笑ゥゆかりさん (ゆでジャガ)
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秘伝のタレ(前編)

本日のお相手:ミスティア・ローレライ(356) 八目鰻屋店主


幻想郷に夜が来た。行灯がともる人里から一歩離れれば、ただ暗闇が広がるばかり。その暗闇の中で、ぽつんと佇む粗末な屋台があった。「八目鰻」と書かれたお古の提灯が、物寂しさを際立たせる。

 

「はぁ…」

 

この店の主はミスティア・ローレライ、夜雀の妖怪である。彼女はもくもくと煙を吹かす鰻の開きをひっくり返しながら、ため息をついた。時間は午後7時、夕飯時だというのに店に客はいない。店の立地条件があまりよろしくないのが一因かもしれないが、それにしたって、腹を空かした妖怪が一匹は寄り付きそうなものであるのに。

 

「やっぱり、味が悪いのかな」

 

そうミスティアが呟いた刹那、何者かがのれんを上げて、ミスティアに声をかけた。

 

「私が味見してあげても良いわよ」

 

「!?」

 

久しぶりのお客が意外な切り出し方をしてきたので、ミスティアは少々たじろいでしまった。しかしすぐに気を持ち直し、いらっしゃいと声をかける。どうも服装を見るに、客は人間ではない。美しい金色の長髪を蓄えていて見立てが美しく、それでいて不思議な雰囲気の女性であった。ミスティアは慣れた手つきで鰻を焼き上げると、脇に置いてある小瓶に手を伸ばした。瓶の中のしょうゆをサッと鰻にかければ、ミスティア流八目鰻のかば焼きの完成である。

 

「はい、一丁上がり」

 

「フフフ、早いのね。丁度小腹が空いていたところなのよ。いただきます」

 

女性はかば焼きをひとくち齧ると、なんだか期待外れというように首を傾げた。

 

「…やっぱり、おいしくないんですね」

 

ミスティアは肩を落とした。元々、峠の焼き鳥屋を潰してやろうという不純な動機で始めた鰻屋。そんなことで、美味しいかば焼きを焼けるわけがない…。

 

「そう卑下しないで。鰻はなかなか上質だし、焼き方だって悪くないと思うわよ。」

 

「そ、そうですか?」

 

「問題は醤油じゃないかしら。どうもサッパリしすぎというか、深みが無いのよね」

 

意外な指摘だった。ミスティアは今まで焼き方に問題があると思って、火加減などいろいろ調整を重ねていた。まさか醤油に原因があるとは!

 

「しかし…私は醤油と塩以外の調味料を知りません」

 

「それなら、私が良い調味料を教えてあげる」

 

女性は振り返ると、何もない空間に手を伸ばした。すると空間が裂け、穴のようにパックリと割れ目ができる。女性はその中に両手を突っ込み、しばしごそごそ亜空間をまさぐったかと思えば、年代物と思われる壺を空間から引っ張り出した。

 

「これなんか、貴方のかば焼きにぴったりだと思うのだけれど」

 

「あ、貴方はいったい、何の妖怪なんです?」

 

困惑して尋ねるミスティアに、女性は長い髪をたなびかせながら答える。

 

「ああ失礼、名乗りを忘れていたわね。私は八雲紫、スキマ妖怪よ」

 

「スキマ?」

 

「そう、スキマ。この幻想郷に住んでいる者たちは、一見すると気楽なようだけれど、実際にはいろんな悩みを抱えている。そのスキマを埋めるのが、私の役目よ」

 

そう言うと紫は、壺をミスティアに差し出した。壺の側面には「旨垂」という二文字が記されている。

 

「これは食通の友人から取り寄せたタレなのよ。醤油に砂糖、その他いろいろな調味料を混ぜ合わせた濃いめの味。試してみなさい」

 

言われるがまま、ミスティアは焼き上がった鰻に、壺から小さな柄杓ですくい上げたタレをかけた。かば焼きを紫に渡すと、味が気になったのかミスティア本人も、もう一枚のかば焼きに齧りつく。

 

「…!お、おいしい!」

 

「うん、イメージ通りの至高の味だわ。これこそが鰻のかば焼きよ」

 

思わずミスティアはかば焼き一枚を平らげてしまった。自分の焼いたかば焼きが、これほど旨いと感じたことはなかった。思わず笑みがこぼれるミスティアの姿を見て、紫はニコリと微笑む。

 

「それじゃ、そのタレを使って店を繁盛させなさい。頃合いを見計らって、タレ補充に来るから。じゃあね」

 

「ちょ、ちょっと待ってください!このタレ、無料で頂いていいんですか!?」

 

「いいに決まっているでしょう。さっきも言ったように、私は貴方のような浮かばれぬ者の心のスキマを埋めたいだけ。それに対価なんて要らないわ」

 

なんて良い人、いや良い妖怪なんだろう。ミスティアは去ってゆく紫の後ろ姿に頭を下げた。その眼には、涙がにじんでいた。

 

「よーし!明日からこのタレでおいしいかば焼きを作って、お客さんを笑顔にするぞ!」

 

 

 








紫はふと立ち止まり、呟いた。

「フフフ…その心意気、どこまで続くのかしらねぇ…」




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秘伝のタレ(後編)

 

紫からタレを譲られてから一週間後。ミスティアの屋台は、見違えるほどの人だかりで溢れていた。濃厚なタレと絶妙に絡んだ鰻のかば焼きが絶品だと、口コミが広がったのだ。

 

「はい、かば焼き一丁上がり!」

 

「待ってました!いただきまーす」

 

かば焼きのことが文々。新聞に載ってからというもの、売り上げは留まることを知らない。閑古鳥が鳴いていた今までが嘘のような賑やかさである。

 

「ミスティアちゃんのかば焼き美味しいね!」

 

「今度は仲間の妖精たちも呼んで来ようかなぁ」

 

そんな声が響き、ミスティアは嬉しさのあまり感涙するのだった。

 

 

 

今日の屋台営業も、大盛況に幕を閉じた。気が付けば、壺の中にギッシリ詰まっていたタレも残り僅かである。そろそろ補充が欲しいな、そうミスティアが思ったとき、彼女の背後の空間に亀裂が生じる。気配を感じてミスティアが振り返ると、そこには紫が立っていた。

 

「タレの補充に来たわよ。店の調子はどう?」

 

「もう最高ですよ!紫さんのタレのおかげです」

 

良い反応を返され、紫は満足げに笑った。そして思い出したように言葉を続ける。

 

「ただしミスティア、一つだけ約束事があるわ。絶対にタレに何かを混ぜないで頂戴」

 

「え?」

 

「そのタレは完璧な配合で作られているわ。その均衡が少しでも崩れると、折角の風味が台無しになるのよ。分かったわね?」

 

ミスティアが頷くと、紫は壺に補充のタレを注ぎ込み、そのまま亜空間に出戻っていった。

 

 

 

 

後日、相変わらずミスティアの店は賑わいを見せていた。そんな中で、客の妖怪の一匹がこう呟いたのを、ミスティアは聞き逃さなかった。

 

「確かに旨いんだが、『旨い』だけっていうか…アクセントに欠ける気がするな」

 

その妖怪の連れは食通気取りなどするなと笑って聞き流していたが、ミスティアの脳裏にはその言葉がくっきりと焼き付いた。その日の営業時間が終わると、ミスティアはペロリとタレを舐めてみた。やはり絶品であることは間違いないし、『旨い』のだが、言われてみれば抑揚がない味のような感じもする。

 

(ただ美味しいだけじゃ、そのうち飽きられちゃうよね…)

 

いずれ店の人気が落ち着いた時、今のタレだけの味付けでお客はついてきてくれるだろうか?話題に上るためには、新しい味が必要かもしれない。そう思ったミスティアは、屋台のテーブル下に塩が仕込んであったのを思い出した。味付けに醤油を使っていたころ、味が物足りないというお客の要望に応えて設置していたものだ。

 

(この塩をひとまぶしすれば…)

 

小さじで一すくいした塩と、タレの壺を交互に見ながら、ミスティアは少し考えた。暫くの静寂の後、ミスティアは思い立って、塩をタレにさっとかけた。塩はみるみるタレの中に溶けて、消えていった。

 

「ミスティア。」

 

突然背後から名前を呼ばれ、ミスティアはびくんと跳ね上がる。恐る恐る後ろを振り返ってみると、そこには去ったはずの紫の姿があった。

 

「約束を、破ったわね?何も混ぜるなと言ったのに」

 

ミスティアの頬に冷や汗が垂れる。しかしミスティアは反駁した。

 

「…しかし、一つの味だけではこの業界でやっていけないんです!それにこの店の主は私ですよ!店の味を変えるのは私の勝手でしょう!」

 

紫は顔を紅潮させながら必死の弁論を試みるミスティアを、沈んだ目で視ていた。まるで憐れむような、蔑むような…。

 

「借り物の味で借り物の人気を集めておいて、今さら我流を貫こうというの?そんなに自己流が好きなら、自分の味を自分で味わう事ね…」

 

紫はスッと右手を上げた。ぴんと伸びたしなやかな人指し指は、ミスティアの顔を指していた。呆然とするミスティアの目の前で、紫は美しい声を張り上げ、叫んだ。

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 

 

 

 

もうすぐ日付が変わろうかという時刻。寒がりのミスティアは、いつも寝るギリギリまで屋台には炭火を灯している。今日も十分に暖を取り、火を吹き消そうとした刹那。一人の妖怪がのれんを上げた。

 

「あ、すみません。もう今日の営業は終わったんです」

 

「貴方の店の評判を聞いて、太陽の畑から遠路はるばる此処まで来たのよ。何も食わせずに帰すっていうの?」

 

緑色の短髪を蓄えた目つきの悪い妖怪は、ぎっとミスティアを睨みつけた。ミスティアはすくみ上がる心地だったが、さっさと鰻を一枚焼いて振舞えば済む話である。ミスティアは炭火をうちわで扇ぎ火力を調整すると、いつもの調子で鰻の開きを金網の上に乗せた。工程の全てを怖い妖怪に凝視されているのが瑕だが、精神を落ち着かせて何とか焼き上げた。後はタレをかけるだけだ。

 

(あれっ?)

 

タレの壺の蓋を取ったミスティアは不審に思った。透明感のある小麦色だったはずのタレが、どんよりと暗い色に変わっている。しかしもう夜も更けたことであるし、辺りが暗いせいだろうと割り切り、ミスティアはそのタレをかば焼きにかけ、妖怪に差し出した。

 

「それじゃ、頂きます…」

 

大丈夫。美味しいと言ってくれる。そんなミスティアの期待は、かば焼きを齧った妖怪の顔が歪んだ怒りの顔に変わった時点で打ち砕かれた。妖怪は口に含んだかば焼きをペッと吐き捨てると、ミスティアの胸倉を掴んでまくし立てた。

 

「何よ、この生ゴミみたいな味は…。バカにしてるの?」

 

「えっ!?そ…そんな、ちょっと塩を入れただけなのに…」

 

思わずミスティアがこぼしたその言葉が、命取りとなった。

 

「『塩を入れただけ』?ふぅ~ん…つまり貴方は、私が食べるかば焼きのタレに妙な細工をして、その反応を楽しんでたって訳ね…」

 

「!? いっ、いえっ、そんなつもりは…」

 

「いい度胸じゃない。貴方も貴方の屋台も、全部壊してあげるわよ」

 

もう、全てが遅かった。胸倉を掴まれたまま屋台から引き出され、ミスティアは転がされた。ミスティアが顔を上げた刹那、鬼のような形相をした妖怪は、振り上げた傘に精いっぱいの妖力を込めて、ミスティアめがけて振り下ろした。

 

 

「ぎゃああああああああああああああああああっ!!!!」

 

 







「名立たる画家や彫刻家の素晴らしい作品でも、良かれと思って後世の人間が修復したら見れたものではなくなった…。よく聞く話よね。素人ごときが一級品を手にしたところで、自分自身が一級になるわけじゃないんだから…フフフ…。」





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バカにつける薬(前編)

本日のお相手:チルノ(309) 氷の妖精



「うぎゃー!」

 

向寒のみぎり、純白の衣に身を包んだ妖精が湖畔に墜落した。それを追うように、水色髪に青服を纏った妖精がホバー飛行しながら彼女の下に寄る。

 

「どうだ!私のサイキョーさを思い知ったか!」

 

得意げに叫ぶ彼女の名前はチルノ。この霧の湖の住民であるが、家を何者かに破壊されたため現在は野宿生活を続けている。彼女は独自の調査の結果、家破壊の主犯格が「サニーミルク」なる妖精であることを突き止めた。そして、湖の近くをうろついていた件の白服の妖精をサニーミルクだと決め込み、勝負を挑んだのだ。

 

「さぁサニーミルク!家を壊したことを謝れ!」

 

「私はリリーホワイトだよっ!さっきから何を言ってるのか全然わかんないよ!」

 

少し話してみると、どうも人違いらしい。リリーホワイトがふらふらと飛び去って行くと、チルノは柄にもなく押し黙った。つい昨日も、何とかラルバとかいう妖精を誤射して撃墜するミスを犯したばかりである。チルノは自身が幻想郷で最強だと信じて疑わないたちだが、どうも最近判断力が例になく鈍っている気がしてならなかった。

 

今日(こんにち)は。そんな所で何をしているの?」

 

チルノが振り返ると、金髪ロングヘアをたなびかせ、肩には小さなバッグをかけた、妙な雰囲気の女性が立っていた。雨も降っていないのに傘を差していて気味が悪い。丁度むしゃくしゃしていたチルノは、恐らく妖怪と思われるその女性に牙を剥いた。

 

「氷符『アイシクル・フォール!』」

 

チルノの両手から連射される氷のつぶては空中で方向転換し、憐れな女性の周囲2mほどを飛び交い、彼女を包囲する。さしずめ、氷の棺桶と云ったところだ。後はつぶてに紛れ込んだ光弾が、身動きを封じられた相手を狩ってくれるという代物である。

 

ところが刹那、女性の姿が消えた。チルノは目を疑ったが、確かにあの女性は宙を割り、生成された間隙の中に消えたのだ。するとチルノの目の前の空間に亀裂が生じた。そこからにゅるりと這い出てきたのは、あの女性だった。

 

「この弾幕、肝心の真正面がガラ空きじゃないの」

 

チルノは息を呑んだのも無理はない。我ながら最高傑作と位置付けていた弾幕が、いとも容易く攻略されてしまったのだから。しかしチルノの最強を自負する(さが)は、敗北を嫌った。

 

「ひょっ、凍符『パーフェクトフリー…』」

 

チルノが新たな技を出そうとするや、女性は物怖じもせずに右手をスッとチルノの眼前に差し出す。彼女のしなやかな人差し指は、チルノの顔を指して…。

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

「のわぁぁぁぁーっ!?」

 

幻覚だろうか、それとも新手の弾幕だろうか?女性の指先から発された強烈な光とも音とも取れない「何か」がチルノの防衛本能を感化させ、思わず後ろへ飛び下がらせた。その瞬間、鈍痛がチルノの腰に走る。背後にあった古ぼけた井戸の縁に、したたかに腰を打ち付けてしまったのだ。

 

「あぐっ!…こ、腰がぁぁ…っ」

 

形容しがたい痛みで、チルノは地面に倒れ伏した。女性は、初霜の降りた地面に転がったまま動けないチルノに歩み寄ると、肩にかけたバッグからおもむろに一枚の布らしきモノを取り出した。

 

「私を攻撃しないなら、この湿布を使わせてあげるわよ」

 

チルノは、こくこくと頷くしか他になかった。

 

 

 

十分ほど経ったであろうか、早くもチルノの腰の痛みは引いていた。どうも相当に効く湿布であったらしいが、チルノは湿布を不思議に思う前に、自身を打ち負かしたこの女性のことが気になった。

 

「…アンタ、一体誰なのさ…」

 

憔悴しきった声でチルノが聞くと、その女性は待ってましたと言わんばかりに名乗り始めた。

 

「私は八雲紫。幻想郷の悩める住民たちの心のスキマを埋める役を任されてるわ」

 

「心のスキマ…?あいにくだったね、アタイはサイキョーだからスキマなんてないよ」

 

「最強とは言うけれど、貴方は一体今までどれだけの勝負をこなしてきたの?」

 

チルノは記憶を辿った。先ほどのリリーホワイトと、昨日の何とかラルバの件以外はどうも思い出せないが、とにかく妖精ばかりを相手にしてきたことは覚えている。その事を紫に伝えると、紫は失笑した。

 

「それじゃ、井の中の蛙じゃない」

 

いのなかのかわず。この八文字は、チルノの脳裏に何の印象も残さずに左耳から右耳へとすり抜けていった。間の抜けた顔をするチルノに、紫は微笑みかける。

 

「さっきのヘボ弾幕も然り…貴方、どうにも頭が弱いようね」

 

「頭が弱い…つまりバカってこと!?そんなわけない、だって私はサイキョー…」

 

そこまで言って、チルノは言葉に詰まってしまった。頭の回転の悪さは、最近になってますます判断力の鈍りとして自覚できるようになっている。いくら体が最強でも、頭がダメでは意味がないのだ。

 

「貴方にピッタリな物が有るのよ」

 

そう言うと紫は、先ほど湿布を出したバッグの口から、ひと包みの丸薬を取り出した。

 

「騙されたと思って飲んでみなさい。」

 

チルノはあまり物事を考えない主義である。もちろん差し出された丸薬も、特に何も考えずに口に放り込んだ。風邪を引いた際に永琳から処方された薬は苦くて飲めたものではなかったが、この丸薬は薬とは思えないほど爽やかな風味であった。チルノは暫く口の中で丸薬をコロコロ転がした後、ごくんと飲んだ。

 

「…ん…?なんかスッキリした気分…」

 

頭の中が丸ごと清らかな水で洗われたような感覚。チルノはこれまで経験したことがない爽快感を得て、くすんだ視界も心なしか明るくなった気がした。

 

「それじゃ問題よ。4367+2985は?」

 

「7352…かな」

 

一桁の四則演算もまともに出来ないチルノにしてはあり得ないスピードで、正答が導き出される。

 

「これは飲用者の頭を活性化させて、最大出力で事物を識別あるいは判断することを可能にする丸薬なのよ」

 

「なるほど、頭がやけに爽やかなのはそのせいか」

 

いつの間にか、多少小難しい言葉でも相手の意図を理解できるまでになっているようだ。

 

「貴方は最強の体に加えて、頭脳も賢人並になったわ。これで正真正銘、最強だと言えるんじゃないかしら」

 

「アタイったら完全無欠ね!ようし、この力でサニーミルクに復讐してやる!」

 

はしゃいで礼もせずにその場を飛び去ろうとするチルノを、紫は呼び止めた。

 

「あぁ、一つだけ忠告しておくわ。慣れてないんだから、あんまり頭を使いすぎないようにね」

 

「分かった分かったー!」

 

聞いているのか聞いていないのか分からない返事をした後、チルノは自信に満ちた顔で湖上の霧の中へと姿を消した。




先刻チルノの腰を砕いた古井戸の底には、一匹の蛙がいた。その蛙の鳴くのを見て、紫は呟く。

「井の中の蛙大海を知らず…自らの力を見誤らなければいいけどねぇ…フフフ…」




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バカにつける薬(後編)

 

 

明くる日、お尋ね者のサニーミルクが霧の湖に再び姿を現した。といっても、チルノに謝罪しに来た訳ではない。遊び仲間のスターサファイアにルナチャイルド、そしてチルノに恨みを抱くリリーホワイトや何とかラルバ…もといエタニティラルバを引き連れ、殴り込みに来たのである。

 

「チルノってのもバカよね…私たちに復讐するつもりが、かえって敵を増やしているんだから」

 

「その上、性懲りもなく家を建て直すとはね。おかげでまた壊す手間が増えて面倒だよ」

 

そんなルナチャイルドとスターサファイアの会話に、妖精一行の親分サニーミルクが割って入る。

 

「その最強気取りのバカを叩きのめすのが今回の旅路の目的でしょ?あいつは強さだけが取り柄だけど、私たち5人で一斉に襲えばひとたまりもないだろうね」

 

サニーミルクには絶対の勝算があった。なにせ相手はバカで有名なチルノである。相手が何の策も講じられないバカである以上、力でねじ伏せればよいのだ。

 

「この機に二度と私たちに手が出せないよう、完全な敗北を刻み込んであげようじゃない。そして妖精勢力の実権は、私たちが握るのさ」

 

「ついでに私の名前も二度と忘れないように、奴の脳裏に刻み込んでやる!」

 

エタニティラルバがそう叫ぶと、妖精たちは幼子のような小さな体を震わせながら笑い合った。すると間もなく、再建されたチルノの家が一行の視界に入る。全面が厚い氷で造られた、チルノお手製のかまくら式住宅。しかし妙なことに、家は壊される前の倍ほども大きいドームの様相を呈していた。

 

「なんだありゃ。えらく大きいけど、元からあんなだったの?」

 

リリーホワイトが不思議そうに尋ねる。一人暮らしでそれも再建したとあっては、あんなに巨大である必要はないだろう。あの大きさは、まるで何人も招き入れるための設計のような…隠れた意図を感じたサニーミルクだが、取り敢えず家を覗いてみることにした。

 

「バカ家主は留守のようね…ん?あれは…」

 

ルナチャイルドが指した先、家の中心部の床の上には、小さな小箱があった。瞬間、一行の脳裏に期待が走る。恐らくは、チルノの金庫であろう!バカだから、鍵もかけていない家のど真ん中に放置しているのだ。妖精たちは目を丸くして、すぐさま小箱を取り囲んだ。

 

「それじゃ中身を失敬してやろうじゃない。それでは御開帳…」

 

サニーミルクが仰々しく小箱のふたを開け、妖精たちの眼差しは小箱の中に注がれる。しかし拍子抜けなことに、中には一枚の鏡が入っているばかりであった。不思議に思った妖精たちが鏡を覗き込むと、鏡面の下の方に書いてあった文字が視界に飛び込んできた。

 

『バカの顔』

 

「なっ…!?」

 

その刹那、妖精たちの頭上で何かがひび割れるような音がした。恐る恐る一行が上を見上げた瞬間、何という事であろうか、粉砕された家の天井が妖精たちめがけて崩落してきた!

 

「うわあぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

―天井の下敷きとなり身動きが取れない妖精たちに、声をかけた者が一人。この罠を仕組んだチルノである。

 

「アタイのトラップに嵌った気分はどう?どっちがバカか、これではっきりしたね!」

 

勝ち誇るチルノに何の反抗もできず、妖精たちはただがっくりとうなだれた。

 

 

 

 

 

妖精一行を見事返り討ちにしたチルノは、その後も聡明な頭脳を駆使して楽しんだ。文字ともミミズとも分からぬモノがびっしりと書き連ねてある「本」という物体をチルノは毛嫌いしていたが、頭脳明晰となってからふと読んでみると、中々に面白かった。神羅万象すべてを小さな紙の中で表現しようという試みに心を奪われたのか、チルノはつい貸本屋で時間を忘れて立ち読みに耽った。

 

「何々…世の中には『チェス』っていう遊びがあるのか。水切りや鬼ごっことは全然違うみたいだぞ」

 

本を読み漁る中で、チルノは新しい遊びを発見したようだ。ポーン・ルーク・ビショップなどの洒落た名前の駒に、何頁にも渡り解説される細かいルール。チルノはそれらを全て記憶すると、「チェス」を誰かとしてみたくなった。一番の親友である大妖精に声をかけたが、どうも彼女は頭を使う遊びが苦手らしい。暫く遊び相手を探し回った末、チルノは高潔な吸血鬼令嬢レミリア・スカーレットがチェスの名手であると聞きつけた。

 

 

 

 

「うっ…ぐぐぐ…」

 

「はい、チェックメイト!」

 

紅魔館最奥、主の部屋にチルノの嬉しそうな声が響く。部屋に集まったメイド長はじめギャラリーたちは、消沈するレミリアを不安そうな目で見つめていた。なにせ、これでもうチルノの5連勝。一方、チェスにかけては右に出る者なしと自称していたレミリアは、ろくに攻め込めもしない始末である。

 

「何だか歯ごたえがないなぁ。紅魔館の主ってのもこの程度?」

 

チルノの嘲りにとうとう感極まったか、レミリアは恐ろしい形相でチルノを睨みつける。次の瞬間にはチルノを惨殺してしまいそうな殺気だ。しかしチルノは落ち着き払って、こう返した。

 

「悔しいなら、チェスで勝って見返さなきゃ。ここでアタイを力任せに殺したら、自慢のカリスマに傷がつくよ」

 

到底バカには思いつかないような言葉運びに、レミリアの従者たちは放つ言葉もない。完全な正論をぶつけられ、レミリアは俯いたままである。

 

(あぁ、頭を使うってこんなに楽しいんだ!あははは…あは…は…?)

 

チルノは違和感を覚えた。今まで透き通っていた頭の中が急に曇ったような、妙な感覚である。先刻まであれほど楽しんでいたチェスも、どう遊ぶものかよく分からなくなっていた。

 

「…何をしているの。もう一回再戦よ…次こそは勝つわ」

 

「あっ…いや、その…えーと…ちょっとアタイ用事があるから!」

 

チルノは開いていた窓から外に飛び出した。後方から聞こえてくる「勝ち逃げするな、卑怯だ」という叫び声など、チルノの耳には入らない。チルノは今、自分に何が起こったのかを理解できないまま、飛び続けた。

 

 

 

眩暈(めまい)さえ感じたチルノは、霧の湖に何とか降り立った。頭がくるくると空回りしているような気分に苛まれ、思わず地面にへたり込んでしまう。

 

(一体、どうなってんの…)

 

ふと背後に気配を感じたチルノが振り返ると、そこには雨でもないのに傘を差す、あの妖怪が立っていた。

 

「アンタは…おかか!」

 

「私の名前は紫よ」

 

早速この前会った者の名前を忘れているあたり、相当に頭の調子がよろしくないようである。

 

「なんか頭の調子が変なんだけど、どういうことさ!」

 

「さぁ。今までろくに使ってこなかった頭を無理に動かしたから、またバカに戻ったんじゃない?」

 

チルノは愕然とした。バカに戻れば、もう本を読んで楽しむこともできない。頭を使って得たあの快感を味わうことは、永遠にできないのである。

 

「そ…そんなの嘘だ!紫、もう一回あの丸薬をちょうだい!」

 

「駄目よ。『頭を使いすぎるな』と忠告したじゃない…約束を破った貴方が悪いのよ」

 

「だって…だってアタイは、頭を使えて楽しかったんだ!妖精どもを懲らしめたし、本だって読めたし、チェスだって…だから、だから!」

 

涙ぐみながら吠えかかってくるチルノを、紫は表情一つ変えずに見下ろしていた。

 

「…井の中の蛙が大海を知ったら、もう井の中には戻れないのよ」

 

「えっ…?」

 

知恵を失ったチルノは、もうその言葉の意味を理解することはできなかった。紫は以前チルノと戦った時のように、すらりと伸びた右手の先をチルノの顔に向けた。思わずチルノは息を呑む。

 

「再びあの頭脳を手に入れたいのなら、ひたすらに勉強するしかないわ…ずっとずっと、果てしなく…」

 

 

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

 

「のわああぁぁぁぁぁぁぁー!!」

 

 

 

 

 

 

人里の寺子屋。既に放課の時刻、殆どの子供たちは帰路についたが、粗末な木造の校舎にはまだ大人びた声が響いていた。声の主は上白沢慧音、この寺子屋の経営者兼、教師である。

 

「じゃあ、次は『幻想郷縁起』というのを読んでみよう。本書籍は幻想郷における妖怪の分布域・生息環境・行動パターンなどを観察して綿密に記録したものだ。かの有名な稗田阿一が著したことで知られているけど、原本がそのまま伝わっている訳ではないのさ。稗田家の歴代当主によって校閲や改定がなされてきたというが、現在の当主たる稗田阿求に至るまでの系譜を辿れば…」

 

少々熱が入った講義を行う慧音の目の前に座り、ぽけーっと口を開けて座しているのは、チルノである。

 

「…ふむ。理解が追い付いていないようだが安心したまえ。君はこの寺子屋に住み込みで勉強するのだから、時間はたっぷりあるぞ。毎日十時間、百年ほど勉学に費やせば、人並みにはなるさ」

 

間もなく講義が再開したが、もはやチルノの頭には何も入ってはこなかった。理解できない勉強など放棄して、寺子屋から逃げ出すという手もあっただろう。しかし、今のチルノにはそれを思いつくだけの発想力も残っていない。ぐるぐると吐き気がするほど頭は空回りし続け、ただ机に座っていることが精いっぱいだった…。

 

 

 





「バカと賢人は紙一重とは言うけれど、賢人の殆どは、努力したからこそ賢人になりえたのよ。『学問に王道なし』なんて言葉もあるように、地道に努力を重ねなくてはね…フフフ…」



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桜が見たくて(前編)

本日のお相手:西行寺 幽々子(21) 歌聖


「春ですよー!」

 

春を告げる妖精の声が、晴れ渡った空に響く。春寒が大分ゆるみ、ほがらかな陽気が眠気を誘う今日この頃。幻想郷の各地に自生する桜のつぼみも、今まさに開花を迎えようとしている。

 

「今度の宴会では飲みまくるぞ!」

 

「やめといた方がいいよ、下戸なんだから」

 

あとひと月もすれば花見の季節である。人妖問わず桜の下に集まり、酒を飲み交わす楽しいイベントだ。

 

「桜、早く満開にならないかなー」

 

その言葉を遺し、妖精たちは何処かへと飛び去った。しんと静まり返った桜の木の下に座りつくす者が一人。彼女の名は西行寺幽々子と言った。

 

(満開…ねぇ)

 

桜と同じように美しく桃色に輝く髪を揺らしながら、幽々子は物憂げに桜の木を見つめた。早くに親を亡くしてからというもの、あれだけ意欲のあった歌詠みもすっかり滞ってしまっている。山を見ても、鳥を見ても、風水を見ても、何のアイディアも浮かんでこない。今の幽々子の関心はただ、桜にのみ向けられていた。

 

「もうお花見?気が早いのね」

 

そう幽々子に声をかけたのは、こちらもまた麗しい金色の長髪をたくわえた女性であった。

 

「貴方は…」

 

「私は八雲紫。悩める幻想郷の住民の心のスキマを埋める『スキマ妖怪』なの」

 

心のスキマ。その表現が当てはまるかはさておき、幽々子には心当たる思いがないではなかった。

 

「私は、桜が好きなの」

 

撫でるような春風が吹き、桜の枝が揺れる。すると開きかけた花弁同士がこすれ合い、絶妙なハーモニーを奏でた。

 

「風流で良いじゃない。じきに桜が満開になれば、心も晴れるでしょうね」

 

紫の言葉に、幽々子はやや俯いて応える。

 

「―世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

 

この世に桜がなかったならば、春を過ごす人の心はどれほど長閑(のどか)であることか。古今集からの引用歌であるが、幽々子の心境を見事に表す歌であった。

 

「成程。つまり桜を見るのを他人に邪魔されるのが嫌なのね」

 

「ええ…桜が満開になれば、連日連夜飲めや歌えの大騒ぎ。あんな状況で桜を楽しめるわけが無いわ」

 

幻想郷の花見はまさに花より団子で、桜など誰一人としてまともに見ないばかりか、昼間から夜更けまで延々と飲んだくれる始末。それが桜が散るまで続くのである。深夜になっても、咲き誇る桜の下には歌踊りながら一升瓶を仰ぐ妖怪たちに、いびきをかく泥酔者が転がっている。幽々子は、そんな光景を幾度となく見てきた。

 

「だから、私が桜を楽しめるのは開花前後の一瞬だけ…。」

 

「まったく同意するわ。近頃の若造ときたら、風物詩の情緒を無碍にすること甚だしい」

 

幽々子は自身に寄り添う考えが示されたことに、ある種の嬉しさを感じた。ただ桜が美しく咲き誇るのを見ることだけが楽しみな自分を理解してくれる者など、能天気な刹那主義が支配する幻想郷には存在しないと思っていたからだ。心を許しても良いと感じる相手を見つけたのは、親に先立たれてから天涯孤独な幽々子にとって、何にも代えがたい歓びであった。

 

「誰にも邪魔されずに桜を見られるスポットがあるのだけれど、良ければ見てみない?」

 

紫はそう言うと、虚空に手を伸ばし、空間を引き裂いた。

 

 

 

 

「…こ、これは…」

 

空間の断裂の中を通るという奇妙な体験をした幽々子は、眼前に聳え立つ大木を、呆然と視た。

 

西行妖(さいぎょうあやかし)…永遠の命を持つ桜よ」

 

成程、確かにその大樹の枝の末には、咲いたばかりと見える桜の花がぽつぽつと、そして芽吹きの時を待つ蕾が無数に有る。夜であるのか、辺りの風景は暗くてよく見えないものの、桜だけがぼうっと宝石のように浮かび上がっていた。

 

「…綺麗―」

 

幽々子の口から、思わず零れたその言葉。春風が吹き、桜の花がざわめく。まるで幽々子の言葉に応えるかのように…。

 

「ここは幻想郷の最果てのさらに最果て。酒飲みの妖精どころか、仙人すらも近づかない無頼の地よ。誰も花見の邪魔なんてしないわ…時間さえも」

 

紫の言の真意を読み解くならば、この地は西行妖の妖力が作用しているのか、時間という概念を逸脱した空間のようである。幻想郷の朝夕四季とは全く関係なしに、この桜は咲き続けているらしい。

 

「幻想郷に、こんなにも美しい桜景色があったなんて…」

 

「この桜がある地へは、貴方しか通れない直通のスキマトンネルで行き来できるわ。好きな時にいらっしゃい…西行妖はきっと、何時でも貴方を迎えてくれるはずよ」

 




瑠璃色の空の下、ほんのりと輝く桃色の桜。目を奪われる幽々子を気遣うように、紫はそっと宵闇の中に姿を消していった。ただ一言、言葉を遺して。

「…魅入り過ぎないように、ね…」


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桜が見たくて(後編)

四月。春光が天地にあまねき、各地で桜が花開いた。桜の下に茣蓙を敷いてたむろする人妖の笑い声が、幻想郷にこだまする。しかしその喧騒が幽々子の耳に届くことはなかった。彼女は一人、西行妖の傍らにいたからである。西行妖の咲く地に時間という概念はないと言うが、心なしか西行妖は、前より多くの花弁を麗しく咲かせていた。五分咲きといったところであろうか。

 

(私が来る度に、貴方は一段と美しくなるわね…)

 

幽々子はこのところ毎日、西行妖の下に通っていた。まるで恋に落ちたかのように…。そんな幽々子の気持ちに、西行妖は花びらの何枚かを風に散らして応える。見上げると、西行妖はますます満開に近い、八分咲きとなっていた。

 

(す、凄い…これが…本当の貴方なの…?)

 

一斉に蕾がはち切れ、儚げな花に変容する。花々が枝の末端までを覆い隠すほどの、満開の桜。薄桃色の宝玉とも思しきその姿に、幽々子は心を鷲掴みにされた。

 

「……ッ」

 

感極まった幽々子は、桜の幹に抱きついた。儚げではありつつも、地に根を張ってどっしりと構えた幹が、幽々子の華奢な身体の抱擁を受け止める。

 

「…お願い……貴方の…貴方の全てを見せて…」

 

西行妖の輝きが一段と増し、ますます麗しく咲き誇る。幽々子はその姿に、ただただ見惚れるしかなかった。

 

「あ…あぁぁ…桜…さくら…さくら、ぁぁぁ…」

 

 

 

 

 

「幽々子。」

 

背後から唐突に投げかけられたぶっきらぼうな声に、幽々子は思わず振り返る。そこには、紫の姿があった。

 

「『酒は飲んでも呑まれるな』…貴方が忌み嫌う、酔っ払いどもの戯言よ。でもどうかしら。今の貴方は…桜に呑まれている」

 

まるで自分とは別の世界にいるように、淡々と文言を並べる紫の姿を、幽々子はまだ桃色に染まったままの視界を通して見た。

 

「その虚ろな目…すっかり西行妖の虜になってしまったようね。言ったはずよ、魅入り過ぎてはいけないと」

 

語気を荒くされても微動だにしない幽々子を見て、紫は言葉を継ぎ足した。

 

「…貴方の名は、西行寺幽々子。その桜の名は、西行妖。これが偶然の一致だと思う?」

 

紫は続ける。

 

「貴方のお父様は立派な歌聖でいらっしゃったわ。でもある日、ふらっと歌詠みの放浪に出てから、貴方の前には姿を現していない」

 

「…どうして、その事を…」

 

突拍子もなく持ち出された父の話題に、幽々子は初めて口を開いた。

 

「貴方は、お父様が妖怪に食われたと聞かされたそうね。でも…本当はそうじゃない。お父様は、ちょうど貴方と同じ末路を辿ったのよ」

 

「………え?」

 

「何処からかこの地に迷い込んだお父様は、西行妖と出会い、心を奪われた。そのまま死ぬまでこの地に居続けたの」

 

あまりにも突然な話に、幽々子は耳を疑い、紫の方に向き直った。この美しい西行妖が、父を死に追いやった…俄かには信じがたい話であるから、無理もない。

 

「風流心から近づいてきた人妖をその美貌で捕らえ、命を吸い尽くす妖樹…。貴方のお父様の死を皮切りに『西行妖』と名付けられたのは、最近の話だけれど」

 

「…違う…出鱈目よ…っ!この桜は、小さな私を受け止めてくれた…だから…」

 

頑なに紫の囁きを否定する幽々子。そんな幽々子に、紫は言う。

 

「それなら今一度、桜を見てみなさい」

 

その言葉を聞き、幽々子はゆっくりと桜を見上げた。

 

「……なっ…!?」

 

確かにそこには、満開の桜があった。しかし、幽々子の眼に映った桜の姿は、今までのような慈悲に溢れた天女のような姿ではなく、吐き気を催すほどの悍ましい妖力を発する、冷酷で残虐な邪樹のそれであった。

 

「嘘…でしょ……」

 

裏切られた。経験したことのない感情が、幽々子の心をきつく締め上げ、蝕んでいく。ただ呆然と立ち尽くす幽々子が気付くと、後頭部に紫の人指し指が押し当てられていた。戦慄にも近い恐怖に跳ね上がった幽々子が、震えたまま動けないでいると、紫は表情一つ変えずに語り掛けた。

 

「貴方はお父様と同じように、死ぬしかないわ。安心して頂戴…楽に逝かせてあげる」

 

 

 

 

 

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

―幻想郷に、何千回目かの花見シーズンが到来した。商店が酒樽の手配に忙殺されているのと時を同じくして、軒先で曇り空をただぼんやりと見つめる、幽々子の姿があった。

 

「最近の調子はどう?」

 

振り向くと、どこから入って来たのか、紫が立っていた。感情の起伏に乏しく、あまり話の合う者がいない幽々子にとって、紫は気の置けない唯一の友人である。

 

「お陰さまで順調よ。…紫には感謝してもし尽くせないわ。記憶喪失の私をこんなに広々とした屋敷に住まわせてくれたばかりか、庭師まで付けてくれるなんて」

 

紫は幽々子の恩人でもある。記憶を失い、自分が何者なのかすらも覚えていなかった幽々子に、衣食住を提供してくれたのだ。

 

「山中で行倒れていた貴方を見つけた時は吃驚したものよ。自分の名前だけは忘れなかったのが幸いね。記憶が戻るまで、ここでゆっくり暮らすと良いわ」

 

幽々子は、一体なぜ紫が自分の面倒を見てくれるのか分からなかったものの、あまり詮索しても無粋だと思い、現状に甘んじることにした。

 

「ところで…私が頼んでおいた桜の世話、やってくれているかしら」

 

「えぇ、勿論。それが私の唯一の仕事だもの…毎日しっかり手入れをしているわよ」

 

幽々子が住む屋敷―白玉楼と言うらしいが―の庭園には、一本の桜が立っている。枯れ木のような桜は、春になっても花をつけることはない。紫は幽々子に、この桜の番をさせているのだ。

 

「しかし…どうしてこんな桜を丁重に守らせる必要があるのか、私には分かりかねるわ」

 

幽々子が当然の疑問を紫に投げかけると、紫は帰路につく足を止めて、こう返した。

 

「風流というものは、理屈を必要としないものよ」

 

成程、と幽々子は納得した。紫とはお互いに歌を詠み合う仲である。紫の心中を察し、幽々子はやはり詮索を避けた。

 

「また碁でも打ちましょう。それじゃ幽々子、元気でね」

 

「こちらこそ。何時でも歓迎するわ、さようなら…」

 

 







幽々子は、あの桜が封印された西行妖であることにも、自身の亡骸が人柱として桜の下に埋まっていることにも、気づくことはないだろう。彼女は人身御供となり、西行妖と共に死んだのだ。亡霊となった彼女は、西行妖の根付く冥界に居を構え、かつて自分が愛した妖樹の躯とともに、永遠の時を過ごしている。


「…たまには幽々子も、花見酒に誘ってみようかしら」

紫はそう呟くと、冥土の暗闇に紛れて消えていった。


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かけがえのない宝物(前編)

本日のお相手:寅丸 星(1672) 虎妖怪/毘沙門天代理


「―全く、何度言えば分かるのかねぇ」

 

灰色の髪をした鼠妖怪は、呆れ顔でため息をついた。その視線の先に見据えるのは、金髪の虎妖怪である。

 

「いや、私も無くすつもりで無くしているわけでは―」

 

そこまで抗弁したところで、虎妖怪は口ごもった。鼠妖怪の軽蔑の視線が、一層強くなったように感じたからだ。

 

「何を当たり前のことを言っているんだい。無くすつもりで無くされてたまるかっての」

 

「はい…。」

 

虎妖怪はしょんぼりと肩を落とした。虎妖怪は、鼠妖怪に無くし物について叱責されているようだ。これでは窮鼠猫を噛むどころか、鼠が虎を噛む状況である。

 

「今回は私がたまたま見つけたからいいけれど、次は見つからないかもしれないよ。そうなったらどうするの、ご主人?」

 

―ご主人。そう、建前上は虎妖怪が鼠妖怪の主人であるのだ。しかし、実際の力関係はご覧の通り全くの逆で、虎妖怪はことあるごとに鼠妖怪に叱られていた。そんな威厳のない虎妖怪の名前は、寅丸星。命蓮寺のご神体として妖怪たちの羨望の的になっているが、実際には多忙な毘沙門天の代理役に過ぎない。彼女自身はただ人が良いからという理由で代理役に抜擢されたのだが、あまりの空回りぶりを見かねた毘沙門天が、鼠妖怪、もといナズーリンを監視役として使わしたという訳だ。

 

「このままだと私の監督責任まで問われるんだから。勘弁してくれよ」

 

そう言うと、ナズーリンは手に持った仄かに輝く仏具を手渡した。これは宝塔といい、毘沙門天の代理役としての必需品だ。ところが忘れっぽい星は、これをすぐに無くしてしまう。行幸に出かける度になくすので、一時はナズーリンが外出禁止令を出したほどである。最も、代理役の職務のために寺に居座ってのんびり暮らすことの多い星には、大した効果を発揮しなかったが。

 

「分かっています。金輪際、宝塔は無くしません。誓いますから」

 

「くれぐれも、妖怪と炉端で話し込んでそのまま置き忘れるなんて馬鹿らしいことが無いように」

 

部下から主人へのものとは思えない説教を受け、星は心の中で猛省した。次こそは何が何でも無くすまい。

 

「それじゃ、私は出かけてくるよ。住職(聖白蓮)は他の僧と一緒に説法に出たようだから、留守をよろしく」

 

ナズーリンの言葉を耳にして、星はふと空を見上げた。陽はもう落ちかけている。結局、こんこんと1時間は説教されてしまったようだ。星は自分の不注意さを戒めつつ、久々に自分一人の時間を得られると内心喜んだ。

 

「留守番とは丁度良いですね。宝塔を無くすこともないでしょうし」

 

「…外へ出たら無くすってのかい?」

 

「あっ、いえ、一言余計でした。では失礼」

 

浮かれすぎて、うっかり口が滑った。星はきまりが悪そうに履物を脱ぐと、早々に寺の中へと退散した。その何となく頼りない後ろ姿に、ナズーリンは苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

「やれやれ、あんな方が毘沙門天様の代理を務めているとは。世の中は分からないものだねぇ」

 

その独り言を言い終わらないうちに、ナズーリンは虚空に向かい飛び立った。宝塔探しよりももっと重要な、財宝探しという副業に精を出すために。

 

 

 

 

 

 

 

「…………無い」

 

座布団の裏、松明台の上、門の下、歯磨きついでに口の中。どこを探せど、宝塔が見つからないのである。つい先ほど、饅頭を口に投げ入れた時までの記憶はあるが、それから宝塔をどこへ置いたかが思い出せない。食後の散歩などするべきでなかったと、今更ながら後悔の念が襲ってくる。星の頬を、一滴の冷や汗が伝った。

 

(ナズーリンにこの事が知れたら、カンカンに怒るだろうなぁ)

 

塩を塗った爪楊枝で歯と歯の間をこそぐ手を止めて、星はナズーリンが激昂するさまを想像した。今度は何時間説教されるか分かったものではない。何としても、自分の手で探し出さなければ!星は爪楊枝を屑籠に入れた。

 

(そういえば、大昔に聖が言っていた。誰かに語り掛けるときは、まず相手と同じ目線に立てと)

 

星は身をかがめ、四つん這いになった。視点がぐっと下がり、背丈が饅頭の皿を乗せた机と同じくらいに感じられる。こうして目線を下げれば、足元にある宝塔を見つけやすいという訳だ。星はそのまま周囲を見渡したが、宝塔は影も形もない。星は四つん這いで部屋から部屋へと移動しつつ、箪笥や戸棚の中や隙間を覗いてみた。しかし、宝石の入った小箱や布施の管理録など、つまらないものしか見つからなかった。

 

(………?)

 

星は妙なものを見つけた。2本の細い柱のようなものが、ベールに覆われている。柱に触ってみると、肌のように温かい。星は、四つん這いのまま柱が伸びる先を見上げた。そこには、薄笑いを浮かべる妖怪の顔があった。

 

「うわぁっ!?」

 

思わず星がのけ反ると、妖怪の全貌が明らかになった。星と同じ金髪だが、ロングヘアで髪色もどことなくくすんでいる。屋内にもかかわらず差していた日傘を閉じると、妖怪はすっと手を合わせ、言葉を放った。

 

「これは有難い。こうして合掌すれば、毘沙門天のご威光も少しは賜れるかしら」

 

すっかり忘れていたが、自分は毘沙門天の代理であった。そんな毘沙門天の代理が、一匹の妖怪を目の前にして地に手を突いている。自分が不都合な状況にあることに気が付いた星は、取り乱しつつも起き上がる。そして、平静を装って咳払いをし、妖怪の問いかけに応えた。

 

「勿論です。祈る者が拒まれることはありませんから」

 

「では遠慮なく…。どうか、貴方の無くした宝塔が見つかりますように。南無南無」

 

「…え!?」

 

あまりに色々なことが突然に起きるので、星の理解は全く追いついていない。なぜこの妖怪は宝塔を紛失したことを知っているのか?そもそも、この妖怪は誰なのか?どうやってこの寺の中に音もなく入ってきた?

 

「何だか不安そうな面持ちだけれど、本当にご利益はあるのかしら」

 

いつの間にか合掌を終えていた妖怪は、星の心を見透かしたようにそう言って笑った。

 

「…あなたは、一体…何なんですか!」

 

そう叫ぶと、星は堰を切ったように妖怪を質問攻めにした。星がナズーリン以外にここまで動揺した相手など、この妖怪以外に居なかった。

 

 

 

 

「…なるほど。つまり、あなたは心にスキマがある者の近くに現れるスキマ妖怪であると」

 

「仰る通り。そして、そのスキマを埋めるのが私の仕事よ」

 

八雲紫と名乗るその妖怪は、何もない空間に手を伸ばし、まるで菓子折りを開くように容易く空間を引き裂くと、その中から宝塔を取り出した。

 

「…あぁっ!?それは…」

 

「外に松明台があったでしょう。あの台の根元の草陰に立てかけてあったわよ。まさに灯台下暗しね」

 

星は思わず、差し出された妖怪の手からひったくるようにして、宝塔を取り上げた。

 

「…すみません。これは私にとって、命よりも大切な宝塔ですので…」

 

「そんな宝塔を、腹ごなしの散歩中に置き忘れて、雨ざらしにしていたのは誰かしら?」

 

こういう正論をぶつけられては、いくら冷静沈着な面持ちで取り繕っても意味をなさない。星は観念したのか、気張ったような態度をやめ、ナズーリンに接するかのような砕けた口調で話し始めた。

 

「私はいつもこうなんですよ。毘沙門天様に代理役を頼まれた時は、これほど粗相をすることは無かったのですが…。やはり千年万年と生きる妖怪と言えども、寄る年波には勝てません。職務に慣れてきたこともあるのでしょう。この1週間で、宝塔を無くすのは5回目です。正直に言うと、自分の不甲斐なさに苛立つことも多いのです。私はこれからどう人々の信仰に応えていけばいいのか、分からない…。」

 

星は、今まで誰にも打ち明けられずに蓄積してきた心情を、開けっぴろげに吐露した。まるで妖怪たちが聖に告解をする時のように、弱弱しい声で―。

 

暫く取り留めもなく悩みを話してから、星はハッと気づいた。こんな弱音を一般妖怪相手に白状してどうする?もしこれが噂になって広まれば、毘沙門天への信仰にも差し障りがある。つくづく自分の気の抜けた性格を恨みながら、星は再び行儀よく居直ろうとした。しかし紫は、星の言葉に思いもかけない反応を示した。

 

「その無くし癖、何とかしてあげましょうか」

 

そう言うと、紫は星の眼前に人差し指を向けた。またしても星は訳が分からなくなった。この妖怪は一体何をしようとしているのか。

 

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

「うわぁぁぁぁーっ!!??」

 

幻術の類だろうか、星は眼前に広がったこの世の物とは思えない光と色にたじろいだ。しかし、ぱちぱちと瞬きをすると、光と色は霞のように消えてしまった。

 

「ッ…な、何をしたんですか!」

 

「ちょっと驚かしただけよ。悪いけれど、花を摘みに行かせてくれる?」

 

「…(かわや)ならそちらの長廊下の先です」

 

紫の真意が全くつかめない星はただただ圧倒され、紫が部屋を出ていくのを見送る気にもなれなかった。こんな妖怪には出くわしたことがない。

 

その刹那、何か声が聞こえた。

 

(助けて、星…助けて…)

 

誰の声とも言えないが、どこか聞き覚えのあるような声。しかし現実の者の発声ではない。テレパシーのように、星の頭に響いてくる。その共鳴は、星の背後から伝わったような気がした。

 

(星…ここよ…ここよ…)

 

「あっ…!?」

 

声のする先に振り返った星の目には、宝塔を後ろ手に持つ紫の姿が映った。慌てて手元を見ると、紫から取り上げたはずの宝塔がない!星は慌てて、紫を呼び止めた。

 

「あなた、いつの間に宝塔を!」

 

「フフッ、聞こえたようね…宝塔の声が」

 

宝塔の声?きょとんとする星に紫が宝塔を手渡すと、星が感じていた声は消えた。

 

「貴方が宝塔に抱く思いを、宝塔に乗り移らせたのよ。付喪神(つくもがみ)と同じような原理だと思ってもらえばいいわ」

 

「つくもがみ…長く使われた琴や三味線に心が宿るという、あれですか」

 

「貴方の宗教観とは相容れないかもしれないけどね。でも、これで貴方はもう宝塔と一心同体。貴方の手から宝塔が離れれば、宝塔が直接貴方に語り掛けて教えてくれるわ」

 

星は、宝塔をまじまじと見つめた。いつもと変わらず使い込まれた宝塔であるが、どこか温かみがあるようにも感じた。確かに、先程のように宝塔が持ち去られようとしても教えてくれるのなら、例えどんな場所に置き忘れようとも、すぐに気づいて取りに戻ることができるだろう。

 

「宝塔の声はどんな状況でも絶対に貴方に届く。そして貴方はその声に応えればいい。簡単な話でしょう」

 

妖怪が自分に助け舟を出してくれたことに気が付いた星は、ただ感心するばかりであった。

 

「いやはや…何と言いましょうか…私の不徳をこんな方法で治すなんて…あなたは一体…。」

 

「大したことは無いわ。これで貴方の心のスキマが埋まれば幸いよ…それじゃ」

 

再び空間を割いて寺を後にしようとする紫を見て、星は大事なことを言い忘れたのに気づいた。

 

「あ……紫さん、でしたか。本当にありがとうございます!」

 

ぺこりと頭を下げた星に、紫は柔らかな笑顔を浮かべた。

 

「よしなさい、ただの妖怪に頭を下げるなんて。威厳ある姿を取り戻さなきゃ」

 

「…はい!」

 

星は紫に向き直った。その瞳からは紫と会ったばかりの不安げな曇りが消え、毘沙門天のごとき透き通った眼がそこにあった。

 

「さっきも言ったように、宝塔は貴方の分身のようなもの。絶対にその語り掛けを無視してはダメよ」

 

紫は付け加えるようにそう言うと、空間の裂け目の中に消えていった。星は再び手に取った宝塔を見つめると、ぎゅっと胸元で抱きしめた。

 

(大丈夫。もう離さないからね…)

 

 




「あの純真な瞳…彼女の宝塔を想う気持ちは本物ね。でも、その純真さが、かえって仇になるかもしれないわ。何事も起こらなければ良いのだけれど…フフフ…」



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かけがえのない宝物(後編)

山の木々も一段と色づく季節、命蓮寺もまた紅葉の中に沈んでいた。暇を持て余した星は、散り積もる紅葉の葉を竹ぼうきで掃き集めつつ、秋の夕べを楽しんでいた。

 

「焼き芋いかがですか~。おいしいおいしい、穣子の焼き芋ですよ~」

 

気の抜けたような豊穣の神の声が聞こえてくる。ちょうど小腹が空いていた星は社から離れ、声のする山道へと道を下っていった。

 

「うぅ~ん、美味しい!やっぱり秋は食欲の秋だね」

 

買い上げた焼き芋を頬張りながら、星は幸せそうな笑みを浮かべた。芋を食べ終わった後は掃除の続きをして、それから心地よい微睡(まどろみ)に入ろう。

 

(星…星…どこへ行くの…?)

 

「あっ!」

 

星の脳裏に、あの声が響いた。振り返ると、焼き芋屋の台車の隣に、宝塔がぽつりと置かれている。小銭を財布から取り出そうとした時に地べたに置いて、そのまま焼き芋に目を奪われて忘れてしまっていたのだ。星は慌てて宝塔の傍に駆け寄り、そっと宝塔を撫でた。

 

(戻ってきてくれた…ありがとう、星…)

 

「本当にごめんね。次は気を付けるよ」

 

宝塔をさすりながら独り言を唱える星の姿を、焼き芋売りは怪訝そうな目で見つめていた。宝塔と心を通わせてから一か月以上が経ち、星と宝塔はお互いのことを気にかけるベストパートナーになりつつあった。つい宝塔を忘れそうになると、宝塔が星に声をかけ、星がそれに応えて優しく包む。そんな日々が、秋も深まるまで続いていたのだった。

 

 

 

 

 

秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、満腹になった星がひと眠りすると、もう日は落ちていた。宵闇に紛れて、鈴虫の音色が聞こえてくる。星がふと廊下に出てみると、玄関には月明かりに照らされた二つの影があった。ナズーリンと、この寺の住職の聖白蓮のものだ。

 

「聖、今から出かけるのかい?」

 

「ええ。麓の八百屋のご主人が急逝されたそうで、その葬儀関係で色々とね。今夜は遅くなりそうだから、留守をお願いしたいの。星と夕飯を済ませていてもらって構わないわ」

 

そう言うと、聖は他の僧侶たちと寺を後にした。毘沙門天代理として寺に居座らなければならない星とは異なり、彼女は冠婚葬祭や講演会などの周辺行事にも引っ張りだこである。

 

「私と違って、忙しいものですね」

 

見送りがてらに部屋から顔をのぞかせた星の呟きに、ナズーリンは皮肉交じりにこう返した。

 

「ご主人は頼りがいが無いからなぁ」

 

この挑発に対する星の反応が一向にないので、ナズーリンは思わず振り返った。もう星は頭を引っ込めてしまっていた。部屋の障子をすっと開けてみると、早くも二度寝した様子の星の寝顔があった。

 

(つくづく拍子抜けなご主人なこった…)

 

呆れ顔をしつつ障子を閉めたナズーリンは、鈴虫の声に惹かれて外へと足を踏み出した。秋の夜空にぼうっと浮かぶ半月を見つめつつ、ナズーリンはしばし物思いにふけった。

 

 

 

 

 

星は不意に目が覚めた。記憶が定かではないが、ものすごい悪夢を見たような気がする。耳鳴りを抑えながら、星は薄暗い部屋の中で半分寝ぼけつつ上半身を起こした。その瞬間、外から鳴り響いた激しい物音が、星の体を震わせた。物音に交じって、怒鳴り合うような声も聞こえてくる。部屋を出ようとする星に、机の上に置いていた宝塔が語りかけた。

 

(どうしたの?…私を置いて行かないで…)

 

星は慌てて宝塔を手に持つと、急ぎ玄関へと向かい、戸口を開けて状況を一瞥した。

 

「いい加減にしてくれ、私は君と戦うつもりなんてないんだ!」

 

「あぁ~?ゴチャゴチャうるさいな!私は今イライラしてんだよ~!!」

 

寺の前で、何やら見たことのない少女とナズーリンが対峙している。妖怪だろうか?橙色の長髪を蓄え、頭には巨大な二本角。手に持った大きなひょうたんからは透明な液体が零れ出ている。この鼻を突くにおいから察すると、酒のようだ。彼女自身も相当酔っ払っているらしく、言っていることは支離滅裂である。

 

「霊夢のやつとはもう絶交だぁ!ヒック、急用ができたから宴会は中止だとぉ?私の酒が呑めないってのか、おい!」

 

「君に何の事情があるのか知らないけど、とにかく一旦落ち着いて…」

 

「あんたみたいなネズミに私の気持ちが分かるかってんだ!どーせ私には一緒に酒呑む相手もいないんだよ!ちくしょー!」

 

怒っているのか泣いているのか、べろべろに酔ったその少女は、手に鎖で繋がれた分銅状の物体をぶんぶんと振り回した。分銅が風を切る音は、以前に命蓮寺の屋根瓦を吹き飛ばした台風のようである。明らかに常識外れな少女の力に星が恐怖を抱いたのと同時に、振り回された分銅が石灯篭に直撃した。轟音と共に、灯篭は粉々に砕け散った。

 

鬼―その恐るべき怪異の存在を星が思い出すまでに、そう時間はかからなかった。幻想郷において殆ど消滅したと思われていた、人を食う妖怪をも凌駕する最強の存在。正気の鬼ならまだ説得も可能だが、こうも酔っ払っているとたちが悪い。間違いなく、ナズーリンが敵う相手ではない…星はそう直感した。

 

「私の名を知ってるのかぁ~?伊吹萃香(すいか)だぞぉ!…あっ!今、西瓜(すいか)だと思ったんだろ!ネズミごときが私をバカにするなんてぇ~!許せない、許せないぃ!」

 

勝手にどんどんヒートアップする飲んだくれの鬼・萃香。一方のナズーリンは、鬼相手には役立たなそうな2本の鉄棒を構えながら、じりじりと迫る萃香を睨みつけている。一触即発だ。星は思わず、玄関から走り出て叫んだ。

 

「ナズーリン、逃げてください!彼女は―」

 

「あぁ~!?」

 

星の呼びかけと同時に、振り返った萃香のぎらついた眼が星を射すくめた。その刹那―

 

(あれ…?私、なんで浮いて…)

 

星は自分の置かれた状況を理解できずにいた。自分の意志とは無関係に、身体が地を離れた。何が起きたのか確認しようにも、目の前が真っ暗でどうしようもない。星が全てを理解したのは、胴から地面に落ち、耐えがたい鈍痛が脇腹に響いてきたのを感じた時だった。

 

「うぐっ………!!」

 

萃香が振り返った拍子に分銅の軌道が代わり、運悪く星の体を直撃したらしい。これがもし脆い人間であれば、命すらも危ぶまれるところだったが、星は腐っても古参の妖怪である。それでも星は、一気に数メートル吹き飛ばされたようだ。衝撃と痛みで朦朧とする意識の中で、星は揉み合う二人組の声を聴いた。

 

「この酔っ払い!よくも…よくもご主人を!」

 

「痛ッ!…やったな、ネズミ!」

 

しかしその声をかき消すように、もっと大きく悲痛な声が、星の頭に直接響いた。

 

(痛い…痛いよ…助けて…星…)

 

星が半身だけ起き上がって後ろを見ると、砂利で覆われた坂道の下に宝塔が落ちている。星と一緒に吹き飛ばされ、転がっていってしまったらしい。

 

「…! 宝塔が……取りに…行かなきゃ…」

 

星は痛みを堪えつつ何とか体を起こし、宝塔のある坂道を見据えて立ち上がろうとした。

 

「うぎゃあっ!!」

 

不意の雷鳴のような、分銅が石畳を削る音と同時に響いたその声に、星は再び振り返る。星の眼には、萃香がナズーリンを蹴り飛ばす姿がくっきりと映った。必死のガードも空しく、ナズーリンの小さな体は簡単に宙に浮き、そのまま重力によって地面へと叩きつけられる。

 

「ぐあ……っ…」

 

「私を、私を皆でバカにした報いだぁっ!」

 

完全に悪酔いしている。こうなるともう歯止めが利かない。萃香はすっかり理性を失い、倒れ込んだナズーリンの背中を足で思いっきり踏みつけた。思わず目を覆った星の後ろから、また宝塔の声が響く。

 

(星…はやく…たすけて…こっち…こっち…)

 

 

だが、星はもう、振り返らなかった。

 

 

ナズーリンを再び踏みつけようと足を振り上げた萃香は、いきなり背後から突進してきた星の体当たりで、バランスを崩して転倒した。

 

「いででっ!!…何すんのさっ!!」

 

鬼神のごとく凄みを効かせてくる萃香を相手に、星は震えながら立ち塞がって叫んだ。

 

「…ナズーリンを痛めつけるのは…私が許しません!」

 

「ご、ご主人……!」

 

その澄んだ瞳の中に、萃香は何か強大なものを本能的に感じ取ったらしい。

 

「きょ…今日の所は、勘弁しておいてやるぇ!…ウプッ、気持ち悪…」

 

本格的に酔いが回ってきたのか、乱闘で血が上ったのか、二人に背を向けた萃香はもはや歩くことすらおぼつかず、茂みの中を転がるようにして逃げ去っていった。

 

怪我はないかと尋ねてくる星に、ナズーリンはそちらこそ大丈夫かと返した。幸いにもお互いに軽い打撲や擦り傷で、絆創膏と湿布を貼り合って解決する程度で済んだ。

 

「ちょっとは、見直したよ…ご主人のこと」

 

湿布を貼った位置を体をひねって確かめつつ、ナズーリンはそう呟いた。星は、頬を赤らめて微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

(庭もめちゃくちゃになっちゃったな…聖が帰ってきたら説明しないと)

 

ナズーリンが夕飯の支度をしている間、打ち砕かれた灯篭の破片をちりとりとほうきで攫っていた星は、ふと背後に気配を感じた。また萃香が戻って来たのではないか?恐る恐る後ろを向いた星が目にしたのは萃香ではなく、あの金髪ロングヘアの妖怪・八雲紫だった。紫は開口一番、こう問うてきた。

 

「貴方、宝塔はどうしたの?」

 

 

…宝塔。宝塔?宝塔!! その単語が星の頭の中を駆け巡り、まるで縄のように締め付けた。紫はいつの間にやら宝塔を片手に持ち、冷たく言葉を続ける。

 

「この宝塔も可哀そうにね。必死で星に助けを求めたのに無視されて、ついには忘れられてしまった」

 

「…わ…私は宝塔のことも考えて…でもナズーリンを…」

 

星は言葉に詰まった。今まで宝塔と心を通わせ、信頼し合ってきた日々を思い出したからだ。宝塔よりもナズーリンを優先させたあの時の判断が、間違っていたとは思わない。しかしナズーリンを助けた後、星が自分から宝塔のもとへ駆けつけることは無かった。宝塔のことなど、頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのである。宝塔はきっと、星と共に過ごした日々の全てを否定されたように思ったに違いない。もしあの後、いつものように宝塔の下に駆け寄って、優しい言葉をかけてあげられていたら…。

 

「貴方の選択は尊重するわ。ただ、もうこの宝塔は貴方に語り掛けてはくれないでしょうけどね」

 

「うぅ…」

 

思わず星の瞳から涙がこぼれた。そんな星に、紫のしなやかな人差し指が向けられる。

 

「それでも貴方がもう一度宝塔と心を通わせたいなら、最後の手段があるわ」

 

紫はそう言うと、星の揺れる瞳孔を見つめながら不敵な笑みを浮かべた。

 

「もう絶対に宝塔から離れないようにしてあげる」

 

星は言葉も発することができないまま、紫の幻術を一身に受けた。

 

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

 

 

 

 

 

 

「ご主人、遅くなってごめん。夕飯できたよ」

 

戸口から出てきたナズーリンの呼びかけに、庭で放心したように立っていた星は、ゆっくりと頷いた。

 

「「いただきまーす!」」

 

久しぶりの二人ご飯。だいたい夕飯時になると聖と一緒に食卓を囲むか、ナズーリンが遠くのねぐらに戻っていて不在かのどちらかで、星とナズーリンだけでご飯をつつくというのは珍しい事であった。

 

「これからは宝塔も大事にしますし、ナズーリンのことも大事にしますからね!」

 

「ちょっと…嫌だなぁご主人。私なんかさ…」

 

ナズーリンは星の素直な発言を煙たがりつつも、ほっぺたを赤くしていた。ナズーリンは気恥ずかしさを隠そうと、自分以外の話題を持ち出した。

 

「ええと…というかご主人、宝塔を大事にするのはいいけど…食事中もずっと持ってるってのは不便じゃないかい?」

 

自然な疑問だった。星は左手に宝塔を持ちながら、右手の箸だけで食事を取っていたのだ。

 

「私と宝塔は一心同体ですから。こうしてずっと持っていなければならないんですよ。まさか宝塔と茶碗を同時に持つこともできませんし」

 

「ハハハ…本当にご主人は融通が利かないね。別に食事の時くらい置いといても怒りゃしないよ。そんなに心配なら、私が持ってるから。ほら、宝塔を貸してくれ」

 

ナズーリンは小さな手で宝塔を掴むと、星の左手からぐいっと引き離そうとした。しかしどういう訳か、全く離れない。左手首をしっかりと握って、もう一度試しても同じである。

 

「……!? お、おい…星、これは……!」

 

ナズーリンは目を疑った。星の左手は、宝塔と()()()()()()()。まるで星の身体の一部であるかのように、宝塔が星の左手に根付いて…。

 

言葉を失うナズーリンを見て、星はまったく普段通りに、寸分の淀みもない清らかな瞳を向けて語り掛けた。

 

「先ほど言ったではないですか、ナズーリン。私と宝塔は、『一心同体』だって…。」

 




「どちらかを選んで、どちらかを捨てろ。その選択の対象が家具とか玩具とか、モノであったとすれば、多くの人はすぐに決断できるでしょう。逆に選ぶ対象がヒトだったら、結論すら出ないかもしれないわね。じゃあ、もしヒトの心を持ったモノだったら…? …あぁ、この手の倫理問題は苦手だわ」


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腹が鳴るなり地獄行き(前編)

本日のお相手:ルーミア(634) 闇の妖怪


 

ぐきゅるるぅぅぅ~…

 

いささか間の抜けた音が、妖怪の山の中で鳴った。いつもに増して居所が悪い腹の虫を抑え込みつつ、一人の少女は呟いた。

 

「はぁ…おなかすいたなぁ」

 

少女の名はルーミア、闇を操る程度の妖怪。肩書きは大層なものだが、実際にはまともな食事にもありつけない小妖である。彼女の隣に座り込んだ蟲の妖怪リグルも、同じ悩みを抱えていた。

 

「余計にお腹空くから、何も言わないで」

 

「んー…だって最近、ウナギを食べられてないんだもの」

 

ミスティアの屋台に訪れては、売れ残りの鰻のかけらをご馳走になるのがルーミアの日課だ。ところが、ここ最近はミスティアの行方が分からず、貴重な食糧源を失っていたのだ。

 

「あー。ミスティアの鰻屋、潰れたんだってさ」

 

「なんだって!?」

 

山肌に寝転がっていたルーミアは、思わず体を起こした。

 

「どっかの大妖の怒りを買ったんだと。災難だよね」

 

ルーミアの大きな瞳が、ぐらぐらと震えた。リグルにとっては他人事だが、ルーミアにとっては死活問題である。

 

「…あーもう、おまんまの頼りがまた一つ無くなった!」

 

再び山肌に体を託したルーミアは、手足を無防備に大地へと放り出し、うつろな目で空を見つめた。空腹のせいで何のやる気も湧いてこない。

 

「ん…」

 

紅く焼けた夕日を見上げながら、ルーミアはふと視界に入った虫をつかみ取った。それは一匹のコガネムシであった。

 

「…これって、食べられるのかなぁ…」

 

その言葉と同時に、ルーミアの口から一滴の涎が零れた。

 

「ッ…ダメだよ!一寸の虫にも五分の魂でしょっ!」

 

「ちぇっ。リグルは虫にはうるさいんだよなぁ」

 

リグルの言葉を冗談交じりに受け止めると、ルーミアは掌を開いた。コガネムシは何事もなかったかのように、小さな翅を羽ばたかせて、大空へと舞っていった。その様子を、ルーミアとリグルは無心で見つめるだけだった。

 

「…虫はいいよね…。気楽で、自由で…」

 

妖怪は古来から、人間を襲って食い、長い年月を生き延びてきた。しかし、近年の幻想郷では妙な社会秩序が形成されており、人間と妖怪は共存傾向にある。つまり、妖怪は人間社会に溶け込んで暮らすか、それとも人間という食糧に頼らず自然の中の飢えに回帰するか、どちらかを選ばなくてはならなくなったのだ。

 

「薪や鰻を売ったり、寺子屋を開いたり…色々やって日銭を稼いでる妖怪はいるみたいだけど」

 

「私はムリだよ~…商売できるほど地頭もよくないし、汗水たらして人間様のために働くのも嫌だもの」

 

そう二人で愚痴をぶつけ合っている間に、また少し陽が傾いた。リグルは思い出したように立ち上がると、寝転がったルーミアに別れを告げる。

 

「さて、そろそろ私は食べ物探しに出るとするよ。じゃあね」

 

「食べ物って、どこか当てでもあるの?」

 

「さぁ…蛍たちの赴くままに飛び回るだけさ」

 

そう言うと、リグルは蛍たちの光を伴って、空の暗がりに吸い込まれるように消えていった。

 

 

 

 

 

ぐぎゅるるるぅ…

 

 

 

 

独りになると、自ずと空腹感が増してくる。すっかり暗くなった空を見つめて、ルーミアは思わずため息をついた。

 

「はぁ…いっそのこと、闇に紛れて消えてしまいたいな…」

 

「あらそう?じゃあ、私が食べてあげようかしら」

 

気づくと、ルーミアの眼前には、宵闇ではなく、不気味に笑う妖怪の顔が映っていた。人間だったら、間違いなく失禁ものである。

 

「うわぁ…びっくりしたぁ…」

 

もはやリアクションする余裕もなく、ルーミアは寝転がったまま覇気のない反応を返した。

 

「あらあら、面白くない子ねぇ。お腹が空いたの?」

 

「…子供扱いしないでよ。これでもあんたと同じくらい長生きしてる、妖怪なんだからさ」

 

ルーミアは腹の減り具合もあって、露骨に機嫌を悪くした。これでも一応、数百年間は自分の知恵で命をつないできた妖怪である。それなりの自尊心はあった。

 

「御免なさいね。私は紫、あらゆるモノの心のスキマを埋める妖怪よ。」

 

「スキマ?私は心のスキマじゃなくて、お腹のスキマを埋めてほしいけどねー。」

 

ルーミアがつまらなさそうにあしらおうとするので、紫は早々に本題へと入った。

 

「実は、最近開業を考えてる新しい飲食店があって、その味見役を募集しているの。興味はない?」

 

「…味見?」

 

食べ物の話題になると、ルーミアは文字通り食いついた。紫は口元に笑みを浮かべると、宵闇をかき回すように手を仰いだ。手の動きに沿って空間がねじれ、曲がりながら裂けていく。闇の力とはまた異なるその妖怪の奇術に、ルーミアは見入るばかりだった。

 

 

 

 

 

 

空間の裂け目を抜けると、歪な空間であった。真っ赤な水で満たされた池に、山火事よりも遥かに激しく、天まで届くほどに燃え盛る炎。その奥の小高い山には、木ではなく針が生えているようだ。幻想郷とは思えない、不可思議な世界。

 

「…ここは…?」

 

「ここは地獄。死してなお魂に罪を償わせるための場所…最も、この地獄はもう今は使われていないんだけどね」

 

「ほぇー…そーなのかー」

 

紫の話によると、地獄としての立場を失ったこの旧地獄という世界を、どうにかして有効活用することが求められているとのこと。灼熱地獄の熱風を利用した巨大風車による地上の治水事業や、針山地獄からの鉄鋼採掘など、様々なアイディアが出ているらしい。その一つに、地獄料理の開発があるという。

 

「これが料理用の大鍋ね」

 

ルーミアが見上げるほど大きい鍋。何かが中で煮立っているのか、聳え立つ鍋の中からは湯気のようなものが噴出しているのが見える。

 

「針山地獄の鉄を使って製作された鍋や釜を、灼熱地獄の炎を使って豪快に熱する。フレーバーには血の池地獄の血液を少々…なかなか乙なものでしょう」

 

「そ、そー…なのかなぁー?」

 

食欲が減退するような話を聞かされたルーミアは、どことなく陰気くさい旧地獄の空気に冷や汗をかいた。こういう霊のたまり場のような所は、妖怪にとって居心地が悪いものである。ルーミアの顔が曇ったその時、猫耳を付けた赤髪の女性が、鍋の裏から顔を出した。

 

「おっ?誰かと思えばスキマ妖怪じゃないの。例の味見役はその子?」

 

聞くところによると、彼女は火焔猫燐という名の火車―死体を持ち去る怪異―だそうだ。この大鍋をグラグラと煮立たせている火の元の灼熱地獄に、燃料として死体を供給する役割を担っているらしい。そして、どうやら地獄料理の調理担当でもあるようだ。

 

「地上の妖怪にも、貴方の地獄料理をぜひ堪能してもらおうと思ってね」

 

「ほーん…どうも食い意地張ってるようには思えないけどなぁ。ちっこいし!」

 

燐はルーミアを見るなり、怪訝そうな目ででその小さな体を見つめた。ルーミアは負けじと、燐をにらみ返して叫んだ。

 

「なりは小さいけど、れっきとした妖怪だよ!」

 

「あはは、ごめんごめん!あたい、地上妖怪のいじり方がよく分からないからさぁ」

 

燐の適当な返しにルーミアが鼻息を荒くするのを、紫がたしなめる。

 

「まぁ、こういう純朴な妖怪にこそ、純粋な味覚が期待できるんじゃないかしら」

 

「確かにねぇ。少なくとも、紫みたいな何考えてるかよく分からないのよりは信用できるかな」

 

燐は紫に軽く悪態をつくと、鍋のふちに備え付けられた土台の上にひょいと飛び乗った。ルーミアと紫も、後に続いて土台へと登ってみる。

 

 

鍋の中身を覗き込んだルーミアは、目を丸くした。幅十メートルはある底なし沼のような大鍋いっぱいに、血の池地獄の真っ赤な鮮血が貯められ、ぐつぐつと煮え立っている。その赤い色の中に、照りのある茶色の肉片が見えた。よく見ると血の海には肉汁と思わしき油も浮かんでいる。

 

「…!おいしそう…!」

 

人間ならばとうてい食べる気にはなれないような代物だが、この地獄料理の豪快さとボリュームはルーミアのような妖怪の野生本能を強く揺るがすものだった。燐は、針山地獄から採取したと思しき長い針を血の海に刺し込み、肉片の一つを取り上げた。

 

「今日は大ナマズの煮物を試してみたんだ。早速、試食を頼むよ」

 

ルーミアは自分の顔ほどもあるナマズ肉の塊を燐から手渡され、目を輝かせた。

 

「…いただきまーす!」

 

涎を垂らした口を大きく開けて、肉片にかぶりついた。張りのあるナマズ肉は、煮えたぎる血の湯で柔らかく、ほどよい脂身に茹で上がっていた。ルーミアの口の中に、肉のうまみと浸み込んだ血の味が広がる。

 

「…おいしい!!」

 

長らく口にしてこなかった、血の味。肉の味。鰻のかけらとしょぼい木の実や葉っぱの味に慣れてきたルーミアには、信じられないほど美味に感じられた。

 

「美味しいかい?あたいの料理の腕も捨てたもんじゃないね」

 

「なかなか妖怪受けは良さそうじゃない。この分なら、地上への地獄料理屋出店も近いわね」

 

「一応、あんたとあたいら(地霊殿)の共同事業なんだからね。もし店が成功したら、あたいにもしっかり対価払ってよ?」

 

「えぇ、勿論…」

 

燐と紫は、料理にがっつくルーミアを微笑ましく見ながら、将来の展望を語り合った。

 

 

 

 

 

 

 

気が付くと、ルーミアは鍋の中にあったナマズ肉全てを平らげてしまっていた。

 

「ふぃ~…久々に腹いっぱい食べられたよ~。ごちそうさま!」

 

膨らんだお腹をさすりながら、ルーミアは満足げな笑顔を浮かべた。

 

「そう言ってくれると料理のし甲斐があるなぁ。これから毎日、試食に来てよ」

 

燐の言葉に、ルーミアは目を輝かせた。こんなに美味しい料理を、これから毎日食べられる。もう腹ぺこで困ることなどないのだ。

 

「一つ約束して頂戴。食べ残しは厳禁よ。出されたものは、ちゃんと食べきること。」

 

紫の忠告は、ルーミアにとって当たり前のことに聞こえた。今まで食べられるものなら何でも、木の実は殻まで、魚は骨まで食べてきたのだから、残すことなど考えたこともなかったからだ。

 

「ここは一応、腐っても地獄だからね。食べ物を残すようなやつには、バチが当たるよ」

 

燐はそう付け加えると、ルーミアのおでこをピンッとはじいた。

 

「まっ、あんたは何だか信用できるような気がするから、大丈夫だと思うけどさ!」

 

そう言って笑う燐に、ルーミアも少し打ち解けたような表情で笑いかけるのだった。






慣れ親しんだ妖怪の山に戻ると、ルーミアは紫にお礼を言って去っていった。その満足げで幸福そうな後姿を見て、紫は最初にルーミアに見せたような、どことなく不気味な笑みを浮かべた。


「食べ物のありがたみは、食べ物がないときにこそ分かるもの。あの子はそういう言葉を知っているのかしら?……フフッ」




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腹が鳴るなり地獄行き(後編)







 

 

 

 

今日もまた、陽が沈もうとしていた。夕焼けの中に浮かぶ妖怪の山の影の中に、闇の妖怪ルーミアは佇む。

 

(…お腹空いたなぁ)

 

ルーミアは毎度のようにお腹をさすった。かつてはこの空腹感と共に、どうしようもない不安感が襲ってきていた。次にまともな食事にありつけるのはいつだろうか。明日だったら?明後日だったら?一週間後だったら?

 

…しかし、今のルーミアにそんな心配は無用だった。今日のご飯も、明日のご飯も、一週間後のご飯までもが、ルーミアには約束されているからだ。紫が木のうろの中に開けておいてくれた秘密の通り道をくぐれば、ルーミアにとって最高の晩餐会場…旧地獄へと行けるのだから。

 

(ちょっと寝てから、また食べに行こうっと)

 

鴉の蒸し焼き、西行妖の根っこの天ぷら、蛙のステーキ。毎日旧地獄へと通う中で、様々な地獄料理を平らげてきた。どの料理も実に美味であり、ルーミアの食生活は飢餓と隣り合わせから一転、幻想郷の住民の中でも特に満ち足りたものになっていた。

 

「やあ、ルーミア!」

 

満足感に浸っていると、聞きなじみのある声が、ルーミアの背後から飛んできた。振り返ると、そこには何かが大量に詰まった風呂敷を背負うリグルの姿があった。

 

「どうしたの、それ?」

 

「あっちの山間の農家さんとこで収穫を手伝ったら、こんなにおすそ分けしてもらったんだよ。何でも豊穣の神様のご利益だとか、なんとか」

 

そう言いながら、リグルは風呂敷をほどいた。ぼてぼてと、紫色のさつまいもが地面に転がる。ルーミアはその一つを取り上げ、まじまじと眺めた。

 

「それって特産品でさ、すっごく甘くて美味しいんだよ。味見してごらん」

 

「じゃ、ひとくち失敬…」

 

ルーミアは自分の拳ほどの取れたてのさつまいもに、妖怪らしく生のままかじりついた。

 

「!」

 

ルーミアの頬の中に、やさしい甘さが広がる。もちろん味付けもなにもされていないわけだが、かえってそれが芋本来の甘い風味を際立てていた。ガッツリと濃い目で奇怪かつグロテスクな地獄料理とは全くベクトルの異なる美味しさに、ルーミアは思わず口元を緩ませた。

 

「ねっ、美味しいでしょ?私も腹いっぱいまで食べたからさ、残ったのはルーミアにあげるよ」

 

「ほんと!?ありがとう!」

 

たちまち、最初のさつまいもがルーミアの胃袋の中に消えた。続いて手を伸ばした二個目も、腹を空かしたルーミアの前では1分と持たない。三個目、四個目…と食べているうちに、ふとルーミアは気づいた。

 

(あ…今日の地獄料理、どうしよう)

 

ルーミアはあまり賢くないが、それでも数百年は生きてきた妖怪である。いつだったか、本屋で立ち読みした本には、芋類の消化の悪さを説くものがあった。長い一生の中でただ一回だけ芋泥棒を成功させた時、暗い山中で頬張ったさつまいも。あの芋の腹持ちの良さに、餓死寸前で救われたことも思い出された。

 

まだまださつまいもは残っている。このままリグルの言う通りに全部平らげたら、満腹になってしまうかもしれない。そんなお腹に、今日の地獄料理を詰め込むだけのスキマはあるだろうか?

 

「あー…えっと…もう、いいかなー…」

 

ルーミアが口走ったその言葉を聞くと、リグルは狐につままれたような顔をした後、ぷっと噴き出した。

 

「あははっ!ガラでもないこと言わないでよ!ルーミアがご飯を遠慮するなんて、紅葉の中でセミが鳴くくらいありっこない!」

 

遠回しに食いしん坊だと揶揄され、ルーミアは頬を膨らせて怒り顔をした。リグルは軽く謝りつつも、ルーミアの態度の不自然さに突っかかってくる。

 

「いやいや、絶対におかしいって。…もしかして、なんか食べ物のあてでも見つけたの?」

 

「いや!それは…」

 

ここで地獄料理のことを話せば、自分も食べたいと言い出すに決まっている。そうなると、せっかくの地獄料理を毎日二等分しなくてはならない。食いしん坊なルーミアは、真実を伝えようとは思わなかった。

 

 

 

ぐぎゅるううぅぅぅ…

 

 

「ほら、お腹の虫も鳴いてるよ」

 

ルーミアは思わず頬を紅潮させ、お腹をおさえた。見かねたリグルが、ルーミアの口元にさつまいもを差し出す。ルーミアは口の中に残るさつまいもの柔らかな風味を、つばと一緒にごくりと飲んだ。

 

(…ちょっとだけ。あとちょっとだけなら、大丈夫)

 

そんな思いが頭をよぎったころには、ルーミアはさつまいもを口に放り込んでいた。ルーミアの足元からさつまいもが一つ残らず消えるまでに、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

燐はその日も、いつも通り八重歯を覗かせ微笑みながら、ルーミアを迎えた。ルーミアはぎこちない笑みを返しながら、新調されたおどろおどろしい漆塗りの食卓机についた。

 

「遅かったじゃない。今日の献立は、妖怪好みの人肉をどっさり入れた肉じゃがだからね」

 

何という邂逅(かいこう)!地獄料理おなじみの血を吸った大きな肉塊がごろごろしている中に、またもや特大の芋が浮かび、紅色の湯気が立っている。そう、また芋である。

 

「わ、わぁー…美味しそうだなぁ…」

 

ご飯の時間を遅らせる作戦も空しく、ルーミアのお腹はさつまいもでいっぱいだった。それでもルーミアは食べないわけにはいかない。席に着いた以上、ルーミアは風船のように膨らんだ胃袋に巨大なジャガイモと肉片を放り込むしかなかった。

 

 

 

(うぷっ…だ、ダメ…もう限界ぃぃ…っ)

 

完食まで顔ほどある肉塊一つを残したところで、ルーミアの食べる手はついに止まってしまった。だが、ルーミアは紫の忠告を覚えていた。

 

地獄料理は''絶対に''完食しなければならない。残してはいけない。…その言葉が、ルーミアの脳裏を駆け巡る。

 

ふと顔を上げると、燐の姿が無い。巨岩のように大きな血濡れのせいろやら、沸き立つ血で満たされた大鍋やらが散乱する厨房の中からは、死体を運ぶための台車が消えている。恐らく灼熱地獄に死体という薪をくべるという本業に戻っているのだろう。

 

(…仕方ない、よね)

 

ルーミアは燐がいないのをもう一度確認すると、肉塊を持ったまま食卓から飛び立った。

 

(ここなら…)

 

ルーミアの眼下には、湖のように広い血の池地獄が広がっていた。そしてルーミアは、手に持った肉の塊を口に放り込む代わりに、血の池へと投げ込んだ。血の池はあっという間に、底なし沼の如く肉塊を吸い込んでしまった。

 

(ほんのちょっとだし…バレなければいいや)

 

ルーミアが急いで食卓へ飛び戻ると、ちょうど燐も厨房に戻ってきていた。

 

「あん?どこ行ってたの」

 

「えーっと…腹ごなしに空中散歩をちょっとね!」

 

そうルーミアが応えると、燐は納得したように頷いた。

 

 

 

 

「ふぃーっ…助かったぁ…」

 

蒸し暑い旧地獄から涼しげな夜の森へ帰ってきたルーミアは、安堵したようにため息をついた。

 

「何の話かしら?」

 

「!?」

 

ルーミアの背後には、いつの間にか紫が立っていた。その姿は、闇の妖怪たるルーミアよりも、夜の深い闇の中に溶け込んでいるように感じられた。

 

「貴方、ちゃんと料理は残さずに食べたんでしょうね」

 

「…う、うん!ちゃんと食べたよ!」

 

ルーミアはまたもや嘘で取り繕ったが、それを見透かしていたように、紫はルーミアの口元に残っていた油をしなやかな指でぬぐって、こう言い放った。

 

「嘘をついたら、閻魔様に舌を抜かれる…そんな風説が本当なのか、試してみる?」

 

紫の人差し指は、そのままルーミアの顔を指すようにぴんと伸びた。

 

 

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

 

 

「うわぁぁぁぁぁあ~っ!!??」

 

 

 

 

 

 

 

「今日は絶対に食べ物はいらない!いらないからね!!」

 

そう叫んで飛び立つルーミアを、リグルはぽかんと口を開けて見つめていた。リグルが虫たちと共に山を降りていくのを見ると、ルーミアは後ろめたい面持ちで、旧地獄へと通じる道へと入っていった。

 

 

 

「やあやあ、丁度いい所に。今日はとびっきりの料理を作ろうと思ってるのさ」

 

燐がいつものごとく気の良さそうに話しかけてきたのを見ると、ルーミアはほっと胸をなでおろした。

 

「大鍋のふちの土台に登ってご覧」

 

ルーミアは言われた通りに土台へと飛び乗った。沸き立つ湯気でよく見えないが、眼前でグラグラと煮立っている血の鍋の中には、何の具材も浮かんでいないように見える。

 

「んー…?何も入ってないけど…」

 

 

 

その刹那。身をかがめ、目を細めて沸騰する血の海を見つめていたルーミアの小さな体を、燐が突き飛ばした。

 

「えっ…?」

 

昨日の肉塊のように、転落したルーミアは血だまりへと飲み込まれた。ルーミアは、自分の身に何が起きたのか気づくのと同時に、悲痛な叫び声を上げた。

 

「……ッ…あ゛ッ…あづいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」

 

真っ赤に染まった熱湯が、ルーミアの身体を焼き焦がした。ルーミアはたまらず身をよじり、必死の思いで空へと飛び立とうともがいた。しかし不思議なことに、沸騰した血が身体にからみつき、ルーミアを離さない。まるで地獄の釜の底の亡者が、ルーミアを獄炎の中に引きずり込もうとしているように…。

 

「あは…飢えよりももっと苦しい、地獄の苦しみを味わう気分はどう?」

 

涙を流して苦痛に顔をゆがめるルーミアを、燐は乾いた笑いとともに見下ろしていた。

 

「大丈夫、大丈夫。地獄は罪を罰するための場所で、殺しのための場所じゃないから…死にはしないよ」

 

そんな慰めにもならない言葉で突き放され、ルーミアは血の池の中に沈んでいく。少しずつ遠くなる意識の中で、燐の最後の言葉が聞こえた。

 

 

 

「…あんたって、どんな味なんだろうねぇ?」

 

 

 

ルーミアの記憶は、そこで途切れた。






「どんなに貴方が自分の不徳を隠しても、お天道様は常に見ているわ。そしてそれに相応の罰が巡ってくるのも、世の道理なのよ。…夜ならお天道様は見ていない、ですって?こういう言葉を知らないのかしら。…『深淵もまた、こちらを覗く』」


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忘れ傘の一人夜行(前編)

本日のお相手:多々良 小傘(667) から傘お化け


 

ある山道にて。シトシトと小雨が降る中で、地面を踏みしめる音が響く―雨に濡れることを嫌がるように、その足音の主たる少女は闊歩を早めた。口元を覆い隠すほど丈の長い外套をたなびかせながら…。

 

 

ザクザク、ザクザク…暫く歩いた後、何かを感じたのか、外套の者は早足をぴたりと止めた。少し遅れて、もう一つの足音が止まった。いつからか外套の者の足音に続いて響いていた、もう一つの足音の主。外套の者が振り返ると、その足音の主は紫色の傘で顔を隠したまま、じっと立ち尽くしていた。

 

 

しばしの対峙の後、外套の者が口を開く。

 

 

「あんた、何者よ」

 

 

その呼びかけに応えるように、もう一つの足音の主は傘をくるんと回した。傘から覗いたその顔は、純粋無垢な少女のそれとは似て非なるものであった。ニタリと不気味な笑みをこぼす口からは舌が垂れ、眼はまるで獲物を狙う妖怪のように見開いている。いや、それは完全に妖怪のもので…

 

「……教えて、アゲルネ…」

 

から傘越しのその言葉と同時に、少女は一瞬のうちに外套の者の眼前まで距離を詰めた。

 

「ッ…!」

 

外套の者に額を押し付けんばかりに接近した、から傘の少女は、獲物を絡めとるがごとき舌なめずりをした。そして、世にも恐ろしい一言を吐いたのだった―

 

 

 

「べろべろ、ばぁぁ~~~~~!!!」

 

 

 

「…は?」

 

 

 

 

 

 

 

「古いんだよ、やってることが」

 

外套の少女はそう言うと、深紅の外套をばさばさとはためかせて(つゆ)を払い、ため息をついた。

 

「そ、そうだよね…やっぱり…」

 

から傘の少女は、まるで説教されている子供のように、しゅんと肩を落としている。

 

「同じ妖怪として忠告しておくけど、そんな小手先の驚かしが通用するの、そこらのガキぐらいだから」

 

外套の少女もまた、妖怪だったのだ。から傘の少女は、自信作の驚かしを全否定されて少し不満そうにしつつ、言を返した。

 

「でっでも…ほらっ、妖怪って人に怖がられてなんぼでしょ?だから…」

 

「私は、ヒトじゃない」

 

外套の少女は険しい目つきで、ぎろりとから傘の少女を睨みつけた。から傘の少女は、思わず身をすくめる。

 

「フッ…まぁ、そうやって自分が妖怪相手にビビっているようじゃあ、ガキにも笑われるかもね」

 

蔑んでいるようで、至って正論な外套の少女の言葉に、から傘の少女は反論することも出来なかった。

 

 

 

 

外套の少女が雨霧の中に姿を消した後、から傘の少女は道端の石に座り込み、雨粒を吸い込む地面の土と草を交互に見つめていた。天より降る雨粒に紛れて、少女の瞳からも粒が零れ落ちた。

 

「こんにちは、お嬢さん。一人ぼっちで雨宿り?」

 

大人の女性の声が聞こえる。深く差した少女の傘の下に見切れるその姿は、奇怪な装束と独特の妖気から成っていた。十中八九、妖怪だろう。同族のよしみで声をかけたのだろうが、あいにく今は妖怪同士でつるむ気分ではない。通りがかりの妖怪の好意、丁重にお断りしよう―そう思って、から傘の少女が顔を上げたとき。

 

 

そこには、殺気に近い妖気を放つ、恐ろしい形相の怪異の姿があった。

 

 

 

「ひぃぃっ!?」

 

涙目で驚く少女を見て、その妖怪は妖気を和らげながら、ぷっと噴き出した。

 

「あはは…驚かしただけよ。どう?怖かったかしら」

 

「…すっごい怖いよ!夢に出ちゃうよっ!!」

 

 

 

 

「なるほど。怖がられたくても、怖がって貰えないのね」

 

その妖怪は先程の悍ましい雰囲気とは裏腹に、から傘の少女―名を多々良小傘という―の話し相手になってくれた。その妖怪が小傘と同じく傘を差していたのもあって、親近感が湧いたのだろう。小傘は、その妖怪に心のわだかまりをすっかり打ち明けてしまっていた。

 

「確かに、から傘お化けっていうのは少しばかり威厳に欠けるわね」

 

「あんたこそ、傘を差しているじゃないか」

 

「これは本業で差してる物じゃないわ。’’ふぁっしょん’’、ってやつよ。」

 

小傘はその名前の通り、から傘の怪異である。しかし相手の妖怪は、どうも傘のお化けではないらしい。ともかく、から傘お化けが誰からも怖がられていないのは事実だ。

 

「もう全然だめなのさ。そりゃあ、この幻想郷に住んでいれば私くらいの妖怪なんて珍しくもない。でも、それにしたって…」

 

「今の幻想郷は、人妖相成(あいな)って創り上げていく風潮もあるしねぇ。妖怪すなわち畏怖、っていう方程式は、もう通用しない。」

 

「…私みたいに人を驚かせる妖怪なんて、やっぱり時代遅れ、なのかな…」

 

そうこぼして俯いた小傘に、妖怪はすっと手を差し伸べた。

 

「名乗りが遅れたわね。私は八雲紫…あらゆる存在の心のスキマを埋める、スキマ妖怪よ」

 

「スキマ、妖怪…?」

 

困惑した様子の小傘の目の前で、紫は差し出した手を揺らした。よく見ると、掌の上には半透明の物体が二つ載せられている。平べったくした米粒のような形状で、それぞれが黒みがかった紅色と藍色で彩られていた。

 

「これは、外の世界から持ち込まれた珍品でね。からー…こん、たくと?だったかしら。横文字は苦手だから覚えていないけれど、少なくとも貴方の境遇に合ったモノであることは確かよ」

 

小傘は物体を手に取ってまじまじと見つめながら、その使用方法について問うた。目に入れて装着するものだ、と聞くと、小傘はぎょっとして顔をしかめる。

 

「心配は要らないわ。妖怪の眼力にも耐えうる品なのよ…それよりも、効用について知りたくは無い?」

 

紫が語った効用は、信じがたいものだった。この’’からーこんたくと’’を装着した状態で目に力を籠めると、意識を刺すがごとき妖気を放つことが出来、どんな相手でもたちどころに縮み上がらせられるというのだ。

 

「物は試しよ。ほら、眼を開けて…すぐにつけられるわ」

 

紫がしなやかな指を小傘の目にあてがい、ぴと、というわずかな感触がしたと思うと、もう’’からーこんたくと’’は小傘の目の内に入っていた。

 

「こ、これで本当に…驚かれるほど怖くなったのかな?」

 

目をぱちくりさせながら不安がる小傘を、紫はスキマの中へと案内した。

 

「気になるなら、さっきの輩に試して御覧なさい」

 

異質な亜空間を抜けた先は、森の藪の中である。紫に促されるままに歩を進めると、先程の深紅の外套の少女―赤蛮奇という名の小妖―が、栗の実を拾って集めているところに遭遇した。

 

赤蛮奇は一言も発さないまま、慣れた手つきで栗をつまんでは、淡々と手に持った袋の中に入れていく。

 

(試せって言われても、どうやって…)

 

傘を畳んで身を潜めつつ、赤蛮奇の栗集めを観察しながら、小傘は困り果てた。驚かそうとして失敗した相手をまた驚かせようとするほど、成功から遠く馬鹿らしいことは無い。しかも、小傘の驚かし方のレパートリーは、背後から歩み寄って「べろべろば~」するという一種類のみであった。

 

「そこに隠れているのは、誰よ?」

 

赤蛮奇が茂みに向かって声をかけると、小傘はつい身体を跳ねさせてしまった。怖気づいているうちに、微弱な気配を察知されてしまったらしい。

 

赤蛮奇のような小妖は、それぞれの縄張りを中心に毎日の食い扶持探しに腐心するため、テリトリーを他者に汚されることを極端に嫌う場合が多い。こちらが大人しく姿を見せたとしても、容易に事は運ばないだろう。

 

(か、かくなる上は…!)

 

こうなれば、藪の中からいきなり飛びかかって「べろべろば~」しかない。この手法は瞬間の驚きを誘うことはできるが、その直後に相手に呆れたような冷たい視線を返されるので、できれば避けたい手法である。

 

しかし、もはや手段を選ぶ余裕はなかった。小傘は意を決して、ばさっと開いた傘と共に、藪から勢いよく飛び出した。

 

 

 

「べろべろ、ばぁぁぁ~~~~~!!!」

 

 

 

小傘の見開いた目が赤蛮奇を射すくめた、その刹那。小傘は、目の前の赤蛮奇の顔が引きつり、瞳孔が開くのを見た。

 

 

「ひッ……!!」

 

 

外套からこぼれるように露出した赤蛮奇の口元は、怯懦に打ちのめされたように震えていた。そして、赤蛮奇の喉からこみ上げた悲鳴が、一気に口から溢れた。

 

 

「ぎゃアアアアァァァーッ!!」

 

 

悲鳴と共に跳ね上がった赤蛮奇は、首と胴が離れそうになるのを過呼吸気味に抑えながら、脱兎のごとく必死にその場から駆け出した。

 

(し、信じられない…私の脅かしでこんなに驚くなんて…!)

 

小傘は、死ぬ思いで逃げ去る赤蛮奇の後ろ姿を、呆然と見つめていた。辺りには、赤蛮奇が放り出した栗の実がころころと転がるばかりであった。

 

「どう?これでその道具の効き目、十二分に分かったでしょう」

 

木の陰からふわりと染み出るように、紫が姿を現した。

 

「今の貴方を怖がらない奴なんて、どこにも存在しない。この世にも、あの世にも。」

 

そう言い聞かせられた小傘は、ちっぽけなから傘お化けとしての肉体に、何かとても大きなものが備わったような気がした。

 

「私、怖がられるようになれるんだ…人も妖怪も、驚かせられるんだ…!」

 

「あらゆるものに恐れられなさい。貴方が、この幻想郷の恐怖の象徴となるまでね」

 

紫の声に、小傘はこくりと頷いた。

 

いつしか、雨は降り止んでいた。不気味なほどの静寂と暗闇の中に、妖怪たちは包み隠され、沈んでいった…。





小傘が闇夜の中に消えると、紫はぽつりとつぶやいた。

「’’恐れられる’’存在とは何か…あの子は身に染みて味わうことになるでしょうね…フフフ…」



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忘れ傘の一人夜行(後編)

 

 

人も妖怪も寝静まる、丑三つ時。月明かりも届かぬ深い森の中を元気に飛び回っているのは、夜行性の人魂と、一人の魔法使いだけだった。

 

「…何だよ、本当に誰もいないじゃないか。拍子抜けだぜ」

 

彼女の名は霧雨魔理沙。興味本位で何にでも首を突っ込む彼女は、幻想郷で草の根的に広がっていた、ある噂の真偽を確かめに来たのだ。

 

(’’今まで見たこともないくらい、恐ろしい怪異’’…か。そんな大物が急に名を轟かせるなんて、妙な話だけどな)

 

それも、その「恐ろしい怪異」の正体は、から傘お化けらしいのだ。から傘が化けて出たとして、どこが怖いのか全く理解できない。しかも魔理沙には、過去にから傘お化けをコテンパンにした実績もある。確か、その名は多々良小傘―

 

(ん?)

 

背後に、何かの気配が感じられた。それも、ありふれた妖怪とは明らかに違う、異様な妖気。異変解決に長年携わってきた魔理沙には、自身の後ろに現れたそれが(くだん)のから傘お化けであることが、すぐに予感できた。魔理沙は手持ちのミニ八卦炉を素早く取り出しつつ、威勢よく啖呵を切りながら振り返った―

 

「現れたな、から傘おば…」

 

振り返った魔理沙の前に居たのは、確かにから傘お化けだった。しかし魔理沙の澄んだ瞳におぞましい妖気が中てられた瞬間、その瞳に映るものはどろりと溶け、名状するのも憚られるほどの''何か''に変質していった。あらゆる生物は、自らの理解や認識の範疇を越えたものと対峙した時、本能的に理性での解決を放棄して、逃避に走るという。振り返ってから僅か1秒足らずのうちに、魔理沙の頭の中からは全ての雑多な感情が滅却されていた。残ったのは、ただ一つの湧き出た感情。…恐怖のみであった。

 

「あ…ッ……!?」

 

魔理沙の視界は、その恐怖を目視で捉えることを拒否するかのように揺れた。震えた手から、ミニ八卦炉が零れ落ちる。どんな大妖と立ち回ろうとも決してぶれなかった彼女の強い心は、簡単に恐怖への屈服を選んだ。その証拠は、すぐに彼女の口から発せられた。

 

 

 

「わァァァァァぁぁぁぁッ!!!」

 

 

暗い虚空にまた、恐怖のあまりの叫び声がこだました…

 

 

 

 

 

 

 

多々良小傘。彼女はかつて、あらゆる人妖から舐められ、脅かそうとしても茶化される、その程度の妖怪であった。しかし、今は全く違う。小傘という名を聞いた者は、たとえ大妖であろうとも冷や汗を垂らす。あの博麗の巫女ですら、「魔理沙の仇を取る」などと意気込んでいたのに顔面蒼白で帰還し、今後は二度とから傘関係の異変には手を出さないと宣言するほどである。

 

(あはは、あの霊夢の怯えた顔。私以外は見たことが無いんじゃないかなぁ。写真でも撮ればよかった。笑いものにしてやりたいよ)

 

幾多の人妖を恐怖のどん底に突き落とすのに夢中になっていた小傘だが、しばらくぶりに命蓮寺(みょうれんじ)に顔を出すことにした。命蓮寺は、小傘がよく遊びに行っていた寺である。寺の本尊は、かの有名な毘沙門天。そして住職として人間と妖怪の共存を説く名僧・聖白蓮がおり、仏教に帰依した妖怪なども、彼女を慕って集まっている。小傘自身は特に宗教には関心がなかったが、物腰柔らかであらゆるものを受け入れてくれる命蓮寺の気風に惹かれ、その近辺に腰を落ち着けていたのだった。

 

もちろん''からーこんたくと''は外して、小傘は上機嫌で命蓮寺の境内へと足を踏み入れた。自分を目の前にして腰を抜かした者たちの滑稽な怖がり方を、皆で笑ってやるために。

 

小傘は、命蓮寺にたむろしていた人妖たちが、自分の姿を見た瞬間に顔をひきつらせたのを見た。''からーこんたくと''は外しているのに、彼女らは小傘と目を合わせようとせず、何かを恐れるように後ずさりした。

 

「み、みんな…どうしたの?」

 

小傘の問いかけにも、応える者はいない。お互いにひそひそと囁き合い、小傘に対応する役割を押し付け合っているようにも見えた。中には、小さく震えながらその場を離れようとする者までいる。

 

(…私を、怖がってる?)

 

小傘から次の言葉を発することも出来ず、気まずい膠着状態が続く。すると、境内での異様な雰囲気を察したのか、寺の中から聖が姿を現した。聖は小傘の存在に気付くと、何かを決心したように小傘の下へ歩み寄り、その小さな肩をぎゅっと掴んだ。小傘がびくっと身体を跳ねて見上げると、聖は小傘が見上げなくてもいいように少しかがみつつ、こう語り掛けた。

 

「私と一緒に、少し話しましょう。いい場所がありますから」

 

小傘の手を引き、聖は近くの峠の(いただき)近くまで、道を上った。妖怪も通らないような狭い獣路をしばらく歩いた先で、途端に目の前が開けた。そこには、幻想郷全体を見渡せるのではないかと思うほどの眺望が広がる、小さな天然の踊り場があった。

 

「時折、瞑想をしている場所です。ここなら、誰の邪魔も入らないので…」

 

小傘と聖は、二人で踊り場に座った。身長差はあったが、目の前に広がる絶景を前にしては、二人ともちっぽけな存在に他ならなかった。聖は、ゆっくりと小傘に尋ねかけた。

 

「世間を騒がせている恐ろしい怪異の正体は、本当に貴方なのですか」

 

「貴方の仕業ならば、どうして急にそんな力を持ったのですか」

 

小傘は急に核心を突かれて少し狼狽した。しかし、聖が気になるなら、''からーこんたくと''の秘密を明かしてもいいと思った。小傘が出会った人々の中でも、聖は一番尊敬に値すると感じたからだ。そして秘密を正直に話すと、聖はさらに質問を続けた。

 

 

「なぜ、道具の力を借りてまで、怖がられたいと思うのですか」

 

「…それは…今まで笑いものにされてきた私でも、こんなに怖くなれるんだぞって、見返すために…」

 

「見返して、どうなりますか」

 

 

禅問答のような質問に、小傘は口をつぐんだ。そして、小傘は考えた。小傘は、幻想郷で一番恐れられる存在になったと言っても過言ではない。今の小傘を軽くみる者など、よほど浮世離れした仙人でもない限り、居ないだろう。だが、その恐れられ方は、彼女の思い描いた理想とは程遠いものであったのかもしれない。

 

(私が誰かを驚かすのは、誰かがびっくりするところを見たいため。そしてその様子を、みんなと笑い合うため…)

 

そう、小傘は本心では、真に恐れられる存在になりたかったわけではなかった。本当に恐ろしい存在は、交友関係など持たない。あらゆる存在から畏怖の念を向けられ、距離を置かれ、孤独に恐怖を集めていく。皆に怖がられたいという小傘の願いが、実際には皆と打ち解けたいという真逆の想いであったことを、小傘自身も気が付いていなかったのだ。

 

「人にも、妖怪にも、神霊にも、あらゆるものには心があります。心が孤独を求めることは、決してありません。誰かと笑い合いたいという単純な一つの思いを、小さな嘘でごまかし、違う欲望にすり替えながら、皆は生きているのです。嘘をつかないと、大仰な野望を掲げて強がらないと、自分を許すことが出来ないから」

 

仏僧として様々な者に寄り添ってきた聖の言葉を、小傘は一つ一つ噛みしめるようにして聞いた。傘の柄を握る手は、いつ頃からか震えていた。

 

「ありのままでいいんです。皆がありのままであれば、いつか万物が分かり合える日が来ます。…きっと、この幻想郷にも、いつか」

 

二人の眼前に広がる幻想郷の景色は、夕焼けの仄かな紅色で染め上げられていた。

 

「小傘さんは、皆に嘘の自分を見せてしまった。でも、小傘さんはその過ちに気づけた。今からなら、やり直せます」

 

小傘の背中に、聖は手を添えた。小傘の目からは、大粒の涙があふれていた。

 

 

 

 

 

すっかり夜も更けた。命蓮寺の行灯の明かりも消え、住み込みの妖怪たちはぐっすりと眠りについている。彼女らもまた、事の経緯を聞かされて納得し、小傘を命蓮寺の一員として受け入れることを認めてくれたのだ。

 

小傘は、みんなで眠る雑魚寝部屋の窓際に小さな布団を敷き、体を丸めてくるまっていた。''からーこんたくと''は、聖に預けてある。聖は離れの蔵で夜通し書簡の整理をするらしく、明日には古い書簡と共に''からーこんたくと''も処分してくれるそうだ。小傘は、自分を包み受け入れてくれる命蓮寺に、ひたすら安堵と感謝の念を抱きながら、心地よい微睡(まどろみ)に入った。

 

 

 

ふと、小傘は目を覚ました。まだ辺りは暗い。体内時計からいくと、丑三つ時といったところか。再び目をつぶったものの、どうも(かわや)に行きたくてたまらない。小傘は布団から這い出て、静かに障子を開け、廊下へと出た。廊下を暫く歩くと、月明かりが小傘を照らす。見上げると、廊下のすぐ横で天井が切れている。そこには、小さな中庭があった。この寺のご本尊の趣味なのか、美しい枯山水が月光の中に浮かんでいた。

 

 

「!!」

 

 

小傘は、息を呑んだ。白黒の中庭で、不自然にたなびく金色の髪、見覚えのある傘。中庭には、あの八雲紫の姿があったのである。

 

「貴方は何をしているの?寺に匿われて、皆の優しさに甘えて暮らしていこうって?」

 

紫の目は、初めて会ったあの時のように、刺すような殺気を帯びていた。

 

「私は貴方に目をかけたのよ。恐怖に執着する貴方なら、近頃のぬるま湯に漬かったような幻想郷に、旧き妖怪への恐れを取り戻してくれると思ってね。それなのに、この体たらくとは…」

 

「ちっ…ちがっ…私は…ほんとは怖がられたくなんて…」

 

震えながら連ねられる小傘の言葉を、紫は失望したように遮った。

 

「あらそう。つまり貴方の言う恐怖は、まやかしの恐怖だったわけね」

 

紫は、小傘に向けて腕を伸ばした。その先の人差し指は、小傘の顔をしっかりと捉えていた。

 

「ひっ…!!」

 

「じゃあ、''本物''の恐怖、味わわせてあげるわ」

 

 

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

 

 

「キゃアアアアあぁぁぁぁあッッ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

蔵の中で書簡の埃を吹き払っていた聖は、外から響いてきた悲鳴を聞くや否や、急ぎ廊下へと走り渡った。突然の悲鳴に叩き起こされた寝ぼけ半分の妖怪たちも、何があったのかと部屋から出てくる。

 

中庭の前で、小傘がうつ伏せで倒れていた。駆け付けた聖が肩を叩いて呼びかけるが、返事がない。しかし脈を診てみると、命に別状はないようだ。

 

「大丈夫、失神しているだけです」

 

聖がそう言うと、心配そうに見ていた妖怪たちは安堵の表情を浮かべた。ひとまず部屋に移そうと、聖が小傘を抱き起こした、その時。露わになった小傘の顔を見た一同は、愕然とした。

 

 

瞳は大きく見開かれ、眉間は恐怖にゆがみ、口からは泡を吹いていたのだ。まるで、想像もできないほど''恐ろしいもの''を、目の当たりにしたかのように…。

 

 

 





「恐怖を与える権利があるのは、自分が恐怖に打ちのめされる覚悟がある者だけよ。…え?私はどうかって?もちろん私も怖がる用意はできているわ。ただ、怖がっている所を、誰かに見せることはないけれどね。」



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メルクリウスの闇市場(前編)

本日のお相手:天弓 千亦(1386) 市場の神


人通りもまばらな、沢の近くの遊歩道。何軒かの小屋や厩が並び立つ中で、大胆にも地面に直接茣蓙(ござ)を引いて寝ている少女がいた。青紫の長髪をたくわえた少女の着物は彩り豊かだが、よく見ると色とりどりの小さな布地をつなぎ合わせたような、安上がりなものだ。茣蓙の下の砂利や小石が安眠を妨げそうなものだが、彼女は寝息を立てながらぐっすりと寝込んでいた。

 

(ん………痛っ…)

 

誰かに頬をつねられたような気がして、少女は穏やかな眠りから現実に引き戻された。目の前には、黒翼の生えたふたりの鴉天狗が仁王立ちしている。

 

「千亦様、起きられましたか。我々は飯綱丸様の使いです。こちらの約款をお読み下さい」

 

寝起きの顔に紙切れを貼り付けられ、茣蓙の上の少女―天弓千亦(てんきゅうちまた)という名の’’市場の神’’―は、怪訝な顔で書面を読み解いた。しかしそれは、以前に大天狗と結んだ契約そのままのものだった。

 

「確認されましたね。その約款にもある通り、我らが主君・飯綱丸龍(いいづなまるめぐむ)と貴方は、アビリティカードに関する利権について平等に分け合うことになっています」

 

浅い眠りにうとろんだ瞳をこすりながら、千亦はアビリティカードの一件を思い出した。数多の天狗たちを統率する大天狗の一角たる飯綱丸龍は、アビリティカードなる全く新しい嗜好品を独占的に生産・販売するというビジネスを展開していた。しかし、幻想郷の経済事情は物々交換が主流であり、金儲けを企てるには不便極まりないものであった。

 

そこで飯綱丸は市場の神である千亦に声をかけ、両者の合意のもとでの売買を通してアビリティカードを取引しなかった場合、アビリティカードが使えなくなるという仕掛けを講じさせた。これによって、アビリティカードは一定の価値が保障される貨幣のような存在となり、その流通範囲がそのまま飯綱丸の支配する経済圏と化したのであった。

 

「アビリティカード?あれならとうの昔に紙切れになったでしょ。この約款みたいにね」

 

千亦は、契約書を鴉天狗に投げ返した。

 

アビリティカードは、生産元の飯綱丸には富を与え、流通を管理する千亦には神としての権威を与えた。しかし、博麗の巫女たちが殴り込みをかけてきた後、アビリティカードは飯綱丸や千亦の制御下から離れてしまった。

 

(結局、ああいう新商品は一時は普及しても、すぐに陳腐化して忘れられるものよね)

 

今でも幻想郷ではアビリティカードを介在とした取引が行われているというが、どのカードがどこで取引されているのか、千亦の知るところではない。少なくとも、今のアビリティカードは、飯綱丸にも千亦にもこれっぽちの富も権威も与えてはくれないのだ。

 

「契約はまだ有効です。飯綱丸様は、対等な契約相手として、貴方と今後に関して話がしたいと仰られております」

 

「はぁ?」

 

冗談ではない。聞くところによると、飯綱丸は余りに権威を集めすぎた千亦を危険視して、博麗の巫女が千亦を襲うよう仕向けたという。平気で契約相手を始末しようとする輩が、今になって「話がしたい」と紳士的な態度を取るはずがない。素直に面会に行けば、どんな因縁をつけられるか分かったものではない。

 

(こんな口車に乗せられるものか。商売の基本は冷静沈着、っと…)

 

博麗の巫女に敗れ、アビリティカードの管理がおぼつかなくなった今、千亦は高めた権威の大部分を再び失ってしまった。さえない神様くずれの千亦と、妖怪の山でも屈指の実力者である飯綱丸では、力量差がありすぎる。今になって思い返すと、恐ろしい相手と関係を持ってしまったものだ。千亦は目を閉じて過去の自分の軽率さを悔やむと、茣蓙を丸めて身支度を整えた。

 

「そんな契約、もう失効したと思うけどねぇ。それじゃ、私は用事があるから」

 

鴉天狗たちは無理やりに千亦を連れていくでもなく、ただ立ち去ろうとする千亦の後ろ姿を見つめるだけだった。縄張りの外では暴力沙汰を起こすなときつく言われているから、手出しができないのだ。彼女らはただ、去り際の千亦に捨て台詞をぶつけるだけだった。

 

「分かりました。協力を得られなかった旨、飯綱丸様に、’’しっかりと’’伝えておきます…」

 

 

 

 

 

沢から少し離れた山あいの草むらに、また茣蓙が広げられた。

 

「よいしょ、っと…」

 

千亦は、茣蓙の上に幾つかの陶器やマジックアイテムを並べた。これが、千亦が取り扱っている商品だ。

 

どれもあちこちの商店や庄屋を回って安く買い取ったものだが、商品は商品である。必要としている人に価格を上乗せして売ることができれば、立派な商売の成立だ。

 

(さて、お客さんが来るまでもうひと眠りするとしようかね)

 

市場の神なのにやっている事は放浪の行商人のようだが、このような形でも商売を続けるしか、商いを司る神としての命脈を保つ手段がないのだ。

 

「あら、なかなか味のある湯呑じゃない」

 

そんな声が千亦の耳に入った。ふと見ると、商品の一つである湯呑を手に取った妖怪らしき女性が、声をかけてきている。

 

「この湯飲みを頂戴。何と交換して欲しい?今、色々と手持ちはあるけど」

 

「別に何でもいいよ。貴方がそれと同じ価値があると思ったものを差し出してくれれば、それでいい」

 

すると、傘を差したその妖怪は、手荷物の中から小さな枯れ枝を取り出した。しかしよく見ると、その枝の先には光り輝く瑠璃色の玉がついている。

 

「…ッ!?…そ、それはまさか…蓬莱の玉の枝!?」

 

「えぇ、いかにも。月面で穢れを吸い込んで宝石のような実をつける、優曇華の木の切れ端ね」

 

月の都から幻想郷へは数えるほどしか持ち込まれていないというこの宝物を、なぜこの妖怪が持っているのか?

 

「…いや失敬、そんな大層なモノを差し出してくるとは思わなくてね…生憎、うちが取り扱っている商品は安物ばかりで、宝物と交換できるような高級品はないの」

 

あくまでも千亦は市場の神であり、目先の宝物に飛びつく商人ではない。等価交換こそが商取引の大原則である。

 

「なるほど。流石は市場の神ね」

 

その妖怪は千亦の正体を知っているようで、感心したそぶりを見せた。輝く宝珠を煌めかせながら言葉を連ねた。

 

「私は八雲紫、この幻想郷に古くからいるスキマ妖怪よ。天弓千亦―貴方の今一度の復権に、手を貸してあげても良い」

 

「え?」

 

紫は、蓬莱の玉の枝をステッキのように振り回しながら弁を続ける。勢いに乗って宝石のような実が飛んで行ってしまいそうで気が気でないが、とにかく千亦は紫の話を聞くことにした。

 

「この幻想郷には、市場の神である貴方ですらも感知できない闇市場があることは知っているでしょう。私はその辺りに一枚噛んでいてね。有力者が欲しがるような珍しい品を手に入れるつてがあるのよ…それこそ、アビリティカードなんて玩具よりも、ずっと価値のある品をね」

 

何やら自慢話が始まった。千亦にとっては、宝物よりも富よりも、神としての信仰の方がよほど大切だ。千亦は興味なさげに、目線を地面へと堕とした。

 

「へー、すごいねぇ。それと私に何の関係があるの?」

 

「貴方には、闇に流れた名品を権威ある者たちが掬い上げる、高尚な市場を築いてほしい」

 

市場という言葉を耳にして、千亦は顔を上げた。アビリティカードは、所有者たちが好きなように売り買いするという形式で自由に流通していた。しかし、紫はそれとは異なる市場の形式を思い描いているようだ。

 

「まず、闇市場にあふれる品物を私が買い集めて、貴方に渡すわ。貴方はそれらを名だたる権力者たちに販売してくれれば良い」

 

流通経路が多岐にわたるアビリティカードのそれとは違い、一本化された流通経路で売り手と買い手を結ぶ形式のようだ。これならば、千亦の力が届かない範囲まで売買が広がり発散してしまうという、アビリティカードが抱えていたような欠陥はないだろう。

 

「何で私を挟むの?あなたが集めた者を直接権力者たちに売れば済む話じゃないの」

 

「私は闇市場とのつながりもあるし、あまり権力者たちと顔を合わせたくないのよ。闇市場と権力者を結ぶ仲介役として、市場の神たる貴方を選んだの」

 

紫は、眉をひそめる千亦に説明を続ける。

 

「もちろん、貴方を一方的に利用する訳ではないわ。この新しい市場がうまく回転すれば、その回転の大黒柱を担う貴方にも、相応の信仰が集まるはずよ」

 

確かに一理ある。アビリティカードの場合は千亦が直接市場に介入することは無かったが、今回の場合は千亦が直接市場の主導権を握るため、より「市場の神」としての権威が高まりやすいのだ。

 

(…幻想郷の有力者たちを巻き込んで、私自らが経済圏をコントロールするってことね)

 

千亦は自由な市場への圧力や操作を嫌うたちだが、市場の神自らが御者となる市場というのも、案外悪くはないかもしれない。

 

加えて言うなら、神への信仰は民衆層から権力層へと伝播することもあるが、権力層の信仰が民衆層に降りてくることの方が多い。あらゆる観点から、紫の語る経済圏は信仰と権威を取り戻したい千亦にとって魅力的に感じた。

 

「前のアビリティカードの件で、貴方の名前は権力者たちにも知れ渡っているわ。市場の神が直接モノを売りに来たとあれば、門前払いする者はそうそう居ないと思うけど」

 

八雲紫は、外見では飯綱丸以上に信頼できない。しかし、傘越しに放たれる異様な妖気は、彼女自身が相当な力のある者であることを暗示している。飯綱丸との確執に怯えながら暮らすよりは、新たな大妖とのコネクションを築く方が、どのみち得策だろう。

 

「くれぐれも商品の出所だけは口外しないこと。その約束さえ守れるなら、私はこの幻想郷の賢者として、この経済圏の永久の存続を保障するわ」

 

千亦は茣蓙の上に座り込んで暫く考えた末、決心したようにふっと立ち上がった。

 

「分かった…紫と言ったっけ。あなたを信じてみることにするよ」

 

「色好い返事、ありがとう。それじゃ、詳しい話は静かな場所でしましょうか」

 

そう言うと、紫は空を切って引き裂き、歪な亜空間への入り口を開いた。

 

(踏み出すの、千亦。リスクを甘受し、変化を受け入れてこその商売人よ。市場の神として、もう一度信仰を取り戻してみせる!)

 

そう言い聞かせながら、千亦は決心したように亜空間へと歩を進める。広げられた茣蓙と品物だけが、そこに残されていた。





(市場の神とやら…貴方には本当に商才があるのか、試させて貰うわよ…フフフ…)


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メルクリウスの闇市場(後編)

 

塀も壁も、窓枠まで真っ赤に染められた巨大な洋館。やたらと厳重な警備が施された正門からは、この館に住む者たちの身分が窺える。

 

「あ、千亦様ですか。お嬢様との商談ですね、どうぞお通り下さい」

 

門番がぺこりと頭を下げ、鉄柵で閉ざされた門を開ける。千亦は、長髪をふわりと風にたなびかせ、神様らしい威厳を振りまきながら、館へと歩みを進めた。

 

 

 

紅魔館、白玉楼、永遠亭、地霊殿―様々な邸宅が千亦のために門戸を開き、権力者たちが売買契約のもとで八百万の名品を買い取っていった。その思惑は千亦が知る由もなかったが、千亦は大いに満足していた。

 

きつく言われた通り、千亦は八雲紫という闇の存在との契約を明らかにしていない。世間の目には、千亦はどこからか逸物を集めてくる神秘的な存在に思われただろう。噂は風に乗って広がり、市場の神の威光にあやかって商売を成就させようと、千亦を想って手を合わせる者まで現れた。信仰は、復活しようとしていたのだ。

 

 

 

いつもの河原で暫し涼んでいた千亦に、声をかける者があった。

 

「こんにちは!わたくし、守矢神社の風祝(かぜはふり)をしている東風谷早苗と申します。本尊の神奈子様が、ぜひ千亦様と盃を交わしたいと」

 

守矢神社というと、妖怪の山に居を構え、人妖問わずかなりの信者を集めている神社だ。神同士の信仰がぶつかり合うのもどうかと思い、千亦はあえて守矢神社との売買契約を控えていた。相手から歩み寄ってくれるならば応えたいところだが、同じく妖怪の山をテリトリーとする飯綱丸の存在が気がかりだ。

 

「いいでしょう。ただ…私ちょっと天狗と色々トラブルがあってね…」

 

「ご心配なさらず!わたくし早苗が神社まで千亦様をエスコートします。守矢と結んでいるとなれば、天狗共も手を出せませんよ。空を飛ぶと危険ですから、歩いて行きましょう」

 

自信満々でそう言う早苗の案内で、千亦は人里と守矢神社をつなぐ参拝道を上がっていった。

 

 

 

「…ふぅ…案外遠いなぁ…」

 

自ら参詣をしたことがない千亦は、なかなか急傾斜な石段を上るのに汗を垂らしていた。少し休憩しようと額の汗をぬぐった時、黒い影が視界を覆った。

 

「ッ!?」

 

気が付くと、後から何者かに組み付かれていた。バサバサという羽音と、それに合わせて散る何枚かの黒い羽根。目の前には、あの鴉天狗たちが現れる。そして、自らを組み敷いている存在が耳元で囁いた時、千亦はそれが誰なのかを思い知らされることになった。

 

「久しぶりだな…天弓千亦」

 

「…あ…あなたは…飯綱丸龍!」

 

あまりの事に、理解が追い付かない。千亦は先導していた早苗にすがりつこうとするが、強い力で締め上げられて手足をバタつかせることしかできない。

 

「さ、早苗ぇっ!たっ、助け…」

 

「…すみませんね、千亦さん…先程の話は嘘です。わたくしどもも、天狗と協力しないとやっていけないもので。」

 

「そ、そんな…騙したの…っ!?」

 

早苗の言葉に愕然としていると、飯綱丸は千亦を捕まえたまま、力強く翼を羽ばたかせて飛び上がった。

 

 

 

「わ、私を始末するつもり…?」

 

拉致されて木々の暗がりの下に転がされた千亦は、眼を光らせる飯綱丸と殺気立った天狗たちに囲まれ、神とは思えないほどに怯え切っていた。

 

「そんな無駄なことをするか。天狗は常に合理的で理知的だ…お前をまた利用させてもらう」

 

飯綱丸は不敵な笑みを浮かべ、涙ぐんだ千亦を腰に手を当てて見下ろす。

 

「今お前が手がけている市場の件は、妖怪の山でも噂になっている。だがな千亦。お前と組んでいた私には分かる…お前には市場を支える力はあっても、あんな貴重品を手に入れられるような能力も商才もない。私は、闇市場と関わりのある協力者がいると踏んでいるのだがな?」

 

そう問いかけた時、千亦の瞳がぴくりと動いた。飯綱丸の天狗の目はごまかせない。

 

「図星か。その協力者さえ私の手の内に置けば、闇市場を丸ごと天狗族が支配できる。後はお前の力で市場の秩序さえ構築してしまえば、権力者どもの欲の手綱を握って思うがままに操れるわけだ」

 

飯綱丸は恐ろしいことを口にすると、千亦の顎に手をかけてぐいっと引き上げ、凄まじい眼力とともに脅迫の言葉をぶつけた。

 

「お前に残された選択肢は二つしかない。協力者を我々に差し出して幻想郷の支配者の一員となるか、ここで信仰の根を絶たれて市場もろとも眠りにつくかだ」

 

これは殆ど詭弁だった。この状況で取りうる選択肢など、前者しかありえない。千亦はカタカタと震えながら、飯綱丸の軍門に下るほかなかった。

 

 

 

 

妖怪の山にほど近い峠の麓。夜更けに千亦に呼び出された八雲紫は、怒りを露わにした。

 

「…千亦、これはどういう事?」

 

桃色の傘を差した手に力を込めながら、紫は千亦を睨みつけた。紫と千亦の周りを天狗たちが取り囲み、そのうちの飯綱丸は口元に笑みを浮かべている。

 

「…市場の利権すべてを飯綱丸に引き渡せば、私も紫も生き延びられるの。それしか道はない…分かってよ」

 

紫の美しく輝く眼は、憤怒の煌めきを抱いていた。その瞳が飯綱丸の方を向くと、飯綱丸は落ち着き払ってこう言い放つ。

 

「天弓は私に屈服した。後はお前が首を縦に振るだけで、万事うまくいく。どうだ?」

 

その刹那、いきなり叫び声が山麓に響いた。

 

「キャアッ!?」

 

一同が叫び声の方を向くと、そこに立っていたはずの鴉天狗が消えている。ただ彼女が立っていた地面には奇妙な断裂が生じ、紫色の歪な空間がぽっかりとその口を開けていた。

 

「あら…案外簡単に吸い込めるものね。天狗ともあろう者が、この程度の妖術にすら太刀打ちできないのかしら」

 

天狗たちは直ちに臨戦態勢へ入り、手に持つ矛や槍を紫へと向ける。飯綱丸は紫を見据えたまま、余裕の面持ちで啖呵を切った。

 

「面白い…幻想郷最速の我々天狗族に楯突いたこと、後悔させてやろう!」

 

 

 

 

 

「ハァッ…ハァッ…」

 

千亦は息を切らせながら、人里の宿屋近くに辿り着いた。天狗たちと紫の戦闘が始まるや否や、千亦はわき目もふらずに逃げ出したのだ。元々戦闘経験が乏しい千亦だったが、あれほど壮絶な果し合いは見たことがなかった。弾幕の嵐の中を必死でかいくぐり、一心不乱に飛び続け、何とか逃げおおせたのである。

 

(…恐ろしい…幻想郷って一体何なのよ…っ)

 

家屋の壁にもたれかかりながら、千亦は頭の中で絶望をぐるぐると振り回した。

 

(もう嫌…こんな事になるなら信仰なんて…でも信仰を失ったら、神は…)

 

千亦は息を整えながら、考えも少しずつ整理した。市場というものは、大きくなればなるほど欲や邪念が渦巻いてくる。神としての権威や信仰を求めてそれに巻き込まれるよりは、今までのように茣蓙敷の行商人として静かな余生を送った方がずっと良い。

 

(もう…あいつらとは金輪際関わらないように…とにかく誰も知らないところへ落ちのびて…)

 

 

 

「ここに居たのね、千亦」

 

 

「……えっ」

 

千亦が振り返ると、宵闇に沈んだ夜道に、見覚えのある桃色の傘を持つ妖怪の姿が浮かんでいた。傘や服には多少の土埃こそついているが、その持ち主には一切の傷は見られない。

 

「…ゆ……紫…!」

 

唖然とする千亦の前で、紫は空を切るように腕を振るい、上空に亜空間のポータルを開く。開けた異形の次元の口から、服も体も傷だらけの飯綱丸がドサッと低い音を立てて土の上に倒れ落ちた。

 

「ひっ……!?」

 

紫が言葉を発さぬまま歩み寄ってくると、千亦は腰を抜かして許しを請った。

 

「……いっ…飯綱丸に脅されたの…!ゆっ、許して、命だけはっ…!!」

 

すると、紫は素っ頓狂にこう返した。

 

「そう。じゃあ許してあげるわ。報復は趣味じゃないし…もう市場からは手を引くけれどね」

 

そして、人差し指を千亦に向ける。

 

「ただ、貴方の商売相手は…許してくれないと思うわよ」

 

 

 

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの闇市場の噂、知ってる?取り扱ってた品が全部化かされた葉っぱだったんだって!」

 

「化け狸め、うまく嵌められた…市場の神が噛んでるから信頼できると思ったのに…!」

 

「市場の神の正体も狸だったって事?でも、狸ごときが神に化けられるものかね」

 

「あの神くずれと化け狸が組んで企んだことに違いないわ。捕まえてじっくりと問い正さないとね…」

 

「天邪鬼に続いて二人目の指名手配犯か。神様が指名手配ってのも、縁起が悪いな」

 

「飯綱丸様の仇だ!何としてでも千亦を捕らえろ!」

 

 

幻想郷中の権力者やその配下が、千亦を血眼になって探している。千亦はどこへ行ったのだろうか?市場も信仰も失い、蒸発してしまったのかもしれない。はたまた、どこかに隠れ住んで、追っ手に怯えながら暮らしているのかもしれない。少なくとも、千亦に神としての明るい未来は、ない。

 

 

 

「幻術を解いてやったぞ。今頃、世の大妖どもは’’だいぱにっく’’じゃろうなぁ…久しぶりに完璧な化かしが出来て良かったわい。有難うな、紫どの」

 

上機嫌で酒に酔いながら、化け狸の頭領・マミゾウが紫に語り掛ける。

 

「あら、この楽しみの代償は大きいわよ?貴方の所にも殴り込みが来るかもしれない」

 

「なぁに、化け狸は騙しのぷろじゃ。うまく言いくるめれば何とかなるじゃろ。とにかく今夜は酒がうまい!ものども、宴じゃ~!」

 




刹那的な楽しみに酔いどれる狸たちを尻目に、紫はその場を後にした。

「商売は化かし合い…一本取った方が勝つのよ…フフフ」


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動き出す大図書館(前編)

本日のお相手:パチュリー・ノーレッジ(117才) 魔法使い


 

 

幻想郷の一角に佇む巨大な楼閣、紅魔館。

 

鮮血のように赤く染まったその館では、今日もメイド長の指示が飛び、メイド妖精たちは掃除と皿洗いに励んでいる。

 

館中の廊下や階段を妖精たちが飛び交う中、ただひとつ床下に続く階段だけが、静謐を保つ。

 

妖精の羽音すらも届かない暗闇の中の階段を、所々の灯火を頼りに降りていった先。

 

そこに広がるのは図書室…いや、館の一スペースとしてはあまりに巨大な、''図書館''である。

 

地下にありながら、天に昇らんばかりに(うずたか)い本棚が幾重にも連なる。

 

棚という棚にびっしりと詰め込まれた色とりどりの本が織りなす彩りは、まるで夜に虹が顕れたようである。

 

地上の喧騒も光も届かない常闇の図書館。ぱらぱらと羊皮紙をめくる音と、ぼうっと照らす常夜灯の光だけが、微かに感知できるだけだ。

 

光と音の元を辿ると、大机で本を読む一人の少女がいた。

 

闇に吸い込まれてしまいそうな藤色の長髪、光に当てられたことがないとすら思える、くすみ一つない肌。

 

灯に照らされた机上には、何冊もの古びた本や巻物。広げた本に書かれている解読不能の崩し字や正体不明の図像もすらすらと読み解き、ときおり万年筆でメモを取る。

 

まさに、偉大なる英知の塊、生ける図書館。彼女こそが、この大図書館の主にして大魔法使い、パチュリー・ノーレッジである。

 

 

 

パチュリーのメモを取る手が不意に止まった。

 

万年筆をくるくると器用に回しながら、何か考え込んでいる様子である。

 

暫く経った後、パチュリーは読みかけの本に付箋を挟んで閉じ、呼びかけるように声を出した。

 

「小悪魔」

 

「はいっ!」

 

けして大きくないパチュリーの声をすぐに聞きつけ、本棚と本棚の間からバタバタと飛び出してくるのは、図書館司書の小悪魔だ。

 

「参照したい箇所があるから、『黒い雌鶏(めんどり)』を持ってきて」

 

『黒い雌鶏』、幻想郷の外から持ち込まれた魔術書の一つである。

 

「分かりました!少々お待ちください」

 

そう言うと、小悪魔は急ぎ司書室の中に入るや、山積みの紙束を持ってきた。

 

紙束には、びっしりと書籍の名前が書き詰めてある。どうやら蔵書の索引のようだが、あちこち赤ペンで修正が入り、紙も切り貼りしているので、使い勝手は悪そうだ。

 

「ええと…『黒い雌鶏』、く、く…」

 

ボロボロの紙に書かれた書籍名の羅列と睨めっこする小悪魔。何しろ、「K」から始まる書物だけでも1万冊はあるのだ。

 

配列の整理ができていないため、「K」の場所の中から『黒い雌鶏』をしらみつぶしに探すしかない。1枚探して次の1枚、さらに次の1枚…

 

十数分が経過したころ。

 

「ありました!Julius棚のC列の23番です!」

 

達成感に満ち溢れた顔で、小悪魔が声高らかに叫んだ。

 

「…分かったら取りに行きなさい」

 

「あっ、はい!」

 

パチュリーの冷静な指摘で、小悪魔は急ぎJulius棚―写本を所蔵した棚の場合、こういった小洒落た名前を付けることが多い―へと向かった。

 

羽根をはためかせると埃が舞うというので、架けられた梯子を使い、巨大な本棚を慎重に登っていく。

 

「これだ、これだ!」

 

小悪魔は注文の本を見つけるや、手慣れた所作で傷つかないように本を抜き取り、パチュリーの元へと持参した。

 

「パチュリー様、『黒い雌鶏』お持ちいたしました!」

 

手渡された本を見て、パチュリーは落胆の表情を見せる。

 

「…それは『白い雄鶏(おんどり)』でしょ」

 

「あれっ!?」

 

 

 

「もういいわ…私が取りに行く」

 

要領を得ない小悪魔に呆れ果てて、パチュリーは椅子から立ち上がった。

 

(ッ―)

 

不意に、立ち眩みで身体がふらつく。

 

「パチュリー様!」

 

小悪魔が咄嗟にパチュリーの華奢な身体を受け止めた。

 

「お体に障りますから、どうかご安静に…」

 

「…もう大丈夫だから」

 

何とか自力で身体を立て直し、パチュリーはふわりと飛び上がった。

 

 

 

 

小悪魔が心配そうに見守る中、パチュリーは所定の棚を見渡した。この棚にあることは間違いないはずなのに、『黒い雌鶏』は見当たらない。

 

(…またどこか別の棚にあるのかしら)

 

索引に記載された配置と実際の本の位置が違うことは、この大図書館では日常茶飯である。

 

蔵書整理や字食い虫の除去のため、列単位・棚単位で本を取り出すことはしばしばだが、何しろ数が多いゆえ、入れ違えてしまうことも多いのだ。

 

(…もしくは、もうこの図書館の中にはないか)

 

パチュリーは本棚の書籍を流し目で確認しながら、小悪魔のミスとは別の可能性を考えていた。

 

 

ふと、パチュリーは本から視線を逸らした。長い髪をさらりと掻き分け、耳を澄ます。

 

 

何やら、遠くの方で物音がする。それはちょうど、本を乱雑に引き抜いては床に投げる音。

 

「…あなたはここに居なさい」

 

パチュリーは小悪魔にそう告げると、浮遊しながらその場を離れ、棚が立ち並ぶ図書館の奥へと向かった。

 

 

闇の中に沈む本棚の海の中を少し探すと、音の正体はすぐに分かった。

 

 

といっても、彼女は音を聞いた時点でおおよその見当はついていたようだが。

 

「…またあなた?」

 

宙に浮くパチュリーが見下ろす先に居たのは、人の形をした泥棒猫。白黒の装束に身を包んだ魔法使い、霧雨魔理沙である。

 

「…や、やあやあパチュリー。久しぶりだな、元気か?」

 

いきなり背後に現れたパチュリーに少々たじろぎつつも、魔理沙は世間話を振った。

 

「あなたは元気そうね。私はあなたのせいで、本もろくに読めないわよ」

 

パチュリーはそう返しつつ、魔力を込めた右手を振りかざす。

 

「そうか、そうか……じゃ、読書の邪魔にならないように失敬するぜ!」

 

その瞬間、魔理沙は棚に立てかけてあった箒に素早く跨り、ありったけの本を詰め込んだ大きな袋を担ぎながらロケットの如く猛スピードで飛び去った。

 

電撃魔法が図書館の石畳に焦げ目をつけたのは、ほんの数コンマ後のことであった。

 

「…相変わらず逃げ足だけは早いのね」

 

パチュリーはため息をついた。本で埋め尽くされているはずの棚は、穴空きだらけ。棚から抜き取られた大量の書物と、箒の風圧で飛ばされた写本が、そのまま床に放り出されていた。

 

「ぱ、パチュリー様…お怪我は」

 

「あんなのに怪我させられるほど、私も耄碌してはいないわよ」

 

そう言うと、パチュリーは低空へと位置を移し、散らかった本を拾い上げ始めた。小悪魔も慌ててそれに続く。

 

手に取った本を元の場所に戻さずに床に放り散らし、あるいはまったく別の棚に押し込んでしまう魔理沙の悪癖は、図書館の本の配列を滅茶苦茶にする原因にもなっている。

 

「『黒い雌鶏』も、あいつが持って行っちゃったんですかね?」

 

パチュリーが懸念していたもう一つの可能性は、これである。

 

もっとも、魔理沙が盗んでいくのは大抵ド派手な攻撃魔法の教書ばかりなので、地味な黒魔術の運用法について記した『黒い雌鶏』を持って行くとは考えにくいのだが。

 

「…ケホッ、ケホッ」

 

どこの棚から持ち出されたのかもわからない何冊かの本を抱えながら、パチュリーは小さく咳き込んだ。

 

「パチュリー様、無理はダメですよ!私が仕舞っておきますから、お戻りください」

 

「ありがとう…ケホッ、それじゃ、後…お願いするわ」

 

喘息持ちのパチュリーには、こういった作業は辛いものがある。結局、蔵書の整理事務は小悪魔に一任せざるを得ない。

 

 

 

薬を飲み、図書館の隣のベッドに暫く伏していると、幸いにも体調は快復した。

 

先ほどの現場に戻ったパチュリーは、拾い集めた百数十冊という本の山の中で寝息を立てている小悪魔の姿を見つけた。

 

そばには、本の配置図が記された紙が何枚も落ちている。拾った本が元々どこにあったのかを必死に調べている間に、疲れが溜まって眠りに落ちたらしい。

 

図書室を造った時には5000冊ほどだったパチュリーの蔵書は、今や数十万冊というほどに増え続けている。いっぽう、字食い虫やカビの被害を受けたり、魔理沙に盗まれたりして、消えてしまう本も多い。

 

一見すると、この場は静謐に包まれた''動かない''大図書館のように思えるが、実際には莫大な数の本が往来し増減している''動く''大図書館なのである。そんな代物の管理を、今まで通り司書の小悪魔ただ一人が行っていくというのは、余りに無謀ではないか。

 

(この図書館…もう誰の手にも負えないわね)

 

小悪魔の寝顔を見つめながら、パチュリーは一抹の不安を抱いた。結局、『黒い雌鶏』は見つからなかった。

 

 

 

パチュリーが机に戻ってくると、灯の光が届かない図書館の隅に、妖しげな人影が見えた。

 

「…そこにいるのは誰?」

 

その問いかけに影は応える。美しい金髪を携えた自らの姿をさらけ出しながら…

 

「私は、八雲紫。貴方がこの図書館の主様かしら?」

 

「…まぁ、そんな所だけど。ここに何の用?」

 

パチュリーは警戒を怠らず、距離を取ったまま紫に問いかける。

 

「『幻想郷縁起』の初刊。巡り巡ってこの図書館に納本されたと聞いて、飛んできたのだけれど」

 

パチュリーの趣味により、この図書館の蔵書の大半は魔術書である。確かに、妖怪への知見を記した『幻想郷縁起』のような他分野の書籍も所蔵していないことはないが、パチュリーが読むことは稀なため、埃をかぶった図書館の最深部に埋もれてしまっている。

 

「…そんなの読まないから、持ってっても別に構わないわ。でも、この本の数を見なさい」

 

パチュリーは、暗い図書館の中に浮かび上がる、山のような蔵書を指して言った。

 

「この中から『幻想郷縁起』を見つけ出すなんて、それこそ砂漠から一粒の砂鉄を探し当てるようなものよ」

 

すると、紫はにやりと微笑んで言葉を返す。

 

「砂漠から一粒の砂鉄を見つける?随分と簡単な問題ね。強力な磁石を使って、砂鉄を引き寄せてしまえばいい話」

 

比喩表現を正論で返されたパチュリーは、言葉の揚げ足を取られたように感じて眉をひそめた。

 

「あら、不愉快にさせてしまったなら謝るけれど。ただ、私は今、''磁石''を持っているわ」

 

そう言うと、紫は独特の装飾が施された小箱を取り出した。紫が手をかざすと、小箱のスキマから七色の光が溢れ、魔法陣のようなものを描き出す。

 

(…手入力型の詠唱陣?何かの魔道具かしら)

 

パチュリーが見守る中、紫は人差し指で何かをなぞる様に魔法陣を操作する。ほどなくして、小箱から何か小さな紙が吐き出された。

 

紫が紙を広げると、そこには何かの地図が描かれていた。巨大な真四角の中に、幾つもの長方形が並んでいる。この配置図はどこかで―

 

「成程。『幻想郷縁起』初刊、確かにこの図書館にあったわ」

 

紫は、地図の中の赤く示された一点を指差しながら、パチュリーに笑いかけた。

 

「…まさか」

 

「そのまさかよ。この赤い点の場所に案内してくれるかしら?」

 

 

 

パチュリーは目を丸くした。図書館の奥の奥、蜘蛛の巣が張っているのを掻き分けて進んだその先の棚に、『幻想郷縁起』初刊があったのである。

 

「大分汚れてはいるけれど…現存する写本は珍しいわ。有難く拝読させてもらうわね」

 

本に被った埃を吹きながら満足げな顔をする紫に、パチュリーは思わず尋ねた。

 

「…さっきの魔道具、ひょっとして本の場所を示して…」

 

「ええ。その昔、読んだことのない本は無いと云われた酔狂な本好きがいてね。世界中のあらゆる本の断片を情報化して、この魔道具にしまい込んだの」

 

つまるところ、紫の使った魔道具は一種の検索端末のようなものだ。魔法陣を介して探している本の情報を入力すると、その本が今世界のどこにあるか、詳細な位置がたちどころに分かってしまうらしい。

 

「この魔道具が作られた後の刊行物まで自動で収録されるのよ。つくづく魔法っていうのは便利なものね」

 

(信じられない…こんな魔道具が有るなんて)

 

見た所、パチュリーほどの大魔法使いであれば難なく操作できるレベルの簡易な魔道具である。それでいて、''動く''大図書館が抱えている問題をたちどころに解決することすら可能な、まさに魔法のような道具だ。

 

「それじゃ、そろそろ失礼するわね」

 

「…待って」

 

立ち去ろうとする紫を、パチュリーは呼び止める。

 

「その魔道具を私に売ってくれない?代金は紅魔館付けで構わない、幾らでも払うわ」

 

「あら、貰ってくれるなら大歓迎よ。私は無精者で本なんて滅多に読まないから、猫に小判なのよね」

 

そう言うと、紫は魔道具を軽くパチュリーに手渡した。

 

「代金は要らないわ。貴方の心のスキマを埋められたなら、それで良い」

 

「そ、そう…それなら、遠慮なく頂いておくわ」

 

しかし、紫は諫言するように付け加えた。

 

「言っておくけれど、くれぐれも事は図書館の中だけに留めておきなさい。私はあくまでも、貴方の今あるスキマを埋めたいだけなの」

 

元々、この大図書館だけでも精一杯なのだから、そんなことは百も承知である。

 

忠告を聞き入れたパチュリーは、紫が不可思議な空間のスキマを通って図書館を去るのを見送った。

 

(…素晴らしい物を手に入れたわ)

 

パチュリーは手に取った魔道具をまじまじと見つめながら、口元に僅かな笑みを零した。





「『動かない大図書館』、洒落た二つ名じゃない。彼女の想いも、同じように動かなければ良いのだけれどね…フフフ」



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動き出す大図書館(後編)

 

幻想郷の空を曇天が覆い、少し早く夜が降りてきた、そんな日。

 

紅魔館の面々は、普段と変わらぬ日常を過ごしていた。妖精メイドたちはメイド長の指示でバタバタと駆け回り、メイド長は主人たる吸血鬼令嬢へのお茶出しに移り、吸血鬼令嬢は出された紅茶に数粒の角砂糖を落とす。

 

そして紅魔館地下の大図書館でも、パチュリーがいつものように大机で本を開いていた。

 

古びた魔導書のページをめくる手を止めて、パチュリーは思い立ったように机の引き出しを開ける。その中から取り出したのは、あの魔道具であった。

 

(…『グリモワール・オブ・アリス』、確か大昔に手に入れていたはず)

 

魔道具を手に持つと、パチュリーの手から伝わった微弱な魔力が共振し、魔道具が煌めきを放つ。空中に現れた魔法陣を、パチュリーは慣れた手つきで操作した。

 

(『Grimoire of Alice』、と…)

 

間もなく、魔道具から一つの紙屑が吐き出される。くしゃくしゃに丸まったその紙を開いてみると、図書館の地図の中に赤い点がくっきりと示されていた。

 

一連の動作を、小悪魔は興味津々な様子でじっと見つめていた。

 

「小悪魔、この地図の場所にある『グリモワール・オブ・アリス』を取ってきなさい」

 

「は、はい!」

 

地図の指し示す通りに小悪魔が本の海の中を進むと、一つの棚に行き着いた。

 

(…と言っても、一つの棚に何百冊も詰まってるんだよな…)

 

すると、地図上の赤い点がぼうっと浮かび上がった。同時に、本棚がホログラムのように立体図として表示され、その一部分に赤い点が止まった。なるほど、これならば本棚のどこにあるかも一目瞭然という訳だ。

 

小悪魔が長梯子を上った先には、確かに『グリモワール・オブ・アリス』が書棚の一スペースに陣取っていた。

 

 

辞書のような厚みの古書を差し出すと、小悪魔は感激のあまり口を開いた。

 

「本当にすごい魔道具です!これなら、もう本探しに迷うこともありませんね」

 

「これからはあなたの仕事も減るでしょ。このチャンスを活かして、図書館の大掃除でもやってみたら?」

 

「そんな~!私だって読みたい本が山積みなんですー!勘弁してくださいよ~」

 

大きな図書館の片隅で、二人の少女が微笑み合った。

 

 

 

 

 

 

読みたい本をすぐに読めることが、これほど有難いことなのか。昼も夜も不自由なく読書に専念できるようになったパチュリーは、その素晴らしさを改めて実感していた。

 

そして、こうも思った。

 

(…この魔道具、図書館にはない本でも検索できるのかしら)

 

今のパチュリーが打ち込んでいる研究は、強い推進力で人や物を宇宙まで打ち上げられる装置、つまるところロケットの建造である。当初は箒で空を飛ぶのと同じ原理を用いようとしたのだが、重量の大きいロケットを動かすには、何人もの魔法使いが何時間も魔力を注入する必要がある。飽き性の魔法使いが大半の幻想郷では実現できないだろう。そうなると、まったく新しい推進力の発想が必要になる。

 

(…『ミミチア非統一原理書』)

 

頼りにできる魔術書の当てはあった。かつて、異世界から幻想郷に訪れた学者が遺していったと伝えられる、比較物理学の論文集。可能性空間移動船だの、核動力のメイドロボットだの、魔女ですら理解が及ばないとされた奇怪な研究成果が記録されたのが、『ミミチア非統一原理書』である。その中の一つに、強力な推進力を持ち飛んでいくロケットの構想が記されていたようなのだ。

 

パチュリーは幻想郷随一の大魔法使いとして、件の書物に関してはある程度の情報を握っていた。しかし、『ミミチア非統一原理書』はあまりに内容が奇異であったため正規ルートでは出回らず、今ではどこの誰が所有しているのか見当もつかない。

 

しかし、今のパチュリーには、そんな本すらも探し出してくれる魔道具がある。

 

(もし、手が届く場所にあるなら…)

 

パチュリーは駄目元で、魔道具に書物の情報を入力した。

 

(…!)

 

魔道具は、意外なほど早く紙を吐き出した。机上に転がった紙を素早く手に取ると、パチュリーは紙いっぱいに描かれた地図を見つめる。

 

(これは…人里の地図?赤い点が示しているのは…)

 

幻想郷の地図録を参照してみると、赤い点がある位置にはいたって普通の民家があるだけらしい。地図に魔力を込め、立体図を表示させてみる。すると何と、本は家の軒下に埋まっているようだ。

 

里に住む普通の人間が『ミミチア非統一原理書』を隠し持っているとは考えにくい。恐らく、本を手にした誰かが隠しておくためにこの地に埋めたが、そのまま忘れられて放置され、しまいには上に家が建ってしまったのだろう。

 

パチュリーは、暫く地図を眺めながら考えを巡らせた。

 

(この本さえ手に入れられれば、研究は上手くいく…この本さえ…)

 

暫くして、パチュリーは地図を傍らに机を離れた。図書館を後にし、地下の闇の中から地上の灯りの中へと進んでいく。

 

「咲夜ぁー?紅茶に入れる砂糖がないんだけど」

 

メイド長の名を呼びながら能天気に角砂糖の在処を探していたレミリアは、階段から上って来たパチュリーの姿を見て少々驚いたようである。

 

「あら、パチェったらどうしたの?自分から上に来るなんて珍しいじゃない」

 

パチュリーはレミリアに地図を手渡すと、手短に要件を告げた。

 

「…レミィに、探してきて欲しいものがあるの」

 

 

 

 

 

「うわぁぁぁっ!!おい、何するんだっ!」

 

人里の一角で上がった悲鳴に、群衆がどよめく。一人の若い男が騒ぎ立てる先では、彼が何よりも大事にしている家が、咲夜とその配下のメイド妖精によってガラガラと崩されていた。

 

「何をするって、さっきから言っている通りです。この家の下に埋まっている本を取り出します」

 

「そんなの知らねぇよ!本のために家を壊すなんて、あんまりだろうがッ!」

 

男の慟哭にも、咲夜は頑として応じない。彼女は忠実に主の命令を遂行しているだけなのだ。

 

騒ぎを聞きつけたのか、この里で生粋の御意見番こと、寺子屋経営者の上白沢慧音が飛んできた。

 

「コラッ!何をしているんだ、君たちは!」

 

「家を壊しています」

 

「…何が目的なのか知らないが、これ以上人里を荒らすようなら、只では済まさない!」

 

慧音は物おじせずに啖呵を切り、寺子屋で子供を叱りつける時のような迫力で咲夜に迫った。

 

その時、慧音の後ろから声が掛かった。

 

「ふーん…里の妖怪風情が、随分と威勢の良いことを言うじゃないの」

 

慧音が振り返ると、紅色の日傘を差した少女が、コウモリのようなどす黒い羽根を羽ばたかせながら歩み寄って来た。

 

「…殺 さ れ た い の か い ?」

 

鋭い牙を覗かせながら笑う少女の正体は、レミリアであった。

 

 

 

 

夕焼けに沈む人里。本来は子どもが集まってくるはずの寺子屋には、誰の影も見えない。

 

「あのね、せんせーがね、やられちゃった」

 

里の外れに佇む氷の妖精は、魂が抜けたような声で言霊を連ねる。

 

「あたい、これからどうしよう、どうしよう…」

 

その妖精を憐れむように見下ろしていた妖怪―八雲紫―は、諭しながら問いただす。

 

「大丈夫よ。先生はきっとまた元気になるわ」

 

長く美しい金髪をゆらめかせながら、紫は穏やかな口調で氷の妖精に問うた。

 

「―それよりも、先生をやっつけちゃったのは誰か、教えてくれる?」

 

その口元は、いびつに歪んでいた。

 

 

 

 

 

「はいパチェ。例の本、取って来たよ」

 

レミリアから『ミミチア非統一原理書』を手渡されるや、パチュリーは驚いた顔で何ページかを流し読んだ。そして、その中身がまごう事なき本物であるのを確信した時、パチュリーの口元が緩む。

 

「凄いわ…こんなに良い状態のまま手に入れられるなんて」

 

レミリアも、満足げな表情を浮かべる。

 

「良い暇つぶしになったわぁ。また何か欲しい本が有ったら遠慮なく私に頼んでよ。それじゃ、そろそろティータイムだから」

 

 

 

上層に戻るレミリアを見送ったパチュリーは、司書室で昼寝をする小悪魔に毛布をかぶせると、大机に戻った。

 

閑静な図書館の中に、パチュリーただ一人。パチュリーは、手元に携えた『ミミチア非統一原理書』と魔道具を交互に見て微笑む。

 

(この魔道具さえあれば、どんな本でも手に入れられるわ…たとえどこに有ろうと、誰が持っていようと…)

 

 

 

そんな邪な思いを抱いたその瞬間、パチュリーの耳に聞こえるはずのない誰かの声が届く。

 

「…貴方、約束を破ったわね」

 

声のする先を見ると、そこにはあの八雲紫の姿があった。

 

「その道具を使うのは図書館の中だけに留めておくよう、忠告したはずよ」

 

紫に鋭く指摘されてもなお、パチュリーは机に向かったまま、不遜な態度を崩さない。

 

「…私は本をあるべき状態に戻しただけ。本は人に読まれるためにある物でしょ。ただ地中に埋もれてばかりじゃ、本も泣くに違いないわ」

 

そんなパチュリーの言葉に、紫はなおも冷徹な口調で返す。

 

「本が泣くなんて事、ある訳ないでしょう」

 

またも比喩を正論で返され、パチュリーは口をつぐんだ。紫は立て続けに言葉を並べる。

 

「本ごときの為にあんな騒動を巻き起こして、道理も何も無いじゃないの。欲しいモノの在り処が分かるのに手が届かない、そんなことになれば狂う輩も出てくる。それを危ぶんで忠告したのだけれど…貴方には無駄だったようね」

 

紫は呆れたように、振り返ったパチュリーの顔を人差し指で指し示した。

 

「な、何をするつもり…!?」

 

「その魔道具は返してもらうわ。その代わり、魔道具が無くても図書館を快適に使えるようにしてあげる」

 

ぴんと伸びた人差し指。そこから放たれる妖気とも知れぬ''何か''が、パチュリーを呑み込んで―

 

 

「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」

 

「むきゅうぅぅぅぅぅぅんっ!!??」

 

 

 

 

 

「むきゅ…う…?」

 

どうやら気絶させられていたらしい。紫の行方を追おうと、パチュリーは頭痛を抑えながら重い身体を持ち上げ、本の海へと身を投じ…ようとした。

 

「……えっ……!?」

 

本の海は、''干上がっていた''。震えるパチュリーの視界に映る並び立つ本棚という本棚は、すべて空っぽ。地から天まで空っぽ、手前も奥も空っぽ。空っぽ、空、空…

 

「……う…そ……で…しょ……」

 

あまりの光景にただ唖然としていたパチュリー。事態を直視した瞬間、視界が揺らぐ。

 

パチュリーは身を崩し、床へと倒れ伏した。

 

ドサリ、とパチュリーが倒れる音だけが虚しく響く。地下図書館…いや、単なる地下空洞に。

 

 

 

地に臥したパチュリーを踏み越え、紫は空の本棚の中にただ一つ残った本を手に取った。

 

『黒い雌鶏』という本である。

 

紫はにやりと笑って呟く。

 

「これで、探しやすくなったわね」

 

 

 






「『黒い雌鶏』には、財宝を見つける黒い雌鶏の創り方が書かれているらしいわ。その製法を求めて、多くの人間が血眼でこの魔術書を探していたそうよ。最も、そんなに都合の良い儲け話なんてある筈無い訳だけれど。彼らにとって、ただのホラ話が書かれた紙の塊も、また財宝だったのかもね…あぁ、強欲は罪だわ」



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