BAR Retake (poki3)
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”やりなおせる”BAR

 眠らない街。夜の繁華街のことを最初に表現したのは一体誰なのであろうか。むしろ青空が赤に、そして黒に変貌した後にそれは活性化するので、よい子が眠る時間は繁華街にとっての1日の始まりとも言える。実際日中の”眠らない街”は、存外に寂しく見えるというのは生まれてこの方ずっとここ「新江戸(しんえど)」という地で暮らす私の感想である。

 

 基本的に夜の街というものは三つのもので構成されている。「酒」「タバコ」「女」だ。心が欠けると、人はどうやら痛み止めを欲するらしい。愛が欠乏した人間たちは痛みを誤魔化すために繁華街に繰り出し、現代のマッチ売りの少女たちは日銭を稼ぎ夜に消える。汚く儚くも美しい、新陳代謝の実に激しい箱庭と言えるだろう。

 

 そんな箱庭の外れに、近頃何やら他にはない、妙ちくりんなバーが存在しているということを私は耳にしたのだ。大学時代の悪友である大宮は確かこう書いていた。

 

『なあ赤羽、”やり直したいこと”ないか?』

 

 

 

 

 私が大宮と知り合ったのは、大学の文芸サークルである。私は当時、別段文芸というものが好きではなかった。運動も不得手で、いわゆる”飲み”のノリなどに乗れるタイプでもなかった。高校時代、大学を中退した遊び人の叔父が「何かグループに入っておかんと、後に反動で俺みたいになるぞ」とさえ私に言わなければ何処のサークルに入るわけでもなく平穏で退屈なキャンパスライフを送っていたことだろう。”ああなりたくない”という思いはとても強いもので、叔父の言葉はサークルに所属する気のなかったであろう私の意思をあっさりと反転させた。

 

 文芸サークルの集まりは大学の空き教室を借りて行われていた。文芸に興味ある者なんて大体が内向的か、典型的なオタク気質であるので集まりは悪かった。存在しているのかどうか、外部の人間からは怪しまれていたことだろう。いや、そもそも存在自体を認識されていなかったかもしれない。そんな中で大宮と出会えたということは、今考えると運に恵まれていたと言える。

 

 大宮は文芸サークルに加入しているにも関わらず、外交的で遊びに富んだ人間だった。いくつものサークルを掛け持ちし、バイトも複数やっていた。その割には取るべき単位はしっかりと取って、オイシイところを持っていくのが非常に上手い奴であった。聖書の引用をすることもあれば、一夜限りの女の股の臭いについて延々と愚痴っていたこともある。とにかく振れ幅の多い男でもあった。

 

彼はサークルに入りたての私に、今思えば執拗とも思えるほど遊びの約束を取り付けようとしていた。そんな彼に対して、私が「どうして俺とつるむんだい?」と聞いてみたことがある。どうやら彼にとって私は、「ビビッときた人間」であるらしい。それを聞いた日に彼から「酒」と「女」を教えてもらった。その時にタバコも勧められたが、どうしても紫煙を体が受け付けなかったので、大宮から渡されたあの一本は私の人生最初で最後のタバコになるのだろう。あの日から、私と大宮は「悪友」となり夜の街を日々ふらつくことになったのである。

 

 結局のところ、私は叔父と似たような存在になってしまったと今更ながら思うけれども、幸い彼のように大学からドロップアウトすることはなかったので、かの日々のことは、私の若気の至りとしている。

 

 私と大宮の関係は社会人になってからも続いた。サシ飲みをする相手として、大宮は私にとって適した存在であった。夜な夜な飲み屋に繰り出して他愛もない話を繰り返す時間はモラトリアムの延長戦をしているようで心地よかった。

 

しかし、最近彼との連絡がパッタリと途絶えた。メールやチャットを送ってみるものの何一つ返答がなかった。彼の携帯が壊れたかとも思い、彼の自宅に電話をしてみることもあったが一切反応がない。奴のことなのでたまたま忙しいというのも十二分に有り得た。故にそこまで心配する必要もなかったのだが、私の心の何処かで警鐘が鳴っていて、彼の安否について無性に気になった。

 

 安否が途絶えて約一週間した頃に、知らないアドレスから一通メールが届いていた。メールには大宮の文調で”件のバー”について書かれていて、いくら彼のメールだとしても中々珍妙な内容であった。書かれていたのは”やり直せる”バーの場所と、入店するための条件。

 

『必ず金曜日の夜に来ること』

『必ず一人で来ること』

『必ず真っ黒な服装をして来ること』

 

 彼が言うにはどうやら三つの条件を満たすと、そのバーに辿り着けるらしい。大宮はかなり突拍子のないことを言うやつではあったが、ここまでのメルヘンさは初めてだ。普段ならただの迷惑メールや悪戯の類だと断定しただろう。

 

 

しかし彼がメールの文末に『赤羽を待ってる』と書いてあるのを読んだ時に、この奇天烈な条件で出現するらしい実に不可解な、”やり直せる”バーとやらに行ってみたくなったのだ。

 

 

 

 

 プシュー、と言う音とともに開くドアの中から外に向かって、人の波ができた。私はその波の一構成員となって満員の電車内から外へ飛び出した。押し出されたといってもいいかもしれない。

 

ふう、と息をつく。私は、というか全人類がだろうが満員電車が嫌いだ。嘘かまことか、満員電車内で吸っている空気の約二十パーセントは人の皮膚呼吸による空気であると耳にしてからはそれが加速した。故に私は電車内で息を深くすることができない。現代の地獄とは、満員電車のことである。

 

しかし冬場に満員電車から逃げ出せた後にする深呼吸のことは少し好きだ。例えるならば、マラソンを完走した時であろうか。肺に溜まった二酸化炭素と腐った空気を一呼吸で冬の何処か澄んだ空気に入れ替えた時、形容しがたい解放感に包まれるのだ。

 

 ここは”件”のバーがあると書かれていた場所の最寄駅、「新宿(あらじゅく)」である。首都である新江戸府内の中でも特に人がたくさん集まると言われている駅で、利用客は老若男女十人十色、まさに国の中心的な駅である。周辺には日本最大の”夜の街”とされる「浄瑠璃町(じょうるりちょう)」があって、学生時代はそこで大宮とよく飲み歩いたものだ。喧嘩も絶えず、治安はハッキリ言ってあまり良くない場所だが、浄瑠璃町特有の空気感は嫌いになれないどころか、人を虜にする妖しさがあると私は思う。

 

とはいっても、新宿はしばらくだ。浄瑠璃町は本当に店の入れ替わりが早い。男子三日会わざれば刮目して見よと言うが、浄瑠璃町では昨日まであった店がもともと存在していなかったかのように消えることなんて日常茶飯事だ。浄瑠璃町の一朝一夕の価値は、男子の三日分よりも結構大きいものである。

 

 カラス色のトレンチコートの襟を直し、駅を出ると、存外変わっていない新宿の風景が私の目に飛び込んできた。駅前で人がごった返している様子は、大学時代のあの頃を彷彿とさせた。

 

 なるほど、全ては諸行無常と言うが、”相変わらず”も存在するらしい。浄瑠璃町は何も変わっていなかった。酔っ払いが馬鹿笑いしながら団子になって群れを形成し、限界まで目を細めてみれば器量よく見えないこともない女が、「ファ」だとか「ソ」の声で一杯どうですかとひたすらに声をかけているその風景は、私が知る浄瑠璃町そのものだった。時代が進んでも、人の心の傷の埋め方は変わることはないのかもしれない。

 

 一杯何処かの店でひっかけて行くかと思ったが、大宮は酒に強い。その一杯が命取りになることを考え、私は客引きの女に丁重なノーサンキューを決めて、まっすぐ目的地に向かった。

 

 

 

 

 メールに書いてあった場所と携帯の地図を見比べながら歩いていると、だんだんと繁華街特有の騒がしさが遠のいてくる。人の往来もまばらになってきた。”眠らない街”といえども夜は夜。外れの方まで来てみると、結構静かなのだ。目的地に近づくにつれ、加速度的に人の気配が減ってくる。だんだん道も狭くなり、最終的には、繁華街の近くとは思えないほどに暗く、静かな路地裏に私はいた。

 

 本当に静かな路地なので、コツコツコツと前から歩んでくる女の存在に気づくことは難しくなかった。その女は”真っ黒”だった。黒髪、黒のセーター、黒のウールスカートに黒いコート。全身真っ黒の服装で、そのまま夜に溶けてしまいそうだった。

 

 私は何故かその女から目を離すことができなかった。真っ黒な服の中から覗く雪のように白い肌と、妙に赤く見える唇が、いやに脳裏に焼きついた。私は無意識に、その女のことを追ってしまった。もう、地図などみてはいなかった。女の足取りは、ゆったりとしているのに私がそれにペースを合わせていたら置いていかれそうになる、不思議なものだった。急に曲がったりするので、見失わないようにするのが大変だった。

 

 

 しばらく追いかけて、ふと我に帰ると私は自分の知らない場所にいた。

 

 

浄瑠璃町は慣れた街だ。多少中心からは外れているといえども、酔った勢いで周辺は一通り歩いたことがある。実際、途中まで私は何となく見覚えのある道であったのに、私が今立っている場所は”どこ”なのかさっぱりわからなかった。私は本能的な恐怖を覚え、慌てて携帯の地図を取り出すが、GPSが現在地を導き出さない。電波が圏外になっているのだ。ここは田舎でなく、大都会の真ん中である。携帯の電波が届かないことなんて、まず有りえない。異常なことだ。さっきまで自分の前を歩いていた女も、本当に夜に溶け込んでしまったかのように視界から消えていた。

 

 それからは歩いて、歩いて、歩いた。見知った浄瑠璃町のどこかに出ることを願いながらひたすらに歩いた。願いが叶うことはなかった。自分が”街”という妖怪に取り殺されてしまうのではないかと思うと、怖かった。

 

 

 

 

 月もだいぶ高くなってきた頃、歩き疲れた私は後ろを振り返った。あるのは、自分がさっきまで通ってきた”知らない”道。どんなに歩いても変わりばえせず、しかも抜け出すことのできない空間には埒が明かず、深くため息をついた。

 

その時、微かに私は”懐かしい”匂いを感じた。一体何の香りだっただろうか。少なくとも、私はこの香りを今までに感じたことがある。そして私は飢えた獣よろしく匂いの元へひたすら向かって行った。

 

 匂いを感じてからは早かった。路地の中に、古臭いネオン輝く”店”を発見したのである。しかも、それは大宮が書いた”件のバー”だと、根拠もないのに心の奥底から感じた。奴は何をしでかしたのだろうか。私は意を決して、扉を開いた。

 

 

 そういえば、ネオン管で店の名前が書いてあった。確か名前は……

 

 

『BAR Retake』

 

 

 

 

 

 

 

 



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