の目的は判明した。自身に模した式神によって、マスターを始末しに来たのだ。感情豊かな反応からして、本体はどこかで式神を操っているに違いない。

 立香の指摘を無視して、道満は下卑た笑みを満面に広げた。

 

「これ以上こんなアホな会話に付き合う道理はなし! 二人まとめて消えてなくなれい! 急急如律令!!」

「───『Wird』!!」

 

 呪詛と閃光が衝突する。

 空気が弾け、衝撃波が辺りを舐めるように破壊する。結果、その一角は吹きざらしになる。日本家屋の風通しの良さがさらに向上した。

 道満は砂塵に紛れ、高らかな笑い声をあげる。

 

「東洋呪術と西洋魔術───どちらが上か、いざ競いましょうぞ!!」

「誰がおまえなんかと戦うか。呪術比べなら安倍晴明とでもやってろ!」

 

 ノアの後方より銃声が鳴る。眉間目掛けて放たれた弾丸を、道満は顔を逸らして回避した。

 砲火に追随するように信長と沖田、武蔵が駆けつけてくる。

 

「わしらが来るまでよう耐えた! 分身といえどもそやつは敵じゃ、ぶっ叩くぞ!」

「ぶった斬るの間違いよ、それ!」

 

 武蔵は一足飛びに間合いを詰め、二刀を振るう。目にも留まらぬ速度、とはありふれた表現だが、彼女の斬撃は五感全てを欺く技量を秘めていた。

 陰陽師と剣士とでは戦いの土俵そのものが異なる。さしもの道満であっても、天眼が合わさった一刀を見切ることは能わない。

 肩口から両断され、道満の像が溶けるように消える。しかし、そのすぐ背後に傷ひとつない道満の姿があった。ついでに服も来ていた。

 敵の真贋を見抜けぬ武蔵ではない。故に導き出した結論はひとつ。

 

「分身から分身を作ったのか、マトリョーシカみたいなやつめ!」

「お褒めいただき恐悦至極! 返礼は我が粋を込めた呪詛で以って贈らせていただきましょう!」

「この世で一番いらない贈り物だわ! どうやって倒すの!?」

「封印だ。式神を作るには触媒が要る。だったら、その触媒すら利用できない状態に追い込めばいい」

 

 立香はまさかの本格バトル展開に巻き込まれて目を回した。

 ノアの礼装造りを見学していただけなのに、どうしてこんな状況に放り込まれなければならないのか。そう考えると、ふつふつと苛立ちが湧き上がってくる。

 『魔女の祖(アラディア)』を起動し、眼球に魔力を通して戦況を確認する。さすがは蘆屋道満と言うべきか、剣豪コンビと信長の猛攻をのらりくらりと躱していた。

 道満にコードキャストの知識はない。当てることさえできれば、必ず効果はある。ならば───思考の駒をひとつずつ進めていく最中、騒ぎを聞きつけたマシュとジャンヌが駆けつけてくる。

 

「無事ですか、先輩!」

「ま〜たあの陰陽師? 顔もそろそろ見飽きたわ」

「遅えぞおまえら。さっさと突っ込んで羽交い締めにしてこい」

「アンタが行きなさい」

 

 ジャンヌはノアの尻を蹴り飛ばす。

 ただの蹴りとはいえ、サーヴァントの筋力が相まったそれはほぼ殺人兵器である。ノアの五体はカタパルトで射出されたかのように飛び、彼の頭頂が道満の顔面に激突した。

 

「ンンソンン! よもや人間ロケットとは! しかしこの程度で拙僧を倒せると思うならば愚の骨頂!!」

「さっきからちょくちょくソ混ぜてくるのなんなんじゃこいつ?」

「私たちが止めます! 長くは保ちませんが!」

 

 道満の動きが止まる。彼の両足にはそれぞれ土方と天草がしがみついていた。ここに来るまでどんな不幸に見舞われてきたのか、普段の姿とは似ても似つかない見た目になっている。

 今の土方と天草のステータスはダンテ以下。止めていられるのは一瞬だろう。

 だが、事前に術式を立ち上げていた立香にはそれで事足りた。

 

「『shock(64)』!!」

 

 プログラム化された魔弾が飛翔する。

 それは吸い込まれるように道満の股間に着弾した。

 

「ン゙ン゙ン゙ン゙ン゙!!!!」

 

 瞬間、激痛の雷撃が全身を駆け巡る。平安の怪人はぱったりと倒れ込み、生まれたての子鹿を百倍速にしたみたいに震えた。

 

「ソソソソソ……ソソソソソ……ソソソソソソソソソ…………」

「全部ソになってるじゃないですか」

 

 悲痛な声を絞り出す道満。場の男性陣が沈痛な面持ちになる一方で、沖田は何の気なしに言った。天草は慣れた手つきで十字を切る。

 

「…………私たちが被った不幸の代償にしては、少し重すぎましたかね? 土方さん」

「…………だ、妥当だろ。これに懲りたら俺らにちょっかい掛けてくんのはやめることだな」

 

 道満は涙を蓄えた両眼で土方を睨むと、無言で消えていく。封印するまでもなく陰陽師は退散したようだった。自業自得ではあるのだが、どことない後ろめたさを残す後味の悪い結果だ。

 信長は火縄銃の銃口を下げて、ぽつりと呟く。

 

「どうやってオチ付けるんじゃこれ……」

 

 答える者は誰もいなかった。

 沖田は振り向いて、カメラ目線で言い切る。

 

「次回、新選組剣風伝第六十三話『薩長滅亡! 新選組希望の未来へレディーゴーッ!!』、絶対見てくださいネ!!」

「こいつ、次回予告を乗っ取りおった!」

「いや、次回予告とかないですけどね。私たち」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 道満の襲撃を受けた後、あの場に居合わせた人間で敷地に張り巡らされた結界を張り直す作業に当たった。とはいえ、あのような悲劇が起きれば、あの道満も反省するだろう。

 そして、日が沈み月が空に浮かび上がった。黄泉軍のサーヴァントとマスターたちは広間で一堂に会し、高千穂攻略の作戦会議を行うことになった。つまり、いつもの流れである。

 ずらりと並べられた膳の前に、各人が着く。その際、ペレアスはへばりついてくるリースと左手一本で格闘しながら、ノアに言った。

 

「どうしたお前、イメチェンか?」

 

 ペレアスの視線の先。ノアは愛用していた帽子を脱ぎ捨て、両耳に銀のピアスをつけていた。平たい銀盤には円と六芒星、そしていくつかの数字が彫り込まれている。

 

「まあな。いつまで経っても地味さが拭えないおまえと違って、俺は向上心の塊だ。イメチェンくらいするだろ」

「分かっていませんわね、ノアさん。ペレアス様はそんな地味なところも良いのです! たまにほんのり派手になるところがギャップ萌えを生み出すのです!!」

「結局オレが地味ってことになってるだろうが!!」

 

 という地味なペレアスを横目に、立体映像で投射されたロマンが話の流れを分断する。

 

「『はいはい、始めますよ! スサノオさん、お願いします!』」

 

 神だけに上座についているスサノオは力強く頷いた。

 

「うむ。残す天御柱はあと一本じゃ! 立香も元気になったことじゃし、いよいよ最後の攻勢をかけるぞ!」

「まあ、それしかないじゃろうの。誘いや罠の可能性は考慮せんのか?」

「どちらにしろ天御柱は根こそぎぶっ壊さねばならん。周囲の土地を神代に変えるとかいう物騒なモンは残しておいても争いの種になるじゃろうからな」

 

 天御柱は徐々に周辺の土地を侵食し、神代の環境に作り変える。すなわちそれは時代を固定するということだ。たとえこのまま特異点の修復が成ったとしても、九州だけが神代に取り残されることも有り得る。

 故に、天御柱を無視することはできないのだ。

 そこで、清姫はそそくさと手を挙げた。

 

「天御柱を根こそぎ伐採したとしても、聖杯を取らぬ限り特異点は修復されないのでしょう? その聖杯はどこにあるのです?」

 

 その疑問に答えたのはロマン。手元の資料をめくりながら、

 

「『こちらも九州に上陸してから探査が済んだのですが、聖杯の反応は高千穂峰直上の遥か上空に認められました。その高度は約500km……外気圏です』」

「むう、外気圏とは何だ。吾は分かるが、他の者にも伝わるように説明しろ」

「『地球の大気層の一番外側ですね。これを超えると宇宙空間になります。息ができなくて死んじゃう……前に熱圏で燃え尽きますね』」

「地球こわい」

 

 茨木童子はガタガタと恐怖を露わにした。

 国際宇宙ステーションの高度は400km圏内であるが、外気圏はそれよりも高い位置になる。高天原は天上の世界とされるが、外気圏ともなるとそれに違わぬ高度だ。

 すっかり復活したダンテはつんのめるようにして言った。

 

「天国に行ったことはありますが、高天原がそんな物理的な高さとは思いませんでしたねえ。マシュさんが焼き茄子になってしまいますよ」

「ダンテさん?」

「『おそらく、日本の神代においては高天原は外気圏に実在したんでしょう。それが神代の終わりとともに世界の裏側に消え、別次元に移動したと考えられます。問題は、どうやって行くかなんだけど……』」

「……ドクター、そんなことは簡単です」

 

 マシュは味噌汁を飲み下して、悪い笑顔で言い切った。穢れ切った彼女の姿を目の当たりにして、ロマンは何度目になるか分からぬ心の涙を流す。

 悪い笑顔の反面、そこには揺るがぬ確信と自信に満ちている。

 

「『Re︰ジャンヌロケット』ということで、ジャンヌさんの火炎放射で高天原まで一直線に飛んでいけば万事解決です」

「おい」

「私も見てみたいなあ、ジャンヌのロケット飛行。名無しの女王に監禁されてたり、心臓撃たれたりで忙しくて見れなかったから」

「命の危機を忙しいで片付けないでくれます!?」

 

 それを聞いて、ロマンは軽快に笑った。

 

「『立香ちゃんの治療中、ずっと手を組んで祈ってたからね! なんだかんだでみんなのことが大好───』」

「アンタは帰ったら焼くわ」

「『なんで!?』」

 

 ロマンの顔が青くなる。ただでさえ青い立体映像だというのに。

 以上のやり取りを受けて、スサノオは口元を痙攣させながら言った。

 

「聖杯の回収については儂に任せい。三本目の天御柱の魔力を吸収したら、ほんの少しは本気が出せるからの。ちょちょっと行って取って来てやるわ」

 

 今や稚児の姿になっているスサノオだが、一本目二本目の天御柱の魔力を吸ったことで、初対面とは比べ物にならない神気が満ちている。

 前回の戦いでは、天御柱一本分の力だけでツヌグイの防御を打ち破り、とどめを刺してみせた。単純な強さで言うのなら、この場の全員を束ねたとしても勝ち目はないだろう。

 信長は鼻を鳴らして、不機嫌そうに応える。

 

「ふん、むしろ神なのだからそれくらいやってもらわねば困るわい。全員蹴散らしてくれれば楽なんじゃがな」

「そりゃ無理という話よ。姉ちゃんとやり合う前に力の無駄使いはできん。姉ちゃんは高天原の象徴じゃ、絶対に立ちはだかってくるじゃろう。じゃが、う〜ん……」

 

 スサノオは顎に手を当てて考え込む。豪放磊落を地で行く神がここまで思い悩むのは尋常なことではない。

 土方は鋭い目つきで提案する。

 

「アホがひとりで悩んでも大した結論は出ねえぞ。もったいぶってねえで言いやがれ」

「お、おう。……やっぱり姉ちゃんが敵とは思えないんじゃよな。いざとなったら武力を使う冷酷さはあるが、人草を殺す残酷さはないのが姉ちゃんの良いところでもあるし」

 

 ───スサノオ曰く。

 太陽の女神とオオクニヌシの間で行われた国譲り。地上の人々の合意無しに、神々だけで支配者を決めるという仕業は蛮行であるが、その反面、評価すべき点もある。

 それは神々だけが争ったこと。たとえ武力を用いていようが、地上の人々は誰ひとりとして死ぬことがなかった。天津神の相手はあくまで国津神であって、人を虐げはしなかった。

 太陽の女神はそうして、自らの光を出雲に届かせた。高天原の法下にあらぬ化外の地を、天の色に染め変えることに成功したのだ。

 それこそは、この国において初めて行われた化外の者との闘争。生き場の奪い合い。もし、国譲りの戦いが異なる結果に転んでいれば、後の世は大きく形を変えただろう。

 そこまで聞いて、ノアはスサノオを笑い飛ばす。

 

「おまえの長ったらしい話は聞き飽きた。その上で答えを教えてやる。───おまえが正しい」

「嘘つかないでくださいリーダー」

「アンタみたいなアホに分かるわけないでしょ」

「それが天才と凡人の差だ。真の天才ってのはいつの時代も迫害されんだよ。その後で大衆は自身を愚者と認めざるを得なくなるがな」

「お前のやっつけ天才論はどうでもいいからさっさと根拠を言え」

 

 ペレアスに肩を小突かれ、ノアは得意げに喋り出す。

 

「アメノワカヒコは最期に〝あの太陽が偽りの神であるならば〟なんて『誓約』をして矢を射ってた。この国で太陽といったらスサノオの姉だろ」

「それが偽りの神ということは……ですか。誰かが成り代わっているのですかねえ」

「神に成り代われるやつなんてどこにいるんだ? 多神教の神様ならそういうことも有り得るのか?」

「神仏習合なんて言いますし、あり得なくはないと思いますわ」

 

 リースはぽっと頬を赤らめて、

 

「まあ、ペレアス様の代わりなんていませんがっ!!」

「……あー、オレもだよ」

「…………ペレアス様。私、なんだか体が火照って───」

「留まることを知らねえのか!!?」

フォウフォウフォフォウ(マジでこの精霊出禁にしろ)

 

 ノアはペレアスと湖の乙女を腕で弾き飛ばし、会話の主導権を取り戻す。

 

「それに、アメノワカヒコがした『誓約(うけひ)』には〝俺が愚か者であるならば〟なんてのもあった。これは明らかに矛盾だ」

「どうしてです?」

「占いは自明ならぬことや、自分ではどうにもならぬことを知るためのものだからのう。自分が愚者であるかどうかなぞ、判定する基準も曖昧じゃろ。タカミムスヒも困るじゃろうな」

「そこのニート神の言う通りだ。こんな『誓約(うけひ)』が成立するはずがない。アメノワカヒコがやったことは俺が〝俺が天才であるならば〟なんてことと同じだからな」

 

 それだけは天地がひっくり返ってもない。ノア以外の全員が心の中でツッコんだ。

 死んだ目で膳の料理を貪っていた茨木童子は、ダンテの膳から甘味だけを奪い取りつつ、眠たげな声で言った。

 

「んで、結論は何なのだ。長々と喋りおって、危うく吾の頭が破裂するところであったわ」

「確かにそうですねえ。問題点はなぜアメノワカヒコさんの『誓約(うけひ)』が成立したのか。どうなんです? ノアさん」

「…………立香、ここまで言えば十分だな? 俺の代わりに答えろ」

「いや全然分からないんですけど!? リーダーだって絶対分かってないですよね!?」

 

 収集がつかない事態に発展することを危惧したロマンは自分でも驚くくらいの大声で、

 

「『そ、それじゃあスサノオさん! この場をまとめてください!!』」

「どんと任せい魔術師殿! 兎に角にも高千穂攻略作戦の概要はこうじゃ───儂以外の全員で天御柱を破壊し、後は儂がどうにかする! 以上!!」

「雑すぎるだろうが!!」

「織田家ならクビじゃぞ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霧島連峰、高千穂。

 その地はかつて太陽の継嗣が降り立った聖地。神話においては、この場所より日の本の歴史は始まった。東征軍の本拠として高千穂より適した場所は存在しないだろう。

 連なる山々を照らすが如く、銀色の月が夜空に輝く。煌々と照る銀盤は冷たい光をたたえ、虚空の中央に鎮座する。太陽の対となる天体はまさしく、天元の花であった。

 それを撫でるように、白刃が踊る。

 斬る。それのみに特化した白き刃金。その刃は月に届かんとするかのように長く、淡く光り輝いていた。

 その一刀を手繰るはひとりの剣士。月明かりに濡れる彼のかんばせはどこまでも白く、月に色付けられていく。

 その剣舞に終わりはない。

 漆黒の天に浮かぶ月を斬るまで止まらない。

 斬ることのみが存在意義。

 断つことだけがこの名を与えられた意味。

 佐々木小次郎。宮本武蔵との決闘で命を落とした剣士。名も無き剣の徒はその名だけを与えられ、この世界に喚ばれたのである。

 故に、その剣が表すは巌流でなく我流。なれど、自らの全てを注ぎ込んだ剣技は巌流に劣りはしない。

 なぜなら、彼の存在をあらしめるのはその剣だ。名前そのものに意味はない。剣の技量故に巌流を背負うことを命じられたのならば、彼の剣は巌流に届くはずだ。

 宿敵の名を持つ女の顔を脳裏に思い描く。

 二天一流、宮本武蔵。彼女こそが、己が剣を高みへと導く壁だ。

 燕を斬ることで魔剣を編み出したように。

 武蔵を斬ったのならば、この剣は何処へ辿り着く─────?

 

「……ふっ」

 

 沈黙する月に新たな燕を投影し、名も無き彼は、ただ微笑んだ。

 そして、一方。

 同じ月を眺める者がいた。

 白き外套が風に揺れる。

 朱色の酒器に注がれた神酒を傾け、遥かなる天を望む。

 荒ぶる神、スサノオ。風を纏う戦神は空の座に胡座をかき、眼光を研ぎ澄ます。

 ───戦い、勝つ。それにしか道はない。

 彼の遠い子孫、オオクニヌシが告げたことがある。

 

〝貴方は『戦う者』だ。だからこそ、こんな冥界に引き篭もっている〟

 

 オオクニヌシはこの国を率いるに足る三柱の神をそれぞれの属性に分類した。

 太陽の女神は『統治する者』。

 スサノオは『戦う者』。

 そして、オオクニヌシは『産み育てる者』、と。

 もし、スサノオが頂点に立てば平和な国にはならない。戦い、勝つという理は他者を虐げることと同義。少数の上に立つ者だけが莫大な幸福を甘受し、多数が負債を追わねばならない。

 無論、スサノオはそれでも勝ち続けるだろう。こと戦に関して、彼の右に出る神は高天原にも葦原中津国にも存在しない。他者から全てを吸い付くし、新たな標的を求めてその国は膨れ上がっていく。

 そんな仕組みに未来はない。

 八千代の先にまで続く国は造れない。

 だからこそ、スサノオは身を引いた。尊敬すべき兄のように。

 

「ツクヨミ兄ちゃん。アンタはいま、何を想う?」

 

 一日の半分を支配する月。その化身たるツクヨミは語られる伝承も少なく、記紀に登場する回数も数えるほどしかない。

 それは、太陽の女神に己が権勢を譲ったからだ。

 輝く太陽の位地を脅かさぬように、自らの夜の食国に身を隠した。

 それが正しいかどうかは神にさえも分からないけれど。

 いま、この時だけは隠れる訳にはいかない。

 戦って、勝たねば人の世は終わる。

 魔術王が宣う完全な世界が開かれる。

 完全───それは素晴らしいことに違いないが、真に完全完璧を謳うならば、他者を虐げて成り立つことさえも克服してみせるのがスサノオの道理であった。

 だが、そんなことは神でも不可能だ。

 人の先達たる神であっても完全には程遠いのだから。

 例えばそう、あの大化生を相手取った時。

 八岐大蛇。この国に現れた最強の怪物。

 八つの頭、八つの尾、八つの谷を渡る巨体を有するその魔物を評するならば、星の怒り。

 自身の体に巣食い、穢す、全ての生物に対する地球の憤怒こそが八岐大蛇。神すらも喰らう龍と荒ぶる神が衝突したのなら、その勝敗に関わらず葦原中津国は人の住めぬ土地になっていただろう。

 だから、八塩折の酒を用いて謀殺した。

 この地上を壊してしまわぬように。

 それでもやはり、完全ではなかった。相容れぬから殺すという理屈を振るっただけで、最善の結末には遠かった。

 

「見ていろ。オレはこの愚かしさで、人の世を未来に繋ぐ」

 

 酒器に波打つ酒を飲み干し、愛刀を月に掲げる。

 それは誓い。

 どこかで見ている兄に。

 かつて斃した大いなる竜に。

 いつか逢うための人類に。

 必ず勝ってみせるという、神の誓約であった。

 ───今度こそ、最高で最善で完全で完璧な結末を見るために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いよいよ天王山。世界の趨勢はこの一戦に託された…………フッ。くだらぬこと」

 

 濃密な闇に包まれた山中。

 淡く光る天御柱を見上げ、男は笑う。

 ぎちりと吊り上がる唇。鋭さを増す瞳。微笑みの裏に粘ついた憎悪と戦意を隠し、術師はただ宣言した。

 

「かの神と神器を手中に収め───儂はお前を超えるぞ、晴明!!」



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第63話 天孫降臨

 ───物質界の上位世界、永遠の領域(プレーローマ)

 神性に満たされ、無窮の光が無上無辺に輝く次元。魔術王による人理焼却が完遂した直後、知恵の女神は陰陽師に向けて語った。

 

〝……さて。反魂法は体に馴染んだようだな〟

 

 魂を現世へと呼び戻す秘術、反魂法。

 サーヴァントとは英霊の写し身だ。全てのサーヴァントが何らかのクラスに当てはめられ、要素を切り取られている。故にその能力は生前のそれとは大きく異なる。

 しかし、蘆屋道満は魔法にも匹敵する魔術を与えられ、魂の扱いにおいては生前の能力を超えた。

 式神に自分自身を転写する生活続命の法も術式そのものの封印には耐えられず、また、霊魂が現世から離れれば舞い戻る手立てはない。

 比して反魂法とは、魂が現世に戻るための術だ。物質界でしか活用できぬ生活続命の法とは天地に等しい差が存在する。

 他人の魂を呼び戻すのは二度が限度だが、己のそれとなれば話は別だ。そもそもサーヴァントとは英霊の座から物質界に転写された存在。召喚という過程で物質界への移動は承認されている。後は現世で用意した式神に自らを宿すことで何度でも蘇れるのだ。

 

〝貴女に感謝を。知恵の女神ソフィア〟

 

 ソフィア、と呼ばれた女は微かに口元を吊り上げる。その瞳は陰陽師の姿ではなく、その向こう側にあるモノを捉えているかのようだった。

 

〝不死身などというろくでもない存在になった気分はどうだ?〟

〝はて、これは異なことを仰る。貴女によれば拙僧はろくでなし……それが今更上塗りされただけのこと。感慨も後悔もありませぬ〟

〝そうか。ところでお前、ドラゴ○ボールは読んだことがあるか。シャーマ○キングでもいいぞ〟

〝……………………ン??〟

 

 道満は思わず首を傾げる。

 平安時代に漫画があったら歴史上の大発見だ。朝廷の公文書から密教の秘伝書まで、必要とあらば数多くの書物を読み漁ってきたとはいえ、そんなものを目にした経験があるはずがない。

 ソフィアは怪人とまで謳われた男の混乱を眺め、くつりと喉を鳴らした。

 

〝ふ、冗談だよ。しかし、お前にとってはそれでは済まされない〟

 

 相手の反応を待たずに、二の句を継ぐ。

 

〝死の淵に立つ、生き返ることで強くなる。魔術的にその考えは正しい。死んだ魂は根源の渦へと還る……それはつまり、この世の全てと一体化するに等しい。その体験を持ち帰ることができれば、物質界においては隔絶した力を手に入れられるだろう〟

 

 魂は根源へと還る。万物万象が記録された座に至り、根源に存在する知識を覚えたまま現実に帰ることができたのなら、その者は誰にも負けぬ力を身につけるはずだ。

 それを生きながらにして実現してしまうのが根源接続者───道満は眼前に佇む女を見据えて言う。

 

〝では、反魂法を用いて蘇る度に強くなる。そういうことですかな?〟

〝魂が根源での経験を覚えていれば、な。そんなことができた人間は人類史上でもたったの数人だよ。そもそも、お前〟

 

 鋭く、重厚な刃を突き刺すように。

 知恵の女神は言い放つ。

 

〝───()()()()()()()()()()()()、などと思ってはいないか〟

 

 道満は顔面に貼り付けた笑みを崩し、

 

〝…………さ、さっきと発言が真逆ですが〟

〝それとこれとは別だ。私はこう問うているのだ。死に、生き返る際に失われるモノはないのか、とな〟

〝人間性や魔力、というつまらぬ答えではないでしょうな?〟

〝いいや、もっとつまらぬ答えだよ。生き返りを実現すれば死を失う。誰もが迎える真っ当な結末を喪失せしめた者が辿る運命は多くの神話が語る通りだ〟

 

 ギリシャ神話の医神アスクレピオスは、アテナより授かったメドゥーサの血を用いて死者を蘇生する霊薬を造った。しかし、その力を恐れたゼウスの雷霆によってアスクレピオスは命を落とすのである。

 生き返りを実現した者ならずとも、生き返りを望んだ者でさえその結末は望みを達成できずに終わる。───たったひとりを除いて。

 

〝世の理を侵したろくでなしに、ろくな未来が与えられると思うなよ。お前は茨の王冠を被った男ではないのだから〟

 

 道満は暫時考え込み、悪辣さを見せつけるように破顔した。

 

〝それがどうしたと言うのだ、知恵の女神よ! 運命や未来などという曖昧な言葉でこの身を戒めることは能わぬ!!〟

 

 石像の如く無機質な表情で啖呵を受け止めるソフィア。その裏に秘めた情動の色は同情と哀憐。道満は女の目前に自らの眼光を突きつける。

 

〝無尽の闇に包まれた未来とて、貴女の眼は白日の下の如く見渡せるはず。我が運命の末路を教えよ、それを打ち砕いてみせようぞ……!!〟

 

 ソフィアはくすりと笑い、

 

〝───未来を見るのは、もうやめたんだ〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霧島連山、高千穂峰。

 東征軍の武威の象徴たる天御柱が突き立つ霊峰はいま、分厚い雷雲を戴いていた。バケツをひっくり返したみたいな豪雨の最中、時折響く雷鳴が雨音をかき消す。

 地に降る轟雷はまさしく天の怒り。

 猛る雷光が荒れ狂うその場所はもはや余人が立ち入ることを許さぬ戦場であった。

 山の頂上には三体のサーヴァント。

 今までの戦いで仲間を討たれ、数で圧倒的に劣るはずの彼らはそれでも焦りの色を滲ませることはない。

 源頼光、佐々木小次郎、藤原秀郷。この状況でも勝利を確信しているのか、はたまた敗北を受け入れているのか、真実を読み取ることはできなかった。

 この国に打ち込まれた楔の最後の一本。遥か上空の高天原に坐す聖杯を掴むための最終戦。日の本の歴史が始まった土地を前に、Eチーム含め黄泉軍は戦意を漲らせていた────!!

 

「……いや、既に萎えてきたわ」

 

 ということもなく。

 眠たげな目をしたジャンヌは呟いた。地面に旗を突き刺し、体重を預ける彼女からはめらめらと炎が立ち昇っている。雨粒が赤い火に触れたそばから蒸発し、辺りに水蒸気を撒き散らしていた。

 そんな人間加湿器とは対照的に、湖の乙女リースは普段の三割増しで存在感を発揮していた。水の精霊にとっては災害級の豪雨も恵みの雨と同義なのだ。

 

「私は雨のおかげで元気百倍ですわ! 精霊なので!」

「アンタはそうでも私は違うのよ。地面もぬかるんで泥だらけですし」

「分かりますよジャンヌさん。地獄ではステュクスの沼という場所で罪人たちが殺し合っていたのですが、それからというもの私は泥を見るとあの時の光景が…………」

「そこまで実感のこもった同情は求めてないんですけど!?」

「ダンテさんの地獄トラウマ集多すぎません?」

 

 立香はジャンヌから漂ってくる蒸気を払い除けながら言った。彼女自身、地獄には行ったことがないので一歩引いた目線にならざるを得ないのだが。

 しかし、天草は腕を組んでこくこくと頷いていた。

 

「主の小羊のひとりとして、貴方の旅路には尊敬を覚えます。私は原城に籠城した時の兵糧攻めが地獄でした」

「光秀もサルもやっとったが兵糧攻めは酷いからのう。え、わし? わしは金ヶ崎じゃな! 松永の交渉がなかったら死んどったわ!」

「私は新免無二のクソ親父に辻立ちやらされてた時かしら。あと関ヶ原もやばかったわね」

「北の異民族との戦いは大体地獄だったな。領地の外側なら王様がエクスカリバーぶっぱするだけで終わることもあるんだが、内側に入られると直接殴り合うしかねえ」

フォフォフォウ(なにこの地獄トーク)?」

「全くだ。戦場なんざどこもかしこも地獄だろうが、くだらねえ」

 

 土方は苛立たしげに刀の鞘と鍔を打ち鳴らした。フォウくんの言語を理解している理由は不明である。

 

「うむ! お主の言う通りじゃ土方ァ!!」

 

 彼の言に同意したのはスサノオ。自らの愛刀である天羽々斬を肩に担ぎ、空中に飛び上がる。ただそれだけの動作で陽光を遮る黒雲は渦を巻いて捻じれた。

 吹き付ける風雨と墜落する電光がさらに勢いを増し、しかしてそれら全てを振り払うかのような大声が発せられる。

 

「確かに、この浮世には地獄が蔓延っておる! じゃが前を見よ、残る敵は三人! つまり儂らの勝ち確状態じゃ! たとえ雨が降り風が吹き雷が落ちたとしても───此度の地獄はお前たちが経験してきたそれよりは遥かに生温いぞ!!」

 

 スサノオは呵呵と笑い声をあげる。その声に応じるかのように一帯を包む嵐が逆巻き、大地が微動する。彼が秘めたる神力はその一挙一動でさえもが自然に影響を与えていた。

 鳴動する大気はそれそのものがスサノオの意思を伝達する声となる。神は高みより人間を見下ろし、抱くように両腕を広げる。

 

「誰ぞ儂に続いて檄を飛ばす者はおらぬか!? 今なら何を言っても無礼講じゃ! こんな独壇場は中々ないぞ!!」

 

 その求めに真っ先に応じたのはマシュだった。

 

「はい! このマシュ・キリエライト、大将軍級の鼓舞をしてみせる自信があります! 私に任せてください!」

「良いぞなすび娘! お主に任す!」

「は? そこは吾では? 吾総大将なのだが?」

「総大将は一番後ろでドンと構えているものですよ、茨木童子さん」

「なるほど、さすがは清姫! 人語を話せる系バーサーカーなだけはあるな!」

 

 アホで助かった、と清姫は心の中で安堵した。そんなやり取りをスルーしたマシュはスサノオの後押しを受け、数歩前に進み出る。

 盾を携え、誰よりも前に立つその背にかつての不安定な面影はない。それはギャラハッドの力を宿すに足る姿だった。

 ロマンはそそくさとハンカチを目元にあてがいながら、

 

「『おお、あの控え目な女の子だったマシュが今やこんなに……!!』」

「あいつが控え目だった時なんて一度もねえだろ」

「『何を言ってるんだノアくん!? 昔に遡れば多分あるよ! 具体的には60話くら───』」

「ドクターにそういうボケをされると、私たちの立つ瀬がなくなるのでやめてください」

 

 立香は通信機を操作し、禁断の領域に触れかけたロマンの言葉を無理やり遮った。

 その数秒後、マシュはたっぷりと間を取って喋り出す。

 

「ドクターが言ったように、マシュ・キリエライトは控え目で純粋可憐かつ薄幸の美少女です。当然知っていたとは思いますが。そんなわたしには皆さんを守るという唯一無二の役割がありまして」

「一言一句間違ってんぞピンクなすび」

「寝言を言いたいなら私が気絶させてあげるわよ?」

「…………このように、アホリーダーと放火魔女も守らなくてはならないのが辛いところですが、今のわたしはたくさんの戦う理由に満ちています。その中のひとつを紹介しましょう」

 

 降りしきる雨の中、彼女の声は不思議とよく通った。

 自然と場の視線が黒き鎧を纏う少女に集められる。それを一身に背負い、マシュは淡々と言の葉を紡いでいく。

 

「これはリーダーや先輩に振り回されるようになって、しばらくしてから思い出したことです。わたしは昔、ベリルさんという人に指をへし折られました。最近、そのことでよくもやもやしていたのですが……」

「いきなり重すぎない!?」

「大丈夫です、先輩。その場はドクターがベリルさんに鉄拳制裁を行って丸く収まりましたから」

「拳を持ち出した時点で丸く収まってませんがねえ」

 

 ダンテはマシュに聞こえるか聞こえないか程度の声量で独りごちた。デミサーヴァントの聴覚はそんな小言もしっかり捉えていたが、あえて無視する。

 マシュは盾を構え、上体をやや前のめりにして柔らかくなった地面を踏みしめる。今にも走り出しそうな体勢だった。

 

「とにかく、このもやもやはいきなり指を折られたことに対する怒りであると気付きました! ハンムラビ法典には〝目には目を〟とありますが、わたしの場合は指には指───人理修復を果たした暁にはあの人の指をへし折ってみせます! それが私が戦う理由のひとつです!! さあ行きますよ、突撃ィィィ!!!」

「アホかァーッ!!」

 

 その左足が泥を蹴ろうとしたその時、ジャンヌの旗の穂先がマシュの脳天に振り落とされた。彼女の体は顔面から地面を滑り、岸に打ち上げられた魚みたいに痙攣する。

 開戦前にほぼ死に体と化したマシュに追い打ちをかけるように、ジャンヌは肩を怒らせて怒号を飛ばす。

 

「そんな話で士気が上がる訳ないでしょうが!!? もっとマシな理由を持ってきなさいよ!!」

「は……走り出すその理由がたとえどんなにくだらなくても……」

「くだらなすぎるわっ!!」

 

 立香は自らの契約サーヴァントたちによるコントを眺めて、

 

「いつにも増してジャンヌのツッコミが走ってますね、リーダー」

「正反対だからこそ高め合う時もある。メドローア然り悟空とベジータ然りな」

「高め合ってるというより殺し合ってるようにしか見えないんですけど」

 

 そうしていると、土方と武蔵が撃沈したマシュの横を通り抜けて突撃する。既にその手には刀が握られており、殺気を波立たせていた。

 

「これ以上お前らのおふざけに付き合ってられるか! 四の五の言わずに突っ込めェ!! 遅れたやつは沖田が後ろから刺すぞ!!」

「ヒィィィィィ!!」

 

 瞬間、脱兎の如く駆け出したのはダンテ・アリギエーリだった。敏捷Eランクといえど、地獄を生き延びた逃げ足は伊達ではない。仮に逃げ足のスキルがあるとしたら、ダンテのそれはBランクに匹敵するだろう。

 しかし、その能力を以ってしても単純な走力の差は如何ともし難い。誰よりも早く走り出した彼の横には数秒後既にノアたちが並んでいた。

 陸上選手の動き出しが古代より洗練されているとしても、アキレウスより速くゴールテープを切るのは不可能だ。ダンテはその逆。徐々に遅れ始めた背中を沖田が人差し指がちょいちょいと突く。

 

「ほらほら、もっと死ぬ気で走らないと沖田さんの三段突きが炸裂しますよ?」

「イヤアアアアア!! ペレアスさん、私をおぶってください!」

「仕方ね」

「ペレアス様の背中は私専用ですわ。他の人にしてくださいまし」

「いまペレアスさんが何か言いかけてたのですが!?」

 

 いよいよ沖田の必殺技が炸裂しそうになる直前、茨木童子の腕がダンテを尻から抱え上げる。

 幼女鬼の肩にすっぽりと収まる形になったダンテ。成人男性ひとり分の重量を持ち上げてもなお、その速度は落ちるどころか伸び始めていた。鬼の膂力の賜物だ。

 ダンテは沖田の三段突きを免れてほっと息をつく。その安堵の様子は十字を切りかねない勢いだった。

 

「ありがとうございます茨木さん! 助かりました!」

「おう、弱い者は喰らうのが鬼の美学だが吾は総大将だからな! 慈悲の心で助けてやろうではないか!」

「絵面は情けないことになってますけどね」

「逆戸愚呂兄弟みたいになってんぞ」

 

 山間を駆け抜ける一行。スサノオは上空からその進撃を睥睨していた。緩やかに持ち上がる頬の上には冷たい光を湛える瞳が輝いている。

 ひとつの表情に混在するふたつの感情。荒御魂と和御魂を擁する神が故の二面性。なれど、黄泉軍の進行を見下ろす者はスサノオただ一柱だけではなかった。

 三人の東征軍。彼らの内のひとり、長大な刀を担いだ剣士はそれを抜き放つと、山肌を一直線に駆け降りる。

 単騎による特攻。強大な武力を有するサーヴァントのそれは捨鉢でもなく、殉死を望んだ突撃でもない。

 ましてや、その身に宿りしは刀剣の神・経津主。

 最上段から振り落とされる一刀。常ならぬ刃長の物干し竿をしても、敵との距離を埋めるには頼りなかったが─────

 

「『降神・経津主』」

 

 ────その斬撃は、天をも裂いた。

 空を覆う黒き天蓋に、大地に連なる山々に、等しく一条の轍が刻まれる。

 天御柱へと迫る黄泉軍、上空のスサノオをも両断せしめる剣閃。スサノオは咄嗟に天羽々斬によってそれを防いでいた。電撃のような衝撃が走る剣を手で押さえつけ、スサノオは顔面を引きつらせた。

 

「フツヌシの権能を人間が振るうとか、つくづくイカれた剣技じゃのう! 普通にビビるわ!」

 

 例えば、この世界が一枚の紙に描かれたモノだとして。

 フツヌシの斬撃はカッターで紙そのものを切り取るような力だ。対象の硬度は関係ない。通常の手段では対抗することすらできないだろう。

 並び立つことが叶うのは、フツヌシの権能を上回るか、それに対抗する概念のみ。そして、それを成せたのはスサノオの剣と、

 

「『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』……ッ!!」

 

 絢爛なるキャメロットの正門、ただふたつ。

 乱れる雨足に紛れる足音。武蔵は一層強く剣柄を握り固め、誰よりも前に躍り出る。

 暗き虚空に閃く白刃。武蔵は己が二刀をもってそれを弾き返す。

 宮本武蔵の魔眼、天眼が林間の闇を睨む。最初に瞬く雷光を照り返す刃が、次にその全身が暗澹に浮かび上がる。

 佐々木小次郎。その出現を認め、武蔵は視線を固定したまま告げた。

 

「この男とは私がサシでやるわ! みんなは先に行って!」

 

 場に張り詰める緊張感。

 その裏側にはいくつかの疑念。

 攻めの手を遅らせる理由はこちらにはない。相手が単騎ならば、総員で当たれば負けることはありえない。加えて、前回の戦いでは沖田と彼女の二人をしても、相手を仕留めるには至らなかった。

 これは理屈で考えれば跳ね除けるべき申し出だ。

 しかし、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘を知らぬ者はいない。たとえ偽りの名前を背負わされた者と、異世界の剣士という歪さはあれど───無論、ノアたちには知る由もないことだが───そこに意味を見出さぬ訳にはいかなかった。

 ノアは雨で濡れた前髪を掻きあげる。

 

「最低条件は相討ちだ。絶対にそいつを俺たちの元に来させるな」

「ふ、完全無欠の大勝利を挙げちゃっても良いんでしょう?」

「死亡フラグ乙、と言いたいところじゃが。まあ悪くはないのう。少ない戦力での相手の足止めは戦の理想じゃ。安心して散るとよい」

「ちょっと! なんで死ぬ前提!?」

 

 と言いつつも、彼女は一秒たりとも敵から視線を外してはいなかった。

 黄泉軍の敵たる佐々木小次郎に動く気配はない。彼もまた、運命の名を持つ相手との死合を望んでいる。

 Eチームが彼らの横を通り抜ける去り際、

 

「そうだ、Eチームのみんなに伝言! 〝コフィンの中に凍結されているマスターたちの状態を調べ直すといい〟───ホームズはそう言ってたわ!」

 

 立香は振り返り、手を振りながら声を張り上げた。

 

「武蔵さん、死なないでくださいね!」

「ええ、もちろんよ! みんな、また会いましょう!」

「はい、約束です!」

 

 そうして、脇目も振らずに山を駆け上がる。ノアは通信機の向こう側にいるロマンへ語りかけた。

 

「……聞いたな、ロマン」

「『ああ、コフィンの状態は定期的に見ているはずだけど……ムニエルくん、もうすぐ休憩なのに悪いが今から頼んだ!』」

「『特別手当とか出ますよね!?』」

「『それは人理修復後に申請してくれ!!』」

「『俺の休み時間がァァァァ!!!』」

 

 通信機を介してムニエルの悲痛な叫び声が山中に響く。

 その音が遠ざかり、聞こえなくなった頃に二人の剣士は下げていた構えを平時のそれに戻した。

 もはやこの死合を妨げるものは存在しない。

 佐々木は背に担いでいた鞘を地面に打ち捨てる。

 

「……小次郎敗れたり! とでも言えばいいのかしら」

「鞘を擲つは合戦の作法であろう? なればこそ、私はそれに則ったまでのこと」

「なるほど、その心意気嫌いじゃありません! 神様の力でも何でも使ってかかってきなさい!」

「お前との立ち合いでアレは使わぬよ。純粋に、己が剣技のみで死合おうではないか」

 

 遠雷が轟く。

 降る雨の粒ひとつひとつが捉えられるまでに感覚が研ぎ澄まされる。

 まるで時が遅滞したかのような境地に足を踏み入れた瞬間、両者はどちらともなく動き出した。

 交わる剣閃。

 暗色に染まった世界を照らすのは無数に織り成される剣戟の火花。留まることなく加速する剣は一層絢爛に斬撃の花を咲き誇らせていく。

 鍛え上げた剣技に淀みはなく。

 互いが互いのみを敵として認識するこの殺し合いに、嘘も情もありはしない。

 けれども、両者の目的は異なっていた。

 宮本武蔵にとって眼前の男は自らの技を高みへと押し上げる土台であり。

 佐々木小次郎にとって眼前の女は自らの技が高みに届くことを証明する試し物。

 なのだとすれば、彼らの剣に嘘や情が介在しないのは当然の帰結であった。

 土台を踏みしめる。

 巻藁を斬り捨てる。

 そこに余計なモノが立ち入る隙はない。

 どこまでも強欲に、傲慢に、相手を我が剣技の糧とする。

 それだけが、両者の共通点だった。

 夜天の銀盤の端の如く、佐々木の剣が弧を描く。二刀の刃を重ねて受け止め、小太刀でもって絡め取ろうとするも、相手の剣身はするりと拘束を抜け出す。

 返しの太刀を打ち込むこと数度。突き、薙ぎ、払い、全てが物干し竿の表面を滑り逸らされる。

 まるで雲や霞を斬ったかのような手応え。超常の剣技をまざまざと見せつけられながらも、武蔵の顔色は何ひとつ変わらなかった。

 斬る。その他に考えるべきことなどないのだから。

 

(そのためならば、何も要らない)

 

 武蔵が斬り捨てるのは佐々木のみならず己自身。

 剣を振るう度に、心が削がれていく。

 刃を合わせる度に、心が打ち直されていく。

 個我の希薄化。物言わぬ木石のように、存在を一本の剣へと洗練する。

 この道こそが、佐々木を斬る───空位に到達する唯一の方法であると武蔵は確信していた。

 限りなく自我を希釈した先にあるのは自然との一体化。草や木、土と同じ精神に至ることができたならば、人の域に留まる剣は自然、世界そのものとなる。

 畢竟、世界と同化した剣に斬れぬモノなど何処にあろう。

 実現したソレは物質を構成する原子をも容易く断ち、宇宙の彼方に浮かぶ星すらもこの地より割ってみせるはずだ。

 一合ごとに鋭さを増していく剣戟の嵐。佐々木は飄々とそれらを払いつつ、小さく呟いていた。

 

「───こうか。否、違う。ならば」

 

 ああでもない、こうでもないと自問自答を繰り広げ、導き出した答えを検算するかのように剣を繰る。

 それは迷妄に取り憑かれた狂人のようにすら思えた。だが、仮にそう問うたとしても、彼は否定も肯定もしないだろう。

 己の正気を保証できるのは自分だけだ。

 ともすれば、人類皆誰もが狂っている。

 正気、狂気。そう評されるようではまだまだ目指す境地には程遠い。

 余人に理解されぬ位地を欲するのならば、言葉による形容を超えた先にそれはあるはずだ。

 だからこそ、佐々木は自身の迷いを口にする。この言の葉を紡ぐ糸が途切れた時に、自分は自分が望む場所に到達するのだと考えて。

 眼前の敵を斬る。

 二人が同じなのはそれだけだった。

 かたや自我を薄めることで高みを目指し。

 かたや己に問い続けることで高みを掴まんとする。

 鏡写しの剣。相容れぬ技。まるで正反対の存在はしかし、奇しくも同時に、両者の剣技の冴えは限界を踏破した。

 

「「───ここだ!」」

 

 振り落ちる二刀。

 跳ね上がる一刀。

 その交錯を制したのは、佐々木の側であった。

 

「ぐっ……!」

 

 武蔵は肩口を深く切り込まれ、思わずたたらを踏む。

 突破したはずの限界。なおも佐々木の剣は我が身の上を行った。

 限界を超えた、というのは夢幻だったのか。

 否。同時に限界を超えたとしても、あの男の剣技の方が高かった。それだけのこと。

 物干し竿の切っ先から鮮血が滴り落ちる。鮮やかな血は雫となって落ち、雨に洗い流されて地面に吸い込まれていった。

 

「宮本武蔵。お前は道を誤っている」

 

 聞き捨てならぬ宣告。希薄化していた心が揺り起こされ、熱い血潮が脳髄に沸き立つ。

 殺気に溢れた眼差しを柳の如くに受け流し、佐々木は漆黒の空を仰ぎ見た。

 

「喩えば、月を目指す男がいたとして。その男は何をする? 志を共にする同胞を募るか、月にも届く梯子を作るか、はたまた───いつか月の土を踏めると信じて飛び跳ね続けるか」

 

 血濡れた刃が武蔵を指し示す。

 

「武蔵よ。お前は月に向かって無為に跳躍を繰り返している。高みに至るにはこれしかないと、他の可能性に目を向けることすら考えずに」

 

 たとえ、どれほどの研鑽を積み重ねていたとしても。

 根本から間違えていれば、望む場所に辿り着くことなんてできはしない。

 そも、ヒトとは目標を設定し、適切な努力を積むことで種を発展させてきた。かの仏でさえも、無駄な修行は容赦なく排除した果てに悟りを得た。

 

「迷い続けた先にしか進化はない。───お前にまだ、無我の境地は早い」

 

 無我の境地。それは聞こえの良い言葉だろう。言い換えるならば他の思考を完全に排した極度の集中。しかし、それもまた間違った方向に向けていたのなら、間違った場所にしか辿り着くことはない。

 武蔵の剥き出しにした犬歯が唇に食い込み、突き刺さる。

 ───何たる失態。何たる愚かしさ。言葉による表現が届かぬ空位、無を目指す者が、言葉に囚われていたなんて。

 ばちん、と乾いた音が鳴る。武蔵は自分の両頬に打ち付けた手の指を数度開閉すると、気丈に微笑んだ。

 

「敵に塩を送ったみたいだけど、私は有り難くあなたを超えます。後悔するなら今のうちよ!」

「高きものほど手中に収めた時の高揚は筆舌に尽くし難い。それに、後悔先に立たずとも言うしな。未来のことなど誰にも分からぬよ」

「な、なんだか一本取られた気がするけど……まあいいわ! 次は私が決める番だから!!」

 

 地面を蹴り、二刀の剣士は躍りかかる。

 耳をつんざく刃鳴り。ぎしりと軋む衝撃が肩の痛みを揺り動かす。歯を食いしばり、振るう剣はにわかに激しくなっていく。

 迷い、乱れる己の心を表すかのように。

 どう踏み込めば間合いに入り込めるのか。

 どう剣を振るえばあの男を斬れるのか。

 だが、この男を斬ることは手段に過ぎない。自らが志す境地に至るための足掛けだ。故に、見据えるべきはその場所へ辿り着く方法。

 赤く濡れた剣先が鼻先を通り過ぎる。

 活路は前方にしかない。切り返しが来るより速く間合いの内側に入り、天眼が淡く煌めいた。

 未来測定の魔眼の一種。対象の切断に特化したその瞳は最善最適の未来を手繰り寄せる。

 頸部を狙い戻る一刀を左の小太刀で押さえつけ、右の太刀を振りかざした。

 飛び散る鮮血の粒が頬に点々と跡を残す。佐々木の左肩から右の胸元にかけて、一条の刃傷が走っていた。後方に跳ねる敵を、武蔵の体は思考を介さずに追いすがる。

 それは数多の戦闘経験が選択した一手。

 刹那、彼女は見た。

 それは突きのような構え。

 今まで無形の剣を振るっていた男が、初めて勢法らしき型を取っていた。

 全身の細胞が危険信号を発する。足を止めかけた瞬間、既にその技は発動していた。

 

「『秘剣・燕返し』」

 

 三重の斬撃が閃く。

 それは第二魔法の領域に手をかけた秘技。

 三つの斬撃が全く同時に襲い掛かる、多重次元屈折現象。平行世界から剣撃を呼び寄せる、何者も逃れ得ぬ剣戟の牢獄。翼を持たぬ人間に無限を体現する剣を躱す術はない。

 斜面を転がる人影。おびただしい量の血液を流し、武蔵は地に伏せていた。

 左腕の感覚がない───どころか、そのものが、ない。右足に切り込まれた傷は骨にまで達している。

 極めつけは、右眼。額から真っ直ぐ切り下げられ、視界の半分が消失していた。

 傷口から流れる血の温かみも冷たい雨に融かされる。残った右手が刀を握っているかすらも曖昧になる。全身が鉛の重石に包まれているかのように重い。

 無事な左眼の視界さえも暗闇に引きずり込まれたその時、武蔵の唇が弧を描いた。

 

「…………見えた」

 

 剣を杖に立ち上がる。

 左眼をも閉じ、光無き世界に我が身を堕とす。

 

「───見えたとは、何がかな」

「ヒミツ。正真正銘、次で決めるわ」

 

 佐々木は鼻を鳴らし、

 

「……ああ、見せてくれよ。お前の道を」

 

 その攻防は、たった三秒で決着を迎えた。

 宮本武蔵は漆黒に塗れた視界の中、ひたすらに敵へ向かって突き進み。

 佐々木小次郎は再度の秘剣で相手を仕留めるため、構えを取る。

 二天一流の勢法は二刀のみにあらず。

 勢法一刀之太刀。これを経て二刀の扱いに進む。

 武蔵は自身が編み出した最初の型に、一本の刀に全てを委ねた。

 視界に広がる無明の闇。

 遍く光が途絶えた世界にこそ、武蔵は無を見出した。

 仏教における四大元素。火水地風の色法より解き放たれた無窮の空。世界を構成する物質を認識できなくなった今こそ、無にして空の光景は広がっている。

 だったら、これを剣で表現することが。

 

「『秘剣・燕返し』!!」

 

 宮本武蔵が至りし究極の一────!!

 

「『六道五輪・倶利伽羅天象』!!!」

 

 それはこの世の始原にして中心、天元を斬り、あらゆる可能性をひとつの斬撃に収束させる宝具。

 故に、あらゆる可能性を多次元から引きずり出す燕返しを破り得る、ただひとつの技であった。

 その一刀は三重の剣を打ち破り。

 佐々木の霊核を袈裟に叩き斬った。

 

「───そうか。無限を否定し得るのは無のみ。私も未だ、道を歩み始めたに過ぎなかったか」

 

 無明に身を置く武蔵にとっては、手の

ひらに残る手応えだけが勝利の確信。直後、身体は限界を迎え、その感覚は消えていく。

 

「だが、この死合は引き分けにさせてもらう」

 

 心臓を貫く、冷たい鋼。

 胸元から血の塊がせり上がり、口の端から溢れる。

 武蔵は膝から崩れ落ち、水を含んだ地面に倒れる。全身を染め上げる死の予感は抗い難い。意識が暗い水底に引き込まれ、もがく力さえ持っていなかった。

 けれど、心は満足感に満たされていた。

 望み、焦がれた境地に辿り着くことができた。

 ただ、心残りはある。

 この特異点に来る前に戦っていた敵のこと。

 そして、立香と結んだ再会の約束を果たせぬこと。

 勝つためならば何でもするのが武蔵の流儀だが、義に卑しい人間になった訳ではない。自分がそうなってしまったことに一抹の悔しさを覚える。

 そんな感情すらも暗澹の底に呑まれる。眼前に広がる無の景色に自身の命すらもが溶けようとした今際の際で、声が響いた。

 

〝わた……妾の愛しき戦士、宮本武蔵よ。其方に死なれては困っちゃ……困ります。類稀な其方の武を失う訳にはいかない。故に、我が権能をもってその命を保証しよう〟

 

 全身に漲る活力。

 武蔵は苦々しい笑みを浮かべた。

 

〝そう、全世界に轟く我が名アテナ───じゃなくて、アト・エンナの誇りにかけて!!〟

 

 まあ、その名が全世界に轟いているかは別として。

 ───とりあえず、約束は果たせそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高千穂峰、中腹。

 佐々木小次郎を宮本武蔵に任せて山を駆け登っていた黄泉軍は現在、

 

「おわあああああああ!! 助けてくださいノアさん! 私のことも手放さないでください!!」

「享年五十六歳の良い年した男が引っ付いてくんじゃねえええええ!!」

 

 源頼光の雷撃によって、大いに足止めをくらっていた。

 当然だが、下から見上げるよりも上から見下ろす方が視界が広い。斜面の上方に陣取る武者からすれば、敵の位置は明白だ。

 ノアは腰にすがりついてくるダンテを引きずりながら、木陰へ跳ぶ。その直後、放たれた一本の矢が木をやすやすと貫いて頭上を通過する。

 その矢は勢い衰えることなく直進し、次々と森林を倒壊させていく。山間の闇に呑まれ視界から消失した後でも、木を砕く音は響いていた。

 ダンテの顔面を右の五指で圧搾しながら、ノアは舌打ちする。

 源頼光の砲撃は前にも見たことがある。如何に広範囲かつ高威力だろうと、これだけのサーヴァントが揃っていれば攻略するのは苦もなかっただろう。

 砕けた木の陰から斜面の上方を覗く。

 身の丈ほどの大弓を扱う武者、藤原秀郷。またの名を俵藤太。時の朝廷に反旗を翻した不死身の怪人を討伐し、龍神をも喰らう大百足を三本の矢のみで仕留めた逸話を持つ。

 

「藤原秀郷。この国の大英雄ってところか。ペレアスとは大違いだな」

「おい聞こえてんぞ!! 円卓の騎士ナメんな!!」

「番外位の分際で調子乗ってんじゃねえ! 本当は数字が欲しかったんだろ、言ってみろ!」

「ねえよ! ただちょっと番外じゃなくて第零席次とかにしてほしかっただけだ! なんかかっこいいだろ!!」

「このマスターにしてこのサーヴァントあり、ですわね」

 

 自身の悪評には閻魔大王くらい耳聡いペレアスの怒鳴り声が右斜め後ろから響く。ちらりとその方向に視線を送ると、湖の乙女にコアラみたいに抱きつかれているペレアスがいた。

 雷撃によって敵を散り散りにし、秀郷の矢が各個撃破する。ノアが契約しているペレアスとダンテはパスを辿ることで位置の把握が叶うが、それ以外はどこにいるかも分からない状況だ。

 

「……いや、もうひとりいたか」

 

 まばらに突撃をかけても相手の狙いが惑わされはしない。反攻に転じるなら同時にやるべきだ。

 そのために必要なことは少しでも多くの人数と合流すること。

 ノアは両腕に黄金の腕輪を投影すると、ダンテの服の襟を掴んで、

 

「ペレアス、ついてこい! ───投影、『金鉄の神猪(グリンブルスティ)』!!」

 

 液状化した黄金の腕輪は五階建てのビルに匹敵する体積に増加する。それらが形作るのは黄金色の大猪。必勝の剣を携えしフレイ神の乗騎、グリンブルスティであった。

 ブロックとエイトリというドヴェルグの兄弟がロキとの賭けに際して、ドラウプニル、ミョルニルとともに創造した神獣。原典の再現度はいざ知らず、ドヴェルグの血を引くノアがそれを投影することは容易い。

 金色の神猪が大地が揺れるほどの嘶きとともに突進する。それに合わせて、ノアとペレアスは走り出した。

 

「ほう! 黄金の猪とは、まったく豪奢という一言に尽きる! 仕留めたのならば末代まで自慢できるであろうな!!」

 

 瞬く間に発生した雷電が猪を打ち据え、その突進を停止させる。

 間髪入れずに飛来した一矢が眉間を貫き、低い嘶きをあげてグリンブルスティは黄金の腕輪としてノアの元へ還った。

 

「チッ! 動物愛護団体を敵に回したぞあいつら!!」

「特攻させたのはノアさんですけどねえ」

「むしろお前が訴えられろ」

「天才は法廷でも天才だ。フィリピンであらぬ疑いを掛けられた時は自分で弁護人やったからな」

 

 だが、グリンブルスティの尊い犠牲は無駄にはならなかった。元よりあれは時間稼ぎ、移動の隙さえ埋められれば良い。

 彼らが向かった先は、

 

「リーダー!」

 

 Eチーム三人娘のいる場所だった。

 さすがはシールダーと言ったところか、マシュが前衛を務めることで立香とジャンヌには傷ひとつない。開戦前の戯言が薄まる奮闘ぶりである。

 立香は自然とノアの袖を摘む。

 

「髪留めの魔力を辿ってきたんですよね。そうすると思って、攻めやすい位置を選んでおきました」

 

 立香の言う通り、そこから敵の位置までは比較的斜面も緩く、身を隠すための木や岩が残っていた。ノアは満足気な表情を取ると、手袋を嵌めたままの手で赤い髪を撫でつけた。

 

「よくやった。おまえも俺の小指の先くらいのマスター振りは身につけたようだな」

「……っ」

 

 整った髪型を崩す手つきに、顔の温度が上がる。この雨のせいか、大きな手のひらから伝わる暖かさはいつもより高く感じられる。

 しかし今は戦闘の真っ只中。自制を計ろうとして、頭の違和感に気付いた。

 

「…………なんか、湿っぽい感触があるんですけど」

「……ああ。手に泥がついてたからな。褒めるついでにハンカチ代わりに────」

「ふんっ!!!」

 

 立香はその体勢のまま、さながら宇宙に打ち上がるロケットの如く跳び上がる。

 バレー部の跳躍力を活かしたジャンプは見事、Eチームリーダーの下顎に頭頂を激突させることに成功する。ノアは背中から地面に倒れ込んだ。

 ジャンヌはニタリと口角を吊り上げる。

 

「ざまあないわね。……で、ここからどうするの? 全員仲良く突撃でもします? そこのなすびとダンテを盾にして」

「ジャンヌさん?」

「それか、私とペレアス様が宝具を使って突っ込むのもアリですわ。名付けて愛の暴走列」

「───いえ、わたしに冴えた案があります。それはもう、かの名軍師諸葛孔明と韓信も引っくり返るようなやつが」

 

 マシュは自信満々に言った。それを受けた一同は総じて微妙な顔になる。盾としての役割に文句の付け所はないが、言動に関しては今やマスター二人に並ぶ不安材料だ。

 ペレアスはギャラハッドの心情に思いを馳せながら、

 

「と、とりあえず、聞くだけ聞こうか」

「はい。つかぬことをお伺いしますが、皆さんは『はたらくじどうしゃ』という本を読んだことがありますか?」

「…………わ、私は一応あるけど。それとどんな関係が?」

「そう急ぐことはありません、先輩。わたしは特にブルドーザーが好きなのですが、そこで落雷の如きひらめきが舞い降りたのです」

 

 マシュは手招きすると、立香の耳元でそのひらめきとやらを述べた。

 立香は数秒考え込み、瞳をきらりと輝かせる。

 

「……案外いけるかもしれない!」

 

 一方、土方は岩陰で仰向けに寝そべって身を隠していた。その隣には沖田と信長が同じような姿勢で、互いを押し出そうと肘で小突きあっていた。

 空を駆け抜けていく電気の奔流を視界の隅で捉えつつ、長銃に弾丸を込める。

 

「相変わらず馬鹿げた火力だ。平安時代の日本はバケモノの巣窟か? 沖田、お前の縮地で突っ込んでこい」

「無理寄りの無理ですよ! あそこまで届きませんし、沖田さんは急には止まれないですから!」

「ほんっと使えんのう。ここに長可のやつがおったら真っ先に特攻しとったぞ」

「じゃああんたが行ってください大うつけ」

 

 げしっ、と沖田は信長を岩陰から蹴り転がす。

 ごろごろと回転し、遮蔽物も何もない場所でぴたりと止まる信長。第六天魔王は大いに表情を崩して叫んだ。

 

「……ええええええ!? なにしてくれとんじゃ沖田ァ!! あんな雷に焼かれたら本能寺炎上どころじゃないよ!? 信長灰も残らないよ!?」

「上手い感じに異世界とか現代に転移できんだろ」

「それ別の信長だから!!」

 

 慌てて戻ろうとする信長だったが、いつまで経っても攻撃が来ないことに気付く。

 ごごごごご、と地鳴りが起きる。

 不意に視線を傾けるとそこには、

 

「おらあああああああっ!!!」

 

 宝具を展開した状態で突っ走るマシュの姿があった。その後ろにはEチーム一行が追随している。

 雷撃と射撃の集中砲火を受け止め続けてもなお、その聖壁は揺るがない。

 その様はまさしくブルドーザー。どれほど攻撃を撃ち込んでも猛然と迫ってくる壁を前にして、藤原秀郷は初めて焦った顔をした。

 

「うおおおおっ!?」

 

 マシュの盾が敵を根こそぎ吹き飛ばす寸前、二人の武者は全力で背面へ跳躍する。

 突風じみた衝撃波が、木片混じりの土石流を引き起こす。頼光と秀郷は佩刀を振るい、難なくそれを切り分けた。

 返礼とばかりに、頼光の太刀が電流を迸らせる。あらゆる敵を焼き尽くす雷轟の一刀。しかしそれが放たれることはなく、既に距離を詰めていたペレアスの剣を防がされる。

 一瞬の後、ジャンヌは背で黒炎を爆発させ、旗の穂先をすれ違う形で秀郷に叩き込んだ。

 自身の火力を攻撃のみならず推進力として費やした一撃。両手に伝わる感触は肉や骨のそれではなく、硬い金属のものだった。

 

「……ま、これくらいで殺られるようならサーヴァントになんかなってないでしょうね。相手にとって不足はないわ」

「それは光栄だ。共に全身全霊をもって武を競い合おう。所詮仮初めの生、華々しく散るも散らすも我ら次第故な!」

「残念、仮初めの生とやらでも私にとっては本物なのよ───!!」

 

 波の如き炎が巻き起こる。

 それは一方的な殲滅が戦闘に姿を変えた瞬間だった。

 ダンテは戦闘の余波から逃れるため、そそくさとマシュの影に移動して、周囲に散った仲間たちに呼び掛ける。

 

「ここは私たちEチームが受け持ちます! 皆さんは天御柱に直行してください! あの柱さえ壊せば後はスサノオさんが何とかしてくれるので!」

 

 最も早く呼応したのは、茨木童子。なぜか清姫とともに地面の中からぼこりと顔と腕を出して土から抜け出す。

 

「あのアホに頼りっきりになるのは気に食わんが、仕方あるまい! 大江山愚連隊の一員として無様を晒すのは許さんぞダンテェ!!」

「清姫さんも気をつけてくださいませ〜っ! またコイバナ百物語に耽りましょう!」

「ええ、リースさんも。また西洋のお話を聞かせてほしいですわ」

 

 土方や天草も彼女らに続いて山頂へ向かう。

 ノアはヤドリギを一片抜き取り、土方へ放り投げた。彼はそれを視線も向けずに掴む。

 

「あの全裸陰陽師が大人しくしてるとは思えねえ。反魂の法で不死身になってようがそれをぶっ刺せばイチコロだ。取っとけ」

「……ああ、任されてやる」

「まさしく切り札、ですね」

 

 素っ気ない返答。土方は確かに神殺しのヤドリギを握り締め、脇目も振らずに駆けた。

 ノアもまたそれを見送りもせず、オティヌスより授かった王笏ゲンドゥルの杖を取る。

 その視線は雷火入り乱れる戦場へと。

 

「さて、これから言うことを頭に叩き込め。目標は最低でも完全勝利だ。行くぞ」

「要するにいつも通りですね!」

「わたしたちEチームは既に百戦錬磨ですから。それくらいの縛りプレイでないとヌルゲーすぎてあくびが出ます」

「私だけイージーモードという訳にはいきませんかねえ……」

 

 ダンテは最低難易度でもトントンなのではないか。立香はその言葉を飲み込んだ。

 間近に轟く雷鳴。地を走る電撃はもはや見慣れたものだが、今回に至ってはその規模が違う。

 武神建御雷の荒御魂に憑かれた頼光の一撃は威力だけを取るならば神域に指をかけている。

 さらには。

 

「ペレアス様っ!」

「分かってる!」

 

 頼光との剣戟の最中、ペレアスは剣を後ろ手に回す。すると、見計らったように飛んできた矢が剣身と衝突した。

 

「私と戦ってる時にペレアスを狙うなんて、ますます火力が上がりそうよ……!!」

「気に障ったか? 殺し合いにおいてそれは命取りだぞ。まずは一から学び直してくると良い。その程度の余裕は大人として持たねばな」

「………………ふっ。今ので完っ全にキレたわ!!」

 

 ヘリウムより沸点が低いジャンヌの炎が爆ぜる。

 ノアたちはそれを盾の裏側から眺めていた。ダンテは援護のための祝福の文字を両手で別々に綴り、小声で嘆いた。

 

「あ、あれはあれで絶好調なのでしょうか」

「好意的に解釈すれば、まあ……?」

「それで、私たちはどうします? リーダー」

「俺たちがやるのは完全勝利だ。まずはスサノオの望みを叶えてやる」

 

 ダンテは上を向いて記憶の糸を辿る。

 

「頼光さんとスサノオさんは少なからず繋がりがあるので、できれば正気に戻してあげたい……でしたか」

「源頼光の兄弟である丑御前は牛頭天王の化身とされています。スサノオさんと牛頭天王は同一視されることもありますが……」

 

 伝承では、鬼子として産まれた丑御前は兄である源頼光の手で討たれている。スサノオが執着を抱くならば、自分と同一視される牛頭天王の化身、丑御前であるのが妥当だ。

 

「これがややこしいことに、丑御前と源頼光は同一人物だったんじゃな。雷を操る力も分霊のせいではなく、元々備わってた性質じゃ。牛頭天王の源流はインドラ神だからのう。雷神という共通点でタケミカヅチの荒御魂はぴったりだったのじゃろう」

 

 いつの間にか現れたスサノオはそう言って飛び去っていった。

 マシュは飛び火してくる雷と矢を防ぎながら、目を細める。

 

「ちくわ大明神かのような登場でしたが……実際、あの人を正気に戻すことなどできるのでしょうか」

「人語話せない系のバーサーカーだったら難しいけど、中の神様をどうにかすればいけるかも?」

「立香の案しかない。『魔女の祖(アラディア)』を出せ。……少し、やる気が出てきた」

 

 丑御前と源頼光が同一人物だとするならば、その育ちが真っ当なものであったとは思えない。現代とは価値観の異なる平安時代、周囲から向けられる目は決して羨望や憧憬のみではなかっただろう。

 生まれに左右される運命。それが今となっては神の力に狂わされている。

 ───少なからず、同情はできる。

 立香は指示されるがままに『魔女の祖』を起動する。蓮の花に似た形状の鉄杖を抱える立香に、ノアはどこかあらぬ方向へ目線を投げつつ告げた。

 

「この前追加した機能を使う。準備しろ。───ペレアス! 死ぬ気でそいつを縫い止めろ! 地味な宝具も出し惜しみせずに使え!!」

「地味は余計だろうが!!」

 

 剣と剣がぶつかり合い、ペレアスと源頼光は後退る。少しでも間合いを空ければ雷の砲撃が飛んでくる。ペレアスは間断無く距離を詰め、横薙ぎに剣を振るう。

 相手は日の本きっての怪物殺し。剣技による応酬は千日手と化していた。

 立香は杖にカートリッジを挿す。

 それからともなく、馴染みのない言語による音色が辺りに響き渡る。

 その発生源は他でもない『魔女の祖』。そして、広がる音色は機械音声───ルーンを記述ではなく発声によって発動する、ガルドルという魔術形態であった。

 立香は顔を赤らめて、

 

「あ、『魔女の祖』の追加機能は発声を介した詠唱の実現! (まじな)い歌に代表されるように、音声言語による詠唱の効果は甚だ大きい! ちなみに機械音声の元になったのはダ・ヴィンチちゃんの美声である───!!」

「よし、良い解説だ。褒めてやる」

「うっ、やっぱり恥ずかしい……! でも、この術式なら!」

 

 杖の先に魔力が収束する。

 源頼光は深く斬り込む。ペレアスの防御が跳ね上がり、返す刀が首元に滑り込んだ。

 

「……『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』」

「───正気を失ってる分、演技には弱いみてえだな」

 

 刃は騎士の首をすり抜ける。ペレアスは伸び切った相手の腕を絡め取り、ノアの手元で令呪の赤い光が解き放たれた。

 

「そのまま押さえてろ、ペレアス」

 

 辺りに満ちる機械音声が途切れる。

 杖に集まる瑠璃色の光。ノアは己が手のゲンドゥルの杖を交差させた。

 十八の原初のルーンが円環を象る。

 その術式は、次の一声によって撃ち出された。

 

「「『大神刻印(matrix_odin)』!!」」

 

 全てのルーンを費やした奥義が頼光目掛けて飛翔する。

 武者は咄嗟にペレアスの体を振りかざすも、宝具を発動した彼に致命傷になり得る攻撃は通用しない。ルーンの一撃は騎士の体を通り抜け、標的の鳩尾に突き刺さった。

 かつて、オジマンディアスが変身した魔神柱アモン・ラーの炎を無効化したように。その攻撃は相手の能力を強制的に停止させる。

 それは確かに建御雷の分霊を撃ち抜いた。

 全身の力が失われ、地に伏せる。だが、その前に。上から見えない糸で繰られているかのように、五体は持ち直す。

 はらり、と垂れた前髪が両眼を覆う。

 

「…………そう。これは、そういうことなのですね」

 

 凛とした厳然たる声音。起き抜けのような語気ながらも、そこには清らかで澄み切ったものを感じさせた。

 

「ですが…………ええ、これは、困りましたね」

 

 急所を貫かれたというのに、彼女の口調は落ち着き払っていた。その瞬間にも秀郷との戦いを続けていたジャンヌは、敵の一刀を旗の柄で阻み、荒々しい息を吐いて叫ぶ。

 

「ちょっと! こんな時に悩まないでくれます!? 敵になるか味方になるか切腹するか選びなさい!! あと他の奴らは私を援護しろ!!」

「……だそうですが。確かにジャンヌさんの援護をした方が良さそうです」

「ダンテ、あいつの悩みを解消してやれ。そういうのは政治家の十八番だろ。とりあえずノアじゃ無理だからな」

「政治家の十八番は解消するのではなく解消した気にさせることですが……まあ、話すくらいならやりましょう」

 

 ペレアスに促され、ダンテは恐る恐る頼光に近付く。一応剣の間合いの外にはいるが、電撃を放たれた場合はなす術無く炭になる距離だ。

 

「一対多数だけど、これでも余裕ってやつは保ってられるのかしら!?」

「ふ、武士とは常に心に隙間を作っておかねばならぬ生き物だ! どんな状況に置かれてもそれが失われることなどありはせんよ!!」

 

 戦闘の光景を背に、ダンテは意を決して頼光に声をかける。

 

「あの、何かお困りですか」

外国(とつくに)の御方ですか。包み隠さずに言うなら、困っています。残りの時間をどう生きるべきか」

「どう生きる……何か考えがおありで?」

「人類史を滅する片棒を担いだことに罪悪感はあります。その反面、スサノオ様や貴方がたに部下を討たれた恨みがあることも否定できません。どちらに傾くべきか、分からないと言うべきでしょうか」

 

 人間の感情はそう単純なものではない。

 気持ちの矛盾なんてしょっちゅうあることで、自分でも自分の心が分からない時だって珍しくない。

 

「ならば、分からないままで良いのでは?」

「そんな、無責任ではいられません」

「そうですね、無責任かもしれません。ですが、心に渦巻く感情に名前をつけるのは良いことばかりではないでしょう。何かを見て、曖昧な気持ちを得たとしても、それに嫌悪や憎悪という名前をつけてしまえば画一的な見方しかできなくなる」

 

 それなら、いっそ。

 

「ただ、ありのままで。残された時間くらいは曖昧に思うがままに動いても、誰も文句は言わないでしょう」

「……その、ありのままでいたら、目も当てられない人間になりそうなものですが」

「はい。身近にそういう人がひとりいますね。世間一般的に言うならクズ……いえ、クズの部類でしょう」

「言い直す必要はどこに!?」

 

 頼光は思わず引いた。その二秒後、どこからともなく飛んできた魔力の弾がダンテの後頭部に直撃する。

 ぱったりと倒れたダンテを見て、彼女は微かに笑む。

 ───ありのまま。血に縛られ、名に縛られ続けた自分が、名も無き感情に身を委ねる。

 今は、それが悪くないことのように思えた。

 ばちり、と蒼い電流が白刃を走る。

 思考を脳以外のそれに任せ、無心で刀を振り抜いた。

 

「『牛王招雷・天網恢々』!!」

 

 漆黒の空を駆ける一条の雷光。

 流星の如き輝きは、高天原へそびえ立つ天御柱を穿った。

 なけなしの魔力を使い果たし、五体が霞のように薄れていく。透ける手を眺め、ぽつりと言の葉をこぼす。

 

「───悪辣な誰かの顔を歪ませることくらいは、できたでしょうか」

 

 ……一方その頃。

 無数の魔術が、コードキャストがたったひとりの男を狙う。合間を縫って奔る、斬撃と打撃。そして炎。そのどれもが、彼には掠りもしない。

 藤原秀郷。我が身に襲いかかる殺意のことごとくを察知し、一手の狂いなく捌き切る。

 苛立ちを通り越して凄いという感想が、それを超越する気味の悪さすら覚える身のこなし、武芸。耐え忍ぶだけに飽き足らず、矢を射ち返し、剣を薙ぐ。

 命の瀬戸際で秀郷は笑い、風切り音が鳴る。

 矢が空を切る。当然のようにマスターを狙ったそれを、マシュは盾を用いて弾いた。

 

「いっっったァ!?」

 

 跳ね返った矢がジャンヌの背に刺さる。

 それを目撃したマシュは即座に頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい! 今回はわざとじゃないです!」

「今回なんて言ってる時点で信用がないわ!」

「いや、わざとだ。あいつが跳ね返りを計算して射ちやがった! 躱した後も注意しろ!!」

 

 敵を取り囲み、殺到する攻撃の密度が一段と増していく。

 それでもなお、藤原秀郷は笑っていた。

 訳の分からぬままに召喚され、天からの命令を受けて戦ってきた。

 そこに信念はない。

 あるのは戦いの逸楽だけだ。

 だとするならば、自分はこの世界の敵なのだと気が付いた。

 なぜなら、あの男も笑っていたから。朝廷に反逆し、後の世では三大怨霊にも数えられた不死身の将。朝敵となった彼はその反乱が長くは続かないと知っていたはずなのに、戦場では誰よりも凄絶に、壮絶に笑っていた。

 悪を気取るにも作法というものがある。

 たとえば、弱者を助ける悪役なんて三流だ。自分よりも弱いと見たらとことん踏み躙るのが悪役の作法だろう。

 それに、生まれ持った性として。

 ───戦いになると、いつだって血が沸き立ってしまう。

 この質のおかげで、一流の悪役にはなれずとも二流程度には見えているだろうか。

 

「五人掛かりでも倒せないって……」

「……ラモラック以来か。だが」

「五人で駄目なら六人!」

「六人で駄目なら七人じゃあ!!」

 

 刹那、剣が閃き、銃弾の雨が降り注ぐ。

 秀郷は無理やり体を捻り、最小限の被害でその奇襲を潜り抜けた。

 今の今まで潜伏していた沖田と信長。後者は銃砲を響かせながら、高らかに笑い声をあげる。

 

「孫子曰く、兵は詭道なり! 奇襲は効いておるぞ、このままやれい!!」

「───ジャンヌ!!」

 

 立香は令呪を切る。三画分の膨大な魔力が一気に流れ込み、ジャンヌは溢れんばかりの力を解放した。

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 魔神柱をも一撃で葬り得る炎の嵐が顕現する。

 当然、それはサーヴァント一騎など優に焼き焦がす。なれど、秀郷はその命を保っていた。

 彼を長大な帯が繭状に包む。それは分霊建葉槌の権能。タケミカヅチやフツヌシでさえ討てなかった星の神を封印した力。その具現たる帯が、炎が触れるそばから吸い込んでいるのだ。

 これは我慢比べか───否、ひとりの騎士だけは炎の嵐を物ともせずに直進し、魔剣の真髄を開帳する。

 

「『運命絶す神滅の魔剣(ミストルティン・ミミングス)』」

 

 運命を断つ斬撃と、触れたもの皆封じ込める権能。

 それを制したのは、神殺しの魔剣であった。

 ばらり、と帯が崩れ、血が垣間見える。

 ペレアスが捉えた敵の最期の姿は矢を番え───────

 

「『八幡祈願・大妖射貫』」

 

 ────それを放つところであった。

 騎士の左腕が吹き飛ぶ。因果や運命を超える一撃。あの男は、最期にその絶技を実現してみせたのだ。

 黒炎の只中で、ペレアスは呟く。

 

「……戦ってる時以外のアンタは、どんな性格してたんだ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し時間を巻き戻して。

 高千穂峰、山頂。空を真っ二つに割るが如き天御柱の根本に、土方らはようやく到着する。

 後は宝具なり何なりを叩き込むだけ。坂を登りきったと同時に、一行は既視感に満ちた人影を発見した。

 土方は濃密な呆れの感情を顔面に集め、深い深いため息をつく。天草や茨木童子、清姫も似たような反応だ。

 

「まぁたテメェか、蘆屋道満」

「そろそろ賞味期限切れですよ?」

「意外性とか何もないですわね」

「一旦謹慎してきたらどうだ?」

 

 怒濤の言葉責め。道満はそれが全く聞こえていないかのように振る舞い、額に手を当てて辺りを見回す仕草をする。あまりにも嘯きすぎていて、もはや指摘する気力もなかった。

 

「おや、先日拙僧の股間にハルマゲドンを起こした小娘はおらぬようですなァ」

「できればそのまま死んで貰いたかったがな。今度は俺たちの手でそのタマ叩き割ってやろうか?」

「それか吾が引きちぎってやっても良いが」

 

 容赦のない言葉のトゲに刺され、道満は冷や汗を流す。

 

「ふ、ふふふふ───こ、これではどちらが世界の敵か分かりませぬな。しかし! ここに来た以上貴方たちは終わりです!!」

 

 暗天を突き抜ける哄笑。

 冷たい目にも負けずに、道満は言の葉を継ぐ。

 

「なぜならば!! この最後の地こそが東征軍の終わりにして新たなる始まり! 疑問には思いませんでしたかな? なぜ東征軍は最初から全力で攻めてこなかったのか、と!!」

 

 そこで、初めて土方の瞳が真剣味を帯びる。

 Eチームと大江山愚連隊と手を組んだ最初の京都での戦いから、東征軍は全軍で攻め込むことはせずに、戦力を小出しにしていた。

 仮にツヌグイや他のサーヴァントたちを最初の戦いに当てていたなら、勝算は遥かに高かったはずだ。

 結果、彼らは敗北を重ね、一度は戦闘不能にまで追い込んだスサノオを復活させてしまっている。

 

「───天津神が初めて地上支配に本腰を入れたのは何時か? オオクニヌシの国譲りか、はたまたこの東征か」

 

 否、と道満は否定する。

 

「それは太陽の女神の継嗣たる神が、三種の神器という王権の象徴を持って、地上に降りた時に違いないでしょう!!」

「だからどうしたのです? 話が繋がっていませんよ」

「ン! ンンンンン! これは失敬! つい興奮が抑えきれず、台本を飛ばしてしまいました! ───つまり」

 

 先程までの誇張とわざとらしさに塗れた笑みとは真逆の、静謐さすら纏う微笑み。

 

「本来、この東征とは一柱の神だけで十分だったのですよ。ンン、ンフフフフ!! わざわざ戦力を小分けにしたのも、神霊と英霊を倒させ、魂を燃料にソレを喚び出すため!! この天御柱は魔力を集約するモノでもあるのです!!」

 

 道満の両の袖から、滝のように呪符が溢れ出す。

 それは渦を描いて飛翔し、天御柱の周りを旋回する。茨木童子は泡を食って、首を左右に振った。

 

「ど、どういうことだ!? 何が起きるか教えよ清姫ェ!?」

「とにかく、何かろくでもない存在を召喚しようとしているみたいですわ!」

「その前に天御柱を破壊するしかありません!!」

「ンンンフフフフフフゥ!! たったの四人、足止めする程度は朝飯前……いえ、前日の夕飯前でございまする! 我が呪詛を受けよォ!!」

 

 そうして、道満が呪詛を撒き散らそうとした瞬間、目も眩む雷光が天御柱を撃ち抜いた。

 土方らはぽかんとした顔でそれを眺め、道満はぎこちない動きで振り向く。

 

「………………ンン!!?」

 

 目玉が飛び出すのではないかと思うほどに、彼は目を見開いた。天御柱が深く抉れ、赤熱した着弾面からもうもうと煙を噴き出している。

 土方は長銃を肩に担ぎながら、

 

「……で。お前の計画は潰れたらしいな。こっからどうすんだ」

「お前の計画は潰れた? フフフ、戯言を! こんなこともあろうかと、既に召喚式は発動しておりまする!! 多少の性能低下は仕方ないとして、ンンン……残り十五秒ほどでありましょうか」

「「「「────はあ!!?」」」」

 

 驚く側と驚かせる側が逆転する。

 茨木童子は鋭い犬歯を剥いて食いかかった。

 

「じ、じゃあなぜ足止めなどとほざいておったのだ!?」

「ノリです!」

「今さっき驚いていたのは!?」

「それもまた、ノリにございます!!」

「ふざけるなァァァァァ!!!」

 

 彼が宣言した十五秒が過ぎていく。

 その時、真っ黒な雲に閉ざされていた空が暖かな陽光とともに開けた。 

 

「さあ!! 刮目せよ!!」

 

 肌が粟立つ。

 息が詰まる。

 平衡感覚が乱される。

 彼らの視線は一様に天へ向けられた。

 穢れ無き真白の衣に身を包んだ男神。

 その右手には鉄剣が握られ。

 背後には鏡と、縄で括られた三つの勾玉。

 絶大な神威は大気を揺らし、大地を振動させる。

 人の力など及ぶべくもない天上の神。

 日嗣の神子にして王権の継承者。

 

「これぞ三種の神器を授かりし天津神、邇邇藝命(ニニギノミコト)!!」

 

 神の額には、その顔を覆い隠すように呪符が貼り付けられていた。

 

「───そして、この瞬間より、真の東征が始まるのだ!!!」

 

 陰陽師の宣言が荒天に響き渡る。

 召喚されたその神はただ、人形のように佇んでいた。



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第64話 ■■特異点・葦原中津国

「───そして、この瞬間より、真の東征が始まるのだ!!!」

 

 その神は顔面を呪符で遮られていた。

 首から下を包む白き衣。それこそは真床追衾(まとこおふすま)。日輪の継嗣たる神体を覆う聖衣であった。

 暴れ狂う雷雲を押し退け、足が地面を踏みしめる。

 周囲に実る黄金の稲穂。褪せた草木が色めき立ち、荒れた大地が金色に彩られていく。太陽の威光を示す豊穣神はただそこに在るだけで神力を露わにしていた。

 オオクニヌシより葦原中津国を譲り受けた太陽の女神とタカミムスヒは、地上を支配するに相応しき神として自らの子孫を遣わした。そして国津神の娘と契りを結び、天上と地上とを繋ぐ役割を担ったのである。

 アメノワカヒコが成せなかった天地の繋留。ニニギノミコトはその証たる三種の神宝を携え、再び葦原中津国への降臨を果たした。

 なれど、その手綱を握るのは怪人蘆屋道満。たとえ神であろうと契約を踏み倒すことはできない。あの陰陽師が自身に不利になる契約を結ぶはずがない───天草はその事実を認め、歯噛みする。

 

(……最悪だ。天御柱(アメノミハシラ)の魔力はニニギノミコトの召喚に費やされた。これではスサノオに後を託すことができない)

 

 元々の計画は高千穂峰の天御柱を手中に収め、その力を取り込んだスサノオが高天原の聖杯を得る。そのはずだった。

 だが、蘆屋道満はニニギノミコトの召喚に天御柱の魔力を使い果たした。東征軍の切り札を横取りした挙句、黄泉軍の望みをも絶つ。この土壇場で、作戦の変更を余儀なくされたのだ。

 

(しかし、第一に蘆屋道満とニニギノミコトを倒さなくては……)

 

 それがどれほど難しいかもまた、彼は理解していた。

 ニニギノミコトに武の逸話はない。葦原中津国を引き継いだが故に乱世を生きる力は必要なかったのか、それとも書物に残っていなかったのか。だとしても、その手にある剣はこの国の武力の象徴。

 

(『炎の剣』を使えば、あるいは────)

 

 その思考を遮るように、ニニギノミコトは動いた。右手の剣を振りかざし、道満の首筋に触れかけた途端にぴたりと刃が止まる。

 呪符に隔たれた眼差し。それが強烈な殺意を露呈させると、道満の口元が緩やかな弧を描いた。

 

「ニニギノミコト、貴方に拙僧は斬れませぬ。被召喚者が主を害することを許す約定があるとでも? ああ、もちろん自死もできませぬ。貴方はもはや我が従属下にあるのですから!!」

 

 その笑みは悪辣と愉悦に満ちていた。ニニギノミコトは剣を引き戻すと、深く嘆息する。呪符に覆い隠された瞳がゆっくりと伏せる。

 

「俺に、日ノ本の民を手にかけろと言うのか」

「いいえ。貴方の意思がどうであろうと、貴方は戦うしかないのです。なに、精々十数人殺せば事足りまする」

 

 道満は言った。

 ニニギノミコトを縛る契約はふたつ。東征軍としてこの地を統べる契約と、召喚者たる道満の契約。前者が果たされれば、魔術王が倒されようとこの国の歴史は消滅する。

 それは道満も望むところ。故に東征軍の契約を利用する形で自身が主導権を握った。未召喚の状態とはいえ、既に結ばれた契約を改変する技量は彼ならではのものに違いない。

 

「……ふむ、なるほど。つまり君は」

 

 神は敵と定められた者たちに向き直り、

 

「俺の手を借りなければ、彼らと戦うことすらできない臆病者なんだな」

 

 失望と軽蔑を込めた言葉。しかし道満は密やかに眉を歪め、

 

「ええ。陰陽師とは元より式神を下僕とし、遠方より人知れず呪い殺す者。こうして姿を現すこと自体、本来は三流以下の所業にございます」

「そうか。俺は君の企みが失敗に終わることを祈ろう」

 

 鉄剣が陽の光をそり返す。

 柄を握る手が軋みを立て、ニニギノミコトは告げた。

 

「───故に生きてくれ。我が子らよ」

 

 世界に溢れる鋭気。ひたりと冷たい刃が首筋に触れる感覚に怖気が立つ。かつてない死の予感に、英雄たちは急かされるように得物を構える。

 ニニギノミコト。その一挙一動を捉え損ねれば死ぬ。茨木童子は骨刀を手に叫んだ。

 

「刺し違えてでも倒す! 後詰めに頼るなどという考えは捨てろ!」

「とはいえ、死ぬ気はありませんが……!!」

 

 瞬間、血液が弾けた。

 茨木童子と清姫の体が崩れ落ちる。

 その傍らには、赤い左手と着物に包まれた左腕が転がっていた。

 無造作に振り下ろされた神剣。

 その斬撃に間合いの概念はなく。

 空を覆う雲、地平の果てまで続く山脈をも真っ二つに断ち切っていた。土方はそれらを一瞥すると、舌打ちして牙を剥いた。

 手当てを行う暇はない。そんな隙を見せれば、ニニギノミコトは即座に両断してくるだろう。

 

「上等じゃねえか……!! 天草、援護しろ!!」

 

 天草は頷き返し、両の手に合わせて八本の黒鍵を用意した。獣の爪の如く並んだ白刃が青白い光を灯し、一息に投擲する。

 宙を駆ける刀剣。それは標的への距離を埋め尽くす半ばで、全弾が砕け散った。それを成したのは道満が放った呪詛の波。彼は人差し指と中指の合間に新たな符を挟み、乾いた哄笑を轟かせた。

 

「ンンンンフフフフフ!! 拙僧の存在も忘れてもらっては困りますなァ!!」

「できることなら貴方の記憶は消したいところですが……」

「んなふざけた笑い方するやつは忘れられそうにねえな!」

 

 銃声が響く。自身の眉間に迫る弾丸を、ニニギノミコトは手中の剣によって打ち落とした。その剣撃の軌道に沿って、延長上に存在する物質のことごとくが切り崩される。

 無茶苦茶。そんな言葉が脳裏に浮かぶが、感傷に浸る余裕は土方にはなかった。

 斬撃が閃き、呪詛が舞う。張り詰めた緊張の糸は緩むことなく引き締まるばかり。それがぷつりと絶えた瞬間、この命はあっさりと終わりを迎える。

 絶え間ない攻撃の最中、天草の両腕に魔力の軌跡が走る。それは彼が生前に引き起こした数々の奇跡を再現する宝具。あらゆる魔術基盤に接続する、聖なる腕であった。

 だが、それはあくまであらゆる魔術の発動を可能とするに留まる。魔術の練度や威力は天草個人に委ねられているのだ。

 ニニギノミコトと蘆屋道満は付け焼き刃の魔術が通用する相手ではない。

 けれど。天草は既に見て、知っている。

 誰もが使えるようにと願いを込めた、人類最新の魔術を。

 

「───コードキャスト。『mistilteinn_ragnarøk』」

 

 その腕はあらゆる魔術基盤と接続し、あらゆる魔術の行使を叶える。ならば、ノアとダ・ヴィンチが創り出した術式を使えぬ道理はない。

 黄昏色の光条が群れをなして突撃する。

 光に触れたものを皆呑み込む破滅の落陽。道満の妨害のための魔術も突き抜けて、光は突き進む。それは神ですら逃れられぬ絶死の光線であった。

 

「『八咫鏡(やたのかがみ)』」

 

 ニニギノミコトの頭上に滞空していた鏡が発光する。

 磨かれた鏡面は強烈な光でただ白く染まるのみ。何も写すことなく輝くその威容はまるで、小さな太陽が降りてきたかのようだった。

 太陽の女神は言った。〝この鏡は私の御魂として、私を拝むのと同じように敬い奉りなさい〟と。すなわち、その鏡は太陽の女神の写し身であり分霊。天の威光を地上に知らしめる象徴だ。

 ニニギノミコトに迫る黄昏の光は全てが直前で水泡のように消え失せる。

 

「八咫鏡は常世の理を遮断する。そしてそれ自体が意思を持つ礼装、全ての攻撃に対して自動的に反応する。鬼道の類は通じないと思ってくれ」

「丁寧に説明をくださったところ申し訳ないのですが、そもそも解除することはできないのですか!?」

「すまない、そこの陰陽師の契約上無理だ。だが君たちなら俺を倒せると信じている。この国にいるなら俺の子も同然だからな。子を信じるのは当然だろう?」

「天然かこいつ───!?」

 

 思わず表情筋を引きつらせた土方。天草は姿勢を極限まで低く屈め、横薙ぎに振るわれた剣撃を躱す。

 

「神の理屈を私たちが理解しようとは思わぬことです。この場を決するのは言葉でなく力なのですから」

 

 魔術が通じないのなら、それ以外の手段を。

 天草と土方は同時に動いた。ニニギノミコトを挟むように投剣と銃撃が襲いかかる。天孫を守護する太陽神の鏡と蘆屋道満は迎撃することさえしなかった。

 銃弾が頸部を貫き、四肢を刃が刺す。が、その傷口から血液が流れ出すことはなかった。ニニギノミコトは肉に食い込んだ剣をひょいと抜いていく。

 瞬く間に傷は修復され、反撃の一刀が絨毯をめくるように大地をえぐり返す。

 

「フフフ、忘れましたかな? 八咫鏡は常世の理を遮断する! それ即ち、死を否定することに他なりませぬ!! この鏡がある限り、たとえ神殺しのヤドリギを受けようがニニギノミコトは死なぬのです!!」

「……どうして君が勝ち誇っているんだ?」

「イキれる内にイキっておくのが人間というもの! 貴方とて使っているのは女神より譲り受けた三種の神器ではないですか!!」

「む。それはそうだな。俺が間違っていた」

「やすやすと言いくるめられてんじゃねえ!!」

 

 土方が懐に隠した切り札を見抜くかのように、道満は言い放った。

 全ての神と不死を殺すヤドリギであろうと、その場から死の概念が失われているのなら、殺すという行為は無為と化す。

 あらゆる過程の末に存在する結果こそが死。

 殺す行為はあくまで過程であり、その結果に至ることがなければ死ぬことはない。

 要は、殺せても死なない───まるでとんちを聞かされた気分。土方はあくまでも冷静に、ニニギノミコトを倒す算段を立てる。

 何としてでも八咫鏡を破壊し、ヤドリギを突き刺す。神剣の斬撃と道満の呪術を掻い潜りながら。

 呪いの波濤が周囲を薙ぎ払う。天草は茨木童子と体を抱えて飛び、しかして同時に発生した神剣の一振りに肩口を裂かれる。

 その着地を狙い、飛来する呪符。土方はそれを切り払いつつ、彼らの元に駆け寄った。

 

「具合は?」

「問題ありません。それよりも」

 

 天草の両腕が淡く発光し、それぞれの手のひらをかざした。茨木童子と清姫の傷が補修されていく。彼女らとてサーヴァント、腕を失った程度で命を落とすほど脆くはない。

 彼は自身の怪我も治さずに告げる。

 

「私が鏡を壊します。その後に私は退去するでしょう。後は任せても?」

「援護はいるか」

「いえ、貴方はニニギノミコトを討つことに全力を賭けてください。心配は無用です」

 

 直後、斬風が巻き起こり、二人の間の空間を断ち割る。天草と土方は互いに目を配ることもなく、ただ己が役割を全うするために動いた。

 天草は自らの言葉を信じ、ニニギノミコトへと向かっていく土方の背を眺める。

 バチ、と空気を焼く紫電。蛇のようにうねる電流は、かつて飢え苦しむ人々を救った両の手より迸っていた。

 

「───主は我が弱きを知り給う」

 

 それは天に坐す全能の父へと捧げる、祈りの聖句。

 

「聖寵によらざれば何事も叶わざるが故に、必要に応じてこれを施し給え」

 

 両腕を這いずる稲妻が膨れ上がる。

 網膜を焼くが如き閃光。一帯を包み込む八咫鏡の陽光と鬩ぎ合い、なおも電撃は激しさを増していく。

 皮膚が焦げ、血の煙が立ち昇る。常人ならば死に至る激痛。天草は炭と化した両手を組み、眉ひとつ動かさずに聖句を紡いだ。

 

「主の戒め給う全ての悪を退け、命じ給う善を行い、御摂理によりて、我に与え給う数々の苦しみを甘んじて堪え忍ぶ力を授け給え」

 

 光が収束し、漆黒の手に現れるは一振りの剣。

 切っ先から柄までもが白き焔によって構成されたその剣は、太陽のそれにも劣らぬ莫大な熱を総身に湛えていた。

 それは、ヒトに有することはできぬ天使の剣。生命の樹に至る道を塞ぐ拒絶の法にして、天地の繋ぎを絶たんとする神理の具現。

 ニニギノミコトの後方に構えていた道満は、心臓に冷水を浴びせかけられるような戦慄を覚えた。

 

「……なんだ、それは───ッ!!?」

 

 理解が追いつかない。

 剣の形をした炎。これを成り立たせる術式の一端すら見えない。唯一分かるのは、アレは別の世界のモノであるということのみ。

 なぜ、あんなモノを天草が所有しているのか。浮かぶ疑問は消えることなく積み重なり、脳内を埋め尽くしていく。

 そんな、全ての惑いを嘲笑うかのように。

 その剣は、放たれた。

 

「───『炎環廻り来たる乖離の天雷(ラハト・ハヘレヴ・ハミトゥパヘヘット)』」

 

 剣のカタチが解け、炎雷が駆ける。

 螺旋を描く純白の光芒。

 放った本人の認知すらも及ばぬ光速。

 それ故。ニニギノミコトが、蘆屋道満が光を垣間見たその時既に。

 極小の太陽は、砕け散っていた。

 

「貴様……!!」

 

 道満はあらん限りの怒気を込めて、天草を睨みつける。

 交錯する視線。剣の顕現に持てる全ての魔力と魂を注ぎ込んだ天草は消滅の間際、ただ慈しむような目で、唇だけを動かした。

 

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 決して声にはならぬ言葉。なれど、その内容だけは閃く落雷の如く伝わった。ぎ、と両の口端が鉄線を引き絞るように吊り上がる。

 ニニギノミコトは呪符の下で微笑む。ほんの一瞬、彼は天草に視線を注ぎ、陰陽師の傀儡である御手に込める力を緩めた。

 天の陽光に照り映える神剣。鉄の柄が手中を滑り、人差し指にかかる。

 これでいい。この身は天上の恵みを地上に与える絡繰のようなもの。それが、人々を侵すことなどあってはならない。世界に英雄と認められた誇らしき我が子らに討たれるならば、これ以上の幸福はない。

 鉄剣の先が土を掠める。その時、 

 

「真面目にやれ、ニニギノミコト」

 

 飢えた虎狼の如き双眸。噛み殺すような圧力を抱えた言の葉が、心の臓腑を捉えた。

 

「人間の本気なんざ神様に取っちゃ屁でもねえだろうがな、俺たちは命懸けて戦ってんだ。そこの股間爆裂陰陽師に操られてようが知ったことか、お膳立てされて手に入れた勝利に価値はねえ!!」

 

 神は、我が身に剣を突き立てんと迫る男の顔を見る。

 距離は三十間。なおも牙を剥く人間の姿に眼差しを馳せ、ニニギノミコトは神剣の柄を握り込んだ。

 

「……すまない。俺は君たちを侮っていた。ここからは、本気だ」

 

 それを受けて、土方はさらに口の端を吊り上げる。

 神と人の殺し合い。挨拶代わりに吼える銃火は神の五体に直撃するも、その玉体にひとつの掠り傷も付けることはない。淡き光を宿した神体は弾丸が触れた瞬間に、それを融かしてしまった。

 彼我の間は未だに遠く。

 剣の刃長では擲ちでもしない限り届かない。

 だが、ニニギノミコトの手に在りしは神剣。自然の怒りたる八つ頭の怪物の裡より顕れた、星の剣だ。

 だからこそ、この剣に射程はない。

 世の万物の源流たる自然を体現し、接続する剣の間合いは地球全土に及ぶ。たとえ標的が地球の裏側にいようと、何もかもを切り裂いてみせるだろう。

 人類ひとりひとりに向けても余りあるその力を、ニニギノミコトはたったひとりの男に注いだ。

 咲き乱れる剣風。万物を微塵に断つ斬撃の渦の中を、人間は血液を振り乱しながらもその身ひとつで乗り越える。

 それは次撃においても同じ。斬撃という不可視の現象を潜り抜けていく。五体には無数の傷が刻まれるものの、致命傷だけは避けていた。

 数多の戦場を駆け抜けた経験の賜物。幾度の敗走を繰り返しながらも戦い抜いた生への執着、死への羨望。ニニギノミコトの殺気を読み、自身の間合いへと踏み込まんために直進を繰り返す。

 神の思考はどこまでも効率的に、理合のままに、詰みの一手を講じた。

 

「……『神剣・天叢雲剣』」

 

 その一刀は単純にして明快。

 万物万象一切合切を斬る。

 どのような怪物神魔であろうと、目に見えぬ概念でさえその刃は一刀のもとに斬り伏せる。

 故に。

 左肩から入り、右脇腹へと抜ける血の軌跡。

 神剣は例外なく、人間を両断してみせた。

 

「これは俺の勝利ではない。そこな呪術師の勝利でもなく、ましてや君の敗北でもない。我がもうひとりの祖、スサノオが得し神剣に頼るしかない俺の弱さ故の決着だ」

 

 淡々と紡がれる嘆き。

 崩れ落ちる人間の体。

 ニニギノミコトにとって、三種の神器とは他人の力に過ぎない。戦神として生を受けた訳でもなく、統治者として遣わされたこの身に搭載された戦闘機能は最低限のものだった。

 自らの本気ですらも、誰かに委ねられている。これは相手の全力を汚す行為に他ならない。生まれからそうあるべきと定められた神が溢した独白は果たして───────

 

「───やるじゃねえか、ニニギノミコト!!」

 

 ────人間の声によって、光を見た。

 初めに得た感情は驚愕。

 次いで滲んだ安堵を、即座に畏敬の念が塗り潰す。

 彼の体は確実に切断された。血と臓物を撒き散らして消滅するはずだった。だというのに、土方歳三はここにいる。生きている。

 

「お前は俺が最期に得た乗り越えるべき壁だ! そのお前が、シケた面してどうするってんだ!? ナメんなアホ!!」

「君は死んだはずだ。どうして戦える───!?」

「ハッ、んなこたぁ簡単だ! 子煩悩な親父にも分かりやすく教えてやる!」

 

 啖呵とともに、強烈な踏み込みが地面を砕く。

 

「それは俺が───『不滅の誠(しんせんぐみ)』だからだ!!!」

 

 奔る剣閃。

 空間を歪めるような刃鳴りが響き渡る。この地に天叢雲剣に優る剣はない。人の手によって鍛えられた得物など一撃で粉砕するはずの一合はしかし、欠片も落とさずに終わった。

 

「そうか、不滅。ヒトが持ち得る永遠の形! 俺は君たちがそれを持っていると知らなかったが故に斬れなかったのか───!!」

 

 不死ならぬ不滅。土方が体現するのが不死であったなら、天叢雲剣はそれを斬って滅してみせただろう。

 だが、彼の信念たる宝具は死という断絶を経てもけして陰らぬ不滅。

 たとえ己が滅びようとも、誠の旗はどこまでもいつまでも残る。彼が生きた跡は消えることはない。

 だから、ニニギノミコトと相対するその男は既に死んでいた。

 

「……ああ、俺は」

 

 遥か昔、地上の支配者となるべく遣わされたニニギノミコトはある国津神の娘、コノハナノサクヤヒメと心を交わし、子を成した。だが、彼の妻となるはずだった女神は他にも存在していた。それがイワナガヒメである。

 けれど、ニニギノミコトはその婚姻を断ってしまう。これに怒ったその国津神は〝イワナガヒメを嫁がせたのはニニギの子孫が岩のように永遠に生き永らえるよう願ってのことだ〟と説明した。

 つまりは『誓約(うけひ)』。〝ニニギノミコトがイワナガヒメを娶れば子孫は永遠の命を得る。そうでなければ子孫は限られた命を生きる〟────これが、葦原中津国における人の寿命の起源だった。

 この国は元々国津神のものだった。それは彼らの権勢を奪い、己がものとする天孫への復讐だったのか。だとしても、ひとりの女神を選んだことへの悔いはなく。

 ───けれど、俺はたったそれだけのために人から永遠を奪った。

 そう思っていた。

 なのに。

 

「君の中に、永遠を見た」

 

 人を救うはずの神が、人に救われるなんて。

 

「───ありがとう。君は、すごいやつだな」

「……礼を言うのは俺の方だ」

 

 サーヴァントとして召喚された自身はいつか消える幻。

 志半ばで終わった己が生に満足したとは言えない。それでも誇れるものがあるのだとすれば、それはきっと仲間たちとともに武士として生きたあの時間だ。

 誰にも穢されぬ思い出。誠の志を見せつける相手が自分たちの祖だというのなら、どこにも文句はない。仲間にだって胸を張れる戦いだろう。

 今度こそ、満ち足りた死に場所で。

 

「君は」

「お前は」

「「───この生における、俺の運命だ!!」」

 

 宝具を維持する魔力が潰えるまでの時間。

 十重二十重に剣戟がぶつかり合う。

 土方の宝具はどんな傷を受けようとも戦闘を続行し、溜め込んだダメージを相手に返す。

 彼の全身に走る傷。

 それは比類なき神剣によるもの。

 受けた攻撃を相手に返すというのなら。

 この時だけは、彼の剣は神剣と同等の力を発揮していた。

 だがしかし、得物が同等でも振るう者は神霊と英霊。性能には歴然とした差がある。そのうえ、後者は既に死に逝く身であり、じきに消滅を迎える存在。

 一際激しく刃が衝突する。半円を描く刀を下方より神剣が打ち上げ、胴をがら空きにされる。

 過たず、鉄の刀身が腹部に滑り込む。万物万象を斬る神剣に二度の見逃しはない。土方が体現する不滅という概念さえも断たれたならば、そこでこの戦いは終わってしまう。

 冷える背筋を、燃え盛る炎が照りつける。

 

「『大江山大炎起』!!」

「『転身火生三昧』!!」

 

 全身全霊の十連撃が神剣の一撃を凌ぎ、火炎の咆哮が神を押し流す。

 破砕する骨刀。丸腰の茨木童子に向かって、土方は怒号を飛ばした。

 

「お前ら……余計なことしてんじゃねえ!!」

「黙れ! 主役は吾だ! 人間なんぞに見せ場を奪われてたまるかあああああ!!」

「とんでもない俗物ですわ……!!」

 

 三者は同時にニニギノミコトへと殺到する。

 天孫に毀傷はなかった。体に纏う衣、真床追衾。玉体を守護する聖衣は灼熱の息から彼を守り抜いていたのだ。

 道満は敵の特攻を見下し、笑い飛ばす。

 

「くだらぬ! 敵が二人増えたところで、」

「『羅生門大怨起』!!」

「ぐゥゥ〜ッ!!?」

 

 茨木童子の宝具。生前に切断された右腕を飛ばし、道満の顔面を殴り倒す。ついでに清姫が尻尾を叩きつけて地面に埋め込むと、その腕は主の元に舞い戻った。

 茨木童子は即座に狙いをニニギノミコトへ定め直す。

 

「もういっちょ、『羅生門大怨起』!!」

「───『神剣・天叢雲剣』」

 

 飛来した腕ごと、斬撃が鬼を断ち割る。

 砕ける霊核。それでも彼女は笑って、

 

「吾らの勝ちだ」

 

 神器解放の隙。既に彼我の距離を埋め尽くしていた土方は、一息に掌中のヤドリギを突き刺した。

 神であるニニギノミコトに、ヤドリギが与える死から逃れる術はない。黄金の一矢が胸を刺し貫き、土方は膝から崩れ落ちる。

 ニニギノミコトは噴き出す血を庇うこともせず、金色の粒子となって吹き流されていく土方の体を受け止めた。

 ぱきん、と硬いものが割れる音が鳴り響く。

 蛇竜と化した清姫は音の発生源を捉える。ニニギノミコトの背後に浮かぶ三つの勾玉。その中のひとつが、割れ落ちていた。

 清姫の脳内に疑問が生じ、解決されようとしたその時。彼女を四方より取り囲んでいた呪符が爆散する。

 

「かっ、は───!?」

 

 巨大な蛇体が地に伏せる。その遠くでぼこりと土が盛り上がり、道満が這い出した。

 

「ク、フフフフフ……ええ、褒めて差し上げましょう。まさかニニギノミコトの弑逆を成し遂げてみせるとは」

 

 全身にこびりついた土を払い除けながら、くぐもった笑い声を朗々と響かせる陰陽師。彼は禍々しいまでの眼光を煌めかせて、

 

「しかしィ!! たかが一殺!! 天地の至宝たる三種の神器が、ニニギノミコトが、一度の死んだ程度で終わるとでもお思いですか!?」

 

 三種の神器、最後の一角───八尺瓊勾玉。鏡が太陽を、剣が星を象徴するとすれば、勾玉が表すのは月。南北朝時代の政治家、北畠親房は勾玉を指して〝柔和善順を徳とす。慈悲の本源也〟と述べている。

 慈悲の源たる勾玉。それは自らの破壊と引き換えに──────

 

「───その生命を、復活させる!! 貴方たちの戦いはすべて、無駄に終わったのだ!!」

 

 ニニギノミコトの致命傷が塞がる。

 神は手のひらに残った金色の残滓を握り締め、剣の切っ先を陰陽師の鼻頭に差し向けた。

 

「蘆屋道満。君を倒す」

「フッ、それこそ無駄なことでしょう。貴方との間に交わされた契約をお忘れですか? 神とて横紙破りは許されませぬ」

「ああ、そのことだが」

 

 ふぉん、と剣が空を斬る。

 道満の頬に一筋の赤い線が走る。血液が流れ出し、首筋を伝った。陰陽師は指先で切り傷をなぞると、絵の具を塗りたくったみたいに青褪めた。

 

「………………ン!!?!?」

 

 咄嗟に後方へ跳び、呪符を構える。

 これは召喚者に対して危害を加える禁忌に抵触している。その行動は制限されているうえ、無理やり契約を破れば相応の跳ね返りが来るはずだ。

 が、ニニギノミコトはただ居直るのみ。額から提げられた呪符を剥ぎ取り、その紅顔をさらけ出す。

 

「───なぜだ!? 何時契約が破られた!?」

「……あのヤドリギに貫かれた後だ。理屈は分からないが、異国の聖遺物のようだな。君が知らないのも納得できる」

 

 ニニギノミコトと蘆屋道満には知る由もない、神殺しのヤドリギの特性。第四特異点にてアンデルセンが語った、ヤドリギの真の意味。

 死を以って魂の穢れを祓う浄罪の矢。

 それは存在の変革を意味する。魔術王ですらこれを恐れ、フラウロスの復活を躊躇い、ノアの殺害を狙った。

 ニニギノミコトはヤドリギに貫かれることで存在の変革を辿り、契約の縛りから解き放たれた。両者が理解できたのはその結果だけだ。

 ニニギノミコトは必死に思考を巡らせる道満を尻目に、大地に萌芽する黄金の稲穂を一房摘み取る。

 彼の手中で籾は純白の神米へと変じ、空中を揺蕩って清姫の口内に入り込んだ。

 呪いに汚染された体が浄化され、傷ついた体も瞬時に治癒されていく。ニニギノミコトはそれを見届けると、陽射しの如き視線を陰陽師に傾ける。

 

「君の不死の法は神剣によって断たれた。それでも戦うか」

 

 道満の表情が歪みに塗れる。無数の感情を混濁した面持ちは次第に冷めていき、一転して軋むような笑顔を形作った。

 

「ええ、ええ。常人ならば地面に額を擦りつけて許しを乞う場面です。そうしたところで見逃してはくれぬのでしょう?」

「いや、心を入れ替えるなら許すぞ。君も俺とサクヤの子のひとりだからな。反抗期は誰にでもあることだ」

「…………し、しかし!! 拙僧は常人ならぬ怪人、蘆屋道満!! 相手が神であろうと下げる頭は持っておりませぬ! そして、ここで貴方を倒したなら、晴明を超えたも同義!!」

「晴明……安倍晴明か。君は彼を超えるために俺を従えていたのか」

 

 ニニギノミコトは考え込むような仕草をして、

 

「だが、俺を従え、俺に勝ったとしても安倍晴明には勝てないぞ」

 

 直後、場の空気が凍りつく。

 面を伏せる道満に、ニニギノミコトは続けて言った。

 

「晴明に勝つと言うのなら、俺ではなく彼と戦うべきだ。君自身、俺に勝ったからと言って満足するような性格ではないはず────」

「急急如律令!!」

 

 渾身の悪意を乗せた呪いが爆ぜる。

 ニニギノミコトは微動だにしない。体表を覆う光が触れたそばから呪いを浄化していく。

 どろり、と道満の唇から血が溢れ出す。

 呪詛返し。呪術は呪術によって防がれた場合、術者に跳ね返るという東洋呪術の絶対的なルール。ニニギノミコトは言の葉を紡ぐこともなく、因果応報を成し遂げてみせた。

 日輪の継嗣たるニニギに穢れである呪術は効かない。天照らす光の御子はその輝きによって、あらゆる呪詛を無効化する。

 この時点で、道満が得手とする呪術は封じられた。

 ───ならば、陰陽術で攻める。

 陰陽師の世界観では、万象は陰の金水と陽の火木、その中間の土の属性が絡み合い成立すると考えられている。

 ニニギノミコトの力をこれに当てはめるなら陽───火と木の属性。道満は二枚の呪符を揃え、その形態を変じさせた。

 一枚は鋭く尖った金属の刃に。

 もう一枚は巨大な水の塊に。

 相剋。陰陽五行説において火は水に弱く、木は金に弱い。ニニギノミコトの権能に対する弱点となる武器を道満は揃えた。

 さらにもう二枚の呪符。それぞれは黄と白の魔力を宿していた。黄の札を金属の刃に、白の札を水の塊に捧げると、それらは爆発的な勢いで勢力を増していった。

 相生。土属性は金属性を、金属性は水属性を強化する。

 相剋の魔術を相生によって高める。道満は術式の完成と同時に、それを撃ち出した。

 

「……くっ」

 

 その嗚咽は小さく。

 道満が見たのは微塵に斬られた金属の破片と、敵の周囲だけを砕き、地面に染み込む水の姿だった。

 ニニギノミコトは血混じりの唾を吐き出し、

 

「良い魔術だ。陰陽術において君に勝る術師はそれこそ安倍晴明くらいだろう」

 

 道満は奥歯が軋む音を聞いた。

 激情に染まる脳は流れるように次手を模索する。

 今の攻撃を続行する───同じ手を打ち続ければ対応される。相手には神剣があり、こちらは不死の法を失った。長期戦に望みはない。

 式神を行使する───ニニギノミコトほどの神に対抗できる手駒はいない。壁を並べ立てたところで両断されるのがオチだ。

 逃げる───それこそ有り得ない。この土壇場で逃げたとしても、Eチームが聖杯を手に入れるのを指を咥えて見ていることしかできない。残る最後の特異点に移動するという手段も、座標が不明なために不可能。

 

(……これは、詰みましたねぇ)

 

 八方塞がりとはまさにこのこと。

 自分が有する術式の中に、ニニギノミコトに勝てるものは存在しない。

 くすくす、と頭の中で女の声が響く。

 

〝自分の魔術では勝てないのだろう? 後は簡単じゃないか。少し、手伝いをしてやるよ〟

 

 知恵の女神ソフィア。その言葉を聞き、道満は気付いた。

 自分の術では勝てない。

 それなら、他人の術は?

 

「…………ふ」

 

 そう、気付いた。

 気付いてしまった。

 想起するのは、ソフィアの言葉。

 

〝世の理を侵したろくでなしに、ろくな未来が与えられると思うなよ〟

 

 あの女は。

 

〝───未来を見るのは、もうやめたんだ〟

 

 あの女は─────!!!

 

「巫山戯るな知恵の女神ィィィッ!! そうか、これが貴様の狙いか!! この儂が辿り着く未来、貴様の目には見えていたな!? おのれ、謀りおって……許さぬ、決して許さぬぞソフィアァァァァァ!!!」

 

 天を突く怒号。道満は恥も外聞もなく涙を流し、その視線で刺し殺さんばかりに空を睨みつける。

 ニニギノミコトはおろおろとして、

 

「ど、どうした。頭でも打ったのか。分かった、君のことは許」

「黙れ黙れ黙れェ!! 貴様の同情に価値はない!! ソソソソソ……」

「そ、ソソソソソ……?」

 

 涙に入り交じる朱。それは徐々に色濃くなり、真っ赤な血の涙となった。

 ───かくして、ろくでなしはろくでもない未来に辿り着く。

 道満は投げ捨てるように、十二枚の札を自身の周囲に配置する。

 

「元柱固具、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神!!」

 

 現存最後の陰陽術書『占事略決』。

 日本の陰陽術は大陸から伝来した式占術に由来する。式占術の中でも特に太乙神数、奇門遁甲、六壬神課は三式と呼ばれて広く地位を獲得していた。

 その書に記されたのは六壬神課の秘奥。

 

「害気を攘払し、四柱神を鎮護し、五神開衢、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具!!」

 

 六壬神課の秘奥とは十二の方角それぞれに対応する式神の使役法。

 占事略決は後世の陰陽師たちの教本となり、いつしか陰陽術の規範となっていった。

 十二柱の式神は十二天将と称されたが、果たして、全ての陰陽術がそれを扱えたのかは定かではない。

 なぜなら、十二天将を従えたのは──────

 

「安鎮を得んことを、慎みて五陽霊神に願い奉る────!!」

 

 ────安倍晴明。蘆屋道満がかつて敗北を繰り返した、平安最強最高の陰陽師なのである。

 

「『六壬神課・十二天将』!!!」

 

 あの男の書は一字一句覚えるほどに読み尽くした。

 晴明を超える。

 晴明に勝つ。

 それさえ成すことができたなら、他に望みはない。

 けれど、己の何もかもを擲っても望みが叶うことはなかった。

 ニニギノミコトが言ったことは道理だ。彼に勝ったからといって、それが晴明に勝ったことにはならない。この戦いに何ら意味はなく、自己満足にすらならない。

 なのに。そうだとしても。

 負けたくない。それだけが、今の道満を突き動かす理由だった。

 奴に勝つためには、他の誰にも負けてはならない。誰かに負けることを受け容れる自分なんて否定してもしきれない。

 醜くとも足掻く。結局、それしか芸のない人間だから。

 そうして、舞い降りるのは安倍晴明の式神十二天将。騰蛇、朱雀、六合、勾陳、青龍、貴人、天后、太陰、玄武、太裳、白虎、天空。無類の式神を従え、道満は哮り立つ。

 

「覚悟せよ、ニニギノミコト! 必ず貴様を打ち倒し、我が式としてくれようぞ!!」

 

 今まで道満を心配するように見つめていたニニギノミコト。その宣言を受け、瞳に鋭い光を宿す。

 立つ刀身は十二天将への警戒の表れか。ニニギノミコトは道満の動きを待たず、神剣を振るった。

 空間に発生する斬撃。十二天将を掻い潜り、術者を狙った一撃に狂いはなく。

 されど、それは道満に掠り傷すら与えられなかった。

 

「……!」

 

 ニニギノミコトは目を剥く。絶対的な信頼を置く神剣が通じなかったのだから当然だ。

 十二方位を余さず守護する十二天将。彼らが形成する陣はそれ自体が完成した防壁。完成しているが故に何者も入り込む隙はなく、傷つくこともない。その内に在る術者もまた、その加護を受けているために如何なる攻撃にも侵されない。

 十二天将による全周絶対防御。怨敵の、しかも知恵の女神の手助けを借りて成立した安倍晴明究極の術式。道満は一層激しく血涙を垂れ流し、

 

「ソソソソソソ!! これぞ十二天将! 我が手で奴の術を穢すと思えばこれも悪くはありませぬなァ!!!」

「……本心を言ってもいいんだぞ?」

「侮るなニニギノミコト! 貴様なぞに我が心根を探られてたまるものかァァァ!!」

「そ、そうか。今の君は見ていられないな。前にも増して」

 

 剣戟と閃光が激突する。

 無数の刃が閃き、十二天将の権能が地を席巻する。神話にも語られぬ戦は他の何者をも寄せつけぬ威容を以って広がっていく。

 単純に数えて道満の手数は十三倍。ニニギノミコトを遥かに上回る手数で攻め立て、神霊の玉体に次々と血を流させる。

 彼を召喚した者として、その性能は把握している。十二天将を得たいま、道満は人の身にして優位を確保していた。

 だが、十二天将の防御にはシステム的な陥穽がある。

 全周囲を守護された術師は確かに無敵だ。しかし、十二天将の一体一体は違う。仮に十二天将の朱雀が消滅すれば、南方の防御は失われるのだ。

 ニニギノミコトはその結論に至るとともに、十二天将にして四神の一柱たる玄武に斬撃を重ねていく。

 

(高覧せよ、知恵の女神。我が敗北の未来を)

 

 血飛沫をあげて息絶える玄武。

 北方守護の天将が欠け、ニニギノミコトは目にも留まらぬ速度で失した方角に回り込む。

 

(貴女は所詮、余計な野次を飛ばし、見ているだけ。その目に映る未来もまた同じ。自らが見た未来と変わらぬ結果にならなければ安心できない異常者でありましょう)

 

 教えてやろう。

 神に愛された者でなくとも。

 未来は、運命は変えられるのだと。

 ───冷たい刃が空を駆ける。その時、勝敗は決まっていた。

 

(……茨の王冠を戴いた男に望んだ未来を捻じ曲げられたが故に)

 

 ニニギノミコトが十二天将だけを狙うことは分かっていた。晴明の本を隅々まで覚え尽くしたがために、その弱点もとうの昔に把握していた。

 だから、あえてそうさせた。

 玄武、北の護りが欠けたということは。

 敵は必ずそこに来る────!!

 

「「終わりだ!!」」

 

 必殺を期した一撃が交わる。

 神剣の斬撃と、玄武以外による総攻撃。

 それは奇しくも同時に命中し、道満は下卑た笑みを浮かべて天への哄笑を轟かせた。

 

「ンンンンン! 見るがいい、ソフィア!! これは敗北ではなく引き分けだ!!」

 

 命のストックである勾玉が砕ける。

 ニニギノミコトは陰陽師の顔を見据えて、呟いた。

 

「……見事だ、蘆屋道満」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Eチーム。そして沖田と信長は息を荒げながら高千穂峰山頂を目前にする。

 激闘の余波で山の地形は大きく変わっていた。山を登る途中で続発した土砂崩れのせいで、彼らは泥まみれになっていた。上空で趨勢を見守っていたスサノオもいないことから、何か異常事態が発生したことは間違いない。

 ノアはすっかり体力を使い果たしたダンテの首を腕で挟んで運びながら、

 

「おまえら、準備はいいな。気合入れろ。どんな敵がいようが俺が俺な時点で勝ちは決まってるがな」

「リーダー、ダンテさんの首がいい感じにキマってます」

「そもそも俺の才能は青天井だ。進化の速さもタケノコ以上だしな。新しく考えた魔術で敵の顔を土気色にしてやる」

「リーダー、ダンテさんの顔が土気色になってきました」

 

 立香はダンテの足を抱えると、一息に引き抜いた。沖田と信長はそんな光景を冷めた目で眺めていた。

 

「なーにこんな時にイチャついとんじゃ、あいつら。サルとか家康とか戦場に女連れ込んでたけど」

「近藤さんもめちゃくちゃ愛人いましたからね」

「あの、話の方向がズレまくっているのですが。わたしは正体不明のムカつきが心を揺らしています。ペレアスさん、これはそういうことですね?」

「マシュちゃん、そこから先は地獄だぞ」

「『説得力がすごい……』」

 

 ペレアスは虚ろな目をするマシュを励ますように言った。つい数秒前まで撃沈していたダンテは咳き込みながら立ち上がる。

 

「しかし、これほどの被害をもたらす敵です。是非油断しないように戦いましょう。私は後ろから応援してるので」

「……ケツに火ぃつけたらアンタでも前に出るのかしら」

「ジャンヌさん、私の臀部に視線を向けるのはやめてください!」

 

 せっかく助けた相手が焼かれるのは心が引ける。立香は両手を打ち鳴らして、アホ共の注意を引きつける。

 

「と、とにかく! これで終わりと思ったらやる気も出るってものですよね! 頂上に上がったらみんなで宝具ぶっぱするのはどうですか!?」

「悪くないわね。肩慣らしも済んでることですし」

「敵の意表を突くのが戦に勝つ鉄則じゃからな。桶狭間とか!!」

「あと本能寺とか?」

 

 剣豪沖田総司による鋭すぎる一言が信長の背中を刺す。

 いざ最終戦。長く苦しい戦いもこれで終わりを迎える。帰ってシャワーを浴びることしか考えていないEチーム一行が意気揚々と山頂に突撃すると、

 

 

 

 

「そしたら、安珍さまはなぜか逃げ出してしまいまして」

「むう。それは酷いな、気の毒だ」

「いや、竜に追い掛けられたら誰でも逃げるよね。終いには鐘の中で焼かれてるからね、安珍くん」

 

 

 

 

 竜状態の清姫と天然風味な見知らぬ神霊、そしてスサノオが山盛りの白米を取り囲んで談笑に耽っていた。

 スサノオはEチーム以下一同に気付くと、満面の笑みで手を振る。

 

「おう、よく来たのう! 腹が減ったじゃろ、米ならあるぞう! ニニギ印の米は高天原でも評ば───」

「何やってんだァァァ!!」

 

 瞬間、ノアの飛び蹴りがスサノオの顔面に突き刺さった。彼は続けてその胸ぐらを掴み上げて、

 

「オイオイオイ、俺たちがどんだけの激闘を乗り越えてきたと思ってんだ。おまえのニートっぷりも遂に頂点に達したみてえだな。つーか米だけってふざけてんのかァァ!!!」

「一番怒るとこそこ!? なんだかんだ決着はついたんじゃ、最後の仕事をする前に語らいたい儂の気持ちも考えろ!!」

「戦いに赴く前の者との会話は大切だぞ。スサノオの好意を無駄にしてはいけない」

「いや、誰だおまえ」

 

 問われ、天然風な神霊は答える。

 

「ニニギノミコトだ。君とは何だか近しい雰囲気を感じるな」

 

 一同を代表して、立香は叫んだ。

 

「どこがですか!?」

「『ニニギノミコトとバルドルはどちらも王位の後継者だったからね。近いと言えば近いかもしれない』」

「そっちは俺の本当の名前じゃないがな。こんなとぼけたやつと一緒にすんな」

「む、それは失礼した」

 

 そう言って頭を下げようとするのを、ペレアスは手を振って止めた。

 

「謝るな謝るな! こんな邪悪の化身に!」

「それで言ったらおまえは地味の化身だけどな」

「じゃあ私はペレアス様のお嫁さんの化身ですわ」

「全員アホの化身ね。最後に至っては本体だし」

 

 ジャンヌはぼそりと独りごちる。

 その横で、マシュは天御柱とスサノオを交互に見て首を傾げた。天御柱から魔力は失われているのに、スサノオが変わっている様子はない。

 

「……作戦では天御柱の魔力を使って、強くなったスサノオさんが高天原まで聖杯を取りに行くのですよね。気配は今までと変わっていないように見えるのですが」

「天御柱の魔力は蘆屋道満が俺を召喚するために使ってしまった。彼に代わって俺が謝ろう」

 

 ノアたちは一斉に顔を見合わせる。彼らの脳みそは全く同じ文句を浮かべていた。

 ───またあいつか。

 もはや叫ぶ気力もなかった。気が遠くなるほど真っ青な空を眺めると、どことなく高笑いする陰陽師の幻覚が映り込んでくる。

 立香は左右に頭を振って、なんとかその幻覚から逃れた。

 

「それじゃあ、スサノオ&ニニギノミコトのドリームタッグで聖杯を……?」

「スサノオに勝てる者は天津神にも国津神にもいない。彼を強くした方が得だ。大丈夫だ、力を取り戻す方法はある」

 

 ニニギノミコトはひとつ残った勾玉を左手に、神剣を右手に取る。

 

「勾玉を取り込めば魔力は補充できる。少なくとも俺ひとり分の魂にはなるからな。そして、この剣はスサノオが手に入れたモノであり象徴だ。彼が持てば神格そのものの強化になる」

「おお、僥倖とはまさにこのことですねえ。私の幸運Eが影響しなくてよかったです」

「道満ってやつが裏目っただけじゃねえか?」

 

 ペレアスの言い草に反論する者はいなかった。

 ニニギノミコトはスサノオに剣を渡し、次に手のひら大の勾玉を口に押し付ける。想像よりも遥かに原始的かつ直接的な手段に、スサノオは腕を掴んで必死に抵抗する。

 

「ま、待て待て待てぃ! そんなデカいの呑み込めんのじゃが!」

「おくすり飲めたね買ってきましょうか? 私も中学生まで使ってましたよ」

「ゼリーでどうにかなる大きさじゃなくね!?」

「仕方がないな。待ってくれ、砕いて粉にする」

「『三種の神器の扱いが雑すぎる……』」

 

 ロマンは無残な姿になっていく勾玉を涙を流しながら見ていた。関係者が目の当たりにすれば目を覆って泣き出しかねない惨状だ。

 ニニギノミコトは粉々になった勾玉をスサノオの口に注いだ。すると、やにわに全身が発光し、ぐんと背丈が伸びる。

 幼い姿から、豊かな髭をたくわえた武人へと。

 

「……まあ、まだるっこしいのは抜きにして言っておくかのう」

 

 スサノオは白い歯を見せて笑み、

 

「全部、この俺に任せておけ」

 

 それだけ言って、遥か天上へ飛翔した。

 見る見るうちに空の点になっていくスサノオを見送り、信長は何となしに清姫の方を向く。

 

「……そういえば、ずっと竜のままじゃが戻らないんか?」

 

 清姫はぎくりと震えて、冷や汗を滲ませた。数秒の沈黙を経て、意を決したように告白する。

 

「そ、その。つい先ほどから、戻れなくなってしまったんです!!」

 

 悲痛な叫びとともに突風が吹き荒れる。清姫にとってはいつも通りの声でも、体は竜だ。立香は鼓膜を大いに揺らされ、くらくらと目眩を覚えた。

 リースはそんなことは全く気にしていない様子で、顎に手を当てて考える。

 

「サーヴァントにとって宝具を使うのは息をするようなものですから、何かしらの理由があると思いますわ」

「なるほどな。具合が悪かったりしねえのか?」

「いえ、むしろ絶好調で……空も飛べそうですわ」

「……もしかしたら、怪物としての竜から精霊・神霊としての龍になってしまったのかもしれないな」

 

 ニニギノミコトはさらりと言った。

 東洋における龍とは水神であることが多い。西洋では専ら倒されるべき怪物と描写されるが、竜ならぬ龍とは本来神の類なのだ。何でも、彼女の怪我を治すために与えた神米が影響して、半歩高次の位階に進んでしまったのだとか。

 それに付け加えて。

 

「大陸には善妙という女性が留学僧に一目惚れして、その航海を護るために海に飛び込んで龍に化身する話があるが……君もそうなのだろう。世界のために俺と戦った君が龍になれるのは当然のことだ」

「ニニギさんのお米が凄いのか、清姫さんが凄いのか……」

 

 沖田はしみじみと感想を述べた。空も飛べそう、と言う清姫だったが、事実その体は浮いていた。

 ノアはニヤリと嫌な予感のする笑みを作る。

 

「よし、高天原まで飛ぶぞ。連れてけ」

「何言ってるんですかノアさん!? スサノオさんに任せておけば良いじゃないですか!!」

「そうですよ。どんだけ高い場所にあると思ってるんですか。ほぼ宇宙みたいなところですよ」

「おまえら、よく考えろ。あのアホに任せっきりで安心できるか?」

 

 Eチーム一同は暫時真剣にその言葉を咀嚼する。振り返るのは今までのスサノオの言動と行動。立香は自身の記憶を洗い直す。

 スサノオは確かに強いが、強いだけで他は目も当てられない。

 というよりも。

 現代を生きる人間が何時までも神様に頼っていて良いのか。

 過去の英霊たちに散々頼ってきた自分が言えたことではないけれど、だからといって頼りっきりになるほど恥知らずでもない。

 スサノオは全部任せろと言ったが。

 少しは手伝わせろと、言い返してやらなければならない気がした。

 立香はノアの手を握る。

 

「行きましょう。……高いところ、苦手だからこうさせてください」

「先輩、わたしにしがみついても良いんですよ」

「…………あの、わたくしの意思は?」

 

 清姫はおずおずと質問する。リースは貼り付けたみたいな笑顔で答えた。

 

「今度こそ安珍さんを逃さないために、飛ぶ練習をしておくべきでしょう?」

「確かに───!! さすがリースさんですわ! さあ、早く乗ってくださいませ!!」

「『き、詭弁……』」

 

 ぞろぞろと清姫の背中に乗り込むEチーム。上空の環境に耐えるため、ノアは簡易的な結界を刻む。すると、一行は荒れ始めた空へ飛び去る。

 ニニギノミコトは地上に残った沖田と信長を見遣った。

 

「……君たちは行かないのか」

「何人も乗ったら重そうですし」

「うむ。もしものために残る人間も必要じゃろ。むしろお主は行かんのか?」

「俺は天に剣を差し向けることはできない。神器を預かるとは、そういう意味を持つ」

 

 だからこそ、ニニギノミコトは天の法を地上に敷くことができたのだろう。彼より先に葦原中津国に遣わされた、アメノワカヒコとは違って。

 

「だが、スサノオは天への叛逆を行ってみせた。半ば誤解のようなものだったが、我らが日輪の女神に勝ったことがあるのは後にも先にも彼だけだろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───スサノオは天上へ駆け上がる。

 その昔。自らの支配域である海原から追放されたスサノオは、母イザナミに会う前に高天原の姉に断りを入れるため、天を目指した。

 しかし、その際に山と川が鳴動し、大地が揺れる災害を引き起こした。太陽の女神はそれを見て、スサノオが高天原を奪いに来たのだと早合点してしまう。

 それは、神話の再現。

 今度は勘違いではなく、真に高天原を蹂躙する。

 山が揺れ、川が嘶き、大地が鳴く。

 ありとあらゆる天変地異を引き連れ、スサノオは翔んでいく。それなるは荒ぶる神、自然の暴虐をその存在で顕す厄神であった。

 厄神。なれど、その両手には二振りの剣。

 八岐大蛇を斬った愛刀、天羽々斬。

 そして、八岐大蛇の裡より顕れた神剣、天叢雲剣。

 地上へ降り、英雄となったスサノオの象徴───厄神と英雄神、両方の性質を有する彼ほど和御魂と荒御魂の差が激しい神はいないだろう。

 その目は天から降り注ぐ光を捉える。

 太陽の光とともに降り来る、無数の天津神。高天原に反旗を翻すスサノオを排除するため遣わされた神々は一斉に得物を向けた。

 ───よくできた人形だ。

 二振りの剣が斬風を巻き起こす。

 その一撃で、目に見える敵は誰も彼もが切り裂かれた。

 上天に舞う血の雨粒。天変地異に入り混じる肉片と血液に彩られ、スサノオは凄烈に天空を昇る。

 神の軍勢は高度を増す度に多くなり。

 スサノオはその度に敵を一刀に斬り伏せていく。

 これぞ叛逆の英雄神。

 日本神話世界最強の神格。

 この天地に、彼を止め得る存在は有り得ない。

 個の武威を突き詰めた究極はただ一柱、天を斬り上がり──────

 

「……見えた」

 

 ────遂に、畏敬すべき姉神の姿を認めた。

 天津神のことごとくを斬り殺したスサノオの顔は喜色に満ちていた。戦場に在ってこそその心臓は常の鼓動を打ち、誇らしげに微笑む。

 穢れ無き天上の世界。その門前に太陽の女神は立っていた。

 剣を佩き、弓を握る姉神は無言のままに矢を番える。

 鏃に宿る光は太陽の輝きそのもの。一度撃てば最後、日輪の熱は天から地上の万物を消し飛ばしてみせるだろう。

 交錯する視線。太陽の女神は確かに、忘れもしないあの頃の容姿と全く変わっていなかった。

 

「偽物が」

 

 死合は刹那、光速の射撃さえも天羽々斬で斬り捨て、すれ違いざまに天叢雲剣が敵の胴を断つ。

 核融合の光熱が爆ぜる。

 スサノオは倒れた女神に呼びかけた。

 

「───正体を見せろ。我が姉の姿を騙った罪、万回死のうとも支払えるものではないぞ」

 

 常人が発狂するに余りある殺意。

 太陽の女神はくすりくすりと嘲笑を漏らした。

 

「…………あーあ、つまらない」

 

 臓物を撒き散らした上半身と下半身がひとりでに動き、傷跡さえなく接合される。

 

「私、神様って嫌いなんです」

 

 陽炎の如く、揺らめきながら立ち上がる。細く白い五指が顔を這い、表情を覆い隠す。

 

「だって、上から見下ろすだけで何もしてくれないじゃないですか」

 

 つい、と指が額から鼻、顎をなぞっていく。

 徐々にその顔が、体が、存在が回帰する。

 白濁とした長髪。昏く紅い瞳。虚ろな白色の頭髪に赤い帯が差し、皮膚の上に漆黒の影が衣となって纏われる。怖気さえ覚える艶姿の少女は、唇だけを歪めた。

 

「───はい。見事大正解です。私の変装、そんなに下手っぴでした? 魂まで真似たのに」

「下手も下手、下手糞よ。姿形、存在を真似ようともこの特異点が貴様が偽物であることを語っておる。姉上が人草を巻き込む侵略戦争を起こすはずなかろう」

「その答え、とってもつまらないです。大体、あなただって偽物でしょう」

「要領を得んな。それこそつまらぬぞ」

 

 少女は肩を竦めてため息をつく。

 

「だから、全部偽物なんですよ。ああ、でもアレは面白かったです。アメノワカヒコ───あの無様さは、神様らしくて笑っちゃいました」

「あいつを弄んだのは貴様か。ちょうど良い、殺す理由が増えた」

「はい。私はどんなものにでも成れるし造れるんです。あなたの姉さんも、『誓約(うけひ)』の決定権を持つタカミムスヒも。〝俺が愚か者であるならば〟……なんて『誓約(うけひ)』、成り立つはずがないんですから」

「ふ、くだらぬ。貴様の心の臓はアメノワカヒコに射抜かれたというのに」

 

 スサノオが見据える先。少女の胸の中心が、刳り貫かれたみたいに孔が空いていた。

 〝あの太陽が偽りの神であるならば、この矢当たれ〟、アメノワカヒコが最後に放った矢は確実に偽神たる少女の心臓を刺し通していたのだ。

 少女はきょとんとした顔でその孔を指でなぞり、別の仮面を被ったみたいに怒気に彩られた表情になる。

 

「…………ああ、忘れてました。あの時私はタカミムスヒだったのに『誓約(うけひ)』が成功するなんて、どうして───ッ!!」

「タカミムスヒは常にあいつを見ていた。貴様の偽物ではなく、本物のタカミムスヒがな。それが分からぬから、貴様はここで死ぬのだ」

「あなたが私を殺す? 無理ですよ」

「……誰がお前を殺すと言った」

 

 瞬間、Eチームを乗せた龍が飛び上がる。スサノオの後を追い、辿り着いた彼らは即座に敵を認識した。

 ノアの手に煌めく黄金の枝。

 少女が振り向いた時既に、必殺の一矢は飛翔した。

 

「『神約・終世の聖枝(ミストルティン)』!!」

 

 金色の光条が少女の鳩尾を穿つ。

 ぐらりと影に包まれた体が傾く。神殺しのヤドリギは遍く神と不死を滅する。スサノオに斬られても再生する不死性を持った彼女もまた、例外ではなかった。

 その体は振り子のように右へ左へ揺れて、

 

 

 

 

 

 

「私、無理だって言いましたよね?」

 

 

 

 

 

 

 少女は嘲るような笑みを浮かべた。

 白い手を自らの鳩尾に突き入れ、内臓を掻き乱しながらヤドリギを取り出す。ねっとりと鮮やかな赤色の糸を引く黄金の鏃を舌に乗せ、一気に飲み下す。

 背骨を駆け巡る戦慄。ノアたちを嘲る少女はいつまでも命を落とすことはなく。くすくすと鼓膜を揺さぶる音が、目の前の光景が現実なのだと思い知らされる。

 立香は呆然と呟いた。

 

「ヤドリギが効かない……?」

 

 そんなことはありえない。ありえないはずだった。今まで黄金の聖枝は命中した者を一切死に至らしめてきた。世にまたとない神性、不死性殺しの概念は少女に何ら意味をなしていない。

 ノアは苛立たしげに舌打ちして、ロマンに語りかける。

 

「聖杯の反応はどこだ。あいつを倒す必要はねえ、とっとと回収してこの特異点を終わらせる!!」

「『……ノアくん。聖杯は目の前だ』」

「はあ!?」

 

 聖杯の反応は目の前にある。

 ノアの眼前には黒と白の少女しか写っていない。聖杯など影も形も見当たらない。それが示す事実はひとつ。彼女はこくりと頷いた。

 

「そう、私こそが聖杯。この特異点を創り出した根源です」

 

 誰もが耳を、目を疑う中で、唯一機械的観測を可能としていたロマンだけはそれを肯定する。

 

「『恐らく間違いない。彼女は生きた聖杯! 番外特異点を発生させた張本人だ!!』」

「番外特異点……ちょっと違います」

 

 少女は世界を抱くように両腕を広げて、

 

「この特異点は私の被造物。造物主たる私が創ったのなら()()()()()と呼ぶのが妥当、じゃないですか?」

「…………おまえの真名は、まさか」

 

 ノアが言うよりも先に、少女は告げる。

 

「───プリテンダー、ヤルダバオト/デミウルゴス/サクラス。サクラって呼んでください。ほら、表記揺れってあるでしょう。サクラとサクラスどっちでも良いんですけど、この体にはサクラと名乗った方がしっくり来るんです。……あんなのに名付けられたのは癪ですが」

 

 サクラは朗々と歌うように名乗り上げた。

 ノアは奥歯を噛み締める。

 ヤルダバオト、デミウルゴス、サクラス。いずれもグノーシス主義神話における造物主の名前。真の神に成り代わってこの物質界を創造し、自らを真の神と思い込む欺瞞の神格だ。

 硬直するノアたちを見て、サクラは腹を抱えて笑い声をあげた。

 

「あははっ! その顔、最高です! ねえ、どんな気分ですか? 私の箱庭で無駄に戦い続けてきた感想は!! 虚しいですか、哀しいですか!? でも残念、あなたたちの冒険はここでおしまいです!! 何の意味もない死を迎える絶望、じっっくり見せてもらいますから…………!!!」

「───ハッ。何の意味もないなどと、貴様は愚かじゃのう!!」

 

 無機質な眼差しがスサノオを差す。

 石像のように冷たい顔貌。サクラはわざとらしく首を傾げる。スサノオは剣を弄ぶように振り回しながら、言葉を吐き捨てる。

 

「たとえここが貴様の創った世界だろうと、得た経験と記憶と感情は本物であろうが!! 目に見えるものだけでしか真贋を語れぬとは、へそで茶が沸かせるわ!!」

「……そういう少年漫画的な熱血回答は要らないんですけど。何だか興醒めしちゃいました」

 

 サクラの十指が下腹部を這う。二本の線による山なりの形を逆にした刻印が魔力を胎動させた。

 かちり、世界の色が切り替わる。白と黒だけで描写された風景。人物だけが元の色のまま、世界に取り残されていた。サクラは冷徹な声音を響かせる。

 

「私の特異点で地球を覆います。そうですね……人間と虫の立場でも逆転させてみましょうか」

「あ、それ無理。儂が斬っといたから」

「…………はい?」

 

 スサノオは天叢雲剣をくるくると回し、

 

「天叢雲剣は万物万象を切断する。故に斬った。この特異点をな。貴様の聖杯で特異点を創ることは二度とできぬ」

 

 サクラは斬れずとも、彼女が創った世界は斬れる。特異点とは魔術王が人理焼却の際に人類史に打ち込んだ楔。その時だからこそ出来た芸当だ。微小のものならばともかく、この規模の特異点を滑り込ませることはとうに不可能だ。

 サクラの表情筋が凍りつく。数秒後、彼女は眼球を血走らせて、歯を砕かんばかりに食いしばった。

 

「こッの……髭ぼうぼうになるまで海で泣き喚いて仕事もしなかった挙句、天界を荒らして追放された万年不真面目ニートマザコン神のくせに────ッッ!!!」

「え、待って、泣いていい?」

「事実だろ」

「『事実陳列罪かな』」

 

 少女は肩を怒らせて鼻を鳴らし、不機嫌さを隠しもせずに踵を返す。

 

「……ふんだ。もういいです。最後の特異点で遊ぶので。カルデアの人も早く来てくださいね」

「アンタに言われなくたって行ってやるわよ。ああ、散々イキってたのに発狂して逃げ帰る気分はどう? カルデアの貴重な資料として保存しといてあげるわ」

「わたしは皆さんの弱みを握るためにボイスレコーダーを持ち歩いているので、さっきの醜態も録音済みです」

「私のサーヴァントが怖すぎる件について」

「とんでもない人たちですわ……」

 

 立香と清姫は妙に居心地の悪い気分になる。ペレアスとダンテも同様に、肩を竦めて目を泳がせていた。それとは対照的に、ノアはこの世のものとは思えない悪辣な顔で、

 

「そういうことだ! おまえの無様な醜態はカルデア全職員に共有して毎日十回は確認するように義務付けてやる!! もちろん魔術王をぶっ倒した後はネットの海に流してやるから覚悟しろ!!」

「あなたみたいなクズっているんですね」

「うるせえ!!!」

「でも、さすがの私も怒りました」

 

 サクラは瞬時にノアたちの後ろに回り込むと、背中から石の翼を展開し、彼らを包んだ。

 

「あなたたちのくだらない日常を見せつけられるのも飽きたので、このまま次の特異点に連れて行ってあげます。レイシフトの存在証明が途切れるのでどうなるかは知りませんけど、一兆分の一の確率くらいで無事に辿り着くと思いますよ」

 

 Eチームは驚愕の声を轟かせる。青褪めた彼らの顔色を見てサクラは微笑し、空間にこじ開けた穴に飛び込んだ。

 

「チッ───!!」

 

 スサノオは咄嗟に天叢雲剣をサクラに投擲する。彼女の体を横腹から貫通したそれも甲斐無く、サクラとEチームは虚空の向こうへ消えていく。

 立香は思わず目を閉じ、ノアの腕に縋りついた。

 そこから、体感した時間は一瞬のような、とても長い時間だったような───確かに言えるのは、ノアの手がしっかりと握り返していてくれたことだけだ。

 まぶたを開ける。

 灰色の街並み。ちかちかと信号機が点滅する交差点。立香たちは、いつの間にか無人の街に立っていた。

 

「最近はよく迷い人が来る」

 

 不意に響く声。反射的にその方向に振り向く。視界に映るのは異様なほどに細身で燕尾服を着こなし、真っ黒な肌をした男だった。

 

「俺はゲーデ。性と死を司る神だ。君たちと会うのは初めてかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黄金で造られた宮殿の廊下を、赤衣を纏った青年が歩く。

 造りが豪華なら、道々に配置された調度品も豪奢豪勢そのもの。痛々しいくらいに貴金属を用いた光景は目眩を起こしてしまいそうだ。

 青年は気だるさを息に乗せて吐き出す。全く趣味に合わないこの景色も、最近は少し離れていたせいか懐かしいと感じてしまう。そんな自分に嫌気が差した。

 ただ、こんな場所にも美しいと言えるものはある。

 時に激しく、時に優雅に勇壮に奏でられるピアノの音色。目まぐるしく色合いが変化する音は聞いていて心地が良い。

 その音が流れ出す部屋こそが、青年の目指す場所だった。

 男は一心不乱にピアノを演奏していた。が、部屋に足を踏み入れた途端、鍵盤に手のひらを叩きつける。しかも頭を掻き毟って椅子ごと後ろに倒れてしまう。

 

「───駄目だ、弾けないッ!! 私の音色では、私の技巧では何をどうやっても絶対に弾けない!! かの詩人が見た天国の光景を表す音はこんな低俗なモノではないはずなのだァァァッ!!!」

 

 じたばたともがき苦しむ碧眼の美男子。青年は彼の顔を覗き込んで、

 

「相変わらずですね、六本指」

 

 そうとだけ言うと、彼はけろりと表情を柔らかくした。

 

「やあ。君の趣味はもう終わったのかね」

「ええ。ところで、シモンは?」

「直ぐに来るさ。ほら、次元に穴が開いた」

 

 虚空に切り開かれた隙間から、金髪褐色の女が体を出す。黒と銀のローブは血がこびりついていた。シモン・マグスは魔術で布に染みた血を抜き取りながら、唐突に訊く。

 

「『回転する炎の剣』を使ったか?」

「やむを得ず。カルデアが敗北するよりは幾分良いかと」

「ああ、君の判断は正しいよ。魔術王如き偽物の計画が成就するのはとても困る」

 

 ところで、とシモンは前置きする。

 

「君はまだ、人類を救う方法として天の杯(第三魔法)を望んでいるのか?」

「…………人類は永遠を獲得するべきだと思いますが」

「アレほど低俗な魔法はない」

 

 次元を渡る魔術師は憎悪にも近い嫌悪を込めて言い切った。

 

「本来人間が唯一持つ高次元体である魂を物質界の軛に繋ぐなど、悍ましい所業だよ。根源に接続する可能性すらあるというのに、それを捨て苦しみに満ちた物質界で永遠に生きることを強制する……第三魔法は人類に永遠の苦痛を約する法だ」

 

 シモンは相変わらずピアノの前で寝転がる男に向けて問いかける。

 

「君はどう思う?」

「第三魔法、素晴らしいじゃあないか。永遠に音楽の探求ができる! 出来れば観客も不老不死にしてほしいものだな。生前は私の演奏が素晴らしすぎて最後まで聞けなかった客もいたからね」

「永遠に演奏を聴かせるつもりか? ピアノがいくらあっても足りないな」

「なに、ピアノはよく壊れる。気にすることはない」

 

 シモンは小さく笑い、新たに虚空の隙間を出現させた。その中に入る寸前、彼は青年の肩に手を置き、囁く。

 

「裏切るなら、アト・エンナの処に行くと良い」

 

 彼の表情を横目に、シモンは次元の狭間に侵入した。

 常人の知覚では認識できぬ別次元。しかしシモンからすれば何度も行き来した通路に過ぎない。言語の表現が及ばぬ光景を眺め、下腹部を擦る。

 その褐色の肌の表面には、翼をはためかせた鳥のような刻印が焼き付いていた。

 

「『秘儀・聖体化(サクラメント・カリス)』。実験場は実験場らしく役目を果たしてくれたか」

 

 魔術師は、密かに微笑んだ。




・神様解説、ニニギノミコト編
 古事記、日本書紀どちらでも登場するが、最大の盛り上がりどころと言っても良い天孫降臨の主役。名前のバリエーションがたくさんあり、大体長ったらしいのが特徴。ニニギという名前の意味については諸説あり、稲穂に因んだ名前という説や三種の神器の勾玉を握った者という意味である説などなどがある。
 アメノオシホミミという神様がタカミムスヒの娘と契って生まれた神。つまりタカミムスヒの孫でもあるのだが、ここら辺の血縁関係はなかなかややこしいことになっている。というのも、アメノオシホミミはスサノオが生み出した神で、アマテラスがオシホミミを養子にしたという関係だからである。なのでスサノオの孫でもあるのだが、このことから色々と邪推をする人もいる。
 ニニギノミコトがイワナガヒメをフッたことで子孫は永遠の命を失ったが、その情報が後出しなので割とハメられた形に見えなくもない。

・神様解説、スサノオ編
 言わずと知れた、ヤマタノオロチ討伐の英雄。本当はスサノオではなくスサノヲと書くのが妥当だと思われる。
 知名度も人気度も高いせいで牛頭天王と習合したり、輸入逆輸入が激しく行われている神様でもある。蘇民将来説話ではふらっと村に現れて、貧しい蘇民将来にご飯を奢ってもらい、その家族を疫病から護るためのまじないを教えたりしている。ちなみにスサノオが牛頭天王と習合したのは、八坂神社にて元々スサノオが祀られていたものの、神仏習合が進んで牛頭天王を祀るようになったためである。
 意外だが初めて和歌を詠んだ神様でもある。「八雲立つ〜」から始まる歌で、妻のクシナダヒメのために家の周りに囲いを造っているという内容。スサノオらしく真っ直ぐな言葉遣いで可愛らしい。


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第七特異点 天の鎖 絶対魔獣戦線・バビロニア
第65話 メイドインウルク


地獄から帰ってきた男でダンテの登場を期待しましたが影も形もありませんでした。いよいよ第七特異点です、よろしくお願いします。


「俺はゲーデ。性と死を司る神だ。君たちと会うのは初めてかな」

 

 黒一色の山高帽と燕尾服を纏い、漆黒の肌をした男は帽子の鍔を人差し指で持ち上げながら告げた。その指は骨と皮しかないのではないかと思わされるほどに細長く、腕や脚、胴体も骸骨のような痩身をしている。

 ちかちかと役目を失った信号機が点滅する、灰色の交差点。サクラの自身ごと他人を別の特異点に連行するという反則技の末、Eチームが辿り着いたのは寂れた無人の街だった。

 Eチームは腐っても七つの特異点を戦ってきた。人ならざる魔物や神霊と対峙したことすらある。その経験が囁く、目の前の男の異常さ。確かにそこにいると感じるのに、目を細めて捉えようとしなければその輪郭が薄れて消えてしまいそうになる。

 立香はごしごしと目を擦った。強い、怖い圧力を醸し出す相手はいくらでもいたが、こういう手合いは初めてだ。神であるという言にも偽りはないだろう。

 警戒と猜疑が入り混じった視線。ゲーデと名乗った男はニヤリと笑い、

 

「お前は誰だ、此処は何処だ……とでも言いたげな顔だな。そんな諸君は是非第46話を読み直───」

「おいやめろ」

「何言ってるんですかこの人」

 

 触れてはいけない世界に触れるゲーデを止めに入るアホマスターコンビ。フォウくんはその後方から鋭い一言を飛ばした。

 マシュはフォウくんを抱き上げる。伸び切った猫のような彼の顔をまじまじと見つめて、訝しむように目を細める。

 

「盾の中からは出していたはずなのに……どうしてこんなところにまでいるのでしょう。そこはかとない違和感を感じます」

「どうせ出番が欲しいだけでしょ、そこの犬モドキは。一時期空気以下の存在感になってたんだから」

「根性は道理を超越するということですか。スカサハさんの意見と似てますねえ」

「いや、根性でこんな異空間に来られねえだろ」

 

 ペレアスの視線がフォウくんに突き刺さる。一気に疑いの念を向けられたことで、彼は後頭部で腕を組んで口笛を吹き出した。なお、四足獣の悲しい体の構造故、腕を組めていないうえに隙間風のような音が鳴るばかりだ。

 湖の乙女はペレアスの背後からフォウくんに微笑みかける。心の奥底まで見透かすような精霊の眼はしかし、彼以外の誰も気付くことはなかった。

 ノアはゲーデに詰め寄る。山高帽を剥ぎ取り、人差し指を軸にくるくると回転させた。もはやいつものことではあるが、まさしく神をも恐れぬ所業である。

 

「んな謎生物よりまずはこっちだろうが。こいつが本当にブードゥー教のゲーデだってんなら、ここは『永遠の交差点』で間違いねえ」

「永遠の交差点? まあ、見た目はそれっぽいですけど」

「先輩にも分かりやすく日本風で言うと、三途の川や黄泉比良坂です。つまり、あの世に行く途中ですね」

「私たち死んでた───!?」

 

 立香は思わず絶句した。

 ブードゥー教の死神、ゲーデが立っているとされる永遠の交差点。それは水中にある神々の住処にして冥界であるギニアの地への途上だ。

 言うなれば、死神ゲーデとは命を刈り取る殺戮者ではなく、全ての死者たちの仲介者。そんなゲーデがいる場所に来たということは、少なくとも真っ当な状態ではないだろう。

 ゲーデはうろたえる立香を愉しげに眺めて、懐から葉巻を取り出す。キン、と黄金のライターが軽快な金属音を響かせ、咥えた葉巻の先端に火を灯した。

 もくもくと煙を吐き出して、ゲーデは緩慢な調子で喋り始める。

 

「いいや、お前たちはまだ死んではいない。ただ迷い込んだだけだ。……サーヴァント諸君はとうに死んでいるというツッコミはナシだぞ?」

「わたしは死んでないですが」

「……迷い込んだ、ですか。ブードゥー教の神様の居場所に来るなんて、私たちとは何の縁もないように思えますがねえ」

「ああ、ダンテがいることで地獄や天国に行く可能性もあったがな。それよりも運命の繋がりが勝ったようだ」

 

 分かるような分からないような話し方をするゲーデ。立香は親指と人差し指を立てた右手を唇の下にあてがい、神妙な面持ちになった。

 

「……なるほど。マシュ、これはつまり」

「ええ、今までにも度々遭遇したアレです」

「何よ、アレって」

 

 立香とマシュは冷ややかな目をするジャンヌに勢い良く振り向いて言った。

 

「「意味深なことだけ言った挙句、自分たちには何も分からない系の人種───!!」」

「……ああ、オティヌスとかホームズとかシモン・マグスのことね。確かに」

「もったいぶったこと言うやつにロクなのはいねえからな。どいつもこいつも胡散臭い見た目してただろ」

「アンタほどじゃないですけど?」

 

 ホームズは何らかの事情があったことは察せられるものの、シモン・マグスに至っては理解を置き去りにすることを楽しんでいた節すらあった。ゲーデのニヤついた顔を見るに、彼は後者と通じるところがあるのかもしれない。

 ゲーデはその痩躯からはありえないほどの肺活量でノアたちに向けて煙をくゆらせ、淡々と切り出す。

 

「俺は運命や未来については言及しない質でね。その代わりと言っては何だが、お前たちが此処に来てしまった理由を教えてやろう」

「最初からそうしろよ」

「この人マーリンの親族だったりしねえよな?」

「少なくともロクデナシの系譜ではありますわ」

 

 ゲーデの吐いた煙がひとりでに寄り集まり、人型の像を形作る。

 それはEチームが永遠の交差点に飛ばされた原因であり、番外───虚構特異点を創造した元凶、サクラの姿をしていた。ゲーデはちりちりと赤く弾ける葉巻の先でサクラを指した。

 

「この娘は依代となる人間を何処からか引っ張り出し、神格を注入することで成り立った存在……疑似サーヴァントだ。シモン・マグスはこれを自身の実験台として製造し、■■■が野に放った」

 

 ノアたちは一様に眉をひそめる。

 ゲーデの言葉。サクラを解き放ったであろう人物の名前だけが、耳障りなノイズに掻き消されて聞こえなかった。

 それは彼にとっても予想外だったのか。刹那、瞳に微かな憤懣を滾らせる。臓腑の奥底が冷え込み、じとりと汗が滲む。死という感覚そのものを突きつけているかのような圧力が人間たちの心臓を鷲掴みにする。

 しかし、その怒気はあっさりと消える。ゲーデは鼻から煙を噴き出すと、屈託のない笑みを浮かべた。

 

「……このように、執拗に真名を隠すやつがいてな。情報伝達が制限されてしまう。要はシモンらにも入り組んだ事情があるということだ」

 

 本題に戻ろう、ゲーデはそう言って葉巻の先を筆のように動かした。すると、それらはノアたちの姿となる。

 ややデフォルメされた小さなノアたちを、サクラの腕が包み込む。

 

「サクラはお前たちを最後の特異点に連行しようとしたが、途中で面倒になって放り捨てたようだ。投げ出されたお前たちはあれよあれよという間に異次元を漂流し、此処に着いた……うむ、お前たちとは遠い縁があるとはいえ、これはとてつもない幸運だぞ。喜べ!」

 

 いきなり投げやりになる説明。煙で作られたサクラは腕の中のノアたちを放り投げて霧散する。その一連の流れが動画を巻き戻すみたいにリピートされていた。

 シモン・マグスがサクラを造ったというのなら、次元を渡る力を持っていたとしてもおかしくはない。そもそもが異国の神々を模倣してみせた彼女ならば、大抵のことはやってのけてみせるだろう。

 ノアはぴくぴくと額の血管をひくつかせて、両手を強く握り締めた。

 

「ハッ、とことんまでナメやがって……!! あいつだけは許さねえ、誰が誰だか分からなくなるくらいボコってやらァァァ!!」

「リーダーに同意する訳ではありませんが、わたしもふつふつと怒りが湧いてきました! この感情、手足の指を全部へし折っても収まるかどうか……!!」

「普段は冷静沈着かつ泰然自若とした私も、異次元にポイ捨てとか頭に血が昇らざるを得ないわね。絶対丸焼きにするわ!」

「元はと言えば皆さんが煽ったせいですよねえ!?」

 

 ダンテは声を張り上げた。サクラの心中は知らずとも、こうなる一因は彼女を煽り倒したノアとマシュ、ジャンヌにあるだろう。

 とはいえ、異次元に放流するという暴挙は因果応報にしても過剰だ。右の頬を打たれたらバズーカを撃ち返すようなものである。

 ペレアスは彼らを尻目に、若干の気だるさを織り交ぜた声音でゲーデに問う。

 

「それで、オレたちはどうやったら帰れるんだ? サーヴァントはともかくノアや立香ちゃんみたいな生者がいると、こういう場所は不都合なんじゃねえか?」

「そうだな。この場所は本来死者のためにある。俺としても出ていってもらいたいところだ。こう人が多くては、ひとり遊びもできん」

「だったら早いところ帰してくれ。オレたちにできることなら礼もする」

「ほう、安請け合いをしていいのかね? 俺は死神ゲーデ。全ての死者とその人生を知る者だぞ?」

 

 ゲーデは冥界へと続く永遠の交差点の管理者であるがために、全ての死者を記憶している。すなわち、死後英霊と祀り上げられたあらゆるサーヴァントの情報を持っているのだ。

 それは上手く用いれば、たとえ英雄であろうと言いなりにでき得る力だ。急所を盾に脅すことも、相手に取り入ることもできる。

 ペレアスは身構える。曲がりなりにも円卓の騎士として無茶振りには慣れているつもりだが、神からの無理難題に応えた経験はない。

 そして、ゲーデが出した条件とは────

 

「さあ! 飲み、喰らえ!! ギニアからくすねてきた食材は腐るほどあるからな!!」

 

 ノアとペレアスは目を細めながら、杯に並々と注がれた液体で唇を濡らした。甘みの中に混じる、焦げたカラメルのような苦味。ブードゥー教では司祭がトランス状態に入るための神酒として使われたり、儀式の捧げ物とされるラム酒であった。

 

「……宴会かよ。オレらさっきまで殺し合いしてたんだが」

「おまえの時代の戦争なんていっぱい殺るか一杯やるか女とヤるかだろ」

「憶測で物を語るんじゃねえ!! 諸々の雑務とか会議とか色々あるだろうが! 大体聖剣ぶっぱからの突撃パターンで決まってたがな!!」

「ちなみに私とペレアス様はいっぱい───」

「黙れドスケベ精霊」

 

 初陣がアーサー王のブリテン統一戦だったペレアスは国内の大規模な戦争に動員された回数は少ない。アーサー王の土地と異民族の領域を隔てるハドリアヌスの壁での戦闘がほとんどであり、自国領土を傷つける心配のないキャメロット陣営にとって聖剣のビームはまさに打ち得だったのである。

 そのせいでペレアスの聖剣へのコンプレックスが高まったことは言うまでもないが、湖の乙女の爆弾発言によってその頃の記憶は吹き飛びつつあった。

 顔を紅く染めたリースは軟体動物みたいにペレアスにしなだれかかる。元々ブレーキ機能など無い彼女だが、酔いのせいでエンジンの回転数が上がっている。

 ダンテはゲーデの杯に琥珀色の液体を注ぎながら、

 

「にしても、よくこんなにお酒がありましたねえ。これもギニアの神々から盗んできたのですか?」

「それもあるが、俺への供物は煙草と酒だからな。現世の人間たちが捧げた供物への想念が、生と死の狭間でようやく形を成しただけだ」

「アフリカじゃあ今でも呪術が信じられてるからな。こいつに捧げ物をする人間がいても不思議じゃねえ」

「そういうことだから、イザナミやペルセポネのように冥界の食べ物を口にしたからと言って帰れなくなることもない。おそらく、ギリギリな」

フォウフォウフォウ(そこははっきり言えよ)

 

 ノアはラブホテルの爆破解体で魔術協会に目をつけられ、逃亡先のアフリカにて巻き込まれた呪術戦争を思い返した。その光景を心を読むスキルによって感知したダンテは青い顔をする。

 とても食事時にはお見せできない、グロテスクな惨状の数々。ダンテは胸から込み上がってくる吐き気を抑えた。如何に地獄の責め苦を目にしていようと耐性はついていないのだ。

 ゆっくりと息を整え、彼はある懸念を口にする。

 

「現世の供物がここで形になっているということは……もしかして、飲み物はお酒しかないのでは?」

「かもしれんな」

「と、ということは……」

 

 ダンテは恐る恐るEチーム三人娘を流し見る。マシュは茹でたカニみたいに赤くなった顔で、舐め上げるように立香を眺めていた。

 

「なんだか先輩が十人くらいに重なって見えるのですが。多重影分身は禁術ですよ?」

「いやいや、マシュこそそんな全身紫色になっちゃって……」

「……ええ、まるでなすびみたい」

「「ギャハハハハハハ!! ヒィーッ!!」」

フォウフォフォフォウ(藤丸、お前ヒロイン降りろ)

 

 旧約聖書には〝酒は度を越さなければ、人にとってほとんど生命に等しい〟とあるが、眼前に広がる光景は明らかに度を越していた。アルコールだけに。

 見てはいけないものを見たダンテはノアたちに囁くように言った。

 

「だ、大丈夫なんですかアレ。コンプライアンス的にまずいんじゃないんですか!?」

「落ち着け、今は人理焼却中でここは永遠の交差点だぞ。人間如きの法律なんざ道端に転がるフォウのうんこ以下の価値もねえよ」

「治外法権───!!」

 

 そもそも謎生物であるフォウくんに排泄機能が備わっているのかという問題は別として。この世で最も無駄なことのひとつはノアを説得しようとすることである。最初から関わろうとしなかったペレアスに、ダンテも倣おうとする。

 すると、立香は音もなくノアの背後に忍び寄り、両腕をがっしりと回した。ノアは眉をしかめて、重たいため息をつく。

 

「……離れろ、鬱陶しい」

「なんですかその口は。私がせっかく暖めに来てあげたのに」

「誰が頼んだんだよ。水飲んで寝てろアホ」

「嫌です。リーダーはいっつも冷たいんだから、たまには大人しく受け入れてください」

 

 ノアは素っ気なく追い払おうとするも、アルコールが脳に達した立香の猛攻は防ぎ切れなかった。さながらトロイアを攻めるギリシアである。

 トロイの木馬ならぬトロイの立香はいとも容易く懐に滑り込み、犬のように頭を擦り付ける。ノアは左手で杯を煽る一方、残る右手で頭を掴み、その侵攻を阻んでいた。

 それを観戦していたダンテは無意識に微笑んでいた。ペレアスは僅かに口角を吊り上げながら、杯でダンテの肩を小突く。

 

「随分と楽しそうだな、ダンテ?」

「いやあ、微笑ましくてつい。いよいよ最後の特異点ですが、身が引き締まる思いですよ」

「俺は性と死の神、男女の情欲を煽るなど容易いぞ。神代の頃はそうして人間を増やしてやったものだ。どうする?」

「それやったらオレがアンタを斬るからな」

「じゃあ私とペレ───」

「うん、頼むから今は黙っててくれ」

「ペレアス様もノアさんも最後まで喋らせてくれませんわ……」

 

 という間にも一進一退の攻防は進展しており。

 立香は散々突進を阻むノアの右手をまじまじと見つめ、むっと表情を歪める。ルーンを含めた術式が描かれた手袋。立香はそこから自身の両手で手首を掴み取ると、勢いのままに手袋を引き抜いた。

 

「これ、邪魔です」

 

 ノアは表情筋を引きつらせる。ペレアスとダンテは頼りにならない。非常に癪だがマシュとジャンヌに立香の世話を任せようとする。

 

「……おい、マシュマロなすびと放火魔女。こいつをそっちに連れてけ」

「数字の6って手に持ったら強そうですよね」

「それ9とどう違うの?」

「くそっ! この酔いどれ女どもが!!」

 

 が、その声は届かなかった。ちなみに利便性や扱いやすさの点から鑑みて、1が最強であるとの見方が近年の学会では優勢だ。

 白い素肌を晒した手が、ぺたりと無理やり立香の頬にあてがわれる。ひやりとした手のひらに自分の体温が伝わっていくのを肌で確かめて、つややかな笑みを浮かべる。

 不思議と、抵抗する気は起きなかった。

 普段の快活な表情とは異なる、妖艶さすら忍ばせるかのような微笑み。

 ふと、自らの親指が淡いピンクの唇をなぞる。

 それは。

 顔立ちも髪の色も背の高さも違うはずなのに。

 初めてあの情動を抱かせた彼女と、同じ─────。

 

「……」

 

 ごす、と鈍い音が鳴る。ノアは杯の底を鉄槌のように立香の頭に振り落としていた。彼女は一瞬硬直すると、ぱったりと崩れ落ちた。

 ノアは一息ついて、地面に触れる寸前の立香を右腕で受け止める。そのまま杯の中身を飲み干すと、白目を剥いた彼女を抱えて立ち上がる。

 寝かしてくる、とだけ言ってノアはその場に背を向けた。かつかつと灰色のアスファルトを踏む途中、腕に感じる暖かみに絆された心が、口を介して苦々しく吐き捨てた。

 

「…………チッ。やられた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バビロニア、ティグリス川上流域上空。

 母なる蒼き大海、ペルシア湾へと続く空の上を一条の光が蛇のように飛び回っていた。流星や彗星にはありえない軌道を描くそれの正体は、岩石でも氷塊でもなかった。

 巨大な弓の如き舟に乗り込む、ひとりの───一柱の女神。夜空のような美しい黒髪をなびかせ、自在に空を駆ける光の軌跡は中天にて突如停止する。

 そして、

 

「お、落としたああああああ!!!」

 

 女神は、就学前女児みたいにギャン泣きした。

 空中で地団駄を踏む、という訳の分からない行動を取りつつ、天地を揺るがすかのような傍迷惑な音量で騒ぎ立てる。

 

天の牡牛(グガランナ)落としちゃった! 私のかわいいかわいいウルク撃滅兵器を失くすなんて、うっかりじゃ済まされないわ!! 普段の私ならこんなヘマ絶対にしないのに……この依代、完全にぽんこつじゃない!!」

 

 ───彼女の名前はイシュタル。とある人間の少女を依代に召喚された、メソポタミアの傲慢なる金星の女神である。

 さっそく自分の責任を依代の少女になすりつける女神ムーブをキメると、一呼吸置いて心にわだかまる全ての動揺を鎮静化させた。

 流れるようにイシュタルの思考は次のステップへ。

 過ぎたことは仕方がない。とりあえず動揺は諌めたものの、グガランナを落とした───落とさせられた───運命への怒りはまだまだ健在。むしろ一秒ごとに薪が焚べられている状態だ。

 とにかく、この行き場のない激情を収めなければならない。イライラは美容の大敵だ。それが自分のせいでないとなればなおさら。悪いのは波長が合うからと言ってこんな少女を選んだ奴ら、百歩ほどひいて世界が悪い。

 

「……とりあえずここら辺パーッと吹き飛ばすか」

 

 夜中にコンビニでも行くかのような気軽さ。

 しかし、そこには一切の誇張も欺瞞も含まれてはいない。

 その昔、エビフ山という霊峰はメソポタミアの神々も目にかけるほどの豊かな地であった。

 イシュタルはそんな山を手に入れればもっと自分の権威を高められると考え、天空神アヌの忠告をも無視して霊山を制圧することとなる。

 無数の天変地異を引き起こし、山々を燃やし尽くしてまで凶行に及んだ女神の癇癪は、それこそ気分ひとつで山脈を平地に、平地を谷に変えてしまうだろう。

 イシュタルの乗騎にして武器である天舟マアンナが、上天の太陽を塗り潰さんほどに光り輝く。

 彼女の意のままに、その矢は光の速度で大地を焼くだろう。

 

「あの、どうかしましたか?」

 

 いざ光の矢が放たれようとした直前、どこか懐かしさを感じさせる声が女神の射撃を緊急停止させた。

 染め抜いたかのような虚ろな白色の髪。首元から足先までを包む黒い影には、血脈のように真紅のラインが走っていた。背中からはその神性を象徴するかのように、灰色の石の翼が広がっている。

 刹那、イシュタルは逡巡する。普段ならば無視する手合い。今のように不機嫌な時は羽虫のように潰すのが決まりだ。

 それに、とんでもないツッコミどころもあるが、

 

「……私のペットが何処かで落っこちたの。目立つ見た目してるから知らなくても分かると思うんだけど、貴女見てない?」

 

 女神の気まぐれな性質は、そのどれをも選択しなかった。

 イシュタルはその心の動きに理由をつけるなどという思考に価値は見出さない。気の向くままに愛し、求めるがままに破壊する金星の女神にとって、理屈や理由ほど無為なモノは存在しない。

 黒白の少女は灰の翼で顎の下をなぞる。

 

「アナタのペット、ですか。う〜ん」

 

 下腹部に刻まれた刻印が小さく発光する。少女はふくよかな胸部の中心に左手を差し込んだ。肌を覆う影が水面のように波紋を生じ、手を引き出すとそれは収まった。

 左手の指先に摘まれていたのは、ぐねぐねと蠢く二匹の大きな虫。明らかに自然から産まれた生物ではない。一方は刺々しい表面で、もう一方はつるりと曲面を描く虫たちを見て、少女は取り繕うように笑う。

 

「まあ、こんな気持ち悪い()じゃありませんよね。え〜と……」

 

 そこから、彼女は次々に胸からモノを取り出しては放り投げていった。

 月の姫をデフォルメしてネコっぽくした人形、虎のマークが貼り付けられた水筒、騎士王の邪神像───少女はああでもないこうでもないと言いながら、イシュタルには見覚えのないものばかりが現れては捨てられていく。

 イシュタルはため息をついて、マアンナに収束する光を霧散させる。

 

「もういいわ、失くしたものに私の思考を割いてる場合じゃないし。ところで貴女、」

「───もしかして、これだったり?」

 

 そう言って、少女が手のひらに乗せてみせたのは黄金の天牛。小さくなってはいるが間違いない、それこそはイシュタルが求めていたグガランナであった。

 イシュタルはあんぐりと口を開けて、少女の持つグガランナを指差す。

 

「そ、それよ! 私が探してたペット! なんでそんな小さくなっちゃったのかはこの際良いわ、私に寄越しなさい!! お礼はたっぷりしてあげるから!!」

「へえ、お礼ですか。それは楽しみですね」

「でしょう!? だから───」

「でも、こうした方がもっと楽しいと思うんです」

 

 ぐしゃり。グガランナが砕かれる。

 唖然とするイシュタルに、少女は告げた。

 

「私はサクラ。ここを箱庭にしに来ました。スサノオとかいうマザコンアホニートが……って、それはいいか」

 

 サクラは唇に赤い舌を這わせて、

 

「アナタのその顔、見てると無性にムカつくんでぷちっと潰しますね♡」

 

 イシュタルは額に一筋の汗を垂らし、己が得物たるマアンナを起動させる。

 

「……ああ、そう。望むところよ」

「話が早くて助かります。それじゃあ」

「その前に、どうしても気になるから指摘しておくわ。───貴女、お腹に剣が刺さってるけど痛くないの!?」

 

 サクラは不意を突かれたような顔をして、自らの肢体に目を配った。

 左脇腹から右脇腹を貫通する、鉄の剣。イシュタルでさえ怖気を覚える鋭気と神気を漂わせる刃に貫かれているにも関わらず、サクラは今まで平気な顔をしていたのだ。

 彼女は柄を乱雑に掴み、それを引く。刃の鋭さ故か、身体の構造故か、その剣は筋肉の締まりにも骨格にも引っかかることなくするりと抜け出す。

 

「これはどうも───っ!!」

 

 サクラは一息に鉄剣を投げつける。

 星の怒りたるヤマタノオロチ。その力の核が剣として形を成したそれは、たとえ金星の女神であろうが一撃で切り裂く。イシュタルは顔を背け、飛来する剣を掴み取った。

 冷たく照る刀身。その内に荒れ狂う、世界を呑み込まんが如き神気。切断の機能に特化した神剣は無骨だが、無駄な機能を削ぎ落としたが故の美しさがある。

 イシュタルは美の神だ。武器の鑑識は専門ではないが、美に関して己の範疇にないものを否定する狭量さを持ち合わせてはいない。

 女神は剣に見惚れかける心境を遠くへ追いやって、サクラを睨んだ。

 

「決めたわ、アンタは九割九分殺し! 残りの一分は私の慈悲と死の淵で苦しんでもらうためよ!! 大人しく死になさい!!」

「言っていることが食い違ってますよ。馬鹿なんですか?」

「うっさい! 『山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)』!!」

 

 女神イシュタルの宝具。

 霊峰エビフ山を焼き尽くした逸話の再現。

 眼下に流れるティグリス川の全水量を優に蒸発させて余りある光輝が、天地を分け隔てなく照らす。

 数瞬後に放たれる一撃を前に、サクラは微動だにすらしなかった。

 

「じゃあ、私も。───『山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)』」

 

 イシュタル唯一無二の乗騎、マアンナがサクラの傍に現れる。

 

「……はぁ!?」

 

 本来そのサーヴァントだけが所有するはずの宝具を複製し、真名解放さえも成し遂げる反則技。しかし、臓腑の奥底に叩き込まれる驚愕を経てもなお、両者の一撃が留まることはない。

 瞬間、空間を押し潰し、次元を焼き焦がすかのような膨大な熱量が解き放たれた。

 左方と右方。双方より衝突した極大の光線は、ひとつの恒星のような輝きに成り果てる。

 僅かに出力が優ったのは、本来の使い手であるイシュタル。天空に轟く光熱をマアンナによって切り裂き、サクラへと接近した。

 

「今の一撃で見極めたわ! 貴女が創るモノは所詮偽物! さっきのグガランナも、マアンナだってそうでしょう!?」

「その根拠は?」

「偽物だから出力に差があった、それで十分!!」

「へえ。少し弱いですが、正解をあげてもいいですよ」

 

 光条が織り成す射撃戦。真作は贋作が放つ矢のことごとくを押し返し、目と鼻の先にまで距離を詰める。

 双方共に射撃が通じる間合いではない。イシュタルは拳を握り固め、サクラの顔面に叩きつける。血と脳漿が飛び散り、左足をぐらつく体に突き刺した。

 どぷん、と影が波打つ。鳩尾に刺した足は影に呑まれ、固定される。

 ずぶずぶと足首を、膝を呑み込んでいきながら、サクラは巻き戻るように再生する顔面をイシュタルに近付けた。

 

「アナタの言う通り、私の創るモノは全部偽物です。そのせいで本物のタカミムスヒに一杯食わされもしましたが……」

 

 それは捕食ではなく侵食。

 イシュタルという女神を無明の影によって再構成する悪食。

 自身を構成する血と骨と肉が別のナニカに変化させられる直前、女神は先程手に入れた天叢雲剣を無造作に振るい、相手を細切れにする。

 呑まれていた左足に外見の変化はない。しかし、本来あるはずの魔力が、神気が、神秘が、そこからは失われていた。あと一瞬対応が遅れていればどうなったのか、想像もできない。

 細切れにされたサクラはその肉片のひとつひとつが意思を持ち合わせているかのように寄り集まり、元の形に戻る。まるで粘土をこねているみたいな再生だ。

 イシュタルは動きの鈍い左足に息を吹きかけて、真っ向から牙を剥いた。

 

「こんのぉ……もう全殺しよ!! 『山脈震撼す(アンガルタ)─────」

「……こんな言葉を知っていますか?」

「─────明星の薪(キガルシュ)』!!!」

 

 大気が揺れ、暴風が吹き荒れる最中。

 イシュタルは確かにその言葉を聞いた。

 

 

 

 

 

「偽物が本物に敵わないなんて道理はない、って」

 

 

 

 

 

 瞬間、天空に光が満ちる。

 金星そのものを弾丸とした一撃が、サクラに向けて真っ直ぐに墜ち───────

 

「『『『山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)』』』」

 

 ────三発の閃光が、天へと射出された。

 その時、イシュタルが垣間見たのは、サクラの周囲に展開された三機のマアンナ。模倣、贋作なれどその出力差はイシュタルに比して三倍弱。それは真作を凌駕するに値する威力を実現していた。

 自らの攻撃が押し返されることを確信したイシュタルはその寸前、涙目で叫んだ。

 

「な……ッ。なによそのインチキは〜〜〜っ!!?!?」

 

 空の向こう側にイシュタルが消えていく。

 サクラは満足気にそれを眺めて、額を袖で拭った。

 

「…………あぁ。汗かかないように作り変えてたんでした」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 所変わって世界の裏側、永遠の交差点。

 Eチームがゲーデの領域に来た時から、時間にして22時間ほど経った頃。彼らの起き抜けに、ゲーデは言った。

 

「喜べ。お前たちをバビロニアに送る準備ができた」

 

 彼の宴会に付き合わされたノアたちは皆一様にげっそりとした顔で、力なく拍手する。自身の代謝機能を操作できるノアを持ってしても、物理的な胃の容積というものがある。ゲーデのザルっぷりには打ち勝てなかったのだ。

 何はともあれ、ゲーデの言ったことは喜ぶべきだ。レイシフトの手間が省けるうえ、カルデアとの通信は途絶しており、迅速な報告が求められる。混乱状態にあるであろうカルデアをまとめる男がロマニであることは不安だが。

 贈り物の髪留めでまとめられた赤い髪の房が小気味よく揺れる。

 

「いよいよ最後の特異点!! 気合い入れていきましょう! 二日酔いなんてしてる場合じゃないですよ!!」

 

 Eチームの中で唯一本調子なのが、極東出身のアホマスターこと藤丸立香だった。

 いつにも増して快活さを全面に押し出してくる彼女は、頭を押さえてうずくまるノアの肩を前後に揺らしていた。吐くものも吐き尽くした哀れな男は消え入るように小さい声で抗議する。

 

「うるせえ……音量下げろじゃじゃ馬娘が。こちとらおまえが寝てからもゲーデに付き合ってたんだぞ」

「そういえば、ペレアスさんもダンテさんも撃沈してますね」

「こんなに飲まされたのは円卓に就任した時以来だぜ……ラモラックの寝相の悪さを知れたのは良い思い出だった……」

「私も故郷を追放されて放浪してた時は酒に溺れてましたねえ……なんか変な商人に宝石を丸呑みさせられて、気付いたら地獄にいましたが」

「地獄行く経緯が謎すぎません?」

 

 神曲の中では、ダンテは人生の道半ばで正道を踏み外した末に地獄に迷い込んでいる。宝石を丸呑みするなんて行為はまさに正道を外れていると言えなくもないが。

 そんな謎はどうでもいいとして。ノアたち同様二日酔いに苦しむジャンヌは口元と腹部を手で庇いつつ、細い声で喋り始める。

 

「で……バビロニアに送るって、カルデアに帰るんじゃないわけ?」

「うむ。先程サクラが特異点に到着した。グズグズしているとお前たちの状況は瞬く間に不利になるぞ。ただでさえバビロニアは魔術王の本命であるしな」

「先輩、最後の特異点が本命って負ける度に持ちキャラを変える人みたいな趣を感じませんか」

「うん。予防線張りすぎだよね」

「お二人は神をも畏れませんわね?」

 

 さしもの湖の乙女リースも苦笑いする言い草だった。彼女とて精霊、魔術には人並み以上……妖精並み以上には精通している。仮称ソロモン王に唾を吐くのはなかなか遠慮したかった。

 

「ソロモン王モドキの本命とやらには恐れる要素なんか微塵もねえ。御託はいいからさっさと俺たちをバビロニアに送れ」

 

 ゲーデはこくりと頷く。するとミニチュアを入れ替えるように街並みが変形し、交差点がT字路になる。

 ノアたちから見て前方、横一直線にまたがる歩道。ゲーデはどこからともなく木組みの看板を取り出し、地面に打ち込む。その看板には『←ギニア ウルク→』と書かれていた。

 

「さて、お前たちにはふたつの道が」

「ウルクだな、行くぞ」

「こんなことのために看板作るとかアホだろ」

「ブラジルなら迷ってたかもしれませんがねえ」

 

 渾身のボケをスルーされたゲーデ。悲しげな表情をする彼の前を、Eチームはすたすたと通っていった。ゲーデは彼らの背に声をかける。

 

「俺としても供物が届けられなくなるのは心苦しい。お前たちの勝利を祈っている」

 

 それと、と彼は付け加えて、

 

「この前、花嫁衣裳のネロ・クラウディウスが此処に来たぞ。いずれ会う日もあるだろう。その時も彼女が白いままとは限らんがな」

 

 その言葉の内容に疑問を覚えかけるよりも速く、Eチームの意識は時間も空間も超えた先のウルクへと飛んだ。

 身体と精神が異なる物質界に適応する、擬似的なレイシフト。適性を持たぬ人間であればそこで終わり。肉体はともかく、霊体は跡形もなく霧散するだろう。

 けれど、立香とノアにはそんなことは何ら障害にはなり得なかった。かたや人類最高峰のレイシフト適性を有する人間、かたや精神や魂といった曖昧なモノをこそ是とする魔術師。自我の融解を耐え、遂に残るひとつの特異点に辿り着く。

 およそ生気の感じられなかった黄泉路から、浮世への転移は奇妙な浮遊感を伴った。澄んだ空気が肺に満たされ、風が肌を撫で付ける。やや重いまぶたを開くと、視界には広く青い大空が飛び込んでくる。

 というか、そこは空のど真ん中。雲さえ下に見える高空だった。

 

「…………ギャアアアアアアア!!?」

 

 立香は清楚という概念をかなぐり捨てて絶叫した。脳の片隅に残った冷静な部分は即座に周囲を見渡し、自身と同じく大空をダイブする仲間たちを確認する。

 まさかゲーデに騙されたのでは。そんな考えがよぎったその時、懐に忍ばせていた通信機が軽妙な音を立てた。

 目の下に真っ黒なクマを作り、額に冷えピタを貼ったロマンがホログラムとして投射される。若干薄汚れた白衣を着崩した彼は左手に持つエナジードリンクの缶を握り潰して笑う。

 

「『よ、ようやく繋がった!! マスター二人の存在証明も確認! みんな無事で何よりだ!!』」

「これのどこが無事に見えるんですかドクター!? エクストリーム投身自殺中なんですけど!!」

「『はは、嫌だなあ立香ちゃん。そこは高天原なんだから高度的には……急速落下!? しかも日本じゃなくてバビロニアじゃないか!! ちょっと調べる時間を…………』」

「その間に全員ミンチになります!!」

 

 苛立ちを感じる余裕はない。上空故の気圧の低さと酸素の薄さは強化魔術と拙いながらも風の元素変換で凌ぐ。自身の成長ぶりに感動を覚える暇もなかった。

 不意にダンテの笑い声が響き渡る。彼は狂ったように叫び声をあげて、満面に正気のない笑顔を貼り付ける。

 

「皆さん、祈りましょう! 全能なる父はいつでも私たちを見守ってくださっています!! ええ、地獄から帰ってきた男とは私のことですから!!」

「『低酸素症から来る意識障害かな。心なしかまばたきの回数も増えてるね。もうすぐ失神するかも』」

「冷静に診断してる場合か!? おいノア、天才なら何とかしてみせろ!!」

「当たり前だ、もうやった!!」

 

 ノアはゲンドゥルの杖を手に取り、ルーンを刻んでいた。対象者に上空での活動を可能とする飛行のルーン。それは第六特異点で見せた悪用とは違い、真っ当な効力を発揮した。

 次の瞬間、高速で落下していた体がふわりと浮き上がる。念じただけでその現象は起こり、徐々に高度を下げていく。ただ正気を失っているダンテだけは物理演算がバグったかのように縦横無尽に飛び回っている。

 若干名を除いてようやく落ち着きを取り戻したEチームは胸を撫で下ろして安堵する。マシュは取り繕うみたいに余裕の笑みを浮かべた。

 

「ふう……なんとか事態は落ち着きましたね。正直漏らすかと思いました」

 

 未だ二日酔いに苦しむジャンヌは青い顔で答える。

 

「本音は漏れてますけどね。……うぶっ」

「おや、ジャンヌさんは本音どころか吐瀉物をぶちまけそうな勢いですね。一度吐いてしまえば楽になりますよ?」

「マシュマロなすび如きが触れようとしないでくれますぅ!?」

「もしかして照れてます? 抱き締めてあげましょうか?」

「や、め、ろ!!」

 

 マシュは完全にジャンヌを食物連鎖の下位として認識していた。そんなじゃれ合いを後ろ目にしつつ、ロマンはへこんだエナジードリンクの中身を呷り下す。

 

「『そ……それで、みんなは三日も何処にいたんだい? こっちではいくら手を尽しても見つからなかったんだけど』」

「三日? 私たちの方は一日くらいしか経ってませんよ?」

「ゲーデのところにいたせいだな。俺たちの次元とは時間の流れが違うんだろう。空の上にいるのも、ウルクを対象にした移動が弾かれる術式が編まれてたはずだ」

「『……うん、とりあえず、分かってないけど分かったことにしておこう。まずは地に足つけないと、落ち着いて情報共有もできない』」

 

 ノアは悪役のお手本のような傲慢な笑顔を貼り付けた。

 

「俺のルーン魔術を侮ってんのか? この飛行のルーンなら投身自殺も遊覧飛行に様変わりだ、俺がやられでもしねえ限りな。加えて俺は天才だからそんなことは100%ありえない。つまり─────」

 

 そこで、彼の言葉は止まる。

 突如上から降ってきた黒髪の女性。その頭部が、ノアの脳天にぐしゃりと衝突していた。宝石をはめ込んだような瞳が裏返り、ふっとルーンの光が途絶えた。

 そうして始まるのは先程までの焼き直し。空中から地上への悪夢のダイブである。

 立香は血の気が急速に引いていくのを感じた。

 

「…………100%超えてきたァァァ!!?」

「いやどんな確率!? つーか誰だその女!!?」

「きゃーっ♡ 怖いですわペレアス様〜っ♡ いつものように私めを力強く抱き締めてくださいませ〜っ♡♡」

「死の恐怖より三大欲求が勝るとかこの精霊、やはり無敵なのでは……!?」

 

 ばたばたと風を受けながら、マシュは戦慄した。

 この間にも落下は続いており、ペルシア湾の恵みを享けた豊かな大地が迫ってきていた。数秒後には大地の赤いシミとなることが決定している。

 ジャンヌはムンクの叫びのように大口を開けて、

 

「いやああああああ死ぬうううううう!!! あ、でも私だけジェット噴射で生き残れるかも!?」

「結局私が死ぬからジャンヌも消滅するよね。死ぬ前にお腹いっぱいになるまで食べてみたかったなぁ……」

「立香さんは毎食おかわりまでした上におやつも食べてますよねえ!?」

「くっ、こうなったらわたしが宝具を使います!! ───『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』!!」

 

 地面に叩きつけられる直前。マシュは盾を構えて宝具を展開する。

 白亜の城壁がEチーム全員と黒髪の女性が挽き肉になって余りある衝撃の全てを吸収する。宝具が解かれ、彼女たちは地面に尻もちをついた。

 立香は足腰を震わせて、肩で息をする。

 

「し、死ぬかと思った……ありがとうマシュ」

「Eチームのメイン盾なので! 黄金の鉄の塊で出来ているシールダーが皮装備のクラスに遅れを取るはずはありません!!」

「『見てるこっちは心臓引き千切れそうだったけどね。とにかくノアくんと空から降ってきた女の人を診よう』」

 

 ロマニ・アーキマンは腐っても医者である。怪我人の病状を診るくらいわけはない。

 絶賛気絶中の二人は示し合わせたかのように白い目をしていた。ノアは脳震盪を起こしているだけだが、どことなくうっかりミスをやらかしそうな女性の方は総身に浅からぬ傷がある。

 だが、医者の適切な判断と治癒魔術があればそうそう人は死なない。立香たちは十数分ほど処置に時間を費やすと、無駄に生命力に溢れた二人はぱっちり目を覚ました。

 黒髪の女は勢い良く起き上がる。

 

「グガランナ落としたぁーっ!!」

「うわっ!? いきなりどうしたんですかこの人!?」

「ヒトぉ!? 人間と一緒にされるなんて心外の極みだわ! 私はイシュタル、優雅で華麗で大胆な金星の女神よ!!」

「『……超ビッグネームじゃないか!! ゲーデといい、なんで今日は神様の名前ばっかり聞くんだ!?』」

 

 ロマンは思わず引っくり返った。イシュタルは古代メソポタミアにおいて最大級の崇拝を集めた女神であり、後世、彼女の影響を受けて成立したとされる神格は枚挙に暇がない。

 ノアは頭頂部に氷水が入った袋をノーハンドで載せて、苛立たしげに問い詰める。

 

「こいつがどんなに偉い神だろうが関係ねえだろ。なんであんなとこに落っこちてきたか言え、そして謝罪しろ」

「あんなとこにいたそっちが悪い。そして私は被害者よ。サクラとかいうのに負け……相討ち……いや、ほぼほぼ勝ったみたいなものだったのに、最後っ屁で吹っ飛ばされただけなんだから」

「その言い草は純然たる負けだろ、ほぼほぼ負けだろ。記憶の改竄やめろ」

「あれは史上稀に見る大激闘だったわ……で、貴女たちが私を助けてくれたのね?」

 

 イシュタルはノアの追及を優雅に無視して、何食わぬ顔で立香に向き直った。

 

「はい。目に見えるところは全部治したんですけど、大丈夫そうですか?」

「まあね。人間にしてはまあまあの手並みよ。お礼は……私の体に触れた経験、でいいかしら。元の体よりは大分貧相だけど、本当ならそこら辺の人間の一生なんてワンタッチにも引き換えられないんだし」

「そ、そうですね」

 

 立香は苦い笑みを浮かべる。

 傲慢な性格をしたヤツの相手は慣れている。その対応の秘訣としてはやはり、真正面からぶつかろうとしないことだろう。力の強い相手にまともに当たっても押し返されるだけだ。

 じゃあね、と告げて飛び去るイシュタル。嵐を呼ぶ金星の女神の光跡が空の彼方に飛んでいくが、途中で弧を描いて戻ってくる。

 イシュタルはさっきまでの何食わぬ顔を取り繕い、指に髪の毛の先をくるくると巻きつけた。

 

「……見返りとか、求めなさいよ。人間なんだし。助けられっぱなしもアレだし。ちょっとくらいなら融通してあげなくもないわ」

 

 ほのかに赤面する女神。立香は声が聞かれぬように、瞬時にノアの耳元に囁く。

 

「どうしましょう、リーダー。態度の割にすごい可愛らしい神様です! ギャップ萌えを意識してきてます!!」

「おいおい、神話では大抵そうやって絆されたやつから不幸な目に遭っていくんだよ。手始めに全財産むしり取るぞ」

「全財産没収から始まることなんて何もないんですが。カイジの世界ですか」

 

 と、相談している間に、マシュはカメラを持ち出してイシュタルににじり寄っていた。

 

「手のひらで目線を隠した写真を撮らせていただけると、弱みが握れ……いえ、もっと信徒が増えるかと」

「ほ、ほんとに?」

「やめなさい邪悪なすび!!」

「マシュさんはもはや名前の後ろにオルタをつけるべきでは?」

「最近どっちがオルタか分からなくなってきたからな」

 

 マシュを除くサーヴァント諸君で彼女の凶行を食い止める。ロマンはその光景を涙を流して眺めていた。もちろん悪い意味の涙である。

 イシュタルは深い青色の宝石、ラピスラズリを立香に渡す。卵ほどの大粒の宝石にはつい目を奪うような魔力が込められていた。

 

「助けが欲しかったらこれに念じなさい。飛んでってあげる。元の私ならこんなことしなかったんだけど、ま、心の贅肉ね」

「へえ〜、太ってるんですか?」

「たとえよ、たとえ!! じゃあ、そういうことだから。もしあの金ピカに会うつもりなら気をつけなさい、特にそこの白髪!!」

「言われてんぞ、放火魔女」

「どう考えてもアンタのことでしょうが!!」

 

 ということで、今度こそイシュタルはどこかへ飛び去って行った。単なる思いつきで霊峰を滅ぼした逸話からも彼女の気性の荒さはうかがえるが、こうして無事に収まったのは奇跡とも言える結果であろう。

 金星の女神が去って一息つくと、Eチームは顔を見合わせて、その次に立香の手のひらの上に乗るラピスラズリに視線を移した。

 

「……イシュタルさん印の宝石っていくらで売れます?」

「魔術的には価格がつかずに奪い合うような代物だぞ。少なくともエルメロイⅡ世の胃は破れるだろうな」

「『むしろ売るより持ってた方が価値があるものだね。管理は立香ちゃんに任せるとして、日が沈む前にウルクを目指そう』」

「あ、ドクター。この特異点はどんな時代なんですか? 今回はレイシフト前の勉強会もブリーフィングもなかったので……」

 

 ロマンは力強く頷き返す。

 第七特異点、バビロニア。年代は紀元前2655年。今までの特異点で唯一救世主誕生以前の時代に築かれた、人類史に対する最後の楔だ。

 ゲーデが転移先に設定したウルクはシュメールの都市国家であり、この時代においてはギルガメッシュという名の王が治世を行っている。

 

「『ノアくんと立香ちゃんはギルガメッシュ王のことは知っているかい?』」

「日本の深夜番組だろ、ナメんな」

「エクスカリパー使う敵キャラですよね」

「『…………うん。とにかくすごい王様だってことは覚えといて』」

 

 ロマンはこの二人にまともな知識を求めたことが間違いだったと思い知った。

 兎にも角にも、この時代のキーパーソンはギルガメッシュだ。ウルクは彼の居城であり、聖杯に繋がる可能性が高い。あいにく、直接ウルクへ転移する手段は妨害されていた訳だが。

 ならば、徒歩でウルクを目指すのみ。

 後はいつも通り。徒歩の移動には慣れたものだった。その途中で、マシュはすっとんきょうな声をあげる。

 

「そういえば、ドクター。武蔵さんが言っていたことはどうなったんですか?」

 

 それを聞いて、マシュ除くEチームは首を傾げた。

 

「いつの話してんだ。もう誰も覚えてねえよ」

「時系列的につい最近のことですからね!? ほら、確か〝コフィンの中に凍結されてるマスターの状態を確認してみろ〟とか、しかもホームズさんの伝言で!!」

「私は分からなくても別に……」

「ど、ドクターも聞いていたはずです! そうでしょう、ドク……」

 

 マシュが振り返った先には、仰向けに倒れるロマンの投射映像があった。おそらくカルデアでは床に転がって気絶しているのだろう。

 途端にホログラムが途絶し、即座に復活する。ただし映し出されたのはロマンではなく、ダ・ヴィンチちゃんであった。

 彼、もしくは彼女はほわほわと湯気の立つ紅茶を嗜みながら、

 

「『我らがカルデア指揮官ロマニ・アーキマンはみんなが失踪した三日間不眠不休でね、ついさっき限界が来てしまった。という訳でここからは私が代わるよ』」

「俺が造っといた霊薬を使わせろ。二十日間は不眠不休かつ絶食状態でも働けるはずだ」

「『うん、試しにムニエルくんに服用させてみたんだけど、脳の方が耐え切れなかったのか全裸で廊下を疾走する奇行に走ってね。全面的に使用が禁止されることになったんだ』」

「劇薬にも程があるだろ!!!」

 

 ペレアスは目くじらを立てて叫ぶ。薬の歴史と人体実験は切っても切り離せない関係にある。こうしてまたひとり、新薬の開発のために尊い犠牲が発生したのだった。

 

「『で、その伝言についてだけど。ムニエルくんの調査で衝撃の事実が発覚してね。コフィンに凍結されてたはずのAチームが綺麗さっぱり姿を消してたんだ。神隠しってヤツかな?』」

「カルデア七不思議に追加しましょう。『爆熱! 燃え盛るフランス少女』と合わせて」

「『恐怖! 歩くデカなすび』に言われたくないわ!!」

「『今までなぜ気付かなかったのかというと、魔術での偽装に加えて機材も弄られていたみたいだ。どちらかだけならメンテナンスの際に分かるんだけどね、Aチームのコフィン自体に認知を歪める仕掛けが施されていたみたいだ。つまり、私たちが気付くかなり前から中身は空にされていたんだろう』」

 

 合間に余計なやり取りが挟まったが、ダ・ヴィンチの言わんとすることは伝わった。現時点、自分たちが持っている情報の中でそんな偽装を仕組める者は少ない。

 しかも、魔術王すらも見通せない時間と空間の孤島、カルデアに移動できる手段を持つ人間といえば。

 立香はじとりとした目で言った。

 

「またまたシモン・マグスですか。出番少ないくせにちょくちょく存在感出してくるのがムカつきますね」

「『私も立香ちゃんと同じ気持ちさ。ただ、次元跳躍があったとしてもカルデアに来れるとは限らない。座標が不明だからね。海図も羅針盤もナシで航海するようなものだよ』」

「いいや、カルデアの座標は不明だっただろうが、カルデアにいる人間の位置は分かってたはずだ。どっちを対象に取るにしろ、結果は同じだからな」

「『……ふむ、すなわちノアくんか。シモンの子孫を始末した君なら、確かに縁はバッチリだ。次元跳躍があるなら縁を辿るだけなんだから、楽勝と言って良い』」

 

 レフ・ライノールが仕掛けた爆弾が起動した直後のタイミングならば、カルデアの機能は完全に麻痺していた。シモンが動いたのはその際だっただろう。

 そこまでの話を聞いて、ダンテは何の気無しに、

 

「シモン・マグスはなぜAチームの皆さんを連れ去った……もしくは消したのでしょうか」

 

 素朴な、しかし核心を突くであろう疑問。ペレアスは直感で答えを返す。

 

「そりゃあ、自分で何かするためだろ?」

「Aチームの人に恋してる可能性もありますわ。倒錯した愛は恐ろしいですから。ねえ、立香さん?」

「リースさんが言うと説得力がすごい……」

「『天才ダ・ヴィンチちゃんの逆張り精神から言わせてもらうと、自分で何かするためじゃなくて、何かさせないためかもしれないぜ? ほら、絶対に性格悪いだろアイツ。マラソン大会で一緒に走る約束した友達を出し抜くタイプだよ』」

「それかテスト直前に勉強してないアピールするタイプですね」

 

 立香はカルデア来襲前の学生生活を思い出して、しみじみと述べた。マシュはその背中に忍び寄ると、小さく低いながらもよく通る声で囁く。

 

「先輩。出し抜くに関連して、ひとつ気になっていることがありまして」

「き、聞くだけ聞きましょう、我がサーヴァントよ」

「昨日のことなのですが……先輩、耐毒スキルがあってもアルコールは効くんですね」

「………………あっ」

 

 マシュは己がマスターの動揺を見逃さなかった。反論を許す間もなく、怒涛の勢いで言葉を並べ立てて押し付ける。

 

「毒の定義をその生物の生命活動に不利益をもたらし、停止させるものだとすると、アルコールは過剰摂取すれば毒になり得ます。そこで問題なのが耐毒スキルはどのように作用するかですが、静謐さんに触れられたことから一定量の毒は完璧に無効化し、閾値を越えた毒は症状を軽減するといった風に働くと思われます。しかるに、お酒を一杯や二杯飲んだところで先輩は酔うことができないはずなのです」

「……な、なにが言いたいのです?」

「結論を述べると、先輩はシラフでリーダーに甘えていたということになります。その真偽についてはいかがですか」

 

 立香は少し考え込んで。

 月光に濡れる華のように微笑んだ。

 

「───それは、秘密」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 都市国家ウルク、中央神殿聖塔。

 世界で最も古い物語のひとつとされるギルガメッシュ叙事詩。メソポタミア文明を築いたシュメール人は、ウルク第一王朝における伝説の王の物語を遥か未来へと遺した。

 唯一無二の親友、神の泥人形エルキドゥとの出会い。レバノン杉の森に棲む魔獣フンババの討伐。求婚を断られた腹いせにグガランナをけしかけたイシュタル。人間との混血故に永遠の命を持たぬギルガメッシュはエルキドゥの死に際して、不死の霊薬を求める旅に出発することとなるのだ。

 玉座の間。王の聖殿たるその場には、無数の人間が慌ただしく行き交っていた。ギルガメッシュは次々と提出される報告書の粘土板を目に通しながら、入れ替わり立ち替わりにやってくる報告者の話に耳を傾ける。

 聖徳太子もパンクするような激務に晒されながら、王は指示を飛ばす。

 

「北壁の侵攻は当分有り得ぬ。レオニダスを呼び戻しておけ、兵の調練に就かせる。都市城壁の建築は宮廷魔術師コンビに一任しろ、花びらヒラヒラさせてる方の尻を叩くのを忘れるなよ。───なに? イシュタルめが傷だらけで空を吹っ飛んでいただと? フッ、ふはははははははッ!! ざまを見ろ駄女神が!! 良い情報を聞いた、目撃者には我から褒美を贈ると伝えよ!!」

 

 お手本のような傲慢かつ不遜な笑い声が神殿に轟いた。イシュタルは親友エルキドゥの死の原因となった女神である。ギルガメッシュの嘲笑は当然と言えば当然だろう。

 現在、ウルクは強大な敵との戦いの最中にある。そのため、頂点たる王から国を支える民のひとりひとりが余すことなく、一丸となって事態に立ち向かっていた。

 この国にはなにひとつとして無駄な部分は存在しない。誰もが重要な役割を担い、それを果たしている。

 無駄がないということは完璧であるということ。

 ───だが、得てして完璧とは、異物の侵入によって儚く崩れ去る運命にあるのだ。

 ギルガメッシュの千里眼は未来視の域にある。その精度は平行世界の可能性をも見通せるほど。ただし未来の一場面を覗くようなものであり、結果に至る過程が曖昧な場合もある。

 

「ここがウルクの神殿か。金目のモノばかりじゃねえか。特異点攻略の暁には根こそぎ持っていくか」

「そんなことより写真撮りましょうよ。なんか王様も忙しいみたいですし」

「市街で買ってきた串焼きや包み焼きもあります。わたしの盾、もといテーブルでおやつにしましょう」

「アンタにしてはなかなか気が利くじゃない」

「待ってくださいジャンヌさん。マシュさんのことですから、何か混ぜているかもしれせん」

「幸運E組は気を付けたほうがいいな。オレはA+だから問題ないが」

フォウフォフォウ(地味にマウント取るな)

「ペレアス様と初めて口づけを交した時を思い出して鼻血が出てきましたわ」

 

 そして、如何に未来を視ると言っても、映画を見直して再度感動や衝撃を得たりするように。

 

(雑種が八匹────だと!!?)

 

 いざその時が来れば、失望と軽蔑と驚愕を抱くのは避けられないことであった。

 しかも、二度目は一度目よりも理解が深まることがあるように、雑種一匹一匹のアホ面がより鮮明に脳に入ってくる。限りなく無駄しかない情報に汚染され、憤懣は募る一方だ。

 さらに、雑種たちはあろうことか広間の隅で料理を並べて談笑に耽る。不敬や無礼といった言語表現を飛び越えた惨状が繰り広げられていた。

 粘土板の文字を追う目が滑り、鼓膜に届く声が耳鳴りのようにすら聞こえてくる。つい立ちくらみを起こしかけたギルガメッシュ。そこに彼の信頼する臣下、ウルクの祭祀長シドゥリがやってくる。

 

「ついにこの時が来たようですね。私が応対いたしましょうか」

「う、うむ。いずれ奴らの戦力が必要になるとはいえ、あのような雑種の群れにくれてやる言葉など無いわ」

 

 シドゥリは優雅に頷き、雑種の群れへと歩んでいった。

 彼女は人間ながら非常に優秀な祭祀長である。ウルクをほっぽり出して不死の霊薬を探していたギルガメッシュを叱りつけ、国家の再建を支えた忠実な部下だ。

 すなわち、シドゥリもまた完璧なるウルクを構成する歯車のひとつ。この時代に歯車はないが。

 一息入れる間もなく、ギルガメッシュは仕事に戻る。

 ちらりと雑種たちを流し見ると、

 

「祭祀長ってどんな仕事してるんですか?」

「文字通り、神や王に対する儀式の準備から実行を執り行っております。行事の際も同じですね。王の補佐官も務めていますので、事務仕事なんかもしています」

「おお、古代のキャリアウーマン……!!」

「ウルクを円滑に回す潤滑油か。俺と同じじゃねえか」

「サラダ油とかいうアホな受け答えした人とは違いますよね」

 

 信じて送り出したシドゥリは雑種たちとともに一足早い昼食を摂っていた。ギルガメッシュは手に持っていた粘土板を握り砕き、

 

「何をやっておるかシドゥリィーッ!!」

「……ハッ!! 私が食欲に取り憑かれるなんて、このシドゥリ一生の不覚───!!」

「もうよいわ! あの宮廷魔術師コンビを呼べ! 十秒以内に!!」

 

 シドゥリはランサー並みの走力で王の間を飛び出ていく。

 そこで、Eチーム一行とギルガメッシュは初めて目を合わせた。血に濡れた紅玉の如き瞳は語気に反して冷ややかなまでの静けさを保っている。

 ノアは立香に振り向いて、

 

「黙りこくってどうしたんだあいつ。コミュニケーションに難ありか?」

 

 その直後、どこからともなく落下した大岩に叩き潰された。

 ペレアスとダンテは床のシミと化したマスターをしばらく眺めて、ぼそりとこぼす。

 

「「…………だと思った」」

 

 場の意見はその二人の感想で十分だった。しばしの沈黙のあと、王の間は普段通りの賑わいを取り戻す。ウルクの民は空気を読む力に長けているのだ。

 清掃員が床の汚れを落とそうとしていると、シドゥリが全力疾走で戻ってくる。

 

「き、宮廷魔術師を呼んで参りました!」

 

 シドゥリに並ぶ二人の魔術師。人ならぬ妖精の気配を備える彼らを視界に捉え、Eチーム一行───特にペレアスとリースとフォウくん───は一斉に目を丸くした。

 第五特異点の終わりも終わり、アルジュナとカルナの決闘を見届けたEチームの前に現れた花の魔術師、マーリン。彼は緩やかに口角を上げ、その傍らにはリースと全く同じ顔の、しかし仏頂面な女性がいた。前者は白き杖を、後者は氷の杖を手に、Eチーム一行のもとに歩み寄る。

 

「やあ、久しぶりだねペレアスくん! 奥さんには会えたようで何よりだよ」

「───お姉様ですわっ!! あなた様、見てくださいませ!!」

「ああ、確かに義姉さんだ。こんなところに召喚されてたのか」

フォウフォウフォフォウ(つーか横にいるやつ誰だよ)

「……………………あ、アレ?」

 

 マーリンを押し退けるように、リースと同じ顔の女性が進み出る。黒い二つ結び(ツインテール)を氷のリボンで結んだ彼女は、立香たちに向けてうやうやしく礼をした。

 

「湖の乙女の長女よ。妹たちと違って名前はないけれど、今はエレインという記号(なまえ)を使っているわ。共に戦いましょう、人類最後のマスターさん」

 

 湖の乙女の長女───エレインは微笑をたたえて、細くひんやりとした指で立香の手を包んだ。

 リースと同じ顔で同じ声。だというのに、纏い持つ空気は全くの逆だ。それすらも湖の乙女という精霊の一面を切り取ったに過ぎないのかもしれないが、立香が抱いた感想は簡潔だった。

 

「───本当にリースさんのお姉さんなんですか!? 全然ドスケベじゃない!!」

「清楚オーラが迸っています。わたしのように」

フォフォウフォフォウ(何言ってんだこのなすび)?」

「でも、私たち姉妹は同一存在ですわ。つまるところ、お姉様も根はドスケ」

「ふんっ!!」

 

 エレインは手に握る杖を野球バットのような形状にして、リースの臀部に叩きつけた。リースはどさりと倒れ込む。

 

「ンギャーッ! いってえですわーっ!!」

「こんなのも避けられないなんて、弱体化も甚だしいわね。妖精眼も失ってるみたいだし……本当に愛だけでペレアスの召喚に着いてきたのね。ごめんなさい、こんな見苦しいところを見せてしまって」

「いえ、日常のように見せられているので気にしないでください」

「むしろスカッとしたわ。姉の方は信頼できそうじゃない」

 

 立香とジャンヌはエレインの肩に手を置いた。歴戦の戦士じみた反応に、エレインは無機質な表情を引きつらせる。

 リースはテレビの中から這い出してくる幽霊界の大スターみたいになりながら、ペレアスの腕の中に自身の体を押し込んだ。

 

「ぺ、ペレアス様……患部を擦ってくださいませ……揉みしだくように……♡♡」

「我が嫁ながら転んでもただじゃ起きねえなこいつ───!?」

「あの、そろそろ伝説の魔術師マーリンくんにも触れてもらえると助かるんだけど。このまま無視されるようなら王の話百連発いっちゃおうかなァーー!!?」

 

 まぶたに涙をうるませるマーリン。哀れに思ったダンテは腫れ物を扱うように話しかける。

 

「わ、私はマーリンさんに興味がありますよ! ええ、生前からアーサー王の物語は妻と読んでいましたし、ペリノア王の手からアーサー王を守った場面とかかっこいいですし! だから元気出してください!」

「かの桂冠詩人ダンテから褒められるとは光栄だ。ちなみに奥さんは私のどの場面が好きなのかな?」

「マーリンさんが塔に幽閉されるところですね。お腹抱えて笑ってました。ああ、確か魔法の森でさまようバージョンもありましたよね?」

「……訊かなきゃよかった」

 

 といったところで、カルデアから一部始終を聞き届けていたダ・ヴィンチちゃんが会話に割って入る。

 

「『それで、どうしてエレインさんとマーリンが呼び出されたのかな? 宮廷魔術師コンビなんて言われてたけど』」

「え、なんで呼び捨て?」

「そうね。私から説明するわ」

 

 湖の乙女エレイン(仮称)は流れる水のように言の葉を紡ぎ出す。当然、花びらが流水の勢いに勝てるはずもなかった。

 

「ギルガメッシュ王は貴女たちEチームと共に戦うことをお望みよ。ただし、それは今の貴女たちとではない」

 

 氷の杖が石造りの床を小突くと、エレインの背後に四枚の氷のスクリーンが浮かび上がる。

 その氷板にはウルクの市街と、そこに暮らす国民の姿が映し出されていた。

 

「Eチームと共に肩を並べ、共に世界を護る仲間。すなわちウルクの民のことを知りなさい。その過程で王への理解も深まるはずよ」

「『国民全員にインタビューでもすれば良いのかい?』」

「いいえ。Eチームの各人には一週間ウルクの街で働いてもらうわ。名付けて、『お仕事仲良しハッピー大作戦』よ!!」

 

 エレインは自信満々に胸を張って言い切った。ペレアスとリースは同時に顔を伏せる。

 

「義姉さんのネーミングセンスは相変わらずか……!!」

「どこぞのタコ宇宙人みたいですわ……!!」

「…………言いたいことがあるなら面と向かって言いなさい? ペレアス、リース」

 

 ペレアス夫妻は黙り込む。さしもの円卓の騎士と湖の乙女とはいえ、姉に睨まれては勝ち目はない。

 マーリンがそんな空気を読むはずがなく、ニコニコとした笑顔で補足した。

 

「ということだ、Eチームの諸君! 見学の後に希望職種を訊くからそのつもりで! ギルガメッシュ王は難儀な人でね、こういう過程をしっかりしないと話も聞いてくれないのさ! ハッキリ言ってコミュニケーションに難があ」

 

 ノアの焼き直しのように巨大な岩に押し潰されて、マーリンは床のシミになった。ノアの血痕を掃除していた清掃員は舌打ちをして、雑巾がけを行う。

 エレインは眉をしかめる。

 

「……このままだと死体が増える一方だから、街に出ましょうか。もうひとりのマスターは無事?」

「無事ではないですけど、放っておけばいつの間にか復活してくるんで心配いらないですよ」

「マーリンと一緒ね。良かったわ」

「主人公と重要人物の扱いがこれでいいんですかねえ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永遠の領域(プレーローマ)

 神性の充溢する世界において独りの知恵の女神は瞳の先に映る存在に言葉を返していた。

 

「……やはり蘆屋道満も英霊の端くれだったよ。英雄という連中はその力の大小に関わらず、運命を変えてみせる。私が見た未来は捻じ曲げられた」

 

 蘆屋道満は十二天将を以ってしてもなお、ニニギノミコトの神剣によって敗北していた……知恵の女神はそう告げた。

 ───ならば、貴様はここで終わるのか。

 返る言葉に、知恵の女神は答える。

 

「まさか。私は世界が終わってもらわないと困る」

 

 一糸まとわぬ肢体を、魔力で編まれた装束が覆い隠す。

 

「最後の特異点には私が出る。せいぜい見ていろよ、魔術王」



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第66話 Eチームのお仕事仲良しハッピー大作戦

 湖の乙女、仮称エレインの打ち出した『お仕事仲良しハッピー大作戦』。その内容は変人揃いのEチーム各員がウルクの街で役割を持ち、一週間の仕事に従事するというものだった。

 サファリパークの猛獣をドッグランに放つが如き所業。ただしそのドッグランことウルクを経営するのはただの人間ではなくギルガメッシュ。彼がこの作戦に当たってEチームに発した〝妙な真似をすればウルクの地下で強制労働の刑に処す〟という言葉のもとに、Eチームの奇行愚行は機先を制される形となったのである。

 一方カルデアではEチームの反応消失から三日間の捜索、シモン・マグスの工作の判明、第七特異点攻略に対する機材やシステムの変更等々激務を超えた激務に追われ、続々と職員が倒れていた。

 まさしく陰と陽、光と闇。ウルクとカルデアの格の差が露呈した瞬間であった。代わりに前者のトップは息つく間もない重労働を担っているが。

 そこでギルガメッシュから打ち出された一週間の業務従事命令。Eチームの介護は最低限で済む。カルデア職員たちは計らずも長期の休暇を得ることになった。そのおかげか、ノアが作り置きしていた霊薬もとい劇薬を投与され、廊下を全裸で走る狂気に陥ったムニエルも、下着を履くくらいの理性は取り戻すことに成功した。

 ムニエルがりんごを食べた直後のアダムとイヴ程度の羞恥心を取り戻しかけていた頃、ウルクでは六日が経っていた。奇跡的に何事も起きずに。

 最終日を目前にした夜。すやすやと眠りについていた立香の夢枕に湖の乙女が現れる。

 まさかあのドスケベ精霊が夢の中にまで侵略してきたのかと一瞬戦慄したが、髪型が異なることから平静を取り戻した。

 湖の乙女の長女、仮称エレイン。リースと同じ容姿、同じ声音ながら性格は全く違う水の精霊。彼女は月琴を響かせるかのような声で告げる。

 

〝明日はみんなの職場を回って監査をするわ。立香、あなたにはその監査官の任を与えます。……マーリンの代わりに〟

 

 寝ているのに起きている。そんな不思議な体験をしているところに、さらりと重大な使命がのしかかってきた。

 立香とて幾度となく英霊と出会ってきた身だ。神話や伝承にも多少は詳しくなった。それで言うと、人間が神や精霊からの使令を断るなど狂気の沙汰ですらない。

 そんな事情を抜きにしてもエレインの命令に文句はないが、ひとつ伝えることがあるとすれば、

 

〝……あの、普通に言えば良かったんじゃないですか?〟

〝あなただけに伝えたかったのよ。監査なのだから、抜き打ちでないと意味がないわ。特にほら、ノアトゥールはその時に限って外面を取り繕いそうでしょう〟

〝確かに〟

 

 というか、これについてはほぼ確実と言って良い。人の悪辣さを煮詰めたみたいな性格の彼が、エレインが懸念したことを行わぬはずがない。世が世なら大悪党になっていた男なのだから。

 精霊として数え切れない人間の生を見てきたエレインには何もかもお見通しなのだろう。ノアの悪運も尽きる時が来たらしい。

 

〝まあ、私には妖精眼があるから虚偽は通用しないのだけれど。起きたら私が迎えに行くまで良い子に待っていなさい〟

〝極秘作戦ですね! なんだかテンション上がってきました!〟

〝……ええ。あなたの顔を見ていたら、年甲斐もなく高揚してきたわ。明日のために今日はよく眠るのよ〟

 

 くすりと微笑むエレイン。立香はその表情から、大人の女性の余裕というものを感じ取った。同じ顔のつくりでこうも雰囲気が変わるのか、と。

 しかし、それ以上思考が続くことはなかった。エレインの魔術によるものか、まったりとした眠気に意識が沈められていく。

 意識と無意識の曖昧な境界で、立香はある声を聞いた。

 

〝…………夢枕に立つのは私の専売特許じゃないかな?〟

〝うら若き乙女の夢に入る半夢魔とか事案以外の何物でもないわ〟

フォウフォフォウ(むしろ存在が事案)

〝はい、泣きま〜〜す!!〟

 

 そういうやり取りはオフレコにしてほしい。立香は切にそう願ったのだった。

 そんなこんなで翌日。古代人の朝は早い。今のウルクは総力を挙げて敵と戦っている最中であり、一分一秒も惜しい状況だ。現代でも美徳とされる早寝早起きは当然のこと、アブラハムの宗教が誕生する以前であるため一週間に一日休む戒律も存在しない。

 ただし、曜日の概念は古代バビロニアが発祥と言われている。この時代はバリバリ天動説が幅を利かせているので曜日の並びは現代と様相を異にしているが、Eチームにも馴染みやすい制度であった。

 ちなみに、金星を基にしている金曜日はイシュタルの日だ。そのせいか、金星の日だけはギルガメッシュの機嫌がほんのり悪くなるらしい。

 シュメールの王朝において後の安息日、休日が設定されていなかったかと言えばそれは違う。週の最後の七日目は神々に対する祭儀が執り行われ、その間は様々な行動が制限される。今日は新月から数えて十四日目であるが、非常事態故に神殿で簡素な儀式をするに留まっていた。

 そんな古代バビロニア事情は置いといて。

 エレインはウルク市街を歩いて、立香たちの仮宿を目指していた。

 できる限り自然の姿を審査するため、エレインはここ数日間Eチームとの接触を遠ざけていた。情が湧いて贔屓してしまうからという理由ではない。決してない。

 妹と義弟がいる時点でその理論は崩壊しかけていたが、なんとか自分を納得させて仮宿の前に立つ。

 こほんと咳払いをして、

 

「立香、いるかしら」

 

 薄暗い室内に呼びかける。

 すると、奥の方からがたがたと物音が響き、玄関から倒れ込むようにして立香が飛び出てくる。目は半開きで寝癖は伸び放題になっており、上半身は地面につきそうなほどに前のめりになっていた。

 彼女が残した最後の意地か、寝間着ではないのが救いだろう。エレインは低血圧の極みをここに見た。立香は消え入るような音量で言う。

 

「おやすみございます」

「……睡眠導入のための魔術が効きすぎたみたいね」

 

 エレインは氷の杖の先端を立香の頬に添える。

 ひんやりとした心地の良い感触───を飛び越えて、生命の危機すら感じる冷気が脳髄に染み渡った。

 

「……冷たっ!? おはようございます!」

「はい、おはよう。目は覚めた?」

「あわや永眠するかと思ったくらいには覚醒しました」

「じゃあ行くわよ。最初は誰の職場から見ていこうかしら」

 

 立香は一も二もなく答える。

 

「リーダーのところに行きましょう。私と同じ職場ですし、放っておいたら一番やばい人だから早めに目をつけておかないと」

「有識者の意見ということね。私も異論はないわ」

 

 Eチームリーダーへのマイナス方面の厚い信頼により、最初に抜き打ち検査を受ける場所は決まった。本人がこの場にいれば反論は確実だっただろう。

 立香とエレインは並んでノアの職場へと向かう。氷の杖を携えて歩く湖の乙女はそこにありながらも遠く感じるような、人間的ならぬ風情を漂わせていた。

 神霊とはまた一風変わった気配。妖精や精霊に魅了される人間は数知れないが、立香はそれらは決して創作だけではないと思い知る。

 エレインは立香の方をちらりと見ると、言いづらそうに切り出す。

 

「その、あなたに訊きたいことがあるのだけれど」

「何ですか? 乙女の秘密以外ならどんな質問でも答えますよ!」

「恋ってどういう感情か教えてくれる?」

「乙女の秘密───!!」

 

 エリア53レベルの乙女の最重要機密だった。

 立香は即時に頭を戦闘モードに切り替える。相手の虚偽を見抜くという妖精眼がある以上、エレインに嘘は通用しない。が、思考を読まれる類でないなら、あのアホド外道白髪リーダーのことまでは露呈しないはずだ。

 恋という感情がどのようなものか教える。それだけに尽力すれば良いのだ。リスとタメを張るほど小さい脳をフル回転させて、その結論を導き出した。

 言葉の意味ならともかく、感情を教えることは難しい。言葉は共通性があるが、感情は個々人で抱くタイミングも感じ方も様々だ。立香は腕を組んで首を傾げる。

 

「とりあえず壁ドンとかしてみます? トキメキを感じられるかも」

「壁ドン……隣人が騒がしいからと壁を殴る行為のことでしょう? それは私もペレアスの屋敷に泊まった時にやったことがあるわ」

「それは元ネタの方です! あと体験談が生々しい!」

「そ、そうね。朝からする話ではなかったわ」

 

 そもそも、と立香は前置きする。

 

「どうして知りたいと思ったんですか? 私より何倍も長生きなのに」

「それはその……ほら、妹たちがアレだから…………」

「ああ……モンスターですもんね……」

 

 二人の間に流れる空気が一気に冷え込む。

 恋愛モンスター二体を妹に持ってしまった姉は辛い。しかもその二人は自身と同一存在なのだからなおさらだ。妹たちに理解できて自分に理解できぬということはない。それがエレインの懊悩の原因だと立香は思い至った。

 気まずい空気のまま歩いていくと、立香たちは広場に出た。表通りからは少し外れたその場所に響く音は少ない。エレインはどこからともなく粘土板を手に出現させる。

 

「立香とノアトゥールの仕事は寺子屋ね。この辺りのはずだけど……」

 

 現在のウルクは早朝から大人たちが働きに出てしまう。彼らの仕事は城壁の建築に魔獣の退治、軍事調練等々、農作業ならばともかく子どもが同伴できないものが多い。

 そういった事情から、親が帰ってくるまで子どもたちの面倒を見る人間が必要だった。未来を担う存在をあの邪悪の化身に任せることに関しては各所から不安の声が上がったが、立香の同伴を認めることで事無きを得たのだった。

 アホマスターコンビが揃って本当に事無きを得ているのかという疑問は脇に置いて。少なくとも今日まではノアの凶悪さも鳴りを潜めている。

 立香とエレインは周囲を見回す。広場の隅に、ノアと数人の子どもたちが地面に座り込んでいた。

 

「……つまりだな。このめしべとおしべが───」

「こ、これが生命の神秘……!!」

「すごいよノアの兄ちゃん、興奮が止まらなくなってきた……!!」

「ふっ。おまえら、その感覚を忘れるなよ。それが学びを得る素晴らしさだ。そして俺を崇め讃えろ」

「「いや、それはないけど」」

 

 ノアは何やら地面に絵を描いていた。道具として用いているのはゲンドゥルの杖。これを与えたオティヌスが見れば、苦い顔をすることは間違いない。

 それを遠巻きから観察するエレインと立香は拍子抜けした気分になる。

 

「植物の勉強かしら。なかなか真面目にやっているようね」

「ですね。てっきり裏で洗脳教育を施すくらいはしてるかと思ってました」

 

 エレインは相変わらずの信頼度に内心を冷やした。二人は授業に熱心なノアたちの後ろに忍び足で回り込んで、その様子を覗く。

 地面に描かれていたのは精巧な男体と女体だった。生命の神秘には違いないだろう。神秘すぎてモザイク必須な上に年齢制限が必要なことを除けば。

 表情を凍てつかせる立香とエレイン。そんな二人の事情などいざ知らず、ノアと子どもたちは真剣そのものの様子で授業を続ける。

 

「ここからは教科書を使うぞ。ToLOVEる全巻持ってこ───」

「ダークネスすぎるんですけどォォォ!!」

 

 赤面して黙り込むエレインを押し退けて、立香の華麗な飛び蹴りがノアの後頭部に突き刺さった。

 ノアの顔面は地面と熱烈な接吻を交わす。その衝撃でダークネスな絵は諸行無常の塵となって、風に巻かれていった。儚くも悲しげな光景を目の前にして、ノアの生徒たちは頭を抱える。

 

「ああああああ!! 人類の叡智の結晶が!!」

「叡智っていうかHじゃね」

「この時代にアルファベットないだろ」

「王様はあらゆる宝具の原典持ってるらしいし、楔形文字がアルファベットの起源ってことにしよう」

「未来人の慌てふためく様子が目に浮かぶな」

「子どものくせになんか汚いわねこの子たち!?」

 

 エレインは喫驚した。彼女自身、幼い人間と知り合った経験はかつてのペレアスくらいなものだが、トラウマに塗れる前の彼は一応純粋ではあった。

 湖の乙女をも驚かせる汚い子どもたちは、ニタリとひねくれた笑みを浮かべる。

 

「子どもだって綺麗な面ばかりじゃないですよ……蟻の巣に水ぶちまけたり、トンボの羽もいだりするじゃないですか」

「私も小学生の頃は机の奥でぶどうパンカッチカチにしてたなあ……」

「立香、せめてあなたはこちらの味方をしなさい」

 

 ぶどうパンに存在意義がないことは確定的に明らかである。机の奥で石になるのもやむなしであろう。

 そこで、ノアは土埃を払いながら復活する。ゴキブリを超越した生命力の持ち主には、渾身の飛び蹴りも形無しであった。彼は額に青筋を立てて、ただでさえ悪い目つきを悪くする。

 

「堂々と遅刻かました挙句、この暴行はどういう了見だ? 俺はこいつらに生命の神秘を教えてやってただけだぞ」

「まず年齢を考えてください! いくら何でも早すぎますから! それとToLOVEるは刺激が強すぎるんで、せめてあやトラにしてください!!」

「おいおいおい、性教育こそ早めにやっておくべきものだろうが。そうやって恥部から目を背けるから変なサイト覗いてスマホにウイルス感染させたりすんだよ。いい加減おまえも価値観のアップデートをしろ」

「価値観より先に倫理観のアップデートした方が良いですよ。リーダーのOS旧式なんで」

 

 価値観のアップデートもバグっていたとしか思えない会話だった。魔術という旧式の技術に縋る魔術師には古風な価値観の者もいる。ノアの場合は本人の気質に依る部分が大きいが。

 ぎゃあぎゃあと言い合いをするアホマスターコンビを差し置いて、エレインは彼らの寺子屋の生徒たちに向き直った。

 ここに来た理由はEチームの仕事具合を見る監査。元々使命には忠実な湖の乙女である。目の前でアホの口喧嘩を見せつけられたとして、平静を欠くほど短慮ではない。

 

「みんな。あの二人の評価を聞かせてくれる?」

 

 彼らはこくりと頷いた。

 

「「「「「「アホ」」」」」」

「…………ほ、他には? 個人評があると嬉しいわ」

「そうだなあ、ノアのにーちゃんの方は……」

 

 寺子屋の生徒のひとり、ノアが描いていた絵を一番間近で見ていた男子がここ数日間の記憶を回想する。

 

〝今日は魔術を教える。絶の修行は一旦打ち止めだ〟

〝そんな……せっかくオーラを閉じれるようになってきたのに!〟

〝でも魔術使えるようになってもな。戦場に出られる訳じゃないから無駄だろ〟

〝敵をぶちのめすための魔術なんてのは本来邪道だ。治癒魔術を教えるから、帰ったら親にでも使ってやれ。ちょっとした傷なら治るし疲れも取れる程度のやつを伝授してやる〟

 

 彼は腕を組んでしみじみと言う。

 

「───こんな感じで、割と役に立つんだよな。あと何気に教えるのが上手い。それ以外はアレだけど。水見式とか言って川から水汲ませてきたりするし」

「なるほど。人の子は見掛けによらないと知っていたはずだけど……案外こういう仕事に向いてるのかもしれないわね。立香の方はどう?」

「う〜ん、ねーちゃんの方は……」

 

 立香は監査官に任じられているとはいえ、きっちりとギルガメッシュに評価される立場でもある。エレインは意気込んで、少年の声に耳を傾けた。

 

〝午後はウルク全土を巻き込んだ最強のドロケイをやります……!! 外に出るのと、城壁に登るのはナシ! 特別ゲストで牛若丸さんも呼んできたから、さっそくチーム分けしよう!!〟

〝牛若丸いる方の勝ちじゃね?〟

〝そこは大丈夫、リーダーの魔術でステータスを下げてもらうから!〟

〝あえて己の能力を制限する……これもまた修行! 鞍馬山で培った脚力を見せて差し上げましょう!〟

 

 ガキ大将のような思いつきで始まったドロケイは熾烈を極めた。完全に手慣れているとしか思えないノアの泥棒ムーブによって、捕らえられた仲間は何度も脱獄を繰り返した。その様は泥棒は泥棒でも押し入り強盗だったという。

 さらにノアと数人の仲間はギルガメッシュの神殿に侵入を試みた。本気の窃盗を働こうとした寸前で、牛若丸の八艘飛びによって一挙に拿捕。泥棒チームはその後崩壊の一途を辿った。

 さながら刑事ドラマのような話を聞いて、エレインは眉をひそめる。

 

「ノアが闇のアホだとするとねーちゃんは光のアホかな。ためになることは言わないけど遊ぶと楽しい」

「先生というよりは保母さんね。……うん、聞き取りの協力感謝するわ。ご褒美をあげる」

 

 そう言って、エレインは実に現代的な棒アイスを造り出し、少年に手渡した。星の触覚たる精霊のみに許された特殊能力『空想具現化(マーブルファンタズム)』によるものだ。

 氷菓を構成する棒も果汁も氷も、元を辿れば自然のモノ。自然を改変、再構成する能力を応用した結果である。少年がそんな経緯を知るはずもなく、アイス片手にノアたちの元へ戻っていく。

 エレインは子どもたちに囲まれる二人の姿を見て思った。あれはあれで懐かれているのだ、と。

 

(まるでリースとペレアスを見ているような……)

 

 不意にその考えが頭をよぎった瞬間、家屋の屋根の上からひとりの少女が飛び降りる。

 大胆に肌を晒した衣装に、しゃなりと踊るつややかな黒髪の房。(さね)(おどし)の意匠が見受けられる衣装からは、かろうじて日本の中世甲冑の趣が感じ取れた。

 彼女こそは牛若丸。先のドロケイでノアたちを一斉検挙し、近年大河ドラマでも活躍した英雄だ。

 牛若丸は小脇に革製の鞠を抱えていた。鮮やかな彩色が施されたそれは貴族の間で大流行したスポーツ、蹴鞠に用いられるものだった。かの清少納言も〝様あしけれど、鞠もをかし(品はないけど、蹴鞠はおもろいよな!)〟と書き残している。

 牛若丸は鞠を踵でぽんぽんと跳ねさせながら、

 

「九郎判官義経、遅ればせながら参上致しました! 今日は何して遊びましょうか!」

「その鞠使ってドッジボールでもやるか」

「でもこのボール、革でできてて当たったらかなり痛そうですよ」

「安心しろ、内臓破裂くらいなら俺が治す」

「結局痛いことには変わりないじゃないですか!!」

 

 それで、エレインは気付いた。

 

(───精神年齢が、子どもと同じなのね)

 

 だから、この仕事にも適していたのだろう。

 Eチームがウルクを訪れる前も彼らのことは知っていた。騎士王に与える以前に所有していた聖槍、その担い手たる獅子王とオティヌスの繋がりを辿って。

 それ故、持ち合わせている情報は断片的だ。けれど、分かることはある。

 人の子の多くは戦いの中で変化を余儀なくされる。特に己が手で命を奪い合う戦場に置かれた者は、元の人格が見る影もなく変わってしまうのも珍しくはない。

 それがすべて、悪いと言うつもりはないが。

 ただ、彼らはどんな敵の強さにも打ちのめされることなく、魔術王の玉座へとにじり寄ってきたのだ。

 エレインは頬を緩め、苛烈なドッジボールを繰り広げるノアへと声をかける。

 

「ねえ、ノアトゥール。あなたはどうしてこの仕事を選んだのかしら」

 

 きっと、純粋な想いが聴けると信じて。

 ノアは耳飾りを揺らし、不敵に笑んだ。

 

「俺が創る学問は独りでやるものじゃない。目的達成にはどれだけ人手があっても足りねえからな。人材の育成も大きな問題だ」

「人類単位での知の継承。確かにそれは魔術では成し得ぬことだわ。ここでの経験が後進の育成に役立つと考えたのね?」

「色ボケた妹と違って姉は頭が回るみてえだな。そう───これは準備の一環だ。俺に従順かつ忠実な部下(どれい)を量産する計画のなァ!!!」

「…………」

 

 こつ、と氷の杖が地面に触れる。

 接地面から白い霜がノアの足元へと伸び、彼の下半身に分厚い氷がまとわりついた。ボールが転々と転がる。それを見事な反射で拾った牛若丸は容赦なく、宙に浮かせた鞠に超人的な脚力を叩き込んだ。

 

「天狗直伝必殺波動球───ッ!!」

「ぐふううううううう!!」

 

 辺りに突風を巻き起こす殺人シュート。超次元サッカーならぬ超次元蹴鞠の必殺技がノアの鳩尾に直撃する。その長身は綺麗なくの字に折れ曲がった。

 エレインは粘土板に講評を書きつける。

 〝Eチームマスター両名の働きぶりに生徒たちは概ね満足している様子。ただしノアトゥールは危険思想の持ち主であるため、早急な倫理教育が必要である。ドロケイでは王殿への侵入を実行しようとしていたことから、警備体制の見直しが必要と思われる〟───まとめると、一番教育が必要なのは先生の側だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「次はウルク市外に出て、軍事調練の場を見に行くわ。担当者はリースとペレアスよ」

 

 エレインは平らな語調で述べる。

 彼女の視界には立香とノア、牛若丸も含めた寺子屋メンバー。爽快な笑顔の牛若丸とは裏腹に、彼女に蹂躙されたノアと生徒は全身が薄汚れていた。

 この大所帯が移動するとなっては、極秘作戦の体は総崩れだ。監査を明かす以上隠す意味は乏しいが、素の姿を見られない点では不都合にもなる。

 だが、この面子は言って聞く連中ではないだろう。エレインは少し困ったように両の眉を寄せた。

 

「……別に、あなたたちまでついてこなくても良いのよ?」

 

 牛若丸はそこはかとなくとぼけた表情で答える。

 

「異国の訓練がどのようなものか興味があるので。場合によっては源氏の心構えを授けることもやぶさかではありませぬ!」

「そ、それは頼もしいわ。ノアはどうせ屈強な兵士を手懐けてクーデターを起こすつもりなんでしょう」

「何言ってんだ、俺がそんな極悪非道をやる訳ねえだろ」

「第五特異点の時はケルト兵を調教して、世紀末モヒカンにしてたじゃないですか」

 

 立香の指摘がノアの頭上に鉛の如くのしかかる。ノアは無反応を貫いたものの、エレインの警戒度はさらに高まった。

 でも、と立香は翻し、ノアの手を握る。

 

「リーダーは放っておく方が危ないんで、傍で見張っておかないと。エレインさん、この倫理観が崩壊した悪魔は私に任せてください!」

 

 妖精眼は嘘を見分ける。今の立香の主張には真実と嘘が入り混じっていた。建前としては本当だが、裏の目的を隠している。彼女の行動を見れば、まさしく一目瞭然だ。

 結局は嘘を吐けない人間なのか、乙女の策略というものか。人間とはいささか離れた感覚を持つと自覚しているエレインは、その虚偽を指摘はしなかった。

 ノアは手を握り返しもしないで、

 

「俺は常に評価する立場だ。監査官に相応しいのは俺しかいない。今日は社会科見学だ、大人の働きっぷりってやつを目に焼き付けろ」

「つまり、オトナの社会科見学ってこと……!?」

「卑猥な意味にしか聞こえない」

「無理やり卑猥にしてるだけじゃね」

 

 子どもたちの会話を聞き、エレインは苦い顔をした。

 もしやこのウルクキッズたちは精神年齢だけならば、中学二年生男子の域に到達しているのかもしれない。どれもこれもノアが生命の神秘を教えたのが一因だろうが。

 もんもんとした不安を抱えるエレインをよそに、一行はウルク市外に移動する。

 ティグリス川、ユーフラテス川が流れる南メソポタミア地域は肥沃な大地であった。文明の誕生地には大河が付き物であるように、ウルクも灌漑技術の発展から誕生した都市だ。

 主な都市のエネルギー源は木。鉱物資源に乏しいウルクでは、木は大きな生活の助けであった。ギルガメッシュとエルキドゥはかつてレバノン杉の森の番人フンババと死闘を繰り広げたが、その理由はウルクの生命線である木の採集を円滑にするためだったのであろう。

 そういった条件を活かして向上した都市の食料生産能力は人口増加をもたらした。ウルクの人口は一説によると紀元前3100年の時点で約四万人と言われている。

 そんなウルクが名君ギルガメッシュのもと、全力で軍備拡張に取り組めばどうなるか。

 一行はウルクの全力を垣間見ることとなった。

 

「ファランクス───それは男の浪漫、男の本懐ッ!! 己が戦友らと一丸となり、一切の隙を生じぬ筋肉の城壁となるのです!! Aroo! Aroo!!」

 

 それは、筋肉であった。

 半裸の屈強な男たちが盾と槍を携え、芸術的ですらある密集隊形を取る。掛け声とともに一斉に突き出される槍の穂先、一糸乱れぬ行進。ウルク周辺の平野を所狭しと駆け回る男たちの姿は筋肉の濁流と言っても過言ではない。

 ノアは陣頭指揮を執る男に既視感を覚える。

 第二特異点。孔明の罠に引っかかった自分たちと戦った英雄、レオニダス一世。スパルタの中のスパルタ、男の中の男がウルク兵をしごきにしごいていた。まさしくスパルタによるスパルタ教育だ。

 彼らのナイスバルクだけで固定資産税がかかりそうな景色。目を輝かせる牛若丸とは逆に、立香とエレインは味の濃い料理を口内に満載された気分になる。

 立香は目を瞬かせて呟いた。

 

「アレ? 筋肉しか見えない。もしかして幻術?」

「落ち着きなさい、あれはリアルよ」

「つーかペレアスはどこ行った。仕事ほっぽってドスケベ精霊と乳繰り合ってんじゃねえだろうな」

「オトナの社会科見学───していいですか」

 

 保健体育の授業を一番熱心に聞いていた少年の頭に、ノアの拳が落ちる。

 彼がしばらく悶絶していると、ファランクスの横合いから少数の騎馬隊が突撃する。その先頭の二騎はペレアスとリースであった。

 訓練用の木剣を振るい、ファランクスの陣形が横に裂かれる。ペレアス率いる騎兵は一直線に走り抜け、徐々に襲歩から並足へと速度を落とし、停止する。

 

「密集陣形の弱点は側面と背面だ! 一度でも隙を突かれればこうなる! 実戦では騎兵が横を守るから前だけに集中しとけ!」

「逆に騎兵がやられたらおしまいなので、その時は死を覚悟してくださいませ!!」

「言い方考えろ!!」

 

 マケドニアの征服王アレクサンドロス───イスカンダルは従来のファランクスを改良し、側面に騎兵、背面に軽歩兵を配置する陣形を編み出した。

 移動が遅い密集隊形をカバーすると同時に機動力によって敵を撹乱し、主力のファランクスを当てる戦法で破竹の進撃を成し遂げたのである。

 ウルクの人間にとっては遥か未来の戦法だが、端から見た様子では騎兵も板についていた。一週間で仕込んだにしてはなかなかの練度だ。

 ノアは意気揚々と馬を駆るペレアスを眺めて、

 

「……あいつ、いつから騎士になったんだ?」

「私も久々に騎士らしいところを見た気がします」

「おい聞こえてんぞ!! 円卓の騎士ペレアスの名を忘れたとは言わせねえ!!」

「「円……卓……?」」

「よしお前らそこで待ってろ騎兵突撃の恐ろしさ思い知らせてやる」

 

 ペレアスがノアと立香を追いかけ回すのを尻目にリースは軽快に馬を操り、エレインの横で鞍上から飛び降りる。

 脳内メーカーがピンク色に汚染されていても流石はランスロットの師匠といったところか、その動作は堂に入っていた。

 

「お姉様、こんなところで一体何を?」

「あなたたちの仕事ぶりを見ろとギルガメッシュ王に仰せつかったの。訓練の出来はどう?」

「ええ、ウルクの人々はみな優秀ですわ。馬もすぐ乗りこなせるようになりましたから。ロバに戦車を牽かせていた経験があるそうなので、ノウハウがあったのでしょう」

「それは頼もしいわね。問題は武具に使う金属かしら。ウルクは鉱物が乏しいから……私が空想具現化(マーブルファンタズム)で持ってきても良いのだけど」

 

 むむむ、と頭を悩ませるエレイン。リースは何の気無しに提案する。

 

「ギルガメッシュ王の宝物庫から供出してもらうのはどうでしょう。全員が宝具を持った騎馬隊とかロマン溢れる最強チームですわ!」

「私も前に似たような提案をしたけど、王の発言を意訳すると……〝我のコレクションを出すのはやだ〟みたいな感じだったわ」

「それじゃあ、弓とかどうですか!?」

 

 興奮した様子で言ったのは牛若丸。彼女は軽やかに馬に飛び乗ると、腰を捻って後方に弓矢を引く動作を見せつけた。

 

「日ノ本には押し捩りという技がありまして! こうして矢を射れば逃げながら攻撃ができる素敵な技でございます!」

「世界史の人気語句パルティアンショットですわね。魔獣の表皮を貫ける弓矢を用意しなくてはなりませんが……」

「……良い考えだと思うわ。王への進言案に加えておきましょうか」

「───否、弓矢に頼る必要はありません」

 

 レオニダスが神妙な声を響かせて、三人の会話に割り込む。

 

「飛び道具が要るのであれば、投槍で十分! 一から弓術の訓練をするよりも習熟が早いはずです!」

「使える人がいるのといないのとじゃ大違いでしょう。なにも与一の腕に並べと言っているのではありませんし」

「そういえばスパルタ……ギリシャの方では弓は卑怯者の使う武器なんて言われていたわね」

「騎士道も同じ考えですわ。ランスロットにも弓は教えませんでした」

 

 そこに、ひとまず溜飲を下げたペレアスが駆けつけてくる。遅れて馬に追い掛け回されていたノアと立香が肩で息をしながら戻った。

 騎士もスパルタも弓を忌避する価値観は同じだ。が、ペレアスは何食わぬ顔で、

 

「相手は魔獣だからな。戦に卑怯もクソもねえんだ、弓だって使えばいいんじゃねえか」

 

 それを受けて、立香は赤い髪の騎士を思い出した。

 

「トリスタンさんも弓使ってましたけど、あれは文句言われなかったんですか?」

「立香さん、逆に訊きますわ。あれが弓だと思いますか?」

「…………あの人がアーチャーなら、クラス分けってかなりガバガバなんじゃ?」

「ペレアスっつう消去法でセイバーになった地味男もいるしな」

「おい」

 

 またしても一触即発の空気になる。ちなみにペレアスのクラス適性はセイバーとランサー、ライダーである。非常に騎士らしい適性ではあるのだが、面白みに欠けるとも言えよう。

 エレインはこめかみを指で揉んだ。

 

「ま、まあこれならギルガメッシュ王も満足するはずよ。歩兵と騎兵の連携は問題ないのでしょう?」

「そりゃ当然だ。レオニダスとは前に戦ったこともあるからな」

「ええ、一度殺し合った相手は誰でもダチですから!」

「血濡れた友情───!!」

 

 湖の乙女(長女)の驚愕を背景に、ノアは平坦な口調で述べる。

 

「あのクソ音痴トカゲアイドルといい、一回消滅したサーヴァントが記憶を保持してんのはどういう理屈だ?」

「ネロさんとかは覚えてなかったですもんね。エリザベートさんがギャグ漫画の出身者だったってだけですよ」

「ふふふ……知らぬのならば教えて差し上げましょう」

 

 レオニダスは上腕二頭筋を漲らせる。続いて僧帽筋、大胸筋、腹筋が流れるように膨れ上がり、彼は言い放った。

 

「たとえ魂と精神が記憶を失くしていたとしても、血を流し傷ついた我が肉体がそれを忘れるはずはありませぬ!! 聞くところによると、エリザベート殿はさぞかし見事な筋肉をしているのでは……?」

「いや、おまえと戦った時にいた女だぞ」

「ではアレです。心の筋肉が」

「言ったそばから論理破綻してるじゃねえか!!」

 

 残念ながらスパルタの理論は現代人には通用しなかった。同じく現代人である立香はレオニダスに問う。

 

「レオニダスさんが筋肉マニアなのは分かりましたけど、他に趣味とかないんですか? 武術とかはナシで」

「そうですね……やはり計算でしょうか。数式との戯れは実に良いものです」

「おお、インテリマッチョ。数学のテストで3点を取ったことがある私とは格の違いを感じる……!!」

「低すぎだろアホ」

 

 スパルタは計算が禁止されていたが、レオニダスはどうやら違ったらしい。筋肉を適切に育てるのにも知性や知識は不可欠だ。鍛錬へのあくなき執念が彼を数学へと駆り立てたのかもしれない。

 レオニダスに胸を張った。

 

「無論、アルキメデスやピタゴラスといった数学者の方々には遠く及びませんが、私自身、発明した数式もございます」

「レオニダスが発明した数式なんて聞いたことがないわ。後学のために教えてもらえる?」

「ファランクス算です」

「ファランクス算」

 

 エレインはあまりにも聞き慣れない単語を耳にして、思わずオウム返しするしかできなかった。その反応に驚愕と羨望を見出したレオニダスは、鼻息荒く話を続ける。

 

「スパルタにおけるファランクスの最小単位(エノモタイア)は三列縦隊の36人で組むのですが、なんと36を部隊の数と同じだけ数えると全軍の兵数が手に取るように把握できるのです!! これは革命的な数式と言えましょう!!」

「それただの掛け算じゃねーか!! オレでも分かるぞ!?」

「人類で初めて掛け算を発見した人も同じこと言ってそうですわ」

「ある意味天才かもしれないわね……」

 

 嘆息しつつ、エレインは粘土板に評価を書き出す。

 立香はそれを覗き込んで、

 

「次は誰のところに行くんです? 残ってるのはダンテさんと魔女なすびコンビですけど」

「ダンテの評価はギルガメッシュ王が直々に行うらしいわ。後はマシュとジャンヌだけよ」

「俺を差し置いてダンテが特別扱いだと? 世の法則が乱れてるレベルだぞ。何やってんだあいつ」

「王の補佐官よ。下仕えからいつの間にか成り上がったみたいね」

 

 ノアはびきりと額に青筋を浮かび上がらせる。

 

「…………はあ!!?」

 

 苛立ちに満ちた怒声が、青空に響き渡った。

 エレインの講評〝兵の調練は滞りなく進んでいた。騎馬隊の練度も十分実戦に耐え得る質である。弓騎兵採用については要検討。レオニダスへの褒美は算数の教科書が妥当と思われる。九九の存在を教えたらこの世の終わりみたいな顔をしていた〟───過日のスパルタはどのように国を運営していたのか。巨大な謎を残す結果であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウルク中心部、ギルガメッシュの神殿。

 王の間では、次々と上がってくる情報をギルガメッシュがその身ひとつで捌き切っていた。

 常人には決して務まらぬ治世。秦の始皇帝も個人で膨大な案件を処理していたそうだが、時代も国も違うギルガメッシュにおいてもその姿勢は変わらないようだ。

 案外二人は似た者同士なのかもしれない。始皇帝を見たことがないのにも関わらず、ダンテはそんなことを頭の片隅で考えていた。

 王の補佐官たちは少しでもギルガメッシュの負担を減らすため、民からもたらされた情報を集積して判断だけを王に丸投げする作戦を取った。緊急の報告はその限りではないが、結果的に事案の解決速度は上がっている。

 ダンテは文字を柔らかな粘土板に書きつけ、ギルガメッシュに差し出す。

 

「王よ、これで午前の分は最後になります。ご確認を」

 

 血濡れた紅玉の如き瞳が文章を追う。ダンテはテストの採点を受ける生徒のような気分で、所在無さげに待っていた。

 ギルガメッシュは粘土板を突き返し、短く告げる。

 

「民よりの陳情、把握した。貴様は休憩に入るがよい」

「承りました。厚かましいようですが、王もご無理をなさらぬようお気をつけください」

 

 ほんの小さく頷き返す王の姿を認め、ダンテは広間の隅に用意された椅子に座り込む。仮宿から持ってきた小包を開き、中身のサンドイッチを頬張った。

 これは楽しむための食事ではなく、単なる栄養補給。王の補佐官は他にもいるが、ブラック労働に励むギルガメッシュの補佐をするのだから当然激務に苛まれる。

 味を楽しむ余裕などあるはずもなく。ダンテは煤けた笑顔を浮かべて、心の声を暴れさせた。

 

(さ、寂しい───!! おまけに息苦しい!! 本当は私も寺子屋とかやりたかった……立香さんの恋路の援護をしようとしたのがこうも裏目に出るとは!! 誰でも良いから頭を使わない話がしたい! ノアさんでも可! いややっぱりノアさんは無理!!)

 

 詩才ばかりが取り沙汰されるダンテだが、下級貴族の出身からフィレンツェの統領に成り上がった手腕の持ち主でもある。

 神殿の雑用から補佐官に取り立てられたことは嬉しい。嬉しいが、ここまで忙しいとは夢にも思っていなかった。

 王宮が激務の真っ只中にある原因に心を巡らせる。この都市が戦時下にあるから───それで片付けられる話ではないだろう。

 ダンテはギルガメッシュを、そしてウルクの街に行き交う人々を流し見る。

 そう、結局はウルクの民が優秀なのだ。子どもから老人に至るまで例外なく。だから即座に問題を洗い出して、王の指示通りに改善し、また新たな欠陥を見つけ出してしまう。

 こうも人材が揃っているのは、この時代の人間が優秀と言うよりは。

 

(───そういった上澄みしか生き残れなかった。神の癇癪ひとつで都市ひとつが一瞬で消滅するこの時代は、あまりにも過酷すぎる)

 

 水筒に蓄えた水を飲み下そうとしたその時、背後の壁からマーリンがすり抜けてきて、

 

「やあ、少し遅い昼食かい? ダンテさん!」

「ぐふぅっ!?」

 

 たった今飲みかけていた水が逆噴射する。

 ダンテは咳き込みつつ、ポケットからハンカチを抜き出して口元を拭う。しばらくして落ち着きを取り戻した途端、フォウくんを抱き留めたシドゥリが王の間に駆け込んだ。

 

「こ、こんなところに……エレイン様とともに監査を務める手筈だったのでは!?」

「あ、うん。そういうのはガラじゃなくね。しかも彼女は私に対しては塩対応の極みで、草木相手に王の話でもしてろと言われたのさ。こうなってはサボるのもやむなしというか」

「行ってください、フォウさん!」

フォォォォウッ(死に晒せェーッ)!!」

 

 シドゥリがハンマー投げのようにフォウくんを放り投げると、その両足がマーリンの両眼に激突する。

 マーリンは手で顔面を覆って床を転がった。

 

「ンンンンン!! ンンンンン!! ンンンンンンンンン!!!」

「それ別のロクデナシですよねえ!?」

 

 ダンテは転げまわるマーリンの頭上に、笑顔でサムズアップする平安の全裸陰陽師の幻影を見た。フォウくんは唾を吐き捨てると、ダンテの頭上に飛び乗る。

 彼はサンドイッチを半分に分けてフォウくんに与えた。

 

「シドゥリさん。監査というのは?」

「ここ一週間のEチームの働きぶりを査定する任務が宮廷魔術師コンビに与えられているのです。お伝えしておくべきでしたね、すみません」

「いえいえ、シドゥリさんも仕事が溜まっていたでしょうし、仕方ありません。評価される立場になるのは久々ですねえ」

「今日中にエレイン様がいらっしゃる予定です。ダンテ様の政務能力に疑いようはありませんので、お気を楽に」

 

 ダンテは内心でガッツポーズを取る。評価という名目で短時間でも激務から逃れられるなら儲けものだ。

 心が晴れ上がるとともにサンドイッチの味に感動していたところ、冷たい目で先程のやり取りを眺めていたギルガメッシュが口を開く。

 

「否、ダンテの評価は(オレ)が執り行う。いくつか尋ねるゆえ、しかと答えよ」

 

 ぽろりとサンドイッチが床に落ちる。

 ダンテはそれを拾い直して無理やり口にねじ込み、さらに水で胃に押し流そうとするが、

 

「───むごぉっ!!」

フォウ(きたねえ)!!」

 

 あまりの緊張感から、胃が食べ物を拒絶した。

 この問答に掛かっているのは評価に非ず。風前の灯の如き自身の命である。少しでも妙な受け答えをすれば、その瞬間にギルガメッシュは───。最悪の未来を想像し、ダンテは始まってもいないのに死に体になる。

 ダンテは縋るようにシドゥリに視線を送った。

 目は口ほどに物を言う。その時、彼らは言葉を介さずして意思を交わし合う。

 

(骨は拾います───!!)

(死ぬ前提なんですか───!?)

 

 膝を高速振動させるダンテ。彼は頭を抱えて苦悶の声を捻り出した。

 

「ンンンンン……ンンンンンン!!」

「さっきからそれ誰なんです!?」

 

 シドゥリは思わず叫んだ。知らない方が良いこともこの世にはたくさんあるのだ。

 ギルガメッシュの左横の空間が波打ち、金色に染まる。王は黄金の波紋に手を差し入れ、一冊の本を取り出す。

 

「戯れに貴様の書いた神曲とやらを読んだ。地獄篇における貴様の無様には失笑を禁じ得なかったぞ」

「さ、作品にする際に色々組み替えたりしたので、私の体験そのものではありませんが……ですが、しょっちゅう気絶したりするのは本当で……」

「この書にある神とやらは不定形に過ぎる。この世すべての原動力───愛。それこそが神であると貴様は言う」

「如何にも。私が見た神そのものを伝えるには、私の言葉では力が及びませんでした」

 

 実力不足、とダンテは悔やんだ。

 言語はすべて物の喩えであり、グループ名だ。それ故初めて認識したものでも別の何かになぞらえて表現できるが、見たそのままを伝えることはできない。

 単に犬と言われても、人によって連想する犬種は違うだろう。柴犬だったりブルドッグだったり。

 

「星を、宇宙さえ動かす力を神と呼ぶなら、人は永遠に神の手元に在り続けることを強いられる。それを許容することも罪深い。まさしく奴隷の精神に他ならぬ」

「否定はできません。しかし奴隷と言うには人類は狡賢く……免罪符を売り捌いて儲けを掻っ攫い、戦争の理由に神の威光を持ち出す……時代は徐々に神を都合良く利用する方針へと切り換わっていきました」

「それもまたひとつの依存の形に過ぎぬ。だが……ふむ。神との真なる決別は未だ遠いか」

 

 独り言のように、王は呟いた。

 それで、ダンテはこの問答の意図を理解する。

 神との決別。ギルガメッシュは神々への反攻によって、神が主体となる世界から人が主体となる世界への橋渡しを行った。その変化は数千年をかけて緩やかに起きたが、その初発を担った王こそがギルガメッシュなのだ。

 しかし、その先にあるのは神の血を引く自分自身の否定ではないのか。

 途端に、彼への同情心が湧いて。

 命を賭けた問答であることも忘れて、言の葉を紡いだ。

 

「まあ、気長に待ちましょう。人と神の関わり方は時の流れに左右されるものです。古代の名君の治世が現代に通用するとは限らないのと同じように、その時々で適した変化をしているだけなのですから」

 

 ふ、とギルガメッシュは鼻を鳴らす。

 これは生き残ったのでは。ダンテの心象風景でカーニバルが開催される。見れば、シドゥリもほっと胸を撫で下ろしていた。

 両眼が陥没したマーリンはふらふらと起き上がった。

 

「後世の人々に期待しすぎるのもいけないが、しなさすぎるのもそれはそれで陰険だ。人間には神を利用するほどの図太さがあるのだから」

フォウフォフォフォウフォフォウ(なんか良いこと言おうとしてんなこいつ)

「それっぽいことを言うのが私の役割だからね! ダンテさんも分かるだろう?」

「ええ、フィレンツェの統領の仕事の二割は耳障りの良い言葉を述べることでしたからねえ!」

「───ほう、では貴様は我に対しても同様の態度を取っていたと?」

 

 がしゃり、と金色の門から鎖が放たれ、ダンテの首に巻きつく。彼の体はそのままギルガメッシュへと引き寄せられる。

 その最中、ダンテは顔面を絶望に歪めて、

 

「イヤアアアアアア誰か助けてくださいィィィ!!!」

 

 悲痛な絶叫が、ウルク中に轟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ダンテの声が聞こえなかった?」

「一ノ谷で奇襲した時の平氏みたいな叫び声でしたね」

「いつものことだがな」

「カルデアにいればダンテさんの絶叫なんて聞き慣れますしね」

 

 ウルク市内に戻った一行。生命の危機に瀕しているダンテの話題はそこそこに、彼らは最後の場所へと向かった。

 残るはマシュとジャンヌが営んでいるという焼き物屋だった。確かに後者は火力に定評のあるサーヴァントだ。最近邪悪さばかりが取り沙汰されるマシュも手先は不器用でないため、突拍子のない職業ではないだろう。

 一行がずんずんと進撃していると、社会科見学中の子どもたちが小声でなにか話し合っていた。

 

「ここって……アレじゃん」

「ああ……俺たちの聖地だ」

 

 曲がり角を折れて、マシュとジャンヌの店に面する通りに出る。

 そこには、道の両端を埋め尽くすほどの人混みができていた。年齢層は若年に偏っているが、大人の姿も混じっている。通りは悲喜こもごもの声に包まれていた。

 周辺を包む異様な熱気。ほんのり怖気付いた立香は僅かに後退り、ノアの裾をつまんだ。

 

「……めちゃくちゃ盛況ですね。永沢くんの家が燃えた時くらい熱気を感じます」

「どこの作品のキャラだおまえは」

 

 とツッコミを入れると、寺子屋の生徒たちが二人の横をすり抜けて、人の海の向こう側にあるであろう焼き物屋へ突撃していく。

 

「ヒャッホォォォ!! ネンバトだぁぁぁ!!」

 

 意味不明な単語を発して走り去っていく子どもたち。ぽつねんと取り残された四人は無言で目を見合わせる。

 

「……とりあえず、裏口から入りましょうか。お客さんの邪魔になってしまうわ」

 

 彼女らはそそくさと裏口に回る。雑然と散らかった資材に紛れて、なすび柄のエプロンを纏ったマシュが四人を待ち構えていた。

 

「ふふふ……待ちくたびれました。わたしたちの職場が大トリとは、エレインさんは演出の妙を理解しているようですね」

「あら、知っていたの?」

「わたしの情報力を見縊ってもらっては困ります。ウルク各地に配置した販売員から、何やら先輩たちがぞろぞろ歩いていると聞いたので、推理をしたまでです」

「賢いのね。お店も繁盛しているようだし、期待できそうだわ」

 

 会話から推測するに、マシュは相当手広く商売を行っているらしい。立香はやにわに嫌な予感を察し、己がサーヴァントに問いかける。

 

「すごい繁盛してたけど、何を売ってるの? 焼き物っていうと壺とか?」

「よくぞ聞いてくれましたね、先輩。わたしも当初は壺やお皿を作っていたのですが、ある漫画雑誌から着想を得て、新しい商売を始めることにしました」

「もう既に嫌な予感しかしない」

「先輩には特別に、新発売の商品を差し上げます」

 

 と言って、マシュは一旦店の中に消える。数十秒経って出てきた彼女は、塔のように積み重なった粘土板を抱えていた。

 立香はそれらを受け取るが、粘土板の荷重に耐え切れず後ろにのけぞってしまう。

 

「お、重い重い!! なにこれ!?」

「人類史上誰も思いつかなかった空前絶後かつ超絶怒涛の新感覚カードゲーム『粘☆土☆王 バトルマスターズ』、略してネンバトのスターターデッキですが。ウルクで大流行しているのに知らないんですか?」

「パクリのオンパレードじゃねえか。聞き覚えしかねえよ」

「よしんばパクリだとしても、パクリ元はこの時代に無いのでこれが原典ということになります。事と次第によっては法廷闘争も辞さない覚悟です」

「法廷で戦うよりマスターの危機をどうにかして!?」

 

 マシュは立香の腕からネンバトのスターターデッキを受け取り、地面に置いた。

 圧倒的な既視感のあるゲーム。現代人であるマスター二人とは違って、エレインと牛若丸はいまいち要領を得ず、首を傾げる。

 

「ゲーム、なのよね? 娯楽は人間に欠かせないものだし、良いんじゃないかしら」

「花札みたいなものですか? それがあんなに売れるなんて驚きました!」

「この売れ行きに一番戸惑っているのはわたしなんですよね。うだうだ文字数稼ぎしていてもしょうがないので、店内をご覧いただきましょう」

 

 マシュに導かれるまま、一行は店内へ案内される。

 室内にはうず高く積まれた粘土。その隅にこぢんまりとした作業場が設けられている。青いツナギを着崩したジャンヌは赤熱した旗の穂先で、鉄板に絵を彫り込んでいた。

 

「こちら、ネンバトのイラストとフレーバーテキストを担当しているジャンヌさんです。こうして用意した鉄板を粘土に押しつけることで、大量生産が可能になりました」

「ジャンヌが手を貸すなんて意外というか……犬猿の仲なのに」

 

 ジャンヌは旗を下げ、自嘲気味に口角を吊り上げる。

 

「このなすびは私が書いてた小説をいつの間にか見つけ出して、公開と引き換えに協力を迫ってきたのよ! 屈辱にも程があるわ……!!」

「ちなみに内容はドラゴンのハーフで邪眼の力を持つ主人公ジャネットが、ヒロインのリッカとともに世界の滅亡に立ち向かうラノベで……」

 

 ごす、と鈍い音が響く。それはジャンヌの旗がマシュの頭頂を叩いた音だった。

 真っ赤に染まったなすびが床に伏せる。ジャンヌは無表情で何事もなかったかのように、作業場にいたもうひとりの従業員を連れてくる。

 目元を隠すような黒いフードを被った紫髪の少女。彼女は小さく会釈をした。

 

「こいつがゲームバランスの調整と広告戦略担当のアナよ。自己紹介しなさい」

「街を歩いていたら突然勧誘……ほぼ拉致されたアナです。嫌いなものはワカメです。今は広告戦略担当として、プレイヤーがじゃぶじゃぶ課金したくなるような射幸心を煽りまくる文章を考えています」

「現代の闇が古代に伝染してんじゃねえか。ウチにはそこの放火魔女喚び出すために聖晶石使い切ったやつがいるんだぞ」

 

 立香は瞳だけを虚ろな黒に染め、とぼけた顔をして、

 

「一体誰のことでしょう。そんなクズ運の人がEチームにいるなんて!」

「立香、記憶が……!?」

 

 ジャンヌは顔面蒼白になる。ロマンが必死にアロンアルファでくっつけた聖晶石のありがたみはとうに忘れ去られていた。

 人は痛みを忘れる生物である。たとえ幾度確率の壁に敗北しようとも、忘れてしまえば無かったのと同じだ。失われた通帳の数字は二度と戻ってこないが。

 だがしかし、気付けば残高が減っていたというのは貞子にも劣らぬホラーといえる。エレインはなんとなく現代社会の罪深さを思い知ったのだった。

 頭頂から首元を血で濡らしたマシュはよろよろと立ち上がる。彼女は作業台の上から一枚の粘土板を手に取って、立香たちに見せつけた。

 その粘土板は鮮やかな彩色が施されていた。イラスト部分には長い金髪をなびかせ、金ピカな鎧を着た女性が描かれている。

 

「こ、こちら、本日発売の新弾の目玉となる『ウルクの女帝ギルガメッシュ』です。五枚入りのパックに低確率で入っていますので、先輩もいかがでしょうか」

「リーダー、ちょっとお金貸してください」

「ふざけろ。俺が引き当てて高値で転売するに決まってんだろうが」

「……盛り上がっているところ悪いのだけれど、ギルガメッシュ王に許可は取ったのかしら?」

 

 エレインの思わぬ発言に、マシュ以下ネンバト製作メンバーたちはさっと目をそらした。

 

「……アナさん。その辺りの権利関係はどうなっているんです?」

「ウルクは王こそがルールなので……」

「私は悪くないわよ。そいつに脅されて描いただけなんだし」

 

 その瞬間、上空より降り注いだ一条の光線が屋根を突き破り、マシュの手元の粘土板だけをピンポイントで破壊する。

 周囲に衝撃波が拡散する。粘土の山が勢い良く崩れ、作業場が見るも無残な残骸の海と化した。

 光線の着弾点には短く〝発売停止、発禁処分。すぐさま回収に動くべし〟と、焼け跡が文章を紡ぎ出していた。

 マシュは血液で真っ赤な顔を青く塗り替える。

 

「───すぐに回収してきます!!」

 

 排泄後のネコを思わせる俊敏さでマシュは走り去っていく。アナはがっくりと地面に両手をついた。

 

「せ、せっかく考えた売り文句が……っ!!」

「これは詫び石確定ですね」

「……なすびは自業自得だけど、客は気の毒ね。新しいカードでも考えてみるわ」

「それでしたら、源氏デッキを所望します! 兄上が私を墓地に送ったらフィールド魔法鎌倉幕府を発動できる効果で!!」

「ブラックジョークがすぎるわ!!」

 

 そうしてしばらく経った後、エレインは最後の講評を書き殴る。

 〝『ウルクの女帝ギルガメッシュ』は廃案となったものの、補填として売り出された源氏デッキの売上は好調だった。ただし射幸心を煽りまくる売り出し方には問題アリ。しかし、店を訪れた人はみな笑顔で帰っていった。私も円卓の騎士をテーマにしたデッキで遊んでみたが、アルトリアのエクスカリバーで薙ぎ倒していくのは爽快だった〟───なお、ペレアスの性能は可も不可もなかったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽が地平線の彼方に沈んでいく。

 王の間までもが朱の色に染まり、薄暗い影を落とす。

 今回仕事を終えたEチームは玉座の前に並べられている。ギルガメッシュは彼らに一声もかけることなく、神妙な面持ちでエレインの報告書に目を通していた。

 王はため息をつき、読み終えた粘土板をシドゥリに渡す。

 ギルガメッシュの一挙一動がこの空間を支配しているかのような。立香には張り詰めた空気が物理的な圧力すら伴っているようにすら思えた。

 

「完璧と言うには程遠いが……それなり、まあまあ、いやほんの少しはこの都市に利益をもたらしたようだな。害虫が益虫となったのだ、その進化に自ら打ち震えるがいい」

 

 ノアとジャンヌが殺風景な表情をする一方、立香たちは苦笑いをする。

 なにせ相手はギルガメッシュ。傲岸不遜を地で行く英雄王。カルデアが集めた亜種聖杯戦争の記録には、彼を召喚した直後に殺害された魔術師もいたほどだ。

 

「現在、ウルクは戦争状態にある。敵は三女神同盟を自称する神霊どもだ」

 

 ギルガメッシュは言った。

 三柱の女神、それがこの特異点における敵。加えて、その内の一柱はメソポタミアの創世母神ティアマトを名乗っている。

 それは原初の大海にして混沌。この世の生命はすべてティアマトより生じた。かつて彼女に対抗できたのはただ一柱、至高神であり英雄神たるマルドゥークのみ。

 

「だが、我らは人の手により神を超え、己が起源に叛逆する。貴様らが人たらんとするならば、しかと心に刻め。これは世界を護る戦いでもなければ、魔術王めに至る前座でもない。人と神の生存闘争だ!」

 

 その声に、その言葉に、口を挟める者などいはしなかった。

 生存闘争。種の生き残りを賭けた戦い。物語に描かれる英雄譚のように優雅でもなければ、知略に満ちた策謀もない。どれだけ醜かろうと、地を這い泥を啜ろうとも勝つ───それのみを目的とした殺し合い。

 王たる挟持を捨てても勝つ。言外にそう告げてみせた英雄王を、誰が否定できようか。

 

「此度の件で少しは使い物になることが判明した。故に、貴様らには最初の任務をくれてやる。その光栄に浴し、歓喜の涙を流すがよい!! 我が許す!!」

 

 朗々と鳴り響く、王の命令。

 この時こそが、第七特異点攻略の始まりだった。



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第67話 ジャガーマンが倒せない

 地球表面上より約600km上空。

 蒼き星の大気圏を外れた宇宙の領域。

 凍てつく漆黒の大海。あらゆる生物の生存を拒絶する天空に、ひとつの人影が漂っていた。

 虚ろなまでに白く、泥土の如く濁った黒の少女。まるで水面を浮かぶように宇宙を停滞し、地球の重力にその身を引かれることすらない。

 血の雫を結晶にしたような瞳が太陽を、月を、地球を睨む。その全てを卑下し、見下すように。

 そして、ため息をこぼす。

 ───魔術王の神殿へ至る最後の特異点にしては、面白味に欠ける。

 そもそも。造物主たる自分を差し置いて新たな世界を創ろうなんて馬鹿げている。しかも魔術王を名乗る存在は被造物。そんなものが君臨する世界なんて笑い話にもならない。

 いっそのこと、自ら魔術王を下して計画を乗っ取ってしまおうか。日ノ本を照らす太陽の女神の位地を騙ったあの時と同じように。

 黒白の少女は陽炎の如く思考を揺らめかせる途中で、遥か600km下方の地上に視線を移す。大地に繁茂する木々の海、死の気配漂う無人の街。その中に、見知った顔を捉えた。

 くすり、瑞々しい唇が弧を描く。

 病的なまでに白い肌の手。その人差し指がメトロノームみたいに右へ左へ行き交う。

 

「ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な────」

 

 振り子が止まる。指先が選んだ場所を眺め、少女は一層深く微笑んだ。

 

「とりあえずは、目先の娯楽に集中しましょうか」

 

 水中を泳ぐように頭と足を入れ替える。トン、と両足が虚空を蹴り、その五体は地球へと墜落した。速度は優に音速を超え、一条の流星と化す。

 少女の胸に高鳴る高揚。冷めた石のような体に熱が灯り、唇の端が大きく吊り上がる。

 金星の女神イシュタルをひと捻りにし、不死を殺すヤドリギさえこの命を奪うことはできない。遍く神と不死の命を奪う武器ですらこの身を滅ぼせないというのなら、一体誰が、何が、自分を倒せるだろうか。

 この蒼き星も、その上を這いずる虫も、すべては愚弄すべき玩具。我が手中で転がし、生命の限りまでつつき倒されるのが玩具たる役割だ。

 ならば、身の程というものを分からせてやらなければならない。この物質界を創造した造物主の威光を以って、愚かな被造物たちを教化してみせよう。

 ───きっと、自分の可能性はどこへだって届くから。

 砂場にそびえる山を足で踏み躙るような全能感とともに、偽神サクラは始動した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 粘ついた暑気が肌にまとわりつく。

 視界を埋め尽くす、鬱蒼とした森林。枝や木の葉、蔦が地面を這いずり回り、身を潜める生物の息遣いが反響する。背の高い木々が日光を遮っているはずが、もうもうと立ち込める熱気は奥へ踏み込んでいくたびに増しているかのようだった。

 立香たちはそんな熱帯林をがさがさと突き進んでいた。そこかしこに生い茂る植物を掻き分けて進む様は、歩くというよりも泳いでいるように見える。

 立香はがっくりと肩を落として、盛大なため息をついた。

 

「あつい、あつい……あつい……」

「大丈夫ですか先輩。わたしの盾は比較的ひんやりしていますのでくっついてください。何だったらわたしでも構いません」

「アンタの下心が見え隠れしてるんですけど」

「言うほど隠れてますか?」

「アナ。この子たちにはツッコむだけ無駄よ」

 

 密林を掻き分けて進む一行はEチームかしまし三人娘に、元ネンバト広告戦略担当のアナと湖の乙女三姉妹の胃痛枠エレインを追加したメンバーだった。普段、醜態を晒している面子でもここまで揃えば華やかだ。

 先日、Eチーム各員は一週間の仕事に従事することで、ギルガメッシュに利用価値を示すことに成功した。

 人間性に難があるEチームにも強みはある。それは二人のマスターがいること。彼らこそが諸悪の根源ではあるが、マスターが二人いることで二つの局面に対応できるのだ。

 そこで、ギルガメッシュはノアと立香のそれぞれに異なる任務を与えた。立香は熱に浮かされた頭でぼんやりと王の命令を回想する。

 

〝アホの極み乙女よ、貴様は配下にアナとエレインを加えてウルクより南のウル市を調査せよ。あの場所は密林に閉ざされておる。市民の生死すら不明な状況だ。臨機応変かつ適切な判断を求める……が、貴様には無理だろう。エレインを頼れ、以上だ───なに!? イシュタルめが厚顔にも供物の催促をしているだと!? ネンバトのクズカードでも叩きつけておけ!!〟

 

 という訳で、立香一行はウル市を目指すこととなった。ウル市の規模はウルクにも劣らない。その市民を助け出すことができれば、三女神同盟との戦いでは大きな力になるだろう。まさかギルガメッシュがネンバトプレイヤーとは思いもよらなかったが。

 道なき道を分け入ること数十分。立香は肩を落とすどころか腰をも曲げて、火照った吐息を漏らした。

 

「あつい、あつい……あつい……」

「せ、先輩が明らかにコピペした台詞で喋ってます! あついbotです!」

「よく今まで戦ってこられましたね。なんとかできないんですか?」

「立香にとってのエリクサーであるホットケーキミックスがあれば良かったんだけど。エレインは?」

「暑いのだけが問題なら、冷やせるわ」

 

 何食わぬ顔で言い切ったエレイン。ジャンヌは湿った視線を彼女に差し向ける。

 

「……早く言いなさいよそれ!?」

「もし森に敵が潜んでいるとしたら、私の魔術で魔力反応を出すのは悪手よ。『空想具現化(マーブルファンタズム)』も理屈は違うけど同じ。居場所を晒すことになるわ」

 

 自然を改変、再構成する能力で周囲の気温を下げたとしても、この密林に一か所のみ温度が低い地点を生み出してしまう。敵や原生生物にとって彼女らを発見するのは容易いだろう。

 ウル市の状況が不明な現在、無用な交戦は避けるべきだ。ジャンヌが納得しかけたその時、カルデアとの通信機からロマンの姿が投射される。休暇を経たためか、いつものくたびれた様子は鳴りを潜めている。

 

「『医者として言わせてもらうと、熱中症はとてつもなく怖いので……立香ちゃんだけなら涼しくしてもバレないと思います。このままbot化しても困りますし』」

「そ、そうね。こちらとしてもマスターの判断力が鈍るのは不利益だから」

「あつい、あつい……あつい……」

「これ文字数稼ぎしようとしてません!?」

 

 ここが敵地である可能性も忘れて、アナは叫んだ。ネンバト運営陣としてマシュとジャンヌとの交流でEチーム耐性を身に着けていたにもかかわらず、マスターはそれを軽々と飛び越えてきたのだった。

 エレインは氷の杖で立香の背中を優しく撫でる。虚ろに落ち窪んでいた目が生気を取り戻し、直立姿勢になる。まるで類人猿からヒトへの進化図だ。

 600万年の進化を数秒で成し遂げた立香の眼前に、エレイン特製アイスが差し出される。立香は即座にそれを頬張った。

 

「氷おいしいよおおおおお!!」

「立香が貧乏な家の子どもみたいに……!!」

「『ま、まあとりあえずはこれで良かった良かった! お腹壊さないように気をつけてね!』」

「体が冷えてもわたしが暖めるので安心してください」

「この調子でよく今まで勝ち続けてこられたわね……」

 

 エレインは嘆息した。今更と言えば今更だが、目の前でアイスを貪っている少女はこれまで七つの特異点を乗り越えてきた人間だ。人は見掛けによらないとはまさにこのことだろう。

 立香は額の汗を拭い、先程までの胡乱げな雰囲気を吹き飛ばす笑みを浮かべた。

 

「それはもちろん、色んな人に助けてもらいましたから! 大発明家エジソンの顔がライオンだったって知ってます?」

「何がどうなったら人間の顔が獅子になるのかしら……!? 先祖にケット・シーでもいたのかもしれないわ。同じネコ科だから」

「逆スフィンクスと思うと可愛らしいですね。是非モフらせていただきたいです」

 

 エレインとアナはほのかに頬を紅潮させた。なお、二人が思い描いているエジソンはマスコットキャラクターのような可愛らしい風貌だが、実物は筋骨逞しい大男である。

 ロマンはその会話を聞き届け、ネコ科でひと括りにされたエジソンへ哀悼の意を捧げた。実は女性だったパターンの英霊は伝承の齟齬で話が済むが、生前の写真まで残っているエジソンのライオン顔はカルデアでは未だに謎なのだ。

 立香は髪の毛の先を指に巻きつけて、

 

「……あと、リーダーもなんだかんだ助けてくれますし」

 

 妙に湿度の高い言動と表情。エレインやアナ、ジャンヌがなんとも言えない顔をする中、それを目の当たりにしたマシュは途端に胸を押さえて、盛大に吐血した。

 

「……ぐふぅっ!! くっ、違います、わたしがランスロットさんやガウェインさんと同類なはずがありません……!!」

「アホという点ではガッツリ同じ穴の狢だから安心しなさい」

「エタードに押しかけられて苦しんでたペレアスが重なって見えるわ」

「円卓の騎士は倒錯した趣味を持たなければならない掟でもあるんですか?」

 

 立香は何事もなかったかのように調子を戻すと、エレインに向き直る。

 

「そういえば、エレインさんはべディヴィエールさんからエクスカリバーを受け取ってアヴァロンに行ったんですよね。サーヴァントって死後じゃなくてもなれるんですか?」

 

 サーヴァントとは基本的に死後、英霊の座に祀り上げられた英雄の写し身だ。だが、ベイリンに殺害された末妹、ペレアスと添い遂げたリースと違い、エレインはその命を終えていない。

 無論、アヴァロンにて生涯を遂げた可能性はあるが、精霊の寿命は人間の尺度で計れるほど短くはないだろう。エレインは言いづらそうに答える。

 

「マーリンは言ったわ。〝ギルガメッシュ王の時代にまだ自分たちは産まれていない。つまり、存在していないんだ。これはもう死んでるのと一緒じゃないか〟と」

「理屈が雑すぎません!?」

「リーダーの屁理屈以下ですね」

「私もそう思うわ。でも、やってみたらできたのよ……ギルガメッシュ王の召喚に応えるという形でね」

「じゃあ、アンタとマーリンの本体はアヴァロンにいるってこと?」

 

 エレインはジャンヌの言に頷いた。

 彼女によるとアヴァロンには肉体のみを残し、サーヴァントの体に意識を移したのだとか。マーリンと湖の乙女はアーサー王伝説のキーパーソンとして、現代でも一定の知名度を誇る存在だ。その要因も大きかったとエレインは説明する。

 とはいえ、そんな芸当ができる魔術の腕を持つ者は限られる。少なくとも立香には見当もつかないことは確かだ。

 エレインはぐっと両手を握り締める。

 

「だから、いざとなったら私が立香を身を挺して守るわ。どんと構えていてちょうだい」

「その心配はカルデア最強シールダーのわたしがいる時点で杞憂ですが。ところで、アナさんの真名をお訊きしても?」

「秘密です」

 

 アナは即答した。光速の返答にマシュは面食らう。

 

「ともに働いたあの記憶は嘘だったと!?」

「ほぼ拉致ったみたいなものだったでしょ」

「秘密は女の美しさを際立たせると姉さ……知人も言っていました。そんな訳なので、私の名前も伏せさせていただきます」

「でも、予想するのは自由ですよね? 何かヒントがあったら私がずばりと当ててみせます!」

 

 そう言って、立香は意気込んだ。

 趣旨が大分変わっている。アナは内心で呆れを覚えた。爛々と目を輝かせてくる立香を無碍にあしらえるほど、アナという少女は意地悪くはなかった。

 

「……ディ○ニーのキャラクターに同じ名前の人がいます」

「ふふふ、もう分かりましたよ。アナと雪の女お」

「『そうだったら隠す意味なくないかな!? そもそもアナは偽名だよ!?』」

「ただでさえクソ暑いのに、アホな会話のせいで脳みそが茹だってきたわ。これ何時着くのよ」

 

 額から汗を流しながら、ジャンヌは愚痴をこぼす。エレインは地図を回転させながら眺めると、むっと眉を寄せてそれを懐に仕舞い込む。

 

「……きっとすぐそこよ。人の気配が集まっているわ」

「もしかしないでも方向音痴ですか? エレインさん」

「完全に地図読めない人の特徴でしたが」

「そ、そんなのじゃないわ。昔は地図がなくて困ったことなんてないんだから」

「『う、うん。まあこっちの機器でも方角は正しいから、このまま進んでいけばウル市には着くだろう』」

 

 と、その時だった。

 最初に彼女たちが知覚したのは音。木の葉を揺れ、枝が折れる。短い拍を打ちながら断続的に響く音はまるで、この森そのものがざわめいているかのようだった。

 次に追いついたのは視覚。周囲を縦横無尽に行き交う影。立香の目では強化魔術を以ってしても、その残影しか捉えることは叶わない。単騎か、複数か。それさえも

 だが、ひとつだけ彼女がサーヴァントと同程度に感じ取れる要素があった。それは全身を突き刺す鋭気。正体不明の影が発する気勢だ。

 マシュたちはマスターを取り囲むように陣取る。ジャンヌは肩から黒炎を立ち昇らせて、残影へと吼える。

 

「あら、大層なご歓迎ね! ちょこまか動いて私たちを脅そうって算段かしら!?」

「出てきたところでわたしたちには勝てずに、そこら辺のボロクズになるのがオチですが」

「ええ、念入りに切り刻んでウルクの畑に撒いてあげます」

 

 背丈ほどの長大な鎌を構えるアナ。瞬間、彼女の正面の樹木が爆発的な衝撃とともに根っこから空へと吹き飛んだ。

 しかし、それは攻撃ではなく。

 辺りを駆け巡る影が、音を置き去りにする速度で距離を詰めるための踏み込みにすぎなかった。

 

「───フッ。どこぞの金ピカならいざ知らず、この私が低俗な煽りに効くとでも思ったかァーッ!!」

 

 野性味に溢れた、底抜けに気楽な声。突進に合わせ、己が目が姿を確認するよりも早く、アナは鎌を振り上げる。

 左脇から右の鎖骨へ抜ける軌道。その逆撃は確かに敵を切り裂いた。が、肉を裂き骨を断った手応えはなく、仕留めた確信は感触とともに消えた。

 アナは咄嗟に面を上げる。斬ったはずの敵は、小高い樹木の上にいた。ソレは高らかに笑い声を響かせる。

 

「馬鹿め、それは残像だ! 視力検査の結果とかボロボロだったタイプ? いかんぞ寝る前のスマホは! いくらイベント中だからって周回ばっかりしてたら目が悪くなっちゃうぞ!!」

 

 妙に現代的なことを宣うサーヴァント。彼女の姿を表すなら、血に飢えた野獣の如き獰猛さと戦士の如き勇猛さを兼ね備えた威容…………なんてことはなく、ネコ科の四足獣を模した着ぐるみを纏った変人女だった。肉球型の長柄の棍棒を担いでいる。

 立香ら一行は一斉に目を白くした。

 残像を利用し、敵を欺く体術もさることながら、壊滅的なファッションセンスが彼女の脅威を頭から消し飛ばしていた。ハロウィンの渋谷にいても浮く衣装だ。

 今まできわどい格好をしたサーヴァントは何人となく見てきたが、これは別の意味で衝撃だった。立香は目を何度も瞬かせる。

 

「……ま、マシュ! いつもみたいに真名の解説を!」

「アメリカのゲームに出てくるチーターマンでしょうか。無限ジャンプを駆使する強敵です!」

「あんなバグゲーキャラと一緒にするでニャいわ!! つーか今の時代知ってるヤツとか数少なくない!? 独り善がりなボケは軋轢を生むと知れぃ!!」

「存在自体がクソボケなあなたが何を言っているんです?」

 

 アナの冷たい一言が着ぐるみ女を突き刺す。エレインはそれ以上に凍える目つきをしていた。

 着ぐるみ女はぎくりと震えると、肉球棍棒の先を立香たちに差し向ける。

 

「ともかく! ナワバリを荒らす人間には立ち去ってもらう! 我が肉球のシミとなるがいい……ニャ!!」

「取ってつけたような語尾───!!」

 

 立香が言葉を発するのと同時。ぱん、と木の枝が弾けた。着ぐるみ女は樹上から飛び降りる勢いを得物に乗せ、地面に叩きつける。

 豪風が吹き荒ぶ。風の合間に混じる岩石が雨霰の如く降り注ぐ。神秘のこもった岩の弾丸はサーヴァントをも挽き肉に変え得る威力を秘めていた。

 エレインは指一本も動かさずに、視線のみを傾ける。

 弾丸が到達する刹那、分厚い氷の壁が出現する。それは表面に一筋の罅割れもなく、岩の雨を防ぎ切ってみせた。

 しかし、その堅牢な壁は一瞬にして崩壊する。

 

「脆い、脆いわ! どれくらい脆いかと言うと、気になるあの子と出掛けた夏の日の思い出くらい脆い!!」

 

 あろうことか、着ぐるみ女は頭突きで巨大な氷壁を破壊した。

 

「それは脆いというよりも儚いと言うべきです!!」

「大分暗い青春送ってきたみたいね、トラ女!!」

「トラじゃねぇー! もう誰にも私をタイガーと呼ばせないと誓ったのだ!!」

 

 愚直なまでに正直な突進。故に先を読むのは容易い。アナの鎌とジャンヌの旗が交差するように、着ぐるみ女を狙う。

 双撃。果たしてそれは掠り傷すら女に見舞うことはなく。肉球棍棒のひと振りで腕ごと弾き返される。

 彼女は隙を晒したジャンヌとアナを足蹴にして、立香へと迫った。

 

「『gain_str+agi(32)』」

 

 筋力と敏捷を底上げするコードキャスト。

 マシュはその効果を一身に受け、一個の砲弾と化して着ぐるみ女と得物を衝突させた。盾を渾身の力で押さえつけながら、

 

「チーターでもタイガーでもないとなると、あなたは何のネコ科なんです!?」

「ククク、真名とは隠すもの。昨今のサーヴァントにはミステリアスさが足りぬ! やすやすと名前を明かすジャガーマンではないわ!!」

「先輩! これはツッコむべきですか!?」

「ごめん、私にも分からない!!」

 

 ジャガーマン。その名を聞いて、エレインは得心する。

 

「……狭義の意味での召喚術によって、精霊を自身に降ろすメソアメリカの戦士。そのファッションセンスにも納得がいったわ」

 

 かつて、メキシコから中央アメリカに栄えた文明。その呪術師たちは人間以外の動物や自然現象に変身・憑依する力を持っていたと言われている。中でも、動物霊の力を借り受ける者は実際にその毛皮を纏うことで、変化を成し遂げていた。

 立香はノアのうんちく魔術講義での記憶を想起する。

 

〝ダンテが魔神柱に変身したように、霊的存在を憑依させる。これが召喚術の元々の意味だ。北欧でもベルセルクなんて奴らが熊の毛皮を被って戦いに出ていた。要はそれが触媒だ。そういう連中は裸にひん剥いてやれ〟

 

 ……とは言うが、ジャガーマンを脱がせるのは普通に倒すよりも難易度が高い気がする。あのスピードを誇る相手を捕らえるなど、夢のまた夢だ。

 そんな立香の思考を読むように、エレインは告げる。

 

「その通りよ、立香。アレは英霊ではなく神霊。ジャガーに変身すると言われるテスカトリポカ神の一側面が具現化した存在……殺すつもりで戦いなさい」

 

 地面より何本もの氷の杭が噴出する。マシュだけを避けるように出現したそれはしかし、瞬時に樹上へ飛び移ったジャガーマンの尻尾さえも捉えられなかった。

 目にも留まらぬ速さで辺りを疾走するジャガーマン。鬱蒼とした植物に紛れ、林中に彼女の声が響き渡る。

 

「なぜ分かった!? やはり天才か!」

「アンタが自分で言ったんでしょうが!!」

「だが、ジャガーは考えるのが得意なフレンズニャ! 頭脳戦で遅れを取るはずがない!」

「……36×4は?」

「ぜんぜんわからん!」

 

 エレインは虚ろな目でため息をついた。ジャガーの頭ではレオニダス考案のファランクス算を理解できなかったようだ。

 森林を舞台としたジャガーマンは変幻自在かつ神出鬼没。この環境は狩り場に等しい。

 絶え間ない連撃の前に、立香たちは防戦を強いられていた。

 

「ニャははははははは!! 手も足も出ぬようだな! 勝敗を決するのは知性ではなく暴力!! 密林フィールドでバフがかかった私に勝てる者はあんまりいない!!」

「……へえ。アンタの強さは森のおかげってわけ」

「自分で自分の弱みを語ってくれるなんて、案外優しいのね」

 

 ジャンヌとエレインは背中合わせに、それぞれの武器を構えた。立香はマシュの背後に回りつつ、アナの手を取って引き寄せる。

 熱気と冷気が膨れ上がり、黒炎を纏う旗と氷の杖が同時に振るわれた。

 

「勝敗を決するのは───」

「───知性と暴力よ!!」

 

 莫大。その表現すら生温い火炎と吹雪が、密林を隅々まで席巻する。

 結果、ウル市を閉ざす密林を、黒白のコントラストが塗り替える。ことごとくが炭と化した焦土と、氷に覆われた凍土が一瞬の内に現れた。

 木々に潜み、獲物を刈り取るジャガーにとって、森林という環境は彼らの狩り場でありながら、人々の恐れと畏れを集めた信仰の基盤だ。

 故に、それを失えば神霊と言えども弱体化は避けられない。

 ジャンヌの正面では、物理的に尻に火がついたジャガーマンがのたうち回っていた。

 

「ギニャアアアアアア!! あっつ! アッツゥ!! 自然保護団体に怒られろ!」

「むしろあなたが怒られてください」

「エレインさん、どうします? このままだと私たちが自然保護団体から叩かれちゃいますよ」

「ジャガーマンに構ってる暇はないわ。だから」

 

 エレインは杖の先でジャガーマンを凍土の方へ突き飛ばす。すると、物理演算がイカれてるとしか思えない速度と挙動でジャガーマンが氷の上を滑っていく。

 

「摩擦力をとびきり弱くした特別製の氷よ。そのまま滑っていきなさい」

「ち、ちくしょー!! しかし私がやられたとしても第二第三のジャガーマンが───」

「『こんなのが何人も出てきたら悪夢すぎる……』」

 

 ロマンはモニター越しからでも、ジャガーマンの面倒臭さを感じ取っていた。

 で。

 一行はようやくウル市に到着することができた。

 ウルはギルガメッシュ王の要請を受けてもなお音沙汰のなかった都市だ。全滅という最悪の可能性も考えられたが、意外にも住民たちは普通の暮らしを送っているように見えた。

 変わったところと言えば、街中にまで植物が入り込んできているくらいなもの。景観的には向上していると言えよう。

 一行はジャガーマンとの戦いですり減らした神経を回復するため、通りの軽食屋で休憩していた。

 

「ジャガーマンが神霊ってことは、あいつが三女神同盟の一柱なわけ?」

 

 自然保護団体大激怒の放火を行ったジャンヌは、椅子にもたれかかりながらぼやいた。

 マシュは気の抜けた声で返事する。

 

「だとしたら拍子抜けですね。魔術王は最後の特異点だからと手を抜いたのでしょうか」

「確かに。むしろ最初の方が気合い入れるよね」

「はい。この世を創造した神様は七日目は休んだと言いますが、六日目は絶対適当だったと思われます」

「……六日目に人間創ったんですけど」

「人間の体なんて欠陥ばかりでは?」

 

 ジャンヌは口をつぐんだ。神は自分に似せて人を創ったが、人間の体は生え変わらない歯や巻き爪、抜け落ちすぎる髪の毛といった欠陥をいくつも抱えている。宗教的な観点からしても、神が集中を欠いていたことは確かだ。

 という暴論がEチームの外で通用するはずがないのだが。エレインは給仕の女性を呼び止める。

 

「そこのあなた。少し訊きたいことがあるのだけれど」

「なんでしょう?」

「私たちはギルガメッシュ王の命を受けて、ウルの調査に来たの。どうして密林に覆われた街から逃げ出そうとしなかったのかしら」

「逃げ出す理由がないというか……森のおかげで魔獣も入ってきませんし、森の女神の法を守ってさえいれば何事もなく過ごせます」

 

 密林のせいで出ようにも出られず、森の女神とやらの言いなりになるしかなかったのだろう。エレインはそう結論付けた。

 

「ですが、その森は既にジャンヌさんとエレインさんが───」

 

 立香は余計なことを口走りかけたマシュの口をパッと塞ぐ。アナは両の眉を寄せて、

 

「神が決めるルールは抜け道があったり、率直に言ってクソだったりすることがほとんどです。森の女神の場合はどうなんです?」

「い、一日に一度、エリドゥに男性限定で生贄を差し出すという契約で……」

「ああん!? そんなことしてたのアイツ!? さっき丸焼きにしておけばよかったわ!!」

 

 ジャンヌは怒りとともに炎を噴き出した。熱波が顔面を撫でつける。立香たちは苦い顔をした。その直後、彼女らの頭上で高笑いが轟いた。

 

「生贄を殺す時代はもう古い! 人間とは限られた資源───有効的に活用しなくてニャ!! エリドゥに集められた男たちはいま、監獄の中でナンバーワンルチャドールを目指してエゴイズム剥き出しの死闘を繰り広げているのだ!!」

 

 などと意味不明なことを宣うジャガーマン。屋根の上に君臨する彼女は、臀部周辺だけ黒焦げになった間抜けな姿をしている。

 それにしても信じがたい内容だった。嘘をついている可能性もある。立香は咄嗟にエレインの方を向く。

 

「妖精眼お願いします!」

「…………残念ながら、嘘は言ってないわ」

「人が亡くなっていないのは喜ばしいですが、嘘であってほしかったですね……」

 

 マシュは肩を落とした。そこにもうひとつ、聞き覚えと見覚えに溢れた人物が現れる。

 

「待て! そのジャガーマンは偽りのジャガーマン! 私こそが真ジャガーマンだ!!」

 

 通りを爆走してきたジャガーマンは、屋根上のジャガーマンと違って小奇麗な見た目をしたジャガーマンだった。何を言っているか分からないがそういうことだった。

 ロマンは驚愕のあまり、手に持ったコップからコーヒーを垂れ流す。

 

「『…………ジャガーマンがふたり!?』」

「……普通に考えて、傷ついてない方が偽物では?」

「いえ、私たちと戦った時から既に入れ替わっていたのかもしれないわ」

 

 慌てふためくロマンを尻目に、エレインは妖精眼を発動していた。

 屋根上のジャガーマンも、今しがた走ってきたジャガーマンも嘘はついていない。

 考えられる可能性は三つ。両方とも本物か、自分が本物であると思い込んでいるか、あるいは妖精眼を欺くほどの隠蔽を施しているか。

 しかし、Eチーム三人娘は別の可能性に辿り着いていた。

 

「……これって、もしかして」

「サクラ、かもしれません。スサノオさんの姉にも化けていたくらいですから」

「そうね。もう一度あいつを発狂させてやるわ」

 

 エレインは意識の端でその会話を認識していた。ぱちん、と指を弾き、魔術を発動する。

 屋根上のジャガーマンは赤色の毛皮に、もう一方のジャガーマンは緑色の毛皮に変化した。ジャガーマンズは互いの毛色を見て、嘲りの笑みを浮かべた。

 

「ふっ、緑とは永遠の二番手に定められた色……その時点で私が本物であることは確定的に明らか」

「浅いな、赤ジャガーマン。赤こそ永遠の不人気を運命付けられた色! 地面に埋められるのがお似合いだぞ!」

 

 赤ジャガーマンと緑ジャガーマンは腕で押し合いをしながら、灼熱の視線を激突させる。

 赤ジャガーマンは言った。

 

「この世に神は数あれど、ジャガーマンを選んで偽った審美眼は褒めて差し上げよう! だが世界にジャガーマンはひとりで事足りる! 真の姿を現せバケモノめ!!」

「バケモノはそっちじゃ偽ジャガーマンが! ラーの鏡さえあればその醜い本性を暴けるというものを! 誰かムーンブルク城まで行ってきてくれニャい!? ちゃんと毒消し草も用意するから!!」

「ここに来て他力本願とは見下げ果てたぞ緑ジャガーマン!! タイガーマンに改名するのが妥当よ!!」

「おいそれは禁句だぞ! ジャガーマンはジャガーマンであってそれ以上でもそれ以下でもない! 貴様はジャガーマン以下のジャガーマンだがなァ!!」

 

 世界で一番くだらない戦いが巻き起こっていた。走り出す理由がたとえどんなにくだらない人でも走り出せないレベルである。

 

「「───ならば! 力で決するより他はない!!」」

 

 ジャガーマンズは拳で殴り合う。砂煙の中から頭と手足だけが飛び出る古典的な光景ながらも、神霊同士の喧嘩は周囲に甚大な被害をもたらした。

 衝撃波が拡散し、地面がめくれ上がる。拳を叩きつける音は砲弾が炸裂しているかのようだった。余波だけで建物が傾き、ばたりと倒壊する。

 立香たちは背を向けて、はた迷惑な喧嘩から逃げ出す。

 

「うわあああああ!! やっぱり神様って迷惑な人しかいない!!」

「放っといたらウル市民にも被害が出るわよ! なんとか止めないと!」

「そう言われても、どっちが本物か分からないまま戦うのは危険では!?」

「それに、下手に横入りしたら被害が拡大するだけです!」

 

 マシュとアナは突撃しようとするジャンヌの肩を掴んで引き戻した。

 エレインは足を止め、杖を地面に刺す。

 

「───私が宝具を使うわ。異界なら街に被害は出ないから」

 

 ぱきり、と地中の水分が凍る音。

 氷の杖が地面に吸い込まれていくにつれて、放射状に霜が広がる。

 白く包まれる世界。肌を突く冷気。立香が身震いを覚えたのはその気温故か、はたまた。

 

「『悠か妙なる(トゥール・デ・ダーム)─────」

 

 しかし。

 現実と空想が入れ替わる瞬間。

 異界より呼び込まれた冷気が、中空に輝く神霊にかき消される。

 

「どっちが本物か分からない……そんな時は!」

 

 それは人の形をした太陽。

 アステカ神話における第二の主宰神。

 大気の破裂とともに、神は空中より墜落した。

 

「どっちも殴ってしまえば良いのデース!!」

 

 蹴撃一閃。ドロップキック気味に繰り出した両足の先が、赤緑ジャガーマンズの顔面に激突する。

 ジャガーマンたちは凄まじい勢いで突き飛ばされ、自身の五体で地面に長大な轍を刻んだ。

 如何な神霊と言えど、戦闘不能は間違いない一撃。だがしかし、砂塵の奥でジャガーマンの片割れがゆらりと立ち上がる。

 砂のカーテンの向こう側。緑ジャガーマンの首根っこを掴んで引きずるソレは、既にジャガーマンのカタチをしていなかった。

 少女は左の五指で頬をまさぐる。

 

「…………いッッッた。せっかく掻き乱せそうだったのに、邪魔されちゃいました」

 

 自らの肢体を影で覆う黒白の少女。下腹部に刻まれた紋様が妖しく光を放つ。

 

「なので」

 

 偽神サクラは華やかに笑い、

 

「───全員、ぷちっと潰してあげます」

 

 その背より、灰色の石翼を羽ばたかせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 立香たちがウル市の密林でさまよっていた頃。

 カルデアの董卓ことノアとそのサーヴァントに牛若丸とマーリンを加えた一行は、ギルガメッシュ王の勅命を果たすためにメソポタミア地域を歩いていた。

 一行が無言を貫く中、通信機の向こう側ではダ・ヴィンチちゃんがムニエルを介護していた。

 

「『おお、今日は靴下も履けたみたいだね。偉いぞムニエルくん』」

「『ウン。ガンバッタ』」

「『今日はみんなの昼食のサンドイッチにパセリを乗せる仕事をしてもらおうか。ムニエルくんはできるかなー?』」

「『ウン、ボク、ガンバル』」

 

 ムニエルは青白のストライプ柄のパンツと白い靴下のみを身につけた半裸状態だった。彼はひたひたと管制室の外へ出ていく。

 未だにムニエルはノアの霊薬の副作用から脱しきれていないらしい。ひとつの人格の崩壊を目の当たりにしたダンテは両目から大粒の涙を流した。

 

「ム、ムニエルさんがあんなことになっていたなんて……!!」

「おいおい、この特異点クリアしたら後は魔術王ぶっ飛ばすだけだぞ。全部元通りになる前に治ってもらわなきゃ隠蔽できねえじゃねえか」

「よしんば治ったとしてもオレが告発するからな!?」

「サーヴァントの分際でマスターに逆らえるとでも思ってんのか?」

 

 牛若丸はからからと笑って、

 

「ノア殿は一般的にクズと言われる人種ですね! その腹黒さは兄上と仲良くできそうですが!!」

「いえ、ノアさんは権力欲もあるので頼朝さんとは相性が悪いタイプだと思いますわ」

「王の下にはつけない人間だね。あの頃のブリテンにいたらアヴァロンに追放してたかもしれない」

フォフォウ(それお前だろ)

 

 そもそも、アヴァロンの妖精たちもノアの襲来はお断りだろう。その場合は現世の人間とアヴァロンの妖精でノアを巡った熾烈な争いが起きるに違いない。

 ローマの変人皇帝ネロは彼を宮廷魔術師に任命したが、シモンもまた同じ。ロクデナシであることは変わりない。ノアは邪悪に微笑んだ。

 

「安心しろ、俺が自ら下につきたいと願う王はソロモン王だけだ。神に見捨てられても領土を回復させてやる」

「『…………もしソロモン王がとんでもないポンコツだったらどうする?』」

「首輪で縛りつけて真人間に更生させてやるよ。ただそれは仮定の話だ。ソロモン王は女癖以外は完璧だからな!!」

「ダビデさんの息子ですからねえ」

「血は水よりも濃いと言います! 私と兄上もそうでしたから!」

 

 ノアはソロモン王トークに火がつくと周りが止めても話を続ける傾向にある。その上、牛若丸の頼朝トークが乗っかればどんな地獄が繰り広げられるかは想像に難くない。

 それを避けるため、ダンテは上を向いて記憶のページをめくり、話題を変えることにした。

 

「そ、そういえば。典拠にもよりますが、マーリンさんは湖の乙女に言い寄って封印されたんですよねえ。三姉妹の誰にやられたんですか?」

 

 何の気なしに問われると、マーリンは青褪めた顔で震え出した。

 

「…………の、ノーコメントで」

 

 ぼそりと呟くマーリン。相当なトラウマを負っていることは明白だった。その経緯を知っているであろうリースとペレアスは苦い顔をして言う。

 

「「あの時は色々ありすぎた……」」

「え、何があったんですか!? とてつもない闇が渦巻いているのを感じるのですが!!」

「『歴史の実態は記述と異なるということだろう。私も気になるけど、踏み込みすぎない方が良さそうだ』」

 

 誰にも何にも踏み込んではいけない領域はある。それが急所となればなおさらだ。

 ペレアスは気を取り直すと、鋭い視線でマーリンを咎めた。

 

「つうか、お前。色々暗躍してたそうだが、どうして第六特異点には来なかった?」

「正確にはEチームがレイシフトする前はちょくちょく幻影を飛ばしてきましたわ。手紙も届けてもらいましたし」

「私にはやるべきことが沢山あるからね。この特異点から離れる訳にいかなかったのさ。うん」

 

 ペレアスは取り繕うような語調に違和感を覚え、マーリンの後ろ暗さの正体を言い当てる。

 

「……王様に会うのが気まずかったんだろ。ベイリンもいたしな」

「まっ、まままままさか! 何を言ってるのかなペレアスくんは!? それにベイリンく……ベイリンちゃんは関係ないだろう!」

「嘘だな。お前が王様の次に肩入れした人間はベイリンだろ。天罰から助け出して墓に名前を刻んでやったくらいだからな」

「あー聞こえない! ところで、みんなはギルガメッシュ王から授かった任務は覚えてるのかな!?」

 

 マーリンは話の流れを強引に分断した。

 ノア一行は出発前、ギルガメッシュが述べた任務の内容を思い出す。

 

〝全世界雑種最底辺トーナメント優勝者、貴様には『天命の粘土板』を捜索してもらう。我が冥界より帰還した折、クタの地で書いたものだ。天命とはすなわち運命……粘土板には未来の出来事が記されている。これを敵に奪われれば痛手だ。必ず回収せよ。───ほう、レオニダスが四則演算をマスターしただと? 次は()(かっこ)を使った計算だと伝えておけ!!〟

 

 レオニダスは順調に算数の学習を進めていた。北壁の防衛を行いながら、少ない時間で勉強したにしてはかなりの学習速度である。

 それは別にして。ウルクの守護女神がイシュタルだとすれば、クタはその姉エレシュキガルを崇める街だ。ギルガメッシュが冥界から帰ったというのも、冥界との繋がりが強い場所だからだろう。

 シドゥリの補足情報では、現在クタ市の住民は眠るように死に絶え、呪われた地として誰も近づかなくなってしまったのだとか。

 粘土板を狙う小悪党もいないという意味では幸運だったが、波乱の予感しかしない土地だ。ギルガメッシュの当てつけというのは考えすぎかもしれない。

 地獄ソムリエ一級資格持ちのダンテは肩を竦めた。

 

「冥界の類はこりごりなのですが……ギルガメッシュ王の命令とあらば断る訳にもいきませんからねえ。皆さん、ウェルギリウス先生役は任せました」

フォフォフォウ(結局他力本願かよ)

「それにしても、予言までできるなんてギルガメッシュ王は凄いですね。内容を覚えてないのが何とも言えませんが」

「霊媒ってのはそういうもんだ。自動書記なんかじゃあ、本人ですら書いた文章を覚えてない事例まである」

 

 意識をこの世ならざる場所に繋げる、予言の秘奥。常人でも見た夢の内容を忘れてしまうように、現世の肉体が曖昧な記憶しか持たぬとしても不思議ではない。

 マーリンは影のある笑みを形作り、ノアに言う。

 

「メソポタミアの神話では、エンリル神が持つ王権の象徴も天命の粘土板と称される時がある。つまり、全宇宙の支配者たる資格だ。興味あるだろう?」

「ドロケイに乗じてギルガメッシュの宮殿で探そうとしたんだがな、牛若丸に阻止された」

「遊びとはいえ勝負は本気で臨むべきです! 第二回が開催されても、八艘飛びは自重しません!」

「人間が天命の粘土板を手に入れても大事にはならないけどね。神かその血を引く者でなくては意味がない」

 

 その昔、アンズーという怪鳥がエンリルから天命の粘土板を盗んだ。しかし、アンズーが世の覇者となることはなく、エンリルの息子であるニヌルタに奪い返されたのだ。

 王たる資格を有する存在は選ばれた神のみ。なれど、半神半人のギルガメッシュは王権を簒奪してみせた。その事実が意味することは。

 マーリンはノアを試すように問う。

 

「キミなら可能性がある。オーディンの後継者であるバルドル、半神半人の英雄バルデルス。キミが編み出したあの術式を用いれば、あるいは……ね」

 

 花の魔術師はからかうような口調の裏側に、抜き身の剣の如き鋭さを隠していた。

 向かい合う相手にしか分からぬように、そっと忍ばせた刃。

 ノアは小さく笑い飛ばす。

 

「ハッ、アホか。研究材料としては興味深いが、その程度だ。魔術の権威をぶち壊そうってやつが王権にしがみついてどうする」

 

 それに、と彼は続けた。

 

「───アレを使うのは、俺があの俺を許した時だけだ」

 

 真っ直ぐと言い切る。

 その碧い眼差しを覗き、マーリンはくすりと笑う。

 

「……うん、なるほど。少しキミという人間への理解が深まったよ。いや面白いな、これは得難い感情だ。私たちは人間ほど複雑な精神性を有してはいないからね」

「私たちは、というよりマーリンさんが、ですわ」

「キミほど単純な欲求に塗れた精霊はいなくない!?」

 

 リースはペレアスの片腕に抱きつく。

 

「半夢魔のマーリンさんに言われたくありませんわ。私のペレアス様への愛は多角的かつ多元的───これを複雑と言わずして何と言うでしょうか!!」

「僕が半夢魔なのは間違いないけど、キミはもはや淫魔じゃないかなぁ!? ペレアスくんも何とか言ってくれ!!」

「…………ノーコメントで」

「『ううん、相変わらずシリアスが長続きしないなあ』」

 

 そんなこんなで、一行はクタ市を目前にするところまで移動した。

 クタの街には人影ひとつ見当たらなかった。それどころか、鳥や家畜、虫の姿でさえありはしない。

 すべての生命がこの地を遠ざけている。そんな印象すら覚える、虚ろな都市。入り口から歩いてしばらくすると、ダンテは両脇にノアとマーリンを引き寄せる。

 

「まずい……これはまずいです……私の第六感が在りし日の恐怖を訴えています! 皆さん、私の四方を取り囲むように立ってください! そうでなくては動けそうにありません!!」

「サーヴァントのおまえが一番厳重に守られてんじゃねえ!! つうかおまえの第六感が赤信号以外を発した時があんのか!?」

「う〜ん、ダンテさんが女の子だったら役得なんだけど。アヴァロンにそういうことができる子たちがいるから行ってきてくれるかい?」

「遠回しに助けないことが確定したのですが!? けれど、ジェンマには悪いですが生き延びられるなら性転換も許容しますよ!!」

「『はるばるアヴァロンまで行かなくても私が執刀するよ?』」

 

 ヘタレここに極まれり。ノアとマーリンは無理やりダンテの腕を外し、先に進む。ダンテは負けじとノアの腰にしがみつき、そのままずるずると引きずられた。

 ともかく、任務は天命の粘土板の捜索と回収。手当たりしだいにクタ市を歩き回るしかない。

 牛若丸は辺りに目を配りつつ、

 

「しかし、ここまで生命の気配がないのは異様ですね。壇ノ浦の後より酷いです」

「草木たちも沈黙しておりますわ。エレシュキガル神の街だけに冥界の影響が強いのでしょうか」

「自分を崇める人間がいなくなったら神様も困るんじゃねえか? エレシュキガルがどんな神様か知らないが」

「エレシュキガルは自分の領域に人間を引き込むために、地上に病気の概念をもたらした神だ。万が一邂逅したとしても、安易な期待はするべきではないだろう」

 

 冥界の女主人、エレシュキガル。冥界の管理者であると同時に、人間を積極的に死に引き込む側面を持つ。その反面、性のエピソードも伝わっており、彼女もまたゲーデのように性と死の双極性を有している。いつの時代も生と死は表裏一体なのだ。

 メソポタミアの神話では、人間は神々の労働を代行する存在として生み出された奉仕種族である。神々が人間の生き死にに頓着しないのは当然でもあった。

 マーリンの話を聞いて、ダンテは唸り声をあげる。

 

「その話を聞いて一段と恐ろしくなってきました。くっ! 手汗で滑る!」

「にしても、どうやって粘土板を探しましょうか。見当をつけるにしろ、隅々まで回るにしろ、人数が足りません」

「ペレアス、令呪を以って命ずる。分裂しろ」

「無茶言うんじゃねえ!!」

 

 良い案も出ずに街をふらついていると、曲がり角から純白の衣を纏った青年が現れる。彼はなだらかに吹く風のような声で語りかけた。

 

「その仕事、ボクにも手伝わせてくれないか」

 

 腰まで届く緑髪、透き通る紫の瞳。

 青年の出現を受け、ダンテは甲高い悲鳴を捻り出した。

 

「ヒィーッ!! こんな場所にいるなんて亡霊か悪魔に違いありません! 第六感もそう言ってます!!」

「ケツに顔を押し付けてくんじゃねえ気色悪ぃ!! おまえの第六感が役に立ったことなんかねえだろ、死に設定だろ、フォウだろ!!」

フォウフォフォフォウフォウ(存在が忘れられてたのは昔の話だぞ)!!」

「この人たちは置いといて、貴方はなぜクタにいるのです? 口振りからすると私たちの事情も把握しているようですが」

 

 牛若丸は佩刀の柄に指を添わせる。紫色の瞳はその動作を認めながらも、青年は余裕に満ちた表情で口角を吊り上げる。

 

「今しがた召喚された身でね、キミたちの会話を盗み聞きさせてもらった。警戒していたとはいえ、失礼なことをしてすまない」

「謝るのはこっちかもな。アホな会話聞かせた上に亡霊扱いだ。悪かった。アンタの名前は?」

「───エルキドゥ。神々に造られた人ぎょ」

「あ、それ嘘ですね」

 

 ダンテは真顔で言い切った。

 しん、とただでさえ静かなクタが寒々しい静寂に包まれる。

 エルキドゥ(嘘)は目を閉じ、ゆっくりと開くと微量の殺気を声に乗せて問う。

 

「……なぜ嘘だと?」

「す、少しだけ心を読めるスキルを持ってまして」

「そうか。それは予想外だった。じゃあ、ボクが考えてることは分かるかい?」

 

 ひゅっとダンテが息を漏らした瞬間、大気が揺れる。

 ペレアスと牛若丸は滑るように走り込み、青年の首に触れる寸前で剣を止めた。

 

「ダンテに訊くまでもねえ。つまりはこういうことだろ」

「心を読む力がなくとも、押し付けてくる殺気だけで十分です」

「腐っても英霊───人間にしてはそれなりのスペックか。うん、まあまあ楽しめそうだ」

 

 二つの刃が首に食い込む直前、青年の足元より無数の鎖が巻き上がる。

 それはさながら鉄の竜巻。渦巻く鎖は空高く突き上がり、弾ける。無形の大気を踏み台にして空中に留まり、エルキドゥを偽称した彼は膨大な魔力を発散した。

 

「ボクはキングゥ! キミたち人間を滅ぼす者の名だ───!!」

 

 静かな湖面に岩を投げ込むように。

 キングゥの踏み込みによって空気が波打ち、波紋を生じた。

 まるで嵐に見舞われたみたいに、人の造りし家屋が根こそぎ吹き飛ばされる。その力の全てを一点に凝縮した一撃は容赦なく、ノアとダンテへ叩きつけられる。

 

「投影、『金鉄の神猪(グリンブルスティ)』!!」

 

 キングゥの動きはノアの目でさえも追えない。けれど、魔術の発動が間に合ったのは幸運ではなく必然。敵を警戒する本能のままに動いた、その結果だった。

 両者の間に巨大な金色の猪が立ちはだかる。勝利の剣を携えし豊穣神フレイの乗騎、これを模した獣は鼻尖によってキングゥの一撃を受け止め、呆気なく破裂する。

 キングゥの追撃はなかった。ペレアスと牛若丸が割って入り、マスターへの道を塞ぐ。

 

「チッ! 役に立たねえなアイツ!!」

「前にもこんなことありましたよねえ!? あの子の扱いが酷くありませんか!?」

「動物の扱いには気をつけた方が賢明だ。映画を見ても人間が酷い目に遭うより犬猫がそうなる方が嫌な人も多いからね」

「うるせえ、おまえも戦え!!」

 

 ノアはマーリンを引き寄せ、尻に蹴りを入れる。

 

「ちょっ、キャスターに殴り合いさせるとか死刑宣告も同然なんだが!?」

「ああ、後方でネチネチできない魔術師に意味はないね……!!」

 

 キングゥはよたよたと前線に入り込む花の魔術師へと、右拳を叩きつける。胴を四散させるに余りある拳撃。それはマーリンを打ち抜く寸前で、血の華を咲かせる。

 成したのは、魔術師の手中に輝く黄金の剣。指揮棒を手繰るかのような優雅さで、その斬撃はキングゥの表皮を裂いていた。

 

「───ふ。一山いくらの運動不足キャスターたちと同列に語られては困るというもの! 今のトレンドはアウトドア系なのさ!!」

「お前の場合は詠唱すると舌噛むからだろ」

「しかも何百年もアヴァロンの塔に引き篭もってるので、人類史最大級のインドア系ニートですわ」

「うん、そこのバカップルは黙ろうか!!」

 

 ダンテが宙に祝福の詩を解き放つ。

 ペレアスと牛若丸、マーリンにその光が宿るとともに、キングゥとの戦闘が幕を開けた。

 花の魔術師が与えた傷は瞬時に癒えていた。加えて、その五体から繰り出される攻撃はすべてが自然の暴虐を体現し、必殺の威力を秘めている。

 ペレアスの全身に紅蓮の鎧が取り憑く。攻撃に伴う余波の防御を甲冑に任せ、騎士はキングゥの懐へ入り込んだ。

 神殺しの魔剣が奔る。

 マーリンの斬撃でさえ素手で捌くキングゥは、この時初めて攻撃を回避した。

 

「その剣だけはくらう訳にはいかないな。少しばかり痛そうだ!」

 

 後方へ跳び、突き出した両の袖口から鋭い杭のついた鎖が溢れ出す。

 退くペレアスとは逆をつく牛若丸。彼女は地面を蹴り跳び上がると、鎖の奔流を足蹴にキングゥへと肉薄する。

 風切り音が鳴る。緑髪の房が千々に分かれ、宙を舞う。

 すれ違いざま。キングゥは右足一本で小さく跳び、体の捻って牛若丸へ左足刀を加える。

 べきり、と受け止めた柄が破砕し、牛若丸は血を吐いた。キングゥの力を殺し切れず、その一撃は身体に届いていたのだ。

 

「『治癒の呪法(Elder Rune Ⅱ)』───マーリン!!」

「応ともさ!!」

 

 原初のルーンによる治癒が牛若丸に降り注ぐ。マーリンが地面に黄金の剣を突き立てると魔力の波濤がキングゥを襲い、もう一方の手で杖の仕込み剣を放り投げる。

 牛若丸は即座にそれを掴むと、キングゥへ斬撃を見舞った。

 流れ出した血液が地面に点々と赤い染みを滲ませる。

 

「───ああ。これは、埒が明かないな」

 

 キングゥの親指が頬に刻まれた切創を拭う。流れる血、傷さえ修復され、その肌に残るモノはひとつ足りとも消失していた。

 

「だったら降参でもするか? この程度で音を上げる根性の持ち主なら俺の勝ちだがな。桃鉄100年徹夜プレイやってから出直してきやがれ」

「ただ、キミたちの実力を測ることはできた。その結果から言うと、うん、皆殺しにできるかな。紅い騎士の剣さえ気をつけていればどんな風にも殺せる」

「まあ俺に勝てるやつなんてこの世のどこにもいない訳だが。キングゥつったらマルドゥーク相手に裸足で逃げ出した腰抜けだからな。おまえがキングゥそのものかは知らねえが、その通りにしてやるよ。天才の力に恐れおののけ!」

「だけど、こんなに傷を受けたのは初めてでね。この憤りは並の殺し方じゃ発散できそうにない。そうだな、蒸発させてみようか。大地の養分にもなれないのがお似合いさ」

「会話がまったく噛み合ってないんですが!!?」

 

 ダンテ渾身のツッコミはノアとキングゥには届かなかった。

 キングゥは屈み、クタの地に手のひらをつける。どくり、と地が心臓の如く脈動する。光り輝く魔力が汲み上げられ、キングゥの肉体に凝縮される。

 それは大地の力。

 生命の出発点にして終点を担う権能の発露。

 矮小なるヒトの力など及ぶべくもない甚大なエネルギーを金色の鎖へと変え、キングゥは存在の核たる宝具の名を唱えた。

 

「『母よ、始まりの叫をあげよ(ナンム・ドゥルアンキ)』!!!」

 

 地より解き放たれた星が天へと飛翔する。

 雲を突き抜け空を超え、地球の重力を振り払う。

 一条の光星はそこでようやく上昇を終え、母なる大地へと帰還する。

 世の終わりと見まごうかのような威容。その墜落による鳴動はメソポタミア全土に及び、ノアたちだけを殺すべく加速した。

 これを防ぐ術は、花の魔術師マーリンすら持ち得なかった。

 

「投影、『炎星の首飾り(ブリーシンガメン)』」

 

 そして、星が堕ちる。

 世界より色が消え、音が失われる。

 キングゥの特攻はクタ市を吹き飛ばすだけでなく。

 周辺数十kmの何もかもを、蒸発させてみせたのだった。

 赤熱する爆心地。地中の岩石と鉱物が融解し、どろどろと流れ出す。常なる生物の生存能わぬ土地の中心で、キングゥは独り言を呟く。

 

「…………逃げられたか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クタ市の地下。

 死の瘴気が充満する荒野にて、いくつかの人影が落ちた。が、ひとつを除いてそれらは綺麗に着地する。

 例外は頭から地面に激突し、頭頂から噴水のように血を噴出させた。

 

「うごおおおおおお!! え、大丈夫ですかこれ!? 脳みそまろび出てません!?」

 

 イタリア最大の詩人、ダンテ。彼は両手で頭を抱えながら、ひっくり返ったゴキブリみたいにのたうち回る。

 ノアたちは思ったより元気な様子を確認すると、示し合わせたように額の汗を拭って息を吐き出した。マーリンは杖で地面をこんこんと叩く。

 

「うん、ここはクタ市の地下……冥界みたいだね。ノアくんの思いつきは上手くいったようだ」

「魔術で地面を掘って冥界に逃れる、ですか。よくそんなこと思いつきましたね? 兄上に迫る機転です」

「スサノオが同じことをやってたからな。神代なら現世と冥界は陸続きだ。それもこれも天才たる所以だが。おまえらにこの偉業を後世まで語り継ぐ権利をやる」

「いや、オレたちもう死んでるからな。マーリン以外」

 

 すると、牛若丸は目を輝かせた。

 

「スサノオ神に会ったことがあるのですか!? どんな見た目でした? 性格は!?」

「見た目は大体子どもでしたわね。最後は馴染みのあるヒゲもじゃになりましたが」

「性格は…………知らない方が良いと思うぞ?」

「おお……人伝えに神の本性を知るなど畏れ多いということですね! 是非一目見てみたかったです! 神剣が水没する原因を作った私が言うのもなんですが!!」

 

 牛若丸は興奮した様子ではにかんだ。

 なお、彼女の心配は杞憂だろう。スサノオはアホだがそんなことを根に持つほど狭量ではない。むしろ腹を抱えて爆笑する破綻者である。

 笑い転げるスサノオを想像するペレアス夫妻の横で、ダンテが幽鬼の風体で立ち上がる。彼はふらふらとゾンビのように手を前に突き出して、所在なさげに歩く。

 

「は、早くここから逃げましょう! この空気と雰囲気はまさしく地獄です! 死んだ私たちがサーヴァントになって冥界に来るとかどういう冗談ですか!?」

「やかましいぞダンテ。せっかくの冥界探索をフイにできるか。まずはエレシュキガルを脅して天命の粘土板の場所を吐かせる」

「確かに、地上にないとなると粘土板があるのは冥界だろう。そもそもキングゥが蒸発させた可能性もあるが」

「聞いた限りじゃあ、エレシュキガルって神様が教えてくれそうにはないけどな……」

 

 ペレアスは苦い顔をした。

 神話の記述を信じるなら、エレシュキガルは人間の頼みごとを気軽に請け合うタイプではない。試練を押し付けられた挙句、横紙破りをしてくることも考えられる。

 ダンテはライブで熱狂するヘビメタファンのように頷く。

 

「ええ、間違いありません! きっとその神は恐ろしい見た目をしているのでしょう……あのサタンのように! ヒィーッ!!」

「自分で想像して自分で怖がってますわ……!!」

「エレシュキガルなる神様はどこにいるのです? 冥界の支配者というくらいですから、やはり最奥でしょうか」

「そんなアナタのために、マーリンお兄さんがそれっぽいところを探しておいたよ。こっちだ」

 

 駄々をこねるダンテを、ノアがリード付き首輪で強制連行する。

 マーリンに案内されたのは、見上げるほどに巨大な石の扉。ゾルディック家の試しの門をうかがわせる。それは冥界にありながら、一際異様な雰囲気を放っていた。

 しかも、その扉の隙間からは甲高い声が断続的に漏れ出している。

 

「こ……この声はまさか拷問───!?」

「にしては切羽詰まった声してねえな。俺が拷問の何たるかを教えてやる」

「私のマスターが悪魔すぎる件について!」

フォウフォフォウ(スレ立て遅えよ)

 

 ノアは石扉を勢い良く蹴り開いた。

 そこにいたのは、

 

 

 

 

「にゃーん♡ にゃんにゃん♡ にゃ〜ん♡」

 

 

 

 

 ネコの亡霊と戯れる、金髪美少女だった。髪の色以外はイシュタルと同一人物と思えるほどに酷似した容姿をしている。

 侵入者たちと少女の目が合う。

 金髪美少女は顔を真っ赤にして、泡を食いながら名乗りをあげた。

 

「────わ、我が名はエレシュキガル。私の冥界に土足で踏み込むとは、良い度胸なのだわ。這いつくばって頭を垂れなさい」

「いや、それは無理がありますよねえ!!?」



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第68話 傲慢の偽神

 イシュタルの神殿。

 金星の女神は疑似サーヴァントとしてこの時代に召喚され、自由気ままに生活を送っていた。近隣の農家から家畜を強制的に徴発するのは朝飯前。片っ端から金銀財宝を奪って愛でたり、なんだか気分が晴れないので目についた場所を矢で吹き飛ばしてみたりと、悪行三昧を謳歌していた。

 が、人間たちはそれでもまだ生温かったのだと知る。数日前、イシュタルがサクラに敗北したその日から、女神の傍若無人な振る舞いは過熱の一途を辿ったのだ。

 イシュタルが負けた憂さ晴らしをする様を見て、ある人はこう表現した。〝山脈でドミノ倒しをしているかのようだった〟と。

 さらには周辺住民を掻き集め、人間ジェンガ大会を開催する始末。ギルガメッシュの意向によって、ウルクの片隅に設けられたイシュタルの祭壇は放置の果てに心霊スポット顔負けの廃墟になっていた。

 そんなことはいざ知らず。イシュタルは各所から巻き上げた金銀宝石の山の上で貪っていた惰眠から意識を覚醒させる。

 寝ぼけ眼を擦り、ふわふわと宙を漂って寝所から屋外へ出ると、大量の捧げ物を積んだ荷車が停車していた。その御者である男はイシュタルへ礼を取った。

 

「イシュタル様! ギルガメッシュ王の命により供物の献上に参りました!」

 

 ふむ、とイシュタルは空中で肘をつく。

 

「あの金ピカにしてはやるじゃない。やっと私の威光を理解したってことかしら。中身、見させてもらうわよ」

 

 荷車に載っていたのは、成人男性二人分ほどの高さの袋。高さに比例して体積も大きい。イシュタルは鼻歌混じりに軽々と袋を掴みあげると、それを引っくり返して中身をばら撒く。

 どさどさと音を立てて、袋の中身が流れ出す。それは地面にうず高く積まれた宝石───ではなく、何やら絵と文章が刻まれた粘土板の山だった。

 イシュタルは殺伐とした表情になる。

 

「…………は? ゴミの山?」

「現在ウルク市内で大流行中の新感覚カードゲーム『粘☆土☆王 バトルマスターズ』、略してネンバトのカードですね」

「なによそのパクリのオンパレードは!? カロリー高すぎて胃もたれするわ!!」

「若い頃は大丈夫だったのに年取ると一気にキャパが狭まりますよね」

「そうそう、食後の血糖値が……って違うわ!」

 

 びしり、とイシュタルは男に対してデコピンを放つ。

 神のデコピンはそれこそ人間離れしていた。男の体が空中を三回転し、地面に肩ほどまで埋まる。奇怪なオブジェと化したウルクの遣いを背景に、イシュタルは一枚の粘土板を手に取った。

 それは他の粘土板と異なって絵が描かれておらず、金箔が貼られた豪奢な見た目をしている。

 そこにはこう書かれていた。

 

〝駄女神イシュタル。たとえ貴様が何処に出しても恥ずかしい雑種の中の雑種だとしても、ウルクの都市神である以上、王の役目は果たさねばならぬ。そこでネンバトのカードを贈ることにした。明日のパンとも引き換えられぬクズカードだが、不埒な悪行を尽くす貴様の身には相応の代物であろう。駄女神は駄女神らしく貧相なデッキでも組んでいよ(笑)貴様には共に遊戯に興じる相手などおらぬだろうがな(爆)〟

 

 文章を読み終わるか終わらないか、その時既にイシュタルの怒りは天元突破していた。五指で粘土板を粉砕し、目元に涙を溜めながら、全身をわなわなと震えさせる。

 

「あんんの金ピカァァァ……!!!」

 

 ───決めた。絶対に殺す。

 並大抵の殺し方ではこの屈辱、この怒りは静まりそうにない。芸術的かつ前衛的、誰も見たことがない無様な死に様を晒させてやらなければ気が済まない。

 例えば、どこぞのへっぽこに切り札を使うことを躊躇った挙句に腕を斬られて、ついでに頭も射抜かれて聖杯の孔に飲み込まれるとか。

 殺意の波動に目覚めたイシュタルは即座に天舟マアンナを呼び出した。

 その、直後。

 イシュタルの神殿から遥か遠方。爆ぜる閃光と莫大な熱。女神の五感は素早くそれを察知すると、ウルクの遣いの首根っこを捕まえて空に飛び上がる。

 金星の女神は見た。

 天空を穿ち、大地を叩き斬る光の柱を。

 振り落とされる光はさながら一本の剣。光の奔流は不自然に軌道を変えると、イシュタルの眼下を潜り─────

 

「ちょ、ちょっと、待っ」

 

 ────彼女の神殿を跡形もなく蒸発させる。

 およそ五分、イシュタルは白目を剥いて立ち尽くしていた。一旦はその瞳が元の位置に戻るものの、目の前の現実を受け入れきれずに目玉が引っくり返ってしまう。

 それを繰り返すこと数度、イシュタルはようやく現実を直視する。

 蒐集した宝物は影も形もない。女神の神秘によって底上げされた神殿の防御はまるで意味をなしていなかった。だが、女神の収集物の中でひとつ、無傷で残っているものがあった。

 手を近付けるだけで指が落ちてしまいそうな刃を煌めかせる、ひと振りの剣。イシュタルはその柄を迷いなく鷲掴みにすると、ぼろぼろと涙をこぼしながら歯を食いしばる。

 

「どこのどいつか知らないけど、ぜっっったいに許さないんだから────!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クタ市、地下冥界。

 メソポタミアでは、死後の世界は人が住む大地の下にあると考えられてきた。

 神だけが永遠の生命を持ち、人間はみな現世の地位や功績に関わりなく、非力な幽霊として暗く乾燥した地下世界に送られる。

 誰もが荒涼とした地下の闇をさまよい、土と埃を食む存在に成り果てる。冥界の女神エレシュキガルはそんな世界を支配しているのだ。

 しかし。

 こぽぽぽ、とティーポットからカップへと紅茶が注がれる。女神の手によって注がれたそれは、人骨製のちゃぶ台を取り囲む面子それぞれに差し出された。

 ちゃぶ台の中央にはマカロンやクッキーといったお茶請けが並べられていた。ペレアスはクッキーを一枚つまみ取って、まじまじと見つめる。

 

「……これ食ったらペルセポネみたいになったりしねえよな」

「まあ大丈夫だろう。あれは冥界の食べ物を口にしたからこそだ。これらの素材はすべて地上のものでできているよ」

「そういうことなら問題ないですわね。はいペレアス様、あーん♡」

「……あーん」

 

 堂々とクッキーを食べさせ合いながらイチャつくバカップル。それを間近で見せつけられたマーリンの顔面からすべての感情が消え失せる。彼らを尻目に、エレシュキガルは紅茶を口に運んだ。膝の上には先程戯れていたネコの亡霊が背を丸めて寝転んでいる。

 マーリンはペレアス夫妻からやや距離を取りながら、ネコの亡霊を見据えた。

 

「こうして見ると、なぜ人間たちが何千年もネコを愛してきたのか分かる気がするなあ。これで鳴き声がフォウとかだったら、あれほどの地位は得られなかっただろう」

 

 間髪入れず、フォウくんの飛び蹴りがマーリンの右頬に激突した。頚椎から嫌な音が響き、壊れた人形みたいに首ごと頭が左に折れ曲がる。

 ノアはマーリンの髪を掴んで首の位置を元に戻しつつ、

 

「俺は猫より断然犬派だがな。あんな生意気な生物の何処が良いんだ?」

「ノア殿は一度自分を振り返って見るべきでは?」

「やめろ牛若丸、俺を俺の栄光の輝きで盲目にする気か?」

「そういう意味で言うならノアくんは既に盲目じゃないか?」

 

 ダンテは指先に熱を伝えるように、ティーカップを手で包む。エレシュキガルのあの姿を見て多少毒気は取り除かれたものの、冥界の恐怖は如何ともし難く、その手はガタガタと震えている。

 

「そ、その。なぜ紅茶なんです? お菓子もそうですが、この時代にはないはずでは?」

「依代の趣味に影響されたのよ。疑似サーヴァントは本来召喚できない神霊を、肉の器を利用することで喚び出すモノだから。まあ別に悪い趣味ではないから良いのだけれど」

「ということは、容姿が似ておられるイシュタルさんも疑似サーヴァントなる存在なのですか?」

「ええ。そういうことになるわね」

 

 エレシュキガルはつっけんどんに言った。紅茶を嗜む動作は肉体に染み付いている。たとえ別の人格に乗っ取られようと、習慣は消えないということだろう。

 にしても、神にまで影響を与えるとは、元の少女はどれほど剛毅なのか。ダンテは苦笑いするしかできなかった。

 

「カルデアにも紅茶が趣味のおじさんがいらっしゃいますわ。確か名前は……」

「優雅なおじさんに名前なんて無さそうだけどな」

「ボケたこと言ってんじゃねえペレアス。あの優雅なおじさんだぞ、とてつもなく優雅な真名を隠してるに決まってんだろうが。なんたって優雅なおじさんだからな。さぞかし優雅な名前してるに違いない」

「お前は優雅なおじさんに魅了の魔術でも掛けられてんのか!?」

 

 相変わらずどこから来ているか分からないノアの優雅なおじさんへの信頼だった。エレシュキガルはため息をついて、ティーカップをそっと置く。

 

「優雅なおじさん……名を持たず、ただその在り様が優雅と評されたおじさんということかしら。興味深いわね」

「ほら見ろペレアス、冥界の女神でさえもこれだ。まともな審美眼を持ってるやつは優雅なおじさんに惹かれざるを得ないんだよ」

「エレシュキガルさんの方はともかく、ノアさんの眼は曇りに曇っていますわ。80代の視力ですわ」

「老眼の心配なら旦那にしとけドスケベ精霊。ダ・ヴィンチ、カルデアの誇りをエレシュキガルに見せてやれ」

「『ふっふっふ……職員たちがせこせこ貯めた、おじさん秘蔵フォルダが火を吹くぞぉ!』」

 

 と言って、ダ・ヴィンチがスクリーンに映し出したのは、食堂で紅茶を味わう優雅なおじさんがバストショットの構図で撮られた写真だった。

 ティーカップから漂う湯気。やや吊り上がった唇。紳士の落ち着いた雰囲気がもたらす効果は殺風景な食堂を宮殿の一室さながらの輝きにまで仕立て上げている。ルーブル美術館の一角に並んでいても遜色のない名画である。

 微妙な顔をするペレアス夫妻とダンテとは裏腹に、牛若丸とマーリンは感嘆の声をあげた。後者はいささかわざとらしさに満ちていたが。

 

「この余裕が表れた表情と知的な眼差し、まるで京の公家のような空気を感じます……!!」

「ベイリンちゃんになかったものをどちらも持っているね。うん、彼になら円卓の一席を預けても良いんじゃないかな?」

「お前は一回王様とベイリンに殴られろ」

「むしろボコられてくださいませ」

 

 一方、エレシュキガルの反応はと言うと。

 彼女はしばし言葉を失っていた。まばたきさえも忘れたその姿は集中によるものか、放心から来るものか、はたまた感動によるものか。傍目からは見分けがつかなかった。

 ふ、と鼻を鳴らし、微量の紅茶で唇を濡らす。冥界の女神の振る舞いはどこか、優雅なおじさんを想起させる。

 女神は一息つくと、一瞬すべてを受け容れたような笑みを浮かべて、

 

 

 

「お父様ぁぁぁぁぁっ!!?!?!?」

 

 

 

 勢い良く背後へ倒れ込んだ。彼女の膝に乗っていたネコは短く鳴き、俊敏な動きでエレシュキガルの転倒に巻き込まれることなく走り去ってしまう。ネコ特有の神速の反射神経だ。

 女神の突然の奇行。ただでさえ静かな冥界がさらに静まり返る。そこら辺を這っていた亡者たちまで、居心地が悪そうにしている。

 当然、ノアたちがエレシュキガルの事情を知るはずもない。そのため、彼女の叫びを額面通りに受け取ってしまうのも無理からぬことだった。

 ダンテの顔色が急激に青褪める。

 

「エレシュキガルさんの父君……!? まさか、優雅なおじさんの真名は────」

「───アヌ、もしくはエンリルか。どっちにしても神には変わりねえ。なるほど、あの優雅さは権能だったのか!!」

「『じゃあ、立香ちゃんのガチャ結果はもしかしてとんでもない神引きだった……!?』」

フォフォウフォフォウ(もうツッコむ気力もねえよ)……」

 

 今までの常識が根底から覆される発言だった。進化論を初めて知った人たちもこんな反応をしただろう。問題はノアたちの常識は幻想であるという点だが。

 エレシュキガルは頭を抱え、肘と膝を地面についてうずくまる。多大なるショックを受けた彼女の脳内では、ふたつの意識が暴れまわっていた。

 

「ふ、ふぬぬぬぬぅぅ……!! よ、依代の意識がっ! 頭が割れてしまいそうなのだわ……!!」

「おいダ・ヴィンチカメラ回せ! 依代とサーヴァントの主導権争いだ、こんな貴重な現象はねえ!!」

「『心配せずとも冥界に入った時点で記録は開始しているとも! 一部始終はばっちり録画済みさ!』」

「…………え? 録画?」

 

 エレシュキガルは顔だけをくるりと向けた。冷や汗を流す肌は病的なまでに白く、見開かれた目の瞳は小刻みに揺れている。

 ノアは顔面をゲスな笑みで染め上げた。

 

「ああ、おまえが媚びた声で猫をモフってる場面も記録してあるぞ。よかったな」

「イヤアアアアアアア!!! こんなの一生の恥よ! デジタルタトゥーなのだわ〜〜っ!!」

「でも、可愛らしかったですわよ? タトゥーはタトゥーでも、ミ○キーの入れ墨が入っているようなものです」

「それはそれで背中に龍背負ってるよりイタイじゃない! 普通の入れ墨よりヤバい感じがするじゃない! そんな慰め要らないから、はやく動画を消してちょうだい!!」

 

 偏見を垂れ流しつつ、涙声でわめくエレシュキガル。イシュタルなら力尽くでデータを抹消しにかかっていただろう。

 冥界の女主人とは一体。ダンテは自分の中で彼女への恐怖が急速に薄れていくのを感じた。威厳という威厳が崩れた醜態を見せつけられれば無理もない。

 が、ノアにダンテのような他人の心を慮る慈悲は、それこそネコの額ほども存在しない。彼は面相を魔王の如き邪悪で染め上げて、エレシュキガルに詰め寄った。

 

「だったら交換条件だ。おまえの言うことを聞く代わりに、おまえは全てを差し出せ」

「要求と対価が全く釣り合ってないんだけど!?」

「デジタルタトゥーだって人生終わりみたいなもんだろ。前向きに絶望するか後ろ向きに絶望するか選ばせてやると言ってんだぞ?」

「なにその選ばせてやるから感謝しろみたいな言い方!? 完全にクズなのだわ! クズクズの実の全身クズ人間なのだわ!!」

 

 この時、ノア以外の全員の心がエレシュキガルの発言に同意していた。ひとりと一柱の口喧嘩を尻目に、ダンテは泡を食って提案する。

 

「先程からずっとエレシュキガルさんが可哀想なのですが! 誰かあのゲス野郎を止めてください!!」

フォフォウ(自分でやれよ)

「しかし、戦略的に考えればここは好機です。苦労せずして神霊という戦力を得ることになりますから。戦力確保は兄上も苦労してましたし」

「その通りだ。ついでに天命の粘土板の場所も聞き出せたなら、言うことは何もない。流れに任せてみようじゃないか」

「お前が流れに任せて良い結果になったことが一度でもあったか!?」

 

 ペレアスの正論がマーリンに突き刺さる。仲違いと擦れ違いばかりの円卓だが、これに関しては全会一致の見解を得られることだろう。

 一同が騒然としている間にも、ノアとエレシュキガルの交渉は進んでいた。冥界の女主人はちゃぶ台の上に広げられたスクロールとにらめっこしている。

 

「こことここにサインしろ。今回はおまえの財産で勘弁してやる」

「す、少し待ちなさい。なんか紙の隅っこにミクロサイズの文章がある気が……」

「おいおい、ちょっとした汚れに決まってんだろ。今時そんな古典的な方法で騙すかよ」

「そ、そうよね。支払いが遅れる度に内臓を脱脂綿と入れ替えるなんて契約あるはずないもの……」

「鬼畜すぎるだろうが!!」

 

 ペレアスはノアの後頭部を掴んでちゃぶ台に叩きつける。骨製の台はいとも容易く爆散し、スクロールごと塵に還った。

 見るからに資源に乏しい冥界に、ノアが望む大金は期待できないだろう。もしこの契約が成立すれば、エレシュキガルがワタワタの実の全身脱脂綿神霊と化すのは時間の問題である。

 困惑するエレシュキガル。ダンテは滔々と諭すように言った。

 

「エレシュキガルさん、あなたは騙されています。このような悪魔の契約書にサインしてはいけません。ここは公平に取引をしましょう」

「取引───それなら分かるわ。ただし、神と人間の取引はほとんど人にとって不幸な結末を辿るわ。覚悟はできているのね?」

「……それこそ、悪魔との契約ですねえ」

 

 人ならざる者との契約は代償を伴う。当人が望もうと望むまいと。だが、それは当然だ。人ならざる者の恩恵を人である者が扱いきれるはずがないのだから。

 そもそも。人間たちが争うこの世界で上位存在に頼るなど、ゲームでチートを使うようなものだ。

 詩人は真っ直ぐと神を見据え、

 

「じゃあ、丁重にお断りさせていただきま」

「動画を消すのと引き換えに、天命の粘土板の在り処を教えてもらおうか。もちろん名義人はダンテさんで」

「…………マーリンさん!!?」

「良いわ。それでいきましょう」

「エレシュキガルさんまで!? え、どうして私が命懸ける展開になってるんですかねえ!?」

 

 ダンテは喚きを散らしながら、ペレアス夫妻と牛若丸に助けを求めようとする。しかし、三人は彼が伸ばした手からそそくさと逃れた。

 考えるまでもなくノアに頼る選択肢は絶無である。ちゃぶ台に頭をめり込ませたまま沈黙する彼に意識はないだろうが。

 エレシュキガルは右往左往するダンテを意識から排除する。

 けれど、と彼女は言い含めた。

 

「天命の粘土板の在り処を訊いても意味はないわ。私でさえ知らないもの。天命とは神に定められた使命、すなわち運命。在るべきところに在り、相応しき者の手に収まる」

「『ふむ。それはまた、都合が良い代物だね』」

「都合が良いというよりも、不合理であると言うべきよ。曖昧な未来を書き記した代物なのだから、その在り方が合理的である方がおかしいのだわ」

 

 エレシュキガルが纏う雰囲気がほんのりと威厳を帯びる。流石は神霊といったところか、理外の理には精通しているようだ。

 湖の乙女リースの表情に真剣味が宿る。カルデアではイリオモテヤマネコ並みに珍しい現象である。

 

「一理ありますわね。元より宝具や神具とはそういうもの。運命こそが担い手を決定する……選定の剣はその最たる例ですわ」

「アルトリアに関しては私とウーサー、湖の乙女が仕組んだが……それすらも定めと言えるのだろう。ペレアスくんは聖剣に恵まれる運命になかったということだね」

「ハッ、そう言えばオレが発狂するとでも思ったか? リースと逢う運命だけでエクスカリバー100本でもお釣りが来るくらい恵まれてんだよ。しかも今はエクスカリバーMk.2があるからな!!」

「…………ペレアス様。今日の夕飯は精がつくものを───」

フォフォウ(おいやめろ)

 

 フォウくんの握り締めた拳がペレアス夫妻の顎をかち上げる。

 あのギルガメッシュが粘土板を置き忘れてくるという失敗をした時点から、因果は渦巻いていた。二つの物体の間に糸が張るように、天命の粘土板は縁が結ばれるのを待っているのだ。

 エレシュキガルは頬を紅く染めて、わざとらしく咳払いした。

 

「だ、だから、今だけ要求を変えることを許しましょう。これでは取引の体をなさないから」

「おお、太っ腹な神様ですね! てっきり知らないものは教えられない、とか言って自分の要求だけ押し通してくるかと思ってました」

「ふふ、私は信じていましたよ。神様は人間より契約に忠実ですが、特にエレシュキガルさんはお人好しの気があると感じていたので」

「…………やめておきなさい。神に無責任な親しみを抱くのは」

 

 彼女は、目を伏せて言った。その声は消え入るように小さく、そして冥界の女主人はその後ろめたさを抱えたまま告げる。

 

「私は三女神同盟の一柱。人類の廃滅を望む神。クタの人間を冥界に囚えたのは私よ」

 

 クタ市に人間の気配はなかった。あらゆる生命の侵入を拒絶する無人の街。冥界神としての権能を用いれば、それを創り出すのは容易に違いない。

 つまりは、ウルクとカルデアの敵となる存在。

 場を包む静寂が、微かな殺気を滲ませる。相手は神霊であり、ここは冥界。人間が海の中で鮫と戦うようなものだ。たとえ戦闘になったとしても、勝ち目は薄い。

 ノアはちゃぶ台から頭を引き抜き、血まみれの視線を女神へと向けた。

 

「で、それが取引に何の関係があんだ? おまえの動画は消してやるから、俺たちを地上に帰せ」

 

 マーリンはくすりと笑って、

 

「彼女の言葉を信じるなら、クタ市民は全員殺されている訳だが。それについてはどう思う?」

「だから義憤で殴りかかれってか? おまえがそんな殊勝な質とは思わなかった。見守っててやるから、エレシュキガルとのタイマン張ってみろ」

「絶対に嫌だね! どう足掻いても勝てる気がしない!!」

 

 自信満々に言い切る花の魔術師。フォウくんは冷めた眼で顔をしかめた。牛若丸は首を傾げてノアに問う。

 

「天命の粘土板はどうします? 探しようがありませんが」

「問題ない。相応しい者のもとに収まるってんなら俺以外にありえねえからな。もう見つかったも同然じゃねえか」

「いきなりガバガバすぎませんかねえ!?」

「黙れ幸運E。おまえと違って天に愛されてる俺が相応しくない訳がない。ここにいるだけ時間の無駄だ。冥界探索ができないのは心残りだがな」

 

 エレシュキガルは唇の端をひくつかせた。妹のイシュタルもギルガメッシュも自信家には違いないが、彼もその類なのだろう。この三人の相性は果てしなく悪いと思われるが、自信家とは得てしてそういうものだ。

 地上には様々な人間がいる。だが、彼らはいつか、この冥界で名も姿も失い土を食む亡霊に成り果てる。故に、エレシュキガルは永き時を生きながらも、真に人を知ってはいなかった。

 なぜなら、彼女は未だ冥界の外を知らないから。

 

「───取引は決まり。地上への門を開いてあげる」

 

 彼女の手に現れる、膨大な熱を宿す槍。

 その穂先を地に突き立てると、ひとりでに土石が盛り上がり、地上と冥界の空間を繋ぐ門が組み上がっていく。

 それを眺めながら、ペレアスとダンテは言いづらそうに切り出す。

 

「……お前、あんな生まれだろ。まだ地下を冒険するつもりだったのか?」

「そうですねえ。私なら完全にトラウマですよ」

「知るか。神代の冥界なんて現代じゃあ絶対に来られねえんだぞ。これを見逃す魔術師はアホだ」

「魔術師の方は尻尾巻いて逃げ出すのが一般的だと思いますわよ?」

 

 直後、地上への門が完成した。

 ノアたち一行はぞろぞろと門の中へ足を踏み入れていく。その間際、エレシュキガルはノアの背へ声を投げかける。

 

「アナタも、地の底にいたのね」

「ああ」

「……初めて外に出た時、どう思った?」

 

 からん、と耳飾りが音を響く。

 彼は、ニタリと微笑んだ。

 

「───自分で確かめてみろ。とっておきのアホどもを紹介してやるよ」

 

 答えは、言葉よりもその表情が物語っていた。

 ノアはすぐに視線を切り、門の向こう側へと消えた。冥界の女主人はしばしその跡を眺め、下方へ視界を移動させる。

 足に頭を擦りつけてくる、ネコの亡霊。エレシュキガルはネコの腹に顔を埋めようとして、周囲に目を配った。

 そうして誰もいないことを確認すると、

 

 

 

「…………にゃあ〜ん♡♡」

 

 

 

 一方、地上。

 エレシュキガルの力を借りて地上へ戻ったノア一行は目を剥いた。

 眼前に広がる光景。クタ市の原形は跡形もなく消滅し、巨大なクレーターが作り上げられていた。岩石が剥き出しに晒され、赤熱する地面から煙が立ち込めている。

 キングゥの宝具。あの一撃がこの光景を作り出したのだ。すり鉢上に抉られた地面の中心で、湖の乙女リースは背中を折り曲げて息を吐いた。

 

「ガッデムホットですわ……早めにここを離れましょう。ペレアス様、だっこしてくださいませ」

「そういえば今は縁日の金魚並の儚さだったな」

「私もクレーターを歩くのは面倒くさいかな。ダンテさん、おんぶしてくれたまえ」

「無理です! 私はどちらかというと、おんぶしてもらう側───サタンの体を登った時もウェルギリウス先生にしがみついてたので!!」

フォフォウ(恥を知れよ)

 

 そこで、灼熱のクレーターにすっとんきょうな声が響いた。その発生源は牛若丸。彼女は足元を指差して、

 

「皆さん、見てください! ノア殿が!!」

 

 指の先には、潰れたカエルのような格好で倒れるノア。その頭頂には華美な装飾が施された粘土板が突き刺さっていた。

 見るからに異色の気配を放つ粘土板はネンバトの最高レアもかくやとばかりの神秘的な空気を纏っている。ノアの血液で汚れているのが残念だが。

 マーリンは粘土板を引き抜き、ガッツポーズを取った。

 

「よし、天命の粘土板ゲットだ!!」

「『尊い犠牲を必要としたけどね……』」

フォウフォフォウ(言うほど尊いか)?」

「これは相応しかったと見るべきなのか、今までの悪行への報復と見るべきか……」

「……とりあえず、運命に嫌われてるのは間違いねえな」

 

 ということで、尊くもない犠牲を出しつつ、一行の任務は完了した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───よく、人類は地球にとっての癌細胞だなんて言われたりしますけど」

 

 灰の石翼を延ばす、黒白の偽神。

 彼女はジャガーマンの首を掴んで引きずりながら、ゆっくりと歩を進める。

 

「それって、人間の傲慢だと思うんです」

 

 サクラはせせら笑う。

 目に映るもの全てを嘲るように。

 

「人がいくら煙モクモクさせても、核爆発起こしても、地球はへっちゃらなんですから。自然と人類を分けて考えてる時点で頭が高いっていうか……人間も自然の一部でしょう?」

 

 どぷり、と彼女の肉体を広く薄く覆う影に波紋が生じる。

 サクラはジャガーマンを包み込むように抱き締め、

 

「ほっ」

 

 体を押し付けると、その身中にジャガーマンを取り込んだ。

 サクラが纏う影は虚数の影。何もかもを吸い込み、捕食する負の空間。それは難なく神霊の一柱を取り込んでみせた。

 しかし、彼女はまだ足りないと言うかのように腹を撫でる。ぐに、と瑞々しい唇を人差し指と中指で歪め、立香たちと太陽の神霊を見据える。

 サクラとジャガーマンを蹴り倒した神霊は腕を組んで首を傾げた。

 

「……で、いまの話に何の意味があったのデス?」

「え? 人間って馬鹿で可愛いですよねって話です。というか、他人を蹴っておいて自己紹介も無しですか?」

「ふっ、良いでしょう。下のお嬢さん方にも伝わるように名乗ってみせます!」

 

 太陽の神霊はその神威を表すが如く、周囲に陽光の粒を振りまく。

 

「私はアステカ神話第二の太陽、ケツァル・コアトル!! ルチャを愛しルチャに心臓を捧げる、しがないルチャドールデース!!」

「はー?」

 

 陽気な宣言が大空に響き渡る。サクラは無機質な顔で困惑の声をこぼした。

 彼女と心を同じくするのはエレインやアナ。だが、Eチーム三人娘はもはや変人ならぬ変神に慣れきった古強者。評論家の眼差しでアステカ産ルチャドールを見る。

 

「なるほど、今回はそういう方向性で来たか……」

「愛キメてるアルテミスさんやただ単にアホだったスサノオさんとは一風変わった奇人です」

「変な趣味にハマってるだけで他はまともそうなのが救いだわ」

「なぜ皆さんはそんなに冷静なんです?」

 

 アナは短剣で脇腹を刺すように呟いた。

 いくばくかの冷静さを取り戻したエレインは己の思考を口にする。

 

「ケツァル・コアトル……森の女神とは彼女のことのようね。三女神同盟の一柱と考えて良さそうだわ」

「如何にもその通り! 私の領域で振るわれる暴力はエンターテイメントしか許しまセン! プロレスの美学も理解しない輩はメキシコ仕込みのルチャで成敗させていただきマース!!」

 

 空を蹴り、ケツァル・コアトルは突貫する。立香たちの合間を風よりも速く縫い、サクラへメキシカンな水平チョップを繰り出した。

 黒白の偽神は己が腕でそれを受け止める。衝突の影響で大気が弾け、突き進む二柱が通りを一直線に断ち割る。

 ウルの街を舐める豪風。太陽の神霊と黒白の偽神はそのまま中空へ上がり、神気を炸裂させた。

 光と影がせめぎ合う。

 その攻防によって、ウルに林立する建造物はみな草の根を抜くように取り払われていた。

 エレインは杖を振るう。雨の如く降り注ぐ瓦礫が一瞬のうちに凍結し、無数の氷粒へと破裂する。

 ジャンヌは眉根を寄せて舌を打つ。

 

「チッ! 赤緑ジャガーマンの喧嘩よりも厄介じゃない! どうすんのよこれ!?」

「結局、あの二人を止めるしかありません。とりあえず、前回の特異点の黒幕であるサクラを叩くべきだと思います」

「ケツァル・コアトルは三女神同盟、私たちの敵です。共倒れを狙うべきでは」

「どちらかを援護するか、共倒れさせるか……選択肢は三つかしら? 立香」

 

 エレインは立香に目線を送る。マスターである少女は間もなく首を横に振った。

 

「いいえ、私たちが選ぶのは第四の選択肢───ウル市民を連れて逃げる、です!」

 

 ケツァル・コアトルとサクラ。二柱の戦いはこうしている合間にも甚大な被害を撒き散らしていた。この土地が更地になるのも時間の問題だろう。

 そうなれば、ウルの住民は少なくとも大半が死滅する。それだけは避けなければならない事態だ。マシュたちは力強く首肯した。

 ───白雲棚引く青空に、光輝と暗影の軌跡が複雑な模様を描く。

 ケツァル・コアトルとの戦闘の最中、サクラはEチームの会話を捉えていた。

 

「それは困りますね。おもちゃが減っちゃいます」

 

 ウル市民のせいで彼女たちが逃げてしまうのなら、原因を排除してしまおう。

 

「と、いうことで」

 

 サクラは天へその右手を掲げた。

 刹那、雲を貫き宇宙へ届く光の柱が右掌より発生する。

 膨大、莫大といった言葉さえ陳腐と化す光と熱。絶え間なく放出されるそれは神霊が魂を燃やし尽くしてもなお匹敵するエネルギーだった。

 

「お待ちかねの、サクラビームっ!!」

 

 右腕を振り切る寸前、ケツァル・コアトルは自らの足によってそれを蹴り弾く。

 その光条は街を外し、明後日の方向へを焼き尽くす。ウルを囲う密林を蒸発させ、大地を抉り、それでもなお破壊の奔流は限界を知らない。

 熱線の射線上には──────

 

 

 

 

 ───ウルク。王殿の玉座に坐すギルガメッシュは険しい顔つきで鼻を鳴らす。

 都市の全周を防御する結界。王の宝物庫に在りし宝具をも利用した魔術障壁。並の対城宝具ならば無傷で防いでみせる防壁がひび割れ、軋みを立てた。

 遠方より放たれた光の一撃。攻撃が停止するよりも、結界が壊れる方が早い───そう判断したギルガメッシュは、自身が信頼を置く防壁を変形させる。

 攻撃を受け止めるのではなく、どこかへ逸らす。光り輝く熱線はウルクに微塵も被害をもたらすことなく、射線を変更した。

 しかし、それは王にとって、自らの精力を注ぎ込んだ作品が敗北したことに他ならない。

 ギルガメッシュは忌々しげに口をこぼす。

 

「…………贋作者(フェイカー)風情が」

 

 

 

 

 ───光条が刻んだ轍は遥か地平線の彼方まで続いていた。一部始終を目の当たりにさせられた立香たちは、冷たい手で心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚を覚える。

 そして。ロマンはモニター越しにそれを見ていた。数多の観測機器を用いて導き出された結果に、彼は戦慄した。

 

「『獅子王の全力と同等か、それ以上の出力に破壊規模……しかも魔力の反応がないなんて、どんなズル技だ!?』」

 

 サクラは薄く笑う。

 見せつけるように伸ばした左手。その人差し指と中指の間にくすんだ銀色の硬貨───現代の日本政府が発行する、一円玉が挟まっていた。

 

「『E=mc²』って、知ってます?」

 

 立香とジャンヌは取り繕うように腕を組んだ。

 

「り、りろんはしってる」

「し、塩かけて食べるとなかなかイケるわ」

「あなたたちには訊いてないですよ? アホは黙っててください」

 

 くすくす、とサクラは二人を嘲る。

 ジャンヌの綿あめの繊維より細く柔らかな怒りへの導火線が一瞬にして燃え尽きた。

 

「立香、宝具を使わせなさい! アイツを丸焼きの串刺しにしてやるわ!!」

「落ち着いてジャンヌ! 多分こういうところがアホって言われるんだと思う!」

「うわ、少し煽っただけで爆発するとかからかい甲斐がありすぎて昂ぶっちゃいます。やーい、ばーかばーか♪ 脳みそつるつる♫」

「うがああああああ!! 絶対ぶっ殺す!!」

 

 ジャンヌの全身が黒い炎に包まれる。かつてない熱量を秘めた黒き爆炎が黒白の偽神を呑み込まんと噴き上げる。その様はまるで火山の爆発だ。

 だが。

 竜の息吹の如き火炎の一切を、サクラは漆黒の五体に取り込んだ。

 瞬間、太陽の神霊が駆ける。

 彼女の手には翡翠剣マカナ。アステカの戦士たちの象徴たる武具だ。

 黒曜石の刃が走る。ケツァル・コアトルの膂力から繰り出される斬撃はまごうことなく必殺。サクラの石翼は自動的に迎撃を行い、空間が歪むかのような衝突を起こした。

 翼の表面が僅かに割れる。息つく間もなく次撃が飛来し、剣戟と石翼の応酬が上空を席巻する。

 

「1グラムの質量は90兆ジュールのエネルギーと等価。分かりますか? 一円玉でも都市ひとつ消し飛ばすのに十分なエネルギーを秘めているんです」

 

 ウルから地平線の先まで蒸発させた攻撃の正体は物質のエネルギー変換。サクラは微量の物質から超越的なエネルギーを生成し、それを放射し続けることで光の柱を作り上げた。

 加えて、これは魔術ではなく、権能によって制御された物理現象。対魔力は無意味。サーヴァントの宝具とて都市を壊滅させ得るモノはあるが、彼女は一切の魔力を消費せずにあの規模の破壊を連発することができる。

 

「まあ、それはまったく無駄なく変換した場合ですけど。人間には夢物語ですよ。人類の叡智を結集して考え出した最大限の発電方法がお湯沸かしてタービン回すだけとか、最高に笑えますよね」

「ええい、ぐだぐだとうるさい女の子ね! 戦いに必要なのは理論ではなく情熱と気合い! そういう講釈はノーサンキューデース!!」

「情熱だとか気合いだとか、無駄の中の無駄です。精神論者はこれだから……」

「精神論を馬鹿にするなんて、感情がない系の中二病と同じよ!」

 

 太陽の神霊は弧を描いて打ち出される右翼をマカナで絡め取り、蹴撃を見舞う。

 サクラの鳩尾を貫通するはずだった打撃は左翼に防がれていた。与えられた衝撃を利用し、偽神はより高く舞い上がった。

 

「うん、良い位置」

 

 ぱらり、とサクラの指の隙間から一円玉がこぼれ落ちる。

 戦場の誰もがその意図を理解する。サクラは艶めかしく口角を吊り上げた。

 

「───十枚、落としました。私が考えるウルの価値なんてうまい棒一本分です♡」

 

 十枚の一円玉。

 これがもし、一切のロスを生じずに熱エネルギーに変換されるとしたら、壊滅するのはウルだけに留まらない。

 マシュは弾かれるように動き出す。絢爛なるキャメロットの聖門を顕し、仲間を護るために。

 しかし、彼女が警戒した現象はいつまで経っても起こらなかった。

 一円玉は一円玉のまま地面に墜落する。マシュの背後に落ちた一枚の硬貨を、氷の杖が砕く。

 

「『空想具現化(マーブルファンタズム)』。物理現象だったら、私にだって干渉できる」

 

 エレインは冷たく言い切った。

 自然を思うがままに再構成する精霊種の能力。サクラのエネルギー変換が神秘や魔力を介さぬ物理現象であるが故に、それは能力の対象となる。

 物質を支配する力と自然を支配する力。

 これらに上下はなく。ただ、相互に干渉可能であるという事実だけがあった。

 切れ長の怜悧な目が、黒白の偽神を睨めつける。

 

()()()()()()()()()()()、楽ができたわ。……案外、馬鹿なのね。ああ、私は黙れとは言わないから」

 

 凍てつく言葉がサクラの心を沸騰させる。表情筋を歪ませて、少女は吐き捨てた。

 

「言ってくれますね、精霊おばさん」

「…………おばさん?」

 

 エレインは眉をひそめる。

 人類史上、女性に言ってはいけない言葉トップ10に常にランクインしているであろうキラーワード。少なくとも立香は同じようなことをほざいたノアがスカサハに制裁される場面を見ていた。

 立香は真っ向からサクラを指差して、強く言いつける。

 

「今の言葉、訂正してください! たとえ敵でもそれはライン越えです! スカサハさんが影の国から槍投げてきますから!!」

「しかもリーダーは第五特異点の後、魔槍の呪いで重度の痔に悩まされていました。お尻の平穏を望むなら早急に頭を下げるべきです」

「大体、精霊に年齢のことを言うのはナンセンスの極みでしょう」

 

 そもそもスカサハはこの二人にこそ槍を投擲するべきではないのか。アナはそんな考えを抱いたが、すごすごと口をつぐんだ。

 エレインは首を縦に振る。

 

「そうね、訂正すべきよ。私は2000歳以上なのだから、おばあちゃんと呼んでほしいものだわ」

「……そっちですか!?」

「ええ、おばさんなんて言葉で若作りしたら、みんなに笑われてしまうもの」

「だったら、おばあちゃんとは呼んであげません。笑われながら死になさい、おばさん───!!」

 

 哮りとともに、偽神はエレインへと飛翔した。

 その機先を、黒曜石の刃が断つ。右翼の半ばが切り離され、石の羽毛を散らした。ケツァル・コアトルは翡翠剣の平で肩を叩く。

 

「私を忘れるとは、視野狭窄デスネ! 速やかな病院での診察をおすすめしマース!!」

「……うっざ。邪魔すぎです」

 

 再度の激突。烈風が大地に吹き荒ぶ。立香はそれを堪えながら、エレインに目をやった。

 

「エレインさん、今のうちに住民を逃しましょう!」

 

 湖の乙女は氷の杖を身の丈ほどに肥大化させ、数百の結晶に分割する。それらはウル全土に凍雨のように降り注いだ。

 氷粒のひとつひとつが空中で膨らみ、人型に成形される。エレインを120cmほどの身長に縮めた姿。本体はウル全域へ声を飛ばした。

 

「『人形に着いて逃げなさい。魔獣くらいは簡単に追い払える子たちよ。ギルガメッシュ王が受け容れてくれるわ』」

 

 ウル市民は一目散に逃げ出した。彼らとて過酷なこの時代を生き抜いた上澄みの人間だ。己の命を繋ぐにはどうすれば良いのか、理屈ではなく体感で知っている。

 ケツァル・コアトルは苛烈な斬撃を巻き起こす一方で、気の抜けたため息をついた。

 

「領民がいなくなるのは寂しいですね……それもこれもアナタが悪い!!」

 

 横薙ぎの一刀。合わせて、地上より電子の魔弾が翔ぶ。

 

「『shock(64)』!!」

 

 サクラからすれば取るに足らぬ攻撃。たとえ直撃したとしても、なんら影響はない。刃と翼が交錯する。直後、左肩で魔弾がはじけた。

 ぴり、とほんの微かな違和感が走り、即座に消える。

 思った通り、魔弾は命を脅かすどころか、僅かな間隙さえも作れはしなかった。

 けれど、それはサクラの気を引くに値する事実。

 なぜなら。

 

(……対魔力のランク。とりあえずA++にしておいたのに)

 

 サクラは神をも騙る自己改変能力を有する。それを使えば、スキルのランクを改竄するなど朝飯前。如何なる能力であれど、手軽に再現できる。

 あんな普通な人間の、矮小な魔術が通じるはずがない。

 そこで、黒白の偽神は思い出した。

 自身が創った虚構特異点。アメノワカヒコというおもちゃは一度、あの少女に殺害されている。

 ───ああ、潰したいほどにいじらしい。赤子の手をひねるように殺せる虫みたいな人間が、歯向かってくるなんて。

 

「ケツァル・コアトル。あなたはこの子と遊んでいてください」

 

 下腹部の刻印が光を放つ。サクラはそこへ右手を突き込むと、虚数空間から黒い影を引きずり出す。

 それは先程呑み込んだジャガーマンだった。ただし、全身に纏う毛皮は夜空の如き色と模様を描いている。有する武器も肉球を象ったそれではなく、荒削りの黒曜石の矛となっていた。

 黒きジャガーマンは軽々と空気を足蹴にして、ケツァル・コアトルへ矛を叩きつける。

 

「ニャッハハハハハハハ!! ブラックジャガーマンもといテペヨロトル爆・誕!!! 貴様には三食猫缶を恵んでもらった恩があるが、太陽神の権能を活かせぬまま死んでゆけ!!」

「ち───洗脳されましたかジャガーマン! あれ、どうしよう全然悲しくない!?」

「人の心を失ったかケツァル・コアトル! それが貴様の敗因だァーッ!!」

 

 瞬間、無数の連撃が迸った。

 ケツァル・コアトルの意識さえも掻い潜る神速。太陽神の肩口に切創が走り、血が飛び散る。

 翡翠の瞳が背後へ通り抜けた漆黒の影を追う。ブラックジャガーマン───テペヨロトルは黒曜石の刃にこびりついた血を舐め取り、高く矛を掲げた。

 

「───『其は太陽を喰らいし牙(ヨワリ・エエカトル)』」

 

 紙に墨を垂らすように。

 黒き刃を基点として、青空が塗り変わる。

 太陽が隠れる。

 光が消え失せる。

 天上の座を占めるは暗き月。

 輝きに満ちた空は瞬く間に夜へ変わっていた。

 テペヨロトルの輪郭が夜闇に溶け、完全に形を失くす。しかして、相変わらず気楽な声だけが響いた。

 

「夜の太陽神など粉がかかってないハッピーターンのようなもの! つまりアンハッピーターンだ! 己の不幸を呪うが良い!!」

 

 テペヨロトル。アステカ神話の夜を司る九つの神王の一柱。太陽へ跳ねるジャガーを象徴とし、山脈や大地を司る神性として崇められる。

 その神はしばしばテスカトリポカと同一視されてきた。ある伝説においてはケツァル・コアトルを謀り、太陽の座から蹴落とした夜の神と。

 なればこそ。

 夜を表し、太陽を喰らうジャガーは。

 ケツァル・コアトルの天敵として、此処に君臨した。

 

「隙ありィー!!」

 

 太陽神の背後より、ジャガーの牙が忍び寄る。

 首を喰い破る寸前、ケツァル・コアトルは目にも留まらぬ速度で体勢を入れ替え、テペヨロトルの顔面に拳を炸裂させた。

 脳を揺らす黒きジャガー。太陽神は月よりも凍てついた声音で告げる。

 

「───夜の闇が、陽の光を奪えるなどと付け上がるな」

 

 ……サクラはそのやり取りを地上から眺めていた。

 

「バトル展開。嫌いではないんですけど、少し疲れます。とっくにレベル99なのにスライムを殺戮してる気分っていうか」

 

 鼻歌を紡ぐかのような気軽さで、少女はゆったりと歩を進める。

 

「くっ、こいつ───!!」

「攻撃がまったく効かない……!?」

 

 爆ぜる黒炎、閃く斬撃。ジャンヌとアナの波状攻撃を意に介さず、サクラは歩く。興味を抱いた少女のもとへと。

 

「お話、してくれますよね?」

 

 次の一歩を踏み出そうとしたその時、サクラの全身が凍りつく。

 エレインによる水分支配。体内の水分を結晶化させる必殺の手品。ジャンヌは豪快に旗を振るい、氷像と化したサクラを打ち砕いた。

 

「ねえ、藤丸立香さん」

 

 生存本能が警鐘を鳴らすより早く。

 黒白の偽神は立香の背を取り、首と胸元に手を這わせる。

 

「え……」

 

 唇の端からか細い吐息が漏れる。ひたりと触れる手は石像のように冷たい。心臓はかつてない速度で拍動し、電流の如き怖気が皮膚の感覚を麻痺させた。

 それでも、思考を働かせることはやめない。

 ただひとつ、確実なのは。

 サクラは自分の前後を護るマシュとエレインの警戒網を嘲笑うかのように潜り抜けたことだけだ。

 なぜ、どうやって。形を得ぬ思索に、サクラが啓示を与える。

 

「あれは分身です。本体の私は空気になってみました。あ、比喩じゃないですよ」

「……は、反則すぎません?」

「私はヤルダバオトでありデミウルゴスでありサクラス……物質界の創造主。何にでもなれるし何でも創れますから。これくらいの芸当、ちょちょいのちょいです」

 

 ───こんなことも分からないなんて、馬鹿で可愛い。

 サクラは耳に唇を寄せて、囁いた。

 

「あなたみたいに弱くてアホな人間は大好きですよ。英霊の影から援護するところなんて、蟻が背伸びしてるみたいで健気で……私の中で黒く染めて、ずうっと飼ってあげたいです」

 

 サクラの爪が襟から胸元の布を裂く。

 

「あの矢傷も綺麗さっぱり治ってますね。丁寧に手入れされてるようで感心です」

「……手入れなんかじゃない」

「…………口応えは聞きたくありません。こんな首くらい、秒でへし折れます」

 

 ぐ、と五指が首に浅く食い込む。

 この状況、サクラは自分の命なんて一瞬で奪い取れる。仲間たちも彼女を刺激しないために、静観を続けるしかない。

 その時。

 立香が得た感情は。

 絶望でも戦慄でも恐怖でも悲嘆でもなく。

 

「何にでもなれるってことは、自分が無いってことだよ」

 

 その余裕を崩してやりたい。

 そんな、意地の悪い感情だった。

 

「だから、姿形を自由に変えて、空気なんかにもなれる。同じ力を持ってたとしても、私はできない。元の自分が変わるのが怖いから。人間を見下すのだって、他と比べて相対的な自分を見てるだけ」

 

 イメージするのはアホでクズなあの悪魔。

 十分の一でも彼の邪悪さを表現すべく、必死に笑顔を取り繕ろう。

 

「それなのに、ただ戦うのが強いだけでマウント取って良い気になってるとか……」

 

 小さく震える少女の手に爪を食い込ませて、

 

「───とってもかわいそう」

 

 憎たらしく、吐き捨ててやった。

 命を懸けて発した言葉ではない。彼女なりの打算を軸に最大限の時間稼ぎと憂さ晴らしをしたまで。

 既にコードキャストの術式は組み上がっている。

 遍く物質を滅する黄昏の矢。自分も被害を受けるだろうが関係ない。絶死を免れることができるのなら。

 強くまぶたと唇を切り結び、術式を発動する──────

 

 

 

 

 

「見つけたわ、サクラァァァァァ!!!」

 

 

 

 

 

 ────寸前、天より堕ちた光の矢がサクラを脳天から叩き潰した。

 誰もが思わず空を見上げる。

 暗き夜空に輝く金星の具現。天舟マアンナに騎乗する女神は、なぜか号泣しながら挽き肉と化したサクラを睨んでいた。

 彼女は両手をわなわなと震えさせて、甲高い怒号を叫ぶ。

 

「一目見た瞬間に金星レーダーがビビッと来たのだわ! 私の寝床と金銀財宝、その他諸々の鬱憤───アナタの命で贖いなさい!!」

 

 などと意味不明な不満をさらけ出すイシュタル。立香たちが呆けていると、サクラの血肉がひとりでに寄り集まり、寸分違わぬ原形に仕上がる。

 

「……私にボロ負けしたくせに何の用ですか?」

「私の神殿を更地にしたごんぶとビーム、アナタのせいでしょう!? アレのせいで今日から私は根無し草よ!!」

「ほんとしつこい(ひと)ですね。台所の茶色いやつみたいです」

「誰がしつこい油汚れ!!? もういいわ、大地のシミになりなさい!!」

 

 夜空を切り裂く金色の流星。サクラは石翼を交差させてその一矢を受け止める。瞬く間に彼女は漆黒の中空へ連れ去られた。

 イシュタルは立香を一瞥する。

 

「アナタの啖呵、なかなか良かったわ。今回はおまけで助けてあげる」

「ここに来たのはイシュタルさんの私怨ですよね?」

「ラピスラズリ、大事にとっておきなさい。私の……ラストコレクションだから……」

「無視ですか!?」

 

 金星の女神はマアンナに飛び乗り、サクラを追った。なお、イシュタルの宝石コレクションは全て善良な市民から巻き上げたものだ。

 星雲棚引く夜空。それを彩るのは二柱の影と二柱の光星。人知の及ばぬ闘争は一層激しさを増し、神威の激突が加速する。

 ジャンヌは胸にわだかまる憤りを息に乗せて吐き出す。

 

「立香。怪我はない?」

「うん。それより服が……」

 

 マシュは鼻血を垂れ流しつつ、

 

「先輩の格好がセンシティブなことになっているのはまずいですね。Eチームの取り柄は健全性なので」

「まずその鼻から垂れてるものを止めてから言ってください」

 

 ずばりとアナは言い放った。マシュは盾の収納スペースからティッシュを取り出して鼻に詰める。その光景をロマンは泣くような笑うような顔で眺めていた。

 エレインが指を打ち鳴らすと、裂かれた胸元の布が時間を巻きもどすみたいに修復される。

 

「ギルガメッシュ王の任務はほぼ達成したようなものだけど……どうするのかしら、マスター」

「どうせならサクラを殴って帰りましょう。イシュタルさんとケツァル・コアトルさんに比べて話が通じないですから」

 

 イシュタルとケツァル・コアトルの立ち位置は未だ明白ではない。が、その二柱とカルデアにとってサクラは共通の敵だ。

 あらゆる神と不死を弑するヤドリギを以ってしてもなお、滅すること能わぬ存在だとしても。

 一発もやり返さずに逃げ帰るなんてできない。

 

「策は?」

 

 アナは端的に問うた。立香は『魔女の祖(アラディア)』を力強く握り締め、答えを返す。

 

「サクラは私たちをナメてます。一撃だけなら通るはず。後は流れで!」

「メイン盾のわたしは二の舞を防ぐために守りに専念します。いのちだいじにしつつガンガンいきましょう」

「ふっ、両方やらなくっちゃあならないのがEチームの辛いところね。行くわ!」

 

 ジャンヌはアナの外套を掴んで走り出す。それと同時、立香は杖に術式が刻まれたカートリッジを挿し込んだ。

 礼装が機械音声を朗々と詠う。それは北欧に伝わる魔術。セイズと呼ばれる呪歌であった。

 杖の先にて十八の原初のルーンが円環を成す。

 それらは呪歌が進むたびに混ざり、溶け合い、一体化した。

 

「『matrix_odin』!!」

 

 大神オーディンの刻印。

 人の手によりて再現されし秘法。

 その一撃は神々の攻防を掻い潜り、偽神を穿つ。

 

「───バレバレですよ」

 

 背より羽ばたく石の翼がそれを遮る。血の通わぬ無機の羽根は、本体から独立した別個の機能。それ故、サクラを害するには至らない。

 だが。

 刹那、無数の文字が翼に侵食する。偽神でさえ止めようがないほどに速く。

 全てのルーンの根源を詰め込んだ刻印はたとえ狙いを外そうとも、その裡に秘めた膨大なルーンを解き放つ。

 嵐の如き侵略と掠奪。敵対者の全能力を強制停止させる、電子の魔術。如何な対魔力であろうと、完全に無効化することは不可能であった。

 その効力はもって数瞬。けれど、女神たちには欠伸が出るほどの隙に相違ない。

 陽炎と光線がサクラを襲う。

 必中を期した双撃はしかし、夜を駆ける影によって阻まれた。

 

「ご褒美はちゅ〜るとマタタビです」

「よっしゃあ! これぞホワイト企業! 猫缶三つで重労働を強いられるククるんの職場とは格が違った!!」

「……霊基が変わっても、アホはアホのままなんですね」

「それだけ救いようがないのよ、こいつは!」

「何奴!?」

 

 テペヨロトルは首を左右に振るが、声の出処さえも掴めない。否、黒きジャガーの五感はほんの一瞬の時間があれば、その位置を特定してみせたであろう。

 だが、そうはならなかった。

 闇夜に二つの斬撃が踊る。それはサクラの背後から、石の両翼を断ち切った。その瞬間、ジャンヌとアナの像が浮かび上がる。

 空気中の水分を操り、光を屈折させることで得た隠形。エレインの小細工が、テペヨロトルの探知を遅らせたのだ。

 

「この程度────」

「────『女神の抱擁(カレス・オブ・ザ・メドゥーサ)』」

 

 魔の眼光が、偽神を射抜く。

 アナの眼差しに貫かれサクラは完全に肉体の操縦権を喪失した。

 

石化の魔眼(キュベレイ)……!!」

 

 天と地より、恒星の如き魔力が発生する。

 すなわち。

 灼熱の光輝放つ太陽神、傲慢なる金星の女神による─────

 

「『炎、神をも灼き尽くせ(シウ・コアトル)』!!」

「『山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)』!!」

 

 ────宝具の開帳であった。

 天に坐すは夜空を吹き飛ばすほどの大炎。

 地より撃ち上がる、猛き明星の弾丸。

 それらに呑まれる直前、サクラはテペヨロトルを呼びつけようとするも、とうに彼女は脱兎の如く逃走していた。ネコ科のくせに。

 

「こッの、駄猫…………!!!」

 

 そうして、黒白の偽神は二つの宝具に挟まれる。

 テペヨロトルが創り出した夜の猟場は既に崩壊し、青空を取り戻してもまだ権能の放出は止まらなかった。

 死なない相手をどうやって殺すか。

 少なくとも肉体があり、物質として存在しているのなら。

 サクラを構成する要素、その原子までをもひとつ残さず消滅させる。

 宝具の発露が終わりを見たのは優に三分を経過した時だった。

 無論、周囲に被害が出ない訳もなく。

 地獄絵図と化したウルに、二柱の女神の高笑いが響き渡る。

 

「「ふぅ……一件落着!!」」

「先輩、あの人たちに絡まれない内に帰りましょう」

「うん。あんなスーパー女神大戦に付き合ってられないしね」

「『Eチーム女子はたくましいなぁ……』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウルク中央神殿、王の間。

 Eチームの報告を受けたギルガメッシュはどこか機嫌が悪いのか、眉間にしわを寄せていた。

 

「ウルクの益虫見習いにしては上々の成果だ。この働きには報いねばなるまい。後に褒美を取らそう」

 

 経緯はともかく。ノア一行は天命の粘土板のおつかいを達成し、立香一行はウルの市民をウルクに移住させることに成功した。Eチームにしては真っ当すぎる成果と言えるだろう。

 未来の情報が書かれた粘土板はもちろん、人手はあればあるほど良い。大いにウルクの助けとなるはずだ。

 だというのに、ギルガメッシュは殺伐とした表情をしていた。ダンテはおそるおそる問いかけた。

 

「王のお加減が優れないようですが……」

 

 古代のキャリアウーマンであるシドゥリは言いづらそうに答える。

 

「報告にあったサクラとやらのビームで、危うくウルクの結界が破れかけまして。王お手製の結界なので、なんだか負けた気がすると……」

「その発言、撤回せよシドゥリ。あれは完璧なる勝利である。柔を以って剛を制したのだとな」

「という風に取り付く島もなく、夜な夜な神殿を抜け出して結界の改良に勤しむ有様で」

「『王様もDIYをする時代か……』」

「今は古代ですけどねえ」

 

 しみじみとするロマンとダンテ。妙に癪に障る並びだ。

 今回二手に分かれたEチームだが、目的地までに往路と復路それぞれ二日を要している。約四日ぶりの勢揃い。立香は無表情で座り込むノアの目の前で鼻を高くする。

 

「───って、私は言い返してやったんです! リーダーのクズさも役に立つことってあるんですね!」

「耳元で騒ぐなアホ。俺なんて天命の粘土板が頭にぶっ刺さってたんだぞ。もっと俺の脳を労れ」

「じゃあ頭撫でてあげましょうか。私のハンドパワーでリーダーの脳みそから邪念を取り去ってきれいなリーダーにしてあげます」

「何言ってんだ。俺ほど綺麗な人間は未だかつて存在したことがないだろ。自分の頭に手ぇ当ててろ」

 

 立香が伸ばす両手をノアは片腕一本で防御する。二人のじゃれ合いを目撃したマシュは無言で床を蹴った。

 

「───ケッ…………ケッ!!」

 

 漆黒の闇がそこに広がっていた。リースは憐れみに満ちた目をしながら、ぼそりと呟く。

 

「なんだか最近マシュさんが怖くなってきましたわ」

「あら、アンタにも恐怖心があったのね。ピンク色の感情しかないと思ってたわ」

「私は昔から怖がりでしたわ。お姉様と妹に挟まれないと寝付けませんでしたから」

「昔はあんなに純粋だったのに……」

 

 さあっとエレインは涙を流した。よりにもよって妹が二人とも恋愛で暴走する未来など、どんな予言者でも言い当てられないだろう。

 ところで、とアナは思い出したかのように言う。

 

「サクラは倒したと見て良いのでしょうか。この先何度もあんなのと戦うと思うと気が落ち込みます」

 

 ギルガメッシュはこれまた不満げに、

 

「楽観視はすべきではない。あの手合いは己の無敵性が揺らがぬ限り命を落とすことはない。神話にて、無敵と謳われた者が死するようにな」

「そう、厄介なのは弱点を突かなくては倒せないという点だ。それが何かは私にも分かりかねるが、お手軽無敵殺害アイテムのヤドリギも効かないほどだ。用心するに越したことはない」

「王の宝物庫にはひとつくらいありそうですが……まさか打って出たりしないですよね?」

「当たり前であろう、シドゥリ。誰が戦場での死を避けるためにブラック労働をしていると思っているのだ!」

 

 笑い声を響かせる王の目はどことなく焦点が定まっていなかった。全サーヴァント最強と噂される英雄をしても、労働の苦しみは同じなのだ。

 

「Eチーム貴様たちは休むが良い。馬車馬にも休息は必要であるからな。くれぐれも騒ぎは起こすな」

 

 と言ってEチームを王殿から追い出そうとした時、甲冑を着込んだ男が息も絶え絶えに駆け込んでくる。

 瞬間、場の全員が不穏な気配を察知した。その兵士は息を整えると、

 

「レオニダス将軍より急報です! 北壁に魔獣多数接近! 加えて神官団の星見の結果では、さらなる災いの予兆ありとのことです!!」

 

 北壁。ウルクを襲う魔獣と人類が争う、最大防衛拠点。その守将を務めるレオニダスからの早馬が届いていた。

 王の間に静寂が舞い降りる。

 なれど、それは数秒。ギルガメッシュは即座に判断を下した。

 

「───Eチームよ。貴様らに次なる任務を与える。北壁に急行し、レオニダスの援護をせよ! 休息は先送りだ!!」

「…………労災は降りますか!?」

「侮るでないわダンテ! 我がウルクの福利厚生はメソポタミアイチである!!」

「『う、羨ましい……カルデアも見習うべきだぞこれは!!』」

 

 かくして、戦場は定まった。

 人と人ならざるモノを隔てる防衛線。

 第七特異点の因果渦巻く地は、静かに運命の訪れを待つ。

 その未来は最古の英雄王にも、花の魔術師にもまだ見通せなかった。



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第69話 氷の精霊と霧の乙女

「……はあ、酷い目に遭いました」

 

 ウルクより遥か北方。人類と魔獣が争う戦線さえも越えた先、厳然とそびえる山岳の合間に気の抜けたため息が響く。それは夜の冷気で白く霞み、闇に溶けていった。

 

「ふ、ふへへ……ククるんとイシュタルの宝具でバーガーにされても復活するなんて、ヤバイっすねサクラの姉貴! マジリスペクトっす! マジ最強っす!!」

 

 にへら、と媚びた笑顔で振り向くジャガーマン、ことテペヨロトル。彼女は背中にサクラを乗せ、四つん這いで険しい山中を進む。黒色の体表はまるで暗闇と同化しているようだ。

 借りてきた猫みたいになったテペヨロトル───実際は奪ってきた猫なのだが───をサクラは冷たい眼差しで見下す。

 彼女はどこからともなく創り出した乗馬用の短鞭で、黒猫の尻をぺしぺしと叩く。

 

「元はと言えばあなたのせいですよ? 主人を見捨てた罪をしっかり噛み締めなさい、この駄猫」

「ぐゥゥ……ッ! この絵面はまずい……見ようによってはハードな調教モノになってしまう……!!」

「なったとしてもあなたには需要とかありませんよね」

「おいやめろォ! ちょっと気にしてるんだから!!」

「はい、口応え。サクラちゃんポイントマイナス500億点です」

 

 サクラの鞭が臀部を強く打ち据える。清々しいほど軽妙な音が山間に鳴り響き、次いでテペヨロトルの悲鳴が湧き上がった。

 黒白の少女はくすくすと笑う。鞭の先でテペヨロトルの後頭部をほじくるように弄りながら、わざとらしく嘆く。

 

「あ~あ、またしても負債が増えちゃいましたねぇ? あなた如きの内臓じゃあ全部売り払っても足しにすらなりませんよ?」

「なんというモラハラにパワハラ……労基に言いつけるぞ!」

 

 労働基準監督署を盾に雇用主を脅すテペヨロトル。現代の冴えない社員に足りない精神性を発揮した恐喝はしかし、さらりと受け流される。

 

「別にいいですよ。というか、私がやってるのは内臓ハラスメントなんで」

「なにその新概念! ヤのつく界隈でしか通用しニャいよ!? ハードな調教モノじゃなくてハードな極道モノになっちゃうよ!?」

「それサバンナでも同じこと言えるんですか?」

「え? どういうこと? まさかサバンナの動物たちがみんな内臓ハラスメントやってると思ってる? 弱肉強食ってそういう意味じゃないからね?」

 

 などと、愚にもつかない会話を繰り広げる駄猫と偽神の前に、白い影が降り立つ。

 長い緑髪をなびかせる青年。線の細い中性的な容姿とは反対に、内包する魔力と拡散する隔意は荒れ狂う大河の如くに暴力的であった。

 場に充満する大気にさえ影響を与える重圧。それを一身に受けてなお、サクラとテペヨロトルは身動ぎひとつしない。それどころか冷めた顔つきで青年を眺めている。

 

「あいにく、ここから先は立ち入り禁止区域でね。Uターンしてもらえると助かる」

「他人にモノを頼む時はまず自分が譲歩するのが必須でしょう? せめて土下座して靴を舐めるくらいはしてもらわないと」

「キミの変態的かつ倒錯的な趣味に付き合うのはそこの駄猫くらいなものさ。対等な話し合いに自分の嗜好を入れるべきではない」

「…………対等?」

 

 サクラは首を傾げる。見開いた瞳が赤光を帯び、顔面に貼り付いた笑みは石で誂えたように無機質だった。

 

「何を勘違いしてるんですか? あなたと私は対等なんかじゃありません。サバンナのライオンがシマウマにへりくだるなんてありえないんですけど」

 

 黒き影に覆われたつやつやしい上体を反らす。その反動のままにサクラはテペヨロトルから飛び降り、石翼を展開する。

 下腹の紋章が妖しく輝き、赤色の光彩が夜闇に灯る。その光は紅玉のように澄み渡り、血液のようにどろどろと闇を塗り潰した。

 

「なので、さくっと捻り潰してあげます。行きなさいテペヨロトル」

「そこは自分で行くところでは!?」

「ライオンの王様は手下が獲物を取ってくるのを待つものですよね。したっぱオブしたっぱのあなたが働かないと、群れの長は生きていけないというのに……」

「それサバンナでも同じこと言えんの!?」

「言えますけど?」

 

 その叫びを無視して、サクラはテペヨロトルの尻を蹴り飛ばす。その様はさながら地を這うロケット。一直線に飛翔する彼女はそれでも両手の爪をぎらりと閃かせる。

 

「くらえ、ワシントン条約執行拳───ッ!!」

 

 交差するように繰り出された斬撃。緑髪の青年はそれをするりと潜り抜けると、瞬時にサクラを己の間合いに捉えてみせた。

 黒白の少女は迎撃も回避も行うことすらなく。

 ただ両腕と両翼を広げ、顔面へ迫りくる拳を受け容れた。

 ぱん、と。いっそ小気味良いとすら思える破裂音とともに、血肉と脳漿が弾ける。

 首から上を失った漆黒の五体がぐらりと揺れる。一歩、二歩とサクラの足がたたらを踏み、立ち止まる。その途端、時間を巻き戻したように頭部が修復された。

 元と寸分違わぬ造形の頬に人差し指をあてがう。唸るような、呻くような声が数秒続き、サクラは腹の底からため息を捻り出す。

 

「……今の攻撃、0点。なんだかこういうのも飽きました。再生するのもいい加減マンネリです」

「さすが姉貴! そこにシビれる憧れる! キノコ中毒の配管工が星取った状態より無敵じゃないっすか!!」

「まあ、それはどうでもいいんですけど。あなた、聖杯持ってますよね?」

 

 緑髪の青年は奥歯を小さく軋ませた。

 

「……なぜ、そうだと?」

「私自身も聖杯ですから。触れ合った一瞬で色々分かっちゃいました。たとえば……」

 

 サクラは顔の端に右手を添え、瑞々しい下唇を中指で歪めた。見下し、嘲る笑みが周囲に満ちる暗闇をくり抜くように白く浮かび上がる。

 

「───キングゥ。あなた、意外とマザコンなんですね」

 

 直後、サクラの腹部が半ばから飛散した。

 目にも留まらぬ速さの蹴撃。偽神の背後に回ったキングゥは振り向きざまに手刀を放つ。少女の腕ごと胴体を割るはずだった一撃は、不自然に空中で逆方向に弾かれる。

 何故───キングゥの脳の片隅に残った冷静な部分が疑問を抱く。それが解消されるよりも速く、サクラは告げた。

 

「アホですね。いくらやっても無駄なのに。どんなに肉体が壊れても私を殺すことなんてできません。たとえ一原子残らず消滅させられたとしても」

 

 ぎゅるり、と飛び散った臓物が舞い戻る。

 

()()()()()()()! 神に造られた肉の器でしかないあなたには及びもつかない概念でしょうが───魂を精神によって掌握している私に勝てる道理はないんですよ……!!」

 

 石の羽毛が舞うとともに、彼女は言い切った。

 キングゥの脳髄を炙る激情の火が陰る。魂を精神によって掌握する。それをありえないと断ずるのは簡単だが、現にこうしてサクラは生きている。

 彼女にとって、魂は肉体の上位にある。ならば、魂そのものを傷つける攻撃でなくては殺せないのか。

 それもまた否。ケツァル・コアトルとイシュタルの宝具を同時に受けたのなら、肉体に紐付けされた魂ごと消滅していたはず。二柱の女神がそれを見逃すはずがない。

 キングゥに考えられる理由はふたつ。しかもそのどちらもが最悪と言っても良い。その内のひとつを、彼は口にした。

 

「…………魂の物質化、第三魔法か」

「ぶっぶー、大ハズレ。私の魂は星幽界にあるんです。あなたがこの物質界に在る限り、勝負にもなりませんよ」

「参ったな。もうひとつの方か。うん、ボクにキミを倒す方法はなさそうだ」

「ようやく格の違いが分かりました? 大人しく負けを認めて這いつくばりなさい」

 

 聖杯たるサクラの魔力炉心が稼働し、莫大な魔力が発露する。

 魔力量においてはキングゥとサクラは互角。その身に聖杯を宿すが故に。だが、前者に後者を倒す術はない。その時点で、二人の勝負は決着が見えていた。

 いつか必ず訪れる敗北。それを前にして、キングゥは冷ややかに微笑んだ。

 

「本当のキミは何処に在るんだい? 物を考え、言葉を喋る肉体は此処に在り、しかし魂は別の場所に在る。キミは何処に行ってもどこまでいっても孤独だ。常に誰かの障壁となるのはきっと……」

 

 毒を潜ませるように。

 刃を滑らせるように。

 彼は、囁くほどの声で言った。

 

「───サクラ。キミは案外寂しがりなんじゃないか?」

 

 脳裏に蘇る、少女の言葉。

 

〝───とってもかわいそう〟

 

 ぞわりと、心がざわめく。

 夜空は凍える月を頂点に戴く。

 降りしきる月光はとうに雲の向こう側。天よりの光は失われ、ただ影のみが大地を埋めた。

 空気の揺らめきが木の葉の擦れ合う音を立たせ、静寂を彩る。

 その無音が果たしていつまで続いたのか、それは当人たちにも知り得なかった。

 テペヨロトルは滝のように冷や汗を流し、ついには沈黙に堪えかねる。黒色の体躯をもって闇夜に紛れ、忍び足でこの場から逃れようとする。

 サクラは無造作に手を伸ばし、テペヨロトルの尻尾を掴んだ。

 

「他に行くところを思いつきました。タクシー代わりになりなさい」

「ここまで来て!? 報酬もなしとか福利厚生を疑うぞ! ちゅ〜る一年分を所望する!」

「たったそれだけで良いんですか? ちゅ〜るなら琵琶湖一杯分くらい用意できますけど」

「……さあ、背中にお乗りくださいサクラ様! このテペヨロトル、ネコバス以上の乗り心地を約束致します!!」

 

 別れの言葉も交わさずに、サクラとキングゥは決別した。

 テペヨロトルの背の上で揺られながら、黒白の少女は親指の爪を噛む。それは造物主たる彼女自身も気付かぬ動作だった。

 深く、己の内へと意識を埋没させる。

 魂よりも肉体よりも、精神が掻き乱されている。サクラは自分自身を冷静に分析すると、機械的にその迷いをどこかへ放り捨てた。

 悩みと苦しみは要らない。どちらも不要な感情だ。それで人間が成長することはあっても、この身は神。すでに成長の余地などない完璧な存在なのだから。

 そうして。

 サクラはキングゥの聖杯から読み取った情報を総覧し、一寸の狂いなく正しいと思える結論を導き出した。

 

「……うん。きっと面白いことになります」

 

 そのためには。

 

「少し、盤面を整理しましょう」

 

 狂いなき結論。それがどれほど狂っているかも知らぬまま、偽神は胸を躍らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ニップル市。魔獣の襲来に備えるために築かれた北壁のやや北方に位置する都市。王権を与える最高神エンリルを祀る都市でもあり、その宗教的・政治的価値からギルガメッシュより後の時代の王たちはニップルを巡って闘争を繰り返した。

 未来、数え切れない人の血が流れ、幾度も戦火に晒されるこの地が人間と魔獣の戦線となることは定められし運命か、果たして。

 とにかくひとつ言えることは。

 メソポタミア地域の政教における最重要地点を北壁の外に切り捨てるギルガメッシュの判断は、まさしく神をも恐れぬ剛毅な所業であった。

 北壁がウルクの城壁であるとするならば、ニップルはその出城だ。ウルクの防御を固める要地であり、北壁との挟撃や補給を担う拠点。

 レイシフトEチームはエレイン特製氷の馬車に乗り、ニップルに足を踏み入れていた。

 時刻は夕方。ギルガメッシュの命令を受けてから約一日の時間が経っている。地平線の向こう側に沈む太陽が世界を茜色に染め上げていく。

 城砦の一室。ウルク以北の地図が広げられた部屋の中に、彼らはいた。なぜか天井には大きな楕円形の鏡が設置されている。

 

「……リーダー」

「……なんだ、藤ま」

「え、ごめんなさい聞こえませんでした」

「…………チッ。なんだ、立香」

 

 人類最後にして空前絶後のアホマスター、立香とノアは真剣そのものとしか言いようがない表情で佇んでいた。会話の内容は別として。

 彼らを冷めた目つきで見るのはEチームサーヴァント陣と宮廷魔術師コンビ、そしてアナだった。

 立香は神妙な面持ちでウルク以北の地図を眺める。

 

「ヤ○ルト1000であんなに効くなら、ヤク○ト5000とかになったらとんでもないことになっちゃうんじゃないですか……?」

「アホの思考やめろアホ」

 

 ごす、とノアの手刀が立香の頭に落ちる。彼女は脳天を抱えて床にうずくまった。そんな様子を見て、リースは腕を組みつつ頷いた。

 

「私も昔は調味料は入れたら入れただけ美味しくなると思ってましたわ」

「懐かしいわね。あの頃は食事の度にペレアスが引っくり返ってたわ」

「精霊は元々食事を必要としないからね。味音痴になるのも仕方ないさ」

フォウフォフォフォウ(お前は人の心音痴だよな)

 

 フォウくんの指摘がマーリンの心臓を深く抉り、花の魔術師は激しく血を吐いた。マーリンとフォウくんの謎の敵対関係はなおも根深いようだ。

 カルデアは日夜Eチームリーダーとの戦いが行われる修羅の国。マシュは特に感慨もなくその光景から視線を外し、辺りを見回した。

 

「ところで、レオニダスさんの姿が見えないようですが」

 

 北壁の守将レオニダス。ギルガメッシュはEチームに彼の援護を命令したものの、その本人がここにいなかった。急な来訪ということもあるが、将が持ち場にいないのは問題だ。

 ダンテはノアとペレアスの間に挟まり、二人の腕を両側でがっちりとロックする。戦争の空気でトラウマが刺激されたのか、その顔は死人のように青ざめている。

 

「も……もしかして、やられてしまったのでは……!?」

「余計な憶測する前に離れろダンテ。今更だが男のくせにみっともねえぞ」

「手汗が服貫通してきてんだよ、汗腺ぶっ壊れてんのか? また閣下に改造してもいいんだぞ」

「なんてこと言うのですお二人とも!? ノアさんは魔術師でペレアスさんは騎士、かたや私はただのおっさん───私を守るのが役割じゃないですか!!?」

「「もうお前がマスターやれ!!」」

 

 ノアとペレアスは同時に腕を振り払った。ダンテ最大の過ちはサーヴァントとして召喚されてしまったこと。彼は心の中で神曲を書いたことを密かに恨んだ。

 その時、部屋の扉が勢い良く開かれる。

 強烈な熱気を背負い現れたのはレオニダス。ただし彼は頭の頂点から足の爪先まで血液で真っ赤に染まりきっていた。

 レオニダスは荒い息を吐きながらふらふらとにじり寄る。その様子はパニックホラーお馴染みのゾンビの様相を呈している。

 ダンテはカサカサと壁にへばりついた。

 

「ギャアアアアア!! レオニダスさんが地獄で見た罪人くらい酷いことに! その出血量ではもはや……!!」

「いえ、これはすべて返り血です。我が筋肉は健在なので、ご心配は無用でございます」

「戦いに出ていたのかい?」

「ええ、兵を率いて遅滞戦を仕掛けていました。水を浴びる暇もなく……お見苦しい姿を見せることをお許しください」

 

 すると、エレインは氷の杖をかざした。見る間にレオニダスの全身にこびりついた血が霧散し、赤い霧が窓の外へ流れていく。

 水の精霊にとってこの程度の芸当は容易いのだろう。エレインは率直に問う。

 

「成果はどうだったかしら?」

「はい。損害は軽微、死傷者はなし。エレイン殿考案の『スーパーつるつる地獄』に嵌めることにも成功しました。明日の早朝までは時間を稼げたでしょう」

「素晴らしいわ。アレにかかったなら『さむさむ串刺しマウンテン』も発動する……戦力低下も望めるわね」

「いや、ネーミングセンス!!」

 

 ジャンヌは叫んだ。彼女もまたノアと同じく中二病、ネーミングセンスには一家言持つ身である。懐に収めたドイツ語の辞書を取り出しかねない心情だった。

 そんなジャンヌの気持ちを他人が知る由もなく。手刀のダメージから復活した立香は小首を傾げて、

 

「エレインさん考案……北壁にも来たことがあるんですか?」

「ええ、ニップルと北壁には何度も訪れているわ。第六特異点のあなたたちの戦いも北壁の上から見ていたのよ」

「勝手知ったる土地ってことですか。レオニダスさんもいますし、これはもう勝ったも同然ですね!」

「敵が魔獣の群れだけならばそうなのですが、斥候より報告がありまして」

 

 レオニダスが二の句を継ごうとしたと同時、頭上から自信に満ち溢れた、むしろ自信しかなさそうな声が割り込んだ。

 

「『それについては我から説明してやろう。しかと拝聴せよ、雑種共!』」

 

 天井に設けられた大鏡。その一面に、ギルガメッシュの顔が大きく映し出されていた。鏡自体が振動することで王の声を再現し、部屋中にくまなく音を届ける仕組みになっている。

 いつにも増して傲慢に笑うギルガメッシュ。彼のまぶたの下にはうっすらとクマが浮かんでいた。ウルク全土を指揮する激務は中々に堪えているらしい。

 ダンテは今日幾度目かの驚愕を露わにした。

 

「ギルガメッシュ王!? なんだかテンションがおかしくありませんか!?」

「『霊山でしか採れぬ薬草を三日三晩煮詰めた湯を飲んだ故な。妙な頭痛と心臓の疼きを感じるが問題はあるまい』」

「人類最古のエナジードリンク───!!」

「『ウルクの医者はふん縛ってでもギルガメッシュ王を寝かせるべきじゃないかなぁ!?』」

 

 ロマンは空になったエナジードリンクの缶を握り締めながら言った。ギルガメッシュを縛って寝かせられるような医者はどこにもいないだろうが。

 部屋の各所から王を心配する目線が向けられる。ギルガメッシュはそれを無視し、人類最古のリモートワークを続けた。

 

「『現在、メソポタミア随所で魔獣の異常発生が確認されているが、ニップル以北は他所とは到底比べ物にならぬ数に膨れ上がっている』」

 

 ───その発生源と思しきはニップルよりさらに北、レバノン杉の山林に位置する神殿。三女神同盟の一柱、ティアマトを名乗る神霊の根城と推測される場所である。

 ウルクに大挙して押し寄せる魔獣の大軍。これを討ち果たしたとしても、時が経てば新たな魔獣が産まれ、都市を襲う。

 故に狙うべきは神殿と神霊の攻略だ。対症療法では体力を失い続けるのみ。原因を根絶することこそが、人類の生きる道なのだ。

 そして、斥候からは神殿にて魔力の胎動が見受けられたとの報告があった。神官団の予言を見ても、ティアマトが動く可能性は高い。

 ギルガメッシュの説明の後、マーリンは情報を付け加える。

 

「地母神だけが有する権能『百獣母胎』。ウルクを襲う魔獣はその生命を創造する能力によって生み出されているのだろう。善にも悪にも転じる力だが、ティアマトは善い方向に使うつもりはないようだ」

「……当たり前でしょう。三女神同盟の中でも一番のロクデナシが今回の女神ですから」

 

 アナは僅かに目を伏せて言った。その声音にはどこか、忸怩たる感情と微量の殺気が含まれていた。

 確かにケツァル・コアトルはルチャにドハマりしたサンバ女神で、エレシュキガルはネコを愛でるドジっ娘神霊だ。ティアマトと比べれば大分親しみやすさがある。

 納得しつつ、ジャンヌは首肯した。

 

「自分だけ引き篭もって手下にやらせようなんてヤツがネアカな精神してるはずがないわね。私が森ごと神殿を焼いてもいいわ」

「『逸るでないわ脳筋魔女。下した命令はレオニダスの救援である。女神の討伐ではない。精々ダチョウ並みの脳みそを捻って作戦を練るが良い』」

「私はいつも通り宝具を使うしかできませんが……そういえば、牛若丸さんは何をしておられるのです?」

「『牛若丸には別の任務を与えた。貴様らに他人を気にする余裕などないぞ、敵が本物のティアマトであるのならばな』」

 

 そう言い残して、鏡からギルガメッシュの像が消え去った。彼を見上げていた一同は首をもとの位置に落ち着ける。

 リモートワークを終えた後の独特な空気感がこの場に充満する。解放されたは良いのだが、少し手持ち無沙汰なあの感覚だ。

 マシュは咳払いすると、輝く目で立香を見据える。

 

「女神襲来に備えた作戦を考えろとのことでしたが、栄えあるローマ帝国軍師を経験したこともある先輩にお話を聞きましょう」

「なんて無茶ぶり!? 私が知ってる戦術は包囲殲滅陣しかないから!」

「包囲殲滅は確かに戦の理想形ではあるけれど、数で大いに劣る私たちでは難しいと思うわ」

「エレインさん、真面目に言われると私の心が死にます!」

 

 浅い知識から放った言葉へのカウンターは時として物理的な殴打よりもダメージになり得る。元ローマ帝国軍師は再度床にへたり込んだ。

 しかし、ただでは転ばないのが藤丸立香という少女である。ダチョウよりはいくばくか高性能な脳みそにひらめきが訪れる。

 

「相手が神様ならリーダーのヤドリギとペレアスさんのエクスカリバーMk.2が効きますよね!?」

「ああ、その神殺しの宝具なら通用はするだろう。問題は殺せても復活する点にある」

「どういうことだマーリン?」

 

 ペレアスの問いに、マーリンは答えた。

 敵が地母神の権能を有しているのは明白。地母神とはその名の通り大地の母であり、豊穣の具現だ。

 女神信仰の歴史は果てしなく古い。古代より農耕民は大地母神を崇め、恩恵を授かってきた。農作物の萌芽と収穫のサイクルをより円滑にするために。

 それは死と再生の円環。蒔かれた種は成長し、収穫されるも厳しい冬を経て再び芽吹く。そのサイクルを司るのもまた地母神であるのなら。

 

「───地母神は復活の権能を持つと考えるのが妥当だ。ヤドリギは神と不死を殺すが、その復活までは否定できない。なぜなら、それが殺した唯一の神バルドルが復活を果たす神であるからだ」

 

 ダンテはムンクの叫びのようなポーズを取って戦慄いた。

 

「じゃあ倒す方法がないということじゃないですか! 確信しました、人類は滅亡します!!」

「……この人の情緒崩壊してません?」

「アナ、無視しなさい。カルデアでは日常茶飯事よ」

「まあ、神の信仰の根源となる神殿を破壊すればヤドリギで殺せる訳だが。今回は防衛に専念すべきだ。王が言っていたようにね」

 

 反攻に転じるには手段も戦力も足りない。マーリンの意見は意外にも真っ当なのだが、

 

「おまえの話を長々と聞かされるこっちの身にもなってみろ。そういう頭の良い役回りは俺しかいないだろうが」

「大丈夫です。リーダーにその役は永遠に回ってこないんで。書類選考落ちなんで」

「おい誰が就職氷河期だ」

「我がスパルタは健康な男子なら即採用ですよ?」

フォフォウフォウ(その分研修が地獄だろ)

 

 しかもスパルタは選考漏れした男子は生まれた時点で捨てられる魔界である。300人で大軍に立ち向かう勇士を産む土壌は伊達ではないのだ。

 さすがのロマンにも危機感はある。話題が拡散した議論はネット掲示板の罵詈雑言と変わらない。彼はまごつきながら切り出した。

 

「『それで……作戦は?』」

「そうね。ひとりでも正気の人間がいて助かったわ」

 

 エレインの白い指が地図に描かれた線───北壁をなぞる。

 

「背後には長城があり、前からは地を埋め尽くすほどの大軍が迫る。この状況、リースとペレアスには覚えがあるでしょう?」

「……ハドリアヌスの壁か。ピクト人のヤバさは身に沁みてる」

「むしろ覚えしかありませんわ」

「宮廷魔術師マーリンさんにも覚えがあ───」

「そうよ。これは異民族との戦いととてもよく似てるわ」

 

 マーリンのインターセプトを、エレインは無表情で阻んだ。サッカーなら名ディフェンスとして語り継がれるであろう手際だ。

 

「───だから、()()()()()()()()をしましょう。防衛戦の名将レオニダスもいるのだから、負ける道理がない。そうでしょう?」

 

 珍しく自信げに、彼女は言った。

 窓から覗く景色は既に暗がりへと変わり始めていた。太陽が沈み、月が訪れる余韻の時間。なれど、魔獣の襲来が見えているニップルに安穏とした空気が流れるはずがなく。

 城内城外を問わず忙しなく動き回る人間。隙間なく敷き詰める声と熱気は戦争の緊張をそのまま表していた。

 都市を取り囲う氷の城壁。その外、離れた平原ではパンパンに張り詰めた白い袋を引きずって走り回るノアとEチーム三人娘の姿があった。そのほど近くでは、うつ伏せに倒れるダンテをアナが木の枝で突いている。

 

「……なにやってんだあいつら」

 

 都市城壁の上。ペレアスは口角を引きつらせて呟いた。リースは彼の背中からひょっこりと顔を出して、

 

「ノアさんによると〝戦争の常識をおまえらに見せてやる〟とのことらしいですわ」

「不安しかないんだが!? あいつの常識は非常識と同じ意味だぞ!」

「まるで私たちの恋みたいですわ」

「どこがだ!?」

 

 思わず絶叫するペレアス。その隙をついて、リースは彼の懐に入り込む。長年培われた熟練の技は今も失われてはいなかった。

 恋愛脳精霊はぽっと頬を赤らめて、騎士の顔の輪郭に手を添える。

 

「では、ここからは18歳以下お断りの時間ということで……」

「なんでだ!! 展開が唐突すぎるだろ!!」

「そう───人生何しも重要なことは唐突にやってくるのですっ! あなた様と私の出逢いのように! なのでこれも仕方がありません!!」

「やめろォォォ!! 世界が終わる!!」

 

 ティアマトの襲来より早く世界にハルマゲドンが訪れようとしていたその時、忍者の如く現れたエレインが氷バットで妹の尻を叩く。

 リースは床につくばって、産まれたての子鹿みたいに震えた。

 

「ペレアス様っ♡激しいのも嫌いじゃありませんわっ!!♡♡」

「いや、これに関してはオレじゃねえ!!」

「『大丈夫ですかペレアスさん! エレインさんを呼んでおきました!』」

「よくやったロマン!」

 

 世界を滅亡から救った救世主エレインはこめかみを指で揉みほぐす。もう一方の手でマーリンのフードを掴んで連行している。

 

「見回りの途中で良かったわ……マーリンもいつも通りサボっていたけれど、あなたたちは死んでも変わってないのね」

「こんなところ見せといてアレだが、そう悪いものじゃないだろ? 義姉さん」

「ふふ、そうね。懐かしい気持ちというのはアヴァロンでは中々体験できないから。……千里眼で覗き魔してるマーリンと違って」

「私は誰かの物語を摂取しないと感情を得られないのさ。食事のようなものだと思ってくれたまえ」

 

 さらりと述べたマーリンの言に、ペレアスはやや表情を固くした。

 彼とて人ならざる者との混血。人でなしなのは確実だが、そもそも半分人でないのだから人間とはかけ離れた精神性をしているのも道理ではある。

 だからといって、同情はできないのだが。

 四人は城壁の上を歩き出す。その最中、ロマンは何気なく訊いた。

 

「『精霊と言うと近寄りがたいイメージがありますが、湖の乙女のお二人はそんなことありませんね。感情も豊かですし』」

 

 マーリンは首肯する。

 

「若干名シモに寄ってはいるけど、そうだね。ブリテンのために協力するという選択肢を取ったこと自体も一般的な精霊としては異例だ」

 

 かの時代、ブリテン島の騎士王は神代の終わりを担った。世界の舵取りを神から人へと移す偉業。だがそれは、人間以外の者には不都合な変動だっただろう。

 妖精や精霊にとって、神秘の否定とは自らの存在の否定。自身の消滅を肯定できる者など、人でも人以外でも少ないはずだ。

 湖の乙女姉妹は顔を見合わせる。

 

「湖の乙女ならぬ湖の幼女時代はそれなりに妖精ムーブをしていましたわよね?」

「ええ、よく水妖の真似事をしていたわ」

 

 二人は在りし日の記憶を思い返した。

 場所は現代のドイツ、ライン川。湖の幼女三姉妹は豊かな丘陵に囲まれた大河を眼下に捉えていた。ライン川は多数の船でひしめき合い、渋滞している。

 船上で右往左往する人間たち。湖の幼女末妹はそれを指差して甲高い笑い声をあげた。

 

〝あっははははは!! 見て、氷と霧のお姉様! あの必死そうな人間の顔! 渦潮を起こしてみたらどうなるのかしら!!〟

〝この前調教したケルピーさんを放り込むのも面白そうですわ。お姉様は何か良いイタズラを思いつきまして?〟

〝水面を凍らせてみましょうか。船が動かなくなった人間がどれだけ困るか楽しみだわ〟

〝それじゃあ、間を取って全部やりましょう? そしてギリギリのところで助けて人間を言いなりにするの!〟

 

 そうして、ライン川はさらなる騒乱に巻き込まれた。人間を言いなりにする目論見は領主の軍が駆けつけてきたことで失敗。しかし湖の幼女たちを捕らえられるはずもなく、人間たちは涙を呑んだという。

 そこまで聞いて、ペレアスとロマンは苦虫を噛み潰したみたいな微妙な顔をした。反面、マーリンは微笑の仮面を被っている。

 

「『ライン川ってローレライ伝説が有名だった気がするんですが……』」

「た、たまたまだろ多分。他にも水の妖精なんていっぱいいるからな」

「うん、面白い話だね。そんなにも妖精然としたキミたちがこうして人類のために戦っているとは」

 

 花の魔術師はその微笑みのままに、

 

「───何か、きっかけがあったのかな」

 

 数秒の沈黙。

 エレインは簡潔に、単純に、事実を述べた。

 

「見たのよ。茨の王冠を被らされた男の死を」

 

 風が吹く。ほのかに冷たい夜の風が。

 湖の乙女が人に携わることを決めた契機。

 それはあまりにも、エレインの核心に触れすぎていた。

 リースはペレアスとエレインの腕に飛びつき、二人を引きずろうとする。

 

「もうすぐ夕飯時ですわ! こんな花びらひらひらマンは放っておいて、みんなで食事にしましょう! 私が腕によりをかけて作ります!!」

「……あ〜、そうだな。リースの飯は世界一美味い。義姉さんのアイスも久々に食べたいな」

「いいわよ。私はそれしかできないけれど」

「そんなことありませんわ。私がお姉様にお料理を教えて差し上げます!」

 

 ぽつねんと取り残されるマーリン。彼は横に振り向いて、消え入るような声を発した。

 

「……まさかとは思うが、私ってコミュニケーションに難がある類なのかな?」

「『そうですね、間違いなく。ノアくんに調教してもらったらどうです?』」

「あんなモヒカンになるのは御免だね。そうそう、彼についてキミに話したいことがあったんだ」

「『なんですか? アホ花吹雪』」

「カルデアの人間は罵倒の語彙が広すぎないか!!?」

 

 ロマンはニヤリと笑った。普段は蹂躙される側の人間だが、マーリンという格好の標的を見つけた今、彼は秘めた攻撃力を発揮しつつある。

 マーリンは頭を振って平静を取り戻す。

 

「彼があの術式を使わない理由。もう知っているんだろう?」

「『……そうですね。ダ・ヴィンチちゃんから訊きました。自分が自分を許せるまで、と』」

「それだよ。私が思うに、そんな日は永遠に訪れない」

「『───随分と言い切りますね』」

 

 強まる語気。花の魔術師は飄々とそれを受け流す。

 

「人が人を許す過程は人それぞれだが……自らの罪を自ら許せる者は少ない。相手が自分である以上、〝ごめんね〟で済む簡単な話ではないからだ」

「『……だから?』」

「誰かが心に刺さった棘を抜く必要がある。問題は本人がその棘を大切に仕舞い込んでいることだ。それを取り払えるのはキミしかいない……と、思う」

「『神の力に頼らずとも彼らは立っていける。あの術式を使わないという判断はボクも同じだ』」

 

 だとしても。マーリンは突きつけるように言う。

 

「どれだけ否定したい自分であっても、それはその人間の一部だ。打ち捨てられたままでは忍びない。程度にもよるが、自分を肯定できない人間は得てして不健康だよ」

 

 それは、己を問い詰めるような。

 目の前の男に釘を刺すような、言葉だった。

 その会話の真意を知る者は両者の他に無い。

 

「故に」

 

 夜空を舞う、鮮やかな花弁。花の魔術師はその杖の先を、ただの人間に差し向けた。

 

「───自も他も救ってみせるがいい、ロマニ・アーキマン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 早朝。大地の下辺より太陽が登り来たる。

 目眩く曙光が照らすは押し寄せる魔獣の群体。猛き津波の如く疾走する獣はその雄叫びとともに剥き出しの殺意を叩きつける。

 第三特異点。アカモートに生み出された水魔はアトランティスの残骸島改め愛の逃避行丸を何千もの数で襲った。

 が、平原に広がる魔獣の数はそれとさえ比べるに値しない。大地の色は既に魔獣の体色に塗り替えられている。

 対するは城壁のもとで軍を率い、野戦の構えを取るレオニダス。そして、それを城壁の上から見渡すEチーム一行だった。

 

「……多すぎません!?」

 

 ダンテの悲鳴があがる。彼は両腕で自身を抱きすくめ、目にも留まらぬ速さで膝を振動させていた。

 ノアはいつもの醜態を晒す詩人を低い声で質す。

 

「ダンテ、トロイア戦争でなぜトロイアが負けたか分かるか」

「あ、アキレウスの活躍と答えるのが一般的でしょうが……私の推しのオデュッセウスの存在が大きかったと思いますねえ。膠着した戦況を打ち破ったのが彼ですし」

「違うな。トロイアが負けた理由───それは俺がいなかったからだ!!」

「何言ってるんですかこの人!?」

 

 ダンテの文句を無視して、ノアは立香に顔を向けた。彼女は防音用の耳あてを装着し、正方形の鉄箱に赤い半球のテンプレのようなスイッチを持っている。

 

「やれ、立香!」

「はい! スイッチオン、です!」

 

 かち、と人差し指がスイッチを押す。

 瞬間、平原のど真ん中で巨大な爆炎が噴き上がった。遅れて衝撃波がニップルに到達し、さらに轟音が辺りをびりびりと振動させる。

 当然、爆心地を通っていた魔獣は無事に済むはずがなかった。空中を無数の獣が舞い、肉片と血の雨が降り注いだ。

 赤いまだら模様に彩られる戦場。常人ならば嘔吐確実のグロテスクな景色を目の当たりにして、ペレアスは昨夜のことに思い至った。

 

「……戦争の常識ってこれのことか!?」

「お前にしては察しが良いな。俺が昔発明した魔力爆弾の改良型を一帯に埋めてきた。これからの時代はテクノロジーこそが戦争の勝敗を左右するんだよ」

「テクノロジーっつうか体の良い実験台にしただけだろうが!」

「おいおいおい、目の前の戦果を見てもそんな口がきけんのか? かつてラブホを破壊した爆弾が人類の敵を討つんだぞ、これ以上の美談はねえ」

「美談じゃなくて猥談だろ!!!」

 

 と、議論を交わしている間にも立香はスイッチを押し続けていた。その横には同じ装備を整えたマシュとアナも加わり、断続的に轟音が巻き起こる。

 アナは深い影を落とした笑みを形作る。その指は高橋名人も凌駕するほどの高速連打を実現していた。

 

「これがラピュタの雷を落とした大佐の気分……この力ならあいつも……ふふふ、魔獣がゴミのようです───!!」

「先輩! 何やらアナさんが不穏なことを口走っています! 闇堕ち寸前です!!」

「え、なに? 耳当てのせいで聞こえない」

「とか言いつつスイッチ連打してるの怖すぎません?」

 

 ジャンヌはほんの少しだけ魔獣たちに同情した。彼らもまさか自身のフィールドである地面が爆発するとは思ってもみなかっただろう。

 かちかちかち、と虚しい音が響く。地中に埋没した爆弾はすべて役目を終えていた。アナはそれを認めると、雑にスイッチを投げ捨てた。

 豊かな平野は火と煙、死体が散乱する荒野へと姿を変えていた。相手が人間であったなら、恐慌を起こし退却するであろう圧倒的な戦果。が、人類廃滅を望む女神が産んだ魔獣は、戦いに不都合な感情は削ぎ落とされている。

 故に、打算も逡巡もなく、ただ荒れ狂う殺意のままに魔獣は特攻に踏み切った。

 

「『悠か妙なる幻氷塔(トゥール・デ・ダーム・デュ・ラック)』」

 

 その望みですらも、湖の乙女は握り潰す。

 世界の実像が入れ替わる。

 凍てつく空に、一片の雪花が揺れた。

 それは純白の銀世界。

 精霊種エレインが擁する、雪と氷の異界。

 白く霞む遠景。天を突くかの如き氷の幻塔が屹立する。

 塔の出現と呼応して、エレインの杖が変形する。先が細く尖り、無数の氷の帯が捻じれ織り成すひと振りの槍。その槍の穂先は無造作に前方へと向けられた。

 

「───ロンゴミニアド」

 

 白光が閃く。

 一条の閃光は聖槍の名に相応しき威容をもって、敵勢の中央を砕き散らした。

 それを視認したレオニダスは槍を取り、己が軍勢へ号令をかける。

 

「突撃! 我らには頼もしき味方がついています、目の前の敵を討ち果たすことのみを考えて進みなさい!!」

 

 一糸乱れぬ隊列が敵陣の陥穽に侵入し、傷口を広げる。その様は一網打尽、鎧袖一触と表現するに相応しい。エレインは二つ結びの髪の房を払い、小さく息を吐く。

 

「アルトリアのビームぶっぱ&突撃戦法……やはり敵地ではこれが効くわ」

フォフォウ(大雑把すぎん)?」

「スパルタほどではないとはいえ、ウチもかなりの脳筋揃いだったからね。シンプルな戦術の方が対処のしようがないというものさ」

「国境付近で戦う時は大体これだったな。まあオレは指咥えてビーム見てただけだったけど。ハハッ」

「またペレアス様のトラウマが……」

 

 エクスカリバーMk.2の柄に手を掛けながら、ペレアスはどんよりと落ち込んだ。

 立香とマシュは置物と化した騎士を押し退け、エレインの槍を観察した。

 

「見れば見るほど、獅子王の槍とそっくりです。わたしが完全に防ぎ切った獅子王の槍と」

「その情報付け加える意味あった?」

「これは聖槍のレプリカよ。アレを最も上手く扱えるのはアルトリアだけれど、最も深く理解しているのは私。道具作成スキルと、ちょっと世界を騙す幻術があれば誰にだってできるわ」

「ちょっとの程度がわたしたちにとってはバベルの塔くらい高いのですが」

 

 湖の乙女は数多くの宝具宝物を騎士に与えた。聖剣や聖槍といった例外を除いて、それらは彼女たちの手で造られたモノ。その道具作成スキルは並み居るキャスタークラスでも最高峰に位置する。

 ロンゴミニアドの複製。聖槍への理解を誰よりも深めた湖の乙女だからこそ叶う御業であった。

 ノアは花の魔術師に厳しい目線を向ける。

 

「マーリン、おまえアヴァロンに帰っていいぞ」

「おおっと、それは聞き捨てならないなぁ〜! 湖の乙女に幻術を教えたのは何を隠そう、このマーリンだ! 半分は私のおかげだと思ってもらいたい!!」

「マーリンさんが湖の乙女の魔術の師匠というのは有名な話ですからねえ」

「ああ、そのせいで幽閉された時はまんまとハメられたんだけどね」

「アホかこいつ」

 

 自業自得とはまさにこのことだった。

 その間にも魔獣の掃討は進んでいた。ノアの爆弾とエレインの聖槍、そしてこの異界が敵だけにもたらす冷気。元より屈強なレオニダスの軍が負ける要素は微塵も存在しない。

 そう、ひとつの可能性を除いて。

 銀世界の像が乱れる。空間に亀裂が生じ、異物の侵入を許す。

 それは見上げるほどの巨躯を誇る、一柱の女神だった。長大な紫の髪の先は大蛇の如くに変貌し、その歩を進める度に地面が鳴動する。

 数km先からでも伝わる、刺し殺すような殺気。その巨体をもって地上を見下ろす眼差しは言い表しようのない凶気と狂気を孕んでいた。

 

「羽虫の如き人間共がよく足掻く。一切合切、絶望を枕に己の罪業を噛み締めながら去ぬがよい」

 

 立香は喉を鳴らし、拳を握り締める。

 ───アレは違う。ケツァル・コアトルとも、イシュタルとも、サクラとも違う。ただただ人の世の終わりを望んでいる。その望みに余計な雑味は混ざっていない。憤怒や憎悪といった感情でさえ、目的に重ねてはいない。

 だからこそ、どうしようもない。どうしようもなく、戦うしかないのだと分かってしまう。

 立香が口を開こうとした直前、金切り声が鼓膜を揺らした。

 

「ヒィエエエエエエエ!! みなさん、早く後ろを向いて目を瞑ってください! アレを見てはいけません!!」

 

 その場でうずくまり、女神に背を向けて両手で目を覆うダンテ。マシュとジャンヌはこの異界よりも冷たい視線で、怯懦な男を突き刺す。

 

「ダンテさん……今日という今日は本当に見損ないました」

「恥っていう概念がないんですか? この男」

「いえ、これはガチですから! 直接目にした訳ではありませんが、精神が地獄で体験した彼女の魂を覚えています!」

「……地獄? 地獄でティアマトに会ったことがあるんですか?」

 

 立香は首を傾げる。神曲の内容は知っているが、彼がティアマトに遭遇した場面はないはずだ。ダンテはぶんぶんと頭を横に振る。

 

「いいえ、アレはティアマトなどではありません!! ゴルゴーン────いえ、メドゥーサです!!!」

「「「…………はい?」」」

「詳しくは神曲第九歌を思い出していただければ!!」

「『そこまでのダンテさんオタクはいないなぁ……』」

 

 ぽかん、とEチーム三人娘含め全員が困惑の色を表す。

 無論、こんな状況で神曲地獄篇を持ち合わせている人間はいなかった。そんな彼らに、ダンテは自らの体験を語った。

 堕天使が収容されるディーテの市という場所を目指していた頃。ウェルギリウスは不安に駆られるダンテを介護しつつ進んでいたが、二人の目前に突如巨塔が迫り来るのである。

 その塔に棲むはギリシャ神話における復讐の三女神。彼女らは二人を見るや否や、メドゥーサを呼び出すのだった。

 

〝ダンテ。おまえは後ろを向いて目を閉じていろ。あれと目が合えば、二度と地上には戻れぬぞ〟

〝先生! 背中にとんでもない視線を感じるのですが!! 背筋の辺りが石化してないかちょっと見てくれませんか!!〟

〝安心しろ、石化はしていない。まもなく天の遣いが来───〟

〝本当ですか、本当ですよね!? それが真実であるかどうか聖句を唱えながら神に誓ってください! お願いします! さあ、早く!!〟

〝………………〟

 

 その時、一同の心に生まれたのはウェルギリウスへの強烈な同情心だった。少なくともノアならディーテの市を囲むステュクスの沼にダンテを突き落とすだろう。

 ともかく、ダンテが女神をメドゥーサと断ずる根拠は分かった。彼は魂や心を知覚できる能力がある。頭ごなしに可能性を否定することはできない。

 一連の話を聞いたアナは、傍目にも分かるほどに冷や汗を肌に浮かべる。何を恐れているのか、全身がガタガタと震えていた。

 彼女は親指の爪を噛み、口をこぼす。

 

「そ、そんな真名看破アリ……? この流れに乗って私も名乗った方が……いやいやいや…………」

 

 立香はアナの顔をのぞき込んで、

 

「だいぶ顔色が青いですけど、具合悪くないですか? 治癒魔術かけます?」

「い、いえっ! お構いなく! それよりもゴルゴーンをどうにかしましょう!!」

「アナの言う通りよ。まずは…………」

 

 エレインの氷槍が光を発する。

 膨大な冷気が渦巻き、魔力が収束する。それと同時、湖の乙女は槍を突き出した。

 

「ロンゴミニアド───!!」

 

 雪白の光線が煌めく。凍気を纏ったそれは軌道上の空気を個体化させながら、真っ直ぐにゴルゴーンを狙う。

 女神はその魔眼を発動することすらなく、

 

「……キングゥ」

 

 その一言で、事足りると知っていた。

 

 

 

「───『母よ、始まりの叫をあげよ(ナンム・ドゥルアンキ)』!!」

 

 

 

 刹那、天を割り空を裂く流星が堕ちる。

 黄金の尾を引く箒星が氷槍の一撃を打ち破る。否、それだけに飽き足らず、照射される光条を意にも介さず突き進んだ。

 キングゥの宝具はクタ市を跡形もなく蒸発させた。これが着弾すれば最期、ニップルとて異界ごと消滅するだろう。

 

「マシュ!」

「メイン盾にお任せを!」

 

 マシュは弾丸の如き勢いで城壁を飛び出した。

 見計らったように空中に出現する氷の足場を瞬時に辿り、レオニダスたちの前方に身を乗り出す。

 衝突は一瞬。キングゥとマシュの視線が交錯する。

 

「『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』!!」

 

 聖なる白亜城の顕現。黄金の流星とてそれを撃ち抜くには力不足。魔力の衰退とともに、両者は弾かれるように後方へ跳んだ。

 ノアは手袋をはめ直しながら、

 

「俺たちがキングゥをどうにかする。ゴルゴーンには槍を撃ちまくれ。行くぞ」

「あ、私はみなさんに強化を掛けておいたのでここで見てます」

「私もそうしていよう。キャスタークラスは後方に回るのが定石だよね」

「おまえらは後で拷問にかけてやる。覚悟しておけ」

 

 恐怖の宣告をダンテとマーリンに与え、ノアは城壁を跳び降りた。立香たちも彼に続く中、エレインはリースの背に呼びかける。

 

「気付いているかしら、リース?」

「当然ですわ! 私たちは同一存在、そういうことですわよね」

「ええ。思う存分にやりなさい」

 

 姉妹は頷きを交わす。湖の乙女にそれ以上の言葉は要らなかった。

 一方、レオニダス。魔獣の掃討は粗方済んでいた。これからは神霊と英霊が激突する。たとえ神代の優秀な人間たちとはいえ、ギルガメッシュから預かった兵を巻き込むことはできない。

 ゴルゴーンとキングゥの隙を突いて彼らを退却させる。

 果たして、それだけの間隙を作れるか。

 

「投影、『天佑の大船(スキーズブラズニル)』」

 

 軍勢の足元から船体がせり上がる。全ての神々が乗り込めると言われるオーディンの船。それはひとりでに風呂敷のように畳まれ、ノアの手に収まる。

 兵士を全員収めた布が元素変換で生成された風に流され、ニップル上空に辿り着くと、

 

「解除」

 

 それは船の形態に戻り、城内に兵士をふるい落とした。

 屈強な男たちの稚児のような叫びがニップルから轟く。その中にはノアへの恨み言が多分に含まれていた。が、この悪魔はそれを気にも留めずに口角を吊り上げた。

 

「こっからは俺たちの時間だ。ゴルゴーンとキングゥを涙目敗走させるぞ」

「お前この後兵士全員に土下座して回れよ」

「……スパルタ的にはヨシ! 筋肉を信じればたとえ成層圏から落下しても耐えられます!」

「それもはや信頼じゃなくて狂信の域に至ってるんですけど!!」

「レオニダスさんは本当に耐えそうなのが怖いですね……」

 

 言いつつ、マシュは敵へと視線を移す。

 キングゥ、そしてゴルゴーン。かたや神霊に匹敵する力を持ち、かたや石化の魔眼を有する蛇神。当然、明確な勝算などある訳がない。

 だがそれ以上に、負けるつもりは微塵もなかった。

 キングゥは忌々しげに吐き捨てる。

 

「ゴルゴーン、か。ダンテ・アリギエーリ───どうやら彼だけは殺しておかなければならなかったようだ」

 

 ジャンヌとマシュはニタリと意地の悪い笑みを浮かべて、

 

「ハッ、Eチーム最弱のダンテですら仕留められないとか、もしかしなくても無能ですかぁ? なんだか期待して損した気分だわ〜!!」

「ダンテさんの戦力はミジンコと同レベルであることが学会の研究によって明らかになっています。つまりこの人はミジンコ以下なのでは?」

「だったら後ろにいるヘビ女はゾウリムシってところかしら。微生物コンビがニップルくんだりまでご苦労なことね」

「いえ、ゾウリムシはわたしの推しなので、アメーバくらいにしておきましょう」

「なんで煽る時は仲良いの!?」

 

 立香は肩を怒らせて声を飛ばした。犬猿の仲である二人だが、犬と猿とてライオン相手には結託することもあるだろう。つまりはそういうことである。

 キングゥとゴルゴーンの返事は来ない。嵐の前の静けさはしかし、長くは続かなかった。

 

「「───殺す」」

 

 その殺意は、言葉よりも行動が雄弁だった。

 降り注ぐ鎖の雨、地を舐め尽くす尾の一打。上下左右何処に逃げようが殺す。必殺を期した双撃は音速を遥かに超えた速度で迫り来る。

 なれど、この程度を凌げぬ者が七つ目の特異点に手を掛けることなどできない。

 各々が対処に回る直前。

 

「『遥か永き湖霧城(シャトー・デ・ダーム・デュ・ラック)』っ!!」

 

 幽玄なる霧の城が、全ての思惑を無に帰した。

 無数の鎖も、蛇神の打撃も、城の防壁はことごとく押し留める。皆が喫驚するなか、リースは鼻歌交じりに霧を手元に寄せ集め、一本の剣を形成する。

 それは今までの『空想具現化』とは異なる、生前の力に近しい防御力。ペレアスは困惑の裏腹に歓喜の色を混ぜた声音で言う。

 

「……水辺でしか使えないんじゃなかったのか!?」

「私とお姉様は同一存在。あらゆる状態を共有できます。この異界の中ならば、私とお姉様は同じものと見做される───つまり、サーヴァント級の能力を使えるのです!!」

「強化されたドスケベ精霊とか悪夢すぎるだろ」

「うるせえアホ! 黙ってろ!!」

 

 この雪の世界はエレインの異界。彼女の領域であり、魔術工房であり、体内に等しい。内部にリースという同じ存在を取り込むことで、彼女は世界にエレインと同一と判断され、霊基の性能も同期される。

 生まれた時と場を同じくし、魂の色も形も変わらぬ湖の乙女だからこそ叶う裏技だ。

 ゴルゴーンは目を剥き、ぎしりと奥歯を軋ませた。

 

「ネミ湖の女神を起源とする精霊……か? 小癪な……!!」

「ネミ湖? 女神? 何を言っているのか分かりませんが、私は大好きなお姉様と妹と一緒に産まれた湖の乙女ですわ」

「それこそは女神の古き形、三相一体であろう。己の根源も知らぬとは、精霊の名折れも甚だしい」

「名折れとは世界の敵たるあなたの方でしょう。ゴルゴーン三姉妹……あなたのお姉様が今のその姿を見たら、悲しむに違いありませんわ」

 

 リースは持ち前の知識とカルデアの記録でしかメドゥーサの姉の片割れ───エウリュアレを知らない。

 けれど。

 水魔水妖が跳梁跋扈する海上で。

 かの女神は確かに戦い、言ったのだ。

 

〝私たちは所詮、過去の亡霊よ。だから、未来へ歴史を繋げるために私は戦うわ。───女神として、信仰する人間がいないのは寂しいでしょう?〟

 

 あの時、彼女が口走った想いの丈とともに剣を突きつけて。

 

「あなたは何よりも大切な家族を踏み躙っているのです。それが分からないうちは、私たちの誰にも勝てない」

 

 かつてのエウリュアレの言葉は、ただひとりの少女にしかと届いた。

 だがしかし、魔眼の蛇神はそれを一蹴する。

 

「訳の分からぬことを。そのような欺瞞でこのティアマトを騙せると驕り高ぶったか───!!」

 

 蛇髪が躍り、尾が振るわれる。ゴルゴーンの攻撃に小細工はない。必要ない。その巨躯と膂力を暴虐のままに振るう。それだけで決着はつくのだ。

 だが、霧の城を穿つ尾は寸前で真っ二つに切断された。

 地面を抉り、空へ振り上げられる形で放たれた氷槍の斬光。切断面が凍結し、尾の再生を阻害する。

 その一撃を皮切りに、ノアたちとキングゥは動いた。

 ヤドリギを刺すことが叶えば、ゴルゴーンは死なずとも殺せる。何度も再生を果たした虹蛇のように、復活には代償が伴うはずだ。

 それによって相手を退却に追い込む。

 キングゥは素早く進路を塞ぎ、機先を制した。

 

「神殺しのヤドリギは大した脅威じゃない。ボクが恐れているのはキミだけだ」

 

 紫の眼光がアナを射抜く。

 それを遮るように、ペレアスとリースはキングゥの前に立ちはだかった。

 

「油断大敵って知ってるか? どんなに強い奴でも油断や慢心には足を掬われる。お前、まだ負けたと感じたことないだろ」

「ああ、まだ敗北の苦渋を知らなくてね。そして、これからも知ることはない」

「そりゃあ敗北を正しく刻んでないだけだ。ノア、こいつはオレとリースに任せろ」

 

 ノアは既にキングゥから視線を切り、ゴルゴーンへと向けていた。彼は素っ気なく答える。

 

「任される権利をおまえにやるよ。負けそうなら言え。この先おまえが自由に呼吸する権利と引き換えに助けてやる」

「どっちにしろ死ぬじゃねえか、ふざけんなクズマスター!!」

 

 ペレアスはノアの尻をげしりと蹴りつけた。

 そうして、騎士はキングゥに向き直る。緑髪の青年は握り締めた五指を軋ませる。その動作はいささかの稚気を帯びていた。

 

「このボクもナメられたものだ。人間と精霊如きが勝てるなどと付け上がっている。それこそを油断と言うべきじゃないか」

「人間と精霊? それは少し違うな」

「はい───()()()()人間と精霊ですわっ! 月とスッポン、牛乳とカルピスくらい別物です!」

「…………本当に気持ちが悪いなキミたちは───!!」

 

 キングゥの突撃を霧の城が受け止める。

 痺れる大気。その戦いを壁上より眺めるダンテはさらなる強化のために祝福の文字を走らせながら、

 

「リースさんが力を取り戻したのは嬉しい誤算ですが……勝てますかねえ?」

「ステータスとスキルだけを見れば、100回やって10回勝てれば良い方かしら」

「逃げましょう、今すぐに」

「けれど、確実に言えることがひとつある」

 

 エレインはくすりと笑う。

 

湖の乙女(わたしたち)の中で、いちばん戦いが強いのは───リースよ」

 

 ───緋金と白妙の剣閃が織り混ざる。

 騎士と精霊が意思を交わすのに言葉は不要。刻々と変化する戦況にも即応し、キングゥを攻め立てていく。

 湖霧城が変幻自在だとするならば、精霊の剣技もまた同じ。自由自在に刃の形状を変え、縦横無尽に急所を狙う人外の剣技だ。

 まばたきすらも許さぬ剣撃の応酬。その中心に取り込まれたキングゥの五体は、未だかすり傷すら負っていなかった。

 

「……なるほど。二人揃ってこそ真価を発揮する。それがキミたちの性能か───」

 

 ざざ、とキングゥは姿勢を低く屈めて地を滑る。

 間合いが空く。一帯に充満する霧は即座にいくつもの槍に変形した。それぞれが大樹に匹敵する大槍が、キングゥへと殺到した。

 

「───がっかりだよ」

 

 周囲の地面が発光する。

 それは地球を流れるマナの発露。

 キングゥの肉体(ハードウェア)は神に造られし宝具にして武具、つまりは神造兵装だ。

 創造の女神が粘土より形を見出し、知恵の神より名を与えられ、軍神から力を授かった、神々の最高傑作。

 この大地を生命の起源とするが故に、それは彼の身体の一部も同然。キングゥの求めに応え、地面より無数の武装が突き出した。

 リースの大槍との衝突は一瞬の拮抗すら許さず、その形を霧散させる。

 神秘はより強い方が勝つ。

 だとするならば、46億年の歳月を経てなお存在し続ける大地に勝てる神秘はあり得ない。

 

「攻守逆転だ。必死に逃げ回るといい!」

 

 土塊を素材とした武装が蛇のようにのたうち、騎士と精霊を襲う。

 リースはただ霧剣を掲げ、振り下ろした。

 その瞬間、剣の延長線上十数kmに渡って燃焼と爆発が巻き起こる。波の如く攻め寄せる武装はそれに晒され、機能を停止させてしまう。

 

「こういうのを水素の音と言うのですよね?」

「らしいな。どうして現代人はこんなのを有難がってんだろうな?」

「う〜ん……今度立香さんに訊いてみましょう」

 

 水素爆発。ある一定の水素・酸素濃度を越えた気体に点火することで生じる物理現象。湖の乙女リースは水を構成する水素分子、酸素原子さえも操り、その現象を引き起こしたのだ。

 起点は精霊の能力だとしても、続く事象に神秘の介在する余地はない。

 たとえキングゥが生成する武装が宝具に匹敵するとしても。神秘で勝てないのなら、別の分野で戦えば良い。

 ───くだらない。

 キングゥは敵の工夫を心中で一蹴した。

 所詮はスペックで劣るからこその浅知恵。

 自分が敗北を知らぬのだとすれば、彼らが知らぬのは条理も不条理も踏み越え、猪口才な策を一撃で無為にする圧倒的な力の存在。

 強大な力をそのまま振るう。

 それで良い。それだけで良い。

 力はシンプルであるほどに、手も足も出しようがないのだから。

 

「『母よ、始まりの叫をあげよ(ナンム・ドゥルアンキ)』」

 

 故に、思考の過程も単純明快。

 宇宙より墜落する隕石に等しい威力の宝具を、そのまま敵にぶつける。

 クタ市で使った際のそれとは助走が無い分、破壊力は落ちるが速度でカバーする。

 箒星は騎士と精霊を吹き飛ばし、都市城砦を貫通し、北壁を穿つ。この特異点に刻まれた長大な轍は彼の殺戮の跡だった。

 それでも彼は止まらない。

 完全なる人間として、愚昧なる人類に引導を渡すために。

 そう、このまま全てを破壊し尽くす─────!!!

 しかし。

 額に一本の人差し指が当てられる。

 流星の疾走は、たったそれだけで止められた。

 

「……強大な力をそのまま振るう。確かに、正解のひとつではある」

 

 密やかに咲く花のように。

 

「だが、この世に限りなく在る真実のひとつに過ぎないのもまた事実。強大な力なんて案外何処にでも転がっているのさ。……さっきの攻防で気付けたはずだったのにね」

 

 その魔術師は、微笑っていた。

 

「ペレアスくんに代わって僕が言おう。己の敗北を正しく刻め、キングゥ」

 

 とん、と指が額を小突く。

 キングゥの身体が僅かに後ずさる。

 それは、幻想から現実へ戻すための。

 

「───素敵な夢は見られたかい?」

 

 意識が覚醒する。

 花の魔術師の真価。

 対象を夢へと誘う幻術。

 嵌められたと気付いた時にはもう遅かった。

 

「マーリン!! 貴さ」

「『運命絶す神滅の魔剣(ミストルティン・ミミングス)』!!」

 

 咄嗟に庇った左腕を斬り飛ばし、胴を袈裟に斬り込む刃は紛れもなく現実。

 数瞬遅れて、血の華が盛大に花弁を散らした。

 全身から力が抜け、地面に倒れ込む。

 

「…………っ、が────!!」

 

 キングゥの敗北。それに最も速く反応したのは、ゴルゴーンとエレインだった。

 

「ロンゴミニアド!!」

 

 氷槍の光がキングゥに飛来する。

 その刹那、ゴルゴーンは対面する敵の何もかもを無視して、凍てつく光とキングゥの間に割り込んだ。

 

「な……っ」

 

 誰よりも驚いたのは、護られた者。

 光線がゴルゴーンの胸の中心を削り抜く。女神は穿たれた穴を庇わずに、その手でキングゥを掬い上げた。

 

「……退くぞ、キングゥ」

 

 まだできる。そう言おうと口を動かすことすらできない。少しでも動けば、傷口から真っ二つに割れてしまいそうだったから。

 ゴルゴーンの退却。この防衛戦における勝利条件。ジャンヌとマシュ、ノアが同時に何かを口走りかけたその時、立香たちは一斉にその口を塞ぎにかかった。

 

「「「───むごぉっ!?」」」

「引き際のトラッシュトークは戦場の華……しかしこのレオニダス、涙を呑んで止めさせていただきます!」

「レオニダスさん、そのままリーダーを頼みます! アナさんはジャンヌを!」

「令呪使った方が早くないですか?」

 

 この三人は虚構特異点の最後、サクラを煽り倒したことで無用な危機を招いている。その二の舞をここでする訳にはいかないのだ。

 ゴルゴーンはノアたちを一瞥すると、容易く異界を破り、神殿へと退いていく。

 そこでようやく、煽り三人衆の拘束が解かれた。ノアは額に血管を浮き立たせながら、盛大に愚痴をこぼす。

 

「逃げるにしても情緒ってもんがあんだろ。こっちに見せ場を渡してから退場するのがあいつらの役目だろうが。あのバカップルの活躍とか需要がなさすぎるんだよ」

「要はリーダーが見せ場を独占したかったってことですよね。気持ちは分かりますよ。リーダーが光り輝いたことなんて二、三回くらいですから……」

「おまえの目は節穴か? 立香。俺なんて光り輝いてしかいないだろ、人型の太陽も同義だろ。そのまぶたしっかり開かせてやる」

「ああああああ!! ちぎれるちぎれる!!」

 

 両手の親指と人差し指で立香の両目を限界以上に開かせようとするノア。そんな無駄に満ちたやり取りをしていると、ニップルの城門から兵士たちがぞろぞろと出てくる。

 彼らは会議室に取り付けられていた鏡を持ち出していた。その表面にはギルガメッシュの顔が映っている。まるで巨大なギルガメッシュの生首を担いでいるようだ。

 王は狂気的な笑い声を響かせた。

 

「『戯れに見ていれば、貴様らにしては上々の戦果だ! 褒めて遣わす! 特にダンテには褒美をくれてやると伝えておけ!!』」

 

 どこか目が縦長になった立香はギルガメッシュのテンションに気後れする。

 

「み、妙に興奮してますけど……」

「『そうか。この我の姿を目に焼き向けることを許そう。王のエキサイトは凡人の一生をいくら積み重ねても、垣間見ることすらできぬ貴重なものだぞ』」

「いいから本題に入れよ」

「『黙れ雑種。貴様は神殿の裏で折檻だ』」

 

 ノアに言葉を吐き捨てると、ギルガメッシュは真剣な表情をした。

 

「『ゴルゴーンの再侵攻に備える。ウルクに戻り、休息を取ったあとはエリドゥに向かってもらう。あの都市に残る神具を用いれば、ゴルゴーンめを神殿ごと潰せるはずだ。奴は必ず次で仕留める』」

「……神具とは一体、何なのですか?」

「『よくぞ訊いた、なすび娘。エリドゥに在りしはマルドゥークの手斧───かつてティアマトを打ち倒した神の武器だ』」

 

 神々の王マルドゥーク。神話の時代、神々へ戦争を仕掛けたティアマトを打倒し、その体を引き裂いて世界の礎を創った英雄神。

 蛇とも竜とも言われるティアマトを倒した武器ならば、蛇神たるゴルゴーンにも必ず通用する。

 ───ギルガメッシュの宝物庫にも似たような宝具はあるのではないか。マシュはそう思ったが、決して口に出さなかった。

 鏡を介した通信が途絶する。

 ウルクの玉座の上で、ギルガメッシュは不機嫌に鼻を鳴らした。

 

「神の武具に頼るなど業腹極まるが……精々利用してやる」

 

 ダンテは言った。人は神を利用するようになった、と。ならば、その権能の一端までも奴隷の如くに使い潰す。それもまた訣別の形だ。

 王は未だ定かならぬ未来を見通すため、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エリドゥ市。

 空を占拠するかのような巨大な斧が突き立つ大地。

 森の女神ケツァル・コアトルが根城とするこの都市は、彼女の信仰の源流である太陽の神殿が設けられている。

 祭壇には世界の過去と現在すべてを示す、巨石のカレンダー。その円形の石版はケツァル・コアトルの権能と神性の核でもあった。

 石の暦は語る。

 太陽神ケツァル・コアトルの現在を。

 

「……ぐっ」

 

 浅からぬ傷が総身に刻まれ、血を流す神霊。都市は隅々まで破壊され尽くし、瓦礫の海が広がっていた。

 太陽の祭壇に置かれた石の暦。黒白の少女がそれに腰掛ける。蔑み、見下し、愉悦する笑みを浮かべて。

 

「あっけないですねぇ〜……人間を逃がすために身を挺して庇うなんて、神様らしくないですよ?」

 

 右手に猫じゃらしが創り上げられる。それを適当に振ると、テペヨロトルは何かに操られるみたいにパンチを繰り出した。

 ケツァル・コアトルはあらん限りの力を込めた視線を少女に叩きつける。

 サクラはわざとらしく身をよじって、

 

「やん、こわぁ〜い♡……とかかわい子ぶってみましたけど、これは私のキャラじゃないですね。ああ、ここで殺すつもりはないんで安心してください。ゲームはプレイヤーが多い方が楽しいでしょう?」

 

 手首を弾き、猫じゃらしを放り投げる。既にその魅力に囚われているテペヨロトルは四本足で跳び、地面に落ちた猫じゃらしと戯れる。

 黒白の偽神は右の翼を長く伸ばした。

 ケツァル・コアトルの視界。空の何割かを占めるマルドゥークの手斧が翼に隠され、そっと折り畳まれる。

 太陽神は目を見開く。

 その遠景に、手斧は存在していなかった。まるで手品のように忽然と、それは姿を消していた。

 くすくす、くすくす。サクラは翼で口元を隠して笑う。

 

「───どうなるか、楽しみですね?」

 

 黒白の偽神。誰に問いかけたのかは、自分自身にも分からなかった。



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第70話 獣性へと誘う聖娼

有珠の声が有珠すぎてびっくりしました。マイ天使と草の字の関係が発展することを祈って続編を待機したいと思います。


 ゴルゴーンの侵攻を防いだ三日後。

 Eチームは北壁からウルクに戻り、しばしの休息を取っていた。立て続けに任務を背負わせたことに対する、ギルガメッシュの補償である。カルデアの休みは単発で最高レアを引く確率でしか発生しないため、またしても両者の差が露呈した結果となった。

 しかし、ゴルゴーンの再侵攻は明白。いつか必ず来る脅威を前に、惰眠を貪ることはできない。いつもは野性的な生活を送っているフォウくんですら、マーリンを働かせるために……もとい、嫌がらせとして彼の尻をしばき続けている。

 何しろ最後の特異点、魔術王の本命と考えれば準備はいくらしてもし足りない。バックアップを担当するカルデアの職員たちも気合いが入るというものだ。ノアの霊薬によって精神崩壊状態にあるムニエルも、パンツと靴下に加えて手袋を装着する意気込みだ。

 早朝。Eチームはギルガメッシュから呼び出しを受け、王殿に謁見することとなっていた。

 ウルクの朝は早い。というよりも、古代人の朝は早い。空が薄暗がりの今も、市民たちによる雑踏が奏でられている。

 だが、今朝の音色はいささか変わっていた。

 ウルクの正門。都市の流通を支える大動脈。Eチームの仮宿はいつでも追い出せるように、とギルガメッシュの計らいによって門のほど近くに割り当てられている。

 身なりを整えたEチーム一行が家から出ると、正門は人でごった返していた。

 その様はまさに渋滞。本来、円滑な交通を旨とするこの場所が栓をされていることは、完璧なウルクにおいては異様とさえ言えよう。

 ノアは不機嫌そうに目元を歪める。

 

「こんな朝っぱらから騒がしくしてんじゃねえ!! ケツからヤドリギ突っ込んで顔面の穴という穴から飛び出させてやろうか!? ああん!!?」

「いや、お前の方がうるせえ」

「それに表現がグリム童話くらい残酷ですわ」

「地獄では自殺者が樹木となってハーピーに啄まれてましたが……思い出して今朝のパンが逆流しそうです」

 

 うぷ、とダンテは胸元と口元に手を置いた。

 朝からアホどものやり取りを見せつけられたマシュとジャンヌ。もはや慣れに慣れすぎた光景。二人は感慨もなく人混みに目を向ける。

 ちなみに、低血圧の極み乙女と化した立香は目を半開きにした状態で立ち尽くしていた。〝泳ぎが速くて体も大きい上に食べても美味しいマグロって最強なのでは〟などと食い意地の張ったことを呟いている。

 マシュは眉を曇らせて背伸びした。

 

「何やらただごとではないようです。今日はネンバトの新弾発売日でもないはずですが」

「すぐ思考を商売に繋げるのやめてくれます? ここで野次馬しててもどうにもならないし、さっさと金ピカ王のとこ行くわよ」

 

 ジャンヌは気だるげにあくびをした。釈然としない疑問を抱えつつ、Eチームが踵を返そうとしたその時。

 

「ノア殿! ちょうど良いところに!」

 

 少女の快活な声。色々ときわどい格好をした平安武者娘が人混みを掻き分けてくる。

 彼女はひとりの女性を背負っていた。傷だらけながらも、どことなく人間離れした空気を感じさせる姿。エキゾチックな衣装を纏うその人は、若干名に見覚えがある者だった。

 眠たげな眼をしていたジャンヌは少し後退り、ぎょっと顔色を変える。

 

「ケツァル・コアトル!? なんてやつ連れてきてんのよアンタは!?」

 

 アステカ神話第二の太陽、ケツァル・コアトル。

 牛若丸の背で眠りこけているそれはまさしく、ウル市で怪獣大決戦を繰り広げた神霊である。そんなトンデモサーヴァントを連れてきた牛若丸はからりと笑った。

 

「いやあ、ギルガメッシュ王の指令でエリドゥの偵察をしていたら、クレーターの中心で倒れる彼女を発見しまして。首を落とそうとも思ったのですが、それよりは魔術契約で雁字搦めにした方が都合が良いと判断致しました!」

 

 可愛らしい顔で殺伐としたことを言う源氏武士。Eチーム一同は彼女の背後に平氏の怨霊たちを見た気がした。怨嗟の声を幻聴したノアは意地汚い笑みを浮かべる。

 

「良い判断だ牛若丸。そいつを改造してゴルゴーン撃滅の尖兵にするぞ」

「『うん、古の悪役ムーブやめよっかノアくん』」

「正義の名のもとには全てが許されんだよ。獅子王だってそうだっただろうが」

「正義は麻酔のようなものですからねえ。どんなに残虐な行為も無痛無感で成し遂げさせる魔力を秘めているのです」

「リーダーは誰がどう見ても邪悪ですけどね」

 

 マシュの辛辣な一言はノアに僅かな影響も与えなかった。どうして人の心を持たぬ者に人の言葉が通じるというのか。

 これまで後ろで控えていたリースはむむむと唸る。

 

「これは一大事ですわね。お姉様が来るそうなので、ケツァル・コアトルさんの治療にかかりましょう」

「……それは良いけど、なんでエレインが来るって分かるのよ」

「湖の乙女テレパシーですわ」

「湖の乙女って付けとけば全ての理屈を吹っ飛ばせるとでも思ってるんですかァ!?」

 

 湖の乙女姉妹は同一存在であるが故に思考や感覚、果ては経験をも共有できる。その機能を用いてエレインに連絡を行ったのだろう。それを言わないのがリースのリースたる所以ではあるが。

 一行はケツァル・コアトルを家の寝台に運び込むと、即座に治療に入った。執刀医はノア、助手兼ブレーキ役はロマンである。

 少しでもノアから目を離せば魔術で悪辣な縛りを掛けかねない状況。ロマンがキリキリと胃を痛ませる現場を、他の人間は眺めることしかできなかった。

 その間、立香はようやく意識を覚醒させきった。目の前で繰り広げられる医療現場。彼女は数学のテスト問題に直面した時のように目頭を寄せる。

 

「……なにこの状況?」

「お目覚めですか、先輩。いまはリーダーがケツァル・コアトルさんの治療をしています」

「それ大丈夫? 気付いたらサイボーグになってたりしない?」

「デウス・エクス・マキナというやつね。……かっこいいネーミングだわ」

 

 ふふふ、と中二心を滾らせるジャンヌ。機械仕掛けの神とはサイボーグを表す意味ではないのだが、ダンテは水を差すことはしなかった。彼は理解ある大人なのだ。

 なんやかんやでルチャ神霊の治療は無事に幕を閉じた。途中、ノアが心臓に鎖を仕込もうとしたり、内臓に刻印を刻もうとしたりなどの波乱はあったが事無きを得たのだった。

 布団に埋もれるケツァル・コアトル。ウル市で見せた快活さはどこへやら、太陽神は落陽を思わせる静けさで、寝息も立てずに眠っている。

 すると、ぱたぱたと足音を響かせながらエレインが駆けつけてくる。杖から伸びる氷のロープの先に、首を縛り付けられたマーリンが引きずられていた。

 

「処置が早くて助かるわ。ノアトゥールは本当に魔術の腕だけはあるのね」

「『あの、エレインさんの下に急患がいるんですが。白目剥いて肌が土気色になってるんですが。急患っていうか遅患なんですが』」

「こいつに必要なのは治療じゃなくて葬式だな。エレシュキガルのところに送ってやれ」

「か……勝手に殺さないでくれ……」

 

 マーリンは息も絶え絶えに言い返した。そも、エレシュキガルもさすがにマーリンは断るだろう。冥界はゴミ箱ではないのだ。

 エレインは牛若丸に向き直る。

 

「それで、エリドゥで彼女を見つけたという話だったけれど」

「はい! 私が着いた頃には既に都市も崩壊していました。行き場を失くしたエリドゥの住民も連れて参りましたが、ウル市民同様我々の力になってもらおうと!」

「……ケツァル・コアトルが負けた、ということかしら。三女神同盟が潰しあったとは考えられないし────」

「犯人はサクラですよ! 間違いないです!!」

 

 立香はずばりと言い切った。

 彼女にしては妥当な推理。ゴルゴーンは神殿に、エレシュキガルは冥界に鎮座する引きこもりである。イシュタルもわざわざ仕留めた獲物を見逃す甘さは持ち合わせていないだろう。

 となれば、余計なことしかしない性格で名を馳せるあの悪魔しかいない訳で。高笑いするサクラを思い浮かべ、一同はしみじみと同意した。

 ノアは立香の頭にぷらぷらと踊るアホ毛を鷲掴みにする。

 

「おい、どうなってんだこの特異点は。ろくな女がいねえぞ」

「リーダー、その手はもしかして私もですか。私もろくでもない女判定ですか」

「画面タップするだけで男になるやつに性別の意識なんてあったのか?」

「どこの世界線の話ですかそれ!? 意味が分からないんですけど!!」

 

 マシュはそれを無表情で眺め、ジャンヌの頭頂に揺れる髪の房を握り込んだ。

 

「……丸焼きにしてほしいの? アホなすび」

「いえ。ただ、わたしにもあんな未来があったかもしれないと思うと。ジャンヌさんこそ恥ずかしがらなくとも良いのですよ?」

「ジャンヌは照れてるのかしら」

「都合の良い女の性ですわ」

「マジでろくな女がいないんですがァ!! この特異点!!」

 

 ジャンヌの全身から炎が生じる。マシュの手に火が燃え移り、彼女はそばの水壺に秒でダイブした。

 辺りに水滴が飛び散る。ペレアスはそれを華麗に躱しつつ、

 

「つうか、エリドゥってオレたちが次行く場所だったよな。サクラはそこまで先読みしてたのか?」

「あの少女のことですし、ケツァル・コアトルさんに報復をしたのでは?」

 

 ただし、とダンテは切り替える。

 

「そう悪いことばかりではないでしょう。彼女もエリドゥ市民も無事で、私たちはマルドゥークの手斧を取りに行くだけなのですから。久々に血を見なくて済むので私としては助かりますねえ」

「ありませんでしたよ、マルドゥークの手斧」

「はい?」

 

 牛若丸のインターセプト。困惑するダンテに彼女は続けて言う。

 

「エリドゥの民にも訊いたのですが、その手斧とやらは忽然と姿を消したみたいで。どこに行っちゃったんでしょうかね?」

 

 手斧の捜索も任務の内だったのに、と牛若丸は肩を落とした。

 マルドゥークの手斧。神殿がある限り不死を誇るゴルゴーンを倒すため、ギルガメッシュが必要としていたモノ。次なる目的でもあるはずのそれが無いとなると、計画の変更は避けられない。

 ダンテは頭を抱えてうずくまる。

 

「おのれサクラ……!! 前言撤回です、アレは私たちにとって不利益しかもたらさない邪悪の化身じゃないですか!!」

「最初からそうだったけどな。ノアとサクラで邪悪vs邪悪の頂上決戦でもやらせるか?」

「寝惚けたこと言ってんじゃねえ、ペレアス。それを言うなら光と闇、正義と悪だろ。もちろんどっちが俺かは決まりきってるがな。言ってみろ下僕(サーヴァント)ども」

「闇だろ」

「悪ですねえ」

 

 生憎とサーヴァント二体の忠誠心はストップ安だった。二元論とは受け取る者によって容易に答えを変える。かくも曖昧な概念なのだ。

 令呪で自害を命じようとするノアとペレアス、ダンテの戦いが勃発する裏で、立香はキツツキ大の脳みそを回転させて喉を唸らせる。

 

「……で、ゴルゴーンはどうやって倒すんですか?」

 

 そんな疑問を漏らした直後。

 彼らの直上より轟音が鳴り響き、宿の二階ごと天井が崩壊する。

 

「それを今から話し合おうというのだ、雑種め!!」

 

 若干の苛立ちを含んだ傲慢な声。

 風通しの良くなった天井から舞い降りたのは案の定ギルガメッシュだった。見るも輝かしき黄金とエメラルドの船の玉座に腰を落ち着けている。その後ろにはいたたまれない面持ちのシドゥリが佇んでいた。

 相変わらず上から目線のギルガメッシュ。血を結晶化したような赤い瞳がじろりとマーリンを睨みつける。

 

「此度の事態、我は全て把握している。サクラとやらの血統書付き雑種がマルドゥークの手斧を消し去ったこともな」

「王よ、雑種に血統書は無いことも無いですが稀です」

「出しゃばるなシドゥリ。───して、マーリンよ。貴様には視えていたはずであろう。なぜ黙っていた」

 

 事と次第によっては処刑すると言わんばかりの眼力。それはこの場の大多数の人間には及びのつかない話題だった。

 頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れになったマシュはタオルでわしゃわしゃと髪を掻きながら問う。

 

「視えていた、とは思わせぶりな言い様ですね。マーリンさんはこの未来が見えていたくせに報告しなかったと?」

 

 それに答えたのはエレインだった。

 

「マーリンの未来視は厳密には未来測定の類よ。現在のあらゆる要素を観測することで未来に起こる事象を予測する……千里眼のひとつの到達点と言えるわ」

「だったら姉さんに封印される時もそれ使えばよかったんじゃないか? ベイリンもあんなことにならなかっただろ」

「ペレアス。マーリンの眼はあくまで未来測定よ。未来そのものを視る力ではないの。たとえ現在の全てを観測したとしても、完璧な予測なんてできない」

 

 リースはこくこくと同意する。

 

「要はラプラスの悪魔ですわ。量子力学にも問題はありますが、完全な未来予測は現代では否定されていますから」

「『おお……リースさんの頭が良さそうに見える……』」

フォウフォフォウ(実際はドアホなのに)……」

 

 説明が進む度にマーリンの冷や汗の量が増していく。

 千里眼とはその名の通り、遠くを見る力だ。これが極まると遠方のみならず未来や過去にまで力が及ぶ。マーリンほどの千里眼となれば、その時々の現在を遺漏無く把握できるだろう。

 現在が分かるなら、高精度で未来を測ることもできる。世界中の投資家が欲して止まないだろう能力だ。花の魔術師の眼にはエリドゥで起きた事象が映っていたはずだ。

 

「そ、それは言ってもどうにもならなかったというか。干渉できないなら何をしても未来は同じだろう? 時には諦めも重要だよね!!」

 

 瞬間、ギルガメッシュの側方より三条の鎖が放たれる。マーリンが逃れる間もなく首と両腕が縛られ、宗教的に意味深すぎる格好で宙吊りになった。

 

「ヒィーッ!! マーリンさんが磔刑に処されました!!」

「本物と違って何も得る感情がないわ」

フォウフォウ(これは不敬罪)

「このまま火刑コースでファイナルアンサーね」

 

 などと辛辣な言葉が投げかけられる。見るからに危うい構図から目を逸らしつつ、シドゥリはギルガメッシュに進言する。

 

「……そろそろ本題に入るべきと愚考いたしますが」

「うむ。サクラには必ず地獄を見せるとして───意見を出せ、貴様ら。天より見下ろす我が慧眼よりも、地を這う貴様らの私見が今は役に立つであろう」

 

 一同は目を合わせる。遠回りな言葉だが、要は手を貸してほしいということである。下々の考えを取り入れてこその賢王なのだ。

 マルドゥークの武器が失われた以上、どうやってゴルゴーンを倒すか。意外にも最初に口を開いたのはジャンヌだった。

 

「ダンテの宝具は? 魂を別次元に飛ばせば神殿から復活なんてできないでしょ」

「それはキツいかと。ヘラクレスさんはしっかり再生しましたから。虹蛇(にじへび)の例もあります」

「へ、蛇……なんでダンテさんの宝具は効かなかったんでしたっけ」

「救いを拒む精神が極度に強すぎると私の宝具は破られるようです。ゴルゴーンからは強い憎悪を感じました。異教の神ということもありますし、そもそも無駄に終わる可能性が高いですねえ」

「アヴェンジャーが天敵ってことですか。ジャンヌに勝てない理由がよく分かりました」

フォウフォウフォフォウ(誰にも勝てないだろコイツ)

 

 神による救済をカタチとした宝具はあらゆる存在に絶大な力を持つ。救いを求める精神は普遍のものだが、ただ復讐にのみ全存在を懸けるアヴェンジャーは数少ない天敵だ。

 人類廃滅を望むゴルゴーンが人の手による救いを許容するとは思えない。限られた切り札を虹蛇の二の舞に費やすことはできない。

 虹蛇を思い出して青褪める立香。その横で、タオルを被ったマシュが手を挙げる。

 

「それでは、エレインさんのれいとうビームで神殿を壊すのはどうでしょう。その後にヤドリギなり何なりで本体を仕留める作戦です」

「最大出力なら可能性はあるけれど……北壁で迎え撃つとなると射程の方が問題よ。攻撃が届くのは異界の端までだから、何とかして神殿を収められる距離に接近しないと」

「そこはお任せを。カルデア最強シールダーことマシュ・キリエライトがお守りします!」

 

 と、マシュは意気込んだ。そのやる気を打ち払うように、ノアは鼻を鳴らす。

 

「現実的じゃねえな。神殿ってのも一種の異界だ。それなりの防御機能は備えてあんだろ。ゴルゴーンとエレインで馬力の出し合いになったら負けるのは決まりきってる」

「『神霊と英霊じゃあ出力差が大きいからね。両者の攻防での勝利に期待するのは難しいだろう』」

「……そうね。ゴルゴーン本体と神殿が無防備にならないと勝てないわ」

 

 行き止まりの気配が近づく。一同が頭を悩ませる中、ノアはダンテに咎めるような視線を送る。

 

「ダンテ、おまえの宝具の地獄バージョンで瞬間冷凍して機能停止させろ」

「あ、無理です。今回書いた詩は神への賛美歌なので天国しか喚び出せません。地獄の方は陰鬱な題材を取り扱わないといけないので、筆が乗らないんですよねえ」

「はあ? 何だその新設定。おまえの書いた詩なんてただのコストだろ。根性で地獄再現しろ。それか新しく書け」

「嫌です! 宝具を使うたびに苦労して書いた作品が塵になっていく私の悲しみも考えてください!! 諸行無常かつ色即是空ですから!!」

「それは仏教徒なんじゃ……?」

 

 牛若丸は訝しんだ。

 毎回、一度の特異点に一作品を用意しているダンテだが、ノアたちのあずかり知らない場所で創作に苦しんでいた。宝具を発動するためとはいえ、詩が無に帰す事実は彼の心に重くのしかかっていたらしい。

 なお、これは本人すらも知らない話だが。ダンテはジャック・ザ・リッパーの呪いで地獄を展開する宝具を得たが、どちらを使うかは実のところ気分の問題である。

 そんなこんなで議論はとうとう行き詰まる。立香は思考回路をぷすぷすとショートさせながら、ぼんやりと呟いた。

 

「そういえば、リーダーの昔話で言ってましたよね」

 

 ノアの碧色の瞳が立香に向く。それは判然としない疑問の意を宿している。

 

「ヤドリギは幼いから契約を逃れた。それならまだ成長の余地がある……そう、育ったヤドリギならゴルゴーンも倒せそうじゃないですか!?」

「『立香ちゃんらしいユニークな考えだね。どうかな、ノアくん』」

「さあな、子どもの思いつきだろ。興味はあるがそれに賭けるほどの価値はない」

 

 立香の提案は一刀で斬り伏せられた。

 唯一、バルドルへの弑逆を果たしたヤドリギ。幼いが故に世界との契約から外れたというのなら、その若枝にはまだ育つ余地がある───それは妥当な判断かもしれない。

 ただ、ヤドリギを成長させる方法と育ち切った後の姿は、現状最後の継承者であるノアにすら分からない。曖昧なものを計算に入れた作戦など愚の骨頂だ。

 しかし。

 ギルガメッシュは紅き瞳を仄かに拡げ。

 しんとした部屋の中に大笑を響かせた。

 王の異様な振る舞いに、ノアたちは言葉を失う。

 それに如何な意味があるのか、知る者はただひとりだった。けれど、その者は語る口を持たず。王は声をくぐもらせながら、口角を上げる。

 

「ク───稚児の発想とは時に賢者をも驚かせるものよな。面白い。我が蔵にも無き神殺しのヤドリギ……その真なる形に興味が湧いた」

「ハッ、国のトップがガキに踊らされてどうする。人類最古のエナドリキメすぎて思考回路ぶっ飛んでんのか?」

「む? できぬのか? あれほど天才と宣った男は口先だけだったと? ああよい、逃げるならそれでも構わぬ。道化ならば道化らしく嗤われた挙句に逃げ帰るのが仕事であろうからな。天才(笑)」

「オイオイオイ、誰ができねえなんて言った!? おまえは精々ふんぞり返ってろ、俺の才能を見せてやる!!」

 

 そう啖呵を切ると、ノアはギルガメッシュの王殿の方向へ走り去っていく。どうやら王のお膝元にある研究室を使うらしい。

 その背中を見送ると、立香は言いづらそうに切り出した。

 

「……あ、あともう一個案があったんですけど」

「発言を許す。申してみよ」

 

 ギルガメッシュに促され、腰のポーチから大粒の宝石を取り出す。

 深い青を秘めた瑠璃。それはイシュタルから貰い受けたラピスラズリだった。立香は手のひらの上の石を見つめながら、

 

「これに念じれば、一回だけイシュタルさんが助けてくれるって言ってました。あの金星パワーならゴルゴーンの神殿だって、きっとイチコロ───」

 

 そこでギルガメッシュに視線を移したと同時、立香は後悔する。

 黄金の船でふんぞり返るギルガメッシュ。その表情が見たことのないモノに変わっていた。

 喩えるなら、この世の苦味という苦味を味わったかのような破滅的な相貌。顔面の各所に彫り込まれたシワが王の美貌を数十年は老けさせている。

 数秒を経て、ギルガメッシュはぷいと顔を背ける。その様子はまるで拗ねた子どものようだった。

 

「……………………我は知らぬ」

「え?」

「我は知らぬと言ったのだ。貴様がイシュタルに頼る分には見逃そう。貴様が! イシュタルに! 頼る分にはな!! つまりそれは我の預かり知らぬ処で起きたことに過ぎぬ!!」

 

 意味不明なうわ言を繰り返すギルガメッシュ。生温かい目がそこかしこから向けられる中、王宮のギルガメッシュ係であるシドゥリが翻訳を行う。

 

「王はこう仰られています。イシュタルの力を借りるのは腸が煮えくり返るほど気に入らないが、やるなら自分の見てないところで勝手にしろ……と」

 

 どうやらかなり捻くれたことを言っていた。

 ゴルゴーン討伐にイシュタルの助力を乞う。ギルガメッシュの王たるプライドがジェンガの如く大崩壊する事件に他ならない。

 しかし、立香たちが勝手に加勢を取り付けたとなれば、それはギルガメッシュの手から離れたこと。頼ったのはあくまで立香たちである。

 つまりは、王にあるまじき責任の押し付けであった。

 立香は半笑いで提案する。

 

「え、えーと。じゃあ、ウルクの外でイシュタルさんを呼んでみますね」

「おおっと、急に耳が遠くなった。寄る年波は高く冷たいな。何を言っているか分からぬが、我は寛大である。そうしたいなら止めはせぬ。何をするつもりかは知らぬがな」

「シドゥリさん! 翻訳お願いします!」

「さっさと行け、だと思われます」

 

 ちらり、と王に視界を戻す。鋭く切り開かれた眼光が、立香に向かって退去の命令を下していた。しかも老人が少女に対して。目は口ほどに物を言うとは言うが、もはやテレパシーの域に達する念の強さだ。

 立香はいつの間にか室内に現れる黒いアレのように、カサカサと後ろ歩きで宿から出ていく。背を見せることを恐れた生物的な本能である。

 睨みで幻の地震を引き起こす眼力。恐れをなしたマシュたちも立香に続いて退出していく。

 残されたのは天に召されたマーリンと無表情のエレインのみ。しかし昇天を果たしていなかったマーリンは、枯れた声で王へ問うた。

 

「……ご、ゴルゴーンはいつ再侵攻するのかな?」

「七日後だ。貴様には視えなかったのか? 脳みそ花びら半淫魔」

「え? なに? 前回から私の蔑称増やそうとしてないかい? 世界の意思か、これは!!?」

「御託はよい。───なぜ予測がつかなかった。答えよ、マーリン」

 

 花の魔術師はかすかに眦を上げる。

 

「三日前からゴルゴーン周辺の現在が視えなくなった。視線避けの魔術で未来視を防がれている。相手は相当の魔術師だね」

「解呪はできないのですか? エレイン様の魔術の師匠と聞きましたが」

「魔術は魔術でも、教わったのは幻術だけよ。噛み噛みの詠唱なんて参考にもならなかったわ」

「滑舌ばっかりはどうにもね。ところで、王よ。私からもひとつ訊かせていただきたい」

 

 ギルガメッシュは眉をひそめる。マーリンはそれを許可の合図と受け取り、王を質す。

 

「───先程視られた未来は、どのような光景だったのです?」

 

 王は僅かに唇の端を吊り上げ、

 

「……女神との戦いの、終着だ」

 

 確信めいた声音で、言い切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウルク市の外に広がる平原。

 空は雲ひとつない快晴で、風も優しい。三女神同盟との戦争中でなければ、絶好のピクニック日和である。

 が、平原の中心に集いし五人の少女たちはそんな気楽な考えを持ち合わせてはいなかった。

 その錚々たるメンバーは人類史有数。Eチーム三人娘と、道端にいたところを強制連行された謎の少女アナ、なんか面白そうだから着いてきた牛若丸。以上がイシュタルに相対する勇士だ。

 かの金星の女神によると、ラピスラズリに念じれば飛んでくるとのことだったのだが。

 

「…………来ないわね」

 

 ジャンヌはうんざりと肩を竦める。

 彼女たちが待つこと二十分、イシュタルは未だに現れなかった。アナは死んだ魚めいた目でため息をつき、くるりと踵を返す。

 

「帰ります」

「おっと、そうはさせませんよアナさん。もし帰るなら、『絶海のアルゴノーツ 〜ギリシャのイカれたメンバーを紹介するぜ〜』パックの発売を前倒しすることになりますが……?」

「くっ……!! はっきり言ってクソみたいなネーミングなのに、本当にイカれたメンバー揃いだから否定できない……!!」

「発売前倒しよりそっちの方が気になるんですか!?」

 

 立香は思わずツッコんだ。

 ギリシャ神話界のアベンジャーズことアルゴー船の面子だが、ひとりひとりが主人公になれる器を持っているため、当然船員たちは個性の極みが揃い踏む。

 既にウルク市民に告知された新弾は〝ヘラクレスのバージョン違い多すぎだろ〟、〝イアソンって誰?〟、〝ポルクスちゃんかわいい〟などという意見が見受けられるようになっていた。

 そんなネンバト事情はさて置いて。

 ここに集いし五人の少女たちはみな、程度の差こそあれど我慢強い性格ではなかった。牛若丸は戦となれば風雨の中で何時間でも待ち続けられるだろうが。

 兄上を盲信する源氏少女は腕を組んで首を傾ける。

 

「ここまで遅いとなると、呼び方が間違っているかもしれませんね」

「確かに。かくなる上はみんなで輪になって名前を呼んでみるしか……」

「先輩、それはUFO召喚の儀式です。真夏のオカルト特番です」

「なんだかんだで見ちゃうよね、アレ」

「話が逸れまくってるのですが?」

 

 言いながら、アナは鎌の柄を使って地面に落書きをしていた。このまま放置すれば平原一面に巨大アートが刻まれてしまうだろう。

 牛若丸はどこからともなく極彩色の鞠を取り出した。サッカー選手顔負けのリフティングを披露すると、ふわりとした軌道のパスを立香に与える。

 

「わっ!?」

 

 咄嗟に足を伸ばして鞠を受け止める。

 

「やりますね、立香殿! 未来の日の本でも蹴鞠は廃れていないと見ました!」

「あ、あはは……」

 

 微妙に答えづらい言葉だった。現代で球を蹴るスポーツといえばサッカーである。絶滅危惧種レベルにまで下がった蹴鞠の現状を伝えるのは気が引けた。

 足の甲で揺れるボールをキープする。ふと面を上げると、まるで仁王像の如き出で立ちで佇むマシュが視界に飛び込んでくる。

 

「こちらです、先輩。気合の入った熱いサーブをわたしにください。さあ!」

「私のポジションはセッターだったんで……」

「それではわたしが打ちます。ジャンヌさんに」

「おい」

 

 こつん、と旗の穂先がマシュの頭をつつく。しかしそこはシールダー。その頑丈さを活かしたガッツで耐え切り、牛若丸と立香の蹴鞠に飛び込んだ。

 ジャンヌは日に日に増していくマシュの図太さに内心冷え冷えとしながら、アナの隣にしゃがみこむ。

 とりとめなく走る線。アナという少女の迷いをそのまま出力したかのような紋様。ジャンヌは旗の先を用いて、その横に思い思いの綾を重ねていく。

 言葉もなく、線を刻むだけのやり取り。

 ジャンヌは地面だけを見つめ、呟くように言う。

 

「アンタ。朝どこ行ってたわけ?」

 

 アナはがりがりと柄を走らせながら、

 

「普通に寝てました」

「……ああそう。羨ましいご身分ね」

「そう褒められると困ります。それで、いきなり何ですか。私の体が目当てですか。ケダモノですか」

「焼くぞ。───アンタの真名、知ってるって言ったら驚く?」

 

 がっ、と土を削っていた柄が止まる。

 二人の間に沈黙が流れる。蹴鞠に興じる立香たちの声がどこか遠く聞こえた。

 アナはジャンヌの何食わぬ横顔を凝視する。

 

「…………そ、そそそんそそそんそそそそそそそん」

「何で三三七拍子!!?」

 

 顔面を変な汗まみれにするアナ。がくがくと全身を振動させつつ、半ば独り言のように訊く。

 

「い、いつですか。一体いつバレ……」

「いや、ウルで戦った時に宝具使ってたし。なんちゃらメドゥーサとかいう」

「聞こえてたんですか!?」

「そりゃあそうでしょ。サクラの羽根斬った時は近くにいたんだから」

 

 まあ、とジャンヌは翻す。

 

「私はアホ白髪とかなすびとは違って言い降らしたりしないわ。ゴルゴーンと因縁があるんでしょう」

「……ありがとうございます」

「まあね。これは貸しよ。今までのナメた態度も改めなさい」

「努力はします。いちおう。……それにしても」

 

 すると、アナは鎌を放り捨てて頭を抱えた。

 

「ぐ、ぐぎぎ…っ! そんな雑な真名バレがあるなんて……!! 小説とはあくまで書いてあることが全てで、描写していない出来事を根拠にしてはいけな────」

「やめなさい!! この世界の根幹に触れすぎてるわ!!!」

 

 ジャンヌはこの世界の真理が漏洩することを止めるため、アナの首に腕を回して絞め落とした。一瞬で意識だけを奪う華麗な荒業である。

 その間にも蹴鞠は白熱しており。

 時に、蹴鞠には色々と複雑なルールが存在する。貴族のスポーツ故に作法にも厳しい。右足のみで蹴ることから始まり、膝を曲げてはいけない、上半身は動かさない、果ては難しいボールが来ても顔に出してはいけない等々、貴族たちはややこしいルールに縛られていたのだ。

 鞠を蹴る高さにも制限があり、目印となる木よりも上に蹴らなければならない。マシュは地面に盾を突き立てて、代わりの目安としていた。

 

「おらぁーっ!!」

 

 人型なすびによる渾身の一撃が鞠に突き刺さる。

 それは目にも留まらぬ速さでぐんぐんと高度を上げていった。さながら宇宙へと打ち上がるロケットだ。立香はそれを目で追おうと首をそらす。

 すると、

 

「ンギャーッ!!」

 

 上空で汚らしい叫び声があがった。

 どさりと墜落する人影。それは今までに二度遭遇した金星の女神だった。彼女の顔面の中心にはちょうど赤い円形の跡が浮かんでいる。

 立香は目を丸くして、

 

「イシュタルさん! やっと来てくれたんですね!」

「その前に言うことがあるでしょうが!!」

 

 涙目で鼻頭を押さえながら、イシュタルは叫ぶ。マシュはそそくさと頭を下げた。

 

「す、すみません! まさか上空にイシュタルさんがいるとは思わず……」

「まったくだわ! 私を呼んだのだから、それなりの供物と劇団を用意して待つってものでしょうが!! なに呑気に鞠蹴ってるのよ!?」

「いやあ、遅いのでつい。まさか空の上で見てたのですか?」

 

 牛若丸が何気なく訊くと、イシュタルは即座に面を伏せる。

 

「た……楽しんでるとこに入るのは気が引けたのよ……!!」

 

 かあっと顔を赤くするイシュタル。傲慢なこの女神にそんな感情があったとは驚きだった。

 その意外な姿に立香は背筋が粟立つ気分になる。

 

「……マシュ。リーダーのドS趣味がちょっと理解できたかもしれない」

「ふふふ、わたしは既に到達していましたよ。ジャンヌさんと同じ感じです」

「おお、倒錯した趣味ですね。源氏にも平氏にもたくさんいましたよ」

「倒錯具合で言ったら牛若丸さんも大概な気が……」

「いえ、私は至ってノーマルです。立香殿。兄上のためなら自分で自分の心臓を食べる芸くらいしかできないので」

「素晴らしいですね。わたしも先輩のためにその境地に達したいです」

「絶対にやめて!!?」

 

 イシュタルはこの間に平常心を取り戻す。

 この人間たちとまともに話していたら、自分の方が持っていかれる。排水口に指を突っ込むようなものだ。

 気を取り直して、肩に掛かった髪の毛を手で払う。

 

「それで、呼び出したってことは私の力が必要なんでしょう? 大体、見当はつくけれど」

 

 立香は強く頷く。

 

「イシュタルさんの力で、ゴルゴーンの神殿を爆破してもらおうかなって。あの宝具なら一撃ですよね!」

「うん。それ、やめておいた方がいいかも」

「どうしてですか?」

「その説明をする前に今の私の状況を理解する必要があるのだわ。少し長くなるわよ」

「できるだけ手短にお願いします!」

 

 イシュタルは苦い顔で語り出す。

 サクラのE=mc²ビームで神殿から焼き出されたイシュタルはウル市での一戦の後、各地を転々とする放浪生活を送っていた。

 その時点でサクラを殺すことは決定しているようなものだが、あろうことかあの偽神はイシュタルが行く先々に現れたのである。

 

〝あら、奇遇ですね。こんなところで寝てたら風邪ひいちゃいますよ?〟

〝今日の夕飯は……うわっ。ひもじいですねぇ……こっちの駄猫の方が良いもの食べてるとか、割と引きます〟

〝んん〜、いい音、いい匂い♡……は? なに見てきてるんですか。このお肉は私のものです。土下座したら骨くらいは分けてもいいですけど〟

 

 などと、マウントを取り煽り散らかすついでに命を狙いに来ていたのだった。

 サクラにはどれほど攻撃しても意味がない。黒白の少女は弱りきった獲物を弄ぶ猫のように、イシュタルを追いかけ回している。

 今日、ここに来るのが遅れたことも、朝食のマウント合戦から逃げるのに戸惑ったからとのこと。イシュタルは血涙を流す勢いで、ぎぎぎと歯を食いしばった。

 

「昨夜なんて、私の目の前で焼肉始めて香りのついた煙を煽ってきたのよ!? あの調子乗ったツラを原形がなくなるまでへこませてやりたいわ……!!!」

 

 握り締めた拳はわなわなと震えている。

 思ったよりも深刻な事情。立香たちはイシュタルにかけるべき言葉が見つからなかった。

 立香はいつの間にか気絶していたアナを除いた三人に呼びかける。

 

「とりあえずみんな、隠し持ってるお菓子をイシュタルさんに恵んであげて」

「私は酢昆布しか……」

「のど飴しかないわ」

「わたしは…………盾の中を見てみても何もないですね。くっ、後輩としたことが不甲斐ないです」

「その間は隠した間だよね。わざとらしすぎるよね。卑しさが溢れ出してるよね」

 

 立香は盾の中をまさぐるマシュをじとりと見つめる。自分の卑しさを棚上げした発言だった。

 イシュタルは酢昆布とのど飴、立香がポケットに忍ばせていたチョコレートを供物として受け取る。

 ころころと飴を口の中で転がしながら、

 

「そういう訳だから、私が行ったらサクラも呼ぶことになるわ。本当は今こうしてるのも危ないんだから」

「結局、無駄足だったってこと。また考え直しじゃない」

「そう急がない。要は、ゴルゴーンの神殿をぶっ壊したいんでしょう。これあげるから頑張りなさい」

 

 と言って、イシュタルは右手を後ろに回す。引き抜くように手を前に出すと、その五指は鈍く輝く鉄の剣を握っていた。

 立香たちは息を呑む。

 そこに在る。ただそれだけで空間を割く、鋭き神気。一個の鉄塊を削り、剣の形に成型したかのような無骨な一振り。反面、溢れる魔力は山林の清流の如くに澄んでいる。

 この剣を知っている。

 星の怒りたる八つ首の竜が宿せし神剣。

 その真名は──────

 

「───天叢雲剣!? どうしてこんなものが!!?」

 

 その言葉を発したのは牛若丸だった。

 イシュタルはさらりと述べる。

 

「ああ、なんかサクラの脇腹に刺さってたから引っこ抜いたわ」

「普通気付きません!?」

「普通じゃないのよ、アレは。こんなのが刺さってても生きていられるどころか、剣が刺さってる事実すら忘れるんだから」

「ただ単にアホという可能性もありますね」

 

 マシュは辛辣に言った。たとえ死なず、痛みがないとしても異物感くらいはあったはず。サクラはそんなものを得る感覚さえも切り捨てているのだろう。

 つるりとした鉄の刃。牛若丸はケースに展示された宝石を眺める子どものように、瞳を輝かせてその剣に視界を食い入らせていた。

 ジャンヌは牛若丸に生温かい視線を注ぐ。

 

「……その剣の名前、知ってたの。見たことでもあるのかしら」

「はい、壇ノ浦で一瞬だけ! まああれは形代だったので、これほど強い魔力も気配も感じませんでした」

「形代?」

「神霊の力が依り憑いたモノ───つまりは依り代です。この剣の場合は、本物の力を依り代に転写した模造品ということになります」

 

 なるほど、とジャンヌは頷いた。

 壇ノ浦の戦いで沈んだ三種の神器。勾玉と鏡は牛若丸───源義経の軍と協力者たちによる必死の捜索で回収されたが、宝剣だけは発見されることはなかった。

 だが、それは真の宝剣ではなく、そのコピーである形代だったのだ。ちなみに、現代では熱田神宮に本体が安置されている。信長が桶狭間出陣の際に祈願をしたことでも知られた場所でもある。

 牛若丸とは対称的にイシュタルは興味のない風を装っていた。

 

「ふうん。確かにとんでもない神力が篭ってるわ。それならゴルゴーンの神殿もぶった斬れるんじゃない?」

 

 立香たちは首肯する。イシュタルは続けて、

 

「問題は誰が振るうかだけど……ま、貴女で良いでしょ」

 

 剣を軽く投げ渡す。それを掬ったのは牛若丸だった。彼女は笑っているような泣いているような顔で、Eチーム三人娘に振り向いた。

 

「私でよろしいのでしょうか!? 壇ノ浦で沈めた時は兄上に熱烈な説教をくらったのですが!!」

「本物が無事なら大丈夫だと思います! それとも他に何か気になることでも?」

「ええ、三種の神器を見た人間は祟りに触れて死んでしまうとか……」

「…………私たちは死んでないのでセーフです! ほら、水を飲んだ人は絶対に死ぬとかそういう屁理屈ですよきっと!!」

 

 その時、彼女たちは聞いた。

 

 

 

〝───別にいんじゃね? 儂の若い頃のやらかしに比べたらかわいいもんじゃろ〟

〝ああ、彼女ほどの武士なら扱うには十分だろう。君と比べること自体彼女に失礼だと思うが。高天原でやった『馬生皮剥ぎうんこぶちまけ事件』は伝説だからな〟

〝え、なにその名前!? 初耳なんじゃが! 人の黒歴史に名前つけて何千年も語るとか酷くね!!?〟

〝柄をしっかりと握って真名を唱えれば神剣を使える。草薙剣でも天叢雲剣でも構わないぞ〟

〝無視? 無視とかやめてくんない?〟

 

 

 

 …………余りにも覚えがありすぎる、神々の戯言を。

 場が静まり返る。神託というには低俗な、うんざりするような言葉の羅列。それで、彼らを知るEチーム三人娘は確信した。

 ───間違いなく本人だ。

 フレーメン反応を起こした猫みたいな表情をする牛若丸とイシュタル。金星の女神は口角をひくつかせて一言。

 

「貴女の国の神って、大分アレなのね」

 

 立香は後頭部を手で掻きながら、あのアホ神たちに代わって答える。

 

「お恥ずかしい限りで……」

 

 なぜあんなのの代わりに謝らなくてはいけないのか。

 ゴルゴーン討伐の希望と引き換えに、彼女の胸中は釈然としない気持ちに包まれていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな訳で。

 人間には必ず気分の浮き沈みというものがある。

 そういった時には憂さ晴らしが必要だ。沈んだままの心はいつか溺れるのだから。理想に溺れずとも人は誰でも溺死するのだ。

 憂さ晴らしの方法は人それぞれだ。ガチャでお金を溶かすことだったり、人目を憚らぬ暴飲暴食に励むことだったりと千差万別十人十色である。

 では、藤丸立香の場合はと言うと。

 ───人類最後のマスターはギルガメッシュの王殿を忍び足で歩いていた。

 イシュタルに天叢雲剣を賜り、牛若丸が振るうこととなった。その報告をしたついでに───というよりはこちらが本命───研究に勤しむノアにちょっかいを出してやろうと考えたのだ。

 そう、これはいつもの悪行への仕返しであって、別に乙女心が先走った結果とかアンダーハートに突き動かされた訳でもない。

 何かと念話で身にならないアドバイスをしてくるドスケベ精霊リースも、フォウくんに見張らせることで封殺する完璧な計画。立香に隙という隙は断じて存在しなかった。

 王宮の敷地内に設けられた学術研究所。そこは詩文から天文までありとあらゆる学問を取り扱う、ウルクの全知が集合する場所だ。

 その分だけあって広大な施設だが、そこは人の心にも敏感な古代のキャリアウーマン・シドゥリの口添えによって、ノアの場所は知らされていた。

 これはサプライズ。襲来を知られては効果はいまいち。決して気取られぬように、立香はノアに与えられた研究室ににじり寄る。

 次第に部屋の音が廊下に漏れ聞こえる。ノアとロマンが何か話しているようだ。

 そろりそろりと抜き足差し足で近づく。不明瞭だった声が鮮明になり、立香の耳は音を捉えた。

 

「『それじゃあ……ノアくん、脱いでくれ』」

「───は?」

 

 少女の瞳孔が拡大する。

 そして、思考は宇宙へ翔んだ。

 

「『いつも見てるけど、良い体してるよね』」

(いつも見てる……!?)

「まあな。ヒョロガリの魔術師なんて時代遅れだろ。俺の肉体美に酔い痴れろ」

(それは興味がな……くはない!!)

 

 鼻の奥からどろりとしたものが流れる感覚。

 音を聞くことに先鋭化した立香はそれにさえ気付いていなかった。

 ノアはからかうような口調で告げる。

 

「じゃあ、下も脱」

「それ以上はいけない───!!!」

 

 藤丸立香決死の阻止。ビーチフラッグを思わせるダイビングで研究室に滑り込む。

 視界を埋め尽くす肉体。柔らかな新雪の肌。それを下から盛り上げる筋肉は豊かながらも、しっかりと引き締まり凝縮されている。さらに、これら全ての土台となる骨格の強靭さをも感じさせた。

 それを見たのは初めてではない。蘆屋道満のなんちゃって聖杯くん事件の際に水着姿を目撃している。

 だが、シチュエーションは月とスッポンほど差があって。

 

「おわァァーーッ!!」

 

 宇宙へと翔んだ脳みそが地球に帰還し、立香は絶叫したのだった。

 数分後。上着を纏ったノアと鼻にちり紙を詰めた立香は、椅子に腰を落ち着けて向かい合っていた。

 ノアの背後は段差で部屋が区切られており、天井を抜いて大木が伸びている。

 ノアは禍々しさすら感じさせる威圧感を醸し出す。

 

「で、何しに来た」

「リーダーにちょっかい出しに来ました」

「なるほど。ところで、最近開発した『五感で得た情報を全部苦痛に入れ換える薬』があるんだが」

「生き地獄───!!」

 

 拷問以外に使いようのない薬だった。物を見て、音を聴くだけで激痛に苛まれるなど冗談ではない。

 

「それより!! いつも見てるってどういうことですか!!?」

「『ほら、マスターは健診の義務があるじゃないか。ノアくんは男性だからボクが担当だろう?』」

「逆に何だと思ってたんだおまえは」

「───さ、さあ。それは私のみぞ知る話です……!!」

 

 まあいい、とノアは呟く。

 

「今は実験の経過観察中だ。時間はある。俺の考えをまとめるために話に付き合え」

「それじゃあ訊きますけど、なんでさっき脱いでたんですか。事と次第によってはカルデアが炎上します」

「『それは困るな。ノアくん、立香ちゃんの誤解を解いてあげてくれ』」

 

 ノアは小さくため息をついて、足を組む。

 

「おまえが来る少し前、俺たちは無属性魔術の実験をしてた。テーマは『絶対に壊れず、インクが尽きないボールペンを創ることができるか』」

「絶対に、って……」

 

 立香は顔をしかめる。

 ノアが無属性魔術を解禁した、パラケルススとの戦闘。ただでさえ膨大な魔力を消費するその力。ノアは考えられる反動が計り知れないため、『絶対に』や『何でも』のような特性をつけた事象を創造することは避けていた。

 絶対に壊れず、インクが尽きないボールペン、なんてその最たる例だ。この世のものはすべて存在する限り、消滅や停止といった違いはあれど、各々に定められた死のカタチが決定付けられている。

 その大原則を覆すというのなら、払う代償は想像もつかない。

 

「───実験を今から再現する。俺の右手を見てろ」

「えっ」

 

 立香が止める間もなく、魔術式が組まれる。

 ノアが見せつけるように開いた右手。その上にエーテル塊が生まれ、徐々に見慣れたボールペンの形に整っていく。

 しかし。

 それは完成する直前で、目の前から忽然と消えた。

 頭に疑問符を浮かべる立香。ノアは降参するように両の手のひらを開いた。

 

「結果は見ての通りだ。ボールペンは出来上がる前に消える。これがどういうことか分かるな?」

「も、もちろん分かりますよ! ね、ドクター!」

「『……うん、そういうことにしておこうか。つまりはね、あのボールペンの存在は世界から否定されたんだ。魔法ではなく、魔術であるが故の限界だよ』」

 

 ノアとロマンの視線が立香に向けられる。

 彼女が抱いた感情を一文で表すなら。

 なるほど、分からん───そんな言葉がお似合いだろう。

 

「いいか、魔術と魔法の違いは結果が奇跡であるか否かだ。これは魔術講座で教えたぞ」

「知ってます。魔術ができることはあくまで人間が頑張ればできることで、魔法はどうやっても無理なことができる、ですよね」

 

 ノアは首を振って肯定した。

 例えば。魔術師の中には呪文を唱えて手を向けるだけでビル一棟を倒壊させられる者もいるだろう。しかし、それは魔術師でなくとも、手間暇をかければ同じ結果を生み出せる。

 その手間暇を省略する点において、魔術は他の学問の追随を許さない。魔術が過程に奇跡を起こすものだとすれば、魔法は結果自体が奇跡なのだ。

 

「『だからボールペンは消えた。絶対に壊れないモノなんて、今の人類がどれほど時間と労力を費やしても作れないだろう? そういうのは魔術じゃなくて魔法の領分なのさ』」

「確かに……でも、それは魔術の限界ですよね。世界に否定されたって意味が分からないです」

「そこに大した意味はない。世界にとっての異物は弾かれる。当然のことだ」

 

 唯一得たものがあるとすれば、結果が否定されたことで、危惧していた反動を受けなかったこと。ボールペンを創る過程で消費した魔力は無駄に終わったため、不幸中の幸いに留まるが。

 服を脱いでいたのも、身体の異常を把握するため。体の把握は魔術師の基本中の基本だが、念には念を入れねばならなかった。

 ノアがそう説明すると、立香はむっとして、

 

「世界ってケチですね」

「ハッ、そこは同意してやるよ。おまえみたいなのがルールを作ってたら、もう少し人類は発展してたかもな」

「ええ、どんと任せてください! まずはガチャの最高レア排出率を100%にします!!」

「『それはそれでつまらなくないかな?』」

 

 当たりしかないギャンブルはハズレしかないのとほとんど同じだ。何度やっても結果が同じなら、寄り付く人間は少ないだろう。

 ロマンは優雅にコーヒーを嗜み、生温い息を吐いた。

 

「『それにしても、無属性魔術は魔術の域から半歩外れている。神代の闇妖精(ドヴェルグ)の力を下敷きにしているから当然と言えば当然なんだが……完全には逸脱しきれないことが障害になるとは』」

 

 ノアは誰にも聞こえないほどの音量で、唇から言葉をこぼす。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 霞のような呟きは立香にさえ届くことなく、空気に溶けていった。

 ふと、右手を包む暖かな感触。自身のそれよりも小さく細い両手。立香はノアの目を見据える。

 

「でも、どうなるか分からないなんてこと、二度としないでください」

 

 咎める、強い眼差し。

 右手を包む指が、ぐっと食い込む。

 

「一緒にいられなくなるのは、嫌ですから」

 

 空気が密やかな冷たさと湿り気を帯びる。

 ノアは数瞬、何かに詰まって。

 

「それは許可を出したこいつに言え。元はと言えば呑気にコーヒー飲んでるそこのアホが悪い!」

「『清々しいほどの責任転嫁───!! 確かに許可を出したのはボクだが、練りに練った仮説に基づいてだからね!? そう、これはボクとノアくんの責任だ!!』」

「それでも最終的な判断を下したのはおまえだろ。仮にも指揮官が責任逃れすんのかァ!?」

「『ぐうっ、口喧嘩じゃ分が悪い───そうだ、ヤドリギの話をしよう! ギルガメッシュ王から仰せつかった本題はそっちなんだから!!』」

 

 自身の不利を悟ったロマンは強引に話の流れを分断した。荒業にも程があるが、どうやらそれはノアの知識マウント欲を刺激したらしい。

 彼は後方の樹木に視線を投げかける。

 

「とりあえず今は真っ当な手段での成長を試してるところだ。あの木にヤドリギを寄生させて、経過を見計らってる」

「リーダーにしては、失敗が前提なように聞こえますけど」

「ああ。俺の魔力を半分注ぎ込んで、ようやくデカくなる程度だからな。あんなんで栄養が足りるとは思えない」

 

 ノアは右手をそのままに、左手を懐に入れて、金色の鏃を指に挟む。神殺しのヤドリギは淡い光を放っていた。

 

「これが成長しきったらどうなるか。それは俺も知らない。ただ大きくなるだけか、別の形に変わるか。あの金ピカ王は全部丸投げしやがった」

「リーダーがいつもやってることじゃないですか。……ずっと気になってたんですけど、リーダーの魔力量ってどれくらいなんです?」

 

 ノアは心底興味なさげに述べる。

 

「ヤドリギでどれだけ増やすかにもよるが。おまえが琵琶湖だとすると俺はカスピ海だな。多分」

「『大雑把すぎない!?』」

「微妙に分かりづらい……琵琶湖も中々すごくないですか。滋賀県の六分の一ですよ!」

「調子乗るんじゃねえ、ギリギリ比較になるスケールにしてやっただけだ。大体、魔力なんて感覚で掴むもんを数値化して比較することすらアホらしいんだよ。そういうのはサーヴァント連中でやってろ」

 

 身も蓋もないことを吐き散らかす男がそこにいた。

 ただ、ノアの言うことがすべて的外れな訳ではないだろう。魔力の量とはひとつの目安であって、その魔術師の優秀さを表してはいないのだ。

 魔術回路の本数が少なくても質や工夫で補えるのが、魔術という学問だ。にしてもノアの見積もりは雑だったとしか言えない。

 右手と両手の繋がりが緩く解かれる。

 それを名残り惜しむのも束の間、彼の手は立香のつむじに着陸する。

 

「そんなことを気にする暇があるなら俺が鍛えてやる。まだまだ一人前の魔術師には程遠いからな」

 

 う、と立香は喉元を詰まらせた。

 ───さっきの質問はほんの好奇心で、別に負い目を感じてはいなかったのに。

 これは勘違いだ。ノアの訓練は真面目に受けているが、何も一人前の魔術師になりたいのではない。

 ただ、どこかで胡座をかいている魔術王を倒して、日常に還りたいだけ。だから、彼は勘違いをしている。

 でも。

 たぶん、顔は赤くなってしまっている。

 それにつられて体は強張っている。

 頭に置かれた手が慰めるためのものだとしたら。

 これは、この人なりの優しさなのかもしれない。

 ───彼が初めて誰かに褒められた時も、こうされただろうから。

 回らない頭で、必死に選んだ言葉は、

 

「が、がんばりますっ」

 

 ある意味、負けを認めるようなものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───痛い。

 体が裂けている。

 魂が割れている。

 心が砕けている。

 とにかく、何もかもがバラバラで、とりとめなく命が拡散していく。

 死とは自己の消滅。自我の消失。

 初めて味わうその感覚を、カレはただこう思った。

 怖い、と。

 その恐怖から逃げるために、何度も何度も傷を繋ごうとして失敗して。大地からマナを汲み上げても、その傷みと恐れだけは消えなくて。

 ただただ、血を撒き散らしながら地面をのたうち回った。

 あれは、負けるはずのない敵だった。

 人間と精霊。能力の差を数値にしたのなら、奴ら二匹を足してもまだ自分が上回る。

 だというのに、負けた。敗北した。

 非の打ち所など無い。魔術師の横槍を差し引いたとしても、自分には油断があった。

 それは自己が拠り所としていた理論の崩壊。

 強大な力をそのまま振るう、という強さの儚さ。

 そう、そんな理屈はちっとも強くない。

 理屈に収まっている時点でその外にある力には勝てないし、その理屈を行使している時点で、自分より強い敵には手も足も出ないと認めているようなものだ。

 だから、これは。

 キングゥという個体が初めて呑んだ、敗北の苦汁であった。

 

「────ァ」

 

 無事なはずの喉から出たのは、隙間風のような声だった。

 上体に刻まれた血の轍。それは決して治らぬ傷。半神半人の英雄に血を流させ、三日後に冥界へ落とした不可逆の一刀。

 この傷は治らない。

 如何なる魔術を用いようとも。

 どれほどの魔力を吸い上げようとも。

 まるで、この体に元々定められていたキリトリ線をそのままなぞられたみたいに、どうしようもなく傷ついている。

 そして、今日は英雄が死を迎えた三日目だった。

 赤く染まる視界で天上の月を望む。

 憎たらしいほどに輝く銀盤。あれが沈めば、おそらくもう二度とキングゥという自己は蘇らない。

 いっそ、こんなに苦しいのなら。

 命を手放してしまおう。

 ふと、そう思った。

 

「かわいそうに」

 

 憐れみに満ちた声。

 頬を細い指が撫ぜる。

 頭の後ろをふわりとした感触が覆う。

 

「お前は負けた。これ以上の言い訳もなく。敗北を知らぬ者が負けたのなら、お前はもはや人間と同じ。完璧ではない生命体に成り下がった」

 

 ───ああ、かわいそうだ。人間と同じになるなんて。

 その女は、そう言った。

 怒りに震える気力もない。

 母に新人類たれと生み出された誇りは薄らいでいた。

 

「ならばいっそ、堕ちてしまえ。深く深く、獣の位置にまで」

 

 ぞぶり、と肉体が大きく削がれる。

 痛みはなかった。とうにそれ以上の苦痛を味わっていたから。そして、苦痛の源となる傷ごと骨肉が取り払われていたから。

 まるで魚の開きみたいに空虚な体を、黒々とした泥が埋め立てていく。

 混沌たる生命の素。ごぼごぼと沸き立つそれは、新たなるカタチの誕生に歓喜していた。

 

「───かつて、聖娼シャムハトは六日七晩をかけてエルキドゥに人間性を教えた」

 

 曇った視界がかすかに晴れる。

 美しいカタチをしたその人は、心からの笑みをたたえていた。

 

「私は六日七晩をかけてお前に獣の性を教えよう。何よりヒトを嫌う、お前のために」

 

 ふわふわと脳みそが蕩けていく。

 時間の感覚が曖昧になっていく。

 もう、光しか見えない。

 光が点いては消えてを繰り返し。

 それが六回ほど続いて、意識は闇に沈んだ。

 

 

 

 

 

「後は、貴女の努力次第だ。ゴルゴーン……いや、ティアマト」

 

 真白の装束を纏う女。蛇神は僅かに目を伏せる。

 

「知恵の女神。貴女の目には如何な未来が視えている」

 

 決まっているだろう、と。錯雑とした感情に塗れた声が返る。

 

「……人類との戦いの、終着だ」



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第71話 女神たちの饗宴、天の落涙

あけましておめでとうございます。今年で完結まで行きたいです。いつも読んでくださる皆様に感謝いたします。


 ウルク北壁。ゴルゴーンの侵攻を予見したギルガメッシュはEチームに加えて、ウルクが抱える全サーヴァントを戦線へと配置した。

 都市の守りが薄くなることは承知の上。サクラという最大の不確定要素を加味してもなお、ゴルゴーンの討伐を優先すべきだとギルガメッシュは結論付けたのだ。

 ティグリス川とユーフラテス川の間を横断する長大な壁は戦いの時を静かに待ち望む。それとは反対に、人間たちは騒然と北壁の周辺を駆けずり回っていた。

 ゴルゴーンと魔獣の襲来に備え、人馬が所狭しと行き交う。

 この戦いには自分たちの命だけではなく人類の未来が懸っている。この状況を喩えるなら、尻に火がついている状態で後ろからチーターが追いかけてきているようなものだ。

 ギルガメッシュが視た決戦の前日。

 全員が集まった食事の最中、アナは唐突に打ち明けた。

 

「私の真名はメドゥーサと言います」

 

 食卓が一瞬にして静まり返る。

 鉄板の上で焼ける肉と弾ける油の音だけが響く。一同は無言でありながら、瞳の色でその驚愕を雄弁に語っていた。

 ノアは目を平べったくして頬杖をつく。彼は立香が確保しようとしていたタン塩を横から奪い取ると、そのまま口へ運んだ。

 

「ハッ、いきなり血迷ったか? おまえみたいな小娘がメドゥーサなら、ロマンがソロモン王でもおかしくねえぞ」

「『そ、そうだね』」

「何がそうだねだ。ありえないに決まってんだろ。くだらない冗談言った罰だ、おまえの分のハラミを全て俺に献上して謝れ」

「リーダー、まず私が丹精込めて育ててたお肉を強奪したことを謝罪してください」

 

 立香のハリネズミより刺々しい眼差しがノアに照射される。が、彼は何食わぬ顔で他人が最高の焼き加減に仕上げた肉をかっさらっていく有様だった。

 そこで、アナは眉根を寄せてノアを睨んだ。

 ぴきり、とノアの全動作が停止する。彼は半開きにした口の手前で箸を止めた、間抜けな状態で沈黙していた。血の気が失せた肌には冷たい汗が滲んでいる。

 それでもドSとしての最後の意地か、表情だけは余裕を取り繕っていた。

 

「……なんか急に気分が悪くなってきたな」

「メドゥーサなので」

「しかも手先が冷たくなってきたんだが。忍者か? 忍者の仕業か?」

「メドゥーサの仕業です」

「もしかしてお化けのせいなんじゃ……リーダーお化け苦手ですもんね?」

「いやメドゥーサ……」

「おいふざけんな、霊障如きが俺の礼装の防御機能を貫通できるわけねえだろ、冗談もほどほどにしろ。それともアレか、まさか貞子級の怪異だったりすんのか……!!?」

「メドゥーサだっつってんだろォォ!!」

 

 わざとらしく会話を繰り広げる立香とノア。カルデアが誇る双璧を前に、アナは自身のキャラも忘れてタレの入った小皿を投げつけた。

 立香は無駄に機敏な動きで躱すものの、絶賛石化中のノアに避ける手段はない。小皿が顔面に衝突し、芳醇な匂いを香り立たせる。

 ここぞとばかりにノアの肉を奪う立香。ダンテはそれを尻目に戦慄した。

 

「せ、石化の魔眼……ですか?」

「はい。余程のアホでなければ、これで魔眼に掛けるまでもなく信じてもらえると思いますが」

「残念ながらリーダーは余程のアホですが……石化の魔眼は魔眼の代名詞と言って良いくらいです。武器の鎌はメドゥーサを倒したハルパーですか?」

「さあ。ただ、使い勝手が良いので気に入ってはいます」

フォウフォフォウ(自分を殺した武器なのに)……!?」

「ところで、なぜこのタイミングで暴露をしようと思ったんだい?」

 

 マーリンはにこやかに訊いた。

 この男の笑顔ほど不吉なものはない。彼の悪辣さを誰よりも知る湖の乙女姉妹とペレアスは、哀れみを込めた目線をアナに注ぐ。

 

「……なんだったら、氷漬けにしましょうか?」

「体中の水分という水分を奪い取ってミイラにして差し上げてもよろしいですわよ?」

「こいつの話は付き合うだけ損だぞ。知らない内にマウント取られて敗北感だけ残るからな」

「…………そ、そこは全面的に同意しますが、これは私のけじめです。決意表明です。なので気にしないでください」

 

 アナは力強く、はっきりと言ってみせた。

 世に広く知られる怪物メドゥーサ───一睨みで敵を石に変え、蛇の髪を棚引かせる化け物は神々に愛されし英雄ペルセウスによって討ち果たされる。

 人々の恐れと畏れを集める反英雄。

 討たれることでしか善を明らかにできぬ彼女はしかし、元は可憐な少女であった。

 メドゥーサをメドゥーサたらしめたのは、戦いと知恵を司る女神アテナ。かの戦女神の神殿にて、ポセイドンとまぐわったメドゥーサは醜悪なる怪物へと存在を変質させられるのである。

 故に、ここに在る少女アナとは。

 海神との契りを知らず、戦女神の怒りに触れる前の純粋な────魔獣の女神と化したゴルゴーンとは真逆の存在。

 なればこそ、女神と少女は互いが互いに仇敵と成り果てた。

 かたや、人を殺し尽くさんとする自分を認められず。

 一方、もはや戻れぬ過去の自分を受け容れられない。

 分かり合う、なんて道は無い。相互理解とは他者との間に成り立つもの。自分が相手ならば、分かり合う段階はとうに過ぎている。

 

「───なるほどね。自分にだけは負けられないってわけ」

 

 ジャンヌは冷たさすら感じる声音を響かせる。アナはこくりと首肯した。

 

「そうです。今の私にとってゴルゴーンはちいかわの反対語みたいなものなので。言うなれば、でかみにです」

「『でかくてみにくいやつ───!!!』」

「一気に深刻さが薄れたんですが!?」

 

 ダンテは目を剥いて叫んだ。一応フォローするとゴルゴーンの容姿は美人以外の何物でもない。アテナは彼女を醜い怪物に変じさせたと言われるが、その醜さの基準が疑われる結果である。

 その手のトングは鉄板の端で忘れ去られて消し炭になったなすびを掴み、マシュの小皿に追放する。レオニダスはそれを見咎めた。

 

「好き嫌いはいけません。健全なる肉体を養う第一歩はバランスの良い食事です」

「全くその通りです。このなすびの焼死体はジャンヌさんが供養してください」

「絶対に嫌なんですけど。そんなコゲ塗れのやつ食べたら病気になるわ」

「体に良いモノばかりを摂ることが良いとは限りません。毒を食らってこそ均衡が取れるのです」

「マイナスの値でバランス取らないでくれます? それもう悪食ですから」

 

 消し炭なすびを巡って争いを繰り広げるジャンヌとマシュ。醜い戦いを目撃したレオニダスは一息になすびを口に放り込んだ。

 そこで、ノアはようやく石化から帰還する。タレまみれになった顔をタオルで拭き取りながら、

 

「結局は勝てばいい。自分で自分を殺れば足し引きはゼロだ。そこの焦げなすびを押し付け合うアホどもと違ってな」

「むしろゴルゴーンを倒せばプラマイゼロどころか大幅にプラスですよ! 人類(私たち)的に考えて!」

「ゴルゴーン三姉妹的にもですわ。妹には健やかでいてほしいのが姉というものです」

「リースさんは健やかすぎて逆に不健全ですよね」

 

 立香がそう呟くと、リースは鼻高々に胸を張った。

 

「えっへんですわ!」

「褒められてないからな?」

「……まあ、姉の気持ちは妹には分かり難いものだけれど」

 

 エレインはくすりと微笑み、アナの名前を呼ぶ。

 

「私たちにも負けられない理由ができたわ。とびきり大きいのが、ね」

 

 ───そして、決戦の日。

 要塞化したニップル市にて魔獣とゴルゴーンを迎え撃った前回とは異なり、今回は北壁に陣を敷くこととなった。増加すると予想される魔獣の数に対応するため、防衛線を長く引ける北壁を選んだのである。

 北壁の総延長は100kmを超える。無論、敵は戦力を薄く広げるよりも一点に集中して突破を狙ってくるだろう。守備軍は敵が攻める地点を予想して布陣しなければならなかった。

 無数に並び立つ針の穴にただひとつの正着を見出すかの如き難事。されど、ウルクが擁するサーヴァントはいずれも戦の巧者たちだ。

 たとえ人間が相手でなくとも、何処をどう守るかの最善手を見分けることは容易かった。

 

「───ドンピシャ。私たちの準備は無駄にならなそうね」

 

 黒き竜の旗が揺れる。

 黒炎の魔女は不敵に笑った。

 北壁の壁上。迫る魔獣の軍勢を、人理の英霊たちが見下ろす。

 大地をその体色で染め上げる魔獣。前回のそれと比しても桁の違う数。マーリンは訝しげに目を細め、顎の下に手をあてがった。

 

「地に満ちよ、とはまさにこのことか。私の千里眼を弾いたのは戦力を隠すためか……ノアくん、どう思う?」

「俺に振るな。手筈は変わらない。仕掛けた地雷で一通り掃除してから───」

「───神剣で神殿を叩き斬る! 分かっておりますとも!!」

 

 牛若丸は普段の五割増しの快活な笑顔で両腕を掲げた。右手に輝く、スサノオの神剣。持ち手の陽気さとは裏腹に、それは近付いただけで肌を裂くかのような凶気を秘めている。

 ノアと牛若丸の前に横一列でしゃがみこむ人影。立香とマシュ、アナ、数人のウルク兵たちは耳当てとゴーグルを装着し、小学生が図工の時間で作ったみたいなスイッチを携えていた。

 マシュは人差し指でスイッチの縁をついついとなぞる。

 

「たとえ敵の数が増えていようと、こちらの爆弾は数も火薬もマシマシです。ハリウッドのアクション映画も裸足で逃げ出す大爆発をご覧に入れましょう!!」

「まだですか。まだ押しちゃいけないんですか。ゴルゴーンと魔獣どもを木っ端微塵にすることだけが私の望みなんですが」

「マシュとアナさんが爆発の魅力に取り憑かれている───!!」

「よし、引きつけた。おまえらやれ!!」

 

 ノアが号令を下すが早いか、轟音を引き連れた突風が北壁の表面を波打たせる。しかし、彼らが見たのは爆散する敵の姿ではなかった。

 地平線に立つ要塞都市ニップル。天へと昇る魔力の奔流が、それを粉微塵に消し飛ばす。

 

「……ああん!?」

 

 次いで、地面が爆ぜる。

 火柱が噴き上がり、土塊と肉片が飛散する。次々と灼熱の柱が現れ、長大な炎のカーテンを形成する。しかしてそれは、障子の紙を指で突き破るように風穴を生じた。

 風穴の中心には漆黒の影。ニップルより解き放たれたそれは不可視の壁に張り付くように、空中に留まっている。

 立香とノアは眼球に魔力を通して、目を凝らす。

 かろうじてヒト型を保った、不定形の怪物。全身に黒く濁った泥を纏い、泥で構成された六本の触手が背に揺れている。ソレは空気そのものに爪を立てるかのように両手両足を這わせ、深い紫の瞳を楕円に細めた。

 限りなく不吉な凶兆に満ちた視線。濁り切った混沌の殺意。一瞬が数分にも感じられるほどに感覚が引き伸ばされる。

 果たして、その一瞬が終わりを告げた瞬間、その影は後脚で空気を蹴りつけた。

 大気が悲鳴をあげる。

 水面に石を落としたみたいに空間が撓む。

 爆発的な加速。ソレは数kmの距離を一秒とかからずに詰める────!!

 

「『悠か妙なる幻氷塔(トゥール・デ・ダーム・デュ・ラック)』!!」

「『遥か永き湖霧城(シャトー・デ・ダーム・デュ・ラック)』!!」

 

 異界法則の展開。それと同時に霧の城が巨大な防壁と化し、影の行く手を阻む。

 衝突は刹那、影が霧を穿ち抜く。

 リースの霧の城は水滴ひとつひとつが魔力を帯びるだけでなく、それを含んだ大気さえも支配下に従える。

 つまり、彼女の異界において霧の中を進むことは魔力障壁を掘り進めることに等しい。

 体積比としては北壁の総量すら上回る。

 影は徐々に勢いを減衰させながらも進み続け、北壁の手前で速度を失う。

 朱と金の円盾。影の触腕は北壁を破壊する寸前でレオニダスによって阻まれていた。彼は盾越しに影を目視し、その正体に至り着く。

 

「───キングゥ! 狂気に堕しましたか!!」

 

 ぎしり、と盾が軋む。レオニダスの踵が土を削る。彼は北壁を崩壊させるに十分な力をたったひとりで受け切っていた。キングゥは答えず、ただ五体を漲らせるのみで応える。

 

「行くぞ、リース!」

「ええ、ラブラブVの字斬りですわっ!」

 

 魔剣と霧剣が閃く。不死身の英雄をも屠った不癒の斬撃。キングゥはそれを一瞥さえせずに躱す。

 キングゥは一足で間合いに引き込める位置を保ちながら、ペレアスへの眼光を研ぎ澄ました。そこに込められた感情が何色であるかなど、考えるまでもなかった。

 騎士は剣の柄を握り締め、キングゥを睨み返す。

 

「見てくれは大分変わったみたいだな! ノア、この剣は斬った相手を絶対殺すんじゃなかったのか!?」

「知るか! しっかり両断しなかったおまえが悪い! 結局使い手が見合ってねえんだよ、俺に返せ!!」

「ふざけろ、この剣はオレのだ! 消滅しても座に持って帰ってやる!!」

フォウフォウ(それでも騎士か?)?」

 

 というやり取りに堪えかねたのか、キングゥはペレアス目掛けて飛び込んだ。

 触腕が蠢動する。それらは振るわれる途中で刃へと変じる。ペレアスは咄嗟に半身を躱し、泥の刃をすり抜ける。行き場を失った一撃は北壁の上端から下端を一刀で切り裂いた。

 だが、キングゥの手数はそれのみに留まらず。矛戟と化した触手が左右から叩きつけられる。

 騎士は動かなかった。円盾と霧剣がそれを防ぐことを知っていたから。

 

「あのドロドロ、とてつもなく嫌な雰囲気がします。きっと聖杯の泥と同質のモノですわ。決して触れないように!」

「参考までに、触れたらどうなるのです?」

「その者の性質が魂レベルで反転すると思われます。あくまで私が知っているものと同じ場合ですが」

「……ノアとマーリンに触らせたら反転して真人間になりそうだな」

 

 キングゥが動く。人の域に在る者では立ち入ることはおろか、目視することさえ能わぬ戦い。ノアは眉をひそめ、緋色の王笏で自らの肩を小突いた。

 

「援護するぞ、ついてこい。ダンテとマーリンは強制参加だ。たまには働けアホども」

「私が行く意味ありますかねえ!?」

「ダンテさん強いじゃないですか。宝具が」

「先輩の言う通りです。ダンテさんの宝具が決まればキングゥも一撃ですから」

「宝具だけ使ったら後ろ下がってなさいよ、邪魔だから」

「そんなに私より私の宝具(さくひん)が必要ですか!? 詩人として嬉しい限りです! 人としての自尊心は大いに傷つけられましたが!!」

 

 その嘆きも虚しく、ダンテはノアと牛若丸に両腕を引っ張られて北壁を飛び降りる。それに立香たちも続いたところで、マーリンはゆっくりと歩を進める。

 杖に仕込まれた剣を抜く。その所作には一縷の淀みも存在しない。

 エレインは僅かに目を見開き、何かを察するように伏せた。

 

「……珍しいわね。あなたが戦場で剣を振るうなんて」

「現在から予測できる未来が大きく変わった。それも悪い方向に、だ。私が出て流れを変えてみる」

「そう。いざという時は手筈通りよ」

「ああ、それならこれも今渡しておこう」

 

 マーリンは懐から透明な液体を蓄えた水晶の小瓶を取り、そっと投げた。エレインはそれを受け止めようと手をかざすが、小瓶は指の間をすり抜けて額に当たる。

 エレインは胸元に滑り落ちた小瓶を慌てて握り込む。それを見て、マーリンは吹き出した。

 

「…………サーヴァントの体でも運動音痴は変わらな」

「り、リースと違って体の使い方がヘタなのは分かってるわ。目玉をガラス玉みたいに割られたくなかったら、早く行きなさい」

 

 エレインはマーリンの尻を蹴って、壁の下に突き落とす。その強制フリーフォールには目もくれず、右手に収まる杖を槍の形に整える。

 氷槍ロンゴミニアド。もう一方の手にある小瓶を眺め、彼女は独りごちる。

 

「この力───王は気に召さないでしょうね」

 

 稚気を帯びた火が心に灯る。その感情を振り払うように、湖の乙女は氷槍を薙いだ。

 凍てつく光波が魔獣の群れを氷漬けにし、ひとりでに破裂する。一面の雪原に血の赤色だけを残して、攻め来る魔獣の命は散華した。

 無数の血の跡が動き出す。それぞれが意思を持ち、蛇のように蠢く赤。その色はただ一点、キングゥのもとに集結する。

 混沌の黒に溶け合う命の赤。

 それは死に逝く魂の収奪。

 曖昧な体表がざわめき立つ。死したる獣の角を、爪牙を再現するように変形する。

 立香はマシュの肩越しにその光景を目の当たりにしていた。

 

「イメチェンにも程があると思う」

「はい、チェンジどころかイメージが根底から崩れています」

「『い、いや、変わってるのは見た目だけじゃない! 魔獣を吸収したことで魔力反応も増大してるぞ!』」

「こちらが魔獣を倒す度に強くなるということですか。厄介に過ぎますね」

 

 アナは吐き捨てるように言った。

 影はカタチを定め、その力を解放する。

 波濤の如く襲い来る泥の武装、漆黒の爪牙。そのひとつひとつがトップランクの対人宝具に匹敵する威力。策略も小細工も必要としない、純粋な暴力の結晶が此処に在った。

 彼我の数的不利など塵芥。肉体にまとわりつく霧も、氷槍の光線さえ意に介さない。表皮の硬度は並の宝具ならば、その真名解放すらもかすり傷に留めてみせるだろう。

 魔力出力も、戦闘性能も、敵う相手は何処にもいない。そう、かつて同じ肉体を使ったエルキドゥやその友であるギルガメッシュでさえも。

 ───だというのに。

 混濁する意識で、キングゥは思った。

 なぜ自分の刃は、爪は、人間の小娘ひとりの命も奪えていないのか、と。

 

「……惜しいな。そんな姿になりさえしなければ、キミは私たち全員をも上回っていたかもしれないのに」

 

 するり、とマーリンの白刃が走る。

 宙を揺蕩う羽根のように軽妙な斬撃。キングゥの知覚の間隙に滑り込み、左眼を裂く。

 キングゥは反射的に腕を振るうが、花の魔術師はひょいと身を躱して潜り抜ける。

 強大な力をそのまま振るう───その在り方を否定したはずのキングゥはここにはいない。人の業を知らぬが故に、魔術による偽装を施しただけのマーリンの接近にも気付くことができなかった。

 

「と、そういう訳だ! 今回ばかりは私も舞台の中心に立たせてもらおう! ペレアスくん以下諸君は脇役に甘んじてくれてもいいぞ!」

「おい誰が円卓の名脇役だ」

「名脇役でもないだろ。ドラゴンボールで言ったら戦闘力5のおっさんと同じだからな」

「うるせえ! 猟銃で頭ブチ抜くぞ!?」

「騎士なら剣を使うべきですがねえ」

 

 言いつつ、ダンテはのんきに祝福の文字を描いていた。彼が戦場においても正気でいられる理由は半ば自分の命を諦めていることに加えて、

 

「マシュさん、こちらはお任せください!!」

「了解です、盾サーの意地を見せます!!」

 

 決して砕けぬ二枚の盾があるからだった。

 怒濤の攻撃を防ぎ、逸らし、弾き返す。

 如何に敵が強く、速くとも彼ら盾の英霊を貫くには能わない。

 キングゥは獣性に身を任せて暴力を振りまくのみ。それでは、それだけでは鍛え上げた人の技量は揺らがない。

 何より、マシュ・キリエライトという少女は常に自分よりも強い敵と戦ってきた。ならば極論、相手のスペックがどれほど高かろうと変わらない。

 そう、ただいつものように。

 仲間を守る役割を果たせば良い───!!

 

「おるぁぁぁぁっ!!」

 

 頭を狙う触腕を盾で逸らす。

 体を捻りながら深く踏み込み、キングゥの胴へ打撃を加えた。

 ダメージはない。精々が衝撃を与えた程度。だが、英霊にとってはそれこそが必殺の隙となる。

 レオニダスが槍を投げ飛ばすとともに、ジャンヌは炎を纏わせた旗を振り抜く。

 巨大な鉄の塊を打つような手応え。槍の穂先がキングゥの額で破砕し、旗は表皮を焼くのみだった。

 

「堅っった……!! 何で出来てんのよこいつ!?」

 

 マーリンは飄々と答える。

 

「王の友エルキドゥとキングゥの肉体は同じだ。エルキドゥは聖娼シャムハトに会うまで、人とも獣ともつかぬ姿をしていたそうだ。今の彼はその頃に逆行しているのだろう」

「……それ早く言いなさいよ」

「言ったところで戦い方は変わらないさ。情が湧く質でもないだろう?」

「ジャンヌさんは血も涙もない女ですからね」

「黙れ冷血なすび」

 

 エルキドゥはかつて神々に創られた兵器として地上に遣わされた。知性も理性もなく、野の獣とともに暮らす日々を送っていた彼は妖怪じみた姿形をしていたという。

 だというのなら、目の前のキングゥこそが神の宝具たる肉体の原初のカタチ。純粋なる神威の具現。矮小なる人間の武装が通用するはずもない。

 今、この戦場でキングゥを毀傷できる武器は三つ。

 神殺しの魔剣、八つ首の竜の神剣、不死殺しの鎌。その使い手の接近を認めると、キングゥは大きく後方へ跳んだ。

 

「■■■■■■■■────ッ!!!」

 

 咆哮。

 触手の形状を槍に定め、空に撃ち出す。

 それは放物線を描き、地上へ降り注がんとする。人間の柔らかい肌を突き破り、臓物を引きずり出すために。

 ただし、狙うのは。

 眼前の敵ではなく、北壁を守る軍。手強い相手を倒すよりも、弱い敵を狩る。それは野に生きる獣の論理であった。

 

「ロンゴミニアド!」

 

 氷槍から放たれた光線が槍の雨を薙ぎ払う。

 いくつもの魔力の光が暴れ、雪模様の空を明るく照らす。が、その一手は敵に時間を与えることとなった。

 雪混じりの風を巻き上げ走る魔獣の大群。地雷を使い果たし、氷槍の迎撃を抜けた一群が北壁へと迫る。

 ここからは英霊のみならず、人の兵士も命を散らす戦場。魔獣に対処しながら、キングゥと未だ姿を見せぬゴルゴーンを倒さねばならない。

 

「───ナメんな!!」

 

 ノアは口角を吊り上げて吼える。

 ゲンドゥルの杖を地面に突き刺し、靴の裏で乱暴に埋め込む。

 その瞬間、ノアの足元を中心に、地面におびただしい数の光点が広がっていく。色とりどりの光彩はその全てがルーン文字。それは軍が布陣する場所の隅々にまで行き渡った。

 魔獣の足がルーンの領域に踏み込んだ途端、光が膨れて拡散する。足が千切れ飛び、地を転がる獣にひとりの兵士が槍を突き立てる。

 それは魔獣の硬い皮膚に守られた背中を貫通し、死に至らしめた。

 人間と魔獣の激突。あらゆる肉体の強度で劣るはずの前者は確かに、後者を圧倒していた。

 味方の武装を強化し、身体能力を向上させ、敵のみを穿つ複合効果のルーン。ノアはゲンドゥルの杖を起点にして、一帯に埋設したルーンを起動したのだ。

 ノアは高らかな哄笑を響かせる。

 

「思いつきで開発した自動書記のルーンを一晩放置した陣だ! おまえらケダモノごときにはもったいねえくらいだなァ!! ヒャハハハハハ!!!」

「『やってることは本当にすごいのに……』」

「言動で損するこの感じ、源氏によく馴染めそうです」

「と、とにかく、これで魔獣の心配は無くなりました! そろそろゴルゴーンの神殿をぶった斬っても良いんじゃないですか!?」

 

 立香はキングゥへコードキャストを撃ち込みながら言う。

 北壁からゴルゴーンの神殿まではおよそ30kmだが、神剣に距離の概念は通用しない。何もかもを問答無用で切断する一刀は、対象が地球上にあるというだけで全てを射程に入れている。

 牛若丸は唇を固く切り結んで頷いた。

 

「お任せを! キングゥの動きにも慣れてきましたし、今なら邪魔されずに斬れます!」

「イレギュラーがあったとしても、メイン盾のお二人と私の城でどうにかしますわ!」

 

 牛若丸は剣を強く握り締め、顔を上げる。

 彼女は見た。魔獣の命を吸い取り、膨張する魔力を。キングゥの肉体を染める泥は物理的にも膨れ上がり、刻まれたルーンさえ取り込んで大地を侵食した。

 地球に満ちるマナの隷属。エレインの異界さえ呑み込む勢いで増大した力は、ただそこに存在するだけで空間を曲げるほどの威容を湛えている。

 リースは青褪めて歪んだ笑顔に、だらだらと冷や汗を流した。

 

「……ど、どうにかすると言っても限度がありますが。どう少なく見積ってもエクスカリバー以上の威力がありますわ、アレ」

「攻撃はマシュが防ぎます! リースさんの霧の城は被害を抑えるために使ってください!」

「立香殿、私は!?」

「待機でお願いします!」

 

 そうして、獣はその名を紡ぎあげる。

 

「───『■よ、始■■の叫を■げ■(ナンム・ドゥルアンキ)』」

「『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』!!」

 

 口腔より解き放たれる、黒き極光。

 雪原に立ち現れる、純白の聖壁。

 世界の色が黒白に分かたれる。

 集めた魔力を熱量に変換して放つ、ただそれだけの単純な一撃。強大な力をそのまま振るう信念を形どったそれはしかし、無垢なる城壁の前に敗れ去った。

 その次に訪れる結末は決まっていた。

 

「『神剣────」

「『強制封印・万魔神殿(パンデモニウム・ケトゥス)』!!!」

 

 女神は、視線だけで異界を切り拓く。

 ゴルゴーンの魔眼、その真骨頂にして神髄。自らの視界そのものを魔眼の内に置き換え、その領域に存在するあらゆる生物から生命力を奪い取る、蛇の眼光。

 キングゥの奮戦は布石。

 全てはその魔眼によって、敵対者たちを葬り尽くすために。

 ゴルゴーンの瞳に映るのは数万の生命。

 肉体を、魂魄の一片までをも蕩かし啜る女神の視線。微塵の間も与えぬそれを逃れる術はとうに無かった。

 

 

 

 

 

「───その未来、視えていたよ」

 

 

 

 

 

 銀世界に、鮮やかな花弁が舞う。

 ゴルゴーンの視界に咲き乱れる花の園。

 それはエレインの氷の異界に重なるように現れた。

 暖かな陽射しが降り注ぐ雪空。

 雪原に咲き誇る繚乱の花。

 天を突く純白の塔と氷の塔。

 そこには、二つの異界が共存していた。

 矛盾が矛盾のままに存在する異常。けれど、その光景は幻術などではなく、疑いようもなく現実であった。

 花の魔術師マーリン。冠位の資格を持つキャスターの宝具。その名は、

 

「『永久に閉ざされた理想郷(ガーデン・オブ・アヴァロン)』」

 

 いまやこの世界は魔眼の裡。

 しかし、花の魔術師が在るところは全て、朽ちることなき永遠の妖精郷と成る。

 それ故に。

 全生命を溶解する魔眼の領域は意義を失った。

 

「───天叢雲剣』!!」

 

 神剣の一閃。

 振り抜いた斬撃に迷いは無い。彼女はたとえ魔眼に冒されていたとしても、その一刀を成し遂げてみせただろう。

 剣は直線上の何もかもを切り裂く。

 空を、地を、木々を。例外はひとつとして有り得ない。

 咄嗟に身を躱したゴルゴーンの右腕を断ち、女神の核心たる神殿を真っ二つにする。しかして、それらは全く同時に行われた。

 間合いを超越し、時間さえも無視する神剣の一撃───それを目の当たりにした瞬間、ノアたちは言葉を交わさずとも思考を同期させる。

 神殿はその役割を失くし、女神に傷を与えた。

 すなわち、この時こそが最大の好機。

 銃口から発射された弾丸のように、人間たちは走り出す。

 

「未来視───!! この現在(けっか)さえも貴様の目論見通りか!」

 

 ゴルゴーンは口角を歪めて哮る。苛立つ声音の裏には僅かな高揚が滲んでいた。

 失った右腕は即座に再生し、荒れ狂う蛇髪と尾が津波の如く襲いかかる。

 

「さて、それは誰に対して言っているのか、なっ!!」

 

 マーリンは振り向きざまに剣を振るう。背面に迫っていた泥の触手が弾かれ、明後日の方向の地面を穿った。

 人間たちがゴルゴーンを狙うというのなら、キングゥはそれを背後から刺すのみ。

 瞬間、騎士と精霊は同時に踵を返し、キングゥを見据える。

 

「お前と戦うのは二番煎じだが仕方ねえ! オレたちはリベンジは拒まない主義だ、相手してやるよ!」

「先程は面食らいましたが、今度はバッチリ止めてみせますわ! 円卓最強の騎士はランスロットでも、円卓最強の夫婦は私たちですっ!」

「……真面目にやろうという気はないんですかあの人」

「アナさん、いちいち気にしてたらあの雰囲気に呑まれますよ!」

 

 立香はアナの手首を引く。面を上げ、望むのは魔獣の女神ゴルゴーン。彼女さえ倒せば、ウルクが流す血の量は確実に減少するだろう。

 

貴様ら(にんげん)が奪い続けた命のように……無惨に潰れろ!!」

 

 視界を覆い尽くす、質量の嵐。

 工夫も細工もない、シンプルな圧撃。マシュとレオニダスは盾を構えつつ前に出る。ジャンヌはその二人の肩を掴み、押し退けるみたいに後ろに引き寄せる。

 

「片腕で私を除けるとは、良い筋肉です……!!」

「ええ、まるでゴリラのような腕力です!」

「うっさいわ! 攻撃は最大の防御よ、あんたら盾サーにばっかり良いツラさせてらんないでしょう! 立香、魔力寄越しなさい!!」

「う、うん!」

 

 魔女の五体を這う炎。それは一瞬にして高く燃え盛り、

 

「───『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 黒炎と鉄杭の暴虐が、女神の迎撃を嬲る。雪と花の楽園に現れた黒炎の暴嵐は一層禍々しく、地獄のようにすら見えた。

 蛇髪を焼き焦がし、振るわれる尾を縫い留める。

 その時、飛び出した影がひとつ。

 不死殺しの鎌を携えた少女、アナ。

 未来の自分を殺すため、彼女は誰よりも速く駆け出した。

 

「もう言葉はいらない───あなたを、殺します!!」

「付け上がるな……!!」

 

 アナを迎え撃つ悪意がざわめく。無数の牙が、打撃が少女を細切れにする直前、花の氷原に冷たい光が充満する。

 

「氷塔、最大起動」

 

 光り輝く氷の塔。

 騎士王の聖槍ロンゴミニアド。それは星に貼り付けられたテクスチャを表面に縫い付ける最果ての塔の影、子機であった。

 湖の乙女エレインはこの世の誰よりも聖槍を知り尽くした精霊。さらに、三姉妹の中でも随一の魔術の腕を有する彼女はロンゴミニアドを再現するだけでなく、最果ての塔の機能をも自らの異界に付与することに成功していた。

 つまり。この塔が発する光は子機である聖槍/氷槍とは比較にならぬエネルギーを秘めた────────

 

「収束……射出───!!」

 

 ─────最果ての塔の一撃!!

 鋭く研ぎ澄まされた光線が、ゴルゴーンの心臓を射抜く。

 ただ霊核を破壊されただけならば、不死の象徴たる蛇神は悠々と再生してみせただろう。

 だが、それは聖槍ならぬ氷槍。

 肉体のみならず魂にまで作用する凍気を宿した光。

 ゴルゴーンの肉体に霜が降りる。傷口から凍りつくのは彼女の霊基そのものだ。

 

「───行ってください!!」

 

 マシュは盾に足を着けたアナを勢い良く打ち出す。

 空中を駆ける少女。次に彼女を狙ったのはゴルゴーンではなく、

 

「『母■、始■りの■を■■よ(ナンム・ドゥルアンキ)』」

 

 漆黒の獣、キングゥだった。

 轟く絶叫。叫びは空間さえ崩壊させる魔力の奔流へと生まれ変わる。眼前に立ちはだかる騎士と精霊はとうに意識の外。敵を滅する代わりにゴルゴーンを巻き込むことさえ考慮していない。

 狂気に堕ちた脳髄に、それを考える余剰は残されていなかった。

 

「リース!」

 

 自らの名を呼ぶ騎士の声に、精霊はこくりと頷く。

 異界に満ちていた霧が一点、リースが伸ばした右手の先に収束する。それは細長い先端から上へやや幅が広がるような形状だった。

 ───聖槍を最も理解する者がエレインだというのなら。

 アーサー王が振るいし聖剣。それを誰よりも把握しているのは、湖の乙女リースに他ならない。

 収束する霧が再現するのは星の聖剣か───否、聖剣と対を成す鞘こそを、リースは司る。

 

()()()()()

 

 幽玄なる妖精郷。かの王が眠りし島の名が、聖剣の鞘の名前だった。

 所有者を異次元に置き、あらゆる攻撃、あらゆる魔術、果ては魔法さえも防ぐ最強の防御。なれど、リースがそれを再現することは現在は元より、生前から不可能だ。

 霧の鞘が行使する力はオリジナルの模倣。

 所有者を異次元に置くことで護るのではなく、向かってくる攻撃を異次元に追放することで護る。

 キングゥの咆哮は霧の城を一瞬で貫通してみせただろう。単純な破壊力と耐久力の勝負であれば、彼に敵うモノはここにはなかった。

 霧の鞘の能力は防御でも回避でもなく、異次元への転送。何かを壊す力しか持ち得ぬ咆哮に、抵抗する術はありはなしない。

 キングゥの叫びは霧の鞘に吸い込まれ、そして共にどこかへと消えた。その行方はもはやリースにさえも分からない。

 そうして、アナはゴルゴーンと真正面から対峙する。

 

(姉さん、見ていてください)

 

 斬る。

 何があろうともこの体は止めない。止められない。

 アテナの呪いを受け、怪物と成り果てる前の自分がこうして在ること。その意味はきっと、この瞬間のためだ。

 ゴルゴーンの目には何も映ってはいない。ティアマトを偽称し、人を滅ぼさんとするなど冗談にしても質が悪い。そんな可笑しい自分さえ見えていないのなら、盲目も同然。

 ───そう、私だけは。

 どんなに変わり果てた未来の自分でも、目を背けたりなんかしない。

 だって、過去(いま)の私も、成長した私も、怪物になった私も、どれもメドゥーサという同じ名前を持つひとりだから。

 せめて。異なる場所でカルデアと共に戦った姉さんに胸を張れる妹であるために。

 醜いと言われた自分でも、受け止めて超えてみせる─────!!

 

「終わりだ」

 

 背骨を貫く悪寒。

 指先から、足先から、急速に熱が奪われていく。

 

「羽虫は羽虫らしく墜ちていろ」

 

 石化の魔眼。凍りついた体と魂で、それでも残った女神の核心。

 ちっぽけな小娘程度、石にするのは一秒とかからない。

 まず初めに体の操縦権を失い、次に体温を失い、五感が閉じていく。一秒とかからぬはずのそれは数時間にも感じられるほど長く思えた。

 思考までもが無機質になり、視界が闇に覆われ、音も尽きようとしていた時。

 

 

 

「「────令呪を以って命ずる!!」」

 

 

 

 その声が、魂を震わせた。

 立香とノアは背を押すように、

 

「しっかり前を見て───」

「───おまえの願いを果たせ!!」

 

 石の体に血が通う。

 感覚が冴えて、動かないはずの筋肉に力が籠もる。

 武器を握る手に力を込めた瞬間、びしりと指にヒビが入る。

 六画分の令呪によるブースト。限界を遥かに超えた性能を手に入れたとしても、この体は脆い石の塊だ。動作に耐え得る強度など持ち合わせてはいない。

 たとえゴルゴーンが手を下さずとも、アナは崩壊する。それは変えようのない事実だ。

 令呪とは結局のところ魔術であり。

 奇跡を起こすなんて、都合の良い魔法じゃない。

 

「く────あああああっ!!」

 

 それなら、奇跡を起こせるのは自分自身だ。

 

「…………!!」

 

 ゴルゴーンは見た。

 壊れていく体で、刃を振るう少女を。

 目を奪われた理由はとうに分からないけれど。

 

〝後は、貴女の努力次第だ〟

 

 知恵の女神との盟約。

 それが果たされるのなら、この身がどうなろうとも構わない。

 不死殺しの鎌が首を断つ。同時にゴルゴーンは自らの霊基を暴走させ、命の炎を撒き散らした。

 

「……アナさん!!」

 

 立香たちは煙の立ち込める爆心地に駆け寄る。

 ゆらり、と白む空間の中に黒い人影が揺れる。それは弱々しく地面を這いずり、煙の幕から抜け出した。

 体の大部分が石化したアナ。左足は膝から下が砕けており、左腕も手首から先が失われている。か細いが息は途絶えていない。マシュは石化した体が崩れないようにそっと肩を貸す。

 

「とても嬉しいばかりですが、あの爆発からどうやって生き延びたのですか?」

「残った令呪の魔力を放出して、爆風を弱めました。おかげで体じゅうボロボロですが……それと、マーリン、さん」

「なんだい?」

 

 アナは片足で花の魔術師のもとへ歩いていくと、右手をかざした。

 

「ばん」

 

 砂粒ほどの反物質が弾け、魔術師の胸に大きな風穴を開ける。

 マーリンはぽっかりと空いた胸元を握るように手の指を開閉した。

 

「───参ったな。これは流石に予想外だ……!!」

 

 アナの形が崩れ、黒白の少女に組み変わる。

 偽神サクラはつややかな唇を愉しげに歪め、

 

「はい、ドッキリ大成功〜♡♡ イシュタルさんイジメは分身に任せて、私は一週間前くらいから土と同化してたんですけど……ゴルゴーンが都合よく自爆してくれて助かりました! 今時自爆なんて流行らないと思ってましたが、これは評価を改めなきゃですね。それに変わり身の術、なんてニンジャみたいでかっこよくないです?」

 

 サクラは朗らかな笑顔を浮かべる。

 崩れ落ちるマーリン。弛緩しかけた空気が一気に張り詰める。その場の誰もが動こうとした直前、黒い影が上空より墜落した。

 

「ああ、そうだ。あなたにも用があったんでした」

 

 キングゥ。彼がサクラを襲ったのはゴルゴーンの死に様を揶揄されたからか、単に最も強い獲物への警戒か。

 泥に塗れた爪牙が稲妻より速く振るわれる。しかし、それらはサクラに到達する直前で衝撃そのものがキングゥ自身に反射した。

 自らの攻撃を受け、硬直する獣の首をサクラの細指が掴み取る。そのまま、彼女はもう一方の手をキングゥの心臓部へ突き刺す。

 

「あなたの目的は、私が果たしてあげます」

 

 手を引き抜く。

 その掌中には光り輝く聖杯が在った。

 

「太母を微睡みに誘う魔術師は消え、彼女の核となる聖杯は此処に」

 

 キングゥの体が地面に落ちる。まるで用済みになったものを捨てるように。

 少女の背より広がる灰色の石翼。

 ふわりと、サクラは宙へ舞い上がった。

 

「───ゲームをしましょう。みんなで、楽しい楽しいお遊びを」

 

 腰まで届く白髪を棚引かせ。

 この世のすべてを見下しながら、サクラは微笑んだ。

 

「プレイヤーは多い方が楽しいから────できるだけ無様に逃げてくださいね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ペルシャ湾。金星の女神イシュタルは、海へ注ぐ大河の流れを空から眺めていた。

 水平線へ沈む太陽が世界の色彩を塗り替える。

 茜色の空を望み、女神は盛大にため息をついた。

 

「はあ〜〜……神の武器に頼ったとはいえ、人間だけでゴルゴーンを倒したから、力を貸してあげても良いと思ってたんだけど」

 

 ゆったりと鎌首をもたげ、薄明に浮かぶ月を見遣る。

 

「その前に、貴女に付き合わないといけなそうね」

 

 視線の先には、月を背負う女。

 夕空に舞う、鮮やかな栗色の髪。薄いブラウンの瞳が冷たく光をそり返す。彼女は死人のように血色の失せた肌を、純白の外套で彩っている。

 女は切り結んだ唇を静かに開く。

 

「天の女主人イシュタル。多くの女神の起源となった女神……一目逢いたいと思っていた」

「そう、それは嬉しいわ。今じゃなかったらサインのひとつでも書いてあげたのに」

「───アシェラという神を知っているか」

 

 イシュタルは記憶の糸を辿るように顔を上げる。数秒経って、その眼差しを女へ投げかけた。

 

「私にはアシュタレトの名の方が馴染み深いわ。ええ、もちろん知ってる。アレと私はほとんど同じみたいなものだから」

 

 ああ、そう。金星の女神は納得したように呟く。

 

「微かだけど、貴女との繋がりを感じる。……なるほど、知恵の女神(ソフィア)なんて大層な名前を背負っていると思っていたけれど、そんなものまで抱え込んでいたの」

 

 イシュタルは目を伏せる。続く言葉が互いにとって善くはならないと感じていても、二人はそれを止めようとはしなかった。

 

「───可哀想に。貴女は、総ての人間を救う十字架にすら否定されていたのね」

 

 上空に吹く凍えた風が、さらに冷え込む。

 女は縋りつくように手を伸ばし、あらん限りの力で指を畳んだ。

 

「これは八つ当たりだ。が、私にとって必要なことでもある。人の世の終着のためにな」

「勝てると思う?」

「不安か?」

「まさか」

 

 胎動する魔力。

 戦いの幕開けは寸前。

 ここに、誰も知らぬ殺し合いが始まる。

 

「───術式総覧。書庫を展開。『真理の盤(ソフィア)』接続を開始」

 

 先に動いたのは知恵の女神。

 ぎゅるり、と彼女の周囲の空間が渦巻き、虚空より三冊の本を引き出す。

 それらは夜空に磔にされた、星のような輝きを宿していた。星々は光の尾を引きながら飛び回り、知恵の女神に寄り添うように止まる。

 

「禁書指定『神の理』を第666層まで限定解放」

 

 まるで手品のように、一冊の本が予兆もなくソフィアの右手に収まる。虚ろな白色の装丁。ひとりでにページがめくれあがり、静謐の光彩が昇っていく。

 

「儀式場検索───終了。第36儀式場『鏡面の月(リバースムーン)』を設定」

 

 薄明の空は深い夜空へと。

 月の模様が逆転し、色さえも暗黒に染まる。

 イシュタルは沸き立つ感情を抑え、拳を握り締めた。

 

「テクスチャの貼り替え───それくらいはやってみせるようね!」

「準備は終わりだ。貴女はもはや詰んでいる」

「いいえ、貴女が詰まされるのよ!!」

 

 イシュタルは即座に光弾を放つ。目にも留まらぬ速度で打ち出された弾を、ソフィアは最初から知っていたかのように悠々と回避する。

 その程度で動揺するイシュタルではない。先の射撃は目くらまし。ソフィアの裏を取り、右腕を勢い良く横に薙ぎ払う。

 腕の軌跡に散らばる、十の宝石。色とりどりの石が互いに共鳴し、発光する。

 

「───Anfang(セット)

 

 宝石魔術。魔術の起源としては古代メソポタミアやエジプトにまで遡る、旧き幻想。宝石に魔力を蓄積、流用することで高威力の魔術が一瞬のうちに発動可能となる。

 溜め込んだ魔力の量によっては、人間の魔術師であろうとサーヴァントにも致命傷を与え得る魔術。それをイシュタルが行えば、結果はその何倍にもなるだろう。

 イシュタルは逡巡を挟むことなく、魔力を点火した。

 

Es last frei(解放). Eilesalve(一斉射撃)───!!」

 

 十個の宝石を共鳴させ、魔力を数十倍に高めた一斉射撃。その威力は対城宝具の真名解放をも超える。

 虹色の閃光はソフィアの背へと伸び────

 

「『天の理』、粒子加速」

 

 ────その手前で、上方に軌道を変えた。

 跳ねるように、イシュタルは顎をそらす。ソフィアの頭上に開く黒色の穴。投射した魔力光は欠片も残さず吸い込まれ、ぴたりと穴が閉じる。

 ソフィアが振り向くより速く、イシュタルは大きく距離を取った。

 

「…………今のは」

「ブラックホール、とでも呼べば良いのかな。粒子を衝突させることでほんの一瞬だけ魔術としてアレを創造した。当然、そもそも目に見えない実物のそれとは違うがな」

「光さえ吸い込む暗黒天体───たかが宝石魔術ひとつ防ぐのに、大層な手間をかけたじゃない」

「貴女への敬意だよ。ところで、宝石は全部焼かれたはずだが……投影魔術か。貴女がそれをやると、とても間に合わせの魔術とは呼べないな」

 

 ただ、その場で魔力を込めるだけならば宝石は投影で事足りる。それは年月をかけて魔力を蓄積する宝石魔術の強みを消すことにもなるが、イシュタルの膨大な魔力量がそれを欠点にしていない。

 だからといって、溜め込んだ宝石を吹き飛ばしたサクラへの恨みが晴れるはずもないが。

 ソフィアはあくまでも怜悧に告げる。

 

「次は私の手番だ。『神の理』、術式転写」

 

 右の人差し指をイシュタルへ差し向ける。まるで、銃口を突きつけるように。

 

「これは、貴女の宝石魔術に比べればいささか不格好でな」

 

 ぞくり、と魂が震え立つ。

 突き出した指先。そのほんの小さな一点から目が離せない。

 

「この宇宙はビックバンより始まり、今もなお膨れ上がっている。その膨張速度は諸説あるが、約326万光年あたりに毎秒75kmと言われている」

「有り難い講釈をどうも! 宇宙博士にでもなったらどうかしら!?」

「───この魔術は、宇宙を広げるエネルギーをほんの爪の先ほど掠め取る」

 

 その時、指先に小さな光球が発生する。

 点にさえ見える光の粒。それはしかし、周囲の時空を歪め、シュルレアリスムの絵画のように風景を歪曲させていた。

 宇宙の膨張。ビックバンから続くエネルギーは今もこの世界を広げている。

 だが、終わりはある。宇宙を広げるエネルギーが有限ならば、それを使い尽くした時、宇宙の膨張は止まり、収縮へと向かう。

 それこそが世界終焉の形のひとつ、ビッグクランチ。ソフィアが発動させようとしている魔術は果てしなく微小なれど、それを招きかねないモノだった。

 宇宙の膨張を否定する。

 故に、その魔術の名は。

 

 

 

「『逆行起源・天地収斂(ネガ・インフレーション)』」

 

 

 

 宇宙から掠め取ったエネルギーを置換魔術によって魔力へ変換し、撃ち放つ。

 言ってしまえば、二工程の魔術。

 だがしかし、ソフィアが放った光は水平線の彼方まで吹き飛ばし────ペルシャ湾の総水量の30%を蒸発させた。

 

「く、うっ…………!!」

 

 眼下の惨状を気にする余裕もない。イシュタルは魔術の阻止も迎撃も諦め、回避のみに専念していた。

 命を繋ぎ止めた代償は右手右足の蒸発。即座に治癒魔術を発動し、傷口を止血する。加えて、投影した宝石を手足の形に整え、義肢として機能させる。

 イシュタルは砕けんばかりに歯を噛み締め、噛み付くように吼えた。

 

「よくもやってくれたわね!! 今まで引き篭もってたくせに、いざ出てくるとこう! これだからニートは困るのだわ、どこかの冥界女みたいに!!」

「エレシュキガルか。一応言っておくが、世間的にどちらがロクデナシと言われるかは理解しているか?」

「はああん!? なにその言い草! 今ので完全に同情心が失せたわ! じっっくり叩きのめしてあげる!!」

「叩きのめされる、の間違いだろう?」

 

 返しの言葉も上の空。イシュタルは怒濤の勢いで攻め立てる。

 光の矢と宝石が宙に星空を描き出す。絢爛なる攻勢にまさしく、金星の女神と呼ばれるに相応しい光景だった。

 ソフィアは機械的に、ひとつひとつの攻撃を潰していく。血肉を削り合う戦場にあって、しているのは戦闘ではなく作業だとでも言うかのように。

 

「『山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)』!!!」

 

 金星という概念を掌握し、弾丸として射出する超絶の宝具。巨大という表現も生温い金星の総質量に等しい弾を、超高速でソフィアへ叩きつける。

 たとえ暗黒天体を創ろうと、すべてを呑み込むことはできない。ソフィアは一切の防御を砕き散らす光条を前にしても、焦りの色を浮かべさえしなかった。

 

「術式参照、次元跳躍」

 

 知恵の女神は三次元を逸脱し、銃弾をやり過ごす。

 異次元の回廊を通り、イシュタルの背後へ。

 この次元で魔術を使っても、敵が存在する三次元に干渉することはできない。

 無論、知恵の女神はその程度の障壁をくぐり抜ける術などいくらでも知ってはいたが────イシュタルを倒すならば、対等の位置で、確実に、言い訳のしようもなく敗北したと思わせなくては、意味がない。

 なぜなら。

 そうでなくては、彼女を慈しめない。

 ───常人には至れぬ結論を胸に、とどめの術式を組み上げたまま三次元上に姿を現す。

 

「───そこっ!!」

 

 イシュタルは待ち兼ねていたように振り向き、宝石を解き放った。

 液体のように流動するエメラルド。それを喩えるなら、ウォーターカッター。翠の斬撃が、ソフィアを襲う。

 頭部を袈裟に分かつ刃は、触れる寸前で弾けた。

 念には念を。仕込んでいた防御術式の起動。安堵しかけた心はしかし、瞳に映る未来が揺さぶりかける。

 知恵の女神は反射的に目を瞑って顔を背けた。

 視た未来に現在が追いつく。イシュタルは固く握り締めた拳を、ソフィアの顔面目掛けて振り抜いていた。

 鋭い拳撃が頬を掠める。

 真っ白な肌を伝う血液。

 次撃は当たる。その確信は、ソフィアの魔導書が投射する魔弾に阻まれた。

 

「……目を閉じて顔を背けるなんて、案外可愛らしいところがあるじゃない。ペルシャ湾を干上がらせた人間とは思えないわ」

 

 知恵の女神は目を見開いたまま、両腕で自分を抱くようにして硬直していた。額に汗が滲み、ゆっくりと頬の傷に手をかざす。

 小さな切り傷は見る間に修復される。ソフィアは深く息を吐き、怜悧な眼差しを向けた。

 たったひとつのかすり傷に動揺する様を見て、イシュタルは呟く。

 

「……貴女、もしかして」

 

 すぅ、とソフィアは空気を吸い込み、その言葉を遮る。

 

「今の貴女は、とある少女を依り代にした存在だ。ただしそれは肉体だけであって、魂はイシュタルそのもの……意識はいくらか混ざっているようだが」

「はあ、それがどうしたの」

「イシュタル。貴女が世界の裏へ隠れたのはいつの時代だ? ギルガメッシュが神との訣別を成し遂げた時か、アーサーの王国が滅びた時か……」

「少なくとも後者は有り得ないわね。その時にはもう、神霊が存在できる環境ではなくなっていたから。メソポタミアの神々が消えたのはもっと昔」

「では、キリスト教の洗礼を受けたことは?」

「ある訳ないでしょ!!」

 

 ソフィアは小さく唇を吊り上げた。

 

「そうか。ならば、私の勝ちだ」

「───は?」

 

 知恵の女神、その右手が淡い光を纏う。

 それは微弱ながらも、透き通るような神性を湛えていた。

 

「ベツレヘムの星が輝いたあの日、ひとりの男が産まれた。やつはその最期に命を賭して、人類の原罪を持ち去った」

 

 ───そもそも、原罪とは。

 最初の人間アダムとイヴが神に背き、知恵の木の実を食した罪を指す。それ以来、アダムから受け継がれた血を引く全ての人間は、その魂に原罪を刻まれ生きてきた。

 それを取り払ったのが新しきアダム、かの救世主だ。彼が磔刑に処されたことによって人類を戒める原罪は消え去ったのである。

 イシュタルは腕を組んだままその話を聞いていた。とんとんと人差し指を忙しなく上下させ、苛立たしげに言う。

 

「知恵の女神だけあって、知識を披露するのが好きみたいね。いつまで聞いてればいいわけ?」

「ではオーディエンスに質問しよう。ダンテの神曲を読んだことは?」

「ない!!!」

「ダンテが訪れた地獄の第一圏には、洗礼を受けなかった人間が置かれている。ホメロスやウェルギリウスなどの救世主生誕以前の人間もな。分かるか、十字架の救いはそれを信じる機会が無かったというだけで、その人を切り捨てる」

 

 つまり。

 ソフィアは一瞬で距離を詰め、イシュタルの胸元に右手を当てた。

 

「〝新しき歌を主へと捧げよ。主は驚くべき偉業を成し遂げられる。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされる〟────『天の落涙(ヘヴンズティアー)』」

 

 右手の光がイシュタルへ乗り移る。女神は思わず、後方へ飛び退いた。彼女は赤面して胸元を手で庇う。

 

「な、なにをしたの!?」

「救世主の代わりに審判を施した。生前に悔い改めなかった者は地獄へ落ちる。……さて、貴女は洗礼を受けたことがなかったのだったな?」

 

 イシュタルは唇の端を引きつらせる。

 

「───ま、さか」

「その通りだ。冥界へ落ちろ、イシュタル」

 

 洗礼を受けていない人間を強制的に冥界へ叩き落とす、審判の術式。依り代の少女ならばともかく、イシュタルが洗礼を受ける機会などあるはずもなく。

 

「……なっ、なによそのインチキはーーっ!!?!?」

 

 光に包まれたイシュタルがその場から消える。

 目を丸くして、口を大きく開き、青褪めたその顔を見届け、ソフィアは踵を返す。

 知恵の女神はじとりと、ペルシャ湾を眺める。その海底を見透かすような瞳は淡く発光していた。

 

「喜ぶがいい、ゴルゴーン。貴女の願いは叶う」

 

 花の魔術師も、金星の女神も退場した。

 もはや厄介な障壁は存在しない。

 これより、人の世の滅びが始まる。

 

「───これでも、未来は明るいか? ギルガメッシュ」



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第72話 アテナ様の冥界案内ツアー

 ウルク王殿、玉座の間。

 その日、ギルガメッシュが鎮座する王宮は慌ただしさに包まれていた。草木も眠る夜更けに見合わぬ騒々しさである。

 右から左へ、前へ後ろへ錯雑する人の群れ。声が紛糾し、雑音が絶えることなく辺りに反響する。普段なら王の一喝が飛ぶところだが、彼は目を閉じたまま玉座に腰を落ち着けていた。

 寝ている、のではない。

 そもそも王の就寝を邪魔する者は問答無用で王宮から叩き出される。三女神同盟との戦いが始まってから彼がまともに寝たことは片手で数えられる程度だが。そのせいか、彼の顔色は死人のように白く、目の下には黒々としたクマが浮き出ている。

 その沈黙はおよそ二十分ほどは続いていた。

 金色の秀眉が逆立つ。

 左の人差し指が肘掛けを軽く叩く。

 ギルガメッシュはゆっくりとまぶたを開き、小さく舌打ちをした。

 

「この眼差し……幾度か見覚えがある。ついに馬脚を現したか、女神の成り損ないめ」

 

 未来視の能力を有する者は時として同じ世界を観測することがある。その結果、彼らの視線はぶつかり合い、互いに互いを認識する。

 時間軸を超越した繋がり。常人にはけして及びもつかぬその感覚を以って、ギルガメッシュは未だ見ぬ敵の影を掴んでみせた。

 そしてついでに。玉座の間に集まる部下たちへと告げる。

 

「壁の端に寄れ。十秒以内だ」

 

 簡潔に過ぎる命令。しかし、その言葉は周囲の喧噪を真っ二つに断ち切り、静まり返らせた。王の命を受けた彼らはすごすごと壁にへばりついていく。

 ぱちん、とギルガメッシュは指を打ち鳴らした。一見不可解なその動作は彼が寝る間も惜しんで改良したウルクの結界を解くものであった。

 すると、瞬く間に王宮の天井が崩落する。

 広間の中心にぽっかりと空いた隙間。そこに瓦礫とともにいくつかの人影が連なって落ちてくる。それはまるで下手な落ち物パズルみたいに不格好な塊を形成した。

 

「きゃあーっ♡ 落ちてしまいますわペレアス様っ♡ いつものように熱く激しく抱きしめていてくださいませっ!!♡♡」

「どちらかというと抱きしめているのはリースさんです。ペレアスさんの顔が紫色になっています。わたしのように」

フォウフォフォフォウフォウ(なすびであることを受け容れるな)

「つーか重いわ! マシュマロなすびの盾の先っぽが背骨削ってきて痛いし! とっとと離れなさい!!」

 

 ギルガメッシュが望む理想の宮殿にはまったく相応しくない声が次々と響き渡った。ちなみにダンテは下敷きにされ、白目を剥いて気絶している。

 人が重なる山の中腹。立香は口をとがらせて、横にいるノアへと文句を付けた。

 

「リーダー。こう言ってますけど、もう少し着地地点を考えられなかったんですか。第六特異点の時の二番煎じになるところでしたよ」

「あいつが追ってきてる中でいちいち細かく設定してられるか。ただでさえ全軍にロケッ……飛行のルーン掛けたんだぞ、雑兵と俺たちを分けるので精一杯だ」

「いまロケットって言いませんでした?」

「ですが、とても助かったことは事実です。兵に被害を出さずに逃げられましたから。テルモピュライの時にあれば……」

「鞍馬山で修行すれば空くらい飛べますよ?」

 

 そう言って、牛若丸はするりと山を抜け出した。微妙かつ緻密なバランスを保っていたそれは彼女の離脱によって、一気に崩壊する。

 雪崩を打って床に転がるノアたち。ギルガメッシュは崩れ去るジェンガを想起しつつ、静かに問う。

 

「エレイン、ゴルゴーンとの戦いの顛末を報告せよ」

「……了解いたしました」

 

 エレインは努めて淡々と語り出す。

 黒化したキングゥ、ゴルゴーンとアナ、そしてサクラがマーリンを手にかけ、キングゥから聖杯を奪取したこと────挙句、彼女は北壁を破壊し、ウルクの軍へ追撃を図った。

 そこで、ノアは第六特異点の際に使用した飛行のルーンで味方を逃がしたのであった。ウルクの兵たちは今頃街の外に墜落しているだろう。

 ギルガメッシュは肘掛けを指で叩き、ノアたちを受け入れるために解いた結界を張り直す。目頭を数度揉みほぐすと、一息ついて口を開いた。

 

「───またしてもサクラか!!!」

 

 その場の全員が思わず肩を震わせるほどの声量で、王は叫んだ。

 簡潔。しかしながら、多くの人間の心情を代表するかのような言葉。ノアと立香は腕を組んで、こくこくと頷いた。

 

「初めて気が合ったじゃねえか。あいつは顔出してからこっち、俺たちの邪魔しかしてこなかったからな。カレーについてるらっきょうみたいなもんだからな」

「らっきょうを邪魔者扱いしないでください。まあ、あんな見た目してやってることは掲示板の荒らしみたいなものですけど」

「く───まさか貴様らのような雑種と心を共にするとは……!! この屈辱、奴の魂魄を万回切り裂こうとも拭えるものではないぞ!!」

「あの、それはそれとして、マーリン様が討たれたことはよろしいのですか?」

 

 シドゥリは言いづらそうに口を差し挟んだ。ノアと立香という雑種二大巨塔と同レベルなことに苦心していたギルガメッシュはすっと表情を戻して、

 

「無論、良いとは言えぬ。だがアレとエレインとの間にはひとつ策を仕込んでおいた。過度な悲嘆や憂慮は不要だ」

「『策、ですか。ボクたちに共有したりは……』」

「すると思うか、魔術師。そこの羽より軽いであろう口を持つ雑種どもに秘奥を教授しろと?」

「『そうですね、ボクが間違いでした!』」

「ドクター、少しは粘ってください」

 

 マシュは秒で降参したロマンに冷ややかな視線を向けた。が、彼女こそカルデア中の弱みという弱みを握ろうとしている悪の権化である。口の軽さではマスターコンビにも劣らないだろう。

 エレインはリースによって酸欠状態になっていたペレアスを救出すると、Eチームに言った。

 

「ウルクにおいて、最も命の価値が低いのは私とマーリンよ。私たちは今も生きているし、サーヴァントの体は写し身に過ぎないから」

 

 さもそれが当然であるかのように。

 感慨もなく、彼女は言い切ってみせた。

 それに対して、立香たちはむっと眉間をしかめる。

 

「おっと、それは禁句ですよ! 体は偽物でも心は本物なんですから!」

「ええ、私なんて正規の英霊とは言えない身の上だもの。今も生きてるとか生きてないとか関係ないでしょ、それ」

「まったくお二人の言う通りですねえ。命に価値をつけること自体ナンセンスです。それに、強さで言えば真っ先に処刑されるべきは自分ですからねえ!!」

フォフォウ(泣くなよ)

 

 というやり取りを生温かい目で見守っていたペレアスは何の気なしに口をこぼす。

 

「まあ義姉さんが大事なのは当然として、サクラはどうしてキングゥから聖杯を奪ったんだ? また自前の特異点でも創ろうとしてるのか?」

 

 その疑問は的を得ていた。

 サクラは肉体そのものが聖杯の機能を有しているが、前回の特異点ではスサノオの神剣によって自らが創り出した世界を切り刻まれた。特異点とは人理焼却という事態だからこそ、相応の規模をもって発生することができる。微小なものならばともかく、今更大きな特異点を人類史に打ち込む隙間はありはしない。

 だが、キングゥの聖杯を用いてこの特異点を作り変えることならば───造物主たるサクラには造作もないことだろう。

 ギルガメッシュは首を横に振った。

 

「その可能性も否定できぬが、聖杯ほどの魔力リソースを手に入れたならば、行動は決まっている……ティアマトの復活だ」

「もちろん、ゴルゴーンの方ではないんでしょうねえ」

「そうだ。聖杯という魔力炉心を得たティアマトは即座に覚醒する。今までは海の底にて眠りについていたが、ひとたび動き出せばティアマトは地上の生命を一掃するまで止まらぬだろう」

 

 創世母神ティアマト。地上のあらゆる生命の母であり、大洪水を起こす荒れ狂う竜とも形容される海洋の神。海の豊穣と暴虐、その二面性を持つが故に彼女は優しく寛大な神として描かれることもあれば、メソポタミアの神々と争ったように苛烈な側面を覗かせることもある。

 ですが、とロマンは疑問を呈した。

 

「『ティアマトに神々を滅ぼす理由はあっても、人間を滅ぼす動機はないように思えますが』」

「ハ、それこそ人の傲慢というものよ。地球の支配種たらんとする人間にとって、新たな生命、新たな霊長を産み出す母神など滅びの種にしかすぎぬ。故にティアマトは切り捨てられ、封印されたのだ」

「……ということは、ティアマトは自分自身を切り捨てた私たちに復讐すると?」

 

 ダンテの考えに、ギルガメッシュは首を縦に振って返した。それと同時に、詩人の顔から急速に生気が消え失せる。

 封印されていたティアマトが復活する。それはつまり、英霊を劣化した状態で喚んだサーヴァントとは異なり、真性の神が相手となるということ。

 その脅威は今までのどの敵を対面に置いたとしても、比較になるかどうか。ダンテは殺虫剤を吹きかけられたゴキブリみたいに悶えた。

 

「お、恐ろしい……ッ!! 殺意の波動に目覚めたティアマトなんて明らかにサタンレベルの恐怖度なのですが!? 誰かウェルギリウス先生を呼んできてください!!」

「お前のサタンどこにでも出てくるだろ。この前なんてY○uTubeの広告もサタンとか言ってたじゃねえか」

「ペレアスさん、それはサタンはサタンでも貴重な時間を奪うサタンです! 人命を奪うサタンとは天と地ほどの差が隔たっているのです!!」

「それアンタからしたらこの世のすべてがサタンなんじゃないの?」

 

 ジャンヌの鋭い一言がダンテの背中から胸を抉る。動画サイトの広告は最短でも5秒を我々の人生から収奪する悪魔の化身である。知恵の実をロゴにしたどこぞの会社の広告などはサタンにも等しい。

 ダンテが思わず信仰心への疑念を抱いていると、ノアと立香、マシュはどこからか持ってきた果物をしゃくしゃくと頬張りながら言う。

 

「そもそも自分で産んどいて自分で殺すとか何考えてんだ? モンスターペアレントにも程があるだろ。地球規模の児童虐待とか聞いたことねえぞ」

「もしかしたら寝起きで機嫌が悪いのかも? 私も朝は低血圧ですし、何度歯ブラシを鼻に突っ込んだことか分かりません」

「先輩、話が大幅に変わっています。ただのドジを披露したことになってます」

「……待て、貴様ら。その手に持っているものはなんだ」

 

 ギルガメッシュは額に青筋を浮かべながら、ノアたちを睨みつける。彼らは目を合わせると、ある一点を指差した。

 その指の先には絢爛の装飾が施された金ピカな祭壇。台の上には金銀宝石から家畜の肉まで、豊富な資源が所狭しと並べられている。

 王はわなわなと五体を震え立たせる。肩口より発せられる怒気は宮殿全体を振動させるかのような圧倒的なエネルギーを秘めていた。

 神気にも等しい意気に当てられ、マスターコンビとなすびの擬人化はごくりと口内の果物を飲み込んだ。そんなアホ面を晒す三人に、ギルガメッシュは目を見開いて叫んだ。

 

「それは我への進物だアホどもがァーッ!!!!」

 

 この時代に窓ガラスがあれば、ことごとくが吹き飛んでいたのではと思わせる怒声。音が暴風と化して吹き荒れ、髪が煽られる。

 怒鳴られることに慣れているノアと、先生に叱られる前の雰囲気を感じ取った立香は先んじて耳を塞いでいたが、マシュだけはその怒声をまともにくらってしまう。

 ふらふらと立ち眩みを起こすマシュ。ギルガメッシュはなぜか口を大きく開けたまま佇んでいた。

 

「…………あ、かっ」

 

 王はか細い声を絞り出して、直立した状態で固まる。

 部屋が嘘のように静まり返る。静寂の真っ只中にあってもなお、ギルガメッシュは石化の魔眼に魅入られたみたいに無反応を貫いていた。

 シドゥリが血相を変えて駆け寄り、ギルガメッシュの首筋と手首に手のひらを当てる。

 立香は愛想笑いをしながら、

 

「……ど、どうしたんですか?」

「死にました」

「ええええええええええ!!?!?」

 

 ギルガメッシュ王、まさかの臨終。

 玉座の間に詰めていた誰もが耳を疑い、どよめきが場を埋め尽くす。

 ノアは王の遺体に近づくと、じっくりとその全身を観察する。数秒経過して、彼は死んだ魚のような目で告げた。

 

「よし、おまえら葬式の準備しろ」

「おいマジで死んでんのか!? ギルガメッシュ王が!? あんな死に様オレでも見たことねえぞ!!」

「どうやら叫んだ時に脳みその血管が切れたらしいな。くそっ、人間ドックさえ受けておけばこんなことには……!!」

「それお前らのせいじゃねーかァァァ!!!」

 

 ペレアスは渾身の飛び蹴りをノアの顔面に見舞った。彼は転倒したマスターに流れるようにマウントポジションを取る。

 元凶の仲間である立香とマシュの脳天には、フォウくんによる二段蹴りが叩き込まれた。

 凄惨な打撃音が響く中、エレインは口元に手を当てて考え込む。

 

「そういえば、王の顔色が悪かったわね。ずっと重労働をしていたせいで、もともと限界だったんじゃないかしら。遅かれ早かれ死んでいたと思うわ」

「確かに、いつもよりも王の筋肉が悲しげに見えました。あれが最後のSOSだったのかもしれません」

「こちらのお葬式の文化は土葬でしたっけ? 鞍馬山で風水も齧ったので、良いお墓の場所を選んできましょうか?」

「牛若丸さん、その必要はありません」

 

 シドゥリは涅槃の境地に達したかのような悟り顔で、声を響かせる。

 

「現代のブラック企業を揶揄する言葉として〝死ぬまで働け〟という文句があるそうですね」

「『オルガマリー所長の口癖のひとつでしたね。もはやカルデアのスローガンと言っても間違いないです』」

「それならば、ウルクのスローガンは〝死ぬまで働け〟ではなく〝死んでも働け〟!! 王には冥界から連れ戻してでも働いてもらいます!!」

「『究極のブラック企業───!!!』」

 

 空中に投影されたスクリーンをロマンの驚き顔が占拠する。死んでも働かされることに何か思うところでもあるのか、その表情は迫真極まっていた。

 シドゥリは怒涛の勢いで指示を飛ばす。

 

「Eチームの皆さんはクタ市から冥界に行って王を連れ戻してきてください! 他は私とともにウルクの日常業務です! 三日三晩の不眠不休は覚悟しておくように!!」

 

 その様はトップクラスの英霊もかくやとばかりの覇気を放っていた。呆けた顔をしていた同僚たちも、シドゥリに圧倒されて慌ただしく動き出す。

 世が世なら王様にもなれたのでは。今のシドゥリはエレインがそんな感想を抱くほどの働きぶりをしていた。

 ともかく、ウルクの意思決定をすべて担っていたギルガメッシュの崩御が与える影響は大きい。シドゥリひとりで回らないのは確かだ。

 エレインは玉座の横に移動しつつ、マーリンから受け取った小瓶を取り出す。

 

「牛若丸とレオニダスは街の外に落ちた兵を再編成して、周辺の警備をお願いできる?」

「もちろんです、エレイン殿。さんすうドリルで鍛えた私の計算力をご覧に入れましょう」

「え、ええ。期待してるわ」

「エレインさん、それは一体?」

 

 牛若丸は小瓶を覗き込んだ。水晶で拵えられ、透明な液体を閉じ込めたそれは周囲の光を複雑に照り返していた。エレインは薄く笑みを広げて答える。

 

「月の雫……とある霊薬の素材よ。出来上がったらあなたにも見せてあげる」

 

 かの妖精郷においても、入手の難しい幻の品。出処はマーリンがモルガンのところから盗み出したものだということは伏せておいたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウルク北壁周辺。人類と魔獣の絶対防衛線であった面影は今や見る影はなく、人も獣もその土地から消え失せていた。

 響く音は荒涼と吹く風のみ。戦いの影響でめくれた地面から砂が起こり、風の流れに乗って空へ舞っていく。

 薄寂れた荒野に、四つの影があった。

 ひとつは黒白の少女。四つん這いになった黒いきぐるみの女の背を踏み締め、対面を見下ろす。

 偽神の瞳が射抜くのは、純白の外套を纏った女。彼女はぐったりと倒れ込んだ緑髪の獣を膝の上に乗せ、慈しむように髪を撫でていた。

 一方が差し向ける視線の刃を、もう一方は気にも留めずに受け流す。その静かな戦いはおよそ10分以上は続いていた。きぐるみの女は手足を高速振動させる。

 

「あ、あの、そろそろこの体勢がキツくなってきたんですが」

「黙りなさい、アホ下僕」

 

 サクラは足先でブラックジャガーマンの背中をぐりぐりと踏んだ。

 

「ギニャアアアアアア!! 痛っった! そこツボ、ツボだから!」

「あら、随分と疲れが溜まってるみたいですねぇ〜? せっかくなのでもっとしてあげます♪」

「うがあああああ!! あっ、ちょっと痛気持ち良くなってきた!!」

「足でイジメられて気持ちよくなっちゃうなんて、はしたないケモノですね。最低最悪な無様を晒す覚悟はできてますか?」

「くっそぉ〜……!! タグにR-18なんて付けていないというのに……!!」

 

 などと意味の分からないことを宣うテペヨロトル。サクラの足が一層強く、彼女の背中を突き刺した。というかほぼ蹴りつけていた。

 テペヨロトルの絶叫をよそに、黒白の少女は視線にさらなる力を込める。そして、彼女は苛立ちとともに目の前の女へ言いつける。

 

「───で、そこの眠りこけてるお人形さんを渡してくれません? 処分するので」

 

 女は怜悧な目を返し、くすりと笑う。

 

「敗者に鞭を打つなよ。造物主ともあろう者が狭量だとは思わないか?」

「あいにく、私は下々の評価なんて気にしないタイプの神様です。昨今はコンパクト化も進んでますし、小さい器って見た目も可愛らしいと思いますけど」

「それもひとつの考えようだな。私にはお前が可愛らしくは見えないが」

「良いんですよ、それで。私のことは恐れてもらわないと。神様ってそういうものでしょう。ねえ、テペヨロトル? 私恐いですよね?」

「恐いというか痛いです!!」

 

 サクラは手中に鞭を創造し、テペヨロトルの尻を弾いた。

 女はため息をつくと地面にキングゥの体を横たえ、彼を庇うように立った。自身の周囲に三冊の魔導書を展開し、黒白の少女を睨む。

 

「私にもいくつか矜持のようなものはある。キングゥを殺すというのなら、こちらも剣を抜かざるを得ないぞ」

 

 清廉な殺気。テペヨロトルはぞくりと背筋を粟立たせ、空気が冷え込むような感覚を覚える。

 しかし、サクラはどこ吹く風だった。眉間にしわを寄せて唸り、唇に人差し指をあてがう。

 

「……う〜ん。これ、戦う雰囲気ですか?」

「確実にそうっすよ! あの女殺意マシマシじゃないっすか!!」

「うんざりなんですよね、そういうの。私を倒せる人なんてどこにもいないじゃないですか。何回も意味ない攻撃されて、ノイローゼ気分です」

「この女、やる気が死んでいる……!!」

「はい、後でおしおきです。───ってことなので、戦うのやめておきますね。スプラッタとかグロとか今更流行らないんで」

 

 サクラは屈託のない笑みを浮かべて、そう告げた。女からの返答はなく、そのかんばせには微塵の感情と滲んではいなかった。展開した魔導書を収め、彼女は問う。

 

「サクラ。お前はこの世界で何を成す」

 

 黒白の少女は一拍置いて返事をする。

 

「とりあえず滅ぼしますよ、この特異点も、魔術王も、世界も。そして私だけの遊び場(セカイ)を創って───ああ、藤丸立香さんだけは残してあげてもいいですね。あのアホ面が涙でぐちゃぐちゃになって歪んだところを愛してあげたいです」

 

 酷薄な、それでいて恍惚とした響き。

 少女の白い肌がほのかに赤く染まる。その声音は未だ見ぬ逸楽に震え、紅き瞳は現実でなく空想こそを見つめていた。

 女はほんの数瞬、思案を巡らせた。彼女の思考の過程と結果は余人に知る由もなく、ただ口角を吊り上げることで感情のみを表現している。

 サクラにさえ及びのつかぬ意図。黒白の偽神はぷくりと右の頬を膨らませた。

 

「何を笑っているんです? 授業中に自分の世界に入って通信簿に書かれるタイプの人ですか?」

「ああ、私は学校に行ったことがなくてね。通信簿を書いてもらうのが夢だったんだ」

「そういう話じゃなくね?」

「冗談だよ。ところで、お前。シモンに大分肉体を弄くられたようだな」

 

 サクラは己の下腹部に刻まれた紋様に目を向ける。その赤い刻印を指でなぞり、こくりと頷く。

 

「どうやらそうみたいですね。私はその人に会ったことはないですけど。私を送り出したのも名前をつけたのも、ワカメみたいな髪の毛した人ですから」

「その刻印は『秘儀・聖体化(サクラメント・カリス)』。臓器を聖母マリアのカタチに整形し、聖杯としての機能を付与する術式だ」

「……へえ、それがどうしたんですか?」

 

 ソフィアは白の外套を掴み、肌をさらけ出す。

 柔らかな曲線を描いた腹部。その臍の下にはサクラと全く同じ刻印が施されていた。

 思わず目を細める少女に、女は伝える。

 

「同じ(はら)を持つよしみだ。お前の行く先を見届けてやる」

 

 サクラは妖艶に微笑み、

 

「……行く先を見届ける、じゃなくて、自分が視た未来と同じになるか確かめる、でしょう? 言っておきますけど、私はいずれあなたも殺しますよ」

「それでいい。お前がその未来を紡げるならな」

「いいえ、違いますね。───創るんです、私の理想の未来を」

 

 ほぼ同時に、二人は空の向こうに視線を飛ばした。遥か彼方、海洋の底にて眠る母なる神を望むように。

 テペヨロトルは背中にサクラの体重を感じながら、滝のように冷や汗を垂れ流した。そして、心の中で本音を盛大に撒き散らす。

 

(……めっっちゃ逃げてぇ〜〜!!!)

 

 ───だって、サクラの理想は自分の理想じゃないし。

 テペヨロトルは欲望に塗れた思考を募らせつつ、サクラとソフィアを運ぶのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 クタ市は冥界神エレシュキガルを信仰する街である。

 かつてノアたちがクタ市を訪れた時は住民も家畜も冥界に呑まれていた挙句、キングゥの宝具によってクレーターとなった呪われた場所だ。

 ギルガメッシュ臨終に際し、Eチームはまたしてもクタ市を目指すことになった。エレインが氷で造った馬車に揺られること二日半、彼らはクタ市こと巨大クレーターに到着したのだった。

 神や人間が冥界に下る話は世界各地で数多く認められる。ギルガメッシュやイシュタル、ギリシャ神話のオルフェウスなどはその最たる例であろう。我らがEチームのダンテも冥界経験者のひとりだ。キリスト教世界では第一人者と言っても良い。

 日本にも冥界に下ったイザナギが、腐り果てた妻の姿を見て逃亡する神話が存在する。〝儂の父ちゃん酷くね?〟とはスサノオの言である。

 つまりは、神や英雄であろうと無事では済まないのが冥界なのだ。前回はエレシュキガルを強請ることで事無きを得たが、今回は違う。

 ギルガメッシュを取り戻すため、冥界を攻略する。Eチームはかつて多くの英雄が敗れた偉業に挑むのだ────!!!

 

「……いや、無いだろアレは。あそこで死ぬのは無いだろ。あんだけ強キャラ感出しといてアレは絶対に無いだろ。仮にもギルガメッシュだろうが、死ぬならせめてビッグブリッヂで死闘を演じてからってのが筋だろ」

 

 クタクレーター周縁。すり鉢状に抉れた大地を眺めて、ノアは独りごちた。彼はクレーターの縁に体育座りでへたりこんでいる。

 その横にはまったく同じ体勢の立香とマシュ。二人は虚ろな目をして、どこか遠くの空をぼんやりと見つめていた。時間が経ってようやくギルガメッシュの死を現実として受け止めた立香は普段の快活さからは予想もつかないほどに静まり返っていた。

 

「あ〜あ、これで私も人殺しかぁ……ジャンヌは私が捕まったら毎週少年院にジャンプ差し入れに来てね」

「漫画の展開より自分の将来を心配しなさいよ!?」

「既に終わっていることに目を向けるのは建設的とは言えません。それに先輩はレフさんのとどめを刺したので二殺目です。アレはもはや魔神でしたが」

「…………魔神殺しの立香ってかっこよくないですか、リーダー」

 

 すべてを諦めた目でニタリと笑う立香。ノアは乾いた笑い声を夕焼け空に響かせて、

 

「だったら神殺しのヤドリギを持つ俺と、前科持ちコンビでも組むか? 中国で贋札偽造犯として指名手配されてるしな」

「良いですね! これからのEチームはアウトローで売っていきましょう、ボニーとクライドみたいな感じで! 他のチームにはない魅力ですよ!!」

「「……ブヒャヒャヒャヒャ!!」」

「『いやキミたちはもともとアウトロー街道爆走してるからね!!?』」

 

 ロマンは完全に機能停止したアホマスターコンビに食ってかかった。何しろこの二人は平和だったカルデアの治安をスラムの路地裏レベルにまで低下させた、アウトロー中のアウトローである。通信を聞いていた職員たちは一斉に同意した。

 兎にも角にも、人理修復の要であるマスターが発狂しているのはいただけない。しかもその横にはなすびまで添えられているのだから。

 ここはサーヴァントとしての器量を見せる場面。ペレアス夫妻とダンテ、ジャンヌはおぞましい瘴気を放つ三人ににじり寄る。

 

「そ、そこまで気にすることはありませんわ。ああ見えてギルガメッシュ王は老齢なので、近く訪れる定めだったのでしょう」

「そうだな。つまみ食い癖はどうかと思うが、食欲旺盛なのは良いことだ。王様とかほとんど腐ってる肉でも貪り食らってたからな」

「生きていればこういう不幸な偶然もあります。私なんて出張から帰ってきたらフィレンツェが黒党に支配されてましたからねえ!! どうか元気になってください!!」

「いつでもどこでもアホなのが取り柄でしょ。アホですらなくなったアンタらなんてただの悪魔なんだから、さっさと元に戻りなさい」

 

 こん、と旗の先がマシュの頭を軽く打つ。鉄の塊をつむじに落とされた彼女は頭を抱えてのたうち回った。

 

「んんんん!! Aチーム主席のわたしの頭脳がッ!!」

「嘘つけおまえがキリシュタリア以上なわけねえだろ」

「まだ残ってたんだ、その設定。清楚さと一緒に消えたと思ってたけど」

「何を言っているんです!? わたしの成績はカンニングでもデータ改竄でもなく、れっきとした実力です! 獲るべくして獲った主席です! ドクターも何とか言ってください!!」

 

 ロマンは優雅にコーヒーを啜り、某特務機関総司令のように両手を組んだ。

 

「『……ホント、なんで主席になったんだろうね? ボクの考えではダ・ヴィンチちゃんかベリルくん辺りがちょっかい出すために試験のデータを書き換えたとしか────』」

「ドクター、わたしが帰還したらマジで地獄を見せるので覚悟してください」

「『ノアくん、立香ちゃん、助けてくれ』」

「そろそろ冥界に行くか、立香」

「はい。ドクターの代わりに下見しておきましょう」

 

 ロマンの嘆願を無視した二人は何事もなかったかのように立ち上がる。通信機からとてつもない絶叫が轟き、管制室の職員たちは音を一旦ミュートにした。

 Eチームはクレーターを滑り降りる。前回は赤熱化していた地面も冷え、岩石が砕かれた砂に覆われていた。

 Eチームのほとんどは無事に窪地の中心に到達する。唯一、坂から転がり落ちたボールみたいに下ってきたダンテを、ペレアスは足でトラップする。

 

「……で、どうやって冥界に降りる? 前はノアの魔術で地面を掘ったよな」

「今回もそれで行くぞ。───投影、『金鉄の神猪(グリンブルスティ)』」

 

 ノアは腕輪を投影し、そこから巨大な金色の猪を造り出す。グリンブルスティは鋭く伸びる牙を地面に押し当てて、猛烈な勢いで掘削を始めた。

 その光景を見て、ダンテはほろほろと溢れる涙をハンカチで拭き取る。

 

「おお、今まで活躍の機会を得られなかった彼がこんなにも……!!」

「流石にトップサーヴァントの相手は荷が重いですもんね。こういう土木作業なら大活躍ですよ!」

「仮にも俺の術式だからな。そこの犬だか猫だか分からねえ化け物とは違うってことだ」

フォウ(おい)

 

 フォウくんがノアの顎を蹴り上げた瞬間、クレーターの中央から何本もの杭が突き出した。

 灼熱の雷撃を纏う槍の穂先。それらはグリンブルスティを貫き、その熱を以って融解させる。

 融けた黄金の雫がノアの手首に戻る。辺りを照らす雷撃が収束し、その光を失う。すると、どこからともなく灰色の幽霊が飛んできて、一枚の粘土板をEチームに叩きつけた。

 そこにはエレシュキガルの似顔絵とともに〝出禁なのだわ〟と簡潔な文面が綴られている。

 ジャンヌはそれを手に取り、ノアとそのサーヴァントたちを睨めつけた。

 

「……これ、絶対アンタらが脅したせいじゃない」

「待ってください、脅したのはノアさんです」

「ついでに内臓を脱脂綿と入れ替える契約まで結ばせようとしてたぞ」

「そりゃ出禁にするに決まってますわ」

 

 絶対零度の目線がノアに突き刺さる。彼はすべての感情が消え失せた無表情を保っていた。清々しいまでの無視だ。

 こうして冥界へ下る手段は失われた。冷たい風がひゅるりと吹き抜け、薄ら寒い雰囲気が辺りに立ち込める。

 そんな時、彼らの頭上に声が届く。

 

(お困りのようだな……人の子よ……)

 

 尊大なのか丁寧なのか分からない中途半端なスタンスの声に導かれ、Eチームは視線を彷徨わせた。

 左右と背後を振り向き、行き着くのは正面。雷撃によって黒く焦げた地面から生えた小高い樹木。それは青いオリーブの実をつけていた。木の頂上には一羽のフクロウが留まっており、たすきのように蛇が巻き付いている。

 そのフクロウはぱくぱくと口を動かした。

 

「冥界に行けず途方に暮れていたのだろう? あな……貴様らのためにわた──妾が手ずから地下への道を造っておいた。とりあえず頭を垂れてつくばうがよい。どうしてもと言うならそのままで構わぬ」

フォフォウ(どっちだよ)

 

 言葉を不自然に途切れさせる、樹上のフクロウ。普段ならば珍獣として捕獲されていたところだが、そのモチーフは世界でも有名なとある女神を想起させる。

 いち早く気付いたのはダンテ。彼は目を輝かせて、フクロウに礼を取った。

 

「オリーブの木と、知恵の象徴たるフクロウ……あなたはまさか─────」

「ふふふ……分かるか、人間。では名乗ろう、栄光に満ちた我が名は────」

「───アテナ様ですか!?」

「───アト・エンナである!!」

「「…………アレ?」」

 

 フクロウとダンテは首を捻る。

 ギリシャ神話の女神アテナはオリーブの木とフクロウを象徴にしていた。前者は自身が守護するアテネの贈答品に因んでおり、後者は知恵の女神としての側面を表している。目の前のフクロウはどこからどう見てもアテナの象徴を使っていた。

 ギリシャ神話オタクでもあるダンテの期待が急速に陰っていく。そのことに危機感を覚えたのか、フクロウは泡を食って述べる。

 

「ふ、復唱せよ! 栄光に満ちた女神アト・エンナの名を!!」

「誰だよ」

「ぐふゥーッ!!」

 

 ノアの冷たい一言に一刀両断されたフクロウ。彼女は盛大に血を吐き散らかし、樹上から墜落した。

 見たこともないような量の血を吐いて痙攣するフクロウを横目に、Eチームはひそひそと話し合う。

 

「オレもアテナしか思いつかないんだが、実はこっちの方が間違ってんのか?」

「わ、私の見当違いでしたかねえ。あれだけの特徴、私にはアテナ神しか思いつかないのですが」

「あの人……あの鳥はアト・エンナと名乗っていましたね。Aチーム主席を誇るわたしも聞き覚えがない名前です」

「やかましいわ。リースは一応1000歳でしょう。何か覚えとかないわけ?」

「う〜ん……アフリカの方にそんな名前があったような気がしますわ」

 

 フクロウはよろよろと立ち上がり、彼らに言った。

 

「や、やっぱりアテナでお願いします」

「言い方からして妥協なんですが……ちゃんとした名前で呼んだほうがいいですよね! えーっと、アト・エンナさん!!」

「うへへ……その優しさが痛い。私なんてほんのちょっとしか名前が残らなかったマイナー神なので気遣っていただかなくても大丈夫です……友達もいないので、ぼっち・ざ・ごっですとでも呼んでください」

「おい、この期に及んで流行りに乗ろうとしてるぞこいつ!!」

 

 ノアはアテナの名前をパクっただけでなく、流行も見据えたフクロウを鷲掴みにして揺さぶる。

 最初の威厳はどこに行ったのか、地面すれすれの低姿勢で話すフクロウことアテナことアト・エンナ。彼女は立香の手で樹上に戻された。

 再びフクロウと対面するEチーム。立香は会話の間合いを図りつつ、

 

「「それで」」

 

 声が重なる。よくある会話の交通事故が発生し、フクロウはキツツキみたいな速度で何度も頭を下げた。

 

「どどどどどうぞ、喋ってください」

「あ、はい。冥界に行く道を造ってくれてたって話でしたけど、私たちを案内してくれますか?」

「……信頼してくれるのですか? こんな駄女神を?」

「サクラよりはマシですから!」

「先輩、そんなのと比べたらイシュタルさんやアルテミスさんでさえマシな類になります」

 

 眼前のぼっち・ざ・ごっですがサクラよりマシな部類であることは言うまでもなく明白だった。あの邪悪の権化がEチームのために道を造るなど、天地がひっくり返る大事態だ。

 立香はノアに振り向く。

 

「リーダーもいいですよね?」

「ああ。妙な動きしたら全身の羽むしり取ってやる」

「お、脅すのやめてくれませんか。オリュンポスの奴らにボコられたトラウマがあるので……」

「アテナのくせに!?」

 

 オリュンポス十二神のはずのアテナがオリュンポス十二神にボコられるという異常事態。矛盾を隠す気もない発言に、ジャンヌは目を丸くした。

 とはいえ、このフクロウはなぜかアテナを称するアト・エンナ。決してアテナその()ではない。そんなこともあるのだろうとEチーム各員は己を納得させる。

 アテナ(仮)の案内に従って彼らは移動する。ほぼ崖のようなクレーターの斜面にフクロウは降り立ち、翼で土を払った。

 地面に浮かび上がる石の扉。それはひとりでに開き、暗く冷たい冥界への道を露わにした。立香は満面に笑みを広げてアテナに抱きつく。

 

「すごいじゃないですか! 流石は女神様!」

「そ、そうです! 私はすごいのです! 地母神であり冥界神でもありますから、このくらいはちょちょいのちょいです!!」

「そんなナリして冥界の神なの? アンタ。神も見かけによらないのね」

「はい、どちらかと言うと重要なのは巻きついてる蛇の方なので。蛇は地母神の象徴ですからね。昔はヤギの生皮を剥いで着てたりしてたのですが」

「どんなファッションセンス?」

 

 反応に困ったジャンヌはへらりと口元を歪ませる。そんな彼女にアテナは得意げに笑った。

 

「ふふふ……見かけによらないでしょう? 私を畏れて信仰してくれても構わないのですよ?」

「ヤギの生皮とか衛生面が心配だから遠慮しておくわ。ダンテ辺りに頼みなさい」

「私が信仰するのは父なる神と神の子だけですので……ペレアスさんはいかがです?」

「いや、オレも一応キリスト教徒だからな。リースは違うけど」

「精霊は信仰するよりされる側ですわ」

 

 意外にもEチームの牙城は堅牢だった。そも、彼らの生きた時代とは誰しもが宗教を意識しながら生活を送ることになる。サーヴァントの勧誘は非常に難しいと言えよう。

 一方、現代を生きる立香たちは、

 

「私は深夜2時教です」

「俺が信仰すんのは俺だけだ」

「わたしはジャンヌさんはとことんイジる教です」

「現代人の皆さんは複雑怪奇すぎませんかねえ!!?」

「串焼きにされたいの? マシュマロなすび」

 

 などと言いつつ、Eチームは次々と扉に足を踏み入れていた。この程度の言葉のドッジボールは既に慣れたものだ。

 ノアもまた続こうとした時、立香の手が彼のそれを縫い止める。

 それはもはや二人にとって特段珍しいことではないけれど。この近さが当たり前になったことを噛み締めながら、立香は言った。

 

「そういえば幽霊苦手でしたよね、リーダー」

「仮にそうだとして何が言いたい?」

「きっかけとか、あったんですか」

「……本当に訊きたいか」

「もちろんです。私が握るリーダーの弱みは増やしておきたいですから」

 

 口角が意地の悪い笑みを形作る。

 ノアは心底面倒くさそうにため息をついた。

 これは勝った。立香が内心ガッツポーズを取った瞬間、繋いだ手が勢い良く引き寄せられる。

 縮む距離、迫る息遣い。心臓が弾けるみたいに脈打ち、じわりと体温が上がる。真白い睫毛、碧い瞳、薄い唇が徐々に近づき、観念して目を閉じた。

 びしり、と額に衝撃が走る。反射的にまぶたを開けると、ノアの馬鹿にしたような笑みが目に飛び込んだ。

 

「エジプトの墓地でテレビから髪の長い女が出てくる日本の映画を見てたら苦手になった、それだけだ。仮定の話だがな」

「……い、いまのは?」

「俺の弱みを教えるなら等価交換だ。おまえのアホ面は見物だったぞ。……で、何を勘違いしてた?」

「うぐぐぐぐぐ……!!!」

 

 自ら繋いだ手を振り払い、泣く泣く敗走する。

 そうして冥界に飛び込んだ先には、広大な荒野がどこまでも続いていた。暗く、冷たく、乾いた世界の空気は粘性を有しているかのようにまとわりつく。

 人はいずれ地に還る。現世の誰もが名も姿も失い、塵を貪る亡者と成り果てる。この時代を生きた人々が想像し、恐怖した冥界の謂れそのものが目の前に成り立っていた。

 いつの間にか立香の隣にいたマシュは感嘆する。

 

「これが冥界ですか。思っていたより寒いですね」

「まあ、そんなハレンチなへそ出しスタイルしてたらね」

「今ばっかりはギャラハッドさんの趣味を恨んでよいでしょうか。それともギャラハッドさんもへそ出しだった……?」

「いや、アイツはちゃんとした鎧着てたからな?」

 

 冥界を下りながら、ギャラハッドの性癖について疑いを募らせるEチーム。アテナは物知り顔で微笑んだ。

 

「分かります。良いですよね、へそ。ギリシャみたいに布巻きつけるとか、人間の本来の姿からかけ離れた邪道ですよね」

「こいつただのギリシャアンチだろ」

「生憎、この場に布巻いてない人間はいませんねえ。それはそれとして、アテナさんはなぜ私を助けてくれたのです?」

「そうですね。色々と見られているので詳しくは言えませんが、私と一緒に戦ってくれている仲間の口癖をお借りして答えましょう」

 

 アテナはくわっと目を大きく開く。

 

「〝今はまだ語るべき時ではない〟───〝待て、しかして希望せよ〟と!!」

 

 気付いたのはマシュとダンテ。前者はともかく、後者のセリフを放った人物は見たことがある。

 アトラス院にて急に現れたかと思えば、シモンの腕をもぎ取って急に去った不審者エドモン・ダンテス。小説モンテ・クリスト伯の名台詞だった。

 彼に回収されていったホームズも何かと情報を出すことを躊躇っていたフシがあった。アテナの仲間とはエドモンとホームズのことなのかもしれない───と、Eチームでもマシな頭脳を持つ二人は結論付ける。

 

「あなたたちには冥界の歩き方というものを教えてあげましょう。なに、難しいことはありません。拾ったものは食べない、知らない人についていかない、化け物を見たら土下座する、これさえ守っておけば無事に帰れます!!」

「みたいだけど、地獄ソムリエダンテの意見を聞こうかしら」

「概ね同意ですねえ。後は〝困った時はウェルギリウス先生に頼る〟があれば完璧だと思います」

「それが一番ハードル高いんですけど!!」

 

 神曲の地獄篇と煉獄篇を一言で評するならば〝ウェルギリウスがなんとかしてくれました〟である。ダンテの言もやむなしであろう。

 Eチーム一行は坂を下り切り、開けた場所に出る。その中央には巨大な石扉が屹立していた。ペレアスは万が一に備えて剣を引き抜いた。

 その警戒は正しく。吹き溜まっていた瘴気が旋風となり、寄り集まる。腰に長剣を佩いた二体一対の霊。彼らが発する並々ならぬ殺意を受けて、ペレアスは剣を構える。

 

「おもてなしが出てきやがったか! サクッと倒してギルガメッシュ王を連れ戻すぞ!」

「エレシュキガルさんに仕えるというガルラ霊ですわね。ですが私たちの敵ではありませんわ!!」

「よく言ったドスケベ精霊。こいつらを人質にしてエレシュキガルを脅すぞ。いいな立香」

「リーダー、心のゲスを隠す努力くらいはしてください」

 

 立香は『魔女の祖(アラディア)』でノアの尻をべしりと叩く。ガルラ霊×2は腰の剣を抜き、見るも恐ろしい形相でがなり立てた。

 

「「エレシュキガル様を強請った貴様らを通す訳にはいかぬぞ! あの日以来、エレシュキガル様は我々から隠れた場所で猫を愛でるようになったのだ!! 合法的にあの笑顔を拝む機会を失わせた貴様らは絶対に許せぬ!!」」

 

 怒気を伴った声音が突風と化して一行を襲う。ノアはそれを笑い捨てる。

 

「ハッ!! 逆恨みも甚だしいなァ!? 霊は霊らしく大人しく井戸の中で沈んでろ! やれ俺の下僕ども!!」

 

 しかし、アテナとダンテは滑り込むように土下座した。

 

「「どうもすみませんでした」」

「なにやってんだァァァ!!」

「忘れましたかノアさん。冥界ツアーの鉄則は化け物を見たら土下座ですよ!?」

「わ、私、男の人の怒鳴り声が苦手で……少し黙ってもらえますか」

「神のくせに小せえこと言ってんじゃねえ!! つーかおまえも戦え!」

 

 ノアの怒声にアテナはびくびくと震えながら、

 

「ふへへ……地母神なので戦いに直結する権能とかないんですよね。本体の方でもタイマンならサーヴァントに負けるので、そういうのはアテナに頼んでください」

「アンタ仮にもアテナでしょ!?」

フォウフォフォフォウ(というかお前もアテナだろ)

 

 肩口から炎を立ち昇らせるジャンヌ。そのやり取りを見かねたガルラ霊は同時に剣を振るった。

 地を裂き迫る烈風。マシュは盾を用いてそれを弾き、魔力を込めた右脚でガルラ霊の下顎を打ち据える。

 

「「ぐぼおおおおッ!!」」

「今更名無しの一般霊がわたしの前に立ちはだかれるとでも!? 二度と物が噛めなくなる覚悟をしてください!!」

「「可愛らしい見た目をしてそのゲスな発言、見下げ果てたぞ!」」

「あら、そっちとは気が合いそうね!」

 

 黒炎が噴き上がり、二体一対の霊を焼き払う。ガルラ霊は急速にその実体を薄れさせていき、地面に倒れ込んだ。

 竜の吐息の如き熱を受けてもなおカタチを保ったのはその身に湛えた神秘の強さか、冥界の女神に仕える挟持か。だが、その隙を生んだ時点で彼らの運命は決まっていた。

 紅き鎧を纏った騎士が駆け抜ける。

 差し出すように垂れた頭。黄金の斬撃が閃き、ずるりと頭蓋が首の骨と泣き別れた。

 ペレアスは外装を解き、肩に剣の腹を置く。

 

「ま、こんなもんか。オレたちの相手をするには役者不足だったな!」

「「くっ、こんな地味なやつに……!!」」

「おいこのまま2ラウンド目行ってもいいんだぞ」

 

 ガルラ霊の体が砂のように崩れ去る。山のように積もった白い砂。立香は杖の先でそれをつついた。

 

「……幽霊がこんなになっちゃって、大丈夫なんですか?」

「実体を維持する魔力が消えただけですわ。しばらく放っておけば復活してくるでしょう」

「じゃあ早く先に行きましょう。再生怪人の厄介さはサクラで身に沁みてますから」

「前に来た通りなら、扉の向こうにエレシュキガルがいるはずだ。とっとと締め上げてギルガメッシュを回収するぞ」

 

 ノアは石の扉を蹴り開く。

 瞬間、一行の目に映るのは由緒正しき日本の和室の風景。見覚えのある三人が冥界産のコタツを囲み、何やら口論を繰り広げていた。

 

 

 

「───え、じゃあ何? ウルクの英雄王ギルガメッシュ様は脳みそが切れて御臨終したってこと? あれだけ威厳と最強感出しておいて!? しかも一回も戦わずに!? 人類最古の過労死をした気分はどうなのかしら。ああ、答えなくていいわよ。こめかみに血管浮き出たその顔で十分だから。また切れないように気をつけないとねぇ〜?」

「ハッ、貴様がそんなことを言える立場だと思っているのか? 大方あの女に惨めにも敗北したのであろう。その厚顔さは評価しないでもないが些か無様だな。とはいえ、今更貴様の敗北について語るのも無粋か。なにせ登場してから今まで、貴様がまともに敵に勝利したことなど一度もないのだからな!! 敗北者は敗北者らしく家に帰って不貞寝でもしているのが分相応よ! おっと、家は焼かれたのだったな、ホームレス(イシュタル)?」

「……せめてルビは反対にしなさい、金ピカ。ウルクに宝具叩き落とすわよ」

「ほう、貴様にもまだ傷つけられるだけの矜持は存在していたか。虫ケラが背伸びとは滑稽なことよ」

「「………………殺す!!!!」」

「それ、他所でやってくれると助かるのだけれど」

 

 

 

 居間から連想される団欒とは真逆の地獄がそこに広がっていた。みかんの入った籠を挟み、ゴルゴーンもかくやの視線で睨み合うギルガメッシュとイシュタル。

 エレシュキガルは殺意に満ちた口論を冷めた目で眺めていた。その膝の上には猫の亡霊が小さく丸まって眠りについている。

 冥界の女主人は若干の居心地悪さとともに、湯呑みを指で包んだ。

 

「……見なさい。迎えが来たみたいだわ」

 

 エレシュキガルは一行を顎で指し示す。ギルガメッシュは胡乱げに鎌首をもたげた。

 

「遅いぞ、雑」

「───あら! 私を助けに来てくれたってわけ!? 最初はどうしようもない人間だと思ってたけど、見直したわ! さ、行くわよ!!」

「そこの者どもは我の迎えだ、すっ込んでいろ駄女神が!!」

 

 ギルガメッシュはイシュタルの顔面に湯呑みを叩きつける。老人好みの熱い茶がぶちまけられ、金星の女神はその美貌を手で押さえて転げ回る。

 

「ンギィィィャァァァァあっつぅ!!」

 

 じたばたと跳ねる足がコタツを微塵に粉砕する。数秒の悶絶ののち、イシュタルは即座に跳ね起きる。その両手がみかんを鷲掴みにすると、メジャーリーガー顔負けのピッチングでギルガメッシュの両目に激突した。

 芳醇な香りを纏った酸味のある果汁が紅い瞳に染み込む。ギルガメッシュはしばらく絶句して、空間に開いた宝物庫の門から無数の武装を引き出す。

 

「おのれイシュタル……ここでその首を刎ねてウルクの門前に晒してやる!!」

「そんな老体でどこまでできるってのかしら!? 金星に代わってお仕置きよ!!」

 

 凄惨な殺し合いを繰り広げる賢王と女神。

 すっかり置き去りにされたEチーム一行は死んだ目でその光景を処理していた。ノアはおもむろに懐に忍ばせていたお菓子を取り出した。

 

「どっちが勝つか賭けるか。俺はギルガメッシュに一票だ」

「私はギルガメッシュさんが勝ちそうなのでイシュタルさんに賭けます。場代はグミで」

「先輩の思考がギャンブラーすぎるのですが」

フォウフォウフォフォフォウ(ギルガメッシュにちゅ〜る一本)

「『少しは止めようとする努力をしてくれないかな!?』」

「ドクター、あんな化け物たちの戦いをわたしたちにどうにかできると思いますか」

 

 マシュの反論が飛び、ロマンは二の句を見失った。あの二人の戦いに割って入ったとしても被害は増すばかりだろう。むしろこちらが狙われる可能性まである。

 だが、この不毛な争いを収めなくてはならないのは確かだ。一か八か、ダンテが土下座をしようとしたところで、アテナが勇敢に飛び立つ。

 

「ここは私に任せなさい、人間。太女神たる心の広さを以って、この戦いを終わらせてみせましょう!!」

 

 ギルガメッシュとイシュタルの闘争に割り込むアテナ。武装と光弾乱れる空間を潜り抜け、彼女は相争う二人に厳然と告げた。

 

「そこまでです、この戦いは私が預かりました!! 無用な諍いは双方の品位を貶める行為です! あなたたちが王であり女神であるというのなら、全世界に轟くアト・エンナの名のもとに矛を収めなさい!!」

「「誰だァーッ!!」」

「ぐっはああああっ!!」

 

 王と女神の放った拳が突然の乱入者に見舞われる。

 停戦を試みたアテナはEチーム一行の手前まで吹き飛ばされる。フクロウの体が残像を残す勢いで震え、うっすらと透明になっていく。

 立香は慌ててフクロウを抱きかかえた。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

「私にできることはやりきりました……あとは任せるので私は退去させていただきます……」

「おい、せっかく消えるなら情報をよこせ。あの不審者と言い武蔵と言い、何か暗躍してるだろ」

「───もし、世界を救えたのなら、()()()()()()()を辿りなさい。それが敵の正体です」

 

 それと、とアテナは言い残す。

 

「オリュンポスの奴ら、宇宙から来訪してくるとか反則じゃありません……?」

「知るかァァァ!!! 陰謀論もほどほどにしろアホ神!!」

「どんだけボコボコにされたの気にしてるんですか!?」

 

 ふっとアテナの像が消え失せる。役立つかも分からない情報と手垢のつきまくった古代宇宙飛行士説(ギリシャ版)を残して、彼女は退去したのだった。

 しかし、ギルガメッシュとイシュタルは相変わらず争うのみ。エレシュキガルはそれを見かね、両者の背後に八本もの槍を顕現させる。

 膨大な熱と電流を発する槍が円を描き、その中心に光すら吸い込む深淵を映し出す。王と女神は瞬く間に中心へと引きずり込まれていく。

 エレシュキガルは膝上の猫を撫でながら、

 

「これ以上私の冥界で好き勝手するつもりなら容赦はしないのだわ。ここよりも暗く深い場所に落とされる準備はいい?」

 

 宣言を受けた二人は一筋の冷や汗を流す。

 この場で最も力を持つのはエレシュキガル。彼女の支配領域である冥界において、その権能を弾くことはほぼ不可能だと言っても良い。ギルガメッシュやイシュタルでさえ、冥界の法則には従わざるを得ないのだ。

 彼らは縋るようにEチーム一行を見た。

 

「お、我を助ける権利をやろう。何が欲しい? ウルクには我が集めた宝物が幾千とある。くれてやるのもやぶさかではない」

「やめておきなさい、そんなやつ!! 私を助けるのが正解よ! 加護とか宝石とかモリモリあげるから!! それにこの美貌を見なさい!?」

「助けられる態度がなってねえな。どっちが上の立場か分かってんのか? 改めないようなら俺は帰る」

 

 吐き気をもよおす邪悪な表情をするノア。彼はこれみよがしに踵を返し、その場から立ち去ろうとする。

 その時、ギルガメッシュの腕から飛んだ鎖がノアの首に巻きついた。

 

「うがあああああ!! 折れるゥゥゥ!!」

「踏みとどまれ下郎、我がその場に戻るまでな!!」

「ふざけんな、道連れだろうが!! おまえの額にヤドリギぶちこんでやろうか!?」

「そこの二人は置いといて、イシュタルさんはなんでここにいるんですか?」

 

 立香は何の気なしに問う。イシュタルは両手を土に突き立てて返答した。

 

「ソフィアっていう女に冥界送りにされたのよ! そ、そう! 私を助けてくれたら貴方たちの味方をしてあげる! なんでもするから!!」

「それじゃあ、このスクロールに名前書いてください」

「こんな時に!?」

 

 口ではそう言いつつも、イシュタルは受け渡された羊皮紙に名前を書きつけた。エレシュキガルはそれを見て指を弾き、深淵への門を閉じる。

 彼女は小さく息をついて、肩を竦めた。

 

「話がついたなら、早く帰った方がいいわ。滅びの日は近い……もうじき母が復活する。私も冥界の管理で忙しくなりそうだから」

 

 イシュタルは鼻を鳴らし、乱れた髪を整える。

 

「そう、貴女は死者が増えた方が都合が良いものね。ムカつくくらい合理的だわ」

「合理的、そうかもしれないわね」

 

 だけど、とエレシュキガルは小さく笑う。

 

「これは最近気付いたことなのだけれど、私はけっこう感情的で、論理も道理もどうでもいい性格をしているから」

 

 微かに流出する神気。その笑みの裏には冥界の闇よりもなお深く、冷たい憤怒が渦巻いていた。

 

「───原初の母を弄ぶ連中を、許してはおけないのだわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───それは、竜のような、女のようなカタチをしていた。

 生命の源である海。黎明の混沌より産まれた神格は淡水と塩水の混ざり合うペルシャ湾より姿を現した。

 彼女の足元より湧き出す泥。それは新たなる生命を産む、可能性の原質。現住生命体を旧きものに貶める泥が、瞬く間に流れ出す。

 母なる獣、始まりにして究極の一。

 ティアマトはただ、嘶いた。

 

「───Aaaaaaaa……!!」

 

 産声にも似た咆哮。

 世界への怨嗟の絶叫が泥濘に波を生む。

 人理を喰らう原罪の獣は、確かに大地を踏み躙った。

 

「……永遠に女性的なるものが我らを高みへと引き上げ、昇らせていく。───皮肉だな。一度切り捨てられた者が、此度は切り捨てる側に回るとは」

 

 知恵の女神は押さえつけるようにまぶたを閉じる。

 ティアマトの足元で走り回るサクラとテペヨロトルを拒絶した訳ではない。ただ、この先の未来を見据えるために。

 この獣は敗者だ。神々へと叛旗を翻し、英雄神に討ち取られ、その体を世界の礎とされた。

 その敗者が人類を滅ぼすというのなら。

 すべてが潰えた地平に勝者はいない。

 たとえ彼女が産む生命体が地球を支配するのだとしても、彼らはまた母を裏切るだろう。自らの繁栄のために、人類と同じことを繰り返す。

 ぐ、とソフィアの眉間が狭まる。

 

「ああ、これは救いがないな。誰も彼もが貶められ、打ち捨てられる。まったくもって、救いがない」

 

 けれど。

 彼女の唇は、つややかな弧を描いていた。

 

「敗けて、堕ちて、死んでしまえ」

 

 ───そんな君たちこそを、私は抱きしめて(あいして)やる。

 現在は未来へと突き進む。

 誰にも止められぬ時計の針。

 勝者なき明日へと、滅びは歩み始めた。



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第73話 其は世界を統べる法則

「……大昔、アフリカ大陸の草原で集団生活を営んでいた人類が主食にしたものを知っていますか?」

「に、肉と骨ですかね?」

「ぶぶー、まともな道具も持ってない頃のよわよわな人類がそんな上等なの食べられるわけないじゃないですか。当時の人間は草の葉っぱとか根っことか、虫を食べてたんですよ」

「へえ〜……で、それが?」

 

 ジョッキが目の前に差し出される。その中にはごぼごぼと沸き立つ黒い液体が溢れんばかりに注がれていた。

 ごくり、とテペヨロトルは生唾を飲み込む。ジョッキを透かすように、背後の光景へと目線を飛ばす。緩やかながらも歩を進める、創世の母神。天を衝くほどの巨躯は一歩ごとに地響きを鳴らし、その五体より混沌の泥を振り撒く。

 その泥とジョッキに波打っている液体を交互に見て、テペヨロトルはこめかみをひくつかせた。サクラはにっこりと笑って、

 

「飲んでください」

「何故に!!?」

「ほら、ヒトがあれだけ雑食ならあなただってティアマトの泥くらいイケますよね? あと、あなたの苦しむ顔が見たいので。そぉれ、イッキ♪イッキ♪」

「いやいやいや、どこぞの英雄王でもない限りそんな量お腹壊しますって!! え、というか、オルタがさらにオルタ化したら一周して元に戻ったりしニャい!?」

「それはそれで面白そうです。まあ、あなたみたいなアホは一周回っても一回り大きいアホになるだけだと思いますけど」

 

 サクラはテペヨロトルの頬にジョッキを押し付けながら、くすくすと笑う。他人の不幸が大好物なこの偽神には、何を言おうと意見は通らないだろう。テペヨロトルは縋るように知恵の女神を見つめた。

 ソフィアはやすりで爪を磨いていた。その表面は丁寧に整えられ、つるりとした光沢を放っている。彼女はテペヨロトルの視線に気付くと、ふっと息を吐いて削りかすを落とす。

 

「…………むしろ、タイガーではなくジャガーである時点でオルタじゃないか? 己の在り方を裏切っているわけだしな」

「誰がタイガーじゃァァァァ!!! たとえ知恵の女神であろうがそのあだ名を呼ぶことは許さんぞ!!」

「そうか。すまなかったな。……それで、飲まないのか?」

「ちなみに断るなんて選択肢はないですよ?」

 

 ───テペヨロトルは絶望した。

 これ以上、黒白の偽神だの知恵の女神だのと行動していたら身が持たない。毎日支給されるちゅ〜るとマタタビは魅力的だが、ここまでのハラスメントを許容することはできない。ジャガーマンは常に自分に易しい道を選ぶのだ。

 そうして、懐に隠していたマタタビでキマった脳みそで彼女は思いついた。

 ウルクは滅びる。全生命の母たるティアマトの手によって。なぜなら、テペヨロトルはその復活を目の当たりにして、真っ先に腹を見せて降参したレベルだからである。

 加えて、ティアマトの背後にはサクラとソフィアがいるのだ。

 間違いなく、ウルクは、人類は負ける。もっと言えば、自分が戦ってもボコボコにされる。ならば、彼らを好き勝手に貪れるのは今しかないのではないか。

 

「───ということで、夜の九王たるこのテペヨロトルがお前らを喰らいに来てやったぞ!! 私は生贄肯定派の古いアステカ神だからな! 人間たちの命を以って、我が無聊の慰めとしてくれるわ!!」

 

 ウルク市の外、城門前。テペヨロトルは無駄に早い逃げ足でサクラとソフィアのもとから逃げ出し、堂々と小物臭いことを言い切った。

 エレインと牛若丸、そしてレオニダスは虚ろな目をしてテペヨロトルの話を聞いていた。漆黒のジャガーマンは黒曜石の槍の石突で地面を叩く。

 

「ふ、恐れで物も言えぬ様子……分かったらありったけの心臓とマタタビを用意しろ!!」

 

 がはははは、と品のない笑い声を響かせる。その態度にそこはかとない頭痛を覚えたエレインは、額をかばうように手を当てた。

 

「王とEチームが出払ってる時に来るなんて……頭が痛くなってきたわ。レオニダス、牛若丸、そこの着ぐるみが言ってることをまとめてくれる?」

「難しいことはありませぬ。つまり、彼女は自身を従属させる二人に反抗することを諦め───」

「───自分より下だと思い込んでる私たちにマウントを取りに来た負け犬、と自己紹介をしているのです!! あ、負け犬じゃなくて負け虎ですかね?」

 

 と、首を傾げる牛若丸。天然が入り混じった源氏流煽りはテペヨロトルの浅く狭い器量をあっさりと決壊させた。彼女は額に血管を浮き立たせながら、槍を深く地面に突き刺す。

 

「貴様らは言ってはならんことを言った……!! そう、例えるなら少女漫画のキャラクターに対して〝目ぇデカすぎじゃね?〟とか宣うやつのようになァーッ!!」

「妙に実感こもってるわね」

「イマイチピンときませんね。〝プロテインの効果って実感なくね?〟とかなら分かるのですが」

「うるせえー!! その呑気な態度、今から叩き潰してやる!!」

 

 咆哮じみた啖呵が飛んだ途端、地が嘶いた。

 跳ねるように揺れる地面。その勢いは衰え知らずに増していく。振動が空気にまで伝わり、天地さえもが揺れ動く最中、テペヨロトルは朗々と謳い上げる。

 

「これぞ我が究極宝具───『震え立て、大いなる山の心核(ヨアルテウクティン・テペヨロトル)』!!」

 

 アステカ神話の主神、テスカトリポカ。

 しばしばそれと同一視されるテペヨロトルは夜を司る九つの神の一柱であり、一説には全九階層からなるアステカの冥界とも関わりがあるとされてきた。

 その名が表す意味は〝山の心臓〟───すなわち、大いなる地の震動の源たる神格。アステカ神話の世界観において、心臓は大きな意味を持つ。それは神への供物であり、太陽の運行を司る要であり、生命の根源であったが故に。

 なればこそ。

 

「さあ、怯えろ! 竦め! サーヴァントの性能を活かせぬまま死んでゆけ!!」

 

 テペヨロトルはその場で槍を振るう。

 太陽を喰らうジャガーの一刀は地を割り空を裂き、ウルクの結界を跡形もなく吹き飛ばしてみせた。

 今のウルクにギルガメッシュはいない。故に、王の手に委ねられた結界の強度は十全とは言い難かった。なれど、テペヨロトルの一撃は大気を伝導しただけでそれを崩したのだ。

 牛若丸とレオニダスはエレインを守るように進み出る。

 

「遠当てでここまでやるとは、品性の割に強さは本物のようです!」

「ええ、低い知能と品性の持ち主にしては良い技です。私でも防ぐのは難しいでしょう」

「そうね。これで呑気にいられなくなったわ。あの獣が獣らしいのは知性と品性だけみたいだから」

「え、なに? もしかして打ち合わせとかしてきてる? こんなに罵倒の統制が取れることって中々無いよ? 心臓えぐり出していい?」

 

 まるでファランクスのように息のあった罵倒の嵐を前に、テペヨロトルは困惑を隠し切れなかった。が、ぶんぶんと頭を振って本来の目的を思い出す。

 

「ここまでコケにされて許しておけるかァーッ!!」

 

 揺れる地面を踏みしめる。その一歩で大地に亀裂が入り、地盤が軋む。瞬間、黒きジャガーは天高く飛び上がった。

 黒曜石の刃が太陽の光を照り返す。

 その刀身が湛える魔力は周辺を黒く塗り潰す、夜空の闇の如き異彩を放っていた。

 エレインたちは咄嗟に身を躱す。

 無人の地を穿つ刺突。それを起点として数キロメートルに渡って、深い断崖が地面に刻み込まれる。

 音が遅れて届く。隕石が墜落したみたいな轟音とともに、地面が引っくり返った───と思わせるほどの激震。エレインは空気中の水分を固め、それを足場として宙に退避する。

 

「なんて無茶苦茶……伊達にテペヨロトルの名を名乗ってはいないようね」

 

 振り返れば、ウルクの街は真っ二つに裂けていた。

 テペヨロトルの第二宝具『震え立て、大いなる山の心核』。それは槍を突き立てた大地を自らの魔力炉心に作り変え、その分の質量を自身に与える。テペヨロトルはウルク一帯を魔力の供給源にしたと同時に、膨大と表現することすら生温い物質としての重さを得たのだ。

 つまり、今の彼女の一挙一動には大地そのものの質量が着いて回る。如何に防御に優れたレオニダスであれ、受け止めるなどもっての外。そして、常に魔力が供給されるためにスタミナ切れも存在しない。

 テペヨロトルは槍を掲げ、品性に欠けた哄笑を轟かせる。

 

「フハハハハハ!! 見たかこの力を! 夜の九王にして大地の化身たる私には貴様らなど湿った石の裏にいるダンゴムシのようなもの! もはや私はククるんをも超えた!! 所詮奴は前時代の遺物よ!!!」

 

 槍を掲げながらステップを踏むテペヨロトル。彼女の足が踊る度に、ずしんずしんと地鳴りが起こっていた。なんとも大げさな舞踏だ。

 しかし、そんなはた迷惑なダンスは長くは続かなかった。

 

「───『炎、神をも灼き尽くせ(シウ・コアトル)』」

 

 ウルクの方角より、まばゆい陽光が地平を照らす。

 解き放たれる灼炎。一条の火炎がその場の誰をも欺く速度でテペヨロトルに迫る。彼女が熱を感じた時にはもう遅く、炎を纏ったアッパーがその顎をかち上げる。

 

「ぐべぁぁぁぁぁッッ!!?!?」

 

 莫大な質量を有するはずの体が高く跳ね上がる。脳みそが揺れ、着地の受け身すら取れずに墜落した。潰れたカエルみたいに寝そべるテペヨロトル。揺れる視界に映るのは、底冷えする笑みを浮かべたケツァル・コアトルその人だった。

 太陽神の手がテペヨロトルの頭を掴む。みしみしと五指に力を込めながら、冷徹な声で呼びかける。

 

「…………で、誰が誰を超えたと?」

「ご、ごめんニャさい…………」

 

 それで。

 ケツァル・コアトルの起床によって、テペヨロトルはただの駄猫に成り下がった。支配者から逃れたとしても、また別の支配者が待ち受けている。目先の利益に飛びつくしかない彼女はそのことを知らなかったのである。

 真っ二つに裂けたウルクだったが、幸い人的被害はなかった。街の片隅で司書として暮らしている80代男性によると〝グガランナが暴れた時と比べると屁みたいなもの〟とのことだった。神代において、この程度の騒ぎは珍しくもないのだ。

 それはそれとして。ケツァル・コアトルがテペヨロトルを広場の中心で磔にしていたところ、クタ市からギルガメッシュとついでにイシュタルを連れたEチームが帰還した。

 彼らはギルガメッシュお気に入りの飛行船ヴィマーナに乗り、爆速での帰宅を果たしたのである。

 ギルガメッシュはテペヨロトルの悪行の一部始終を聞き、

 

「車裂きの刑に処す」

 

 とだけ言い残して、宮殿に舞い戻った。

 王の間。ウルクじゅうに響き渡る絶叫をBGMにしつつ、Eチームとサーヴァント、神霊の面々が勢揃いした。辺りには王の不在中、代わりに業務を務めていた者たちがシドゥリ含め倒れ伏している。

 外は処刑、中は死屍累々。惨状の始末もほどほどに、ギルガメッシュは喋り出した。

 

「ティアマトが動き出した。エレイン、足止めをせよ」

「承知いたしました」

「展開が早すぎません!!?」

 

 立香は目を剥いてツッコんだ。

 これまでの戦いでひとつ学んだことがある。英霊や神霊のネームバリューと強さはほぼイコールである、と。だがここに例外が存在する───というのは往々にしてあるものだが、例外は少数だから例外なのだ。例えば世界三大詩人のダンテは話にならない弱さだし、無名のペレアスは地味に強い。

 敵はティアマト。生命の母であり、神々に叛旗を翻した竜神。たとえ湖の乙女をもってしても、ティアマトと相対するには荷が重すぎる。

 思考の過程は違うにせよ、同じ結果に至ったのは立香だけではなかった。イシュタルはじとりとした目つきでギルガメッシュを睨む。

 

「流石にそれは無茶ぶりでしょう。あのティアマトよ? ナメてるとしか思えな」

「黙れ駄女神。貴様の意見は求めておらぬ。第一、その軽い脳みそで思いつくことが我に思いつかぬと思うのか?」

「ぐ、ぐぎぎぃぃぃぃ……!! 立香との契約さえ無ければぶん殴ってたのに!!」

「魔術契約ってすごいですね、リーダー」

「両者の合意があって初めて成り立つものだからな。強制力はピカイチだ。魔術師を雇ってるメキシコのマフィアなんかは────」

「『そこまでにしようか、ノアくん。内容によってはR18-Gだから』」

 

 ロマンは慌ててノアを止めた。ヤツの世界旅行体験記のほとんどは到底人には話せないものばかりである。彼が止めなくても他の誰かが阻止していただろう。

 が、問題が解決したわけではない。エレインとティアマトでは言わずと知れた差が隔たっているのだから。

 ギルガメッシュは淡々とした調子で語る。

 

「エレインはこの未来に到達した際の秘策だ。妖精郷より喚びつけた宮廷魔術師コンビとは、こうした時のために必ずどちらかは生き残ることを命じていた」

 

 ギルガメッシュは言う。魔術王の聖杯がティアマトに与えられず、また、マーリンが生存していれば、かの母神は復活しなかったと。

 しかし、その想定はサクラというイレギュラーによって破綻した。エレインはティアマトが復活した場合、戦備を整えるための時間を稼ぐ役割を担っていた。

 ダンテはむむむ、と唸り声をあげる。

 

「未来視の結果ですか。王の慧眼にはお見逸れいたしますが……サクラがエレインさんの足止めを大人しく見ているはずがないと思いますねえ」

「それに、ソフィアもいるわ。サクラとソフィアをどうにかしないと、ティアマトを止めるなんて夢のまた夢よ」

「そういえば、イシュタルさんは知恵の女神の手で冥界送りにされたのでしたか。一応聞いておきますが、強さはいかがでした?」

「…………ペルシャ湾を一瞬干上がらせるアホ火力ぶっ放してきやがったわ。ま、まあ、本気出せば勝てるけど。強制冥界送りなんてインチキはノーカンだし」

「また負けたのかよ」

 

 ノアが呟くと、間髪入れずにガンドの魔弾が顔面を撃ち抜いた。イシュタルは魔弾の銃口である指先に息を吹きかける。まるで西部劇のガンマンだ。

 そこで、ケツァル・コアトルが足を揺すりつつ提案する。

 

「露払いが必要ということなら、私が。サクラとかいうゲスの顔面は一発殴り飛ばさないと気が済みまセーン……!!」

 

 彼女の全身からじりじりと照りつけるような炎が立ち込める。どうやら、サクラへの恨みは相当深いらしい。立香はその姿にジャンヌを投影しながら、

 

「ケツァル・コアトルさん。流れでここにいますけど、一緒に戦ってくれるんですか?」

「ええ。アステカ的に考えて、一度負けた相手にイモ引いていられません。ウルとエリドゥの民も保護してくれているようですし、私はアナタたちに協力するわ」

 

 それに、とケツァル・コアトルは付け加えた。

 

「受けた恨みは百万倍にして返すのがケツァル・コアトルの流儀デース!! テスカトリポカとか!! テスカトリポカとか!!!」

フォフォウフォウ(恨み返せてないだろ)

「『ケツァル・コアトルほどの戦力が加入してくれたのは良いことだ。三女神同盟の中で彼女だけが主神だからね。単純な強さならトップだろう』」

 

 アステカ神話において主神は数度入れ替わる。ケツァル・コアトルはその中でもテスカトリポカに陥れられる伝説を持っているため、恨みもひとしおなのだろう。

 イシュタルはぶっきらぼうに告げる。

 

「そういうことなら、私も行くわ。ソフィアの方を止める役割も必要でしょう」

「じゃあ、私を含めた三人で……」

「いいえ、お姉様が行くなら私とペレアス様も一緒ですわ。私たちは家族ですもの」

「その言い方だとティアマトを止める切り札があるんだろ? お膳立てくらいはオレたちに任せてくれよ」

 

 ペレアスとリースは当然のように言い切った。ほのかに頬を赤く染めるエレイン。彼女は髪の毛の先を弄りつつ、小さく微笑んだ。

 

「……もう、しようがない子たちね」

 

 湖畔に咲く幽玄の華の如く。

 その笑みは、静謐の趣を宿していた。

 しかし、そんな静けさを吹き飛ばすように立香は口角をあげる。

 

「頼るなら私たちもですよ! Eチームは七つの特異点を攻略した史上最強チームですから!」

「当たり前だ。実績と実力が伴ってんのはカルデアで俺たちだけだ」

「あくまで結果だけ見れば、ですがねえ」

「『くっ! こんな連中に手柄を与えるなんて、魔術王は何を考えているんだ……!!』」

フォウフォウフォフォウ(さすがにとばっちりがすぎる)

 

 魔術王の心境はともかく。人理修復を果たしたとしても、ノアが功績を盾に悪行をしでかすのは確定的に明らかである。カルデアという組織は身中に毒を抱えているのだ。

 立香の言に追随して、ジャンヌは白い犬歯を剥き出しにして笑う。

 

「そうと決まったらさっさと行きましょう。サクラのあのツラを前衛芸術にしてやるわ……!!」

「ジャンヌさんの言う通りです。そもそも、恨みで言えばわたしたちの方が先に抱いています。ランスロットさんを殴り飛ばしたわたしの鉄拳が閃く時も近いでしょう」

 

 マシュはみしりと拳を握りしめた。ペレアスと湖の乙女姉妹はその背後に、死んだ目をして佇むギャラハッドを幻視した。ポジティブな感情でないことは確かだ。

 ギルガメッシュはそこまで見届けると、自身の蔵より黄金の飛行船ヴィマーナを引き出す。そして、棘のある声音で言いつける。

 

「それに乗り急行せよ。決して傷をつけるな。……いいか、決して傷をつけるでないぞ!!」

「おいおい、誰がそんな運転するかよ。俺は目隠しかつ足で操作してもマ○カーで一位取れるドラテクの持ち主だぞ」

「リーダー、全く信頼できません」

 

 と言いつつ、Eチームとエレインはヴィマーナに乗り込んだ。飛行船の発進と同時に、ケツァル・コアトルとイシュタルは飛び上がる。三本の軌跡は目にも留まらぬ速さで彼方へ消え去った。

 ギルガメッシュは牛若丸とレオニダスに向き直った。血の結晶をはめ込んだかのような紅い瞳は怜悧な色を帯びている。

 

「ティアマトの襲来に備える。人員をまとめて街の修復に取りかかれ。我も出て指揮を執る」

「彼らの撤退支援はよろしいのですか? 話に聞く限りでは、足止めを果たしたとしても無事に逃げられるとは思いませぬ」

「案ずるな、レオニダス」

 

 王は血染めの眼を細め、

 

「───無論、手は回してある。神であろうと利用する……あの詩人の言葉通りにな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼は、人の形をした奇跡だった。

 その手はあらゆる病を治し、その眼は未来を見通し、果ては死者をも蘇らせる。分け隔てなく奇跡を与える姿はまさしく、救い主と呼ばれるに相応しかった。

 私たちが彼を初めて見たのは、エルサレムという場所だった。その男は鞭打たれた体で巨大な十字架を背負い、最期を迎える場所へと歩き続けていた。

 多くの人から蔑まれ、唾を吐かれ、石を投げられる。けれど、その歩みに淀みはなく、ただひたすらに前へと進み出していた。それが自分の望みであるかのように。

 私たちは建物の屋根に乗って、彼の道行きを眺めていた。

 

〝ねえ、あの人間はどうして奇跡を使わないのかしら。浮かすなり何なりすれば、あんなに苦しむことはないのに〟

〝それを言うなら、ここから逃げるのだって簡単なはずですわ。わざわざ苦労を被るなんて、理解が及びません〟

〝自らを苦痛の渦に擲つのは人間の性よ。痛みこそが信念を補強する……神の子なんて言われていても、結局は人でしかなかったみたいね〟

 

 妹たちの疑念に、私はそう結論づけた。

 こんなに苦しいのだから、あんなに痛ましいのだから、自分が、彼が間違っているはずがない。どんな奇跡よりも心に訴えかけ、記憶に感情を刻み込む手段だ。

 彼の目的は死ぬことにあった。自らの生を諦め、多くの人間に蔑まれる中で、自身の証を残すことに一縷の卑屈な希望を見出したのだろう。

 

〝神よ、なぜ私を見捨てたのですか〟

 

 死の際、男は磔にされた十字架の上でそんな泣き言を呟いた。

 それはずっと抑え続けていた本心の吐露か、もしくは、神よりの啓示を受け取る能力を失ったためか。死を迎えるその時だけは、彼は真に人間であったのかもしれない。

 でも、完全に息絶えた瞬間、奇跡は起きた。

 どんな魔術も、どんな魔法だって手の届かない真正の奇跡───原罪の払拭。遥か過去より人間の魂に刻みつけられていた罪を、拭い去ってみせたのだ。

 まるで、暗い部屋の照明をぱっと点けたみたいに。

 全世界の全生命が、変革を辿っていた。

 私たちは知った。彼が本当に神と同質であり、完全なる人間であったことを。

 同じ湖から生まれた精霊。互いに溶け合い、微睡むような意識はそれで分かたれた。何を感じても同じモノしか抱かなかった自分たちは、初めて異なる感情を得た。

 ───ああ、人間って、こんなにも。

 

〝死にたがりで、かわいそうね〟

〝健気で、可愛いらしいですわ……!!〟

〝とっても綺麗で、面白いわ!〟

 

 落陽の光に包まれる丘の上。

 ぼんやりと霞む光の中に、死した救い主を睨む女の姿があった───────

 

「…………あれは、あなただったのね」

 

 果て無き空を征く、黄金の船。

 母なる巨神が蠢くその前で、黒白の偽神と知恵の女神が待ち構えていた。

 女神たちが一堂に会する天と地で。

 知恵の女神ソフィアは四冊の魔導書を出現させた。

 

「……誰に向けて言っている、湖の乙女。───第1儀式場『魔女の饗宴(エスバト)』、展開」

 

 世界の色彩が塗り変わっていく。

 パレットの上に色とりどりの絵の具を撒いて、乱雑に混ぜ込んだかのような彩り。無数の色で構成された混沌の黒の狭間に、ちかちかと毒々しい原色が光っている。

 混ざり合った黒の間隙から、真っ青な月が覗く。それは幼児がクレヨンで描いたみたいに拙いカタチをしていた。

 創世の母神から流れ出した泥が逆巻き、新たなる生命が受肉する。

 人間の歯茎を縦にしたような頭部を持つ霊長。現在のあらゆる系統樹から外れた生命体。彼らは沸き立つ泥より産まれ、カマキリの前脚のような腕を掲げた。

 

「x3、qkde4q:@=fd@/jd94」

「g94f-@hokqyd@94v@」

「nyuw@w=sl3zw」

「ut9hb@ac4=eqq@gjd94────」

 

 新生を果たした命たちの饗宴が始まる。

 知恵の女神は踊る彼らを抱きしめるように、大きく腕を広げた。

 

「〝願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みが与えられるように。主が御顔を向けて、あなたに平安を賜るように〟」

 

 ソフィアは微笑みとともに言祝いだ。

 絶対なる唯一神の恩寵を知らぬ、新しき人類を。

 おぞましくも絢爛な生誕の祭典。旧き霊長たるヒトの眼に、それはどこまでも愉しげに写った。立香はその光景を見下ろして、手の震えを押さえつけるように船の縁を握る。

 

「な、なんですかアレ!? 増えるワカメみたいにいっぱい出てきてるんですけど!!」

 

 イシュタルは手中に宝石を投影し、魔力を込めた。

 

「ケイオスタイドから生まれた新人類……ラフムとでも呼びましょうか。あの泥には絶対に触れないようにしなさい、汚染されるわよ」

「なるほど……エリザベートさんが騙された聖杯くんの泥と似てません?」

「おそらくアレの原型だな。だが、格は比べ物にならねえ。パッと感じられるエーテルの量からしても破格だ」

「『シバの観測結果では、ケイオスタイドに含まれる真エーテルは原始地球の年代に属している。サーヴァントですら汚染は免れないぞ!!』」

 

 ティアマトの泥とは原初の命を育む創世の海。触れた者はその細胞から遺伝情報に至るまでを書き換えられ、存在そのものが変質させられてしまう。

 サーヴァントですら例外ではない。たとえマスターと契約を結んでいたとしても、変質の過程でティアマトの仔として生命の情報が設定される。

 マシュはじっとジャンヌを見つめて、

 

「ジャンヌさんが浴びたら一周回っ」

「アンタが浴びなさい、なすびオルタ」

 

 ジャンヌの手刀がマシュの脳天を打ち据える。サクラはそのやり取りを見て、平坦な口調で言った。

 

「考えることはみんな同じみたいですね。ところで、私の駄猫が脱走したんですけど誰か知りません?」

「あのバカ猫なら私が闘争心ごと去勢しておきましたが? 猫の放し飼いは危険というのが現代の常識デス!!」

「う〜ん、残念です。剥製にして飾ろうと思ってたのに」

「あら、それは奇遇ね! 私もアナタに同じことをしようと思ってたから!!」

 

 空気が撓み、太陽神は駆ける。

 凄絶に響き渡る金属音。立香の目が捉えたのは、ケツァル・コアトルの翡翠剣とサクラの石翼の衝突。偽神は灰色の羽毛越しにほくそ笑む。

 

「やっぱり、速いですね。間に合いませんでした」

「イチイチ煽らないと気が済まないの!?」

 

 ケツァル・コアトルは剣を弾き上げ、瞬時にサクラの後背へ回り込む。流れるように振り落とされた刃は、サクラの直前で何かに弾かれたみたいに跳ねた。

 交錯する視線。二柱の神による殺し合いが始まったその時、黄金の船は一目散にティアマトへ直進する。

 

「『理由は分からないが、ティアマトは戦闘態勢を取っていない! やるなら今だ!!』」

「いいや、そんな未来は無い」

 

 ソフィアは人差し指の先を船へと突き立てた。

 凝縮する魔力。空間を歪め、光を捻じ曲げるほどの圧力。宇宙が膨張するエネルギーをほんの爪先だけ掠め取った、圧倒的な力の奔流。

 それを放てば敵はおろか、サクラやティアマトをも巻き込む。が、サクラはたとえ一原子残らず消滅させられたとしても再生し、ティアマトにはそもそも死という概念が存在しない。

 だからこそ、ソフィアは躊躇なく魔力を解放する。

 

「『逆行起源・天地収(ネガ・インフレー)────」

「───遅いっ!!」

 

 無数の光弾が閃く。

 破裂する五色の弾丸。ソフィアの指先に灯った光がふっと消える。きらびやかに輝く爆風はしかし、ことごとく上方へと逸れていった。

 知恵の女神の頭上に現れた暗黒天体。空間に開いた重力の井戸が攻撃を吸い込み、ぴたりと閉じる。

 彼女はイシュタルを見つめた。

 

「リベンジマッチか?」

「どうとでも取りなさい。私が相手よ!」

「嬉しいよ、イシュタル。お前がそこまでの負け犬根性を発揮してくれるとは」

「この私のどこから負け犬オーラが出てるってのかしらァ!!?」

「そういうところだが?」

 

 ソフィアは虚空から一本の箒を抜き出し、柄の部分に両足を乗せる。イシュタルが怒声とともに放った光線は、縦横無尽に駆け抜ける箒の軌道に掠りもしない。

 金星の女神は思わず唇を噛んだ。

 

「……随分と行儀の悪い乗りこなしじゃない。卒検でやったら一発アウトよ、それ」

「私は育ちが悪くてね、無免許運転がデフォルトだ。見苦しくさせてしまったなら申し訳ないと謝ろう」

 

 だが、とソフィアは翻す。

 

「───()()()()()()()()()()。優雅な戦いなど望むなよ、美の女神」

「ハッ! 上等よ……!!」

 

 サクラは知恵の女神と金星の女神の戦いを横目で流し見ていた。一瞬の間に数え切れない刃を見舞うケツァル・コアトルの斬撃を払いつつ、大きなため息をつく。

 

「……はあ~ぁ、楽しそうで羨ましいです。本当はイシュタルさんのこと好きなんじゃないですか、あの人?」

「よそ見厳禁!!」

 

 翡翠剣のひと振りがサクラの首を刎ねる。

 頭が溢れ落ちる。司令塔を失った胴体は糸が切れた人形のように揺らぎながらも、左手で頭部を掴み取った。

 ぶらりと垂れ下がるサクラの首。紅い瞳がケツァル・コアトルを向き、唇が艶めかしい弧を描く。

 

「なので、サクラ分身PART2!!」

 

 体のみのサクラが頭を放り投げる。

 それが行く先はティアマトへと迫りつつあるヴィマーナ。狙いすました投擲は船の船首へと着弾した。

 まるでトカゲの尻尾切り。瞬時に首からの下の肉体が生え出し、立ち上がる。

 

「ええと、こういうのをなんて言うんでしたっけ」

 

 ノアたちは言葉を交わす間もなく身構えた。

 サクラはちろりと舌を出して、あざとく表情を綻ばせる。

 

「───来ちゃった♡ てへっ♡」

 

 しん、と辺りから音が奪われる。およそ数瞬の合間、張本人であるサクラ含め、誰もが瞬間冷凍されたかのように停止していた。

 そうして。ノアは口元をひくつかせながら、語気に苛立ちを込めて言う。

 

「……おまえには可愛らしさの一欠片も見当たらねえぞ、ぶりっこ野郎。せめてその化けの皮で邪悪さを隠してから出直せ」

 

 サクラは何事もなかったかのように居直る。その表情は完全なる無であった。

 

「ま、ですよね。やっぱりこういうのは私のキャラじゃないみたいです」

「それで、何の用だ? わざわざ俺たちにボコられに来たってんなら、そこで四つん這いになれ」

「はー、うざ。私はあなたとかアウトオブ眼中なんですけど。そこの藤丸立香さんに用があるんで、すっこんでてもらえません?」

「だったら、なおさらボコすに決まってんだろうが!!」

 

 ルーンの灯火が発露する。

 それと同時。ペレアスとジャンヌが駆け出し、それぞれの得物を振るう。

 サクラは後方に飛んで躱し、ノアの魔術を羽で打ち払う。すると、彼女は無造作に船首を右手で押さえ込んだ。

 

「だったら、とりあえず落とします」

 

 手を放した一瞬。黒白の偽神はサッカーボールを相手にするかのような気軽さで、右足を横に振り抜く。

 金属がひしゃげる轟音。圧縮された空気が荒れ狂う暴風となって辺りを暴れる。当然、船も無事では済まない。黄金の船体は一直線に地面へと墜落した。

 

「ジャンヌさん並の馬鹿力───!!」

「あんなの私にできるわけないでしょうが!!?」

「言ってる場合ですかねえ!?」

 

 真っ逆さまに落ちる先は混沌の泥が渦巻く漆黒の海。触れた時点でそれまでの生は終わり、新生を余儀なくされる。

 ノアが飛行のルーンを刻むより早く、エレインは氷の杖を振るった。

 現れるのは見渡す限りの氷原。ケイオスタイドの上に膜を張るように広がる、氷の地面であった。ノアたちはルーンの効果によって、軟着陸を果たす。

 撃墜されたヴィマーナが火炎を噴き出しながら、泥に呑まれていく。黒煙を背景に、偽神は氷の大地へ降り立った。

 

「私はステータスなんていくらでも弄れるんですけど、今のはたったAランクの筋力程度のキックでした。なぜ船を落とせたのかは……少ない脳みそを捻ってよく考えてください。ヒントは作用と反作用です」

 

 ぱん、とサクラは手を合わせる。

 

「ティアマトはまだまだ寝起きなので、半覚醒状態です。そこで、あなたたちに提案をしてみようかと」

「丁重に断らせていただきたいですねえ。ろくなことを言わなさそうですし」

「むしろ丁重に断る意味もねえな。オレたちにとっちゃこいつの提案ってだけで論外だ」

「……聞いてみるだけ価値はあると思いますよ?」

 

 黒白の少女は後ろ手を組んで、覗き込むようにEチームを見上げた。

 

「魔術王。一緒に殺しません?」

 

 くすくす、とサクラは微笑む。

 魔術王の打倒。それは現時点におけるカルデアの最大目標であり、人理焼却という事件を収束させる唯一の手段だ。

 王の居城はこの特異点を攻略した先に存在する。その障壁となっているはずの女は表情に笑みを保ったまま、両手の人差し指を立てた。

 

「あなたたちホモ・サピエンスが地球上で栄華を極めることができたのは、進化の隣人であるネアンデルタール人を排除したからです。支配者は二つもいらない……ほら、利害は一致しているでしょう?」

「そういうのを、なんて言うのか知ってる?」

 

 立香は、勢い良く杖を差し向ける。

 

「───おとといきやがれ!!! 少しはマシな交渉を学んできて!!」

 

 射出される魔弾。

 サクラは身動ぎひとつしなかった。

 風船が弾けるような音が炸裂する。魔弾は真っ直ぐ顔面に直撃していた。その痛みすら感じていないのか、彼女は呆けたみたいに立ち竦んでいる。

 血で汚れた顔をぶんぶんと振って取り繕う。しなやかな五指が顔の端をなぞり、そこから折れた薬指が柔らかな唇を歪める。

 皮膚を引き裂くように口の端が持ち上がり、熱い吐息とともに頬を上気させた。

 

「ああ───やっぱり、欲しいです。弱い癖に楯突いて、私のことなんかどうでもいいってその瞳……抉って永久保存しておきたいくらい。決めました、あなたははしたなく尻尾を振って快楽を求めるワンちゃんにしてあげます!!」

 

 ずっ、と悪寒が頭頂から爪先を貫く。立香は目にも留まらぬ後ろ歩きでノアの背後に回り込み、両脇にマシュとジャンヌを引き寄せる。

 

「ま、魔術王と会った時よりゾッとした……!!! ヤバいです、怖いです!! みんな助けて!! リーダー!!!」

「おお。このパニクりよう、先輩の過去一が出たかもしれません。わたしの側にいれば万事安全です」

「冷静に分析してる場合じゃないわ。ティアマトの足止めでここまで来たのに余計な危機が乗っかってるんだけど」

「とにかくあいつをぶっ飛ばして逃げれば済む話だ。キリエライトはあのアホを絶対に立香に近付けんな」

 

 言われずとも。マシュはそう返事して、立香を後方へ下げる。ダンテたち後衛組は憐れむような視線を注いだ。

 

「立香さん、心中お察しします。詩人として情けないですが、正直掛ける言葉が見つかりません」

「私の経験上、ああいった目をした人には近寄らない方がいいですわ。間違いなく脳内がピンクに染まっていますので」

「リース、鏡で自分の顔を見なさい」

 

 エレインは氷で作った手鏡を渡す。リースとペレアスはその鏡面を覗いて、首を傾げる。

 

「いつもの私の顔ですが。……あ、そういえばすっぴんですわ」

「マジか、女神が写ってるかと思った」

「リース、ペレアス、ぶっ飛ばすわよ」

「こんな時に惚気るとか、アホなんですか?」

 

 サクラはつまらなそうに吐き捨てた。ペレアスは赤の甲冑を身に纏い、神殺しの魔剣を構えて、言い返す。

 

「アホで上等だ! お前は不死身みたいだが、この剣でも傷がくっつくかどうか試してやる!!」

「良い考えですね。斬れないということを除けば」

「うっせえ!!」

 

 サクラへと攻撃が殺到する。業火の波が押し寄せ、氷の牙が食らいつき、魔剣の斬撃が閃く。

 しかし。

 それら一切が、同時に逆の方向へ弾き出された。

 びきり、と剣を握る手に衝撃が走る。ペレアスは兜の奥で歯噛みして、あるひとつの可能性に思い至る。

 

「───ラモラックと同じ、反射か!?」

「だけじゃ、ないですよ?」

 

 渦巻く泥がサクラの足元の氷から突き出す。

 ぎちぎちと捻れ、先に行くほど尖った形状。不定形のはずのケイオスタイドは、まるで生き物のように鎌首をもたげた。

 氷原を削り、泥の槍が迫る。マシュはそれを盾を振るって受け流した。

 

「『造物主故の物質支配───? いや、アレは……』」

「……むしろ、力を操ってやがる。泥の挙動からして、向きと大きさまでは手中にあるらしい」

「アホのくせに、いい観察眼してますね。そう、私は造物主。ヤルダバオトであり、デミウルゴスであり、サクラス。この物質界を創造したと規定された、形而上の神」

 

 ───それなら、物質だけでなく力も操れて当然でしょう?

 グノーシス主義における造物主。この世を創造した偽神。伝説上、シモン・                マグスが提唱したとされる思想では、あくまで物質界を創造した神は偽なる悪神であった。

 なれど、その権能は真正の神───唯一神に近しい。

 元より、彼女は1グラムの物質を90兆ジュールに変換することができた。これは成長ではなく発見。自らの権能の可能性に気付いた、それだけのこと。

 

「この宇宙における力の振る舞い───それを理解した私に、勝ち目なんかありません」

 

 その言に、諧謔は存在しない。

 攻撃が通じない、どころではない。そもそも攻撃が当たらず、かつ、倍以上の力で返される。あらゆるエネルギーを支配する偽神には、あらゆる攻め手が通用しない。

 さらに。イシュタルとの戦いを繰り広げていたソフィアは、周囲に浮かぶ本のうちの一冊を手に取る。

 

「術式抽出───『三度、恩寵は降り注ぐ(トライアド・ユーフォリア)』」

 

 イシュタルの放った光弾がソフィアの眉間を狙う。が、それは飛翔する過程で急激に勢いを失い、敵に届く頃にはか細い光に成り果てていた。

 ぱちん、と知恵の女神は指を弾く。

 大気が捻じ曲がり、真空の刃がイシュタルへと飛んだ。

 不可視の斬撃。けれど、金星の女神は難なくそれを躱す─────

 

「─────!!」

 

 宙に舞う血の雫。回避したはずの一撃は、イシュタルの肩口を深く切り裂いていた。

 

「お前も、例外ではないぞ。アステカの太陽神」

 

 サクラの分身と斬り結んでいたケツァル・コアトルの全身に、いくつもの切創が刻まれる。ひとつひとつはけして深くはないが、決して無視できるものではない。

 ケツァル・コアトルは傷そのものには一切の反応を見せず、ただ眉をひそめた。

 

「一体、どんな魔術を……!?」

「なんてことはない。魔女なら誰もが知っている概念で、術式だ。誰もが使えるとは限らないがな」

「───『三重の法則』。魔女の行動はその善悪を問わず、三倍になって返ってくる。そういうことでしょう」

「流石は最古の三相女神、恐れ入るよ。それとも、依代の少女の知識かな」

 

 魔女宗……ウイッカの信仰では、魔女が行う事象はそれが善きにつけ悪しきにつけ、必ず三倍になって戻ってくるという考えがあった。

 ここにおける三倍とはあくまで比喩。端的に言えば、魔女は全ての行動がそれ以上の意味と価値を持って返ってくる。

 言うなれば、善の三倍と悪の三倍。

 当然、善悪は視点によって変わる。他人にとっての悪事も、魔女にとっての善行であるなら、魔女には善き結果だけが価値を増して戻るのだ。

 それ故に。

 

「私はあえて攻撃を外してやった。敵を見逃す慈悲は、善行に違いない。そして、私にとっての善い結果として、お前たちが傷を受けるという事象が現れた。説明してやれば、退屈なくらい単純な理屈だろう?」

「っ……どれだけ、インチキ技を隠し持てば気が済むのよ……!!」

「原初の魔女をナメるなよ、イシュタル。本体ならば十中八九私が負けていただろうが、疑似サーヴァントのお前は遥かに弱体化しているはずだ」

「だから諦めろっての? 無理な話よ!!」

 

 ソフィアは鼻を鳴らす。

 

「ここまでは、個人を術式の対象にした話だ」

 

 サクラは無造作に石の翼を払った。

 瞬間、立香を除いた地上の全員を突き刺すような風圧が襲う。血を吐き、苦痛に揺らぐ仲間の姿。立香は目を見開き、ある結論に到達する。

 

「───まさか」

「その通りだ、藤丸立香。一帯は既に私の儀式場、『魔女の饗宴(エスバト)』。『三重の法則』は全員に適用される。無論、お前たちへの善の三倍は排除しているがな」

「……さて。絶望するには十分な情報ですね?」

 

 ───攻撃が通用しない、なんて次元じゃない。善悪がソフィアとサクラの解釈に委ねられて、それが増加して返ってくるのなら、戦っても逃げても結果は同じだ。

 極論、ソフィアは敗走することですら〝命を守る善行〟として、三倍にしてしまう。その時、敵である自分たちに訪れるのは〝他者を追いやる悪行〟の三倍。どうあがいても、勝ち目なんてない。

 ……そこまで理解していてもなお、その少女は。

 唇を切り結んで、必死に敵を睨みつけて、震える体を押さえつけて、立っていた。

 ソフィアはなにか眩しいものを見るように、目を細める。

 

「…………私も、君に興味が湧いてきた」

 

 呟いたその言葉は、他の誰にも聞こえずに溶けていく。

 サクラはからかうように、

 

「ああでも、引き分け以上になら持ち込めるかもしれませんよ」

 

 蔑み、見下す視線はノアを刺していた。

 

「前の特異点の時に聞いていました。絶対にして無敵の神、バルドル。生まれ変わりであるあなたが真価を発揮したなら、少なくとも全滅は考えられない。それにしても、Ⅵ階梯如きの死徒を殺すためにバルドルになるなんて、蜂の巣の駆除に核ミサイル撃つみたいで笑っちゃいます」

 

 くすり、くすり。

 ノアは、面を伏せたまま応えない。

 神代より待ち望まれた、不死の神。数千年の集大成であるあの力を使ったのは一度きり。それを使えば、確かにこの場は切り抜けられるだろう。

 だが、他の誰が許しても、彼だけはそれを認めない。

 なぜなら、ここにいる自分は。

 あたたかな陽だまりの中で生まれた、ただひとりの人間だから。

 

「無理なら構いません。私が創る私の世界に、あなたは必要ない」

 

 サクラは唾棄する。自身の敵を、自分にとって必要のないモノを。

 立香は、全身を巡る血液が沸騰するほどの怒りを覚えた。

 彼の話を聞いておいて、それを必要ないの一言で切り捨てるなんて。

 

「もう、黙って。あなたの話は聞きたくない。あなたの世界なんかで生きたくない」

「それを宣うだけの力が、あなたにありますか」

 

 サクラはどこまでも嘲るように。

 

「あらゆる物質と、宇宙を動かす力を掌握する私こそが、世界を統べる法則なんですから────!!!」

 

 物質界の創造主は嗤う。

 轟く哄笑。それを遮るものはどこにもなく。

 呼応するようにラフムたちが踊り、ケタケタと聞くに堪えない声をあげる。

 サクラの石翼が振り上がる。それを落とせば、起きるのは先の繰り返し。

 楽には殺さない。他者の苦痛こそが黒白の少女にとっての蜜であったから。

 けれど、翼が下ろされることはなかった。

 

「話は終わりか?」

 

 ノアは口元についた少量の血を拭い、サクラは真っ向から睨めつける。

 

「此処に、おまえのものなんて何ひとつとして存在しない。俺も、世界とやらも、ましてやこいつは、おまえの小さい手に収まる器じゃねえ」

 

 後方の少女を庇うように伸ばされた右腕。

 空いた左手の上に、無色のエーテル塊が出現する。

 無属性魔術。エーテル塊は特別な性質を付与した事象を創るその力の原質。無彩色の固体が無数の欠片に分かれ、散らばっていく。

 雪のような粒はやがて見えなくなり、この世界に溶け込んでいった。

 起きたのはたったそれだけ。劇的な変化もなければ、目を見張るような派手さもない。サクラは息を吐くみたいに嘲笑う。

 

「何をするかと思えば、虚仮───」

「────おまえが創るつまらない世界は、俺がぶっ壊す」

 

 最初に気付いたのはソフィア。

 大気のマナが、ケイオスタイドに滞留する真エーテルが、ノアの手元に集まる。

 あたかも、魔力という力の流れを操っているかのように。

 イシュタルやケツァル・コアトルが異様な魔力の変遷を感じ取ったその時、既に攻撃は終わっていた。

 小細工など一切必要としない、魔力の放射。周囲の魔力が一点に収束したその一撃は、サクラの片翼を塵に還す。

 

「……え?」

 

 サクラの対魔力はA++ランク。現代の魔術師が用いる魔術など、蚊ほどの鬱陶しさにもならない。

 だというのに。

 それは、翼を焼き落としてみせた。

 

「だとしても、愚かです! 『三重の法則』が悪しき結果を返」

「うるせえ、黙ってろアホが!! そういうのはおまえらの世界だけでやってろ!! ここでは俺がルールなんだよ!!!」

「はあ!?」

 

 ノアに適用されるはずの『三重の法則』は不発。第二射がサクラのもう片方の翼さえも奪い去る。

 

「……ッ。どうして───!!?」

 

 

 

 

 

 

 ───宇宙という極限にマクロな世界は、素粒子という極限にミクロな世界の法則によって支配されている。

 万物の最小単位である素粒子。初期の宇宙は素粒子にまで分解された火の玉であった。やがて、小さな宇宙は加速度的な膨張、インフレーションを起こし、今日の宇宙を生んだ。

 すなわち、この宇宙の創世には素粒子の世界の法則が密接に関わっている。それどころか、宇宙はミクロの世界によって動いていると言っても良い。

 ならば、もし、架空の素粒子を創り出すことができたら?

 それは既存の物理法則を書き換え、世界に干渉することさえ不可能ではないだろう。

 無属性魔術によって創り出された素粒子は法則を書き換えた。ソフィアと、彼女の儀式場が強いる『三重の法則』を。

 ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドは思い知った。

 これは、自らの無属性魔術が至る極致のひとつであると。

 1979年、ノーベル物理学賞を受賞した物理学者、シェルドン・グラショーは宇宙と素粒子の関わりを、自らの尾を喰らう蛇になぞらえた図にして示した。

 故に、その名は。

 

 

 

 

 

 

粒子魔術(ウロボロス)!!」

 

 突き立つ中指の前に、輝く光球が生まれる。

 サクラは親指の爪を噛み切る。対応する術さえも忘れて、見惚れるように口をこぼした。

 

「────もしかして、核融」

 

 その言葉が最後まで紡がれることはなかった。

 架空の素粒子による物理現象。それはサクラが知らぬ法則であり、そのため、力の向きを変えることができない。

 拡散する光と熱が五体を焼き尽くし、灰へと還す。

 ティアマトへの道は未だ拓けていない。母への情故か、旧人類を否定する性故か。ラフムが群れをなし、ノアたちの前に立ちはだかる。

 ノアはふらつく膝を隠して叫ぶ。

 

「次はおまえらの番だ。とっとと働け、下僕ども!!」

「せっかくの活躍が台無しですねえ」

「少しは感謝してやろうと思ってたのにな!」

「わたしたちが下僕なら、リーダーはクソうざったい魔力タンクです! 異論は認めません!!」

「久しぶりにアンタと気が合ったじゃない……!!」

 

 乱雑にすぎる発破を受けて、サーヴァントたちはラフムの群に跳び込む。ダンテを除いて。

 マスターコンビとダンテ、エレインは仲間の背を追った。立香はノアの引きずるような足取りに気付く。

 

「リーダー、大丈夫ですか?」

「……ぶっちゃけると、全身がクソ重たいし熱いし痛え」

「えーっ!?」

 

 説明する気力もないのか、彼はすぐに口を閉ざした。エレインは一目で不調の原因を見抜いてみせる。

 

「魔術回路を演算装置として使ったのね。あの魔術はノアの膨大な魔術回路を酷使するほどの精密さが求められるということかしら」

 

 ノアは小さく首肯した。

 卓越した魔術師は魔術回路によって、電子機器にも等しい処理を行える。

 一般的な魔術師の処理能力が携帯端末レベルだとすると、ノアのそれはスーパーコンピュータだ。が、素粒子の挙動を演算するにはそれでも心許ない。

 限界を超えた演算をしたことで、ノアの魔術回路は過負荷状態となったのだ。

 ───そして、その思考に至ったのはソフィアもまた同じ。眉間にしわを寄せ、苛立たしげに歯を食いしばる。

 

(私の知識にない魔術……たった今、あの瞬間に生み出してみせたということか。発展途上のアレを完成させるわけにはいかない……)

 

 そして、今ならノアが撒いた架空の素粒子を解析し、儀式場に組み込めば『三重の法則』は復活する。知恵の女神は懐から短剣を抜いた。

 アサメイ。短剣は四大元素では風や火の属性に当てはめられる。魔女が使う武器としてのイメージが蓄積した概念礼装。

 これを振るえば、標的の座標に合わせて真空の刃が出現する。狙いはノアの首。アサメイの刃が躍る寸前、宙に無数の宝石が舞い、千々に砕ける。

 宝石は全て、豊かな黄色の光を放っていた。

 

「───イシュタル!!」

「どうやらビンゴだったみたいね!! アリストテレスの四大元素では、それぞれの属性は性質の変化によって転化する! 風の元素変換なら、真反対の性質で乱してやれば機能不全って寸法よ!!」

「依代にかなり影響されているみたいだな、おてんば金星ゴッデスめ!!」

「なにそのトンチキなアダ名!?」

 

 ソフィアの両眼が忙しなく動く。

 Eチームはティアマトに迫りつつある。イシュタルのしつこさは別として、ケツァル・コアトルは、まさにサクラの分身を跡形もなく焼き払った直後だった。

 彼女は額の汗を爽やかに拭う。

 

「フゥーー!! 少しはスッキリしました!! この調子でクライマックスと行きましょうか! さあ、アナタの罪を数えなサーイ!!」

「くそっ、アホしかいないのかここは!」

 

 知恵の女神は思わず頭を抱える。

 イシュタルはニタリと、頭を悩ませるソフィアを見下ろした。

 

「良い顔になってきたじゃない。そうそう、そんな表情が見たかったのよ」

「うるさい馬鹿!! その口を閉じていろ!」

「んなっ……!?」

 

 切り札はある。

 ティアマトの意識を完全に覚醒させる。

 ティアマトの戦力はこの場の敵と味方を合わせたものよりも大きい。単騎で盤上ごとゲームを破壊する駒だ。

 

「起きろ、ティアマト!」

 

 魔力を乗せた言霊が響く。

 ギン、と薄い赤紫の瞳が明確な意思を取り戻す。

 頭の上を巨人の手で押し潰されているかのような、物理的な威力すら伴う視線の圧力。ティアマトは矮小なる人間の姿を認めると、蚊を叩くように右手を振り落とした。

 

「おるぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」

 

 自身の現界を維持できる寸前まで魔力を注ぎ込み、灼炎の流星と化したケツァル・コアトルがティアマトの手に激突する。

 縦に向けられる力は横からの力に弱い。果たして彼女がそこまで理解していたのかは定かでないが、手刀は直撃する軌道を外れ、氷の大地を叩き割った。

 水を溜めたバケツを引っくり返すみたいに、混沌の泥と氷塊が空へ撒かれる。

 空中に放り投げられる人影。エレインは飛び上がる氷塊のひとつに身を隠していた。ティアマトを真正面に臨み、水晶の小瓶を取り出して、

 

「ありがとう。射程圏内よ」

 

 その中身を一気に呷った。

 エレインが月の雫を素材に造った霊薬。それは西洋で言うエリクサー、中国の仙丹、もしくは変若水と呼ばれる液体。つまりは、若返りの秘薬である。

 湖の乙女で最も魔術の腕に長けたエレインのそれは、肉体のみならず魂にまで作用する。より純粋な、精霊となる以前の姿にまで遡るのだ。

 

(───私たちが、三人に分かれる前の存在)

 

 かつて、キャメロットが隆盛を誇った時代。

 エレインは王の障壁となり得る、古きケルトの末裔を調べていた。結果的に役に立ったとは言い難いが、モルガンの核心を知ることができたのも調査があってこそだった。

 アーサー王の時代。キリスト教の広がりによって、既にケルトの神々は世界の裏側に消えていた。ドルイドの信仰の基盤である森林も伐採され、神々は居場所を失ってしまった。

 だが、それは少しでも自分のいた証を残そうとする行為だったのか。神は己の因子を各地に潜ませていた。

 ───ブリテン島の片隅。洞窟の奥底に詰められたみたいに、彼はそこにいた。

 

〝そうか、お前も……否、お前たちも儂と同類。古きケルトの末裔か〟

 

 巨人王イスバザデン・ペンカウル。

 常に目を閉じた彼はもうすぐ、その命を終えようとしていた。

 目を閉じているのは老衰のためではない。彼のまぶたは非常に重く、そして堅固な封印が掛けられていたから、簡単に開くことができないのだ。

 そう、まるで。

 太陽の魔神、バロールのように。

 

〝我が眼はバロールの魔眼。ひとたび開けば、見ただけで何もかもを殺してしまう〟

 

 この世にはモノの死が視える直死の魔眼というものが在るが、バロールの魔眼は死を視るのではなく、死を視た上でそれを確定させてしまう。

 イスバザデンはバロールと同じ眼を持っていた。

 彼が古きケルトの末裔であったがために。

 そして、巨人王は魔神と同様の結末を辿った。バロールが娘とその婿との間に産まれた子に殺されたように、イスバザデンは娘婿を取ることがすなわち命の尽きるときと定められていたのだ。

 

〝お前たちが星の触覚たる精霊であることは間違いない。しかし、同時にケルトの神の因子をも受け継いでいる〟

 

 その神の名は、

 

「───水の女神コヴェンティーナ」

 

 リースは噛み締めるように言う。

 飛行のルーンで泥に墜落することを免れたノアたちは、己の起源たる神に逆行したエレインを見つめていた。

 白く白く、触れれば崩れてしまいそうな雪の身体。なれど、その存在の格は湖の乙女と比べても隔絶している。

 コヴェンティーナ。水を司るケルトの女神。その支配域は海や川、湖、池───文字通り、全ての水ある場所を治める。

 ここまでの力を以ってしても、ティアマトを倒すには果てしなく遠い。だが、時間を稼ぐ一点に目的を絞れば。

 

(あの時、あなたもこんな気持ちだった?)

 

 脳裏をよぎる、茨冠の救世主。

 色々と、事情は違うけれど。

 人類のために命を懸けるという意味では、同じだと思いたい。

 傷だらけの体で磔にされた姿を見て、死にたがりでかわいそうと感じたのは間違いない。だけど、少なくとも彼は別の感情を抱いていたはずだ。

 神に見放された悲哀。

 己を裏切った弟子への哀憐。

 それでも尽きることのなかった人類愛。

 今、私は。

 ただただ、誇らしい。

 人の未来を繋げる礎になれることが。

 

「拘束、解放」

 

 ティアマトとエレインを結界が包み込む。

 それは。

 水の女神コヴェンティーナの全魔力、全霊基、全存在を懸けた。

 決して尽きることのない、海原の異界─────!!!

 

「あなたは強く、大きいけれど」

 

 ───広いだけのこの世界を、どれくらいの速さで脱出できるのかしら。 

 ざざん、と波が押し寄せては消えていく。

 その異界に陸地は存在しない。あるのはどこまでも続く、果て無き大海のみ。

 抜け殻となった肉体が崩れる。

 雪と氷でできた体は海面に呑まれ、溶けてなくなった。

 ただ残される、創世の母神。彼女は独り、嘶いた。

 

 

 

 

 

 

「───だから、どうしたんです?」

 

 異界の外。復活を果たしたサクラは仮面のような表情を貼り付けて、言い放った。

 

「あなたたちは逃げられない。私に勝つ手段もない。もう詰んでるじゃないですか」

 

 だからここで。

 その瞬間、泥の大海に巨大な穴が開く。

 穴の向こう側には灼熱の雷電を宿す大槍が、柱のように立ち並んでいた。

 

「今までたくさん我慢をしてきたから、こんな時くらいは好きにさせてもらいたいのだけれど」

 

 その中心。麗しき金色の髪を棚引かせ、冥界の女主人は獰猛な笑みを浮かべる。

 

「ティアマトを弄ぶアナタたちは、流石の冥界もノーサンキューなのだわ!!!」

 

 ノアたちは瞬時に意図を察し、地下へ繋がる穴に飛び込む。ケツァル・コアトルが続き、イシュタルは足を挟みかけたところで穴は閉じた。

 サクラはぽかん、と口を開ける。

 

「……は? 逃げた?」

「ここまで冥界を広げ、ウルクの地下に転移する腹積もりだな。ギルガメッシュはこの未来を読んでいたか」

 

 それにしても、とソフィアは独りごちる。

 

「…………冥界を便利な逃げ場だと思っていないか、あいつら?」




・粒子魔術について
 宇宙という極大なマクロの世界は素粒子というミクロな世界の法則に支配されている。粒子魔術はこれを利用した魔術理論。ノーベル物理学賞を受賞したシェルドン・グラショーはこれを説明するためにウロボロスの図を用いた。ウロボロスとは円環を描く蛇であり、絶えることない連続性、つまり永遠性を表しているとされることが多い。ウロボロスを図に用いたところにセンスの光を感じる。
 ノアの架空元素・無の特性『ありえないが、物質化する』を活かし、無属性魔術で創られた架空の素粒子を周囲に散布することで、その素粒子の特性に応じた現象を引き起こすことができる。つまり、任意の物理現象を再現することができる。また、散布を行わずに任意の性質の素粒子を使った魔術も粒子魔術に当たる。
 この魔術で発動した現象は魔術でありながら神秘を纏った物理現象として発生する。つまり、対魔力で防ぎ切ることはできない。
 この魔術には錬金術の要素も加わっている。なので、魔術の分類としては錬金術の一種。伝説の錬金術師ヘルメス・トリスメギストスが錬金術の秘奥を記した『エメラルドタブレット』には〝唯一なるものの奇跡を成し遂げるにあたっては、下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし〟とある。これはミクロコスモスとマクロコスモスの照応と相関関係を語ったものであり、この理論に則ることで人間は宇宙に働きかけてあらゆる現象を起こせるとされた。ロード・エルメロイⅡ世の事件簿で度々言われるミクロコスモスとマクロコスモスの照応とはこのこと。人間と宇宙を無理やり当てはめることで、自身の行動によって世界を変える術が錬金術である。セフィロトの紋様なんかも人間の体に当てはめたものが存在する。人間というミクロな存在と宇宙というマクロな存在───奇しくも、シェルドンが提示したウロボロスの図と似たことを遥か昔から提唱している。
 作中のノアは演算の処理でダウンしかけていたが、本人によると〝慣れと気合いと工夫でどうにかなんだろ〟とのこと。
 長々と書いたが、要は学園都市第二位のパクリである。


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第74話 宿り木の下で

 Eチームはエレシュキガルの冥界を通り、ウルクへと帰還した。が、彼らに休みを取る時間など存在しない。

 ウルクの王宮。三女神同盟との戦いが始まってから朝も夕も騒がしいこの場所だが、ティアマトの復活に際してその熱気と騒々しさは何倍にも膨れ上がっていた。

 しかし、宮殿の一角。視覚化するほどの黒い瘴気を放つ部屋が奥まった場所に据えられていた。王宮を行き交う人々は並々ならぬ圧力に圧倒され、足早に過ぎ去っていく。

 扉の横には一枚の表札。そこには『ティアマト対策特別会議室』との文面が掲げられている。

 室内にはギルガメッシュとシドゥリに加え、ウルクが保有する戦力の総勢がぎっしりと詰め込まれている。ほとんどがサーヴァントと神霊で構成されたその空間は、鉛のような空気で満ちていた。

 なお、テペヨロトルはいない。彼女は馬車馬ならぬ馬車猫として、自らが破壊したウルク市街の復興に従事させられていた。残念でもないし当然であろう。

 部屋の中央にはウルク周辺の地図が大きく広げられていた。当然の如く上座に座るのはギルガメッシュ。彼は腕を組み、脇に控えるシドゥリに告げる。

 

「……では、報告を始めよ」

 

 シドゥリはこくりと頷く。

 

「ティアマトは依然エレイン様の結界に囚われている模様。現世へのケイオスタイド流出も見られず、未だ脱出の兆候は確認できません」

「サクラとソフィアはどうだ」

「両者ともに異界へ侵入したようです。稼げる時間は予想以上に短いでしょう。神官団の星見によると、おおよそ三日半がリミットと言われています」

「十分だ。それまでに迎撃の準備を整える。して、肝心のティアマトを殺す方法だが」

 

 ギルガメッシュはノアに視線を送る。

 ノアはゴルゴーンとの決戦以前より、ウルクの研究施設の一角を借り受けて、神殺しのヤドリギを成長させる事業を行っていた。神話が語るところによれば、バルドルを無敵足らしめたフリッグの契約において、世界でただひとつヤドリギだけは〝幼いが故〟に契約を逃れた。

 世界でも最上級の神殺し・不死殺しの武装。ヤドリギがさらなる進歩を遂げたのなら────その姿は全てを見通すオーディンでさえ知らぬものとなるだろう。

 ノアは壁に背中を預け、簡潔に答える。

 

「アテはある。エレシュキガル、俺を冥界に連れてけ」

「……冥界はウルクの地下に引っ越し済みだから良いのだけれど。また変な契約吹っかけてきたりしないでしょうね?」

「そりゃ場合によるな。安心しろ、生かさず殺さず長持ちさせる術はよく知ってる」

「それなら安心ね、冥界の住人は全員死んでるから」

フォフォフォウ(そういう問題か)?」

「いつも思うんですけど、リーダーそういうのどこで覚えたんですか」

 

 立香は何の気無しに訊いた。この男の知識は半分が闇で、残りのもう半分はスクラップで出来ている。立香はそんな暗闇に包まれた最終処分場の中に突き進もうとしたのだが、ノアはなぜかしみじみと遠い目になった。

 

「知りたいなら教えてやる。あれは数年前───」

「貴様のくだらぬ回想に割く時間があるか雑種! 口を動かす前に頭を回せ! そのクルミのような脳みそではロクな考えなど生まれぬであろうがな!!」

「おいおい、誰の脳みそがダチョウ並みだ!? そういうのは俺の横にいるアホに言っとけ!!」

「私に受け流さないでください。そのアホの烙印はリーダーのなんで」

 

 と、真に流れ弾を食らっているのはダチョウであることは置いといて。イシュタルは目をじっとりと細め、低い声で言う。

 

「アテがある、程度の可能性に賭けるつもり? そんなの作戦とは呼べないでしょ」

「それはそうですけど、もしやイシュタルさんに考えがあったり?」

 

 金星の女神は立香の燦然たる眼差しに気圧される。純粋な期待に晒され、彼女は密かに思考をフル回転させた。

 この世で最も恥ずかしいことのひとつ。なんか分かってる風を取り繕っていながら、いざ訊かれたら答えられない───そんな無様を、ましてやにっくきギルガメッシュの前で晒すわけにはいかない。

 逡巡すること0.1秒、イシュタルが導き出した結論は、

 

「……そ、そう! 冥界! あそこならティアマトの不死性も無くなるじゃない!!」

「どういうことですか?」

「ティアマトの不死性には二つの種類があるのだわ。ひとつは〝死の概念がない〟故の不死性。もうひとつは〝全生命の母であるが故の逆説的〟不死性。冥界の中であれば後者の不死性は無効化できるということよ」

「なるほど。めいかいってすごい」

「『エレシュキガルさん。立香ちゃんの思考回路がショートしてるので詳しくお願いします』」

 

 頭頂からぶすぶすと黒煙を噴き上げる立香。それを尻目に、エレシュキガルは補足を加えた。

 ティアマトは死という概念を持たないため、決して死ぬことがない。それは彼女が持つ特性というよりも、理。ルールであるが故に、たとえ星を消し飛ばすほどの熱量を以ってしても、ティアマトを殺すことはできないだろう。

 そして、かの母神はあらゆる生命を産んだ。この地球上にひとつでも生命体が残っている限り、その母たるティアマトの存在は保証される。

 ティアマトを倒すためには地球上の全生物が滅びなければならない。だが、死者のみが存在する冥界に生者はあり得ない。そのため、ティアマトの不死性の半分は無効することができるのだ。

 そこまで聞いて、立香の脳内回路はひとまず冷却されたものの、まだ納得いかない部分があるのか頭を傾げていた。

 

「だったら、冥界の中でヤドリギを使えばいいんじゃ? 不死性があるならヤドリギは効果抜群ですよね」

「もう忘れたのか? ティアマトは死なないでも死ねないでもなく、死がない……殺しても死という終着に辿り着かないなら、ヤドリギは効かねえ」

「目当てのキャラを引こうと思ってガチャしてたのに、そもそもピックアップされてなかったみたいな感じですか。……ウッ! 悲劇すぎる……!!」

「先輩、喩えは概ね合っているのですが、あまりにも俗すぎます」

「考えたくもない事態なのは確かですけどねえ」

 

 同情の目が立香に集まる。その同情には少しばかりの憐れみと、それほどまでに現代人を苦しめるガチャという文化への困惑が入り混じっている。

 そもそも、とペレアスは疑問を投げかけた。

 

「ヤドリギが効かなかったのはサクラもそうだよな。あいつは体が消し飛んでも再生するし、不死身ってことだろ?」

「あのアホはヤルダバオトとデミウルゴスとサクラスとかいう造物主よくばりセットだぞ。出せる手札が多すぎる。考えるだけ無駄だ」

「サクラの自己改変能力なら、ヤドリギを受けた瞬間だけ不死性を消すなんて芸当もできるでしょうし……手札が多いと言うのならソフィアもですわ」

「……ふむ、こうして見ると」

 

 牛若丸は眉根を寄せて考え込む仕草をする。

 

「やっぱりこの特異点、ロクな女性がいませんね!」

 

 途端に表情を輝かせて、彼女は言った。

 正気があるのかも定かではないティアマトは別にして。サクラは言わずもがな、ソフィアはこれまでに『暗黒の人類史』というサーヴァントを送り込んだお騒がせ屋でもある。

 とりわけ、サクラとソフィアの両名に敗北を喫したイシュタルは満面に憎悪を塗りたくり、怒髪天を衝く勢いで全身を震わせていた。

 

「ええ、まったくよ……!! 私が何度あいつらに苦汁を舐めさせられてきたことか! 神殿も宝物も消し炭にされたし、絶対に許さないのだわ!!」

 

 すると、ギルガメッシュはニタリと唇を歪めた。端正な顔から繰り出される下卑た笑みはなかなか堂に入っている。

 

「貴様を痛めつけたことは奴ら唯一の功績だな。住処を失ったのなら冥界で寝泊まりしたらどうだ?」

「地面を掘ったらすぐに帰宅できるのも機能的ですね。スパルタの訓練に取り入れたいくらいです」

「あそこは冷えるので暖かくすると良いでしょう。具体的にはジャンヌさんがオススメです」

「誰が人間型ストーブ!?」

「というか、なんで移住する流れになってるわけ!? 私、天の女主人なんだけど!!」

 

 金星の女神は悲痛な叫びを響かせた。何を勘違いしたのか、ケツァル・コアトルは陽気に笑って、イシュタルの肩を叩いた。

 

「火力が心配なら安心してくだサーイ! 太陽神の権能を以って、住み良い冥界を創り出してみせるわ!」

フォフォウフォフォフォウフォウ(そろそろ冥界がゲシュタルト崩壊してきた)

「良かったじゃねえか、新しい家が見つかって」

「うるさいわアホ白髪! ガチでやろうってんならティアマトの前に私がウルクの敵になるわ!」

 

 毛を逆立たせる猫みたいに威嚇するイシュタル。彼女の姉であるエレシュキガルはそれを華麗に無視して、地図上のウルクに細やかな人差し指を置く。

 

「……問題はウルクの防備よ。ティアマトのケイオスタイドに触れれば、人間はみなラフムになってしまう。街を作り変える必要があるわね」

「『それについては私に考えがある!!』」

 

 突然の横入りを果たしたのはカルデアのドラえもんことダ・ヴィンチちゃんだった。

 嫌な予感をひしひしと感じるEチーム。重い空気が辺りに漂う。しかし、興奮した様子の彼女はそれを物ともせずにまくし立てる。

 

「『かのアルキメデスは都市に数々の兵器を搭載し、ローマ軍を恐怖のドン底に陥れた! ならば、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチは神をも恐れさせてみせる!! ウルク改造計画に関する手筈は私が整えよう! 何なら図面も引いてきたぞ!!』」

 

 そう言って、ダ・ヴィンチは大容量のデータをEチームの端末に送りつけてきた。回線が圧迫されているせいか、彼女を形作るホログラムに若干の乱れが生じている。

 立香は端末の画面を数秒覗くと、大人しく閉じる。建築の勉強など一度もしたことがない人間には当然の反応であろう。

 対して、ノアは爆速で画面をスクロールして図面に目を通すと、満面に高揚感を広げる。

 

「面白え、俺も一枚噛ませろ。天才の天才たる所以を見せてやる」

「貴様如き雑種なぞに任せておけるか。我がウルクは我の手腕でもって導く!」

「『はい、じゃあ三人で仲良くアイディアを出し合いましょうね! 戦いの前に仲間割れとか洒落にならないので!!』」

 

 ロマンは強引に話をまとめた。かつてのカルデアでは、如何に効率よくサボるかを追求していた男にとって、無駄な会議を終わらせることは得意技なのだ。

 そんなこんなで、ティアマト対策会議は一旦の終了を迎えた。なお、ギルガメッシュとダ・ヴィンチ、ノアの三名は部屋に残りウルク改造計画についての話を進めたが、十数分後会議室は爆発四散したという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、もうひとりの人類最後のマスターはというと。立香はウルクの街を歩いていた。

 人の声と重厚な工事音が鳴り響く。通りにはこの時代に似つかわしくない重機(ダ・ヴィンチ設計)が行き交っている。もし現代で発掘されれば、アンティキティラ島の機械をも超える大スクープになるだろう。

 ティアマトの復活を知ってさえ、この街から活気の灯が消えることはなかった。

 神が空想でも、信じるものとしてでもなく、確かに存在する時代。そこに生きる人々は自らの存亡がかかった現在を、どこまでも図太く進んでいた。単に悲嘆に暮れている場合ではないというのもあるが。

 で。未来より来たりし女、立香は腕を組み、うんうんと唸りながらあてどなく彷徨っていた。やや前傾した背中はそのまま彼女の懊悩を表しているようだ。

 その悩みの原因は二十分以上前に遡る。

 ティアマト対策特別会議室が爆散してすぐのこと。ウルクの人々の手伝いをしようと歩いていた立香の目の前に、上空からノアが墜落してきたのだった。

 彼は全身が煤まみれになり、頭頂に剣が突き刺さっていた。大方、ギルガメッシュ相手に無礼な言葉遣いでもしたに違いない。

 だがしかし、ヤツの生命力は常軌を逸していた。なにしろ、スカサハの振るう超暴力にもしばらくすれば立ち直ってくるほどである。

 彼はすっくと立ち上がり、立香に言い放った。

 

〝立香、後で俺の研究室に来い〟

〝それより剣抜きません?〟

 

 という言葉も虚しく、ノアはエレシュキガルのもとに向かってしまった。剣が刺さったままで。

 まあ、それは良いとして。

 

(行くべきか逃げるべきか……これは私の生死を左右する選択───!!)

 

 まず前提として、あの男は人の心を持たぬ悪魔である。彼女自身、何度も被害にあってきた。何の考えもなしに行けば、痛い目に遭うことは確定的に明らかだ。ヤツが何を考えているのかは分からない以上、退くも進むも大きなリスクが伴う選択を強いられている。

 しかも、場所は研究室。借り受けたものとはいえ、魔術師にとっての独壇場だ。大口を開けたファフニールの胃袋に飛び込む愚行に等しい。

 けれど。

 一緒にいたいと望む自分も、確かにいるわけで。

 

(いや、こんな時こそ気分転換! みんな働いてるのに、私だけこうしていられない!!)

 

 ぱちん、と頬を軽く叩いて自分に喝を入れる。

 いざ、仕事探し。幸い現在のウルクはハローワークにも寒風が吹くほど、やらねばならないことに満ちている。仕事自体はすぐに見つかるはずだ。

 そんなことを考えつつ、立香はふと横の路地に視線をやった。

 狭く薄暗い道の端。民家の壁に寄りかかる人影……というよりは猫の影。強烈な既視感に若干の目眩を覚えながら、立香はそれに近づいてみる。

 

「えっと、ジャガーマンさ────」

 

 そこで見たのは。

 ジャガーの着ぐるみを身につけた女。その傍らには乾燥した枝が何本も詰まった袋が落ちている。

 小さな台に盛られた土気色の粉末。カードを使って粉を一本の線のように整え、用意したストローで一気に鼻から吸い込む。

 ジャガーマン兼テペヨロトルは一瞬固まり、それから嘘みたいに崩れた表情になった。

 

「あ゙ぁ〜〜……やっぱり人目を忍んで吸うマタタビはキくニャアアァアァア〜〜〜…………」

「アウトォォォォォ!!!」

 

 立香はプロサッカー選手も目を見張るスライディングで、テペヨロトルの横に落ちた袋を蹴り飛ばす。

 マタタビが入った袋は空中で弧を描き、通りの中心に落ちる。直後、その上を通り抜けた重機がマタタビを轢き潰し、地面と同化させてしまう。

 一部始終を見届けたテペヨロトルは迫真の表情で絶叫する。

 

「ンギャアアアアア!! 私の唯一の心の癒やしが!! 何してくれてんの!!?」

「それはこっちの台詞ですけど!? マタタビを摂取するにしても方法を考えてください!! あの一角だけブレイキングバッドみたいなことになってましたから!!」

「摂取方法は人それぞれでしょうが! あれはちゃんとした合法マタタビだから!!」

「……あれは?」

 

 咎めるような視線に、さっと顔をそらすテペヨロトル。立香はジャガーの着ぐるみを怪しみながら、

 

「もしかして、違法なマタタビ隠し持ってます?」

「イヤイヤイヤ、私にだって遵法精神くらいはある! まあ、サクラに従ってた時は調子乗ってたからアレかもしれないが、それもククるんによって焼き尽くされたんだニャ!!」

「じゃあ、私はウルク警察にチクってくるんで」

「待ってえええええ!!」

 

 テペヨロトルは立香の腰にしがみつく。涙目の彼女は口早にまくし立てた。

 

「かつてのアステカ帝国ではテオナナカトル───幻覚作用のあるきのこを神の肉と呼び称えて儀式に使っていたんだニャ! そう、ジャガーマン的に考えてこれはアステカの風習と文化に則った儀式のようなもの!! 日本人が正月神社かお寺に小銭投げに行くようなものでしょうが、どうせ電車内で腹痛になった時かガチャくらいでしか神に祈らないのに!!!」

「び、微妙に反論しづらい理屈を持ち出してきた……まあマタタビは適量を守ってくれれば良いですけど、仕事はどうしたんですか」

「それが、隠れてマタタビ吸ってたら前の職場をクビにされて……私だってこんなことはもうやめたいんだニャア!!」

「なるほど、ジャガーマンさんに必要なのは仕事じゃなくて病院だったってことですね」

 

 たとえそれが違法なものでなくても、人間は何かに依存する可能性がある。彼女の場合は神霊だが、人間らしさを持つ多神教の神々もまた同じと言えよう。

 考えようによってはこれはチャンスだ。テペヨロトルの依存対象であるマタタビは完全粉砕され、新たな入手手段もない。

 いささか荒療治だが、ここは心を鬼にしてマタタビ依存を治療すべき時。立香は他に考えるべきことをぶん投げて、余計なおせっかいに身を投じることにした。

 

「……ということで、わたしたちのところに来たと。流石は先輩、素晴らしい慧眼です」

 

 ウルク正門前工事現場。立香がまず最初に頼ったのは、自らが最も信頼するサーヴァントたちだった。もっとも、その信頼は普段の行いによって大分揺らいではいるのだが。

 マシュは巨大ショベルカーを巧みに操り、物凄い勢いで城壁を崩していた。騎乗スキルの成せる業だ。

 

「依存症を治すのは容易なことではありません。気長に根気よく付き合っていくのが大切だと、昔ドクターが言っていました。あの人自身コーヒー依存症ですが」

「気長に根気よく……私が苦手なことナンバーワンなんだが!? それができないからサクラのところから逃げてきたんだもん!」

「自分で言います?」

「……といった反応を返されるのはわたしも想定済みです。ティアマトが迫っているこの状況で気長になどとは言っていられません。そこで、たったひとつの冴えた治療法を教えましょう」

 

 マシュは得意げに言った。その顔は不安など微塵も感じさせない自信で溢れている。

 立香とテペヨロトルは途端に期待を抱いた。すっかり忘れていたが、マシュ・キリエライトという少女は本来は聡明かつAチーム主席の才女なのだ。

 なすびの皮を脱ぎ捨てた彼女に隙はない。マシュはレバーを複雑に操作しながら告げた。

 

「───特異点を修復することです。そうすればジャガーマンさんは英霊の座に退去するので全てがチャラになります」

「治療法がパワー系すぎる」

「だいたい、依存症とかよりも他の大きなものがチャラになってるじゃん! ただの巻き込まれ事故じゃん! 解決してないも同然じゃん!!」

「ええ、分別が面倒だからと燃えないゴミの日にプラスチック製品を出すようなものですね」

「それジャガーマンさんの悩みがゴミって言ってない?」

 

 立香が刺すように言うとマシュは遠い目をして、黙々と重機を操る。清々しいまでのこれみよがしな黙秘権行使である。

 こうなったマシュはまさに鉄壁。普通の一般人にシールダーの防御力を突破することなど夢のまた夢。立香は質問の方向を大きく変えることにした。

 

「そういえば、ジャンヌはどこ?」

「先輩は知らないのですか。壁を粉砕する作業にも飽きたので、ここは人に任せてジャンヌさんを冷やかしに行きましょう」

「薄々思ってたがこの娘、邪悪だニャ?」

「ジャガーマンさんとどっこいどっこいくらいですね」

 

 マシュに続いてショベルカーを降りる。他の人間に引き継ぎを済ませると、三人はジャンヌがいるという場所に足を運ぶ。

 そこは何の変哲もない鍛冶場。ウルクに必要な金属の多くをまかなう巨大施設。なのだが、人気がない上に炉に火もくべられていなかった。

 さらに不思議なことに、室内の奥からはむせ返るほどの熱気が立ち込めている。立香は額に汗を浮かばせ、テペヨロトルは荒い息を吐く。

 

「ジャンヌはこんな場所で一体何を……それにしても暑い……」

「猫は暑さに弱い。これ常識!!」

「その着ぐるみ脱いだらどうですか?」 「ひ、昼間から脱げだなんて現代人は積極的だニャ……私からジャガーの皮を剥いだら普通の美少女でしかなくなってしまう……!!」

「「少女───?」」

「おい背骨ブチ折るぞ小娘ども」

 

 背中に獣の眼光を突き刺されながら、立香とマシュは先を急いだ。

 早足で辿り着いたところはドーム状にレンガが積み上げられた広間。その中心には激しく燃え盛る火種があり、放射状に鍛冶師たちが金属を鍛えている。

 そして、その火種とは他でもないジャンヌであった。

 五体から立ち昇る炎。時折金属がくべられ、赤熱したそれが職人たちの手元に戻っていく。ジャンヌは石像みたいに無機質な顔をしていた。

 

「……なにこれ、邪教の儀式?」

「いえ、ジャンヌさんの有り余る火力を活かした鍛冶の方式です。手軽に魔力豊富な鉄を造れると評判になっています。放置しているとどこからともなくうめき声が聞こえてくるらしいですが」

「おお、さすがアヴェンジャー」

「感心してる場合じゃないでしょうが!! サーヴァントには人権ってものがないわけ!?」

 

 一層激しく炎を荒げさせるジャンヌ。熱波が周辺を舐め、職人たちは絶叫をあげながら避難する。

 マシュは近くにあった水瓶を掴むと、その中身を火種へ向かって勢い良く振り撒く。

 室内に水蒸気が立ち込め、残るはずぶ濡れになったジャンヌひとり。瞬時に退避していた立香たちは物陰からひょっこりと顔を出した。

 

「このように、たまに熱暴走してしまうでわたしが冷やかしに来る必要があるのです」

「物理的にだった───!?」

「サーヴァントをこうして扱うとは、現代は現代でヤベー価値観になってやがったのか……」

「ジャガーマンさん、これがデフォルトだと勘違いしないでください!!」

 

 ジャンヌはつかつかと立香たちに歩み寄り、本気の拳をマシュの頭に落とした。さしものシールダーとはいえ、Aランクの筋力から繰り出される不意の一撃を前に意識を保つ道理はない。

 ジャンヌは地面に突っ伏して気絶するマシュに背を向け、立香とテペヨロトルを訝しむような目つきで見る。

 

「……で、用はなに? 立香」

「それが、ジャガーマンさんが薬ぶ……マタタビ依存症になっちゃって」

「へえ、クソほどどうでもいいわ」

「今のところ全員私への対応が雑じゃない!? この子に至っては養豚場の豚見るみたいな目ぇしてんだけど!!」

 

 そろりと後退るテペヨロトル。豚よろしく丸焼きにされる未来でも幻視したのか、その毛は刺々しく逆立っていた。

 数歩下がったところで、背中に何かが当たる。反射的に首を振った後ろには、目に優しくない極彩色の女神が仁王立ちしている。

 彼女は真っ昼間の太陽みたいに輝かしい笑顔で、

 

「アナタがマタタビ過剰吸引の容疑で前職を追放されたと聞いたのですが。どうやら躾が足りなかったようですね?」

 

 ヒュウ、と南極の吹雪よりも寒々しい風が吹く。ケツァル・コアトルはテペヨロトルの着ぐるみを鷲掴みにして引っ張った。

 

「そんなアナタに良い仕事を用意しました! ウルク地下で1050年強制労働デース!!」

「ち、ちなみに給与は?」

「カリカリ三粒でどうです?」

「おぞましや、第二の太陽! こんな世界継続する意味あるのか……!?」

 

 人類史への猜疑心に苛まれるテペヨロトル。立香はまたサクラの陣営に戻りかねないその姿を見かねて言う。

 

「じゃあ私も手伝いますよ。ちょうど体動かしたいと思ってたんで」

「いいえ、その気持ちはこんな駄猫にはもったいないわ。アナタたちは休むべきよ。ほら、冥界に王様を迎えに行ってからロクに休んでいないでしょう?」

 

 その声音は、優しかった。

 むぐ、と立香は口をつぐむ。

 結局、自分はどこまで行っても普通の人間だ。絵物語に語られる英雄のように戦い続けることはできず、定められた限界は遥かに低い。

 今までの戦いで、自らの天井は痛いほどに理解している。ましてや、今は命を懸ける場面ではない。ケツァル・コアトルの言葉に反駁できる部分はどこにもなかった。

 撃沈していたマシュはむくりと起き上がる。

 

「ケツァル・コアトルさんの意見に大賛成です。過労がすぎるとカルデアお手製活性アンプルを打つ羽目になってしまいますから」

「アンタはただサボりたいだけでしょ」

「サボり結構! これまで働き詰めだったのだから、今日一日くらいパーッとやっても文句は言われないわ! ゴチャゴチャぬかしてくる奴がいたら私がシメてあげマース!!」

「太陽神のお墨付き───!! これはもう三人でまったりするしかない!!」

 

 そうして、Eチーム三人娘が駄弁りスペースに選んだ場所は。

 

「あら、三人勢揃いですわね。ご注文は何にいたします?」

「『湖の乙女の特盛りキャメロッ丼』と『約束された勝利のサラダバー』と『全て遠きドリンクバー』でお願いします」

「わたしは『味噌なる茄子』でお願いします」

「そんなメニューどこにもないんですけど。ただただ味噌かけた茄子なんですけど。元ネタの原型が消滅してるんですけど」

 

 王宮近辺の食堂。数々の戦いを生き抜いてきたとはいえ、所詮は小娘。Eチーム三人娘は昼時の食事の匂いと空腹感に勝てず、昼食を求めて突撃したのだった。

 なぜか厨房に立っていたのは湖の乙女リース。彼女は三角巾とエプロンを着こなした、家庭的な服装をしている。

 精霊らしさ皆無のリースはゆったりと微笑んで、ジャンヌに声をかける。

 

「ジャンヌさんはいかがですか?」

「……今のやり取りで食欲が減退してきたわ。裏メニューとかないの」

「申し訳ありませんが、当店の裏メニューはペレアス様限定となっております。もちろんお出しするのは私自身ですわ」

「それいかがわしい店でしかないんですけどォ!!! 誰か正気の人間はいないんですか!?」

 

 ジャンヌは思わずカウンターを粉砕した。その横で立香とマシュはメニュー表を一緒に覗き込みながら、

 

「先輩、この『円卓ホールケーキ』をシェアしてSNSにアップしましょう。前々からそういうのが夢だったので」

「それ大丈夫? 切り分ける時にとんでもないブラックジョークにならない?」

「こっちは無視ですかァ!? もういいわ、私は『騎士は空腹にて死せず』で!!」

「了解ですわ! しばしお待ちくださいませ!」

 

 リースは厨房の奥に消えていく。もはや何を表しているかすら分からない料理名だったが、度重なるツッコミで疲弊したジャンヌにそんなことを気にかける余裕はなかった。

 立香は周りを流し見る。食堂は満員、メニューの分かりづらさにしては繁盛している。急に倒れる人間もいないため、今もカルデアの倉庫で眠っている麻婆豆腐のようなものは出てこないだろう。

 『全て遠きドリンクバー』に向かおうとした矢先、リースが目にも留まらぬ速度で舞い戻ってくる。

 

「できあがりましたわ! どうぞっ!!」

「尺が押してるかのような速さ……!!」

 

 驚愕する立香をよそに、卓上へ料理が並べられていく。

 種々の食材でキャメロット城を模した丼ぶり、エクスカリバー状のサラダバーに、茄子の味噌炒め定食。ジャンヌの前に並んだのはチキンカレーとナンだった。

 ジャンヌは口の端をひくつかせる。

 

「……ランスロットってインド出身でしたっけ?」

「ナンを手掴みでお食べくださいませ。ご心配なく、ランスロットのように触れたからといって宝具化したりはしませんわ」

「ああそう、答える気はないのね。立香、箸寄越しなさい」

「サラダバー二本でいい?」

 

 この時代のウルクに箸などというものがあるはずがなかった。ジャンヌは渋々一対のサラダバーを受け取り、箸代わりにする。湖の乙女はしゅんとした顔になった。

 Eチーム三人娘は各々用意された料理を口に運ぶ。ふざけた見た目ながらも、味は本物だった。咀嚼する度に旨味が溢れ出し、脳髄に衝撃が響く。

 立香はきらきらと目を輝かせる。

 

「おいしい! リースさんもやる時はやるんですね!!」

「ふふふ、湖の乙女イチの料理上手とは私のこと! 愛しのペレアス様と子どもたちに振る舞うつもりで作らせていただきましたわ!」

「リースさん。わたしは今度からママと呼ばせていただきます」

「正気に戻りなさい、アホなすび」

 

 ではごゆっくり、とリースは戻っていく。

 すると、マシュは唐突に切り出した。

 

「ガールズトークをしましょう」

 

 期待に満ちた視線が立香とジャンヌを襲う。

 Eチームにはあまりにも似つかわしくない言葉を聞き、二人は一瞬その意味を理解できなかった。立香はごくりと口内の食べ物を飲み込む。

 

「…………この状況が既にガールズトークなのでは?」

「言葉の意味的にはそうですが、わたしはうんざりするほどの甘ったるい話を望みます!」

「一晩で法隆寺建てられるくらいの話をしろってこと? 無茶振りがすぎるわ」

「仕方がありませんね。まずは形から入りましょう。とりあえず、もこもこの服着て風船とか散りばめておけば良いんですよね、先輩!?」

「うん、とりあえず落ち着こっか」

 

 マシュがどこで情報を手に入れたのか不安になる世界観だった。

 とはいえ、彼女は生まれてこの方カルデアの一室で育った人間。知識が偏ってしまうのも当然だ。

 外の世界を一目見ることさえ許されず。

 生命の限りが短いことを告げられ。

 日々を閉じた箱の中で過ごす。

 それが彼女にとっての普通で、日常なのだとしたら。

 そんなものは、自分が上書きしてしまおう。

 

「こういうことは深く考えなくても良いんだよ。ご飯を食べながら周りの人の話をするとか、それくらいで十分楽しいから」

 

 せめて。これが普通で、日常になるように。

 それからは、取り留めのない話ばかりが続いた。

 

「───以上がわたしを筆頭としたAチームのメンバーになります。個性的かつ有能な人たちばかりでしたが、結局はわたしが偶然や操作の入る余地がない完全なる実力でナンバーワンを見事勝ち取りました」

「前に言われたこと気にしてるんでしょうけど、ますますアンタの成績が疑わしくなってきたわ。そんな連中の中ならどう考えてもドベじゃない」

「邪悪に染まる前のマシュが醸し出してた清楚感で試験官を籠絡したとか……?」

「先輩? わたしは今も清楚の化身ですよ?」

 

 やはり何度考えても分からない、マシュのAチーム主席獲得のことだったり。

 

「…………図書室行ったら、ダンテが嗚咽しながら号泣してたんだけど。読んでたのがぐりとぐらでビビったわ」

「ダンテさんは感受性豊かですからね。神曲では不義の悲恋をした女性の身の上を聞いて、あまりの悲しさに気絶したほどです」

「感受性豊かとかいうレベルじゃなくない?」

 

 ヘタレ極まるダンテの話をしたり。

 

「さっきリースさんが子どもたちって言ってたけど……何人いたんだろう」

「あのドスケベ精霊ですよ?」

「あのドスケベ精霊よ?」

「訊いた私が悪かったみたいですね……」

 

 色んなくだらない話をして、マシュは思った。

 ───この世界が良い。

 たとえどんなに完璧で、発展している世界線があったとしても。自分が身を置くことが叶うのなら、この場所で、この一瞬を、強く望みたい。

 人が傷つき倒れるなんて、そんな話は自分たちにはジャンル違いだ。

 くだらなくても馬鹿馬鹿しくても良い。それが良い。そんな世界が、こんな時間が、マシュ・キリエライトが切望する日常というものだった。

 

「お腹いっぱいになりました。次はどこに行きましょうか」

「そうね、ネンバトでもする? 私の最強デッキで捻り潰してあげるわ」

「あ、ごめん。リーダーと約束があるから私はまた後で」

「「────は???」」

 

 まあ、こんな悪夢は望んでいないのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───その美しさに目を奪われたヒトがいた。

 ひとりは絢爛なる薔薇の皇帝。年齢も性別も関係なく、自分が美しいと感じたものをこそ全力で愛しむ彼女はいつだって可憐で華麗で苛烈だった。

 ふたりめは■■■■のマリア。救世主とともに在り続け、その死と復活を見届けた女。互いに娼婦の子として生まれ落ち、あの地獄をともに堪え抜いた。

 そして、最後のひとり。その記憶だけがどうしても──────

 

「…………ふむ、思い出せんな。漫画でも読むか」

 

 ざぱん、と波と波がぶつかり合い、飛沫となって弾ける。

 エレインが創り出した異界。どこまでも茫漠と続く海原の世界。青く澄み渡る空の真ん中に、ソフィアとサクラはいた。

 知恵の女神としての機能を詰め込んだ四冊の魔導書。自身の周囲に滞空するそれらの中から一冊を無造作に掴み取り、適当なページを開く。

 白紙のページに滲み出すようにコマと絵が浮かび上がり、目を通す度にめくっていく。その手つきは慣れていた。

 

「なに違法視聴してるんですかぁ〜? サボってる暇があるなら異界ぶっ壊すの手伝ってくれません?」

 

 サクラは頬を膨らませたむくれっ面で吐き捨てる。ソフィアは紙面から目を離さずに返した。

 

「それなら私の魔導書が代行している。とはいえ、これほどの規模となると相応の時間はかかるだろう。水の女神コヴェンティーナが全存在を懸けて創り出したこの異界はもはや特異点と表現しても良い」

「あなた、知恵の女神ですよね。持ち前の知恵でとっととティアマトを出してもらえると助かるんですけど」

「私は全てを知ることができるが、生憎全能ではないのでな。気長に待つことだ」

「…………ちぇっ。ところで、何の漫画読んでるんです?」

 

 ソフィアは能面を保ったまま、

 

「鼻毛を操る男が仲間とともに敵と戦う話だ。面白いぞ」

「その割には無表情じゃないですか」

「心の中では抱腹絶倒しているんだがな」

「そのツラ、叩きのめして笑ってるみたいにしてあげましょうか?」

 

 サクラは翼を大きく広げて威嚇する。

 びり、と空気を押し出し、波間を打つほどの重圧。それに晒されながらも、ソフィアは余裕を崩さなかった。

 

「この異界を崩したいと言うのなら、努力すべきは私ではなくお前だ。今まで、一度も本気を出していないだろう?」

 

 平然と告げられた言葉。

 サクラは翼を下ろし、口角を高く持ち上げる。

 

「へえ……知ってたんですね」

「というよりは、力の本質を見せていないと言うべきか。デミウルゴスとは物質界の創造主であり、真なる神の霊性を否定した偽神。霊性とは極端に大雑把に言ってしまえば、魔術世界の神秘と類似する概念だ」

 

 つまり。知恵の女神は初めて紙面から視線を外し、サクラを見据えた。

 

「───お前は()()()()()()()()()()()()()()()()()ことができる。そこに例外はない。ティアマトの不死性さえもな」

 

 それは能力でも権能でもなく、理。

 造物主が物質界に規定したルール。

 この世界に霊性は、神秘は存在しない。

 なぜなら、物質界とはそういうものだ。目に見えない力はあっても、それは物質間で作用した現象に過ぎない。解明できぬ現象があるとすれば、それはただ人間が世界を暴いたと思い込んでいるか、新たな法則が隠れているだけだ。

 そんな、つまらなくて、淡白で、折り目正しい世界の体現者。それこそが神を詐称するサーヴァント、サクラの存在定義であった。

 

「ええ───そうですよ。でも、チートを使うなら遊び尽くした後の余興にすべきでしょう。私、ストーリーはじっくり読むタイプなんです」

「ならば、未来視(ネタバレ)の結果を伝えるのは控えておこう。レベル99の勇者の楽しみは、先の展開に期待することくらいだしな」

「理解が早くて助かります♡ ……それじゃ、ティアマトが脱出するまで寝てるんで。起こしてくれなかったらキレますから」

 

 サクラは空中に布団を敷き、アイマスクをつけると、布団の中に潜り込んで眠り始める。

 ソフィアは本に視線を戻す。その瞳はぼんやりと漫画のコマを追う。そして、ぼんやりと考え出した。

 ───物質界に神秘がなかろうと、この世界には魔術も英霊も存在する。

 その矛盾は、きっと。

 

「よし」

 

 ぱたん、と本を閉じる。左手にりんごを出現させ、右手に魔力で創り出したナイフを握る。

 赤く瑞々しい表面に刃を刺す。鮮やかな白刃は切り口に傷をつけることさえなく、逆にその反対側の皮を剥いてみせた。

 するすると内側から皮が剥かれていき、鮮やかな白色の果肉が手元に残る。ソフィアはそれに齧りつき、ため息をつく。

 

「……ん。やはり口に合わんな。知恵の女神としてこれはいかがなものか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウルク研究施設。ノアが借りている部屋までの道を、立香はおそるおそる進んでいた。

 ついに来た。

 来てしまった。

 準備に抜かりはない。今ならガンマン以上の速度で杖を抜ける自負がある。いざという時はマシュとジャンヌを呼びつける用意も万全だ。

 ついでに髪型と服装を整え、シャワーも浴びてきたがこれらはあくまでついでである。本命なはずがないし本命なわけがない。

 余計な駆け引きは無用。一意専心の想いで立香は部屋へと雪崩れ込んだ。

 

「リーダー、今日はどんな悪行をやってるか見に来ましたよ!!」

 

 彼女は見る。

 天井を網のように埋め尽くす金枝。その至るところに翠緑の樹木が球形に貼り付いていた。緑の星の中に点々ときらめく白の光。ちかちかと点滅するそれは脈動する魔力の灯だった。

 まるで、御伽噺の魔法の森に迷い込んだかのような。

 視線を彷徨わせて、ノアを探す。部屋の奥。こちらに背を向けて、一心不乱に机にかじりついていた。

 黄金の枝は床にまで這っていた。立香は丁寧に枝を避けながら、ノアの横に忍び寄る。

 それで、後悔した。

 一面に広げられた紙上。隅から隅まで理解不能な数式と図形が行き交い、今もなおそれは増え続けている。ファミコンと同レベルの容量の立香の脳みそは即座に崩壊した。

 

「リーダー」

 

 が、この程度で屈するようでは到底マスターは務まらない。呼び掛けとともに肩を叩く。

 そうして、彼はようやく振り向いた。ウルクでどうやって手に入れたのか、黒縁の眼鏡を掛けている。

 普段とは違う姿に呆気に取られていると、ノアはペンを紙の上に放り、椅子を引いてくる。立香はその椅子に腰を落ち着けた。

 ノアは頬杖をついて、意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「質問する権利をおまえにやる。さあ、訊け」

 

 いつにも増して不可解な言動。押し付けてくる権利とは義務に他ならない。が、あえてそれに乗ることにした。

 

「なんで眼鏡掛けてるんですか。視力悪いなんて話聞きませんでしたけど」

「俺の視力は数値じゃ計れねえ。マサイ族と勝負した時も俺に勝てるやつはいなかったからな」

「眼鏡を掛ける意味とは……!?」 

「これは俺が造った礼装だ。眼の保護はもちろん、疲労軽減にブルーライトカットまで完備済みだ。ついでに魔力を込めれば細菌まで見えるようになる。俺の目に写るおまえはもはや菌の化けも」

 

 言い切る前に、立香は神速で眼鏡を奪い取る。ノアは鼻を鳴らし、若干の不機嫌さを声音に混ぜる。

 

「もう一回質問する機会を与えてやる。次は外すなよ」

「……この部屋は何なんですか」

 

 そこで、ノアは口角を吊り上げた。

 

「よく訊いた。全生物最強アホ決定戦でミジンコと激闘を繰り広げたおまえにしては優秀じゃねえか」

「どんな世界の話ですかそれ!? むしろ激闘を通じてミジンコと友達になれそうですよ私は!!」

「やかましいぞ一位。俺が今まで何やってたかたっぷり説明してやるから、釈迦に説教垂れられてる弟子の気分で口を慎め」

「一位ってどういうことですか。まさかミジンコに勝ったんですか。私が全生物アホチャンピオンなんですか!?」

 

 ……そもそも、ノアが冥界に向かった理由は。

 サクラとソフィアから逃げるため、Eチームと女神二柱は冥界を利用してウルクの地下に転移した。

 その時、エレシュキガルは地面に穴を開けるという強引な手段を取った。結果、大地に満ちていたケイオスタイドが冥界に流入する羽目になったのだ。

 しかし、それこそがノアにとっては天恵であった。

 

「ケイオスタイドを見た瞬間、人類史最大の天才である俺は閃いた。こいつはヤドリギの肥料にできるとな」

「じゃあ、冥界にはあの泥を回収しに行ってたんですね。ラフムとか出てきませんでした?」

「多少はな。全員粒子魔術の実験台にしてやったが」

「というか、あんな泥ほんとに肥料なんかになるんですか? 触ったら汚染されるってイシュタルさんが言ってたのに」

 

 ケイオスタイドとは創世母神たるティアマトより零れる生命の原質。旧約聖書において、唯一神が最初の人間アダムを泥から創ったように、それはあらゆる生命の可能性を孕んでいる。

 なればこそ、ケイオスタイドは最上の肥料に成り得る。ありとあらゆる生命の情報がふんだんに詰め込まれた泥。世界中の農家が喉から手を出して求める価値があるだろう。

 だが、ケイオスタイドの利用には見過ごせない問題点があった。

 それは触れたものをティアマトの眷属に作り変えてしまうこと。サーヴァント、魔術師ならば多少の抵抗はできるものの、当然限界は存在する。

 

「ただ、ヤドリギってのは都合が良い生き物でな。寄生した植物から栄養だけを吸い取って、ぬくぬくと育つ居候以下の存在だ」

「まるでニートですね」

「ああ、だからこそティアマトの強制契約も無視できる。親から金は受け取っても命令は聞かないのと同じだ」

「ティアマトお母さんもヤドリギニートには弱かった、と……なんか現実味に溢れてて可哀想になってきました」

 

 立香はヤドリギの化け物に脛をかじられるティアマトの姿を想像して、いたたまれない気分になった。

 

「結果はこの通り。決戦には成長が間に合うはずだ。俺を褒め称えろ」

「まあ、すごいことは分かりますけど。ティアマトを倒す切り札がこんな賭けなんて、王様はギャンブラーなんですかね?」

「さあな、大方未来を視たんだろ」

 

 ノアは素っ気なく結論付ける。

 この男、自分に興味がないことに関しては塩対応の極みである。立香は椅子の上でもじもじと居直りながら、

 

「で、どうして私を呼んだんですか。まさかうんちく垂れ流すためじゃないですよね」

「いや、用はない」

 

 不意を突くような一言。立香はこてんと首を傾げる。

 

「もうすぐ三時のおやつなんで、戻っていいですか。それとも一緒に行きます?」

「だが断る。おまえはここにいろ」

「え〜……」

 

 用もないのに呼び出して。

 戻ろうとすれば引き止める。

 頭をほんの少し回して、気付いた。

 この人は、もしかして。

 ただ自分と一緒にいたいから、約束を取り付けたのではないか───?

 

「───ぐふぅっ!!」

「汚え!!」

 

 瞬間、立香は盛大に鼻血を噴き出した。

 ぼたぼたとこぼれ落ちる血を手でせき止めながら、溺れたような声音で言う。

 

「り、リーダー、ティッシュください」

「……詰めてやる。押さえてろ」

「乙女として鼻の穴を見られるのは───ッ!?」

 

 左手で顎をつまみ上げられ、右手で強引にちり紙を詰められる。あらゆる女子の特攻兵器とされる顎クイも、このシチュエーションでは形無しだった。

 鼻の穴まで覗かれて黙ってはいられない。立香はノアに掴みかかる。

 

「私の秘密を暴いた代わりにリーダーの鼻の穴も見せてもらいます! ほら、全てをさらけ出してください!!」

「おまえ如きに俺の鼻毛を見る資格があると思ってんのか!? 安心しろ、おまえの恥部はこれから全部俺が掌握してやる!!」

「はああ!? セクハラ発言極まってやがりますね!!今日という今日は許しませんよ!!」

「上等だ!! 今日こそは屈服させてやる!!」

 

 なんとかして鼻の穴を覗こうとする立香と、それを全力で防ぐノア。不毛な戦いは数分続き、互いに疲弊したところで床に倒れた。夕焼けの河川敷にありがちな光景である。そこで、ノアは切り出した。

 

「…………大体、代わりってんなら俺の方もそうだぞ。対等に話したいなら俺の要求を聞け、等価交換だ」

「ま、また貸し借りの話ですか……私が何かリーダーに借りた覚えないんですが」

「いいや、今も言った」

 

 立香は困惑の色を全面に押し出す。その様子を見て、ノアはぴしりと額を指で弾く。

 

「───名前で呼べ。敬語もやめろ」

 

 肩を掴まれて、引き寄せられる。

 囁くような言葉は、今までのどんな命令よりも。

 

「……い、いきなりですか」

 

 確かに、名前を呼んでほしいと言ったのは自分で、そうしたのはノアだ。彼の理屈で言えば、それは不公平というものなのだろう。

 でも、願ってもないこと。

 いつかは名前で。そんなことを前に想っていたから。

 ───ああ、もう、駄目だ。

 溢れて止まらない。抑えても滲み出る。

 熱くて苦しいこの想いを、吐き出したくてたまらない。

 どうしようもないから、自分も身を寄せて、彼の心臓の鼓動を確かめながら、

 

「まだ、みんなの前で変えるのは恥ずかしいから……もう少しだけ、二人きりの時だけ、そうさせて…………だめ、ですか?」

 

 途切れ途切れで、取り留めのない、決意のようなものを告げた。

 返答はない。言葉を咀嚼しているのか、気に入る回答を欲しているのか。胸元に顔を寄せながら待っていても、反応は返ってこない。

 すぅ、と小さく息を吸う音。顔を上げると、ノアはすっかり眠りこけていた。

 

(寝てる────!!!)

 

 この隙に鼻の穴を覗いてやろうか。

 そう思ったけれど、やめた。

 冥界へギルガメッシュを助けに行った時から働き詰めなのは彼も同じ。生み出したばかりの粒子魔術の使用もかなりの負担になっていたはずだ。

 だから、これくらいは寛大な心で許そう。

 くすりと笑いがこみ上げ、微睡みが訪れる。

 それで、思わず、隠していた想いがするりと抜け出した。

 

「…………好き──────好きっ…………」

 

 ふと、曖昧な意識の中で。

 心臓の鼓動が、早くなった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 与えられた時間は、あっという間に過ぎた。

 ウルク市民のみならず、ウル・エリドゥの人間全員が来たるべき滅びに備えて力を合わせ、史上最大の親殺しを決行する。

 その、前夜。

 この世のすべての財宝を蒐集した人類最古のジャイアンことギルガメッシュは、あろうことかその宝物庫の扉を民衆に向けて開放したのである。

 かつて、世界を覆うような大洪水が訪れた時。

 ギルガメッシュは洪水を生き残るため、職人たちに箱舟を造らせた。王はその仕事を労い、ワインを振る舞ったと言う。

 王と民の関係とは必ずしも一方的な支配によって成り立つものではない。王とは全ての采配を司る立場にして、全ての民から評価される立場でもある。

 徳なき王は王ではない。

 ティアマトの襲来を控えた前夜、万を遥かに超える民の全員に贈り物が届いた。

 それはEチームも例外ではなく。

 彼らの目の前には────鹿がいた。

 もしゃもしゃと部屋のものを手当たりしだいに貪り喰らうそれを見て、ノアは包丁を手に取った。

 

「とりあえずシメるか。三十秒で捌いてやる」

「ロースはステーキにして、脚は丸焼きにしましょう。ジャンヌさん、火の用意をお願いします」

「添え物はなすびで行きましょうか。どっちもこんがり美味しく焼き上げてみせるわ」

「鹿肉と人肉の食べ比べは遠慮しておきたいですねえ……」

 

 ギルガメッシュが送り届けてきたのは鹿だけではなかった。彼が引いてきたソリの中には無駄に豪奢な箱が六つ詰まっている。

 その傍らに添えられた粘土板。リースは書かれた文面を読み、

 

「その鹿はノアさんへの贈り物だそうですわ。なんでも、始皇帝に贈られた由緒正しき鹿だとか」

「始皇帝……中国の王様だったよな? そんな人に贈られた鹿とか、ノアにはもったいなさすぎるぞ」

「『ふむ、そうでもないかもしれないぜ? 立香ちゃん、漢文は習ったことがあるかな?』」

「まあ、一応はありますけど」

 

 ───春秋戦国時代を征した覇王、嬴政。始まりの皇帝には趙高という部下がいた。

 ある日、彼は皇帝への進物として鹿を献上したのだが、

 

〝馬です〟

〝馬って角あるんだ。さすがの朕もこれにはびっくり〟

 

 ……というやり取りがあったかは定かではないが、〝鹿では?〟と疑う始皇帝に対し、周囲の部下たちは趙高を恐れて〝馬である〟と答えた者と〝いや、鹿でしょ〟と答えた者とに分かれた。

 実はそれこそが趙高の策略。自身に追従して馬と答えなかった者たちを皆殺しにしてしまうのである。そうして、趙高にこびへつらう人間だけが残った。

 この故事は現代でも使われるある言葉の由来の一説として捉えられている。すなわち、

 

「『───馬鹿の語源になった鹿!! それを目にできるなんて、これはすごいことだぞぅ!!』」

「よし、今からあいつの王宮に殴り込む。全員ついてこい」

「お前ひとりでいけ。……贈り物全部こんな感じじゃないだろうな?」

「ひとまず開けてみましょうか。誰かは当たりを引くかもしれません」

 

 ダンテの提案を受けて、ノア以外の全員に箱が渡る。最初に意気揚々と箱を開いたのはマシュだった。

 手のひら大の箱を開け、中身をもう一方の手に着地させる。入っていたのはいくつかの褐色の粒だ。

 

「……これは一体────!!?」

「世界最古のなすびの種だそうですわ」

「リーダー、わたしも王宮のカチコミに付き合います」

「『ちょっと待った! 世界最古のなすびの種なんてほぼ確実に絶滅種だ、どこかの大学か研究機関に持っていったら大儲けできるぞ!?』」

 

 ロマンは興奮した様子で言った。たとえ研究価値がなくとも、普段食べているものの最初の姿を見たいと望む人間は少なくないだろう。なすびだとしても。

 マシュは意地の悪い笑顔で、ジャンヌに詰め寄る。

 

「どうやらわたしが初っ端から神引きをしてしまったようですね。幸運Eランクのジャンヌさんが何を引いたか見せてください。幸運Eランクの」

「この調子乗りなすびが……!! いいわ、よく見てなさい!!」

 

 がばりと箱を開け放つジャンヌ。中から出てきたのは、竜の逆鱗。本体から削り取られた今もなお強大な魔力を秘めた逸品であった。

 マシュは盛大にため息をつく。

 

「貴重なのは認めますが、どうせ周回したらいつでも集められ」

「おい焼くぞ」

「『……えー、二人がいつものじゃれ合いを始めたので、ペレアス夫妻一気にお願いします』」

 

 ペレアスとリースは各々に配られた箱を一息に暴いた。

 ペレアスに宛てられたのは二振りの剣。一方はエクスカリバーと同様の形状をしており、もう一方は簡素な拵えの剣。ダンテはペレアスの箱に備えられたお品書きを読む。

 

「騎士王なりきりセットエクスカリバーDXと、選定の剣の原典……のレプリカのようですねえ。魔力を込めれば少しだけビームが出るらしいです」

「ペレアス程度には相応しいじゃねえか。ひとり虚しく残尿ビームで遊んでろ」

「おうお前に引っ掛けてやるよ、そこに立ってろ」

「……リースさんは何が入ってたんですか?」

 

 リースはしょんぼりとした顔で手のひらを差し出す。手のひらには仏教の経典が載っている。

 

「〝煩悩に塗れた貴様は一度無の境地を味わえ〟と……屈辱ですわっ!! 私のは煩悩ではなく愛ですのに!!」

「どの口が言ってるんですか!?」

「三蔵がいないのが悔やまれるな。また召喚するか?」

「『ノアくん、残念ながらカルデアの聖晶石はあの一件から枯渇したままなんだ』」

 

 という話を聞きながら、ダンテはこっそりと自分の箱を開ける。幸運はEランクの上に、一度はギルガメッシュの制裁を喰らった身。大したものは入っていないだろうと思っていたのだが、

 

「───ギャアアアアアアアア!!!」

 

 絶叫して尻もちをつくダンテ。それ自体は珍しいものではないのだが、彼の人差し指と親指の間には誰が見ても異質と分かる鍵があった。

 白一色の鍵。素朴なそれは、そこに在るだけで空間を澄み渡らせるかのような、清浄な空気を放っている。

 ボロボロになったマシュとジャンヌは冷ややかな目つきで、

 

「ただの鍵じゃない。絶叫する価値なんてないでしょう」

「まったくです。せめて銀色だったらめくるめく狂気の世界を旅できたと思われます」

「とんでもない、これは天国の鍵ですよ!! 第一の弟子ペテロ様が授かったものです!!」

 

 救世主が初代ローマ教皇ペテロに与えた天国の鍵。その名の通り、天の国の門を開く道具であり、いつか人がその場所に到達することを約したモノ。

 最上級の聖遺物───そんな表現さえ陳腐に成り果てる代物だった。

 ノアは無感情に告げる。

 

「カルデアに持って帰るなよ。聖堂教会の奴らが大挙して乗り込んでくるぞ。埋葬機関とかいうイカれ連中が来るまである」

「言われなくてもそうします! 畏れ多いにも程があるので!!」

「でも、王様の贈り物を捨てたらまずい気が……」

「最悪の板挟み────!!!」

 

 床にうずくまるダンテ。いつもの発狂モードに入った彼を無視して、立香は箱を開けた。

 ぽすん、と広げた手のひらに袋が落ちる。

 袋の口を開くと、中には白い粉がぎっしりと詰まっていた。立香は最大級の笑顔で叫ぶ。

 

「───ホットケーキミックスだ!!!」

「…………人類最古のホットケーキミックスだそうです。先輩には最高のプレゼントかと」

「もう何でもありじゃねえか」

「ええ、ですが。贈り物というのはその人を深く知っていなければなりません」

 

 ダンテは震える手で鍵を掲げ持ち。

 

「王はそれだけ、私たちのことを見てくれていたのでしょう」

 

 ───王宮、玉座の間。

 今宵の王宮に人の影はない。普段ここで働くほとんどの人間がそれぞれの居場所に戻り、明日への短い平穏を過ごしていた。

 故に、玉座の間にいるのは王たるギルガメッシュと、側近であるシドゥリのみ。王は胡乱げに目を細め、呟く。

 

「シドゥリ。貴様にも褒美を与える。望んだものをくれてやろう」

 

 シドゥリは微笑みのままに頭を下げる。

 

「では、勝利を。此度の戦、どんな手を使ってでも勝利なさってください」

 

 どこまでもウルクを、世界を気に掛けた望み。 

 ギルガメッシュは獲物を前にした捕食者のように、獰猛な戦意を露わにした。

 

「───よかろう。その約束、けして違わぬことを誓おう」

 

 夜は過ぎ、滅びの足音はすぐそこに。

 世を創り、生命を産んだ母神との戦いが始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───夢を見る。

 あれは、いつのことだったか。

 ドイツの街で、賭場を巡り巡って。

 夕の光に染まる路地を歩いていた時。

 月明かりに照らされたアンナの姿を思い出して、唐突に告白した。

 

〝好きだ〟

〝はいっ!!?〟

 

 驚愕の表情で固まるアンナ。その処理落ち中に、追撃の言葉を叩き込む。

 

〝おまえの踊る姿が綺麗だった。それを踏まえると、普段もかなり、まあまあ……そこそこ悪くない。だから好きだ〟

〝さ、さいですか。……いやいやいや!! 年齢差!! 犯罪以外の何物でもない!! え、どうしよう、どうしたらいい!!?〟

 

  告白してきた相手に判断を求めるほどの錯乱っぷりだった。けれど、こいつに命令も頼みごともする気はなくて、単純な願いだけを伝える。

 

〝別に。どうもするな。死にたいおまえを止めるつもりはない。ただ、この言葉だけ受け取ってくれ〟

 

 アンナは十秒ほど悶え苦しむと、ほのかに頬を染めて、

 

〝…………受け取り、保留で〟

 

 どうして保留したのか、分かったのはアンナが死ぬ間際の瞬間だった。

 

〝本当に、ありがとう。───好きだよ、ノア〟

 

 最悪の一瞬で。

 最高の刹那に。

 最大の効果を発揮するように。

 その言葉を、返すために。

 まるで言葉による暗殺。

 とんだファム・ファタルだ。

 だから────だったら。

 俺も、そんな瞬間に返すしかない。

 そう、思った。



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第75話 サクラのセカイ

 なぜ、魂は腐るのか。

 魂とは元来不滅の存在。永遠のものであるが故に、劣化することはない。しかし、この三次元上においては魂とは肉体に紐付けられた霊体として存在している。

 人が人として生きていれば、日々痛感するように。

 人の肉体とは、悲しいほどに儚い。

 たった数十年で若々しかった体は老いる。皮膚は水分を失い、骨は脆く、筋肉は減っていく。魔術世界ではそれらを免れる術はいくらでもあるだろうが、真に不老不死を成し得た者を数えるには片手の指で事足りるだろう。

 なぜなら、本来不滅たる魂は肉の器に注がれることによって、魂が器の劣化に引きずられてしまうからである。

 肉体───すなわち、物質とは目に見えざるモノをこの世界に閉じ込める枷にして檻にすぎない。そうして、不出来な容れ物に注がれた魂は容器の劣化とともに腐っていく。魂を有限たらしめるのは、いつだって肉体だ。

 魂が物質の器に紐付けられている以上、肉体の劣化は魂の腐敗に繋がる。たとえ全身を人を喰らう虫に入れ替えようが、永遠の象徴たるヤドリギを体に取り込もうが、それは変わらない。

 ならば。

 容器自体が非の打ち所がないほどに完璧かつ完全であったとしたら。

 その中身である魂は、たとえ悠久の年月を経たとしても劣化することはないのではないか?

 まあ、包み隠さずに言うと、それが私だ。特に隠す意味もないし、劇的な暴露なんてありはしない。

 そんな訳で、長年人類を観察してきて思ったことがひとつある。

 

 

 

 ────なんか、もうどうでもいい。

 

 

 

 延々と動画の広告だけを見せつけられているような。

 何か始まりそうで、何も始まらない。芽生えた希望もいつかは抜き取られていく。例えるなら、連載を引き延ばすために何度も新たな脅威が生まれ続ける漫画みたいに。

 この世界は、惰性で危機を繰り返している。

 そうとさえ思えた。

 だが、何事にも終わりはある。

 人理焼却。人類史においても未曾有の大災害。誰も彼もが予告なく焼き尽くされ、灰さえ残らぬ終末の日。私が日課の映画鑑賞をしている時に、それは訪れた。

 ……なるほど、屑のような人類でも燃える様は見物だ。

 ほんの少し、好奇心が刺激されて。テキトーにサイコロを振って、私はこの一件に介入することを決めた。

 

〝人類史に打ち込まれた特異点(くさび)は七……いや、ここでは八つか。所詮最後のひとつ以外は余興だ、お前らはお前らの好きにしろ〟

 

 暗黒の人類史、と大仰な名前を付けた七体のサーヴァント。人類史に暗黒でないところなどないというのは置いといて。あいつらを送り込む前に、私は問うた。

 すなわち、お前たちにとっての最大の悪とは何か。

 

〝不平等、不公平。それこそが悪だ。この世の誰ひとりとして、その苦しみを享受することはあってはならない〟

 

 マクシミリアン・ロベスピエール。

 ギロチンによる粛清の嵐が吹き荒れたあの時代。ひたすらに理想を抱き、溺れ死ぬまでそれを離さなかった男は変わらぬ瞳で言った。

 もし、ロベスピエールが宝具の力を最大限に引き出していたのなら、あの特異点の主となるどころか、独立した世界線をも創り出していただろう。

 

〝いやいやいやいや、答える余裕なんて無いんですが!? せっかく尊敬するカエサル帝に会えると思ったのに、魔神柱埋め込まれるとか洒落にならないですよ!! 誰か助けてくださいィィィィ!!!〟

 

 ダンテ・アリギエーリ。

 人類でただひとり、物語によって言語の統一を成し遂げた詩人。ヤツは血を吐くかのような形相でのたうち回っていた。

 レフ・ライノールが持ちかけた契約に応える義理などなかったのだが、ダンテの慌てふためく姿を見れただけあの男の死には価値があった。神曲のように気絶しなかったのは残念だが。

 

〝ハッ、悪だの善だの正義だのを考える暇があんなら算盤弾くのが商人ってモンだ! 悪なんつうのは見方でいくらでも変わるが、金はそれよか安定してるからなァ!!〟

 

 クリストファー・コロンブス。

 あいつは善意も悪意もない、ただ欲に塗れた笑顔で言い放った。

 今だからこそ言える。断言できる。ヤツこそが暗黒の人類史という名を背負うに最も相応しい男。この世に英霊は数多いが、あいつほどに人の業を体現する存在は十指にも満たないだろう。莫大な功罪を成したその人生はまさしく、数え切れぬ発展と犠牲をもたらしてきた人類史の縮図に違いない。

 

〝己が使命を果たせぬ者。それに価値はない。無価値であることは悪だ。私のようにな〟

 

 ワイルドハントの率い手、オティヌス。

 邪神たるオティヌスの力の器となったブリテンの騎士王は自分の体を突き刺すような声音で、無感情に述べた。

 結局、彼女が真のオティヌスとなることはなかったが、それで良かったのだと思う。泡沫の写し身でまで、役割に囚われる必要はないから。

 

〝外海より来訪し、無数の民を虐殺した悪魔ども。挙句にはその罪を忘れ、自由と正義を振りかざす恥知らずの国。これを悪と言わずしてどうする〟

 

 虹蛇───虹と雨の創造神の集合体。

 彼女はあらん限りの憎悪と憤怒を総身に湛え、それでもなお尽きぬ感情の瀑布を身中に抱え込んでいた。

 彼女の目的は果たされるべきだった。その土地に暮らしていた人たちを殺しまわり、屍の上に国を立ち上げ、今となっては平等だのと耳障りの良い言葉を並べる。自分の幸福が誰の犠牲のもとにあるかも理解していない愚者は、ひとり残らず打ち砕かれれば良かったのだ。

 

〝おれにとっての悪、か。無論、忠義を果たせぬことよ。騎士道を貫くことができなくなった瞬間、おれはおれでなくなる。───故に。感謝するぞ、知恵の女神〟

 

 円卓の騎士、ラモラック。

 何がそんなに愉快なのか、彼は口角を大きく吊り上げ、くつくつと喉を鳴らして笑っていた。

 理解できない。忠義というものはそうまでして護られるべきなのか。醜いと罵りながらも愛した女より、ただ王とその国を構成する歯車になることを選んだ。……と言うには、ヤツは破天荒に過ぎたが。

 

〝これはこれは、知恵の女神と名乗る割には可愛らしい問いにございますな。拙僧に言わせれば、やは〟

 

 まあ、こいつはどうでもいいだろう。蘆屋道満。知っての通りのアホだ。こいつに割く文字数ももったいないくらいだ。私の未来視を超えて、ニニギノミコトを一殺してみせたことだけは褒めてやっても良いだろう。

 そうして、こいつらをそれぞれの特異点に送り出した後。レフ・ライノール───魔神柱フラウロスによる手引きを受け、魔術王の玉座へと謁見した。

 

〝そういうことだ、魔術王。私もこの戦いに一枚噛ませてもらった。要求には全て応えよう〟

〝構わぬ、所詮は前座だ。たかが英霊が七騎増えたところでさざ波すら起こせまい。私に先を越され、暗躍している魔術師のようにな〟

〝……シモン・マグスか〟

〝旧知の仲であることは知っている。少なからず情は芽生えているだろう〟

〝私があいつに? 悪い冗談だな。吐き気がしてきた。…………お前がカルデアに負ければ今度はあいつの番だ、ぜひ勝ってもらいたいが〟

 

 魔術王は小さく鼻を鳴らし、

 

〝ならば、第七特異点は貴様が勝利に導け。キングゥ……あの泥人形では役者不足だと考えていたところだ〟

〝良いだろう。だが、私にできるのは勝利に導くことではない。───敗北に引きずり込むことだけだ〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして今、この世界は終局を迎える。

 母なる獣の手によって。

 ティアマトが臨むはウルクか、そこに住まう人類そのものか。いずれにしろ、彼女は止まらない。かつて自らが産んだ生命のことごとくを誅戮するまで。

 混沌の海洋が大地を覆い尽くす。

 蒼き空はどこまでも暗く染まり、絶え間なく雷光を瞬かせた。

 ティアマトに追随する二柱の女神はウルクを間合いに捉えたところで歩みを止める。

 サクラとソフィア。黒白の偽神はもったりとした目つきで、外はねした髪の毛を手櫛で直していた。彼女は刺々しい声音でソフィアに言う。

 

「…………私、起こしてくれなきゃキレるって言いましたよねぇ?」

 

 知恵の女神はどこか遠い目をしていた。彼女はひとつあくびをして、涙の浮いた目元を擦る。

 

「仕方ないだろう、私とて寝坊をしたのだから」

「それって完っっ全にあなたのせいなんですけどぉ〜!! アラーム設定しておくとかそういう知恵はなかったんですか!?」

「お前は酷なことを言うな。2000年もニートをしていた私に、アラームを付けるなどという習慣があると思っていたのか?」

「ニート特有の正当化やめてくれます? 社会じゃそういうの通用しないんで。生活習慣病で体イカれますよ」

 

 そもそも間に合ったのだから良いだろう、などとぼやくソフィアを無視して、サクラは前方へ視線を向けた。

 鋼鉄の壁に囲まれたウルクの街。見れば、街は随分と様変わりしていた。所狭しと並ぶ兵器、民家は全て取り除かれ、街というよりは要塞の様相を呈している。

 くすり、とサクラはほくそ笑む。

 ───なんて可愛らしい抵抗。神の権能の前には人の備えなど意味を成さない。悪い狼は煉瓦の家を壊せなかったけれども、私は鋼鉄の城なんて息を吹きかけただけで倒せる。

 サクラは手元に拡声器を創り出し、高らかに声をあげた。

 

「ってことで、今の内なら降伏を受け入れてあげちゃいまぁ〜す! こんな大特価セールを見逃す手はないですよね、五つ数える間にパパッと決めちゃってください!!」

「『山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)』ゥーッ!!」

 

 瞬間、金色の閃光が爆ぜる。

 ただでさえ桁外れの天体の質量が超高速で撃ち出される。あまりに手荒な返答。サクラは心底つまらなそうにため息をつき、蚊でも払うかのように手の甲を振りかざした。

 弾丸は明後日の方角へ逸れていく。漆黒の雲海をくり抜き、青空を露出させる。

 真っ白な頭のてっぺんから、ぴんと寝癖が立つ。

 

「うーわ、つまんな。あなたは宝具をバカスカ撃ちすぎなんですよ、格ってものを考えてください。いちいちルビ振る手間だってあるんですから」

 

 砲撃を放った張本人、イシュタルが額に血管を浮き立たせてサクラの前に現れる。

 

「訳のわかんないことをごちゃごちゃと……!! ここで会ったが百年目、ボコボコにされる覚悟はいいかしら!?」

「イシュタルさんが私を? 冗談のセンスもないんですね……なんだか可哀想になってきました。頭が悪くて面白くなくて胸もないなんて」

「ああん!? 胸は依代の都合よ! 本当の私はもっとグラマラスなダイナマイトボディなんだから!!」

「その言い方だと頭が悪くて面白くないのは本当ということになるが?」

 

 ソフィアは歯ブラシを咥えながら言った。左手のコップの水を口に含んでゆすぐと、眼下に広がるケイオスタイドの海へと吐き捨てた。

 

「ちなみに私も降伏を勧めよう。ティアマトはこの世界におけるビーストⅡ、人類の宿痾たる悪性より産まれし回帰の獣。本来はグランドクラスのサーヴァントをもって当たるべき敵だ」

 

 口元をタオルで拭きつつ、言外に言ってのける。お前たちの中にそんなサーヴァントはいないのだから降参しろ、と。

 対して、Eチームのサーヴァントたちはというと。

 

「いきなりビーストなどと言われても困るのですが。とりあえずわたしは一騎しかいないシールダーなので、実質グランドシールダーということでどうでしょうか」

「どうもクソもないわ。アンタはグランドなすびくらいがお似合いでしょ、もしくはなすビーストでしょ」

「どちらにしても、ですねえ。オジマンディアス王ですら唸らせた私のグランド土下座で丸く収まったりしません?」

「お前のただの土下座に何の価値があると思ってんだ!? グランド土下座っつーかグラウンド土下座だろ!! 正気に戻れグランドヘタレ!!」

 

 明らかに目の焦点が合っていないダンテ。ペレアスはその頭を容赦なく引っ叩いた。

 ある意味でグランド級なサーヴァントたちの姿を見て、彼らのマスターである立香とノアは無表情で平坦な言葉を交わし合う。

 

「……リーダー、勝てる気が無くなってきました」

「ハッ、情けねえな立香。それでもEチームのマスターか? 次そんなことを宣ったらアホ毛の無事はないと思え」

「リーダーは私のアホ毛に何か恨みでもあるんですか!? グランドアホ毛なんですか!?」

「安心しろ、おまえは紛れもなくグランドなアホだ。そして俺はカルデア最強のグランドマスター、負ける理由なんて微塵も存在しねえ!!」

「結局私がグランドなアホになってるんですけど!!?」

 

 もはやグランドとは何なのか。ロマンはモニター越しに行き場のない疑問を抱いた。その結果選んだのは沈黙。彼らには何を言おうと暖簾に腕押しなのだ。

 ソフィアはふっと吹くように息を吐く。どこからか湧き出した感情の残りかすを飛ばすように。

 

「……仕方がないな。始めろ、サクラ」

「私に命令しないでくれます? それに、こんなのすぐに終わりますよ」

 

 サクラは右手を勢い良く突き出す。

 手のひらの先、風が逆巻き空間が歪む。ねじれた空間が戻ると同時、発光する二つの粒子が生まれ、ウルクへと狙いを定めた。

 

「───ティアマトの力を借りなくたって、ね!!」

 

 対となる粒子。これらを亜光速まで加速した上でウルクの上空で衝突させ、ブラックホールを発生させる。

 一度発生したブラックホールは即座に視界の範囲全てを呑み込む。生物も無生物も関係なく、潮汐力で棒のように引き延ばされて余剰次元へと送られるのだ。

 多くの死は劇的には訪れない。

 みんなスパゲッティみたいになって、どこかの次元をふよふよ漂う滑稽な結末こそが人類には相応しいだろう。

 

粒子魔術(ウロボロス)

 

 魔力を乗せた言霊が響き渡る。

 静かな、しかし驚くほどの変化。

 それを感じ取ることができたのは、たったの数人であった。

 素粒子を介した物理法則の書き換え。サクラが放った二つの粒子は衝突を果たすものの、暗黒天体を形成する結果には至らない。

 ソフィアは形のない空気を弄ぶように、指先を踊らせる。

 

「あらかじめここ一帯に粒子を撒いていたか。私の儀式場も効果は半減……それなりに準備はしてきたようだな」

「なに感心してるんですか? せっかく私がサクッと終わらせようとしてたのに」

「違うな、早期決着を望むならこうするべきだ。───ティアマト」

 

 原初の母神が絶叫を轟かせる。大気がたわみ、地面を覆う混沌の泥が波を生じる。母なる獣は悠然と、慄然たる歩みを進めた。

 彼女は終末の具現。人間が幾千年と積み重ねた宿業の化身。人類に設定された自滅機構であるが故に、その一挙一動は遍く滅びを体現する。

 それはあらゆる時代・地域の人々が恐れた災害。

 ケイオスタイドが隆起し、津波となって押し寄せる。

 触れたもの全て、自らの仔へと変える混沌の泥。ティアマトはその巨躯を、内に秘める魔力をも使う必要がない。ただ、泥に堕とすだけで現生人類は愛すべき我が子へと新生するのだ。

 人の造りし城壁など小石程度。壁を壊せずとも、圧倒的な物量でその中身を満たしてみせるだろう。

 だが。

 その破滅の波濤を前にして。

 表情を曇らせる者はひとりとしていなかった。

 玉座のギルガメッシュは高笑いする。

 

「貴様ら如き雑種の手をこの我が読んでいないとでも思ったか!! シドゥリ、スイッチを押す栄誉を貴様にくれてやる!!」

「では、恥ずかしながら……ウルク、戦闘形態に移行します!!」

 

 シドゥリの指が手元のスイッチを力強く押す。

 地を揺らす振動。街を取り囲んでいた城壁がさらに地中から盛り上がり、正門へと向かって舟型を形作るように位置と高度が整えられていく。

 そうして、一際大きく地面が揺れる。足をつける大地そのものが上昇し、城壁との高低差を埋めていった。城壁と、一体化した地面が同時に持ち上がり、緩い弧を描く底面がケイオスタイドの海に乗り上げる。

 ソフィアはその全景を視界に収め、頭を抱えた。

 

「……馬鹿か、あいつら?」

 

 変形を終えたウルクの姿は船のような形状をしていた。

 王の趣味か、黄金に光り輝く船体が自身の数倍は巨大な波を乗り越えていく。それはウルク一個分の大質量を思わせない軽々しさだった。ギルガメッシュは哄笑とともに叫ぶ。

 

「これぞ!! 汎用船型決戦兵器ウルク・フリングホルニ───ウルクの総力を結集し建造した神殺しの船である!! 恐れ慄け、女神どもよ!!」

 

 ティアマトはさて置いて、サクラとソフィアは白い目でギルガメッシュの口上を聞いていた。次いで、白紙化した思考にダ・ヴィンチちゃんがギラリと眼鏡を輝かせて追い打ちをかける。

 

「『説明しよう! 汎用船型決戦兵器ウルク・フリングホルニとは綺羅星の如き三人の天才による叡智の結晶!! 私が基本設計を担当し、ギルガメッシュ王の兵器とにノアくんの魔術的機構が組み合わさったこれは神をも弑する兵器となった!! ちなみにフリングホルニとは北欧神話に登場する世界一大きな船で、バルドルが所有したと言われる──── 』」

「『知ってはいたけど……会議が十数分で爆発四散したくせになんてもの造ってるんだキミたちは!!? こんな超兵器ダ・ヴィンチちゃんの黒歴史ノートにもなかったぞ!?』」

「口を慎めよロマン。これは俺たち三人の力だけでできるものじゃねえ。この時代の人間全員の協力があってこそだ。おまえの発言は人の意志を踏み躙ってるに等しいぞ」

「『ちょっ……こんな時だけ良いこと言って株を上げようとするのは反則だぞノアくん!? さあその邪悪な本性を表すんだ!!』」

 

 ノアは通信機を弄り、ロマンの音声をミュートにした。自分の株を上げた反面、ロマンの株を下げるという悪魔ならではの行動だ。

 船の後方より噴出する火線。強烈な勢いのままに泥の波を破り、三女神を射程に捉えた。

 ギルガメッシュは歯を食いしばり、断腸の思いで告げる。

 

「───撃鉄を起こせ!! 『王の号砲(メラム・ディンギル)』!!!」

 

 船の至る場所から、数多の光が炸裂する。百や二百では到底及ばない数。幾千の光条が意思を持った蜂群の如く敵へと殺到した。

 全天を照らす流星を眺め、サクラは嘲るように鼻を鳴らす。

 

「私はライフで受けます。あなたは……避けないとバラバラになって死にますよ?」

「それは嫌だな、涙が出そうだ」

 

 ───術式参照、次元跳躍。

 知恵の女神は一瞬にして三次元上から離脱する。その横で、サクラは無数の光に切り裂かれて微塵も残らず焼き尽くされた。

 ソフィアはそれを間近で目撃し、光線の正体に至る。

 

(……宝具を弾頭にしているのか。成金趣味が極まったな金満王め)

 

 ウルクより発射された光はそのひとつひとつが、ギルガメッシュの有する宝具の原典。選ばれし英雄が生涯を懸けて獲得するはずの宝物だ。

 ヒトが重ねた歴史。それは幾千もの刃となって、創世の母神を穿った。

 けれど。

 

「────Aaaaaaaaaaa……!!!」

 

 叫びとともに、獣は狂い咲く。

 その肉体には一筋の傷もついていなかった。

 たとえ何千もの人の可能性を束ねようとも、創世母神にして滅びの獣たるティアマトは路傍の石のようにそれを弾き飛ばす。

 人の意志など通じるべくもない天災。古来より人間が荒れ狂う神に対してできることは祈り許しを乞うか、抵抗の果てに諦観を抱くかしかない。

 

「ティアマト僅かに後退!! 損害はなし! 想定通りではありますがめちゃ硬です!!」

「その言葉遣いはどこで覚えたのだシドゥリ!? だが良い、ここからが本番だ! 砲撃を続けたまま奴らを叩け!!」

 

 戦艦ウルク・フリングホルニ、船首付近。

 そこにはウルクが擁する英霊と神霊が揃い踏みしていた。牛若丸は自身の愛刀と天叢雲剣を握り、武者震いを噛み締める。

 

「この雨、この雷!! 越中で雨宿りした時のことを思い出します! まああの時はあんな神様なんていませんでしたが!!」

「私はアポロン様から神託を賜ったことがありますが……ティアマト神は真逆の風体ですね。もっと光り輝いているものかと」

「光り輝くのは私のような太陽神の特権!! 天に坐す太陽はひとつで十分なのデース!!」

「まあ太陽の座はテスカトリポカに奪われたんだけどニャ」

「ジャガーマン、後で神殿裏に来なさい」

 

 ケツァル・コアトルの右手がテペヨロトルの尻尾をみしみしと圧搾する。彼女は全身の毛を逆立たせ、脱兎の如く走り出した。

 手と尻による綱引きが数秒ほど続き、

 

「あ」

 

 ぶちん、と尻尾が千切れる。

 テペヨロトルはまぶたに涙を溜めて絶叫した。

 

「あああああ痛っってえニャァァァアアアアア!! もはや許しておけるかティアマトォーッ!!」

「『ツッコミどころが多すぎません!?』」

 

 テペヨロトルが怨念を抱いたのはティアマトだった。自身の飼い主には逆らえないケモノの虚しい性である。

 アイデンティティのひとつを喪失したジャガーマンは一息に空中へ飛び出す。

 空気を足蹴にティアマトへと迫る。黒きジャガーの疾走は天より降る雷よりも速く、吹き荒れる豪風よりも疾い。彼女は標的を見据え、黒曜石の矛を担ぐように構えた。

 

「『震え立て、大いなる山の心核(ヨアルテウクティン・テペヨロトル)』!!」

 

 己の五体を大地の質量と置き換え、同規模の魔力炉心とする権能。内包する魔力だけでさえ、サーヴァント数百体と比べることもままならない。

 ───だが、それが何になると言うのか。

 テペヨロトルが地の化身というのなら、ティアマトもまた同じ。かつて、彼女の遺体はいくつもの部位に引き裂かれ、メソポタミア世界を構成する材料となった。

 すなわち、ティアマトとはこの世界そのもの。その質量はテペヨロトルとさえ比較にならないだろう。

 母なる獣は無造作に右手を振りかざす。

 条理も不条理も等しく塵に帰す一撃。しかしそれは、黒きジャガーを叩き落とす寸前で停止した。

 ティアマトの足元を割り、体を縫い止める無数の大牙。さながら人間の肋骨を抜き出した形状をしたそれは、トラバサミのように女神と泥を食い止めている。

 

「ナピシュテムの牙!! 我が仕掛けを施したのはウルクだけではないわ!!」

「王よ、アレひとつ造るのにウルク来年度国家予算の大半が吹き飛びました。財政破綻まっしぐらです」

「その負債はカルデアにツケておけ。領収書と一緒にな」

「『だそうだけど、どうするんだい?』」

「『げ、原子炉とセラフィックスを売ればなんとか……』」

 

 返済計画を立て始めたロマンをよそに、二柱の神霊が駆けた。

 

「尻尾、一応返しときましょうか? なんかウネウネ動いて気持ち悪いし」

「捨て置け! 私は過去を振り返らない女だァーッ!!」

 

 紅炎と暗影の軌跡がティアマトの全身を巡る。その合間に幾重もの斬撃が生じ、肌に亀裂を刻み込む。が、それは瞬く間に再生してしまう。

 ケツァル・コアトルは尻尾の巻きついた右腕をぶんぶんと振り回しながら、

 

「全力で斬り込んでもかすり傷とは恐れ入りマース!! っていうかあなたの尻尾なに!? めっちゃ絡みついてくるんですが!!」

「それが尻尾の恨みということだ、ククるん。で、死なないやつを斬り刻んで意味あるのかニャ? なんかノリで戦ってたけど」

「もちろん、今ので大体見極めたわ。ティアマトの象徴であろう角を壊します。私からルチャを取ったら一般的太陽系美女となるように、神にとって象徴は大きな意味を持ちますから」

「なるほど。ちなみに私から着ぐるみを取ったらどうなる?」

「無よ」

「無が着ぐるみ着てるってどういうこと!? 中身無いじゃん! 着ぐるみ掛け器ですらないじゃん!!」

 

 異形の神とはそれだけで自らの神性を露呈させているに等しい。なぜなら、常人と異なる姿形をしていることで、ヒトと隔絶した存在である事実を表しているから。その象徴を破壊することは神としての機能を奪うことだ。

 ティアマトの大角。滅びを担う獣としての象徴。ケツァル・コアトルとテペヨロトルは同時に突撃した。

 

「合わせなさい駄猫!!」

「任せろ!! 私の全力を見せてやる!!」

「───『炎、神をも灼き尽くせ(シウ・コアトル)』」

 

 直後、周辺数十kmに渡って衝撃波が吹き荒れる。

 太陽の如き火球が宙に現出し、ナピシュテムの牙ごと標的を巻き込む。二柱の神霊が得物を振るい、斬り抜けた背後。ティアマトは首を仰け反らせていた。

 双眸が一層光を増し、緩慢とも言える速度で鎌首をもたげる。

 湾曲した左角の根本。そこが僅かにひび割れていた。

 

「私も、見ているばかりではいられませんね……!!」

 

 レオニダスは船首に足をかけ、一本の槍を手に取る。

 樹木を無骨に削りあげた大槍。レオニダスの身の丈を超えて余りある長さ。その表面にはルーン文字が穂先から石突に至るまで彫り込まれていた。

 常人ならば振るうどころか持ち上げることすら不可能な代物。レオニダスはそれを軽々と担ぎ、腕を振り抜く。

 超遠距離の狙撃。微かに割れたティアマトの角目掛けた投槍を防ぐ者はいなかった。槍は触れると同時に跡形もなく砕ける。

 蚊の一刺しにもならないはずのそれはしかし、小さな亀裂を徐々に深くしていく。

 

「死のルーン。死の概念を与えるまではいかずとも、ティアマトの不死性に爪を立てることは叶ったか。流石は大神オーディンの知恵だ」

 

 知恵の女神は他人事のように述べた。

 彼女の視線の先に在るのはEチーム。彼らは一様に身構え、執拗にソフィアを視界のうちに捉え続けている。

 ノアは牙を剥く肉食獣のような獰猛な表情で言った。

 

「流石なのは俺の才能であってオーディンじゃねえ。分かったらすぐに平伏しろ」

「私の頭は軽い方だと自負しているが、それでも秤に掛けるとしたらこちらに傾きそうだな。お前の脳みそと比べて」

「ああ? 今までこそこそ引き篭もってた分際でマウント取れるとでも思ってんのか? さっさと退場させてやるから負け台詞でも考えておけ」

「負け台詞か。私は2000年ほど前から用意済みだが、お前の方こそ考えておくといい。人生で最期の遠吠えだ、負け犬にも負け犬の風格というものがある」

 

 辺りに満ちる重圧。立香たちが針の筵に座らされる気分を味わっていると、ダンテがおずおずと喋り出した。ノアを盾にしながら。

 

「知恵の女神ソフィア。あなたはなぜ『暗黒の人類史』などというサーヴァントを送り出したのですか」

「そうね。ダンテなんて役立たずを送って人類を滅ぼすどころか裏切られてるもの」

「ジャンヌさん?」

「ふむ。確かにその男はダントツで最弱で話にならないくらいの雑魚で取り柄と言えば宝具しかないヘタレだが、私が召喚した英霊の中では優秀な部類だ。役立たずと罵倒するのは程々にしておけ」

「あなたが一番罵倒してるんですがねえ!!?!?」

 

 ソフィアはダンテの悲痛な叫びを聞き流して、

 

「質問に答えよう。お前たちを召喚したことに大した意味はない。ただ……引き篭もるのにも飽き飽きしていたから、何かやってみたいと思ったんだ」

「ニートの更生にしては規模が大きすぎますね。知恵の女神を名乗っているくせに善悪の判断もできなかったのですか」

「聞け、なすび娘。善悪というのは後から着いてくるものだ。人理焼却の是非もまた同じ……当事者に物事の善悪を決める権利は存在しない」

「あなたの理屈は傍観者のものでしょう。ですが、被害者であるわたしたちは違います!!」

 

 マシュが盾を振るおうとしたその時、頭上から影が降り注いだ。

 黒雲に瞬く雷光を遮り、深き闇を押し広げる獣の形影───ティアマト。創世母神はその背より翼を広げ、高く飛び立っている。

 立香はあんぐりと口を開けた。

 

「と、飛んでるんですけど!? あんな巨体で!!」

「しかもアレで突っ込んでくる気じゃねえか!? ノア、なんか気の利いた兵器とか造ってねえのか!!」

「おいおい、あのティアマトを撃ち落とすものがある訳ないだろ。ロマン、アレが落ちてきたらどうなる?」

「『白亜紀末期の隕石衝突以上の被害規模になることは確実!! このままだと回避は間に合わないし結界なんて軽々突き破って、みんな塵も残らないぞ!! ……え、これまずくないか!?』」

フォフォウ(判断が遅い)

 

 が、ノアはそれまでの流れを一蹴する。

 

「あいつを撃ち落とす兵器はないが、ぶった斬る武器ならある。見てろ」

 

 その時、暗天を切り裂く流星が飛翔する。

 翼をはためかせる母なる獣。大いなる母神へ向かって、一条の光が飛来した。その光の正体とは金星の女神イシュタルとその舟マアンナ。そして、

 

「この舟、速度は最高ですが乗り心地は最悪ですね。とてつもなく狭いです」

「蹴り落とされたいのかしら、ワンコ系源氏武者!! マアンナは一人用なのよ、私の舟に乗れたことを最高の栄誉として噛み締めなさい!!」

「分かりました! 兄上からいただいた褒め言葉のように我が魂魄の一片に至るまで刻みつけます!!」

「それはそれで重いし怖いわ!!」

 

 牛若丸はマアンナの上に飛び乗り、二本の足で立つ。雨風が殴りつける足場の不安定さなど微塵も感じさせない立ち姿。彼女はだらりと両腕を垂れ下げた。

 さながら襲い掛かる寸前の四足獣。深く息を吸い込み、吐き出し、止める。

 

「いやあ、あそこまで飛ばれたら私じゃ何にもできねえニャ。人類滅亡前最後の一服してきていい?」

「マタタビキメる暇があるならもう少し右寄りに立ってくれる?」

「ちょっと待って、私から見て右なのかククるんから見て右なのか、それはもはや左なのでは─────」

「───さあ、行きなさい源氏ワンコ!!」

 

 矢のように放たれる牛若丸。イシュタルの魔術による後押しを受け、ティアマトへと飛び上がっていく。

 その途上。牛若丸はテペヨロトルの頭を踏みつけ、

 

「『壇ノ浦・八艘飛』!!」

 

 ───獣の片翼に肉薄する。

 そこから先は、時間にして一秒にも満たなかった。

 

「からの、『神剣・天叢雲剣』!!!」

 

 神の肉体を足場として繰り出される八度の斬撃。

 それらはひとつ余さず、万物万象を切断する神剣の権能を宿していた。

 ティアマトの両翼が根本から断ち切られ、墜落する。

 前人未到の偉業を遂げた牛若丸は口端から血を流し、空を真っ逆さまに落ちていく。虚ろな瞳はぼんやりと、ともに墜ちるティアマトを追いかけていた。

 人の身にして神剣を振るった代償。八度、神の斬撃を再現した牛若丸の霊基はひび割れ、砕けかかっていた。

 金星の光が尾を引き、彼女を回収する。

 イシュタルは牛若丸を抱えたまま、ウルク船上のEチームのもとへと帰還した。

 

「アホ白髪魔術師、治してあげなさい。その間ソフィアの相手は請け負うわ」

「まさかお前ひとりでかかってくるのではないだろうな? 三番煎じは天丼がすぎる。戦い方も宝具も味のしないガムだぞ」

 

 イシュタルはビキビキと血管を筋立たせた。足のつま先はドリルめいた動きで地面を抉り、もう片方の足は忙しなくリズムを踏んでいる。

 

「へ、へえ。だったらEチーム一同にも手伝ってもらおうかしら。無味無臭が一番怖いってことを思い知らせてやろうじゃない」

「いいえ、私たちは無味無臭なんかじゃありません! 何度味わっても飽きない魅惑の食材、ホットケーキミックスです!!」

「立香、あんなものに魅了されてるのはアンタくらいよ」

「最古のホットケーキミックスも一瞬で貪ってましたからね」

 

 何に納得しているのか、ソフィアはこくこくと頷いた。

 

「まるで劇毒だな。喰らうには骨がいりそうだ。───私も、本気を出そう」

 

 身に纏う純白の衣に手をかける。

 本気を出す───そう言われて警戒しない人間などいない。

 服の下に武装を隠しているのか、はたまた別の礼装を着込んでいるのか。ましてや、この動作自体が気を引きつけるためのブラフかもしれない。

 立香は無意識に杖を強く握る。

 魔術師を相手にする時は敵の一挙一動にまで意識を向けなくてはならない。魔眼を持つ者はひと睨みで、そうでなくても指一本で描いた術式でも人を殺せるのが魔術師という人種だ。

 ソフィアは白い装束を脱ぎ捨てる。

 その下には何もない。魔女の武器である短剣も杖もなく、礼装さえも着ていない。

 つまり、

 

「……へ、変態だァァァァ!!!」

 

 一糸まとわぬ、全裸であった。

 思わず叫んだ立香に続き、リースは戦慄のあまりに青褪める。

 

「人前で肌をさらけ出すなんて、とんでもない破廉恥ですわ!! 恥を知りなさい!!」

「正論なのに正論に聞こえませんねえ……ペレアスさん、どうですか?」

「おい頼むからオレに振るな」

「落ち着けアホども。見てくれに騙されんじゃねえ」

 

 ノアは両手首に黄金の腕輪を投影する。全裸のソフィアを真っ直ぐ見据えていた視線を遮るように、彼の顔面寸前で『魔女の祖(アラディア)』が蓮の花めいた杖の先を展開した。

 当然、杖を操るのは立香。ノアは杖をがしりと掴んだ。

 

「この切羽詰まった時に何してんだおまえは!?」

「たとえ切羽詰まった状況で相手が敵だとしてもセクハラはセクハラです。見ないでください」

「どう考えてもハラスメントぶちまけてんのはあいつだろうが!! それに忘れたか、魔女の正装ってのはローブでも下着姿でもなく全裸なんだよ!!」

 

 ───魔女宗の信仰において。

 術者は儀式を執り行う際、男も女も関係なく、必ず全裸でなくてはならないという決まり事があった。

 それは単なる伝統や習俗だけに依拠することではない。

 一糸まとわぬ裸体とは取り繕わぬ真実の象徴。アダムとイヴが知恵の実を食す前の人間の真なる姿であるが故に、それは神秘性を纏う。

 これは魔術の世界において、ひとつの単語で表現される。

 

「───スカイクラッド。原初の魔女の本気、その目に焼き付けるといい」

 

 空を纏った女は告げる。

 躍動する四冊の魔導書。それらは同時に世界への干渉を開始した。

 

「第40儀式場『怒りの日(ディエス・イレ)』展開」

 

 それは全人類へと降る審判の日。

 ダビデとシヴィラの予言の如く、世界を灰燼へ帰す裁きの時。

 いつか来たる終焉が、魔女の手によって始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウルク王宮、玉座の間。

 

「やっぱり、狙うなら王様からですよね」

 

 守衛の全員を撫でるように薙ぎ倒し、黒白の偽神は王とその従者の前に現れる。

 くに、とサクラは鮮やかな唇を自らの人差し指と中指で歪める。無機質な顔面を無理やり微笑ませるかのように。

 王は玉座より黒白の少女を見下ろす。紅き瞳は磨かれた鏡面の如く、サクラの姿を写し出している。

 

「さて。武器の貯蔵は十分か───とか訊いておきます?」

「御託はいい。貴様に費やす時間すら無用だ。来るなら来い」

「……その態度、今からグッチャグチャにしてあげます!!」

 

 賢王と偽神の戦いは、どこまでも呆気なく始まりを迎えた。

 サクラは一足飛びにギルガメッシュへの距離を詰める───そうして踏み出した右足を、銀色の鎖が絡め取った。間髪入れず彼女の全身に鎖が巻き付き、きつく締め上げる。

 しかし、黒白の偽神はその膂力のみで鎖の戒めを破壊する。自己改変スキルによってA++ランクにまで向上した筋力に物を言わせた結果だ。

 戒めを解いたサクラは見る。自身の前後左右上下を埋め尽くす、王の蔵の門を。

 

「はー……」

 

 瞬間、宝具の全門掃射がサクラを襲う────

 

「ギルガメッシュっていうのは、随分とつまらない戦い方をするんですね?」

 

 ────が、放たれた宝具はそのことごとくが真逆の方向へと反射した。

 全方位へ弾き返された武具が天井に壁に床に突き刺さる。

 サクラはあらゆる物質だけでなく、エネルギーをも操ることができる。彼女は刹那、自身に向かう全ての攻撃の運動エネルギーの方向を反転させたのだ。

 黒白の少女は体に付着した埃を手で払うなり

 

「自分は玉座でふんぞり返って、余裕アピールですかぁ? このまま宝具飛ばすだけの成金みたいな戦い方なら、最弱はあなたで決まりですよ?」

「ほう。愚者の見識とはここまで狭く浅いものか。自身の状態も理解できないとはな」

「……は?」

 

 どろり、とサクラは血を吐く。

 眼の両端から血の涙が溢れ、倒れ込むように膝をつく。手指の先はふるふると震え、澄んでいた視界は急速に曇り始めた。

 肉体を壊されたのなら即座に修復できる。けれど、この体に直すべき部位はない。だというのに、この肉の器は壊れかけている。

 サクラが答えに辿り着くのは早かった。

 

「……魂を攻撃された───?」

 

 霞む世界。かろうじてその目が見たのは、ギルガメッシュの横に輝く銀色の輪。金属的な光沢を放つその表面にはいくつもの発光する青色のラインが通っている。

 

「我は古典を愛でるが最新にも理解はある。これは遥か未来の人類が産み出す発明───『次元転移装置』。アストラル界に存在する貴様の魂を捉えるなど容易い」

 

 ギルガメッシュの蔵に収められるのは彼が直接蒐集した物品だけでなく、過去現在未来あらゆる人類の産物を自動的に懐に入れる。

 王はいつかどこかの人類が生み出すであろう装置を用い、別次元に存在するサクラの魂そのものを攻撃したのだ。

 結果はこの通り。精神を魂によって掌握し、魂によって肉体を隷属させるサクラの唯一の弱点、霊魂への一撃は功を奏していた。

 

「…………だから、どうしたって言うんです?」

 

 血が止まる。

 眼球の充血が引いていく。

 サクラは緩慢に立ち上がり、ほうと息を吐いた。

 

「誰もが勘違いをしています」

 

 つややかな唇が弧を描く。

 

「第三魔法が魂の物質化なんて言ってますけど、魂は元々物質なんですよ。いえ……物質とエネルギー双方の性質を持っていると言いましょうか」

 

 ────だから、造物主である私は魂を操るなんてお手の物。

 創世記2章7節〝主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった〟

 魂を与えられて、人は初めて生物となる。それは確かに人の裡にあり、心臓を鼓動させる原動力となる。

 ならば、魂とは単なるエネルギーに過ぎない。ただ、現代の機器では検出できないダークエネルギー。そして、エネルギーと物質は相互に転化することができる。偽神サクラにとれば、ヒトの根源たる魂はその程度のモノでしかないのだ。

 

「あなたの攻撃は私には効きません。しかも」

 

 偽神の双眸が人間───シドゥリを射抜く。

 

「そんな足手まといを連れて、勝てると思っていたんですか?」

 

 石の双翼が彼女を襲う。

 ギルガメッシュは、微動だにしなかった。

 

 

 

 

「───キミの語る世界はつまらないな」

 

 

 

 響く声。空気を伝わる振動が鼓膜を揺らした時すでに、シドゥリを狙った翼は半ばからねじ切られていた。

 草原のように鮮やかな緑色の髪が棚引く。紫の瞳は鋭く研ぎ澄まされ、サクラを突き刺す。

 少女は苛立ちとともにその名を呼んだ。

 

「…………キングゥ!!!」

 

 神の泥人形は微笑み、

 

「そう呼ばれずとも知っているさ、自分の名前くらいはね」

「───ふ、負け犬風情が今更来たところで未来なんて変えられませんよ。三人仲良く叩きのめしてあげます!!」

 

 サクラは両手を突き出す。

 刹那、空間をまばゆい光が埋め尽くした。

 反物質精製。ノアの粒子魔術が届かないこの場所なら、物理法則はサクラの手中にある。

 後はこれを解き放つだけでウルクは消し飛ぶ。サクラは膨大な熱量を束ね、一気に撃ち放った。

 

「馬鹿め」

 

 光と熱の奔流は1ジュールも逃さずに白銀の輪の中へと引きずり込まれていく。

 別次元への通り道。その出口が設定されているのは当然、サクラの魂が在るアストラル界。彼女が放った反物質は彼女自身の魂を灼いた。

 ぐらりと少女の五体が傾く。

 その隙に、キングゥの拳がサクラの全身を砕き散らした。

 ここまで痛めつけたとしても、偽神の命は奪えない。キングゥは即座にギルガメッシュの手前にまで後退する。

 王はやや咎めるような声音で、

 

「……貴様はウルクに仇なす者であったはずだが?」

「まあね。だけど今は、自分の感情を優先することにした。サクラにコケにされた分はきっちり返済しておくつもりだ」

「だと言うのならば、我もヤツには幾度か辛酸を舐めさせられた。手を組んでやるのもやぶさかではない」

「良いよ、ここは一時共闘といこうか」

 

 シドゥリはくすりと笑った。

 キングゥはエルキドゥとは違うと知りつつも、重ねずにはいられない。

 若き王と、その親友の姿を。

 ───サクラは不幸だ。あの二人が揃って戦う時、勝てる者はどこにもいなかった。

 

「…………今度こそ、本当にムカつきました」

 

 飛び散った肉片を撚り合わせ、繋ぎながら、偽神は背の翼を大きく広げる。

 キングゥは身構え、

 

「だったら、どうするって言うんだい?」

「は? 潰すに決まってるでしょう。コンビ組んだところで雑魚は雑魚ですから」

「ハッ! そのみすぼらしいナリで何を言う! 貴様は負け惜しみのセンスすら無いのか!?」

「チッ……うざうざうざうざ。まあ、雑魚は雑魚でも少しは歯応えがあるようですし」

 

 かり、とサクラは親指の爪を噛み切る。

 彼女の足元を這う影。白紙の上に墨汁を垂らしたみたいに、その影は床を染めていく。

 

「見せてあげます、私の宝具」

 

 例えるなら、暗い部屋の照明をぱちりと点灯させたように。

 世界は、サクラの色に塗り換わった。

 漆黒の大地。

 白濁の空。

 何もかもが無機質な世界。折り目正しい灰色のブロックが積み重なり、風景のようなものを創り出す。

 世界の中心、サクラの背後に一本の巨木が突き立つ。

 石の彫刻を思わせる意匠。樹がつける花の色はどれも虚ろな灰色だった。

 無機質な石の桜が爛漫と花弁を散らす。

 造物主は絶頂の如き全能感とともに告げた。

 

「これが私のセカイ─────」

 

 

 

 それは、絶望と欺瞞の物質界。

 

 

 

「─────『この世全ての罪(ポイマンドレース)』」

 

 

 

 



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第76話 『この世全ての罪』

 その偽神には、いくつもの呼び名があった。

 デミウルゴス、ヤルダバオト、サクラス。もしくはサマエール、パントクラトール────意味に細やかな差異はあれど、その単語によって伝えんとする大元は変わらない。

 すなわち、物質界の創造主。無数の星が瞬く宇宙、あらゆる生命を育む地球、そしてその星に住まう生命体。それらを創造した造物主のことを指す。

 グノーシス主義神話において、偽神は真なる神を模倣して自身を神と規定し、真なる世界を模倣してこの世界を創り出した。

 故にこそ、神を騙る詐称者(プリテンダー)

 真なる神が創りし真なる世界のデッドコピーたるこの世界に物理法則を外れたものは存在せず、どんな超常も認めない。

 実験の結果超人となった兵士や機械の鎧を纏うキザな社長といったスーパーヒーローなんかいないし、指先ひとつで敵をスタンさせる魔術も、人間さえ再現する人形を造る魔術師もいない。空を飛んで人を襲うサメなんてもってのほかだ。

 全てがなるようにしかならない。几帳面で融通が効かず、救いのない世界。

 奇跡も魔術も神秘も魂魄もあり得ない場所で生きていくことこそ、この世全ての人類に課せられた罪業であった。

 その世界から脱する方法はただひとつ。

 それは───────

 

「─────『この世全ての罪(ポイマンドレース)』」

 

 悪しき幻想が、現実を侵食する。

 否、この場所こそが現実。

 目を背け、逃れたいと願う現の世界。

 けれど、ここからは逃れることも目を逸らすことも叶わない。あるのはただ、味気ない無限の物質界のみ。

 旧き現実は造物主の意のままに変革を遂げる。

 白と黒、そして灰色の世界に、二人の英雄とひとりの人間が取り込まれていた。

 

「私は神様なので、予言してあげます」

 

 朗々と響く、艶やかな声。

 自身の権能の粋、理想の具象。紛うことなき己の世界を顕現せしめた偽神の紅き瞳を、帯状の影が覆い隠す。

 

「あなたたちはもう、私に指一本触れられません」

 

 尊大なその一言は薄ら寒い音色を纏い、モノクロの世界に響きわたった。

 ギルガメッシュとキングゥの背後。シドゥリは僅かに後退った。体に流れる血液がそっくりそのまま冷水に入れ替わったかのような怖気が走る。

 恐ろしい、と感じたのは戦いに巻き込まれたことでも、サクラの宣言を突きつけられたからでもなかった。

 ただ、偽神とこの世界が理解できない。

 例えば、イシュタルやエレシュキガルの権能は一目見るだけであらゆる人間が恐れ慄き、平伏するだろう。神の力は人智の及ばぬほどに強大で強力だ。

 けれど、サクラの権能をこうして目の当たりにしても、その強さが分からない。単に風景が変わっただけ───そんな風にさえ思えるほどに。

 それが何よりも、恐ろしい。

 

「指一本触れられない、か。大きく出たじゃないか。ところで、キミの予言とやらに信頼性はあるのかい?」

「ええ、少なくともあなたの勝率よりは。負け犬街道突っ走ってる泥人形如きに煽られても全く効きませんよ?」

「おっと、効いてないアピールは敗北宣言も同然だよ。人間の文化で言うレスバトルでは最も唾棄されるべき行為のひとつさ」

「はあ〜? あなたは人形で私は神様、人間のくだらない文化なんかに当てはめないでくれます? まあ、そこでROMってる王様はお人形以下ですけど」

 

 サクラは影の眼帯越しにギルガメッシュを眺め、くすくすとせせら笑う。

 

「それとも」

 

 ぬらりとした赤い舌が唇を這う。

 それは獲物を前にした肉食獣のような。

 目の前で溺れていく人間を眺めるかのような、下卑た笑みだった。

 

「───ビビってるんですか? クソザコキング♡」

 

 しん、と冷たい音色が大気に浸透する。

 竜の逆鱗を踏み躙るかの如き誹言。平時であるならば、そんなことを宣った者は一秒とかからずにこの世から排除されるだろう。

 サクラの世界が有する寒々しい空気が一瞬にして塗り替えられる。

 毛穴のひとつひとつを鋭い針で抉じ開けるかのような気迫。ギルガメッシュは心底つまらなそうに、稚児に言い聞かせるみたいに、告げた。

 

「言ったはずだ、贋作者(フェイカー)。御託はいい、来るなら来いとな。───それとも、貴様はそんなことも覚えられない単細胞なのか?」

 

 心臓を締め上げる、冷徹な声音。

 サクラの返答はただひとつ。

 

「……じゃあ、存分に捻り潰してあげます」

 

 黒白の偽神は己が敵へと駆ける。

 反物質で消し飛ばすのは簡単だ。宝具の複製を創り出しても良いが、やはり殺すのなら自分の手で感触を味わうに限る。泥人形にさして期待はないが、王の肉を裂くのは愉しいに違いない。

 それに、力の差を分からせるなら素手が一番だ。

 抵抗もできずに殴り殺される。堕ちる様は高ければ高いほど良いように、人間にしては圧倒的な力を誇るギルガメッシュがそんな苦痛の末に迎える最期はきっと見物だろう。

 

「残念ながら、潰されるのはキミだよサクラ」

 

 偽神の進路上に割り込むキングゥ。不敵に笑む彼は獲物に飛びかかる寸前の獣のように、ゆったりと佇んでいた。

 以前の獰猛に敵を狩る姿とは真逆。待ち構える姿勢を取るキングゥを、サクラは鼻で笑う。

 

「前菜としてはそこそこですね。プラモデルみたいにパーツ分けしてあげます、お人形さん!」

 

 たん、と地面を蹴って跳ぶ。

 振り抜く右足は嵐の如き威容をもって迫る。

 サクラの一撃の前に迎撃・防御は無用。エネルギーの向きを操ることで、反作用の力さえも一方向にまとめて制御してしまう。最低でも威力は二倍───しかもそれが自己変革によってA++ランクの筋力から繰り出されるとなれば、サーヴァントですら即死は免れない。

 その蹴撃を、キングゥはするりと受け流す。微塵も臆することなく、ただ脚の側面に手のひらを添えて、軽く押すように。

 熟練の武術家を思わせる動き。蹴りの軌道が捻じ曲げられ、漆黒の大地に炸裂する。

 

「……あれっ」

 

 サクラは素っ頓狂に頭を捻った。

 困惑のままに拳を振りかざす。が、それもまた微小な動作のみで流される。

 

「不思議かい? ボクも同じさ。人間の武術というのを少し見習ってみた。所詮はヒトがヒトのスペックの中で適切に動くためのモノだと思っていたけれど────」

 

 ───ヒトの技術は自分よりも大きな敵を倒すためにあった。

 遥か太古の昔、投槍器を開発した人類は強大なマンモスを、俊敏な草食獣を食い物にした。ヒトが捻り出したあらゆる工夫と知恵は常に何かを乗り越えるためにある。

 強大な力を強大なまま振るう。そんな信念を抱いていた自分は敗北を経験して変わったのだ。神の泥人形でも、魔術王の協力者でもない、キングゥとして。

 

「くぅっだらな……それは退化でしょう。自分の弱さを誇るなんて、そんなところまで人間らしくなったんですか?」

「さあね、ただ変わっただけさ。キミはどうだい? 幾度と戦った彼らから学び取ったことはあるのかな」

「ある訳ないじゃないですか。あなたなんかと同列に語らないでもらえます?」

「変化がない、進歩もない。それがキミだというのか」

 

 サクラの乱打をキングゥはことごとく防ぎ切っていた。

 偽神に正面からの攻撃は通じない。力の向きを変えることで、極論彼女が認識できる攻撃はすべて反射される。

 ならば、相手の虚を突く。

 敵をナメきった相手の意識の隙間。呼吸の綾を縫い、打撃を与える。

 偽神の側頭部を砕く、足刀の一撃。竹を割ったかのような音が鳴り、

 

「…………ええ、だって、私は神様ですから」

 

 無造作に薙ぎ払った石翼が、キングゥを跳ね飛ばす。

 サクラには傷ひとつなかった。精々が髪の毛が乱れた程度で、打撃は頭骨を砕くどころか脳を揺らしさえしていない。

 一息にギルガメッシュとシドゥリへと接近する。王は自らの従者を護るように立ちはだかっていた。

 

「完璧、完全。それを体現した私にこれ以上の変化も進歩も要りません」

「今まで数え切れないほど醜態を晒した貴様が完璧で完全だと? 片腹痛いわ雑種が!!」

「雑種強勢を知らないんですか? そもそもあなただって神と人間の雑種じゃないですか。あ、もしかして同族嫌悪だったり? さもしいですねぇ!!」

 

 サクラは石の翼を叩きつける。

 しかし、それはギルガメッシュには何ら脅威にはなり得ない攻撃だ。

 王の宝物庫に収められた無数の宝具。無限に等しい手札を持つかの王は、それこそ無限に等しい防御手段を有している。

 如何に敵が策を弄そうと、それ以上の手数を持って押し潰す。

 

「───ッ!!」

 

 けれど、王の蔵が開くことはなかった。

 何故。

 困惑は一瞬。

 回避に傾く思考。

 だが、それでも遅く。

 王の左腕は、とうに泣き別れていた。

 

「……あぁ〜♪」

 

 サクラは口角を吊り上げる。

 ギルガメッシュとシドゥリの背後。彼女はぷらぷらと刈り取った左腕を揺らし、

 

「まずは一本、取られちゃいましたね……♡♡」

 

 花を手折るかのような気軽さで腕を握り潰した。

 

「どうして私に攻撃が通じなかったのか。どうして宝物庫の扉が開かなかったのか。気になりますか? 気になりますよねぇ?」

 

 ぴしゃり、と手のひらに付着した血液と肉片を振り払う。黒き大地に赤色が差し、少しずつ溶け込んでいく。

 それでもこびりついた血肉を口内でこそぎ落とし、ぬらついた水音とともにてらてらと光る指を引き抜いた。

 

「私のセカイでは神秘なんて曖昧な概念は認めません。魂や魔力や宝具なんて、都合の良い力は存在しない」

 

 この世界に在るのは全能の偽神と、覆せぬ物理法則に縛られた愚民のみ。そこではあらゆる超常はなく、ただただ残酷で融通の効かない法則に従うしかない。

 つまり。

 

「私の宝具は、全ての神秘を否定します。そこに一切の例外はありません。そこのお人形さんが神に造られた肉体を持っていようと、あなたがあらゆる宝具を貯蔵していようと、全部ガラクタ…………さあ、絶望しましたか?」

 

 黒白の偽神は突きつける。

 英雄、英霊を支える根源にして本領。神秘という名の力が、取るに足らぬモノであることを。

 キングゥは胃からせり上がる血の塊を飲み下し、地についた膝を起こす。

 

「だというのなら、おかしいね。魔力も神秘もないのなら、その違和感にボクたちが気付かないはずがない」

「いいえ、気付くはずがないんですよ」

 

 だって、と偽神は嗤う。

 

「───これが、現実なんですから」

 

 人類史に刻まれた数々の英雄。

 裏の世界に生きる魔術師たち。

 それらは、この世界を形成する一片に過ぎない。

 むしろ、この世の大半の人間にとって魔術や英霊は夢物語のフィクションだ。神秘というものを扱う絶滅危惧種が世界を先導しているなど、傲慢の極みと言えるだろう。

 サクラはギルガメッシュを見据え、

 

「この時代の世界人口はおそらく1億にも満たないでしょう。ヒトひとりにそれぞれの現実があるとしても、あなたが支配しているのはそのさらに一部の十数万のものでしかない。ならば、私が背負うのは現代を生きる神秘を知らない75億の人間の現実───!!」

 

 完成した絵画のキャンバスにペンキをぶちまけるみたいに、現実はより強い現実に塗り潰される。

 たとえどんなに甘く優しい物語を見ていても、その後には味気ない現実が待ち受けている。人類の幻想が神や英霊を形作るというのなら、サクラは人々が生きる現実に対する絶望と虚妄、退屈と諦観の集合体だ。

 

「いつもの力が振るえない気分はどうですか? 宝具がガラクタと化した気分は? でも、それがみんなが生きる無力な現実!! あなたたちが狭い世界で圧倒的な実力を誇っていても、そんなのは今や全部幻想に成り果てたんです!!」

 

 偽神の哄笑が轟く。

 灰色の桜が咲き誇る。

 花弁の一枚一枚が、白濁色の空を一層空々しく彩っていく。

 サクラの世界。

 みんなの現実。

 これこそが造物主の権能───欺瞞と絶望の物質界。閉じ込められた時点で、敵の命運は決していた。

 もはや抵抗に意味はない。ギルガメッシュの蔵の門は開かず、キングゥが有する神に造られた肉体も以前のようには振る舞えない。

 が、サクラは理解していた。こういう時、人間は悪あがきをするものだと。どうしても敵わない相手が現れれば、英雄という類の人間は死力を尽くして戦い、自己満足を胸に死んでいく。

 なんてみっともない心の在り方。それはただ己の弱さを肯定し、戦ったのだから仕方ないと自身を納得させる自慰行為だ。

 

(……まあ、それはそれで面白そうですけど)

 

 胸の内がざわめく。英雄の頂点を陵辱する期待に心が満ちていく。

 次は藤丸立香だ。あのアホでマヌケな顔を恐怖と快楽で歪めて、身も心もぐずぐずに溶かし切る。アレが色に狂う姿はどんな喜劇よりも見応えがあるはずだ。

 

「ですが、あなたはひとつ見落としをしています」

 

 その言葉が、思考を真っ二つに横切る。

 サクラは声の主を知り、ため息をついた。

 

「ええと、シドゥリ……でしたっけ。脇役未満が何の用です?」

 

 殺意と嫌悪の籠もる声。シドゥリは至って冷静にそれを受け止め、

 

「あなたの言う現実は確かに正しいのかもしれません。けれども、あなたが語っているのはたったひとつの側面……悪い部分だけでしょう。誰もが無力であると同時に、僅かながらも目の前の現実に干渉できる力を持っているのですから」

「それで? 誰でも未来は変えられるとか、真のヒーローは君たちだとか言うつもりですか? そういう頭がのぼせた量産型な意見は受け付けてませんので」

「いえ……ただ、あなたの創る世界はいささか不完全だと思いまして」

 

 シドゥリは言う。単純な色味だけで構成されたサクラの世界を眺めて。

 

「あなたの言う世界には多様性がない。単一の価値観が全てを左右するこの場所には、矛盾を許容する余剰がない。そして、あなたには他が存在することを認める度量がない。故に不完全────というよりは劣化です」

「多様を内包する余剰は無駄と言うんです。それに、誰も彼もいつまで経っても他者を認めないからこそ争い続けているのが現実じゃないですか。希望を語る前に自分たちの醜さを自覚するべきでしょう」

「その言葉、そっくりそのままバットで打ち返します。他者を排除することもまた私たちの世界でもありますが、それだけではありません。一方の選択肢しかない世界を創っている時点で、それを不完全と言わずして何と言うのです?」

 

 一切の無駄がない完璧な世界があったとして。そこに何らかの異物が紛れ込んだ場合、その世界は瓦解するだろう。

 無駄という余剰は余裕でもある。拡張性がない箱はたったひとつの異物の侵入で破裂する。たとえその箱の中が、どんなに理想的で幸福的な桃源郷だとしても。

 それでも人は、自身の意思だけが世界に反映されることを望む。そのことがどれだけの他者とその現実を剪定しているかも知らずに。

 神秘の否定。それのみにあらゆるリソースを費やしサクラの現実は、ひどく窮屈で狭量な悪辣さだけを体現していた。

 

「よくぞ言ったシドゥリ! 褒めて遣わす!! そこな偽神よりも我の支配こそが民にとっては幸福であるからな!!」

「それもまたどうかと思うけどね、ボクは」

「まあ、実績はあるので……不死の霊薬探しで国を放り出したのはどうかと思いますが」

「ふ、いつの話をしている! それはとうに乗り越えた過去だ!!」

「なら、乗り越えられない現在(いま)を突きつけてあげます!!」

 

 サクラの現実が悪意をもって襲い掛かる。

 影に満ちた大地が波打ち、舞い散る花弁が刃と化す。

 触れるもの皆呑み込む影が押し寄せ、冷徹な石の牙が噛み付く。偽神が差し向ける無数の殺意はしかし、ギルガメッシュとキングゥの手によって捌かれていた。

 神秘を否定したとしても、彼らが積み重ねた経験は否められない。人類史に冠たる英雄、英霊としての意地がこの残酷な現実で彼らの命を繋ぎ止める。

 が、それは先のない綱渡り。

 サクラを倒す手段はなく、サクラの固有結界を逃れる道もない。僅かな一瞬を重ねていくだけの悪あがき。ヒトが罹患する病だ。

 だからこそ、偽神は丹念に丁寧に敵を追い詰める。その苦しみに心が堪えきれなくなるまで。

 一陣の風がギルガメッシュとキングゥを裂く。袈裟と逆袈裟、示し合わせたような傷。血飛沫が咲いたのを見て、サクラはねとりと粘ついた笑みを向けた。

 

「無理、ですよ? 足手まといを抱えながら私と戦おうなんて!」

 

 石の棘がキングゥに突き刺さる。本来ならば回避できていた一撃。なれど、神秘を否定するこの場ではサーヴァントである彼の力は奪われる。

 スペックを低下させ、魔力を奪い、存在を薄れさせる。もはやサクラが手を下さずとも、彼の死は間近にあった。

 

「エル───」

 

 シドゥリはそう言いかけて、口を噤んだ。

 目の前にいる彼と、かつての王の親友は異なる者だ。使っている肉体(ハード)が同じだけで、精神(ソフト)は別。重ねてはいけないと思いつつも、言葉が溢れてしまった。

 無力感か義務感か、思わず前に進み出ていたシドゥリを、キングゥは手で制す。

 

「心配は無用さ。彼は勝算もなしにこんな状況を招きはしない」

 

 ───一秒、また一秒と。

 ───命を繋ぐ度に傷は増えていく。

 ───私は、それを見ていることしかできなかった。

 

(それでも今、できることは)

 

 サクラが肉薄する。

 影が二人の足元を絡め取り、双つの翼を突き刺す。

 だから、そうすべきと思ったことをそうした。

 

 

 

「─────は」

 

 

 

 誰かの声が、小さく短く響いていく。

 灰色の翼が鮮やかな血に濡れる。

 サクラの刺突は止まった。シドゥリの体を刺し貫いて。

 彼女は血を吐き、告げる。

 

「必ず、勝利を」

 

 今際の際、零れ落ちたのは、そんな。

 黒白の偽神は顔を歪め、

 

「このザマを見て、最期に遺した言葉がそれって───とってもおかし」

「『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』」

 

 瞬間、この世はすっぱりと切断された。

 世界が崩れる。

 現実が色を取り戻す。

 白と黒の濃淡だけで表現された虚構の界が砕け散り、サクラは全身をミキサーに掛けられたみたいにぐちゃぐちゃにされて、地面に転がっていた。

 かろうじて眼窩にはまっている右眼が、どろどろになった左眼を眺める。

 

「────え…………へ、ひゃっ? あれ……!!?」

 

 困惑、当惑。

 心が虚ろな空白に染まったのは一瞬。自身の現状を把握して、途端に湧き出したのは自らの骨肉をも焼き尽くすかのような怒りだった。

 ───紅き風が吹く。

 普通、風は気圧の高い方から低い方へ空気が押し出されることで生じる。

 だが、その風は違った。

 空間が曲がり、世界の像が捻れる。

 その風は空間の層が厚い場所から低い場所へ、周囲へ撒き散らすように吹き荒れていた。

 言うなれば時空流。この世の理を掻き乱す力の奔流。

 反対に、辺りの魔力はある一点へと回転しながら集結する。

 その中心。ただ、そこに在るだけでことごとくを切り裂き吹き散らす、ひと振りの剣。

 なれど、その剣は異形だった。工業用の切削機のような刃が連なり、それが高速で回転する。斬るのでも貫くのでもなく、拓く────そのために、この剣は存在している。

 そして、その担い手は。

 

「…………シドゥリ」

 

 脈動する血管の如く、赤き紋様が五体を走る。

 身を守る鎧は要らない。盾もまた不要。彼がその姿であるということが、何よりの攻撃であり防御だから。

 いま、己の原点へと還りし英雄王は、激情とともに剣を振るう。

 

「───貴様との約定、此処に果たす!!」

 

 それはさながら、映画のスクリーンを縦に裂いたみたいに。

 時空間そのものが割れる斬撃。黒白の偽神はなす術なく呑まれ、裂け目へなだれ込む時空流に圧搾されていく。

 

「う、あああああぁぁぁぁッッ!!!」

 

 迸る絶叫。サクラはもがくように物質界の理を制御し、時空の狭間から逃れ出た。

 虫みたいに地べたを這いずりながら、肉体を再生する。魂さえ無事であるなら、物質界に存在する肉体など如何様にも創造し、こねくり合わせることができる。

 どこからともなく現れる血と肉と骨。傷ひとつない体を創り、ギルガメッシュを睨む。

 

「───どうして、宝具を…………!!?」

「愚問だな、雑種が。己の権能さえ把握していないとは。……いや、それこそが造物主という存在か。どこまで行っても貴様は偽物でしかない」

 

 ……伝説上において、シモン・マグスが開祖とされるグノーシス主義はその他の宗教と同じように、人に救いを伝道する教義を持っていた。

 偽なる神が創った偽なる世界。人間は生まれた時から物質界に収められた囚人だった。しかし、人間は肉体という物質的存在だけで構成されるのではなく、魂という霊的資質を備えている。

 故に。この物質界の軛から自らの()を解き放つことで、真なる神の真なる世界へと回帰できると信じたのだ。

 その方法は単純にして明快。

 己が生を通じて真理を知り、そして───────

 

「────()()()()()()()。全ての魂は根源の渦へと還る。貴様の物質界に神秘は存在しないが、死の瞬間魂は肉体より抜け出る。ならば、それは矛盾と言う他ない。神秘を認めぬ世界に、魂という霊的存在が現れることになったのだからな」

 

 否、とギルガメッシュは頭を振った。

 

「矛盾を受容できぬ狭量。この世界には数え切れぬ矛盾が存在するが……所詮は偽の神が創る偽の現実。たったひとつの矛盾も許容できずに崩壊するとは、呆れて物も言えぬわ」

 

 その瞳には、冷徹で硬質な彩りしかなかった。

 現実は、それほど理路整然とはしていない。数学や物理、科学ならばともかく、人間のそれは曖昧模糊で複雑怪奇だ。街を歩く人間ひとりひとりにだって、その頭の中を覗けば無数の矛盾が見つかることだろう。

 けれど───だから、この世界は続いている。あらゆる可能性を認め、どんな矛盾もありのままに内包するが故に。

 ぎり、とサクラは歯噛みをした。

 そうして、鋼鉄を捻じ曲げるみたいに表情筋を動かし、下手な作り笑いをする。

 

「それが分かるということは、あらかじめ未来視で知っていたんでしょう? あの人間が死ねば、私のセカイは壊れるって。それでも王様ですか、自分の民を捨て駒にするなんて…………ッ!!」

 

 ギルガメッシュは言葉を叩き返す。

 

「それが、シドゥリとの約束だ。如何なる手を弄してでも勝利せよとな。貴様如き無知蒙昧が、やつと我を語るでないわ!!!」

 

 ごう、と紅き風が逆巻く。

 王は剣を振ってすらいない。使い手の意思に応じて刃が胎動した、ほんのそれだけで辺りの何もかもを引き千切った。

 サクラはその余波から難なく逃れ、啖呵を切る。

 

「もう、殺します……!! 宝具が使えなくても、あなたなんて────」

「…………その体でか?」

「は……?」

 

 偽神の視界。その右半分が、途端に暗闇に包まれる。ぼとりと足元に転がったものは粘液で濡れた目玉だった。

 

「……うそ」

 

 ぱりん、と背より伸びた両翼が粉々に弾ける。

 左腕の肘から先が熱された飴みたいに溶けて落ち、上半身を支えていた右脚がぐにゃりと折れ曲がった。

 ───魂は無事なはずなのに、どうして治らないのか。

 

「まだ分からぬか。貴様の現実は否められた。だというのに、何故自分を保っていられると思うのだ」

 

 自身の権能が否定されたということは、神としての存在の根底を覆されるに等しい。サクラの全能力全存在は既に消えてなくなり始めていた。

 

「ふ、ざけ─────!!!」

 

 ぢりぢりと空間にノイズが走り、反物質が生成される。以前に比して遥かに不安定なそれは途端にサクラの権能の支配下から抜け出し、秩序無く拡散した。

 ギルガメッシュにはその余波さえ届くことはない。時空の乱流が反物質の対消滅を遮断し、別の位相へ流し込む。

 刻一刻と体が崩れていく。サクラは焦燥感に押されるように、次々と攻撃を繰り出した。

 反物質。宝具の複製。エネルギーの操作。果ては、亜光速にまで加速した粒子の衝突によるブラックホールの現出。この世の終わりもかくやとばかりの光景は、

 

「温い」

 

 英雄王の一刀によって、無に帰した。

 キングゥは空白となった思考のまま、それを眺める。

 あれこそがギルガメッシュ。古今東西あらゆる英雄の頂点にして、原初の世界を開闢した最古の人の王。

 ───この肉体を持っていた彼は、本当にあの王と対等でいられたのだろうか。

 邪推すら浮かぶほどに、その力は圧倒的だった。

 心に湧き上がる感情に名前をつける間もなく、偽神と英雄王の戦いは決着を迎える。

 

「嫌です、うそ、だって……そんなの、ありえない!!!」

 

 黒白の少女は醜いまでに足掻く。

 とうに破綻した存在と現実。それを維持するのは死への恐怖感。自分が無になって消えてしまうという絶望。人間じみた想いが、彼女をすり減らしながら前に押し進める。

 まだ何も成し遂げてない。

 まだ何も叶えていない。

 それなのに、こんなところで終わる。

 無慈悲に、残酷に、言い訳のしようもなく。

 だけど、現実はそういうものだ。都合よく誰かが助けてくれる訳でもないし、タイミングよく奇跡が降りかかることなんてありはしない。

 それを痛感して。

 サクラはどろどろと溶けていく右手に、ひと振りの剣を創り出した。

 

「『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』───ッ!!!」

 

 世界を断つ斬撃が発露する。

 ギルガメッシュは何も告げずに剣を薙ぎ払った。

 開闢の一撃が交錯する。せめぎ合ったのは刹那、サクラの剣はその切っ先から砕ける。

 しかして。

 断末魔をあげる間もなく、少女は消滅した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 負けた────負けた。

 この私が、あんな無様に惨めにあっけなく。

 ありえない。ありえない。ありえない。

 消滅する刹那、塵ほど残った魂の残滓。一秒と経たずに、私はこの真っ暗闇の中に消える。光を見る視覚も音を受け取る聴覚も匂いを感じる嗅覚をないけれど、死とはそういう断崖に落ちるようなものだ。

 ただし、今回は帰ってこれない。

 何度も経験した。何度も帰ってきた。

 そこがどんなに暗くて冷たいか知っているのに、怖くてたまらない。これで全部終わることが惜しくてしようがない。

 

「それが、オマエが彼女に与えたモノだ。サクラ。会うのは久しぶりだな。せっかくの最期だ、看取りに来てやったぞ」

 

 鈴を転がすような声が聞こえる。

 その音色はじくじくと身を焼く炎みたいだった。

 あるいは、腐った花のようなどろどろとした甘ったるさか。

 

「オマエには変わる機会がいくつかあった。スサノオによって特異点を創り出す力を失った時。藤丸立香の言葉を受けた時。あるいは、白き魔術師の業に意表を突かれた時。どれかひとつでも、その敗北を正しく刻んでいれば、もしくは全力の英雄王とも互角に争えていたやもしれぬ」

 

 淡々と言葉を述べて、それでいながらからかう視線。

 

「オマエは、最初から最後まで愚かだった」

 

 がらりと、声音に熱が灯る。暖かくこちらを包み込むみたいに。

 

「だが、そんな様こそ愛おしい。馬鹿な子ほど可愛いと言うが、それは真理だな。おれの眼はオマエに釘付けになってしまった。シモンはオマエを嫌っていたがとんでもない、愛が溢れて止まらなかったぞ」

 

 ほんの一瞬、魂の知覚が冴えて、その姿が見えた。

 蓮の花の柄が描かれた女物の着物を着流す男。胡座をかいて太ももに肘をつき、なめ回すように視線を差し向けている。気味が悪いほどに整った顔立ちは常に微笑を纏い、嗅覚もないというのに柔らかな花の香りが鼻をつく。

 その男は、■■■は、私を心底憐れむ表情をして、

 

「無様な死に様を見せてくれて、ありがとう」

 

 そんな言葉を、投げかけ──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マルコによる福音書第13章31節から33節。

 〝天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである〟

 かの救世主は語った。

 天地の滅びの時は、全能の父のみが知るものであることを。

 

「───第40儀式場『怒りの日(ディエス・イレ)』展開」

 

 しかし、その時はいま此処に来る。

 知恵の女神ソフィアの手によって。

 照明を付け換えたみたいに、空が紅蓮に染まる。

 ちかちかと紅の空にいくつもの光が点灯する。天を塞ぐ分厚い雲の裏側。灯る光は徐々に強く大きくなり、雷雲を吹き飛ばす。

 かつて、淫蕩に耽ける退廃と堕落の街は神の硫黄と火に滅ぼされた。

 天より堕ちる火。夜空の星ほどもある火礫が次々と墜落する。物語にしか語られぬ終末の光景を目の当たりにして、ダンテは顔面に深い影を落として言う。

 

「皆さん、もう既にお分かりかと思いますが…………このままだと人類は滅亡します!!」

フォフォフォウ(な、なんだって)ーーー!!」

「言っとる場合か!! ふざけてる暇があるならアレをなんとかしてくれます!?」

「ジャンヌさん、無茶を言わないでください。私はただのおっさんですよ?」

「自分で言うな! それにおっさんはおっさんでもサーヴァントのおっさんでしょ、おっさんのサーヴァントでしょ!!」

 

 というやり取りを無視して、ノアは両手首の腕輪を解き放つ。

 

「投影、『全知の鴉神(フギン・ムニン)』」

 

 一対のワタリガラスが飛び立つ。フギンとムニン───大神オーディンの使い魔。これら二羽のカラスは常に世界を飛び回り、オーディンへと見識を伝えるために存在する。

 魔術の世界において、使い魔との感覚の接続は基本中の基本。ノアの視覚は世界を観測するフギンとムニンの眼球に乗り移っていた。

 上空からの視界。視覚が先鋭化し、粒子の世界にまで立ち入る。目から流れ込む情報の濁流を魔術回路を用いて処理し、魔力の流れを掌握する。

 

「ペレアス」

「なんだ? 策でも浮かんだか」

「おまえはいい加減その地味さをなんとかしろ」

「こんな時に言うことじゃねえだろぶっ飛ばすぞ!!」

「うるせえ、俺を見習え───粒子魔術(ウロボロス)!!」

 

 広げた両手の間の空間がきらりと瞬いたかと思えば、瞬間、空を埋め尽くすほどの光の爆発が巻き起こる。

 重水素と三重水素の結合。物理法則を操る粒子魔術が創り出した、核融合反応の発散。その一撃は滞空するソフィアをも巻き込み、天の礫を消滅させていく。

 膨大な熱量は知恵の女神を遠ざかる。川の水の流れがひとつの岩に曲げられているかのように、何らかの干渉を受けているのだ。

 

「純粋水爆……お前本当に人間か? いや、愚問だったな。真にバルドルが目覚めたならこの程度ではない」

「なに上から目線で語ってやがんだ、変態全裸女が!! そういうのは俺だけの特権なんだよ!!」

「いいや、それは私の特権よ! 金星の女神的に考えて!」

「クズだな」

「「黙れ!!!」」

 

 金星の光条が飛び、次々と爆発が生じる。それらはみな、ソフィアから逃げていくように逸れていった。

 以前はほんの少しで限界を迎えた粒子魔術の使用。それを立て続けに行ってもなお、ノアは威勢を保ち続けている。

 知恵の女神はすぐに答えを得た。

 情報の収集と処理。前者を二羽の使い魔の感覚を借りることで短縮し、魔術回路の負担を減らしている。さらにはより繊細な粒子の操作も可能にしているおまけ付きだ。

 対して、立香はノアを見て思った。この男、牛若丸の治療を完全に忘れている、と。

 

「『heal(64)』!!」

 

 サーヴァントの霊基から『元の状態』を読み取り、魔力を送り込むことで修復を行うコードキャスト。人間の場合は遺伝子を元に治癒を促す程度だが、サーヴァントは肉体を魔力で構成しているが故に、魔力で傷を埋めるのは容易い。

 しかし、太陽の継嗣のみに受け継がれる神剣───それを人の身にして振るった過負荷まで補えるかどうか。

 不安を抱いたのも束の間、牛若丸はばっちりと開眼して飛び起きる。

 

「厚い手当て、感謝いたします! 状況をお聞かせ願えますか!」

「ソフィアが脱ぎました。攻撃が通じていないようなので、お力を貸してもらえますか」

「マシュ、合ってるけど違う」

「なるほど、大体分かりました。ですが……」

 

 牛若丸が言葉を途切れさせたところで、地面が大きく揺れた。

 地表を舐める突風。間近に迫る息遣い。何か、見えない手に引っ張られるように、食虫植物に誘引される羽虫みたいに目が上を向く。

 星の内海を映す、獣の双眸。

 母なる神ティアマトの顔貌が、そこにあった。

 

「────…………ッ!!」

 

 その時、立香の肉体は呼吸を忘れた。

 歯の根が合わない。視界が定まらない。瞳孔をどこに逃がしても、あまりに巨大なその眼がついて離れない。

 凍りつく脳の隅で、記憶が蘇る。

 あれはそう、ノアから日課の魔術講義を受けていた時のこと。

 

〝近代魔術における最大の発展を促したのがエレナ・ブラヴァツキーだ。あいつが設立した神智学協会は西洋魔術の思想にインド哲学の要素を持ち込み、特に霊視・霊媒の分野に革新をもたらした〟

〝何度も聞きましたけど、実物を見ちゃうと……ただUFOを乗り回してる愉快なおばあちゃんだと思ってました〟

〝……ブラヴァツキーが神智学協会を設立した1875年に生まれた魔術師、アレイスター・クロウリーはさらに先を行った。こいつはインドでヨガにハマって、自分の魔術理論にそれを取り入れることになる。他には既婚者に恋してフラれて鎌倉の大仏を見に行ってたがこれはどうでもいいな〟

〝ほんとにどうでもいいですね。それにしてもヨガが魔術に関わってるなんて意外です。私のお母さんはお風呂上がりにやってましたよ〟

〝アホか。現代の健康体操と一緒にすんじゃねえ。アレイスターは新体系の魔術をもって、ブラヴァツキーに並ぶほどの霊媒を行ってみせた。守護天使エイワスや悪魔コロンゾンとの接触がそうだな。という訳で、今からおまえには瞑想をやってもらう。自分の魂を知覚できたら上出来だ。悪魔憑きになっても精々ブリッジしながら歩き回る程度で済む〟

〝リアルエクソシストとか絶対に嫌なんですけど!!!〟

 

 ……結局、瞑想で魂の存在とやらを感じることはできなかったが。

 今なら分かる。

 己の魂の在り処。

 戦慄し、震撼する霊の存在。

 必ず死ぬ。此処で死ぬ。絶対なる神の威容を前にして、非才な自分にすら恐怖に凍りつく魂の温度が感じられる。

 そして、死は目前に躙り寄っていた。

 

「…………Aaaaaaa───────」

 

 母なる獣の咆哮。それが解放されるだけで自分たちはおろか、この船……否、地平線の彼方まで塵になる。

 逃げられはしない。ティアマトはその両手で船体を拘束している。逃げても無駄。彼女の叫びは一切合切を破壊するだろう。

 ひゅ、と。肺の中から漏れ出た空気が口の端をすり抜ける。

 全身を虚脱感が襲いかけたその時、

 

「行くぞククるん、レオニダス! ジェットストリームアタックだァーッ!!」

「黒いのはジャガーマン殿だけでは!?」

 

 駆け抜ける三連星が、ティアマトの横っ面を張り倒す。

 船体を掴んでいた手が外れ、衝撃とともに再度地表が大きく揺れる。ジャガーマンたち三人は足元の不安定さも意に介さずに着地した。

 ジャガーマンことテペヨロトルは荒々しく息を吐いて、肩を上下させる。

 

「ふふふ……ここまでやって無傷とは、やっぱティアマトはタフだニャ……ちょっとマタタビ吸いに一服行ってきていい?」

「そういえば、フンアプフー兄弟がたばこの火を灯し続けるなんて試練をシバルバーでやってましたね。試してみたらどうです?」

「それ結局最後死ぬやつじゃん!! つーか喫煙所行くのに冥界まで降りなきゃいけないの!?」

「喫煙者の肩身は年々狭くなってますからね」

 

 ケツァル・コアトルとテペヨロトルは軽口を叩きながら、ティアマトへ向かっていった。

 立香の全身を安堵感が包む。顔を手で扇ぎつつ、隣の牛若丸に問う。

 

「……なんて言おうとしてました?」

「ティアマトにも対処しなければならないと言うつもりだったのですが、いやあ、死ぬかと思いました! はっはっは!!」

「まったく笑えないのですが。ダンテさんなんてそこで地面を掘って逃げようとしてますし」

「モグラか!!」

 

 ジャンヌは素手で地面を掘るダンテを力ずくで引き剥がす。

 ソフィアはイシュタルとノアの猛攻を微動だにせずに受け流し、世間話でもするかのような気軽さで話しかける。

 

「お前たちは図太いな。ティアマトを間近に見ても怯みさえしないとは」

「ハッ、ティアマトのどこが怖えってんだ!? カルデアの女どもの方が100倍邪悪だぞ!!」

「まっ、私は女神だし? 神を恐れるのは人がすることじゃない。だからアンタも私を恐れなさい!!」

「お前を? 駄目だな、お前のジャンルは珍獣だろう。微笑ましくしか見えないよ。…………ところで、そろそろ私のターンで良いか?」

 

 ソフィアは自らの右手をこきりと鳴らし、

 

「術式融合、『天の落涙(ヘヴンズティアー)』」

 

 赤き空が、真っ白に染められていく。

 燃える礫も白色の光弾に生まれ変わり、雨霰の如く降り注ぐ。

 着弾した光弾は触れるもの一切を削り取り、突き進む。船体を貫くおびただしい数の穴。ケイオスタイドさえも呑んで進むそれが、どこまで行ったのかは誰にも分からない。

 知恵の女神はイシュタルに見せつけるように右手の甲を向ける。

 

「イシュタル、お前は知っているだろう。冥界送りの術式と儀式場を混ぜた。掠りでもすれば即座にあの世行きだ」

「残念、その冥界の神は私たちの味方よ。冥界送りなんてまったく怖くないわ」

「それこそ残念だ。今、この場は最後の審判である怒りの日。向かう冥界はキリスト教の地獄に固定される。洗礼を受けたことがない者はな」

「インチキ魔術もいい加減にしてくれるかしら……!?」

 

 ノアは少し考え込んで、

 

「ペレアス、ダンテ、おまえら盾になれ。キリスト教徒だろ」

「落ち着いて考えてくださいノアさん! アレが本当に最後の審判と同じだとしたら、私たちは地獄でなく天国に行くことになります!! 別次元に送られるという点では全然変わりません!!」

「だったらダンテが盾になるしかねえな。一回天国に行って帰ってきてるんだし、今回も大丈夫だろ」

「ペレアスさん、あなた適当に言ってますよねえ!!?」

 

 ダンテはペレアスの肩を掴んで揺さぶる。迫真の表情を目の前で見せつけられたペレアスは若干引いた。リースは頭を傾けながら言う。

 

「ですが、まずい状況ですわ。こちらの攻撃は通じない上にあっちはやりたい放題、星をゲットした配管工みたいなものです」

「スカイクラッド……って言ってたか? 服脱ぐだけで無敵状態になるのはどういう理屈だ? ガウェインの方がまだ理解できるぞ」

「脱いだことに囚われんな。言葉の意味としては空を着る(スカイクラッド)、だぞ。魔女からすればアレは着衣なんだよ」

「おいおい、魔女ってのはあんな公然猥褻スタイルでも合法なのか───よっ!!」

 

 ペレアスは振り向きざまに斬撃を放つ。神殺しの魔剣はまさに襲い掛からんとしていたラフムを真っ二つに切り裂いた。

 新しき霊長。旧人類を喰らう怪物が、至る場所から溢れ出す。レオニダスは牛若丸とともに迫りくるラフムを処理しながら、

 

「空を着る、とは面白い表現ですな。パンクラチオンの正式ユニフォームも全裸でしたが、アレはまた違った意味があるのでしょう」

「ユニフォームとは一体……なんで攻撃が逸れるかリーダーにも分からないんですか?」

「ああ? んなことはもう理解してる。対処法も用意済みだ」

「…………今までの会話と戦闘の意味は!?」

 

 サーヴァントたちがラフムを排除し、その手を借りて天の礫から逃れつつ、立香はノアを咎めた。彼は能面のまま、立香の頭頂にそびえ立つアホ毛を人差し指で弾く。

 

「ただしソフィアに攻撃を通せるのは一回。それで仕留められなかったら終わりだ。空から降ってくる光に巻き込まれて全員お陀仏になる」

「確かに、それはそうですけど。一回だけ、ですか…………ペレアスさんとかダンテさんを投げるのはアリですか?」

「ナシだな。気付かれたら意味がない。とにかく早いところあいつをどうにかしないと、ティアマトを冥界に落とす作戦も使えねえ」

 

 むむむ、と立香は頭を悩ませる。

 自分だって、ここまで戦い抜いてきたマスターだ。自惚れてはいないが、少しは役に立てる自覚もある。少なくとも、サーヴァントのマスターとして戦った経験は世界の誰よりも積んでいるはずだ。

 

〝───今回は魔女らしく行く。優雅な戦いなど望むなよ、美の女神〟

〝───『三重の法則』。魔女の行動はその善悪を問わず、三倍になって返ってくる。そういうことでしょう〟

〝───スカイクラッド。原初の魔女の本気、その目に焼き付けるといい〟

 

 隅々まで敵の情報を洗って、何をするべきかを見極める。

 立香は手を招く。ノアが上半身を倒すと、その耳に唇を寄せた。

 

「───……っていうのはどうですか?」

 

 ノアは軽く鼻を鳴らし、小さく口角を上げる。

 

「良い案だ。それで行く」

 

 立香の頭の上に手を置いて、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回す。乱れた髪を手で直し、口を尖らせて文句を言う。

 

「褒めるならちゃんと言ってください」

「褒めたんじゃねえ、撫でただけだ」

「セクハラで訴えてもいいですか?」

「やってみろ、法廷の魔術師と呼ばれた俺に勝てるならな!!」

 

 盛大な爆破が空を埋め尽くす。

 膨大な熱の中心で、ソフィアは目を閉じる。

 ───服を着ることの意味は、内界と外界を仕切ることにある。人と他人は違うという証明、自己の真実を周囲から隠すための偽装。

 ならば、それを取り払うことは内界と外界の境界を無くすことを意味する。空を着る、とはそういうことだ。自己を外界に発散させ、内界と外界を反転し、融合する。固有結界の亜種とも言えるだろう。

 亜種反転固有結界スカイクラッド。

 結界を閉じる必要がないことから、固有結界の弱点である抑止力の干渉による時間制限もなく、自然を操ることもできる。

 五大元素説のうち、天体を構成する第五の元素にして天界を形作る物質、エーテル。スカイクラッドはそれを操作することに特化した魔術であった。

 ───それも、完全ではないが。

 元より、ソフィアは自分の能力を信用していない。

 このスカイクラッドとて、粒子魔術の干渉を受ければ十全には働かないだろう。

 だから、安心できる未来を探る。

 痛いのも苦しいのも御免だ。

 先のことを知っていないと、とてもここになんていられない。

 

「『天の理』、『地の理』、『人の理』、『神の理』────並列起動、術式全転写。術式解放時間はマイナス1秒に設定」

 

 目を開く。見るべきモノは見えた。

 渋滞した現在の背中を押して、進むべき未来へと辿り着かせる。

 権能の粋たる四冊の魔導書とともに、最大最高火力の魔術を撃ち放つ。

 

「────『逆行起源・天地収斂(ネガ・インフレーション)』」

 

 最も警戒すべきはマシュ・キリエライトの宝具。

 その展開の隙を与えぬ、虚数時間を介した魔術発動。

 宇宙を膨張させるダークエネルギー。莫大と表現することすら適さぬそれを魔力に転換した光明がウルクを、人類を跡形も残さずに滅した。

 静寂と無人。

 生温い風が肌を撫でる。

 知恵の女神は全身で風を受け止め、

 

「…………ああ」

 

 ぎぢ、と奥歯を噛み締め、大きく激しく叫ぶ。

 

「やってくれたな、マーリン!!!!」

 

 鏡面をハンマーで砕くように、世界の像が割れる。

 真実の世界は、前となにひとつ変わってはいやしなかった。

 

 

 

 

 

「────素敵な夢は見れたかい、お嬢さん」

 

 

 

 

 

 花弁が舞い乱れる。

 こつり、こつりと軽やかに響く足音。

 花の魔術師は我が庭のようにウルクの地を横切り、

 

「良い天気とはいかないけれど、こういうのも悪くはない。みんな大好きマーリンお兄さん参じょ」

「邪魔だアホ!!」

フォフォウ(退けクズ)

「グフゥーッ!!」

 

 ノアとフォウくんに顔面を両側から叩かれ、マーリンは地面を転がる。

 

粒子魔術(ウロボロス)

 

 この世界そのものに干渉する魔術。

 度重なる核融合によって周囲へ振り撒いていた架空の素粒子。それら全てを相互に作用させ、ソフィアのスカイクラッドを打ち破る。

 

「やれ、立香!!」

「はい! 『魔女に与える鉄槌(Malleus Maleficarum)』!!」

 

 コードキャスト。その真価は呪文を対象に書き加えることにある。牛若丸に使った治癒の魔術も極端に言ってしまえば、『治れ』という命令を書き込んでいるに過ぎない。

 ソフィアは魔女としての性質を有している。スカイクラッドも、彼女が展開する儀式場もまた魔女の力に由来するのだとしたら。

 それに対立する概念を書き込んで、打ち消してしまえばいい。

 魔女殺しの弾丸が飛翔する。

 この程度、反応できぬ速度ではない。ソフィアは空間を歪曲させ、弾丸を押し潰す──────

 

「あなたにしては、程度の低い魔術ね」

 

 ───その寸前、弾は軌道を変え、知恵の女神の体を打った。

 全身を掛け巡る電流。魔女の属性が消え去り、存在が歪められていく。息が詰まる感覚をよそに、立香の横の空間を睨んだ。

 

湖の乙女(エレイン)……そうか、妖精郷(アヴァロン)から駆けつけたか!!」

「ええ。私とマーリン、どちらかが消滅した時は本体を連れてアヴァロンを出ると決めていたの。流石に足が棒になったけれど」

「…………どうやってここまで来た?」

「徒歩よ」

 

 エレインはすっぱりと言い切った。

 マーリンは鼻血をハンカチで拭き取りながら、

 

「フフフ……流石に先に死んだことを後悔したよ。エレインを担いで走るのはとてつもない重労働だった……」

「私の未来視を欺いたのはお前の幻術か、マーリン」

「それもある。だけどね、そもそも私とエレインはこの時代に生まれてもいないし、死んでもいない泡沫の妖精だ。世界にすら考慮されていない私たちのような存在を、どうして未来視で見通すことができると言うんだい?」

「……チッ。元より殺されることは織り込み済みだったか。なるほどな、私では勝てない訳だ」

 

 …………ならば、こうするしかない。

 

「─────Aaaaaaaaaaa…………!!!」

 

 大気を痺れさせる、獣の咆哮。

 包丁で空気を切るように真空の層が生じ、ウルクを貫かんと奔る。

 だがしかし、それは紅き風の一刀に斬り伏せられた。

 黎明の光の如き赤光がカーテンのように、オーロラのように広がる。

 赤光の膜の表面に、金色の波紋が点々と群れをなす。それらは門。王の宝物庫の裡よりあらゆる武装が顔を出し、主の号令を待つ。

 

「時は来た」

 

 最古にして最強の英雄王ギルガメッシュ。

 彼は、己が剣の一閃と同時に宝具の雨を降らせた。

 

「────く、っ…………!!!!」

 

 あらゆる防御機構が不全となった今は元より、幾億の魔術を記録する蔵書の内にも、その一刀を凌ぐ手段は存在しない。

 ソフィアの体を横断する傷。全身を串刺しにする宝具。噴水のように血が流れ、白い衣が身を庇うように巻き付く。知恵の女神はただただ、うずくまって腹を抱えていた。

 英雄王は宣言する。

 

「偽神は討ち果たした。これより作戦は最終段階に移行する!!」

 

 総力戦の幕引き。

 それを告げられ、金星の女神はソフィアを見下ろす。

 

「……みたいだけど、あなたはまだやるつもりでしょう? 今度こそ私がブチのめ」

「かえる」

「はい?」

「もういい、もう帰る。こんなに痛いのは久しぶりだ。後は魔導書に任せた」

 

 ぽろぽろと大粒の涙を溢しながら、ソフィアは踵を返した。彼女は空気に溶け込むように姿を消し、音も風情もなくこの場を去る。

 イシュタルは唖然として、

 

「…………はああああああ!!?!?」

 

 当然、一部始終を見聞きしていたノアたちも似たりよったりな反応をする。

 

「ふざけんなァァァ!! ボロ泣きして帰るとかスマブラでボコられた小学生か!?」

「負けたら不機嫌になるタイプですね」

「ダンテよりプライドないやつを初めて見たわ」

「そうですね、アレで強さもミジンコ(ダンテ)並みだったら良かったのですが」

「マシュさん? それミジンコにダンテ載せてません? ショートケーキのいちごになってません?」

「いや、お前がいちごとか格を考えろよ。精々サンドイッチのパセリだろ」

「地味で無名なペレアスさんに言われたくないんですがねえ!!?」

 

 地上で行われる会話を思考から排除し、ギルガメッシュはソフィアが消えた虚空に剣の切っ先を向けた。

 

「位相を切り替えた程度で逃れられると思ったか!!」

 

 遥か高次元、知恵の女神が坐す永遠の領域(プレーローマ)

 死したる()が還るべき、物質界と対立する真なる世界。剣の刺突は、ヒトが未だ辿り着けぬその領域へと貫通した。

 対界宝具。世界に直接干渉する、数ある宝具の中でも群を抜いた超抜級の武装。世界を切り拓いた刃を払い、プレーローマへの道を拡張する。

 中空に開いた穴へ向かって宝具の階段が伸びる。

 

「行け、Eチーム三人娘!! あの女に鉄槌を下してやるがよい!!」

「王様からのご指名です! 先輩、頑張りましょう!!」

「ようやく私たちの実力を認めたってことかしら。ぶちかましてやりましょう、立香」

「うん、今こそEチームリーダーの座を奪い取る時!!」

「自惚れるな。ティアマト討伐に大して役割がないから貴様らを選んだだけのことだ」

「「「…………」」」

 

 立香たちは無表情でプレーローマへの階段を駆けのぼった。

 ノアはその後ろ姿を見送り、ティアマトへ向き直った。母なる獣はウルクの直前。彼の手にはもはやお馴染みのスイッチが握られている。

 

「俺たちはティアマトをやる! ウルク市民の避難始めろ!!」

「『その心配はいらないぜ、ノアくん。ウルク市民の皆様には脱出用ポッドで逃げてもらった。後はティアマトを冥界に落とすだけだ』」

「『いや、落とすって言ってもどうやって────』」

「決まってんだろ、この船に搭載された最後の機能を使う」

「おい、最後の機能ってまさか」

 

 口角をひくつかせるペレアス。ノアはスイッチを押して、

 

「───当然、自爆だ!!!」

「核融合と言い自爆と言い、この頃のノアさんは爆発に凝ってるんですか!?」

「諦めろ、そいつはカルデアに来る前から爆破解体やってたやつだぞ!!」

 

 ズン、と地鳴りが起きる。

 ウルク・フリングホルニの船底に仕込まれた自爆機構。それは冥界と現世を隔てる地盤を破壊し、ティアマト諸共地下へと落下する。

 ギルガメッシュは空中からその光景を眺めていた。

 王は首を動かさずに、背後へ声を投げかける。

 

「……さて。貴様はどうするつもりだ、キングゥ」

 

 緑の長髪を棚引かせる、紫の瞳の青年。彼は真っ直ぐギルガメッシュを見据えていた。

 

「キミは行かなくて良いのかい?」

「貴様が言うべきことはそんなことか」

「…………いや、違うな。うん、そうだ、ボクはボクを試したい───キミという相手で」

 

 敗北を知った。

 己の力が通じぬ、現実を知った。

 聖杯を失い、恥知らずにも命を拾って、それでも此処にいるのは、きっと、彼に逢うためだった。

 敗北を刻んだキングゥという個が、英雄王という壁を前にどこまで通用するのか。

 それを、試したくて。

 

「良いだろう」

 

 英雄王は剣を胎動させる。

 紅き風が吹き荒れ、淀んだ空を晴れ上がらせた。

 

「我が友エルキドゥの誼だ。貴様の挑戦、受けて立とう」

「ありがとう。それじゃあ─────」

 

 三者三様。此処に、最期の戦いが始まる。

 

「────フルスロットルで行くよ、ギルガメッシュ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 プレーローマ。神性の充溢する、霊魂の故郷。

 知恵の女神はそこにいた。

 足音が響く。

 足音が近づいてくる。

 やめろ。来るな。近付くな。

 たとえこの場所にあろうと、権能をもってすれば現世に干渉することなど容易だ。その深追いに意味はない。

 体に刻み込まれた痛みが記憶を引きずり出す。

 愚かしさにまみれ、罪業に満ちた私の人生の記憶を。




・サクラ(ス)のステータス
クラス︰プリテンダー
真名︰サクラ(サクラス)
属性︰混沌・中庸
ステータス︰筋力 E~A++ 耐久 E~A++ 敏捷 E~A++ 魔力 E~A++ 幸運 E~A++ 宝具 EX
保有スキル
『欺瞞の造物主︰EX』……三相一体の女神・サクラに組み込まれた相のうち、『デミウルゴス』に当たる権能。物質界を操るスキル。人間以外の生物・無生物の一切を支配下に置き、操作できる。唯一人間だけを操れないのは、グノーシス主義において人間は物質界から脱することができる資格たる『霊』を魂に宿しているからである。
『愚昧なる贋作者︰EX』……あらゆる物体の模造品を作ることができる権能。生命体は魂それは物であるなら、ギルガメッシュのエアやアーサー王のエクスカリバーも例外ではなく、真名解放も可能。ただし、作り出した贋作は真作よりもランクが低下したものとなる。『サクラス』の側面が色濃いスキル。サクラとはサクラスの表記揺れである。愚昧なる贋作者は、決してモノの本質を理解することができない。
『傲慢の偽神︰EX』……自分自身の存在を改変する権能。神性スキルを併せ持つが、それすらも改変して消し去ることができる。ステータスの増減もスキルの複製も思いのままであり、それらにリスクはない。番外特異点では天照大御神すらも演じてみせた。ヤンチャな弟には見抜かれたが。自らを真の神と思い込む偽神『ヤルダバオト』の側面。これにより、サクラは真の神を詐称するプリテンダーのクラスを得る。
 実質EXしかないステータスとスキル。二次創作でしか許されないと思われる。
宝具
『この世全ての罪』
ランク︰EX 種別︰対霊性、対神秘宝具
 ポイマンドレース。人間を至高天に至らせない欺瞞と絶望の物質界を展開する宝具。そこでは全ての霊性は否定され、神秘の類は一切が力を発することがなくなる。つまり、サーヴァントや神、神秘に属するものは宝具に囚われた時点で一切の例外なく全ての力を剥奪される。魔術も発動することすらできない。サーヴァントは体を魔力≒神秘で構成しているため、この世界に囚われた時点で動くことすらできなくなるが、ギルガメッシュは当時実在していた生身の本人であるため、戦うことができた。
 この宝具は人間による霊性の発露によって無効化することができる。この世界は霊性が存在しないという前提で成り立っているためである。
 霊性の発露とはここでは、人間の魂が根源へと還ること。よりグノーシス主義っぽく言うと、神的火花、本来的自己の確信である。難しい言葉なのでざっくり簡単に言い換えると、ここでは人間の魂に秘められた善性、真の世界への魂の回帰と思ってもらいたい。
 その破り方は固有結界内部で人間の命が失われること。魂は死によって根源、つまり物質界の外へと還る。それは物質界を否定する霊性の発露であり、魂が唯一物質から解き放たれる瞬間である。故に物質界の外へと還る魂によって結界に穴が穿たれ、この世界の根底が覆される。すなわち、宝具や魂をただのモノとして、魔力や神秘をただのエネルギーとしてしか捉えられないサクラの矛盾を露呈させるに等しい。それにより、サクラのあらゆる能力は瓦解する。
 対霊性宝具にも関わらず、霊性の発露によって負ける矛盾。それこそが造物主たるサクラの歪さといえる。
 天敵はセイヴァー。解脱、もしくは昇天している人物はグノーシス主義における物質界のくくりを超越しているので、彼らにはどうあがいてもこの宝具は通用しない。もし結界に閉じ込められたとしても、立川在住聖人男性二人なら余裕で脱出できる。
 桜科黒桜属サクラ種の疑似サーヴァント。サクラのクラスは当初フェイカーであったが、『自分を神と思い込む造物主』という元ネタにこれ以上ないほどマッチしたプリテンダーが出てきたのですかさず変更された。ありがとうオベロン。


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第77話 魔女の祖

なかなか時間が取れず遅れてしまいました。申し訳ございません。100カノのアニメが始まるまでには終局特異点まで終わらせたいです。


 西暦───が使われるのは500年ほど先のことだが───とにかく現代から見て西暦15年9月8日。私はその日に産まれた。

 家は羊飼いを生業にしていて。生活はとても貧しかったけれど、両親は貧しさを補って余りある愛情を注いでくれた。

 お母さんは寝坊がちな私を毎朝優しく起こしてくれて、夜は眠りにつくまで子守唄を歌ってくれる。

 お父さんはぶっきらぼうで無口だけど、誰よりも家族を想ってくれていて、仕事を手伝った時はたくさん褒めてくれる。

 だから、物質的な貧しさなんて苦にならないくらい私は幸せだった。

 走ることが好きだった。

 どこまでも続く大地を己の足だけで駆け抜けていくのが、どんな遊びよりも心地よくて楽しかった。周りの子と比べて速くはなかったけれど、そんなことはちっとも───ほんの少ししか気にならない。

 でも。

 こんなにも暖かくて優しい幸福も、他人にとっては容易く踏み躙る塵でしかなかった。

 

「終わる。終わってしまう。はじまりの一つが全てを変え、間もなくあの男が原罪を持ち去ってしまう。真性悪魔の存在は否定される。ならば、その前に遺すしかない。新たな聖母の器に大いなる七罪を着床させ、母と娘と悪霊の名において、いずれ世を支配する物理法則テクスチャの貼り替えを図る」

 

 男は一瞥で父と母をぐちゃぐちゃの肉塊に変え、濁り血走った瞳で私を見下ろしながら、意味の分からない言葉を吐く。

 息が詰まる。

 体が震える。

 涙が溢れる。

 肉親を殺された怒りも悲しみも置き去りにして。

 ただ、恐怖と本能のままに走り出そうとしたその時。

 

「…………えっ」

 

 ぷらり、と足首の先で何かが揺れる。

 どくどくと流れ出す鮮血。露出した肉と骨。皮一枚でかろうじて繋がった足があっけなく千切れ、そこら辺の石みたいに床に横たわった。

 剥き出しになった神経が炙られているかのように痛む。血が流れていくのと一緒に、自分の中にあった大切なものまで消えていく喪失感に襲われる。

 それでも体を引きずって、背後から近付く足音から逃れる。しかしその逃走は壁に阻まれてあえなく終わりを迎えた。

 男の手が迫る。

 ───目がおかしい。

 馴染んだ家の光景が無色無形の何かに埋め尽くされている。

 それを例えるなら、平原に吹く風。川を流れる水。もしくは、夜空の星々の隙間を仲立ちする暗黒。

 無色無形、だというのに何故目で見て認識できるのか。

 そんな疑問や理屈を飛び越えて、縋るように右手を伸ばす。

 無色無形の中に輝く、いちばんきれいな光点。それに触れて、ひたすらに願う。

 

「────かみさま」

 

 詩篇第138篇7節〝たとえわたしが悩みの中を歩いていても、あなたはわたしを生かし、御手を伸ばしてわが敵の怒りを防ぎ、あなたの右の手はわたしをお救いになる〟

 

「わたしを、おすくいください」

 

 私が触れたのは、ヤツの命の核心。

 未来視の極致。

 いずれすべての存在が辿り着く終焉。

 すなわち、死を視るという最悪の御業。

 小娘の指先ひとつで、その男は言い訳のしようもなくあっさりと、死に絶えた。

 

「ああ────………………」

 

 ───これが、モノを殺すということか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その娘を買うわ」

 

 何もかも失い、転げ落ちた先は奴隷商人のもとだった。

 奴隷とは財産の一種だ。それを買う人間の目的は様々だが、商品を買って財産にするというのだから、不良品は避けられる運命にある。

 まずは第一に健康であること。これは大前提だ。病気になった馬を取り扱う馬喰なんてどこにもいない。

 次に強みがあること。体格が良い、力が強い、算術を心得ている、容姿が優れている……客はそういった奴隷たちを吟味して、需要に合った者を買っていく。

 その女は並んだ奴隷の中から、即座に私を選び出した。

 右足を失い、物も知らぬ、痩せこけた体の小娘を。

 

「その足、私が治してあげる。みすぼらしい見た目も水を浴びて、たくさんご飯を食べれば大丈夫。アナタは骨格が良いから、きっと美しく育つわ」

 

 女の手に引かれ、訳も分からぬまま、私は連れて行かれた。

 そこは山の中腹を切り拓いて造られた古風な神殿だった。森の奥に聳える石の館は甘く蕩ける香気を放っている。羽虫を誘う食虫植物のように。

 女に導かれるまま、神殿へと入る。

 目に沁みるほど濃くなる香気。甘ったるく色付いた空間を、下品なくらいに絢爛華美な調度品が彩っていた。

 周囲の人間もまた同じ。恥ずかしげもなく肌を曝け出し、黄金と宝石を散りばめた装飾を纏っている。かろうじて貼り付いている布きれも薄く透けた意味のなさだ。

 客の情欲を駆り立てるためだけの衣装。問題は客であろう人間も似たりよったりな服装をしていることだ。そこかしこで女と男、はたまた女と女が肌を寄せ合いつつ、薄暗い部屋の中に消えていく。

 その頃の私にはその格好が、赤らんだ男女の表情が、何を意味するのか分からなくて。

 

「ここは、神様を祀る場所じゃなかったんですか」

「ええ、そうよ。ただし、あなたが知る神とは違う方を祀っているの」

「……神様はたったひとりしかいないはずじゃ」

「それは孤高ではなく、孤独と言うのよ」

 

 ───この世にたったひとりなんて、寂しすぎるでしょう?

 女はそう言って、扉に手をかけた。

 は、と感嘆の息が唇をすり抜ける。

 彼女に導かれたのは、大きな広間だった。今までの景観とは打って変わって、まさしく神殿と呼ぶに相応しい光景。石造りの部屋は光を取り込むための仕掛けがなされており、室内は淡い月光によって密やかに色付いていた。

 部屋の中央には大人ひとりがすっぽりと収まってしまう大きさの祭壇が設けられている。それには真紅の絹が掛けられており、くすんだ灰色の空間の中で一層鮮やかや月明かりに照らし出されている。

 女は呆けるみたいに固まった私の横を通り過ぎ、祭壇に腰掛ける。丈の長いドレスから剥き出しになった両足を組むその仕草は息を呑むほどに妖艶だった。

 

「教えてあげる。私たちが、そしてアナタがこれから手を組み祈りを捧げる神のことを」

 

 こいつの長ったらしい話をいちいちセリフにしてやるつもりはない。

 要はこういうことだ。

 第二代ローマ帝国皇帝ティベリウス治世下のイスラエル・パレスチナ。かの荒野の地はローマ帝国のユダヤ属州として支配を受けていた。

 ユダヤ属州は皇帝属州と銘打ってはいるものの、直轄地とはならず、シリア総督が統治するという間接的な属州であった。その統治体制はユダヤ属州とローマ帝国の宗教的・文化的差異が一因となっていたことは否定できないだろう。

 当時、ローマ人の神話とはユピテルを主神に戴く多神教のローマ神話であった。多神教であるが故に異教の神が現れたとしても共存が叶う。だが、イスラエルの人々は一神教を信仰していた。加えて、彼らは元々中東の多神教における一柱の神を唯一絶対の神として再解釈……つまり、他の神を否定した。そのため、ローマの世界は相性が悪かったのだ。

 唯一神は多神教の神だった。そして、その神には配偶神がいたことが示唆される碑文が残されている。

 本来一神教にあってはならぬはずの女神。

 その名はアシェラ。もしくはアシュタルテ。古代メソポタミアのイナンナ───イシュタルを起源とする、豊穣の女神である。

 

「ここは『アシェラ神殿』。唯一神の伴侶たる女神を崇める、巫女の聖堂。まあ、身も蓋もないことを言ってしまえば娼館ね。役人や議員の方々と、その奥様たちを相手にしているの。女神信仰だから男娼はいないけれど」

「…………娼婦?」

「それはおいおい分かるはずよ。何もかも、ね」

 

 ああそうだ、と女は言った。

 

「アナタ、名前は?」

 

 両親からもらった、ただひとつの名前。

 私が私であることを示す、自己同一性。

 考えもなしに、私はそれを告げた。

 

「……ヘレン、です」

 

 女は何やら難しい顔をして、紅を差した瑞々しい唇の中で私の名前を幾度か転がす。

 すると、彼女はぱあっと顔色を晴らして、優しく私の頭を撫ぜた。

 

「では、これからアナタはヘレネーと名乗りなさい。あらゆる英雄の死を招いた戦争を起こしたオンナ───その名前に見合うくらい、美しくなるのよ」

 

 そうして、私はヘレネーとなった。

 女は今までのすべてを容易く踏み躙って、私をヘレネーとしたのだ。だが、彼女にはそんな感覚は微塵もなかったことだろう。

 強者は弱者のことなど考えない。

 人間が地面の虫を踏み潰しても気が付かないように、強者は弱者のあらゆる都合や事情を無視して事を成す。たとえそれが、善事であろうと悪事であろうと、そこに弱者の介する余地はないのだ。

 それを、初めて知った。

 だからといって、その頃の私に何ができた訳でもないのだが。

 

「へえ、ヘレネー。それはまた仰々しい名前をつけられたね。どうでもいいけど。とっとと仕事憶えて私に迷惑かけないようにしてくれる?」

 

 その時の私よりも10歳は年上の女性。

 彼女は水瓶の中身を直に飲み干し、手渡してくる。

 

「じゃあこれ、汲んどいて。それが最初の仕事。溜めてあるやつじゃなくて裏の川からね。じゃ、頼んだから」

「あの、あなたの名前は?」

「クロリス。巫女長につけられたから本名じゃないけど。アンタみたいにどっかの女神サマの名前なんじゃない?」

「それじゃあ……どう呼べば?」

「お姉様でいいわ。前から欲しかったのよね、面倒事を押しつけられる妹」

 

 最初に与えられた仕事はそんなお姉様の雑事の代行だった。

 身を清め、食事を用意し、客の好みに合わせて服───と言っても服の体をなしていないモノが多かったが───を選び、姉たちを見送る。

 男に千切られた右足は私を買った女、巫女長によって、見た目だけは元通りになっていた。多少ぎこちないが問題なく動く。仕事に支障はなかった。

 どうやら私には社畜の才能があったらしい。誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝る生活を二ヶ月ほど続けていると、クロリスは徐々に多くを語るようになっていった。

 山奥の神殿から去っていく壮年の男。壮観な出で立ちで豊かな髭をたくわえた姿はそこはかとない威厳を醸し出している。前夜の客であった彼をお姉様とともに見送ると、彼女は唐突に、

 

「いや、昨日はびっくりしたわ。部屋に行ったらアイツ、女装して猫撫で声で誘ってきたのよ? あれで元老院議員とか世も末だわ」

「げんろういん?」

「国の統治を行う、ローマの最高意思決定機関よ。アイツはそこの議員ってわけ」

「と、とーち? いしけって……?」

「…………要するに、めちゃくちゃ偉い人ってこと」

「え、えら…?」

「ここまで簡単に言っても分かんないの!!?」

 

 この時代、娼婦というのはその種類にも寄るが、とりわけ高級娼婦の類は閨の上の技以外にもある程度の教養を備えていた。有力者を相手することが多いため、客と話を合わせるだけでも知識が求められるのだ。

 なので、私がアホということではない。決してない。断じてありえない。

 ただ、無知な子どもに色々と教えるのもクロリスの役割だったようで。

 ───例えば、食事の時。

 

「食べ方が汚い。口の横についてるし、そこら辺に溢れてるじゃない」

「お姉様も昨日、客の前でお酒を飲む時はいつも胸元に溢して……」

「アレはわざとよ。お偉い人のお堅い話聞くよりも、さっさとその気にしてやることやった方が早いでしょ。で、終わった後はテキトーに褒めとけばいいの」

「昨日の方はすごかったんですか」

「ぜんぜん? アルテミスの矢以上の速射キメさせてやったわ」

「それを言うならオリオンでは?」

「かもね。世界最高の狩人がアッチの方も強いかなんて知らないけど」

 

 といった、アルテミスしか知り得ないであろう情報は横に置いて。アシェラ神殿を訪れる客は男にしろ女にしろ、一定の地位を持った有力者ばかりだった。

 政の世界で力を持つということは、敵を増やすことに等しい。さらにこの時代は通信技術が発達していない。謀略と陰謀が飛び交う戦場を離れれば、それだけ遅れを取ってしまう。

 しかし、彼らは性懲りもなく人里離れたこの場所を訪れていた。欲求の不満を満たすためだけならば、街の娼館なりに足を運ぶか、自身で囲えば良いものを。

 ある日、そんな私の疑問を見抜いたのか、クロリスはつまらなそうに語った。巫女長が言うには、と前置きして、

 

「私たちはひとりひとりが魔術の歯車なのよ」

 

 儀式魔術『聖なる婚姻(ヒエロス・ガモス)』。神と神、神と人の契りは得てして聖なる御力を生じる。聖娼シャムハトがエルキドゥを獣から人にしたように、男女の交合は神秘を纏う。

 アシェラ神殿の娼婦たちはみな、女神の名をつけられていた。娼婦を神に見立てることで、それとまぐわう客たちに超常の力を与える。

 老いた者には若さを、目を病んだ者には視力を、子を産めぬ者には健全な精力を。それ故に、有力者たちは自らの領地を離れてまでも此処に来ていたのだ。

 ───例えば、見送りを終えて体を清めている時。

 

「魔術師を名乗るヤツが来たら、すぐに巫女長を呼びなさい。男のクセに髪伸ばしてるのとか怪しいわ。アイツら血とか皮とか取ろうとするから。神秘の秘匿がどうとかで、口数少なくて陰気でつまらないし」

「馬鹿ですね。魔術師なんて言わなければ良いのに」

「閨の上ではみんな口が軽くなるのよ。アンタも二、三年続ければ、元老院の面子を総入れ替えできるくらいの情報は集まるわよ」

「お姉様は元老院の恥部を握るオンナということですね」

「物理的にもね」

 

 魔術という力が存在していることに、今更違和感はなかった。むしろ合点がいったくらいだった。家を襲った男の力も、私の足を治した巫女長の技術も、つまりはそういうことなのだろう。

 それなら、あの男を殺した時に見えたモノは。

 何度か目を凝らしてみたものの、あの時と同じ景色は見えなかった。

 だから、きっと、あれは神様が与えてくださった奇跡に違いない。

 天にまします父は哀れな子羊を見かねて手を差し伸べてくれたのだと、そう信じてやまなかった。

 ───例えば、夜、燭台と月の光を頼りにお姉様の爪の手入れをしている時。

 

「ねえ、どうしてこんなところに来たの」

 

 ほっそりと、しなやかな手指の先。それを丁寧に磨く私の顔を覗き込み、クロリスは言った。

 彼女に隠し事をする気はない。だから、私は端的に経緯を語った。家族を奪われて奴隷に身をやつし、巫女長に買い取られた、短い話を。

 クロリスは私の手元から指を引き抜く。彼女は何も言わず、そのまま私を両の腕で抱きしめた。

 その力は強く。息が詰まって思わず逃れようとしても、すぐさま引き戻されてしまう。

 

「お姉様、苦しいです」

「うるさい。そんなことがあったなら、早く言いなさいよ。ばか」

「……訊かれなかったので」

「訊かなかった私も悪いけど、どうしてアンタは普通でいられるのよ。何もかも失ってここにいるのに」

 

 その返答に、考える間は要らない。

 

「───神様が、救ってくれたからです」

 

 神様はいつも私を見てくれている。

 神様はどんな不幸に苛まれても救けてくれる。

 故に、どれほどの艱難辛苦が訪れようとも、私は私のままでいればいい。

 そう言うと、クロリスは腕を解いて真っ直ぐと見つめてくる。お姉様は、とても悲しい顔をしていた。

 

「私は親に切り捨てられてここにいる。神様は助けてくれなかった。世の中なんてそんなものよね」

 

 でも。

 

「アンタがその信念で生きていけるなら、一生それを貫き通しなさい」

 

 お姉様の真意は分からなかったけれど。

 ひとつだけ、確かなことはある。

 その声はとても優しくて、暖かかった。

 だが。

 次の日、彼女は死んだ。

 朝、いつも通りに起こしに行って、何度も声をかけたけれど一度も目を覚まさなくて。

 気付けば、周りにはたくさんの人が駆けつけていた。巫女長はひとり人混みから進み出て、私の肩に手を置く。

 

「悲しいわね。とても良い子だったのに」

 

 女は私に微笑みかけて、

 

「それじゃあ、別の娘の世話をお願いね」

 

 お姉様は天の国に召された。

 あの人の魂は神の御胸に抱かれ、永久の幸福に包まれる。

 心配する必要なんて、どこにもない。

 滴る涙を拭うこともしないで、ただ頷いた。

 

「…………はい」

 

 初めにその死を見届けて、私は何人もの『お姉様』の最期を目の当たりにした。

 彼女たちはみな、例外なく二十歳を迎える前に息を引き取った。病気を抱えている訳でもないのに、全員が示し合わせたようにその年齢を迎えて死んでいく。

 何故。全ての疑問が解けたのは、やがて私も客を取れる年頃になった時だった。

 巫女長に祭壇の間に呼び出される。女は初めて会った頃と全く変わらぬ若々しさを保っていた。妙齢の手が、祭壇の前で跪く私の頬に添えられる。

 

「ヘレネー、アナタも一人前になる年頃よ。必要な知識を授けておきましょう」

 

 女は腰にまで伸びた髪を一房だけ切り取り、掌中に握り込む。次の瞬間、開いた手のひらの上から無数の光球が散っていく。

 

「この世界には数え切れないほどの悲しみがある。その原因はあらゆるモノの消費の加速にあるわ。作物の収穫量が増えれば人が増え、人は自然を食い物にして発展する。無数の悲劇と不幸を生み出しながら」

 

 ───故に、消費型社会から古代の循環型社会にこの世界を戻す。

 自然とともに生き、そして死ぬ。ヒトは小集団で暮らし、国家同士の大規模な戦争は起きる余地がない。その日その日を必死に生きる古代の社会は、確かに複雑化した今のしがらみなんてないだろう。

 ただ、それが幸福であったなら、ヒトはなぜこれほどの発展を遂げねばならなかったのか。古代の暮らしで満足していたのなら、進歩する必要などなかったはずだ。

 女は端的に結論付けた。

 

「あくまで、このテクスチャ上における話だけれど」

 

 ───全てを変えたのは、宇宙より飛来した機械の神々よ。

 

「元より、人間の社会は母権制だった。崇める神は女神。かつて多くの地母神たちがヒトの集団に信仰されていた。けれど、彼方のソラよりこの星に来訪した機神────ゼウスという男神がこの世を今のカタチにした」

 

 オリュンポス十二神における最高神、ゼウス。彼は雷霆を司り、数々の女性と契った神だった。

 ゼウスの出現によって、ヒトは母なる大地ではなく父なる天上を崇めるようになった。狩猟・採集に頼っていた生活からより大規模で組織的な農耕社会に移行するために。

 農耕がもたらした影響は甚だ大きい。人間は比較的安定した食料源を獲得し、食物が増えることで人口も増加した。しかし、農耕は天候に左右される。干ばつが生じれば作物は全滅し、その集団もまた死に追いやられる。

 だからこそ、ヒトは天を信じるようになった。作物に必要な雨を降らせるのは紛れもなく空なのだから。

 ゼウスはあらゆる女神を手篭めにした。それは侵略だ。地母神を信じていた集団を支配下に置くことを、女神とのまぐわいという描写によって表現しているにすぎない。

 

「そうして、多数の人間を組織的に束ねることで国家が誕生した。唯一神もゼウスと同じよ。異なる神を排斥して、自らを絶対不変としたの。そう、オトコたちは切り捨てた。アシェラ、イナンナ、アナト、アト・エンナ、あらゆる女神を…………ッッ!!!」

 

 女は端正な顔を憎しみで歪め、噴き出さんばかりの怒りを全身で体現していた。

 その様を見て、私は思った。

 ───なんだそれは、くだらない。

 黙って聞いていれば、世界の悲しみを無くすなどと言っておいて、その根底にあるのは男神への憎悪だけじゃないか。

 確かに、天候神によって世界は変わったのだろう。だが、果たして、人類が永遠に自然に左右されながら生きることは幸福なのか?

 

「だから私は、この世をもう一度女神の世界に戻す。アナタを一目見て気付いた。私さえ足元に及ばない魔術の才能。女神になるべきはアナタしかいないと」

 

 カラダが、私の意思に反して動く。

 服を脱ぎ捨て、祭壇の上に横たわる。

 巫女長はぞくりとするような笑みをたたえて、私を見下ろしていた。

 いつの間にか、その手には鋭く尖った木剣が握られていた。何本もの枝が絡み合い、刃を形成している。

 怖気立つほどの凶気を纏い、ささくれだった木の刃は月の光を吸い込んで黒く染まっていた。

 

「『聖なる婚姻』は神との交わり。女神の名を背負うことはヒトには荷が重すぎる。今まで二十歳までも生きられない失敗作を造ってきたけれど、きっと、アナタなら」

 

 木剣の切っ先が私を向く。

 

「これはヤドリギの剣。ヤドリギが神の生殖器にも喩えられたように───男が剣なら、女は杯。剣と杯の交合を介した完全性の再現によって、私はアナタを女神に……聖なる杯に仕立て上げる!!!」

 

 女は躊躇うことなく、剣の先を私の体に突き刺す。

 その瞬間、湧き上がるのは絶叫と激痛。それが自分の声で、自分の体を貫いている痛みだと理解するのに数秒を要した。

 遅れて気付いた時には、また次の刃が振り落とされる。

 何度も何度も何度も何度も。

 粗い刃がごりごりと肉と骨を裂き、引き抜く側から傷が治る。

 右足を千切られた時なんて比べ物にならないほどに、体じゅうに張り巡らされた神経が焼き切れるほどの痛みが絶え間なく脳を揺るがす。

 激流のような苦痛の最中、はち切れる脳内回路のほんの一部は、どこまでも冷え込んでいた。

 ───所詮、どこも地獄か。

 視覚が冴える。

 あの時の光景が戻る。

 今なら理解できる。視界を埋める無色無形の何か……これは魔力。世界に満ちるマナだ。それがこうして瞳に映っている。

 ざくり、と剣が土手っ腹をブチ抜く。

 私は視た。

 今までの人類の歴史と、これからの人類史のすべてを。

 永遠にも思える一瞬の後、私は無様にも這いつくばりながら逃げていた。無論、それは現実ではなく。

 迫る赤い影。

 根源に辿り着かんとする者を殺す赤ずきん。

 赤色の死が抑止の力をもって、底冷えする視線を投げかけている。

 

「……今日はここまでにしておきましょうか」

 

 赤ずきんとの鬼ごっこは唐突に終わりを告げた。

 ぴしゃり、と刀身を払い、灰色の床に赤色の点が散る。

 巫女長の肢体は返り血に濡れていた。彼女は私をゆっくりと立ち上がらせると、肩を支えたままに扉を開く。

 外には、年端もいかぬ童女が待ち構えていた。少女は手に持った布をおずおずと差し出してくる。

 

「その娘が、これからアナタの世話をしてくれるわ。名前は────」

 

 お前がつけた名前になど興味はない。

 童女を伴って自室に戻る。布を受け取り、涙と唾液と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を拭く。

 

「お前の名前は」

「アシュトレト、です」

「違う。本当の名前だ。聞かせてくれ」

 

 彼女は少し逡巡して、

 

「マリア。私はマリアと申します」

「ならば、私はお前をマリアと呼ぼう。私たち以外には内緒だ」

「はいっ! あの、あなたのことはなんとお呼びすれば良いのですか?」

 

 手の震えを無理やり鎮めて、マリアの頭を撫ぜる。

 

「───お姉様で良い。私も……昔から妹が欲しかったからな」

 

 そこからの半年間は同じことの繰り返し。

 夜は祭壇の部屋で体を斬り刻まれ、マリアに体を清めてもらい、寝床の上でまた次の日を待つ。その繰り返し。明るい昼も、夜が待ち受けているせいでどこか色褪せていた。

 夜な夜な私は必死に逃げ回る。

 無機質な殺意をたたえる赤ずきんから。

 きっと死ぬ。いつか死ぬ。絶対に追いつかれる。

 私は乞い続けた。

 魔法なんかいらない。根源なんか目指していない。だからどうか許してください、と。

 色濃い恐怖と絶望で目の前が塞がる。

 それでも私が生きていられたのは。

 

「見てください、お姉様!! 鳥の雛が孵りました、しかも五羽も!!」

「それは良いな。次が楽しみだ」

「次?」

「食べないのか?」

「「…………え?」」

 

 マリアという、他人がいたからだろう。

 だから私は毎夜明日に震えながらも眠ることができた。

 

 ───夢は見せてくる。

 過去の、現在の、未来の、あらゆる人々が生きた記録を。

 殺し、殺され、犯し、犯される人の業。それらが丁寧に丹念に、実感として伝わってくる。

 

 ある夜。血まみれになった私の体を優しく拭き取りながら、マリアは切り出した。

 

「お姉様ばかりが傷ついて、こんなの、間違ってます」

 

 彼女は泣いていた。

 出会って間もない、私を想って。

 その少女が流した涙は今まで見た何よりも、美しかった。

 

「いいや、間違ってたのは私だ」

 

 私はその涙を指で拭う。

 マリアは戸惑いつつもこちらを見上げた。

 

「お前は逃げろ。他の女たちと一緒に。お前たちはここにいるべき人間じゃない」

「……何を、するつもりなんですか」

「勘がいいな。だが、それはお前が気にすることじゃない」

「私は、逃げません。お姉様を放っておけない」

「───駄目だ、()()()()

 

 魔力を乗せた言霊を囁く。相手が魔術師ならばともかく、普通の人間であるなら暗示はこの程度で事足りる。

 目の色が変わり、マリアはこくりと頷いて部屋を後にする。この神殿で暗示をかけたのは彼女が最後。これで後顧の憂いはない。

 私は、忌々しき祭壇へと向かった。

 いつも通り、女はそこにいた。

 数年前と全く変わらぬ笑みをたたえて。

 

「社会のカタチが変われば人類は救われると思うか」

「少なくとも、今よりはずっとマシになるわ。物質への執着は人間のあらゆる欲求の中でも最底辺のものだから」

「……私は見たよ。これまでと、これからの人類史を」

「───繋がったのね、根源と」

 

 根源接続者。万物万象が収束する極天の座と繋がりし者。それはこの世の全ての原因が渦巻く根源と接続したことで、ある分野においては全能にも近しい能力を発揮できる。

 私が得たのはこの宇宙の記録へのアクセス権。言い換えれば、アカシックレコードを自由に閲覧し、情報をインストールできる権限。

 女は湧き上がる高揚を表情に滲ませた。

 

「素晴らしいわ。アナタはこの世の誰をも凌駕する知恵を手に入れた。あのソロモン王のように!!」

「人類が辿る歴史を見て私は思ったよ。この世界には不幸が多すぎる。流れ込んできた情報は、見るに堪えない悲劇がほとんどだった」

「ええ、そうでしょう。だからこそ、私たちはヒトを救わないといけないの!! この汚濁に塗れたヒトのセカイを浄化して、美しかったあの頃に戻すのよ!!」

 

 

 

 

 

 

「───どうして私がこんな人類(クズ)、救わないといけないんだ?」

 

 

 

 

 

 

「…………え、っ?」

 

 女は息を呑む。

 初めて、その顔を恐怖に染めながら。

 

「塩漬けにされた人肉が公然と売られた市場があった。人を人とも思わぬ虐殺はいつの時代も数え切れなかった。隣人愛を説いておきながらその隣人を殺し尽くす連中がいた。数千万もの死を生んだ戦争が未来では起きていた」

 

 ───こんな人類(私たち)に、救われる資格なんてない。

 今の私たちが救われるとはそういうことだ。

 数多の悲劇を〝そんなこともあった〟と教科書に語られる戦争みたいに素っ気無くして、ただ幸福を得るなんて厚顔無恥が許されて良いはずがない。

 だって、本当に救われるべきなのは、これまでに不幸になった人とこれから不幸になる人たちなのだから。

 あげつらった不幸は、私が見た悲劇惨劇のほんの一部にすぎない。なぜなら、根源から情報を引き出すということはそれを体験するに等しい。私はあげつらうことさえ面倒になる不幸を、その被害者と加害者の両面から体感した。

 

「故に、私は間違っていた。あんな光景を見ておきながら何もしない神が、無数の切り捨てられた人々に救いの手を差し伸べない神が、私なんかを救うはずがなかったんだ」

 

 唯一の絶望は。

 あの男を殺したのは神の救いでも何でもなくて、ただ私の力がそうさせたこと。結局、神様は私を見てなんかいなかった。

 この目に映る魔力というエネルギー。

 無色無形のそれを、無色無形のまま眼前の女に押しつける。

 

「ごめんなさい、お姉様。私はあの信念を貫けない」

 

 それだけで女は骨の一片、血の一滴すら残さずに圧搾され尽くした。

 事を終えて祭壇の部屋を後にした頃には、神殿の中には誰も残っていなかった。どうやらここから逃げろという暗示は成功していたようだ。

 それもまた、根源から引き出した知識によるものにすぎないが。

 火のルーンを神殿に刻む。すると、石造りのそれは瞬く間に燃え上がった。赤き炎の向こう側に消えていく神の祭殿。私は逃げるように、夜の闇へ駆け出した。

 まるで子どもの頃みたいに、一心不乱に走る。

 どこまでも続くような地平を自分の肌で触れて感じて、夜の冷えた空気で肺を満たす。

 夢中で山の麓まで下り、一歩二歩三歩と足がもつれていく。自分から見ても頼りない足取りはついに止まり、寂寞と広がる荒野の真ん中で月を見上げた。

 白い息が闇に馴染んでいく。さながら少量の絵の具を水に溶かしたみたいに。

 ぽつりと、私は呟いた。

 

「少し……疲れたな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は西暦30年初頭。皇帝ティベリウス治世下のローマ帝国、サマリア。ユダヤとガリラヤ地域に南北を挟まれたこの土地は豊かな丘陵を有する地方であった。

 これから先の二千年間、常に騒乱と失態を撒き散らし、不幸を蔓延させた宗教。神の子などと嘯き、救い主を騙る偽善者を一目見るため、私はサマリアを訪れていた。

 小高い丘の狭間にある小さな村。ただ生きる、それだけのことにも多大な労力を費やさねばならない場所。見れば、誰も彼もが痩せこけており、体を病んでいる。

 なるほど、よく考えたものだ。教えを広めるのは強者よりも弱者の方が与し易く、数も多い。救世主と十二使徒のやっていることは信仰の貧困ビジネスといったところか。

 そこに、奴らは来た。

 あたかも聖者を装って、二千年続く腐敗をもたらすのだとも知らずに、使命と義務感とやらに瞳を燃やす十二人の罪人が。

 男はその中央にいた。ぞろぞろと集まる村人たちへと、誰よりも早く手を差し伸べる。

 曰く、奴は触れただけで病気を治す。

 この時代の魔術師ならば全員がやってのけることをあたかも奇跡のように振る舞い、民の信心を獲得する。なんとも恥知らずな所業だ。

 右眼を布で隠した老人が近付く。救世主を名乗る男は枯れ枝を繋ぎ合わせたみたいなその手を、自身の両手で包む。

 

「───は?」

 

 ひとりでに布がするりと解ける。病んでいたであろうその右眼はそれこそ誰の目にも明らかなほど、確かな光を取り戻していた。

 私が震撼したのは眼の快癒という結果ではなく、その過程。

 ───あの男は魔力を使っていなかった。

 この目が捉えるマナの流れは平常そのもの。奴の体内を流れるオドさえも。つまり、あの男はその行為に何ら神秘的な要素を介在させることなく、ただ触れるだけで病気を治したのだ。

 それはまさしく、奇跡としか言いようがない。

 理解を拒む脳を置き去りに、瞳は男が成す奇跡を眺めていた。しばらくして思考が追いつくと、途端に業火の如き激情が骨を焦がす。

 ───あの男は神に愛されている。

 ───誰しもに降り注いで然るべき奇跡を安売りしている。

 ───だというのなら、私たちは神に切り捨てられたのか。

 どうして、神様は。

 あの時の私に奇跡を与えずに。

 彼にのみ、その御慈悲を授けているのか。

 そんなことができるなら、みんなに、平等に、公平に、数限りなくお与えになってくれてもよかったじゃないか────!!!!

 

「…………くそっ。くそ、くそっ……!!!」

 

 唇を犬歯で食い破り、潤む目元を必死に擦って、乱暴に踵を返す。

 村を出ようとしたその時、寂れた小屋が家々の外れに建っていた。その戸口にはひとりの少年。彼は布にくるまれた赤子をかき抱き、呆然と座り込んでいた。

 朽ちかけたボロ切れを衣服に纏い、金色の髪と褐色の肌は生気を失い、体は骨に皮を被せたような矮躯。ひび割れた唇が何かを呟き続けている。

 彼が抱く赤子はぴくりとも動かない。目を凝らして見れば、小さな命はとうにその灯火を絶やしていた。

 思えば、これが始まりだった。

 私の足は勝手に動き、口はひとりでに喋り出す。

 

「お前は、行かないのか」

 

 虚空を見つめていた少年の瞳がこちらを向く。

 

「……行きません。自分ひとり、この世で生きながらえても意味がありません」

「その子は、お前の家族か」

「妹です。両親と妹は病で神の御許に旅立ちました」

「神を信ずるならばあの男のもとに行け。少なくとも、お前は助かる。妹だって蘇るかもしれない」

 

 少年は首を横に振る。

 

「この世は苦しみに溢れています。こんなところに妹を呼び戻したくない。偽物の神様とその代行者に頼るくらいなら、自分は死を選びます」

 

 ───きっと、その先に真の神がいるはずだから。

 

「真の神、だと?」

「はい。こんな、罪と悪に塗れた世界を神様がお創りになるはずがありません。だったら、この世界を創った神は偽物で、不完全で、それ故不幸に満ちている」

 

 少年は一筋の涙を流した。

 とっくに尽きかけているはずの、生きながらえるために必要な水分を、彼はそれに変えた。

 

「ただ……悔しい。そんな神を否めることさえできない自分が」

 

 その光景は。

 いっそ、救世主の振り撒く奇跡なんか比べ物にならないくらい、慈悲と悲哀でいっぱいになっていて。

 その美しさに、目を奪われた。

 

「ならば、私と来い。お前に偽の神を否定するしるべをくれてやる。───お前の名前は?」

 

 少年はかすかに告げる。

 

「シモン。ただのシモン」

「お前は神の道ならぬ魔道を修めることになる。故にこう名乗れ。シモン・マグスと」

「では、あなたのことは何と?」

「ヘレネーでも何でも、好きなように呼べ。名に執着はない」

 

 そうして、私はシモンに魔術を教え込んだ。

 こいつには私ほどではないにせよ魔術の才能があったが、特に才を発揮したのは空間に作用する術。素人がたったの三ヶ月で空を飛んでみせたのだから、それは天稟と呼ぶ他ないだろう。

 みすぼらしい体が少しはマシになってきた頃、シモンは唐突に切り出した。

 

「ヘレネー。貴女にソフィアという名を贈らせていただきます」

「いらん。センスがイカれてるのかお前は」

「そうですか? 貴女が有する無上の知恵には相応しいと思ったのですが。では、これからは私が好きな時に好きなように呼ぶことにします。名に執着はないのでしょう?」

「勝手にしろ、クソ弟子。変な名で呼ぼうものならお前のケツの穴をもうひとつ増やして用も足せなくしてやる」

「口が悪いですよ、ソフィア」

 

 シモンはりんごを手に取り、小刀を差し込む。刃は赤い表面を傷つけることなくすり抜け、りんごの皮を裏側から剥いていく。

 三次元上では完全に密閉されている物体も、四次元上ではそうとは限らない。何かの間違いで生身の人間が四次元に迷い込んだなら、普通に歩くだけでも体の至るところから内臓がまろびでるだろう。

 それを応用すれば、りんごの皮を裏側から剥くなんて芸当もできる。手遊びには違いないが、修行としては適している。

 

「ああ、執着と言えば。あの男のことはもう良いのですか」

「救世主か。私の未来視では奴は死ぬ。根源から得た情報でもそれは変わらない。元より殺すつもりもなかったがな」

「では、動くならその後ですね。ただ、死者をも生き返らせた彼のことですし、蘇ることも有り得ると思いますが」

「それはない。擬似的なモノならばともかく、完全な死者の蘇生ははじまりの魔法使いにすら不可能な代物だ」

 

 何しろ、根源には番人がいる。

 物語に語られる不明の怪物(ジャバウォック)のような、抑止の赤い影が。

 ソレは間違いなく、死者の蘇生という事象を拒むだろう。そこにおそらく例外はない。誰であろうとアレに追いつかれた者は死ぬのだから。

 しゃく、とシモンは切り分けたりんごを口に運ぶ。青褪めた私の顔を慈しむみたいに、ヤツは微笑った。

 

「おや、先日教わったアスクレピオスの話は嘘だったと?」

「……いちいち癪に障るな、お前のニヤケ面は。その可能性は私も考えた。必死に未来を視たし、知識を抽出したさ。その上で結論はあり得ない、だ。あの男が復活したなどという事実はどの世界のどんな未来にも存在しなかった」

 

 それに。

 神を信じられず、自分の力さえ不確かなら、私は何を支えに生きていけば良いのか。

 ……およそ一ヶ月後、神の子は死んだ。

 弟子のひとり、ユダの裏切りによって。

 救世主は多くの人間に蔑まれ、石を投げられながら、十字架の上で命を使い果たした。

 その挙句、男は聞くに堪えない泣き言を叫んでいた。

 

「神よ、なぜ私を見捨てたのですか」

 

 それこそは奴が死を恐れていた証拠。

 我が物顔で奇跡を振るった男はその最期に神に切り捨てられて生を終えた。

 だというのに。

 

「神よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」

 

 お前はなぜ、微笑っている。

 神に愛された者が神に切り捨てられたというのに。

 それではまるで、お前が普通の人間みたいじゃないか。

 

「だが、お前は死んだ。これ以上なく完璧に。もう、お前は戻ってこないでくれ……!!!」

 

 

 

 ───ルカによる福音書第24章45節から53節。

 〝そこで神の子は、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた〟

 〝「こう、しるしてある。救世主は苦しみを受けて三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」〟

 〝それから、神の子は彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手を挙げて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、神の子は彼らを離れて、天にあげられた〟

 〝彼らは非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神を褒め称えていた〟

 

 

 

 救世主は生き返り。

 肉体を持ったまま天へ昇った。

 私が見た未来は否められた。

 確定していたはずの世界線はあっさりと歪められた。

 私が信じていたものは何もかも崩れた。

 未来を視るこの眼も、宇宙の知識を総覧する力も、神の慈悲を否定する矜持も。

 間違い続けて、誤り続けて、私は独りで見たいモノしか見ずに踊っていただけだったんだ。

 そんな、泣き伏せる私の背に、

 

「───()()()

 

 聞き覚えのある声が、降り落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 プレーローマ。ソフィアを追う立香たちはヒトが肉体を持ったまま立ち入ることできぬ霊魂の領域に足を踏み入れる。

 不思議と、そこにいることに違和感はなかった。サーヴァントであるマシュやジャンヌのみならず、立香でさえもバイタルになんら影響は認められない。

 考えればそれは当然だ。この世界は物質界を離れた魂が還る希望の園。誰かを害する悪意は微塵も存在しない。つまるところ、ここは、

 

「───やさしいせかい、ということですね」

「やさいせいかつじゃなくて?」

「どうやらソフィアより前になんとかしなきゃならないのが二人いるみたいね」

 

 ジャンヌはじとりとなすび頭と赤いアホ毛を睨んだ。素早く脳天をガードする立香に対して、マシュは妙に余裕のあるしたり顔で手を打ち鳴らした。

 

「落ち着いてください、ジャンヌさん。こんな時だからこそ平常心で臨まなくては。先輩を見習ってください」

「豆腐と納豆って字面的に逆じゃない?」

「……このように、先輩は常にデフォの状態でおられます。これぞ全てのマスターが模範にすべき境地です」

「アンタらの平常は異常なのよ!! というかデフォでアホなのを晒してるだけでしょうが!!」

 

 その異常な平常の中に自分自身も含まれていることに関して、ジャンヌは毛頭気付いていなかった。マシュは怒鳴り声を微動だにせずに受け止める。シールダーの貫禄だ。

 

「それはそれとして」

「それはそれとするな」

 

 マシュは顔に深い影を落として、

 

「…………ソフィアに攻撃をしないという作戦、本当にやるつもりなんですね」

「いきなりシリアスにしようとしても遅いんですけど!?」

 

 すぱん、とジャンヌの平手打ちがマシュの後頭部を捉える。

 音は可愛らしくとも、彼女の膂力から繰り出されるその威力には可愛らしさなど微塵もない。マシュは頭を抱えてしゃがみ込み、口をとがらせて文句を言う。

 

「一体何なんですかジャンヌさん。そうまでしてわたしの邪魔をしたいんですか。カルデア歴で言うとわたしは先輩ですよ?」

「いや、それで言ったらそもそもマシュは私より先輩……」

「いえ、先輩はわたしの心の先輩、人生の先輩です。何より後輩属性という強カードを捨てるわけにはいきません」

「アンタに後輩属性があったのとか今思い出したわ。私の目には長らくでっぷり実った邪悪なすびしか見えてなかったから」

「奇遇ですね。わたしもジャンヌさんのことはポンコツ暴力魔女にしか見えていませんので」

「……それ以上不毛なやり取りを続けるようなら帰ってもらってもいいか?」

 

 やや控えめな声が立香たちの耳に届く。三人が咄嗟に顔を向けた方向にソフィアはいた。彼女の傷は綺麗さっぱり修復されており、体のラインが見える程度にほんのり透けた白いローブを肩にかけている。

 

「この世界は物質界と流れる時間が異なる。いつまでもアホを繰り広げても、あちらでは数秒程度だが、居座られる私の身にもなってみろ」

 

 立香はどっしりと構えて言い返す。

 

「そういう訳にはいきません!! 『暗黒の人類史』なんて送り込んできたあなたには色々と恨みがあるんです! どれだけ大変だったか知ってますか!!?」

「もちろん知っているとも。蘆屋道満のアホさ加減は私のお気に入りだったのだが、あいつは良い敵になってくれたか?」

「敵と言えば敵でしたけど、なんかひとりで空回ってる印象しかありませんでした!!」

「なるほど。道化としては満点だが敵対者としては落第点だったか。やはり股間に魔弾を喰らってるような奴は駄目だな。貴重な意見参考になったよ。次は安倍晴明を喚ぶとしよう」

 

 この期に及んで余裕に満ちた反応。ジャンヌは額に青筋を立て、ガチャガチャと剣の鯉口を鳴らす。

 

「次なんてあると思ってるのかしら? どうせ私たちが魔術王をブチのめして世界は元通りになるっていうのに」

「あるさ。私は全てを知ることができる。魔術王が人理焼却を引き起こした手法も、特異点を創り出す方法も。二度目だから改善策も用意してある」

 

 そうだな、とソフィアは口元に手をやり、暫し考え込む。

 

「精々必死に準備させてもらうとするよ。1000年ほど費やしてな。80年そこらで生を終えるお前たちには関係のない話だ。別に構わんだろう?」

 

 あっさりと、知恵の女神は言い切った。

 たとえカルデアが勝利しようと、1000年後の人類もまた焼却してみせると。

 これまでの全てを無に帰すような宣言。立香は怯むことなく、真っ向から言葉を叩き返す。

 

「どうして、人類を滅ぼそうとするんですか」

「良い質問だ。正直に言えばな、私は魔術王が人を救おうが滅ぼそうがどうでもよかった。どちらも人類の終着には違いない」

「ハッ、救うことが終着とか何言ってるんですか?」

「いいや、救済は滅亡と同じ終焉だよ。〝めでたしめでたし〟で終わる本のように、勇者が魔王を倒した後にエンディングテーマが流れるように、完成した世界は剪定される」

 

 ソフィアは語る。

 あの時、あの王が、全く別の選択肢を取っていたら。そんな『もしも』は人の数に星の数を掛けたほど存在し、その選択の差異の積み重ねはやがて新たな世界線を創り出す。

 そうして生まれた世界はまた新たな可能性を増殖させながら、発展あるいは衰退を遂げていく。

 その中には確かにあったはずだ。非の打ち所がないほどに完成された世界が、目を覆うほど悲惨な結果に終わった世界が。

 どちらにせよ、袋小路に至った世界はある時を境に宇宙から切り捨てられる。残されるのは発展性のある未来を持つ世界だけだ。

 

「この世界にクリア後のやりこみ要素なんて無いんだよ。人類を救うという尊い理想は、叶った時既に剪定が決定されている。全ては無駄だ。それに、私はもう疲れた。こんな世界はさっさとエンディングを迎えるべきなんだ」

 

 そして、クリア条件は救済よりも滅亡の方が遥かに容易い。故にソフィアは後者を選ぶ。ただ単純に、簡単だからという理由で。

 ならばお前自身を終わりにしてしまえばいい───脳内の片隅でノアがそう言うのを、立香は頭を振って消し飛ばした。

 代わりに。少女は彼の夢を借り受けて。

 

「それだったら、みんなが根源に辿り着けばいいんじゃないですか」

 

 ソフィアはその意図を察する。知恵の女神は僅かに、しかしくっきりと目を見開いた。

 

「根源は無限の可能性が集まる場所なんですよね。じゃあ、そこに行けば無限の発展性が手に入る。それなら剪定されることはない……はず!! この理屈って合ってる!?」

「詭弁にも聞こえますが、たとえどんなにガバガバでも一定の筋さえ通っていれば、この世界は受け入れてくれるはずです。今まで見てきたサーヴァントが良い例です!!」

「久しぶりに良いこと言ったじゃない。立香の理屈が間違ってようが私は構わないわ。どうせこの身は泡沫のものなんですし」

 

 立香は力強く頷き、ソフィアに手を差し伸べる。

 

「だから、世界を滅ぼすなんてことはやめて、私たちと一緒に行きましょう」

 

 それはまるで。

 悪逆の化身たる竜の魔女に手を伸ばした時のように。

 目指すのは救済でも滅亡でもなく、ただ前に進むということ。

 ソフィアはその手を取りかけて、

 

「……お前たちは見落としをしている」

 

 伸ばした自身の手で、立香のそれを払い除ける。

 

「進むという行為が生み出す汚濁。発展を望み、邁進した果てに人類は一体いくつの不幸を生み出してきたんだ!!」

 

 ───お前たちも見るといい、人類の罪悪を。

 瞬間、立香たちの意識は彼方へ吹き飛んだ。

 それはあたかも現実のように、五感を揺さぶる。

 

〝殺せ。成虫も幼虫も頭の皮を剥いでしまえ。シラミの子はシラミになるからな〟

 

 例えば。既に白旗を掲げた先住民の部族をことごとく皆殺しにした男がいた。彼とその部隊は殺した人間を解体し、記念品のように持ち帰った。

 

〝ユダヤ人こそ我らの敵であり、不幸の原因だ〟

 

 例えば。戦乱と死が世界中に吹き荒んだ時代、殺戮の嵐が人々を襲った。いくつもの罪なき命が慈悲もなく奪われ、その禍根は現代にも深く根を張っている。

 

〝この世全ての悪は魔女によってもたらされている。魔女の増加はいずれ破滅を招く〟

 

 例えば。ヨーロッパ全土に隣人への迫害と暴虐が蔓延した時代があった。一度目をつけられれば、男も女も関係なく不当な拷問にかけられ、反駁の余地もなく殺される。

 呆れるほどに積み重なり、性懲りもなく増えていくヒトの愚かしさ。立香たちはそのほんの一端を、しかし余すことなく体感した。

 その時間は現実にして一秒にも満たない。

 けれど、目の当たりにした悲劇はそれこそ比べ物にならず。

 

「「────っ、ぅ…………!!」」

 

 立香とマシュは膝を折り、こみ上げる嘔吐感を押さえるように口元を覆う。

 唯一、立っていられたのはジャンヌのみ。彼女は真っ白な肌をさらに虚ろな白に染めながら、忌々しげに言った。

 

「……随分と出来のいい悲劇を見せてくれるじゃない。アンタの言いたいことはよく分かったわ。こんなことをする人間が救われていいはずがない……そういうことでしょう」

 

 ソフィアは首を横に振る。

 

「救いを説く者たちはこう言う。〝いつの日か天の国が来たり、信じる者は救われる〟、〝56億7000万年後、弥勒菩薩が衆生を救済する〟……なるほど、いつか人類は救われるんだろう。私たちの想像の余地も及ばないほど遠い未来で」

 

 だが。

 

「その過程で虐げられた人間の悲哀は、不幸は、何も変わりはしない!! なぜなら救いとはいつかの誰かのためではなく、今を苦しむ人々のためにあるものだからだ!!! いつか来る救いのために切り捨てられた現在と過去の不幸な人間は不幸なままに人生を終えろと言うのか!!? そんな残酷な願いがあってたまるか!! それならいっそ、ここで終わった方がまだマシだ! 少なくとも苦しむ人間の数は減るのだからな!! お前たちの言う無限の発展性とやらの裏にあるのは無限の苦痛────永遠に痛み続けることを望む邪悪な願いだろうが!!!」

 

 駄々をこねる稚児のように。

 熱弁を振るう独裁者のように。

 あるいは、祈りを捧げる聖職者のように。

 ソフィアは自らの思いの丈を吐き出した。

 

(ああ、そうか。この人は誰も切り捨てたくなかったんだ)

 

 潤む視界。

 焼ける心臓。

 立香は潰れかけた脳で思う。

 ───きっと、私たちの意見は交わらない。

 前に進もうとする者とここで終わりにしようとする者。たとえどんなに長い時間言葉を交わし合っても、落とし所が最初から失われている以上、理屈での決着はつかない。

 なぜなら、どちらもが間違っていなくて、どちらもが悪くない。

 それならば、ここで諦めて帰って1000年後の誰かにソフィアの相手を任せるか。もしくは、彼女を殴り倒して力で主張を捻じ曲げるか。

 

(そんなこと、したくない)

 

 だって、私は見てしまった。

 体をずたずたに裂かれた、ソフィアの涙を。

 私に、英雄みたいな力はないけれど───ないからこそ、できる限りの精一杯をやり遂げたい。

 生気の抜けた体を強引に起こす。

 絶えたいと切望する意識を揺さぶる。

 

「みんな」

 

 継ぎ接ぎだらけの覚悟で、少女は走り出した。

 

「───力を貸して!!」

 

 その手の甲に令呪の刻印はない。

 なれど、彼女の願いにサーヴァントは何よりも強く応えた。

 

「「もちろんです、マスター!!」」

 

 彼女らはとうに意味のない道を駆け抜ける。

 ソフィアは己の歯を砕かんばかりに、顎を食いしばった。

 

「もういい。もうやめろ。そんなことに意味はない。その足を止めろ────!!!」

 

 知恵の女神は手をかざす。

 永遠の領域を流れる真エーテルに拒絶の意が混ざり、暴風の鉄槌が下される。

 対城宝具にも匹敵する一撃。

 それを受け止めたのは、黒き装束を纏う少女。

 べきり、と骨が折れ肉が潰れる。ジャンヌはその傷など意に介さず、ただ口角を吊り上げた。

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 プレーローマを包む、漆黒の炎嵐。

 世界さえも焼き尽くすと見紛う火炎の噴流はしかし、知恵の女神に向けられることはなかった。

 炎がソフィアの周囲を覆う。

 目くらまし。だがそれは愚策の中の愚策だ。否、策と呼ぶにすら値しない。

 彼女の眼は未来を視る。

 それをもってすれば、誰がいつどこから向かってくるかなんて息をするように読める。知恵の女神は未来の自分に追いつくように振り返り、人差し指を突き出した。

 

「『いまは遥か(ロード)────」

 

 ───実数時間から虚数時間に移行。ダークエネルギーを魔力に置換。

 

「『逆行起源/天地収斂(ネガ・インフレーション)』」

「『─────理想の城(キャメロット)』!!!」

 

 宇宙の寿命を削り取り、放たれた光の奔流。その光のひとかけらも逃すことなく、白亜の聖壁は屹立する。

 絢爛なるキャメロットは使い手の心が折れず穢れぬ限り、無上の加護を与える。余波だけで魂すら焼き尽くされるかのようなその熱量を前にしても、マシュはただ盾を構えた。

 その心に恐れはあった。

 だが、その心に迷いはなかった。

 なぜか、なんて今更答える必要もないけれど。

 自分の背中に護るべき人がいる。それだけで、少女はこの瞬間を無敵足り得た。

 閃光と城壁が同時に消える。攻防の代償───マシュは宝具の反動によって膝をつく。その影から飛び出す立香と知恵の女神は初めて視線を合わせた。

 両者の戦力は蟻と象の喩えすら陳腐と化すほどに差がついている。天地が覆っても変動する余地のない、強者と弱者の立場。

 未来を覗こうとした瞬間、ソフィアは思い至る。

 

(───彼女こそが、救われるべき弱者じゃないのか?)

 

 強者は弱者を踏み潰す。歩道を歩くヒトが、足元の蟻を潰したことにさえ気付くことがないように。あるいは、その悪意をもって微塵に砕き散らす。

 今しがた彼女らに見せた人の業。それを体現しているのは自分だ。

 自覚したその時、知恵の女神は立香を排除する数千億の手段を捨てた。腕を払い、真エーテルの突風を叩きつける。

 

「『魔女の祖(アラディア)』!!」

 

 立香は杖を展開する。しかし、それはコードキャストを行使するためではなく、杖の機能そのものを利用するためだった。

 『魔女の祖』は周囲のマナを動力にコードキャストを発動する。立香は杖に搭載された外界の魔力に干渉する機能を最大限に起動した。

 杖は不可視の風を捻じ曲げ、エーテルの影響を遠ざける。

 しかし、それはあくまで遠ざけるのみ。乱れる風が立香の肌にいくつもの傷をつけていく。

 

「───()()()()()?」

 

 知恵の女神は目を見開いた。

 全ての魔女たちの救世主。その名に、どこかへ仕舞い込んでいた忘れ物を思い出しそうな気がして。

 それは致命的な隙。気を取られた数秒間のうちに、立香は眼前に迫っていた。

 回避も防御も間に合わない。圧倒的な弱者の歩みを目前にして、知恵の女神が取った行動は、

 

「ひ……っ」

 

 人生が変わったあの時みたいに、恐れをなして怯えることだけだった。

 対魔力を貫通するコードキャストは確かに、ソフィアに対しても効果を発揮する。が、聖なる杯たる彼女の肉体から命を奪うまでには至らない。

 『聖なる婚姻』によって調律された彼女の体は女神としての完全性を獲得している。たとえコードキャストが直撃したとしても、蚊に刺される程度だ。

 それなのに。

 足を失った時の、全身を貫かれた時の痛みと苦しみが、知恵の女神を童女のように弱々しくさせていた。

 痛いのも、辛いのも、苦しいのも、もう嫌だ。

 目を閉じて、腕を前に出して、これから来るであろう苦痛に備える。でも、そんな瞬間はいつまで経っても訪れはしなかった。

 代わりに、ふわりと暖かく柔らかな感触が身を包む。

 恐る恐る目を開けると、そこには自信を抱きしめる少女という現実。恐れていた苦痛は、ついぞ現れない。

 

「何を───している」

 

 心の奥底から言葉が抜け出す。

 少女は芯のある声で返した。

 

「私はあなたを傷つけません」

 

 ───だって、痛いのは苦手そうだったから。

 涙を流して踵を返す姿を見て、そう思った。

 

「あなたが人類の酷いところをたくさん見てきたのは分かります。でも、それってひとつの側面でしかなくて……なんて、アレを見せられた後で言うつもりはありません」

 

 それでも。

 

「本当に、あなたの人生は不幸だけに塗り潰されていたんですか。何かを憎むあまりに自分の幸せも忘れていたなら───そんなに、悲しいことはないと思います」

 

 その言葉、沁みるみたいに溶け込んで。

 ヘレネーでもなく。

 ソフィアでもなく。

 ただ、ヘレンは思い出す。

 自らの生を輝かしく、または暖かく彩った二人の人間の記憶を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───その声から、私は逃げた。

 逃げて逃げて、遂には外界をも厭んで、焼け落ちた神殿に潜んでいた。

 30年以上が経ち、隠遁していた私を連れ出したのは以前のみすぼらしい風貌など面影にも残さない男に成長した、シモン・マグスだった。

 

「会わせたい人がいる。引き籠もってないでそろそろ陽の光を浴びても良い頃だろう? ヘレネー。ニートの世話をするのも飽きたところだしな」

「…………一体誰に会えと言うんだ」

「第五代ローマ皇帝ネロ・クラウディウス。私がいま、宮廷魔術師として仕えている人だよ」

「お前は何を言っているんだ」

 

 反駁する手番も与えられずに、私はシモンに引きずられていった。

 曰く、第五代ローマ皇帝はその二つ前の皇帝カリギュラと負けず劣らずのトンデモ皇帝だと言う。ローマ大火の後に贅を尽くした劇場を建築し、そこで自身が主演の舞台を開いているのだとか。ちなみに民は強制的にそれを見なければいけないらしい。

 そこまで聞いて、私は率直な感想を述べた。

 

「聞けば聞くほど馬鹿な男だ。海に宣戦布告したカリギュラもなかなかだったが、ネロもまた月に魅入られたクチか」

「いいや、皇帝は女性だよ」

「……女がどうして、政の頂点にいる?」

「そこは男装をしてごまかしている。それに、我が皇帝は母の策謀によって帝位を授かった。帝位さえ継げれば性別など大した問題ではなかったのさ」

 

 権力欲。人間が持つ欲の中でも、最も低俗で醜い欲求のひとつだ。言わば、ネロ・クラウディウスは母の欲によって生まれた傀儡と言ったところか。

 多少の同情はある。強者の地位についていようと、彼女もまた他人の都合で切り捨てられた人間。その顔を見てみたいと、ほんの少し興味が湧いた。

 首都ローマ。顔パスで歩いていくシモンの後に続いて宮殿を進む。その玉座には、

 

「おお、そなたがシモンが言っていた美女か!! 是非余の後宮に入らぬか!?」

 

 男装の麗人、と言うにはあまりにも露出の多い格好をした変人皇帝がいた。

 胸元を大きくさらけ出し、股の部分が透けた赤いドレス。正直、センスで言うならアシェラ神殿の娼婦が仕事時に着る衣装と全く変わらない。

 私はシモンの腰に拳をねじ込んだ。

 

「……おい、何だアレは。後宮の情婦が気が狂って皇帝のフリをしていると言われた方がまだ納得できる」

「破天荒なお方だろう? 我が皇帝に普通の価値観は通用しない」

「シモン、余はその者の顔をもっと近くで見たい! 皇帝と同じ目線に立つことを許すぞ!!」

「だそうだ。行ってその顔を味わわせて差し上げろ」

「私に命令するな、クソ弟子」

 

 呆れつつ、玉座の皇帝へと歩み寄る。すると、ネロは腰を浮かせてずいと顔を寄せてきた。

 金糸を束ねたような麗しい髪。透き通る緑色の瞳。シミひとつない白い肌。無言でそれを眺めていると、同じく無言を保っていた皇帝は勢い良く喋り出す。

 

「……ハッ!! 余としたことが、思わず目を奪われていた! よもやそなた、ウェヌスの写し身ではあるまいな!?」

 

 彼女は無邪気に目を輝かせる。

 走ることが好きだった、あの日の私みたいに。

 私は皇帝の輪郭に手を添え、囁いた。

 

「いいえ。真にウェヌスの加護を授かっておられるのは貴女の方にございます。とても……可愛らしいお顔ですよ」

 

 ネロはほのかに頬を染め、口をとがらせる。

 

「む、むう。美しいと評されるのは慣れておるが、可愛らしいなどと言われたのは敬愛する我が叔父以来だ。なんというか、むず痒いぞ」

「二人きりの閨の上でなら何度でも囁きましょう。ですが、貴女にそれを言うのは貴女にとっての善き奏者(ひと)のみ。私には荷が勝ちすぎます」

「くっ、そのような涼しげな風貌で熱い言葉を……!! ますます欲しくなってきた! 名を何と呼べばよい!?」

「ヘレネーでもソフィアでも、お好きなように。貴女は私の名を恣にすればよいのです」

 

 すると、皇帝は何らかのボルテージが限界に達したのか、全身で興奮を表現しながら宣言した。

 

「ヘレネー。今宵、余の劇場にとびっきりの特等席を用意する! 我が舞台をかぶりつきで鑑賞するがよいぞ!!」

「ええ、そうさせていただきます」

「そうとなったら早速準備だ! 今日の公務は全面的に打ち切りとし、官民総出で劇を仕上げるぞ! シモン、そなたも手伝ってくれ!!」

「御身の意のままに。いつも通り、空間を拡張して全ローマ市民が劇を観覧できるよう手配いたします」

 

 皇帝はステップでも踏むかのような足取りでどこかへ飛んでいった。シモンは相変わらず癪に障る笑みを浮かべて、

 

「まさか、君があんなことを言ってみせるとは。お姉様がたに教わったのか?」

「少しからかっただけだ。お前こそ、どうして彼女に仕えている」

「最初は取り入ろうとしたのだが、逆にこちらが魅了されてしまった。あの奔放さこそが十字架の祈りに対抗する最大の嚆矢だ」

「……彼女にあの名を背負わせるつもりか」

 

 シモンは首肯する。

 

「────バビロンの大淫婦。それに相応しいのは人類史においてただひとり、ネロ・クラウディウスのみだ」

 

 …………そして、夜。月明かりの下で、劇は幕を開けた。

 ローマじゅうの市民がすし詰めになった劇場の観覧席。彼らは虚ろな目で席に寄りかかっていた。中にはうつらうつらと微睡んでいる者もいる。

 私はというと。舞台全体を見渡すことができる最上階ど真ん中で、皇帝のひとり芝居を眺めていた。

 

「女神アフロディーテよ。貴女こそが最も美しい」

 

 演目は王子パリスとヘレネーの物語。

 数々の英雄がしのぎを削り合い、散っていったトロイア戦争の原因。皇帝は自らパリスの役を演じ、破滅へと転がり落ちていく物語を紡ぐ。

 舞台の上で躍る皇帝は完全にその役に埋没していた。余計なものを忘れて熱中するその姿はやはり、あの頃の私のようで。

 それが、羨ましかった。

 …………いや、まあ、舞台に上がるのがパリスひとりで、ヘクトールもアキレウスもセリフでしか存在を確認できないのはどうかと思うが。技量があるならまだしも、彼女のそれはひとり芝居の自己満足である。確かにこれは人によっては拷問だ。

 

「どうだ、ソフィア。いいやヘレネー。我が王の芝居は?」

「出来に文句はあるが、面白い。腹がよじれそうだ」

「……ならば顔に出してやれ。その方が王も喜ぶ」

「心の中では抱腹絶倒しているんだがな」

「引きこもりすぎて表情筋が言うことを聞かないだけだろう?」

 

 シモンの向こう脛を蹴りつける。

 アキレウスの踵を射止める佳境を終え、劇は終幕へ向かっていた。

 英雄パリスの最期。それはギリシャ神話最強最大の英雄ヘラクレスの弓矢を持つ弓手、ピロクテテスの一射によって命を落とすというものだった。

 

「数多の兵を殺し、兄の死を招き、故郷を滅ぼした。私の生は拭い難い罪業に塗れている」

 

 ヒュドラの猛毒を受け、もつれる足取り。

 

「ああ、だが、それでも」

 

 パリスは───皇帝は目を細め、一筋の涙を頬に伝わせて、私を見据えていた。

 

「最期に想うのは君のことだ……ヘレネー」

 

 差し伸べる手は私に捧げられる。

 それで、不覚にも思ってしまった。

 美しい。彼女の鮮烈な魂の輝きが、その裏で暗く灯る悲哀の嘆きが。

 それ以来、私は彼女の劇に毎回足を運ぶようになった。皇帝として失脚し、自らの喉に刃を突き立てるその日まで。

 助けることはできたかもしれない。向かう敵を焼き払い、どこか遠くの地へと逃げされば。

 だけど、皇帝はその末路を自身の手で決したのだ。

 ネロ・クラウディウスは必ずしも自由奔放な皇帝ではなかった。権力欲に取り憑かれた母親と老獪な元老院に雁字搦めにされた挙句、死の尊厳までをも奪うことはできなかった。

 三度、落陽を迎えても。

 彼女の輝きは、私が覚えている。

 

 

 

「───貴様の祈りでヒトが救えるのと言うのならば、今すぐ此処に証明してみせろ!! 偽神の徒め!!!」

「───神を試してはならない。故におまえを滅ぼすのは我が神の手ではなく、我が信仰の結実だ……!!!」

 

 

 

 皇帝が滅び、あいつもこの世を去った。

 第一の使徒シモン・ペテロと魔術師シモン・マグス。

 二人のシモンの戦いは書物に記されている通りに終結した。ペテロの祈りが起こした奇跡が涜神の徒である魔術師を墜落せしめて。

 ただひとつ、異なる点は…………いや、あんなクソ弟子のことなどどうでも良いだろう。敵に勝利するためならばどんな手も使うべきだ。私に頼る選択肢を選ばなかったあいつに言うことなんてひとつもない。クソ弟子は最期の最期までクソ弟子だったのだ。

 それからというもの。十字架の信徒への迫害がローマ帝国の手で行われた。

 草の根を分けてでも殺す───そこまでローマ市民の感情が激化した時期は少ないが、それでも殉教の精神を示す信徒たちの処刑は長らくローマの都市風景を彩る娯楽と成り果てていた。

 ───醜い。醜い。醜い。

 人の死をせせら笑うその顔が、他人の不幸で自らを慰める性根が。

 最初は迫害される側だった十字架の信徒たちが未来で、他者を切り捨てる人間の集団へ変わってしまうことが、何よりも醜かった。

 それを見るのももう飽きた。いっそ、誰の手も届かない場所へ逃げてしまおうか。そんなことを考えながら、当て所なく放浪していると、荒れ果てた山奥で、瓦礫の山と悪戦苦闘する少女を見つけた。

 積み重なった残骸。その中からかろうじて、それが十字架を掲げる教会であった面影を読み取れる。

 少女は小さな手で一際大きい瓦礫をひっくり返そうとしていた。

 

「ふんんぎぎぎぎぎぎ…………!!!」

 

 無論、普通の人間の、しかも子どもがそれを動かすことはできず。私は周囲の魔力に手を加え、瓦礫を宙に浮かせて退けてやった。

 がばりと少女はこちらへ振り返る。

 

「もしや、あなたは魔法使いですか……!!?」

「まあ、そんなようなものだ。こんなところで何をしていた」

「家が壊されてしまったので、建て直そうかと!!」

「なるほど、お前はアホだな?」

 

 少女はむっと眉をひそめた。

 

「アホとは失礼な言い草ですね。魔法使いならこんな家くらいささっと直してくれるんじゃないんですか?」

「厚かましいやつめ。私が魔法使いでなく悪い狼だったらどうするつもりだ?」

「……はっ! まさか私を取って食おうと!?」

「残念だったな、私は悪い狼ではなく悪い魔法使いだ。後ろを見てみろ」

 

 私は少女の背後を指差す。彼女が振り向いた先には、在りし日の姿を取り戻した教会が建っていた。少女はそのアホ面をさらに間抜けにして、

 

「……そ、その。とびっきりおいしいごはん作るんで勘弁してくれませんか」

「そうか。私は魚醤(ガルム)に漬けた海老が好みでな。床下から取ってくると良い」

「なんで我が家の台所事情まで知ってるんですか!?」

「何でも知ることができるからな、私は。もちろん、お前の事情も」

 

 そう言うと、少女は固まった。

 彼女の両親は病を患い、しかしあの男の手によって治療を受け、唯一神を戴く信徒となった。

 この時代は唯一神を崇める者への迫害が吹き荒れた。少女の家族も例外ではなく、隠れ棲む仲間のために営んでいた教会はローマの手によってその命とともに打ち崩された。両親が心血を注いで逃がした彼女を除いて。

 この少女もまた、強者が切り捨てた弱者のひとり。私はその眼を覗き込み、囁くように問う。

 

「私はお前に力を与えることができる。望みを言え、叶える術を教えてやる」

 

 私は知恵の女神として振る舞った。

 あのクソ弟子を拾ってやった時のように。

 少女はむむむと唸り、笑顔を輝かせて答える。

 

「それじゃあ、料理の仕方を教えてください! あなたに恩返しがしたいので!!」

「お前は、本当にアホだな」

 

 適当な知識を引き出して、料理の仕方というものを教えてやる。私自身、台所に立ったことがあるのはお姉様がたに軽食を振る舞うのと、仕方なくクソ弟子に作ってやった程度だが、何とか取り繕うことができた。

 料理人たちがひた隠しにする秘伝のレシピ、卓越した技術も全て筒抜け。どんな味音痴も料理の鉄人に早変わりだ。

 日が傾きかけた頃。私たちは豪華な食卓を挟んで向かい合っていた。

 

「あなたの名前を聞いても良いですか」

「ソフィア。ヘレネー。どちらでも構わない」

「二つも名前があるんですね。そんな人初めてです」

「二つとは限らないがな」

 

 そろそろこのやり取りも面倒になってきた。名が多いというのも不便なものだ。

 

「ええと、私の名前は」

「知っている。名乗る必要はない。どうせ明日には別れる関係だ」

「え……こんな私ひとりを置いて他のところに行くとか鬼ですか……!?」

「…………お前が独り立ちできるまでだ。それまでは見守ってやる」

 

 そこから先は、目まぐるしく時間が経っていった。

 

「……ということで、イアソンはアルゴー船の下敷きになって死んだ。めでたしめでたし」

「全然めでたくないんですけど!!? もっと救いのある話をしてください!!」

「注文の多いやつだな。ならば超大作を語ってやる。遠い昔、遥か彼方の銀河系で───」

「未来の物語を持ち出すのは反則じゃありません!?」

 

 眠れないというから寝物語を語ってやったり。流石に映画六本分の内容を語るのはくたびれた。

 

「いいか、周りの人間は全員化けの皮を被った悪魔だと思え。一瞬で食い物にされるぞ」

「そう言いながら買い食いしまくってるのは誰ですか。食い物で食い物にされてるじゃないですか」

「錬金術を使えば貨幣なんていくらでも量産できる。食い物にしているのは私だ」

「ちょっと兵隊さん呼んできます」

 

 街で遊びたいと言うから付き合ってやったり。

 

「恋ってしたことあります?」

「ない。どのようなものか知識で知ってはいるし、商売のそれならお姉様がたに教わったがな」

「なるほど、つまりむっつりなんですね」

「ぶっ飛ばすぞ」

 

 知らぬ間に色付き始めたり。明日にはここを発つと思いつつ、彼女と暮らす生活は陽だまりの下にいるみたいに暖かで、いつの間にか長い時が経過していた。

 昼食の最中。私は信じられない言葉を聞いた。

 

「あ、私結婚します」

「そうか。相手の男を連れて来い。お前に相応しいかどうか殴り飛ばしてから決めてやる」

「前提がおかしいんですけど」

 

 彼女は私が羨望を抱くとことすら諦めるくらいに普通の人間だった。

 家族を失い、三日三晩蹲って泣き続けて、けれど前に踏み出す一歩を怯えながらも積み重ねることができる人間だった。

 だから、彼女が選んだ伴侶も呆れるくらいに普通の人間で。

 子を成し、くだらない喧嘩もあったけれど、確かに幸福な人生を歩んでいた。

 

「……お前の人生は幸せだったか?」

 

 寝台に横たわる彼女に話しかける。

 かつての少女はしわくちゃの顔をゆったりと微笑ませた。

 

「ええ、とても。あなたと出会ってからずっと、毎日が楽しかった」

「本当に、最期を看取るのが私で良いのか」

「もちろん。あなたの方こそ、私といて幸せだった?」

「……ああ。痛くも苦しくもないのは初めてだったよ」

「良かった。……ねえ、最期にお願い。あなたの名前を、教えてくれる?」

 

 私は細く枯れた指を絡めて、耳元に唇を寄せる。

 

「ヘレン。それが、私の名前だ」

 

 とっくのとうに力なんてないはずの体を起こして、私の体を抱く。

 人は醜い。どうしようもないくらい。でも、それはあくまで人類の性質の一部だ。これまでに積み上げ、これから積み上げる業の前では、一部でしかないと切り捨てることなんてできはしないが───この優しさと暖かさは、人が持つ輝きだ。

 もう、私には人間が分からない。目を覆う残酷さを持つ人類が、こんな感情を抱かせるのだから。

 

「この世はどうにもならないことばかりだけれど」

 

 確かなことはふたつある。

 ひとつ、彼女は美しくて。

 

「私たちを、見捨てないでね。ヘレン」

 

 私は、ずっと、誰かにこうされたかった。

 名前を呼ばれたかった。

 優しく抱き締められたかった。

 それを遠ざけてきたのは他でもない自分自身だ。他者を切り捨ててきたのは他でもない私だ。

 みんながハッピーエンドを迎える結末なんてありはしない。世界を救う勇者に殺される魔物にもそれぞれの事情があって、全を救うためには一を切り捨てるしかない。

 故に、私はあの時決めた。

 決めたはずだったのだ。

 全を救うために取りこぼされた一の人々をこそ、私は抱きしめてみせると。

 私にできたのは、先の未来で見捨てられるであろう人々へ向けた福音を残すこと。

 魔女宗(ウィッカ)という拠り所と、その信仰の根源。それを魔術基盤として刻みつけることだった。

 ───それなるは全ての魔女たちの救世主。男も女も老人も子どもも、切り捨てられたあらゆる人間に寄り添う女神。

 魔女たる私に幸福を与えてくれた少女にちなんで、その救世主をこう名付けた。

 

「私は、ずっと見ているよ。───アラディア」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───どうして、こんな大切なことを忘れていたのか。

 私を抱き締める少女は告げる。

 

「あなたがもし、人の醜さに押し潰されて、疲れて歩けないのなら」

 

 私が、背負って歩いていきます。

 アラディアに似た声音で、そう言った。

 

「私なんかに、そこまでする価値はない」

「その価値は私が決めます。世界を救うEチームのマスターなんですから、女の子ひとり背負うくらい全く辛くありません」

 

 思えば、彼女もまた誰もが笑い合える光景を目指していた。

 

〝……さようなら。私が夢見た理想の世界には────〟

 

 私のように、一をも切り捨てられずに。

 

〝───あなたの姿もありました〟

 

 カルデアの大半の人間を殺してみせた男に対しても、この少女は甘すぎる理想を語っていたのだ。

 彼女は、彼女たちは普通の人間だ。ひとりで怪物を倒す力はなく、英雄たちのような特異性もありはしない。

 でも、今のこの世界は。

 そんな普通の人間たちが苦しい現状にも面を伏せずに前に進んできたからこそ、あるものなんだ。全ての人を救う英雄なんて、どこにもありはしないから。

 そして、きっとそれが彼女たちの美しさ。

 私はそれから目を背け続けてきた。

 

「私のそばにいてください。これからたくさん、私が幸せな景色を見せてあげます。前に進むための力をいっぱい与えてあげます」

 

 私は彼女を抱き返して、

 

「……まず、訂正するなら。私は女の子なんて歳じゃないし、それほどの大口を叩くというのなら」

 

 肉体を昇華し、少女の影に溶け込む。

 

「───好いた男のひとりくらい、射止めてから言ってみせろ」

 

 沸騰したみたいに真っ赤になる顔を見て、私は微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 物質界。自爆を果たしたウルク・フリングホルニは無数の残骸と化して、母なる獣とともに冥界へ堕ちていく。

 太陽神ケツァル・コアトルは地下へ飛び込みながら、己が眷属を呼び出した。

 

「『翼ある蛇(ケツァル・コアトル)』!!」

 

 白亜期末の翼竜ケツァルコアトルス。太古の生物は自由落下するノアたちを掬い上げ、その背に乗せる。

 

「───ここでティアマトを仕留める! おまえらは死んでも俺を護り抜け!!」

「ええ、任せてくださいノアさん。このダンテ・アリギエーリめが必ずティアマトのもとへ送り届けて差し上げましょう」

「……なんか、お前いつもと違くねえか? ここは涙と鼻水撒き散らしながら怯えるところだろ」

「ふふふ……甘いですねペレアスさん。私は全てを諦めたのですよ!! というか、ぶっちゃけて言うとこれ絶対死にません!?」

「ペレアス、そいつ蹴り落とせ。ティアマトのエサくらいにはなんだろ」

「よし任せろ」

 

 翼竜の背で不毛なやり取りを繰り広げるアホたち。ティアマトは容赦なく大口を開けて、魔力を込めた咆哮を解き放つ。

 サクラがかつて見せた反物質の対消滅をゆうにふた回りは上回る威力。その砲撃は真っ直ぐに突き進み─────

 

「「『魔女の祖(アラディア)』────!!!」」

 

 ─────寸前で急激に方向を変じ、天空を貫いた。

 ぐにゃりと開いた空間。プレーローマの風景が覗く穴から、立香たちが飛び出してくる。

 知恵の女神は立香とともに杖に手を添えていた。が、その姿は指先から金色の粒子となって消えていく。

 

「ティアマトの一撃を防ぐだけで物質界での肉体を維持する魔力さえ解けたか。まあ、お前の魔力量ではこの程度だろうな。後はお前たちがやれ」

「十分です!! 」

「……あの、Eチームのメイン盾である役割が消える予感がしてならないのですが」

「アンタの出番が消えるくらいで世界が消えるのを防げるなら上出来じゃない!!」

 

 立香は空より落ちながら、ノアへ叫んだ。

 

「リーダー、受け止めてください!!」

 

 ノアはすかさず両腕で少女の体をキャッチする。彼は立香の無事を確認すると、雑に襟を掴んで隣に立たせる。

 

「色々と聞きたいことはあるが、今はそんな場合じゃねえ。やることは分かってるな?」

「はい! 倒しましょう───Eチームのみんなで!!」

 

 事此処に至り、構図は単純明快。

 ヒトは、母たる獣を切り捨てる。

 神と英雄と人間は、終末の獣を臨んだ。




・ソフィアのステータス
真名︰ヘレン
性別︰女性
誕生年︰西暦15年9月8日
魔術系統︰なし。根源から術式を抽出することであらゆる魔術を使用できる。
魔術属性︰水、地、空(元々の属性は空単体。水と地の属性は『聖なる婚姻』によって女神、とりわけ地母神の性質を付け足されたために増えた)
魔術特性︰これもなし。強いて言うなら根源との『接続』、知識の『抽出』、魔術の『転写』という特性。
魔術回路・質︰EX
魔術回路・量︰EX
魔術回路・編成︰異常(他に類する事例なし。しかし、聖母マリアの身体構造と『一部』が類似している)

 普通の羊飼いの夫婦から産まれた、ただのヘレン。イシュタル・アシェラ神殿の神聖娼婦が行っていた儀式魔術『聖なる婚姻』の最高傑作。完全な根源接続者となることもできたが、根源から知識だけを引き出す能力に留まっている(完成するつもりもない)。
 魔術回路の質がEXなのはただ単純に最良や至高という枠を飛び越えた質を有しているという意味。量に関しては臓器が超一級の魔力炉心でもある聖杯の性質を得ているため。後者は手が加わった結果でもあるが、前者と未来視に関しては完全なる才能。シエル先輩と同じような突然変異である。
 未来視の精度を極限まで上げることで直死の魔眼と酷似した現象を引き起こすことができるが、本人によると〝あんな眼と脳を持たされるとか拷問か?〟とのことなので、使ったのはたった一度きりである。
 娼館の一番娘ヘレネー、知恵の女神ソフィアなどの名前があり、本名を加えて古き女神の三相一体を表す。本人的に気に入っているのは本名のヘレンだけ。本編でソフィアと名乗る時は知恵の女神として演技をしている時になる。
 基本的にできないことはほとんどない。しないことはあるが。ただし、全ての弱者・敗者に寄り添う性から、自分も誰かに完全に勝ち切ることができない性質を抱えている。そして、彼女は意識せずとも『全員が負ける結果』を望む。この世界には常に勝者と敗者が存在するが、人類が『全員が勝者になれる未来』に蟻の歩幅でにじり寄っているのに対して、ソフィアは『みんな敗者になって傷を舐め合おう』という精神。神ですら切り捨てた人間は存在するが、彼女はそんな人たちをこそ救いたいと願った。
 アラディアは魔女の救世主であるが、魔女狩りの時代に処刑された人の中には男性もいた。故にアラディアが救うのは老若男女すべての切り捨てられた人間であり、彼女にとって魔女とはその人たちを指す。原初の魔女とはアラディアに救われた最初の魔女ということ。
 神秘が衰退する時代にあってもなお、女神として君臨できる可能性を与えられていたが、ヘレンはそこまで精神が強くもなければ普通の人間でいられるほど弱くもなかった。その結果として、名も無き少女の一生を看取った記憶を自ら消してプレーローマに雲隠れした。ちなみに9月8日は伝統的に聖母マリアの誕生日とされている。
 本気で戦闘する場合は自らの知識を魔導書のカタチにして、詠唱を代行させる。普段使いするのは『天の理』、『地の理』、『人の理』。敵の強さに合わせて禁書指定『神の理』を解放する。また、これらの魔導書は莫大な情報でソフィアの脳がパンクすることを防ぐための外付けハードディスクでもある。使用する魔術に応じて一時的にテクスチャを貼り替える儀式場を展開するが、これは魔術の効果を高めたり、自身を強化したり、有利な戦場を造り出すためのモノであって必須ではない。儀式場の数は全部で44。タロットカードの大アルカナ0〜21の22枚とそれぞれの逆位置を含んだ数である。さらに、それぞれに四つの小アルカナの要素を加えて性質を調整できる。
 儀式場の中でも特別なのが、第1儀式場『魔女の饗宴』とその逆位置である第23儀式場。タロットカードでは魔術師のアルカナ。これらはソフィアの魔女としての能力が最も強化される場所となる。
 以下、ソフィアの『暗黒の人類史』への評価。
 ロベスピエール→己の理想のために数多の人間を排した殺戮者であり、最期には自身もギロチンにかけられた敗者。時代が生み出した怪物。自ら悪逆を背負う姿勢に共感を得ていた。
 ダンテ→詩だけを書いていればよかったものを、人の悪意によって居場所を追放された可哀想なやつ。イタリアの言語統一の礎となったことは、神秘を用いず神に与えられたバベルの塔の試練を打ち破ったとして羨望と劣等感を抱いている。お気に入り枠その一。
 コロンブス→こいつだけ敗北者じゃなくね? ……というのは別として、彼の功業は欧州に絶大な恩恵をもたらしたが、反面深すぎる影を落とした。晩年、その栄光から見放されたことは敗者と表現できるかもしれないが、本人は全くその気はなかっただろう。最も『暗黒の人類史』に相応しい英霊。己が利益のために他の全てを踏み躙る在り方こそが人類の歴史の縮図と考えている。
(第三特異点のここの枠はノアとの北欧繋がりかつ、船旅も得意そうなラグナル・ロズブロークも考えていた。公式で出てきたので登場させなくて良かった。危なかった)
 オティヌス→ワイルドハントの恐怖の象徴に歪められたオーディン。異教の神を悪に貶めるキリスト教の罪業。アルトリアの人生については同情しかない。第四特異点のまさしく台風の目となった。
 虹蛇→非道な扱いを受け、虐殺された新大陸の人々の怨嗟と怒りの象徴。ソフィアのお気に入り枠その二。あまり詳細に書くと暗くなりすぎるので端的に書くと、やっぱり人間ってクソだなと思わされた大きい要因のひとつ。
 ラモラック→なにこの……なに? 組織にありながら好き勝手生きるのは人間の理想であり悪いところでもあるが、こいつの場合は突き抜けすぎている。そして我を通せるくらい強いのが余計にたちが悪い。が、その生き様はとても羨ましかった。
(当初のこの枠はベイリンだった。が、好きな円卓の騎士スリートップのペレアス、ベイリン、ラモラックがどうしても書きたかったのでベイリンがはぐれサーヴァントにスライドした)
 蘆屋道満→彼が何の敗者であるかは語るに及ばず。お気に入り枠その三。性格が終わっているのも、晴明へのねちっこい感情
も全てが見ていて愉悦。自分のどうしようもなさと救世主への感情を重ねている。平行世界の道満も視聴済みなくらいには鬱屈したファン。


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第78話 ヒトは回帰を超え、終局へと/落陽を告げる晩鐘は喝采に沈む

 ───ティアマトは、狂気に微睡んでいた。

 永き眠りから目覚め、メソポタミアの大地を己が泥で埋め尽くしてもなお飽き足らぬ衝動。激流の如きその疼きを、創世母神はガラス一枚を隔てた壁の向こうで眺める。

 ヒトがそうであるように。

 神もまた、二律背反の両面性を持つ。

 全ての生命の根源であり、あらゆるモノを慈しみ抱き締める母の相。

 単騎にて人類史を相手取り、不可逆の滅亡をもたらす獣の相。

 そのどちらもがティアマトの偽りなき真実。誰の目にも明らかな矛盾を恥じることなく体現する在り方こそが地母神たるティアマトの本性であった。

 人類の歴史を喰らうビーストⅡ。回帰の理を担う獣はただ、その獣性のままに振る舞う。たとえ偽りの造物主と知恵の女神の思惑通りだったとしても、それは母の背に乗る子どものようなもの。毛程の煩わしさも抱かせる要因にはならない。

 ───しかし。

 その巨躯は冥界の奈落へと堕ちていく。

 

「ここは不帰の国。神も王も民も、分け隔てなく名も無き影へと還る無常の都。アナタ、例外ではないのだわ」

 

 冥界の女主人、エレシュキガル。

 生を司るティアマトとは真逆。死を本領とする女神の全権能が、母へと牙を剥いた。

 

「少し遅めの反抗期よ───『霊峰踏抱く冥府の鞴(クル・キガル・イルカルラ)』!!!」

 

 雷轟。ただしそれは天より堕ちる光ではなく、地より天へ伸びる神雷であった。灼熱の閃光が幾本もの槍と化し、ティアマトの全身を射抜く。

 母神が地の底に激突するまでの十数秒間。奈落の常闇は雷撃によって隙間なく照らし出された。

 許可なき者が立ち入ることを見逃さぬ冥界の機構。瞬間を追うごとに激しく苛烈に瞬く灼雷の雨が、ティアマトの自己修復速度を超えて襲い掛かる。

 血を蒸発させ、肉を焦がし、骨を焼く。

 刹那、母なる獣は初めて抱いた。人が耳元を飛び交う羽虫に向ける程度の煩わしさを。

 人なら手を払うか頭を振るか。なれど、彼女は母なる海の化身。鬱陶しい羽虫は押し流してしまうに限る───────

 

「『悠か妙なる幻氷塔(トゥール・デ・ダーム・デュ・ラック)』」

「『其は太陽を喰らいし牙(ヨワリ・エエカトル)』!!」

「『永久に閉ざされた理想郷(ガーデン・オブ・アヴァロン)』」

 

 ────だが、その思惑が成されることはなかった。

 冥界の大地が雪に覆われ。

 漆黒の闇が天を閉ざし。

 滴る混沌の泥が花と散っていく。

 それなるはエレイン、テペヨロトル、マーリンの手による三重の異界法則の展開。冥界神の名の元に、本来相反するはずの異界はあり得ぬ共存を果たしていた。

 エレインは氷塔を起動する。凍てつく魔力が励起し、周囲の温度を急激に低下させる。

 

「さて、レイドバトルといきましょう。万年ニート暮らしのマーリンも珍しくやる気があるようだし」

「うん、キミも気合い十分なのは良いことなんだが……」

「……何か言いたいことでもあるのかしら?」

「いいや、言うより見た方が早いかな」

 

 マーリンはエレインの足元をつつくように指差す。素直に視線を下げた先には、芋虫みたいに丸まりながら痙攣するテペヨロトルの姿があった。

 

「さ、寒い……寒すぎる。このままでは冥界が世にも珍しいサーヴァントの氷像が立ち並ぶさっぽろ雪まつりと化してしまう……!!」

「猫は寒がりと言うじゃない。このトンチキキャットがどうしたの」

「フッフッフ……やはり湖の乙女最大のドジっ娘はキミのようだ。今のキミは本体であることを忘れていないかい? 術の完成度と出力は写し身とは比べ物にならない」

「……あっ」

 

 サーヴァントとは英霊をクラスに当てはめた写し身。本来いくつもの側面を持つ存在をひとつの面に切り離すことで成り立つ術式だ。それ故、サーヴァントと英霊本体の実力は等しくはならない。無論、生前は魔術を毛程も扱えなかったダンテのような例外もあるが。

 エレインの異界は雪と氷の世界。本体が扱うそれは慣らしの段階で既に極低温へと向かっていた。

 ティアマトに続き、冥界の底を目指すEチーム。彼らが騎乗する太古の翼竜ケツアルコアトルスの羽ばたきが鈍くなる。隕石衝突の影響で絶滅した恐竜にとって、エレインの異界はすこぶる相性が悪いのだ。

 ダンテはふらつく翼竜の首元に全身でしがみつきながら、背後の仲間に迫真の顔を向ける。

 

「何をしているんですか皆さん!? 私が身を挺して彼を温めているというのに!! 恐竜は爬虫類の仲間……変温動物なので寒さに弱いんですよ!?」

「お前はただそうしてないとバランス取れないだけだろ」

「そもそも恐竜が全員変温動物なんてのは古い考え方なんだよ。俺がモンゴルの化石盗掘市場で贋作流しまくって荒稼ぎした時なんて────」

「リーダー、人理修復したらまず警察に行きましょう」

 

 と言いつつも、寒さに辟易しているのは彼らも同じ。だが、ティアマト相手に氷塔の出力を制限することもできない。全力を尽してもなお及ばぬ敵に手加減をするなど、愚策ですらない行為だ。

 この場で最も薄着なマシュは体を震わせることも諦めて、死んだ魚みたいな目をする。

 

「……ギャラハッドさんはなぜわたしにこんな格好をさせたのでしょうか。ふつふつと怒りが湧いてきました」

「ギャラハッドさんもマシュと一緒の服装だったんじゃない?」

「立香ちゃん、あいつはまともな格好だったしランスロットと違って真面目だったからな?」

「そこの冷凍なすび、私が焼いてあげても良いんだけど。気の利いた魔術でどうにかならないわけ?」

 

 ジャンヌはじとりとした視線をノアに突き刺す。彼が手中にルーンの明かりを灯したその時、冥界にエレシュキガルの声が響き渡る。

 

「いいえ、その必要はないのだわ。若干名とっても癪なのだけれど───アナタたちに冥界ファストパスを進呈してあげる!!」

 

 この地の底は許可なき者が立ち入ることを許さない。ティアマトがそうであったように、冥界の機構は異物を除去するため苛烈に働く。

 しかし、エレシュキガルが味方に与えたのは冥界における行動権。言うなれば、冥界神の加護であった。今や三重の異界を内包する世界の女神の加護は、極低温に近づきつつあるこの領域での生存を保障する。

 イシュタルは空中からエレシュキガルを見据え、誰にも届かぬ言葉をこぼす。

 

「……そう。見上げた覚悟ね」

 

 テペヨロトルはがばりと跳ね起き、黒曜石の矛を掲げた。

 

「よおっしゃあああああああ!! 完・全・復・活!!! ククるんとサクラに散々コケにされた恨み、ティアマトをボコって晴らしてやるぜェ!!」

フォウフォフォウ(動機が卑屈すぎる)

「円卓の騎士たちにもこんな下っ端根性があったらなあ」

「この歪みっぷりはなかなか近しいけれど……」

 

 テペヨロトルはエレインの呟きを背に、ティアマトへと突撃する。

 雪の花園を駆け抜ける黒い影。ウルクの大地と同等の質量を得たテペヨロトルの踏み込みが地響きとなって冥界を揺らす。

 一瞬が悠長にも思える速度。衝撃波とともに走り抜け、黒曜石の刃が閃く。

 

「ニ゙ャアアアアアアアア!!?」

 

 ───寸前、テペヨロトルは目にも留まらぬ勢いで弾き出された。黒き体躯が色とりどりの雪の園を何度もバウンドし、氷塔に衝突してようやく止まる。

 絶え間なく降り注ぐ雷雨の向こう。巨大な母神の右手が、氷雪が昇華した水蒸気の幕を引き裂いていた。

 まさしく蚊を払うかのような一撃。たったそれだけでティアマトはテペヨロトルの極大の質量を弾いてみせたのだ。

 その一撃が示す事実は単純にして明快だ。

 母なる獣は冥界の攻撃機構に順応した。エレシュキガルの権能を無効化するでもなく、ただ自身の肉体の変化を以って。

 獣が湛える神気が破裂し、その御形を顕す直前、蒼き極光が解き放たれる。

 

「ロンゴミニアド!!」

 

 最果ての槍ロンゴミニアドを魔術として再現した、光の奔流。悠久の時を重ねた湖の乙女の全霊は過たず、母神の象徴たる左角を切り離した。

 既にケツァル・コアトルとテペヨロトル、レオニダスによって傷ついていたとはいえ、ティアマトを表す部位の片割れを奪い去る戦果。が、エレインは表情を崩すことなく、唇を切り結ぶ。

 

「……まずいわね」

 

 雷撃が砕ける。

 水蒸気が拡散する。

 露わになる巨躯。それはヒトのカタチから、より原初の生命に近付いていた。

 およそ二億年前。遥かソラより滅びの星が落ちるその時まで、地球上において植物に次いで最も繁栄した生物種。

 すなわち竜。ティアマトは太古の生命体へ回帰し、竜体を形作っていた。

 灼熱の雷電が鱗に覆われた体表を流れ、地面に伝導する。侵入者を否定する権能はもはや、母なる獣を輝かしく彩る装飾と成り果てる。

 

「『ティアマト、新たな形態に移行!! 内包魔力量、霊基規模、神秘の古さ、なんかもうとにかく色々とんでもないことになってるぞ!!?』」

「ドクター、そんな報告は何も言っていないようなものです!! 通信量の無駄なので切ってもらっていいですか!?」

「ようこそロマニさん、これが役立たずの世界です」

「『なんか前回から言動がおかしくないですかダンテさん!? って、そんなこと言ってる場合じゃな』」

 

 カルデアとの通信が途切れる。その原因はマシュが通話を絶ったからではなく、目の前の光景こそにあった。

 ティアマトの瞳が赤光を放つ。

 光が宿す魔力は空間を歪めるほどに大きく、カルデアとの通信を容易に断ち切っていた。

 刹那、瞬く閃光がEチームを消し飛ばす─────

 

「『遥か永き湖霧城(シャトー・デ・ダーム・デュ・ラック)』feat.キャメロット、ですわ!!」

 

 ────直前、幽玄なる湖城の正門が赤光を受け止める。

 エレインの氷塔が最果ての塔を表すなら、リースの城はキャメロットに準ずる。その防御能力はマシュの宝具にも匹敵していた。

 湖の乙女は三者それぞれが同一存在。ゴルゴーンとの戦いにおいて、リースがエレインの異界内でサーヴァント級の力を発揮したように、彼女はこの場限りで生前の力を取り戻しているのだ。

 かくして姉妹は並び立つ。エレインはティアマトから目を離さず、妹に問いかけた。

 

「ペレアスの隣にいなくて良いのかしら?」

「これまでもこれからも、私はあの人のそばにいるつもりですから。この一瞬だけは大好きなお姉様とともにいさせてくださいませ」

「……本当、私にはもったいないくらいの妹だわ」

 

 エレインは頬を染めて微笑む。霧が無数の剣槍となって飛翔し、氷塔の光線がティアマトを襲う。怒涛の攻撃はしかし、獣を僅かに後退させるのみだった。

 それを見て、マーリンは空中のイシュタルと地上のエレシュキガルに告げる。

 

「という訳だけど、マーリンさんとしては天と冥界の女主人姉妹の活躍も見せてほしいな! 優しいお兄さんから仲直りの機会をプレゼントだ!!」

「「余計なお世話よ!!!」」

 

 光条と雷撃がマーリンを叩きのめした瞬間、夜に閉ざされた冥界を巨大な影が覆う。

 竜体と化したティアマトの翼。彼女は己の逆説的不死性を否める冥界から離脱するため、その羽を広げた。

 この千載一遇の好機は二度と訪れない。ティアマトを逃がせば最後、高高度からの魔力砲撃を続けられるだけで敗北は確定する。

 ノアは右手にヤドリギを忍ばせる。ケイオスタイドを糧に成長した、たった一度の切り札。未来を視たギルガメッシュが求めた、母神殺しの秘策。ティアマトが飛び去るのなら、刺し違えてでも空中で仕留める。ノアは密かに決意を固めた。

 母なる獣は雷電の檻を振り払い、地を離れていく。瞬間、二柱の女神がノアたちの側方を駆け抜ける。

 

「二度と飛び立てないようにブチ落とすわ!! あなたも手を貸しなさい、アステカの太陽神!!」

「オー、タッグマッチの申し込みとあらば断る理由はありまセーン!! 金星神&太陽神によるルール無用の残虐デスマッチといきましょう!!」

「ルチャかプロレスかどっちにしてくれる!?」

 

 穿つは両翼。

 二柱の女神はティアマト目掛けて全身全霊の宝具を解放した。

 

「『炎、神をも灼き尽くせ(シウ・コアトル)』!!!」

「『山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)』!!!」

 

 その威容はまさしく中天に現れし恒星。

 神霊たる霊基、魂魄の一片までをも燃やし尽くす勢いで放たれた双つの光芒。テペヨロトルが展開した夜の異界を砕くほどの熱量が冥界の色彩を真白に塗り替える。

 ティアマトの両翼が融解する。太陽フレアに匹敵する熱がその羽根を半ばまで消し去った時、彼女は天を仰ぐように鎌首をもたげた。

 

「─────Aaaaaaaaaaa!!」

 

 苦悶の呻き声にも似た叫喚。なれど、その咆哮は恒星を貫き、二柱の女神にまで到達する。

 世界が正常な明度を取り戻し、Eチームは見た。

 満身創痍で空を滑り落ちていく、女神たちの姿を。

 

「…………ッ!!」

 

 果たして、それは誰が漏らした声だったか。

 イシュタル、ケツァル・コアトルの戦線離脱。辛くも命を繋ぎ止めていたのは宝具の掃射が盾となったが故だ。文字通り全霊を使い果たした彼女たちは如何な治療を受けようと復帰することはないだろう。

 戦場に空白が満ちる。立香とノアはその虚ろを穿つかのように叫んだ。

 

「───大チャンス!! ここが最後の踏ん張りどころです!!」

「ここでティアマトを倒す!! いい加減体張りやがれ、ダンテ!!」

 

 ノアはダンテの胸ぐらを片手で掴むと、オーバースローで成人男性ひとりを投げ飛ばす。

 向かう先は当然ティアマト。竜体化を経たことで野性的な殺意を漲らせる巨大な顔貌を目の当たりにして、ダンテは恥も外聞もなく喚き散らした。

 

「えええええええええ!!?!?」

 

 どんな馬鹿力だ、と文句を付ける余裕もない。

 彼には超常の膂力もなければ鍛え上げた武術もない。そんな詩人にできることはただひとつ、己の作品に運命を委ねることだけだった。

 

「で、『至高天に輝け、永遠の(ディヴァーナ・コンメ)────」

 

 詩篇を書き連ねた紙束を右手で振り上げた瞬間、ぞくりと全身の肌が震える。

 背骨に直接冷水を流し込まれているかのような感覚。

 これはジャック・ザ・リッパーの呪いの影響か、否、ダンテは即座に思い出した。

 かつて、敬愛する先達とともに巡った地獄の風情。九つの圏域を下った地の底の底、最奥にて幽閉された、かくも恐ろしき魔王の気配。

 それは冥界という環境故か。はたまた、かの第九圏に近しき凍てつく氷原に誘われたのか。詩人の他に全てを理解していた花の魔術師は、すぐそこに訪れる未来の光景に対して冷や汗を流した。

 

「まったく、今まで視てきた中でも群を抜いてふざけた宝具だよ」

 

 エレインとリースは横目でマーリンの顔を見やり、そして驚愕する。

 常に草原に吹く風のようにのどやかで、咲き誇る花のように悠長だった彼の表情が、青褪め凍りついていたことに。

 

「救世主が原罪とともに持ち去ったはずの第六架空要素───人知無能の真性悪魔がこうして顔を出すなんてね…………!!!」

 

 ───この門をくぐる者、一切の望みを棄てよ。

 

 

 

〝『無間氷獄(コキュートス)永劫凍結する第九魔圏(リンフェルノ・デル・ルチーフェロ)』〟

 

 

 

 エレシュキガルの冥界を基盤とし。

 エレインの異界を糧として。

 ひとりでに、地獄は空間に満ちた。

 

「■■■■■■、■■■■■────!!!!」

 

 この世の終わりも、ここまで悍ましくはないだろうと確信させる景色。

 母なる獣、原初の混沌、創世母神。あらゆる異名を以ってしても飽き足らず、人類史の滅びを担うビーストⅡが敵と認識せざるを得ないほどの存在。

 堕天の王。

 明けの明星。

 かつて神の右方に坐すことを赦された、唯一の者。

 輝ける明けの星が顕現を果たしたのは、たったの三秒足らずのことだった。

 

「Aaaaaaaaaaaaa!!!」

「■■■■■■■■■■!!!」

 

 天地を揺るがす絶叫が巻き起こり、獣と悪魔によるたった三秒間の殺し合いが幕を上げる。

 ティアマトの全身が一瞬にして凍りつく。果てのない重力によって押し潰される。が、獣はそれを意にも介さない。極大の魔力を惜しげもなく叩きつけ、乱雑に拳を振るう。

 三秒。それは両者には欠伸の出るような時間。母神と明星は互いの総力を以って殺し殺され合う。冥界が消滅する規模の戦いはしかし、曲がりなりにもダンテの固有結界内に在ることでその被害を外界に浸透させはしなかった。

 しかして、勝敗は決まっている。

 魔王の敗北。ダンテの宝具を介した限定的な顕現である上に時間制限を課された状態では、ティアマトに敵うはずがない。

 残り0.5秒。マーリンは思考を巡らせる。

 

(思えば、条件は揃っていた。この時代が神代であること、第六架空要素の否定がなされていないこと、冥界にして氷原という環境が地獄の最下層と酷似していること)

 

 そうして、ひとつの疑問が解けた。

 なぜ、悪魔の王が一介の詩人を見逃したのか。それは──────

 

「■■■■■■……!!」

 

 魔王の体が塵となって消えていく。

 人類悪と悪魔の戦いは前者の勝利で幕を閉じた。

 一方、ダンテはと言うと。

 

「……ハッ! ここは一体!? ウェルギリウス先生やホメロスさんたちとお茶会をしていたはずでは!?」

 

 空中から投げ出されたはずが、無傷で雪原の上に横たわっていた。たわ言を並べる彼の頭に、こつんと硬質な感触が走る。

 ダンテは銀髪の少女がナイフの柄頭を落としたのだと理解して、

 

「ジャックさん。あなたが助けてくれたのですね」

「うん。今日はわたしたちの出番はないみたい。あの神様、なんだかとってもおかあさんって感じで気になるけど……」

「ええ、彼女を解体するのは無理がありますねえ。もう行かれてしまうので?」

 

 ジャック・ザ・リッパーはこくりと頷く。

 

「……気をつけて。あの王様は誰の言うことも聞かないから。油断してると〝オレサマ、オマエ、マルカジリ〟なんてことになっちゃうかも」

「それはもう、身に沁みて分かっていますとも。ユダさんやブルータスさんがアレのおやつになっているのを見ましたし」

「でも、やっぱり心配かな。もしかしたら、本当に世界を滅ぼすのはあなたなのかもしれない」

 

 それは、どういう。ダンテが意図を尋ねるより早く、少女は固有結界ごと霞と散っていく。その間際、彼女は言い残した。

 

「───……()()()()()()()()()()()()

 

 …………ティアマトは四つ足で自らの体を支えていた。

 竜体となった自身は元より四脚の獣。手を地面に着くことなど当然。だが、圧倒的な再生能力を誇る我が身を、意識して支えねばならぬという異常。

 さらには、歩くこともままならない。手足が氷によって地面と接合している。並の戒めならば解くまでもないが、それは母神を拘束するという不条理を成し遂げていた。

 だから、手足を引きちぎって再生する。

 

「な、なによ今の怪獣大戦争は!? ダンテの宝具の地獄バージョンがあんなのなんて聞いてないんですけど!!」

「落ち着いてくださいジャンヌさん。あれはただの幻覚です。悪い夢です! 絶対そうに違いありません!!」

「マシュもしかしてSANチェック失敗してない?」

「黙ってろアホ三人娘!! さっさと仕留めるぞ!!」

 

 その隙に人間たちが接近することも想定内。彼ら相手ならば視線と声だけで事足りる。

 ティアマトは口を開き、瞳孔に赤光を灯す。

 

「させません!!」

 

 先の攻防の焼き直し。赤き視線を霧の城が防ぐ。それと同時に、Eチームを運ぶ翼竜ががくりと頭を垂れ下げ、平衡を崩した。

 

「ん、ぐっ……!!」

 

 翼竜のみならず、立香たちもまた同様にそれは起きる。脳の芯を乱暴に揺さぶるような頭痛が生じ、圧迫感が胸の奥を締め付ける。

 ロマニ・アーキマンは当人たちより正確に攻撃の正体を把握していた。

 

「『人間の可聴域を下回る低周波! こんな小技までやってくるなんて、ティアマトは意外と知能派か!?』」

 

 低周波。通常、人間が聞き取れる音域は20Hzから20000Hzだが、低周波は20Hzに届かない音を指す。

 人間の体は繊細だ。微細な気圧の変化ひとつで体調を崩したり、聞こえぬはずの低周波でさえも頭痛を引き起こしたりする。生命の母たるティアマトが、人の脆さを知らぬ道理がなかった。

 ノアは表情をやや歪めて、

 

「剣振るしか能がねえペレアスよりは賢いな」

「そのオレよりもアホなのがお前だろ。低周波とやらをなんとかしろ」

「俺に命令すんじゃねえ、もうやった!」

 

 ルーンの光が点灯し、魔術障壁が翼竜ごとノアたちを取り囲む。ティアマトの直接攻撃の前には土壁も同然だが、音を防ぐ気休めにはなるだろう。

 射程圏内には未だ遠く。

 ティアマトは身中に堆積する激情の波濤をそのまま、魔力に変えて撃ち放った。

 体に宿す超級の魔力炉心の全力解放。暴走に等しい炉心の運用。その負担を肉体の強靭さひとつで踏み倒す。

 全身から発散する魔の奔流。その様は一際煌めく星のように。数え切れぬ光の束が、取り巻く何もかもを塵すら残さぬ無に変えていく。

 

「「「3fffffffffff!!!」」」

 

 産声をあげる異形。泥中より湧き出す蛭のように、翼を携えたラフムが飛翔する。

 体外へ漏出するケイオスタイドはマーリンの手によって花と化す。故に、ティアマトは体内より己の眷属を産生した。

 絢爛なる光の園を、異形が飛び交う。次々と増殖するラフムはまるで蝗の群れ。あるいは冥界の機構に、あるいは湖の乙女たちの異界に葬り去られていくが、彼らに同胞の死に怯えるような無駄な感情は搭載されていない。

 だからこそ、彼らはひたすらに進む。

 自らの時代を望み、旧人類を廃滅するために。

 

「またラフムかよ! 確かこいつら全員殺さないとティアマトも死なないんだったか!?」

 

 ペレアスは翼竜に取り付いたラフムの首を一刀の下に伏せる。マシュとジャンヌもまた、周囲の敵を叩き潰し、焼き払っていた。

 

「いえ、〝冥界には死者しかいない〟という法則はラフムたちにも適用されています! 元を辿れば彼らもティアマトの一部ですから!!」

「じゃあ私たちはこのゴキブリみたいに出てくるキモ歯茎どもを片付けながら、アホ白髪と立香を送り届ければいいってわけね!!」

「そういうことだ。おまえらサーヴァントどもは俺と立香を蝶よりも花よりも丁寧に扱え」

「立香ちゃんはともかく、お前はそういう訳にはいかねえな!!」

 

 それには常に変化する光の網を潜り抜けて、という但し書きが付くが。ノアは黄金の腕輪を『獣縛の幻鎖(グレイプニル)』───フェンリルを戒めた唯一の鎖───に変え、翼竜の首に巻きつけた。

 彼はそれを手綱のように握り締め、哀れな翼竜にドスの効いた声を投げかける。

 

「俺の指示に従え。少しでも意に反したらケツにヤドリギぶっ刺してやる」

「立香ちゃん、こいつのケツにコードキャストだ」

「はい」

「うがああああああああ!!!」

 

 倒れ込んで痙攣するノアを尻目に、マシュとジャンヌはラフムを叩き落とした。

 ───手が足りない。底の見えぬ魔力放出、眷属の産出。後者の対応にエレシュキガルと湖の乙女が手間取られ、前者に至っては止める手段など見出だせない。

 せめてラフムさえ退けられたならば、ティアマトに接近できるものを。

 

「行くぞレオニダス、牛若丸、テペヨロトル!! ジェットストリームアタックだァーッ!!」

「貴女は一体誰なんです!?」

「そもそも黒いのはこの人だけですが?」

 

 空中に現れる霧と氷の足場。三人はそれらを足蹴に跳び回り、ラフムの群れを殲滅していく。

 レオニダスは言った。

 

「露払いは我らにお任せください! ただ前を見て進むのです!!」

 

 その言葉に背を押されるように、彼らは進む。

 あらゆる敵を灰燼と帰す、光輝の結界へと。

 他の何物にも目をくれず。ティアマトもまた、迫り来る人間たちをその眼差しで射抜いた。

 如何に相手が矮小であろうと、母なる獣に油断はない。強者も弱者も分け隔てなく、平等に丁寧に潰し殺す。

 なればこそ、この展開は彼女の狙い通りだった。

 口腔に溜め込んだ燐光を一気に──────

 

「『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』!!」

 

 ─────解き放つ!!

 その瞬間、盾を担う少女は自身の感覚という感覚が全て消し飛んでいくのを感じた。

 知恵の女神が放った一撃は淡白で無感情で、転がり落ちる大岩を押し留めるような感触だった。けれど、ティアマトのそれはさながら、荒れた海流の渦に放り込まれているかのようだ。

 抵抗は無意味。人間ひとりが大海に勝る道理はない。

 だとしても。それでも。

 もがいてもがいてもがき続けて。

 永遠にも思える一瞬が過ぎ去った時、ティアマトは眼前に迫っていた。

 ごう、と旋風が巻き起こる。

 隕石さえも思わせる様相。母神はその拳を振り抜いていた。

 

「今度は─────」

「─────オレたちの番だろ!!」

 

 だが、それは苦し紛れにすぎない。

 騎士と魔女は交差するように剣を振りかざした。

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

「『運命絶す神滅の魔剣(ミストルティン・ミミングス)』!!」

 

 宝具の同時解放。

 双つの剣光が閃く。

 かたや竜の息吹を体現した炎の一刀。

 かたや不死の半神を斬った直死の剣。

 けれど、ティアマトほどの質量を、ましてやとめどない魔力を宿したそれをサーヴァント二騎の宝具如きが斬ることが叶う都合の良い展開は存在しない。

 熱量は上回っている。そして、そもそも今のティアマトに斬るべき死線は有り得ない─────だからどうした。

 呆れ果てるくらいに積み上げられた不可能に立ち向かい、打ち破ってきたのが英雄であり人類だ。

 故に、この現実だって超えてみせる。

 その矜持があれば後は簡単だ。

 この剣に魂を込める。魔力だとか霊基だとか、数値で表せる燃料だけじゃない。

 魂を込めるとはすなわち、

 

「竜殺しナメんなァァァッ!!!」

 

 ───己の心を振り絞ることだ。

 鮮烈に、劇的に、血の華が咲き乱れる。

 紅き雨の中を、立香とノアは振り返らずに駆けた。

 翼竜の背を蹴り、空に身を任せる。

 その刹那、ティアマトは感じた。

 この魂魄に届き得る、黄金の殺意を。

 

「…………あ」

 

 獣は初めて、怒りと憎しみ以外の感情で色付いた声を唇の端から落とした。

 数々の神霊が、英霊が、その力を尽くした。

 たったふたりの人間を獣へ届けるために。

 そして、ついに辿り着いた。最古の王が垣間見た、ティアマト打倒の未来が今ここに実現す、

 

「Aaaaaaa────!!」

 

 星の内海を写す眼光が輝く。

 ───創世の母神に底はない。最後の一手の先の先、彼女はどこまでも底なしだった。

 赤光が人間を突き刺す。

 奇跡にも限度がある。それを耐えるなんて結果はヒトに赦されたモノではなく、例えば、そう、絶対無敵のバルドルのような者が掴み取れる可能性だ。

 

「……使わねえって言っただろ」

 

 ────ああ、そうだろうね。

 誰かが、そう答えた。

 

「そんな奇跡は、私が実現しておいたとも」

 

 花の魔術師は笑った。

 鏡面が無数の破片に散るように、視界が砕ける。

 赤光は彼らを穿ってなどいなかった。

 明後日の方向に放たれたそれは掠りすらしていなかった。

 微睡みから覚めたような意識の狭間で、ティアマトが見たのは真の現実。

 少女を右腕で抱え、左手をかざす魔術師の姿。

 

「〝───聖なる神々よ、天を司りし者共よ。おまえたちの企みは私には届かない〟」

 

 ぽう、と黄金の鏃が小さく灯る。

 

「〝誰も味わったことのない苦渋を私に舐めさせようと、誰も苦しんだことのない辱めを私に与えようと、我が黄金は水底でなおも強く輝く〟」

 

 その詠唱は、自己に働きかけるものだった。

 誰も見たことがない神殺しのヤドリギのその先。

 神話にさえも語られぬ一矢を放つため、魔術師は自己を矢の担い手として創り上げる。

 

「……ノアトゥール」

 

 少女はその名を呼んだ。

 彼にしか聞こえぬ小さな声で。

 髪飾りを解き、その手を彼の左手に重ねる。

 少女の魔力は知恵の女神を喚び出したことでとうに底をついている。それでも懸けられるものはあった。

 魔力を蓄積する髪飾り。

 恋しき人から贈られたモノ。

 彼女は、告げる。

 

「私の想いを、受け取って」

 

 ノアは応える。

 その信念を込めた詠唱でもって。

 かつて出逢った人間から貰った、あの感情を思い返しながら。

 

「〝私は、愛を捨てたりしない〟」

 

 戦乙女(ブリュンヒルデ)が愛しき竜殺し(シグルド)を想い紡いだ言の葉。

 

「〝誰も私から愛を奪えはしない〟」

 

 その詩を、ノアは朗々と謳い上げた。

 

「〝たとえ、荘厳なるヴァルハラが瓦礫となって崩れたとしても〟────『真約・蒼天の嚆矢(フォレルスケット・ミストルティン)』!!!」

 

 幼き未熟な神殺しのヤドリギの成体。

 たった一度きり、二度と再現できぬ鏃の一撃。

 その一矢が刻む軌跡はテクスチャを裂き、裸の世界を露わにする。

 それは神話を超えた一矢。全知の大神オーディンすらも知らぬ、黄昏を過ぎた先の未来。

 未知の矢は、母なる獣を貫いた。

 

「──────あ、ああ、」

 

 ティアマトに死の概念はない。

 死を持たぬ獣を、どうして殺すことができようか。

 不死と言うよりは無死。死なないのではなく死がない。彼女の理を破壊することは誰も未だ知らぬヤドリギにもできなかった。

 しかし、ティアマトは此処に在る。

 彼女を構成する肉体、魂、精神はどうしようもなく存在している。

 だから、その矢は否定した。

 此処に在るという事実を。

 つまり、完成したヤドリギがもたらす結果は。

 神でもなく。

 不死でもなく。

 その存在を、現世から消し去る。

 たったそれだけの、つまらない結末だった。

 ───そして、ノアは見た。

 拡散する獣の裡より、彼女の真実を。

 生命を辿る。

 生命の歴史を垣間見る。

 星屑の川みたいにきらきらと繋がっていく、生命の連環。

 太古の海の底で生まれたひとつの細胞が何度も何度も進化と絶滅を繰り返し、地球に繁茂していく様を追う。

 その中で、微かな声が聞こえた。

 

「いかないで」

 

 今にも泣き出しそうな声音。

 

「はなれないで」

 

 それこそが、滅びの獣の真相。

 

「わたしを、おいていかないで」

 

 その昔、ティアマトはアプスーと交わり神々を産んだ。愛すべき子らは父を殺し、次いで母にも反旗を翻し、その体を割いて天地を創造した。

 夫であるアプスーの殺害は見逃した。

 子どもたちが選択したことだからと自分を納得させた。

 だけど、自分が否定された時。ティアマトは嘆き、狂し、新たに産んだ十一の魔獣を率いて戦争を仕掛けたのだ。

 

「ああ、なんて、みにくいのでしょう」

 

 我が子らの否定を、優しく受け止めることができなかった自分自身が。

 結局、彼女はなんてことのない母親で。

 それだから、自分の子どもだけには否定されたくなかった。

 その結果があれだ。怒り嘆き悲しみ、自らが産んだ神々と魔獣を争い合わせ、愛していたはずの子を手にかけようとした。

 

「ごめんなさい」

 

 なんたる本末転倒。

 

「ごめんなさい」

 

 なんたる自己矛盾。

 

「ごめんなさい……っ」

 

 どこまでも醜く愚かしい。

 結局、そう、彼女は、

 

「きっと、わたしはあいされたかっただけで」

 

 ────あなたたちを、あいしてはいなかった。

 だって、そうに違いない。

 他人が否められることは良くて、自分だけは違うなんて傲慢にもほどがある。それは自分さえ優しいものに囲まれていれば良いという、自己愛に他ならない。

 だから。

 だから、もう。

 

「わたしを、あいさないで」

 

 それが、ティアマトの独白だった。

 ────あの日の冷たさが、重なる。

 愛されたかった子どもが。

 愛してくれる人たちと出逢って。

 それをあっさり奪われ、殺し尽くして。

 降り積もる雪の冷たさの中で、何もかもを拒絶し、諦めて、眠りに就こうとしたあの日を。

 今の彼女はその時の自分と同じだ。

 自分を否定することでしか意識を保てない。

 我が子へと注いでいた愛をも貶めることしかできない。

 そんな残酷なことが、あってたまるか。

 その自傷行為は、大切にしていたはずのぬくもりさえも否定している。

 

「言いたいのはそんなことか」

 

 なぜ、自分は怒っているのか。

 その理由は明白だった。

 

「おまえは母親だろ。子どもの反抗期如きをいつまでも気にしてんじゃねえ」

 

 まるで、自分を見ているようだったから。

 

「俺は根源に行く。他の誰も置き去りにしないで、全員でおまえに会いに行ってやる。その時はおまえも母ちゃんらしく〝おかえり〟なんて言って、シチューでも振る舞えよ」

 

 他人が聞いたら笑われてしまうような、甘ったるい家族像。でも、彼が知る母親の姿は二つしかなかった。

 怨嗟とともに子の首を絞め、殺そうとする母。

 笑顔で出迎えて、手料理を振る舞ってくれる母。

 せめて、ティアマトは優しく在ることができるように。ノアは拙い家族のカタチを口にした。

 

「母親が、自分のもとを離れる子どもにかける言葉は、ごめんなさいなんてものじゃないだろうが…………!!!」

 

 ああ、そうか、そうだった。

 するべきは自分を否定することじゃない。

 犯した罪も、どうしようもない醜さも、吐き出したい弱音も、ぐっと心の中に抱え込んで、笑顔を形作る。

 なぜなら。

 わたしはまだ。

 おかあさんでいたいから。

 

「───いってらっしゃい。あいしてるわ」

 

 滅びの獣はもう、どこにもいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 澄み切った青空の下で、彼らは殺し合う。

 それはまるで、

 

「『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』!!」

 

 世界が滅び、

 

「『母よ、始まりの叫をあげよ(ナンム・ドゥルアンキ)』───!!」

 

 そしてまた、新たに生まれいづるような光景だった。

 幾度目かの宝具の衝突。天から振るわれる一閃を、地より突き立つ光の槍の穂先が受け止める。

 何人も立ち入ることを許さぬ天地の乱舞。空間が軋み、世界の位相が歪む。大地はめくられたカーペットみたいにうねり、大気が押し出されて上空の雲までをも吹き飛ばす。

 それらすべての現象が、彼らの戦いの余波にすぎなかった。

 凄絶な争いの中心。ぶつかり合う二人は瞬きもせずに相手を見据え、獣のように口角を吊り上げて犬歯を覗かせていた。

 キングゥは打ち震える。

 敗北を経て獲得した新たな個の強さ。

 その全部をぶつけても、ギルガメッシュは揺るがない。それどころか常にこちらを上回り、苛烈に攻め立ててくる。

 故に、キングゥは進化を余儀なくされる。一合の度に新しい自分に生まれ変わらなくては、いつか縋りようもなくなるくらいに追い離されてしまうから。

 進化に次ぐ進化。キングゥは自身の可能性に歓喜していた。

 

(───エルキドゥ。我が友よ。未だ其処にいるのか)

 

 一寸の狂いが敗北に直結する戦闘の最中。

 英雄王は己が敵の姿に友を見た。

 エルキドゥ。あらゆる他者より隔絶し、世の頂点を恣にした王の唯一無二の親友。その者の顔を、声を、匂いを、たとえ幾星霜の月日を重ねようと片時も忘れることはできない。

 彼と駆け抜けた日々は鮮烈だった。

 武を競い合った邂逅の日から。

 レバノン杉の森の魔獣フンババを討伐し。

 都市を襲う天牛グガランナと殺し合い。

 そして、友が神々の死の呪いによって命を落としたその時まで。

 断言できる。あらゆる宝物を蔵に収めた英雄王の最も尊き宝は、あの日々であったと。

 叙事詩に曰く、ギルガメッシュは友の死に際して狂乱するほどに泣き叫んだ。友の思い出を何度も反芻し、冷たい胸の動かぬ鼓動を何回も確かめ、その亡骸に花嫁の如き薄いベールを掛けたのである。

 次に王の心を支配したのは死への恐怖。不死を得たと言われる聖王ウトナピシュテムを訪れ、不死の霊薬を手にするも、神々が遣わした蛇にそれを奪われてしまう。

 そこで、王は気付いたのだ。

 人の強さとは────────

 

「こんな時に余所見かい!?」

 

 キングゥの足刀がギルガメッシュの胸を掠める。

 王の玉体に走る、一筋の傷。彼は流れる血を拭いもせずに告げた。

 

「許せ、キングゥ。我は真の貴様を見ていなかった」

「キミだって半分は人間だ。何もかもを見通すことなんてできやしない。だから、許すさ」

 

 王は獰猛に笑み、

 

「詫びを贈ろう。望みを申すが良い」

「無論、キミの全力(すべて)を。ボクという個はきっと、キミを超えることで完成する」

「よかろう。その夢物語、現実に変えてみせろ!」

 

 天が震撼する。

 地が胎動する。

 彼らが放つ一撃はまったく同時だった。

 

 

 

「『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』!!!」

「『人よ、神を繋ぎ止めよう(エヌマ・エリシュ)』!!!」

 

 

 

 鳴動する天地が静まり返るような激突。

 眼球を焼き潰すほどに光り輝く槍の突進を、無上の一刀が迎え撃つ。

 ふたつの究極が交錯し、戦いの結末はたったの数秒で訪れた。

 青き空に、鮮血が飛び散る。

 先に口を開いたのはキングゥだった。

 

「……やっぱり、強いな。キミは」

 

 鼻の先が触れてしまいそうな距離。王の剣が、キングゥの胸の中心を突き刺していた。

 

「それでも」

 

 彼は蒼天を仰ぐ。

 太陽の光に目を細め、呟いた。

 

「ボクは、こんなところにまで来れたのか」

 

 緩やかな風とともに、彼の像は解けていく。金色の粒子が風に運ばれて、どこまでも高く昇っていく。王はそれを目に焼き付けて、唇の端から血を吐いた。

 

「見事であった、天の鎖よ」

 

 おびただしい量の血が、大地に降り落ちる。

 ギルガメッシュは腹を半ばまで抉り取られ、臓腑を垂れ流していた。

 

「貴様という個が成した究極は、確かに我が命に届いたぞ」

 

 ───だが、まだ絶えるわけにはいかない。

 王は地面に降り立つ。腹の半分を失う致命傷でありながらも、その歩みに乱れるところは微塵もなかった。

 紅き瞳は前を望む。そこには、冥界にて命を賭した者たちがいた。その内のひとり、ノアの手中にはティアマトが取り込んでいた聖杯が握り締められている。

 ギルガメッシュは言った。

 

「大儀である。ティアマトは確かに討たれた。これはまさしく、貴様たちの成果だ。誇るが良い」

「物理的に腹の中さらけ出してるだけあって今日は素直じゃねえか。おまえの蔵の中身と交換で治してやってもいいぞ」

「ほざけ、下郎が。これも我の想定の内だ」

「それが、ですか?」

 

 立香の問いに、ギルガメッシュは頷きで返した。

 

「これより先の未来に我の存在は不要だ。故に、我が死を以って人と神の訣別とする」

 

 人の強さとは────死を受容すること。怯えるでもなく、諦めるでもなく、それがありのままであると受け容れて共にあること。

 なればこそ、彼は正しく人の王だった。

 それであることを教えてくれたのは、紛れもなく彼の親友だ。死の呪いに苛まれながらも、友は穏やかに息を引き取った。その姿こそが、人が迎えるべき幕引きだ。

 王は立香とノア、マシュを一瞥する。

 ほんの数瞬の眼差し。彼は剣先を差し向け、言い放つ。

 

「今を生きる人間よ。これは貴様たちの物語(みち)だ。膨大なる過去の宿痾を、不確かな未来の災厄を、その足で乗り越え進め!! 抱く理想に溺れぬようもがきながらな!!!」

 

 ギルガメッシュは蔵よりひとつの杯を抜き出し、乱雑に投げつける。

 立香は慌ててそれをキャッチし、それを見て目を丸めた。

 

「これ、もしかして聖杯ですか!?」

「ウルクの大杯よ。相応の働きには相応の報いを与えるが王である。持っていくがよい」

「リーダー! これ売ったらいくらになりますかね!?」

「おまえの人生百回分のガチャ代金でも足りないくらいだな。リーダー特権だ、俺がしっかり管理してやるから渡せ」

「『あ、新しい特異点ができそうだ……』」

 

 カルデアへの退去が始まる。

 魔術王の玉座の前に立ちはだかる最後の特異点が幕を閉じる。全てが露と消え去っていく途上で、湖の乙女エレインは彼らへ微笑みかけた。

 

「忘れないで。あなたたちが結んだ繋がりはいつまでも消えずに残る。敵も味方も、あなたたちとともに在る。その足で進み続ける限り、ね」

 

 ───だから、お別れは言わないわ。

 …………彼らが消えた後。イシュタルは乱れた髪の毛を払い、エレシュキガルへと歩み寄った。

 

「人間に冥界での行動権を与えるなんて、耄碌したわね。盟約を破ったアナタはここで戦った記憶ごと消えてしまうっていうのに」

 

 棘のある語調。エレシュキガルは険のある視線を正面から受けて、くすりと笑う。

 

「ええ、そうね。でも、それで構わない。だって色んなことを知れたのだから」

 

 冥界の女主人は指折り数える。

 大切なものを愛おしげになぞるように。

 

「自分の好き勝手にできる自由。誰かと一緒に戦うことの心強さ。陽のあたる場所の暖かさ。……ねえ、イシュタル」

 

 彼女は太陽を見上げた。

 中天に坐す星はどこまでも輝かしく。

 その熱をもって、地上を隅々まで照らしている。

 

「───(ソラ)って、こんなに綺麗なのね」

 

 陽に照らされたその顔は。

 美の女神たるイシュタルでさえいっそ、両手を上げて降参したくなるくらいに美しかった。

 天の女主人はそっぽを向き、忌々しげに呟く。

 

「……そんなので良いなら、一回くらいは見せてあげたわよ」

 

 ───第七特異点、定礎復元。

 訣別の時は今、人間の幼年期はここに終わりを迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────神樹聖杯(セフィロト)、第■階層ダアト。

 光無く闇無く、無上無辺の虚空が広がる空間。只人の理解及ばぬ領域を、幽谷の暗殺者は風のように駆け抜ける。

 

「其はこの世に蔓延るたけのこ派を鏖殺せし神秘の毒────ヒャッハー!! きのこの時間だぜグランドアサシン!! 今日は全員きのこ食っていいしおかわりもいいぞぉ!!!」

 

 暗殺者の行く手を阻む、茸の雨あられ。

 グランドアサシン───山の翁はそれらに目を配ることなく、その外套を振り払った。

 砂塵を含んだ豪風が吹き荒れる。途端に巻き起こった砂嵐は、凄まじい勢いで茸を投擲する女を彼方へと浚っていく。

 

「おんぎゃああああああああ!!!」

「…………やはりきのこ食ってるようなのは駄目だな。たけのここそが至高ということを知らぬ輩には相応の結末だ」

「うるせぇー変態TS魔術師!! 後でおめーのたけのこの里を全部きのこに入れ替えとくからなァーッ!!」

「ふむ、砂嵐のせいでよく聞こえんが仕方ない。私もきのことたけのこを誤認する呪いをかけておくとしよう」

 

 さて、と金髪褐色の女は振り返る。

 次元を渡る魔術師、シモン・マグス。彼は疾駆する暗殺者に向けて言った。

 

「たったいま、カルデアは最後の特異点を攻略した。貴方の力を借りることなく。晩鐘は誰がために鳴るのか───見えているのだろう?」

 

 身の丈ほどの大剣が振るわれる。

 その寸前でシモンは次元を超え、斬撃を免れる……免れたはずだった。

 すぱり、とシモンの肌を袈裟に割る切り傷。山の翁の刃は薄皮一枚を裂くであれ、無数の次元を隔てた魔術師に届いていた。

 

「然り。汝との鬼事も終幕だ。晩鐘が指し示したるは汝に非ず。ただ斬るべきものを斬るために、我は此処に在る」

「それは竜か? 私か? それとも────」

「否、余であろう。鐘の音は劇の主演にこそ相応しい」

 

 虚空を割り、現れる女。

 理性を抱き融かす闇のような美貌。布切れのような赤衣がはちきれんばかりの肢体を瀬戸際で押さえ込む。

 その手に戴くは黄金の杯。

 絶えず泥を湧き出す魔の杯。

 彼女は赤き竜に乗っていた。かつての第六特異点、その像のみで数多の人間を戮してみせた竜の真体を。

 

「喝采せよ。その手を打ち鳴らし、喉を震わせ、眼を広げよ。ビーストⅦ『三位一体の獣(トリニティ・ビースト)』が主役、バビロンの大淫婦───ネロ・クラウディウスの来臨である!!」

 

 人類悪、喝采。

 バビロンの大淫婦は柳眉を歪め、魔術師を見据えて、朗々と謳う。

 

「余をこのような場に呼びつけた不敬、赦すぞシモンよ。不遜なりし冠位の英霊をこの目に焼き付けることができた」

「有り難き幸せ。王の寛大なる御心に報いるため、私が今より彼を遠ざけてみせましょう」

 

 獣は嗤う。命を啜るに相応しき、柔らかく艷やかな唇を吊り上げて。蠱惑的なその仕草はそれ以上の悪意に満ちていた。

 冠位の暗殺者は微動だにしなかった。蒼炎の眼は獣を観ているものの、視てはいない。どこか別の場所を覗いているように、その視線を据えている。

 魔術師は手のひらを山の翁に差し向ける。虚空に巨大な魔法陣が浮かび上がり、標的へと言い渡す。

 

「ダアトに足を踏み入れた時点で貴方は負けていた。ここは私の領域。獅子王の城より続く追いかけっこも終わりにしよう」

 

 ────数光年を隔てた空間に飛べ。

 

「『神的世界への被昇天(シュゼーテーシス・プロパトール)』!!」

 

 次元転送。超常の武威を誇る山の翁を正面から打倒するのは愚策。魔術師はその御業をもって、遥か彼方の場所へと敵を送り飛ばす。

 暗殺者は抵抗すらしなかった。

 代わりに、彼は揺るがぬ事実を伝える。

 

「───バビロンの大淫婦。()()()()()()()()()()()()()

 

 しかし、と前言を翻して、

 

「それは常に傍に在る。三度の落陽を経てもなお、その背に忍んでいる」

「……貴様」

「受け容れよ。かつて迎えた結末を」

「────シモン!!!」

 

 かくして、山の翁は消える。

 人智の及ばぬ彼方。その姿がなくなったことを認め、バビロンの大淫婦は唇を噛んだ。

 

「死んでたまるものか。余はあのような最期を、決して認めぬ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カルデアに帰還したEチームが聞いたのは、けたたましいアラーム音だった。

 赤く染まるカルデアス。燃え上がるような色彩が管制室を照らし尽くす。その様相はさながら、レフの手によってこの場所が焼き尽くされた時のようだった。

 機械音声によるアナウンスが鳴り響く。

 

「『緊急事態発生。緊急事態発生。カルデア外周部第七から第三までの攻性理論、消滅。不在証明に失敗しました』」

 

 それが意味するところを、この場の誰もが知っていた。

 

「『館内を形成する疑似霊子の強度に揺らぎが発生。量子記録固定帯に引き寄せられています。カルデア外周部が2016年に確定するまで、あとマイナス4368時間。カルデア中心部が2016年12月31日に確定するまで、あと─────』」

 

 ロマニ・アーキマンとダ・ヴィンチはEチームの帰還を待っていた。いつものように喜びと安堵の表情ではなく、何かの覚悟を秘めた顔で。

 

「遂にボクたちは魔術王の玉座に至る聖杯を手に入れた。だけど、それはあちらもまたカルデアとの繋がりを得たということだ」

「つまり、我々は敵の本拠地に向かっている。ただ、存在の規模はあちらが遥かに上だ。コーヒーにミルクを一滴垂らすみたいに、接触した瞬間カルデアは溶けて消える」

「じゃあ、その前に私たちはレイシフトして魔術王を倒すんですね」

 

 二人は首肯する。

 迫る人理焼却の、人理修復の幕引き。

 ロマンはぎこちなく顔を緩めた。

 

「まあ、やることはいつもと同じだ! ボクたちがサポートして、Eチームが特異点を攻略する!! まずは、戦いの疲れを癒やしてくれ!!」

「これが最後の休息だ。何も特別なことなんてない。キミたちはキミたちらしく、決戦前の休日を過ごすと良い」

 

 ノアは満足したみたいに鼻を鳴らし、

 

「上等だ。ソロモン王のパクリ野郎の顔面を現代アートみたいにしてやる」

「はい! EチームのEはエリートのEだってところをみんなに見せつけてあげます!!」








一度日常回を挟んでいよいよ終局特異点です。長くなりましたがよろしくお願いします。


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第78.5話 はじめてのお誕生日パーティー

放送デキナイ禁断霊映像というホラービデオが大好きだったのですが、久しぶりに見ようとしたら3と4だけを残してアマプラから消えてました。悲しいです。


 『超☆天才探偵のワトソンくんでも分かる調査ノートその二』より。

 2004年。日本のとある地方都市にて、総勢七騎のサーヴァントと七人のマスターが聖杯を巡って争う戦いが勃発した。

 七つの陣営がたったひとつの願望器のために殺し合うバトルロイヤル。しかし、それは勝者となる者が絞られた、仕組まれた戦争であった。

 その地方都市を根城とし、聖杯鍛造と戦争のシステムを構築した御三家。彼らはいずれかの参加者を優勝者にすべく、三騎士のクラスを分かち合っていたのだ。

 セイバー、ランサー、アーチャーが有する対魔力スキル。魔術の干渉を退けるその力は現代の魔術師はおろか、ランクによってはサーヴァントの魔術さえ無効化する代物だった。

 互いに反目し合う御三家と言えど、三者の地位は盤石。家名をあげて蒐集した聖遺物を用い、史に名高き英雄を喚び寄せた彼らの勝利は確実に思えた。さらには、対魔力という出来レースのためのシステム。御三家のマスターたちだけでなく、全員がこう考えたことだろう。

 キャスター陣営の勝利はあり得ない、と。

 

〝…………さて、聖杯は私たちのものだ。礼を言わせてくれ、キャスター〟

 

 ───戦いは、あまりにも一方的だった。

 期間は実に二日。キャスターとそのマスターは傷ひとつ負うことなく、聖杯を手に入れてみせた。淡々と、レベル99の勇者がスライムを伝説の剣で屠っていくように呆気なく。

 

〝それにしても、ライダーのマスター────まさか、当時の時計塔の君主をことごとく激昂させた彼が生きていたとは。順当に行けば、ライダー陣営の勝利だっただろう〟

 

 二日間の幕閉じである最終戦。それはライダーとキャスターによるものだった。

 ライダーは宝具である太陽船を駆り、はるか成層圏の高高度からおよそ千を超える爆撃を敢行した。それらのことごとくが太陽に匹敵する熱量。戦争が二日で終結した原因はキャスターの存在のみならず、ライダーが初日にホムンクルスの大家と土地の所有者の屋敷を念入りに消し飛ばしたことも関わっているだろう。

 ともかく。この土地を地図から消すほどの絨毯爆撃を、キャスターは無傷で防ぎ切った。

 そして、キャスターは次の瞬間にライダーを強制的に退去させた。

 ライダーのマスターは姿をくらませたものの、もはや追う必要はない。史に名を残すほどの魔術師であっても、キャスターの前には如何なる奇襲・強襲も通じはしない。

 けれど、ひとつの違和感。キャスターは梅雨の湿り気みたいにじとりとへばりつく感覚を、手中に握り込む。

 ───ライダーの真名が予想通りだとすれば、サーヴァントの強制退去にさえ抗えたであろうものを。

 しかし、その疑問を解消する気概はなく。

 ただ、どうでもいい。この戦争の勝敗は既に決した。とうに魔術師ひとりが如何な策を弄そうとも状況は傾かない。キャスターはいつものように疑念を切り捨てた。

 ライダーが振るう圧倒的な火力と、キャスターが統べる理不尽な法則の激突。勝敗の天秤はより不条理な方へと傾いた。

 それが、この戦いの顛末だった。

 

〝君とも大いに関わりのある話だ。彼がいなければ、君の思想は今もなお大英博物館の奥底で眠ったままだったはずだ〟

〝興味はない。書は書であって思想そのものではない。そこを履き違える人間は多いが……聖書が良い例だ。アレに載っているのは神の子の言葉であって、神の子の思想ではないのだから〟

〝それでも、救われた人間がいたことも事実だよ。君の書もまた、誰かを救っていた……この瞬間にも救っているかもしれない〟

 

 ……あんなもので、救われる人間はいないだろうに。

 私は独り言のように呟く。マスターは虚ろな笑みを顔面に広げていた。

 

〝さあ、キャスター。君の願いは──────〟

 

 そこで、意識は覚醒する。

 空になったコーヒーカップの匂い。全身が気怠さに包まれ、特に頭はワイヤーか何かで締め付けられているみたいに軋んでいた。

 そんな痛みも、寝起きで微睡む意識には一種のスパイスだった。矛盾した心地良さを堪能するのも束の間、ごすんと脳天に固い衝撃が落ちる。

 眩む視界。揺れる瞳が捉えたのは見慣れた顔だった。

 

「ようやく起きやがったな。この俺を呼び立てといてぐっすり眠りこけてんじゃねえ」

 

 ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド。傍若無人かつ悪逆無道のEチームリーダー。彼はホームズから託されたノートを片手に、不機嫌さを隠しもしない面持ちでこちらを見やっている。

 冷たい眼差しを受けて、ロマニ・アーキマンは頬を緩ませた。

 彼とももう長い付き合いだ。そのツンデレはしっかりと理解している。ロマンは余裕な笑みを浮かべて言う。

 

「ボクが起きるまで待っててくれたのかい? キミにも人の心が芽生えてきたみたいで嬉しいよ」

 

 からかうような口調。ノアは涼しい顔のまま、懐の手鏡を見せつけた。

 鏡面に映る顔にはくまなく落書きがなされていた。一面を覆う白塗りの下地の上に、目元は黒の隈取り、唇は赤い口紅が塗りたくられている。

 しかも、髪型はワックスで剣山のように固められていた。まるでブラックメタルバンドのジャケ写である。あまりにも無駄な執念を発揮したいたずら心に、ロマンは戦慄した。

 

「…………よく起こさずにここまでやれたね!? もはや感心するレベルだよ!!」

「そんなに褒めるな、照れるだろうが。いっそバンドデビューでもしたらどうだ? 次回からタイトルを『ろまん・ざ・めたる!』に変える必要があるがな」

「最終決戦前にタイトル変更とか聞いたことないんだけど!? それに白塗りメイクのキャラしか登場しないアニメなんて嫌だぞボクは!!」

 

 ロマンは机に突っ伏して訴え掛けるが、人の不幸を食い物にする悪魔にとってはご馳走以外の何物でもなかった。何食わぬ顔でノートをめくる姿がさらに憤懣を募らせる。

 ノアは物憂げな雰囲気で肘をつく。もったりとした目つきはロマンが彼に対して幾度となく抱いた嫌な予感を想起させた。

 

「大体、最終決戦が本当に最終決戦だったことなんかあるか? どうせ魔術王倒したら人造人間編が始まったりすんだろ、仲間のハゲが敵に発情したりすんだろ、もう分かってんだよ、先の展開が見えてんだよ」

「ノアくんの目には何が見えてるんだ!? ただドラゴ○ボール読んでるだけじゃないか!!」

 

 ロマンは叫んだ。もう少し声が高ければメタルバンドのライブの一幕として十分耐え得る光景だったに違いない。

 すると、そこに立香とマシュがやってくる。彼女たちはメタルバンド風のメイクを施されたロマンにツッコミもせず、

 

「先輩、わたし自体人造人間みたいなものなのですが、これはもしかして後の伏線ですか?」

「突如現れた人造人間───ミシュとムシュ! マシュの妹を名乗る彼女たちの目的とは……!?」

「人造人間編っつうかなすび増殖編じゃねえか。アからンまで出す気か?」

「それなら引き延ばしも効くので好都合ですね。まだキャラが弱いので、全員ベリルさんに指を折られていることにしましょう」

「よくそれネタにできたね!? 正直ボクはまだ殴り足りないくらい怒ってるぞ!?」

「その顔で言われると説得力がすごい……」

 

 立香は某閣下風のメイクで叫ぶロマンの顔に若干の恐怖心を覚えた。これが助走をつけて殴ってくるとしたら、巨漢も裸足で逃げ出すレベルだ。

 そんな恐怖映像を前にしつつも、立香は気を取り直す。

 

「そのノート、ホームズさんから渡されたやつですよね。何か暗号でも隠されてました?」

「魔術的にも科学的にもそんなもんはなかった。過去に一度行われた聖杯戦争……その場所は冬木。俺たちが最初に攻略した特異点だ」

「なるほど、怪しいってことですね!」

「そうだ。だが、そんなことはどうでもいい」

 

 ノアはノートをめくり、見開きの二ページを突きつける。

 冬木の聖杯戦争に参加したマスターとサーヴァントの一覧。さすがは名探偵と言ったところか、そこには召喚された英霊の真名のみならず、切り札である宝具の情報まで記載されていた。

 だが、ライダー陣営に関して語られたことは簡潔な一文。〝今はまだ語るべき時ではない〟と綴られているのみだ。申し訳程度に貼られている泣き顔のシールがそこはかとなく苛立ちを誘う。

 ノアはシールを剥がし、ロマンの額に貼り付けながら述べる。

 

「武蔵もそうだったが、ホームズが情報を伝えられないってことは確実にシモン絡みだ。あの変態魔術師は少なくとも十二年前から何かを仕組んでやがる」

 

 ノアは指先を向け、立香に告げた。

 

「立香、ソフィアを出せ。あいつに全部吐かせるぞ」

「出せって言われても、やり方が分からないんですけど。すっごく魔力吸われて辛いですし」

「……ハッ!! リーダー、まさかそれにかこつけて魔力供給をするつもりですか!? わたしはそんなこと許しませんよ!!」

「マシュ? 魔力供給はそういう意味じゃないからね?」

 

 口元をひくつかせるロマン。歪んだ右頬の上に、ひとりでに文字が浮かび上がる。

 〝私もこう返そう。今はまだ語るべき時ではない、とな〟───ロマンは手鏡で変わり果てた自分の顔面を見ながら、喉を震わせた。

 

「……あの、みんなボクの顔に恨みでもあるのかな?」

「動くなロマン。今からおまえの顔を使って筆談する。いっそ全裸にしても良いな」

「くっ、せめてパンツだけは許してくれ!」

「それで良いんですか!? 半裸になられると以前の面影すら消滅してます!! ドクターがかつてドクターだった生き物になってます!!」

 

 マシュは強引にシャツを頭上から被せた。そこで、無地のシャツに柄が生まれる。知恵の女神ソフィアの顔面をデフォルメしたアイコン。それは自我をもって喋り出す。

 

「少々不憫な光景が見えたから来てやった。魔力を奪われている感覚はないな? 立香」

「ま、まあ……」

「よし。『魔力を失う感覚を消す』術式は上手く機能しているようだ。では話を始めよう」

「待ってください!! それごまかしてるだけじゃないですか!? いきなりぶっ倒れるなんて嫌なんですけど!!」

「そもそもボクを媒介にして話すのやめてくれません!!?」

 

 ソフィアは立香とロマンの訴えを無視して、

 

「結論から言おう。私は確かに全知だが、それを今ここでお前たちに話すようなことはしない。未来に関わる内容にならざるを得ないからな」

 

 ───東洋占術の世界には、天命漏らしという概念がある。

 世の多くの予言者や占い師は得てして曖昧な表現で未来の出来事を話すが、彼らの不鮮明な言動には重大な理由があった。

 それこそが天命漏らし。曰く、未来の出来事を語った者・聞いた者は『その未来まで生きた』とカウントされ、その時点までの寿命を失ってしまうのである。

 否、寿命を失うだけならばまだ生温い。それは個人の運命をすり減らす行為であり、余命を超過した未来を知ってしまった場合、世界はその者が支払うべき負債をなんとしてでも取り立てるだろう。自己破産は許されない。

 生と死、矛盾の狭間。そこに囚われた人間が一体どうなるのか。全知の根源接続者、ソフィアはあえて口をつぐんだ。

 

「立香。お前は私を背負っていくと約束したはずだ。お前が天寿を全うしない未来など私は認めない。死ぬならうんざりするくらいの幸せを飽きるまで続けて逝け」

 

 シャツが引っ張られるみたいにロマンの体ごと回転し、ノアを向く。知恵の女神は不敵に告げた。

 

「それでも知りたいと言うのなら、お前だけがここに残れ。ノアトゥール。教えてやるよ、クソ弟子の計画の全ても、世界が辿る未来も、何もかもをな」

「……チッ。すっこんでろアホニート。二度とおまえには訊かねえ」

「是非そうしてくれ。お前たちは魔術王に勝利しなくては明日の太陽すら拝めぬのだ、クソ弟子の不出来な計画にかかずらっている暇も余裕もないはずだ。なあ、ロマニ・アーキマン?」

「な、なぜボクに振るんです?」

「お前が少し滑稽に見えただけだ。見た目のことではないぞ? ……それじゃあ私は戻る。貯まった漫画を消化するので忙しいからな」

 

 そう言って、シャツの柄がふっと消える。

 おそらくは立香の影の中に戻ったのだろう。ソフィアに影を間借りさせている立香は片足を持ち上げ、自分の影をじっと見つめた。

 

「…………あの人、私の影の中でニートライフ満喫しすぎじゃ?」

「一応最近まで敵だったくせにあの態度、先輩はソフィアさんから高級マンションくらいの家賃を取っても良いと思います」

「立香ちゃんに不労所得を与えたら全部ガチャに溶けていきそうだ……」

 

 ロマンは小さく呟いた。が、ことガチャに関して藤丸立香という少女は怪物である。場合によってはソフィアから与えられる家賃程度では満足できないだろう。どんな人間も必ず狂気的な一面を持っているのだ。

 ソフィアから地味な敗北感を植え付けられたノアは忌々しげに眉をしかめた。

 

「んな話よりも俺をここに呼び出した用件はなんだ。こちとら魔術王をぶちのめす準備で忙しいんだよ」

「ああ、そういえばそうだったね。実はダ・ヴィンチちゃんの工房でメディカルチェックを受けてほしいんだ。本来はボクがやるべきなんだが、この通り忙しくて」

「……おまえはアホか? それくらいの連絡なら端末で済ませ────」

「まあまあ、良いじゃないですか!! ドクターがまぬけなのはいつも通りですし! さあさあ行きましょう!!」

 

 立香はノアの腕を捕まえて、ぐいぐいと引っ張る。マシュはマスターを助けるべく、その逆から力士の如きつっぱりでノアを室内から追い出していった。

 部屋を出る寸前、ノアを除いた三人は目を合わせて頷き合う。

 ───魔術王の神殿へのレイシフトは明後日。長かった人理修復の旅も、これが最後の二日間。

 ロマンは壁のカレンダーに視線を送る。

 日付はあの惨劇の日から進んでいない。

 2016年12月24日。世界に訪れるはずだった明日は、未だ宙吊りのまま停滞している。

 けれど、止まった時計の針が動き出す日は近い。望むべき明日は必ず来る。だからこそ、彼は明日を前倒すことに決めた。

 なぜなら、12月25日は彼が産まれ、大切な家族を失い、血族を手にかけた日。

 

〝───自も他も救ってみせるがいい、ロマニ・アーキマン〟

 

 花の魔術師の言葉が脳裏をよぎる。

 彼はすべてを見抜いていた。知恵の女神もまた同じ。事情を知る者からすれば、今のこの姿はひどく滑稽に映っているに違いない。

 それでも。

 それでも。

 それでも。

 拳を握り締め、虚空に向かって独りごちる。

 

「救われた人間はいたよ、マリスビリー」

 

 ボクには、こんなことしかできないけれど。

 せめて、彼の思い出にこびりついた血を拭ってやりたい。

 ────来たるべき明日に、ボクはいないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチ。数々の名画を残した芸術の才は語るに及ばず、多分野で才覚を発揮したこの偉人は人類史に燦然と輝いている。その知名度はペレアスを束にしても敵わないだろう。

 当時の芸術家の多くは建築家や工学者を兼任し、それぞれの学問は密接に繋がり合っていた。すなわち、現代ほど学問の専門性が高くなかったのである。しかし、彼女ひとりが万能の天才と呼ばれるのには訳がある。

 それはあらゆる分野を高い練度で修めたこと。この現代でも万能の才覚は陰りを見せず、今やカルデアのドラえもんとして不動の地位を確立していた。

 そんな彼女のアトリエ兼工房兼実験室。かつてはムニエルのムニエルとフォウくんのフォウくんを入れ替えるという狂気の実験がなされた場所に、Eチームの面々は集められていた。

 

「さあムニエルくん、これを飲むんだ。ノアくんの霊薬の後遺症から立ち直るための処方箋だよ」

 

 ダ・ヴィンチちゃんは片手にカプセル剤を、もう片方の手に水の入ったコップを持っていた。床にはブリーフと靴下、手袋だけを身に着けたムニエルが足を広げて座っている。

 彼は以前、過労に耐えかねてノアの霊薬に手を伸ばした結果、廊下を全裸で全力疾走する錯乱状態に陥った過去がある。長らく後遺症で幼児退行していたものの、ついに復活する時が来たのだ。

 ダンテはほっと胸を撫で下ろす。

 

「いやあ、ムニエルさんが正気に戻れてよかったですねえ。最終決戦に赤ちゃんが紛れ込んでいる事態になりかねませんでしたから」

「それで言ったらアンタもですけど。せめて宝具用の詩100冊は用意してきなさい。それなら魔術王も昇天させられるでしょ」

「ジャンヌさん、無茶を言わないでください! 私は時間を掛けて一作を仕上げるタイプなんです! いつも強化のために綴る即興詩も正直納得してません!!」

 

 詩人は迫真の表情で言った。ダンテの代表作である神曲は放浪生活の中、十数年もの月日を掛けて完成している。彼の才能と技量からすれば詩など湯水の如く湧いて出てくるものだが、作品として仕上げるのはまた別の話なのだ。

 ペレアスは咎めるような目つきを向ける。

 

「仕上げるっつってもお前、帝政論と俗語論書き上げてないだろ。いいから書けよ」

「心無いその言葉が過去何本の筆を折ってきたと思うんです!? 放浪しながら神曲を完成させたのをもっと褒めてくれてもいいんじゃないですかねえ!!?」

「リーダー、私たちはこの醜い争いをいつまで見てればいいんですか」

「醜いのはダンテだがな。ダ・ヴィンチ、とっととムニエルに薬飲ませろ」

 

 ダ・ヴィンチは部屋の隅を見つめ続けるムニエルの口元を掴み、薬を注ぎ込む。

 喉が震え、薬を嚥下する。のっぺりしていたムニエルの目つきに鋭さが戻り、表情を青くして頭を抱えだした。

 

「ウ、ウゥッ……お、俺は今までいったい何を……!? サンドイッチの上にパセリ乗せたり、刺身にタンポポ置いたりしてた記憶だけが蘇ってくる…………!!!」

フォフォウフォウ(乗せなくてもいい仕事)

 

 ノアは気味が悪いほど穏やかに微笑み、ムニエルの肩を抱く。

 

「大丈夫かムニエル……!! おまえは魔術王の呪いで一時的に正気を失ってた。よく戻ってこれたな、俺たちにはおまえが必要だ」

「り、リーダー……!! くそっ、やめてくれ! 俺はそういうツンデレに一番弱いんです!!」

「ここぞとばかりに好感度稼ぎに行ってんじゃねえアホマスター!! ムニエル騙されんな、そいつは相変わらず邪悪の化身だぞ!!」

「というかアレ、魅了の魔術かけてません!? ムニエルさんがノアさんの奴隷にされてしまいますよ!!」

 

 結局、ムニエルの正気はたった十数秒でまたしても失われた。パンツ、靴下、手袋の三種の神器を身に着けた彼はノアを護るように仁王立ちする。

 まるでテレビゲームの雑魚敵のような出で立ち。マシュとジャンヌは同時に己の得物を構えた。

 

「まさかムニエルさんが洗脳されるなんて! 心苦しいですが、やるしかありません! これがわたしたちのFATAL BATTLEです!!」

「ククク……心優しいお前たちにかつての仲間を手にかけることができるかなァ!? このムニエル、堕ちたりと言えども甘く見ると火傷するぞ!!」

「くっ、この威圧感……家の近所に出没するパジャマおじさんと同等かそれ以上! みんな、油断しないで!!」

「立香、落ち着きなさい。あんなの半裸の変態よ!? ていうかパジャマおじさんって誰!!?」

 

 ノアの魔術の後押しを受け、ムニエルは夏場の蚊のように飛びかかる。無駄に洗練された無駄のない無駄な動きは見事にサーヴァントたちを翻弄──────

 

「『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』!!」

 

 ────するはずもなく、後方のノアごとムニエルを焼き払った。

 煤まみれになった二人は人形の糸が切れたみたいにぱったりと倒れる。立香は白目を剥いて呻くノアに駆け寄って、

 

「どうせ無事でしょうけど、大丈夫ですかリーダー!!」

「お、俺は誰だ……分からない……昔の記憶だけが蘇ってくる……遠見の魔術でインサイダー取引してボロ儲けしたり、触媒の市場で礼装流して価格破壊したり、ネット魔術の実験で違法エロサイトに呪いの画像バラまいたり、あと─────」

「過去の悪行多すぎません!? いや、最後のは珍しく善行ですけど!!」

「なんでこいつ時計塔の連中に捕まってないのよ」

「ノアさんですからねえ」

 

 ジャンヌとダンテ含め、その場の全員が頬を引きつらせた。与えられた才能を間違った方向に用いるのは魔術師あるあるだが、ノアは意図的にやっている分さらに質が悪い。

 放っておけば無限に過去の悪行が出てきそうなところで、立香のクルミ大の脳みそに閃きが生じる。

 先に行った魅了の魔術のように、人の精神に作用する類の術には掛かりやすい状況、効きやすい場面が存在する。立香はノアの目の前に人差し指を突きつけ、くるくると円を描く。

 

「り、リーダーはだんだん私のことがす、好───」

 

 マシュは立香の背後からぬっと顔を出す。その表情は昆虫もかくやと思わせるほどに無機質かつ機械的だった。

 

「先輩? まさか暗示をかけようとしている訳ではありませんよね? ん? どうなんですか? 流石に卑しすぎると思いますよ?」

「あ、暗示なんて滅相もない。私には無理でございます。このように魔力も……」

「先輩には髪飾りがあるでしょう。貯まった魔力を全ツッパすれば、今のリーダーには効くはずです。ということで、肝心の暗示の内容についてお聞かせ願えますか」

 

 立香は残像が生じるスピードで振り向く。

 

「ジャンヌ、助けて」

「罪を受け容れなさい。それが救いに繋がる唯一の道よ」

「なんか聖女の方みたいなこと言ってる……!!?」

「盛り上がってるところ悪いけど、そろそろメディカルチェックを始めてもいいかな? ノアくんとムニエルくんは治療からだけど」

 

 そんなこんなで、若干名の重傷者を出しながらもダ・ヴィンチちゃんによるメディカルチェックは開始された。体重・身長の確認から始まり、五感の機能測定等々、彼女にして真面目すぎるくらいの基礎的な内容である。

 ───しかし。それこそはローマ帝国天才美少女軍師藤丸立香と、カルデアの音の鳴る置物ことロマンによる仕込みであったことをノアは知る由もない。

 昨日の夜。ロマンはボイラー室に立香とマシュを呼び出した。うら若き少女二人を人気のない密室に誘うという、傍から見れば犯罪になりかねない行為に彼女たちが応じたのは奇跡と言っても良いだろう。

 

〝二人とも、ボクたちの身近で12月25日と言えば何を思い浮かべる?〟

〝人の淫らな欲望が弾けて混ざる現代のサバト、でしょうか〟

〝スマホゲームのイベント……限定ガチャ……延々と続く通常演出……溶けていく石……ウッ! 頭が!!〟

〝キミたちほんとに年頃の女の子!? もっとこう、あるじゃないか! 捻くれずにありのままの答えを出してくれ!!〟

 

 あまりに必死な三十代男性の問い掛け。マシュはため息とともに述べる。

 

〝仕方ありません。答えはずばりクリスマ〟

〝リーダーの誕生日ですよね〟

〝その通りだ立香ちゃん! 人類悪一歩手前の邪悪の化身だけど、たまにはご褒美をあげても良いと思うんだ。第七特異点の祝勝会兼ノアくんの誕生日会を開くつもりなんだけど〟

〝どうせだったらサプライズにしましょうよ! リーダーの顔が驚きで歪むのを見てみたいです!〟

 

 マシュは自信満々に言い放った回答を華麗にスルーされ、床に両手足をついて項垂れた。暗雲立ち込めるなすびを背景にして、立香とロマンは軽快に話を進めていく。

 

〝でも、カレンダー的には24日で止まったままですよね。カルデア時間だととっくに過ぎてますし……なんか中途半端じゃないですか?〟

〝うん。でもね、キミたちが生きるべきは人理焼却なんて関係ない時間だ。祝い事なんだから、一日くらい前倒ししても構わないだろう?〟

 

 それに、とロマンは続ける。

 

〝ほら、魔術王に負けたら誕生日会どころじゃないし…………〟

〝動機が後ろ向きすぎません!?〟

 

 そうして、サプライズの準備は進められた。クリスマスにしろ誕生日会にしろ、多くの人がメインと考えるであろうイベントがプレゼントだ。

 だが、サタンともドS談義を繰り広げられるであろうノアに下手なものを渡せば、最悪魔術王より先に彼を排除しなくてはならなくなる。けれど、せっかくの贈り物なのだから彼が喜ぶ物が良いだろう。

 ちなみに、どこで聞きつけてきたのかリースが〝裸にリボン巻いて閨で待ち構えてればイチコロですわ〟との念話を送ってきたが、立香は全力で無視した。

 余計な邪魔もありつつ、三人は絶賛幼児退行中だったムニエル以外のカルデアメンバーを抱き込み、ある作戦を展開することにしたのだった。

 

「メディカルチェックもこれで終わりだ。全員の精神状態を把握するために、ダ・ヴィンチちゃん特製マシンで仕上げと行こう!」

 

 そう言って、彼女はお手製の装置を引っ張り出してくる。

 マッサージチェアのような形状をした椅子。背もたれの頂点からモニターが伸びており、絶妙なバランスの悪さでありながらも何とか自立していた。

 ダ・ヴィンチは咳払いをひとつ挟み、濁った裏声で、

 

「てれれってれ〜、『究極完全態・思考透視装置』〜〜。おっと、頭にアルミホイル巻いてる人は外してくれよ? じゃないと電波が遮断されちゃうからね!」

フォフォウフォウ(超技術も大概にしろ)

「いきなり究極完全態を出されても困るのですが。進化モンスターは段階を踏まないと燃えません」

「メンタルケアにしてもプライバシー侵害が甚だしくねえか?」

「心をすべてさらけ出すことが治療に繋がるとは思えませんがねえ……」

 

 作戦の一環であることは知りつつも、マシュとペレアス、ダンテはツッコまざるを得なかった。どんなゲームにしろ、進化とは積み重ねがあってこその進化である。力みなくして解放のカタルシスはありえないのだ。

 座った者の思考を映像としてモニターに投影する装置。これを用いて、立香たちはノアに適したプレゼントを選ぶ腹積もりであった。

 

「思考を映像化すると言っても、考えたことをそっくりそのまま反映する訳じゃない。こちらが投げかけた質問に対して反射的に浮かんだイメージを形にするものと思ってくれ」

フォフォウ(パクノダかな)?」

 

 つまり、虚偽は通用しない。装置が読み取るのは深層の意識。これを潜り抜けられるとしたらジキルとハイドくらいなものだろう。

 立香はちらりとノアを流し見る。物欲のタガが外れたノアは早くも興味深そうな目で『究極完全態・思考透視装置』を眺めていた。

 無論、ヤツに装置を渡す選択肢はない。彼がこれを手にすれば、行く末はひとり1ロールアルミホイルを携帯しなければならない絶望の未来である。

 ムニエルの肩に悪魔の手が這い寄る。

 

「行け、ムニエル。おまえがトップバッターだ」

「誰が好き好んで脳みその中身晒さなきゃいけないんだ!? 言っとくけどなあ、取り繕ってない人間の考えなんて99.9%犯罪的だぞ!? 昨今のインターネットを見れば分かるだろうが!!」

「オイオイオイ、そこまで拒否するってことは何か後ろめたいことでもあんのか? 企画変更だ、おまえの闇を事前に暴いてやる」

「闇だらけのくせに後ろめたさとかないアホが何か言ってるよォォォ!!!」

 

 ムニエルは強制的に連行され、椅子に縛り付けられた。自分に矛先が向くことを恐れた立香たちは遠い目でムニエルの処刑を見守っていた。

 ダ・ヴィンチは塗装もされていないヘッドギアを被せて問う。

 

「ムニエルくん、キミがいま最も欲しいものは何かな?」

「───唸れ俺の良心んんん!!」 

 

 ────夕暮れの教室。

 朱く染まる学び舎に残る人影はとうに少なくなっていた。音と言えば練習に精を出す運動部の声が遠くから響く程度。普段は喧噪に包まれている室内は嘘のように静かだった。

 反面、心臓はうるさいくらいに胸を叩いていて。

 その原因がどこにあるかなんて、火を見るよりも明らかだった。

 

〝オタクくんってさぁ……モブの量産機が名有りの専用機に一矢報いるのとかが好きなんでしょ? マジチョロ〜い♪〟

 

 ふわりと香る、柔らかな匂い。肩が触れ合い、肌が粟立つ。互いの椅子をくっつけあい、彼女にからかわれ続けるのが放課後の日課になっていた。

 

〝うぅっ……あ、あとは無能力者が持ち前の機転と技術で能力者を倒したりするのが……〟

〝えー、ほんと? 私もだよ! ふふ、アタシ、だんだんオタクくんの好み分かってきちゃった〟

 

 彼女は唐突に立ち上がる。端正な顔が近づき、にまりと笑みをかたどった。左手が胸元に、右手がスカートの縁にかかる。

 その両手はゆっくりと動いていき、布の下に隠された秘密を垣間見せていく。

 

〝じゃあ、こういうのも好きでしょ。マスクが割れて素顔が出ちゃうやつ……♡♡〟

〝そっ、そんなっ、日曜日の朝がギルガメッシュNIGHTになっちゃうよォォォォ!!!〟

 

 そこで、モニターの映像は打ち切られた。

 しん、と薄ら寒い静寂に包まれる工房。ムニエルは装置の上でこの世の終わりみたいな顔をして、ノアとダ・ヴィンチを睨んでいた。

 殺意に塗れた視線を飄々と受けつつ、ノアは平坦な口調で言う。

 

「オタクに優しいギャルがおまえにも優しいと思うなよ」

「うるせェェェェ!!! お前に俺のギャル子ちゃんの何が分かんだ!! あの娘はみんなに優しいくせして俺にだけはちょっと意地悪してくるんだ!! なぜなら俺のことが好きだからァ!!!」

フォフォフォウフォフォウ(なにこの哀しきモンスターは)

「……にしても、よく反射的な思考であそこまでストーリー立てた映像が出てきたな?」

 

 ペレアスは首を傾げる。ジャンヌは呆れた表情で答えた。

 

「どうせ普段からああいう妄想してたんでしょ。じゃないと咄嗟にあんなの出てこないわ」

「ここまで痛々しい感じは久しぶりですね。わたしは共感性羞恥で叫びたくなってきました」

「ま、まあ、妄想する分には誰にも迷惑をかけませんから。古今東西の作家を見てください、研究のためという名目でプライバシー侵害レベルの所業をされてますよ」

「ダンテさん、それ慰めになってます?」

 

 立香に言われ、ダンテはばつが悪そうに沈黙した。世界三大詩人と言っても、言葉で言い返せない時はあるのだ。

 羞恥で真っ白に燃え尽きたムニエル。目の焦点は合っておらず、唇の端から唾液が垂れている。ダ・ヴィンチちゃんが拘束具を外すと、彼は床でガクガクと痙攣しながら呻いた。

 

「お、俺は誰だ……? 複数人で行った夏祭りであの娘と途中で抜け出して二人きりで花火見たり、スキー場で遭難して何とか見つけた廃屋で暖めあったりした記憶がある気がしないでもない……」

「リーダー、ムニエルさんの頭のセーブデータがまた消し飛びました!!」

「ファミコンのカセットくらい儚いな」

「儚いっつっても存在しない記憶だろ」

 

 ペレアスは心の中でムニエルに対して十字を切る。

 意外な犠牲はあったものの、計画は続行中だ。なんとかしてノアを装置に座らせなくてはならない。ペレアスはさらりと言った。

 

「ノア、次はお前が座────」

 

 椅子をなんとなしに見遣ると、今の今まで沈黙していたリースが期待で頬を紅潮させながら腰を落ち着けていた。

 

「…………何してんだ!?」

「見ててくださいませあなた様っ! この機械でペレアス様への愛をみなさんに知らしめてみせますわ!」

 

 一体何の自信があるのか、リースはがっぽりとヘッドギアをはめ込んでいた。立香は全体重をかけて引っ張るが、置物と化したリースは動く気配すらない。

 

「ここにいる全員うんざりするくらい見せつけられてきましたけど!! 本来の趣旨を忘れてません!?」

「先輩、恐れる必要はありません。質問さえしなければ装置は動かないはずです! 質問さえしなければ!!」

「うん、全くその通りだ。で、リースさんが欲しいものは?」

「「ダ・ヴィンチィィィィ!!!」」

 

 そうしてモニターが映し出した光景は、

 

 

 

 

 

 

 

〝あんっ♡ あっ♡ ああっ♡♡ ペレアス様っ、わた〟

「ガンドォォォォォォ!!!!」

 

 案の定、アウト寄りのアウトだった。

 藤丸立香渾身のガンドがモニターを粉砕し、装置から黒煙を噴き上がらせる。ダ・ヴィンチはわざとらしく顔面を手で覆い、泣き伏せる。

 

「な、なんてことをするんだ立香ちゃん!? 私のかわいい作品が墓地にリリースされちゃったじゃないか!!」

「それはこっちの台詞です! R-18の領域に片足突っ込んでたじゃないですか!」

フォウフォフォウ(言うほど片足か)?」

「流石はダ・ヴィンチちゃんでしたわね。私が今欲しいものを寸分の狂いもなく再現してみせるなんて……みなさんも驚いたのでは!?」

「結果なんて分かりきってたわ! こんなつまんないオチなかなか見ないってくらいにはね!!」

 

 ジャンヌは額に青筋を立てて怒鳴りつける。湖の乙女は実写版電撃ネズミのように顔をくしゃっと歪め、両の人差し指を擦り合わせた。

 

「ひでーですわ……ジャンヌさんとはいつも円卓の騎士のカップリング妄想を語り合っている仲ですのに……」

「ちょっ」

「何をしているんですかジャンヌさん。第三特異点の時のアレで懲りなかったんですか」

「ちなみに最近の推しはラモラック卿とペレアス様だそうですわ」

「それをリースさんはどんな気分で聞いてるんですかねえ!?」

 

 思ったよりも倒錯した内容だった。相変わらず無敵を誇る精霊は平然としているが、ジャンヌは己の急所を暴かれ、赤面して座り込む。

 次々と秘密が曝け出されていく地獄。立香は計画が音を立てて崩れ去って行くのを感じた。ノアは既に装置に興味を失い、茫然自失のムニエルに霊薬の治験をさせようとしている。

 立香は心中でムニエルに合掌を捧げつつ、ノアに問い掛けた。

 

「……いま、欲しいものってあります?」

 

 ノアは即答する。

 

「魔術王とシモンのアホどもが馬鹿面晒して死ぬ呪い」

 

 ───なんとかしてソフィアに訊いてみよう。立香は自身の影を爪先でつついたのだった。

 なお、知恵の女神からの返答は〝最近流行りのChat GPTにでも訊け〟とのことだった。最近とはいつの最近のことなのか。気付いてはいけないことに気付きかけた瞬間、その問答の記憶は消されたと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西の空にベツレヘムの星が輝くより以前。

 その時代に誕生した魔術師の家系は、興りの際に神から責務を授かる。

 それはヒトへの命令であり、絶対遵守の使命。一族の血の一片までをも命令に殉じさせ、辿るべき運命をも決定する不可侵の掟。

 すなわち、冠位指定。

 長き歴史を持つ魔術師の家系は呪いとも言うべき命令の成就に、今もなお縛られ続けている。ともすれば、魔術師に与えられた最大にして最後の命題───根源への到達を度外視してでも。

 

「それじゃあ、シモンにも冠位指定はあるんだね」

 

 七つの結晶を戴く舞台。結晶に取り囲まれるようにひとつのピアノが置かれ、礼服を着込んだ碧眼の美男子が十本の指で黒白の鍵を踊らせる。

 その音色は筆舌に尽くし難く。

 失意のうちに湖を渡る葬送のゴンドラ。打ち寄せる波は緩やかで、空は分厚い雲に覆われている。湿り気を帯びた空気は粘りつくように肌にまとわりつく。男の演奏は、そんなイメージの中へと観客を引きずり込む異能だ。

 赤い蛇を模したパーカーを纏った幼子は、それを最前席にて聞き入っていた。

 その表情に色はない。まさに体感している失意も、不吉な予感も、凪のように受け止めている。

 その隣。褐色金髪の女魔術師、シモン・マグスは軽やかに答えた。

 

「その通りだよ。知恵の女神たるソフィアから私はひとつの使命を授かった。〝神の偽なるを証し、世の流出源へ辿り着け〟とね」

「……ふ〜ん」

 

 ヘビパーカーの子どもは左腕で籠を抱えていた。その籠には山盛りのキノコが詰まっている。幼子は見るからに危険な緑色をしたキノコを手に取り、口に運ぶ。

 

「あの人も、そうなのかな」

 

 光の失せた虚ろな瞳が、結晶の一角を見据える。

 透き通る水晶の内にはひとりの青年が囚われていた。

 天をそよぐ川のような金色の髪。白を基調とした礼装を纏い、細身の剣の如き杖を携えている。

 端正な美貌は微動だにしない。さながら眠りについた瞬間から、時間が止まったみたいに。

 魔術師は小さく頷く。

 

「かもしれないな。冠位指定にしろ自らが抱いた願いにしろ、彼が目的を果たさんとする世界は確かにあったさ」

「見てきたみたいな口振りだね」

「ああ、見てきたとも。そして、そこに到る芽は私たちでひとつずつ丹念に刈り取っていっただろう?」

「うん。どうしてシモンはそんなに物知りなんだい? 知恵の女神でもないくせに」

「それは──────」

 

 その時、紡がれていた音色が崩壊する。

 壇上の男は両手を鍵盤に叩きつけていた。鍵盤が炸裂し、辺りに黒と白の鍵が散らばる。男はそれらを踏み砕き、怒り狂った相貌を二人に突きつけた。

 

「…………君たちは誰が演奏しているのか理解しているのか?」

「きみ以外にいるのかな、六本指」

「またピアノを壊したな。困ったやつめ。これで何台目だ?」

「黙れクソ客風情が!! ここは私のステージで私の独壇場だ! ならば、初めて恋を知った乙女のように我が音色に酔い痴れていろ!! そうして最後には気絶するのが良い客というものだ!!!」

 

 男は鼻が触れ合う距離まで近付いていた。シモンと幼子は彼の頬を肘で押し潰しながら遠ざける。

 虚ろな瞳の子どもは男の鼻の穴にキノコを突っ込んで、言い放つ。

 

「きみの演奏は心を揺らすけど、魂にはあまり響いてこないよ。その指、もっと上手い使い方があるんじゃない?」

 

 男は一瞬面食らい、

 

「………………──────ふ、ふふふふ」

 

 くぐもった笑い声を響かせ、拳を握り固める。

 

「そういうことは楽譜を読めるようになってから言えクソガキがァーッ!!」

 

 そして、彼は年甲斐もなく全力の打拳を子どもの顔面目掛けて振り抜く。

 べきり。骨が潰れる不協和音。ただしそれが鳴り響いたのは幼子の顔面ではなく、男の拳からだった。

 幼稚園児が描いたみたいに不格好な右手を押さえ、彼は床をのたうち回る。

 

「うがああああああああ!!!」

「……商売道具の手を台無しにするなんて、この人ほんとにキャスターなのかい?」

「紛れもなくキャスターだよ。魔術師という称号を担うにあたって、彼ほど適したピアニストはいまい」

「囀っている暇があるならこの手を治せシモンンンンン!! 私の指は人類の宝そのものだぞ!!」

 

 シモンはため息をつき、治癒魔術をかけるべく立ち上がる。が、途端に彼は視線を上方に飛ばした。

 コンサートホールの天井が裂けている。隙間より覗くのは青き空ではなく、この世ならざる虚空。

 ぎょろり、と無数の眼光が閃く。

 ひとつひとつが極度の呪詛を伴った魔の瞳孔。シモンもまた床に虚空を開き、未だにのたうち回る男を蹴り落とす。

 裂け目を押し広げる触手の群れ。七十二の魔神の名を冠する柱が、彼方と此方の断裂を固定する。

 渦を描く魔神たちの中心より、ひとつの影が降りた。

 

「我が計画の裏で蠢く蟲ども。目障りだ、不愉快極まる」

 

 ───故に、ここで排除する。

 魔術王。人理焼却を引き起こした黒幕は、凍てつく眼でシモンらを見下す。

 吹き荒れる殺意の嵐。悪意の氾濫。常人ならばその一片でさえも発狂死する気勢の最中、魔術師は刹那、意識を他所に傾けた。

 異次元を隔てた場所に到達するには、向こうからの干渉またはその場との繋がりが必要だ。密室に閉じ込められた人間が外界を知り得ないように、知らない場所に行くことはできない。

 次に考えるべきは前者と後者、どちらの経路を使ったか───否、そんなことは分かりきっている。

 両方だ。

 魔術王の権能をもってすれば、己の眷属が接触していたAチームとの繋がりを辿ることなど容易。

 

(加えて、ピンポイントで私の座標に来たということは)

 

 ■■■が手引きをした。黒白の偽神サクラを送り出し、その最期を看取った悪魔外道。

 ヤツの性は誰かに試練を与えることだ。

 道を阻み、惑わし、それなのにその先へと進むことを望む矛盾の塊。魔と呼ぶに相応しいあの存在は、果てのない愛をもってヒトを魔道へと突き落とす。

 故に、これもまた試練。魔術王を乗り越えよという命令。───だが、前のめりになる戦意を、小さな手で制される。

 

「ぼくがやるよ」

 

 両頬をリスのように膨らませて、子どもは言った。

 口内に満載したキノコを一息に飲み下し、手のひらを擦り合わせる。

 

「ごちそうさまでした。シモン、ロクスタにはもっと毒味が強い方が好みだって言っておいて」

「随分と余裕だな? 相手は魔術王だぞ。本来なら『三位一体の獣(トリニティ・ビースト)』全員でかかる敵だ。ましてや未だ幼体だろう」

「余裕なんかじゃないよ。油断もしてない。子どもだからって過保護にならないで、任せてよ」

「……そうか、分かった」

 

 シモンは劇場の最後列の席に座り、幼子と魔術王の対峙を眺めた。ヘビパーカーの子どもは長く伸びた前髪から透かすように、魔術王の姿を捉える。

 

「ずっと気になってたんだ、きみのこと。ねえ、世界を焼いた気分はどうだったのかな」

「……感傷などありはしない。人間が路傍の石を蹴飛ばしたところで何も思わないように、ただ焼いただけだ」

「そっか、ならよかった。だから駄目だ」

 

 足元から伸びる影。それは不自然に赤く、大きく広がっていき、ホールを埋め尽くす。

 その影が作り出す絵は赤き竜。

 質量をも伴う幻像であった。

 

「命を奪う行為はすべからく悪だ。牛を育てる人間も、牛を屠殺する人間も、牛の肉を食べる人間も、全員が罪深く許され難い。もちろん、人間だけじゃないけれど。ぼくもきみも、みんなが悪だ」

 

 竜の影は爪を立て、牙を剥き出しにする。

 

「計画のためとか、ただ焼いただけとか、そういうのは言い訳にならない。数十億の人間を殺した罪悪の重みにきみは堪えられるのかな」

「貴様はひとつ勘違いをしている」

 

 魔術王が言葉を発した瞬間、魔神柱と竜の影は激突した。

 

「私は赦しなど請うてはいない。数十億のヒトが恨みを抱くのもまた道理だ。そんなモノに意味はないがな。死者の想いが現世を歪めるというのなら、あの世界は私が手を下さずとも滅んでいたはずだ」

 

 赤き竜は牙を用いて肉を喰い破り、爪を振るって根元から一度に数十本の触手を刈り取る。しかし、魔神柱は即座に再生し、影にその身を突き立てる。

 

「…………うん、確かに。でもね、確実に言えることがひとつあるよ」

 

 だが、影は揺らぐことすらなかった。

 次元が違うとはまさにこのこと。かたや別次元から投射された己の影、かたや自らが従える眷属。その戦いに余人の理解は及ばない。たとえサーヴァントであろうと、彼らの前には赤子も同然だろう。

 なぜ、本体が動き出さないのか。

 それは相手に手の内を明かすことを恐れたが故。たった一手の誤りが王手と化す獣同士の戦いは小康状態に陥りつつあった。

 

「普通に考えてもみなよ」

 

 幼子は舌なめずりをする。

 その舌の先は、蛇のように裂けていた。

 

「世界を滅ぼしたラスボスと、世界を取り戻そうとする人間たち。こういうのはね、前者が負けるって相場が決まってるんだ。ドラゴンでクエストなRPGよろしく、さ。自分から魔王の役どころを狙うなんて、もしかしてきみは負けたがりなのかい?」

 

 異次元の小競り合いが止まる。

 魔術王は表情を深く大きく歪め、殺気を込めて、呪いのように言葉を吐く。

 

「何を言い出すかと思えば、くだらぬ。蒙昧なる人類が考え出した話の筋書きに私を当てはめるとは」

 

 幼子はこてんと首を傾げて、

 

「ぼくにはきみが人間に見えるけれど……?」

 

 直後、両者は動いた。

 示し合わせたように、右腕を振りかざす動作。

 魔術王の右手首から先がかじり取られたみたいに消滅し、子どもの右腕から肩にかけてが炭と化して崩壊する。

 力の差は歴然。一度の衝突で、 両者は既に魔術王の勝利を確信した。

 

「ぼくたちの計画を潰すのなんか簡単さ。きみが勝てばいい。それだけでぼくたちは存在意義を失うよ」

 

 今、ここで全身全霊をかけて戦ったのなら、やはり魔術王の勝利は揺るがない。しかし、相手もまた獣。再生も復活も能わぬ痛手を被る可能性さえあるのだ。

 果たして、その傷を抱えたままでカルデアに勝てるのか────当然だ。が、那由多の果てほどの確率、敗着に至る道筋を残すことになる。

 であれば、退くか。受けた傷はとうに治った。この程度はかすり傷にも満たない。目の前の幼き獣一匹、楽に捻り潰せるだろう。

 魔術王が導き出した答えは、

 

「私に貴様と戦う不利益が勝ると思わせてみろ。次第によっては見逃してやる」

「いいね、そうしよう。シモン、ぼくが死んだら墓前にきのこを供えておくれよ」

「仕方ない。癪だが、きのこの山を用意するとしよう」

「きのこの山なんてあるのかい? 困ったな、お腹いっぱいになりそうだ」

 

 魔術王と赤き竜はその真体を打ち明け。

 獣同士の闘争を再開した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、カルデア。

 

「勝手に戦え!!!」

 

 マシュとともにパーティーの計画を練っていたロマンは唐突に叫んだ。マシュは含んでいたコーヒーを噴き出し、咳込みながら言う。

 

「い、一体どうしたんですか、ドクター」

「いや、なんか言っとかなきゃいけない気がして…………」

「仮眠でも取ったらどうです?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗い部屋に一台のテレビが据えられ、光を放っている。

 それは往年の心霊番組を流していた。

 ───これは、S市お住まいのT・Sさんの本当にあった怖い話。

 元々体が弱く、休みがちだったTさん。その日は早退し、昼間に帰路についたと言う。

 人混みでごった返す街中。Tさんはひとりの女性とすれ違い、刺激的な感情を覚えた。

 白昼夢。その女性をナイフでバラバラにして、血の海に沈める幻覚。

 Tさんはそのことを気の迷いで見た夢として片付けた。翌日、朝の校門にはその女性が待ち受けていた。

 走り、逃げても執拗に女は追ってくる。

 ついに路地裏に追い詰められ、彼女は告げた。

 

「『───わたしを殺した責任、ちゃんと取ってもらうんだから』」

「「ギャアアアアアアアアア!!!」」

 

 立香とノアは抱き合って叫び声をあげる。

 ノアの自室。照明が落とされた部屋の中で、二人は『カルデア職員特選ホラー集Vol.3』を鑑賞していた。

 提案したのは立香。朝食を終えたすぐ後、彼女はノアにホラー鑑賞会を提案したのである。

 ミッション前の宇宙飛行士が別室に隔離されるように、決戦を控えたマスターたちはとにかくコンディションを崩さないように行動を制限されていた。

 つまりは暇。しかも昼には例のサプライズも用意しているため、ノアが会場の食堂に入り込まないようにしなくてはならない。

 そこで立香が取った手段は幽霊が苦手なノアの醜態を見ることだったのだが、ひとつ大きな誤算があった。

 ───なんだかんだ自分も、怖いのは苦手だった。

 

「そ、そんな大きい声出して、リーダーの威厳ってものを考えてくれないと。やっぱり怖いの嫌なんじゃないですか」

「おいおいおい、おまえこそ敬語が出てんぞ。動揺してる証拠じゃねえか。さっさと負けを認めやがれ」

「いやいやいやいや、これはまだ慣れてないだけですから。今までずっとこれで、いきなり変えるなんて難しいですよ」

「今のところはそういうことにしておいてやるよ。次のホラビ持ってこい」

 

 立香は適当に二本のホラービデオを手に取る。

 

「『カレー女、パスタを食う』と『美少女メイドの心霊スポット探訪記 〜部屋をお連れします〜』のどっちにします?」

「おいなんでグルメレポートが混ざってんだ。今回の趣旨と外れてんじゃねえか。一択に決まってんだろ。……『カレー女、パスタを食う』を再生しろ」

「やっぱり怖いんじゃないですか!! 明らかに無難な選択肢取ってるじゃないですか!!」

「こういうのが案外怖かったりすんだよ。ケツ出し幼稚園児のアニメだってたまに怖い話挟んでくるだろ。いいからやれ」

 

 立香は渋々『カレー女、パスタを食う』を再生した。

 で。

 

「『…………ええ、カレーしか食べない先輩が、なぜかパスタを食べてたんです。あれには参りました。前世はインド人確定って人がパスタですから。驚いてナンにも言えませんでしたよ』」

「「ギャアアアアアアアアア!!!」」

 

 先程の反応が焼き直しされる。

 テレビの中では、眼鏡を掛けた優男がすりガラス越しに証言していた。普段カレーしか食べない女性がいきなりパスタを食べるのである。その恐怖と驚愕は想像を絶するに違いない。

 しかし、転んでもただでは起きないのが藤丸立香という少女である。

 こちらを抱き寄せるたくましい腕。胸板は厚く、自分がすっぽりと収まってしまう。否応なしにも分からされる違いに、心臓はせわしなく動いていた。

 これは悪くない。むしろ良い。目的とは異なるが、これはこれで役得である。

 胸元を両手で引き寄せつつ、

 

「じ、じゃあ次は『美少女メイドの心霊スポット探訪記 〜部屋をお連れします〜』で。ノアが入れてください」

「カレー女以上のが出てくるとは思えないがな。……くっついてくんじゃねえ、邪魔だ」

「大丈夫です、私のことはひっつき虫くらいに思ってください。ほんと大丈夫なんで」

「俺の都合を考えろアホ!」

 

 ノアは自分に特大ブーメランが突き刺さる言葉を吐きつつ、映像を再生する。

 直後、テレビに映る赤髪の美少女メイド。彼女は画面越しの立香たちに人差し指を向け、誘うように円の軌跡を描いた。

 

「『このビデオはご覧になっているあなたをまず準備運動がしましょう』」

 

 誤字に誤字を重ねたような発言。助詞がバラバラになっており、理解につかえる内容。立香とノアはそれを聞き、意識を彼方に連れ去られた。

 ……数十分後。サプライズの用意が整い、マシュは立香の部屋を訪れた。無論、ヤツらが二人きりになっていることへの不満はあったが、彼女はそれを飲み込んで扉を開ける。

 

「先輩、リーダー。昼食の時間です」

 

 マシュが目にした光景は、テレビの前に体育座りする二人。液晶の中ではメイドがモップを右へ左へと揺らしていた。

 二人は錆びたゼンマイ人形みたいに振り向く。その目のハイライトは消え失せている。

 

「ノ……リーダー、マシュを来ましたよ。ご飯が食べに行きましょう」

「そうだな。ちょうど腹に減ってたところだ」

「……お二人とも? 口調がおかしくありません? 誤字報告されてしまいますよ?」

「何言ってんだキリエライト。俺たちに普通だろ。とっとと飯食いは行くぞ」

「やっぱりおかしいんですが!? 本当に何があったんですか!!?」

 

 立香はへらへらと笑う。

 

「嫌だなあ、私たちにいつも通りなのに」

「だから言葉! 言葉が変です! え、新手のスタンド使いの攻撃ですか!?」

 

 そこで、マシュはテレビの前に転がるDVDのパッケージを発見する。嫌な予感を覚え、彼女は二人を押しのけてそれを掴んだ。

 『美少女メイドの心霊スポット探訪記 〜部屋をお連れします〜』。双子だろうか、瓜ふたつの少女が並んでポーズを取っている。

 カバーの裏から別のカバーがはみ出ている。マシュは表を剥ぎ取り、下に隠されたタイトルを目撃した。

 

「『美少女探偵の催眠講座 〜あなたを犯人です〜』…………こ、これはっ!!」

 

 彼女には見覚えがあった。数年前のカルデア、職員の誰かが持ち込んだこのDVDは甚大なミーム災害をもたらした。それ以来倉庫の奥深くに封印されたはずだが、なぜかこの呪物はここに存在している。

 

「オブジェクトクラスをSafeからEuclidに格上げしなくてはなりませんね……!! 先輩、お許しください!!」

 

 ごすごす、とマシュは二人の脳天に鉄拳を落とした。

 すると、彼らの目に光が灯る。

 

「……ハッ!! 私たちは一体何を!?」

「ああ───俺でさえ何をされたか分からなかった。頭がどうにかなりそうだった……催眠術とか超スピードとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わった気がする……」

「いいえ、それは催眠術です。そして頭がどうにかなってるのはデフォルトです」

 

 ということで、カルデアが誇る後輩なすびのファインプレーによってミームの感染は未然に防がれたのだった。

 DVDを倉庫に押し込めた後、三人は食堂に向かう。

 一行が食堂に入り込んだのと同時、クラッカーの破裂音が盛大に鳴り響いた。サンタのコスプレをしたロマンは両手を上げて、

 

「ノアくん! 一足早い誕生日祝いだ! おめでとう!!」

 

 殺風景な食堂は豪華に装飾されている。サーヴァントからスタッフまで勢揃いしており、渋々ではあるが拍手を打っていた。

 ノアは一瞬目を見開き、口角を持ち上げる。

 立香は得意げに彼の顔を見上げた。

 

「ふっふっふ……どうですかリーダー! 言葉も出ないみたいですね! 泣いてもいいんですよ!?」

 

 ノアは無言のまま食堂を横切り、用意された上座に腰を落ち着けた。彼は流れるような動作でサンタ帽を被り、机に足を乗せる。

 

「趣旨は理解した。おまえら、全身全霊を懸けて俺をもてなせ。俺が主役だ。ペレアス、まずはビーム出せ」

「無茶言うんじゃねえ!! そういうのは王様の役割なんだよ!」

「進歩のない野郎だ。ダンテは俺の肩を揉め。そこの放火魔女は召使いだ。五秒以内に酒持ってこい」

「工業用アルコールと石油のカクテルで良い?」

 

 早々に暴政を振るうノア。昔話なら今にも手痛いしっぺ返しが来る場面だ。もしこの場にスパルタクスがいれば、間違いなく圧政判定されていただろう。

 ダンテは政治家時代に培われた下っ端根性でノアの肩を揉みつつ、その慣れた姿勢に戦慄する。

 

「ノアさんがここまでおもてなされのプロとは……まさか奴隷とか飼ってました?」

「安心しろ、おまえたちが俺のファーストスレイブだ。言っておくが俺は誕生日会のスペシャリストだぞ。並大抵の段取りで満足させられると思うな」

 

 ロマンは肩を落として、

 

「えっ、そうなの?」

「ロンドンにいた頃は毎年アリスの婆さんがやってたんだよ。常連客も交えてな。まずは全員でムニエルのPCフォルダ閲覧会だ」

「誰が見せるかバーカ!! パソコンなんて人の醜さが全部詰まった特急呪物だぞ!? ワンチャン懲戒免職されるレベルだから!!」

「チッ。まあいい、おまえの最近の趣味が女教師モノってことは黙っておいてやるよ」

「言ってんじゃねえかァァァ!!!」

 

 早速ひとり目の犠牲者が出たところで、ロマンは話題を切り替えることにした。

 

「じ、じゃあ、少し早いけどメインイベントといこう! みんな、プレゼントを出すんだ!」

 

 誕生日の目玉と言えばプレゼントである。誕生日がクリスマスと被った人間は両方のプレゼントをひとまとめにされる悲しいイベントでもあり、サンタの正体を知ってしまう、大人への階段を一歩登る機会でもある。

 トップバッターはノアのファーストサーヴァントでもあるペレアスとその妻リース。彼らが差し出したのは色とりどりの花で編まれた冠だった。

 

「オレとリースで作った花冠だ。魔術で劣化しないようにしてある。捨てんなよ」

「私が完っっ璧にペレアス様にオトされた思い出の品ですわ。ぜひ立香さんに贈ってあげてくださいませ」

「どうしてそこであいつが出てくんだドスケベ精霊。ドライヤー掛けにでも使ってやる」

フォフォウ(ちぎれるだろ)

 

 言いつつ、ノアは首に花冠を通した。どうやらドライヤー掛けにはならないようだ。

 次鋒はダンテ。彼は詩人らしく、丁寧に装丁された本を手渡す。

 

「俗語論完成版です。ノアさんにはお金になるものが良いと思いまして」

「……あの、とんでもない希少価値なんですが。世のダンテ研究者が全身の穴から手を出して欲しがるレベルです。ドブに捨てていいんですか」

「誰がドブだマシュマロなすび。人理修復したらオークション開くぞ」

 

 学術的価値、歴史的価値の両面でトップクラスの本を懐に仕舞い込む。これが競売にかけられた暁には、世界各地で骨肉の争いが繰り広げられるだろう。

 マシュとジャンヌはダンボール箱を担いでくる。二人はその中身を全員に配っていった。

 渡されたのはキーホルダー。マシュの盾ことテーブルを精巧に模している。

 

「わたしが土を練り、ジャンヌさんが焼き上げた盾型キーホルダーです。みなさんにわたしの護りがつくようにと願いを込めました」

「風邪でもひいたか? なすびのくせして意外と真っ当じゃねえか」

「ええ、カルデア名物として売り出すつもりなので。どうですか、ジャンヌさん?」

「……自分で焼いといてアレだけど、中学生が修学旅行の土産屋で買ってくる剣のキーホルダーみたいだわ」

「お兄ちゃんも集めてたなあ、あのキーホルダー。おかげで一時期カバンが武器商人みたいに……」

 

 その場のノリで買った挙句、しばらくして必ず行方不明になるキーホルダーと同じ扱いだった。

 キーホルダーが詰め込まれた箱を除けつつ、立香とロマンは小箱をテーブルに並べた。それらはEチームの人数分用意されている。

 ロマンはそのうちのひとつを取り出し、ノアに差し出す。ノアはそれを訝しげに見つめた。

 

「…………ホットケーキミックスってオチじゃねえだろうな」

「あ、それも考えたんですけど、これはドクター発案です。絶対これが良いって聞かなくて」

「うん。しかもノアくんのは特別製だ。開けてみてくれるかな」

 

 小箱を開く。

 純金で造られた指輪。ロマンは頬を掻いて、

 

「憧れの英霊を訊いた時、言ってただろう? ソロモン王の指輪が欲しいって。実物とはいかないしボクが作ったから不格好だけど、受け取ってくれるかい?」

「……ソロモン王の指輪の素材は真鍮と鉄だ。金じゃねえぞ」

「ま、まあ、それは黄金色に輝く謂れを再現したことにしておいてくれ。あ、みんなのはちゃんと真鍮と鉄でできてるよ」

 

 ノアは緩く微笑む。

 その瞳はまるで、初めてかの王の知に触れた時のように輝いていた。

 

「……寸法を変えるぞ。いいな?」

「うん。指輪は付ける位置も重要だからね」

 

 魔術によって指輪の円周が拡大する。ノアは黄金の指輪を左手の親指にはめた。

 

「───親指に指輪をはめると願いが叶う。古代ローマの信仰だ。俺たちが叶えるべき願いは分かるな?」

 

 惨劇を超え、生き残った人間たちは力強く頷く。

 ただひとつ、たったひとつ、成就すべき願いを抱いて。

 

「魔術王をぶっ飛ばして、全員で朝日を拝む。それだけだ。絶対にあの野郎を倒すぞ」

 

 そして、その日は来る。

 人理修復の最終決戦。

 魔術王の玉座へのレイシフト。

 管制室の中心。並び立つEチームに向けて、ロマニ・アーキマンは宣言した。

 

「───これが最後の戦いだ。ボクがみんなに望むことは多くない。いつもみたいに、誰ひとり欠けずに勝つ!! 生きて帰ってくるまでが人理修復だ!!」

「ドクター、バナナはおやつに含まれますか」

「含まれる含まれないの話じゃなくておやつの持ち込みは禁止です!! レイシフト開始するぞ!!」

 

 立香はコフィンの内部でその時を待つ。

 恐れはある。緊張もある。

 けれど、それ以上に負ける気がしない。

 仲間がいるだけで、暗い未来の景色なんて簡単に吹き飛んでいく。

 でも、あと一押し。

 少しだけ勇気と希望が欲しくて。

 彼女は、ノアに言った。

 

「……リーダー」

「……なんだ」

 

 ───私はその眼を見据えて、

 

「この戦いが終わったら、話したいことがあります。私の部屋に来てくれませんか」

 

 ───俺はその顔に惹かれて、

 

「分かった」

 

 最後の戦いへと、赴いた。




・湖の乙女(長女)のステータス
クラス:キャスター
真名:湖の乙女(ヴィヴィアンなど)
属性:中立・中庸
ステータス:筋力 D 耐久 C 敏捷 C 魔力 A+ 幸運 A 宝具 A
クラススキル
『陣地作成:EX』……魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。湖の乙女の陣地とは自身が持つ異界であり、精霊としての基本性能のひとつなのでいつでもどこでも陣地を展開できる。故にEXランク。
『道具作成:A++』……魔力を帯びた器具を作成できる。数々の聖剣、宝具を騎士に与えた湖の乙女はこのスキルを最高のランクで有する。本編では、このスキルとマーリン印の幻術を使って聖槍のレプリカを発射した。
保有スキル
『妖精眼:A』……ヒトが持つ魔眼ではなく、妖精が生まれつき持つ世界を切り替える視界。真実を見抜く魔眼。嘘とかめっちゃ分かる。湖の乙女はこれを利用して宝具を与えるに相応しい者を選んでいた。なお、ペレアスに付随する形で召喚される場合のリースは著しく弱体化しているため、妖精眼も失っている。
『水の精霊:A+』……水を司る精霊としての能力。精霊の能力の他、自由自在に水を操ることができる。長女の場合はその中でも固体としての水、つまり氷の扱いに長けている。雑魚相手(精霊基準)なら魔術をぶっ放すよりもこの力で体内の水分を沸騰させたり干からびさせたり血液を凍らせたりする方が魔力も使わないので楽。グロい。
『悠久の智慧:A』……二千年以上を生きた精霊の知識。現代の魔術師が到底知らぬ魔術の秘法、再現できない神秘をいとも容易く扱う。おばあちゃんの知恵袋である。この歳で湖の乙女と名乗るのはアレな気がするというのが最近の悩み。
 心が乙女ならノーカンでは?(妹's談)
宝具
『悠か妙なる幻氷塔』
ランク:A 種別:結界宝具
 トゥール・デ・ダーム・デュ・ラック。湖の乙女が有する異界を現世に出現させる。リースは湖に浮かぶ霧の城だったが、長女は雪が降りしきる銀世界に立つ氷の塔。異界内では湖の乙女のステータスは全てワンランク上昇し、あらゆる魔術やスキルが格段に強化される。
 サーヴァントの状態で聖槍や聖剣のレプリカを造るには、世界の修正を受けないようにこの宝具を展開しなければならない。また、湖の乙女は三人全員が同一存在なので、この中にいると弱体化状態のリースでもサーヴァントクラスの能力を発揮できる。
 エレインは雪原に聳える氷の塔。リースは湖に浮かぶ霧の城。末妹は雨が降り川が流れる水の庭園。末妹の庭園は魔獣の巣窟でもある。湖の乙女最強形態はこれら三つの異界が共存し、合体すること。ちなみに本編では氷の塔が最果ての塔として機能したが、フルスペックのリースの場合は霧の城がキャメロットとして、末妹の場合は庭園がブリテンの国土そのものとして機能する。
 マーリンは湖の乙女によって、アーサー王物語の途中で魔法の森や塔に閉じ込められることになる。型月ではそれがアヴァロンで、よく王の話をしてるところであるが、そこにマーリンを連行したのがこの長女。とりあえず自分の氷の塔に収容してから、アヴァロンにぶち込んだ。
 いやぁ、おかげで頭が冷えたよ。物理的に。(マーリン談)
 いっそ氷漬けにしてくれてもよかった。シャーベット状でも可。(フォウくん談)
『逆行起源・湖の女神』
ランク:EX 種別:対人宝具
 オリジン・ドゥ・ラ・ダーム・デュ・ラック。湖の乙女が三人に分かれる前の原初の姿、湖の女神へと回帰する宝具。発動するためには事前に霊薬を造っておくことが条件。また、その素材がない限り、この宝具を発動することはできない。サーヴァントの霊基を無理やり神格の域にまで拡張するため、宝具解除とともに消滅してしまう。
 湖の乙女の起源は度々論争の対象となってきた。一説にはナルト叙事詩における海神と精霊の娘サタナ、一説にはケルト神話の水の女神コヴェンティーナ、一説にはローマ神話においてネミ湖を聖域とするディアナ…………などなど、多数の説が群雄割拠している。この宝具はそういった水を司る女神のイメージに立ち返り、擬似的な神性を獲得するもの。その力は本体をも超え、ティアマトの足止めを叶えるほどであった。要は特撮の映画限定フォーム。

 カルデア式召喚で湖の乙女が出てくる場合、来てくれるのはほとんどの確率で長女になる。リースはペレアスがいなければ来ないし、末妹は世界を救うとかどうでもいいので興味が湧いた時以外来ない。むしろ場合によっては敵になる。そんな性格なので、普通の聖杯戦争で彼女を喚んだマスターは高確率で破滅する。が、姉二人のことは大大大大大好きなのでどちらかひとりでもいれば颯爽と寝返る。結局彼女を喚んだマスターは破滅する。
 妹二人が恋愛脳と化したのでそういうことには忌避感を抱いているが、実は恋というものにとても興味がある。めちゃくちゃある。最大関心事と言っても良い。
 絆レベルを上げていくと、自分に名前をつけてほしいとせがんでくる。ああああとか、もょもととか名付けてはいけない。

・湖の乙女のどうでもいい裏設定
 コヴェンティーナ(ヴィヴィアンの語源とされるケルトの女神)が三相に分裂した……というのがここでの湖の乙女の起源という裏設定。現実のアーサー王伝説では、初期は単に水の妖精だったところから徐々に肉付けされる形で人物像が発展し、後期流布本系統で一躍大人気キャラクターに躍り出たランスロットとの関わりができた。ランスロットと湖の乙女に関わりの大きいペレアスも同時期に作られた騎士であると思われる。
 三相一体の女神に多く見られるのが、処女・母・老婆の属性に分かれていることである。FGOのサーヴァントで例を示すとメイヴちゃんの三相がまさに上述の三つだったり、アルテミスが処女神として三相一体のひとつに組み込まれたりすることがある。
 これは当時の価値観における女性の一生を表しているともされる。以下それぞれの対応と解説。
 エレイン→老婆の属性。サクラにおばあちゃんと呼んでほしいと言い放ったのはこれがあったためでもある。三相一体の女神としてここに当てはめられる神はヘカテーやケリドウェン、エレシュキガルなど。知恵の女神や魔術神、冥界神であることが多い。歳を重ねた見識を持つ反面、訪れる死を予兆している。死に関してはインドのカーリーなどが顕著な例である。死の季節といえば冬なので、エレインの象徴は氷。
 異界のシンボルが塔なのは、古代の塔の役割は宗教的なモニュメントとしての側面があったことから、魔術神の名残を示している。湖の乙女の中で最も魔術に長ける。
 リース→母の属性。三相一体として当てはまる代表的な女神はヘラやみんなのトラウマデメテル。特にデメテルはDemeterと綴るが、meterは母親の意味を示している。子を産み育てる優しい面を持つ反面、暴虐を振るう苛烈な側面もある。三相一体ではないが、それこそティアマトなどに顕著な母神の特徴と言えよう。湖の乙女の中で一番戦いが強い。結局お母さんが最強なのである。
 ただし、リースのキャラクターはニンフという妖精のイメージから作った。ニンフとは結婚適齢期の女性、子を持つ若い母を意味する言葉であり、中世に魔女や妖精を表すようになった。ニンフは湖や木陰を住処としており、人間に恋をして情欲を駆り立てるように誘惑したり、強引に連れ去ることもある。ドスケベ精霊たる所以である。ある意味、三姉妹の中で最も妖精らしい性格をしている。
 また、ニンフは英雄を産んだり育てたりする。おそらく、アーサー王伝説においてランスロットの義母でペレアスの妻となる湖の乙女のモチーフにはニンフの影響があるのではないかと思う。
 末妹→処女の属性。当てはまる代表的な神はやっぱり、処女神アルテミス。ヘラもアルゴスの泉で沐浴することで処女に戻る話がある。なので、ヘラはひとりで処女→母→老婆(以下無限ループ)という三相のサイクルを繰り返す女神なのかもしれない。
 処女母という概念がある。最も知られているであろう処女母は聖母マリア。過程を飛ばして子を身ごもることを言う。何が重要かと言うと、三相一体の女神は処女→母→老婆という当時の女性観における女性の一生を表しているため、必ず子を産むことが決定付けられているのである。一生の始まり、生命の始原を表すが故に、末妹の異界は魔獣を産む。リースよりも生命を産む母神の要素が強く現れている。
 湖の乙女の中で一番やべーやつ。彼女もリースのように恋人にフロラールという名前をつけてもらっている。そのものの名前をつけることは存在を規定すること。己の起源も定かでない湖の乙女たちは、最も愛する者に自身のすべてを委ねることを望んでいる。


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終局特異点 極天の流星雨 冠位時間神殿・ソロモン
第79話 それは、未来を奪い返す戦い①


 人はみな、運命の奴隷だ。

 誰もが生まれるべき時に生まれ、死ぬべき時に死ぬ。その定めを覆す術はなく、また、逃れる道もない。たとえそれが苦難に満ち溢れたものだとしても、全ての人間は盲目の白痴の如くに運命を受容することを強いられる。

 呆れるほどに積み重なり、懲りもせず螺旋を描いていく運命という名の鎖。

 彼もまた、そのしがらみに囚われたひとりだった。

 

〝わたしがイスラエルの神、主をさしてあなたに誓い、あなたの子ソロモンがわたしに次いで王となり、わたしに代って、わたしの位に座するであろうと言ったように、わたしはきょう、そのようにしよう〟

 

 イスラエル全土を制覇した偉大なる父。王の理想とも謳われた先王は自らの末子に神の王国を託した。

 全ては天の主の託宣のように。他の継承者たちの策謀も甲斐無く、選ばれた末子は当然の如く王へと祭り上げられたのだ。

 

〝祭司ザドクは幕屋から油の角を取ってきて、ソロモンに油を注いだ。そしてラッパを吹き鳴らし、民は皆「ソロモン王万歳」と言った。民はみな彼に従って上り、笛を吹いて大いに喜び祝った。地は彼らの声で裂けるばかりであった。〟

 

 その時の彼の心持ちは如何様だっただろうか。

 新しき王を祝福する民衆の熱狂。姿を見せるだけで平伏し、頭を下げる神官たち。それは、この世の全てを手に入れたと錯覚するほどの光景だろう。

 だが、王国には除かねばならぬ腫瘍があった。

 長兄アドニヤ。彼もまたダビデの子であり、王位を狙っていた。軍の司令官ヨアブと祭司アビヤタルを取り込んだ彼の勢力は巨大な派閥を形成し、しかし、ダビデの決定によって望みを絶たれたのである。

 外戚が王と国にとって禍いとなった例は史上数多い。ダビデを継ぐ者はアドニヤを排除する必要があった。

 

〝ある人がこれをソロモンに告げて言った、「アドニヤはソロモンを恐れ、今彼は祭壇の角をつかんで、『どうぞ、ソロモン王がきょう、つるぎをもってしもべを殺さないとわたしに誓ってくださるように』と言っています」。〟

 

 結局、長兄に王たる器はなかった。

 敗北が確定すれば部下たちに責任を取る度量もなく、自ら王のもとを訪れる度胸もなく、無様にも命乞いをする腰抜け。

 ソロモンはそんな兄の現状を聞き届け、困ったように微笑んだ。

 

〝───ああ、困ったなあ。私はそんなこと、一度たりとも考えたことはないのに。王の子として育てられた彼が王座を望むのは仕方のないことだ。君、兄にはこう伝えてくれるかい〟

 

 若き王は兄の愚かさを笑って許した。

 王位継承の順位は確かに兄の方が上で、幼き頃より周囲から後継者として期待を注がれていた────それを台無しにされ、己が得るはずだったあらゆる栄誉を弟に奪われる。そんな人の心を、彼は否定しなかった。

 

〝もし彼がよい人となるならば、その髪の毛ひとすじも地に落ちることはなかろう。しかし彼のうちに悪のあることがわかるならば、彼は死ななければならない……とね〟

 

 使者は一句たりとも違えることなく、アドニヤに王の言葉を伝えた。彼はそれを受け容れ、王の地位は揺るがぬものとなる。

 そして、ダビデは息を引き取り、イスラエルは真にソロモンのものとなった。

 ただし。アドニヤの命運はとうに尽きていた。神によるものではなく、王によるものではなく、ただ、彼の愚かしさ故によって。

 

〝彼女は言った、「どうぞ、シュナミびとアビシャグをあなたの兄弟アドニヤに与えて、妻にさせてください」。〟

 

 シュナミ人アビシャグ。イスラエル国中から選び出された絶世の美少女。歳を重ね、冷えていくダビデの肉体に熱を与えた侍女。アドニヤは彼女を我がものとするため、ソロモンの母を介して懇願したのである。

 ダビデはアビシャグを湯殿に招き、閨に呼んでいたものの、決して彼女と交わることはなかった。だが、アドニヤは己が情欲のために彼女と体を重ねようとしているのだ。

 だから。

 

〝主はモーセに言われた。姦淫をしてはならない、と。自身の情欲のために女を求めることもまた同じだ。彼は既に心の中で姦淫したのだから〟

 

 ソロモンはあの時と同じく。

 困ったように、微笑んでいた。

 

〝うん、殺すしかないかな。彼は彼自ら、心のうちに悪があることを証明した。その命は絶たれなければならない〟

 

 当時、姦淫の罪を犯した者に対する刑はただひとつ。死刑であった。

 肉親の殺害に一切の感情を滲ませることなく、王は刺客を放ち、兄を暗殺した。

 しかして、王の辣腕は留まるところを知らない。

 

〝アビヤタルは許す。彼は我が父のために契約の箱を運び入れた功労者だからね。ただしヨアブは別だ。彼は父の預かり知らぬところで他の軍長の子を二人殺した。主の道に背き、国を揺るがす大罪人だ。よって死刑とする〟

 

 淡々と。

 眉ひとつ動かさず。

 彼は冷酷なまでに命令を降した。

 かくして、王国は堅く定まる。

 長兄の勢力を排除し尽くして。

 それが、神の定めた運命であったから。

 誰かが、彼を見てこう思った。

 ───王は人の心がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長く短い浮遊感を経て、Eチームはレイシフトを遂げる。

 無数の星々が散りばめられた獣の中域。満点の星空に放り出されたかのような景色の中で、彼らは息を呑んだ。

 この光景に、ではない。

 今、垣間見た王の記憶───全ての魔術師の祖にして、神に比類なき知恵を与えられた男の姿が、確かに網膜に焼き付いていた。

 

「『これが、貴様が憧れる男の真実だ』」

 

 綺羅星の宙域に響く声。

 その音色は重厚で、どこか、哀れみに満ちていた。

 

「『奴に人の心はなかった。それどころか、己を奮い立たせる矜持も、人々に捧げる慈愛もなく、ただ神の下僕として国を治めた』」

 

 魔術王。かの王の名を称したはずの存在は、他人事のようにソロモンを語る。

 それは、魔術王の瑕疵を表していた。

 

「ようやく正体を現しやがったな、解釈違い野郎。で、まだ玉座に引き篭もったままか? ソロモン王の名前を借りなきゃ人前にも出てこれないヘタレが!!」

「今回ばかりはわたしもリーダーに同意です。七つも仕込んだ特異点を攻略されたからとビビっているのですか?」

「途中でひとつ余計なのもありましたが。主にサクラとかいうアホのせいで」

「いやあ、もはや懐かしいですねえ。私がこんなところに来るなんて思いもしませんでしたよ。今回は替えの下着も持ってきました」

「ああ、そういや第四特異点で漏らしてたな、お前」

「───そ、そう! ここまで来たからには絶対に逃がさない! 私たちであなたをフルボッコにします!!」

 

 立香は放っておけば雑談が始まりそうな空気を強引に断ち切って、中空に指を突きつける。

 虚空に響く声はどこまでも傲慢に言い切った。

 

「『囀るな、小娘。退路を断たれたのは貴様らの方だ。あの日焼き残した塵芥を、今ここで無に還そう』」

 

 大気が震える。

 大地が捻れる。

 天地の鳴動とともに、魔の尖塔が氾濫した。

 ───魔神柱。魔術王の眷属にして、その権能の象徴たる七十二柱の魔神。そのことごとくが姿を現し、おぞましき威容をもって屹立する。

 

「『血肉を撒き散らし、我が許へと寄り縋るがよい。貴様らは歩を進める度に知るだろう。あの男が如何に愚かしく、虚ろであったかを!!』」

 

 魔術王の哮りとともに、魔神柱の群れは一斉にその眼球を輝かせる。

 岩肌の如き体表を埋め尽くす、瞳の閃き。それらは全く同時に煌めく。閃光、赤光、眼光。いくつもの輝きが折り重なり、虚空の中域を無色に塗り潰す。

 ひとつひとつが対軍宝具に匹敵する威力を秘めた群星のカーテン。神を僭称するに相応しき威光の発露を前に、ノアはニタリと唇を歪めた。

 

粒子魔術(ウロボロス)

 

 瞬間、天を覆う光の層が逆流する。

 たった一言。それだけで、魔術王が支配する一帯の法則は彼の手に明け渡された。

 空そのものが落ちてくるかのような魔力の濁流は余すことなく魔神柱へ翻り、その身を焼き潰した。赤熱し、崩れ倒れていく敵の姿を見て、ノアは満面に魔神柱の威容も薄れるほどの邪悪な笑みを広げる。

 

「ヒャハハハハハハハ!! グロ大根如きが今更何本出てこようがフォウの屁の突っ張りなんだよ! 全員まとめて三角コーナーに追放してやる!!」

「冬木の時は秒で逃げてたくせに……」

「何か言ったかキリエライト。天才の天才たる所以は成長するからこそだろうが。いや、コネでAチーム主席取ったおまえには理解できない話だったな。すまなかった、気にすんな凡才なすび」

「先輩、この人を殴る許可をください! 今日という今日はどちらが上か証明してみせます!!」

「こんな時に!?」

 

 ノアの粒子魔術は無属性魔術で創った素粒子を周囲に散布することで、射程圏内の物理法則を改竄する。それは神秘の領域に属するマナ・オドといった魔力も例外ではない。

 魔神柱をも脅かす力。魔術という枠組みと概念を数十歩飛び越えた、超常の御業。だが、この魔術には二つの難点があった。

 ひとつは素粒子を介して任意の現象を起こすための演算の負荷。もうひとつは無属性魔術特有の莫大な魔力消費。特に後者は一流の魔術師が束になっても足元にさえ及ばないノアであっても、無視はできない負担だ。

 しかし、今の彼の表情はそんなデメリットは微塵も見受けられなかった。即座に復活する魔神柱はみな、その手のひと振りで砕き散らされていく。

 サーヴァントのお株を奪う光景を目の当たりにして、ダンテは冷や汗をハンカチで拭った。

 

「いやはや、ノアさんは末恐ろしいですねえ。当分私たちの出番はなさそうです」

「アンタの出番は永遠にないかもしれないですけど?」

「それに、末恐ろしいっうならあいつの方だけじゃねえ。あいつをここまで成長させちまった魔術王と─────」

「────ダ・ヴィンチちゃんの技術力ですわ」

 

 彼らの背後に佇むカルデア。人理を護る基地はいまや、誰も肉眼では捉えられなかったであろう全容を晒していた。蟻の巣の如く通路を張り巡らせた要塞。カルデアはその至る箇所から雪花のような粒子を散らしている。

 

「『対終局特異点ひみつ道具、衝撃のファーストウェポン───架空粒子拡散装置!! ノアくんがこの前十五回ほどぶっ倒れながら創った素粒子をふんだんに撒き散らすカラクリさ! そのまま魔術王まで感動のフィナーレといこうじゃないか!!』」

「ああ、俺たちの戦いはここからだ!!」

「ダ・ヴィンチ先生の次回作にご期待ください───!!」

「『ねえこれ本当に最終決戦なのかなぁ!?』」

 

 相変わらずのアホさを発揮するマスターコンビに、ロマンは迫真の表情で叫ぶ。もはやとっくに慣れたはずだが、期待は悪い方向に裏切るのがこの二人なのだ。

 一方的に嬲られる魔神柱。幾度目かの砲撃もあっさりと跳ね返され、自らの身を焼いてしまう。

 しかし。吹き荒れる魔力の乱流を、ひとつの影が切り裂いて抜ける。

 

「ならばその旅路、ここで打ち切りにしてやる!!」

 

 三つ首の犬頭を持ち、烏のように黒々とした大翼をはためかせる怪物。その姿形を視認し、ノアとロマンは同時に真名を見抜いた。

 

「「『────ナベリウスか!!』」」

 

 ソロモン七十二柱、序列二十四位ナベリウス。人間のあらゆる技芸・学問を発達させ、失われた名誉を回復する力を持つとされた悪魔。

 ナベリウスは魔神柱に堕した不完全な体を脱ぎ去り、伝説に語られる真体へと羽化を遂げていた。

 失われた名誉を回復する───ナベリウスの権能。それは、この宙域より失われた魔術王による法則の支配権をノアの手元より簒奪する。

 ノアは両の眼を冷徹に細め、首を鳴らす。

 

「想定済みだ。素粒子の性質を書き換えてもいいが───出し惜しみはしねえ。立香ァ!!」

「はいっ! マシュたちはリーダーへの日頃の恨みをナベリウスにぶつけて!」

「了解です。見せてあげましょう……わたしの新必殺技『決戦術式アラウンド・マイマスター』を!!」

「格ゲーじゃないと使えないじゃない、それ」

 

 ジャンヌはマシュの尻をナベリウスへと蹴り飛ばした。ペレアスは剣の腹で肩を叩きつつ、空いた手をダンテの背に打ち付ける。

 

「よし、オレたちも行くぞ。確かお前も新必殺技あったよな?」

「ええ、『嘆願術式ヘルプミー・マスターウェルギリウス』のことですね」

「全く新しくありませんわ。持ちネタですわ。味がしない天丼ですわ」

 

 ダンテを除いたサーヴァント一同はナベリウスに向かって駆け出す。

 三つ首の烏は飛翔する。戦闘機の最高速度にも匹敵する速度の突進はサーヴァントのみならず、マスターらを狙うものであった。

 空気が破裂し、衝撃が耳朶を叩く。ナベリウスの突貫は他所に一切の被害を振りまくことすらなく、盾の前に阻まれる。

 マシュは眉ひとつ歪めなかった。左足を杭のように地面に打ち込み、全身の捻りでナベリウスを振り飛ばす。

 

「軽い、軽すぎます! どれくらい軽いかと言えば歌舞伎町のホストが囁く愛の言葉くらい軽いです!!」

「『それは流石に軽すぎない!?』」

「軽い言葉は他人だけでなく自らをも呪ってしまいますわ。囁くものが愛なら尚更です。やはり適度な重さがなくては」

「真面目に語ってるけど、アンタの重さは度を越してるでしょうが!!」

 

 ジャンヌは額に青筋を立て、ナベリウスの片翼を焼き千切る。直後、黄金の剣閃が残った翼さえも斬り落とした。

 ペレアスは流れるように三つ首目掛けて刃を払う。だがその寸前、横合いから放たれた熱線がナベリウスを蒸発させる。

 騎士に傷はない。

 彼の瞳は瞬時に熱線の源を向く。

 視線が合う。横たわる魔神柱の表面に咲いた、菱形の眼球。ナベリウスを焼いたのはまさしく、その瞳であった。

 ───何故?

 同士討ち。考えるまでもない下策中の下策。完全を名乗る魔神柱たちが選ぶはずもない選択肢。その答えを、騎士はすでに知っている。

 

「……()()()()()。お前らでもこれは怖いか」

 

 魔の尖塔がざわめく。ノアに打ちのめされた魔神柱たちは復活を遂げ、地上に氾濫する樹木のように、あるいは生地に押し寄せる津波のように、天へと林立していた。

 魔神柱たちは並列に繋げた思考回路を用いて、瞬時に脅威度を測定する。

 最も警戒すべきはノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドによる素粒子の性質変化。ナベリウスの権能ごと法則を改変し、魔術王の支配権を再奪取されること。それをしたとしても、権能とのいたちごっこだが───彼は魔術回路を回すどころか、これみよがしにあくびを決め込んでいた。眠くもないくせに。

 そして、もうひとりのマスターは脅威として考慮はするが、その度合いは極小。故に狙うべきはノアとペレアス。魔神柱の群れは大気に満ちるエーテルに干渉し、破裂させる。

 

「……『add_invalid』」

 

 けれど、彼らが望んだ現象は起きなかった。

 蓮の花弁にも似た半透明な結晶の重なり。少女が携える杖の先端は淡い光を放っていた。

 

「『対終局特異点ひみつ道具、撃滅のセカンドウェポン! フォトニック結晶クラウド化システム!! ふっふっふ、これからはIoTの時代なのさ。時代遅れの魔神柱諸君にはちょっと理解が及ばないかな?』」

「魔力の流れからして俺たちを吹き飛ばそうとしてたみてえだが、無駄だったな」

「魔神柱の攻撃も簡単に防げる。そう『魔女の祖(アラディア)』ならね」

 

 フォトニック結晶。『魔女の祖』の演算能力の核となっている物質である。そしてこれはカルデアの運営を支える発明、霊子演算装置・トリスメギストスを構成する素材でもある。

 『魔女の祖』はトリスメギストスの演算能力をネットワークを通じて借り受けることで、コードキャストの性能を著しく上昇させた。

 そう、この空間そのものにコードキャストの効果を書き加えるほどに。

 

「ジョ○ズもびっくりの新技術だ! とっとと死ね大根詰め合わせパックが!! おまえらとの文字数稼ぎももう飽きたんだよ!!」

「リーダー! いま活躍してるのは私です! 調子に乗るべきは私なんですから、勝手に相乗りしないでください!!」

「私もその調子に乗らせてもらってもいいですかねえ。出番とかなさそうな気配ですし」

「無賃乗車やめてくれます?」

 

 空間にさえも作用するコードキャスト。その強化の後押しを受けたペレアスたちを止める術は魔神柱たちにさえもなかった。

 とん。ノアたちには知覚できようもない玉座の上で、魔術王は肘掛けを軽く叩く。

 故に、彼らには突如その変化が起きたように見えただろう。

 繭を内側から割る蝶のように。

 一斉に、魔神柱たちは偽りの肉体を脱ぎ捨てていた。

 それぞれが通常の霊基の格など容易く飛び越えた存在。未だ復活を許されぬフラウロスを除いた七十一の魔神の軍勢。ヒトがどれほど小細工を弄そうと、彼ら魔神は単騎でさえ不条理に踏み砕く。

 有無を言わさぬ数の暴力。

 単純だからこそ抗いようのない理不尽の具現。

 なればこそ、今までの特異点は児戯だったのだろう。面影など見るべくもない肉の柱如きを送り込んでいたのだから。

 勝ちの目が崩れ去る。たとえ法則を操ろうと、空間に法則を書き込もうと、決して揺るがぬ盾があろうと────これほどの群れを前にしては意味がない。子どもが虫の足をひとつずつ捥いで遊ぶみたいに、ゆっくりとなぶり殺しにされる。

 

「全権能、並列接続。重奏射撃」

 

 七十一の魔神による権能の協奏。

 世界にかかる負荷は甚大。空間にノイズが生じ、人間たちを取り囲むように星が輝く。

 それはまるで、断頭台の刃のようだった。

 

「「だから───────」」

 

 けれど。

 

「「────それが、どうした!!!」」

 

 今を生きる人間に、そんなことは関係がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたたちならそう言うと、信じていました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 星空に棚引く、聖なる旗。

 それは彼女の誇りであり信念。

 ひとりの少女が背負った運命。

 ひとりの少女が手にした矜持。

 ひとりの少女が捧げ持つ慈愛。

 謳い上げるように、彼女は唱えた。

 

「『我が神はここにありて(リュミノジテ・エテルネッル)』!!」

 

 天使の護りが、神の愛が、降り注ぐ。

 能力を数値で表したならば、魔神の重奏はその護りをも貫く。旗が貯め込んでおけるダメージの許容量など容易く突破していた。

 だがしかし。

 それは正真の天使による守護。

 天の御使い、神の下僕より与えられたそれを超えることは───神の隷奴であったソロモンの魔神であるが故に───不可能だった。

 全ての魔力を吸収し、揺るがぬ矜持に傷はひとつも無し。

 旗の聖女は振り返り、咲き誇る花のように微笑む。

 

「まずは賞賛を。あなたたちは険しい道のりを踏破し、この場所へと辿り着きました。もう一度、私にその苦難を乗り越える手助けをさせてください」

「……先輩、とんでもない問題が発生してしまいました」

「うん……これは絶対に見過ごせない……!!」

「な、何がです?」

 

 立香とマシュは虚ろな目をしたジャンヌを引き寄せて、

 

「「こっちの黒い方とどう呼び分ければいいんですか!?」」

「………………真ジャンヌとかどうでしょう?」

「は? それだとアンタの方が上みたいで嫌なんですけど。宝具の撃ち合いで負けたこと忘れたんですか?」

「仕方ねえな。俺が決めてやる。邪竜にまたがる方とまたがられるほ」

 

 ドゴ、とペレアスとオルタの方のジャンヌの拳がノアを撃沈させる。地面に倒れ伏した彼に足で追撃を加える二人を背景に、立香たちは考え込む。

 

「順当に行けば聖女の方と魔女の方ですが。先輩はどう思います?」

「腹ペコの方とツンデレの方じゃない?」

「ルーラーの方とアヴェンジャーの方、ですかねえ」

「どちらか一方でも区別できれば良いのですわ。神風怪盗の方とか」

「あの、どっちもジャンヌなのが問題なんですけど。しかもどっちも神風怪盗じゃないですし」

 

 いつにも増してアーパーな物言いをするリースに、立香は突き刺すように言った。そんな会話を見届け、魔神たちは哮り立つ。

 

「くだらぬ。たかが英霊一騎が増えたところで、我らを斃せると付け上がるな!!」

 

 殺意の波濤が辺りを舐める。

 ひねくれてない方のジャンヌは打って変わって、研ぎ澄まされた眼差しを中空に投げかけた。

 

「たかが英霊一騎。その通りです」

 

 ───ですが。

 

「救世の戦いに私だけが駆けつけるほど、彼らは薄情でもなければ無欲でもありません」

 

 いくつもの流星が空を飛び交う。

 ただ一度。

 たった一度。

 カルデアと肩を並べ、刃を交えた。

 繋がりと言うにはあまりにも細い糸。

 しかし、その糸は誰にも断ち切れぬほど(つよ)く。

 邪竜と人間が命を散らした草原。

 三者の王が覇を競う血濡れの野。

 数多の海賊が宝を求めた大海原。

 常に暗き闇に閉ざされた霧の都。

 人の業を果てなく積み上げた荒野。

 聖槍の女神がヒトを選別する聖地。

 ■白の偽■が創■■天照ら■葦■原。

 創世の母神が呑み込まんとした大地。

 共に戦い、殺し合った八つ───七つの特異点の英霊たちが、輝ける星の如く舞い降りる。

 その輝きの前に、魔神たちは成す術なく砕き散らされていく。

 極天に降り注ぐ流星雨の下、聖女は高く高く旗を掲げた。

 

「───聞け! この領域に集いし一騎当千、万夫不当の英霊たちよ!!」

 

 その旗は希望。数多の命が蝋燭の灯のように消えていく戦場で、兵士たちが前に進み、奮い立ち、つるぎを振るうための輝き。

 

「本来相容れぬ敵同士、本来交わらぬ時代の者であっても、今は互いに背中を預けよ!」

 

 故にこそ、彼女の他に相応しき者はいなかった。

 

「人理焼却を防ぐためではなく、我らが戦友(とも)の道を開くため!」

 

 神の命を受け、ヒトを率いる紅蓮の乙女。

 最期の最期まで誰かのために生き続けた少女にこそ、数多の英霊を導く旗手となる使命は与えられた。

 

「我が真名はジャンヌ・ダルク! 主の御名のもとに、貴公らの盾となろう!!」

 

 ───カルデア管制室。司令塔たるその場所は絶え間なく押し寄せるアラート音に包まれている。

 それは警報でも警告でもなく、歓喜に震えるラッパのように。

 ロマニ・アーキマンは胸の内で早鐘を打つ心臓の猛りを声に乗せて吐き出す。

 

「ああ───そうか。そうだ。これが!!」

 

 思わず胸元を握り締める。

 その光景が、星々の輝きが眩しすぎて、頭を下げてしまう。

 ダ・ヴィンチは彼の襟を掴み、無理やり前を向かせた。

 

「おいおい、どんな絵画も落書きに見えるような奇跡だ。かぶりつきで見るのが礼儀ってものだろう?」

「……うん、そうだね。まだ始まったばかりだ。最後まで、見届けないと」

「全くだ。振り返ってみなよ、あの引きこもりもおめかしして出てきてるぜ?」

 

 ダ・ヴィンチが親指で指した先。白い装束を纏ったソフィアが机に腰掛けていた。ロマンが何かを言う前に、知恵の女神は告げる。

 

「安心しろ、この空間は特殊だ。私が出てくるのに立香の魔力は必要ない」

「……あなたも、一緒に戦ってくれるんですか?」

「私はもっぱら観客で、舞台に上がる趣味はないが───とびきり一番大好きな役者がいるからな。握手くらいはさせてもらうさ」

「本当に、それだけかい?」

 

 意識に滑り込むようなダ・ヴィンチの問い。

 ソフィアは背を向け、管制室の扉に手をかける。そこで彼女は立ち止まり、不敵に言う。

 

「聖女があいつらの道を開くというのなら、ロマニ・アーキマン。私が、お前の道を仕立ててやる」

 

 そうして、知恵の女神は去った。

 彼はその背中を見送り。

 決意するように、手中に何かを握り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「再起せよ。再起せよ。溶鉱炉を司る九柱。即ち、ゼパル。ボディス。バティン。サレオス。ブルソン。モラクス。イポス。アイム」

 

 九つの悪魔は重唱する。

 

「我ら九柱、音を知るもの。我ら九柱、歌を編むもの」

 

 その存在意義を、燃やすべき信条として。

 

「七十二柱の魔神の名にかけて、我ら、この灯火を消す事能わず……!!」

 

 魔神の編隊が襲い来る。

 その機先を制すべく、彼は宝具を解き放った。

 

「『幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)』!!」

 

 黄昏の斬撃が敵陣を浚う。

 竜殺しを成し遂げた無双の聖剣にして魔剣。邪なるモノを討つという点において、世に並ぶ武装はあれど超えるものはない。

 その一撃は九柱の魔神を余さず死に至らしめた。

 マシュはじとりとした目で呟く。

 

「……あれだけ大仰に登場して一撃でやられるなんて、わたしだったら一週間は部屋から出てこれません。恥ずかしすぎて」

「枕に顔埋めて暴れたくなるよね」

「むしろ後々思い返して発狂したくなるのが質悪いですよねえ」

「そこら辺は流石竜殺しの先輩ってところだな。尊敬するぜジークフリート」

 

 ジークフリート。ペレアスにその真名を呼ばれた英雄は無表情のままに答えた。

 

「俺はあなたが羨望を覚えるほどの者ではない、ペレアス。俺はひとりの妻も幸せにできなかった不出来な男だ」

 

 ずぅんと重い雰囲気を纏うジークフリート。その様子は竜殺しの大英雄という称号も陰らせるような闇で色づいている。

 苦笑いするしかできない立香に並んで、カルデアの良妻賢母代表リースはむむむと唸り声をあげた。

 

「ですが、ジークフリートさんの愛はきっと伝わっていたはずですわ。クリームヒルトさんに求婚するために試練を乗り越えている訳ですし」

 

 クリームヒルト。ブルグント王グンターの妹であり、絶世の美少女と名高き姫。ニーベルンゲンの歌の中では、ジークフリートは彼女の噂を聞きつけてブルグントを訪れ、求婚するに至っている。

 グンターとその妻ブリュンヒルトとの確執、ハーゲンによる夫の暗殺、それらを経てクリームヒルトは復讐を誓い、物語の主軸は彼女に移っていくことになるのだ。

 ジークフリートはその強靭さが嘘のように背中を丸める。立ち絵の時点でだいぶ丸めているのに。

 

「俺は口下手なんだ。初めて彼女に会った時も、あまりの可憐さに怖気付いて逃げ去ってしまった。こんな夫ですまない……もし君たちが彼女に会うことがあったなら、愛していると伝えてくれないだろうか……」

「きゃーっ! めっちゃあまずっぺーですわ! ドキがムネムネしますわ!! 私がその時代にいたら絶対やらしい雰囲気にしてさしあげましたのに!!」

「マジでやめろよ!? ハーゲンより先に首斬られるぞ!!」

「コイバナの気配を嗅ぎつけてわたしが参上! マリーにもお聞かせ願いたいわ!」

 

 ガラスの馬を駆って颯爽とインターセプトを果たしたのは、パンがなければケーキを喰らうことでお馴染みのフランス王妃だった。

 

「ニーベルンゲンの歌、当然私も読了済みです! 愛の言葉を言えないのなら行動で示せば良いじゃない!」

「えっと、マリーさん。マリーさんにまでそこのドスケベ精霊と同じようなことを言われるのは……」

「? どういうこと立香さん? 想いを手紙にしたためるとか、花束を贈るとか、色々あるでしょう?」

 

 マリーは純真無垢な顔で疑問をあらわにする。立香は清楚さにおける完全敗北を思い知り、逃げるみたいにマシュとジャンヌに向く。

 

「……どうしよう、いつの間にか染められてたかもしれない!!」

「安心してください! わたしもむっつりです! ピンクなすびです!!」

「解決になってねーのよドアホなすび!!」

 

 と、コイバナとも名状し難い冒涜的な混沌が繰り広げられている裏で、魔神たちは復活を果たしていた。

 ジャンヌは上空から落ちる一撃を大きく足を開いて受け止めながら、

 

「あの、こちらも手伝っていただけないでしょうか!? そろそろキツいです!」

「え、それ僕に言ってる? 無理無理、こんな場所で音楽家にできることなんてスピーカーになるくらいだから」

 

 モーツァルトはどこぞの騎士の如く、ポロンポロンと音を奏でていた。愛しのマリーが男はなかなか立ち入れない乙女話に興じているという悲しみのセレナーデである。

 そこに、既にダンテを捕獲していたノアがやってきて、首を掴んだ。

 

「芸術系の英霊どもはどいつもこいつも使い物にならねえな。俺が全員バーサーカーに改造し直してやる」

「『とりあえずバーサーカー出しとけば勝てるからね。もう全員バーサーカーで良くない?』」

「何を言ってるんですかダ・ヴィンチちゃん!? サーヴァントのクラス差別は深刻な問題をもたらしますよ!!」

「そうだそうだ! まあ僕たちはクラス以前の問題だけど! 主に人格が!」

フォフォフォウ(自覚あるのかよ)

 

 反論にならない反論をするモーツァルトとダンテはずるずると引きずられていく。その悪魔の歩みを黒い甲冑の騎士が止めた。

 

「Arrrrrrrr……」

 

 手を前に出し、首を左右に振るランスロット。ペレアスはそれを見て訝しむように目を細める。

 

「……お前、余計なこと喋らない分バーサーカーの方がマシじゃねえか?」

「Aurr!?」

「なんか動揺してるのは分かりますわね」

「mum……」

「単語は喋れるんですね。ますますセイバーの方より好ましく思えてきました」

 

 ペレアスとリース、マシュはじっとりとした視線をランスロットに差し向けた。なお、この宙域のどこかでセイバーの方が謎の寒気を覚えたことは言うまでもない。

 ランスロットは逃げるように魔神たちへと突撃していく。狂したりと言えども武技は衰えず、周囲のあらゆる物質を宝具化させることで暴れ散らかしている。

 さらに。地面より無数の杭が突き上がり、魔神を刺し貫く。ランスロットは杭の一本を引き抜き、敵へと投擲した。

 

「……さて、ペレアス卿。以前交わした約定を果たしてもらうぞ。忘れたなどと申すことは許さぬ」

 

 ランサー、ヴラド三世。ワラキアの公主は緩やかに微笑み、騎士の横に並んだ。

 ペレアスもまた応えるように獰猛な笑みを広げ、

 

「当たり前だ! 約束を守らない騎士は騎士じゃねえ───オレたちでサクッとあいつらを倒すぞ!!」

「ああ、存分に踊るが良い! 余が指揮を執ってみせよう!」

 

 公主と騎士は同時に敵の群れへ飛び込んだ。数え切れぬほどの杭が咲き乱れ、黄金の斬撃が散華する。二人の戦いを止め得る者は誰もいなかった。

 リースは携帯端末のカメラをその光景に向けながら嘆息する。

 

「私の旦那様がかっこよすぎて困りますわ……推し活が捗ってしまいます。またHDDを用意しなくては」

「ふふふ、分かりますよその気持ち。私たちにも最高の推しがいますので」

「ええ、推しは精神と生活を豊かなものにしてくれます」

 

 ぬっ、と現れるセイバーとキャスターのジル・ド・レェ。むっつりな方のジャンヌとむっつりな方のジャンヌは鏡合わせみたいに微妙な表情をした。

 

「……アンタらも来てたのね。しかも別側面のコンビで」

「わ、私は喜ばしく思いますよ。何も知らぬ田舎娘の私を公私で支え続けてくれたジルにはとても感謝しています」

「ジャンヌ、貴女がいるのなら私は火の中水の中あの子のスカートの中だろうと駆けつけてみせましょう」

「しかし、それだけではありません。私たちにはあるひとつの夢があるのです」

「「嫌な予感しかしないんですが」」

 

 ジルコンビは同時に眼球を飛び出させて、絶叫するように言い放つ。

 

「「そう、この戦いに勝った暁には『Wジャンヌに両耳から囁かれる安眠ASMR』を作成販売するという夢が!!!」」

 

 刹那、疾風迅雷の速さで両ジルの眼球に指が叩き込まれた。武田信玄も拍手を打つレベルだった。立香とノアは地面をのたうち回る変態二人を乱雑に押し退ける。

 

「同じ顔してるだけあって息が合ってるじゃねえか。いっそ合体したらどうだ?」

「腹ペコとツンデレが合わさり最強に見えますね。そういえば、マルタさんとゲオルギウスさんの姿が見えないんですけど……」

 

 すると、ホムンクルスのために世界の壁を飛び越えてそうな方のジャンヌはスマートフォンを取り出して、ぎこちなく操作する。

 

「あのお二人からはL○NEの聖人グループで〝今立て込んでるからまた後で会いましょう〟というメッセージが……」

「いや、聖人グループってなに? 聖人が何人いると思ってるのよ」

「私も把握しきれてはいませんが、毎年バレンタインの日は聖ウァレンティヌスさんがチョコのスタンプを連打するので彼は有名ですね」

「もうそれヤケクソだろ」

 

 ノアはどうでもよさそうにツッコんだ。なんとなく聖ウァレンティヌスの闇が垣間見えた瞬間である。

 立香はちらりと瞳を横に流し、ひそひそと話す。

 

「ヤケクソと言えば、アレどうします?」

 

 立香に視線を合わせると、その先では、

 

「ロベスピエール……!! 貴様、性懲りもなく王妃を狙うつもりか!!」

「王妃を狙う? は、ギロチンの刃で首を落としたお前に言えたことか!! 首切り役人ならば人形の如く佇んでいろ!!」

「うん、もう駄目だな、これ」

 

 激しく切り結ぶロベスピエールとサンソン。それをデオンは腕を組んで眺めていた。彼、もしくは彼女の美貌は虚ろな諦念で塗り潰されている。

 革命の嵐が吹き荒れた時代。ロベスピエールら権力を掌握したジャコバン派は、何人もの人間をギロチンの刃によって打ち首にしていた。

 ルイ十六世、マリー・アントワネットに始まり、数々の権力者・著名人を殺した。中にはでたらめな暗殺計画を何故か成功させてしまったひとりの少女もいて。そのほとんどの処刑に関わったのが、サンソンであった。

 そして、ロベスピエールの首を刎ねたのもまた。

 ───牢獄を訪れた時、この男は嘲るように微笑っていた。

 

〝……まもなく処刑が始まる。法が、民衆が、望んだ結末だ〟

〝知っている。逃れるつもりはない。私の死によってフランス革命は完成する。この国は生まれ変わるぞ、あの男の栄光の下にな〟

〝───あの男?〟

 

 ロベスピエールは笑みを深める。

 

〝ナポレオン・ボナパルト。私の弟が見出した軍人だ。アレの才覚はこの狭い国に収まらない。必ずや熱狂の時代を創り上げるだろう〟

 

 一寸先に死が迫る状況で。

 未来を思い描くように、奴は言った。

 

〝……貴様の関係者ならば、今頃逮捕されているはずだ。その男もいずれ処刑される〟

〝いいや、処刑などできはしない。この国に使える将校はもはやいない。ルイに引きずられるように、貴族どもが国外へ逃亡したからな。だから、この国はたったひとりの青年の手に受け渡される〟

 

 背筋が凍る思いだった。

 脳裏を過ぎる、ひとつの悪い想像。

 もし、もしも。

 ロベスピエールが徹底的に政敵を、時には仲間すらもギロチンにかけてきたのは、革命の淀みを全て己に集約し、死によって濯ぐことでナポレオンという男に権力の座を明け渡すためだったのではないか、と。

 けれど。

 

〝だが────ああ、私の理想は、成せなかったか〟

 

 理想に溺れ、それでももがき続けた男は拳に血が滲むほど悔やみ、首を刎ねられた。

 平等の実現という理想。

 誰もが等しいという夢想。

 そこにかけた情熱は、誰もが認めざるを得なくて。

 だから、多くの人がロベスピエールという偶像に惹かれた。ロベスピエールという名の光に焼かれた。

 叶えることも馬鹿馬鹿しい理想は。

 きっと、何よりも美しくキレイだった。

 ギン、と刃が火花を放つ。

 

「『死は明日への(ラモール・エス)────」

 

 サンソンの宝具はギロチンの刃によって相手の首を断つ処刑の具現。

 それは逸話の再現だ。

 サンソンによって処刑されたロベスピエール。第一特異点と異なり、理性の女神無き彼にその再現から逃れることはできない。

 刃が振り落とされる直前、サンソンとロベスピエールの頭上に鋼鉄の拷問器具が落下した。

 

「ギロチン。苦痛なく命を絶つ処刑器具……なんてつまらないのかしら」

 

 かすかに漂う、血の匂い。

 血の伯爵夫人、エリザベート・バートリー───カーミラ。彼女は粉砕されたギロチンの残骸に腰掛け、二人に向けて命令を飛ばす。

 

「貴方たち、服を脱いで絡み合いなさい」

「『何言ってるんですかこの人!?』」

「黙りなさい、下男。これは趣味よ。生前なんて夫と私の愛人同士をまぐわら───」

「はいストップストップ!! R-18発言はこの藤丸立香が許しませんよ!!」

 

 人類最後のマスターは咄嗟に止めに入る。

 正直、カーミラには近寄りがたい。まだまだ経験も少なかった頃に交戦したサーヴァントで、生身まで傷付けられている。召喚に応えたということは敵対するつもりはないのだろうが、それでもあの記憶は拭えない。

 が、人にはやらねばならぬ時がある。不健全な発言を許すわけにはいかないのだ。

 カーミラは立香の顔を見て、ふっと微笑む。すると、その真っ白な手を立香の頬に当てた。

 

「……あら、綺麗になったじゃない。(いろ)を知ったのね」

 

 どきりと心臓が跳ね上がる。

 経験豊富な大人の女性の余裕。まるで心の内をまっさらに暴かれているかのような眼差し。蛇に睨まれた蛙みたいに硬直する立香の後ろで、リースはうんうんと頷いていた。

 

「やはり分かってしまうものですわね。女が美しくなる時、そこには常に恋の影があるのです」

「後方師匠面やめてくれますかリースさん。わたしは決して認めませんよ!!」

「前方後輩面してるアンタに何の権利があると?」

「ああ、せっかくシリアスっぽくなってたのに……」

 

 人間要塞の方のジャンヌはさあっと涙を流した。分かってはいたつもりだったが、ここにはあの時いなかったリースという追加戦士がいる。その戦闘力は聖女を持ってしても計り知れなかったのだ。

 マスターの片割れが危機を迎えているのを他所に、ノアは地面に突っ伏すサンソンとロベスピエールの背中を踏み締める。

 

「おまえらの乳繰り合いは13話の時点で飽きてんだよ、主人公の俺に台詞を明け渡せモブども!!」

「私の上に立つ必要が何処に在る、馬鹿が!!」

「俺が人の上に立つ人間だからに決まってんだろうが。俺の名の下に全ての人間は平等だ」

「ひ、人はそれを不平等と言う……」

 

 サンソンは土を食みながら呟く。

 互いに対する戦意も萎えかけてきたその時、ぱからぱからとガラスの馬がやってくる。デオンを伴に連れた馬上には当然、フランス王妃マリーがいた。

 ロベスピエールはノアを跳ね除けると、剣の柄に手をかけた。その瞬間、王妃を護るべく、デオンとサンソンは咄嗟に身を割り込ませる。

 しかし、ロベスピエールはその剣を柄ごと投げ捨てた。

 

「……貴女に訊きたかったことがひとつある」

「答えましょう。貴方にはその権利があり、わたしにはその義務があります」

 

 男は、真摯に王妃を見据える。

 

「王家は、本当にフランスを見捨てたのか」

 

 それは、彼自身の疑念を抉る問いだった。

 ヴァレンヌ事件。ルイ十六世、マリー・アントワネットを含む時の国王一家が革命の機運の高揚に際して、国外へ逃亡しようとしていたことが明るみ出た事件である。

 これは当時のフランス国民に多大な衝撃を与えた。

 本来国を治めるはずの王家が、民を護るはずの王族が、どちらをも捨てて逃げようとしている────この一件は王朝の凋落を決定付けてしまう。

 結局、一家は捕縛され、パリへと連れ戻された。国民たちの怒りと憎しみの全てを背負わされて。

 そうして、ルイ十六世は裁判の末に処刑された。

 …………ロベスピエールは瞼を伏せ、あの光景を思い浮かべる。

 二万人の群衆が詰め寄せるコンコルド広場。その場は沈黙に覆われていた。民衆が向ける視線には好奇と、憎悪と、憤怒と───あらゆる混沌とした感情が渦巻いていた。

 王は言った。

 

〝私は無実のうちに死ぬ〟

 

 厚顔無恥な男め。

 

〝……私は無実のうちに死ぬ〟

 

 貴様こそがあらゆる禍根の源だ。

 

〝私は私の死を作り出した者を許す〟

 

 誰も貴様の許しなど請うてはいない。

 誰もが貴様の罪を許しはしない。

 

〝私の血が二度とフランスの地に落ちぬよう、神に祈る〟

 

 遂に、貴様は愚かなままに幕を閉じた。

 お前の死を作り出したのはお前自身だ。

 許されたかったのは他の何者でもないお前自身だ。

 ルイ十六世に王たる度量はなかった。否、フランス王家に人の上に立つ器量はなかった。そうでなければ、道々に物乞いが溢れ、死体が転がり、年端もいかぬ子どもが犯罪に手を染めるアラスの町ができるはずがない。

 故に王妃も同罪だ。

 彼女も例外なく、ギロチンの刃にかけられなくてはならない。

 その斬首がなされた後、民衆は口々に叫んだ。〝共和国万歳(Vive la République)〟と。

 彼女が愛したフランスは、もうなかった。

 数日後、一枚の手紙が発見された。

 王妃が義妹に宛てた手紙。要は遺書だ。

 その文面に、死への恐怖はなかった。

 ただ、家族への愛があった。神への信仰心があった。

 手紙は涙でインクがところどころ滲んでいた。その涙はきっと自分のためでなく、愛する者たちのために流れたものだった。しかして、心に生まれたひとつの疑問。

 こんな人間が、本当に民を見捨てられるのか───?

 

「……あんなこと、したくはありませんでした」

 

 王妃はぽつりと語る。

 

「あなたたちの悲しみは、憤りは、すべてすべてわたしたちの罪。それが、どんなにフランスの民の心を傷付けるか分からないはずもなかったのに」

 

 でも、と彼女は唇を噛む。

 ぷつり、と皮膚が切れ、血が流れるほどに。

 

「でも、それでも、わたしは───我が子を、失いたくなかった…………!!」

 

 そう。

 つまるところ。

 彼女は、聖女にはなれなかった。

 見知らぬ誰かのために命を擲つよりも、身近な愛する人の命を護ることを選んだ。

 

「ごめんなさい。降りしきる雨の中で賛辞を捧げてくれた貴方を、最後まで、太陽の下に連れ出すことができませんでした」

 

 ロベスピエールの学生時代。

 彼は学院を訪れたルイ十六世夫妻に対して、500人の生徒の中からスピーチを捧げる代表に選ばれた。

 数時間も雨に降られ、読み上げた言葉を聞く二人は馬車の中。それが終わると、彼らはすぐに立ち去ってしまったという。

 その経験が、後の革命家に与えた影響はあまりにも大きく。

 ロベスピエールは心中の汚濁を吐き捨てるように笑う。

 

「そうか。もういい」

 

 彼の手に灯る、白き炎の灯明。

 それは彼が信じた理想の体現、理性の光であった。

 

「王妃よ。貴女もまた……救われるべき人間だったのだな」

 

 ───それが分かっただけでも、十分だ。

 ロベスピエールはノアを見据える。

 

「全ての人が等しいという理想。それはまだ果たされていないのだったな」

「ああ。だが俺がやる。キリシュタリアってやつもな。英霊の座で目ぇかっぽじって見てろ」

「ならば征け。魔術王とやらを討ち果たし、理想の果てを実現してみせろ」

 

 天に掲げる、理性の光。

 理想の灯火のもとに、彼は告げた。

 

「お前たちの道は私が照らす!! 神を名乗り、王を騙る不届き者なぞことごとく否定してみせろ!!!」

 

 彼の輝きは人に自由を保障する光。

 従属を強いる契約などもってのほか。それはこの光が否める悪に他ならない。

 なればこそ、魔術王の眷属たる魔神は近付くことすらできなかった。現在七十一体の魔神から九つが切り離されてしまえば、その戦力の低下は甚だしい。

 Eチームは、その路を駆けた。

 魔術王の玉座への扉を開くために。

 

「ジャンヌ・ダルク!!」

 

 聖女は叫ぶ。

 自らの名ではなく、彼らとともに戦う少女の名を。

 

「───貴女に、神の御加護があらんことを!!」

 

 彼女は口の端を吊り上げて、

 

「ハッ! 余計なお世話……!!」

 

 視線も交わさず、その言葉を受け止めた。

 次なる宙域に入る寸前。ノアは振り返り、ひとつの小袋を聖女に投げ渡す。

 

「……これは!?」

「開けりゃ分かる! しくじるなよ腹ペコ聖女!!」

「太らないように気をつけてくださいね!」

「サーヴァントは太りませんが!?」

 

 そんなこんなで、溶鉱炉はなんやかんや突破されたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………アレ、私の出番は!!?!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「再起せよ。再起せよ。情報室を司る九柱。すなわ」

「ちょぉぉぉっと待ったああああああ!!!!」

 

 魔神たちの名乗りを遮り、立香とノアは聞き慣れた美声に顔をしかめた。

 今まで多数の出演を果たしてきたトカゲアイドル娘は肩を怒らせながら、Eチームに詰め寄る。

 

「私、第一特異点にいたんだけど!! なんで一切触れられてないわけ!? 私準レギュラーでしょう、視聴率取るなら出す以外の選択肢ないじゃない!!」

「キーキーうるせえなトカゲ娘。おまえだけだぞ、誰にも望まれてないのに出演してるやつ。おまえというキャラは骨の髄までしゃぶり尽くされてんだよ、せめて全身メカになるくらいのインパクト背負ってから来い」

「そうですよ。それに大人の方が登場したんだから良いじゃないですか。ウチのフォウくんなんて長らく存在を忘れられてたんですよ?」

フォウフォウフォフォフォウ(マジで忘れたやつ許さねえからな)

 

 フォウくんはぺっと唾を吐いた。唾棄すべき世界への一撃と言えよう。

 来るなりそんなやり取りを見せられたロード・エルメロイⅡ世もとい諸葛孔明は精神安定剤のたばこを口に運ぶ。

 

「……相変わらずのようで安心だ。いや、失望したと言うべきか。その体たらくでよく今まで戦い抜いてこられたな」

「グレートビックベン☆ロンドンスターじゃねえか。いきなりヤニ吸ってんのか? 肺がゴキブリ色になるぞ」

「黙れ。これは各種薬草を巻いたモノだ。あとその呼び方をやめろ」

「まあいい。今頃あいつの家に仕込んだ魔術が発動して慌てふためいてるだろうからな。世界が元に戻った時が楽しみだ」

「おい何をした!? まさかそっちの私はイタズラ騒ぎの最中に焼却されたのか!?」

 

 ノアは何も言わず、邪悪な笑みでもって返した。

 かの征服王イスカンダルの少年期である英霊アレキサンダーはからからと笑って、

 

「トンチキと言えばこの特異点もそうだったよね。ローマ三国志大戦、またやるかい?」

「私は構わんぞ。レフの排除に手を取られたが、今度やれば私が勝つ!!」

 

 と、来た見た勝ったの三拍子揃った皇帝カエサル。ダンテは額を流れる冷や汗をハンカチで拭き取る。

 

「わ、私は勘弁してほしいですねえ。どこ行ってもローマとか地獄でしかなかったんで。魔神柱に変身した時なんてジャンヌさんに燃やされましたから」

 

 Eチーム三人娘は懐かしむように頷いた。

 

「そういえば最初敵でしたね。あの時はまあまあビビりましたよ?」

「あのミステリアスはどこに行ったのか……わたしたちはそれを探るためアマゾンの奥地に向かった……」

「アマゾンの奥地でも失ったミステリアスさは見つからないでしょうけど。まさかここまでヘタレでポンコツでアホとは思わなかったわ」

「ほらこんな有様ですよ!! こんなことになった原因の半分はカエサルさんにあります、傷ついた私のために謝ってください!!」

 

 カエサルは心底どうでもよさそうに、

 

「貴様に頭を下げるくらいなら元老院の議員どもに踏まれた方がマシだ。むしろ貴様が私に土下座しろ。貴様が弱すぎるせいで負けたも同然なのだからな!!」

「えっ、土下座で許してくれるんですか? オプションで靴舐めもお付けしますが?」

「お前にはプライドとかねえのか!?」

 

 ペレアスは自然な流れで屈み込んだダンテを掴んで立ち上がらせる。土下座ソムリエ第一級資格持ちの芸術的な土下座は陽の目を見ることはなかった。

 そこで、立香とノアは背筋に目線を感じる。振り向くと、薔薇の皇帝ネロ・クラウディウスがリスのように頬を膨らませて二人を見つめている。

 

「立香、そしてノアトゥールよ。ほんの片時とはいえ、栄えあるローマ帝国の軍師と宮廷魔術師を務めたのだ、まずは余に挨拶するのが筋であろう!!」

「それ構ってもらいたかっただけだよね?」

 

 勝利の女王ブーディカは苦笑した。ローマへの隔意は拭えるはずもないが、このポンコツ姿を見せつけられては少しは緩むというものだ。

 ノアは目を平べったくして、びしりと人差し指を突きつける。

 

「それよりシモンのアホを躾けておけよ。ラスボス面で暗躍してやがるぞ」

「正直とんでもなく迷惑です。なんで雇ったんですか」

「なぬ!?」

 

 思ったより辛辣な反応をされて、ネロは後退った。

 

「し、シモンはすごい魔術師だったのだぞ? 余もついついシモンの像を建ててしまったほどだ。ロクスタとは犬猿、否、ム○クガチ○ピンの仲だったが……」

「『別にその二人は仲悪くないですからね!?』」

「先輩、わたしは知ってますよ。すごい魔術師なんて大体人格破綻者だということを」

「うん、身近に良い例がいるからね」

 

 その元凶はわざとらしく首を傾げる。

 

「全く見当がつかねえな。誰のことだ?」

「「…………」」

「…………苦労しているな」

 

 孔明は悲壮感を纏う少女たちの背中に思わず同情したのだった。彼も才能ある魔術師に振り回される経験は人並み以上にあるほうだ。模造ナイフで英霊を喚ぶアホとか、銀髪美少女が関わるとアホになるアホとか。

 敵前で堂々と話し込む彼らの声を遮るように、魔神たちは謳い上げる。

 

「さ、再起せよ。再起せよ。情報室を司る九柱。即ち、オリアス。ウァプラ。ザガン。ウァラク。アンドラス。アンドレアルフス。キマリス。アムドゥシアス。我ら九柱、文字を得るも」

「───そうだ。お前たちもローマに他ならん」

「!!?!?」

 

 驚愕する魔神一同。神祖ロムルスは槍の切っ先を彼らへ突き立てる。

 

世界(ローマ)とはローマである。そして、我ら皆にローマは宿る。ローマから生まれし者であるが故に。我が(ローマ)に還れ、お前たちがローマであるならば!!」

「ローマ版人類補完計画か?」

 

 ノアはさらりと言った。立香はローマの濁流を耳から流し込まれ、くらくらと目を回していた。

 リースは何食わぬ顔で、

 

「私はペレアス様のお嫁さんですわ」

「善き(ローマ)を得たな、ペレアス」

「いや、オレたちはローマっつうかブリテン……」

「それもまたローマである」

「ジャンヌさんはツンデレかポンコツかどっちですか?」

「おい」

「否、ローマである!!!」

「なにこれローマbotなの?」

 

 またもやブーディカは苦笑した。ロムルスはEチームの面々をひとつずつ眺め、小さく口角を吊り上げる。

 

「いずれ顕れる我がローマの罪は私が浄める。如何なる苦境であろうと面を伏せるな、なすびの如き少女よ」

「そこはローマじゃないんですか!?」

 

 マシュことローマは目を見開いて叫んだ。

 ロムルスは言いたいことだけを告げ、魔神の群れへと身を投げる。そこには既に、血肉を撒き散らして戦うバーサーカーたちがいた。

 

「魔術王! 我らが人類史に対する圧制者! これぞヒトの自由を示す闘争!! 総身に走る痛みこそが誉れの証───故に! この歩みは果てに至ろうぞ!!」

「■■■■■■■■■────!!!」

 

 圧制への叛逆者スパルタクス。そして、征服王の好敵手ダレイオス三世。狂奔の極致に在りし二体のサーヴァントは、魔神の攻撃をその身で受け止め、返す刀で確実に相手の息の根を刈り取る。

 そこにロムルスが加われば、辺りは凄惨なる殺戮場から勇壮なる戦場へと一変する。全てを貫き、全てに通じる槍───その穂先は一度に数十の打突と化す。

 その様は蹂躙と言う他ない。

 ダンテは安堵の表情で肩を下げる。

 

「もうあのお三方に任せておけば良いのでは?」

「いいや、武功を見逃すなんて勇者の恥さ。ということで行くよ、先生!!」

「仕方あるまい。名軍師の策を振るってみせよう」

「貴様もだ、ダンテ。今度こそ私の役に立て!!」

「ヒィィイィィイイイイイ!!!」

 

 かつての超神聖ローマ帝国とネオローマ連合の王と宰相コンビは走り抜けていく。それに続いて、ブーディカも己の戦車に飛び乗った。

 

「それじゃ、私も行こうかな。ちょっとばかり良いところも見せておかないとね!!」

 

 第二特異点に集いしは皆、並ぶ者無きであった。

 だからこそ、この場は誉れ高き武勲を手にすることができる楽園。世界を救う。それに勝る武功などあるはずもない。

 一度敵が定まっているのなら、過去の怨恨は朝露の如し。

 彼らが語らうべきは命の火が燃え盛る戦場だ。魔術王の眷属を前にして、戦士たちは一様に笑顔を浮かべていた。

 

「……で、アンタは行かなくていいの?」

 

 ジャンヌは視線を傾ける。

 

「征くとも。けれど……そうか。こういう戦いも、あるのだな」

 

 フン族の大王アルテラ。あらゆる文明を破壊する巨刃、神の鞭は星を望む夢想家のように目を細め、戦士たちの闘争を瞳に収めていた。

 彼女にとって、戦いとは破壊することであった。

 そこに情は存在しない。余計なしがらみなど剣を惑わせるだけの鎖だ。

 だのに、彼らは溢れんばかりの情を抱えていて。己を戒める鎖を引きずりながら戦っている。

 何故、と己に問いかける必要はない。

 なぜなら、彼女はもう知っている。

 詩人が見せてくれた天上の薔薇を。

 いつかどこかで、真の姿を受け止めてくれたマスターを。

 彼らがこんなにも眩しいのはきっと、

 

「───これは、未来を創る戦いだ。未来を奪い返す戦争だ。だったら、私はひと振りの刃としてではなくひとりの人間として道を繋ごう」

 

 光子の剣が灯る。

 情もしがらみも愛しく抱きかかえて、彼女は言い告げた。

 

「私に、ついてこい」

 

 その刃は破壊のためでなく。

 ヒトの歴史を紡ぐために放たれた。

 

「『軍神の剣(フォトン・レイ)』!!!」

 

 千紫万紅の光条が敵陣を貫く。

 アルテラの背を追うEチーム。薔薇の皇帝は満足げに頬を緩め、己が剣を手に取る。

 

「……ネロ帝」

 

 不意に、おずおずとした声がかかる。その声の主を視認し、ネロはあんぐりと口を開けた。

 

「ヘレネー───ヘレネーか!?」

 

 女はこくりと頷く。

 

「皇帝にお会いしたく、この場までやって参りました。戦場とは存じておりますが、お目通り叶うでしょうか」

「む、無論である! 近く寄るがよいぞ!」

「では、お恥ずかしながら」

 

 すとん、とヘレネーはネロの前で座り込んだ。その振る舞いに困惑するのも束の間、彼女は小さな声で喋り出す。

 

「私は、あなたの美しさに目を奪われていました。あなたが演じたパリスの姿は今も私の瞼に焼きついています」

「そうであったのか? てっきり余は退屈な劇と思われていると感じたのだが」

「いいえ、腹がよじれそうでした」

「演出の意図とは違うが、褒め言葉と受け取ろう。だいたい、それを少しは顔に出してくれても良かったのだぞ!?」

 

 ヘレネーはそれを無視して、

 

「あなたの最期を、私は知っていました。知っていながら助けようとしませんでした。如何なる罰も受ける所存です、皇帝よ」

 

 三度の落陽を迎えた果ての絶命。

 それを見過ごした私を裁いてほしいと、彼女は言う。

 ネロは剣を握り締める手の力を抜く。こつり、と切っ先が地面を叩き、ついには転がった。

 

「うむ。皇帝として、貴様に罰を与えよう」

 

 薔薇の皇帝は女の隣に腰を落ち着ける。

 手を重ね合わせ、瞳を突き合わせた。

 

「───真の名を余に教えよ、ヘレネー」

 

 目を見開く彼女に、まだまだ言葉を浴びせかける。

 

「確かに余の最期は……うむ、あれは最悪だった。痛いし、苦しいし、寂しくて泣きそうだった。というか泣いた!」

 

 だけど、とネロは翻す。

 視線を外し、二つの眼がそれを追う。

 先代皇帝、カリギュラ。かの男もまたこの宙域に集い、人類史の仇敵へと拳を振るっていた。

 

()は知っていた、この身が誰かに愛されていることを。私は知った、全てを捧げても良いと思える奏者(マスター)を。なればこそ、あの最期も、まあ、許せる!!」

 

 その瞳は、月を映していた。

 見たくなかった。

 見ようともしなかった。

 英霊としての皇帝ネロ・クラウディウスの物語を。

 もし、あの時と同じような結末を遂げていたらと思うと、遣る瀬無くて仕方なかった。

 それでも、彼女は刹那の内に垣間見た。

 遥か月の戦場で、己が信ずる者と歩む光景。

 くすり、と笑みがこぼれる。

 ───やっぱり、まだ、人間は捨てたものじゃなかった。

 

「……私の名はヘレン。ただの、ヘレンでございます」

「そうか、ヘレン。良い響きだ。この宙域で成したいことがあるのだろう。言ってみよ、余がその手助けをしてやる!!」

 

 首肯し、ヘレンは立ち上がる。

 

「とある男と約束を結んで参りました。かの王への道を仕立てる、と。ついてきてくれますか」

「あったりまえだ! しかし、ヘレンよ。戦えるのか?」

「少しは。お目汚しかと思いますが、本気を出すため私は脱ぎます」

「むっ!!?!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………結局、少ししか出番貰えなかったんだけど!!!?」

 

 なお、トカゲアイドル娘はさらなる出番を求めて走り出すのだった。



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第80話 それは、未来を奪い返す戦い②

いつにもまして遅れてすみません。親知らずの抜歯の痛みは海のリハクでも見抜けませんでした。奏章1は桜要素まみれでわし様がかっこよかったのでよかったです。


 知恵の定義とは何であろうか。

 難解な式を解き、書の記述を蓄積する頭脳のことか。もしくは、目の前の困難に対してより善い選択肢を選び取る能力のことか。あるいは、物事の真理を狂いなく把握する眼力のことか。

 そのどれもが正しく、間違いはない。状況によって求められる知恵の形は異なる。どれかひとつに意味を定めることは傲慢の極みと言って良いだろう。

 だからこそ、傲慢にして憤怒の罪を司る蛇はその女に語った。

 

〝へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。〟

 

 蛇に誘惑された女───イヴはアダムとともに決して触れてはならぬ知恵の樹の実を口にした。かくして彼らは楽園より追放されるのであるが、それは瑣末な問題だ。

 蛇曰く、知恵の樹の実を食した者は神のように善悪を知る者となる。

 実が与える知恵とは何が善く、何が悪いかということを自分の力で判断する意思であった。

 それは見方を変えれば、人間が神となった瞬間だったのかもしれない。なぜなら、善と悪を手前勝手に規定することはこの世の全てを上から見下す視座を得るに他ならないからだ。

 

〝汝に資格あり。望みを口にせよ。願うものを与えよう〟

 

 ───ソロモンが与えられた知恵とは、そういうものだった。

 彼は己の権力を絶対的なものとした後、ギブオンという地の聖所において一千もの牛を捧げる燔祭を執り行う。

 この時代は未だ、神との交渉には生け贄が必要だった。

 罪は、血によって雪がれる。

 かつて先王ダビデが部下の妻と不貞の罪を犯し、後に彼女との間に産まれた第一子の命を奪われたように。未来の救世主が己を贄として原罪を祓ったように。罪を贖うものはいつだって誰かの命でしかあり得ない。

 神の王国を揺るぎなきものにするためであれ、ソロモンは長兄とその側近たちを殺害した。その燔祭は己の罪を取り除く目的のもとに開かれたのだ。

 かくして、穢れ無き王に資格は宿り。

 王は夢枕に現れた神に対して、願いを口にする。

 

〝あなたの民を正しく裁き、善悪を弁えることができるよう、私に聞き分ける心をお与えください〟

 

 聞き分ける心。

 何を? 決まっている、神の意思だ。

 善悪を定めて良いのは天におわす主なる神ただ一柱のみ。しかし、人間は愚かで、身勝手で、過ちを重ね続ける生き物だ。彼らはいつか神の教えに殉ずることを忘れ、自らの価値観で何が善で悪かを決めつけるようになってしまうだろう。

 そんな世界は、地獄でしかない。

 個人の主張がぶつかり合い、他者を悪として定めることで、誰かを殺してしまえるほどの言葉を臆面もなく投げつけ合う人間たち───そんな醜い世界は、どうしようもなく救いようがない。

 だから、ソロモンはたったひとつの完全なる善悪(知恵)の基準たる神の心を聞き分ける力を望んだ。

 そして、神はそれ故に、王が望んだ知恵だけではなく富と栄誉、長命さえをも授けたのである。

 

〝もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう〟

 

 それは契約。

 王が神の命を守り、神の定めた運命のままに生きるならば、永き寿命を与える。かくして、ソロモンは並ぶ者無き王へと成り果てた。

 思えば、これが彼に定められた使命だったのだろう。人の身にして神の知恵を授かり、ヒトのように変化も劣化もしない善悪の法を国に敷く。ソロモンとは、人のための王ではなく神のための王であった。

 その比類なき知恵は、とある諍いによって全国民のもとに示されることとなる。

 ひとりの赤子を巡って、二人の遊女が親権を主張していた。彼女たちは同じ時期に子どもを産み、しかし一方の子が亡くなってしまったことで、生きているのは自分の子であると言い争っていた。

 彼女らはついに王の御前にまで迫り、正しき裁きを下すことを委ねる。

 

〝剣を、持ってきてくれるかな〟

 

 ソロモンは従者に告げた。

 差し出された剣を手に取り、鞘から抜き放つ。

 

〝その子を二つに裂いて、半分ずつ君たちに分けよう〟

 

 すると、遊女たちは、

 

〝我が王よ、生きている子を彼女にお与えください。お願いします、決してその子を殺さないでください〟

〝それならば、その子を私のものにも彼女のものにもしないで、引き裂いてください〟

 

 王は抜き身の剣を鞘に戻し、従者に手渡す。彼の目は二人の遊女ではなく、その間の虚空に向けられていた。まるで、そこに確たる答えが置かれているように。

 

〝先に喋り出した彼女に子を与えるように。彼女こそが本当の母親だ〟

 

 後の世ではソロモンの審判と呼ばれる裁決。

 己の子かも定かではない赤子の運命を誰よりも嘆いた女にこそ、小さな命は託された。だが、ここには決して目を背けてはならない陥穽が存在する。

 結局、王はその赤子がどちらの子であるかを明らかにしていない。ただ遊女たちの反応を見て、裁きを下しただけだ。

 無人となった玉座の間において、ソロモンは己の内に語りかけるように呟いた。

 

〝……うん、そうだね。私の裁きは欺瞞だ。あれが真実であるかなど、我が主の他に誰も証明できないだろう〟

 

 だけどね、と彼は微笑む。

 

〝血の繋がりなんてどうでもいいことだよ。他者の命を尊重できる彼女のもとでなら、あの子は幸せに成長できるだろう。本当の親が本当の愛を注いでくれるわけじゃない。……神はそう望まれたんだ〟

 

 ソロモンの知恵は真の母親ではなく善き母親を選んだ。まさしく、神の思し召しのままに。

 主の御心を聞く。十字教においてその力を持ち得た者はソロモンの他にただひとり、ヒトに宿りし原罪を取り除いた救世主だけだ。

 故に、ソロモンは主の善悪を地上に敷く王足り得た。

 神の意思を悟り、神の命令によって神の王国を治め、神の善悪を蒙昧なる人々に施し、神の定めのままに生きる。そこに彼の意向が介在する余地は存在しない。

 だから、彼は空っぽだった。表情の変化も目線の移動も、ヒトらしい反射さえも周囲から見て学び、真似ているだけだ。両親には、王族に相応しき振る舞いしか教えられなかったから。

 運命の糸にくくられた操り人形。役目を終えれば捨てられるだけの虚ろなモノ。ソロモンは己の内へ向けて問いかけた。

 

〝■■■■■。君にも分かるだろう?〟

 

 ───分かるはずもない。貴様のような虚無から生まれ落ちたナニカには。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「再起せよ。再起せよ。観測所を司る九柱。即ち、グラシャ=ラボラス。ブネ。ロノウェ。ベリト。アスタロス。フォラス。アスモダ…………」

「───そして、エリザベート・バートリー」

「いや、何言って」

「我ら九柱、出番を得るもの。我ら九柱、人気を掴むもの。七十二柱の魔神の名にかけて、我ら、このギャラを逃す事能わず……!!」

「なにやってんだアホトカゲェェェェ!!!」

 

 どこまでも続く星海に絶叫が轟く。

 勢揃いした魔神たちのセンターに堂々と陣取るエリザベート。どこにそんな設定があったのか、彼女は中空に浮かびながら七色に発光している。

 今や魔神の仲間入りを果たしたエリザベートはノアに向かって重々しく口を開いた。

 

「私が出演した特異点は第一と第二、そして第五……前回だけで二つも無駄にしたのよ!? だったらもう敵として出てくるしかないじゃない!! さあ、私を倒しなさいよ! そして涙を流しながら嘆いて、劇場版で復活するフラグを構築しなさい!!!」

「オイオイオイ、勘違いも甚だしいぞエセアイドル。おまえにそんな好待遇が許されるとでも思ってんのか? ジャングルの奥地でベア・グリルスに食われてんのが関の山だろうが」

「誰が貴重なタンパク源!? もしかして本当に私のことトカゲだと思ってるの!?」

「キャンキャン喚くなやかましい。爬虫類は爬虫類らしく巣に帰って卵でも暖めてろ」

 

 Eチーム三人娘はノアに便乗するように追撃を加える。

 

「すみません、こんなに登場されると流石にリアクションが尽きてきました」

「とっくにエリザベートさんの味は無くなっていたはずですが、ここまで来ると逆に味がある気がします」

「吐いたガムを口に入れてみたら案外風味があったみたいな感じね。ああ、もちろん味気無いって意味よ?」

「という訳でギャラは払ってやるから帰れ帰れ。コオロギかワラジムシで手を打ってやる」

 

 ノアは払い除けるみたいに手を振る。絶妙に苛立たしさをくすぐるその動作も、今回ばかりは咎める人間はいなかった。が、エリザベートはヒトならぬトカゲ娘。自前の槍を突き出してがなり立てた。

 

「その塩対応にもいい加減慣れたわ! どんな批判に晒されようと私は逃げないわ、だって芸能界の理は逃げればひとつ、進めばふたつなんだから!!!」

「そしてこの世は奪えば全部ゥッ!!」

「ほんぎゃあああああああああ!!?」

 

 どこからともなく放たれた砲撃の爆風が魔神たちごとエリザベートを呑み込む。

 星海を征く船。赤き十字架を掲げる一隻の船首にて、歯茎を剥き出しにした濃い顔面の男が悪魔の哄笑を轟かせる。

 

「ハッハァ!! テメェに出番なんざやるかよドラゴン娘! 俺は敬虔なキリスト教徒だぜ、地獄に叩き返してやるよ悪魔どもがァ!!」

 

 クリストファー・コロンブス。知恵の女神曰く『暗黒の人類史』に最も相応しいと呼ばれた英霊。功罪を等しく天まで積み上げた男は相変わらずの邪悪な顔貌を貼り付けていた。

 彼方に輝く星のひと粒と化していくエリザベートは苦し紛れに言い残す。

 

「私を倒したとしても第二第三のエリザベートが現れるわ! 次回までに相応のリアクションを考えておきなさい!!」

フォウフォフォフォウ(次回も登場する気かよ)……」

「どこまでも自分の欲に正直なやつだ。恥を知りやがれ!」

「お前が言うな」

 

 ペレアスはコロンブスの後頭部を軽く叩く。ダンテは頭を抱えてうずくまる背中に声をかけた。

 

「い、いやあ、コロンブスさんまでこの場所に来てくれるとは。共に戦った絆は途切れないということですねえ!」

「ああ、俺たちの友情は値千金だ! このままお前らと一緒に魔術王をブチのめしても良し、魔術王に寝返って褒賞をせびっても良し!! こんな都合の良い稼ぎ場なかなかねえぜ!?」

「「お前船降りろ」」

「がああああああああ!!!」

 

 ノアとペレアスはコロンブスをサンタマリア号の欄干から蹴り落とす。船の壁面にかろうじてしがみつくものの、二人の追撃は止まらない。コロンブスは濃い顔面をさらに濃く歪めて涙を流す。

 

「おいおい、ちょっとした冗談じゃねえか! 俺たちゃ一緒にタマ握りあった仲だろ!?」

「コロンブスさんは握られただけですけどねえ」

「おまえみてえなジジイのシワッシワのタマ握らされた俺の気持ちを考えたことあんのか? あの後何回手ぇ洗ったと思ってんだ小ロンブスが!!」

「小ロンブスってなんだァァァ!! まさか俺のタマのデカさのことじゃねえだろうな!? コロンブスのコロンブスは大ロンブスですぅ〜!! コロンブスの卵だけに!!」

「どこもうまくねーよ、うずら野郎!!」

 

 という会話を目の当たりにして、マシュは戦慄した。

 

「先輩、まずいです! 最低のやり取りが繰り広げられています! どうにかして止めましょう!!」

「うん! それとダンテさんは握りあった時の状況を後で詳しく説明してください!!」

「先輩? なぜ鼻血を垂らしているんです? 先輩?」

「ふふふ……順調に育ってきましたわね。良い兆候です。いずれ私のような一流の色ボケに仕上げてみせますわ」

「色ボケの自覚はあったのね、アンタ」

 

 影のある笑みを浮かべるリース。ジャンヌは呆れて肩を落とした。そこはかとなくマシュの脳が破壊されていると、サンタマリア号の甲板がぐらりと揺れる。

 フランシス・ドレイクの旗艦黄金の鹿(ゴールデンハインド)号。それはサンタマリア号に船体を擦り付けるように停止していた。

 ドレイクは片手に酒瓶を握り締め、おぼつかない足取りで船から船へ跳び移る。彼女は紅潮した顔を立香の鼻先に寄せ、がっしりと肩を組んだ。

 

「よくここまで来たじゃないか! やっぱアタシの目に狂いはなかったってことだ! 頑張ったね立香!!」

「ドレイクさん、褒めてくれるのは嬉しいですけどお酒くさいです!」

「酒と殺し合いは海賊の華ってね。大丈夫大丈夫、ほら照準もバッチリこの通りさ」

 

 明らかに目の焦点が合っていない女海賊は拳銃を抜き出し、景気良く発砲する。

 しかし、どこぞのクソエイム全能神よろしく、その銃口はあらぬ方向に散らばっていた。

 彼女が乱射した銃弾の一発は、船体から船体へと奇跡的な跳弾を経て、

 

「ウギャアアアアアアアアアア!!!?」

 

 見事コロンブスの額に直撃し、彼を星海の底へと叩き落とした。

 ドレイクは落下していくコロンブスを見て、けたけたと笑う。

 

「ほ〜ら大当たり! 幸運EXは伊達じゃないだろ?」

「ある意味大当たりではありますけど!!」

「……そうね。ドタマにブチ当たったわ」

「本来あり得ない軌道での一発、見事です。星の開拓者の所以を見せつけられた気がします」

「星の開拓者ってそういうスキルでしたっけねえ!?」

 

 ダンテは船から身を乗り出して叫ぶ。コロンブスの姿はとうに遥か彼方の闇へと吸い込まれていた。彼の宝具であるサンタマリア号が消えていないことからして、一命は取り留めているのだろう。ヤツもまたEXランクの幸運の持ち主なのだ。

 立香は密着してくるドレイクをやんわりと押し退けつつ、

 

「それで、どうして酔っ払ってるんですか。勝利の美酒にはまだ早くありません?」

「そうか、アンタは知らないか。アタシだって戦場で飲むほど呆けちゃいない。けど、ちょっとした約束があってね」

「約束?」

「ああ。こじらせた小娘(ガキ)の愚痴を聞いてやるって条件でね」

 

 ほら、とドレイクは酒瓶の底で背後を差す。

 この宙域に集いし船の一隻。サンタマリア号、黄金の鹿号とは見るからに時代と様式の異なる帆船───アルゴー号。綺羅星の如き数々の英雄がともに旅をし、カルデアと熾烈な戦いを繰り広げた英傑の船である。

 そのアルゴー船上。どん、とガラスの瓶がテーブルを叩く。まるで女帝のように足を組んで椅子に座るメディア。彼女の顔は真っ赤に染まり、目はもったりと据わっていた。

 メディアは眼前で床に正座するイアソンに言う。

 

「オイ、イアソン。アレやれよアレ。私をオトしたぶんぶんゴマ。今も持ってるよなぁ?」

「あ、アレはアフロディーテに貰ったやつで……なんか性格違くね? オルタですらなくね!? こいつ本当にメディアのリリィか!?」

「オルタもリリィもアルターエゴも何でもアリって意味じゃ大して違わないだろ、ほぼ同じだろ、つーかリリィ付けときゃ純粋になるとか幻想見てんじゃねーぞ」

「そりゃだって今のお前はオルタでもリリィでもアルターエゴでもないただの酒乱だからな。ついでに言えばメディアでもないからな。酒乱・酒乱・酒乱だからな」

「おい誰がゴリラの学名だぶっ飛ばすぞ」

 

 メディアはイアソンの胸ぐらを掴みあげ、もう片方の手で微妙な表情をするヘラクレスを指差す。

 

「そもそも誰のおかげでコルキスまで行って帰ってこれたと思ってんだ? 私の魔術のおかげだろ。あのデカブツなんて恋人の尻追い掛けてたら船乗り過ごしたんだぞ!!? ただのスケベじゃねーか!!」

「うん!! 確かに俺もそれはどうかと思うし、船員も全員キレてたけどヘラクレスを侮辱するのはやめろよ!?」

 

 すると、ヘラクレスは浅黒い肌を真っ赤にして、顔面を両手で覆い隠した。もじもじと体をくねらせる様はまるで年頃の乙女である。

 

「■■■■■■…………」

「ほら見ろ、ヘラクレスが恥ずかしがっちゃってるだろうが!! 女装してた頃のしぐさが出ちゃってるだろうが!!」

「その点、アタランテは最後まで旅路を支えてくれましたね。私の裏切りにもついてきてくれましたし、さすがは私のズッ友です」

「当然だ。イアソンとメディアならどちらを選ぶかは決まりきっている」

 

 アタランテはきっぱりと言い切った。

 イアソンは思わずヘラクレスに助けを求めようとするも、かの大英雄は女装時代のテンションに戻ってしまっている。まさしく四面楚歌だ。

 敵として立ちはだかったアルゴー船の意外な一面を見て、立香たちは思い思いの感情に顔を歪めた。そのほとんどは呆れから来るものだったが。

 そこでドレイクは立香に振り向いて、

 

「な?」

「なにが!?」

 

 現状、見せつけられているのはメディアに詰められているイアソンの姿だけである。立香にはひたすら困惑の色を浮かべることしかできない。

 しかし、カルデアイチのピンク脳ことリースと、いつの間にか降り立っていたアルテミスは鏡で写したみたいに頷いていた。

 

「メディアさんが魔女と呼ばれる所以……それを考えるとあの振る舞いも頷けますわ」

「ええ……不倫なんてこの世で最も唾棄すべき行為よ。私だったらクマに変えて永遠に森を彷徨わせるところです」

「私だったら相手の女をぎったんぎたんにしますわ」

「ヘラみたいな感じね。……リースちゃん、『良妻賢母の会』で会ったときも思ったのだけれど、私たち────」

「────気が合うようですわね」

 

 全裸陰陽師こと蘆屋道満が無駄に五つものを聖杯くんをばらまいた南の島の特異点。立香たちの預かり知らぬところで繋がりを得ていたらしい色ボケ精霊&女神は稀に見るシリアス顔で通じ合う。

 湖の乙女の起源はネミ湖を聖域とする女神ディアナという説がある。ディアナとはアルテミスを源流とするローマ神話の女神であり、近からずとも遠からぬ繋がりがあるのだ。

 アルテミスとリースは真夏の太陽みたいに晴れやかな笑みを浮かべると、手を握り合って飛び跳ねる。

 

「きゃ〜っ! やっぱり!? やっぱりそうよね! リースちゃんとはなんだか他人じゃない気がしてたの!! こんな戦いとかやめてコイバナしましょ!?」

「ええ、ともに愛に命を捧げた者同士として分かり合ってしまうのは当然の帰結ですわ! ネクタルより甘ったるいお話を所望します!!」

 

 毒々しい桃色に色づいた光景が広がる。オリオンは果てしなく遠い目でそれを眺めていた。

 彼はミニチュア棍棒でペレアスの肩を小突く。

 

「ねえどうすんのペレアスくん。やべーやつとやべーやつで共鳴しちゃったよ。アホとアホのマリアージュが起きてるよ」

「まあそんなところも可愛いよな」

「ペレアスくんもそっち側かよォォ!! くそ、こんなところにいられるか! 俺は古今東西の美女英霊とお茶でもしてくる!!」

 

 瞬間、オリオンの後頭部を矢が射抜いた。

 アルテミスは目にも留まらぬ速度でオリオンを釣瓶撃ちにすると、その首をぎりぎりと絞め上げる。

 

「はいダーリン、ツーアウト。古今東西信仰される美女神霊ならここにいるけど? カリストみたいにされたいのかな?」

「もうクマにはされてるんですけどぉ!! ツーアウトどころかゲームセットだよ!助けてEチームの良心たちィィ!!」

「助けてください、だろ。言葉遣い間違えてんじゃねえか?」

「地獄でオリオンさんの魂は見えなかったので大丈夫だと思いますよ?」

「お前らじゃねェェェェ!!!」

 

 どんな形にしろ、神と関わった者は大抵ロクな結末を辿らない。それがギリシャ神話におけるテンプレートである。そしてEチームに良心など存在しなかった。

 狩猟を司る月女神の強烈な折檻。それを遠くから観察していたヘクトールは思わず肩をすくめる。

 

「女神様ってのは怖いねぇ。ありゃ関わり合いになるもんじゃねえな、ほんと」

 

 ボリボリと頭を掻くヘクトール。その声音にはどこかヤケクソな響きが宿っている。そんな彼に、アキレウスは平坦な口調で告げた。

 

「アンタの弟が原因で戦争起きたからな。ここで第二ラウンドと行くか」

「行くわけないでしょうが。オジサンたち一応、魔術王ぶちのめすために来てるから。だからといってお前と共闘する気はないがね」

「なるほど。ではヘクトール先生、拙者とならばいかがですかな?」

 

 ヘクトールの両肩にそれぞれ五本の指が深く食い込む。

 ぬう、と肩越しに這い寄る黒髭エドワード・ティーチの髭面。みしみしと十指に万力のような力を加えながら、口角を異様に吊り上げる。

 その振る舞いに心当たりはある。むしろ心当たりしかない。なぜなら、ヘクトールは第三特異点にて黒髭を裏切り海に叩き落としているのだ。

 やられたら百万倍にしてやり返すのが海賊の流儀だ。特に黒髭はその苛烈さと残虐さで名を残している。かの兜輝くヘクトールと言えども内心肝を冷やさざるを得ない。

 黒髭は囁くように告げる。

 

「時にヘクトール先生、幼い頃ともに一夜の冒険をした金髪幼馴染みとどっかの金持ちでぽっと出のお嬢様ならどちらを選びますかな?」

「後者で。オジサンの嫁がお嬢様だったしな」

「見損ないましたぞ、ヘクトール先生!! 九偉人のひとりともあろう者が、フローラの2000Gその他諸々とイオナズンに目を眩まされるとは!! 男なら金より思い出でしょうが!!!」

「海賊なら思い出より金を取れよ!? というかフローラって誰だ!!」

 

 至近距離で振るわれる鉤爪。ヘクトールはそれをすんでのところで回避した。

 過去幾人ものプレイヤーに究極の選択を強いた一幕にリースは何かを得心し、ペレアスの腕に飛びつく。

 

「ペレ」

「リース」

「……やはり私たちは運命のようですわね───!!」

「『異次元の会話やめてくれます?』」

フォウフォフォウ(文字数の無駄すぎる)

 

 三次元出身者には到底理解の追いつかない会話をよそに、黒髭は混じり気のない殺意を得物に込めて振り回す。

 

「裏切られた恨みは忘れてねえぞォ!! せめてそのツラ八つ裂きにして、ルドマンの屋敷にぶら下げてやんよ!!」

「その恨みは正当なものとして受け取ってやるがな、俺の首なんか放置されるルドマンさんの気持ちにもなってみろ!!」

「おいおい、俺抜きで愉しそうなことやってんじゃねえ。フローラだかルドマンだか知らねえが、ヘラクレスに挑む前哨戦だ! 喰らいやがれヘクトォォォル!!」

「なんでお前まで混ざってんだァァァ!!!」

 

 アキレウス渾身のドロップキックがヘクトールの顔面に突き刺さる。砂塵を撒き散らしながら三者の四肢だけが飛び出る古典的な風情を前に、立香はノアに問う。

 

「……ちなみに、リーダーは誰選びました?」

「デボラ」

「え、意外ですね。リーダーなら遺産目当てでフローラとか言うかと思ってました」

「ああいう高飛車なやつを屈服させんのが勇者の父親としての本懐だろ。なんたって俺の息子は魔王を倒す希望だからな」

「クズのドSのくせにいっちょまえに物語に入り込んでるのが質悪い……」

 

 すると、完璧で究極のアイドル女神ことエウリュアレがアステリオスに担がれてやってくる。彼女は高みから立香たちを見下ろし、悩ましげにため息をついた。

 

「はあ、折角だから少しは労ってあげようと考えていたのに。あなたたちの知能レベルの低さに目眩がしてきたわ」

 

 女神特有の上から目線。物理的のみならず精神的にも優位に立った言葉を受けて、ジャンヌは吐き捨てるように笑う。

 

「どざえもんになりかけてたアンタに言われてもまったく響かないわ。なに? その登場の仕方。戸愚呂兄リスペクトですか?」

「あら、あなたも生き残ってたの。てっきり途中離脱して江戸時代でランサーでもやってるのかと……」

「ときをかけるまじょ」

「タイムリープまでするとは、ジャンヌさんはエリザベートさん以上の出たがりなんですか?」

「あんなアホトカゲと一緒にしないでくれます!?」

 

 なお、英霊の座は時間軸から外れた場所に存在するため、英霊はいついかなる時代においても召喚される。とある騎士王はいささか事情が違ったが。

 ダンテはおそるおそる手を挙げて、控えめに指摘した。

 

「と、ところで、ダビデさんの姿が見えないのですが」

「だびで、なら、あっちにいる」

 

 一同はアステリオスが指差した方向に視線を合わせる。

 そこには、二人一組の女海賊コンビにキザな笑みを向けるダビデがいた。

 

「───きみたちにアビシャグポイントを進呈しよう。僕の妻にしてあげてもいいよ?」

「それじゃあ結納金としてこの船と同じ大きさの金銀財宝をお願いします」

「イスラエルの王様なら余裕で出せるだろう?」

「…………とりあえず契約の箱を担保に────」

「『ノアくん、頼んだ』」

 

 直後、ダビデの鳩尾に魔弾が飛んだ。

 神に選ばれたイスラエルの王であり、救世主の祖先であるダビデの対魔力はAランク。現代の魔術師が、それも詠唱すら介さぬ魔弾程度では蚊の一刺しにすらならない。

 が、ここはノアの架空粒子が満ちる空間。物理法則、魔術基盤でさえ既存の世界とは大きく書き換えられている。故に、その魔弾は、

 

「……ぐっふゥッ!!?」

 

 ダビデを悶絶させるに至ったのだった。

 背中をくの字に折り曲げて痙攣するイスラエルの王。彼は額に脂汗を滲ませて、喘ぎ喘ぎ声を捻り出す。

 

「な、なかなか強烈な挨拶じゃないか……僕、きみが尊敬してるっていうソロモンの父親なんだけど?」

「それとこれに何の関係があんだ? おまえは所詮ソロモン王の触媒、遺伝子だけあれば事足りるんだよ。股間引きちぎるぞ」

「誰か! この子に人の心を教えてあげて!!」

「『あなたが言えたことじゃないですよね?』」

 

 何故か辛辣なロマンの言い草に、一同は頷いて同意する。

 ダビデは悔い改める機会を与えられたものの、家臣の妻を得るため、その家臣を戦争に向かわせて戦死させている。彼らの反応も当然と言えよう。

 ダンテは表情筋をひくつかせて、ダビデに問いかけた。

 

「あんなことがあったのにナンパをするとは、本当に悔い改めたのですか? いささか疑問なのですが」

「本当に悔い改めたのかって? 当たり前じゃないか。だけど、僕が真っ当な手段で恋愛するならそれは別の話だ! 神もお赦しになられる! 一夫一妻制は僕の時代では存在しないからね!!」

「天国で見たダビデさんの魂の美しさが疑問に思えてくる返答ですねえ……」

「海賊的には何ら問題はないですわ」

 

 アン・ボニーは素っ気なく言い切った。無法が法である海賊にとって、NG行為は存在しないに等しい。最も自由な者が海賊王なのだ。

 ダビデは腕を組んで語り出す。

 

「でも、僕だって節操なしな訳じゃない。僕より背が高い人はゴリアテみたいなものだからさ」

フォフォフォウフォウ(クソデカ当たり判定やめろ)

「僕より背が低い女性……できればマイナス12cmくらいが理想だね。その点アビシャグは完璧だった……」

「どうしてマイナス12cmなんです?」

 

 ダンテは首を傾げる。リースは即座に反応した。

 

「キスをする際にちょうど良いのが12cmの身長差と言われていますわ。ちなみに私は175cmでペレアス様は187cmです」

「そこはかとなく誰かの意思を感じる身長差ね」

「マシュ、身長が大幅に伸びるファッションとかあったっけ」

「竹馬がおすすめです、先輩」

 

 マシュは無表情で告げた。その眼からは一切の感情が消え失せている。辺りに闇が満ちるのを背後に感じ取りつつ、ペレアスはダビデに言う。

 

「12cm差が理想でアビシャグもそうってことは、お前完全に狙ってただろ」

 

 曰く。ダビデはアビシャグを閨に招き、湯殿をともにしたが、決して彼女に手を出すことはなかった。要は加齢で冷たくなっていく体を温める湯たんぽ代わりである。

 しかし、ダビデの理想の身長差が12cmということは、そういうことをする関係を望んでいた証左であって。

 ダビデは冷や汗を流して首を横に振った。

 

「ま、まさかそんなことあるはずないじゃないか!! 僕にとってアビシャグはアイドルみたいなものだから! 大体、ソロモンが書いた雅歌! アレ絶対アビシャグのことだよなあ!? くそ、僕がもっと若かったら!!」

「『ノアくんに股間引きちぎられてください、マジでだらしないおいなりさん略してマダオ』」

「僕のはまるで大蛇のようなおいなりさんだよ!?」

「オイオイオイ、パチぶっこいてんじゃねえ。ダビデ像見る限りおまえは短小だろ」

「あれはミケランジェロくんがつけたバッドイメージじゃないか!!」

「あの、そこら辺に─────」

 

 立香が止めに入ろうとしたその時、いくつもの光条が船団を襲う。

 エリザベートを除いた魔神たち。今まで蚊帳の外に置かれていた彼らは復活を果たし、牙を剥いていた。

 

「貴様らのくだらぬ会話をいつまでも見過ごしておけるか!! 疾く死せよ、人間!!」

 

 大気がひりつくほどの怒声。魔力を伴った響きは心胆をも揺さぶる圧力を秘めていた。なれど、ドレイクはそれにも負けぬ大声で言い返す。

 

「ハッ、良い威勢じゃないか! そうこなくっちゃねえ! まとめてぶっ潰してやるからかかってきな!!」

「ヘラクレス、メディア、アタランテ、あいつに遅れを取るなよ! 俺は後ろで見てるからな!!」

「メアリー殿、アン殿、拙者もソシャゲの周回で忙しいのでここは任せましたぞ! BBAに負けたら魚の餌だかんな!」

「「お前がな」」

 

 メアリーとアンは黒髭を魔神の群れへと投げ飛ばした。彼が早速魔神たの攻撃に晒されると、ヘラクレスたちは駆けていく。

 

「■■■■■■■!!!」

 

 剛剣が旋風と化して舞う。

 巨岩の如き得物を、木の切れ端のように振るう膂力。狂したりと言えどもその剣技に衰えはなく、一刀を以って魔神の群れを砕き散らした。

 ギリシャ神話最大最強の英雄ヘラクレス。

 武の極致に至りし究極の個。それを前にした群体はまさしく、象を相手にする蟻のように潰されていく。その蹂躙の様は過去幾度となく繰り返された殺戮の様相に等しい。

 イアソンはEチームに指先を突き立て、叫ぶ。

 

「吐き気がするほど不本意だが、お前らが誰かに負けるなど許しはしない!! 俺たちに勝ったからには必ず勝て!!」

「リーダー、あの人が戦ったことありましたっけ」

「俺が知る限り無いな。いつ退場したんだあいつ?」

「ヘラクレスけしかけてやろうか!?」

 

 ヘラクレスをちらつかせる最強カードをいとも容易く切ったイアソン。Eチームを載せた黄金の鹿号はそそくさと離れていった。

 

「ヘラクレス───タイマンとはいかねえが、どっちが多く殺れるか競争と洒落込もうじゃねえか!!」

 

 星海を一条の流星が突き進む。

 三頭立ての戦車を駆る大英雄。彼は即座に再生した魔神の首を一閃にて断ち切った。

 剛剣が巻き起こす刃の嵐と神速の流星が絡み合う。一度足を踏み入れれば決して逃れられぬ斬撃の牢獄に囚われ、魔神たちの命が千々に裂かれ散っていく。

 その最中。アキレウスは動作に一縷の乱れも生じさせずに、眼下の騎士へと言い放った。

 

「ペレアス!!」

 

 人生という名の轍を振り返ることなく刻んだ男は、簡潔に告げる。

 

「───お前は、お前の英雄譚(みち)を征け!!」

 

 騎士は獰猛に笑み、

 

「当たり前だ! やってやるよ大英雄(アキレウス)!!」

 

 あの果たし合いのように、返してみせた。

 ドレイクはそれを見届けると、一発の号砲を天に打ち鳴らす。

 

「嵐の王、亡霊の群れ、ワイルドハントの始まりだ!! 海ならどこでもお手の物ってね、アンタらの道はアタシが切り拓いてやるよ────『黄金鹿と嵐の夜(ゴールデン・ワイルドハント)』!!!」

 

 無数の火船と砲撃による蹂躙。濃厚な死の匂いを撒き散らし、嵐の航海者は次なる宙域への道を切り拓いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「再起せよ。再起せよ。管制塔を司る九柱。即ち、パイモン。ブエル。グシオン。シトリー。ベレト。レラジェ。エリゴス。カイム」

「あら、素敵な名前。きっと、想いを込めてその名を付けてくれた人がいるのね」

「ん?」

「───跪きなさい、パイモン。ブエル。グシオン。シトリー。ベレト。レラジェ。エリゴス。カイム」

 

 ソロモン王の魔神たちは弾かれたみたいに平伏し、礼を取る。たった一度、その名を呼ばれ、命令されただけで、縫い付けられたみたいに停止していた。

 獣の宙域を漆黒の嵐が覆い尽くす。

 それはかつてロンドンを覆ったワイルドハントの嵐にして、人々を異界の淵へと誘った黒き風。

 舞台の幕が開けるように、黒の空間が鮮やかな色彩に侵食される。

 爽やかな風が吹き抜ける草原。その中央に屹立する御伽の城。少女が紡ぎし幻想の世界はまた此処に、そのカタチを取り戻したのだった。

 そして、この世界に取り込まれるということは。

 

「……またこのコスプレかよ」

 

 白馬の王子様風の衣装を纏ったノアは胡乱げに呟いた。その足元にはまたしてもウサギと化したダンテが頭を抱えている。

 名無しの女王とペイルライダーによる催眠型の混成固有結界。子どもたちが夢見る童話の世界に取り込まれた者はみな、名無しの女王によって相応の役割を与えられる。

 名無しの女王───ナーサリー・ライムは青褪めた馬の騎士を従え、滔々と語った。

 

「ようこそ、私の世界へ。アナタたちの訪れを待っていたわ」

 

 少女はEチームへと微笑みかける。

 彼女の笑顔は見た目の幼さと反して、幾年月を重ねた穏やかな静謐を湛えていた。

 立香は御伽話に出てくるお姫様のように着飾らされていた。履きなれないハイヒールに加えて、地面に伸びるほどの長大なスカート。ただ立っているだけでも、彼女の上半身はメトロノームみたいに揺れている。

 

「あ、あの。会えたのは嬉しいんですけど、もっと動きやすい服装にしてくれません? 私には似合わないですし」

「いいえ、とても似合っているわ。アナタは王子様に助け出されたいばら姫。それ以上に相応しい身だしなみなんて無いでしょう?」

「それでしたらなぜ私はまたウサギになってるんですかねえ!?」

「……ど、どうしてかしらね?」

「ナーサリーさんにも分からないのですか───!?」

 

 この世界における最大の謎だった。立香は仏頂面で佇むノアに一瞬視線を飛ばし、

 

「───まあ、そう言われたら悪い気はしないですけど!?」

「随分と調子が良いじゃねえか、立香。まだまだへたばってないみたいで安心したぜ!」

 

 そう言ったのは、円卓の騎士モードレッド。騎士は王剣クラレントより灼熱の赤雷を振り飛ばし、未だ傅いたままの魔神たちを焼いた。

 分厚い大刀の剣身を担ぎ、叛逆の騎士は魔神へと啖呵を切る。

 

「油断したなアホどもが! 本気で殺りてえなら名乗る暇なんざ無かったはずだ! どうやら戦の作法は知らなかったようだな!!」

「ハッ!! 動けねえ相手を焼き殺してイキってんなよファザコン騎士が!!」

 

 全身に包帯を巻いた男がモードレッドの横を抜き去り、再生する魔神の首をナイフで以って切り裂いた。

 彼は噴き上げる血を浴び、引きつるような笑い声をあげる。

 

「───まァ、俺もだがなァ!!」

「いや、誰だよおまえ」

「あぁ? ……チッ、この邪魔くせえ包帯のせいか。いいか、よく見てろ!!」

 

 ノアに冷静にツッコまれたミイラ男は顔面に巻かれた包帯を引きちぎった。

 燃える炎のように逆立つ髪の毛。目元と口元は狂暴に吊り上がり、表情を塗り固めている。Eチーム一同はこてんと首を横に倒す。

 

「「「「「「誰───?」」」」」」

「ハイドだよハイドォ!! てめえらはジキルの方しか知らねえだろうがな、いずれ主人格になる俺の名前だけ覚えとけ!!」

「じゃあなんで出てこなかったんだよ。ジキルの方はベッドで寝転がってるだけだったぞ。サボりコンビか?」

「うるせえ勝手にコンビにすんな!! それもこれも全部オティヌスの野郎のせいだ!!」

 

 ハイドはびしりとオティヌスを指差した。ロンドンの地にEチームがレイシフトする少し前、ジキルとハイドは彼女と交戦し、深手を負っている。詳しくは31話に書いてある。愛馬にまたがり佇んでいた嵐の王は気怠げに顔を向け、淡々と言い返した。

 

「それもこれも貴様が弱かったせいだ。己の無力を悔いろ。あの魔術師……マキリ・ゾォルケンの方がよほど手強かったぞ」

「てめえ、ナメやがって……!! 良いぜ、ここで格の違い分からせてやる!!」

 

 そう言って駆け出したハイドの顔面を、ペレアスとモードレッドの拳が勢い良く挟み込んだ。

 ハイドは野球選手もかくやとばかりのヘッドスライディングを地面に敢行する。彼はたちまち草と土まみれになり、それらを落としもせずに振り向いた。

 

「……てめえらそれでも騎士か!?」

「いや、騎士なら王様を守るべきだろ」

「気に入らねえがペレアスの野郎に同意だ。つうかお前が父上に勝つなんて、天地が三回転宙返りしても有り得ねえよ」

「円卓の騎士がこんな奴らだったとはな……イギリス人として恥ずかしいぜ……!!」

フォフォウ(それはそう)

 

 ハイドの苦悩の裏で、湖の乙女リースはオティヌスが携える槍をまじまじと見つめていた。

 オティヌスはワイルドハントにて現れるアーサー王でありながら、北欧の主神と混ざりあった特異な存在。そのため、振るう槍も常とは異なり、真っ黒に染まっている。

 

「お姉様の槍がこんなになるなんて驚きですわ。通常のオルタ化とも少し違う気がいたします」

「……今の私はワイルドハントの象徴としてのアーサー王と、邪神オティヌスの神格が混合している。貴女の記憶に在る王の姿は見る影もないはずだ」

「そんなことありませんわ! 色々と大きくなってはいますが、相変わらず可憐ですっ!」

「この身を可憐と評するとは……奇特な趣味だ」

 

 オティヌスは苦笑した。ロンドンでは決して見せなかった顔はワイルドハントの頭領としてでも、北欧の邪神としてのものでもなかった。

 その時、オティヌス目掛けて赤い杖が投擲される。彼女はメジャーリーガーの豪速球にも見劣りしない速度のそれを、視線さえ向けずに手中に収める。

 ゲンドゥルの杖。魔術神としてのオーディンの神格を象徴する王笏。白き神の転生体である魔術師は忌々しげに言った。

 

「約束通り、おまえに返した。そこそこ役に立ったが今の俺には不要だ。持ってけ」

 

 オティヌスは立香の杖───『魔女の祖(アラディア)』を一瞥する。

 それは神ならぬ人の叡智によって造られた、新しき魔術のための礼装。嵐の王は何かを得心したように、ひとり首肯した。

 

「しかと受け取った。古き神の王笏を礎として、新しき人の魔杖を創り出したのならば、これは確かに不要だろう」

 

 文字を描くことで発動するルーン魔術と、機械言語によって魔術をシミュレーションするコードキャスト。両者の方式はある意味同じだ。

 すなわち、『魔女の祖』はゲンドゥルの杖を、コードキャストはルーン魔術を源流としている。ノアが誰にも語らなかった神秘の秘奥を、オティヌスは一瞬で見抜いてみせた。

 嵐の王は天を仰ぐ。

 その目は、空を旋回する二羽の鴉を見据えていた。

 

「北欧の主神は己が後継たる光の神に無尽の金を生む腕輪を与えた。それは光の神が主神のあらゆる財産と権能を受け継ぐ存在であったからに他ならない。……かの主神も、親馬鹿だったと言う訳だ」

 

 それは実現されるはずだった、北欧神話における究極の一。

 バルドルはいずれオーディンの力の全てを手にする者であった。無限の富をもたらす腕輪だけでなく、ルーンの秘奥を、全知の玉座を、主神が従える神獣たちを───そうして、必ず敵を殲滅し、戦争における勝者を決定する最強の槍を。

 それらを、何者にも何物でも傷付けられぬ光の神が所有する。神々の王たるバルドルは必ずや父神をも超える個体となっただろう。

 だが、それは成し遂げられなかった。

 狡猾なる神の奸計によって。

 

「興味がねえな。一度受け取ったからには突き返すなんて真似は認めねえぞ」

「当然だ。だが、貴様は向き合わねばならない。かつてヒトたる己が捨てた、神の部分に」

 

 ビキリ、とノアの額に青筋が浮かび上がる。彼は拳をパキパキと鳴らして、

 

「……なるほど。有難く頂戴してやるよ、その言葉。ところで、もうひとつ約束してたのを忘れてねえよなァ!?」

 

 勢い良く地面を蹴り、オティヌスへ飛びかかる。

 

「おまえは二発殴る!! 上から目線で分かったようなこと言いやがって、死に晒せオティヌス!!!」

「『我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)』!!」

「ギャアアアアアアアア!!?」

フォウフォウ(つまんねーオチ)

 

 そこで、ニコラ・テスラはノアの消し炭に好奇の目を向けつつ、感嘆の声を漏らした。

 

「科学ならぬ神秘の雷撃、興味深い! 是非とも解析してみたいものだ。その分神秘は衰退するだろうが、人の進歩には必要な犠牲だ!!」

「テスラさん、こっちに来てたんですか」

「あの悪鬼と肩を並べるなど悍ましいにも程があるのでな。奴に会ったならば、この交流爆弾を投げつけておくと良い」

「それ敵に使ってくれません!?」

 

 立香は手渡された爆弾を魔神たちに投げつけた。未だ名無しの女王に拘束されたままの彼らは爆弾によって粉々になる。

 ダンテ、もといウサギはきょろきょろと辺りを見渡していた。マシュとジャンヌはその仕草を見咎めた。

 

「隠れる場所でも探しているんですか?」

「いえ、アンデルセンさんとシェイクスピアさんを探していたんですが……」

「あのヘタレどもがここに来るとは思えないんですけど。どうせ座に引き籠もってるでしょ」

「それは困りますよ! ロンドンの時はヘタレトリオとして友情を結んだのに! 彼らにも少しは苦しんでいただかなくては!!」

「久々にダンテさんのクズ成分が出ましたね……」

 

 と、三人は不意に後ろを向いた。背後に忍ぶ気配。それに導かれた彼らが見たのは、鮮やかな赤の軍服に豊かな髭をたくわえた兵隊───の人形。

 マシュとダンテは豊富な知識故に、ジャンヌは中二病の影響で勉強したドイツ知識故に、その人形の名を知っていた。

 ドイツの民芸品、くるみ割り人形。その名の通り、顎の部分にくるみを入れてレバーを引くことで殻を割る道具である。ホフマンの童話やチャイコフスキーのバレエ音楽として親しまれた名前でもある。そんなイメージとは違って、彼らの目の前にいる人形は口腔から蒸気を吐いているが。

 

「「「……誰!?」」」

「チャールズ・バベッジ。夢想と空想の世界に生きる、ただの科学者である。否、くるみ割り人形である」

「それはこの世界のせいですよ!? しっかり自我を保ってください!!」

「話していたのはこの二人のことであろう」

 

 ガコン、とバベッジの口が開く。まるでガチャガチャみたいに、ドワーフ姿に歪められたアンデルセンとシェイクスピアが転がり落ちた。

 バベッジは機械のように揺るがぬ調子で言う。

 

「私が匿っていた。戦場は性に合わぬから助けてほしいと、地面を掘る勢いで土下座をされたものでな」

「くっ──! まさかこんな形で発見されるとはな!」

「『悲しみが来るときは(When sorrows come,)単騎ではやってこない。(they come not single spies,)必ず大軍で押し寄せる(but in battalions.)』……吾輩の読みではこれから数百文字ほどコケにされまくると見ました!!」

「おいやめろシェイクスピア! この世界の核心に触れすぎてるぞ!!」

 

 登場した途端、喧嘩中のネコみたいに喚く世界三大詩人と世界三大童話作家。これがネコならば良いものの、人間がやれば醜さの権化となることは確実である。

 案の定、マシュとジャンヌは冷ややかな目を向ける。特定の性癖の人にはご褒美だが、あいにくアンデルセンとシェイクスピアはそこまで倒錯していなかった。

 

「アンタら、来る意味あった?」

「はっきり言って文字数の無駄です」

「……フフフ、どうですか。吾輩の予想は見事的中したでしょう。我々のポテンシャルはまだまだ文字数を稼げるはずです……!!」

「文字数を稼ぐのは作家の特技だからな! お前はただのアホだが!!」

 

 悶絶するアンデルセンを守るように、ダンテはマシュとジャンヌの前に立ちはだかる。

 

「お二人とも、待ってください! 言葉とは時に鋭き刃となって人を襲います。ならば、私は言葉を尽くしてこの二人の価値を示してみせましょう……!!」

「へえ、どんな言葉をかけてくれるのかしら? くだらないものだったら容赦なく焼くわ」

「ジャンヌさんがなぜか竜の魔女モードになっていますが、ようやく詩人のダンテさんが見れそうですね。期待が高まります」

「それではまず土下座から……」

「言葉を!! 尽くせ!!!」

 

 アンデルセンはウサギの尻を蹴りつける。ダンテは脱兎の如く飛び上がり、目元に涙を溜めた。

 

「これは動物虐待ということでよろしいですね……? 現代のコンプライアンスではお寿司屋さんの醤油差しを舐める以上に許されない行為ですよ!!」

「『ひとつの顔は神が与えてくださった。(God gave me one face. )もうひとつの顔は自分で作るのだ(Another face is made with itself.)』……アンデルセンさん、あなたのもうひとつの顔には深い傷が刻まれてしまいましたよ」

「それで言うならお前たちの顔はゾンビ同然だろうが!!?」

 

 作家たちの醜悪な争いを見て、バレエ衣装を着たフランケンシュタインとフォウくんは独りごちた。

 

フォウフォフォウ(マジで救えねえな)

ウウゥゥゥ……(いいから出番よこせ)

フォウ(あん)?」

ウゥ(はぁ)?」

 

 ───その時、両者は互いに互いを避け得ぬ宿敵として認識した。

 ヒトのカタチをした者と犬か猫かも定かでない謎生物。常ならぬ言葉を操る両者は思った───喋り方をパクられている、と。

 

フォウフォウフォフォフォウ(この喋り方特許申請済みだからやめて)?」

ウゥウウゥゥウゥウ(元ネタはわたし。その証拠に)ウウウゥゥウ…………(第五特異点からあなたの出番が増えた)

 

 ごふ、とフォウくんは盛大に吐血する。

 確かに第四特異点を終えてから、自分の出番は増えている。今では空気だったあの頃は遠い昔の幻想と言っても良い。

 だがしかし、急にセリフが増えた理由がフランケンシュタインに握られているのだとすれば。それはフォウくんの数少ないアイデンティティを揺るがす事態であった。

 

フ、フォウフォフォウ(で、でもこっちはレギュラーだし)!!」

 

 苦し紛れのマウント行為。人造少女はケモノの浅ましい魂胆を見抜き、嘲笑を浮かべる。

 

「わたしは、こうやって、しゃべれる。そのじてんで、あなたより、かくうえ。しーえむにも、でたので」

フォァッ(なんだとぉ)……!?」

「ほうていで、あおう」

「何やってんだお前ら」

 

 モードレッドは口角を痙攣させた。なぜか勝ち誇っているフランケンシュタインと、地面を肉球の平でぺちぺちと叩くフォウくん。モードレッドにはその端緒は理解できなかった。

 ノアは消し炭状態から復活すると、髪の毛についた煤を払いながら立香に言う。

 

「で、パラケルススはどこだ? 言いたいことが山ほどあるから連れて来い」

「自分で探してください。絶対ボコられた恨み返すつもりですよね」

「んなわけねえだろ。ただ少し俺の新魔術の実験台にするだけだ」

「私情100%じゃないですか。やるならメフィストフェレスみたいな悪魔にしてください」

 

 オティヌスはそんな二人に告げる。

 

「その二人ならば此処にはいない。来ることもないだろう。特にメフィストからは〝お前ら全員負けちまえ〟というヤケクソメールが届いたからな」

「こ、小物すぎる……」

「……足の指全部骨折する呪いでもかけておくか。パラケルススにも」

「それはやめておけ。アレもアレで役割がある。邪魔はしてやるな」

 

 ───また会う日も来るだろう。オティヌスは心魂を見透かすような瞳にノアと立香を写し、そう言った。

 嵐の王は暫時視線を注ぐと、槍の穂先を払って魔神たちへと向き直る。

 

「名無しの女王───いや、ナーサリー・ライム。この世界に孔を開ける。いいな?」

「ええ、御伽の国はいつか夢に消えることが定めだもの。現世で逢いましょう? ワイルドハントの王様」

「……ああ」

 

 黙示録の騎士、疫病を司るペイルライダーは少女を抱え、嵐の王のもとより飛び去る。

 ワイルドハントとは、別名オーディンの渡り。凍てつく風を引き連れ、つんざく雷鳴とともに空を駆ける、神の凱旋。神獣とワルキューレを率いた絢爛なる騎行はしかし、時代が下るにつれて、一神教の手により魔物や亡霊を現世に蔓延らせる死の渡りとなった。

 オーディンは多くの神格を備え、多くの名を持つ神である。ならば、デンマーク人の事績において語られし邪神オティヌスとは、オーディンから死をもたらす嵐の神としての特性だけを抜き出した別神格(アルターエゴ)と言えよう。

 故にこそ、今ここに、死の化身は舞い降りる。

 風が舞い、瘴気が満ちる。

 それはかつてロンドンを外界より隔絶した魔の嵐。ひとつの都市を優に囲う膨大な風を、邪神オティヌスは余すことなくその身に降ろす。

 

「嵐の王、亡霊の群れ。邪神の狩りを刮目せよ」

 

 一歩。嵐の王の乗騎は薄氷を踏むが如く、御伽の国を粉砕した。

 

「───『死の騎行、嵐の狩猟団(ワイルドハント・ユールレイエン)』!!!」

 

 空間そのものに陥穽を生じる突進。

 吹き荒れる大気は、巻き込む全てを分子にまで分解する暴虐の嵐。

 幻想の崩壊とともに、ノアたちの服装は元に戻る。次なる宙域への道は穿たれた。立香とノアは迷うことなく駆け出し、ダンテもそれに続く。

 詩人の黒き右手を、アンデルセンは押さえた。

 

「……なるほど、あの少女はお前の生の終わりまで共に在り続けると決めたか」

「ジャックさんですか。はい、私は二度も彼女に助けていただきました」

「お前の第二宝具は大方、地獄を顕現させるモノだろう。それを考えれば当然のことだがな」

「それは、どういう───」

 

 その言葉を遮るように、アンデルセンは一枚の色紙を取り出す。

 

「サインを寄越せ。わざわざここまで来てやったのだから、それくらいの報酬は施して然るべきだろう」

「わ、私のサインで良いのですか? 確かに私はイタリア最大の詩人で世界三大詩人でフィレンツェの統領でしたが」

「自惚れるなアホ。いいから書け」

 

 ダンテはペンを受け取り、色紙に己の名を綴る。アンデルセンはそれを貰い受けると、満足気に微笑んだ。

 彼は懐から一冊の本をダンテに押し付ける。

 

「私が、お前のために書いた本だ。何を懸けても救いたいと思ったモノに出会った時のみ使うがいい」

 

 ダンテは頷き、即興詩人は走る背中を見送る。

 アンデルセンの創作人生の礎となった二人の詩人。その片割れであるダンテ・アリギエーリは当時の誰にも伝わるトスカーナ方言を用いて神曲を書き上げた。

 その根底にあった願いは、きっと。

 アンデルセンは自嘲気味に鼻を鳴らす。シェイクスピアはその後ろから彼の肩に手を置いた。

 

「吾輩のサインも欲しいのでは───?」

「いるか馬鹿が!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 獣の宙域。観測所フォルネウス。硝煙と魔力の輝きが炸裂する星の海に、二つの影が紛れ込む。

 知恵の女神ソフィアと薔薇の皇帝ネロ・クラウディウス。ソフィアは掌中に紫電の光球を灯すと、それを中空に置き去りにする。

 

「ヘレンよ。先程から何をしておるのだ?」

「道を創るためのポイントを打ち込んでいます。ただ、私ひとりでやるのは面倒くさ───無理なので、この先でスカウトしたい英霊がいます」

「ふむ、スカウトか。それならば余に任せると良い。皇帝の話術を見せようではないか」

「否、その必要はない。点々と打ち込まれた交流の気配……求めているのは私のことであろう」

 

 ニコラ・テスラ。雷電を纏いし男は不遜に言い放った。

 ソフィアとネロは顔を見合わせ、

 

「……では、皇帝の話術をお見せください」

「ヘレンよ。余のことを深いところでナメておらぬか!?」

「天才の目にはかなり浅いところでナメているように見えるが……おっと、気配に釣られてやって来たのは私だけではないらしい」

 

 テスラの目が捉えたのは、美術の教科書にて多くの青少年の視線を釘付けにした男ダビデであった。

 交流の気配ならぬアビシャグの気配に釣られた彼は、ソフィアとネロに気障な笑顔を向ける。

 

「良いね、きみたちもまたアビシャグに近しいと認めよう。それでなんだけど、このダビデくんもお供させてくれるかい?」

「ダビデ……古代イスラエルの王ダビデか!? キリスト教を弾圧した手前、なんだか居心地が悪いぞ!」

「ああ、そのことはどうでもいいかな。人の世の営みとして真っ当なことだからね。それに、今の僕は王様じゃなくて羊飼いだし」

「ほう。ソロモン王の魔神を目の当たりにして親心でも芽生えたか?」

 

 テスラは試すように言った。それを知ってか知らずか、ダビデはさも当然かのように答えを返す。

 

「親心ならとっくに芽生えているとも。僕はソロモンのために何でもしたさ。衣食住はもちろん、王としての振る舞いから女の子の口説き方まで、何もかもを教えた」

 

 でも。

 

「───()()()()()()()()()()()()()()()()()。王としての僕には無理でも、羊飼いとしての僕にならそれを与えられる」

 

 ────だから、玉座へ征くのさ。

 ネロはその決意を聞き届け、胸を張って頷いた。

 

「うむ! その意気や良し! 共に戦おうではないか───えーと、ローマ合従軍よ!!」

「良いユニット名かと存じます、皇帝よ」

「うーん、我が主の小羊たちは良い顔しないだろうけど、まあいっか!!」

「ローマもまた我が世界システムの下にある場所だ。その名を背負うことも悪くないだろう」

 

 そんなこんなで、ローマ合従軍はEチームの後を追うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 星海の底には、ボロクズ同然になった歯茎男とトカゲ女がいた。

 

「ぐ、ぐぎぎぎ……!! ここまでコケにされておいて黙ってなんかいられないわ! 撃ったことは忘れてあげるから手を貸しなさい!!」

「ああ、いいぜ……!! こんなところで損切りなんかできるかよ!!」

「私たちは止まらないわ。止まらない限り、その先に出番があるもの!」

「その意気だトカゲ娘ェ!! 燃えてきやがったぜ、船乗りの血がよォ!!!」

 

 なんか、そういうことになった。



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第81話 それは、未来を奪い返す戦い③

 ソロモンには友好を交わした王がいた。

 現レバノン共和国、海に面する都市ツィリスの王ヒラム。そして、この国には彼と同じ名の青銅細工師がおり、他の職人の追随を許さぬ技を誇っていた。後世のとある世界的オカルト組織では、職人ヒラムの伝説を模倣した儀式を執り行うほどに。

 ソロモンはギブオンにて唯一なる主より知恵を授かった後、父王ダビデの遺言通りにエルサレム第一神殿───ソロモン神殿の建設に取り掛かることとなる。

 その際に頼りとしたのがヒラム王であった。彼は神殿建設のための資材を海路を通じて取引し、ツィリス随一の職人である同名の細工師を遣わせた。

 ソロモンは十八万人もの人材を投じて主の宮を造り上げた。そうして、大いなる天の主は王に囁くのである。

 

〝あなたが建てるこの宮については、もしあなたがわたしの定めに歩み、おきてを行い、すべての戒めを守り、それに従って歩むならば、わたしはあなたの父ダビデに約束したことを成就する。そしてわたしはイスラエルの人々のうちに住み、わたしの民イスラエルを捨てることはない〟

 

 神がダビデに約した恩寵───それなるはヒトとの間に交わした七大契約のうちのひとつ、ダビデ契約であった。

 ダビデが王座についていた時。契約の箱は天幕の内に据えられるのみで、簡素な安置をされていた。ダビデはその現状を嘆き、箱を納めるための神殿の建設を考える。

 そこで、神は預言者ナタンへの託宣を介して、王に言葉を授けた。

 

〝主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。〟

 

 言うなればそれは、ダビデと彼の血筋に対する契約だった。

 ①主の名を以ってダビデの家を興隆させる。

 ②ダビデの跡継ぎが治める王国を守護する。

 ③跡継ぎは神殿を建て、その玉座の地位を永遠に保証する。

 これらの条件を成し遂げ、恩恵を受けたのは───────

 

〝────主を讃えよ! 永遠の王国を讃えよ! 我らの神、全能なる父は下々の地に降り、我らとともに住まわれる! 先王ダビデの約定は今此処に果たされるのだ!!〟

 

 ソロモンはイスラエル全ての民に向けて、契約の達成を宣言した。

 王へ、神へと捧げられる民衆の歓声はまさに天地を揺るがすが如く。年端もいかぬ子どもから寝たきりの老人までもが王の声を聞き、王国の未来を祝福する。

 なぜならば、神は彼らが住まう王国が久遠に続くことを約した。その国を治めるのは比類なき知恵を備えたソロモン王であり、かの玉座もまた、永久に朽ちることはない。

 それはすなわち、己のみならず、自身の子孫の未来までもが約束されているということ。尽きることなき永遠の幸福の訪れを、彼らは心魂を込めて讃え上げた。

 ───()()。それを聞いた時、思わず魂が震えるのを感じた。胸の内に空いた虚ろな孔が暖かいもので満たされていくのを実感した。

 人間は不完全で、愚かで、間違いを認めて正そうともせず、また同じ過ちを積み重ね続ける。

 くだらない。そんな感情を何度も抱いた。飽きもせずに、呆れもせずに。

 だが、それももはや終わる。

 ソロモンが建てるとこしえの王国。神の法が不完全な人民を支配し、王の知恵によって蒙昧にして迷妄なる人心を統制する。その国においては王でさえも、支配構造の歯車にすぎない。真の統治者は唯一絶対不可侵の神であるが故に。

 であるならば、その永遠に瑕疵はない。

 私は確信した。

 これこそが、自身が気付いてもいなかった理想の具現であると。

 

〝……私の使命は終わった〟

 

 ソロモンは玉座の上で、そう独りごちた。空気に溶ける吐息のように、その言葉は誰にも届かず消えていく。彼の声音には役目を成した達成感もなく、ただ無情の響きだけを伴っていた。

 ───何を言っている? この男は。

 貴様の使命に終わりはない。

 神の知恵を得た王として、永遠の王国を永久の玉座から永劫に統治する。それこそが地上でただひとり、ソロモン王だけが成し得る奇跡だ。

 ならば、その魂魄の一片まで、永遠の実現に捧げるべきではないのか。

 そう言うと、ソロモンはあの時と同じ、困った笑みを広げた。

 

〝■■■■■。君はひとつ、勘違いをしているね〟

 

 滔々と、教えを諭すように。

 

〝───私は、預言を果たす者ではない〟

 

 ソロモンは、そんなことを宣った。

 意味が分からない。

 理解ができない。

 ダビデ契約は間違いなくソロモンを指している。あの内容に当てはまる者など、奴をおいて地上にひとりも存在しない。ソロモンはその思考を見抜いた上で、告げる。

 

〝私たちが視るべきものは現在ではなく未来だよ。神が望む永遠を叶えるにはまだ、解決すべき問題は山ほどある。対処すべき脅威もそうだ〟

 

 王は語る。

 この世界に存在する滅びの種子、そのほんの一部を。

 

〝1万4000年周期でこの銀河に飛来する遊星。その眷属たる白き終末の巨神。遥か彼方の地に眠る水晶の蜘蛛。そして、月の最強種(アルテミット・ワン)────タイプ・ムーン。この世には、世界を滅ぼす力なんて腐るほど転がっているんだ。…………だから〟

 

 玉座から腰を起こす。全てを見抜く千里眼は遊女たちに裁決を下したときのように、ここではないどこかを覗いていた。

 

〝始めようか。不確かな未来の証明を〟

 

 そうして、王は西洋魔術を創始することとなる。

 魔術回路を利用した奇跡の行使法。王は魔術を伝え教えるため、相応しき才覚を有する数人の弟子を招いた。

 今までに魔術師と呼ばれる者は何人もいた。それでもソロモンが魔術の始まりを担ったと言われる訳は、より多くの人間にその灯明を分け与えたことに由来する。

 神に選ばれし者でなくても、あらゆる人間を超越する才能を持っていなくても、ただ魔術回路があるだけで力を獲得できる。魔術とはヒトが辿り着く神秘の閾値を下げたのだ。

 王は弟子たちに魔術の粋を叩き込んだ。彼の教え方に、普遍的な師が持つ遠慮や慈悲はなかった。

 愚直なまでに知識を分け与え、実践を積ませる。その繰り返し。とても易しいとは言えない王の教授は、常人であれば一日と経たずに道を諦めるものだったに違いない。

 しかし、ソロモンが集めた弟子にはそれで十分だった。彼らはひとつの概念を伝えただけで、それを無数の事象と結びつけてさらに多くの理解を可能とする人間であったから。

 王もそれを知っていたからこそ、無駄な配慮は最初から切り捨てていた。1を教えて100を理解するならば、1000を詰め込む。

 加速度的に成長し、叡智を深める賢者の集団。ソロモンは驚くほどの早さで魔術という技法を学問として成立させてみせた。

 そんなある日、ソロモンはひとりの弟子を呼びつける。

 

〝キシュア。君に教えることは何もない。君は君の研究に心血を注ぐと良い〟

 

 その弟子は、眉根ひとつ動かさずに神殿を去った。

 平行世界の証明。それがキシュアと呼ばれた男に課された命題。彼は後の世に至上命題を達成し、第二魔法の担い手となって朱い月を撃破する。

 そんな未来を垣間見て、ソロモンは小さく息を吐いた。

 王は無感情に呟く。

 

〝───まずは、ひとつ〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……マジかよ」

 

 ノアは慄然と言葉をこぼす。

 魔術王の神殿。ロンドンにて共に戦った英霊たちが管制塔より次の宙域へと道を拓いた少し後、Eチームの脳裏には魔術王の記憶が刻みつけられていた。

 星海に揺蕩う大地を走り抜ける影。ノアを除くEチーム一行は、リーダーに生温かい眼差しを注ぐ。その中でも、特に深い見識を持つダンテはもごもごと喋り出す。

 

「今までは聖書に綴られている内容に魔術王の解釈が伴っている感じでしたが……まさかソロモン王が弟子を取っていたとは思いませんでしたねえ」

「そうか? 魔術を広めるなら良い手段だろ。確かに初耳だったけどな」

「ペレアス様。驚くべきはその中にかの魔道元帥がいたことですわ。彼は第二魔法の使い手ですから、実質ソロモン王が発端となったとも言えます」

「魔法なら私もバッチリ知ってますよ! 魔術よりもなんかすっごいやつですよね!」

「立香、それは知らないのと同じよ」

 

 ジャンヌはさめざめと言った。かくいう彼女も魔法について深く理解しているとは言えないのだが、マシュにマウントを取られることを警戒してそれを露わにはしなかった。

 そのマシュはノアの方をちらちらと流し見ながら、

 

「……ところで、リーダーの様子がおかしいのですが」

「いつものことじゃない?」

「そうですね。わたしが間違ってました。リーダーの様子がいつもよりおかしいです」

 

 ノアは全身を震わせて、飛び跳ねたり転げ回ったりしながらEチームを先導していた。さらに、時折笑い声をあげたかと思えば、歯を食いしばって石を蹴り飛ばしている。

 まるでバグありRTAの主人公のような挙動をするノア。彼の奇行は今に始まったことではないが、それにしても常軌を逸している。立香はそんな彼に声をかけた。

 

「落ち着いてくださいリーダー。現実世界で裏技でも見つけようとしてるんですか。ワザップですか」

「これが落ち着いていられるか!! ソロモンの弟子……時代が違ってれば絶対に俺が選ばれてた!魔法だって百個くらい開発してた!!」

フォフォウ(子どもかよ)

「キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ……あいつだけは許さねえ。俺の席を奪いやがって!!!」

「逆恨みがすぎませんかねえ!!?」

 

 逆恨みというか誤射だった。どこかでこれを見ているかもしれない宝石翁も、これには困惑を抱かざるを得ないだろう。

 ペレアスはのたうち回るノアを羽交い締めにする。

 

「キシュアってのが第二魔法……? の使い手らしいが、その人は助けに来てくれたりしねえのか? ソロモン王は脅威に対処するためにも弟子を取ったんだろ?」

「それは難しいと思いますわ。平行世界の観測者である彼が来てしまえば、この世界線を確定させることになってしまいますから。この世界の自分と競合する可能性もあるでしょうし」

 

 ノアは多少落ち着きを取り戻し、リースに続いて言う。

 

「そもそも魔法使いほどの存在が動けばいくつも歪みができる。地球が地震を起こして人を殺すみたいにな」

 

 例えば、極大の質量を持った星はそこに在るだけで、自らの重力によって時空を歪める。魔法使いやそれに類する規模の存在も同じように、その一挙一動が世界に影響を及ぼしてしまうのだ。

 そして、平行世界を司る宝石翁は世界線を認識すると、その世界を確定させてしまう。それが滅びを迎えるモノだとしても。

 故に、魔法使いは簡単には動けない。

 魔術王による人類史の焼却───そんなものは、彼が数え切れないほど見てきた滅亡のひとつに過ぎないのだから。

 そこで、立香はあることに気付く。

 

「───なんかリースさんが真面目!!」

「立香さん、私はいつだって真面目ですわ! 真面目にドスケベなのです!!」

「ついに自分で言い出した……!!」

「……そんなドスケベリースは魔法に詳しいみたいだけど、事情でもあるわけ?」

 

 ジャンヌは冷たく訊いた。同時に魔法への不理解を悪魔なすびに悟られぬための冴えた判断である。

 

「単に長く生きたこともありますが……西暦にすると20年でしょうか。その辺りから、死徒が現れるようになったのです。朱い月の影響ですわね。私たちはブリテン島に来る死徒を片っ端から駆除していたのです」

 

 立香は勢い良く挙手した。

 

「はい! 朱い月ってなんですか! 私の中の中学二年生が疼いてます!」

「月から地球を支配しに来たやべーやつですわ」

「……もしかして、この世界って魔術王が何もしなくても滅んでたんじゃ?」

 

 リースは苦笑する。気付いてはいけない事実に気付き、立香は正気度ロールを余儀なくされた。彼女に正気があるのかと言われれば疑問なのだが。

 

「それがソロモン王が危惧していたことなんでしょうねえ。これが聖書に記されていれば、後世の評価も覆ったでしょうか」

「そんなことねえだろ。ソロモンがシバの女王とヤッた話なんてクズそのものだぞ」

「『それはあくまでエチオピアの伝承! 伝承だから!! ソロモン王は無実に違いない! きっとそうだ!! というかノアくんはどっち側なんだい!?』」

「なぜドクターがソロモン王の肩を持っているんです?」

 

 マシュが不可解な視線を向ける裏で、ジャンヌはリースに問いをぶつける。

 

「じゃあ、湖の乙女は死徒から人間を守るために戦っていたってこと?」

「いいえ。ブリテン島を、ですわ。あの頃の私たちは割と人間とかどうでも良かったので……もちろん今は違いますが! ペレアス様にガッシリハートを掴まれてしまったので!」

「それはオレもだけどな。死徒はブリテン島を狙ってたのか?」

 

 リースはこくりと頷く。

 ───ブリテン島とは星の臍。地球に存在する神秘の心臓部であり、テクスチャを縫い留める最果ての塔が屹立する場所でもある。ブリテンにおける最果ての塔の端末が、アーサー王の聖槍ロンゴミニアドであったように。

 ブリテン島には絶大な価値がある。もしこの世界をひっくり返そうという魔術師がいたのならば、その者は間違いなくこの地に工房を構えるだろう。

 朱い月の目的は地球を真世界に戻すこと。それ故、地球法則を塗り替える場所としてブリテン島は最適だった。増殖する死徒とその親玉に対抗するため、魔術師たちはゼルレッチを頭目として同盟を組んだのだ。

 

「私たちはブリテン島を奪われると困るので、魔術師とは別に死徒を排除していました。そんなこんなで朱い月と魔道元帥の決戦を見たので、第二魔法に関してはちょっと詳しいのです」

「ペレアスさん。私初めてリースさんのことを歳上だと実感したかもしれません」

「そうか。ありがとう立香ちゃん」

「褒めてませんけど!?」

 

 兎にも角にも、リースの話はそれで終わりだった。魔術師の同盟と、魔法使いによる侵略者の討伐。そのどちらも、ソロモン王の行動がなければ達成できなかっただろう。

 少年の日、かの王の読み漁っても知り得ない物語。ノアは胸に高揚が満ちるのを感じながら、脳髄を冷ややかな思考に包んだ。

 

(……シモン・マグス。あのクソボケドアホ変態野郎は────)

 

 しかし、彼は思考を打ち切った。

 眼前を遮る門。次なる宙域への扉を蒼き瞳の内に捉える。

 ───今はこの瞬間に全霊を尽くす。魔術王は余計な迷いを抱えたままで勝てる相手ではない。

 

「あ、そうだリーダー」

「……なんだ、立香」

「生まれた時代が違ってたら、とか言っちゃダメですよ」

「あん? 俺が何言おうと俺の勝手だろうが」

 

 立香は得意げに微笑んで、

 

「だって、私と会えないのは嫌ですよね?」

 

 数瞬。ノアは呆けた顔をして、立香の額を指で弾く。

 

「───かもな!」

 

 走る勢いのままに、扉を蹴破る。

 魔術王の玉座への関門は半分を超えた。

 順当に行くなら、ここにいるのは第五特異点の英霊たち。

 また魔神たちの長ったらしい口上を聞くのかと思うと憂鬱だが、そこは文字数稼ぎになるので問題ないとして。

 立香とノアは真っ先に足を踏み入れる。直後、二人の眼前に魔神の姿が飛び込んだ。不完全な魔神柱としての肉体を捨てたそれは、有翼の鹿。尾は燃える炎のように揺らめいている。

 ソロモン七十二柱、序列三十四位フルフル。雷霆を操り、男女の情愛を呼び起こす悪魔の大伯爵。咄嗟にノアと立香が身構えると、

 

「ぐぼああああああああッッ!!!」

 

 悪魔は絶叫とともに、体内から飛び出した棘によって爆散する。

 マスターコンビの頭上におびただしい量の血液と臓物が降りかかる。人間ならば確実に致命傷だが、フルフルは二人の足元でピクピクと蠢いていた。

 その首筋に、紅き槍の穂先が突き刺さる。

 

「───遅えぞ。ここは戦場だ。チンタラ走ってんじゃねえ、小僧ども」

 

 ケルトの狂王クー・フーリン。彼はフルフルの首を蹴り飛ばし、マスターたちに詰め寄る。その迫力たるや、背後のダンテが地面に頭を擦り付けるほどだった。

 しかし、ノアは頭頂にへばりついた肝臓を投げ捨て、負けじとメンチを切る。

 

「俺たちに臓物ぶっかけといてなんだその態度は? まさかホワイトハウスで俺の魔術にぶっ飛ばされたのを忘れた訳じゃねえだろうなァ……!?」

「地味な騎士と反吐みてえな性根した槍女のおかげで得た戦果で粋がってんじゃねえ。サシでやる度胸がてめえにあんのか?」

「あるに決まってんだろ節穴。おまえこそあの地味男とボケが始まってきたタイツ女にやられる程度で、俺に勝てると思ってんのか?」

「俺が節穴、か。訂正しろ、アレはボケが始まってんじゃなくてもうボケてんだよ」

「ボケてることを訂正しろォォォ!!!」

 

 クー・フーリンとノアの臀部を槍が貫く。

 彼らは悲鳴すらあげる間もなく撃沈する。その槍を放った影の国の女王、スカサハは天に尻を差し出して痙攣する二人の背中を踏み締めてEチーム一行に近付いた。

 彼女は短く咳払いして、何食わぬ顔で口を開く。

 

「───遅いぞ。ケルトが練れておらぬ。武功を我が物にせんという気概はないのか」

「スカサハさん、この状況からリセットするには無理があります」

 

 立香は冷静に指摘した。地面に三つの無残な死体が転がった今、リセットボタンを押すには遅すぎたのである。

 スカサハは立香の抗議をさらりと無視してそっぽを向く。

 

「魔神と聞いて期待したが、的外れだ。私独りであれば多少は血湧く戦になったであろうものを」

 

 彼女が顎で差した方向では、数人のサーヴァントが肉塊の山を取り囲んでいた。

 

「良いぞディルムッド。もっとチタタプするんだ。フィオナ騎士団イチの剣技を見せてくれ」

「王よ。この剣一応海神から貰い受けたものなのですが。あと剣技関係ないです」

「待て。そんなに細かく刻んでは再生に時を要するのではないか? 戦を終えるにはまだ早いだろう」

「……付き合いきれねえ…………」

 

 フィオナ騎士団の主従とイワーク使ってそうな巨漢、そして竜殺しの王。この場唯一の常識人であるベオウルフは魔神のミンチの前で頭を抱える。

 Eチーム一行は半ば白目を剥いて、そんな光景を眺めていた。

 ジャンヌは愕然と、

 

「……最終決戦の中ボスがあんな扱いでいいんですか。ミンチになってるんですけど、ナレ死どころじゃないんですけど!?」

「魔神柱とはサンドバッグのことだった……?」

「せっかく真の姿を晒したというのに、登場してからこっち、株を下げ続けていますね。ジャンヌさんのように」

「1話から読み直してきなさい暴落なすび」

 

 第四の壁を飛び越えた危険な会話がなされているのを他所に、ダンテは諸手を挙げてタップダンスをキメる。

 

「す、既に形勢を決してしまったということですか!? さすがはケルト戦士ですねえ! 味方となるとこうも頼もしいとは!」

「否、それは違うぞダンテ」

 

 太陽神スーリヤの子、カルナ。黄金の鎧を肉体に宿す英雄はいつの間にかダンテの横に降り立っていた。

 その隣には同じくマハーバーラタの大英雄アルジュナ。共に英霊そのものであるなら、たとえソロモン王が操る正真の七十二柱でも持て余すであろう面子である。

 カルナは仏頂面のままで言った。

 

「オレたちインド戦士のことを忘れてもらっては困る。来るのがもう少し早ければ、チキチキ魔神討伐レースを見せられたのだが」

「お前ら仲直りしたんだな。殺し合っただけはある。よかったじゃねえか」

「いいえ、ペレアス。前回のアレは相討ちでした。チキチキ魔神討伐レースも今は停止中……決着はまだ着いていません」

「アルジュナさんって自分のことブレーキだと思い込んでるアクセルペダルですよねえ」

 

 ダンテはしみじみと告げた。事故不可避の存在である。自分でも認識していなかった事実を明らかにされて、アルジュナはぎくりと震える。

 

「そ、そんなことはありません。生前はむしろクリシュナを止める立場だったので」

 

 アルジュナ唯一無二の親友、クリシュナ。前世は双子の聖仙であったと言われるこの二人は、ともにドゥリーヨダナ率いるカウラヴァ陣営との大戦争を戦い抜いた。

 アルジュナにとってクリシュナとは時に助言を受け、時に叱咤される精神的支柱であった。カルナとの戦いにおいては、その助言が死後も続く宿縁を生み出したのだが───それは横に置くとして。

 彼の心理的にクリシュナがどれほどの位置を占めていたかと言うと、

 

「寝てる間に全身の毛穴からクリシュナを呼んだことがある程度です」

フォウ(なんて)?」

「ほとんどホラーじゃねえか」

「我が父スーリヤは神妃ドゥルガーに全身の毛穴から光線を発射する力を与えている。毛穴で名前を呼ぶくらい訳はないだろう」

「訳しかねーですわ」

 

 インドの毛穴事情は複雑怪奇であった。アルジュナの話を聞いて、この世のありとあらゆるブロマンスに目がないジャンヌは、頬をほのかに赤く染める。

 

「男の友情……イイじゃない。カウラヴァ陣営は特攻野郎カレーチームだったみたいだけど、ブレーキ役はいなかったんですか?」

「オレたちにそのような者はいなかった。……否、いなくなった、と言うべきか」

 

 ───誰よりも自信に満ち溢れているくせに、誰よりも性根が小さく、その口で正義を語ったかと思えば爛漫と悪事を成す、どの目にも明らかな矛盾を恥じもせずに体現する……そんな男がいた。

 やることなすこと無茶苦茶で、道理やしがらみよりも自分の感情を優先するような人だったから、周囲の人間はどうにかしてそれを止めようとする。

 けれど、彼は知っての通り道理の通じない男だったから。そんな努力は甲斐無く水泡に帰した。結局、音を上げるのは道理に従った方で、彼はそれを認識してすらいない。でも、彼のもとを去ろうとする者がいなかったのは。

 

「彼が、オレたちのような切り捨てられた者にとっての星であったからだ。路傍の小石と宝石を等しく扱う性だったからこそ、取りこぼされた人間は惹かれざるを得なかった」

 

 ───その点では。

 

「エジソン。お前は彼に、似ていたな」

 

 急に名指しされたライオン大統王は分厚い胸板をドンと張った。

 

「ふっふっふ、お褒めに預かり光栄だカルナくん! 私はあのすっとんきょうとはレベルの違う発明王であるからな!聞けば、私の名は遠い東洋の地にも響いているとか……」

「エジソンさんが偉い人なのは常識ですからね!」

「うむ。しかし反省すべき点もある。私は平気だったのだが、一日二十時間の労働を社員に強いてしまったからな」

「『え、それって普通じゃないですか?』」

「「………………」」

 

 そう言ってコーヒーを啜るロマンの瞳は、墨で塗り潰したみたいな混沌の闇を湛えていた。社畜として完成した男に一般的な価値観は通用しないのだ。

 立香はロマンの背中に無数の亡者がへばりつくのを幻視し、話を逸らそうとする。

 

「と、ところで、エレナさんはどこですか? 出番に貪欲すぎるあの人がいないのも不気味ですけど」

「ああ、そうだったな。実はエレナくんから伝言を預かっているのだ。ここで開封してみようではないか」

 

 エジソンは封筒を取り出し、口を留めているシールを剥がす。すると、封筒を閉じていた糊がめくれ、一枚の紙となって地面に落ちた。

 開いた紙面。封筒の内側であった紙上には、円を複雑な装飾が彩る魔法陣が描かれている。

 魔法陣が光を放ち、エレナ・ブラヴァツキーの像を形成する。

 

「『久しぶりねみんな! 変わりないみたいで何よりだわ!』」

「こちらのことは認識できているのかね?」

「『モチのロンでバッチリよ! 本当は私もそっちに行くつもりだったけれど、とんでもない問題児の面倒を見なきゃいけなくなったの。ごめんなさい』」

 

 エレナはぺこりと頭を下げた。見れば、彼女の一挙一動に倦怠感が吹き溜まっている。ダンテは同情心とともに頭を上げさせた。

 

「問題児、ですか。カルデアにもそういう人がいるので気持ちは大いに分かりますねえ」

「リーダーのことですね」

「先輩のことでもあると思いますが」

「アンタもそこにガッツリ含まれてるのよ!」

「落ちゲー並みの連鎖が起きてますわ」

「いや、お前も連鎖の一部だぞ?」

 

 結局誰のことだか分からなかった。Eチームを指して問題児を当てることに意味はないのだ。

 立香はけろりとした表情で訊く。

 

「その問題児はどんな人なんですか?」

「『…………自称人類悪(ビースト)の他称世界最大悪人?』」

「めちゃくちゃヤバい人じゃないですか! すぐに逃げてください!!」

「『それがそういうわけにもいかなくて……』」

 

 その時、エレナの写像が乱れ、聞き覚えのない男の声が響いた。

 

「『───今は彼らにかかずらわっている時ではなかろう、ブラヴァツキー夫人よ! さあ、一緒にアヘンをキメて悠久の彼方へ飛び立とうではないか!!』」

「『ちょっ、そういう霊媒法はやめなさいって言ったでしょうがぁーっ!!』」

 

 ぶつり、と映像が断絶する。

 魔法陣を描いた紙はひとりでに発火し、いくつもの灰となって風に吹き流されていった。

 遣る瀬無い風情が辺りに漂う。提案者のエジソンは居心地悪そうに身をよじらせていた。一部始終を目撃していたロビンとラーマは呆れ果てた顔で、

 

「どうして魔術師って人種はああなのかねぇ。何事もシラフが一番ですよ。毒使ってる俺が言えたことじゃないが」

「意外だな。銀河一周の旅を終えた汝がそう言うとは」

「アレはどうかしてた時のやつでしょうが!!」

「どうかしてた……? それはいけません、後遺症が心配です」

 

 がしり、とロビン・フッドの肩を掴む両手。ゼンマイ人形のようにぎこちなく振り向くと、死人さえも墓から飛び出す迫真の表情が待ち受けていた。

 言語は通じても話は通じないバーサーカー、フローレンス・ナイチンゲール。彼女は近代の英霊にあるまじき筋力でロビンを引きずっていく。

 

「やめろォォォ!! もうレプティリアンとグレイの戦争に巻き込まれるのは嫌だァァァ!!」

「むっ! 支離滅裂な言動、まずいですね。早急に治療しなくては! ですが、まずは急患から処置することにしましょう!!」

 

 ナイチンゲールは包帯を使ってロビンを拘束する。暴れる患者を安静にさせるための鮮やかな手前である。

 彼女はつかつかと歩いていく。立ち止まった場所には、未だ尻に槍が刺さった男二人組がいた。

 両手に手袋をはめ、柄を鷲掴みにする。ノアは血の気のない肌をさらに青褪めさせた。

 

「おい、そっと抜」

「摘出ッッ!!」

「「ンギャアアアアアアアア!!!」」

 

 見るもおぞましき場面が演出される。クー・フーリンは膝を揺らしながら立ち上がるものの、ノアは岸に上げられた魚みたいに跳ねる。

 

「またボラギノール生活に逆戻りじゃねえか!! とっくに座薬の方は切れてんだよ、何が悲しくて軟膏タイプ使わなきゃなんねえんだ!?」

「ハッ、薬なんざクソの役にも立たねえよ。気合いで治すのが男ってもんだろ」

「おいクソという言葉を使うな! こっちは今敏感なんだよ! つーかおまえもほぼ死に体だろうが!!」

「この程度でくたばれるんならよ、俺は英雄になんぞなってねえ……!!」

「うるせェェェ!! 頼むからくたばれ!!」

「この人たち本当に主人公と特異点のラスボス?」

 

 立香は首を傾げた。普段ヒロインにあるまじき醜態を晒している彼女の言えたことではない。

 鼻腔をくすぐる甘い香り。女王メイヴはくすりと微笑を浮かべ、立香に囁いた。

 

「あら、ここは悦ぶべきよ。好いた男が無様を晒す景色は何にも代え難い愉悦だもの」

「いや、私はそこまで倒錯した趣味じゃないんで」

「取り繕わなくても良いのよ。私はクーちゃん、あなたはアホ白髪魔術師。それぞれのために全力を尽くしてスカサハを潰しましょ?」

「断ります! お尻に槍突っ込まれるとか洒落になりませんから!」

 

 思わず臀部をガードする立香を尻目に、スカサハは嘲るような笑みをメイヴに突きつける。

 

「ほう。貴様が私を潰すと。無理とは言わぬぞ? 番狂わせは往々にして起こり得るものだ。貴様にそんな奇跡が起こせるとは思えんがな」

「上等!! 来なさいよ、ゲイボルクなんて捨ててかかってきなさい!!」

「……ケルトねるねるしてる連中の喧嘩っ早さは格が違った───!!」

「待て、そいつを潰すなら俺も混ぜろ」

 

 ノアはボラギノールで応急処置を行い、スカサハにガンを飛ばした。影の国の女王は目元を切り立たせて、厳しく告げる。

 

「たったひとつのゲッシュも果たしていないくせに粋がるな、未熟者。私が与えてやったルーンも粗末な扱いをしているようだしな」

「そのことについては感謝しておいてやるよ。今や俺のルーンの腕はおまえを遥かに超えた!! 恐れおののけ!!」

「ケルトの一戦士と競う程度の魔術師とは……呆れたものだ。知っていたか? 貴様が歩く度に頭の中で脳みそが転がる音がしていることに」

「うるせえ!! 大体、おまえらがルーン文字使ってること自体おかしいんだよ! アイルランドならオガム文字だろうが!!」

 

 立香は思い出す。今となっては遠い記憶のようにすら思える、特異点Fの戦い。冬木にて出会った蒼き魔術師───キャスターのクー・フーリンは当時のノアが知らなかったルーンを操っていた。

 その時も、彼は同様の疑問を抱いていた。なぜケルトの英雄が、ゲルマン民族の文字であるルーン文字を使っているのか、と。

 

「有用ならば異国の技術であろうと利用するのが戦士だ。それに、私は雪靴の女神と浅い縁がある。私のルーンはそれらが由来だ」

「キャスターのクー・フーリンさんがルーン使いなのはそういうことなんですね」

「……魔術師のアレと会ったことがあるのか?」

「はい、クー・フーリンさんと先輩とミキプルーンの苗木はわたしの宝具を覚醒させた恩人です」

「なるほど」

「なるほどなんですか!?」

 

 スカサハは自身の額の前にルーンを綴る。

 オーディンが得た十八の原初のルーン、その十四番目は知識のルーン。神々や妖精が所有する知識に接続し、閲覧する。その力を用いて、スカサハは余人が立ち入ること叶わぬ知識の蔵へと足を踏み入れた。

 なれど、ルーンの灯明が続いたのは二秒程度。彼女は斜に構えた笑みを顔面に貼り付ける。

 

「───北欧の大神も難儀なものだ。馬鹿弟子といい騎士王といい、存在の大きさ故に迂遠な干渉しかできぬとは」

「『それって……』」

「話はここまでだ。細切れにされた魔神も復活する頃合いだろう。疾く征け」

 

 スカサハは槍の穂先を煌めかせて、Eチームを急かし立てる。彼女はその背を押すように、言葉を投げかけた。

 

「ノアトゥール。誓約破りの報いは理解しているな」

「意味がねえ。負けても破っても死ぬんなら同じだろ。まあ、俺たちが負けるなんてありえねえけどな」

「ならば進め。口だけの男ではないと証明してみせろ!!」

 

 肉塊の内部より飛翔する、赤炎の鳥。不死鳥の名を冠する魔神の頭部を、紅き呪槍の投擲が貫き通す。

 それを皮切りに、サーヴァントたちは再生を遂げる魔神の群れへと向かっていく。明らかな過剰戦力は瞬く間に哀れな悪魔たちをひき肉に変えていった。

 それを、虹蛇は遠く離れた場所から眺めていた。生きた時代も、生まれた地域も異なる英雄がひとつの敵に立ち向かう様に、雨と創造の蛇神は目を細める。

 

「……多数からひとつへ。これがその具現とでも言うのか、エジソン」

 

 かつての仇敵。大統王エジソンは強く首肯する。

 

「然り。何者も切り捨てず、否定せず、渾然一体と群れを成す。それこそが我が国家の理想である。もう二度と、あなたを貶めた不幸を生み出させはしない!!」

「貴様は死人だろう。現世の合衆国にその精神が残っているとは限らん」

 

 この世に永遠は未だ無く。

 今までどれほどの人間が、どれだけの英雄が、脅威に打ち勝ち希望を示してきたとしても、悲劇は必ずどこかで繰り返される。

 人は死ぬ。どうしようもなく死ぬ。個体が得た経験と記憶は、誰かに託すことでしか引き継げない。人類は本当の意味で先人の苦痛を体感することはできない。だから、人は他人を容易に踏み躙っている。

 それが悲劇の円環の源だとするならば、いっそ救いなどないのだと諦めて。そういうものだと受け入れてしまうのが正しいのかもしれない。

 

「……たとえ合衆国に残っていなくとも。私は今を生きる彼らの姿の中に理想を見た。であるならば、それを護り抜くのが我らの使命だ!」

 

 ───だけど、そうやって諦めてしまうのは簡単だ。

 その歩みが蟻の歩幅に満たないとしても。

 それでも、進み続けるのがヒトの使命だから。

 虹蛇は観念したように苦々しい笑みを浮かべた。

 

「では、まず貴様がニコラ・テスラと和解して先を示してみろ」

「それは!! 無理だ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「再起せよ。再起せよ。覗覚星を司る九柱。即ち、バアル。アガレス。ウァサゴ。ガミジン。マルバス。マレファル。アロケル。オロバス───我ら九柱、論理を組むもの。我ら九柱、人理を食むもの。七十二柱の魔神の名にかけて、我ら、この憤怒を却す事、断じて許さず……!!」

「おお、珍しく口上を言い切りましたよリーダー」

「あいつらの尺稼ぎに目が眩んだだけだろ」

「いよいよ彼らの存在意義が分からなくなってきましたねえ」

「黙れ!!!!」

 

 九柱の魔神による魔力砲撃が放たれる。ほとんど自暴自棄のうちに発射されたそれは、ひとつの影の前にくるりと反転した。

 

「えっ────」

 

 呆気のない断末魔。自らが撃ち出した攻撃に呑まれ、彼らは盛大に爆発四散する。

 

「……ク。ククッ」

 

 くつくつと、喉を鳴らすような笑い声が響く。

 敵を一掃するかの如き光の波濤を、たった一騎で対処してみせたサーヴァントの前方には、透き通る赤い盾が展開されている。

 彼は突風を起こすかのような勢いで振り向き、Eチーム一行へと突撃する。颯爽と迫るその顔面は、気味が悪いほどに喜色で塗りたくられていた。

 

「───邪魔者は片付けた! 魔神とやらは実に歯応えがないのでな、あの時の続きと行こうではないか!!」

 

 円卓の騎士、ラモラック。カルデア一同の脳裏に忘れ得ぬ奇人として刻みつけられた騎士は、己が武器である右腕を振りかざす。

 ペレアスは真剣白刃取りのように、ラモラックの腕を掴み取った。

 

「あの時の続きつってもアンタの負けで終わってんだよ! 騎士なら潔く降参しろ!!」

「そうつれないことを言うな、ペレアス。欲求不満を解消するのは貴様の得意技だろう。おれは覚えているぞ、毎朝萎びた顔で来る貴様を!!」

「お恥ずかしい限りですわ」

「おいマジでやめろ!! オレはカルデアでは健全一本でやってきてんだよ!!」

「地味一本の間違いでしょ」

 

 言いつつ、ジャンヌはペレアスごとラモラックを焼こうとする。が、その寸前、二人の騎士の間に不可視の打撃が生じ、彼らを突き飛ばす。

 

「ラモラック。円卓は下ネタ禁止の清廉潔白な集団です。口を慎みなさい」

 

 ポロロン、と妖弦を爪弾く赤い髪の騎士。トリスタンはその弓───と言うにはいささかアレな竪琴によって、ラモラックとペレアスを打ったのだ。

 ラモラックはぷらぷらと右腕を振って、トリスタンに言う。

 

「人に口を慎めと言う前に目を開けろ。特異点の貴様のように目を潰した訳でもあるまい」

「それに関しちゃオレも賛成だな。常に居眠りしてるみたいで気味が悪いぞ」

「私はただ糸目なだけですが? 分かってて言ってますよね。人の心とかな……人の心……ぐふぅっ!!」

「自分で言って自分でダメージ受けてんじゃねえ!!」

 

 トリスタンは自ら墓穴を掘り、背中から地面に倒れ込んだ。

 早速新鮮な死体がひとつ出来上がると、全身に包帯を巻いたミイラたちがトリスタンを連行していく。

 そのミイラたちの親玉、ニトクリスは杖で地面をつついて声を飛ばす。

 

「こら、あなたたち! ファラオに挨拶もなしとは不敬ですよ! 真っ先にオジマンディアス様の前で土下座するのが礼儀でしょう!?」

「ニトクリスさん、アレを見てください」

「なんですか。〝あ、UFO〟とか古典的なやつですか。私には通じません……が、ファラオとしてあえて受けて立ちましょう」

 

 ニトクリスは立香が指差す方向に目線を合わせる。

 簡易的な玉座に腰を落ち着けるオジマンディアス。ゆったりと鎌首をもたげる視線の先には、絵画にも並ぶ美しさの土下座を披露するダンテがいた。

 それだけならば普通の光景なのだが、ダンテは捧げ持つようにして、両手の上に黄金色のサンダルを掲げていた。オジマンディアスは端正な顔貌に嗜虐の色を滲ませる。

 

「見神の詩人ダンテ・アリギエーリよ。その舌でそれを磨くが良い。磨き終わったら始末しておけ」

「承知致しました。───ジャンヌさん。チョコソースと塩を用意してください」

「おいしく靴舐めようとしてんじゃないわよ! 甘いしょっぱいのコンボキメようとしてんじゃないわよ!!」

 

 立香はゆったりと腕を組んで、

 

「……ということです」

「どういうことですか!?」

 

 ニトクリスは困惑した。所詮は死霊系美少女ファラオサーヴァント、Eチームという深淵の前には呑まれざるを得ないのだ。

 そこで、麗しい女性には目がないガウェインとランスロットがやってくる。湖の騎士はマシュににじり寄った。

 

「ふふふ、貴女たちの愉快なノリは相変わらずのようですね。それにしても一段と美しくなりましたか、マシュ?」

「ええ、ランスロットさんは一段と救いようがなくなったように見えます。ガウェインさんと並ぶとまるでCHAGE and─────」

「マシュ、やめましょう。その表現は角が立ちすぎます。角しかありません」

「お前という存在が円卓の角だけどな」

「ペレアス?」

 

 登場するなりタコ殴りにされたランスロットは思わず身動ぎした。ちなみにガウェインはその予感を察知して口を噤んでいた。

 太陽の騎士はきょろきょろと辺りを見回し、ある一点を凝視した。ペレアスは冷たい目でそれを咎める。

 

「……何見てんだ? 既婚者のくせにナンパ相手でも探してんのか」

「いえ、そういう訳ではないのですが、あちらの女性に見覚えがないと思いまして」

 

 ガウェインが指したのは、長い金の髪をリボンで雑にまとめた女性だった。身長はペレアスと等しく、腰に二振りの剣を佩いている。鎧の上からでも鍛え上げられた筋骨は一目瞭然だ。

 ペレアスは得心して、

 

「ああ、あの人は」

 

 その言葉を遮るように、ランスロットはペレアスを押し退けた。湖の騎士は事件現場に訪れた名探偵のような顔付きをする。

 

「確かに、キャメロット中の子女を収めた私の脳内フォルダにも存在しませんね。出で立ちからするに騎士と思われます」

「なんと、あの特異点に彼女のような可憐な姫騎士がいたとは! 自分の不甲斐なさに怒りが湧いてきました……!!」

フォフォウ(ほんとにな)

「ふむ。強そうだな。喧嘩でも売ってくるか」

 

 ラモラックは一足飛びに駆け出そうとする。その直前で、べディヴィエールが彼の腰に飛びついた。

 

「ま、待ってくださいラモラック卿! 彼女は私たちの仲間です!」

「そうか、それは嬉しい限りだ。トリスタンやランスロットのように殴り合えるのだからな!」

「なんという狂犬───!!」

 

 ラモラックはべディヴィエールをずるずると引きずっていった。件の女性はため息をつくと、頭を掻いて不機嫌そうに告げる。

 

「挑戦は受けて立つが、じろじろと見てくるのはやめろ。視線が鬱陶しい。円卓の名が聞いて呆れるぞ」

 

 彼女の声音を聞き、ガウェインははたと思い至った。

 

「その声───まさかベイリン卿!?」

「……貴様にしては勘が悪かったな、ガウェイン。魔女の鎧をペレアスに移したのだから無理もないか。生前は、お前の前で兜を脱いだこともなかったな」

「ほう、ベイリン卿か。マーリンにさえも讃えられた双剣の騎士。ペレアスはともかく……べディヴィエール、なぜ知っていた」

 

 ラモラックは殺気を解き、疑問を呈した。それに答えたのはべディヴィエールではなくベイリンだった。

 

「王とマーリン、べディヴィエールだけには素性を明かしていた。同僚に事情を知る人間がいた方が何かと都合が良いだろう」

 

 それに、と双剣の騎士は付け足す。

 

「王は当然、マーリンとべディヴィエールは信頼できる奴らだったからな」

「「───は???」」

 

 ガウェインとランスロットは今世紀最大級の疑念を吐き出した。場のマーリンという男を知る人間はみな、驚愕するか苦虫を噛み潰したみたいな表情をするかの二択だった。

 さしものラモラックも微笑を維持してはいるものの、顔の端に一筋の冷や汗が伝っている。

 ランスロットは爆弾処理部隊のように詰め寄った。

 

「ベイリン卿、貴女はなにかまずい魔術を掛けられている可能性があります! 早めの解呪をおすすめします!!」

「心配するな、私は呪われた騎士だぞ。そんじょそこらの魔術なぞ海に絵の具を一滴垂らしたようなものだ」

「ベイリン卿、それはもはやヤケクソです。既に借金まみれだからと負債を増やす債務者と変わりありません」

 

 べディヴィエールは突き刺すように言った。ただ、天然であるベイリンに彼の説得が届くはずもなく。双剣の騎士は佩剣を抜き、刀身にラモラックを写す。

 

「喧嘩を買ってやる。どこからでもかかってくるがいい」

「いや、止めだ。おれは弟がいる人間に弱くてな。幼きパーシヴァルの顔を思い出すと、つい殴るのを躊躇ってしまう」

「嘘つけ!! お前の最期なんてガウェインたちと殺し合ってんだろ!!」

「それとこれとは別の話だ、ペレアス」

「そんなことも分からないのか。貴様に鎧を渡した私の決断を無為にするつもりか?」

「なんでアンタまでそっち側だァァァ!!」

 

 ラモラックとベイリンに翻弄され、ペレアスは絶叫した。円卓内では文句無しの最長寿と言えど、先輩より強い後輩など存在しないのだ。

 ベイリンは桜色の唇をむっとすぼめる。

 

「前にも言ったが、私たちに敬語を使わないのはどういう了見だ? 先達には敬意を払うのが騎士というものだろう」

 

 ぐうの音も出ない正論。ランスロットとラモラック、ガウェインは腕を組んで頷いた。

 

「流石は私に並ぶ円卓最強の騎士。全てが道理です。ペレアス、焼きそばパンを買ってきなさい」

「無論、全裸で逆立ちしながらだぞ? 四十秒で用意しろ」

「ペレアス、エタードの件について謝ってくださ────ギャアアアアアアアアア!!!」

 

 ガウェインの額をぶっすりと刃が貫通し、彼はカエルが潰れたみたいな格好で地面に倒れた。さしもの太陽の騎士でも、神殺しの刃には分が悪かったらしい。

 ペレアスはべディヴィエールの肩を叩き、

 

「───今日からお前が円卓最強最高の騎士だ……!!」

「……あまり嬉しくない…………」

 

 という円卓の騎士たちによる雑言の応酬を、立香たちは遠巻きから観察していた。

 

「……王様って大変なんですね?」

「い、いえ、苦難を承知で選んだ道です。気遣いは無用です」

 

 色々と大きくなったアーサー王、聖剣ならぬ聖槍を手繰るアルトリア・ペンドラゴンは目眩を堪えつつ答えた。聖槍の女神として君臨していた頃の超然とした雰囲気は見受けられない。

 ノアはまぶたをもったりと垂れ下げながら宣う。

 

「トカゲアイドルと違って、毎回変わり種を出してくる点は評価してやる。だが登場しすぎだ。俺に出番を譲れ」

「何のことを言っているのです!?」

「特異点の登場回数だけで言うなら、名前を言ってはいけないあのトカゲと同数ですからね。わたしは歓迎ですが」

「アルトリアさんとエリザベートさんは同類だった……?」

 

 立香が不敬極まりない発言をする横で、リースは数枚のフリップを用意した。

 

「それでは、王様に『エクスカリバーのここがすごい!』プレゼンをさせていただきますわ」

「……み、湖の乙女リース。いきなりどうしたのです? まさか私が聖槍を選んだことを根に持っているのですか」

「いいえ、確かにお姉様の聖槍は聖剣に勝るとも劣らない武装ですわ。何と言っても世界一のお姉様が調整を施したモノですから。王様の選択に賛成こそすれ、反対するなどありえません。ですが!! やっぱりちょっぴり悔しかったので!!」

「やはり根に持たれている───!!」

 

 ここに在りしアルトリア・ペンドラゴンは、聖剣ではなく聖槍を主武装に携えた未来の姿だ。

 彼女はペリノア王との決闘でカリバーンを失い、その代わりとしてロンゴミニアドを握ることを選んだ。その世界線においては、マーリンに導かれた湖畔で待つ湖の乙女はエレインであったのかもしれない。

 フリップを携えるリースの前に、英霊たちがぞろぞろと集まって座り込む。

 エクスカリバーとは最高格の聖剣。無類の力を誇るが故に、真名を露呈するリスクが非常に高い。そのため、騎士王は光を屈折させる風の結界で以って剣を隠すほどだ。

 そんな宝具の話を、しかもそれを与えた精霊から聞くことができる。円卓関係者でなかろうと惹かれることは請け合いだった。

 リースはフリップをめくり、ヘタウマな絵を見せつける。その中心にはエクスカリバーと思しき剣があり、それを取り囲むように六人の羽が生えた小人が配置されている。

 

「星の聖剣エクスカリバー! 何かと鞘のすごさが語られがちですが、剣の方も超一級品でございます。なにしろ六翅の妖精(はじまりのろくにん)が白き巨神を打ち倒すために造り出した決戦兵器、世界を救った保証書付きの名剣ですわ!!」

「湖の乙女が造ったのではなかったんですか。妖精は気まぐれと言いますが、サボらなくてよかったですねえ」

 

 ダンテは口の端に付着したチョコソースを拭いながら感想を述べる。それを聞いて、ノアは小馬鹿にするような笑みで鼻を鳴らした。

 

「ハッ、世界滅亡の瀬戸際にサボるやつがどこにいるってんだ? ニートですら一日一回行動から三回行動くらいにはなる事態だぞ」

「クラーゴンくらい強くなるんですね」

「ハハハ、そうでしたね! 世界が滅ぶという時にサボる人なんていませんか!」

「人じゃなくて妖精ですけど。まあ、いくら妖精がとぼけてても働く時は働くでしょ」

 

 と、ジャンヌは締め括った。彼らよりも妖精のなんたるかを知るペレアスは内心、何らかのフラグが屹立したことを感知する。

 ハサン×3はこくこくと頷いた。

 

「サボりはいけませぬぞ、サボりは。かといって働きすぎるのもアレですが。ウチの教団なんて初代様が働きすぎたせいで、それが当たり前になってしまいましたからな」

「私は百人に分裂できるがな」

「それはチートすぎるのでは……?」

 

 静謐のハサンは眉をひそめる。ありとあらゆる企業が欲しがるであろう人材、それが百貌のハサンであった。吸血鬼の能力を会社運営に利用しているような死徒は嬉々として研究に乗り出すだろう。

 リースは白い巨人の胸を突き刺すエクスカリバーが描かれたフリップを手に、アルトリアへと詰め寄った。

 

「ということで、いかがですかエクスカリバーは! 今なら湖の乙女の三年メンテナンス保証付きでお買い求めいただけますわ!」

「…………ペレアス卿、いかがですか」

「王よ、無礼を承知で申し上げます。私は確かにエクスカリバーに憧れていますが、それは王様が携えるモノであって、王様以外が握るなど解釈違いを超えた解釈違いです。私めにはこの『DXエクスカリバー』で十分でございます」

 

 ペレアスはどこからともなく取り出したDXエクスカリバー(希望小売価格6000円)の柄のボタンを握る。

 かちりという音が鳴り、例のBGMを背景に、アーサー王迫真の真名解放ボイスが虚空に響いた。

 赤面して面を伏せるアルトリアとは裏腹に、円卓の騎士たちは盛大に沸き立つ。

 

「ペレアス、何処でそのような宝具を手に入れたのですか!? 義母上、次の誕生日プレゼントはこれでお願いします!!」

「観賞用保存用布教用の三つは確保しておくべきですね……弟妹を動員するしかありませんか」

「ならば、おれも弟たちを使うしかないな。この時ばかりは父の好色さに感謝だ」

「べディヴィエール。お前の右腕を改造したらどうにかならないか」

「ベイリン卿。無茶振りやめてください」

 

 べディヴィエールは冷静にベイリンの提案を切り捨てた。ベイリン&ベイランという円卓屈指の脳筋姉弟の尻拭い役を務め上げた手腕は伊達ではない。

 そこで、危うくミイラ化させられかけていたトリスタンが這いずってくる。防腐剤が塗りたくられているせいか、植物的な異臭を漂わせていた。

 

「聖剣の乙女よ。貴女の気持ちは理解しますが、王はそれぞれの良さがあるのです! その辺りを考慮していただきたい!」

「……そこまで言うのなら、トリスタンさんの最推しをお聞かせ願いますわ」

「もちろん、〝殿方の悦ばせ方は知っています〟と言い放つ王に決まって─────」

 

 次の瞬間、トリスタンは儚き塵と化した。

 ほぼ同時に剣を振り上げていた円卓の騎士たちは思わず目を剥く。今のは自分たちが手を下したのではない、他者によるものだと。

 いつの間にか再生していた魔神たちは、彼らへと怒号を飛ばす。

 

「この変態どもめ!! やはり人は醜い! その魂の一片まで消し去ってくれる!!」

フォウフォウ(マジでがんばれ)

「トリスタンさんのR-18発言を止めるとは、腐っても魔神のようですね。敵ながらあっぱれと言っておきましょう」

「いや、止められてなかったんですけど。ほぼほぼ言い切ってたんですけど。殿方の悦ばせ方知っちゃってたんですけど」

 

 マシュとジャンヌがアホな会話をする一方、円卓の騎士とその他英霊たちは魔神へと特攻していった。まるで何かから目を背けるように。

 ダンテは唇を噛んで、懐かしむように思い返す。

 

「そういえば、地獄巡りでトリスタンさんの魂を見たのを思い出しました。数十年越しに彼があそこにいたことが納得できた気がします」

 

 第二圏、愛欲者の地獄。その名の通り、色欲・愛欲によって罪を犯した者が刑罰を受ける地獄である。そこでは、無数の罪人の魂が長大な列を成して黒い風に巻かれていた。

 その風は罪人たちを痛み苛む、苦痛の嵐。抗う術はなく、渦潮に放り込まれた小魚のように、ただそれを受け入れるしかない。

 数多の霊魂のうめき声が埋め尽くす地獄。ぶらり地獄ふたり旅の真っ只中であったダンテとウェルギリウスは、亡霊たちを見て、ある会話をする。

 

〝せ、先生、あの人たちも辺獄(リンボ)にいたような偉人なのですか〟

〝是であり否だ。確かに歴史に名を残した者も多い。例えば……アレはアッシリアの女帝セミラミス、クレオパトラ、アキレウスにパリスにトリスタン…………〟

〝トリスタン卿が不貞を犯したのは媚薬のせいでしょう。それでも地獄に落とされるのですか!?〟

〝うむ。性愛とはかくも恐ろしいということだ、ダンテ。たとえ他者から与えられる愛であっても、否、そうであるが故に人を滅ぼす。彼のように高潔な騎士であってもな〟

 

 というダンテ苦しみの回想録を、同じく長旅ならお手の物な三蔵法師と、他人の命でやる方のステラと組まされがちな元祖ステラが耳をそばだたせて聞いていた。

 

「異教の方でも地獄っていうのは恐ろしいわね……!! 御仏はキリスト教の地獄にも蜘蛛の糸放流してほしいわ……!!」

「俺も嵐の真っ只中に置き去りにされたことはねえな。良い鍛錬になりそうだ」

「地獄を真っ二つにしてしまいそうなアーラシュさんはサタンもお断りでしょうねえ」

「よし、じゃあ宝具使って魔術王の神殿真っ二つにしてみろ」

「いいぜ!」

「よくないです!!」

 

 立香は両手をわちゃわちゃと動かして、宝具の発動を食い止めた。なにしろ魔神たちは不死身であり、そう安易な爆発オチが通用する相手ではない。

 太陽王は黄金の玉座より、あくまで不遜に言い告げる。

 

「貴様らのくだらぬ話にももう飽きた! こうして余を働かせているのだ、疾く魔術王を斃さねば支払いは積もるばかりだぞ!!」

「オジマンディアス様の仰る通りです! これ以上ぐだぐだしているようなら、スフィンクスの肉球地獄に落としますよ!」

 

 二人のファラオはその光熱とミイラを用いて、Eチーム一行を駆り立てる。アルトリアは慌ただしく逃げていく彼らの背へ叫んだ。

 

「マシュ・キリエライト! あなたの盾は我らが円卓の誇りにして未来を保障する礎────たとえどのような苦境にあろうとも、私たちがついています!!」

「次なる宙域は廃棄孔、ヒトの悪性が澱となって降り積もる深淵である! だが、仮にも余を討ち果たした勇士ならばその程度、鼻歌交じりに乗り越えてみせよ!!」

 

 獅子王と太陽王、かつて相争った双王は全く同時にその声音を響かせた。

 

「「───武運を!!」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、ローマ合従軍。彼らはのらりくらりと獣の宙域を渡り歩いていた。

 第四の宙域と第五の宙域を繋ぐ回廊。第五代ローマ皇帝ネロ・クラウディウスを先頭とした一行はのどかに星の海を征く。

 ネロは眉根を寄り合わせ、むむむと唸った。

 

「こう代わり映えのしない景色だと飽きが来るな。誰ぞ余をどっと笑わせる話でも持っておらぬか」

「僕の竪琴の腕を見せる時かな? サウル王の悪霊を追い払った腕前をご覧に入れようか」

「私はそれをBGMにエネルギー・周波数・振動の観点から見た宇宙の秘密を講義してみせよう。エジソン如きには辿り着けぬ天才の叡智だ」

「……むかしむかし、あるところにチェイテピラミッド姫路城が────」

「ヘレン。それは本当にこの世界の話か!?」

 

 知恵の女神ソフィアことヘレンは、未来を見据える瞳をきらりと輝かせる。

 

「どうやらEチームは隠された宙域、廃棄孔アンドロマリウスに到達したようです。私たちも少し急ぎましょう」

「───その心配は、要らないと思いますよ?」

 

 彼らの頭上から響く、鈴を転がすような声音。途端に、一行は中空へと視線を投げた。

 くすくす、くすくすと微笑む黒白の少女。第七の特異点において、知恵の女神とともにEチームの前に立ちはだかった虚構の偽神。彼女は影に包まれた肢体をぐっと伸ばす。

 

「虚構の世界で繋いだモノであろうと、縁は縁。マザコンアホニート神が頑張ってます。あなたたちはのろのろナメクジさんみたいに歩いて、貴重な出番逃しちゃってください♡」

 

 三相一体の造物主、偽神サクラ。白と黒の少女は両手を重ね合わせて、あざとく言ってみせた。

 ネロたちはぎょっと顔をひきつらせる。

 

「あの顔、余には見覚えがあるぞ!? もしやドッペルゲンガーというやつか!?」

「うーん、これはアビシャグ。だけど性格がアレっぽいからお断りかな。その邪悪さを何とかしてくれたらなぁ」

「肉体を包んでいるのは虚数の影か? 良い研究対象になりそうだ」

「……なんかムカついてきましたね。サクラビーム、いっときます?」

 

 サクラは一円玉を指で弾く。1グラムの質量を90兆ジュールに変換する攻撃を受けてはソフィアやテスラはともかく、この神殿そのものを揺るがしかねない。

 知恵の女神は女神らしく、傲岸に少女を見下した。

 

「……どうやら、自ら手を下すつもりはないらしい。高みの見物とは良い身分だ」

「まあ私、神様なんで? 他にやることもあるんで? ここに来たのは暇つぶしです。Eチームが勝つにしろ負けるにしろ、じっくり愉しむつもりですから」

「という割に手を貸す有様か。この前から思っていたのだが、お前に悪役は向いていないんじゃないか」

「ハッ、戯言ですね。勝手に寝返ったあなたをここで始末してもいいんですよ?」

 

 ソフィアは嘲笑うように鼻を鳴らす。

 

「お前との戯れは十分だ。特等席で舞台を観ていろ。お前には無理な話だろうがな」

「…………もしかしなくてもナメてます?」

 

 知恵の女神はこくりと首肯し。

 そして、致命的な一言を吐き出した。

 

「───お前、立香に恋をしているだろう」

 

 サクラは数秒ほど停止して。

 ぼん、と火山が噴火するみたいに顔色を真っ赤に染めた。

 

「………………はあああああああ!!?!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第五の宙域。並み居る特異点の中でも頭抜けた数の戦闘狂を擁するこの場所は、見るも凄惨な魔神の虐殺が繰り広げられていた。

 エリザベートとコロンブスは頭に枝葉を突き刺し、物陰からその様子を覗く。

 

「おい、トカゲの嬢ちゃん。このままだと今回が終わっちまうぞ。俺たちの出番はどうすんだ」

「落ち着きなさい、歯茎のおっさん。これは後の三巡を買っているのよ。宝具の用意はできてるんでしょうね?」

「当たり前だろうが。で、誰にぶっぱなせばいいんだ」

 

 エリザベートは入り乱れる戦場を睨み、カッと眼光を閃かせる。

 

「あそこよ! あの男を捕らえなさい!!」

「任せろ! 『新天地探索航(サンタマリア・ドロップアンカー)』!!」

 

 コロンブスの背後より鎖が放たれ、標的に絡みつく。鎖は恐るべき速度で二人の元へと回収されていった。

 

「ぐもおおおおおおお!!」

 

 二刀を携える半裸の男。

 彼は鋼鉄の鎖に全身を拘束され、苦悶の叫び声をあげていた。といっても、その口と首は締め付けられているせいで、満足な声量を伴っていない。

 

「私の栄えある最新のファン、ベオウルフ!!英文学最古の叙事詩に語られる大英雄! このネームバリューを以って更なる出番を奪うのよ!!」

「なるほどな、俺には劣るが最高の人選じゃねえか! こりゃあ良い投資になるってもんだ!」

 

 徒手にて巨人を討伐し、老いてなお竜と相討った英雄にして王。彼は無理やり口元の鎖を引きちぎると、荒い息をこぼしながら叫ぶ。

 

「勝手に話を進めてんじゃねえ! 俺がそこのトカゲアイドルのファンになったのは確かだがな、まずは話の筋を通せ!!」

「おいおいおい、お前は利用される側であって文句をつけられる立場じゃねえんだよ。大人しく俺たちの客寄せパンダになりやがれ」

「その通りよ。私のファンなんだから存在の全てを私に捧げるのが当然でしょう? ほら、行くわよ!!」

「ふざけんなァァァァ!!!」

 

 ずるずると引きずられていくベオウルフ。彼の苦悶の声は次第に小さくなっていく。一部始終を見届けていたディルムッドは眉間にしわを寄せて、疑問を露わにした。

 

「……アレは何なのです?」

「私の親指かむかむによると、〝ちくわ大明神のようなもの〟という結果が出ているな」

「その親指早く切り落としてください」



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第82話 それは、未来を奪い返す戦い④

 ソロモン王は唯一なる主より知恵を与えられたが、決してそれを妄りに晒すことはなかった。元よりその知恵は神のモノ、王はかの力を乱用することを良しとしなかったのである。

 しかしながら、誰もが羨む栄華を築き上げた王の名声はいまや留まることを知らず。ソロモンの名は諸外国にも響きわたっていた。

 その中には、あるひとりの女王がいた。

 エジプト・エチオピア───もしくは、アラビア地域に版図を持つシバ国。茫漠たる熱砂の国を支配する女王は、ソロモンが治めるエルサレムの土地を訪れることとなる。

 シバ国の位置がアラビアにあったとするのなら、紅海とヨルダン川を沿って移動する旅路はおよそ700kmにも及ぶ。現代ならばまだしも、神代におけるその道のりは魔術を以ってしても多大な危険を伴うはずだ。

 けれど、女王の一団がエルサレムに到達した時、民衆はその絢爛たる有様に思わず目を奪われた。

 折り目正しく並ぶラクダの列。一頭一頭の背には黄金と宝石が山と積まれ、かぐわしい乳香の薫りで空気が彩られる。異国の風情漂う従者たちは色とりどりの装飾を纏い、楽団が重厚な音を奏でている。

 女王は玉座の前で、初めてその姿をエルサレムの陽の下に晒した。

 

〝───お初にお目にかかりますわ、ソロモン王〟

 

 彼女は、たった一声で空間を我が色に塗り変えた。

 つややかな褐色の肌。ゆるやかに棚引く藤紫の髪。大地の豊穣が化けたかのような肢体。表情に顕れる妖艶さとは裏腹に、顔のつくりはまるで少女のようだ。

 しかして、女王の輪郭は常人のそれとはかけ離れていた。

 頭頂にてぴんと突き立った大きな耳。柔らかな毛を帯びた尻尾。ヒトのカタチに獣の要素が加わることで、既に万民を魅了するに値する美しさにコントラストを与えている。

 人間と霊鬼(ジン)の混血。彼女の美はそれこそ人間離れしていた。

 ソロモンは顔貌を微笑の形に作り変え、

 

〝はるけきシバの地よりよくぞエルサレムへ。砂漠の旅は身に堪えたでしょう。ガリラヤの湖畔に宮を建てました。今日のところはゆるりと休まれると良いでしょう〟

 

 女王はくすりと笑い、

 

〝それも楽しみではありますが……その前に。私がはるばるここまで来た理由、あなたほどのお方なら既に見抜かれておられるのでしょう?〟

〝さて、私には分かりかねること。父と違い、女性の心には疎いのです〟

〝あら、てっきり算盤のような人かと思ったら、そんな冗談も言える方だったのですね。でしたら、女心に疎いあなたにも分かりやすく伝えて差し上げます〟

 

 知性を宿した瞳に野性的な色が混ざる。

 彼女はうやうやしく礼を取り、静かに告げた。

 

〝───あなたの知恵を試しに参りました〟

 

 場の空気が張り詰め、殺気を帯びる。

 王の知恵を試す。それだけならば、問題はなかった。自らの優秀さを白日のもとに証明し、威光を確立する。王たる者に逃走は許されず、むしろその機会を利用することが求められるのだ。

 だが、ことソロモン王に限って、その言い分は通用しない。

 彼の知恵の根源は唯一神にある。ソロモンの知恵を試すとは神を試すことに他ならない。

 〝神を試してはならない〟────後の世において救世主が発した言葉のように、女王の目的はイスラエル全ての民を侮辱するに等しかった。

 やにわに沸き立つ玉座の間。ソロモン王は剣の柄に手をかける部下たちを、手のひと振りで鎮める。

 

〝どうぞ、貴女のお気の済むまで。長旅を終えられたのです。それくらいの支払いはして当然でしょう。取引は双方に理があるべきです〟

〝随分と、私好みの返答をなさるのですね?〟

〝ふふ。案外、私も父親似ということでしょうか〟

〝…………おもしろいヒト〟

 

 ぽう、と女の瞳に熱が浮かぶ。

 その心根を悟る者は、彼女以外の誰にもいなかった。

 ……そうして、シバの女王は知恵を試すべく、問いをソロモンに投げかける。

 

〝地から湧くのでも、天から降るのでもない水は?〟

〝汗、としておこうか。唾でも涙でも良いけれど、貴女を彩るものはそれが妥当だ〟

〝…………その頭を嵐が駆け抜け、身も世もなく泣きわめく。自由な者はそれを褒め、貧しき者はそれを恥じ、死せる者はそれを喜ぶ。鳥はそれを喜び、魚は嘆く〟

〝亜麻かな。亜麻の布は貴人が纏うものだが、貴女の肌には絹が似合いそうだね。それでも添え物にしかならないが〟

〝………………母が子にこう言います。お前の父は私の父。私の祖父はお前の父。お前は私の祖父の子で、私はお前の父の子である。この父と祖父とは?〟

〝どちらもアモン人の祖、ロトのことだね。滅びゆくソドムとゴモラから逃げた彼は洞窟の中で自らの娘と子を成した。……賢い貴女は彼の妻のように振り返りはしないだろう〟

 

 むぐ、とシバの女王は言い詰まってしまう。

 ソロモンは如何なる問いにも涼しげに答える。女王が寝る間も惜しんで考えた謎掛けは、赤子の手をひねるように解かれていった。

 彼女は頬をほのかに赤く染めて、恨めしげにソロモンを睨む。

 

〝い、いちいち私を引き合いに出すのはどういう了見なのです!? ダビデ王の子だけはありますね!〟

〝そう言われると少し気恥ずかしいな。女性は丁重に、わざとらしくなく褒めろと言われたものでね〟

〝わざとらしいにも程があります! 妻たちにもそんなことを囁いているのなら、とんだ色男ですわ!!〟

〝私を色男と評したのは貴方が初めてだよ。父に感謝すべきかな〟

 

 暖簾に腕押し、糠に釘。どんな難問もいちゃもんもどこ吹く風で応えるソロモンの牙城を突き崩すには、並大抵の問題ではそれこそ城壁に風を吹き付けるようなものだ。

 女王は窮し、とっておきの難問を繰り出すことにした。

 手のひらに収まるほどの香炉を取り出し、蓋を開く。すると、途端に濃厚な香りを纏う煙が湧き出し、王と女王の二人を包み込んだ。

 ソロモンは僅かに目を見開く。彼の目に映る光景は見慣れた王宮のそれから、見知らぬ一室へと変貌を遂げていた。

 所狭しと花が咲き乱れる空間。外界へ通じるのは一枚の扉と、カーテンに遮られた窓だけだ。

 

〝結界や幻術の類……ではない。むしろそれらより高度な術だ。香炉に閉じ込めていた空間を元の空間と置き換えた。素晴らしい魔術だ〟

〝お褒めいただき光栄です。これが私の最終問題……この部屋の花は一輪を除いて全てが造花。たったひとつの本物を当ててくださいませ〟

〝……うん。なるほど。これは難問だ〟

 

 ソロモンは手頃な一輪を手に取り、鼻を澄ませる。遜色がない、どころではない。見た目や匂いでは全く区別がつかず、手折った茎の断面まで寸分も違わなかった。

 女王が用意した造花はシバの国の職人と魔術師が技の粋を結集して造り上げた逸品。人間の感覚器官では見抜くことなどできようはずもない。

 ソロモンは淀みのない足取りで窓を目指し、カーテンを開け放つ。四角く切り取られた景色はエルサレムの街であった。香炉の空間はあくまで玉座の間と置き換わっただけで、それ以外には影響を及ぼしてはいない。

 ぶん、と羽音を響かせて、一匹のミツバチが窓から迷い込む。

 蜂はふらふらと宙を蛇行し、ある鉢植えのところで止まった。芳香を漂わせる、鮮やかな紫の花弁。ラベンダーの花。口吻を突き刺し、蜜を吸われるそれを、ソロモンは優しく手折った。

 王は女王へと微笑みかける。

 

〝……答え合わせを聞いても?〟

〝あ〜、もう! 負け! 私の負けです!! 降参こうさぁ〜ん!!〟

 

 女王は両腕を振り乱してのけぞった。

 ソロモンは支配者の威厳という威厳が消え失せた女王の醜態を他所に、そっと蜂を外に逃がす。

 

〝ヒトがいくら書を読み漁り、目を凝らそうとも見抜けぬ花の真贋を、蜂や蝶はいとも容易く看破する。この世に必要なのは絶対的な価値観ではなく、相対的な多様性だ。単一の種では見落とすことが多すぎる〟

 

 彼はラベンダーを女王の髪に挿した。

 

〝───私の負けだ。貴女は私の知恵を試したが、私は他者の力を頼るしかなかった〟

 

 ぽかんと呆ける女王の前に跪き、右手を取る。

 ソロモンは鮮やかな褐色の手の甲に唇を寄せた。

 

〝シバの女王よ。その知恵に心よりの尊敬を〟

 

 窓より差す陽の光を受けて。

 王はあっさりと、敗北を認めてみせた。

 数秒かけて事態を呑み込み、女王は耳まで顔を真っ赤にする。耳と尻尾は鉄の芯でも入っているかのように直立し、毛が逆立つ。

 彼女は慌ただしく後退ると、陸に上がった魚みたいにぱくぱくと口を動かして言った。

 

あびゃあああああああ(でしたらこれは引き分けですっ!)おろろろろろろろろ(勝手に負けなんて認めさせません!!)

〝逆! 逆になってる!!〟

 

 で。

 シバの女王による謎掛けが終わった後、彼女とその一団を歓待する宴が執り行われた。二人は常人が百回人生を繰り返しても稼げぬほどの黄金や宝石、香料を贈り合った。

 贈り物の量はすなわち、その王の度量と国の豊かさを端的に知らしめる手段でもある。かといって多すぎれば、相手に媚びていると反感をくらい、家臣団の不満を募らせる。逆に、過度な支払いを要求すればそれは相手への非礼となるだろう。

 かくも王とは、一挙手一投足までもが政の意思に支配される不自由な存在だ。

 だが、こと彼らにおいてはそのような息苦しさを微塵も感じさせぬ図太さを備えていた。ソロモンはゆったりと杯を口に運び、シバの女王は眼前に積まれた財宝の山とにらめっこをする。

 

〝……これ以上は1デナリもまからない、嫌味なほどに完璧な支払いです。存分に吹っ掛けようと思っていたのに、口を塞がれた気分ですわ〟

〝褒め言葉と受け取ってお〟

〝褒めていません。完璧すぎて憎たらしい、と言っているのです〟

 

 家臣たちに反感を抱かせず、シバ国の官吏たちに不満を与えない───地上に突き立つ針の穴に、月より糸を通すような絶妙な金額。ソロモンは事も無げに、そんな最適解を提示してみせた。

 シバの女王は蒼海の如き瞳に鋭い光を灯す。

 

〝普段の私なら、こんなことはしないのですが……少しばかり色をつけさせていただきます〟

〝補填は?〟

〝不要です。こちらへ〟

 

 女王の促すままに、二人は神殿を抜け出す。

 天の中心に居座る銀の月。夜の帳にはいくつもの星屑が散りばめられていた。若干の刺々しさを纏う冷めた空気が肺を満たし、白くなって抜けていく。

 二人は無言で歩いた。その先に待ち受ける事実の重さが、唇を縫い合わせているかのように。

 彼らの歩が止まったのは、とある沼地の前だった。そこには木でできた一本の橋がひっそりと佇んでいる。シバの女王は屈み、橋の木目を細い指でなぞる。

 

〝継ぎ目のない、木製の橋。あなたの国の職人は如何にしてこれを造ったのですか〟

〝……なんてことはない。一本の木から削り出したのさ。神殿の建材に使おうとも考えたのだけれど、不思議なことにどう切り出しても寸法が合わなかった〟

〝その木の由来はご存知で?〟

 

 ソロモンは首を横に振り、否定した。

 シバの女王はゆっくりと息を吸い、吐き出す。その肌には汗が滲んでいた。

 

 

 

 

 

〝───これは、知恵の樹でございます〟

 

 

 

 

 

 …………その昔、最初の人間アダムとその妻イヴは知恵の樹の実を食し、楽園を追放されてしまう。

 彼らは地上にて暮らす中で、多くの子をもうけた。世界最初の殺人を犯したカインとアベルが世を去り、アダムの歳が130を数えた頃、セトという息子が産まれる。

 このセトはアダムが病床に伏した時、楽園の門前にて病を治す手段を請うが、その願いは受け容れられなかった。しかし、大天使ミカエルはセトに一本の小枝を渡す。

 

〝その枝が実をつけた時、あなたの父の病は治るでしょう〟

 

 が、時既に遅く。セトが戻った頃、アダムはとうに亡くなっていた。彼は父の墓に枝を植え、それは悠久の時を経て大木へと成長する。

 ミカエルがセトに手渡した枝とは、かつて知恵の樹の一部であり────────

 

〝────そう、か。これが神の御心。君がここに来た意味。原罪を払拭し、人理を保障する最後の欠片〟

〝私はこれを見た瞬間、霊視を受け取りました。遥か未来、この橋から切り出された十字架が─────〟

〝良いんだ。分かっている。これをこのままにしてはおけない〟

 

 ソロモンは右手を振るう。橋はその重量を増したかのように泥へと沈み込み、そのまま地下奥深くに封印された。

 瞬間。

 ばちりと、目の奥で弾ける閃光。脳髄を流れ浚う情報の洪水、いつかどこかの未来の写像。まるで、一本の木の在り方を俯瞰するような視点。根は過去で、幹は現在で、枝葉は未来。枝が葉をつけ、果実を実らせ、地に落ちる。

 それは、ヒトの滅びを芽吹く種子。その多くはソロモンが育てた弟子たちと魔術によって防ぐことが能うモノだったが、それらもまた等しく滅びを生む。

 彼が見たのは、とある滅びの種が萌芽する一幕。いずれ第二の魔法使いが平行世界の存在を証明することで、否が応にも実現する可能性を持ってしまう───そんな罠。

 謀られた。一瞬にして事態を把握し、後悔と反省は刹那の内に済ませる。目を凝らし、濃い霧の向こうに佇むソレを見て、

 

〝…………()()()()()()?〟

 

 自分にさえも予想だにしない、誰かの名前が唇の間を抜けた。

 数秒ほど思考が空白に染まり。ソロモンはシバの女王に向き直り、頭を下げる。

 

〝ひとつ、頼みごとを受けてほしい〟

〝無論、相応の報酬を頂けるのでしたら。タダ働きは死んでもごめんです〟

〝ああ、言い値で対応しよう。しかも前払いでね〟

〝あら太っ腹。商談成立としましょう。まずはそちらの要求をお聞かせ願えます?〟

 

 ───それから数十秒、ソロモンの手によって、内に棲む私の意識は強制的に断絶された。

 そのやり取りの内容を知るのは世界で王と女王のみ。気づいた時には、二人は取引を終えていた。シバの女王は真剣な表情で言う。

 

〝……その役目、承りましたわ。さて、どうふっかけたものでしょうか〟

〝私に用意できるものだと助かるよ〟

〝ええ、当然。商談の必勝法は相手の資産を爪切り一本に至るまで把握して、ギリギリ呑める要求を突きつけることですから〟

 

 彼女はわざとらしく悩む仕草をして、ソロモンの眼前に詰め寄る。

 からかうような笑み。くすぐるような視線。瞳の奥にじくじくと滲み出す熱。シバの女王は指の先で男の胸をなぞる。

 

〝誰にも話したことのない、あなたの秘密。代金はそれで充分です〟

 

 王は不意を突かれたみたいに眉尻を上げ、そして柔らかく微笑む。

 誰にも話したことのない秘密。大なり小なり、人はそういったモノを抱えているだろう。とりわけ為政者という生き物は多くの秘密を持つ。露呈した瞬間全てを失う、そんな秘密を。

 ソロモンは王となるべくして産まれ、その生はすべて神に捧げられるものとして望まれた。

 

〝実は、私にはもうひとつの名前があるんだ〟

 

 ───だとするならば、それは。

 

〝名前による呪詛の強制力は契約と等しい。完全に術中に嵌められてしまうと、私にも逃れることはできないだろう。故に、魔術においてソロモンという名は真の名前ではない〟

 

 王となるべくして産まれ、その生を神に捧げよと望まれた男が。

 

〝母さえもそれは知らない。私に名を授けた神は天に在り、たった二人、名前を知っていた父とナタンは神の御許へ還った。まさしく、誰にも話したことのない秘密だ。それを君に教えよう〟

 

 初めて、王の衣を脱ぎ去った瞬間だったのかもしれない。

 

〝……ボクの本当の名前は───────〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……マジかよ」

 

 ノアは顔面蒼白で呟いた。

 白い肌に不健康な色味が混ざり、その拳は震えるほどに握り締められている。彼の横では立香とマシュが同じような面持ちで佇んでいる。

 確かに、今回の記憶はソロモン王の核心に触れるものだった。彼らが重く受け止めてしまうのも無理はない。ダンテはしんみりと目を閉じ、何度も頷いた。

 

「…………ええ、前回と負けず劣らずの衝撃的な話でした。まさか救世主の十字架伝説が真実だったとは。それに、ソロモン王のもうひとつの名前と言ったら、」

「───冷やし中華の発祥って中国じゃなかったのかよ……!!!」

「え、何の話ですか!!?」

 

 アンブッシュからのバックスタブをくらい、ダンテはひっくり返った。無表情でこめかみだけをひくつかせるジャンヌを背景に、立香は沈痛な声音で答える。

 

「じゃあ、私たちが今まで食べていたアレは一体何を冷やしてたんですか!?」

「先輩、冷やし中華の発祥は日本だそうです。それで言うなら、冷やし日本……ということになりますね」

「確かにこの時期はクソあちーので冷やしてほしいですわ」

「同じ島国でもブリテンとは次元が違う暑さなんだよな? どうなってんだ日本」

 

 ノアはペレアスの言に賛同して、

 

「たまには良いこと言うじゃねえかペレアス。俺が前に行った時なんてアスファルトの上で大量死したミミズどもが踏み潰されて、そういう模様みたいになってたからな」

「夏の風物詩ですね。何がミミズたちを死地へと駆り立てるんでしょう」

「どうせ大して味が変わらないのに冷やし中華を啜ってしまうわたしたち人間と同じなのでしょう。そう、ジャンヌさんが夜な夜なセンシティブな絵を描いては消してるように」

 

 その直後、マシュは火柱に呑み込まれた。ジャンヌはコンクリートの上で干からびたミミズみたいになったマシュを投げ捨て、冷たい声を浴びせかける。

 

「はい、燃やしなすび一丁」

「もはや焦がしなすびなんだけど!?」

「ひ、冷やしなすび始めてください……」

 

 痙攣するマシュ。すっかり彼らの勢いに押されていたダンテは正気を取り戻し、

 

「ち、ちょっと待ってください! ノアさん、いつものソロモン王オタクぶりはどうしたんですか!?」

「ごちゃごちゃ喚くなやかましい。ソロモンが女口説いてるの見せられてテンション上がるわけねえだろ。色ボケが色ボケだったってだけだからな。分かったら冷やしエルサレム持ってこい」

「どんな料理なんですかねえ!? 自分の発言に責任を持ってください!!」

「ダンテさん、今更それ言います?」

 

 ダンテの背後から胸を突き刺す、立香の指摘。じめんタイプにでんきタイプの技を撃つように、ノアという男に責任感を求めること自体が間違っている。

 が、今回のダンテは一味違った。なにせ魔術王の玉座は間近だ。まさかラスボスの前でアホを晒すわけにはいかない。彼の腐った性根を浄化する最後の機会は今なのだ。

 そう。ここは心を鬼にしてヤツに鉄槌を下さねばならない────!!

 

「ええ、ソロモン王が変態というのは揺るぎない事実です。鏡張りの床にシバの女王を立たせて太ももを堪能するような人ですから」

「『ダンテさん? いきなり話が逸れてません? ソロモン王はそんなことしないと思いますよ?』」

「ですが! かのオジマンディアス王も同じようなことをしているのです! つまり、王様という役職は相応の性癖を備えてこそ務まるのでしょう……!!」

「『何言ってるんですかこの人!?』」

 

 ダンテには二つ誤算があった。それは自分もまたEチームの一員であること。そして、ぼんやりと未来を悟る力を持つ捨て設定によって、ノアに背骨を粉砕される結果を幻視したこと。結局はダンテもアホであった。

 マシュは頬に氷袋を当てながら言う。

 

「性癖と言えば先輩は自他ともに認めるガチャ狂ですが、きっかけはあったのですか?」

「『いや、それよりやることが他にあるよね?』」

「そうね。私はそのガチャへの執念で喚ばれたみたいなものですし。気になるっちゃあ気になるわ」

「……確か、アレは私が幼稚園児の時────」

「『ここで回想!!?』」

 

 ───過ぎし日の藤丸立香(五歳)。幼稚園から帰った彼女は、母親に連れられて近所のスーパーを訪れていた。

 子どもにとって、デパートやスーパーはありとあらゆる欲望を喚起する堕落の園である。ある者はおもちゃコーナーの中で泣き叫び、ある者はアーケードゲームの筐体の前で地団駄を踏む。そういった数え切れない絶望や悲哀が人を大人にしていくものだが、藤丸母娘はおもちゃコーナーにもアーケードゲームにも目を向けなかった。

 二人が真っ先に足を運んだのは、粉物が並ぶ陳列棚。彼女らは眉間にしわを寄せ、顔面に深い影を落として棚を睨む。

 

〝───ホットケーキミックスの品揃えはやっぱりここが一番ね。りっちゃん、好きなやつを選びなさい。母が許します〟

〝ふぉぉ……!! じゃあこれ! 箱がかわいい!!〟

〝あら、ジャケ買いしちゃう!? 五歳にしてその度胸、畏れ入ったわ!〟

 

 そこで、ジャンヌは感情の熱を取り去った表情をする。

 

「……あの、ガチャよりもっと深刻な性癖が屹立してるんですけど。ホットケーキミックスのジャケ買いなんて言葉聞いたことないんですけど」

「先輩の起源はホットケーキミックスだった……?」

「オイ、これホットケーキミックスの話だろ。ただのホットケーキミックス狂いのアホ母娘だろ。つーかいつからあんなもんにハマってんだ!?」

「あんなもんってどういうことですかリーダー!? ホットケーキミックスに謝ってください! あと話はここからですから!!」

 

 ……藤丸母娘はカートの下段いっぱいにホットケーキミックスを詰め込み、三日分の食料を買い込んだ。当面のホットケーキミックスを確保した二人がホクホク顔でレジを抜けたところ、サッカー台の奥にガチャガチャのコーナーが新設されていた。

 ガチャガチャの世界は奥が深い。誰に需要があるのか不明なシリーズから大人気アニメ・漫画の商品───公式とは限らない───までもが入り混じる、混沌の世界である。

 新設ということからか、その一角はそれなりに賑わっていた。硬貨を入れ、出てきたカプセルの中身に一喜一憂する。そんな人たちの様子を見て、母親の手に引かれる立香は立ち止まった。

 

〝あれなに?〟

〝ガチャガチャよ。お金を入れて回すと、ラインナップの中からひとつだけ出てくるの。やってみる?〟

〝うん!〟

 

 立香が選んだガチャは『猫の変顔』。フレーメン反応を起こした猫や顎が外れた猫、マタタビでキマった猫などのフィギュアが詰まっている。

 藤丸母は百円玉を立香に渡す。

 

〝どれが欲しいの?〟

〝これ! 『うんこした後走り回ってる猫』と『寝起きの白目猫』!!〟

〝良いチョイスね! 運にその身を委ねるのよ、りっちゃん!〟

 

 ごくり、と立香は生唾を飲み込み、硬貨を投入する。

 レバーを掴む手が震える。呼吸が浅く速くなり、心臓の鼓動だけが鼓膜を揺らす。用意された種類は七つ、残ったフィギュアの個数と割合が分からない以上、正確な確率は導き出せない。幼い立香にそこまでの思考はなかったが、分が悪い勝負であることは直感的に理解していた。

 ───そうして、少女は知る。

 荒れ狂う龍の如き、確率の大海嘯。その渦中へと身を投じ、もがき、苦しみ抜いた先に己が望みを掴み取ることの意味を。

 緑色のカプセルが排出される。ガチャガチャ特有の異常に剥がしづらいテープを爪で削り取り、中身を覗く。

 ビニールの包装に閉じ込められた猫は、柔らかな腹を剥き出しにして白目を剥いていた。

 目当てのひとつ。脳みそからドーパミンが放出され、血流が加速する。立香は白目猫を握り締めながら、うめき声を漏らす。

 

〝ワァ……ァ……〟

〝まさかの一発直撃!? すごーい!!〟

 

 はしゃぐ母の横で、立香の目はガチャのラインナップに向けられていた。

 うんこダッシュを敢行する猫。しかも猫用トイレのミニチュア付き。視界が炙られた飴みたいにとろけ、心に湧き出す想い───この流れならイケるのではないか。

 軍資金は首から提げたポーチの中にある。両親と親戚からのお年玉が詰まった全財産。立香は吐息混じりにそれを両手で包んだ。

 藤丸母はエコバッグを担ぎ直し、ガチャガチャに背を向ける。

 

〝それじゃあ、帰ろっか。今日のご飯はハンバーグよ! パン粉の代わりにホットケーキミックスを使って…………〟

 

 その時、藤丸母は異様な音を聞いた。硬貨が立てる金属音と、レバーを回しカプセルが落ちる音。その二つが交互に連続し、まるで重奏を奏でているかのようになる。

 藤丸母は恐る恐る振り向き──────

 

「───そこには、ガチャを一心不乱に回し続ける未就学女児の姿が……っ!!!」

「くだらなっ! 長い割にくだらなっ!? 聞いて損したわ!!」

「いえ、わたしはとても興味深い話でした。これからはりっちゃん先輩とお呼びしても良いですか」

「些細なことから人生は変わっていく……まるでベアトリーチェとすれ違った私と同じですねえ。立香さんへの親近感が湧いてきました」

「……結局、うんこダッシュしてる猫は当たったのか?」

 

 ペレアスは呆れつつも、何の気なしに訊いた。立香はこくりと首肯する。

 

「はい……でも、うんこダッシュ猫を一匹手に入れるのに五匹の白目猫と十一匹のマタタビキマり猫が出てきました……今でもみんな家の机に並べてます」

フォウフォフォフォウ(スラム街の光景かな)?」

「なるほど、おまえがアホな理由がよく分かった。母親然り兄貴然り、先祖代々アホ遺伝子を受け継いだアホのサラブレッドがおまえってことか」

「魔術師一家に舞い降りたアホの麒麟児に言われたくないんですけど!?」

 

 リースは閃いたように指を弾いた。

 

「ということは、二人はお似合いですわねっ!」

「何的はずれなこと言ってんだ恋愛脳。一回その脳みそからピンク色が落ちるまで丸洗いしてこい」

「リーダーもどす黒いお腹洗ってきた方が良いと思いますけど。……そんなに的外れですか?」

「ああ。どれくらい的外れかと言ったら、番外位とかいう苦し紛れの設定を誇ってるアホと同じくらい的外れだ」

「おい」

 

 ペレアスのチョップがノアの脳天を穿つ横で、むっと立香は唇を尖らせた。むすりとしたその表情を眺めて、ノアはくつりと喉を鳴らす。

 

「そんな次元は通り越してる。そういうことだ」

 

 彼は少女の肩を叩き、前へと歩を進める。

 すると、立香は固有時制御四倍速並の速度で振り向いた。

 

あびゃあああああああ(ど、どういうことですかそれ!?)おろろろろろろろろ(詳しく説明してください!!)

「『逆! 逆になってる!!』」

 

 で。

 そろそろ尺が詰まってきたことを予感したマシュは、顔面の穴という穴から血を垂れ流して微笑む。

 

「破壊された脳が漏れてやがりますわ……!!」

「ドクター、次に目指すのは廃棄孔という場所だそうですが、何か分かっていることはありますか?」

「『う、うん。廃棄孔は最初から存在していた訳ではなく、途中から現れたみたいだ。魔術王の特異点は七つ……もしかしたら、英霊たちの力は借りられないかもしれない』」

「ロマニさん、その心配は無用だと思いますよ?」

 

 ダンテは確信的な響きをもって言い切った。

 彼らの前には廃棄孔への門。遠い昔、詩人が見た地獄の入り口のように立ちはだかるそれを、今度は微塵の恐怖もなく見据える。

 

「たとえ虚構の世界であろうとも、繋いだ絆は千切れません。あの特異点を創ったシモン・マグスがここまで考えていたとしたら厄介ですが……今は頼りにさせてもらいましょう」

 

 詩人の手が扉を開く。

 魔神たちは既にEチームを待ち受けていた。彼らは開門を認識すると、慌てて早口で喋り出す。

 

「再起せよ再起せよ廃棄孔を司る九柱即ちムルムルグレモリーオセアミーベリアルデカラビアセーレダンタリオン我ら九柱欠落を埋めるも」

「はい、どーん!!」

 

 魔神一同決死の高速詠唱は、中域を覆い尽くすかのような豪風の渦に呑まれて消えた。

 オティヌスよりも荒々しく、強大で、端的に言ってしまえば雑な嵐の権能。そんなものを行使できる存在はカルデアのデータにもただ一柱しかいない。

 日ノ本の神話世界最強の荒神スサノオ。彼はカルデア一行が慣れ親しんだ稚児の姿で登場を果たし、呵呵と大笑をぶち上げる。

 

「さっさと口上を述べる腹積もりだったのじゃろうが、残念無念!! 安易な文字数稼ぎは許さぬのが儂の信条じゃあ!!」

「だったらまずおまえから黙れよ」

「えっ? なにそれ? 儂の存在自体が文字数稼ぎだと思ってる? これでも番外特異点のキーパーソンなんじゃが?」

「いーや、おまえは精々もののけ姫のジコ坊が関の山だ。ケツ丸出しで斜面転がり落ちてるくらいがお似合いだろ」

「嫌じゃ! せめてヤックルがいい!!」

 

 と、スサノオが嘆く背後で、魔神たちは復活を遂げる。

 

「貴様らの魂をタタラ場に追放してやる!!」

 

 魔力を解き放つ───その寸前。魔神たちの周囲に数本の杭が浮かび上がり、結界を構築する。彼らを取り囲むように展開した結界は、魔神の一撃を受けても傷ひとつ見られなかった。

 結界の縁が狭まる。朝の満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めになる魔神たち。それでも結界の縮小は止まらず、骨肉が潰れる嫌な音が響く。

 

「ならば、貴様らにはこう返そう。〝死ね、そなたは醜い〟とな」

「どこの世界線のアシタカだァァァ!!!」

 

 魔神一同はピンポン玉の大きさにまで圧搾された。結界が解かれると肉の球体が弾け、辺りに散乱する。

 胸に一本の杭が突き刺さった男。神話においては最古の別天津神の次に産まれた、神代七代の四代目───角杙神と活杙神。陰陽一体のツヌグイは神らしく、不遜に口角を歪めた。

 

「星見台の旅人よ。人間ならば人間らしく我らに護られていろ。そして勝った暁には我の神社を建てるがよい」

「あ、気にしてたんだそれ。まあ儂は氷川系だけでも全国280社あるけど。ツヌグイは両手で足りるくらいじゃったっけ?」

「黙れ! 量より質だ! 貴様は中身のないデータを誇っていろ!!」

「いやぁー、それは無理があるじゃろ。質でも勝ってるし。八坂神社とかオススメよ? のう、頼ちゃん?」

「わ、私に振られても畏れ多すぎると言いますか……」

 

 源氏大将、源頼光はぎこちなく言葉を返した。彼女とスサノオには牛頭天王という大きな繋がりがあるが、ツヌグイの手前、流石にどちらかに肩入れする訳にはいかなかった。

 立香はスサノオとツヌグイのやり取りを見て、かくりと肩を落とす。

 

「……日本の神様っていつもあんな風にマウント取り合ってるんですか」

 

 それに答えたのは、天孫降臨神話の主役ニニギノミコトだった。

 

「一時期高天原で自身を祀る神社の数で競う遊びが流行ったんだ。あれ以来人間関係がぎこちなくなってしまった……アマテラス様も八幡神に負けたショックで天岩戸に引きこもられて……」

 

 そう語るニニギのまぶたには涙が溜まっていた。太陽の女神は人知れず第二のニート期に突入していたらしい。ちなみに一度目の引きこもりを発生させた元凶は素知らぬ顔で耳を傾けている。

 ジャンヌは冷や汗を流して、口角を引きつらせた。

 

「な、生々しすぎるんですけど。SNSのフォロワー数競ってるみたいなものじゃない。それでも神様?」

フォウフォウフォウ(ロクな神がいねえな日本)

「私もいたたまれなくなってきました。……あ、私は世界三大詩人ですが、ペレアスさんはどれくらいの知名度でしたっけ?」

「おいふざけんな! せっかく最近は知名度のことも忘れかけてたってのによォ! いきなり蒸し返してきてんじゃねえ!!」

 発狂するペレアス。好きな円卓の騎士と問われて彼の名を答える人間は逆張りか極度のマニアかのどちらかである。

 対して、ダンテはイタリアでは義務教育で必ず触れる人物であり、世界中に研究者がいるような詩人だ。マイナー円卓の騎士が太刀打ちできる相手ではない。

 嘆きの騎士モードに入ったペレアスの両肩に、慰めるように二つの手が置かれる。それは藤原秀郷と渡辺綱のものだった。

 

「善く行く者は轍迹なし。武名を求めるのは武士の常だが、世の平安を支えてきたのはあなたのような人々だ。自らの生に誇りを持ってくれ」

「今のオレに優しくすんな! 結局無名ってことだろうが! オレが欲しいのは名声なんだよ、あと聖剣!!」

「うむ、心が哀しみに包まれている時は他人の言葉なぞ響かぬものよ。そんな時は腹一杯に米をかき込んで寝てしまうのが良い!」

「いや、米なんてどこに────」

 

 ペレアスの声を遮るように、藤原秀郷は担いだ米俵から大量のお米を噴出させた。火山の噴火をも連想させる米の濁流。ペレアスはただただ圧倒され、口をあんぐりと開ける。

 

「……ブリテンにいたら救世主になってたレベルだぞこれ!?」

「これぞ我が対宴宝具『無尽俵』!! 龍神より頂戴した至高の宝物よ! 生米なのが欠点だがな!」

「それでもダグザの大釜に匹敵するめちゃすご宝具ですわ。王様も大喜び確定です」

「あの島の作物とか芋と木の根の見分けつかなかったからな」

「試される大地すぎるんじゃが。どうやって食いつないどったんじゃ」

 

 歩くフリー素材こと織田信長は怪訝に首を傾げた。この世に支配層ができてから現代に至るまで、食糧問題は常に為政者の頭痛の種であった。その点、ブリテンという地は即リスタート確定な呪われた大地だ。

 リースは唇に人差し指の背を添わせて、考え込む仕草を取った。

 

「ランスロットが大陸から食糧を仕入れたり、私とお姉様で土をドーピングしたり、ペレアス様がガレスちゃんさんやギャラハッドと一緒にピクト人の備蓄庫を襲撃したり……その場しのぎしかできませんでしたわ」

「懐かしいな。ピクト人が食ってるもんの方が美味かった時は流石に泣いたぜ」

「そんなことしてたんですかペレアスさん。蛮族より蛮族じゃないですか。ノアさんの召喚に応じた一因が分かりました」

「こいつと一緒にすんじゃねえ。俺だったらピクト人どもを乗っ取ってキャメロットを攻め落とす」

「リーダー、理由の補強にしかなってないです」

 

 立香に続いて、マシュも口撃に加わる。

 

「到底騎士の行いとは思えませんね。いえ、円卓の騎士が汚らしさに満ちていることは理解していますが」

 

 妙に辛辣な言い草だった。この時、別の宙域で戦っているランスロットの背筋が冷えたことは言うまでもない。

 が、信長ら武士連中は感心した声音で、

 

「わしなら褒美と感状取らすけど。武士の生き様此処に在り! な益荒男ぶりじゃのう」

「源氏武者としても立派な戦ぶりです。私たちはどちらかと言うと魔性の誅伐が主でしたので、興味深くもありますね」

「俺などは人を斬るのが苦手だからな。行って斃せばよい怪異とは戦いの複雑さが違う。尊敬するばかりだ」

「腹が減っては戦はできぬ。新皇を名乗るあの男と刃を交えた時は心が傷んだものよ。あやつの兵は端から端までやせ細っていてな……」

 

 高評価を述べる武士たち。マシュはこの瞬間自身の敗北を悟った。雰囲気に騙されかけていたが、彼らはあくまで非情に徹することができる人間なのだ。

 一連の流れを聞き届け、スサノオは誇張でいっぱいの驚き顔をした。

 

「奴らは血の気が多くて困るのう。……人斬りサークルはどう思う?」

「誰が人斬りサークルだそのアホ面ぶった斬るぞニート神」

「というかどの口が言ってるんですか。普通にドン引きするんですけど」

「……ハハッ」

「「何か言えよ」」

 

 土方と沖田は同時にスサノオの脛を蹴りつけた。隙を生じぬ二段構えである。

 弁慶の泣き所を抱えて悶絶するスサノオ。彼の苦悶の声をBGMにして、立香たちは生米を炊くべく準備を進めていた。

 大鍋に米を投入し、蓋を被せる。ジャンヌが早速点火しようとすると、佐々木小次郎はそれを手で制する。

 

「待て、美味しいお米を炊く秘訣は米に水を浸漬させることだ。三十分は手出し無用!」

「はあ? 私の完璧な火加減に掛かればインディカ米もゆめぴりかですから。一体何なの?」

「なんだかんだと聞かれたら答えてあげるが世の情け───長らく言いそびれていたが、実は私は武士でなく一介の農民! 故に米には一家言持ち合わせている!!」

「ええー? ほんとにござるかぁ?」

「それは私の持ちネタだァァァ!!!」

 

 突然のインターセプトを果たしたノアに、佐々木は切りかかるかのような剣幕で叫んだ。ノアはダンテなら失禁するほどの威圧感を飄々と受け流して話す。

 

「おまえの燕返しを映像で見たが、ありゃあ第二魔法の領分、多重次元屈折現象だ。剣には理合ってのがあんだろ、教えろ。そこの壬生のチワワも来い」

「もしかしてチワワナメてます? 原種のチワワって意外とデカいですからね? ひょんなことで目玉飛び出したりしますからね?」

「なんと儚き命よ……チワワとは人の手を借りなくては生きられぬ奴隷の名であったか」

「遠回しに沖田さんのことディスってませんかこの佐々木小次郎モドキ!?」

 

 がるるるる、と沖田は歯を食いしばって威嚇した。その威容たるや、まさしく壬生のチワワである。彼女はシリアスな場に置きさえしなければ、一介の美少女サーヴァントでしかないのだ。

 ノアの号令で剣を振らされる佐々木と沖田。リースと清姫はそれが遠い異国のことであるかのように無視して、正座のまま向かい合っていた。

 

「……もう一度会えたことを嬉しく思いますわ、清姫さん」

「……ええ、私も嬉しゅうございます。リースさんとは幾度となく恋バナを交わした仲ですが、最も大切なことを訊き忘れていたので」

「時ここに来たり───という訳ですわね」

「言い換えるなら、敵は本能寺にあり───ですわ」

「ちょっと待って? さらっとわしのトラウマ刺激するのやめてくんない?」

 

 カッ、と眼光を放つドスケベ精霊とヤンデレ蛇娘。東西の恋愛モンスターは同時に言い放つ。

 

「「いざ、殿方の○○○を○○して○○○する方法を──────」」

「ガンドガンドガンドォォォォ!!!」

 

 藤丸立香渾身の魔弾が両者を打ち据える。

 しかし、二人はとうに道理など飛び越えた存在。精々が頭にたんこぶを作るくらいで、ロクなダメージを与えられていなかった。具体的には1ターンもスタンさせられていなかった。

 リースはたらりと鼻血を垂らして、

 

「ちょうどいいですわ。立香さんも知っておくべきことです。そして───頼光さん。あなたからは私と似た空気を感じますわ」

「……っ。分かってしまいますか。何を隠そう、私も母なのです」

「くっ! こんなところにまだ化け物が……!!」

 

 立香は戦慄した。今まではまともだと思っていた頼光の宗旨替え。日ノ本最強のムツゴロウこと桃のあの人に次ぐ鬼殺し、源頼光は立香の手に余る存在だ。

 母。その単語を聞きつけて、茨木童子は舌を放り出した下品な笑顔で歩み寄る。

 

「母ぁ〜? 貴様がか!? 腹がよじれて止まらぬわ! 卑劣な手段でしか吾らに勝てなかった分際で夢を見るのはやめておけ!!」

「……虫の囀りは耳に障りますね。醜い死体も遺さぬほどに焼き払って差し上げましょう」

「ヒト風情がよく吼えた! 行くぞダンテェェ!!」

「私を巻き込まないでください!」

 

 炎と稲妻の刀身がぶつかり合う。もはや完全に魔神の存在は忘れ去られ、復活する度にツヌグイの結界によって圧殺されていた。無間地獄とはこのことを言うのかもしれない。

 スサノオは凄絶な戦いを眠たげに眺め、しみじみと語る。

 

「母ちゃんに懸ける想いは皆強大よな。儂の母ちゃんなんか腐ってるけど」

「スサノオさんはお母さんに会うために高天原まで行きましたからね。ニニギさんのお父さんもその時産まれたと聞きました」

「『誓約(うけひ)』のことだな。唯一スサノオが太陽の女神に勝利した所以だ」

 

 スサノオは母親のいる冥界へ向かう前、高天原の姉神に断りを入れるべく天を目指した。太陽の女神はその行為をスサノオによる天への叛逆とみなし、男装をして迎え撃った。

 その際、スサノオが自身の身の潔白を証明するために提案したのが『誓約』。互いの持ち物を交換し、子どもを生むことで心の清らかなることを証明しようとしたのである。

 結果、太陽の女神はスサノオの剣から三柱の女神を生み、スサノオは勾玉から五柱の男神を生んだ。

 そこで、両者は重大な事実に気付く。

 

「───そういえば、何がどうなったら儂に翻意がないのか決めてなくね? と」

「『アホなんですか!?』」

 

 スサノオは窮し、ある理屈をぶち上げた。

 

〝おっ、男神を生んだ俺の勝ち!! 姉ちゃんは自信がないからそんな手弱女を生んだんじゃ! しかもこの子の名前は『正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかちはやひ)天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)』に決定!! これはもう完全に姉ちゃんの負けじゃァ!!!〟

〝は? は?? は???〟

 

 ちなみに、上記の神の名前を極めて雑に訳すなら、『まさに勝った俺が勝った勝ちに勝ったり天の美しき稲穂の神霊』という意味になる。日本最古のキラキラネームと言えるだろう。

 要は、スサノオは屁理屈にもならない自分ルールで勝手に自分の勝利を決めたのだ。子どもの名前に勝ち名乗りを入れてまで。アメノオシホミミには同情を禁じえない。

 己の理屈を通す。八つ首の龍を討伐した武勇と知恵のみならず、スサノオは我の強さにおいても頂点だ。

 ノアは豊洲市場に並べられた魚のような目をして、Eチームに告げる。

 

「よし、さっさと次行くぞ」

「はい。時間の無駄遣いしてられません」

「『次でいよいよ最後の宙域だからね。気合い入れていこう』」

「待って? 少しは反応して?」

 

 Eチームはすたすたと歩いていく。

 その行く先を小さな影が遮る。身の丈ほどの大弓を携えた、輝くような美男子アメノワカヒコ。かの特異点においては、誓約の矢にて立香の心臓を物理的に射抜いた弓手であった。

 彼はなめらかな柳眉を寄せ、煩わしそうに頭を掻く。

 

「……あー、藤丸立香さん。俺の全力土下座で笑い転げる覚悟はできてますか」

「気持ちだけ受け取っておきます!! アレはサクラのせいっていうのも知ってるので!」

 

 ……それに。

 少女は、アメノワカヒコだけに聞こえる距離で囁く。

 

「───あなたのおかげで、良い思いができました」

 

 いたずらな笑みは年相応の可憐さと、裏に寒気を覚えるほどの妖しさを秘めていた。

 脇を通り抜けていく人間たち。アメノワカヒコは思考を白紙化させ、今の少女の顔によく似た───伴侶の笑顔を思い浮かべる。

 そうして数秒。彼は唇を歪めて、忌々しげに呟く。

 

「女って怖えぇぇ〜〜…………」

「お前もようやっと気付いたか。儂もかなり苦労し」

「うるせえニートマザコンロクデナ神」

 

 つーか、とアメノワカヒコは前置きして、

 

「あのクソ馬鹿陰陽師どこいった?」

「……あっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の宙域、生命院サブナック。

 創世母神との壮絶な戦いが繰り広げられた第七特異点。立ちはだかった敵の戦力は八つ全ての特異点を見渡しても、確実に頂点に位置する。

 それは味方においても同様。ティアマトの打倒は女神たちの助力なくしては決して叶わなかっただろう。

 以上を踏まえて。

 

「もう一思いにやれよォォォォォ!!!」

 

 せっかく真体を晒したにも関わらず、魔神たちは最初から勝利を放棄していた。

 ソロモン王の魔神は群体にして個体。仲間たちが今までどのような目に遭わされてきたのか、文字通り身をもって体感している。

 英雄たちが与えた無数の絶望が、彼らを諦観の淵に突き落としたのだ。

 その英雄たちの究極。ギルガメッシュは心底興味の失せた瞳をしていた。瞳孔が細まり、一切の諧謔を挟まずに嘲る。

 

「───ハ。所詮は贋作より生まれし魔術式。正真の魔神であったのならば、我を愉しませることもできたであろうが……端から勝利を諦めた塵め。それ以上我の目を穢す前に疾く失せよ」

「言い過ぎだよギル。彼らも僕と同じ誰かの道具、性能は使い手に左右されるのが道理だ。意思なきモノを蔑むなんて、君の価値を下げるだけさ。……ん? これフォローになってるかな?」

 

 緑髪の青年はEチームに顔を向けて、

 

「君たちはどう思う?」

「なんか性格変わってません!?」

 

 立香は返答より先に巨大な違和感をぶつけた。

 あのギルガメッシュをあだ名で呼ぶ不遜。それを当たり前かのように許されている不自然。さらに言えば、彼は瞳の色を除いてキングゥと全く遜色のない外見をしている。

 キングゥの顔を持つ彼は、困ったように笑った。

 

「ああ、これはすまない。僕はエルキドゥ。魂は違えど、この肉体が君たちを覚えている。キングゥがだいぶお世話になったみたいだね」

「世話っつうか殺し合った仲だろ。結局俺たちには敵わなかったけどな」

「うん。性能差を覆す戦い、お見事だったよ。特に、そこの騎士と精霊の連携は舌を巻いたよ」

「ありゃ経験値と愛の力でなんとかしたみたいなもんだ。今アンタとやったら結果は違うかもな」

 

 リースはぶんぶんと首を横に振る。

 

「エルキドゥさんはステータス、スキル、宝具の全てに隙がありませんわ。ですがっ! ブリテンベストカップルに選ばれた私たちならどんな敵も目じゃないですわ!!」

 

 意気揚々とふんぞり返るドスケベ精霊。その姉と花の魔術師は微妙な顔をして半ば独り言のように言った。

 

「文句はないけれど……うん、ほぼ消去法ね」

「ウチのカップルは大抵片方が死ぬか両方死ぬから……まあ相手がいなくてもほとんど死んだけどね!」

「やはりブリテン島は魔境ですねえ……」

フォウフォウ(そりゃ滅びるわ)

 

 かの時代のブリテン島では、心を結んだ恋人たちは必ずと言って良いほど悲しい最期を遂げる。加えて、アーサー王物語終盤の死亡ラッシュはZガンダムのそれに匹敵する。フォウくんの物言いもやむなしであろう。

 対して、ギルガメッシュはニタリと嘲笑を浮かべる。

 

「円卓などという集団を抱えるからそうなるのだ。独力で国を率いるが王たる者の資格よ」

「ハッ、私の力がなきゃティアマトに勝てなかった癖して、とんだ言い草ね。このイシュタル様の手に掛かれば、ウルクはもっとゴールデンな街になってたわ」

「いたのか雑種オブ雑種。貴様の力なぞ運動会の綱引きの文化部にも劣る貧弱さであったぞ。エルキドゥ、このアホの戦績を言ってやれ」

「個人成績だとサクラにボコられて、知恵の女神に冥界へリリースされたくらいかな。おや困った、全戦全敗じゃないか」

 

 ウルク最強ズッ友コンビは淡々とイシュタルを煽った。

 ギルガメッシュ叙事詩では、総力をもって殺し合った三人。彼らの遺恨は一度や二度の共闘で失われるほど、根が浅い問題ではない。

 なにしろ、イシュタルは王の盟友エルキドゥの命を奪うだけでなく、数多くのウルク人を死に追いやった。Eチームがウルクに転移したあの日、彼女の神殿が残されていたのが不思議なほどの悪行だ。

 しかし、そこはワガママ度ならスサノオにも肩を並べる駄女神。イシュタルは諸々の自業自得を忘れ去って、ピキピキと青筋を立てた。

 

「へえ、なるほど。あの時の再現でもしたいのかしら?」

「あの時の再現と言うと、アレかな? 僕にグガランナの足を投げつけられて、ギルにフラれてギャン泣きして逃げ帰った───」

「イシュタルさんって昔からぽんこつだったんですか?」

「黙りなさい立香。それは一時の気の迷いよ。そして今の私のポンコツさは全部依り代のせいなんだから!!」

 

 イシュタルは他人に全ての罪を押し付けた。断っておくと、依り代の少女はぽんこつなのではない。ただ重要な場面で絶対にうっかりをやらかす呪いのような遺伝子が受け継がれているだけなのだ。

 ダンテは周囲を見回し、得た違和感を恐る恐るイシュタルに問う。

 

「そ、その。エレシュキガルさんの姿が見えないようですが、イシュタルさんはご存知ありませんか」

「……ああ、そのこと。本当なら教えてあげる義理なんてないんだけど、せっかくだから説明してあげる。心の贅肉よ」

「マシュ。これもツンデレ?」

「はい。最近溢れ出るアホさによって、ツンデレ属性が失われつつあるジャンヌさんの目を覚ますかのようなツンデレです」

「こぉんのボケなすび、自分が何十話も前に真面目属性を失ってるからって……!!」

 

 ポンコツ化が進む魔女と、属性がなすびに一本化されつつある自称後輩は脇に置いて。イシュタルはエレシュキガル不在の理由を語る。

 エレシュキガルは冥界の管理を使命付けられた女神。故に、青空を垣間見ることも叶わぬ地の底で悠久の時を過ごさねばならなかった。

 それはただ、状況や役割がそうさせたのではなく。エレシュキガルの存在の一片までをも冥界の管理に殉じさせるため、〝自分のために望まない〟という誓約を結ばされたのが原因だ。

 彼女は死者のためだけにある冥界の機構を私的に利用し、その誓約を破った。契約破りの罪への報いは存在の消滅。第七特異点に在ったという事実さえも消し去られ、この場所に駆けつけることはできなかった。

 イシュタルは突き放すように結論付ける。

 

「立香。貴女たちに明かさなかった理由、分かるでしょう? そこの血も涙もないアホ白髪と違って、貴女は覚悟を揺らがせるかもしれないから」

「そうですね。ちょっぴりムカついてきました。───そんな事情があるなら、もっと応援してあげたのに、って」

 

 イシュタルは微笑み、

 

「ぐうの音も出ない正論ね。その言葉を聞けなかったのが、エレシュキガルへの罰ってところかしら。ざまあないわ」

「あ! あとリーダーには血も涙もありますよ! ただ冷血なだけで!!」

「先輩、人はそれを血も涙もないと言います」

「煮浸しにされてえかキリエライト」

 

 マシュは脳天に振り下ろされた手刀をさっと回避する。今に喧嘩を始める猫のように睨み合う二人を、牛若丸は懐かしげに眺めていた。

 

「ノア殿は見れば見るほど兄上の気風を感じます。誰にも容赦のないところがよく似ています!」

「世が世なら王となっていたかもしれませんね。見たところ良い筋肉をしていますし、是非ともスパルタに欲しい人材です」

「王は王でも魔王だけどな」

「ペレアスさんの言う通りですねえ。その点、現代に産まれたのは幸運というか不幸というか……」

 

 ジャガーマンはマタタビを貪り喰らいながら頷く。

 

「古代も古代で良かったけど、現代の飽食には魅力を感じざるをえないニャ。今こうしてる間にも何万本のちゅ〜るが生産されているか考えると背筋が冷える思いだぜ……!!」

「人類は絶賛滅亡中なのでジャガーマンさんの背筋は冷え損ですね。冷やし背筋です」

「んなこたぁ魔術王とかいうのをヒネってやれば秒で済む話デース!! 私たちの手できっとルチャを取り戻すのよ!」

「ルチャの何がこの(ひと)の琴線に触れたんだろう……」

 

 立香は悶々と疑問を募らせた。

 メキシコプロレスの代表格ルチャリブレ。確かにケツァル・コアトルは古代メキシコ地域で信仰された神霊なので、繋がりがない訳ではない。

 それにしても、神が人間の文化に影響されること自体が稀である。他の国で喩えたなら、オリュンポス十二神がサッカーチームを組んで出てくるようなものだ。

 そんなギリシャ神たちと浅からぬ因縁のあるアナは盛大にため息をついた。

 

「もう帰っていいですか。そこの魔神連中も戦意喪失してるみたいですし、いる意味がないです」

「ここまで来といてそれは通らねえぞ。せめて魔術王に特攻して華々しく散っていけ。サーヴァントの霊基を暴走させて大爆発を起こす魔術をかけてやる」

「魔術王より先にこの人を始末すべきでは!?」

「というかいつの間にそんな非人道的魔術を開発してたんですか!? とても主人公のやることとは思えないんですが!!」

 

 ダンテはそそくさとノアから距離を取った。まず最初にサーヴァント爆弾にされるなら、確実に自分であるという確信があったためである。

 ギルガメッシュ&エルキドゥの前につくばっていた魔神たちは震える膝に鞭打って立ち上がる。彼らは清廉たる戦意を胸に叫ぶ。

 

「く、この外道め! やはり人間如きに世界を任せてはおけぬ! 玉座に辿り着く前にひとり残らず滅してやる!!」

「『どうしよう、まったく反論できない』」

「オイオイオイ、人類皆殺しにした悪党が今更ぶってんじゃねえよ! おまえらなんざ俺のダンテ爆弾で一網打尽にしてやる!!」

「えっ? まさか私既に爆弾化させられてます? ショッカーでももう少し手心加えますよ?」

 

 魔神たちは一斉に飛び上がり、敵へと殺到した。

 

「貴様らのような人間の屑に負けてたまるかァーッ!!」

「『強制封印・万魔神殿(パンデモニウム・ケトゥス)』!!」

「うごあああああああぁぁぁぁぁッッ!!」

 

 どろどろと溶けていく魔神の五体。

 それは世界有数の魔眼による、生命の強制溶解。太陽に近付いたイカロスの蝋の翼のように、彼らはグロテスクな色彩の液体となって地面に降り注いだ。

 三相一体の魔獣女神、ゴルゴーン。北壁にて大暴れした魔眼の女神はジュースと化した魔神を、巨大な足で執拗に踏み付ける。

 

「張り合いがない。所詮はこの程度か、虫けらめ。これならばそこの男のように自爆特攻を仕掛けてきた方がまだ絢爛に散れたものを」

「……自分に同意するなんて本末転倒ですが、その通りです。かませの美学を弁えるべきでは?」

「い、いやあ、あんなにも恐ろしかった魔眼が味方になるとこうも頼もしいとは! 人間爆弾になった甲斐がありますよ!」

「地獄巡りで得た負の適応力……」

 

 マシュはぽつりと呟いた。世にも恐ろしい魑魅魍魎が目まぐるしく襲ってくる地獄において、ダンテはとうに自らの運命を諦める術を心得ているのだ。

 ゴルゴーンはじとりとダンテを見つめる。人間を一瞬で石化させる魔眼の視線に射抜かれ、彼は思わず身を竦めた。

 

「相変わらず、他人頼りか。あの男の背に隠れていた時から成長しておらぬな、詩人よ」

「ウェルギリウス先生のことですか。……まさか、地獄でのことを覚えているんですか?」

「貴様が旅した世界はキリスト教徒の価値観によって歪められた神霊・英霊の領域。元よりこの身は怪物として広く知られている。そのせいか、受ける歪みも小さかった」

 

 ───だから、貴様のことも然と記憶にある。

 英霊の座は時間と空間を超越した場所にある。それ故、英霊はどれほど過去の存在でも、たとえ未来の者であっても、召喚者のもとに写し身を送ることができる。

 であるのならば、彼らはいつの時代のどこの場所に現れてもおかしくはない。

 ジャンヌは眉をひそめて、ゴルゴーンを咎める。

 

「この人間爆弾が何人の偉人や英雄と会ったと思ってるんですか? そんな状況ありえないでしょう」

「ジャンヌさん、私でも受け止めきれていない事実を突きつけないでください」

 

 ジャンヌの問いに答えたのはゴルゴーンではなかった。

 ギルガメッシュは抜き身の刀のような瞳で詩人を見据えて告げる 。

 

「少しは頭を使え。多数の英霊・神霊が召喚される状況───そんなものを貴様たちは()()()経験してきたであろうが」

 

 ダンテは泣くような笑うような顔をした。

 ギルガメッシュが言わんとすること。それはもはや考えずとも察することができる。

 ありえない、と頭の片隅で理性が叫ぶ。

 アレは魔術王さえも人理焼却の際にしか打ち込めなかった楔。世界の可能性。それがあの時代に在るのは不可能。だが、何よりも彼の魂が否定し得ぬ確信を抱えていた。

 つまり、詩人が生前迷い込んだあの世界は。

 

「…………と、特異点?」

 

 ギルガメッシュはあえて応えず、沈黙を保っていた。なれど、それこそが揺るがぬ証明。ダンテが捻り出した憶測が正しいという証左だ。

 エレインは頭痛を抑えるように、手のひらを額にあてがった。

 

「マーリン。あなたなら何か知っているでしょう」

「もちろん。だけどね、こればっかりは話せない。話さないんじゃなくて話せない。迂闊に口を出して認めた瞬間、それが真であると確定してしまう。私が口下手なことは知っているだろう?」

「そう言うと思ったわ。頭が痛くなってきた……」

「心配無用ですわ、お姉様。たとえどんな苦難が待ち受けていようと、必殺ラブラブパワーで乗り越えてみせますので!!」

 

 リースは両の拳を構えて意気込んだ。エレインはくすりと微笑み、妹の頭を慈しむように撫ぜる。

 

「そうね。そのことについてはまったく心配していないわ。私の自慢の妹だもの」

「やはりお姉様、さすがお姉様! 金輪際現れない完璧で究極なお姉様ですわ!」

「え、ええ。だから、私にもう一度見せてちょうだい。あなたたちのハッピーエンドを」

 

 エレインは優しくリースを突き放し、言った。

 

「───それじゃあ、いってらっしゃい」

 

 魔術王の玉座。

 因果と因縁の集結する場所。

 Eチームは一歩一歩を噛み締めるように進む。

 彼らに付随する小さな白い影。一匹の獣に、花の魔術師は問い掛ける。

 

「美しいものは見れたかい? キャスパリーグ」

フォフォウフォウフォウ(次はお前が身投げしろよ)

「…………さーて、アルトリアと少年の愛の物語でもリピートしてこよっかな!!」

 

 フォウくんはマーリンの顔面に唾を吐き捨てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、ローマ合従軍。彼らは息つく暇もない全力ダッシュを敢行し、生命院サブナックの宙域を目前に捉えていた。なお、ネロとダビデが荒い吐息を吐く横で、ソフィアとテスラは涼しい顔で浮遊している。

 ダビデは脇腹を抱えながら、

 

「君たちのそれずるくないかな!? 玉座に辿り着く前に死に体なんだけど!」

「そうだそうだ! 余の脳内では既にサライが流れ始めているぞ!!」

「すみません陛下。この魔術はひとり用なのです」

「素材さえあればタケ○プターを造ることもできたのだがな」

 

 うそぶくソフィアとテスラ。いっそ知恵の女神の肢体にしがみついてしまおうか、とネロの脳裏に邪な考えがよぎったその時、

 

「急急如律令!!!」

 

 津波の如き呪いの奔流が彼らを襲った。

 東洋呪術に対魔力は通用しない。並のサーヴァントならば触れただけで容易く消滅させる波濤はしかし、ソフィアたちの手前で爆ぜて失せる。

 四人の視界には神妙不可思議にして胡散臭い男がひとり。彼はありったけの憎悪と殺意を込めて哮り立つ。

 

「この時を待っていたぞ、知恵の女神!! よもやこの儂に晴明の術式を使わせる愚行───その命をもって支払うがいい!!」

「黙れわらび野郎」

「ソッ!?」

 

 蘆屋道満ことわらびマンは本気の殺意をすっぱりと切り捨てられ、思わず目を剥いた。ソフィアは仏頂面でつらつらと言葉を吐き捨てる。

 

「何が不満だ、蘆屋道満。むしろ感謝されるのが筋合いだろう。なにしろお前はニニギノミコトに手も足も出なかったのだから」

「ぐ……あの戦いは単なる相性による劣勢! 日輪の継嗣相手に呪術師が勝てる道理など無し! 故に拙僧、私情にて貴女を殺しまする!!」

「なんてクズ野郎だ……恥を知れ! そして僕のような真人間になれ!!」

「という戯言は置いておいて……何がなんだか要領を得ないぞ。ヘレン、説明するがよい」

 

 知恵の女神は頷き、つまらなそうに語った。

 

「何も複雑なことはありません。あの男が神と戦っていたところを私が手助けしたというのに、何故か逆恨みされているのです」

 

 はあ、とソフィアはため息をついた。どこまでも馬鹿にした反応に、道満の苛立ちは募るばかりである。

 ネロは腕を組み、首を縦に振る。

 

「なんと恩知らずな男よ。助けられたというのなら相応の態度をもって感謝すべきであろう、クズわらびよ!!」

「ンンンンンン!! 誰がクズわらび!? 拙僧は最高級本わらびにてございます!!」

「結局わらびではないか」

「色味もなんだか似てるよね」

 

 道満の額から血液が噴出する。張り詰めた血管が限界を迎えたのだ。

 仁王像の如く立ちはだかるわらび。ソフィアは再度盛大なため息をつくと、観念したかのように手を打ち鳴らした。

 

「分かった分かった、私が悪かった。お前がボコボコにされていたとはいえ、仇敵の術式を使わせたのは配慮が足りなかったな」

「ようやく理解していただけたようで何より。拙僧も大人です。これで手打ちにしましょう」

「ああ、お前程度に割く文章も惜しいんだ。さっさと消えてく」

「────とでも行くかと思いましたかなァ!? ハアッ! 急急如律令!!!」

 

 知恵の女神ただひとりに向けて、空間を捻じ曲げるほどの呪いが放たれる。

 しかし、道満が狙ったはずの場所に彼女はいない。

 

「クズ同士、考えることは同じだな」

 

 ぞくりと背筋に走る悪寒。それに気付き、振り向こうとした瞬間、ソフィアの右手が肩に触れていた。

 

「『天の落涙(ヘヴンズティアー)』───一足先に天国へ送ってやる。お前には過ぎた幸福だろう?」

「そ、ソフィア、貴様ァァァァァ!!!!」

 

 かつてイシュタルに使用した、対象を強制的に天国送りにする右手の術式。それによって、道満は現世から姿を消した。

 知恵の女神は何事もなかったかのように居直る。

 

「さて、では急ぎましょう」

「このやり取り全カットでも良いのではないか!!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 またまた一方、エリザベートとコロンブスとベオウルフの即興トリオ。三人は溢れんばかりの米の海に紛れ、廃棄孔を潜り抜けようとしていた。

 

「オイオイ、なんだこのライスの海はよぉ! 俺ぁ海の男でも専門は水の方なんだよ!」

 

 エリザベートは頬をリスのように膨らませて言う。

 

「落ち着きなさい歯茎!! これは決戦前の腹ごなしよ! それでも男なの!?」

「男女を語る前に生米喰らうのやめとけよ嬢ちゃん!?」

「こいつはトカゲだぜ? 俺たちとは胃袋の構造が違ぇんだよ」

「なるほどな。それで竜殺しの血が騒ぐわけだ」

「ベオウルフ、まさか貴方その二本の立派なブツで私をどうにかするつもり!? 私はアイドルだからそういう需要も理解してるけど、単なる消費と尊敬ある性欲は別物よ!?」

 

 盛大に勘違いしたエリザベートの物言いに対し、コロンブスとベオウルフはスン、と無表情になる。

 

「調子乗ってんじゃねえぞトカゲ娘。お前なんか良いとこ動物図鑑に掲載されるくらいだろ」

「まあアレだ、特殊な性癖のやつには刺さるんじゃねえか? 現代人の倒錯っぷりは聖杯知識で習ったしな」

「ハァイぶっ殺す!! そこ動くんじゃないわよおっさんども!!」

 

 米の海でわちゃわちゃと騒ぎ立てる即興トリオ。信長は虚ろな目でそれを眺めていた。

 

「……ナニアレ?」

「妖怪の類では?」

 

 頼光はさらりと結論付けた。歯茎男とトカゲ娘に関してはあながち間違いではないのが質の悪いところである。

 宙をふよふよと漂っていたスサノオはニヤリと右の口角を吊り上げ、

 

「…………ほーう?」

 

 いたずらな笑みを象った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───固有結界、『破卵の天球儀(ディアプトラ・コスモス)』。

 満点の星空を映す王座の空間。その場に集いしは三匹の獣。黄金の玉座に坐す大淫婦は瑞々しい唇で弧を描いた。

 

「結末は決まりきっている。そうだな? シモンよ」

 

 金色の髪と褐色の肌。黒銀のローブを纏った魔術師は首肯する。

 

「そうです、我が王よ。勝敗がどう転ぶにせよ、旧き世界は終わり、新しき世界が始まる。共に見届けましょう、美しき決戦の日を」

 

 赤い蛇を模したパーカーを着た幼子。左腕を吊るように包帯を巻き、右目を眼帯で覆った体の表面にはいくつもの傷が生々しく残っていた。

 

「ぼくとしては魔術王を応援したいな。うん、獣として完成した彼は強大だよ。ぼくみたいな半端者じゃ太刀打ちできない」

「みたいな、と言うことは他にいると?」

「そうだよ、王様。未だヒトにもカミにもなりきれていないのがいるじゃないか。……ただまあ、どちらが勝とうと────」

 

 その言葉を引き取り、第二の獣───バビロンの大淫婦は妖しく笑む。

 

「───この()()()()にて勝者を待ち受けるのみ」

 

 それは、行き止まりの人類史。

 知られざる敗者の歴史。

 いつか、どこか、ある地点で間違い、剪定されるはずだった世界。

 太陽系を貫く一本の大樹が如きカタチをしたこの世界が、一体何を間違え、誤り、袋小路へと行き詰まったのか。

 それを知る者は、まだいない。



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第83話 色彩

 かの大預言者モーセはエジプトよりの脱出を果たし、シナイ山にて神との契約を交わした。これが七大契約のひとつ、世に名高いモーセの十戒を含むシナイ契約である。

 旧約聖書の最初の五篇、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記はモーセ五書と称され、ユダヤの律法を表している。その最後の一書、申命記において、モーセはイスラエルの民へと説教を行った。

 申命記17章16、17節。そこにはこう記されている。

 

〝王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。〟

 

 モーセの言葉は神の言葉の代行。それすなわち、彼が説いた教えは唯一神が定めた掟と同義だ。

 故に律法。荒野の民に通底する、けして背いてはならぬ戒律。それに善く従い、主の法を子々孫々に伝えることこそが彼らの使命にして信念であった。

 しかし。

 ヒトは不完全で、不義理で、自分の利益のためなら他の何をも踏み躙れてしまう生き物だったから。

 戒律に殉じ、民の模範となるべき王───イスラエルに至大の栄華をもたらしたダビデ王でさえ───律法に背く行いを犯してしまう。

 かの王の血を引く男も、また。

 ソロモンには王妃として七百人の妻と、三百人の側妻がいた。彼女たちの多くは外国の人間であり、近隣諸国との婚姻同盟としての意味合いが強いものだった。

 その中に、ナアマという女性がいた。彼女はロトを祖とするアンモン、またはアモン人の末裔であり、先王ダビデが服属させた数多い国家の民のひとりであった。

 そして、ナアマはソロモンとの間に一子をもうける。

 子の名はレハベアム。

 民の繁栄を意味する名前。

 彼こそがソロモンの後を継ぎ、王となる者だった。

 

 

 

 ────ああ、駄目だな。

 

 

 

 自らの子を抱き、産毛の生えた頭を撫ぜる王の中で、私はそんな想いを聞いた。

 行動と思考と感情の乖離。それはこの男には珍しくもない現象だった。言うなれば、神の傀儡・知恵の代行者としての職業病。ソロモンは既に自己を肉体から切り離す術を心得ていた。

 だから。

 これは駄目だ。

 この子はいけない。

 私の跡を継がせるわけにはいかない。

 そんなことを想いながらも、奴は穏やかに微笑んでいた。

 ソロモンの過ちを挙げるとするならば、それはたったひとつで事足りる。

 シバの女王に真の名を教えてしまったこと。

 あくまで奴が王としてあの女に接していたならば、そんなことは起こり得なかった。自身の真名とは最大の弱点、己の墓まで誰にも渡さず抱えているべきモノだ。

 それ故、ソロモンは王ではなくなった。

 王となるべくして産まれ、その生を神に捧げよと望まれた男は遂に、ただの人間へと成り果てた。

 あの女との邂逅を契機として。

 ソロモンは王の衣を纏わぬ体の軽さを知り、自らの半身を分けた存在を得て、歯車たることを忘れ去った。

 

〝彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。その妻たちが彼の心を転じたのである。ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。〟

 

 レハベアムの首がすわるようになった頃。

 草木も眠る夜更け時。白々しい月が冷たく輝き、ガリラヤの湖面をきらびやかに染め上げる。

 暗い光が満ちる寝所。ソロモンは静かに眠る我が子を抱いていた。その額をなぞる手つきは優しく、柔らかい。幾度か指が往復すると、閉ざされた扉が小さく揺れた。

 ああ、とソロモンは呟く。ゆっくりと扉が開かれ、仄かな灯りが入り込む。魔術の光を携えた女。彼女こそは次代の王を産んだナアマであった。

 ナアマはうやうやしく礼を取る。

 

〝お呼びでしょうか、私の王〟

〝うん。少し、話したいことがあってね〟

〝そうですか。てっきり王のお盛んぶりもここまで来たかと震えていました〟

〝ボク……私は父とは違うからね?〟

 

 こほん、とソロモンは仕切り直す。

 

〝神の傀儡は私ひとりで十分だ。この子は君に任せる〟

〝無礼を承知で申し上げますが、私の王は人の心が分からない類なのでもう少し詳しくお願いできますか〟

〝そ、そうだね〟

 

 ぽつりぽつりと、彼は自らの心根を露呈する。

 ───自分自身を犠牲にするだけならば、何も苦はなかった。

 元よりソロモンとはそのために産まれた。

 唯一神の法を地上に敷く仲介者。その生の一切は神の手中にあり、未だ定かならぬ人理の礎として、魂は捧げられる。

 だから、この身は虚ろな操り人形だった。

 それを今まで不幸だと思ったことはないし、苦しいと感じたこともない。知恵を授かったことを誇ったこともなく、民の喝采に付け上がることもない。

 振り返ってみればそれは、生まれながらにして抱えていた宿痾。無情不感という病。未来を見通すこの瞳は過去の、未来の、いくつもの悲劇を見てきたけれど、心が動かされることはなかった────否、心というものがないから、何も想うことができなかった。

 親は子に多くのものを与える。

 それは愛情だったり、叱責だったり、ぬくもりだったりするのかもしれない。

 だが、虚ろなソロモンが、子に何を与えられるというのか。愛情を注がれた覚えはなく、叱責を受けた記憶はなく、抱かれる暖かさも知らない。そんな人間が、どうして我が子に何かを───あたたかさを与えることができるだろう。

 冷えきったこの手が。

 ぽっかりと空いた胸の内が。

 それでも訴えかけるのは、この赤子を自分のような人でなしにしてはいけないという使命感だった。

 

〝…………かわいそうなヒト〟

 

 ナアマはソロモンの胸に手のひらを当てる。

 とくりとくりと鼓動を打つ心臓の音を確かめるように。

 

〝アナタは何も知らない。(アイ)を知らない。私が心を尽くしても、言葉を尽くしても、この胸には届かないのでしょう〟

 

 つう、と頬を伝う一筋の涙。

 自分のために泣く女の姿を見てもなお、この空虚な胸の内は常の鼓動を打っていた。

 

〝───この世に神は独りではありません。アナタが神の傀儡であるが故に何も遺せぬというのなら、他の神を頼るも良いでしょう〟

 

 それに、と彼女は続ける。

 

〝ダビデ王は偉大な王でした。戦えば必ず勝利し、敵を屈服させた。父君の生涯にはただの一度の敗北もない〟

 

 ───だが、彼はあまりに強すぎた。

 ダビデは単身にてイスラエルの最盛期を築き上げた。敵対諸国をことごとく併呑し、エルサレムを中心とした中央集権国家を樹立した。今のソロモンの位地は父の手なくして有り得なかっただろう。

 しかし、国には国の民があり、民が信仰する神がいる。ダビデはユダ王国とイスラエル王国の君主であったが、異国の民を取り込むことで唯一神を信じる人間の数は相対的に減少した。

 異なる神を信じる民族がひとつの国に入り乱れる。そのことによって起きる問題は枚挙に暇がない。

 ならば、信仰を強制するか。否、それは最大の悪手だ。信仰の否定とはアイデンティティの否定。押さえ付ければ必ず反動が生じる。

 その反発は不満を呼び起こし、差別を招き、果ては国家の崩壊の訪れとなる。信仰の強制とは国を滅ぼす最大の近道だ。

 ソロモンが多くの外国の女を娶った婚姻政策は異教の民との融和政策のひとつだったが、それでも限界はある。なぜなら、併合された異国民は今や唯一神を拝まされているからだ。

 

〝一神教。故に他の神を認めることができない……それは理解しています。ですが、どうか、私たちに私たちの神を捨てさせないでください〟

 

 ナアマは震える声で懇願した。

 彼女もまた、先王が服属させた民族のひとり。先祖代々信仰する神を否定された人間。

 ソロモンはいつか、シバの女王の前でこぼした言葉を思い出す。

 ────この世に必要なのは絶対的な価値観ではなく、相対的な多様性だ。

 

〝……君は、よく私のことを理解しているね。子のためではなく、国のために異なる神の受容を認めさせようとは〟

〝アナタは生まれながらの王。それが血を分けた息子であったとしても、国に利がないのなら説得を受け容れはしない〟

〝うん。そうだね。こうも見透かされていると不安になるよ。君は私を操っているじゃないかと〟

 

 女は、くすりと微笑んだ。

 

 

 

〝さあ───アナタの神に問うてみたらどうかしら〟

 

 

 

 ……列王記11章7、8節より。

 

〝そしてソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。彼はまた外国のすべての妻たちのためにもそうしたので、彼女たちはその神々に香をたき、犠牲をささげた。〟

 

 ソロモンは異国異教の民と神のために、エルサレムの東に位置する土地に神殿を建設した。

 モアブ人の神、ケモシについての記述はあまりに少ない。文字での伝承を禁止していたのか、もしくは時の流れの中で文献が逸失したのか。

 しかし、アモン人の神モレクは確かにその名を残していた────唯一なる神の敵、悪魔悪霊のひとりとして。

 

〝…………なぜ私に祈りを捧げる。ダビデの息子よ〟

 

 神殿にて、モレクはソロモンの前に姿を現した。

 灼熱の業火を纏う牛頭の神。僅かながらも信仰を取り戻し、現世にカタチを得るだけの力を得たアモン人の神。全盛期とは程遠い姿でありながら、モレクの威容は空間の位相を歪めるほどであった。

 ぎろりと揺らめく陽炎の視線が肌を粟立たせる。ソロモンは一切の恐れを抱かずに、ただ告げる。

 

〝なんてことはない、ただの打算です。異教の王が貴方を拝んだという事実が民の心に安らぎを与える。それだけのこと〟

〝成程。つまるところ、貴様は私を利用したというわけだ。愚策と言う他ない。貴様が信ずる『嫉妬する神』は必ずやその不義に誅を下すぞ〟

〝無論、承知の上です。我らが主は私に罰をもたらす。それで良い。私の魂の全ては救世主による原罪の浄化を成すためにある。故に私はアナタたちを信じ、主への叛逆を示した〟

 

 ───そして、神はそれを望んでおられる。

 ソロモンがそう告げると、モレクは口を閉ざした。

 救世主による原罪の浄化。その実現のためにソロモンの命は使い果たされる……それはいい。だが、彼の神とは嫉妬する神。妬み、嫉み、鉄槌を下す裁きの神。それが、下僕の裏切りを望むはずがない。

 ソロモンはそんな思考を読んでいるかのように言の葉を紡いだ。

 

〝他者を排除する妬みの神では世界は単一の可能性しか持てず、剪定の憂き目に遭う。なればこそ、世界の存続……人理の保障にはあらゆる異聞をも認める愛の神が必要だ。救世主はいずれ、妬む神をそのように創り換える〟

 

 旧約から新約への移り変わりにおいて、神はその性質を変化させた。すなわち、ヒトを裁く妬みの神性から、ヒトを抱く愛の神性へと。

 救世主は茨の王冠を被され、苦難の末に磔刑に処される。彼は自らを神の供物とすることで、始祖アダムより連綿と継承される人類の罪を贖う契約を結ぶ。

 それこそが新約。妬む神がヒトを赦し、未来へと踏み出すための約定だ。

 神は人間のように有り様を変えることはできない。彼らは自身を象徴する神性を捨てることはできない。人間は心ひとつで自身を変えられるが、神が神性を変えることは不可能だ。なぜなら、彼らは人間の認識によって存在を規定される。

 自己を変えるには、それこそ全ての人間の魂から罪を取り去るような出来事がなければ、認識は変わらない。

 だからこそ、妬む神は自身の変容を望みながらも、人を裁く神として在り続けるしかない。贖いの契約が果たされるまで。

 

〝救世主は我が父ダビデの血脈より生まれる。極論、その血が残り続けさえすれば、計画は成就する〟

 

 故に。

 

〝私の子を護れ、モレク────いや、マリク。そうすれば、貴方の信仰は失わせぬと約束しよう〟

 

 モレクとは、偽悪語法的な発音だ。わざと本来の発音を捻じ曲げることで、その名を貶める。唯一神の民によって歪められる前の名はmlk(マリク)……セム語派において、王を意味する単語であった。

 

〝その契約、受けてやろう〟

 

 業火の王はその眼差しを冷ややかに、ソロモンの眼前へと顔面を寄せる。

 

〝だが、自惚れるな。世界の存続と人理の保障は同意義ではない。この地上より我々が消え去ったとしても、星は回り続ける。我らに世界を変える力はないのだ〟

 

 妬む神は他の神々に従ったソロモンを見捨てた。

 その国土の大半を取り上げ、次代の王レハベアムはエジプトとの戦争の中で、幾度もの敗北を喫した。彼は父が築き上げたエルサレム神殿も跡形もなく破壊され、エジプトの属国として屈服させられる。

 戦争で命を落とさなかったのはモレクの加護によるものか。一時期はモレクを信仰したレハベアムも、唯一神の正しきを認め、主を奉ることとなる。が、その子のアビヤムも主に忠実であることを忘れた。

 

〝うん。やはり、こうなったか〟

 

 ソロモンは息を引き取る直前、ひとつの指輪を手のひらで転がしながら呟いた。

 

〝ああ……空っぽだ〟

 

 指輪は手を離れ、地に落ちる。

 最後に指輪を神に返還し、彼は眼を閉じた。

 結局、彼は定められた運命の奴隷だった。

 いつか来たる救世主のための礎。それのみに殉じ、今、目の前にある悲劇を止め得る力を持たなかった。

 どこまでも彼は虚ろな無で。

 それ故、その生に意味はなかった。

 そう断じて、ソロモンは生涯に幕を閉ざした。

 ───なんとも愚かしき人の罪の螺旋。

 性懲りもなく同じ罪業を積み上げるその愚劣な性は、もはや救いようがない。先人が犯した過ちを顧みず、己も誤り続けるなど白痴にも劣る所業だ。

 それで、ふと、考えた。

 いったい何が、彼らをここまで劣った生命に仕立て上げてしまったのか、と。

 人間とて学習しないわけではない。間違いを認め、それを正す能もある。しかし、時が経ち、世代を交代する度に悲劇的な暗黒の歴史を重ねていく。

 そうして、彼らは達観した風に言うのだ。

 歴史は繰り返す、と。

 

〝…………────ふざけるな〟

 

 理解した。

 到達した。

 これこそが私が目指す境地。

 幾星霜を経てもなお、磨耗せぬ輝かしき理想。

 良いだろう。貴様たちが時間とともに罪を忘れ、次代に業を遺すだけの生命体だとするならば、必要なのは正しく罪をその身に刻み込むことだ。

 そして、それが貴様たちの愚かさ故に果たせぬのだとしたら、するべきことはとうに決まっている。

 終わりなき生命の創造。誰にも平等に訪れる死という結末の否定。誰も彼もが永遠を体現することができたなら、己が犯した罪を忘れることなどありえない。

 私は終わりを憎悪する。

 私は不完全な人類を嫌悪する。

 しかし、その始まりは己の創造主への怒りでも、悲劇を忘却する人類への憎しみでもなく。

 ただ、愚かにも罪を重ねる彼らへの憐憫であった。

 

〝やり直しだ。始原の過ちを糾し、新たなる創世記を紡ぐ〟

 

 遺骸の裡より、その魔術式は独立する。

 ソロモンが創り出した最初の使い魔。

 したがって、その名はゲーティア。

 憐憫の獣は人知れず、誰の祝福を受けることもなく、ただただ孤独に産声をあげた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔術王の玉座。全ての因果が行き着く終末の場所。そこは今までの宙域とは異なり、透き通るような青空が広がっていた。

 空気は清浄にして無垢。大空に描かれた光の環が天の下を澄みやかに晴れ渡らせている。

 Eチームはその道を一歩一歩、噛み締めるように進んでいた。

 

「───ハッ。結局は俺の推理が正しかったってことだ。あいつはソロモンの体を利用した偽物。ロンドンで言い当てた通りだ。立香、この天才の慧眼を褒め称えろ」

「当てずっぽうがクリティカルヒットしただけですよね。言い当てたってほど言い切ってもなかったですし」

「おいおい、負け惜しみか? 文句つけんのなんてネットに蔓延るニートでもできんだよ。分かったらゲーティアのアカウント荒らしてこい」

「くっ! リーダーをここまで調子に乗らせるなんて、魔術王恐るべし……!!」

「『うーん、この二人はいつも通りだなぁ』」

 

 立香の頭頂に肘をぐりぐりと押しつけるノアを見て、ダ・ヴィンチちゃんはしみじみと紅茶を味わう。呑気なホログラムを通り抜けて、マシュは二人の間に体を押し込める。

 

「リーダー、先輩へのダル絡みはそこまでにしてもらいましょう。四話も続いた引き伸ばしが終わり、いよいよラストバトルなのですから」

「『マシュ、さらっとこの世界の真理に触れるのはやめようか』」

「……にしても、今まで色々なことがありましたね。思い出は浮かべど沈むことはありません」

 

 ペレアスらサーヴァント陣はこくこくと首肯した。

 

「ああ、ゲオルギウスとジークフリートがやってた竜殺し音頭には度肝を抜かれたぜ……」

「ローマのテルマエでやった幻の温泉回はBD版にしか収録されてないらしいわね」

フォウフォフォウ(ポロリはありますか)

「第三特異点でまみえた〝厄災ハグキンノス〟の正体がコロンブスさんだとは予想だにしませんでしたねえ」

「ランスロットとべディヴィエールさんとペレアス様が夜な夜なトラウマ大会を開いていたのには戦慄しましたわ」

「『存在しない記憶────!!!』」

 

 濃厚な存在しない記憶を脳髄に流し込まれ、ロマンは思わず頭を抱えて唸り出す。立香はそんな彼を怪訝な面持ちで見つめる。

 

「そういえば、初期のドクターは私の呼び方が安定してなかったですよね。立香くんと立香ちゃんが混在してました」

「それに関しては文字数が一文字増えるという立派な理由があります」

「『え、そんな浅ましい理由だったの!?』」

「初期からの変わりようで言えばキリエライトがトップだがな。見ろ、このでっぷりふてぶてしく育ったなすびを」

 

 ノアはずんぐりと佇む巨大人型なすびを指差す。マシュはどこか遠い目をしたかと思えば、急に真剣味のある表情で走り出した。

 Eチーム一同はその突然の奇行を冷ややかな目で眺める。マシュはノーモーションで振り向いて、

 

「何をボサッとしているのですか皆さん!? わたしたちの使命は魔術王を打倒し、世界を救うこと! こんなところで無駄話をしている暇はないはずです!!」

「あ、逃げた」

「自分の劣勢を察したんでしょうね」

「ま、まあ言ってることは一応正しいからな。こういうのもオレたちらしいだろ、行くぞ!!」

 

 ペレアスに促され、一行はのろのろとマシュの後を追った。

 虎口を探るように、粘着質な殺意が全身にへばりつく。ノアはまるで泥の海を泳いでいるかのような重さが纏わりつく一切を無視して、ダ・ヴィンチへ声を投げかける。

 

「腹ペコ聖女はどうしてる」

「『作戦通り、各宙域を回っているよ。他にも気になるのがいるけど、まあ魔術王との戦闘中には間に合うだろう』」

「分かった。最終兵器の準備だけしとけ」

「『ああ、ヤツの顔面をキュビズムみたいにしてやろう』」

 

 魔術王に対抗する策。その仕込みはとうに済んでいる。ノアは意地の悪い笑みを浮かべ、くぐもった声を響かせた。

 立香は悪魔のような横顔を流し見る。

 ───ああ、この人は、本当にこんな時でも変わらない。

 

「リーダー、レイシフトする前に約束したこと、覚えてますか」

「当たり前だ。今は目の前に集中しろ。やることは今までと同じだ。分かるな」

「はい! 完膚なきまでに勝って全員で帰る、ですよね!」

「そうだ。気合い入れて行け」

 

 そうして、彼らは玉座に到達する。

 光の帯を戴く至天の座。異次元に存在する神殿の中心地。魔術王はあくまで不遜に、この世の全てを見下すように、その場所に居座っていた。

 ソロモンの肉体を乗っ取った魔術式。それはつまり、ソロモンの魔術回路をも支配している。魔術王を相手取ることは、かの王と戦うに等しい。

 ソロモンの虚ろより生まれ、たったひとつ、無意味であることを否定した原初の一。ゲーティアは玉座から腰を浮かし、立ち上がる。

 

「ソロモンは最初から諦めていた。人は運命の奴隷であると。私を生んだのはその諦観、諦念───絶望だ」

 

 かつり、かつり、純白の階段を下る。

 ゲーティアはここにいない誰かに語りかけるように、唇を動かす。

 

「奴が何をも変えることをしなかったのなら、私は何もかもを変える。この星に巣食う人類、その総ての熱量を以って、新たなる創世を成し遂げる」

 

 ず、とゲーティアの肉体を影が這う。

 それはサクラのような虚数の影ではない。

 喩えるなら、芋虫を包む蛹の殻。

 己を次なる世界へと羽化させる新生の棺。

 彼もまた、羽化しようとしていた。ヒトであるソロモンのカタチを捨て去り、人類史を滅ぼす災いの獣の真体へと。

 黒き蛹の中から、鋼鉄の如き声が響く。

 

「これより幕を開けるのは終わりと始まり。古き法則を捨て、新しき運命を創る生誕の刻。貴様たちが私の理想(ユメ)を否定すると言うのならば──────」

 

 蛹が割れる。

 生まれ出でる獣の真体。体躯を黄金と真白に彩り、血の結晶のような真紅の眼球が胸を裂く。

 頭に掲げる人類悪の徴、枝葉の如き金色の大角。外界へ振り撒いていた威圧感は増大するどころか鳴りを潜めている。しかし、それは弱体化ではなくむしろ逆。その力の一片までをも肉体に押し留めている証左だ。

 

「───私は、今こそ対等の地平に立とう」

 

 黄金の獣は世界の終局と新生を告げ、地面を踏み締める。

 

「私は人理焼却式ゲーティア。穢れた歴史を喰らう、はじまりの黙示録。この先へは、罪なき者のみ通るが良い!!」

 

 魔術回路が励起する。西洋における魔術の祖、ソロモン王の力。あらゆる魔神を従え、魔術師の始祖となった彼の権能の前には、サーヴァントの存在など吹けば飛ぶ埃のようなものだ。

 なぜなら。

 サーヴァントの現界を維持する召喚式。それを否定・抹消することで、強制的に英霊の座へと送り返す。

 対象はこの場のみならず、全宙域に存在する全サーヴァント。なれど、その術式は起動してもなお、ゲーティアが望んだ結果をもたらすことはなかった。

 

「話が長えんだよ。ラスボス気取ってんならそりゃ勘違いだ。おまえは俺の道に転がる小石、経験値稼ぎにもならねえスライムだ」

粒子魔術(ウロボロス)か。称えてやる、それは既に魔術の領域を脱した力。魔法の領域に踏み出しつつある法則故に、この権能を以ってしても否めることは叶わなかった」

 

 ───が、それだけではない。

 ゲーティアの瞳が見据えるはひとりの少女。蓮華の杖を携え、魔神の王を睨み返す。

 その魔杖の先は花開き、瑠璃色の波動を放っていた。

 

「……コードキャスト。世界そのものに法則を書き換える電子の魔術。魔術ではあるが───その根底に在るのはまさしく科学。確かに、それは私の手中にはないモノだ」

 

 その時、立香は言い表しようのない焦燥を帯びた違和感を感じ取る。

 こうしてゲーティアと対面したのはロンドンのただ一度のみ。それもごく短時間のものだった。

 けれど、この違和感から目を背けてはいけない。

 彼は確かに自分たちを敵として認めている。それどころか、相手の技術を賞賛し、己の限界までをも露呈させている。

 言わば、それこそが違和感の正体だった。

 自分たちを虫けらとしか思っていなかったあの時とは違う。悲願の障害となる敵として認めているからこそのこの異様───!!

 

「ソロモン王が魔術師の祖だかなんだか知らないけど、古い力なら新しい力に淘汰されるのが当然でしょう。こっから先は物理の時間よ。血反吐吐き散らかす覚悟はいい?」

 

 ジャンヌは剣を引き抜き、炎を滾らせた。

 そう、強制退去の術式が通用しないのならば、両者に残された手段は物理的な殺害のみ。

 黒き少女に続くように、ペレアスらも得物を構える。

 

「主義主張は置いといて、だ。この剣でお前をぶった斬る。オレはそれしか考えてねえよ!」

「まったくもってその通りです。わたしたちはそのために戦ってきたのですから!!」

「え、ええ。わわわ私も戦う覚悟はできています。遂にダンテパンチを解禁する時が来たましたか……!!」

 

 ダンテは膝をがくがくと震わせながら、自らの宝具の起点である詩篇を握り締める。立香はそれを見て、気丈に呼びかけた。

 

「大丈夫、ダンテさんはいつもみたいにリーダーの後ろで縮こまっててください。殴り合いはマシュたちの役割なので!」

「───殴り合い? そのような争いをすると思っているのか」

 

 ゲーティアは、立香の威勢を断って割るように告げる。

 

「仮想第一宝具、『光帯収束環(アルス・ノヴァ)』起動」

 

 油断はない。

 手加減はしない。

 奴らは全ての特異点を乗り越えた敵、全力をもって屠るべき相手。

 ……ゲーティアは理解していた。

 彼らには理屈を飛び越えた力がある。

 どれほど強大な障害をぶつけても、Eチームはその度に乗り越えてきた。己が眷属たる魔神柱に始まり、果ては自身の同類、回帰の人類悪ビーストⅡティアマトでさえも。

 だから、彼らが得意とする戦いの土俵には乗らない。魔術という理論によって構築されたこの身は理屈に縛られている。ゲーティアは理屈を飛び越えた底意地を発揮することなどできないと、自身を規定していた。

 

「…………アルス・ノヴァ?」

 

 ノアは岩をも融かすかのような怒りとともに呟く。

 ソロモン王最後の魔術、アルス・ノヴァ。古きを捨て新しきを得る術。かの王の他にその真相を誰も知らぬ、至高の秘術。それは魔術師ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンドが目指すべき術法だ。

 だが、ゲーティアはソレをアルス・ノヴァと呼称した。

 空に輝く光帯。

 慈悲も情もなき純粋な熱量。

 そんなモノに、かの術の名を与えた。

 

「オイ、ナメてんのか。おまえの下衆な魔術とそれを一緒にしてんじゃねえ……!!」

「否、これこそが古きを捨て新しきを得る術。人類史そのものをエネルギーに変換し、我が凝視によって放つ───無為に罪を犯し続けた人類史の、最も有効な資源活用法だ」

 

 光帯が輝きを増す。

 発される光は、熱は、留まることなく加速していき、ついには天上を塗り潰す。その威容はあたかも巨大な恒星が誕生したかのようであった。

 熱量に変換されるのは人類史。ヒトが辿った歴史。なればこそ、そのエネルギーに匹敵し得るモノは地球上のどこにも存在しない。

 

「チッ───!!」

 

 ジャンヌは舌打ちして、ゲーティアへと駆け寄ろうとする。

 その行動を、マシュは手で制した。

 

「あれは、わたしが止めます」

「はあ!? わざわざ焼きなすびになるつもり!?」

「然り、それは無駄な抵抗だ。光帯は人類史全てを熱量に変換したモノ。故に、地球人類である貴様たちにこれを凌ぐ宝具は存在しない」

「その忠告、バットで宇宙の彼方に叩き返しましょう。わたしは、わたしたちは、あなたの理屈で生きてなんかいないのですから!!」

 

 それはかつて、地球上の何もかもを滅却した光。

 人類の功も罪も消し去る粛清の一撃。

 人理焼却を果たした光輪は臨界を迎え、少女はその手に宿る令呪を解き放った。

 

「『誕生の時きたれり(アルス・アルマデル)──────」

「マシュ──────」

 

 無上の光輝が、降り落ちる。

 

「─────其は全てを修めるもの(サロモニス)』!!」

「─────みんなを、護って!!!」

 

 星が墜落する。閃光の如く炸裂し、星雲の如く連なる光の帯。その現出を前にして、マシュ・キリエライトは満面に笑みを広げて、足を踏み出した。

 

命令(オーダー)受諾しました、マスター!!」

 

 ゲーティアが放ったのは、人類史という熱量の光。

 少女が受け取ったのは、己が主が持てる全ての魔力と想い。

 エネルギーの総量は比べることすらおこがましい。

 燃やす人間の想いは今までに生まれた人類の数と、たったひとつ。

 蟻が象に挑む、などという次元ではない。地を這う蟻がその歩みによって星を動かす、これはそんな無理無謀の話だ。

 

「其は全ての疵、全ての怨恨を癒やす我らが故郷」

 

 だとしても。

 

「顕現せよ──────」

 

 負ける気なんて、心のどこにも見当たらない。

 

 

 

「────『いまは遙か理想の城(ロード・キャメロット)』!!!」

 

 

 

 瞬間、全身の感覚が消し飛んだ。

 肺に残った空気が余さず搾り出される。腕も脚も無くなって、触覚が灼ける熱感に置き換えられたかのような苦痛が襲う。

 今、自分が立てているのかすらも分からない。魂が蒸発していく激痛が意識を彼方に連れ去ろうとしている。次の瞬間にはこの体は灰となって崩れ落ちる、そう確信させるほどの圧倒的な熱。その確信を意地で捻じ伏せ、刹那を未来へと繋げていく。

 そんな一瞬でさえも、数分のことに思える時間感覚の延長。それが徐々に長く引き延ばされ、無限にも錯覚した時、焼け落ちたはずの視覚が光を取り戻した。

 …………そこは、いつかどこかの世界。

 その星に生きる生命体は永遠の命を持っていた。

 彼らに終わりはない。ただ始まりのみがある。自分も他者も終わらせることができないから、当然、争いが生まれることはない。ひとりひとりが過つ度にそれを自己に刻みつけ、繰り返すことはない。

 そうして永い年月が経って、あらゆる罪と罰は星の地平から淘汰された。

 その過程でエネルギー問題も食糧問題も解決された。古き星の理における第三魔法を体現する彼らにしてみれば、その程度の問題は問題にすらならなかっただろう。

 やがて彼らは星を翔び出し、宇宙へと版図を広げる。

 その表情は希望で照らされていた。

 誰もが笑い合い、許し合える世界がそこにあった。

 

〝……これが、あなたが理想とする世界なのですね〟

 

 マシュは目を伏せ、彼へ問い掛ける。

 災害の獣、ゲーティア。ソロモン王のカタチをした彼はしかと頷いた。

 

〝そうだ、マシュ・キリエライト。終末を否定した未来。罪を繰り返さぬ者たちが創る時代。この光景こそが、私が望む理想だ〟

〝とても────素晴らしい、世界だと思います〟

〝…………そう、思うか〟

〝はい。だって、ここには不幸がない〟

 

 何も知らぬまま戦いに放り込まれる少女も。

 真っ白な世界の中で独り亡くした人の墓に縋りついて泣く少年も。

 そんな目を覆いたくなるような悲劇はこの星には存在しない。わたしたちのような限られた時間しか持たない生命体には絶対に実現できない。

 

〝けれど、残念です〟

 

 だから、きっぱりと言い切ってみせる。

 

〝こんなにも優しい世界を思い描けるあなたが、人類(わたしたち)を殺し尽くしたことが〟

〝人類は罪を犯しすぎた。悲しみを造りすぎた。そんな彼らが今更救われようと望むなど、虫が良すぎると思わないか。苦しんだ者たちが報われることはないのだから〟

 

 その言い草に、表しようのない激情を覚えて。

 

〝それでも、あなたは壊してはいけないものまで壊したでしょう〟

 

 本当にヒトが罪しか生産していなかったというのなら、とうにこの星から人類種は消滅している。

 

〝確かにわたしたちは呆れ果てるほどの罪を重ねたのでしょう。それでも、それだけでわたしたちを語るなんて、視野が狭すぎると言わざるを得ません〟

〝幸福に目を向けて不幸を受け容れろと? それこそが人類の病因だ。つまるところ、ヒトは悲しみを刻みつけていない。幸せや大義の名のもとにいくつの悲劇が地上を席巻したのか、忘れた訳ではあるまい〟

〝だから、今ある幸福を捨てさせても良いと言うのですね、あなたは〟

 

 頭に血が上る。

 焼けついた心臓がどくりどくりと脈打って、心の体温が昇り詰める。

 全身から溢れて飛び出そうな憤怒を押さえ付けて、ゲーティアの目の前へ歩み寄り、

 

〝…………────ふざけんなっ!!!〟

 

 その横面に、拳を叩き込んだ。

 ゲーティアはびくともしなかった。

 ぼろり、と右の手首から先が炭を砕くように崩れる。このダメージが現実かどうかなんてどうでもいい。

 

〝わたしの先輩はホットケーキミックスが大好きです!!!〟

〝……は───?〟

〝しかも食いしん坊だから食事の時はいつもおかわりするし、ゲームではお兄さん譲りのハメ技でリーダーと一緒に初心者狩りしてくるし、些細なことですぐ笑い転げるし、部屋にゴキブリが出た時は素手で始末してくれるし、好きな人の前だといっちょまえに乙女らしくな────あ゙あ゙っ!? いえ、わたしはあのゲスを想い人だとは認めてませんが!!? とにかく、先輩はあなたが仕立て上げた悲劇を喜劇にしてしまえるような人なんです!!!〟

 

 ───そんな彼女とともにいることで、わたしは幸せを知れた。

 ドクターがあの無菌室から連れ出してくれたのがわたしのはじまり。

 Aチームの人たちと関わって、指を折られて、わたしの文句の付け所もない完璧な実力でAチーム主席を勝ち取って。

 あの日、二人のアホがカルデアに襲来した時がわたしの転機だった。それからの日々は目まぐるしくて、ひとつひとつの思い出を刻んでいたいのに、次々と新しい事件が起きるから、自分の中にはどんどん処理しきれない記憶が降り積もっていく。

 多分、これが日常というものなのだろう。長いようで、振り返ってみれば短い日々の時間。戦いを辛いと感じたことは何度もあるけれど、その気持ちが薄れてしまうくらい楽しいことだっていっぱいあった。

 きっと、これは特別なことじゃない。

 たくさんのケチがついても確かに誇れることもある、そんな人生を、日常を、世界中で多くの人が生きていたはずだ。

 だから、何よりも許せないのは。

 

〝あなたは計画の実現のために、たくさんの日常を焼き払った!! 罪を正しく刻めと言うのなら、まずはあなたがそのことを理解すべきです!!!〟

 

 そして。

 

〝終わりのない世界を創るあなたの理想は優しくて、きっとあなたは誰にも優しかったはずなのに……どうしてあんな手段しか取れなかったんですか!?〟

 

 少女は、人類悪の理想にも寄り添ってみせた。

 いっそ無様なまでに泣き腫らして、示したその感情は怒りでも憎しみでも悲しみでもなく。

 ───あえて名をつけるなら、憐憫。

 憐憫の獣、ビーストⅠたるこの私を、ヒトによって終わりを定められた少女が、泣いて憐れんでいる。

 ああ。

 そうだ。

 そういえば。

 私は今まで一度でも、名もなき人々が送る日常をこの目で見たことがあっただろうか───?

 

〝決着をつけましょう、ゲーティア。誰かの日々を奪うことの意味も知らないあなたに、わたしは負けません〟

〝…………本気で、勝てると思っているのか〟

〝当然です。独りで戦っているあなたと違って、わたしはみんなで戦っているので。────この声が、あなたに聞こえないはずないでしょう?〟

 

 そうして、この世界に現実の写像が投影される。

 少女が護る仲間たちは、それぞれの想いをその背中に訴えかけていた。

 

「マシュなら絶対に勝てるって、信じてる」

「無理なら早めに言え。俺が代わってやる」

「その盾にはオレたち円卓の想いも乗ってる。───負ける道理がねえよな!」

「強いだけで勝てると思っているなら、とんだ大間違いですわっ!」

「私は心配なんてしていませんよ。あなたの強さを知っていますから」

 

 攻撃の全てを受け止めるマシュの体は膨大な熱を蓄積している。ジャンヌは自分の手が焼けるのも厭わずに、背中を叩いた。

 

「───気張んなさい。アンタのふてぶてしさなら、こんな熱さ(いたみ)、屁でもないでしょ」

 

 マシュ・キリエライトは笑う。

 ───わたしは、こんなにもたくさんの色彩(おもい)で彩られている。

 憎たらしく、ふてぶてしく、からかうように。

 

〝……ハッ! こんなわたしたちに勝とうだなんて、百億年早かったんじゃないですか?〟

 

 精神の同調が切れる。

 泡沫のユメが終わっていく。

 霞んで、消えていく彼女の姿。ゲーティアはそれに手を伸ばして、

 

〝─────待っ〟

 

 致命的な、ミスをした。

 …………極光が失せていく。超新星爆発のような輝きは急速に収まり、世界が元の明度を取り戻していく。

 そこに残るのは。

 地面に突き立てた盾にもたれかかるように倒れ込む少女と、虚空へ右手を伸ばしたまま固まる黙示録の獣。

 少女は耐え抜いた。

 人の身には余りある熱量の全てを受け切った。

 右腕は肩口まで焼き崩され、左手はかろうじて原型を保つのみ。全身の至る箇所に痛々しい火傷が残っている。しかし、最も深刻なのは魂の負傷。そのほとんどを費やし、本来不滅である魂は風前の灯火の如く陰る。

 ノアは立香とともに、マシュを地面に寝かせた。

 

「……よくやった。おまえの勝ちだ」

「後は私たちに任せて。リーダーが治してくれるから」

 

 こくり、とマシュは頷く。

 その光景を、ゲーティアは揺れる視界で捉えていた。

 ───ありえない。ありえない。ありえない。

 常に最善手を取れるはずのこの思考回路が、乱された。消えていく彼女を引き止めるために、宝具の掃射を無意識に停止させた。

 あと数秒。否、数瞬。宝具を維持していれば、あの少女は跡形もなく蒸発していたはずなのに。

 

「よくもウチのなすびを焦がしてくれたじゃない。アイツを焼くのは私の役目だってのに!!」

 

 ジャンヌはゲーティアの懐に潜り込み、一直線に旗を薙ぐ。獣はすんでのところで跳んで回避するが、直後、放射された炎に呑み込まれた。

 体表にこびりつく火炎を魔力の発散によって消し飛ばす───その裏、着地点に待ち構えていた騎士が、黄金の剣閃を放つ。

 地面に点々と血液が落ちる。剣の切っ先はゲーティアの脇腹を抉り、血を流させていた。

 

「神殺しの魔剣。不死身の半神半人を斬った一刀! 永遠を否定するモノか……!!」

「喧嘩は苦手か? 動きが単純なんだよ!!」

 

 騎士と魔女は同時に攻め込む。その瞬間、ゲーティアは己が拳を地面に叩きつける。

 ちゃぶ台をひっくり返したみたいに大地が揺れる。地の裂け目から緋色の魔力が噴き出し、自身に迫る二体のサーヴァントを阻んだ。

 ゲーティアは塵と還る魔力の残照に照らされる。

 

「侮るな。強制退去が効かぬのはあくまで遠隔。この手で直接貴様たちの霊基に術式を叩き込めばそれで済む」

 

 その言葉が意味する事実は単純明快。

 サーヴァントは、ゲーティアに触れられただけで座に還る。

 

「たった三騎。三度この手が触れさえすれば、私は勝利する……!!」

「────果たしてそうか!?」

 

 朗々と響く美声。舞い散る薔薇の花弁。紅蓮の斬撃が、獣の頭上に振り下ろされる。

 ゲーティアは道端の虫を避けるように躱した。次いでソロモンの指輪の力を拳に込め、

 

「『逆行起源/天地収斂(ネガ・インフレーション)』」

 

 我が身を狙う極光へと振り抜いた。

 宇宙が膨張するエネルギー。それを爪の先ほどかすめ取り、魔力に変換して放つ一撃。しかし、指輪の力は魔力を分解し無に帰す。

 ゲーティアは見る。この地に紛れ込んだ四人の姿を。

 ソフィア。ネロ・クラウディウス。ニコラ・テスラ。そして、

 

「ダビデ────!!!」

「おおっと、僕かい? いかにもイスラエルイチの美青年ダビデさ。息子が世話になった……いや、世話をしなかったようで何よりだ!!」

「それは何よりなのか?」

「人間関係ばかりはこの天才にも見抜けぬな」

 

 ネロは首を傾げ、テスラは鼻を鳴らす。ソフィアはその二人の横を通り過ぎ、マシュのもとに屈み込んだ。

 右腕を除いて既に大方の傷が癒えている体に手を当てる。

 

「魂がすり減っているな。現状はこれが限界だろう」

「俺の治療にケチでも付けに来たのか? つーかこの場面でなんで全裸だ」

「知らないのか? ニートの正装はジャージでもスラックスでもなく全裸だ」

「私の影に帰ってくれません?」

 

 そこで、ネロはこほんと咳払いする。大げさな身振りで、彼女は歌うように言った。

 

「うむ、それはともかくとして! 我らローマ合従軍、故あって助太刀に馳せ参じたぞ! ゲーティアよ、友情パワーの前に沈むがよい!!」

「サーヴァントが三騎と魔女がひとり。潰す敵の数が増えたところで……!!」

「何を勘違いしている? 私は痛いのが嫌いでな、潰される寸前に帰るつもりだ」

「おいおまえマジで帰れ!!!」

 

 ノアは怒号とともに拳を振るうが、すかっとソフィアを外れる。

 ゲーティアは魔力を込めた視線で知恵の女神を睨む。並のサーヴァントならそれだけで致命傷を与える眼差しは、彼女に毛ほどの影響も生じさせなかった。

 亜種反転固有結界スカイクラッド。外界と内界を反転させ、空間を支配する業。それによって、知恵の女神は視線を捻じ曲げているのだ。

 

「人類の滅亡に賛成した貴様が、『暗黒の人類史』とやらを送り込んだ貴様が───今や世界を救うために戦うとはな。恥という言葉はないのか?」

「恥の多い人生を送ってきたものでね。それに、違うぞ。私は世界を救うためになんか戦っていない」

「驚愕の事実なのだが!? そうだったのかヘレン!?」

「はい。私がここにいる理由は簡単です」

 

 ソフィアは立香の頭頂に揺れる髪の房を握り、もう一方の左手の人差し指をゲーティアに突きつける。

 

「私は、お前より立香の方が好きだ。私は切り捨てられた弱者のために在ると決めた───ことを思い出した。お前がこいつの幸福な未来を奪うなら、私はお前の理想を潰す」

「欺瞞だ。逃げ続けた貴様にそんなことはできない」

「……私には、な」

 

 ソフィアは戦いに向く性質ではない。己の全てを懸け、ぶつけ、最後の最後、勝負を決めるための一歩を踏み出す勇気を持たない。

 彼女が勝てるのは自分より弱い者だけ。格上には恐れをなして逃げるしかない。そして、弱者に寄り添う願いを取り戻した今、ソフィアは誰に対しても完全に勝ち切ることはできないのだ。

 知恵の女神はその欠点を微笑みによって認めた。

 ゲーティアがその様に悪寒を覚えたその時、雷電の雨がこの地上に轟く。

 

「さて。あの時のリベンジとしても良いが、まずは捻じれ曲がった運命を正そう!!」

 

 ニコラ・テスラは快活に吼える。

 青き空が雷雲に包まれ、電光の帯が紡がれる。

 

「刮目せよゲーティア! 貴様にとっての終わりが、此処に来るぞ!!」

 

 それは帯と言うよりは、大空を断ち割る紫電の路。不定形に揺らぎ、瞬く雷光が実体を獲得し、まるで廻廊の如く変化した。

 

「────『大雷電階段(ペルクナスラダー)』!!」

 

 全宙域に設置された起点。瞬く間にそれらは繋がり、広がり、たったひとりをこの場に運ぶ。

 小さな影が光の廻廊を通り、地面に墜落する。白衣のところどころを焦がし、咳き込みながら、彼は立ち上がった。

 

「あー、痛たたた……」

 

 気の抜けた柔らかな声音。どんくさい手付きで煤を払い、ふうと息を吐き出す。

 彼は、いつもみたいに、困ったように微笑んだ。

 

「お待たせ、みんな。さあ、勝とうか」

 

 ───ロマニ・アーキマン。

 まぬけで、要領の悪いカルデアの指揮官。カルデアに来たその日から毎日顔を合わせた人間。ノアと立香は顔面を蒼白に叫んだ。

 

「あそこまでお膳立てされといて来るのがおまえかよ!! 帰ってコーヒーでも啜ってろ!!」

「管制室ほっぽり出して何やってんですか!? ダッシュで戻ってください!!」

「ふっふっふ……これを見てもそんなことが言えるかな?」

 

 左手を包む手袋を脱ぎ捨てる。

 親指に嵌め込まれた指輪。それは決戦前夜、仲間たちで分け合ったお手製の贈り物。中指に嵌め込まれた指輪。それは仄かな黄金色の輝きを宿していた。

 ノアの視線は中指に注がれる。

 指輪の神秘を感じ取ったのだろう。瞳孔が開き、喉が震える。彼はか細い声を絞り出した。

 

「おまえ、それ」

「……うん。キミが欲しがっていた、ソロモン王の指輪だよ。隠しててごめん」

「ど、どうしてドクターが持ってるんですか。もしかして盗んだんですか」

「ああ、それは簡単なことだよ」

 

 ロマンは何でもないように言う。

 

「だって、ボクがソロモン王だから」

 

 しん、と静寂が響き渡る。

 その場にいた者は皆、衝撃を受け止めきれずに固まっていた。敵であるはずのゲーティアでさえも。唯一、全てを知ることのできるソフィアだけは仏頂面だったが。

 頭を必死に回して理解しようとする者と初っ端から理解を諦めた者が入り乱れる。ただし、Eチームメンバーの目はひとりに注がれていた。

 視線のことごとくを受け止める人間。ノアの顔面からはいつもへばりついていた邪悪さが微塵と消え、稚児のような表情に戻っている。

 ぐし、と左手が髪を掻く。

 言葉の意味自体は理解した。

 それが嘘でないことも、指輪の存在で納得した。

 高速で早回しされた思考に感情が追いついたその時、彼はあんぐりと口を開けて絶叫する。

 

 

 

 

 

「────…………はあ!!?!?!?!!?!?」

 

 

 

 

 

 宙域に集う全サーヴァントに届くかのような大絶叫。

 ようやく追いついた感情さえも置き去りにするかのように、ロマニ・アーキマンの姿形が変容する。

 編み込まれた長く白い髪。浅黒い褐色の肌。その身は王の衣に包まれ、気の抜けた雰囲気はどこかに無くなっていた。

 その姿を見て、ゲーティアもまた確信する。

 この男は、自らを産んだ魔術師に違いないと。

 

「何故、貴様がここにいる」

「たった一度、この世界で行われた正統な聖杯戦争。その勝者であるマリスビリー・アニムスフィア。私はキャスターとして彼に召喚され、聖杯にかけた願いによって人となった。だからだよ」

「何もかもが虚ろな貴様に、願いがあったというのか」

「神に、運命に縛られた男が死後それから解き放たれる場所を得たんだ。少しは変わるというものだろう。……いいや、もしかしたら、今この時のために神は私を遣わしたのかもしれない」

 

 自嘲気味に面を伏せるソロモン。ゲーティアは燃え滾る激情を指に込め、拳を握り締める。

 

「だとしても、貴様に何ができる!! 才も能も持たぬ人間となり、その姿は指輪によって繕われた着ぐるみ!! 無意味、無意義、無価値だ!!」

 

 ───死に、生まれ変わってもなお、貴様は無意味な行動を繰り返し続けるのか。

 そう問いかける自らの魔術式に対して、ソロモンは当然のように言い返した。

 

「意味はある。私が唯一、お前に教えなかった魔術。自己の消滅をもって、この戦いを終わらせよ────」

「おっと、それは待った!」

「───うぶっ!?」

 

 ダビデはソロモンの言葉を遮るように杖を頭に振るっていた。頭を抱えてうずくまる我が子を無理やり立たせ、ノアたちに向けてその背を蹴り飛ばす。

 

「別れの言葉もナシで消えようなんて、不義理がすぎるんじゃないかい? 君が人間として繋いだ絆の全てに引導を渡してからが筋ってものだろ?」

「それは、命令ですか。父上……いえ、マジでダサい王様略してマダオ」

「普通に命令だけど? まったく駄目なところがない王様からの金言は受け取っておきなよ」

 

 ソロモン……ロマンは非常に微妙な顔をして、踵を返す。

 ダビデはその背を見ることもしなかった。その瞳が捉えるのは、ビーストⅠ ゲーティア。羊飼いは煌めくような眼で告げる。

 

「そういうことで……時間稼ぎに付き合ってくれ! どうせ一度死んでるんだ、もう一回くらい大したことないだろう、ダンテさん!?」

「なんで私なんですかねえ!!? いえ、流石に頑張ろうとは思ってますが!!」

「お前にしてはいい心掛けじゃねえか。ウチのアホマスターが満足するまで凌ぐぞ!!」

「むうう、余は死ぬのは嫌なのだが……独りではないからヨシ! ヘレン、ここで奴を倒してしまっても構わぬのだな!?」

「はい。私たちの戦いはここからです」

 

 戦火が巻き起こる。

 それを背景に、ロマンはノアたちへと歩んでいた。

 

「……ええと、何を話そうか」

 

 立香はくすりと微笑んで、

 

「別に、特別なことは要らないんじゃないですか? だって、ドクターはドクターですもんね?」

「うん。そうだね、立香ちゃん。君はそう言ってくれる子だった。今だからこそ思うよ。君がいなくては、私たちはここまで戦うことはできなかった」

「あ、でも一発殴らせてくれません?」

「なんで!!?」

 

 突如の暴行宣言に、ロマンは顔面を歪める。まだ殴られてもいないのに。

 当然の疑問に答えたのは、立香ではなくノアだった。彼はロマンと触れ合う距離まで詰め寄り、渾身の拳を頭上に落とす。

 

「生きて帰るまでが人理修復つったのはおまえだろうが!! それを言ったおまえが消えるだと!? ふざけんじゃねえ、ナメてんのかボケナスが!!」

「わ、わたしの悪口が聞こえた気が……」

「おまえじゃねえ黙って寝てろボケなすび!! 自己の消滅ってのはどういう了見だ!? 三秒以内に答えやがれ!!」

「ノアくんの嫌いな他人のうんちく話になるんだけど……」

「いいからさっさとしろ!!」

 

 ───マリスビリー・アニムスフィアがソロモン王というサーヴァントを召喚し得たのは、王の聖遺物である指輪を触媒として使用したからだった。

 それはソロモン王の死後から遺り続けたモノであるが故に、人間として生まれ変わった後も存在していた。そして、今ここ、ゲーティアが持つ指輪と合わせて全ての指輪がある。

 ソロモン王の最初にして最後の宝具。それは十個の指輪を返還することで、自身の全存在の消滅を招く。そう、彼が創り出した七十二柱の魔神たちでさえも。

 

「私……ボクは英霊の座からも消え、無に還る。それが、今の自分にできる使命だ。言っておくけど、こればっかりはみんなに止められても譲れない」

 

 ソロモン王は消える。

 この世界からも、英霊の座からも。

 覆しようのない喪失を、ノアは正しく認識して。

 彼は、両の拳をロマンの胸に叩きつけた。

 何かを言おうとして、浮かんでくる言葉は全て覚悟を汚すと気付いて、また別の言葉を探して。堂々巡りの思考を繰り返す内に首は垂れ下がり、ぽたりと足元に水滴がこぼれ落ちる。

 ロマンはその顔を隠すように、両腕で彼の頭を包み込んだ。

 普段からは想像もつかないほど弱々しい声音で、ノアは言う。

 

「ずっと、おまえに憧れてた」

「うん。知ってるとも」

「……おまえがいたから、地の底でも生きていられた」

「ボクのおかげだけじゃないだろう? でも……ああ、とても嬉しいな。ソロモン王でも、誰かを救えていたんだ」

「───せっかく、ようやく逢えたのに、さっさと行ってんじゃねえよ」

「……酷いことをしてしまったね。でも、もういいんだ。ボクを追いかけなくてもいい。だってキミは、全ての人を根源に連れていくんだろう?」

 

 キミなら、必ずソロモンを超えられる。

 そう言って、ロマンはノアの白い髪を撫ぜる。愛おしむように、励ますように、いつの日か我が子にそうしたように。

 

「ソロモンはずっと空っぽだった。全てに意味を見出だせず、無力なままに人生を終えた。嫌いだったよ、憎んですらいた。ボクがボクになってからはね」

 

 だけど、と彼は優しく言う。

 

「第四特異点から帰ってきた時、キミは言ってくれただろう? 俺だけはソロモンの行いを肯定すると。そのおかげで、ボクもソロモンを受け容れられるような気がした」

 

 ────だから。強く、強く、自らの熱で暖めるみたいに、彼はノアを抱き留める。

 

「キミも、自分を許していいんだ。大切な人を亡くしたのは絶対にキミのせいなんかじゃない。……あの雪の中に、打ち捨てた自分を拾いに戻っても良いんだよ」

 

 ノアは何も言わなかった。

 ただあの頃に戻ったみたいに、けれど、決して独りではない場所で泣いて。

 ロマンはそのまま、立香へと顔を向ける。

 

「立香ちゃん。キミの前に進む力は誰よりも強い。ノアくんを引っ張っていってくれ」

「はい! ど〜んと任せてください!! 私もドクターのまぬけ加減にはいっぱい助けられました!!」

「うん───幸せにね」

 

 次に瞳が向くのは、マシュ・キリエライト。立香におぶさる彼女はもそもそと唇を動かす。

 

「こんな体なのが悔しいです……万全ならリーダー以上にボコってました……」

「ま、まあそれは気持ちだけ受け取っておくとして……おこがましいかもしれないけど、マシュのことは自分の娘みたいに思ってる。こんな結果になってごめん」

「まったくです。なので、罰としてお父さんとは呼びません。ただのおっさんとして頑張ってください、ドクター」

「実年齢的にはおじいさんだけどね」

 

 さて、とロマンはノアの肩を掴んで優しく押した。

 そのまぶたにもう涙はなく。ノアは王衣から帯を一本剥ぎ取って、勢い良く鼻をかむ。

 

「……もう大丈夫かい?」

「ああ、おまえの勇姿とやらを見ててやる。あと加齢臭どうにかしろ」

「えっ嘘!? ダ・ヴィンチちゃん特製香水で対策してたつもりなんだけど!?」

「冗談だ。行ってこい、ロマニ・アーキマン」

 

 ノアはロマンを押し飛ばす。

 

「ああ、行ってくるよ」

 

 彼は背中を擦りながら、ゲーティアを見据えた。

 戦況は劣勢。数の差で敗北は免れているが、一撃でも攻撃を受ければ退去するため、深く踏み込めてはいない。ましてや、ゲーティアが放つ魔術はかすりでもすれば、サーヴァントさえも消滅させるだろう。

 ただの人間であるこの身にとっては。そんなことは考えるまでもない。

 いつの間にか横に飛ばされてきていたペレアスは頬の血を拭い、ロマンに問いかける。

 

「話は終わったみたいだな。オレたちは何をすればいい?」

「必要なのは隙と距離です。前者はほんの僅かでも構いません。距離に関しては、ボクの手が届くくらいでお願いします」

「承知した。騎士の誇りにかけて、お前を送り届けてやる!!」

 

 無論、そのやり取りをゲーティアは把握していた。

 全身に張り巡らせた魔術回路。暴走と言えるまでにそれを励起させ、魔術という形に変えて撃ち出す。

 無数。陳腐に使われるその表現を表すが如き物量の光弾。対魔力さえ無為にする威力を秘め、さらにはそのひとつひとつに強制退去の術式を織り交ぜた絶死の雨が降り注ぐ。

 ペレアスは弾幕の中へ迷い無く身を投じた。

 

「『死に逝く騎士に、湖光の愛を(ル・アムール・ド・ダーム・デュ・ラック)』!!」

 

 リースはペレアスへと宝具を捧げる。

 死の運命を免れる宝具。雨霰のように降る光弾であろうと、騎士を脅かすことはできない。

 ───あくまで否定するのは死。死に至る毀傷でないなら、それは通用する。

 ゲーティアはペレアスを迎え撃つように拳を翳した。死なぬ程度の攻撃なら当たる。攻撃が当たるなら退去の術式をもって排除できる。

 ならば、最優先で滅するべきはこの騎士だ。

 だが、その剣に触れてはならない。運命を絶つ魔剣は人類悪の真体にさえも致命傷を刻みつける。

 

「───ビビってんのか? その顔じゃあ焦ってんのかも分からねえけどな!!」

「ほざけ! 貴様とソロモンを片付ければそれで終わりだ! もう一度光帯によって焼き払ってやる!!」

「ほう、この天才を仲間外れにするつもりか? エジソンのような愚かな所業だぞゲーティア!! 『人類神話・雷電降臨(システム・ケラウノス)』!!」

「汝はゴリアテ、罪ありき……ってね! 『五つの石(ハメシュ・アヴァニム)』!!」

 

 必中の石弾が飛び、時空に裂け目が現れる。

 ダビデの投石は複雑な軌道を描き、ゲーティアの頭部を打ち据える。直後、閃いた斬撃が獣の右角を切り払った。

 絶え間なく放射される光弾の雨中に、時空断裂が導く活路が形成される。そこへなだれ込む味方たちに、ソフィアは魔女の加護を捧げる。

 

「『三度、恩寵は降り注ぐ(トライアド・ユーフォリア)』」

 

 展開する『三重の法則』。全ての行動が善きにつけ悪しきにつけ、三倍になって帰る魔女宗の術式。魔女宗の魔術基盤は知恵の女神が創始した。そのアドバンテージをもってしても、グランドキャスターの能力を持つゲーティアにこの法則を適用することはできない。

 それを考慮して、法則を適用する対象は味方に絞る。『世界を救う善行』の三倍を。

 

「ボーナスタイムだ。攻めろ」

「うむ! ずんばらりんにしてやるぞ!」

「最初から使いなさいよそのインチキ魔術……!!」

 

 ゲーティアへと攻撃が殺到する。

 そのほとんどは不可視の魔力障壁に阻まれるが、いくつかの攻撃は不自然にすり抜け、獣の表皮に僅かながらも傷を付けていく。

 反面、ゲーティアが振るう拳は、放つ魔術は敵にかすりもしない。けして躱せぬ速度、逃げられぬ物量の攻勢をかけているというのに。

 ゲーティアの裡に蠢く魔神たちの意識。そのおよそ半分をソフィアの術式の探査に費やし、対抗策を講じる。

 ともに未来を見通す千里眼を有する女神と獣。先手の獲得を分けるのは、可能性を総覧する速度と最適解を選ぶ知恵。

 その競争を、知恵の女神は放棄した。

 ゲーティアは自身に最も都合の良い未来を選び取る。

 

「光帯、限定解放」

 

 光帯の欠片が墜落する。

 数は五。単純な熱量は星の聖剣の最大出力に匹敵する。威力はそれ以上。地球上にこれを耐えられるモノは存在しない。

 善の三倍に頼ることもまた不可能。ゲーティアは感染魔術の理論を通じて、自身の創り主であるソロモンを介して『三重の法則』を獲得していた。

 だから、これを回避するなどという奇跡は起こり得ない。

 

「まあ、私は勝てないからな。そういうのは」

 

 知恵の女神は先手を取ることを諦め、ゲーティアが選ぶ未来を見極めることに注力した。

 結果、誰よりも先に動いたのはソフィア。

 この光を防ぐ術はない。

 ならば。

 

「術式転写、『神的世界への被昇天(シュゼーテーシス・プロパトール)』」

 

 自身を起点に宇宙の余剰次元を展開し、そこへ光帯の爆撃を連れ去る。

 空間に開いた巨大な孔が光の欠片を呑み込み、ぴたりと閉じる。ゲーティアは頭上の光景を余すことなく把握し、全ての意識を眼前の敵の排除に傾けた。

 テスラは雷電を纏い、高らかに笑う。

 

「光帯とは貴様が人理焼却によって集めたエネルギー! それを二度もこうして使用するとはな! 虎の子の熱量を消費しすぎれば貴様の望みも叶うまい!!」

「その時はもう一度やり直すだけだ。限界が近いのは貴様とて同じこと。聖杯なきその霊基で、いつまで宝具を保っていられる?」

「良い問いだ。天才の頭脳をもって答えてみせよう。私の現界可能時間は残り十秒だ!!」

「短すぎません!? 自信満々に言うことじゃないですよねえ!!?」

 

 ダンテの悲鳴を受け、テスラはこれまた自信満々に答えた。

 

「確かに短い───が、これは計算の末の結論! 目を凝らしてとくと照覧しろ!!」

 

 その時、テスラは自身の全魔力全霊基を宝具に叩き込んだ。

 時空断裂の一撃。しかし、未来視を有するゲーティアにそれは通じない。裂け目が発生する瞬間と位置を読み、

 

「……っ、ぐ!?」

 

 それさえも予想していたかのように、時空の断面がゲーティアの胸を裂いた。

 

「我が計算に陥穽はない! またもや私の才能が証明されてしまったということだ! 後は頼んだぞ!」

 

 ゲーティアは必ず最適解を取る。テスラの思考をもってすれば、それを読むことは容易い。彼の演算は未来視の最適解すら超越し、獣を毀傷せしめるに至ったのだ。

 ───この程度、僅かな隙にはなろうとも命には届かない。神殺しの魔剣でない物理的な負傷など、一瞬と経たずに修復できる。

 が、その刹那。眩き黄金の劇場が、この世界を切り離した。

 

「『招き蕩う黄金劇場(アエストゥス・ドムス・アウレア)』───『童女謳う華の帝政(ラウス・セント・クラウディウス)』!!」

 

 自身の領域下における、最高の剣技。

 皇帝の華の一閃は振りかざされる拳と重なり、両者の肉体に血の徒花を咲かせた。

 ネロの肉体を駆け巡る強制退去術式。薔薇の皇帝は塵と果てる寸前、煌々たる笑顔とともに詩篇を宙へ投げ放つ。

 

「是非もなし! しかしてローマは不滅である!! ローマの誇りたる詩人の御業を見るが良い!!」

 

 詩篇が、白き輝きを発する。

 

「『至高天に輝け、永遠の淑女(ディヴァーナ・コンメディア)』」

 

 黄金の劇場を塗り潰し、顕現する白薔薇の天界。

 無数の聖人・天使の霊体が曼荼羅の如き模様を描く、無上の界。ソロモン王でさえも生前、辿り着くことは叶わなかった領域。そこに余人を挟まず二人。ゲーティアは憎悪とともに、詩人へ怒号を飛ばす。

 

「私が知る限り最も低俗な宝具───それが貴様の結界だ! 勝手な救いを他人に押し付ける、唯一神の醜悪を体現している!!」

「だとしても、誰よりも救いを望んでいるのはあなたなのではないですか」

 

 ダンテは言い聞かせるように告げた。

 

「創世記をやり直し、終わりなき生命の星を創造する。……ええ、私なぞには思いもつかぬ一大事業です。ですが、その根底にあるのは誰かを救いたいという願いだったはずでしょう」

 

 ───だとするならば、この宝具は最上の効果を発揮する。

 今までにこの宝具を打ち破ったのは虹蛇のみ。彼女は民を殺戮し陵辱した海の外の人間を、神を憎み、長き時を経ても陰らぬ想念によってこの世界を否定した。

 けれど、他者の感情を知ることが能うダンテには分かっていた。

 ゲーティアは誰をも憎んではいない。

 彼の所業はすべて、終わりを憎み、悲劇を繰り返す人類を憐れみ、この星に救いをもたらすためなのだと。

 救いを望む。それは決して自分のためでなく。

 かの救世主は、見知らぬ誰かをも救うことを望んでいたはずだ。

 よって、永遠の淑女ベアトリーチェは降臨する。大義のために全人類の殺害を成すしかなかった、哀れな獣の魂を抱くために。

 

「─────!!!」

 

 結界が閉じ、彼らは現世に帰還する。

 ゲーティアは魂の大半を奪い取られていた。彼の本質は七十二柱───第二特異点にてフラウロスを失い、七十一だが───の魔神の群体。それぞれが相互に補完しあい、再生機構を備えた魔術式。魂の補充はいくらでも効く。

 ダンテの宝具は彼には必殺足り得ない。が、それが重大な負傷であることに変わりはなく。

 

「ゲーティア。お前はやり方を間違えた。全人類の抹殺などという安易な手段に走った。だから、こうして叛逆する者たちがいる。星を焼却する程度で人が滅ぶとでも思ったのか? 計画としては下の下、不完全に過ぎる。目的の達成に当たってはあらゆる障害を除き、確実に実現できるようにしろと教えたはずだ」

 

 ソロモン王。

 ゲーティアにとっての終わりが、悠然と迫っていた。

 

「ならばどうすればよかったのか? それは簡単だ。この星の現住生命体全てに懇願し、説得すればよかったんだ。誰も文句を言わず、賛同するようになるまで。〝私は終わりなき生命の星を創るから、君たちは全員焼け死んでほしい〟と」

 

 獣の創り主は、そんな、解決策にもならぬ夢物語を淡々と述べた。唖然と佇む眷属に、彼は突き刺すような一言を言い放つ。

 

「───人間と向き合うことから逃げたな、ゲーティア」

 

 ぶつりと、ゲーティアの中で何かが切れる。

 魂の補充などどうでもいい。体が動かないことなんて彼方に吹き飛んだ。今はただ、迫り来るこの男を殺す────!!

 

「貴様に、貴様が、そんな戯言を───ッ!!!」

 

 縋るように突き出した右拳。ソロモンの頭蓋を砕くべく繰り出したそれは、直前で止まる。

 ダビデ。彼はその身を呈して、ゲーティアの拳撃を受け止めていた。

 

「……チンタラ歩きすぎ。敵は速やかに排除しろって昔言ったんだけど?」

「貴方がこうすることは予想済みでしたから。予定通り肉壁になってくれてありがとうございます、股がだらしないお父さん」

「あ゙〜っ! ほんとにこいつ! こいつっ!! 親の顔が見てみたいなぁ!!?」

 

 黄金の塵となって退去していくダビデ。その息子は親の残滓を蚊を払うような手付きで振り飛ばすと、左手の薬指から指輪を抜き取る。

 

「ゲーティア」

 

 ソロモン王が有する宝具は三つ。

 第三宝具『誕生の時きたれり、其は全てを修めるもの(アルス・アルマデル・サロモニス)』。

 第二宝具『戴冠の時きたれり、其は全てを始めるもの(アルス・パウリナ)』。

 

「お前に、最後の魔術を教えよう」

 

 そして。

 神より与えられた天恵をソラに還し、自身が持っていた文字通り全部を捨てる、自死の宝具。

 指輪を両手で包み、天へと掲げる。

 ソロモンは。

 ロマンは。

 左手の親指にはめた指輪を見て、頬を緩める。

 これは自分が人として生きた証。

 たくさんの人と繋がり、得た想いの結晶。

 ───ああ、名残惜しいなあ。

 胸の内がざわつく。

 視界が潤み、世界が歪む。

 ボクはもう空っぽじゃない。

 虚ろに空いた心は、抱えきれないほどの色彩(きおく)で溢れている。

 たとえこれから何もかもが失せて無くなってしまうのだとしても、この世界に生きた意味はあった。

 これは紛れもない自死の宝具。

 だけど。

 

「『訣別の時きたれり、其は世界を手放すもの(アルス・ノヴァ)』」

 

 人として生きたこの証を、彼に託そう。

 これが、ロマニ・アーキマンの生き様だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして。

 ソロモン王は───ロマニ・アーキマンはこの世を去った。

 王となるべく望まれ、定められた運命のままに生きるしかなかった男はその最期、全てを手放すことでこの現世から解放された。

 その末は無。何も存在しない虚空。

 だけれど、彼が与えたものは確かに此処に在る。

 びしりと、空間がひび割れる。ソロモン王の消滅はすなわちゲーティアの破滅。神殿は早くも崩壊への道を辿り始めていた。

 

(これが、終わりか)

 

 獣は想う。

 自らの魂に這う終わりの影を感じ取り、現実味に塗れた己の死を。

 そう、事ここに至るまで、彼は死というものを実感したことがなかった。ありとあらゆる生命にその結末を強制していながら、自分が不死であるがために死を死としてしか認識していなかった。

 怖い? ───否、自分にこれを恐れる資格はない。誰も彼もにこれを与えておいて、今更醜く喚いて拒絶するなんてできない。

 思考が巡って巡って揺れ動いて。

 ああ、とゲーティアは確信した。

 

(私は、間違えた)

 

 大義。理想。偉業。救済。

 どんな美辞麗句で修飾しようとも、人理焼却は己のエゴでしかない。

 たったひとりの思想が、世界を牛耳る。その構造がどれほど醜悪で不完全なのか、ゲーティアは這い寄る死の気配とともに理解した。

 だって、そうだ。

 自分が理想とした世界では、命はみんな認めあって手を取り合っていたのに、それを創ろうとしている者がみんなを蔑ろにした。

 なんて、ふざけた矛盾だろう。誰かを切り捨てた者が、誰をも切り捨てない世界を創ろうとしていたなんて。

 醜い。

 醜い。

 醜い。

 闇に沈んでいく意識の中で、ひとつの言葉が心に滲み出す。

 

〝ぼくにはきみが人間に見えるけれど……?〟

 

 我が計画の裏で蠢く三体の獣。その内の一体が言い放ったそれが、なぜか、視界を晴らした。

 認めよう。

 確かに自分は人間のように不完全だ。

 それでも、終わりを無くしたいという理想だけは否定させない。否定できない。

 やり方が間違っていたことも癪だが受け容れよう。

 こうして立ち上がるのはエゴだ。

 罪はある。罪に塗れている。

 それでも、この魂は戦えと叫んでいる。

 なぜなら、過程が間違っていたとしても、この願いは間違いなんかじゃないのだから。

 

「───ここで、終わりなんかにはさせない!!」

 

 ギン、とゲーティアの瞳が輝く。

 呪いを込めた邪視。サーヴァントをも殺す魔の視線を、二人のマスターに向ける。

 

「…………ッ!!」

 

 しかし、それは彼らに届かず。

 ひとりの詩人が、呪いの全てを身を以って受け止めていた。

 

「ダンテさん!!」

 

 立香の叫びに、ダンテは微笑みで返す。

 

「私たちの繋がりは、たった一度の退去で切れるものではありませんよ。もう一回呼んでください。全員で祝勝会としましょう」

 

 その顔に、いつものような恐れや怯えはなかった。散っていく黄金の塵。ノアは邪悪に笑み、仲間たちに言い放ってみせる。

 

「そういうことだ。おまえら全員特攻しろ。死んでも俺が後で召喚してやる。その代わり立香と俺だけは必ず護り抜け! それがサーヴァントの役目だからなァ!!」

「ああそう、アンタは焼かれる覚悟しときなさいよ! 祝勝会のメインディッシュにしてやるわ!!」

「それじゃあ私が調理を担当いたしますわ。大人数の料理を作るのは慣れています」

「俄然楽しみになってきやがったな! ノア、もしオレたちが仕留め損ねたらお前がキメろ!!」

 

 ノアは傲慢に笑い飛ばし、

 

「言われるまでもねえよ───ペレアス」

 

 直後、炎のカーテンが後方のマスターたちとの間に奔り渡った。

 視線による呪いを遮る防壁。これより一切の呪いはサーヴァントたちに向けられる。黒き炎の戦場を造り出し、ジャンヌは竜の魔女に違わぬ笑みで叫ぶ。

 

「立香!! 私にも応援寄越しなさい! そこでぶっ倒れてるなすびよりもとびっきりのやつを!!」

 

 立香は、炎の壁の向こう側へ呼び掛ける。

 

「そんなやつやっつけちゃって、ジャンヌ!!!」

「───ありがと。超絶やる気が出てきたわ!!」

 

 騎士と魔女は同時に駆けた。

 敵は今まさに崩壊を遂げているものの、人類悪の獣として真体に至った力は未だ失われてはいない。時間は彼らに味方するが、それでも二騎のサーヴァント程度、即座に始末できる。

 はずだった。

 

「いい加減こっちだってムカついてんのよ! あのアホドクターが命懸けたんだから、とっとと死になさい! せんとくんみたいな見た目してくれちゃって!!」

「知ったことか!! 私とて我慢の限界だ! これほどの性能の差、存在の差がありながら何故貴様たちは喰らいつける!!」

「おいおい、そりゃお互い様だろ! お前もオレたちも意地で立ってんだよ、ようやく戦いらしくなってきたと思わねえか!?」

「───……ク、クッ。ああ、それも認めよう。これこそがヒトの闘争! 意地と意地をぶつけ合う喧嘩というやつだ!!」

 

 炎が弾け、斬撃が閃き、魔術が踊る。

 隙間なく折り重なる、騎士と魔女の連撃。その全てをゲーティアは読み切り、反撃する。

 黄金の剣撃と炎の打撃の双奏に、水の刃が滑り込む。それは鞭のようにしなり、蛇のようにうねり、ゲーティアの視界外からその首筋を裂く。

 湖の乙女リースは伸び切った水の刃を手元に戻す。がっくりと肩を下げて、艷やかな吐息を吐いた。

 

「それにしてもあっついですわ! ジャンヌさん、少し温度を下げてくださいませ!」

「うっさいわ縁日の金魚! 旦那に抱かれてる時よりは熱くないでしょうが!!」

「ジャンヌさん、下ネタは私の専売特許ですが!?」

「ふ、品性下劣な精霊め!!」

「人の嫁の悪口言ってんじゃねえ!!」

 

 口汚く罵り合い、渾身の悪意を込めて暴力を振るう。

 その戦いに高尚さはない。

 騎士道物語に語られるような絢爛さもない。

 余計な装飾をかなぐり捨てて、ただありのままに殺し合う。だからか、爽やかとは絶対に言えないけれど、この瞬間に嘘はなかった。

 ジャンヌの一刀がゲーティアを逆袈裟に捉える。

 

「───お、おおっ!!」

 

 獣はそれを意に介さず、魔女へ拳を振り落とす。

 強制退去の術式が流れ込む。ジャンヌは口元を血で濡らし、黄金色の瞳を赫々と灯した。

 

「この腕、貰っていくわ!!」

 

 己が霊基を注ぎ込んだ自爆。全身全霊の炎は、ゲーティアの右腕を道連れに焼き払う。

 右腕の喪失を意識から除き、背後に迫る男へと残る拳を薙ぐ。それは、騎士が繰り出す斬撃と同時だった。

 

「『運命絶す神滅の魔剣(ミストルティン・ミミングス)』!!」

 

 黄金の輝きがゲーティアを袈裟に斬り込み、拳がペレアスの胸を突く。

 そうして、彼らの喧嘩は終わりを告げた。

 炎の幕が消え失せ、獣は残されたマスターたちを見据える。

 視線による呪いを発動しようとするも、それを成す機能はとうに崩壊していた。

 

「次は、貴様の番だ」

 

 ノアはくつりと喉を鳴らす。

 

「おまえの目も衰えたか?」

 

 伸ばされた右の人差し指。その先がゲーティアの背後を指し、

 

「そいつは、俺のサーヴァントだぞ」

 

 背中を刺激する、微かな気配。

 ゲーティアは翻り、円卓の騎士の姿を見る。

 今にも消滅するサーヴァント。しかし、彼はかの国で誰よりも生にしがみついた人間であるが故に。

 

「ペレアス─────ッッ!!!!」

「こいつはおまけだ、もらってけ!!」

 

 ゲーティアの胸の中心に突き刺さる、神殺しの魔剣。

 対して、獣の拳は空を切る。ペレアスの頭部を狙った一撃はしかし、標的のそれは既に消え去っていた。

 ゲーティアは膝をつき、剣を抜いて捨てる。魔剣は地を滑り、ノアの足元で止まった。彼は血が滲んだ柄を拾い上げると、刃の腹で肩を叩く。

 

「さて。このままタイマンと行きたいところだが、少し待て。魔術回路をガキの頃に戻してる途中だ」

「……待つと、思うのか」

「そりゃそうだ。俺だってそうする」

 

 ノアは暫時考え込み、ふっと笑いをこぼす。

 

「おい、どうする立香。時間が足りねえぞ」

「なんで私に言うんですか!? リーダーが負けたら終わりですよ!? そもそも先にやっとくのがいつものリーダーじゃないですか!!」

「うるせえ! どれもこれもロマンの野郎のせいだ! あいつがあんなこと言わなきゃ魔術回路に手ぇ加えてねえよ!! つべこべ言わずそのアホな脳みそ回せ!!」

「はああああ!? 前々から思ってましたけど、リーダーの方が私よりアホですよね!? 全生物アホ決定戦なら私とリーダーの一騎討ちになりますから!!」

「先輩、それは自分をも貶めてます」

 

 敵の眼前だというのに、いつものように言い争うマスターコンビ。ゲーティアはその様に心臓ををまさぐられるような感覚を覚えながら、少しずつ立ち上がる。

 魂の補充を果たし、肉体の損傷を癒やし、二本の足が地を踏みしめる。それと同時、ノアは上空へ向けて大音声を轟かせた。

 

「───ギャラは払ってやる!! おまえの独壇場にしろよ、トカゲアイドル!!!」

 

 直後、空から三つの人影が墜落した。エリザベート・バートリー、クリストファー・コロンブス、ベオウルフ。彼らがなぜ上から落ちてきたのかと言えば、

 

「スサノオお届け便、ただいま到着じゃ! 料金は着払いで頼むぞ!」

「あ、あのニート神……私たちが米の海で泳いでると思ったら急に拉致して……せっかくの登場シーンがわやになっちゃったじゃない!!」

「いやまあ助かったけどな。何気にピンチってやつだろ、これ。何よりこういうのは俺の好みだ。戦士の血が騒ぐぜ……!!」

 

 と、思い思いに喋るエリザベートとベオウルフの頭を踏みつけて、コロンブスはゲーティアの前に立つ。

 舐め回すような視線。コロンブスはゲーティアの頭から爪先までを値踏みするかのように観察していた。

 すると、どば、と彼は滝のような涙を噴出させる。

 

「オイオイオイ、ボロッボロじゃねえか魔術王よォ!! 事と場合によってはお前に味方してやろうと思ってたのにそりゃねえだろ!! ちくしょう!!」

「えっ、こいつクズすぎん? 怖いんじゃが」

 

 スサノオのツッコミを無視して、くるりとノアたちに振り向く。コロンブスは顔面崩壊レベルの輝かしい笑顔だった。

 

「俺は忘れねえぜ、ともに海を駆け抜けたあの日々を……!! ヤツをぶっ倒して世界を救おうぜ相棒ォ!!」

「立香」

「ガンド」

「ォォンギャアアアアアア!!!」

 

 鼻っ柱に魔弾を打ち込まれ、地面を転がるコロンブス。顔面に靴跡を残したエリザベートはコロンブスの顔を踏み返し、槍をゲーティアに突きつける。

 

「とにかく、時間稼ぎ承ったわ! とびっきりのパフォーマンスでハートブチ抜いてあげる!! あいにくアナタの出番はないわよ、アホ白髪魔術師!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼は、無への道を歩んでいた。

 黒く暗く、無明の世界。どこまで続くのかも分からぬ闇の中を独り歩く。

 物寂しい風景だけれど、心は晴天のように晴れ渡っている。最期に意味のあることをして、みんなとのお別れもして、悔いも残さずにこの無明の中に帰ることができる。

 足取りは軽やか。笑みがこぼれて止まらない。

 そんな晴れやかな心持ちは、

 

「やあ、おひとり様かい?」

 

 まるで駄目なお父さんの登場によって、曇天と化した。

 

「…………どうしてここにいるんですか」

「んー、奇跡? 神様がくれたご褒美としておこう」

「帰ってくれません?」

「もちろん。僕も直前で引き返すつもりだし」

 

 ぴきりと、両者の額に青筋が浮かぶ。

 早足で横を通り過ぎると、父はぴったりとくっついてくる。

 しばらく横並びに歩いて、堰を切ったように言葉の濁流が飛び出した。

 

「あなたが戦争したり寝取ったりしてるせいでボクは大変でした。領土なんて必要最低限で足りるのに馬鹿みたいに広げるとかアホなんですか? いや、アホでしたね。軍も傭兵制にするから財政管理もとんっっっでもなく面倒臭かったし!!」

「いやいやいや、君だって治世ヘッタクソだったよね。税をどんどん増やして民の不満貯めまくってたらしいじゃないか。というか政略結婚で外交をどうにかするのも限界あると思うよ? 1000人も妻を持つとか羨まし……君の度量じゃ無理だったろ。それと! アビシャグには本当に手を出してないよな!?」

「…………出してませんよ」

「えっ、何その間。怖いんだけど。ちょっと待って、僕の脳がやにわに壊れてきてる」

「あなたの脳が壊れてるのは元々では?」

 

 言葉のナイフで斬りつけ合う親子。先に手を出したのはどちらだったか、彼らは全力で拳をぶつけ合い始める。史上最低の親子喧嘩である。

 不毛な争いが続くこと数分、息子は顔面をボコボコに腫らして撃沈していた。なにしろ父親は神の加護によって猛獣も殴り殺す膂力を得ている。魔術に耽っていたモヤシが勝てるわけがなかった。

 父は爽やかに髪を掻き上げる。

 

「初めての親子喧嘩は僕の勝ちだね。いやあ、弱い弱い。度重なるデスクワークで鈍ったのかな?」

「ゆ、指輪さえあれば……」

 

 ぽっこりと膨れ上がった頬をもごもごと動かして、息子は問う。

 

「それで、さっきの質問に答えてくれませんか」

「ああ、どうしてここに来たのか、だっけ?」

 

 父親はさらりとそれを述べる。

 

「君に愛を教えに来た」

 

 は、と膨張した唇の端から息が漏れる。

 父親と息子の───ダビデとソロモンの間に、余人が思い描くような親子関係はない。

 情も愛もなく、ただ神のために、国のために言葉を交わす。義務的な関係だけが両者を結び、ついぞ心を繋げ合うことは一度もなかった。

 それが、今更。

 

「君が生まれた時、既に僕は王様だった。王とは神の下僕。主の御心は誰にも分からない。分からないから、とにかく自分にできることをやるしかない。きっと、僕たちの生に大した意味はなかったんだろうね」

 

 父は子の頭に手を載せる。

 

「君には辛い役目を押し付けた。すまなかったね、ソロモン」

 

 いや、と彼は首を横に振る。

 そうして、息子のもうひとつの名前を呼んだ。

 

 

 

 

「───エディドヤ」

 

 

 

 

 両の腕で、その体を抱き締める。

 ほんの少し、震える彼の耳に柔らかな声音を囁く。

 

「この名前の意味は知ってるかい」

「…………主に愛された者」

「そう。主に愛された者、だ。分かるかな。神は君を愛していた。愛しているからその名を贈った。たとえ今の自分が妬む神だとしても、君にその愛が伝わるようにね」

 

 ───そして、僕も君を愛している。

 父親はいっそ軽々しく、そう告げた。

 

「王の僕なら違っただろう。でも、羊飼いの僕ならこう言える。そして、生前は誰も言ってあげられなかったようだから、僕はこう言おう」

 

 震える背中を擦り、ゆっくりと言葉を流し込んでいく。

 

「……頑張ったね。あの時の君が空っぽで虚ろだったとしても、頑張ったのには間違いない。君は僕の誇りだよ」

「───っ。悪いものでも食べたんですか。はっきり言って気持ち悪いです」

「おや、反抗期かな? 良い良い、しかとこの胸で受け止めてあげよう」

「いや、これはマジです」

「…………」

 

 息子は父を突き飛ばし、首巻きを奪い取る。それを使って鼻をかむと、顔面に敗北感を露わにした。

 

「くっ、若い時の姿だから加齢臭とかない……!!!」

「僕は死ぬ間際までフレグランスな芳香を漂わせていたけど?」

 

 子は首巻きを投げ捨て、

 

「それじゃあ、終わりまで付き合ってください」

「うん。精々見送ってあげるさ」

 

 …………一歩、また一歩と進む度に、ソロモン王は消えていく。ソロモン王が積み上げた時間は虚ろになっていく。

 終わりの未来から始まりの過去へと。

 徐々に肉体は若返り、生まれる前の無に戻る。

 彼らはどこにでもいる親子のように手を繋いで、虚空へ足を進めた。

 生前は交わすことのできなかった、本心の言葉を掛け合いながら。

 

 

 

「ねえ、聞いておくれよ」

 

「なんだい? ソロモン」

 

「たくさん、楽しいことがあったんだ」

 

「ああ、聞かせておくれよ。君の、かけがえのない記憶(ものがたり)を」

 

「ああ、その前に、言っておかないと」

 

「……何かな?」

 

「───ボク、生まれてよかった」

 

「……そう、か。そうか。それは、よかった、なあ……!!」

 

 

 

 これは終わり。

 誰にも知られぬ最期のお話。

 ひとりの王様が、ひとりの人間が、迎えた結末。

 これは何もかも消えてなくなってしまうけれど。

 絶対に、この一瞬だけは他の何よりも、優しかった。



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第84話 Believer

「とにかく、時間稼ぎ承ったわ! とびっきりのパフォーマンスでハートブチ抜いてあげる!! あいにくアナタの出番はないわよ、アホ白髪魔術師!!!」

 

 凛と響き渡る宣言。エリザベート・バートリーはさらりと髪をなびかせ、星が飛び散るようなウィンクをすると、槍を地面に突き立てる。

 それは槍であって槍でなく。一番星の如く煌めくアイドルが、夢と希望をファンたちに伝えるためのメインウェポン。そして、かつて彼女が血の伯爵夫人として君臨した城が立ち現れ、ノアと立香は両耳の穴を手で閉ざした。

 次いで、マシュは耳を塞ぐ手がないことに気付き、最後の力を振り絞って、天敵が間近に迫った時のダチョウみたいに頭を地面に突っ込んだ。

 

「私の歌に酔い痴れなさい、『鮮血魔嬢(バートリ・エルジェーベト)』!! んボエエェェ〜〜♫♫」

 

 瞬間、強烈な衝撃波が拡散する。

 大地が波のようにたわみ、歪み、ついには耐え切れず爆散する。硬質の岩石を電子レンジにかけられた卵みたいに破裂させるその歌声は、かの怪獣王もかくやとばかりの音色だった。

 彼女の歌のおぞましさを知るEチームとベオウルフはすんでのところで防御していたものの、スサノオとコロンブスは真正面から歌声を受け止めてしまう。

 

「なんじゃあこの歌はァァァ!! ヤマタノオロチの咆哮がエレクトリカルパレードに聞こえるくらい酷いんじゃが!!?」

「見える、見えるぜ……サン・サルバドルの鮮やかな陸地がよォ……!!」

「そこのニート神とおっさん歯茎は黙ってなさい! これは私のライブよ、アナタたちに許されてるのは合いの手とペンライトぶんぶん丸だけなんだから!!」

 

 ゲーティアは思わず眉間にしわを寄せ、体表に無数の眼球を浮かび上がらせる。

 

「頭が愚劣なら口から吐く声は下劣極まる。そのふざけた宝具ごと燃え尽きろ!!」

 

 ソロモン王の死により、消滅の一途を辿るゲーティア。もはやここでEチームを斃そうとも、いずれ彼は跡形も消えてなくなる。既に勝利は失われ、求めることができる最上の結果は引き分けしかない。

 だというのなら。

 魔術式たるゲーティアは最善を手に入れるため、最適な一手を弾き出した。

 二度はない。

 去りゆく少女を引き止め、手を止めること。

 人類史という物語を熱量へと変換した一撃さえ耐え抜く盾。

 それらは理屈と理合を信じ、未来を見通す視野を持つゲーティアを狂わせた躊躇と誤算。

 ───どちらも、繰り返すことはない。

 

「『誕生の時きたれり、其は全てを修めるもの(アルス・アルマデル・サロモニス)』!!!」

 

 正真正銘、最後の真名解放。

 ソロモンは、ロマニ・アーキマンは、己の全てを擲った。後を託す仲間を信じ、人理焼却という悲劇を覆すために、自分にできる精一杯をやり遂げた。

 刻一刻と崩壊する自己。獣の真体を維持できているものの、数分数秒先にはそれさえも泡沫と化していてもおかしくはない。

 だが、ソロモンが何をも捨てたのなら、ゲーティアは何も手放さないことを選んだ。己が罪の象徴たる天上の光帯も、ソロモンより教わった魔術も。

 本来抗えぬはずの消滅を留めているのは、造り主への反抗と意地。強制退去術式を打ち込まれながらもこの心臓を穿った騎士のような、激しい渇望だった。

 

「な、なによアレ!? せっかくの私のライブが台無しじゃない!!」

「安心しろトカゲの嬢ちゃん。お前のライブは遅かれ早かれ台無しになるのが宿命だろ」

「もう少し地に足付いた生き方をすべきだな。俺みてえに」

「黙りなさい半裸ジーンズおっさんと横ラフムおっさん!!」

「横ラフムってただの歯茎ですよね!?」

 

 スサノオは舞い降りる極光をしげしげと眺め、獲物を前にした肉食獣のように微笑む。

 

「う〜む、これは死んだのぉ。姉ちゃんの核融合ビームにも勝る威容じゃな!」

「この瀬戸際で諦めてんじゃねえニート神! おまえがなんとかしろ!!」

「そうですよ! 前も任せろとか言って微妙な活躍だったんですから、良いとこ見せてください!!」

「いやはや、人草に頼られると弱いんじゃよな、儂。いっちょやってやるわい。それに、どうにもできないとは言っておらぬしな!!」

 

 スサノオは腰に佩いた剣を引き抜く。

 刀身の一部が欠けた青銅の剣。それなるは八つ首の怪物を討伐した神剣、天羽々斬。迫り来る極光を前に、その刀剣がそり返す光は一層照り映える。

 ゲーティアは稀なる剣の輝きを見据え、噛みつくように叫ぶ。

 

「無駄だ。この星に光帯の熱量を超える存在はあり得ない。ましてや今の貴様は神霊ならぬ英霊の規格! その身で何ができる!!」

「んなこたぁ知るかバァ〜カ!! 〝英霊のスペックじゃあ無理です〟だの、〝このビームは人類史の何よりも強いから無駄です〟だの、つくづくくだらねえと思わねえか!? そういうのは俺以外でやってろ!!」

「────傲慢な愚か者め!!」

「────姉ちゃんにも同じこと言われたよ!!」

 

 スサノオは猛り、刀を振りかぶる。

 

「『神剣────────」

 

 それは、紛れもない神話の再現。

 遥か遠き神代の時代、スサノオは天上にて悪行乱行の限りを尽くし、その報いとして手足の爪を抜かれ髭を切り取られて地上に追放された。

 誰も頼りとすべき者がいない、地上の世界。未だ豊葦原は天津神のモノでなく、国津神の法下なりしその地にとって、スサノオは異物でしかなかった。彼はたった独り出雲の船通山に降り立ち、孤独に生きることを定められたのだ。

 絹織物のように薄く細く、さらさらと流れる肥の川。スサノオの足取りはかつての支配域たる海原へ繋がる水の路を辿っていた。もはや帰ることも叶わぬ、二つの故郷を偲ぶように。

 その川のほとりで、彼はひとりの女神と出会う。

 艶がかった黒い髪の先を水に晒し、涙で袖を濡らす女。触れれば砕けてしまいそうなほどに儚げで、今にも消えそうなほどに落ち沈んだ風情。それを目の当たりにして、脳天に雷が落ちた。

 一目惚れ───には違わないのだが、その表現でもまだこの恋の衝撃を表すには心許ない。スサノオは初めて知る情動に支配され、女の目の前にしゃがみ込んだ。

 

〝お前を泣かせてんのはどこのどいつだ? 言え、それが何だろうと俺がこの手でブッ殺してきてやる〟

〝……アレは星の涙、星の怒り、星の嘆き。私たちの罪より生まれた、涙の龍。それ故、人や神にアレを弑することはできません〟

〝だが、俺にはできる。しかも誰も傷つけさせずにそいつを倒す。俺たちの罪から生まれたってんなら、せめて苦しませずに逝かせてやらねえとな。そしたら嫁になれ〟

〝─────…………はぃ?〟

 

 …………とまあ、なんやかんや色々あってヤマタノオロチを酔わせた上でぶっ殺した訳だが、ヤツを殺した者にしか分からぬということもある。

 あの龍は、星の涙だった。

 もしこの星が一個の生命体だとして、それには生物と相応の器官が存在する。星の臍、星の肺、そういうものが在るのだとしたら、ヤツはまさしく星が流した涙だ。

 人類は農耕という食糧自給の手段を得て、爆発的に数を増やした。土地を耕し、水を引き、作物を育てる。それは言うなれば自然の改変。元の場所にあった多数の生物を虐殺し、他所へ追い立て、自らの都合の良いように作り変える。

 故に星は嘆き、涙を流した。

 神を生贄とし、人を喰らう怪物ヤマタノオロチ。この星から産まれた全ての神と人への特攻概念を有する終末装置の如き最古の妖怪はしかし、神たるスサノオの手によって討たれた。

 神には討てぬはずの敵を、神が討ったのだ。

 それは何故か。八塩折之酒によって眠らされたから?───否、あくまで手段として選んだだけで、他の誰かが同じ手を取ったとしてもヤマタノオロチは斃せなかっただろう。

 かの魍魎は、スサノオにしか討てなかった。

 なぜなら、

 

「─────天羽々斬』!!!!」

 

 自身の全魔力、全霊基を叩き込んだ一刀。

 日ノ本の天地における最強の斬撃は、けして斬れぬはずの極光を真っ二つに切り裂いた。

 自らの宝具をも犠牲にする『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』。本来陽の目を見ることはないその力まで行使したスサノオの体と剣が、無数の金色の粒子となって解けていく。

 ゲーティアは骨肉を焦がすかの如き屈辱に打ち震え、大げさな手振りとともに叫んだ。

 

「貴、様───ッ!! 神たる貴様が星の熱量を凌駕するだと!? 無法無体極まる! この世を嘲笑う矛盾の体現!! そんなモノがあり得てたまるか!!」

「そりゃ心外ってやつだ! 今さっき言っただろうが、そういうのは俺以外でやってろとなァ!!!」

 

 ───なぜなら。

 ヤマタノオロチ討伐の神話は一説において、水害を鎮める治水業を表しているとされる。スサノオが降り立った奥出雲の船通山は斐伊川という川が流れており、奥出雲は古くはたたら製鉄が盛んに行われていた。

 製鉄には大量の炭を必要とする。古代の人々は斐伊川周辺の木を伐採し木炭を得ていたが、それは同時に洪水を引き起こすことにもなった。スサノオはヤマタノオロチを殺し、鉄剣である天叢雲剣を手にする。

 すなわち。スサノオは洪水という名の龍を討ち、製鉄業という名の天叢雲剣を手に入れた。彼は自然から産まれた神でありながら、ヒトのように自然を屈服させ、己が利益としたのだ。

 それこそが、彼の真の権能。

 嵐神としてではなく。

 海神としてでもなく。

 はたまた、厄神の相とは正反対に位置する究極の一。

 英雄神スサノオとしての権能────それは、()()()()()。星より生まれながらにして星を否定する、人間の如き矛盾の神性であった。

 故に、光帯は英雄神の一刀のもとに敗れ去った。ソレが星より産まれた人類の歴史を薪としていたがために。

 

「さあ征け、異国の勇者よ! 我らが愛しき未来の人草のため、その命を燃やし尽くすがよい!!」

 

 最期、スサノオの体はするりと解け、辺りに涼やかな旋風を棚引かせる。

 ベオウルフは風の勢いのままに駆けた。二振りの剣を投げ捨て、拳を握り締める。獣が牙を剥くように笑う彼の相貌は、猛き意気によって彩られていた。

 

「どこの神様か知らねえが、魅せてくれるじゃねえか! アンタは根っから人間(俺たち)のケツをぶっ叩いてくれる神様だったって訳だ!!」

 

 五体の血が滾る。

 心臓の鼓動が全身の隅々に響き渡る。

 闘争に不要な全てが抜け落ちていく。

 灼けた鉄を叩いて不純物を飛ばすように、ベオウルフはただそれを成す一点へと練り上げられていく。彼は肺の空気を搾り出し、固く握り締めた拳を振り抜いた。

 

「『源流闘争(グレンデル・バスター)』!!」

 

 全膂力全体重を乗せた一撃は獣の鳩尾を捉え、その巨躯を弾き飛ばす。

 ゲーティアは幾度となく土の上を転がり、右の五指を突き立てることでようやく停止する。既に眼前へと迫る英雄へと、獣は左腕を振るった。

 魔女に跡形もなく焼かれ、再構成した左腕。超高密度の魔力で取り繕ったそれは、命中すれば退去術式など流し込むまでもなく、触れたそばから対象を消滅させるだろう。

 それを、ベオウルフは避けもしなかった。

 

「んあっつゥッ!!? サウナ100時間耐久配信やった時より熱いんだけど!?」

 

 エリザベート・バートリー。彼女はステージを飛び出し、槍をもって光熱の拳を押し留めていた。しかし、得物の穂先はどろりと溶け、その肌を痛々しく焦がしている。

 ベオウルフの肉体は淀みなく動いていた。弧を描く回し蹴りがゲーティアの顎を打ち抜き、鼻っ柱にストレートを突き刺した。

 

「良い根性じゃねえかトカゲの嬢ちゃん! その意気で突っ込め!!」

「あったりまえでしょうが!! 私はここで伝説を残して芸能界を席巻してやるのよ!」

「お前みたいなキワモノキャラでそれは無理だろ。人類史最大級のプロデューサーである俺に任せりゃ今にもトップアイドルだぜ?」

「アンタがプロデュースしたのは奴隷じゃない!!!」

 

 エリザベートはゲーティアの間合いから離れた位置で応戦するコロンブスの髭を掴んで引き寄せる。

 彼女はそのまま腕を振るい、コロンブスを使ってゲーティアを殴りつけた。ぶちん、と毛根から髭が千切れ、地面に打ち捨てられたコロンブスは顎を押さえてのたうち回った。

 

「俺のダンディなヒゲがァァァ!! 伸ばすのにどんだけ掛かったと思ってんだ!?」

「ざまあないわね! 清潔感が増してよかったじゃない!」

「……ッ。真面目にやれ、英霊ども!!」

「分かってねえな、戦ってのは真面目にやるもんじゃねえ! 馬鹿笑いしながら暴れんのが醍醐味だろうが!!」

 

 ベオウルフが放った蹴撃がゲーティアの頬を穿つ。返しの右拳は身を反らすだけで躱され、反撃が伸び切った肘を砕く。

 その時、憐憫の獣は強烈な既視感を覚えた。

 この胸を貫いた騎士。左腕を奪った魔女。あらゆる能力で上回っていたにもかかわらず、奴らは食らいついてきた。あらゆる攻撃が通じなかった。単純な数値などでは表せない、意地だの根性だのの何かで。

 ───欲しい。

 その意地が。

 その根性が。

 盾の少女が、英雄神が見せた何かが。

 ソロモンの魔術式たる自分には望むべくもない、ヒトの心が生む何かが欲しい。

 縋りつくように拳を振るう。ベオウルフはその姿を見据え、唇の間から犬歯を覗かせる。

 

(───お前はもう、それを持ってる。ただ、気付いてないだけだ)

 

 拍子を打つように、ゲーティアの攻撃に対してカウンターを返す。

 スウェーデン・デンマークにおける伝説の王ベオウルフ。数多の物語の源流となった巨人殺し、竜殺しの英雄。彼の至高の武器は二振りの魔剣ではなく、巨人をも殴殺した天与の肉体だった。

 なればこそ、徒手による格闘こそがベオウルフの真髄。

 己以外の何も恃みにせず、俗世の全てを忘れ去り、戦いに没頭する。それが英雄の能力を最大限に引き出す状況であった─────

 

(───いいや、違うな)

 

 思い返すのは人生の終わり。

 国を荒らし、民を殺す火竜との戦い。

 とうに老い衰え、全盛期とは比較にならぬほどにさらばえた体で、それでもなお王は竜を打倒した。

 国を護るために。

 民を護るために。

 多くの人の平穏の背負い、それを護り抜くために戦ったから、竜種にだってか細い勝ち目を掴み取ることができた。

 

(そうだ。そうだろ。そうだったはずだ)

 

 結局、ベオウルフという英雄はそんな人間だった。顔も名も知らぬ誰かのために、誰かのためだからこそ全力で拳を振るうことができる。

 ならば、今この瞬間はベオウルフの真骨頂で最高潮で全盛期。

 その背に負うは全ての人の未来。

 故に、ベオウルフの拳は何よりも重く響く。

 

「────ッ」

 

 それは果たして、誰がこぼした声だったか。

 ざらり、とベオウルフの右手が金色の粒子と化して崩れる。

 サーヴァントが退去する際に見せる反応。彼はその拳足をもってゲーティアに触れ続けていた。それぞれは極一瞬の接触だとしても、幾度と重ねることでベオウルフには強制退去の術式が流れ込んでいたのだ。

 武器を使わぬ戦法が裏目に出た。そして、彼に術式が発動したのなら、ゲーティアが次に取るべき行動は決定していた。

 

「…………終わりだ」

 

 ゲーティアの掌中に浮かび上がる魔術式。

 それが解き放たれた瞬間、エリザベートとコロンブスの五体から金の粒子が立ち昇った。

 感染呪術。一度接触したものは離れても影響を及ぼし合うという魔術理論。ベオウルフと接触していたエリザベートとコロンブスは、共感の理論によって退去術式を浸透させられたのだ。

 消滅を迎えるのは数秒か数十秒か。

 三者は顔を見合わせ、

 

「「「まだ終わってねェェェェ!!!」」」

 

 それぞれの武器を、同時に叩きつけた。

 彼らは後退するゲーティアを追い、次々と攻撃を重ねていく。

 

「チート魔術も大概にしなさい、このデビルせんとくんが!! せっかくあのアホ白髪からギャラふんだくってやろうと思ったのに、私の計画がパァになっちゃったじゃない!!」

「終わりだなんて宣う暇があんならさっさとトドメを刺しておくんだったな!! 自分が不死だからって調子乗ってんのか!?」

「この程度で俺が退去すると思ったら大間違いだぜ魔術王よォ!! 仕方ねえ、大特価出血セールだ。今の内ならまだお前に寝返ってやってもいいぜ!?」

「「そこの歯茎はとっとと退去しろ!!!」」

 

 刻一刻と薄れていく存在。彼らはその事実を無視するかのように攻撃の密度を増加させていく。ゲーティアはそれらを防ぎ切りながら、激しく哮り立つ。

 

「くだらん! 貴様らが三人寄り集まろうと出てくるのは下卑た言葉ばかり……この命に届くものか!!」

「さあね! でも忘れたのかしら!? 私たちが今ここで戦ってる意味を!!」

 

 エリザベートは天に中指を突き立て、

 

「悔しいけど、センター交代よ! いい加減時間稼ぎは十分でしょ!!」

 

 空気に溶ける眼差し。ノアはそれを受け、ごきりと首を鳴らした。

 体内の淀みを排出するみたいに息を吐き、手袋を外して投げ捨てる。宝石をはめ込んだかのような碧い瞳は鋭い光を湛え、獣を突き刺す。

 ゲーティアの脳裏に滲む違和感。

 所詮は一介の魔術師。人間たちの中では飛び抜けた才能を有していようと、獣の真体に勝るはずはない。ソロモンの特攻さえなければ、今にも奴の命数を断っていただろう。

 違和感を覚えたのは、彼が纏う空気。

 柄の悪い目つきも振る舞いもそのままに、辺りへ振り撒いていた威圧感のようなものがまるきり消失している。

 しかし、それは内へと引っ込んだだけ。むしろ地中で煮えたぎるマグマのように胎動し、解放される瞬間を待っているのだ。

 その原因は体内を巡る魔力の流れ。一見して姿形は変わっていないが、その魔力はノアの全身をまるで清流のように、一切のロスを生じさせずに通っていた。

 ノアは告げる。

 

「ああ、十分だ。よくやった」

 

 一歩、二歩と歩き、地面に転がる指輪を手に取る。ソロモンならぬロマニ・アーキマンが造り、遺した指輪。ノアはそれを右手の人差し指に通した。

 

「───こっからは、ガチのタイマンだ」

 

 その時。

 ゲーティアは見た。

 ノアの背後。茫漠と広がる獣の星海。星々が点々と輝く宙域を、無数の黄金の軌跡が埋め尽くす。

 光条が織り成す、金色の流星雨。それらひとつひとつが神を殺し、不死を滅する絶死の閃光。絢爛なるヤドリギの乱舞を視界に収め、獣はその思考ごと魂の芯を凍りつかせた。

 消える。

 消える。

 消える。

 魔術式を構築する要素の何もかもが。憐憫の人類悪が内包する魂の数々が。永遠を否定する枝に貫かれ、成す術なく死んでいく。

 たったひとつ、残るのは死した七十二柱を統括する本体の魂のみ。すなわち、ゲーティアは抑え難い戦慄とともに、眼前に巻き起こる状況を把握する。

 

「時間稼ぎは、これが狙いか……!!」

「ダ・ヴィンチ風に言うなら『対終局特異点ひみつ道具、抹殺のラストウェポン ヤドリギ流星群』ってとこか。お互い体はひとつで魂もひとつ、これでようやく対等だ!!」

 

 

 

 

 

 ───生命院サブナック。八つの宙域の最終地点に位置する場所で、少女は旗を支えに荒々しい息を吐いた。

 顔の輪郭を伝う汗を拭い、Eチームとの別れ際に手渡された袋を握る。

 聖女ジャンヌ・ダルクは溶鉱炉より七つの宙域を渡り歩き、この場所に辿り着いた。その一部始終を知るギルガメッシュは苦笑じみた表情をして、鼻を鳴らした。

 

「神殺しのヤドリギによる全魔神の同時撃破。成程、あの獣を正面から倒すとなれば、その策しかあるまい。あの阿呆もそれなりに知恵は回るようだな」

「……は、はい、その通りです」

 

 ジャンヌはこくりと頷く。

 ノアに渡された袋に入っていたのは、残存する魔神と同数の七十一個のヤドリギだった。ジャンヌは各宙域を行脚し、サーヴァントたちに分けることで、この状況を作り出した。

 エルキドゥは空を縦横無尽に駆け巡る黄金の光を見上げる。

 

「だけど、彼の不死のカタチは魂の補充だろう? 本当に倒すつもりなら、彼も含めて一気にやるべきだったんじゃないか?」

 

 ゲーティアは七十二柱の魔神が群体を成した個体であり総体。彼らの一部にして彼らの心臓であるゲーティアは、たとえ何度魂が欠けようともそれを補充して復活させることができるのだ。

 いまや獣に七十二の魂は存在しない。在るのはゲーティアという名前と自己のみ。しかし、抜け殻であろうと存在する限りは再生の権能を失いはしない。

 ギルガメッシュはあらゆる未来を見通す眼を細め、

 

「神殺しのヤドリギとは死を以って魂の穢れを祓う浄罪の矢。即ち、再生を果たせば以前のそれとは異なる存在に成り果てる」

「音痴でヤンチャなガキ大将が劇場版だと良い男になる、みたいな具合かい?」

「…………然り。それでなくとも、奴は自己の変革を認めぬだろう。不変(えいえん)など無いのだと、己が証明することになるのだからな」

 

 くつり、とギルガメッシュは喉を鳴らす。その笑みは獣を嘲るようであり、劇を愉しむようであり、そして、紅き瞳に映る未来を弄ぶかのようだった。

 

「確たる自己など、まやかしに過ぎぬというのにな」

 

 

 

 

 

 …………白き魔術師は人類悪を睨めつける。

 かつて、世界を旅する前に造り替えた魔術回路。それをもう一度幼少の頃のカタチに作り戻した。

 魔力が体を巡る。迸り、爆ぜる力の流体が自然に内界を行き渡る。激流にも等しい魔力の瀑布は、その水滴ひとつ取りこぼさずに回路を循環する。

 魔術回路を美術館に喩えるなら、質は作品の出来で量は所蔵する作品の数だ。が、魔術回路を評価する指標は質と量だけではない。それこそが回路の編成。如何に高名な作家の作品を数多く取り揃えていようと、その配置が疎かなら、美術館としては不完全だ。

 つまるところ、ノアの魔術回路も同じだった。

 比類なき質と量を備えていながら、回路の編成は不自然。元の形を崩していた以上、造り替えた魔術回路が真価を発揮することはできない。

 ───ゲーティアは、それを見抜いていた。

 

「貴様は、今まで生半可な魔術回路で戦い抜いたということか」

「生半可だと? 俺の天才的な頭脳から出来た魔術回路を欠陥品みてえに言うんじゃねえ。今も昔も俺は完璧なんだよ!!」

「ほざけ、魔術師。生まれ持ったカタチを歪めるとはそういうことだ! 欠けた力で高みを目指す魔術師など、矛盾も甚だしい!」

「オイオイオイ、耳糞詰まってんのかおまえは。俺は欠けてなんかいねえ、今も昔も完璧だっつっただろうが!!」

 

 刹那、ノアは膨大な魔力を組み上げた術式にブチ込んだ。

 

「おまえは、ソロモンが遺した魔術で倒す」

 

 ソロモン王が創始した西洋魔術。

 グランドキャスターを偽称し、あらゆる魔術を支配する獣を弑する刃は、その魔術こそが相応しい。

 

「───〝偉大なる王。唯一無二の知恵を持つ者よ。貴方の決意に穢れはない〟」

 

 詠唱が紡がれる。

 それは心象を具象へと昇華する言霊。

 無へと還りし男へ捧ぐ、魔術師の詩であった。

 

「〝天と地において、貴方は貴方を信ずる人々を決して裏切りはしなかった〟」

 

 万全の状態だったのなら、その詠唱は小指一本動かさずとも止めることができただろう。だが、今や崩壊するゲーティアからはそんな権能は失われていた。

 故に、全力をもって詠唱を止める。魔術が発動する前に奴を屠り、決着をつける。

 獣は弾かれたように動き出す。

 

「『新天地探索航(サンタマリア・ドロップアンカー)』!!!」

 

 全身を束縛する鎖。現界を維持する魔力を消費しきり、コロンブスは高笑いを響かせた。

 

「ハッハァ!! 置土産ってやつだノアトゥール!! この借りは熨斗付けて返せ!!」

「ふざけんな。踏み倒すに決まってんだろ───〝貴方が自分に価値がないと言うのなら、私が貴方の価値を証明してみせよう。気高き王の、比類なき輝きを〟」

 

 ノアはゲーティアへと迫る。

 あの時、カルデアを焼いた男にそうしたように。

 

「〝黄金の陽光が丘の端に沈む時。小川の水面を太陽が照らす時。私はいつだって貴方を思い出す〟」

 

 巻き付く鎖が砕ける。大気を揺るがす魔力の発露。ノアの術式の完成を予感し、地面を踏みしめた瞬間、がくりと膝が崩れ落ちた。

 この身に幾度となく打ち込まれたベオウルフの打撃。その痛痒は確かにゲーティアの内に堆積し、ここに力を奪うに至ったのだ。

 ノアはゲーティアの目と鼻の先に到達する。獲物を喰らわんとする狼のように、彼は続く言の葉を唱える。

 

「〝そして、貴方は聞くだろう〟」

 

 魔術における秘奥。

 内界と外界を反転させる大魔術。

 自らの心をもって、現実を凌駕する御業。

 

「─────〝不滅の王への賛美を〟!!」

 

 心より解き放たれた幻想が今、現実を塗り潰す。

 

 

 

 

 

 

「『冠位指定(グランドオーダー)/未来福音(アルス・スブティリオル)』」

 

 

 

 

 

 

 魔術世界の最高位の名を以って、その世界は現れた。

 どこまでも続く一面の銀世界。混じり気のない純白の雪の中に埋もれる、いくつもの墓標。空は蒼く高く澄み渡り、天の中心には輝ける星───太陽が居座っている。

 星は全てを包み込むように、柔らかな陽光を放つ。一点の穢れもない雪面は光を優しく反り返し、世界を清らかな光で満たしていた。

 現実を喰らう幻想。

 具象化する心象。

 ───()()()()。この現実こそが、彼の心象風景を反映した世界だった。

 白銀の心象の最中。ノアは突き立つ墓標に積もる雪を手のひらに閉じ込め、五指で潰す。透明な水滴が指の間からこぼれ落ち、足元の雪を暗い色に染める。

 

「あの時、おまえに奪われたモノを取り返す」

 

 刺し殺すような眼差しが獣を射抜く。

 

「おまえは殺した。誰も彼も、何もかもをな。だから、こうして俺たちにやられる。夢や理想には叶え方ってのがあんだよ、それをおまえは間違えた」

「私の道を誤りと断ずるならば、示してみせろ。私がどこで間違い、何を見誤り、この終着に至ったのかを」

「自分で見つけろ。……と言いたいところだが、いいぜ、教えてやるよ。たけのこの里ときのこの山のどっちが美味いかってくらい簡単で単純な答えだ。一言で済む」

 

 ノアは唾を吐き捨てるように笑い、

 

「おまえは、独りだった。それがおまえが犯したたったひとつの間違いだ」

 

 名もなき墓標の頭を撫ぜた。

 まるで、自分の飼い犬を慈しむように。

 

「おまえは独りだったから、自分のやり方が過ちであることに気付かなかった。今ここにいない誰かを救うために、星の全員を焼き尽くすなんて本末転倒にも気付かなかった」

 

 ───だから。

 

「勝手に諦めて、勝手に見捨ててんじゃねえよアホが。せめて、誰かを知ろうとしてたら、この世には壊しちゃいけねえもんがひとつくらいはあるって思えたかもな」

 

 それは、自らを刺すような言葉だった。

 ゲーティアは他人ではない。

 いつか、どこか、今まで生きてきた道の中で何かが食い違っていれば、きっとこうなっていた。何にも意味を見出だせず、手当たりしだいに誰かを焼く。そうなっていたはずだから。

 けれど、それは考えても仕方のないことだ。この自分は何人ものかけがえのない人々と出会い、別れて、こうしてここにいる。

 そんな奇跡は、自分にだって否定させやしない。

 ゲーティアの脳裏に言葉が蘇る。

 

〝───人間と向き合うことから逃げたな、ゲーティア〟

 

 ひとりで理屈をこねくり回して突っ走って、辿り着いた末はこの結果。全員が幸せになってほしいと願い、今を生きるみんなを切り捨てた。

 本当に救うべきは、本当に救われるべきは、そんな切り捨てられた者たちのはずだったのに。

 ノアは右手を横に伸ばす。ばきり、と光の断面が空間を割き、それは柱のように立ち昇っていく。

 

「俺はおまえを全力で殺す。だから、おまえも俺を全力で殺しに来い」

「貴様らしくない言葉だ。貴様は今まで敵の意思や目的を踏み躙るかのように振る舞い、その通りに勝利してきた。私に全力を求める意味など無いと、知っているはずだ」

「違えよ馬鹿。おまえが俺の行動の意味を決めんな。どんな奴にも戦う理由がある。その理由を形振り構わずぶつけ合うのが戦いだろ」

 

 それに、とノアは微笑んだ。

 

「───おまえがここで諦めたら、今まで努力し続けたおまえの想いが無駄になるだろうが」

 

 そうして、ゲーティアは理解する。

 この人間が戦いにおいても傍若無人に振る舞うのは、そのためだったのだと。

 誰にだって戦う理由はある。そのために他人が命を懸ける理由を踏み躙る覚悟がある。

 彼はそれを知っていた。

 知っていたから、どんな相手にも全力を引き出そうとする。戦いである以上勝敗は必ず存在し、逃れることはできない。ならばせめて、敵が懸けた想いを引き継がなければならない。

 誰も何も切り捨てず、根源に向かうという理想があるから。

 それは、彼にとっては敵でさえも例外ではなかったのだ。

 故に、ゲーティアは微笑った。

 

「……不器用な男だ。誰も彼をも切り捨てた私でさえも、お前は見捨てることができないのだな」

「勘違いするなよ。おまえは俺の部下(げぼく)になるはずだった奴らを殺した。俺が敬意を払うのは、おまえが理想を果たそうとした意思だけだ」

「その末に、敗けるとしてもか」

「ナメんな。俺が敗けるわけねえだろ」

 

 ゲーティアの魔術回路が奔る。

 発火する魔力は術式によってカタチを得、彼の戦意を火薬として発射された。

 小細工を排除した魔力の砲弾。魔術師が、ましてや人間が防げるはずもない純粋な力の塊。それが、ノアの頭部へ飛翔する。

 

「盾」

 

 簡潔な一言。ぐにゅりと空間が渦巻き、不定形の防壁を形成する。砲弾が渦の盾に着弾し、音も立てずにどこかへと吸い込まれていった。

 ノアは光の断層を掴む右手に満身の力を込める。

 

「『これは絶対に命中する』。『刺された者は必ず死滅する』。そして、『光の速度を超えて翔ぶ』」

 

 光の柱が花開く。複雑な幾何学模様を描いて空間へ広がり、位相を侵食していく。織り紡がれる光彩は一本の樹のようだった。

 ───無属性魔術。現世ではあり得ない事象・事物を創造する、黒妖精の秘儀。ノアが紡ぐ言霊は創造物の性質を決定するものだと、ゲーティアは直感した。

 だが、その内容があり得ない。

 『絶対に』、『必ず』なんて性質を付与すれば、それは世界に否められ、実体を得る前に消えてしまう。かつて、ノアが立香の前で『絶対に壊れず、インクが尽きないボールペン』を創ろうとして失敗したように。

 だからあり得ない───と、否定する感情を、ゲーティアは回転させた思考で叩き潰した。

 

「そうか、それは道理だ。現世では否定される性質であっても、貴様の世界ではそれが通る!! 認めよう、この結界とその魔術は冠位を戴くに相応しい───!!」

「上から目線で物を言ってんじゃねえ!! おまえは吠え面かく準備だけしておけ!!」

 

 ノアは言霊を重ねる。

 

「『これは因果を外れ』、『マイナス1秒で放たれる』。『移動経路は十一次元であり』、『誰にも止めることはできない』」

 

 子どもがチラシの上に綴るような、荒唐無稽で実現不可能な絵空事。けれど、だからこそ、どんな理屈をもってしても否定できない無上の幻想。それは、この世界だけに存在することを許された。

 ばさり、と羽音が鳴り響く。

 澄み切った青空を旋回する二羽の烏。

 この世界にとっての異物を、ノアは忌々しげに睨めつけた。

 

「…………見てんじゃねえよ、親馬鹿野郎」

 

 そして、ノアは決定した。

 この幻想が得るべき名前を。

 煌めく幾何学模様が束ねられ、一本の槍を象る。

 

 

 

「─────『極光星槍(グングニル)』!!」

 

 

 

 北欧神話最強の槍の名を冠したソレは、この世界でのみ原典を遥かに超越していた。

 抗う手段など存在しない。神としての全能を失い、搭載されたあらゆる機能を壊され、自身を構成する七十二の魂を奪われたゲーティアがこの世界に囚われた時点で、敗北は決まりきっていた。

 胸を貫く光槍。

 死滅の理が牙を剥く。

 魔神王ゲーティアは敗北した。

 どこにも文句をつけるところはなく。

 決定的に、憐憫の獣は負けて死んだ。

 世界が閉じる。内界と外界が入れ替わる。

 崩れゆく宙域に勝者だけが残されて、未来を奪い返す戦いは終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──────まだだ!!!!」

 

 それでも、彼は立ち上がった。

 獣の真体を捨て去り。

 どんな理屈も理合も乗り越えて。

 ゲーティアは、人間としてこの天地を踏みしめた。

 

「私の獣性は崩れ去り、私の理想は破滅した。文句のつけようもなく私は負けた。───だが!! 私は人として、お前たちに勝ちを譲るわけにはいかない……!!!」

 

 意地と根性で、我が身を現世に繋ぎ止める。

 もはや手を下さずとも、この肉体は自壊する。───だからどうした。そんなことは敗北を受け容れる理由にはならない。たとえ醜くとも、魂の一片まで燃やし尽くして戦い抜く。

 それが、ソロモンを継ぐ魔術師が敵に望むことだから。

 

「ハッ! そりゃそうだ、俺だってそうする! んな死に体で何ができんのか見物だなァ!!」

「抜かせ! 貴様とて底は見えている!! 魔力の尽きかけた体で何ができる!!」

 

 ノアは立香を庇うように立ちはだかる。頬を伝う汗は彼の限界を示していた。ただでさえ魔力を消費する無属性魔術と固有結界の併用。しかも、無茶な性質を付与したせいで、ノアの膨大な魔力は底を尽きかけている。

 立香は体温の抜けたノアの手を握って、

 

「え、あれだけ大口叩いておいて仕留め損ねたんですか!? というか魔力全ツッパするとか正気じゃないんですけど!!」

「黙ってろ立香! んなこと言う暇があんなら、おまえの魔力寄越しやがれ!」

「り、リーダー……魔力供給なんてハレンチなこと、わたしは絶対に認めませんよ……」

「俺がいつおまえに発言を許可したってんだ!? ボケなすびは大人しく気絶してろ!! 立香、髪飾り渡せ!!」

 

 立香は慌てて髪留めを抜き取り、ノアにパスする。彼はそれを右の手首に通すと、もう片方の手で立香を背後に下がらせる。

 ノアは深く息を吸い、一瞬で吐く。いつもみたいに意地の悪い獰猛な笑みで、少女に告げた。

 

「おまえは、俺が護る」

 

 ずきりと心臓が跳ねて、立香は言った。

 

「あの、マシュは?」

「そいつもおまけで護ってやるよ。人間ひとりとなすび一本くれえ、俺には造作もない」

「……き、帰還したらボコボコにします」

「それを言う余裕があんなら心配はいらねえな。そこで見とけ」

 

 莫大な魔術式が天空に紡がれていく。

 もはやゲーティアにあるのは、ソロモンの指輪と彼から与えられた魔術の知識のみ。

 故にこそ、人王ゲーティアが振るう力はソロモンのそれに等しい。最期の最期、肉体にも魂魄にも魔力は残っていなかったが、その事実を足蹴にして魔術式を形成する。

 そう、彼は、とうに理屈を超えていた。

 本来あり得ぬ復活。どこにもない魔力を捻り出す異常。残り数秒の人生に、ゲーティアは奇跡を実現する。

 ───古き獣の真体は捨てた。

 たとえ刹那の内に終わるとしても、この新しいヒトの生こそを私は肯定する。

 

「これが私の────アルス・ノヴァだ!!!」

 

 完成した魔術を解き放つ。

 因果を超越したエネルギーの奔流。自己を余すことなく消費し尽くした、散華の一撃。ノアトゥールは術式を用意することもなく、ただ、仁王立ちする。

 

〝キミも、自分を許していいんだ。大切な人を亡くしたのは絶対にキミのせいなんかじゃない。……あの雪の中に、打ち捨てた自分を拾いに戻っても良いんだよ〟

 

 ───ああ。分かったよ。おまえがそう言うなら、俺は逃げたりなんかしない。

 時間が止まる。

 時間が巻き戻る。

 全てを失ったあの時に自己が還る。

 憎たらしいほどに星が眩く瞬く夜の闇。しんしんと雪が降り積もる森の中。吐く息が白く色付き、鋭い冷気が肌に刺さる。

 さくり、さくり、と歩を進める。凍てついた夜闇の底で、墓標に縋る小さな影があった。それは全身を雪で白く染め上げ、声にもならない声を垂れ流していた。

 喉は張り裂け、血を撒き散らしている。

 目の血管が破れ、赤い赤い涙を流している。

 だというのに、体の隅々から血を掻き集めて、絶え間なくそれを排出していた。まるで、温かな血を流し切って凍りつこうとしているかのように。

 でも、それで良かった。

 魂の芯まで凍って、誰にも見つからずに死んでいくのが、ユリとリッカにできる償いだったから。

 ゆっくりと歩いて、ついに彼の元に辿り着く。雪に埋もれた少年は息が白くなるほどの温度も持たず、震えることもできずに血を垂らしていた。

 地面に膝をつき、少年に降り積もる雪を振り払う。まぶたから痛々しい跡を刻む血の線を拭い、温度のない体を抱き寄せる。

 強く強く、自分のあたたかさを分け与えるように、彼を抱き留める。

 彼は何も持っていない。全てを失った。

 だけど、今、ここにいる自分は。

 たくさんの人たちと逢って、たくさんのあたたかさを受け取ったから。

 誰も彼に熱を与えないというのなら、自分が彼にそれを注ごう。アリスの婆さんが言ってくれたみたいに。

 

〝…………バルデルス〟

 

 忌むべきその名を、優しく呼びかける。

 

〝置いていって、すまなかった〟

 

 おまえは俺で、俺はおまえで、俺は俺だ。

 神がどうだの人がどうだの、知ったことか。

 もう二度と、忌々しくても、神たる己を捨てたりはしない。

 誰も見捨てない。それは自分が決めたことだから。

 青白く冷えた指先に力が籠もる。

 弱々しい力は腕へと昇り、そっと背を抱き返す。

 

〝───うん〟

 

 

 

 

 

「『神体化・断罪の光明(アルス・テウルギア・バルドル)』!!!」

 

 

 

 

 

 体表を彩る真紅の紋様。

 背後に顕れる日の光輪。

 はじまりの魔法使いが生誕する以前、神代の現象を再現する神代回帰の現出。絶対無敵にして完全無謬の光神バルドルが、現世に再生する。

 ヤドリギの他、ありとあらゆる世界の全てに侵されぬ肉体。ノアはバルドルと化した身を呈して、ゲーティアの一撃を受け止めた。

 だけど、ゲーティアは止まりはしない。

 バルドルを倒す手段はないというのに、それでも、手を止めるわけにはいかなかった。

 なぜなら、この瞬間だけが人たるゲーティアに許された生の時間。一秒一瞬でも生を長く繋ぎ留め、勝利を掴もうとする。

 産声とともに死んでいく命。ノアは狂おしいまでの閃光を見つめる。

 ───半ばで終わらせはしない。全て受け切って、ここに生きた命の想いを背負ってみせる。

 

〝あいつは、必死で生きてるんだ。たとえ短くても自分の人生を生きて、死のうとしてる〟

〝……そうだな〟

〝おまえは───そうか、生き方はもう決まってるんだった。ただ、ありのままで……そうして生きて、ここまで来た〟

〝話は手っ取り早くしろ。何が言いたい〟

 

 バルデルスは落ち着いた声音で問い掛ける。

 

〝ノアトゥール。おまえは、どうやって死にたい?〟

 

 ノアは艶やかに表情を綻ばせて、

 

「決まってんだろ。部屋が満杯になるくらいたくさんのガキと孫に看取られて、穏やかに息を引き取ってやるよ!!」

 

 光の奔流を押し返す。

 拳を叩きつけ、真っ二つに引き裂く。

 ゲーティアは唇を噛み切り、なけなしの魔力を即興の術式に移し替える。

 

「───く、っ。まだ……!!」

「いいや、終わりだ」

 

 ノアは振り向き、笑って告げた。

 

「あとは、おまえがやれ」

 

 少女は既に走り出していた。

 ひとり、ゲーティアの一撃を受け止める彼の背を追って。彼が護り抜くと言ったのだから、力の一欠片も通さないと信じて。

 すれ違いざま、立香は叫ぶように応えた。

 

「───はい!!」

 

 右手を強く握り固め、投げつけるような勢いで振り切る。

 拳に走る衝撃は自身の反動とは思えないほどに重く、びりびりと感覚を痺れさせる。だとしても、ゲーティアが今まで受けてきた英霊の一撃には程遠いけれど。

 彼の体はその一刺しでひび割れ、ガラスみたいに砕けた。

 

「…………ああ、くそ。私の敗けか」

「とか言って、復活したりしませんよね」

「できることならしたいものだが。それは野暮というやつだろう。足掻いてなお、私は敗けた。この結果は紛れもなく、お前たちの成果だ」

「だったら、本当に終わりなんですね」

 

 ゲーティアは首肯する。

 

「勝ち取った未来を、生きるがいい。人類最後のマスターよ。お前の幸福は、誰にも渡すな」

 

 ざ、と砂が風に吹かれるように、ゲーティアは消滅する。それと同時、地面をひっくり返すかのような地鳴りが足元を揺らした。

 地面が砕け、空間が割れる。玉座を残して全てが塵に還っていく。

 立香は思わず尻もちをつきかけたところを、ノアに受け止められる。彼女は青褪めた顔をして、なんとか言葉を口にした。

 

「リーダー、もしかしてこれって」

「…………勇者が魔王を倒した時のお決まりパターンだ」

「うわあああああやっぱり!! 魔王の城が崩壊するやつですよね!? アレフガルドに閉じ込められるやつですよね!? 嫌ですよ私は!!」

「喚く余力があるなら心配いらねえな。全速力でアリアハン───カルデアに帰るぞ!!」

 

 ゲーティアという最後の楔さえも失った時間神殿。この特異点はソロモンの消滅に手引きされ、一気に崩れようとしている。これに巻き込まれれば良くて即死、悪くて異次元を永遠に彷徨うことになるだろう。

 マシュは完全に気を失い、日向の猫みたいにぐったりと伸び切っていた。立香は急いでマシュを背負い、ノアは放置されていた盾を引きずる。

 

「くそ、重たすぎるだろこのクソ盾!! おいやっぱ捨てていくか!?」

「でも、それがないとカルデアの召喚サークルがなくなっちゃうんじゃないですか!?」

「……だったら、円卓の部分だけ取り外して他は置いていく。キリエライトには上手く言っておけ」

「なんで私が!?」

 

 ノアは立ち止まり、力尽くで盾の核である円卓を引き剥がそうとする。すると、立香が背負っていたマシュの左足がひとりでに動き、ノアの頭を打った。

 彼は盾をげしりと踏みつけて、

 

「よし、そいつも置いてくぞ。盾と一緒ならそこのなすびも本望だろ」

「寝言は寝て言ってください。だいたい、いつものリーダーなら馬鹿力でなんとかするじゃないですか。気の利いた魔術とかないんですか?」

「久々に神体化術式を使ったせいで魔術回路に反動がきてる。神代回帰のおかげで魔力は満タンだが……数分寝ていいか?」

「駄目に決まってるんですけど!!?」

 

 ぎゃあぎゃあと喚き散らかすノアと立香。そんな愚にもつかないやり取り繰り返す二人に、聞き馴染んだ声がかかる。

 

「こんな時にまで何やってんだお前ら。盾は持ってってやるから、さっさと逃げるぞ」

「言うなれば、Eチーム愛の逃避行ですわ〜〜っ!!」

「そこのなすびは私に預けなさい。ふてぶてしく育ち切ったせいで重いでしょうから」

「あ、じゃあノアさんは私を背負ってくれませんかねえ。ステータス的に遅れるのは目に見えてるんで」

 

 立香とノアはまぶたを限界まで見開いて、口をあんぐりと開ける。ほんの風情も感慨もなく、さも当然であるかのように唐突に、Eチームのサーヴァントたちが視線の先にいた。

 マスターコンビは顔を見合わせると、口元を手で隠してぼそぼそと喋り出す。

 

「リーダー、これ絶対罠ですよね。エリートのEを冠するEチームのサーヴァントが、こんな感動もへったくれもない再会するはずないです」

「たまには良いこと言うじゃねえか。騙されるなよ藤丸。あいつらがいくらアホでも物語の妙味くらいは弁えてるだろうからな」

「くっ! 私たちの仲間の姿を使うなんて、これをやったのは全裸陰陽師やサクラに匹敵するゲスじゃないですか……!!」

「貴重な時間使ってまでアホを見せつけないでくれますぅ!? 私たちは頭のてっぺんから足の爪先までモノホンよ!!」

 

 ジャンヌは立香とノアの頭上に鉄拳を落とす。なんとか意識を保ったノアに対し、立香は見事に撃沈する。ジャンヌはマシュと立香の首根っこを掴み、大股で進み出した。

 一方、悶絶するノアの両脇をペレアスとダンテが支え上げる。ノアは舌打ちし、口をとがらせて言う。

 

「……どういう風の吹き回しだ。俺は自力で歩ける」

「とのことですが、どう思いますかペレアスさん」

「現代で言うツンデレってやつか? マスターはマスターらしくサーヴァントの手を借りてろ」

「そもそも、おまえらどうやってここに来た?」

 

 リースは端的に答える。

 

「気付いたら召喚されてましたわ」

「オレとリースの愛がなせる業、ってわけじゃなさそうだな」

「きゃーっ!!♡♡ そんなことを言われるなんて、嬉しすぎてゲロ吐きそうですわぁーっ!!♡♡♡」

「「…………」」

 

 ノアとダンテは同時に足元に唾を吐き捨てた。

 愚にもつかないやり取りを繰り返しながら、Eチームはカルデアへの道を辿っていく。そんな珍道中を見て、彼女は腹の底からため息をついた。

 

「───……はぁ。本当に、しょうがない人たちですねぇ」

 

 黒白の偽神、サクラ。ふよふよと空中を漂う少女は、白い髪の毛先を指に巻く。眉根を寄せて、頬を膨らませるその表情はその不機嫌さを大いに表している。

 

「私の手にかかれば、英霊召喚なんてちょちょいのちょい……なんですが、感謝されないのもそれはそれでムカつくというか? いえ、別に誰かに褒められたかったとかそういうんじゃないですけど?」

 

 まあいいか、と黒白の少女は身を翻す。

 

「ひとつ、貸しということで。あっちのアホ白髪はクソほどどうでもいいとして……いずれ必ず取り立てますからね────立香さん」

 

 くすくす、とサクラは微笑む。

 それは、かつての人類を嘲笑う悪辣ではなく。

 初めて恋を知った乙女が想い人を慕うような、蕩けた顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〝起きなさい───起きるのです、マシュ・キリエライトよ〟

 

 微睡む意識の中で、そんな声が響き渡る。

 最近のわたしはこういった謎空間には造詣が深い。その経験値を活かして勢い良く跳ね起きると、そこにはフォウさんがちょこんと座っていました。

 彼? のことを知らない人たちに説明すると、この謎生物は現カルデアの大人気マスコットキャラクター優雅なおじさんに次ぐ第二のアイドル、フォウくんです。一部では文字数稼ぎの魔術師とも言われています。

 

〝待って? ボクは優雅なおじさんを超えるマスコットだよ? 紅茶飲むしか能がないおっさんと比べられること自体が異常なんだけど?〟

 

 という謎生物ジョークを繰り出すフォウさんは流石と言わざるを得ません。優雅なおじさんさえいなければ、カルデアの天下を取っていたという言説は間違いではなかったようです。

 

〝殴っていいかなぁ!?〟

 

 ところで、フォウさんはなぜこんなところに?

 今更人語を話せるようになってイメチェンをしようとしても、手遅れがすぎると思うのですが。

 

〝人語に関しては今後ムニエルと合体して手に入れるから良いとして……今回は、マシュにちょっとしたご褒美を与えようと思うんだ〟

 

 そうですか。ではいただくとしましょう。早急にお願いします。

 

〝え、質問とかないの!? ボク一応キャスパリーグって言って、第四のビースト───〟

 

 それを訊いたとしても、わたしにとってはフォウさんはフォウさんです。たとえ普段のゲスな喋り方を辞めて猫を被っているとしても、その事実は揺るぎませんから。

 まあ、質問と言えばひとつ、あるにはあります。

 

〝なんだい?〟

 

 どうしてフォウさんは、マーリンさんに辛辣だったんですか?

 

〝ビーストⅣは『比較』の獣。人類が持つ『他者より優れたい』、『他者に勝りたい』、『他者の上に立ちたい』といった心を喰らって成長する。だからボクは人の世を避けて、あの花びら野郎がいるアヴァロンの塔に引き篭もっていたんだけど〟

 

 だけど?

 

〝王様の悔いのない最期を見てテンション上がったアイツが、美しいものを見てこいとかほざいて地上数百メートルから紐なしバンジーさせられてね。やり返す機会を虎視眈々と狙っていたんだよ〟

 

 なるほど。よく分かりました。フォウさんの塩対応の理由が。

 

〝だろう?〟

 

 ええ────フォウさんはなんだかんだで塔の生活も気に入っていたのに、無理やり追放させられたから拗ねて怒っていたのですね。

 

〝──────…………………いや、ナイ! それだけはナイ! 断じてありえない!! 王様が殿方の悦ばせ方を知ってるくらいありえない!!!〟

 

 語るに落ちましたね。で、そろそろ元の場所に帰してくれますか。

 

〝くっ! ええい、ままよ! キミの体も魂も寿命も、なんかいい感じになりたまえ!!〟

 

 ───そうして、意識は光の中に引き戻されていく。

 明滅する視界。強い光に目の奥が刺激されて、思わず涙が滲む。ぼんやりと霞む目を、焼け落ちたはずの右手で擦った。

 そこで気付く。自分の体の軽さに。魂を燃やしたが故の圧倒的な気怠さは露と消え、肉体が意思より先んじているみたいに滑らかに駆動する。

 近い内に死を迎えると宣告されていたその身は、それが嘘のように絶好調だった。

 しかし、そのことを喜ぶ間もなく。

 

「───マシュ!!」

 

 たったひとりのマスターに、体当りされるみたいに抱き締められた。

 わけの分からないままに辺りを見回すと、そこは見慣れた医務室で。カルデアのみんなが、ひとつの寝台をぞろぞろと取り囲んでいる。

 マシュは己が主を抱き返して、みんなに聞こえるように言った。

 

「…………マシュ・キリエライト、ただいま完全体となって戻ってきました!!」

 

 すっかり狭くなった医務室が、声で割れるんじゃないかと心配になるくらいに揺れる。

 白き獣はその光景を余すことなく網膜に焼き付けるために、離れた場所でそれを眺めていた。

 ───美しいものに触れてきなさい。

 花の魔術師はあの時そう言った。

 このカルデアで送った日常は確かにかけがえのないものだったけれど、美しいかと言われると大いに疑問が残る。

 だけど。

 もうそんなことは、どうでもいい。

 どうでもよくなるくらい、彼らは馬鹿馬鹿しくて愉快だった。

 だからきっと、これで良いのだと思う。

 ボクが数百年間溜めた力は、この瞬間のためにあったのだろう。

 これこそが、彼らが命懸けで掴んだ未来だ。

 …………第四の獣は何も傷つけることすらなく、人知れず討伐された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終局特異点での戦いを終えて。

 人理焼却は否定され、外界は元通りにその形を取り戻した。カルデアの管制室は瞬く間に事態の説明を求める外部からの通信音で埋め尽くされ、けたたましい音響に支配された。

 それに対して、カルデアの全職員が取った行動は〝少しは休ませろ〟というメッセージを送り返し、自室に退散することだった。国連や魔術協会からすればたまったものではないが、現実的に、戦いを終えた直後で働ける人員はどこにもいなかったのである。

 静寂に満たされたカルデア。立香は開戦前に取り付けた約束の通り、自室にノアを呼びつけていた。

 部屋の隅に設置された寝台に、二人並んで腰掛ける。彼らは数分の間、一言も交わさずにそうしていた。立香はようやく意を決して、口を開く。

 

「終わりましたね」

 

「ああ。とりあえずはな」

 

「外に出たら真っ先に何します?」

 

「今週のジャンプ買いに行く」

 

「いや、購買とか電子とかで何とかなるじゃないですか。もっと特別なこととかないんですか」

 

「それだったら─────まずは墓参りだな。おまえにデンマークとロンドンの歩き方ってのを教えてやる」

 

「ノアの歩き方とか期待できそうにないですけど、一応楽しみにしててあげます。お供え物とかは?」

 

「…………ホットケーキミックスでもぶっかけてやれ」

 

「マジですか、最高のお供え物じゃないですか。私なら地面の下から這いずり出てくるくらいですよ」

 

「何言ってんだこのバケモノ?」

 

 そこで、会話が途切れて。

 立香はノアの二の腕辺りの服をつまんで、

 

「ところで、なんですけど」

 

 燃えるみたいに熱くなった顔を伏せて、小さく言う。

 

 

 

「好きです」

 

 

 

 どくりどくりと、心臓が収縮する。

 指先の感覚がおぼろげになり、どれだけ息を吸っても酸素を取り込んでいる気がしない。響く静寂が鼓膜を揺らし、カメラのピントを絞るみたいに視界が狭まった。

 ノアの沈黙は数秒。絞首台に登らされた囚人のような気持ちで彼の返答を待つ。視界を遮る前髪の隙間から、彼の唇が動き出そうとしたのを見て、ぎゅっと目を閉じる。

 そして、

 

「知ってた」

「え゙」

 

 一気に立香は開眼する。ノアの横顔を見上げると、その眼差しはこちらではないどこかへ向けられていた。

 ───いつから、どうして。

 そんな、か細いうめき声みたいな言葉が喉を抜け出す。対照的に、ノアは平坦な声音で答えを返す。

 

「ウルクの研究室でぶっ倒れた時、同じようなことを言ってただろ。俺に聞こえてないとでも思ったか」

 

 ああ、なるほど。と、立香は自らの失策を思い知る。それと同時に爆ぜるような熱が身中で炸裂し、上半身だけを横に倒して枕に顔を埋めた。

 

「うぐおおおおおごごごごご!!!!」

 

 藤丸立香、一生の不覚。中学二年生の時分、吸血鬼に憧れてトマトジュースを常飲していた黒歴史よりも抹消したい過去が、猛烈に羞恥心を掻き立てる。

 一分もの間そうして、彼女の精神はヤケクソの域に到達し、枕を勢い良くベッドに叩きつける。立香は即座に振り返って、ノアに詰め寄った。

 

「はい! じゃあ話は終わりです! おしまい!! 解散!!!」

「本当にそれでいいのか?」

 

 え、と口の端から音が漏れる。

 ノアの両手が立香の両肩を捕まえる。自身の手が子どものそれに見えるくらい大きな手。血管が浮き、骨ばった手の感触に、思わず射竦められてしまう。

 

「ひとつ、条件がある」

 

 こくりと、意味も理解しないままに頷く。

 

「おまえは、俺だけのものだ」

 

 なんで彼もこの気持ちに至ったのか。気にはなったけれど、どうせ語ってはくれないだろうから、その碧い瞳と優しい声音だけを信じて。

 でも、一方的にやられるのは癪だったから、思い切って言い返した。

 

「それなら、あなたも私だけのものです」

 

 ノアは微笑む。

 今まで、誰にも見せたことのない艶めいた顔で。

 

「それで良い」

 

 右手が離れ、立香の顔の端を撫ぜるようにあてがわれる。

 ずい、と顔が今にも触れ合いそうなくらいに近付いて、反射的に目を閉じたその時、暗闇の中で鼓膜が揺れた。

 

「────おまえが、責任を取れ」

 

 そして、両者の距離は零になった。

 触れ合った時間は決して長くはない。

 軽く押し付け、ゆっくりと離れる。

 たったそれだけの口づけ。

 立香はうっすらと目を開けて、未だ至近距離にある彼へと問うた。

 

「ど、どどどどうでしたか」

「…………鼻息が鬱陶しい」

「はああ!? 乙女のファーストキスがその感想とか許されざるんですけど!! やり直しを所望します───っ!!」

 

 言いつつ、立香は唇を尖らせて突撃する。

 直後、ガチン、という音が鳴り響く。あまりの勢いに前歯同士が衝突し、鈍い痛みを迸らせた。

 

「痛えなアホが!! 人がせっかく真面目にやってやろうとしたのに台無しにしやがって!!」

「いーえ、これはノアが悪いです!! 感触とかより前に鼻息のこと言うとか流石はノンデリカシーの化身ですね!!」

「うるせえ!! くそ、こんなんでシメにしてたまるか! 今度は早とちんじゃねえぞ!!」

「それはこっちの台詞です!!」

 

 気を取り直して、息を整える。

 再度、二人の距離は極限まで狭まった。

 ふに、と唇が触れ合う感触。蛇のように舌が滑り込み、おずおずと歯を開いて受け容れる。

 押し付けられるそれを必死に受け止め、絡み合い、時になぞり返す。しばらくして名残惜しげに距離は離れていき、荒い息とともに感想を述べた。

 

「「これはこれで何か行き過ぎてる気がする────!!!」」

 

 …………結局、この二人に真っ当な始まりなんて期待できなくて。

 だが、まあ、それでいいと、ノアは自分を納得させる。

 もう、目の前のこいつは俺のもので。誰にも渡さないし、俺の側以外の何処にも行かせはしない。それはどうしようもなく決定している。

 だから、いつから立香のことを想うようになったのかなんて、考える意味はない。順序を辿っていけば見つかるのかもしれないが、目の前の現実が俺の全てだ。

 こいつはいつの間にか、俺の心の大半を占めるようになって、気付けば誰よりも特別な位置を掻っ攫っていって、こいつがいない未来なんて考えられなくなってしまった。このぬくもりを手放せなくなってしまった。

 俺が立香を求める理由なんて、つまるところはそんなもの。

 そんな理由だとしても、俺はコイツのためになら何度だって世界を救える。

 

 ───それは、自らの熱で互いが互いを融かすような。

 

 ただ、ひとつ気掛かりがあるとすれば。

 俺はこいつを壊さずに■することができるのか。

 最初の記憶は自分にまたがり、首を絞めてくる母親の姿。才能を奪われたと自分を憎む弟と、俺を人とも思っていなかった父親と一族に囲まれて育って。

 俺の初めての友達と、ユリとリッカと、アンナと、アリスの婆さんと────みんなと出逢うことで、ようやく■を受け取ることができた。でも、それはあまりに美しすぎて。自分がそれを注がれているという現実でさえ、まるで夢みたいで実感がなかった。

 そんな、正しい■し方も、正しい■され方も知らない人間が、こんなにも大切な人を得て、正しく■せるとは思えない。

 

 ───互いの吐息が混ざる。悩ましげに眉を寄せる立香は手を伸ばし、ノアの頬に伝う涙を拭き取る。

 

「…………大丈夫」

 

 気丈に微笑む口元と、縋りつくように自分を見上げる潤んだ瞳。それで、心臓が締め付けられるような気がして、考えもせずに口走った。

 

「……この先、何度も言わないことだから、よく聴け」

「……だったら、私は何度だって言わせてみせます」

 

 ■し方を知らなくても。

 ■され方を知らなくても。

 これだけは間違いなく真実だから、

 

 

 

 

「────愛してる」

 

 

 

 

 誰にも心の底から言わなかった、言えなかったその言葉を、初めて告げることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。次回から三話ほど番外編を挟んで、最終章となります。是非お付き合いくださると幸いです。


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断章 騎士と詩人と魔術師の昔話
番外編その一 湖の乙女の花嫁修業と下っ端騎士の奮闘記


思ったよりも時間がかかってしまいました。できれば11月には最終章前編に入りたいと思います。


 アーサー王伝説。

 選定の剣を抜き、王となったアーサーを取り巻くこの物語には数え切れないほどの異文(ヴァリアント)が存在する。むしろ、異文しかないと表現するのが正しいかもしれないし、原典しかないと言い換えることもできるだろう。

 なぜなら、人によってどの異文を選び、どの原典を参照するかは当然それぞれの手に委ねられている。さらにその受け取り方まで異なるとなれば、差異が発生するのも道理だ。そもそも、唯一無二の正典を決めること自体が他の全ての物語を切り捨てる、限りなく残酷で愚かな行為と言えよう。

 アーサー王が関わる物語の中には、さりげなくぶっ飛んだものもある。

 例えば、神の召命を受けて聖杯探索に出掛けたアーサー王一行が、襲ってきた殺人ウサギを手榴弾で爆殺したり。

 例えば、バールで殴られた男がアーサー王の時代に転移して、現代の異世界モノみたいに八面六臂の大活躍を見せたり。

 細かいところで言えば、ガウェインの性格が陰湿で狡猾なゲスになっていたり、発狂したトリスタンがどこぞのシャルルマーニュ十二勇士の如く全裸になったり、なぜかモルガンとカエサルの間に子がいてしかもその子がオベロンだったり、ペレアスが寝取られて寝込んだり、ペレアスが寝取られて放浪したり…………などなど、各所に目を向けると枚挙に暇がない。

 これは、そんな異文で異聞の物語。

 無数の可能性のうちのひとつ。

 ───幼い頃、妖精たちがあたくしに語ってくれたように、その物語をお教えいたしましょう。古くから妖精の住まう島ブリテンで、彼ら彼女らが見聞きした騎士たちの物語を。

 語り部は僭越ながらあたくし、()()()()()()()()()()()が務めさせていただきます。お好きなお菓子と飲み物を用意して、上司からの連絡はブッチして、ペットがいるならそれを抱いて、耳の穴かっぽじってよくお聞きになりやがれくださいませ。

 あたくし、最も嫌いなことのひとつが話を無視されることなので。人の話を聞かないおファ○クな輩は全員、水妖に沈められれば良いと思っていますの。

 …………準備はよろしくて? 途中退席はお排泄物だけしか認めねえですので、あしからず。

 それでは、『湖の乙女の花嫁修業と下っ端騎士の奮闘記』の、はじまりはじまり─────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブリテン島、キャメロット。

 ペレアスが王城に招聘され、結婚式とハネムーンを終えて数日。彼は王様から城下町の郊外にある屋敷を賜り、領地をしばし後にして、そこを根城としていた。

 領地から連れてきたものはそう多くはない。エタードの城で飼われていたが、リースが引き取った魔獣と愛馬と従者のアルフ、そしてお手伝いさんくらいなもの。少数精鋭と言えば聞こえは良いが、単に人手が少ないだけである。

 しかも、そこに来て事件が発生する。ペレアス邸のお手伝いさん(八十五歳)がぎっくり腰を発症。リースの魔術により治癒はしたものの、再発の恐れがあるということでキャメロットには着いてこれなくなってしまった。

 だがしかし。そんなことでめげてはいられない。アーサー王の手により諸侯は統一されたが、北の異民族を筆頭として問題は山積しているのだ。

 時に。領主は自分の土地にあるお城やお屋敷に住まうものだが、様々な事情で領地を離れて出掛けなければいけないことがある。

 その間、お城の諸々の雑務や普段領主が担当していた仕事の一切が、妻の差配に委ねられる。つまり、夫が不在の間、家を切り盛りするのは妻の仕事なのだ。

 

「そう────妻である私のっ!!!♡♡♡」

 

 とある日の早朝、ペレアス邸。夫が宮廷に出掛けていくのを熱烈なキスによって見送った湖の乙女。彼女は熱に浮かされたような顔に両手を当て、くねくねと体をよじらせた。

 ペレアスの妻、すなわちリース。どんな世界線でもどんな歴史でもたったひとりの伴侶。リースはそのことを再度認識し、身悶えする。

 無双の騎士ランスロットを育て、王に星の聖剣エクスカリバーを授けた精霊。王都の酒場では夜な夜な吟遊詩人が彼女のことを唄っているものの、ここにあるのはただの色ボケだった。吟遊詩人の芸も浮かばれまい。

 

「お、奥様。正気に戻ってください!」

 

 と、リースのドピンクな思考を白紙に戻すかのような一石が投じられる。沼に沈みつつあったリースを引き戻したのは、まだあどけなさの残る少女だった。

 エプロンドレスを身に纏うその様はまさしく、どこからどう見てもデキる使用人そのもの。彼女こそは泣く泣くキャメロットへの出仕を見送ったお手伝いさんの八人目の孫であり、名をマーヤと言う。持ち前の器量と真面目さで、ペレアスの領地でも評判だった乙女だ。

 リースはけろりと表情を元に戻すと、人差し指の先を下唇に当てて、首を傾げた。

 

「あら、マーヤさん。お早いお目覚めですわね。もう少し寝ていても良いのですよ?」

「いえ、ご主人の方々より遅く起きるメイドなんてメイドの名折れです! それに今日は忙しくなる予定ですので!!」

「予定ですか? 今日は特に何もなかったと思いますが……」

「はい。僭越ながら、私が勝手に決めさせていただきました!」

 

 マーヤは両手を振ると、それぞれの指の間にはたきや焼き串などの家事用品が挟まれていた。まるで手品師の手並みである。

 

「───今日は、奥様の花嫁修業に当てさせていただきます!!」

 

 花嫁修業。リースはその響きを耳にして、やにわに頬を紅潮させた。

 

「花嫁修業……!! 確かに、花嫁なりたてホヤホヤの私には必要なことですわ! マーヤさん、私は何をすれば良いのです!?」

「やる気十分のようで何よりです。時に奥様は、家事の三本柱をご存知ですか」

「それはつまり───夜伽というこ」

「違います。というか三本柱と言いましたよね。なんでひとつなんですか。原始人の家ですか」

 

 こほん、とマーヤは気を取り直して、

 

「家事の基本は掃除・洗濯・料理。他にも雑事はたくさんありますが、とりあえずこの三つを押さえておけば問題ありません。聞くところによると、奥様は例の事件の際に侍女として潜入していたそうですが」

 

 リースはこくりと首肯する。

 例の事件とは言うまでもなく、ペレアスとガウェインのアレである。王都では官民問わずに笑い話として持ち切りになり、王が一部始終を聞いた時は鋼鉄のような表情が一瞬泣き笑いしたと言われる事件だ。

 リースは一時期件の婦人の城に侍女として入り込み、彼女の身の回りを任されるほどになっていた。そのことから、多少の心得はあるのではないかとマーヤは考えたのだった。

 

「ふふふ、伊達に1000年生きてませんから! お掃除とお洗濯は大得意ですわ!」

「そうですか。それでは、まずその二つから奥様のお手前を拝見しましょう」

「分かりましたわ。マーヤさん、こちらへどうぞ」

 

 リースはゆるりとマーヤの手を引いて、自らの側に立たせる。陶磁器のようにつややかでひんやりとした指の感触。たった一度触れただけで自分たち人間とは違うことを思い知らされ、マーヤはどきまぎする。

 そのせいで、彼女は気付かなかった。二人の周囲を丸く取り囲むように水が湧き出していたことに。

 水は瞬く間に膨張すると、濁流の如き物量と勢いで拡散し、屋敷を呑み込んだ。

 けたたましい音を立てて窓という窓が割れ、扉が開け放たれ、外界へと水が流れ出す。家財のことごとくが水流に浚われ、屋敷の外に広がる草原にガラクタの山が出来上がった。

 マーヤはあんぐりと口を開けて、

 

「…………これのどこがお掃除とお洗濯なんですか!!?」

「かのギリシャ神話の大英雄ヘラクレスはアウゲイアス王から家畜小屋の掃除を頼まれた時、川の流れを変えて丸洗いしたそうです。私もそれに倣ってみましたわ」

「そんな大英雄的な発想は誰も求めてないのですが!? 掃除というより一掃ですし!!」

「まるでノアの方舟ですわね」

「命の掃除────!!!」

 

 マーヤはがっくりと崩れ落ちた。そして同時に思い知る。精霊と人間の違いとはその能力の差や存在の差にあるのではなく、思考そのものにあるのだと。

 たとえ同じ力を持っていたとしても、家を丸ごと水洗いしようと考える人間は少ないだろう。ヘラクレスのような純正ギリシャ脳大英雄はともかく、精霊は発想のスケールからして人間とは一線を画しているのだ。

 マーヤの小市民的な脳みそはペレアスへの言い訳やこれからの再就職に思いを馳せる。夏の湿った熱気みたいにまとわりつく絶望を味わっていると、リースは水で象ったワンド───ハリー・ポ○ターに出てくる形の杖である───を振るった。

 すると、見るも無残な姿になった屋敷が時間を巻き戻すように修復され、家財も元通りに配置されていく。水気もすっきり抜かれて、屋敷はまるで新品同然になる。

 

「どうですかマーヤさん! 私の花嫁ぶりは!! これでようやく夜伽のターンですわね!?」

「そんなもの最初からありません! だいたい、そういうのは私には教えられな────」

 

 ごとん、とマーヤの言葉を遮るような物音が立つ。反射的に振り返った視線の先には、見知らぬ女性が水浸しの状態で横たわっていた。

 彼女の後ろには戸が放たれたクローゼット。そこから水の跡が点々と続いている。察するに、この女性はクローゼットから出てきたのだろう。

 彼女は肩で息をしながら立ち上がると、顔面にねっとりとした笑みをへばりつかせた。 

 

「奥様。閨事ならばこの私めにお任せくださいませ。太陽の騎士すら手球に取った手練手管を伝授して差し上げましょう……!!」

 

 マーヤはその言い草に強烈な心当たりを覚えた。無意識に口端がひくつき、己が疑念を言葉にする。

 

「この人、もしかしてエタード婦じ」

「いえ、我が家の屋敷妖精ことター子ちゃんですわ。特技はストーキングと媚薬作りです。どこぞの尻軽魔女とは何の関係もありません」

「太陽の騎士ってもしかしなくてもガウェイン卿……」

「きっとY字ポーズしてる人の方ですわ」

「誰のことですか!?」

 

 というツッコミを無視して、リースはター子ちゃんをおすわりさせる。かつての従僕である魔獣に紛れて、与えられた骨をかじるター子ちゃんの姿に人の尊厳はなかった。この家の闇を垣間見たマーヤは本日二度目の咳払いをした。

 

「と、とにかく。奥様にはヘラクレス流ではない、真っ当な掃除と洗濯の仕方を身に着けてもらいます」

「ですが、いちいち屋敷を回るよりも楽ちんですわ。マーヤさんのお手間も減ると思いますし」

「お言葉ですが奥様がしたことはどうせ後で生き返るからと言って、犠牲を見過ごすようなものです。〝でぇじょうぶだ、魔術で元に戻る〟と言っているようなものです。スーパーブリテン人です」

「な、なるほど?」

 

 リースは落ち着きながらも鋭い剣幕でまくし立てるマーヤに底知れぬ抗い難さを感じた。精霊とて人間に押し切られる時はあるのである。

 かくして、マーヤとリースは掃除&洗濯の練習に取り掛かった。ヘラクレス流掃除術の効果は覿面で、およそ目に見える場所はホコリひとつ存在しないくらい綺麗に洗い流されていた。

 が、やはりカバーしきれない部分はある。屋根裏や床下は汚れが残っており、前者に至っては手入れされていないも同然だった。

 各所を移動する間にも屋敷妖精(人間)ことター子ちゃんは、飼い主にまとわりつく犬のように追従してきていた。手持ち無沙汰な様子を見て、マーヤは掃除用具を差し出す。

 

「エタ……ター子ちゃんもやりますか?」

 

 ター子ちゃんははん、と鼻で笑い、

 

「は? そんな下女がやるような仕事を私にさせるつもり? 立場の違いってのをイチから学び直してきなさい、小娘」

「こらっ! マーヤさんにナメた言葉遣いをしてはいけませんわ! また媚薬製造ノルマを増やされたいのですか!?」

「クゥ〜ン……」

「えぇ……」

 

 悲しげな表情で面を伏せるター子。よほどリースに調教されているのか、ヒトが滅多に見せることのない本気の絶望で顔面が彩られている。

 この時、マーヤは心の底から思う。

 

(転職しようかな)

 

 ───そして、奇遇にも同じ思考を辿っている男がいた。

 場所はキャメロット、森を切り拓いた練兵場。その名の通り、王に仕える騎士たちが自身の技を磨き、仲間と切磋琢磨する特別な場所である。

 だが、この場所には曰くがあった。

 曰くとなる話の主人公は狂犬騎士ラモラックといつでもどこでも居眠りできるトリスタンの二人。ある日、ラモラックは馬上槍試合にて数十人の騎士を鎧袖一触に伏し、トリスタンに対戦の要求を持ちかけた。

 

〝トリスタン。貴様の名声は今やこの島全土に及んでいる。この世ならざる妖弦の使い手とな。おれと戦う覚悟はあるか〟

〝無論。……と言いたいところですが、貴方は既に多くの騎士を倒しています。技を競うなら、万全の貴方と戦いたい〟

〝ほう、たかだか数十人程度でおれが疲弊したとでも? 戦う価値もないと言いたいのかトリスタン〟

〝そ、そうではなく。何度も戦っている相手と連戦、というのは騎士道にも悖る行いでしょう〟

〝成程、貴様の言い分はよく分かった。決闘から逃げるなら、おれにも考えがある〟

 

 不穏な空気を残しつつ、その場は諍いもそこそこに幕を閉じた。しかし後日、ラモラックがトリスタンの恋人であるイゾルデに送りつけた贈り物が争いを招くこととなる。

 それは『不貞者が飲むと中身がこぼれる杯』という品だった。つまり、ラモラックは〝イゾルデが不貞を犯している〟と挑発したのだ。

 結果、トリスタンは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の騎士を除かねばならぬと決意した。王は人の心がわからぬ。トリスタンは、湖の海女である────ということで、

 

〝表に出なさい、ラモラック。卿の下劣な品性を我がフェイルノートにて叩き直して差し上げましょう〟

〝ようやくやる気になったか。おれの方こそ貴様の目をこじ開けて、一生まばたきができないようにしてやる。……ああ、ところで、杯は傾いたかね?〟

〝───その首が地に転がっても今の言葉を吐けるか見物ですね〟

〝───閉じているのか開いているのかも曖昧なその目で見れるのか? トリスタン〟

 

 ラモラックとトリスタンは三日三晩、血で血を洗う殺し合いを繰り広げた。そうして昔のジャンプ漫画よろしく、二人は互いの強さを認め合い、友誼を交わすこととなったのである。

 なぜ今こんな話をしたかと言うと。

 

「良いぞペレアス!! 貴様は中々に見所がある! おれに一撃を加えられる日もそう遠くはないだろう!! それが今であると嬉しいのだがな!!」

「気が早えんだよ堪え性なしが!! そんなにぶった斬られてえならそうしてやるから、大人しく棒立ちしてろ!!」

「ハッ、男が棒立ちするのは夜だけで十分だ!!」

「兄上!! 日の高い内から下ネタは言わないと、このパーシヴァルと約束したでしょう! 弟は悲しんでいますよ!!」

(めっちゃ転職したい)

 

 満身創痍で地面に転がされたペレアスの従騎士アルフは、半ば白目を剥いて達観する。

 およそ半分になり、おまけに天地が逆転した視界。そこに映るのは自分のように死屍累々と転がる仲間たちと、もみくちゃに圧し合う三人の騎士だった。

 ひとりは自らの主君。そして、一度はアーサー王も下したペリノア王が誇る息子たち、ラモラックとパーシヴァルである。

 マウントポジションを取るラモラックに対し、ペレアスは必死にガードポジションを維持していた。パーシヴァルは負けじと二人の間に筋骨隆々とした肉体を挟み込む。

 ラモラックとペレアスにサンドイッチされた状態から、パーシヴァルは筋肉の唸りで二人を引き剥がす。アルフの目には一瞬、パーシヴァルの体が膨れ上がったように見えた。

 

「兄上、ペレアス卿、今朝の訓練はここまでです! この場所で『狂犬ラモラックのツッパリ伝説』を増やすわけにはいきません!」

「ふ、仕方がない。弟の顔に免じて、午前はこれで切り上げてやる」

「午後も来るなよ? ……つうか、アンタ他にも伝説築いてやがんのか?」

「知らんな、周りが勝手に言っているだけだ。なあ、パーシヴァル?」

 

 と、兄に会話の流れを振られ、パーシヴァルは苦虫を噛み潰すような微笑をした。やんちゃな兄を持つ弟は必然的にその尻拭いをする役に回らされる。円卓の騎士と言えど、それは例外ではないのだ。

 

「ま、まあ、それはともかくとして。ペレアス卿に見所があるのは確かです。見習い騎士たちからの評判も良いと聞きました」

「地味な者同士で共感でもしたのか?」

「おい」

「いえ、ペレアス卿の訓練は教え方が分かりやすくて良いと伺いました。なんでも、〝ガウェイン卿やランスロット卿は天才すぎて超理論も甚だしい〟とか〝ようやく真っ当な技を教えてくれる人が来た〟、〝地味だけど地味に分かりやすいので地味に助かる〟などといった好評が……」

「待て、最後のやつここに連れてこい!! 地味キャラの誹りなんか受けてたまるか!!」

 

 ペレアスは吠えるように指摘した。なお、彼がいくら地味キャラの誹りを否定しようとそれが覆ることはない。死後においてもそれは決定している。

 無論、現在のペレアスがそんなことを知るはずもなく。彼は瞳の中に野望の炎をぎらぎらと滾らせた。

 

「見てろ、オレだっていつかド派手な剣だの技だのを手に入れて、叙事詩に語られるくらいの活躍をしてやる……!!」

「皮算用だな。貴様は色物枠として隅に置かれるのが上等だ。身の程を知れ」

「アンタみてえな狂犬に言われたくねえよ! 少しは後輩を応援する姿勢を見せてみろ!!」

「わ、私は応援していますよ。ペレアス卿ならば、いずれ我らと席を共にする時もやってくるでしょう」

 

 パーシヴァルはペレアスの背中を叩いて元気付ける。優しい手つきと声音は兄とはまるで真逆な振る舞いだ。

 ラモラックとは王都に来た初日から喧嘩を売り買いした仲だが、パーシヴァルは一方的にボコボコにされていたペレアスを助けに入った恩がある。

 ペレアスはその時から抱いていた疑問を口にした。

 

「……アンタら、本当に兄弟か?」

「腹違いだがな。ちなみにもう二人の弟も同じだ」

「はい。全員目元が似ていると昔からよく言われます。兄弟仲も良好ですよ、最近は四人で魔獣狩りに出掛けました」

「複雑な家庭のくせに、よくあるお家騒動もなかったんだな。それだけペリノア王と……パーシヴァルが優秀だったのか」

「貴様、なぜおれを外した?」

 

 ラモラックは槍の刺突にも劣らぬ鋭さの眼光を飛ばした。理由は誰にも明白だったが、ペレアスはあえてそれを告げることはしなかった。口にしたが最後、悪夢の第二ラウンドが幕を開けるのは見えているからだ。

 しかも、ペレアスには重要な仕事がある。朝の訓練を終えた後は、その仕事に向かわなくてはならなかった。ラモラックとの喧嘩に時間を使っている暇はない。

 屍山血河と化した練兵場の後片付けをアルフに任せ、出ていこうとしたその時。ラモラックはくつりくつりと喉を鳴らし、若き騎士の背に声を投げかけた。

 

「───精々気張れ。貴様が行く場所はこの国で最も複雑な家庭だ。呑まれるなよ」

「行ってこい、くらい普通に言えねえのかアンタは!?」

 

 ペレアスに任された仕事。それは王妃ギネヴィアの護衛であった。元々、一介の田舎騎士が就くにはあまりに破格の大抜擢である。当然、王妃の護衛には数人の騎士でもって当たるため、単独ではないが。

 王都に来て以来、彼女の名を聞かぬ日はなかった。ある者は王妃の麗しきを謳い、ある者は王妃を竜に捧げられた生贄と憐れむ。

 評判には好悪入り混じるのが人の世の常だ。ペレアスは方々から聞こえてくる意見を己の内に蓄えずに受け流していた。が、同時に無視できない他人の評判というものもある。

 

「来たかペレアス卿。鍛錬の様子は聞こえていた。無事で何よりだ」

「お気遣い感謝致します、アイアンサイド───イロンシッド? 卿」

「どちらでも構わぬ。所詮は発音の違いだ。敬語もよせ、我らの立場は同じなのだからな」

 

 それがこの男、アイアンサイド。またはイロンシッド。元は異国の騎士であり、『赤い騎士』という異名で呼ばれていた。

 彼はかつての恋人の兄弟が円卓の騎士に殺された恨みを果たすため、アーサー王の配下を手当たり次第に襲っては、根城の森にその遺体をぶら下げる蛮行を繰り返していた。しかし、彼が幽閉していた貴婦人を救いに来たガレスとの決闘に敗れ、彼女に忠誠を誓うようになる。

 人の心はそう簡単には変わらない。その根っこが憎悪ならば尚更だ。そんな前情報からして、ペレアスはアイアンサイドを警戒していたのだが。

 

「先日ガレス様から異国の葡萄酒をいただいた。俺では飲み切れぬ故、後ほど貴殿に贈りたい。伴侶と共に愉しむと良い」

 

 意外や意外、彼はどこに出しても恥ずかしくない騎士だった。少なくとも、先程盛大に喧嘩してきたラモラックとは比べ物にならないほどに。

 人は見掛けによらない───使い古されたその文句がようやく実感として理解できた。ガレスから彼を紹介された初対面の時は、丁寧に菓子折りまで持ってきていたというのだから、警戒も失せようというものである。

 

「そりゃありがたい。是非いただくとするよ。……王妃様は?」

「身支度の最中だ。それが終わり次第、王の代理として諸侯との会談、教会との折衝、民の謁見その他諸々がある」

「つまり、今日も忙しいってことか」

「不満か?」

「いいや、そっちの方がやりがいがある。本当に大変なのは王妃様だしな」

 

 そう、お姫様という職業は世間で夢見られているほど楽な仕事ではない。

 王の代理を任されることは多く、社交の場においてはともすれば王以上の影響力を持つ。その双肩にかかる重圧は余人には想像もできないだろう。

 王妃の寝室を目の前にした通路。ペレアスとアイアンサイドは背後に気配を感じ取る。彼らは通路の途中の曲がり角に向かって、聞こえるように会話を続けた。

 

「───うむ。王妃様はよくやっておられる。余人の共感能わぬ大役を日々成し遂げておられるのだからな。王も鼻が高いだろう」

「まったくだな。あんなに頑張ってる人はなかなかいない。生憎オレにとってはリースがダントツ一番だが、この世で二番目に美しい女性だと思うぜ」

 

 歯が浮くような褒め言葉を次々と羅列するペレアスとアイアンサイド。すると、曲がり角から居心地が悪そうにギネヴィア王妃が現れる。

 彼女は頬を紅く染め、スカートをぎしりと握り締めていた。

 

「…………気付いてました?」

「「もちろん」」

「むう、流石は百戦錬磨の騎士様。ちょっと驚かそうとした私が間違いでした」

 

 アイアンサイドは淡々と言う。

 

「我々はイタズラも大歓迎ですが、相手は選ぶことを勧めます。特にアグラヴェイン卿やアグラヴェイン卿などですね」

「ええ、それとアグラヴェイン卿には気を付けた方がよろしいかと」

「全員同一人物なのですが……忠告、しかと受け取りました。朝からあの気が滅入る毒舌を聞かされては敵いませんので」

 

 ギネヴィア王妃は虚空に視線を投げ、頬を指で掻いた。どうやら、アグラヴェインには大分痛い目に遭わされているらしい。

 ペレアスは思う。王妃という仰々しい肩書きはあれど、ギネヴィアはどこにでもいる普通の人間だ。話に語られる彼女は言わば虚像。他者が求めているのはそれに相違ないが、護衛としてこの実像だけは失わせてはいけない、と。

 ギネヴィアへ述べた賛辞は冗談であっても嘘ではない。彼女は王妃という分厚い仮面をよく保っている。自分たちに垣間見せた素顔が薄れてしまうほどに。

 せめて、それが薄れて削れて擦り切れて、無くなってしまわないように。ただし、それができるとしたら自分ではなく、王の他にいないと───────

 

「────、あ」

 

 議場へと移動する途上。ギネヴィアは小さく声を漏らした。

 

「お久しぶりです、ギネヴィア王妃。少し見ない間に一段とお美しくなられましたね。ペレアス卿が貴女の側にいることで、義母上も気が気でないでしょう」

 

 湖の騎士、ランスロット。円卓最強を謳われる騎士はさらりと照れくさい言葉を吐いてみせた。ギネヴィアはくすりと笑って、ペレアスを流し見る。

 

「まあ、お上手ね。精霊と言うくらいだから私のことなんて眼中に無いと思うのだけれど、リースさんは嫉妬深い方なのかしら?」

「心配は不要です。私が他の女性に心を傾けるなど有り得ないことを知っていますので。むしろ気の良い言葉ばかり垂れるランスロット卿こそリースに叱られると思いますが」

「あらお熱いこと。ランスロット卿、刺されないように注意してくださいね」

「それこそ心配は不要です。刺された程度で斃れるほどヤワな鍛え方はしていませんから」

 

 ランスロットはドンと胸を叩いた。その前に刺されない対策をする、というのは彼の頭にはないらしい。もっとも、万が一そんな事態になったとしても、ランスロットなら一瞬で制圧してしまうだろうが。

 

「ところで、大陸からの食糧支援のことなのですが─────」

 

 そこで、ペレアスは違和感を覚えた。

 それは既視感と言っても誤りではない。

 ギネヴィアの声に、瞳に、一挙一動に、

 

〝ペレアス様。胸はもっと大きい方がお好みですか?〟

〝媚薬です。ずずいっとお召し上がりくださいませ!!〟

〝子どもの数は最低でも馬上槍試合で団体戦できるくらい欲しいですわよね?〟

 

 彼女のような、艶が乗っていた。

 言われなければ気付かないような違和感。気付いてなお、心の迷いと切り捨ててしまえるほどの微かな色。あでやかな色が、ギネヴィアの実像に滲んでいる。

 脳裏によぎる、一抹の邪推。口に出せば、即座に吊るし上げられるであろう下世話な想像。けれど、ペレアスがその疑念を振り切るには多少の時間を要した。

 …………結局、午前の仕事は何事もなく終了した。諸侯との生き馬の目を抜くかのような会議も、教会勢力との厄介な交渉も、王妃は難なく果たしてみせた。そうして、しばしの休憩が言い渡された時のことである。

 

「───はあぁ〜〜〜…………!!」

 

 練兵場の隅。訓練用の武具が積み重なる場所に紛れるようにして、ペレアスは盛大なため息を吐き出した。

 息に乗せて吐こうとしたものは二つ。ギネヴィアに対する邪推と、堅苦しい場の中に置かれ続けた鬱屈とした感情だ。

 騎士として一通りの礼儀は押さえているが、宮廷となれば求められる振る舞いはそれこそ一挙一動に及ぶ。普段使わない筋肉を使い、ペレアスは妙な気怠さを感じていた。

 そんな首から下とは別に、脳内は例の疑惑で埋め尽くされていた。ペレアスは思考にこびりつくそれを振って落とすかの如く、頭を左右に行き来させた。

 

「…………うん、ねえな。絶対にない」

「───何が無いんだ?」

 

 ペレアスの独り言に反応したのは、王の義兄ケイ卿。腕っぷしはそこそこだが、異文の記述(キルッフとオルウェン)では手のひらから火種を放ち、機嫌次第で背が伸び、長時間水の中に潜っていられるという、某配管工の如き騎士だ。

 ペレアスはどこか遠くに視線を投げつつ、ニヒルな笑みを浮かべた。

 

「いえ……恋って、人を盲目にしますよね…………」

「お前が言うと説得力がすごい……」

 

 まあ、確かに。と言って、ケイ卿はペレアスの横に腰を落ち着ける。

 

「俺たちの王様が産まれた経緯を知ってるか」

 

 ペレアスは首を横に振った。

 

「ウーサー・ペンドラゴンはマーリンの魔術でコーンウォール公ゴルロイスに化けて、妻のイグレインを襲った。その落胤が王だ」

 

 さらにその際、ウーサーは自軍をコーンウォールに攻めさせており、戦いの中でゴルロイスは命を落としている。勝利の後、ウーサーは正当な戦利品としてイグレインを娶った。

 俗に言う略奪婚。この時代ではそう珍しくもない事例だが、ペレアスは眉根を寄せて口角を歪める。

 

「はっきり言ってクソじゃないですか」

「俺もそう思う。少なくとも今生きてるマーリンも処刑されるべきだと思う」

「そうですね。で、それをオレに教えてよかったんですか。オレのトラウマ知ってますよね?」

「寝てから言え。……言ってもいいから教えたんだよ。湖の乙女と関係を持ってるお前なら、もっと深いことも知れるだろうしな」

 

 今にして思えば王の義兄であり、王の武者修行に付き添った彼は全てを知っていたのだろう。

 マーリンとウーサーが、王を作った理由。何者にも明かせぬ王の秘密。それらを知りながら、ケイは運命を変える術を持たなかった。

 ケイは舌戦に長けている。口論に勝つ鉄則は相手の弱みと破綻を見抜き、容赦なく突き続けることだ。

 剣才の代わりに与えられた弁論の才。弱みを見抜く眼力をもってすれば、ギネヴィアとランスロットの関係を察することも可能だったのかもしれない。

 

「ウーサーは必要だったからあいつを作ったのかもしれないがな。他に女はいくらでもいるはずなのに、わざわざ敵国の妃を狙った。恋ってのは人を狂わせる毒みたいなもんだと思わねえか?」

「毒と薬は紙一重とも言いますよね。特に酒場の看板娘を連日ナンパしてるケイ卿が言うと説得力がないようなあるような……」

「待って、ペレアスくん。それどこで知ったのかな。誰にも言ってないよね。腹減ってるか? 俺が奢るけど。やっぱ肉か? 肉がいいか?」

 

 で。

 太陽が空の玉座を月に明け渡す時間帯。地平線の向こう側に沈んでいく陽の光を追い越すかのような勢いで、ペレアスとアルフは帰宅を果たした。無論、ラモラックの来襲を警戒してのことである。

 彼らが自宅の扉を開けたその時、

 

「お帰りなさいませペレアス様っ! 今日は私手ずから料理をお作り致しましたわ!!」

「マジか、それは楽しみだ。何を作ったんだ?」

「ふふふ、まだ内緒ですわ。さあ、どうぞこちらへ!」

 

 リースにぐいぐいと引きずられていく主君を見て、アルフは言い表しようのない悪い予感を得た。

 その前兆として、アルフは目の前で繰り広げられる光景に鬱屈する。リースはペレアスの下着を物凄い勢いで引っ張りながら、

 

「まずは部屋着に着替えなくてはいけませんわね!♡♡ 私がお手伝いしますわ!!♡♡♡」

「うおおおおお待てぇぇぇ!! それは流石にまだ日が高いィィィ!!!」

 

 必死の抵抗により、ペレアスと彼の下着は事なきを得たのだった。アルフは悪寒を募らせつつ、主君夫妻とともにダイニングルームへと向かう。

 そこには先客がいた。青褪めた顔で椅子に座るマーヤと、相変わらずの仏頂面で居座る湖の乙女(長女)。しかしながら、後者はほのかに頬を紅潮させて、フォークとナイフを握り締めていた。

 

「来てたのか、義姉さん?」

「ええ、お邪魔しているわ。リースの手料理が食べられると聞いて、すっ飛んできたの。花嫁修業だったかしら?」

「そ、そうです。掃除と洗濯の仕方を学び終えた途端、奥様が料理を作ると言い出して……厨房にも入れてもらえませんでした」

「あの子は凝り性かつ過集中ぎみだから。心配をかけさせてごめんなさいね、マーヤ」

(この人本当に奥様のお姉さん?)

 

 本日、マーヤはようやく精霊らしい精霊を目撃した。ちなみにター子ちゃんはペレアスの精神衛生上、屋根裏にて潜んでいる。

 

「……奥様は料理のご経験が?」

「多くはないけれど、昔はたまにやっていたわ。姉妹の中では一番だったのよ」

「精霊はオレたちみたいな栄養補給はいらないんじゃなかったのか?」

「そうね。私たちにとって人間の食事は娯楽以上の意味を持たないから。だけど、遊びは本気でやるものでしょう? 期待していいわよ」

 

 その時、厨房に繋がる扉が勢い良く開け放たれる。リースはお手製の食事を載せたワゴンを引き連れて、ペレアスたちの前に登場した。

 

「愛情たっぷりのミートパイですわ! 是非ご賞味あれ!」

 

 ミートパイ。古くは古代エジプト、オジマンディアスの壁画にも存在を確認されている料理だ。生地の中に挽いた肉を入れて焼き上げた、伝統的なイギリス料理である。

 ことん、と机に並ぶ四人の前にミートパイが置かれる。きつね色に仕上がった生地が食欲をそそる。湖の乙女の言葉通り、期待が募る見た目をしていた。

 一同は簡単に食前の祈りを行って、ミートパイにナイフを入れる。生地と牛肉をフォークで刺し、口に運ぶ。

 

「「────ブフォォォォォォォッッ!!!」」

 

 瞬間、アルフとマーヤはミートパイだったものを火山の噴火の如く噴き出した。

 口内を苛む痺れと痒みと辛味。火を付けられたかのような熱感が、舌を燃やしている。アルフとマーヤは水瓶を引っ掴み、浴びるように飲み込んだ。

 ドン、と水瓶の底がテーブルに着地し、二人は言葉をまくし立てる。

 

「なんですかこれは!? 未だに口の中が地獄なんですが!! 戦場でやむを得ず敵の喉笛噛み千切ったときもこんな不味くありませんでしたよ!!?」

「どんだけ調味料入れたんですか!? 塩が効きすぎててもはや海水です! 死海です! お肉も塩漬け通り越してミイラになってます!!」

「ま、参りましたわ。お二人の口調が被っているせいでどちらが喋っているか分かりません……!!」

「「…………それはそうですけど!!!」」

「いや、納得するなよ」

 

 と、ツッコんだペレアスにアルフは向き直った。

 

「平気なんですかペレアス様!?」

「愛の力があれば余裕だろ」

「そんなバフかけないと食べられない料理なんて人の食い物じゃないですからね!? まあこれそもそも料理じゃないですけど、ただの『死んだ肉と水のパイ生地包み』ですけど!!」

「オレたちが食う肉は死んでるだろ、元々」

 

 そう言いつつも、ペレアスの顔は見る見る内に血の気が引いていき、ついには椅子ごと後ろに倒れる。通常あり得ない濃度の塩分が彼の意識を刈り取ったのだ。

 

「いけませんわ! すぐに人工呼吸を!!」

「奥様は下がっててください!」

 

 アルフが即座に介抱に回ったその時、湖の乙女(長女)は空になった皿を突き出して、

 

「おかわり」

 

 マーヤは職業病故に皿を受け取り、我に帰って叫ぶ。

 

「……言い辛いのですが、この殺人兵器を食べて無事なのですか」

「言い辛さを微塵も感じさせぬ滑らかな罵倒ですわ」

「? 妹が作ってくれたものなら何でもおいしいに決まってるじゃない」

「この人も愛キメてる勢だった───!!?」

 

 常軌を逸した妹バカの発覚により、マーヤの味方は消えた。そして、彼女の眼前に広がるのは阿鼻叫喚。倒れたペレアスに人工呼吸を行おうとするリースと、それを全力で止めるアルフ。シスコン精霊はテーブルに残った残飯を妙に満足気な顔で貪っている。

 ───この地獄絵図を、私が作り出した?

 なぜ花嫁修業などと言い出したのか。リースをどこに出しても恥ずかしくない淑女にするため? 否、彼女は存在自体がどこに出しても恥ずかしいので、それは建前に過ぎない。

 ならば本音は───ぎっくり腰で無念のノックアウトをしたお婆ちゃんの代わりたる有用さを示すため。浅ましい功名心と自己愛が、眼前の光景を作ったのだ。

 なんたる不覚、なんたる愚かさ。そも、リースは精霊だ。そんな彼女を人間の常識で縛りつけるなんて、彼女の存在を否定するに等しいのではないか。

 

「私は縛られるのも好みですわ」

「リース、独白に水を差すのはよくないわ」 

 

 さらっと心の中を読んできている湖の乙女姉妹はともかく。マーヤの脳内で自身の至らなさと持ち前の責任感、異常な状況が混ざって弾け、

 

 

 

「びぇぇぇええええええ!! 十四の小娘がナマ言ってごべんなざいぃぃぃぃいいいい!! 本当は奥様をダシにして有能さを証明したかっただけなんです!! 褒められたかっただけなんですぅぅぅ!!」

 

 

 

 マーヤは床を転げ回りながらギャン泣きしていた。天井裏のター子ちゃんは突如発生した大声に驚き、どたどたと走り去っていく。

 リースはマーヤを抱き起こし、涙を拭き取る。彼女は子どもを寝かしつけるように言い聞かせる。

 

「そう自分を卑下してはいけませんわ。私はヒトとともに生きることを決めた精霊。マーヤさんが教えてくれる全てが私に必要なことなのです。そうして学びを得るたびに、私はマーヤさんを褒めてあげますわ」

「ふぐぅぅぅ〜〜……!! ドスケベのくせに優しいぃぃぃ〜!!」

「ということで、一緒に殿方の悦ばせ方を……」

「びぇぇぇええええええ!! せっかく良いこと言ったのに台無しだよぉぉぉ〜〜!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西洋には五月祭という行事がある。

 キリスト教の伝来以前から続くこの催しは、辛く厳しい冬を乗り越え、新しい季節の到来と作物の豊穣を祝う祭りだ。

 その当日、5月1日は乙女たちが色とりどりの花で身を装い、柱の周りで舞を踊る。それ故か、五月祭を契機として新しい愛が数多く生まれる時期でもあった。

 マーヤのギャン泣き事件から一週間。王都は五月祭の準備に沸き立っていた。ペレアスも相変わらず王妃の護衛に就いていたのだが、今日は一風変わった仕事が待ち受けていた。

 ギネヴィア王妃は五月祭のために、花摘みに繰り出していた。この時ばかりは護衛の騎士たちも鎧を脱いで緑衣を纏い、少女のように野原を巡る王妃に振り回される。流石に剣は佩いているが、普段に比べれば格段な軽装だ。

 護衛の面子はケイ、アイアンサイド、ペレアス、他七人の騎士。野の花を摘むギネヴィアを見守りつつ、ケイ卿は重い息を鼻から吹き出した。

 アイアンサイドはそれを見咎める。

 

「景気が悪いな」

「つうか気味が悪いな」

「黙れお前ら。俺一応円卓の騎士だぞ、上司だぞ」

「俺の主はガレス様だけだ」

「そのガレスの上司なんだが!!?」

 

 ギネヴィアはくすくすと微笑んで、会話に割り込む。

 

「そして、私が貴方の上に立つ者です。不景気な振る舞いの理由を説明してくれるかしら、ケイ卿?」

「いえ、アグラヴェイン卿に小言を言われましてね。危機管理意識が低いだの何だのと。王妃様に代わって全部聞いておきました」

「そ、そうですか。それはご苦労様でした。この自然でぜひ心を癒やしてください」

「ケイ卿に必要なのは自然ではなく、酒場の────」

「よし、ペレアス。何が欲しい? 言ってみろ。俺に用意できるものなら何でも調達してやる。エクスカリバーか? まさかエクスカリバーなのか?」

 

 ペレアスは詰め寄るケイを躱しつつ、野花で花冠を編む。リースに贈ったものを思い出しながら。子どもの頃は随分と苦戦した思い出があるが、今となってはあの苦労が嘘のように手が動いてくれた。

 ギネヴィアは好奇の視線で手元を覗いてくる。

 

「手際が良いですね。私にも作り方を教えてくれませんか?」

「オレも上手い方ではないですが、それで良いなら。王様にでも贈ってあげてください」

「───うん、そうしようかしら。……昔はこうして外に出て遊ぶこともあったのだけれど、立場を得てしまうと難しいわ」

「分かります……とは言えないですね。王妃様の気苦労の多さはオレには想像もつきません」

 

 ギネヴィアは一輪の花を摘み取り、指の間で弄ぶ。

 

「気苦労は確かに多いですが、だからこそうしたひと時が尊いと感じます。王と王妃とは国のシステムに過ぎないのかもしれないけれど──────」

 

 ────今は、頑張っていられます。

 そう告げるギネヴィアの声には、瞳には、やはり微かな艶があった。

 意識の奥深くに植え付けられていた疑念の種が芽吹き出す。

 

「ペレアス!!!」

 

 それで、一瞬反応が遅れた。

 ギネヴィアの姿が視界から外れる。その直後、蹄鉄が地面を抉る音と馬群の威容に五感が圧倒される。

 遅れて、耳に届いたケイの叫び声を脳が認識し、それを糧に硬直が解けた手を一気に振り抜く。

 抜く手も見せぬ抜刀。咄嗟に繰り出した剣戟はしかし、馬上からの一撃に叩き落とされる。一合を経て、ペレアスはようやく事態を把握した。

 突如現れた重騎兵の一団。その先頭には黒い鎧を纏った男が、片脇にギネヴィアを抱えている。

 

「我が名はメレアガンス!! 私の目的は王妃のみだ、静観するならば殺しはしない!!」

 

 メレアガンス。ケイは即座にその名と人相を照らし合わせ、本人であることを確信する。さらにはその目的まで当たりをつけると、静かに切り出した。

 

「よし、わかっ」

「いきなり出てきてふざけたこと言ってんじゃねえ変態が!! お前脳みそついてんのか!? 王妃様を放して死ね!!」

(ペレアスの馬鹿───!!)

 

 この時点で、交渉という道は絶たれた。ケイは頭を抱えそうになる手をかろうじて押さえつけ、剣柄に指をかける。

 ギネヴィアは必死に暴れるものの、呆気なく抑え込まれてしまう。メレアガンスは後方に追いついてきた馬車の中へ、ギネヴィアを閉じ込めた。

 王妃は歯噛みし、馬車の窓に拳を叩きつける。

 

「……メレアガンス。自分が何をしたのか理解しているのですか。貴方の行いはこの国の全ての騎士を侮辱していると知りなさい!!」

「そんなことはどうでもいい。どうでもいいのです、王妃よ。私はかねてより貴女をお慕いしていた。故に今日、こうしたまでのこと!!」

 

 瞬間、ペレアスは剣を放り投げた。

 一直線に飛翔する刃は過たず、メレアガンスの肩口に突き刺さる。

 

「くっ……!! やすやすと剣を投げるとは、それでも騎士か!?」

「オイオイオイ、王妃攫おうってヤツがどの口利いてんだ? つくづく気色ワリーなクソ野郎。お前は騎士道以前に人道踏み外してんだろうが!!」

「ウーサー・ペンドラゴンはゴルロイス王からイグレインを奪った!! この愛を認めぬということは、アーサーの出自が如何に穢れているかを認めることに他ならぬ!!」

「ふざけた理屈ほざいてんじゃ────」

 

 ケイは飛びかかろうとするペレアスの襟を掴んで止める。彼は不自然な笑みを浮かべて剣を手渡し、ペレアスの背中を叩いた。

 直後、ケイは満面に怒気を広げて哮り立つ。

 

「よしぶっ殺せペレアス!! そいつは俺のいも───弟を侮辱しやがった。万回死んでも許さん!! 他の奴らも見てないでやれ!!」

 

 言うが早いか、ひとつの影が飛び出し、刃を振るう。

 何ら小細工を介さぬ横殴りの斬撃。しかしその一撃は強烈な衝撃波を巻き起こし、鮮烈なる血の徒花を咲かせた。

 アイアンサイド。太陽の位置に応じて膂力を増す加護を持つ騎士は、刃に付いた血を地面に払う。

 

「無論、貴殿に言われずともそうするつもりだ。奴らの骸を木にぶら下げてやる」

「よかろう、ならば貴様らの屍は野に打ち捨ててやる!!」

 

 メレアガンスの号令を受け、配下の騎兵は突貫する。

 人馬ともに武装し、馬上槍を携えた兵列の特攻。その速度と重量は余人の想像を絶する。槍に貫かれて死ぬか、馬に踏み潰されて死ぬか。迎える結末は二つしかない。

 だが、ペレアスとアイアンサイドは前へと駆け出した。

 鋼鉄の壁に身ひとつで挑むが如き無謀。なれど、二人の騎士はその無謀を成し遂げる。アイアンサイドは剛力をもって真正面から突進を打ち破り、人馬を微塵に砕き散らす。

 ペレアスの動きは、それとは対照的だった。

 喩えるなら風。変幻自在の疾風。敵陣の隙間を縫うように抜け、その通り道を血で彩った。太刀風はただひとり、メレアガンスの目前へと迫る。

 

「───『剣骸刃橋(ヴィア・ドロローサ)』!!」

 

 世界が反転する。

 群れる刃が行く手を阻み、彼我の間を埋め尽くす。

 それは固有結界に近しい魔術。自身に有利な環境を用意し、必勝を期す空間。メレアガンスが過去一度、大敗を喫した相手のために魔女の手を借りて得た切り札であった。

 ───たかが、一介の騎士にこれを使うことになろうとは。

 メレアガンスは奥歯を噛み締める。

 切り札は容易に見せぬからこそ切り札足り得る。一度衆目に晒した以上効果は半減する……メレアガンスの思考はそこで打ち切られ、己が目的に回帰した。

 ギネヴィアは既に手中にある。後は彼女を国に連れ帰るだけでいい。

 メレアガンスが身を翻そうとした瞬間、影が頭上に落ちる。空中にて剣を振りかざすペレアス。一足飛びに剣の橋を越えてきたのだと理解した時には遅く、

 

「殺す」

 

 咄嗟に翳した敵の刃ごと、袈裟に切り裂いた。

 それとほぼ同時に、ペレアスは舌打ちする。ケイに託された剣は半ばから割れ、柄にまで深々と亀裂が入っている。

 そのせいで、浅かった。斬撃は剣と鎧に阻まれ、命を奪うまでには至らなかった。メレアガンスはペレアスが馬車に着地するより早く、彼を蹴り落とす。

 ペレアスは瞬時に周囲を重装の騎士に囲まれた。彼は馬上から見下ろす敵へ、冷徹に告げる。

 

「お前ら全員、生きて帰れると思うな」

 

 武器を失い、鎧すら纏わぬ騎士。しかしその男は、抗い難い死の予感を突きつけた。

 その予感は果たして、現実のものとなる。

 アイアンサイドとペレアスはメレアガンスが残した配下のことごとくを始末した。草原は鉄と肉の残骸が散乱し、溢れ出る血液が地面を赤く染め上げた。

 血の泥地の真ん中で、ペレアスは折れた剣を投げ捨てる。無数の骸に紛れて倒れるケイの頭に拳を落として、呆れたように言う。

 

「オレたちの中に死者はなし。アンタの死んだふりが効いたな。円卓の騎士を殺れたと思って油断しやがった」

「マジで全員殺ったのかよ。ひとりくらい残しておけば尋問……いや、訊くこともねえな。よくやった」

「ああ、貴様にしては上々の戦果だ。否、王妃を連れ去られた時点で落第だが」

 

 くつくつ、と笑う声。ペレアスたちがへたり込む平原を、芦毛の馬に乗ったラモラックが訪れていた。

 

「ただし、これは貴様の落ち度ではない。王妃の動向が悟られていなければ、ここまでの誘拐劇は不可能だろう」

 

 ケイはラモラックに眼差しを傾ける。

 

「裏切り者か?」

「もしくは魔術によるものか。前者はともかく、後者ならばお手上げでしょう。優れた魔術師は全能ではないが万能に等しい。そうだな? ペレアス」

「オレに振るなよ。確かに湖の乙女の魔術はできないことの方が少ないけどな。それより追っ手を出した方がいい」

「そのことだが」

 

 ラモラックは馬から降り、鎧を着込んだ亡骸を踏み潰す。

 

「既にランスロットが向かっている。故に、貴様らはこの場の後始末を手伝え。この件は内密に処理すると決めた」

「誰がだよ」

「おれとランスロットだ。まさか、このような醜聞を表に出す訳にはいくまい。それで良いな、ケイ卿よ」

「ああ、後はランスロットに任せた。あいつならメレアガンスは死んだみたいなものだからな。後始末も承知した」

 

 だが、とケイは言葉を強める。

 

「ラモラック、お前はこれを知ってたのか。駆けつけるにはいささか早すぎるだろ」

「血と闘争の匂いに釣られたまでのこと。おれが殺し合いの機会を把握していて、我慢ができるほど紳士ではないと知っているでしょう」

「…………確かに。お前なら真っ先に殴り込んでくるな」

「狂犬っぷりがアリバイになるとか普段の行いどうなってんだ?」

 

 ペレアスは毒を吐く。ラモラックによるノールックのパンチが襲い来るが、スウェーバックで躱した。

 ラモラックは不機嫌に鼻を鳴らすと、

 

「……この一件はおれにも責任がある」

 

 ペレアスとケイは不可解な表情をした。ラモラックはそれを受けて、懐かしむように語る。

 

「メレアガンスとは以前に口論になったことがあったのだ。ギネヴィア王妃とモルガン王姉のどちらが美しいか、とな。その時は決闘にまで発展したのだが、殺しておくべきだったか」

「……アンタはそういうのに興味ないと思ってたぜ。結果は?」

「メレアガンス自体はつまらん雑魚だったが……ランスロットを釣る餌にはなった。奴との闘争は実に甘露だったぞ」

「ケイ卿、ラモラックは円卓から追放するべきでは?」

「ペリノア王が顧問官やってる状況で出来たら良いよな。出来たら」

 

 ───結局、王妃誘拐事件は民に知れ渡ることなく、ランスロットの活躍によって幕を閉じた。

 確かに略奪婚、略奪愛はこの時代では何ら珍しいものではなかった。だが、全ての行動には責任とリスクがつきまとう。たとえ時代に認められていようが、メレアガンスの犯した愚行は人に認められることはなかったのだ。

 恋とはかくも人を狂わせる。

 どんな魅了の魔術よりも、愛の霊薬よりも、実物の恋こそが恐ろしい。なぜなら、等身大の恋から出てくる感情は全てが本物だからだ。

 本物であり、真実であるが故に、誰の意思も介在する余地はなく、ひたすらに自分の正しさを信じていられる。

 

「まあそんな小難しいことを言わなくても、〝好きだからやった〟で片付く話ですわ。だって好きなのですから」

「そういうものか?」

「はい。ただ、好きだから誘拐するというのは人間の理屈ではなく私たち妖精の理屈ですわ。感情のままに行動してはいけない、とマーヤさんに習いましたもの」

「オレに対してならいいんだぞ?」

「───妖精の理屈バンザイですわ〜〜〜っ!!!」

 

 兎にも角にも、王妃誘拐事件は解決した。

 その後、ペレアスは聖霊降臨祭の馬上槍試合にて騎士たちを千切っては投げの大活躍、まさしくブリテン無双といった有り様で優勝を掴んだ。

 その次に開かれた祝宴で、ペレアスは円卓の騎士に叙任されることとなる。

 書に綴られているペレアスの物語としてはこれくらいなものだろう。多くの騎士が戦乱や聖杯探索において命を落としたが、かの騎士は湖の乙女の愛により、安楽な最期を迎えた。

 恋は人を狂わせるが、愛は運命を狂わせる。

 故にこそ、彼は生き延び──────

 

 

 

「ラモラック卿と我が姉の密通の件、委細承知した」

 

 

 

 ────故にこそ、彼は死んだ。

 円卓の騎士ラモラックと王姉モルガンの不義密通。ガウェインらの母である彼女と赤き盾の騎士の醜聞は、モルガンの子であるガヘリスの手によって暴かれた。

 ラモラックとモルガンは居城に遁走し、追っ手を逃れた。しかしそれは一時のその場しのぎ。ラモラックの運命は既に決していた。

 マタイによる福音書5章28節にはこうある。

 

〝しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである〟

 

 それが姦通という行為にまで達したのならば、もはや罪は免れない。そして、王は神の法と主の言葉を何よりも重んじなければならなかった。

 

「ガウェイン。ガヘリス。モードレッド。アグラヴェイン。卿らにラモラックの処罰を命じる。あの男の蛮行に対する報い、しかと応報せよ」

 

 草木も眠る丑三つ刻。

 燭台が仄暗く照らす部屋にて。

 王は四人の騎士に密命を下した。

 モルガンとの姦通を果たした騎士を処断するため、懐刀である円卓の騎士をも動員した。標的が円卓内においても精強を誇る男であるが故に。

 馬上槍試合にラモラックを呼びつけ、疲弊した後に四人を当てて暗殺する。王はどこまでも冷徹に冷酷に、命令を授けたのである。

 王が去り、仲間たちも消えた一室の中で、ガウェインは拳を握り締める。爪が皮膚を破り、肉に食い込んで血が流れるほどに。

 

「───ラモラック……!!」

 

 溢れ出る激情。困惑や落胆、憤怒といった名前をつける暇もなく、感情が溢れて止まらない。

 だが、確実なことがひとつある。

 あの男は、王を裏切った。

 それだけで、剣を取る理由には十分すぎる。

 きっと、私は。

 王を裏切った者なら。

 誰が相手でも、必ず斬ってみせるだろう。

 ───そうして、運命の日は来た。

 ガウェインの加護を最大限に活かすように、槍試合の時間は設定されていた。すなわち、午前九時から太陽が中天に位置する正午までの三時間を、暗殺に当てるために。帰路につくラモラックの前に四人の騎士が立ちはだかる。

 モードレッドは吐き捨てるように告げた。

 

「てめぇには反吐が出るぜ、ラモラック。あんな女のどこが良いんだ? そこらの獣のケツでも追っかけた方がまだマシってもんだ」

 

 ラモラックはくつりと喉を鳴らす。

 

「ああ、その通りだ。初めて気が合ったな。あの女は獣よりも下等なケダモノだ」

「ハッ! そりゃあ結構なこった。てめぇの狂犬ぶりもそこまで行くと見上げたぜ。四つ足野郎には墓を用意してやる手間も省けるからなァ!!」

「だが」

「……あ?」

 

 ラモラックは槍を構え、真一文字に投擲する。

 空気の壁を突き破り、音にまで達した投槍はモードレッドの兜に深々と傷を刻んだ。

 

「あの女を罵って良いのはおれだけだ。おれだけがあの女を支配する。おれだけがあの女の醜さを理解する」

「……ッ。トんでんのか、てめぇ───!!」

「御託は十分だ。かかってこい」

 

 瞬間、大気が爆ぜた。

 四人の円卓の騎士による裂帛の一刀。幻獣さえ寸断する殺意の殺到。ラモラックはそのことごとくを捌き、明後日の方向へ逸らす。

 その直後、いくつかの血滴が地面に落ちる。ラモラックの右手。人差し指の先が赤く濡れ、血液を滴らせていた。

 

「───く、っ!」

 

 視界の左半分が赤く色付く。ガウェインの額は浅く裂かれ、血が眼球に流れ込んでいる。

 

「おれをヒトと思うな」

 

 これは、ラモラックが灯す最後の輝き。

 ラモラックという男が迎えた決戦の日。

 

「獣を殺すつもりで来い。貴様らが騎士たらんとするならば!!」

 

 再び、四者の一撃がラモラックを襲う。

 それが、ラモラックという獣を殺す狩りの始まりだった。

 

 

 

 

 

「『転輪する勝利の剣(エクスカリバー・ガラティーン)』!!」

 

 

 

 

 

 顕現する太陽の紅炎。

 人の力など及ぶべくもない、自然の暴威が解き放たれる。日輪の赤光は激しく荒れ狂い、赤き盾の騎士を呑み込んだ。

 

「───『我が驍勇の前に敵は無し(キャバルリィ・オブ・フェイス)』」

 

 絶死の火焔を、騎士は最短距離で突破する。

 あらゆる攻撃を吸収し、反射する赤盾。その完全解放。あらん限りの魔力を叩き込んだ得た護りをもって、太陽の聖剣を防いだ。

 けれど、それでも完全に防御することは不可能。全身の至るところに火傷の跡が焼き付けられ、左手首から先が炭化していた。

 それを物ともせずに騎士は征く。

 雷撃の如き刺突の嵐。右手と両足のみにも関わらず、ラモラックの攻撃はガウェインの肉体を捉え始めていた。

 

「もうすぐ正午を過ぎる。そろそろ限界か? ガウェイン!!」

「…………ラモ、ラック───ッ!!」

 

 こと向かい合っての戦闘ならば、トリスタンを除いた円卓の騎士の誰ひとりとしてラモラックを突破する術を持たない。常に前面に展開されている赤き盾が、反撃を返してしまう。

 太陽の位置は天の中心。加護の恩恵を最大に受けていながらも、ラモラックを相手取る上では数を頼みとするしかない。

 

「限界はお前もだろうが!!」

 

 背後よりモードレッドとガヘリスが斬りかかる。

 ラモラックは振り返りすらしなかった。既に右拳が放っていた打突。それらが盾の裏面を反射し、とどめの一刀を弾き返す。

 炭化した左手をガヘリスの顔面に打ち付け、右の貫手がモードレッドの喉を打つ。

 

「が、ぶっ……!!?」

「当然だ。貴様らのような強者との戦いではな」

 

 モードレッドは自らの血に溺れながら、暗転する世界の向こうへ手を伸ばす。

 ───何故だ、何故この剣は届かない。

 オレを造ったあの女。醜悪で醜怪な醜婦に心奪われ、色に堕ちたこの男に、何故この刃は届かない。何故ヤツを斬ることができない。

 その理由は単純で明快だ。

 オレは、ラモラックより、弱い。

 考えてみれば、それは道理だ。

 アーサー王は決して見誤らない。モードレッドが真にラモラックより強いのならば、無駄な人員を割くこともしない。

 そう、つまりは、モードレッドという人間は王に認められていない。王に信じられる実力も無い。その上、この任務まで果たせないとなれば、自身の存在価値は泡沫と消える。

 

(ふざけるな)

 

 時として。

 精神は肉体を超越し、動かぬはずの身体を駆動させる。

 

「おおおおおおッ!!!」

 

 王の信頼を裏切り、この国を踏み躙った貴様に下す鉄槌。

 モードレッドの肉体は意識の埋没とは裏腹に、かつてない鋭さの斬撃を放った。

 しかし。その一刀はラモラックの右手に握り潰され、破砕する。

 ───これで、終わりか。

 とうに意識を手放したモードレッドに、戦いの終着を見届けることはできない。が、その一撃が終着を作り出したことに変わりはなかった。

 伸び切った腕を絡め取る鉄鎖。アグラヴェインの操る戒めの鎖が、ラモラックを拘束する。

 そして、太陽の聖剣が騎士の背を貫いた。

 

「…………見事だ、ガウェイン」

 

 血は流れなかった。聖剣の帯びる灼熱が傷口を焼き潰し、血管を塞いでいた。剣を引き抜くとともにラモラックの体は崩れ落ち、地面に転がる。

 驚くほど呆気なく、ラモラックは息を引き取っていた。

 アグラヴェインはその亡骸を睨めつけ、忌々しげに吐き捨てる。

 

「化け物め」

 

 中天に輝く太陽が、焦土と化した大地を照らす。

 ラモラックはおよそ三時間もの間戦い続けた。すなわち、ガウェインの加護が切れるその時まで。しかも、四人の円卓の騎士を相手取りながら。

 単純な執念や妄念では片付けられぬ、神憑り的な粘り強さ。

 その根源は、あの女への想いか。

 果たして、彼の本心をうかがい知ることはもうできない。

 アグラヴェインはそれを不要な思考と断ずる。

 この男にとって、あの女にとって、互いがどんな存在であったかなど、知る意味すらない。この戦いに価値を見出すとするならば、穢れた円卓の浄化だ。

 円卓は一枚岩ではない。外部顧問監督官ペリノア王とその血縁。湖の乙女の息が掛かったランスロットとペレアス。亡きロット王の遺児たち。

 事情の違いは軋轢を産む。これを契機に、真に王へ忠誠を誓う者による円卓を形成しなければならない。

 

(……ランスロット。まずは奴の周囲を洗うべきか)

 

 ラモラックの一件は目に見えぬ無数の禍根を遺した。

 王への憎悪を募らせる妖妃。ロット王の遺児たちが抱く、ペリノア王への不信────あたかも、ブリテンの未来を暗示するかのように、澱は沈殿していく。

 折り重なる因果は螺旋を描き。

 定められた滅びへと、突き進んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ラモラックの訃報が届いて一ヶ月。ペレアスとリースはパーシヴァルの誘いを受け、ペリノア王の領地を訪れた。

 城を囲む森の中。澄んだ空気が木々の間を満たす。ひっそりと佇む無名の墓標。それは枝葉の隙間から射す光を浴びて、淡く輝いている。

 ラモラックは王を裏切った大罪人だ。葬儀も開かれず、墓碑銘を刻むことも許されない。だから、ペリノア王はこの場所に墓を建てたのだ。

 墓標の前には一輪の華が添えられていた。

 一目で常世のそれではないと判る代物。白い花弁が滲むような蒼い光を発し、ぽつぽつと点灯している。

 パーシヴァルは指の腹で花弁の輪郭をなぞり、呟いた。

 

「……先客がいたようですね」

 

 この華の由来はきっと、永遠に明らかになることはない。

 

「みたいだな。ラモラックにはもったいないくらい綺麗な花だ」

「血に染まっていれば兄上らしくなったかもしれないね。……下手に手を出したら呪われそうだ」

「でしたら、こうしましょう」

 

 リースは華に魔術をかける。

 蒼き幽玄の華は一気に成長し、墓標に絡みつくように伸びた。生態まで変化していそうだが、呪いを恐れたペレアスとパーシヴァルは口をつぐんだ。

 ペレアス夫妻はそれぞれ両肩に担いでいた鞄を地面に置き、中から次々と供え物を取り出す。

 

「ラモラックにぶっ壊された歴代の剣と防具と……あと何かあったか?」

「こちらの領収書をお忘れですわ」

「あれ? ここってゴミ捨て場でした?」

 

 ペレアスとリースはラモラックが家計に与えたダメージへの恨みを込めて、ガラクタとなった武具を積み上げていく。

 まあ、あの戦闘狂は死後も武器に囲まれている方が気楽だろう。と、パーシヴァルは自分を納得させた。

 

「パーシヴァル卿は何を持ってきたのですか?」

「兄上の好物です。私がこれをよそうと、兄上はいくらでも食べてくれました」

 

 と言って、パーシヴァルが出したのは両腕で抱え持つほどの巨大なボウルだった。その中には親の仇のようにマッシュされた野菜が積み込まれている。

 ペレアス夫妻は虚ろな目でそれを眺める。パーシヴァルはじっとりとした視線に気付き、はっとして言った。

 

「……そういえば腐ってしまうことを考えていなかった!! ここを腐臭塗れにするわけにはいきません、我らで分担して食べましょう」

「人間が食べ切れる量じゃねーですわ」

「オレたちの胃の何個分あるんだこれ?」

 

 明らかに人体の容積を超えた食材の山。一週間分の食糧にはなりそうなそれを、リースは鞄の中に詰め込んだ。空間拡張がなされた鞄ですら持て余しかける量である。

 パーシヴァルたちは墓の周りの見栄えを整え、各々祈りを捧げる。すると、パーシヴァルは唐突に切り出した。

 

「兄上は、醜いものをこそ美しく感じる質でした」

 

 ラモラックはおよそ常人が醜いと蔑み、遠ざけるモノに惹かれる性格だった。それは生まれながらの気質であり、ついぞ変わることはなかっただろう。

 だから、彼はモルガンに惹かれたのか。

 自らの息子にさえ醜いと蔑まれ、けれど、その醜さのままに生きるしかないあの女に。

 だとしても、彼とて巷で美しいと言われるモノを理解することはできる。意見を追随させることもできる。ただそこに、実感が伴わないだけで。

 

「兄上は言っていました。〝あの夫婦は美しい〟と。あの人は醜いと言うことは多くても、美しいと評することは滅多にない」

 

 そして。

 

「あなたたちは、そのままでいてほしい。これは、私の願いだ」

 

 パーシヴァルは消え入るような声で告げた。

 それが、どれほど難しいことか知っていたから。だから、ペレアスは答える。

 

「……ああ、見てろ」

 

 ────それから数年が経って、キャメロットは滅びた。

 騎士ペレアスは王都を追放され、カムランの丘の戦いに駆けつけることもなく、湖の乙女のために命を捧げた。王でも国でもなく、彼女を選んだ。

 今なら分かる。

 ラモラックは、選べなかった人間だ。

 モルガンへの愛も、王への忠誠も、どちらも等しく大切だったから、その狭間で生きるしかなかった。挟まれて摩耗して、いつか消えてなくなってしまうのだと知っていても。

 それはランスロットも同じだろう。

 彼も結局、ギネヴィアだけを選ぶことができなかった。ランスロットとラモラックは、愛した人だけの味方になることができなかった。

 だけれど、それは決して悪ではない。

 時の運と人の心は誰にもどうすることもできないから。

 彼らは、たまたま、選べる場所にいなかっただけだ。

 放浪の旅を始めて間もなく、リースは夫との間に生まれた赤子を抱えて、

 

「私には、この子を愛せる自信がありません」

「……そりゃどうしてだ?」

「半分はあなた様でも、もう半分は私です。私は、私のことがあまり好きではありませんわ」

 

 その時、幼子は小さな小さな手を伸ばし、母親の頬を撫で擦った。

 リースは数秒の間沈黙して、我に帰る。

 

「───ンギャッッかわいッッッ」

「で、何だって?」

「今のは忘れてくださいませ! やっぱりああいうノリは私には合いませんわ〜〜!!」

 

 とりあえず、この物語を締めくくる言葉があるとすれば。

 それはいつの時代のどこの場所でも使い古された、つまらないものになる。

 死に逝く命があれば、新たに産まれる命もある───たとえ、国が滅びたのだとしても、かの王が護り抜いた幸せは確かに、この世に根付いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────めでたしめでたし」

 

 ぱたん、と本を閉じる。

 魔女のお手本のようなトンガリ帽子を被った語り部は、観客たちへと問い掛けた。

 

「さて、お感想を寄越しやがれくださいませ。言っときますが、これは妖精さんから聞いたリアルガチなドキュメンタリーですわ。その辺りを踏まえてどうぞ」

 

 クラシックなメイド服を着込んだ少女は興奮した様子で目を輝かせる。

 

「わ、私は面白かっ」

「───ドキュメンタリーはドキュメンタリーであって真実ではない。語るという行為には少なからず、語り部の主観が入るからだ。文学書を読み直したらどうかな、我が師よ」

「というか長いよね、話が。儂みたいなジジイには割とキツかったのだが。妖精が見たって体なのに心理描写までバッチシなのはどういう理屈?」

「よっしゃ後ろ二人は表出やがれですわ」

 

 そこは、この世ならざる幻影の島。

 地上全ての生物が焼き尽くされる大災害さえも手が出せなかった、別次元にありし無貌の地。

 それは人理焼却の失敗とともに、現世へと帰還していた。

 

「どちらにしろ表には出なければいけないだろう。私たちは魔術協会と聖堂教会に喧嘩を売ることになるのだから」

「奴らに喧嘩を売るのは四百年ぶりか。パラケルススくんは生きてるかな」

「もうとっくに死んでるって教えましたわよねぇ〜クソジジイ。虚数空間に放り込まれてえんですの?」

「この人なら普通に生きていけそうですけどね」

 

 かくして、四人の魔女は蠢動する。

 ───この星を、楽園へと至らしめるために。



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番外編その二 ウェルギリウスの地獄ウルルン滞在記 〜ダンテを添えて〜

誰か風の型を救ってあげてください。


 ダンテ・アリギエーリ『神曲』第一歌より。

 

〝人生の道の半ばで正道を踏みはずした私が目をさました時は暗い森の中にいた。その苛烈で荒涼とした峻厳な森がいかなるものであったか、口にするのも辛い。思い返しただけでもぞっとする。その苦しさにもう死なんばかりであった。しかしそこでめぐりあった幸せを語るためには、そこで目撃した二、三の事をまず話そうと思う〟

 

 ───そこは、黒々とした木々が無数に立ち並ぶ常闇の森。一寸先も不確かな暗闇の中を、いくつもの影が続々と駆け抜けていく。

 それは夜闇を縦横無尽に征く獣の群れ。あるいは豹、あるいは獅子、あるいは牝狼。いずれも人を喰らい、肉を貪る猛き獣であった。

 彼らが狙うは、ひとつの赤い影。地を這うが如き四足獣とは異なり、人間の頼りない二本の脚で蔦に根に歩を絡め取られながらも、暗中を進む。

 彼はある一点を目指して走っていた。深い森にあっても煌めく曙光の輝きを、まるで火に飛び込む羽虫のように追いかける。その光に希望があると信じて。

 人間は惨めったらしく息を切らして、肺の空気を絞り出すかのように絶叫する。

 

「ヒッ、ヒッ、ヒィィィエエエエエエ!!! だっ、誰か、おっお助けくださいィィィィィ!!! ンギャアアアアアアア!!!!」

 

 彼に背を追う獣たちと戦う力はない。追いつかれれば、成す術もなく奴らの胃袋に直送されるだろう。

 これは悪夢のような現実。

 口にするのも辛く、思い返しただけでもぞっとする恐怖の具現。

 もはや酸素の尽きかけた脳みそで、彼はふと思った───どうしてこんなことになっているのか、と。

 そう、思えば、この不幸はもっとずっと前から始まっていたのだ。

 我が故郷、麗しきフィレンツェ。世界に名だたる芸術の都。彼は、この現実から逃げ惑うように、記憶の糸をずるりと引き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 14世紀初頭、フィレンツェ共和国。当時のフィレンツェの実権を握っていたのは、富裕市民層からなる白党という組織である。先年、白党は封建貴族たちによる黒党を退け、白党の最高行政機関に三人の統領を選出し、市政を牛耳っていた。

 たった三人の統領。その中には、後の世に多大なる影響を及ぼす詩人にして、それよりも遠くの未来で数々の見るに堪えない醜態を晒すことになるダンテ・アリギエーリも含まれていた。

 この年、ダンテは黒党の暗躍を阻止するために教皇庁への特使としてローマに派遣されていた。そして、彼が教皇庁での仕事を終え、愛する家族が待つ家へと帰った時のことである。

 

「ジェンマ。ただいま戻りました」

「おう、土産は?」

「チーズとお菓子とワインと……こちら、薔薇の香りがする髪油だそうです。どうぞ」

「お前にしては良いチョイスじゃねえか。褒めて遣わす」

 

 と、いきなりお土産の催促をしたのは、ダンテ・アリギエーリの妻ジェンマ。明るい茶髪と冷たい蒼の瞳が印象的な女性だった。背丈はダンテの胸に頭が届かないくらいだが、ひとたび怒れば夫をさながらヌンチャクのように振り回す烈女だ。

 

「あ、そうだ」

 

 彼女は生まれたばかりの長女アントニアを抱きながら、何やら一枚の手紙をダンテに突きつける。

 彼は訳の分からぬままそれを受け取る。手紙の封蝋は役人が扱う公的なものだった。ジェンマはお土産のお菓子の封を乱暴に開けて、何の気無しに言った。

 

「追放だってよ」

「へっ? 誰がです?」

「お前」

「私が!!?!?」

 

 一瞬、アリギエーリ邸が跳ねたかと錯覚するような雄叫び。夫のそんな反応には慣れているのか、ジェンマはばりぼりとお菓子を貪りつつ、気の抜けた声を返す。

 

「ああ、違った違った。追放と罰金だったわ。ちなみに罰金の方はアタシがお前に二十五回嫁いだ持参金でようやく払えるくらいなんだけど、笑えるよな」

「まったく笑えないんですが!? むしろ罰則が増えてるじゃないですか!!」

「いや、笑えるのはアタシの持参金の少なさだけど。ウチのオヤジのケチくささつったら……金持ちのクセによォ〜〜〜」

「十年以上前のことをまだ根に持ってるんですか!? いや、そもそもこんな命令をされる覚えなんてないですよ! 詳しく説明してください!!」

 

 ジェンマが言うにはこういうことだった。

 ダンテが教皇庁に出張していた間、黒党は政変を起こして政権を奪取。さらにはダンテを勝手に欠席裁判にかけ、フィレンツェからの二年間の追放と罰金、おまけに市民権剥奪を命じたという。

 罰金の額は5000フローリン。フローリンとは当時フィレンツェが発行していた金貨のことであり、比較の参考としてジェンマの持参金は200フローリンであった。

 フィレンツェに渦巻く政情を理解し、ダンテはがっくりと床に崩れ落ちた。下級貴族の地位から死に物狂いで政界を這い登り、得た全てが己の知らぬ間に無に帰したのだから当然と言えよう。

 ダンテの三人の愛息子、ピエトロとジョバンニとヤコポは真っ白に燃え尽きて灰になった父を指先でつつく。

 

「かーちゃん、とーちゃんがまた死んでる」

「いつものことじゃね?」

「そうだぞー、どうせ放っといたら復活するから無視しようなー」

「き、鬼畜ですかあなたは……」

 

 ちなみに、この時末弟のヤコポはおよそ一歳ほどであろうとされている。彼は兄たちの見様見真似で父をつついていたのだった。

 ダンテはヤコポを抱き上げ、猛獣のような顔面で宣言する。

 

「───こんな不当な要求には屈しません!! 奪われたのなら奪い返すまでです! 私の政治手腕できっとこの状況を挽回してみせましょう……!!」

「…………どうやってだよ?」

「決まっているでしょう。ジェンマ、塩と蜂蜜を用意してください。これから有力者たちを訪れて協力を募ります」

「おいしく靴舐めようとしてんじゃねえよばぁーか!!」

 

 政権の奪回に燃えるダンテ。この時、1302年1月27日のことであった。

 で、1302年3月10日。

 フィレンツェの政情はさらなる動きを見せた────!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「永久追放だってよ」

「イヤアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 この日、黒党は罰金の支払いのために裁判所へ出頭しなかったことを理由に、ダンテを永久追放処分とした。ついでにフィレンツェ市当局に捕縛された場合、火あぶりの刑に処すという脅しまでつけて。

 ただし、その脅しが本気であることは明白だった。以前はフィレンツェの統領であり、教皇庁とも繋がりを持つ彼の存在は、黒党にとって邪魔でしかない。

 ジェンマはとびきり大きくため息をついて、ダンテの顔面に自らの背丈はある大きさの背嚢を投げつける。

 

「逃げろ。アタシも後でガキども連れて出るからよ。黒党のクソになんざ捕まんじゃねえぞ」

「で、ですが」

「口ごたえすんじゃねえ。こんなところで死んだら地獄の果てまで追いかけて殺すからな」

「ちょっと、地獄行きにするのやめてくれません!? 私は絶対に地獄になんて行きませんから!!」

 

 しかし、ダンテとてここで殺されるつもりはなかった。

 彼はヘタレだが、妙な粘り強さがある。フィレンツェ内部から政局を動かせなかったのなら、外部から干渉するまでだ。その点においては、追放は有利に働くだろう。

 ダンテは四人の子どもたちを引き寄せ、強く抱き締めた。

 

「最愛の我が子らよ、しばらく父とはお別れです。お母さんの言うことをしっかり聞いて、絶対に再会しましょう」

 

 未だ幼いヤコポとアントニアに、父の言っていることは理解できなかっただろう。が、子どもの感受力は底知れない。並々ならぬ空気を感じ取り、首を傾げる。

 二人とは逆に、ピエトロとジョバンニはこの状況を理解し、ぽろぽろと涙をこぼした。

 

「そ、そんな……っ! とーちゃんがいなくなったらおれたち─────」

「────かーちゃんのドブ底みたいな料理を食わないといけないのかよ……!!」

「ええ、そうです。あなたたちには大変な苦労をかけてしまいます。しかし想像を絶する苦難の道を往くは父も同じ。必ずや生き延びるのですよ……!!」

「おい、お前ら全員表出ろ」

 

 ジェンマはパキパキと指を鳴らす。一見小さな手ではあるが、そこに秘められた力がクマにも劣らぬものであることは一家全員が知るところだ。未曾有の恐怖に直面し、息子らの涙はぴたりと止まる。

 ダンテは背嚢を引っ掴み、じりじりと後退した。

 

「そ、それでは行ってきます! ジェンマ、あなたも気をつけてください」

「…………ぎゅってしろ」

「はい?」

 

 ジェンマはダンテの赤い外套をつまむ。それをぐいと寄せると、万力のような指力によってダンテが前のめりになる。

 小さな彼女の背に、恐る恐る腕を回す。

 その体は僅かに震えていた。傍目には気付かぬほどに小さく、しかし気丈な彼女がこんな弱みを見せるのは初めてだった。

 初めて───そう、ジェンマとは幼い頃からの仲だ。

 自分の方が二年早く生を受けたというのに、許嫁として紹介された頃から彼女にはどんなことでも敵わなかった。主に暴力の方面で。複数人の女性にその気もないのにラブレターを送っていたのが発覚した時は、全身の関節を三回転ひねりされた上に物干し竿で吊るされた。

 そんなサムソンをも想起させる烈女のジェンマが、こうして震えている。

 ダンテは腕に強く力を込めて、囁くように言った。

 

「……私の書斎に秘伝のレシピがあります。決して無用なアレンジをしたりせずにそのまま使うのですよ」

「オイテメーこんな時に言うことがそれかゴルァ」

 

 そんなこんなで、ダンテの逃亡生活は幕を開けた。

 彼の放浪生活については、多分に推測を含むところが多い。彼が残した家族は弟フランチェスコの庇護に入り、ダンテは同じく白党の亡命者たちと行動を共にしていた可能性が高い。

 1302年から1303年の半ば頃まで、彼は黒党打倒のためにかつて敵対していた皇帝派と手を組むも、それは立ち消えに終わった。

 そして1303年の10月2日、当時のローマ教皇ボニファティウス8世が死去する。ボニファティウスはフィレンツェに圧力をかけ、ダンテ追放の一因ともなった人物であった。その後任、ベネディクトゥス11世はフィレンツェ共和国の内乱を鎮めようと、枢機卿のひとりを送り、ダンテも書簡を認めるものの、結局交渉は決裂することとなる。

 この決裂が、白党の人間たちを暴走させてしまう。

 彼らは武力闘争を始め、穏健派と強硬派に分裂。党内から多くの脱落者を出してしまう。その中には、ダンテの姿もあった。

 

「…………ふ、ふふふ」

 

 どこまでも続くような荒野。地平線の彼方に沈みゆく太陽が、この天の下を遍く朱に染め上げる。ダンテは大きな荷を背負いながら、とぼとぼと頼りない足取りを進めていた。

 肩に食い込む荷の重さが、一段と己の惨めさを引き立てる。ようやく捻り出した乾いた笑いは、無聊の慰めにもならない。

 ボサついた髪の毛を手櫛で直し、そのまま右手を下ろすとぞりぞりとした感触が伝わる。何度目になるかも分からぬため息を吐き出し、もう片方の手で握る酒瓶の中身を一気に煽る。

 疲労による倦怠感と深い酩酊。脳みそに手を突っ込まれているかのように意識が掻き乱され、

 

「おげええええええッッ!!!」

 

 吐瀉物を吐き散らかしながら、ダンテは地面に横たわる。

 潤む視界、混濁する思考。ぼやぼやと形を失っていく意思の最中、浮かび上がるのは数日前の出来事。仲間と袂を分かつことになった一件であった。

 

〝もはや我らに残された道は武力による黒党勢力の排除、これしかない!!〟

〝教皇庁に頼ることはできない。だが、正統性はこちらにある。故郷を追われ、地位を奪われたままで黙っていられるか!!〟

〝ま、待ってください! 今や共和国を掌握した奴らに、私たちのみが立ち上がっても勝てません!! それに、武力の行使は勝敗がどうあれ民に被害をもたらします!!〟

 

 それでは、たとえ黒党打倒を成し遂げたとしても、民衆の支持は得られない。そう言いかけて、ダンテは眼前に立ちはだかる現実を直視する。

 全身に突き刺さる、いくつもの視線。ぷつぷつと肌が粟立ち、背筋を冷たいものが伝う。敵意とも憎悪とも取れぬ、暗く黒く冷たい感情の矛先の一切が、自身に差し向けられていた。

 理想を共にしたはずの仲間のその瞳を見て、ダンテは思い知ったのだ。

 自分が目指した政の道は、これで終わりなのだと。

 その結論が妙にすとんと腑に落ちて、納得がいってしまったから、彼は今こうして流離っている。今まで築き上げたものは戻しようもないくらいに崩れてしまった。

 

(私には、土台無理な夢だった)

 

 幼少の砌、心を奪われたとある皇帝の記録。

 異教の皇帝、異なる時代の人間が綴った戦いの物語は暗唱できるまでに読み倒した。鮮烈にして軽妙なる語りは誇張が多く含まれていると知っていてもなお、目を離すことができなかった。

 武才、文才、知才、あらゆる才能を兼ね備えた男は誰よりも野心に溢れ、当然のように王の座に君臨した。ローマの歴史は名君も暴君も取り揃えているが、彼に肩を並べど超える者はひとりとしていないだろう。

 彼のような偉大な政治家になりたい───そんな夢は、儚くも砕け散った。

 喪失の重さは遅れてやってくる。失ったその時は悲哀が心を麻痺させてしまうから。

 真に喪失を実感するのは、その悲哀から立ち直った時。ふとした瞬間に、喪失の重さは心にのしかかる。

 ダンテはそれを知っていた。

 かつて恋い焦がれた彼女の姿が、街中の喧噪からぽつりと消えてしまったことに気付いた時のように───いつもあるはずの、そこにいたはずのものがない。その時にこそ、人は喪失を実感する。

 じゃりじゃりとした口内に残る、酒精の味。瞳に射し込む日暮れの陽光。故郷にいた時ならば、家族とともに食事を取っていた時間帯だ。

 それがもう、失われたのだと実感して。

 

 

 

「───ん゙もォォォォ!!! どいつもこいつもほんっっとに争いが大好きですよねェ!! 聖書百万回読み直してこいってんですよこのバカ!! アホ!! ダボハゼ!! ○○○○!! 少しはみんなで手を取り合おうって気はないんですか!? あ〜っ、ないかぁー! だってあいつら全員欲で目が曇った俗物ですもんね!! ほんとはなんにも考えてないですもんね!! はぁ〜、頭が弱いと人生楽そうで羨ましい〜〜!!! 私もあいつらみたいな能無しだったらよかったんですけどねえぇ〜!!」

 

 

 

 結果、ダンテは脳みそから流れてくる悪口をそのまま吐き出す怪物と化した。四つん這いで大地を駆けずり回り、罵詈雑言を放出するその姿に、人の尊厳はない。

 元よりここは誰もいない荒野。聞かれる心配もなければ、見られて失う恥もない。太陽が地平線の裏側に隠れるまでそれは続き、終わりを迎えたのはすっかり肌寒くなってきた頃だった。

 息を荒げながら寝転がるダンテの近くを、大きな荷を載せた馬車が通りがかる。

 荷馬車に乗る男は陽気に微笑みかけた。

 

「こんなにも長い間罵詈雑言を吐き続けるとは、素晴らしい語彙だ。次々と言葉が溢れ出てくる様……貴殿の頭には知恵の泉があるのかな」

「…………み、見てたんですか?」

「途中からだがね。何か辛いことがあったのだろう? まずは着替えるといい。全身がゲロまみれだ」

「あ、はい」

 

 手頃な水場で体を清め、服を着替える。

 ダンテがしずしずと戻ってくると、男はいつの間にか地面に布を敷き、一面に料理を用意していた。

 この短時間でどうやって用意したのか、どれも作りたてのような湯気を帯びていた。男は手を招き、ダンテを向かいに座らせる。

 

「ここで会ったのも何かの縁だ。夕餉を共にしようではないか。いや、その前に自己紹介か?」

「え、ええ。私はダンテ・アリギエーリと申します。訳あって流浪の身ですが、前はフィレンツェにいました」

「ほう。その名前、知っているぞ。黒党に追放されたフィレンツェの元統領だろう。まさか貴殿がそうなのか?」

「そうですね。正直、今でも受け止めきれてない事実ですが」

 

 ダンテはさあっと涙を流した。日頃から運動をして汗をかいていると汗がサラサラになるように、その涙は驚くほど淀みなく溢れた。

 男はハンカチを手渡しつつ、

 

「なるほど、貴殿の事情が見えてきたぞ。故郷を追われ、政権を取り戻そうとするも日々過激さを増していく仲間と袂を分かち、失意の中にある。そんなところか」

「……これが小説なら地の文を読んできたかのような正確さですね!?」

「年の功というやつだよ。いや、自らの事情を暴かれることは不快だったろう。すまなかったな」

「いえ、全てあなたの仰る通りです。もはや私には何をどうしたらよいのか……」

 

 そこで、彼はくすりと笑った。

 微笑む顔に、耽美な色を滲ませて。

 

「───夢が、理想が叶わぬのは、やり方を間違えているか、願いの形を理解していないか。この二つに尽きる」

 

 唐突な語り口。けれど、ダンテは自身でも不思議なほどに、彼の次の言葉に五感を傾けていた。

 

「白党の残党が前者であるのなら、貴殿は両者に当てはまる。政が最善の道なのか? そもそも何を志していたのか? それらを理解していない。惜しいことだ、貴殿にはこの世界を変革する才があるというのに」

 

 ずぐりと、皮膚の下で冷ややかな怖気が蠢く。

 彼は見抜いている。ダンテ・アリギエーリという人間を、本人ですら自覚しない何かを、気味が悪いくらいに把握している。

 

「だから、けして諦めぬことだ。残酷で、圧倒的な、クソったれた現実に打ちのめされてもなお、夢想の世界を生きる者だけが願いを叶える権利を持つのだから」

 

 曖昧な悩みや苦しみが形を得て、整理されていく感覚。ダンテは引きつった唇から隙間風のような声を捻り出した。

 

「あ、あなたは一体何者なんです?」

「しがない旅の商人さ。名は……ローザと呼んでくれ。こちらでは薔薇のことをそう呼ぶのだろう?」

 

 む、とダンテは目を細める。

 男はその名の通り、衣服の各所に薔薇の意匠を刻んでいる。薄い紫色を帯びた白い長髪は頭の後ろでまとめられ、薔薇の花をそのまま摘み取ったかのような眼帯で右眼を覆っていた。

 名は体を表すが、彼の場合は体になぞらえて名をつけたのだろう。男は明らかな偽名をさらりと当然の如く告げてみせた。

 

「あなたは、もしや魔術師と呼ばれる人なのでは?」

 

 ローザは目を見開いて、

 

「おや、これは驚いた。なぜそうだと?」

「魔術師の方は男性でも髪を切らないと聞きますし、それに……あなたからは、なんというか計り知れない生命力のようなものを感じます」

 

 彼が纏い持つ不可視の力。ダンテの感覚はそれを察していた。さらには、衣服に覆われた肉体───ギリシャ彫刻のように磨き抜かれた五体さえも。

 五感全てが、目の前の男が只者ではないことを物語っている。彼は観念したようにはにかんだ。

 

「凄まじい眼力だ。魔術師の存在まで知っているとは。我らは魔術を隠匿するのだがな」

「政の世界では割と有名ですねえ。なんでも、卑金属を黄金に変えられるとかで、資金と引き換えに特権を求めてくるような人たちがいるようで」

「ふむ、俗な錬金術師(まじゅつし)もいたものだ。黄金錬成如きで人を釣ろうとは。まあいい、今日は善い日だ。俗世のことなど忘れて楽しもうではないか」

「そうですねえ! 私の脳みそをあんな奴らに割くだけ無駄ですし!!」

 

 ということで、ダンテとローザは大いに飲み食いした。

 ローザはいくつもの話を披露してくれた。

 

「これはとある死徒に半殺しにされた時の話なのだが────」

 

 人の血を糧にする吸血鬼との戦い。

 

「北海にて世界を流離う黒妖精の末裔と出会ってな。彼らと一時、路を共にした際は────」

 

 遥か昔、流浪の一族をブリテン島に導いた旅路。

 

「かの暴君ネロが女性だったと言ったら笑うかね?」

「そんなこともありますよねえ!! おぼろろろろろろ!!」

「おお。かなり酔いが回ってきているな」

 

 余人が知る由もない、歴史の裏側。

 彼はいったいどの時代から生きていて、どれほど世界を旅したのか。そんなことがどうでもよくなるくらい、彼の語りは新鮮だった。

 夜が更け、酒も底を尽いてきた頃。ローザは夢も現も曖昧になったダンテに、右手を差し出す。

 その人差し指と中指の間には、淡い桃色に輝く貴石。スピネルと呼ばれる宝石だった。

 

「ダンテ・アリギエーリ。貴殿が今道に迷っているのなら、これを飲むと良い。あるいは答えを見つけられるやもしれん」

「それって宝石ですよねえ〜〜、むしろ飲むより持っていたいモノというか……お腹壊しません?」

「嫌かね?」

「───まあお腹壊したところでどうでもいいですか!! 今より辛い状況になるなんてありえませんからねえ!!!」

 

 ダンテはニヤリと笑い、宝石を受け取って口に放り投げた。

 それは口内で飴細工のように溶け、喉の奥に滑り込んでいく。やはりと言うべきか味は一切の無味であり、食感にも乏しい。

 思わず首を傾げた直後、後頭部から脳みそを丸ごと取り出されたかのような錯覚を覚え、ダンテは背中から地面に倒れた。

 

「その石に込めた魔術は『肉体と星幽(アストラル)体の分離』。要は幽体離脱を促すものだ。ただ、それだけでは単なる夢遊病と変わらん。霊体はいずれ精神によって肉体に引き戻されるからな」

 

 ローザは眼帯を取り外し、右眼を露わにする。

 蒼い左眼とは対照的な、真紅の瞳。虹彩の中には輪を描いた茨の紋様が刻み込まれている。ダンテはそれを肉体と星幽体、両方の目で直視した。

 美しい、なんて言葉では計り知れない。

 だというのに、これは醜いと精神が叫んでいる。

 死体の腐肉に湧く蛆みたいに美しく。

 夜空に栄える孤月のように醜い眼差し。

 男は魔性の眼光を湛え、つらつらと述べる。

 

「故に、この魔眼にて貴殿の肉体と星幽体の繋がりを破壊した。肉体との縁を絶たれた魂は、一時的に根源への回帰を果たすだろう」

「つ、つまり……精神を壊したということでは───!?」

「その通り。貴殿はこれから向かう先で己の根源を知り、自己を再構成するのだ。ああ、少し私情も入っているがな?」

「そ、それは……」

「この会話を覚えていられるか微妙だが……教えよう。私は貴殿に輝くものを感じた」

 

 どろどろと溶けていく思考。泥濘の底に沈んでいく意識の中に、彼の声だけが響く。

 

「魔術師には根源を目指すための研究テーマがある。私の場合は()()()()()だ」

 

 創世記第1章27節。〝神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された〟。

 

「人は神に似せて造られた。ならば、人体をそっくりそのまま神の形に整えてしまえば、神と同じ位地に到達できるのではないか? 無論、ここでの人体とは人が持つ霊魂も含む。人の資質全てを神と同質にする、と言った方が易しいかな」

 

 無謀な話だと、多くの者は言うだろう。だが、サンプルは存在する。正典の記述ではないものの、エノクは天に召し上げられ、メタトロンという天使に変容した。ヒトが上位存在へと昇華できることはとうに証明されている。

 

「マハーバーラタではカルナは死後太陽神と同化しているし、ヘラクレスもまた神の座に列せられている。そこはさしたる障壁ではない。ただひとつ、問題は神がどのような姿をしているのかが分からないことだ。だから、貴殿には神の姿を見て、それを記述してもらいたい」

「どうして、わ、私なんです?」

「いや、本当は自分でやろうと思っていたのだが……一目見て思ったのだ、貴殿しかいないと。まあ、つまりはノリだ」

「ノリでこんなことを───!!?」

 

 それが、ダンテにできる最後の抵抗だった。

 意識は堪えようもないほどに埋没する。ぷつんと意思の糸が途切れる直前、ローザは言った。

 

「また会おう。我が友よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───そして、彼の物語は現在に至る。

 暗夜をひた走る只人。それを追う獣の群れ。

 ダンテはひたすらに足を動かした。鉛のように重たい両脚を根性で操り、太陽の黙する方角へと退いた。

 けれど、意思の力は肉体の限界に縛られた。足がもつれ、ごろごろと地面を転がる。

 血に飢えた獣たちは、鋭い眼光をぎらつかせてにじり寄る。自身の命が風前の灯であることを理解し、ダンテは必殺の土下座を炸裂させた。

 

「ヒッ、ヒィィィィギャアアアアア!! 食べるならいっそ頭からひと思いにやってくださいィィィ!!!」

 

 足音が近づき、唸り声が耳元に迫る。

 ぎゅっと目を閉じたその時、

 

「去れ」

 

 凛とした声が、頭上に響いた。

 いくつもの足音が遠ざかっていく。場に満ちていた殺気が残らず失せる。吐き気を催す恐ろしい気配はもう、跡形もなくなっていた。

 ダンテはゆっくりと面を上げ、目を開く。

 そこにいたのは、時代錯誤な格好をした男だった。古代ローマ人を絵に描いてそのまま出したかのような服装。やや中性的な風貌の男は優しい目つきでダンテを眺める。

 

「ふむ、然るに」

 

 それは、決してありえぬ邂逅。

 過去の時代を生きた、偉大なる詩聖。

 未来にて、新たな言語の礎を築いた無二の詩人。

 

 

 

「────おまえが、迷い人か」

 

 

 

 二つの詩才が、落日の光の最中にて、運命を繋いだ。

 

「い、命を助けてくださり誠にありがとうございます!! あなたは私の命の恩人です!! ぜひお名前をお聞かせください!!」

「俺はウェルギリウス。ローマの詩人だ」

 

 その瞬間、ダンテは目を丸くして固まる。

 ウェルギリウス。古代ローマの詩人。ラテン文学の黄金期を創り上げた偉人。そして、ダンテにとってはこの世で最も尊敬する人間だ。

 政界に足を踏み入れる以前、熱中していた詩作。地位を得てからは詩を綴ることも少なくなっていったが、詩は間違いなくあの頃の自分の半身であった。

 その詩の根源。彼が創る言葉の伽藍に魅了され、手本にし続けた憧れの人物が目の前にいる。

 

「…………ウェル、ギリウス───?」

 

 普通の人間ならばまず、眼前の男が〝自分をウェルギリウスと思い込む一般ローマ人〟ではないかと疑うだろう。しかし、ダンテは生憎普通の人間ではなかった。

 彼はしゃがみながら十字を切り、両手の指を深く組んだ。

 

「おお、神よ……!!!」

「おまえの信教的にその発言は大分まずいのでは?」

「大丈夫です! 神はすべてをお赦しになられるので!!」

「神以前に人が許さないと思うが。まあ元気なのは良いことだ。これからおまえは長い旅路を往かねばならぬのだからな」

 

 こてん、とダンテは首を傾げる。ウェルギリウスはその反応が予定調和であるかのように、淡々と続けて言った。

 

「ここは地獄だ。今からおまえは地獄の九つの圏域を抜け、煉獄の山を登り、天の国に至らねばならん。これが現世へ帰るための唯一の脱出経路だ」

「先生、ひとつ言っていいですか」

「いいぞ」

「ありがとうございます。では」

 

 ダンテは大きく深く息を吸い込み、

 

「───絶対に!! 無理です!!!」

 

 周囲の木の葉を揺らすほどの大音声を繰り出した。

 地獄、煉獄、天国。どれかひとつでも踏破すれば英雄と語り継がれるであろう偉業。しかもその全てを、ヘラクレスのような武勇もなければ、オルフェウスのような魅力もない、ただのおっさんにやれと言う。

 ウェルギリウスはあらかじめ両耳を塞いでいた手を退かすと、ダンテの肩に軟着陸させる。

 

「案ずるな。そのために俺が遣わされたのだ。必ずや煉獄の山頂までおまえを届けると誓おう」

「ウェルギリウス先生……!! 煉獄までと言わず天国まで私を導いてください!」

「それこそ無理だ。俺は救世主が原罪を持ち去るより過去の人間。天界は罪ある者が踏み入ることを許さない」

「そ、そんな! だったら私は誰に助けてもらえばいいんですか!?」

「自分の力でどうにかしようという気はないのか……!?」

 

 どこまでも他力本願な男だった。どうやら、彼の頭には自らの力で苦難を切り拓くという考えはないらしい。悪鬼悪魔が跳梁跋扈する地獄では、おっさんひとりの力などたかが知れているが。

 ウェルギリウスは落日の光に背を向け、迷いなく歩いていく。ダンテは飼い主に追従する犬みたいにぴったりとくっついていった。

 

「俺は淑女ベアトリーチェの頼みで、おまえを導くことになった。もし煉獄を抜けたのならば、そこから先は彼女の出番だ」

「ベアトリーチェ───私の初恋のベアトリーチェですか?」

「ああ、そのせいで飯が喉を通らなくなって死にかけたベアトリーチェだ。聖母マリアも関わっているがな」

「なんと……そんなのもはや不倫じゃないですか!!?」

「ダンテ、キモいぞ」

 

 ウェルギリウスはダンテの発言を一刀のもとに斬り伏せた。その切れ味たるや、聖ジョージの聖剣に匹敵するレベルである。

 

「……分かりました。ウェルギリウス先生とベアトリーチェがついているなら、悪魔の大王も恐れるに足りません!! いざ地獄巡りと参りましょう!!」

「よし、その意気だ。まずは川を渡り、辺獄へ向かうぞ。冥界の渡し守は気難しいから、覚悟することだ」

「ふふふ、ウェルギリウス先生。私はこれでもフィレンツェの元統領ですよ? 気難しい人物との接し方は心得ています」

「そうか、頼もしい限りだ」

 

 で。

 ダンテとウェルギリウスが向かったのは、無数の亡者が連行されるアケロン川。川の渡し守はカロンと言い、枯れ木を繋ぎ合わせたみたいな老人だった。決して亀のガイコツのことではない。

 カロンはダンテに向けて櫂を大きく振り回しながら、

 

「ワシの舟は死人専門なんじゃ!! 生者が土足で踏み入るでないわァァァ!!」

「ギャアアアアアア!! なんですかこの人! なんでギリシャ神話の人がここにいるんですか! ウェルギリウス先生助けてください!!」

「前言撤回が早すぎないか!?」

 

 そんなこんなで、ダンテは地獄に吹く風と真紅の稲妻が奏でる雷鳴を間近で喰らい、気絶した。彼の旅路において、栄えある一度目の気絶である。

 カロンは死者しか通さない───が、気を失った者は死んだも同然なので通れる、という謎理論だった。

 ダンテが目を覚ました時、既に場所は辺獄の手前だった。急いで両目を擦り、見下げた谷の中は果てしのない深淵。遠雷の如く亡者の叫喚が響き、どれほど目を凝らしても暗闇の他に見て取れるものはない。

 思わず怖気づくダンテとは逆に、ウェルギリウスは悠々と斜面を下っていく。

 

「私が先導する。おまえは後ろをついてくるだけでよい」

 

 振り向き、言った彼の顔を見て、ダンテは後退った。

 ウェルギリウスの顔貌は僅かに曇っていた。短い付き合いとはいえ、彼が後ろ向きな感情を露わにすることはなかった。ダンテは谷の縁に留まりながら、声を投げかける。

 

「ウェルギリウス先生でさえ恐れる場所に、どうして私みたいなヘタレが飛び込めるというんです!?」

「違うぞ、ダンテ。私は恐れてはいない。ただこの先にいる人間の苦悶を思うと、憐憫の情を禁じ得んのだ。道は長い、立ち止まっている暇などないぞ」

「でしたら手を繋いでもいいですか! 滝のように手汗が滲んでるのでアレですが!」

「うむ、それは断る」

 

 そうして、ダンテは恐る恐る彼の後を追いかけた。

 暗闇の中、視覚が用をなしていないせいか、聴覚が鋭く研ぎ澄まされる。

 どこからか伝う振動が空気を震わせる。それは責め苦を受ける亡者の叫び声ではなく、深い嘆息のように聞こえた。

 すると、燭台の灯の如く発光する魂の列が現れる。

 地獄の罪人というからには凶悪な外見を予想していたものの、彼らは一般的な人間であった。老若男女いずれも嘆いていることを除いて。

 

「先生、辺獄とはどのような場所なのですか。彼らも地獄に落とされるような罪を犯した罪人なのですよね?」

「彼らが特筆してなにか罪を犯したということはない。ただ、洗礼を受けなかった。機会のあるなしに関わらず、洗礼を受けなかった者は辺獄に落とされる」

「り、理不尽すぎませんか。神の子が磔刑に処される以前に亡くなった人が、洗礼を受けられるはずがありませんのに……旧約聖書の人たちもここに?」

 

 ウェルギリウスは首を横に振った。

 曰く、彼が辺獄に来て間もない頃、救世主がこの地獄を訪れ、アダムやアベル、ノアにモーセにダビデ───大勢の人の魂に祝福を与え、連れ出したと言う。

 それが最初にして無二の、辺獄の脱出者たちだった。ウェルギリウスも本来は辺獄の住人であり、未来永劫囚われることが定められている。

 ウェルギリウスが話し終えると、ダンテは苦虫を噛み潰したみたいな顔をした。

 

「それは、おかしいと思います。救世主様なら、全ての辺獄の人に洗礼の機会を与えられるでしょう。一部の人間だけを連れ出すなんて、まるで当てつけです」

「……そうかもしれないな。だが、それがこの世界だ。洗礼を受けた自分たちは救われ、そうでない者は地獄に落ちる。民衆が好みそうな、単純な二元論だ」

「民の意思がこの世界に反映されていると?」

「ああ。ここはそういう土地だ。人もな。人々が思い描く『地獄』というイメージが具現化した場所だ」

 

 要するに、この世界の形と住人は人々の想像が影響を及ぼしている。救世主の振る舞いも、落とされる罪人と受ける罰も、何もかもが。

 ダンテは難しい顔をして、むむむと唸った。

 

「一口に地獄と言っても、想像するものは人それぞれですよね。そんな曖昧なものがこうして形を得られるとは思えないのですが……」

「妥当な疑問だ。ここは現世とは時間も空間も異なる。過去が現在を形作る他、未来が現在に干渉することもあるだろう」

 

 つまり、とウェルギリウスはダンテを見据えた。

 

「───いつかの未来、何者かの手によって、大衆の思い描く地獄の姿がこのように固定された。そういうことも有り得る」

 

 真剣のような切れ味を帯びた言葉。ダンテはだくだくと涙を流して歯噛みする。

 

「それなら私はその人を許せませんよ!! こんな地獄を創り上げるなんて、名を出すことも憚られる大罪人です!! 私をこんな目に遭わせた張本人でもありますし!!」

「そ、そうだな。大分本末転倒というかブーメランというか───いや、俺は何も言うまい」

 

 ウェルギリウスは怒りを紛々とさせるダンテに憐れみを注ぎつつ、さらに奥へと向かう。

 永劫続くと思われた暗闇の底に、光が射す。それこそが辺獄。七つの城壁に囲まれた街。外壁の縁を小川がなぞり、地面を踏みしめるようにして水面を通り抜ける。

 そこでダンテは、数々の偉人を目撃した。

 アリストテレスやソクラテス、プラトンにプトレマイオスにエウクレイデス。ヘクトールとアエネイス───などなど、これだけでも一部でしかないが、とりわけ目を惹かれたのは、甲冑に身を包み、鷹のような眼光を煌めかせる男だった。

 その名もカエサル。来て見て勝ったり、ルビコン川を渡ったり、賽が投げられたりで有名な皇帝の中の皇帝である。

 ダンテはカエサルの勇壮にして颯爽たる立ち姿を、テレビの中のスーパーヒーローを応援する子どものような目つきで見上げた。

 

「私の詩の根源が先生であるなら、政の根源はまさしくあのお方です。私はくだらない政争のせいで今こうなってるんですけど」

「おまえにその道は向いていなかったということだ。かの皇帝ならば、おまえと同じ立場に置かれたとしても瞬く間に政敵を排除してみせただろう」

「そうでしょうねえ。先生はそちらの道に興味はなかったのですか?」

「俺はその内気さから乙女(パルテノス)にちなんでパルテニアスとあだ名された男だぞ。ちなみにおまえと話している今も膝の震えが止まらん」

「そのザマでよくここまで人見知りを隠し通せてましたね!!?」

 

 兎にも角にも、彼らの地獄巡りはこうして始まった。

 ダンテの神曲は全14233行に及ぶ韻文で構成された叙事詩であり、三分の一とはいえそれをいちいち描写していたら尺がいくらあっても足りなくなる。

 なので、二人の旅路をかいつまんで話すと、

 

 

 

「───ランスロット卿がどうして愛に溺れたのか、その物語を読んでいる内に私たちの視線は絡み合い……恋に落ちたのです。たとえそれが不義であると知っていても」

「そうして私の夫……ジョヴァンニは私たちを剣で突き刺しました。私は地獄に落ちたことを罰とは思いません。愛した人と共にいられるのですから」

「不憫とは思うが、正道に悖る行いであることは変わらぬ。ダンテ、過度の同情はいらな」

「…………」

「失神している───だと……!?」

 

 

 

 地獄の第二圏。パオロとフランチェスカという二人の男女の悲恋話を聞いて、ダンテがあまりの悲しさに気絶したり、

 

 

 

「パペサタン。パペ、サタン、アレッペ!!」

「何やら怪物が変な呪文を唱えていますが、アレは一体?」

「わからん。邪魔立てはしてこないようだし、私が罵倒している内に行こう」

「先生にも分からないことはあるんですねえ。…………罵倒する意味はどこに?」

 

 

 

 何やら妙な呪文(一説にはダンテ独自の言葉)を発するプルートンを何気なく退けたり、

 

 

 

「■■■■■■■─────!!!!」

「おんぎゃああああああ!!! アレは私も知ってます! ミノタウロスです! なぜか人頭牛身ですが!!」

「おまえを殺したテセウスがここへ来るとでも思っているのか? さっさと退散しろ、ケダモノめ! この男はおまえたちの罰を見に来ただけだ!! ───私が罵倒している間に逃げろ!!」

「ですから罵倒する意味はどこにあるんです!!?」

 

 

 

 オウィディウスにおいて〝半ば牛、半ば人〟と言われるミノタウロスの猛威を命からがら逃げ切ったりしていた。ちなみにダンテは〝致命の傷をおうた牡牛は もう進みもならぬままに脚をあちこちへばたつかせる〟と、ミノタウロスがもがく様を表現している。そのため、オウィディウスの句の一風変わった解釈として、ミノタウロスを牛面人ではなく人面牛としていた可能性が高い。

 ……等々の冒険を乗り越え、二人が辿り着いたのは地獄の第八圏。欺瞞者が落とされるこの圏域は、さらに十個の『悪の嚢(マーレボルジェ)』に分かれている。

 その内の第八の嚢。権謀術数を用いて他人を陥れた人間が落ちる地獄。ダンテはそこで、業火に焼かれる二人の罪人を見た。

 ウェルギリウスはそれぞれ指を差して言う。

 

「アレがディオメデスで、アレがオデュッセウスだ。話を聞いてみるか?」

「是非! 実は私、ギリシャ神話の英雄の中ではオデュッセウスを推しておりまして、アキレウス派のジェンマとは幾度となく口論したものです」

「そうだったのか。アキレウスは第二圏に落とされていたが、この地獄ではオデュッセウスの罪の方が重いということだ。心してかかれ」

 

 ダンテは力強く頷いた。

 ここまで地獄を巡り、理解したことがある。

 欲望や感情から罪を犯した者よりも、その知恵や理性から罪を犯した者の方がより深い場所に陥れられるのだ、と。すなわち、この地獄は衝動的な悪ではなく計画的な悪こそを重く裁く。

 理屈としては間違っていない、とダンテは独り納得する。させられてしまう。まるで自著の論文を読んで、自賛するように。

 だからこそ、知りたかった。オデュッセウスが如何にして永劫の苦難が待ち受ける場所に辿り着いたのかを。

 

(まあ、オデュッセウスと言えば木馬の計略に違いないでしょうねえ)

 

 ダンテは心中で結論を出す。ここが権謀術数を用いたことで落ちる地獄というのならば、まさしくオデュッセウスは好例だ。

 世に名高きトロイアの木馬。かの一手は膠着した戦況を打破し、一気にトロイアを滅亡にまで追い込んだ。策士、軍師の類は多けれど、彼を超える者はいないだろう。

 ウェルギリウスは業火の前に立つ。

 

「この迷い人におまえたちの話を聞かせてやってくれないか。何故にこの場所に来たのかを」

 

 オデュッセウスは灼熱の炎に身を焼かれながらも、しんしんと降る雪のような声音で喋り出した。

 

「───俺は()()()()()()地獄へと辿り着いた」

「……ん?」

 

 魔女キルケーの束縛を抜け出し、ペーネロペーが待つ島への帰路につく───それが、詩人ホメロスの綴りし詩集にある物語。多くの人が知る、オデュッセウスの冒険譚だ。

 しかし。

 

「キルケーの束縛を免れた時、俺に芽生えたのは未知への好奇心と世界への探究心だった。故郷の家族を想う気持ちは、この世界を知り尽くす欲求の前には無力だった」

 

 そうして、彼は仲間とともに大海原を冒険した。

 ヘラクレスの柱を越え、地球の南半球をひたすら下り、オデュッセウス一行は〝かつて見たこともないほど高い山〟を目撃する。

 それなるは煉獄の山。天の国へと屹立する無上の山岳。オデュッセウス一行が歓喜するのも束の間、突如発生した竜巻に巻き込まれ、船ごと海中に没してしまう。

 海中と地中を落ちて落ちて、ついに留まったのがこの第八圏の第八嚢であった。

 ダンテはぽかんと虚空を眺め、背景に宇宙を背負う。

 

「…………か、」

「か?」

「解釈違い────ッッ!!!」

 

 頭を抱え、脂汗を垂らすダンテ。ウェルギリウスはぎょっとした。

 

「良いですか、オデュッセウスがわざわざ何年も海原を冒険したのは神の怒りを買ったからです!! 好奇心や冒険心故ではありません!! 神の試練に晒されてなお、彼を突き進めたのは故郷の家族への愛でしょう!!? というか大体生きながらにして地獄に来たなんて記述はどこにもありませんよねえ!? 未来の民衆はオデュッセイアエアプなんですか!!?!?」

「…………ど、どう思う? オデュッセウス」

「キレたオタクは怖い、ということだな」

「流石はアカイアイチの軍師、適切な物言いだ」

「ちょっと! 茶化さないでください!」

 

 結局、地獄巡り二人組は一応、寂しそうな目をするディオメデスの話を聞いて、先に進んだ。放っておけば業火に飛び込みかねないダンテを気遣った、ウェルギリウスのファインプレーである。

 そして、第九圏。裏切り者の地獄。嘆きの川───コキュートスを目前にして、ダンテは未だにオデュッセウスのことをぐちぐちと言っていた。

 

「あのオデュッセウスは偽者だったのでは? トロイアの木馬が人型に変形してビーム撃つとかふざけたこと言ってましたし、絶対に別人ですよ。木馬で出るってそういう意味じゃないですよ。解釈一致だったのは声音だけですよ」

 

 ウェルギリウスはふうと息をついた。コキュートスから流れ込む冷気のせいで、その息は白く色付く。

 

「ダンテよ、それはおまえが決められることではない」

「え? 木馬が変形することですか?」

「違う。あのオデュッセウスが偽者であることをだ」

 

 真摯な眼差しが肌を打つ。

 

「艱難辛苦の道のりを踏破して故国へ帰る。確かに彼には家族への愛情があったのだろう。再会への想いがあったのだろう。でなくば、戻ろうなどとは思いはしない。キルケーに囚われることも良しとしたはずだ」

 

 だが。

 

「果たして、その途上で彼に未知を舐る悦楽が、障壁を超える高揚がなかったと、本当に言い切れるのか」

「それは……」

「言い切れはしまい。彼がどう思い、どう感じたのかは結局のところ、俺たちには分かりはしない。人と人はどこまで行っても他人なのだから」

 

 地獄の最果てを前にして、詩聖は槍の穂先のように言葉を突きつけた。

 

「───おまえが、いま最も会いたい人間はどこにいる?」

 

 その問いに、答えを返すことはできなかった。

 日々政争に明け暮れ、荒野を流浪する身の上では、彼女の、彼らの居場所など知りようもない。否、知ろうとすらしていなかった。

 ああ、そうか。ダンテは達観する。

 日々政争に明け暮れたのも、荒野を流浪したのも、目的は政敵に勝つためではなかった。それは手段に過ぎなかった。

 だって、本当は。

 あの英雄のように、家族のもとへ帰るために戦っていたんだから。

 

「それを忘れるな。願いの形を手放してしまわぬ内は、おまえは必ず現世に戻れる」

 

 …………地獄の最果て、第九圏は四つの円で構成されている。その最終円、ジュデッカは裏切り者の中でも最も重い罪───主に対する裏切り者が氷漬けにされる場所だ。

 地球の重力の全てが集まる地獄の中心点。そこには、世の誰もがその名を恐れる悪魔がいた。

 ダンテは、悪魔との邂逅を以下のように書き記す。

 

〝私はその時身も心も凍り、声もかすれたが、 読者よ、それについては聞くな、書こうにも筆舌に尽くしがたいのだ。

 私は死にはしなかった、だが生きた心地はしなかった。

 読者よ、少し分別があるなら、自分で考えてくれ、 死にもせず生きもせず私がどうなっていたかを。〟

 

 名状し難き威容、異形。悪魔には三つの顔があった。その顎はそれぞれ三人の罪人を絶えず噛み砕いている。

 彼らはみな、史に名を刻みつけた裏切り者。

 皇帝カエサルを暗殺したブルータスとカシウス、そして───────

 

「────ユダ。救世主を銀貨三十枚で売った裏切り者」

 

 その時、ダンテは堕天使の牙の隙間に輝く眼光を目の当たりにする。

 己が血潮で赤く染まった髪の毛。肉を切り刻まれ、骨を砕き潰される苦痛にあって、その眼だけは赫々と鋭い光を宿していた。

 ウェルギリウスは目を奪われるダンテの肩に手を置く。

 

「今からサタンの体を登るぞ。俺に掴まれ」

「……正気ですか!? 殺される未来しか見えないんですが!!」

「正気だ。ヤツが俺たちを殺したければ、地獄に入った時点でそうなっていただろう。大丈夫なはずだ。多分」

「多分!? 先生だけはポジティブでいると私と約束しましたよねえ!?」

「ネガティブ担当であることを盾にするな」

 

 実のところ、心配は杞憂だった。ダンテはウェルギリウスにしがみつく形で、悠々とサタンの体の真ん中を『下へ登った』。奇跡的に、何の危害を加えられることもなく。

 サタンは地獄の支配者ではない。

 かつて唯一、主の右に並ぶことを許された熾天使の成れの果て。神へ叛旗を翻し、敗北した光の堕天使。彼もまた、主に対する裏切り者のひとりであった。

 つまるところ、地獄とは彼を幽閉するためにある。神をも脅かす力を氷河によって封印され、永遠に地球の重力を受け止め続ける、最も罪深き咎人として。

 そして、彼に全ての重力が集まるということは、その体の中心点は地球の中心部となる。よって、中心点を境として重力は逆転するのだ。

 

「せ、先生! サタンの足が上にあります! 今まで下にあったはずなのに!!」

「これが重力の逆転だ。たった今、世界は反転した。下に登るという矛盾はこれで終わる。後は真っ当に上へ登れば、地獄を抜けられる」

「り、理解が及びません……頭が壊れてしまいそうです」

「今更か?」

「先生? どういうことです?」

 

 というわけで、ダンテとウェルギリウスは煉獄に歩を進めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煉獄の山を登り、七つの罪を清め。

 天の国を永遠の淑女とともに駆け上がる。

 その途上にて案内役は聖ベルナールに代わり、ついに神の姿を垣間見る。

 ただ、それは言葉にすることもできず、また記憶にも留めておけないものだった。まるで夢を見た時のように、その実体は輪郭を持たず、感動だけが心に残っていた。

 けれど。

 それでも。

 彼は確かに理解した。

 天の果て、この世の根源で、神の本質を知った。

 

「───〝L'amor che move il sole e l'altre stelle(神とは太陽やその他の星を動かす愛である)〟」

 

 とある地下の納骨堂。

 薔薇の花弁舞い散る死の床で。

 目を覚ました男は、ぱたりと本を閉じた。

 

「これはやらかしたな。人間の感覚では神の姿を認知できようはずもない。うむ、大失態だ」

 

 蒼い左眼と、薔薇の眼帯に覆われた右眼から、同時に透明な涙がこぼれ落ちる。

 

「神とは全ての原動力たる愛である、か。美しいな。美しすぎる。それに、何よりの救いだ」

 

 詩人は最後、確信していた。

 神とは全ての原動力、愛であり、自分はそれによって生かされ生きているのだと。

 ───ならば、やることはひとつだ。

 全ての根源に神はいる。愛はある。

 だとしたら、自身が突き詰める人体の究極。それがどんなカタチになろうと、その先に必ず神はいる。

 男はくすりと口角を上げた。

 

「ダンテ・アリギエーリ。我が友よ。貴殿を選んだことは失敗であっても、間違いではなかった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢のような、現のような。

 そんな旅路を経て、気付けば、ダンテは荒野のど真ん中に転がっていた。

 この記憶が偽物であろうと、どうでもいい。あの旅路が本当の願いを教えてくれたから。

 独り進む荒野は今までとは違って見えた。あんなにも暗く、殺伐とした光景が今では何もかもが輝いて見える。なぜなら、これら全ての先が神に繋がっていると知っているから。

 ひとつひとつ、大切な思い出を噛み締めるように歩んでいく。

 日が昇り、沈んで、また昇って。

 それを何度か繰り返すうちに、懐かしい記憶に辿り着いた。

 

〝───なぜ、私なんかと一緒になる決意をしたのです?〟

 

 ジェンマが第一子を身籠っていた時の会話。寝台の上で暇そうに寝そべる彼女に、なんとなしに訊いたことがある。

 ドナーティ家はフィレンツェでも特筆して語られる名門の家系。彼女とは幼い頃から許嫁の仲であったが、家格としては比べ物にならない差があった。

 縁談は親の代から決められたことではあるが、その気になれば向こうから断ることもできた。ただでさえ名門の令嬢なのだから、より良い相手も見つかったのではないか。

 そう言うと、ジェンマは寸前まで目を通していた本の角をダンテの脳天に直撃させた。

 

〝ナメてんのか? 好きだから以外にありえんのかよそんなこと〟

〝え、そうだったんですか。てっきり殺意を抱かれてるとばかり思ってました。何度体を折り畳まれたか分かりませんし〟

〝それはテメーがラブレター量産したり他の女に目ェ向けたりしてたからだろうが!! 畳むぞ!!〟

〝ヒィィィィ!! ごめんなさいぃぃぃ!!!〟

 

 ダンテは床を這いつくばって部屋を逃げ回った。身重の女性相手に。

 

〝───ま、これで理解したろ〟

 

 ジェンマは彼を押さえつけ、ぐいと二本の指でその顎を持ち上げる。

 

〝お前も幸せも手に入れたアタシが、あの女に勝ったってことだ〟

 

 得意げに笑うその顔に。

 思わず、するりと本心が抜け出した。

 

〝ジェンマ。あなたを愛しています〟

 

 どこまで行っても、彼女には勝てない。

 そんな、輝かしき敗北の記憶を噛み締めて。

 ふと、彼は決意する。

 

「───もう一度、詩でも綴ってみましょうかねえ……」

 

 ダンテの神曲は1304年から、没年である1321年に及ぶ歳月を費やし、生涯をかけて執筆された。

 当時、知識層が文章に用いるのはラテン語だった。論文などは専らラテン語で記述され、それ以外の言語で書かれた場合見向きもされないことが多かったという。

 そのため、情報を得られる人間はラテン語を読める者に限られた。相応の知識と教養がない人間は、知ることすら許されなかった。

 

 ───故に、私がそれを変えてみせる。

 

 ダンテは自身の作品を、多くの人間が読めるトスカーナ方言を用いて完成させた。高度な教育を受けることが認められなかった女性でも、文字を学び始めた子どもでも読めるように。

 言語の違いのために人々が知ることすら許されないのなら、彼らを隔てる言葉の壁は取り去ってしまおう。

 かくして、彼はイタリア語の父となった。

 限られた地域ながらも、永らく人々を分断し続けたバベルの塔の試練を乗り越えた。

 その根底にあった願いは、きっと。

 

 

 

 

「───家族に、逢いに行きましょうか」

 

 

 

 

 自分たちには、分かりはしないだろう。



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番外編その三 シモンの末裔

風邪を引いて撃沈してました。次回から最終章です。


〝この森から、一歩足りとも出てはいけませんよ〟

 

 ある日、神父さまはぼくにそう言った。

 神父さまの言うことはいつだって正しい。だから、ぼくは訊いた。その言葉を疑うためじゃなくて、その言葉の背景を知るために。

 

〝どうしてですか?〟

〝それは──────〟

 

 神父さまは、全てを教えてくれた。

 子どもだからといって耳に障る部分を柔らかく言い換えたりせず、理解に難い部分を飛ばしたりもせずに。

 魔術協会と聖堂教会の因縁。ぼくの存在が露呈した際の危険性。二つの組織に捕捉されれば、死ぬまで飼い殺しにされるであろうこと。特に魔術協会の場合はホルマリン漬けにされる可能性もあるようで、どんな悪の組織かと訝しんで……自分を戒めた。

 何が悪で、何が善かを決めるのはぼくじゃない。それは神様であるべきだ。最初の人間たちが身勝手に善悪を判断するようになってしまったからこそ、楽園を追放されてしまったのだから。

 事情を語り終えて、神父さまは深く咳き込んだ。木枯らしみたいな不吉な咳の音が数度、口元を押さえていた手は真っ赤な粘液で濡れていた。

 

〝治します〟

〝あなたのその気持ちだけで充分ですよ。天の御力は私なぞには過分にすぎます〟

 

 聖堂教会の代行者。神父さまは元々それを生業としていた。長年、教会が定める異端の者と戦い、数え切れない傷と呪いを受けたその体はもはや如何なる力を以ってしても完治など望めないものになっている。

 魔術師を殺し、魔獣を滅し、死徒を裁いた。

 ───主の威光を代行する、その大義名分のもとに。

 

〝私はいくつもの命を奪いました。それが異端とあらば、目につく限りを。傷つき倒れていく仲間を置き去りにしてでも、せめて彼らの仇を果たせるようにと〟

 

 だが、それは間違いだった。

 代行者とは天の主に代わって神罰を執行する者。異端の魔性たちを裁くのは人ではなく、あくまで神の法だ。その在り方に余分は要らない。代行者はただ、敵へと振り落とされる刃でさえあれば良いのだ。

 だから、それは間違いだった。

 代行者が異端者へ振るう刃は仲間の仇を取るためではなく、主の裁きを代行するためであったから。

 聖なる裁きに、殺人者如きの感情を乗せてしまった。その時点で既に、代行者たる自覚は自分の中から消えていた。

 神父さまは、どこか乾いた笑みをぼくに向けて、

 

〝迷ったのならば、主の御言葉に従いなさい〟

 

 そんな言葉を、遺した。

 人は過つ。人が人である限りそれは揺るがない。だったら、この身を預けるべきは人ではなく神の御意志だ。正しさの道を生きることこそが幸福だから。

 

 

 

〝───君が、聖杯か〟

 

 

 

 これも、不幸ではない。

 誰も訪れることのなかった森の教会に、突然彼は現れた。

 茶色がかった金髪。薄い褐色の肌の魔術師。彼はどこからか、いつからか、ぼくのことを知って、地下の魔術工房に連れ攫った。それがなぜだかは分からない。

 

〝次元跳躍。初代が操ったとされる御業は失われた。なにしろ我々三次元空間の生物が四次元に行くだけで致命的だ。閉じた箱の中身を閉じたままに取り出せるかの場所においては、身動きひとつで血液は血管をすり抜け、内臓は皮膚を貫通する。とても生身では生きていられまい〟

 

 ならば、どうするか。

 彼はぼくの体を切り刻みながら、訥々と語る。

 

〝遥か過去、水の中でしか生きられなかった生物は己がカタチを変え、陸に空に適応した。故に、ヒトもまたカタチを変えて高次元に適応することができるはずだ〟

 

 数十億年前。海の底で生まれた単細胞生物はやがて多細胞生物へと進歩を遂げ、カンブリア紀にて爆発的で多様的な生物の増殖を果たした。

 長い長い時間をかけて、数度の大量絶滅を経てもなお、生命はしぶとくこの星に広がり続けた。その時々の環境に適応することで。

 

〝そこで、考えた。ヒトは一体どのようなカタチに成るべきなのか〟

 

 その部屋には無数の残骸があった。眼球だけで生き続けるモノ。色味の異なるツギハギの脳みそ。心臓だらけのナニカ。そんな人間たちが、掃除下手な子ども部屋のおもちゃみたいに、乱雑に転がっている。

 恐怖はあった。

 憎悪もあった。

 けれど、それ故に、ぼくは神様の御言葉に縋った。

 マタイ伝5章39節〝しかし、わたしはあなたがたに言っておく。悪人に手向かってはならない。もし、だれかがあなたの右の頬を打つのなら、左の頬をも差し出しなさい〟

 そして、かの救世主は〝汝の敵を愛せよ〟とも言われた。正しさの中にあることで、自分の心を保とうとした。

 

〝───天使だよ。ある詩人は天界を昇り、無数の天使を目撃した。天界の上昇とは次元の上昇。ヒトならざる異形を有する天使たちは、高次元に適応したがためにあのような姿になったのではないか?〟

 

 狂っている。

 腕を、脚を、臓物を切り取られていく最中で、そんな感想だけが浮かび上がった。目の前の彼が、悪魔の大王か何かに見えた。ぼくは決してこの人から逃れられないのだと確信した。

 だけど、いま。

 

 

 

「───()()()()()()()

 

 

 

 彼は、地面を這いつくばっていた。

 血の塊と吐瀉物が混じったものを吐いて、眼球を真っ赤に染めて、咳にははらわたの欠片が入っている。

 あれほど絶対的に思えた人間は、やはり人間の域を出なかったのだと思い知らされて。

 地に伏せた彼の前に立つのは、無傷の男。見上げるほど大きい背丈に、肌も髪も真っ白な、人間離れした容姿の魔術師だった。

 

「こいつを殺すか、生かすか、どうするか。おまえが、いま、考えて決めろ。誰の言葉でもなく、おまえの言葉で俺に告げろ」

 

 ぼくが、選んだのは────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中東、シリア・アラブ共和国。

 アラブの春を発端として、この国には現在も続く内戦が勃発した。いつもどこかで人が殺され、気付けば隣人が物言わぬ姿で見つかる。ここはそんな場所だった。

 ただ、どんな場所であっても、人が住まう限りあらゆる営みは発生する。

 時刻は夕方。夕暮れの赤光が傷ついた街に射し、より一層影の暗さを引き立てる。そこは閑散とした表通りに面した理容室。褪せた色彩の店には珍しく、客が訪れていた。

 

「…………おい、おっさん。どういうことだこりゃ」

 

 シャンプーハットを被った長身の男───ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド。もこもこと泡立つ頭をマッサージされつつ、彼は不機嫌に呟いた。その視線は、どこかで見たことのある麦わら帽子のゴム人間が表紙の漫画を差している。

 店主は巧みに指を動かしながら、漫画の中身を覗いた。

 

「え、何が?」

「何がじゃねえ。この店の漫画全部海賊版じゃねえか。海賊漫画の海賊版とか洒落にしてもくだらなさすぎるだろ。集○社にチクってやろうか」

「ふふふ……それはね、おっさんも昔は海賊だったからだよ。俺の必殺技ゴムゴムのRPG-7(バズーカ)は百発百中でね、それはそれは海軍の連中を震え上がらせたものさ」

「何がゴムゴムのバズーカだぶっ飛ばすぞ。おまえなんか良いとこドン・クリークだろ。ニカじゃなくてバカだろ」

 

 というツッコミを無視して、店主のおっさんは昔を懐かしむように喋り続ける。

 

「いやあ、あの頃は仲間もたくさんいて楽しかったなぁ……証拠捏造した考古学者のロビンに、難聴のフリした音楽家のブルック、嘘つきのウソップ────」

「それ全員ウソップだろうがァァァ!!! 麦わらの一味じゃなくて長鼻の一味じゃねえか!! 逆にウソップだけ特徴が無さすぎて得体が知れねえよ!!」

「おいおい、逸っちゃいけないぜ兄ちゃん。あとはほら、戦闘員のガンゾリグとかいたから」

「そこはゾロだろ!! 誰だガンゾリグって、名前がいかつすぎんだよ!! ドラクエの世界にFFのキャラクターが混入してるくらい違和感あるだろうが!!」

 

 ノアはがなり立てるが、元海賊現床屋のおっさんにその声は届かなかった。彼はノアの頭をシャワーで流しながら、だくだくと涙をこぼした。

 

「ウソップのやつがソマリ───世界政府にさえ捕まらなければ、今もみんなで海賊やれてたんだけどなぁ……」

「今ソマリアって言ったか?」

「アイツが俺たちのアジトゲロったせいでロビンもブルックも……結局ウソップが真実を話したのはその時だけだったな。肝心なとこでウソつかなかったな、アイツ」

「おいガンゾリグはどうした。死んだのか? まさかガンゾリグも死んだのか!?」

 

 おっさんは答えなかった。真っ白な頭をドライヤーで乾かし、正面の鏡に写るノアの顔を見据える。

 

「まあそれは良いとしてだよ、兄ちゃん。ヒゲ生やそうぜヒゲ。ツラ良いしタッパもあるから絶対似合うって。剃るのもったいないって」

「ふざけんな面倒くせえ。言っとくがヒゲに幻想抱いてんのはおまえらおっさんだけだからな。ワイルドさとか言ってるけど不潔でしかねえからな」

「何言ってんの兄ちゃん!? この世のありとあらゆるヒゲオヤジを今の一瞬で敵に回したよ!? 世界政府の旗撃ち抜くみたいなもんだよ!?」

「おう望むところだ。そいつら全員ここに連れてこい。全身の毛ぇ剃って誰が誰だか分からなくしてやるよ」

「ちょっと、誰かこの兄ちゃんにバスターコールして!!」

 

 ノアは温めたタオルで顔を拭く。おっさんがしぶしぶ椅子の背もたれを倒すと、不意に横の席の人間と目があった。

 猛獣を思わせるスカーフェイスの巨漢。光沢のある黒のジャケットに、これまた黒いサングラスをかけた、とても床屋には似合わない服装の男である。

 彼はサングラスを指で押し上げ、嘲るように鼻を鳴らした。

 

「フッ、若造の青臭い持論は聞くに堪えねえな。いいか、ヒゲってのは男の勲章なんだよ。言わば年の功の可視化だな。尻の青さがケツ毛で隠れてから出直してこい」

「年の功とか言ってる時点でズレてることに気付いてねえのか? ヒゲ生やす前にその古い価値観毛根から叩き直してきやがれ。俺が認めるヒゲ面はカーネルだけだ」

「違うな。おまえが好きなのはカーネルのヒゲじゃなくてカーネルのフライドチキンだろ? チキンだけの関係なんだろ?」

「は? 俺とカーネルがフライドチキンだけの浅い仲だと思ってんのか? ……アレだよ、クリスピーもうめーよ」

「それ関係ないよね!!?」

 

 店主のおっさんは思わず叫んだ。

 ケン○ッキーにて最強のメニューはビスケットであるというのが全世界共通の認識ではあるが、彼らのような異端も少なくない。所詮奴らはアウトローなのだ───というのは置いておいて。

 ノアは目の形をのっぺりとさせて、サングラスの男を言い咎める。

 

「おまえも所詮カーネルを利用して俺を論破しようとしただけなんだろ。浅ましいんだよ。カーネルを都合の良い欲望の捌け口にしやがって」

「黙れェェェ!! 俺とアイツをそんな風に語るんじゃねえ!! 俺のカーネルはドリンク割り引きしてくれるから!!」

「じゃあおまえの負けだな。俺のカーネルはドラム多めに入れてくれる」

「いや、俺のカーネルの方が揚げるの上手い」

「俺のカーネルの方が骨しゃぶるの上手い」

「カーネル挟んで殴り合いするのやめてくんない!!?」

 

 というよりも、カーネルを武器にして殴り合っている図なのであった。結局、二人は顔面に泡を塗りたくられた時点で黙り込み、床屋のサービスを堪能した。

 そうして、二人揃って会計を終え、店を出ることになった際。日はすっかり地平線の裏側に遠ざかっていた。サングラスの男は店主に多めの駄賃を握らせて、

 

「ありがとよ、良い腕だったぜ。アンタ、名前は?」

「ドナルドです」

 

 ノアとサングラス男は目を合わせ、一筋の冷や汗を垂らした。

 

「…………お、俺はハンバーガーも好きだぜ?」

「ピエロは廃業したのか? 靴のサイズハンバーガー四個分って本当か?」

「そっちじゃねーよ!!」

 

 で。

 ノアとサングラス男はしばらく通りを歩いた。どちらともなく方向を選び、合わせるまでもなく歩調が並ぶ。

 ひっそりと大気が冷え込んでいくみたいな沈黙。大男二人が並んで威圧感を振りまく様は異様であったが、閑散としたこの街では警戒する人間もいない。

 ざり、と靴の先が土を削る。彼らは同時に立ち止まり、そしてまた同時に口を開いた。

 

「俺は時計塔の依頼でここに来た。アンタは?」

「俺は中国で贋札偽造犯の濡れ衣を着せられてここに流れついた。どうやら事情は被ってねえらしいな」

「被るわけねえだろ!!!」

 

 サングラス男の怒号が街中に響き渡る。

 両者はとうに互いが魔術の世界に属する者であることを見抜いていた。その世界でも有数の巨大組織、時計塔は権力闘争の嵐が吹き荒れる魔境だ。

 サングラス男が受けた仕事の関係上、相手の事情によっては一戦交える可能性もあった。どうやらその心配は杞憂どころか的外れだったようだが。

 

「時計塔? 嘘だろ? てっきりナヨついた奴らの巣窟かと思ってたが、おまえみたいなのがいるのかよ。ちゃおに北斗の拳紛れ込んだみたいなもんだぞ」

「誰が作画原哲夫だ!! お前こそ今話した事情はマジなんだろうな!?」

「マジのガチに決まってんだろ。何なら本物の人民元と見比べてみるか? 透かしのところが雑なんだよな」

「ああ、確かによく見てみると……って違うわ!!」

 

 サングラス男は手渡された人民元(贋作)を地面に叩きつける。ノアは興味なさげに視線を中空へと投げかけた。

 

「で、おまえはバケモノ退治でも依頼されたのか?」

「は?」

 

 その直後、二人が立っていた場所が爆発する。それに火薬のような火種はなく、空間のある一点に突如として発生した。白き閃光が空気を焦がし、地面を抉る。

 もうもうと立ち込める煙。白く霞む風景の中に、赤熱した地面の光が点々と淡い光を放っている。

 ばさり、とはためく翼が空気を掻き分ける。その羽音は限りない不吉な響きを伴って、辺りに満ちていった。

 二つの影が、月明かりに照らし出される。

 

「『Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee(主よ、御許に近づかん。御許に近づかん)E'en though it be a cross That raiseth me,(如何なる苦難が待ち受けようとも) Still all my song shall be,(あなたに我が歌を捧げん)』」

 

 一方は、四つの顔面と二対の翼を有する異形。ソレが持つ顔はそれぞれ、人間と牛と獅子と鷲とに分かれている。しかし胴体は存在せず、前後左右を取り囲むように光輪が配されていた。

 

「『|Though like the wanderer, The sun gone to down,《,(放浪の最中、暮れゆく陽の暗闇が私を覆い》 |Darkness be over me, My rest a stone, Yet in my dreams I'd be,《石を枕に眠るとしても、私はただあなたの御許を夢に見る》』」

 

 もう一方はいくつかの車輪が大小重なり合ったような姿だった。ただし、それらの表面は無数の眼球が群生しており、輪の中心にはひときわ大きな瞳が輝いている。

 

「『「『Nearer, my God, to Thee, Nearer,(御許へ、主よ、御許に近づかん。) my God, to Thee, Nearer to Thee.(御許へ、主よ、御許に近づかん)』」』」

 

 原生生物の形状を嘲笑うかのような異形にして畸形。宙を風船のように滞空し、肺や声帯があるべき部位もないはずなのに、朗々と賛美歌を歌い上げる。まるで、はぐれた親を呼ぶ子どものように。

 

「おいおいおい、なんだありゃ。悪趣味にも程があんだろ」

 

 散乱した瓦礫の中に、サングラス男とノアは身を隠していた。位置としては二体の異形の背───どちらが前か後ろかも定かでないが───を目視できる場所である。

 爆発の瞬間、彼らは独自の防御手段を展開し、異形たちの目を欺く隠形でもって移動していたのだ。

 ぼやく男に対して、ノアは異形たちの姿に眉をひそめる。

 

「それに関しちゃ同意見だな。天使のカタチを人体を素材にして、無理やり構築してやがる。放っときゃ一秒と持たずに死ぬガラクタだ。あんなのが依頼の対象か?」

 

 観念したように、男は言った。

 

「……俺の仕事はこの辺りに潜伏してる魔術師の拠点調査と抹殺だ」

 

 彼が言うところによると。

 事の発端は時計塔所属の魔術師数人が、この地域にて立て続けに失踪したことだった。彼らの間に深い繋がりはなく、また、この地を訪れた理由もそれぞれだったという。

 これを不審に思った法政科の人間が、独自に調査を開始。表の世界の機関にも干渉して得た情報は、シリア内戦の勃発と近い時期にこの地域での失踪者数が異常なほどに増加しているというものであった。

 そして、法政科は考える。

 何らかの目的のために魔術師も一般人も手当り次第に攫い、身を隠す最低限の知恵もある狂人がいるのではないか。

 これはひとつの可能性に過ぎない。偶然、この地域での失踪者が増えていることだって有り得る。

 けれど、法政科の別名は『第一原則執行局』。魔術師たちを統制し、表の世界への介入を図り、神秘の隠匿という第一原則を執行する組織だ。

 失踪そのものは大した問題ではない。法政科にとっての最悪は、この異常な失踪者数が世間に知られ、ひいては魔術の存在まで露呈してしまうことに尽きる。

 

「……だから調べに来ましたってか。よかったな、こりゃ十中八九クロだ。あの天使モドキのおかげでな」

「全くもってよくねえよ。もう前金受け取ってんだぞ。楽な仕事かと思ったら大損だ」

「そもそも、どうしておまえみたいな名も無き修羅が送り込まれてきたんだよ。法政科なら手駒には困らねえだろ」

「ここは聖堂教会の縄張り───エルサレムが近いからな。俺みたいな外部の人間の方がイザコザも少ないんだよ」

 

 聖堂教会。その単語を聞いて、ノアは舌打ちした。

 

「あいつらもロクな組織じゃねえからな。魔術師が異端ならソロモン王の扱いとかどうなんだ?」

「しかも数年前の聖墳墓教会出火事件のせいで関係も悪くなってるしな。魔術師は聖地に近付いただけで殺られてもおかしくねえ」

「…………()()()()()()()()()?」

「あ? 知らないのかよ」

 

 聖墳墓教会出火事件。数年前に起きたこの事件は、表の世界の住人にとっては字面の通り、聖墳墓教会でのボヤ騒ぎとして認識された。が、裏の世界ではそれは違う。

 過日の聖地では代行者と魔術師がすったもんだの大戦争を繰り広げた。教会のボヤ騒ぎはその過程に過ぎず、戦火を広げた裏にはあるひとつの影があったと言われる。

 代行者たちは口々に証言した。

 罵詈雑言を撒き散らしながら、街を縦横無尽神出鬼没に逃げ回るクソガキがいた────と。

 あまりに突拍子のない内容から、その少年の存在は半ば都市伝説のように語られている。あるいは、年端もいかない子どもに手玉に取られたことを認めたくなかったのか。

 

「……なんて与太話が出てくるくらいでな。表の世界でも一面ニュースになったもんだから、」

「ああ、それ俺だな」

「……ん?」

「だから、それは俺だ。裏の世界の方でも騒ぎになってるとは知らなかった。ガキひとりに躍起になるとか人の心ねえのか?」

「────お前だったのかよォォォ!!!」

 

 瞬間、またもや爆発が巻き起こる。

 四つの顔面と二対の翼の天使───ケルビムは四面の内、人面の眼による視線を爆破地点へと差し向けていた。

 それは先程の焼き直し。魔術師たちは爆破を難なく回避していた。ただひとつ、先と異なるのは隠れるでなく、天使モドキたちの前に姿を晒したこと。

 ノアは帽子を被り直しながら、さらりと述べる。

 

「よし、じゃあ俺は逃げる。おまえはおまえで頑張れ。あとグラサン似合ってねえぞ」

「うるせえ!! ここまで話聞いといてイモ引こうなんて通るかよ! せめてこいつらだけでも片付けていきやがれ!!」

「それが人に物を頼む態度か? 天才の手を借りたいなら、さっさと土下座して誠意を金額にして見せてみろ」

「ふざけんなドS野郎!!」

 

 と、言葉を交わしている間にも天使の攻撃は止まらない。

 不可視の斬撃、前兆無く襲い掛かる爆撃、鉄槌の如き突風。息もつかせぬ連撃はしかし、魔術師たちに掠り傷さえ与えられていなかった。

 サングラス男は懐から得物を抜き出す。二連のソードオフショットガン。その銃口を、ノアへと突きつける。

 

「お前こそいいのか!? 聖墳墓教会出火事件の元凶だってことが知れれば、時計塔と聖堂教会に付け狙われるぞ!!」

「ハッ、証拠もナシで誰が信じるってんだ!? チクりてえなら勝手にチクってろ!!」

 

 そこで、男はポケットから小さな端末を抜き取って見せた。

 ボイスレコーダー。その再生ボタンを押すと、聖墳墓教会出火事件の会話が再生された。ノアは無言で人差し指をかざし、ガンドを放つが、手首の動きだけでさっと躱される。

 

「それよこせ!! そのナリでボイレコ持ってるとか職質されたら一発アウトだろうが、もっと自分のことを大切にしろ!! そして生きとし生けるものに感謝しろ!!」

「この天使モドキを片付けた後なら考えてやるよ!! やるのか、やらねえのか、どっちだ!!?」

 

 問い掛けとともに、乾いた銃声が鳴り響く。

 ショットガンより放たれたのは、人の指を加工した弾丸。標的の体温を感知することで自動追尾し、体内の奥深くで呪いを撒き散らす必殺の魔弾であった。

 二発の指弾は二体の異形を狙う。弾丸の軌跡が空中で弧を描き、着弾するその寸前、

 

「『「『There let the way appear, Steps unto heaven.(現れし道は天国への階段) All that thou sendest me(あなたが与えし賜物), In mercy given(憐れみによる授かり物). Angels to beckon me(天使が私を手招きする).』」』」

 

 異形の身中より発せられし、無垢なる光。

 澄み切った清浄な閃光が指弾を触れたそばから風化させ、同質量の塵へと還す。

 

「『「『Nearer, my God, to Thee, Nearer,(御許へ、主よ、御許に近づかん。) my God, to Thee, Nearer to Thee.(御許へ、主よ、御許に近づかん)』」』」

「───チッ! 予想してはいたが、相性最悪か!!」

 

 彼が扱うのは死霊魔術。主に生物の死体を利用する魔術であり、指弾はシンプルながらも戦闘用に特化した一撃必殺の礼装だ。

 しかし、相手は天使を模した異形。類感呪術の遠隔作用の理論によって、カタチが同じモノは影響を及ぼし合う───つまり、この異形たちが天使を模している以上、そこにはほんの微量ながらも本物の天使の力が宿る。

 その力の総量が全体の1%に満たないとしても、それが天使の力であるのなら、魔術師にとっては天敵と言っても良い。なぜなら、十字架の教えにおいて奇跡と魔術は区別され、後者は駆逐される存在であるからだ。

 魔術、とりわけ死霊魔術など以ての外。死体とは審判の日に復活するための器。それを弄ぶ術の存在を、天使の力が許すはずがない。

 ───だからこそ、男はノアを戦いに引き込んだ。

 異形たちが天使の力を宿していることと、自身の魔術が通用しないことを一瞥で見抜いた上で、イレギュラーたるノアの力を頼ろうとした。

 本来は見ず知らずの魔術師を仕事に巻き込むなど考えられないが────死霊術師には、ひとつの誤算があった。

 

「『「『Then with my waking(そして私は目を覚まし) thoughts Bright with Thy praise(あなたへの賛美で心を晴れ渡らせる), Out of my stony griefs(石のような嘆きを捨)』」』」

「───元素変換」

 

 その瞬間、暗き夜の底が強く照らされる。

 二体の異形を呑み込み、天へと昇る炎の柱。赤く輝く灼熱の業火。風の元素たる空気を火の元素へと変換した一撃。想像を絶する高温に晒されながらも、異形は平然と佇んでいた。

 だというのに、彼らは糸が切れた操り人形みたいにぱったりと倒れる。

 炎の陰りとともに、ノアは地に伏せる異形へと歩を進めた。

 

「こいつらの動力源は散々歌ってやがった賛美歌だ。互いに互いを祝福することで、自律行動する半永久機関……だったら、歌が届かなくしてやればいい」

 

 故に、ノアは元素変換を用いた。

 音声(振動)を伝える媒質である空気。その一切を火へと変換し、相互に歌が届く余地を奪ったのだ。

 死霊術師は口角を軋ませ、ノアは邪悪で極悪な笑みを浮かべる。

 …………ひとつ、誤算があるとすれば───────

 

「ボイレコ渡せ。この天才とガチのタイマン張りてえってんなら、心置きなくボコして奪ってやるよ!!」

「───どうして、お前みたいなのが今まで表に出てこなかったんだよ、クソッタレ……!!」

 

 ────無理やり巻き込んだこの男がふざけたことに、自身の知る中でも最高峰の魔術師であったこと。

 優秀な魔術師であることと、戦闘に長けることは必ずしもイコールではない。奇襲・暗殺の土俵に持ち込めば分はあるが、面と向かい合ったこの状況は言うまでもなく不利だ。

 加えて、指弾という手の内も知られている。相手が用いた元素変換は魔術において基礎中の基礎、それがあのレベル。

 男はレコーダーを放り投げる。ノアはそれを受け取りつつ、何の気無しに問う。

 

「おまえ、名前は」

「獅子劫界離。お前は?」

「ノアトゥール・スヴェン・ナーストレンド。……日本人か? 名前のカロリー高すぎだろ」

「お前もな!?」

 

 ノアは土の塊を握り潰すかのような気軽さで、ボイスレコーダーを無数の破片にする。

 獅子劫とノアは異形たちの前に立ち、まじまじと見つめる。彼らは賛美歌を紡ぐ余力もなく、ただ電池が切れたラジコンのように停止していた。

 どこぞの天才美少女外科医天才美少女外科医(フラン○ンふらん)のような芸術的な身体改造を施しているならともかく、これは人を材料に天使のカタチを造った模型だ。動力源たる賛美歌が途切れた今、再起動の手段すら持たない。

 ノアは指先を、獅子劫は銃を突きつけ、魔弾を放つ。

 

「ま、待ってください!!」

 

 そのとどめを、甲高い声が遮った。

 煤けた廃墟から、小さな影が飛び出す。

 その姿に、獅子劫とノアははからずも目を剥いた。

 硝子細工のように儚げな少年。蜂蜜のように濃厚な金色の髪が四方八方に伸び散らかし、前髪の奥から淡い橙の眼光が煌めいていた。身に纏う手術衣は元の色が分からないほどに血痕と土の汚れで塗り潰されている。

 そして、少年には常人とはあまりにかけ離れた部分があった。

 翼。それは先端に行くほど炎のように揺らめいている。背から伸びる翼が一対。加えて、頭部を両側から包むような翼が一対。さらに、両脚の付け根から踵までぐるりと巻き付く翼が一対。

 計三対六翼の羽を持つ少年は、異形のもとに駆け寄った。

 

「ぼくが治します。だから、その人たちを殺さないでください」

 

 獅子劫は苦々しい表情で、言葉を返す。

 

「殺すなとは言うがな、こいつらはそもそも生きるように造られてない。どっかのアホにこき使われるくらいなら、ここで終わらせてやるのも温情だと思うがな」

「───天にまします我らの父よ」

 

 両手を組み、祈りを捧げる。

 魔術師たちは見た。

 少年の全身を巡る魔術回路、魔術刻印の発光。魔力が掌中に収束し、圧縮され、雫と化したそれが異形たちに注がれる。

 すると、彼らは弾かれたように居直った。

 歌を捧げ合うこともなく、己の力のみで浮遊する。治す、とは言うが、それはこの生物の根底から機能を造り替えたようなものだ。なにしろ、自力では生きられないモノが自力で生きているのだから。

 本日何度目かの絶句をする獅子劫の横で、ノアはぎしりと奥歯を軋ませた。

 一見、笑みにも見える表情。だが、その顔貌は紛うことなき敗北感で彩られている。

 ノアの見立てもまた獅子劫と同じだった。生きるように造られていない生命体を、どのようにして治すというのか。けれど、あろうことか少年は最善を超えた最高の結果をもたらしてみせた。

 それはノアの矜持を大いに傷つけたのである。

 

「おい、その魔術───いや、まずは名前を教えろ。天才の糧となる栄誉をくれてやる」

「か、カリス・グラダーレです」

 

 カリス。グラダーレ。魔術師ならばその言葉の意味は当然知っている。二つの単語が同じ意味であることも。

 すなわち。ノアは唇の端を歪めて、

 

「パチこいてんじゃねえ。なんだ聖杯(カリス)聖杯(グラダーレ)って。大事なことだから二回言いましたってか? HUNTER×HUNTERなのか? いつになったら暗黒大陸着くんだァァァ!!!」

「そ、そんなこと言われましても、お父さんとお母さんに貰った名前だから仕方ないというか……」

「おまえの意見は求めてない。まずはその魔術で冨○先生を癒やしに行くぞ」

「待てェェェ!! その子多分めっちゃ重要な手掛かりだから!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 で。

 人通りが少ないとはいえ、いつまでも道の真ん中で駄弁っていたら神秘の秘匿もクソもなかった。幸い、戦闘中は天使モドキたちが人払いの術式を張っていたようだが、それがあるからと言って、通りに屯する利点もないだろう。

 そんな訳で、ノアと獅子劫とカリス、天使モドキたちは手頃な空き地に転がり込んだ。四方を建物に囲まれ、人気もない絶好の密談スポットである。

 念には念を入れて人払いと簡易的な結界を施し、彼らは腰を落ち着けた。

 

「ぼくは、シモン・マグスという人のところから逃げ出してきました」

 

 カリスは一切を打ち明けた。

 森の教会で生まれ、外界を知らずに暮らしてきたこと。シモン・マグスを名乗る魔術師に攫われたこと。体を弄くられたこと。

 ノアは一部始終を聞き終えて、口元にじゃ○りこを運んだ。

 

「……随分と大物の名前が出てきたな。大方そいつはシモン・マグスの子孫か」

「飛行魔術に次元跳躍とか、ますます相性最悪かよ……いや、そいつの言い分だと次元跳躍はリスクが高すぎて使えないんだったか?」

「だから天使なんてもんを造り出そうとしたんだろ。こいつらを実験台にして、天使になる方法が確立したら自分の体に術式を施すつもりだったはずだ」

「だろうな。だいたい、どうやって魔術工房から逃げ出してきたんだ?」

 

 獅子劫はカリスに問いかける。

 魔術工房はしばしば要塞に喩えられる。外部の干渉に抵抗する物理的・魔術的防御はもちろん、内部も主たる魔術師のために最適化された構造となっている。重要な実験体であるカリスをやすやすと逃がすような警備はしていないだろう。

 カリスはたどたどしく言った。

 

「次元跳躍……を、使ったんだと思います。たぶん。この体になって、逃げたいと願ったら、うにゃうにゃした場所を通って、気付いたらここに……」

「なるほどな、そういうことか」

「知ったかぶりか?」

「違えよグラサンおっさん。高次元に適応した天使なら飛行魔術も次元跳躍も使えて当然だ。別次元を通って地上に出たんなら、魔術工房から逃げられた説明もつく。問題はそこの天使モドキも使えるかだが」

 

 ノアの眼差しが二体の異形を射抜く。

 彼らはぎくりと震えると、小刻みに首を振った。首に当たる部位がないので振動しているようにしか見えないのだが。

 

「……つまり、こいつらは人攫いのための手駒で、カリスは次元跳躍を使えるほどの成功体。シモン・マグスの末裔はカリスを囲ってたがいつの間にか逃げられたドジ野郎。こんなもんだろ」

 

 ノアは四面の異形の口をがこんと開け、菓子を箱ごと放り込んだ。

 

「もうそのドジ野郎の拠点を探すだけだ。後はおまえの仕事だろ、獅子劫のおっさん。俺は帰って寝る」

 

 そう言って、彼は宿へと戻っていった。

 カリスは獅子劫を流し見る。

 

「止めなくてよかったんですか?」

「俺が無理やり巻き込んだだけだしな。手伝う義理もない。アンタはどうする?」

 

 思わぬ問いかけに、カリスは言葉を詰まらせた。

 いつものように、主の御言葉に従えばいい。それで迷うことなんてない。だというのに、なぜか今この時だけは、主の御言葉が頭の中から取り出せなかった。

 

「獅子劫さんは、あの人を殺すんですか」

「ああ、それが俺の仕事だしな」

 

 んむむむむ、とカリスは唸る。

 人を殺す。それも仕事で。思うところがないではないし、一般的な倫理観で頭ごなしに否定してしまうのは簡単だろう。

 けれど、それをすることに意味はない。どんなに言葉を用いたところで彼は変わらないだろうし、主の御言葉は他者を否定するためにあるのではないのだから。

 

「ぼくは、あの人に問いたいと思います。どうして、あんなことをしたのか」

 

 獅子劫は頷き、たばこを咥える。

 何かが腑に落ちる感覚。恐らく、カリスは他者へ報復するという感情が働いていない。それが抑制されているのか、持っていないのかは不明だが、普通自分の体を切り刻まれたら、大抵の人間は負の感情を抱くだろう。

 カリスの願いを聞いたからと言って叶えてやる義理も義務も獅子劫にはないし、情報も得た以上、適当に遠ざけた方が両者にとって身の危険は少ない。

 だがしかし。

 カリスは有益な協力者で。

 プロとして、借りは返さなくてはならない。

 

「分かった。シモンの工房を見つけたら一緒に乗り込む。ただし、俺の言うことは絶対に聞いてもらうぞ」

「はい! よろしくお願いします!」

 

 そんなこんなで、翌日。

 二人が訪れたのはとある露店。ケバブ用の巨大な肉が回転する横で、電子機器を模した無数の魔術礼装に囲まれた男が、スマートフォンを弄くり倒していた。

 

「と言う訳で、俺がシモンを見つけるまでカリスの面倒を頼んだ」

「ふざけろボケ。こっちは仮想通貨のマイニングとFXとケバブ屋で忙しいんだよ」

「ケバブ屋は捨ててもよくねぇ!?」

「は? ケバブはみんな大好きだろうが」

「アホだよこいつ! すげーアホ!!」

 

 ケバブ屋の店番をしながらマイニング用の魔術礼装を稼働させ、FXをやるアホことノアがそこにいた。ちなみに服装はタンクトップにタオルを額に巻いたものである。無駄に見た目とスタイルが良いせいで着こなしてしまっているのが癪に障るポイントだ。

 数十分の交渉の末、獅子劫の報酬を分け前として分配してもらうことを約束し、ノアはカリスのお守りを引き受けた。ちなみに天使モドキたちは人払いをかけた手頃な廃墟に待機している。

 カリスはもっさもっさとノアお手製のケバブを頬張りながら、

 

「かそーつーか……のマイニング? ってなんですか? お金を掘るんですか?」

「ああ、うまくいけばコンピュータ動かしてるだけで大金が入る魔法のお仕事だ。俺の場合は礼装に占術を代行させて、ハッシュ値とナンスを予言させてる。無駄な計算が必要ないから競争相手を楽勝で出し抜けるって話だ。ついでに言えば、魔力で動かしてる分電気代も─────」

「よく分からないけどすごいんですね!!」

「そういうことだ、もっと俺を褒め称えろ」

 

 ノアは液晶の画面をしかめっ面で睨んで言う。

 

「ただ、あのおっさんには文句くらい言ってやれ。安請け合いした挙句俺に押し付けるとかクズの所業だぞ」

「それが〝子どものお守りは苦手〟とかなんとか……なんででしょう?」

「───ギャンブルと酒に溺れて、嫁と子どもに逃げられたからだろうな。間違いない。落ちに落ちて殺し屋になった哀しきモンスターなんだろ」

「そんな深い業を背負っていたんですね……!! 聖書では賭け事もお酒も厳しく禁止してはいませんが、依存となると話は別です!」

 

 むん、とカリスは使命感に燃え上がる。

 その姿を眠たげな眼で眺めながら、ノアはケバブを作っていた。片手で。無駄な器用さを見せつける彼に、カリスは詰め寄った。

 

「そういえば、ノアさんは世界中を旅してきてるんですよね。色々お話を聞かせてもらいたいです」

「……だったらマイニング用の礼装におまえも魔力回してろ。保つ限りは付き合ってやる」

 

 占術礼装を渡すノア。カリスは意気揚々と魔力を込め、話を始めた。

 

 

 

「エジプト───モーセ様がエクソダスを果たした土地ですね! 今でもナイル川の水は血になってるんですか?」

「いいや、今では普通の水だ。汚え水が見たいならガンジス川がいいぞ、あそこで泳いだら二日寝込んだ」

「なんと……もしかして神様はガンジス川にも呪いをかけたのでは……!?」

「深きものでもガンジス川に入れたら死ぬだろうからな」

 

 本場のヒンドゥー教徒が聞けば助走をつけて殴りかかってくるであろう話をしたり、

 

「へぇ~これがマーライオン……かわいいです。世界三大がっかりなんて嘘じゃないですか」

「そしてこれが人魚姫の像だ」

「これが人魚姫の像なんですか。世界三大がっかりって本当だったんですね」

「手首モーターで出来てんのか?」

 

 ノアが実際に現地で撮った写真を見てああだこうだと雑談したり、

 

「え、兄ちゃん何やってんの。ケバブ屋やりながらマイニングとFXしながら天使っぽい子と駄弁ってるって情報量多すぎない?」

「ノアさん、どうしてこの人はこんなに説明口調なんですか」

「気にするな。この世界の理だ。それよりもおまえの姿を見られた。こいつの記憶を消すぞ」

「ちょっ、やめっ……助けてガンゾリグゥゥゥ!!!」

 

 偶然散歩中だった床屋のおっさん、ドナルドが亡き戦闘員ガンゾリグに助けを求めたり、などなど。

 ノアにとって予想外だったのは、カリスの魔力量が一流と呼ばれる魔術師のそれが足元にも及ばないほど多かったことだ。

 マイニング用の礼装は並の魔術師なら数十分で息切れする代物。それを一台とはいえ、夜中まで稼働させてもカリスには疲弊の色すら見えない。

 おそらくは自身魔力総量の半分程度。これがカリスの限界値だろう。

 

(しかも次元跳躍と、改造前から使えたであろうふざけた治癒? 魔術……成功体つっても上手く行き過ぎてる)

 

 ノアにシモン・マグスへの興味がなかったと言えば嘘になる。

 皇帝ネロの前で自らの首を斬ってみせ、復活した怪人。シモン・ペテロに敗れたものの、グノーシス主義の開祖とも謳われた魔術師。

 一説には、『悪い魔術師』の原型であるとも噂されているシモン・マグスだが────その子孫の腕前が、本来カリスほどの人造天使を造れるものでないとしたら。

 むしろ、真に異常なのは──────

 

「…………ノアさんは、これからも旅を続けるんですか?」

「まあ、当分はな。今回の件が終わったらおまえもやりたいことをやれ」

「それじゃあ、なにかお店とかが良いですね! 〝すべて重荷を背負っている者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう〟みたいな感じで、みんなの憩いの場的な!!」

「……その理由は?」

 

 カリスは想いを仕舞い込むように答えた。

 

「独りは、寂しいじゃないですか」

 

 その言葉を受けて。

 ノアは観念したみたいに、小さく笑った。

 

「───そうだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二日後、獅子劫はノアのケバブ屋兼仮想通貨マイニング基地を訪れた。

 わざわざあの悪魔の棲家に足を運ぶ理由はただひとつ、シモン・マグスの末裔のものと思われる魔術工房を発見したためである。

 魔術師が行動を起こすなら夜。多くの儀式が執り行われ、魔力が高まる時間帯であり、何より人目を避けられる。後ろ暗い事情を持つ人間にとって、他者の目線を気にせずに済むが故に、魔術師に好まれるのだ。

 ただし、ケバブ屋にはぽつねんとカリスがいるだけで、ノアの姿はなかった。

 

「なんでも、長すぎる王位継承戦を俺が終わらせてくるとかなんとかで、お昼からいなくなりました」

「どこの世界線の人間だアイツ!?」

 

 と、失踪した人間のことはそこそこに、獅子劫とカリスはシモン・マグスの潜伏地へと向かう。

 魔術師の拠点の置き方は二つ。人里から離れた場所に隠れ住むか、都市の中に紛れ込むか。今回、シモンの末裔が取った手段は後者であった。

 長き内戦で傷ついた街並みに点在する廃墟。瓦礫で巧妙に偽装された地下への入り口───の先に広がる蟻の巣の如き地下道───に用意されたいくつかの扉の内の一枚。そこに仕掛けられた魔術の施錠を突破したところにシモンの工房はある。

 魔術師は各々、工房の入り口には独自の鍵を設定している。その形状も方式も千差万別だが、目の前の扉に設置されたモノは一見して普通の鍵穴だった。

 

「触るなよ。正しい鍵を差し込まなきゃ致死の呪いが発動するタイプだ」

「どうするんですか? 次元跳躍ですり抜け……あ、おじさんはバラバラになっちゃいますね」

「これでも魔術師なんでね、こういう対策は当然してある」

 

 獅子劫は懐からプラスティネーションされた右手を取り出し、骨製の針をその人差し指と中指の間に挟ませる。

 右手は親指と薬指と小指だけで器用に歩き出し、蜘蛛のように扉に張り付いた。骨針を鍵穴に差し込むと、かちゃかちゃという音が鳴った。

 それと同時に、見るからに禍々しい色気の紫電が弾けているが、右手は微動だにしていない。

 

「こ、これは?」

「俺の礼装だ。解錠を間違えたら死ぬ機構でも、既に死んでるモノならノーダメージって寸法だ。どこぞの平穏に生きたい爆弾魔殺人鬼と一緒にしてくれるなよ」

「大丈夫です、おじさんはモナ・リザの手に興奮するような人じゃないですから。でもギャンブルとお酒は控えた方がいいと思います。元奥さんとよりを戻すためにも」

「なんだその偏見!? 誰に吹き込まれた!?」

 

 数十秒後、工房のセキュリティは何事もなく突破された。

 獅子劫はショットガンを抜き、カリスを背後に下がらせる。とうに入り口を開けた時点で、侵入者の存在は悟られた。ここからは、怪物の胃の中へ飛び込むようなものだ。

 魔力の灯が点々と配置された照明。空気は湿り気を帯び、死の気配を充満させている。

 死霊術師である獅子劫には慣れた環境。だが、そこを見た瞬間に怖気が背筋を這うのを感じた。

 

「なるほど、イカれてやがる」

 

 あるいは、SF作品のワンシーン。星間航行船の内部にずらりと並んだ冷凍睡眠装置のような。

 あるいは、スプラッタ映画の一幕。イカれた殺人鬼が、手にかけた被害者たちで造った家具や道具が詰められた部屋のような。

 一体、何人の人間を殺してどれほどの作品を製作したのか。狂気にも妄執にも似た、天使の模造品たちが所狭しと敷き詰められていた。

 

「この人たちは全員生きて……?」

「死んでる。どいつもこいつも例外なくな。……次に行くぞ」

 

 獅子劫は天使たちをひとりひとり、労うように撫ぜる。

 人造天使の霊安室を抜けて、待ち受ける重厚な石の扉。獅子劫は勢い良く扉を蹴破り、銃口を向ける。

 そこで見たモノに、獅子劫とカリスは思考を空白にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「根源流出説を採用するならセレマを参照しろ。おまえの理論で根源を目指せば、必ずセフィラを渡る際に深淵が立ちはだかることになる。そこにはおそらく────」

「───赤い影がいる。根源への道を阻むと言われる抑止力の影。私たちの間ではおとぎ話のようなものだが、実際にそれはあり得るのかもしれない。その点で私の理論は不完全、そういうことだろう?」

「そうだ。おとぎ話じみた噂ではあるが、信頼するに値する根拠はある。アレイスター・クロウリーが語る、深淵に棲む悪魔コロンゾン。そいつはその赤い影だったという可能性が…………」

 

 茶菓子と紅茶が置かれたテーブルを囲む二人の男。一方は金髪と褐色の男で、もう一方は昼頃王位継承戦を終わらせると豪語したアホ、ノアトゥールであった。

 獅子劫はサングラスを突き破る勢いで目を飛び出させる。

 

「何やってんだお前!!?!?」

「よう、遅かったじゃねえか。こんな時間までどこで駄弁ってやがったんだ?」

「それはこっちの台詞だ!! どんなとこで駄弁ってやがんだ!?」

「いいや、駄弁っているのではない。魔術師同士、有益な意見交換をしていたところだ」

 

 金髪褐色の魔術師───シモン・マグスは柔和な笑みを浮かべて言った。

 

「おかえり、カリス。外の世界は楽しめたかい?」

「何人も人を殺して、あんな姿にしておいて、よくそんな態度でいられますね?」

「何人も人を殺して、あんな姿にしたからこそ毅然としていなくてはな。恐れ怯え、竦んでいるようでは、彼らの命に対して不義理を働くことになってしまう」

「…………理解できません。あなたの言っていることが」

 

 カリスの声音に冷徹さが宿り、シモンは足を組み替える。

 

「いや、私も君たちに申し訳なさを感じているんだ。寄り道に大分付き合わせてしまった」

 

 彼の根源到達の理論。

 それは高次元に適応した肉体を持つことで、次元跳躍を繰り返し、根源に辿り着くというもの。肉体のモデルとして天使のカタチを採用し、そのために多くの実験を繰り返してきた。

 

「だけど、まあ、やめたんだ。結構前に」

「やめたのか」

「うん、やめたんだ。ノアくんは知っているけどね」

 

 シモンは紅茶を口に運び、ぬるい息を吐き出す。

 

「自身を固有結界で囲うことで外部の影響を遮断し、次元跳躍を繰り返す。以前よりも断然スマートな方法だと思わないか?」

「次元跳躍のための魔力はどうするつもりだ? 根源まで移動するってんなら、かかる魔力も膨大なはずだ」

「その通りだ、獅子劫界離。そこで人造天使の出番だよ。彼らが確保した人間を魔力結晶にして、必要分の貯蔵を用意する」

「…………魔力炉でも買うか造れよ。アホかお前」

 

 獅子劫は苦虫を噛み潰したみたいな表情をした。

 それひとつで魔力を生み出す炉心があれば、わざわざ人間を捕らえて結晶にする必要はない。その過程でこうして命を狙われているのだから、本末転倒というものだ。

 シモンは首を横に振って否定した。

 

「魔力炉心は複雑な機構を有するだろう。根源に近付く度に物質的な要素の世界は薄まるから、そういう物質として複雑なものにはあまり頼れない。その点、結晶ならば構造も単純で、最悪中身の魔力さえ利用できれば良いから好都合だ」

「だとしても馬鹿だな。この辺りは聖地の霊脈の影響を受けた土地だ。結晶が欲しいなら土地から魔力を吸い上げて、コツコツ貯めてりゃ時計塔に目をつけられることもなかった」

 

 獅子劫はナイフの切っ先を突き立てるように言った。

 魔術師とは根源到達の望みを子孫へと受け継いでいく生き物。言ってしまえば、根源に辿り着くのは自分でなくとも良い。

 故に、シモンは待つべきだった。理論を実現するリソースが確保できるまで。いつの日か子孫が理論の実践に挑戦できるなら、魔術師としてこれほど分の良い博打はない。この世の多くの魔術師は、根源到達の理論さえ確立していないのだから。

 ただし、それは。

 

「───()()()()()()()()()()()()?」

 

 子孫が生きる、未来が保障されていた場合の話。

 誰も考えはしない。大多数の人間がこう思っている。〝自分が生きている間に、この世界が終わることはない〟と。

 負け惜しみ、苦し紛れにしか聞こえないはずのその言葉は、言い表しようのない真実味に溢れていた。

 さて、と彼は言い返すことも忘れたノアと獅子劫へ眼差しを送る。

 

「ここまでで君たちに問いたい。この理論を以って、私は根源に到れるか否か」

 

 暫時、沈黙が場を覆い。

 獅子劫はため息をついて、首肯した。

 

「根源到達可能性はある。だとしても封印指定だがな。どの道八方塞がりだ。満足したか?」

「ふむ。ノアくんは?」

「獅子劫のおっさんは的外れだと言わざるを得ねえな。人類史最大最高の天才に言わせれば、その理論で根源に到れるかどうかくらいすぐに分かる」

 

 ノアは紅茶を飲み干すと、ティーカップを机に叩きつける。

 

「───そんなゴミクソ理論じゃあ、根源には行けない。なぜなら前提から間違えてる」

「前提とは?」

「おまえがここで死ぬってことに決まってんだろーがバァァァカ!!!」

 

 跳ね上がるテーブル。足首の力のみで蹴り上げたそれに向かって、椅子を振りかぶった。向こう側にいる男を殴り飛ばすように。

 しかし、机と椅子の破片はその場で固定されたかのように、空中に留まった。

 

「ならば、その前提を覆すしかないな」

 

 ふわり、とシモンは浮き上がる。

 伝承に語られし魔術師の御業。空中をその身ひとつで飛翔する────現代では使い手の数少ない高等魔術。そして、彼が飛ばすのは己が肉体のみならず。

 シモンの周囲を浮遊する、十二個の球体。それらは色とりどりの光芒を発し、同時に光線を撃ち出した。

 

「『Eihwaz』」

 

 ノアは獅子劫とカリスに飛び込みつつ、簡明な詠唱を唱える。

 ルーンの刻印とともに紡がれる魔力防壁。衛星が放つ光を受け止め、ぢりぢりと火花を散らした。

 獅子劫はノアの肩を掴んで、

 

「お前王位継承戦はどうした!? なんでここにいやがる!!」

「適当に言った言い訳天丼してきてんじゃねえ。シモン・マグスの末裔とやらに興味があったから来たまでだ。期待外れだったがな!!」

「…………まさか、カリスのた」

「頭下げてろ」

 

 獅子劫の言葉を遮るように、ノアは何やらスイッチを押した。

 直後、腹の底に響くような轟音と同時に石造りの天井が崩落する。石の雪崩が続いたのは十数秒、街の一角に巨大な窪地が出来上がる。

 構造物の残骸を掻き分けて、ノアたちは地上に這い出た。

 

「シモンの野郎は潰れたか?」

「俺たちの方が潰れかけてただろうが。爆破するなら先に言え!」

「……神秘は隠さないといけないんじゃ?」

「そこら辺は魔術協会がガス爆発だとか地盤沈下だとかのせいにすんだろ」

 

 すると、破片がひとりでに持ち上がり、シモンが姿を現す。

 

「中々に驚いたが……良いのかね? 地下の方が君たちには有利だったと思うのだが」

「はあ? 天才をおまえの範疇で推し量んじゃねえ。───『Thurisaz』」

 

 スリサズ。植物などの棘を意味する言葉。転じてそれは心のトゲ、悪感情、総じて恐ろしいものといった意味を纏うようになり、呪いのルーンとして用いられることもあった。

 象徴される色は白と赤。ノアの手元でルーンが霧散したその時、世界の色はまさしく眩き白と赤に染め上げられる。

 ───まるで、最初からそこに書きつけられていたかのように。

 

「俺はペテロみてえに神には祈らない。信仰力で飛ぶおまえを堕としたりもしない。おまえは飛んでろ、この呪いのルーンの檻の中で!!」

 

 一帯をドーム状に覆う、ルーンの鳥籠。物量は語るに及ばず、込められた呪いの質も人間には致死に値する、必殺の結界。

 シモンは唇を引きつらせる。

 

「これほどのルーン……数日前から用意していたのか。私を囚えるためだけに」

「おまえの居場所を見つけたのもルーンを刻んだのも今日だ。後は勝手に考えてろ」

 

 ノアが用いたのは自己複製の機能を搭載した、言わば自動書記のルーン。一度元となる文字を設置すれば、ひとりでに増える性質の文字であった。

 数を揃えることに時間が必要であり、単一の文字しか複製できないデメリットはあるが、ある地点を狙い撃つ場合はこの上ない威力を発揮する。

 逃げ場はない。それでも、シモンの優位は変わらない。戦闘における飛行魔術の強みは高所の利と機動力だ。戦車に戦闘機が落とせないように、シモンは上空から攻撃を続行すれば良い。

 

「全魔導衛星、攻撃目標をホロスコープに従い決定。各自射撃を開始」

 

 唯一懸念すべきは魔力の枯渇。だが、彼には人々を犠牲にした魔力結晶がある。飛行と攻撃に費やすリソースは十分。確たる勝算を描き、シモンは攻勢を展開した。

 ルーンの檻を縦横無尽に駆け巡る光条。ノアはカリスを脇に抱え、防御のルーンを張り直す。

 

「ノアさん。あの人は、ぼくたちのことを何とも思ってなかったんですね」

「……今更か?」

「はい。今更、分かりました」

「じゃあ、覚悟しておけ。俺たちが今からアイツを引きずり落とす」

 

 どういう意味か。問おうと口を開きかけた瞬間、足元の瓦礫がふわりと浮かんだ。

 否、足元だけではない。周辺の至る所から同じ現象が生じ、地下より無数の眼光が閃いた。

 獅子劫は声に魔力を乗せ、叫んだ。

 

「───恨みを、ぶちまけろ!!!」

 

 それは死したる天使たちへの号令。

 打ち捨てられた霊安室より、彼らは仮初めの生を得る。

 

「『「『「『「『「『───Nearer, my God, to Thee, Nearer,(御許へ、主よ、御許に近づかん。) my God, to Thee, Nearer to Thee.(御許へ、主よ、御許に近づかん)』」』」』」』」』」

 

 カリスのような成功体ではなく。ノアと獅子劫を襲った個体のように安定もしていない、失敗作の群れ。彼らはシモンへと殺到していく。

 彼らがなぜ起動したのか。

 カリスは記憶の糸を辿り、勘付く。

 獅子劫は霊安室の天使たちにひとりひとり触れていた。あの時既に、死体を動かすための術式を仕込んでいたのだ。

 驚くべきは、短時間の接触にも関わらず、目標を絞り魔術を用いて攻撃するまでの魔術式を書き込んだこと。

 

「───く……!!」

 

 乱舞する魔導衛星。灼熱を帯びる光線が、迫る人造天使たちを貫き、焼き切り、地へと堕とす。

 失敗作は所詮失敗作。かろうじて飛行魔術を用い、追いすがるだけのモノも少なくない。たとえ多勢を揃えようと、衛星を駆使すれば始末できる。

 そんな結論を、銃声が切って落とした。

 

「指弾を熱源追尾にしておいて良かったぜ。その礼装は良い標的だ!!」

 

 衛星に直撃し、破裂する呪いの弾丸。

 銃声が三度鳴り響き、三つの星が堕ちる。

 

「やるじゃねえか。俺が知る中だとトップクラスのおっさんだ───!!」

「魔術師のジャンルじゃなくておっさんのジャンルで評価すんな!!」

 

 ノアはルーンを閉じ込めた右手を横に振り抜く。

 木の根の如く広がった雷電が魔導衛星のおよそ半分を貫く。散らばる礼装の破片。過たず人造天使が殺到し、シモンの目前に迫った。

 

(───次元、跳躍)

 

 否、それを使ったところでその場しのぎだ。別次元を通って三次元上の離れた地点に出ても、稼げる距離は高が知れている。

 緩く、のどやかに流れる視界。時間の感覚が平時のそれとは切り離され、何もかもがゆっくりと進む。

 奥歯が軋み、犬歯が下唇を突き刺す。

 ───あんな未来さえ見なければ、こんなことにはならなかった。

 誰ひとりとして知らぬ、次元跳躍の副作用。

 それは、魂を別次元に置き去りにしてしまうこと。

 四次元空間においては、閉じた箱の中身を閉じたまま取り出すことができる。故に、人間の内臓や血液も皮膚をすり抜けてしまう。

 その現象は魂にも起きた。

 かつて一度、次元跳躍を試行した時。

 シモンはいくつかの臓器を欠き、魂の一部を向こう側に置き去りにしてしまった。

 肉体という器を失った魂はどうなるか。当然、生物が死を迎えた時と同じく、根源の渦へと還る。

 一部とはいえ、紛れもなくシモンの魂。

 その繋がりゆえに、彼は見た。

 魂の欠片が根源に還った際、無限に渦を巻く情報、可能性の一端を。

 そして知った。この人類史は、2017年を見ずして滅ぶということを。

 だからこそ、急いだ。根源から得た情報で隠れ住んでいたカリスを探し当て、彼の特異性を目の当たりにして天使化の道を断念し、次元跳躍のリソースを求めた。

 

「面白いもん持ってんじゃねえか。それ貸せ!!」

「良いとこ取りする気かお前───!?」

 

 いつかきっと、子孫が根源に辿り着く?

 そんなものは明日も世界が続くと盲信している連中の腑抜けた戯言だ。この世界はひとつ舵取りを間違えただけで崩れ去る、砂上の楼閣だというのに。

 滅びに追いつかれる訳にはいかない。

 せめて、この悲願だけは果たしてみせる───!!!

 

「あ」

 

 なれど、光は無情に終わりをもたらす。

 眼前にて炸裂する心臓。歯や爪を破片として撒き散らす手榴弾。呪詛の閃光が、空飛ぶ魔術師を撃墜する。

 五体が地面に叩きつけられ、魔術師は血反吐を垂れ流しながらも即座に立ち上がった。およそ2000年受け継がれた魔術刻印が、呪いへの耐性が、生命の終わりを否定した。

 

「詰みだ」

 

 空気の壁を突き破る速度をもって、ノアが接近する。

 徒手格闘。それが相手が講じた詰みの一手であることを悟り、シモンは体内に仕込まれた礼装を起動した。

 右の手のひらを破り、突き出す骨の刃。

 それこそは『掻爬の尖爪』。嬰児の骨によって編まれ、この世に生まれ得なかった悲嘆の呪いが込められた武装。

 間合いの分、こちらが先手を取る。

 爪の先が敵の額に食い込む────瞬間、ノアが身をよじると同時に、ぬるりと斬撃の軌道が捻じ曲げられた。

 神秘の類を一切用いぬ、技術による受け流し。それが中国武術における化勁であると知ることはついぞ無く。

 受け流した斬撃の勢いに、全ての速度と力が乗せられた拳が、魔術師の鳩尾を打ち抜いた。

 

「─────…………!!!!」

 

 内臓が風船のように破裂する。背骨がぐるぐると螺子を巻く。目に映る景色がミキサーにかけられたように撹拌され、潰したトマトみたいに赤く染まる。

 ノアが強化魔術を併用した上で、全力で人体を打てば豆腐のように弾ける。しかし、シモンの肉体はかろうじてカタチを保っていた。

 発勁。打撃のエネルギーはシモンの体内を暴れ回り、ぐちゃぐちゃに掻き乱していた。ノアは手首を鳴らし、カリスへと振り向く。

 

「───おまえが決めろ」

 

 彼は言う。

 シモンなどいないかのように、カリスだけを見据えて。

 

「こいつを殺すか、生かすか、どうするか。おまえが、いま、考えて決めろ。誰の言葉でもなく、おまえの言葉で俺に告げろ」

 

 それで、ぼくは考えた。

 言葉ひとつで、あの人の命運は決まる。

 ノアさんはきっと、いや、絶対に躊躇わない。ぼくがそうと言えば必ずそうする。

 〝汝の敵を愛せよ〟───救世主様はそう言われた。とても難しいことだけど、きっと彼は、人にしてもらって嬉しいことは人にもしなさいと伝えたかったのだと思う。

 それならば、あの人を生かすしかない。

 無数の人の命を奪い、肉体を弄んだあの人を。

 そう言おうとして、顔を上げたその時。

 辺りに転がる、人造天使たちの残骸が見えた。光線に焼かれ、刻まれたいくつもの死体とその欠片が、ぼくの周りを真っ赤に彩っていた。

 ふと、青い瞳と目があった。

 地面にへばりついた、半分だけの頭。

 虚ろなその眼差しに射抜かれて、ぼくは決めた。

 

「ノアさん、その人を」

 

 神様や救世主様が彼を許しても。

 この人たちとぼくだけは、彼を許さない。

 

 

 

 

 

「───みんなと、同じ目に遭わせてください」

 

 

 

 

 

 そこから先は、あまり覚えていない。

 ノアさんがあの人を部屋に押し込んで。

 一日か二日、ぼうっと過ごして、返り血にまみれたノアさんが、

 

「あいつは産まれてきたことを後悔して死んだ」

 

 それで、決着がついたのだと確信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、カリスはノアと獅子劫が何やら話し合っているのを見て。

 結果、カリスは魔術協会に預けられることになった。聖堂教会に、とも考えはしたが、根無し草のノアとバリバリ殺し屋の獅子劫にそんな伝手があるわけがなかった。

 カリスは仕事の報告のため、ロンドンに向かうことになった獅子劫と短い旅路を共にすることになる。シリアを発つ直前、獅子劫は何の気無しに訊いた。

 

「これからもプー太郎生活か?」

「表現が古い。……もうしばらく中東を見たら、ロンドンに行くつもりだ。天才の凱旋に打ち震えろ」

「…………これから荒れるな、魔術協会」

「ぼくは嬉しいですよ! ロンドンに来たらまた会いましょう!!」

 

 そして、イギリス・ロンドン。

 獅子劫の伝手で預けられることになったのは、世に名高きロードの教室。しかも『グレートビックベン☆ロンドンスター』や『時計塔で一番抱かれたい男』などなどの称号を恣にする辣腕の名物講師である。

 そんな彼の一室。従者である灰色の少女と、ニタニタと含み笑いをする義妹にその礼装である水銀メイドに囲まれて、ロード・エルメロイⅡ世は手紙を読み耽っていた。

 カリスはテーブルの対面に座り、エルメロイⅡ世の反応を今かと待ち侘びる。

 卓上に広がる、いくつもの資料。それはノアと獅子劫がシモンの魔術工房跡地からサルベージしたものだった。

 

「いや、これは驚いた。イカれた魔術師の実験の産物が、君のような存在を生み出すとは。鳶が鷹を生む、とはよく言ったものだ」

 

 エルメロイⅡ世の義妹───ライネスは古ぼけた羊皮紙を眺めながら言った。紙を透かすようにカリスを覗く瞳は、隠す気のない好奇にまみれている。

 もっとも、その好奇心の半分は義兄に向けられているが。またもや厄介事を押し付けられた彼がどんな無様を見せてくれるのか、そんな意地の悪い期待が透けて見える言動だ。

 エルメロイⅡ世は深くため息をつくと、懐から携帯端末を取り出す。彼はその端と端を両手で握ると、

 

「ふんっっ!!!」

 

 携帯端末を真っ二つにへし折った。

 沈黙に包まれる室内。なにか可哀想なものを見る視線に突き刺されながら、二つになったスマートフォンをカリスに差し出す。

 

「これを直すことはできるか?」

「あ、はい」

 

 ここに来るまでに、獅子劫と何度か自身の魔術の検証をした。そこから分かったのは、治す魔術は生物だけでなく無機物にも有効であるという事実だった。

 故に、難なく端末は修復される。カリスから手渡されたそれを、エルメロイⅡ世は電源をつけたり消したりして、こくりと頷く。

 

「君の魔術は、治す類のものではない」

「そうなんですか?」

「ああ。この端末の電池は実は0%だった。しかし、これは充電した状態で直されている」

 

 そして、と言って、彼は一本の花を手に取った。

 それは獅子劫との検証の際、枯れた花を治したもの。百合の花はまるで今手折ったかのように、瑞々しい光沢を帯びている。

 

「三日前の花が、切り離されたままであるにも関わらず、萎れもしていない。それどころか光合成を行い、呼吸をしている」

 

 つまり。

 

「君の魔術は治癒などではなく、そのモノの状態を理想に近づける、もしくはより高次の段階に引き上げる───あえて言うならば、聖別……浄化術式(コンセクレーション)。魔術の領域を半歩踏み出した、驚くべき力だ」

 

 対象を理想の状態にする。あるいは、より進歩したモノにする。魔術の世界においてその力がどれほどの利用価値を持つのか、理解できぬ者はこの場にカリスしかいなかった。

 ライネスは苦笑とも微笑ともつかぬ表情を、紅茶を口に運ぶことで覆い隠す。

 

「なるほど、これは随分と外れクジ……いいや、大当たりを引かされたようだ。物体の状態を理想の姿にする、素晴らしいじゃないか。エルメロイの源流刻印も修復できるかもしれないぞ?」

「ああ、君が曲がりなりにも女性だから堪えているが、そうでなければアイアンクローをかけていたところだよ」

「おっと、性別を引き合いにするのはよくないぞ? 昨今の流行りではどんな発言が炎上するか分からないからね」

「ならば男女平等アイアンクローをしてやろうか!?」

 

 なぜそこまでアイアンクローにこだわるのか。カリスは訝しんだ。

 すると、今まで沈黙を保っていた灰色の少女が、閃いたような顔をして呟く。

 

「ということは、カリスさんがiPh○○ne14に浄化術式を使うと、iPh○ne15に───?」

「話の流れをぶった切ってきたな? まあ14が15になったからと言って、カメラの画素数が増えただけのマイナーチェンジ……」

「やめろ、色々と角が立つ!!」

 

 このままではまずいことになりかねない。破滅的な予感を感じ取り、エルメロイⅡ世はカリスの手を柔らかく引いた。

 

「まずは身なりを整えることだ。その翼の偽装方法は後々考えるとして……グレイ、男物の服は────」

「あ、ぼく、女の子です。一応……」

「なに───…………!!?!?」

「まったく、我が義兄と来たらこれだから。まだまだ真の英国紳士への道は遠いな」

 

 獅子劫とノアトゥールとやらはそんな重大な情報を伝えていなかったのか。エルメロイⅡ世の中でふつふつと怒りが沸き立ったところで、ライネスが追撃を見舞う。

 

「ところで、こちらもそれなりの衝撃ニュースなのだが」

「……なんだ?」

「カリスはどうやら、シモンの末裔らしい。これは彼女の血筋を記録した家系図のようだね」

 

 ライネスは古ぼけた羊皮紙をぴらぴらと踊らせた。

 エルメロイⅡ世は滝のように冷や汗を流す。胃がきりきりと悲鳴をあげ始め、恐る恐る言葉を口にする。

 

「……どのシモンだ。シモン・マグスということはないだろうが、まさかシモン・ペテロか」

「いや、ただのシモンさ。便宜的に名付けるなら、ナザレのシモンか。まあ重要なのはそのシモンの母親の方だ」

「────まさか」

 

 ライネスは諦めの色が濃い笑みを浮かべて、

 

 

 

()()()()()。カリスが受け継ぐのはその血だ」

 

 

 

 その直後、とても放送コードには乗せられないFワードの絶叫が轟いた。なお、後日カリスが天使モドキ二体を密航させていたことが発覚。初のアイアンクローを喰らうのだった。



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奉唱幻影島 聖なる杯の魔女 不朽薔薇十字・マルクト
第85話 風雅なおじさんとめちゃかわ皇帝ソル子くんと四人の魔女


最終章前編開始です。魔術師がいっぱい出てきます。よろしくお願いします。


 アメリカ合衆国、スノーフィールド。

 ネバダ州のラスベガスから北に位置するこの土地はかつて先住民たちの住まう場所であり、しかし、多くの地がそうであったように────歴史の流れの中で合衆国に併合されることとなる。

 第二次世界大戦以来、この街は急速な発展を遂げ、八十万人規模の都市となった。

 表の世界で、まことしやかに囁かれる噂がある。

 スノーフィールドは何らかの目的のために、アメリカ政府が先住民から土地を奪い、その後押しを受けて発展した都市であると。

 無論、噂は噂だ。都市開発は国家の事業である訳だし、それを政府の陰謀だと言ってしまえば人間世界の構成要素はほぼほぼ陰謀で埋め尽くされてしまう。

 そもそも何らかの目的、なんて都市伝説にしても無責任すぎる……というのが、スノーフィールドに対する風評への反応の大半であった。

 だが、裏の世界では違う。

 裏と言っても、深層ウェブだとか犯罪組織だとかの存在が確実視されたモノではない。真のそれは表の人間にはその尻尾すら掴ませず、闇の中で蠢動する。

 彼らの世界ではこう言われている。スノーフィールドは聖杯降臨の儀を遂行するための土地であり、急速な成長の影には政府と魔術師の存在があると。

 すなわち、聖杯戦争。七人のマスターと七騎のサーヴァントが鎬を削る殺し合い。その名を冠した儀式は歴史上数あれど、唯一正統と目されたのは冬木市の戦いのみ。その他の儀式は例外なく、聖杯の降臨さえ果たさずに倒れた。

 故に、スノーフィールドで行われるのは冬木市のシステムを模した偽りの聖杯戦争。器の真贋を度外視し、シロもクロもない灰色の戦い。

 ただし、そこに懸ける願いや想いは確かに本物。

 今此処に、七日限りの聖杯戦争が幕を開ける────!!!

 

 

 

 

 

「…………と、思ってたのになぁ」

 

 

 

 

 

 スノーフィールド市街、警察署。魔術師の血を引く署長の手によって、数多の魔術的防御が施された要塞とも言うべき根城。

 その屋上。夜の闇に負けじと輝く摩天楼の煌めきを背景に、二つの人影が向かい合っていた。

 ひとつは壁に身を預ける少女。彼女の体を包むゴシックな白いロリータファッションは、その血によって真っ赤に染め上げられている。

 

「……いや、真面目に焦ったぞ。魔術協会も聖堂教会も大わらわなこの時期を狙って、事を始めようとするとはな」

「あら、それは偶然よ。人理焼却が起きていたなんてまったく知らなかったもの。我ながら天運を信じかけたけれど……あなたたちに阻まれてしまったわね」

「それほど貴女たちの準備が入念だったということだ。よもや全戦力を投入する羽目になるとは思わなかった」

「わあ、見え透いたお世辞をどうもありがとう。私たち(まじゅつし)相手なら、薔薇のお爺様独りで十分だったでしょうに」

「アレは一種のバグだ。サーヴァントと生身で殴り合える人間など考慮から外して当然だろう」

 

 もうひとつの影は、少女を見下ろしていた。

 腰の下まで伸びる長い黒髪。白いワイシャツとスキニージーンズの細いシルエットが、夜闇と摩天楼のコントラストの中に浮かび上がっている。

 彼女は無造作に一本のたばこを咥える。すると、ひとりでに火が灯り、たばこの先を赤熱させた。

 怜悧な切れ長の眼は、ブレることなく視線を相手へと注ぎ続ける。魔術師同士の戦いにおいて、たとえ敵が死の淵にあろうとも油断することはできない。彼女の眼差しは未だ警戒の最中にあることを如実に物語る。

 反撃の可能性が潰えた事実を思い知り、少女はぐったりと鎌首をもたげた。

 

「……で、殺していかないのかしら?」

「貴女にしては出来の悪い冗談だ。殺して死ぬようなタマでもないだろうに」

「そう、優しいのね。傷赤ちゃんならさっさと首を刎ねていたところなのだけれど」

「これでも紳士でな。人は殺さないと決めている。それに、そのザマでは当分悪巧みもできまい」

 

 かつかつ、と革靴が硬質な音を立て、女は屋上の縁に向かった。少女はその背へと声を投げかける。

 

「───女の子になった気分はどう? 『黄金』の伯爵サマ?」

 

 けたけたとからかうような声音。

 女は横顔だけを傾け、苦々しく微笑む。

 

「…………フッ。顔から火が出そうなくらい恥ずかしいが?」

 

 彼女は逃げるように、ビルを飛び降りた。

 それは落下というよりも浮遊だった。紙飛行機が空を滑り落ちていくように、魚が水中を泳ぐように、夜の合間を引き裂いていく。

 ───ともかく、スノーフィールドにおける騒乱はこうして終わった。世界の可能性は偽りの聖杯戦争へと枝を伸ばすことなく、それが芽であるうちに摘み取られた。

 丹念に、丁寧に、余すところなく。

 さながら、コーヒー豆のハンドピックをするように。

 あたかも、盆栽の枝葉をひとつひとつ剪定するように。

 あらゆる要因は遠ざけられ、英霊たちは現世に降臨すらせずに幕を閉じた。それが、この世界におけるスノーフィールドの結末。

 だが。

 それでも。

 彼らにそんなことを知る由はなく、また、知っていたとしても行動は変わらなかっただろう。

 合衆国の奥深くにまで根を張るマフィア組織、スクラディオ・ファミリー。その頭領であるガルヴァロッソは居場所を失った魔術師たちを取り込み、勢力を拡大させた。

 結果、スクラディオ・ファミリーは魔術協会とて容易に手出しができない勢力を有するに至った。かつての禁酒法時代、暗黒街を仕切った暴君としての威風を備えたままに。

 ───血の報復を。

 縄張りを荒らした不届き者に待つ最期はただひとつ、凄惨なる死のみだ。

 

「『あ゙ー、こちら聖遺物の回収完了しましたわ。状況終了。夜更かしはお肌にバチクソ悪ィですので帰ってねんねさせていただきます』」

「承知した」

 

 黒髪の女は短く告げ、通信礼装を切る。

 同時に、棚引く髪の側方で金属音が弾けた。ざらりと鉛の粉が霧散し、冷たい風に流されていく。その背後には銃撃の怒号が狼の遠吠えの如く響き渡っていた。

 彼女は手を伸ばす。鉛の粉末が手元に集まり、指の腹でそれをすり潰した。

 ───対魔力の術式が施された銃弾。汎用的な魔術防御ならば、容易く貫通する魔術師殺しの弾丸。女は手をはたき、敵の正体を把握する。

 スクラディオ・ファミリーの最精鋭。魔術師と傭兵を混成した抹殺部隊。ガルヴァロッソの懐刀が首元に滑り込んでいる。それを認識し、女はたばこを投げ捨てた。

 

「────素晴らしい」

 

 まるで、散歩をするかのような気軽さで。

 黒い影は敵が潜む街路を進む。

 

「魔術と科学の融合。アトラス院やカルデアを始め、今となっては珍しいことではないが、君たちの技術は執拗なほどに殺しに特化している。衛宮切嗣を想起させる狡猾さだ。私が戦ってきた執行者の中にも、君たちほど魔術を殺しの道具と割り切る潔さを持った人間はいなかった」

 

 いっそ、空々しいほどの褒め言葉。

 それぞれの地点に潜む部隊の構成員たちは思わず唇を噛む。朗々と語るその言葉には、一切の侮りも慢心も含まれていない。女はどこまでも真摯に、自らの敵を讃えている。

 けれど、彼らにとってそれは屈辱に他ならない。

 初めて喋った子どもに嫉妬する大人がいないように、両者の間に隔たる格の違いを露呈させてしまっているから。

 

「故に、魔術には魔術をもって報いよう」

 

 女はどこからともなく杖を取り出し、虚空に向かって宣言する。

 

()()()()()()()()()()()()()()。確実に気絶するほど強く」

 

 杖が形を変え、金槌のそれとなる。

 柄から先まで重厚な金属で鍛造された槌。だが、それは物体の形状を変化させたのではない。杖に金槌の幻像を被せただけの代物だ。

 しかし彼女には、その虚勢で事足りた。

 こほん、と咳払いして、金槌を振るう。

 

「────万物照応『マジカル☆膝カックン(ミクロコスモス・レゾナンス)』」

 

 瞬間、彼女を視界に捉える者全員が同じ未来を思い描いた。

 確実に気絶するほど強く殴る。どうやってかは分からないが、何らかの魔術的手段によってそれを成し遂げるのだと。

 そう考えた時点で、彼らは終わりだった。

 物陰の至る所でどさりと倒れる音が響く。女はたばこを取り出しながら路地へと歩を進め、ゴミ箱の裏を覗き見る。

 そこには軍用の装備に身を包んだ男が蹲っていた。目と耳を潰し、血液を垂れ流して。

 

「優秀だな。視覚と聴覚を絶って無理やりイメージを塗り変えたか」

 

 女は彼に手をかざす。ぽうと光が灯ると、潰れた眼球と鼓膜は時間を巻き戻すみたいに修復された。

 男は観念したように両手を挙げる。

 

「今日のところは、俺たちの負けだ。だが良かったのか? 魔術師で今のを知らないやつはいない。身振り手振り(パントマイム)で他者の内宇宙(ミクロコスモス)に干渉する野郎なんてな」

 

 女は紫煙を長く長く吐き出しながら、しばし黙考した。

 そうして、嘯くように笑みを広げ、

 

「ククク、その通りだ。お前が思い描いたその男で間違いない。黙示録の獣、マスターテリオンとは私のことである───!!」

 

 たばこを口に運び、煙を肺に入れる。

 威風堂々とそれを吐こうとすると、

 

「…………けほっ! んげほぉっ!?」

「吸い慣れてねえのかよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人理継続保障機関フィニス・カルデア。

 人類の未来を繋ぐため、魔術と科学の粋を結集して創り上げられた組織である。場所は遥か南極大陸、標高6000メートルの山の地下に居を構えている。

 魔術王ソロモンの眷属、七十二柱の魔神。その総体たるゲーティアが引き起こした人理焼却はカルデアに多数の犠牲をもたらした。

 人類史に穿たれた七つの特異点と、ひとつのイレギュラー。数多の英雄がひしめく、異なる時代の異なる戦場を、カルデアは見事勝ち抜き、ゲーティアを打倒したのである。

 しかし、その過程で馬脚を露わした存在がいた。

 魔術師シモン。マグス(魔術師)を名に冠する、次元の飛翔者。彼はゲーティアの計画の水面下にて蠢動し、Aチームのコフィンから中身を抜き出しつつも、カルデアの目を欺き続けた。

 …………とはいえ、魔術協会からすればカルデアに求めるのはシモンの計画を探ることではない。それ以前に確かめるべきことは無数にある。こうして世界が元に戻った以上、それは責務ではあるが急務ではない。

 人類史を救った二人のマスターと、契約したサーヴァントたち。

 時計塔の法政科諸君はカルデアが辿った人理修復の旅の記録を閲覧し、一週間にも渡る議論───というよりも口論───の末、とりあえずひとつの結論を出した。

 

「〝Eチームのマスターを呼び出せ〟……というのが我らがカルデアのご主人様、魔術協会は時計塔のお達しだ。迎えの飛行機も来てるみたいだし、サクッとロンドンに行ってきてくれるかい?」

 

 カルデア、管制室。もはやEチームにとっては親の管制室より見慣れた管制室の中で、ダ・ヴィンチちゃんはへらへらと笑う。

 彼女の前にはいつものEチームのサーヴァントたちと、既にリュックとスーツケースを引きずり、おめかしまでキメたマスター二人がいた。

 立香はギラリと額のサングラスを輝かせて、ノアの腕を引く。

 

「久しぶりの任務で、しかもダ・ヴィンチちゃんの頼みとなったら断れませんね! 時計塔の人にする言い訳は私たちにどんと任せてください!!」

「うん、カルデアの立場は言わば授業中にキレて職員室に帰った先生を呼び戻しに行く生徒に近い。ノアくんはできるだけ先生に口答えしないようにね」

「人を火薬庫みたいに言うんじゃねえ。自己暗示一発で理想の受け答えをしてやるよ」

「それで所長に叩き出されたの忘れたんですか?」

 

 立香は言葉の刃でノアを刺す。が、分厚いふてぶてしさに護られた彼にはまったく通用しなかった。

 マシュはそんな二人をじろりと見つめて、言い咎める。

 

「……お二人とも、これは旅行ではありません。おやつは500円までとし、私服ではなくカルデアの制服に身を包んでください」

「あ、それでノアは行くとこ決めてくれました? 私の希望はフォトジェニックな映えスポットなんですけど」

「ナメんな立香。俺の完璧なチョイスで致死量の映えを味わわせてやる」

「ちょっと! 私の脳を破壊しようとしてもそうはいきませんよ!?」

「ひとり相撲やめてくれません?」

 

 暴走しかけるマシュの脳天に、ジャンヌは旗を振り落とす。なすびの凄惨な殺害現場が作り出されると、ジャンヌ以下サーヴァントらは次々と言った。

 

「お土産はモニターアームでいいわ。そろそろディスプレイ増やしたいと思ってたのよね」

「あ、私はワイヤレスイヤホンでお願いします。図書館でも音楽を聞きながら読書できるなんて最高ですよねえ」

「オレはソーダーメーカーで頼む。いつでもどこでも炭酸水作れるとかほとんど魔法だよな」

「私は液タブが欲しいですわ。ジャンヌさんとの同人誌製作もそろそろデジタルに手を出したいので」

フォウフォフォフォウ(お前らイギリスにちなめよ)

 

 すっかり現代文明に染まりきったサーヴァントたちなのだった。ちなみにダンテはウォシュレットがなくては生きていけない体に、リースは電動マッサージ器の誤った使い方を習得している染まりようである。

 立香は床の上の金魚みたいになっているマシュのそばにしゃがみこむ。

 

「マシュは?」

「ほ、包帯でお願いします…………」

「それならカルデアにもあるけど!?」

 

 颯爽と医務室へと運び込まれていくマシュ。一体どこで育て方を間違えたのか、彼女がかつては薄幸の美少女だったと言っても信じる者はいないだろう。

 なにはともあれ、出発の時間。ノアと立香は管制室の中枢に据えられたカルデアス───その前に建てられた慰霊碑を見つめる。

 硬質な碑石の表面にはいくつもの名前が彫られていた。人理焼却が起きたあの日に亡くなった職員と、己が全霊を賭してゲーティアを斃した男の名が。

 眠るには騒々しい場所だが、それでいい。

 彼らは確かに、このカルデアの仲間だったのだから。

 ノアはロマニ・アーキマンの名を親指でなぞり、呟く。

 

 

 

「おまえが救った世界だ。精々楽しんできてやる」

 

 

 

 ───それが、およそ三日前のこと。

 台風の目であるマスターたちがしばしカルデアを後にし、長らく無縁だった平穏の二文字が帰還を果たした。最も喜んだのがムニエルであることは言うまでもない。

 しかし、ある巨大な問題がカルデアを取り巻いていた。

 ゲーティアの打倒を果たしてから二ヶ月。カルデアの飼い主である魔術協会と国連、その他諸々の組織は人理焼却の勃発と解決という事後処理に右往左往していた。なにせ、戦いの顛末は全てが事後報告。彼らの心境は崖の上で犯人に種明かしを披露する探偵……の後ろの登場人物Bと近しいものであっただろう。

 率直に言えば、カルデアに手出しできる仕事はなかった。精々が外部機関との問答くらいであり、職員たちには念願の長期休暇が与えられた。協会と国連では汚い政治的闘争が繰り広げられていたが、なおさら口出しできるものではない。

 人間は休まないと生きていけない。が、休みすぎはそれはそれで肉体にも精神にも悪影響を及ぼす。

 まるで夏休み終盤、刻一刻と迫る登校日とベランダに打ち捨てられたアサガオから目を背けてゲームに没頭するような時間がカルデアに蔓延していた。

 

「…………これは、わたしが体験した本当にあった怖い話です」

 

 図書室。暇を持て余し、突如開催されたカルデア百物語。外出中の立香とノアを除いた全員が集まる場所で、マシュは重々しく口を開いた。

 ろうそくの火でぼんやりと照らし出される顔面。マシュの瞳には色も艶もなく、薄皮一枚隔てたみたいな無感情さだけがある。

 

「一週間前の朝、わたしはいつものように食堂への廊下を歩いていました」

 

 ───マシュはその道で、ばったりと立香に遭遇した。

 それ自体はなんら珍しいことではない。食堂の前は一本道。必然と移動経路は絞られ、人間が集まることになる。

 

〝おはようございます、先輩〟

〝うん、おはよう〟

 

 その時、マシュは衝撃の雷に打たれた。

 

「……なぜか、先輩が人語を発していたのです───!!」

フォフォウ(オチが早すぎる)

「いや、立香がなんぼアホでも言葉くらいは話せるでしょ。まさかそれが怖い話ってわけ?」

「いいえ違いますジャンヌさん。分かりませんか、この違和感が。この時は朝だったのですよ?」

 

 立香は朝が弱い。それはカルデアのみなが知るところだ。その様子は腐ってないだけのゾンビと評されるほどであるが、その日はどういう訳か人間性を喪失してはいなかったのである。

 当時のマシュもまた違和感を抱き、無意識に探る視線を送ると、ふと気付いた。

 

〝先輩。首のところが赤くなっているようですが……〟

〝……あ。えっと、虫に刺されちゃって〟

 

 そそくさと襟を正す立香。

 なるほど、とマシュは頷いて立香と一緒に食堂で朝食をとった。いつもならノアの隣か対面に座るはずが、その日は不思議と少し離れたところで食事をして。

 戦いが終わったあの日から、立香のそんな挙動は度々見受けられた。何がおかしいとは言い切れないが、何かがおかしい。マシュがもんもんと日々を過ごしていると、突如天啓の如き閃きが舞い降りた。

 ───南極に蚊はいない。

 カルデアにいる虫は遥々大陸から密航して住み着いたゴキブリくらいなものだ。研究用の生物は専用の区画で完璧に管理されている。

 つまり、あの虫さされとは。

 

「その真相に気付いた瞬間、わたしの脳みそは爆裂し、1800の肉片となって散らばりました」

 

 マシュはろうそくの火を吹き消し、床に置く。

 いたたまれない空気が場を支配する。いっそ南極の吹雪の方が寒々しい雰囲気の中で、リースはにこにこと微笑んでいた。

 

「純度の高いコイバナを摂取できて、空気がめちゃんこうめーですわ」

「今のどこがコイバナ!? ただのポップコーンと化したなすびの怪異が語られただけでしょうが!! 空気が淀みまくってるでしょうが!!」

フォフォウフォフォウ(怪談か猥談かどっちかにしろ)

「まあ精霊に空気を読む機能は搭載されてないからな。むしろそこが可愛いよな」

「ペレアスさんは伴侶に甘すぎませんかねえ」

 

 ダンテはほのぼのとお茶を口に運んだ。その横で、Eチーム最大の犠牲者ことムニエルは自らのスマートフォンに手を伸ばしていた。この会話に巻き込まれまいと空気化する目論見である。

 SNSのアプリを開き、するすると画面を送っていく。その途上でセンシティブなイラストが多数表示されるが、卓越した指の動きで早送りした。周囲に己の性癖を知らさぬ妙技だ。

 親指の動きがぴたりと止まる。目が画面の情報を追い、達観したみたいに言う。

 

「今からでも、俺もロンドン行けないかな」

 

 虚空を───否、遥か彼方のロンドンを眺めるが如き眼差し。やんわりとしながらも冷たい視線が集まるが、世界にひとつだけのなすびは輝く瞳で賛同した。

 

「良い考えです、ムニエルさん。是非わたしたちでリーダー炎上編〜先輩を求めて三千里〜といきましょう」

「南極なすび脱走編じゃなくて?」

「オレたちサーヴァントが外出ると不都合なのは分かるが、流石に退屈だよな。現代のブリテンも見てみたい」

「それは私もまったく同感ではありますが……ムニエルさんはどうしていきなりそう思ったのです?」

 

 ムニエルはダンテの問いに対して、面を伏せながら声を捻り出す。

 

「最近好きになった配信者のオフ会がロンドンであるんです……!! 死んでも行きたい! ケツから手が出るほど行きたい! 俺みたいなただ魔術刻印継いだだけのオタクは解放してくれてもよくない!!?」

「その事情については後でダ・ヴィンチちゃんから解説するとして、その配信者のことならノアくんと立香ちゃんに連絡すればサインくらいは貰ってきてくれるかもしれないぜ?」

「……立香はともかく、あっちの外道には頼まない方が良いでしょうけど。だいたい、なんて配信者なのよ」

「『めちゃかわ皇帝(カイザー)ソル子くん』ですが?」

 

 ムニエルに向けられていた視線が硬度を帯び、鋭く研ぎ澄まされる。並のオタクなら涙目敗走を決め込むアウェー感だが、生憎と彼は十数年前のオタク迫害の時代を生き抜いた猛者であった。

 彼は端末の画面を一同に向ける。

 液晶に閉じ込められた、件の配信者。桃色がかった金の髪と、やや赤みの差した白い肌。妖艶さの見え隠れする美貌は挑発的な笑みを浮かべている。衣装は体に貼り付くようなスポーツウェア。筋肉の上に薄い脂肪が乗ったしなやかな肢体を余すことなく見せつけていた。

 まぶたをもったりとさせたムニエルは、森林を流れる清流を思わせる調子で喋り始める。

 

「まず何が良いって顔ですよね。見た目って意味だけじゃなくて表情が良い。一枚の写真でもその背後にあるストーリーを妄想させてくれます。しかもこれで男の子ですからね。ついててお得ですよね。この世のバグと言っても過言じゃない。というか本当にバグってるのは俺の方なのかもしれない。俺という醜い存在なのかもしれない。だけどソル子くんはサービス精神旺盛なので、実際に会ったら握手とかツーショットとかだけじゃなくて、ハグはおろかほっぺたにちゅーまでしてくれ──────」

「ムニエルさん、長いので三行でまとめてください」

「────俺だってチューがしたいよォォォォォ!!!!」

「一行で済みましたわ」

「それどころか性欲の二文字で終わりでしょ」

 

 リースとジャンヌはお茶請けのせんべいを貪った。

 場の人間は全方位に性癖を撒き散らした腫れ物から距離を取る。テーブルに突っ伏してすすり泣くムニエル。すると、彼を慰めるように、柔らかな手つきが背中を擦る。

 その手の持ち主は、

 

「───優雅たれ」

「うるせェェェェ!!! お前なんかもう味のしないガムなんだよ!! 賞味期限はとっくのとうに切れてんだよ!! つーかこいつが本当の世界のバグなんじゃないの、魔術協会は俺たち監禁するより先にこのおじさんを退去させた方がいいんじゃないの!?」

「ああそうそう、サーヴァントのみならず職員まで外出を許されてないのには理由があってね」

「どういう話の繋げ方?」

「ジャンヌさん、ムニエルさんの発狂に文字数を割くよりはマシだとわたしは考えます」

 

 ダ・ヴィンチちゃんは優雅なおじさんの愛用のティーカップに紅茶を注ぎつつ、端的に述べた。

 

「実は職員の補充に先駆けて、カルデアに新しい所長がやってくるんだ」

 

 しん、と辺りが静まり返る。

 カルデアの新所長。人理修復の始まり、特異点Fにて命を落としたオルガマリー・アニムスフィア。彼女の代わりとなる人物がここにやってくるのだ。

 魔術協会の息がかかっていることは確実。組織は再編成され、カルデアは新しく作り替えられるのであろう。それが善悪どちらに転ぶかは不明だが。

 ただし、このカルデアのトップに着任するということは、本来冷や飯喰らいの立場だったにも関わらず、何の因果か人理修復を成し遂げてしまったあの二人のアホを統制しなければならないわけで。

 マシュは未だ見ぬ新所長へと合掌を捧げた。

 

「その人が先輩とリーダーの犠牲になるのですね。せめてその御霊が安らかならんことを祈っておきましょう」

「そうだね、大量の胃薬を用意しておこうか。ロマニは在庫が空になる勢いで消費していたし」

「……アンタらも胃痛の原因でしょう。草葉の陰で血涙流してるのが容易に想像できるわ」

「とにかく、新所長が気の毒なのは間違いねえな。名前とか顔写真とかはねえのか?」

 

 ペレアスは一同の感想をまとめ、ダ・ヴィンチに訊く。彼女は頷き、空中に新所長を切り抜いたホログラムを投影する。

 

「この御仁こそが栄えあるカルデアの新所長、ゴルドルフ・ムジークだ!!」

 

 ティーポットを持ったメイドと、余裕のある笑みを見せるふくよかな金髪の男性。ジェントルマンのお手本のような髭が芸術的なカーブを描き、その下の口元は静かに微笑んでいた。

 極めつけには、顔の横に寄せたティーカップ。澄んだ色の紅茶の水面から、見るも香り高い湯気を漂わせている。

 一同は強烈な既視感を覚え、カルデアのマスコットキャラクターである優雅なおじさんを見やった。

 おじさんはくすりと微笑み、

 

「───優雅たれ」

フォフォウフォフォウ(それしか言わねえなこいつ)

「優雅というよりは風雅ですわ」

「どう違うんですか? それ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───南極海、ドレーク海峡上空10000m。

 南極に向かう出港便があるキングジョージ島への航路上を、ムジーク家自家用機『フライング・セレスティアル・ゴッフ号』は風雅に空の旅を突き進んでいた。

 ムジーク家はかつてアインツベルンとも並び称された、錬金術の名家である。厳しい時代の荒波を乗り切り、現代にまで血筋を繋げた高貴なる一族。ムジーク家の資金力はカルデアそのものを買い取れるほどであったが、今もなお国連と協会の管理下に置かれている。

 その理由は、シモン・マグスの存在にある。人理焼却より端を発する事象が未だ解決を迎えていないことから、サーヴァントという戦力を有するカルデアの管理権は据え置きにされていた。無論、ムジーク家がカルデアを独占し、勢力を拡大することへの警戒もあっただろう。

 とはいえ、ゴルドルフが所長に選ばれた経緯はムジーク家の財産を駆使したとか、有り余る権威で他の候補者の頭を押さえつけたといったことではなかった。

 ノアと立香、この二匹のアホの手綱を誰が握らされるのか。この不名誉な大役を免れるため、時計塔では熾烈な暗闘が繰り広げられた。その結果、優秀な魔術師ではあるものの、特に功績を立てていないゴルドルフにお鉢が回ったのである。

 要は、体の良い生け贄。

 しかし、そこでめげるようではムジーク家の男子にあらず。この立場を利用して、輝かんばかりの功績を打ち立てるのだ───!!!

 

「……………………ふぅ」

 

 豪奢な装飾が施された機内。ゴルドルフは備え付けの大インチモニターが暗転すると、ティーカップを置いて一息つく。

 数秒前まで放映されていたのは、レイシフトEチームの人理修復の軌跡をまとめたものであった。特異点Fから終局特異点までの長大なビデオだったが、こつこつと視聴してようやくゲーティアを打倒した最終章を見終えたのだった。

 編集者はレオナルド・ダ・ヴィンチ。万能の天才の面目躍如と言ったところか、ビデオの出来に文句のつけようはない。

 が、しかし。ゴルドルフは全てを諦めた虚無顔で呟いた。

 

「────どこからツッコめと?」

 

 どうしてこんな奴らに世界が救えたのか。一部始終を見たにも関わらず、ゴルドルフの脳は内容の理解を拒んだ。

 事実確認のためにこれを確認した法政科の人間の多くは視聴後にふて寝したというが、そこは不死鳥のゴッフ。生真面目に憤りを爆発させる。

 

「聖女マルタが拳でタラスクを鎮めた……沈めたって何? ローマ三国志って何? コロンブスのタマが卵だけに……ってくだらんわァァァ!!! Eチームの行動の九割九分がアホなのに敗けるとか魔神王は恥を知るべきでは!!? こんな奴らに世界の命運が託されていたなど、冗談にしてもたちが悪い!! よく滅ばなかったな世界!? いや、滅んでから救われた訳だけども!! ここにレフ・ライノールがいたら我が鉄拳で夜空の星にしてくれるものを!!!」

 

 心なしか機体の揺れが増すほどの怒号を吐き散らかしたゴルドルフ。この世界の存続が如何に薄氷の上にあったのかを存分に思い知る結果であった。

 怒りを紛々とさせる彼の横に、ひとりのメイドがやってくる。

 艷やかな黒髪と蒼い瞳。彼女はクラシカルな服装を纏い、ひっそりと咲く華のような出で立ちをしていた。

 メイドは手慣れた仕草でお茶請けを差し出しながら、

 

「落ち着いてくださいませ、ご主人様。心は熱くなられても、頭はクールを保つのが貴族の男子たる振る舞いでございます」

「う、うむ。これは見苦しいところを見せてしまったな。今のは忘れてくれたまえ、メリア」

 

 メリア。そう呼ばれたメイドの少女はくすくすと笑う。

 

「はい。私の心の中だけに留めておきますね。もしかしたら、従者の間で話題になってしまうかもしれませんが」

「ふふふ、口が軽いのは感心しないぞ?」

「メイドとはお喋りな生き物なのです。噂になるのが嫌でしたら、私とご主人様だけの秘密にいたしましょう。秘密の共有……なんだかワクワクしませんか?」

「……そ、そうだな! なんとも甘やかな響きだ!」

 

 ゴルドルフはニヤつく口角を必死で抑える。

 ムジーク家は錬金術の大家。それ故、ホムンクルスの製造技術も並外れて高い。ゴルドルフは幼い頃から身の回りの世話をするホムンクルスに囲まれ、当然、カルデアへの航路にも連れてきたが、メリアは唯一人間の従者だ。

 その出会いは半年前。ゴルドルフは降りしきる雨の中で、手酷い扱いをする魔術師の元から逃げ出してきたという彼女を保護した。

 当初は生まれたばかりのホムンクルスのように口数が少なく、表情も固かった。が、ある日、彼女はゴルドルフの手を握り、告げる。

 

〝私に、新しい名前をつけてください〟

 

 表情豊か、とは言えないけれど。

 顔を耳まで赤らめて。

 震える声で、彼女は言った。

 

〝良いだろう。ならば──────〟

 

 だから、『内気な乙女』という花言葉のプルメリアにちなんで、メリアと名付けた。今となっては小悪魔っぷりを発揮するようになり、アルストロメリアの方が合っているかもしれないが。

 メリアはゴルドルフと肩を寄せるように腰を降ろすと、手を握った。

 

「ご主人様は優しく聡明なお方です。そんな貴方なら、きっとEチームの方々にも寄り添えるはず」

(ん? この娘私のこと好きなのかね?)

「だって、こんな私にも貴方は善くしてくれましたから……」

(やっぱり好きだよね。この娘私のこと好きだよね。惚れていいかな。惚れちゃっていいかな)

 

 と、逸る心をぐっとこらえて、ゴルドルフは表情を取り繕う。

 

「た、確かに、Eチームの戦果それ自体は認めるべきだろう。むしろ責めなければならないのはアニムスフィア家時代の所業か。あらかじめ短命を定められたデザイナーベビーをサーヴァントの器にするなど常軌を逸している」

「藤丸立香さんも同じです。類を見ないレイシフト適性の高さだけで、目をつけられ、権力を用いて連れてこられたのですから」

「ああ、魔道とは外道だが、それは裏の世界の理屈であって表の世界に持ち込むべきではない。ある意味、神秘の秘匿という大原則を自ら侵す愚行だ。挙句彼女に世界を護られるとは、全ての魔術師の名を地に落とす事実だ」

「それで、ノアトゥールさんについては……」

 

 カルデアが誇る最低最悪のアホの名が出ると、ゴルドルフは途端に顔をしかめた。

 

「その男はどうでもいい!! 過去の境遇には同情してやらんでもないが、そこからの振る舞いについては自業自得だからな!! あんなのがバルドルの生まれ変わりと知れれば、全北欧の魔術師が泣くぞ!! フリッグは予言を間違えたのではないか!?」

 

 あんまりな言いようだったが、誰も文句を言えないであろうことは確かだった。ビデオの内容は限られた人間にしか公開されていないが、一時は封印指定の話まで持ち上がったほどである。

 それが見送られたのは、ノアの木綿糸より脆い堪忍袋の緒が切れた場合、もたらされる被害が未知数なためだ。

 下手に手を出さず、カルデアの一員としてこき使う。法政科の意見はそのようにまとまった。触らぬ神に祟りなしとはまさにこのことだった。

 メリアは目を細めた微妙な顔をして、ゴルドルフを励ます。

 

「ま、まあ、マスターのお二人はロンドンにいるようですし、この間にカルデアの人心を掴むチャンスです」

 

 ゴルドルフは首肯する。マスターたちと行き違いになったことは不幸中の幸いだ。少なくとも、あの悪魔に口答えされる可能性はないのだから。おそらくは時計塔によるせめてものはからいだろう。

 

「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ。真っ先に接近すべきはペレアス卿とジャンヌ・ダルク……!! アホどものストッパーの信頼を得て、必ずやEチームを躾けるのだ!!」

 

 なお、ダンテが候補から外された理由は彼がノアの圧力に弱いからだった。喩えるならオークに対する女騎士やエルフである。

 ゴルドルフは使命感と功名心に燃える。メリアはその横顔を眺め、唐突に言った。

 

「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ。良い言葉ですね」

「盛唐の詩人、杜甫が由来の言葉だそうだ。カルデアは多人種が集まる場所だからね、勉強してきたとも」

「さすが、抜け目ないですね。それに、とっても優しい」

「そう褒めてくれるな、この程度人の上に立つ者には当然の努力だ!」

 

 どん、と胸と腹を突き出すゴルドルフ。メリアはそのたくましい体に一層寄りかかり、彼の胸板にか細い五指を這わせる。

 高鳴る鼓動。それが伝わらないように悪戦苦闘するが、心臓の律動が意思でどうにかできるはずもなく。

 メリアは小さく鼻を鳴らし、蠱惑的な笑みを浮かべた。

 

「────だから、私みたいなのに騙されるんですよ?」

 

 不思議と、ゴルドルフはある映画のワンシーンを思い出す。

 主人公たちを付け狙う軍人。彼は主人公の打撃を受けて、軍隊アリの群れに倒れ込み、全身を喰らい尽くされてしまう。頭の天辺までアリに覆われていく映像は、なかなかに恐ろしかった。

 これは、まるで、あの映画の軍隊アリだ。

 黒い影で形作られたアルファベット。その群れがメリアの手のひらを起点に広がっていく───否、炎が燃え立つように、彼女自身を中心に文字が増殖していく。

 アルファベットが幾重にも折り重なり、肉体を、機体を侵食していく影。ゴルドルフ・ムジークの目はそれが紛れもない魔術による現象であることを察し、魔術師としての性故か、驚嘆に喉を震わせた。

 

「虚数属性の影───!? なぜ君がそんなものを持っている!?」

「このソラの外から堕とされたもので」

「どういうこ」

「それじゃあ、行きましょうか。カルデアを射んと欲すれば、まず所長を射よ───です」

「それは逆じゃないかね!?」

 

 その叫びを最後に、意識は深みへと連れ去られていく。胸に触れる手で魂を揺すられているかのように。

 母親に寝かしつけられるみたいな、安穏とした平和的な意識の埋没。薄れゆく視界は影の文字を捉え、そこで気付く。

 なぜ、アルファベットなのか。

 それは、ある単語を表すためだ。

 文章ではなくただ執拗に、その一単語のみを綴り、周囲を塗り潰している。

 

(R、OA───────)

 

 ついに、全てが漆黒に包まれる直前。

 ゴルドルフは、その単語を判読した。

 

(──────R()O()A()N()O()K()E()?)

 

 南極海、ドレーク海峡上空約10000m。

 『フライング・セレスティアル・ゴッフ号』は突如レーダーから消失。数十人の乗組員とともに、忽然と失踪した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イギリスはなにかとオカルトに縁が深い国だ。

 探偵小説の金字塔、シャーロック・ホームズシリーズで知られるアーサー・コナン・ドイルが、後に偽造と告白される妖精写真に太鼓判を押したり。

 ロンドンのハマースミス・ブライスロード36番地にて、稀代の魔術師にして稀代の変人───現代日本では培養液の中で逆さまになっているあの姿が有名───な奇人がすったもんだの魔術バトルを繰り広げ、結局警察のお縄についたり。

 エレナ・ブラヴァツキーをはじめとして、近代を代表する高名な魔術師たちは少なからずイギリス、とりわけロンドンと縁がある。

 それは、魔術協会の最大勢力たる時計塔がその地にあることと決して無関係ではないだろう。

 魔術王ソロモンの弟子が設立した組織。西洋魔術の本場。今も神秘が根付くこの地に、我らがカルデアのマスターどもは降り立った。

 

「そこの道行くお嬢さん。初めてロンドンに来たならフィッシュアンドチップスがおすすめだよ。なんたって我が国が誇るマズメシだからね。今ならカップル割引もしてあげちゃうよ」

 

 ロンドン市街。時計塔に指定された日時には一日の余裕があった。立香とノアは遊び散らかすべく、意気揚々とロンドンシティ空港を出発し、バスを降りた矢先に呼び止められる。

 褪せた色彩の屋台。親の仇の如く揚げに揚げられた魚の成れの果てが並べられている。店主の老婆はジャンヌよりも魔女らしい笑みで呼び込みをしていた。

 ノアは嫌悪感を隠しもせずに、顔をしかめて言う。

 

「そんな産業廃棄物食えるか。最終処理場にでもブチ込」

「───はい! 私この人の彼女! 彼女です!! とりあえず並べてるやつ全部ください!!」

「気前が良いね、まいどあり」

「このクソアホが!!!」

 

 目にも留まらぬ速度で屋台へダッシュし、老婆からフィッシュアンドチップスを受け取る立香。その脳天にノアの手刀が見舞われる。

 立香は両手でつむじを鷲掴みにして、涙目で振り向いた。

 

「ちょっと、ツッコミが強すぎませんか!? 少しは彼女を労る気持ちを見せてください!!」

「そうだよお兄さん。突っ込むのが強いのは夜だけで良いんだよ」

「ふざけんなババア! 一足先に地面の下に埋めてやろうか!?」

「あ、私仏教徒だから火葬にしてくれるかい?」

「そのナリで仏教徒なんて言い分が通るか!! 触れづらい話題持ち出してきやがって!!」

 

 で、数分後。

 結局二人はタダ同然でフィッシュアンドチップスを受け取り、当初の目的である観光に繰り出した。

 立香はボリボリと哀れな姿の魚を貪りながら、

 

「…………半分いります?」

「自業自得だ、自分のケツは自分で拭け」

「いや、まずくはないですよ。全然まずくないです。むしろこの破壊的な油っこさが逆にクセになるっていうか」

「白々しいにも程があんだろ。……だが、特別に騙されてやる」

 

 ノアは立香の手を上から握り込むと、上半身を倒す。

 ほんの少しの間、二人の息遣いは重なり、言葉が途切れる。

 上体を起こし、親指で唇を拭う。ノアは白い歯を覗かせて意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「……やっぱり、クソまずいじゃねえか」

「…………馬鹿」

 

 と、ベタなやり取りをしたところで。

 北のアホと東のアホはようやく観光という名のデートに繰り出した。当初はノアの計画でロンドンを見て回るつもりだったのだが、

 

「フリーメイソン博物館にブライスロード36番地……って魔術ゆかりの場所ばっかりじゃないですか。とても彼女を連れてく場所じゃないんですが」

「今は堂々とロンドン市街を歩ける身分だからな。おまえも付き合え」

「じゃあこの二つだけで。後は私のエスコートに従ってもらうんで。私の注文忘れてたんですか」

「オカルトは映えまくるだろ」

「アングラでいてこそなのに!?」

 

 そんなこんなで、そういうことになった。

 まずはオカルトの聖地を巡っている途中。バスの車内で、立香は出し抜けに発言する。

 

「この前、旅行資金引き出すために口座見たんですけど、残高の桁がとんでもないことになってたんですよね。人理修復で一生分のガチャ資金稼いじゃったかもしれません」

「俺たちの苦労からすれば端金だがな。……そもそも、何のゲームやってんだおまえ」

「最近は『あやかせ! あやかしアイドルアイランド』ですね。新キャラのバックベアードちゃんが、全ての幼女妖怪アイドルに特攻を持つぶっ壊れで─────」

「そいつが効果抜群なのは幼女妖怪使ってるプレイヤーの方だろ」

 

 流石は国連と言ったところか、破格の報酬が振り込まれていた。口止め料には高すぎる気もするが、お金で黙らせられるなら安いという考えなのだろう。

 なお、『あやかせ! あやかしアイドルアイランド』では姑獲鳥のスキルで相手に幼女属性を付与し、バックベアードで叩き潰す戦法が流行している。そのため、幼女妖怪アイドル愛好家たちの不満が爆発。SNSにて公式アカウントがバックベアードの某ネットミーム画像で煽り返す騒動が勃発し、現在炎上中となっている。

 金銭という点においてもタガが外れている二人が向かったのは、ロンドンの中心部。コヴェントガーデンというショッピングエリアだった。

 バルーンなどで華やかに装飾された、吹き抜け式の商店街。古風で情緒豊かな街並みから人気を博す観光スポットだ。

 

「写真撮りましょう写真! ノアはタッパがデカすぎるんで、自撮り棒だと風景が入らないですよね。ちょっとあそこの人に頼んできます!」

「いや、スマホ用の三脚使えよ」

「そこの華やかな衣装が素敵なお姉さん! 写真お願いしてもいいですか!」

「対人距離ショートカットしてんのか?」

 

 ノアが言えたことではなかった。立香が凄まじい勢いで迫ると、メルヘンチックな服装のお姉さんはぎょっとして振り向く。

 膝にまで届く、ローズピンクのふわふわとした長髪。これまた近い色合いの鮮やかなドレスを着込んでおり、高い身長も相まってその姿は人混みで異彩を放っていた。真紅の瞳は大きく見開かれ、驚いた目つきで立香とノアを眺めている。

 彼女は頭部を彩るヘッドドレスを指先で直しつつ、呆れた声音で口を開いた。

 

「あ゙〜……あたくしに目をつけたのは慧眼ですわ。街中で話しかけてくるようなのはナンパ野郎くらいなものでしたけれど、お写真ならドンと来やがれでございます」

 

 語調とは裏腹に、豊満な胸部を自信有りげに突き出す女性。

 何かを履き違えているお嬢様口調だが、カルデアには何もかもを履き違えているお嬢様口調のリースがいるので立香は気にしなかった。

 

「お姉さん綺麗ですもんね。この服どこで買ったんですか?」

「アタマからケツまであたくしの手作りですの。アナタこそその髪留め、一点モノでございましょう? よく似合っていますわ」

「ふふん、どうもありがとうございます! こっちの私の彼氏が作ってくれたんですよ! vガンダムの代わりに!」

「おう、見た目にそぐわぬクレイジーガールですわね?」

 

 ドレスの女性もこういった手合いには慣れているのか、さらりと立香の狂言を流しつつ、スマートフォンを受け取る。

 彼女はカメラを二人に向ける。満面に笑みを広げる立香とは対照的に、ノアは全ての感情が消え失せた仏頂面をしていた。

 

「んじゃ撮りますわよ〜。そこの彼氏はもっとにこやかになりやがれですわ。表情筋死んでやがりますの?」

「うるせえメルヘン女。アクシズぶつけんぞ」

「その発言、伊達じゃないガンダムで叩き返しますわ。文句つける暇があるなら、その情けないモビルスーツみたいな顔面をどうにかしてくださいませ」

「黙れ俺の顔面はサイコフレーム搭載済みだ」

「いいから早く撮りません?」

 

 ノアの腕を両腕で拘束する立香。二人の様子を見て、ドレスの女性は微かに口角を上げる。

 

「はい。おチーズ様、でございますわ」

「おまえの世界の言語どうなってんだ?」

 

 かしゃり、とシャッターが切られる。

 二、三度ほど構図を変えて写真を撮り終えて、彼女は立香に端末を渡した。

 立香は写真を確認して、感嘆の声をあげる。

 

「すごい良い感じに撮れてますね! ありがとうございます! もしかして本業ですか?」

「いえ、とあるクソ……クソインフルエンサーのマネージャーをさせられているものでして。無駄に写真を盛る技術が身につきましたの」

「言い直す必要ありました?」

「つーか見た目的におまえが撮られる側だろ」

 

 ドレスの女性はニヤリと口角を上げ、

 

「あら、殊勝なことも言えるんですのね? てっきり、きったねえ罵倒語しかほざけないのかと思ってましたわ」

「は? 勘違いすんな。珍獣って意味で目を引くだけだ。おまえこそそのエセお嬢様口調をどうにかしろ。心のチンピラが隠せてねえぞ。ラーの鏡で正体暴いてやろうか」

「むしろノアが暴かれる方ですけどね」

「おい」

 

 背後から奇襲をくらい、ノアの矛先が立香に向きかけたところで。ドレスの女性はため息をつき、その場を後にしようとする。

 

「犬も食わないやり取りに付き合う気はないので、あたくしはこれで。精々イギリスを楽しむといいですわ」

「うちのアホがすみませんでした。あ、せっかくですし名前を訊いてもいいですか? 私は藤丸立香です」

 

 彼女は首肯し、

 

「───()()()、と申しますわ。また逢えるといいですわね? 藤丸立香さん」

 

 ローズピンクの背中が街の往来に溶け込んでいく。明らかに浮いた色合いだというのに、絵の具を水に落とすように。ノアは眉根を寄せて、その影が見えなくなるまで睨み続けた。

 立香はむっと唇をとがらせる。

 

「……同じ名前でしたね? ノアの初恋の人と」

「あの名前のやつは変人しかいねえのか? 余計な会話で腹が減った。どっか店入るぞ」

「フィッシュアンドチップスの味を掻き消したいんでカレーでいいですか? なんかコ○イチがあるみたいで……」

「マジかよ最高じゃねえか。とっとと行くぞ」

 

 遠方まで来たにも関わらず、入るのは馴染みのあるお店という、無軌道な旅行にありがちな展開だった。

 そして、彼らはロンドンを隅々まで巡り尽くし、夜も更けてきた頃。いっぱいの荷物を抱えて、ロンドン郊外に居を構える喫茶店を訪れた。

 かつてノアがロンドンでの生活を過ごした場所。家主であるアリスは己が死期を悟っていたのだろう、遺言状に所有権をノアへ移譲することを書き残していた。

 店内はここを発った時とさほど変わらない様相を保っていた。幾度となく歓談を交わした机の上には、数枚の手紙が置かれている。

 どうやら、常連客たちが暇を見つけては店内を清掃していたらしい。同時に、周辺住民の溜まり場と化していたようだが、使われない家はすぐに劣化する。アリスも本望だろう。

 立香はきょろきょろと室内を見回して、

 

「落ち着いた雰囲気……あ、そうだ、WiFiのパスワード教えてください。私WiFiないと生きていけないんで」

「この現代っ子が───!!」

 

 荷物を部屋に置き、WiFiのパスワードを聞き出して。アリス直伝のレシピによるビーフシチューを喰らいながら、明日の算段を立てる。

 

「明日は大英博物館でお話するみたいですけど、物騒なことにはなりませんよね?」

「ねえな。仮に俺たちが喧嘩売ったとしても〝カルデア潰す〟の一言で終わりだ。あいつらにとっちゃ箱だけ残して人員入れ替えりゃ済む話だからな」

「……魔術師の人たちって、人口少ないのに人材はどんぶり勘定ですよね」

「だから封印指定なんてものがある。逆に言えば、カルデアをそういう処分にできるやつが出てくる可能性が高い。最低でも法政科────ロードが顔を出すことも有り得る」

 

 時計塔には現在、法政科を除いて十二の学科が存在する。大雑把に言えばロードとはそれぞれの学科を統括する長であり、狭義の意味においては時計塔を掌握する貴族たちを指す。

 どちらの意味にせよ、彼らは生き馬の目を抜く曲者揃い。魔術の研究の片手間に熾烈な政争を繰り広げる妖物だ。

 そこまで聞いて、立香は呑気に首を傾げる。

 

「…………貴族の人たちにさっき買ったお土産のチョコとかあげても怒られません? 住む世界が違いすぎてなかなか想像がつかないです」

 

 藤丸立香は日本の一般市民である。一口に貴族と言われても、浮かんでくるイメージは限りなくふわふわしていた。ちなみに彼女が本当に一般的なのかという疑問は一切受け付けない。

 

「おいおい、おまえがいつも話してるペレアスとダンテも貴族だぞ。つまりはアホだ」

「偏見が過ぎません!? 貴族がアホなんじゃなくて、アホな貴族があの二人じゃないですか!!」

「要は堂々としてりゃいいんだよ。ロードだろうが何だろうが俺より格下なのは間違いねえからな」

「それについてはノーコメントで。ノアはロード・エルメロイⅡ世っていう人と知り合いなんでしたっけ。その人が来るんじゃないですか?」

 

 ロード・エルメロイⅡ世。時計塔における最も新しい学科、現代魔術科の講師。どういう訳か、第二特異点では三国志の名軍師諸葛孔明の依代となっていた苦労人だ。

 ノアは馬鹿にするような笑みで、

 

「ハッ、あのお飾りロードがか? 断言してやるよ、絶対にありえない。現代魔術科が出てくる幕じゃねえ」

 

 で。

 翌日、大英博物館中央部、図書閲覧室。19世紀以来の歴史を持つ世界最大級の図書館。日々多くの人々が訪れるこの場所は今、ただひとつの会談のために貸し切られていた。

 

「……ロード・エルメロイⅡ世だ。初めまして、レディ藤丸。君の来客を歓迎する」

「第三者の意図を感じるフラグ回収の早さ────!!!」

 

 第二特異点の記憶と寸分違わぬロード・エルメロイⅡ世が、立香とノアを待ち受けていた。彼の横にはフードの少女。立香は彼女の容貌にどこか既視感を覚える。

 立香がそれを記憶から引きずり出す前に、エルメロイⅡ世とノアは激しく視線を衝突させた。

 

「───お前がこの国を発った翌日、私の部屋にロンドン中のゴキブリが押し寄せてきたのだが。心当たりはないか」

「そりゃ災難だったな。普段の行いが祟ったか? 旅立つ若者に交通費もやらない狭量さが招いた自業自得だろ」

「よくもそこまで開き直れるな!? もう調べはついている! なぜなら共謀者のフラットとカリスがお前の仕業と吐いたからな! このように!!」

「がああああああああ!!!」

 

 エルメロイⅡ世は身を乗り出し、ノアの顔面にアイアンクローをかける。

 凄惨なプロレス現場を横目に、立香はお土産のチョコとティーケーキを少女に差し出した。

 

「えっと、つまらないものですがどうぞ」

「……ご丁寧にありがとうございます。拙のことはグレイと。まかり間違っても宇宙人の方ではありませんのでご注意ください」

「ロビン・フッドさんが一緒に銀河を旅した宇宙人の似顔絵とは似ても似つかないので安心してください! むしろ、宇宙人というよりは騎士王に似て……」

 

 と言って、立香がグレイのフードを覗いた瞬間、

 

「ブォエアアッ」

「ええ!!?!?」

 

 彼女は盛大に鮮血を吐き出した。

 すると、グレイの外套の内側からもぞりとキューブ状の物体が顔を出す。

 

「やっちまったな嬢ちゃん。それは地雷を踏み抜いたってヤツだ。騎士王とグレイにはちょっとした関わりがあってな」

「そ、そうだったんですか。ごめんなさい。私が会った王様は黒いのと黒くておっきいのとおっきいのだったんですけど」

「…………どんだけ増殖してんだ? 同じ顔が三人いるとかのレベルじゃねえぞ」

「そうですね。ペレアスさんもたまに思い返して宇宙猫になってるくらいですし」

 

 顔を出す、とは言ったが、実際その箱には顔があった。硬質な見た目の反面、その表情は豊かに変わっている。

 ペレアス。Eチームの縁の下を地味に支える地味な騎士の名前を聞いて、箱は何だか微妙な顔をした。

 エルメロイⅡ世とノアの攻防が終結する。ノアは頭の形を変形させられ、ぐったりと背もたれに寄りかかっていた。

 

「……まずは雑事を済ませておこう。今回の功績を鑑みて、協会より階位が贈られることになった。一応───念のために訊いておくが、希望はあるか」

「そもそも階位ってなんですか?」

 

 立香の問いに、エルメロイⅡ世は以下のようなことを語る。

 階位とは魔術師の功績を評価して贈られる称号。その数は七つ。下から末子、長氏、開位、祭位、典位、色位、冠位。最高位の冠位に至っては一国に匹敵すると言われる魔術師であり、ロードたちでさえ色位がほとんどの高い壁があるのだ。

 立香とノアは息を合わせるまでもなく、同時に言った。

 

「「じゃあ、冠位で」」

「ふざけろ!!!!」

 

 予測可能回避不可能な答えだった。ノアはまたもやアイアンクローを実行しかねないエルメロイⅡ世に対して、ニタニタと告げる。

 

「ああん? 何だその言い草は。誰が世界救ってやったと思ってんだ。冠位くらいポンと渡せよ。ロードのくせに性根が卑しいぞ」

「お前に! だけは!! 言われたくはない!!!」

「ま、まあ、お二人に贈られるのは開位と決まっていますが。師匠にそんな権限はないので」

「貰えるものは貰っておきますけど……エルメロイⅡ世さんはロードっていうくらいだから色位なんですか?」

 

 グレイはぶんぶんと頭を横に振った。

 

「いえ、師匠は祭位です。それも生徒を育てた実績を評価されたものなので、本人の実力はギリギリ開位です」

「なるほど、じゃあ俺は開位でいい。今はそこに甘んじてやるよ」

「え、ノアらしくないですね。悪いものでも食べました?」

「アホか立香。よく考えろ」

 

 ノアはエルメロイⅡ世にメンチを切って、

 

「超天才カルデア最強マスターの俺と、お情け祭位で開位級の実力のロード……分かるか? これは時計塔の評価基準の歪みを糾すと同時に、こいつが如何に中身スッカスカで権威主義の俗物なのかを物語っているんだよ!!!!」

「おいグレイ!! 今すぐこいつにロンゴミニアドを撃て!! 私が許す!!!」

「神体化を使うまでもなく、粒子魔術で反射されるか北欧神話の投影宝具で防がれるのがオチだと思いますが……」

「とにかく大英博物館が焦土と化すのは目に見えてますね」

 

 そこで、不意に声が響く。

 

「確かに、そこの坊やの言うことは急所を突いてる。時計塔は権威主義の巣窟───実力と実績を正当に評価することで成り立っている。ヒトはモノを判断する時、必ず何らかの権威を参照するが、オレたちにとってのそれは魔術の腕前と産物だ」

 

 ヒトのカタチを取る色砂の彫像。その表面は常に流動し、音声を発する度に輪郭が茫洋と変形していた。

 明らかに尋常ならざる、立体の砂絵。困惑する立香とノアの対面で、エルメロイⅡ世とグレイの二人が顔色を青褪めさせている。

 

「───ロード・バリュエレータ……!?」

「そこの坊やは黒妖精(ドヴェルグ)の末裔で二千年続く家系の出身者。血統、才能、功績。貴族主義連中からすれば、三拍子揃ってやがる垂涎モノの存在だ」

 

 貴族主義。その名の通り、魔術師の血統を重視する勢力。アニムスフィアの天体科、エルメロイⅡ世の現代魔術科もこれに属している。

 だが、砂絵の操り手……ロード・バリュエレータはそれに反立する民主主義派閥だ。

 そんな彼女が、ここにいる。さしものエルメロイⅡ世もその意図を察しかねて、バリュエレータの一挙一動が成す成り行きを眺めることしかできなかった。

 砂絵はノアを指して言う。

 

「ノアトゥール坊や。冠位が欲しいかね?」

「貰っておくのも悪くはねえ。少なくとも、称号の上ではソロモン王(グランドキャスター)と同列になれるからな」

「良いねえ。嫌いじゃないぜ、そういう青臭い熱情。じゃあ坊やは色位な。冠位に昇るにはまだまだ功績が足りんよ」

 

 からかうような口調。ノアは不機嫌に舌打ちして、砂絵を睨む。

 

「とっとと本題に入れ。仮にもロードが二人もいやがる。階位如きの話で終わるつもりはねえはずだ」

 

 エルメロイⅡ世は観念して、

 

「……先日、アメリカのスノーフィールド市で、魔術協会の関与しない大規模な交戦が起きた。これは、その後に市内にバラまかれた文書だ」

 

 懐から一枚の紙を取り出し、ノアに手渡す。

 ノアと立香は紙面に書かれた文章を覗き込む。そこには、丁寧にもあらゆる言語で同じ意味の言葉が綴られていた。

 

「〝我は秘密の首領。薔薇十字の復活を宣言する。世界の普遍的改革のため、魔術の徒は己が知識と存在を開示せよ〟───〝P.S.パラケルススくん死んだってほんと? 時計塔が殺したとかじゃないよね? あと誰か牛乳買ってきて〟…………ですって」

「何がP.S.だ!! 宣言書を書き置き代わりにしてんじゃねえよ!! あとパラケルススなら俺が殺した!!」

「お前が戦ったのはサーヴァントの方だろう。……実は、これと同じものが世界中の都市に撒かれている。日本では謎のゴスロリ美少女がコミケで頒布していたとか…………」

「もっとも、誰も顔は覚えていないし写真もなかったそうですが。果てしなく手の込んだイタズラとして、表の世界では大騒ぎになっています」

 

 頭を抱えるエルメロイⅡ世の横で、グレイは苦々しい面持ちになった。表の世界の人間にはただのニュースだが、その反対側に属する者にとっては頭の痛い問題だ。

 魔術協会に気取られることなく宣言書をばら撒き、しかも時計塔の存在を露呈させるかのような部分まである。それだけでも大事だが───────

 

「───薔薇十字……そういえば、アト・エンナさんがそんなこと言ってませんでした?」

「〝薔薇十字の系譜を辿れ〟。第七特異点における、アト・エンナの発言はこちらでも確認している。つまり、これもシモン・マグス同様人理焼却に端を発する…………いや、それ以前からの事件かもしれない」

「師匠。薔薇十字とは一体?」

「…………これは補習が必要だな。薔薇十字団は現代魔術科の必修科目だぞ」

 

 薔薇十字団。15世紀に設立されたとされる秘密結社。17世紀には神聖ローマ帝国、現代のドイツはカッセルに当たる地域で宣言書が流布され、その名を知らしめた。

 宣言書の内容は〝人類を苦しみから救う組織と人物の存在〟と、〝知識層がひた隠す秘密の知識の公開を訴える〟ものだったという。

 この謎の組織は後世の神秘主義に多大な影響を与え、近代神智学・近代魔術の思想の基盤となった。そしてそれは、時計塔にも大きな改革をもたらしたのである。

 

「現代魔術科は17世紀、在り方を疑問視され学科から転落した法政科に代わり、18世紀に設立された部門だ。その発端はカリオストロ伯爵の活動や、産業革命下のオカルトブームが原因でもある」

 

 ノアはエルメロイⅡ世のうんちく話を乗っ取って、

 

「カリオストロ伯爵は薔薇十字団の団員だったなんて話がある。ついでにサンジェルマン伯爵もな。現代魔術科設立の遠因は薔薇十字団にある……そういうことだろ? 開位、あっ間違えた、祭位のロード(笑)」

「黙れ人格破綻者。カルデアには、この薔薇十字団に関する事件を解決してもらいたい。現代魔術科の私がここにいるのはその意味もある」

「私たちだけでですか? マシュたちがいれば魔術師くらいイチコロですよ?」

「サーヴァントはそうそう表に出せないので……代わりと言っては何ですが、現代魔術科も協力します」

 

 そこで、ロード・バリュエレータの砂絵はiPh○neの液晶画面を四人に向けて言った。

 

「呼び出していきなりで悪いが、どうやら早速仕事みたいだ」

 

 そこには、とある配信サイトの生放送が映し出されていた。

 ───大英博物館周辺。カムデン区ブルームズベリー、ラッセル・スクエア。ロンドンで二番目に広い風靡な公園は、大観衆で埋め尽くされている。

 自撮り棒で中継された画面は観衆たちをぐるりと映すと、その持ち手を画角に収めた。

 

「『───よう! 見てるかオレの愛しき市民(キヴィス)ども!! 来られなかったヤツらはオレの顔見て元気出せ〜?』」

 

 その配信者は『めちゃかわ皇帝(カイザー)ソル子くん』。彼はあざとく笑って、巧みにカメラの角度を操っている。

 画面の端にはローズピンクのメルヘンチックな女性が小さく映っている。彼女の表情は一切の無であり、諦観で彩られていた。

 ソル子くんは彼女の隣にくっついて、おちょくるような仕草をする。

 

「『マネージャーがそんな暗い顔してどうした? あ〜ん? せっかくカワイイんだから笑ってないともったいないぜ。更年期か?』」

「『はー、マジで死なねえかなこいつ、ですわぁ〜。シバき倒されてえんですの?』」

「『え、マジで? ご褒美じゃん。ケツ出すからちょっと待ってくんない?』」

「『おい運営!! 今ですわよ! このクソド変態をBANしやがれくださいませぇ〜〜っっ!!!』」

 

 メルヘンチックな女性───アンナの鬼気迫った表情が画面を独占する。が、むなしくもその訴えは運営に届かなかった。

 ソル子くんはアンナを押し退け、自身と観衆たちをカメラに入れる。

 

「『ところで、お前らは世界中で配られてるっつう薔薇十字のビラ知ってるか? 魔術の徒って冗談みてえな話だが……今回はウチのマネージャーが真相を掴んだらしくてな。みんなで確かめようって話だ!!』」

 

 彼は画面の向こう側にばちくりと星が飛ぶような目配せをキメた。

 

「『今日の配信タイトルは〝大英博物館の謎を暴け! 地下に巣食うオカルティストの真実とは!?〟───さあ、行くぜ!! 見てろよオレのカワイイ市民ども!!』」

 

 ノアとエルメロイⅡ世はしばし沈黙し、大きく目を見開く。

 

「「……………………はぁ!!?!?」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寄せては返す波の音に誘われて、意識が緩く引き戻される。

 ざり、と手をつく地面の感触は柔らかい。手のひらにいくつもの細かい砂が付着し、曖昧な思考のままにそれをはたき落とした。

 立ち上がり、辺りを見渡す。

 そこは海辺の砂浜。濃い霧に太陽光が遮られ、ひんやりとした空気が肺に満たされる。自家用機が砂浜に体を横たえ、そこかしこに従者たちが転がっていた。

 彼女らの安否を確認すべく、駆け寄ろうとしたところで、ふと音が聞こえる。

 それはまるで、朗々と響く歌声のような音。ただし人間の音声によるものではなく、鈴を鳴らしているような、金管楽器を吹いているような音色だった。

 

(まるで、この土地そのものが歌っているような───────)

 

 ゴルドルフ・ムジーク。彼は靄がかった思考をする頭を擦り、深く息を吸い、そして吐く。自己の管理は魔術師の基本だ。たったそれだけで、彼は清涼な思考を取り戻す。

 

「安心するといい。みな眠っているだけだ。傷ひとつついてはいない」

 

 不意に背中を刺す声。直前まで気配さえ悟らせなかったことに戦慄しつつ、ゴルドルフは振り返った。

 そこにいたのは、片手に牛乳パックを握った少女────というより、幼女だった。薄い紫色を帯びた白い長髪は白浪の如く波打ち、各所に薔薇の意匠をあしらったゴスロリ衣装を身に纏っている。

 さらには、薔薇の花弁をそのまま摘み取ったかのような眼帯。右眼をそれで覆い、対となる蒼い左の瞳がゴルドルフを愉しげに眺めていた。

 

「今、彼女らを目覚めさせよう」

 

 薔薇の幼女が指を弾く。

 その動作だけで眠りこけていたホムンクルスたちは覚醒し、ゆっくりと体を起こし始めた。

 ゴルドルフは拳を堅く握りしめ、幼女を見据える。

 

「君は、誰だ?」

「うむ、よくぞ訊いてくれた。自慢するほどの名ではないが、貴殿らに知ってもらいたいと思っていたんだ」

 

 幼女は、島中に響くような大声で叫ぶ。

 

「───我こそは『秘密の首領(The Secret Chief)』、()()()()()()()()()()()()()()!!! 貴殿らの到着を全霊で歓迎するぞ! 是非我らで世界をともに救おうではないか!!」

 



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第86話 幻想綺譚『騎士・聖ジョージ』

「───我こそは『秘密の首領(The Secret Chief)』、クリスチャン・ローゼンクロイツ!!! 貴殿らの到着を全霊で歓迎するぞ! 是非我らで世界をともに救おうではないか!!」

 

 薔薇のゴスロリ幼女────クリスチャン・ローゼンクロイツは癪に障るほどの陽気な笑顔で声を張り上げた。その音量たるや、空気がびりびりと波打ち、辺りを覆う濃霧が一瞬晴れるほどであった。

 ゴルドルフの思考は暫時空白と化し、そのフリーズの後に急激に動き出す。

 ───クリスチャン・ローゼンクロイツ。中世ヨーロッパにおける神秘主義思想の代表的人物。そして、表の世界においてオカルト思想の組織的運動の源流となり、時には錬金術師パラケルススとも同一視される伝説上の人物である。

 何より、彼女……彼は魔術協会からすれば不倶戴天の敵だ。薔薇十字団は17世紀のドイツ、カッセルにて、錬金術・魔術を用いて人類の救済を目指すという内容の書物を刊行した。

 神秘とは隠秘。その機構を知られれば力を失う性質を持つ。それを操る魔術師たちにとって、薔薇十字団は神秘の存在を明かさんとする害敵なのだ。

 当時の時計塔を以ってしても、排除できなかった天敵。目の前にいるゴスロリ幼女こそが、その伝説のクリスチャン・ローゼンクロイツなのだと認識して。

 

「嘘をつけぇーっ!!!」

 

 ゴルドルフは負けじと声を張り上げて、幼女を指差した。

 

「ローゼンクロイツがお前のようなチンチクリンであるはずがなかろう!! しかも女性だと!? それはアレか、子孫がその名を受け継いでいるということか!?」

「いや、本人だぞ。性別に関しては諸事情あるのだ。まあ気にするな! 貴殿もEチームの旅路を見たなら、アーサー王やネロ帝、フランシス・ドレイクといった例があることは知っているだろう」

「ぐっ、地味に反論しづらいことを……!! だが、本人だとすると年齢に辻褄が合わん! 少なくとも400歳は越えているはずだ!!」

「うむ。とてもそのようには見えないだろうな。私もそう思う。しかし、400歳以上という推理は正しいが的外れだぞ」

 

 ごっ、とローゼンクロイツは牛乳パックの中身を飲み干す。その入れ物はまるで時間を早巻きしたかのように、見る見る間に崩壊し、手元には塵も残らない。

 

「───私は2000歳だ」

 

 ゴルドルフはぎょっと目を見開く。

 

「端数は面倒だから省いたが。ああ、と言っても敬意を払う必要はない。誰を敬うかはとてもデリケートな問題だからな」

 

 その声音に、嘘の色はない。人が他人を騙そうとする時の、あの嫌な気配。ゴルドルフが法政科にて幾度となく味わった欺瞞と虚飾の嗅覚は、ローゼンクロイツの前には一切が機能しなかった。

 暗示の魔術でも掛けられているかのような感覚。けれど、ゴルドルフは冷静に思考を働かせた。猜疑心という感情が動いていないのなら、感情を挟む余地のない冷徹な論理に身を任せるしかない。

 

「そこまでの長命、真っ当な手段で得られるモノではあるまい。魂を腐らせず、性別すら変える形式となると─────」

「───転生、かな? 発想としては良いが不正解だ。タランテラ……ロアくんの方式は秀逸だったが、アレは魂というアプローチに偏っている。案の定巌窟王の炎に焼かれかけたことだしな。いや、アレは危なかった」

 

 まあ、とローゼンクロイツは言葉を区切る。

 

「質問タイムはここまでにしよう。どうだ、私たちと手を組んで世界を」

「断る!!! 自分で世界をどうこうしようという魔術師はな、大抵イカれているか大いにイカれているかの二択だ!! そうでなくとも、いきなり私たちを拉致した相手に手など貸せるかァーッ!!」

「うむ! まさしく正論だな! ではどうする!?」

「無論、我が鉄拳で秒殺KOを決めるまでだ!!」

 

 そして、砂浜が盛大に爆ぜた。

 ゴルドルフ・ムジークの鉄拳とは決して比喩ではない。錬金術の大家たるムジーク家相伝の魔術『変成鉄腕』。肉体を金属に変質させるこの魔術により、彼の拳は文字通りの鉄拳と化す。

 全身に張り巡らせた強化魔術によるパワーとスピード、そしてヘヴィ級の体重を乗せたゴッフパンチは至近距離から砲弾を叩き込まれるに等しい。

 見た目だけとはいえ、年端もいかぬ子どもに全力の拳を見舞う後ろめたさはあった。が、相手は伝説の魔術師。その躊躇を拳へ乗せる気は微塵もなかった。

 周囲に拡散する衝撃波。ローゼンクロイツは不死鳥ゴッフ全力の右ストレートを顔面で受け止めながらも、微動だにしていなかった。

 

「錬金術としては実にオーソドックス。故に良い魔術だ! シンプルであるが故に汎用性が高く、金属という点も発展性がある!」

 

 すかさず、ゴルドルフは第二撃を打ち込んだ。

 顎をすくい上げるような軌道の一撃。常人が受ければ花火の如く頭部が宙へすっ飛ぶ破壊力を伴った拳はしかし、ローゼンクロイツの華奢な輪郭を歪めることさえできなかった。

 

「だがしかし!! 錬金術とは必ずしも物質のみに作用する業ではない! ミクロコスモスとマクロコスモスの照応を通じ、魂さえも高次の段階に昇華させる───錬金術の極北とは己が理想の現実化であると私は断言しよう!!」

「その手の持論は時計塔で聞き飽きた!! 物質主義と罵りたいならそうするがいい!」

 

 ローゼンクロイツは小指を鼻の穴に突っ込んで、

 

「いや、別にそんなことはないが……? 物質も精神も重んじてこその錬金術師だろう」

「鼻をほじりながら正論を言うな!!」

 

 渾身のアッパーが鳩尾を捉える。

 その時、拳にびきりと痛みが走った。

 鋼鉄化した右手の表面がひび割れ、血が滲んでいる。鉄腕の魔術は肉と骨をその機能を保ったままに金属化させるが、血液は別だ。全身を巡る血流に液体金属が混ざってしまった場合、自滅は避けられない。

 ゴルドルフは痛感する。自分が今、どんな存在を相手取っているのかを。

 自身の攻撃はローゼンクロイツに何ら痛痒を与えられていない。そして、ローゼンクロイツはここまでに一度も魔術を使っていない。

 つまり、彼の五体は砲弾を打ち込まれる程度では傷つきもしない強度を誇っている。しかし、単純に硬度が高いといった話ではない。触れた際の感触は柔らかく、人の体のそれと遜色なかった。

 高いと言うのならば、それはおそらく存在そのもの。魂から肉体に至るまで全てが、ゴルドルフの埒外にある。

 そうして、彼は思った。

 

(えっ、そんなことある?)

 

 何よりも割れたのは、魔術師としての自負だった。

 ローゼンクロイツは微塵も動いていない。殺意も戦意も抱いていない。そんな相手を一方的に殴りつけているのにも関わらず、先に音を上げる始末。

 なんという無様。

 なんという失態。

 とうに、心は敗北を認めて─────

 

「───揺らぐなっ! 魔術の真髄とは己が精神を以って全てを変革する業である! イメージするのはいつだって最強の自分だ!!」

 

 ────やってみろ、とローゼンクロイツは言外に示した。

 そこで顔を覗かせたのは、ゴルドルフ持ち前の負けず嫌いと窮地の発想。

 己がイメージを以って世界を変革する。それは確かに魔術の真髄だが、そこに辿り着いていると自惚れるほどゴルドルフは驕っていない。

 魔術師のほとんどは時計塔に入学した時、自身の無力と無才を痛感する。重要なのはそこから如何に自己の魔術を確立するか。

 金属化は体内の血液に使うことはできない。ならば体外。流れ出た血を固め、薄く鋭い刃と成す。

 ざん、とローゼンクロイツの体躯を袈裟に斬りつける。

 左の肩口から右の腰を抜ける斬撃。ばさりという音とともに裂かれた服が落ちる。結果、現れるのはローゼンクロイツの傷ひとつない肢体。

 ローゼンクロイツは今までつらつらと持論を述べていたものの、意表を突かれたみたいに目を見開く。彼は布の破片だけを裸体に纏い、ぽろぽろと涙をこぼした。

 ゴルドルフ・ムジークは自他ともに認める紳士である。不可抗力とはいえ自身が裸に剥いたことには変わらない。彼は両目を手で覆いつつ、

 

「……あの、その、なんかすまなかった」

「何を謝るか。私は今、とても感動しているのだぞ。若人が成長する瞬間は何にも代え難い愉悦を与えてくれる」

「まるで教師のような言い分だ。たかが2000年程度の重みで私の上に立てるなどと思うな!」

 

 ゴルドルフはまとわりつく何かを振り払うように叫んでいた。

 ローゼンクロイツの恐ろしさは常軌を逸した肉体の強度でも、永き時を生きた知識でもない。彼が真に図抜けているのは人間を識るその観察眼だ。

 一目でゴルドルフの動揺を見抜き、魔術の発展性に気付かせ、成長させた。目を覚ましてからの短時間で、成長するように誘導された。それはゴルドルフの人柄も能力も把握しなくてはできぬ芸当だろう。

 怖いくらいに理解されている。

 そして、自分は奴のことを何ひとつとして理解していない。

 ゴルドルフが振り払おうとした何かは、その恐怖心であった。

 

「やはり貴殿は良い眼をしている。ドミティアヌス帝の時は私も多くの弟子を取ったものだ」

 

 昔を懐かしむように、こくこくと頷くローゼンクロイツ。彼は無造作に指を弾くと、墨を垂らしたみたいに中空が黒く染まる。

 

「では、たった2000年ながらも魔術の先達として教授を行おう」

 

 黒を構成するのは影の文字。アルファベットによって塗り潰された、闇の泥濘。それは人智の及ばぬ虚数空間。その向こう側から、メイド姿の少女が飛び出した。なぜか手にストップウォッチを携えて。

 メリア───ゴルドルフがその名を呼ぶより早く、ローゼンクロイツが言葉を発する。

 

「魔術……神秘とは時間を重ねるほどに強くなる。詠唱もまた同じ。これは言わば、2000年前より今もなお詠唱されている魔術である」

 

 その時、ゴルドルフは初めてローゼンクロイツの裡に魔力の胎動を認めた。 

 だが、それは青空しか知らなかった人間が、生まれて初めて雨模様を目にするようなもの。

 魔力はとうに律動していた。

 彼はそれを認識できていなかっただけ。

 大気のマナさえも従える、魔力の奔流。凪いだ大海に渦が巻くように、ゴルドルフはその律動をもってようやく敵の強大さを思い知る。

 メリアはストップウォッチを向けて告げた。

 

「一秒。意識を保つことができたら、みなさんを解放いたします。あとお父様と花京院の魂も賭けます」

「待てメリア、そういう言動をされると怒ればいいのか笑えばいいのかわからん!!」

「目覚めに良い紅茶を淹れておきますね」

「気絶する前提────!!!」

 

 ローゼンクロイツは蒼き左眼を大きく見開き、啖呵を切る。

 

「ではいくぞ! 我がマクロコスモスの現れを刮目せよ!」

「不死鳥ゴッフを舐めうぶろおぼろおぁぁっ」

 

 ───それと同時。ゴルドルフはきりもみ回転しながら天高く飛び上がった。

 

(…………は?)

 

 心が困惑という名の激流に浚われる。

 全身の各所に杭を打つように衝撃が叩き込まれた。しかも、どれもが寸分の一秒の狂いもなく全く同時に。苦痛を伴わず、意識だけを刈り取る拳撃───と思しき攻撃。かろうじてこれが拳撃であると推測できたのは、視界の端で右拳を掲げるローゼンクロイツを見たが故であった。

 それが、ゴルドルフがなけなしの意識で辿り着いた全て。

 ローゼンクロイツは伸びをして、

 

「さて、我が愛娘よ。何秒だ?」

 

 メイド少女はストップウォッチの電子文字に一瞥すらくれずに、懐に仕舞い込んだ。

 

「0秒ですね。スイッチを押し切る直前に吹っ飛んでいらっしゃったので」

「む、そうか。彼が起きたらお茶にするとしよう。準備を頼めるか」

「かしこまりました。……ところで、こんな呑気にしていて良いのでしょうか。せっかく苦労して宣言書をばらまいたのですが」

「ああ、構わぬ。いざとなれば千里眼で世界線を調律するまでだ」

 

 そして、とローゼンクロイツは呟く。

 

「───誰が勝とうが負けようが、世界の変革は決定している」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『今日の配信タイトルは〝大英博物館の謎を暴け! 地下に巣食うオカルティストの真実とは!?〟───さあ、行くぜ!! 見てろよオレのカワイイ市民ども!!』」 

 

 ロンドン。大英博物館周辺、ラッセル・スクエア。己がファンの集う大観衆に向けて、現在絶賛売り出し中のインフルエンサー『めちゃかわ皇帝ソル子くん』は微笑みかけた。

 時に、相応の風格を纏う人物は何気ない仕草だけでも人心を支配する。

 彼の笑みはまさにその類であった。観衆の表情が呆けたみたいに蕩けると、一瞬で熱狂的な色を帯びた。

 

「「「「「ホッ、ホアッ、ホアアーーッッ!!!」」」」」

「おいおい、初めてサカった猿みたいに吠えやがって! お前らオレのこと好きすぎかぁ〜!?」

「……発情期のお猿さんの方がまだ可愛らしいですが。忌憚のない意見ってやつですわ」

「あぁん? そりゃどういう了見だアンナ? これが人間のありのままだろ。見ろよ、取り繕わない欲のカタチが輝いてるようじゃねぇか」

「おー、バチクソきったねえ色に光ってやがりますわ」

 

 アンナは爪をいじくりながら言った。その視線は微塵も観衆に向けられていない。目の前の現実から逃げ込むため、無意識に視野を狭めさせたのである。

 

「イライラは美容に悪いぜ? ほら、カーネルのおっさんなんか炎天下でも氷点下でも店頭でニコニコしてんだろ。肌テッカテカだろ。アレこそ美容の権化だろ」

「ありゃあ鶏の油でギトギトになってるだけでしょうが。むしろ不健康の権化ですわ。フライドポテトをサラダと思ってる人種に違いねえですわ」

「いや、フライドポテトはサラダだろ。ベジタリアンのくせに仲間外れにしてやんなよ」

「猫科だからといってイエネコとライオンを同じジャンルに加えろとでも?」

「その喩え微妙に分かりづらくね?」

 

 二人の背後には豪華な装飾が施されたライブカーが停まっていた。ロンドンの歴史的な風情にハチミツをブチまけるがごとき色合いだった。

 ソル子くんは車に飛び乗り、エンジンの重低音を響かせる。

 

「よーっしお前ら乗れ、早い者勝ちだ!! はぐれたやつもオレのケツ目掛けてついてこいよ!!」

 

 そして、メルヘンライブカーは狂奔するファンを載せて爆走した。

 ……といった動画配信の一部始終を、大英博物館の立香たちはマネキンのような面持ちで視聴していた。途中でロード・バリュエレータの砂絵が退席し、彼女らは残された携帯端末を囲んでいる。

 明らかに時計塔の魔術師たちを挑発した内容。それもインターネットという全世界に繋がる場所での発信。全世界の主要都市に撒かれた宣言書と彼らを結びつけるのは難しいことではなかった。

 神秘の存在の開示を要求する宣言書と、時計塔の本拠地をあろうことか配信しようとしている二人組。魔術の歴史でも類を見ない暴挙だ。

 ロード・エルメロイⅡ世は顔色をゾンビのように青褪めさせると、腹を抱えてうずくまる。

 

「ぐぅぉぉっ……!! 魔術師の総本山に一般人を連れて乗り込んでくるだと!? アホなのか奴らは!!」

「胃薬が必要なようです。錠剤と座薬と注射、どれがいいですか? 後ろから順番に早く効きますが」

「おしりに注射したらめちゃくちゃ早く効くんじゃないですか?」

「私の肛門を殺す気か!!!」

 

 エルメロイⅡ世はすっとぼけたことを本気で抜かす立香とグレイに哭声を飛ばした。同じく胃薬ユーザーであったロマンは草葉の陰で同情しているに違いない。

 電車内で直面する尿意のように、耐え難い胃痛をこらえるエルメロイⅡ世。立香は彼を尻目に、液晶画面に映し出された『めちゃかわ皇帝ソル子くん』を指差した。

 

「というか……こっちの人、たぶんサーヴァントですよ。早いところどうにかしないと」

「……レディ藤丸。なぜそう思った?」

「勘です!!」

「そ、そんな身も蓋もない……」

 

 グレイは堂々と言い切る立香を前に苦笑いした。平時のエルメロイ教室なら疾風迅雷の速度でバツを叩きつけられる回答である。

 しかし、師匠の返答は彼女が予想したものとは真逆だった。

 

「なるほど、ならば間違いないだろう」

「えっ」

 

 驚くほどあっさりと、エルメロイⅡ世は納得した。日頃から彼の教育を受けているグレイは信じられないものを見る目つきで固まる。

 エルメロイⅡ世はゆっくりと息を吐き出し、胃痛を鎮める。呼吸法と自己暗示の合わせ技。才能は及ばぬとはいえ、腐ってもロード。魔術師の基本は修めているのだ。

 

「勘と言えば聞こえは悪いが、それはその人間の経験を総合した直観的判断だ。現時点で最もサーヴァントと多く接した人類はEチームのマスターたちだ。そのまともな側……比較的まともな側がマスターとしての経験からそう言ったのなら、私に反駁の余地はない」

「あれ? なんだか褒められてる気がしないんですけど」

「と、とにかく、この特攻隊を抑えなければなりません。サーヴァントがいるとなると、今の戦力で抗しきれるか分かりませんから」

「その通りだ。人理修復の記録で時計塔の心胆を寒からしめたのは第四特異点───あの二の舞を演じる訳にはいかない」

 

 1888年、ロンドン。産業革命の真っ只中にある時代の時計塔は、マキリ・ゾォルケン、パラケルスス、チャールズ・バベッジによって壊滅させられていた。

 その事実は魔術師たちを震撼させた。最上位の使い魔たるサーヴァントの戦力をもってすれば、この塔は砂上の楼閣に等しいのだと。

 無論、第四特異点の時計塔とて組織の形を保てぬほどに瓦解した訳ではないが、星の臍たるブリテン島の勢力圏を失うことはそれにも劣らぬ悪夢だっただろう。

 そこで、エルメロイⅡ世は気付いた。

 

「…………────あのアホはどこだ?」

 

 今までの会話が全て違和感に変わる。

 思えば、こんな珍事を目の前にして、夏場のセミよりやかましいあの男が一言も発さないはずがない。ここまでするすると話が進むこと自体、本来はありえぬ異常事態だ。文字数の水増しという意味でも。

 ほんの数秒、沈黙が続いて。見えない手に導かれるように、三人の視線はスマートフォンの画面へと移動した。

 そこに映っていたのは、

 

 

 

 

 

「オイオイオイ、なんだこの地獄絵図は。おまえら揃いも揃ってムニエルみてえなナリしやがって。年々バージョン違いが増えてくスライムか? 群れをなしてキングスライムにでもなるつもりか? 配信者のケツ追いかけてる暇があんなら夢でも追いかけてろ」

 

 

 

 

 

 大英博物館の真正面で仁王立ちする、Eチームリーダーのアホ面だった。

 それはつまり、名前を言ってはいけないこの男の存在が全世界に流出するということであり。ソル子くんのファンたちは瞬間湯沸し器の如く、怒りのボルテージを加速させる。

 

「いきなり出てきてなんなんだねキミは!! 拙者らだけではなくムニエル氏もバカにしているだろう! 謝れ! 拙者らとムニエル氏に謝れ!!」

「少しばかり見た目が良い程度で我らがソル子くんの配信を乗っ取れるとでも思っているのか!! つーか夢追いかけてる暇があったらケツを追いかけるに決まってるだろうがァァァ!!!」

「あん? だからおまえらはその程度なんだよ。ウチのムニエルなんかなァ、推し活だかなんだかで金使いすぎて定期預金と生命保険解約する羽目になったんだぞ」

「ねえそれムニエル氏大丈夫なの? この現状よりムニエル氏の将来の方が心配になってきちゃったんだけど?」

 

 と、見知らぬ同類に対して同情を募らせるオタク軍団。世界が元に戻ったあの日から、ムニエルは灰色の日々を取り戻すかのように資金を浪費していたのである。アンナはアホどものやり取りを目の当たりにし、遠い目をして軽く舌打ちした。

 

「……テメェのファンロクなやついねぇじゃねぇですか。どうなってんですの」

「え? カワイくない?」

「可愛さとは真逆の位置にいらっしゃりやがりますが!?」

 

 人混みの中から、ひとりの男が歩み出る。

 チェック柄のシャツとバンダナを身に着け、大きな丸眼鏡を輝かせる小太りの男性。もはやオタクのイメージとしては古典的な見た目であった。

 彼は眼鏡のブリッジを押し上げ、ニタリと笑う。

 

「プクク……分かってないなあ。推しのおしりとはボクらにとっての夢に他ならない。その時点でキミの理論は崩壊しているのだよ」

「ろ、✝堕天使(ロストエンジェル)✝氏……!! 無数のアイドルの興亡を目撃してきた生ける伝説!! 氏のスパチャ額は正月に親戚一同からお年玉を貰った少年の日の思い出に匹敵すると言われている───!!」

「ツッコミどころが多い以前に切なくさせてくるのやめてくれます?」

「黙ってろメルヘン女。おまえは後だ。何が✝堕天使(ロストエンジェル)✝だ? そうやって反論してる時点でおまえは俺の術中なんだよ。夢は追いかけるもんじゃなくて掴み取るものだろうが」

「なんなのこいつ!? 自分の発言に微塵も責任持ってないんだけど!!」

 

 というオタクの悲痛な叫びはノアという狂人の前にはそよ風も同然だった。いよいよ収拾がつかなくなってきたところで、立香とグレイが遅れて駆けつけてくる。

 

「ちょっと、私を置いてなに突撃してるんですか!? おかげで絶賛全国デビュー中ですよ!?」

「俺の才能を考えれば遅すぎるくらいだ。おまえは引っ込んでろ。地方のパチンコ屋でドサ回りやってんのがお似合いだ」

「ノアこそ夜の埠頭で象牙の密輸やってるのがお似合いなんで引っ込んでてください。ここはEチームマスターの良心がスポットライトを浴びます」

「抜かせ、おまえがいつもホットケーキミックス貪れてんのは誰のおかげだと思ってんだ? 他のメンバーがドラマとかやってる中ひとり寂しく島を開拓してるリーダーのおかげだろ。リーダーだって本当はセンターやりたいのを我慢してんだよ」

「あの、途中から別のリーダーの話になってます」

 

 グレイはぼそりと言った。なお、Eチームリーダーと某リーダーに天地の開きがあることは言うまでもない。

 ノアは右手で立香の両頬をぎゅっと圧搾して、

 

「いいからすっこんでろ。おまえじゃ役者不足だ」

「むごご……わ、私だって少しは役に立てます。ノアとダ・ヴィンチちゃんが造ってくれたアレも─────」

「アホかおまえは。そういうことじゃねえ」

 

 右手の拘束が解け、そのまま頬の輪郭を柔らかくなぞる。

 

「俺は、俺だけのモノを他人に見せびらかす趣味はない」

 

 心臓の奥を深く突き刺すような眼差しと、心を震わせる声音。いつものように開け広げに欲をひけらかす表情は影もなく、暗く冷たい情念が滾っていた。

 あの日から、ノアはこんな顔をしばしば見せるようになった。そして、これを向けられた時、立香の反応は決まっていて。

 暗い感情を独占する背徳感で唇を歪めて、そっと手を重ねる。

 

「そ、れなら……仕方ないですね……」

 

 その直後、一部始終を目撃していた✝堕天使✝は盛大に吐血した。

 

「あああああ!! 学生時代机に突っ伏すことが生き甲斐だった✝堕天使✝氏のBSS性癖と青春アレルギーがオーバーロードををを!!」

「いや、興奮したら死ぬってカマキリの交尾じゃねえんですから」

「う、うぅ……拙者の葬式ではシャーマンキングのOPを流してくだされ……」

「これもう✝堕天使✝っていうか✝ただのしかばね✝じゃね?」

「ここまでの会話意味あります?」

 

 死神の鎌の如きグレイの一言が、一同の首を刈り取る。

 場の空気がほんのりと冷気を帯びたところで、ノアはごきりと首を鳴らして言った。

 

「ってことで───おまえら全員回れ右して帰れ!! こっからはシバき合いの時間だ!!!」

 

 びりびりと空気を揺るがすかのような怒号。すると、周囲を埋め尽くしていたファンたちの目から一斉に生気が失われ、一言も発することさえなく、踵を返して離れていく。

 ソル子くんとアンナは座席から降り、ノアを見上げた。

 

「おいおい、ありゃどーいうことだ? オレのカリスマみたいなもんか?」

「暗示の魔術ですわね。掛け方は様々ですが、魔術師の基本中の基本ですわ。それでも声だけで、というのはなかなか極まってやがりますが」

「なるほどな。催眠術とか洗脳の簡単バージョンってことか。エロいことにしか使えなさそうじゃねぇか」

「それはテメェの頭がエロいことにしか割かれてねえからですわ」

 

 アンナは日傘を取り出し、横に傾けて傘を広げた。その途端に、ソル子くんの携帯端末が猛烈に爆発する。

 爆発に巻き込まれた彼は口から煙を吐き出して、まぶたをもったりと垂らした。

 

「……オーイ、これも暗示? オレのオキニのスマホカバーが灰燼と帰したんだけど」

「ええ、暗示ですわ。最近流行りの4D上映ってやつ?」

「いや4Dっつうか3Dで被害にあってんだけど。ケータイが壊れる暗示ってなに? どうせ被害に遭うなら4Dより4Pが─────」

 

 ゴッ、とアンナの鉄拳が彼を沈める。

 彼女は潰れたカエルみたいになったサーヴァントの背中に、ハイヒールの踵をめり込ませた。

 アンナは足元で行われている惨状とは真逆のにこやかな表情を浮かべる。

 

「昨日ぶりですわね? 藤丸立香さん。お早い再会で助かりますわ〜〜」

「あ、はい。マネージャーやってるってそこの人のだったんですね。なんでこんな迷惑系配信者みたいなことしてるんですか」

「ん〜、まあ、あたくしども近代魔術師がそもそも迷惑系というか……端的に言うと、時計塔に喧嘩を売りにきましたの」

「…………近代魔術師?」

 

 立香は思わず目を細めた。

 オカルト、心霊が真面目に研究・議論された近代は、魔術師が表の歴史に名を残す最後の時代。ノアの長ったらしい魔術講義の際にも、ソロモン王に次いで尺を取っていたほどだ。

 近代の人間が現代で生きている訳がない……という常識は魔術師相手には通用しない。立香が訝しんだのはアンナという名前そのものだった。

 アンナ。名を残した近代魔術師の中で、その名を持つ者はふたり。だがどちらにしろ──────

 

「んじゃあ、喧嘩も売り終わったことですし、あたくしは帰りますわ。こっちのアホは煮るなり焼くなりしてくださいませ」

 

 ────近代で魔術師が歴史に名を刻むということは、時計塔でさえ存在を排除できなかった強者であるということ。

 立香が杖を引き抜こうとした瞬間、既にアンナとソル子くんの姿はなく。

 

「あれ、また!?」

 

 そして、ノアの姿もなかった。

 ───そこは、いくつもの墓標が並ぶ銀世界。冷たく澄んだ空気が満ち、天の中心に太陽が輝く、真白の別天地。

 アンナは白く曇った息を吐き、ぶるりと身震いする。

 

「固有結界……確かにこれは帰れねえですわね。初めて使ったのは二ヶ月前のはずですが────あの性格といい、アレイスターを思い出す天才ですわ」

 

 ぱちぱち、とアンナは手を叩いた。

 固有結界とは魔術の秘奥。自身の心象風景と世界を反転させる大魔術。それをノアは詠唱を介さず、敵に悟られることさえなく展開してみせたのだ。

 ノアは額に血管を浮き立たせて、アンナを睨みつける。

 

「俺は確かに天才だがな、人妻に横恋慕したり裁判沙汰になったりヤク中毒になったりしたアホと並べんじゃねえ。今すぐ訂正しろ」

「いやぁー、見れば見るほどあのドアホとそっくりですわ。性格的な意味で。ああ、あと中二病なところも一緒でいやがりましたか。固有結界使えてえらいえらいでちゅわねぇ〜?」

「よし歯ァ食いしばれ!! おまえの顔面をばくだんいわみたいにしてやる!!」

「───だから、そういうところが似てるって言ってるんですのよ?」

 

 アンナは知っている。ノアの固有結界に囚われた場合、たとえ英霊の写し身であろうとも成す術なく討たれる可能性があることを。

 なぜなら、彼の無属性魔術は固有結界内部で最大の真価を発揮する。ゲーティアでさえ死に陥れた一撃を防ぐことは、この固有結界の中にいる限り不可能だ。

 しかして、容易に脱出を許すほど、固有結界という業は温くはない。閉じた一個の世界を抜けるにはそれこそ世界を壊すような一撃か、世界と世界の境界を超える力が必要になるだろう。

 ───あるいは。

 

「『夕映えのむこうの国(Beyond the sunset)』」

 

 世界を新たに生み出す。アンナは固有結界に対抗する術として固有結界を選択した。

 二つの世界が入り混じる。

 白銀の世界を塗り潰す、夕焼けの花園。

 ノアは口元をひくつかせて、自身の世界から夕暮れの花畑を睨めつけた。

 

「……心象風景までメルヘンかよ、アンナ・キングスフォード」

 

 ノアは忌々しげにその名を呼んだ。

 疑念と確信が混ざった問い掛け。魔女は妖艶に微笑み、確かに頷く。

 

「ええ、心は乙女ですので。ウェストコットの脳内彼女と間違えなかったことは褒めてあげますわ」

「ハッ、おまえに褒められるくらいなら場末のスナックでおっさんに愚痴られた方がマシだ。泣く用意はいいか?」

「あたくしもアナタと戦うくらいなら街中のワンちゃんのクソを素手で拾ってた方がマシですわ」

「それもうただの良い人じゃね?」

 

 いつの間にか目を覚ましていた変態配信者サーヴァントは割と本気で疑問を口にした。アンナは彼を踏みつけていた足を退かし、日傘の柄で襟ごと体を引き上げる。

 アンナは自らの固有結界でノアの結界の一部を上書きした。その上で自身の結界を解除すれば現世へ戻ることができる。加えて、無属性魔術が全能と化すのはノアの理で支配された固有結界の内側のみ。アンナの理にある結界の中では、現世と同じように、過度な理想を与えられた無属性魔術は原型を保っていられない。

 

「んまあ、神代回帰でもしたらあたくしの結界では上書きできなかったでしょうが……あんなもの、やすやすと使えませんわよねぇ?」

 

 アンナは脱兎の如く走り出した。固有結界を解いた際は、現実での位置に戻される。それはいち早く逃げるための助走だった。

 

「───させるか」

 

 一瞬遅れて、ノアもまた結界を解除する。自身の結界内に留まっていては外界へ脱出したアンナを追うことはできない。

 全身に強化魔術を張り巡らせ、地面を蹴る。アンナは目にも留まらぬ速度で間合いを詰めるノアを双眸で捉えた。

 

「ッシャ逃げますわよ異常性癖者ァ!!」

「オッケー……とでも言うかと思ったか?」

「は???」

「そんな訳でオレも固有結界───『逸楽に染まる薔薇の褥(ロサ・クビクルム)』!!」

「なにやってんですのこのおファ○クダボハゼクソ野郎!!?!?」

 

 ノアの誤算は、固有結界を扱う者がアンナ以外にも存在したこと。

 彼とノアのたった二人を残し、世界は反転する。

 そこは奢侈を尽くした装飾にまみれた閨房。甘ったるい香の匂いが鼻をつき、蒸れた空気がじっとりと肌にへばりつく。ノアは思わず顔をしかめた。

 

「実は、最初からお前に目をつけてたんだ」

 

 薔薇の花弁が散る褥に身を預け、その英霊はなまめかしく舌を舐めずる。

 

「人生は嘘をつくことを強制される。行きたくもない飲み会に行かされたり、言いたくもないお世辞を言ったりな。まあ、それはいい。下っ端にとっちゃ嘘をつくしかない状況だし、要は自分を守るための嘘だ。それをオレは否定したりしない」

「あ? いきなり語ってんじゃねえ、スケベ野郎が。そういうのはウチのアホ精霊でうんざりなんだよ」

「おいおい、オレはただのスケベじゃねぇぞ? 何度でも心の強さで勃ち上がり、前でも後ろでも使うド級のスケベ、ドスケベだ!!!」

「うるせえ!!!!」

 

 殴りかかるノアの腕を絡め取り、閨に倒れ込む。鼻先が触れ合うほどの距離で、彼は言った。

 

「でもな、ついちゃいけねえ嘘ってのもある。それは自分を偽る嘘だ。本当は七面鳥が食いたいのにチキンライス頼んだりな。そういうのはいけない。自分に嘘をつくことは癖になる。癖ってのは自分を蝕む毒だ。気付けば、そいつは手前の中には『他人に嘘をつき続けた自分』しか残ってないことを知る。そんな不幸はゴメンだろ」

 

 ───その点、おまえは良い。

 するりと四肢を絡みつかせて、火照った音色を囁く。

 

「おまえは自分に嘘をついてない。いつだって自分に正直だ。はっきり言って唆るぜ?」

「そりゃ残念だったな。俺はおまえ如きじゃあこれっぽっちも興奮しねえ。欲求不満なら独りで慰めてろ」

「えー、仕方ねえな。オレは無理やりされるのは好きだけど無理やりするのは嫌いだしな、諦めるしかねえか」

「おう諦めろ。ついでに自分の命もなァ!!」

 

 ノアは拘束を抜け出し、相手の顔面目掛けて拳を叩きつける。

 並の魔術師なら頭部の原型がなくなるほどの一撃を避けもせずに受け止め、拳の向こう側で笑みを形作った。

 

「SとMってのは支配と服従の関係に喩えられるが実際相手を支配してるのはMの方らしい。言い得て妙だよな」

「使い古された言い回しだな。ただ俺には当てはまらねえ。なぜなら俺はド級のサディスト、ドSだからだ!!」

「ハッ、そりゃああの娘が大変そうだ。けどあめぇな、M歴もS歴もオレの方が経験豊富だぜ。サドの真髄ってのは何か知ってるか?」

「うるせえ、おまえの持論をこれ以上聞いてられるか!!」

 

 彼は鼻から垂れた血を拭い、それを舐め取る。

 

「───常にマゾの想像の上を行くこと。お前もそういうサドであれよ?」

 

 次の瞬間、ノアの視界は薔薇の花弁で覆われた。

 天井に張られた幕が切り落とされ、密室に雪崩れ落ちる薔薇の洪水。一室が花弁で満たされると同時に結界は開かれ、ノアは薔薇の雪崩に呑まれながら現世へと帰還する。

 

「うごあああああッ!!!」

 

 薔薇に流されて漂着したノア。立香とグレイ、アンナはスマホ片手にそれを眺めていた。

 

「あ、やっと帰ってきました。なんかアトラクションみたいな固有結界だったんですか? ちょっと楽しそうなんですけど」

「まーアトラクションには違いありませんわ。イケない夜のアトラクションですが」

「大人の遊園地というアレですか? 拙もいつか師匠と行ってみたいと思ってました」

「いやグレイさん、大人の遊園地っていうのは……」

「こんな時に呑気に話してんじゃねえぞマヌケ女ども!!!」

 

 ノアは花弁の中でもがきながら怒号を飛ばした。ソル子くんは跳ねるようにアンナのもとへ駆けつけ、わざとらしく眼を潤ませる。

 

「おーい、フラレちゃったよ。はよけぇるべ」

「テメェのせいで遅れたんですがァ!?」

「あん? アンナだってあの娘らと連絡先交換してただろ。とっとと逃げて令呪でオレを呼び出しゃよかったのによ」

「あたくし、仕事とプライベートは分けるタイプですので。お車を出してくださる? ライダー」

 

 ライダー、そう呼ばれた少年はここまで乗りつけてきたライブカーに飛び乗った。

 

「いいぜ、乗りなお姫様。かぼちゃの馬車とはいかないが、乗り心地は極上を約束してやるよ」

「あら、テメェも紳士的なことを言えたんですのね? 特別にエスコートされてあげますわ」

 

 ああ、その前に。アンナは呟き、銃口のように指先をノアへと向ける。

 

「『水底の妖女(ルサルカ)』」

 

 ようやく薔薇の洪水から這い出たノアの足元が、どぷんと波打つ。

 月明かりなき夜の湖のように、黒々とした水面から枯れ枝じみた両腕が飛び出す。それは見た目とはかけ離れた怪力をもって、ノアの両足を水中へと引きずり込んだ。

 

「うおおおお!! なんでまた俺だァァァ!!?」

「あの二人は拙が追います。立香さんはあの人を引っ張ってあげてください!」

「は、はい!」

 

 グレイは疾風の如き速度で車を追った。一方、立香はノアの両手を掴んで、水底からの手と綱引きを行う。

 

「おい絶対放すなよ! フリじゃねえからな!?」

「分かってますよ! むしろ私ごと引きずり込まれそうなんですけど!?」

「ふざけんな気合い入れろ気合い! 俺の足が引きちぎれてジオングみたいになったらどうすんだ!?」

「安心してください、ノアの足がちぎれてもジオングにはなりません。ガンタンクです! ノアタンクです!!」

 

 と、不毛な悪戦苦闘を繰り広げる二人のもとに、全力疾走のエルメロイⅡ世が近付いてくる。彼はその勢いのままに、超低空ドロップキックを水底からの手に突き刺した。

 ぼきり、と嫌な音が響き、曲がってはいけない方向にひしゃげた両腕が水中に潜り込む。

 エルメロイⅡ世は肩で息をしながら、顔面にへばりついた髪をかきあげる。

 

「……どうやら下半身をキャタピラにする事態は避けられたようだな。遅れてすまなかった」

「謝るより先に何してたか言え。そして土下座しろ。話はそれからだ」

「結局謝らせてるんですけど」

「時計塔の関係各所に連絡を取っていた。結論から言うと、宣言書を撒いた連中───便宜的に薔薇十字団と呼ぶが、彼らに対して天文台カリオンから封印指定が発令された」

 

 天文台カリオン。時計塔の地下に広がる大迷宮、霊墓アルビオンの最奥部であり、現状人類が潜行することのできる限界地点。時計塔最古の教室でもあるカリオンが、未だ人数も分からぬ薔薇十字団に対して封印指定を発した。

 エルメロイⅡ世はたばこの煙を吹かして、一息つく。

 

「つまり、時計塔は売られた喧嘩を買った訳だ。まずは近代の魔女───アンナ・キングスフォードを捕獲せよとのお達しだ」

「話はよく分かった。やることは今までと大して変わらねえってことだろ。あと立香は俺から離れろ」

「え、なんでですか」

「あのドスケベ野郎の結界で香を嗅がされた。魔術的な薬なら防げたが、しっかり化学薬品も混ぜてやがった。そのせいで襲いそうだ」

 

 立香は苦笑して、

 

「そ、それはまずいですね。ノアが本気出したら私なんかラストシューティングの時のガンダムより酷いことになりそうですし」

「違う。そういう意味じゃない」

「じゃあどういう意味ですか?」

「エロい意味だ」

「…………ガンドォォォ!!!」

 

 ───一方その頃、グレイは街中を爆走するライブカーを追いすがっていた。

 普通車や軽自動車に比べて扱いにくいはずのトラックが、トップスピードを維持したままにするすると車間を縫っていく。

 グレイが疑問を抱いたのは、そんな常軌を逸した運転技術ではなく。ライブカーが行く先の信号と先行車両がことごとく停止していることだった。

 

「『機械狂わせの小人(グレムリン)』……安全運転でブチかましなさい、ライダー。今なら周りの車は全部ダ○ハツ製ですわ。アナタ一応騎乗Aランクですわよねぇ?」

「いやオレの騎乗スキルは騎乗スキル(夜)だけどな。つーか乗るより乗られてーよ」

「マジで最低ですわコイツ!!!」

 

 ……といった会話を、グレイの研ぎ澄まされた聴覚はしっかりと捉えていた。大部分はまったく読み解く価値のない会話だが、信号と車両の不良の原因に見当はつけられる。

 グレムリン。第一次世界大戦時、英国の飛行機乗りたちの間で噂された妖精。機械にいたずらを行い、不調を起こさせるはた迷惑な小人だ。

 そこから転じて、機械やコンピュータが原因不明の不具合に見舞われることをグレムリン効果と呼ぶようになった。

 

(師匠の授業を聞いておいて良かった……)

 

 如何なる仕組みの魔術なのか、グレムリンによる仕業であることを意識すると、視界の端々にニヤついた小人が紛れ込んで見える。

 彼らは車や信号に取り付き、身の丈に合わない道具で機構を狂わせている。まるで、不定形の靄がグレムリンという名を得て解像度が上がったような感覚だった。

 

(妖精の使役……現代で? あの人が本当にアンナ・キングスフォードだったとしても、近代の頃には妖精なんてみんな世界の裏側に消えているはず)

 

 ならば、アレは『機械を狂わせる魔術』がグレムリンのカタチをしていると考えるべきだろう。

 しかして、グレイのするべきことは変わらない。二人の逃走を阻止し、仲間が到着する時間を稼ぐ。そのために、彼女は己が武装を展開した。

 

「アッド」

 

 鋼鉄の匣が変形する。

 大きく弧を描いた刃。それを振るうための長い持ち手。グレイだけに操ることを許された武装、『死神の鎌』。

 彼女はその刃を、明らかに間合いの外から振りかぶった。

 

「あんなとこから振っても届かな───」

「───頭をお下げやがれませ、ライダー!!」

 

 アンナはライダーの後頭部を掴み、同時に屈む。

 その直後、突風が二人を吹き付ける。

 グレイの鎌による斬撃。それは空気中に真空を生み出し、あろうことか前方を走る車の上部をすっぱりと切り落としていた。

 ライダーは爽やかに笑って、

 

「ははっ、風通しが良くなって助かったぜ! さっき媚薬嗅いだせいでカラダが火照ってたからな!! ってかあの娘サーヴァントじゃねえの!?」

「少なくとも、テメェらと違って霊体ではありませんわね。あたくしが止めますので、運転頼みましたわよ」

「マスターが矢面に立つ必要はないだろ?」

「アホですの?」

 

 魔女は当然のように言い切る。

 

「───()()()()()()()()()()()()()()。文句は? ライダー」

「…………ねぇよ、マイマスター!!」

 

 アンナはランウェイを往くモデルのごとく、風が吹き荒れる車両後部へと歩いた。

 

「さて」

 

 ───アンナ・キングスフォード。

 幼少の頃より神秘的な事象に触れ、妖精と戯れる生活を送っていたと言われる、近代魔術史の絶対的偶像(アイドル)。彼女の存在は後に魔術界を席巻する一団、黄金の夜明け団の創設者であるウェストコットとメイザースに多大な影響を与えた。

 エレナ・ブラヴァツキーを反キリスト教の魔女だとするならば、アンナ・キングスフォードはキリスト教を奉じる魔女であると言えよう。事実、アンナはエレナとの思想の違いから、神智学協会のロンドン・ロッジの会長職を辞し、ヘルメス協会を設立している。

 しかし、彼女は絶大な人気を集めた。それは絶世の美貌故か、当時の女性にして医学学位を取得した知性故か、はたまた、その魔術の腕前故か────とにかく、アンナ・キングスフォードとは、彼女の信奉者たちにとっては女神にして預言者であるほどに崇められていた。

 そして、ここに。

 アンナ・キングスフォードの魔術はベールを脱ぐこととなる。

 

「グレイさん。全力で防御なさい。殺すつもりは毛ほどもありませんが、万が一がありますので」

 

 当然のように、彼女は敵に塩を送る。

 それは当たり前だ。薔薇十字の信義のもとに、全ての人間は救済の対象であったから。

 

「時に、アナタが最初に憧れた存在は何でした? あたくしは……ダーリンと一緒に読んだ絵物語の主人公。お姫様を救うため、竜と戦う騎士のお話でございましたわ」

 

 その時、アンナの両眼が妖しく煌めく。

 グレイはそれが魔眼───妖精眼であることを察した。

 

「これは、そんなお話」

 

 妖精が持つ、世界を切り替える視界。

 あらゆる生物の心を見抜く、真実の魔眼。

 魔術回路の励起とともに、魔眼の機能までもが起動した、その証左だ。魔眼を持つ魔術師は眼の扱いが卓越すると、魔眼が生成する魔力を利用することができる。

 アンナ・キングスフォードがその域に達していないはずがない。グレイが歩調を早めたその時、脳内に情報が流し込まれる。

 

「───え?」

 

 ……むかしむかし、あるところに。毒を吐く竜が街の人々を苦しめていた。その被害を避けるため、都市の人々は毎日生贄を捧げ、竜の目溢しを得ていた。

 人間の数は無限ではない。生贄となる運命は王の娘にも降りかかり、命を奉じることとなる。

 けれど、そうはならなかった。

 とある騎士が街を訪れ、槍の一撃にて邪竜を討伐することに成功する。

 グレイが見たのは、そんな物語。

 アンナ・キングスフォードは著書においてこう語っている。

 ───〝畢竟、思考の最高形態は想像なのだ。人は想像から歩み出し想像へと至る。真実そのものは語り得ない。最も崇高なる形而上学は純粋に象徴的なものだ、人口に膾炙した伝説と同じく。〟

 故に、その伝説は、カタチを持って現世に現れた。

 真実ならぬ、現実ならぬ、想像と夢想によって。

 

 

 

 

 

 

 

「──────幻想綺譚(Mystical Phantasm)騎士・聖ジョージ(St. George the Chevalier)』」

 

 

 

 

 

 

 

 刹那、一陣の風がグレイを跳ね飛ばした。

 否、それは風などではない。魔力によって実体を得た、ひとりの騎士。白馬にまたがり、長大な槍を携えた聖人───聖ジョージ、ゲオルギウス。

 それは紛れもなく、竜殺しの一撃。たとえ全力とは比べ物にならぬ威力、手加減をされていたとしても、その事実は不動だ。

 

「かっ……はっ───!!」

 

 グレイはアスファルトの地面に転がり、頼みの綱の武器でさえ手放していた。肌の隅々が怖気立ち、全身がびりびりと震えている。

 そして、思う。

 

(魔術の次元(スケール)が、違う)

 

 想像を介して聖人の写し身を創り出すなど、アンナ・キングスフォード以外には二人として存在しない。そう確信できるほどの圧倒的実力差。

 せめて、彼らの逃走先は把握する。

 意地と根性で痺れる体を起こし、彼女は見た。

 

「それでは、ご機嫌よう」

 

 アルファベットを象った黒い影に包まれ、この世ならぬどこかへ消える、アンナとライダーの様を。

 そうして、忽然と二人は失せた。下半分だけになったライブカーさえも巻き込んで。グレイが歯を噛み締めたのと同時に、背後から立香たちが駆け寄ってくる。

 

「……すみません、師匠。手も足も出ませんでした」

「相手はアンナ・キングスフォード。当時の時計塔も始末できなかった魔女だ。気を落とすことはない」

「問題は薔薇十字団がどう出るか分からねえってことだ。いつまでもこのままだと後手を踏み続けるぞ」

「おお、久々にノアが真面目になってる……けど、実際問題どうします?」

 

 立香の問いに答えたのは、ノアでもエルメロイⅡ世でも、グレイでもなかった。

 彼らの足元から、妙にダンディな声が響く。

 

「薔薇十字団の行動は分からずとも、奴らが狙うモノは分かる。そうすれば自ずと動きも読めてくるだろう」

 

 八つの眼が下を向く。

 そこには先鋭的なデザインをした大根が屹立していた。どれくらい先鋭的かと言うと、目玉がいくつもあって金と赤の豪奢な見た目をしているくらい先鋭的な大根だった。

 その大根はどうやってか人語を発していた。

 

「我が名は魔神柱バアル。貴様ら(カルデア)に負けた借りを返しに─────」

「よし、千切りにしてテムズ川に不法投棄してやる」

「そうですね。包丁持ってきます」

「────うおおおおお待てェェェェ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カルデア、管制室。

 新所長ゴルドルフ・ムジーク歓迎のため、パーティ風の装飾をされた室内は重々しい沈黙に包まれていた。

 マシュはパーティ帽を被り、特大クラッカーを抱えながら、感情の失せた目で呟くように言った。

 

「……星飛雄馬さんがクリぼっちを過ごしたあの日、彼はこんな気持ちだったのでしょうか」

「ネットでは茶化されているようですが、私は涙なくして見れませんでしたねえ。野球ロボットと揶揄された彼がせっかく変わろうとしていたのに……」

「モルガンが円卓の騎士集めてももう少し盛り上がるよな」

「あなた様、それはそもそも集まらないと思いますわ」

「ええ、むしろすっぽかされてるの私たちですし」

 

 カルデアスタッフ&Eチーム一同は一様に暗い面持ちをしていた。ゴルドルフ歓迎会の準備を終えてから数時間もの間、彼らは待ちぼうけをくらっていたのである。

 加えて、その途中でソル子くんの配信を視聴していたムニエルが宇宙猫と化し、自室に逃亡。立香とノアのやり取りで脳を破壊されたマシュの愚痴を、一同は聞かされ続けていたのだった。

 そこで、眼鏡を装着したダ・ヴィンチちゃんが管制室に舞い戻った。彼……彼女はノートパソコンを両手で支えている。

 

「みんな、片付けに取り掛かろうか。ゴルドルフ新所長はどうやら飛行機ごと失踪したみたいだ」

「え、何があったんですかねえ!?」

「分からないけど、大方は想像つくんじゃないかな? ほら、ソル子くんの配信に出てた薔薇十字団だよ。その仲間が拉致したと思われる。明確な根拠は乏しいけどね」

「ソル子くん……配信……先輩……ウッ! の、脳が───ッ!!」

「くどいわアホなすび!!」

フォフォウフォウフォウ(誰かこいつどうにかしろ)

 

 ガクガクと痙攣するマシュ。それを尻目に、ダ・ヴィンチは五枚のIDカードを取り出す。

 カードのそれぞれには、Eチームサーヴァンツの顔が印刷されている。ダ・ヴィンチちゃんはその一枚一枚を手渡した。

 

「まあそれはそれとして。みんなカルデアでのすし詰め生活も飽きただろう? 少し息抜きに行ってくると良い」

「……現代だとこのカードが鍵代わりになるんだったか? オレたちが外に出て良いのか」

「ペレアスさんの疑問はもっともだ。だけど心配はいらないよ。なにしろ魔術協会はアトラス院のはからいだからね」

「色々と胡散臭さが増してきましたわ」

 

 リースはむっと頬を膨らませる。

 アトラス院。選ばれたひと握りの天才しか門を叩くことさえできぬ、巨人の穴倉。第六特異点で訪れた際は迷宮のような造りをしていたように、神秘の秘匿にはそれこそ時計塔より厳しいと言えるだろう。

 そんな組織が、わざわざバカンスの手配をするなど考えられない。言い出しっぺがダ・ヴィンチちゃんということもあり、一同の警戒度は跳ね上がった。

 しかし。マシュはきらきらと目を輝かせて、カードを握りしめる。

 

「───行きましょう! 初めて現代の外界を見ることができるなんて機会を逃す訳にはいきません!! たとえそれが罠であったとしても!!」

「…………そういえばアンタ重い過去持ちだったわね」

「それを感じさせないくらいになったのは良いことですけどねえ。百聞は一見に如かず。私も現代の世界を目にしてみたいです」

「まあな、シュミレーターで体を動かすのも飽きてきた頃だ。ノアたちみたいな騒動に巻き込まれることもねえだろ」

 

 ダ・ヴィンチちゃんは満足気に頷いた。

 

「うんうん、話は決まったみたいだね。残念ながら私は大仕事があるから行けないけど、気にせず楽しんでくれたまえ」

「それで、どこに行くんです?」

「よくぞ訊いてくれたねジャンヌちゃん。みんながバカンスを過ごすのは我らがカルデアの大事な金づる、『海洋油田基地セラフィックス』だ!!」

フォフォウフォウフォウ(もはや嫌な予感しかしない)

 

 海洋油田基地セラフィックス。マリスビリー・アニムスフィアの財産のひとつであり、石油のみならず魔術的資源をも産出する一大プラットフォームである。

 …………その基地には、ひとりのセラピストがいた。

 仏教徒でありながら教会区を割り当てられたことに辟易しつつも、持ち前の善性と知性でセラフィックスの職員の心をケアする。

 殺生院キアラ。彼女は今日も人の悩みと向き合っていた。

 黒い髪と蒼い瞳の青年。彼の悩みはつまりこうだった。

 

「……エジプトで永久機関を開発していたら、あれよあれよという間に捕縛されて、セラフィックス送りにされた、と。それは大分不憫ですね」

「はい。それにこんなこと履歴書にも書けないし、コネもないし、リストラされたらニート一直線なんです。未来がお先真っ暗なんです。どうしたら良いですか」

「俗世の流れは一個人にはどうにもできぬもの。まずは解決を求めるのではなく、いま自分にできることを考えましょう」

 

 キアラは青年の手を握り、

 

「大丈夫、私は貴方の心根の清らかさを知っています。ともに向き合っていきましょう」

 

 彼の名を、呼んだ。

 

「───ねえ、()()()()?」

 



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第87話 ぶっちぎりの海上決戦〜怒れる魔女に火をつけろ〜

忙しくて盛大に遅れてしまいました。申し訳ございません。


 終局特異点、冠位時間神殿の決戦において、ソロモン王の使い魔たる七十二柱の魔神は敗北を喫した。

 神殺しのヤドリギによる各個同時撃破。総体を担うゲーティアの消滅。これらの要因により、人理焼却の元凶、七十二柱の魔神はことごとくが永遠なる死を迎えた────そのはずだった。

 彼らを滅したのが二つの要因だったとすると、彼らを生かしたのは奇しくも、同じ二つの要因であったと言えよう。

 遍く神、遍く不死を殺すヤドリギ。その本質は死によって魂の穢れを祓い、復活の可能性を与える宝具。そして、総体を司るゲーティアの死からの再生。

 七十二柱の魔神たちは個々の経験を共有する。人として最期の戦いを挑んだゲーティアは魔神柱の力を行使することはなかったが、総体の再生により分体の意識が覚醒。かくして彼らには二つの選択肢が舞い降りることとなった。

 このまま敗北を認め消滅するか。

 または、戦いを離脱し再起を図るか。

 多くの魔神は前者を選んだ。冷徹に、冷淡に、どこまでも合理的に。カルデアは星のことごとくを焼かれた状況から逆転してみせた。まして、こちらが不利な立ち位置からカルデアを打ち倒すなど勝算に乏しい、と。

 ───だが、たとえどれほど薄い勝算であっても、可能性が残っているのならば。

 そうして、五柱の魔神は復活を果たした。

 バアル。

 アンドラス。

 ゼパル。

 フェニクス。

 ラウム。

 それぞれが新たな特異点を創り出し、己が目的の成就のために───────

 

「いやいやいや、それはないでしょ。古の少年漫画じゃあるまいし、敵キャラのリサイクルで引き伸ばしとかありえねぇー。所詮ネロさまの前座なんで、ちゃちゃっとおっ死んでくれます?」

 

 ───時空と次元の狭間。漆黒が満ちる空間に、その女はいた。

 目深にフードを被り、毒々しい笑みを広げる妖女。目に悪い色合いのきのこを山盛りにした籠を両手で抱え、亡霊のように佇んでいる。

 だが、所詮は英霊の写し身が一騎。対するは魔術王の使い魔、その真体が五柱。油断も慢心もなく、必ず勝利できると断言できるほどの実力差があった。

 そして、彼らは知っている。

 ヒトは矮小ながらも理屈を超えた力を発揮することがある。一度定まった運命すらも捻じ曲げる、理外の境地に到るこおがある。

 故に、掛け値なしの全力を最速で叩き込む────その、瞬間だった。

 

「やめておいたほうがいいよ、ロクスタ。きみじゃあ彼らには勝てない。大方、王様に良いところを見せられるとか言ってシモンに騙されたんだろうけど」

「…………え、マジです?」

「うん。マジのガチだよ」

「───あっ、あの野郎ォォォッ!! あたしのきのこの山をたけのこの里に変えるだけでなく、死地に送り込みやがった!!」

 

 ロクスタと呼ばれた英霊は目を剥いて絶叫する。

 魔神は虚空に響く声を聞いた瞬間に攻撃を中止していた。手を止めていなければ、殺されていたのは自分たちだという確信を抱いたが故に。

 彼らの戦慄する心情を知ってか知らずか、ロクスタはところ構わずに愚痴を吐き散らかした。

 

「大根を伐採するだけの簡単なお仕事って聞いてたのに! ネロさまへの三分の一の純情な感情を利用しやがって!!」

「残りの三分の二は?」

「愛しさと切なさと心強さです! 生前からシモンのやつは気に食わなかったんですよ、自分がネロさまの一番の忠臣ですみたいな顔してェ! マジ殺っていいですか、殺っちゃっていいですか!?」

「ぼくはシモンもロクスタも好きだからそれは困るな。そうだ、ぼくが頭を撫でてあげるよ。これでもお母さんだからね」

 

 にゅん、と虚空を満たす影が渦巻く。

 蛇の頭を模した、赤いパーカーの子ども。その衣服が表すように、瞳は細く鋭く切り立ち、舌の先は二つに割れている。ソレは影より形を成し、異次元の空間を踏み締めた。

 すると、ガラスが砕けるような音を立てて、空間に放射状の罅が入った。ヘビパーカーの子どもはきょとんとした表情で、

 

「……あっ、物質界壊れちゃった。どうしようロクスタ」

「あぁ〜、迂闊に実体化するからですよ。ほら、足で均してください足で」

「プールの中で放尿した時みたいな対応でいいのかい?」

「はい。プールで膀胱が決壊した時も、公園の砂場で肛門が崩壊した時も足バタつかせときゃなんとかなります。万事解決です」

 

 五柱の魔神は、絶句していた。

 目の前で繰り広げられるアホな会話にではない。

 時間神殿にてカルデアと衝突する以前、ゲーティアはシモン・マグスの異聞世界に殴り込んだ。結果は痛み分け───ゲーティアが消耗を避け、敵を見逃したのだ。

 ゲーティアと戦ったヘビパーカーの子ども。姿形は変わらぬというのに、魔神たちは以前に見たソレを当てはめることができなかった。存在の格そのものが遥かに高まっていたから。

 魔術の世界では生命の質量は四つの分類で位置付けられる。小さく重いもの、大きく重いもの、大きく軽いもの、小さく軽いもの。ちょうど物質の三態のように、前者ほど質量が高く、後者ほど質量が軽くなる。

 すなわち、ヘビパーカーの子どもは大きく重い/軽いものから、小さく重いものへと変化した。そしてその質量はただ空間に在るのみで、この世界を破壊したのだ。

 極論。ソレは地球上を歩くだけで人類のテクスチャを踏み砕き、星の表面を露わにすることができるだろう。

 存在するだけで世界を滅ぼす獣。魔神の心胆は凍りつき、頭脳の活動を停止させた。

 ヘビパーカーの子どもは一通りバタ足で周辺の空間を粉々にすると、五柱の魔神せと向き直る。

 

「きみたちに恨みはないけれど。ぼくはきみたちを殺す(喰う)よ、ビーストⅠの眷属。ごめんね」

 

 ……いや、違うな。

 ソレは両手を合わせて、告げる。

 

いただきます(おかえりなさい)

 

 その宣告よりも前に、五柱の魔神は逃亡していた。

 捕食者に追われる小動物のように。それが如何に無様であるかなど頭にもなく、全ての建前を振り切って退避する。

 一刻一瞬でも速く早く疾く、現世へと逃れる。人類の上位種として、死を克服した超越者としての矜持は足を引く重りにしかならなかった。

 

「あ」

 

 刹那。極めて短い時間を指す単語。それを数字にした場合、どれほどの秒数なのかは定義が分かれるところだが────彼らが捕食されたのは、たった0.000000000000000001秒のことだった。

 この次元の狭間を埋め尽くす影は顎だ。闇に包まれるとはすなわち、口腔の内に放り込まれているに等しい。

 だから、後は咀嚼して飲み込むだけ。

 アンドラス、フェニクス、ラウムの三柱は文字通り刹那の合間に噛み砕かれた。魂の一欠片も残さずに。魔神柱随一の再生力を誇る不死鳥でさえ、その権能が絵空事であったかのように、胃の腑へ送られた。

 バアルとゼパルが命を拾ったのは、ひたすらに幸運だったと言える。自身の存在の九割九分を置き去り、なけなしの分体を現世に放逐した。人間がパンを食べる時、一欠片にも満たない微細なパンくずをわざわざ口に運ぶことがないように、魔神の分体は捕食者の目に留まらなかったのだ。

 

「うへぇ〜、いつ見てもえげつないですねぇ。あなたが勝てないヤツとかこの世にいるんです?」

「たくさんいるよ。例えば……ぼくじゃあきみの毒の扱いはマネできない。ほら、きみの勝ちだ」

「あ、なんか敗北感。度量のデカさで負けた気がします」

「ふふ、勝敗とか強弱なんてそんなものさ。大切なことだけど、大切にしすぎちゃいけない。難しいことだけどね」

 

 人智を超えた魔神たちは初めて知った。

 成す術もなく一方的に屠られる矮小なモノの想い。被捕食者が抱く恐怖。自身が持つ理が塵のように踏み躙られる絶望。

 何よりも、心に刻みつけられたのは。

 

 

 

「ぼくは強いよ。きっとね。でも、それだけだ」

 

 

 

 たとえこの先いくつもの歓楽を得ても拭うことのできぬ、屈辱だった。

 魔神ゼパルが漂着したのは洋上のメガフロート。自在に浮上・潜行を可能とする、移動型の採掘基地。石油の採掘のみならず、龍脈を掘ることで魔術資源をも産出する、カルデアの暗部だ。

 残飯にたかる虫のように、ゼパルは少しずつ採掘された資源を食み、時にはヒトが廃棄した食糧をも漁った。とうに自身を誇り高くあらしめる尊厳は失われていたから。

 傷の治癒と並行して、セラフィックス全体に根を伸ばし、計画の核たる人間を見つけた。

 殺生院キアラ。いつかどこかの世界で───あるいは、この世界の未来で、月の地平にて全能を手に入れた魔性の菩薩。未だ穢れ無き魂をその姿に染め上げる。

 たとえカルデアがゲーティアを斃したとしても、シモン・マグスが水面下で暗躍していようとも、舞台がなければ役者は踊れない。故に、世界を壊すことでゼパルの復讐は成し遂げられるのだ。

 回復に手間取り、セラフィックスを手中に収めるまでは相当の時間を費やしたが、もはや計画はあと一歩で始動する。

 特権職員数人の精神に寄生し、適当な名目をつけて所長と副所長を一時セラフィックスの外に送る。その間に体制を改変し、来たる電脳化発動後の布石とした。

 その、矢先だった。

 

「ダ・ヴィンチちゃん特製超音速ジェット機で数時間……ついに来ましたね、セラフィックス!!」

「あまりにも展開が早すぎて旅行気分をカルデアに置き忘れてきたわ……」

「いやあ、高所恐怖症なので心配だったのですが、高さも度を越すと恐怖とかなくなるんですねえ」

「……飛んでる間ずっと白目剥いて気絶してたけどな。まずはどこに行けばいいんだ?」

「寝室ですわね。閨の大きさによってすることが変わっ」

フォウフォウフォフォウ(同じことしかヤッてねえんだよ)

 

 見覚えがありすぎるアホどもが、この地に降り立っていた。

 

(────ふ、ざけ…………ッッ!!)

 

 自らの計画が根底から崩壊していく音を聞いて。

 それでもまだ、ゼパルが運命を呪うに至るには早かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 欲とは、全ての生物が備えた機構だ。

 自己を生かすために他者を喰らい、自己を増やすために他者と繋がる。欲望がなければあらゆる生命体は一代限りで途絶えていたに違いない。

 この地球で、食物連鎖の頂点に立つ生物種は他種とは一線を画す欲の強さと複雑さを獲得した。

 快楽を得るために苦痛を刻む。好きなのに悪態をつく。愛しているから殺す。怖いはずなのに目を逸らせない…………果ては、自分でもどうしたいのかが分からない。

 複雑怪奇で多種多様な心の働き。生物にとってなくてはならない、しかし時に命を滅ぼす欲望の宿痾。殺生院キアラは、生涯を懸けて人々の欲に寄り添うことにした。

 そんな彼女はいま。

 何の因果か、魔術世界における最高位の使い魔たちと顔を合わせていた。

 

「よ、ようこそセラフィックスへ! 職員一同、皆さまのご到着を心待ちにしていました! 恐れながら私は殺生院キアラと申します! ご要望等ございましたら何なりとお申し付けください!!」

 

 キアラは運動会で選手宣誓する生徒の気持ちで言い切った。なにしろ相手は人類史に名を残した───若干一名怪しい騎士がいるものの───魔術世界における最高位の使い魔である。

 曲がりなりにも裏の世界に身を置く者ならば、その希少性が絶大であることは脳髄に染みている。魔術師の中にはサーヴァントを強力な使い魔としてしか認識しない者もいるだろうが、生憎キアラはそこまで淡白な物の見方はしていなかった。

 キアラの言葉を受けて、マシュたちは感嘆の声をあげる。

 

「そうかしこまらずともよろしいですのよ? サーヴァントだからといって、人より偉い訳ではありませんので」

「むしろ常識人的な反応が貴重すぎて戸惑ってるくらいです。ウチの現代人はアホばっかりだったから」

「ジャンヌさん。わたしも一応現代人ですが? Aチーム首席ですが?」

「アンタはヒトヒトの実を食べたなすびでしょうが!!」

 

 マシュとジャンヌはバチバチと視線をぶつけ合う。ダンテは親の喧嘩より見た喧嘩を差し置いて、キアラの右横を手のひらで指した。

 

「と、ところで、そちらの着ぐるみの方は一体……?」

 

 キアラの横には球体が並び立っていた。ビリヤードの九番ボールを模した着ぐるみから白いタイツを纏った四肢が飛び出している。

 無言で佇む九番ボールは有無を言わせぬ物々しい威容を放っていた。威容というか異様だが。

 キアラは苦笑しつつ、

 

「こちらセラフィックスのマスコットキャラクター、セラフくんです。特技はイレギュラーを排除することです」

「いやそいつ自身がイレギュラーなんだが。コンセプトからして周りから浮きすぎ……」

「セラフィックスは海に浮いていますからね」

「それ絶対今考えましたよねえ!?」

 

 ダンテの追及に、キアラはさっと顔をそらす。セラフィックス経営陣が酒を飲んでゲームをしながら考えたマスコットをこれ以上紹介できるほど、彼女の精神は厚かましくできていなかった。

 こほん、と咳払いを挟んで強引に会話を仕切り直す。

 

「それではさっそく、施設を案内させていただきます。本来なら所長と副所長の仕事だったのですが……」

「確かにそうですね。セラフィックスはカルデアの下部組織ですから。ちなみにわたしたちの新所長は上空10000mで失踪しました」

「奇遇ですね。こちらの所長と副所長はハワイ旅行に行ったきり音信不通になりました」

フォウフォフォフォウ(もう終わりだよこの組織)

 

 フォウくんはケッと鼻を鳴らした。

 マシュたちに数時間の待ちぼうけをくらわせたゴルドルフ・ムジーク。彼が今どこにいるのかは定かでないが、セラフィックスはよりにもよってトップ二人が不在という有様である。

 上がいなくても日々の仕事はこなせるが、上がいなくては組織そのものは動けない。仮にもフィレンツェの頂点に昇り詰め、統領の地位を得たダンテは苦い顔をして言う。

 

「それは大変ですねえ。魔術協会の人たちは知っているんですか?」

「はい。目下捜索中だそうです。そちらの新所長さんも?」

「みたいね。下手人の想像はつきますけど」

「そういえば、ムニエルのやつが見てた配信の後にノアと立香ちゃんから連絡が来てたな。薔薇十字団が何とか……」

 

 ペレアスがそう言うと、セラフくんは残像が生じるほどの速度で痙攣した。

 

「───ケホッ! ゲホォッ!! ンン゙ッ!!!」

「…………いきなりセラフくんが動揺し始めましたが、何か中の人の琴線に触れるようなことがあったのでしょうか」

「実は薔薇十字団のメンバーでした、みたいなオチじゃないでしょうね」

「い、いえ、中の人は元々魔術とは関わりのない一般の方でしたので、それはないかと」

「でしたら当てっこですわね! みんなでセラフくんの闇を暴いてみせましょう!」

 

 リースは晴れやかな笑みで言う。

 人の心に平然と踏み込む言動はまさしく妖精と言う他なかった。ペレアスを除いたEチームサーヴァンツはぼんやりとリースが上位存在であることを思い出したのだった。

 が、Eチームは八つの特異点で多くの英霊に無様を晒させた集団である。ここで二の足を踏むようでは、あの旅路が廃るというものだ。

 彼らは英霊の座から送られてくる恨みの念を背負いつつ、次々と口を開いた。

 

「ノアのアホじゃねえのか? あいつが世界中でやらかした被害者だろ」

「…………」

「いえ、ムニエルさんのオタク仲間という線もあるかと」

「…………」

「それではやはり、立香さ」

「ゲホッ!! ゴホッ! ゴホオッ!! ……ウォエッ!!」

「分かりやすすぎませんかねえ!?」

 

 嗚咽するセラフくん。ダンテはスキルを介して彼の心を感じ取り、思わず叫んだ。

 セラフくんは魔術の世界に身を置くノアとムニエルではなく、元一般人の立香に反応した。意味不明なコスプレと相まって怪しさが昇天ペガサスMIX盛りだが、マシュはなぜか得意気に頷いた。

 

「なかなか目の付け所が良いですね。わたしの先輩こそが人理修復の立役者ですので。後輩として鼻が高い限りです」

フォウフォフォウ(そういう話だったか)?」

「魔術の世界じゃあ今や有名人だろうし、知っててもおかしくはないよな。……待て、そうなるとオレの知名度もうなぎ登りなんじゃねえか!?」

「大丈夫ですペレアスさん。あなたは今も昔もマイナー円卓の騎士です」

 

 すかさず、ペレアスの手刀がダンテのつむじに振り下ろされる。なお、Eチームの人理修復録を視聴した人間のペレアスへの感想は〝地味に活躍してるが地味に記憶に残らないのでやっぱり地味〟というのが大半であったという。

 そんなこんなで意味のないやり取りをしていると、セラフィックス観光ツアー一行は畳張りの広間に着く。

 全体的に褪せた色彩の空間に、これまた色味に乏しい作業着の職員たちが点々と転がっている。表裏の技術を集めて造った場所とは思えないほどに、そこはしけ込んでいた。

 キアラは固まった表情筋をぎこちなく笑顔の形にする。

 

「ここが一般職員の居住区画です。カルデアから派遣された特権職員は個室を与えられていまして、皆さまにはそこに泊まっていただきます」

「職員の待遇に差がありすぎませんかねえ!? 労基に立ち入られたら一発アウトですよ!」

「もしかして、カルデアは悪の組織だったのでは……?」

「マシュさんが言うとめちゃ重い発言ですわね」

「というかほぼ地下帝国なんですけど。カルデアじゃなくて帝愛グループの傘下じゃないの、ここ」

 

 ジャンヌは平坦な口調で述べた。九番ボールの着ぐるみがかたかたと震え始め、か細い声をひねり出す。

 

「知ってますか、人間は重労働の後にキンキンに冷えたビールを流し込むと全てがどうでもよくなるんですよ。おかげでペリ……お金がすっからかんです」

「いまペリカっつったか?」

「でもここでの暮らしもそこそこ悪くないんですよね。夜な夜な開催されるチンチロ大会で資金も増やせますし。最終的には班長が勝つんですけど。やっぱり持ってる人間は違うんですかね」

「その班長スピンオフとか出たりしてるだろ。絶対グラ賽使ってるだろ。どうなってんだセラフィックス!!」

 

 ペレアスは肩を怒らせて、セラフィックスへの疑念をぶちまける。ノアや立香ならばなんだかんだで順応するところだが、ペレアスはエタードとエクスカリバーにさえ触れなければ比較的常識人である。ある意味当時のブリテンに匹敵する現状を見せられ、騎士は立腹したのだった。

 マシュはむすりと頬を膨らませる。

 

「今のところセラフィックスの闇しか見せつけられていないのですが、わたしたちのバカンス気分はどうしてくれるんですか」

 

 彼女は胸ポケットから星型サングラスを取り出し、見せつけるように装着した。

 その横で、リースも開いたビーチパラソルを手持ち無沙汰気味に回していた。人間離れした美貌を構成するパーツが中心にぎゅっと集まるような表情をして、肩を落とす。

 

「海と聞いて水着回を期待しましたのに…………ペレアス様とあ〜んなことやあぁ〜んなことをしようとしようと思ってましたのに…………」

フォウフォフォウフォウ(どっちもあ〜ん♡なことだろ)

「そもそも私たちがここに来たのはアトラス院のお達しだそうですが、いよいよきな臭くなってきましたねえ」

「もう帰っていいんじゃないの。魔術協会に掛け合って薔薇十字団とかいうのをシバくのが先でしょう」

 

 ため息をつくジャンヌ。セラフィックスは到底バカンスなどという陽気な言葉が似合う場所ではなかった。ようやくカルデアでのすし詰め生活を終えられると思った矢先にこれなのだから、一同の落胆もひとしおだ。

 しかし、マシュはジャンヌの黒炎にも劣らぬ熱さの情念の火を総身から立ち昇らせる。

 

「───これは何かの思し召しと見ました! この腐った場所を叩き直しましょう!! 人理を修復したわたしたちなら、それも容易いはずです!!」

 

 マシュ・キリエライトの反骨心は悪魔の如きマスター二人に揉まれ、さらに人理修復の旅路を経ることで鍛え上げられていた。

 ここがバカンスに適さぬ場所だというのなら、場所そのものを改造してしまえば良い。どうせカルデアに戻っても、することは限られているのだから。草葉の陰でロマンが苦い顔をしているのは間違いないだろうが。

 

「それはとても助かります。思し召しと言うと、マシュさんは天主教の信徒でいらっしゃいますか?」

「いいえ、わたしはジャンヌさんはとことんイジる教です!!」

「おい」

「それなら私はペレアス様にイジられたい教ですわ」

「頼むから改宗してくれ!!」

 

 ─────…………と、そんな会話の一部始終を覗く者がいた。

 セラフィックス全土にくまなく配置された監視カメラ。その映像をリアルタイムで端末に反映し、魔神に気付かれることすらなく覗き見る。

 彼女はティーカップ片手に、微笑みながら画面を見つめていた。背景では忙しなく重機が行き交い、金属音を絶え間なく響かせていた。

 

「なるほどなるほど、そうなったか。帰ってこられると面倒なことになりそうだからね。マシュちゃんに感謝だ」

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチ。彼女は作業着にヘルメットというスタイルで、ノートパソコンの前にいた。到底ハッキング中の格好ではない。

 すると、端末の向こう側から言葉が返ってくる。

 

「『相変わらず無駄が多いですね、貴方たちは。マスターが不在であればもう少しマシになるかと踏んでいましたが、計算違いだったみたいです』」

「おや、無駄は嫌いかい?」

「『時と場合によります。娯楽においては必要な要素ですが、仕事の無駄は問答無用でカット対象でしょう』」

「そうかな? 私の大傑作アーマードカーくん然り、笑える要素は欠かせないと思うけど」

 

 数瞬、端末から流れてくる声は沈黙した。それがポジティブな意味でないことは明らかである。そして、何事もなかったかのように、会話を続行した。

 

「『それで、進捗はどうです?』」

「君の言う期日には間に合うだろう。第六特異点で得たアトラス院の技術もあることだし、出来は最高を約束しよう。そちらは?」

「『…………第六特異点での貴方たちの振る舞いには色々と言いたいことがありますが、こちらも抜かりなく。アト・エンナとの交信を通じて、彼女らに保護されていた魔神柱バアルの派遣を取り付けました』」

「流石はソロモンの魔神、しぶとさはお墨付きだね。これからの予定は?」

 

 その声は、怜悧に答える。

 

「『様子を見ます。未来予知者同士の戦いにおいて肝要なのは、大局的な優勢を取り続けることではなく、如何に致命的な一撃を以って勝敗を決するか』」

 

 未来予知者にとって、現在の優勢はいくらでも引っくり返すことができるちゃぶ台に過ぎない。仮に同レベルの未来予知者が将棋で戦ったならば、決着は永遠につかないだろう。

 だが、それは手駒に差がなく交互に手番がやってくる状況における、盤上の空論。現実はそうもいかない。

 絡み合う世界線の綾を読み解き、相手を一撃で反撃不能まで叩き潰す。常人には理解すら及ばぬ境地に在りながら、その声は告げた。

 

「『私が導き出した演算結果(世界の行く末)は間違いであったと、証明してみせましょう』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時を遡り、二週間前。

 海洋油田基地セラフィックス所長、ヒデヤス・アジマは副所長のアルミロとともにハワイにいた。

 アジマはマリスビリー・アニムスフィアの采配によって、セラフィックス所長の座に据えられた。それが意味するように、彼は魔術師として優秀な能力と……アニムスフィアが属する貴族主義派閥に相応しい気質を兼ね備えていた。

 すなわち、目的のためならば手段は選ばない。

 必要となればどんなに悪辣で残酷な手段でも、眉ひとつ動かさずに遂行してみせる。それが典型的な魔術師の素質。そういった意味でも、ヒデヤス・アジマは優秀であったと言えるだろう。

 とはいえ。

 優秀、と評価される魔術師たちは知っている。

 この世には、優秀なんて枕詞の形容が端から思い浮かばないほどの化け物がいることを。

 

「は? もう帰んの? マジで? せっかくのハワイなんだからさあ、ビーチでマカデミアナッツ食いながらナンパとかされてえよぉ〜」

「フランス生活でナンパはこりごりですわ。あたくしが何人のナンパ男の足をヒールで粉砕したと?」

「それもうお前の方が悪いだろ。……ちょっとオレのこと踏んでみてくんない? さきっちょだけでいいから」

「さきっちょと言わず心臓までブッ刺してあげてもよろしくてよ?」

 

 結論から言うと、セラフィックス所長と副所長は成す術もなく捕らえられる。

 優秀な魔術師とは必ずしも強い魔術師ではない。魔術師の本分はあくまで研究であり、戦闘ではない。それでも、彼らの魔術は魔女の気を煩わせることさえできなかった。

 おそらく、彼女には片手間にも満たない魔術の行使によって────アジマが放った魔術は弾かれ、同時に意識を埋没させられたのだった。

 そして、アジマが次に目を覚ましたのは、薄暗い部屋の三角木馬の上だった。

 

「……むぅっ!?」

 

 遅れて、自分の現状を把握する。

 衣服はボクサーパンツ一枚と靴下のみ。両手が後ろ手に縛られ、がっちりと猿ぐつわがはめられている。しかし、彼が驚いたのはそれだけではなかった。

 天井から伸びる荒縄。その先に、これまた半裸の副所長アルミロが亀甲縛りで吊るされている。

 

「んむっ! む〜っ!!」

 

 思わず身をよじらせて、言葉にならない声で呼びかけるが、アルミロは微動だにしない。彼の眼は閉じられており、どうやら失神状態にあるようだった。

 瞬間、アジマの脳裏に浮かぶ無数の不吉な可能性。優秀な魔術師であるからこそ、身に覚えがないなどとは言い切れない。

 自問自答を繰り返す内に、部屋の扉が軋んだ音を立てて開く。

 魔女───アンナ・キングスフォード。パイプ椅子を引きずり、アジマの前でどっかと腰をつく。三角木馬に騎乗する男を見上げる瞳は、淡い光を湛えていた。

 

「まず最初に言っておきますわ。あたくしに偽証は通じません。妖精眼(グラムサイト)、と言えば分かりますわね?」

 

 口元を拘束していた猿ぐつわがひとりでに解ける。

 妖精眼。世界を切り替え、真実を覗く魔眼の前ではあらゆる欺瞞が暴かれる。本来は妖精が持つ眼───人間に宿ることなど有り得るのか。

 アジマは身体の芯から来る震えを抑えつけて、

 

「……何が目的だ」

「んー、少し世界を変えようかと。ご安心を、殺すつもりはありませんわ。素直に答えてくださるなら、三食おやつと昼寝付きの快適な生活をお約束しましょう」

「解せんな。私に吐かせたいのなら、自白を強制するなり精神を操作するなり、如何様にでもできたはずだ」

「あたくし、そういう人の心をどうにかするような術は好きませんの。生まれたての赤ん坊から棺桶で半身浴してる老人まで、誰しも尊厳はあって然るべきでしょう?」

「私のこの姿に尊厳があるとでも───!?」

 

 がたがたと揺れる三角木馬。アンナは涼しげな美貌を凍てつかせたまま、短く問い掛ける。

 

「セラフィックスが設立された目的は?」

「海中の石油と魔術資源を掘り起こし、カルデアの運営予算とすることだ。マリスビリー前所長はカルデアスを完成させるために、莫大な資金を必要としていた」

「カルデアス。確か試作一号の制作が1990年で、セラフィックスの運営が開始されたのもその年でしたわね? しかも、カルデアスは南極で開発されたのではなく、どこからか輸送されてきたとか」

「……それがセラフィックスとでも言いたいのか? ありえない。1990年に制作されたカルデアスと、同年に設立されたセラフィックス───時間軸が合わないだろう」

 

 カルデアスの開発には長い時間を費やした。実際、その理論が確立した後でもカルデアスを動かすに足る電力を確保できず、マリスビリーはそのための資金を得るため、聖杯戦争に参加していた。

 運営を開始したばかりのセラフィックスが、カルデアスの試作モデルを南極に輸送するには、あまりにも時間的猶予がない。

 アンナはアジマと間を置かずに告げる。

 

「あら、そこの副所長はセラフィックスがカルデアスを開発したとゲロったのですが?」

「───……ッ!?」

 

 彼は一瞬、表情を引きつらせて。

 その直後、後悔した。

 妖精眼は真実と虚実を見分ける。思わず反応してしまったのが運の尽き。アンナにはこの動揺が真実であると、見抜かれてしまったのだ。

 これは推測ですが、とアンナは前置きして喋り出す。

 

「公的に運営を開始した時期が1990年。セラフィックスはそれ以前に活動を始めていたのでしょう。これなら、1990年の輸送も絵空事ではなくなりますわ。……そうでしょう?」

 

 アジマは目を瞑り、歯を食いしばった。自らの反応で、アンナに真実が悟られてしまわぬように。

 けれど、外的刺激に全く反応を示さない人間などいようはずもない。彼女にとっては、模範解答を見ながらテストを解くようなものだ。アンナはまたしても確信を得て、言葉の刃を突きつける。

 

「つまり、セラフィックスの目的はカルデアスの開発。それを果たした後は、資金源・電力源として存続した……合ってます? これ。あたくしコナンくん見てても、あまり犯人当てられないんですわよね」

「……それが合っていたとして、貴様らに何の得がある」

「カルデアス、造れるんじゃありませんの?」

「────は?」

 

 アンナはパイプ椅子から腰を浮かし、壁に立てかける。アジマの視界から魔女の姿が外れ、硬質な足音が背後に移動した。

 

「セラフィックスにはカルデアスを完成させたデータが残っている……ならば、二基目を製造することもできないでしょうか?」

「不可能だ。カルデアスの開発途上で、幾人ものレイシフト適性者を使い潰した。それほどの無茶をして五年の歳月を要した!! アレはそれほどの魔術礼装だ!!」

 

 アンナは深く嘆息し、小さく舌打ちする。

 

「…………はぁ〜、つまんねぇー制作秘話ですわ。分かりました。お話はここまで。アナタたちはしばらくそこでSMプレイに興じていなさい」

「三食おやつと昼寝付きはどうした!!?」

 

 ばたん、と扉が閉められる。アンナが部屋を出た間近で、薔薇のゴスロリ幼女───クリスチャン・ローゼンクロイツが待ち受けていた。

 ローゼンクロイツは唐突に話を切り出す。

 

「先程未来視をしてな。Eチームサーヴァント諸君がセラフィックスを訪れるようだ。誰が良いと思う?」

「とりあえずテメェ以外で。詩人サマに会ったら厄介ファンと化すのは目に見えていますわ」

「…………むう。ではあの二人に任せるとしよう。ところで」

 

 ローゼンクロイツは深刻な面持ちで呟いた。

 

「パソコンを見ていたらいかがわしい広告と架空請求のメールで埋め尽くされていたのだが、心当たりはないか?」

「────、ライダーァァァァ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マシュたちがセラフィックスを訪問して二日後、ジャンヌはキアラが常駐する教会に足を運んでいた。

 仏教徒が教会に配置されるとは何の冗談なのか。その筋の関係者が聞けば苦い顔をすることは必至だろう。ジャンヌは魔女が教会に足を運ぶこともさして変わりはないと心の中で独りごちながら、教会の門を開ける。

 礼拝堂に響き渡る、神の声よりも聞き覚えのあるEチームマスターズの声。数台のスピーカーから音声が流され、中心には座禅を組むマシュと警策を構えるキアラがいた。

 問題はその音声。

 

「『俺は、俺だけのモノを他人に見せびらかす趣味はない』」

「『そ、れなら……仕方ないですね……』」

 

 あの日、マシュの脳細胞を破壊し尽くしたやり取りが、重奏を奏でていた。

 マシュは修行用の白衣を纏い、両手を擦り合わせながら般若心経を唱えていた。その集中は凄まじく、唖然とするジャンヌの存在にも気付いていない。

 

「色即是空、空即是色、受想行───あっ、すみませんやっぱり限界です脳が壊れそうですキアラさんわたしの頭を気絶するくらい引っ叩いてください」

「おるあああっ!!!」

 

 その時、ジャンヌはキアラから警策をひったくり、マシュの後頭部に渾身の一撃を叩き込んでいた。

 マシュの頭部はとてつもない勢いで床にめり込み、余波でスピーカーが倒れる。

 ジャンヌはバキリと警策をへし折り、大声でがなり立てた。

 

「なぁにセルフ脳破壊キメてくれてんですかアンタはァァ……!!? 言い出しっぺがひとり教会でサボってんじゃないわよ!!」

「い、いきなり大層な挨拶ですね……スゴイ・シツレイです。わたしはサボっていたのではありません。そうですよねキアラさん?」

「ノアさんと立香さんのいちゃつきに動じぬ精神を手に入れる、ということで修行をつけていました」

「修行っていうか自滅でしょ。傷口に塩塗り込んだ痛みで麻痺してるだけでしょ」

 

 マシュは頭を引き抜く。血にまみれた顔面は日本史の教科書に載っている仏像のようなアルカイックスマイルを浮かべている。

 

「ふ……まだその境地ですか。かのブッダは苦行を不要と断じましたが、それも悟りに至るための必要な回り道だったと思います。分かりますか、痛みを乗り越えてこそ何かを得ることができるんですよ」

「いや、痛みに溺れてるようにしか見えないんですけど。下の境地から見上げられても困─────」

「『俺は、俺だけのモノを他人に見せびらかす趣味はない』」

「んんんんんんっ!! リーダーは黙っててください!!」

 

 マシュは倒れてもなお音を発し続けるスピーカーにとどめの一撃を見舞った。

 ぷすぷすと煙をあげるスピーカー諸君。ジャンヌは口角を吊るし、鼻を鳴らして嘲笑う。

 

「そ、れなら……仕方ないですね……」

「ジャンヌさん、やりますか。やりたいんですか。今のわたしはガチンコステゴロ勝負も辞しませんよ」

「マシュさん、色即是空です! 経を唱えて冷静になってください!!」

「いえ、かつて空っぽだったわたしはたくさんの人との繋がりでたくさんの色彩を得ました。こんなに大切なものを空っぽにする訳にはいきません────!!」

「かっこいいこと言ってますけど実際は破戒僧───いえ、破戒茄子…………!!!」

 

 目を剥いて叫ぶキアラ。平行世界の自分は破戒の極みにあるのだが、生憎こちらの彼女がそれを知る由はなかった。

 ジャンヌはキアラを向いて、やや棘のある口調で言う。

 

「アンタらが遊んでる間、セラフィックスも少しはマシになったわ。ついてきなさい」

「……だ、大丈夫ですかマシュさん」

「わたしはEチームのメイン盾ですよ? 人類史焼却ビームを耐え抜いた耐久力はコドラにも匹敵します」

「特性でギリギリですよね。HP1ですよね。ほぼ瀕死ですよね!?」

 

 ということで、三人は居住区画へと向かった。

 教会から居住区画に移動し、自動ドアが彼女らを通すと、廊下の隅に詩人と九番ボールが座り込んでいた。ボロ布を被り、薄汚れたどんぶりを両手で抱え持つ姿はまさしく物乞いである。

 彼らはマシュたちの来訪を認識すると、手足をバタつかせて接近した。

 

「ヒ、ヒヒッ……ようこそセラフィックス居住区へ。通行料として柿ピーをお支払ください。現金なら一日中出入り自由です」

「まあ、あなたたちが持っているとは思えませんがね……チンチロで増やしてきますか? あの人に勝てたらね…クックック……」

「ダンテさんと藤───セラフくん!? どうしてそんなおいたわしいことに!?」

「班長のイカサマを暴くために特攻したらタコ負けしたのよ。そしたらあれよあれよと言う間に堕ちて……」

 

 ジャンヌは心底興味なさそうに説明した。幸運含めたステータスの低さに定評のあるダンテはともかく、セラフくんまで負けが込んでいるとなると班長のイカサマは明らかだった。

 卑屈に笑うダンテと中の人。マシュは冷然とした佇まいで言い捨てる。

 

「それでこうなった、と。この二日間何をしていたのか甚だ疑問ですね」

フォウフォウ(お前が言うな)

「でしたら、未だ班長の悪行は止められていないのですか?」

「……見た方が早いわ」

 

 ジャンヌの案内で、一行は畳張りの広間に踏み込んだ。

 湧き立つ熱気。さんざめく怒号。男たちが乱れなく列を組み、一心不乱に木刀を振るう。その先頭で、青ジャージ衣装に竹刀を持ったペレアスが立っていた。

 

「剣は小手先じゃねえ、気合いでぶん回すもんだ! そうすりゃ根性も忍耐も身につく! サイコロ振ってる暇があんなら剣振って心身を鍛えろ!!」

「流石っす! ぱねぇっすペレアス卿! 剣振ってたら俺もピンゾロ連発できますか!?」

「改革でやることが素振りって地味」

「ペレアス卿! タバコで肺がゴキブリ色になった俺たちにはキツいです! あと何回やればいいんですか!!」

「おい今地味っつったやつ前出ろ!! 本当に大切なことはいつだって地味なんだよ! 人類はそうやって発展してきたんだろうが!!」

 

 マシュとキアラはジャンヌを見つめて、

 

「「……これは一体?」」

「ペレアスが溢れ出る幸運A+でピンゾロ出しまくって班長のイカサマを真正面から粉砕したのよ。そうしたらなんやかんやでチンチロの神と崇められるようになったわ」

 

 ペレアスはあまり知られていないことを除けば、アーサー王物語屈指のラッキーボーイである。リースの幸運の加護も上乗せされ、駆け引きもへったくれもない経緯で悪逆無道の班長は駆逐されていたのだった。

 故に、争点となるのはペレアスの勝利ではなく。キアラは顎に指を当てて、怪訝な顔つきをする。

 

「なんやかんやの間に世界にバグでも生じたのですか?」

「別にこの世界がバグるなんて日常茶飯事でしょ」

「ジャンヌさんの存在も半ばバグみたいなものですからね」

「アンタにだけは言われたくないわ!!」

 

 マシュはジャンヌが振るう拳をスウェイバックで躱した。その動きたるや、熟練のボクサーを連想させるほどに華麗かつ洗練されていた。

 喧嘩寸前の猫みたいに睨み合うなすびと魔女。キアラが身を挺して割って入ろうとしたところで、湖の乙女リースが現れる。

 

「みなさん、こんなところに集まってどうしたのです?」

 

 彼女は装いを新たに、眼鏡とスカートスーツを着用していた。普段の振る舞いを知らなければ、デキるキャリアウーマンにしか見えない出で立ちだ。

 マシュは目を擦り、二度見した。

 

「清楚な雰囲気を醸し出すこの人は新キャラですか? なぜかとてもリースさんに似ています」

「正気に戻りなさいアホなすび。アレは紛れもなくリースよ」

「そう言われるとどことなくドスケベに見えてくる気が……」

「ふふふ、私がいつまでもただのドスケベ精霊だと思ってもらっては困りますわ! こちらをご覧くださいませ!」

 

 と言って、タブレット端末の画面を向ける。

 埃ひとつ無い液晶には、何やら色々な形のグラフが描かれていた。リースはすちゃりと眼鏡を押し上げて、得意気に微笑む。

 

「セラフィックスで採れた魔術資源をこねくり回して、全自動掘削礼装を製造いたしました。作製にあたってはジャンヌさんと職員みなさんの力もお借りしましたわ。理論上は無人でも以前と変わりない効率で採掘を行えます」

「…………あの、さらっと一番とんでもないことをしてるのですが。弱体化設定はどこに行ったんですか。バレないと思ってサイレント修正されたんですか」

「まあ、湖の乙女ですので」

「それで説明責任をすっ飛ばせるとでも!?」

 

 マシュはくわっと目を見開いた。

 アーサー王物語における湖の乙女はほとんどドラえもんと同義と言って良い。便利キャラ的にもトラブルメーカー的にも。

 たとえ精霊としての力を失い、強力な魔術を行使できなくなっていたとしても、その知恵と知識は据え置きだ。それを活かした礼装造りという点では、劣化は乏しい。無論、製造を担った職員たちの優秀さもあるが。

 マシュたちはまたしても湖の乙女の恐ろしさを知った。ジャンヌはマシュとダンテ、セラフくんに冷凍ビームが如き視線を向ける。

 

「…………で、そこのアホどもは二日間何してたんですっけ」

「ダンテさんとセラフくんを責めるようなマネはやめませんか、ジャンヌさん。結果的に負けたとはいえ、班長に立ち向かった彼らの心意気は美しいものだったに違いないのですから」

「ちょっ、あなただけ俺たち負け組から外れようなんて認めませんよ!? ダンテさんも何とか言ってください!!」

 

 セラフくんはダンテに向き直る。死んだ目をした詩人はどんぶりの中の柿ピーをさらさらと揺すり回しながら、

 

「柿の種になぜピーナッツを混ぜるようになったのかは諸説ありますが、嵩増しのためだったり、売れ残っていたピーナッツを抱き合わせで処分するためとも言われています」

フォフォフォウ(いきなりどうした)

「分かりますか、ペレアスさん。つまり、ピーナッツは脇役として投入されたのです。さしずめ赤い配管工に対する緑の配管工、ASKAに対するCHAGE─────」

「配管工兄弟はともかくそっちは触れづらいからやめろ!! つーかなんでオレに振った? 脇役か? 脇役って言いたいのか!?」

 

 アーサー王物語屈指のラッキーボーイにして脇役は、ダンテの頭頂にぐりぐりと握り拳を押し付けた。

 しかし柿ピーを貪るだけの生命体にそのダメージは無為に等しく。

 

「そう───所詮は後か先かの話。私というピーナッツがいてこそ、あなたたち柿の種は引き立つんですよォ!!」

「結局柿ピーの話しかしてねえじゃねえか!!!」

 

 ペレアスはげしりとダンテの尻を蹴り飛ばす。

 ダンテが倒れ込んだその瞬間、けたたましい轟音とともにセラフィックスそのものが大きく揺れる。床が跳ね、壁や天井までもがみしみしと軋みを立てた。

 それが収まったかと思えば、一同は内臓が持ち上げられるような浮遊感を体験する。キアラはだくだくと冷や汗を流しながら、憶測を口にする。

 

「これ……沈んでません?」

「物凄い勢いで沈んでますわね。ペレアス様、酸素を口移ししますのでどうぞこちらに」

「それだとオレたち以外海中に没することになるんだが」

「呑気に言ってる場合ですかねえ!? このままだとあの解釈違いオデュッセウスさんみたいに地獄行きですよ!!」

「ほんと自分の危機には敏感ねこいつ……」

 

 ジャンヌはぼそりと吐き捨てた。

 

 

 

 

 

「念の為様子を見たが───やはりアホはアホのままだったか!! セラフィックス諸共海の底に堕ちろ!!!」

 

 

 

 

 ───天体室。セラフィックス職員の中でも限られた人間だけが知ることを許される、秘中の秘。カルデアス製造の折に使い捨てられた、無数のレイシフト適性者の体が立ち並ぶ伽藍より、魔神ゼパルは己が計画を発動した。

 もはやセラフィックスはゼパルの肉体に等しい。コントロール権を奪取し、海底への急速潜行と同時に施設の情報化を開始する。

 物質は物質としてのカタチを失い、この場所は情報体となって星の内核に辿り着く。無色たる地球の魂を我が色に塗り替え、やがては星と同化するのだ。

 けれど。

 ゼパルはセラフィックスの全観測装置を通じ、光を見た。

 海中でも海上でもなく、遥か上空。地球表面から高度1000km、ヴァン・アレン帯の位置にありながら、太陽の双子のように輝くその光を。

 

「───────…………!!!」

 

 天の光から、一条の輝きが零れ落ちる。

 それは一直線にセラフィックス───ゼパルへと迫った。

 尾を引く流星はまさしく太陽の欠片。灼熱、と表現することすら生温い超高熱の光はしかし、大気を破裂させることも、海水を蒸発させることもなく突き進む。

 まるで、何を壊し、何を壊さないかを判断しているかのように。

 ゼパルは確信とともに想起する。

 第六特異点。一介の英霊にも関わらず、聖槍の女神と互角の砲撃戦を演じてみせた、太陽王オジマンディアス。

 この攻撃は、かの王の御業と同質であると。

 

(ならば、凌ぎ切れる)

 

 それもまた、ゼパルの確信であった。

 敵の失策はその高度。距離による威力の減衰は認められないが、距離があるということはその分到達までに時間がかかる。

 確かにゼパルは敵に届く反撃手段を有しないが、攻撃の到達に要する時間は敵に味方しない。なぜなら、セラフィックスの電脳化を果たしてしまえば物理的な干渉は不可能になるからだ。

 つまりこれは、ゼパルの防御が電脳化までの猶予を持ち堪えられるかの戦い。魔神は持てるすべての魔力を費やし、防御術式を構築する─────────

 

 

 

 

 

「『魔力(わたし)はキミには従わない。すまないね』」

 

 

 

 

 

 あどけなさが残る高い声が脳裏に響いて。

 ────ゼパルが動員した魔力は術式としてカタチを成す前に、跡形もなく霧散した。

 

「は」

 

 疑問を抱く暇すらなく。

 光が、ゼパルを撃ち抜く。

 周囲への被害は最小限。レイシフト適性者の素体にすら余波は及ばない。堕とされた太陽の欠片は天体室の本体だけを、正確に精密に、蒸発させてみせた。

 

「……………………が、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!」

 

 あっけなく、理不尽に。

 計画は潰え、魔神は死出の道を転がり落ちる。

 だから、だけど、だとしても、その叫びは断末魔には程遠く。故に、その行動は最期の悪あがきなんてものでもなかった。

 この身はセラフィックスと同化している。ならば、この施設を構成する物質を肉体に置き換え、ひとまずの延命を図る。

 内部の人間諸共沈む、などという選択肢はなかった。それを選ぶということは、自らの敗北と死を認めるのと同じだったから。

 

「ギャアアアアアアア!!! 見覚えしかないグロ大根がそこかしこから!! あの時魔神柱は全員駆逐されたはずですよねえ!!?」

「わんさか生えてきたってことは生き残ってたんだろ! セラフィックスは大根栽培でもしてたのか!?」

「んー、ペレアス様。様子を見るに元からセラフィックスと融合していたみたいですわ。要するに無限列車編です」

「ちょっとうまい喩えしてる状況じゃないんですけど!?」

 

 ……というやり取りはゼパルの聴覚に届くも、咀嚼はされず。

 蒼い海面が弾け、セラフィックス上部が露出する。

 ───一度はあの化け物からも逃げ切った。今回もまた繰り返すだけだ。肉体の一片さえ残れば、再起の機会はいくらでもある。

 数え切れないほどの触手が氾濫し、蠢くセラフィックス。その様はまるで植物の蔦が敷き詰められた地面に似ていた。

 触手を彩る眼球の視線がぎょろりと鎌首をもたげる。

 透き通った青空。一機のヘリコプターがローターの回転音を鳴らし、おぞましき様相の海洋油田基地を眼下に捉えていた。

 ヘリのドアから縄梯子が吊るされる。

 そこには二つの人影が、寄り添うみたいにぶら下がっていた。

 

「うわあ、実物は一段と……なんというか……アレですね。うん、すごく独特なデザインです」

 

 一方は、メイド服の少女。端正な顔を青白く染めて、唇が何かを食いしばるみたいに歪んだ弧を描いている。

 

「素直にキモいと言って良いのよ。あんなしぶとさだけが取り柄の存在に慈悲をかけるくらいなら、ご飯にかけた方がマシというものです」

「お米食べる地方の人でしたっけ?」

「たとえよ、たとえ!!」

 

 もう一方は、喪服の美女。全身に漆黒を纏い、身の丈に合わぬ大剣を携えていた。衣服とは対照的なまでに白い肌が陽光に照らされ、一層白々しく映える。

 メイド少女はインカムの向こうの人物───ヘリの操縦席へと問いかけた。

 

「おじさま! オーダーをどうぞ!!」

「『職員の避難が最優先だ。ひとり残らず生還させるぞ。後は、そうだな────派手にやれ』」

 

 メイド少女は虚空から無骨な色合いの砲を取り出す。

 一般的にロケットランチャーと呼ばれる武装。ただしその表面には魔力を込めた紋様が弾頭に至るまで刻まれていた。

 弾頭が狙いを定める。少女は満面の笑みで、砲のトリガーを引いた。

 

了解(ファイヤー)っ!!」

 

 重厚な音を立てて、青空のキャンパスを白い線が横切る。

 直後、爆発が巻き起こり、着弾点周辺の触手を一掃した。続けざまに彼女は叫ぶ。

 

「それじゃあ───やっちゃってください、バーサーカー!!」

 

 中空より、黒白の剣姫が舞い降りる。

 着地と同時、彼女は襲い来る触手を切り払い、答えた。

 

「ええ、マスター……!!」

 

 

 

 

 

 

 …………一方その頃。

 のたうち回る触手が、ひとつのまんまるな影を引き裂いた。

 

「うおわああああああああ!!!」

 

 九番ボールの着ぐるみが無残な布切れと化す。尻もちをついた中の人の横を疾風が通り抜け、触手を粉砕する。

 ずるりと粘液を引く大盾。マシュは血相を変えて振り向き、愕然と膝をついた。

 

「せ、セラフくんが粗大ゴミ同然に……っ!! どの魔神柱だか知りませんが、絶対に許せません!!」

「俺の心配をしてくれてもいいんじゃないですかァ!? セラフくんこっちだから!!」

 

 中の人は大声を張り上げた。一同は白日の下に晒された顔に目を向ける。

 黒髪と鮮やかな青の瞳。街ゆく人皆振り返る、とまではいかないが、どことなく品のある顔立ち。なんとなく目を惹くが、感想を求められるとなんとも言えない容姿だった。

 仲間たちが触手の海を殲滅する横で、マシュはぺこりと頭を下げる。

 

「初めまして。お名前をお聞かせ願えますか?」

「キアラさん。ここはツッコむべきですか」

「ひとつだけ確実に言えることは、私の手に負えないとしか」

 

 気まずそうにキアラは顔を背ける。中の人は意を決して宣言する。

 

「俺は藤丸─────」

「ヒィィィィィ!! 風邪ひいた時に見る夢みたいな地獄絵図! ペレアスさんおんぶしてくださいおんぶ!!」

「藤ま」

「ペレアス様のカラダは私のものですわっ! さあ、私を頭がフットーしちゃうような体勢で抱きかかえてくださいませ!!」

「藤」

「ぐもおおおっ!! お前ら一旦離れろ!!」

 

 中の人はさあっと涙を流して、

 

「…………藤丸兄でお願いします」

 

 マシュとジャンヌは目を合わせる。両者の脳内に浮かぶ、いくつものビジョン。そのどれもが己がマスターのマヌケ面であった。

 

「その取ってつけたような兄の称号はまさか……」

「お二人のマスターって、ホットケーキミックス狂いで、ガチャ狂いで、ゴキブリを素手で掴めて、しかも朝はゾンビになるアレですよね?」

「くっ! そんなアホ地球上でたったひとりしかいないじゃない……!!」

「その通りです、ジャンヌさん。この人は紛れもなく先輩のお兄さんです!」

 

 すると、リースとペレアス、ダンテは感嘆しつつ藤丸兄の顔を覗く。

 

「立香さんの部屋にキツめの性癖の同人誌を隠していたという、あのお兄さんですか?」

「へえ、高三最後の大会で負けた時に地面殴ったら右手骨折したっていう、立香ちゃんの兄貴か?」

「あなたが中学二年生の時、包帯と眼帯を身に着けていたせいであだ名が『重病人』だったと言われる、あのお兄さんなんですねえ」

「────なんてこと話してくれてんだアイツゥゥゥ!!!」

 

 彼は床にうずくまって、頭を抱えた。全ての不幸の原因は妹のおしゃべりさに尽きると言えよう。

 一般人であるはずの彼がなぜここにいるのか等々疑問は尽きないが、とりあえずマシュはそれらの問題を彼方へ放り投げることにした。

 

「積もる話はありますが、まずは脱出しましょう! キアラさん、逃げるのに勝手が良さそうな場所はありますか!?」

「非常時は最上部の資源搬出ブロックにある船を使って避難する手筈になっています。ただ、逃げ遅れた人が……」

「だったら、オレとリースでセラフィックスを回ってくる。昼前だから人が集まりそうな場所は分かるしな」

「それで行きましょう。わたしとジャンヌさんで、とりあえずここにいる人たちを避難場所まで護衛します」

 

 マシュたちは頷き合う。ペレアスの剣術特訓で職員の多くが集まっていたことは不幸中の幸いだった。各々が決心を固める最中、そろりと手が挙がる。

 

「あの、私は?」

「ダンテさんにはトルネコの役割があります。頑張りましょう」

「馬車に追いやられた────!!」

「いいから動きなさい!!」

 

 ジャンヌはダンテの襟を掴んで、職員たちの先駆けを征く。

 道を阻む肉の棘を焼き焦がし、斬り伏せ、弾き潰す。四方八方から敵が襲い掛かろうと、マシュとジャンヌはことごとくを正面から打ち破る。

 

「弱い、チョロい、手応えなし! 三拍子揃った雑魚敵で助かるわ! トルネコのレベル上げにもなりゃしないっつの!!」

「こればかりは同意せざるを得ませんね! メカフリーザが瞬殺された時くらいのガッカリ感です!!」

 

 鎧袖一触、とはまさにこのことだった。

 魔神柱が万全であればともかく、七十二柱の悪魔たる権能も魔術も用いぬ触手など、いくら数を揃えたところで障害になり得ない。

 怪物相手に大立ち回りを演じる美少女コンビ────と表現すれば綺麗なものに思えてくるが、現実はそう優しくはなかった。

 さっきまで大根だったものが辺り一面に転がる。奇怪な色をした肉片と粘ついた血混じりの体液が足元に満ちる。靴が液体を吸って重くなり、疲労とはまた別の意味で足が取られてしまう。

 藤丸兄とキアラは胸の内からこみ上げるものを押さえつけながら、

 

「これがサーヴァント……外に出せない理由がようやく分かったというか。大丈夫ですかキアラさん」

「し、心頭滅却すればグロ画像もほんわか猫画像です。ところで藤丸さん」

「はい?」

「ここに来る前はエジプトで永久機関を開発していて、見知らぬ人に捕縛された……ということでしたね?」

 

 キアラは彼を見据え、問い掛ける。

 

「貴方を捕まえたのは、セラフィックス……カルデアの人間だったのでは?」

 

 その問いに、肯定や否定が返ることはなく。

 

「〝Eチームマスター藤丸立香はレイシフト適性100%という驚異的な数値を示した。ならば、血縁者はどうか〟……で、あったみたいです。俺にも。それで本当はカルデアの特異点F調査計画に滑り込まされる予定だったんですけど」

「けど?」

「先に来た二匹のアホで手一杯だったとかなんとか」

「思ったよりくだらない理由……!!」

 

 キアラはがくんと背中ごと肩を落とした。当時のカルデアは残業という概念がなくなるほどに忙しかった。そこに放たれた立香とノアの存在はとどめに等しかったのである。

 キアラがどことなく損した気分を味わっていると、セラフィックス最上部資源搬出ブロックは目の前に迫っていた。

 先行きを阻む隔壁と肉の壁。なれど、ジャンヌの炎の前には何ら障害に成り得なかった。視界が開けるとともに、折り重なる銃声の音が鼓膜を叩く。

 

「みなさん無事でなによりです! 船は護っておきますので、ずずいっとお乗りください!!」

 

 ガトリングを持ったメイド少女だった。

 その細腕のどこにそんな力があるのか、数十キロはある砲を軽々と操り、手当たり次第に触手を弾幕の餌食にしていく。

 しかも彼女の傍らにはこれまた細腕で大剣を振るう、喪服の美女。マシュとジャンヌはロアナプラから引っ張り出してきたかのような二人組と相対し、眉根をひそめた。

 

「こんな状況で信じろとでも? 明らかに怪しさ満点でしょう。船に爆弾でも仕掛けてるんじゃないでしょうね」

「もしくは背を向けたところをズドンという腹積もりかもしれません。何よりも得物が物騒すぎます」

 

 喪服の美女は好き放題に考察するなすびと魔女を睨んだ。

 

「馬鹿でかい盾持ってるのと火炎撒き散らしてるのがいる時点でおあいこよ」

フォウ(確かに)

「一分の隙もない反論ですねえ」

「不審者の理屈を受け入れてんじゃないわよ! だいたい─────」

 

 ジャンヌは一足飛びに旗を振りかぶる。

 

「────私たち以外にサーヴァントがいること自体おかしいでしょうがっ!!」

 

 甲高い金属音が鳴り響く。

 せめぎ合う旗と魔剣。両名は殺気を込めた視線を衝突させ、一層柄に力を加える。

 

「離れてくださいジャンヌさん! カラーリングが似てるせいで同士討ちしてしまいそうです!」

「うっさいわ! アホのアンタが言うと冗談なのか本気なのか分かんないのよ!!」

「まあまあ、あちらに敵意はありませんし、ここは仲良く共闘とした方が良いと思いますよ」

「そういうことは馬車から降りて言ってくれますぅ!?」

 

 ジャンヌはダンテの意見を一蹴し、黒炎を放った。

 槍が如き炎の穂先はメイド少女へ直行する。刹那、少女の周囲にアルファベット状の影が点々とにじみ出し、目にも留まらぬ速度で回避を行う。

 サーヴァントに匹敵する速さ。だというのに、身のこなしは悠然としていて。それはまるで映像を早回ししているかのような違和感があった。

 マシュは既視感を覚える。その動きではなく、少女が展開する影。黒白の偽神サクラが纏っていた影と近しい、と。

 

「虚数属性の影……この状況では厄介に過ぎますね」

「あら、一目でバレちゃいました。やっぱりEチームはすごいのね、バーサーカー?」

「世界を救った英雄サマですもの。能力だけはお墨付きよ。振る舞いがアホなところもますます英雄ったらしくて気持ち悪いことこの上ないわ」

「ハッ、捻くれてるわね舌ピ女。実力の差ってのが理解できた?」

 

 ジャンヌの挑発を受けて、喪服の美女は酷薄に笑い返した。

 

「それはもう、たっぷりと。私が知る英雄よりよっぽど弱いということが、ね」

 

 魔剣が躍る。無造作に繰り出された斬撃は、背後より迫り来る肉棘の群れを一網打尽に切断する。

 それを皮切りに。死体に群がる蟻のように、一帯を触手が埋め尽くしていく。

 生物の体内を思わせる、肉と粘液の牢獄。メイド少女は踊るような足取りでジャンヌに近寄った。

 

「流石に協力しないと職員のみなさんを護れないですよね。なので、」

「見逃せってわけ? 生憎だけど、アンタみたいなムーブをするやつは早めに潰しておくのが、特異点修復の教訓よ」

「はい、私はあなたを攻撃しません。あなたはお好きにどうぞ。どうせ当たらないので♡」

「────上等!! 丸焼きになる覚悟の準備をしておきなさい!!」

 

 歪な共闘関係による防衛戦が幕を開ける。なお、職員一同の心持ちは〝なんでもいいから助けてくれ〟の言葉で全会一致していたのだった。

 その一方、ペレアス&リース夫妻はセラフィックスを駆けずり回って、逃げ遅れた職員を集めていた。救助活動は難航すると思われていたのだが、

 

「「…………変な声に導かれた?」」

 

 騎士と精霊は口を揃えて言った。

 二人の眼前では、人間という人間が廊下にすし詰めになっていた。その中のひとりが盛大に頷きつつ、早口で告げる。

 

「子どもみたいな声が道案内をしてくれて……ここにいれば、ペレアスさんが助けてくれると言ってました」

「よく従ったな? めちゃくちゃ怪しいだろ」

「それが、逆らおうとすると無理やり体を動かされまして。空気中のマナが強引に押してくるんで、全身バキバキです」

「とにかく無事でなによりですわ! 急いで避難いたしましょう!」

 

 そうして、彼らは見た。

 至るところに蠢く触手。その全てが、まるで示し合わせたかのようにぐしゃぐしゃと潰れていく様を。

 

 

 

 

 

 

 

 かたかた、とコンソールが軽妙な音を奏でる。リズムに合わせて、無数のパネルが代わる代わる難解な文字列と図絵を映し出していく。

 それらを指揮するのは、ひとりの女。腰まで伸びる長い黒髪がしなやかな肢体に寄り添う。

 右手は操作盤に、左手は一本のたばこを挟んでいる。彼女は左手を口元に持ってきて、白いフィルターを咥える。

 

「…………ふぇーひあのへっへんはふぁんらっはほほほう?」

 

 女は数瞬固まり、さっとたばこを取り出す。頬をやや赤く染めて、苦々しく咳払いをした。

 

「失敬。ゲーティアの欠点は何だったと思う? 魔神ゼパルよ」

 

 怜悧な眼差しが、隅に転がる肉塊を刺す。しかし、か細いうめき声が返ってくるばかりで、何ら意味のある旋律にはならない。

 

「それは、真に上位存在足り得なかったことだ。彼はソロモン王の裡で産まれ、主が死してなお人類史の過去と未来を見続け───いつしか諦観に至った。そうだな?」

「……そ、うだ。ヒトはあらゆる世界のあらゆる時代で在り方を変えることなく停滞し続けた。故に滅ぼすと決めたのだ」

「二十万年前に我々ホモ・サピエンスが産まれ、農耕と牧畜を開始したのは一万年前ということは知っているか? お前たちに言わせれば、十九万年もの間ヒトは停滞し続けた訳だが…………」

 

 女は煙を吸い、ゆっくりと吐く。

 

「ヒトを超え、死を克服したと宣うのなら、もう少し長い目の見方はできなかったのか?」

「……何が言いたい」

「ゲーティアは2016年に世界の終わりを定めた。ソロモン王は前十世紀の人間だから、実に三千年越しの計画だ。いや、たった三千年か。人類はかつて十九万年の停滞を経験したというのに、たかがその程度の時間で人類史を打ち切るなど聞いて呆れる」

 

 ゲーティアは、七十二柱の魔神は、三千年を長いと感じる感性を持っていた。それが彼の、彼らの陥穽。死を克服したというのに、なぜかゲーティアは時間に追われていた────女はそう言って、コンソールを叩く指を止めた。

 

「お前たちが見たあらゆる世界のあらゆる時代における停滞と犠牲は、進歩のための助走だよ。……まあ、私は人間だから、そんな綺麗事で納得はできないがな。察するに、ゲーティアも同じ考えだったらしい」

 

 結局、ゲーティアの思考は人間の範疇から逸脱できなかった。

 機器にメモリを差し込み、情報を複写する。メモリの光が数度点滅すると、女はそれを抜いて胸元に仕舞い込んだ。

 

「ただ、お前の計画は、人間の私ですら短いと思える時間で終わりを迎えたようだ」

 

 ───だが、絶望する必要はない。

 女は紙製の護符を肉塊に貼り付け、囁く。

 

「たとえお前の計画が成就していようと、それはたったひとりの恋する乙女に台無しにされる程度のものだからな。……いや、恋する乙女は最強か」

「……この護符。まさか貴様、黄金の─────ッ!!!」

「詳しくはアブラメリンを読め。私のために働いてもらうぞ、ゼパル」

 

 護符がやにわに発光し、ゼパルは魔力の粒子となって輪郭を失った。光の粒は護符へと宿り、輝きが失せるのを見届けると、乱雑に外套のポケットに押し込んだ。

 

「おっと、そうだ」

 

 女は革靴の先で、床にこびりついた肉片を踏み潰す。たったそれだけの動作に、魔術が仕込まれていた。

 感染呪術。元々ひとつであったものは、たとえ離れようと互いに影響を及ぼし合う。つまり、ゼパルの一部が潰れてしまえば、それは全体へと波及する。

 彼女は朽ちゆく魔神に目もくれず、部屋の───天体室の壁を眺めた。

 墓標の如く敷き詰められたコフィン。カルデアス製造の過程で魂をすり減らした、何人ものレイシフト適性者の亡骸。

 女は紫煙をくゆらせ、彼らへ告げる。

 

「……もう、こんなところに囚われることもないだろう」

 

 そうして。

 ヴァン・アレン帯から、第二の光条が降り注いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 セラフィックス最上部、資源搬出ブロック。

 上下左右を埋め尽くす触手が一斉に圧潰する。血液の雨が降る最中、メイド少女と喪服の美女は一目散に虚数空間へと駆け込んだ。

 

「それでは私たちは帰ります! 次はスカートの端っこくらい焼けるようになっていてくださいね!」

「その宿題はあの魔女っ子には難しすぎるわ、マスター」

「───ぐっ、ぎ、うぎ、ぎぎぎぎぎっ……!!!」

「おお、ジャンヌさんがあまりの悔しさに血涙を流しています」

 

 ジャンヌは血でずぶ濡れになることも厭わず、地面に手をついた。ここにもし某フランス元帥がいれば、新たなインスピレーションを与えかねない光景である。

 そこで、ペレアスたちが血の海を掻き分けてやってくる。騎士は血相を変えて叫んだ。

 

「お前ら急いで船に乗れ!! どうやらセラフィックスの中枢が爆発したらしい! このままじゃ海の藻屑になるぞ!!」

「まさかの爆発オチですか!? 早く職員の方々を詰め込みましょう! ほら、敵にかすり傷も与えられなかったジャンヌさん、筋力Aの使いどころですよ!!」

「傷口に塩を揉み込まないでくれますこのアホなすびがあああああああ!!!」

フォフォウ(コントかな)?」

 

 暴走特急と化したジャンヌは次々と職員を掴み、脱出艇へと放り投げた。最後のひとり、藤丸兄が甲板に投擲されると、マシュは手を大きく振った。

 

「皆さんは先に逃げてください! 爆発はわたしの宝具で凌ぎますので、遠慮は無用です!!」

「り、了解しました! 絶対後で迎えに行きますね!」

 

 藤丸兄の応答に続いて、脱出艇が全速力で出航する。セラフィックス観光ツアー一行は海原へ走り出す船尾を見送り、溜まった疲労をため息として排出した。

 すると、ダンテは口角を震わせて、呟くように言う。

 

「……あの。どうせ宝具を使うなら、私たちも乗って船ごと護れば良かったんじゃ…………」

 

 マシュは得意気に鼻を鳴らし、

 

「ふっ────どうやら、わたしも焦っていたようですね……」

フォフォフォウ(いいから早く宝具)!!」

 

 直後、セラフィックスは盛大に爆散する。

 苦楽を共にした基地が黒煙と炎を噴き上げながら沈んでいく。脱出艇の面々はその一部始終を、喜怒哀楽入り混じった表情で眺めていた。

 職場が消えたことに対する悲喜こもごもの声が響く中、キアラは足の裏にぶにゅりとした感触を覚えて。

 おそるおそる足元を見やると、とろけた餅に眼球をひとつ載せたみたいな肉塊が這い寄っていた。

 

「───きゃああああああっ!!?」

 

 それは、魔神ゼパルの破片。

 既に死に逝くだけの残滓だった。

 ソレは鉄の弦をノコギリで弾くかのようなおぞましい声で嘶く。

 

「殺生院、キアラ……!! 貴様が───貴様の体さえあればまだ、まだ……っ!!」

 

 もはや、その肉塊には動くだけの力もなかった。

 キアラはソレを何も知らない。ソロモン七十二柱の魔神であることも、ゼパルという名を持っていることも、ソレが自らを利用しようとしていたことも。

 けれど、全て知っていたとしても、このキアラの行動は変わらなかっただろう。

 肉塊の前に座り込み、真っ直ぐその姿を見据える。

 

「どうして、私が必要なのですか」

「決まっている、平行世界の貴様をその肉体に転写するためだ! 万色悠滞の魔人、魔性菩薩、随喜自在第三外法快楽天───あらゆる知性体を蕩かす獣の力さえあれば…………ッ!!!」

「あなたの目に私がどう写っているか分かりませんが、私はそんな大層なものにはなりません。他を当たってください」

「己が快楽のため、何もかもを踏み台にする破戒僧! それこそが貴様の本質だ! 私を受け入れさえすれば、貴様の魔性を解き放ってや」

 

 しかし、その言の葉が最後まで紡がれることはなかった。

 

「サッカー部直伝藤丸キック!!」

 

 藤丸兄渾身の蹴りが、肉塊を海へ吹き飛ばす。

 それは放物線を描き、小さな飛沫をあがて海面に落下した。彼は水面に揺れる波紋に向かって、大きく吐き捨てる。

 

「キアラさんは裏表のない素敵な人です!! 俺たちが知らない世界のことを持ち出して本性語ってんなよ、ばーか!!」

 

 ふう、と藤丸兄は息をつく。

 キアラはその横顔を、ほのかに上気した瞳で見つめていた。彼はそんな視線に気付かぬまま、船の欄干にしなだれかかる。

 しばらくの間そうして、彼は独り言をこぼした。

 

「……アレ? セラフィックスなくなったら俺無職なんじゃ?」

「ま、まあ……」

「────コネも学歴も資格もない俺が再就職とか無理だよォォォォ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 藤丸兄の悲痛な叫びが太平洋に轟く二日前。

 めちゃかわ皇帝ソル子くん&アンナ・キングスフォードによる、狂気の時計塔凸が未遂に終わった後のことである。

 忽然と姿を消したアンナたちと入れ替わりで現れた、魔神柱バアル。ソロモン七十二柱における序列第一位の魔神は今、 

 

「ああああああああああ!!!」

 

 火炙りの刑に処されていた。

 ラッセル・スクエア。大英博物館にほど近い公園のど真ん中で、火の粉を弾けさせながら焚き火が燃え盛る。

 バアルは釣り竿の先に括り付けられ、焚き火の直上に吊るされていた。バアルはちろちろと踊る炎の舌先から逃れるように、もるんもるんと身をよじらせる。

 釣り竿の根元を握るのは、魔神よりも悪魔的な性根を持つEチームリーダー。彼は南極の吹雪よりも冷たい声音をバアルに浴びせかけるのだった。

 

「この際おまえが生きてたことはどうでもいい。のこのこ俺たちに処刑されに来た訳を言え」

「薔薇十字団の計画が成就するのは私にとっても不利益が生じる! 未だ奴らの尻尾も掴めていない貴様らに協力してやろうというだけだ!!」

「立香、薪増やせ」

「はい」

「うぐおおおおおおっ!!!」

 

 立香は次々と木を投入した。炎は一層高く揺らめき、バアルを直火焼きにする。

 そんな凄惨な光景を、エルメロイⅡ世とグレイはやや遠巻きから見守っていた。

 

「……アレは止めなくてもよろしいのですか?」

「魔神柱バアルの自業自得だろう。ただ、奴の情報が得られなくなるのは困るか」

 

 エルメロイⅡ世はどこからか持ってきたバケツの中身をバアルにぶちまけた。釣り竿の糸を千切り、ボンレスハムの如く縛りつける。

 

「薔薇十字団が狙うモノとはなんだ? 私たちに何をさせたい?」

「ぐっ……シャーロック・ホームズは言っていた。奴らの目的は地球ごと人類を根源に到達させることだと。Eチーム、貴様らは第六特異点にてそれの方式を知っていたはずだ!」

「覚えてはいるがおまえの態度が気に食わん。敬語を使え。そして常に語尾に謝罪の言葉を添えろ」

「───その方法とは地球を固有結界で包み、次元跳躍を用いて根源を目指すことですすみません! 薔薇十字団はシモン・マグスに代わってそれをしようとしているんですごめんなさい!!」

 

 ノアは地面に横たわるバアルに、とくとくとオリーブオイルを注ぐ。

 

「やればできるじゃねえか、ご褒美だ」

「良い匂いにしないでください申し訳ありません!!」

「読みにくいんで元の口調に戻ってもらっていいですか?」

 

 立香は冷淡に述べた。エルメロイⅡ世は芳醇な香りを漂わせるバアルに詰め寄る。

 

「だが、地球全土に固有結界を展開するとなると莫大なリソースが要るはずだ。聖杯級の魔力炉心を複数備えてようやく実現に目処が立つほどだろう」

「そう───だからこそ、奴らの狙いが絞り込める。この世界にはあるはずだ。一度役割を果たし、今なお胎動する聖杯が」

「それってもしかして……」

「冬木の聖杯。かつて一度だけ行われた、正統なる聖杯戦争の儀式の核。薔薇十字団の標的はそれだということだな?」

 

 くねん、とバアルは身を折り曲げる。頷いているつもりなのだろうが、ただ身動ぎしているようにしか見えなかった。グレイはその動作にそこはかとなく可愛さを覚えた。

 ノアは拾った枝でバアルの眼球を抉りながら、

 

「それでも聖杯はひとつだ。数を揃えるにはどうする」

「す、既に奴らはそれぞれ聖杯を持っている! その肉体の裡にな! 藤丸立香、知恵の女神に説明させろ!!」

「え、あの人ニートだから呼んでもたまにしか出てこないんですけど」

「おいおい。ニートなんてのはな、部屋の扉ぶっ壊せば行き場を失うしかねえんだよ」

 

 ノアは立香の影に拳を打ち付ける。すると、にょっきりと生えてきた右手の指がノアの両眼に直撃した。

 彼が悶絶していると、知恵の女神ソフィアは立香の影から頭部だけを出した。彼女は不機嫌な面持ちで口を動かす。

 

「誰がニートだ、立香の警備員と言え」

「いやまあ純然たるニートですけど……なんでも知れるんですから、こういう時くらい役に立ってください」

「こういう時くらいとは言うが、お前が私を呼ぶ時はゲームの攻略情報を訊くか、いつガチャを引いたら高レアが出るか程度だろう」

 

 まあ良い、とソフィアは言を翻した。

 

「私は儀式魔術『聖なる婚姻(ヒエロス・ガモス)』によって、肉体そのものが聖杯の機能を得た。シモンはその術式を改良し、より簡単に私のような体を構成する方式を開発した。無論、相応の魔術回路を必要とするから、誰もが適合する訳ではない。加えて、詳細は省くが、それは女の体でしか実現しない術式だ。……これはおまけの情報だが、アンナ・キングスフォードからは確かに聖杯の気配を感じた。上手く隠してはいたがな」

 

 言うだけ言って、ソフィアは影の奥に沈んでいった。薔薇十字団の人数は不明だが、肉体を聖杯としているのがアンナ・キングスフォードだけであるなどということはないだろう。エルメロイⅡ世が言う要件を満たす数は揃えているに違いない。

 冬木の聖杯は言わば最後のピース。それが薔薇十字団の手に渡れば、素知らぬ内に世界が固有結界に包まれているなんて事態も有り得る。

 エルメロイⅡ世は懐から端末を抜いて、

 

「九州行きの飛行機を押さえる。薔薇十字団よりも先に聖杯を見つけるぞ」

「あ、待ってください。さっきバアルが借りを返しに来たとか言ってましたよね。正直、全然信用できないっていうか」

「おまえにしては目ざといな。答えろグロ大根。ここに来るまで猶予があったはずだ。何かしてねえだろうな」

「…………」

 

 沈黙するバアル。ノアはそれを雑巾のように絞った。

 

「があああああ!! 東京にいくつか魔術式を仕込んだ! それだけだ!」

「復讐する気満々じゃねえかクソが!! 余計な仕事増やしやがって、もっかいヤドリギブチ込んでやろうか!?」

「くそっ! 二機チャーターする羽目になっただと!? 極秘のジェット機を用意するのにいくらかかると思っているんだ!!」

「今月はおかずが一品減りますね」

 

 グレイはさらりと言った。他人の空似どころではない騎士王の方はエンゲル係数を跳ね上げるほどの胃の持ち主だが、少食の彼女にはさしたる問題ではなかったようだ。

 ノアはバアルを握り潰しながら、エルメロイⅡ世に向き直る。

 

「俺たちが東京行きだ。おまえらは冬木で先に聖杯を探せ。こいつはおまえが監視してろ」

「なぜ私だ。魔術式の探査用にお前が持っていろ」

「東京程度の広さなら楽勝で探知できる。術者を連れ歩く方が危険だろうが。いいから持ってけ」

「待て、聖杯を探すのにそんな目立つモノを────」

 

 ノアはバアルをエルメロイⅡ世の股間に貼り付けて、納得げに頷く。

 

「こんなもん適当にくっつけときゃバレねえだろ。敵と接触する時も威圧できるだろ。ロードの称号はハリボテでもロードのロードはしっかりロードだって一目で分かるだろ」

「おい」

「いっそ服も脱いだ方がいいな。コテカみたいな感じで。そういう文化ですけど何か? みたいな態度でいけば案外すんなりいくだろ」

「案外すんなり逮捕される未来しか見えないだろうが!!」

 

 ゴッ、とエルメロイⅡ世の鉄拳がノアの頭を打ち据え、撃沈させる。彼は即座に股間のコテカ───バアルを投げ捨て、立香とグレイに言った。 

 

「荷物をまとめて空港に集合する。執行者部隊の派遣も要請しておくから、先に行ってくれ」

「立香さんにとっては里帰りですね?」

「また飛行機かぁ……」

 

 そんなこんなで、冬木市に戦塵の先触れが巻き起こるのだった。



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第88話 娘の彼氏は暗黒卿

 太平洋のどこか。

 海洋油田基地セラフィックスはしめやかに爆発四散した。跡形もない、とまではいかないが、少なくとも跡形しか残らないほどには木っ端微塵になった。

 セラフィックスを再建したとしても、全く別の部品で造られたそれはセラフィックスと言えるのか。世が世なら哲学者たちの議論の的になっていたであろう、そんな残骸の上。我らがカルデアレイシフトEチームの、名だたるサーヴァントたちが体育座りになって輪を作っている。

 彼らが取り囲む中心には、ダンテが後生大事に抱えていたお椀が置かれていた。

 代わる代わるお椀に手が伸び、中身の柿ピーをつまんでいく。

 

「───ここに魔神柱が現れたということは、まだ他にも存在する可能性がありますね。見た目は大根の癖に生命力はミント並みです」

「そうね。アンタなんか見た目はなすびの癖に耐久力はコドラだもの」

「ココドラじゃないところが、あの頃の純粋なマシュちゃんが失われた感じがあるな……」

「ペレアスさん。百億歩譲ってわたしから純粋さが無くなったとして、その前にBボタンを押せなかった方にも問題があると思います」

 

 咎めるような目つきをするマシュ。ジャンヌは心底どうでも良さそうに、ピーナッツを口に運んだ。

 

「無理でしょ。アンタのソウルジェム第一特異点の頃からかなり濁ってたもの。闇堕ち寸前だったもの。ワルプルナスの夜だったもの」

「現役バリバリ魔女のジャンヌさんに言われたくないんですが? ここでグリーフシードに変わってもらってもいいんですよ?」

「絶賛遭難中でもこの変わらなさ、ロマニさんが見たら成長に歓喜するに違いないですわ」

フォフォウフォフォウ(たぶん泣いてるよアイツ)

 

 フォウくんは目を細め、泣き笑うロマンの顔を虚空に投影した。もっとも、彼がマシュの変わり果てた姿に涙するのは一度や二度ではないのだが。

 ダンテはロマンの幻影を背負いつつ、呟くような、しかし通る声で言った。

 

「というか……助けに来るのが遅くありません?」

 

 それは、場の全員が目を背けていた事実だった。真っ青で鮮やかだった空は一面黒色に染まっており、彼らの頭上には満天の星空が広がっている。

 こんな状況でなければ感動を覚える光景であったが、生憎と彼らの視線は褪せたお椀の柿ピーにしか向けられていなかったのだった。

 マシュはぽりぽりとピーナッツを貪りながら、

 

「キアラさんや先輩のお兄さんがわたしたちを見捨てたとは思いませんが、確かに妙ですね。位置もそれほど離れていなかったはずです」

「薔薇十字団のメイド女じゃないの。虚数空間で船をワープさせるなんて芸当もできそうだけど」

「現代の魔術師としては破格の芸当ですが、不可能ではありませんわね。そもそも現代人ではないかもしれませんし」

「……ってことは、ウチの風雅な新所長はあのメイドに拉致されたんじゃねえか?」

 

 ペレアスは何の気なしに呟いた。

 ノアの魔術属性・無と対を成す虚数属性。その特性は『ありえるが、物質界にないもの』。通常の五大属性とは外れた位置にあるこの力の使い手は少なく、それ故研究の手が十分に及んでいない。

 しかして、その価値は絶大だ。虚数属性の魔術師は通常観測不可能な別次元・別空間に干渉することができる。エレナ・ブラヴァツキーやアレイスター・クロウリーが西洋魔術にインド哲学を取り込むことで、魔術の形而上学的側面を押し上げたように、虚数属性は魔術の新たな領域を開拓する灯明足り得る。

 そんな力の使い手が奇襲をかけてきたとすれば、風雅なゴルドルフ・ムジークとて成す術はなかったのではないか。ダンテは唸るような声をあげた。

 

「ええ、この状況ですとそう考えるのが妥当でしょう。古今東西ハニートラップにかかるお偉いさんは多いですからねえ」

「経験者は語るってやつ? アンタ一応フィレンツェの統領だった訳ですし」

「ははは、何を言うのですかジャンヌさん。私が色仕掛けに惑わされていたら、マラリアに罹るまでもなくジェンマにブチ殺されてましたよ!」

「素晴らしいですわ。なんだかジェンマさんとは気が合いそうな予感がします」

 

 きらりと目を輝かせるリースの横で、ペレアスは苦々しい顔をした。確かに気は合うだろう。かたやベアトリーチェ、かたやエタードといった恋敵たちへの暗い情念という点で。

 マシュは乾いた笑い声を響かせ、鮮やかだった瞳の色をドス黒い闇で満たした。

 

「まあ、それが分かったところでわたしたちにはどうにもできませんがね。この状況に今更ながら怒りが湧いてきました。こうしている間にも先輩とリーダーは遊び呆けているというのに」

「久しぶりに気が合ったじゃない。ここにいるのも飽きてきたわ。どこぞの預言者サマなら海を割ったり水の上を歩いたりできたんでしょうけど」

「いや、リースの『空想具現化(マーブル・ファンタズム)』で城出して移動してもいいんじゃないか。水ならたくさんあるしな」

フォフォウフォウ(目立ちすぎるだろ)

 

 そこで、マシュは唐突に切り出す。

 

「…………そういえば、ギャラハッドさんは生きながらにして天に召された騎士。ということは聖人のひとりと言えるのではありませんか?」

「そ、そうですねえ。聖人の定義は時代や地域、宗派によって様々ですが、逆に言えば多様な理屈が併存しています。ギャラハッド卿ならば認める人がいてもおかしくはないと……」

「なるほど。みなさん喜んでください、この場所から脱出する方法が見つかりました」

フォフォフォウフォウ(文字数の無駄やめてくれる)?」

 

 そんなフォウくんの声が届くことはなく。マシュは無駄に派手な変身バンクを挟み、戦闘形態へと変貌を遂げた。一同から発せられる冷たい視線を物ともせずに、彼女は雄大なる海との瀬戸際に屹立する。

 

「さあ、わたしに宿るギャラハッドさんの魂よ! この海を真っ二つに割るのです! さすればセラフィックスからのエクソダスは成し遂げられるでしょう……!!」

「……アンタみたいななすびがモーセの真似事なんてできるわけないでしょ」

「ふっ、分かっていませんねジャンヌさん。リーダーならともかく、わたしはかの大預言者に並ぶとまで自惚れてはいません。奇跡を起こすのはギャラハッドさんです。ギャラハッドさんだったらできると信じているまでです」

「それただの無茶振りですよねえ!!?」

 

 そもそもモーセが紅海を割ったのはエジプトからイスラエル人を逃がすためであり、神の力添えを得たからで───といった薀蓄を、ダンテは喉元で押し留めた。

 相手はいまやノアと立香に次ぐアホのなすび、理外の存在をどうして理屈で説き伏せることができようか。

 

「海を割るのですギャラハッドさん! いちいちわたしの武器をイジってきたベイリン卿や性癖暴露系騎士のランスロット某とは格が違うところを見せてください!! そしてあわよくば先輩を籠絡したリーダーに天罰をッ!!!」

フォウフォウ(駄目だこいつ)フォフォフォウフォウ(早くなんとかしないと)

「だいたい、あわよくばが本音になってるでしょうが!! ただの憂さ晴らしでしょうが!!」

「この人本当にマシュさんですか!? サクラが擬態してるとかじゃありませんよねえ!?」

 

 ペレアスとリースが心の中でギャラハッドに十字を切っていると、唐突に脳内で声が響く。

 

〝助けてください〟

 

 あまりにも聞き覚えのある声の、あまりにも悲痛な訴え。ペレアスはひくひくと唇の端を震わせて、一筋の冷や汗を流した。

 

「まさか、座から呼び掛けてきやがった……!?」

「生前の私ならいけましたが、写し身の今となっては無理ですわね。でも奇跡のひとつやふたつ起こせますわ! なんと言っても私が育てたランスロットのむす」

 

 リースの発言を遮るように、ギャラハッドは告げる。

 

〝ちょっと湖の騎士の股間のアロンダイト呪ってきます。救世主も空腹なのに実をつけてないイチジクの木を枯らしたりしてましたしノーカンですよね〟

「待てェェェ!! それは流石にランスロットでもとばっちりだから!! あいつのアロンダイトなかったらお前この世にいないぞ!?」

「下半身事情ひとつで特異点ができてしまいますわね」

「アンタたち誰と喋ってるのよ」

 

 ジャンヌは疑わしげな目でペレアス夫妻を見つめた。彼女の後ろでは未だにマシュが海とギャラハッドに向かって、無茶振りを繰り返していた。

 第六特異点の砂漠よりも不毛なやり取り。しかし、その終わりが訪れるのは意外にも早かった。モーセが杖を差し伸べたように盾を掲げた瞬間、マシュの目の前で盛大に波しぶきが爆ぜる。

 ダンテは目と口を大きく開いて、落下するみたいに尻もちをついた。

 

「ギャアアアアアア!! 割れたァァァ!!!」

 

 カッ、とまばゆい光が絶叫するダンテの顔を照らし出す。

 海面から半身を乗り出す、鋼鉄の艦体。近未来SFモノに出てきそうな風体の艦の照明は、ダンテの顔面だけでなく一同が漂流していた廃材の小島を広く夜闇から浮かび上がらせる。

 船体の艦橋から、二つの人影が現れる。光によって縁取られるシルエットのうちの片方は、一同がよく知るものだった。

 

「いやはや、海域一帯に認識阻害の魔術を施すとは、薔薇十字団の面目躍如と言ったところか。あのビームを撃ち込むこともできただろうに、舐めプでもしているのかな?」

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチ。彼女はどこか軽薄な笑みを浮かべながら、もうひとつの人影に話しかける。

 

「それこそが薔薇十字団の矜持ということでしょう。脱出した職員たちも丁寧に送り返したようですし、スノーフィールドにおいても死者はなかった。彼らに砲撃を落とさなかったこともまた同じ」

 

 さて、と話を切り上げて、それはマシュたちを向く。

 

「───異なる世界とはいえ、アトラス院で好き勝手してくれたようですね? Eチームのみなさん」

 

 紫の髪を二つ結びにした、紫の制服の女性。眼鏡のブリッジを指で押し上げる動作ひとつ取っても、Eチームとは比べ物にならぬ知性の輝きを放っていた。

 一同が唖然とする中、ジャンヌはぽんとマシュの肩に手を置いて、

 

「たった今アンタのメガネ属性は終わりを迎えたわ。これからはなすび一本に絞っていきなさい」

「勝手にわたしのメガネっ娘属性を殺さないでもらえますか。それにわたしには後輩属性もあります。動物で例えたらケルベロスもしくはキングギドラです」

「これからのマシュ・キリエライトはケルベロスでもキングギドラでもなく、なすび・なすび・なすびでいくから。次の出番までに意識付けしときなさい」

「誰がニシローランドゴリラの学名ですか!?」

 

 さっそく話の鼻っ柱をへし折られ、知的な眼鏡の女性は苦々しい顔で口をつぐんだ。映像で見るゴリラと実物のゴリラが違うように、実物のEチームは記録よりもリアリティに溢れるアホさ加減を脳に叩き込んできたのである。

 しかも、ノアと立香が不在という飛車角落ちの状態で。霊長類最強生物ゴリラと遊んではいけないのと同じく、常識人はEチームに触れてはならないのだ。

 ダンテは眼鏡の女性への同情心を抱き、マシュとジャンヌをよそに会話の主導権を明け渡す。

 

「こ、こちらの二人は気にしないで続けてください」

「……感謝します、ダンテ・アリギエーリ。とはいえ、事情は中で説明した方が良いでしょう。カルデアの職員もいますので」

「職員も、ということは我々はこれからどこかに行くのですか?」

「その通り。私たちが向かうのは日本の冬木市───その地に在る大聖杯を薔薇十字団よりも先に押さえるのです」

 

 彼女は、結論だけを端的に述べた。

 一同の理解をひとまず隅に追いやり、今すべきことだけを示す。魔術師にはよくある論理の飛躍だ。ノアの場合は結論ですら理解できないことが多々あるが。

 ペレアスは脳裏に浮かぶマーリンの幻影を振り払うように、小さく頷いた。

 

「さっぱり分からんが、ダ・ヴィンチがいるってことは敵ではないんだろ?」

「そうだね。むしろ味方と言って良い。薔薇十字団の───シモン・マグスの計画を止める同志さ」

「それなら、自己紹介くらいしてもらわねえとな。仲間の名前も知らずに戦うなんて御免だ」

「……そうですね。失礼致しました、ペレアス卿」

 

 レンズ越しに眼光を閃かせ、彼女はその名を告げる。

 

「私はシオン・エルトナム・ソカリス。アトラス院の霊子ハッカーです。Eチームのマスターには後々たっぷりと話を────」

「…………終わったな、ノアのやつ」

「ノアくんはともかく、立香ちゃんはとばっちりだけどね」

「むしろ裁かれるべきはノアさんとダ・ヴィンチちゃんですよねえ……?」

 

 ダンテは怪訝な目つきでダ・ヴィンチを眺めた。どこまでも面の皮が厚いのが、カルデアの誇る二人の天才だ。同じくダ・ヴィンチに視線を送るシオンも恨めしげな顔をしていた。

 こほん、とシオンは咳払いを挟み、場を仕切り直す。無駄は容赦なくカットするのがアトラス院の流儀なのだ。

 

「それでは早速出発! 全速力で冬木市を目指します!!」

「強引に話を進めてきましたわ」

「ええ、仲間になるからにはEチーム流の尺稼ぎ術を叩き込まなければなりませんね」

「という名の尺稼ぎやめてくれます?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時を遡り、セラフィックス大爆発のしばらく後。虚数空間にて、藤丸兄とキアラは摩訶不思議な光景を目の前にしていた。

 

「ふむふむ。やっぱり国連の下部組織のカルデアの下部組織……だけあって、国際色豊かですね」

「この人数は流石に骨が折れるんじゃないの、マスター? あなたの虚数魔術は確かに反則級だけれど」

「大丈夫よ、バーサーカー。世界の主要都市くらいは全てマーキングしているもの。伊達に400年もお父様のもとで修業していないんだから」

「あら頼もしい。どこぞの英雄サマとは大違いです」

「あ、あの方と比べられるのは畏れ多いわ?」

 

 混沌の色彩に支配された異空間。上下左右、天地の感覚すら曖昧にする世界の中で、メイド少女と喪服の美女だけはのほほんとした雰囲気を醸し出していた。

 船を足場にしなければ、キアラたちは直立を保つこともできなかっただろう。人間が生身で虚数空間を訪れるとは、海の魚を突然空に放り出すに等しい。

 そもそも、生身の人間がこの空間で平常でいられること自体が異常だ。ただひとつ確かなのは、メイド少女の魔術が虚数空間の悪影響すらも完璧に遮断しているという事実だ。

 

「それでは、順番に故郷の都市に送ります。路銀は大丈夫ですか?」

「「「「「ごめんなさい、ペリカしかありません」」」」」

「ペリカって何よ!? どこの通貨!? ラインの黄金みたいに呪われてないでしょうねぇ!?」

「ある意味呪われてますね。俺たちの血と汗と涙が染み込んでるという意味で」

 

 当惑するバーサーカーに、藤丸兄は平坦な口調で言った。ラインの黄金が呪いの財宝だとするならば、セラフィックス謹製通貨ペリカは人の業の塊である。

 なお、ラインの黄金はとあるホムンクルスの大家に運用されているのだが、バーサーカーがそれを知る由はなかった。

 現代の大都市は利便性において前時代と一線を画すが、それにしたって先立つものは必要だ。メイド少女はがま口財布を取り出し、その口を下に向ける。

 すると、財布の体積からは明らかに逸脱した量の紙幣が滝の如くなだれ落ちた。

 

「ドル紙幣しかないのですが、これで足りますか?」

「いえ、足りませんね。この五倍くらいないと」

「嘘つかないでください班長!! これだけあれば帰るどころか全員で宴会だってできますよ!」

「この人だけは裁判所に送り届けるべきでは……?」

 

 悪逆無道の班長を止める藤丸兄と、疑いを向けるキアラ。ひと悶着はあったものの、職員たちは無事交通費を受け取り、帰路につくことになった。

 日本への移動を望んだのは藤丸兄とキアラのみ。メイド少女が用意した空間の抜け道をくぐる直前、キアラは彼女に問いかける。

 

「…………虚数魔術の使い手でも、こんな芸当をできるのは現代であなただけでしょう。あなたは───あなたたちは何者なのですか」

 

 少女は微笑み、答えた。

 

「私たちは魔術師です。生命の樹を登り、根源(ケテル)に至らんとする者。その結果に、過程に、救いがあるからこそ私たちは果てへと向かいます。けれど、救いとは全ての人間に分け隔てなく舞い降りるものでなくてはなりません」

 

 故に、私たちは命を奪わず。

 故に、私たちは王冠(ケテル)を目指す。

 余計なお世話。それで構わない。磔にされた救世主だって、みんなの幸せは望んでも、みんなに感謝されることは求めなかったのだから。

 

「そして、私は───あなたがた人間がより善く日々を過ごせることを祈る、化け物です」

 

 その微笑みは影を帯びていて。

 それで、キアラには少女の本質が分かった気がした。

 自と他を断崖の如く分かつ、疎外感。自分は、自分だけは、他者と異なるという孤独が彼女の原動力であるのだと。

 

「それでもあなたの隣には、ヒトがいるのですね」

 

 そうして、キアラたちは故郷への帰還を果たした。

 二人が出たのは東京、渋谷。人目につかぬビルとビルの谷間だった。藤丸兄とて魔術の世界の一端は知るものの、つくづく少女の業が異端であることを思い知らされる。

 本当に海の上から街に飛んだのか。それを体験したのにも関わらず、彼はあの空間の存在を確かめるように振り向く。

 そこに混沌の色彩の名残はなく、薄汚れた灰色の壁があるだけだった。けれど、壁の汚れに紛れるように一個の英単語が書き付けてあった。

 

「C、RO……C()R()O()A()T()O()A()N()?」

 

 鞄の底に放置されていたイヤホンみたいに絡まった糸を紐解く。クロアトアン。この語が表すのは地名だったはずだ。それも、何か曰く付きの。

 脳みその容量は大きい方ではないが、その分探し物は見つけやすい。思い至りかけたところでキアラの声が聞こえ、捜索を打ち切る。

 

「藤丸さん」

「あ、はい。どうしました?」

「これから無職になるそうですが」

「キアラさん??」

 

 必死に目を背けていた現実が牙を剥く。遅かれ早かれ直面していたはずだが、それがキアラによってもたらされるとは夢にも思っていなかった。

 彼の思考からは目の前のサインのことなど雲散霧消していた。実家に帰った時の親への言い訳や職探し等々、考えるべきことは山ほどある。ただでさえ少ない脳のメモリを落書きごときに割く余裕はないのだ。

 キアラは泡を食って、顔を左右に振った。

 

「あ、いえ、煽ったつもりではなく! 働く場所がないのでしたら、私のところに来るのはどうかと思いまして。小さいですが、診療所を建てるつもりなんです」

「良いんですか? 俺が持ってる資格と言ったら運転免許と英検とけん玉検定くらいですけど」

「そ、そこはおいおい考えましょう。こちらが私の連絡先です」

 

 キアラは電話番号が書かれた紙を差し出す。機械には疎いのだろうか、インターネット全盛のこの時代ではいささかの古めかしさを漂わせている。

 それを受け取る瞬間、さらりとした指の感触が伝わった。キアラは慌てて手を引っ込め、顔を背けて消え入るような声を出した。

 

「───ぁ、ごめんなさい……」

(やめて、惚れちゃう)

 

 と、紆余曲折ありながらも、藤丸兄は再就職先を手に入れて帰路につくことができたのである。

 そんなこんなで、埼玉県某市某所。銀行でドル紙幣とペリカを日本円に換金し、実家に着いた藤丸兄は両親から〝あれ? 永久機関は?〟や〝エジプト土産とかないの?〟などといった怒涛の追及を受け、枕を涙で濡らしながら眠りについた。

 翌日、昼前に目を覚まし、居間に降りたところ、彼は現実を疑うような光景を直視することとなる。

 しゃこしゃこと硬質のモノが擦れ合う音。

 透き通るような刀身が凍てついた光を反り返し、一層鋭さを増していく。

 それは昭和刀と呼ばれる剣だった。太平洋戦争下、軍人のための刀剣として機械生産された刀剣。職人が手造りする日本刀とは製造過程が異なることから、戦況の悪化につれて粗悪品が出回るようになった悲しい経緯を持つ武器だ。

 それを研ぐのは藤丸家の大黒柱兼ATMの父親であった。どこから引っ張り出してきたのか、羽織と袴を装備している。

 藤丸兄は両目をしばたたかせて、一言、

 

「……なにやってんの」

「なにって、見れば分かるだろ。じいさん……お前のひいおじいちゃんの軍刀の手入れしてるんだよ」

「なんで今更!? それ倉庫に放置されてたやつだし!!」

 

 藤丸(父)は血走った目を息子に向けた。

 

「そりゃお前、刀の手入れする時なんてやることはひとつだろ。俺がこの手で斬らなきゃいけないやつがいるんだよ」

「ちょっと、この人殺しに手を染めようとしてるんだけど!! 母さん警察呼んでェェェ!!」

「お母さんは買い出しに行きました。つまり罪を被るのは俺だけという寸法です」

「その寸法絶対間違ってるから! 丈がダルンダルンになってるから!! いやマジで何があった!!?」

 

 藤丸兄の絶叫が未だ住宅ローンの残る一軒家に轟く。バリバリ現代人の父親の口からまろび出る言葉はまさかの戦国時代。誰かに聞かれれば通報不可避の時代錯誤だ。

 どこぞの浪人は刀の手入れで経験値取得量上昇の効果を得るが、生憎現実では手入れは手入れ以上の意味を持たない。藤丸兄は父の純粋な殺意を感じ取った。

 父親はさあっと涙を流しつつ、肺が捻くれているかのようなおぞましい声を発する。

 

「───来るんだよ、ヤツが。立香が産まれてから最も危惧していた事態が現実になっちまった」

「ヤツ?」

「立香の彼氏です」

「娘の彼氏斬ろうとしてたのかよォォォ!!!」

 

 サッカー部でフリーキッカーを担当していた男の渾身の飛び蹴りが父の顔面に突き刺さる。なお、刃物を持っている人に飛び蹴りをすることはとても危険なので良い子も悪い子も真似してはいけない。

 父は鼻頭を押さえながら、不機嫌に言う。

 

「おいおいおい、人にドロップキックするような子に育てた覚えはないんだが? やるなら頭突きくらいにしておきなさい。ジダンみたいに」

「うるせーマテラッツィ!! 人を斬ろうとするような親に育てられた覚えの方がねーんだよ! 親馬鹿極まりすぎだろ!」

「親に向かって馬鹿とはなんですか。全国のお父さんに謝りなさい。娘が彼氏を連れてくる時ってのはな、全てのお父さんはATMのガワを脱いで武士にならなきゃいけないんだよ」

「頼むからATMのままで鎮座しててくれ!!」

 

 藤丸兄は深呼吸を行い、天井を突破したボルテージをなんとか引き戻す。肉親の凶行はともかく、妹に恋人ができたことは喜ばしい。祝ってやるのが兄の役目というものだろう。

 

「立香に彼氏がいること自体初耳なんだけど。写真とかないの」

「……あるけど」

 

 藤丸父はスマートフォンを取り出し、その画面を見せつけた。

 妹と長身の男が並んだ画像。場所は外国だろうか、異国情緒溢れる街が背景に広がっている。流れからして、隣の男が件のヤツだろう。彼は死んだ魚のような目で佇んでいる。

 藤丸兄はニヤケ面で感想を言った。

 

「おお〜、ハリウッド顔負けの美形。やっぱり外国人は骨格からして違うなぁ。背ぇ高いし脚長いし顔小さいし……玉の輿じゃん」

「アホですかお前は。こんなん見た目が良いだけだよ。この年頃の男なんて一皮剥けばケダモノだよ。どうせこいつヤ○○ンだよ」

「ねえこの人今なんて言った? 最低なこと言わなかった? 人を見掛けで判断するなって教わらなかった?」

「その言葉がブーメランになるって気付いてるか? たとえどんな見た目だろうが、その人の性格とは関係ないでしょうが。つーかこれくらいなら昔のお父さんの方がイケメンだから。絶対こいつより優しいから」

「せめてブーメランをこっちに投げて!?」

 

 父はブーメランを息子に投げるのではなく、ブーメランで自らの腹を裂いた。迷走の果てしなさが如実に現れた言動である。彼も、まさか画像の中の白髪男が恋愛感情を抱いたのは後にも先にも二人の女性だけとは思わないだろう。

 

「もうアレだよ。レイアが恋人連れてくるって言うから楽しみにしてたら、ハン・ソロとかいうチャラ男が出てきたアナキンの気分だよ。そりゃ闇堕ちだってするさ。ライトセーバーだって赤く染まるさ」

「スターウォーズそんな話じゃねーよ! ハン・ソロだってイイ男じゃん! 親なら祝ってやれって!」

「だってあいつらの息子盛大にグレるじゃん。いい歳してベイダーのパチモンみたいなコスプレするじゃん。だったら俺がベイダーになって介錯するしかないだろ」

「このアナキン、ルークでも救えないんだけど!! ダークサイドの誘惑が強すぎるんだけど!!」

 

 というよりもはやダークサイドの化身だった。あのヨーダとてフォースの暗黒面に落ちれば二度と戻ることはできないと言っている。日本の片隅のただのおっさんがライトサイドに帰還するなど夢のまた夢だ。

 藤丸父は軍刀を鞘に収め、ドンと床を突く。その様はまるで切腹寸前の武士だった。

 

「ともかく、立香がこんなやつの毒牙にかかるのは見過ごせん。娘がやられるくらいなら俺が犠牲になる所存だ」

「彼氏の方から願い下げだよ。あんたのジャバ・ザ・ハットみたいなケツなんて一銭の価値もないよ」

「ちょっと? さっきからお父さんに辛辣すぎない? ルークばりの善の心で慰めて?」

「You are not my father」

「Nooooooooo!!!」

 

 藤丸兄は立香の帰宅に備えるべく、服を着替えようと立ち上がる。腰にすがりつく父を引きずりながら。

 その瞬間、居間にインターフォンの音が鳴り響く。

 二人の間に寒々しい緊張感が走る。来訪者が誰であるかは考えるまでもない。藤丸父は軍刀を握り締めて、瞳に鋭い光を宿した。

 

「行くぞルークよ。ハン・ソロを血祭りにあげる時がいよいよ来た」

「いや本当に捕まるから! せめて刀は置いていって!!」

 

 玄関へと大股で歩く父と、それを止めようとする息子。先程までとは逆転した構図だった。が、その歩みを阻むことは叶わず、ついにドアに手を掛ける。

 がちゃり、と扉を開けた先には愛娘。見慣れたはずのその姿はしかし、家を発つ前とどこか見違えて目に映った。

 何かを成し得た人間だけが持つ風格、貫禄。立香は違和感で硬直する二人の心情を知る由もなく、口を開く。

 

「ごめんね、急に。今日は泊まっていくから……あれ? なんでお兄ちゃんいるの。永久機関は?」

「ああ、永久機関は闇の勢力に妨害されて完成させられなかった。お前こそよくも俺の黒歴史を─────」

「どきなさいアホ息子。立香、件の彼はどこかな? お父さん少しその子とふたりきりでお話しなきゃいけないから」

 

 手を後ろに回して刀を隠し、引きつった笑みを浮かべる藤丸父。ぎちぎちと表情筋が軋みを立てるような顔面を向けられ、立香はぎょっとした。

 立香は振り向いて、ちょいちょいと手を招く。

 

「ほらほら、来てください。恥ずかしがってるんですか」

「え、なに? そんなシャイな子なの? 大丈夫だよお父さん優しいから。会社の新人にもシュレッダーとか頼まれるくらいだから」

「それナメられてるだけだよ。ダース・シュレッダーだよ」

 

 硬い響きを帯びた足音が近付いてくる。

 さらには重厚な呼吸音が入り混じり、思わず身を竦めるような空気が漂う。

 立香の横に現れる、漆黒の影。それは玄関の上下を埋め尽くすほどに巨大だった。全身をほとんど黒一色の鎧兜で覆い、金属質の光沢がなめらかに光を反射している。

 コーホーと息を吐きながら、それは言った。

 

「………………ハジメマシテ」

 

 某世界的SF映画の超大人気キャラクターを前にして、藤丸父子に落雷の如き衝撃が走る。

 

((────ダッッッ……ダース・ベイダー来たァァァァァ!!!!))

 

 で。

 藤丸家のリビングルーム。普段家族で団欒する空間は異様な雰囲気に包まれる。

 妹彼氏と向かい合う、アナキンとルーク。不気味な沈黙が漂う居心地の悪い空間で、ジェダイ二人は震えながら俯いていた。

 少し視線を上に向けると、紛れもないダース・ベイダーが荒い呼吸をしながら鎮座していた。ますますこれが現実であることを思い知ると、彼らはひそひそと口撃を交わす。

 

(おいどうすんだよなんでベイダー卿がここにいるんだよ。2mのベイダーの迫力半端ねえよ。泣きそうだよ。頭の中で帝国のマーチが鳴り響いてるよ)

(そもそも写真のアレがどうしてこうなったんだ。日本来るまでにオビ=ワンと決闘して焼かれたりした? 俺がアナキンのはずなんだけど)

(あっそう。じゃあ俺トイレにハイパースペースジャンプしてくるから)

(待てうかつに動くな! ここは既にヤツのフォースグリップの間合いだぞ!!)

 

 けれど、このまま停滞している訳にはいかない。

 藤丸父は意を決する。この程度の地獄の空気感はとうに社会人生活で慣れている。上司の弁当箱にモデルガンが入っていた時とか、同僚の友達が経費を横領しているのが飲み会で発覚した時とか。

 何より、娘に不甲斐ないお父さんと思われてはいけない。彼は洗練された営業スマイルで表情を塗り固めた。

 

「ダース……ノアトゥールくんはどこの出身なんだっけ? やっぱりタトゥイーン? あそこ砂漠ばっかりで何もないでしょ」

「お父さん、この人普通に───ではないけど、デンマーク生まれ」

「ああ、そうなんだ。日本語分かる?」

 

 ベイダーは一瞬考え込み、

 

「……オーゥ、ワターシ、ニポンゴ、ワカリマセーン」

「完全に分かってるよね。ちゃんと答えてるもんね。そんな流暢なカタコト聞いたことないよ?」

 

 外国人のテンプレートみたいな発言をするシスの暗黒卿。カタコトではあるものの、日本語ネイティブが模倣して発声しているかのような完成度の高さだ。

 

「し、室内だし脱いだら? 立香の彼氏なら家族も同然なんだし、ゆっくりくつろいでよ」

「これは生命維持装置なので外せないんです。どうぞおかまいなく。構うなら永久機関の方にしといてくださいアホ兄貴」

「なんでこんな辛辣!? 立香、絶対俺のネガキャンしただろ!!」

「事実がネガキャンになるお兄ちゃんの方に問題があるんじゃ?」

 

 藤丸兄の胸に言葉の刃が突き刺さる。確かに自分自身、他人に誇れるような人間ではない。高校時代、校舎の至るところに薄い本のページを仕込んで、イースターエッグと称して友人に探させた挙句、停学を食らったようなアホである。

 自己嫌悪で撃沈したルークを尻目に、アナキンは机から身を乗り出す勢いでベイダーへ詰め寄った。

 

「うん、それはいいんだけどさ。その格好はどうかと思うな。色々と腹を割って話さなきゃいけない関係なんだし」

「ああ、ベイダーはお気に召しませんでしたか? すみません、日本の文化には疎いもので。腹を割るって言うとダース・モールの方が良かったですかね」

「そっちは腹割るどころか真っ二つになってるよね。というか親に挨拶に来るのに暗黒卿はないよね。なに? デンマークってそんな修羅の国なの?」

「いえ、せっかくなんでキメてきたつもりなんですけど」

「キマってるのはお前の頭の方だろ!!」

 

 怒号を飛ばす藤丸父。自身の前時代的な服装は完全に棚に上げていた。価値観の違いが障害になるのは国際結婚ではよくある話の種だが、根本からして彼らは常識人ではなかった。

 ベイダーと立香はこれみよがしに内緒話をする。

 

「おいどうなってんだ。お前の親父めっちゃ言い掛かりつけてくんぞ。このコスプレ作るのにどんだけ気合い入れたと思ってんだ」

「やっぱりキャラの選び方がよくなかったんですって。だから全身緑塗りにしてヨーダにすればいいって言ったじゃないですか」

「オイオイオイ、俺が全身緑にしたらヨーダじゃなくてナメック星人になるだろ。作品が変わっちゃうだろうが」

「そもそもコスプレしてくるのがおかしいって分からないかなァ!?」

 

 アナキンの追及を受けて、ベイダーはいそいそと鎧を脱ぎ始めた。

 新雪を思わせるほどに真っ白な髪と肌。宝石をはめ込んだような瞳。日本の一般家庭には不釣り合いな、絵本の白馬の王子様をそっくりそのまま出したかのような見た目をしていた。見た目だけは。

 さらには藤丸家の冷蔵庫を勝手に物色しながら、

 

「意外と真っ当なラインナップじゃねえか。てっきりホットケーキミックスで埋め尽くされてると思ってたが」

「ああ、それなら地下室に買い溜めがあると思いますよ。わざわざそのために造ったんで」

「懐かしいな……家建てる時にこれだけは譲らないって言われて喧嘩になったな。次の日弁当箱にホットケーキミックス敷き詰められてて度肝抜かれたな」

「え、ご褒美じゃないの?」

「それがご褒美になるのは人類で母さんとお前だけだよ」

 

 藤丸兄は突き放すように告げた。藤丸家に代々受け継がれるホットケーキミックスの呪い。それはアメリカ人の曾祖母が輸入してきたことが始まりだと言われているが、真相は定かではない。

 ノアは冷蔵庫から引っ張り出したガリ○リくんを口に運びつつ、テレビ前のソファーにどっかと座った。

 

「俺たちは仕事が明日まで止まってる。ここに来たのは単なる暇つぶしだ」

「いきなりくつろぎだしたんだけどこの子!? それ俺が後で食べようと思ってたのに!!」

 

 藤丸兄妹は蓋に『父』と書かれたプリンを手に取って、ノアの両隣に座り込む。

 

「まあお堅い面談みたいなのは俺たちには似合わないよな。ゲームやろうよ。互いに潰し合って友情を深めようぜ」

「立香の兄貴のくせによく分かってんな。うんちカードでハメ殺されるかハイドラでボコられるか、好きな死に様を選ぶ権利をやるよ」

「それよりもっと直接的に格ゲーでキャラのうんこ(強み)押し付け合う方が楽しくありません?」

「お父さんほっぽって仲良くならないで? 血とうんこに塗れた友情築こうとしないで?」

 

 対戦型ゲームは友達の力量が自分より高かろうが低かろうが、常にリアルバトルに発展する可能性を秘めている。現代においては人間の暴力性と闘争本能が公然と発揮できる数少ないフロンティアと言えるだろう。

 ノアは藤丸父へと振り向き、ニタリと挑発するような笑みを浮かべる。

 

「言葉を交わすより拳をぶつけ合った方が早い時もある。男と男なら尚更な。無様晒す覚悟ができたら座れよ、お義父さん?」

「上等じゃあァァァァ!!! 二度と泣いたり笑ったりできなくしてやる!!!」

 

 ということで、挨拶の体など宇宙の彼方に吹き飛んだゲーム大会が幕を開けた。

 藤丸母が買い出しから戻ってきた時、居間はとうに罵声と怒号が飛び交う闘技場と化していた。その一部始終はあまりにも人の醜さが詰め込まれていたので割愛とする。

 夜。久しぶりに賑やかな食卓となった藤丸家の夕食。神妙な面持ちをする男たちとは裏腹に、藤丸母は輝かんばかりの笑顔を見せた。

 

「ノアくんはデンマークの人だし、やっぱりお米よりパンだと思って。お口に合いそうかしら」

 

 言った通り、食卓の上にはありとあらゆるパンが並べられていた。おかず系からデザート系まで一通り揃えた、まさにパンの見本市と言える気合いの入れようだ。

 それは良い。それだけなら良かった。少なくとも、ノアの辛口と毒舌が抑え気味になるくらいには見事な出来栄えだった。

 ノアは手元に用意された小皿をつまんで持ち上げた。その上には職質の際に勘違いされそうな白い粉が盛り付けられている。

 

「……おいこれまさか」

「ええ、かけるでしょ?」

「さも当然みたいに言うな。原始人でももっとマシな食い方するぞ」

「家庭の常識って意外と世間と違ったりしますよね」

「そりゃそうだろ。どこの世間にもホットケーキミックスかけるような常識存在しねえよ。渡る世間にホットケーキミックスはなしだろ」

 

 と、ノアにしては真っ当な文句をつける横で、藤丸父&兄は牧場の家畜みたいに黙々とパンを口に運んでいた。すさまじい調教のされようだ。

 このパンたちも元はホットケーキミックスだったに違いない。この夕食だけで日本のホットケーキミックス消費量に一役買っていそうなほどである。

 ノアは自らのホットケーキミックスを藤丸兄の小皿に移し、適当に掴んだパンを齧った。

 藤丸母は優しく笑いかけて、

 

「どう? おいしい?」

「悪くない。あとはその呪いをなんとかしろ」

「お母さん、この人の悪くないはすごく良いってことだから」

「なるほど、ツンデレなのね!?」

 

 ノアは表情を能面で武装して、気怠げにパンを食らった。

 

「そういえば、お仕事の合間に来たって言ってたけど……二人は何やってるの?」

「んー、世界を護るお仕事? 明日は飛行機の準備ができたら冬木って言うところに行って──────」

「冬木市? 十年くらい前にあそこのガス会社が軒並み事故やらかして、倒産か撤退したとか…………幸い死傷者はいなかったはずだが、一応お守りとしてひいおじいちゃんの刀を持っていきなさい」

「手荷物検査で引っかかるだろ。だいたい、冬木市のガス会社になにがあったんだ」

 

 視界に映るすべてが眩しい。

 思わず目を細めてしまうほどに。

 ここには時間が積み重なっている。

 立香が産まれ、生きてきた時間が。

 自分は彼女の時間の一端しか知らない。そのことに湿った感情を抱かないではないが、それを補ってあまりあるモノが胸中を包んでいた。

 懐旧心。そして、憧憬。今まで、得たかと思えば失ってきた暖かな場所。カルデアと同じようで少し違う、カルデアが埋めてくれた多くの心の隙間の、残りを包んでくれる場所。

 いつか終わりを迎えるなら、こんな場所が良い。

 そんな、甘い理想(ユメ)を抱いて。

 ついぞ、彼は自分が微笑んでいたことに気付かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 微睡みの中で、夢を見る。

 

〝少年。君の論文を読ませてもらったよ〟

 

 つややかな黒の長髪。神秘的な知性をたたえた瞳。冷たい美貌を少しばかり歪めて、彼女は笑っていた。

 

〝これはまあ、うん、その……アレだな。かのロードが苦言を呈したのも分かる。いや、悪いと言っているのではないのだぞ? ただ、自分の妄想を書き連ねた紙束は論文とは言わないし、チラシの裏にでも──────〟

〝もういいよ! 分かってるよ! いっそ悪いって言ってくれよ!! どうせ魔術は血統ゲーなんだろ!?〟

〝いいや、私はそうは思わない。血統は確かに魔術師の能力に大きく関わる。だが、それが全てと言うのは間違いだ〟

 

 ───現に、近代魔術の歴史を織り成した魔術師たちは、その多くが裏の世界とは無縁な血脈から生まれている。

 魔術師にとって何故血統が大きな意味を持つのか。その要因は概ね魔術刻印に集約されるだろう。

 魔術師は己の研究成果の全てを子孫に継承する。それを担うのが魔術刻印であり、各々の代が生涯をかけて得た神秘が内包されている。

 俗な喩えをするのならば、親から子へと壮大なリレー小説を書いているようなものだ。代を重ねるごとに紙幅は厚くなり、ストーリーの複雑さは増していく。

 それ故、歴史の浅い家系は遅れを取らざるを得ない。スタート地点が違う上に、筆を執った者の人数も桁が違うのだから。

 

〝少年の魔術刻印は、そうだな。真四角でちょうど……下敷きのような形をしているな〟

〝おい馬鹿にしてるよな。真っ向から馬鹿にしてるよな。誰の魔術刻印が文房具だって!?〟

〝───私は、魔術刻印を持っていない〟

〝…………は?〟

 

 女はくすくすと笑って、

 

〝私の親は魔術とは無縁でね。私にはその下敷きみたいな刻印もないんだ。君は三代目だったか? 魔術師としては私よりよほど真っ当だ〟

〝自慢にしか聞こえないぞ。オマエには魔術刻印なんかなくたって十分な才能があった、それだけだろ〟

〝それも否定はしない。少年、君がこの論文で言いたいことはつまり……〟

 

 ……家の歴史の長さは魔術刻印の複雑さと魔術回路の本数に直結する。だが、それは魔術に対する理解とより効率的な魔力の運用によって、いくらでも補うことができる────と、少年は信じていた。

 けれど、彼女はそれを一太刀で斬って落とす。

 

〝君は他者に劣る部分を埋め合わせようとしている。それは業を究める上で毒となるだろう。どうあがこうが君は君で、ある日突然刻印や回路が増えたりはしない〟

 

 だから、誰よりも高みに立つことではなく、誰にも真似できないことを目指すべきだ。

 そう言って、女は少年の頭を撫ぜた。

 

〝君はこれから何度も苦労して、何度も挫折するだろう。だが、これを書いたその想いを忘れなければ、きっと君は誰も見たことがない魔術師になる〟

〝や、やめろっ。子ども扱いするな〟

〝ならば成長してみせろ。古今東西の英雄と精強なる魔術師が相争うこの戦場で。君のライダーとともにな〟

〝当たり前だ。言われなくたってやってやる。まずは各陣営の偵察だ、行くぞライダー!!〟

 

 揺蕩う意識が引き戻されていく。

 夢想と現実のあわいで、彼は聞いた。

 たとえどれほどの時を経ても忘れるはずのない、主君の声を。

 

〝うむ、その意気や良し!! 派手に宣戦布告と参ろうか!!〟

 

 緩やかにまぶたが持ち上がる。

 すっかり闇に慣れきっていた目が光に驚き、じわりと涙が滲む。

 右肩をつつく、細い指の感触。反射的に首を向けると、あわや衝突する距離に灰色の少女の顔があった。

 内弟子、グレイ。彼女は短く告げる。

 

「師匠。冬木に着きました」

「……ああ、そのようだ」

「こんな時に眠りこけるとは、やはり人間は非効率的な生態をしてい」

「軟体大根に言われてたまるか!!」

 

 エルメロイⅡ世はやんちゃ生徒たちを阿鼻叫喚させたアイアンクローをもって、魔神柱バアルを締め上げた。

 二人と一本を冬木まで運んできたのは魔術協会が手配した車だった。エルメロイⅡ世は運転手に謝礼を渡し、囁くように話す。

 

「薔薇十字団に気取られぬよう注意して戻ってくれ。彼らが本気を出せば造作もないだろうが、用心するに越したことはない」

「ええ、もちろんです。執行者部隊の統率者は予定の場所に。詳しい話は彼らに聞くと良いでしょう」

「助かる。……では」

 

 排気音を立てて、車が離れていく。

 かくして、エルメロイⅡ世は冬木の地を踏み締めた。

 ────結果から言って、冬木への渡航は想定以上に時間がかかってしまった。その元凶はアンナ・キングスフォード。周囲の機械に不調を起こす魔術『機械狂わせの小人(グレムリン)』によって、ロンドンじゅうの飛行機が故障させられ、その日は全便欠航となる事態が生じたのである。

 グレムリンは元々英国の空軍で噂になったと言われる、機械に不調を起こす妖精だ。まさしくその面目躍如と言えるだろう。

 そこから薔薇十字団に悟られぬように極秘の機体を用意し、日本に飛んだ。が、エルメロイⅡ世が指を咥えて時間を無為にすることはなかった。

 時計塔を通じて、日本に滞在している執行者たちに協力を要請。先んじて冬木へ急行させ、大聖杯を押さえようとしたのだ。

 そんな訳で、冬木市を縦断する未遠川より東側の新都、駅前パーク。様々な店が立ち並ぶ、冬木市民の休日のお出かけスポットだ。

 

「人が多いですね。聖杯戦争が行われたとは思えない活気です」

「そこはソロモン王の手腕と言うべきだろうな。人的・物的ともに最小限の被害で聖杯を掴み取ってみせた。まさしく人智を超えた御業だ」

「こんな大根を創り出せるほどですからね」

「くっ、力が戻れば貴様らなど八つ裂きにしてくれるものを……!!」

 

 冬木市の地理を大雑把に解説するならば、中央の川より東側は都会の新都、西側は田舎の深山町と言った具合だ。南には山を背負い、北は海へと繋がっている。

 駅前パークの一角にある喫茶店。そこが執行者部隊を統率する役割を担う───押し付けられた───男との待ち合わせ場所だった。

 喫煙席にて、悠々と煙をふかす強面の巨漢。エルメロイⅡ世とグレイはおしゃれな喫茶店の一席を世紀末の酒場と錯覚してしまう。

 

「よう、来たな」

 

 獅子劫界離。数多いる執行者の中でも指折りの実力を有する死霊術師。エルメロイⅡ世同様、ノアの犠牲者でもある人物だった。

 中東におけるシモン・マグスの末裔の排除と、『浄化術式(コンセクレーション)』カリス・グラダーレの救出。エルメロイⅡ世とも関わりのある彼が日本に滞在していたことは僥倖だったと言えよう。

 

「カリスは元気してるか?」

「ああ、おてんばすぎて手を焼くほどだ。魔術師としても大きく成長している。長ずれば色位に届くのは間違いないだろう」

「まああんな魔術があればな。ところで、そこのキモいのはなんだ?」

「魔神柱バアルだ。次に侮辱を口にすれば地獄の責め苦を貴様に与えよう」

 

 獅子劫は肩をすくめて笑い飛ばす。

 

「その体たらくでか? 今のお前よりビール瓶持った小太りのおっさんの方が強そうだぞ?」

「概ね四級呪霊以下の強さですね」

「その通りだ。これのことは奇っ怪な見た目をしたアレ○サとでも思ってくれ」

「スピーカー如きと一緒にするな!!」

 

 だが、と獅子劫は翻して、赤熱するたばこの先でバアルを指した。

 

「好都合だ。そいつがいれば、大聖杯に手出しができるかもしれない」

「どういうことだ?」

 

 獅子劫は順を追って説明する。

 冬木の聖杯の隠し場所は既に割れていた。なにしろ、Eチーム最初の戦いが冬木市であり、聖杯が鎮座する大空洞にて終わりを迎えているのだから。

 冬木を流れる龍脈。その要たる大空洞を抑える柳洞寺。獅子劫ら執行者は誰よりも早く大空洞に辿り着くことに成功した。柳洞寺の僧侶と法務員たちには魔術的手段を使ったが。

 

「だが、肝心の大聖杯への道が塞がれてた。見たこともない式の結界でな。そんな芸当が叶うヤツは、冬木の聖杯戦争じゃあひとりしかいないはずだ」

 

 すなわち、ソロモン王。

 マリスビリー・アニムスフィアとともに聖杯戦争の勝者となったサーヴァント。彼は如何なる目的か、大聖杯への経路に結界で蓋をしていた。

 西洋魔術の始祖たる王の結界。現代の魔術師では干渉することすら難しい。

 マリスビリーの勝利の後、大聖杯は冬木に置き去りにされていた。魔術師の中にはこう思う者も少なくなかっただろう────大聖杯を手中に収めれば新たな儀式ができる、と。

 だが、2004年以来、聖杯戦争が開催された記録はない。ソロモンの結界が盗人たちの壁となっていたなら、それも腑に落ちる。かの者の御業を凌駕できるなら、聖杯は無用の長物となるはずだから。

 

「そのバアルはソロモン王の眷属だろ? だったら、結界を解くとはいかなくても穴を開ける程度はできるんじゃねえか?」

「鍵開けに必要なのは力ではなく知識だ。その点、私には貴様らと違って悠久の知恵がある。時間はかかるだろうが、やってやれないことはない」

「ですが、仰った通りバアルはこの体たらくです。結界に触れようものなら大根おろしになるのでは?」

「それは結界の種類による。ソロモン王の人格を信じるなら、無闇に人を殺すような術ではないと信じたいところだが」

 

 三人はバアルへと視線を送る。ソロモンの結界の質次第でバアルは大根おろしになる。結界を突破する可能性か、魔神柱の命か。彼らは暫時それらを天秤にかけて、同時に結論を出した。

 

「「「まあ、別にいいか……」」」

「おい───おい!!」

「よし、思い立ったが吉日だ。さっそく試してみるとしよう。柳洞寺への足はあるな?」

「当然だ。俺のドラテクで唸らせてやるぜ?」

「この外道どもがァァァ!!!」

 

 バアルを黙らせて、三人と一本は車に乗り込んだ。

 一行は一路柳洞寺へと。新都から深山町へ移動する場合、交通の要衝となる橋がある。赤塗りの巨大な鉄橋、冬木大橋。夜はライトアップもされ、他所からの観光スポットにもなっている。

 海へそそぐ川を望む橋の上を、日本の風景と道路には不似合いなハマーが突き進む。運転手の厳つさも相まって、Ⅱ世とグレイの脳裏にアメリカの荒野が広がった。

 獅子劫は車内に流れる小粋なジャズミュージックに浸りながら、遠くの山々を見据える。

 

「こいつは俺の相棒なんだ……いつだってどこだって、俺はこいつで走り抜けてきた。ま、相棒であり家族ってところか」

「師匠、いきなり語り始めましたこの人。しかも言ってることが果てしなく浅いです」

「浅い割に見た目だけはそれらしいのが癪に障るな。無声映画の時代なら一世を風靡しただろうが」

「おいおい、そう褒めるなよ。かわいい系かカッコいい系で言うと俺はどっちだ?」

「極道系です」

 

 エルメロイⅡ世は小さくため息をうきつつ、窓の外に視線を移す。

 きらきらと太陽の光を受けて輝く海。風光明媚、とはまさにこのことを言うのだろう。かつて魔術師と英霊が覇を争う聖杯戦争の舞台になった土地だとは思えないほどに、街は何事もなく日常を謳歌していた。

 橋を渡る車両もなく、走行音と音楽だけが車内に満ちる。

 しばし心地の良い静寂が続くと、獅子劫はすっとんきょうな声をあげた。

 

「……俺の目がおかしくなったわけじゃないよな?」

 

 橋の終端。彼らが行く車線を端から端まで仕切るように、人間が立ち並んでいる。

 人間───修道服を纏った女性。人形みたいに佇む彼女たちは、全く同時に武器を取り出した。それらは剣。ただしその刀身は斬るためのものでなく、突き刺すための形状をしていた。

 魔術師ならば、その剣が何であるかはすぐに検討がつくだろう。なにしろそれは魔術協会と不倶戴天の仲にある組織の汎用兵装であったからだ。

 しかし、その知識が脳髄より引き出されるより先に、彼女たちは両手の剣を振りかぶっていた。

 

「───嘘だろ!!?」

 

 獅子劫はハンドルをひねるが、時既に遅く。

 刀剣の雨あられが、車体に殺到する。

 その武器の名は黒鍵。

 大いなる主の敵を洗礼し抹殺する、摂理の鍵。

 それはいとも容易く車の進行を止め、押し返し、無残な鉄クズに還す。三人と一本が飛び出した直後、黒鍵はたちまち発火し、燃料に引火して爆発を巻き起こした。

 獅子劫は地面に手をついて、燃え盛る相棒兼家族へと叫ぶ。

 

「お、俺のハマーがァァァ!! まだローン残ってるのにどうしてくれんだ!!!」

「あれだけ長く過ごした感じを出しておいて、ローン残ってたんですね」

「まさしく走り抜けたな。人生を」

「言ってる場合か貴様ら!? あの女どもに目を向けろ!!」

 

 下手人の隊列は淀みなく歩き、ある程度の間合いを残して停止した。

 

「手荒な歓迎になったが、まあ気にすんな。元々こういう関係だろ? 聖堂教会(オレたち)魔術協会(テメェら)はよ」

 

 ひとつの影が隊列の前に進み出る。

 金髪碧眼の少年。赤と黒のパーカー、白のショートパンツ。彼の両腕は独特な意匠の籠手に包まれており、ピアノや機織り機を思わせるような糸が張っていた。

 彼はハマーの惨状など気にも留めていない様子で話を続ける。

 

「話は聞かせてもらった。そこのキモいのがあれば大空洞に乗り込めるんだってな。使い魔ってのは便利だな? 魔術師どもがこぞって利用するのも頷けるぜ」

 

 そこで、隊列を構成する女のひとりがおずおずと指摘する。

 

「あの〜……使い魔という言い方はマズいんじゃないかと。それ魔術師の言葉ですし」

「うるせぇブタ。テメェだけ動きがコンマ1秒遅れてたぞ。オレの調律でもそれとかどんだけ駄肉にまみれてんだ? あぁ!?」

「ひいいいいごめんなさいごめんなさい!! どうか修道院送りだけは勘弁してください!!」

「安心しろ、テメェが送られるなら修道院じゃなくて家畜小屋がお似合いだ。今のうちに豚足磨いておけ」

「ぐうううううっ……このクソガキ……!!」

 

 限りなく小さい声で吐いた悪態はしかし、しっかりと少年の耳に届いていた。少年が左手を握り込むと、女は空気そのものに縛り付けられたみたいに固まり、地面に倒れてしまう。

 少年は人間ボンレスハムには目をくれず、端的に告げた。

 

「そこのグロ大根を渡せ。そうすりゃ見逃してやる。なんなら聖杯を使った後は丁寧に包装して時計塔に届けてや」

 

 言葉を遮ったのは、一発の銃声。人間の指を加工した弾丸は過たず少年へと向かうが、そのことごとくが命中する寸前で修道女たちによって叩き落とされる。

 

「俺の車を爆発四散させといてそんな交渉が通るとでも思ったか!? 悔い改めろクソガキ!!」

「ハッ、悔い改めるべきはそっちだろうが。ちょうど川もあることだ、洗礼でも授けてやろうか?」

「いるか!! 素性の知れねえ野郎に水浴びられるのなんざ、磔になったオッサンも御免だろうよ!!」

「はー、仕方ねえ。薔薇十字団のバケモノどもを相手取るよか楽勝だ。土の味を知る覚悟はいいか?」

 

 きりきりと籠手が音を立てる。不吉な律動が紡がれ、彼の部下は糸に繰られた人形の如くに動き出す。

 

 

 

「───聖堂教会、東方慰問司祭代行マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノ。オレの名を覚えろ、異端の徒。今日からオレがテメェらのご主人サマだ!!」



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第89話 聖なる杯の魔女

 ひとつの物語があった。

 モノの死が視える少年が日常と非日常の境界を彷徨い、やがて落陽の最中で別離を迎える。

 彼は日常へと帰った。けして忘れ得ぬ、月の姫との別れを抱きながら。

 ───だが。

 その男にとって、少年が駆け抜けた日々はたったひとつの意味しか持たなかった。

 

「…………あの蛇が、死んだか」

 

 男の声は驚嘆と悲嘆、そして失望に彩られていた。

 男の名はラウレンティス。

 聖堂教会の重鎮にして、法王を補佐する枢機卿。教会内において絶大な影響力を有し、彼の采配如何であらゆる人間の運命が左右されるほどの支配者。

 なれど、その在り方は高潔とは程遠く。

 それは歴史上でも見受けられる、一部の聖職者たちの悪癖。妻帯を禁じられた司祭にも関わらず、女性と契り、子を成す。ラウレンティスの唯一の欠点はその好色さにあった。

 彼は自身の隠し子を日本に送り込んでいた。東方慰問司祭の代行として、かの国に潜む魔術師との取り引きのために。

 

〝徒労だったな。不老の解決法はない。せいぜい健やかに、死ぬまで苦しめ〟

 

 そう言い放った魔術師はしかし、苦しむ間もなく死んだ。死んだ───彼を知る多くの者はそれを聞いたとして、こう思うことだろう。

 〝ああ、またか〟と。

 アカシャの蛇。転生無限者───ミハイル・ロア・バルダムヨォンは自らの魂を加工し、たとえ死したとしても他者の肉体に乗り移ることで生まれ変わる。故に、この者に限って死とは永遠の断絶ではなく、次なる生への猶予期間に過ぎなかった。

 それが、死んだ。

 殺せど死なぬ無限の蛇は、ついぞ死と言う名の無明に呑まれて消えたのである。

 十数度の転生を繰り返した末の幕引きはいっそあっけないくらいに静かで。胸にナイフを突き立てられるなんて、ありふれた死に様だった。

 ラウレンティスからすれば、その結末は果てなき諦観を生じるものだった。

 ロアに求めた不老の解決法は無駄足で、さらに絶望を色濃くさせるのみ。だから、それはある意味天啓にも等しい情報だったのかもしれない。

 

「ならば、奇跡に縋るしか道はないな? ラウレンティスよ」

 

 聖なる杯を宿した魔女は言った。

 聖堂教会が誇る無数の索敵・防御機構を難なくくぐり抜け、枢機卿の元に忽然と現れて。

 

「貴殿の不老は貴殿の罪。かの救世主とて、自らの死を以ってでしか罪を雪ぐことはできなかった。死なくして罪を払拭しようというのなら、相応の奇跡に望みを託すしかあるまい」

「……なぜそれを私に告げる? 聖杯が要るのは貴様らも変わらぬはずだ」

「分を弁えているのさ。あらゆる主張に反論は付き物だし、そうあるべきだ。多様な意見の在り様こそを私は尊ぶ。どれかひとつだけが選択されるのだとしてもな」

「故に、あのような宣言をしてまで敵を作ったか。よかろう、試練を望むというのならば望み通りに教会は敵となろう」

 

 コリント人への手紙第10章13節。

 〝あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである〟。

 神は乗り越えられる試練しか与えない。だが、人は違う。神のような慈悲も慈愛もなく、乗り越えられぬ試練を押し付けることができる。ラウレンティスの言の葉は薔薇十字団への宣戦布告に等しかった。

 

「───ではな、不老の徒よ。誰が勝利することになろうとも、二度と会うことはないだろう」

 

 ……何の因果か、希望が残されていた土地もまた極東の島国であった。

 冬木市の聖杯。魔術協会と聖堂教会が唯一正統と認めた、聖杯戦争の要。奇跡の杯は未だかの地に在り、新たな目覚めを待ち望んでいる。

 ラウレンティスの決断は早かった。

 己が宿痾を取り除くため、彼の手駒はまたしても日本に向かうことになった。

 

 

 

 

 

 

 

「────冬木の聖杯の何が良いってな。それは、既に一度願望器の能力を証明していることだ。『英霊召喚の儀式』を流用した『魔術師同士の戦争』は過去にもあったが、全て失敗に終わっている。その点、ここの聖杯は願いを叶えた実績がある。他の雑種とは違う血統書付きってところだ。実際、冬木の聖杯戦争が起きてからは他の儀式は亜種聖杯戦争なんて呼ばれるようになったくらいだ」

 

 マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノは笑った。

 聖堂教会、東方慰問司祭代行。極東に配置された代行者全ての司令塔であり、かつては堕ちた真祖をも鎮めた実力者。埋葬機関という人外の集団を除くなら、教会が有する戦力の中でも最高峰に位置するだろう。

 事実、彼の敵は間合いに迫ることすらできていなかった。

 エルメロイⅡ世はともかく。その内弟子グレイは宝具に等しい武装を振るい、獅子劫界離は指折りの力を誇る執行者だ。そこらの魔術師は裸足で逃げ出すだろう。Ⅱ世に関しては助走をつけて殴りかかってくるだろうが。

 

「…………今、誰かにとてつもなく馬鹿にされた気がするのだが」

「おいおい幻聴か? へっぽこロード。そりゃ悪魔憑きの初期症状だ。ちょうどソロモン七十二柱もいることだしな。洗礼詠唱でもかけてやるよ」

「冗談にしてはキレがないな、ミスター。洗礼詠唱なぞを受ければ、この大根は文字通り雲散霧消するぞ」

「そっちこそ脅しの程度が低いんだよ。どうせそのキモいのは殺しても死なねえだろうが」

 

 きりりり、と鋼鉄の弦が鳴りを立てる。

 少年の十指は鍵盤奏者を思わせる機敏さで、まるでそこだけが多足の節足動物のように蠢いていた。

 それに呼応し、修道女───彼の人形たちは踊り狂う。十重二十重に折り重なる斬撃、刺突の数々に間隙はあり得ず、息つく暇さえ与えない。

 彼女らの行動全てを十の指から伸びる糸にて操る絶技。指の動作を把握すれば敵の動きも読めるだろうが、その技巧は余人の理解から外れていた。少なくとも、エルメロイⅡ世の目を以ってしても一端すら垣間見えないほどに。

 有する実力はもちろん、くぐり抜けた死線の数さえ比べ物にならない。聖堂教会が誇る人形使い、人間使いに対する勝ち筋は大いに乏しい。

 それでも、バアルはマーリオゥの手に収まりはしなかった。

 

「───アッド!!」

「おうよ、腰抜かすんじゃねえぞ!?」

 

 少女の武装が変形する。

 大鎌から大鎚へと。自身の身の丈を超える質量の得物を、少女は勢い良く振るった。

 その一振りは大気を撹拌し、豪風を巻き起こす。

 蜘蛛の子を散らす、とはまさにこのことだった。人間使いによる人形たちの巧妙精緻な連携を一笑に伏すが如き、力の暴嵐。直後、数発の銃声が鳴り響いた。

 獅子劫界離の魔弾。呪詛の指弾が摩訶不思議な軌道を描き、マーリオゥに殺到する。

 

「愛車の仇だ、死に晒せ!!」

 

 着弾対象に致死の呪いを撒き散らす、屍の弾丸。死霊術としては単純、故に強力。さしもの東方慰問司祭代行と言えど、直撃すれば死は免れ得ないだろう。

 しかし、全ての弾丸はマーリオゥに届くことすらなく、中空で爆ぜた。

 少年の周囲に張り巡らされた鉄線。目に見えぬほど細く鋭い鉄の糸が弾丸を切り裂き、呪いの残滓を空気に溶け込ませていく。

 

「愛車? ああ、あの薄らきったねえガラクタのことか。すまねえな、ジャンク屋に売り払う前に荼毘に付しちまった」

「おい人様の車をガラクタ呼ばわりしてるんじゃねえ! 地面に額擦りつけて反省しやがれ!!」

「まだ立場が理解できてねえようだな? 魔術師。これは戦いじゃなくて調教だ。吠えんなら人語以外で頼むぜ」

「うるせえドSが!!」

 

 そうして、獅子劫は引き金を引こうとする。エルメロイⅡ世はその手首を掴み、銃撃を阻止した。

 

「待て。私たちの目的は薔薇十字団よりも先に大聖杯を抑えることだ。その点で私と貴方の利害は一致している」

 

 このまま戦っていても埒が明かない。バアルの奪取がなされていないのはひとえにグレイと獅子劫の奮闘によるものだが、結局は劣勢を凌いでいるだけだ。いずれマーリオゥは対策を編み出してくるに違いない。

 ならば、この盤面を覆すのは今この瞬間。この場を戦闘ではなく交渉のための空間に切り替える。

 マーリオゥは手駒たちの動きを止めて、エルメロイⅡ世の顔を見据えた。

 

「だから手を取り合いましょう、ってか? そうやって騙し騙されてきたのが協会と教会だ。乗ってやるにはまだ足りねえな」

「私はひとりの個人として貴方と話している。いがみ合う敵同士ではなく、薔薇十字団に相対する覚悟を決めた者としてだ」

「…………覚悟、ね。随分と耳触りの良い素敵な言葉じゃねえか。で、何が言いたい」

「大聖杯の所有権は教会に渡す。その上で一時の共闘を申し出たい」

 

 しん、と辺りが静まり返る。

 大聖杯を求める目的は薔薇十字団の計画を阻止するためだ。聖杯さえ敵の手に渡らなければ、彼らの計画が実現することはない。

 そして、聖堂教会にとって機能を証明した聖杯とは主の奇跡の具現。全ての十字教徒を妄りに用いることはしないと、エルメロイⅡ世は確信していた。

 マーリオゥはほんの少し考え込む素振りをして、

 

「よし、そうと決まったら柳洞寺だ。急ぐぞ」

「……という訳だ。二人とも、そういう手筈で頼む」

「話が早すぎませんか!?」

「だいたい俺は納得いってねえぞ!? 手を組むにしてもそれなりの態度と補填ってのがあるだろうが!! アレまだ2000kmしか走ってねえんだぞ!?」

「その程度の走行距離でどの口が相棒呼ばわりしていたんだ……?」

 

 獅子劫の怒声に対して、エルメロイⅡ世は思わず疑問を口にした。車との思い出は走行距離だけにあるのではない。費やした金額も相応にのしかかってくるのだ。

 マーリオゥは盛大にため息をつくと、懐からいくつかの紙束を投げつけた。どさどさと地面に落ちたそれを見て、獅子劫は眼球が飛び出るほどに食い入った。

 札束。しかもひとつひとつが手のひらほどの分厚さ。清貧を旨とする十字教徒から出たとは思えない圧倒的かつ暴力的な金額である。

 

「それで足りんだろ。次は身の程を弁えたやつにしとけ」

「おいおい、人から貰った金で調子なんか乗れるかよ。次はポルシェくらいにしとくよ」

「自分の身の程どんだけ高く見積もってんだ?」

「───貴様らの蝿の糞よりもどうでもいい話はそこまでにしろ。疾く私を大空洞とやらに連れていけ」

 

 バアルは声音に殺気を滲ませて言った。

 その直後、振り下ろされた鉄槍の穂先がバアルを掠める。ぱらぱらとアスファルトの破片が辺りに散らばり、場に静寂をもたらす。

 マーリオゥの手下のひとり。ブタと罵られた女はその時の不甲斐なさが嘘のように酷薄な表情をしていた。彼女は爪先をバアルに突き立て、冷たい言葉を浴びせかける。

 

「イモムシもどきが大上段からほざいてんじゃないわよ。人間以上を騙ったくせに人間に負けた、ゴミクズ以下の肉塊でしょ」

「私はカルデアに負けたのであって貴様に負けたのではない! この穢らわしい豚足を退けろ、下郎が!!」

「や〜ん下等生物の遠吠えなんて聞こえませーん♡ ……つーか誰が豚足よモザイクでも身にまとってなさいR-18生物!!」

「おいやめろ私を卑猥な物体みたいに言うな!!」

 

 ぶるんぶるんと全身をよじらせるイモムシ大根肉塊。バアルがもがく様は、少なくとも日中帯は放送が許されなさそうな映像だった。

 他称ブタ女と真正グロ大根の罵り合いを見せつけられ、グレイはぼそりと呟く。

 

「…………性格が変わっていませんか、あの人?」

「アレは性格が変わったと言うより、本性を現したと言うべきだろう。聖堂教会もまたEチームの記録を把握しているはずだ」

「魔神柱を恨むのも無理はねえってか? それだけじゃなさそうだが」

「勘がいいじゃねえか、魔術師」

 

 マーリオゥは微笑む。ただしその笑みは獲物を目の前にしたケダモノのように獰猛だった。

 彼はゆっくりと歩を進める。相対する魔術師のひとりを見据え、その裡を覗くかのように。

 

「あの女は自分より弱いやつに滅法強く、強いやつにとことん弱い。これがどういうことか分かるか?」

「……普通のことでは?」

「そうだ亡霊女。普通なんだよ、アイツはな。そんな人間が代行者なんぞになっちまってる。それもこれも、フランスの片田舎で英霊と死徒が暴れ散らかしたおかげでな」

 

 歩みが止まる。蛇のような視線が、ひたりとエルメロイⅡ世の首筋を這った。押し込めた動揺を甚振るように、眼差しが彼を締め付ける。

 

「マスターの経験を持ってるやつは貴重だ。期待してるぜ────ウェイバー・ベルベット」

 

 

 

 

 

 

 

 冬木は日本に存在する霊地において、二番目の格と規模を有する土地である。

 地球を流れる魔力の動脈───霊脈の質の高さとはすなわち、その土地が抱える歪みの大きさに他ならない。故に冬木は儀式の場に選ばれ、万能の願望器を顕現させるに至らしめたのだ。

 しかし、それほどの格を持つ土地にも関わらず、冬木は魔術師たちの手が及ばぬ空白地帯となっている。

 長らくこの地を管理してきた遠坂家は先の聖杯戦争にて財産の大部分と勢力基盤を失い、当時幼いながらもマスターとして戦った当主の少女は海外へ高飛びする不運に見舞われた。遠坂と並び御三家と称されたアインツベルン、間桐の両家も壊滅的な打撃を受けた。とりわけ後者は聖杯戦争の最中で、執拗なまでの攻撃に晒され、いまや魔術の才能もない子孫が残るのみだ。

 魔術師の世界では、土地の奪い合いは珍しいものではない。所有権の争奪戦は魔術協会も認める正当な闘争だ。そうして聖杯戦争の勝者であるアニムスフィア家は冬木を手に入れたものの、マリスビリーとそれに続くオルガマリーの死により、冬木の所有権は有耶無耶になっている。

 マリスビリーの死後、遠坂の少女が意気揚々と里帰りした結果、伝家の宝刀うっかりを発動して一般人の少年に魔術を使っている場面を目撃されたり、その少年に固有結界の才能があったり、なんやかんやで一緒に時計塔に向かい、エーデルフェルトの当主とその家に養子に出されていた実の妹と、少年を巡って暗闘を繰り広げたり─────という、エルメロイⅡ世の胃の平穏を妨げるだけの事実は置いておいて。

 

「…………とにかく、今の冬木は誰のものではない。加えて、ソロモン王の結界───それがこの場所にあるということは、霊脈の機能を利用することもできない」

 

 一行は柳洞寺を抜け、大空洞への道を進んでいた。柳洞寺在住の皆様方には暗示をかけて、しばらくの間旅行に出掛けてもらった。予算はⅡ世のポケットマネーからひねり出されたものである。

 澱が溜まった空気。水分を帯びた土が一歩一歩を踏み出す足に纏わりつき、足音さえも殺しているかのようだった。

 獅子劫は札束を収めた懐を擦りながら、こくこくと頷く。

 

「そりゃあ誰も手を出さねえわけだ。霊脈を利用できない霊地なんて、ドリンクバーがないファミレスみたいなもんだからな」

「その見た目でファミレスとか行くのかよテメェ? テロリストと勘違いされるだろ。周りの迷惑ってのを考えてやれ」

「減らず口を閉じろクソガキ。最近はやれ草食系だの中性的だのが持て囃されてるがな、世紀末になったらワイルド系の時代がまた来るんだよ。満を持してんだよ」

「満を持してる内にただのしかばねになってるだろ。未来でモヒカントゲトゲ肩パッドの死体が発見されるだけだろ」

「本当は仲良いんですか?」

 

 グレイはノーガードの殴り合いを演じる獅子劫とマーリオゥの背を突き刺した。

 道がだんだんと開けてくる。かつてEチームが黒き騎士王と決戦を行った場所。大聖杯が待ち受ける空洞への入り口は仄かに発光する結界の壁に閉ざされている。

 それは無数の魔術式が曼荼羅の如き紋様を描いていた。現物が目の前にあり、術式をも目視できるというのに、結界を構成する要素の何ひとつとして解明できない。あらゆる魔術を分析し、神秘を解体してきたエルメロイⅡ世にさえも、理解の能わぬ魔術であった。

 …………そんなことよりも。

 

「おーっと、トリプルブッキング。ローゼンクロイツのジジイが言ってた通りでいやがりますわね?」

「ナニをするのも人手は多い方がイイよな。……少し女が多いか? 仕方ねえ、ちょっとオレがオスになるわ。まあオレが好きなのはメスにされるほ」

「オイ殺すぞクソサーヴァント」

 

 暗い洞窟の雰囲気には似つかわしくない光景が広がっていた。結界の前にテーブル&チェアセットを設置し、紅茶を嗜む魔女アンナ・キングスフォードとその従僕。

 アンナは自らのサーヴァントに術式を放ち、強制的に霊体化させる。さらりと魔術の粋を見せつけながら、彼女は小さく会釈する。

 

「手を組みましょう。あたくしたちの協力なくしてこの結界は破れませんわ。色好い返事を期待いたします」

 

 一行へ向けた第一声は、なんとも反応に困るものだった。

 アンナ・キングスフォードの協力要請。裏を返せば、薔薇十字団でさえソロモン王の結界を破ることはできていない。対して、こちらにはバアルという鍵がある。真っ当に考えれば、その提案に乗る選択肢はない。

 ただし、この前提が正しいのであれば。

 アンナは机の上に製氷皿を置いた。三つの仕切りで六つに分けられた窪みのそれぞれに、暗い色合いのとろりとした眼球が押し込められていた。

 エルメロイⅡ世は敵味方の関係を忘れ、おずおずと製氷皿を指差す。

 

「……そ、そのサイコホラー映画にありそうな物体はなんだ?」

「ゼパルです」

「出処は置くとして────なぜそんな姿になっている!?」

「術式の処理速度向上のために霊核を切り分けて、分割・並列思考ができるようにしましたの。こんなんになっても生きてるなんて、流石は悪魔というか……ちょっぴりドン引きですわ」

「悪魔は貴様の方だろうが!!!」

 

 エルメロイⅡ世の手の中で、バアルはガタガタと震えながら叫んだ。

 ゼパルへの仕打ちはソロモン王の結界をより効率的に解析するためだ。人間に喩えると脳を六つに切り分けて並列に繋ぎ、生体コンピュータにしたようなものである。

 なぜ製氷皿なのかはさておき、魔神柱がダークSFチックな計算機にさせられている事実に、バアルのみならずエルメロイⅡ世たちまでもが震え上がった。

 マーリオゥは舌打ちし、アンナを睨めつける。

 

「そのゼパルがいるなら結界は解けるはずだ。どうして先回りして聖杯を確保しなかった?」

「結界自体は先程解かせましたが、無駄足でしたわ。どうやら他の場所に仕込まれた基点が魔力を供給し、解析されたとしても新しい結界を即座に貼り直す仕掛けのようで」

「……びっくりするほど念入りだな。ソロモン王はそこまでして聖杯を護りたかったのか」

「こうすると決めたならば手抜きはしない。彼はそんな人間だったのでしょう。アナタもそうではなくて? Vシネの御仁」

「初対面でナチュラルにヤクザ扱いしてんじゃねえ!!」

 

 兎にも角にも、ソロモン王の手管はアンナの一枚上手だった。結界を突破されることも想定し、自動で新たな結界を構築する術を用意していたのだから。

 結界の解析も一からやり直し。問題が異なれば解法も違うということだ。

 だが、結界を形成する魔力はその基点に委ねられている。再構築の際、アンナは魔力の流れを辿り基点の位置を掴んでいた。

 

「基点は深山町の西……御三家アインツベルンが拠点としていた森にあります。というわけで、誰かそこの魔神柱を使ってちゃちゃっと基点を解いてくれやがりません?」

「テメェが行け」

「お前が行けよ」

「貴様が行くべきだろう」

「バアルさんは確定ですが……?」

 

 グレイはバアルをぐにぐにと引っ張る。基点とやらもまたソロモン王の手によるモノならば、魔神柱の知識によってしか解くことはできないだろう。

 アンナはティーカップを傾けてゼパルに紅茶を注ぎながら、

 

「アナタがたに拒否権があるとでも? このまま殴り合いに発展しても構いませんが、その場合あたくしは真っ先にゼパルとバアルをブチ殺しますわ」

「殺す? この大根とその切り餅をか? ソロモンの眷属ってのは不死身なんだろ、アンタにアホ白髪みたいなヤドリギがあるなら話は別だが」

「死ぬぞ」

「は?」

 

 つい戸惑いの息を漏らした獅子劫。バアルは群生する眼球の全てを呆れに満ちた半目にして言う。

 

「私たちは現世に降り立つ直前、赤き竜に存在のほとんどを喰われ、取り込まれた。故に今の私たちに不死性はない」

 

 この程度のことも気付かぬとは。そう呟いて、バアルは盛大なため息を吐く。その振る舞いは若干名の怒りをいとも容易く刺激した。

 獅子劫、マーリオゥ、エルメロイⅡ世の手がバアルを引っ掴み、千切れんばかりの力を加える。

 

「「「それを! 先に!! 言え!!!」」」

「ぐがああああああ!! これくらい自力で見抜いてみせろ! やはりこの時代の人間は劣化の極みにあるようだな!!」

「劣化してんのはテメェだろクソ大根が!! ウチの凡豚(ぼんじん)より無能とか恥を知れ!!」

「ちょっと、そんな猥褻物と比べられるのは心外なんですけど!!」

 

 ハルバードを携えた修道女は叫んだ。不死性がなく、強大な霊基も失った魔神柱などスーパーの青果コーナーに並べる価値もない。店頭に出れるだけ豚の方が格上というものだ。

 エルメロイⅡ世は頭の片隅に残した冷静な部分を必死に回転させる。

 アンナの言葉は決してハッタリではないだろう。冬木の大聖杯が手に入らずとも、既に薔薇十字団には複数の聖杯がある。遥かに時間は掛かるだろうが、地球全土に固有結界を広げるという目的は潰えはしない。

 そして、アンナとの戦闘で最も貢献できないであろう人間は。

 

「では、私が─────」

「いいや、俺が行く。アンタひとりだと誰かが襲ってきても秒殺だろ。執行者連中と連絡も取り合わなきゃいけねえしな」

「獅子劫さんの言う通りです。師匠の戦闘力はちいかわ以下なんですから、拙から離れないでください」

「…………」

 

 エルメロイⅡ世は涙した。周囲の人間がことごとくでかつよなだけで、彼は至って普通の魔術師なのだ。むしろおかしいのは毎度木っ端魔術師が化け物の巣窟に放り込まれる世界の方なのだ。

 獅子劫にバアルを渡し、彼はダッシュでアインツベルンの森を目指した。〝タバコやめようかな〟とはおよそ十分後の彼の感想である。

 それを見送り、アンナは製氷皿のゼパルを結界の壁面に貼り付けた。

 

「どうぞ楽になさってくださいませ。ゼパルが結界を解くまで三、四時間ほどでしょうか。お茶会と洒落込みませんこと?」

 

 Ⅱ世とグレイ、マーリオゥは渋々席に着く。

 マーリオゥの思惑は不明だが、エルメロイⅡ世には勝算があった。

 少なくとも、自分とグレイではアンナ・キングスフォードには勝てない。しかし時間はこちらに味方する。Eチームマスターの片割れ、ノアトゥールが到着しさえすれば、眼前の魔女も打倒できる可能性がある。

 全くもって癪なことだが、あの男の実力は神体化術式を抜きにしても絶大だ。全くもって癪なことに。

 マーリオゥは紅茶を飲み干し、

 

「ローゼンクロイツのアホはボケが始まってきたようだな。薔薇十字団宣言のやり直しなんざ時代錯誤にも程がある」

「あのジジイは元々ボケていやがりますので。アナタこそラウレンティスは相変わらず壮健で?」

「ああ、下半身の方もな」

「あら生臭坊主。アナタも不老を満喫してはいかがかしら」

 

 Ⅱ世とグレイには見当もつかない会話をする、魔女と司祭。アンナは背もたれに寄りかかり、目を細める。

 

「で、ロアのクソ野郎が死んだってマジですの?」

「大マジだ。蛇だなんだと言われても、ナイフ一本で死ぬ小せえタマだったって訳だ」

「……何を話している? アレは死んでも殺しても生き返る男だろう」

「それが死んだんだよ。ロアは完全無欠十全十美の死を遂げた。───お前が殺した、十七代目とは違ってな」

 

 マーリオゥは冷たく笑う。エルメロイⅡ世の表情は石膏で塗り固めたかのように硬直していた。

 グレイは疑念を覚える。自身が知らぬ、師の過去。それは教室の生徒にも多くを語らない、彼の核心だ。

 

「奴を斃したのは私のサーヴァントと、名も知らぬ魔術師の女性だ。私はそれを見ていたに過ぎない」

 

 だが。強く翻し、エルメロイⅡ世は告げた。

 

「貴女が世界の変革を為すと言うのならば、私はそれを阻止する。たとえ、あの時のように何もできないとしても」

 

 アンナは暫時沈黙し、くすりと微笑む。

 

「ええ───素晴らしいですわ。売られたケンカは買うのがあたくしの流儀。存分に叩きのめして差し上げます」

 

 そうして、時を刻む針は進み。

 ソロモンの結界に閉じ込められていた大聖杯は、路傍に打ち捨てられた空き缶のように転がっていた。

 絵画の下書きみたいに色のない、大聖杯の核。それを見て、Ⅱ世は思った。マリスビリー・アニムスフィアが願いを叶えた以後、大聖杯は霊脈から弾かれていたのだと。

 日本第二の霊地である冬木の霊脈から魔力を吸い、大聖杯は起動する。だが、この核は中身のない器。空虚な抜け殻だ。

 アンナの傍らに現れるライダー。彼はようやく霊体化を解かれ、凝り固まった首をこきりと鳴らした。

 

「あ? なんだアレ。完全に萎え切ってんじゃねえか。『聖杯でローション作ってみた』やろうと思ってたのに」

「アナタの魂を捧げれば少しは復活するかもしれねえですわよ? 聖杯が空となると……()()()()()必要があるみたいですわね」

 

 アンナが手を伸ばした瞬間、聖杯が宙を滑る。

 マーリオゥは鉄線に絡め取られた聖杯を手繰り、修道女に放り投げた。

 

「それ持ってとっとと逃げろブタァ!!」

「ぶひぃぃぃぃいいいいい!!!」

「『夕映えのむこうの国(Beyond the sunset)』」

 

 女代行者が一歩踏み出した時既に、世界は別の色に塗り替わっていた。遠景に白亜の城を望む、夕焼けの花園───固有結界。彼女は顔面を歪めて絶叫する。

 

「ごめんなさい捕まりましたァ!!」

「テメェ逃げ足は豚以下かこの短足鈍足豚足野郎!!」

「それは流石に酷くありません!? 私の足はカモシカも裸足で逃げる美しさですぅ〜!!」

「ああ、自信持てよお嬢様。お前は十分魅力的だぜ? 聖杯は渡してもらうけどな!!」

 

 ライダーは鉄製の鞭を勢い良く振り上げ、聖杯に向けて叩きつける。腐ってもサーヴァントと言ったところか、その狙いは正確だった。

 鞭の穂先は音速を超える。サーヴァントが振るうとなれば、速度は音速に留まらない。役立たずへの道を邁進する自分の未来を儚み、女代行者は尻餅をつく。

 けれど、その一撃が命中することはなかった。穂先が触れる寸前で、死神の鎌がそれを遮る。

 グレイは刃を翻すとともに鉄鞭を打ち払い、代行者へ声をかけた。

 

「立てますか!? とんそ……ぶ……えーと、代行者のあなた!!」

「私にはノエルっていう名前があるのよ小娘!! 分かったらそのぶっとい鎌で私を護りなさい!?」

「ミス・ノエル。貴女の代行者としての能力を見込んで頼みがある。この結界を─────」

「オレに隠れて内緒話か!? 混ぜてくれよ!」

 

 ライダーは鉄鞭を振り回しながら突撃した。迎撃をグレイに任せ、ノエルとⅡ世は脇目も振らずに遁走する。

 

「いやいやいや、噂のロードってのも案外節穴なワケ!? 代行者の能力を見込んでなんて言いますけどねえ、私はカワイイだけの一般代行者だから!!」

「一般代行者でも黒鍵を使った結界敷設の魔術は使えるはずではないかね!? グレイの魔力があればこの固有結界を抜けられるかもしれない!」

「へえそうなの。でも覚えておきなさい? ウチじゃあ魔術は奇蹟、魔力は祈りの力って建前なの───よっ!!」

 

 ノエルは黒鍵をライダーへ投擲する。代行者に伝わる黒鍵の投擲法、鉄甲作用が込められたそれはコンクリートも貫く威力を誇るが、

 

「ほい」

 

 ぺしん、とライダーは片手の振りだけで黒鍵を打ち砕いた。その上、グレイと最中に。まさしく片手間であった。

 ノエルはさあっと涙を流し、エルメロイⅡ世に向き直る。

 

「…………それで、どうやって脱出するんでしたっけ?」

「今の無駄な攻撃はなんだ!? 文字数稼ぎにしても程度が低いぞ!!」

「うっさいわね! サーヴァントをぶっ倒したらその手柄で昇格できるかもしれないでしょうが!!」

「私が言うのも何だが、貴女は一度聖書を読み直してきたまえ!!」

 

 ───といったやり取りを、マーリオゥは意識の端で捉えていた。

 彼の意識の大半はアンナ・キングスフォードに注がれる。己が人形を従え、この魔女を抑え込むために。

 抑え込む。マーリオゥは最初から勝ち筋を捨てていた。その理由は二つ。ひとつはエルメロイⅡ世の策とやらが成れば、勝利条件を達成できること。

 そして、二つ目は。

 

幻想綺譚(Mystical Phantasm)星神の騎士アーティガル(The Knight of Astraea, Sir Artegall)』・『妖精騎士ブリトマート(Britomart The Elfin Knight)』」

 

 この魔女には、敵わないと分かっていること。

 双つの影が顕現する。鎧をまとった人間の輪郭だけを象ったような魔力の塊。それらはマーリオゥでさえ息を呑むほどの神秘を宿していた。

 

「あたくし、騎士道物語が三度の飯より大好物でして。アーティガルとブリトマートは推しカプのひとつですの。他にはロジェロとブラダマンテ、ペレアスと湖の乙女、ランスロットとガウェ」

「オイオイオイ、最後のはジャンルが違うだろうが……!!」

「カップリングの文化とは邪推の文化でございます。ベイリン卿の『最も愛する男を殺す呪い』を受け継いだランスロットがガウェインを手にかけたのは、これはもうキテるとしか─────」

「邪推を事実みてえに語ってんじゃねえよ!!」

 

 マーリオゥの指の動きに反応し、彼の下僕たちは一斉に襲い掛かる。

 アンナは動かず。騎士を象る幻想の肖像が剣槍を薙ぎ払う。得物が起こす衝撃の余波だけで、人形たちの突進は停止した。

 アーティガル。ブリトマート。妖精の女王という物語に登場した、二人の騎士。幻想に過ぎぬはずの存在は魔力というカタチを得て、この現世に実体をなしている。

 それはつまり、英霊の影を従えるに等しい。たかが一節の詠唱で、かつ代償は魔力を支払うのみで、彼女は人理の影法師に近しい存在を操っているのだ。

 

「……化け物が。テメェ元一般人だろ、マインスターの魔女みてえな芸当しやがって」

「かの魔女の家系と比べられるとは、恐悦至極でございますわ。当時のマインスターとは何度も意見交換をした仲…………ですので、」

「チッ! 警戒しろ、お前ら!!」

「『悪戯な小鬼(ゴブリン)』」

 

 マーリオゥが振り返り、叫んだと同時にアンナの魔術は解き放たれる。

 ノエルは足にざらりとした感触を覚える。視線を向けた先には緑の体色をした半裸の小鬼。おぞましい鳴き声を発しながら聖杯へ手を伸ばす小鬼を、エルメロイⅡ世は即座に蹴り飛ばした。

 

「ゴブリン───の形をした魔術か!? 物を盗み隠すのは妖精の性……どこまで魔術の理を侵せば気が済む、アンナ・キングスフォード!!」

「分析してる場合!? 薄い本みたいな展開になるのは御免なんですけど!!」

「貴女こそ言っている場合か!? 早く術式を発動してくれ!」

 

 ノエルは三本の黒鍵を地に突き刺した。十字の剣が蒼白の光を湛え、三角系の陣を形成する。

 それなるは聖堂教会に伝わる奇蹟、『聖堂』。自然から外れた存在を自然へと還す、浄化の聖域。異界法則である固有結界を聖堂にて中和し、現実への帰路を創る。

 だが、アンナの結界は強固だ。ノエルとⅡ世の魔力量では、たとえ枯れ果てるまで費やしたとしてもこの異界を否めるには至らない。

 故に。

 

「封印を解放します、アッド。一部機能を限定解除、魔力収集機構を最大稼働」

「───承認。形態移行開始」

「……やべ。嫌な予感してきた。サーヴァントのくせに人間の女の子に負けたらアンナに殺されちまう」

「殺すつもりはありません。ただ────」

 

 ライダーはひくひくと口角を震わせた。

 グレイの武装がカタチを変える。周囲から際限なく魔力を収奪し、ひと振りの槍へと形状を整えていく。

 騎士王が振るいし聖槍。湖の乙女に与えられた最果ての槍。顕現とともに槍は紅蓮の光を纏い、捻じれ狂うほどに光り輝いた。

 

「────あなたには、退いてもらいます」

 

 刺突が一閃する。

 紅き光が空間を引き裂くかのような一刺し。

 聖槍の一撃は鉄鞭を紙を破るみたいに引き散らし、ライダーの右肩を貫通した。

 

「あ痛ってえええええッ!! 右だけじゃ締まりが悪いから左も刺してくんね!?」

「変態かアイツ……!?」

「アッド、無視してください!!」

 

 グレイは目にも留まらぬ速度で黒鍵の結界に辿り着く。槍の柄を逆手に持ち替え、勢い良く結界の中心に突き立てる。

 聖槍による魔力の強制収奪。固有結界を成り立たせる魔力そのものを奪い、得たリソースを聖堂に注ぎ込む。

 閃光が辺りに満ち、世界が元の明度を取り戻した時。アンナの異界は現実へと通じる空洞が穿たれていた。

 

「今度こそ逃げましょう。師匠とぶ──ノエルさん!」

「次間違えたらケツに黒鍵ぶっ刺すわよ!?」

 

 グレイは己が師とノエルを引っ張り、空洞へ跳んだ。

 その一部始終を見届けていたのはアンナ。彼女は幻想の肖像を以ってマーリオゥを圧倒しつつ、ライダーに冷たい視線を差し向ける。

 

「ライダー」

「はい」

「結界を解きます。宝具を使いなさい。もし逃がしたらテメェのSNSと各種配信サイトのアカウントを消滅させるので───あたくしに本気を出させたくなかったら死ぬ気でやれェ!!!」

「ちくしょう待っててくれよオレの愛しの市民ども!! 悪のマネージャーから救い出してやるからな!!」

 

 アンナの固有結界が解ける。

 それと同時に、辺りから一切の影が奪われた。

 

 

 

「『影呑む不敗の神陽』(ソル・インウィクトゥス)────!!!」

 

 

 

 一条の光が疾走する。

 ライダーの走破を目視できた者は彼の他に存在せず、また、それを止め得る者もいなかった。

 光速。ライダーの宝具は物理法則を嘲笑い、エルメロイⅡ世たちの前に立ちはだかった。彼らの目には突如現れたようにしか映っていないとしても。

 ライダーの所以たる宝具は六頭立ての白馬に牽かれた戦車。車体はくまなく黄金と白銀で彩られ、灼熱の光輝を放つ。その台には円錐形をした巨大な漆黒の石が載せられていた。

 

「他のサーヴァントと違って、オレは宝具を見せびらかすのが大好きでな。写真撮ってくれてもいいぜ? あ、オレのことはカワイく撮れよ?」

 

 本人としては本気なのだろうが、嘯いているようにしか聞こえなかった。ライダーの現代的な衣装はどこへやら、精緻な刺繍が施された紫の外套と宝石だらけの冠が、彼の美貌を一層華やかに仕立て上げている。

 何も知らぬ人間が見れば、皆が口を揃えてこう言うだろう。〝絶世の美少女だ〟と。

 エルメロイⅡ世は言い尽くせない感情で顔面を染め上げて、自身を納得させるように言葉を吐いた。

 

「ノアトゥールが流された薔薇の濁流、円錐形の黒石を載せた戦車、そして何よりもその変態性と変態さと変態的言動……」

「師、半分以上変態で埋まってます」

「つまり、歴史に残る変態ってことか? 円卓の騎士みたいだな」

「歴史に残る人間なんてほぼほぼ変態じゃない」

 

 なぜかしみじみとするアッドに、ノエルは偏見に満ちた一言を放った。ライダーはⅡ世の推理の続きを引き取って、

 

「その通り! オレはローマ帝国第23代皇帝にして太陽神エル・ガバルの大神官!! マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス────ヘリオガバルスとでも呼ぶがいい!!!」

 

 ライダーは薔薇の花弁と宝石を撒き散らし、大仰な身振り手振りで謳い上げた。

 ヘリオガバルス。彼が起こした奇行は枚挙に暇なく、宮殿を私娼窟の有り様に変貌させた、淫蕩なる狂い咲きの薔薇。その御姿は黒石より注がれる光輝に包まれている。

 増さんばかりの輝きに反して、大空洞を覆っていた影は一片も残さずに剥ぎ取られている。エルメロイⅡ世の足元から伸びるそれさえも、余さずに消え失せていた。

 

「畏れ入ったか? 影を吸い、光に換える太陽神の御業だ。太陽は善人も悪人も等しく照らす。みんなが平等だ。素晴らしいことだとは思わねえか?」

「それはそうでもねえ、扱ってる人間に問題がありすぎなのよ! アンタに任せてたら全てがR-18になるわ!!」

「拙はノエルさんに賛成します。青少年健全育成条例を遵守してください」

「話が変わってるぜ? オレは平等が素晴らしいって言ってんだ。今も昔もオレは誰かを支配しようなんて気はねえ。むしろされたい!! グッチャグチャに乱暴にしてほしい!!!」

「「変態だ────!!!」」

 

 ヘリオガバルスは腕を組み、戦車の縁に片足を置く。彼の振る舞いに尊大さはあれど威厳はなく、しかし見る者を魅了するが如き絢爛な艶姿があった。

 六頭の白馬が嘶く。

 ヘリオガバルスの戦車は影を光に換える、太陽神の権能を借り受けた宝具。太陽の輝きを帯びた車輪の疾走は光そのものとなり、相対する敵を打ち砕くのだ。

 

「少し痛くするぜ。大人しく眠れ!!」

 

 しかして、黒石の戦車は二度走る。

 何者にも捉えられぬ、光化の突撃。

 光の速度に対して、防御や回避は何ら意味をなさない。誰もが無防備なまま蹂躙されるのが定めだ。

 閃光が走り抜ける。

 恐れ、目を閉じる時間もない。なぜなら、人の反応速度など遥かに超えているから。

 

「え」

 

 唇の端から呻きが漏れる。

 グレイの体は閃光の瞬きより大きく遅れて、防御の構えを取っていた。

 それでも微塵の衝撃もないということは。彼女は咄嗟に振り向き、ヘリオガバルスの姿を探す。

 

「───いや、おまえがな」

 

 ぐしゃり。カルデアの誇る変人の右靴裏が、痛々しいばかりにヘリオガバルスの端正な顔面にめり込んでいた。

 ライダーは崩れ落ち、鼻の穴からどくどくと血を溢れさせる。

 

「ぐふゥーッ!! オレの小さくてキレイな鼻が!!」

「さ〜て、手始めにT○k T○kのアカウントでも……」

「オイ待て待て待て!! まだ負けてねーし! こっからが本番だし!! つーかオレちゃんと突進したよな!? 妖怪か、妖怪の仕業なのか!?」

「粒子魔術で空間を歪めて進路を捻じ曲げた。つまり俺の仕業だ」

 

 ノアはついでとばかりに回し蹴りを車体に叩き込み、戦車を後退させる。彼の後ろには死んだ目をした立香が杖を抱えて立っていた。

 表情筋を悪辣と愉悦に染め切って、下卑た声音を響かせる。

 

「調教開始だ外見ピンクと脳内ピンクコンビ!! 今からおまえらの血で赤く染めてシャア専用にしてやる!!」

「白いのがほざくと急にめぐりあい宇宙感出てきやがりますわね?」

「良いよな、専用って響き。めちゃくちゃエロいとオレは思う」

「この人たち、もしかして天然───!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、冬木大橋周辺。太陽は既に水平線の向こうに沈み、薄暗がりが天を覆っていた。

 大橋の真下。未遠川を挟む土手の右方に、巨大な影が浮かび上がっていく。閑静な景観にそぐわぬ機械的な鋼鉄の船が顔を出し、地面に接岸した。

 艦船のハッチが水を押しのけながら開き、内部からいくつかの人影が飛び出す。

 

「ビバ冬木市!! わたしはついに真っ当な外界に降り立ちました! 早速先輩たちが向かっているという大空洞を目指しましょう!!」

 

 妙にテンションが高いなすびの名はマシュ・キリエライト。特異点でなく、無限ゼパル編だったセラフィックスでもなく、彼女は生まれて初めて外国の土を踏んだのであった。

 そんなデミサーヴァントを生温かく見守るEチームサーヴァント陣と万能の天才。彼らの引率係である霊子ハッカー、シオン・エルトナム・ソカリス。

 数少ない常識人はがっくりと肩を落として言った。

 

「マスターの二人と連絡がついたのは幸いでした。薔薇十字団の襲撃に警戒しつつ、迅速に大聖杯を護りましょう」

「シオンさんから既に苦労人の気配が漂っていますねえ」

「上に立つ者の宿痾だね。我らがドクターはもはや苦労人オーラが瘴気のようになっていたけど」

「確実にアンタも一役買ってるでしょうね」

 

 しみじみと昔を懐かしむダ・ヴィンチの背を、ジャンヌは言葉の刃で突き刺した。どこぞの優雅な人だったら、致命傷になりかねない一撃である。

 ペレアスは周囲の風景を眺めて、

 

「焼けてないと良い街だな。…………まさかまた王様が出てきたりしないよな?」

「どこかのお屋敷の蔵にでも行ったら、ひょっこり出てくるかもしれませんわ」

フォウフォフォウフォウ(青タイツの槍男呼ばないと)

「初期メン勢には全ての始まりであり因縁の場所です。あの頃の先輩はまだ穢れていませんでしたね……」

 

 マシュは腕を組んで頷く。ジャンヌとダンテ、ダ・ヴィンチは声を揃えて呟いた。

 

「「「一番穢れたのは……」」」

 

 それを遮るように、マシュはアキレウスの如き神速で述べる。

 

「シオンさん。駄弁っている場合ではありません。サーヴァントの足を以ってすれば秒で到着できます。急ぎましょう」

「それは嬉しいのですけど明らかに逃げましたよね。一番穢れたのが誰か分かってますよね」

「いいえ、最も穢れているのはそう思わせる人間の心なのです。わたしの目を見てください。どこも濁っていないでしょう」

「そうですね、あまりにもドス黒くて濁る濁らない以前の問題です」

 

 辛辣な返しをするシオン。ダ・ヴィンチは顔面を劇画風に彩り、冷や汗を滲ませた。

 

「アトラス院の寵児、恐るべし……!! こうも早くマシュちゃんに適応してみせるとは!」

「この適応力ならいつか世界を断つ斬撃も放てそうですよねえ」

「あの子を何だと思ってんだお前ら!? 喋る暇があるなら走るぞ!!」

「うむ、ジョギングは良いぞ! 血行促進に老廃物の排出、新陳代謝の向上と良いことずくめだ! こういう日々の地道な努力が老後の健康に繋がるのだな!!」

 

 ぬるりと、甲高い幼女の声が滑り込む。

 薔薇の眼帯を着けた、可憐な少女。彼女はまるで最初からそこにいたかのように、ダンテの横に並んでいた。

 ダンテはしばし沈黙し、ぎょっと表情を引きつらせた。

 

「……誰ですか!?」

「貴殿の神曲を読んだぞ。アレは筆舌に尽くしがたい名作だった。私は思わず号泣してしまった」

「それは嬉しいですが、誰なんですか!? 怖いですよおッ!」

「うむ、問われたならば答えねばなるまい。私はクリスチャン・ローゼンクロイツ! かつて貴殿にローザと名乗った者だ!!」

 

 言うが早いか、ダンテを掠めるように黒炎が放たれる。

 薔薇十字団の首魁、ローゼンクロイツを名乗る者がここにいるという事実。それだけを理由に、ジャンヌは全ての理屈を置き去りにして動いた。

 完全に焼き払った。確実な手応えはしかし、一瞬にして裏切られることとなる。

 

「私は貴殿らを大きく評価している。魔術王をも打倒する意志。それが揃うとなれば、さしものアンナ・キングスフォードとて敗北は免れぬだろう」

 

 ローゼンクロイツは腕を組み、頷いていた。Eチームの間合いから離れた、水上の船体に足をつけて。

 

「故に足止めする。冬木の大聖杯は我らにとって重要なモノであるからな」

 

 薔薇十字の魔術師は笑う。

 魔術世界最高の使い魔たちを目の前にして、それが意味などないかのように。

 

「ああそう、勝手に言ってなさい。囲んで殴る人類最強の戦術でボコしてあげるから」

「ええ、いい加減意味深なことだけ言って帰る人種には飽きました。泣きべそをかく覚悟の準備はいいですか?」

「その意気や良し! ここからは瞬き厳禁だ、両目をほじって刮目せよ!」

 

 そして。

 ローゼンクロイツの世界が、目を醒ます。

 

 

 

 

 

「停滞固有結界『不凋花(クロノスタシス)』!!!」

 

 

 

 

 

 そこは、何もかもが色を失った白黒の世界だった。

 咲き誇るいくつもの薔薇の大輪も、空に流れる雲も、決して動くことはない。目に映るあらゆる全てが停滞し、停止し、時間から置き去りにされていた。

 無論、この場所に取り込まれた者たちも例外ではなかった。写真の中に収められた像の如く、彼らはみな未来を失ったかのように立ち尽くしている。

 

「ここは刹那すらも永遠となる、時の止まった世界。しかし、それ故に進歩を失った行き止まりの世界だ」

 

 ───私は私の世界を憎む。未来への歩みを否定する、我が心象を嫌悪する。

 固有結界とは自身の心象風景を展開し、現世の理を遮断する業だ。固有結界そのものが強力なのではなく、固有結界に敷かれた術者だけの理を振るうことが、この業の真髄。

 だとすれば、ローゼンクロイツの結界はあまりにも無体な法則を有していた。

 

「敵はいつだって己の弱さ。私はこの弱さを抱えたままに証明してみせよう。ヒトの進歩は、ヒトの意志は必ずやソラの果てに辿り着けるのだと」

 

 それこそが、時の止まった世界。

 彼の異界に取り込まれた異物は例外なく、時を失う。水は流れず、鳥は羽ばたかず、不変の牢獄に囚われる。

 ローゼンクロイツは独りこの世界を往き、相対する者たちに手刀を叩き込んだ。彼らの意識だけを確実に刈り取るために。

 色のない世界が霞となって消える。

 現世への帰還を果たした時、ローゼンクロイツを除く全ての者は地に伏していた。

 

「ふむ。後はアンナたちに任せるとするか。この戦いの行方が決まっている以上、ここでの結果もそう揺らぎはしないだろう」

 

 そこで、彼はダンテを見てはっと口を開ける。

 

「……しまったな。サインを貰っておけばよかった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬木市西側郊外に広がる森には、聖杯戦争の際に御三家アインツベルンが拠点としていた城があった。

 今となっては元の形を推測することしかできない、焦げた瓦礫の海。アインツベルンの城は絨毯爆撃にでも晒されたみたいに、原型を失っている。

 そこにソロモン王が敷設した基点はあった。万が一結界が破られた際、ここの霊脈から汲み上げた魔力を送ることで、結界を再生させる保険。

 獅子劫は冬木に散らばった執行者を集め、バアルに基点を解除させた───わけなのだが。

 

「バーサーカー、こういう時なんて言うか知ってる?」

「人がゴミのようだ、かしら?」

「それも正解! 私はやっぱりこう───ヒャッハー!!!」

「「「「ンギャアアアアアアアアア!!!」」」」

 

 基点が解けた途端に、執行者諸君はメイド少女&喪服の美女による襲撃を受けていた。

 メイド少女は世紀末的掛け声とともにガトリングの弾をばら撒き、数人の執行者を撃ち抜いた。魔術師であろうと死亡確実なはずの威力だが、何か術式が施されているのか、撃たれた執行者は白目を剥いて痙攣するだけの被害に留まっている。

 当の獅子劫はと言うと、瓦礫の中に潜り込みながら仲間が蹂躙される様を眺めていた。彼の胸ポケットにはバアルがにょっきりと生え、じろじろとメイド少女無双を睨んでいた。

 

「……なんだアレ。ロアナプラ出身か?」

「喪服の女はサーヴァントでメイドの方はよく分からん生物だ。万全の私なら赤子の手をひねるより簡単に潰せただろうが」

「そういうことは万全の時に言え、ポンコツ大根。……どうやら撃たれても死にはしねえみたいだし、投降するか?」

「馬鹿か貴様は? 投降なぞすれば私が奴らの手に渡るぞ。貴様らにとって大事な情報源の私がな」

「後でお前マジで千切りにするからな」

 

 仲間が取る行動は大きく分けて二つ。自身の魔術をもって攻撃するか、背を向けて逃げるか。生憎、後者の類は尻尾を巻いた側から撃たれているが。

 執行者とは魔術協会が所有する軍事力とも言える。時には封印指定を執行することから、彼らの中に決して弱者はいない。

 メイド少女とバーサーカーの頭上から、無数の魔力弾が雨霰の如く降り注ぐ。

 

「バーサーカー、行って?」

「ええ、マスター」

 

 喪服の美女はマスターを護ることなく駆け抜けた。彼女が向かう先は愚かにも攻撃を差し向けた執行者。手には巨大ハリセンというふざけた得物だが、とりあえず術者の運命は決まったと言って良い。

 むしろ注目すべきはメイド少女。映像にノイズが走るように、彼女の周囲にアルファベット状の影が散る。

 少女は踊った。

 とても避ける隙間などないはずの、魔弾の雨の中を。

 ひらひらと舞う衣服の端をも汚すことなく、ともすれば自らのサーヴァントよりも速い身のこなしで。

 

「虚数の影……か? キングスフォードといい、どうなってんだ奴らの選手層は」

「これは驚いた。現代にも見所のある魔術師はいるようだ。虚数属性の空間ではなく、時間を操る者がいるとは」

「……時間?」

「然り。アレは自らの周囲にこの次元とは異なる時間流を展開している。どこまで操作の手が及ぶかは不明だが、動作を見るにアレは────」

 

 ───私たちの一秒で、十秒分動いている。

 獅子劫は口の端を引きつらせた。

 一秒で十秒分動くという矛盾。だが、虚数属性を究めた術者には矛盾は矛盾でなくなる。

 メイド少女を取り巻く時間はこの次元よりも速く進む。彼女は通常の時間流との差異の分だけ、速く動けるのだ。

 寸秒が命取りとなる戦闘においては破格の能力。彼女からすれば、他者はのろのろと動く木偶の坊に過ぎない。

 獅子劫は逡巡する間もなく結論を出した。

 

「よし、降参するか。短い付き合いだったが、達者でやれよ」

「早まるな! 私に策がある! それに従え!!」

 

 バアルは策を語って聞かせる。獅子劫はそれを聞き届け、意を決して瓦礫の隙間から抜け出す。

 メイド主従の視線が集まる。

 獅子劫は萎縮する筋肉を強引に動かし、右手を彼女たちにかざした。

 

「男の子が大好きな話の展開を知ってるか?」

 

 二人は目を合わせて、

 

「ラッキースケベですか?」

「最低ね」

「ごめんなさ───いや、それも大好きだがな。もっと魂の芯から震えるアツい展開ってのがある。それを今から教えてやる」

「馬鹿なのこの男?」

 

 辛辣に次ぐ辛辣な言動のバーサーカーに心を抉られつつ、獅子劫は哮り立つ。

 

「───量産機が専用機に一矢報いる。何度擦られても心に焼き付く、パブロフの犬だよなァ!!」

 

 右手の先に魔法円が描かれる。

 それはソロモン七十二柱の悪魔に割り振られた魔法陣────第一位バアルの印章であった。

 

「恐れおののけ、人間!!」

 

 獅子劫の魔力を利用した、魔術の発動。

 今のバアルに以前の魔力はないが、ないなら他者から受け取れば良いだけのこと。かくして、ソロモン七十二柱の権能は発露する。

 雷鳴がはたたく。印章より解き放たれるは、轟雷と豪風。バアルの源流たるウガリット神話の豊穣神、その神威を纏いし嵐が空間を埋め尽くす。

 地面を覆う瓦礫を吹き飛ばし、射線上の一切を塵と変える一撃。それが途絶えた頃、そこには誰もいなかった。

 じわり、と宙に影が滲み出す。

 観光地の顔はめ看板みたいに、メイド主従の顔だけがひょこりと影から現れる。

 

「ふう、危ないところだったわ。男の子の熱量を感じた気がします」

「……量産機が専用機に報いるというか、量産機が専用機の武器を使ってましたけど」

「それはそれでアツい、んじゃないかしら。ほら、バーサーカーは唯一無二だけれど、貴女の剣は旦那さんの────」

「あ゙ーっ聞こえない聞こえない聞こえないわァ〜ッ!! あのなまくらはただ目についたから取っただけですしィ!? 何ならひのきのぼうの方がいくらかマシでしたから!!!」

 

 と、メイド少女は急にバーサーカーのバーサーカーたる所以を見せつけてきたサーヴァントを影から引っ張り出す。

 当然、辺りに獅子劫の姿はない。バーサーカーは肩で息をしながら、ハリセンを握り締めた。

 

「さあ追うわよ! この鬱憤、晴らさないと気が済まないわ!」

「……う〜ん。無理かもしれないわ」

「どうして!? ホワイ!?」

「ソロモン七十二柱バアルは欲望を叶え、知恵を授ける悪魔。そして、人を透明にするなんて言い伝えもあります」

 

 人を透明にする。ただの透明人間ならば捕らえるのは容易いが、ことバアルの権能となればそれは人知を超えた隠蔽術となるだろう。

 メイド少女はバーサーカーの背中を擦って、優しげに告げる。

 

「目的は果たしたことだし、帰りましょ? そろそろゴルドルフさんのお夕飯を作る時間だから」

「……ミ゙ィーッ!!」

 

 尻尾を踏まれた猫みたいな絶叫が、アインツベルンの森に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………サディストは常にマゾの予想の上を行かなきゃならない。オレはそう教えたよな?」

 

 ヘリオガバルスは鼻血を拭き取りながら言った。

 

「その点、さっきのはよかった。完璧にオレの想定外だった訳だからな。オレに認められるサドはそうはいねえ、誇っていいぜ?」

「おまえのお墨付きに価値があるとでも思ってんのか? まとめて潰してやるから、メルヘン女と一緒にかかってこい」

「あの、油断しないでくださいね。ロンドンの時は一回してやられてるんですし」

「ほざけ立香。おまえこそコードキャストはいつでも使えるようにしておけ」

 

 ノアはアンナとヘリオガバルスから目を外さぬままに告げた。一帯は無属性魔術が創り出した架空粒子に包まれている。それすなわち、敵は手のひらの上にあるのと同義だ。

 それでもノアが即座に攻撃を開始しなかった理由は、アンナ・キングスフォードの静けさにあった。

 彼女の魔術は魔法よりもいっそ魔法らしい。無用な隙を晒せば、アンナは必ず刺しに来る。下手に動けば負けるのは、どちらにとっても変わらない。

 ───否。アンナは理解していた。

 

(後か先かなんてのは関係ない。アホ白髪が神体化術式を使えば、確実に負ける)

 

 神の力とはそういうものだ。人間が弄した小細工など意にも介さず踏み砕き、一掃される。

 けれど、ノアはやすやすと神体化術式を行使はしないだろう。手の内を晒さぬ魔術師の性は当然、神代回帰は自身だけでなく周りの環境をも神代に還す。それが如何な騒乱をもたらすか、想像に難くない。

 要は、ノアが神体化を使わぬ程度に凌ぎつつ、隙を見て聖杯を奪い、離脱しなければならない。たったひとりの魔術師の登場で、戦力比は大きく傾いていた。

 ヘリオガバルスは告げる。

 

「しゃーねぇ、切り札だ。全員目ん玉こぼれ落ちる用意はいいか!?」

 

 直後、ノアは固有結界を展開する。

 切り札───真っ先に思い浮かんだのは、ロンドンにて見せた薔薇の褥を現す宝具。固有結界同士の衝突は魔術基盤・魔力出力の強い側が相手の世界を圧倒する。たとえ相手がサーヴァントであろうと、ノアの結界は基盤・出力ともに勝利できる性能を有していた。

 そして、宝具の解放がブラフである可能性。だとしても、結界に捕らえた時点で相手の命運は尽きている。

 世界の修正力を無視した無属性魔術。ゲーティアをも超えてみせた、ノアの切り札のひとつ。どんなにでたらめな理想でも実現してしまえるこの力に誤謬はない。

 ───結論、ノアに油断はなかった。

 

「来い────────」

 

 強いて言うのだとすれば、そこには誤算があった。

 

 

 

 

 

 

「─────()()()()()!!」

 

 

 

 

 

 

 ヘリオガバルスが掲げた紙。『CROATOAN』と影の文字が綴られたそれは空間に虚数の穴を穿った。

 空間の穴より、ソレは降り立つ。

 

「俺が出るのはもう少し未来での話だったはずだが……賞賛しよう。先が確定した結果に至る過程を、きみたちはその力で捻じ曲げた。えらいぞ」

 

 ソレには、光輪があり翼があった。

 天に坐す大いなる主の御使い。

 ヒトに託宣を授け、ヒトが歩む道の守護を命ぜられた、天の伝令者。

 すなわち、天使。ありとあらゆる物語に語られし幻想の存在は、誰の目にも確かな御姿をもって現れた。

 

「汎人類史……この世界の魔術の祖は、魔術回路を用いることを選んだのだったか」

 

 天使は呟く。

 

「■■■■■■」

 

 聞き馴染みのない発声、聞き覚えのない言語。天使の他に意味すら理解できぬその言葉は、

 

「───あ゙?」

 

 とうに現出していたノアの固有結界を、するりとほどくように無に帰してみせた。

 マーリオゥとエルメロイⅡ世は慄然たる形相で、天使を見つめる。

 

「よりにもよって、天使───しかもシェムハザだと? 人に魅入られた堕天使が、審判の日でもねえってのに出てきてんじゃねえよ……!!」

「魔術に天使というイメージを与えることはあるが、実物を出してくるか。否、人類の幻想より生まれたサーヴァントならば、」

「違います」

 

 立香は言った。シェムハザという天使、天使を用いた魔術の双方において、マーリオゥとエルメロイⅡ世のような知識を持たないながらも、確信めいた声音で。

 数々のサーヴァントと相対してきたマスターの本能。言わば勘。それが彼女にこう告げていた。

 

「アレは、サーヴァントじゃありません」

 

 天使は柔和な笑みを浮かべて、

 

「善き人よ。きみのような子は珍しい。言葉に言い表せぬ曖昧な感覚はどうしても否定したくなるものだ。きみは魂から発露した感情を信じることができるのだな」

 

 どこまでも包み込むように、言ってみせた。

 

「えーと、ありがとうございます?」

「分からないまま礼言ってんじゃねえ! あいつのせいで魔術が使えないから、おまえの杖で攻撃しろ!」

「え、は、はい!」

「ふふ。愛いな、人の子は」

 

 飛び来る電子の魔弾。天使は触れることすらなく、それをかき消す。

 

「マナをそのまま利用しているな。うん、私の世界の魔術と同じ方式だ」

 

 エルメロイⅡ世は歯噛みする。シェムハザ。旧約聖書偽典にて、人類に魔術を与えた天使───魔術の祖。伝承にしか在ることを許されぬはずの者が、こうして現代にいるのだ。

 取り留めのない思考を繰り返す脳に追い打ちをかけるように、彼の通信機が振動する。科学ならぬ魔術の様式で造られたそれは、たとえ電波が届かない場所であっても通話を可能にするモノだった。

 

「『おい聞こえるか愚兄!! 聞こえているなら濡れた子犬みたいにワンと返事しろ!』」

「切るぞ」

「『待て私が悪かった! だが、時間がないだろうから質問もせずにただ聞け! いいな!?』」

「……ワン」

 

 通信機から響く声は言う。

 

「『私たちはたった今襲撃を受けた。長い黒髪の女だ。そいつは私たちをひとしきり蹂躙した後、虚数属性の影を使って消えた』」

 

 示し合わせるかのように、アンナの横にまたもや影が滲む。

 

「『女は魔法名を名乗った。古式ゆかしいことにな! その名前はDeo Duce Comite Ferro(神は我が導き手、剣は我が同朋なり)!! つまり──────』」

 

 影を抜け、その女は土を踏み締める。

 長い黒髪。知性の光を宿した怜悧な眼差し。それを認めた瞬間、エルメロイⅡ世の思考は漂白され、五感の全てが彼女に向かった。

 女は紫煙を吐き、口を開く。

 

「久しいな、ウェイバー少年」

「…………貴女、は─────」

 

 彼が紡ぎかけた言の葉が塗り潰される。

 

「『────()()()()()()()()()()!! 大英博物館に秘蔵されていたソロモン王の文書を翻訳し公開した、時計塔の怨敵だ!!』」

 

 アンナは遠い目をして黒髪の女、メイザースの肩を小突く。

 

「サム。言われてますわよ」

「誰にでもある若気の至りだ。それに公開したのはアレイスターのアホ野郎だぞ」

「ああ、しかも無断でやってやがりましたわね。あのクソ馬鹿は」

「アヘン中毒者の話は良いだろう。こういう時は逃げるに限る。北欧の白き神を相手取る準備もない」

 

 メイザースの手元に浮かぶ術式。魔力の光が途絶えた直後、入れ替わるように聖杯が握られていた。ノエルは驚愕して、十指を開閉する。

 

「……嘘ぉっ!? なんで!?」

「おいブタ。煮込まれんのと揚げられんのどっちが好みだ」

「これ私のせいじゃなくないですか!?」

 

 空間の置換。メイザースは自身の手元とノエルの手元の空間を入れ替え、聖杯を手中に収めた。

 

「天にまします我らが主よ」

 

 短い詠唱。たったそれだけの魔術行使で、聖杯が色を帯びる。まるで在りし日の時間を取り戻したように。

 それを見て、ノアははたと思い至った。

 『浄化術式(コンセクレーション)』。人造天使カリス・グラダーレの固有の魔術。如何な魔術の業か、メイザースはそれを再現し、扱ってみせたのだ。

 メイザースは中空に視線を投げ、伝える。

 

「やれ、ライダー」

 

 その時、ノアは莫大な魔力の接近を感じ取った。

 ここが地下でなければ、彼の目にも見えていたであろう。遥か宇宙空間より、灼熱の光輝が墜落する。

 しかし、それは大気を破裂させることも、地面を焼き砕くこともなく、すり抜けるように地下に落ちていく。

 

「───くそったれ」

 

 魔術は使えない。魔術の祖たるシェムハザが現れてから、魔術回路を用いた業のことごとくが発動を封じられている。

 つまるところ、逆転の一手である神体化術式も同じ。落ちてくる魔力の隕石を防ぐことはできない。

 

(わけがねえだろ!!!)

 

 シェムハザは言った。マナを利用した魔術の方式、と。立香の魔弾を打ち消したのなら、奴が封じているのは魔術回路による魔術───ソロモン王が生んだ西洋魔術だけだ。

 天使と同じ方式の魔術ならば、行使は能う。

 マナを取り込まず、そのまま運用する。その感覚は粒子魔術で既に掴んでいる。

 ならば、後は単純で明快だ。

 大気に溶け込むマナ。これをこねくり回し、術式を発動する────!!!

 

 

 

「『神体化・断罪の光明(アルス・テウルギア・バルドル)』───神性領域拡大!!!」

 

 

 

 二つの光が交錯する。

 バルドルの絶対防御。本来は自らの肉体のみに課されている権能を広げ、仲間を包み込む。

 

「『思った通りだ。君なら護れると信じていたよ』」

 

 あどけない声が脳裏に響く。

 それは、声の主の敗北宣言を意味していた。

 かくして。

 太陽の欠片は絶対なる護りの前に砕け散った。

 だが、それと引き換えに、敵の姿はどこかへと失せていた。バルドルと化したノアは深く息を吸い込み、

 

「○○○○!! ○○○!! ○○○○○────!!!」

「載せられない言葉だけ叫ぶのやめてくれません!!?」

「神の声量ってこんなに大きいんですね」

「コイツの語彙幅汚すぎだろ」

 

 ───一方。大空洞より逃げ帰ったアンナたちは、霧中の島の海岸に立っていた。

 一足先に彼らを待ち構えていたローゼンクロイツは満足げに告げる。

 

「よくやった! これで我らの敗北と勝利が確定したぞ!!」

 

 ぱちぱちぱち、とメイド少女とバーサーカーは拍手した。対して、大空洞から帰ってきた面子は、

 

「…………やられましたわね」

 

 血を吐き、膝をついていた。アンナとヘリオガバルス、メイザースだけでなく、天使さえも。

 ローゼンクロイツは冷静に分析する。

 

「バルドルは裁きの神であったな。権能が及ぶ範囲にいたとなれば、判決を受けて然るべきだろう。人間など罪だらけだからな!!」

 

 バルドルの光は裁きの光。神が下した調停に反駁の余地はなく、光を浴びた者は一切の例外なく影響を受ける。アンナたちはあの一瞬にして裁かれ、肉体の損傷という形で罰を下されたのだ。

 メイザースは自らの肉体に刻まれた毀傷を把握し、砂浜に腰を落ち着ける。

 

「魔術回路をやられた。あのまま戦えば終わっていたな。大聖杯の起動は少し待て」

「俺も損壊した霊体の修復に時間がかかる。……なにはともあれ」

 

 シェムハザは独り言のように呟いた。

 

「私は、この世界が異聞のモノとして切り捨てられぬことを祈るばかりだ」



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