レーセル帝国物語 皇女リディアはタメグチ近衛兵に恋しています。 (日暮ミミ)
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序 章――皇女と二人の幼なじみ――

 ――三人は、幼い頃からいつも一緒に過ごしてきた。

 

 デニス、ジョン、そして……皇女(プリンセス)・リディア。リディアはこのレーセル帝国の現皇帝、イヴァン・エルヴァ―トの一人娘にして、第一皇位継承(けいしょう)者。つまりは、女子でありながら次期皇帝という身である。

 

 この国では今まで、女性の君主(くんしゅ)も当たり前のように君臨してきた。それは皇族と国民の距離が大変近しく、たとえ女帝であっても広い心で受け入れる国民の寛大さゆえのことだった。

 

 そして、デニスの父もジョンの父も、イヴァン皇帝に(つか)える兵士であったため、三人の子供達は身分を越えた「幼なじみ」の関係になったのである。……それはさておき。

 

 

****

 

 

「――ねえデニス、わたしにも剣術を教えてくれない? それから、体術も」

 

 それは、三人が十二(さい)になった頃の春のこと。

 

 お忍びで町娘(まちむすめ)格好(かっこう)をしたリディア姫が、幼なじみのデニスにそう(たの)み込んだのだ。

 

 デニスは十歳の頃から、元帝国兵が開いている剣術鍛練所(たんれんしょ)で剣術を習っていたのだが。

 

「ええ? 剣術と体術って、なんでまた」

 姫にそんなものが必要なのか、と彼は首を(かし)げた。

 

「だって、わたしは将来皇帝になるのよ。(たみ)を守るのが皇帝の(つと)めでしょう? だったら、まずは自分の身を守る(すべ)を身につけなきゃいけないはずでしょ!」

 

 リディアの真摯(しんし)眼差(まなざ)しと、その熱意に負けたデニスは、「分かった」と(うなず)く。

 

「お前がそこまで言うなら……。ただし、姫様相手(あいて)だからって、手加減(かげん)一切(いっさい)しないからな。覚悟しとけよ」

 

「もちろんよ! 女に二言(にごん)はありません」

 

 リディアは彼を()っすぐ見据(みす)えたまま、力強く頷いた。

 

 ――こうして、デニスを師匠(ししょう)に迎えての、皇女リディアの剣術・武術の特訓の日々が始まった。

 

 

****

 

 

 ……それから一ヶ月後。

 

 カーン! キーン!

 

 レーセル城(うら)一画(いっかく)で、リディアとデニスが剣を(まじ)える(たび)に、金属音が鳴り響く。他に聞こえるのは、二人の激しい息(づか)いのみ。

 

 ――そして。

 

 カキーーーーンッ!

 

 リディアの剣が、デニスの手にしていた剣を(はじ)き飛ばした。剣はそのままくるくる回転し、土の地面に突き刺さる。

「リディア、(まい)った! 降参だ」

 

 丸腰になったデニスが、白旗を()げた。息を切らしながら、リディアは剣を(さや)に収める。彼女のポニーテールが、風に()れた。

 

「情けないなあ。そんなことで降参してたら、ガルシアどのに(しか)られるわよ」

 

 彼女は(あき)れたように、半目で「師匠(デニス)」を見た。ちなみに、「ガルシア」とはデニスの父の名前である。

 

「いやいや。リディア、お前腕上げたなぁ」

 

「……そう? ありがとう」

 

 デニスに()められ、リディアは(うれ)しいやら照れ臭いやら。

 

「……あなたの教え方がよかったからよ。いつも手加減なしで、熱心に教えてくれるから……」

 

 リディアは「ありがとう」と、もう一度デニスに礼を言った。彼の熱意に(こた)えるためには、自分自身も本気でかからないと相手に失礼だ。

 

「――そういや,なんでオレに教わろうと思ったんだ? 剣の腕なら、オレよりジョンの方が上なのに」

 

 地面に刺さったままの自分の剣を引っこ抜きながら、デニスはリディアに()いた。

 

 実際、剣術鍛錬所でもジョンの腕はずば抜けている。それこそ、デニスなんか足元にも(およ)ばないほど。

 

 そのことは、この国の皇女である彼女の耳にも入っているはずなのだが……。

 

「ジョンは確かに腕は立つけれど、誰かに教えるような部類の人じゃないわ。それに、わたしはデニスに教わりたかったの。どうしても」

 

 リディアはデニスの茶色い(ひとみ)を見つめて、そう言った。

  

 彼女はもうだいぶ前から、彼に好意を寄せていたのだ。そして、彼もまた……。リディアはまだ気づいていないけれど。

 

「――ねえ。デニスも将来、お父様みたいに帝国兵になるの?」

 

 侍女(じじょ)に持って来させた紅茶を飲みながら、リディアはデニスに()う。

 

 二年前に剣術を習い始めてから、彼の体つきは少しガッシリしてきたように見える。まだ十二歳なのでそれほどでもないが、あと五~六年もしたら屈強(くっきょう)な兵士にもなれそうだ。

 

「ああ。さすがに、父さんみたいなバリバリの軍人にはならないけど。お前をすぐ(そば)で守りたいから、近衛兵(このえへい)に志願したいと思ってるんだ」

 

 まだ声変わりしきっていない声で、彼は答えた。

 

「近衛兵……、ね。いいんじゃない? わたしも、あなたが守ってくれるなら頼もしい」

 

 リディアは目を細める。何より、大切な人が自分のすぐ側にいてくれるのが嬉しくて。

 

「でも、お前はオレに守られる必要ないかもな」

 

「ちょっと! それ、どういう意味よ!?」

 

 デニスの軽口(かるくち)に、リディアは眉を()ね上げた。

 

「お前は充分(じゅうぶん)強いから。オレが守るまでもないかな、って思っただけだよ」

 

「う…………」

 

 あっけらかんと言ってのけるデニスに、図星をつかれたリディアは言葉を()まらせる。

 

「まあでも、仕事ならちゃんとやるよ。お前のこと、ちゃんと守ってやるからさ」

 

 

 渋々(しぶしぶ)、という口調(くちょう)で言うわりに、彼の表情が心なしかはにかんでいるようにリディアには見えた。

 

「……それはどうも。そんなことより、デニス。あなたのその横柄(おうへい)な態度、何とかならないの? わたしは皇女なのよ。せめて、敬語くらいは使ってほしいものだわ」

 

 いくら幼なじみだからといって、自分の身分はわきまえてほしい。リディアはそう(うった)えかけるが……。

 

「それはムリだな。いくら皇女だからって、幼なじみに敬語なんか使えるかよ」

 

 デニスにバッサリ()り捨てられた。  

 

 せっかく親しくしていたのに、敬語で話したら壁ができてしまう。……彼の言い分も分かるのだけれど。

 

「でっ……、でもっっ! ジョンはちゃんとわたしのことを(うやま)ってくれてるわよ」

 

 リディアはもう一人の幼なじみを引き合いに出して、口を(とが)らせる。同じ幼なじみなのに、二人はどうしてこうも違うのか。

 

「ああ、ヤツは生真面目(キマジメ)だからな。でも、オレは違う。一緒にしないでくれ」

 

 ジョンと比較(ひかく)されたデニスは面白(おもしろ)くない様子。不機嫌そうにそう吐き捨てた。

 

「だいたい、十二歳のガキが、大人のマネして『姫様』なんて。幼なじみの顔色(うかが)うことなんかしなくていいんだっつうの。今までずっと呼び捨てだったのにさ」

 

「それは……、まあ……そうね」

 

 デニスの言うことにも一理(いちり)ある。それは、ジョンが一足(ひとあし)先に大人になったからだと、リディアも何とか納得しようとしたけれど。本音(ほんね)を言えば戸惑(とまど)ったし、少し(さび)しくもある。

 

「姫様」と呼ばれることで、自分との間に距離を置かれたようで。……でも。

 

「ジョンはお父様が厳しい(かた)だから、そうなってしまったのかもしれないわね」

 

 ジョンの父・ステファンは帝国兵で一,二位を争う手練(てだ)れで、次期将軍との呼び名も高い男だ(ちなみに争う相手はガルシアである)。

 

 父に限らず、ジョンの一族は先祖代々、歴代皇帝の(もと)で将軍を務めてきた、レーセル帝国では知らぬ者のない由緒(ゆいしょ)正しき家柄なのである。ジョンもきっと、一族の名に恥じないように()()っているだけなのだろう。

 

 ――それはさておき。

 

「……まあ、今は敬語なしでも許してあげるわ。まだあなたはわたしに仕えてるわけじゃないし、今はわたしが剣を教わっている(がわ)。つまり、わたしは弟子(でし)なんだものね」

 

「えっ、いいのか!?」

 

 リディアが出した妥協(だきょう)案に、デニスは(またた)いた。思わず、声が上ずってしまう。

 

「ええ。ただし、成長して一人前の兵士になった時には、その横柄な態度は即刻(そっこく)(あらた)めてもらいます。――いいわね?」

 

 ニッコリと含みのある()みを向けられたデニスは、一瞬(ひる)んだ。けれど、すぐさまいつもの不敬(ふけい)な調子に戻り、頷く。

 

「分かったよ。そん時は、ちゃんと改めるから。……おいおい、そんなに(にら)むなって」

 

「本っっ当に、態度を改めてくれるんでしょうね?」

 

「本当だって! オレを信じろよ。――さて、特訓を再開するぞ!」

 

「はいはい」

 

 デニスの態度には納得がいかないものの、師匠の顔に戻った彼には、弟子であるリディアは(さか)らうことができない。

 

 ――思春期にさしかかり、少しずつ変わり始めた幼なじみ三人の関係性。それが大きく変わるのは数年後のことだが、まだ幼いリディアとデニスはこの時には知る(よし)もなかったのであった――。



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1・皇女サマはお年頃⑴

 ――それから六年の月日(つきひ)が流れた。

 

 リディアも十八歳。今では蜂蜜(ハチミツ)色の(つや)やかな長い髪と、紺碧(こんぺき)の瞳を持つ、美しい姫へと成長していた。

 

 次期皇帝としての執務(しつむ)をこなしつつ、相変わらず幼なじみのデニスから剣の特訓も受けている。彼女の剣の腕は、もはや実戦でも役に立つかというくらい上達していた。

 

 ――この日は、皇帝イヴァンは隣国に出向いており、城の留守(るす)を預かっていた皇女リディアが、応接の()で客人と向き合っていた。

 

「――それでですね、皇女殿下(でんか)(わたくし)どもと致しましては、ぜひとも皇帝陛下(へいか)のお力添(ちからぞ)えを(たま)わりたく……」

 

 客人は、海を(はさ)んだ対岸に位置する、レーセル帝国の庇護(ひご)国・プレナよりの使者で、近頃国民を悩ませている荒くれ者達への対処に帝国の力を借りたい、とのことだった。

 

 ティーカップを手に、相槌(あいづち)を打ちながら客人の話に耳を(かたむ)けていたリディアは、優雅(ゆうが)仕草(しぐさ)でテーブルにカップを置くと、そろそろと口を開く。

 

「お話はよく分かりました。ただ、わたしの一存では何とも……。父が戻りましたら、わたしから父にこのことは伝えておきますわ」

 

「お心遣い感謝致します、皇女殿下。陛下が不在の時に来てしまったので、話を聞いて頂けるかと頭を抱えていたのですよ」

 

 彼は安堵(あんど)したように、リディアに(こうべ)()れた。そして飲みかけのティーカップをテーブルに置き、客人は長椅子(ながいす)から立ち上がる。

 

「それでは、私はこれで失礼致します。陛下にもよろしくお伝えくださいませ」

 

「ええ、必ず伝えます。――お国へは、これからお戻りに?」

 

 客人を見送ろうと、一人()けの椅子から立ち上がったリディアは、ドレスの長い(すそ)(さば)きながら彼に(たず)ねた。

 

「いえ、一週間ほどはこのレムルに滞在(たいざい)する予定ですよ。もう宿(やど)も取ってありますし」

 

 レムルとは、このレーセル帝国の帝都であり、皇帝一族が暮らすレーセル城も、このレムルの(はず)れに建てられている。

 

「まあ、そうですの? でしたら、父が直接、宿を(たず)ねるかもしれませんわ。宿の名前を(うかが)っても構いませんか?」

 

 リディアは大臣(だいじん)を呼び、客人が告げる宿の名前を書き取らせた。

 

 プレナの使者を見送った後、応接の間に残っていたリディアの元に、赤髪(せきはつ)を短く()った一人の長身の若者がやってきた。

 

 (そで)なしの白い()(えり)チュニックに黒い革の下衣(ズボン)・防具として軽い(よろい)小手(こて)を身につけた彼こそ、十八歳になり、近衛兵として皇女リディアに仕える彼女の幼なじみの一人、デニスその人だ。

 

「よお、リディア。客人が来てるって女官に聞いたんだけど。もう帰ったのか?」

 

「デニス……。いいえ、レムルにしばらく滞在するんですって。何でも、お父さまにどうしてもお願いしたいことがあるとかで」

 

 話の詳細(しょうさい)については、いくら幼なじみの近衛兵(デニス)が相手でも口外(こうがい)はできない。

 

 だがデニスは、「ふうん?」と鼻を鳴らしただけで、興味を失ったように長椅子にドカッと腰を下ろすと、客人の飲み残しの紅茶に口を付け始めた。

 

「ちょっとデニス! お行儀悪いわよ」

 

 ギョッとしたリディアが、(あわ)てて彼を(とが)める。まだ室内に残っていた大臣も、デニスの振る舞いに眉をひそめた。

 

「だって、もったいないだろ? あっ、菓子も頂くぜ」

 

 今度は、客人が手もつけなかった焼き菓子の皿に手を伸ばし、美味(おい)しそうにバリボリ頬張(ほおば)り始めたデニスに、再び椅子に座ったリディアは、肘掛(ひじか)けに頬杖(ほおづえ)をついて「呆れた」と(つぶや)く。

 

「まったく……。給金も、宿舎(しゅくしゃ)の食事も充分足りているはずなんだけど。あなたのその()意地(いじ)の悪さは相変わらずね」

 

「……?」

 

 コメカミを押さえるリディアに、デニスは首を傾げた。

 

「……いいえ、何でもないわ」

 

 デニスやジョンのように、城に仕える若い兵士達は、城の敷地内に建てられている宿舎で共同生活をしているのだ。有事(ゆうじ)の際に思う存分力を発揮(はっき)してもらえるよう、兵士には毎日、充分な量の食事が提供されているはずである。デニスには、それでは不足なのだろうか?

 

 思えば彼は、リディアの知る限り幼い頃から食い意地が張っていた。

 

城での茶会に招いた時も、当時まだ七歳だったデニスは他の子供の分の(それも、自分よりも幼い子の、だ)菓子まで食べたがっていたし。三組の親子連れで湖のほとりまで遠出(とおで)した時だって、当時十一歳で食べ(ざか)りだった彼は、誰よりも弁当を食べたがっていた記憶がある。食欲旺盛(おうせい)なところは、十八歳になる今も健在のようだ。

 

「相変わらず、といえば……。あなたのそのふてぶてしい態度も相変わらずよね」

 

「……え?」

 

 リディアが皮肉(ひにく)ってそう言うと、デニスは焼き菓子をつまむ手をピタリと止め、彼女に向けて(ほう)けたような表情(かお)をした。

 

「『え?』じゃないでしょう? 一人前の兵士になったら、態度を改めるって約束したじゃない! なのに、一向に改める気がないんだもの」

 

「あれ? オレ、そんなこと言ったっけ?」

 

 苛立(いらだ)ちながらリディアが言っても、デニスはすっとぼけるだけ。

 

「言いました! 『オレを信じろ』とも言ったわ。――もう六年も前のことだから、忘れてるかもしれないけど」

 

 リディアは(うれ)うように、目を()せた。睫毛(まつげ)が長い分、余計美しさが増す表情だ。

 

 ここレーセル帝国では、十八歳でもう一人前の大人として認められる。飲酒が解禁されるというだけでなく、仕事や結婚の面でも、親の承諾(しょうだく)が必要なくなるのである。

 

 したがって、デニスももう一人前……のはずなのだが。彼のリディアに対する態度は、六年前からほとんど変わっていない。

 

 変わったことといえば、呼び方が「お前」から「リディア」に変わったことくらいだろうか。

 

「なに? リディアはオレに、『姫様』って敬ってほしいのか?」

 

「そっ……、そんなんじゃないけどっ! せめて、そのふてぶてしい態度は何とかして。今のわたしは、あなたの(あるじ)なんだから」

 

(……正直、デニスが昔のままわたしに接してくれているのは、幼なじみとしては嬉しい限りなんだけど。皇女、という立場を考えると、ね……)

 

 慌てて言い(わけ)するリディアの胸中(きょうちゅう)は、複雑だった。幼なじみとしても、大国の姫としても、様々(さまざま)な感情が渦巻(うずま)いていたのだ。

 

 そんな彼女の心中(しんちゅう)を察してか、デニスは短髪の頭をボリボリ()きながら、「参った」という顔で答える。

 

「んー、分かった。考えとくよ。ただ,この言葉(づか)いだけは直らないかもしれないけど。……それでもいいか?」

 

 きっと、これが彼の考えた,精一杯の忠誠心なのだろう。リディアはそう思って、明るい表情で頷いた。

 

「ええ、それでいいわ」

 

 ジョンが自分に敬語を使うようになってから、彼女はずっと淋しいという感情を(いだ)いてきたのだ。けれど、デニスは今まで通りに自分と話してくれるらしいと分かって、少しホッとした。

 

 彼にまで壁を作られたら、リディアは孤独(こどく)感に(さいな)まれるかもしれない。

 

「――それにしても、退屈ねえ……」

 

 行儀が悪いと怒られそうだが、リディアは誰にとなくそう呟いて、ウンザリとテーブルに頬杖をついた。

 

「ねえ。今日はもう、他に来客の予定はなかったのよね?」

 

「はい。わたくしは特に伺っておりません」

 

 大臣に確かめると、そう返事が返った。

 

 改めて、彼女は盛大なため息をつく。(たい)してやることもないのに、城の留守を預かっている時ほど、退屈な時はない。

 

 せっかく外は,うららかな春の陽気だというのに……。

 

「――そうだ、リディア。退屈してるなら、久しぶりに一緒に遠出しないか? シェスタまで。ジョンも(さそ)ってさ」

 

「え?」

 

 デニスからの思わぬ提案に、リディアは目を丸くした。この若造(わかぞう)の皇女に対しての不敬で(くだ)けた(もの)言いを、側に(ひか)えていた大臣は(こころよ)く思ってはいないものの、決してそれを咎めようとはしない。それは、この二人――皇女と若き近衛兵――が親しい幼なじみの関係であることをよく知っているからだろう。

 

 

 ちなみにシェスタは、帝都レムルの南方に位置する、帝国一(さか)えている港町である。

 

 リディアとデニス、そして現在は帝国軍一の大剣(たいけん)使いとして名を(とどろ)かせているジョンの三人は、時々城を抜け出し、そして時には馬を走らせて遠出するのだ。

 

 とはいえ、シェスタの方へ馬を向けるのは数ヶ月ぶりとなる。しかも、じきに夕暮れになるので、これから出発となると日帰りは不可能だ。

 

「ジョンも一緒なのね? ――ねえ大臣、ちなみに明日(あす)のわたしの予定はどうなってるかしら?」

 

 向こうで一泊するとなると、翌日の予定も把握(はあく)しておく必要がある。

 

「は? ――ええとですね、明日も特にご予定はなかったかと。それとですね、陛下がお戻りになるのも、確か明日の夕刻だったと伺っております」

 

 大臣は少々うろたえつつも、皇女の翌日の予定と、主の帰国予定を伝えた。

 

「お父さま、明日お戻りになるのね。じゃあプレナの問題について、あなたからお父さまに伝えておいてくれるかしら?」

 

承知(しょうち)致しました。姫様の(おお)せのままに」

 

 大臣の返事を、リディアは外泊の承諾と受け取った。視察旅行は、皇族の立派な公務である。反対する理由はないのだろう。

 

「――じゃあ、早速(さっそく)旅の支度(したく)をして出発しましょう。デニス、あなたも一度宿舎に戻って着替(きが)えてらっしゃい」

 

「分かった」

 

 リディアの言葉に、デニスは何の疑問も抱かずに(したが)った。お忍びで出かける時には、必ずそうするからである。

 

 デニスが応接の間を後にすると、リディアも城の(おお)階段を上がった。二階にある自室で着替えて、旅の支度を(ととの)えるために。

 

 彼女は侍女の手を借りなくても、自分の身支度ができる。それはこういう侍女を連れて行けない旅の時でも困らないように、幼い頃より訓練していたからである。

 

 リディアは動きにくいドレスから、純白の詰め襟風のブラウスに赤茶色のベスト、黒の膝下丈(ひざしたたけ)のスカートに革の編み上げブーツという、町娘風の服装に着替えた。

 

 豪華(ごうか)装身具(そうしんぐ)は全て外し、ポニーテールに着けたのは昔デニスから(おく)られた木彫(きぼ)りの髪()めのみ。

 

 宿泊用の荷物を詰めた麻袋を()げて城を出ると、ちょうど着替えを済ませたデニスが宿舎から出てきたところだった。

 

 彼も生成(きな)り色のチュニックに黒のベスト、黒い革の下衣(ズボン)に革の編み上げブーツという町人風の服装だ。――護衛(ごえい)する関係で、剣は鞘ごと腰に装備しているけれど。

 

「リディア、待たせたな」

 

「ううん。わたしもたった今、来たところなの」

 

 デニスも麻袋を提げているが、見るからに中の荷物は少ない。

 

「しかしまあ、リディアの荷物はいつ見ても多いな」

 

「仕方ないでしょう? 女は何かと物()りなんだもの。――ところでジョンは?」

 

 リディアは(ふく)れっ(つら)をしつつ、まだ姿の見えないもう一人の幼なじみについてデニスに訊ねた。すると、彼から返ったのは意外な答え。事もなげに、しれーっと。

 

「まだ声もかけてない。今から呼びに行くところだ」

 

「ええっ!? 一緒に行くって決まってたんじゃないの!?」

 

 リディアは心底(しんそこ)驚いた。彼の先程の口ぶりから、もうジョンにも同意を()たものとすっかり思い込んでいたのに。

 

「大丈夫だって。アイツのいそうな場所ならオレ分かってるから。リディアも一緒に誘いに行こう」

 

「えっ!? 行くってどこによ?」

 

「剣術の稽古場(けいこば)だ。――行くぞ」

 

 リディアの「ちょっと待って!」の声も聞かずに、デニスは彼女の前に立って歩き出した。剣の鍛錬が日課(にっか)のジョンは、ほぼ毎日そこに入り(びた)っている……らしい。

 

「もし、ジョンが『行かない』って言ったらどうするの?」

 

 リディアはデニスの歩調に合わせて歩きながら、彼に訊いた。

 

 デニスは彼女を護衛する任務についているため、(おおやけ)の時には常に彼女の前を歩いているのだが、こういう私的な外出の時などには、女性であるリディアに歩く速さを合わせてくれる。無骨なように見えて、実は紳士的なのである。

 

「それも大丈夫だ。アイツがリディアの誘いを断ったこと、一度でもあったか?」

 

「……なかった、と思う」

 

 ドヤ顔のデニスに訊ねられ、リディアは少し悩んだ後に答えた。

 

 確かにジョンは今まで、リディアに「出かけましょう」と誘われたら、一度も断ることなく同行してくれた。けれどそれは、ただ単に忠誠心からなのか、はたまた本当にリディアと出かけたいからなのかは、彼女にも分からない。

 

「――そういや、話変わるけどさ。リディアももう年頃だろ? 縁談(えんだん)の話とか来るのか?」

 

(年頃って……ねえ。あなたも同い年でしょう?)

 

 リディアは、デニスの言葉に面食(めんく)らった。自分と全く同い年の人に「年頃」なんて言われると、変な感じがする。

 

「縁談のお話? ええ、山ほど来てるわよ。国の内外も、年齢も問わずにね。こないだなんて、名前も言語(げんご)も知らなかった遠方の国の貴族から、『息子を婿(むこ)入りさせたい』って言われたのよ。あれには参ったわ」

 

 ため息をつきながら、リディアは答えた。――もちろん、申し出は通訳を介して伝えられたのだが。

 

「皇女の婿」ともなれば、これ以上の逆玉(ぎゃくたま)はあり得ない。だから、近隣(きんりん)諸国の王族・貴族が子息(しそく)のために必死になるのは当然のことなのだろうが。当事者であるリディアにしてみれば、好きでもない男に(むら)がられるのはウンザリなのだろう。

 

「まあ、言葉の通じない婿さんを迎えても、困るだけだよなあ」

 

「ええ。――それに、わたしが結婚したい相手は、この国の中にいるのよ」

 

 ――そう。幼い頃からずっと、彼女はただ一人だけを想い続けてきたのだから。

 

「それって……、オレも知ってるヤツ?」

 

(あなたのことだってば)

 

 リディアは(とな)りを歩く幼なじみをチラッと見遣(みや)り、こっそりツッコミを入れた。

 

 この男は、昔からこと色恋に関しては(ニブ)いのだ。リディアの自分への恋心にだって、(いま)だに気づいているのか気づいていないのか分からない。

 

「……教えられません!」

 

 けれど、彼女はそんなことはお首にも出さず、すっとぼけて見せた。

 

「――ところで、今日シェスタに行こうって言ったのはどうして?」

 

 そして、唐突に話題を変える。

 

 この時刻からお忍びで出かけるのなら、わざわざ馬を走らせてシェスタまで行く必要はなかったのではないか。レムルの城下町だけでも、もっと近い町でもよかったろうに。

 

「まあ、()けば分かるさ」

 

 デニスはそう答えて、不敵な笑みを浮かべる。――シェスタには()()があるのだ。

 

 リディアにはふと、ある考えが浮かんだ。

 

 城には先刻、プレナからの使者が来たばかりで、その国内で問題が起きていると聞いた。

 

 その時には人払いをしていたので、近衛兵であるデニスにも退室してもらっていたのだが、彼はもしかしたら、ドアの前で聞き耳を立てていたのかもしれない。

 

 そして、シェスタとプレナは、海を挟んで目と鼻の先だ――!

 

「プレナの方で、何かあったらしいな」

 

「ええ……。あなた、さっきの話聞いてたのね?」

 

「まあな」

 

 ――やっぱり、そういうことか。彼が「シェスタに行こう」と思い立ったのは、プレナでの非常事態を知ったからだったのだ。あの町で、対岸の小国についての情報収集をするのが目的なのだろう。

 

 

****

 

 

 ――しばらく城の敷地内を歩いていると、一番奥まった場所に剣術の稽古場はあった。

 

 大きなドアを(ひら)いたデニスが、中で(みずか)らの身長と同じくらいの長さの大剣を振り回し、汗だくになっている青年に声をかける。

 

「よお、ジョン。毎日、ご苦労なこったな」

 

「デニス、……姫様!?」

 

 手の(こう)で汗を(ぬぐ)いながら振り返った金髪(ブロンド)の大柄な青年――ジョンは、戸口(とぐち)にデニスだけでなくリディアまで立っていること、そして二人の身なりに目を(みは)った。慌てて大剣を鞘に収め、彼らのところに駆け寄る。

 

 ジョンは大柄だが、精悍(せいかん)な顔立ちは幼い頃と変わっていない。デニスも体格はいい方だが、背はジョンの方が高く、筋肉のつき方もジョンの方が厚い。特に、胸と二の腕あたりが。

 

「しばらくね、ジョン。帝国軍での鍛錬にはついて行けてる?」

 

「はい、何とか。――ところでお二人とも、その格好は? またお忍びで視察ですか?」

 

 訊ねる、というより確かめているように、ジョンは質問した。それには、リディアではなくデニスが答える。

 

「ああ、まあな。これからシェスタまで行くことになったんだ。お前も来るか?」

 

「お願い! 一緒に来てくれない?」

 

 同じ兵士仲間のデニスはともかく、姫であるリディアにまで懇願(こんがん)され、ジョンは返答に困った。

 

 彼はリディアに「姫様、ちょっとお待ち下さいね」とニッコリ笑いかけ、デニスの腕をグイッと引っぱって小声で抗議する。

 

「おい、デニス。また姫様を(そそのか)したろう! 姫様の頼みを、(おれ)が断れないのを知っててわざと!」

 

 リディアに(うやうや)しい態度を取るわりに、一人称が「俺」のままなあたり、彼はリディアのよく知っているジョンのままだ。

 

 デニスは仏頂面のジョンを、「まあまあ」と(なだ)めた。

 

「ジョン、そんなに(おこ)るなって。――まあ、確かにその通りなんだけどさ。今回はちょっと理由(ワケ)アリなんだよ」

 

「何だよ、理由アリって?」

 

 ジョンがすかさず片眉を上げる。デニスの言い方で、今回はただの遠出ではないと(さっ)したらしい。

 

「それは後で話してやるよ。――で、どうするんだ? 行くのか、行かないのか」

 

 デニスはここぞとばかりに、ジョンに(たた)みかけた。トドメの一撃を食らったジョンは、とうとう降参する。

 

「……分かった。姫様がどうしてもって(おっしゃ)るなら……」

 

 ジョンに見つめられたリディアは、とびっきり嬉しそうな顔をしていた。

 

「ありがとう、ジョン! あなたなら、きっと『一緒に行く』って言ってくれると思ってたわ!」

 

 デニスにうまく乗せられたとはいえ、リディアも確信犯だったらしい。ジョンは口にこそ出さないけれど、内心では「コイツら、(そろ)いも揃って!」と呆れていたに違いない。

 

「それでは、姫様。俺は急いで宿舎に戻って支度をして参ります」

 

「ええ。じゃあわたし達は、厩舎(きゅうしゃ)の前で待ってるわね」

 

「はい、姫様。では(のち)ほど」

 

 ――ジョンと一旦別れた二人は、城門の手前にある厩舎の方へとブラブラ歩き始めた。

 

「なあ、リディア。――お前、さ。ジョンのこと、どう思うよ?」

 

 ……は? 何を唐突に。リディアは戸惑う。

 

「えっ? どうって……」

 

「いやあ、アイツって色男だろ? だから、リディアの結婚相手としてはお似合いなんじゃないかと思ってな。ホラ、幼なじみだし」

 

「それを言うならデニス、あなただって同じ条件だと思うけど」

 

 彼だって、ジョンには負けるが端正(たんせい)な顔立ちだし((はだ)は少々浅黒(あさぐろ)いが)、体格だってそこそこいい。幼なじみでもある。そして何より、リディアの想い人はデニスなのだ。

 

「というか、そんなこと、あなたが本心から言っているようには思えないんですけど」

 

「ああ、バレたか。本心じゃなくて、ただの場繋(ばつな)ぎで言っただけだ」

 

「……そう」

 

 リディアには、それしか言えなかった。場を繋ぐだけの話なら、他にも山ほどあるだろうに。

 

(こうして見ると、デニスももう立派な大人の男性なのよね……。当たり前だけど)

 

 デニスだけでなく、ジョンもだ。背がグンと伸びて、声変わりもして。体格もガッシリしてきた。

 

 リディアも身長は伸びたけれど、それでも二人とは頭一つ分以上違う。話す時には、見上げなければならない。昔は身長だって、そんなに変わらなかったのに。

 

(……もう、子供()の頃には戻れないのね)

 

 そう思うと、淋しさが増す。リディアが一人でしんみりしていると、隣りを歩いていたデニスが心配そうに見下ろして、顔を(のぞ)きこんできた。

 

「……リディア? どうしたんだ?」

 

「ううん、何でもないわ。心配しないで」

 



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1・皇女サマはお年頃⑵

 リディアは首をブンブンと横に振って、ニッコリ笑って見せたが、「あー、わたしってば可愛くない!」と内心では激しく後悔(こうかい)していた。

 

(どうしてここで、「心配してくれてありがとう」の一言が言えないのかしら?)

 

 理由はきっと、照れ臭いから、である。

 

 デニスの方だって、特に気を悪くした様子はなさそうだし。幼い頃から一緒にいて、言葉にしなくても彼女の言いたいことは手に取るように分かるからだろう。多分。

 

「――あ、この髪留め、今も大事に使ってくれてるんだな。ありがとう」

 

 デニスがリディアの髪飾(かざ)りに気づき、嬉しそうに微笑(ほほえ)んだ。大きな手を伸ばし、それをいとおしそうに()でる。

 

「ええ、もちろんよ。だってこの髪留めは、わたしの一番大切な宝物なんだもの!」

 

 リディアは幼なじみの仕草にドキッとしながらも、(ゆた)かな胸を張った。

 

 この髪留めは、デニスからの初めての贈り物。城下町の雑貨店で売られている、決して高価ではない品だけれど。当時十二歳だった彼女にとって、これをデニスが自分のために買ってくれたということが、どんな高価な装飾品よりも価値(かち)のあることのように思えたのだ。

 

 以来彼女は、この町娘の姿で彼と出かける時には必ず、この髪留めを着けるようにしている。

 

「ただね、ドレスの時には着けられないの。何だか合わない気がして……」

 

 リディアは申し訳なさそうに、肩をすくめた。本当は、肌身離(はだみはな)さず(就寝(しゅうしん)時や入浴時などは除外(じょがい)して)着けていたいのだけれど。

 

「どうしてだ? 着ければいいのに。リディアの髪に()えるのを選んだんだから、どんな服にでも合うはずだぞ」

 

 デニスはそう怒った様子もなく、リディアに言った。

 

 表面に可愛らしい花の模様が浮き彫りにされているだけの、茶褐色の髪留めは、確かに彼女の蜂蜜色の髪によく映える。けれど、華美(かび)なドレスと合わせてしまうと、この素朴な髪飾りは浮いてしまうのではないだろうか?

 

「そうかしら?」

 

「ああ。オレとしては、いつも使ってくれる方が嬉しい」

 

「……一応、考えておくわ」

 

 ――二人が厩舎の前に着くと、白のチュニックにネズミ色のベスト・茶色の革の下衣に革のブーツに着替えたジョンが先に来て、馬の毛並みを撫でていた。

 

「あら、ジョン。早かったのね」

 

 リディアは思わず目を丸くする。自分達はそんなにダラダラ歩いていただろうかと、デニスと二人で首を(ひね)ったけれど。

 

「はい。姫様をお待たせするわけにはいかないと思い、城内の近道を使用人の方に教わったんです。お二人よりも早く、ここに着けるように」

 

(近道? そんなものが、この城にあったなんて!)

 

 リディアは愕然(がくぜん)となる。生まれてこのかた十八年間、このレーセル城で暮らしてきたけれど、そんなことは全く知らなかった!

 

「それはいいけど。ジョン、お前の荷物も(たい)したもんだな」

 

 デニスはデニスで、ジョンの大荷物に呆れていた。

 

 リディアは女性なので、旅の荷物が多いのもまあ分かる。が、男のお前がなぜ!?

 

 ……いや、()()()()自体は、デニスのそれと何ら変わらない。問題は、鞘ごと背中に(なな)めに背負(しょ)っている大剣の方だ。

 

「それ……、持って行ってどうするの?」

 

 リディアも首を傾げた。デニスは近衛兵という彼の職務上、武器の携行(けいこう)は仕方ないし、彼の剣は身長の半分ほどの長さなので、旅に持って行っても邪魔(じゃま)にならないが、ジョンの武器は大きくて重量も相当なものだ。

 

 邪魔になるのはもちろん、町中で振り回せば大惨事(さんじ)になりかねない。そもそも、こんなに大きな武器(もの)、使う機会なんてあるのか。

 

「まあ、『(そな)えあれば憂いなし』ですよ」

 

「はあ……、そう」

 

 何だかわけの分からないジョンの言葉に、リディアは引きつった笑顔で曖昧に頷くしかなかった。本人がどうしても「持って行きたい」と言うなら、「ダメです」と止めることはできない。いくら主でも。

 

(まあいいわ。わたしもデニスも、別に困らないし)

 

「――さて、そろそろ出発致しましょう。あまり出るのが遅くなると、着く頃には夜になってしまいますよ」

 

 ねえ姫様、と言うジョンに、リディアは懇願した。

 

「そうね。――ところでジョン、一つお願いがあるんだけど。この旅の間は、わたしのことを名前で呼んでほしいの。昔みたいに」

 

「はあ。では、『リディア様』と?」

 

「うーん……。まあ、それでいいかしら」

 

 一応は名前で呼んでもらえたので、リディアは納得した。けれど、内心では「〝様〟はいらないのに……」ともどかしく思う。

 

(ジョンも、もう少し砕けた態度で接してくれたらいいのに。デニスみたいに)

 

 ……いや、デニスの場合は砕けすぎか。あまり()れ馴れしすぎるのも、どうかと思う。

 

(まあ、ジョンの場合は仕方ないわよね。家柄が家柄だし、彼自身もカタブツだから)

 

 そんなわけで、「姫様」と呼ばれないだけでもよしとしよう、とリディアは思った。

 

 

****

 

 

 ――三人はそれぞれ、三頭の別々の馬に(またが)った。

 

 馬術は男女問わず、皇族や貴族の(たしな)みである。また、帝国兵を(こころざ)す者が、一番最初に始める修行でもある。そのため、三人とも乗馬はお手のものだ。

 

 レムルにあるレーセル城から二時間ほど馬を走らせ、標高がそれほど高くない丘の頂上にさしかかると、そこからシェスタの港が見えた。町まではあと数分というところ。

 

「――ところでデニス。あなたが『シェスタに行こう』って言った理由、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」

 

 馬を()り、手綱(たづな)を引きながら丘を(くだ)る途中で、リディアが言った。何となく分かってはいるけれど、やっぱり思い立った本人から直接聞きたいと思う。

 

「俺も聞きたい。『今回の旅は理由(ワケ)アリ』ってどういうことなんだ?」

 

 ジョンも彼女に同意した。出発前にデニスが、「それは後で話す」と言っていたことを覚えていたからである。

 

「――実は今日の午後、プレナからの使者が城を訪ねて来てたんだよ。国の中で、荒くれ者達がのさばってる、って。そうだったな、リディア?」

 

「ええ。その対処のために、帝国の力を貸してほしい、という話だったわ」

 

 デニスに念を押され、リディアは頷いた。ついでに補足もしておく。

 

「ああ、なるほど。……で?」

 

「シェスタとプレナは、目と鼻の先だ。それに、あの町(シェスタ)にはプレナからの移住者も多い。だから、何か情報が仕入れられるかもしれないと思ってな」

 

 続きを(うなが)したジョンに、デニスは自分の考えを全て話した。リディアが(げん)()ぐ。

 

「今、お父さまは留守でしょう? だから軍は動かせないけれど、わたし達にできることを何かしたいと、わたし自身も思っているの。動くなら、早い方がいいと思って」 

 

 実際に話を聞いたのは、父のイヴァン皇帝ではなく彼女だ。責任感と使命感の強い彼女が、話を聞いただけであとは父に丸投げ……なんてことが、できるはずもなかった。

 

「姫様……じゃなかった、リディア様とデニスのお考えは分かりました。プレナで起きていることは、帝国軍の力を借りなければならないほど深刻な事態なのですか?」

 

 ジョンは納得したうえで、さらに首を傾げる。小国とはいえ、軍を(ゆう)する国が他国に援護を求めることが理解できないようだ。

 

 リディアは静かに首を横に振った。

 

「詳しいことは、わたしにもよく分からないの。ただ、プレナは元々は都市国家で、軍の規模(きぼ)もそれほど大きくないと聞いているわ。だから自国の軍だけでは対処しきれず、帝国に助けを求めてきたんじゃないかと思うの」

 

「そういうことですか……」

 

 その説明で、とりあえずジョンは納得してくれたようだった。 ――丘を下りきってしばらく歩くと、シェスタの(にぎ)やかな町に入った。水平線に沈みかけた夕日が、港を薄紫色やオレンジ色に染めている。

 

「さて、まずは宿を見つけないとな。――おいジョン。オレが戻るまで、ここでリディアと一緒に待っててくれ」

 

 デニスがやたら張り切って、この旅を仕切り始めた。

 

「どうしてあなたが残らないの?」

 

「そうだよ。宿なら、俺が見つけてくるから……」

 

 リディアとジョンが抗議するが、デニスはあっけらかんと言ってのける。

 

「いや、お前が残った方がいいんだって。お前の方がデカいし迫力あるし、威嚇(いかく)になるからさ」

 

「「はあ!?」」

 

 彼の言葉に、リディアとジョンの二人は面食らった。リディアは心の中でツッコむ。

 

(一体,何に対しての威嚇よ)

 

 ……ああ、そうか。この町とプレナは、船での行き来ができるのだ。万が一、プレナの荒くれ者達がここに渡って来た場合のことを考えて、デニスはああ言ったのだろう。

 

「じゃあジョン、頼んだぞ!」

 

 ジョンが頷いたので、デニスはさっさと宿探しに言ってしまった。

 

「「……………………」」

 

 リディアとジョンが二人っきりになることはほとんどないので、二人の間には気まずい空気が流れていた。――いや、この日はいつもに()して気まずかった。

 

(んもう! デニスがあんなこと言うから)

 

 ジョンのことをどう思うか、なんて! あんなことを言われたら、意識しない方がムリというものだ。

 

(わたしが好きなのは、デニスの方なのに)

 

 ジョンのことだって、何とも思っていないわけではない。彼もデニスと同じく、大切な幼なじみだ。それは決して変わらない。けれど。

 

 彼が自分のことを「姫様」と呼ぶようになった頃から、彼と自分の間に越えられることのない線が引かれているのだと、リディアは思うようになったのだ。もう、昔のような関係に戻ることはないのだと。

 

 ――悲愴(ひそう)感に(ひた)っていたリディアが、再び左側をチラッと見遣ると……。

 

「あら? ジョンがいないわ」

 

 彼が乗ってきた馬だけがそこにいて、肝心(かんじん)のジョンの姿が忽然(こつぜん)と消えていた。

 

 ちなみに、デニスが乗ってきた馬もリディアが預かっているのだが、それはさておき。

 

「ジョン、どこに行ったのかしら……?」

 

 しばらくキョロキョロと(あた)りを見回していると、露店(ろてん)が並ぶ一画の方からジョンが大股に歩いて戻ってきた。手には何やら、小さな紙の包みを持っている。

 

「すみません、リディア様。お声もかけず、離れてしまって」

 

「本当だわ。心配してたんだから。どこへ行ってたの?」

 

 リディアが問うと、彼は手にしていた包みをスッと彼女に差し出した。

 

「これを、リディア様のために買いに行っていたんです。あちらの露店で見つけたので」

 

 ジョンは自分が来た方向を指さしながら、そう答える。

 

 リディアが受け取った包みを開くと、そこにあったのは小さな髪留めだった。木製で、港町らしく可愛らしい魚などの絵が、絵の具で(えが)かれている。

 

「ステキねえ……。これ、いくらしたの?」

 

 金額を訊くのも野暮(やぼ)だが、彼がムリをして高価なものを買ってくれたのだとしたら、リディアとしては何だか申し訳ない。

 

「三ガレです。高いものではありませんが、俺からあなたに何かを贈ったことが、今まで一度もなかったもので……」

 ちなみに、レーセル帝国の通貨では銅貨が一ガレ、銀貨が一〇(じゅう)ガレ、金貨は一レンスとなり、一レンスは一〇〇(ひゃく)ガレに相当する。

 

「リディア様によくお似合いだろう、と思って。――ほら、リディア様は、こういう時のための髪飾りをお一つしかお持ちではなかったので……」

 

 頬を染めながら弁解するジョンは、さながら思春期の少年のようで。照れはたちまち、リディアにも伝染(でんせん)した。

 

「それがデニスから贈られた、あなたの宝物だということは分かっています。ですが、俺が贈ったものも、時々で構わないので使って頂けないでしょうか?」

 

「ジョン……」

 

 はにかみながら手を取ってくるジョンに、リディアは言葉を詰まらせる。――知らなかった。ジョンが、自分に好意を抱いていたなんて……。デニスの気持ちすら知らないというのに。

 

「ありがとう、ジョン。これ、大切に使わせてもらうわ」

 

 彼からの好意をどう受け止めればいいのかは分からないが、思いもよらない贈り物に対しては、リディアは素直に礼を言った。

 

 ――そこへ、デニスが戻ってきた。

 

「おーい、お待たせ! 宿決めてきたぞ……、お?」

 

 彼はリディア達に声をかけたけれど、そのままその場を動けなくなる。

 自分がいない間に何やらいい雰囲気(ふんいき)になっている彼女とジョンは、さながら美男美女のカップルのようで。何だか、あの間に入っていくのが気まずく感じられたのだ。

 

「あ、デニス! ご苦労さま」

 

 すると、彼の声がちゃんと聞こえていたリディアの方が、デニスに気づいてくれた。

 

「あ、ああ……。えっと、南の宿のおかみがプレナの出身なんだってさ。だから、そこに泊まることにした」

 

「でかした、デニス! ――ではリディア様、参りましょう」

 

「ええ」

 

 リディアとジョンの間の甘酸(あまず)っぱい空気は相変わらずで、デニスは何だか面白くない。

 

「なあ、リディア。――オレが離れてる間にジョン(アイツ)と何かあったのか?」

 

 嫉妬(しっと)心むき出しで、デニスが問うてきた。

 

「え? 何かって……。ステキな髪留めを買ってくれたから、嬉しかっただけよ」

 

 変な勘繰(かんぐ)りをしているらしい彼に、リディアは事実のみを打ち明ける。

 

「は? それだけで嬉しいのか?」

 

「嬉しいわよ。だってわたし、淋しかったんだもの。ジョンには何だか距離を置かれているみたいに思ってたから」

 

 そんな彼からの思いがけない贈り物。嬉しくないはずがない。

 

「リディア、まさかジョンのこと……」

 

「――え?」

 

「いや、何でもない。ああ、馬、預かっててくれてありがとな」

 

 デニスの様子が何か変だ。馬の手綱を引きながら宿に向かう途中、リディアはずっと、首を傾げていたのだった――。



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2・港町の悲喜こもごも⑴

 デニスが見つけた宿は、海岸線のすぐ側にあった。

 

「いらっしゃいませ! ――あらあら、まあ! これはこれは姫様、ようこそお()し下さいました!」

 

 よく太った陽気な宿のおかみは、リディア達三人が町人風の格好をしているにもかかわらず、いともあっさり正体を見抜いてしまった。もみ手せんばかりに、ニコニコと彼女らを出迎える。

 

「……変装、意味なかったみたいだな」

 

「そうね……」

 

 デニスとリディアは、そっと(ささや)きあう。

 

 いくら服装を変えたところで、皇族の(あかし)である彼女の髪と瞳の色はよく目立つので、バレてしまったのも当然の結果といえよう。

 

 とはいえ、バレてしまったものは仕方ないので、リディアも愛想(あいそ)よくおかみに挨拶した。

 

「おかみさん、今夜はお世話になりますね。――宿代(やどだい)は、一人につきおいくら?」

 

 すると、おかみは大慌て。

 

「とんでもない! 皇族の方からお代を頂くなんて、(おそ)れ多いことはできませんよ!」

 

「そういうわけにもいかないでしょう? あなた方にだって、暮らしがあるんですもの。キチンとお金は払わせて。お願い」

 

 皇族だからといって、特別扱いされることが嫌いなリディアは、負けじと食い下がる。

 

 皇女の真摯な眼差しに(こん)負けしたのか、おかみはついに折れた。

 

「分かりました、姫様。お一人様につき、一泊一〇ガレ頂きます」

 

「じゃあ、三人だと三〇ガレね」

 

 リディアは財布(さいふ)として使っている(きぬ)の袋から、銀貨を五枚取り出してカウンターに置いた。おかみにニッコリ微笑む。

 

「二〇ガレはチップよ」

 

「姫様、ありがとうございます!」

 

 リディアの心遣いに、おかみは心から感激した。

 

「お部屋は(ふた)部屋お取りしますね。二階になります。お荷物、お運びしましょうか?」

 

「いえ、大丈夫です。それより、馬を預かってもらっていいかしら? あと、エサも」

 

「かしこまりました」

 

 おかみは(こころよ)く頷き、別の客室で清掃をしていたらしい小間(こま)使(づか)いの男性を呼んだ。馬の世話は、彼に任せるらしい。

 

「では、姫様とお連れの殿方(とのがた)。客室へご案内致します」

 

 おかみの案内で、リディア達三人は二階の客室に通された。

 

 

****

 

 

 ――リディアは一人部屋、デニスとジョンは男同士で二人部屋を使うことになった。

 

 この宿では、食事は宿泊客と宿の従業員とが一緒に、一階の食堂で()ることになっている。

 

 この日の夕食の献立(こんだて)は、パンに魚介類たっぷりのブイヤベース、それに大きなエビの()し物。漁業(ぎょぎょう)で栄えている町なので、普段から魚介類を使った料理が多いらしい。

 

 リディアもジョンも、舌鼓(したつづみ)を打ちながら料理を味わっていたが、食欲旺盛なデニスはというと……。

 

「ジョン、お前のパン分けてくんねえ?」

 

 自分の分のパンだけでは()りなかったらしく、ジョンの分のパンまで欲しがる始末(しまつ)

 

「デニス! みっともないから、そういうことはやめなさいって!」

 

 行儀の悪い彼を、リディアが小声でたしなめた。城内ですらみっともないのに、旅先でまで恥を(さら)すのはやめてほしい。

 

「パンのお()わりなら、わたしがもらってきてあげるから」

 

「いえ、リディア様。俺が……」

 

 ジョンが気を()かせてくれようとするが、リディアは「いえ、いいの」とそれを断る。

 

「わたしが行ってくるから。あなた達は、座って待っていて」

 

 この宿のおかみはプレナの出身だとデニスが言っていたから、パンのお代わりをもらうついでに話を聞こう、と彼女は考えていたのである。

 

「じゃあ、行ってくるわね」

 

 テーブルの上のバスケットを手にして、リディアはおかみのいる厨房(ちゅうぼう)へ足を運んだ。

 

「――おかみさん、すみません。パンのお代わりを……」

 

 声をかけたが、返事はない。どうしたのかとリディアが首を傾げると、おかみは物憂(ものう)げな表情で窓の外をじっと見つめていた。窓の外は、すぐ海だ。

 

 

「海の向こうは、プレナですよね」

 

 

「!? ……姫様! すみませんね、気づきませんで」

 

 リディアがすぐ側に行って再び声をかけると、おかみはハッと我に返る。申し訳なさそうな、それでいて少し悲しげな笑顔をリディアに向けた。

 

「ええ、(わたし)故郷(こきょう)です。二十年前にあの国から、ここへ(とつ)いできたんですよ」

 

「二十年……ですか。あの国が今、大変なことになっているのはご存じですか?」

 

 リディアはそう訊いたが、この女性は多分知っているだろうなと思った。

 

「ええ、知っています。故郷の家族が、手紙で知らせてくれましたので」

 

「そうですか。ご心配でしょうね」

 

 彼女はきっと、この窓から毎日、海の向こうの祖国を(なが)めては、故郷に残っている親族に思いを()せ、無事を願っているのだろう。

 

「――あ、そうそう! パンのお代わりでしたね。おいくつ入れましょうか?」

 

 おかみはリディアが厨房までやってきた理由を、やっと思い出した。

 

「ええと、二つ……で足りると思います」

 

「少々お待ち下さいね」

 

 おかみはそう言って奥の食料貯蔵庫(パントリー)まで入っていくと、パンの(かたまり)を二つ、紙に(くる)んで戻ってきた。この国のパンは、特殊な製造方法によってカビが()えにくいのだ。

 

「お待たせしました。お連れの方がお待ちでしょうから、お早めに持って行ってあげて下さいな」

 

 パンの包みをバスケットに入れてもらったリディアは、「ありがとう、そうします」とおかみに礼を言った。

 

「ではおかみさん、後ほどお部屋に伺っても構いませんか? 故郷のプレナのお話、もっと詳しく聞かせて下さい」

 

「……ええ」

 

 おかみが頷いたので、リディアは「失礼します」と彼女に頭を下げ、デニスとジョンの待つ食堂に急いで戻っていった。

 

 その後もリディア達は食事を続けたが、彼女がもらって来た二つのパンを、デニスがあっという間に|平《たい)らげたことは言うまでもない。

 

 

****

 

 

 ――夜の(とばり)が下りた頃、リディアは客室を出て、階下(かいか)のおかみの寝室へ向かった。

 

「まだ起きていらっしゃるかしら……」

 

 この国ではまだ一般的には流通していない懐中時計を確かめながら、彼女は呟く。

 

 時刻は夜九時。就寝するにはまだ早いと思うけれど、今日は急きょ皇族(リディア)が宿泊することになり、しかもつい先刻まで食堂では(さか)()りが行われていたので、おかみは給仕(きゅうじ)やら後片付けやらでバタバタしていた。だから、もう疲れて休んでいるかもしれない。

 

 酒盛りの席では、リディアも手伝いを申し出たのだが、おかみからは困った顔で、「お客様に、それも姫様に手伝って頂くなんてとんでもない!」と断られた。

 

「ですが、姫様のお優しいお気持ちだけは、ありがたく頂いておきますね」と、おかみは嬉しそうでもあった。

 

(わたしって、そんなに優しいのかしら?)

 

 リディアは一階の暗い廊下を、左手に持つランタンの(あか)りで照らして歩きながら、首を傾げる。

 

 自分では、当たり前のことをしようとしているだけなのだけれど。民を(いつく)しみ、(いたわ)ることこそ、君主としての基本姿勢なのではないだろうか?

 

「――あ、この部屋だわ」

 

 廊下をつき当たったところに、おかみの寝室はあった。客室のドアとは明(あき)らかに違う、簡素(かんそ)な造(つく)りのドアを、リディアはコンコン、とノックする。

 

「おかみさん、リディアです。入って構いませんか?」

 

 リディアが中に呼びかけると、中年女性の声で「まあ、姫様ですか? どうぞ」と返事があった。

 

「失礼します。おかみさん、お疲れのところに押しかけてすみません」

 

 ドアを開けて室内に入ると、彼女はまず一言めに、おかみに詫(わ)びた。

 

 そういえば、この女性はプレナから「嫁いできた」と言っていたのに、夫(おっと)らしき男性は一度も見ていない。この部屋にもいない。

 

「おかみさん、失礼を承知でお訊きしますけど。あの、――ご主人やお子さんは?」

 

 おずおずと、リディアは質問した。本当は彼女の個人的な問題には、安易(あんい)に踏みこむべきではないのかもしれないけれど。

 

「子供達は――娘二人なんですけれど、どちらもお(よめ)に行きました。夫は……、三年前に()くなりました。海で、(あらし)()って……」

 

 苦しげに声を詰まらせる彼女に対し、リディアは申し訳なさで胸が痛んだ。

 

「この宿は元々、船宿(ふなやど)だったんです。夫は漁師でもありましてね。ある日、漁に出て、船が嵐で難破(なんぱ)してしまって……。夫亡き後は、私がこの宿を()()りしているんです」

 

「そうだったんですか……。何だかつらいことを思い出させてしまって、申し訳ありません」

 

 リディアは今にも泣き出してしまいそうな顔で、彼女に詫びた。

 

「わたしも五歳の頃に、母を亡くしていますから。大切な人を(うしな)う悲しみは分かります。おかみさんも、おつらかったでしょうね」

 

 リディアの母であるマリアン皇后(こうごう)は、十三年前に病死したのだ。当時、彼女は皇子(おうじ)()(ごも)っており、母の死と同時にお腹の皇子も死んでしまったので、リディアは母と生まれてくるはずだった弟を同時に亡くすという、二重の悲しみを一度に背負ってしまった。

 

「――ところで姫様、私の故郷について、詳しい話をお聞きになりたいと仰っていましたよね?」

 

 おかみの方から本題に入ってくれたので、リディアは(すく)われた気がした。

 

「ええ、そうでしたね。――プレナが荒くれ者達に困らされるようになったのは、いつ頃からなんですか?」

 

「家族が最初に手紙で知らせてきたのは、五年……くらい前ですかねえ」

 

 リディアの質問に、おかみは首を傾げながら答える。

 

「まあ! そんなに前から?」

 

「ええ。その前から少なからず、被害はあったようですけどね。ここ一,二年は特に被害がひどいみたいです」

 

「なるほど……」

 

 リディアは頷く。帝国がプレナを庇護するようになったのが、ちょうど二年前である。

 

 国が豊かになったことで、略奪(りゃくだつ)が激しくなったのだと考えれば、辻褄(つじつま)が合う。

 

「実は今日、レーセル城にプレナから使者が来ていたんです。その荒くれ者達を何とかするのに、帝国軍の力を借りたい、と。――それで、おかみさんにお訊きしたいんですけれど」

 

「何でしょう、姫様?」

 

 二十年も祖国を離れている一般人に訊ねてもいいものか、とリディアは迷ったが、それでも思いきって彼女に疑問をぶつけてみた。

 

「あの国の状況は、どれほど逼迫(ひっぱく)しているのでしょう? 軍の手に負えないほどなのでしょうか?」

 

 これは、デニスとジョンにも共通の疑問である。軍人である彼らも、そこが()に落ちないようだ。

 

「おかみさんが知らされている限りでいいんです。教えて頂けないでしょうか?」

 

 その訊き方から、皇女が自分の故郷のことを本気で案じていることを感じ取ったおかみは、「分かりました」と頷いた。少し思い出しながらのように、質問に答える。

 

「家族からの便(たよ)りによれば、その荒くれ者達は海賊(かいぞく)らしいんですよ。ですが、プレナ(あの国)では海軍にあまり力を入れていないようで。陸軍では海賊に太刀(たち)()ちできないので、帝国の海軍に助けを求めたんだと思います」

 

「はあ、なるほど」

 

 プレナという小国は、数年前までそれほど豊かな国ではなかったため、海賊など海からの侵略は想定されていなかったのだろう。そのせいで、国内の治安を守る陸軍ばかりが力を持ち、海軍は(ないがし)ろにされていたようだ。

 

 言い方こそ悪いが、平和ボケしていた小国がレーセル(大国)の庇護を受けて豊かになったところへ、海賊が侵略してきた。対処方法が分からない小国の王は、世界一の規模を(ほこ)る海軍を有するレーセルに助けを求めることにしたというところか。

 

「――それで姫様、イヴァン陛下はこのことについて何と?」

 

 おかみは(すが)るような思いで、リディアに問うた。皇帝の(つる)一声(ひとこえ)で、海軍は動く。それを期待して、彼女は皇女に訊ねたのだろうけれど。

 

「申し訳ありません、おかみさん。父は一昨日(おととい)から隣国のスラバットに出向いていて、明日にならないと戻らないので、プレナの件はまだ父の耳には入っていないんです」

 

「そうですか……」

 

 おかみはガックリと肩を落とした。その顔には絶望の色さえ(うかが)える。

 

(まったく、お父さまったら! こんな緊急時に呑気(のんき)に外交なんて!)

 

 リディアはこの()初めて、父に対して(いか)りの感情を覚えた。もちろん政治のうえでは、外交も大事だということも分かっている。けれど、おかみの縋るような眼差しと絶望的な表情を見ていたら、今はそんなことはどうでもいいとさえ思えてくるのだ。

 

 だからこそ、リディアは彼女に希望を持たせるように、こう言った。

 

「父が戻れば、必ず事態は動きます。ですがその前に、わたし個人としても、何かできることがあればしたいと思っているんです」

 

 たとえ軍を動かす権限はなくても皇女として、次期皇帝として、この女性の故郷を何とかして救いたい。――そうリディアは心に決めていた。

 

「帝国はいつだって、あなた方の味方です。だって、プレナの国民は、レーセルの国民と同じくらい大切なんですもの」

 

 それは彼女なりに、協力を惜しまないと宣言したようなものであった。

 

「ありがとうございます、姫様!」

 

 おかみはリディアの手を両手で(にぎ)り、(ひたい)をこすりつけんばかりにして頭を下げる。

 

(わたしが、この人の故郷を救わなきゃ!)

 

 リディアの表情は、決意に充ちていた。

 

「――では、おかみさん。わたしはこれで失礼しますね。おやすみなさい。お疲れのところをお邪魔して、すみませんでした」

 

 彼女はもう一度おかみに頭を下げると、部屋を後にした。再びランタンの灯りを頼りに階段を上がると、自分の客室ではなく、向かいの(おとこ)部屋(べや)のドアをノックする。

 



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2・港町の悲喜こもごも⑵

「デニス、ジョン! まだ起きてる?」

 

「ああ、起きてるって! リディア、デカい声は頭に(ひび)くからやめてくれ!」

 

 彼女の呼びかけに、やや不機嫌そうに応じたのは、先刻の酒盛りで漁師達に()(つぶ)されたデニスだった。

 

「入るわよ」と声をかけ、ドアを開けて室内に入ると(あん)(じょう)、中は酒の(にお)いで充満している、火でも持ち込めば爆発しかねない。

 

「リディア様、どうなさったのですか? こんな夜遅くに。――あの、窓を少し開けましょうか?」

 

 ジョンの機転(きてん)に、頭がクラクラしていたリディアは「ありがとう、お願い」と頷く。彼女は酒が全くダメなので、この部屋の中の空気だけで酔いかけていたのだ。

 

 ジョンが窓を開けてくれたおかげで、室内に籠っていた酒(くさ)さが外に逃げていき、代わりに外から潮風の(さわ)やかな(かお)りがする。

 

「どうですか、ご気分は?」

 

「ありがとう。空気の入れ替えをしてくれたおかげで、だいぶ楽になったわ」

 

 頭のクラクラがおさまったリディアは、ライティングデスクの椅子に腰かけて一息ついた。酔いが()めたらしいデニスも、ベッドからムクッと体を起こす。

 

「――で、どうしたんだよ?」

 

 彼は改めて、リディアに夜遅くに自分達の部屋を訪ねてきた理由を問うた。

 

「あのね、さっきわたし、おかみさんの寝室を訪ねたのよ。プレナで今、一体何が起きているのかを訊くためにね。そしたら……」

 

 リディアはそう話を切り出し、おかみから聞き出した情報を、二人の兵士(おとこ)にも話して聞かせた。

 

 プレナは海軍に力を入れていないから、海賊相手には手も足も出ない――。その事実を知り、デニスとジョンにも合点(がてん)がいったようである。

 

「なるほど……。だからプレナの国王陛下は我が国の海軍に動いてもらおうと、使いを送られたのですね」

 

「ええ、そうみたいだわ。でも、タイミングが悪かったわね……」

 

 リディアはジョンの言葉に頷き、残念そうに肩をすくめた。軍を動かす権限を持つ皇帝が不在の時に使いを送っても、何の解決にもならないのだから。

 

「せめて、わたし達三人だけで何かできることがあればねえ」

 

 せっかくこの町まで来て、状況も知ることができたのに、自分達はただ手をこまねいていることしかできないのか。――リディアがため息まじりに呟いた時。

 

「それだ!」

 

「「えっ?」」

 

 デニスが前触れもなく突然叫んだので、リディアとジョンは面食らう。

 

「オレ達三人でプレナまで乗り込んで、海賊の連中を叩きのめしてやるってのはどうだ? そしたら、プレナもこの町も平和になるし、陛下や海軍の手を(わずら)わせることもなくなるし。万々歳(ばんばんざい)だろ?」

 

 デニスの提案に、リディアが賛成らしいということは彼にも分かった。が、ジョンは不服らしい。

 

「ちょっと待て、デニス! この三人だけで? 向こうの人数も分からないのに乗り込むなんて、いくら何でも無謀(むぼう)すぎるだろ! ――ね、リディア様もそう思うでしょう?」

 

「え、ええ……」

 

 彼女は曖昧に頷いた。ジョンの言っていることは、(すじ)が通っている。ものすごく正論である。それは分かっているのだが……。

 

 デニスが言うように、「父や海軍の手を煩わせずに済む」のなら、その方がいいとリディアも思う。それが次期皇帝として、自分にできることだというのなら、その責任を果たしたいという思いもある。

 

 この町からプレナまでは、船で三時間ほどで着く。明日の午前に船で渡り、奴らを叩きのめしてまた船で戻って来ることができたなら、父がスラバットから戻る夕刻までに城に戻ることも可能だ。

 

 ただ、向こうの人数如何(いかん)ではたった三人で(いど)むのは危険だし、そもそもリディアは剣を持ってきていないのだ。戦うことすらできない。

 

「うーん、ムリなのかなあ……。オレとしては、なかなかの名案だと思ったんだけど」

 

 デニスは頭の(うし)ろで両手を組み、そのままベッドにゴロンと横になった。

 

「今の案は却下(きゃっか)ってこと? ジョン」

 

 リディアが少々不服そうに訊くと、ジョンは「まあ、そういうことです」と即答する。

 

「リディア様、今日はもうお疲れでしょう? そろそろお部屋に戻っておやすみ下さい。俺達ももう寝ますので」

 

 リディアは渋々、「おやすみなさい」と言って彼らの客室を出たが、(てい)よく追い出された気がして仕方がなかった。

 

 自分の部屋に戻り、()()()代わりのチュニックワンピースに着替えてベッドに(もぐ)り込んだが……。

 

「――ダメだわ。眠れない……」

 

 何度か寝返りを打った後、リディアは無理に眠ろうとするのを(あきら)めた。

 

(浜辺に散歩にでも行こうかしら)

 

 潮風にでも当たれば、このモヤモヤした気分も少しは晴れるかもしれない。

 

 手早く着替えを済ませたリディアはブーツを履き、枕元(まくらもと)に置いてあったランタンを手にして廊下に出た。……すると。

 

「よお、リディア。お前も眠れないのか?」

 

 向かいの男部屋から、デニスが寝グセだらけの頭で出てきた。彼もまた、自分の提案をジョンに却下されたことで、モヤモヤしていたのだろう。酔っ払ってフテ寝しているかと思いきや、意外と繊細(せんさい)なようだ。そのわりには、()のみ着のままベッドに入っていたようで、チュニックはシワだらけだ。

 

「そうなのよ。だから、浜辺に散歩にでも行こうかと思って。――ねえ、ジョンは?」

 

「アイツなら、ベッドで爆睡(ばくすい)してる。剣の稽古の後、ここまで馬を走らせてきたんだ。よっぽど疲れてたんだろうな」

 

「そう」

 

 リディアは頷く。そして、彼を誘った。

 

「じゃあデニス。ちょっと付き合ってくれないかしら? 一緒に、潮風に当たりに行きましょう」

 

「ええ? なんでオレが」

 

「あなたはわたしの護衛官だもの。当然でしょう?」

 

 こんな時にばかり主従関係を(たて)にされても……とデニスは困ったけれど、(いと)しい女性の頼みとあらば、彼も断るつもりはない。

 

「へいへい、仕方ねえなあ」と言い方こそモノグサだったが、本当はリディアと二人っきりになれるのが内心では嬉しいデニスであった。

 

 

****

 

 

「――うーん、気持ちいい!」

 

 宿を抜け出して裏手の浜辺に出ると、リディアは岩の上にランタンを置いて思いっきり伸びをした。夜の冷たい潮風が、頬に心地(ここち)いい。

 

「ねえ、デニスもいらっしゃいよ」

 

 彼女はランタンの番でもするように、岩に腰かけたままのデニスを呼んだが……。

 

「いや、オレはいいよ。――それより、リディアと話がしたい」

 

「え?」

 

 何を改まってとリディアは目を瞠ったが、待たせるのも悪いと思い、すぐにデニスの腰かける岩の隣りに座った。

 

 彼の目は、リディアの着けている髪留めを凝視(ぎょうし)している。

 

「ねえ、話ってなあに?」

 

「午後にも同じ質問したと思うけどさ、リディアはジョンのことどう思ってるんだ?」

 

「何かと思えば,またその話?」

 

 同じ内容の()(かえ)しに、リディアはウンザリ。けれど、デニスの顔は真剣そのものだった。彼女は視線を()らしながら答える。

 

「ただの幼なじみよ。本当にそれだけ」

 

「本当に? お前が今着けてる髪留め、ジョンにもらったヤツじゃないのか? オレ今日、この町の露店で同じようなの見かけたけど」

 

 デニスの口調は、何だか咎めるように(するど)かった。

 

「これは……っ、せっかくこの町で買ってもらったんだし、この町で着けないともったいないかなあと思ったから、着けただけで」

 

 そこまで言って、リディアはデニスの機嫌が悪い理由にピンときた。

 

「デニス……。あなたもしかして、ジョンに()いているの?」

 

「なっ……!? べっ、別に妬いてねえよっ!」

 

 顔を真っ赤にして、デニスはムキになって否定する。どうやら図星だったらしい。

 

「ただ、夕方オレが離れてる間にリディアとジョンがなんか親しげにしてたから、ちょっと面白くなかっただけだよ」

 

「……そういうのを、〝妬いてる〟っていうのよ」

 

 リディアはすかさずツッコミを入れる。そして、この時初めてデニスの想いに少しだけ気づいたような気がした。

 

「わたしは別に、ジョンを異性として意識したことはなかったけど。あの時初めて分かったの。ジョンが、わたしに好意を抱いていることが」

 

「そっか。でも、お前が好きな相手はアイツじゃないんだろ? アイツも(むく)われないよな」

 

「ええ……」

 

 リディアは想い人であるデニスの前で、何だかジョンの無垢(むく)な想いを受け入れられないことに、若干(じゃっかん)の申し訳なさを感じていた。

 

「まあ、アイツはカタブツだからなあ。あからさまにお前に想いを告げることはないと思うけどな」

 

 デニスのジョンに対する評価は、なかなか(まと)()ている。

 

「そういうあなたはどうなの? デニス」

 

「えっ、オレ? オレは……、どうかなあ?」

 

 はぐらかそうとしているのか、はたまた本当に分からないのか、デニスは頭をボリボリ掻きながら首を捻る。

 

「わたしは、想いを伝えるならハッキリ言ってほしいわ。遠回しに言われても伝わらないもの」

 

 デニスと二人でこんな話をする日が来るなんて、リディアは夢にも思っていなかった。

 

 ――そういえば、今は何時頃だろう? 懐中時計を宿に置いてきてしまった。

 

「ところでデニス、あなたも納得していないんでしょう? ジョンが、あなたの提案を却下したこと」

 

 リディアは彼が眠れなかった理由を、そう推測(すいそく)した。あれだけヘベレケに酔っていたのに、眠れないとは。今はもう、酔いはすっかり醒めているようだけれど。

 

「ああ、まあな。っていっても、オレは自分の手柄には興味ないんだ。リディアも行きたがってたのに、却下されたから何かモヤモヤして」

 

「……わたしのために?」

 

 デニスは頷いた。

 

 彼とリディア、ジョンが知り合ったのは、五歳の時。ちょうどリディアの母君である皇后と、弟君として生まれてくるはずだった皇子を同時に亡くし、ひどく(ふさ)ぎこんでいた皇女を元気づけるために、皇帝イヴァンが家臣の息子である彼らを息女と引き合わせたのだ。

 

 その頃から、デニスはリディアのことを「皇女」として()れものに触るでもなく、一人の同い年の女の子として普通に接してくれていた。いつも彼女の気持ちを優先して、思い遣ってくれていたのだ。

 

 今回だって、彼はリディアのために提案してくれたのに……。誰かが困っていたら放っておけない心優しい皇女は、世話になっている宿のおかみの故郷であるプレナを何とか自分なりに救いたいと思っている。デニスもそれを分かったうえで、ジョンに提案してくれたのだと思う。それなのに……。

 

「確かに、ジョンの言ってることは正しい。リディアは丸腰だから戦えないし、オレだってお前を(あぶ)ない目には遭わせたくねえよ。ただ、リディアの気持ちも分かるから,ジョンに何も言い返せなかったのが(くや)しくてさ」

 

「デニス……」

 

「オレはいつも、リディアの味方でいたいのに。お前が戦えなくたって、オレが全力で守る覚悟もできてたのに……」

 

 リディアは目を瞠った。いつもおちゃらけていて、姫である自分にも平然と軽口を叩くデニスのこんな真剣な表情を、剣の特訓の時以外に見たのは初めてな気がする。

 

「デニス、ありがとう。あなたは本当に優しいのね」

 

 リディアは彼に頭を下げた。戦えない者のために盾になるなんて、いくらそれが自分の仕事でも、そう易々(やすやす)と言える台詞(セリフ)ではない。

 

「わたしは、あなたのその優しい気持ちだけで充分ありがたいから」

 

 これは、リディアの(いつわ)らざる本心。ましてや、好きな相手にこんなことを言われたら、女性としてこれ以上の喜びはない。

 

「オレはガキの頃から、ずっと心に決めてたんだよ。いつまでもリディアの側にいて、お前のことを守ってやるんだ、って。時には(たて)にもなってさ」

 

「まさに有言実行じゃない? 今じゃこうして近衛兵として働いてくれてるんだもの」

 

 リディアは彼を(はげ)ますつもりで、微笑みながらそう言った。あなたはちゃんと、子供の頃の決意を果たしているんだから、そんなに自分を責めないで、と。

 

 彼女の手がデニスの頬に|触()れた瞬間、信じられないことが起きた。デニスが自分の手で、リディアの手を(つか)んだのだ。

 

「デ、デニス?」

 

 大きなデニスの手の平から彼の温もりが伝わってきて、リディアの心臓がドクン、と高く脈打った。心臓が()び出すのではないかと思うくらいに。

 

 ジョンに手を取られた時には少し戸惑っただけで、こんなにドキドキはしなかった。

 

 ときめくのは、相手がデニスだから。

 

「リディア、ありがとう。お前は本当に優しいな……」

 

「それ,わたしがさっき言った台詞」と言う前に、リディアの(くちびる)はデニスの唇に(ふさ)がれていた。初めてのキスだった。

 

 酒の臭いはしないから、酔ってキスしたわけではなさそうだ。……とすると!?

 

「~~~~~~~~っ!」

 

 唇が離れた瞬間、リディアの顔は真っ赤に染まった。知ってしまったのだ。(デニス)の、自分に対する想いを。

 

「……あっ、あなたがこんなに情熱的だったなんて、思わなかったわ」

 

 赤面しながら(うつむ)いて呟くリディア。今顔を上げたら、彼にどんな顔をしていいのか分からない。けれど、もう彼の方の想いを知ってしまったのだから,自分自身の想いだってバレてしまってもいいのかもしれない。

 

「ごめんな。迷惑……だったか?」

 

 後悔しているような表情で訊くデニスに、リディアは強くかぶりを振る。

 

「迷惑なんかじゃないわ。むしろ、あなたがいいの。あなたが好きだから」

 

 思いきって本心を打ち明けた彼女は、デニスを真っすぐ見つめて微笑んだ。それを聞いたデニスも、「そうか」と嬉しそうに微笑み返す。

 

「オレさ、ちょっとジョンに嫉妬してたんだな、やっぱり。だから、(あせ)ってたんだ」

 

(別に、焦らなくてもいいのに)

 

 そんなに自分に自信がないのかしら? とリディアが笑うと、デニスはちょっとムッとした。

 

「――さて、リディア。そろそろ宿に戻るとするか。オレはともかく、リディアがいつまでもいなかったら、ジョンのヤツが発狂しかねないからな」

 

 発狂……。確かに、ジョンなら()()る。そう思ったリディアは笑いながら、「ええ、そうね」と頷いた。

 

 二人で、浜辺を宿まで歩く。リディアの顔はまだ火照(ほて)ったままで、胸も高鳴ったまま。夜の涼しい潮風に当たっても、それはなかなかおさまってくれない。

 

「――ねえ、デニス」

 

「ん?」

 

 リディアが真剣な声で、デニスを呼ぶ。(さいわ)い辺りは真っ暗だし、ランタンの(たよ)りない灯りだけなら、彼女の顔の色はデニスに見えない。

 

「あのね、さっきのことだけど……。まだジョンには言わない方がいいと思うのよ。知ってしまったら、それこそ彼、発狂しかねないわ」

 

 デニスとジョンは、言うなればリディアを(めぐ)っての恋敵(ライバル)なのである。けれど、親しい友人同士でもある。なので、できれば波風を立てて、これまでのいい関係を壊すようなことはしたくないと彼女は思っていた。

 

「言わなくても、アイツならそのうち気づくさ。頭いいからな、オレと違って」

 

「もう! どうしてそこで、自分を卑下(ひげ)するようなこと言うのよ」

 

 せっかくのいい雰囲気に水を差すデニスの言動に、リディアは顔をしかめる。

 

「さっきも言ったでしょう? わたしが好きなのは、あなただって。だから、もっと自信を持ちなさい!」

 

 彼女はランタンを持っていない、()いている方の手で、デニスの引き締まった二の腕をバシッと叩いた。 

 

 デニスが抗議する。

 

()って! 本気で叩くなよ!」

 

 剣の特訓を受けているだけあって、彼女の腕力も女性にしては相当なものだ。

 

 ただ「皇女」として生まれてきただけで、リディアは特別な人間でも何でもなく、何の能力(ちから)も持っていない。だからこそ、次期皇帝として民を守るために、剣の特訓を始めたのである。大好きなデニスに頼み込んで。

 

「ゴメンゴメン! つい力が入りすぎちゃって」

 

 デニスが本気で怒っていないのを分かっているから、彼女も笑いながら謝る。

 

 宿に戻ると、ランタンを持ったジョンが、勝手口の前に立って二人を待っていた。頭のてっぺんから湯気(ゆげ)を立てていそうなくらい、カンカンに(おこ)っている。

 

「うわ、ヤベえ……」

 

 デニスが顔をしかめた。誘ったのは彼ではなくリディアの方なのに、頭から怒られるのは自分だと思い込んでいるようだ。

 

(まあ、ジョンがわたしのこと、怒れるわけないものね)

 

 (くさ)っても(いや、腐ってはいないが)、リディアは姫である。彼らの主である。生真面目なジョンのことだから、「姫様を怒るなんて(おそ)れ多い」とでも思って遠慮しているのだろう。

 

 悪いのは自分なのに……と思うと、リディアはチクリと心が痛む。ので。

 

「ごっ、ゴメンなさい、ジョン。余計な心配をかけてしまって」

 

 彼女は先手を打って(?)、自分からジョンに謝った。するとやっぱり。

 

「デニス! どうせまた、お前がリディア様を誘い出したんだろう? 姫様に謝らせるなんてどういうつもりだ!」

 

 リディアの謝罪などまるで無視して、頭ごなしにデニス一人を責め立てている。

 

「あっ、違うのよジョン! 今夜誘ったのは、本当にわたしなの。だから、デニスを責めないであげて! お願い!」

 

「リディア様……。それは本当ですか?」

 

 自分が嘘をつくわけがないと知りつつも確かめるジョンの目を真っすぐ見て、リディアは「ええ、本当よ」と頷いた。

 

「……分かりました。信じましょう」

 

「ありがとう、ジョン」

 

 宿の中に入ると、待ってくれていたのはジョンだけではなかった。おかみも、リディア達二人を寝ずに待ってくれていたのである。

 

「まあ、姫様! ご無事で何よりでした。このごろ物騒(ぶっそう)ですから、何かあったのではと心配していたんですよ」

 

 まるで母親のように(きも)を冷やしていたおかみにも、リディアは「ご心配をおかけしてすみませんでした」と丁寧に詫びた。

 

「さあ、リディア様もデニスも、もう遅いですから休みましょう。――ところでリディア様」

 

 ジョンが二人を客室に促しながら、不意にリディアを呼んだ。

 

「ん? なに?」

 

「もしかして、その髪留めは……」

 

 そこで、デニスが横槍(よこやり)を入れてくる。

 

「お前、やっと気づいたのか。優しいリディアはな、せっかくお前が買ってくれたのにこの町で使わないのは悪いっつってさ、わざわざオレと散歩に行く時に着けてきたんだとよ」

 

 何だか上から目線な物言いに、ジョンはカチンときたらしい。それとも、リディアとデニスとの間に流れている、微妙な空気の変化に気づいたのだろうか?

 

「リディア様、あの……。デニスと、何かあったのですか?」

 

(う……っ! ジョン、やっぱり鋭いわね)

 

 ジョンは幸い、リディアの後ろを歩いているため、彼女の表情は見えないはずだ。

 

「――別に、何もないわよ」

 

 一応ごまかしてみたけれど、ジョンは怪訝(けげん)に思ったのか、「本当ですか?」と疑っている。――やっぱり、(かん)づかれている?

 

「本当よ! ――言っておくけど、部屋に戻ってから、わたしのいないところでデニスに訊いてもムダだから!」

 

 リディアはジョンに(くぎ)を刺した。こと、すっとぼけることに関しては天才のデニスだ。ジョンにどれだけ問い詰められても、うっかり口を(すべ)らせることはないだろう。

 

「分かってます、リディア様。――では,おやすみなさいませ」

 

「ええ、おやすみなさい」

 

 二階に上がり、向かい合わせのドアを開けながら、リディアと男二人はこの夜二度目の就寝(しゅうしん)の挨拶を交わして別れた。

 

 もう一度寝間着に着替えたリディアは、(たば)ねていた長い髪をほどき、髪留めをベッドのサイドボードに置いてベッドに潜り込み、目を閉じる。

 

 先ほど浜辺で起きたことは、現実だったのかしら? 夢だったら、明日の朝には全て消えてしまうの――?

 

 初恋が実ったという喜びは、時に不安にも変わるのだとリディアは知った。

 

「また眠れなかったらどうしよう……」

 

 明日の朝はクマだらけかしら、なんて思っていたリディアだが、デニスの想いを知ることができた安心感からか、意外にも朝までグッスリと眠ることができたのだった――。

 

 

****

 

 

「――おはよう、デニス、ジョン。今日も天気がいいわね」

 

 翌朝、身支度を整えてリディアが一階の食堂に下りていくと、デニスとジョンの二人は大欠伸(あくび)をしながら既にテーブルについて、朝食を待っていた。

 

「おはようございます、リディア様」

 

「おっす、リディア。昨夜(ゆうべ)は眠れたか?」

 

 礼儀正しく挨拶だけ返したのがジョン、砕けた言い方で彼女の睡眠状態を心配してくれたのが、昨夜彼女と想いが通じ合ったデニスである。

 

 リディアは恋人(デニス)の隣りの椅子に座ると、ニッコリ笑って「ええ、ありがとう」と答えてから、ジョンに聞こえないようにこっそりとデニスに訊ねた。

 

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 答えるデニスの声も小さい。今が朝でよかった、とリディアは思った。もしも夜だったら、酔っ払い達の怒号(どごう)で二人の会話は成立しなかっただろう。

 

 酔っ払いといえば、昨夜ここで酒盛りをしていた客達は、まだ下りてきていない。酔い潰れてまだ眠っているのだろうか。

 

「――ところで、今日はどうするんだ?」

 

 そう切り出したのは、この旅の言いだしっぺであるデニス。厨房からは、何やら煮込み料理のいい(にお)いが(ただよ)ってくる。

 

「そうねえ。おかみさん以外にもプレナ出身の人は大勢(おおぜい)いるようだし、他の人達からも情報を集めましょう。海賊のことなら、漁師さんとか商船の乗組員の人がいいわね」

 

「そうですね。では、朝食を済ませ次第、出かけるとしましょうか」

 

 そこへ、陽気なおかみの声が、食堂の入り口から聞こえてきた。

 

「みなさま、おはようございます! 朝食をお持ち致しましたよー!」

 

 

****

 

 

 出された朝食は、パンとボウル一杯のクラムチャウダー(具材はたっぷりのアサリやハマグリ)。

 

 もちろん、大食漢のデニスがこれだけで足りるはずもなく、どちらもお代わりしたことは言うまでもない。

 

 

****

 

 

 ――食事が済むと、三人は早速(さっそく)行動を開始した。港の近くに漁協や船乗りの組合が入る建物があるというので、ジョンは一人でそこへ行ってしまった。

 

 リディアとデニスは、入港してくる船の乗組員から話を聞くために、桟橋(さんばし)で待っていたのだが……。

 

「リディアの髪留め、昨夜のと同じだな」

 

 やや不機嫌そうに、デニスが言う。どうやら、恋敵(ジョン)から贈られた髪留めを彼女がしているのがお気に()さない様子である。

 

「もう、デニス! 妬かないの! 別に、物に(つみ)はないんだからいいでしょう?」

 

「ハイ、そうっすねっ!」

 

 半ばヤケのように、デニスは吠えた。これでは、「妬いている」と認めているようなものだ。

 

(これで本当に、わたしと同じ十八歳なのかしら?)

 

 リディアは首を傾げる。同じ年齢なのに、ジョンとどうしてこうも違うのかしら、と。

 

 リディアもジョンも、しっかり者の部類に入る。ことにリディアは、一国の未来を背負う姫であるため、嫌でもしっかりせざるを得なかった。

 

 けれど、デニスはまだまだ子供のままだ。責任感は強いけれど、それ以外は……。

 

 ――にわかに、港周辺が騒然とし始めた。漁協の建物に行っていたはずのジョンも、何だか慌てた様子で桟橋の方に駆けてくる。

 

「どうしたの、ジョン? そんなに慌てて」

 

「姫様、それが……。対岸から妙な船が近づいてきていて。住民達が騒ぎ出していて」

 

「妙な船!?」

 

 対岸というと、プレナの方だ。

 

 その大きな一(せき)の船は、あっという間にシェスタ港に接岸した。

 

 マストには、黒地に白い骸骨(ガイコツ)が描かれた大きな(はた)(かか)げられている。

 

「……! あれは、海賊旗(ジョリー・ロジャー)!?」

 

 その船は、まさしく海賊船だったのだ。



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3・次期皇帝として⑴

 ――その船が海賊船だと分かった瞬間、いつもは冷静で落ち着いているはずのリディアも、さすがに混乱せずにはいられなかった。

 

(プレナを荒らしている海賊が、どうして海を渡ってこの町まで……?)

 

 想像すらしていなかった光景に、青ざめている(あるじ)に、デニスとジョンが(げき)を飛ばす。

 

「リディア、落ち着け! 姫であるお前がしっかりしなくてどうするんだよ!」

 

「リディア様、俺達はどうすれば? ご指示をお願い致します」

 

 二人の頼もしい幼なじみの声で、彼女はいつもの落ち着きを取り戻した。

 

 船から、一〇人近い凶悪(きょうあく)そうな男達が降りてくる。一番最後に降りてきた髭面(ヒゲヅラ)の大男こそが、この海賊船の船長である(かしら)だろう。

 

 もしも、この男達が町の住民達に危害を加えるようなことになったら……。もはや、深く考えている時間はなさそうだ。

 

「ああ、そうね……。じゃあ二人とも、外に出ている住民に、建物の中に避難(ひなん)するように呼びかけて。『海賊が来たから、外にいたら(おそ)われる』って」

 

「了解っ!」

 

「分かりました」

 

 二人は町中を駆け回り、外を歩いている人々に、大声で海賊が現れたことを伝えて回った。自分達は帝国の兵士だ、と。

 

「この町はどうなってしまうの?」と(おび)えたように訊ねる老婆には、ジョンが「大丈夫です。我々と姫様が必ず守りますから」と力強く答えていた。

 

 二人がリディアの元に戻ると、海賊の頭が「この町の町長を呼べ」と(さけ)んでいた。

 

「私が町長ですが……」

 

 現れた町長は、見るからに気弱そうな、小柄で線の細い男だ。頭の前に立った時点で、既に足がすくんでしまっている。

 

「よう! アンタが町長か? 俺達ゃアンタに頼みがあるんだがよ」

「な、何でしょう? 頼みとは……」

 

 (かしら)のドスの()いた声に、町長はすっかり怯えてしまっている。これでは、何を要求されても断るのは難しそうである。

 

「いやなに、俺達ゃこの先、この町を根城(ねじろ)にしてえんだよ。だからよ、(かく)れ家と食いモンと女を融通(ゆうづう)してほしいんだ。分かるだろ?」

 

(これじゃ、|脅《おど)しと同じだわ)

 

 リディアは近くで聞いていて、(はらわた)が煮えくりかえりそうだった。海賊側の要求は、あまりにも身勝手で横暴(おうぼう)すぎる。

 

「も、もしお断りしたら……?」

 

「フン! そん時ゃ、力ずくで手に入れるまでよ!」

 

 頭が乱暴に、町長の服の襟に掴みかかったその時――。

 

 

「おやめなさい!」

 

 

 海賊の(かしら)傍若無人(ぼうじゃくぶじん)ぶりを見かねたリディアが、威厳に充ちた大きな声でその男を制止した。

 

 その声に気を取られて、頭の手が町長の襟から離れる。持ち上げられる形になっていた小柄な町長は尻もちをつきそうになったところを、ジョンに受け止められた。

 

「大丈夫ですか? おケガは?」

 

「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」

 

 町長は「あー、(こわ)かった!」と言って、一目散(いちもくさん)にその場を逃げて行く。

 

 一方、声の(ぬし)をつきとめた海賊の頭は、今度はリディアに突っかかっていた。

 

「この俺に指図(さしず)しようなんざ、度胸のいいお(じょう)ちゃんだ。だが、オレは女子供にだって容赦(ようしゃ)しねえ。――おい、やっちまえ!」

 

 頭の命令で、頭以上の大男がリディアを羽交締(はがいじ)めにしようとする。が、彼女はそれをスルリとかわし、逆にその男の手首を捻り上げた。力いっぱい、思いっきり。

 

 デニスから教わっていた武術が、こんなところで役に立つなんて……!

 

「なっ、何だ!? 何が起きたんだ!?」

 

 事態が()み込めず、あたふたしている(かしら)の喉元に、デニスが剣を突きつけた。

 

「これ以上悪さしたら、お前ら命ねえぜ? 帝国法じゃ、海賊は(つか)まったら即処刑だからなあ」

 

「それに、相手が悪かったようね」

 

 捻り上げた相手をポイっと手放しながら、リディアも肩をすくめる。

 

「デニス、もう剣を下ろしてあげたら?」

 

 彼は素直に頷き、(かしら)に突きつけていた剣を鞘に収めた。

 

 先ほどまでの威勢のよさはどこへやら、すっかり大人しくなった頭は、ジョンを含めた三人を見比べ、信じられないというように訊ねる。

 

「一体なんだ!? お前ら一体、何(モン)だ!?」

 

「教えてやろうか、おっさん。ビビんなよ」

 

 デニスが勿体(もったい)ぶって一度からかってから、ジョンが自分達の主の正体を明かした。

 

「この方はレーセル帝国の次期皇帝、皇女リディア様だ」

 

「そしてオレ達は、リディア姫の護衛をしてる帝国の兵士ってわけだ、おっさんよ」

 

 彼女が毅然(きぜん)とした態度で微笑むと、デニスもニヤリと笑う。

 

 中央に立つリディアの両側に(ひざまず)く二人の若者、という構図を目にした頭は、やっと合点がいったようだ。

 

「なるほどなあ、そういうことかい」

 

「我が国レーセルの庇護国・プレナでのあなた方の蛮行(ばんこう)については、既に聞き(およ)んでいます。わたしはこの国の次期皇帝として、これ以上の蛮行を見過ごすわけには参りません」

 

 リディアはジョンと同じくらいの背丈の海賊(がしら)に、敢然(かんぜん)と言い渡した。

 

 彼女だって、本当は怖いのだ。頼もしい幼なじみ二人がついていなければ、ここから逃げ出してしまっていたかもしれない。

 

 けれど、一晩世話になった宿のおかみや、プレナの国民の想いを背負い、帝国の皇女として懸命に自分を(ふる)い立たせているのだ。

 

「――姫さんよ、俺達への要求は何だ?」

 

「え?」

 

 (かしら)が、突然交渉でも始めるような口ぶりで言った。リディアは困惑する。

 

「ここは、話し合い(パーレイ)で解決しようや。なあ」

 

「パーレイ? ――もし断ったら?」

 

 〝パーレイ〟という言葉の意味は、リディアも知っている。確か昔、何かの書物(しょもつ)で読んで覚えたのだと思う。

 

「そうさな。そん時ゃ、剣で勝負をつけようや。アンタ、腕が立ちそうだしな」

 

「わたしもパーレイより、剣での勝負を選ぶわ。――交渉は不成立かしら?」

 

 不敵に笑う主に、ジョンが「姫様!」と鋭く声を上げた。デニスが彼の肩をポンポン叩きながら、彼を宥める。

 

「ジョン、大丈夫だって。リディアは負けねえよ。何たって、オレの一番弟子なんだからな」

 

 彼女の剣捌きは、今や実戦向きだ。海賊ごときに負けるわけがない。

 

「――いや、いいだろう。で、姫さんの要求は何だ?」

 

 兵士二人をよそに、リディアと海賊の頭とのやり取りは続いていた。

 

「こちらの要求は、わたしが勝ったら、この町やプレナから撤退(てったい)して頂くこと。この町やプレナの人々に、これ以上危害を加えないこと。――そちらの要求は、先ほどと同じ?」

 

 リディアが問うと、頭はニヤリと笑った。

 

「そうしようと思ったが、気が変わった。一つ追加させてもらう。アンタはいい女だからな、俺が勝った時には、俺の女になってもらおうか」

 

「お前! 何を大それたことを……!」

 

 それを聞いたジョンは逆上したが、リディアの答えにさらに度肝(どぎも)を抜かれる。

 

 

「いいわ。その話、乗った!」

 

 

「ひっ、姫様っ!?」

 

 血相を変えるジョンに、デニスはまたもや「大丈夫だから」と言った。

 

 リディアは自分が負けない自信があるからこそ、あの男との勝負に乗ったのだ。――デニスはそう思った。

 

 けれど、彼女は剣を持ってきていない。どうするのだろうかと、ジョンが心配していると――。

 

「リディア、オレの剣を使えよ」

 

 デニスが自分の腰に装備していた剣を、鞘ごと彼女に手渡した。

 

「オレが使ってる剣は、近衛兵専用に(あつら)えられたモンだ。鞘には金属の板が()りつけられてて、盾代わりに使えるぜ」

 

 なるほど、リディアが受け取った剣は、普段彼女が使用している剣よりもズシリと重みを感じる。それは、こういう理由からだったのか。

 

 彼の厚意と、この剣を打った「名工(めいこう)」といわれる鍛冶(かじ)職人の想いを受け止めたリディアは、この剣を(たく)してくれたデニスに礼を言った。

 

「ありがとう、デニス。これ、遠慮なく借りるわね!」

 

 デニスは大きく頷く。この町の、そしてプレナの運命は皇女リディアに託された。

 

「準備はいいかい? 姫さんよ」

 

「ええ、こちらはいつでも」

 

 そう言って、リディアは刀身(とうしん)を鞘から抜いた。鞘を左手に、剣の(つか)を右手に持ち、構える。

 

 頭も刀身を抜いた。こちらは三日月刀(カットラス)だ。(やいば)の長さは違うが、戦いに支障はない。

 

「フン。では、こっちから行くぜ!」

 

 先方から斬りかかってきたが、太刀筋はメチャクチャだ。ただ剣を乱暴に振り回しているだけに過ぎない。

 

 こうなると、リディアが相手の攻撃を受け流すのは簡単だ。彼女は元々、相手の太刀筋を読むことが得意なのである。

 

 カキーン! カキーン!……

 

 リディアは(まい)でも踊るようにスカートの裾を(ひるがえ)しながら、刀身で、時には盾代わりの鞘も使って、相手の太刀筋を受け止めた。

 

 そして、一瞬の(すき)をつくと。

 

 

 ……カッキーーーンッ!

 

 

 相手の手から、カットラスを弾き飛ばした。カットラスはクルクル回ると、持ち主の足元にカランと音を立てて落下した。

 

「――勝負あったようね、海賊さん?」

 

 リディアは丸腰になった頭の前にツカツカと歩いていくと,足元のカットラスをブーツの爪先(つまさき)で蹴飛ばし、彼の鼻先に剣の()(さき)を突きつける。

 

「すごい……」

 

 主の勇姿に絶句するジョンの肩に手をかけながら、デニスは得意げに言った。

 

「だから言ったろ? 大丈夫だって」

 

 ジョンはただ、コクコクと頷くしかできなかった。

 

「さて、わたしが勝ったんだから、こちらの要求を飲んでもらおうかしら」

 

「ま、待て! 待ってくれ! もう一度、パーレイを要求――」

 

「パーレイは、先ほど断ったはずよ?」

 

 〝待った〟をかける頭の言葉を(さえぎ)り、リディアは(ひや)ややかに言う。話し合いに応じるつもりはない、と。

 

「あなた方には即刻(そっこく)、プレナ及びこの国からの退去を命じます。拒否した場合は、帝国法に(のっと)ってあなた方を処刑します。これ以上、人々を苦しめることは許しません!」

 

 皇女――いや、次期皇帝の威厳と剣幕を前に、ついに海賊の頭は降伏(こうふく)した。

 

「わ、分かった! 俺達が悪かった! おい! お前ら、今すぐ撤退だ!」

 

 命じられた子分からは「えっ!? しかしお(かしら)……」という声がいくつか上がったが。

 

「いいから撤退だ! 処刑されてえのか!?」と頭に怒鳴られれば、子分達も従うしかない。みんな命は()しいのだ。

 

 港から海賊船が見えなくなると、シェスタの町は嵐が過ぎ去ったように静かになった。

 

 ――いや、別の意味で賑やかになった、というべきか。

 

「姫様、ありがとうございました!」

 

「いやー、女だてらに海賊と勝負して勝っちまうなんて、姫様は強くて頼もしいなあ」

 

「姫様がいてくれたら、この国は安泰(あんたい)だ」

 

 などなど、リディアへの感謝や賛辞(さんじ)の言葉が、町中の人々から彼女に投げかけられる。――もちろん、プレナ出身である宿のおかみからも。

 

「デニス、これ返すわ。貸してくれてありがとう」

 

 リディアは借りていた剣を返しながら、デニスに礼を言った。

 

「ああ。リディアなら勝てるって、オレは信じてたぜ」

 

 リディアは嬉しそうに頷く。やっぱり、恋人に信頼してもらえるのは喜ばしい。そして少し照れ臭い。……ので。

 

「そ、そういえば刀身と鞘、(いた)んでいないかしら?」

 

 慌てて話題を変えるように、彼女はデニスに訊いた。自分の剣ならともかく、彼に借りた大事な剣である。もし刃こぼれでもしていたら、何だか申し訳ない。

 

「大丈夫だ。傷んでたら、また鍛冶屋のおっさんに叩き直してもらうからさ。それより、お前が無傷で本当によかった」

 

 デニスはどっぷり二人だけの世界に(ひた)り、リディアの髪を一撫(ひとな)でした。……が。

 

「デニス……、ジョンが」

 

「えっ? ――うわ、やべっ!」

 

 リディアが指差した先を見たデニスは、何やら複雑そうな表情で立ち()くしているジョンと目が合った。

 

 二人はジョンの存在をすっかり忘れて、恋人同士の雰囲気を漂わせていたようだ。

 

 ――これは、完全にバレた。いずれ気づかれるとは思っていたけれど、まさかこんなに早くバレてしまうなんて!

 

迂闊(うかつ)だったわ……)

 

 リディアはデニスをチラッと見る。彼はまだとぼけられると思っているようだが、リディア自身はこれ以上ジョンを(あざむ)き続けるのは心苦しいと思っていた。

 

「あの、姫様? 姫様とデニスとは、本当に昨夜、何もなかったのですか?」

 

「あのな、ジョン。実はさ――」

 

「待ってデニス! わたしから話すわ」

 

 口を開きかけたデニスを遮り、リディア自ら本当のことを話し始めた。

 

「わたしとデニスは昨夜、想いが通じ合ったの。口づけはしたけど、それだけよ。黙っていてごめんなさいね。ショックだった?」

 

 もしかしたら、ジョンを傷付けてしまったかもしれない。彼もまた、自分に好意を抱いているかもしれないのだ。まだハッキリとそう伝えられてはいないけれど。

 

「……そうでしたか。俺も何となくは、そうじゃないかと思っていました。お二人はずっと昔から、(たが)いに想い合っていたんじゃないか、と」

 

 ジョンの言い方は、何とか自らを納得させようとしているように、リディアには聞こえた。

 

 彼にとってはどちらも大切な人だから。二人のために身を引こうとしているような気がして、彼女はチクリと痛む胸を押さえる。

 

「姫様、俺のことは気にしないで下さい。俺は、大丈夫ですから」

 

「ジョン……」

 

「俺のあなたへの忠誠心は、こんなことくらいでは揺らぎませんから」

 

(本当に、忠誠心だけの問題なの? あなた自身の気持ちは?)

 

 リディアは心の中でこそそう思ったが、声に出して訊ねることはできなかった。

 

 彼はきっと言わないから。それなら、あえてリディアの方から問うのは野暮だ。

 

「分かったわ。これからも、我が国のためにわたしに忠誠を尽くしてちょうだいね」

 

「はい、姫様!」

 

 

「――あの、姫様」

 

 

 不意に、すぐ側から中年女性の声がした。

 

「まあ、おかみさん! どうなさったの?」

 

 声の主は、昨日から泊っている宿のおかみだった。

 

「ええ。実は、この町と故郷を救って頂いたお礼にと、ごちそうを用意したんです。まだお帰りにならないんでしたら、昼食に召し上がって行って下さいな」

 

「えっ、いいんですか?」と目を輝かせたのは、言うまでもなくデニスである。

 

 リディアとジョンも彼を一睨(ひとにら)みしつつも、「じゃあ、お言葉に甘えて」とご相伴(しょうばん)にあずかることにした。

 

 

****

 

 

 ――海の(さち)をふんだんに使った料理をお腹いっぱい食べ、三人が馬に跨ってシェスタの町を後にした頃、西の空では日が(かたむ)き始めた。

 

「お城に着く頃には、お父さまはもうお帰りになっているかしらね?」

 

「だろうな。陛下の方が,オレ達より先にお着きになってるはずだ」

 

 懐中時計を覗きながら呟くリディアに、デニスが答える。

 

「それにしても、お父さまは一体どんなご用でスラバットまで出向いたのかしら?」

 

 父が隣国へ旅立った理由を、彼女は聞かされていない。大臣も侍女も、城の使用人達も誰も教えてくれなかった。ただの「外交」だとしか。

 

「さあ? オレも聞いてないなあ。もしかすると、お前には話せない理由だったのかもな。たとえば再婚話とか、お前の縁談話とか」

 

「ええっ!?」

 

 どちらにしても、リディアには嬉しくない理由である。デニスと両想いになった今、もう縁談の話は聞きたくないし、父イヴァンは亡くなった母をそれはそれは愛していた。なので、皇后亡き後の十三年間で、再婚話は一度も出たことがない。リディアも、父が(あら)たな皇后を迎えるなんて想像がつかない。

 

「たとえばの話だって。まあ、陛下が直接話して下さるんじゃないかな」

 

「そうね」

 

 自分達だけで色々邪推(じゃすい)しても仕方ない。本人の口から聞くのが(もっと)も確実だろう。

 

「――それはともかく、ジョン。お前のその大剣、結局何の役にも立たなかったな」

 

 デニスは先頭を走っているジョンの背負っている大剣に苦笑い。

 

「使う場面があればと思って、持ってきただけだ。使わないに越したことはないだろ?」

 

 これを使う事態にならずに済んだのは、むしろ喜ばしいこと。リディアもそう思う。

 

 ――日が完全に沈んだ頃、三人はレーセル城に帰り着いた。

 

 厩舎に馬を戻しに行ったところで、リディアは顔色を変えた。

 

「あら、やっぱり……」

 

 厩舎では既に、父の愛馬である黒馬(こくば)・シャンポリオン号が体を休めている。

 

「陛下、お帰りになっているようですね。では、俺はこれで失礼します」

 

 ジョンは皇女にペコリと頭を下げ、宿舎の方へと引き上げていった。

 

 

「――リディアよ、今帰ったのか」

 

 

 そこへ、よく通る中年男性の声がして、威厳たっぷりのガッシリ体型の男性が現れた。



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3・次期皇帝として⑵

 金糸で刺しゅうが(ほどこ)された衣服の上に羽織(はお)っている赤いビロードのマント、そして頭に(いただ)いている黄金の(かんむり)は、この帝国の主である証だ。

 

「お父さま、お帰りなさいませ。たった今、シェスタから戻って参りました」

 

「ふむ。そなたがシェスタに出向いていたことは、大臣から聞いていたよ。無事で何よりだった」

 

 イヴァン皇帝は、一人娘が無事に帰ってきたことにホッとしているようだ。服装がどうであれ、そこは気にしないらしい。

 

「デニスもご苦労だったな」

 

「はっ。もったいないお言葉、ありがとうございます」

 

 皇帝直々(じきじき)に労われ、デニスは深々と頭を下げた。

 

(なによ。わたしに対しての態度とは、ずいぶん違うじゃない!)

 

 リディアは不満げだが、姫でも幼なじみの自分と国の主とでは違って当たり前なのかもしれない。

 

「さっきまで、ジョンも一緒でした」

 

 リディアはシェスタ行きの経緯を、順を追って父に話した。そして、あの町で起きたことの顛末(てんまつ)も。

 

「――というわけで、プレナを(おび)やかしていた海賊問題も、わたし達で解決してしまいました。お父さま、勝手なことをして申し訳ありません。あれはお父さまのお仕事でしたのに」

 

 申し訳なさそうに詫びた娘を、イヴァンは「いやいや、構わぬ」と温和な表情で許す。

 

「そなたは次期皇帝として、自らの手で何とかしたいと思ったのであろう? ならば、立派な心がけだ。私に詫びる必要はあるまい」

 

「お父さま……。ですが、プレナからの使いの方が、まだレムルの町に滞在しているんです。このことを早く報告しなくては」

 

 宿の名前は大臣に伝えてある、とリディアは父に言った。

 

「では大臣に、私の名代(みょうだい)として伝えに行かせよう」

 

 イヴァンは大臣を呼び、プレナの使者が滞在している宿に行ってくれるよう頼んだ。

 

「命じた」のではなく「頼んだ」のである。

 

「――ところで、お父さま。スラバットへはどういった理由で行かれたのですか?」

 

 リディアは単刀直入(たんとうちょくにゅう)に、気になっていたことを父に訊ねた。

 

「どのような、とは?」

 

「外交の目的です。わたしは何も聞かされていません。だから知りたいのです」

 

 リディアが畳みかけると、父は何とも言いにくそうにやっと口を開いた。

 

「実はな、リディアよ。そなたに、スラバットの王子との縁談の話が出ていてな。それであちらへ(おもむ)いていたのだよ」

 

「えっ!? 縁談……」

 

 リディアは嫌な予感が的中し、デニスと顔を見合わせる。

 

「どうしたのだ? リディア」

 

「あの、お父さま。わたしは縁談の話はお受けしたくありません。結婚する相手は、この国の人と決めているんです。ですから……」

 

 相手がここにいるデニスだということは()せて、リディアは自分の意志を父に伝えた。

 

「そなたの意志は分かった。だが、私は国賓(こくひん)として、スラバットのカルロス王子を招待したのだ。それは縁談とは別の話だ。それゆえそなたも、そのつもりでいてほしい」

 

「……はい」

 

 リディアもよく理解している。外交をするうえで、国の代表として招待した国賓は重要な客人なのだ。個人的な事情から蔑ろにすることは、次期皇帝として失格だと。

 

 あくまでも縁談の話は忘れ、国の代表として迎えれば何の問題もない。はずなのだが。

 

「おっと。これを預かっていたのを忘れていた。王子からそなた()ての手紙だ」

 

「は……?」

 

 父から一通の封筒を差し出されたリディアは、またも心乱された。

 

「カルロス王子の両親――つまり、先の国王夫妻は既に亡くなっていてな。現在は王子が国を(おさ)めているのだ。彼はそなたより二つ歳上(としうえ)なのだが、私がそなたの話をしたところ、えらくそなたのことを気に入ったようで」

 

「では、この縁談はお父さまではなく、王子のご希望で?」

 

 父が頷く。ということは、父を(うら)むのは筋違いということになる。――ただ、彼女にとって迷惑であることに変わりはないのだが。

 

「王子が来られるのは、いつなのですか?」

 

「十日後だと聞いた。その手紙にも(したた)めてあるとな」

 

 十日後……。長いのか短いのか、微妙な日数である。

 

「――さて、じきに夕食だな。そなたは部屋に戻り、着替えてきなさい。デニスも昨日(さくじつ)よりご苦労であったな。宿舎に戻って休むがよい」

 

「はい」

 

「では私は、先に食堂で待っている」

 

 父がマントを翻して城内に入るのを見届けて、リディア自身も城内の自室に向かった。

 

****

 

 父と久しぶりに摂る夕食は、リディアにとって楽しみだったはずなのだが、あまり食が進まなかった。

 

 引っかかっていたのは、スラバットのカルロス王子との縁談のことと、彼からの手紙のことだ。

 

 手紙は共通言語のレーセル語で(つづ)られており、まだ一度も会ったことのないリディアへの情熱的な想いがビッシリと書かれていた。

 

 

『愛しいあなたにお会いできることを、心待ちにしております』……

 

 

(「愛しい」なんて書かれても、困るだけだわ)

 

 リディアにはもう、デニスという恋人がいるのだから。

 

 そういえば、デニスとの仲を父に打ち明けられなかったことも、リディアにとっては心苦しかったのだ。

 

 皇女と(いち)兵士が結ばれることは、いけないことなのだろうか? 父が知れば、デニスはどうなってしまうのだろう?

 

 彼女は夕食後も、入浴時にもずっと一人でモヤモヤ考えていて、ベッドに入ってもなかなか寝つけず。

 

 絹の寝間着の上からガウンを羽織り、リディアは中庭の四阿(あずまや)に来て、一人物思いに(ふけ)っていた。素足ではなく、室内履き(スリッパ)を履いて。

 

 ――と、背後からコツコツ、とブーツの音がして……。

 

「……リディア? また眠れないのか?」

 

 振り返ると、そこにいたのは――。

 

「……デニス。ああもう、驚かせないで!」

 

 ランタンを手にしたデニスだった。安心したと同時になぜか怒りがこみ上げたリディアだが、その感情はすぐになりを潜める。

 

「あなた、宿舎を抜け出してきたの?」

 

「ああ。城から灯りを持った誰かが出てくるのが、部屋の窓から見えてさ。もしかしたらお前じゃないかと思って」

 

「そう」

 

 リディアは頷いただけで、咎めることはしなかった。実は宿舎に暮らす兵士達の、夜の外出は自由なのだ。

 

「隣り、座ってもいいか?」

 

「ええ、どうぞ」

 

 リディアが場所を(ゆず)り、デニスは彼女の隣りに座る。その長椅子の上で、彼はリディアをしげしげと眺めた。

 

「そういや、リディアが髪下ろしてるの、久しぶりに見た気がする」

 

「えっ? そうだったかしら?」

 

 彼女の長い髪は、下ろすと腰の辺りまでの長さがある。蜂蜜色をしたその髪は、今は月明かりに照らされて濡れたように艶めいている。

 

 自然に、デニスの指が伸びた。彼女の(なめ)らかな髪を指先でいとおしそうに撫でる。

 

 リディアはそれを、「心地いい」とさえ感じた。彼の肩に頭を預け、このままずっとやめないでほしいと思った。

 

 けれどそこで、先ほどまでの悩みがふと(よみがえ)り、彼女の表情が(くも)る。

 

「あなたとの関係、お父さまに打ち明けたらどうなるのかしら……?」

 

「ん?」

 

 リディアはデニスに、一人ずっと考えていたことを話した。

 

 皇女である自分と、一兵士に過ぎない彼が結ばれることを、父はどう思うのだろうか、と。二人はどうなってしまうのか、と。

 

「お父さまが許して下さるのか分からないから、わたし不安で。あなたはどう思う? わたしから打ち明けた方がいいのかしら?」

 

「う~ん……。陛下の気性(きしょう)なら、オレ達が黙ってて、後からそれが分かった時の方が、お(いか)りになるんじゃないかと思うけど」

 

「つまり、わたしから打ち明けた方がいいということね?」

 

 リディアの解釈(かいしゃく)に、デニスは頷く。――ただ、タイミングは考えなければならないかもしれない。

 

「どちらにしても、城内で二人っきりでこうして人目を忍んで会えるのはこの四阿だけね。しばらくは」

 

「そうだな」

 

 デニスは指の動きを止めずに答えた。

 

 リディアの執務中も、近衛兵であるデニスと二人になることは多い。けれど、侍女や大臣などの目もあるため、恋人同士として振る舞うことは難しいだろう。

 

「――ねえデニス。スラバットの人って、みんなあなたみたいに情熱的なの? あなたもスラバットの血を引いているのでしょう? お父さまから聞いたわ」

 

「ああ、確かにオレの母さんがスラバットの出身だけど。どうしてだ?」

 

 スラバット人の特徴(とくちょう)は赤髪に茶色の瞳、そして褐色の肌だと、夕食中に父から聞いた。――ちょうど、デニスと同じようだと。

 

「王子からの手紙も、情熱的な内容だったから。……ちょっと読んでみて?」

 

 リディアは既に開封済みの手紙をガウンのポケットから取り出し、デニスに差し出す。

 

「いいのか? オレが読んでも」

 

 受け取ろうとしたデニスは、少しためらった。いくら恋人とはいえ、他人様(ひとさま)の手紙を読むのは気が引ける。

 

「ええ。手紙はレーセル語で書かれているから、あなたにも読めるはずよ」

 

 本人がそこまで言うのなら……と、デニスは四つ折りにされた便箋(びんせん)を開く。

 

「――おー、こりゃスゴいな……」

 

 最後まで一通り目を通したデニスは、言葉を失った。

 

「でしょう? 一度も会ったことがないのに、どうしてこんなに情熱的な恋文(こいぶみ)が書けるのかしらね? 肖像(しょうぞう)すら見たこともないのよ」

 

 リディアは首を傾げた。父から聞かされた話だけでこの手紙が書けたのなら、カルロスという王子は相当な想像力の持ち主に違いない。

 

「それは……、アレじゃね? 他の国の貴族とか王族がお前の美しさの(うわさ)を聞きつけて、政略結婚を(はか)るようなもんだろ?」

 

「政略結婚なんて……。だって、この縁談は王子が自ら望んだことなのよ? この手紙からは、そんなことを(たくら)むような人だとは思えないわ」

 

 リディアは少しムッとした。この手紙からは、彼の情熱的でありながら純粋な恋心しか感じられなかった。そんな打算のようなものは、微塵(みじん)も感じられなかったのだ。

 

 リディアは一方的に、この話題を打ち切った。もう、政略結婚のこと自体考えたくないのだ。特に、恋人の前では。

 

「――ねえ、デニス。スラバットってどんなところなの? あなたは行ったことがあるんでしょう?」

 

 彼の母親の故郷ならば、彼も何かの機会に一度くらいは赴いたことがあるはずだ。

 

 ちなみに、リディアは一度も行ったことがない。「隣国」とはいっても、国境には高い山脈がそびえていて、越えるのに苦労するのだ。

 

「スラバットには、小さい頃から何度か行ったことがあるぜ。そうだな……、オレが覚えてるのは、まず気候がこの国とは全然違う。ちゃんと四季のあるレーセルとは違って、一年中暑くて乾燥してるんだ」

 

「へえ、そうなの? ――他には?」

 

「リディアの言う通り、色恋に関しては情熱的な人が多いかな。オレの母さんも元踊り子で、父さんに猛アピールして結ばれたらしいから」

 

「へ、へえ……。じゃああなたは、お母様に似たのね」

 

 リディアは感心したようにそう言った。彼の身体的特徴も情熱的なところも、母親譲りだとしか思えない。剣の素質は父親譲りだとしても。

 

「かもしれないな」

 

 デニスはリディアに手紙を返し、再び彼女の髪に指を滑らせ始めた。

 

「――ねえデニス。わたし、政略結婚なんて絶対にイヤなの。相手がどんなにいい人でも。結ばれるなら、愛する人とがいいわ」

 

「うん……。リディア、好きだ」

 

「――え?」

 

 改まって想いを告げられたリディアは面食らう。――何を今更?

 

「いや、まだちゃんと伝えられてなかったから、さ」

 

「ああ……」

 

 そういえば昨夜、シェスタの浜辺でそんなことを言ったかもしれない。けれど、彼の想いはキスだけで充分伝わったから、改めて言葉で伝えてもらわなくてもよかったのに。

 

「ありがとう、デニス。大好きよ」

 

 リディアも再び、彼の肩に頭を預けた。

 

「スラバットの王子が来た時も、かっ(さら)われないようにオレがちゃんと守ってやるよ。だから安心しろよ」

 

「ええ。デニス、あなたを信じているわ。だから、わたしのことも信じてね。わたしは絶対、他の男性(ひと)に心(うば)われたりしないから」

 

「うん、信じるよ」

 

 そうして二人は見つめ合う。

 

 昨夜のキスは、テニスからの不意打ちだったけれど。今夜はリディアの方から唇を重ねた。お互いに目を閉じて、昨夜よりも長く濃厚なキスを交わす。

 

(これが、恋人同士のキスなんだわ……)

 

 ――と、そこへ……。

 

 

「――姫様ー、姫さまぁ! どこにいらっしゃいますかぁ?」

 

 

 城内のどこかから、若い女性の声が聞こえてきた。デニスと()き合い、キスの余韻(よいん)に浸っていたリディアは、その声でふと現実に引き戻される。

 

「あの声、エマだわ。わたしを探してる」

 

「エマって……、お前に付いてる侍女か?」

 

 デニスに訊かれ、リディアは頷いた。

 

 彼の言う通り、エマはリディア付きの侍女で、現在リディアより一つ歳下の十七歳。純粋なレーセル人で、肩までの長さの金髪と顔のそばかすが特徴。そして。

 

 ジョンとは違う意味で、生真面目で(くち)やかましい。

 

 彼女は何というか、心配症なのだ。お忍びで出かけて戻ってくると、リディアは必ずエマに叱られる。昨夜もきっと、彼女は胃に穴があくような思いで過ごしていただろう。

 

 ――それはともかく。

 

「ゴメンなさい、デニス。わたし、そろそろ部屋に戻らないと。エマが心配するから」

 

「ああ。じゃあリディア、おやすみ」

 

「ええ、おやすみなさい」

 

 デニスと別れたリディアは急いで城内に戻り、階段を駆け上がった。すると案の定、自室の前では侍女のエマが仁王(におう)立ちで待っていた。眉を思いっきり跳ね上げて。

 

「姫様っ! 今までどこにいらっしゃったんですか!? 心配して探し回っていたんですよ!」

 

「ゴメンなさいね、エマ。眠れなかったものだから、ちょっと中庭を散歩していたの」

 

 ぷりぷり怒っている侍女に嘘をつくのも忍びなく、リディアは事実のみを伝えた。

 

(まあ、中庭にいたのは事実だものね)

 

 ……けれど、「デニスと逢引(あいび)きしていた」なんて言えるはずもないので。

 

「中庭を? お一人で、ですか?」

 

「え、ええ。もちろんよ」

 

(これで、「今日のお昼前に海賊と剣を交えた」なんて知ったら、きっと彼女、卒倒(そっとう)しちゃうわね)

 

 とっさにごまかしてしまうリディアなのだった。ただ仕事熱心で、心配症なだけの彼女(エマ)を欺いたことで、チクリと良心が痛む。

 

 この先もエマに心配をかけずにデニスとの逢瀬(おうせ)を続けるには、彼女にもその事実を打ち明けておいた方が都合(つごう)がいいのだが。

 

(エマは口が軽いからなあ……)

 

 彼女の口の軽さは、侍女や女官達の中でも一,二位を争う。(ウワサ)好きの宮廷の女性から、いつ、何の拍子にこの話題が父の耳に入るか分からないので、リディアもおいそれと危険(リスク)(おか)すわけにはいかないのだ。

 

 ちょっとやりにくくはなるが、仕方ない。

 

「あのー? 姫様、どうかなさいました?」

 

「いいえ、別に。エマ、わたし、今日は疲れたからもう休むわ。あなたももう()がっていいわよ」

 

 これ以上の詮索(せんさく)()けたいリディアは、自室に戻ると脱いだガウンをエマに預け、彼女の退室を促した。

 

 なんてことを主がこっそり思っているとは知らない、当のエマはというと。

 

「あ、はい。おやすみなさいませ」

 

 忠実にリディアの命令に従い、退室していった。

 

 一人になったリディアは枕元に置いたランタンの灯りを消し、再びベッドに入った。目を閉じて、そっと(しあわ)せを()()める。

 

(大丈夫。わたしには、デニスがいるもの) 

 

 ……そう。自分には頼もしい恋人がいる。お互いに信頼し合えて、「守ってやる」と言ってくれた騎士(ナイト)が。だから、隣国の王子が求愛してきても、心乱されることはない、

 

 旅の疲れもあってか、リディアはそのまま夢の世界へと(いざな)われていった――。

 

 

****

 

 

 ――その少し前。リディアが城内へ戻っていくのを見届けたデニスは、宿舎の玄関をくぐろうとしていた。灯りが消えたはずの玄関先に、ランタンの灯りと大柄な人影を、彼は(みと)める。――城下町に飲みに行った先輩(せんぱい)兵士が戻ってきたのだろうか?

 

(いや、違う。あれは……)

 

「ジョン?」

 

 デニスが自らのランタンで照らすと、その男はやっぱりジョンだった。

 

「デニス、戻ったか。――中庭で、姫様と逢引きしていたのか?」

 

 開口(かいこう)一番でズバッと訊いてきたジョンに、デニスは苦い顔でボヤく。

 

「まあ、そうなんだけどさ。お前、他に言い方ねえのかよ……」

 

「俺は遠回しな言い方が嫌いなんだよ」

 

 カタブツなジョンは、デニスのボヤきをバッサリと斬り捨てた。

 

 この男は幼い頃から、こういうヤツだとデニスはよぉーく知っている。けれど、というかだからこそ、ここで疑問が湧き上がる。

 

「だったらお前、どうしてリディアに自分の想い伝えねえんだよ? お前の気持ち、アイツも知ってるぜ?」

 

「……!? 姫様も、ご存じなのか……」

 

 痛いところを突かれたジョンが、「参りました」という顔で夜空を(あお)いだ。

 

「……今日の昼間、姫様が海賊と戦うことになった時にさ」

 

「……ん?」

 

「俺はあの時、姫様とお前との信頼関係っていうか、強い『(きずな)』みたいなものを感じたんだ。それが、二人が想いを通じ合わせた結果なんだ、って分かった時、もう俺にはここに入り込む隙はないんだと思った」

 

 そこまで言ってしまうと、ジョンは再びデニスに視線を戻した。

 

「だからってわけじゃないけど、俺は姫様に想いを伝えるつもりはない。姫様はいつも、俺達国民のためにお心を砕いて下さってる。俺は、そんな姫様のお心を掻き乱すようなことはしたくないから」

 

「ったく、カタブツなお前らしい理屈(りくつ)だぜ。でもな、リディアはお前から直接聞きたがってるんだ。アイツにとってはお前も、大切な幼なじみなんだから」

 

 デニスの思わぬ言葉に、ジョンは目を瞠った。それでも、彼は(かたく)なだ。

 

「……でも俺は、姫様に想いは伝えない。忠誠心が、俺なりの姫様への愛情だ。姫様に忠義を尽くして、陰ながらお守りすることこそが、俺なりの愛し方なんだよ」

 

「ああ、そうかい! 勝手にしろよなっ!」

 

 デニスはもう、ジョンの理詰(りづ)めにはウンザリしていた。捨て台詞を吐いて、さっさと寝部屋へ行こうとするけれど。

 

「――そういや、十日後にスラバットの王子が国賓として来るらしいな」

 

「ああ、そうだけど……」

 

 ジョンに引き留められたデニスは、「なんでお前が知っているのか」と訊いた。

 

 すると、イヴァン陛下のお供をしていた先輩兵士から聞いたのだと、答えが返る。

 

「その王子と姫様との縁談の話も出てるっていうじゃないか。お前、大丈夫なのか?」

 

「大丈夫だって。リディアは絶対、オレのこと裏切らないからさ。ちゃんとオレが守るって約束したし」

 

「だったらいいけどな。ま、せいぜい褐色の肌の王子に姫様を()られないように気をつけろよ。同じ色の肌の騎士(ナイト)さん?」

 

 

「うるせえ! 余計なお世話だっつうの!」

 

 

 ぷりぷり怒りながら、デニスは階段をドスドスと上がっていく。ちなみに、デニスの部屋は二階、ジョンの部屋は一階のそれぞれ二人部屋である。

 

「――褐色の肌の王子、か……」

 

 デニスは自分の容姿をジョンと比較(ひかく)して、いつも劣等感(コンプレックス)を抱えている。生粋(きっすい)のレーセル人であるジョンの白肌・金髪に対し、スラバットとの混血(こんけつ)である自分の褐色肌・赤髪が(にく)らしかった。

 

アイツ(リディア)は、なんでオレのことを……?」

 

 自分のこの異国風(エキゾチック)な容姿に()かれたのだとすれば、その王子にだって――。何せ、容姿が似ていたってこちらは一介(いっかい)の軍人、あちらは一国の王子だ。身分が違いすぎる。

 

(オレ、リディアのこと守りきれるかな)

 

 

 ――それから十日間、デニスは悶々と悩みながら過ごした(のち)、国賓としてスラバット王子を迎えることとなった――。



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4・褐色の肌の王子と騎士《ナイト》⑴

 ――とその前に、その十日間をリディアとデニスの二人がどのように過ごしていたのかを描写(びょうしゃ)しておこうと思う。

 

 ジョンの本心を知ったデニスは翌日の夜、例の四阿でリディアにそのことを話した。

 

「いいんじゃないの?」

 

 彼女の反応は、デニスの予想に反して淡白(たんぱく)なものだった。

 

「えっ、いいのかよ?」

 

 デニスは虚をつかれたように声を上げる。

 

「ええ。だって、愛し方は人それぞれ違って当然だもの。わたしにはわたしなりの、あなたにはあなたなりの愛し方があるように、彼には彼なりの愛し方があってもいいはずよ」

 

 それが「忠義を尽くして、陰ながら守ること」ならば、それでもいいとリディアは言うのだ。

 

「おいおい。こないだ言ってたこととずいぶん違わねえか?」

 

 数日前、「想いを伝えるなら、はっきり伝えてほしい」と言っていたのはどこの誰だったろうか? ――とデニスが問えば。

 

「あれはデニス、あなたに向けて言った言葉よ」

 

「……へ? オレ?」

 

 デニスはキョトンとする。

 

「あなたのわたしへの想いは、さりげない仕草とか態度で何となく分かってたわ。でも、直接的な態度で伝えてくれたことがなかったから、わたしも自信がなかったの」

 

「オレの気持ち、バレバレだったんだな」

 

 デニスは頬をポリポリ掻いた。とはいえ、ちゃんと想いは伝わり、今はこうして両想いになっているのだからまあ、それでよかったのかもしれない。

 

「――ところでデニス、わたし達の関係をいつお父さまに打ち明けるかを、わたしはずっと考えているの」

 

 リディアは昨夜のように、デニスの肩に頭を乗せて、少し考えてからゆっくりと口を開いた。

 

「うん」

 

「でね、思いついたの。カルロス王子がこの国に来ている間に、そのタイミングをぶつけてみたらどうなるかしら、って」

 

「……ハイ?」

 

 デニスは面食らう。彼女が言っている意味が分からない。

 

「ほら、『王子との縁談は受けたくない』って、お父さまに伝えてあるでしょう? その理由が、あなたと恋仲だからって言えば、お父さまも納得して下さると思うの」

 

「……う~ん、どうだろうなあ?」

 

 デニスは天を仰いだ。そんなにうまく事が運ぶものだろうか? いくらイヴァン皇帝が娘に甘い父親だとしても。

 

「もう少し様子(ようす)()でいいんじゃねえかな? 焦って打ち明けて、反対されるのもイヤだしさ」

 

「そうよね……。もう少し考えてみるわ」

 

 二人はまだ交際を始めたばかりなのだ。もっと他に、話すのに(てき)したタイミングができるかもしれない。

 

「それに、わたしに求婚しに来る相手に当てつけるようなやり方って、姑息(こそく)だものね」

 

「…………」

 

 デニスには、彼女が一体誰のことを言っているのかすぐに分かった。

 

 スラバットの、カルロス王子。西の国境を接する王国の、自分と同じ色の髪・肌・瞳を持つ、現在の事実上の〝君主〟だ――。

 

「――なあ、リディア。オレのどんなところを好きになったんだ?」

 

 デニスが唐突に、正面からリディアを見つめて訊ねた。

 

「えっ? どうしたの急に?」

 

 戸惑うリディアに、デニスは真摯な眼差しでもう一度問いかける。

 

「うん……、いや。オレってスラバットとの混血で、何ていうか異国風(いこくふう)だろ? だから、お前もそういうところに惹かれた、ってことはねえかな?」

 

 もしもそれが、彼女が自分に惹かれた理由だとしたら、同じような外見の異国の王子に心奪われる可能性もなくもないのではないだろうか?

 

「そうね,ないとは言い切れないわ。あなたのその異国風(エキゾチック)風貌(ふうぼう)は、確かに魅力的よ。特に、()んだ茶色の瞳がわたしは好き」

 

 そんなデニスの心配を読み取ったかのように、リディアは「でもね」と続ける。

 

「わたしがあなたを好きな理由は、それだけじゃないのよ。幼い頃からずっと変わらず、わたしに壁を作らずに接してくれるところとか、いつも真っすぐなところとか。あなたの魅力は数えきれないくらいあるわ」

 

 彼女はデニスの褐色の頬に手で触れ、優しく微笑んだ。

 

「たとえ同じ肌や瞳の色をしている人がいても、この肌と瞳はあなただけのものだから。わたしが愛しているのはデニス、あなただけなの。――『信じて』って言ったでしょう?」

 

 リディアがそこまで言うと、二人はそのまま目を閉じて口づけた。

 

 長い口づけの後、昨夜と同じように抱擁(ほうよう)を交わす。ふと,デニスがリディアに訊いた。

 

「今日はこんなに長く一緒にいて大丈夫なのか? またエマが心配するんじゃ……」

 

「大丈夫よ。エマにはもう、わたしとあなたの仲について話してあるもの」

 

 リディアはケロッとした顔で答える。

 

「へえ……。それで、あの()は何て?」

 

「『姫様とデニス様が恋仲なんて、お似合いだと思います。(わたし)はお二人の幸せをお祈りしております』って。――わたしはてっきり、反対されるかもしれないと思っていたの」

 

 側仕(そばづか)えの侍女に気兼ねしなくて済むのならば、デニスとの逢瀬もずいぶんと楽になる。

 

 ただ、一つだけ問題が……。

 

 彼女(エマ)は口が軽いのだ。デニスだって、そのことを知らないわけではないので。

 

「でも、話しちまってよかったのか? もし城中の噂になって、それが陛下の耳に入ったりしたら……」

 

 もっともな心配を口にした。

 

「それも大丈夫。『くれぐれも,お父さまのお耳には入れないように』って、釘を刺しておいたから」

 

「……あっそ」

 

 いくら噂好きの女官達でも、皇女の命令に逆らうことはないだろう。……多分。

 

 

****

 

 

 ――こうして、二人は毎晩、四阿での逢瀬を重ねた。

 

 〝逢瀬〟とはいっても、二人きりで恋人同士として語らい、口づけと抱擁を交わすだけのとても(きよ)いものである。

 

「皇女リディアと近衛兵デニスが恋仲になっている」という噂は、城内の女官達の間でたちまち広まった。火種(ひだね)はおそらく、一番最初にその事実を知ったエマだと推測される。

 

 噂は(あや)うく女官長の耳にまで届いてしまったが、彼女は口の(かた)い人物だったため、イヴァン皇帝の耳に入るまでに立ち消えとなった。

 

 

****

 

 

 ――そしてとうとう、スラバット王国からの国賓を迎える日がやってきた。

 

「まあ、姫様! とてもおキレイですわ!」

 

 リディアの部屋で彼女の化粧(けしょう)を終えた侍女のエマは、ドレッサーの(かがみ)に映る主の姿に目を輝かせた。

 

 その主――皇女リディアはというと、彼女に見立ててもらったドレスに不満たらたら。

 

「ねえ、エマ。このドレス、胸元が()きすぎじゃないかしら?」

 

「えっ? そうですか?」

 

 エマが選んだこの日の衣装は、リディアの蜂蜜色の髪によく映える、ワインレッドのドレス。絹を素材に、全体に模様が織り込まれた生地(きじ)で仕立てられており、胸まわりや袖口、裾には金色(こんじき)のレースがあしらわれている華やかな衣装である。

 

 開きすぎている胸元も、髪を下ろしていればまだそれほど目立たないかもしれないが。

 

 この日のリディアは銀のティアラを()せるために髪を結い上げられており、細い首とともに露出(ろしゅつ)した豊かな胸は余計に目立つのだ。

 

 しかも、ただでさえ豊満(ほうまん)な胸を、これでもかと寄せて上げて、強調させられているのである。

 

「よろしいじゃございませんか、姫様。豊かなお胸は、魅力的な女性の象徴です。スラバットの王子様もきっと、姫様のことを魅力的に思って下さいますわ!」

 

(いや、魅力的に思われても困るんだけど)

 

 リディアが心の中でツッコんでいると、室内に控えていたデニスが(彼が室内に入ったのは、リディアの着替えが済んだ後である)コホンと一つ咳払(せきばら)いをした。

 

「あのなあ、エマ。ここにれっきとした恋人がいるんだけどな……」

 

 不謹慎(ふきんしん)だ、とばかりに顔をしかめるデニスに、エマは「しまった!」という顔をする。

 

「すっ、すみませんデニス様! ……あっ、ですがデニス様がご覧になっても、今日の姫様はステキだとお思いになりませんか?」

 

「えっ!? ……そ、そりゃあ……な」

 

 急に同意を求められたデニスは、顔を真っ赤にしてドギマギしながらも肯定した。

 

「……あっ、ありがとう」

 

 恋人に「ステキだ」と思ってもらえたことは、リディアも嬉しい。が、今回の目的は隣国の王子に魅力的に思われることでは()()()()()

 

 皇女として、スラバットからの国賓をもてなすことが目的なのである。――少なくともリディアはそう思っている。

 

「姫様、胸元が気になるようでしたら、大ぶりの首飾りをお着けになってみては?」

 

 エマはドレッサーの上の宝石箱から、大ぶりな紅玉(ルビー)のはめ込まれた金の首飾りを取り出し、リディアの首にかけた。

 

「ほら、こうすれば胸元も目立たなくなりましたでしょう?」

 

「……そうね」

 

 見る人の視線はきっと、華やかな首飾りに逸れて、胸元を注視されることはないかもしれない。

 

「ところで、カルロス王子はもうこの国にお着きになっているの?」

 

「はい。昨夜のうちに着かれたそうですわ。一晩迎賓館にお泊りになって、そちらで昼食を済まされた後、午後の謁見(えっけん)のお時間に陛下や姫様にお目にかかるそうです」

 

 午後の謁見は二時からである。リディアは懐中時計で現在の時刻を確かめた。

 

 もうすぐ二時。リディアも昼食を済ませてから身支度を始めたので、ちょうどいい頃合(ころあ)いである。

 

 金色の(くつ)を履いたリディアは、「そろそろ時間ね」とデニスに告げた。頷いた彼は、わざとらしく口調を変えて言う。

 

「では、この先は自分が責任を持って警護致しますので。姫様、参りましょう」

 

「……ええ」

 

 謁見の間、つまり玉座の間へ向かう途中、リディアはデニスに小声でツッコんでいた。

 

「急に態度を変えられたら、わたしの方がやりにくくて仕方ないんだけど」

 

「仕方ねえだろ。これが仕事なんだから」

 

 言い返すデニスも、小声ではいつもの砕けた口調に戻る。二人の関係は既に知れ渡っているので、今更コソコソしても始まらないだろうに。

 

 ――それはさておき。

 

「デニスも、今日はとってもステキよ」

 

 リディアの言う通り、彼もこの日は礼装をしていた。

 

 刺しゅうの施された青い詰め襟の上着に白い下衣(ズボン)、黒のブーツ。それも、いつもの(どろ)(よご)れた編み上げブーツではなく、ピカピカに(みが)き上げられたブーツだ。

 

「えっ、そうか? オレは似合わねえなと思ってたんだけど」

 

「ううん、とってもステキよ。あなたの肌の色にも、髪の色にもよく合ってるわ」

 

 レーセル帝国近衛軍団の伝統的な礼装を、褐色の肌をした彼が着ると、いつもに増して異国風(エキゾチック)に見えるから不思議だ。

 

「そうか? ありがとな。オレはこんなの着慣れないから、肩こって仕方ねえよ」

 

「それくらい我慢(ガマン)しなさいよ。仕事なんだから」

 

 ――とまあ、小声で漫才(?)のようなやり取りを続けるうち、二人は城の一階中央にある大きな両開きの扉の前に到着した。

 

 デニスが扉をノックし、「姫様が参られました」と中に声をかけると、中から兵士の声で「どうぞ、お入りください」と返事が返り、扉が開けられた。

 

 リディアは姿勢を正すと、ドレスの裾を両手でつまみ上げ、玉座に座る父・イヴァン皇帝の隣りまで胸を張って歩いて行く。前を歩く護衛官デニスの先導によって。

 

「おお、リディアよ。来たか。――カルロスどの、紹介しよう。これが私の一人娘で我が国の次期皇帝、リディアだよ」

 

 父に「カルロスどの」と呼ばれた褐色肌の青年に向かって、彼女は優雅に自己紹介をした。

 

「初めまして、カルロス様。レーセル帝国へようこそおいで下さいました。わたしはこの国の第一皇女、リディア・エルヴァートでございます」

 

 腰を(かが)めて深々とお辞儀すると、その美しさに、隣国の客人達の中からは「ほう……」とあちらこちらからため息が漏れる。

 

 顔を上げたリディアは、青年の顔をまじまじと眺めた。

 

 デニスと同じような褐色の肌に赤い髪、茶色の瞳をしている。ただ、髪はカルロスの方が長いし、肌の色もデニスより彼の方が若干濃い気がする。多分、こちらが純粋なスラバット人の肌の色なのだろう。

 

 でも、彼の澄んだ茶色い瞳だけは、デニスと同じだとリディアは思った。

 

「……リディアよ、どうしたのだ?」

 

 無言のまま王子を見つめていたら、隣りから父の怪訝そうな声がして、彼女はハッと我に返る。

 

「あ……、いえ。何でもありませんわ」

 

(……いけない。わたしったら、ついカルロス様に見蕩(みと)れてしまったわ。デニスの前なのに)

 

 チラッと後ろを振り返ると、デニスは少々機嫌が悪そうである。

 

(もしかして、わたしが彼に見蕩れていたこと、バレたのかしら?)

 

 浮気者と思われただろうか? あれだけ大口(おおぐち)を叩いたのに。

 

「リディア、こちらが西の隣国・スラバット王国の王太子、カルロスどのだ」

 

「カルロス・マルロッソと申します。この(たび)はお招き頂き、ありがとうございます。皇女リディア様、お会いできて光栄です。噂以上にお美しいですね」

 

 自己紹介したカルロスが、(さわ)やかに微笑んだ。リディアは恋人(デニス)の手前、どんな反応を返していいのか分からない。

 

「ありがとうございます、カルロス様。お世辞(せじ)でも嬉しいですわ」

 

 とはいえ、ここは社交辞令で素直に礼を述べておくのが正解だろうと彼女は判断した。

 

 ――と、カルロスの隣りに控えていた一人の中年男性が、ここぞとばかりに出しゃばってきた。

 

「いやはや、本当に美しいですな。王子が妻にしたいと思い描いていた、まさに理想通りの女性ではございませんか」

 

 ヒヒヒ、と下衆(げす)な笑いを漏らすその男に、リディアは薄気味(うすきみ)悪さを感じた。

 

 着ているものは王子と同じようなスラバットの礼装で、身分はそれなりに高いはずなのだが。

 

(一体何なの? この人)

 

伯父(おじ)(うえ)!」

 

 カルロスが鋭く咎める。リディアはそれにより、この薄気味の悪い男の正体に思い当たった。

 

「カルロス様。この方は……、あなたの伯父上様なのですか?」

 

「はい。私の伯父で、サルディーノ・アドレといいます。我が国の宰相(さいしょう)を務めてくれています。また、私の後見人(こうけんにん)でもあります」

 

 カルロス王子が、リディアにその男を紹介した。

 

「丁寧にご紹介頂いて、畏れ入ります。ですがカルロス様、伯父上様の(せい)が違うのはどうしてですか?」

 

 リディアの疑問にも、彼は親切に答えてくれる。

 

「伯父の姓は、母方の姓なのです。彼は母の兄にあたる人なので」

 

「ああ、なるほど。そうでしたの」

 

 リディアは納得しかけたものの、このサルディーノという人物に関して、いささか疑問が残った。

 

(〝宰相〟って、君主に代わって政治を()り行う人のことよね)

 

 レーセル帝国においては、大臣がそれにあたる。皇帝イヴァン・皇太子(こうたいし)リディア(皇位を継ぐ立場なので、〝太子〟という地位なのである)(とも)に不在の時には、彼が代わりに(まつりごと)に関わるのだ。

 

 けれど、現在スラバット王国を治めているのはカルロス王子だと、父は言っていた。まあ宰相がいるのはともかく、伯父が王子の後見人だというのも引っかかる。

 

 スラバットの法律は知らないが、二〇歳(はたち)になっているはずのカルロス王子に、後見人なんて必要なのだろうか?

 

(もしかして、王子はただのお飾り君主?)

 

 そんな可能性がふとリディアの頭の中を(かす)めた時、彼女は父に呼ばれて我に返った。

 

「リディア、カルロスどのはこの城の中を見て回りたいそうだ。そなたが案内して差し上げなさい」

 

「あ……、はい。分かりました」

 

 リディアが了承すると、すかさずデニスが「自分もお供します」と申し出る。

 

「自分は姫様の護衛官です。お供しても構いませんよね?」

 

 彼の台詞は、自らの任務に忠実な者の台詞のようにも聞こえるが、その真意をリディアは見抜いていた。

 

(要するに、わたしをカルロス王子と二人っきりにしたくないわけね)

 

 リディアは半目になって、恋人である護衛官をギロッと睨んだ。

 

「え、ええ。私は構いませんが……。イヴァン陛下、リディア様、いかがでしょうか?」

 

 カルロス王子は少々戸惑いながら、皇帝父娘(おやこ)意向(いこう)を確かめる。

 

「よかろう。――そなたはどうだ?」

 

「わたしも構いませんわ」

 

(むしろ、わたしはその方が安心だわ)

 

 そんな本心を隠して、リディアは頷いた。

 

「ではカルロス様、参りましょうか」

 

 

****

 

 

 城の敷地内にある各施設――剣術鍛錬所や兵士の宿舎、厩舎など――を一通り案内した後、リディアはデニスを伴い、カルロス王子を中庭へ案内した。

 

 ここには毎夜、リディアとデニスが逢瀬を重ねている四阿があるが、庭自体も大したものだ。

 

 まず広い。これは言わずもがなである。その広い庭は、宮廷専属の庭師によって隅々まで手入れが行き届いており、四季(しき)折々(おりおり)の草花や樹木が植えられている。

 

「――カルロス様、こちらが中庭ですわ」

 

「ありがとうございます。素晴(すば)らしい庭ですね」

 

 この時の二人の褐色肌の青年の態度は、まるで対照(たいしょう)的なものだった。

 

「私の国には、四季がありませんので。こうして季節の植物に触れられる貴重(きちょう)な機会を頂けて、とてもありがたいです」

 

 カルロス王子の方は、たいそう上機嫌だ。初めて(かどうかは分からないが)目にする「季節」というものに、気分を高揚(こうよう)させている。

 

 一方のデニスはというと、とても不機嫌。理由はリディアにも分かっている。この異国から来た、背の高い王子への一方的なライバル意識、だ。

 

 要するに〝嫉妬〟である。

 

(やっぱり、わたしがさっき王子に見蕩れてたこと,バレているのかしら……?)

 

 というか、原因はそれしか考えられない。ジョンの次は、母の故郷の王子か。――自分の恋人がこんなに嫉妬深かったのかと、リディアは愕然となった。

 

「あの、リディア様。少し疲れました。あそこにある四阿で、少し休ませて下さいませんか?」

 

 カルロス王子が、あの四阿を指差して言った。途端に、デニスの眉が跳ね上がる。

 

 どうやら彼は、自分とリディアの二人だけの〝聖域〟を他の男に(けが)されることが許せないらしい。

 

 

「ええ、いいですわ。参りましょう」

 

 

(……! リディア!?)

 

 デニスが、表情だけで抗議してくる。リディアはそれを、にこやかな笑顔で封じた。

 

「デニス、あなたもいらっしゃい」

 

「王子と二人きりにならなきゃ問題ないでしょう?」と言わんばかりに。

 

「あ……、ハイ」

 

 リディアの(あつ)に屈し、デニスは神妙(しんみょう)に縮こまる。

 

 リディアとデニス、カルロスの三人はそのまま四阿まで移動した。長椅子には両国の皇女と王子が並んで腰かけ、護衛官のデニスは四阿の入口に立ち、カルロス王子に睨みをきかせている。

 

(本当は、外を見張らなきゃいけないんじゃないのかしら?)

 

 いいのだろうか? 個人的な感情で、責任を放棄(ほうき)しても。

 

 ……まあ、何かあってもリディアが責任を負わされるわけではないのだが。恋人としては心配になる。

 

 そんなデニスを凝視(ぎょうし)しながら、カルロスが彼に質問した。

 

「君は、デニスどのといいましたね。君もスラバットの出身なのですか?」

 

 彼の肌や瞳の色に、王子も気がついていたようだ。

 

「いえ、自分は混血です。母がスラバット出身ですが、父はレーセル帝国の兵士で」

 

「混血……ですか。――いや、私と同じ肌と瞳の色だったのでね、妙に親近感が湧いたんです。気を悪くしたのなら申し訳ない」

 

 悪びれた様子もなく王子が詫びたので、デニスは決まり悪そうに「いえ……」と首を振った。

 

「デニスとわたしは、幼なじみなんです。出会ったのは五歳の時でした。母と、生まれてくるはずだった弟を亡くして、塞ぎこんでいたわたしを元気づけてくれたのが彼と、もう一人の幼なじみのジョンだったんです」

 

「幼なじみ?」

 

「ええ。彼はわたしの剣の師匠でもあるんですよ」

 

 リディアは数日前に三人で港町へ出向き、そこで海賊と戦ったことをカルロスに話して聞かせた。

 

「その時も、デニスが力を貸してくれたからわたしは戦えたようなものですわ」

 

 デニスと目が合い、頬を赤らめるリディアを見て、カルロスは何かを(さと)ったようだが、彼はあえてそのことを追及(ついきゅう)しなかった。

 

「リディア様は美しいだけでなく、お強くもあるのですね」

 

「ええ、まあ。強くなければ民はおろか、自分の身を守ることすら(かな)いませんもの。――カルロス様は、剣の腕はいかほど?」

 

「私は……、剣はからっきしダメです。我が国は、(いくさ)とは無縁です。守ってくれる護衛の兵士もおりますし」

 

 その答えに、リディアは言葉を失った。この王子はどれだけ平和ボケしているのか、そしてどれだけお人()しなのか、と。

 

 彼の伯父・サルディーノ宰相はどう見ても胡散(うさん)(くさ)い。カルロスがまだ王として即位していないことと合わせて考えても、彼が王位を狙っていることは分かりそうなものなのに。

 

「――あの、カルロス様。あなたとの、縁談のお話なのですが……」

 

 もしかして、宰相が言い出したことではないかと、リディアは言おうとしたのだが。

 

「分かっていますよ、リディア様。断るおつもりなのでしょう?」

 

「えっ?」

 

 自分から断らなくてはならないのに、王子にズバリそれを言い当てられ、リディアは虚をつかれたように目を瞠る。

 

「他に愛する方がいらっしゃるのですね? もしかして、デニスどのですか?」

 

「…………ええ。でも、どうして分かったのですか?」

 

「先ほど、お二人が見つめ合った時の雰囲気で、そうではないかと」

 

「ああ……」

 

 思いっきりバレていたのね、とリディアは天を仰いだ。

 

「あのっ! このこと……、父にはまだ言わないで頂けませんか? 父には、わたしから直接話すつもりでおりますので……」

 

「もちろん、お約束します」

 

(よかった……)

 

 リディアはホッとしたのと同時に、覚悟を決めた。もう、デニスとの関係を父に打ち明けてしまおうと。

 

 二人はもう成人なのだし、法律上は何の問題もない。壁は二人の立場だけだが、それだって何とか越えられそうな気がする。

 

「実は私も、まだ結婚までは考えておりませんでした。あなたの噂を耳にして、恋をしてしまったのは事実ですが」

 

「えっ? ――だって父が、この縁談は王子のご希望だと……」

 

 リディアは頭が混乱した。この縁談は父が決めたことでも、王子が望んだことでもない?

 

(どういうことなの?)

 

「この話は、伯父が仕組んだことなんです。伯父は私を皇女殿下――つまり、リディア様に婿入りさせることで、自らも権力を握ろうとしているのです」

 

「やっぱり、そうでしたか……」

 

 リディアにはそれで納得がいった。

 

 皇女に子息を婿入りさせ、姻戚(いんせき)関係を結ぶことで自らも権力を手にしようと(たくら)む王族・貴族は多い。サルディーノ宰相もそういう(たぐい)の人間だということか。

 

「でも、伯父上様も王族なのでしょう? なぜ自ら王になろうとしなかったのでしょう? あなたもまだ、即位されていないようですし」

 

「我が国では、王妃の親族に王位継承権は与えられないのです。ですから、私をリディア様に婿入りさせ、スラバットを帝国の領土として差し出すことで、実権を握ろうとしているのだと思います。そしていずれは、帝国の権力も奪う気なのでしょう」

 

「そんな……」

 

 彼の伯父が野心家だろうとは、リディアも思っていたけれど。まさか、帝国の未来をも揺るがしかねないことを企んでいたとは!

 

「では、カルロス様が即位していないのもそのせいですか?」

 

「はい。あなたは聡明(そうめい)な女性のようなので、大丈夫でしょうね。私のように(あやつ)られる心配はない。何せ、女性でありながら、皇帝になろうというお方ですから」

 

「……はあ」

 

 〝操られる〟とは。もしや、先ほどリディアが懸念(けねん)していたことは、当たっているのだろうか。

 

「我が国は表向き、両親亡き後は私が治めていることになっていますが、実際に政治を執り仕切っているのは伯父です。私はいわば、伯父の操り人形なのです。情けない話ではありますが」

 

 カルロスは(あざけ)るように、肩をすくめた。

 

「でも、私がリディア様に恋をしたのは決して打算ではありません。伯父に唆されたからでもありません。私はただ、一目あなたにお目にかかりたかった。ただそれだけなんです。信じて頂けますか?」

 

 カルロスは、リディアの目を真っすぐ見ている。それは嘘をついている人間の目とはとても思えなかった。

 

「ええ、信じますわ」

 

 リディアは断言した。彼はとても純粋な人間だ。純粋で、真っすぐな。

 



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4・褐色の肌の王子と騎士《ナイト》⑵

「それにしても、あなたの伯父上様は(あわ)れな方ですね」

 

「はい?」

 

「権力を握ることしか頭にないなんて、本当に哀れな方ですわ」

 

「……私も、同感です」

 

 意外にも(おい)であるカルロスが同意したことに、リディアは目を瞠った。

 

 よく考えたら、彼が一番の被害者なのかもしれない。自身の恋心を、伯父の野心のために利用されて。王位を継ぐこともできずにいるなんて。

 

「こんな私に、あなたを幸せにする資格はありません。伯父上には申し訳ないが、むしろ縁談を断られて、私はホッとしています」

 

「カルロス様……」

 

 リディアには、彼のこの言葉が強がりなどではなく、本心から言っているのだと確信できた。なぜなら、その顔には安堵したような笑みが浮かんでいたから。

 

「リディア様、どうかデニスどのと末永(すえなが)くお幸せに」

 

「ええ。ありがとうございます」

 

リディアは何だかデニスとの仲が、父にすんなり認められそうな気がしてきた。

 

 いつの間にやら、西の空では日が傾き始めている。そんなに長い時間、この四阿にいたのかと三人は改めて驚いた。

 

「さて、カルロス様。次はどちらをご案内致しましょうか……」

 

 三人はこうして、四阿を後にした。来た時にはデニスの中にあったカルロスへの不信感や敵対心も、この時にはすっかり消え()せていたのだった。

 

 

****

 

 

 ――この日の夕食は、城の大広間でスラバット王国からの国賓をもてなすために(もよお)された晩餐会(ばんさんかい)だった。

 

 周囲に海のない隣国の客人達は、味わったことのない海の幸の料理やその他の美食に舌鼓を打つ。

 

「この国には、大変栄えている〝シェスタ〟という港町がありますの。カルロス様、ご滞在の間に一度行かれてみては?」

 

 リディアはあくまで「もてなし」として,自然に王子に語りかけた。

 

「本場で味わう海の幸は、一味(ひとあじ)二味(ふたあじ)も違いますわよ」

 

「そうですか? では、明日にでも行ってみますね。リディア様もご一緒して下さるのですか?」

 

「いえ。あいにく、わたしはご一緒できませんが。代わりとして、案内役の兵士を一人同行させますわ」

 

「ありがとうございます、リディア様。助かります」

 

 ――この晩餐会には、特別にデニスも同席を許されていた。カルロス王子が直々に、イヴァン皇帝に「ぜひ、デニスどのも一緒に」と頼み込んだのである。

 

 リディアはカルロスとの話を終えると、隣りの席で食事をしていたデニスに目で合図を送り、二人で中座(ちゅうざ)して父の席の側へ行った。

 

「お父さま、食事中に申し訳ありません。内密(ないみつ)なお話があるので、少し外へ……。よろしいですか?」

 

 リディアがそっと耳打ちすると、父は内容について詮索することなく黙って頷き、その場にいる一同に中座する(むね)を詫びた。

 

 

****

 

 

「――それで、内密な話とは何なのだ? リディアよ」

 

 大広間を出たところで、イヴァンは娘に、わざわざ外まで呼び出した用件を訊ねる。

 

「すみません、お父さま。どうしても、サルディーノ宰相の耳には入れたくない話だったものですから」

 

 リディアはまず一言父に詫び、本題に入った。

 

「わたし、カルロス様との縁談のお話をお断りしました」

 

「そうであろうな。……それで?」

 

 続きを促され、リディアは側に立っているデニスと顔を見合わせる。果たして、父に自分達の関係について話していいものか?

 

 ――きっと大丈夫。何たって、縁談相手だったカルロスが背中を押してくれたのだ。

 

「わたしは、このデニスと恋仲なのです。将来わたしの夫となる人も、彼だけと心に決めております」

 

「なんだ、そのようなことか。私が気づいていないとでも思っていたのか?」

 

「……お父さま。ご存じだったのですか」

 

 ありったけの勇気をふり(しぼ)って打ち明けたのに、父にあっさり「知っていた」と言われたリディアは拍子抜け。

 

「当然だ。何年、そなたの父親をやってきたと思っているのだ?」

 

「…………そうですわね」

 

 十八年、である。デニスがリディアと親しくなってからでも十三年。それだけの間娘のことを見てきたら、気づかない方がどうかしている。

 

「デニスよ、そなたに確かめたい」

 

「……は」

 

「リディアのことを、本気で愛しているのだな?」

 

 イヴァンが彼を見る目は、「家臣を見る皇帝」ではなく「娘の恋人を見る父親」の目になっていた。

 

「もちろんです、陛下」

 

 デニスはキッパリと言い切った。「女帝の夫」になる覚悟まではさすがにまだないが、リディアのことを想う気持ちなら誰にも負けない自信が彼にはある。

 

「……よかろう。二人が本気で想い合っているのなら、私は反対せぬ。二人の仲を認めることにしよう」

 

「本当ですか!? お父さま、ありがとうございます!」

 

 しばしの思案の後、父がくれた許諾(きょだく)の言葉に、リディアの表情はパッと明るくなった。

 

「ふむ。――ただな、今すぐに婚約を発表することはできぬ。(おおやけ)の場での発表はもう少し先になるが、それでもよいか?」

 

「ええ、それでも構いませんわ」

 

 リディアは(こころよ)く頷く。断ったとはいえ、縁談の相手がこの国に滞在している間は、諸外国への体裁(ていさい)もあって公にできないと彼女も承知しているからである。

 

 何はともあれ、デニスとの仲を隠さずにいられるようになることが、リディアには嬉しかった。

 

「――ところでリディアよ。先ほどのそなたの言葉は、一体どのような意味なのだ?」

 

「先ほどの、とは……。ああ、『サルディーノ宰相の耳には入れたくない』と申し上げたことでしょうか?」

 

 父が頷く。リディアは大広間のドアを見つめた後、改めて声を潜めた。

 

「お父さま、これはカルロス様から伺った話なのですが……。サルディーノ宰相はどうやら、要注意人物のようなのです」

 

 彼女は午後に中庭の四阿で、王子から聞いた話を父にも聞かせる。

 

「――なに? あの男はそなたに甥を婿入りさせることで、帝国の権力まで手中にしようとしているというのか?」

 

「ええ。ですから、この度のわたしとの縁談も、カルロス王子自身のご希望ではなくて。彼もまた、伯父であるあの男の(こま)として利用されている、ということですわ」

 

 リディアは少なからず、カルロスに同情しているのかもしれない。デニスが横で(けわ)しい表情をしているが、彼女はただただカルロスのことを案じていた。

 

「お父さま。カルロス様の今後のために、あの男を排除(はいじょ)するということはできないのでしょうか?」

 

 伯父であるあの宰相がのさばっていては、彼はいつまでも王として即位できない。それは、王国であるスラバットのためにも決してよくない事態である。

 

「それは……、難しいだろうな。これは隣国の問題だ。我々に口出しする権利はない」

 

「そう……ですわね」

 

 あの国がレーセルの庇護国や隷属(れいぞく)国であれば、皇族の権限で王族に物申すこともできるのだが。残念ながら、スラバットは帝国の領地ですらない。

 

(わたし達は、手をこまねいているしかないのかしら……? 歯痒(はがゆ)いわ)

 

 落胆の色を隠せないリディアに、父はポツリと呟く。

 

「我々にはどうすることもできぬ。が、カルロス王子であれば、どうであろうな」

 

「……!」

 

 彼女はハッとした。彼が――カルロスが自分の意志で伯父を拒絶すれば、あの宰相を排斥(はいせき)することも可能かもしれない。

 

「お父さま。わたし、カルロス様を説得してみますわ!」

 

 意気込むリディアの腕を、すっかり蚊帳(かや)の外にされていたデニスがつっつく。

 

「なによ?」

 

「まさか、あの王子と二人っきりで会うわけじゃないよな?」

 

 要するに、「オレも同席させろ」と言いたいらしい。

 

 こういった政治的な話の場に、デニスを同席させるのはリディアも不本意なのだが。

 

「仕方ないわねえ……。あなたがどうしてもって言うなら、同席させてあげてもいいわ」

 

 肩をすくめて答えたリディアに、デニスは尻尾を振る犬のように喜んだ。実は彼女も、デニスに同席してほしいと思っていたり、いなかったり……。

 

「――さて、客人が何事かと心配している。そろそろ食事に戻るとしよう」

 

「「はい」」

 

 三人は晩餐会の席に戻った。

 

 その途中、カルロスの席の側を通りかかったリディアは、彼にそっと耳打ちする。

 

「内密なお話がございます。後ほどお時間を頂けないでしょうか? 先ほどご案内した、中庭の四阿でお待ちしております」

 

「……はい」

 

「あ、それから。くれぐれも、サルディーノ様にはこのことはご内密に。では、後ほど」

 

 そう言って微笑むと、彼女は王子の向かい側の自分の席に腰を下ろした。

 

 

****

 

 

 晩餐会の後、リディアはデニスと二人、中庭の四阿でカルロスを待っていた。

 

 二人とも、大広間から直接来ているため、着替えもしていない。デニスなんか、例の肩がこりそうな礼装のままだ。彼にしてみれば、拷問(ごうもん)としか思えない。――それはともかく。

 

「リディア様、お待たせして申し訳ありません。――おや、デニスどのもご一緒だったのですね」

 

 数分待ったところへ、カルロスがやって来た。彼も酒には弱いらしく、素面(シラフ)である。

 

「いいえ、わざわざおいで下さってありがとうございます。彼も同席させて頂きますが、よろしいですか?」

 

「はい、私は構いませんが……。それで、伯父には内密の話というのは?」

 

 どこで誰が聞いているか分からないため、カルロスは声を潜めて訊ねた。

 

「ええ。それは他でもないあなたの伯父上、サルディーノ様のことです」

 

 これから告げることは、彼にとっては残酷(ざんこく)な内容かもしれない。それでも、スラバット王国の未来を思えばこそ、告げなければならないと、リディアは腹を(くく)った。

 

「これはあくまで、わたしの考えに過ぎません。聞くか聞かないかはあなたにお任せします。――ただ、あなたを苦しめることになるかもしれませんが……」

 

「何でしょう? 仰って下さい」

 

 ためらうリディアに、覚悟を決めたらしいカルロスが懇願する。

 

「……わたしは、あなたが国王として即位し、サルディーノ様には政治から手を引いて頂いた方がお国のためにもいいと思っています」

 

「は……?」

 

 カルロスは困惑していた。それは、伯父を(かば)いたいからなのか、伯父を恐れているからなのか。

 

「昼間伺ったお話によれば、あなたは形だけの王で、伯父上であるサルディーノ様が実権を握っているとか。それは、王国として非常に(あや)うい状態です。彼はいずれ、甥であるあなたをも抹殺(まっさつ)し、自ら支配者として君臨することでしょう。それは事実上、王族の権威が失墜(しっつい)することを意味します」

 

 王妃の親族であるサルディーノには本来、王になる資格――つまり権力を振るう資格はないのだ。

 

「それで……、私はどうすれば……?」

 

 思った以上にショックを受けている様子のカルロスは、うろたえながら皇女に問う。

 

「先ほども申し上げた通り、あなたが国王に即位なさることが第一です。形だけの王ではなく、本当の意味での国王に。そのうえで、国王としてサルディーノ様をお(さば)き下さい」

 

 スラバットの法において、王族を裁くことができるのは国王だけだ。――ここに来る少し前に、リディアは父からそう聞かされた。

 

 カルロスは正統な王位継承者である。彼が国王として即位すれば、同じ王族であるサルディーノを排斥することも、裁くことも可能となるはずだ。

 

「あなたは充分、その資格をお持ちのはずですわ」

 

「……本当に、私にその資格があるとお思いですか?」

 

 カルロスが、声を(ふる)わせながらリディアに訊ねた。

 

「えっ? それは、どういう……」

 

 彼に問われた意味が分からず、今度はリディアが戸惑う番だった。

 

「私は、あなたほど強くありません。伯父を恐れているから、両親亡き後は伯父の言いなりになるしかなかった。こんな弱い私に、国王になる資格があるのでしょうか?」

 

 リディアは先ほどまでの険しい表情を少し(やわ)らげ、カルロスにこんな話をする。

 

「わたしだって、最初から強かったわけではありませんわ。生まれついての皇位継承者ではありますけれど、昔は弱かったのです。わたしが強くなれたのは、この国や国民や、大切な人を守りたいという強い想いがあったからですわ」

 

「強い、想い……」

 

 リディアは大きく頷く。そして、こう続けた。

 

「誰だって、守りたいものさえあれば、人は強くなれるんです。あなたにだってあるはずですわ」

 

 スラバットという国を、そこに暮らす民達を、「守りたい」という強い意志(おもい)が――。

 

 

「――私に、できるでしょうか?」

 

「ええ、カルロス様なら……きっと」

 

 愛する母国を守るために、民を苦しめ権力を(むさぼ)る宰相――自らの伯父を排除すること。そのために、国王になること。

 

「分かりました。帰国したら早速、重臣達に宣言します。『そなたらが仕えるべき王は、伯父ではなくこの私だ』と」

 

「ええ。ぜひ、そうなさって下さいませ」

 

 カルロスが即位を決意してくれたことで、リディアは安堵した。

 

「リディア様、我が国の厄介事(やっかいごと)にお心を砕いて下さり、感謝致します。これからも両国(りょうこく)(かん)で、友好な関係を(きず)いていきましょう」

 

「ええ、もちろんですわ。カルロス様、明日は港町を楽しんでいらして下さいね」

 

 四阿を後にするカルロスに、リディアは(おだ)やかに笑いかけた。

 

「――明日は、伯父上様もご一緒にいらっしゃるのですか?」

 

 ふと不安が頭の中を(かす)め、彼女はカルロスに訊ねた。

 

「いえ、伯父は迎賓館に残るそうです。『もう若くないから、旅に出るのは疲れる』と申しまして」

 

「そうですか……。では、おやすみなさいませ」

 

 

****

 

 

 ――カルロスを見送った後、リディアとデニスは四阿の長椅子に腰を下ろした。

 

 すると、カルロスがいる間は一切(いっさい)口を挟まなかったデニスが、二人っきりになった途端に不機嫌になる。

 

「おい、リディア。昼間からずっと、あの王子に見蕩れてたろ!」

 

「あら、バレてたの?」

 

 そりゃあ、あれだけ露骨(ろこつ)に見入っていたのだから、バレていて当然である。

 

「ゴメンなさいね。あの方の瞳があまりにもキレイで、あなたによく似ていたものだからつい……」

 

 浮気心なんて欠片(カケラ)もなかったのだと、リディアは釈明した。そんな彼女を、デニスは「まあいいか」と簡単に許してしまう。

 

「――なあ、リディア。もしもオレと出会ってなかったら、お前はあの王子との縁談を受け入れてたのかな?」

 

 リディアは首を横に振った。

 

「きっと、あなたに出会うのをずっと待っていたと思うわ。わたしは、あなたが運命の人だと信じているもの」

 

 デニスはドギマギしつつ、リディアを見つめる。

 

「だって、父親三人が身分を越えた友人同士で、その三人の子供達も幼なじみ同士で、しかもそのうちの二人が恋に落ちるなんて。もう運命だとしか思えないでしょう?」

 

「リディア……」

 

 確かに、「偶然」の一言で片付けてしまうには、偶然が重なりすぎている。もうここまでくると、神が(めぐ)り合わせたとしか言いようがないかもしれない。

 

「わたしはもう、あなたと離れられないの。あなたしか愛せない」

 

 ――そしてまた、二人はいつものように口づけを交わした。それは日ごとに甘く、濃厚になっていく気がする。

 

 抱擁の後、リディアは中庭の東側に建つ迎賓館二階の窓を見上げた。カルロスが滞在している部屋だ。

 

 灯りは消えている。もう休んでいるのだろうか?

 

 今日という日は、彼の生涯において忘れがたい日になるだろう。信頼していた伯父の本性(ほんしょう)を知った日。そして、その伯父を自らの手で追放するために、王になることを決意した日なのだから。

 

 ――それにしても。

 

「長い一日だったわ……」

 

 リディアはぐったりと疲れたように、恋人であるデニスの肩にもたれかかった――。

 



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5・権力を持つ者、奪おうとする者⑴

 ――その翌朝。自室で早く目を覚ましたリディアは、ベッドから出てライティングデスクに向かっていた。彼女はインクを浸した羽根ペンの先を便箋に走らせ、せっせと一通の手紙を(したた)めているところである。

 

「――よし、これでいいかしらね。さて、あとは……」

 

 彼女は書き終えた手紙を四つ折りにしたところで、机の上の呼び鈴を鳴らした。

 

 

 チリンチリン……

 

 

「エマはいる?」

 

 すると、ドアが開いて、侍女のエマが入室してきた。

 

「はい。姫様、おはようございます。――何かご用でしょうか?」

 

「おはよう、エマ。朝早くに申し訳ないのだけど、この手紙を、兵士の宿舎にいるジョンに届けてきてほしいの。頼めるかしら?」

 

「ジョン様に? お急ぎでございますか?」

 

「ええ。お願い」

 

 エマはジョンとも面識(めんしき)がある。実は実家がご近所らしいと、リディアも聞いた。

 

(かしこ)まりました。早速行って参りますっ!」

 

 エマはすぐに了承し、(きびす)を返すと急いで廊下を進んで行った。

 

「エマ、お願いね……」

 

 

 ――あの手紙の文面はこうだ。

 

 

『ジョン、おはよう。こんな朝早くにごめんなさい。

 

 実はスラバットのカルロス王子に関して、あなたに急ぎの用があるの。用件はわたしの部屋で伝えるから、急いで部屋に来てもらえないかしら?

 

 ジョン、お願い。人ひとりの命がかかっているの。あなたが来てくれると信じて待っています。 リディア』……

 

 

 リディアは、カルロスの身を案じていた。

 

 彼は今日、従者を(ともな)って港町シェスタへ出かけると言っていた。けれど、伯父であるサルディーノ宰相は迎賓館に残るらしい。

 

 彼はスラバットの王の座を虎視(こし)耽々(たんたん)と狙っているのだ。そのために、自らの甥を手にかけることも(いと)わないだろう。

 

 彼は狡猾(こうかつ)な男だ。自らの手を汚さずとも、シェスタまで刺客(しかく)を放つ可能性も充分考えられる。

 

 リディアは万が一の事態に備え、ジョンにカルロスの護衛を頼むつもりでいた。

 

「護衛」といえば、一番の適任者はデニスだが、彼はリディアから離れられない(もちろんここでは、「任務上」という意味で、である)。帝都に残ったサルディーノが、甥より先にリディアに(きば)をむく可能性も()()るのだ。

 

 そこで、リディアがデニスの次に「適任者だ」と考えたのが、ジョンだった。

 

 彼はデニスと同じく、リディアが心許せる幼なじみで腕も立つ。さらに生真面目で、口も堅い。まさしく、国賓を護衛するにはうってつけの人材といえる。

 

 ――しばらくして、ドア越しにエマの声が聞こえた。

 

「姫様、ジョン様をお連れしました。失礼致します」

 

「エマ、ありがとう。二人とも、どうぞ」

 

 リディアが促すと、ジョンとエマが入室してきた。エマは小柄なので、大柄なジョンの後ろにすっぽり隠れてしまっている。

 

「ジョン、わざわざ呼び出してゴメンなさいね。それも、こんなに朝早くに」

 

「いえ、俺は構いませんが。――それで、姫様。王子に関して急ぎの用とは?」

 

 リディアはジョンを真っすぐ見据え、呼び出した用件を話し始めた。

 

「あのね、ジョン。単刀直入に言います。あなたに、スラバットのカルロス王子を守ってもらいたいの」

 

 彼女は、昨日から抱いているサルディーノ宰相への懸念について、ジョンに話した。

 

「――というわけで、あなたには、今日シェスタへ行く王子の護衛をお願いしたいの」

 

「はあ、なるほど。ですが姫様、俺のような帝国の兵が護衛につけば、サルディーノが不審に思うのでは?」

 

 ジョンの疑問に、リディアは答えた。

 

「だから、表向きは〝案内役〟という形で同行して、陰ながらお(まも)りすることにすればいいんじゃないかしら。王子にだけは、本当のことを伝えておけばいいわ」

 

 昨夜の晩餐会の席で、「案内役の兵士を同行させる」とカルロス王子に言ったのだと、リディアはジョンにも話した。そして、それをサルディーノも聞いていただろうということも……。

 

「王子は、いつ頃出発されると?」

 

「わたしが聞いた話では、朝食後に()たれるそうよ」

 

「では、俺も朝食が済みましたら、王子と合流することにします」

 

 それは事実上、彼が王子の護衛を引き受けてくれた、ということだが……。

 

「じゃあ、引き受けてくれるのね?」

 

「はい。姫様の頼みとあれば」

 

 彼はキチンと言葉でも、意思表示をしてくれた。

 

「ありがとう、ジョン! お願いね!」

 

 やっぱり、自分の人選は間違っていなかった、とリディアは胸を撫で下ろす。

 

「この分のお礼は、今月分の給金に上乗せしておくわね」

 

「いえ、姫様! お礼を頂く気はありません。――で、俺はどこで合流しましょう?」

 

「そうねえ……、厩舎の前でいいんじゃないかしら」

 

「了解しました」と言って、ジョンは一旦宿舎に引き上げていった。彼はこれからまた仮眠をとり、朝食を済ませなければならない。

 

 それにしても、こんなに早い時間から呼び出しても機嫌を損ねないジョンは、人間ができているなあとリディアも感心せずにはいられない。

 

「ふぁ~あ……」

 

 まだ日も昇っていない。思いっきり早起きをしたリディアは、あまり上品とはいえないけれど、大欠伸をした。

 

「眠そうでいらっしゃいますね、姫様」

 

「ええ。安心したら眠くなってきちゃった。今からもう一眠りするわ。朝食の時間になったら起こしてちょうだい」

 

「畏まりました。おやすみなさいませ、姫様。私はひとまず、これで失礼致します」

 

 寝間着姿のままだったリディアは、エマが退室した後に再びベッドに入ったのだった。

 

 

****

 

 

 その後()一時間ぐっすり眠ったリディアは、エマに選んでもらったクリーム色のドレスに着替え、髪を一つに束ねて食堂に向かっていた。

 

 ポニーテールに着けたのは、愛しいデニスからもらった宝物の髪留めである。今まではドレスを着る時は使わずにいたけれど、いざ着けてみると思っていた以上にドレスとも合っていて、リディアも嬉しかった。

 

 食堂のテーブルに着き、給仕係が朝食の支度をしているのを待つ間に、父であるイヴァン皇帝が食堂に到着した。

 

「おはようございます、お父さま」

 

「おはよう、リディア。昨夜はデニスとお楽しみだったのかね?」

 

 父の言葉を聞いた途端、リディアの顔が真っ赤になる。

 

「おっ……、お父さまっ! 食事の席で下世話(げせわ)な話はおやめ下さい! わたしとデニスは、まだそのような関係ではございませんわ!」

 

「ハッハッハ! 冗談だよ」

 

 娘の反応を楽しんだイヴァンは、豪快(ごうかい)に笑い飛ばす。その一方で、リディアは笑う余裕がない。自分が今言ったことの、ある部分が引っかかっていた。

 

(「まだ」は余計だったかも……)

 

 ――自分は果たして、デニスとそうなりたいと思っているのだろうか? もちろん、彼のことは愛しているけれど……。

 

 婚約を公にしてからなら、そうなっても構わない。でも、今はまだ早い。まだ当面は、このままでいい。

 

「――ところでリディアよ。カルロス王子は今日、シェスタへ行くと言っていたな」

 

「ええ。もう()たれる頃だと思いますわ。案内役として、ジョンに同行するよう頼みましたけれど」

 

「ジョンに?」

 

 リディアの人選に、父は目を瞠った。

 

「はい。表向きは案内役ですが、密かに王子をお守りするように、と。あの方に何かあっては、スラバットの国民が困りますもの」

 

 そう言って、リディアはコンソメスープをスプーンで一口すくい、口に運ぶ。

 

「『何か』とは、サルディーノ宰相絡みのことかね? だが、彼は同行しないのではなかったか?」

 

「ええ、そう聞いています。ですが、彼が直接手を下さなくても、刺客を差し向けることも考えられますから。念のために」

 

 娘の言葉に、イヴァンはパンを食べる手を止め、「ふーむ……」と(あご)に手を遣りながら(うな)った。

 

「とすると、今度はそなたの身が危ないのではないか?」

 

「大丈夫ですわ、お父さま。わたしには、デニスがついていてくれますもの!」

 

 リディアは胸を張って断言する。それに、彼女自身も充分に強い。二人でかかれば、サルディーノなど恐れる必要はない。

 

「それは惚気(ノロケ)か?」

 

「……ゴホッ」

 

 父の予期せぬ一言に、パンを食べている最中のリディアは思いっきりむせた。

 

「まあ大変! 姫様、お水をどうぞ!」

 

 給仕係の女性が水差しからグラスに(そそ)いでくれた水を半分くらい一気に飲んで、リディアはやっと落ち着いた。

 

「ちっ……、違いますっ!」

 

「だから、冗談だと言っておろう」

 

 澄まし顔でのたまう父に、リディアは(うら)みがましく抗議する。

 

「お父さまが仰ると、冗談に聞こえませんから! 似合わないことはやめて下さい!」

 

「そんなに似合わぬか?」

 

 イヴァン皇帝は傷付いた顔をし、それからすぐに真剣な表情をリディアに向けて言った。

 

「まあ、冗談はこのくらいにしておいてだな。――本当に、身辺(しんぺん)には気をつけよ。デニスがついているからといって、くれぐれも油断(ゆだん)するでないぞ。よいな?」

 

「はい、分かっています」

 

 リディアは深く頷く。サルディーノは、おそらく策士(さくし)だ。どんな手を使ってくるか分からない。

 

 少しでも隙を見せたら、あの男は容赦なく牙をむいてくるだろう。

 

「お父さまに(やいば)を向けることは、おそらくないと思いますが。念のため、お父さまも身辺にはご注意下さいませ」

 

「ああ、分かっている」

 

 帝国の権力(ちから)()ぎ落とすことが彼の狙いだとすれば、まずは目下(もっか)の君主である父の命を狙ってくる可能性も考えられる。

 

 とはいえ、元は有能な軍人であるイヴァン皇帝ならば、そう易々とやられることもないだろうけれど。

 

「――ごちそうさまでした」

 

 少々重苦しい空気にはなったが、朝食は済んだ。

 

「わたしは先に、部屋に戻っています。午前の謁見は、一〇時からでしたわね?」

 

「ああ、そうだ」

 

「では、その頃にまた降りて参ります」

 

 リディアは父に一礼して、食堂を出た。

 

 階段に向かう廊下の途中で、すれ違いざまに彼女に声をかけてくる者が……。

 

 

「や、これはリディア殿下。おはようございます。今日もお美しいですなあ」

 

 

(……! サルディーノ・アドレ!)

 

 つい先ほどまで、食堂で話題に(のぼ)っていた要注意人物との遭遇に、リディアは動揺を禁じ()ない。けれど、それを悟られてはいけないと思い、あえて平静を装った。

 

「おはようございます、サルディーノ様。カルロス様は、もうお発ちになりまして?」

 

「はい、つい先ほど。私は港町で美しい海を眺めるよりも、ここに美しい姫様と残った方が楽しいのですがねえ」

 

(よく言うわよ、白々(しらじら)しい!)

 

 サルディーノに内心毒づきながら、リディアはにこやかに相槌を打つ。

 

 彼が自分(もしくは父)の命を狙っているらしいことは、既に知っているというのに。この男は、まだシラを切り通すつもりだろうか?

 

「――そういえば、リディア殿下。あなたはカルロスとの縁談をお断りになったそうですな?」

 

「……ええ、そうですが。それが何か?」

 

 唐突に話題を変えたサルディーノに、リディアは一瞬たじろいだ。――この男は一体、何が言いたいのだろうか?

 

「いや、カルロスから聞きましてな。何でも他に想う相手がいるとか。――そう、近衛兵の。名前は確か、デ……、デ……」

 

「デニス……ですか?」

 

 誘導(ゆうどう)尋問(じんもん)に引っかかってしまったことは、リディアも分かっていた。が、彼の言わんとすることを知るためには、それも致し方ない。

 

「そうそう、デニスどのだ! 聞けば、殿下とその若者とは幼なじみなのだとか。子供の頃から親しかったそうで」

 

「ええ。……それが何か?」

 

 リディアは苛立ちを隠しながら、サルディーノに問い返す。いい加減、彼の回りくどい言い方にはウンザリしてきていた。

 

「あなたがデニスどのに抱いている感情は、本当に男女間の愛情なのでしょうか? 幼なじみへの情愛(じょうあい)を、愛と勘違(かんちが)いなさってはいませんかな?」

 

「……!」

 

(彼が言いたかったのは、これだったの!?)

 

 彼女はハッと息を呑んだ。いつかは誰かに言われると思っていた。そして、自分でも何となく思っていたことだ。「自分のデニスへの想いは、本当に恋なのか?」と。

 

 迷いはあったけれど、必死にそう思い込もうとしていた。でも、彼によく似たカルロスと対面した瞬間、自信が揺らいでしまったのだ。カルロスの、吸い込まれそうなくらい澄み切った瞳に見入ってしまったことで。

 

「そんなこと……、あるわけないでしょう!? わたしの彼への想いは、恋心で間違いございませんわ!」

 

 リディアは怒りを(あら)わにして、サルディーノに反論した。

 

「幼なじみへの情愛」というのなら、ジョンに対してもその感情は抱いている。けれど、デニスに対しての感情は、それとは明らかに違っていた。これだけは自信があるのだ。

 

 愛する人とでなければ、口づけなんてできない。現に、ジョンやカルロスとそういう仲になることを、リディアは望んでいない。

 

「お話はそれだけですか? でしたら、わたしは忙しいので、これで失礼致します」

 

 去り際、リディアはサルディーノに忠告した。

 

「サルディーノ様、これだけは申し上げておきますわ。権力に(おぼ)れる者は、いずれ自らの権力に(ほろぼ)されるでしょう。お気をつけ下さいませ」

 

 不敵な笑みを浮かべ、彼女は階段を上がっていく。サルディーノは苦虫を()(つぶ)したような顔をした。

 

 

****

 

 

 ――これで、リディアのサルディーノ宰相への怒りや敗北(はいぼく)感が収まったかと思いきや。

 

 

「もう! 何なのよ、あの人!? 頭に来るわ!」

 

 

 自室の中の執務(づくえ)に座った途端、彼女は彼女らしくない口調で怒りを吐き出した。

 

「リディア、どうしたんだよ?」

 

 これには、昔から彼女のことをよく知っているデニスも、目を丸くした。

 

 侍女であるエマも、めったに見ることのない主の取り乱しように茫然(ぼうぜん)としている。

 

「ひっ、姫様? 何があったのですか? 『あの人』とはどなたでございましょう?」

 

「サルディーノ宰相よ! サルディーノ・アドレ! わたしのデニスへの恋心を、『幼なじみへの情愛を勘違いしているんじゃないか』って言ったのよ、あのハゲオヤジ! あ~もう、腹立つ!」

 

 ここまでくると、もはや暴言である。デニスも、さすがにこれには「ハゲオヤジって……」と苦笑いするしかなかった。

 

 リディアは自分がこんなにも腹を立てている理由を自覚している。そして、デニスに言えないでいる。

 

 サルディーノ(あの男)に、痛いところをつかれたから。デニスへの恋心に自信がないことを見()かされて。

 

 彼には確か、警戒(けいかい)心を抱いていたはずなのだが。恐れというか。その感情は、()を越すと〝怒り〟に変わるのだろうか?

 

「――エマ、悪いけど紅茶をお願い」

 

「畏まりました」

 

 謁見までは、まだ充分に時間がある。お茶を楽しむくらいの時間的余裕はあるだろう。

 

「――そういや、ジョンは今日、あの王子の警護だって?」

 

 紅茶を待っている間、レーセル帝国の分厚(ぶあつ)い歴史書を広げ始めたリディアに、デニスが訊いた。

 

「ええ、そうだけど。どうしてあなたが知っているの?」

 

「朝メシの後、本人(アイツ)から聞いたんだよ。『姫様から直々に頼まれたんだ』ってな。――あれ? ひょっとして、オレが知ってたらマズかったか?」

 

「ううん。あなたが知っていても、別にわたしに不都合はないわ」

 

 ジョンならば、必ず友人であるデニスには話すだろうと、リディアも思っていたのだ。

 

 不都合があるとすれば、サルディーノの方だろう。リディアへの(まも)りが厳重(げんじゅう)になる分、暗殺がやりにくくなるのだから。

 

「あの男は、わたしの命を狙ってくるかもしれないの。だからデニス。わたしのこと、ちゃんと守ってね。お願い」

 

「当たり前だろ。そのためにオレがいるんだからさ。いざって時には、オレが盾になってやるよ」

 

「……そんな悲しいこと言わないで」

 

 デニスの言ってくれたことは、とても嬉しくて頼もしいことのはずなのに。リディアは表情を曇らせた。

 

「盾になる」ということは、彼が自分の代わりに犠牲(ぎせい)になるということだ。――そう思うと、素直に喜べなかった。

 

「分かった分かった! オレの言い方が悪かった! オレは簡単に()られたりしねえから! だから安心しろ、なっ?」

 

「……本当に?」

 

「ああ、本当だって」

 

 泣き出しそうな顔をしていたリディアは、デニスの返事を聞いて安堵した。

 

 彼のいない未来なんて考えられない。彼を失ってしまったら、もう永遠に立ち直ることはできないだろう。――そう思うと、リディアは改めて自分の気持ちに自信を持つことができた。

 

 デニスへの想いは紛れもなく、正真(しょうしん)正銘(しょうめい)の恋心だ、と。

 

「――ところでそれ、何を読んでるんだ?」

 

 デニスに問われ、ページから顔を上げたリディアは答えた。

 

「これは、この国の歴史書よ。わたし、昔から時間が空くとね、こうして少しずつ目を通すようにしているのよ」

 

 そして彼女はまた、読んでいたページに視線を落とす。

 

 

 ――このレーセル帝国には、建国(けんこく)から実に四〇〇年の歴史がある。

 

 建国して二〇〇年ほどの間は、(いくさ)によって皇帝が決められていたという。そのため、短命で王朝がコロコロ変わり、政権が安定しなかった。

 

 レーセルが国として安定するようになったのは、二〇〇年前にリディアの先祖であるエルヴァ―ト家の当主・ピエール一世(いっせい)が政権を取ってからだ。以降、この国は代々エルヴァ―ト一族が治めており、女帝が君臨するようになったのもこの二〇〇年の間のことである。

 

 

「――姫様、お待たせ致しました。どうぞ」

 

 エマが()いでくれた紅茶のカップに口をつけてから、リディアは再び口を開いた。

 

「うん、美味しい。――でも、女性の皇帝はもう何代も誕生していないのよ。わたしが即位すれば、八〇年ぶりになるんですって」

 

「だったら、尚更リディアは死ぬわけにいかないよな」

 

「ええ……」

 

 自分は死ぬわけにいかない。そしてデニスも、ジョンも、カルロス王子も死なせたくない。

 

 まして、カルロスはスラバット王国という国の未来を背負っているのだ。彼が死ぬことはすなわち、国が滅びることを意味する。

 

 そのためにも、ジョンが護衛の任務を遂行(すいこう)し無事に戻ってきてくれることを、リディアもデニスも(せつ)に願っているのだが……。

 

「ジョン、大丈夫かしら……?」

 

 南の方角(ほうがく)にある窓の向こうを眺めながら、リディアはもう一人の大切な幼なじみの身を案じていた。

 

 

****

 

 

 ――父・イヴァン皇帝とともに午前の謁見を済ませたリディアは、部屋に戻ろうとしているところを大臣に呼び止められた。

 

「姫様。午後は昼食も兼ねて、レムルの城下町へ視察に行くので同行してほしい、と陛下が仰っておりました」

 

「お父さまが? ――そういえば、謁見が終わってすぐにお部屋へお戻りになったわね」

 

 いつもなら、謁見が終わってもしばらくは玉座の間に残るのに。リディアもそれは不思議に思っていた。

 

 彼女もこの一,二年は、父の視察によく同行するようになった。そのため、今日の父の頼みも大して疑問に思わなかったのだが。

 

「それがですね、姫様。……サルディーノ様も、その視察に同行されたいと仰られましてですね……」

 

「何ですって!? それで……、お父さまもそれを了承なさったの?」

 

 彼はリディア(もしくはイヴァン皇帝、最悪の場合は父娘(おやこ)二人とも)の暗殺を画策(かくさく)しているかもしれない要注意人物なのだ。そのことを、父も知っているはずなのに……。

 

「はい。だからこそ、姫様に同行してほしいのだと陛下は仰っておりました」

 

(お父さまは、あの男の()けの皮を()がそうとしているのかもしれないわ)

 

 父がむざむざ殺されに行くわけがない。ならば、サルディーノを()めようとしているのではないかと、リディアは察した。

 

 どうでもいいが、「サルディーノが同行したがっている」と言った時の言い方といい、大臣もあの男が危険だと知っているのだろうか?

 

「――分かりました。それじゃあ、デニスにも同行してもらうわ。着替える必要はないのね?」

 

「はい。お()しものはそのままでよろしいかと存じます」

 

 リディアは少し心配になった。いつものお忍びの姿ならともかく、ドレスのままでは剣を隠し持つことができないのである。

 

 こうなるともう、デニスだけが頼りだ。

 

「デニス、わたしのこと、しっかり守ってちょうだいね」

 

 彼女は側に控えている恋人に、そっと囁いた。デニスもしっかりと頷く。

 

「ああ、分かってるって」

 

 リディアはその返事に安心しつつも、一抹(いちまつ)の不安を拭いきれなかった。

 

(デニス、お願いだから死なないで)

 

「しっかり守って」と言っておきながら、そんなことを願うのは矛盾(むじゅん)している。けれど、矛盾していると分かっていても、愛している人には死んでほしくない。

 

 愛とは、時に矛盾を伴うものなのかもしれない。

 

 

「――姫様、陛下が参られました」

 

 

 大臣の声で、リディアはハッとした。一階奥から、侍従や兵士をズラズラ連れた父が歩いてくる。その風格は、堂々たるものだ。

 

「君主とはこうあるべきだ」というお手本のように、リディアには見えた。

 

 そしてその集団の中には、スラバット王国の宰相・サルディーノの姿もある。

 

 彼がどのような思惑(おもわく)で、この視察に同行したいと言い出したのか定かではないため、油断ならない。が、逆に言えば、彼もイヴァン皇帝の本当の狙いを知らないのだ。それは父娘にとって、かえって好都合だとも言える。

 

「リディアよ、大臣から聞いているな? 今日これからの視察には、このサルディーノどのも同行する。よいな?」

 

「ええ、伺っておりますわ。――お父さま、ちょっとよろしいですか?」

 

 リディアは後半部分を小声で言い、父をサルディーノの視界に入らない死角(しかく)(さそ)った。

 

「お父さまはもしかして、あの男を嵌めようとなさっているのではございませんか?」

 

 娘の問いかけに、イヴァンは「ああ、その通りだ」と頷く。

 

「やっぱり……、そうでしたの。それを聞いて、わたしも安心致しました。お父さまが、わざわざ命を奪われるためだけに、危険人物を同行させるはずがありませんものね」

 

「うむ。あの男が帝国の未来を握ろうとしているのを知っていながら、何も策を(こう)じぬわけにはいかぬからな」

 

「そうですわね……」

 

 リディアは父の言葉に舌を巻いた。サルディーノもなかなかの策士だと思っていたが、父はそのさらに上をいく策士のようだ。

 

(そうでなきゃ、この巨大な帝国を治める皇帝なんて務まらないわよね)

 

 今はどの国とも戦争状態にはないレーセル帝国だが、領地内ではあちらこちらで内紛(ないふん)が起きており、皇帝はそれを収めに行かなければならないのだ。いかに上手く(いさか)いを収拾(しゅうしゅう)するかは、皇帝の策にかかっている。

 

「デニスが同行するのなら、そなたも安心であろう? 案ずるな。誰一人死にはせぬ」

 

「……はい」

 

 父の言葉が、リディアにはとても心強かった。何も怯えることはない。

 

「では、参ろうか」

 

「はい!」

 

 父親に促されたリディアは待たせていたデニス、サルディーノや兵士達と合流し、城下町の視察に向かったのだった。

 



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5・権力を持つ者、奪おうとする者⑵

 ――この日の視察は、やっぱりいつもと違っていた。

 

 まず、サルディーノという異国の要人が同行していることからして異様である。こういう機会はめったにない。

 

 そして、その要人が帝国の実権を掌握(しょうあく)するために、皇帝父娘の命を狙っているらしいという妙な緊張感が、一行(いっこう)を支配していた。

 

 一行の中でも一番ピリピリしていたのは、デニスを始めとする近衛軍団である。サルディーノが直接手を下す可能性は低いため、必ず町のどこかに刺客を紛れ込ませているはずだ。――そう思い、彼らは行く先々(さきざき)で目を光らせていた。

 

 そろそろ夕暮れが近い。けれど、ここにきてまだ、サルディーノ側に動きはない。

 

(彼が何か企んでいると思ったのは、ただの思い過ごしだったのかしら……?)

 

 リディアの頭を、そんな考えがよぎったその時――。

 

 何か、キラリと光るものが彼女の視界に入った。その次の瞬間。

 

 

「リディア、危ない!」

 

 

(え……!?)

 

 リディアを抱きかかえるようにして庇ったデニスが、右腕を押さえてうずくまる。その腕からは流血しており、彼女の後ろにある木には、小ぶりの短剣が刺さっている。

 

 そこでリディアは初めて、自分の嫌な予感が現実になったのだと察した。

 

 デニスが庇ってくれなければ、自分は危うく殺されるところだったのだ、と。

 

「デニス! ……大丈夫!?」

 

「大丈夫だ、リディア。こんなの、ただのかすり傷だって……()てて」

 

 泣き出しそうな顔で心配するリディアに、デニスは強がって見せる。けれど、彼女が受けた精神的ダメージは、デニスの予想を(はる)かに上回っていたのだ。

 

 大切な人を傷付けられた。彼の出血した右腕を凝視していたリディアの中で、何かがプツンと切れる。

 

 

「貸して」

 

 

 感情を押し殺した、有無(うむ)を言わさぬ口調で彼女は言い、デニスの腰から提がっている鞘から剣を抜いた。そのまま、切っ先を真っすぐサルディーノに突きつける。

 

 その所作(しょさ)こそ静かで美しいが、(うち)にはただならぬ怒りを秘めており、刃を向けられた異国の宰相はその恐ろしさに(すく)み上がった。

 

「……あなたが命じたのでしょう? 『皇女を亡きものにしろ』と」

 

 リディアは穏やかに問う。けれど、静かな怒りほど恐ろしいものはない。

 

「いや、わ……私は知らん! 私は、何も」

 

「嘘よ! わたしは、カルロス王子から聞いたもの! あなたが、この帝国の実権まで奪おうとしているって。そのために、わたしが邪魔になったのでしょう!? わたしがカルロス王子との縁談を断ったから、急きょ計画を変更したのでしょう!?」

 

 言い(のが)れしようと試みるサルディーノを遮り、リディアは畳みかけた。

 

 彼女はもはや、冷静さを失っていた。

 

 

「サルディーノ・アドレ! わたしはあなたを決して(ゆる)さない!」

 

 

「ダメだ、リディア!」

 

「リディア、やめぬか!」

 

 怒りで我を忘れているリディアの耳には、愛する男の声も、父の制止する声も届かなかった。剣の腕が(すぐ)れている彼女は、このままではサルディーノを殺してしまいかねない。

 

 ――と、その時。

 

 

「もういいですよ、姫様。さ、剣を置いて下さい」

 

 

 穏やかに、リディアを(いさ)める若い男性の声がした。我に返った彼女が、声のした方を振り返ると……。

 

「ジョン! 無事だったのね! よかった……」

 

 馬に跨った、傷一つ負っていないジョンの姿がそこにあった。馬車からカルロスも降りてきて、リディア達に会釈する。

 

 そして、ジョンの後ろには(なわ)(しば)られている黒装束(しょうぞく)の男が一人、馬に乗せられている。おそらく、甥であるカルロス王子を亡きものにしようと、サルディーノが差し向けた刺客だろう。

 

 その刺客が(とら)えられたということは……。

 

「ご安心下さい、姫様。カルロス様もご無事ですよ。任務は無事遂行致しました」

 

「リディア様、申し訳ありません! 伯父のせいで、デニスどのがケガを」

 

「カルロス様……。ご無事でよかった……」

 

 安心して力の抜けたリディアの手から、カランと音を立てて剣が滑り落ちた。

 

 ――そして……。

 

「陛下、姫様! 不審な男を発見し、捕えました!」

 

 一人の兵士が、町外れの木陰(こかげ)から縄で縛った黒装束の男を連行してきた。その男の服装は、ジョンがシェスタで捕えてきた男のものと瓜二(うりふた)つだ。

 

 捕縛(ほばく)された二人の刺客を見て、サルディーノはがっくり項垂(うなだ)れる。彼はそこで、自分が皇帝父娘に嵌められたと悟ったのだろう。

 

 だが、そこでリディアの記憶は途切れた。

 

 

 ――ドサッ!

 

 

 彼女は()きものが落ちたように、意識を失いその場に倒れ込んだのだ――。

 

 

****

 

 

 ――あれからどれだけの時間、意識を失っていたのだろう? リディアは、額に何か冷たいものが触れる感覚で意識を取り戻した。

 

「リディア! よかった、気がついたか」

 

「……デニス?」

 

 まだボーッとする意識のまま、彼女の目に映ったのは愛しい人の顔だった。

 

 そして、もう少し意識がはっきりしてくると、自分の周りに視線を巡らす。

 

 見慣れた部屋の天井(てんじょう)に、肌触りのいい寝具(しんぐ)の感触。それに、デニスの手には水で濡らしたタオル。服も寝間着に変わっている。

 

 どうやらここは寝室のベッドの上で、自分はいつの間にやら外からここへ運ばれてきて寝かされていたらしい、とリディアには分かった。そして、意識が戻る前に感じた冷たい感触は、デニスが濡らしたタオルを自分の額に当ててくれていた感触だということも。

 

 窓の外はもう真っ暗で、下弦(かげん)の月が浮かんでいる。

 

「……デニス、お水ちょうだい」

 

 ベッドサイドに置かれた水差しを見て、リディアは喉の(かわ)きを訴えた。そういえば、昼食後はずっと飲まず食わずだったのだ。

 

「ああ、水な。――起きられるか?」

 

「ええ、大丈夫」

 

 一人で起きようとする彼女の背中を支えてから、デニスは水を(そそ)いだグラスを彼女の手元へ持っていく。

 

 リディアは小さなグラスの水を、一気に飲み干した。それだけで、血の気を失っていた彼女の頬に、みるみる赤みが戻っていくのがデニスにも分かった。

 

「もう一杯飲むか?」

 

「ううん、もういいわ。ありがとう」

 

 彼女は空になったグラスをデニスに手渡しながら、微笑む。そして、気を失う前の最後の記憶がふと(よみがえ)る。

 

「――ねえ、デニス。あの後、サルディーノはどうなったの?」

 

 リディアは刺客が捕えられた直後に気を失って倒れたため、その後の記憶が全くないのだ。

 

「あのオッサンは、あの後すぐに強制送還(そうかん)を命じられたよ。で、この国の法では裁けないから、国に(かえ)されてから、あの王子が責任持って裁くってさ。国王として」

 

「カルロス様、『国王だ』って仰ったの?」

 

「ああ。あの伯父貴(おじき)に面と向かって啖呵(タンカ)切ってたぜ。『スラバットの国王は伯父上ではなく、自分だ!』ってな。立派だったぜ」

 

 それを聞いて、リディアは安心した。これでもう、スラバット王国は大丈夫だ。

 

「その後、大変だったんだぞ! 気を失ったお前を、ジョンと二人がかりでここまで運んできてベッドに寝かせたんだからな。――着替えは……、エマに任せたけど」

 

「そ、そう……」

 

 デニスが頬を(しゅ)に染めて言うので、リディアもつられて顔を赤らめた。いくら幼なじみで恋人でも、彼に下着姿を見られなくてよかったと、こっそり思う。寝間着姿なら、もう見せ慣れているけれど……。

 

 そこで、デニスが腕に傷を負ったことを思い出したリディアは、包帯が巻かれた彼の右の二の腕に目を遣った。

 

「デニス、傷の具合はどう? まだ痛む?」

 

「大丈夫。こんな傷、大したことねえって。(どく)()られてなかったし、ちゃんと医官(いかん)に手当てもしてもらったし。あとは熱が下がれば心配いらないってさ」

 

「よかった……」

 

 安堵の呟きを漏らした途端、リディアの両目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「……リディア? おい?」

 

 そのまま(せき)を切ったように泣きじゃくる彼女を見て、デニスは戸惑う。

 

 いつもは強く、気高(けだか)く、凛々(りり)しいリディアの涙を、彼はもう何年も見たことがない。

 

 幼い頃には、彼女もよく泣いていた。けれど、成長するにつれ、次期皇帝としての自覚が強くなった彼女は幼なじみのデニスやジョンにさえ、涙を見せなくなったのだ。

 

「デニスがケガをした時……、わたし……、デニスがいなくなったら、って考えて……。あなたが死んでしまったら……、わたしはもう、立ち直れないから……。だから、あなたが無事で、本当によかった……」

 

 しゃくり上げながら、自分の心の中を吐露(とろ)するリディアに、デニスは優しく相槌を打ち続けていた。

 

 彼女がサルディーノを殺そうとしたのも、父や自分の制止を聞き入れなかったのも、頭に血が(のぼ)っていたせいだと思えば、デニスにも納得できた。――ただ、自分の声ではなくジョンの声で彼女が正気に戻ったこと()()は面白くないけれど……。

 

 一頻(ひとしき)り泣いてしまうと、リディアは指で(まぶた)()まっていた涙を拭った。

 

「――でもわたし、これで確信したわ。デニスへの想いは単なる幼なじみへの情愛なんかじゃなくて、本物の愛情なんだ、ってこと」

 

「え……?」

 

「お父さまやジョンや、他の親しい人が死んでしまっても、わたしはきっと泣くと思う。でも、もしもあなたが死んでしまったら、わたしはもう二度と立ち直れない。傷を負っただけでこんなに気を失うほどのショックを受けたのは、あなたを心から愛しているから」

 

 リディアは今朝まで悩んでいたことを、初めてデニスに打ち明けた。自分の想いが、本当に恋心なのかどうか自信が持てなかったのだ、と。

 

 そして、サルディーノには図星をつかれたから余計に悔しかったのだ、ということも。

 

「デニス、わたしはじきにお父さまから皇位を継いで、皇帝として即位することになると思う。その時には必ず、あなたに側にいてほしいの」

 

 他の人ではダメだ。近衛兵としても、夫としても、一緒にいてほしいのはデニスだけ。

 

「もう敬語なんていらない。生きて、ずっと側にいて。わたしを支えていて。お願い」

 

 それは事実上、リディアからの求婚の言葉だった。デニスは彼女をしっかり抱き締め、それに答える。

 

「約束するよ、リディア。オレはずっと、お前の側にいる。ずっと支えていくよ。絶対にいなくなったりしねえから、安心しろよ」

 

「はい……!」

 

 愛しい人の胸に顔を(うず)め、リディアは嬉し涙を浮かべながら頷いた。

 

 ――と、そこへドアを叩く音がして……。

 

「や、邪魔してすまない。――リディア、もう起き上がって大丈夫なのか?」

 

「お父さま」

 

「イヴァン陛下」

 

 入室してきた父に、目を瞠ったリディアは慌てて居住(いず)まいを正した。デニスなんか、彼女以上に畏まっている。

 

「ええ、もう大丈夫でございます。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」

 

「いやいや、楽にしていてよい。そなたが元気になってくれて安心した」

 

 そう言って胸を撫で下ろすイヴァンの表情は、一国の主ではなく一人の父親のものだった。

 

「――ところで、だな。カルロスどのが、急きょ帰国の予定を早めると言ってな。明日、スラバットへ向けて発つそうだ」

 

「明日、ですか。本来は、一週間ご滞在の予定でしたのに」

 

 それだけの長い滞在であれば、この国内で彼を案内したい町や場所がまだたくさんあったのに……。

 

「うむ。サルディーノの件があったからな、一刻も早く帰国して、国王として即位する必要があるのだろう」

 

「そうですわね」

 

 父イヴァンの言葉に、リディアは頷いた。現在の国家元首(げんしゅ)と、次期国家元首の父娘である。カルロスの立場をよく理解できるのだ。

 

「わたし、明日はぜひ、カルロス様のお見送りをしますわ。デニスと二人で。――ね、デニス?」

 

「ああ。よろしいですよね? 陛下」

 

「もちろんいいとも。――それでな、その後に、二人の婚約を国民に公表しようと思っているのだ。よいか?」

 

 いよいよ、二人の仲を公にする時がきた。

 

「ええ! もちろんです!」

 

 喜んで頷くリディアとデニスだったが、続くイヴァンの言葉に二人は凍りつく。

 

 

「実はその時に、私はそなたに皇位を譲ろうと思っているのだ」

 

 

「え……?」



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6・皇位継承……⑴

 リディアは父の口から飛び出した言葉に耳を疑い、デニスと顔を見合わせた。

 

「お父さま? 皇位を譲られる、って……。本気で仰っているのですか?」

 

「ああ、もちろん本気だよ。そなたに皇帝の位を譲り、デニスには八〇年ぶりに即位する女皇帝の夫になってもらうつもりだ」

 

 冗談を言うのが苦手な父が言うのだから、もちろん本気なのだろう。が、少し早すぎはしないだろうか?

 

 父イヴァンはまだ四〇代の前半である。隠居(いんきょ)するには若すぎる。リディア自身も、皇位を継ぐのは二〇代に入ってからだと思っていたのだ。

 

 一体何が、もしくは誰が、父にこれほど早い決断を(せま)ったのだろう――?

 

「いや、カルロスどのが国王として即位する旨を聞いてな。私も少し早すぎるとは思ったが、譲位(じょうい)を決断したのだ。リディアもこの国では既に立派な成人だ。即位しても、何ら問題はあるまい?」

 

「わたしは別に構いませんが……。帝国議会の重臣(じゅうしん)達が認めてくれるでしょうか?」

 

 この国の政治は、皇族だけで(つかさど)っているわけではないのだ。帝国議会の承認が得られなければ、皇族は政治的なことは何も決められない。

 

 そして、(すぐ)れた軍人でありながら優れた政治家でもある父イヴァンは、帝国議会の重臣達から大変(した)われている。本人が「隠居する」と言っても、そう簡単に手放さないのではないだろうか?

 

「そうだな。重臣達への根回(ねまわ)しはまだこれからだが、そなたへの譲位ならば、彼らもすんなりと認めるであろう。案ずるな」

 

 十二歳の頃から次期皇帝として、父の施政(しせい)を手伝っていたリディアである。さらに、女性でありながら凄腕(すごうで)の剣士でもあり、頭も切れる。まだ若いが、皇帝としての器量(きりょう)は充分に備わっているはずだ。

 

「はい」

 

 リディアは頷いた。まだ実感は湧かないけれど、近く自分が皇帝になるのだと思うと、身が引き締まる思いだった。

 

「それともう一つ、二人に伝えておくことがある。リディアの戴冠(たいかん)式の日に、同時にそなたら二人の婚礼の儀も執り行うこととする」

 

「「はい!」」

 

 思いもよらぬ展開に、それも好ましい展開に、リディアとデニスは二人して顔を(ほころ)ばせる。二人は身分を越えて、夫婦として結ばれるのだ。リディア達にとって、これ以上の喜びはないだろう。

 

「デニスよ、そなたはもう宿舎に戻った方がよい。傷を負っているのだから、早めに休むがよかろう」

 

 父は唐突に、デニスに命じた。他の使用人が聞けば、負傷した彼を(おもんばか)っての命令だと思うだろう。が、リディアは父が自分と父娘水入らずで話したいのだろうと察した。

 

「はい。陛下、お心遣い感謝致します。では失礼致します! ――リディア、おやすみ」

 

 退出していくデニスに、リディアは微笑みかける。そして、父娘二人だけになった寝室で、彼女のベッドの(ふち)に、娘と隣り合う形でイヴァンが腰を下ろした。

 

 

「――お父さま、父娘二人で語らうのは久しぶりですね」

 

「……ああ、そうだな」

 

 彼は娘の顔色を窺うように頷く。――確かに、リディアと二人きりでこうして話すのは久しぶりかもしれない。

 

 彼女が成長してからは、城を留守にして遠征(えんせい)だ外交だと国外へ出向き、忙しさにかまけて()()()()()として娘と接する機会は減っていた。たまに語ることといえば、政治に関する内容ばかりだったように思う。

 

「先ほどデニスを退室させたのは、彼に聞かせたくない話があるからではありません?」

 

 父の性格を知り尽くしているリディアは、父が自分と二人になりたかった理由をそう推理した。

 

「ハハ、見抜かれていたのか。近く娘婿(むすめむこ)になるとはいえ、家臣に弱みを見せるのはどうかと思ってな……」

 

 ――やっぱりだ。父は自尊心が強い。友人であるデニスの父ガルシアにも、ジョンの父ステファンにも、弱みを見せたことがないのだ。

 

「実はな、リディア。私は此度(こたび)の件で、皇帝としての自信を失ったのだよ」

 

「と、仰いますと?」

 

 リディア自身、父が弱音(よわね)を吐いている姿を見るのは久しぶりだ。彼女は瞬いた。

 

「私はサルディーノの(くわだ)てを見抜くことができなかった。知ってからも、何も手を打たなかった。そなたは早い段階から、ヤツの本性を見破っていたのだろう? ……私は、皇帝失格だな」

 

 嘲るように、悲しげにイヴァンは笑う。

 

「そんなことありません。わたしだって、後悔しているんです。わたしが気を抜いていなければ、デニスはあの時ケガをせずに済んだのに……」

 

 そのことを、デニスには言わなかった。言えば、彼は気にするだろうから。「お前のせいじゃない」と言って、彼女を責めずに自分の責任だと思ってしまうだろうから……。

 

「そなたのことを責める者などおるまい。あれが近衛兵の務めだ。あの傷は、名誉(めいよ)の負傷だ。そなたが気に()む必要はない」

 

 (なぐさ)めるように、背中をトントン叩いてくれる父に、リディアは何だか救われた気がして思わず涙腺(るいせん)(ゆる)みかけた。(あふ)れる寸前の涙を指でそっと拭う。

 

「……はい」

 

 頷いてから、リディアは言葉を続けた。

 

「分かってはいるんです。護衛をしてもらっている以上、危険な目に遭う心配は常に付きまとうのだと。覚悟はできていたつもりだったのに、実際に彼が傷付けられたら、急に目の前が真っ暗になった気がして」

 

 彼がもし死んでしまったら? ……そんな恐ろしい考えが、ふと頭をよぎったのだと、父に打ち明ける。

 

「実は先ほどデニスの前で、大泣きに泣きました。彼がかすり傷で済んだことにホッとして……。その時に分かったんです。この涙は、わたしが彼のことを本気で愛している証なのだと」

 

「そうか」

 

 父は一言だけ答えた。

 

 彼もまた、妻である皇后マリアンを亡くした時には涙を流したのだ。それも、まだ幼かった娘のリディアの前では泣きたくなかったので、一人でひっそりと泣いたものだ。だから、娘の気持ちは痛いほど分かる。

 

「――実はな、リディア。私がデニスに退室を命じたのは、弱音を聞かせたくなかっただけではないのだよ。次期皇帝であるそなただけに聞いてほしい話があってな」

 

「はあ……。何でしょうか?」

 

 娘の護衛官であり,近々娘婿となるデニスにも聞かれたくない話とは何だろう? 皇位継承に関する話だろうか?

 

「皇位を継承するにあたり、軍の人事をそなたに任せたいのだ。その件も合わせて、帝国議会には私から根回しをしておく」

 

「わたしが、人事を?」

 

 リディアは目を瞠った。〝人事が皇帝の務め〟だということを、この時初めて知ったのだ。

 

「ああ、そうだとも。人選はそなたに(ゆだ)ねる。しがらみや慣習に捉われることなく、自由に適任者を選びなさい」

 

「はい。――いつまでに任命状を書けば?」

 

「そうだな……。戴冠式は一月(ひとつき)後を予定している。だから、それまでには」

 

「分かりました。一月もあれば、納得のいく人選ができるでしょう」

 

 リディアは頷いた。どのみち、議会への根回しや戴冠式の準備などに一月は(つい)やされるだろう。

 

「ああ、そうだ。私から一つ、提案がある。デニスには、近衛軍団長の(にん)を与えようと思っているのだが。そなたはどう思う?」

 

「ええ、わたしも大賛成ですわ!」

 

 皇帝の夫になるのだから、それ相応(そうおう)の地位を与えるべきである。一介の兵士のままというわけにはいかないのだ。

 

 まだ成人したばかりの若輩者(じゃくはいもの)だが、二代の皇帝が任命すれば、重臣達も反対できまい。

 

「そうか。まだ期間はある。じっくり考えるがよい。では、今宵(こよい)はゆっくり休みなさい。カルロスどのが発つのは、明日の午後だそうだ」

 

「はい。お父さま、おやすみなさいませ」

 

 父が部屋を出ていき、一人になると、リディアは再びベッドに横たわり、目を閉じた。

 

 今日一日、特に夕刻からは色々なことが起こりすぎて、まだ頭の中がゴチャゴチャしている。少し頭の中を整理しないと、今夜は眠れそうにない。

 

 愛しいデニスが自分を庇ったせいで傷を負ってしまった。それが原因で、自分の中にも「殺意」という(みにく)い感情があると自覚した。

 

 デニスの負った傷がかすり傷だと分かり、彼が生きていてくれてよかったと安堵する一方で、彼がこの世からいなくなってしまうことを怖いと感じた。それが、真実の愛なのだと改めて気づいた。

 

 そして、彼との結婚を父に認められ、父から皇位を継承されることとなり――。

 

(……あ、そうだわ。軍の人事!)

 

 デニスが近衛軍団長の任に()くことは、とりあえず内定した。となれば、ジョンにも何か地位を与えた方がいいだろうか? そうでなければ不公平かもしれない。

 

(そういえば、帝国軍は今、将軍不在だったわね)

 

 六年前からずっと、ジョンの父ステファンとデニスの父ガルシアとの将軍の地位を巡る個人的な争いは、まだ収拾(しゅうしゅう)がつかずにいる。

 

 いい機会だから、いっそジョンを将軍に据えてしまおうか? いや、序列(じょれつ)でいえば父親のステファンの方が先? それとも、皇帝の義父となるガルシアか。――でも、それでは本末(ほんまつ)転倒(てんとう)

 

「う~~~~ん……」

 

 誰もが納得する人事は、どうしたらできるのだろう? リディアは悩んだ。

 

(まあいいわ。一月の猶予(ゆうよ)があるんだもの。急いで決める必要はないわよね)

 

 二人とよく相談して、できれば彼らの希望も聞いて、じっくり考えてから結論を出しても遅いことはないだろう。

 

(まずは、明日よね)

 

 帰国するカルロスを見送った後、父の口からリディアとデニスとの婚約が発表され、それと同時におそらく、彼女が皇帝として即位することも国民に()げられるのだろう。

 

 ジョンは、祝福してくれるだろうか? そして今度こそ、自分の想いを打ち明けてくれるのだろうか――? リディアはどうしても、彼自身の口から聞きたかった。彼がデニスと同じく大切な幼なじみだということは、この先も一生変わらないのだから。

 

 気づかないうちに彼女の意識は遠のき、いつの間にか眠りの世界へと引き込まれていった。

 

 

****

 

 

 ――翌日の昼下がり。

 

「イヴァン陛下、リディア様、そしてデニスどの。この度は、大変お世話になりました。慌ただしく帰国する旨、申し訳ありません」

 

 豪奢(ごうしゃ)な馬車を中心として騎馬(きば)隊で組まれた隊列の先頭で、カルロスは三人に丁寧に謝辞(しゃじ)と詫びの言葉を述べた。

 

「我が伯父・サルディーノの件では、多大な迷惑をおかけしてしまいましたね。重ねてお詫び申し上げます」

 

「いえ、そんな! 頭をお上げ下さい! あなたが詫びる必要はございませんわ。あなたが一番の被害者なのですから」

 

 必死に謝る隣国の王子――いや、もうすぐ国王か――を、リディアは慰める。

 

「私はあなたから忠告を受けなければ、スラバットも帝国も、危うく滅ぼしてしまうところでした。リディア様、このご恩は一生忘れません」

 

 彼はまた、深々と頭を下げた。

 

「いいえ、わたしは何も、特別なことはしておりませんわ。全ては、あなた自身が決断なさったことです。今後は、あなたが国と国民を立派に守っていって下さいませ」

 

 彼はこの先、国王として傾きかけたスラバットの国を建て直さなければならない。若き王にとっては(いばら)の道だろうが、彼ならきっと立派にやり遂げるに違いない。

 

「デニスどの、腕はまだ痛みますか?」

 

 今は軍服の袖に隠れて見えない(デニス)の腕の傷を、カルロスは心配した。

 

「いえ、もう大丈夫です。元々かすり傷ですし、自分は打たれ強いので。ご心配頂き、恐縮です」

 

「サルディーノの処遇は、どうなさるおつもりですの?」

 

 リディアが問う。カルロスにしてみれば、身内の情も、自身が言いなりになっていたという弱みもあるのだろうけれど……。

 

「伯父には、監獄(かんごく)に入って反省してもらうことにしました。見せしめとして、絞首(こうしゅ)刑にすることも考えたのですが、さすがにそれは伯父が可哀相(かわいそう)なので……」

 

 やっぱり情を挟んでしまったらしい。リディアは彼を甘いと思ったが、その優しさが彼のよさなのだと理解した。「そうですか」とだけ、彼女は頷く。

 

「実は、まだ発表前なので内密なのですが。わたしも一月後に、皇帝として即位することになったのです。父からの譲位という形で」

 

 国家機密である事実を、国民の前に他国の君主に漏らすのはどうかと思ったが、彼とは今後友好を深めていくつもりなので、ためらいはなかった。

 

「そうですか! おめでとうございます。あなたが皇帝となれば、この国はいまよりずっと栄えていくでしょうね。楽しみです」

 

「はい、ありがとうございます! わたし、頑張ってこの国をよりよい国にしますわ!」

 

 カルロスに微笑みかけられ、リディアは俄然(がぜん)やる気になる。もちろん、今のままでも充分いい国ではあるのだけれど。

 

「デニスどの、君がしっかりとリディア様を支えて差し上げて下さい。……婚約なさっているそうだね?」

 

「はい、……ぅえっ!?」

 

 畏まってカルロスに頷いたデニスは、後半部分の囁きを聞いて思わず()頓狂(とんきょう)な声を上げてしまった。その囁きはリディアの耳には入らなかったらしく、隣りで「なにごと?」と怪訝そうな顔をしている。

 

「ど……、どうしてご存じなんですか?」

 

「イヴァン陛下から打ち明けられたんだ。我々が帰国した後、国民に発表するとね」

 

 うろたえつつ小声で訊ねるデニスに、カルロスも小声で答えた。

 

 ――いよいよ、スラバット一行(いっこう)の出発が迫ってきた。

 

「リディア様、国が落ち着きましたらまた参ります。スラバットへも、ぜひお越し下さいね。お待ちしております」

 

 カルロスはそう言って、隊列の中央の豪奢な馬車に乗り込んだ。

 

「ええ、ぜひ参りますわ。カルロス様、また手紙を書いて下さいね」

 

「リディア、デニス。新婚旅行はスラバットに決定だな」

 

 父イヴァンの言葉に、二人は笑顔で頷く。それは名案だと、三人の意見が一致したらしい。

 

「それでは皆様、お元気で!」

 

 馬車の中から手を振りながら、叫ぶカルロスとその従者達が見えなくなると、レムルの城下町からわらわらと、町の住民達が城の前の広場に集まってきた。中にはシェスタや別の地方からはるばる来たらしい国民の姿もチラホラ見える。

 

 そして、城からも兵士や女官などの侍従達が出てきた。その中には当然ながら、ジョンやエマの姿も……。

 

 実は、これからこの広場でイヴァンが重大発表をすることは、午前中に国中の人々に伝わっていたのだ。伝書鳩(でんしょばと)を使って。

 

「愛するレーセル帝国民の皆さん。今日はわざわざ集まって下さったことに、心から感謝申し上げたい。今日は私から、皆さんに発表したいことが二つあります」

 

 そこで一旦言葉を切った彼を、国民一同は――侍従達もだが――注視する。

 

「まず、我が娘のリディア・エルヴァ―トと近衛軍団所属の兵士デニス・ローレアがこの度、結婚することとなりました。一月後に、大聖堂にて二人の婚礼の儀を執り行います」

 

 リディアがデニスと共に笑顔でお辞儀すると、二人はたちまち拍手と大歓声の渦中(かちゅう)になった。

 

 リディアはその中で、一人複雑そうな表情を浮かべている人物を見つける。

 

(……ジョン?)

 

 彼のこんな表情を見たのは、二週間近く前に港町シェスタでデニスと両想いになったと打ち明けた時以来、二度目だ。

 

 きっと彼の中では今も、デニスへの嫉妬心や、家臣なのだから祝福せねばという忠誠心や、それでも(おさ)えきれないリディアへの想いがせめぎ合っているのだろう。

 

(やっぱり、後で話を聞いた方がよさそうね)

 

 彼の気持ちがはっきりしなければ、安心してデニスと結婚できない。リディアはそう思った。それは、デニスもジョンも両方大切に思っている彼女の優しさからだった。

 

「――そして、二人の婚礼の日をもって、私は皇帝の位を退(しりぞ)き、リディアにその位を譲ることにしました。婚礼の日、新皇帝の戴冠式も執り行います」

 

 お祝いムードが広がっていた広場は、イヴァン皇帝からもたらされた二つめの発表に、水を打ったようにしんと静まり返る。こちらもめでたい発表には違いないのだけれど、国民には「レーセル帝国にこの人あり」と言われているイヴァンの退位がよほど衝撃的だったらしい。

 

「皆さん、さように落胆しないで頂きたい。我が娘リディアは歳こそまだ若いが、皇帝としての器量は申し(ぶん)ない。必ずや私のように……いや、私以上に立派な皇帝になってくれると私は信じています。だから皆さんも、娘を信じてついていってほしい!」

 

「お父さま……」

 

 父の熱弁に、リディアの胸は熱くなった。これだけ大きな期待を寄せてくれているのならば、何としても父の想いに報いたい。

 

 彼女は自分の決意を伝えようと、広場の人々に対して演説を始めた。

 

「皆様、わたしは父も申し上げた通り、まだ若くて未熟者です。即位しても、父のようにはいかないかもしれません。ですが、『この国をよりよい国にしたい』という想いは、父にも負けません。ですから、わたしはここで(ちか)いましょう。必ずや、このレーセル帝国をより豊かで実りある国にすると。そして、わたしの心は、想いは、いつもあなた(がた)国民とともにあると」

 

 思いの(ほか)、熱の込もった演説になってしまった。話し終えたリディアが大きく息を吐いて一礼すると、広場は再び人々の笑顔と割れんばかりの拍手に包まれた。

 

 

『姫様がいてくれたら、この国は安泰だ』

 

『あなたが皇帝となれば、この国は今よりずっと栄えていくでしょうね』――

 

 

 シェスタの町民や、カルロス王子の言葉がリディアの脳裏(のうり)に蘇る。顔を上げた彼女は、胸が(おど)るのを感じた。

 

 今見ているこの光景は、自分が皇帝として認められた証なのだ。この寛容(かんよう)な国民性が、リディアは幼い頃から大好きだ。

 

(そうよね、わたしは一人じゃないんだわ)

 

 デニスがいる。ジョンがいる。ガルシアもステファンもいる。エマも、大臣も、城の侍従達も、兵士達もいる。父イヴァンだって、まだまだ元気でいてくれるだろう。

 

 彼女は自身の身近な人々のことを想い、ここに集まっている国民達の姿を見つめた。

 こんなに多く、自分を支持(しじ)してくれる人々がいるのだ。きっと自分は、立派な皇帝になれる。何の根拠もないけれど、リディアはそう確信したのだった。

 



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6・皇位継承……⑵

 すっかり日が暮れ、聴衆達が広場から帰っていく。城から出てきた面々も、そろそろ引き揚げようとしていた。

 

「――お父さま、先に戻っていて下さい。わたしはもう少しの間、ここに残ります」

 

 リディアが一人「残る」と言えば、一緒に残りたがる男が約一名。デニスである。

 

「じゃあ、オレも残るよ」

 

「デニス、あなたも先に戻ってて。()()()

 

 最後の「お願い」にあえて(すご)みを利かせて言うと、デニスも逆らえないと悟り、やっと渋々だが「分かった」と頷いた。

 

 引き揚げていく一団に目を()らし、彼女は目当ての人物――長身・金髪(ブロンド)の青年兵士――に声をかける。

 

「ジョン、待って! あなたと話したいの」

 

「……姫様? お一人ですか?」

 

 珍しくデニス抜きでリディアと向き合ったジョンは、目を丸くした。

 

 自分と二人で話したいこととは何ぞや? と彼は首を捻る。が、まずは一言、リディアに言わなければならないことがあった。

 

「姫様。この度はデニスとの婚約、まことにおめでとうございます。アイツと幸せになって下さい」

 

「ありがとう、ジョン。――でもね、話したいのはそのことじゃないのよ」

 

「えっ?」

 

 ジョンは(きょ)をつかれたように目を瞠る。

 

「あなたの、わたしへの気持ちを確かめたくて。聞く機会は、これで最後だと思うから」

 

 この先一月(ひとつき)は即位や結婚に向けての準備で忙しくなり、二人で話す機会がなかなか取れなくなるだろうから。今日のうちに聞けるものなら聞いておきたい。

 

「はあ。では申し上げます。――俺は、初めてお会いした時から、ずっと姫様に好意を抱いていました」

 

「いました、って?」

 

 リディアは首を傾げた。既に過去形になっているのに、先ほどまであんなに複雑そうな表情を浮かべていたのはなぜだろう?

 

「デニスと両想いになったと聞かされた時、俺は姫様への恋心を封印したつもりでした。姫様のアイツへの想いには気づいていましたし、結ばれるべきは一兵卒(いっぺいそつ)の俺よりも、いつもお側にいるデニスの方だろうと思い、恋心を忠誠心にすり替えて」

 

 そうして姫様のことはデニスに譲り、自分の想いは過去形にしたのだと、彼は言った。

 

「それでも諦めきれなかったんでしょう? さっきの表情を見ていたら分かるわ」

 

「その通りです。姫様は鋭いですね。俺の想いは、封印した後もずっと(くすぶ)っていました。だからといって、デニス(アイツ)からあなたを奪うつもりなんかなくて。なんとか忠誠心なんだと自分に言い聞かせて、ごまかし続けていました。姫様に告げることもないと思っていましたし」

 

 ジョンは自嘲(じちょう)ぎみに肩をすくめる。リディアは彼がどんな想いでそう振る舞ってきたのかを考えると、やるせなかった。

 

「自分に嘘をつき続けて、苦しかったでしょう?」

 

「……はい、苦しかったです。だから今日、こうしてお話しできてスッキリしました。これでやっと、胸のつかえが下りました。姫様、ありがとうございます」

 

 彼は苦しみからやっと解放されたようで、リディアに久しぶりに心からの笑顔を見せてくれた。幼い頃によく見せてくれた、屈託(くったく)のない笑顔だ。

 

「いいえ、わたしは別に感謝されるようなことはしていないけど」

 

 とはいえ、感謝されても悪い気はしない。彼女も微笑みで返した。

 

 そして、どうせなら今ここで、彼に軍の人事に対する意志確認をしておくのも悪くないと思った。

 

「――あのね、ジョン。わたしは新皇帝として、軍の人事をお父さまから任されたの。あなたにも、何か地位や役職を授与(じゅよ)しようと思っているんだけど、受けてくれる?」

 

 喜んで受けてくれるか、それとも謙虚に断られるか? 思案顔のジョンからは、判断がつかない。

 

「ジョン、どうかしら?」

 

 再び彼女は返事を促す。ややして、決意を固めたらしいジョンが口を開いた。

 

「もちろん、喜んでお受けします。断るなんてとんでもない! これからも、姫様の忠実な臣下(しんか)として働かせて頂きます」

 

「ありがとう! これからもよろしくね、ジョン」

 

 子供の頃から、自分とデニス、ジョンの三人の関係はすっかり変わってしまった。けれど、ずっと三人で一緒にいられるのだ。それがとても嬉しくて、リディアは自然と笑顔になったのだった――。

 

 

****

 

 

 ――その日の夜。夕食も入浴も済ませた寝間着姿のリディアが、ベッドの上で歴史書のページをめくっていると、コンコンと寝室のドアがノックされた。

 

(こんなに夜遅く、誰かしら? エマはさっき下がらせたし……)

 

 他の侍女? ――リディアは首を捻りつつ、ドアの向こうに「どうぞ」と声をかける。

 

 

「リディア、入るぞ」

 

 

 よく聞き慣れた()()()()の声の後、不躾(ぶしつけ)にドアを開けて入ってきた人物に、彼女は目を丸くした。

 

「デニス!? 一体どうしたのよ?」

 

「よう、リディア。――いや、『姫様との婚約が公になったんだから、姫様の部屋に行ってこい!』って先輩兵士達に()きつけられちまってさあ。もう参ったよ」

 

「まあ……」

 

 照れ臭そうに頬をポリポリ掻く彼に、リディアは絶句した。それはつまり、夜這(よば)いをしに来たということだ。

 

(ああ、なんてこと……)

 

 まだ婚約発表されてから数時間が経過しただけで、彼女は心構えができていないというのに。――ところが。

 

「んー、でもオレは今日は、お前に手出しするつもりはないんだ。そういうことは、初夜(しょや)まで大事に取っておきたいからさ」

 

「初夜、ってねえ……」

 

 生々(なまなま)しい単語に、リディアの頬はポッと赤くなる。結婚するということは当然、子作りもそこに含まれるわけで……。何をどうすれば子供ができるかくらい、彼女にも分かる。

 

「……まあ、夫婦になるんだから、自然な流れよね」

 

 しかも、愛し合って結ばれるのだ。愛してもいない男が相手ならともかく、愛するデニスが相手なら、もう何の抵抗も感じない。心構えができてからなら、の話だが。

 

「でもいいの? それだと、あと一月生殺(なまごろ)し状態が続くことになるわよ?」

 

「ああ、いいんだ。オレは構わない」

 

「……そう」

 

 デニスが「いい」と言うなら、ここは引き下がるしかない。リディアの方から押すのも違う気がするし……。

 

「――お前、またそれ読んでるのか」

 

 デニスはリディアのベッドの縁に腰かけ、彼女の手にある分厚い歴史書を覗き込んだ。

 

「ええ。もうすぐわたしも、ここに名前が刻まれるんだと思ったら、何だか嬉しくて」

 

 答えるリディアの声が弾んでいる。何たって、彼女は一月後に、八〇年ぶりとなる女性皇帝になるのだ。歴史に名を残す瞬間が近づいていると思うと、そりゃあワクワクするだろう。

 

「昨夜の約束、一月後には果たせるんだな」

 

 リディアが即位する時には、夫として側にいてずっと支えていく。デニスが彼女と交わした約束も、間もなく果たされるのだ。

 

「ええ。それまではお互いに忙しくなるから初夜はお預け、ってことでしょう?」

 

「ああ、まあな」

 

 リディアの解釈に、デニスは曖昧に頷く。

 

「――ところでさ、リディア。夕方、広場でジョンと二人で(はな)してしてたんだって? 一体どんな(ハナシ)してたんだ?」

 

 唐突に、彼は話題を変えた。

 

「えっ、どうして知ってるの?」

 

「さっき、本人から聞いた。けど、内容までは教えてくれなかったからさ」

 

 ブスッとしながらデニスは答える。それは自分がのけ者にされたことが面白くないからなのか、ジョンに嫉妬しているからなのか。

 

「どんな、って。彼の気持ちを、最後に確かめたの。今日を()がしたら、もう二度と話してもらえないと思って」

 

 リディアはそこで一旦言葉を切り、ジョンが恋心を認めたことをデニスに話した。

 

「……で? お前はどうするんだ?」

 

「どうもしないわ。ジョンはこれから先も、わたしの大事な幼なじみで忠実な臣下。ただそれだけよ」

 

 片眉を上げて問うデニスに、彼女は淡々(たんたん)と答える。冷たいようだが、他に言いようがないのだから仕方がない。

 

「あ、それとね。ジョンには軍の人事を打診(だしん)したの」

 

「軍の人事?」

 

 (きつね)につままれたような顔で、デニスが訊ねた。

 

「ええ。昨夜あなたが下がった後にね、お父さまから頼まれたの。新皇帝として、軍の幹部を任命してほしいって。人選は任せる、って。でね、あなたにもジョンにも、それ相応の地位や役職を与えようと思ってるの」

 

「へえ……。で、ジョンにはどんな役職を与えようと思ってるんだ?」

 

 デニスも興味(きょうみ)があるらしく、身を乗り出して質問してきた。

 

「それはまだ考え中だけど。あなたには、近衛軍団長をやってもらうつもりよ」

 

 

「はあ!? なんでオレが」

 

 

 デニスの声が大きくなる。今は夜中だ。これでは近所迷惑……もとい城内迷惑になってしまう。

 

「しっ! 声が大きいわよ! ……これは、お父さまのご希望でもあるのよ。皇帝の夫になるんだから、あなたにも相応の役職を与えるべきだってね。受けてくれるでしょう?」

 

 リディアは彼をたしなめてから、声をひそめて理由を説明し、意志確認をした。

 

「もちろん、受けさせてもらいます」

 

 デニスは快諾した。が、こんなに軽い調子でいいのだろうか?

 

「他に、決めなきゃならない役職ってどんなのがあるんだ?」

 

「そうねえ。軍は今、将軍不在でしょう? だから、まずはそれね。そうなると、(ふく)将軍も新しく決めなきゃいけないわ。他は、留任(りゅうにん)でいいんじゃないかしら」

 

 人選は全面的にリディアに任されているのだ。なら、いま現在任に()いている人物を据え置く、というのもアリなのではないだろうか。

 

「で、まずは将軍よ。あなたのお父様のガルシアどのか、ジョンのお父様のステファンどのかで迷っているんだけど。あなたはどう思う?」

 

 義理で選ぶなら皇帝の義父となるガルシアで、実力で選ぶなら統率(とうそつ)力に優れたステファンとなる。

 

「うーん……、オレなら父さんじゃなく、ステファン様を選ぶかな。バイラル家は代々、エルヴァ―ト一族に仕える名家だし。父さんが将軍になったら、『〝皇帝の婿(オレ)の父親〟っていう立場を忖度(そんたく)した』って思われるだろうし」

 

 まあ、息子の立場なら、自分の父親が「お情けで将軍にしてもらったのだ」と言われることが我慢ならないのだろう。

 

 それに、ジョンも父親のステファンも、代々将軍を務めてきた名家に育ち、幼い頃から英才(えいさい)教育を受けてきていて、剣術や武術に(ひい)ででいるのだ。適任といえる。

 

「そうよね。となると、副将軍は必然的にジョンってことになるわね。――どう?」

 

 彼が父親を補佐することになるのは、まあ自然の流れだろう。

 

異議(いぎ)なし」

 

「決定ね。じゃ、とりあえずこれで、お父さまに任命状を書いて渡しておくわ。あとは、議会がどう判断するかだけど。まあ大丈夫でしょう」

 

「……その根拠のない自信はどこから来るんだよ」

 

 デニスは呆れるが、彼女が「大丈夫だ」と言えば何となく本当に大丈夫だと思えるから不思議だ。それこそが、彼女の一番の魅力なのかもしれない。

 

「まあいいや。――じゃ、オレはそろそろ宿舎に戻るよ」

 

「本当にいいの? 初夜までお預けで」

 

 こうもあっさり引き下がられるのは、何だか彼らしくない気がするが……。

 

「いいんだって。結婚すれば、いつでもそうなれるんだからさ。あと一月我慢すれば済むことだし」

 

「そうね……」

 

 赤面するリディアにキスをし、デニスはベッドから腰を上げる。

 

「おやすみ、リディア」

 

「……おやすみなさい」

 

 まだ若干(じゃっかん)赤い顔のまま、リディアは微笑んだ。

 

 こうして、一月後までのドキドキを秘めたまま、若い二人の婚約発表初日の夜は()けていった――。

 

 

****

 

 

 ――リディアが提案した軍の人事案は、ものの数日の議論の(のち)に帝国議会で承認され、正式な任命状が発行された。そこに(しる)された皇帝の名前は、〝リディア・エルヴァ―ト〟。つまり彼女の即位も、承認されたということだ。

 

 リディアはその任命状を手に、軍の屋外演習場(えんしゅうじょう)へ赴いた。当然、デニスも同伴である。

 

 もうすぐ初夏だ。春のうららかな陽気より少し「暑い」と感じるようになってきた。

 

「――姫様、今日はどうされたのですか?」

 

 真っ先にリディアを出迎えた貫禄(かんろく)充分な長身の兵士――ステファンである――が、突然の皇女の来訪に目を瞠る。

 

 彼と年格好(としかっこう)が同じくらいの、もう少し恰幅(かっぷく)がいい男がデニスの父ガルシアだ。ここで演習を行っている若い兵の中には、ジョンの姿もある。

 

「帝国議会より、軍の新たな幹部の任命が(くだ)りました。新皇帝として、ただ今より任命状を読み上げます」

 

 コホンと一つ咳をして、彼女は手にしている巻き紙を広げ、声に出して内容を読み上げた。

 

 

「『任命状。新皇帝リディア・エルヴァ―トの命により、以下のように任を与える。ステファン・バイラルに将軍、その子息ジョン・バイラルに副将軍、皇帝の伴侶(はんりょ)デニス・ローレアに近衛軍団長の任を与え、その他の幹部は留任。なお、この任命は帝国議会の満場(まんじょう)一致を()、承認されたものとする。』

 

……以上です」

 

 読み上げた後、リディアは一同を見回して訊ねる。

 

「どうかしら? みんな、受けてくれる?」

 

 デニスは言わずもがな、ジョンにも受諾の意志があると確認済みだが、ステファンは果たして受けてくれるだろうか? そして、ガルシアから不満は出ないだろうか?

 

(わたくし)めでよければ、将軍の任、(つつ)しんでお受け致します。――ジョンにデニス、お前達はどうだ?」

 

「二人には既に、受ける旨は聞いているけれど。ね、二人とも?」

 

「父上、俺も受け入れます」

 

「オレだって」

 

 若者二人は頷き合う。ここで改めて断られたらどうしようかとリディアは心配したが、それは杞憂(きゆう)だったようだ。

 

 そもそも、ジョンが今までに彼女の頼みを断ったことなんて、一度もなかったのだ。

 

「――ガルシアどのは……、どう?」

 

 彼にも将軍になる資格はあったのに、何の役職も与えられなかった。何か不満が出るのではないかと、リディアは想定していたのだが……。

 

「異論はございません。まあ、(わたし)が将軍に選ばれなかったのは、正直(くや)しくはありますがね。(せがれ)がリディア様の伴侶に選ばれただけで私は満足です。私はこれからも変わらず、あなたに忠誠を誓いますよ」

 

「ありがとう、お義父(とう)さま!」

 

 リディアは歓喜(かんき)した。彼には恨まれこそすれ、これからも自分に忠義を尽くしてくれるとは思わなかったのだ。

 

 彼となら損得なく、姻戚関係を築いていける気がする。

 

「――では、我々はそろそろ演習に戻らせて頂きます、姫様。――『姫様』とお呼びするのも、あと数週間ほどですね」

 

 ジョンがしみじみと言った。

 

「ええ、そうね」

 

 リディアは数週間後、正式に皇帝として即位する。そうなれば彼女は『姫様』ではなく『陛下』お呼ばれることになるのだ。

 

「俺に立派な任を与えて下さって、ありがとうございます。これからも父を全力で支え、リディア様のため、そしてこの国のために働かせて頂きます! ――では、失礼致します」

 

 ステファン新将軍を始めとする兵士達が、演習に戻っていく。それを見届けてから、リディアとデニスも城に戻ることにした。

 

 

「あなたのお父様には、悪いことしちゃったわね……」

 

 

 その道すがら、リディアはデニスに申し訳なさそうにポツリと漏らした。

 

「ああ、軍の幹部人事のことか? それなら、父さんは(なん)も気にしちゃいねえって。だからお前もそんなに落ち込むなよ」

 

「うん。だけど……」

 

 しがらみや慣習に捉われることなく、忖度なしで幹部を選んだつもりだが、実際はどうだろう? 自分の人選が果たして正しかったのかと、リディアは悩み始めたのだ。

 

「ガルシアどのったら、恨み節の一つも言わないであっさり引き下がるんだもの。余計に申し訳なくて」

 

「なに? 思いっきり罵倒(ばとう)された方がよかったのか?」

 

「そういうわけじゃないけど」

 

 ガルシアだって、まだ小娘(こむすめ)とはいえこれから仕える相手を罵倒するわけがない。

 

「父さんはさ、オレとリディアの結婚が決まっただけで嬉しんだよ。初めてオレをお前に引き合わせた時からずっと、お前のこと娘みたいに思ってたらしいからさ」

 

「そっか……」

 

 デニスもジョンも、リディアと同じくひとりっ子である。女の子に恵まれなかったから余計に、義理の娘ができることが嬉しくて仕方ないのだろう。――ただし、同時に自分が仕えるべき主にもなるのだが。

 

 三人が初めて出会った頃はまだ幼く、三人とも名前で呼び合う「友人」の関係だった。身分も関係なく、一緒に遊んでいた。

 

 一〇歳の頃からジョンとデニスは本格的に剣術を習い始め、思春期にさしかかった頃にはジョンから「姫様」と呼ばれるようになり、徐々(じょじょ)に距離を置かれるようになっていった。

 

 リディアがデニスを異性として意識するようになったのも、ちょうどその頃だ。だからこそ、彼女はジョンではなくデニスから剣術と武術の特訓を受けることにしたのだ。

 

 そして成人した今――。三人の関係は大きく変わった。主と臣下であり、恋人同士であり、友人でもある。デニスとジョンは、リディアを巡ってのライバル同士でもあった。

 

 けれど、根本(こんぽん)は十三年前と何も変わっていない。三人が「幼なじみ」であるという事実だけは。多分、これからもずっと――。

 

 

「……リディア? どうしたんだ、黙りこくって」

 

 

 デニスが隣りから、心配そうにリディアの顔を覗き込んだ。

 

「うん、ちょっとね。あなたとジョンと出会ってからの、十三年間のことを想い返していたの」

 

 リディアははにかみながら、しみじみと語り始める。

 

「わたし達も成長して、三人の関係もすっかり変わったわ。でもね、根っこの部分はずっと変わってない。これからも形を変えながら、わたし達の関係はずっと続いていくんだなあ、と思って」

 

「父さんや陛下達みたいに、ってことか?」

 

「そう」

 

 イヴァン、ガルシア、ステファンの三人のように、自分達も。立場や地位を越え、子供の代まで交流を続けていけたら……。

 

「ジョンにも、いい結婚相手が見つかるといいよな」

 

「あら、案外早く見つかるかもよ? 何たって彼は色男なんだから」

 

 確か同じような会話を、少し前にもしたような気がする。まだそんなに経っていないのに、今となっては懐かしく感じる。

 

 

 戴冠式の準備も、婚礼の準備もほぼ終わった。あとは式典当日を残すのみ。

 

 

 その日、リディア・エルヴァ―トはこのレーセル帝国に新たな歴史を刻む――。



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終 焉――未来へ――

 ――初夏の陽気の中、レーセル城に隣接する大聖堂にてリディア新皇帝の戴冠式、(およ)び彼女と新近衛軍団長デニスとの婚礼の儀式が(おごそ)かに執り行われた。

 

 

 大司教(だいしきょう)より金色の冠を戴いたリディアは白地の絹に金色の刺しゅうが施されたドレスを身にまとい、深紅のマントを羽織り、頭には白のヴェールを(かぶ)っている。

 

 このドレスは元々、彼女の亡き母マリアン皇后が父の元に嫁いできた時の婚礼衣装だったものだ。それを式典前夜、侍女のエマがリディアの体型に合わせて仕立て直してくれたのだった。

 

 デニスは近衛軍団の礼装姿。その左胸に、今日は金色の勲章(くんしょう)を身に着けている。皇族・エルヴァート一族の証となるものだ。

 

 祭壇(さいだん)の前で愛を誓った若き皇帝夫婦が大聖堂から出てくると、二人はたちまち歓声に包まれた。

 

 

「リディア陛下、万歳(ばんざい)! デニス様、万歳!」

 

「どうぞお幸せに!」

 

「この国の将来を頼みます!」

 

 

 民衆の歓声に手を上げて答える新皇帝リディアは、感無量だった。

 

 亡き母の形見(かたみ)である婚礼衣装に袖を通し、最愛の人と一緒に愛する母国の君主になれた喜びは、何物(なにもの)にもかえ(がた)い。

 

 

「国民の皆様、ありがとうございます。わたしは必ず、あなた方との約束を果たします。ここにいる夫デニスと共に、この帝国を永劫(えいごう)栄え続ける豊かな国にして参ります!」

 

 

 声高(こわだか)に宣言する彼女を、再び人々の拍手と歓声が包む。

 

 隣りに立つ礼装姿のデニスも、今日は主役の一人なので誇らしげだ。

 

「オレと二人じゃないだろ?」

 

 彼がリディアの耳元でそっと囁いた。

 

「そうでした。ジョンも一緒よね」

 

 頷くリディア。彼ら親子にも、色々と協力してもらわなければ。

 

「――そういえば、スラバットのカルロス国王から、祝福の手紙が届いていたのよ」

 

「へえ……。何て書かれてた?」

 

 彼がこの国に来訪した時には、「リディアを狙ってきた」と一方的に敵視していたデニスだが、彼の大変な境遇を理解してからはそうも言っていられなくなり、嫉妬の感情などどこかへ行ってしまった。

 

「まだ国王に即位して間もないから、国内情勢が安定しない。なので儀式に伺えず申し訳ありません。お二人の幸せを心よりお祈りしております、って」

 

「そっか。あの国も大変なんだな」

 

 デニスもカルロス王に同情しているようである。

 

「ええ、そうみたいね。でも、あの方なら大丈夫よ、きっと」

 

「だからさ、お前のその根拠のない自信はどこから来るんだって。……まあいいや」

 

 デニスは呆れたけれど、それ以上ツッコむのはやめた。

 

 

「――あら、ジョン。珍しいわね、エマと一緒なんて」

 

 

 白い詰め襟で正装したジョンが、いつものメイド服と違って華やかなドレスで正装したエマを伴ってリディア達に祝辞を述べた。

 

「リディア陛下、デニス。まことにおめでとうございます。二人とも、俺の手が届かない人になってしまいましたね」

 

「そんなことないわ、ジョン。あなたはこれからもずっと、わたし達の大切な幼なじみなのよ」

 

 淋しそうな表情を浮かべる彼に、リディアは優しく微笑みかける。

 

「陛下……」

 

「そんな他人行儀に呼ばないで。前みたいに名前で呼んで」

 

 ジョンは「畏れ多い!」とためらったが、「リディア様」と今回も「様」付けで彼女を呼んだ。

 

(だから、敬称はいらないってば)

 

 リディアは心の中で抗議したが、もう諦めた。即位前ならまだしも、皇帝になった自分のことを、この生真面目な男が呼び捨てにできるはずがないのだから。

 

「――あのですね、陛下。実は私、ジョン様から交際を申し込まれたんです」

 

 エマが恐る恐る、リディアに衝撃の事実を打ち明けた。

 

「えっ、そうなの? よかったじゃない!」

 

 エマは前々からジョンに好意を寄せていたらしい。それにはリディアも気づいていた。

 

 けれど、ジョンの自分への想いも知っていたので、表立って彼女の背中を押すことができなかった。心優しいリディアは、ジョンを苦しめてしまうことを危惧(きぐ)していたのだ。

 

「はい! 私もジョン様と二人で、お二人に負けないくらい幸せになりますわ!」

 

 満面の笑みで答えるエマは、恋が実った喜びで()ち溢れている。それは結婚したばかりのリディアが見ても、(まぶ)しいくらいだった。

 

「おいジョン。いいのかよ、リディアのこと諦めちまって?」

 

 男同士では、また違う会話がされていた。

 

「いいんだ。俺はとっくに、リディア様のことは諦めてるから」

 

 平然と言ってのけるジョン。彼の言い分はもっともだ。ここで「まだ諦めていない」と言えば、デニスから彼女を寝取るという意味になってしまう。

 

「エマに申し訳なくてな。身近に俺のことをずっと想ってくれてる女性(ひと)がいるのに、俺は彼女のことを見ようとしなかったから」

 

「それって……同情か?」

 

 彼女が可哀相だから交際を申し込んだのかと、デニスは片眉を上げた。

 

「違うよ。俺は改めて、エマの大切さに気づいたんだよ。だから彼女との将来を考え始めたんだ」

 

「そっか。エマを幸せにしてやれよ! じゃないと、オレはともかくリディアが許さないからな!」

 

 デニスがジョンの背中をバシッと叩き、叩かれたジョンも顔をしかめながらも力強く頷いた。

 

 

****

 

 

 ――その夜。城の大広間で催された祝宴(しゅくえん)もお開きとなり、リディアとデニスの若夫婦は元はリディアの寝室だった一室に戻った。今日からここは、二人の部屋となるのだ。

 

「あのさ、リディア。こないだから、一つだけ気になってたことがあるんだけど」

 

「なあに?」

 

 就寝準備が整ってから、デニスがベッドに腰かけるリディアの隣りに腰を下ろし、訊ねた。

 

「城下町でさ、お前がブチ切れたことがあったろ? オレがケガしてさ。その時、オレでもイヴァン様でもなく、ジョンの声で我に返ったのはどうしてだ?」

 

 嫉妬も少しはある。けれど、二人っきりになった今だからこそ、聞きたいと思った。

 

 そんな彼の思惑を見越して、リディアは笑う。そして、理由を話した。

 

「あれは、ジョンだけがあの時冷静だったからよ。デニスもお父さまも、感情的になっていたから」

 

 

「えっ、それだけなのか?」

 

 

「それだけよ」

 

 目を丸くしたデニスに、リディアはあっさりと頷く。

 

「他に何か理由があるとでも思ってたの?」

 

 眉をひそめて問う(リディア)に、デニスは「いや」と肩をすくめた。結婚してもまだジョンに妬いているなんて、かなりみっともない。

 

「――それにしても、あなたのタメグチはこの先もずっと変わらないんでしょうね」

 

「悪いかよ?」

 

 彼女の言葉を非難と受け取ったデニスは、口を尖らせた。

 

「ううん。だって、わたしにも一生変わらないものがあるから」

 

「……え?」

 

 

「あなたへの恋心は、これからもずっと変わらないから」

 

 

 そう言いながら、リディアは久しぶりにデニスの肩に頭を預ける。

 

「ところでリディア、とうとう初夜だけど。心の準備はできてるか?」

 

「ええ」

 

 甘さもへったくれもない誘い文句に、リディアはためらいなく頷いた。

 

 デニスはこの日まで、一月()えた。ついに二人が本当の意味で結ばれる時がきたのだ。

 

「じゃあ、本当にいいんだな?」

 

「もちろんよ! 女に二言はないわ」

 

 実にリディアらしい言い方で、夫の気持ちに応える。そして、彼女はデニスと口づけを交わし、彼に身を委ねた。

 

 愛する人と一つになれる喜びと、それに伴う初めての痛みが、彼女を支配した。

 

 

 ――この初夜から一〇ヶ月後、夫婦の間には一人の皇子が誕生した。いずれ皇位を継ぐであろうこの皇子()を、リディアは亡き弟の生まれ変わりかもしれないと思い、彼をジョルジュと名付けて大事に育てた。

 

 そのさらに一年後、もう一人皇子が誕生し、その子はブラウンと名付けられた。

 

 リディア皇帝とデニスの夫婦は生涯において、二人の皇子に恵まれた。

 

 

 そして、リディアの子々(しし)孫々(そんそん)まで、エルヴァ―ト一族が治めるこのレーセル帝国は、その後五〇〇年に渡り栄えたという――。

 

                     

                             

                                             ……めでたし めでたし。



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