Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜 (しらなぎ)
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賢者の石
1 宝石の少女


 風に靡く艶やかな黒髪、光に照らされ深い海の色にも、淡い空の色にも彩を変える蒼の瞳、月光のもとで泡立つように煌めく白磁の肌。

 

 少女はまさに宝石だった。

 

 

 

*

 

 

 11歳の誕生日。今日はいつもよりもっともっと特別な日だ。シャルルは朝から上機嫌で心臓をドキドキと高鳴らせていた。

 

 目が覚めた時、枕元にあったプレゼントは母親のアナスタシアからだ。繊細なレースをあしらい、幾重にもシフォンが重ねられた真っ白なワンピースをさっそく身に纏えば、小さな天使のようだった。光の輪を輝かせた黒髪が、白い生地に眩しいほど映える。

 ふわふわした足取りで階段を降りれば、広間にはいっぱいの煌びやかなプレゼント達が。親戚達から送られたものだろう。

 

 食事は朝から豪勢だった。忙しい父親…ヨシュアも今日は食卓に並び、シャルルにキスを落とす。仕事に出る前に、ヨシュアはプレゼントをくれた。大きな箱をワクワクしながら開けると、シャルルの背丈の半分ほどもある真っ白なテディベアだった。ルビーの瞳がきらきら光っている。

「ああ、なんてことなの!ずっと欲しかったの!」

 感動でシャルルはぎゅうとテディベアを抱きしめた。ふわふわの体毛が彼女を包み込む。ダフネが自慢してきて以来、ずっと欲しいと思っていたのだ。

 

「ありがとう、お父様」

「いいんだ、おめでとう、可愛い小さな天使」

 弟のメロウからは可愛い手鏡を貰った。アナスタシアと一緒に選んだらしい。水色をメインに、水晶があしらわれた丁寧な意匠の手鏡だ。

「お姉様、おめでとう!ぼく、これが似合うと思って選んだんだ。気に入っていただけるといいけど……」

 不安そうにもじもじ言うメロウを抱きしめる。

「一目で気に入ったわ!とっても可愛いプレゼントをありがとう」

 

 さっとほっぺに朱が差した愛らしいメロウに微笑みが零れる。今年のプレゼントもとっても嬉しくて、シャルルは幸せだったが、まだ物足りなかった。今日は特別な日なのだ。

 

 そわそわとしながら本に目を落としつつ、窓辺で空を眺めていると、遠くから何かが一直線にやってくる。

 

 シャルルは飛び上がった。待ちに待った梟だ。

  梟は優雅に窓で羽を休めると、待ちきれないとばかりに頬を上気させるシャルルに嘴を寄せた。手紙を咥えている。

 半ばひったくるように受け取ったシャルルを、梟は不機嫌そうに睨んだが、シャルルは全く気付かずに手紙を見つめた。

 

「ついに来たわ!わたしもホグワーツに入学できるのね!」

  シャルルは封筒にキスする勢いで、中の手紙を読む。マクゴナガルから送られた、正真正銘の入学許可証だ。

 

「お母様!お母様!」

  いつもは上品に振る舞うシャルルが、スカートを翻して走るのを見てアナスタシアはくるりと目を丸くした後、可笑しそうに微笑んだ。愛しい娘は、どうやらそれほどまでにホグワーツの入学が嬉しいらしい。

 

「あのねっ、あのねっ、ついに来たの!ねえ、わたし早く準備に行きたいわ!」

「まあ、そんなに焦らないで。明日、ヨシュアがダイアゴン横丁に連れて行ってくれるわ」

「とっても楽しみ!ああ、早く行きたい」

 

  うっとりと瞳を煌めかせるシャルル。メロウがむすりと彼女を見上げた。

「お姉様、ぼくを置いて行ってしまうの?」

「ごめんねメロウ、でも冬休みにはきっと帰ってくるわ。きっとね」

「絶対、でしょう!お姉様はぼくと離れてさみしくは思わないの?」

「とってもさみしいわ!もちろん、そう思うに決まってるでしょう?けれどとっても楽しみな気持ちもあるの」

 浮かれた様子のシャルルには、彼の甘えにも今は心乱されてはくれないようだ。メロウはつまらなそうに肩を竦めた。

 

「お母様、わたしは当然スリザリンよね?きちんと入れるかしら?」

「もちろん入れるわ。わたしもヨシュアもスリザリンだったの。とても誇り高い、素敵な寮よ」

「わたし絶対にスリザリンに入りたいの!」

「ええ。けれど、レイブンクローも悪くないわ」

「お母様はレイブンクローの末裔の一族ですものね!でも、やっぱりスリザリンよね。おんなじ寮に入りたいもの」

 きらきらした瞳に見つめられる。アナスタシアも娘にスリザリンに入って欲しかった。

「わかっているとは思うけれど、お友達はきちんと選ぶこと。純血の名に相応しい振る舞いをすること」

「はい、お母様」

  シャルルは素直に頷いた。小さい頃から言われ続けてきた教えに染まり切っていた。あるいは、それ以上に、シャルルは純血主義者だった。

 

 アナスタシアは満足そうに自慢の娘の髪を撫でた。一束掬うと、小さな白い耳がちらりと見える。

  アナスタシアの白魚のような指を、流れるように黒い波が滑り落ちてゆく。艶やかに光り輝く、美しい髪だ。アナスタシアの銀髪とも、ヨシュアの茶髪とも違う。天使の輪を浮かべるこの黒髪はあのひとに似ているのだ。スっと筋の通った形の良い鼻や、少し上向きの薄い上唇も。

 

  アナスタシアは娘の成長を喜びながらも、憂いていた。愛らしく、美しく育つシャルル。入学すれば、もう隠し続けることはきっと出来ない。シャルルが真実を知るいつかは、きっと、そう遠くない未来だ。

 

 

 

  久しぶりの漏れ鍋にシャルルはキョロキョロと視線を彷徨わせる。今日は入学準備のために、ヨシュアとダイアゴン横丁へ赴いていた。

 趣味の悪いローブを羽織った老婆や、珍妙なマグルの格好をした魔法使いたち、小汚いパブ。雑多な雰囲気は馴染みのないものだ。あまり好きなものでもない。

 

 けれど、今日のシャルルには何だが何もかもが輝いて見えた。だから明らかにマグル生まれだろう子供がシャルルとぶつかっても、いつもならば顔を顰めただろうが、今日だけは微笑みさえ浮かべた。

 

「ご機嫌だね、お姫様」

  からかうようにヨシュアが手を差し出した。その手を取り、シャルルは気取ってどこかのマダムのように言う。

「当然ですわ。今日は大人の身嗜みのためのお買い物ですもの」

 ふたりは見つめあって同時にくすくす笑った。

 

 石畳のアーチを恭しく手を引かれくぐれば、薄暗いパブから、華やかで賑やかな魔法界だ。

 

  ふたりはまず真っ直ぐにオリバンダーの杖店へ向かった。シャルルの強い要望だ。家では、ヨシュアの先祖の杖を貸してもらって魔法の練習をしていたが、やっぱり自分ぴったりの杖が欲しかった。未成年の魔法使用はもちろん犯罪だが、「狡猾な魔法族は賢く魔法を使う」と唇の端を釣り上げ、ヨシュアが匂いを隠す魔法を部屋に張ったのだ。

  仮に見つかっても優秀かつ、法律関係の仕事に就き、顔も広いヨシュアなら、あっという間に握りつぶしてしまうだろう。

 

 オリバンダー杖専門店は古臭く埃っぽかったが、所狭しと並べられた箱や薄暗い店内が神秘的な雰囲気を醸し出していた。

 

 ついにわたしだけの杖が手に入るのね…!

 

 シャルルは胸がざわめいて落ち着かない気分になった。微かに震える手をぎゅっと握る。

「ようこそいらっしゃいました」

 店の奥から亡霊のように現れたしわがれた老人にシャルルだけでなく、ヨシュアまでもびくりと肩を微かに揺らす。

 

「これはこれは懐かしい…あなたは確かスチュアート家の長男でしたかな?」

  老人はヨシュアの暗いブラウンの癖っ毛をジロジロと眺めて呟いた。「杖は…スギの木にドラゴンの髭、忠誠心が高く馴染みやすい」

「よくお覚えで」

「覚えていますとも、そう、今まで売ったすべての杖の持ち主をね」

 

  オリバンダーはシャルルへ視線を移した。「杖腕はどちらかな?」

「右腕です」

  メジャーがシャルルの腕を測り、顔を図り、鼻のあたりまできたところで、ぱしりと手で払い不快げに顔を背けた。

 

  目をぎらぎらさせて、オリバンダー老人はシャルルをじろじろ眺めた。居心地の悪さに身じろぎし、内心で眉をひそめ、なんて不躾な方なのかしら、とシャルルはおもった。

 

「ふむ、興味深い…この子はスチュアートよりもブラックの家系の特徴が見られるが──」

  オリバンダーが続けようとした言葉を、ヨシュアの硬く冷たい声が遮った。

「Mr.オリバンダー。早く私の娘の杖を選んでもらおうか」

「ほう…?」

  眉をぴくりと上げたオリバンダーはそのまま何も言わずに奥へと下がる。

 

 シャルルは、突然厳しい顔になった父親を不思議に思いそっと見上げたが、ヨシュアはすぐにいつもの優しく悪戯気な微笑みを浮かべた。

「ではMs.スチュアート、これなどはいかがかな?スギの木に不死鳥の羽根、振りやすい」

  もしかしたらこれが自分の杖になるかもしれない…!

 手渡された杖を持ち、シャルルは少し緊張しながら手首を軽くスナップさせた。

 

 ───ガチャンッ!!

  途端にカウンターのランプが砕け、辺りに破片が散らばった。シャルルはびっくりして杖をひょっとカウンターに戻すと、恐る恐るオリバンダーを見上げる。

  しかしオリバンダーは気にした様子もなく「これは違うか…ならば…」と違う棚を調べ、また新しい杖を手渡した。

「あの…」

「気にしなくてかまいませんよ、いつものことなのでな」

 そう言いつつ、オリバンダーは杖をシャルルの手に押し付けるようにして握らせる。

 

「クリの木、ドラゴンの心臓の琴線、薬草学に最適」

  シャルルは先程の惨状を思い出し、控えめに杖を揺らした。しかし、これも駄目だった。バサバサと棚の箱が横薙ぎに払われ、彼女は眉を下げた。

 

「では次にこれを。楡の木、ドラゴンの心臓の琴線、繊細で優雅な魔法を好む」

 楡の木!シャルルは純血の魔法族が好むこの芯材を使った杖が欲しかった。期待と不安でどきどきする気持ちを抑えて、祈るように手首を振る。シャルルの期待を嘲笑うかのように杖はうんともすんとも反応を返してはくれなかった。

 

「ふむ、この杖は相性が悪いようじゃな…」

 高貴なイメージのある楡の杖がまさか自分に合わないとは…シャルルは肩を落とした。もう三本も失敗しているし、わたしに合う杖なんてもしかしたらないのかも…。

 

 胸の前でぎゅっと握られた小さな手をヨシュアがそっと包み込んだ。

「大丈夫だよ、シャルル。わたしも杖選びには随分かかったけれど、ぴったりな杖が見つかったからね」

「お父様…」

「自分の一生を預ける杖だ、じっくり探していこう。きっとお前のための素晴らしい杖が見つかるよ」

「はい!」

 シャルル沈んでいた心がヨシュアの励ましで浮上し、シャルルは頬を染めて返事をした。

 

 そうよね、オリバンダーは昔からの有名な杖店だし、きっとわたしの杖も見つかるはず…!

 それから試した杖はどれも窓を割ったり、旋風を起こしたり、箱を崩したりと良くない結果に終わったが、シャルルは不安になる度にヨシュアの励ましを思い出して前向きになるようにと努めた。

 シャルルの不安と反対にオリバンダーの顔を楽しそうに輝いていく。

「これは珍しい組み合わせじゃが…ヤマナラシの木に不死鳥の尾羽根、14インチ。決闘に最適でしなやか」

 

 白くきめ細かい杖を手にした瞬間、シャルルの体を爽やかになにかが走った感覚がした。

───これが、わたしの杖…。

 振る前からシャルルには分かった。興奮で息が詰まる。ふー…っとゆっくり深呼吸したあと、シャルルはもったいぶるように優雅に腕を振った。

 

 杖の先から光が迸る。深い海の、晴れ渡る空の、瑞々しい草木の、様々な碧の光が噴水のように湧きだしてシャルルの周りを踊った後、溶けるように消えた。

 神秘的な光景にその場にいた3人は言葉を失いただ見惚れた。

 

「…ブラボー!美しい!」

「とても綺麗な魔力だった」

 ふたりに拍手され、シャルルは照れたように笑みを浮かべる。

 でも、満更ではなかった。自分も見とれてしまうような魔力と、それを見せてくれた杖が誇らしい。

 光に照らされ白さが際立つその杖をそっと撫でると、杖が答えを返してくれた気がした。

 

 待ち望んだ自分だけの杖を手に入れたシャルルは、隠し切れない喜びを口元に浮かべ、次の店へと向かった。1人でだ。

 ヨシュアはシャルルには重い教科書や、魔法薬学で使う鍋などを買いに行っている。ダイアゴン横丁には何度も訪れたとは言え、天使のように愛らしいシャルルが、ふらふらと甘い蜜を求める蜜蜂のように誰かを誘って連れていかれてしまうのではないかと、心配で心配でたまらなかったが、シャルルがむっとして「もうこどもじゃないのよ?レディとして扱ってちょうだい」とそっぽを向けば、仕方なしに別れることを許した。

 

 とは言え、そうひとりでうろうろもさせられない。だから、時間を取られる制服を作りにシャルルを向かわせたのだ。

 マダム・マルキンの洋装店はショーウィンドウにかっちりして上品なスーツや、流行の色柄の女性用パーティドレスが飾ってあり、しっとりとした雰囲気だった。そして、それらの隣にはホグワーツの制服が置かれていた。

 

 扉を開けると鐘の音が響き、ふくよかな女性が振り向いた。

「あら、あらあらいらっしゃい。お嬢ちゃんはホグワーツ?ひとりなの?偉いわね、こちらにいらっしゃい、寸法を測りますからね」

 マダムは口を挟む間もなく話し続けるので、シャルルは口を閉じた。ショーウィンドウとは真逆の雰囲気の女性だ。馴れ馴れしく触れられることや、気品さもなく親しげに話しかけられることは初めてだったので、シャルルは少し眉を下げた。

  マダム・マルキンの10の言葉に、ええ、とか、そうね、とだけ返していると、また鐘が鳴った。店中に響き渡るその音は、マダムのようでぴったりだと内心思う。

 

 店に入ってきたのは、ワインレッドのミモレドレスに暗い紫のローブを纏った上品な女性と、手を引かれた少女だった。黒髪のボブヘアの、釣り目の女の子だ。

 マダムの話を鬱陶しそうに振り払い、黒髪の少女はシャルルの隣に並んだ。上を向いた少し丸い鼻が子犬のようだ。

「名前は何?」

 シャルルを横目で見ながら唐突に女の子がそう言った。ツンと顎を上げ、腕を組んでいる。

「シャルルよ。シャルル・スチュアート」

 この子は純血に違いないとシャルルは分かっていた。少女の来ているミニドレスはピンク色が眩しく、少女には可愛らしすぎると思ったが、光に照らされてつやつやと波打っていた。上等な絹で織られているオートクチュールだろう。

 

 シャルルが微笑むと、彼女の姓を聞いた少女も、片眉を釣り上げて、シャルルの顔をまっすぐ見た。

「パンジー・パーキンソンよ」

 少女が口元を釣り上げて、勝気そうな瞳で片手を差し出した。パーキンソンは聖28族に数えられる、純血中の純血家系だ。シャルルは目を見開いて、すぐに手を握り返した。

「あなたもホグワーツなの?」

「ええ、あなたも?」

「ええ。寮はどこに入りたいの?わたしはもちろん、スリザリンよ」

「あなたと同じ部屋になれたら素敵ね」

 

 ふたりは微笑み合った。パーキンソンは初めの態度より随分と穏やかになって、あれこれと話しかけてくれた。

「うちのパーティーに来たことないわよね?」

「ええ、あまり大きなパーティーには出たことがないの」

「どうして?」

 シャルルは肩を竦めた。

「知らないの。お母様もお父様もなんだかとっても心配性で」

「じゃあ今度うちに招待してあげるわ。お友達だけのちいさなパーティーを開いてあげる」

「ほんとうに?お誘い楽しみにしてるわ」

 

 制服を受け取ったシャルルが店を出る間際、パーキンソンが振り返って言った。

「わたしのことはパンジーでいいわよ」

「ありがとう!わたしのこともシャルルって呼んで、パンジー!また会いましょう」

「スリザリンでね」

「スリザリンで!」

 思いがけず手に入った純血の友達にシャルルは嬉しくなった。洋装店を少し進んだ先にあるアイスパーラーで腰掛け、バニラアイスを食べながらヨシュアを待つ。

 きっとヨシュアは喜んでくれるだろう。パンジーは勝気で真っ直ぐな物言いをするが、明るく溌剌としていて、話しやすかった。お喋りも楽しかったし、若い女の子の流行に詳しかった。

 

 アイスを食べ終わる頃、キャリーバッグを引いたヨシュアがやってきた。来る時は持っていなかったものだ。  

 シャルルの体に合わせた大きさで、銀とダークグリーンの色合いが上品だった。持ち手のところに銀の蛇が巻きついている。

「これは?」

 シャルルが駆け寄って、期待を隠せない様子でヨシュアを見上げた。

「入学祝いだよ。ホグワーツに行くにはたくさんの荷物を入れなければいけないだろう?気に入ったかい?」

「もちろん!とっても素敵…これ、スリザリンがモチーフでしょう?わたし、もっとスリザリンに入りたくなっちゃった」

 蛇の頭を撫でると、舌がチロチロと動いた。シャルルはこのサプライズプレゼントが大いに気に入ったのだった。

 

 

 入学までの2ヶ月間はあっという間に過ぎた。教科書を読んで、書いてあることをすべて理解するのは難しかったが、とても楽しかった。シャルルがもともと知っていたいくつかの呪文もあった。

 アナスタシアは薬草学と魔法薬学に長けていたし、ヨシュアは闇の魔術に対する防衛術と呪文学が得意だった。

 

 大人になっても規則を無視する傾向は変わらなかったため、悪い笑みを浮かべて、ヨシュアはシャルルに魔法を使わせてくれた。

 もちろん、一度で覚えることや、全ての理論や魔法を理解することは出来なかったが、1年生で習うほぼ全ての内容はおおかた頭に入った。

 シャルルのスポンジのような柔らかな脳みそが面白いくらいするすると色々なことを吸収していくのがヨシュアには面白く、誇らしかった。

 

 入学することを寂しがる、可愛い弟のメロウともきちんとシャルルは交流を測った。姉のすることはなんでも知りたがる彼に、ていねいに魔法を教えるのは、簡単ではなかったが楽しい作業だった。アナスタシアは入学前から杖を扱うことに関して歓迎的ではなく危険を感じていたが、ヨシュアはむしろ推奨していた。

 ありとあらゆる場面へ対処するために、こどもたちが理知的で好奇心旺盛、そして実践的であるのは喜ばしいと考えていた。闇の時代を生きたアナスタシアも、その考えは分からなくもなかった。なにしろ幼い頃からアナスタシアは"名前を呼んではいけないあの人"や"死喰い人"の恐ろしさについて、いっとう口を煩く教育してきていたので。

 

 その教育のおかげか、せいか、シャルルの中には"例のあの人"への畏怖、反感の他に、魔法界の在り方、純血、思想への尽きない考察、疑問、そしてアナスタシアが唾棄すべきだと考えるであろう、"例のあの人"への深い興味と一種の強烈な感情すら浮かびかけていた。

 

 シャルルにはシャルルなりの、ある意味で新しい純血思想というものが根付き始めていたのだ。

 

 

 8月にはパーキンソン家のティーパーティーにも招かれた。アナスタシアもヨシュアも聖28族との繋がりを喜び、快く送り出してくれた。

 パーキンソンの屋敷は、石造りの厳格な作りで、パンジーとも、パンジーの母とも印象が異なっていたが、裏庭にある庭園や薔薇のアーチは恐ろしく彼女たちに似合っていた。そこで、パンジーとシャルルはパーティーを抜け出して、ハウスエルフの作る特別なおやつと共にこっそりと逢瀬を楽しんだ。

 パーキンソンとスチュアートでは、やはり、大きく家柄が劣るが、シャルルはパンジーによく気に入られた。対等な物言いどころか、少し高慢な口ぶりをしても、パンジーはシャルルを許した。ふたりはよく気があった。

 パンジーもシャルルも、お互いが高貴な血と、正しい思想を持っていることを確信していた。

 

 



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2 蛇の家族

 とうとうその日がやってきた。9月1日。今日はシャルルがスチュアート家から巣立つ日だ。拙いながらにもシャルルが軽量化魔法と空間増量魔法をかけたキャリーケースをハウスエルフが持ち、ヨシュアとアナスタシアの腕をそっと組ませた。

 

 頬が熱い。興奮していた。ヨシュアを見上げると、シャルルを穏やかな瞳で見つめた。「姉様」メロウが服の裾をそっと掴んだ。

「僕のことを忘れないで」

 今にも泣きだしそうな顔だった。愛おしくなって、シャルルは力いっぱい彼を抱きしめた。シャルルの心音がトクトクと響くのを、メロウは涙目で感じた。

「メロウ、いい子で待てるね」

「はい、父様」

 メロウはまだ小さいため、マグルの世界に連れていくのをアナスタシアは拒んだ。メロウは置いていかれたくはなかったが、ヨシュアがアナに賛同した。

 ふたりは、時にシャルルへの教育以上に、メロウに過保護だった。それはシャルルが優秀だからだろうとメロウは考えていたが、違う要因が絡んでいた。

 ハウスエルフに預けられ、メロウは涙目で3人を見つめた。

 

 ヨシュアが3人の頭を順番に杖で叩く。頭の上から爪先まで、氷水が全身をひやりと這う感覚がして、ふたりがシャルルの視界から消えた。同様にシャルルもふたりの視界から消えただろう。目くらましの呪文だ。腕にぎゅっと力を入れると、左側のアナスタシアの手がそっとシャルルの背に添えられ、体の強ばりがほぐれた。

「決して腕を離してはいけないよ」

 返事をするように腕を引く。パシッ。ちいさな音と共に屋敷から3人が消えた。

 

 

 姿現ししてすぐ目に入ってきたのは、無秩序にうぞうぞと蠢く穢れた血の群れだった。目につくマグルのどれもこれもが、俯き、早足で歩き去っていく。

 シャルルは無意識に腕をさすっていた。ポツポツと鳥肌が立っている。アナスタシアが「穢らわしい…ああ、早く行きましょう。こんなところ1秒でも居たくない」と吐き捨てた。

「出来るだけ息を吸っちゃダメよ」

 言われなくてもそうしていたが、シャルルは微かに頷いた。見慣れない衣服を除けば、見た目には魔法使いとそう変わらないはずなのに、穢れた血どもはどうしてこうも嫌悪感を湧かせ、理解できない虫のように感じさせるのだろう。

 

 キングズ・クロス駅を足早に進み、蠢くマグルの波を泳ぐように進んだ。壁に向かって突き進むヨシュアにシャルルはちいさく息を呑んだ。目を見開いて悲鳴を押し殺したシャルルにふたりは気づかなかったようだ。

 両手が塞がっているので壁に手をつくことも出来ない。目を瞑る暇もなく、シャルルは壁に飲み込まれた。

 異様な感覚だった。壁を通り抜けると蠢いていたマグルは消え去り、見慣れた魔法使いたちが溢れていた。真っ赤な蒸気機関車が威圧的に佇んでいる。シャルルは呆然としてきょろきょろと周囲を見渡した。

 

 また、ひやりとした感覚に襲われ、アナスタシアとヨシュアが現れた。置いていかれたこどものようなシャルルにヨシュアがやっと気づき、慌てて彼女と目を合わせた。

「すまない、シャルル。おまえはもしかして、キングズ・クロス駅は初めてだったね?心遣いが足りなかった、怖かっただろう」

 そっと抱きしめられ、頭を撫でられると少し気分が落ち着いて、同時に恥ずかしいような悔しいようなきもちになった。ヨシュアがシャルルを忘れたことも、自分が怯えたことも、旅立ちの日にちいさな子供扱いされたことも。

「こわくはなかったわ……。そうね、ただ、ちょっと驚いただけ」

 本心ではなかったが、シャルルはそう言った。思いのほかちいさな声になってしまった。

 

 ヨシュアは微笑んで、シャルルのやわい頬にキスをした。

「強い子だ…シャルル。健やかに、正しく、誇り高く、強くなりなさい」

「はい、お父様」

 ヨシュアの温もりが離れると、思った以上の心細さが襲ってきた。

 

 アナスタシアが涙声で「頑張り過ぎなくていいのよ。辛くなったら帰ってきて。あなたは優秀すぎる。きっと抱え込むわ」とシャルルを抱きしめた。

「はい、お母様」

 心配しすぎだと思ったが、いい子の返事をした。彼らに心配されることは、悪い気分ではなかった。シャルルを愛していると知っているからだ。

 

 アナスタシアがシャルルの瞳をじっと見つめた。鼻先が触れ合う距離だった。彼女の瞳は、いとしさ、よろこび、かなしみ、あきらめ…いろいろな感情が渦巻いて、蒼い瞳がきらきらしていた。

「もう行かなきゃ……」

 不思議な色をたたえた瞳に圧倒されて、シャルルは躊躇うように囁いた。「ええ、わかってる……わかってるわ……シャルル……」

 アナスタシアとヨシュアはキャリーケースを引いて汽車に乗り込むシャルルを、名残惜しげに眺め続けた。寂しさに後ろ髪を引かれる想いがあったが、汽車に乗ると、同世代のこどもたちが目に入り、否応なく新しい世界への期待に心中は埋め尽くされた。

 

 赤い汽車に飲み込まれ、旅立ってしまったシャルルの背中が見えなくなっても、アナスタシアは汽車を見つめ続けていた。

「行ってしまったわ……」

 思わず零れるようにアナスタシアは呟いた。まるで、ホグワーツへ行くことなんて望んでいないような声音だった。いや、事実望んでいなかった。ヨシュアはそっとアナスタシアの腰を支えた。

「きっともう隠しきれない……」

「僕らが守ろう。僕は恐れない」

「わたしは恐ろしい…あの子が…見つかったらと思うと」

 

 爪が食い込み、真っ白になるくらい握りしめられたアナの手をヨシュアが包み込んだ。

「僕らにはその力がある。戦うことも抗うこともできる。それに、シャルルはきっとスリザリンになるだろう。僕らの寮は自分の家族を脅かす敵を、決して許さない」

 ヨシュアの言葉はほんの少しだけ頑なな心を溶かしたが、溶かしきるには足りなかった。

「知られることも恐ろしいの!恐ろしいのよ……」

「シャルルは聡い子だ。理性的に物事を捉えることが出来る」

「それは傷つかないこととは違うわ」

「ああ、けれど」ヨシュアは優しい声で言った。「シャルルは僕らの愛を知っている。そうだろう?」

 アナスタシアは涙に濡れた目でヨシュアを見つめた。彼はそっとかがみ、さらに言葉を続けた。

「僕は君も、シャルルも愛しているし、誠実に向き合ってきたつもりだ。僕らの日々は嘘だったかい?」

「いいえ……」恥じ入るような声音だった。

「シャルルを愛しているわ」

 

 

 

 

 空いているコンパートメントは既に少なくなっていた。

 きょろきょろしながらシャルルは汽車を練り歩く。パンジーやダフネと乗りたかったが、彼女たちを見つけることは叶わなかった。

 どこに座ろうか…。

 眉を下げる。席が余っているところはいくつかあったが、既に座っている人は純血らしい上品さのないひとたちばかりで、一緒に座るのは遠慮したかった。

 

 そうして席を探しているうちに、ふと目に付いたコンパートメントがあった。肌の白い、痩せ型の男の子が優雅に足を組んで本を読んでいる。はらりと前髪が垂れていて、隙間から除く目は冷たく光っていたが、同時に知性を感じさせた。

 悩むこともなく、彼のコンパートメントをコンコンコン、とノックした。

 男の子はほんの少し顔を上げると、面倒そうな顔を隠しもせずに片眉を釣り上げた。

「空いてるところがもうないの、ここに座ってもいいかしら?」

 シャルルの顔を見て一瞬目を見開いた後、上から下に視線をさっと走らせ「…好きにすれば」とだけ言うと、男の子はまた本に視線を戻した。

「ありがとう」

「別に」

 

 汽車が動きだした。「ついにホグワーツへ行けるのね」思わずシャルルは喜色が滲んだ呟きを零した。

「……より深い知識を得られることは悪くない」

 シャルルは彼の顔を見つめた。視線は相変わらす本に落とされている。しかし独り言に律儀返事を返してくれるタイプだとは思わなかったのだ。

 本のページを捲る仕草からも気品を感じるこの男の子と仲良くなりたいと、シャルルはふんわりとした笑顔を浮かべて話しかけた。

「あなたの読んでいる本、アヴィン・ケラーの書いた『新種の毒草と周辺の生態系との関連』よね。32ページの考察がおもしろかったわ」

 突然長々と話し始めたシャルルに少し驚いた顔をした男の子だったが、「…へえ」と唇の端を歪めた。

「驚いたな、この本を読んでいる生徒がいるなんて」

「お母様が薬草学者だから、関連の本は積極的に読むようにしているの」

 

 男の子は観察するようにシャルルを見てから、うっすらと笑った。そして目を見つめて彼女に視線で促した。

「わたしはシャルル・スチュアート。あなたは?」

「セオドール・ノット」

 シャルルはかなりの家柄の名前を聞き目を見開いたが、すぐに微笑んだ。

「あなたと出会えてとても嬉しいわ、ノット」

 シャルルはつとめて気品のある微笑みを口元に浮かべた。彼は素晴らしい家柄の子息だ。

「あなたも新入生なの?」

「ああ」

「1年生なのにそんな上級薬草学を読むなんて頭がいいのね」

「きみの方こそ」彼は真顔だったが、声音は軽かった。「教科書はもう全部読んだのか?」

「読んだわ、知らないこともたくさん載っていてとってもおもしろかった」

 ノットはいつの間にか開いていた本を閉じて膝に乗せていた。

 ふたりは教科書の内容、高度な書物の話、ホグワーツについて…気付けば大いに盛り上がっていた。

 どれくらい話していただろう?

 

──コンコン。

 ノックの音が響き、はっとシャルルは周りに意識を戻した。 シャルルは同世代の子と勉強の話をしたり討論をしたりするのは初めてで、たのしくて時間を忘れるほど夢中になっていた。

「車内販売よ、お菓子はいりませんか?」

「そうね…それじゃあ蛙チョコレートと大鍋ケーキ、それとかぼちゃパイをひとつ」

「僕はドリンクでいい。紅茶をひとつ」

「はい、どうぞ」

 シャルルの蛙チョコレートはアルバス・ダンブルドアだった。魔法界で有名な偉大な魔法使いだが、ヨシュアもアナスタシアも彼を信用しているとは言いがたかった。思わず顔をしかめた彼女に「どうしたんだ」とノットが問いかけた。

 肩をすくめて無言でカードを渡すと受け取る前に「…ああ」と押し返された。やはり、彼もホグワーツの校長を好いてはいないらしい。

「そろそろ着くな」

「えっ、もうそんな時間なの?」

 長く話していたつもりはなかったが、思った以上に話し込んでいてシャルルは驚いた。どうやらノットも同じだったらしい。

 

 荷物を下ろして席を整えていると、やがて列車が止まった。

 ノットはさっとローブを引っ掛けると、ちらりとシャルルと視線を交わしコンパートメントから出ていった。

 彼と話していてわかったが、やっぱりセオドール・ノットという男の子はひとりを好むひとで、思った以上に周りに関心がない。

 だけど話は面白いし、知識が深くて、仕草も美しくて、ユーモアもあるし、素っ気ないが優しく、そこそこは紳士的で、なによりスリザリン的だ。

 入学初日からそんなスチュアート家にふさわしい友人を作ることが出来てシャルルは大満足だった。そして、きっとノットも同じ気持ちだろうと、シャルルは確信していた。

 

 

「イッチ年生はこっちだ!」

 大柄の毛むくじゃらの男が大声で叫んでいる。普通の人間の大きさではない…巨人?人間にしては大柄すぎる。けれど巨人にしてはみすぼらしい。よく分からない知能の低そうな男はできるだけ無視して4人がけボートに乗り込み、広大なホグワーツ城へ向かう。

 進むにつれて露わになる壮大で、荘厳な歴史を感じるお城にシャルルはうっとり感嘆のため息をついた。

 そびえ立つ城から迫るような魔力を感じる気がして、シャルルはお城に入った後も隅々までせわしなく目を動かした。

 動く絵画も喋る絵画もたくさん家にあるのに、ホグワーツにあるというだけでとても神秘的なものに思えてしまう。

 きっと偉大なる創始者たちが手ずからかけた魔法がこの城にかかっているからだとシャルルは思った。

 

 ホールに1年生が集められると、眼鏡をかけた厳しそうな老婆の魔女が現れた。きっちりとした着こなしも、姿勢も、口調も、威圧的ではあったが、嫌な気分にさせるものではなかった。むしろ、知的な印象を受ける。

 彼女が説明を終え「では組み分けに呼ぶまでここで待つように」と去った背中を見つめて、シャルルは碧の瞳をきらりと輝かせた。

 

 

 ついにホグワーツに入学…。

 かのサラザール・スリザリン様のいらした城に自分が立っている興奮から、シャルルのやわいほっぺたは上気し、指先がふるふると震えた。なんだか叫びたい気持ちになって、必死に両手でくちをおさえる。

 

「久しぶりね、シャルル。あなた口を押さえたりしてどうしたのよ?」

「パンジー!」

 黒髪を肩の上で綺麗に切り揃えた、キツめの顔つきの女の子…ダイアゴン横丁で出来たシャルルの友達が後ろにたっていた。

「ああっ、ひさしぶりねパンジー!わたしっコンパートメントをさがしたのよ!」

「まあ、そうだったの?でも悪いわね!いとこの上級生と一緒に乗ってたのよ。あなたと乗りたかったわ」

「それならしかたないわ…。でも、今日から同じ寮だもの。たくさんお話しましょうね 」

「もちろんよ。同じ部屋になれたら嬉しいわね!」

「だめだったら交換してもらえないのかしら」

 

 久々の再会に盛り上がっていると、突然ふたりの会話を引き裂くような悲鳴が聞こえた。

 その正体はゴーストだった。フレンドリーな霊たちが子供たちの周りをくるきる飛び、そのまま嵐のように過ぎ去っていった。

「ホグワーツでは霊さえも住人なのね。おもしろいわ!」

「気味が悪いだけじゃない」パンジーはつまらなそうに肩を竦めた。

 

 マクゴナガル教授について入った大広間にはホグワーツ中の人が集まっていた。四つに別れた生徒達の目が1年生の目を見つめていて、シャルルは少し体を固くした。

 しかし、それも天井を見ればすぐに吹き飛んだ。

 

 黒く滑らかなビロードの布に、砕けた氷が散りばめられたような夜空の天井はとても見事で、今にも星屑が降ってきそうなほど幻想的だ。

「この空には魔法が掛けられているのよ」

 誰かの言葉が耳に入ってくる。

 やはり創設者の四人は偉大だ…。こんなに美しくて壮大な魔法は見たことがない。

 感動で言葉が出なかった。

 

 シャルルは組み分けの方法をアナスタシアに教えてもらったけど、周りの子はみんな知らなかったみたいで、不安そうにしたり、魔法の練習をしている子がたくさんいた。パンジーもそのひとり。

「お父様は何も心配することはないっておっしゃっていたけれど、一体なにをするのかしら?」

「すぐにわかるわ、きっとね」シャルルは悪戯げに言った。

 

 厳格な雰囲気でマクゴナガル教授が前にでてくると、ざわざわとしていた大広間に一瞬で静寂が訪れた。手には帽子を持っている。

「何かしら、あの薄汚い帽子」

 パンジーが嫌そうにつぶやいた。

 帽子がぴくりと動き出し、よく響く声で歌を朗々と歌い上げた。大広間は拍手の大喝采で満ち、シャルルも一生懸命に手を叩いた。

 ゴドリックの遺した由緒正しき帽子だと知っていたからだ。

 シャルルはこの考える帽子がとても素晴らしいと思うのだが、パンジーはそうではないらしい。

「あの帽子を被れっていうの!?ありえない!」

 おぞましいというように身をよじり、強く拒絶の色を見せている。嫌よ嫌よと喚くパンジーをシャルルは宥めた。

「大丈夫よパンジー。きっとすぐ済むわ」

 

 アボット・ハンナから始まった組み分けはたまに時間のかかる生徒はいるものの順調に進んでいた。

 シャルルは聞き覚えのある純血家系の子供をじっと見つめ、顔と名前、振分けられた寮をしっかり覚えた。

 コンパートメントで一緒になったノット、昔馴染みのダフネ、そしてパンジーもほぼ考える間もなくスリザリンに組み分けされ、笑顔で席へと向かっていった。早く二人の元へ向かいたいと視線を向けると、目の合ったセオドールが微かに頷いてくれた。胸が温かい気持ちに包まれ、うれしくなった。

 

 

「ポッター・ハリー!」

 

 

 マクゴナガル教授の声が空間を裂き、歓声がざわめきに、そして静寂へと変わった。冷たい静寂ではない、興奮を抑えきれず沈黙に熱が篭った、今にも破裂しそうな静寂だ。

 数え切れないほどの人の目が、ひょろひょろとして頼りない表情の眼鏡の男の子へ突き刺さる。

 

 彼がハリー・ポッター…あの"例のあの人"………ヴォルデモート卿……から生き残った男の子…。

 英雄は、思った以上に普通の男の子だった。不安そうで、緊張しているのか体は強ばっていてる。

 考える帽子は、とても長い時間悩んだ末に「グリフィンドーーーールッ!!!」と叫んだ。

 

 その瞬間歓声が爆発する。

 広間が揺れたと感じるほどのたくさんの喜びの叫びがグリフィンドールの席から聞こえてくる。

 他の寮は悔しげだったが、シャルルはこの結果は当然だと思った。ポッター家は代々グリフィンドールに組み分けされる。それに暗黒の時代を"例のあの人"から救った功績は英雄的だ。これは成るべくして成った結果なのだ。

 シャルルは、英雄のちいさな背中を見つめた。

 

 

「スチュアート・シャルル!」

 ついにシャルルの順番が来た。シャルルは不安なんか微塵も感じていなかった。自分にどんな素質があるのか、どこへ組み分けされるのか、ただ強い好奇心でわくわくと心が跳ねていた。

 

 シャルルが前に出ると、大広間がさざめいた。

 

 シャルルは軽い足取りで堂々と前に進み、艶やかな黒髪を靡かせ、サファイアのような碧い瞳をきらきらと輝かせる。

 熟れて赤く染まった頬がますます肌の白さを際立たせていた。シャルルは人形のように可愛らしかったが、未成熟な色気があり、どこか人の視線を惹き付ける魅力があった。

 

 そして、生徒達が惹き込まれるのとは別の要因で、教師達もシャルルに息を飲んで注視していた。ダンブルドアが青の目をきらきらさせてシャルルを見ていた。スネイプがえも言われぬ感情を押し殺してシャルルを見ていた。マクゴガナルが瞳が潤むような気持ちでシャルルを見ていた。

 シャルルはあまりにも、あまりにも今は亡きかつての生徒たちの面影をうつしすぎていた。

 

 当の本人はといえば、そんな大広間の様子などまったく気にせずに憧れの創設者たちの遺物に興奮し瞳をうろつかせている。どきどきと椅子に座り、ゴドリックが遺した帽子を被ると「ウーーン…」と耳元で唸り声がし、びっくりしてシャルルはちいさく跳ねた。

 

───すごい!ほんとうにしゃべるのね!

「いかにも、わたしは考える帽子。お嬢さんの資質を見極め、それに相応しい寮へ組み分けよう。ふむふむ、きみには貪欲な知識欲があり、勤勉な努力家だ。ほほう、レイブンクローの血も微かに引いているようだね。しかし…」

───帽子さん、わたしはスリザリンに入りたいの。

「ふむ、スリザリンかね?確かにきみは熱烈な純血主義者であるようだ。そして合理的で計算高い…狡猾さもある。友を大事にする心、ふむ、断固たる決意もあるようじゃな?だが、既存に逆らう気骨と反発心も持ち合わせており、何より革命的だ。君の本質は闘志で、抑圧されることに我慢がならない性質。そして、君の血はロウェナに近いようじゃな?理知的で、聡明で、好奇心と知識欲が旺盛。高慢で誇り高く、個を好み個を重視する。中々素質が高いようだ。きみはスリザリンでもレイブンクローでもグリフィンドールでも得がたい経験をすることが出来るだろう」

───グリフィンドールなんて冗談じゃないわ!素晴らしい寮だとは思うけど、自分が入りたいとは思わない。スリザリンにして!

「そこまでいうのなら…資質は十分、むしろここしかないと言える。きみはこの寮で必ずや偉大はことを成すだろう ───スリザリンッッ!!! 」

 

 スリザリンが歓声をあげて、シャルルを拍手で迎えてくれた。シャルルも笑顔で手を振っているパンジーの隣に向かう。その背中を視線で追った教師達が目を伏せて、一瞬のうちに過去の懐かしさを思い出し、振り払った。

「ようこそ、スリザリンへ」

 先輩の歓迎ににっこりと笑顔を返す。パンジーが手を挙げてくれた。しかし隣には既に誰かが座っていて、シャルルは眉を下げた。

 

「ここはシャルルが座るの」パンジーがなんでもない事のように言い放った。「ほら、あそこが空いているわ」

 パンジーの隣に座っていたのは、恐らく上級生だったが、黙ってパンジーの言葉に従った。当たり前のようにシャルルはパンジーの隣の席に腰掛けた。

 すかさず、シャルルのにこやかな笑みにもう虜にされてしまった1人の崇拝者が、さっと飲み物を差し出し、彼女はそれを受け取る。

 

「ちょっと時間がかかったわね」

「レイブンクローと迷ったみたい。お母様の一族がレイブンクローの末裔だから」

 シャルルは笑顔でさらりとそう述べる。

 それに目の前の男の子が興味を持ったように話しかけてきた。「へえ、それってマーミラ?ダスティン?それともクリミアーナかな」

「ダスティンよ」

 

 男の子は青白い肌をして、顎が少し尖っていて、つんと高い鼻を上に向けていた。

「父上があそこは叡智に優れた素晴らしい家系だと仰っていた。僕はドラコ・マルフォイ。こいつらはクラッブとゴイル。君をスリザリンに歓迎するよ」

 マルフォイと言えば聖28一族の中でもかなり上位の名家だ。ブラック家が断絶した今、血筋でも象徴的権威でも金銭的にも、頂点に立つと言っても過言ではないかもしれない。

 

 少年の両隣で狂ったように口に食べ物を詰めている──控えめに言っても豚のような食事風景を演出する2人の少年についても、シャルルは認識を改めた。彼らは愛されてふくよかに育った血筋の良い子供達だ。シャルルは愛想よく微笑んだ。

「ありがとう、わたしはシャルル・スチュアートよ。よろしくね 」

 

 首をこてんと傾けて花が咲くような笑みを浮かべたシャルルを見て、マルフォイの青白い頬にさっと朱が差した。

「スチュアートか…あそこの娘はパーティに全く出てこない変わり者だって有名だったけれど、噂は当てにならないな」

「噂?」

「それならわたしも聞いたことあるわ。あなたについて、面白い噂が貴族社会に流れているの」

 自分についての噂?上流階級との付き合いを制限され、他の純血家系の子息子女たちに比べ、社交界に疎いシャルルは、こてんと首をかしげた。

「根も葉もない噂さ。スチュアート家のご令嬢が表に出てこないのは、顔も見せられないほど醜いのか、それとも既に死んでるのかってね」

「まあ!」

「だが実際の君はどうだ。醜いどころかとても…アー…噂とは真逆だ。」

 少し言い淀み、照れるように言った彼にシャルルもほんのりと頬を染めた。同世代の男の子に褒められるのは慣れていないのだ。そんなふたりにパンジーはむっとするが、相手がシャルルなら仕方がないと小さなため息をついた。なにせ、彼女は自分でもみとれてしまう宝石のような美貌を持っているのだから。

 

 最後にブレーズ・ザビニがスリザリンに組み分けされると、長い銀髪の髭に青くきらめく瞳のアルバス・ダンブルドア校長が壇上に立った。

「 おめでとう!ホグワーツの新入生おめでとう!歓迎会を始める前に二言三言言わせていただきたい。では行きますぞ。

Nitwit! Blubber !Oddment! Tweak 」

 

 シャルルは呆気にとられて、悪戯気な笑顔を浮かべるアルバス・ダンブルドアをぽかんと見つめた。

 小さい頃からダンブルドアを信用してはいけない、巫山戯た狸爺で、腹の底を見せない偽善者だなんだと話を聞いていたが…。

「なにあれ?頭が耄碌してるんじゃないの?」

 呆れたように言うパンジーにシャルルは全面的に賛成だった。ユーモアだとしても彼は少し頭がおかしいのかも。シャルルは肩をすくめた。

 

 空腹が満たされ、生徒たちは大広間を後にした。スリザリン寮への案内は、監督生と呼ばれる優秀な生徒が案内してくれた。

 大広間からほかの寮の生徒がいなくなるのを待って、地下室へ向かう。

 

「決して寮の場所を知られないようにしろ」

 暗く、落ち着いた雰囲気の、ひやりとした廊下を進んでゆく。

 

 監督生は暗いブロンドの髪をかき混ぜた。「決してだ。秘密は保たれなければならない。わかるな?」

 

 冷たい口調だった。1年生はお互い顔を見合わせて、おずおずと頷いた。

 

「やめなさいよ、シーザー。あなたって本当趣味が悪いわ」

「黙れ、ファーレイ」嗜めた茶髪の女性を、監督生は睨めつけた。だが、彼女は受け流して、さらに続けた。

「わたし達は家族よ。同じスリザリン寮になったからには、わたし達はあなた達を全力で守る。そしてそれをあなた達にも望むわ」

「フン」シーザーは鼻を鳴らした。

「だがファーレイの言う通りだ。僕らは敵が多い……だからこそ、支え合うべきだ」

 誠に不満そうにシーザーは顔を顰めた。

「まず、秘密を保て。寮の場所、合言葉、自分の秘密……家族の秘密。そして狡猾であれ。僕らは誰よりも理性的な選択を取り続けることが出来るはずだ」

 

 シャルルはこの2人を好ましく思った。そして、この2人の思考を形成したスリザリンも、やはり、正しくシャルルが入るべき寮だったのだと感じた。

 

 長い廊下のいくつかあるうちの扉を素通りし、シーザーは扉と扉の間の、なにもない壁の前で立ち止まった。石造りの煉瓦壁だ。特に特別なところは見当たらない。

「純血」

 途端に石の壁の奥に道が出来て、シャルルたちはそこをくぐって談話室へと降り立った。

 

「スリザリンへようこそ」

 

 少しも歓迎していないような声音だったが、もう1年生たちにはわかり始めていた。

「僕らは君らを歓迎する。選ばれた家族たちだ」

 

 

 

 



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3 栄光と嘲り

 生徒たちがばらけはじめ、各々の時間が訪れた。シャルルはもう眠かったが、厳かな談話室への興味を捨てることは出来なかった。

 通路に敷かれた緑の絨毯に、大理石の床、煉瓦の壁には本棚が置かれぎっしりと本が詰まっている。

 窓の向こうを覗けばおどろおどろしい見た目の魚やマーピープルたちが悠々と泳ぎ回り、たまに窓に近づいてはまた離れていく。

 

 談話室の奥には 石造りの彫刻が飾られ、上に見事な蛇の紋様が描かれている照明があった。生徒が近づくとそれを察して炎が燃え上がる魔法がかかっていて、丁度いい温度に炎が揺れている。シャルルはスリザリンカラーのふかふかのソファにもたれかかりながら目を閉じ、静謐で神秘的な空間を楽しんだ。

 

 部屋は4人部屋のようだった。これから7年間を過ごすメンバーは非常に重要だ。部屋に戻ると、パンジーが髪を乾かしている途中だった。

「あなたがルームメイトなのね!」

 シャルルの叫び声にパンジーが振り返り、顔を輝かせ、走り寄った。ふたりは手を取り合って喜び合い、パンジーのベッドに腰掛けた。

 

 銀とダークグリーンを基調としたシンプルな天蓋付きベッドだ。落ち着いていて、ベッドの柔らかさも及第点だ。

「こんなベッドで寝るなんてありえないわ」

 パンジーがぼやいた。胸元の大きく開いたピンクのネグリジェは、彼女にはまだ少し早いような気がする。

「ええ、そうね」

 シャルルは曖昧に微笑んだ。

「家のベッドは2倍はあるわ!それにこの部屋!4人ですむっていうのにこんなに狭いなんて」

 その気持ちはシャルルにもわかった。本を置く場所も、クローゼットも、私物を置くスペースも全くもって足りるとは思えなかった。ベッドも、後で送って貰う予定のテディベアを置いたら、シャルルがベッドに寝かせてもらう状況になるだろう。

 

 パンジーが体を寄せて、耳元で囁いた。ほんのりと薔薇の香りが漂ってくる。どうやら彼女は背伸びしたい年齢なのだとシャルルは思った。

「ねえ、他の子は見た?」

「いいえ」

「わたしは見たわよ」パンジーは天蓋が閉められている1つのベッドを指差した。

「ぜんぜんパッとしないの。あの子絶対ハーフよ」

 眉をひそめ、シャルルは天蓋の奥を見ようとした。

「どんな子だったの?」

 

 シャルルは立ち上がり、パンジーの隣の自分のベッドの端に立った。ローブと制服を脱いで杖をひと振りする。服たちはふよふよと浮かんで、ベッドの脇のクローゼットに収まった。

「今、何をしたの?」

「なにって?」

 目を見開くパンジーに戸惑ってシャルルは小首を傾げた。杖を一振し、トランクから薄水色のネグリジェを取り出して袖を通す。パンジーが間の抜けた顔でそれを見つめた。

「服が浮いて、クローゼットに入っていったわ。それに、トランクから服が浮いたわ……ひとりでに」

「それが?」

「あなたがしたの?」

 

 パンジーが何を言いたいのかぜんぜん分からない。だが、声音は怒ってはいないようだ。

「わたし達は魔女よ」

 シャルルは戸惑いがちに柔らかい声音で言った。

「でも、まだ1年生よ。魔法を習ってはいないわ。それにシャルル、あなたは呪文を唱えていなかった」

「このレベルの生活魔法なら小さい頃から使い慣れてるもの。あなたはちがうの?」

「入学前に杖なんて使わせてもらったことないわよ」

 シャルルは驚いた。いくら匂いが付いているとはいえ、誤魔化す術なんていくらでもある。当たり前のように魔法を使っていたシャルルにとって、それが当たり前ではないというのは驚愕だった。

 

「それにわたし達にはハウスエルフがいるわ。細々としたことは彼らが全てこなすじゃない」

「彼らは下僕よ。お母様は彼らが私生活に介入することを良しとはしなかったの。彼らはいつも見えない場所で働いていたわ。わたしは、彼らを好きだったけれど」

 パンジーは、穏やかでおっとりして見えるシャルルが、自分が思う以上に純血主義であることを理解し、喜びに笑みを深めた。

 

 するりと腕を組み、シャルルに体を預ける。

「ど、どうしたの?」

「シャルル、あなたはやっぱり最高だわ。わたし、これからの7年間が楽しみ」

「あら、光栄だわ」

 シャルルは気取った言い方をしたが、ほんのりと頬が赤かった。動揺を隠し切れていないのは丸わかりだ。パンジーはシャルルがさらに好きになった。家格では遥かに劣るスチュアートだが、シャルルと良い関係を築き、好かれ、友情を紡いでいくのは決して損にはならないだろうとパンジーは思っていた。

 

 

 

 翌朝、パンジーに揺り起こされ、シャルルは目覚めた。

「起きて!朝食に行くわよ、」

 ソワソワと落ち着きのないパンジーに言われるがまま、シャルルは急いでシャワーを浴び、制服に着替えた。スリザリンカラーのネクタイとローブを身につけると、ついに憧れの寮に入れたのだと、嬉しい気持ちに包まれる。

 あとで家にフクロウを送らないと、きっとヨシュアもアナスタシアもメロウも喜んでくれるだろう。物思いに耽りかけたシャルルの手を掴み、ふたりは談話室を連れ立って出ていった。

 

 初めての道にシャルルはわくわくして、キョロキョロと眺めながら歩くが、急いでいるのか少し前をパンジーが早足でもくもくと進んでいく。

 しかしふたりが渡っていた階段が突然動き始め、パンジーは悲鳴を上げた。ちょうど動くところにいた彼女が危うく下に落ちるところだったのだ。

「大丈夫!?パンジー!」

「大丈夫じゃないわよ!なんなのこの階段!もう少しで下に…ひっ」

 下をのぞき込んだパンジーは、その深さに喉の奥で引きつったような悲鳴を上げて手すりにぎゅっとしがみついた。

 その後も、絵画に道を間違って教えられたり、くすぐらないといけないドアに手間取ったり、途中ピーブズにびしょぬれにされたりして、大広間につく頃にはふたりはすっかり疲れきっていた。

「ご飯を食べるのにこんなに大変な思いをするなんて…」

「わたしホグワーツ生活を甘く見てたみたい」

 

 大広間に入ると、マルフォイとノットが見えた。クラッブとゴイルも。パンジーはまっすぐ彼らの元へ向かった。

「ドラコ、おはよう。早いのね」

「ああ。規則正しい生活は身についているんだ」

 パンジーがドラコに声をかけたが、ノットはちらりとも顔を上げない。

 

「おはよう、ノット」

「おはよう」

 シャルルの挨拶にノットは手を止めて、顔を上げた。マルフォイが、意外そうにノットの横顔を見つめる。

 パンジーがちらりと彼を見つめるとセオドールが素っ気なく「セオドール・ノット」と名乗る。「わたしはパンジーよ。パンジー・パーキンソン」

 パンジーはさりげなくマルフォイの隣に座り、さっきあったことを聞かせて見せた。

「災難だったねパーキンソン。動く階段には僕達も捕まったよ。時間はかかるし、クラッブとゴイルも転びそうになっていた」

「ただでさえ広くて迷いやすいのに、変な仕掛けばかりあるなんて」

 彼女が憮然として言う。

「おまけにピーブズにいたずらもされたのよ」

「ああ、あの」

 マルフォイが眉をしかめ、ノットがぴくりと片眉を上げた。

「はた迷惑なゴーストよね」

「何をされたんだ?」

「それがあのに水を被せられてびしょぬれになったのよ!朝から最低な気分だったわ」

 パンジーは忌々しそうに吐き捨てた。

「でも君たちは誰も濡れていないようだけど?」

「それはシャルルが魔法で乾かしてくれたからよ」

 

 パンジーが少し得意げに言うと、ふたりは驚きに目を開いてシャルルを見つめた。少し恥ずかしくなり照れ笑いを浮かべる。

 

「スチュアートはもう乾燥魔法を使えるのか」

 無表情で無口なノットが称賛の響きを含んだ声を洩らす。

「魔法の練習をお父様とお母様と一緒におうちでしてたの。でも使えるのはちょっとだけよ」

「うそばっかり。シャルルったらすごいのよ、ピーブズにびしょ濡れにされたのを杖の一振りで乾かして、やつに金縛り呪文までかけてやったんだから」

「金縛り呪文まで!」

「ほんとう、かちんかちんに固まったピーブズは愉快だったわよ」

 

 ノットはこんどこそ口をぽかんと開けた。

「僕も家で勉強はしてきたつもりだったけど…。負けていられない」

 冗談めかした口調だったが、本当に悔しそうな様子に「そんな…」と言いつつもシャルルは褒められて心が浮ついているのを隠せなかった。

「でもまだホグワーツの生活は始まったばかりだ、あんまり調子に乗るなよ」

 ノットはにやりとニヒルに言い捨てると、さっとそのまま立ち上がった。きっと図書室に上級教科書でも借りに行くんだわ──。シャルルはそう当たりをつけた。そして、その想像は間違っていない。

「おい、待て!ノット!じゃあ僕は行く、ふたりともまた後で」

「ああそんな!ドラコ!」

 パンジーがドラコの遠くなる背中を見つめ、悲痛な声を上げた。

 

「ふたりとも、今日から授業なんだから勉強なんていいじゃない…せっかく彼と一緒にご飯を食べれると思ったのに!」

「あら、パンジーが急いでいたのはそのためだったの?」

 純粋な疑問を口にすると、パンジーはからかわれたと思ったのか、かあ…っと頬を赤くした。

「そうよ、悪い!?だって彼って素敵じゃない…」

「彼ってノット?マルフォイ?」

「ドラコよ!彼ってとってもハンサムで、紳士的で、スマートで、話も面白いのよ」

 マルフォイの話をするパンジーはうっとりとしていて、可愛らしかった。シャルルは少しの羨ましさを滲ませて呟く。

「パンジーはもう恋をしてるんだ…大人なのね」

「あら、シャルルはまだなの?ノットといい感じだったじゃない」

「彼はともだちよ。それにこの間出会ったばかりなのに」

「時間なんて関係ないわよ。好きと思ったらそれはもう恋なの。それに彼もあなたにはなんだかほかの人と態度が違うように思えたわ!」

「そうかしら…わたしには恋とかはきっとまだ早いわ」

肩をすくめてみせたシャルルにパンジーはつまらなそうに唇を尖らせる。

「シャルルったらこどもなんだから」

 

 

 

 スリザリンのはじめての授業は薬草学だった。

 アナスタシアの大の得意科目だ…シャルルは胸を踊らせていた。母であるアナスタシアはそれまで純血魔法族の間で軽視されていたハーブの研究をし、数十にわたる魔法薬における新しい効能や効果的な調合法を発見し、また新種の薬草を数種類生み出してその繁殖に成功した。本も数冊出版し教科書などにも幾度か取り上げられ、薬草界ではちょっとした有名人なのだ。

 そのおかげでシャルルは幼い頃からたくさんのハーブや薬草に触れてきたし、知識はそこらの学生には負けないという自信があった。

 

 薬草学はレイブンクローと合同だった。

 シャルルは自信のとおりに初日からその深い知識でスプラウト先生を驚かせ、スリザリンからは賞賛を、レイブンクローからは悔しげな視線を受け大満足だった。

「さすがねシャルル!」

「素晴らしい!スリザリンに3点差し上げましょう」

 この言葉を何度言われただろう?

 教科書はもちろん読み込んだし、1年生レベルの内容なら読まなくても既に頭に入っていた。

 

 

 

 変身術の授業でも、シャルルはもちろん大活躍だった。

 理論ではノットとマルフォイに加点が加えられたが、実技ではシャルルがいちばん早くにマッチ棒を針に変え、マクゴナガルに絶賛された。

「素晴らしい、細く均一でとても鋭い、文句なしの出来栄えです!みなさんもミス・スチュアートを参考にするように」

 マクゴナガルの言葉に拍手が起こる。

 そうしてスリザリンの生徒が周りに集まり、銀の針を眺めては賞賛の言葉を送っていくのが気持ちがよく、シャルルはとてもいい気分だった。

 

 まだホグワーツ生活は始まって間もないというのにスリザリン1年生の間には、すでにシャルルを立てる風潮が出来ていた。

 スチュアートは歴史ある純血名家であり、あのマルフォイ家やノット家やパーキンソン家の子息たちと親しく、またシャルル自身も上品で美しく、聡明でカリスマ性に溢れている。シャルルは既にスリザリンのリーダーの片鱗を見せつけていた。

 シャルルは、自分に向けられる感情を的確に分かっていた。

 

「すごいわシャルル、わたしのはちっとも変わる様子がないもの。どうしたらいいのかしら」

「うーん、そうね。理論はきちんと理解している?」

 マクゴナガルの説明は1年生には少しむずかしい部分があった。シャルルはパンジーのためにわかりやすい表現に変えて丁寧に1から説明し、目の前でまた呪文を実践して見せた。

「理論を理解したら次の実践で必要なのは想像力よ、そのマッチ棒の先端が伸びて鋭く光るのをしっかり思い浮かべてみて。そうしたらきっとできるわ」

 

 パンジーは変身術には残念ながらあまり才能がないようだった。しかしわかるまで根気よく説明し、パンジーもまたふてくされるようなこともなく真摯に取り組み、そんな彼女の態度を好ましく感じたシャルルはますます熱を入れて彼女に接した。

 しかしなかなか呪文は成功しなかった。

 そろそろ授業も終わりに差し掛かり、パンジーが自分には出来ないのではないのかと思い始めた頃、シャルルはパンジーの杖腕にそっと手を重ねた。

「だいじょうぶ、あせらないで」

 シャルルの蒼い瞳がパンジーを見つめ、小さく頷く。

 パンジーは深呼吸してこころを落ち着かせ、杖を振った。

 

 すると、さきほどまではぐにゃぐにゃとしか形を変えなかったマッチ棒がするすると長く伸びて、見事な銀の針に姿を変えた。

「やったわ!!!ついにできた!!」

「すごいわパンジー!!」

 きゃあ!!とふたりが喜びの歓声をあげる。

 マクゴナガルもその出来にたいへん満足だった。

「ミス・パーキンソンの素晴らしい魔法に3点を加点しましょう。今日の授業では4人もの成功者が出ました。初日の授業でこんなにたくさんの人が成功したのは初めてです…よってスリザリンに10点を加えます!」

 

 途端わっと歓声があがる。成功したのはシャルル・スチュアート、セオドール・ノット、ドラコ・マルフォイ、パンジー・パーキンソンの4人だった。彼らに向けて惜しみない拍手が送られる。

 

 こうしてスリザリン1年生における絶対的なリーダーが暗黙の了解として決定された。

 

 

 

 午後は闇の魔術に対する防衛術があった。教室は薄暗く、鼻にツンとしみるにんにくの匂いで満たされていた。

 シャルルは授業の際は教師が見やすい前方か、真ん中の席につくようにしていたが、出来るだけ匂いから離れられないかと後方に座った。

 

 クィレルは肩を強ばらせて、いかにも哀れに入室してきた。自分の部屋だと言うのに、生徒の視線に怯え、逃れようと周囲をちらちらと見てはさっと俯いた。

 無様な様子に、スリザリン生は嘲笑したり、ヒソヒソ顔を突き合わせたり、侮蔑の眼差しを向けた。シャルルは期待していた授業が退屈なものになりそうだと小さく肩を落とした。どうやらホグワーツは聡明な教師ばかりではないようだとシャルルにはわかり始めていた。

 

「み、み、みなさん、初めまして。わたしはクィレル・クィリナスと申します。皆さんと共に、や…闇の魔術に対抗する術を、ま、学んで行きたいと思います」

「ニンニクを身に纏うとか?」

 マルフォイがせせら笑った。スリザリン生も幾人かが笑い、さざめきが起こる。クィレルはさっと耳を赤くした。

 なんとか授業が始まってもクィレルはすぐにどもり、その度にマルフォイやパンジーが揚げ足をとった。注意も減点もせず、クィレルはますます萎縮する。

 

 シャルルは呆れ返った。これじゃあ学べるものも学べないわ。もはや授業を聞くのをやめ、教科書を勝手に読み進めていると、ちらりとノットと視線が合った。シャルルが肩をすくめてみせると、ノットも片眉を上げて返事をした。すぐに視線を逸らされたが、その視線を追うと彼も教科書を読み進めているようだった。

 スリザリン生は狡猾な割に、立場の弱いものにはどこまでも図に乗る性質がある。大半のスリザリン生は、マルフォイのからかいを楽しみ、また自分たちも便乗していた。

 しかしノットはシャルルと同じように、勉学に楽しみを見出す仲間のようで、シャルルは嬉しかった。

 

 ただクィレルを嘲って終わった授業から広間に戻る。授業に参加もせず、クィレルへの嘲笑にも参加せず、シャルルは淡々と自分の勉学に努めていた。だから彼女は、クィレルが時折、刺すような強烈な眼差しをさりげなくシャルルに向けているのを気づきはしないのだった。今も教室をパンジーと去るシャルルの背中を、クィレルは熱くさえ思える視線でじっと、こっそりと、眺めていた。

 

 

「なんでこんなに重いの?腕が疲れるじゃない。これ、持って」

 廊下を歩いていると、パンジーが唐突に言い放った。

 確かにDADAの教科書は他の教科に比べ分厚かったが、絶句して、咄嗟にシャルルは返事を返すことが出来なかった。しかし、パンジーはシャルルではなく、どうやらふたりの後ろにいた少女に声をかけたらしかった。

 

「は、はい、パーキンソンさん」

 ボサボサの赤茶けた髪の毛を無造作に三つ編みにした、そばかすの目立つ少女がおどおどと教科書を受け取る。

 焼けて傷んだ赤茶の髪、洗練されていない髪型、瞳の色はブラウンで背景に紛れそうな少女だ。必要以上に怯え、必要以上に存在感を消そうとしている。現に、シャルルはこの少女を知らなかった。

「シャルルも持ってもらったら?」

 彼女を見た。三つ編みおさげの少女は、シャルルに見られているのを感じると、おずおずと視線を上げ、媚びるようにヘラっと笑った。

「も、持ちますよ。重いですよね、これ…」

 情けない。シャルルは突っぱねた。

「大丈夫よ」

 

 パンジーはシャルルの返事を聞くとすぐ、彼女がいないかのように歩き始めた。

「部屋に置いといて。ねえシャルル、今日の夕飯は何かしらね。オートミールはもう飽きちゃったわ」

「チキンも美味しいけど、いつもあれよね」

「イギリスってなんでこうも食事に関して単調なのかしら。フランスは、食事だけは認めてもいいわ」

「ダンブルドアはハウスエルフをボーバトンに留学に行かせるべきね」

 冗談を言い合いくすくす笑う。シャルルはたずねた。

「さっきのは誰?」

「ルームメイトのハーフマグルよ」

「ああ…」

 何となくパンジーがぼやいていた記憶がある。結局、朝は時間が合わなくて見かけていなかったが、パンジーは知らないうちに交流を図っていたようだ。

「彼女、ああ、ターニャ・レイジー?だったかしら?あの子、命令したらなんでも聞くのよ。スリザリンに相応しくないと思ったけど、わきまえてはいるようね」

 パンジーが鼻を鳴らして笑う。シャルルは、あのおさげの少女が純血でないのなら、もう興味はなかった。

 

 

 

 有意義な1日を終えシャルルは寮でくつろいでいた。本当は談話室でパンジーたちとおしゃべりを楽しんでいたかったのだが、スチュアートに近付きたい子息子女たちやシャルルの崇拝者となった男の子たちが群がってきてなかなかゆっくりとできなかったのだ。

 のんびりとベッドに腰掛けて書物を嗜んでいると不意にシャワールームから誰かが出てきた。

 同じ部屋の子だろう──ゆるやかなボブカットは淡い金髪で、瞳は濃い紫色にきらきらと輝いている。肌は白く鼻はすっとしていて、シャルルはその美しさに目を奪われた。

 

「あら、初めましてね。お先にシャワーをいただいたわ」

 彼女はどこか高飛車な口調だった。仕草に気品があり、記憶にはなかったが彼女が純血家系の子女なのだとシャルルは思った。にっこりと微笑み挨拶をする。

「初めまして、わたしはシャルル・スチュアートよ。あなたの名前を伺っても?」

「イル・テローゼよ。よろしく、シャルル」

 シャルルは握手をしようと差し伸べかけた手をぴくりと固まらせた。テローゼ?テローゼ…聞いたことがない。

「もしかして海外の純血家系の方なのかしら?」

 イル・テローゼは片眉を釣り上げ怪訝な表情を浮かべた。

「あいにくとわたしは混血よ?」

 

 それが何か?と言わんばかりの口調にシャルルは目を開き、眉を微かに釣り上げた。

「そう、混血なの…。あなたの母親の姓はなにかしら?」

 親しみに満ちた微笑みは消え去っていた。いまはもう口の端が上がっているくらいだ。イル・テローゼという少女にはシャルルが友好的に接する理由もメリットもなにもないのだから。突然よそよそしくなった彼女の変化に気付いたのか、テローゼもつんと言い放った。

「アヴリーヌよ」

「アヴリーヌ………ああ、フランスの新興家系ね?それで、もしかしてあなたは…まさかとは思うけれど、非魔法族として育ったの?」

 彼女はスチュアートよりも遥かに劣る出身のくせに随分と高飛車だった。魔法族の常識を知っているようにはとても見えない。

「ええ、わたしの両親はどちらも魔法使いではなかったもの。けれど母方の実家は魔法族だったから、存在は知っていたわ。それがなにか?」

 

 シャルルは絶句した。

 母親は純血家系出身なのに、非魔法族…つまり…シャルルは嫌悪感を隠そうともせず顔を歪めた。

 

 シャルルに理由もわからず冷たい視線を向けられたテローゼが彼女を問いただそうと口を開いた時、部屋の扉が開き甲高い声が響いた。

「シャルル!部屋に戻ってたの?ドラコがお茶をしましょうって言ってるわよ」

 パンジー・パーキンソンはシャルルの話している相手を見た途端、目つきを鋭くさせた。

 

「ダメよシャルル、この子穢れた血と生まれ損ないの娘なんですって」

「ええ、たった今知ったわ。てっきり純血の生まれかと思ってしまったの…」

「そうね、確かに雰囲気は金持ちっぽいかもね。でもこんな生意気な子がわたし達と同じなわけないわよ」

 パンジーが鼻にしわを寄せ、パグにそっくりな顔で嫌な笑顔を浮かべた。

「黙って聞いていれば…!あなた達どういうつもりなの!?」

 理由のわからないまま罵倒されるイル・テローゼはとうとう我慢が出来なくなって叫ぶ。

 

「パーキンソン家の子女であるわたしに向かってよくもそんな態度が取れたものね!なんて教養のない…!信じられないわ!!」

「あなた、スリザリンを敵に回したいの?」

 怒りに顔を赤くするするパンジーとは裏腹に、シャルルはクスリと嘲笑った。

 

 テローゼはシャルルの「スリザリンを敵に回す」という発言の意味を捉えあぐねていた。

 彼女たちが、まだ2日目だというのに既に1年生の中でリーダー的存在として君臨したのは知っていた。なんだか妙に他の生徒に敬われていることも。

 でも自分だってほかの女の子に御機嫌取りされたり、男の子にきざったらしく話しかけられたりしているのだ。だけれど、彼女たちの自信満々な態度が妙にテローゼを不安にさせた。

 

 そう、イル・テローゼは知らなかった。

 マグルの中で育った彼女は純血の価値を理解していなかった。彼女の美貌と気品のせいで彼らは寄っているだけで、スリザリンにおいて何より重視されるのは容姿でも成績でもなく、血と家柄なのだということを、彼女は今後身をもって知ることになる。

 

 

 



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4 愛しい友人

 土曜日は午後の授業が休講となる。午前の魔法薬学を2コマこなせば、ホグワーツで初めての休日だ。

 

「何をしましょう?ねえ、シャルル」

「そうね、校内をゆっくり散策するのも悪くないと思うの」

「いいんじゃない?ドレアノ先輩が湖のほとりはとても美しいっておっしゃってたわ」

「ティータイムにちょうどよさそうね」

「でも、大きな大きなイカのモンスターが潜んでいるそうよ?わたし達、わっと飲み込まれちゃうかも!」

「やだ、こわあい」

 少女たちは顔を見合わせて、クスクスと吹き出した。

 

 おしゃべりを弾ませながら暗く冷たい石の廊下を進めば、段々に人の賑わいが増えてくる。普段は落ち着いたスリザリンの領域に赤のローブがちらちら混じり、パンジーはせっかくの笑顔から不快げに眉根を寄せた。

 石壁に埋められた扉を開けば、そこが魔法薬学の教室だ。この城で最も寒く、陰気で、薄暗い場所。アルコールに漬けられた動物がガラス瓶越しにこちらを見詰めている。

 

「ドラコ!」

 人がまだまばらな教室を見渡し、お目当てを見つけるとパンジーは黄色い声を上げ、さっさと彼の隣を陣取ってしまった。

「隣いいかしら?ありがとう、ねえ、この教室少しだけ怖いわよね」

 返答する間もなく席に座っていたパンジーはひっきりなしにマルフォイに話しかけている。

 一緒に受けたかったのに。

 不満に思いつつも、パンジーの態度は今に始まったことじゃない。シャルルが仕方なしにクラスを見渡すと、1人の少女と目が合った。

 見知った顔に喜色を浮かべ、シャルルは彼女の元へ向かう。

 

「ごきげんよう。久しぶりね、シャルル」

 ふんわり笑う彼女はダフネ・グリーングラス。シャルルの唯一親交のあった子女だ。幼なじみ…とも言えるかもしれない。

「ダフネ、わたしあなたととっても話したかったのよ」

「あら、それはわたしも同じよ。1年ぶりくらいかしら?」

「もうそんなに経つのね。あまり会えなかったし、入学してからもタイミングが合わなかったし…」

「あなたはとっても有名だしね」

「そう?」

 ダフネを見つめると、伏し目がちで彼女は微笑んだ。

「そうよ、今や1年生のリーダーじゃない。わたしは聖28族といえど、あまり目立つのは好きじゃないし、目立つところだってないし」

 

 ダフネは肩を竦めて苦笑いする。シャルルは寂しくなって言葉をつのらせた。

「なあに、それってわたしたちの間に距離があるみたい。ダフネはわたしの…たいせつなお友達…なのに」

 恥ずかしくなって、シャルルは唇を尖らせる。頬があついのが自分でわかった。

「シャルル…」

 ダフネがクスッとからかうように笑った。

「もう、笑わないで、ダフネ」

「ごめんね、あまりにシャルルが可愛いものだから」

 とうとう彼女はころころ鈴の音を転がすように笑い声をあげた。肩が揺れるたびに、ひとつに垂れた三つ編みがゆらゆら動いて、淡い金髪がきらめいた。

「これからはあなたとたくさんお話したいわ」

「もちろんよ、ダフネ。パンジーも紹介するわ」

「知ってるわ。パーキンソンのことは。あまり、親しくはないけど」

「そうなの?」

「パーティーで幾度かはね。仲良くなれたら良いのだけど……」

「きっとなれるわ。パンジーもオシャレや恋の話がとっても大好きなの」

 

 ふたりが和やかに会話を楽しんでいると、──バタン!扉が荒々しく開き、黒のローブをはためかせ、しかめ面の男性が重々しい顔つきで入ってきた。大きな音に驚いて、通路を挟んで隣に座っていたネビル・ロングボトムが小さく跳ねる。

「スネイプだわ」

 ダフネが体を寄せて囁いた。「知ってる?彼ってスリザリン生にはとても優しいけれど、他の寮生は大嫌いなのよ。特に…グリフィンドールは」

 意味ありげに微笑みダフネは前を向いた。

 

 目付きが鋭く、蝙蝠のように陰気で、常に重々しいと噂の我が寮監は、さっそくグリフィンドールの中に標的を定めたようだった。

「ハリー・ポッター」背筋が震えるほど甘く、絡みつくような声でスネイプは囁いた。「我らが新しい──スターだ」

 途端にスリザリンからわざとらしい忍び笑いが上がった。マルフォイやパンジーが声を上げて楽しげにしている。ダフネがシャルルを肘でつついた。

 

 シャルルはかけらも面白いとは思わなかった。混血だが、ハリー・ポッターは英雄だ。アナスタシアは……"例のあの人"に尋常でないほど怯え、恐怖し、そして憎悪していた。

 シャルルはアナスタシアに育てられたのだ。ハリー・ポッターの方をちらりと見遣ると、彼は不安げにしながらも、セブルス・スネイプの目をじっと見返していた。

 

「この授業では、魔法薬調剤の微妙な科学と、厳密な芸術を学ぶ」

 スネイプがぼそぼそと呟く声は、生徒一人一人の耳元にまっすぐと響いた。彼が喋ると誰も彼もが聞き逃すまいと口を噤み、教室に静謐が訪れる。

 

「このクラスでは杖を振り回すような馬鹿げたことはしない。そこで、これでも魔法かと思う諸君が多いかもしれん」

 ゆっくりと教壇を行き来し、端から端までスネイプは見回した。

 

「フツフツと沸く大釜、ユラユラと立ち昇る湯気、人の血管を這い廻る液体の繊細な力、心を惑わせ、感覚を狂わせる魔力……」

 彼の声と話し方は、人を酔わせる力を持っている。

 

「諸君がこの見事さを真に理解するとは微塵も期待していない。吾輩が教えるのは、名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し、死にさえ蓋をする方法である──最も、諸君らがトロールよりマシな脳みそを持っていれば、の話だが」

 クラス中がしんと静まり返り、シャルルは彼がすこし好きになった。セブルス・スネイプの言葉選びは繊細で芸術的だ。詩的ですらあると思った。

 

 

 スネイプはクラス中を一瞥すると、1人の生徒を鋭く睨んだ。「ポッター!」

 

 

「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になる?」

 突然の質問に、ポッターは目を白黒させた。シャルルは教科書の記憶を手繰り寄せようと、目を瞑って考えた。少なくとも前半にはなかったはずだ。

 質問と同時に手を挙げた栗毛の少女が印象に残った。実践を踏まないと理論を覚えにくいのが、シャルルの悪いところだ。

「生ける屍の水薬……」

 ポッターが「わかりません」と言い放つのと同時に、シャルルがダフネにしか聞こえない声で呟いた。

 

「有名なだけではどうにもならんらしい」

 スネイプは嫌味に唇を釣り上げ、「べアゾール石を見つけて来いと言われたら、どこを探すかね?ポッター」と続けた。

 この質問は覚えている。ヤギの胃の中だ。たいていの薬に対する解毒剤となる。

 この記述が載った箇所を開けば、ダフネが目を見開いて、興奮したように呟いた。

「シャルル、あなたもしかして全て暗記を?」

「まさか。でも5回ほどは読んだわ」

「すごいじゃない!手を挙げたら?」

 シャルルはグリフィンドールの栗毛の少女を見た。乗り出すようにして腕をピンと挙げている。あまりに必死で、みっともなさにシャルルは顔を背けた。マルフォイ達が身をよじって笑っている。視線を追ったダフネも、たまらないと言うように小さく吹き出した。

 でも、みっともないが、彼女はシャルルより賢かった。多分あの少女は教科書を全て暗記していてもおかしくない。

 

「モンクスフードとウルフスベーンの違いは何かね?」

 栗毛の少女がとうとう椅子から立ち上がって挙手したが、セブルス・スネイプは依然として彼女をいないものとして扱った。

 彼に恐ろしいほどの強い瞳で射抜かれているハリー・ポッターと言えば、段々と落ち着き払って、彼の目をいまだまっすぐと見つめ返していた。

「わかりません」

 その上、余裕綽々と「ハーマイオニーが分かっていると思いますから、彼女に質問してみたらどうでしょう?」などとのたまった。シャルルは思わずクスリと笑って、グリフィンドールが数人笑い声を上げた。

 

「座りなさい」

 スネイプがさも不快げに言い放ち、彼女が渋々と席に着いた。

 シャルルは彼女の必死さと空回り具合があまりに惨めで、みっともなくて、同情が沸いて出た。だが、彼女の言動にはあまりに品がない。彼女の生まれや育ちが察せられるというものだ。

 シャルルは興味を失い、教科書に目を落とした。

 スネイプの解説を生徒たちが一斉に書き留めてゆく。

 

「ポッター、君の無礼な態度で、グリフィンドールは1点減点」

 シャルルは呆れ返ってスネイプの顔を見つめた。どんな顔をしているかと思ったが、彼はただ真顔で淡々としている。加点はよく耳にするが、誰かが減点されるのを見るのは初めてだった。教師から点を引かれるなんてどれほど悪いことなのだろうと漠然と思っていたけれど、何のことは無い、教師の気分で決まるのか。

 バカバカしいと思ったが、同時にやりやすくも感じた。他人のご機嫌取りなどしなくても、勝手に好かれるのがシャルル・スチュアートという人間だったからだ。

 シャルルは他人にあまり興味が無い性質だが、それは自覚的だった。

 

 授業はペアはダフネと組み、おできを治す簡単な薬の調合に取り掛かった。干しイラクサを測り、蛇の牙を淡々と砕いていく。しかし角ナメクジを茹でる時には、気持ちが悪くて視線を逸らしていた。目ざとく「湯を沸かしすぎだ、材料から目を離すな」と一言叱責を受け、ダフネもなにやらお小言をいただいていた。

 スネイプは教室をぐるぐると周り、全員に何かしらの叱責……グリフィンドールには嫌味と罵倒……を与えているようだったが、ただ1人マルフォイだけは彼のお眼鏡に叶ったようだった。

 叱責どころか、マルフォイの茹で加減が完璧で素晴らしい、と賛辞を送り、彼を参考にするようにとまで付け加えた。

 その時のパンジーの顔といったら!うっとりと今にもとろけそうにマルフォイの横顔を見つめ、自分のことのように胸を張った。彼女は本当に愛らしくころころと表情を変える。

 

「マルフォイのところに行ってみる?」

「ええ…そうね」

 ダフネは気乗りしない声を上げてマルフォイをちらりと見た。ため息を零す。

「彼を見てよ、スネイプに褒められて天狗になっているのが丸わかりだわ。でも、行かないってわけにもいかないのが面倒なところなのよね」

 ダフネはあまりマルフォイが好きではないのかもしれないと思った。彼女があからさまな態度を出すのは珍しい気がする。ダフネがパンジーと仲良くなれるかシャルルは少し不安になった。

 

 シャルルが席を立つと、教室中に緑色の煙が爆発した。咄嗟に顔を覆うと、腕と顔に痛烈な痛みが走った。刺すような衝撃が走り、シューシューと耳元で何かが大きく響いている。

「う、うう…」

 シャルルはわけも分からず混乱し、あまりの痛みに立っていられなくなった。床に膝をつき手のひらをつくと、手が濡れた感触がある。一拍遅れて、手のひらから不快なシューシューという音が響き、とてつもない痛みが走った。

「ああっ!」

 シャルルは手のひらと腕と顔が、熱く焼け爛れているような感覚に襲われた。痛みが全身に広がり、体を動かせない。ローブが焼ける音が耳に響き、自分が何を言っているかわからなかったが、嗚咽が止まらなかった。

 

「シャルル!!!!!!いやあ!!!シャルルが!!!」

 煙が晴れた時ダフネが見たのは、床に座り込み、椅子にしがみつくように凭れてはらはらと号泣するシャルルだった。引き攣るような悲鳴を上げてダフネは縋り寄った。

 腕は焼け、シャルルの真っ白な頬は赤黒く爛れ、涙と涎を垂らして呻きながら泣いている。酷い有様だった。それでも醜いというよりは、悲愴で、惨めで痛々しくありながらもシャルルは美しさを損なわないのが悲愴さをさらに掻き立てた。

 

「馬鹿者!」スネイプが怒鳴り込んで、失敗作の薬をエバネスコで取り除いた。

「おおかた 、大鍋を火から降ろさないうちに 、山嵐の針を入れたんだな? 」

「ふざけないで、この、ウスノロ!」

 パンジーがシャルルに駆け寄って、ネビル・ロングボトムに思いつく限りの罵倒を浴びせかけた。たいせつなシャルルがグリフィンドールにこうも傷つけられたのを見て、怒り狂って叫んでいる。

 彼女はパグのような顔を真っ赤にして、「スクイブは家へ帰りなさい!何も出来ない役立たず!失敗するなら1人でしなさいよ!バカでノロマで人に迷惑しかかけないカエル野郎!!」と令嬢らしからぬ口調で喚き、シャルルの肩にそっと手を置いた。

「ねえ、大丈夫なの?こんな…酷い…」

 シャルルの惨状に言葉を失い、涙ぐむ。

「医務室に行かなきゃ!ああ、先生…シャルルが、シャルルが…」

 ローブに縋り付くダフネを鬱陶しそうに払い、スネイプがシャルルを抱きかかえた。

「諸君らは調合を続けたまえ。提出が終わったものから、各々解散とする」

 スネイプは大股で歩き出した。シャルルは痛みで呻いていたが、意識はあった。頭の片隅には常に冷静な自分がいる。

 

 スネイプの肩越しにマルフォイがグリフィンドールと口論をしているのが見えた。珍しく、ノットも応戦している。パンジーは泣きながら喚いていたし、ダフネも泣いていた。

 ロングボトムが、グリフィンドールの生徒に支えられながら、号泣しつつ後ろを着いてきていた。彼の顔も腕もおできで真っ赤だ。爛れて血が滲んでいる。

「ごめんね…ごめんね…」

 ロングボトムの怪我の具合は、正直シャルルより酷く見える。恐らく、歩くのもままならないくらい痛いに違いない。

「ごめんよ、僕のせいで…ごめんなさい…痛いよね…女の子なのに、顔に怪我をさせるなんて……ほんとにごめんよ……」

 涙がおできに触れるとぴりぴりしてさらに痛い。それはシャルルも体感して分かっていた。

 だけどネビル・ロングボトムは、足を引き摺りながら、ずっとずっと謝り続けていた。涙をボロボロ零しながら、自分も痛いだろうに、シャルルに謝り続けていた。

 

 医務室のマダム・ポンフリーは2人の患者の有様を見ると悲鳴を上げた。

「何をしたらこんなに酷いことになるのですか!セブルス!あなたがついていながら!」

 マダムが愚痴愚痴とお説教するのを憮然として聞き流し、「治ったら報告に来るように」とだけ言い残してスネイプは去っていった。

「全く!……さあ、もう大丈夫ですよ。少し薬は苦いですが、これを飲んで夜寝ていれば綺麗さっぱり怪我は治りますからね。女の子の顔に傷が残ってはいけませんもの、安心してちょうだいね」

 飲むのを躊躇う色をした液体を無理やり流し込む。少しどころでなく苦かったが、幾分か痛みがマシになったきがした。患部にも塗り薬を塗ってもらうと、明確に痛みが緩和され、シャルルは先程の醜態を思い出した。

 

 混乱し、痛みに泣き喚いていた自分が恥ずかしくて、寮に戻りたくない。

 

 羞恥と自己嫌悪に項垂れるシャルルの病室を、カーテンの隙間から誰かがそっと覗いた。

「…なにか?」

「…僕だよ。……あの…本当にごめん、僕がノロマで何にもできないせいで……痛かったよね、すごく……本当にごめんね……」

 外にいたのはネビル・ロングボトムだった。

 確かに死ぬほど痛かったし、取り返しのつかない醜態を晒した。それはネビル・ロングボトムのせいで間違いない。だが、シャルルは彼のことはちっとも怒ってはいなかった。

 だからシャルルはカーテンをさっと開けると、驚きに目を丸くするロングボトムににっこりと笑顔を向けた。

「誰にだって失敗はあるわ。あまり気に病まないで、ロングボトム」

 

 彼はまさかシャルルがそんなことを言い出すのは予想外と言わんばかりに目を剥いた。そして、すぐにしゅんと肩を落とした。

「でも、僕、本当にごめんよ…僕何も出来ないだけじゃなく、君に、あんな怪我までさせちゃうなんて…」

「確かにすごく痛かったわ。泣いちゃうくらいには」

 そう言うと、ロングボトムが焦って泣きそうな顔をした。本当に申し訳なさそうな顔だった。

 シャルルはクスリとして言葉を続けた。

「でも、あなたの怪我の方がひどかったわ。本当に痛かっただろうに、あなたはずっとわたしに謝ってた。わたし怒ってないの。むしろ、優しいひとだなって思ったの」

 シャルルはつとめて目元をやわらかくして、彼に微笑む。

「ありがとう…僕…。きみの方こそとっても優しいんだね」

 ロングボトムがしゃくりあげた。シャルルは優しくなんかない。彼はそれを知らない。

 

「わたしはシャルル・スチュアートよ」

 まだ少し焼けた跡が残る手のひらをシャルルは差し出した。

「僕はネビル…ネビル・ロングボトム…」

 ロングボトムはおそるおそる手を差し出し、シャルルは怯える彼の手をきゅっと掴んだ。

「呼び捨てでいいわ、ネビル。今日のことはなんにも悪くおもわないで、ね」

「む、むりだよ…きみがとっても優しいから、尚更…申し訳なくて…僕…」

「うーん…それじゃあ貸し1つ!というのはどう?」

「貸し?」

「そう、あなたはわたしを傷付けた。だからその分の貸しをいつか返してもらうの。そうしたら対等でしょう?」

「でも、僕なんか何も出来ないよ…役立たずでノロマだから…」

「役に立たないかどうかはわたしがきめるわ。だから、ね?今日からお友達よ、ネビル」

「う、うん…わかったよ、シャルル…」

 

 ネビルは耳を赤くしてちいさく笑った。シャルルは優しくて、いい子だ。そう思った。彼女と友達になれたのが嬉しい。

 

 シャルルもネビルと友達になれて嬉しかった。ロングボトム家は歴史正しい純血名家だ。ネビルが落ちこぼれだろうと、家柄に相応しい言動でなかろうと、グリフィンドールだろうと関係ない。

 ロングボトム家のネビル。それだけで、シャルルにとってネビルは愛しい友人なのだ。

 

 



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5 純血を率いる者

 シャルルは朝が苦手だ。家にいた頃は母や、メロウや、ハウスエルフが彼女を揺り起こしたが、ホグワーツではそうもいかない。パンジーは、個人主義だし、シャルルの準備があまりに遅いと、マルフォイたちの元へさっさと行ってしまう。

 その距離感は心地よかったが、困ることもあった。そんな時、よく役に立つのが、ルームメイトだった。

 

 パンジーとイル・テローゼの衝突があってから、部屋は3対1に分かれていた。パンジーの子分のようになっていたターニャ・レイジーには、逆らうという選択肢などない。部屋の中で、イル・テローゼは透明人間だった。

 

「朝です、スチュアートさん」

「…わかってるわ…」

 寝ぼけて不機嫌な声でシャルルは言った。腕を引かれ、緩慢な動作で起き上がる。レイジーは、クローゼットからバスタオルと制服を取り出して、バスルームまで連れていく。

 シャワーを浴び、目を覚ましたシャルルが部屋に戻れば、ベッドメイクが済んでいる。

 レイジーは召使いではなくルームメイトのはずだったが、彼女はよく働いた。パンジーのワガママに嫌な顔せず付き合っているせいで、どんどんメイドとして腕を上げていく。シャルルは哀れに思いつつも、便利なレイジーに世話されることに慣れ始めていた。

 混血で、しかもマグル育ちの魔女なんてスリザリンではあまり歓迎されない。しかし、いるにはいる。そういった手合いで普通は隅に固まるものだが、レイジーはパンジーとシャルルの後ろを着いてくる以外、人と絡んでいるのを見たことがない。

 不器用で、あまり髪をまとめるのが得意でないシャルルの髪を、レイジーがていねいに編んでいく。自分の髪はボサボサのままのターニャだが、意外にも手先は器用だった。

 

 先に大広間で過ごしているパンジーの分と、シャルルの分、そして自分の分の妖精の呪文、薬草学の教科書をレイジーが持ち、ふたりは立ち上がる。

 背中に、鋭い声が降ってきた。

「恥ずかしくないの?ルームメイトをしもべのように扱って。お姫様にでもなったつもり?」

 レイジーがはっと肩を強ばらせてシャルルを盗み見た。しかしシャルルには透明人間の声は聞こえない。

 

「あなたもよ。人間としての尊厳や誇りを踏みにじられて、どうしてそう言うことを聞くの?」

「し、したくてしているの。口を挟まないで」

「なっ……」

 レイジーは震えた硬い声で、だがピシャリと言い放った。テローゼは絶句して、唇を戦慄かせている。

 

 ふうん、と内心シャルルは思う。彼女はおどおどしているが、狡猾だ。イル・テローゼは美人で、気も強く、実家も裕福だが、レイジーは華がなく、気弱で、みすぼらしい。普通なら決して逆らえないだろう。

 だがこうしてレイジーが堂々と逆らったのは、立場があるからだ。パンジーとシャルルがお気に入りの取り巻き。あるいは召使い。

 彼女が同じカーストの生徒とつるまないのは、これが所以だろう。気付いていないかもしれないが、レイジーの顔には、薄暗い優越感が滲んでいた。

 血は相応しくないが、彼女自身の性質はスリザリンにぴったりなのだ。シャルルは、レイジーのこの狡猾さは悪くないと思った。

 

 

 

 大広間ではパンジーたちがまだ食事を楽しんでいた。

 シャルルは彼女の元へ真っ直ぐに進んでいく。シャルルの目の前を塞いでいたハッフルパフの生徒を見つめるとさっと避けてくれたので、微笑みを投げかける。

「おはよう」

 シャルルがパンジーの隣へ行くと、スリザリンの生徒がそそくさと席を立った。そこへ腰掛けると、パンジーが「遅いわよ、もう食べ終えてしまうわ」と食事を取り分けてくれた。

「朝に弱いのか?」

「気持ちの良い眠りから目覚めることほど難しいことってないとおもうの」

「本当に彼女って気持ちよさそうに眠るのよ。無理やり起こすとすぐ不機嫌になるし」

「起きるタイミングがあるんだもの」

「まったくシャルルったら!」

 

 少女たちが楽しげに笑い合っていると、そういえば、とマルフォイが言った。

「君、怪我はもう大丈夫なのか?」

「マルフォイったら、何回目?もう元気よ、ありがとう」

 シャルルはくすぐったくてクスクスと笑った。あの日からもう何日も経っているのに、友人達はみな心配性だ。

 医務室から寮に戻るのは気が重いと思ったが、彼らはわざわざ次の日の朝迎えに来てくれた。そして真摯に心配して、甲斐甲斐しくお世話をしてくれたのだ。

 ダフネなんて、部屋が違うのにも関わらず、無理やり部屋に泊まっていったくらいだ。シャルルは恥ずかしかったが、嬉しかった。

 ノットですら、シャルルに話しかけたり、教科書を持とうとしたり、不器用ながらに気にかけてくれていた。人とつるまないノットがシャルルをこんなにも心配してくれていたのがひしひしと伝わり、シャルルは照れくさかった。

 パンジーなんて、一人っ子の上お嬢様だと言うのに、何かとシャルルの世話を焼きたがった。ダフネが現れて、少し寂しくなったせいもあるかもしれない。

 シャルルはパンジーがあの時泣きながら怒ってくれたのがとても嬉しかった。彼女は苛烈だが、友達を大切にするスリザリンの鑑だ。

 

 

 マルフォイは安心したのか、ならいいんだ、とオートミールを口にした。そして次の話題に移る。彼はぽんぽんと会話を提供するのが上手だ。

「スチュアート、君は談話室の予定表を見たか?」

「?いいえ」

 それを聞き、我が意を得たりとばかりにマルフォイは話し出す。

「午後の授業の飛行訓練がどこと合同だと思う?よりによってグリフィンドールだ!この学校の教授たちはよっぽど僕らと奴らが友好な関係に見えるらしいな」

「全くだわ!せっかくの飛行訓練が台無し!ねえ、ドラコ」

「ああ。だが、奴らに僕らの洗練された飛行術を披露する機会でもある。奴らが無様に地べたに立ちぼうけする様を、空中から悠々と観覧してやろうじゃないか?」

「素敵だわ…それにしても、やっぱりドラコは飛ぶのが得意なのね」

 うっとりとマルフォイを見つめるパンジーに満更でもない表情で、マルフォイは顎を上げた。唇を吊り上げていつもの言葉で締める。

「父上は来年僕がクィディッチの代表選手に選ばれなかったら、それこそ犯罪だと言うよ」

 

 小羊のステーキを切り分けながら、シャルルはこっそり溜息を零した。やはり、純血家系の子息子女なら空の旅を好くのが当然なのだ。

 シャルルの浮かない顔に気付き、ノットが「スチュアート?」と声をかけた。

「ああ、いえ、なんでもないの…」

 自然と眉が下がり、パンジーが「どうしたのよ」と顔を覗き込んだ。

「もしかして飛行訓練が不安なの?大丈夫よ、あいつらはマグル生まれが多いし」

「そうさ、僕らが萎縮することなんてない」

「…そうね」

 シャルルは曖昧に微笑んだ。瞳を伏せてステーキを口に運ぶシャルルに、ノットが小さく言った。

「僕も箒は苦手だ」

「えっ…」

 顔をはね上げたシャルルだったが、ノットと視線は合わなかった。

「別に純血だからって誰も彼もクィディッチが好きなわけじゃない」

 

 シャルルは俯いて、微笑んだ。じわ……と、胸の奥が暖かくなるのを感じた。

 彼は、家柄や理知的さを差し引いても、スマートな男の子だと思った。彼と仲良くなるべきだ。

 

 食事を終え、シャルルとパンジーが立ち上がると、どこからともなくターニャ・レイジーが現れた。ぷるぷると腕を震えさせながらたくさんの教科書を持ち、談笑する4人の後をそっと着いてきた。

 誰かがくすくすと笑った。「金魚の糞」吐き捨てられた言葉に笑い声が微かに大きくなる。

 

 シャルルは横目で彼女を振り向いた。レイジーの顔色は長い前髪で隠れていて分からない。彼女に言葉を投げたのはスリザリン生だったようだ。シャルルの知らない少女だった。

 それはつまり、スチュアート家に相応しくない生徒だ。シャルルは自分に釣り合わない人間を覚えない。

 ターニャ・レイジーはスチュアートには相応しくないが、シャルルが傍に侍ることを許している少女だ。対等ではなく、召使いとして、メイドとしてだが、シャルルは彼女を少しは気に入っていた。

 ターニャ・レイジーが侍ることを笑うのは、すなわち、彼女を傍に置くシャルルやパンジーの選択への嘲笑だ。

 

「彼女は後をついていってるんじゃないわ。わたし達が仕えることを許しているの」

 

 シャルルは素っ気なく言い、スリザリンの少女を静かに見つめた。パンジーは目を見開き、マルフォイは片眉を上げた。ノットは無表情だった。

 廊下がしん……と静まり返り、彼女を笑ったスリザリン生たちは、顔色を真っ青にして小刻みに震えた。

「す、すみませんでした……スチュアートさん」

「軽々しく話しかけないで」

「も、申し訳ございません!」

 少女たちが頭を下げた。シャルルはまったく苛立ちも感傷も無かったが、周りは何故かシャルルが気を害したと怯えているようだった。

「あなた達はわたしに触れることも親しくすることも許されないの。あなた達の言う金魚の糞…と違ってね」

 つまらなそうに、どうでも良さそうにシャルルは言った。嫉妬や自尊心ばかり高い生徒がスリザリンには多い。レイジーは俯き、頬を喜びに染めながらも、口端を歪めていた。

 スリザリンの歪みが、シャルルは好ましい。

 

 パンジーが「あなた、そんなに彼女が気に入ってたの?彼女はハーフマグルよ」と少し険の含んだ声でシャルルに話しかけた。

「ええ、もちろんよ?彼女は卑しい生まれだわ」

「それなら庇うなんて…」

「パンジー」シャルルはパンジーの声を遮った。

 

「彼女はわたし達に相応しくないわ。けれど侍らせている。あなたが選んだの」

 パンジーにはシャルルが何を言いたいのかわからなかったが、シャルルの光る瞳に何も言えなくなった。

「え、ええ、そう…わたしが選んだわよ……」

「そう。あなたが選んでわたしも許した。その選択を笑うことは許されないわ。わたし達は純血を率いる者で、その選択は何者にも尊重されるべきなのよ。逆に言えば尊重されるようにわたし達は選択していかなければならないの」

 パンジーにはやはり、シャルルのことばを真に理解するのは難しかった。だが、シャルルが恐ろしいほどぬらぬらと蒼い瞳を照らしていることと、恐ろしいほど純血としての誇りと矜恃が高いことはわかった。

 

「わたし達は純血よ。純血の中の純血よ。……そういうことよね」

「ええ。パンジー」

 

 シャルルは瞳をふと緩めて、とろけるような微笑みを浮かべた。女のパンジーですら頬があつくなるような、そんな笑みだった。

 プライドが山のように高い彼女ですらその笑みですべてをゆるして、すべて委ねたくなるようになるのだから、シャルル・スチュアートは、そういう才能があるのだった。本人もまだ気付いていない、ひとを惹き付け、魅了し、支配し、振り回し、洗脳し、同調させ、こころを溶かし、尽くさせたくなるような才能が。

 

 それは、もしかしたら、名前を呼んではいけないあの人と呼ばれる魔法使いのものと、似ているものかもしれなかった。

 

 ノットは考え込むように口をつぐみ、歩き出した3人の背中を見つめていた。いや、正確にはシャルルの背中をじっと強い瞳で射抜いていた。足取りがゆっくりと遅くなり、ついに彼は立ち止まった。

 もうすぐ授業だ。人がもうまばらだった。さきほどのシャルルの意図せぬパフォーマンスも終わり、野次も消えた。

 

「純血を率いる者、か……」

 

 たかだかスチュアートのくせに、と思わないでもなかった。

 彼女の血筋は聖28族に数えられない。純血だが、マグルの血がかつてわずかに混じったからだ。

 だが、彼女は、シャルルは、誰よりも純血らしい。自分の知るだれよりも。少ししか関わっていないのに、ノットには痛烈に理解出来た。

 

 シャルルはきっと偉大になる。恐ろしく、偉大なことを成すだろう。

 

 皮肉にも、それは帽子の出した結論と同じなのだった。

 

 

 

 

 

 気が重い時間がやってきた。飛行訓練の授業だ。隣のパンジーの顔色は明るかった。彼女もおもちゃの箒でよく遊んでいたし、マルフォイの活躍を見れるのが嬉しいらしかった。

 シャルルは微笑みを絶やさなかったが、返事をする声のトーンが少しばかり低くなるのは抑えられなかった。

 

 シャルルは、箒に乗れないのだ。

 

 乗れない、というと語弊がある。空が怖いのでも、高いのが怖いのでもないが、箒に自分で乗って早く飛ぶことが昔からシャルルには出来ないのだった。

 箒はゆったりと空の旅を楽しむツールだった。乗りこなすものではなく、優雅な移動手段なのだ。父親のヨシュアや弟のメロウはクィディッチが大好きで、よくスニッチを追いかけ回していたし、母のアナスタシアもシャルルもそれを見ること自体は好きなのだ。

 ただ、ひとりで早く飛べないだけで。

 いくら練習しても、シャルルは風のようには飛べなかった。認めたくはないが、恐れているのかもしれなかった。

 空や高さを恐れているんじゃない。

 何かに身を委ねるということを、多分、シャルルは恐れていた。

 

 グラウンドには、既に多くの生徒達が集まり、見事にスリザリンとグリフィンドールに別れていた。もう授業ギリギリだ。グリフィンドールの間をわざわざ縫い、「邪魔よ!どきなさい!」と怒鳴り散らしながら、パンジーはマルフォイの隣へするりと居座った。

 マルフォイはパンジーの登場がお気に召したらしく、せせら笑いを浮かべている。

 シャルルはパンジーやマルフォイ達のいる中心からそっと離れた。……そっと離れたかったが、シャルルが動く度モーセのように人の波が割れる。

 小さくため息をついて、シャルルはいちばん端に寄った。そこはカースト下位者の追いやられる場所だったらしく、目を剥いてちらちらと見られ、生徒達は体を強ばらせていた。

 マダム・フーチが怒鳴りながら表れ、マルフォイに恥をかかせたのち、授業はつつがなく始まった。スリザリンの生徒は、既にフーチに対して良い感情はなく、刺々しい空気が流れた。

 

 カースト下位の少女が、怯えながらシャルルに箒を回し、シャルルは薄く微笑んで受け取った。シャルルは常に微笑みを絶やさない。どんな相手にも、基本的には。

 ノブレス・オブリージュや気品ある態度は貴族の基本だ。

 少女は微かに肩のこわばりを解いて、そっと下がった。それは、なんだか、上位者への対応が妙に慣れているように感じた。

 

 シャルルはふと、扱いあぐねて遠巻きにされる自分のように、周囲から妙に浮いている少女がいるのに気づいた。

 薄褐色の肌に、腰下まで伸びる暗い茶色のたっぷりとした髪が波打つ少女だった。彼女は、居心地の悪い彼女の場所をまったく気にしていないように堂々としていた。

「なに、この箒…古すぎて使えたものじゃないわ。枝がこんなにあちこちに飛び出しているし」

 ハーフマグルの生徒達が、彼女の苛立ちを含んだ独り言にびくりと肩を揺らした。たしかに、少女の持つ箒はみすぼらしかった。

 手元の箒を見ると、毛羽立ちが少なく枝のまとまりも解けていない、比較的綺麗なものだった。パンジーのほうへ乗り出すと、パンジーがこちらに気付きウインクをするのが見えた。

 

 ひとりの少女がおずおずと薄褐色の少女に「わたしの箒をお使いください」と申し出た。柄はボロボロだったが、枝はまだまとまりがあった。

 薄褐色の少女はきょとん、として、じっと手元の箒を見つめ、差し出した。

「感謝するわ。名前はなに?」

「が、ガネット……」

「そう。それじゃあガネット、わたしと授業を受けましょう」

「!…いいんですか?」

「いいわよ」

「ありがとうございます!ブルストロードさん!」

 嬉しそうに笑った少女が口にした言葉に、シャルルは驚いた。

 

 ブルストロードは聖28族に数えられる貴重で高貴な純血家系だ。それなのに何故……。

 

 シャルルは少女たちにそっと近付いた。視界の端で常にシャルルを気にしていた生徒達は、すぐにぎくりとした。

「あなたの名前は何?」

 シャルルのサファイアのような美しい蒼の瞳で真っ直ぐ見つめられると、大抵の人間は言葉をつかえさせてしまう。

「ミ、ミリセント・ブルストロードよ」

 ブルストロードは高貴さを失わずに言った。しかし、強気で大人びた顔立ちのブルストロードだったが、シャルルを前にして眉をさげずにはいられなかった。下位カーストで強く振る舞えても、マルフォイやノットやパーキンソンやスチュアートの前では形無しになってしまう。

 

「ブルストロードがなぜ…」シャルルが、自分たちを暗い目で見つめてくる生徒達を見回した。

「こんな場所に?」

 彼女の声音は至って普通だったが、彼女の口元に浮かぶ余裕の微笑みや、漂う気品や、堂々とした態度に、まるで見下されているような感情を覚えて、小さく唇をかんだ。笑われている気がした。

 

 

 ブルストロードの名と血筋は、ミリセントにとって、最も誇りであり、最も恥だった。

 

 

 ブルストロードは、純粋にきょとんとするシャルルに敗北感と羞恥心を耐えながら、やっとの思いで口を開いた。

「……わたしが…わたしが分家で、クォーターマグルだからよ……」

 瞳に涙さえ浮かべて言った。純血では有名な話だった。祖母がブルストロードの家系から抹消されたことは。それをわざわざ自分の口から言わせようとするシャルルに、強い怒りと屈辱を感じたが、ブルストロードに逆らうという選択肢はない。ここはスリザリンで、ミリセントは純血ではないから。

「ああ、聞いたことがあるわ。あなたがあの……」

 シャルルは純血以外にはとんと興味を示さない娘だった。

 だから、家系図から抹消された女の娘が、分家として家系図に新たに載ることを許された話を聞いてはいたが、覚えてはいなかった。所詮純血ではない人間の話だったので。

 

 シャルルの自分を見る瞳が、哀れみや同情に染まるのを耐え難く思いながら、ブルストロードは、彼女が純血でない自分を無感情や蔑視の目で見ないことに安堵してもいた。

 屈辱で、怒りで、恥で、情けなさで震えつつも、ブルストロードは内心は輝くスリザリンのリーダー達への憧れを、誰よりも捨てることが出来ないのだった。

 

 自分がマグルの血の混じる生徒達の中で強気に振る舞っても、彼らは、談話室のソファにも座れないような身分の自分達に目もくれない。

 シャルルはブルストロードを無言でじろじろと眺めて前を向いた。何故か隣に居座り、だが、話しかけるのは躊躇われた。

 生徒達もブルストロードも肩を強ばらせながら、マダム・フーチの号令を聞いていた。

 

「上がれ」

 ブルストロードの掛け声に合わせて箒が掌に吸い込まれた。シャルルはそれを横目で見つつ、眉を寄せた。

「上がれ」

 小さく呟くが、箒は微かに揺れ動くだけだった。やっぱりね。シャルルは苛立ちと諦めから溜息を零した。家の箒すら、シャルルの言うことを聞くようになるまでに数年かかったし、調教したのはヨシュアだった。

「上がれ…上がれ……上がれ!」

 語気が荒くなるシャルルを嘲笑うように箒は浮かんだり、左右に揺れたり、シャルルをおちょくった。ブルストロードが目をクリっとさせてシャルルを見つめているのに気付き、シャルルは頬が熱くなるのを感じた。

 

 わたしにだって、苦手なことくらいあるわ。向いていないだけよ。

 

 内心誰に言うわけでもなく言い訳を零して、とうとう箒に怒鳴る。

「いい加減にして!上がりなさい!あなたを薪にして火にくべてやってもいいのよ!」

 箒が声を荒らげるシャルルを笑うように細かく震えて、ようやくシャルルの掌に収まった。シャルルは柄をギリギリと強く握り締めながら、フーっと息を吐いた。

 久しぶりに怒りの感情が湧いたせいで、酷く疲れた。最初から言うことを聞けば良いものを。苛立ちはまだあったが、深呼吸をすれば、少し落ち着きを取り戻せた。

 

 周りを見回せばちらちらと視線が向けられたが、いつもの事だ。ヒソヒソとなにか話されている気がしたが、箒に乗れないくらいで品位の落ちるシャルルではない。そう思えばもう気にならなかった。

 シャルルは家と同じように箒に横向きに跨った。いや、跨るというよりは、腰をかけた。マダム・フーチはそれを目敏く見つけて、ツカツカと怖い顔で寄ってきた。

「スチュアート!」

 怒鳴り声が響く。教師に怒鳴られるのは初めての経験だ。開き直った図太いシャルルは面白くさえ感じながら、顎をつんと突き出し、マダム・フーチを挑発的に見上げた。

 

「その座り方は何ですか!正しい乗り方はこうです!柄を足でしっかりと挟むように跨り、手できちんと掴みなさい」

「いいえ、教授?わたしの正しい乗り方はこれなの。わたしは、わたしの好きなように乗ります」

 

 マダム・フーチはぽかん、と一瞬呆け、すぐに髪を逆立てて怒鳴った。

「スチュアート、箒は正しく乗りこなさなければ非常に危険を伴う道具なんですよ!」

「ええ、教授。よく知っていますわ。だからわたしはわたしの正しい乗り方をしています。ほら、わたしへの指導は意味の無いことなので、ほかの所へ行った方が良いのでは?」

 シャルルは教師に対して非常に反抗的な態度を取る自分に驚いた。自分でもかなり自覚的に嫌な顔と口調をしていた。

 

 恐らく、最初のマルフォイへの態度への小さな不満、先程の屈辱と箒への苛立ち、よい成績を取ることの諦めから来る態度だろう、とどこか冷静に考えていた。

 マダム・フーチは、唇を戦慄かせて「スリザリン10点、減点!こんな生徒は初めてです!」と赤ら顔で叫んだ。

 野次と嘲笑がグリフィンドールから飛び交い、スリザリン生が気色ばんで臨戦態勢に入る。

 

「減点されたのって、わたし初めて」

 背景の喧騒をものともせず、シャルルは面白がるように呟いた。「みんな、この分は明日取り戻すからゆるしてほしいの」

「もちろんさ」

 マルフォイが言った。「あのナンセンスな教師を翻弄するなんて、なかなか出来ることじゃないな」

「もちろん褒められたことじゃないけどね」

 ノットが間髪入れずに釘を刺したが、声音はわらっていた。

 

 フーチは「ミス・スチュアート!その乗り方で飛ぶことは決して許しませんからね!」と言い捨てて、授業を進行させることを優先させたようだった。いつまでもスリザリンの問題児たちにかまっているのは授業の進行の上で、建設的ではない。

「さあ、私が笛を吹いたら、地面を強く蹴ってください 。箒はぐらつかないように押さえ、二メートルぐらい浮上して 、それから少し前屈みになってすぐに降りてきてください 。笛を吹いたらですよ ──1 、2の── 」

 

 臆病なネビルが、言い終わるうちにさっと飛び立ってしまったので生徒たちは途端にざわつき始めた。

「降りてきなさい!ミスター・ロングボトム!」

 ガミガミとフーチは怒鳴ったが、自分で戻って来れるならはじめからネビルは飛んでいなかっただろう。ネビルは真っ青な顔で必死に箒にしがみついていたが、コントロールを失った箒は次第に地面へと急降下した。

 

 シャルルは息を飲んでそれを見守っていて、何か出来ることはないかと杖を握って視線を右往左往したが、箒にもうまく乗れないシャルルに出来ることはなかったので、結局凍りついてネビルが地面に真っ逆さまに落ちるのを呆然と眺めていた。

 

 ぼきり、嫌な音が生徒たち全員の耳に反響して、その場がシーンと静まり返った。

 

 マダム・フーチが真っ青な顔でネビルに駆け寄って「折れてるわ」と呟いた。突っ伏して動かないネビルを立たせ、

「私がこの子を医務室に連れていきますから、その間誰も動いてはいけません 。箒もそのままにして置いておくように 。さもないと、クィディッチの『ク 』を言う前にホグワーツから出ていってもらいますよ」

 と言い放つと、よたよたとその場を去っていった。

 

 

 ふたりの背中が見えなくなると生徒たちが騒然とし始める。マルフォイが大声で嘲笑を上げた。

「あの大間抜けの顔を見たか?」

 他のスリザリン生もはやし立てた。パンジーも追従して大声で笑っている。ダフネがくすくす笑っているのが見えた。

 シャルルはネビルの涙に濡れたぐちゃぐちゃの顔と、耳元で聞こえた嫌な音を思い返した。

「やめてよ、マルフォイ」シャルルが声を上げる前にグリフィンドールの女の子がマルフォイを睨みつけた。パーバティ・パチルだ。

 

「へー、ロングボトムの肩を持つの? 」

「パーバティったら、まさかあなたが、チビデブの泣き虫小僧に気があるなんて知らなかったわ」

 シャルルは初めてパンジーに対して嫌な感情が浮かぶのを自覚した。ロングボトムもパチルもれっきとした純血だ。

 シャルルは僅かに眉を顰めて会話を見守った。

 

 マルフォイとハリー・ポッターは箒の勝負を始め、シャルルは呆れつつも、ふたりの飛行技術に目を瞠って見つめる。

 マルフォイは余裕を持ってひらりひらりを宙を舞い、ポッターは拙いながらも、鋭く切るように箒を操った。正直、1年生レベルの実力ではないだろう。

 歓声や悲鳴、怒声、笑い声、叫び声が上がり、雑然とした雰囲気の中、ポッターが壁の手前で見事に回転し、ふたりの対決は終わった。その手際の鮮やかさにスリザリン生は言葉をなくし、マルフォイも顔を強ばらせながら何とか強がった。

 

「ハリー・ポッター……!」

 熱狂する空気に冷水を浴びせるように、声を震わせたマクゴナガルが駆けてきて、ポッターの腕を掴む。

「なんてことですか…こんなことはホグワーツで1度も……」

 彼を擁護するグリフィンドールの言葉を全部振り払ってマクゴナガルはポッターの腕を引いて行く。意気揚々としていた背中がしょんもりと小さくなっていくのを後目に、今度はスリザリンが湧き上がった。

 

 勝ち誇るマルフォイやパンジーたちを置いて、シャルルはその場をあとにした。どういう結末になるかは分からないが、そう良いものでは無いはずだ。まさか退学にはならないだろうが、こんなくだらないことで処罰を受けるなんて、少し哀れだとシャルルには思えた。

 

 



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6 残響音

 

 部屋に戻ってもきっと話題の中心になるのは、マルフォイとポッターの箒勝負と、ポッターの処遇についてだろうとわかり切っていた。英雄の悪口で盛り上がるのはシャルルにとって全く魅力のないことだった。

 

 寮に向かうのは止め、シャルルは医務室へ向かうことにした。ぼきり。あの音が残響する。

 

「あ、ありがとう、シャルル。お見舞いに来てくれたのは君が初めてだよ」

 ネビルは眉を下げて嬉しそうにシャルルを歓迎してくれた。腕には白の包帯が巻かれ、首から吊り下げられている。

「怪我の具合はどうなの?」

 眉をきゅっとして、心配そうに囁くシャルルにネビルはおどおどして言う。

「ぜ、全然痛くないよ。夜には腕はくっつくって先生が」

「そう…マダム・ポンフリーは本当に優秀な癒者でいらっしゃるのね」

 ほっと胸をなでおろし、感心の声を漏らす。

 

「でもネビル、気を付けないと。あなたは怪我が多すぎるとおもうわ」

「う、うん、そうなんだ。僕ってドジだから……でももう慣れっこだよ」

「痛みには慣れないでしょう。それに、痛い思いはなるたけしないほうが良いはずだもの」

 咎めるような口調だったが、彼女の声はとても優しかったのでネビルはどぎまぎしながら俯いた。

「もうすぐディナーだけど、あなたはどうするの?」

「ここに運んでもらう予定なんだ」

「まあ、先生が?」

「ううん、ハウスエルフだよ」

「ハウスエルフがいるの?」

「うん、ホグワーツに就いてるみたいなんだ。地下にたくさんいるって…」

「そうなの…」

 

 確かにこんな立派な城にはいない方がおかしい。シャルルは良いことを聞いたと嬉しくなった。彼らはとても優秀で忠実なしもべだ。シャルルは彼らが好きだった。

 

「もう行くわ。お大事にね、ネビル」

「来てくれてありがとう。僕、僕、とっても嬉しかった」

 微笑みを交わしてシャルルは去った。ネビルは鈍臭くて、ドジで、いろんなことが苦手だけれど、とても話しやすい雰囲気を持っているし、高慢でない。彼の良いところはいくつもあると思う。

 

 

 

 大広間に入ると、ちょうどマルフォイがクラッブとゴイルを引き連れて、ポッターに何事かを楽しそうに囁いている最中だった。

 シャルルは肩を竦めてダフネの元に向かった。彼女はパンジーと違って、マルフォイたちのパフォーマンスに興味はないようで、黙々と食事を口に運んでいた。

 

「彼って本当につまらないわ」

 ダフネはなぜか憤慨して言った。

「ポッターが連れて行かれたのは本当にいい気味よ。それはわたしもそう思うわ。けど…」

 マルフォイをちらりと見る。

「彼が何をしたの?ポッターと同じことをしていただけよ。そして、運良く見つからなかっただけ。それなのに、さも自分の手柄のように誇るのってどうかと思うわ」

「本当にそうね」

 こんなことはパンジーの前では言えない、と思いつつシャルルは心の底から頷いた。少なくともあのパフォーマンスはマルフォイの成果ではないように思われた。

 

 マルフォイはネビル・ロングボトムという新しい玩具を見つけたようで、最近は特に生き生きとしていた。彼は意地悪で独善的だが、優秀で誇り高かった。恐らく、純血でありながらグリフィンドールに入り、何をするのも上手くいかない不器用なネビルが気に食わないのだろう。

 しかもネビルは皮肉なことに、マルフォイの嗜虐心や劣等感を満たす、たいへん良い反応をするのでしばらく遊ばれるのは確定だった。

 ネビルは友人なので、あまりひどいことをして欲しくない。シャルルはちいさくため息をついた。

 

 

 談話室に戻ると、中央の彫刻が掘られた大きなソファーで件のマルフォイが王のようにふんぞり返っていた。隣ではパンジーがしなだれかかって、シャルルを見つけると「こっちに来て!」と手を上げた。

 シャルルは曖昧な微笑みを口元に浮かべて、少し間隔をあけてマルフォイの隣に座った。肩を竦めてダフネが寝室へと消えていく。

「随分ご機嫌ね、パンジー」

「当然よ!ドラコったらとっても最高なの」

 ねえ?と見上げるパンジーをシャルルが頷いて見つめる。マルフォイが気取って言った。

「今夜、何があると思う?これで奴らは退学決定だよ」

「今夜?」

「ああ──決闘さ!」

 もったいぶるようにマルフォイは笑った。決闘?マルフォイ──というより、スリザリンには些か不似合いな単語にシャルルは半笑いで首を傾げる。

「と言っても、僕が本当にするわけじゃない。決闘の約束だけして奴らをおびき出し、それにまんまと引っかかった彼らはフィルチにとっ捕まるって作戦だよ」

 なんて幼稚な……。シャルルは思ったが、口に出すことはしなかった。それに、自分で考えてスリザリンらしく策を練っているところには好感が持てた。

 

「上手くいったら素敵ね。でも、そう簡単に彼らが引っかかるかしら?だって、深夜徘徊なんてすぐ見つかってしまうし、罠だと見抜かれてしまう可能性もあるでしょ?彼らもそこまで…愚直ではないと思うの」

 シャルルはつとめてオブラートに包んだ。マルフォイはそんな気遣いをよそに「はは」と吹き出す。

「知らないのか?スチュアート。奴らは愚かなんだ。疑いもせずに即答したよ」

「ああ、そう…」

 脱力してシャルルは眉を下げた。男の子は決闘や男の戦いを異常に神聖視しているところがある。それにポッターは英雄だ。謙虚に思えた彼だけれど、やはり英雄は英雄たることを望むのだろうかと、ぼんやりと考えた。

「明日の朝が楽しみね」

「まったくだね。明日の朝食が奴らの顔を見る最後になるだろうさ」

 

 

 

 

 

 朝からマルフォイは一日中怒り狂っていた。いや、マルフォイだけでなく、誰も彼も、スリザリン全てが怒気を顕にしていたと言っていい。

 

 ポッターは退学どころか、1年生ながらにクィディッチの選手に選ばれたとまことしやかに噂が流れ、彼に送られてきた箒を見るにその噂は多分正しかった。

 ダフネですら慣習を破る特例措置に苦々しい顔を隠さず、スリザリンのクィディッチチームの先輩たちは唸るようにポッターを睨みつけている。パンジーの怒りは一際強く、グリフィンドールを見かける度にけたたましく罵倒を浴びせかけていた。ポッターへの措置はスリザリンだけでなく、ほかの寮の生徒も湧き上がるか、何となく面白くない気持ちで眺めるかに分かれていた。

 

 シャルルはと言えばあまりクィディッチに意味を見出していないこともあり、そこまで熱狂的に議論する気にはなれなかった。ポッターのことは伝説という意味では好ましかったし、ホグワーツの教員が自分の感情で大きく成績や得点を変化させたり、贔屓することには慣れ始めていた。

 シャルルにとって問題だったのはスリザリン全体が薄暗い怒りに支配され、とても楽しんだりリラックス出来るような環境ではなくなってしまったことだった。

 仕方なく数日間、シャルルはひとりきりで図書室に篭もり、10冊の本を読み終え、マダム・ピンスと僅かに話すくらいの本の虫になっていた。

 

 シャルルにとってうんざりしたのは、グリフィンドール生がシャルルとすれ違うたびに得意げな顔を向けてきたり、勝気な嫌味を投げてくることだった。

 寮の敵対心はくだらない…とまでは言わないが、血の前には些細なことだとシャルルは考えていた。

 

 偉大なる4人の創設者たち…。道が分かたれようと彼らが偉大なことを成したのには変わりがない。各々に信念があり、思想があり、創設者たちの求める人材として選ばれたそれぞれの寮の生徒は、それぞれ誇り高いと思う。だからスリザリンだからと見下されたり、敵愾心を向けられるのは、気にしないようにしていても徐々に心を疲弊させていた。

 

 シャルルはホグワーツに来てから、自分に向けられる悪意というものを知った。

 

 滅多に感じることの無い苛立ちをどう解消すれば良いのか、まだ情緒の未熟なシャルルは悩んだ。本を読んで知識を積み重ねるのは、疲れた心を癒すのに実に最適だった。

 

 3年生の実践的な妖精学の本を返しに図書室へ向かうと、グリフィンドールの女の子が隅の方で本を捲っていた。豊かな栗毛の彼女は、いつもあの席で必死にペンを動かしている。

 彼女の名前をシャルルは覚えていなかったが、図書室に通う中で顔は覚えていた。それに彼女はいつも魔法薬学で、あのスネイプ相手に質問や意見を真っ直ぐぶつけて減点されているので、シャルルの印象に残っていた。

 

 彼女の脇を通り過ぎると肩が微かに揺れ、背中をおずおずと視線が見上げてくるのを感じ取った。栗毛の彼女は毎回シャルルのことを気にしている。分かっていたがそれを無視して、シャルルは離れた奥のテーブルに腰を下ろした。

 新たに借りたのは妖精学の応用呪文が載った本と、魔法界の英雄伝の物語だ。3年生の魔法はまだあまり完璧には使えないが、いくつか良さそうなものを抜粋してノートに纏めていく。

 例えばフィニート・インカンターテムや、金縛り呪文──これなら未完成だが少しだけ使える──や、イモビラスなどはとても魅力的な呪文に思えた。呪文や効果を覚えたら、実際に使って練習したい……シャルルは実践的な魔女だった。

 

 学校では対象に出来る生き物はいないが、家に帰ればハウスエルフがいる。わくわくと胸を弾ませながらペンを動かしていると、栗毛の少女が動き出したのが目の端に映った。

 

 普段ならそのままマダム・ピンスのところへ向かう彼女が、ゆっくりとシャルルのいる方へ向かってきたような気がして、自分の視界を遮るようにシャルルは本を立てて読み始めた。

 彼女が近くまで来るのは初めてじゃない。

 視界に映らないよう意識してページの文字を追うも、栗毛の少女が目の前に立ったのを見て、シャルルは観念した。

 

「何か?」

 

 視線を僅かに上げ、すぐに本に視線を落とし、長い黒髪を白い手で耳にかけたシャルルを見て、ハーマイオニーは言葉を躊躇った。もごもごと口の中で呟くようにして、シャルルの前の席に座る。

「あなたのこと最近よく見かけるわ」

「そう」

 返事はつれないものだったが、近くに座るのを拒絶されなかったことや、無視されなかったことに安心してハーマイオニーは続けた。

「いつも高度な本を読んでる。今も」

 何が言いたいのか分からず、シャルルは少し間を置いて、「そうね」とだけ口にした。

 

 

「あなたは他のスリザリンとは違うような気がするわ」

「たとえば?」

 

 シャルルは誰よりも自分がスリザリンらしく誇り高いという自負があったので、的はずれな彼女の言葉に怒るというよりも面白いような気持ちで、口の端を釣り上げた。その顔はハーマイオニーにとっては嘲笑されているように感じて、少しだけ鼻にシワを寄せる。

「例えば…生産性のないことに意味を見出さないところとか…、大切なことを分かっているところとかよ」

「大切なこと?」

「勉学よ。それが学生の本分で、あなたはそれを満たしていると思うわ」

 

 ハーマイオニーは何かを期待した瞳でシャルルを見つめて、シャルルはつまらなそうに指で髪の毛をくるくると弄んだ。

「たしかに知識を得ることはわたしにとって価値のあることよ…」

 呟くような言葉にハーマイオニーは顔をぱっと明るくしたが、

「でも、あなたと会話をすることに生産性があるとは思わない…かな」

 嘲るような響きを込めて言葉を転がすシャルルに彼女は顔を赤らめて眉を釣り上げた。

「少なくともあなたの周りにいる無能でナルシストな彼らとよりは、有意義な語らいが出来るはずよ」

「あなたは彼らを侮辱する立場にないわ」

 ピシャリと言葉を叩きつける。「話は終わりね」

 

「待って──彼らを悪く言うつもりは無かったの。それは悪かったわ」

「わたしはスチュアートよ、そしてあなたはマグル生まれ。そしてわたしはスリザリンであなたはグリフィンドール。今の寮内の雰囲気がわからないの?」

 他人に合わせるのが苦手なシャルルでさえまざまざと分かる刺々しい互いの雰囲気が、彼女に分からないとは思えない。

 シャルルにとって重要でない寮の違いを自分で上げたことにシャルルは唇を皮肉げに歪めた。

 

 栗毛の彼女の頭の良さはシャルルはそんなに嫌いではなかったが、実際に話してみると、彼女からは尊大さや神経質さがありありと伝わってきて、楽しくおしゃべりを楽しもうという気にはならなかった。こちらの機嫌を伺おうとしていたところは可愛いのに、多分向いていないんだろう。

 

 自分の意見を言いたがる気質なのだろうと思った。

 よく彼女がマルフォイの話題に上がるのは、マグル生まれや、生まれが劣るのに成績がいい事へのやっかみ以上に、何となく他人の癇に障る言動にも理由があるのだろう。

 

 グリフィンドールが聞いたら何様だと憤慨しそうな感想をシャルルは抱いたが、それも当然だった。純血であることを誇る自分たちにとって、マグル生まれはそれだけで劣っていて、対等ではない。

 

「クィディッチで一喜一憂するなんて馬鹿らしいことよ」

「それは…」まったくその通りだけど。

 箒も苦手で、クィディッチの試合を生で見たことの無いシャルルには、学校を巻き込む熱がわからなかったが、彼女と同じ意見だとは言えずに口を噤んだ。

 

「あなたは他のひととは違うと思っていたけど、間違っていたみたいね」

 硬い声で栗毛の少女は吐き捨て、そのままツンと去って行った。

 

 

 

 



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7 ハロウィーン

 ハロウィーンの朝は城全体に漂う甘い匂いから始まった。朝食のパンプキンに舌鼓を打ち、ふくろう通販でこっそりと買ったお菓子をローブに大量に隠す。

 屋敷ではハロウィーンの日には仮装をして両親に悪戯を仕掛けに行くのだが、ホグワーツ城では残念ながらそういうことをする人はいないみたいだった。

 

 地下から魔法史の授業に向かう途中、顔を覆って走る女の子がシャルルの肩にぶつかった。赤のローブ。グリフィンドール生の無礼にパンジーがいきり立つ。

「どこ見て歩いてるのよ!」

「ご、ごめんなさい…」

 聞き覚えのある声で少女を見つめると、すれ違い様に涙を零れそうなほど浮かべた瞳と目が合った。

 彼女だ……。

 目を丸くするシャルルからふいと顔をそむけて、栗毛の少女は走り去って行った。パンジーが横で意地悪く笑っていた。

「今のグレンジャーじゃない?」

「あの子も泣くのね」

 感慨深く呟いたシャルルに少女たちがクスクス笑った。

「ヒステリーでバッグなあの女にもマトモなところがあったのね。てっきりゴブリンなのかと思ってた」

 パンジーが悪意を持って口を大きく歪めた。脳裏に図書室での縋るような目線や、さっきの潤んだ瞳がよぎった。

 だが、結局シャルルはパンジーたちとともにクスクスと笑うことを選んだ。シャルルは残酷ではないが、他人にひどく無関心だった。

 

 

 

 ハロウィーンのDADAの授業は最低だった。死者の日だからかクィレルは常以上に怯え、にんにくの匂いが噎せ返るようだった。吸血鬼が今にも襲いかかって来るとでも言いたげに、扉のそばには乾いたにんにくと粗末な十字架がこれみよがしに垂れ下がっている。

 

 教室の窓側のいちばん奥の席が、DADAの授業でのシャルルの特等席だ。クラッブとゴイルをお菓子で懐柔し前に座らせ、大きなふたりに隠れるようにしてシャルルはパンジーやダフネとひっそりとおしゃべりに花を咲かせる。

 窓際なのできつい匂いも幾分かは和らいだ。シャルルはローブの内ポケットからヌガーとキャンディを両手のひらいっぱい握り、クラッブとゴイルに正当な報酬を支払った。

「あなた達はあとで食べるのよ…我慢出来たらハロウィーン用の特別なお菓子をあげる」

 しっかりと釘を刺すのを忘れない。ふたりは本当にお菓子を横目でチラチラみたがらも、うんうんとおおきく首を縦に振ったので、シャルルも満足げにちいさく頷いた。これで自由は手に入れられただろう。

 

 

 今日のDADAで隣に座ったのはパンジーだった。斜め前にはパンジーのメイドのターニャ・レイジーもいる。シャルルはパンジーと目配せして、防衛術の教科書を机の上に立てると頭を寄せあった。

「特別なお菓子ってなんなの?」

 パンジーが期待を込めた声で囁いた。もったいぶって、シャルルはゆっくりとローブに手を入れた。

「ねえ、いいじゃない。意地悪ね」

 シャルルの肩をちいさく小突いてパンジーが笑った。せっかちな彼女に答えるように、シャルルは机の上にそれを置いた。

 

「ワオ…」

 それはクッキーだった。けれどもちろん、ただのクッキーではない。

 ひとつは宝石のように煌めくジャムが中央に練り込まれていて、口の中でぱちぱちと弾けた。ひとつには花が咲いていた。季節も色もとりどりの甘やかな花だ。小さな鳥が花の周りを飛んで一部になった。ひとつは海があり、砂浜があった。しっとりとした真白なクッキーの上で、小さく波打ち、貝が踊っていた。

 

 感嘆の声を漏らして見蕩れていたパンジーが「これ、これってパティシエール・ミニレムの限定ものでしょう?」と、興奮したように囁いた。得意げにシャルルは顎を上げる。

「お母様はハロウィーンとか、クリスマスとか、イースターとか…そういう伝統的な催しが大好きなの」

「でも簡単に手に入るものじゃないわ」

「マダム・ミニレムはお母様の広めたハーブティーの虜よ」

 シャルルは訳知り顔で囁いた。彼女の母、アナスタシアはハーブを中心に多くの名声を得た薬草学者だった。

「ああ、素晴らしいわ!彼女の作るスイーツはどれも逸品よ」

「これはほんの一部なの。午後には庭でパーティをしましょう。あるいは部屋で、眠る前に」

「完璧なアイディアだわ」

 ふたりは微笑み合った。

 

 

 スイーツについて有意義な議論を交わし、教室を出ていこうとすると、後ろから呼び止められてシャルルは振り向いた。

 かたくなに目を合わせようとせず、クィレル・クィリナスが小刻みに体を揺らして、「す、少しだけお話が…お、お時間はそう多くは、と、取らないので」と早口でまくし立てた。

 怪訝な顔でふたりは顔を見合せ、「最初に行ってるわね」とパンジーが出ていく。目が、あとで詳しくきかせてちょうだいよ?と伝えてきていたので、シャルルは肩をすくめてクィレルに向き合った。

 

 クィレルはせわしなく目を動かしながら、言葉をつまらせて指先をいじっていた。この教師と顔をきちんと合わせるのは初めてだったが、シャルルは早くも少し辟易とし始めていた。他人のペースに合わせるのはあまり好きなことではない。

 だがシャルルはクィレルを急かすことはせずに、落ち着いた微笑みを浮かべながら彼の瞳を覗き込んで、視線だけで上品に話を促した。

 

「わ、わたしはクラスの様子にび、敏感です」

 クィレルが唐突に言って、シャルルの瞳を見つめた。すぐに逸らされたが、見上げるような視線だった。

「お、お、美味しかったですか?き、今日は素敵なハロウィーンで、ですからね」

 今度はシャルルが目をそらす番だった。見抜かれていたのだ。

「未熟な教師とは言え、わ、わたしは、ル、ルール違反には、対処をし、しなければなりません。ミ、ミス・スチュアート?水曜日の夜は、あ、空いていますか?」

「教授」シャルルはクィレルの言葉を遮った。

 

「教授、たしかにわたしは授業にきちんと集中出来ていませんでした。さらには、不要なものを持ち込んでいた。それは事実です。けれど、罰則というのはあまりにも重い対応ではありませんか?」

 意図的に眉を哀れに下げて、シャルルは儚げに目を伏せた。

「わたしにあなたの授業を邪魔する意図はありませんでした。けれど、スリザリンにはそういう生徒が多すぎます。クィレル教授?わたしはあなたを嘲笑ったことはいちどもありません」

 シャルルは黙ってクィレルをじっと見た。オドオドと何回か目を合わせたクィレルに優しげに微笑んでみせる。

 クィレルはひととき逡巡したあと、躊躇いがちに口を開いた。

「わ、わ、わかりました。そ、それでは、スリザリンは10点減点…と、い、いうことにします」

 唇を濡らして、顔色を伺うようにクィレルがそう言ったのを見て、シャルルは内心で勝利を喜んだ。

「ありがとうございます。あなたは寛大な教師ですね」

 

 話は終わったと思ったが、クィレルはシャルルを引き止めるようになおも言葉を続けた。

「ミ、ミス・スチュアート、あ、あなたの両親はどんな方なのですか?」

「…なぜ両親のことを?」

 怪訝に首を傾げるシャルルに、慌ててクィレルは首を振った。

「わ、わたしは、ど、どうも話をするのが、じょうずではないのです」

 口元に笑みを浮かべてシャルルは答えた。彼はコミュニケーションがたしかに苦手そうに見える。

「陽気で厳しい父に、繊細で気丈な母です」

「よ、良い人たちなのでしょうね。あ、あなたを見ればわかります」

 

 嫌味だろうか?

 しかしクィレルは目元を緩めていたので、恐らく他意はないはずだ。シャルルは賞賛を素直に受け取ることにした。

「彼らはとても偉大で愛情深い。わたしの誇りです」

「か、彼らのお名前はなんと?」

 そんなことを知りたい理由がわからず、一瞬躊躇ったが、良好な雰囲気に水を差すのも望ましくなかった。

「ヨシュアとアナスタシア…ふたりの名前です」

「本当に?」

「え?」

 

 クィレルが一瞬睨めつけるような鋭い目付きをして、底冷えのするような声音を出したように感じた。しかし彼の顔をまじまじと見つめても、確かに感じたはずの氷のようなぞっとする冷たさは欠片も見当たらない。気のせいだったのだろうか。

 

 シャルルは無意識に指を弄び、顔に浮かべる笑顔を決して誰にも貶せないような、完璧なものへと変えた。戸惑いもいつの間にか表情から消されていた。

 完璧なスチュアートの令嬢は、花が蕾むようなほがらかな声で「そろそろお暇しなくては」と切り出した。思ったより穏やかな時間を過ごせたが、長居したい場所ではなかった。

「それでは教授、また次の授業で」

 ちいさく腰を下げてシャルルはほんの少し早足で歩き出した。理由のわからない微かな焦燥感と違和感、戸惑い、そして光るような目で睨む「本当に?」クィレルの言葉を思い出した。

 

 パンジーに詮索された時も、罰則にされそうになったことを面白おかしく話してみせたが、何故か家族について語らったことは言う気にならなかった。睨む目付きを思い出し、しかしパンジーと話しているうちに、シャルルの中にあった微かな危機感は次第に忘れ去ってしまった。

 

 

 

 

 大広間は見事な様相だった。スチュアート家は人数が少ないながら、いつも大々的に屋敷を飾り付けたり、イベントらしい雰囲気を楽しめるよう趣を凝らしていたが、ホグワーツはそれをいとも簡単に上回った。

 広大な広間に垂れ込めていた重厚な垂れ幕は、羽根を羽ばたかせ蠢く蝙蝠の群れだった。頭上を真っ黒に覆い、風に揺れるカーテンのようにゆらいでいる。テーブルの上や広間の照明にはジャック・オー・ランタンやスィード・ランタンが使われていて、蝋燭の炎が幻想的に大広間を演出する。いつもより薄暗く、何もかもが揺らめいている空間はまさにハロウィーンに相応しく、美しく魅惑的だった。

 

「ホグワーツって思ってたより悪くないかもしれないわね」

 パンジーが目の前のランタンを見つめながら呟いた。炎が小人の形になってくるくる回っている。

「こんなに素敵な装飾がされるなんて思わなかった」

 シャルルの左に座っていたダフネが彼女の言葉に答えた。ふたりが共に行動することは珍しい。

「今日のメニューは特別仕様になるかしら?」

 大広間は既にいい匂いが漂っていたので、シャルルはディナーに思いを馳せた。パンプキン・パイにかぼちゃジュースは当然として、バーンブラックやデビルト・エッグなんかも欠かせない。庶民的すぎるけれど、コルカノンもあったら嬉しくなる。デザートはトフィーアップルが出たら素敵ね……。

 夢想するシャルルに苦笑し、パンジーとダフネが会話に加わった。彼女たちの頭の中は食べ物でいっぱいになった。

 

 ダンブルドアが指を鳴らすと、机上に魔法で次々と豪勢な食事が並べられた。色々な種類の色々な国のハロウィーンの伝統料理。

 ターニャ・レイジーが無言でセンスよくお皿に料理を盛り付けてくれた。大広間にはいつの間にか重々しいクラシックが流れていて、雰囲気が高まっている。

 

 

「ハッピー・ハロウィーン」

「ハッピー・ハロウィーン」

 少女たちがかぼちゃジュースで乾杯し、ごきげんにグラスを鳴らすと、突然大広間の扉がバタン!!と開かれた。その音は騒々しい空間の中でもよく響いた。

 

 息を切らせて駆け込んできたクィレルは、大広間全員の何千という目玉に見つめられながら喘いだ。

「ち…地下室にトロールが……お、お知らせしなくてはと思って……」

 顔を強ばらせたクィレルは、そのまま気を失って倒れてしまった。恐怖でおののいている顔だった。

 広間は一瞬シーン…と静まり返り、次の瞬間爆発した。恐慌に陥り、怒声や悲鳴が飛び交う。クィレルの恐慌に引き攣った顔が事実だと如実に表していた。

 ダフネがシャルルの手をぎゅっと強く握った。

「トロールみたいな野蛮な生き物がどうして城に入り込むのよ!世界でいちばん安全なんじゃなかったの!?この無能!」

 歯をむき出してパンジーがダンブルドアに怒鳴っている。シャルルは反対の手でパンジーの手を握って宥めてやった。頭の中では困惑と疑問が渦巻いていた。

 

 ダンブルドアが広間中に耳の割れるような紫の爆発を起こして、やっと騒ぎは静かになった。監督生に連れられてスリザリン生はなんとか気品を保ちつつ、列を為す。

 

 

「トロールなんかに台無しにされるなんて、こんな情けないハロウィーンってあるかい?」

 先程青ざめて顔を歪めていたマルフォイは、監督生の後ろでわざとらしく残念そうに頭を振った。目が合ったノットが片眉を上げ、シャルルは苦笑したが、マルフォイの言葉には同意だった。

 パンジーはトロールのいる地下に向かうのを不安がったが、何事もなく一行はスリザリン寮に辿り着いた。

 

「残念なハプニングがあったけど、このままハロウィーンの夜を終えるのは少しもったいないわよね?」

 監督生のジェマ・ファーレイが談話室に溢れた生徒たちを見回した。

「先生方からパーティーの続きをして良いという許可が出たの。ハロウィーンはまだまだ終わらないわ!」

 ジェマ・ファーレイが腕を振り上げると共に、談話室の中心の見事なテーブルに次々と料理が出現した。騒ぎ足りなかった生徒たちは歓声を上げてそれぞれパーティーを楽しみ始めた。

 

 マルフォイは暖炉のそばの大きなソファを占領して、ゆったりと寛いだ。クラッブとゴイル、レイジーが中央に料理を取りに行き、シャルル、パンジーがソファに続く。

「椅子が足りないわね」

 パンジーが呟き、シャルルはおもむろに杖を取り出してちょんっと振った。ふたつの豪奢で重量のある椅子がふよふよと暖炉のそばへ飛んできた。

「さすがだね」マルフォイが口笛を吹くような口調で言った。「それじゃ、パーティーを始めようか?」

 用意された椅子にノットとダフネが腰掛けて、クラッブとゴイルは真ん中のテーブルに拠点を構えた。食べても食べても料理が補充されるあの場所はふたりにとって天国だろう。

 

 乾杯し、先程飲めなかったかぼちゃジュースで喉を潤した。甘く、こってりした味がするすると胃まで滑り落ちていく。料理だけでなくお菓子も食べようと、部屋に置いてきた特別なお菓子をレイジーに取りに行かせ、シャルルも会話に加わった。

「トロールなんて本当にいるのか?」

 猜疑的な口調でノットが眉を顰めた。「もし本当に侵入を許したのだとしたら、ダンブルドアは間抜けだ」

 ダフネが可笑しそうに笑った。

「そんなの今に始まったことじゃないわ」

「たしかにそうね。わたしの両親はダンブルドアに対して信頼を寄せていないわ」

「もちろん、僕の両親もだ」

「それにしたって、今回のことはかなりの失態よね?」

「大体クィレルもお粗末すぎる。あれでも一応DADAの教師だろう?父上が知ったらなんとおっしゃるか」

 マルフォイが嘆かわしいよ、と頭を振った。

 

「今回のことで何らかの処置をしないわけにはいかないでしょうね。ダンブルドアは理事会に対してなんて釈明するかしら?」

 パンジーが楽しそうに意地悪く笑った。シャルルも思わず口を緩ませる。

「僕の父上は理事会のメンバーだ、きっと動いてくださると思う。それにスチュアート、君のお父上はウィゼンガモットの判事だね?ノットもパーキンソンもグリーングラスも、魔法省への有力な影響力を持っている」

 マルフォイは唇を吊り上げて、グラスを傾ける。蝋燭の炎がプラチナブロンドの髪を幻想的に照らした。

 

「トロールはどこから侵入したのだと思う?」

 シャルルが新たな火種を提供すると、珍しくノットが話を広げた。

「禁じられた森は無法地帯だ。可能性があるならそこだろうな」

「たしかに」パンジーは頷いた。「それにあそこの森番は野蛮人よ。トロールと変わらないわ」

「森番?」

 脳内検索には引っ掛からなかったので首を傾げると、ダフネが目を丸くした。

「知らないの?冗談よね?」

「興味のないことは覚えられないの」

 シャルルはグラスを煽った。

「禁じられた森の傍に犬小屋よりも酷い家があるだろう?あそこにはハグリッドとかいう野蛮人が住んでるんだ」

「あの森番は巨人族と魔法族のハーフなのよ!」

 パンジーがキーキーとした声で小さく叫ぶ。

 

 シャルルは背筋がぞっとした。

「じゃあ、魔法族でも魔法生物でもない生き物ってこと?あ、ありえないわ…。高潔な魔法生物をもどきに引き摺り落ろすのは、人間の最も許し難い過ちのひとつよ」

 

 シャルルは魔法族としての自分に誇りを持っていたし、魔法界の生き物に敬意を払っていた。だからこそ、マグルやマグル生まれ、魔法生物のハーフなどに許し難い怒りと言いようのないおぞましさを感じるのだ。

 

「なぜそんな存在がホグワーツに?」

「決まってるじゃない!ダンブルドアよ!」

 パンジーが顔を顰めて吐き捨てた。ダフネが言葉をつなぐ。

「昔から苦情は多かったらしいのよ?けれどダンブルドアが全て跳ね除けて、今も彼を採用しているの」

「しかもホグワーツの顔とも言うべき1年生の案内をやつにやらせてる。品位を貶しめてるとしか思えない」

「なおさら今回の件を急いで報告するべきね」

 

 話題がひと段落したのを見計らい、ターニャ・レイジーが影のようにシャルルのもとへ滑り込んだ。

「お持ちしました」

「ありがとう。レイジー?あなた、ハーブティーは淹れられる?」

 レイジーはおずおずと頷いたので、シャルルは笑みを見せた。そしてみんなの顔を見渡して言った。

「お母様が持たせてくれたハーブがあるの。それに、今日のために用意した取って置きのスイーツも」

「僕も送ってもらってある。今、部屋から持ってくるよ」

 いまだ手を緩めず料理をかきこんでいるクラッブとゴイルを横目で見て、マルフォイが部屋に戻った。シャルルは自分で取りに行くマルフォイに感心した。

「悪いけど僕の家ではこういう行事にあまり重きを置いていない。何も準備できてないんだ」

「そんなの気にしなくていいわ」

 ノットの言葉にシャルルが微笑んだ。「ただ楽しめばいいの」

 パンジーとダフネも部屋に戻り、その場にはセオドール・ノットとシャルル・スチュアートを残すのみとなった。

 

「君のことよくわからないな」

 ポツリとノットが言った。

「スリザリンらしい子女かと思えば、レイジーを侍らせていたり、グリフィンドールやハッフルパフの連中なんかとも平気で話すだろう」

 ぶっきらぼうな口調だったが、ノットの声に怒りはなかったので、シャルルは穏やかに言った。

「寮の組み分けによって純血の魔法族が差別されるのは、何だかおかしいとわたしは思うの」

「どういうことだ?」

「つまり…寮の組み分けは才能や性格によって決められるもので、それによって血に優劣はつかないと思うの。純血魔法族は思想によらず尊いものよね?純血同士で差別し合うより、もっと有意義なことがあるはずなの…」

 シャルルのサファイアの瞳が不思議に煌めいている。ノットはその瞳に魅せられて何も言えなくなった。もしかしたら、全く新しい思想というものが生まれつつあるのかもしれない。

「そうか…何となくわかったよ」

 マルフォイが階段を降りてくるのを見て、ノットは囁いて素早く体を離した。

 

 

 準備が整って、それぞれテーブルに持ち込んだお菓子を並べた。貴族の子息子女なだけあって壮観だ。

 それぞれの手元にはアナスタシア自慢のハーブティーが添えられている。レイジーが淹れたものだ。彼等はハーフ・マグルの手に触れたものを飲むことに嫌な顔をしたが、シャルルの微笑みにより渋々受け入れた。それからテーブルから少し離れた場所に椅子を持ってくると、レイジーをそこに座らせた。思ってもみなかった褒美にレイジーは少し頬を上気させた。

 

 黄金色に透き通るダイヤーズ・カモミールティーの香りを楽しむと、シャルルは特別なお菓子の封を開ける。箱の中からカラフルなコウモリが飛び出してきて目を楽しませた後、煙になってしゅわしゅわと空へ溶けた。あとに残ったのはジャック・オー・ランタンの形をしたボックスと、その中でスノー・ドームのように揺らめく蝙蝠型のお菓子たち。クッキーやキャンディがランタンの中で飛び回り、クリームが踊り、茜色のシロップが波打っていた。お菓子たちによるちいさなハロウィーン・パーティーに感嘆の声が響く。

「最高のセンスね」ダフネが見上げた。「これはアナスタシアが?」

「ええ。この中のクッキーはマダム・ミニレムが作ったものなの。ハーブが練り込まれているのよ」

「さすがアナスタシアだわ!」

 シャルルが得意げに言い、ダフネが悲鳴のような歓声を上げた。パティシエール・ミニレムが3年前に出したシリーズはハーブがテーマだった。数量限定で、プレミア価値がついている。

 

 マルフォイが持ってきたのは、落ち着いて上品なレアチーズケーキだった。かぼちゃの生クリームがふんだんに使われていて、銀のフォークには蛇の意匠があしらわれていた。

「母上のお気に入りでね。気に入ってもらえると思うよ」

 ダフネはアップルトフィー、パンジーはモンスターの形のジンジャークッキーだ。シャルルたちはスイーツに舌鼓を打って、会話を楽しんだ。先程の少し重苦しい政治の話からは離れ、スリザリンの話、他寮の批判、授業の話、冬休みの話…ティーンらしく恋の話。

 おなかいっぱい食べて彼らが満足したのは、もう夜も耽ける頃だった。談話室にはいつの間にか数人の生徒たちしか残っていない。

 シャルルは特別なお菓子をクラッブとゴイルに渡し、余ったスイーツをレイジーに食べて良いと許可を出した。余り物を下賜されてレイジーはどのような反応を示したかと言うと、嬉しそうに受け取った。

 

 部屋ではひとりぼっちのイル・テローゼがベッドで次の日の予習をしていた。シャルルは上機嫌で声をかけた。

「楽しいハロウィーンを過ごせた?」

 パンジーとシャルルのせいでスリザリンに居場所がないテローゼは、傷付いた顔でシャルルを強く睨んだ。その日の夜、自分の素晴らしい一日に大満足してシャルルはぐっすりと眠った。

 

 ハロウィーンの夜が耽けていく……。

 

 

 



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8 開幕

 クィディッチ・シーズンが到来すると、ホグワーツ中が浮き足立ち、またはピリピリし始めた。

 朝から晩まで練習に明け暮れた選手たちが、夜は宿題を何とかこなそうと談話室に集まってくる。最近はすっかり冷え込んだ上に、地下室にある石造りのスリザリン寮はどこかいつも寒々とした雰囲気だったので、自然と暖炉のそばに人が寄っていく。

 

 マルフォイは次期シーカーと目されていたので、よくマーカス・フリントやエイドリアン・ピュシー、キャプテンを務めるエリアス・ロジエールたちの後をついて回っていた。

 シャルルはクィディッチに気を惹かれることは無かったが、紳士的なルシアン・ボールや温厚なテレンス・ヒッグスと共に、暖炉の前で勉学に励むのは心地の良い時間だった。

 

「やつのデビューをこの目で見定めなきゃならない」

 シーズンの開幕を1週間後に控え、メンバーは頭を寄せあっていた。開幕を飾るのはスリザリン対グリフィンドール。

 忌々しそうに鼻に皺を寄せて、マルフォイがテーブルを覗いた。机上にはチェスの駒が並んでいる。クィディッチの作戦会議をしているらしい。

 

「経験も技術もない1年シーカー…とは思うけど、どうだろうね。ウッドが毎日浮かれまくってる」

「あの熱血男が即戦力で使うなら、ある程度の実力はあると見るべきだろうな」

 ロジエールとピュシーは冷静に指摘したが、フリントは鼻を鳴らして獰猛に笑った。

「ふん、あんな小さい棒っ切れなんて、オレが吹っ飛ばしてやるよ」

「血の気が多いな、マーカスは。頼もしいよ」

 ヒッグスが苦笑した。

 

「ブラッジャーは集中してシーカーを狙おう。英雄様を潰してしまえば問題なしさ」

「それか女子陣だな。やつらはか弱い上にグリフィンドールの主戦力だ。あっちは層が薄いし、潰せばすぐ揺らぐ」

「うーん、俺はレディを狙うのは気が進まないな」

「軟弱な考えは捨てろよ、ルシアン。弱いやつから潰すのは定石だろ」

「ま、その考えには同意だけど。でも君は野蛮すぎるね、だからモテないのさ、ペレグリン?」

 ボールが口元に笑みを浮かべてからかうとデリックが沸騰しかけたが、慌ててヒッグスが宥める。

 

 そんなヒッグスの肩に腕を回し、グラハム・モンタギューが脇を小突いた。スリザリンは他寮に比べ上下の関係がことさらに厳しいが、クィディッチ・チームは固い絆で結ばれていたので、そのルールからは外れたところにあった。学年も家柄も関係なしに、気兼ねしない口調で彼らは対話する。

「テレンス、お前にかかってるんだからな。いつも通りでいい、頼むぜ」

「僕に任せて、って言いたいけどね…。でも、そうだね、1年なんかに負けていられないよね」

 ヒッグスの瞳にくらい光が宿っている。「ただでは転ばない。それが僕らスリザリンだ」

 ヒッグスの言葉にメンバーたちは顔を見合わせ、破顔してそれぞれ肩を叩いた。

 

 マルフォイがわずかに瞳に尊敬の念を浮かべ、

「スリザリンの勝利は間違いないだろうね。こんなにも理知的で威厳溢れる先輩がいるんだから」

 と、称賛を述べると、クールを装ってそれぞれが嬉しそうな顔をした。マルフォイが素直に他人を褒めるのは珍しい。

 数秒待っても、マルフォイは自分の自慢を始めなかった。

 今日はたいへんに機嫌が良いようだ。

 

 賑やかに良い気分で作戦を語り合う彼らに、シャルルはボールがもう今日は勉学に付き合う気分でないことを察した。

 かと言って、自由な時間に対等に勉学に励む友人は、ほぼ居ない。パンジーとダフネは上流階級の子女とティーパーティーに参加しているし、ターニャは成績が良くない。

 図書室は遠いから、暖かい部屋から出たくないとも思った。

 

 仕方ないので、やかましい男たちから離れ、暖炉から少し離れた小さなテーブルに向かう。

「ここ、使わせていただいても?」

「もちろんだよ、ミス・スチュアート。良い時間を」

 シャルルが声をかけるとさっと彼らは席を離れた。上級生だったが、彼女がそれに物怖じすることは無い。

 

 スリザリンはシャルルが望めば、なんでも思い通りになる心地の良い空間だった。

 

 教科書をたたみ、ローブの内ポケットから小さな文庫本を取り出し、目を通す。机の上には自然と紅茶とスコーンが準備されている。ハウスエルフは勤勉だ。

 内容は200年前活躍したハッフルパフの魔女の慈愛の物語だった。今の医療魔術に繋がる伝記で、ストーリーもおもしろく、勉強になったが、スリザリン生の間では軽視されがちな本だった。

 

 黙って字を追っていると、向かいの椅子に誰かが腰掛けたのがわかった。シャルルの落ち着いた空間に、物怖じせず入り込んでくる輩はあまりいない。友人たちはシャルルに声をかけるだろう。

 そっと視線を上げると、柔らかい瞳と目が合った。

「やあ、君はとっても素敵だね。海底を舞うマーメイドのようだ」

 自信に満ちた態度でウインクを飛ばしてきたキザな彼の名前は知っている。ブレーズ・ザビニだ。彼は深い紺の癖毛を遊ばせて、群青の瞳を艶めかせている。

 彼の腕には品よくくすんだ銀のブレスレットが嵌められていた。シャルルの正確な審美眼はそれが非常に良い職人の作品であることを見抜いた。

 緩やかな時間を楽しむことを止められるのは好きではない。

 しかしシャルルは読書をやめて彼と向き合った。彼は正当な純血の血筋だった。

 

「あなたと話すのは初めてね」

「驚いた、君は声まで愛らしいんだな、シャルル」

 彼はシャルルを称えた。シャルルは、彼とはあまり会話が成立しないかもしれないと心配になった。

 ザビニはマイペースに会話を進めた。

「よかったら今度ふたりで一緒に過ごさないか?きっと素敵な時間を提供するよ」

「お誘いは嬉しいけれど……」

 少し言い淀む。彼の女好きは有名だった。シャルルはまだ恋愛に時間を割くつもりはない。本に視線を逃がした彼女にザビニが宥めるような声音で言う。

「押し付けるつもりは無いよ。君の好きなことを一緒にしよう。俺としてはチェスなんかに興じたいところだけど、図書室で静かに本を読むのも君と一緒ならたのしいだろうな」

「どうしてとつぜん?」

 もっともな疑問を口にするとザビニは嬉しそうな笑みを浮かべる。

 

「突然じゃない、ずっと気になってたさ。シャルルはスリザリンで最も品位のある女性だ」

 自分が最もうつくしく素敵に見える角度を彼は熟知しているようだった。

 それに、彼の仕草はひとつひとつがキマっている。

 

「その言葉で何人の女の子を喜ばせてきたのかしら?」

 皮肉な言葉とはうらはらにシャルルはまんざらでもない笑いを零した。

 

 ザビニはスリザリン内で独特の地位を築いている。

 彼自身は紛れもない純血だが、彼の母親はあまりにも有名すぎた。貴族的ではない手段で栄光と財産を手に入れ続けている彼女に、魔法界の旧い家などは歓迎的でなかった。

 息子であるザビニも複雑な立場だったが、彼は半純血の生徒を取り込んでそのトップに立った。そのグループにはあのミリセント・ブルストロードもいた。

 

 シャルルは少し考えた末、微笑みを返した。

「あなたのエスコートに期待するわ」

 まっすぐ見つめられてザビニは頷く。喜びと自負。女の子をときめかせることには、同世代では誰にも負けない自信があった。

「有意義な語らいをしたいね。俺自身も、俺を取り巻くものもきっとシャルルを喜ばせる自信があるよ」

 

 その時、尖った声が降ってきた。

 

「次のターゲットはスチュアートか?分不相応な身分を弁えろよ」

 振り返るとノットが不機嫌に腕を組んでザビニを鋭く射抜いていた。ザビニは一瞬つまらなそうな目をして、片眉を上げると煽るように顔を背け、立ち上がる。そして

「素敵な時間をありがとう、レディ」

 と微笑むと、踵を返そうとする。

 そして、わざとらしくノットの肩にぶつかると、大げさに謝った。

「ああ、悪い、このジメジメ埃っぽい匂いはお前だったのか。陰気すぎて気付かなかったぜ」

「……卑しい禿鷹が随分な言い様してくれる。所詮君は程度の知れる男なんだ、腐肉でも漁っていればいい」

「君の父親のような?」

「お前の母親ほど下劣な生き物はいない」

 

 ノットとザビニは激しく睨み合った。

 知的でクール、常に余裕を崩さない。そんなノットが敵愾心を露わにするのは初めて見たので、シャルルは呆気に取られてふたりを見つめた。

 やがて2人は熱い視線を交わすのをどちらともなく辞め、忌々しそうな顔をした。

 

 去る間際、ザビニが振り返ってシャルルにウインクを飛ばしていく。

「そういえば、俺の義父が新しい店を開いたんだ。プレゼントにも期待しててくれよ」

 

「成り上がり風情が」

 ノットが吐き捨てる。

 そしてシャルルに向き直ると謝罪を述べた。

「すまない、君を利用した」

 おそらく、ザビニを侮辱するために流用した件だろう。淡い微笑を浮かべ、シャルルは小さく首を振る。

「気にしないで。でも、あなたは彼とは相性が悪いみたいね?」

 シャルルがからかうと、ノットは気まずそうに苦々しく笑った。

「彼とは色々な面で馬が合わないんだ」

「ふふ、感情を剥き出しにするノットは新鮮だった。新しい一面を見つけた気分」

「君はたいそうな言い方をする」

 

 ノットは視線を暖炉へ向けた。それは見方によっては照れ臭そうにも見えた。

 すこし炎が燃えるのを楽しんで、ノットが口を開く。

 

「奴に何を言われたんだ?」

「どうして気になるの?」

「特に深い意味は無いよ。答えたくないなら言わなくていい」

「称賛と、デートのお誘いをいただいたただけ」

「そうか」

 ノットは微かに言い淀んだ。

「これは、僕の私情とは関係ない、有益な忠告だ。ザビニは女好きだが、それ以上に寄生するのが上手い男だ。気をつけたほうがいい」

 固い声だった。シャルルは彼の心配と忠告をありがたく受け取ることにした。

「ありがとう、ノット。彼に心を預けないようにするね」

 しかし、おそらくそれはいらない心配だった。

 シャルルは誰にも心を開かないから。

 彼女は、大好きな人たちにさえ、ぜったいに左右されない不思議な芯があった。

 

 

 

*

 

 親愛なる家族へ

 

 お元気ですか。返事が遅くなってごめんなさい。

 ホグワーツでの毎日がとっても素敵すぎてついつい時間が過ぎてしまったの。忘れてたわけじゃないわ。ほんとうよ。

 

 最近はすっかり寒くなって、冬の足音が迫っているのを感じます。もうかなりホグワーツは冷え込みました。スリザリンから見える朝の湖は、しんしんと冷たさを感じさせて、上を見るとたまに凍りついた水面の不規則な光を見ることが出来ます。寒いけれど、その美しさはすごく幻想的で気に入ってるの。

 そういえば、お母様が新しく送ってくださったブランケットはとても重用しているわ。マントのように大きくて、毛布のように厚手で、羽根のように軽くって。やっぱり温度を自動調節してくれる道具って便利ね。この前ドラコ・マルフォイが、自分のローブは夏でも冬でも常に最適な温度に保たれ続けるから快適なんだって自慢してきたの。わたし羨ましくなってしまって。ねえ、来年新しくローブを新着してもいいでしょう?

 

 クリスマス休暇は家に帰ります。手紙じゃ話しきれないことがいーっぱいあるのよ!

 スチュアートに相応しい友人も何人か出来ました。彼らは気品のある人たちよ。グリーングラスは当然として、パーキンソン、マルフォイ、ノット、ロングボトム……。聖28族の方たちとは親しみのある関係になりたいです。最近はディゴリーとたまにお話するの。彼はハッフルパフの人でとても紳士的よ。

 最近はザビニやブルストロードのことも気になっていて、もし友人になったらまた手紙を書くわ。

 

 ねえ、メロウは元気にしている?彼へのプレゼントは何がいいと思う?

 寂しい思いをたくさんさせてしまったから、今年はすこし特別なものが良いかと思ってるんだけど、なかなか思いつかなくて……。

 こっそり聞いてみてくださる?せっかくなら喜んでもらえるものを送りたいわ。メロウはクィディッチが好きだけれど、新しい箒を買うのはまだ早いものね。

 

 それでは今回はここまでにしておくわ。少し短かったかしら。ごめんなさい。

 あ!そうだわ。ティーン向けの新しいカタログは家に届いてる?もしあったら送って欲しいの。お願いね!

 身体に気をつけて、あたたかく過ごしてね。クリスマスに会えるのが楽しみです。

 

 お母様とお父様の天使 シャルルより

 

 

 *

 

 手紙を持って、ブランケットを羽織ってシャルルは早足で中庭を歩いていた。次の授業に向かいつつ西塔のふくろう小屋に行くにはそれが最も早い。けれど、びゅうびゅうと冷たい風がシャルルの指先を痛めつける。

 

 夜に行けばよかった。

 内心後悔しながら思った。横着した結果がこれだけれど、寒いより時間がかかる方が、ましだったかもしれない。

 

 前方に黒い影が見えた。全身真っ黒なそれは徐々に近付いてくる。各寮の色を纏っていない黒は限られる。我がスリザリンの寮監だ。

 

「こんにちは、スネイプ教授」

「ああ」

 彼が足を引き摺っているのには気付いていたが、それを表に見せずに挨拶すると、スネイプは鷹揚に頷いた。彼は手になにか持っていた。分厚い本。

 『クィディッチの今昔』と書かれている。スネイプ教授がそういう本を持っているのは意外に思い、ああ、と思い出す。そういえば明日はスリザリン対グリフィンドールの試合がある。スリザリンはだれもかれもそれに熱狂的であった。

 

「あの、教授、その足は……?」

「気にする必要は無い」

 好奇心と心配の入り交じった気持ちでつい尋ねると、スネイプはにべもなく切り捨てた。彼はスリザリンを贔屓するが、個人を贔屓するのはマルフォイだけだ。

 スネイプは他者に閉鎖的だ。その彼が怪我したことを隠し通せないほどなら、脚の傷は相当痛むに違いない。

 苦笑し、肩を竦め「お大事になさってくださいね」とだけ言い、背を向ける。余計なお世話かもしれないけれど、これくらいは良いだろう。

 

 

 

 また少し歩くと、今度は3人組が見えた。遠目からでも赤い差し色がわかる。

 ハリー・ポッターと愉快な仲間たちだろう。

 少し考えて、シャルルは彼らの方に歩き出した。ポッターとウィーズリーとはずっと話してみたかった。今、シャルルはひとりだ。煩わしい寮差別は付き纏っていない。

 

「ハーイ。こんな良いお天気にピクニック?」

 なぜか自分たちのほうにスタスタやってきたかと思えば、親しげに話しかけてきたシャルルにロナルド・ウィーズリーやハリー・ポッターは目を剥いたが、すぐに敵愾心をあらわにした。

 

「何か用かい?」

 ポッターの口調は刺々しい。気にせずににっこりして話しかける。

「ずっとお話したいと思ってたの。でも、人が多いところだと、話したくっても話せないでしょう?」

「僕たちは話したくなんてないけどね!」

 ウィーズリーの口調も素っ気ない。シャルルは肩を竦めた。彼らになにかしたことはなかったが、スリザリンは彼らに大して敵対的だったから、仕方ないことだ。

「ポッター、あなたは明日試合があるのよね。応援しているわ」

「……ご丁寧にどうも。君に何を願われたって、僕は自由に飛ぶよ」

 疑わしそうにシャルルを見て、ポッターは皮肉った。彼はスリザリン生に嫌味を言われるのにあまりにも慣れすぎていた。

 

「あなたの飛行技術は本物だと思ったわ。1年生でシーカーに選ばれるのは、重荷かもしれないけれど、あなたならきっと上手くいくと思う」

「何企んでるんだ?君はスリザリンだろ?お生憎だけどそんなおべっか使われたって、君の杜撰な企みには乗らないさ」

「大きな声を出さないで、ウィーズリー。心配しないで。わたしは他のスリザリン生と違って彼のことも、あなたのことも好きよ」

 ウィーズリーは口を噤んで、一瞬だけ耳を染めた。シャルルが同世代の男子に絶大な魅力を放つ見た目をしていることがかなり有効に働いたのは間違いない。ウィーズリーは、しかしすぐに厳しく眉を釣り上げたが。

「ふふ、それじゃあ頑張ってね」

 彼が口を開く前にシャルルは手を振った。茶髪のマグル生まれと目が合ったけれど、視線を外して、シャルルは去っていく。

 彼女は徹底的にマグル生まれが眼中になかった。

 目的を達したシャルルを、変な物を見るような目でポッターとウィーズリーは見送り、互いに顔を見合わせたが、結局彼女が何をしたかったのかは分からなかった。

 

 

 その日の夜は、スリザリンの熱狂がかなり高まっていた。クィディッチに熱心に夢中になる気持ちは分からなかったけれど、寮内の雰囲気に水を差すつもりはなかったので、パンジーに引っ張られるまま選手を応援する輪に加わった。

「信じてるわ、スリザリンに勝利をもたらしてくれるって!」

「ありがとう、ミセス・パンジー。綻ぶ花のように可憐な君に応援してもらえて、勇気がもらえるよ」

「きゃあっ、ボールったら!」

 ルシアン・ボールは女の子をあしらい、喜ばせる術は完璧に会得しているようで、パンジーは黄色い悲鳴をあげてにやにやした。

 シャルルは呆れた顔で彼女を横目で見ていた。

 パンジーはすでにエリアス・ロジエールとエイドリアン・ピュシーにも、全く同じことを言い、全く同じ反応を返していた。

 

 選手への激励や軽いハグを終えると、選手は男子寮に早々に引っ込んだ。キャプテンであるマーカス・フリントの部屋で作戦会議に勤しむようだ。スリザリンの雰囲気はとても落ち着いたものとは言えない。

 彼らが消えた談話室では、上級生の指示のもと応援グッズの最終仕上げが行われ始めた。

 この作業には全く関わっていなかったため、少し呆気に取られる。

 派手な音と共に蛇の紋様が打ち上げられるクラッカーだとか、煙がずっと宙に残っているもの。応援している声が何倍にも反響して、相手に緊迫感を与えるもの。最も凝っていたのは「スリザリンに栄光を!」と刺繍された横断幕で、ひとめで高級だとわかる繊細で、丈夫で、巨大な作りをしていた。

 7年生の女子生徒で最も力を持つ子女が、個人的な私財を投入して、特注で依頼したものらしい。

 スリザリンの熱の入れようにシャルルは少し引いた。

 

 次の日の朝、パンジーに叩き起されて、寝ぼけまなこでいると、顔になにやら塗りたくられているのを感じた。

「なんなの?」

 欠伸を噛み殺しながら尋ねる。

「動かないで」

 ぴしゃんとパンジーが言った。肩を竦める。話を聞かないモードのパンジーだ。多分、マルフォイか男の話か誰かの陰口か、あるいはクィディッチ関係だろう。

 

 頭の方はターニャ・レイジーがまとめ上げていた。揺れる度にパンジーが怒鳴る。「ずれちゃうじゃない!」その度にレイジーが「すみません」と謝る。以前は毎回ビクッと怯えていたけれど、もう慣れたのか、すまなそうな顔を作るだけになっていた。

 

「いったいなにをしてるの?」シャルルがもう一度尋ねた。

「今日の準備をしてるのよ」

「今日?」少し考える。「何かあったかしら?」

「信じられないわ!クィディッチの試合を忘れるなんて!」

 パンジーが耳元で叫ぶので、うるさそうに眉を顰めて、

「そうだったかもしれないわね」

 と、呟くように答えた。

 

 その声はあからさまに興味がなさそうだったが、パンジーは気づかなかったのが、満足そうに頷いた。

「完璧に素晴らしい出来だわ」

 鏡の中のシャルルは、両頬に凝ったペイントを施されていた。スリザリンの紋章や、箒やスニッチだった。

 自分の気品や知性というものが急速に失われてしまったように、シャルルには感じられた。率直に言うと、実に間抜けに映った。デザインは悪くなかったが、この行為自体があまりにもシャルルの性格と会わなかった。

 しかし、僅かにほほ笑みを浮かべ、シャルルは頷く。パンジーの機嫌を損ねるのは本意ではなかったし、そうなった彼女は面倒な面がある。

 

「それじゃあ次はわたしね」

 パンジーはメイクブラシとパレットをシャルルに差し出した。

「お願いね」

 それを受け取って、手元を見つめて、シャルルはぱちぱちとまばたきした。

「あなたに?わたしが?」

「当然でしょ。他に誰がいるのよ」

 シャルルは部屋の中にレイジーしかいないのを見て、ため息をついた。

 でも、シャルルにこんなメイクは出来ない。

 

 唇に手を当て、すこし唸っていると適切な呪文が脳裏に浮かんだ。シャルルは口角を上げ杖を取りだした。

「ジェミニオ」

 

 頬のメイクが見る間にパンジーの頬にも浮かび上がった。双子呪文。偽物を作り上げる呪文をシャルルはメイクのみに使ったのだ。

「ワーオ……」

 感嘆の声を上げて鏡に見入っているパンジーにシャルルはご満悦で頷いた。

 

 クィディッチの試合にシャルルはこれっぽっちも期待を抱いていなかったが、意外にも試合はかなり面白いものだった。

「そこよ!今!もう!」

「いけ!それ!叩き落とせ!クソっ、使えないな!」

「違うわよ!ワリントン……ああっ、そう、そう、行け!行きなさい!」

「いいぞボール!女の尻を追うだけじゃない!!」

「Foooo!!そうよミスター・ブレッチリー!今夜のヒーローはあんたよ!」

 隣のパンジーとマルフォイはかなり盛り上がっていて、少し引いてはいたが、自然とシャルルも歓声を上げるようになった。

 得点が決まるたびに馬鹿みたいな横断幕がビラビラ靡く。

 

 キャプテンのフリントにブラッジャーがぶつかり、落としたクァッフルをデリックがキープする。流れはスリザリンのままだ。

 と、そのときざわめきがかなりの轟音になっていき、ハリー・ポッターの様子がおかしいのに気付いた。

 箒が遥か上空で叩き落とそうとするかのように激しく縦横無尽に飛び回っていた。ポッターは何とか柄を掴んでぶら下がっているが、このままでは落ちてしまう。

 シャルルはハラハラしてポッターを見守った。客席の反応を見るに、このハプニングはかなり普通じゃないようだった。

「ははっ、なんだあれ。コントロールを失ったのか?情けないな」

「やだあ、無様ね、ドラコだったらあんな風にはぜったいならないでしょうね」

「当然さ。箒の信頼を得るなんて基本中の基本だよ。なぜポッターが選手になれたのかわからない」

「グリフィンドールの連中はみんな目が曇ってるから仕方ないわ」

 

 左右でけたけた笑う会話でピンと来て、シャルルは奪うようにパンジーの手から双眼鏡を取った。

「貸して!」

「きゃっ。どうしたのよ」

 1年生で100年振りにクィディッチチームに選抜される優秀な乗り手が、試合中いきなり箒のコントロールを失うはずがない。

 しかも、あんな攻撃的な暴走の仕方……。

 シャルルは誰かが箒に何らかの方法で細工をしているに違いないと思った。

 箒や杖のような、強力な素材と魔力を持ち、意思のある魔法具に干渉するのは並の呪文ではまず無理だ。強力な呪文か、あるいは闇の魔術──。

 

 観覧席に素早く視線を向けた。スリザリンの親がいる観覧席だ。選手の親は見に来る権限がある。しかし、呪文を行使している魔法使いは見つからない。

 相手への呪文、特に、curseの類は特徴が顕著に見える。口を動かしたり、瞬きすらせず相手を注視したり、杖を向け続けたりなどだ。

 他寮の部外者観覧席にもそれらしい人物は見当たらなかった。強力な物だから、大人がしたことだと思ったのに。

 シャルルは前かがみになってスリザリンの高学年たちを見たが、野次を飛ばし囃し立てる人たちばかりで、呪文を使っている人はいなさそうだ。一応レイブンクローも見たが、彼らも違う。

 いよいよポッターの箒は激しさを増している。

 

 会場を見回し、ふと訝しみながら教授席を見ると、小さな騒ぎが起きているのが目に入った。スネイプ教授のローブが燃えている。自然発火したとはとても思えないが……。

 教授席を一瞬で見てみても呪文を唱えた様子はない。

 

 前を向くと、ポッターの箒が落ち着きを取り戻していた。

「ありがとう、パンジー」

「いいけど、なんだったの?」

「べつに、ちょっとね」

 肩を竦めてみせるとそれ以上は踏み込んでこなかった。それよりもスニッチを追うポッターの方が重要になったらしい。

 

 試合は拮抗していた。

 テレンス・ヒッグスとハリー・ポッターが体をぶつけ合いながらかなりのスピードで、グラウンドを縦横無尽に飛び回り、金のスニッチらしき小さな点が微かに見えた。

 普段穏やかな態度を崩さないヒッグスが鬼気迫る表情でポッターを睨みつけ、しかしその必死さとはうらはらに、解説席の影に入った瞬間冷静な狡猾さでポッターの脇腹に肘を入れるのが見えた。

 地面にふたりは激突するように突き進んだ。スレスレまで飛んでいきヒッグスが狼狽えてハリーと地面を二度見し、強く唇を噛んで箒を急停止させた。勢いが殺しきれず箒は地面をかすり、ヒッグスが地面に投げ飛ばされ、ポッターを見上げながら頭を掻き毟って拳を叩きつけていた。

 ヒッグスが追えなくなった今、シーカーを止められるのはビーターだけだ。しかし、ボールとデリックは呆けたように、あるいは諦めたように動けずに眺めていた。

 

 そして……スリザリンが怒鳴り散らす中、ポッターはスニッチを掴み──正確には飲み込み、だが──勝利を決定づけた。

 

 落胆と罵倒の嵐の中シャルルは思った。

 ──騒ぎがあったから、箒は落ち着いた?

 

 



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9 帰省と秘密

 

 スリザリン生であるシャルルは始めは評判が良くなかったが、寮学年問わず純血の子息子女たちに愛想良く挨拶を投げかけていれば、自然と対応が柔らかくなり始めた。

 シャルルに親しみを向けられてそれを完全に無下にできる人はそう多くない。

 クリスマスの頃にはすっかり顔馴染みが増えていた。

 

「こんにちは、パチル」

「あらスチュアート。いい天気ね」

「なんだかご機嫌みたい」

「ええ、そりゃあまあ……あなたの前では言いづらいけど……」

「ああ」シャルルは得心がいった。

「この間の試合はかなり白熱したわね」

 パンジーやダフネがいたらここまでストレートな話は出来なかった。パチルは安堵して話を進めた。

「そうよね、ハリーはかなりすごいシーカーだったわ!」

「その上、スニッチを飲み込むという、人類初の偉業を成し遂げたわ」

 シャルルが少し踏み込んだからかいをすると、パチルは目をぱちぱちっとしてから吹き出した。

 隣で目を剥いていたラベンダー・ブラウンがやっと正気に戻って、パーバティ・パチルに噛み付く。

 

「パ、パーバティ?何考えてるの?この子はスリザリンよ」

「そうね。でも彼女かなり話がわかるタイプよ」

「初めまして、ミス・ブラウン。シャルル・スチュアートよ」

 手を差し出すと、パチルとシャルルと手を5往復くらいしてからしぶしぶ手を握った。

「あなたと話してみたいと思ってた。あなたはいつもオシャレでチャーミングだもの」

 彼女はかなり分かりやすく気分の良い顔をした。

「あなたに言われるって光栄ね」

「あなたが今してるカチューシャ、マリア・クロスのものだわ。あの店わたしもすきよ」

 ブラウンはすぐさま食いついて、3人は楽しく会話することが出来た。その様子をかなりの生徒が見ていた。

 スリザリンとグリフィンドールが親しく過ごせるのはあまりにも稀で、シャルルはそういう機会がとても多い。シャルルが偏見に満ちた人となりでないということは、ゆっくりと根付きつつあった。

 

 

 図書室で3年生の呪文学と魔法薬学について関連する有用な本を探していると、隅っこからかなり大きな囁き声が聞こえた。シャルルが近付くのも気づかず、夢中で顔を付き合わせている。

 ハリー・ポッターと愉快な仲間たちだ。ここ最近彼らはかなりの頻度でいる。マグル生まれの彼女ならともかく、ウィーズリーがこんなにも図書館に通うのは、ザビニが女の子と過ごさない時間よりも珍しい。

「……どこなの……なにかを……」

「ハグリッドが……あの犬……狙ってる……」

「……ニコラス・フラメル……」

 ニコラス・フラメル?聞き覚えのある名前だった。

 好奇心にかられてシャルルは話しかけることにした。

「だれを探してるの?」

 3人は飛び上がって劇的な反応を見せた。思わず笑ってしまうと、ロナルド・ウィーズリーは不機嫌に睨んでくる。

「お前に関係ないだろ。あっち行ってろよ」

「だって彼女ならともかく、あなたを図書室で見るのってとっても珍しいから。でしょう?」

「……えっ?あ、そ、そうね……今までになかったことだわ」

「ハーマイオニー!」

 今まであからさまに存在を消されていたグレンジャーは、突然話しかけられて戸惑った。シャルルは非常に気まぐれで猫のようだった。

「ニコラス・フラメルって聞こえたわ。彼を探してるの?」

 3人は大きく肩を揺らして視線を交わすと恐る恐る尋ねた。

「もしかして知ってるの?彼のこと」

「いくら探しても見つからないんだよ」

「君が知ってたら助かるんだけど」

 

 ニコラス・フラメルは錬金術学界の権威だ。

 しかも、ダンブルドアと親しいことで有名。

 

 シャルルは首を振った。情報の有用さについて彼女は天性の感覚を得ていた。

「ごめんなさい、聞き覚えはあるんだけど……」

「まあ期待はしてなかったさ。それでは僕たちは作業がありますので、お帰り願えますかね?」

 ウィーズリーはかなり辛辣だ。シャルルは肩を竦めた。彼は純血だからと自分を宥める。

「わたしも調べてみるわ」友好的に笑ってさりげなく問いかける。

「どうしてニコラス・フラメルのことを調べているの?」

 3人は揃って口を噤んだ。シャルルは苦笑いを零さざるを得ない。彼らはスリザリンにはとことん向いていなさそうだ。

 

「邪魔してごめんなさい。そうだ、ポッター」

「……なんだい」

「クィディッチ見てたわ。あなたのフライトは文句なしに素晴らしかった。良い試合を見せてくれてありがとう」

 シャルルは彼の手を取ってぎゅっと握った。ポッターは眉を下げた。

「……ありがとう。君に褒められると思わなかったよ」

 照れているのか、戸惑っているのか、罪悪感を刺激されてるのか、その全てにも見える。

「どうして?わたしはあなたにけっこう好意的よ」

「そうみたいだね」

「騙されるなよ、ハリー!スリザリンの奴らって腹の底では何考えてるか分かんないんだから!」

 かなりムッとしたが、シャルルは困ったように首を傾げるに留めておいた。ウィーズリーは純血で、グリフィンドールだ。スリザリンのシャルルにあたりが厳しいのは仕方ないことだ。

 

「それでね……その……あなたに伝えるかは迷ったんだけど」

 瞳を下げてシャルルは思案した。睫毛が影を落とす。でも、必要な忠告だと思った。

 言いづらそうに口を開く。

「ポッター程の才能の持ち主が箒に振り回されるのは有り得ないことでしょう?でも……試合では振り回された。箒があんなに攻撃的になるのはあんまりないことなの」

 ポッターが顔を強ばらせた。「何を言いたいの?」

「あなたの実力を疑ったんじゃないの。むしろ尊敬してるわ。だからこそ忠告なんだけど……。箒は魔力を帯びた意思のある魔法具で……干渉するのはかなり強力な呪文じゃないと難しいわ」

 一旦区切り、顔を見つめる。彼は目をまんまるくさせていた。

「観覧席の誰も魔法は使ってなかった。スリザリンやレイブンクローの上級生も。だからその……部外者じゃなく校内で、あなたか、クィディッチか、グリフィンドールを嫌いな強い魔法使いがいるのかも。だから気を付けてね」

 言われていい気分になることでは無いけど、仕方ない。ポッターがぽかんとしたまま頷くのを見て、シャルルは満足してあとにした。言いたいことは伝えられた。

 

 

「クリスマス休暇はなにをするの?」

 暖炉の前でいつものメンバーが集まっていた。マルフォイたちはお喋りが好きで、シャルルはノットの隣で彼と一緒に図鑑を覗き込んでいた。

 ダフネの言葉にパンジーが答える。

「いつもはパーティーやらで終わっちゃうわ。親戚が多すぎるもの」

「うちでも開くよ。それも、今年は特に盛大にね。僕の正式な顔見せを兼ねてる。君たちも来るだろ?」

 パンジーは勢いよく、ノットは興味無さそうに、クラッブとゴイルはのろのろと、ダフネは仕方なく頷いた。マルフォイは眉をひそめた。

「スチュアート、君は?」

「さあ。公式のパーティーに出たことないから」

 そこで面々はシャルルが謎を秘めた少女であることを思い出した。パンジーが身を乗り出す。

「ねえ、あなたのご両親はどうしてパーティーを開かないの?かなりの名家じゃない」

「ホストが苦手なのかしら……わからないわ。でも弟のメロウは色々なパーティーに出てる」

「ああ、うちに来たことあるな。茶髪で小さい……」

「そう。わたしだけよ」

 自分で言って、胸の中にもやもやした疑問が生まれた。同世代と関わるようになって、スチュアートがかなり変なことをしているのだと分かるようになった。

 変な噂を流されるのも当然だ。

 シャルルはどう考えても、両親に存在を隠されていた……。

「もう君はスリザリンの一員なんだ。パーティーに出た方がいい。後で招待状を送らせる」

「そうね、ありがとうマルフォイ。お父様に言ってみる。社交界のことも学ばなくっちゃ」

 話題が流れていく中、ノットだけが不可解そうに眉を寄せていたが、それは誰にも気づかれなかった。

 

 

 荷物をまとめてホグワーツを出ようとする時、マルフォイは獲物を見つけて、にやにやしながら近づいて行った。クラッブとゴイルもにたにたして、パンジーも可笑しそうについて行く。

「シャルルも、ほら!」

 手を取られたシャルルはうんざりしながらダフネの手を取った。嫌そうに睨まれたが、道連れだ。ダフネが捕まえるよりも早くノットは身を翻していた。彼は逃げるのがうまい。

 マルフォイが向かう先には大広間で食事をとるポッターとウィーズリーがいた。

「やあ、家無しポッター。親も家もない哀れなポッター!ウィーズリーには帰る家があったと思ったけどね……おや失礼、小屋、が正しかったかな?君の小屋はとうとう崩れてしまって帰れないのかい?」

 パンジーが大きな笑い声を立てて、クラッブとゴイルが追従する。ダフネは拗ねた顔で腕を組んでいた。シャルルはため息をついた。

 マルフォイはポッターたちをからかうのが大好きでたまらない。

「僕はホグワーツに残るのが哀れとは思わない。君はパパとママによちよちされるのを楽しんでたらいいさ」

「君んちの趣味の悪い家より、ホグワーツのほうがよっぽど上等だよ」

「なんですって!」パンジーが怒鳴る。

「マルフォイ家はとても気品ある豪奢な城よ。あんたは犬小屋に住んでるから想像出来ないでしょうけどね!」

 マルフォイは不快そうな顔をしていたが、パンジーの擁護にかなり機嫌を良くして、「やるじゃないか」と褒めた。至近距離で笑いかけられたパンジーは一瞬でうっとりして静かになった。

 

「もういいじゃない、汽車に遅れちゃうわ」

 まだ口を開きそうだったマルフォイをシャルルが遮る。

「ノットが席をとってるはずよ。このひとたちの顔を見てるより汽車で過ごしたほうがよっぽど有意義でしょう?」

 ダフネは柔らかい口調だった。納得したようにマルフォイたちは頷いた。シャルルは呻きたくなった。

「それじゃ、せいぜい良いクリスマスを、ひとりぼっちのハリー・ポッター!」

 嫌な笑顔で言い捨ててマルフォイが去っていく。パンジーと手をさりげなく離し、シャルルは言い訳がましく早口で囁いた。

「本当にごめんなさいね。あなたたちに構ってもらいたくてしょうがない人達なの」

 パンジーの声が背中で響く。「何やってるのよ?」

「今行くから!……それじゃ、良いクリスマスを。プレゼント送るわ」

 去っていくスリザリン生の背中にウィーズリーが吐き捨てる。

「奴ら本当最悪だよ。スチュアートはいい顔しいなだけなんだ」

「おかげさまでいい休暇になりそうだよ」

 ポッターはチキンを頬張った。

 

*

 

 アナスタシアは汽車の音が聞こえた瞬間から涙ぐみ始めていた。轟音を立てて止まり、生徒がなだれ、ホームは生徒でいっぱいになった。焦れったく思いながらアナスタシアは緑のローブを探した。

「お母様!」

 オルゴールのように聞く者の心を癒す愛らしい声をアナスタシアは聞き逃さなかった。蒼い宝石の瞳を零れ落ちそうにさせて、愛おしい子が駆け寄ってくる。

「ああ……シャルル……」

 胸に飛び込んできた天使を押し潰すくらい強い力でアナスタシアは抱きしめた。4ヶ月ぶりの我が子。運命の再会かのような仰々しさに愛妻家で親馬鹿のヨシュアも苦笑いだ。

 髪を撫で愛おしむ感覚に包まれていたシャルルに声が降ってくる。

「感動の瞬間はもう終わったかしら?」

 振り返ると目元に面白がる光を浮かべたダフネがシャルルのキャリーケースを持って立っていた。

「全部投げ捨てて走っていくんだから……」

 呆れた口調だったが、くすくす笑っていた。

「ごめんなさいダフネ。ありがとう。つい、ひさしぶりで」

「みんな帰っちゃった。わたしももう行くわ」

「挨拶できなかったわ。残念」

 ダフネは「ばかね」と苦笑いして、アナスタシアとヨシュアに向き合って、小さく膝を曲げる。

「お久しぶりです」

「大きくなったわね」

 しみじみとアナスタシアが呟く。ヨシュアがアナスタシアの腰を寄せ、シャルルの肩に手を置いた。

「休暇中はぜひ遊びにおいで。ご両親も一緒にね」

「ありがとうございます」

 ヨシュアが頷くと、パシュッ!と音が響き、スチュアート家はプラットホームからいなくなった。

 

 

 シャルルは我が家の大広間に辿り着いた瞬間、ちいさな天使に駆け寄った。

「ただいま、メロウ!いい子にしていた?」

「あたりまえだよ、お姉様。僕はちゃんといい子だった。きちんとお留守番していたもの」

「とっても偉いわ。お姉様はうれしく思います」

 

 家族たちはホグワーツの話をよく聞きたがった。シャルルは手紙はよく送るけれど、彼女について把握するほどには、シャルル自身のことがあまり書かれていない。

 彼女の口からは様々な人間の名前が飛び出してきた。

 自分たちの娘が寮や学年の垣根を飛び越えて有効な純血家系との繋がりを構築できていることは、かなり誇らしいことだった。

「スネイプ教授はとても実力のある方で……」

「スネイプ……?」

 思わず呟いたアナスタシアにシャルルが首を傾げる。

「ああ、ごめんなさい、なんだか彼が教授をしてるって新鮮で」

 綻ぶように笑いを零す彼女に声を大きくする。

「お母様お知り合いなの?」

「お父様もよ。彼は良くしてくれる先輩だった。成績もいつも素晴らしくて、特に魔法薬学と闇の魔術に関する防衛術に優れていたわ」

 懐かしむような声音。

「彼は1人を好んでいたし、大抵の人間には敵対的だったから教授をしているとは驚いたけどね」

 からかいを含んでヨシュアが笑った。「僕らの親友が彼のお気に入りで──」そこで彼は口を噤んだ。

 すぐに笑いながら話し続けた。ほんの少しの寂しさが滲んでいる気がした。

 アナスタシアやヨシュアはたまに仲の良かった親友の話をぽろっと漏らすことがあったが、それは常に過去形だった。

 シャルルはそれが何を意味するか何となく察していた。

 

「親友は本当に素晴らしかったんだ。セブルスは僕らも一緒に目をかけてくれた。セブルスはミスター・マルフォイにも気に入られるほどの実力者で、恐れられてもいた」

 聞き覚えのある姓。ドラコ・マルフォイの父親?セブルス・スネイプがドラコ・マルフォイを可愛がるのは、その父親に世話になったからなのかもしれない。

 教授に両親の話を聞いてみようとシャルルは思った。彼はシャルルにその話をしてくれたことは何も無いけれど。

 

 話がひと段落したところで、シャルルはマルフォイに関するある話を切り出してみることにした。

「マルフォイ家はこの冬ご子息の正式なご挨拶の場を設けるみたいなの。そのパーティーへの招待状をいただいたのだけれど、行ってもいいでしょう、お父様……?」

 不意打ちの言葉に、にこやかだったヨシュアは凍りついた。

 甘えるような上目遣いで殺人的に愛らしいおねだりをしてくるシャルルの視線から逃れ、ヨシュアは唸り声を噛み殺した。アナスタシアが恐れを顔にうかべて見つめてくる。

 強く目をつぶった。

 ホグワーツに入った時点で逃げることはもう出来なくなっている。しかし、ルシウス・マルフォイの懐へ入り込むにはまだ様々な面で準備が充分とは言えない。

「夏休みなら許そう、シャルル。君ももう大人だ。でもこの冬は駄目だ」

「……どうして?」

 とてもかなしい顔でシャルルは瞳を伏せた。そういう顔をされるとなんでも許してしまいたくなるのは彼女の秀でた特権だった。ヨシュアは自分の心に鞭を打って、真顔で固い声を出した。

「聞き分けてくれ。その代わり、他の家のパーティーへ顔を出そう。魔法省の知人にいくつか招待されている」

「お姉様とパーティーへ行けるの?」

 メロウが瞳をきらきらさせた。嬉しそうな弟にシャルルは微かに微笑みを浮かべて小さく頷いた。

 

「ヨシュア……」

 その晩、アナスタシアは酷く不安げな様子だった。しかし反対はしなかった。彼女も分かっているのだ。

 ルシウス・マルフォイは狡猾で冷徹な男であり、デスイーターとして有名だった。そして、闇の帝王が倒れた時、誰よりも素早く安全に表の世界に戻ってきた。

 

 

 ベッドの中でシャルルは暗闇をじっと睨んでいた。

 今日の会話によって少女はひとつの確信を得ていた。シャルルはやはり意図的に隠されていた……そして恐らく……マルフォイ家から。あるいは、何らかの共通を持つ純血家から。

 グリーングラスやパーキンソンとマルフォイの違いが何なのかはわからない。

 両親は自分を愛している。それは確信を持っている。鍵はアナスタシアの酷くなにかに怯える態度や、恐らく亡くなった彼らの親友、そしてスネイプ教授。

 家族からの愛は疑わずとも、シャルルを置き去りにして誰かの思惑通りに動かされるのは、かなり不快だった。

 秘密を必ず手の中に収めることをシャルルは決意していた。

 

「本当に?」

 

 ハッと思い出した。ハロウィーンの日のクィレル・クィレルの強い瞳と態度がフラッシュバックした。彼はシャルルの両親について知りたがっていた──。

 

 

*

 

 

 非常に珍しく目をパチッと醒ましたシャルルは、急いで顔を洗い、髪をつやつやにして、前の夜に準備しておいたワンピースを丁寧かつ迅速に身に着けた。

 マリア・クロスの2年前のロングワンピースはシャルルがいくらか成長しても、膝丈サイズで違和感なく着ることが出来ていた。肩から胸、裾のところに繊細なフリルと刺繍を施され、シフォンを重ねられた深緑と白のワンピースはかなりお気に入りだった。

 楽しみなことがある日は必ずこれを着る。

 そして、優雅さを失わないように気をつけながら螺旋階段を駆け下りた。

 ホールにはもうたくさんのプレゼントの山が出来ていた。梟が1羽また小包を山の上に落としていった。

 

 プレゼントのそばにはアナスタシアとヨシュアがいた。

「メリークリスマス」

「さあおいで、ちいさなレディ。僕らからプレゼントだよ」

 ふたりはシャルルの両頬にキスを落として抱きしめ、背中から箱を取りだした。

 去年は呪文集と香水だった。今年の箱はそれよりずっと小さい。

「ありがとう、開けてもいい?」

 銀色のリボンを解くと、中には深緑色のシルクのハンカチーフがあった。銀色の蛇が泳いでいる。縁にはダイアモンドも縫い込まれている。

 うっとりそれを取り出すと何か固い感触があった。

 水晶のネックレスだ。中に透明にきらめく何かが閉じ込められている。光に当たって銀色にも、水色にも見える。

「これは……?」

「御守りだよ。強力な盾の呪文が掛かってる。シャルル、君を守ってくれるだろう」

「中にあるのは?」

「答えだよ。必要な時に砕ける。あるいは適切な時が来たら」

 ヨシュアは大きな手でシャルルの頭を撫でた。彼が回りくどい言い方をするのはかなり珍しかった。

 なにか大切なものだと理解したシャルルは、彼らが何も言う気は無いのも察していて、頷くとネックレスを首から提げた。盾の呪文はかなり高度な呪文だった。シャルルもまだ概念の理解にすら到達出来ていない。

 今はウィゼンガモットで知的に振る舞うヨシュアだけれど、学生時代はかなり成績が良く、卒業後は魔法法執行部に進む道も考えていたという彼のことだから、本当に強力な呪文が掛けられているに違いない。

「ありがとう、お父様、お母様」

 心からの笑顔を浮かべてヨシュアとアナスタシアの頬にキスをした。

 ホグワーツに入ってから、なにかが動き出している気がしてならない。

 

 メロウが眠い目を擦りながら起き出してきた。シャルルを見ると飛び上がってプレゼントのそばに走ってくる。

「お姉様からのプレゼントは?」

「メリークリスマス、ちいさな子犬ちゃん」

 メロウの鼻先を擽ってシャルルは金色がかった箱を指さした。飛び付いて箱を開けていく。

「わあ!新しいグローブ!それに……魔法薬キットだ!」

 

「まあっ、シャルル!」

 アナスタシアが悲鳴を上げた。「メロウにはまだ早いでしょう?……しかもファニー・フィッティング・フェッセンデンのキットじゃない!」

 珍しく大きな声で狼狽える母親にシャルルはちょっと申し訳ない気分になった。フェッセンデン氏が作る作品はどれも「普通」からは逸脱したユニークなものばかりだ。

「ごめんなさい、でもメロウはかなり賢いわ。わたしがこのくらいの頃はもうホグワーツの勉強をしていたし……」

 アナスタシアはどことなくぐったりして頭を振った。代わりにヨシュアが答える。

「シャルルは昔から色々知りたがったけど、この子はまだ箒で飛び回るのが楽しい時期なんだよ。手習いだってそんなに乗り気じゃない」

「違うもん」

 メロウが唇をとがらせた。

「やりたい時にやりたいことが出来ないのが嫌なだけ。先生は僕に質問の時間もくださらないし、楽しくないよ」

 それを聞いて得意気な顔で父親を見つめると、ヨシュアも天井を見て頭を振った。

「わかった、わかった。でもメロウ、その魔法キットを使う前に基礎的な知識を覚えるんだ。僕が教えるから……」

 シャルルとメロウは顔を見合わせて勝利にほくそ笑んだ。

 

 

 パンジー・パーキンソンからのプレゼントはマリア・クロスの新作の髪飾りだった。マーメイドモチーフの水色のサテンリボンはシャルルの深い黒髪によく映えた。

 ダフネ・グリーングラスからはその日の気分によって色を変えるインクと、花が咲くレターセット。早速手紙を書くと、マーガレットの花びらが散って、わくわくしたピンク色のインクになった。

 マルフォイからはティーセット、ノットからは音声自動筆記羽根ペン、ザビニからもあった。『俺の心を捉えて離さない、ミス・サファイアへ』キザなメッセージカードに枯れない花束。ヨシュアがプレゼントを睨みつけたのでシャルルは慌てて次の人に移った。レイジーからもある。ミューズキャンディの詰め合わせだ。食べると優雅な演奏が流れるからお気に入りだと言ったのを覚えていたらしい。

 スリザリン生や他寮の生徒からもメッセージカードやプレゼントが届いていた。でも、残念ながら英雄様からはなかった。シャルルはメッセージカードと、保護魔法の掛けられているメガネ拭きを贈っていた。

 

 差出人の書いていない青の封筒の送り主は誰からか分かりきっていた。メッセージカードと招待状。

「叔母様からよ。明後日夕食にいらっしゃいって」

 ため息をついてアナが肩を竦めた。休暇くらい放って置いて欲しいと言わんばかりだ。シャルルもあの家に行くのは少し気が重い。

 母親の生家であるダスティン家は血は申し分ないけれど、今の当主の奥方──つまりアナスタシアの姉──は癖の強い人だ。その娘とシャルルは仲が良いと言うには無理がありすぎる関係性だった。

 

*

 

 ミッドナイトブルーの壁、白の亀裂が大胆に走る漆黒の大理石の床には、ネイビーのベロア絨毯が敷かれている。セルリアンの色が入った磨りガラスの窓枠に、セピア色にくすんだ青銅の品の良いテーブルにチェア。柔らかなブルーのクッションがシャルルのちいさな身体を包み込む。

 天井から吊り下げられている豪奢なシャンデリアは、優雅に、かつ威圧的に、リビングに静謐をもたらしている。

 

「いま食事を運ばせるわ。寛いでちょうだいね」

 ディアナ・ダスティンがにこやかに言った。彼女はアナスタシアの姉で、親切そうな笑顔を浮かべているが、どことなく胡散臭さの感じる顔つきをしていた。

 迷子になったように、隣に座っていたメロウがそっと体を寄せた。シャルルは彼の背を撫でた。

「2階にリディアがいるのよ。シャルル、呼んできてもらえる?」

 まるで女王様のように言われ、小さく頷く。「メロウ、あなたはお母様を呼んできて」シャルルが優しく指示を出すと、金髪の子犬は玩具を前にして待ちきれない風に顔を明るくした。固い雰囲気にメロウは戸惑いきっていたから。アナスタシアはいつも別館に篭って祖父母たちと話している。家を出てしばらく経っているのに甘やかされているのだ。

 冷たい視線が背を追ってきている気がする。

 ディアナ・ダスティンは、アナスタシアや、シャルルのことをどう考えても嫌いだった。 フン、と鼻を鳴らした声が聞こえた。

 ダスティン家は良い屋敷だけれども、あの女性のせいでかなり威圧的な空間になっているのは間違いない。そして、今から向かうリディア・ダスティンのこともシャルルはあまり得意でなかった。彼女はシャルルのいとこだった。

 

 銀の取っ手を軽く鳴らすと、不機嫌そうな彼女がシャルルを睨みつけた。まるでなにか大事なものでも取られたかのように大げさに。

「何?あなたの顔見たくない」

 口調は冷たくてまったく友好的でない。彼女はシャルルが穏やかな微笑みを浮かべることさえ気に食わないのだ。理由は知らないけれど、母親を見れば分かる。ディアナはアナスタシアになんらかのコンプレックスを感じている。

「叔母様が食事にしましょうって」

 扉から部屋の中が見えた。ネイビーやターコイズで統一された落ち着きのある装い、銀と水色の家具。かなりシャルルとセンスが似通っていて好ましい。

 テーブルの上には書物がいくつも積み重なっていて、茶色と白の鷲の羽根ペンがインクに刺さっていた。

「勉強していたの?」

「あなたに関係ないでしょ」

 母親そっくりにリディアは鼻を鳴らした。シャルルは微笑みを深めた。

 リディアと並んで食堂へ歩き出すと彼女は神経質にシャルルを気にして落ち着かない様子だった。

 

 食卓にディアナ、リディア、祖母と祖父、アナスタシア、ヨシュア、シャルル、メロウが揃った。

 実に気が重い時間だった。

 祖父母はアナスタシアとシャルルとメロウにあからさまに好意的で、リディアが哀れになるくらいだった。ディアナは祖父母の関心を奪おうと高慢に喋り続け、アナスタシアはニコニコそれを聞いていた。

 彼女が口を開くのを遮ると、祖父母はディアナを嗜めて、子供時代もそうして過ごしてきたであろうことは想像にかたくなかった。

 

「ホグワーツはどう?スリザリンに入ったんでしょう?私の出身寮でしたのよ」

 祖母は機嫌よく問いかけた。

「居心地がよくて、みんな気品があるわ。わたしずっと入りたかったの」さらに機嫌が良くなって、祖母はワインをスイスイ飲んでいる。

「勉強は?アナの娘だから心配はしていないけれど」

「どうかしら、学年首席は難しいかも。優秀な子が多いの。でも授業自体は易しすぎて、今3年生の内容を自習してるわ」

「あら、本当に?」

 祖母は声を僅かに上ずらせた。

「なんて賢いの!さすが……」そこで一瞬不自然に途切れ、ヨシュアをチラッと見た。

「……さすがダスティンの血を引く子ね」

「レイブンクローの末裔として鼻が高いよ」

「シャルルは本当に優秀で、誇り高い子なの。自慢の娘よ」

 祖父母からの賞賛にアナスタシアが無邪気に喜色を浮かべた。リディアは唇を引き結んで目の前の皿を懇々と見つめていた。ディアナは眉が釣り挙がってピクピクするのを必死で抑えているように見えた。

 

 当たりがきついふたりへのちょっとした意趣返しだったが、祖父母やアナスタシアには悪気がない。それは相当堪えるに違いなかった。シャルルはリディアに同情して口を開いた。

「さっき部屋でリディアは勉強してたのよ。偉いと思うわ。きっと彼女はレイブンクローになるでしょうね」

 彼女はすぐさまシャルルを睨んだが、

「リディアも頑張り屋さんで偉いなあ」と祖父に褒められると、困り眉になった。肩を固くして照れている。逆にディアナは顎をつんと上げて得意げに頷いている。

 シャルルはリディアのことを好きになれそうな気がした。彼女も母親と同じ反応をするかと思ったのに。リディアは明らかに褒められ慣れていない。

 

 夕食を終えて別れの挨拶をする時、握手をしながらリディアが体を寄せてきた。

「感謝なんてしないから。余計なことしないで」

 彼女はハリネズミみたいだ。

 来年のホグワーツがきちんと楽しめるか少し不安になった。

 

 



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10 支配者の覚悟

 数週間ぶりにあった友人たちとハグを交わして、上品な垂れ幕がさがっている天蓋のベッドに横になると、帰ってきた感覚がした。まだ数ヶ月しかいないのに、スリザリンは第2の家のようになっていた。

 ベッドの天井は今は無機質な深緑だったが、クリスマスプレゼントに貰ったプラネタリウムを投影すると、夜空が溶けだした。

「シャルル?休暇はどうだった?」

 水のようにさらさら靡く銀色の天幕を開けるとネグリジェに着替えたパンジーが飛び込んできて、ふたりは一緒にベッドに寝転んだ。

「クリスマスは家族で過ごしたの。親戚にも挨拶をして、いくつかパーティーに出たわ」

「あなたが?」目を見開いたあと残念そうに零した。

「マルフォイ家のパーティーに来たら良かったのに。本当に素晴らしかったのよ」

「うん、行きたかった」

 視線で続きを促すと、パンジーは夢見心地でパーティーの様子をうっとり語った。

「ドラコのお屋敷はとっても壮大で……まさにお城だったわ!格式高くて、何もかもが圧倒的!

 見回す限り趣味の良い家具で飾られていて、階段の手すりですら見事な彫刻が掘られてた。かなりエレガントでゴージャスなのよ。

 それで……。それで、夜はパーティーがあったわ」

 

 頬を桃色にして大切な秘密を教えるように、パンジーは囁く。耳に吐息がかかり、花の匂いが漂った。薔薇の高貴で甘やかな香り。

「あのね……わたしドラコにエスコートしてもらったのよ」

 ショコラみたいな瞳がうるうるしていて、シャルルが見つめるとはにかんで、体をもじもじとくねらせた。恋をしている彼女はかなり可愛かった。

「マルフォイもあなたが隣にいてかなりいい気分だったに違いないわ」

「本当?本当にそう思う?」

「ええ、確信を持って。だって、マルフォイの話をしてるパンジーって目を離せないくらい愛らしいのよ」

「そうかしら……そうだったらいいな……」

 急にパンジーに、メロウへ向けるような気持ちが溢れてきた。つまり愛しくて愛しくて仕方ないってこと。シャルルが思わずパンジーの鼻の頭にキスを落とすと、彼女は大きくのけぞった。その顔は真っ赤で、嫌がっていないことが分かる。

 シャルルは声を上げて笑った。

 ひさしぶりに過ごす友人との時間はとっても素敵なものになった。

 

 

 

 クリスマスが明けたらまたスリザリン寮はクィディッチに熱くなり始めた。

 以前より俄然シャルルはこの競技に前向きな感想を抱いていた。実際の試合を見て、彼らがかなり高度な次元でクィディッチに向き合っていることをひしひしと理解していた。

 

 グリフィンドールに敗北を喫したあとの談話室は嵐のように荒れ狂った。ハリー・ポッターは箒の性能で勝った、ふざけたスニッチの掴み方はスリザリンもクィディッチも冒涜していると、グリフィンドールへの罵倒を口々に口にし、スリザリンの健闘を称えた。

 しかしヒッグスは誰よりも分かっていた。才能でも、度胸でも、執念でも負けたのだと。彼の唇は血が滲んでいた。首の骨が折れてでもスニッチを追うべきだった──。

 

 クィディッチ杯でも寮対抗杯でも優勝争いの道を掴んでいたスリザリンは次の試合は重要な局面だった。この試合でグリフィンドールがハッフルパフに勝利してしまうと、グリフィンドールに寮杯での首位を許してしまう。

「ハッフルパフは奴らに勝てそうなのか?」

「……厳しいだろうな。ここ数年は最悪といってもいい」

「無能どもに期待する方が馬鹿だろ」

 グラハム・モンタギューが大きな図体を仰け反らせて、眉間と小鼻をしわくちゃにした。

「まあ、去年あたりからは多少マシになってきただろ?」

「あの、背の高い2年坊主……」

「ああ、ディゴリーね」

 マイルズ・ブレッチリーが舌を出して、嫌な顔をする。

「俺あいつキライ。スカしたイイコチャンだぜ」

「嫌いだろうさ、お前は特に」

 ブレッチリーと何回かデートをしていた女の子がディゴリーを好きになり、逆恨みをしていることを知っていたワリントンが陰気な目付きでにやにや笑った。瞬間的に沸騰したブレッチリーと煽るようなワリントンを、最年長であるロジエールが呆れきって止める。

 彼らは押さえられながらも睨み合っていた。ふたりは同級生だったが、誰にでも馴れ馴れしく楽観的なブレッチリーと、孤独と静けさを好むじめったらしいワリントンは馬が合わない。

 

 そこへ、明るい顔で歯を見せるプリントが駆け込んできて、弾んだ声で言った。

「次の試合の審判が決まった!誰だと思う?」

 一同は顔を見合わせた。審判?

「なんと我らが寮監、スネイプ教授だ!これでハッフルパフの有利は確定だな!」

 フリントの大声は談話室に響き渡り、そこかしこで喜びの声が上がった。

 スネイプは常にスリザリンへ最良を与える存在だった。

 

 

 水曜は夜中に授業がある。シャワーを浴びたあと生徒たちは制服か私服を着て、上からローブやマントを羽織る。外出許可証を首から下げて大広間に集まると、もうハッフルパフの1年生達が整列して待っていた。

 天文学はハッフルパフと合同の授業だった。しかしスリザリンもハッフルパフも綺麗に分かれていて、会話もない。欠けた人がいないのを確認して、マルフォイが意気揚々と先導する。

 こういう時誰よりも率先して前に出るのはマルフォイだった。自己顕示欲が強く自負と自信を持っているが、同時に勤勉。シャルルは前に出るより他人を使う方が好きだった。

 

 マルフォイは機嫌よく階段を昇っていく。いつもなら絶対に長い上にあちらこちら動く階段にブツブツ言っているのに。クィディッチの審判にご満悦なのは間違いがなかった。

 代わりに隣でパンジーが不機嫌に唸っている。

 

 天文学の授業は天文台のある塔で行われる。

 長い長い長い螺旋階段を昇り踊り場に出ると、視界が開け、濃紺に散らばった星々たちに迎えられた。今日は雲がなく、月が鈍くくすんでいて、輝きが褪せない。冬の空はチロチロと星がまたたきをして、美しい。

 

 いつもはさらに上の教室まで昇らなくてはならないが、今日は踊り場で星の観測だった。

 パンジーが、石壁の透かし細工から顔を出して塔の向こうを眺めるドラコの隣に滑るように並び、そっと腕を巻き付けた。

 ドラコはちらりと横目で見たがそのまま放って置いたので、嬉しそうにますますくっついている。

「綺麗ね、ドラコ」「ああ」「まるで世界を手にしたみたい。あなたならそうするって、もちろんわたし、知ってるのよ」「当然だ」「中庭の花壇よりスプラウトの植物園より、あなたの家の庭がいっとう素敵だったわ」

 甘ったるい声音で、ドラコの肩にしなだれかかってご機嫌なパンジーを適当にあしらいながらも、ドラコも機嫌がよく、たまに微笑みを落とした。

 

 後ろの方では石造りのベンチに座りながら、ブレーズ・ザビニがダフネの髪の毛を掬いとっていた。

「君の髪の毛って、細くてキラキラして、月の妖精みたいだね。今日の夜にふさわしい麗しさだ」

「ありがとう」

 ダフネは穏やかに笑って、ナチュラルに彼の手から自分の髪の毛をはらった。そして、少しだけ体を離した。柔らかな拒絶にザビニが肩を竦めたが、ふたりはそのまま談笑しあっていた。

 

「本日の授業は、壮大な宇宙と星々のさざめきを感じる学びになります……」

 オーロラ・シニストラ教授が入ってきて、ゆったりとした口調で話すと、生徒たちは自然と目を向け静かになった。彼女は濃紺のローブに、薄紫のストールを巻いて、銀色の片眼鏡をした老婆だ。

「星は常に語りかけています……星座の動きを観測するだけでなく、神秘、星が秘める特別な力……星1つ1つを全身で明確に感じ取り、同時に大きな概念や真理というものを感じましょう……。星の語る概念を染み渡らせて自分を洗練させることを、私は『星を浴びる』と呼んでいますの…………」

 

 スリザリン生は完全にバカにし切った顔をしているか、サボれることに嬉しそうにしていた。ハッフルパフ生も似たような顔をしていた。彼らは勤勉であると同時に怠惰である。

 シニストラは朗々と言い終わると、杖を振る。真っ白な綿のようなクッションが飛び出して、そのまま彼女は手のひらを組んで仰向けになり、一切動かなくなった。

 星を浴びて、宇宙の真理とかいうものに閉じこもったらしい。

 

 前方では金髪の少女たちが石壁の穴から空を見上げている。

 長細い三つ編みをふたつに垂らしたハンナ・アボットと、同じく金髪の三つ編みをふたつに結んでいるスーザン・ボーンズ。しかし、アボットの金髪の方が淡く、髪も柔らかいストレートで、スーザンの髪は少しくすんでいて毛量が多く、厚みのある三つ編みだった。顔立ちも、ハンナは垂れ目垂れ眉の柔らかい雰囲気で、スーザンはそばかすが多くつり目がちで鼻が少し丸い。

 よく似たふたりにわざと足音を立てて近付いて声を掛ける。

「一緒に星を見てもいい?」

 アボットは頷き、ボーンズは戸惑った顔をした。シャルルは笑顔で真ん中に入れてもらう。

「クリスマスカードありがとう」

 ハンナはニコニコと屈託のない笑顔でシャルルに話しかけた。シャルルはホグワーツの純血家系には全員に簡単な魔法のカードをプレゼントしていた。

「ボーンズ、あなたは律儀にクッキーまでお返しにくれたわ。嬉しかった」

「……どういたしまして」

 ボーンズは視線をさまよわせて、ローブの中から手持ち無沙汰にテレスコープを取り出した。黒を貴重に、金のアクセントがシックな年代物だ。

 シャルルは身を乗り出した。

「ウワーオ、ステキね」

 邪気のないキラキラした笑顔で見上げるとボーンズはさらに挙動不審になった。

「スーザンは星を観るのが好きなの。ねっ」

「うん……」

 恥ずかしそうに顔を背けてボーンズはテレスコープを覗く。ボーンズはスリザリン生を怖がっている面があるが、星を見たら落ち着くのか、穏やかな顔つきになった。

「み、見る?」

「いいの?」

「いいよ。クッキー、喜んでもらえて良かった。ママと作ったんだ」

 ボーンズがはにかみ、シャルルは喜んだ。彼女の心の壁をほんの少し崩すことが出来た。

 

「あの星座を見て。今の時期にしか見れないんだよ」

 ボーンズが指さす方を、テレスコープを交換交換でアボットと覗き込んだ。満天の星空。多分、ボーンズが言っているのは大鍋座のことだろう。

「あの星座に纏わる星話を知ってる?」弾んだ声でボーンズは語った。

「魔法騎士レイグリッドと、魔女セライオの悲劇……。2人は想いあってた。でも、レイグリッドに恋慕したアモレティシアが、強烈な執念で特別な薬を作り上げて、それを飲んだレイグリッドはセライオを忘れてしまうの」

 有名な話だ。魔法騎士レイグリッドも、セライオも有名だが、最も有名なのは魔女アモレティシアだろう。執着的で強迫観念に囚われ愛の妙薬の考案に成功した未曾有の天才。

「あれはアモレティシアが生み出したアモルテンシアが調合された大鍋を表してるの。レイグリッドを取り巻く愛と悲劇の星……今はちょうど、2人が引き裂かれた時期なの。2人の愛が凍てついた時期……」

「わたしそのお話読んだわ!セライオが健気で、可哀想で泣いちゃったわ」

「悲しくて素敵な話よね。レイグリッドが自制心を取り戻して、セライオとの愛を取り戻す話もよかったわ。ボーンズは恋の話が好きなの?」

 うっとりした声音のボーンズが、一瞬瞬きして、すぐ首を振った。

「ううん、星物語が好きなの。ロマンが詰まってるでしょ。それに、大昔から星を見上げて想いを巡らせていたなんて、なんだかすごいなって思えるんだ……」

 ボーンズのたっぷりした三つ編みが風に揺れた。空を見つめる瞳にも星が浮かんでいる。

「今度オススメの本を教えてくれる?」

「うん。でも図書室はあんまり行かない。大広間で今度貸してあげるわ。『聖マーリン星話』がおすすめだよ」

「ほんとう?楽しみが増えてうれしい」

 ハンナ・アボットがお姉ちゃんが妹に向けるような笑みを浮かべた。

「スーザンに新しい友達が出来て良かった。スリザリンが苦手だったみたいだけど、シャルルはいい子だったでしょ?」

「ちょっとハンナ!」

「ふふっ、知ってたよ。でもあなたと仲良くなりたかったから強引に話しかけちゃった」

 ふざけてみせると、ボーンズは安堵してしどろもどろに言った。

「態度悪かったでしょ、ごめんね……。でも、スリザリンにシャルルみたいな子がいると思わなかったの」

 私、誤解してた……と、申し訳なさそうなボーンズだったが、それは誤解ではない。彼女は純血だが、ハッフルパフという理由でマルフォイなんかはあからさまにバカにしていた。

 寮差別や偏見のせいで交流関係が狭まるのは、とても悲しいことだとシャルルは思っていた。

 

 

 

「ああっ!最悪!すっかり忘れてたわ!」

 談話室を甲高い悲鳴が貫いた。声を上げたのはパンジー・パーキンソン。彼女はしおらしい顔でシャルルに泣きついた。

「ねえ助けてちょうだいよ、うっかりしちゃってたの」

「何?」

「魔法史のレポートよ。途中までは仕上げてるの。ちょっと分からないところがあって、図書室に行こうと思ってたんだけど……」

 そのまま忘れてしまったらしい。

「仕方ないわね。でも、丸写しはだめ。一緒に考えてあげるから」

「ありがとうシャルル!」

 パンジーは腕を絡めてくっついた。顔には出さなかったが、シャルルはたちまちのうちにご機嫌になった。好きなひとに頼られたり、甘えられたりするのは嫌いではない。パンジーは甘え上手だった。

「図書室に行くのか?僕も変身術のレポートを仕上げようと思ってるんだ」

「ほんとっ?嬉しい、一緒に行きましょ、ドラコ」

 すぐさまパンジーはドラコの隣にぴっとりとくっつきに行って、半身から暖かい体温が離れていく。シャルルに理由もわからず睨まれたマルフォイは僅かにたじろいだ。

 

「ノット、お前も行くだろ?」

「課題はもう終わってる」

 足を組んで本を捲っていたセオドール・ノットは視線も上げずに言った。

「なんの理由がなくとも君はいつも図書室にいるだろ」

「本くらい静かに読みたいんだよ」

 にべの無い返事にマルフォイは機嫌を損ね、「もう誘わない」と背を向けて部屋に戻ってしまった。背中を追ってパンジーも道具を取りに行く。

 シャルルは彼のソファの隣に座った。

「君だけとなら行ったけどね」

 ノットはページから一旦視線を上げて話しかけてきた。

「パーキンソンやマルフォイの子守りなんてごめんだ」

「人に教えるの、わたしは嫌いじゃないわ。それにマルフォイは優秀よ?」

「でも、トラブルメーカーだ」

「ふふ、たしかに。それも自分から生み出す厄介なタイプね」

 微かに彼の口が緩んだ。たぶん微笑んでいる。

 

「アクシオ」

 杖を取り出して小さく呪文を唱えると、10秒くらい時間をかけてやっと宙をふよふよ羊皮紙が飛んできた。シャルルの膝の上にポトっと力なく落ちる。

「呼び寄せ呪文?」

「うん、でもまだ練習中なの」

「でも成功してる。謙遜なんか柄じゃないだろ」

「まだ時間がかかるし、ひとつの物しか持ってこれなくて……。アクシオ」

 今度は羽根ペンセットが膝の上に落ちた。「ふうん、やるね」

 ノットに褒められるのは気分が良い。4年生の呪文なだけあって、アクシオはかなり難易度が高かった。得意気な表情を浮かべると、眉間をノットが指でグイと押した。シャルルは後ろに少し仰け反って、眉間を押さえて目を丸くしながらノットを見つめた。

「……なに」

「ふふっ、ううん」

 気持ちがふわふわする喜びが胸に浮かんできた。ノットがスキンシップを取ってくるのは初めてのことだった。彼と確実に仲良くなれているのがうれしい。

 

 

 魔法史の課題は魔女狩りに関するもので、シャルルはマグルにおける第2次魔法族排斥期間と、それに伴う国際魔法族機密保持法制定についての論文を仕上げていた。しかし、パンジーのレポートとは少し内容が異なる。

 パンジーはその以後の純血主義の興りと、間違いなく純血の一族である聖28一族の歴史に触れていた。

「とは言っても、当時純血主義を声高に主張したのは聖28一族の中でも一部よ」

「有名なのは、ゴーント家、ブラック家、マルフォイ家だけれど、他にもいくつかあったね。先人たちが正しい選択を取り続けてきたことに誇りを感じるよ」

「マルフォイ家は本当に素晴らしいわ。常に歴史の表側にいるの。優れた知恵と気品を兼ね備えているんだわ」

 本棚を探しながらサラリと賞賛を述べたシャルルに、ドラコが目を丸くし、僅かに耳を赤くした。固まった彼が何か返そうと口を開く前に、シャルルが遮った。

「これね。『魔法族の興亡と発展』『近大魔法界における有力な家系』『なぜ魔法族は隠れ住むことになったのか』ここらへんはまあ、少し難しいけど、要点をよく掴んでると思うの」

 パンジーは渋い顔をしながら目を凝らしてページを捲っていく。マルフォイも自分のレポートを仕上げにかかっていく。彼の場合は裏付けを取って論文を強化するだけの、最後の作業だったので、あと少しもすれば終わるものだ。

 時折、過ぎ去ったページに書かれた要項を指摘して、パンジーの論文も着々と進んでいく。ブツブツ言ったり、呻く声は聞こえたがマダム・ピンスが飛んでくるほどではなかった。

 

「ねえ、これは?」

「んーと……」古い本をパララ……と捲り、該当部分を指し示す。「このあたりかな。聖28一族の著者の功績関連」

「ありがとう!あっ、この人表彰されてるわ。きっと魔法省にも有力な影響力があったのね」

 マルフォイがしみじみと言った。

「パーキンソンは物分かりがいいな。クラッブとゴイルと来たら、30回説明しても分かりゃしない」

 喜びで花を飛ばすパンジーと苦笑するシャルル。あの2人に比べたら豚の方がまだ賢いだろう。

「マルフォイはかなり忍耐強いよね」

 彼は肩を竦めた。

「奴らは1秒経つとぜんぶ忘れる。悪いところばかりでもないんだけどね、ああ見えて」数秒考えて、難しい顔をした。

「まあ……すぐには思いつかないが」

「あなたのお喋りが分かりやすいのはきっとそのせいね。耳に良く入ってきて、面白いの」

「そ、そうか?僕の話がそんなに好きならいくらでも話してあげよう。そうだね、今日の夜にでも……」

 本の整理をしていたマダム・ピンスが至近距離まで近付いてきたので彼は慌てて口を噤んだ。マルフォイの話が聞きやすく語彙力にも優れているのは事実だが、あからさまな称賛にこんなにも分かりやすく調子に乗るのは可愛らしく思った。まだ彼は11歳なのだ。

 ルシアン・ボールなどは、シャルルが褒めてもサラリと微笑みを浮かべて称賛を返してくれる。彼のスマートさも魅力的だが、マルフォイの可愛げも悪くはなかった。

 

 シャルルは3年生の自習を押し進めていた。得意科目である呪文学や闇の魔術に対する防衛術などは、4年生の段階にもチャレンジし始めていた。

 上級の教科書や参考書を探そうと本棚の近くを彷徨いていると、ボソボソとした話し声が聞こえた。緑色のローブが見える。

 横目でちらりと見て、シャルルは二度見した。

 

「ダフネ……?」

 

 思わず本棚の陰に隠れて、金髪の少女を見つめる。彼女はひとりではなかった。

 

 いつも穏やかな顔つきのダフネが、顔を薔薇色にしながら、隣にいる男性を見つめている。瞳が蕩けて、挙動がずっとソワソワしているのがシャルルにも伝わってきた。

 教科書を2人で覗き込んで笑いあったり、顔を顰めたりしている。勉強を教わっているらしい。

 

 隣にいるのはエリアス・ロジエールだった。7年生で、監督生で、去年までクィディッチのキャプテンをしていた純血名家の子息。おそらく今年のスリザリンの男子首席は彼だろう。スリザリンでは将来の準備に集中するために、下級生に早くからキャプテンを譲ることも多い。ロジエールが将来を嘱望される優秀な生徒であることは間違いなかった。

 ダフネは熱に浮かされたような表情で、ロジエールは兄のように落ち着いた態度だった。

 ふたりの間に大きな温度の差があるのはシャルルでも感じ取れたが、ダフネは幸せそうだった。あんなに舞い上がった彼女は見たことがない。

 

 シャルルはそっとその場所を離れた。

 

「どこいってたの?」

「なんでもない」

 パンジーとマルフォイは既に荷物を纏めて帰る準備を整えていた。シャルルも4年生の教科書を抱えて歩きだしたが、先ほどの光景が頭から離れなかった。

 恋をする女の子が増えてきている。

 パンジーも、ダフネも、上級生も、男の子も。

 マルフォイの話をするパンジーと同じキラキラした瞳をダフネはしていた。相手のことをとても大切に思ってるのがわかる。それはたぶん、シャルルがパンジーやダフネに抱く感情とも、家族に抱く感情とも、セオドール・ノットに抱く感情とも違う。

 難しかった。感情の機微にはシャルルはとてもとても聡いし、寄り添うことも得意だし、見抜くことも得意だけれど、実感がない。

 

 そうしてシャルルが悶々と思案していると、耳につく嘲笑が聞こえた。図書室の近くを歩いていたネビル・ロングボトムにマルフォイが意気揚々と近付いた。

 彼を見たネビルは一瞬で不安を顔に走らせ、シャルルを見つけると縋るように見つめた。

「おやおや、奇遇なところでお会いするではありませんか?図書室には魔力を発現させる本は置いていませんよ、ミスター・スクイブ?」

 マルフォイは慇懃で嫌味ったらしく顎を突き上げ、甲高い声で隣の信奉者が嘲笑った。

 ネビルは言い返すことも無く俯いて、「ぼ、僕、ただ課題をしようと」ともごもご呟いている。

 

 スリザリン生のすることに、特に聖28一族のすることにシャルルはあまり口を出したくないのだが、ネビルは友人だ。

 そして、聖28一族だ。

 

「ネビル、なんの勉強をしに来たの?」

「シャルル……僕、まだ変身術が……」

 不快そうにマルフォイがシャルルを睨めつけた。シャルルの悪癖(だと思っている)他寮への親切心を一緒にいるパンジーはずっと前から諦めていたので、肩を竦めるだけだった。かまわずシャルルは続けた。

「わたし達はもう行くわ。もし分からないところがあったら言って?一緒に勉強しましょう」

「うん、ありがとうシャルル」

 ホッと顔を弛めたネビルだったが、すぐに顔を強ばらせた。パンジーが激しく睨みつけていたからだ。パンジーは他寮のボンクラにシャルルとの時間を奪われるのが大嫌いだ。

 

 粘つく笑みで懐から杖を取りだし、マルフォイは手の中で転がしながらわざとらしく視線を投げかけた。

「そういえばフリントに面白い呪文を教えてもらったんだ。足縛りの呪いって言ってね……実に無様なんだ。見たいだろう?」

「ええ、とっても見たいわ!して見せてくれるの?ドラコ」

 素早くドラコの利き腕と反対側にしなだれかかって、猫撫で声で横顔を見上げた。シャルルは微笑みを固くしてドラコを宥めにかかった。

「マルフォイ、図書室の近くで騒ぎを起こすとマダムが飛んできちゃうわ。もう少し離れたところで違う人に試したら?」

 つまらなそうに彼は鼻を鳴らす。

「スチュアート、君のご大層な博愛精神に僕を巻き込まないでくれるかい?生憎と僕は慈善事業には興味が無い」

 マルフォイの言葉が冷たい棘のように鋭く刺さり、シャルルは眉を下げた。いつかスリザリン生の不興を買うとは思っていたが、直接冷ややかな態度を取られるのが、こんなにも言葉を紡げなくさせるものだとは知らなかった。

 シャルルの顔を見て慌ててマルフォイがフォローする。

「別に君がこいつと仲良くする分には……見過ごしたくはないが……まあ気にしないようにするよ。でも僕は嫌いなんだ。分かるだろ?」

 微かに頷いたシャルルにマルフォイはホッとした。

「ロングボトム、スチュアートに庇われて恥ずかしくないのか?杖を出せよ」

 冷たい瞳と気を落としているシャルルを何回も見て、軽く絶望しながらネビルは杖を出した。マルフォイは悪意に満ちた笑みを浮かべた。

「これでお互い様だな、ええ?ロングボトム?なに、ちょっとした呪いをかけるだけだ。すぐに自分で解けばいい」

 そんなこと出来るはずがない、と含ませて呪文を唱える。

 

「ロコモーター・モルティス」

 

 いきなりピタッとくっついた両足に驚いてネビルはもんどりうって倒れた。駆け寄って悲しい瞳でシャルルは謝罪した。

「大丈夫?ごめんね、ネビル」

 マルフォイを無理やり止めることも出来たが、シャルルはそうしなかった。立場を悪くしすぎるのは良くないと思ったからだ。パンジーとマルフォイの哄笑が背後で響いている。

 ネビルは弱々しく首を振った。

「い、いいんだ、シャルル……庇ってくれてありがとう」

 胸が熱くなってさらに申し訳なさが募る。彼は優しいのに……。

 

「ははっ、みっともないな。悔しかったら反論のひとつでもしてみればいいんだ」

 腹を抱えてマルフォイが笑っていた。ネビルはボソボソ言った。

「いちいち、そんなことで怒っていられないよ……」

「そんなだからあなたは間抜けなんだわ!いいところがひとつもないじゃない」

「君はグリフィンドールにもふさわしくないな。ノロまでグズでスクイブで……臆病者の鼻ったれだ。帽子は耄碌しきってるに違いないね」

 ネビルの背を撫でるシャルルをちらっとみてマルフォイは去っていった。パンジーも何回か振り返りながらも、彼の背を追っていなくなった。

 重い沈黙が訪れた。

 

「……フィニート・インカンターテム」

 杖を振るとネビルの足は元通りになった。

「ありがとう……」

 彼の声は弱々しく、顔をクシャクシャにした。シャルルは狼狽えながらなんとか声をかけた。

「あの、ネビル……あなたは優しいわ。争いを忌避して我慢できるなんて……人間が出来てる証拠よ……」

「僕が戦いから逃げて耐えるしかできないなんてことは、最初っからずっとわかってるよ」

 力なく体を押し返されて何も言えなくなった。

「ごめん、僕……寮に戻るよ」

「ネビル……」

「君に庇ってもらって、僕は臆病ものなんだ」

 追いかけようとするのを遮るように言われてシャルルはその場から動けなくなった。

 

 悲しみともどかしさ、そしてふつふつと湧き上がる苛立ちがシャルルを支配していた。目の前がすこし霞む。

 

 ネビルとも、マルフォイとも、パンジーとも仲良くしていたい。シャルルはシャルルがしたいように振る舞いたい。

 何故こんなにも上手くいかないのかわからなかった。純血の魔法族同士、手を取り合って尊重し合えるはずなのに。

 偉大なる創設者たちはそうした。意見が食い違ってしまっても、最初っから手をとりあえないわけじゃない。

 各寮に横たわる深い溝を何とかしなければならないと、シャルルは強く強く思った。

 

 そのためにはシャルルが聖28一族に引いて振舞っていてはダメなのだ。

 シャルルがどんな選択をしても、理解はされなくとも尊重はされる、そういう状況に持っていかなければ──。

 

 瞳を涙で光らせながら、この時シャルル・スチュアートは覚悟を決めた。つまり、人を意図的に支配するということを。シャルルは人の上に立つ人間になる。

 この決意は、最初の1歩だった。

 

 



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11 仲直り

 シャルルはパンジーやマルフォイのご機嫌伺いをぱったりと辞めた。もちろん、親切であることに変わりはないが、彼女たちに合わせて自分の行動を制限することを辞めたのだ。

 だから授業に向かう途中でハッフルパフの生徒と話し込んだり、スリザリン生と一緒でもグリフィンドール生にフレンドリーに話しかけたりするようになった。

「おい、下等な連中とつるむのはよすんだ」

 マルフォイからの忠告をシャルルは微笑みをもって一蹴した。

「彼らは純血よ。わたしにとってマルフォイもウィーズリーもマクミランもパチルも変わらない友人なの」

 大広間でシャルルは宣言し、またたく間に噂は広がっていった。

 先日のクィディッチでグリフィンドールと小競り合いをし、ネビル・ロングボトムに言い返されていたマルフォイにとって、それは敵対宣言と同義だった。

 彼はことあるごとにシャルルを睨んでくるようになったが、シャルルはそれを全て無視し、パンジーはマルフォイとつるむようになっていた。

 

「わたしに言わせたら、あなたは少しやりすぎたわね」

 ダフネがベッドの傍のソファで優雅に足を組んで、面白がるように言った。声音には呆れも含まれている。

「いいの。今はマルフォイも怒ってるけど、わたしはまた彼とも仲良くなるわ。パンジーとも。そしてホグワーツの全ての純血子女ともよ」

「あなたって……」

 月の光のような淡いほほ笑みを浮かべるその横顔に似合わない強欲さ、傲慢さ、高慢さ。今までのシャルルは、ふわふわとして、常に笑顔でとても優しく、どこか一歩引いた女の子だった。しかし、それは彼女の一面でしかなかったのだと知る。シャルルという少女は、外側は砂糖菓子のようでも、中身には冷たい冷たい氷が芯にあった。

 

 靴を脱いでダフネのベッドで寛いでいたシャルルが仰向けになった。絹のような黒髪がシーツに広がり、ネグリジェの裾からほっそりとした足が見えている。

 パンジーと離れてから、シャルルはよくダフネの部屋に出没していた。

 

「呪文クラブに入ろうかと思うの」

「呪文クラブ?」

「そう。フリットウィックが不定期で開いてるクラブよ」

「ふうん。いいんじゃない?」

 適当な返事をするとシャルルが起き上がって不満げに見つめてくる。

「なに?」

「あなたも入らない?って誘ってるの。わざわざクラブに入ることを宣言しないわ」

「わたしも?」面倒そうな感情がそのまま乗っている声。

「いやなら良いのだけれど」

「いやっていうか、そんなに勉強に打ち込む気にならないの。シャルルと違ってね」

 いきなりシャルルはくすくす笑い始めた。

 胡乱な視線を向けると、シャルルは部屋の中を見回して誰もいないのを確かめ、声を潜めた。瞳が三日月型になっている。

 

「ダフネにも損は無いと思うわ。きっと彼も、努力家で理知的な女の子を素敵だって思うはずよ」

 一瞬でダフネの全身が沸騰した。シャルルは黄色い声を上げて枕に顔を押し付け、足をバタバタさせた。枕で吸収しきれない笑い声がダフネを煽る。

 

「そっ、それっ、シャルルっ!」

 真っ赤になりながらダフネはどもった。眉が釣り上がったり情けなく下がったりした。それから大きく深呼吸して呟くように囁いた。

「ほかに誰が知ってるの?」

「わたししか知らない。図書室の影で見たの」

「誰にも言っちゃダメよ。ぜったいよ」

「わかってる。じゃなきゃ、今頃スリザリン中に広まってるわ」

 パンジー・パーキンソンは歩くスピーカーだ。それを思い出して、シャルルが胸に秘めていてくれたことを悟った。いたたまれないほどに恥ずかしい。ダフネはひとつにまとめて垂らしている三つ編みをいじいじと弄んで上目遣いをした。

「……本当にエリアスは良く思ってくれるとおもう?」

「ダフネはどうなの?ロジエールが愚かよりは、優秀な方が魅力的だと思わない?」

「そうね……そうよね……」

 

 

 呪文学が終わったあとふたりはすぐに参加の旨を伝えに行った。フリットウィックは髭を揺らして喜んだ。

 スリザリン生はやっぱり少ないらしい。他寮生と好んで交流する子は少ない。

 

 クラブはフリットウィックの気分で月に3〜7回ほど開催される。学年も寮も集まる人数も呪文レベルもバラバラのクラブだ。

 呪文学の教室の後ろにある大きな時計から、小さなフリットウィック人形が飛び出ていたらその日の夜はクラブがある。決まって7時半から、呪文学の教室で。

 

 初参加のクラブには15人ほどが集まっていた。今日は上級生が多い。教室に入るとチラッと視線を向けられたが、みんなすぐおしゃべりに戻った。見回すとスリザリンはシャルルたちしかいない。ほぼ青色のローブで、その中にちらほら違う色が交じっている。

 たとえばパーシー・ウィーズリーとレイブンクローの監督生が本を片手になにやら議論していて、セドリック・ディゴリーやアーニー・マクミランが楽しげに笑顔を交わしている。

 ディゴリーの近くに座って軽く手を振ると彼は爽やかな笑顔を返してくれた。マクミランはまだ少しだけ距離があるけれど、大広間で彼の名を挙げて以来前よりはちょっと親切になった。

 

「顔が広いわねえ」

 上級生の中で少し肩身が狭そうなダフネは少しの羨ましさを滲ませていた。他の人は緑色のローブが交流という場で枷になるのに、シャルルの場合はただ個性のひとつになる。

 

 フリットウィックが花火のような音を響かせながら入ってきた。小さな体を教壇によいせ、っと登って高い声を上げる。

「ようこそフリットウィックの呪文クラブへ!今日は新しい友人が来ています。スリザリンの1年生です」

 パラパラと拍手が鳴った。

 半分は友好的な視線で、あとはどうでも良さそうだった。レイブンクロー生は誰が相手でも興味を持たない人間が多い。

 

「今日は4年生以上が多いですね。少しレベルの高い呪文にチャレンジしましょう。エバブリオ」

 杖を振ると杖の先から透明なあぶくが生まれ、それはむくむくと大きくなってフリットウィックを飲み込んだ。彼の声が籠って反響した。

「これは呪文自体は4年生レベルですが大変応用性の高い魔法です。それ故に私は6年生に教えるようにしています。試験に出るような問題ではありませんが、これは泡を作る呪文で、使いこなせば泡の強度が増したり……」

 中から杖で小突いたが、泡は割れなかった。

 さらに、杖をゆっくり動かすと、泡が空中に浮かび上がった。

「宙に浮かんだり、ほかの呪文と掛け合わせると水中を移動するバリアにもなります。小さな泡なら、物を洗浄したり、滑らせたりすることも出来る非常に高度でユニークな呪文なのです」

 指揮棒のように手首を返すと泡がパチン!と弾け、フリットウィックがポーズを取った。みんな即座に明るい顔で拍手を送った。

 

 フリットウィックにより発音と手の動きを指導されて、あとは好き勝手に魔法を使って良いことになった。授業とは違い規律のないやり方だが、それが自由度を生んでいた。

 呪文の取得は難航した。

「なかなか大きい泡が出来ないよ!」

 マクミランの杖の先からは蟹が吹くようなか細いあぶくしか出ていなかった。対するディゴリーはもう掌大の泡を生み出して空中に飛ばし、光を受けて虹色に光った。

「落ち着いてよアーニー。すぐに大きいのを作らなくていい。君はきっと細かい泡の方が得意なんだよ」

「細かい泡ばっかり作ったって仕方ないよ!」

 周りを見回してマクミランは芝居がかったように天を仰いだ。苦笑いして小さな泡を杖から出してみせたディゴリーは、机の上を白いぶくぶくでこんもりと山にして触ってみせた。

「見てよ。弾力のある細かな泡をたくさん重ねたらクッションみたいに出来る。もっと多かったら人が乗れるかも」

 

 目を輝かせてフリットウィックが飛んできた。

「ユニーク!エクセレント!ミスター・ディゴリー、非常に良い発想力です!ハッフルパフに5点プレゼントしましょう。

 ミスター・マクミラン?君の泡は小さいが非常にきめ細かい。自分の泡の特徴を活かせるようにしてみると良いですよ」

 

 シャルルは自分の杖から出る泡を見つめた。まあるくてツヤツヤしている。泡立ったが水分は含んでいなくて指で触るとムニュッとした。ポンポン弾いて遊んでみたが、まだ泡の有効な活用方法は思いつかなかった。

 ダフネの泡はすぐに弾けたが大きくすることが出来た。

 みんな、ある程度自分の泡の特徴を掴んだところで、呪文クラブはお開きになった。

 今日の活動で、シャルルとダフネは呪文クラブが大好きになっていた。

 

*

 

 

「おはよう、パンジー」

 すれ違うたびにシャルルはパンジーに声をかけた。複雑な顔で返事をするパンジーだったが、シャルルと以前のように話したがっているのは明確に感じ取れた。同時に以前より尊重してくれない事に腹立たしさと悲しみも感じているようだった。

 パンジーは聖28一族の生粋のお嬢様だ。

 蝶よ花よと甘やかされ、誰彼も彼女にかしずいてきた。相手に尽くされるか、あるいはマルフォイにするように尽くすか。それ以外の形の友情を知らないのだ。

 

 彼女と距離を置く期間はそろそろじゅうぶんだとシャルルは考えていた。それに、シャルル自身も仲の良い友人とうまく過ごせないのは寂しく感じている。

 何か適切なタイミングが作り出せないか、ここ数日はそれをよく考えていた。

 

 同時にドラコ・マルフォイもかなりシャルルを意識しているのがわかった。しかし、シャルルはマルフォイに関しては自分から歩み寄る気はなかった。彼はパンジーとは違い、シャルルを明確に自分の下に見ている。そして、コントロールフリークであり、シャルルを尊重する気がない。

 とは言え、マルフォイの中で自分が尊重されるべきであるほどには大きな存在ではないのも理解している。

 

 朝食の席でオートミールをトレイシー・デイヴィスが差し出した。彼女はダフネと同室の由緒正しい家柄の子女だ。シャルルは公衆の面前であろう事かマルフォイの子息に楯突いたが、聖28一族との個人的な繋がりは深く、デイヴィスのようにあからさまにシャルルに味方する人間も多かった。

 

 ひとつ、まずシャルルは純血名家の子女である。

 ひとつ、スチュアート家は純血主義である。

 ひとつ、創始者のひとりであるロウェナの直系である。

 ひとつ、シャルルは優秀な魔女であり、また容姿と外交にも優れている。

 ひとつ、シャルルは3つの寮からの友好を勝ち取っている。

 ひとつ、シャルルは自分の駒についてよく知っている。

 

 つまり、残りのひとつの寮からの信頼を勝ち取るのも容易な事だということだ。

 例えば、緑のローブを着た生徒の耳元でそっと耳打ちしてやるとか──。

「あなたの従兄弟のお家に家宅捜索が入ったそうね?なんでも、危険な物品が押収されたとか?でも、それは魔法省の捜査が間違っていて、危険ではないことは証明される。裁判で……ほんの少しユーモアが行き過ぎた魔法具である、とね。良ければ、わたしから父にコメントしてあげましょうか?」

 

 トレイシー・デイヴィスはそれでシャルルに近付いた人間のひとりだった。もちろん、シャルルも、父親のヨシュアも愚かではない。ヨシュアはシャルルを娘として溺愛する一方で、独立したひとつの人格として意見に耳を傾けてもくれる。

 ウィゼンガモットでヨシュアはかなり強権的な力を行使できる。そして、それをしない理性もある。魔法省への影響力と信頼は大きかった。

 ホグワーツの理事、魔法省、魔法大臣への影響力が絶大なマルフォイ氏に劣らないくらいには。

 

「今日の魔法薬学、一緒に組まない?あの、いやじゃなければ」

「ええ、もちろん」

 トレイシーの控えめな態度は好ましい。

 

 

 

 魔法薬学はあまり好きな科目ではなかったが、トレイシーとペアだったために、シャルルは積極的に授業に参加していた。シャルルは親分気質である。

 実技は特に好きではないので、理論で点を稼ぐ。実技派のシャルルには珍しい科目だったが、シャルルにはどうしてもカエルの死骸だとか虫の内臓だとか獣のエキスだとか、そう言う馬鹿馬鹿しいものへの嫌悪感を拭えない。

 

 トレイシーは後ろに座りたがり、マルフォイとパンジーが寄り添うのがよく見えた。

「パンジーとまた仲良くなるためにはどうしたらいいと思う?」

 おもむろに聞かれてトレイシーは困惑したが、すぐに表情を戻し頭を働かせた。シャルルの表情を読もうとしたが、いつもの微動だにしない完璧に穏やかな微笑で、感情を読むことはできない。

「マルフォイと引き離すべきだと思う。彼は優秀だけど、あなたほどじゃないわ」

「そうね」肯定したが顔色は変わらなかった。「でもパンジーにとってまだわたしの賢さは重要じゃない」

「えーと、力があるわ。魔法省への」

「マルフォイ氏の方がより分かりやすくて、影響力が大きくて、取り入りやすい」

「誇り高くて気品がある。それにスリザリンらしいわ。それはつまり……正しく貴族的ってこと。ドラコお坊ちゃまとは違う意味で」

「……あなたは鋭いわね」

 シャルルが横目で見ながら唇を湿らせた。

「それともわたしが分かりやすいの?パンジーが鈍いだけかしら」

 

「幼い頃から訓練されてるの」

 素早く、得意げにトレイシーは言った。そしてこう付け加えた。

「ザビニも得意だと思う。生まれながらスリザリン的な感覚を得てるタイプよ」

 話題に上がった彼はハーフ・マグルの女の子とペアを組んでいた。彼はうまく女の子を誉めつつ自分は適度にサボっていた。

 そして、スネイプがスリザリンに近づく瞬間を的確に察知し、お褒めの言葉を貰っていた。ザビニはハンサムな笑顔を浮かべているが、彼女に決して触りはしないし、彼のハーフ・マグルを見る目は冷たい。それは誰にでも分かった。しかしペアの女の子は嬉しそうだった。

 ブレーズ・ザビニはたぶん、スリザリンを泳ぐのが誰よりも上手い。

 

「彼を使うのはどう?ザビニは狡猾だしハンサムよ。パーキンソン家を敵に回すほど愚かじゃないし」

 その案は悪くない提案だった。数秒思考し、シャルルは首を振る。

「ザビニに借りを作るのは……。彼はそういう機会を逃さないタイプでしょうし」

「ああ、確かに、私も今の提案は撤回しようとおもってた」

 機嫌を伺うようにトレイシーは控えめに笑った。シャルルは眉をひそめ、彼女は信頼出来るタイプではないと脳内にインプットした。ザビニも同様だ。もちろん、役に立つことは明らかだったが。

 

 パンジーはあまり賢くない。そして扱いやすい。

 策を用いたがるのはシャルルのわるいくせだったが、しかし彼女に単純な手法、たとえばプレゼントやご機嫌取りをするのでは現状と変わらない。

 

 ため息をついてシャルルは手元に集中した。コガネムシの目を抉りだし、死骸の体液が手に付着して吐きそうになりながら、真鍮の鍋にぶち込む。

 スネイプが跳ねた鍋の水を見咎め、アドバイスという名のお小言をちょうだいする。

 

 マルフォイは褒められて得意げだ。パンジーがわざとらしく喜んでいる。

 

 シャルルは何だか面白くない気持ちになった。マルフォイよりシャルルの方がよっぽど一緒にいたし、彼女のことを考えているし、理解している。パンジーもパンジーだ。

 シャルルがあんなに尽くしていたのに。

 他人のご機嫌伺いが得意じゃないし、好きじゃないシャルルが。

 

 この思考は良くないと、頭を振って気持ちを切替える。

 自分は自分、他人は他人。相手に何かを求めて、望む反応が得られないからと言って機嫌を損ねるのはスマートじゃない。

 たとえこの気持ちが嫉妬であってもだ。

 

 シャルル・スチュアートにとって、初めて自分で作った友人はパンジー・パーキンソンなのだ。

 

 

*

 

 イースター休暇は、休暇と呼べるほど優雅なものにはならなかった。3ヶ月後に試験を控え、教授たちは競うようにこぞって課題をたっぷりと出し、生徒たちは呻きながら課題に追われることになった。

 シャルルはダフネやノット、トレイシーと勉強することが多く、パンジーはよく物言いたげな視線を投げかけてきたけれど、シャルルから話しかけることはしなかった。パンジーが何を求めてるかは分かっている。彼女を1番よく知り、彼女に分かりやすく教えるのはシャルルが1番うまかったし、ずっとそうしてきた。マルフォイは荷物を2つも抱えているからパンジーの面倒まで完璧に見るのは難しいんだろう。

 でも、シャルルはここで歩み寄る気はなかった。

 ここで折れれば、シャルルはパンジーの都合のいい親友になる。

 パンジーの寂しそうな表情に胸が痛んだが、それは少しの喜びも与えた。

 もう少しだわ。

 何かきっかけがあれば良いのだけれど……。

 自分でもおかしかった。1人でも全然平気だし、むしろ他人にあれこれ言われたり、踏み込まれるのは大嫌いなシャルルが、こんなにも誰かを気にかけたり、やきもちを妬いたりしてしまうなんて。

 

 

 ある夜、ベッドのそばの机で静かに勉強していると、布のすれる音がした。ベッドカーテンを締め切り、橙の仄暗いランプがゆらりと空気を揺らしていた。

 軽くカーテンに開く音がする。隣のパンジーが起きたのだ。眠りが深い彼女が夜目覚めるのは珍しい。起こしてしまったかしら。眠れなかったのかしら。

「……ねえ、わたし達もう怒ってないわ。意地を張るのはやめにしてちょうだいよ」

 ふと、パンジーがそう声を掛けてきた。言葉は不遜だけれど、どこか焦がれるような響きを帯びた声だった。

 シャルルはお腹の奥から熱いものが喉の奥まで昇ってきたような気がして、喉の奥を締めた。パンジーからの譲歩だった。嬉しい気持ちより、シャルルの胸には反射的な悔しさの熱が渦巻いていた。

 

 なんて傲慢なのかしら!

 

 パンジーとマルフォイにとって、自分たちに逆らうシャルルこそが間違いであり、罪であり、彼らはそれを許す立場だと思っているらしかった。

 友人であっても対等になれない。

 シャルルはそれを超えたくて行動を変え始めているのだけれど、それが彼らに分かるはずもない。

 シャルルは悔しさを飲み込んで静かに息を吐いた。

 

「わたしは意地になってるわけじゃないのよ、パンジー」

 静かに言う。パンジーの微かな呼気が空気を震わせる。

「純血なのに、違う寮になったり、少し欠点があるからといって差別するようなこと、わたしはしたくないの」

「でもスリザリンは選ばれた寮でしょ?」

「そうね。でも他の3寮だって誇り高いわ。わたし達はサラザールに選ばれて、他の寮はそれぞれの創始者に選ばれた。それだけのことだよ」

「……あなたが何を言いたいか、まったく分からない。間抜けなハッフルパフや愚かなグリフィンドールと、スリザリンは違うわ!」

「…………」

 上手く言えない。

 もどかしさにシャルルは歯噛みした。

「マルフォイの良さとノットの良さが違うように、寮の良さはそれぞれ違うわ。わたしは寮に関係なく純血魔法族みんなと仲良くなりたいの」

「……それがシャルルなのは分かってる。呆れてたけど今まで何も言わなかったわ。でもそれってスリザリンへの裏切りだってドラコが言ってて、わたし……」

「裏切ってなんかない。わたしは誰よりも純血を尊く思ってる!」

 声を荒らげてしまい、シャルルは目をギュッと強く閉じた。誰かにこんなに一生懸命に何かを伝えるのは初めてで、ドキドキが指先に伝わって細かく震え続けている。

 走ってもいないのに声も震えてしまって、ゆらゆら形を変える炎を見つめ、何回か深呼吸をして心臓の鼓動を落ち着かせようとした。

 

「ごめんなさい、少し興奮してしまって」

「……なんでわたしが怒られないといけないのよ!」

 パンジーは強がるように囁き声で怒鳴った。つっかえるような言い方だった。シャルルはつい癖であやすように弁解した。

「怒ってないわ、パンジー。ちょっとだけ議論が白熱しただけ。わたしは最初からあなたに怒ってなんかいなかったわ。今は少し行き違いになっているだけ」

「……ほんとう?」

 

 えっ!

 シャルルは心臓を強く掴まれたみたいに、激しくドクン!と鳴るのが聞こえた。

 パンジーの声が酷く潤んでいて、まるで、まるで泣いているみたいに聞こえる。…

 シャルルはビックリして、慌てて言葉を重ねた。

「パンジーのこと今でも大好きよ。また元通り仲良くしたいって思ってるわ」

「…………グスッ、それならいいわ」

 勝気にパンジーは答えた。シャルルは口元を手で抑えた。胸の中をふわふわ熱いものが駆け巡った。さっきの悔しさや苛立ちとはちがう、走りたくなるふわふわだった。

 

 なんて、なんて可愛いの。

 

 さっきと真逆の感想が浮かんで、シャルルはパンジーを抱きしめてあげたくって仕方なくなったけれど、まだダメよ、と必死に自分を言い聞かせた。

 せっかく歩み寄ってくれたチャンスをふいにするのはあまりにももったいない。

「ねえ、わたし待ってるわ。パンジーが、わたしの考えを理解出来なくても、それでもまた仲良くしたいって思ってくれるのを待ってるから」

「、シャルル……」

「でもあんまり放っておかれると、寂しくってしかたないわ。だから早くわたしのところに戻ってきてね」

「か、考えてあげる」

 ツンとそう言ったパンジーだったが、瞳からはポロッと涙が零れ落ちた。カーテンを閉めていて良かった。喧嘩して泣いちゃうなんて、まるで子供みたいじゃない。シャルルにはバレていたがパンジーは気づかず安堵した。

 レースの袖で目元を拭って、パンジーは「おやすみ」と言った。シャルルも「おやすみ」と言った。その声がここ最近で1番優しいものだったので、パンジーは嬉しくなっていい夢が見れそうだわ、と思った。

 

 



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12 ブレーズ・ザビニ

 

 

 試験で出されるであろう魔法薬の実技練習をするために、シャルルは1人で教室に赴いていた。イースター休暇はもう半ばを過ぎ、大体の課題も終わりそうだったが、魔法薬学だけは後回しにしていたのだ。

 シャルルは魔法薬学の実技が得意ではなかった。

 おできを治す薬、忘れ薬、肩こり解消薬、髪伸び薬……候補はこのあたりだろう。試験が6月末であることを考えると材料の手に入りやすい忘れ薬か髪伸び薬、さらに習った時期と手順の複雑さを考慮すると忘れ薬が本命ではないかとシャルルは当たりをつけていた。

 

 棚から必要な材料を取り出し準備を始める。

 魔法薬学教室の材料棚の一部は学生の自主的な調合のために開かれ、使用記録を残せば自由に消費することが許されていた。最も、自主的にスネイプの庭であるこの教室に、休み時間にまで足を運ぶ生徒はほぼいなかったが……。

 

「あら?」

 シャルルは頬に手を当て首を傾げた。

「忘却の川の水がない……」

 リストを確認すると、まだ小瓶に少量は残っているはずの水が無くなっていた。これはただの水ではなかった。人の管理から外れた山に流れる、魔力を含んだ川の水であり、人の感情や頭脳に関する影響を与える材料だ。

「ヤドリギの実も数が少ないわ」

 怪訝に思い、シャルルは棚の左端から簡単に確認していくと、軽く調べただけでもトモシリソウや黄金虫の目玉、満月草やドクシーの毒液などが少量ずつ、あるいは大胆に減っている様子だった。

 

「……」

 

 少し考え、運がいいわ、と思った。

 このまま帰っても良かったが、報告すれば良い点数稼ぎになるし、ちょうどセブルス・スネイプと話す時間が欲しかった。

 

 スネイプの私室は教壇の奥の扉と地続きになっている。重厚な木の扉は、スネイプの心のようにギッチリと隙間なく、神経質に締め切られていた。

 コン、コン、コン。控えめにノックして佇んでいると、低い声で「……誰だ」と返事があった。

「スリザリン1年のシャルル・スチュアートです。スネイプ教授にお話したいことがあって」

「入って来たまえ」

「し、失礼します」

 スネイプの私室に通されるのは初めてだった。彼がこちらに出てくると思っていたので、シャルルはちょっと緊張しながら重い扉を開けて恐る恐る体を滑り込ませた。ギイイ……と軋む音が響く。

 

 研究室の中は、ランプが付いているというのに薄暗かった。光は石壁に吸い込まれるかのように重く、部屋の隅まで届いていなかった。

 思ったより広い部屋だったけれども、部屋全体を覆う高い棚や机や調合台によって威圧的な窮屈さを与えていた。

「少し待っていろ。そこに椅子がある」

「はい、スネイプ教授」

 扉のすぐ側に古い丸椅子があった。所在なさげに座り、興味深く部屋の中を見回した。

 ラベルが貼られ几帳面に並べられた瓶が棚に並び、乾燥した薬草や魔法植物が壁に吊り下げてある。部屋の中央に作業台があり液体がこびりついている古い真鍮の鍋が置いてあった。机の上の小瓶には無色透明な液体が入っている。

 あれを作っていたところだったのかしら。

 無色透明の魔法薬は少ない。あれこれ顔を動かして、ソワソワと部屋の中を検分するシャルルに、スネイプが眉の皺を深める。

 

 瓶にラベルを貼り、何らかの布で包んだセブルスは手早く瓶を懐にしまい、シャルルを陰鬱な眼でじっと見た。

「それで、話とはなんだね。手短に済ませるよう」

「はい。実は教室の材料棚の中身がリストの数と合わないことに気付いたんです」

 シャルルは眉を下げて、優等生の声を出した。「……なんだと?」スネイプが不可解な顔をし、すぐに表情を険しく変えた。

「昨夜のチェックでは異常がなかったが……。もう少し詳細に話せ」

「はい、先程忘れ薬を作ろうとしたのですが、忘却の川の水が無くなっていることに気付き、リストとズレているので軽く棚の中身を点検したんです。すると、数種類の材料が大きく減っていて、他にも色々とさりげなく減っているように感じられたのでスネイプ教授のところに来た次第です。わたしがこの教室に来たのは20分前で、誰もいませんでした。地下回廊で他の寮生に会うこともありませんでした」

「ほう……」

 その報告はスネイプの満足行くものだったらしく、軽く頷いた。彼は立ち上がって鷲鼻を指で軽く揉んだ。

 

「教室を施錠し材料の点検をする。実技練習は明日にしなさい」

「はい、教授」

 彼の後を追いかけて部屋を去る際、ふっと奥の本棚に目が行った。なにもかもが古く薄汚れたような部屋の中で、磨かれた花瓶と、真っ白な一輪の百合が酷く浮いて見えた。

 

 

 棚の前で立つスネイプの横にシャルルが並ぶとスネイプが奇妙な表情で見下ろした。

「スネイプ教授、わたしもお手伝いします」

 シャルルがニコッと見上げると、スネイプは「良い心がけだ。スリザリンに5点を加点しよう」と唇を歪めた。

 

 棚を両端から確認すると、棚にある数十種類の材料のうち、12種類もの材料が足りていなかった。スネイプが持つ材料のうちほんの僅かしかここに置いていないとは言え、非常に問題であることは間違いなかった。

 スネイプはこれが窃盗だと確信しているようだった。

「誤魔化そうとしているが私には分かる……奴らめ、混乱薬、あるいはフロッグポワゾン液を作ろうとしているな……」

 忌々しそうにブツブツ呟いてこめかみを神経質にトントンと指先で叩いた。シャルルは彼の一人称が変わっていることに気付き、こちらが本当の彼の自意識なのだろうと思った。

 我輩というある意味で尊大な言い方はある種の威圧感を与えるものなのかもしれない。

 スネイプは犯人を断定してるような口調であり、シャルルも候補は何人か浮かんだが、そのいずれもが赤いローブを纏う生徒だった。

 

「罰則を与えることは出来ないのですか?」

「出来ぬ。証拠がない。瓶に残る痕跡を追おうにも、不特定多数の人間が触っているのだ、現実的ではない」

 突き放すようにスネイプは言った。

「犯人を見つけた暁には生まれてきたことを後悔することになるだろう……」

 目を細めたスネイプの怒気はシャルルですら悪寒が走るほどだった。スネイプ相手に窃盗を働くだなんて、その生徒には本当に尊敬を抱かざるを得ない。

 

 しばらく沈黙が流れた。

 スネイプは振り替えってシャルルに寮に戻るように命じた。

「調合の準備が整ったら声をかける。今日は帰りたまえ。スチュアート、実に有効な発見をしてくれた」

「はい。ええと、スネイプ教授……その……」

 シャルルは唇を舐め、躊躇いがちに言葉を迷わせた。その様子に彼が片眉を上げる。

「何かね?」

 実に不機嫌なスネイプに、今の彼にはどうでも良いことであろう話題を振るのは躊躇われたが、彼と話をする機会は非常に少ない。シャルルは自分の髪を無意識にひとふさ掬ってサッと撫でた。

「その……わたしの両親についてなのですが」

「両親?」

「はい。スネイプ教授にとてもお世話になったと言っていたものですから、お話をお伺いしてみたいと思っていたんです」

「それは今でなくてはならないのかね?」

「いえ、その……」

 にべもない返事にシャルルはやっぱりダメか、と内心肩を落とした。

「すみません、大丈夫です。お時間ある時にでもお話していただけたら嬉しいです、スネイプ教授」

 綺麗な微笑みを浮かべ去ろうとしたシャルルをスネイプが呼び止めた。

「座りなさい。少しなら時間が取れる」

「本当ですか?」

 顔を輝かせて椅子に座る。スネイプものろのろと腰をかけた。一体どういう心境の変化だろう。

「それで何を聞きたいのだ?」

 

 スネイプは無表情だったが、その瞳に何かを探る色を感じ取った。

「大したことではないのですが、両親とスネイプ教授の関係や思い出など……その、聞いてみたくて。わたし初めて知ったんです。昔親しかったことを。両親もスネイプ教授が教職をしてらっしゃることを驚いていました」

「そうだろうな。卒業してから音信は途絶えていた」

 不安そうな顔を浮かべたシャルルにスネイプは言葉を付け足した。

「我輩はほぼ全ての人間と音信が途絶えていた。誰かと密に手紙を送り合う人間に見えるかね?」

「ああ……」

 大変失礼なことにシャルルは納得の声を漏らした。スネイプが鼻を鳴らす。

 

「思い出話なら両親に聞けばよかろう。本当は何を知りたいのだ?」

 見透かした言葉にドキッとして苦笑いをした。これを聞いてもいいのかしら。両親に伝わってしまうかしら。

「わたしの両親には親友がいたのですよね?」

 スネイプは予想していたように目をスっと細めた。それが何故か尋問されているように感じられ、居心地が悪くて視線を落とす。

「たまに話題に出るのですが、あんまり話したくないみたいなんです。両親の話しぶりからすると、たぶん、もう……。だから両親に直接聞くのは少し躊躇ってしまって」

「…………」

 しばしの沈黙の末に教授は口を開いた。

「ヨシュア・スチュアートとその生徒は大変に優秀だった。常に試験では首位を争っていた」

「まあ。お父様はそんなに優秀だったのですね。誇らしいです」

「ヨシュアは活発で活動的だった。反対にもう1人はもの静かで冷静だった。我輩の性質に合うのはもう1人だったが、気付けばヨシュアにも付き纏われるようになっていた」

「もう1人のお名前は……?」

「何故知りたがる?ヨシュアに聞けばすぐに分かるであろう。ダスティン、いや、ミセス・スチュアートとも関わりが深かった」

 切り捨てる言い方にシャルルはむしろ、言いづらそうな意識を感じ取った。スネイプの目を覗き込んでも、その瞳は黒々として何も読めない。むしろシャルルの頭を見抜こうとしているように感じ、シャルルはサッと俯いた。

「はい、今度聞いてみます。スネイプ教授、お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」

 綺麗に微笑んで優雅に立ち上がる。

「両親の学生時代の話を聞くのは新鮮で楽しかったです。特にお父様が活発だなんて……。ふふっ。良かったらまたお話を伺ってもよろしいですか?」

「……」

 苦々しそうだったがスネイプは僅かに顎を動かしたように見えた。やっぱり彼はスリザリン生には優しい。それとも後輩の娘だから?それとも何かを確かめようとしているから?

「ありがとうございました。犯人、見つかると良いですね」

 そう言ってシャルルは魔法薬学室を後にした。

 両親が隠そうとしている何かをスネイプも知っている。

 

 

 

 レギュラス・ブラック。

 両親が7年生の時の首席であり、両親の代の監督生を務めていた男子生徒の名前。

 シャルルは独自に調査を進めていた。図書室には歴代の監督生達が纏めた資料が、スリザリン寮のプリーフェクト・ルーム(監督生用の部屋)には監督生達や教授たちが残してきた手記や記録などが、そしてトロフィールームには過去の生徒たちの栄光の記録が残っている。

 スリザリンは栄光や功績を好み、正しく評価を得ることを望む。

 先人たちは毎年各学年の首席、監督生、試験首位者、功績者の名を残していた。

 

 父であるヨシュア・スチュアートは、彼が2年生、3年生、6年生の時試験での首位を取っていた。その他の学年はレギュラス・ブラックの名があった。

 彼はスリザリンチームのシーカーでもあり、ヨシュアはチェイサーだった。レギュラスがシーカーに入ってからのスリザリンチームは毎年優勝か準優勝を飾っている。才能ある輝かしい魔法使いだったようだ。

 

 ──両親は何故彼を隠すのだろう。

 

 彼が死んでいるから触れたくないという、傷を庇う意識とはなにか別のものがあるような気がする。

 シャルルは鈍感ではなかった。無関心なだけであって、他人の機微に関しては生まれながらの鋭さを持っていた。他人の内面を暴くことに長けていた。両親だけでなくセブルス・スネイプまでもが、レギュラス・ブラックについて深く言及することを避けている。

 

 図書室から借りてきた『魔法族の興亡と発展』『近大魔法界における有力な家系』『現代の著名な魔法使い』『かつて全てを統べていた 〜ブラック家の滅び〜』を猫足の厳かな石机に積み上げて、暖炉の前を陣取り読み漁っているシャルルに誰かが近寄ってくる気配がした。

 

「難しい顔だな、ミス・サファイア」

 気取った声が背後から聞こえた。

 顔を見なくても誰が話しかけて来たか分かる。

 ゆっくり顔を向けると唇を美しく釣り上げたザビニが、気だるく立って彼女を見つめている。立っているだけでもシンプルにキマるのは彼の利点だ。シャルルをその瞳になぞらえてサファイアと呼ぶのは彼だけだった。

 

「良かったら気分転換に、以前約束したデートでもどう?」

 ニコッとウインクが飛んでくる。カッコいいのにどことなくおどけた仕草に、呆れて気が緩み、笑みを零した。

「やっぱり笑ってる方が素敵だ」

「あなたは喋らないほうが素敵よ」

「こりゃ手厳しいや。お望み通り黙ってエスコートするよ」

 ザビニは肩を竦めて、自信のある笑みで手のひらを差し出してきた。シャルルは手を見つめ、彼の瞳を見上げた。

 ザビニは無言で眉毛をクイッと動かし、釣り上げた唇の角度を高めた。本を閉じて彼の手を取り、「レイジー!この本をわたしの机の上に置いておいて」と言うと、後ろから「かしこまりました」といつもの暗い彼女の声が追いかけてきた。

 

「それで、どこに連れていくつもり?」

「ロマンチックな場所さ」

 キザに髪を軽くかき乱す。湖?天文台?大広間?北塔の絵画の間?脳裏に様々な場所が思い浮かんだが、まだよく知らない男の子と2人でロマンチックに過ごすことへの喜びを見出していなかったので曖昧に微笑んだ。

 シャルルは知的なことや利益のあることが好きだった。ロマンチックな喜びは友人が与えてくれる。

「俺は蛇の精神を理解しているつもりだよ、君を楽しませると約束しよう」

 自信に満ちた言い方でザビニが笑い、組んだ腕を少し引き寄せ、2人の距離が縮まった。シャルルの髪がさらりとザビニの肩を撫でた。

 トレイシーといいザビニといい、スリザリン的な要素を満たした人間はこうも鋭いのかと感心し、同時に自分の分かりやすさに少し恥ずかしくなった。シャルルは自分が微笑みという仮面を常に完璧に被り制御しているという自負があったが、その自負は改めなければならないようだ。もっと訓練が必要だわ、と思った。

 

 

 ザビニが連れてきたのは花畑だった。

 温室から少し離れたところにある、ハッフルパフ寮監のスプラウト教授が管理する花畑は、色とりどりの花を咲かせ始め、4月上旬の爽やかな風がそよいでいる美しい場所だ。

 薬草学の教室や呪文学の教室から見渡す何も無い広い花畑は美しさと自由の象徴のようであり、たまに教室に入る風が授業を清々しくさせるよく知る場所だった。

 なんの魔法的要素のない普通の植物に交じって比較的安易に育てられる薬草などが群生し、目を楽しませる花畑はデートスポットとして人気である。もう少し暖かくなれば色々な寮生が軽いピクニックとして訪れることもある。

「綺麗ね」

 髪を押さえながらシャルルは目を細めた。

 風が柔らかく頬を撫でていく。初春の少し甘い香りがスーッと鼻を抜けていく。

「触れても?」

 ザビニが優しく言った。微笑んで僅かに頷くと、地面から黄色と白と桃色の花を摘んで、ザビニはそっとシャルルの髪を耳にかけ、花を差した。絹のような美しい黒髪に明るい花の色がよく映えた。

「妖精みたいだ。君がいるだけで蕾が花開くような気持ちになるよ」

 シャルルは面映ゆそうにはにかんだ。

 完璧にロマンチックな展開だった。ザビニの求める反応を返しながら、ここからどう挽回するのかしら、とシャルルは内心で推し量っていた。

 

 数秒見つめあって、ザビニはシャルルの手をそっと握った。そして杖を構えて何も無い空間を見た。

 何をするつもり?

 シャルルは怪訝さを表情には浮かべず、気品よく首を傾げた。ザビニは杖を振って何事かの呪文を唱えた。

「────」

 その言葉は意味のある単語として響くことはなく、聞こえているのに理解できない音として、あるいは空気の振動として耳をすり抜けていった。それを問おうとして口を開き、シャルルは目の前の光景にそのまま言葉を失った。

 

 そこには小屋があった。

 

 こじんまりとして少人数しか入れなさそうな、古くなった白いログハウスが包み込むような温かな雰囲気を醸し出しながら堂々とそこに建立していた。壁に蔦が巻き付き、白い花が咲き、屋根は明るい緑色のもこもことした立体的な苔状の植物で覆われ、ピンクの花がついていた。

 丸いドアと丸い窓が可愛らしく、ドアの前にはログハウスと同じく白いチェアとテーブルがいくつか置いてあった。

 シャルルは口を開き、閉じて、また開いて唇を舐めて、ゆっくり言葉を呟いた。

「こ……ここは?」

 あまりにも動揺を隠せていない間抜けな声に自分を殴りたくなった。ザビニが得意げに白い歯を見せる。

「薬草学クラブのハウスだ」

「薬草学クラブのハウス?」

 オウム返しして、いくつかの疑問が湧き上がりシャルルはようやく混乱から立ち直り始めた。薬草学クラブがあったなんて知らなかった。誰もそれの話をしているのを聞いたことがないし、隠されたログハウスの話も聞いたことがない。花畑の話題でこの場所が話題に出たことは全くない。噂すら聞いたことがない。

 ザビニは答えず、シャルルの腰に手を回して軽く押し出した。今までで1番距離が近く、馴れ馴れしい態度だったがシャルルはゆっくりと彼について歩き出した。

 

 ドアを開けると眩しい光が瞳を照らした。ハウスの壁には大きな窓がいくつもあり、明るい日差しが差し込み、奥の机や棚に様々な植物が飾り付けられ鉢植えがたくさん置いてある。奥の方には大きな作業台があり、手前の方には外にあったのと同じテーブルやチェアが並べられ、数人の生徒が入ってきた2人をチラッと見て笑顔を浮かべた。

 セドリック・ディゴリーとチョウ・チャンが作業台で土や鉢を弄っていて、ディゴリーが親しげにシャルルに手を振り、窓際の席に座ってお茶を楽しんでいた名前の知らない誰か達はまた会話に戻っていった。

 ザビニは慣れた様子で空いている1つの席に座った。

「気に入ってくれたかな?」

 謙虚な表情でシャルルの機嫌を伺うようにザビニは言ったが、その口調は確信的だった。

 

 問いただしたいことは多々あったが、シャルルは出来るだけ理性的に振る舞おうと余裕を持って言った。

「あなたが薬草学クラブに入るほど勤勉だとは知らなかった」

 くすくす笑うとザビニは肩を竦めた。

「まさか。あんな退屈な授業俺は興味無いさ」

 ニヒルにそう言い、テーブルの呼び鈴をチリリンと鳴らした。

「お呼びでしょうか、坊っちゃま!」

 パシッ。短い音がしてキーキー声が響いた。薄汚れた肌、みすぼらしい服、異常に腰の低い態度にぎょろぎょろした瞳。ハウスエルフだ。

 これ以上驚くことはないと思っていたのにそれを容易く更新され、シャルルは苦労して冷静さを保ちながらハウスエルフとザビニを交互に見た。

「ドミナティーとスコーンを2人分。ジャムとクロテッドクリームをたっぷりつけてくれ」

「はい、ヴィリーはお2人のために今すぐお持ちします!」

 ニコニコ甲高く喋ってまた短い音を立ててハウスエルフはその場から消えた。

 

「……」

 シャルルは今度こそ沈黙した。

 優雅に欲しい情報を会話をしながら集めるのは大変遠回しに思え、今すぐザビニを問いただしたい衝動としばらく戦い、それを諦めた。好奇心で瞳をきらきらさせてシャルルは少し前のめりになった。

「ここは何?どうやって知ったの?どうしてハウスエルフが?呪文を知れば入れるの?」

「ハハッ。まあ落ち着けよ、ミス・サファイア」

 嬉しそうに笑ってザビニは余裕の態度でシャルルを宥めた。完全にザビニが勝利していた。しかしそんなことはシャルルにはどうでもよかった。ハウスエルフはシャルルがホグワーツで最も駒にしたい生き物だ。彼らは従順で便利で友好的だ。でもホグワーツの厨房の場所をシャルルは知らないし、生徒の前にも姿を現さない生き物なのだ。

「ひとつひとつ答えるよ。他ならぬ君の頼みだから」

 もったいぶって髪を弄るザビニは得意げな色を隠しきれていなかった。

 

「でもそうだな、その前にティータイムを楽しまないか?」

 いつの間にかテーブルにはスコーンとティーカップが置いてあった。

 

*

 

 ドミナティーは精神を抑制させる効果があり、香り立つ赤紫の液体が喉を滑り落ちていく。

 逸る気持ちを落ち着かせ、シャルルはザビニとたわいない雑談に興じた。授業の話とか、グリフィンドールの悪口とか、だれそれのウワサ話だとか……。

 シャルルはふと、あることを聞くのに彼は適任ではないかと思いついた。

「マルフォイ家、ノット家、クラッブ家、カロー家……彼らとパーキンソン家やグリーングラス家の違いはなんだと思う?」

「え?」

 スコーンを切り分け、ザビニは不可解な表情を浮かべた。

「深い意味は無いけれど少し規則性を探しているの。マルフォイ家とディゴリー家、あるいはノット家とパーキンソン家、差異はなんなのかしら」

 これは両親との会話を思い出し、微細な反応を分けて結論づけたシャルルの仮定だった。両親は純血家系を酷く重んじながらも、同時に前者の家系に対して警戒心を抱いているという観察結果を得たが、この違いがわからなかった。

 パーティーにも最近ようやく出るようになったばかりで、所詮両親からの教育や本でしか知識を得ていないから、自分とは違う視点での意見を聞いてみたかった。

「うーん?聖28族というわけではなさそうだし、スリザリンとそれ以外でもなさそうだ。なぜそんなことを?」

「知的好奇心に駆られて」

 冗談めかしてレイブンクロー的な答えを口にするとザビニがニヤっと笑った。そして空中に視線を漂わせ少し真剣な顔をした。

「差異なんてあるか?旧家かどうかでもない、富でもないな……他の寮の出身者……他校の卒業者……。悪いけど思いつかない」

「いいの、面白い視点を得られたわ」

「それは何よりだけど、役に立てた気があまりしないな」

「あなたは十分わたしに恩恵を与えてくれたわ」

 そう言ってドミナティーを一口飲むと正しく意思が伝わったらしく、ザビニがきらきらした笑みで頷いた。

 

 そしてザビニが一泊おいて、とうとう本題に踏み込み始めた。

「ここは薬草学クラブのログハウスで、代々教授が管理しているらしい。ハッフルパフ寮が厨房のすぐ側にあるのを知ってるか?」

 シャルルは落ち着いていた心臓がまたドキドキし始めるのを感じた。

「いいえ……厨房が地下にあるということしか知らなかったわ」

「俺も入り方はまだ教えてもらってないけど、ハッフルパフ生はみんな行き方を知ってる。そしてハウスエルフと最も距離が近いスプラウトがここにも奴らが派遣するよう采配してるんだ。ここは呪文を知ってる奴だけが入れる。そしてログハウスで過ごす仲間が出来るだけ居心地の良い時間を過ごせるように整えられてる。喫茶店風なのもそうさ。学生生活の合間に休憩できるように整えられてるんだ」

「本当に素敵な場所……」

 シャルルは首をくるりと見回した。白と淡いブラウンと柔らかな黄色で統一された空間は確かにハッフルパフ的な優しさと温かさがあった。

 壁に吊り下げられている植物が貴重な魔法植物、サラムであることに気付いて舌を巻いた。まったく常識の範囲外にある空間で心が踊る。

「今日わたしはこの場所を知れたわ。ザビニ、あなたのおかげで……。疲れたとき、ここにまた来れたらいいのに」

「喜んでもらえて嬉しいよ。でも、残念ながら呪文を知らない人間は1人では来れない。そして基本的には薬草学クラブの仲間にしか呪文は明かされない。ハッフルパフは秘めることで守るということをかなりの精度でやってのける寮だ」

 落ちこぼれの寮だと思われがちだが、ハッフルパフは1000年もの間侵入者を許さず、また仲間を守るためにお互いが成すべきことを理解し、手を取り合うことの出来る集団的な寮だ。

 ザビニは少し言葉を溜めた。

 

「でも例外はある。クラブのメンバーは信頼出来る3人までの人間に呪文を教えることが許されてる。たった3人だけだ。そしてクラブに入っていない人間は呪文を他人には教えられないんだ。魔法的な制約が込められた呪文さ、だから俺が君に教えることは出来ない」

 それを聞いてシャルルはあからさまに肩を落とした。これは駆け引きではなく本心から出た反応だった。

 たしかにこんなに素晴らしい場所を誰彼構わず教えたら、一気に秘密は失われてしまうに違いない。入る時に呪文が耳をすり抜けていったのも魔法の効果だったのだろう。

 でも本当にもったいないわ。

 プライヴァシーのないホグワーツでひとりの時間を優雅に過ごせそうな場所は、ここ以外にないのに……。

「また君をここに連れて来る栄誉を俺はいつでも待っているけど?」

 シャルルは僅かに上唇をツンとした。

 ザビニをかなり見直したのは間違いないけれど、こうも浮かれられると少し気に食わない。

 

「機会があったらお願いするわ」

 微笑みながらもツンと言ったが、ザビニはニヤニヤ笑っていた。

「誰に教えてもらったの?」

「2人目の恋人だよ」

 なんでもないことのように言った。ザビニは今3人の女性と付き合っていた。シャルルが把握している限りでは、今でも相手が変わっていないならスリザリンの上級生、レイブンクローの同級生、ハッフルパフの上級生だった。誰が何人目の彼女かは知らないが恐らくハッフルパフの上級生だろう。

「あなたもけっこう顔が広いよね。でも、そんなに厳密に秘められていたのに、よく呪文を教えてもらえたわね」

「信頼されることの簡単さは君もよく知ってるだろ?」

「少しだけね」

「でも君のやり方は少し時間がかかりすぎると俺は思うね。人は何かに夢中になると、驚くほど愚かになる。俺にはシャルルのやり方は向いてない」

 口では褒めながらも、その瞳は高慢な光を帯びていた。

 それを侮辱だとは思わなかった。シャルルは魔法族と時間をかけて信頼と友情を深めるのが賢明な方法だと思っているが、ザビニのやり方が効果的なのは一目瞭然だった。

 事実、全ての寮の純血魔法族と関わりがあり、大体は友人と言える関係になれたと思うが、それでもシャルルはこの場所を知らない。秘密を打ち明けてもらえる存在になるのはとても時間がかかるし、時間をかけるべきだ。

 上級生からまだ1年も立っていないのに、信頼を得て、夢中にさせて秘密を握るザビニはかなり魅力的で有能な男の子に感じた。

 

 彼が欲しい……。

 心の奥底の冷たい部分が囁いた。

 彼は、シャルルの良き「人生の家庭教師」になりうる。効果的で短期的な手段として「恋愛」を操るザビニはシャルルにとって得がたい人物だ。

 シャルルの知る中でここまで実績を出したスリザリン生を他に知らない。

 マルフォイやノットは家柄で信頼を勝ち取っている。パンジーとダフネは恋に振り回されている。ザビニは恋を利用して他人を操っている。

「ザビニ……」

 シャルルは囁いて彼の手にそっと指先を絡めた。シャルルからザビニに触れるのは初めてだった。彼の指先が僅かに震え、彼は目を細めた。

「わたしにあなたのやり方を教えてくれないかしら?」

 きゅうっと絡めた手に力を込めると、ザビニはシャルルの手のひらを持ち上げてキスを落とした。

「喜んで、ミス・サファイア。俺たちは特別な関係になれる」

 シャルルはくすぐったくて身を捩った。ザビニの頬がほんの僅かに期待と達成感で上気しているように見える。ノットの忠告が頭をよぎったが、目の前の利益と秤にかけ、シャルルは彼と関わりを維持することを選んだ。

 シャルルとザビニは意味ありげにしばらく見つめ合っていた……。

 

 



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13 純白の亡骸

 

 イースターが終わるとスリザリン寮は目に見えてピリピリとした雰囲気が流れ始めた。特に上級生はO.W.LやN.E.W.Tの試験が迫り始めている。

 監督生のジェマ・ファーレイはことあるごとに下級生にも檄を飛ばした。

「全員が一致団結して事に当たらなければ、7年連続寮杯獲得という輝かしい栄光は掴めないのよ。今まで以上に邁進して、研鑽して、点をもぎ取りなさい。もし、万が一、スリザリンの足を引っ張る人がいたら…………」

 ファーレイは低い声で「フフッ」と笑った。1、2年生は震え上がって声を揃えて返事をした。

 もう1人の監督生のシーザー・ジェニアスが「もういいだろ」と呆れ声で彼女を引っ張っていく。

「ファーレイとスネイプの機嫌を損ないたくなきゃ、お前たちも蛇として自覚ある行動を取れよ。最近杯の砂の増え方が鈍ってる」

 なぜ俺がこんなことを言わなきゃならないんだ?とブツブツ言いながら監督生たちはいなくなった。完全にジェニアスが世話役になっているようだった。

 張り詰めていた糸が緩む。普段下級生を脅迫する役割はジェニアスがやっていて、彼はこれを酷く楽しい遊びだと認識していたようだったが、今日はその役割が反対になったらしい。

 

「あんなに思い詰めなくても、グリフィンドールはもう終わりだ。寮対抗レースから脱落したも同然だよ……」

 2人の後ろ姿を見ながら、歌でも歌うような口調でマルフォイが言った。

 今週ずっと彼は上機嫌で、日課のポッター弄りにも行かないくらいの浮かれようだった。すぐさまパンジーが猫撫で声を出した。

 

「もういい加減に教えてくれたっていいじゃない、ドラコ。気になって夜も満足に眠れないのよ」

 パンジーは美容のために誰よりも早く寝ていた。

「楽しみは後に取っておいた方がいいだろう?君だってサプライズは好きだろ?」

「でも、そんなに焦らされちゃたまらないわ!」

 手を組んでうずうずと体を揺らしたパンジーの言葉に他の生徒も頷いた。みんな内心知りたくてたまらないのだ。マルフォイに少々虚言癖があり、思わせぶりで目立ちたがりなのは自明の理ではあったが、ここ最近の彼の態度や、自慢したがりなのにそれを秘めていることを鑑みるに、彼が本当になんらかの致命的な秘密を握っているのは確実だった。

「くだらない。あの博愛主義者が簡単に生徒を追放なんてするわけない」

 冷めた声のノットにも彼は機嫌良く眉毛を上げた。

「森番は杖を折られた。まあポッターの追放は厳しいかもしれないが、森番のアズカバン行きは確定だよ。その時が待ち遠しい」

 

 アズカバン行き?

 

 離れたところで白けた顔で熱心に爪の状態を確認していたダフネが目を丸くしてシャルルと顔を合わせた。パンジーの好奇心は今にも破裂しそうで、ノットも予想外のことに少し言葉を失った。

「それは……」

「ああ、喋りすぎたな。これは聞かなかったことにしてくれ」

「さすがに盛りすぎなんじゃないか?」

 半笑いでザビニが言った。「いくら狡猾で理知的なマルフォイお坊ちゃまとは言え……なあ?あんまり大きなことを言っていると信頼を失うぜ?」

「黙れ、ザビニ。そんな口を叩けるのも今だけさ」

「これは失敬」

 おどけて肩を竦め、癖っ毛の黒髪をくるくる触った。皮肉った彼だけれども、しかしその瞳は面白そうにマルフォイの様子を観察している。

 

「ま、楽しみにしていてくれ。愉快な結末は約束するよ」

 自信満々な様子に、シャルルはハリー・ポッターになにか忠告をした方が良いのではないかと不安になった。

 彼が調子に乗って口を滑らせてくれることを期待したが、やはり魔法界の旧い貴族の家らしく、情報の扱い方の教育は受けているようだ。拙い部分も多いがそれは愛嬌だろう。

 

 

 数日ほどシャルルはハリー・ポッターと愉快な仲間たちとの接触を測ろうと機会を伺っていたけれど、彼らはなにやら忙しい問題を抱えているようで、城の中で見かけることは少なかった。

 少し前までは図書室に入り浸り、小声で賑やかに勉強をしたり、大広間や教室でたむろしていることが多かったのに、今は顔を突き合わせてヒソヒソしているかと思えばマルフォイを見て逃げるようにどこかへ去ってしまう。

 マルフォイが彼らの秘密を握っているのは本当なんだわ……。

 彼らの態度はあまりにもあからさまだった。

 そんな3人の様子を見るたび、マルフォイは腹を抱えて転がりそうな顔をなんとか取り繕ってにやにやと満足そうにしていた。

 

 木曜日の朝、眠い目をこすってもそもそ朝食を食べるシャルルの隣に興奮した様子のダフネが座った。

「ウィーズリーの腕、見たっ?」

「今来たばかりなのに見るわけないじゃない」

 シャルルは不機嫌な声を出した。彼女の寝起きが悪いのはいつものことなので、ダフネは気にした様子もなく赤いネクタイの集まる方を指さした。

「ねえ見て。何があったのかしら。あれがマルフォイの言ってたこと?」

 ノロノロと振り返り、ウィーズリーを視界に入れたシャルルは息を飲んだ。彼の左手は2倍ほどに腫れ上がり、包帯で隠し切れない肌は真っ赤になっていた。

 痛々しくて顔を歪める。

「どうやったらあんなことになるの?」

 ダフネは好奇心と面白さの滲む声をしていた。スリザリン生も彼を見て嬉しそうにウワサ話をしている。マルフォイなんかは意味ありげに頷いていた。

 

 どうしてみんなあれが面白いと思えるの?

 

 シャルルは悲しかった。

 どんな相手であれ、怪我をしてざまをみろと思うほどシャルルは冷酷ではない。あの怪我をしているのがマグル生まれだったとしても、特に興味が湧かないだけで可哀想だとは感じる。

「森番と仲がいいなら狼男にでも噛まれたんじゃないの?」

「狼男!?」

「禁じられた森にいるってウワサ、知らないの?」

「まさか!人狼なんて危険な生き物放置してたらどれだけ被害があるか……。だって生徒が森に入るのを禁じられているだけで、森の中の生き物が外に出るのを禁じられた森じゃないんでしょ?もし本当に居たらダンブルドアは頭がおかしいわよ」

 驚愕して小声でシャルルは叫んだ。ダフネは真顔で言った。

「今更どうしたの?ダンブルドアは狂ってるわ」

 シャルルは冷静さを取り戻した。

「そうだったわね」

 2人はまた食事を再開させた。

 

 授業が終わり、ランチの頃にはロン・ウィーズリーの手は泥を混ぜ合わせたような汚い緑色になり、医務室へ搬送された。

 かなり痛むようで、ポッターとマグル生まれの魔女が悲鳴を上げるように付き添い、ウィーズリーは懸命に耐える勇者の顔をしていた。手は緑色だったが。

 無責任な好奇心が彼らを見送り、ホグワーツ1の厄介者、双子のウィーズリーは目をきらきらさせて顔を見合わせていた。どうやら新しい悪戯の着想を得てしまったようだった。

 

 シャルルは夕食のあと医務室に見舞いに行った。

 もちろんダフネやトレイシーには黙っていた。ダフネは無関心に柔らかく微笑むだろうけれどいい思いはしないだろうし、トレイシーは笑顔で評価を下げるだろう。マルフォイなんかに見られた暁には「正気か!?」と叫ばれるかもしれない。

 「血を裏切る者」であるウィーズリーに対する嫌悪感は凄まじい。

 

 シャルルも思うところが無いわけではない。愚かで穢らわしいマグルを庇うのは理解し難いし、マグル生まれと深く関わりたがるのもどうかと思っている。

 でも彼らは純血だ。

 しかも聖28族だ。

 マグルの血が限りなく薄い、純血の中の選ばれた尊い純粋な純血家系はもう28家系しか残っておらず、世代を重ねるにつれてマグル生まれが増えている魔法界にとって、それを維持するのは並大抵の労力ではない。

 その中で聖28族に数えられるほど濃い血を保ってきたウィーズリーをシャルルは他の純血家系と同様に尊重している。

 マグルフリークと悪名高いアーサー・ウィーズリーでさえ、モリー・プルウェットという今は失われた高貴な純血子女と血を結んだ。彼等は誇り高い魔法族の矜持を失ってはいないし、きちんと自覚を持った純血魔法族だと思う。

 そして何より彼らはマグルに興味が無い。ただ、人を大切にするだけだ。

 だからシャルルは彼らが好きだった。純血の魔法族は全員尊重していた。

 

 医務室には誰もいなかった。

「あらあらどうしたんです?体調が悪くなったの?」

「いえ、お見舞いに。ロン・ウィーズリーの」

 マダム・ポンフリーはシャルルの緑のローブをジロジロ眺めていたが、手に持ったお見舞いの品を軽く持ち上げて見せると諦めて小さく息をついた。

「まだ治っていませんから、10分だけですよ」

「ありがとうございます、マダム・ポンフリー」

 

 ウィーズリーはうとうとしていたが、誰かが入ってくる気配を感じて目を覚ました。その誰かがシャルル・スチュアートだと気づくと、目をぎょっとさせて跳ね起きた。

「な、な、何しにしたんだよ!」

「何しにって、お見舞いに来たの。腕は大丈夫?」

 まだ緑色の手に心配の滲む眼差しを受けてウィーズリーはたじろぐ。しかし授業終わりに来たマルフォイに秘密を握られたばかりの彼は警戒心をあらわにしてシャルルを睨んだ。

 

「君には関係ない。帰れよ、スチュアート。もう君が望む情報はとっくにマルフォイが持っていったよ」

「わたしが望む情報?」

「しらばっくれるなよ!ほんとに忌々しい奴だな」

 なぜそこまで言われなければならないのだろう、と少しムッとするが我慢して微笑んだ。

「マルフォイがここへ来たの?彼、何かを企んでるみたい。グリフィンドールはもう終わりだって最近嬉しそうにしてるのよ。内容は誰にも言ってないみたいだけど、気をつけた方がいいわ」

「……」

 目をぱちぱちさせて、それから怪訝そうな顔をした。

「何を企んでるんだ?」

「何にも企んでなんかいないわ。わたしはあなた達にけっこう親切だと思う。前も忠告してあげたでしょう?」

「たしかに……。でも騙されないぞ。ヨシュア・スチュアートが前の大戦で多くの死喰い人を庇ってきたというのは有名なんだから」

 シャルルは微笑みを維持するために拳を握って全神経を集中させなければならなかった。そうでなければすぐさま杖に手をかけてしまっていただろうから。

「わたし……もう行くわ。お大事に」

「もう来なくっていいよ」

 ガタン。椅子を鳴らして立ち上がりシャルルは去った。医務室を出た瞬間シャルルから笑顔が消えた。

 彼は純血、彼は純血、彼は不正を許さないゴドリックの誇り高い精神を受け継いでいるだけ、あれはグリフィンドールらしい性質が強いだけ、彼は純血…………。

 自分に言い聞かせて深呼吸する。なんとか怒りを抑え込むことに成功した。大丈夫。ウィーズリーを許せる。もう怒ってない。

 

 ヨシュア・スチュアートは死喰い人を庇ったわけではなかった。純血家系を庇ったのだ。父親は死喰い人が好きではなかったし、屈していない。誘いも蹴ったと言っていた。

 反ヴォルデモートだけれどそれを声高に言うほど愚かじゃないだけよ。

 

 そして次の朝、グリフィンドールから150点が失われていた。

 

 

 噂が流れた……ハリー・ポッターと愉快な仲間たちがバカなことをして、一夜のうちに大減点されたと。クィディッチのヒーローが調子に乗って全部を台無しにしたと。

 

「だから言っただろう?グリフィンドールはもう終わりだって」

 マルフォイはポッターとは真逆に、一夜で大ヒーローになった。20点の減点なんて目じゃなかった。なんてったって、スリザリンの寮杯獲得は確定的になったのだから。

「次はバレないように出来ればなお完璧ね」

 そう言うジェマ・ファーレイも笑顔で、賞賛と喜びが込められていた。

 

 ハリー・ポッターは学校中の嫌われ者になってしまったが、スリザリン生だけは彼らが大好きになった。

 ポッターを見かける度に学年に関わらずみんな拍手を送ってお礼を言うのが日課になり、彼らが姿を見せる度に歓声と賞賛が響く。

 スリザリン生がグリフィンドール生をここまで好きになるのは、長い歴史の中でも史上初と言えただろう。

 スネイプも毎日上機嫌に見えた。

 シャルルはさすがに拍手を送るような真似はしなかったが、つい笑みを零してしまうのは抑えられなかった。

 いつもの3人組は人目から隠れるように俯きがちになり、栗毛の彼女は授業中発言を止めた。グリフィンドールはますます点を取れない状況になり、シャルルやマルフォイ、ノットによってますますスリザリンの得点は伸び続けていた。

 歓迎すべき状況にシャルルはひそやかに笑っていたが、グリフィンドールの中でネビル・ロングボトムも無視されていることだけはとても気がかりだった。

 

 

 

「ドラゴン?」

 談話室でパンジーの甲高い声が響く。ざわめきが広がった。

「さすがにそれは簡単に信じられないわ。贔屓とかで許される問題じゃないじゃない?」

 戸惑うようなダフネにノットも同意した。

「いくら狂ってるからって程度がある」

「もう少し信憑性のある話をしてくれよ。充分賞賛は浴びたじゃないか」

 ザビニが宥めるように言う。バカにし切った表情だったが、マルフォイは鼻を鳴らすだけで済ませ、せせら笑った。

「奴はアズカバン行きになると言ったのを聞いてなかったのか?まあ証拠を掴む前にルーマニアに送られてしまったから、逮捕はさせられなかったが……」

 

 マルフォイが言うにはこうだった。

 森番が犬小屋でドラゴンの卵を孵し、こっそり育てていたのを、ドラゴンキーパーをしているウィーズリーの兄がこっそり引き取って行ったと。

 そしてそれを密告し、3人は深夜徘徊がバレて150点引かれたが、その時もう既にドラゴンは旅立ってしまっていたと……。

 

 現実味の薄い話にみんな少し言葉を失った。

 マルフォイは卵が孵るのを目にしたという。

 

 もし本当にドラゴンを孵し育てていたのだとしたら、森番は狂っているし、ダンブルドアは間抜けだ。いや、どうせわざと見逃していたに決まっている。犯罪を公然と見逃すなんて彼のグリフィンドール贔屓は際限がない。

「信じ難い……ドラゴンが孵るのを見ただって?しかもノルウェー・リッチバック?悪夢の方がまだ現実的だ」

 ノットは顔が固かった。そうなるのも分かる。本当だったらとんでもないことだし、本当じゃない方が話が通る。

 

「わたしは有り得そうだと思うわ」

 シャルルが言うと視線が集まった。マルフォイも驚いたように目を開いている。

 

「マルフォイの話が真実ならダンブルドアと森番の狂気を数段階上方修正しなければいけないけれど、確かにポッター達は最近マルフォイの視線に怯えていたし、ウィーズリーの怪我は普通じゃなかったわ。ただの呪いならマダム・ポンフリーが治癒に手こずるわけがない。生徒のペットで危険な生物はいないし、あの怪我はマダムでも時間がかかるくらい強力な魔法生物によるものだったのよ」

 

 シャルルは一旦言葉を止めて、顔を見回した。

 

「ノルウェー・リッチバック種はM.O.M分類でXXXXXに該当する危険種で、孵化してからすぐの段階で火を吹き、牙には致命的な毒を持つ。あの緑に腫れ上がった手を見たでしょ?あれがドラゴンによるものっていうのは、十分、あり得ると思うわ」

 シャルルは肩を竦めて唇を舐めた。マルフォイが嬉しさの滲む笑顔を浮かべた。彼と笑顔を交わすのは随分久しぶりだった。

「君がフォローしてくれるなんてね、スチュアート。彼女の言った通りだ。信じなくてもかまわないが、事実は小説より奇なり、とは言ったものだろう?」

 マルフォイは完全に楽しんでいる様子だった。談話室の雰囲気は、今や完全にマルフォイの望んだものになっていた。

 

 

 学校はますますポッター達に敵対的な環境に変化して行った。

 他の3寮から嫌われて孤立するのが、スリザリンではなくグリフィンドールだなんて、歴史の中でどれだけあるのだろうか。この雰囲気の中ネビル・ロングボトムに親しげに話しかけるほどシャルルは愚かではない。

 でも敵対しているようには思われたくなかった。

 だからシャルルは毎日メッセージカードを送っていた。

 始めのうちは頑なだったネビルも、段々安堵の表情を浮かべ、たまにスリザリンの方をちらっと見た。目が合う度にシャルルは温かく微笑んだ。

 敵対的な環境の中でネビルが疲弊しているのは明らかだった。

 シャルルは弱った人間を懐柔するために有効な手段を知っていた。

 

 ある朝フクロウで彼から返事がきた。

 

「シャルルへ

 この前は、庇ってくれたのに突き放すような言い方をしてごめんよ。

 いまも毎日手紙をくれてすごくうれしい。

 落ち着いたら、また僕と友達になってくれる?」

 

 シャルルはこう返した。

 

「当たり前じゃない。

 誰があなたを嫌っても、わたしだけは友達よ。」

 

 青い瞳がきらきらして宝石のように瞬いていたが、その純粋な笑顔の下には同時に邪悪さも隠れていた。

 

 

*

 

 深夜、シャルルはフッと目を覚ました。

「パンジー?」

 隣のベッドへ囁きかけても、なんの返事も帰ってこない。そっと抜け出してパンジーの天蓋を開いてみると、案の定そこは空っぽだった。

「だから無理よって言ったのに」

 仕方なさそうに呟き、シャルルはベッドの毛布を引き抜いてマントのようにもふっと羽織った。音を立てずに女子寮を抜け、冷たい談話室を見回すと、暖炉が明々と燃えていた。

 少し弱まった火の前で、ソファに横になってくぅくぅとパンジーが寝息を立てている。

「起きてよパンジー」

 軽く揺すったり、頬をつついてみる。「ううん……」と嫌そうに身を捩り、さらに深い寝息を立てる。

「しようのしない子ね」

 暖かい苦笑いを零し、シャルルは持ってきた毛布を掛けてやり、ソファの隙間に腰掛けた。談話室の見事な古時計が日が変わったことを指し示している。

 

 マルフォイは英雄的な150点の代わりに、20点の減点と罰則を受けていた。パンジーは彼が帰ってくるのを待つと言って聞かず、引き留めるのもかまわず談話室でひとりきりで待っていた。

 しかし彼女は部屋の中でいちばん規則的な生活をしていたので、深夜になって耐えられず寝てしまったのだろう。

 こうなると分かっていたから止めたのに。

 シャルルは穏やかに笑いながらパンジーの艶のある黒髪をゆっくり撫でた。炎に照らされて天使の輪がうるうると揺れた。

 部屋に戻るか迷ったけれど、せっかくならこのままマルフォイの帰りを待とうと思い、いつの間にかシャルルもうとうとと睡魔に誘われていた……。

 

 

 

 踏み鳴らすような激しい足音でシャルルは目を覚ました。マルフォイが帰って来たらしい。

「信じられない!ダンブルドアは何を考えてるんだよ!」

 何やらブツブツ叫んでいるが、その声は酷く震え、ほとんど掠れていた。苛立ちに叫ぶと言うより悲鳴を上げているようで、シャルルは体を起こした。

「なにがあったの?」

「スチュアート……待っていてくれたのか」

 マルフォイはシャルルを見ると目を見開き、頼りなく眉を下げた。酷く安堵した表情は、まるで今にも泣き出しそうに見えた。

 

「ねえ、本当にどうしたの?」

 びっくりして慌てて彼に駆け寄る。彼はかなり激しい呼吸をしていて、ただでさえ青白い顔をさらに真っ白にして震え、恐怖に満ちた顔をしていた。

 氷のように冷たくなっている彼の手を握り、反対の手で背中をさすりながら暖炉に引っ張って座らせる。触れられたマルフォイはビクッと体を硬くしたが、無視して隣合って座った。

 暖炉の前で彼はしばらく無言で唇を引き結んでいた。

 シャルルはマルフォイと手を繋いだまま、その手を優しく撫でて彼が落ち着くのを待った。

 やがて、だんだんと彼の震えが収まり、てのひらに温かさが戻り始めた。

 

「……大丈夫?」

「ああ……」

 

 マルフォイはまた黙り込んだ。シャルルは背中を撫でながら、パンジーを揺り起こした。

「ねえパンジー、起きて!マルフォイが戻ったよ。パンジー!」

「起こさなくていい」小さな声でマルフォイが言う。

「でも……。パンジーはあなたの帰りをずっと待ってたのよ」

「分かってる」

「そう……」

 

 マルフォイが緩んだシャルルの手を、縋るように強く握った。心臓がドキッと音を立てる。彼はまだ思い詰めたような顔をしていた。常に自信に満ち、嘲笑を浮かべて格好つけている彼の弱々しい姿に、なぜかソワソワして落ち着かなくなる。てのひらをまた優しく握り返すと、肩の力を少し緩めて、マルフォイはゆっくり口を開いた。

「僕達はフィルチに、禁じられた森に連れていかれたんだ……」

 

 

*

 

 

 玄関に集められた僕らは、ポッター達と合流してフィルチの後をついて行った。始まる前からロングボトムはずっとグズグズ泣いていて笑えたよ。

 フィルチは生徒を天井に吊るすだとか体罰がどうとかごちゃごちゃ脅してきたけど、そんなのが許されるはずがない。

 僕らは歩いた……広間を出て校庭に連れられた。真っ暗な中を歩かされて、この時点でおかしいと思い始めた。普通罰則っていったら校内だろ?

 嫌な予感が胸の中をぐるぐるし始めた……そしてそれは間違っていなかった。

 歩いていたら闇の中で明かりがぽつんと見えた。

 森番の小屋だ。あの半巨人が僕らを待ち構えてたんだ。

 

 フィルチがにやにやしながら、「森の中に行く」と言った。

 信じられるか?真夜中に禁じられた森に行くだって?

 一瞬自分の頭を疑ってしまったよ。でもおかしいのは僕じゃない。

 僕は断固として抗議した。罰則と言ったら書き取りやトロフィー磨きだとか、そういうものだろって。森に行くのは召使いの仕事だ。僕らみたいな高貴な血を持つ人間の仕事じゃない。

 だがあのデカブツは「これがホグワーツの流儀だ」とか意味の分からないことを言って……話が通じないんだ。狂ってると思ったね。マトモな奴が誰一人として居ないんだ。ロングボトムは悲鳴を上げたしポッターもグレンジャーも怯えてるくせに、ただ言いなりなんて馬鹿げてる。

 しかもあいつは「今夜やろうとしてる事は危険なんだ」と言って森に入り始めた。

 危険だと分かってるのに僕達を連れていくなんて正気の沙汰じゃないよ!禁じられた森は禁じられているからそういう名前なんだろ……昼間でさえ安全じゃないのに、真夜中にわざわざ危険に踏み入れるなんて頭がおかしいとしか思えない!

 でもそれが分かってるのは僕だけなんだ。

 僕は結局狂った奴らと狂った場所に足を踏み入れざるを得なかった。

 

 そこからはもう狂気に満ちていたよ。今思い返しても狂ってる……。

 あの森番が何をさせようとしたか分かるかい?

 

 奴は僕らにユニコーンの死体を見せた。そう、神聖さの象徴とされるユニコーンだ。銀色の血がぬらぬら光って、大きな体がぐったり横たわっていた……。

「何者かが何日も前からユニコーンを襲っている」と奴は言った。僕は当然「そいつが僕らを襲ってきたらどうするのか」と尋ねた。

 あいつやあいつの犬のファングといれば、森の中の生き物は襲って来ない、そう言ったから僕はファングとロングボトムと森を見廻ることになった。でもあの犬はとんでもない役立たずだった。臆病でビビりなんだ。僕は泣き虫でノロマで役立たずの荷物を2つも抱えて歩き回る羽目になった。

 

 少ししたら随分森に慣れ始めた。僕がしっかりするしかないからね。それに最初は大したこと無かった。

 点々と銀青色の血が垂れているのを見つける度ロングボトムは転んだり、泣いたり、風の音だけで悲鳴を上げるからもうウンザリしたよ。

 それでちょっと面白いことを思いついてね……。

 僕はほんの少し足を止めた。ノロマは気づかず進んで行った。その後ろからこっそり……「Boo!」と軽く掴んだら、ロングボトムはもんどり返って、泣き叫びながら赤い光を打ち上げた。緊急信号だよ。何もあそこまで驚かなくたっていいのにな。ハハ、思い出すだけで笑える。あの無様な様子ったら!

 

 そんな顔するなよスチュアート。

 ほんとに軽いおふざけさ。あいつがグリフィンドールのくせにどれほど弱虫かは君だって知ってるだろ?

 まあそれで森番がやって来て、ペアを交代することになった。

 僕はなんとあの忌々しいポッターと組むことになった。それだけは下手を打ったと思ったけど、すぐ考えが変わった。あいつの無様な顔を見られるのも悪くないってね。

 

 とりあえずポッターをおちょくりながらまた夜の森を進んだ……。遠くで獣の鳴き声が聞こえる気がした。あの森に狼男がいるのは本当だよ。ダンブルドアは何を考えてるんだか本当に分からない。全く忌々しい。今に父上があの老いぼれを追い出してくれるはずだ。今日のことも絶対に抗議してくれる。

 狂ったダンブルドアめ……。

 

 しばらく歩いたらポッターがユニコーンを見つけた。当然死んだユニコーンだ。生徒に死体を探させるなんて倫理観はどうなってるんだ?それがホグワーツの教育なのか?

 

 言葉を失ってそれを見ていると、突然不気味な音が響いた……。何かを引きずる様な……滑るような……何かが近づいてきた。ユニコーンを殺した何かが……。

 僕は動けなかった。

 とんでもなくおぞましい光景だった。全身真っ黒で、フードで顔を覆い隠した影がユニコーンに近づいて、死体に口をつけた……。

 あいつはユニコーンの血を飲んでいたんだよ!

 

 僕はすぐさまそいつから距離を取った。賢い魔法使いなら必ずそうする。ファングと一緒に森を駆け抜けて、とにかく僕は安全な場所を探した。

 振り返るとハリー・ポッターがいなかった。

 あいつにやられたんだ……そう思った。僕は喜ぶ前に背中が冷たくなってとにかく走った。次は僕達の番だ。

 

 必死に逃げて小屋に戻り、しばらくして森番とアイツらが戻ってきた。ポッターは死んでなかったよ。死ねばよかったのに。苦痛に満ちたおぞましい死になることは間違いないけど、英雄にはお誂え向きなんじゃないか?

 ハア、分かったよ、そんな顔するなって。

 ポッターは森の中でケンタウロスに助けられたらしい。あの森の中はどうなってるんだ?一刻も早く封鎖すべきだ。今すぐに!

 

 あの森番は大した説明もなく「今日はこれで終わりだ」と解散させた。僕らはただ恐怖を与えられただけだ。おぞましい目にあっただけだ。全く、心の底から狂ってるよ……。

 マクゴナガルが考えた罰則には思えない。あいつは頭が固いから禁じられた場所に行かせようとは考えないはずだ。かと言ってフィルチにも森番にも罰則を考える権限はないはず。

 もう分かるだろう?

 ダンブルドアだ。あいつら、僕らを殺そうとしてる…………。

 

*

 

 



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14 たとえ理想に過ぎなくても

 

 語り終えたマルフォイはゆっくりと唇を舐めた。

 背筋にずぞぞ〜……っと冷たいものが這いずるような悪寒を覚え、シャルルは思わず自分を抱き締めた。

 重たい沈黙が降り積もり、暖炉だけがごうごう音を立てている。

 何かが這い寄るような不安をシャルルは感じていた。ただおぞましいのとは違う、何かに気付きかけている嫌な予感で、シャルルの心臓は冷たく高鳴っていた。

 

「……ユ、ユニコーンは……」

 自分の声が上擦っているのを自覚して、息を整えて口を開く。脳内を整理するような呟き声だった。

「ユニコーンは敬意を払うべき神聖な存在よ。穢れを癒し、命を癒し、その血はたとえ死の淵にいる命であっても回復させることが出来る……」

 シャルルは手に力を込め、マルフォイが微かに体を揺らした。

「けれど純粋で神聖で穢れのない彼らを代償にした対価として、その存在は永遠に呪われる……生きながらの死……」

 考えるほどに鼓動がますます大きくなっていく。

 

 ユニコーンが傷付けられるようになったのはここ最近の話。それは、何者か衰弱した邪悪な存在がホグワーツに潜むようになったことを意味する。

 いや、森にいる他の存在……例えば人狼やケンタウロスがユニコーンの血を覚えた可能性も……。でもそれなら森番やダンブルドアがすぐに処理出来るはず。ダンブルドアはもう半世紀以上もホグワーツにいるのだから。

 

 ドクッ。ドクッ。

 自分でも何をこんなに恐れているのか分からない。

 思考を巡らせ、自分の漠然とした不安を理論化しようと深く深く感覚を研ぎ澄ませていく。

 

 邪悪な存在がいつまでもユニコーンの血を啜って生き残れるはずがない。

 そもそもなぜわざわざダンブルドアのいるホグワーツに?ユニコーンは神聖な森にしかいないけれど、探せば生息地はいくつかある。そこまで思考する脳がない?余裕が無い?元々ホグワーツに居た?それともホグワーツに来る理由があった?長く生きるつもりがない?短い間だけの手段?

 

 何故かふと、3人組が脳裏をよぎった。

 ポッターとウィーズリーとマグル生まれが探していた……。

 

「ニコラス・フラメル!」

 シャルルはほぼ悲鳴のような金切り声を上げた。心臓が握り潰されそうなほど激しく収縮し、頭の先から血が凍っていく。

 

 賢者の石?

 まさか。そんな。いくらなんでも思考が飛躍しすぎてるわ。まさか。ありえない。

 背筋がゾワゾワしてシャルルは歩き回った。

 

「スチュアート!どうしたんだ?」

 

 落ち着いて考えなくちゃ。物事を多面的に見なければ正しい答えは見つけられない。

 事実はユニコーンが殺されていること。最近になって襲撃を受けていること。森を守護するはずの森番がまだ対処出来ていないこと。人型をしていてローブで顔を覆い身を隠す知能があること。マルフォイの目からは血を啜っているように見えたこと。

 

「僕の声が聞こえていないのか?おい、スチュアート?」

 

 可能性は。森にいた存在が死にかけてユニコーンの血の味を覚えた。ホグワーツの近くにいた何者かが衰弱して近くの森に逃げ込んで来た。ホグワーツに何らかの目的がある何者かが身を潜めている……。

 

「スチュアート!」

 

 肩を強く掴まれてシャルルはビクリと震えた。顔には焦りと恐怖が滲んでいた。

「大丈夫か?君がそれほど動揺するとは思わなかった……」

 困惑と後ろめたさの混じった表情で、今度はマルフォイが躊躇いがちにシャルルの手を包み込んだ。シャルルの手は微かに痙攣していた。

 シャルルは目を伏せて息を落ち着けるように深呼吸した。

 その姿は酷く儚げで、華奢な肩や手の中の指先があまりにも頼りなく見えて、マルフォイは何故か無性に……何かが掻き乱されるような感覚を覚えた。

 その感覚を掴む前に彼女は弱々しく微笑んで、「もう平気よ」と言った。誰から見ても平気には見えなかったが、シャルルはマルフォイに挨拶をして自分の部屋に戻っていってしまった。

 

 ポッター達に話を聞く必要があるわ……。

 

*

 

 次の日、シャルルはポッター達の元に突撃した。金曜日は午前いっぱい魔法薬学の授業がある。ドキドキして気がそぞろになり、いつもより3回も多くお小言を貰ってしまった。

 友人たちを先に行かせ待ち構え、教室から出てきたポッター達の腕を掴んでずかずか歩き出したシャルルに「一体なんだって言うんだ!」「ほら見たことか!本性を現した!物陰に連れて行って何をするつもりだって言うんだか!」「その手を離しなさい!貴方らしくないわよ!」とかごちゃごちゃ言う声が投げかけられたが、それを全部無視して近くの空き教室に3人をぶち込んだ。

 鍵をかけて、さらに「コロポータス」と「鍵除け呪文」、さらにお父様から教えていただいた秘密の話をするための有用な呪文をいくつか掛けていく。

 準備を整え振り返ると、3人が不安や怯えの滲む敵対的な表情をしていた。

 

「あら。ごめんなさい」

 口から出た謝罪は彼らには随分軽く聞こえた。ウィーズリーが歯をむきだしにして怒鳴る。

「何のつもりだ?こっちは3人、君は1人、それに僕らには学年1の天才魔女がいる!やり込められるのは君だぞ!」

「まあ!」

 天才魔女とやらが嬉しげな声を上げてウィーズリーの横顔を見た。シャルルは宥めるような笑顔を浮かべた。

 

「わたしは暴力にすぐ訴えない。それに今日はいくつか聞きたいことがあるだけ。ハリー・ポッター」

「ぼ、僕?」

 シャルルと話すのはいつもウィーズリーだったので(話すと言うよりは一方的に怒鳴られるコミュニケーションだったが)、彼は不安そうな顔をした。

「昨日罰則で禁じられた森に行ったんでしょう?それで、ユニコーンの死体と、黒いフードの誰かを見つけたって聞いたわ」

 

「それが何だい?」固い声だった。「マルフォイがなんて言ってたか当てて見せようか?僕が死ななくて残念だとかなんとかだろ?」

「アー……」その通りだったので言葉を濁して話を先に進めることにした。

 

「それより、その何者かが血を飲んでいたって言うのは本当なの?神聖なユニコーンの血を……呪われてでも生きたい誰かがいたっていうのは?」

 顔は相変わらず完璧に微笑んでいたが、ハリーにはその声に恐怖の色が混じっているように聞こえた。怪訝に思い顔をまじまじと見つめる。

 何が言いたいんだろう。

 彼女はスリザリンだし、禁じられた森にも行っていないんだから関係ないはずだ。

「どうなの?ポッター」

 急かすように言われ、ハリーは頷いた。

「飲んでたよ。マルフォイの見た通りだ……。それで君は何故そんなことを聞きたいんだ?」

 警戒心が高まって、突っかかるような口調で言った。ケンタウロスのことや、ヴォルデモートのことは言うつもりがなかった。スリザリンの奴らはヴォルデモートの復活を知ったら喜びの祝杯を上げるだろうから。

 スチュアートは顔を顰めて呻き声を上げた。

 

「以前あなた達はニコラス・フラメルのことを調べていたよね?もう彼のこと見つかった?」

 彼女は突然明るい声で世間話をするみたいに話を変えた。しかし、話は変わっていない。ハリーはロンとハーマイオニーとサッと視線を交わしあった。

 上手く言えないが、危険な話の流れだ。

 ロンが突き放した。

「もう見つかったよ。君の出しゃばりは必要ない」何故かハーマイオニーが顔をしかめた。

「そう、見つかったのね。何でニコラス・フラメルのことを調べていたの?」

 ハグリッドが口を滑らせたからだけど、それを彼女に言う必要はない。彼女は何かを明らかに詮索しようとしている。不気味だった。

「どうだっていいだろ!それで、もういいかい?僕らは君と違ってスリザリンの奴らと話すほど暇じゃないんだ」

 

「もしかして──」

 スチュアートの顔が大きく歪んだ。

「もしかして、ホグワーツに賢者の石があるの?」

 

 ハリーは凍りついた。後ろでロンとハーマイオニーが息を飲む音が聞こえた。

 スチュアートは諦めたように苦く笑った。

「あるのね……」

 

「な、なんで知ってるんだよ」

 ウィーズリーが完全に恐怖に満ちた声を出した。まずいことになったぞ──そんな心の声がそのまま聞こえてくるかのようだ。

「わたしはあなた達を見て仮説を思いついただけだもの。あなた達こそ、よく見つけたわね」

 3人は後退りして顔を見合わせている。シャルルは肩を竦めた。1年生でも分かったんだから、他の人も知っているだろう。

 そして賢者の石が学校にあるなら、それを手引きしたのはどうせダンブルドアなのだから、後始末もあの老耄(おいぼれ)が付けるだろう。

 賢者の石とかいうとんでもないものをホグワーツに持ってきて暴かれている時点でやはり気狂いだと確信はできるけれど、それなら先生方も把握しているはずだし、ハグリッドからユニコーンの話も聞いているはず。

 急速にシャルルの気持ちが落ち着いてきた。

 むしろ何をそんなに焦って怯えていたのかと恥ずかしさすら浮かんできた。感情に振り回されて思考力を失うなんて、貴族の子女として有るまじき失態だわ……。

 

「何をするつもりなんだ?」

 毅然と言ったポッターをシャルルは鼻で笑いそうになった。

「何をって?闇の魔術師に対して何かしようなんて思わないわ。対処は大人がするでしょ」

 その言葉は闇の魔術師と「敵対する立場」での無意識の発言であり、ポッターはなにか違和感を感じたが、その後の言葉で霧散してしまった。

 

「でもお父様に報告は必要よね。ああ、スネイプ教授にも一応言った方が」

「ダメだ!!」

 いいのかしら、と言う前に怒鳴り声で遮られた。

 3人が凄い形相をしていた。シャルルは困惑の表情を浮かべた。

 しかし、彼らが問題児であること、学校の秘密の深部に迫っていること、スネイプ教授のポッター嫌いは並々ならないことなどを思い出し合点がいった。呆れ顔で「スネイプ教授に退学を決める権限なんてないと思うよ?でも分かったわ、教授方には黙っておくわ」と言った。

 

「え……いいの?」

「わたし達はありがたいけど、どうしてか聞いてもいい?」

 マグル生まれがおずおずと尋ねる。

「どうしてって」シャルルの声には隠し切れない嘲りが乗っていた。「わたし達の気付く事実は、当然教授方も気付いてらっしゃるもの」

 しかし3人の反応は曖昧だった。ウィーズリーはわかってないよな、とばかりに眉を上げ下げし、ポッターは困った顔をしている。

 眉をひそめてさらに言い募った。

「だってそうじゃない?罰則の件から賢者の石がここにあることが部外者に漏れている事実も明らかだし、衰弱した何らかの邪悪な存在であることも、わたしでもわかるんだから、あとはあの役立たず…………いえ、ダンブルドア校長がどうにかすることでしょ?」

「役立たずだって?」

 ウィーズリーが唸り声を上げた。

 シャルルは苦笑いして「邪悪な存在をホグワーツに侵入させたことからも明らかじゃない。でも、少し口が悪かったかもしれないわね」と宥めたが、火に油を注いだだけだった。

 

「やっぱり君は腐れスリザリンだ」

「日和見主義の八方美人め!」

 

 ──こういう所がグリフィンドールの駄目なところなのよね。

 猪突猛進、思い込んだら一直線の頑固で視野狭窄な英雄気取り……。

 

 シャルルはにっこり笑った。

「今日は時間を割いてくれてありがとう。あなた達と話してみたかったから有意義な時間になったわ」

 言い逃げして、後ろから追いかけて来る声を振り切るようにシャルルは去った。

 教授方が対処するだろうし、対処すべきでありシャルルがこの件に手を出すつもりがないという意識は変わらない。

 でもやっぱり、心の奥底で得体の知れない不安が蠢くのを止めることは出来なかった。

 

 シャルルは、敢えて聞かなかったのだ。

「衰弱した邪悪な存在は誰?」と……。

 

 

 

 

 

「やっと終わったわ!毎日毎日課題、レポート、復習、勉強、クラブ、課題、レポート、勉強……。頭が変になるかと思った」

 ダフネがバンザイして清々しい歓声を上げた。

 数日間に渡る学期末試験がとうとう終了したのだ。

 トレイシーがくすくす笑いながら、「クラッブとゴイルは既になってたわね」と言うものだから、シャルルも思わず吹き出した。

 彼らはマルフォイに怒鳴られながら勉強させられていたけれど、30分も机に向かっていると白目を向いて痙攣し始めるのだ。よく教師役を務められたものだと彼を心底尊敬する。

 ホグワーツに留年制度は無いはずだけれど、留年になってもおかしくない具合だった。

 男子寮からセオドール・ノットが降りてきた。その手にはなんと教科書が抱えられている。ダフネが素っ頓狂な声を上げた。

「ちょっと、冗談でしょ、セオドール!たった今試験が終わったばかりじゃない」

 

──セオドール?

 

 ノットが声を受けてこちらに歩み寄って来た。

「自己採点くらい誰だってするだろ」

「用紙も残ってないのに、なんの問題が出たかなんてもう覚えてないわ」

「お前の脳みそは案外ゴイル達と変わらないかもしれないな、グリーングラス」

「あなたって本当に無礼なひと!」

 ダフネとノットは軽口を叩き合い、常に無表情の彼が、ほんの僅かに口の端を緩めているように見えた。

「君は試験の復習するだろ?」

 内心の微かな動揺を完璧に押し隠してシャルルは頷く。「ええ、そうね……今すぐしようとは思わなかったけど」

「2人とも充分くらいの成績でしょ!?」

 悲鳴のような声でトレイシーが唸った。

「たしかに思ってたより試験はずっと簡単だったよね」

「内容の問題じゃない。結果が全てだ」

 ダフネとトレイシーは同時にため息をついた。彼女たちにとって試験は全く易しいものではなかった。

「そのうち机に齧りついてないと発狂するようになっちゃうんじゃないの?」

「わたし達はレイブンクロー生じゃないのよ?テスト終わりくらい勉強から開放されなきゃ」

「忘れたのか?スチュアートはレイブンクローだ」

 

 シャルルは軽く笑って、なんてことの無いように言った。

「それにしても2人はいつの間にそんなに仲良くなったの?」

「ああ、図書室で勉強してると彼がよくいるの」

 そしてシャルルにしか聞こえないように、耳元でダフネが囁いた。

「彼、エリアスと仲がいいのよ」

 エリアス・ロジエール。7年生の監督生で、ダフネの想い人だ。そういえば1人を好むノットが、ロジエールと話しているのはよく見かけたかもしれない。

「僕はこれから図書室に行くけど、スチュアートは?」

「あら、お誘いしてくださるの?」

 軽くからかうとノットは肩を竦めた。トレイシーがくすくす笑う。「ノットにそういうのはまだ早いんじゃない?」

「そういうのって?」

 ダフネも面白がるような顔をしていた。

「女の子にスマートに接するってこと」

 ノットがウンザリした顔で呟いた。「僕は忙しいんだ。それじゃ」

「待って。わたしも行くわ」

 レイジーに教科書を取りに行かせると、トレイシーが不満げに頭を振った。

「気でも狂ってるの?今からパーティーをしようと思ってたのに」

「夜しましょうよ。わたし達の部屋で。実はわたしも今から予定があるの」

「ダフネまで!わたし、1人にされるの?」

 トレイシーが拗ねた顔をするのでダフネとシャルルは顔を見合わせて笑った。ノットはどうでも良さそうに突っ立っていた。

 

 レイジーが戻ってくると、一行は立ち上がった。シャルルとノットは図書室に、ダフネの予定は恐らくロジエールとのデートだろう。彼は今年で卒業してしまうからもう時間が無い。

「ミリセントと湖でおしゃべりでもするわ」とトレイシーも後ろをついてきた。ミリセント・ブルストロードはトレイシーとダフネと同室だった。

「彼女どんな子?」

 問いかけると意外そうに目をまたたかせた。シャルルは純血以外には徹底的に興味がないのは周知の事実だった。

「可愛い子だよ。控えめだけど頼りになるし。あと彼女の飼ってる猫がすごく可愛いの!」

「アートルムね。黒毛に金色の瞳が凛々しくて、人懐っこい仔猫よ。慣れてくれたらだけどね」

「仔猫!わたしまだ会ったことがないわ。何回もあなたの部屋に行ってるのに」

「人見知りなのよ。それに気付いたら部屋からいなくなってるの。冒険家キャットみたいね」

 アートルムが初めて部屋の外に出た時ブルストロードは激しく狼狽えて探し回ったらしいが、今じゃもうすっかり慣れて、あのミセス・ノリスとも友好的な関係を築いているらしい。

 仔猫とはいえなかなか有能な社交技術を身につけているようだ。

 女性陣が可愛らしい話題で盛り上がる後ろを、むっつりとノットが無言で歩いていた。顔はまったく隠すことなく鬱陶しさを浮かべている。

 

 卒業する上級生とお茶をするというドラコ・マルフォイとパンジー・パーキンソンも一行に加わり、廊下は少し大所帯になった。

 シャルルは彼らと会話する仲には戻ったが、未だ仲直りをした訳ではなく少し微妙な距離感だった。しかしパンジーとはお互いぶつかりあったあの夜以来、マルフォイとは罰則から帰ってきたあの夜以来、心の距離は縮まった気がしていた。

 

 2階の階段でシャルルとノットは別れることになり、そこで少し立ち話をしていると、闇の魔術に対する防衛術……DADAの教室からクィレル・クィリナス教授が出てきた。

 彼はいつもスリザリン生を見るとどもりが酷くなり、肩が強ばってガチガチになったが、今はまっすぐこちらに向かって来ている。

 

 マルフォイは嘲りの表情を浮かべ、攻撃の準備をした。ノットはどうでも良さそうだったが止める気はないようで、一行の間には冷たいせせら笑いが漂っていた。

 クィレルは澱みない足取りで近付いてきた。

「こんにちは、皆さん」

 おや、とシャルルは思った。珍しくどもらずに彼は喋った。マルフォイも怪訝そうに眉を上げた。

 クィレルはチラッとシャルルとノットの手の中の教科書を見て微笑んだ。緊張の欠けらも無い微笑みだ。

「試験が終わったばかりだと言うのに熱心なことだ。素晴らしい」

 その言葉は何故か嘲りが混じって聞こえた。

 クィレルの常とは違う雰囲気に自然と視線を交わし合い、ダフネ達が一歩下がる。クィレルはズイとそれを埋めるよう踏み出した。

 

 異様な目でクィレルがマルフォイ……ノット……そしてシャルルの目を覗き込んだ。

「賢い蛇は権力を上手く扱い、甘い汁を啜る……」

 クィレルの声は低く、辛うじて聞き取れるくらいの大きさだと言うのに、耳に直接声を吹き込まれているかのようにハッキリと聞こえた。ノットとマルフォイが体を固くしているのが見える。

「あなた方の父親の選択を、彼はお許しにならない」

 ほとんど囁き声だった。あまりにも柔らかく穏やかな声にシャルルは背筋がゾッとした。

 

 クィレルは「そ、それではみなさん、よ、良い週末を」と突然いつもの態度に戻り、猫背で逃げるように階段を降りて去って行った。

 

 シャルルは困惑と恐怖を浮かべて彼の背中を見ていた。

「なんだったの?あいつ、なんて言ってたの?」パンジーが戸惑って声を上げた。

「聞こえなかったのか?」

「ええ。ボソボソ喋るんだもの。ドラコは聞こえた?」

「ああ……」

 困惑を振り払い、嘲笑を浮かべて「権力がどうとか、甘い汁がどうとか生意気なことを言ってたよ。おおかた、もうすぐホグワーツから放任されるんで悔し紛れに言ったんだろう」彼はクィレルの様子をそこまで重要に捉えなかったのかもしれない。

 しかしシャルルには完全になんらかを指して脅迫されたように感じた。ノットと目が合うと、彼は表情を消して目を逸らした。彼もシャルルと同じ印象を受けたようだった。

 

*

 

 図書室に入ってきたシャルルとノットをマダム・ピンスが眉を跳ね上げて不信気に睨めつけた。その視線を煩わしく流し、2人は奥の方へ、人気のいない方へ進んだ。図書室はほぼ人がいなかった。レイブンクロー生ですらいない。

 試験が終わったばかりの午後に好き好んで図書室に来る酔狂な生徒は実に少ない。

 本棚の陰の2人掛けの席に腰掛けて教科書を開いた。シャルルもノットも無言だった。しばらく文字を眺めていたが全く頭の中に文字が入って来なかった。

 ノットの羽根ペンを持つ手が少しも動いていないのを見て、シャルルは、ほぼ吐息を零すように囁いた。

「父親の選択を許さないって、何なの?」

 ノットは黙りこくっていた。

 彼に無視されたのかと思い、シャルルはまた教科書の文字に目を落とした。暫くしてノットが呟くような声で返事をした。

「ひとつだけ心当たりはある……」

 彼の目を見つめる。ノットはかなり困惑していた。眉をひそめ、自分の考えを唾棄すべきもののように苦労して言葉を零した。

「心当たりはあるが、でも……ありえない」

「何がありえないの?」

「クィレルはハーフ・マグルだ」シャルルが黙っていると、ノットは続けた。「それに去年までマグル学の教授だったと聞く」

 

 シャルルの知らない事実をノットは知っているらしい。

 クィレルの言葉の意味がシャルルには分からなかった。反応の鈍い彼女にノットは探るような視線を向けた。

「君は……知らないのか?親から何も聞いていないのか?」

「あの脅迫も、あなたの言いたいこともわたしには分からない……」

 自分が酷く無能に思えて指先を擦り合わせる。ノットはまた黙りこくった。

 

 もどかしい無言が流れた。

「あの偽善者の老いぼれが……ホグワーツに採用するわけが無い。ありえない……」思慮深さと警戒心に満ちた響きだった。

「ねえ、わたしは何も知らないのよ!」

 小声で叫ぶと、ノットが少しの間考えて、躊躇うように口を開いた。

「何も知らないのか?」彼は同じことを繰り返した。

 苛立ちが浮かんで、少し強い口調で彼を睨んだ。「だから、何も知らない。そう言ってるじゃない」

「だが、ヨシュア・スチュアートは何人も庇って来ただろう。10年前に……」

「庇った?10年前?」

 当惑の表情を浮かべ、ウィーズリーに言われたことを思い出し、怒りに顔を赤くした。

「お父様は死喰い人じゃないわ!お父様は例のあの人からの誘いを断った!」

 ゆっくりとノットの無表情が変化した。軽蔑と自嘲の色が映っていた。ある可能性にシャルルの声は微かに震えた。

「ノットのお父様はまさか……?」

「噂だよ。死喰い人の可能性は否定された。君の父親もいた裁判で」

「…………」

 シャルルは押し黙った。

 脳裏を様々な考えがある高速で巡っていた。クィレルの脅迫、ウィーズリーの言葉、マルフォイ家やノット家とパーキンソン家の差異……。

 

「ルシウス・マルフォイも、そうなの?」

「彼は闇の帝王の腹心だと思われていたが、英雄が打ち砕いた夜以降、誰よりも早く表舞台で無罪を獲得したのは有名な話だろ。……本当に魔法界で育ったのか?」

 酷薄な軽蔑の表情でノットはシャルルを見つめていた。

「だって……わたしは隔離されて育てられたもの」

 唇を歪めて言い訳がましく言うと、ノットは瞳を伏せて何かを考えていた。

 

「それじゃ……何?クィレルは死喰い人だとでも?」

「ありえない……でも心当たりはそれしかない」

 背筋に蛇が這うような気味の悪い不安感がシャルルをじわじわと苛んだ。クィレルが……そして、目の前のノットも……。

 これを言うのを酷く躊躇しながらも、シャルルは言わずにいられなかった。ノットと友人でいたかった。

「あなたは闇の帝王の……信奉者なの?」

 時間をかけてノットは答えた。

「彼の思想が間違っているとは思わない。純血は保たれ、マグルは排除されるべきだ」

「その思想はわたしも正しいと思ってる。でも彼は……無差別的だわ。お母様は彼に酷く怯えて……同時に憎しみを抱いてる」

 吐き捨てるように言った。

「隠してるけど、分かるの。だからわたしは……闇の帝王を全部肯定することは出来ない。それに何より、彼等は純血を殺した!」

「下劣なマグルを庇う連中だ。君がウィーズリーに近付こうとするように」

 頬が熱くなった。シャルルは激しくノットを睨んだ。しかし彼は余裕をもってその視線を受け流した。瞳をぎゅっとつむり、心を落ち着かせようとシャルルは努力した。

 

「わたしは全てを知っているわけじゃない。けれど、闇の帝王も死喰い人も、純血や魔法族のために戦ったようには思えない……」

 シャルルは強く唇を噛んだ。

「彼らのせいで貴重な血筋がいくつも喪われた。非常に膨大な損失よ。わたしなら敵対しただけで……賛同しなかっただけで純血を殺すような真似はしない。わたしなら……わたしならその分マグルを殺したわ」

 シャルルは声を震わし、瞳を潤ませていた。彼女の口から思ってもみなかった言葉が飛び出してノットは驚愕でシャルルを凝視した。

 

「君は……何を言ってるか分かっているのか?」酷く困惑した声だった。

「わたし……分からない。ただ、今の魔法族も、純血主義も……何かが歪んでいる気がして仕方なくて……」

 指で目元を擦って顔を上げる。思っていたことを明かすのは初めてで恥ずかしかった。

「まだ答えを見つけたわけじゃないの。でも、闇の帝王は間違ってるって思う……だから、その……。わたしなりのやり方で何かを変えてみたいって……そう思う」

 心臓から熱がせり上がって来て、顔が急速に熱を帯びた。ノットが目を丸くしているのを見て、シャルルは真っ赤になって俯いた。ノットは言葉を探したが、見つからずに口を開けたまま固まっていた。

 

「次の闇の帝王になるってことなのか?」

「ち、違うわ」小さく首を振り、慌てて言う。「そんなに大層なことを目指してるわけじゃ……。ただ、純血魔法族がお互い敵対し合わずに尊重出来るようになればって」

「そんなのは綺麗事だ」

「分かってる。でも理想は高い方がいいでしょ。理想論に過ぎなくても……」

「血を裏切る者を許せって?」

「マグルと関わるからいけないのよ。でももう魔法界はマグルやマグル生まれと関わらずに生きてはいけない。完全にマグルを断つか……マグルを消さないと。魔法族が手を取り合わないと、マグルの侵略は抑えられないわ」

 

 ノットはいつかの言葉を思い出していた。

 

── わたし達は純血を率いる者で、その選択は何者にも尊重されるべきなのよ。

 

 シャルル・スチュアートがいつか偉大なことを成すだろうと感じたことを、思い出していた。

 

 

 



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15 呪詛、そして1年が巡る

 

 1年の終わりが来た。

 学年末パーティーを控えた大広間は、スリザリンが7年連続で寮杯を獲得したことを称え、知的な深緑と品格のある銀のカラーで飾り立てられ、壁には象徴である美しい蛇の垂れ幕が威風堂々と君臨していた。

 スリザリン生は誰も彼も晴れがましく、誇らしさが表情に満ち溢れていた。

 

 今日ばかりは寮内の煩わしい小さな政治からはみんな開放されていた。いつも除け者にされているマグル生まれも笑い合っていたし、緑のローブを着る中で最も穢らわしい血を持つイル・テローゼでさえ輪の中に入っていた。

 シャルルは久しぶりにパンジーと隣合って座った。

「こんなに誇らしいことってないよ。勿論当然のことではあるけどね。僕らは選ばれた魔法族なのだから」

 斜め向かいの席にはドラコ・マルフォイが胸を大きくして機嫌よく笑っていた。パンジーが同意の声を上げて笑う。シャルルも、ダフネも笑う。みんなが笑っていた。

 

「僕が首席として卒業する年に栄光ある美を飾れて誇らしく思う。みんなが常に最善の努力を続けてきた結果だ。本当にありがとう」

 エリアス・ロジエールはいつもは柔和で落ち着いた表情を、今は喜びに褒めていた。ダフネがうっとりと瞳を潤ませて見つめ、誰もが嬉しそうに自分達の功績の証である緑のローブやネクタイを眺めた。

 7年もの長い間、1番になり続けるというのは並大抵のことではない。シャルルも自分が歴史の瞬間に貢献出来たことが嬉しかった。スリザリン1年生の中では、シャルルとマルフォイとノットが1番加点されていたし、マルフォイが減点されることも多々あったがグリフィンドールから150点奪うという結果を出した。

 今回の栄光のMVPは紛れもなく彼だ。

 マルフォイは賛辞をキラキラした笑顔で受け取っていた。

 

 

 しばらくしてハリー・ポッターが広間にやってくると、ざわついていた空間に沈黙が流れ、やがて弾けるように噂話が飛び交った。

 数日前の試験終わりの日、ロン・ウィーズリーとマグル生まれの栗毛の魔女がボロボロの姿で医務室に運ばれるのを多くの生徒が見ていた。

 そしてあの日様子のおかしかったクィレル・クィリナスが姿を消したことも……。

 緑の生徒たちは嘲りを浮かべせせら笑っていたが、今日という輝かしい日にわざわざ彼らを話題にする人はいない。

 遠目からは怪我はなく健康に見えたが、教授達は彼らが見えない間落ち着かない様子だった。

 賢者の石について彼等は嗅ぎ回っていたが、それに関連するものなのだろうか。

 クィレルがいないことに、クィレルに死喰い人の可能性があることに関係あるのだろうか。

 ここ数日流れていた彼等にまつわる途方もない冒険譚の、どこまでが噂で、どこまでが真実なのだろう。

 

 横目でグリフィンドールを見ていたシャルルは、ダフネにつつかれて顔を戻す。彼等がどんな冒険をしていようがスリザリン生には関係ない。

 壇上に立つダンブルドアにダフネがくすくすと笑う。

「とうとう結果発表よ」

「ええ。スリザリンに栄光が与えられるわ!」

 どちらともなくシャルルとダフネは手を繋いだ。そして、シャルルとパンジーも。

 シャルルが手を差し出すと、パンジーは照れ臭そうにつんと顎を上げ、頬を赤くして握り合った手を見つめた。温かい感情が胸を満たす。今この時、2人の間に僅かにあった垣根が取り払われた気がした。

 

 期待の張りつめる沈黙の中、ダンブルドアが朗朗と手を広げる。

「また1年が過ぎた!」

 シャルルの胸の中を感慨が満たした。

 ホグワーツに来てから本当に色々なことがあった……。

 初めて自分で友人を作り、初めて同世代の子供たちと関わるようになり、初めての感情や問題に振り回されて心がこんなにも忙しくなることはこの11年間の中で今まで無かった。

 でも、それら全部が胸の中で輝いていた。

 握った手に力を込めると、握り返してくれる両てのひらの温もりが嬉しい。

 

「それではここで寮対抗杯の表彰を行うことになっておる。点数は次のとおりじゃ。4位グリフィンドール312点。3位ハッフルパフ352点。レイブンクローは426点」

 スリザリン生は前のめりになった。

 きらきら、きらきら。宝石みたいな瞳がダンブルドアを見つめる。

 そして彼が言った……。

 

「スリザリン472点!」

 

 その瞬間爆音が響いた──スリザリン生の歓声が大広間中にこだました。

 シャルルは滅多に上げない大声で叫んだ。「ほんとうに嬉しい……!」ダフネとパンジーが腕を上げて「やったわ!」と立ち上がった。シャルルも釣られて立ち上がって、少女たちはぴょんぴょんと喜びを抑えきれずにジャンプした。

 たくさんのスリザリン生が立ち上がったり、腕を振り上げたり、肩を組んで歓声を上げていた。

 他の寮の苦々しげな視線はむしろスリザリンを称えるもののように感じた。こんなに誇らしいことをした寮はない!

 マルフォイは興奮してゴブレットでテーブルを叩き愉快なリズムを演出し、ゴイルとクラッブはドシンドシンと床を踏み鳴らす。シャルルはノットを見て笑いかけた。ノットも歯を見せて笑顔を返してくれた。拍手が鳴り響いている。

 捻くれ者のシーザー・ジェニアスの顔も輝き、プレッシャーが報われたジェマ・ファーレイも飛び上がらんばかりに喜んでいた。

「僕らはやったんだ!」

 天井に向かったロジエールの瞳は光に照らされ煌めいて、周囲の友人たちが彼に飛びついて彼の肩や背中を叩いていた。

 

 今日という日を忘れない。

 こんなに嬉しいこと、きっとずっと忘れない!

 

 スリザリン生が嵐のような歓喜に湧く中、ダンブルドアが穏やかに言った。

「よし、よし、スリザリン。よくやった。しかし、つい最近の出来事も勘定に入れなくてはなるまいて」

 沈黙がさざめきのように広がり、少しだけ嫌な予感がする。

 老人はわざとらしい咳払いをした。

 

「駆け込みの点数をいくつか与えよう。えーと、そうそう……まず最初は、ロナルド・ウィーズリー君」

 スリザリン生は今や完璧に声を抑えて、固唾を飲んで老いぼれを見ていた。

「この何年間か、ホグワーツで見ることができなかったような、最高のチェス・ゲームを見せてくれたことを称え、グリフィンドールに50点を与える」

 瞬間的に大広間が爆発した。グリフィンドールの歓声だ。

 シャルルは小さく「え?」と言った。

 チェス・ゲーム?50点?

 一体……何が起きてるの?

 

「た、たった50点じゃない」

 強ばった声でパンジーが言った。誰かが同意するように声を上げて、僅かに張り詰めた糸が緩んだが、シャルルはこのまま終わるわけがないと……だってあの3人はいつも一緒だった。

 お腹の底が僅かに疼く。黒い染みのようなものがズシッと胃に詰め込まれたような……。

 チェス・ゲーム?

 マクゴナガルの巨大チェスで冒険してらっしゃったようですけれども、それがどこまで本当のことか。でもどうやら本当のことらしい。

 50点の加点?ふざけてるの?

 

 「次に……ハーマイオニー・グレンジャー嬢に……火に囲まれながら、冷静な論理を用いて対処したことを称え、グリフィンドールに50点を与える」

 スリザリンの席からはもう隠しきれない悲鳴が漏れ響いていた。シャルルも不安に固い顔をしてゴクリと唾を飲み込んだ。

 ヒッ、ヒッ、隣のパンジーが恐怖に顔を引きつらせて断続的に呼吸をしている。

 

 待ってよ……。

 この老いぼれ、まさか……。

 

 グリフィンドールの連中が狂喜乱舞している様を、スリザリンは親の仇を見るような目で睨んだ。

 

「3番目はハリー・ポッター君……」部屋中が水を打ったようにシーンとなった。

 もはや呻き声すら洩れない。

 

「……その完璧な精神力と、並はずれた勇気を称え、グリフィンドールに60点を与える」

 天井が崩れて落ちてくるかと思う大歓声が上がった──先程のスリザリンよりもかなり激しく、椅子の上で踊り狂ったり腕を振り回したりしている。

 

 これで同点だ。

 同点のまま終わって欲しい。どうか…………。

 てのひらがびちゃびちゃに濡れ、激しく腕が震えていたが、ダフネとパンジーも全身震えていた。

 みんな祈るようにダンブルドアを見上げていた。

 どうか、どうか、どうか……。

 

 その祈りを嘲るかのように、ダンブルドアは柔らかい微笑みを浮かべる。

 

「勇気にもいろいろある」

 ああ、と。シャルルの全身から力が抜けた。繋いでいた手がだらりと垂れる。震えが止まっていた。

 

「敵に立ち向かっていくのにも大いなる勇気がいる。しかし、味方の友人に立ち向かっていくのにも同じくらい勇気が必要じゃ。そこで、わしはネビル・ロングボトム君に10点を与えたい」

 

 パンジーが顔を覆って泣き始めた。ダフネも、ミリセントも……監督生のファーレイは泣きながら怒鳴っている。ロジエールが倒れそうな程に血の気を無くした顔で呆然としていた。ノットが真っ白な顔でこめかみを揉み、ブレーズが震えながら笑っている。「冗談だろ……?」マルフォイは顔を歪めながらぽたぽたと雫を流していた。

 その全てが、他の3寮の歓声に掻き消された。

 スネイプが凄い形相でダンブルドアとポッターを激しく睨んでいる。

 

 こういうことをするんだわ……。

 白々しく慈愛の表情で広間を見回すダンブルドア。

 

「したがって、飾りつけをちょいと変えねばならんのう」

 老いぼれが杖を上げると、銀と緑のカラーが、赤と金に変わっていく。蛇が死に、獅子が君臨する。

 

 キーーン……と耳鳴りがした。全ての音が遠くなっていく。

 頭の上から爪先まで血が全部凍ったような感覚が這い上がって来て、心臓のあたりで何かが硬質化された。何もかもが冷たい。

 それなのに心臓だけが燃えている。

 黒々とした呪詛の炎が燃えている。

 

「シャルル!こんなのってないわよ!そう思わな……っ!」

 石のように動かず、声も上げないシャルルにパンジーが怒鳴って──声を止める。

 

 シャルルの横顔に銀の筋が流れていた。

 あとから、あとから、雫が止まらずにほたほたと染みを作った。「ああっ」パンジーはさらに激しく泣いた。

 

 死んでしまえ。死んでしまえ。死んでしまえ!

 シャルルの瞳には輝きというものが消えていた。

 しかし、不気味なぬめりを帯びて、ダンブルドアを一瞬も離さず睨み続けていた。

 口から呪詛が零れる。

「アバダケダブラ……」

 何百回、何千回、何万回……心の中で数え切れないほど呪詛を唱えていた。もし視線で、憎悪で人が殺せるなら、ダンブルドアはもう何回殺されたか分からない。

 ふと、老いぼれと視線があった。

 シャルルはハッキリと口を動かし、囁いた。

「アバダ ケダブラ」

 老人は。面白そうな顔でシャルルを眺めた。その目には嘲りが乗っていた。

 

*

 

 葬式よりも沈痛な表情で、スリザリン生は誰も喋らず、機械的に食事を運んだ。誰もが……憎しみと悲しみと諦めに支配されていた。魂の抜けた顔でみんな沈み込んでいる。

 食器が立てるカチャカチャという音以外、スリザリンのテーブルは無音だった。

 大広間が盛り上がっているのが苦痛で、悔しくて、屈辱で……。

 

「わたし、もういらない……」

 銀のカトラリーを置いてシャルルがよろよろと立ち上がる。

「ほぼ食べてないじゃない……」

「食欲なんか消えてしまったわ。それに……ここにいたくない」

 そう言うと、パンジーとダフネは僅かに頷いて引き止めるのを辞めた。

 生徒全員が集められる学校行事で、生徒1人が個人行動を取るのは許されていなかったけれど、監督生も誰も何も言わなかった。何人かがシャルルに続いて席を立った。

 全員、無気力で蒼白な表情だった。

 

 シャルルは椅子を引き、歩こうとしたが、足がもつれて倒れそうになった。慌ててザビニがシャルルを支えた。

「シャルル……」

「大丈夫?」

 近くのダフネも心配そうに肩を支えた。

 

 どうして。

 心臓に突き抜けるような痛みが走った。鼻の奥がツンとして……みるみる瞳に涙がせりあがってきた。

 

「どうして、スリザリンがこんな仕打ちを受けなければならないの?」

 

 口に出すと、もう……耐えられなかった。

 唇を強く噛んで、嗚咽を我慢するあまり喉がゼイゼイ鳴った。ダフネがヒクッ、と息をして泣き始めた。

 崩れ落ちたシャルルを支え、ザビニが椅子に戻してやる。

 顔を歪め、シャルルは小さな唇を震わせながら、拳を握り締めて、悔しくて、悲しくて……とうとう声を上げながら泣き始めた。

 あまりに痛ましく、周囲のスリザリン生にもまた涙と嗚咽が混じり始める。

 

「わたし達はずっと……が、頑張ってきたのにっ、たった一夜の冒険で……今までの努力を否定されるのっ?

 ぜ、全員に笑われながら!屈辱を与えられるほど、わたし達のしてきたことは、軽かったの?」

 それはまさしく悲鳴だった。

 今のシャルルを支配するのは先程の冷たい憎悪ではなく……体が引き裂かれるような悲しみだった。

 どうして。

 スリザリン生はこんなことされるために頑張ってきたんじゃないのに。

 コツコツ頑張ることよりも、規則を破って好き勝手することの方が大事なの?

 スリザリン生になら、こんな屈辱を与えてもどうでもいいの?

「わたし達はそんなに……大切にしなくていい存在なの?傷付けられてもいい存在なの?」

 シャルルが途切れ途切れに零すにつれ、他の生徒もポツポツと悲しみを語り始め、その涙はパーティーが終わるまで続いた。

 目を真っ赤にして、表情を歪めて、激しくしゃくりあげて……。

 最初は笑っていたグリフィンドール達でさえ、その痛ましさに段々と気まずげな顔になるほど、その様子は暗く、苦しく、悲しみに満ちていた。

 

 絶対許さない……。

 今日という日を忘れない。

 

 

 

 談話室に戻ったシャルルはぼう、と燃える炎を眺めていた。自然と涙が滲んで来る気がして、僅かに瞳を歪める。

 ダフネとパンジーが無言でソファに腰掛け、シャルルに寄りかかった。

 誰も部屋に戻ろうとはしなかった。

 1人で悲しみと怒りを抱えるより、分かちあった方が幾分かマシだから。

 トレイシー、マルフォイ、ノット、ザビニ……親交のある子女たちが近くのソファに寄ってきて、レイジーも立ってシャルルを気遣わしげに伺っていた。

 

 常に微笑みを称えるシャルルがこれほどまでに傷付き、泣くのを見るのは初めてだった。これほど泣くとも彼らは思っていなかった。彼らが思うよりシャルルはずっとスリザリンを愛していた。

 

「わたしね……」

 ポツリ。シャルルが呟く。

「創設者が好きなの。どの寮も良いところがあって、悪いところがある。だから、寮で魔法族と壁が出来るのは悲しいと思ってた……」

「シャルル……」

 彼女の横顔は炎に照らされてくっきりとした陰影を映し出していた。声に感情の乗らないポツンとした声が、なぜか酷く孤独に思え、思わず抱きしめてやりたくなるような。でも、動けないような。

 シャルルが創設者フリークであることはみんな知っていた。

 ジッと固まって彼女の横顔を見つめる。みんな疲れていた。すっかり意気消沈していた。談話室の誰かがポソポソしゃべる声はまるで葬列の説教のようだった。

 

「寮の垣根を取り払って、魔法族が仲良く出来たら……って……理想に過ぎないけど、そう思っててね……。それなのに……」

 声が潤んだ。

 瞳が湖の水面のようだった。

「ダンブルドアがあれほどスリザリンを侮辱して、グリフィンドールを持ち上げて……わたし、バカみたい。校長自身が差別主義者なら、今までわたしがしてきたことぜんぶ……意味なんてないんだわ」

 涙を浮かべてシャルルはむりやり笑った。

「パンジーやマルフォイと衝突してまで……孤立するかもって思いながら……でも、魔法族が仲良くなれるように……寮差別が少しでも軽くなればって……」

 

 パンジーとダフネはたまらずシャルルを抱きしめた。

 シャルルは、ぽたっ、と大粒の涙を零し、それを制服の袖でごしごし拭いた。

「本当に……バカみたい。ごめんなさい、パンジー、マルフォイ……」

 

 パンジーが強くシャルルを抱きしめた。「バカね……バカね」ほろ苦く、苦しくて、愛しい。

 マルフォイの心臓は杭が打ち込まれたかのように激しく鼓動し、痛んだ。

 真っ赤に充血した目と同じくらいに、首と頬が赤く染まり、喉が引き攣れた。言葉に出来ないくらい……彼女が……眩しく、かよわく見えた。この衝動をなんと呼ぶか、マルフォイはまだ知らない。

「いいんだ。僕も少しムキになっていた」

「ん……」

「でもこれからは今まで通り、友人だ」

 シャルルははにかんで、肩をすぼめてマルフォイの手をきゅっと握った。指先がピンク色なのがなぜか無性にマルフォイの目にハッキリ映った。

 

*

 

 深夜。

 窓から時折聞こえるコポコポとした水音が妙に頭に響き、シャルルは眠れなかった。

 部屋の寮生は泣き疲れてみな眠っていた。

 すぅすぅした寝息が聞こえる。

 シャルルはそっとベッドをすり抜けた。ネグリジェの上からローブを着込んできっちり閉める。

 ベッドの上でジイと固まって天井を睨んで眠ろうとしたが、パーティーの屈辱と苦しみと悲しみと諦念がぐるぐるとして、とても眠れなかった。

 あの理不尽を1人で解消することはシャルルには出来なかった。きっとスリザリン生の誰も知らない。あの、あの、ダンブルドアの本当の邪悪さは。

 

 身体の中にある怒りが呪詛となり、その黒い炎はシャルルの中心で宝石よりも硬く硬く形になってしまった。

 怒りはいずれ収まるだろう。

 でもシャルルは殺意というものを、憎悪というものを知ってしまった。

 

 外出禁止時間はとっくに過ぎていたが、寮の扉を潜り、冷たい石の廊下に滑り出た。地下は暗く、重く、昼間灯っている真鍮製の燭台は、今はその光を消している。

「ルーモス」

 呟くと杖の先が光を灯した。出来る限り明るさを抑えるよう調整し、とてとて走り出した。体力がカスなのですぐに息切れしたし、真っ黒なドラゴン革の靴がキュウキュウカコカコ暗闇に反響した。

 絵画たちが目を覚まし疾走する1人の少女を不機嫌に睨む。ピーブズやフィルチが現れたらおしまいだ。ドキドキしながら駆ける。

 寮からほど近い魔法薬学の教室の扉の前で息をつく。少し息が上がっていた。

 扉には鍵がかかっていた。

「アロホモラ」

 囁くと、体から大量の魔力が座れる感覚がして、ガチャリと鍵が開く。よかった。もっと複雑な鍵をかけられているかと思った。

 広い教室。ホルマリンがコポコポ音を立てて昼に見るよりもずうっと不気味だった。

 

 机に触れながら手探りでスネイプ教授の研究室に向かう。彼の寝室は研究室の隣にあるはずだった。

 

 突然音が響いた。ビクリとして顔を向けるより早くシャルルの体には縄が巻き付き、ギチギチと締め上げられる。

 床を擦る音が近づいてくる。

 真っ黒な巨大な影がシャルルを見下ろして低い声が降る。

 

「誰だ」

 獣の唸り声のように恐ろしい声であった。声を出そうとしたが喉に張り付いて何も言えなくなる。パチッと照明が灯り、暗闇に慣れた目に眩しさが突き刺さった。

「……スチュアート?」

 困惑した声にシャルルは俯いてモゴモゴ言った。

「す。すみません。どうしてもスネイプ教授とお話したくて」

「もうとっくに就寝時間は過ぎているはずだが」

「……」

 スネイプは巨大なため息をついた。この少女は申し訳なさを顔に浮かべてはいるが、テコでも帰りそうにない雰囲気を醸し出していた。「我輩の時間を取るほどの内容なのだろうな?」

 それを言われると困ってしまう。

 ただただ怒りが抑えられなくて来ただけだった。

「ダンブルドアの対応は理不尽だと思います」

「……ダンブルドア校長だ」

「あの老いぼれの対応は理不尽だと思います!」

 スネイプは鼻にシワを寄せた。インカーセラスを解き、「着いてきたまえ」とスタスタ歩き始めた。

 

「それで?」薄暗い研究室に座ったスネイプが鼻で笑う。「泣き言を言いに来たのかね?」

「賢者の石の件はわたしも知っていました」

 スネイプは凍りついた。シャルルは靴の先をぎらぎらした目で睨んでいた。

「何を言っているのか……」しかし、そこで口をつぐみ、誤魔化しても無駄だと悟る。知っているかどうかではなく、何故知ったのかの方を質す方が建設的だ。

 

 スネイプは無言で顎をしゃくり続きを促した。我慢していた思いが訥々と口から息せき切って溢れ出す。

「マルフォイが罰則を受けた夜、衰弱した邪悪な存在がホグワーツに潜んでいる可能性に気付きました。そして、あの3人がニコラス・フラメルについて異常に調べていたことと繋がって鎌をかけたんです。そこで賢者の石があることを知りました。彼らは情報の扱い方が下手だったので」

 苛立ち混じりに吐き捨てる。

 

「わたしでも気付くのだから教授方も当然気付いているでしょうし、賢者の石を持ち込めるのは友人であるダンブルドアです。彼に何らかの思惑があると思ったのでわたしは踏み込みませんでした!

 少し考えればすぐ分かることです。あの3人は賢者の石についてかなり嗅ぎ回っていた様子ですし、1年生でも分かる場所は何らかの隠された部屋か……あからさまに警告した禁じられた廊下でしょう?でもわたしは……秘密を守りました!規則も守りました!」

 腹の底で轟轟と炎が燃え盛っていた。握り拳がブルブル震え、平静を保つのが困難だった。スネイプがどんな顔しているか見上げることが出来ない。

 

「クィレル教授はわたしやマルフォイに意味深な言葉を投げかけてきました。彼が……死喰い人である可能性にも思い至っていました。

 わたしはスリザリンらしく、理性的で賢い選択を取ったと思います。秘密を守り、教授方を信頼しました。

 わたしも規則を破って好き勝手に冒険すれば良かったんですか?なぜダンブルドアはグリフィンドールの美点だけあのように称えるのですか?わたし達は無謀で愚鈍な彼らとは違う!禁じられた場所にわざわざ行ったりしませんでした!その上で秘密を握り秘密を遵守した!それはスリザリンの美点ではありませんか?」

 

 いつの間にか流れていた涙を拭う。

 ヒクヒク喉が震えるのを必死で抑えた。

「あの老いぼれは公平ではありません。あんな、わ、分かりやすい罠を張って生徒を英雄にしたいなら、最初から禁じなければいいのよ」

 悔しくて悔しくてシャルルは顔を覆った。

 

 スネイプは目の前の少女を見下ろし、彫刻のように眉を顰めた。たしかに秘密を知っていた上で、今日のパフォーマンスを見たなら、耐え難い侮辱に感じただろう。スネイプ自身さえ、ダンブルドアに許し難い怒りを感じたのだ。

 ダンブルドアを好いていないスリザリン生の怒りは言葉にならないほどだと理解出来る。

 

 しかしスネイプはかけるべき言葉を持たなかった。ダンブルドアにポッターと闇の帝王に纏わる何らかの計画があり、その上で行動を取ったのを知っていた。

 

「ダンブルドア校長は、勇気と愛情と友情を何より尊いものだと考えている。それ以外のものは瑣末事だとお考えなのだ」

 スネイプの声は氷のようだった。

「我輩も散々抗議はしたが校長の考えは変わらぬ。生徒が1年かけて少しづつ得点を上げてきたことよりも、勇気を示したことを、並々ならぬ才能だと仰る。良いか、スチュアート」

 シャルルは涙に濡れた目でスネイプを見上げた。

 光のない黒曜の瞳がシャルルを注視している。

 

「我輩が規則破りの傲慢な冒険家を評価することは決して有り得ぬ。お前のすることは過ぎたことにグスグス鼻を鳴らして啜り泣くことでも、怒りに任せて規則を破ることでもない。奴等と同じレベルまで下がるな。

 我々がすることは、校長がどれほど強権的に赤のローブを贔屓しようとも、決して揺るがぬほど結果を出すこと。結束すること。狡猾に、理性的に、手段を厭わず事を成すことだ」

 その声にはシャルルが感じるのと同じ憤りと、決意のような響きが宿っているように聞こえた。シャルルの感じる痛みをスネイプは分かっていた。

 シャルルは僅かに頷いた。

「良かろう。校長には話しておく。生徒の美点を潰してまで校長の自己満足を通して良いのか、今一度お考え下さるだろう」

 それはどうかしら。内心で思う。

 少しでも生徒に与える影響を考えられる人間なら、あんな公開処刑のような真似はしないはずだ。

 いいえ、考えられるからこそ、公開処刑したんだわ。

 ダンブルドアにとってスリザリン生などその程度なのだ。スネイプもそれをわかっているんだろう。そうでなければこんな、酷薄な響きを帯びた言い方はしないはずだ。

 

 シャルルは立ち上がった。

 スネイプの言う通りだった。ダンブルドアがグリフィンドールを贔屓するなら、シャルル達スリザリン生はそれに揺るがない結果を出すしかない。

 

 スネイプはシャルルを寮まで送ってくれた。「次は罰則になる」と言われたが、深夜徘徊に対しての小言はほぼ無かった。

「おやすみなさい……スネイプ教授」

「ああ」

「来年は、必ず寮杯を獲得します」

 暗闇に彼は去っていった。

 シャルルはダンブルドアの差別と理不尽を恨んでいた。そしてそれを捩じ伏せるのは、寮杯を獲得することだ。

 

 

 

 

 父親に入学祝いとしてもらった、銀とダークグリーンのキャリーケースに荷物を詰め込んで、1年間過ごした部屋を見回した。

 昨晩は最悪だった。

 しかも、今朝発表された学期末試験の結果も最悪だった。シャルルは3位だったのだ。首位はグリフィンドールのマグル生まれ、次点がセオドール・ノット。

 1番の自負があったから、この結果はかなり悔しかった。足を引っ張った科目は飛行術だとわかっている。座学の結果だけならノットとほぼ変わらない。

 でも、座学の結果でもマグル生まれに負けていた。

 ハーマイオニー・グレンジャー。

 シャルルの胸にその名が刻まれた。

 

 この1年で得たものも、課題もたくさんある。

 昨晩の怒りも痛みもまだ全く消化出来ていない。

 けれど、改めて振り返ると、この部屋は幸せが詰まっていると清々しく思えた。

 

 入学式の時乗った船で駅まで行き、ゾロゾロと生徒たちが乗り込む。

「シャルル!こっちよ!」

 先に席を取ってくれたトレイシーと合流し、1年生が使うには広すぎるコンパートメントに乗り込んだ。パンジーが続き、マルフォイ、クラッブ、ゴイルとノットがやってくる。

 重たいキャリーケースは浮遊呪文なら簡単に持ち上げられただろうけれど、魔法は禁止されていたので、力持ちのクラッブとゴイルがみんなの分を荷物棚に持ち上げてくれた。

 お礼にクッキーを上げると2人は喜んで夢中で食べ始めた。マルフォイが顰めっ面で「どうせ零すんだからナプキンを敷けと何回も言ってるだろ」とブツブツ言うと、食べ終わってから「ああ」と頷いて敷き始めた。

「ダフネは?」

 トレイシーがキョロキョロと見回す。

「ダフネは違うコンパートメントよ」シャルルはクスクスした。結局ダフネはエリアス・ロジエールとのことを誰にも言わなかったようだ。

「ダフネってけっこういなくなるわよね?何してるのかしら?」

「さあ?」

 真顔のつもりでもどうしてもからかう気持ちが滲み出てしまうのか、パンジーがピンと来て頬をピンク色に染め上げた。

「もしかして──」

「詳しくは聞いてないの。どうなったかもね」

 トレイシーも分かったようで「うそお!」と叫ぶ。一気に華やいだ女子達とはうらはらに、マルフォイとノットは「なんなんだ?」「女子はどうでもいいことで騒ぐだろ」と興味が無い顔だ。

 

 ホグワーツ特急が動き始めた。

 見慣れた景色がどんどん離れ、山々を過ぎ、田園を過ぎていく。

 汽車が駅に近くなり始めると、マルフォイがシャルルを見た。

「この夏こそ、僕の家のパーティーに来るだろう?」

「ええ、マルフォイ。お父様が夏からはいいって仰ったわ」

 シャルルが嬉しそうに頷くとマルフォイも満足げだった。

「わたしの家にも遊びに来てね」

「とっても楽しみ!」

 トレイシーが置いていかれないように焦った様子で口を挟んだ。

「わたしの家はスチュアートの令嬢をお招きできるほど立派な家じゃないけど、でも……手紙を出すわ。いいかしら?」

「ええ、もちろん。良かったらダイアゴン横丁に遊びに行かない?お父様達がいいって言うかまだ分からないけど……。子供だけで外に遊びに行ったことってないの」

「それって素敵!絶対予定開けるわ」

 喜色の声を上げ、パンジーの顔をちらっと見上げた。

「邪魔するつもりはないけど、わたしも混じっても大丈夫?」

 顔色を窺われたことにパンジーは自尊心が擽られたようだった。トレイシーとまだそこまで仲が深まっていなかったのだ。けれどトレイシーはスリザリンを泳ぐのが上手い。パンジーの扱いを理解しているようだ。

「そうね。マリア・クロスで新作のチェックしなくちゃ」

 

 やがて汽車が止まり、懐かしの9と3/4番線に到着した。人が引くのを待ってゾロゾロと生徒たちが流れていく。

 コンパートメントに最後に残っていたのはノットだった。彼は緩慢な動作でノロノロ立ち上がった。

「どうしたの?行かないの?」

「ああ」

 目にかかりそうな長い前髪がサラリと流れた。

 彼に話しかけるのは少しだけ緊張した。闇の帝王についてあそこまで意見を言ったのは初めてだったから。闇の帝王に対する反感を言ってしまったのをシャルルは少し後悔してあた。

 もし死喰い人だった彼の父親に伝わったら……。

 

「あの、ノット……。この前の話なのだけれど」

「分かってる。僕はマルフォイと違って、父上に何でもかんでも全てを報告してるわけじゃない」

「そう、良かった。少し軽率すぎたと思ってたの」

「信用出来ないか?」

「えっ?」

 彼は肩を竦めた。

「君の考えにもっと触れてみたくなった」

 ノットは珍しく、小さく笑みを浮かべた。足元がふわっと浮かぶような喜びが湧き、シャルルは一瞬息を飲んだ。なんだろう、この感覚……。

 初めて人と繋がれたような。

 自分のスタンスが純血主義の中でも異様である自覚はあったから、それを否定せず、前向きな言葉を向けてくれたことがなんだかすごく、うれしい。

 思想で繋がるというのはこういうことなのかもしれない。

 

「行こう。もう人が少ない」

「ええ」

 前を歩くノットにシャルルは思わず言った。

「わたし、いちばん仲良くなれた男の子はあなただと思うわ」

「僕もだよ」

 その言葉が背中を押してくれた。シャルルは彼の横に並んできらきらと笑った。

「セオドールって呼んでもいい?」

「お好きに……シャルル」

 セオドールはフンと鼻で笑ったが、その声はとても穏やかで柔らかかった。

 

 

 汽車を降りると会いたかった家族が待っていた。

「シャルル!」

「お母様!」

 振り返って、手を振る。

「セオドール、それじゃまたね。手紙送るわ!」

 軽く手を上げて彼は人混みに混じって行った。シャルルは走ってアナスタシアの元に飛び込んだ。

「ただいま!お母様、お父様!」

 アナスタシアはずっと待ち望んでいた娘を細腕で力いっぱい抱き締め、2人ごとヨシュアがまた抱き締めた。

 アナスタシアの柔らかな感触と、ハーブのいい香りがすーっと胸に吹き抜ける。

 安心する匂い。大好きな匂い。

 わたし、帰ってきたんだわ。

 

「数えきれないくらい、話したいことがいーっぱいあるの」

 白肌を染めて、興奮を抑えきれないシャルルにアナスタシアとヨシュアがクスクスと笑った。

「おかえりなさい、愛しいシャルル」

「今すぐにでも聞きたいところだけど。まずは我が家に帰らないとな?」

 悪戯っぽい瞳でからかい、ヨシュアが恭しく腕を差し出した。

「お手をどうぞ、僕らの天使」

 シャルルは声を上げて笑い、ヨシュアとアナスタシアの腕にぎゅっと巻きついた。そしてその場から、3人の幸せな親子が消え去ったのだった。

 

 

 

*

 



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秘密の部屋
16 誕生日


 絹のように細く靡く髪を、柔らかく梳いていく。櫛を通すたびに彼女の黒髪は潤むように光を反射した。水の中でたゆたっているかのように美しい。その腰ほどまである冷たく柔らかな髪を掬い、サイドを編み込んでハーフアップに纏め、仕上げに水色のサテンリボンを飾る。

 アナスタシアはうっとりと髪を撫でた。

「とても愛らしいわ、シャルル」

 少女は振り向いてあどけない無垢な微笑みを浮かべた。

 白磁の陶器の肌、空や海を嵌め込んだ大きなサファイアの瞳、小さくふくらむ桃の唇。シャルル・スチュアートは純血家系の完璧な子女だった。

 

 ウィゼンガモットで判事を務める父のヨシュア、薬草学者として名声を得た母のアナスタシア、無邪気でおてんばな可愛い弟のメロウ。

 スチュアート家はウィンダミアの湖と森の合間に建つ、隠された繊細な城の中でひっそりと暮らしていた。

 

 しかし、去年ホグワーツ魔法魔術学校の入学案内が届き、シャルルは表舞台に上がることになった。隠された子女であったシャルルは、1年間で外の世界に飛び出し、初めて友人を作り、自分と両親が謎めいていることを知った。

 自分よりも少し明るい、夏の空のようなアナスタシアの瞳を見上げる。アナはシャルルを深く愛していた。その愛情をひとかけらも疑わないほど、両親はシャルルを愛していたし、シャルルも両親を愛していた。

 

「シャルル」

 光を照らし返す上等な仕立て服と濃緑のローブに身を包んだヨシュアが階段を降りて来る。几帳面に銀のネクタイをキュッと締め、柔らかいけれど厳格な表情をしていた。

「そろそろ時間だ」

「はい、お父様」

 ぴょっこり立ち上がると緻密な刺繍が織られたワンピースがひらりと揺れた。上半身は黒いフリルが幾重にも繊細に折り重なり、スカート部分は純白の上質なディーピー布を使っているため、重厚で動くたびに水晶のような輝きが飛び散った。

「こら。もっとお淑やかに」

「はあい、お父様」

 珍しくヨシュアが叱責した。普段シャルルの立ち振る舞いは完璧だし、たまに見せるおてんばさはむしろ無邪気さだと歓迎していたが、今日のヨシュアは少し神経質だ。

 

 今日はシャルルの誕生日だというのに。

 

 おめでとうの言葉は貰ったけれど、プレゼントもご馳走もまだお預けだった。広間が小さなパーティー会場になり、贈られてきたプレゼントが並べられているのだ。

 

 そう、今日はシャルルの誕生日パーティーだった。

 たぶん、生まれて初めて身内以外を招待して行うパーティー。

 招待客はスリザリンの新しい友人達だ。

 マルフォイ家、パーキンソン家、ノット家、デイヴィス家、そして幼馴染のグリーングラス家。本当はブレーズも招待したかったけれど、旧い名家とは折り合いが悪いので辞めておいた。

 他寮の名家もスリザリンとは親しくないだろう。

 こういう時思想でスッパリ断絶してしまうホグワーツの寮差別にうんざりしてしまう。

 

 とてとてメロウもやって来た。

 彼の淡い金髪に合わせ、ダークブラウンと白のカジュアルなベストにショートパンツ、ガーターを合わせたラフな正装をしている。

 アナスタシアは薄青とグレイの交じった色の、オフショルダーのマキシドレスに身を包んでいた。腰のフリルが上品で、歩くたびふわりとたなびく裾と、やんわりと膨らんだパフスリーブが美しさの中に少女のようなあどけなさを感じさせる。

 彼女は指先をきゅっと絡め、微笑みながらもどこか不安げな表情だった。

 

 広間に行くと暖炉の炎がぶわりと燃え上がった。客人が到着したのだ。

 心を弾ませて炎を見ていたが、ヨシュアはさりげなくアナスタシアの傍により、彼女はそっと彼の腕に手を添えた。

 メロウも両親の様子を察しているようで、チラチラと2人の顔を見上げている。

 

 炎から出てきたのはダフネ・グリーングラスだった。

「ダフネ!」

 駆け寄って軽くハグをして頬をくっつけると、クスクス笑って「ちょっと待ってよ」と離される。

 ダフネは瞳と似た色をした淡いグリーンのワンピースをふわりと持ち上げ、軽く膝を曲げた。

「ミスター・ミセス、お久しぶりです。本日はお招きありがとうございます」

 ヨシュアもアナスタシアも仲の良いグリーングラス家の令嬢がいちばんに来てくれたことに安堵したようで、シャルルにしか分からない変化だろうが、表情が緩やかになってダフネに笑いかけた。

 良かった。

 楽しいパーティーになりそうだわ、とシャルルの肩の力も抜けた。

 ああも警戒されたらシャルルだってドキドキしてしまう。

 続いて、ミスター・グリーングラス、ミセス・グリーングラスに抱えられ小さな少女も現れた。メロウの幼馴染と言えるアステリアだ。

 アステリアはバターブロンドのふわふわの金髪に、父親似の透き通るヘーゼルアイが愛らしい少女だ。とてとて歩いて、彼女もダフネの真似してちょこんと頭を下げる。

「おじさま、おばさま、今日はありがとうございます」

「素晴らしいわ、アステリア。かんぺきな挨拶な仕方よ」

 アナに優しく頭を撫でられて破顔し、シャルルにぎゅっと抱きついた。

「甘えんぼさん。久しぶりねアステリア。大きくなったわ」

「シャルルお姉様はまたかわいくなったね!」

 もちもちのほっぺたをむきゅ!と上げてアステリアがきらきら笑う。彼女はシャルルによく懐いていた。

「離れてよアスティ!僕の姉様だよ!」「やー!メロウはいっぱい一緒にいれるじゃない」懐きすぎてメロウと仲が悪いくらいだった。

 

「相変わらず素敵なお城ね、ヨシュア」

「グリーングラスに比べたら全然さ。今日は来てくれてありがとう、イレーネ、ノトス」

 ダフネの母であり、アナスタシアの親友で従兄弟のイレーネ、そしてダフネの父であるノトスが朗らかに話し始める。

「暖炉をネットワークに組み込んだの?あれだけ嫌ってたのに」

「社交界に戻ろうかと思ってね」

「まあ。シャルルがスリザリンに入ったから?」

「そういうことだ。仕事だけの社交じゃ不十分だろ?」

 スチュアート家は魔法界の煙突飛行ネットワークを頑なに拒んでいた。マグルからも魔法族からもこの屋敷の場所は厳密に隠され、場所を知る限られた友人だけが、姿現しで訪れることが出来た。

「先に軽い飲み物を楽しんでいてくれ」

 ベルを鳴らすとスチュアート家のハウスエルフ、シュザンが現れた。ネイビーの布を与え、服を誂えさせているのでみすぼらしさはいくらか緩和されている。

 

 大人たちがワインを飲み始めたのを横目に、しばらくもちもちの2人の相手をしているとまた暖炉が燃え上がった。アステリアはサッとシャルルの後ろに隠れた。彼女は人見知りの気質があった。

 

 炎が弱まる……中から美しいホワイトブロンドの輝く男性が現れた。全身美しい光沢の黒の衣服を纏い、蛇の衣装が施された杖を持っている。彼はローブを翻させ、目を細めて一瞬で広間を見渡し、カツカツと品良くヨシュアに歩いた。

 ヨシュアは貴族的な笑顔で武装した。

「ああ……ルシウス。よく来てくださったね」

「お招きありがとう、ヨシュア。ずいぶんと……久しぶりだね?」

「仕事では話すこともあっただろう?」

「私的な付き合いの話さ。あまり外に出て来なくなってしまっただろう?しかし、息子の入学をきっかけに、こうして縁が繋がったのは喜ばしい」

 ルシウス。ルシウス・マルフォイ。

 慇懃だが、鋭い気品のある男性だ。声が柔らかいのに何故か人を緊張されるような雰囲気を持っている。威圧的ではなく、その気品に萎縮してしまう類のものだ。

 ミスター・マルフォイはヨシュアの隣にいるアナスタシアにも顔を向け微笑んだ。

「貴方とは学生の時以来ですね、アナスタシア……いや、ミス・スチュアート。お元気そうで何より」

「お久しぶりです、ルシウス。以前の時のようにアナスタシアと呼んでくださいな」

「それではお言葉に甘えて」

 

 彼は振り返り、炎から出てきた女性と息子を呼んだ。シャルルも両親の元へ向かう。

「君も知っての通り、我が妻ナルシッサと、息子のドラコだ。挨拶なさい」

「お初にお目にかかります。ルシウス、ナルシッサの息子、ドラコ・マルフォイです。ご息女のシャルル嬢とはスリザリンで同寮として親しくさせていただいております」

 マルフォイは優雅に腰を折り、スマートに微笑んだ。皮肉の一切ない貴族的な笑みは、彼の冷たい美貌に美しくよく馴染んだ。

「シャルルからよく話は聞いていてよ。ルシウス、ナルシッサ、こちらは娘のシャルルよ」

 シャルルはワンピースの裾をつまみ、完璧にお淑やかに微笑んだ。

「高名なマルフォイ家のご夫婦とお会いできて光栄です。彼にはとても良くしていただいて、スリザリン寮でも常にわたし達を率いてくださるんです」

 シャルルが褒めるとマルフォイは顎を上げて得意気な顔をした。

 ルシウスが機械的にニコ…と微笑んで、何故だか検分するかのような冷たい瞳でじろじろとシャルルを見下ろした。何かを見抜こうとする目であり、居心地が悪くて身を捩りそうになる。

「よく……似ているね。ご両親に……」

「ありがとうございます。母にはよく似ていると言われます」

「アナスタシアに似て美しく朗らかに育ってくれて嬉しいよ。さあ、ルシウス、こちらに。色々と話をしたいと思っているんだ──」

 2人を切り裂くようにヨシュアが会話に混じり、やがて大人だけで話し始めた。

 ルシウスの言葉には深い意味があったのだろうか。

 ヨシュアの頬の筋肉が引き攣っていた。シャルルの知らない攻防があったらしい。ミスター・マルフォイの友好的で気品のある表情はむしろ脅迫さを演出していた。

「ヨシュア、この前の裁判の件だが……」

「ナルシッサ、本当に久しぶり。貴方の美貌はいつまでも変わらないわね……」

 大人達が合流して政治や思い出話をし始めたので、シャルルはマルフォイの腕を引いた。

「ダフネ達は向こうにいるのよ」

「ああ」

 

 今日のシャルルは顔に少し粉をはたき、光の粒が散るように輝いていた。睫毛はぱっちりと上を向き、唇がうるうるとしている。マルフォイはその唇から目が離せなくなりそうだった。

 無理やり顔をそむけ、軽く腕を曲げる。

「あら、エスコートしてくれるの?紳士的なのね」

「……わざわざ言うな。当然だろ」

 指摘されると途端に気恥しさがのぼってくる。シャルルはクスクス笑いながら腕を絡めた。エスコートなんてし慣れているのに触れている腕が発熱したように感じ、軽く頭を振る。

 シャルルも、彼のピンと伸びた背筋や、少しいつもとは違うオールバックや、スマートなエスコートに少しドキッとしていた。今は7月の終旬。ホグワーツが終わってから1ヶ月しか経っていない。

 けれども隣に立つマルフォイの背はとっても伸びていた。シャルルの目の辺りに彼の顎があって、見上げないと彼と目を合わせられなかった。

 男の子ってとっても成長が早いのね。

 マルフォイは少し情けないところがある男の子だと思っていたのに、どういうわけが今日の彼はいつもよりカッコよく見えた。…

 

 全員が揃った。セオドールの父親は年嵩で威厳的な雰囲気で、セオドールにあまり似ていない。父親と隣にいるセオドールはいつも以上に自分がなく、緊張しているように見えた。

 トレイシー・デイヴィスもかなり緊張した様子でやってきた。両親はにこやかだったが恐縮していたし、トレイシーの頬は上気していた。

 シャルルがそばに呼ぶとあからさまに安心した様子で駆けてきて子犬みたいな子ね、とクスクス思う。パンジーの母親はアナスタシアの旧友らしく、高くてよく響く声で笑うところはパンジーにそっくりだった。

 

*

 

 

 スチュアート家の3人のハウスエルフが次々に食事やお酒やお菓子を用意して、夕方から始まったパーティーは幸先よく進んだ。

 

「あら、ステラがあるじゃない。開けるわね」

「わたしは白ワインがいいわ。このヴィンテージワイン結構貴重でしょ?ヨシュアって太っ腹ね」

「僕にも1杯頼むよ」

「……こういうのって貴方がやってくれるんじゃ?」

 ダフネにじっとりと睨まれてマルフォイは肩を竦めた。セオドールは黙ってずっとビアビールを飲んでいる。

 アステリアさえちびちびワインを飲んでいた。人見知りの彼女は人がどんどん増えて、酒に逃げ始めたのだ。今ではすっかり顔を赤くして、今はマルフォイに寄りかかってきゃらきゃらと笑っている。パンジーは不機嫌そうだったが、「ま、子供だものね」と好きにさせていた。

 

「姉様、僕も飲んでみていい?」

 期待をうかべた瞳に見つめられ、シャルルは困ってしまった。シャルルもメロウも実はまだお酒を嗜んだことがなかった。

「いいのかしら、メロウまで……お母様がなんて仰るかしら」

「大丈夫よ。シャルルは過保護ね。見て?アステリアを。この中で一番飲んでるんじゃない?」

「メロウはまだ飲んだことがないのか?慣れたら気にいると思うよ。飲みやすいのはこれかな」

 マルフォイがあれこれと白ワインをいくつか勧めてくれ、メロウは身を乗り出した。彼の親分気質はメロウやアステリアにさっそく発揮され、すっかり2人に懐かれていた。

 

 曖昧に微笑んでシャルルは少し指先を絡めた。いつもハッキリしている彼女らしくない。

「シャルル?」

「実はわたしも……飲んだことなくて」

「えっ?」

 驚きの視線に見つめられ、頬がサッと桃色になる。

「だって飲む機会なんてなかったんだもの。マルフォイが勧めていた白ワインを飲んでみようかしら」

「驚いたな。この年でまだ飲んでない奴がいるなんて」

 唇が尖る。マルフォイは軽く笑った。

 ワインを開けてグラスに注ぎ、シャルルの手に押し付けた。

「馬鹿にしたわけじゃないさ。ほら、飲んでみろ」

「ん……」

 透明なグラスに顔を寄せると爽やかな香りが漂う。唇をおしつけて、おそるおそるグラスを傾ける。

 ペールイエローに澄み切ったワインは口に含むと鼻にスーッと香りが抜けていき、軽やかに喉を滑り落ちた。そのあとからじんわりと熱のような酒気が喉の奥に伝わっていく。

 思ったより飲みやすい。

 美味しいかは……まだよく分からないけど、フルーティーで、アルコールもそこまで強くないように感じた。

 ゆっくり口を離し、舌先で唇を舐める。

「ん……美味しい」

 目を細めて味わい微笑むと、マルフォイが雷でも走ったかのようにビクッとした。

「あっ、ああ。ああ……なら良かった」

「どうかした?」

「いや」

 マルフォイは足を揺らしながら、飲んでいた白ワインを飲み干して、また注ぎ始めた。首筋が真っ赤だった。シャルルの唇から目が離せなかった。透明な液体が口の中に吸い込まれて、白い首筋がコクコク動くのが、唇を舐める赤い尖った舌が、なぜだか……。こんなこと言えるわけが無い。

 黒い瞳でセオドールが見つめていた。目が合うとスっと視線をそらされ、マルフォイは気を取り直すようにまたグラスを煽った。

「姉様ずるい!僕にもちょうだいよ」

「そうね、これなら大丈夫だと思うわ」

 

 トレイシーが「部屋を見てみたいな」と言うので、シャルルは女子を連れて2階を案内することになった。

「男子はどうする?」

「まさかレディーのベッドルームに来るわけないしね?」

 ダフネが何故か悪戯っぽくマルフォイをつつくと彼は目元を赤くして睨んだ。

「庭を見てきたら?少し先に湖があるの。とても美しいのよ」

「箒はないのか?」

「あるよ!僕案内してあげる!」

「お酒を飲んだのに飛ぶの?メロウ、ダメよ」

「だいじょうぶだよ!」

 よたよた立ち上がったが、彼はふらついてマルフォイに支えられ、シャルルは首を振る。

「僕がしっかり見ているから心配するな」

 彼の足取りはしっかりしていた。セオドールも無理やり立ち上がらせられる。2人ともかなり飲んでいたはずだがあまり酔った様子はない。

「でも……外ももう暗くなってるのに」

「箒の前に乗せてやればいいだろ。マルフォイは飛ぶのがうまいし」

 素っ気ない言い方でセオドールが助けを入れるとメロウがパッと明るい顔になる。セオドールは無口で会話にあまり参加しないからメロウはすこし距離感をはかりかねていたが、嬉しくてうんうん頷き、彼に輝く笑顔を向けた。

「空から見る湖はすごく綺麗なんだよ。セオドールもきっと好きになるとおもうな」

「……そうか……。それは、何より」

 無邪気すぎる彼にセオドールはどう接していいか分からないらしい。少し気まずそうだ。

「マルフォイ、お願いしてもいい?」

「任せてくれ」

「メロウ、絶対1人で飛んじゃダメよ」

「はあい」

 メロウは甘ったれた返事をして、マルフォイとセオドールの手を引いて意気揚々と出て行ってしまった。

 

「さ、アステリアも行くわよ」

「ううん」

 酔いすぎてほぼ寝ていたアステリアが、目をこすりむにゃむにゃ言いながらついてくる。ダフネが背中を支え、トレイシーはグラスを持ってパンジーがワインを数本掴んで5人は2階へ向かった。

 

 スチュアートの城はどこもかしこも純白だった。白と銀と水色で壁も部屋も調度品も纏められている。階段は細かく彫刻が彫られ、柱は深い青の大理石、あらゆるところが繊細で荘厳な雰囲気だ。

「素敵だわ、貴方の屋敷って。うちは単調な石造りでなんの面白みもないったら」

「パンジーの御屋敷もとても素敵じゃない」

「そう?こんなふうに回廊に素敵な窓枠があったらいいのに」

 指で羨むようにすーっとなぞる。

 

 シャルルの部屋も真っ白だった。瞳よりも淡い水色で統一され、レースの天蓋やカーテンが美しく可愛らしい部屋だ。シャンデリアは水晶を砕いて編み込んだように豪奢で、しかしところどころにダークグリーンの調度品が飾ってある。

 絵画の額縁とか本棚、机の燭台だとか、それから蛇の意匠も多かった。

「寝かせていい?」

「ん」

「やー。まだ寝ないぃ」

「いいから、ほら」

 ベッドはふわふわとアステリアの重力で沈みこんで、毛布をかけるとコテンと意識を失ってしまった。

「んふふ。すぐ寝ちゃったね」

 マシュマロみたいなほっぺたをつつく。

 中央の白いテーブルにワインを並べ、水色のソファを引っ張ってきてそれぞれ座る。広間にもあった銀のベルがシャルルの寝室にも置いてあった。いつでもハウスエルフを呼べるようになっているのだ。

 ベッドの大きなテディベアはシャルルとダフネがお揃いで持っているもので、それを見たダフネは優しく顎のところを撫でた。手が埋まるくらいもふもふの大きなテディベア。横にするとアステリアが抱きついてクゥクゥ寝ている。

 

 4人はまたワインやビールを飲み始めた。

 シャルルがカーテンを開いて、大きな窓をあけると庭園と噴水、そして大きな湖と森が見えた。日が暮れかけて薄桃色と紺色が混じった空と、薄い雲から指す金色の光が湖に反射して煌めいている。

 柔らかい風が部屋を満たした。

「ね?美しいでしょう?」

 3人がうっとりため息をつく。

 絶景だった。

 ウィンダミアは英国で最も美しいと名高い湖だ。もっと遠いところにはマグルの街があるが、城は森に隠れるように建っており、近くにマグルはいない。

 湖は大きな水鏡だった。

 1本の線を引いたように光がスーッと走り、湖面を小さな影が飛んでいた。

「ドラコ達じゃない?」

 パンジーは指を指した。影が2つ浮かんだり、踊ったりして優雅に泳いでいる。グラスを光に透かして、景色をアクセサリーにして宝石の液体を嚥下するのはなんという贅沢なんだろう。

 シャルルが羨ましい。パンジーは目を細めて美しい光景に感じ入る彼女を横目で眺めた。

 パーキンソン家は聖28族の由緒正しい貴族で、金銭的にも伝統的にも恵まれ、今まで人を羨んだことは無かった。でも、パンジーはシャルルの色々なことが……羨ましい。

 さっきのドラコの様子が心臓に突き刺さった。

 ずっとどこか分かっていた。

 ドラコが彼女をとても気にかけていること……。

 

「あーあ」ソファに沈んで天井を眺める。白い天井は何故か光が散っていて、天井にまで緻密な意匠が施されているのがわかる。

「どうしたの?」

「ねえ、恋ってしたことある?」

「恋?」

 明るい話題のはずがパンジーの横顔がなぜか寂しそうに見えた。

「恋はしたことない。……こどもだと思う?」

「んーん。シャルルらしいわ」

「ダフネはどうなの?」

「えっ?」

 肩を強ばらせたダフネの両隣にトレイシーとパンジーが陣取った。絶対逃がさない構えである。

「言ったわね!」

「バレちゃったの。ごめんなさい。でも相手は言ってないわ」

「あなたいつもふらっといなくなるんだもの。わかるに決まってるよ」

「さあ観念なさい」

「い、いや」

 カーーッと真っ赤になってダフネは顔をうずめた。2人に抑えられているので立ち上がることも出来なくて、「ま、待ってよ」ともごもご言いながらあたふたした。

 これが面白くてシャルルは他人事の顔してワインをついであげた。きっ、と睨まれてもぜんぜん怖くない。

 シャルルは恋はしたことがなかったがロマンスは好きだった。特に人のロマンスはとても好き。きゃあきゃあ恋バナするのは自分のことみたいにときめいてしかたないし、照れている友人はとても可愛い。

 ダフネはゴクゴク水みたいにワインを飲んだ。4人とも既にかなり酔っていた。シャルルは3杯ほどしか飲んでいなかったが誰よりもフラフラいい気分だった。顔も首も手のひらまでピンク色になって、恥ずかしがるダフネを見ているだけで「うふふふ」といつまでも笑える。

 

 真っ赤になって照れながらダフネは尋問にポツポツ答えた。「ね、相手は誰なの?」「エリアス……」「エリアス?エリアス・ロジエール?」「かなり年上じゃない!」「呼び捨てにしてるの?甘〜いっ」「くぅ……だめっ、もう聞かないで!」またワインをしこたま流し込む。

 瞳がトロトロとしてきた。

 ダフネのペースに合わせて3人も飲むからシャルルはすっかりのぼせ上がった。パンジーは顔が赤いけどまだ平気そうだ。テンションだけはいちばん高い。トレイシーはケロッとしていた。末恐ろしい酒飲みだ。

「というより、結局付き合ってたの?わたし何も教えてもらってないわ、ダフネ」

「……」

 ちょっと黙って三つ編みをいじいじ弄び始める。

「つ。付き合ってないわ。告白もしてない……」

「え!」

 じれったい。なにをしているのだろ。あんなに分かりやすい顔をしていたのに。

「えーっ、言わなくちゃ!もうロジエールは卒業しちゃったじゃないの」

「だって彼わたしのこと妹としか思ってないもの……」

「でも仲良くない子と2人で会ってくれたりしないでしょ?」

 悲しい顔で三つ編みを弄り続けるダフネにパンジーとトレイシーが両側からあたふた慰め始めた。シャルルはワイン片手にそれを見ていた。かける言葉がない。可哀想だけどまあそうだろうなあと思った。

 ロジエールとダフネが2人でいるところは何回か見たことがあるけど、2人は明らかに温度差があったから。

 シャルルはシビアなのでそれをわかっていたし、ダフネも現実的だから自覚的だっただろう。今はお酒のせいでそれでもかなしい思いが零れてしまっているだけ。

 

「みんな色々あるのね」

 パンジーの声は大人びていた。でもどこかスッキリとしてもやもやが晴れたようである。トレイシーも実はまだ恋を知らない。恋をすることが大人だとも思わない。でもよくみんな、他人に期待できるなあ、そこまで心を砕けるなあと感心する思いだった。いつか恋をするのかなあ、わたしも。むりだろうなあ。これはシャルルも思っていた。トレイシーは人間関係の薄暗い計算に慣れすぎていたし、シャルルは他人に期待を持たない。

 年頃になれば結婚相手をいくつか親にあてがわれるから将来には困らないけど、それまでに恋をしてみたかった。

 

 

「シャルルー?降りてらっしゃい」

「はあいっ」

 1階からアナスタシアに呼ばれて5人はフラフラ降りて行った。あれからも話は弾み全員すっかり出来上がっていた。アステリアも途中で目を覚まして「ドラコ様って素敵だわ」「ドラコ様ァ?」「ちょっと、ドラコはわたしの相手なんだから辞めなさいよ」とワインをガブガブ飲んでいた。

 1階では男子3人がソファで潰れて死んでいた。

「シャルルっ、顔真っ赤じゃない!そんなに飲んで……」

 白い肌がトマトみたいになっている自分の娘を見て悲鳴を上げかけた。シャルルは酔っていたのでヘラヘラ笑い、ダフネの母親のイレーネがパンジーの手にある空瓶と机の上の空瓶を見て引き攣るように笑った。

「ちょっとこの子達8本も空けてるわよ」

「8本!?」

「ハハハ!私達より飲んでるじゃないか」

 大人と違って限界にならずに酒を楽しむことをまだ知らない子供達はバカみたいに飲んでバカみたいにちゃんと死んでしまったのである。

 

「無様な……」

 頭痛を感じたようにこめかみを揉んでルシウスがドラコを揺り起こした。セオドールの父親も不機嫌だったが、イレーネやパンジーの母親のシルヴィアは面白がり、心配性のアナスタシアとナルシッサだけ青い顔をしていた。

 

 みんな帰ったあとアナスタシアにこってり絞られてシャルルはむにゃむにゃ眠った。

 すごく楽しい誕生日パーティーだった。プレゼントもいっぱいもらって幸せだった。

 さっきまでみんないた部屋に自分だけになると寂しさが一気に押し寄せてきて、早くホグワーツに帰りたいなと思いながら夢の世界に落ちていった。…

 

 

 



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17 もうひとつの我が家

 2ヶ月の夏休みはあっという間に過ぎた。

 誕生日パーティーの後もダイアゴン横丁に遊びに行ったり、今年ホグワーツに入学する従姉妹のリディア・ダスティンにお祝いを言いに行ったり、マルフォイ家やパーキンソン家に招待を受けたり、宿題をして新学年の教科書を読み漁ったり……。

 シャルルは毎日ヨシュアに魔法の特訓を受けた。

 死喰い人だと思われるクィレルの話や、賢者の石が持ち込まれていたこと、痛い死に方をするとわざとらしく脅迫された禁じられた廊下、クィレルがマルフォイやセオドールに父親のことを脅したこと(その父親の中にヨシュアが含まれていたことはシャルルは黙っていた)。

 話を聞いた父親は憤懣やるかたない様子でダンブルドアやホグワーツの安全について怒り、ますますシャルル自身が力をつけなければならぬという結論に達していた。

 シャルルはただでさえ難しい立ち位置なのだから……。

 

 ハウスエルフを相手にいくつか高度な呪文を実践し、癒しの呪文と闇の魔術もいくつか教わった。ヨシュアは闇の魔術に対しての造詣はあまり深くないが、有用な呪文は実践を踏まえて活用していた。

「それから、シャルル。いくつかのクラブに入り貪欲に知識を得る姿勢は好ましい。しかしフリットウィックはデミヒューマンだ。近付きすぎないように」

「分かってるわ、お父様。ホグワーツの教授でマトモなのはほぼ居ないから。スネイプ教授くらいしか、人間性も含めてスリザリン生が信頼出来る方はいないもの」

「わかっているならいい。だが、セブルスも……」

 ヨシュアは目を逸らし、僅かに言い淀む。彼とは懇意だったはずなのに、なにか疑念があるらしい。自分の父親がシャルルの知らない様々な情報を握っていて、かつ、自分の知らない様々な後ろ暗いことを抱えているのは知っていたが、それらに気付かないふりをするのはウンザリする。

「大人は信用出来ないってことね。分かったわ、お父様」

 その大人には自分の父親も含まれていたが、それは気づかなかったようで、ヨシュアは満足げに頷いた。

「何かあれば私に手紙をすぐ寄越しなさい。学校ではセブルスは動いてくれると思うが、その情報の取捨選択もきちんとするように」

 ホグワーツは英国魔法界で最も安全な場所では無かったのだろうか。それともその安全はダンブルドア信者のみのものなのだろうか。

 あの忌々しいグリフィンドールのクソッタレのように無謀な冒険をしたいとは思わないし、危険からは距離を置いて利益を得るのが賢い人間の在り方だと思う。けれども今までのように物ごとに敢えて無関心でいるよりは、情報を集めることをもっと重要事項とした方がいいかもしれない。

 情報は知りすぎれば危険だが、扱い方で剣にも盾にも毒にもなる。

 

 ホグワーツに戻る日がやってきた。

 帰るのが嬉しい気持ちも、帰りたくない気持ちもある。痛みは消えていたが屈辱は消えていなかった。シャルルの心臓に硬質化された黒い呪詛の結晶は明確に形を持って残っていた。

 

「お姉様、また行ってしまうんだね」

 スカートをちょんとメロウが握る。この1年でちょっとだけおとなになったメロウは前みたいに駄々を捏ねなくなったけれど、そのかわりに甘ったれた声でモジモジかわゆく心を掴むのが上手になっていた。

 無自覚か計算か分からないが、シャルルその彼のかわゆいおねだりにちゃんときゅんとして、メロウを優しく抱き締めた。去年はワクワクで彼のさみしさにきちんと向き合う余裕がなかった分、今年は彼のおねだりがストレートに胸に刺さる。

「わたしがいない分、メロウがお母様を守ってさしあげてね」

「僕が?」

「そうよ。お母様はさみしがりで心配性だもの。来年からはメロウも離れてしまうから、今年その分いっぱい甘えて、守ってあげるの。できる?」

「うん…」

「お勉強もたくさんしなくちゃね」

「大丈夫だよ!僕、もうカンタンな魔法ならつかえるもの。姉様にもらったキットもたくさん使ってるよ、知ってるでしょ?」

 去年のクリスマスにプレゼントした魔法薬キットはちょっとユニークすぎる代物で、メロウはヨシュアに基礎を教わってから、今では何回も調合するようになっていた。シャルルと違い彼は気持ちの悪い材料を刻んだり潰したりするのが楽しい様子だった。魔法薬学が得意なのはアナスタシアに似ている。箒が得意なのはヨシュアに似ていた。

 金髪の髪の毛を優しく撫でる。

「そうね、頑張り屋さんな可愛いメロウ、お姉様の帰りをよいこで待っていてね」

「うん…」

 ぽしょぽしょ唇を尖らせて仕方なく頷く。

 

「今日もお留守番?」

「駅は穢れた血がたくさんいるんですもの…」

 眉を下げ、申し訳なさそうにアナスタシアが言った。出来るだけかわゆい我が子からは危険や汚いものから遠ざけたいのが親心なのだ。

 拗ねた顔でメロウはシャルルの胸に顔を預けた。

「行ってらっしゃい、お姉様」

「行ってくるわ」

 おでこにキスを落とし、ヨシュアとアナスタシアの手を取り、3人はスチュアート邸から姿をくらませた。

 

 キングス・クロス駅は魔法界のホームがいくつかあり、ホームへは直接姿現し出来ないよう魔法が掛けられている。ウンザリするマグルの群れを縫って、9と3/4番線をくぐる。

 赤い蒸気汽車が威厳的に3人を迎えた。

「煙突飛行を繋いでくれないかしら。毎回こんなんじゃ嫌になっちゃう」

 顔をしかめて体をパッパッと払う。マグルに触れたわけじゃないけれど、マグルがいる空気でなんとなく穢れた気がして。

「本当だわ。純粋な魔法族にわざわざマグルがいる場所を通らせるのって手間よ」

「昔からそういう話はあるけれどね」

 なかなか実現には至らないのが現状だ。

 プラットホームは大規模なイベントに合わせて臨時で作られることもあるので、その度にネットワークを繋いだり、暖炉を新設したり、マグル避けをしながら魔法族の不正も防ぐとなるとなかなか難しいのだ。

 

「……」

 シャルルは少し元気がないように見えた。無理もない。あんな仕打ちをされたんじゃ。

 自分のことのように、ヨシュアの胸にダンブルドアへの怒りがじくじく沸き上がる。僕らの頃とは大きく変わってしまった。

 純血家系への敬意と憧憬と尊重が、例のあの人のせいで恐怖と畏怖に塗り替えられ、彼の失墜と同時に純血家系まで反社会的な思想だと誤解を受けるようになった。

 校長も、昔より度を超えて贔屓が酷くなっている。権力と影響力が増したこと、英雄が魔法界入りしてグリフィンドールに選ばれたこと、年老いたこと……様々な要因が関係しているんだろう。

 行かせなくて良いなら行かせたくなかった。

 だが、いつまでも親の手元で雛のように守り続けることは誰のためにもならない。…

「シャルル」

 深く低い声にシャルルは顔を上げた。

「強くなるんだ」

「はい、お父様…」

「誰にも傷付けられないくらい強く、賢く、気高く。蛇のようになるんだよ」

 頷いて、父親の胸にぎゅっとしがみつく。

 母親が頭を撫でる。

 これはまるでさっきのメロウのようだった。さみしい時の甘え方が姉弟そっくりなのだ。

 シャルルは2人の温かさを感じながら、お父様もスネイプ教授も似たようなことを言うのね。と思った。誰にも揺らがないくらい、強く賢くなって、結果を出す。2人とも似たようなことを言っている。シャルルはそうなりたい。そうなりたいけれど、どこか胸に空っ風が吹くような気持ちになる。

 誰にも頼れないスリザリン。

 誰からも嫌われるスリザリン。

 それはなんて孤独でさみしいのだろ。本当はスリザリンは情が深くて、気高くて、賢くて、協調性と思いやりがあるのに。魔法界を築き、先導してきた誇り高い寮なのに。

 

 空いているコンパートメントを探していると、セドリック・ディゴリーが1人で乗っているのを見つけた。ドキッとして、どうしようかしらと悩む。

 前までのシャルルだったら迷わず「ひさしぶりね、ディゴリー。良い休暇は過ごせた?もし良かったら一緒に乗っても良いかしら」と話しかけていただろう。

 迷っていた。他寮生と関わる機会は少ない。これを逃すのはもったいない。でも……。

 ハッフルパフはスリザリンが負けてあんなに笑ったわ。

 そう思うと足が踏み出せず、指先でキャリーケースの銀蛇を弄び、結局モヤモヤを払うようにシャルルはツカツカ歩いた。

 

 監督生にほど近い広めの席でマルフォイ達が悠々と寛いでいるのを見つけ、シャルルはそこに混ぜてもらった。クラッブとゴイルはもう車内販売のお菓子をたらふく買い込んで食べまくっている。

 少ししてトレイシーとパンジーも参加するとコンパートメントが埋まってしまった。巨漢が2人も居ると少しきつい。1番最後に来たパンジーはマルフォイから1番遠い場所でシャルルが羨ましそうだったが、席を変わろうとすると、「わざわざ席替え?必要ないだろ」と彼が言うのでパンジーは残念そうに引き下がった。

 あからさまにしょげて少し拗ねている。トレイシーが必死にご機嫌取りするが、その結果はかんばしくない。

 

「ポッターは退学になったかな」

「そこまでバカじゃないんじゃない」

 本から視線を話さず返事をすると、マルフォイは「あいつはバカだろ」と不満そうに言った。たしかにバレる状況でルールを超えるのバカだ。

「まさかマグルの前で魔法を使うなんてねえ?」

「ホントよね。そのまま退学になっちゃえば良かったんだわ」

「そうすれば、赤ん坊の不思議な幸運じゃなく、奴自身が本当の伝説になっただろうよ」

 けたたましい笑い声の後に、は、は、は、と鈍い笑い声が続く。

 パンジーのしなだれかかるような媚びた声に彼はフンと鼻を鳴らし、機嫌よく腕を組んだ。彼女はマルフォイに答える時だけはどんなに機嫌が悪くても甘い響きを帯びる。マルフォイはいつも隣に全肯定してくれるパンジーがいるからか、シャルルの柔らかいのに素っ気なくてマイペースな対応に、やや慣れていないようだ。

 シャルルはクラッブとゴイルをまじまじと見た。今はまた黙って一心不乱にお菓子を口に詰め込む作業に邁進中だ。

 普段愚鈍であまり喋らなかったから分からなかったけれど、彼らはマルフォイが冗談を言うと必ず手を止めて反応する。意外にきちんと話を聞いているし、笑うタイミングも心得ているし、きちんと反応を示すくらいにはマルフォイへ従う自覚があるようだった。

 シャルルは彼らをかなり見直した。正直言って不当な評価を下していたと言わざるを得ない。

 

 

 ハリー・ポッターは休暇中、マグルの家で魔法を使い警告文が送られた。

 ヨシュアから聞き、たいそう驚いたものだ。そしてマグル生まれは魔法族でありながら、魔法を制限されてしまうと知り、同情心が湧き出てきた。

 本来なら魔法族の子供ももちろん魔法の使用は禁止だが、大人がいれば匂いは追えない。この決まりを守っている魔法族がどれだけいるだろうか。

 マルフォイ家でもこの話題が出て、彼は喜んで「ポッターが2回目の警告文を受け取るといいのに」とブツブツ言っていた。

 

「なあ、さっきから何読んでるんだ?」

「新学期が始まってもないのにもうガリ勉ちゃん?」

 トレイシーが脇をつんつんと突つく。肩を竦めて栞を挟みむ。本の表紙は黒革で、何かを染み込ませたかのように深く染まっている。厚みはなく、背表紙は何かの毛皮が使われていた。陽光が当たると、黒の中に深い赤が混じっているのが分かる。

「なんだ?教科書じゃないな」

「シャルルっていつも本読んでるわよね。飽きないの?」

 ヒョイと本を掴み、マルフォイとパンジーはパラパラ眺めるけれど、内容は字が細かくコチャコチャしていて読む気が起きなかった。たまにある挿絵は見たことも無い植物とか材料ばかりでウンザリする。

「魔法薬学の本?あなた、苦手じゃなかった?」

 呆れ声でパンジーが言うとシャルルはクスッと小さくえくぼを浮かべた。「苦手だけどこれは違うよ」

 するりとパンジーの手から本を抜き取り、大切そうに抱え直す。

「それにこれは飽きない学問なのよ」

 悪戯っぽく微笑むが、パンジーは興味が無さそうだ。

 

「パンジーも今年は去年みたいに遊んでいられないからね」

「どうしてよ?」

「わたしがあなたのスケジュールを組むから」

「はあっ?頼んでないわよ」

「夏休みの間に決めたの。必ず寮杯を奪い返すための、ちょっとした計画をね。クラッブとゴイルもよ」

 2人は呻き声を上げた。マルフォイは「本当かい?それはかなり助かるよ。この2人に言葉を教えるのはかなり難しい仕事だったんだ」と顔を輝かせた。

 

 会話を終えまた本を開くと、トレイシーがすごい目でそれを見ていた。涙袋がハッキリ浮かび上がり、下睫毛が震えている。

「わたし、シャルルに絶対逆らわないわ……」

「あら、あなたには分かるみたいね」

 この本が何か。

 

 これは闇の魔術の本だ。スチュアート家の書斎にある中からこっそり持ってきていた。ヨシュアはまだ早いと言って読ませてくれないけれど、シャルルは書斎の本はあらかた読み終えていた。難しくて理解出来ないのも多いけれど、これは比較的手頃な魔術が多い。

 ヨシュアもアナスタシアも闇の魔術には興味が無いようだけれど、シャルルはどんな知識でもどんどん吸収したいと思っている。

 

*

 

「ポッターがいない!あのしみったれたウィーズリーの落ちこぼれも!」

「泣き虫のグレンジャーしかいなかったわ!彼ら、退学になったに違いないわよ」

 汽車の中でいつものポッター弄りから帰ってきたマルフォイとパンジーが喚いていたのを聞き流していたが、どうやら彼らがいないというのは本当のことらしかった。

 しかも何やら不可解な噂が流れている。マグルの車で空を飛んできたとか、暴れ柳に突っ込んだとか……。組み分けを待つ大広間はその噂が爆発的な勢いで広がっていた。

 ロナルド・ウィーズリーの父親は魔法省でマグル製品不正使用取締局長を務め、さらにはバカげた「マグル保護法」なんてものを制定してくださった純血魔法族だ。その息子がわざわざ法を犯してホグワーツに英雄的ご帰還だなんて悪い冗談だとシャルルは取り合っていなかったが、トレイシーが回ってきた新聞を読んで「ウソでしょ!」と小声で叫んだ。

 

「なに?」

「これ!夕刊預言者新聞──空飛ぶフォードアングリア、訝るマグル──だって」

 うくくくっ、と背中を丸め、「噂はホントだったのね。学校に来るために退学になったら意味無いじゃない」とトレイシーが嘲笑う。

 記事によると車(移動用の鉄の塊)が空を飛んでいるのを7人ものマグルが目撃したという。魔法の存在が公になったなら、魔法省が黙ってはいない。

「警告文を受け取った後にもこんな冒険してくるとは、恐れ入るわね」

 ダフネはドン引きしている。「退学どころかアズカバン行きも有り得るじゃない」

 シャルルはつまらなそうに言った。

「退学にならないって分かってるからするんでしょ。魔法界の英雄、ダンブルドアの寵児、何をしても許されるハリー・ポッター」

 鼻を鳴らすと、周りがしんとなった。

 ダフネは口を「O」の字に開けたまま唖然とし、トレイシーやパンジーは目を剥き、マルフォイは固まって忙しなくまばたきをした。

「なに?」

 その反応の答えは分かっていたが、シャルルは不機嫌に言った。新学期早々、学期末の所業を彷彿とさせる事件を聞きたくなかった。

 

 マルフォイの顔にゆっくりと笑みが広がっていった。

「嬉しいよ、スチュアート。ポッターとお友達ごっこは辞めたのか?」

 彼の目を睨む。

「勘違いしないでよ。わたしは彼を嫌いになったわけじゃない。ただ、法律を超えても贔屓し続けるダンブルドアが嫌いなだけよ」

「それでもいいさ。何だか前より君を身近に感じるよ」

 にこやかなマルフォイにシャルルは肩を竦め、それっきり口を閉じた。シャルルが不機嫌なのは珍しい。

 

 組み分けの式が始まった。

 1年生がズラズラと雪崩込んで来て、夜空を掬って散りばめたような見事な天井や、数千もの蝋燭が荘厳として空中に並べられているのを、不安と畏怖と期待の表情で見上げている。

 各寮にきっちり分けられた先輩達をマジマジと見つめる小さな1年生達に、「可愛いわね」「私たちもああだったわ」「懐かしい」と2年生は顔をくっつけてヒソヒソ笑った。

 上級生からしたら彼らもまだまだちっちゃな雛だ。1年生を見て急に先輩意識が出てきた2年生を上級生が微笑ましく見ている。そしてそれを教師が微笑ましく見ている。

 

 帽子が歌い出した。少しずつ去年と違う。毎年帽子は新しい歌を考えるらしい。

 

「 グリフィンドールは信念の寮

  折れぬ曲がらぬ勇気の炎 燃やして我道を突き進む

 

  ハッフルパフは道徳の寮

  隣人愛する献身さ 倫理の守護者は我等なり

 

  レイブンクローは叡智の寮

  深遠目指して追究し 終わらぬ賢者の旅をする

 

  スリザリンは矜恃の寮

  同胞築いた歴史を誇り 常に研鑽励みせし 」

 

 歌が終わると新1年生がガクガク震えながら帽子を被り、次々流されていく。「ハッフルパフ!」「グリフィンドール!」「ハッフルパフ!」「ハッフルパフ!」今年はハッフルパフが多いらしい。例年のことだけれども。

「ハーパー・バーナード!」「スリザリン!」

 茶髪の不遜な顔つきの少年が緑のローブに組み分けされ、歓迎の拍手が響く。

「ダスティン・リディア!」

 従姉妹のリディアが呼ばれた。彼女は緊張に体を固くして、目をキョロキョロさせながら恐る恐る帽子を被った。数秒ののち、帽子が高らかに叫ぶ。

「レイブンクロー!」

 リディアは明らかにホッと喜びを浮かべ、青いローブの中に飲み込まれていった。彼女に後でお祝いを言わないと。どうせ嫌な顔をされるだろうけど、シャルルは彼女が嫌いではない。

 

 スリザリンは野望や狡猾さが前面に出されるが、今年の歌は矜恃、同胞愛、ゆえに誇り高く努力家な美点を歌ってくれて、シャルルは嬉しくなった。スリザリンは輝かしい場所なのだ。

 教授席にはスネイプはいなかった。ヒソヒソ声が飛び交っている。DADAの教授に今年もなれなかったからお怒りで……ご病気で……ポッター達を捕まえて退学にしている……。

 途中でダンブルドアと現れたセブルス・スネイプは誰かを殺し損ねて飢えたような血走った目をしていた。ダンブルドアが立ち上がって気が狂ったユーモア溢れるご高説を垂れてくださり、それを睨みつけながら聞いた。「長々とは話すまい……さーて、かっ喰らえ!」

 

 シャルルは上品に無機質な笑顔を浮かべながら、無機質に食事を味に運んだ。新学期の初めだというのに全く機嫌が浮上しない。自分でも戸惑っていた。他人に対してイライラしすぎたり、自分の感情を持て余すことなど数える程しかなかったのに。

 未熟な自分が恥ずかしい。でもこの怒りと鬱屈は正当だ。もやもや抱えてご飯をちょっと食べ、むっつりした気分で寮に戻る。冷たい石壁はキンと何もかも弾くように薄暗く、馴染みの地下牢は心を僅かに落ち着かせる。

 新しい合言葉は「栄光」。

 1年生に監督生達が指導する間、シャルルは同学年に伝言を回した。談話室に残ってくださいと。バラバラ生徒たちが自分の部屋に戻り始め、やがて寮は数人と2年生ばかりになった。

 

「どうしたんだ?」

 マルフォイが疑問を口にした。たいてい、彼がみんなを代表して口火を切る。数多の視線がシャルルに刺さった。シャルルは穏やかに微笑んだ。

「これから週に3回、勉強会を開くわ。2年生は全員参加で、成績上位者は他の生徒に教え合うの」

「えっ?」

 虚をつかれて黙り、それぞれ不平を口にし、不満げな顔をし、ざわめきが広がる。

「どうして?私成績は保っているから必要ないわ」

「自習は自分のペースでやりたい」

「いくらスチュアートだからって横暴だよ」

「わたしは参加しないから」

 ピヨピヨピヨピヨとまあ元気なものだ。シャルルはゆっくりひとりひとりの顔を見て、ニコ…と穏やかに微笑んだ。

「黙りなさい」

 穏やかで柔らかい声に部屋の空気が5度下がる。ピタッと声がやんだ。ダフネが「うわ……」と呟いた。氷のようにカッチリと微笑みで固定され、一切動かない能面の表情。「ああなったシャルルには従っておいた方が身のためよ」

 

「ようやく静かになったわね。それで、何か異論がある人は?」

 1人の愚者(あるいは勇敢な生徒)が口を開きかけた。

「あの…」

「何か、異論が、ある人は?」

「いえ…」

 

 暖炉の炎が燃える音だけが背後にある。今や談話室に他学年の生徒は誰もいない。

 シャルルは生徒たちの前をゆっくりと歩いた。

「これから月曜、水曜、土曜の夜には勉強会をします。各科目数人から教師役を選んで、生徒の質問に答えたり、課題を手伝ったり、予習復習を行います。また、勉強会だけでなく普段の生活から日常的に教え合って成績の向上を目指します。授業でのペアもランダムにして、寮生の結束を高めます」

 誰も口を聞かない。

 口答えが許されない冷たく穏やかな微笑み。

 魔法薬学の教室はいつもこんな雰囲気に満たされている。恐怖ではない。ただ、愚かしいことをしてはならぬと睨まれて背筋が伸びるような。微笑みは威厳そのものだった。

「監督生にも話を通して、全学年がそれぞれ自助努力にいっそう励むことになってるの。それも全て寮杯を取り戻すため。いい?」

 微笑みに酷薄な色が浮かび、ギラッとシャルルの目が光った。能面の微笑みにぬらぬらとした怒りが混じる。

「去年のように理不尽に200点も300点も加点されることがあるかもしれない。わたし達は、あの権力に溺れた老耄に対抗する準備が必要なの!何をされても揺らがない結果を叩き出すのよ!」

 

 シャルルは完全に恨みを腹の底に飼っていた。燻る怒りと恨みをこういう形で昇華させたのだった。

 呆気に取られ、ゴクッと唾を飲み込む音すら響く沈黙を断ち切ったのは、やはりドラコ・マルフォイだ。

「すごい変わり様じゃないか、スチュアート」

 光のない目で微笑まれて、マルフォイは肩を竦めた。

「異論はない。スリザリンが屈辱を受けたのは記憶に新しい。備えるのは良い計画だと思う」

 それから小声で「窮屈すぎるけどな」と呟いたが、シャルルはそれを無視した。

「セオドール、協力してくれる?」

 影のように気配を消していた彼は、名前を呼ばれ黒々とした瞳をゆっくりと瞬きした。少し沈黙して、視線を反らして頷く。イエス以外の返答を許していないくせに、わざわざ答えさせるのが少し不愉快だ。

「パンジーは?」

「面倒だけど……いいわ」

「ダフネは?」

「決定事項なんでしょう?それに、もう負けたくないものね」

 スリザリン2年生のリーダーはシャルルとこの3人だ。4人が決めたことなら、他の生徒が異を唱える余地はない。違う派閥のリーダーであるブレーズ・ザビニに顔を向ける。

「ザビニもいいかしら?」

 彼は癖毛をくるくると弄んで、「どうでもいいけど、君の頼みだからね」と冷たく笑った。

 そこでようやくシャルルは、氷が溶け、ニコ、とかわゆく花が綻ぶ笑みを浮かべた。

「ありがとうみんな。今年こそ勝利を掴みましょうね」

 まったく、スリザリンの女はこういう女ばかりだった。我を通すくせに、まるでそれが「ちょっとした可愛いワガママ」だという顔をして見せるのだ。

 

 

 部屋に戻るとシャルルは無言で本棚に教科書を並べ始めた。作り物の笑顔は失われ、無表情だった。不機嫌そうではないがパンジーは話しかけづらくて、「さ、先にお風呂入るわね」と小さく言った。

「ウン」

 彼女の背中は丸っこくて、声も丸っこくて、声はさっきより明るいトーンだった。パンジーはホッとしてバスルームに向かう。

 この前まで不遜だったのに、シャルルがちょっと不機嫌になったらこれだもの。シャルルはそっちの方がずっと釈然としない。

 フラフラ重たそうにキャリーケースを持ち上げてターニャ・レイジーも荷解きを始めた。

「帰って来れた…………」

 レイジーは迷子の子供が親に会えたときみたいな、喉を絞るような小さな声で呟き、ベッドに飛び込んだ。体の中心から染み出た安堵の声だった。この様子には少し気を引かれたが、シャルルは黙々と教科書を並べた。

 2年の教科書は参考書なども増え、さらに闇の魔術に対する防衛術の教科書が7冊もあるものだからかなり嵩張る。7冊全てがギルデロイ・ロックハート著であり、今年の防衛術の教師は彼らしい。自分の著作を全て買わせるとはどれだけナルシストなのか。内容はかなり面白かった。手を止めることなく読み進められた。読み物としてはかなりクオリティが高い。お金を出して買う価値がある。でも教科書として参考になるかと言われれば首を傾げざるを得ない。

 DADAの教師は毎年変わっているから今年も期待はしていなかった。

 透明人間はそうそうに着替えて、霞のように物音を立てず眠りについたようだった。シャワーの順番はいちばん最後で、大抵深夜か早朝に使わされるのが日常だから、今日はさっさと寝たのだろう。

 

 シャルルは目を揉んだ。

 少し疲れた。新学期初日だというのに心が乱れてしまった。どうしてこんなにままならないのだろう。

 本来わたしは、こんなに機嫌がわるいほうじゃないのに。

 怒るのは疲れる。不機嫌でいるのは疲れる。

 早く前みたいなニコニコかわゆいご機嫌なシャルル・スチュアートに戻りたかった。

 

 荷物を片し終えた頃、頭をふきふきパンジーが出てきた。前は服に着られているほど大きかったピンクの大人っぽいネグリジェは、今はそこまででもなく、少し大きい程度で収まっている。

 レイジーが「ヴェンタス」と呟き温風を出し、乾かしながらヘアオイルを浸透させていく。乾燥呪文は一気に水分を取ってしまうから髪を傷めてしまうのだ。

 ドレッサーの前で肌の保湿を熱心にしながら、パンジーが「シャルル、大丈夫?」と心配そうに言った。

「思ってたより余裕なく見えるわよ」

「ウン……」

「夏休みはもっとのびのびしてたのに」

「ホグワーツに来たら嫌でも思い出しちゃうから」

「あなたがそんなに引きずるなんて思ってなかったな」

 パンジーは立ち上がってベッドに座り、シャルルにギュッと抱きついた。

「でもこう言ったらなんだけど、少し嬉しいのよね。シャルルがスリザリンのために、こんなに怒ってくれたことが」

 彼女はいつもどこか自分たちと違う立ち位置に立っているように感じていた。スリザリンらしいスリザリン生だけれど、シャルルは純血を尊重しているだけで、スリザリンが大切なわけじゃないんじゃないかって……。

 だからパンジーはドラコの「スリザリンへの裏切り」という言葉に、たしかに、と思ってしまったのだ。

 学期末の出来事はスリザリンに大きな傷を残したが、少なくともシャルルの強い同族意識を感じられただけでもパンジーは嬉しかった。

 

「信用ないのね。わたしは最初からスリザリンが好きだったわ」

 その声はちょっと固く、拗ねているように聞こえた。シャルルの上唇がムッと突き出ている。それが可愛くてパンジーはアハアハ笑った。

「やだあ。可愛げあるじゃない。最初から分かってるわよ」

「……。帽子がね」

「え?」

「帽子がね、言ったの。わたしはレイブンクローでもグリフィンドールでも上手くやるって。得難い経験をするって。わたしもう少しでグリフィンドールに入れられそうだった」

「はあっ?」

 目と口をパカッとして、閉じて、オロオロしてシャルルの肩を掴んだ。すごい慌てように少し笑う。

「じゅ、純血主義なのに?」

「そう、純血主義なのに。でもわたし言ったわ。グリフィンドールに入るなんてありえないって。スリザリンにしてって。わたし、自分でここを選んだのよ。この寮が好きだから」

 シャルルは凪いだ海のような瞳をしていた。薄暗い部屋の中でうっすらと光を放つような真っ白な肌が、横顔の曲線の完璧な美を醸し出している。

 なんだかドキドキしてしまって、つっかえるようにパンジーはひっそり言った。

「そ、んなに好きだったのね」

 シャルルは膝に頭を乗せて、背中を丸め、パンジーを溶けた蜂蜜みたいな目で見上げた。髪が一筋ハラリと滑り落ちる。

「ん……好きだよ」

 カーッと血が上り、まるで自分が告白された気分になる。パンジーは真っ赤になって、しどろもどろに何度も頷いた。ずるいわ。こういうところがずるいのよ。心臓に汗をかきながら思った。…

 

 



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18 マグル科学的魔法論

 朝食の際は愉快なことがあった。

 ベーコンエッグとホットミルクをちょびちょび食べていると、クルクルクルと声が響いて梟が飛んでくる。昨日送ったウィーズリー氏の処遇についての質問の答えがヨシュアから届いたんだろう。

 手紙を受け取って読み始める前に大広間に爆音が響いた。

 耳を聾するような爆裂音は、壁や天井にぶつかって反響し、パラパラと埃が落ちてくるほどだった。

 耳を抑えながら振り返る。赤のローブの席かららしい。

 

「……車を盗み出すなんて、退校処分になってもあたりまえです。首を洗って待ってらっしゃい……」

 

 脳みそまで揺れるこの轟き声。吠えメールだ。ロナルド・ウィーズリーとたしかに吠えメールは叫んだ。彼の母親が事件を知って寄越したんだろう。

 スリザリン席はクスクス笑いからやがて嘲笑、そして哄笑に変わっていった。ハ、ハ、ハ、と吠えメールに負けない笑い声が響く。

 シャルルも思わず声を上げて笑ってしまった。

 前までなら笑わず、あらあらと、可哀想にさえ思っただろう。慰めに手紙を送ろうかしらとも思っただろう。

 でもどうにもこうにも、まだそんな親切な気持ちになれやしない。

 どうしてかしらと、前はここまで擦れていなかったし、執着心もなかったのに。笑いながら考えて、ポロッ、と答えが落ちてきた。

 

 わたし、スリザリンを好きになりすぎてしまったのね。

 

 毎日おなじ時間を、同じ枠の中で、同じ思想を分かち合う。寮生は度々「家族」と称される。その意味を本当にわかった気がする。濃密な時間を過ごす同じ色のローブの仲間を、いつの間にか、思想を超えて好きになってしまったのだ。

 シャルルのように、大事な人が家族以外にほぼなかったならなおさら。

 スリザリンの美徳は同胞愛。誠の友を得ると謳われるように情の深い人間が集まる。シャルルにもその性質が備わっている。

 これはマッタク恐ろしいことであった。

 自分の所属する寮や仲間を愛するほど、他寮への偏見や対抗心が生まれ、傷付けられた時はことさら閉鎖的になる。

 忌み嫌う寮差別の思考を、シャルルはナチュラルにしてしまっていた。

 自分が愛するものを守ったり、勝ちたいと願ったり、傷つけられまいと立ち上がったり、だからダンブルドアにこんなに怒っている。

 困ってしまう。

 どうしたら、スリザリンを愛したまま、身内に向けられる他人の敵意を許せるようになるかしら。…

 実に難題な課題が浮上してしまったのであった。

 

 

 1限目は魔法史だった。幽霊のビンズ教授が一本調子にブーーンブーーンと語ってるだけの退屈な授業。生徒の半数は寝るし、それ以外は自習か内職をしている。ビンズはずっと教科書に目を落としていて、何回か顔を上げて機械的に数点減点してはまたブーーンブーーンとまったく変わらない口調で話し続ける。

 誰も話を聞かないのに生前から慣れ切っている。

 この時間を使ってシャルルは勉強計画を立てていた。今日は月曜だから夜に第1回目の勉強会を行う予定だった。その教授役を考える。

 2、3人を選んで、まず今日の授業の復習をして質問を集め、それを解消しながら課題を終わらせよう。成績上位の負担が大きくなってしまうけれど、教えるのは自分の知識を固めるのに役立つ。メロウやパンジーに教えているからそう思う。

 純血以外に一切興味のなかったシャルルだが、同学年の名前と、大体の成績は把握していた。

 

 呪文学はシャルル・スチュアート、セオドール・ノット、カイ・エントウィッスル。

 変身術はセオドール・ノット、ヴィオラ・リッチモンド、イル・テローゼ。

 魔法薬学はドラコ・マルフォイ、アラン・トラヴァース、ヴィオラ・リッチモンド。

 薬草学はシャルル・スチュアート、ダフネ・グリーングラス、ヘスティア・カロー。

 魔法史はアラン・トラヴァース、カイ・エントウィッスル、セオドール・ノット。

 DADAはシャルル・スチュアート、ドラコ・マルフォイ、エゴン・フォスター。

 天文学はサリーアン・パークス、ブレーズ・ザビニ、フローラ・カロー。

 

 こんなものかしら。

 シャルルはペンを置いて羊皮紙をまじまじと見た。シャルルはともかく、セオドールの負担が大きすぎるかもしれない。でも彼はシャルルよりも成績優秀だ。彼の助けは必要だった。

 スリザリンの成績上位者は、シャルル、セオドール、マルフォイ、アラン・トラヴァース、カイ・エントウィッスル、ヴィオラ・リッチモンドが占めている。テローゼとザビニも悪くない。カロー姉妹は頭は良いけれどスリザリンの中でも明らかに協調性に欠けすぎている。

 あとはそれぞれの得意科目を教授役に抜擢して補佐し合う人を選んだつもりだ。人を使うというのは酷く難しいわね、とため息が零れる。

 自分のことだけ考えればよかった昨年はとても楽だった。

 最初は反発や衝突も大きいだろうけど、それをどう消化させていくのかも考えていかなければならない。想像しただけでウンザリしてしまう。

 わたしはリーダーには向いて無さそうね。

 シャルルは苦笑をこぼした。早急にマルフォイを巻き込んでしまうのがいいだろう。彼は人をコントロールすることに積極的だ。シャルルやセオドールとは違う。

 

 パンジーの首が折れたように傾いた。一瞬ビクリとして、また船を漕ぐ。

 授業が終わるとパンジーを揺り起こし、次の教室に向かった。呪文学の教室は4階にある。ホグワーツの階段は難解で冒険家的であり、知的であり、予定調和を嫌う。気まぐれで好奇心旺盛。つまりすこぶる厄介ということだ。

 足を引っ掛けたり、突然足を飲み込んだり、踏むとワープしたりする階段の位置はもう暗記したけれど、それ以外にも引っ掛け扉やら仕掛け扉やら悪戯好き噂話好き嘘好きの面倒な絵画たちが集まっている。

 

 生徒たちはそれぞれに近道やお得な情報を握っていた。

 自分で発見したり、寮で受け継がれる秘密などがある。たとえば、ハッフルパフでは厨房の場所と入り方がひっそり教えてもらえるように。

「ハアイ、ジェシカ」

 紫の髪の女が振り返る。「ハアイ、ちっちゃな蛇さんたち」絵画の中で陽気に手を振る豊満な彼女の顔はクッキリとした舞台メイクが施されている。瞳孔が開き、目の下には巨大なクマがある。

「今日はとってもいいお天気ね」

「ええ、ほんとに」

「空から可愛いカエルちゃんが降ってくるんだもの。今日はステキにお散歩するのがいいと思うわ。踊り食いがオススメの食べ方よ。逆立ちしてスキップしたら空だって飛べちゃうわ」

「ワーオ、とっても最高ね。あんたの頭」

 パンジーは辛辣に言った。

 絵画の背景は真っ黒に塗りつぶされており、たまに隅っこで限りなく背景に透過する黒のロープが揺れている。違法魔法薬(ドラッグ・ポーション)をキメて発狂した女優の絵だと教えられていた。

 女性はまだ何かをベラベラ喋っていたが、パンジーが辟易した顔で遮る。「207号室」

 変化は劇的だった。それを聞いた女性はザッと青ざめ、しとどに涙を零しながら劈くように叫び声を上げ、号泣し、背後にあるロープで首を吊った。そして闇に塗りつぶされ、それはただの黒い絵になった。目を凝らせば黒く大きな何かが宙でゆらゆらしているのが見える。

「静かになったわね」

 パンジーは嘲笑って、黒い絵に手を触れた。すると、スッ、と絵に飲み込まれる。手が、腕が、体が、やがて全て飲み込まれて、その場から彼女が消える。

 シャルルも絵の中に飛び込んだ。

 

 透明な水の中を潜る感触……一瞬ののち目を開けると、4階の空き教室の絵画の前に立っていた。パンジーが制服を払いながら、「さ、行きましょ」と進み出す。

 ここにも黒い絵画があった。あの女性の住処だ。2つの絵を行き来していて、あの女性が自殺しないと通り抜けられないのである。

 「207号室」は病棟の部屋番号らしい。

 他の寮生はあれをちょっと陽気でちょっと頭のおかしいオバサンとしか思っていないだろう。不気味だなくらいには思っているかもしれないが、薬漬けになって死んだのは知るまい。

 スリザリンに伝わるのはこういう不気味な噂にまつわるものが多い。不気味だとか悪っぽいことは何歳になってもロマンなのだ。

 

 

 呪文学で最初に習ったのは「エンゴージオ」だった。

 ホグワーツのハロウィンではこの肥大呪文が掛けられたパンプキンが至るところに置かれている。

「ではこの呪文について説明してくれる方はいますか?」

 シャルルはピンッ!と手のひらを天井に直立させた。

 クラスメイトの視線が突き刺さる。普段実技で点を取る彼女は、積極的に発言することは少ない。誰も手を上げない時、少し待ってから答えるタイプだった。

 でも今年からのシャルルは違う。

 フリットウィックは背伸びするようにして指示棒でシャルルを指した。

「エンゴージオ、通称肥大呪文。名前の通り対象を肥大化させ、spellに分類されます」

「素晴らしい!魔法分類まで理解した良い回答です。スリザリンに5点!」

 フリットウィックはニッコリして、教室を見回す。

 

 彼はそれぞれに小さなカボチャを配った。

「来月はハロウィーンですからね。肥らせたり、この後習う縮ませ呪文を使ったりして、来月末までに自分だけのランタンを作って教室に飾りましょう」

 白けた雰囲気が流れた。

 グリフィンドールやハッフルパフなら楽しんだかもしれないが、スリザリンにこういうことを無邪気に楽しむ子供はいない。半眼や半笑いで視線を交わし合う。

 

 2年生の単元はすでに去年とこの春休みでマスターしていたので、実技もすぐに成功させて5点の加点をもらった。マルフォイも同じなのだろう、すぐに続き、退屈そうに杖を回している。

「先生」シャルルが手を上げる。

「なんですか、ミス・スチュアート?」

「まだ成功出来ていない生徒のお手伝いをしてもよろしいですか?」

 フリットウィックは目をくりくりっとさせ、口髭が笑みの形を象った。

「もちろんです。素敵な提案ですね。好きに動いてもらってかまいませんよ」

 シャルルは愛嬌のある笑顔を振りまいて、人好きのするわざとらしく弾んだ声を出した。

「ありがとうございます、教授!さあ、やりましょうマルフォイ」

「えっ?」

 彼は素っ頓狂な声を出して、すぐに不審な顔になった。「僕は忙しいんだ、クラッブとゴイルが──」

「わたし達は協力しなくちゃいけないの。さ、手伝って」

 マルフォイはブツブツ呟いていたが、やがて諦めて面倒くさそうに立ち上がった。

 

 友達と教え合う。これは大人に大変受けが良い。スリザリンは呪文学だけで50点稼いだ。手間取る生徒の隣に座り、あと少しで出来そうならアドバイスして、もう何が分からないのかすら分からない生徒にはフリットウィックをつかせる。知らん振りを決め込もうとしたセオドールも無理やり動かし、途中で成功したカイ・エントウィッスルも加わる。彼は半純血なのでマルフォイやセオドールが避ける純血以外の子に教えてやった。

 これは実に授業効率が良かった。フリットウィックは問題児や苦手な生徒を重点的に見ることが出来るから、いつもより数段成功率が高くなった。

「今日の授業は大変素晴らしいものでした……スリザリンに30点を差し上げましょう!」

 その頃にはみんな、シャルルがやりたいことを分かり始めていた。

 

 

「午後はなんだったかしら?」

「変身術」

「ああ、マクゴナガル。今日からどっさり課題出されちゃうかしらね」

「出されない理由がないわ。でも大丈夫よ。みんなでやるんだもの」

「あー……今日からだっけ。あなたも物好きよね」

 シャルルとダフネは中庭を突っ切って歩いていた。前方にワジャワジャ色んなローブの集団が道を塞いでいた。真ん中の誰かを囲むように円状に集まっている。

「邪魔ね……」

 ダフネは眉を下げた。彼女の淡い金髪の髪は森の乙女のように風にふわふわとそよぎ、瞳のグリーンは若葉のようだ。顔立ちは穏やかであどけない。人当たりは柔和で物静か。だからダフネはよく「優しい」「人畜無害」だと誤解を受けることがあるが、彼女は攻撃的でないだけで他人にシビアだ。

 特にこういう自分の邪魔をされるようなことは嫌いなので、顔はふわふわしていても、声にはイラッ…と湧く気持ちが少し混じっていた。

「なんで集まってるんだろ?」

 爪先立ちすると、いつものヒーロー、ハリー・ポッターがいた。「ああ……」そしてドラコ・マルフォイも。

 

「今度ちょっとでも規則を破ってごらん──」

 わざとらしく甲高い声を出して、マルフォイが身振り手振りつけた。スリザリン生がドッと笑いにつつまれる。パンジーの笑い声はいちばん分かりやすい。

 ダフネとシャルルも「ンフッ」「プクク」とつつきあった。状況は分からないけど、吠えメールは一生モノのネタだろう。全校生徒の前でママからお叱りなんてなかなかある事じゃない。

 ロン・ウィーズリーはあれからからかわれて笑いものにされているし、双子の兄が「ロニー坊や♪」と節をつけて歌うので、そのあだ名が爆発的に広がっていた。

 ママちゃんに怒られたロニー坊や。スリザリンが今いちばん沸いているネタだ。

 

 観衆が少しさざめいた。

 向こう側から明るいトルコブルーのローブをはためかせて、演劇的な仕草で髪をかきあげる。

「サイン入りの写真を配っているのは誰かな?」

 

 サイン入りの写真?

 生徒がサッと道を開け、ロックハートはポッターの肩にフランクに掴んで、つくりものみたいに綺麗な白い歯を輝かせた。

「聞くまでも無かった!ハリー、また逢ったね!」

 ポッターの反応は劇的だった──燃え上がるように激しく赤面し、腐敗した何かを口に詰め込まれたように顔を歪めながら身を捩ったが、ロックハートはますます強くポッターを抱きかかえた。一目散に逃げ去りたいと全身で訴えている。彼は何度か痙攣し、拳を握りしめた。

 ロックハートは彼と並んで写真を撮らせ始めた。

 スルリと生徒に紛れ込んでマルフォイ達が抜けてシャルル達と合流し、教室に向かう。マルフォイは意地悪く唇を釣り上げていた。

 

「まったく、大した人気者じゃないか」

 ポッターには新しい熱烈なファンが出来たらしい。サイン入りの写真を撮りたいと乞われていたという。面白くて仕方ない様子だが、その人気ぶりは気に食わないのだろう。マルフォイのポッターへの執拗さはますます熱が入っている。

「ダイアゴン横丁を歩けば新聞の一面を飾り、ホグワーツでは追っかけを引っさげて、随分と孤児が大きな顔をする」

「いずれ何でも記事にされるようになるわ。ポッターがトイレに行った!授業に参加した!ポッターが恋人に選んだのは醜い穢れた血のグレンジャー!」

「あるいは血を裏切る赤ら顔のウィーズリー・ガール」

 不快そうにマルフォイが鼻を鳴らす。

「警告文を受け取ったことや、車に乗ってホグワーツに襲撃をかけたことが新聞に載ればいいのに」

 シャルルはさすがに彼が哀れに思えた。

 振り返るとポッターはロックハートに引き摺られながら反対方向に歩いていく背中が見えた。ロックハートに気に入られているようだ。有名人と有名人は惹き合うのかしら。少なくともポッターはロックハートを好きじゃないように見える。

 

 変身術の教室に入り、前から2番目の教壇がよく見える位置に座る。ダフネは後ろの方に行き、少ししてセオドールが教室に入ってきた。目が合うと彼はシャルルの隣に座った。

 ローブをはらって優雅に足を組み、椅子に寄りかかる。

「どうするつもりなんだ?」

 セオドールが横目でシャルルを見た。

「勉強会?」

「そう」

「とりあえずは今日の科目の復習とか、課題かしら」

「なんで僕が他人の世話なんてしなきゃならないんだ……」

 眉をひそめてブツブツ言った。不満がありありと表情に浮かんでいる。シャルルは申し訳なさそうな顔を作って笑った。でも不平を直接言ってくるんなら、なんだかんだ彼は協力してくれる。

 本当に嫌なことならセオドールは無言で離れていく人間だった。

 

「どうせ僕は無能に教えさせられるんだろ」

「分かる?あなたは呪文学、変身術、魔法史をお願いしようかと思って」

「……。多いな」

「優秀なんだもの。わたしも3科目担当するのよ」

「僕らは他人のために結果を出したわけじゃないのにな」

 セオドールは意外にもシャルルにも同情的なようだった。これはシャルルのワガママと言われても仕方ないことなのに。目をパチパチしていると「スリザリンにとっては必要なことだ」と言った。

「理解してくれてうれしい。今日の呪文も完璧な結果を期待してるわね、学年次席さん?」

「よく言うよ。大して変わらないだろ」

 うふふ、とシャルルは手を口に当てた。顎を上げるセオドールの不満そうな視線に見下ろされる。

 

 マクゴナガルが入ると教室は静まり返った。スネイプとはまた別の、静謐な空間を作ることに長けている教授だった。彼女はひとりひとりの顔を見て、厳格な表情でコホンと咳をした。

「本日の授業では去年の復習から始めていくことになります。変身術の中で最も基礎的であり、最も重要な呪文……皆さんは当然覚えていますね?」

 去年のクラスならここで曖昧に呻くだけで授業は進行されたが、シャルルはまたピンと手を上げた。マクゴナガルが片眉を上げる。セオドールがチラッとシャルルを見た。

「どうぞ、ミス・スチュアート」

「呪文は『フェラベルト』、変化せよという意味を持つ古語で、対象を違う物体に変身させます」

「え、ええ。その通りです」

 マクゴナガルはゆっくり瞬きをして厳格に頷いた。常に張りつめた糸のような喋り方が緩んでいる。面食らっているのだろう。スリザリンでのクラス……どころか、どのクラスでもたわいない問いに対して真摯に回答する積極的な生徒は、同級生ではハーマイオニー・グレンジャーしかいない。

 シャルルが点を取る事に前向きになったことを事前に知っていた同級生たちも、やや呆気に取られて彼女を見つめた。

 少し考えた末、マクゴナガルが面白がるように質問を重ねた。

「では、この呪文が最も基礎的である理由が分かる人はいますか?」

 また手を挙げたのはシャルル・スチュアートだった。彼女はハキハキと「この呪文は単純ながら、命ある存在を命なき物体に、またその反対も行うことが出来るからです。ものの性質を変容させるspellの全てに通ずる呪文であり、繊細な魔力操作と論理への理解が必要になります」と答えた。

「素晴らしい回答に3点を差し上げましょう」

 シャルルは微笑んで、くるりと首を回した。生徒たちの顔を見つめるためである。圧力をかけられた生徒たちはギクリとしたり、肩を竦めたりした。

 

 セオドールがコガネムシ2匹を銀ボタンに変えた頃、シャルルは呪文学の時のように、他の生徒に教えても良いか尋ね許可を取った。そしてセオドールの顔を見る。彼はそれに気付かないフリをして動き回るコガネムシに杖を掲げた。

 ムッ。

 逃げられないのは分かっているのに、のらりくらりと他人事ぶろうとするセオドールに、シャルルは口を尖らせてから、ぴと、と杖を持つ彼の手にてのひらを乗せた。彼の手は筋張って、指の付け根がゴツゴツと浮き出ていた。

 やっと顔を上げ、ニコニコピカピカ笑うシャルルを見てセオドールは溜息をつき、ノロノロと立ち上がった。

「ありがとう」

 はにかむシャルルから顔をそむけ、セオドールは楽そうな生徒を探した。折れざるを得ないのが多少不愉快だった。気にした様子もなくシャルルは混血のレイジーの傍に寄って、近くの半純血達にも口を出し始めた。

 今まで見向きもされていなかったシャルルにあれこれ話しかけられるのが居心地悪いらしく、モゾモゾ恐縮している。

 マルフォイはゴイルとクラッブとパンジーを抱えて手一杯だ。休みの間でいくらか蓄えた知識は全て塵として崩れ、巨漢たちは呻きながら何回かコガネムシを潰した。

 純血以外と関わりたくないセオドールだったが、男子の純血はある程度自力で成功出来る。ダフネがちょいちょいと呼んで、女子の中で少々居心地の悪い思いをしながらセオドールは教えた。

 スリザリンの女子は自我が肥大化している上に尊重されることを当然のように求めてくるため、セオドールは自分が影で気が利かないだとか素っ気ないだとか退屈だとか言われているのを知っていた。

 アラン・トラヴァースはシレッと呪文を成功させて自分の近くの生徒だけにたまににこやかに口を挟み、シャルルにニコニコされているのだから要領が良いものだ。

 

 

「何が分からないの?」

「……」

 責めたつもりはなかったが、レイジーはジッ。と固まって俯いた。「すみません…」

「あ。ちがうの。えーと、疑問はある?」

「……」

 ダクッと汗をかいて石になったレイジーにシャルルは困り果てた。そんなに怖いかしら。メロウに教えるときと態度を変えたつもりはなかったが、レイジーも、そばにいるサリーアン・パークスも落ち着かなそうだった。

 ハイカーストのシャルルには分からないが、卑屈な立場に押しやられている人間は突然かまわれたり、何かを問われると自然と萎縮して逃げたくなるものなのである。そんな経験がないのでシャルルには分からない。特にレイジーは命令を聞くことはあれど、自分がなにかされる側になるのは初めてなのでジトジトとプレッシャーに苛まれていた。

 

「…。えっと。とりあえずやってみてくれる?」

「は、はい」

 レイジーは固い顔で手を揉んだ。杖を神経質に振る。「フェ……フェラベルト」コガネムシは元気に動き回った。

 

「どんなボタンを想像したの?細部まで精密に思い浮かべている?」

「パジャマのボタンを……」

 レイジーはマグルで買ったボタンがたくさん着いているパジャマで寝ていた。毎日着ているものだからボタンは精密に想像出来ているだろう。シャルルはさらに問いかけた。

「コガネムシの羽がピッチリ閉じて、背中が固くなって、足が丸くなって……ボタンに変化する流れをきちんと思い浮かべてる?」

 レイジーは困った顔をして口の中でモゴモゴ言った。「はい、多分……」

 シャルルはピンと来た。たぶんここで躓いているのだ。だから自分の変身術の微細なイメージを1から10まで詳細に伝え、目の前でやって見せた。

 が、ダメだった。

 さっきよりは良くなったけれど、ボタンから4本の足が生えてもがくようにウネっている。気持ち悪くて杖でつつきながら、「レパリファージ」というと、気持ち悪い物体はコガネムシに戻った。

 

 なにがダメなのだろ。

 理論を言わせてみたけれどきちんと把握しているし、理解している。これはシャルルにはお手上げかもしれない。でも、口を挟んだのにやっぱりムリだから教授に聞いてちょうだいね、なんてなんだか恥ずかしい。

「あの」

 杖をおいてレイジーが気を張りつめた声で言う。

「なに?」

「理論は覚えてるんですけど…」

「ウン」

 言いづらそうにつっかえるのでシャルルはなるたけ相槌を打ってやった。ゆっくりボソボソレイジーは喋る。

「な、なぜコガネムシがボタンになるか分からなくて…」

「?」

「えと、その……。コガネムシは生きてますよね」

「ウン」

「ボタンは生きてませんよね」

「?ウン」

「ボタンに変身したコガネムシは死んだわけじゃなく、魔法を解いても生きたままで……そうしたら、変身したボタンは生きているということなんでしょうか?」

「なんて?」

 

 コガネムシ?ボタン?が生きてるかどうか?そんなの考えたこともなかった。シャルルは混乱した。ドラゴンのウロコが目からポロッと落ちた心持ちだった。そしてジワジワ面白い視点だなと頭の中が巡る。

 シャルルはコガネムシをボタンに変えた。くすんだ金のイタリア・ヴィンテージボタンである。この前着たワンピースについていたやつ。

「これが生きてるかなんて、あなた面白いこと考えるのね」

「すみません…」

「責めてるわけじゃないったら。それで、生きてる?」

「いえ…」

 ボタンは光を反射しててのひらの上で鈍く光っていたが、微塵も動きもせず、生物のような温かみもない。このボタンは"生きていない"。

「コガネムシの命はどこに行ったんでしょう」

「後で深く考えてみたい議題ね。変身した生物の自我と命。論文を探してみるわ」

 その返事が嘲りも他意も含まれていなかったので、レイジーは「えっ」と顔を上げた。マグルの価値観に染まっていると魔法界の非現実的な飛躍した理論が受け入れ難いことがままある。そのせいでレイジーの成績は芳しくない。それは魔女に生まれマグルを嫌うレイジーにとっては、情けなく、耐え難いことだった。軽蔑に値することだった。

 そして、はた、と気付く。

 マグルの価値観を知らない彼女にはこの視点は忌避すべきものでは無いのだ。むしろ、面白く興味深い視点だった。安心すると同時に、生まれながら魔女であるシャルルが羨ましくて妬ましく思う気持ちも湧く。…

 

「きっとあなたはコガネムシとボタンが同じものだという意識があるから出来ないのね」

 意識が逸れていたレイジーはハッと背筋を正した。

「コガネムシをボタンという、違う物に変身させるのよ。中身を丸ごと」

「違う物……」

 違うものであるのは分かっている。だからこそ違うものに変わることに戸惑っている。

「コガネムシはコガネムシであってボタンじゃない。ボタンはボタンであってコガネムシじゃない。コガネムシとボタンはイコールで繋がらない。変身させたからといって繋がりはできない。共通点もない。1は1のままなのよ」

 

 変身術は1を2にする学問ではない。1を一に、あるいは1をⅠにする学問なのだ。

 レイジーは頷く。

 コガネムシとボタン……コガネムシからボタン……。

 変身術で大切なのは明確で詳細なイメージ……。

 レイジーは気付いた。

 

 "魔法"を"定義"で固定する───。

 そして想像力こそが魔法の定義なのだと。

 

「なん……となく分かったような……気がします」

 何も分かったようには見えなかったが、シャルルは頷いた。レイジーはブツブツ考え込んで何かを呟いている。

「フェラベルト」

 するとコガネムシが硬直し、小刻みに震え始めた。足を丸め、羽を固め、目の前には小さなボタンがひとつ。成功だった。シャルルは目をくるっとしてから、「やったじゃない、レイジー」と笑いかけた。レイジーは少し頬を赤くしてコクコク首を縦に振り、「まだ曖昧ですけど、ろ、論理は飲み込めたような、気がします」と吃った。

 

 他の生徒に手助けを……と見回すと、ふと、透明人間が目に入った。冷えきった、白けた表情でコガネムシをボタンに変えている。机にはもう、10個ほどの見事なボタンが並べてあった。宝石を使った、芸術性の高い、意匠を凝らした見事な変身術。イル・テローゼ。彼女の周りに人は一切いない。

 教え合う環境になってますます孤独がテローゼに突き刺さっている。彼女は無表情で肘を付いているが、シャルルの視線に必死に気付かないフリをしているのが丸わかりだった。

 哀れな透明人間。

 シャルルは目を逸らした。

 彼女のことをシャルルは好きじゃない。というよりも興味が無い。でも彼女の変身術の技術はスリザリンに必要だ。

 

 

 



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19 政治力

 

 

 授業はいつも15時に終わる。

 シャルルは地下回廊の空き教室に16時に2年生全員を集まるよう伝達し、授業終わりにすぐマルフォイとノットを捕まえていた。

 スネイプの私室前(つまり魔法薬学教室)には生徒たちはよりつかない。静かに自習に励むことが出来るだろう。

 教室に連れ込まれたマルフォイは目を白黒させて言った。

「勉強会は16時からじゃなかったのか?」

「そうよ。でもマルフォイにはお願いがあって」

「お願い?」

 シャルルは微かに首を傾けて、マルフォイの顔を見上げた。その声には甘えのような響きが含んでいるように聞こえて、マルフォイはドキッとしつつも、顔を警戒に満ちたものに変化させた。

 

「この勉強会のリーダーを、マルフォイ、あなたにお願いしたいの」

 マルフォイは虚をつかれて、きょとり、とまばたきをした。

「リーダー?だが君が運営するんだろ?」

「企画立案はわたしだけど、誰かを纏めたり率いたりするのはマルフォイの方が向いてると思うの。カリスマ性……リーダーシップ……があるっていうのかしら」

 分かりやすい煽てにも、彼は満更でない顔をした。

 

 マルフォイとて小さな蛇であるから、明らかに計画に巻き込んで面倒事を押し付けようという下心は感じ取っていたが、彼は頼られれば頼られるほど力を発揮するタイプであったし、馴れ合いを好むように見えてその実孤高に事を進めるシャルルに頼られ、悪い気はしなかった。

 いずれ当主の座を継ぎ、父であるルシウスのように、鋭い情報精査能力と、敏腕な政治力を発揮するために、スリザリンでリーダーとして経験を積むことは有用だった。

 少し考え、目を細めてマルフォイは薄く笑った。

「分かった。協力しよう」

「ありがとう!」

 はしゃいだ声をあげ、シャルルはマルフォイの手を両手で握る。たじろぐ彼をよそに、「じゃあ今日の進め方を考えましょう!マルフォイは魔法薬学とDADAの担当だから、クラスがあった日はよろしくね」と話を進めた。

「各科目で生徒を選んであるのよ──」

 

 

 

 集まった面々をマルフォイが尊大に顎を上げて見回した。「それでは、勉強会を始めよう。これは僕らが今年こそ寮杯を獲得するための重要な計画のひとつだ。各々意見もあるだろうが、理性的な対応を期待する」

 

 小さなルシウス・マルフォイはそこで言葉を切り、一人一人の名前を呼んだ。

 教授役の生徒の名は、ほぼおおよそが予想通りといったところだった。エントウィッスルやリッチモンドは半純血といえども、有能な魔法使いであることは事実だ。フォスターはおおよそ人に教えられるような知能も、性格も、殊勝さも持ち合わせていなかったが、その攻撃的な気質と瞬発力、決闘の実力は指折りであり、DADAのみならば類まれなる才能を発揮する。

 しかし、彼女の名が呼ばれた時、誰もが口をつぐみ、場は静まり返った。

 

「変身術、イル・テローゼ」

 

 静寂に槍のように突き刺され、マルフォイは肩を竦めた。ほらな。シャルルを軽く睨める。彼女は素知らぬ顔で微笑んでいる。

 「名を呼ぶだけで穢れる」と散々マルフォイは訴えたが、シャルルは取り合わなかった。そして今マルフォイの予想通りに、嫌悪感に満ちた冷たい沈黙が降り積もっている。

 テローゼは驚愕に目を見開き、口を引き結んで無表情を保っていた。拳が白くなるくらい握りしめられている。水晶みたいな肌が今は溶けそうなほど青くなっている。

 

「な、んで……わたしが」

 

 かさついた呻き声をテローゼが漏らす。ズシっとさらに空気が重くなったのを感じる。自分がどれだけ嫌われているか、この1年間で苦しいほど身に染みて理解している。

 誰かに教える?わたしが?冗談じゃない。

 テローゼの言うことを聞く生徒なんか誰もいないだろう。嘲笑すらされないかもしれない。ガネット・アンダーソンやターニャ・レイジー、サリーアン・パークスのようなカースト制度の底辺にすらなれなかった。テローゼはスリザリンではなかった。ホグワーツにたった1人きりだった。

 

 テローゼに向く視線の全てが「断れ」「誰がお前などに」「穢れた血め」という悪意に満ちている気がして、ますますテローゼの身体は固くなる。

 僅かに視線を上げ、前にいる3人を見ようとするが、マルフォイは軽蔑の篭もった薄ら笑いをして、ノットは眉を顰めて目を合わせようとしなかった。

 シャルルだけが神秘的な蒼の瞳でテローゼを見ている。

 

「受けてくれるわね?」

 問いかけの口調ではあったが、断定的な響きだった。突発的な反感と、畏れと、不安が浮かんで口篭る。「絶対にお断りよ!」と1年前のテローゼなら口走っただろうけれど、今はもう、彼らに無駄に逆らおうとは思わない。でも……。最初から奴隷のように、選択肢がないくせに、選択肢を与えるふりをされるのは無性に腹が立つ。喉の辺りで声が引っかかって、結局テローゼは呻いただけだった。

 

 また虚無的な沈黙が落ちようとした時、刺々しい声がそれを切り裂いた。

「鬱陶しいわね、ホントに」

 ウンザリと言ったのはミリセント・ブルストロードだ。彼女は豊かなブルネット・ウェーブヘアをかきあげてテローゼを睨む。

「あなたが口にする返事は、はいorYESor光栄です。これ以外にないでしょ?いつまでウダウダ言ってるつもり?」

 フン、と不機嫌に鼻を鳴らし足を組む。テローゼは奥歯を噛み締めながらも、どこかほっとした心境になるのは否めなかった。選択権を与えて言いなりにされるより、最初から圧をかけられて従った方が、心の複雑さが断然違う。

「分かったわ……わたしでいいのなら」

 苦々しく呟くとシャルルが破顔した。

「ありがとうテローゼ」さらに続ける。「ありがとう、ブルストロード。助かったわ」

 

 ブルストロードは驚いた後、ぎゅっと顔を顰めて「別に……」と不機嫌そうに言った。しかしその声の奥には悔しそうな喜びが混じっていた。テローゼも内心驚いた。シャルル・スチュアートが自分たちのような"穢れた"人間の名を呼ぶとは想像だにしていなかったから。彼女の例外は常にターニャ・レイジーだけだった。

 

 

 始まった勉強会は、まあ当然ながら良い雰囲気とは言えなかった。

 教室はシン……と静まっており、気軽に質問や雑談が出来る雰囲気は微塵もなかった。今日の授業は復習が多かったので、第1回目の勉強会の内容としては課題を選んだが、みな居心地悪そうに紙面と向かい合っているだけで、分からない場所を友人と聞き合うというコミュニュケーションも生まれなかった。静かな教室ではヒソヒソ声ですら大きく響いてしまい、みな口をつぐみ、ますます話しづらいという悪循環が成立していた。

 

 シャルルは小さくため息をついた。

 最初から期待などかけらもしていなかったけれど、想定より悪すぎる。

 威圧的すぎた?

 強引すぎた?

 やる気がなさすぎる?

 やり方が粗末すぎる?

 計画性が無さすぎる?

 心当たりは山ほどあった。課題ばかり目に付いて少しゲンナリしたが、シャルルは初回だから仕方がないわ、と気を取り直した。生徒がのびのびと協力出来る関係にシャルルがこれから誘導していかなければならない。

 

 ふと、パサッと机に羊皮紙の切れ端が歩いてきた。文字通り"歩いて"来たのである。子供が好きそうな軽いJinxの呪文。

 紙人形はパタタンと薄っぺらくなって、羊皮紙に文字が現れた。

 

──この後少し残れよ。

  良かったら話をしよう。

             B・Z

 

 高慢さと神経質さの滲む筆記体と文章……。

 振り返るとザビニが眉を動かした。

 話とはなんだろう?この勉強会の話だろうか?それとも、ザビニ的なやり方についての話だろうか?

 

 去年、シャルルはザビニと取引を交わした。彼は齢11にして恋愛を効果的に操る男の子であり、シャルルは彼に良き家庭教師の資質を見出した。

 ザビニは面白そうな顔つきにも、退屈そうな顔つきにも見えたが、その瞳に嘲笑が微かに混じっているのを察して、ぷいと前を向く。

 今日の勉強会について何か言いたいことがあるんだろう。

 

 ザビニは言動はキザでスマートであり、美人の女子生徒に表面上は優しく見えるけれど、決して優しい人間ではない。むしろ他人を扱い利益を啜る賢く冷たい蛇だ。優しさならセオドールやマルフォイの方がよっぽどある。…………いや、彼らについても、セオドールは無関心さ、マルフォイは甘さ、愚かさと言えるけれども、でも、ザビニより情があるのは確かだった。

 彼に何を言われるのかなんとなくの予想がついて、シャルルはウンザリと唇を軽く噛んだ。

 

 結局、勉強会第1回は大した収穫もなく終わってしまった。

 沈黙の中でペンは進んだようだけれども、分からないところで躓いた生徒の手助けにはなれなかった。

 ザビニが少し振り返って教室を後にし、その場にシャルルとセオドールとマルフォイが残った。

「……スネイプの授業より最悪な空気だったな」

「まったくだ」

「大失敗ね。スリザリンに協調性を求めるのは最初から無謀だったとはいえ……。はあ。あとで反省会をしましょう」

「あとで?」

「各々意見をまとめて時間を取って話し合った方が建設的でしょ。わたしはもう少しここに残るわ」

 

 2人が教室を去ってしばらくすると、ザビニが戻ってきた。談話室で待機していたらしい。

 

「話って何?」

「やあ、シャルル。大変だったな」

 ザビニは綺麗な笑みを浮かべてシャルルの質問をスルーした。そして、高い腰をヒョイと持ち上げて適当な机に腰掛け、唇をめくれ上がらせた。

 杖を弄びながら何かを含んだ面白がるような流し目をしている。

 

 シャルルはもう一度言った。「話は何?」

 

「君はかなりせっかちだね。行動が迅速だとも言えるけど……スリザリンにおいては欠点だ」

 自分の選択のまずさについてはある程度自覚していたが、やはり、正面から指摘されるとやや幼い衝動が沸き上がる。拗ねた顔をして見せるシャルルにザビニが軽く笑う。

 

「旧家の子息っていうのは揃いも揃って政治力に欠けるよな」

「それは少し言い過ぎなんじゃないかしら。わたしは同学年の中でもある程度の自負はあるし……もちろん、あなたほどじゃないけど……それに、名家ほど魔法省に影響力があるわ」

「そこだよ」

 彼は指を振った。キザな仕草。

 ウィーズリーが大声で「指を反対側に曲げてやりたい」と言っていたのを思い出した。

「そこって?」

「旧家の連中は自分の影響力や権力を政治力だと勘違いしているんだ。政治力ってのは持っている力じゃなく、力の使い方のことさ。君らはそれが下手だね」

「どういうことなの?」

 シャルルは眉をひそめた。

 

 今、ザビニが重要な話をしている。その糸を逃さないように、シャルルが疑問を追求する。

「力……お金、人脈、発言力の適切な使い方?が出来てないということ?」

「そう。要はご機嫌伺いだよ。力が大きい奴ほど本当はそれが必要になる。力があるってのは本来なら窮屈なんだ。その中で自由に動くために発揮されるのが政治力だ。君なら少しはわかると思うけど」

 

 ルシウス・マルフォイは上手いよな。息子にその才能は受け継がれなかったみたいだけど。ザビニが揶揄うように呟く。

 彼の言いたいことがなんとなく分かる気がする。

 

 シャルルには発言力と影響力がある。その根幹にあるのは血だ。#family#の血と、交流のある聖28族の血。それが多分、ザビニの言う力。

 これは力であると同時に、他寮に対しては枷にもなる。でもシャルルは他寮の生徒に対しては、違う力を駆使して、交流を築いてきた。色々なことを我慢し、スリザリンと関わるよりよっぽど頭と外面を使って努力した。この過程こそが多分、ザビニの言う政治力なんだろう。

 そして、シャルルはスリザリン生に対して、政治を行うことを怠っている。

 

 シャルルは小さく呻いて項垂れた。

 

「分かったみたいだな」

 意地悪く、ザビニが笑う。

「言っておくけど」スっと目を細めてシャルルを見据える。「利益と不利益イーブンじゃいずれ破綻する。威光は使うほど霞む。マルフォイとやり合ってた君はもう少し見所がありそうに見えたけど、俺の見込み違いだったかな?」

 

 野蛮な衝動が突発的に沸いた。「シレンシオ!」と言って頬をバシッと振り抜いたら、彼のあの高慢な風貌はどんな風に歪むかしら──。

 

 しかし、そんなことが出来るわけもないので、シャルルはぶすっと幼児のように唇を尖らせ、眉をしかめ、頬を膨らませてザビニを睨んだ。悔しさと恥ずかしさでほっぺたが染まっている。ザビニが低く「ククッ」と喉の奥で笑いながら、頬をつつこうと指を伸ばしてくるので、それを払って腕を組む。

 この前まで機嫌を伺ってチヤホヤしてきたくせに、対等になった瞬間ふてぶてしくなる彼にムッとするし、値踏みされるのもムッとする。

 

 でも彼が言うことは全てにおいて正しく、図星を突いている。

 スリザリンを泳ぐ政治力において彼は格上だ。でも、それがなおさら口惜しくて、シャルルの唇はムーーッと突き出されたままになっていた。

 

 意外とたまに幼い仕草を出すシャルルに、ザビニは毒気を抜かれて、意地悪い顔を辞めた。額にシワを寄せ軽く笑う。

 

「根回しと対価。格下でもそれを示さないとね」

「対価ね……」

 唇をむにむに触って考える。

「と言っても、これはスリザリンのためなのに……」

 不満を少し零してしまう。ザビニが肩を竦める。

「君の威光で推し進めたんなら、それは君の望みになるさ」

「わかってるけど……」

 どうすれば良いのか……。

 問いかけるような視線を投げると、それを受け止めたザビニは、あえて流した。

 

「俺は君を見込んでるし、協力する気はあるけど、まだ君からなんの対価も受け取ってないぜ」

 

 シャルルはぶすくれた。

 難しいことを言う。彼が何を望んでシャルルに近付いて来たかなんて知らないし、彼の望むように役に立つことも、対価を差し出すこともすぐには出来ない。

 ぷくーっとふくれっ面のまま、シャルルは「根回しと対価ね……」と呟いた。課題がまた増えてしまった。

 

 

 

 



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20 美貌の使い方

 

 

 火曜日の午後の授業は最悪の一言だった。最悪も最悪、ひたすらに……。あまりの屈辱で手の震えが収まらない。闇の魔術に対する防衛術は大ハズレだ。

 

 シャルルは授業が終わると同時に教室を飛び出し、パンジーやダフネの制止の声を振り切り、近くの空き教室に飛び込んですすり泣いた。後から後から涙が零れ落ちてくる。

 傷付いたわけではない。ただただショックで、恥ずかしくて……。

 

 

*

 

 重たい7冊もの教科書を持ちながら歩くのは非力なシャルルには不可能だった。浮遊呪文で浮かせながら歩くと他の生徒もそれを真似し始め、ゾロゾロと防衛術教室へ向かう。

 この時点で少々ウンザリしていたが、教室の中は自己顕示欲の塊と言っていい様相を成していた。壁には彼の自画像の絵画が一面に飾られ、窓から爽やかな光が射し込み、去年の陰鬱な教室と違って、まるでロックハートの展覧会だ。

 

 去年と同じに、ゴイルとクラッブの後ろの席に隠れるように座る。視界が埋まらないように教科書を並べるのは至難だった。横に広がる教科書のせいで羊皮紙を書くスペースが限られて窮屈だ。

 しかも、後ろの席だと言うのに、横からも後ろからも視線を感じて居心地が悪い。振り返るとロックハートと目が合った。彼はウインクを飛ばして次の生徒のところへ飛んで行った。

 絵画は喋らないが、ロックハートは喋らなくてもうるさい。

 

 ベルと同時に教授が入って来た。教室は即座に静けさが満ちる。悠々とローブを揺らして優雅に歩くロックハートを見定めるような42の目が見つめた。

 

「勲三等マーリン勲章、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員、そして、『週刊魔女』五回連続『チャーミング・スマイル賞』受賞──この栄誉を受けた人間を皆さんはもうご存知ですね?そう───私です。といっても、長々と話すつもりはありませんよ。物事をよく知る人は沈黙を重んじる。そうでしょう?」

 十分に長々と語り終えたロックハートはウインクを飛ばした。

 

 冷たいせせら笑いが流れたが、ロックハートはそれに愛想良く笑みを振りまいて、「テストをします。なに、ちょっとした簡単なテストですよ。書籍の内容をいくつか確認するだけです」と歌うような口調でテスト用紙を配った。

 

「はじめ!」

 合図と同時にテストペーパーの設問を流し見ていく。

 

問:ギルデロイ・ロックハートの好きな色は何?

問:ギルデロイ・ロックハートが雪女に贈った粋なプレゼントは何?

問:現時点でのギルデロイ・ロックハートの業績の中で、あなたは何が一番偉大だと思うか?

問:チャーミングスマイル賞初の受賞時にギルデロイ・ロックハートが残したコメントは何?また、その笑顔で倒れたレディーは何人いたか?

問:……

 

 ギルデロイ・ロックハート、ギルデロイ・ロックハート、ギルデロイ・ロックハート……。見る限りそんな問ばかりがズラズラと並べ立てられている。

 

「……」

 

 シャルルは口を間抜けに開けて、しばらく固まっていた。何枚も重なっているテストを恐る恐る捲って見るけれど、恐れていたとおりに、延々と実にくだらない……ユーモアに溢れた設問が続いている。

 隣に座っているダフネをチラッと見ると、彼女は心底興ざめ仕切った顔で、羽根ペンを投げ捨てていたところだった。

 

「やるだけ無駄よ、こんなの」

「ええ……本当に」

 彼はこれをどんな意図で解かせるのだろうか?

 あまりにもくだらなくてまったくやる気が起きなかった。けれど、テストというなら成績に影響するということで……加点や減点が関わるなら、寮杯のために手を抜くわけにはいかない。

 

 シャルルはぎこちない手つきで設問に答えを書き始めた。

 ロックハートの個性に圧倒されていて、呆れよりも戸惑いが勝っていた。シャルルは彼の書籍を何度か繰り返し読んでいたので、設問の大部分の答えは少し考えれば思い出すことが出来た。

 彼の業績が事実かどうかは置いておき、彼自身の顕示欲も置いておき、書籍の内容だけ見れば、彼の書籍はフィクション・ストーリーとして、あるいは自伝としてかなり面白い。演劇になっても結果を残せるだろう程度には、とても面白かった。

 だから何度か読んでいたのだが、こんなに功を成すとは思っていなかった。それが良かったのか悪いのかはよく分からないけれど。

 

 三十分後、集めた答案用紙をパラパラと捲り、おどけた仕草で肩を竦めた。あからさまなため息を隠しもしない。

 

「どうやら皆さん、読み込みが足りないようですね──空白が目立ちます。わたしの理想的な誕生日プレゼントが魔法界と非魔法界のハーモニーであることも、わたしのウインクで12人の魔女が卒倒したことも誰も覚えていないようだ。

 グリフィンドールのハーマイオニー・グレンジャーは満点でしたよ。素晴らしい!みなさんも彼女を見習っていただかなくては。彼女は謙虚でピュアな生徒でね、わたしのウインクに真っ赤になって震えていましたよ。HAHAHA」

 

 押し殺した忍び笑いが響いた。「男の趣味が悪いわね」「マグルにはあの程度の男もいないに違いないわ」とヒソヒソ声が女子生徒の間でクスクス交わされている。

 

 シャルルはなんだか嫌な予感がし始めた。

 グレンジャーが満点を取るのはいつものことだ。彼女の勉学に対する並々ならぬ情熱は既知の通りである。それなのに、こんな言い方をされたら、高得点を取るのは彼の熱烈なファンだという印象を植え付けられるようで──。

 

「ですが、スリザリンにも熱心な生徒はいるようですね。満点とはいきませんでしたが、9割方正答している優秀な生徒がいます」

 

 嫌な汗が流れる。シャルルは息を詰めて、教科書の山に隠れるように俯いて首を竦めた。身を隠すように。ロックハートが朗々と名前を呼ぶ。

 

「ミス・シャルル・スチュアートはどこにいますか?」

 

 ダフネが目を剥いて顔を曲げた。スリザリン生から視線が刺さる。

 頬が紅潮する感覚がしたけれど、自分に向けられる視線をすべて無視して、シャルルはさらに俯いた。

「ミス?いらっしゃらないのですか?」

 

 ロックハートはスリザリン生たちが全員同じ方向を向いているのを察して、朗らかに笑いながら近付いてきた。カツカツと革靴が鳴る音が大きくなってくるのがまるで死刑宣告のように感じられた。

 

 思わず唇を噛む。

 

「おや、教科書に隠れているなんて。随分シャイで可愛らしい魔女ですね。ミス・スチュアート、あなたの素晴らしい答案に5点を差し上げましょう!」

 

 横に立って、キザに髪をかきあげるロックハートをシャルルは真っ赤になって睨んだ。その視線がまるで自分に熱をあげるシャイガールの熱烈な視線であるかのように、ロックハートは白い歯を見せて笑い、あろう事かシャルルの腕を掴んで立ち上がらせた。

「今日のゲストに彼女を指名しましょう!さあ、前へ。足元に気をつけて、さあ、早くいらっしゃい」

 彼に腕を引かれ驚きに足をもつれさせ、教団の前に連れていかれた彼女に、好奇心と軽蔑と驚きとせせら笑いの視線が突き刺さり、舐られ、シャルルの顔はますます燃え上がった。

 いまや、ウィーズリーの赤毛と遜色ない顔色にまでなった彼女は、拳を握って視線から逃れるように顔を背けて俯いた。

 

 こんなに屈辱と羞恥に震えたことは無い。

 いつものように飄々とした、完璧な淑女の微笑を浮かべる余裕は消し飛んでいた。

 ロックハートが何を考えているかは分からないけれど、早く、早く、早くこの時間が過ぎ去って欲しい……。シャルルはそれだけを願ってただプルプルと震えた。

 

 ロックハートは、打ち震えるシャルルにさらに追い打ちをかけた。子供が素晴らしい思い付きを無邪気に口にするように、宝石みたいな笑顔を振りまいて、

「今日は書籍の場面を再現しましょう。実践的な戦闘の予行演習になりますから、真剣にね。ミス・スチュアート、君は私に助けを求めるチャーミングなヒロインですよ」

 

 と笑いかけた。呆気に取られて、シャルルは思わず咳き込んだ。震える声で聞き返す。

「げほっ、え、と……すみません。今なんて……?」

「演じるんです。本をね。題材は……そうだな、『グールお化けとのクールな散策』が適当でしょう。あなたのように、シャイでキュートなマグルがヒロインなんです」

「……」

 

 あなたのようにシャイでキュートな『マグル』がヒロインなんです?

 

 言葉の意味を理解した途端、目眩が襲ってきて、シャルルは嘔吐きそうになった。マグル……マグル?マグルのヒロインをわたしが演じる……と言ったの?

 赤い顔から血の気が引き、蒼白というよりむしろ土気色の顔で、クラスメイトに縋るように視線をやったが、スリザリン生たちも同じく青い顔で視線が合わないようにサッと俯いた。

 

 ロックハートが楽しそうに話している。

「怪物役が必要ですね。立候補する人は?……おや、誰もいないなんて、そんなことではいけませんよ。英雄たる私に並ぶのが烏滸がましいと遠慮する心掛けは評価しますけれどね」

 呑気な声で教室を見回して、「そうですね、そこの君──どうぞ前へ、ぜひ君にグールを演じてもらいましょうか」とゴイルを指名した。

 意味が分からないという様子で、ゴイルは数度ゆっくりまばたきして、口から呻き声を漏らしてノロノロ立ち上がる。

 

 スリザリンの誰もが置いていかれていた。誰かに主導権を握らせることを厭う生徒ばかりのスリザリンだが、いまや教室内はロックハートが全てを掌握していた。

 肩を掴まれてロックハートの笑顔に押され、本を握らされると、ゴイルがセリフを読み上げる。

 

「もう少し恐ろしげに呻いて……そう、いいですよ……そこで怒鳴って!ヒロインに掴みかかるように!ミス・スチュアートは腰を抜かして怯えたように怪物を見上げて……」

「か細く悲鳴を上げて……もっと感情を込めて、震える子羊のように……そう!いいですよ!そこで私がやって来るわけです!お嬢さん、もう大丈夫!こんなグール、私にかかれば子犬を宥めるようなものですよ」

「グールに飛びかかった私は、彼の振り下ろした腕を華麗に避けて……あんな鈍重な動き止まっているかのようでしたからね、ええ。私は杖を構えて呪文を飛ばしました!ドーンッと激しい音を響かせてグールが吹っ飛び……ほら君、ちゃんとよろめいてくれないと、そして振り返って笑う私にヒロインがうっとりと手を組んで熱っぽく見上げ──」

 

 シャルルとゴイルは言われるがまま戦ったり、倒れたり、細かい注文通りに動かなければならなかった。始めは現状に置いてけぼりだったシャルルも、徐々に我に返って、絹を裂くような乙女の悲鳴だとか、身を捩らせて怯える演技だとかを求められるうち、耐えられなくなって何度も拳を握り締めた。

 スリザリンもだんだん、面白くなってきたようで、バカにしたように釣り上がる唇や、失笑を向け始める。

 ロックハートにも、ゴイルにも、シャルルにも。

 

 こんな思いはしたことがない。

 こんな……こんな思いは……。

 

 目尻に涙が浮かんで来たが、こんな情けないことで泣きたくなくて意地で俯いたまま、涙を堪える。

 終業のチャイムをただ待ち望んだ。

「素晴らしいですよ、ミス・スチュアート、ミスター・ゴイル。スリザリンに10点!」

 機嫌が良い加点にさえ、僅かにも嬉しい気持ちにならない。

 

 待ち侘びたチャイムが響いた瞬間、シャルルは弾かれたように飛び起きて、ロックハートの腕を振り払い教室を矢のように飛び出した。

 

「シャルル!」

 パンジーやダフネの声が追いかけてくるのを振り切って、ひたすら走る。走るのに慣れていないから足がもつれそうになって、目から雫が零れそうになるのを我慢して走った。すれ違う生徒がギョッとしたように振り返ってくるのすら屈辱に拍車を掛けて、目に付いた空き教室に飛び込んだ。

 教卓の間の空洞にすっぽり隠れるように嵌って、膝を抱えて、ようやくシャルルは一息ついた。

 

 すんすん鼻をすする。

 信じられない。ただただ恥ずかしくて情けない。思い返したくないくらい惨めだ。ぽろぽろと涙が頬を伝っていく。

 

 ガラッ、と音がして肩を揺らすと、探るような顔のマルフォイが扉の前に立っていた。泣き顔で見つかりたくなくてさらに縮こまるけど、彼の「ここにいたのか」と少しの呆れと心配を含む声が投げかけられて、シャルルは目元をぐしぐし拭った。

「見つかっちゃった……隠れていたのに」

「スカートが見えてる。汚れるぞ」

「べつにかまわないわ」

「次の授業が始ま……、っ」

 

 マルフォイは手を差し出してから、雷に打たれたように手を引っ込めた。

 

「な……泣いてるのか?」

「泣いてない」

 目と鼻を赤くして口を尖らせる。いくらなんでもデリカシーが無さすぎると思って、不満を込めてジトッと目を細めると、罰が悪そうな顔をして手のひらを羽根を包むように柔らかく握った。

 彼の手を握り返してシャルルも立ち上がる。教壇の下はホコリっぽくて、スカートをはらはら手で拭う。

 

「君は意外と感情豊かだな」

 平坦な声で、ぽつりと感想を呟いたマルフォイに揶揄われた気がして、肩を竦めた。

「未熟なのよ。情けない……」

「僕らはまだ12歳なんだ。前から思ってたが、君は少し求める水準が高すぎると思うよ」

「こども扱いはされたくないの」

「それは同感だけどね」

 

 腕を引きながら、マルフォイはニヤッと笑い、流し目でシャルルを見た。

「恥ずかしくて泣いてるようじゃ、まだまだ君も僕らと同じ子供ってことだ。可愛げあるじゃないか」

 カーッと赤くなって、シャルルはマルフォイの頬を抓った。でも、さっきより羞恥は軽くなった。マルフォイも人を励ましたり、慰めたり出来るんだな。

 握られた手があたたかい。

 

 

 

 マルフォイに手を引かれて俯いてシャルルは黙って歩いた。少し機嫌は浮上したが、気恥ずかしさは消えない。

 生徒の好奇心や驚きの視線がたまにチラチラ投げかけられた。

 DADAは午後の単元で、あとはもう夕食まで自由時間になっている。談話室に入るとダフネが「シャルル!」と駆け寄った。パンジーもソファから立ち上がったが、マルフォイとシャルルの手が繋がれているのを見て、ハッと足取りが止まる。

 

「あの……気の毒だったわね」

 気遣うように、気まずい顔で柔らかくダフネが声をかける。

「全く、本当に酷い目に合ったわ」

 シャルルはボスン!と雑な仕草でソファに身を投げ出した。いつも優雅で気品のある彼女らしくない行動に目が悪くなる。

 

「あなたがロックハートのファンだなんて知らなかった」

 トレイシーが瞳を三日月形に細めてシャルルをからかった。シャルルは肩を竦めて杖をローブから取り出して、

「オパグノ」

 と呪文を唱える。小鳥が舞ってトレイシーの髪の毛を啄み、彼女は驚いて小さく悲鳴を上げた。薄く笑って肩を竦める。

 

「トレイシー、よく鳴くあなたにピッタリのお友達よ」

 

 シャルルが今まで同寮の誰かに魔法をかけたことはない。

 少し青ざめて彼女を見ると、皮肉を口にするその顔は笑っていて、怒っているわけではなさそうで安堵し、トレイシーはきゃあきゃあ笑った。

 

「全員分かっているとは思うけれど、わたしがロックハートの信奉者だなんて、マルフォイがポッターと親友になるよりありえないことよ」

 シャルルは足を組んだ。スリザリン生は揃って頷いた。それにニッコリと満足そうに頷く。

 

 

 スリザリン生に釘を刺したシャルルだったが、噂はすでにホグワーツの中に広まっているようだった。夕食のために食堂に行くと、彼女を見て意味ありげな視線を交わし合う生徒や、ニヤニヤと唇を歪める生徒、意外そうに観察する生徒の視線に晒されてシャルルはうんざりした。

 

 何より辟易としたのは、悪意のある視線や観察する視線に交じって、一部の女子生徒たちから熱のこもった共感の視線を向けられることだった。

 その中にはハーマイオニー・グレンジャーからの視線もあった。

 自分の頬が紅潮したり、強ばらないように意識的に微笑みを引き締める。

 

 ローストビーフとジャケットポテトを食べていると、赤いローブを纏った数人がテーブルの近くに寄ってきた。

 

 濃い茶髪のその生徒は同学年だったが、名前を覚えていなかった。以前絡まれた時に無視して歩いていたら杖を取り出したので、呪文クラブで習った魔法を試すいい機会だと思い、口いっぱいに「エバブリオ」で弾力のある泡を詰め込んで去って以来、何かと突っかかってくる男子生徒だった。

 彼は勝ち誇った顔で、椅子に座っているシャルルを見下ろしていた。

 

「聞いたぜ、スチュアート。お高くとまっているお前がまさか、あいつに熱を上げてるなんてな」

「黙りなさい、バルテル!」

 パンジーが鼻にシワを寄せてシャルルの代わりに怒鳴った。バルテルは面白そうにニヤニヤして、周囲の男子生徒と顔を見合せる。

 近くに座っていたダフネやトレイシーが顔を顰め、マルフォイやノットが不愉快そうな顔でバルテルを見ている。

 

「ハハ、ヒロインに抜擢され、ロックハートに守ってもらえて、泣くほど感激したらしいじゃねえか?」

 彼は肩をいからせて、残酷な笑い声を上げた。大声にグリフィンドールのテーブルからも悪意に満ちた嘲笑が響く。

 パンジーとダフネや何かを言い返し、バルテルもそれに応戦したが、肝心の渦中の人物は何も言わない。

 

 様子を伺うと、シャルルは黙って食事を進めていた。顔色も、仕草も変わることなく、いつも通りのにやついた微笑を浮かべているシャルルに彼はいきり立った。

「オイオイ、何か言ったらどうなんだ?図星で言葉も忘れたらしいな!

 でもまあちょうどいいや。生意気なスチュアートがサンドバッグになってくれる機会はそう多くないからな」

 

 スープを飲み終わったシャルルはスッと立ち上がり、バルテルは少し肩を揺らした。それを誤魔化すように余裕ぶって顎を上げ、シャルルを見下ろした。彼女はローブと制服のプリーツの乱れを直し、パンジーに「先に戻ってるわ」と微笑んだ。

 

「逃げるんだな、スチュアート!」

 バルテルが勝ち誇ったように叫んだ。

「それで?またロックハートに守ってもらうのか?男の子にからかわれて傷ついたわ、とでも言えば、あいつはお前をか弱いレディのように扱ってくれるかもな」

 

 シャルルはゆっくりとバルテルの瞳を見た。そして意識的に、花が綻ぶような、淡く、それでいて気品に満ちた優しい微笑みを投げかける。

 少しの間彼を目を細めてフレンドリーに見つめていると、彼はたじろいで、何かをもごもご言った。次第に口を閉じて頬を紅潮させる。

 

 彼女の美貌が男子生徒に対して絶大な効果を発揮することはわかっていた。たとえそれが、自分に対して敵対的な言動をする愚かな男の子であってもだ。

 

 シャルルは優雅に口元に手を添え、クスッ……と軽く笑った。

 

 近くの生徒がシャルルに見蕩れたり、興味深そうにジロジロと眺めている。

 

「あなたみたいな人が、どうしてわたしに相手をしてもらえると思ったの?」

「なっ……!」

 バルテルの頬が急激に熱を帯び、眉を釣り上げる。絶句する彼にシャルルは言った。

 

「鏡を見たことがないみたいね。わたしに気があるなら、生まれるところからやり直してきてくださらない?

 生憎わたしは、トロールを相手にするほど趣味が悪くないわ」

 彼の顔から足先まで検分するように見つめ鼻を鳴らし、涙袋を浮き上がらせて嘲笑すると、スリザリンテーブルから囃し立てるような笑い声と野次が湧いた。

 

「誰がお前なんかに気が……っ!」

 手のひらを上げて、バルテルをさっと制止する。

 

「喋らないで。悪臭が移っちゃう」

 

 鼻をつまんで「おええ」とはしたないジェスチャーをして見せると、プリーツスカートを指先でつまんで恭しくお辞儀をした。

 

「それではごきげんよう。

 わたしにかまって欲しいなら、もっと素敵になってから出直してちょうだいね。

 そうね、マルフォイやセオドールや……」

 

 突然自分の名を呼ばれたふたりが目を丸くしたり、眉を上げたので可愛らしく微笑んでおく。ついでに、彼の名声を高め、恩を売るいい機会かもしれないと思い、目を見つめながら彼の名前も呼んでおく。

 

「ザビニのような気品ある男の子になれたなら……会話くらいはまたしてあげるわ」

 

 暗になれるとは思わないけれどね、と瞳で嘲笑い、シャルルは背を向けた。

 バルテルの怒鳴り声や、グリフィンドールの野次や、スリザリンの哄笑が背後で響いていたが、その全てを置いてシャルルは広間を出た。

 

 清々しい達成感を感じつつも、シャルルは小さく嘆息する。

 あんな小物を相手にするのは馬鹿らしい。いつもなら無視して呪文を掛けて終わりにするところだ。

 でも、公衆の面前でスリザリンに喧嘩を売られたなら、寮の面子にかけて応戦しない訳にはいかない。スリザリンもシャルルも、言われっぱなしのままでいると舐められてしまう。

 

 それにしても……あのバルテルの顔!

 シャルルは零れる笑い声を抑えられなかった。

 魅力的な表情で見つめるだけで、あんなにも劇的に照れて見惚れるのだから、単純で笑ってしまう。スリザリンの男の子はあんなに簡単に照れたりしないのに。

 やっぱり上品な女の子に慣れていないのだろうか?

 それとも自分に気があると錯覚させる笑顔を浮かべる女の子が少ないのだろうか?

 それとも……シャルルのことが好きなのだろうか?

 唇を歪めて、胸の中で満足そうに呟く。

 

 やっぱり、ザビニと手を組んだのは間違っていない。

 彼に去年教わった、異性に対する効果的なアプローチのうち、こんなに初歩的な技術で自分に敵意を持つ相手から、戦意喪失させることが出来た。

 

 スリザリン寮へ向かうシャルルの足取りは軽かった。

 

*

 

 寮に戻ってきたシャルルは友人たちに取り囲まれ、口々に投げかけられる賞賛を微笑みを持って受け取った。

「シャルル!あなた最高だわ!」

「あんなに痛烈にやり返すなんて珍しいわね」

「あの真っ赤なトロールの顔、見た?身の程知らずにもほどがあるよね」

 トレイシーが首を竦めて馬鹿にしたように言い放つ。マルフォイも満足そうで、上級生たちもシャルルをそれぞれに褒めた。

 

 下級生たちが、暖炉の前に集まる高名な家系の生徒たちを憧れの目で見つめ、その中心にいるシャルルに対して尊敬の色を含んだ熱意の眼差しを注いでいた。

 

 ザビニと目が合う。

 彼は嬉しそうに唇を釣り上げた。きちんとシャルルの意図が伝わっていたようだ。

 

 しかし、セオドールは彼女に近付いて来なかった。

 談話室の奥でつまらなそうに足を組んで、時折物言いたげな視線を投げてよこした。

 彼がザビニと犬猿の仲であることは知っている。知っていて、シャルルはザビニと親しくなることを選んだ。

 しかし、それは決してセオドールとの友情を軽視して投げ捨てることにはならない。

 まだ話したそうな周囲の友人たちを宥め、人の輪からスルリと抜け出してシャルルは彼の座るソファに向かった。

 

「ハアイ、セオドール。隣いいかしら?」

 彼は肩を竦めて視線を外した。

「ありがとう」

 いつもは十分なスペースを開けて座るところを、ぴったりと隙間なく彼の横に座ると、セオドールはピクリと震えてシャルルを怪訝そうに見た。

「やっと目が合ったわね」

「僕に何か用か?あっちの方で君を待ってる連中がいるけど」

「わたしはあなたと話したいのよ」

 

「そうか」

 セオドールは興味をなくしたように顔を背けた。

 

「あなたの忠告は覚えているわ」

「じゃあ聞く気がないんだな」

「そうじゃないわ。ただ、ザビニは純血だし、彼がわたしを利用するように、わたしも彼を利用したいと思ったの」

 セオドールは微かに吐息を漏らした。それは完全に嘲笑だったが、めげずに言葉を重ねた。

「ザビニに心を許すことは無いわ。彼との間にあるものは友情じゃないの。セオドール、あなたに向けるものとは違って……」

 

「興味無いよ」

 彼は冷たく言った。

 

「シャルル、君が選んだことを僕に弁明する必要はない」

 

 突き放した言い方をして、彼が話は終わりだ、というように立ち上がる雰囲気を感じたので、シャルルは逃がさないために彼の腕を反射的に掴んだ。

 立ち上がりかけた壁の腰を引っ張って戻し、シャルルは腕を絡め、反対の手でセオドールの腕を抑えた。

 

「まだ何かあるのか?」

 呆れた声だった。ずっと彼からの怒りは感じない。しかし、それが逆に彼の心がスッと離れていってしまったような気がする。それは悲しいし、絶対に嫌だった。

 

 シャルルは強欲で、傲慢なスリザリンの女だ。

 手に入れたものを諦める気は一切無い。

 

「前に話したよね。あなたにだけ」

 諦めたようにセオドールは脱力して、腕をシャルルに好きなようにさせたまま、「何を?」と呟いた。

「わたしなりの何かを成し遂げてみたいって……何かを変えてみたいって」

「ああ……」

「そのためには他人をコントロールする術と、他人を上手く利用する術を学ばなければならないでしょ?」

「僕らにはそんなもの生まれた時から身に付いている」

「そうだけど、もっと高度にそれをしたいと思ったのよ。命令しなくても、他人が望んで動くように」

「それをザビニは身に付けてるって?」

 

 挑発的にセオドールが顎を上げた。横目で睨む視線の先には、上級生の女子生徒を肩に抱いて、ブルストロードやリッチモンド、エントウィッスルたちと談笑する得意げなザビニが座っている。

 

「他人に媚びたり、甘い汁を啜るのが上手いというのは、他人の機微を読むのが上手いという事なのよ。トレイシーを見て?あの子の家は有力じゃないけれど、あの子はスリザリンで一定を地位を築いているわ」

「ザビニや君を利用して、か。やりたいことは分かったよ」

 セオドールは首を傾けて、うっすらと唇を緩めた。彼に漂っていた頑なな雰囲気が霧散してシャルルの強ばりが解ける。

「よかった……」

 

 自分で自覚する以上に、セオドールから拒絶されることの恐れがあったらしく、シャルルの心臓は少し鼓動を速めていた。

 力が抜けて、セオドールの肩に頭を乗せる。

「なんだよ。そんなに怖かったのか?僕に嫌われることが?」

 軽い口調でからかう言葉に「当然じゃない。あなたはわたしの唯一の男友達なのよ」と軽く睨むと、何故かセオドールは一瞬口をつぐみ、気が抜けたように笑った。

 

「じゃあ最初からザビニなんか相手にしなければ良かったんだ。知ってたけど、君は傲慢だな」

「スリザリンだもの」

「全く君らしいよ」

 

 嬉しくてクスクス笑うシャルルと、常になく穏やかな顔つきのセオドールが寄り添うのを、マルフォイが信じられないものを見るように固まって凝視していた。眉を顰めたマルフォイの横顔を、パンジーが見つめて、寂しそうにしていたことに、だれも気づかなかった。

 

 

 



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21 新しいシーカー

 掲示板にビッグニュースが張り出された。パンジーが齧り付くように読み上げて、マルフォイを振り返った。

「金曜日の夕方、クィディッチの試験が行われるって!ドラコ、あなたはシーカーを受けるのよね?」

「ああ」

 当然だ、と彼はソファにさらに深く腰を沈めた。

 余裕を演出するマルフォイにうっとりと頬を熟れさせて、「あなたなら絶対に選ばれるに決まってるわね」と素早く隣に潜り込み、しなだれかかった。

 

「随分余裕じゃないか」

 からかいの声に反射的に視線を投げれば、声の主はやはりブレーズ・ザビニだった。

 数日前シャルルが大広間で彼の名を出して以降、シャルルは以前より格段にザビニと話す機会が増えていた。

 それに伴ってザビニはどんどん大きな顔をするようになり、今だってこうして、スリザリンの上級生を押しのけて暖炉にほど近い座り心地の良い席にお仲間たちとつるんで座って、マルフォイに面白がるように顔を向けている。

 マルフォイは眉をピクリとさせたが、すぐに「ふん」と軽く笑い、それをいなした。

 

「僕の飛行術の実力はお前も知っての通りさ。上級生にだって僕を超える力を持つのは、既に選手になっている選ばれた数人だけだ」

「まあ、それは認めてもいいかな。でも忘れていないか?ヒッグスはお前なんかより遥かに経験豊富で、クィディッチに対する執念も強い。果たして彼を押しのけてお前が選ばれるなんてこと、あるかな」

 粗をつついてやろうというザビニの得意気な視線に、マルフォイは胸の中に喜びが満ちるのを感じた。シーカーに選ばれるのは、ほぼ決定事項だ。彼自身の実力は申し分ないし、マルフォイ家もスリザリンの勝利に貢献する準備は完璧に整っている。さらに、ヒッグスという大きな壁も、既にクリアしていた。

 

 自分の嫌味に不愉快になるどころか、ますます勝ち誇った表情を浮かべるマルフォイに、ザビニは冷めた顔で「ああそう」と呟く。

「なるほどな、既に結末は決まってるわけだ」

「さあ、どうかな。マルフォイ家がいくら素晴らしい家系だとは言え、クィディッチは血統で選ばれるわけじゃない。栄光に相応しい実力で選ばれるものだからな」

「御託はいいよ。お前は分かりやすすぎる」

 気分を害して負け惜しみのようなものを吐き捨て、ザビニはエントウィッスルとアクリントンを連れて大股で男子部屋に戻って行った。

 

 彼の背中を侮蔑と優越感を込めて見送ってやる。

 嫌味ったらしく敵対的なザビニを完璧にやり込めたことはマルフォイの機嫌をさらに向上させた。

 最近はシャルルの名声によって調子づいていたザビニだが、マルフォイの前では靴先の埃にすらならない。

 

 パンジーが感嘆のため息をついて、シャンデリアの光を瞳に反射しながらきらきらマルフォイを見上げた。

 素直で従順な彼女の態度に悪い気はしない。上機嫌のまま、パンジーの黒髪の先を軽くさらうと、パンジーは真っ赤になってマルフォイの腕をさらにきつく締め上げた。彼女の愛情表現は過激だが、その真っ直ぐな好意は自分の価値を正当に評価されている証だ。

 ふと、自分にそうしない1人の同級生の女の子が脳内に浮かんだ。

 ザビニみたいな軽薄な男と連日親しげに茶会をし、先日はセオドール・ノットの腕に絡みついて、ヒソヒソと言葉を交わしていたシャルル。まるで今のマルフォイとパンジーのように。

 

 それを思い出すと、満ち足りていた気分に水を刺されたように苛立ちが胸を掻き乱す気分になる。完璧に整った絵画に、消せもしない染みが滲んでいるような。

 彼女はパンジーとも、他の子女とも違う態度だった。ダフネとは親の関係でお互い婚約者候補のひとりという間柄ではあるが、お互いに深入りしない冷めた関係だ。トレイシーや他の純血子女はマルフォイ家に従順に媚びるか、恐れて一定の距離を保つ。

 シャルルだけが、マルフォイの周りを付かず離れずうろちょろしていたかと思えば、突然突き放したり、突然飛び込んだりしてくる。

 気まぐれの猫のようで、いつも彼女に自分のペースを乱され、彼女が何を考えているのかまったく読めなかった。癪なのは、マルフォイが彼女に対して、それを不快には感じていないことだった。

 

 シャルルはマルフォイの内心など知らず、談話室の本棚のそばでセオドールと何やら本を向かい合って眺めている。クィディッチで盛り上がる寮生や、マルフォイを始めとする選手たち、選手候補たちに何の関心も寄せていない。

 

 マルフォイは眉を顰める。

 僕が選手に選ばれたら、そんな風に他人事の顔で素知らぬふりも出来なくなるさ。

 内心で呟いて、マルフォイはパンジーに強請られるまま、自身の武勇伝を語り聞かせるため口を開いた。

 

*

 

 クィディッチ選抜戦には当然のようにシャルルも連れて行かれた。パンジーは朝から、まるで自分が試験を受けるかのように緊張して、忙しなく髪をといたり、駆け足になったり、深呼吸を繰り返していた。

「ドラコ、あなたなら大丈夫よね」

「絶対に受かるに決まっているわ。わたし、確信しているもの」

「ね、ドラコ、応援してるわ。頑張ってね。あなたのこと信じてる」

 

 たたでさえ多少緊張しているのに、何十回も朝から応援を投げつけられたマルフォイはとうとう「分かってる!」と声を荒らげた。

「君は僕にプレッシャーを与えたいのか!?」

「ごめんなさい、わたし、そんなつもりじゃ……ただ、緊張して……」

「どうして君がそこまで緊張するんだ?」

「だって……」

 マルフォイはため息をついて、ネクタイを直した。子犬のように涙を溜めて俯くパンジーに苛立ちが僅かにほぐれ、マルフォイは呆れの混じる柔らかな声を出した。

「応援は嬉しく思ってる。でも集中したいんだ」

「そうよね。分かったわ、邪魔してごめんなさい……気持ちが伝わっているなら良かったわ……」

「ああ。心配するな、パーキンソン。僕が落ちるわけないだろ?」

 マルフォイはクールに唇を釣り上げて、目を細めた。

「君は安心して、いつも通りただ僕を見ていればいい」

「ド、ドラコ……!」

 

 パンジーは真っ赤になって溶けきった声を出した。

 瞳には先程とは違う涙が浮かんでいる。ときめきで息も絶え絶えになったパンジーはよろよろとソファに崩れ落ちて、夢心地で彼の背中を見送った。

 

「ワーオ」

 ダフネが目をくりくりさせて口を開けた。林檎の乙女に駆け寄ると、シャルルは横から「きゃあ!」と黄色い声を上げて抱きついた。

「今のマルフォイ、とっても素敵じゃない?わたしまでドキドキしちゃった」

「彼があんなにキザなこと言うの、珍しいわ……。それが上手く決まるのはもっと珍しいわね」

 ダフネはまだ信じられないというように、しげしげと彼が去った方を眺めている。

 

「ああっ、ドラコ……これ以上好きにさせてどうするつもりなのよ……」

 顔を覆って泣き出したパンジーに目を剥いて、パッと身体を離す。「パ、パンジー?」

 戸惑いには彼女の鼻をすする音が返ってきた。

「嬉しいのにどうして泣くの……?」

 心底弱り切った声を出して、シャルルはシルクのハンカチで流れ出した雫を拭った。パンジーは少しして泣き止んで、恥ずかしそうに口を引き結び、眉を上げたり下げたりした。

 八つ当たりみたいにまだ赤みの残る頬で、「シャルルはこどもね。好きな気持ちは心臓をぎゅっと痛めるのよ!」と怒ったように言った。

 ダフネは照れくさそうに「その気持ち、わかるわ」と頷いている。

「泣いてるパンジーの方がこどもじゃないの……」

 シャルルは正論を言い返したが、なぜかその声は途方に暮れたこどもの負け惜しみのように響いた。

 

 

 ピッチの観客席の最前を陣取ったパンジーは祈るように競技場を見つめていた。ノットやトラヴァースやエントウィッスルが少し離れた席で足を組んで、冷静に見下ろしている。

 マルフォイがいくら箒の扱いに対して才能を示していても、ヒッグスを始めとして、有用な選手はたくさんいる。

 キャプテンのフリントが飛んできて、その後ろに選手達と、選手候補生達が続いてやってきた。

「あの箒……!」

 ダフネが驚愕で立ち上がった。

「何?」

「ニンバス2001よ!今年の最新作!さすがマルフォイね……」

「新しい箒?素晴らしい箒なのね?」

「ええ、あの箒に優るものは誰も持っていないと思うわよ」

 パンジーは顔を輝かせた。マルフォイは自信に満ちた顔つきでシャルル達の方に笑いかけた。トレイシーが何かに気付いて小さく叫んだ。

「ヒッグスがいるわ!」

「はぁ?そりゃいるでしょうよ」

 パンジーが困惑の声で答える。

「違うのよ。見て、後ろの席よ」

 

 興奮するトレイシーがこっそり指さした方に振り返ると、1番後ろの席にポツンと冷酷な顔をしたヒッグスが観察するように座って、マルフォイを注意深く眺めている。いつも穏やかで寛容な彼らしくない表情だった。

 混乱した口調でパンジーが言った。

「なんで?だってヒッグスは選手でしょ?」

「あんなところにいたら、まるでわたし達みたいに、選手を応援する人みたいだわ……」

 考え込むダフネの言葉でシャルルはピンと来た。テレンス・ヒッグスは今年最上級生だ。そして、彼についての話題を参加したパーティーで父親が幾人かの役人たちと話していたことを思い出した。

 

「そういえばお父様が夏仰ってたかも……。魔法省のスポーツ部の管理部長がスリザリンから引き入れたい選手がいるって。ヒッグスのクィディッチに対しての熱意と視点は確かなものだって」

「魔法ゲーム・スポーツ部の管理部長……?たしか、今はアンガス・プレンダーだったかしら?」

 即座にダフネが名前を引き継いだ。

 トレイシーが素早くまばたきをし、早口で言った。

「聞いたことあるわ!彼ってヒッグスの親族じゃなかった?彼が魔法省を目指してるっていうのは有名だし、もしかしてスカウトが来たんじゃない?」

「もしそうなら、今年クィディッチをしている余裕はないわよね。魔法省の試験は難関だし、N.E.S.T.試験も全てパスしなくちゃいけないもの」

 周囲の熱に釣られて、シャルルも少し興奮気味に分析し、小さな微笑を浮かべた。

 

 魔法省は人脈だけで入省出来るほど甘い組織ではない。もちろん家柄のアドバンテージはあるが、特に影響力が大きい部署ほど、個人の才覚が問われる。

 少女たちは思慮深く沈黙し、興奮と緊張感が流れ出した。

 パンジーが喜びに胸を弾けさせて破顔した。

「ヒッグスはシーカーを降りるのね!」

 後ろのヒッグスに聞こえないようにひそめてはいたが、パンジーの甲高い喜びの声は周囲によく通った。シャルルは慌てて後ろをさりげなく確認した。彼は穏やかで注意深い真顔のまま変化していない。幸いなことに聞こえなかったようだった。

 しかし、アラン・トラヴァースが軽く眉を上げて隣のエントウィッスルに話しかけたので、彼らにも情報は共有されたようだった。

 

 マルフォイのシーカー戦にあたり、1番の仮想敵はテレンス・ヒッグスだった。マルフォイは他の上級生には引けを取らない飛行術を会得している。

 胸を撫で下ろし完全にリラックスした表情で、パンジーはやっと身体の緊張が解けていくのを感じた。ダフネの言の通りなら、ニンバス2001まで手に入れたマルフォイを阻むものはないだろう。

 

 実際、マルフォイは規定事項のようにシーカーを獲得した。

 スニッチをピッチに解放して、1番最初に捕まえた生徒がシーカーに選ばれる単純なテストで、マルフォイは5分足らずでスニッチを手にした。

 彼より早くスニッチを見つけた上級生は、しかしマルフォイのタックルとニンバスの早さに体勢を崩し、いとも簡単に金の飛翔体をマルフォイは掴んで、見せびらかすように掲げてみせた。

 パンジーは狂喜乱舞して黄色い声で叫び、シャルルも彼に熱の篭った拍手を送らないわけにはいかなかった。

 2年生から正選手に抜擢されたのはマルフォイだけだ。

 チェイサーにエゴン・フォスターが立候補していたが、惜しくも彼は準選手という補欠止まりの結果に終わってしまった。

 称賛と歓声を一心に集めるマルフォイに、フォスターは靴底を地面に擦り付けて悔しげに俯き、彼の派閥のトップであるザビニは興ざめした顔で腕を組んでいた。

 

*

 

「シャルル!いい加減起きてよ!起きなさい!」

 

 身体を激しく揺すられて、シャルルは重たい瞼を何とか開けて何回かまばたきをした。頭が重い。眠たくて眠たくて頭が靄がかっている。またウトウトとし始めると、パンジーの怒鳴り声がシャルルの横っ面をはたいた。

「なん……なに……?今日は土曜日、でしょ……」

「ドラコの応援に行くって言ったじゃないの!」

「うん……?言った、かな……」

「起きなさいよ!レイジー!シャルルの服を用意して!」

「はい、パーキンソンさん」

 従順な返事をしてターニャ・レイジーは小さく頭を下げた。マグル育ちの混血の魔女で、パンジーとシャルルの専属メイドである。

 

 これだけ怒鳴られてもまたも夢の世界に旅立ちそうになっているシャルルの腕を無理やり掴んで起き上がらせ、パンジーはいらいらしながら腕を引いてシャワールームに叩き込んだ。

 そのまま冷水を浴びせると、シャルルは素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。

「な、な、何するのよ!?」

「やっとお目覚め?早く準備しないと練習が始まるわ!ドラコがさっき談話室に来たの」

「パンジー……!」

 

 いくらわたしが寝坊したからと言って、問答無用で起き抜けに冷たい水を掛けられるなんて信じられない!

 

 無理やり起こされた時のシャルルはかなり不機嫌になりやすい。珍しく怒気をあらわに睨みつける彼女に少し臆して、パンジーは宥めるように謝罪をした。

「ごめんなさい、少し乱暴だったのは認めるわ。でもあなたも悪いのよ。何度も起こしたのに、あなたは3度寝までしたわ!」

 罰が悪そうな顔をしつつも、告発するような口調に今度はシャルルが眉を下げる番だった。

 昨夜マルフォイがもう練習に参加するらしいからと応援に誘われ承諾したことも、何度も起こされてそのたびに自分が寝入ったことも覚えている。

「分かったわ。お互いミスがあったってことで、今回は水に流すことにする」

「OK、あなたの自虐に免じてわたしも譲歩するわ」

 ビショ濡れで水に流されているシャルルをからかってふたりは握手をした。シャルルは開き直って笑い、素早くシャワーを浴びて乾燥呪文で髪を乾かすと、素早く衣服に身を包んだ。

 休日だから制服はクリーニング中だ。

 パンジーはダークグリーンのワンピースにローブを羽織り、シャルルは白のフリルブラウスに黒いロングスカートを着て、ローブを羽織ると急いでピッチに向かった。

 早朝からなんの関係もないのに、口論で叩き起されたイル・テローゼはベッドの中で苛立ちながら寝返りを打ったが、それを気にかける人間はいない。

 慌ただしい朝にレイジーが小さくため息をつき、ようやく休日の優雅な眠りに戻って行った。

 

 ふたりがピッチに行くと、なぜか緑のローブと対峙する赤のローブの集団がピリピリと睨み合っていた。

「どうしてあいつらがいるのよ?」

「さあ……」

 観客席に行こうとしたふたりは道を変えて、憤慨するパンジーに引っ張られるままその集団に足を向かわせる。

 近くに行くと、得意げに意地の悪い笑顔を浮かべる選手団が揃いの箒を掲げて、朝日に煌めいているのが見えた。

「ニンバス2001……」

 思わず呟く。洗練されたスリザリンカラーの美しい箒が並ぶ様は圧巻だった。

 

 シャルルたちが向かうの同時に、ハリー・ポッターのお仲間がピッチに走って来るのが視界に入る。パンジーが親の仇のように睨みつけ、とうとうマルフォイの元へ駆け出した。

 

「一体何事だい?なんでここにスリザリンがいるんだよ」

 怪訝そうにマルフォイを見るウィーズリーにパンジーが噛み付いた。

「それはこっちのセリフよ!今日はドラコの初練習なのよ!あんた達なんかに邪魔されたんじゃたまらないわ」

「パーキンソン!?スチュアートまで……」

 シャルルは曖昧に笑って流れを静観する。戦闘モードになったパンジーはマルフォイでも止めるのはなかなか難しいだろう。シャルルならなおさらだ。

 ウンザリした顔でウィーズリーが「うげっ」と呟いた。

「こんなところまで番犬がいるのかよ。パグをガールフレンドにするマルフォイの気がしれないぜ」

「何ですって!?」

 怒りに頬を燃え上がらせ、掴みかからんばかりに怒鳴るパンジーに、ルシアン・ボールがスッと前に出て制止した。怜悧な美貌を軽蔑に歪め、ウィーズリーを高い位置から冷たく見下し、

「レディを罵倒するなんてどんな教育を受けているんだ?グリフィンドールには女性を尊重する文化もないのか?」

 と吐き捨てると、高い背を屈めてパンジーと視線を合わせた。

 

「あんな下劣な野蛮人の言うことなんか真に受けることは無い。笑顔が可愛くて、素直で真っ直ぐな性格は魅力的だ。君はとても素敵だよ」

 優しく微笑まれて、パンジーは押し黙った。眉を下げて赤くなっている。うっとり照れているというよりは、彼の賞賛に感じ入って言葉が出ない様子だ。

 シャルルさえ胸がざわめくようなスマートな対応をするボールは、さすがスリザリン1のプレイボーイだった。

 こういう時に真っ先に庇うべきなのはマルフォイでしょう。シャルルは彼の後ろ姿を睨みつけるが、マルフォイはポッター達をやり込めることに夢中になっている。

 

「ウィーズリー、僕はスリザリンの新しいシーカーだ」

 マルフォイは満足気に言った。

「僕の父上がチーム全員に買ってあげた箒を、みんなで賞賛していたところだよ」

 ウィーズリーは輝く7本の箒に口をあんぐりと開けて凝視した。パンジーとシャルルも驚きに目を丸くする。ルシウス・マルフォイの惜しみない尽力には尊敬の念が耐えない。まさか、息子のためにここまでするなんて。もしくはスリザリンの栄光のためなのだろうか。

 間抜け面のウィーズリーにマルフォイは残酷で凶悪な笑みを頬に張り付けた。

「だけど、グリフィンドール・チームも資金集めして新しい箒を買えばいい。クリーンスイープ5号を慈善事業の競売にかければ、古美術商が買いを入れるだろうよ」

 ドッと爆発したように悪意に満ちた嘲笑が緑のローブから上がった。パンジーも一際甲高い声で大声を上げている。

 シャルルは、嘲りの対象がウィーズリーだったので曖昧に微笑む程度に留めた。昨年末のグリフィンドールには大変な苦渋を飲まされたし、その悔しさと憎悪は消えてはいないが、彼の家が貧しいことはそれに関係がない。

 

 マグル生まれの魔女、ハーマイオニー・グレンジャーが憤然と前に一歩踏み出した。

「少なくとも、グリフィンドールの選手は誰1人としてお金で選ばれたりしてないわ。ハリボテの名声に阿ったスリザリンと違って、こっちは純粋に才能と実力で公平に選抜されたのよ!」

 得意げに輝いていたマルフォイの顔がちらりと歪んだ。パンジーが掴みかかる前に、マルフォイが忌々しげに顎を上げて吐き捨てる。

 

「誰もお前の意見なんか求めてない。生まれ損ないの『穢れた血』め!」

 

 途端に怒号が轟轟と響いた。グリフィンドール達がいきり立ってマルフォイを怒鳴りつけ、スリザリンの上級生たちは彼を庇うように立ちはだかった。

「よくもそんなことを!」

 赤いローブの女子生徒が鬼婆のように甲高く唸り、ウィーズリーの双子を皮切りに他の選手たちが杖を構える。

 険悪な空気の中、当のグレンジャー本人は突然変わった空気に目を白黒させていた。

 

 シャルルは胃の中がムカムカするのを感じていた。

 公に『穢れた血』だとは世間体を気にして口にしたりはしないが、穢れた血ごときが聖28一族にこれほどの侮辱を向けたのだから、そのくらいの罵倒は甘んじて受けるべきだ。

 誰が誰に物を言ったのか自覚していない愚か者ばかりで、グリフィンドールの『混じり』達にはウンザリさせられる。

 穢れた血なんかにマルフォイ家がいいように言われるなんてこと、許してはならない。しかも、寮同士が対抗しているこんな大勢の前で純血の重みを軽視されるのはありえない。

 シャルルは腕を組んでマルフォイの隣に並んだ。

 彼はパッと横顔を見て冷たいグレイの瞳をまたたかせた。

 彼女が応戦するのは非常に珍しい。ほぼ初めてとも言ってよかった。マルフォイがポッター達と揉めている時、シャルルやダフネは我関せずと離れた場所にいることが常だった。

 

「グレンジャー」

 

 彼女をシャルルは既に覚えていた。スチュアートとノットの名に土を付け、去年の学年末テストで1位に輝いたマグル生まれの名前。その他大勢の価値のない路傍の石ころだった彼女は、シャルル以上の才能を示した。シャルルは彼女を一個人として認識するようになった。今年度は絶対に負けるわけにはいかないと、屈辱とか対抗心も芽生えていた。

 

 名前を呼ぶだけで、『穢れた血』の彼女はたじろいだ。今まであからさまに無視していたシャルルが己の名を呼んだことに、猜疑心と警戒心と困惑を浮かべて、用心深くシャルルを見返してくる。

 グリフィンドールもスリザリンも睨み合いながらシャルルの動向を伺い、視線が刺さった。

 

「マルフォイは公平なテストを受けて、実力で栄光の座を掴んだわ。訂正しなさい」

「……スリザリンが何よりも血統を重視するのは事実だわ。あなた達の言う公平は、私達の基準では「媚びへつらう」って言うのよ」

「……」

 彼女はシャルルの雰囲気に押されているくせに、顔を固くしながらも、まっすぐにシャルルの目を睨みつけて澱みなく言い返した。

 苛立ちのあまりに口を噤んだのをどう思ったのか、グリフィンドール達が囃し立て、グレンジャーが挑むように胸を張った。

 

 シャルルは冷静さと気品を失わないよう自分を律することに、僅かに時間を要しなければならなかった。

 唇を軽く舐めて、柔らかな声を出す。

 微笑で武装したシャルルに、やはりグレンジャーから動揺が見える。精神の優位性はシャルルにあるのだ。

 

「マルフォイは上級生の候補者全員よりも優れた結果を出したわ。それに、この箒だって経済力を誇示するためのものじゃない。

 父親が息子に掛ける期待と愛情をそんな風にしか思えないなんて、マグルってとんでもなく貧しい感性をしているのね。穢れた親に育てられたあなたに憐れみすら感じるわ」

 

 シャルルは昨年末にダンブルドアに向けられた表情を思い出して、意識的にそれを真似た。瞳に軽蔑と嘲りと憐れみを映し、白々しく微笑んでいた屈辱的な表情は、何度も何度も何度も思い出して腸を煮えくり返らせていたので、忘れられないほどによく覚えている。

 今度はスリザリン生が歓声を上げた。

 マルフォイが「スチュアート……」と動揺の声を洩らし、僅かに頬を紅潮させている。

 グレンジャーは唇を引き結んでうっすらと瞳を潤ませた。眉根が谷のように皺が刻まれていて、シャルルは酷薄的な笑みを深めた。

 

 彼女は明らかにシャルルの言葉に傷付いていた。シャルルは満足して冷たい表情を霧散させた。マルフォイにニコリと優しく微笑んで一歩下がる。自分を庇い、最後には見せ場を譲る意図を完璧に掴んで、マルフォイは唇を歪めてグレンジャーに向き直った。

「血が穢れていると品性まで卑しくなるみたいだな、えっ?恥を知れ、グレンジャー!」

 残酷な悪意に満ちた笑みにウィーズリーがとうとう我慢ならなくなり、杖を引き抜くと「思い知れ!」と叫んだ。

 彼は何事かの呪文をモゴモゴと叫んだ。シャルルは咄嗟に杖を出そうとしたが間に合いそうもない。マルフォイは慌てて身を捩り、緑の閃光と轟音が飛び出したかと思うと、ウィーズリーが後方に勢いよく吹っ飛ばされた。

 よろめいて膝をついたウィーズリーにグレンジャーやポッターが駆け寄って声を掛けている。

 

 赤も緑も揃って呆気に取られていたが、スリザリンが嘲笑を浮かべて追い討ちの言葉を投げかけようとした時、ウィーズリーの口からはしたない、空気が洩れる音が響いた。

 巨大な音とともに、口の中からボタボタッ、と何かが溢れ落ちる。

 ぬらぬらと不気味にぬめりけを帯びる──ナメクジだ。

 

 スリザリンチームは笑い転げた。

 フリントは箒の柄に縋り付いて呼吸困難になるほど咳き込んで、クールなルシアン・ボールは自分の腕で顔を隠して小刻みに震えている。

 ワリントンは陰気に喉を引き攣らせてニヤニヤ笑い、ブレッチリーとデリックはお互いの背中を容赦なくバンバンと叩き合って腹を捩っている。スリザリンの中で最もハッフルパフ的な他者への平等性と親切さを持つエイドリアン・ピュシーでさえ、苦しげに腰を折って喘いでいた。

「じ、自分の呪文に自分でかかるってどうやるのよ?ウィーズリーは稀有な才能を持ってるのね!」

 パンジーはもはや四つん這いで涙を流しながら地面に拳を叩きつけるマルフォイの隣で、同じように四つん這いになって腹を抱え、シャルルも吹き出すのを抑えられなかった。

「う、ふくっ、あははっ……あははは!」

 駄目だ、面白さが後を引いて収まってくれない。笑うのは……可哀想だと思うのに。

 でも、情けなく顔を真っ白にしてナメクジをまたボタボタ垂らすウィーズリーや、彼の周りに集まりはしたがみんな引いた顔で誰も助けようとしないのを見て、また笑いの波が襲ってくる。

 スリザリンが笑いすぎて何も言えなくなっているうちに、グレンジャーとポッターはウィーズリーを何とか立ち上がらせてその場を急いで去っていった。

 ヌメヌメの彼に恐れず触る彼らの勇敢さには恐れ入るばかりである。

 

 スリザリンはしつこく笑い続け、なかなか笑いは止まらなかったが、なんとかルシアン・ボールがグリフィンドールに向けて、震えた声を絞り出した。

「ゴホッ……はあ、で?シーカーもいなく……っふ、い、いなくなったようだけど?まだ練習を……続けるのかな?

 えほっ、弟の容態……ングっ……弟の容態が心配じゃないのかい?彼に……クハハッ、無様なあの彼に着いていてあげた方がいいんじゃないか?」

 ボールは何度も咳き込んだ。

 彼の顔には嘲りが乗っていたが、いつもの冷たい皮肉を浮かべた表情ではなく、目じりに涙の膜が張ってとても楽しそうな無邪気な嘲りだった。

 面白くて仕方がないらしい。

 

 赤ローブ達はしばらくスリザリンを睨み付けていたが、やがて悔しげにピッチを去っていった。

 完璧にスリザリンの勝利だった。

 しかし、勝利の余韻に浸るには、ロナルド・ウィーズリーの残した余韻が大きすぎて、シャルル達はまだしばらく練習に取り掛かれそうもなかった。

 

 



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22 ハリネズミちゃん

 シャルルは友人たちと談話室や湖のほとりでティーパーティーをするのが好きだったが、それと同じくらい図書室で知識を吸収する時間を重要視し、好んでいた。

 静かな沈黙と本を捲る音、紙の古い匂い、羽根ペンの擦れる音は精神を抑制する穏やかな時間を過ごせた。

 そこに、自分と同程度の知識と意欲を持つ友人が共に居たならこれ以上なく有意義な時間になる。

 

 セオドールとは時折一緒に図書室に引きこもって、お互いの学習に励んでいた。課題や授業の予習復習に取り組むこともあれば、上の学年の呪文を一緒に学ぶこともあった。

 セオドールは既に3年生で習う呪文のほとんどを自習し終えていたので、活発な議論を交わすのに最適な友人だった。

 

「今日は何を勉強する?」

「呪文学はどうだ?イモビラスやインペディメンタ、インカーセラス……対象の行動を制限する呪文を習得しておきたい」

「いいわね。わたし、インカーセラスは前から練習してるのよ。まだ出来ないけど……有用な呪文だわ」

「実験体が欲しいな」

「本当に」

 勉学に対する熱意と知性が釣り合う魔法族と話すのはストレスがなくて気持ちが良い。シャルルは自然と楽しげに口角を釣り上げて、ニコニコ彼を見上げた。

 去年は少ししか変わらなかったセオドールは、いつの間にか顔1個分ほども背丈が伸びていて、顔を上に向けなければ目を合わせられなくなっていた。

 図書室に入るとマダム・ピンスが突き刺すような視線で睨んで来るので、ふたりは口を閉じて3年生と5年生の呪文学の棚に向かう。数冊教科書と参考書を選んで、いつもの指定席へ行くと、見覚えのある生徒が近くに座っていた。

 

 本を開き、俯いて字を追う彼女の顔にくすんだ銀髪がサラサラと落ちている。声を掛けるか迷ったが、ずっと話したかったのでシャルルは彼女の隣にわざと足音を立てて近付いた。

「ごきげんよう、リディア」

「っ!」

 従姉妹であるリディア・ダスティンは顔を跳ねあげると、シャルルを見つめて怒りの表情を浮かべた。相変わらずの嫌われように苦笑いが零れる。

 この席はマダムのいるカウンターからはじゅうぶんに離れていたが、ギリギリまで声を抑えてひっそりと言葉を紡ぐ。

「レイブンクローに入寮おめでとう。叔母様やお爺様たちも喜んだでしょう。早くお祝いを言いたかったのだけど、タイミングがなくてなかなか言えなかったの」

 リディアはシャルルを視界に入れる度にいつも挑むように睨み付けて踵を返してしまうし、他の生徒といるときは絶対に話しかけるなというオーラを全身から発していたので、彼女の入学から数日経った今まで会話をする機会を取れなかったのだ。

 シャルルの言葉に、まるで酷い侮辱を投げかけられたように憤慨した顔をして、リディアはギロッと瞳を光らせる。

 ──別に皮肉なんかじゃないのに、彼女の被害妄想には困ったものだわ。

 シャルルは眉を下げて淡い微笑みを浮かべる。

 

 既に席についているセオドールがチラッとこちらを眺めている。

「話しかけないで。あなたと知り合いだと思われるのはうんざりする」

「どうして?」

「分からない?」

 苛立って吐き捨てる彼女に、小首を傾げて見せる。リディアはさらに焦れったそうにイライラと呟く。

「あなたみたいに傲慢で、尊大で、嫌味なスリザリン生と知り合いだなんて知れたら、ホグワーツでわたしの立場がなくなるでしょ!」

 シャルルは失笑した。

 もし本当に彼女がそれを恐れているなら、シャルルにバカ正直に明かすのは得策ではない。シャルルがリディアを嫌っていた場合、シャルルは喜んで大勢の人の前で彼女との友情を大々的に露(あらわ)にしただろう。彼女は勉強は出来ても、他人との小さな政治は不得意のようだ。

 

 テーブルの上には2つの羽根ペンとインクが置いてあった。シャルルがそれに気付いた時、リディアはハッとしたようにシャルルの後ろを見つめて、会話を断ち切って本に視線を落とした。

 後ろから声が掛けられた。

「シャルル?」

 振り返って、穏やかな笑顔で声を掛けてきた彼女と挨拶を交わす。

「ハアイ、パドマ。お元気?」

「久しぶり。休暇はどうだった?」

「素敵な時間を過ごせたわ。家でいくつかの新しい呪文を父から教えられたの」

「まあ。じゃあ今年もあなたは、きっと優秀な成績を取るでしょうね。私もインドに伝わる古い呪術の書物を手に入れたのよ。イギリス魔法界とは系統が違っていてとても興味深いの」

「素敵!今年は古い魔法をテーマに研究を深めるつもりなのかしら?」

「ええ」

 深い黒の髪と、ダークブラウンの瞳に知性を浮かべた少女はレイブンクローのパドマ・パチルだった。彼女は多くのレイブンクロー生がそうであるように、勉学に対して意欲的で、フリットウィックの呪文クラブにも参加している友人だ。

 彼女はシャルルに親しげな笑みを向けると、リディアの向かい側に座った。リディアは驚愕の表情でシャルルとパドマの顔の間で忙しなく視線を行き来させた。

 

「リディアと友人だったの?」

 パドマは邪気のない様子で尋ねた。答えあぐねたリディアの代わりにシャルルが答える。

「従姉妹なの。わたしの母はダスティンの系譜なのよ」

「そうだったわね。あなたがロウェナの末裔であることは、レイブンクロー生の間で敬意を持って共有されているわ」

「ふふっ、光栄ね」

 おどけて嬉しそうに肩をすぼめる。

「もし良かったら一緒に勉強しない?あー……彼がかまわないのなら、だけれど」

「もちろんかまわないわ。セオドール!」

 

 視線は向けずに耳だけでこちらを伺っていた彼は、名前を呼ばれて一瞬うんざりした顔をしたが、無言で席を立ってシャルルと自分の分の荷物を持って近くに寄ってきた。

 シャルルはパドマの隣に座り、セオドールはリディアの隣に座らせられた。

 リディアはまだ頭が追いつかない……というよりは、悪夢でも見ているかのように、シャルルの美しい顔を凝視した。

「ダスティンをレイブンクローが獲得できて誇り高いわ。リディアは1年生の中で最も熱心で礼儀正しいのよ」

「ダスティンの系譜は幼い頃から知性についてよく教育されるの。直系のリディアは尚更期待をかけられていたわ」

 シャルルには反射的に厳しい瞳を向けたリディアだったが、パドマに褒められて嬉しそうに身体を固くしてはにかんでいる。

 セオドールは我関せず手の中の書物を読み込んでいて、会話に混ざる気は一切ないようだった。

 

 リディアはおずおずとパドマの瞳を見つめて口を開いた。

「あー……その、シャルル……とは友人なの?」

「ええ。去年から親しくしてるわ」

「どうして?」

「……?どうして、って?」

「あの、だって彼女はスリザリンでしょ?ホグワーツじゃスリザリンは他寮生との交流が活発ではないって祖母に聞いていたから……」

 言葉を選ぶリディアにパドマは頷いて、明るく笑った。

「たしかに、そうね。スリザリンは少し閉鎖的な面があるわ。でもシャルルは穏やかで、友好的で、知的よ。彼女は全ての寮に友人がいるし、みんなに好かれてるわ。もちろん私も」

「ありがとう、パドマ。わたしもあなたが大好きよ」

「シャルルったら」

「……」

 俯いて、悔しさと不満を必死に抑えるリディアの姿に、胸の中に満足感が広がる。リディアの偏見や、歪んだ望みとはうらはらに、シャルルはホグワーツでじゅうぶんな名声を得ている。

「シャルルみたいな従姉妹がいて、リディアも鼻が高いでしょうね」

「……え、ええ」

 苦々しくなんとか笑顔を浮かべた自分を嫌う従姉妹に、シャルルは勝利の嘲笑を上げたくなった。

 リディアは拳を机の下で握りこんでふるふると肩を揺らしていた。セオドールがそんな彼女を横目で見下ろして、片眉を上げてシャルルの瞳を見つめた。シャルルは面白がって瞳を光らせ、セオドールに悪戯っぽい笑みを返した。

 

 4人はしばらく自分の勉学に励んだ。

 シャルルはインカーセラスについては、家のハウスエルフである程度呪文を成功させていたので、オブスキューロやインペディメンタなどの呪文について理解を深めた。それから、フルガーリについても。

 これは持ってきた闇の魔術の本に書かれていた呪文のひとつで、対象を強力な光の紐で拘束し、もがいたり抵抗するほどきつく縛り上げ、火傷を負わせる呪文だった。

 理論が複雑でまだ初歩的な理解までしか及んでいないが、相手の動きを制限しつつ持続的なダメージを負わせるのは実に有用で、応用性が高い。会得したい呪文のひとつだった。

 

「イモビラスは結構複雑な呪文だな。数世紀前は、時間を停止させる魔法だと思われていたらしい」

「対複数に効果を発揮する広範囲魔法というのは珍しいよね。しかも、動きを止めるだけじゃなく、現象自体をそのまま固定させる」

「この脚注だろ?箒に乗っている魔法使いに掛けた場合、空中にそのまま浮かんで動かない」

「意味が分からないわ。相手の身体だけじゃなく空間に作用する理論が咀嚼しづらくて……」

 シャルルとセオドールは机の真ん中に教科書を置いて、それぞれ前のめりになって文章を書き写したり、自分で解釈して書き込んだりした。

 パドマが興味を持ったように覗き込んで、「停止呪文を学んでるの?」と感心して呟いた。

 

「聞いた?ハーマイオニー・グレンジャーがその呪文を使ったんですって」

「グレンジャー?」

 軽蔑を込めてセオドールが繰り返した。

「それ、本当?」シャルルも身を乗り出した。

「ええ。パーバティが言ってたの。ロックハートは初めての授業でピクシー妖精を大量に放って、生徒に対処させたんですって」

「ピ、ピクシー?」

「ピクシーよ」パドマは神妙な顔つきで頷いた。

「それで、ロックハートは杖を奪われてどうにも出来なくなって、対処はハーマイオニーがほぼしたんですって。彼女がイモビラスを唱えると、ほぼ全てのピクシーが完璧に動きを止めて、空中に漂ったらしいわ」

「5年生で習う高等呪文だぞ」

 悔しさをほんの僅かに滲ませ、セオドールが呻いた。ハーマイオニーが想定以上に呪文の習得が進んでいて、シャルルは危機感と対抗心を募らせた。

 

「それにしても、ロックハート教授は……なんというか、随分個性的な方ね」

 言いづらそうにパドマが苦笑した。「2年生にもなって、ピクシーの相手をさせられるなんて」

「スリザリンのクラスでは違う内容だったが」

 彼が一瞬シャルルに視線を向けたので、シャルルは軽く睨み返した。セオドールはフッと笑って肩を竦める。

「あー……。レイブンクローの授業でもさせられそうになったけれど、私たちは幸運にも演劇はしなくてすんだの」

「どうやって逃れたの?」

 

 目を開いて見つめると、パドマは自慢げに微笑んだ。

「彼の偉業に対して、全員で質問したの。彼は武勇伝を語ることに夢中になって、レイブンクローの意欲的な態度に10点の加点をしたわ」

 シャルルは唇を噛んで、「なるほどね」と称賛した。「そのやり方はスリザリンでは出来ないわね」

「ああ。全員ロックハートの言葉に嘲笑と野次を向けるだろう」

 レイブンクロー生達の賢さと、知性に対する団結力には舌を巻かざるを得ない。

 

「それにしても、ロックハートはレイブンクロー出身らしいけれど、どうしてああなのかしら」

「彼の虚栄心はむしろスリザリン気質だ。もっとも僕達はあんなに愚かじゃないけどね」

 セオドールは唇を歪め、自嘲と皮肉という器用な真似をした。

「彼は確かに愚かだし、偉業のいくつかに怪しい部分はあるけど、色々な経験を積んでいるのはたしかなようだったわ。

 私達の質問には知識がないと答えられないものもあったけど、ロックハートは驚くことに、全ての質問に正当な答えを返したわ」

 パドマは満足そうだった。

 知性を重視するレイブンクローは一定の信頼を彼に見出したようだ。シャルルは思わずセオドールと顔を見合せた。

 どうやら、ロックハートにはある程度の知識があるらしい。シャルルには信じられなかった。

 

 



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閑話 イル・テローゼ

 

 

 憧れの魔法界で、イルは透明人間になった。

 

 初めて不可思議な力のことを知ったのは7歳の時だ。両親は宝石商を営んでいた。両親が見せてくれるキラキラした石がイルは大好きだった。でも、パパもママも触らせてくれなくて、つまらないと思ったイルは、道端の石を拾って「これがあのキラキラになったらいいのに」と思った。次の瞬間、味気ない灰色の小石は、紫色のキラキラになっていた。

 

 イルの力を知った両親は驚愕し、狂喜乱舞した。イルのことを抱っこしてくれるパパ、涙目で喜んでくれるママを見て、イルもすごく嬉しくなったのを覚えている。しばらくしたら紫色のキラキラはただの石に戻ってしまったけれど、大切な宝物としてイルはずっと大切に持っている。

 それから今まではあまり会っていなかった祖母や祖父と会うことが増えた。ママの両親は冷たくて素っ気なかったけれど、イルにだけは優しかった。膝に小さなイルを乗せて、不思議な力と世界のことを教え、不思議なことを見せてくれた。

 魔法界。魔法の力。ママともパパとも違う特別な力。

 

 両親にも祖父母にも愛されて育ったイルは、常に賞賛に取り囲まれていた。パパに連れていかれるパーティーでは周りの大人はパパも、娘であるイルも笑顔でにこやかに褒めたたえ、友達たちは裕福で美しく教養もあって優秀なイルをいつも優先した。

 イルは小さな世界でクイーンだった。

 男の子に微笑めば恥ずかしがってイルに好かれようと必死になり、女の子たちはイルの友達でいようと必死だった。

 

 ホグワーツからの手紙が届いた時、ついにずっと憧れていた、祖父母が生きてこれから自分が生きることになる魔法界で過ごせるんだと、胸に花が咲いたような気分になった。

 

 ワクワクして、楽しい毎日がこれから始まるんだと、心を弾ませていたのに。

 

*

 

 入寮してスリザリンに組み分けされたイルに、同寮生は優しかった。先輩も、同学年のアクリントンやフォスターもイルの美しさの前に、出来るだけ紳士的に振る舞おうとしたし、トレイシーは人懐っこくてすぐ友達になった。パークスやアンダーソンはさっそくイルの取り巻きになりたがっているように感じた。

 彼女は隣に座ったイルをチラッと検分するように見て、ニッコリと笑った。

「トレイシー・ディヴィスよ。よろしく」

「イルよ。よろしくお願いするわ」

「ええ。トレイシーでいいわ」

 簡単な挨拶だけで、彼女は満足そうに頷いて手を差し出してきた。その手を軽く握って、イルとトレイシーの隣にパークスとアンダーソンが座った。

 トレイシーは彼女たちからの挨拶を頷くだけに留めて、イルだけに話しかけて来た。イルはそれに答えながら時折、パークスとアンダーソンに話を振ると、彼女たちは緊張と喜びを浮かべて一生懸命に言葉を選んで返事をした。イルとトレイシーの顔色を伺うような態度。入学して一瞬で、そこには明確にカーストが敷かれていた。

 その上位にイルがいる。

 前の世界……マグルの世界と同じように、今まで通りの人間関係が築けたことにイルは安堵していた。

 

 それがおかしくなったのは3日目からだった。イルの立場はたった数日で崩れた。

 

 シャルル・スチュアート、パンジー・パーキンソン、ドラコ・マルフォイ、セオドール・ノット。この4人はすぐさまスリザリンの頂点に立った。全ての学年を含めても彼らは上位者だった。

 でもイルは誰かにおもねったことがない。おもねる必要があるとも思えなかった。

 

 最初は好意的だったスチュアートが、イルの出自を聞いた途端、態度が硬質になった。パーキンソンが耳障りな甲高い声で「穢れた血と生まれ損ないの娘なのよ!」と叫んだ。

 スチュアートの氷のような冷たい軽蔑の瞳と、パーキンソンのおぞましいものを見る嫌悪の視線がイルに突き刺さって、気丈に言い返したけれど、その夜は不安で胸がざわめいていた。

 

 穢れた血?

 生まれ損ない?

 

 何を指してるのかイルには分からなかったけれど、酷い侮辱を受けたということはわかった。

 ジクジクした怒りとチクチク身体を這い回る不安がイルの胸中を支配していた。

「あなた、スリザリンを敵に回したいの?」

 嘲笑を浮かべて吐き捨てられたスチュアートの言葉がずっと気になっている。

 

 次の日、イルはその言葉の真意が分かった。

 寝室の分かれたディヴィスと談話室で待ち合わせして談笑していると、ターニャ・レイジーを引き連れたパーキンソンがトレイシーに言った。

「ねえ、あなた純血だったわよね?」

「パ……パーキンソン!ええ、わたしはディヴィス家よ」

「そうよね。じゃあなんでその子と話してるわけ?あなたも血を裏切る者なの?」

「ち、血を裏切る?そんなまさか!」

 トレイシーは絶句し、顔面を蒼白にして慌てて叫んだ。イルは血が引くような思いがした。トレイシーの叫び声に生徒の視線が集まっている。

「じゃあ知らないのかしら?その子、穢れた血と生まれ損ないの娘よ!そんな子と話してるとあなたまで穢れるわ」

「えっ……」

 

 トレイシーが目を剥いてイルの顔を凝視した。談話室が静まり返って、痛いほどイルに視線が刺さった。

 口を開けて、閉じて、唇を舐めて、トレイシーが慎重に声を出した。

「ねえ、パーキンソンの言ってること……ほんとなの?」

「……どういう意味?」

「だから、本当に……穢れた血と生まれ損ないの……」

「その言葉の意味が分からないのよ。穢れた血って何?生まれ損ないって何なの?それを知らないと答えようがないわ」

 トレイシーがひゅっと息を飲んだ。いきなり談話室に喧騒が戻ってきた。自分を取り巻く空気が一気に冷え込んでいく。

「嘘、まさか……最悪!」

 勢いよく立ち上がって、トレイシーが肩や腕を必死に払った。さっきまで隣に座って仲良く話していたのに、今の彼女の目は昨日のスチュアートやパーキンソンのような色を浮かべていた。

 そしてトレイシーが吐き捨てた。「なんでスリザリンにそんなのがいるのよ?」

 

 トレイシーはパーキンソンに「わたし知らなかったのよ、彼女がそんな、忌まわしい生まれだなんて……」と言い訳するようにへりくだった。

 パーキンソンはフッと笑った。

「そうよね。じゃなきゃ、視界に入れるのだって嫌なはずよ。しかも彼女、わたしとシャルルに楯突いたのよ?身の程知らずにも程があるわ」

 彼女は言いたいだけ言ってさっさと去って行った。取り残されたイルから潮が引くように人が離れ、あからさまなひそひそ声が充満し始めた。

「まさかスクイブの……」「スリザリン史上最も穢れた……」「なんでこの寮に……」

 謂れのない中傷に目の奥がカッと熱くなる。

 イルは怒鳴った。

「一体何なの!?パーキンソンといい、スチュアートといい……!トレイシー!わたし達は友達になったじゃない!」

 名指しされたトレイシーは大きく顔を歪めた。

「やめてよ。わたしは由緒正しいディヴィス家の子女なのよ?あなたみたいな人と間違っても友達なわけないじゃない」

「ディヴィス家だったら何?それがそんなに偉いとでも?」

「はぁ?当たり前じゃない。純血は尊ばれるべきなの」

 即座に返ってきた返答に、イルは一瞬言葉を失った。周囲の人間はみな、嫌悪、侮蔑、嘲笑……負の感情を浮かべている。

 

 トレイシーを鋭く睨み返し、イルは寝室に踵を返した。これ以上あの空間に耐えられそうもなかった。

 

 ドアを勢いよく閉めると、俯いて唇を噛み締めた。拳を握りしめすぎて腕がぶるぶると震えた。

「うるさい……」

 苛立ちの籠った眠そうな声がして、イルはハッと顔を上げた。奥のベッドから瞼を擦りながらスチュアートがよたよたと出てきた。

 スチュアートはチラッと一瞬イルを見ると何も無かったかのように視線を逸らして着替え始めた。

 

 激情のまま、つい彼女に詰め寄る。

「なんでわたしがこんな扱いをされなきゃならないの?」

 スチュアートは視線すら向けることなく、イルの怒鳴り声を無視した。虚を突かれ、胸の奥から怒りが噴火しそうになる。

「スチュアート!あんたに言ってるの!魔法界を知らないことがそんなにいけない!?」

 教科書を持ったスチュアートはまっすぐイルの方に歩いてきた。イルは彼女を睨んだ。スチュアートはそのままイルの横を通り過ぎて寝室を出て行った。

 

 まるで透明人間みたいに……。

 

「は……、はは……」

 呆然として、口から力無い笑い声が漏れる。怒りが頂点に達すると、人間は笑ってしまうことを初めて知った。

 イルはズルズルと座り込んだ。

「うっ……なんなのよ……!」

 悔しくて悔しくて、前髪を掴みながら嗚咽を零す。目から色んな感情がぐちゃぐちゃになって、処理しきれなくなった雫が流れ出した。

 何が起きたかわからなかったけれど、これだけは分かった。

 イルはホグワーツ生活の第一歩を、致命的に失敗したのだ。

 

 

 スリザリンで完璧に浮いてしまったイルの学校生活は最悪だった。理由もなく嫌われ、笑い者にされるのが当たり前になった。血筋以外になんの取り柄もない人間に笑い者にされるたび、腹がねじ切れるような惨めさに襲われたが、イルは常に毅然と顔を上げて「あなたたちなんか相手にしていられないわ」という態度を決して崩さなかった。

 

 言葉の意味は暮らしているうちに分かった。穢れた血はマグル生まれ。スクイブは魔法族に生まれながら魔力の備わない人間。スリザリンでそれらは忌み嫌われるらしいことも分かったが、イルには何故そこまで嫌われるか実感として理解することは出来なかった。

 母はイルを愛情持って育ててくれた優しい人だし、父は宝石商として忙しく働いて、その背中が大きくて、イルは両親を誇りに思っている。大好きだし、劣っているなんて思わない。

 魔力のある自分が勝っているとも思わない。

 でも、祖父母がイルを可愛がる反面、父や母に素っ気ない理由が見えて、血に縛られる愚かさに嫌悪感を抱くと同時に、祖父母にまで根付く深い差別や価値観に絶望的な気分にもなった。

 

 トレイシーはしばらくしてブレーズ・ザビニたちのグループに入ったようだった。アクリントンやフォスターもそうだ。ザビニは面食いで偉そうな男だけど最初からイルに見向きもしなかった。

 魔法薬学の授業で彼らの後ろになった時、これ見よがしに話す彼らの会話が聞こえた。

「彼女が言ってたんだけど──」

「どの?」

「ああ、グリフィンドールの」

「よくあの寮の女と付き合えるな」

 フォスターが呆れたように言ったけれどザビニはそれを鼻で笑ってあしらう。

「馬鹿言うなよ。美人も血筋も寮には関係ない」

「お前は顔が良かったら誰でもいいよな、ブレーズ?」

「でも、その割に出来損ないは口説かなかったな。ほら……」

 アクリントンがわざとらしくイルをチラッと振り返りにやにやした。イルは鋭く睨み返す。

「テローゼ?まあ、顔の作りは最高だよな。同学年じゃスチュアートとパチル姉妹に並ぶレベル」

 胸に一瞬淡い喜びが浮かんだことに、自分で自分が悔しかった。男の子に褒められることなんか当たり前だったのに、正当な評価を受けることさえ久しぶりで、上から偉そうに点数をつける下賎な言葉に喜びそうになってしまった。こんなもの、褒め言葉でもなんでもない下等な言葉なのに。

「でも多少顔がいいくらいで自分を穢そうなんて思わないね。最初からあんな女に近づく気はなかった。見る目のないお前らと違って」

 ヘラヘラしていたアクリントンとフォスターが顔を見合わせて罰の悪い顔をした。この2人は最初はイルに骨抜きで、笑いかけるだけで顔を赤くしていたくせに、今やイルのことを虐める筆頭だった。

 たぶん、そうすることで自分のプライドを保とうとしているんだろう。

 そしてイルを邪険にするパフォーマンスをして、スリザリンの他の生徒に、血を裏切るつもりはないとアピールしている。

 

「俺たちだってあの女があんなとんでもない出身だってわからなかったんだよ」

「そうさ。分かってたら近付かなかった」

「なんでブレーズは分かったんだ?話す機会なんてなかっただろ?」

「簡単なことさ」ザビニは髪をかきあげて、得意気さをなんとか隠そうとしているようにニヤッとした。「まず俺は、友情を深めた方がいい相手を慎重に見極めてる。だからマルフォイ達にも近付いてない」

 ザビニはさらに続けた。

「それにテローゼなんて姓を聞いたことがあったか?詳しく知らない人間に飛びつこうだなんて、分別のある人間ならまず思いつかないね」

 嘲笑のこもった声でザビニは笑った。アクリントンとフォスターは少し黙って苛立ちを逃がしているように見えた。

「それで?誰にどう評価を下したんだ?」

「マルフォイはただの甘やかされたお坊ちゃまだね。チヤホヤする価値はない。でもノットに比べたらまだマシだ。パーキンソンは恋愛対象としては最悪。蛇としてもマルフォイの同類で話にならない。スチュアートは手綱を握れれば近付く価値が大いにある」

「本当にお前は偉そうだな」

 フォスターが失笑した。「根拠に基づいた自信と言ってほしいね」ザビニが言い返す。

「スチュアートの手綱を握れる自信はおありなんでしょうか?」

 茶化すアクリントンを睨み、「勝算はこれから見つけていくつもりだけど、彼女は話がわかりそうだと睨んでる」と唇を舐めた。

 

 それから彼らの話題は他の寮生……特にハリー・ポッターの悪口に移っていったが、イルは心底うんざりした。

 どいつもこいつもマルフォイ、ノット、パーキンソン、スチュアートのことを持ち上げる対象として見ているし、小さなグループにも必ず上下関係がある。ザビニだって軽薄でナルシストな顔だけの男に見えるのに、派閥を築くくらい権力を持っている。

 

 スチュアートなんてどこがいいの?

 彼女はスリザリンの中で最も冷たい人間だと、イルはそう確信している。

 悪口も、侮蔑も、いじめもしないが、人間のいちばん冷たい感情は無関心だ。スチュアートは情を削ぎ落として合理だけを詰め込んだような造りをしていると思う。

 彼女はイルに対して徹底していた。

 挨拶や会話をしないのは当然として、もう視界にすら入れない。視界に入っても背景の一部にしている。イルに対して虫ほどの興味がないのを感じて、イルは怒りというよりもゾッとした。そんな態度を人に取られたことがなかった。たとえ目の前で死にかけていても、スチュアートはチラリともせずに見殺しにするだろう。

 そんな彼女が、パーキンソンやグリーングラスには優しくて親切なのを見ると、何を考えているのかと背中がゾワゾワする。彼女の優しさは上辺だけか、他人をコントロールする術に思えた。

 

 穢れた血や生まれ損ないと呼ばれ、嘲笑に囲まれた生活をしていると、小さな上下関係に支配されたスリザリンの人間がいかにもくだらないということがイルには分かるようになった。

 スリザリンが大嫌いだ。

 でも同時に、イルが何故スリザリンに組み分けられたか痛いほど自覚した。

 ホグワーツに入る前のイルは、ちやほやされることが当たり前だと思っていたし、そのことに優越感を感じていたからだ。

 小さな世界の女王でいることは楽しかった。それを懐かしむことも毎日だ。

 カーストのある人間関係の思考からきっとイルは抜け出せない。

 虐められている今だって、屈辱と羞恥心が先に立って、自分がそんな底辺の扱いを受けていることに怒りを覚えている。他人から尊重されないことに傷付いているんじゃない。プライドが傷つけられているのだ。それがくだらないことだと分かっているのに、芯から考え方を変えることはまだ出来ていなかった。

 

 ママはイルがスリザリンに入ったことで、喜んだし、嘆いた。祖父母は狂喜乱舞した。魔法界で育っていたママには、マグル生まれとスクイブのあいの子がスリザリンでどう思われるか知っていたから、頻繁に手紙を送ってくれたけれど、今の状況を言えるわけがなくていつも「心配ないわ」「わたしを誰だと思ってるの」と返事を返していた。

 これも、親を心配させたいからという理由じゃなかった。

 イルは自分の自尊心の高さを自嘲した。自分が恥ずかしかった。

 

 スリザリンが、自分が……嫌いだ。

 

*

 

 ただでさえ最悪なイルの境遇は、これ以上悪くなりようがないと思っていたのに、もっと悪くなった。これもスチュアートのせいだ。

 

 変身術が得意なイルは授業でよく加点を貰う。小テストでも、レポートでも悪い成績を取ったことがない。マクゴナガルもイルを認めてくれていて、最初の授業で成功していたら、今の状況が何か変わっただろうかとたまに思う。

 イルが手を挙げる度に舌打ちや嘲笑、陰口のさざなみが起こるけれど、発言を辞めるつもりは無い。唯一正当に評価される機会だったし、悪いことをしていないのに俯くような真似は自分で許せなかった。

 

 授業が終わって逃げるように談話室に向かう。掲示板の合言葉の変更を急いで確認していると、ゾロゾロと生徒たちが追いついてきた。寝室に逃げようとすると、上級生がわざとぶつかってきて教科書がバラバラと手から崩れ落ちた。

 しゃがみながら、イルは相手を睨む。

 上級生はニヤニヤしながら見下ろしていて、パーキンソンがそれを見つけて甲高く笑った。

「あら?テローゼったら跪いてまで挨拶してるの?自分の身の程をそろそろ弁えてきたみたいね」

 瞬間的に言い返しそうになったけれど、唇を噛み締めて耐える。パーキンソンと揉める方が面倒だ。勝ち誇った表情や、周囲の笑い声が鬱陶しい。

 笑わないのはスチュアートやノットくらいだった。

 退屈そうに素知らぬ顔をしているスチュアートにパーキンソンは不満そうに「シャルルもそう思うでしょ?ほんとにおかしいったら」と水を向けた。

「何が?」

「何がって……」パーキンソンは少し言い淀んだ。「テローゼのあの無様さよ。生意気なのが少しマシになって、いい光景でしょ?」

 スチュアートは肩を竦めた。

「あのね、パンジー。わたしはスリザリンに相応しくない人のことは見えないの。前から思ってたけど、あなた達ってみんな非生産的よ。わざわざかまってあげるなんてよっぽど人がいいか、よっぽどヒマなんでしょうね」

 フンと笑うと、スチュアートは寝室に戻って行った。

 

 後に残された生徒の間に戸惑いの沈黙が流れる。マルフォイたちやグリーングラスがいつもの席に座り、「どういうことだ?」と話し始めると、彼らの周りに人が集まり始めた。

「ああ、あの子いつも部屋で穢れた血のこと完全に無視してるの」

「そうなのか?」

「見えないって?」ノットが尋ねた。

「なんか透明人間とかって言ってたわ」

「なるほどな」珍しくノットが唇を釣り上げた。「本当に、相手にする価値のない人間は徹底的に興味がないんだな」

「あのスチュアートが……。意外だけど好感が持てるな。優しくすべき人間を彼女はきちんと選別しているってことが分かってよかったよ」

「あら、そんなの最初からでしょ?シャルルって純血の友達しかいないじゃない。他寮生でも」

 グリーングラスがくすくすと笑い飛ばした。

「前から馬鹿らしいと思ってた。寄ってたかってあいつを笑いものにしたって面白くも何ともない。ただの時間の無駄、くだらないってね」

 ノットが言い、マルフォイも不満そうにしながらも頷いた。それを見てパーキンソンが追従する。

「そうね、話しても苛つくだけでつまらない子だったわ」

「わたし達、あんな子にかまってあげるほどヒマじゃないもの。もう放っておきましょう」

 マルフォイ達がそう結論を出すと、やがて顔を見合せながら他の生徒たちも消えていった。チラッとイルに視線を投げかけて、睨んだり、蔑視しながらも誰も何も言わない。

 イルは教科書を拾って寝室に戻った。顔を上げることは出来なかった。

 

 そして次の日から、誰もイルに話しかけなくなった。

 

*

 

 寒空のような日々を過ごした。いつも孤独で、イギリスの雪が骨身にキンと滲みこんで凍えるような毎日。

 イルの会話相手は教授達だけだ。授業でだけはなんとか息が出来た。手を上げて、正答に点を貰って、そうしたら自分が誰かの視界に入っていることに安心出来た。自分を惨めに思ってベッドの中で押し殺して泣く夜が幾夜もあった。

 でもある日、イルに友達が出来た。

 

「汚い顔だな、ミジョン。なんでそんな顔を堂々と晒して歩くことが出来るんだ?」

 廊下の隅で、悪意のこもった声が響いた。茶髪の女の子が俯きながらイルの横を走り去っていった。

 事情は分からなかったけれど、通りすがりに泣いているのが見えて、イルは男子生徒を睨んだ。

「女の子によくそんな酷いことが言えたものね。貴方って鏡見たことないの?」

「黙れよ、インビジブル」

「あら、貴方にはわたしが見えてるようだけど?」

 鼻を鳴らしてイルは女の子を追いかけた。茶色の髪を見失わないように走っていると、やがて彼女は3階のトイレに駆け込んだ。

「ねえ、貴方大丈夫?あんな人の言うことなんか気にすることないわ」

 ひとつだけ閉じたドアに優しく声をかけると、2人分の鼻を啜る音が返ってくる。

「……他にも誰かいるの?」

「貴方みたいな美人がなんの用?あたしのことを笑いに来たの?」

「違うわ、泣いていたから気になって……」

「そう言って後で陰口を言うんでしょ!帰ってよ!あんたみたいな綺麗な子に虐められる気持ちなんか分からないわ!」

 つんざくような甲高い声が響いたかと思うと、水が跳ねる音がした。そしてまた啜り泣く声。

 イルは唇を歪めて自嘲した。

「分かるわ。わたしも虐められてるから」

「え?そうなの?」

 涙混じりの声が嬉しそうに聞こえた。

 

 洗面台の排水溝から冷たいグレーの女の子がにゅるっと飛び出して来て、イルは「きゃあっ」と叫んだ。

「きゃははは。間抜けな顔見るのっていい気分だわ」

「あなたは?泣いてた女の子は?」

「そこ」ゴーストは閉まっているトイレを指さした。「いつもここに泣きに来るの」

 ゴーストは腕を組んでイルを見下ろした。

「緑のローブね。あたし大嫌い。もっとも全員大嫌いだけど」

「あなたは?」

「先に名乗ることも知らないの?ほんと、美人って傲慢よね。あたし達が言うこと聞いて当たり前だと思ってる」

 ゴーストは泣きながらトイレの中に飛び込んで行った。水飛沫がかかって、鳥肌を立てながらローブで顔を拭う。

「失礼。わたしはイル・テローゼよ。スリザリンの1年生」

「マートルよ」蛇口から顔を出しながら彼女が名乗る。

「ここに何十年も住んでるの」

「じゃあ大先輩なのね」

「先輩?そう、先輩よ」マートルは目を開いて、嬉しそうに歪んだ笑顔を浮かべた。ニキビのせいで顔の筋肉が少し引きつっている。

 聞いたことがあった。嘆きのマートル。トイレに住むうるさい女のゴースト。3階のトイレに人が寄り付かない理由が彼女だ。

 

 イルは閉じたドアの前にゆっくり手を当てた。

「初めまして、泣いている誰かさん。さっきの男には代わりにわたしが言い返してさしあげたわ、鏡見なさいよって。だからもう泣き止んで」

 ひくっ、喉の引き攣る音。

「酷い男がいたものだわ。レディにあんな無礼な振る舞い、信じられない」

「……私のことは、放っておいて……」

 か細い声だったが返事が返ってきて安堵する。同時に嬉しかった。教授とゴースト以外の人間と敵対的ではない会話をするのがあまりにも久しぶりだったから。

「さっきも言ったけど、わたしはイル・テローゼ。スリザリンよ」

「……知ってる」

 躊躇いがちな返事にイルは思わずクスリとした。「ご存知だったなんて光栄ですわ。透明人間なのに有名になったものね」

「透明人間?」興味をそそられたように空中に浮かんでマートルが近づいてきた。

「そうよ、わたしはスリザリンで透明人間扱いされてるの。最初は悪口を言われたり、罵倒されたりしたけど今は一切なんにもない。存在ごと無視されてるから」

「なんでそんなに嫌われてるの?あんた、美人じゃない。それも相当」

 吐きそうな顔でマートルが顔を歪めた。

「ありがとう。でもスリザリンじゃ見た目なんか関係ないの」

「マグル生まれ?あたしもそうよ。だから緑のローブの奴らにはよく虐められたわ」

「一緒ね。それに加えて、スクイブの娘なの」

「ああ……。虐められる理由がよく分かった。よくスリザリンに入れたわね」

「本当よね。今組み分けに戻れたなら、絶対スリザリンなんか入らなかった」

「でもあんたはスリザリンに入って、虐められてる」

 マートルは喜びの滲む声で叫んだ。彼女を睨むと、甲高く笑いながら便器に飛び込んで、ぶくぶくとした水音を残してどこかに居なくなった。

 笑い声も泣き声もうるさいゴーストだ。イルにも彼女が生前虐められていた理由が分かった。

 

「マートルの友達なの?」

 悩むような沈黙の後、小さな声が返ってきた。

「……ううん、マートルは誰のことも嫌いだよ。でもここに来るのを許してくれる」か細い声が付け足した。「泣いてると嬉しそうだけど」

「共感意識を持っているか、性格が悪いかのどちらかね」

「性格が悪いんだよ。でも、気は合う」

「わたしも合いそうだわ」

 控えめな笑い声がして、鍵が外れた。おずおずと女の子が顔を出す。長い前髪からチラチラ見える暗い瞳と、顔いっぱいの痛々しい真っ赤なニキビが印象的な女の子だ。

 黄色いネクタイをしている。

「……エロイーズ・ミジョン」

「泣き止んだようで良かったわ、ミジョン」

 

 ミジョンとの交流はたいてい3階のトイレだった。

 手紙のやり取りをして、会う約束をして、人目を忍んでこっそりと会う。毎回ミジョンは泣いていたし、何かに嘆いて、自分を憐れんでいた。

「ザカリアス・スミスがまた意地悪を言ったの。ハンナやジャスティンは庇ってくれたけど、本当は内心でスミスと一緒に笑ってるんだよ」

「どうして?彼女達のことはよく知らないけど、正面から庇ってくれるなんて素敵じゃない。こっちにはそんな人誰もいないわ」

「だって自分で1番分かってる。醜くて、汚くて、触れるのも嫌なほどニキビでぐちゃぐちゃだって」

 たしかにミジョンの頬は、ニキビが潰れて白い膿が滲んでいたし、火傷でもしたかのように真っ赤にボコボコしている。でもイルはそっと彼女の顔に手のひらを添えた。

「あんまり自分を卑下しないで、ミジョン。苦しくても顔を上げているの。自分まで自分を恥ずかしく思うようになったらダメよ」

 ミジョンの涙が手のひらを伝っていった。

「どうしてテローゼはそんなに優しくて強いの?わたしもあなたみたいになりたかった。綺麗な顔も、スタイルのいい身体だってそうだし、誰かの意地悪に負けない強さだってそう。私にないものばっかりで自分が嫌になるの」

 優しくて強い?イルは唇を悟られないように歪めた。ミジョンの穏やかな目から零れる雫がとても綺麗に思えた。

 イルは優しくなんてない。強くもない。

 負けたくないから顔を上げて、睨みつけて、でも本当はすごく寂しいし悔しいし悲しい。それを表に出す強さがないだけ。プライドが高いから。笑われたら惨めさや自分の立場を正面から受け止めなくちゃいけないから。

 ミジョンに優しくするのも、会話してくれる友達を失いたくないからだった。

 彼女のことは好きだ。繊細で傷つきやすくて、自尊心が低くて、寂しがりで、少し偏屈なところがあって……。

 同時に、彼女を見て少し安心している自分がいるのも事実だった。「テローゼはどうしてニキビが出来ないの?どうやってケアしてるのか教えて」容姿のことでからかわれて、まっすぐな羨望と少し薄暗い妬みの混じった声で泣きつかれるたび、安堵している。

 自分より下の人間を見ることでしか保てないプライドほど、醜いものはないと分かっているのに。

 ミジョン、あのね、わたしは本当はとても浅ましいのよ。スリザリンの人間だから、本当はすごく滑稽なの。

 ミジョンを失いたくないから、いつもそんなことは言えないけれど。

 

*

 

 散々、散々無視したくせに2年生に上がって、何事も無かったかのようにイルを変身術の教師役に据えたことは心底腹が立った。

 本当に腹が立ったのに、怒りとは別の感情が湧き上がったのも否定は出来ないことが悔しい。

 マルフォイがイルのフルネームを口にした。クラス中の視線が突き刺さった。スチュアートがイルの成績を把握していた。ブルストロードがイルに話しかけた。

 スリザリンの中で、イルという存在が浮き上がったのは久しぶりだった。

 

 強引に話を進め、上級生を巻き込んだ自主勉学計画を立てた割に、その第1回は成功には程遠いあまりにもお粗末な結果に終わった。イルは内心で嘲笑い、すぐに自分が恥ずかしくなった。

 スチュアートが嫌いだけれど、彼女に今まで特に何かをされたことはない。彼女がきっかけで透明人間にはなったが、その態度は正直、昔のイルに似ている。イルも興味のない子はまったく視界に入れないタイプだった。気まぐれに愛想を振り撒き、けれども他人の痛みはどこまでも他人事で微笑んでいるような、そういう人間だった。

 要は彼女に一種のシンパシーと劣等感を抱いているのだ。自覚していた。彼女は前のイルだ。何不自由なく女王様でいられた頃のイル。

 

 水曜日の授業終わり──2回目の勉強会がある日、スチュアートがイルのところに赴いた。

「テローゼ、少しいいかしら?」

 談話室の隅で話しかけられたイルは不審を浮かべて振り向いた。スリザリン内で話しかけられることは無い。まず驚愕が来て、スチュアートの隙のない自信を纏った微笑みに緊張と不審を持って慎重に答える。

「ごきげんよう、わたしに何か用?」

「今日の勉強会のことで話したいの。ついてきて」

 返答を待たずスチュアートは歩き出した。断られるとは露ほども思っていないスチュアートの背中を見ると、焦げ付くような小さな怒りと共感性羞恥が浮かぶ。

 傲慢な自分を見ているみたいだ。

 イルは黙ってついて行った。

 

 暖炉の前、お決まりの席やその周辺はマルフォイたちがいない時は上級生が使っている。まずは監督生、スリザリンの中でも一定の尊敬を集めるクィディッチチームの選手たち、家柄の高い子息子女。でもそんな彼らもスチュアートを見ると、「ここ使う?」と席をあける。

「ありがとう。そこの横の席を使わせていただくわ」

「ああ。どけよ、デリック」

「分かってるよ!」

「ごめんなさいね、デリック」

「いいんだ。……今日は珍しい人と一緒なんだな」

「スリザリンの勝利のためなのよ」

 デリックとペワリントンが肩を竦めてフリントたちの方に去った。杖をひと振りして小さなテーブルを目の前に運んだスチュアートは、いつも近くに侍っているレイジーに2人分の紅茶を淹れるように伝えた。

 どうやらもてなされるらしい。

 冷たく澄ましていたイルだが、何を言われるのか指先をすり合わせる。

 

 暖炉前のソファは、上位者の専用席になっているだけあって寝室にあるものとは比べ物にならないほど座り心地が滑らかでふわふわとしていた。この場所に座れる日が来るとは思わなかった。

 運ばれてきた紅茶をスチュアートが一口飲んで、視線で促されるままにイルも一口いただく。レイジーはこの1年でメイドの仕事が随分上達した。

 鼻の中を抜ける香りがかぐわしい。

「時間を取ってもらってありがとう。今日の勉強会だけど、変身術と魔法史のレポートをする時間にしようと思っているの」

「レポートは個人の進み具合やタイミングがあるんじゃないかしら?」

「ええ、そうなんだけどね。テーマは共通だから必要な資料や知識を手助けしやすいかと思って」

「そう」

 素っ気なく答えた。イルは課題は自分でやりたいけれど、復習を兼ねようとするのも別に有りなのではないかと思う。

「それで?わたしに何をして欲しいの?」

 単刀直入に聞くとスチュアートが上品に吹き出した。

「あなたは回りくどいのが嫌いなタイプなのね。いいわ。テローゼ、あなたにはみんなのレポートを見回って、気にかけてあげて欲しいの」

「……気にかける?」

「ええ」

 目を閉じて、彼女は紅茶を啜った。勉強会は気にかけ合うものだと思っていたけれど、それとは別の意図があるんだろうか。

 スチュアートはイルに見て回って欲しいと言った。

 前回はみんな机について課題と向き合うだけで終わったけれど、それじゃあ集まる意味が無い。声を掛け合える環境にならなければ萎縮して終わりだ。

 思わず溜息が漏れる。

「そうね。嫌われ者のわたしに声をかけられて教えられたなら、反発心で声が上がりやすいかもね。談話室でお茶をしてるこの状況も、わたしを透明人間から脱させるための仕込みなのね?」

 にっこりとスチュアートは美しい微笑みを浮かべた。

 

 断ってやろうと思った。でも、怒りの中にも保身が過って、数瞬迷った。それを見抜いたようにスチュアートが畳み掛けた。

「もちろんあなたに負担をかける報酬は考えてるの。何を望んでも叶えるよう努力するつもりよ」

「あなたに望むことなんかないわよ」

「つれないわね。あなたをスリザリンとして認めるし、認めさせる。これは望みとは別に保証するわ」

「…………」

 どこまでも上ならの物言いだったけれど、その言葉はイルの胸にストレートに突き刺さった。心が揺れて、隠すように目を細めた。

 透明人間にしたのはスチュアートのくせに。

 悔しい……悔しい。もう誰の視界にも入らない生活をしなくてすむのかと思ったら、全身が安堵に包まれそうになる自分が悔しい。

「考えておいて。受けてくれるなら、今日の勉強会ではわたしの隣に座ってちょうだいね」

 

 



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23 サラザールの遺産

 2回目の勉強会は前回より格段に良くなった。テローゼはまず隣のシャルルに声をかけて、レポートのテーマと参考書籍について彼女と語り合い、クラスにそれを意図的に見せつけた。

 その後、シャルルとテローゼはそれぞれ生徒の間を歩き回った。テローゼが話しかけて気分を害した生徒のフォローをしたり、間に割って入り、シャルルが空気を緩める。

 ピリピリと少し緊張した雰囲気は無くならなかったけれど、たとえそれが口論やテローゼへの罵倒であっても前進したことはたしかだ。

 

 マルフォイと「まあ、前よりはマシになったな」「大躍進よ!わたしの作戦勝ちよ!」と笑顔を交わし合う。

「テローゼは君が?」

「ええ。わたし達相手じゃ他の子が萎縮しすぎてしまうみたいだから」

「君が突然あいつとティータイムを始めた時は正気を疑ったけど、結果的には上手く転んだみたいだ。強引すぎる手だとは思うけど」

「手っ取り早く進めてしまいたかったの。わたし達は交流を怠りすぎたのよ」

 

 教室を出て行こうとするテローゼを呼び止めると、マルフォイを見て嫌そうな顔をしながら近付いてきた。

「ありがとう、助かったわ」

「別に」

 生意気な態度も機嫌の良いシャルルは気にならなかったけれど、マルフォイが眉をひそめた。それを「いいのよ」と制して花が咲くような笑顔を向ける。

「今日からあなたは蛇の身内よ」

 そう言うと、マルフォイは目を剥いて、テローゼは一瞬泣きそうな顔をした。シャルルを睨んで去っていく背中を見送りながら、想定より彼女は使い道があるかもしれないと思った。籠絡の余地もありそうだ。

 

 マルフォイがシャルルの肩をガシッと掴んだ。

「スチュアート!何を考えてるんだ!?あいつは……」

「分かってるわ。あくまでも彼女は緑のローブを纏う蛇というだけよ」

「充分線を超えてるだろう!?一体何だって言うんだ?博愛精神があいつにまで及んでるだなんて言い出すわけじゃないよな?」

「まさか」鼻で笑ったシャルルは、しかし迷うように視線を落とした。前よりもスリザリンの仲間に対して身内意識と興味が出てきたことは自覚している。

「でも、年度末のせいで、相手がテローゼであっても協力し合わなければと思うようにはなったわ。そうしないとダンブルドアからの搾取に対抗出来ない」

「まあ、それは確かにな……」

 

 初めて受けた痛烈な屈辱はとてもじゃないけれど忘れられない。たぶん、一生忘れられないと思う。

 シャルルにとってあれは、ただスリザリンの勝利がひっくり返された、だけの問題ではなかった。どうしてこんなに胸が痛むのか、苦しいのか、踏み躙られた気がするのか、憎悪が煽られるのか。休み中シャルルはずっと向き合って考えていた。

 そして分かった。

 ダンブルドアのあの仕打ちは、シャルルの願いそのものを嘲笑う行為だったからだ。

 7年のスリザリンの努力を老人の意思一つで反故にする身勝手さ。それをいかにも正当な評価だとでも言わんばかりの白々しさ。欲望を薄っぺらい正義で包んでいるだけのくせに。

 寮の垣根を超えた友情を築こうとし、事実築いてきたシャルルの願いをダンブルドア自身にぐちゃぐちゃに踏み荒らされた気がした。他の寮のあからさまな歓喜にも、認めたくないけれど、シャルルは酷く傷付いた。今までの友情が全部嘘だったような気がした。

 自分のしてきたことが、スリザリンの7年が、ホグワーツ全体の努力が、すべて無に帰し、塵のように扱われたあの年度末のパフォーマンス。

 それでもシャルルは諦めないし、あの邪悪な老人には決して屈しない。跳ね返すだけの結果を出すために、スリザリンの団結は必要で、だから今まで視界にすら入れないようにしてきた人間も認めようとシャルルは努力している。

 

 シャルルはまだ気づいていなかった。

 それが、自分の思想と矛盾し始めていることに。

 

*

 

 肌寒い日が続いている。シャルルは温度調節呪文のかかっている、新調したローブを着ているからそれほど寒さは身に堪えないけれど、トレイシーはこのところコンコン水っぽい咳をしている。

「大丈夫?風邪引いたんじゃない?」

「わたしに移さないでよ?ドラコの応援があるし、明日の午後にはドレアノ達とのお茶会もあるんだから」

「うん、今日医務室に言ってみる」

 パンジーの素っ気ない言い方にヘラッと笑い、また咳をした。シャルルが柔らかい声を出す。「それがいいわ。少し鼻声気味の気がするもの」

 

 お昼を食べた後、トレイシーに付き添って医務室に向かった。去年、ネビルの魔法薬を被り肌が爛れて担ぎ込まれて以来、医務室にはお世話になっていないので久しぶりだった。

「また体調を崩す子が来たのね。さあこれを飲んで、すぐに良くなるわ。それから服を着込んでお腹を冷やさないようにして、スコージファイ……いえ、まだ1年生だものね。手洗いとうがいをしっかりね」

「はい、マダム」

「ありがとうございます」

 ふたりはニッコリ笑っていい子のお返事をした。それがたとえ校医だろうが、自分を評価する権限を持つ目上の人間に対して反射的に礼儀正しく振る舞うことは至極当然の仕草として身に付いている。

 他にも数人の生徒がいてマダム・ポンフリーは忙しそうだった。

 

 ポンフリーが他の生徒の面倒を見に行くと、渡されたゴブレットをウンザリした顔で眺め、トレイシーが不平を零した。元気爆発薬だ。体調が劇的に良くなる代わりに、ティーンの女の子には喜ばしくはない副作用が出る。「出来ればこれは飲みたくなかったわ……」

 ため息をつき、諦めて一気に飲み下す。

 途端に彼女の髪の毛の間からからシューシューと煙が立ち込めて、羞恥で顔を赤らめた。

「ああシャルル、あんまり見ないで……。こんな姿で人前に出られないよ」

「落ち着くまでここで休んでましょう。マダムは有能だもの、時間はかからないはずよ」

「うん。そうするわ……煙が治まらなかったら午後の授業は休もうかなぁ。教授たちに上手く伝えてもらってもいい?」

「ちゃんと、トレイシーは体調が悪くてとても出られそうもない、って言っておくね」

 悪戯っぽく笑う。間違っても、みっともない姿で出歩くのが恥ずかしいからサボるそうです、だなんてバカ正直に伝える真似はしない。それに女の子として気持ちは分かる。

 

「ねえ、シャルル……」

 雑談をしていると、トレイシーがフッと押し黙り、言いづらそうに名前を呼んだ。なにかに思案し、迷っている口調だ。シャルルは首を傾げて続きを促した。

「……あの生まれ損ないのこと、どうするつもりなの?」

「どう、って?」

「彼女と突然親しくしてるでしょ?……友達になるの?」

「友達?わたしが?」シャルルは冷笑した。

 そんなこと考えもしなかった。まさか穢れた血の混じる彼女と友達にだなんて。

「まさかそう見える?」

「てっきり、ある程度対等に扱うつもりになったのかと……」

 罰が悪そうにトレイシーが顔色を伺った。時流を読み、勝ち馬に乗りたいトレイシーとしては、シャルルがイル・テローゼをどういう存在に据えるのかは把握しておきたいところだったが、あまりにも急な態度の変化だったし、シャルルの思惑が読めなかった。

 愚直に尋ねることに躊躇いはあったが、今はまっすぐ聞いても悪感情を抱かれない程度にはシャルルの懐に入れていると思っているトレイシーは、ふたりきりのこの機会にシャルルの真意を知ろうとしたのだ。

 

 シャルルは困ったように苦笑いした。

「あの子と友達になるつもりは一切ないし、個人的な興味もないわ。でもスリザリンが寮杯を獲得するためには結束しなくちゃ。あの子は実力はあるわ。今までみたいに無視しているのは勿体無い。使えるものは使わなくちゃね」

「じゃあ、ただの道具?」

「やだ、そんな人を冷血人間みたいに……。スリザリンのために、スリザリンとして認める。それだけのことよ」

「ふうん。じゃあ成績のために最低限協力するのであれば、彼女に辛辣にしたり、認めなくてもかまわないってこと……だよね?」

「ええ。足を引っ張る行為は控えて欲しいけれど。対抗心は外に向けられるべきものだから」

「そっか。じゃあわたしもシャルルに合わせた対応を取るわね」

 トレイシーはしばし黙考し、納得したのか頷いた。これでスリザリンとして認めさせるという意図はまずクリアしただろう。シャルルは内心で考えた。トレイシーは顔が広い。今はシャルル達と行動し、マルフォイ派と見られているが、以前はザビニとつるんでいたし、半純血のスリザリン生達ともいくらか交流しているようだ。

 テローゼを他の人がどう扱うかは、それぞれの問題であってシャルルは特に関与するつもりはない。

 同学年の自助努力の過程でテローゼを透明人間から、スリザリンの一員として扱わせることが出来れば、シャルルにとってもテローゼにとっても利益がある。

 そこから自分の立場を上げていくのはテローゼの努力次第だ。

 

「そろそろ行くわ。教授には伝えておくから、安心してゆっくり休んでね」

「ありがとう、シャルル」

 

 医務室を出ようとすると、廊下の方から騒がしい声が聞こえた。

 

「離してよパーシー!私は大丈夫だったら!」

「いいや、駄目だ。このところ毎日具合が悪いだろう。食事もあんなに少ししか食べられないなんて」

「少し疲れてるだけ。薬を飲むほどじゃないわ」

「疲れを甘く見たらいけないよ。環境が変わって、気付かないうちに精神に負荷がかかってるんだ。普段風邪も引かないほど活発なのにこんなにぐったりして、ママが知ったら心配するよ」

「まさか、ママに言うつもりなの?」

「いや、きっと大騒ぎするだろうからね。でもジニーが言うことを聞かないなら、手紙を送ることになる」

「分かったわよ、飲めばいいんでしょ!本当お節介なんだから!耳の穴からボワボワ煙出したい女の子なんかいると思ってるの?」

「僕はただ……心配なんだよ、ジニー。ウイルスも逃げ出すようなチャーリーや、図太さが人の形を取ってるような下の弟達とお前は違うんだから」

 

 グリフィンドールの監督生、パーシー・ウィーズリーに手を掴まれて、半ば引きずられるように歩いている赤毛の女の子が大きな声で不満を訴えている。

 口論の末、パーシー・ウィーズリーが勝利したようだ。女の子は拗ねた顔でぶすくれている。

 ジネブラ・ウィーズリー。ウィーズリー家の末っ子の女の子。彼女とは話してみたいと思っていた。

 

「こんにちは、パーシー」

 声を掛けると彼は初めてシャルルに気付いたようで、慌ててジニーの腕を離した。

「あー、こんにちは。少し恥ずかしいところを見られてしまったかな」

 威厳を醸そうとしているのか、コホン、と咳をする。

 彼とはウィーズリー家の兄弟たちの中で最も友好的な関係を築けている。友人と呼べるほどの仲ではないが、会えば挨拶や世間話を交わす間柄だ。

 ロナルド・ウィーズリーのように顔を見合せる度に噛み付いてきたりしないし、常に爆発しているように喧しくて寄り付く隙のない双子とは違い、落ち着いていて会話が通じる。

 勉学に意欲的で図書室でよく顔を見合わせていたのだ。たまに彼に勉学についての質問をすると、それはそれは嬉しそうに相手をしてくれるので、分かりやすいところが可愛くて御しやすそうな相手だった。

「仲がいいのね。妹さん?」

「ああ。新1年生のジニーだ。グリフィンドールに組み分けされて、僕も鼻が高いよ」

「そう。ウィーズリーは勇敢でまっすぐだもの、当然よね」

 

 スリザリンのシャルルと談笑する兄に戸惑いと驚きを浮かべ、警戒しながらジニーが見つめてきた。微笑んで弟のメロウに向けるような笑顔を作る。

「初めまして、シャルル・スチュアートよ。スリザリンの2年生なの。パーシーとは寮が違うけれど、図書室で勉強の話をしてから色々気にかけてもらってるのよ」

「……ジニー・ウィーズリーよ。その、よろしく……スチュアート」

「よろしくね。具合が悪いんですってね。ホグワーツは大きいし、毎日色々変化や発見があって疲れちゃったのね。引き止めてごめんなさい。またお話出来たら嬉しいわ、ジニー」

「ありがとう、長く話す時間を取れなくて申し訳ないね。また図書室で会おう」

「またね、パーシー」

 

 手を振って別れると、背中をジニーの視線が追いかけてくるのが分かった。

 グリフィンドールだし、あのウィーズリーの子供だから警戒はされて当然だけど、初対面はまずまず悪くない印象を持ってもらえただろう。

 パーシーと一緒の時でよかった。これが同級生のウィーズリーだったら、嫌味の応酬で最悪の出会いになってしまっていた。

 

 変身術の教室に行く途中、いつもの3人組の姿が見えた。

「こんにちは、ポッター、ウィーズリー」

 2人はシャルルを見て、うげっと顔を歪めた。

「さっき医務室であなたの妹を見たわ。後でお大事にって伝えておいてもらえるかしら?」

「はぁ!?僕の妹に手を出したら許さないぞ、スチュアート!」

「そんなまさか。妹想いなのね。でもあれだけ可愛い妹さんなら、甲斐甲斐しく守りたく思うのは当然かしら」

「うるさい!まったく、パーシーの奴に詳しく聞いてやらなくちゃ……」

 ぷりぷり怒って速足で教室に滑り込んだウィーズリーと、チラッと振り返ってその後ろをついて行くポッターとグレンジャー。

 火種をわたしから振ってみたとは言え、分かりやすすぎる反応ね。

 やっぱり初対面がパーシーで良かったと、シャルルはくすくす笑った。

 

*

 

 昼食を食べていると、至るところで悲鳴が上がり、小さな騒ぎが起こっていた。カラフルな煙が上がって、シャルルとパンジーは「何かしら?」と顔を見合せたが、その理由はすぐに分かった。

 

「ごきげんよう、スリザリンの諸君。ハッピーハロウィン!」

「そして──トリックオアトリート!」

 

 緑色の肌をした燃える赤毛の双子が口を合わせて突然そんなことを言った。ここはスリザリンのテーブルのはずだ。

 パンジーは反射的に噛み付く前に、呆気に取られてまばたきを繰り返し、ダフネはパンプキンジュースにむせ返った。

 シャルルはなんと返すべきか脳内で様々な言葉が浮かんで、いちばん最初に浮かんだ疑問が口から漏れ出した。

「あー、なんで……緑色なの?」

「これ?ハロウィンだからさ」

「ハロウィンに仮装はつきものだろ?なんでこんな面白いイベントをホグワーツじゃやんないのか不思議で仕方ないよ」

「そう……なの……」

「で、間抜けに固まってるとこ悪いけど、もう一度言おうか?」

「トリックオアトリート!」

「お菓子か悪戯か、どっちを選ぶ?」

「いきなり来てなんだって言うの、誰があんた達なんか……!」我に返って喚こうとしたパンジーを双子はサッと遮った。

「おっと選ばないなんて選択肢はないぜ。言っとくけど」

「こっちは悪戯の準備をたんまりしてるからな」

「脅迫するつもり?」ゴブレットを机に置いて、ダフネが腕を組んだ。双子は腕を組んで「まさか」と呆れたように笑った。

 

「なんでわざわざスリザリンに?」警戒を隠して慎重に問いかけたが、双子は竹を割ったようにカラッと明快だった。

「全部の寮の奴らに言ってるよ」

「ハロウィンは楽しまなくちゃ!だろ?」

 双子の片割れがウインクし、片割れがパッと笑った。悪意が本当にないのか、完璧に隠しているのか分かりかねたが、ここまで辛辣な視線に晒されても帰らないふたりはかなりしつこそうだ。3人はポケットの中を探った。

「お菓子は部屋に置いてきちゃったわ」ダフネが言うと、双子が視線を交わしてニヤニヤした。「それじゃあ仕方ない」「ああ、仕方ない」「僕達からトリートのプレゼントさ!」

 双子は素早くポケットから丸くて小さいものを取り出すと、杖をひと振りしてダフネの頭の上でパキッと割った。ピンク色の煙がボフンと彼女を包み込み、小さく悲鳴が聞こえる。

「ダフネ!」

 数秒して煙が晴れ、シャルルとパンジーは思わず歓声を上げた。「素敵!」「かわいいじゃない!」

「一体なんなの?」

 ふたりの反応に目をまたたかせてローブから手鏡を取り出して眺めると、ダフネの表情が困惑から驚きと小さな喜びに変化した。

 彼女の薄い金髪の編み込まれた三つ編みに、ピンク色の小さな花たちが点々と咲いて散らばっていた。ダフネのあどけない顔立ちと清楚な雰囲気も相まって、まるでフランスののどかな少女のようだった。

 

「あんた達、たまにはマトモな悪戯もするのね。わたし達までトロールみたいな格好させられるかと思ったじゃない」

「そっちの方がお望みかい?」

「冗談じゃないわ!」

「スリザリンは緑を常に着てるくせに、肌くらいで小さいな。で、君は?」

「お菓子はないわ」

「わたしも」

 双子が満足そうにパンジーとシャルルにボールを投げた。パンジーは紫、シャルルは水色の煙に包まれ、お互いを見て「きゃあっ」と手を取り合う。

 パンジーの頭にはカチューシャのように紫の大きな花が咲いていて、シャルルには水色に咲いたヘッドティカになっていた。

 

 喜ぶシャルル達を置いて、双子は「じゃ、良いハロウィンを!」とスリザリンテーブルの男子生徒の方に向かっていった。

「少し恥ずかしいけど、こんな悪戯なら素敵だわ」

「あんな奴らに振り回されるのは御免だけどね」

 ダフネがはにかみながら嬉しそうに言った。パンジーもグリフィンドールを認めるのは癪に思いつつも、3人でお揃いのオシャレをする悪戯は認める口ぶりだ。

 

 しばらくして男子生徒の悲鳴が上がった。緑色の煙が上がる。

 グラハム・モンタギューとマーカス・フリントの肌が、双子と同じ緑色になっていた。

 

 

 去年のハロウィーンは、トロール騒ぎがあって水が差されてしまったが、今年は素晴らしいものだった。

 盛大な飾り付け、美味しいハロウィンの晩餐、骸骨舞踏団の豪華な演奏に合わせてダンスを踊るのも最高に楽しかった。

 満足感に充ちて寮に向かって歩いていると、群衆が突然立ち止まって重苦しい沈黙が落ちた。

「どうしたのかしら」

 ダフネがシャルルに囁くと、三つ編みから咲いた花がふわふわと耳を擽る。双子に掛けられた可愛い悪戯はまだ頭の上に残っていた。

「おい、どけ!」

 マルフォイが生徒たちを押しのけて、「すごいぞ!」と上ずった声で叫んだ。シャルルも彼の後について、肩からひょっこり前を覗いた。

 

 いちばん始めに、吊り下げられた小さな何かが目に飛び込んできた。よく見るとそれは、フィルチの猫のミセス・ノリスだった。脚が伸び切り、目は見開いて、一切微動だにしない。完璧に硬直している。

 シャルルはヒュッと息を飲んで、口元を両手で覆った。生き物がこんな風に硬直する現象をひとつだけ知っている──。

 猫の前にハリー・ポッター、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニー・グレンジャーが立ち尽くしていて、その周りは水浸しだ。

 そして、廊下の隅の壁に、ぬらぬらと鈍く照るような赤い字でこう書かれていた。

 

『秘密の部屋は開かれたり

 継承者の敵よ、用心せよ』

 

*

 

 シャルルは食い入るように壁の文字に釘付けになった。何度も読み返し、雷が落ちたような興奮が頭から爪先まで駆け巡った。

 マルフォイが前に出て、静寂を破った。

「継承者の敵よ、用心せよ!次はお前たちの番だぞ、『穢れた血』め!」

 青白い頬を紅潮させ、唇を釣り上げて嘲笑う。

 

 やがてポッター達は駆けつけた校長やフィルチ達に連れて行かれ、残された生徒は監督生と他の教授に追い立てられるように寮に帰らされた。

 シャルルはずっと無言だった。

 全身が心臓になったみたいで、口を開いたら叫び出しそうだった。運動もしていないのに息が上がって、顔が熱い。

 

 談話室に入ると、シャルル達はいつものメンバーでいつもの暖炉前の席を占領した。スネイプの私室がある地下の廊下では必死に声を抑えていた生徒たちは、寮に入るなり口々に意見を交わし始めた。

「あの猫って、フィルチの猫よね?鬱陶しく生徒を監視してる……」

「そうね。ミセス・ノリスのあの様子……あれって……」

「どう見ても……死んでいた。そして次はあいつらがああなるんだ」

 酷く楽しそうにマルフォイが唇を歪めた。

「ドラコはあれが何か知ってるの?秘密の部屋だとか、継承者だとか」

「ああ」仲間の会話を聞くたび、うずうずしてたまらなかった。足を揺らして落ち着かない様子で、顔を赤らめているシャルルにマルフォイが「スチュアート?」と声をかけると、シャルルは飛び跳ねるように立ち上がった。

「秘密の部屋が開かれたの!開かれたのよ!」

「シャルル?」

「今、このホグワーツに、継承者がいて、秘密の部屋が開いた!わたし達は今伝説に立ち合ってるの!こんなことがあるなんて!」

 シャルルは興奮してフウフウ口呼吸をした。

 ダフネとパンジーとトレイシーが呆気に取られてシャルルを見つめている。

「こんなスチュアート、初めて見た」とマルフォイが呟き、セオドールが「無理もない。シャルルはずっと創設者好きを公言していたからな。特にサラザール・スリザリンを」と繋いだ。

 

「創設者?サラザールに関係があるの?」

「トレイシー!知らないの?ダフネもパンジーも?」

 シャルルは愕然として、唇を舐め、口を開いた。

 

「創設者4人はホグワーツを建てたけれど、意見の相違でついにサラザールはゴドリックと絶縁し、ホグワーツを去った。1000年以上も前のことよ。でもサラザールはホグワーツに遺産を遺した。それが『秘密の部屋』。部屋の中にはサラザールに忠実な怪物がいて、真の継承者が部屋を解き放ち、サラザールの遺志を継ぐ──。

 言い伝えられている伝説は知ってたけど、ああ、まさか本当にサラザール様の遺産があったなんて!歴史の分岐点を観測出来るなんて!本当に夢みたい!夢なのかしら?」

 

 早口で捲し立てながら、シャルルは涙ぐんでソファの周りを落ち着かなくウロウロした。おもむろにセオドールの肩を掴んでぐいと顔を近付けた。

「ねえ、わたしの顔を叩いてちょうだい」

「はぁ?」狼狽えて仰け反ると、シャルルがますます顔を近付けた。「落ち着けよ、シャルル」

「落ち着いていられないわ!叩くか、つねるかして夢じゃないって確かめさせて」

「自分でやればいいだろ」

「自分では違うの!マルフォイでもいいわ!」

 シャルルのきらきら潤んだ瞳が目の前に近づいて、マルフォイは咄嗟に赤くなった。

「つ、つねればいいのか?」

「ええ!ぐいーって、やって!」

 ため息をついて、恐る恐るシャルルのまろい頬に指先を添わせる。躊躇いながらゆっくりつまむけれど、「ぜんぜん痛くないわ」と抗議の声が入り、マルフォイは視線を必死に逸らしながら手に力を込めた。

「いたっ」

「す、すまない」

 緊張から力加減を間違ってしまい、思いのほか強くつねってしまった。慌てて手を離し謝罪したが、シャルルは嬉しそうに「夢じゃないんだわ!伝説は本当だったのよ!」と浮かれた様子ではしゃいでいる。つねられた頬がほんのりと赤くなっていた。

 

 フウフウ言っているシャルルの腕を引っ張って、ダフネが無理やりソファの隣に捩じ込んだ。

「あなた興奮しすぎよ。可愛いけど、少し驚いたわ」

「だって……」

 背中をさすられながらからかわれ、ようやく落ち着いてきたのか、恥ずかしそうに肩を竦めてはにかんだ。「サラザール様の生きていた残滓が見えて、少しはしゃぎすぎちゃった」照れた顔はダフネの目から見ても殺人的に可愛く、なおかつ、シャルルがここまで興奮したり照れたりするのは非常に稀なので、マルフォイが彼女を熱の篭った視線で見るのも当然だとダフネは思った。

 

「それにしても……」パンジーがマルフォイを見つめた。「ドラコもノットも落ち着いてるわね。お父様から聞いていたの?」

「いいや」マルフォイは杖を弄びながら首を傾けた。「何も?」

 つまらなそうな言い方はむしろ、わざとらしい含みが感じられて、シャルルは前のめりになった。

「何か知ってるのね!?セオドールも!?」

「僕は知らない」

 自分まで巻き込まれてはたまらないというように、彼は素早く否定した。加えて、「父上に梟を送ってみる」と付け足して、シャルルの興味を先んじて削いでおく。付き合いが2年目になり、だんだんと彼女の扱い方がセオドールにも分かってきた。

 

「誰が継承者なのかしら。当然純血で、おそらくスリザリン生だと思うのだけど」

 悩ましげな吐息を零し、暖炉のパチパチと爆ぜる炎を眺める。

「もしかして、ドラコが継承者なの?」

 パンジーは期待に満ちた視線でうっとりマルフォイに熱視線を浴びせるが、彼は今度は本当に残念そうに首を振って、「いいや、僕ではないし、心当たりもない。もし知っていたら粛清の手助けをするのに」と焦れったそうに言った。

「継承者って何をもって継承者なのかな。スリザリンの直系の家系って、もう途絶えてると思ってた」

 トレイシーはシャルルの顔を見た。創設者フリークで、ロウェナ・レイブンクローの直系の血を引いている彼女なら何か知っているかもしれない。

「聖28一族のゴーント家ね。かの家はずっと歴史の勝者だったけれど、数百年前から徐々に没落して今はもう何の足取りも残っていないの。途中から表舞台から姿を消してしまって、だからきっともう断絶してしまったのね」

 

 ゴーント家は(おそらく)途絶え、ブラック家は犯罪一家に成り下がり、プルウェット家は例のあの人に虐殺され、ポッター家もスチュアート家もマグルの血が混ざった。ブルストロード家もミリセントが家系図に戻され、彼女が家を継ぐなら直系は純血でなくなってしまう。

 魔法界を牽引してきた先人たちが遺してくれた、貴重な文化と血統という遺産がどんどん喪われていくのが、シャルルにはどうしようもなく虚しくて口惜しい。

 

「スリザリンの血が1000年前から傍系に広がっている以上、継承者を特定するには情報が足りなさすぎる」

 セオドールが静かに言った。

「そうよね。今はこれからの動向を見守るしかないわね」

 本当はすぐにでも会って、手伝えることがあるなら手伝い、色々と議論を交わしたいけれど、シャルルは諦めて肩を落とした。

 そしてマルフォイの横顔を盗み見た。

 彼のツンと上向いた鼻とシャープな輪郭の、美しい横顔を眺め、心の中で、いずれ彼が知っている何らかの情報を聞き出さなくちゃと思った。

 

 



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24 ひどく手触りのいい慈愛

 

 昨夜話していた時は、友人たちの誰もが継承者はスリザリンの誰かであることを前提に議論していたが、次の日からジワジワと広がっていったのは、「スリザリンの継承者はハリー・ポッターである」というものだった。

 

 噂に敏いパンジーやトレイシーからそれを聞いた時、シャルルは鼻で笑いそうになった。

 ポッターがスリザリンの継承者?

 例のあの人をその身ひとつで打ち破り、闇の時代に希望を齎した英雄が?

 マグルの中で育ち、『血を裏切る者』と『穢れた血』の親友を持つハリー・ポッターが?

 

 少し考えただけでその噂に対するいくつもの反論の根拠が挙げられるのに、何故か一定の信憑性を持つものとしてその噂はホグワーツに蔓延していた。

 

 時折、周囲の子がとても愚かに思える。何故か現場に誰よりも早く到着していたあの3人には確かに疑わしい部分が介入する余地があるけれど、それだけで見たままを事実として捉えてしまうのは浅慮だ。

 

 シャルルは秘密の部屋が開かれてから、サラザール・スリザリンや創設者やホグワーツの歴史、魔法省の設立の歴史についてあらゆる書物を読み返していたが、新しい情報を得ることは出来なかった。

 しかし、既存の情報に描かれている事実から推察されるのは、スリザリンは純血主義であり、マグルに非常に強い警戒と敵対心を持ち、同胞を心から友として愛し、類稀なる実力を誇った。間違ってもポッターのような男の子がスリザリンの継承者に相応しいとは思えない。

 

 スリザリン生は多くが馬鹿馬鹿しいと取り合わなかったが、マルフォイは苛ついていた。「あの無能が『継承者』だって?少し顔に傷があるからって、なんでもかんでもポッター、ポッター、ポッター!ウンザリするね!」

 

 しかし、その噂もすぐに他の話題にかっさらわれた。

 今週の土曜日はスリザリン対グリフィンドールのクィディッチの初試合がある。今年度の初戦を飾る重要な試合だった。

 去年ハリー・ポッターのせいで敗北を喫したスリザリンは連日リベンジに燃え、マルフォイは毎日上級生からも同級生からもプレッシャーと期待をかけられている。

 夕食を急いでかきこんでピッチに揃って駆けていくのはどの寮も同じで、授業終わりと夕食までのほんの数時間の自由時間の合間に、マルフォイは授業の予習復習と課題を終わらせ、クラッブの話では深夜も教科書を開いている日があるという話だ。シャルルが開いた勉強会はかなり彼の役に立った。試合までの間、教師役は休んでもらい、重点的に課題をこなすことを優先させ、セオドールやシャルルが隣に座って出来る限り協力していた。

 毎日ハードなスケジュールをこなし、マルフォイの血の気の薄い肌はさらに青ざめ、瞳の下にはうっすらと隈が出来ていたが、マルフォイは決してクィディッチの練習についての愚痴は言わなかった。

 

「ドラコ、あんな腐れポッターなんて箒で叩きのめしてやってちょうだいね」

「当然だよ。ポッター程度の才能なんかスリザリンには掃いて捨てるほどいるって、この僕が直々に教えてやる」

「それにこっちにはルシウス氏からいただいたニンバス2001がある!彼には頭が上がらないぜ。ドラコ、よくよくお礼をお伝えしてくれよ」

「ああ、フリント。試合は都合がつかなくて見に来られないけど、スリザリンの勝利を応援するって父上も仰っていた」

「それならますます練習に熱を入れなくちゃな!」

 クィディッチチームのキャプテンであるフリントが、自分の腕をパシッと叩いてやる気に満ちた笑い声を上げた。マルフォイは話題の中心になって得意気に話し、パンジーはいつものようにうっとりと猫なで声を上げてマルフォイの片腕にひっついて幸せそうだ。

 

 自信満々そうな態度を常に崩さないマルフォイだったが、試合の朝はさすがに緊張しているのか、朝食の手が全く進んでいなかった。

 パンジーは彼の後ろ姿を見つけると素早く定位置に座った。つまりマルフォイの隣だ。シャルルはいつもはパンジーの隣に座るけれど、激励をした方がいいかと思い反対側の空いている席に座った。

「おはよう、マルフォイ。あまり食べてないわね」

「ああ……。お腹が空いていないんだ」

「駄目よ食べないと、たくさん動くんだから。このローストなんか美味しそうよ。ミートパイと、あ、野菜も食べないと体に良くないわよね」

 甲斐甲斐しく大皿からあれもこれも取って目の前に並べていくパンジーにマルフォイが頬を引き攣らせた。

「もういい、パーキンソン、もう十分だ」

「あら、そう?デザートもあるわ」

「もういい!」

 

 マルフォイは息を吐いて視線を逸らした。ボールが優雅にスコッチエッグを口に運び、デレックとブレッチリーが口喧嘩しながらマフィンサンドを大口で頬張っている。

 また重たいため息をついた。

 彼は目の前のローストを陰鬱に眺め、重たそうにフォークを掴んでよろよろと小さく切り分けた。

「そんなに不安に思わなくても大丈夫よ。ミスター・マルフォイのお陰でスリザリンはグリフィンドールに大きくリードしているし、今までチームに貢献してきたヒッグスもあなたをシーカーだと認めたのよ」

「分かってる。僕は不安になんて思ってない」

 柔らかく言った励ましに、マルフォイは憮然とした声で返した。シャルルは彼の背中を軽くぽんぽんと友好的に叩いてオムレツとソーセージ、スコーンを食べ始めた。

 

 グリフィンドールの選手団が入って来て、遅れて他の生徒も彼らを取り囲み食事を始めた。賑やかで、喋っていないと死ぬのかと思うような彼らだが、さすがに今日のテーブルは静かだ。

 選手団の中心にポッターがいた。

 入れ代わり立ち代わり声を掛けられ、小さく頷いている。プレッシャーをかけられるのは彼も同じだけれど、ポッターはグレンジャーに勧められたローストをかきこむように食べ始めた。

 マルフォイはそれを横目で睨み、舌打ちをして急に目に力が宿った。彼にしては珍しくガツガツとローストを食べるのを見て、パンジーが安心したように微笑む。

 

 マルフォイ達を見送ると、パンジーも猛然と準備を始めた。寮に戻ってメイクを施し、上級生と作った応援旗のタペストリーの他、個人的に作ったマルフォイの旗をローブに突っ込んだ。

 シャルルは去年のようにジェミニオの呪文で、パンジーの顔から自分の顔へメイクを複製すると、ターニャ・レイジーの頬にも写してやった。

 カーテンが閉まっているベッドを見て、シャルルは声を掛けた。

「テローゼ、あなたは試合に行かないの?」

 しばらくして、硬い声がする。「行かないわ」

 シャルルは杖を振ってカーテンを開いた。驚きを浮かべテローゼが「何するの!?」と怒鳴った。

「あなたが嫌われていても、クィディッチの試合は輪の中に入れる少ない機会よ。来た方がいいわ」

「余計なお世話よ、スチュアート」

「ジェミニオ」かまわず呪文を唱える。「来るかどうかはあなたが決めることだけど、メイクは一応して行くわね」

 彼女は呆気に取られ、何かを言い返そうとしていたが、シャルルは無視して立ち上がった。振り返ると凄い目でテローゼを睨んでいるレイジーが視界に入った。シャルルが見るとパッと憎しみと妬みの籠った陰鬱な雰囲気は霧散し、いつも通りのヘラヘラした媚びた笑顔を浮かべる。

 レイジーとテローゼの顔に数度視線を走らせ、シャルルは口元をにんまりと歪めた。

 なるほど、なるほど……。

 気付かなかった。レイジーとテローゼの仲が悪いことは知っていたが、レイジーがテローゼにこれほどまで警戒心と劣等感を募らせていたなんて。

「行きましょう、レイジー。今日の試合はわたしの隣に座ってもいいわ」

「えっ?でも……」レイジーはパチパチとまばたきした。「いいのよ、パンジーはどうせ出来るだけ前に押し掛けるんだから」

「は、はい。ありがとうございます、スチュアートさん」

 レイジーの顔にゆっくりと赤みが差すのを見てシャルルは唇を歪めずにはいられなかった。

 彼女のことを特にこれまで考えることは無かったが、レイジーには使い途がありそうな気がした。

 

 

 ピッチに選手団が入ってくると、地面が揺れるほどの歓声が降った。全寮の生徒がいたが、8割以上がグリフィンドールを応援していてウンザリする。

 パンジーは予想通り、上級生を押しのけて最前線でマルフォイの名前を必死に叫んでいる。

 ダフネも前の方にいて、シャルルとレイジーとセオドールは後ろの方で上から冷静に見下ろしている。

 試合が始まる前、マルフォイはポッターの周りをうろちょろと挑発するように飛び回り、ブラッジャーが2人を掠めた。

 キャプテンのフリントが指示を出し、ワリントンとモンタギューが高速パスをして点を先取すると、周囲からドッと歓声が上がった。レイジーも小さく手を叩いている。彼女は珍しく素直に喜びを浮かべていた。シャルルも「ナイシュー!ワリントン!」と歓声を送った。

 スリザリンリードに試合展開が進み、キーパーのブレッチリーも加わった攻撃陣形でどんどん点をとっていくが、だんだん生徒がざわめき始めた。

 スリザリンは強いが、グリフィンドールもいつも優勝争いをしている強豪だ。

 チェイサーの人数が足りないし、いつもならクアッフルを持っているプレイヤーはもっと集中的にブラッジャーに攻撃される。

 グリフィンドールがタイムアウトを取った。雨が頬を叩いている。

 

「見たか?あのブラッジャー」

 隣に座るセオドールが不可解そうに呟いた。

「いいえ、ブラッジャーがどうしたの?」

「双子のビーターがずっとポッターに張り付いて守ってるのに関わらず、執拗に奴にだけ飛んでいくんだ。おかしな動きだった」

「ポッターに?」

 中央で相手チームのキャプテンとポッター達が何やら話している。

「また去年みたいに魔法でもかけられているのかもな。自然な動きじゃない」

「ポッターっていつも災難に見舞われるのね」

「トラブルを惹きつける性質でも備わってるのか?」

 

 ブラッジャーに誰かが細工したならそれはスリザリンの可能性が高い。箒と違い、ブラッジャーは意思のある魔法媒体ではないから、それなりに高度な呪文は必要だけれど闇の魔術は使われてはいないだろう。

「こんな公衆の面前で堂々と不正の証拠を使うなんて……。言い逃れる準備もきちんと整えているのかしら」

「どうだかな……。もし杖から痕跡がバレでもしたら、出場取消で済めば軽いくらいだぞ」

 

 雨足が強まる。ポッターから双子が離れた。空に飛び上がると、空中をジグザグと何かかから逃れるように、ポッターは不規則に飛び回った。そしてたしかにブラッジャーがあらゆる角度からポッターに襲いかかっていた。

 まるで間抜けなダンスのようで、ポッターのざまにスリザリンから嘲笑と野次が飛び交った。

 マルフォイは完全に飛ぶのを辞め、面白そうに眺めながら声を上げている。

 

 誰かが叫んだ。

「スニッチだ!」

 シャルルは目を凝らしてピッチを見つめた。マルフォイのすぐそばで金の光がチラチラ瞬いていた。

 マルフォイはポッターを嘲るのに夢中で気付いていない。

 

 ブラッジャーがポッターに突撃し、ポッターは下方へ滑り落ちるように飛んだ。スリザリンが沸き立つ。しかし、ポッターはまっすぐ目的を持ってマルフォイのほうに飛んでいた。

 マルフォイが空中で身を捩り逃げるように後ずさった。ポッターがフラフラしながら空を掻く。

 

 そしてそのまま、地面に激突し、転がり落ちた。

 

「ポッターです!ポッターがスニッチを掴みました!!!グリフィンドールの勝利です!!」

 解説の生徒が興奮したように叫んだ瞬間、爆発的な歓声が上がる。マルフォイは呆然とし、ピッチを見回して、ポッターを見下ろした。そして、徐々に屈辱と激怒の混じる顔に変化した。

 スリザリン席を落胆のため息が包み込んで、怒号と野次を飛んだ。グリフィンドールに向けられたものと……ドラコ・マルフォイに向けられたものだ。

 彼は悪夢を振り払うように頭を降って、天を仰いだ。

 スリザリンは負けたのだ。

 

 ピッチに降りたフリントがマルフォイの胸ぐらを掴み、何かしらを怒鳴り、突き飛ばした。そしてどつくようにしてマルフォイの背中を押して、選手団はピッチから去った。

 会場はまだ歓声に包まれていた。

 気を失っているように動かないポッターにロックハートが近付いて、呪文をかけたあと立ち上がらせた。ポッターは奇妙に半身を傾け、奇妙な腕になっていた。

 骨折だろうか?それにしては……腕が……柔らかい状態に見えた。

 

 スリザリンの談話室は混沌としていた。葬式のような陰鬱さが立ち込めている。難癖を付ける余地のない、完璧な敗北だった。スリザリンチームはニンバス2001という最新の箒を揃え、性能面で圧倒的に上回っていたし、得点もリードしていた。さらには幸運なことにブラッジャーが執拗にポッターを狙ってくれたおかげでスリザリンに有利な場が整えられていた。

 戦犯はやはり……。

 公にマルフォイを責める生徒はほぼいなかったが、冷たい視線や怒りの篭もった視線に針の筵にされ、彼は顔を青ざめさせて、いつもは流暢な口を噤んでいた。

 

「ドラコのせいじゃないわ」

 気遣わしげにパンジーが彼の背中を撫でた。ボソボソとした話し声で満ちた談話室に、パンジーの甲高いよく通る声は、やけに響いた。

「だって、ポッターがあんなにおかしな飛び方をしていたら、誰だってそっちに気を取られるわよ。そうでしょ?」

「僕達は集中して試合に臨んでいた」

 温厚なピュシーが静かに、しかし断固とした口調で言った。

「あの厄介な双子がポッターに張り付いて手間取っているのは最大のチャンスだった。その時間で僕達は奴らに80点リードしたんだ」

 ため息をつき、紅茶を飲み干すと、「すまない、今は少し……冷静じゃないんだ」とソファから立ち上がった。マルフォイは恥じ入って顔を赤く染めた。普段他者に寛容なピュシーがやりきれない怒りを抑えようとしていることが、ますますマルフォイは恥ずかしかった。

 

「僕も寝るよ」テレンス・ヒッグスも立ち上がる。「今日はお疲れ様。まだあと2試合ある。これからの試合で勝てるように努力しよう。レイブンクローは作戦は高度だが全員フィジカルに欠けるし、ハッフルパフはディゴリー以外屑だ」

 ヒッグスはマルフォイを一瞥もしなかった。

 

 他の選手も興醒めしたように部屋に戻り始めた。負けた試合でも、選手団を労り、相手のチームを扱き下ろす慰労会が開かれるが、もうそういう雰囲気ではなくなっていた。

「正直言って、お前には失望したぜ」

 忌々しげにフリントが言い捨てて、談話室は野次馬的な会話でいっぱいになった。

 

「気にしないで、ドラコ……あなたは充分頑張ったわ。初めての試合だったんだし……」

「ああ、その通りだ、マルフォイ」非常に珍しいセオドールの慰めにマルフォイは顔を上げたが、彼の目には冷たい嘲りが乗っていた。

「君の大好きなポッターは、初試合で伝説的な勝利を飾ったけどな」

「うるさい!マクゴナガルの贔屓でたまたま選手になったに過ぎない!」

「たまたま?」顔を赤くして睨んだマルフォイをセオドールは鼻で笑う。「たまたまで勝てるほど、ヒッグスは無能じゃない」

「お前は慢心してたんだ。こんなんじゃ他の試合も危ぶまれるよな」

 意地の悪い笑みを浮かべてザビニが残酷に言った。

「ノットもブレーズもなんなの!?傷心しているドラコをさらに追い詰めるような真似して!少しは支えようと思わないの!?」

「思わないわ」

 そう答えたのはダフネだった。

「競り負けたのなら、あるいは実力で負けたのなら誰も責めないわよ。自分の顔のすぐ横にあるスニッチに、ポッターに気を取られて気づかないなんてマヌケもいいとこじゃないの」

「ダフネ!」

 辛辣なダフネにマルフォイはショックを受けたような顔をしている。

 

 シャルルは何も言わなかった。自尊心の高いマルフォイなら、多少のことでは非を認めないし、粗を探して自分を正当化するのはスリザリン生の十八番だ。

 でも今回、彼は言い訳を口にしない。それどころか怒声を受け入れて縮こまっている。本人が一番自分を情けなく思っているんだろう。明らかに彼は憔悴している。これほど身内からの敵意に晒されたのは初めてに違いない。

 

 クィディッチは寮杯に響く重要な要素だから、シャルルも思うことがないわけではない。でも幸い点差はそこまで開いていなかったから、充分次の試合で取り戻せる範囲だし、あそこまで1人責められるのも可哀想だった。

 期待に応えるため毎日努力していたのも知っている。

 敵対的な視線の中、所在なさげに俯くマルフォイはまるで迷子の子供や、叱られた子犬のようで、なんだか見ていられなかった。端的に言って、シャルルは同情したのだ。

 

 だからシャルルは、ゆっくりマルフォイの傍に近づいた。

「スチュアート?」

 マルフォイは不安げな瞳で彼女を見上げる。シャルルにも刺々しく拒絶されるのかと揺れる瞳を、グッと一瞬瞑り、苦々しく諦めたように笑った。

 しかし、彼女はマルフォイの思いもよらない行動を取った。

 

「今日はお疲れ様。次の試合は本来の実力を発揮できるといいわね。本当は、あなたは才能ある選手なんだから」

 シャルルはそう言って、軽く彼の頭に手を回し、胸元に抱え込んだ。マルフォイの全身が固くなったのを感じる。数度彼の少し乱れた金髪を撫でて、「おやすみなさい」と呟いた。

 体を離したとき、彼の顔は見たこともないほど真っ赤になり、途方に暮れた表情になっていた。

 シャルルは微笑んで背を向けた。

 

*

 

 早朝に目が覚めたシャルルは欠伸をしながら身体を起こした。朝は寝起きが悪いが、それは起こされた場合であって、自分で目覚めたときはいつも頭はハッキリと冴えている。実家では寝たいだけ寝ていたから、誰かに起こされるのに慣れていないのだ。それもホグワーツ生活2年目でだいぶ改善されては来たけれど。

 2度寝しようにも出来そうもなかった。

 寝室は肌寒く、窓が結露で白く曇っていた。そろそろ冬の訪れが近づいている。

 シャルルはローブを羽織って、ネグリジェのまま忍び足で談話室に降りた。暖炉の火を浴びながら、闇の魔術の本でも読み込んでいようと思ったが、火に照らされて影が伸びているのを見つけた。

 

 早起きの生徒がいるらしい。

 別のソファに座ろうとして、その生徒がマルフォイであることに気付いた。

 マルフォイは膝の上に肘を置き、手のひらで顔を覆うようにして俯いていた。シャルルにはそれが泣いているように見えた。

「マルフォイ……?」

 咄嗟に声を掛けると弾けるようにして顔を上げる。

「なんだ、スチュアートか……。今日は随分と早いんだな」

「あなたこそ」

 彼の隣に座る。距離が近づくと、彼の目の下に隈が出来ていることに気付き、シャルルは眉を下げた。

「もしかして寝ていないの?」

「いや……。数時間は寝たよ」

「それは寝てないって言うのよ。……眠れなかったの?」

「……」

 沈黙が答えだった。よく見ると瞳も赤く充血している。

 泣いてたんだわ……。

 シャルルは何と声をかければ良いか迷い、そっと彼の手のひらに自分の手のひらを乗せた。

 去年もこんなことがあったことを思い出した。あれは夜のことだったし、マルフォイは怯えながら怒っていたけれど。

「なんだか、あの夜みたいだ」

 彼も同じことを考えていたらしく、苦笑を零した。僅かだけれど彼が笑顔を浮かべたことに安堵する。

「君には情けないところを見られてばかりな気がする」

「情けなくなんてないわ。マルフォイ、あなたはもう少し周りに頼ってもいいのよ」

「君には言われたくないよ」

「あら、わたしはちゃんと頼ってるわよ。勉強会の件も、あなたにはすごく助けられてる。自分を責める必要なんてないわ」

 シャルルはマルフォイの肩に頭を乗せた。

 マルフォイの肩が強ばり、ゆっくり力が抜けていった。

 シャルルにはその気持ちが分からないけれど、マルフォイは自信過剰な態度の裏に、思い詰めるところがあるように感じた。繊細で、ひとりで抱え込んでしまう男の子。無言で寄り添いながら、なんだか彼がすごく可愛い男の子に思えた。

 

「あんな負け方をして……スリザリンに泥を塗った。フリントやピュシーがあんなに怒るのを見たことがない」

 絞り出すような彼の声が震えている。

 シャルルは沈黙して、彼が吐き出すのをじっと聞いた。

「合わせる顔がない……。父上の期待も裏切って、なんてお叱りを受けるか……。君だって寮杯のために努力してきたんだ。台無しにした僕に呆れてるだろ?」

「いいえ」

 出来るだけ優しい声を出す。

「点なんてまた取ればいいのよ。あなたが努力したことはみんな知ってる。それに、何故負けたかもわかっているでしょう?」

「ああ……。クソ、あの時の僕は愚かだった」

「そうね。それを否定することは出来ない。でも次は改善することが出来る」

「次なんてただの言い訳だ」

「言い訳してでも前に進まなきゃ。そうでしょ?」

 身体を離すと、シャルルは俯くマルフォイの顔を上げさせて覗き込んだ。強い瞳にたじろぐ。シャルルの雪のような肌が暖炉の炎で橙色に照らされている。

「大丈夫よ。誰があなたを責めても味方はいる。クラッブやゴイルがそうだし、パンジーはもちろんあなたを支えるわ。そしてわたしもあなたの味方でいる」

「スチュアート……なんで……」

「なんで、って。あなたを大切な友人だと思っているからよ」

 マルフォイの顔が歪んだ。唇を噛む。シャルルは優しく彼をハグした。マルフォイの腕がゆっくり背中に回る。

 

「ありがとう。もう大丈夫だ、シャルル」

 熱が離れ、彼ははにかんだ。少し驚いたが、シャルルも笑顔を浮かべる。

「少しだけ元気になったみたいで良かったわ。……ドラコ」

「ああ」

 

 不思議な空気が流れた。

 シャルルは焦れったいような、気まずいような感覚がして、マルフォイ……いや、ドラコの頬に赤みが差しているのを見て何故かいたたまれなくなった。

 シャルルも似たような顔をしている気がする。

 全身がくすぐったかった。

 

「君の寛容さを甘く見ていたよ。今まで博愛精神やら、ボランティアやら言っていたが……。僕が受けてそれがどれほど温かくて広いものか分かった気がする」

「突然どうしたの?褒められて悪い気はしないけど……」

「情の深さに驚いているんだよ。君は他人を許せなくなったりしないのか?苛ついたり、責めたくなったり」

「もちろんあるわ。でも友人のことは出来るだけ許したいし、受け入れたいし、寄り添いたいの」

「僕には出来ない。純血というだけで寛容になれるのはすごいよ。特にウィーズリーなんか絶対に友人なんかにしたくない」

「ふふっ。あなたはそれでもいいのよ。それにわたしはウィーズリーに嫌われてるわ。でも彼は悪くないのよ。環境が悪いの」

「誰にでもいい顔をしていたらいずれ痛い目を見るぞ。あいつらに優しくしていいことなんてないんだからな」

「あら、調子が戻ってきたみたいねドラコ」

「おかげさまでね」

 

 フッとどちらともなく笑い声を上げた。

「もう寝た方がいいわ。少しだけでも」

「そうだな」

 寝室の分かれ道の階段まで彼に寄り添い、軽く手を振る。

「君は?」

「朝まで本を読むつもりよ」

「いつも本を読んでるな。恐れ入るよ」

 肩を竦めてドラコが唇をニヤッとした。顔に血色が戻っている。

「おやすみなさい、ドラコ」

「おやすみ、シャルル」

 

 



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25 All’s fair in love and war

 

 闇の魔術の本を読んでいたシャルルだったが、人が疎らに起きてきたために中断せざるを得なかった。

 黒い革表紙を閉じた時、頭の上から声がした。

「シャルル?もう起きてるのか?」

 振り返ると制服をきっちり着込み、首元までボタンを留めたセオドールがソファに手をかけてシャルルを見下ろしていた。

「おはよう、早いのね。いつもこの時間に起きてるの?」

「ああ。朝に予習してるんだ」

 彼は朝型らしい。シャルルは朝に弱いので、少し遅い時間まで起きて自主勉強に励んでいる。

 セオドールの後ろにアラン・トラヴァースとカイ・エントウィッスルがいた。この2人とはあまり話したことがない。トラヴァースはセオドールのように基本的にはひとりで行動しているし、エントウィッスルは半純血だからだ。

 

「あなた達が一緒にいるのは珍しいわね」

「朝食を食べたら図書室に行くつもりなんだ。シャルルも来るか?」

 セオドールに誘われて迷ったが、シャルルは首を振った。ハリー・ポッターのところへ行きたかったし、闇の魔術を実践するための環境を整えたかった。

「そうか」

「時間があったらお邪魔するわ。ずっと図書室にいるの?」

「おそらくは」

 

 エントウィッスルが掲示板を見て声を上げる。

「合言葉が変わるみたいだ。『ノブレス・オブリージュ』だってさ」

「その言葉は嫌いだな」トラヴァースが言った。「持たざる者が持つ者に依存するための言葉だ」

「たしかに」セオドールも同意する。

「僕達は与えることを強制されるべきではない」

 シャルルは嫌いではなかった。力を持つ者が義務を負うのは当然のことだし、恵まれた者が恵まれない者に協力すれば、より良い結果が生み出せると思う。

 少し気まずい気持ちになってシャルルは眉を下げた。

「トラヴァースは強制されることが嫌いなの?勉強会ではあなたの意思を問う前に決めてしまったから、その、怒ってるかしら?」

「怒っていないよ、スチュアート」

 茶色い瞳を細くして、トラヴァースは大人っぽく笑った。

「でも」彼は続ける。「一緒にやろうと言ってもらえれば、俺は喜んで協力したよ」

 困ったように優しく言うトラヴァースにシャルルは無性に恥ずかしくなった。彼は聖28一族だし、同世代よりもずっと大人っぽい雰囲気があり、たしなめられている気持ちになった。

「ええ、ごめんなさい。次は事前に話をするわ」

「ありがとう。勉強会自体はとても有意義で素晴らしいと思うよ」

 

*

 

 朝食を食べる前、シャルルは医務室に向かった。

 手土産に実家から定期的に送られてくるお菓子と、母のアナスタシアが育てて乾燥させたハーブティーの茶葉を1缶準備した。

 

 医務室は陽射しが降り注ぎ明るい雰囲気だった。どのベッドもカーテンが閉まっている。ポンフリーが不審そうな顔でやってきた。

「どうしたんです?体調が悪いの?」

「いいえ、先生。ポッターのお見舞いに来ました」

「ポッターの?」

 シャルルの緑のローブと手土産をジロジロ見て、仕方なさそうに頷いた。

「彼はもう退院できますよ」

 カーテンのひとつを開いて、ポッターに声を掛けると「医務室ではお静かに願いますよ」と言ってせかせかと去っていった。

 

「ごきげんよう、ポッター」

 彼は食事をしている最中だった。

「何しに来たんだ?スチュアート」

 睨んでくるポッターをスルーして、傍にあった椅子に座る。

「食事を続けて大丈夫よ。お土産を持ってきたの、クッキーとハーブティーよ。あなたが好むか分からなかったけど……でも味は保証するわ。良かったらお友達とどうぞ」

「どうも」彼はぶっきらぼうに言った。「ロンとハーマイオニーと飲むよ」

「グレンジャーにはローズマリーがいいと思うわ。眠気覚ましにも効くし、集中力を高めてくれるの。勉強する時役立つわよ」

 彼は目を丸くしてシャルルの顔をまじまじと見つめた。目を合わせて穏やかに微笑む。彼とこんなに目が合うのは初めてと言ってよかった。

 

「腕の調子はどう?」

 両腕とも包帯はしていなかったが、ポッターはフォークを持っていない方の腕をだらんと垂れさせていた。

「腕が折れてしまったわけではないの?」

 添え木がないのを見て尋ねると、困惑しつつ苦々しく答える。

「折れたよ。その後ロックハートがご親切にも腕の骨を抜いてくださったんだ」

「骨を抜く!?」

「ああ。もうみんな知ってるから、いくらでも笑い者にしたらいいよ。もう満足したかい?」

「怪我をしたあなたを笑ったりなんてしない。もう痛みはないの?」

「まあ……うん」

 ポッターはやりづらそうだった。シャルルとポッターがふたりで会話するのは初めてだった。いつも怒鳴って言い返すウィーズリーがいないと、ポッターはどう対応していいか分からないらしい。

 これはチャンスね。シャルルのほくそ笑んだ。

 

「ポッター、あなたがわたしを嫌いなのは、わたしがスリザリンだから?それともドラコの友人だから?」

 シャルルはわざと悲しくてたまらないという表情を作った。狙い通り彼はたじろいで、罰の悪そうな顔をした。

「でもわたしはあなた達に攻撃的に接したことはないと思うわ。他の寮にだって友人はいるのよ。それこそ、グリフィンドールにも」

「そうなの?」ポッターが食いついた。

「ええ。パーバティやラベンダーとはよくおしゃべりをするし、ネビルとも去年からずっと手紙のやり取りをしてるのよ。パーシーは図書室で勉強を教えてくれるの」

「…………」

 ポッターは困ったように考え込んだ。そして、視線を鋭くさせた。

「でも君はハーマイオニーを侮辱したじゃないか」

「侮辱?」

「ピッチで……」

「あれは、彼女がドラコのことをバカにしたからよ。彼はお金の力で選手になったわけじゃないもの!昨日の試合は、そう思われても仕方なかったかもしれないけど……」

 ポッターは勝利を思い出したのか、ニヤニヤと嬉しそうな顔をした。

「でも昨日はすごかったわ。ハリーのプレイにみんな目を見張ってたわよ」

「君は負けて悔しくないの?」

「悔しいけど、グリフィンドールの勝利は正当なものだもの。賞賛を送るべきよ」

「……ありがとう」

 ポッターがぶっきらぼうに言った。早く帰って欲しいという顔だった。シャルルの認識がどんどん変わっていくのに追いつかないのだ。

 

「そろそろ帰ることにするわ。ポッター、お大事にね」

「待って!」彼が身を乗り出してシャルルを引き止めた。

「君はどうして僕に親切にしようとするんだ?スリザリンなら純血主義なんだろ?ロンと違って、僕はマグルで育ってるし、母親はマグル生まれだ」

 ポッターは挑むようにシャルルを見つめた。見抜いてやろうという表情。

 シャルルは少し迷って、ポッターに伝えることにした。彼の信頼を得たかったし、友情を築きたかった。

 

「誰にも言わないで欲しいんだけど……、ウィーズリーとグレンジャーにもちゃんと口止めして欲しいんだけど、出来る?」

「ああ」

 好奇心に満ちた瞳でポッターが素早く頷く。

「本当に?絶対よ?特にスリザリンには知られたくないの」

「分かったよ」

 

 シャルルは瞳を伏せて、小さく息をついた。まあこれで広まってしまっても仕方がないと諦めるしかない。

 セオドールだけは味方でいてくれるはずだ……。

 

「わたしは闇の帝王が……好きじゃないの」

 囁くと、ポッターが驚愕を浮かべた。

「どうして?君はスリザリンで、純血主義者じゃないの?」

「純血は尊いものだと思ってるわ。でもそれはマグル生まれよりも血が優れているということではないの」

「どういう意味?」

「純血家系は昔から魔法界を支えてきて、繁栄させてきた。長い間家と魔法界を守るのはとてつもない努力が必要よ。わたしはそうしてきた先祖を尊敬しているの」

 ポッターは噛んだものを飲み込めないような、奇妙な顔をしている。

「残酷なことを聞くけど、あなたはあなたのお父さんやお母さんを尊敬している?」

「うん。みんな僕の父さんと母さんを褒めてくれるし、誇らしいよ」

 彼が気分を害した様子はなかったので、シャルルは安心した。

「それと同じことなのよ。わたしはわたしの父と母を尊敬しているし、大好きよ。そして父と母を育てた祖母や祖父も。そして家族を大切にして、歴史を繋いできたスチュアートの家を誇りに思う」

 シャルルは唇を舐めて、畳み掛けた。

 ポッターが冷静になって、「でも君はハーマイオニーを居ないもののように扱うじゃないか」と言われる前に。

 

「でも、闇の帝王は違うわ。自分に従わない者を許さなかった。魔法族もマグルも魔法生物も関係なく、全部を殺した。そこには信念がないように感じる……ただ、気に入らないから殺しただけだって。それで魔法界はめちゃくちゃになった。ウィーズリーは信じていないけど、お父様は死喰い人の誘いを蹴ったって言ってたの」

「君のパパが?」

「そうよ。お父様は誇り高いの。暴力にも、恐怖による支配にも屈しなかったの!だからわたしも、闇の帝王は好きじゃないわ」

 ポッターはシャルルを見つめた。

 戸惑った様子だったが、その中に感じ入った雰囲気があった。

「突然そんなこと言われても、信用は出来ない。でも……君を少し、誤解していたのかも……」

 それを聞いて、シャルルはとびっきりの笑顔を浮かべた。青いサファイアの瞳をうるうる細めて、パッと華やぐこの笑顔は、警戒心を持つ相手にもまっすぐ効果を発揮することを知っていた。

「いいのよ。ポッター、闇の帝王を倒してくれてありがとう」

 ポッターはシャルルを見て、ボーッとし、頬を赤く染めた。シャルルは勝利の高笑いを上げたくなった。

 

 

「お大事に、ポッター」

「うん……ありがとう」

 彼は来る時よりもずっと軟化した態度で、去り際には不器用に手も振ってくれた。シャルルはスキップでもしそうな足取りになった。

 

 ポッターに語った思想は、本心だ。

 ただし全てを明かした訳では無い。

 魔法界を繁栄させてきた純血家系が誇らしい。純血もマグル生まれもマグルも分別なく殺しまくった闇の帝王の行いは信念がないし、父親を誇らしく思うのも本当だ。

 でも、言っていないことがある。

 シャルルはマグルを心底嫌悪している。うじゃうじゃたむろっているのを見ると、虫みたいでおぞましいし、出来るだけ視界に入れたくない。

 それに、魔法族より劣っているくせに、魔法族が彼らに気を使って隠れ住んで、際限なく増えるマグルのせいで行動圏がどんどん狭まっているのも苛立ちを感じる。

 マグル生まれや半純血なんか興味もない。

 こんなことをハリー・ポッターに言ったら大顰蹙を買うことは確実だったので、シャルルは黙っていた。

 おそらくポッターはスリザリンに向いていないだろう。他人とのやり取りの裏に隠されたものや、欲や、目的を見抜く会話にあまりにも慣れていない。

 シャルルは何故か、マグル生まれには興味が無いだけで、嫌悪感はなかった。マグルには反射的に立つ鳥肌が、グレンジャーには立たない。その理由は分からなかったが、けれどだからといって、シャルルはやはり純血以外は尊重するつもりは1ミリもないので関係なかった。

 

 シャルルが愛する魔法界に、希望を齎したハリー・ポッターが好きだ。彼と関係が僅かに前進して、シャルルは嬉しかった。

 

 

*

 

「聞いた?グリフィンドールの穢れた血が石になったらしいわよ」

「聞いたわ。人間も石に出来るなんて、どんな魔法かしら」

 週明け、朝から校内はこの噂でいっぱいだった。スリザリンの生徒は悠々としたものだったが、他寮生は警戒し、怯え、1年生なんか常に纏まっておしくらまんじゅうして歩いていた。

 試合の後に石になったらしいと聞いたから、あのカーテンがしまったベッドの中に、石になった生徒が居たのかもしれない。

 

「いつもポッターをついて回っていたあのおべんちゃらクリービーだろ?秘密の部屋の怪物を見て死んだなら、あいつも大満足じゃないか?」

「好奇心の代償は死か。彼には軽いものなのかもしれないな」

 ドラコが残酷に笑って、セオドールが無関心に呟いた。

「死んでないわ。カチンコチンに固まったの」トレイシーが訂正すると「死ねばよかったのに」とドラコが言った。

 

「でもおかしいよな。ホグワーツにはもっと粛清を受けるにピッタリの生徒がいるのに」

 ザビニがニヤニヤしながら含んだように言う。

「誰だ?グレンジャーか?あいつは穢れた血のくせに生意気だからな」

「裏切り者のウィーズリーもふさわしいわね」

「もちろんポッターは言うまでもないね」

「いいや。スリザリンだよ。サラザールはこの寮にテローゼみたいな人間がいることを認めるはずがない」

 

 ザビニは首を回して談話室を見渡した。ちょうど、テローゼが階段から降りてきて、固い顔で談話室を通り過ぎようとしているところだった。

「そう思わないか?テローゼ!」

 彼女はきっと横目で睨み、ザビニを無視した。笑い声が上がる。

「穢れた血と生まれ損ないのハーフなんて、最も忌まわしいものね!ちょっと男の子に人気があるからって、いつも澄ましてお高く止まってるし……」

 男子生徒の間で、時折テローゼの話題が上がることをよく思っていないパンジーは、見せつけるように甲高く鼻にかかった声で笑った。

 

 テローゼはそのまま早足で立ち去ろうとしたが、ピタッと止まり、猛然とした顔で振り返った。

「スリザリンを選んだのはわたしじゃないわ。帽子がふさわしいと認めたのよ」

 眉を顰めてセオドールが返す。「あの帽子はグリフィンドールの私物だ」

「創設者四人分の思考が込められてるって『ホグワーツの歴史』にあったわ。サラザール・スリザリンの思考も、思想もね」

「でも継承者があなたを認めるとは思えないよね」

 ダフネが穏やかな声でテローゼを見返した。

 

 テローゼはシャルルの目をまっすぐ見た。

「継承者が誰かは知らないけど、スチュアートはわたしのことを身内だと言ったわよね?」

 周りから視線が刺さってシャルルは呻きたくなったが、素知らぬ顔で頷いた。

「ええ、あなたは寮杯獲得のために協力し合うべき、スリザリンの一員よ」

「シャルル!」

 信じられない!というふうにパンジーが金切り声を上げる。「どうかしてるんじゃないの?レイジーといい、ポッターといい、テローゼといい!」

「パンジー」

 シャルルはあやすような猫撫で声を出した。

「テローゼが言ったように、寮を決めたのは帽子よ。決まった以上、わたし達がどう思おうが、彼女は緑のローブを着て、緑のネクタイを締めて、わたし達の部屋で寝るの」

「でもわたし達が彼女を拒絶することは出来るわ!」

「ええ。あなたはそうしたらいいわ。でもわたしは、寮杯のためには彼女の頭脳は役立つと思った。彼女はスリザリンよ」

 そしてゆっくり唇を舐めた。「でも──わたしの友達じゃないわ」

 

 テローゼを顔を真っ赤にして俯き、顔を上げるとズカズカと怒りを浮かべて近付いてきた。

「スチュアート!あなたはわたしの望みをなんでも叶えると言ったわね!」

「ええ、言ったわ」

 ダフネが「何の話?本当なの?」と心配そうにシャルルの肩に触れた。

「勉強会を開催するにあたって、彼女の助力を得るために取引をしたの。それで、テローゼ。望みは決まったの?」

「決まったわ。あなたは、わたしの、友達になるのよ」

「……友達?」

「ええ!あなたの純血のお友達と同じように、わたしを友達として、対等に扱うことを望むわ!」

 シャルルは呆然として固まった。思考がショートしたように「友、達……?」と繰り返した。

 

「ふざけるんじゃないわよ!シャルルとあなたが?友達?本当になれるとでも思ったの?」

「決めるのはあなたじゃないわ、パーキンソン。スチュアート、出来ないの?」テローゼは嘲笑った。

「そのやかましい口を閉じろ。穢れた血め!」

「シャルル……何を約束したか知らないけど、シャルルが身を削らなくていいんだよ。寮杯はみんなで取り組むことなんだから」

「ダフネ……。そうね。テローゼ?」

「決まったの?」

「あなたは……わたしと友達になりたかったの?」

 シャルルの唇が嘲笑の形に歪んだ。

「そんなわけないじゃない。こう言えばあなたに打撃を与えられると思ったのよ。そしてそれは正しかった」

「打撃?」

「それで、スチュアート?答えは出たの?」

 じれったさそうにテローゼは答えを急かした。シャルルの答えは決まっている。

「それは出来ないわ、テローゼ。あなたは対等なんかじゃないもの」

「やっぱりね!」

 テローゼは、何故か嬉しそうに叫んだ。勝ち誇った表情だった。それが無性に癇に障り、シャルルは眉根を寄せる。

 

「あなたはわたし達に無関心なんじゃないわ、友達に優しいんじゃないわ。誰のことも見下してるのよ。いつも上から人を見ているから無関心ぶることが出来ているだけ。対等に取引?よく言えたものだわ」

 底意地の悪そうな笑顔の奥に、怒りがこもっていた。

「あなたがそう答えることは分かっていた。それに返す返事はこうよ。わたしは勉強会に参加しない」

「……」

「透明人間?けっこう、生まれ損ない?けっこうよ!わたしはもう授業の発言もしないし、なんの協力もしない。スリザリンなんて大嫌いよ!継承者が何?殺すなら殺してみればいいわ!

 わたしはあなたとの約束を果たしたわ。

 スチュアート、あなたが破ったのよ」

 

 テローゼはそう言い捨てて、肩を怒らせて談話室を去っていった。シャルルは半ば呆気に取られて、もう見えない彼女の背中を見ていた。

 

*

 

 返す返すも腹立たしい。

 しばらくシャルルはテローゼのことをふとした瞬間に思い出した。

 あの勝ち誇った顔!

 シャルルのことを知った口で語るのも気に入らなかった。

 

 最近シャルルはテローゼへの態度を軟化させていたが、次の日昔のように無視をすると、彼女はまたシャルルを見下して言った。

 

「あら、また透明人間?わたしがあの勉強会で槍玉にされることの対価として、スリザリンとして認めさせるって言ってきたのはあなたじゃなかった?

 口触りのいい言葉で他人を使い捨てるのが、あなたの思う誇り高さなの?それって、すごく素敵ね」

 

 彼女の言葉が正論過ぎたために、それを認めることが難しかった。なおさら沸騰しそうだった。

 シャルルは奥歯をギリギリ噛み締めて舌打ちを押し殺し、なんとか穏やかな微笑みを浮かべた。「おはよう、テローゼ」その笑みは引きつっているに違いなかった。

 テローゼはシャルルの挨拶を無視した。

 

*

 

「なんなのよあの態度は!」

 シャルルは教室に入るなり、教科書を机に叩きつけた。テローゼはまだ来ていない。このジワジワとした怒りを誰かに話したかった。

 パンジーがビクッとして驚いたように見つめ、前に座っていたセオドールが振り返った。

「ど、どうしたの?」

「テローゼよ!あの子なんなの!?わたしは充分譲歩したでしょ!?」

 興奮を抑えられず、怒りで震える彼女は初めてだった。ダンブルドアに感じた冷たい憎悪とは違い、頭に血が上ってずっとジクジク刺激してくる怒りだった。

 

 シャルルがテローゼにこんなにも心乱される時点で、シャルルは彼女を無視出来ていない。それが悔しいし、でも勝ち誇る顔が脳裏にチラついて、やり込めたくなる。

 マルフォイがポッターに絡む感情を初めて理解出来た。

 これはたしかに、無視しがたい感情だった。

 

「大丈夫か?」

「大丈夫に見える!?」シャルルは噛み付いたが、大きく深呼吸して、「いや、ああもう、本当にごめんなさいセオドール……他人に当たるなんて……」と謝罪した。

「もう大丈夫よ」

 自分に言い聞かせるような呟きだった。

「一体何があったんだ?」

 困惑と面白がるような響きを込めて、彼が尋ねた。

「テローゼと言い合いに……いえ、正論だったけど、見下されたの。それで少し……苛ついてしまって」

「なんて生意気なの!本当継承者に早く粛清されて欲しいわね。でもシャルル、あんな子今まで相手にしてなかったのにどうしたのよ」

「だって、寮杯のためなのよ。テローゼは実力はあるわ、それに一度した約束を破るのは、わたしの矜持が許さないし……」

「去年と随分変わったな。所詮寮杯なのに、シャルルが思想を曲げてまでテローゼに付き合う必要があるとは、僕にはとても思えない」

「……」

 シャルルはセオドールの顔を見つめた。「マーリンの髭……」間抜けな呟きが零れた。

 

「そうよ……わたしは元々は……ダンブルドアが……」

「ダンブルドア?」

 

 シャルルは寮に囚われず、血を重視した交友関係を築いていた。寮差別が愚かしいし、狭量だと思っていた。

 そしてその考え方をダンブルドアの行動が否定しているような気がして、寮杯に固執するようになった。

 それなのに、いつの間にか寮のために自分を曲げるという、本末転倒な思考になってしまったのか。

 シャルルは愕然とした。

 セオドールの言葉はシャルルの思想を知る者の言葉だった。

 

「そうよ!寮杯の獲得は大事だけど、わたしはわたしの思想を蔑ろにしちゃいけなかったんだわ。大事なことを間違えてしまうところだった……」

 突然顔を明るくさせたシャルルは、ポカンとしたセオドールの手を握り、「ありがとうセオドール」と上下に激しく振った。

 

 思想の範囲内でテローゼを動かすのが目下の課題だ。

 イル・テローゼはシャルルの友人たり得ないけれど、このまま終わらせるのはシャルルの敗北を意味する。

 彼女を協力的にさせ、彼女の自尊心を満たし、なおかつスリザリンの友人たちが納得し、シャルルが損を被らないように動かす……。

 困難な課題だが、シャルルの負けず嫌いがメラメラと燃えていた。

 

 




久しぶりの更新となってしまいすみません。


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26 青い鳥

 勉強会にイル・テローゼは参加しなくなったが、その分をシャルルが教え、穴を埋めようと躍起になった。始めの頃はぎこちなく、特に半純血の生徒たちはシャルルに話しかけられると反射的に肩を揺らしたが、まるで産まれたての赤ん坊に接するように至極丁寧に、優しく話し掛けてくるシャルルに、ゆっくりと慣れ始めているようだった。

 今まで、無機質な微笑みしか向けられたことの無い生徒たちは、いきなりシャルルがまるで優しい友人のようになったことにとても戸惑っていたが、話し掛けられた生徒は全員、嬉しさと照れと怯えが綯い交ぜになった複雑な感情を抱いていた。

 

 テローゼがいなくとも勉強会が軌道に乗り始めたことに、シャルルは胸を撫で下ろし、達成感を感じた。優越感も。

 しかし、ひとつの空席を見るたび、苦々しい気持ちが湧き上がる。

 たかがスリザリンの同級生すら掌握し切れない自分が情けなくて仕方がない。

 

 今まで無視していたかと思えば、突然優しくなり、今ではテローゼを燃えるような瞳で睨みつけるシャルルに振り回され、スリザリン生はテローゼを扱いあぐねている。

 シャルルの感情を敏感に察し、トレイシーが先陣を切ってテローゼを蔑み始めてからは、彼女はまたスリザリンで嫌われ者として存在感を増し始めていた。

 

 

「あら?」

 談話室で寛いでいると、去年の通りチェックリストが回ってきた。クリスマス休暇中在籍する生徒を確認するためのものだ。

 休み中は家族で団欒したり、親戚や知り合い同士でのパーティーに参加する生徒が多いスリザリン生は、毎年ほぼ誰も残らない。リストには上級生が何人かの名前しか書かれていなかったが、1番下に載っている見覚えのある名前に、シャルルは目を瞬かせた。

 暖炉の前に座っている彼の元に近寄って肩を叩くと、冷たい薄灰の瞳が怪訝そうに振り返る。

「どうした?シャルル」

 顔を上げたドラコの目元が和らぐ。ソファの前に立つと、彼が少し端に避けたのでシャルルは隣に座ってリストを見せた。

「クリスマスに残るなんて驚いたわ。パーティーがあるんじゃなくて?」

「そのことか」鼻に皺を寄せて嫌そうな声で答える。「休み中、僕の館に役人が来るらしい。例のお節介連中の抜き打ち調査だ。まったくウンザリするね」

「ああ、例の?」

 スチュアート家に来たことはないが、屋敷の調査を回避するためにどれだけ面倒な手回しがあるか、以前父のヨシュアが愚痴っていたのを耳にしたことがある。歴史が古い家なら、多少なりとも薄暗い品はあるものだ。

「父上は非常に貴重な物品を幾つも保管しているからね。準備が必要なんだ。物の価値の分からない下賎な連中にはイライラさせられるよ……」

「でも抜き打ち調査の準備だなんて、ミスター・マルフォイの人脈は流石ね」

 おかしそうにシャルルが笑う。ドラコは隠しようもない得意げな顔でニヤッとほくそ笑んだ。魔法省にはルシウス氏の味方が大勢いるから、不利な立場にならないよう上手く泳ぐことが出来るんだろう。素晴らしい外交力には感心するばかりだ。

 

「それに……」気を良くしたのか、ひそめるような声でドラコが囁いた。

 シャルルがそっと身体を寄せると一瞬動きを止めたが、滑らかに喋りだした。

「父上は継承者による粛清は必要なことだと仰っているからね。関わり合いになるなと言われたが、どうせなら特等席で見たいじゃあないか?」

 興奮がゆっくりと全身に広がって行くのを感じた。シャルルはサファイアの瞳を煌めかせて、鼻を高くしているドラコの顔をまじまじと見上げた。

「じゃあ、あなたはやっぱり……継承者を……?」

「いいや」ドラコはキッパリ言った。「誰かは知らない。だが、父上は何かをご存知なようなんだ。でもいくら手紙で尋ねても何も教えてくれないばかりか、毎回目立たずに、関わらないようにしろって締められてしまうんだけどね」

 至極つまらなさそうで、少し拗ねた様子の彼は本当に何も知らないようだ。シャルルは肩を落とした。やはり、スリザリン生の親はどこも過保護で秘密主義者のようだった。

 シャルルも父親に手紙を送ってはみたが、何も知らないと言われたし、危険なことに関わるんじゃないと強い口調の手紙を寄越されてしまった。

「ドラコが残るなら、わたしも今年は残ろうかしら」

「本当かい?」嬉しそうにドラコが身体を起こす。

「ええ、継承者や秘密の部屋についてホグワーツを調べてみたいし。家族には残念がられるでしょうけど……」

「どうせ君はパーティーには大して顔を出さないし、今年くらいいいんじゃないか?」

「そうね。楽しいクリスマスにしましょうね」

 ますます機嫌が良くなり、休み中の計画についてあれこれ考え始めた彼に、シャルルは少し甘えるような声を出した。男の子が好きそうな声だ。ブレーズ・ザビニが使うといいと指導してくれた、男の子を動かす声。

「ねえドラコ、もしミスター・マルフォイから新しく教えていただいたら、わたしにもきっと教えてくれるでしょう?」

「あ、ああ、もちろんだ」

「きっと?きっとね?」

「当然だよ。君ほどサラザールを尊敬している人はいないからな」

「ありがとう、とっても嬉しいわ、ドラコ」

 シャルルは溶けるように微笑んだ。本心からの笑顔だった。サラザールに繋がる欠片が少しでも見つかりそうでとても嬉しい。ドラコの頬がポッと染まるのをシャルルは見た。まるで自分がパンジーになったみたいだと、なんとなくシャルルはそう思った。

 

*

 

 家に帰らないことを伝えると、当然のように猛抗議の手紙が来た。ホグワーツは危険だから帰って来なさいと、いつになく威圧的なヨシュアの手紙に加え、泣き落としに近い母のアナスタシアからの心配する気持ちがふんだんに盛り込まれた手紙に、さらには追撃で弟のメロウが拙い文字で「お姉様に会いたい」と書かれた可愛い手紙まで来た。

 これには心がグラグラ揺れ、天秤がかなり拮抗したけれど、この猛反対の様子と尋常じゃない心配の仕方を見たら絶対に両親は何かを知っている気がした。アナスタシアはどうか分からないけれど、ヨシュアは絶対に何か知っている。絶対知っている。

 ここでみすみす引き下がるのはなんだか悔しいし、シャルルはもう屋敷の中で大切に隠されたままの子どもじゃない。

 返事は返さなかった。

 スリザリン生が秘密主義なのは性質だけれども、隠すなら隠していることを分からないくらい完璧にやり切ってもらわないと。気になって苛立ってしまうもの。少し罪悪感はあったが、反対されるほどにシャルルの心はかたくなになった。

 

 魔法薬学はスリザリン生がおそらく最も好きな授業だ。全ての科目でいちばん点が取りやすいし、天敵のグリフィンドールを嘲笑えるし、寮のすぐ側にあるから移動がラクチン。いいところしかない。

 たいていの寮生は授業開始10分前には席についている。

 机に教科書が置かれた。セオドールが隣に座り、真鍮の秤がゴトリと音を立てた。

「今日は膨れ薬を作るんだったか」

 独り言を呟くように彼が言った。彼は他人に話しかけているんだかいないんだか分からないように話すことが多い。シャルルはすっかりそれに慣れていた。

「期末試験に出そうな薬の候補よね」

「ああ、だから君と組めたらと思ってね」

 シャルルもセオドールも基本的には教室の前の方に座るのでペアを組むことが多い。パンジーはいつもドラコにくっついているし、シャルルは割と一人行動を好むのでペアは変動的だった。

 

 雑談を交わしていると生徒が揃い始める。授業態度の不真面目なドラコは、魔法薬学だけは教卓の目の前に座り、ひとときも離れたくないといった様子のパンジーがピッタリ隙間を埋めてドラコの隣に寄り添っている。その後ろにクラッブとゴイルがボディーガードみたいに座った。

 

 スネイプが煙の中を目を光らせて歩き回り、生徒に嫌味を飛ばす。ドラコはせっせとフグの目とか、切り刻んだネズミの内蔵とかをポッター達の鍋に飛ばしてはせせら笑う活動で忙しそうだ。スネイプは都合よくその場面だけ目が見えなくなる。

 セオドールが呆れて目を回して見せた。「くだらない」

「まったくね」

 シャルルも呆れ笑いを零した。テローゼの件で気に食わない人間に対してムカムカする気持ちが多少分かったつもりだったけれど、ドラコの執着心は度を超えている。

 しかし、ポッター達の反応は気にかかった。普段ならやり返すのを必死に耐えながらも、憤然とした目つきで睨み返すのに、彼らは苛立ちながらも気もそぞろな様子に見えた。

 チラチラ彼らを見ていると、通りがかったスネイプが「混ぜる手が遅い」とお小言を下さったのでシャルルは慌てて鍋に集中した。注意が削がれていたのは事実だけれど、明らかに他のことに気を取られているドラコにも何か言ったらいいのに。まあ、今更なのだけれど。

 

 膨れ薬が出来上がって瓶に詰めていると、近くからポチャンという水音が響いた。一瞬目を上げ、それがゴイルの方だったのですぐに目を離した。

 けれど、突然真横から強い力で引っ張られてシャルルは悲鳴を上げそうになった。

「シャルル!」

 聞いたことの無い、切羽詰まったセオドールの声。同時に何かが轟音を立てて爆発した。何が起きたか分からないまま、セオドールの腕の中にぎゅっと閉じ込められ、阿鼻叫喚の悲鳴を聞いていた。

「ぐっ……」鈍い苦痛の呻き声に顔を上げる。平行眉に皺が寄り、奥歯を噛み締める彼にシャルルは動転した。

「セオドール?一体何が……」

 彼の背中や腕がみるみる巨大に腫れ上がっていく。絶句して教室を見渡すと、身体の一部を膨れさせた生徒が呻いたり、泣いたりしてまるで地獄みたいだった。

 どうやらゴイルの鍋が爆発したみたいで、スリザリンを中心に被害者が円状に出ている。ドラコの端正なスッとした鼻は豚のようになって、パンジーが顔半分をパンパンにさせて、重みに傾きながら泣き喚いていた。

 

 スネイプが怒鳴って、ほんの少し生徒が声を落とした。ぺしゃんこ薬を処方してくれるらしいので、シャルルはセオドールの腕を取って悲壮な顔で彼を列に連れていく。彼が咄嗟に庇ってくれなければ、シャルルの身体も膨れてしまっていただろう。

 半純血の生徒や、被害の出たグリフィンドールの一部の生徒が我先に並ぼうとするのをシャルルは「どいて!どきなさい!セオドールを先に治してあげて!」と怒りの形相で蹴散らした。

 

 薬を飲むと徐々に腫れが引いてきた。さすがスネイプの作った魔法薬、即効性が素晴らしい。安心すると胸の奥がじーんとして、シャルルの眉毛が泣きそうに垂れ下がった。

「ああ……セオドール、わたしを庇ったせいであんなに……」

 背中全面が膨れたせいで、彼の制服は破れていた。申し訳なさと一緒に、まさか庇ってくれたなんて、と喜びも感じてしまう。

「別に。たまたま鍋に何か入るのが見えたんだ。それで君が隣にいたから」

「ええ。……ありがとう」

 素っ気なく彼は言った。シャルルが腕に抱きつき、まっすぐ見つめられたセオドールは珍しく困ったように視線を逸らした。

 

 それにしても……。

 特定の誰かを殺しそうな勢いで烈しく睨み、黒焦げの何かをつまんでいるスネイプの視線の先には、やはりというべきかハリー・ポッターとロン・ウィーズリーがいる。素知らぬ顔をしているけどポッターは視線を避けているし、ウィーズリーの顔は狼狽えている。

 ネビルの時のような事故ならともかく、こんな無差別的で攻撃的な悪戯をするなんて……。

 軽蔑の視線を送っているとポッターと目が合い、彼はサッと視線を逸らした。シャルルはセオドールに巻きついている腕にギュッと力を込めた。

 

 

*

 

 

 大広間はいつになく広々としていた。ひしめく重厚な長テーブルは撤去され、紺色の夜空の下で金色の壁が輝いている。

「決闘クラブなんて、なかなかハイセンスな催しだわ」

「こんな大がかりなクラブはなかったもんね!」

 心躍らせるシャルルにトレイシーが同意してくれたが、パンジーは白けた目で熱心に手鏡を眺めている。大勢が集まる場所では、ティーンらしく自分の前髪が完璧な状態か確認するのはパンジーのクセだった。

「ドラコも参加するっていうから来たけど、決闘とかどうでもいいわ。ねえ、おかしくないわよね?」

「素敵だと思うわ」

 ダフネが見もせずに答えた。パンジーはそれで満足したようで、頷いて手鏡をローブにしまい込んだ。

 

 チラッとシルバーブロンドを見つけた瞬間パンジーが走り出そうとするから、シャルルはパンジーの腕を捕まえて「ドラコ!こっちよ!」と呼ぶ。

 一緒にいたいならパンジーが行くんじゃなくて、相手を呼びつけたほうがいい。それならシャルルもパンジーと過ごせるし、恋愛では尽くしすぎるとダメってザビニが得意げに言っていたから。

「いつから名前で呼んでるのよ?」

 不快そうにパンジーが唇を尖らせて、シャルルを横目で睨んだ。「ドラコに興味があるの?」

「いつだったかしら」

「ドラコに興味があるの?」

 パンジーはもう一度繰り返した。ピリッとした口調にダフネがおろおろと胸のあたりで手を彷徨わせている。最近パンジーがなにか言いたそうに口をもごつかせていたのはこれだったのか。シャルルは安心させようと微笑みを浮かべた。

「大丈夫、あなたの大好きなドラコはただの友人よ」

「あっそう」パンジーはカッと顔を赤くして、安堵を不機嫌な顔で隠した。「ならいいのよ」

「ふふっ、心配しなくていいのに」

「仕方ないじゃない、シャルルが本気になったら誰が敵うっていうの?クリスマスも残るし……」

「パンジーも残ったら?一緒に休みを過ごせたら、素敵!」

「バカ言わないで、わたしのパパが煩いの知ってるでしょ?残れるなら真っ先に残ってるわよ」

 ミセス・パーキンソンはパンジーに似て快活で自由人だが、ミスター・パーキンソンはそんな妻子の手綱を握ろうと必死だ。以前パーティーでお見かけした時は目尻の皺と、心做しか落とした肩、チラチラふたりを見る目線が完全に苦労人だった。

 

 興奮しておしゃべりを交わす生徒たちを押しのけ、肩で風を切るような歩き方のドラコが合流すると、パンジーは一気にめろめろの顔でくっついた。触れていないと死ぬのだろうか。

 シャルルには、パンジーの機嫌をこんなに簡単に治すことは出来ない。ただ顔を見せただけでこれなんて。

「決闘ね」フン、と鼻を鳴らしてドラコが言う。

「馬鹿馬鹿しいが、攻撃呪文を教えるなら参加する意義が少しはあるな」

「誰が担当なのかしら」

「フリットウィックは?決闘チャンピオンなのが彼の自慢でしょう?」

「そうなのか?」

「レイブンクロー生がいつも得意気に話してるのよ」

 ダフネの答えに期待が高まる。フリットウィックはデミヒューマンだけれど優秀だ。シャルルとダフネは呪文学クラブに入ってから使える呪文が増えたし、授業で気にかけて貰える頻度も上がり、加点の機会が多くなった。彼は話のわかる人だ。

「フリットウィックより絶対にスネイプの方が有能だよ。まあ、まさか教授がこんな場に出てくるわけがないが……はっ?」

 言葉の途中でドラコが目を剥いた。舞台を口を開けて見つめている。つられて前を向いてシャルルも間抜けな顔をしてしまった。

 

 薄暗い大広間の中で、太陽みたいに輝く濃いブロンドの巻き毛、自信に溢れたナルシストなパーフェクトスマイル、悪趣味なのに妙に様になる深紫のローブ……ギルデロイ・ロックハート。そしてその後に苦虫を1万匹くらい噛み潰したような顔をしている真っ黒な人は、まさかの、セブルス・スネイプ教授だった。

 ロックハートが何やら演説しているが、スリザリン生は石のように固まって固唾を飲んでスネイプを見つめた。賞賛すればいいのか、反応を示さない方がいいのか、スネイプの形相を見るとそのどれもが正しくないような気がして、見守るしかなかったのだ。

「それでは、助手のスネイプ教授をご紹介しましょう」

 よりによって、スネイプが助手!

 

「スネイプ先生がおっしゃるには、決闘についてごくわずか、ご存知らしい。訓練を始めるにあたり、短い模範演技をするのに、勇敢にも、手伝ってくださるというご了承をいただきました。さてさて、お若いみなさんにご心配をおかけしたくはありません。――私が彼と手合わせしたあとでも、みなさんの『魔法薬』の先生は、ちゃんと存在します。ご心配めさるな!」

 

 スネイプの土気色の顔色がどんどんドス黒く変化していく。スリザリン生は生唾を飲み込んだ。シャルルは初めてロックハートを心底尊敬した。彼は死ぬのが怖くはないのだろうか……。

 

 向かい合ってお互いが一礼する。ロックハートの芝居がかった優雅で余裕な態度と、今にも飛びかかりそうな目をしたスネイプの雑な一礼は対照的で、ピリピリとした雰囲気が漂う。肌で感じられるような殺気にもロックハートはいつも通りの調子を崩さない。

 修羅場をくぐってきたのは本当なのかもしれない。

「3つ数えて、最初の術をかけます。もちろん、どちらも相手を殺すつもりはありません」

「あいつに目はついてないのか?」震える声でドラコが呟いた。あんなに怒りが顔に出ているスネイプは初めて見た。

 カウントに合わせてふたりが杖を肩まで振り上げた。1、と同時に真っ赤な閃光が視界を焼いてロックハートが吹き飛ぶ。

 彼は空中を浮いて、壁に激突し痛々しく倒れ込んだ。

 

 スリザリン生が歓声を上げる。シャルルも思わず叫んでしまった。なんだ、口ほどにもない。ロックハートがピクピク痙攣しているので、一瞬死んだのかと思ったが、よろよろと彼は立ち上がった。

 乱れた髪で、あんな無様を晒した後でもハンサムさを失わないのは一種の才能かもしれない。女子生徒のため息が揃う。

「皆さん、お分かりになりましたね」

 まったくいつも通りのキラキラの笑顔でロックハートが続ける。

「今のが武装解除の術です。相手の杖を取り上げ、時には今のように相手を吹き飛ばすこともある、有用な技です。呪文は『エクスペリアームス』、復唱して……『エクスペリアームス』、そうです!」

 髪の毛を直し、帽子を被り直す。うっとりしたラベンダーから杖を受け取り、ニコニコとスネイプに話しかけている。

「スネイプ先生、たしかに、生徒にあの術を見せようとしたのは、すばらしいお考えです。しかし、遠慮なく一言申し上げれば、先生が何をなさろうとしたかが、あまりにも見え透いていましたね。それを止めようと思えば、いとも簡単だったでしょう。しかし、生徒に見せたほうが、教育的によいと思いましてね……」

 シャルルは顔面が蒼白になるのを感じた。やはり、ロックハートは大物だ。ドン引きしすぎて彼に恐れすら感じた。彼の出身はレイブンクローのはずだけど、グリフィンドールの性質も多く備えているんじゃないかと思った。

 シャルルはスネイプを盗み見て、ロックハートがまだ生きて喋っていることを確かめた。

 

 実践のペアはテローゼと組むことになった。

 ドラコはポッター、パンジーはラベンダー、ブルストロードはグレンジャー。生徒の相性をスネイプはよく分かっているらしい。

 シャルルは冷たく顎を上げた。テローゼも澄ました顔で睨み返してくる。生意気な。

 杖を構えて軽くお辞儀をする。カウントが響く。

「3……2……1」

「エクスペリアームス!」

 声が揃い、赤い閃光がぶつかり合った。咄嗟に閉じようとした目をなんとか開けて、視界が開ける前にもう一度叫ぶ。

「エクスペリアームス!」

 今度はちゃんと手応えがあった。クルクルと手元に杖が落ちてくるのを受け止めて、シャルルは悔しそうなテローゼに勝ち誇った表情で冷笑した。

 わたしに盾つこうだなんて100年早い。

 

 優越感に浸って周りを見回して、シャルルは絶句した。生徒たちがしっちゃかめっちゃかになっている。ドラコは膝をついて全身震わせながら爆笑し、ポッターがすごい形相で踊り狂っている。パンジーとラベンダーが髪の毛を掴み合いキーキー怒鳴りあっていて、ミリセント・ブルストロードはグレンジャーの首を締め上げ、バタバタと魚のようにもがいていた。セオドールはザビニを既に無力化していて、癇癪を起こしたザビニが床を蹴りつけている。しかしそれでもまだお上品だ。他の生徒のように殴りかかっていないのだから。

 呆然としていると、同じく立ち尽くしているダフネと目が合った。彼女はトレイシーと組んで穏健に決闘を終えたようだった。シャルルは言葉もなく彼女と見つめ合った。

 

 スネイプが呪文で無理やり決闘を終わらせて、それでもまだ組み付いているブルストロードをポッターがなんとか引き剥がしてた。グレンジャーはゼイゼイ息をしていた。ブルストロードは……なんというか……闘牛みたいだ。自分がスリザリンで、スチュアートで良かった。彼女のように背の高い子に実力行使されたらひとたまりもない。

 

 大広間は酷い状態だった。

「むしろ、非友好的な術の防ぎ方をお教えするほうがいいようですね……」

 あんなに悠然な……悪くいえばすこぶる鈍感なロックハートに面食らった表情をさせるとは、ある意味すごい。

 しかし懲りてはいないらしく、模範演技にドラコとポッターが選ばれた。突然生き生きとし始めたスネイプに腕を掴まれ、無理やり壇上に登らされたドラコの耳元で何かを囁くと、ふたりはそっくりに悪意的な笑みを浮かべた。ロックハートに選ばれたポッターは……見る限りは有用なアドバイスを貰えなかったようだ。

 

 向かい合ったふたりは、僅かに首を傾けた。どちらも鋭く相手を注視している。素早く杖を振り上げたドラコが先に呪文を唱えた。

「サーペンソーティア!」

 壇上に黒い長蛇が飛び出して、シャーッと大きな口を開けた。牙がギラリと光っている。生徒たちは悲鳴を上げて後ずさったがシャルルはニヤッとした。

 スネイプ教授も憎い演出をする。スリザリン生に蛇を使わせるとは。

 

 怒る蛇に立ち竦んでいるポッターに、ニヤリと踊り出てきたスネイプが呪文を唱える前に、ロックハートが叫んだ。大きな音が出ている吹き飛んだ蛇が何回かバウンドして、落下地点にいたハッフルパフ生に向かって唸り始める。ロックハートって本当に余計なことをする天才なのね。シャルルはしみじみ思った。

 あの様子だと噛まれてしまうだろう。まあ、毒があってもマダム・ポンフリーは有能だ。それにスネイプが少し焦った顔で蛇のところに駆け付けている。

 

 その時、ポッターが動いた。さっきまで動けなかったのに、躊躇うことなく蛇に寄ってきて、そして……。

 

『シューーーッ、スーーーー……』

 

 ポッターが口から出した音を聞いた瞬間、全身に石化呪文が掛けられたかのように、全身がピキンと固まった。息さえ、心臓さえ止まったように感じられた気がした。

 

 えっ……えっ?

 

 電流が走ったみたいに頭が痺れる。目の前の光景を頭で理解するのにしばらく時間がかかった。今のは……。遠くなっていた音が戻ると、大広間が騒然としていた。

 蛇は唸り声を止め、丸くなって、まるでポッターの命令を待つようにつぶらな瞳で彼を見上げている。

 全身が震えているのにシャルルは気付いていなかった。心臓が爆発しそうなほど烈しく鳴り響いて、酸欠で頭がクラクラする。

 ロン・ウィーズリーがポッターの手を引いて、彼の背中が遠くなって行くのに、咄嗟に手を伸ばした。

「あっ……」行っちゃう!「待って……」

 弱々しい言葉がするんと零れて、同時に足がふらっと前に出た。固まっていた身体がその拍子になめらかに動き出し、背中に火がついたようにシャルルは走り出した。

 扉からひらっと消えたポッターのローブを追いかける。

 

 まさか、まさか、彼がサラザール様のご子孫だったなんて!!

 

 心臓が、痛いくらいにドキドキ鳴っていて、いてもたってもいられない。こんな気持ち初めてだった。シャルルは真っ赤な頬、潤んだ瞳で足を動かした。まるで恋する女の子みたいに。

 

 



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27 赤毛の女の子

 東塔でやっと3人に追いついたシャルルは、肩で息をしながら叫んだ。

「待って……ポッター、ポッター!」

 脇目も振らず、逃げるように走っていた3人がギクリと振り返り、シャルルの顔を見て顔を強ばらせた。敵対心と怯えの滲む、どこかばつの悪そうな2人とはうらはらにポッターはただ、混乱した表情だ。

 出来るだけ彼らの動揺と敵対心を和らげるように振る舞いたかったのだが、シャルルは興奮を抑えられず、駆け寄ってポッターの手を強く握り締めた。頭の中がジンジンする。ポッターは火傷したみたいに手をひっこめようとした。

「い、一体なに!?」

「スチュアート、なんでここに……!くそっ、ハリーから手を離せ!」

「ああ、もうわたし、なんて言ったらいいか……」

 目を白黒させ、ウィーズリーとグレンジャーに視線で助けを求めている。シャルルは胸が震えた。目の前にサラザールの子孫がいる。血の特徴を持った明確な直系が……。

 母方の実家であるダスティンはたしかにロウェナ・レイブンクローの末裔だが、彼女の血は傍系に広がっていて、ダスティンは特に遺産を保持しているわけではない。限りなく薄い血が混じったというだけだ。レイブンクローの知性を重視し誇っているだけだ。

 しかし、スリザリンの血だけは目に見える形で遺産を今に遺している。

 ハリー・ポッターという英雄がスリザリンの末裔のいう、ある意味皮肉な運命に奇跡すら感じる。彼はどれだけ運命に愛されているのか。感動が襲ってきて、シャルルは途切れ途切れに喋った。

「まさかあなたが……スリザリンの……」

「僕が一体何だって?」

「ポッター、あなたはパーセルマウスだったのね……!」

「パーセルマウス……?」

 戸惑い切ったポッターに、「あーもう!」とウィーズリーが頭を掻き毟った。

「何で僕に最初に言ってくれなかったんだよ、ハリー!」

 無理やりシャルルの手を叩き落として、ウィーズリーがポッターの肩を掴む。

「何が?パーセルマウスって何なの?」

「君は蛇と話が出来るんだ!」

「そうだよ」ポッターは眉をへの字にして何でもない事のように頷く。歓喜の表情のシャルルと力ない様子のウィーズリー。

「でも二度目だよ。初めては入学する前に動物園の蛇と話したんだ。ブラジルに行ったことないって言うから、そんなつもり無かったけど僕が逃がす形になって……」

「蛇が、ブラジルに行ったことがないって話したの?」

「それがどうしたの?そんなこと出来る人、魔法界にはたくさんいるだろう?」

 仰天してシャルルは目を見開いた。首を振って必死にポッターを見つめる。そうか、彼はマグル育ちだからその力の価値を知らないのだ。

「いないわ、ポッター。その力は特別なのよ。由緒正しい血にしか宿らないの」

 ウィーズリーが嫌悪感に満ちた眼差しでシャルルを睨み付けた。「由緒正しい血だって?反吐が出そうだよ。もうウンザリだ、頼むからさっさと帰ってくれ!君はなんでハリーを追いかけて来たんだ?」

「なんでって、いてもたってもいられなくて……」

「君がどう思うか知らないけど、ハリーはスリザリンの連中が喜ぶような存在じゃない。熱心なお話は寮で素敵なお仲間としてればいいさ!」

「継承者ってこと?それは当然よ。ポッターがパーセルマウスでも継承者だとは思わないわ。……でも秘密の部屋が開かれたってことは他にも末裔がいるってこと……!?それとも記憶のないうちにサラザールの遺した何らかの干渉が子孫に、とか……?」

 ブツブツ呟き出したシャルルを不気味そうに眺め、「どういうこと?」「知らないよ。スリザリンって薄気味悪い連中ばっかりさ」と話している。シャルルは顔を上げた。

「それとも、あなたが継承者なの?もしそうなら、」

「そんなことあるもんか!」

 歯を食いしばってシャルルを睨みつける。

「わかってるわ、一応確認しただけ。あなたの今までの行動は、スリザリンとは正反対だもの。継承者だとは思ってない」

 自分を信じてくれる人がシャルルであることに、ポッターは一瞬喜びかけ、すぐに苦々しい気持ちになった。スリザリンにはドラコ・マルフォイがいる。自分を継承者だと思うはずがない。

 

 その時、ポッターはふと思いついた。シャルルはドラコ・マルフォイと仲がいい。サッとグレンジャーと視線を合わせ、考える目付きになったポッターにシャルルは首を傾げた。

「スチュアート、君はスリザリンが好きなんだろ?」

「ええ!」

 無垢な喜びを浮かべてシャルルが即答した。

「じゃあ誰が継承者か知っているんじゃないのかい?」

「ハリー!」咎めるようなグレンジャーの声が飛ぶ。シャルルの脳内はだんだん冷静になってきて、苦笑いをしてしまった。

 らしくなく興奮して、何も考えずに飛び出してきてしまった。

「残念ながら知らないわ」

 駆け引きをかなぐり捨ててシャルルは正直に答える。頭がまだぼーっとして考えるのが面倒だった。今はただスリザリンの末裔であるハリー・ポッターしか目に入らない。

「たぶん、この学校で一番それを知りたいのはわたしよ。でも手掛かりがないの。かと言って、いくらパーセルマウスとはいえあなたなわけないと思うし……」

「さっきからパーセルマウスと継承者を結びつけるのはどうして……」

 言い切る前にウィーズリーがポッターの袖を引っ張った。

「もう帰ってちょうだい、スチュアート。ハリーにかまわないで」

「……そうね。ごめんなさい、本当に高揚してて……。もう戻ることにするわ。でもポッター、わたしはあなたの味方よ。どうせ今年もトラブルに飛び込んで行くんでしょうし、なにか手伝えることがあったら言ってね」

 睨みつける3人の背中を感じながら、シャルルは地下に戻り始めた。

 

*

 

 歩いていると、興奮がどんどん落ち着いていくのを感じた。さっきまでの自分の醜態を思い出し、恥ずかしくなってくる。

 まるでグリフィンドールみたいに猪突猛進に向かっていってしまった。

 特に目的も何もなく、ただサラザール様の子孫を見つけたというだけで、彼を追いかけてしまったのだ。もう少し言いたいことを取り繕うとか、味方になれるよう動くだとか、一緒に秘密の部屋を探せるように誘導するだとか……冷静になると出来そうなことがどんどん浮かんでくるのに。

 ウィーズリーとグレンジャーの様子を見ると、2人はパーセルマウスの価値を知っているんだろう。ポッターを心配するあまり過敏になっているところに、純血主義の寮生が飛び込んで行くなんて最大限警戒させてしまったに違いない。

 ウィーズリーの敵愾心に満ちた態度を思い返せばしばらく軟化は無理そうだ。

 サラザール様の子孫なら、秘密の部屋を見つけられるかもしれないのに……。

 

 シャルルは恥じて、後悔した。

 ただの一生徒であるシャルルが部屋や遺産を見つけられるとは到底思わないので、今までのように継承者の動向を見守り、あわよくば特定するしかない。

 

 それにしても……。

 ポッターじゃないのなら、やはりホグワーツには他にスリザリンの末裔がいるのだろうか。サラザール様の遺志を継ぐ継承者と、その思想と正反対の生き様を見せる生き残った英雄。対照的な末裔たちがいると思うと、シャルルの胸はロマンに甘く痺れた。

 ああ、伝説に立ち会えているんだから、どうせなら特等席で見たいのに!

 もどかしくてもどかしくて狂おしいほどだった。

 

 談話室は案の定ポッターの話題でいっぱいだった。当然ではあるが、どうしても彼がパーセルマウスであることを認め難い人が多いらしく、真偽の程やら家系図やら噂話が飛び交っている。

「あっシャルル!戻って来たのね。ポッターなんか追い掛けて……」

「だって、気持ち分かるでしょう?」

「分かんないわよ」

「シャルルほどの創設者フリークはいないものね。でも、ちょっと目立っちゃったかも」

 言いづらそうにダフネが言った。

「あんな場面でポッターを追いかけたら、継承者の味方みたいに見られちゃうわ。現に色々言われてるのも聞こえてきたし……」

 たしかにそうだ。言われて気付いた。あの時は何も考えてなかった。保守的なレイシストの集まるスリザリンの中で、わたしは他寮生からリベラルでフェアな珍しい生徒だという立ち位置を獲得していたから、ポッターが継承者だと確定的な場面で追いかけるのは得策ではなかった。

 後から冷静には考えられるんだけど。

「まあ、仕方ないわ。しばらくは言わせておくことにする」

「いいの?」

「今までの下地もあるし、信頼を取り戻すのはいずれ出来るわ」

「ならいいけど……。それで、ポッターの様子は?」

「彼は自分がスリザリンの末裔であることを知らないばかりか、パーセルマウスについても知らなかったわ。でも蛇と話すのは初めてじゃないんですって。ポッター家で今までパーセルマウスがいたという話は聞かないから、ブラック家とかほかの純血家系からの隔世遺伝か、母親が本当はマグル生まれじゃないとか考えられる可能性は色々……」

「有り得ない!」

 ドラコが苛立ちを吐き捨てて遮った。

「ポッターがスリザリンの末裔?継承者?何もかも有り得ないことばかり……!何かの間違いだ!」

 憤慨して、綺麗に整えられた前髪を感情のまま掴むので、ほつれて前髪が数束垂れている。スリザリンでは概ね継承者はポッターではないということで意見が一致していたが、パーセルマウスを話せることで揺らぎ始めてもいる。それがさらにドラコの苛立ちを加速させていた。

 

「どこかでスリザリンの血が混じった可能性はあるわ。サラザール様は1000年も前の人なんだもの」

「だからってこうも都合よくポッターに発現するなんてことがあるか!?ブラックやマルフォイ、他の由緒正しい家系を差し置いてだぞ!?」

 血の上った顔でドラコが噛み付いた。肩を竦める。

「そんなこと言われても、あなたが目の前で見たことが事実だわ」

「……君、まさか」訝るような目付きでドラコはシャルルを眺めた。「継承者は別にいると思うけど、ポッターがパーセルマウスだと分かった以上、わたしは彼を最大限尊重するつもりよ」

 ドラコは顔を歪ませて赤ら顔でシャルルを睨んだが、何を言っても響かないであろうことはわかっていた。「Shit!」と叫んでソファを思い切り蹴ると、足を踏み鳴らして寝室に消えた。

 

*

 

 ベッドの上は衣装が散乱していた。フリルやレースが使われた少女趣味のワンピース、ピンクのネグリジェ、片方だけなくした靴下、古くなったローブ。イライラしながら畳んでいたパンジーはとうとう持っていたシャツを投げ捨てて「あーもう!」と唸り声を上げた。

「なんでホグワーツにはしもべ妖精がいないの!?」

「いるわよ、厨房に」

「そうなの!?」ガバッと身体を起き上がらせる。

「ここに呼びつけられないの?」

「さぁ。屋敷によってルールは違うから分からないわ。厨房の場所もまだ知らないし」

「しもべ妖精に会いにわざわざ足を運ぶなんてナンセンスよ。手を叩いたら来ないのかしら」

 うちじゃそうするんだけど、と3度拍手したが何も起きない。「ハウスエルフ、来なさい」やっぱり何も起きない。シャルルもとっくに試してみたが効果はなかった。ホグワーツのハウスエルフの仕事はホグワーツの維持や下働きのはずだから、生徒のパシリは届かないようになっているんじゃないだろうか。彼らが呼ばれていることを知りながら、それを無視するなんて有り得ないことだから。

 

「片付けを自分でさせられるなんて」

 パンジーはブツブツ文句を口にしつつ、仕方なくまた畳み始めた。マグル式のやり方で。シャルルは苦笑を浮かべて杖を振った。みるみるうちにベッドの衣服たちは宙に浮かんで、ピッシリと折り目をつけて小さくなり、トランクに規則正しく吸い込まれていく。

「助かったわ、シャルル!終わらなくてウンザリだったのよ。さすがだわ」

 調子の良い賞賛もパンジーからなら悪くは無い。シャルルのベッドに腰を下ろして、シャルルに身体を寄せた。甘える彼女にくすぐったくなってクスクス笑う。

「どうしたの?甘えんぼさんの気分なの?」

「そうよ、しばらく会えなくなるから。プレゼント贈るわ」

「楽しみにしてる。手紙も待ってるわね」

「もちろん!ドラコの様子も教えてちょうだいね。あーあ、羨ましいわ、スリザリンで2人っきりで休みを過ごすなんて……」

 何でもない風を装っているが、パンジーの口調には嫉妬が滲んでいた。でも刺々しくはない。彼女が言ったように、ただ羨ましいんだろう。

「クラッブもゴイルもいるわ。先輩も数人」

「ほぼ2人っきりよ」唇を尖らせる。ほっぺたをつつくと嫌そうな顔をされて声を出して笑った。パンジーも本気で言っているわけじゃないと分かっていた。

「休みは何するつもり?遊びにもパーティーにも行けないでしょ?」

「図書室通いかしら」

「ちょっと、休みまで勉強漬け!?信じられない!手紙には課題のことなんか書かないでちょうだいよ」

「あら、わたしにとっては知識は冒険みたいなものなのよ。それにせっかくホグワーツにいるし、秘密の部屋を探してみるつもり」

「まあ!」

 パンジーは瞳を輝かせる。シャルルは苦笑しながら肩を竦めた。「と言っても、手がかりは何もないからただホグワーツの探索になるけれどね。それに教授方も休暇に入るから……」

 悪戯っぽい輝きを乗せてシャルルの目が細まる。パンジーはシャルルが何かしようとしているのは気付いたが、何を含んでいるか分からず首を捻った。

「監督生もいない、教授も休暇……。ふふっ、仮に夜間に出歩いても寮杯に影響が出る可能性は低いってこと」

「なるほど!あなたったら品行方正かと思えば1人でそんな楽しそうなことするつもりなのね?」

 

 人が来ない教室のいくつかは見つけてはいるが、どれも地下回廊にあるものだし、陰気で薄暗く、スネイプのホームに近いから人が来ないというだけだ。もっと闇の魔術の練習に便利な場所を確保したい。

 

 パンジーの準備が終わり、イル・テローゼもマグルの世界に戻るようだが、ターニャ・レイジーはいつまで経っても片付けを始める様子がなかった。

「あなたも残るの?」

 ベッドカーテンを薄く開いて本を読んでいるレイジーは無反応だ。シャルルは繰り返した。

「レイジー、あなたも残るの?」

 座ったまま飛び跳ねて、レイジーは驚いたように「は、はい」と答えた。相変わらず覇気のない顔つきと存在感の薄さだった。

 シャルルは「友人」と話している時、なにか命令する形でしかレイジーに話しかけない。雑談もほぼ振られたことが無い。だからレイジーは肩を強ばらせて恐る恐る言葉を待っていた。

 せっかく一人部屋になる予定だったのに、レイジーが残ると怒られるだろうか……。もし邪魔なら体調不良だと偽って医務室で泊まるか、談話室で寝静まったあとに部屋を戻ろうかと考えた。

「マグルの親のところには戻らないの?」

 内心はともかく、口調に嫌悪感や侮蔑の色は混じっていない。目を落とし、手に力を軽く込めて「は、はい……」と答えると気のない声で「ふぅん」と流して、あとは興味を失った。

 休みの間はメイドの立場から解放され、優越感を感じる相手もいなくなるというのに物好きなのね。シャルルは心の中で呟く。

 

*

 

 ホグワーツは静まり返っていた。生徒たちの中身のない喋り声やくだらない諍い、廊下を走る音。日常の音が消えた1000年の歴史がある城は、しんしんと降り積もる雪のように厳粛な静謐さを醸し出している。

 課題と参考書を抱えて中央棟を歩いていると、誰かの笑い声が聞こえた。回廊から中庭が見える。ポッターとウィーズリー達が無邪気に雪をこねくり回してぶつけ合っている。

 ああいう遊び方をシャルルはしたことがない。

「幼稚だな」

 ドラコがせせら笑った。「そうね。いつまでも無邪気な心を忘れない方たちだこと」

 彼らに対しても、あの遊び方に対しても思うところはなかったから、隣に立つドラコの望む言葉を返した。彼は嬉しそうにまばたきした。

 

 休暇が始まった1日目から課題に取り掛かることに、ドラコは「正気か?」という表情をしたが、彼も暇らしく一緒に図書室に向かっていた。ホグワーツをまるで自分の城のように胸を張って歩くドラコと、まるで自分たちの庭のようにはしゃぐ彼らは似た者同士だ。

 

 哀れなハッフルパフ生と哀れなゴーストが出てから、ポッターの継承者疑惑は確信をもって囁かれるようになった。パニックになる生徒も出始め、精神的な負担で医務室通いをする生徒も少なくないくらいだった。

 そんな状況で残る生徒がいるはずがない。レイジーは恐ろしくないのだろうか。スリザリンからの被害者はいないが、スリザリンに穢れた血を引く魔女がいることを継承者が歓迎するはずがない。

 わたしとドラコは過程は違うが、結論は同じくしている。

 ポッターは継承者ではない。

 誇り高き継承者がポッターのような穢れた存在であるはずがないというのが彼の主張で、それは同意できた。

 わたしは彼の人間性から、犯行のような残酷で理知的な真似は出来ないと考えていた。

 話していても分かる。穢れた血や血を裏切る者を隠れ蓑に、継承者として粛清できるほど彼は狡猾じゃない。

 

 数時間も机に向き合っていると、ドラコの口数が多くなり始めた。

 話すことは大体同じだ。ポッターのこと。ウィーズリーのこと。穢れた血のこと。父上のこと。最初はまともに返事を返していたけれど、シャルルは本来勉強や本を読む時間を邪魔されるのが好きではない。口数が減り、上げていた顔を下ろし、止めていた手を動かしながら杜撰な返事をしてもドラコは気にしなかった。

 愚鈍な人間を毎日相手にしているからだろう。

 話題は狭いが、ドラコの豊富な語彙力だけはシャルルも感心するほど、あれこれ言い方を変えてポッターをなじった。シャルルはセオドールと過ごす時間が恋しくなった。

 

 窓からオレンジ色の光が射し込んで、日が暮れていることに気付く。「もうこんな時間なのね」5年生の呪文集から目を上げて腰を伸ばすと、「やっと気付いたか、シャルル」と退屈そうな声がした。

 羽根ペンを手の中でくるくる弄びながら、気だるげにドラコが肘をついていた。シャルルは危うく「まだいたの」と言いそうになった。

「今日の分はもう終えただろう。夕食に行こう」

 ありがたい誘いではあるが、シャルルは首を振った。「もう少しキリのいいところまでやっていくわ」

「まだやるのか!?本の虫め……。大体課題じゃないだろ?それ」

「ええ。予習よ」

「3年分の予習かい?」

 鼻を鳴らして「付き合ってられないな」と立ち上がる。「先に戻る。夕食を逃しても知らないからな」

 一応忠告してくれるあたり、彼は意外と優しい。

 

 ドラコを見送ってまた本に没頭し始めたシャルルが次に顔を上げたのは、日もすっかり暮れた後だった。体温調節機能があるローブを着ているとは言え、手先がすっかり冷たくなっている。

 忠告は無駄になってしまった。

 意識すると空腹感が軽く襲ってくる。厨房の場所はまだ見つけられていない。ハッフルパフで受け継がれていることは知っているが、彼らは人に教えたくないようだった。シャルルがそれとなく尋ねると、困ったような曖昧な笑みを浮かべるばかりで、やんわりと線を引かれてしまう。

 

 廊下を歩いていると、曲がり角から突然女の子が飛び出して来た。衝撃と共に本や羊皮紙が散らばった。

「ご、ごめんなさい」

 羊皮紙にゆっくりと雪が染みて行った。慌てて荷物を拾う女の子には見覚えがあった。

「大丈夫よ、ジニー」

 驚いて顔を上げたジニー・ウィーズリーはシャルルを見て小さく「あっ」と言った。

「ええと、パーシーの友達の……」

「シャルル・スチュアートよ。シャルルでいいわ。外に行ってたの?」

 しゃがみこんで一緒に荷物を拾い、ジニーの靴についた大量の雪を見て尋ねると、彼女は怯えたように顔を青ざめさせた。

 前も具合が悪そうだった。体調が悪いのだろうか。それとも、指摘されたくなかったのだろうか。

「顔色が悪いわ、医務室に……」

「だ、大丈夫。ありがとう。それからごめんなさい、ちゃんと前を見てなかったから」

「いいのよ」

「でも課題が……」

「このくらい乾かせば平気よ」

 優しく微笑むと僅かにほっとしたようだった。

「休みだけど、あんまり暗い時間に外にいるとフィルチが生き生き駆けつけて来ちゃうわよ」

 冗談めかして先輩らしいことを添えてジニーと別れる。ウィーズリーにしてはどこか怯えた雰囲気が特徴的な女の子だった。

 ジニーの靴についた雪に、泥と、赤いものがついていた気がするのは気のせいなのだろうか。少しの間背中に彼女の視線を感じていた。

 

 



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28 銀と薄灰色の横顔

 

「これ……」

 自室で片付けをしているシャルルがふと呟く。

 教科書の間に見覚えのない手帳があった。真っ黒い飾り気のない手帳。さっきぶつかった時に、ジニー・ウィーズリーのものが交じってしまったのかもしれない。

 シャルルはちょうどいいチャンスだと思った。彼女とも友人関係を築きたい。

 明日の朝食で話しかけてみよう。出来ればロナルド・ウィーズリーが居ない場がいい。妹に近づくなとかなんとか喚かれてしまうだろうから。

 スリザリンの末裔であるポッターともっと話したいのだが、彼はその話題を振られると臭い物でも嗅いだような顔をするし、嫌な話題を振ってくるシャルルを避けようとしていた。最近は双子が取り巻きに加わったようでいつもうるさいからなかなか近寄る隙もない。

 

 シャルルは軽い気持ちで手帳を開いた。11歳の少女の日記に大して面白いことが書いてあるわけではないと思うけれど、なにかしら使える情報があるかもしれない。しかし、手帳には何も書かれていなかった。

 パラパラと端まで流し見ても白紙のままで、1文字たりとも日記らしいことは書いていない。

 でも買ったばかりにはとうてい思えなかった。

 見るからにボロボロで、紙は少し黄色くなっていて年季を感じ、ページの端がほつれているところもある。ジニーが小さな頃から何度も開いて手に触らないとこうはならない傷み方なのに。

 好奇心が湧いてきて、手帳を今度はきちんと観察してみる。表紙の文字は掠れていたけれど、50年も前の手帳だということが辛うじて分かった。ウィーズリー家は旧家だし、ウィーズリー夫人の出身であるプルウェット家も名家だったから古い品物もあるだろう。遺品や相続品のようなものかもしれない。

 

 ページを捲ると、下の方に掠れ切った文字が書いてあることに気づいた。目を凝らしてようやく読み取れた名前を見て、シャルルは目を見張った。

 

─ T・M・リドル ─

 

 どこかで聞いたことがある名前だ。

 シャルルは純血の家系は、イギリスの魔法界ならば新興家系でも全て暗記している。曽祖父母まで遡れる純血同士の子供から純血だと目されるようになるのだが、リドルという姓自体は聞いたことがなかった。

 おそらくマグル生まれか混血だろう。

 じゃあ何故知っている気がするんだろう。

 手帳を弄びながら考え込んだ。そう遠くない最近にこの名前を耳にしたような……。

 

「あっ!」

 

 パッと立ち上がってシャルルはプリーフェクト・ルームに向かった。歴代の監督生の残した資料や功績が保管されている部屋だ。その部屋は鍵がかかっていてふつうの生徒はあまり近寄らない場所だが、去年父の友人を調べる時にこの部屋に出入りしていたことがあった。

 両親の在学していた20年ほど前の棚を通り過ぎ、その奥の棚の前に立つ。T……T……あった!

 

 トム・マールヴォロ・リドル。

 50年前のスリザリンの監督生だ。記録を見ると、1年生から7年生までずっと試験は首位で、監督生も務め、首席に任命されている。優秀な生徒だったんだろう。その上彼は2度もホグワーツ功労賞を授与している。卒業時と5年生の時だ。

 並外れて優秀……そして品行方正な生徒が卒業と同時に表彰される例は知っていたが、在学中に与えられる例は少ない。

 去年、ポッターたちの本当かどうかわからない冒険(でも確実にクィレルは死喰い人ではあったと思う)に対しても大量加点で終わったことを鑑みるに、なにか相当に偉大なことを成さなければやすやすと貰えないはずだ。

 

 50年前の並大抵ではなく優秀なスリザリン生の日記をなぜジニーが持っていたのか好奇心をくすぐられたシャルルは、日記をしばらく預かっておくことにした。もう少し調べてみたい。

 知らず知らずに日記に惹かれていることに、この時のシャルルは気付いていなかった。

 

 

 シャルルは食堂に向かっていた。お腹が悲しげにクークーと鳴っている。寝坊してしまったからもう朝食の時間が終わってしまう。

 昨日の夜から食べていないからなにかお腹に入れたい。

 急いでいるにも関わらず、シャルルは何故かローブの内ポケットに黒い日記帳をしまい込んでいた。

 

 食堂はガランとしていた。閉まる時間だから当然だろう。でもひとりだけ生徒がいる。席に着いたシャルルを見つけると、彼女が走り寄ってきた。意識的に澄ました顔を作って、青ざめた彼女を待ち構えた。

「あら、おはようジニー」

「昨日あなたにぶつかった時、私の手帳が混ざらなかった?」

「手帳?」彼女は前のめりでいきなり本題に切り込んだ。わざとらしくならないように柔らかく目を丸くして見せる。

「見ていないと思うけれど……どんな手帳かしら?」

「黒くてちょっとボロい日記帳よ。大事なものなの」

「大きさは?」

「手のひらより少し大きめの、このくらいの大きさで……。スチュアート、本当に知らない?荷物に交ざってなかった?」

「ごめんなさい、分からないわ。ああ、そんな顔しないでジニー。部屋に戻ったらくまなく確認してみるわね」

「うん……ありがとう、ごめんなさい。食事の邪魔もして……」

 焦った表情に悲壮感さえ滲ませていたジニーは、疑い深くシャルルの様子を観察していたが、結局悲しそうに肩を落とした。打ちひしがれたように見える。

 

「……そんなに大事なものなの?随分慌てているみたいだけど……」

「な、中をあんまり見られたくて」

「たしかに日記ってプライベートなものだものね。でもジニー、日記を書くなんて可愛らしいわね」

 なぜかバツの悪そうな顔で言い訳がましく言う彼女を軽くからかうと頬を少し赤く染めた。勝ち気そうな顔立ちが弱々しく歪んでいる。

「昨日外から帰ってきたんでしょう?そこに落とした可能性もあるかもしれないわ」

「外……そうかもしれない。今から探してみるわ」

「わたしも手伝うわ。心当たりの場所は?」

 その途端ジニーはサッと青ざめて首を振った。「いいの。それより荷物の確認だけお願い」

 シャルルは目を細めたが、無害そうに微笑みかけた。

「分かったわ。大事な日記が見つかるといいわね」

 

 ジニーの反応から俄然好奇心が高まったシャルルだったが、依然として日記は沈黙を守っていた。アパレイトやエマンシパレ、サージト、アルカナ・アペーリオ、スペシアリス・レベリオ……とにかく思いつく限り効果のありそうな呪文を試してみたけれど、ジニーが蒼白になってまで隠したい秘密を見つけることは出来ない。

 シャルルはますます秘密を暴きたくなった。

 ジニー・ウィーズリーにそこまで躍起になる理由なんか何も無いのに、頭ではわかっていても、気付いたらシャルルは何となく手帳を開いてどうしたらこの秘密を見つけられるのかと頭を悩ませるのだった。

 

*

 

 朝目覚めると、ベッドの脇に大量のプレゼントが山になっていた。今日はクリスマス。家族と過ごさないクリスマスは生まれて初めてだ。

 シャルルは素早く身支度を整えて、お気に入りのロングワンピースを着た。深緑と白の繊細なシフォンはふわふわと裾が広がっている。水色のサテンリボンを手に取り、向かいのベッドを見る。

 カーテンを開けると驚いたようにレイジーが顔を上げた。

「メリークリスマス」

「メ、メリークリスマス……」

「髪を結んで欲しいの」

「はい、スチュアートさん」

 

 ソバカスだらけでいつも陰気な顔つきのレイジーは、今日ばかりは僅かに機嫌が良さそうに見える。艶やかな黒髪を恭しく梳かして、ハーフアップに纏めたのを眺め「アクシオ」と杖を振った。

 シャルルのベッドから手元に飛んできた小さな小包を、振り返ってターニャに手渡すと、彼女は目を開いて固まった。

「これは……?」

「今日が何の日かもう忘れたの?」

「わたしに……」

 レイジーの手が震えた。信じられないというように手の中を凝視している。去年は特に彼女に何かをあげはしなかったけれど、黙ってシャルルとパンジーに隷属する彼女に報いてもかまわないだろう。

 彼女は立ち上がってベッドに向かった。シャルルのベッドと違い、周りには何も置かれていない。プレゼントのひとつさえ。

 駆け足で戻ってきた彼女が差し出した箱を受け取り、深緑のリボンを解く。そわそわしているターニャに「あなたも開けたら?」と促した。プレゼントはミューズキャンディと紅茶の缶だ。どちらもシャルルの好きな物だ。そしてどちらも高級とは言えない銘柄。レイジーの私服は数種類しかない。背伸びしてなんとかこれを買ってくれたのだろう。

 シャルルがあげたインクの方がよほど高価だ。

 

「あの、ありがとうございます……!」

 常にムッツリ引き結ばれている口が緩やかに弧を描き、顔色の悪い肌に赤みが射している。

「いいのよ、あなたはよく仕えてくれているしね。良いクリスマスを」

 さらりと微笑んで、シャルルはドラコ達へのプレゼントを持って談話室に向かった。ターニャは大切そうにプレゼントを抱き締めて、シャルルの背中をひっそりと見つめていた。

 

 

 いつもならすでにドラコは朝食に向かっている時間だったが、彫刻が施されたソファから淡いプラチナブロンドが覗いていた。談話室には冷たく居心地の良い静寂が満ちて、静粛な雰囲気を保ってはいたけれど、部屋の隅にチラチラ瞬く小さなクリスマスツリーが飾ってあり仄かに室内を彩っていた。

「ドラコ、クラッブ、ゴイル。メリークリスマス」

 声をかけるとパッと振り返った。炎に照らされて薄青灰の瞳が輝いた。横に詰めてくれたドラコの隣に座る。

「メリークリスマス、シャルル。これを君に」

「ありがとう。わたしも準備してたのよ。直接渡したくて」

「開けても?」

 頷いて、クラッブ達にも手渡した。ドラコへのものよりも箱は大きい。中身はお菓子の詰め合わせだ。彼らにマダム・ミレアムのクッキーの価値は分からないかもしれない。

 

 箱の中からクロス貼りの黒いジュエリーケースが出てきた。そっと開くと、絡まりあったシルバーチェーンに照りの低い美しいエメラルドがいくつか煌めく、繊細なブレスレットが鎮座している。

「まぁ、ドラコ……」

「美しいだろう?君に似合うと思ってね」

「とても素晴らしいわ……でもこんな高価な……」

 溜息がつくほどに、そのブレスレットは美しい。暖炉の炎まで飲み込むような豪奢なエメラルドは、その輝きの鈍さがそのまま価値を浮き立たせている。

「値段なんか気にするなんて、君にしてはナンセンスだ。そうだろう?」

 皮肉げに笑いながら、ドラコがジュエリーケースから細い指でそっとブレスレットに触れた。シャルルは真っ白で華奢な手首を彼に差し出した。彼の指先は冷たかった。ドラコ・マルフォイという男の子のことを、肥大化した自尊心を持ち、高慢で、年相応に感情豊かな人だと──つまり、幼稚だと思っていた。

 でも、シャルルの腕を優しく支えてブレスレットをつける彼の横顔は、怜悧で、睫毛の影が彫刻のような美貌を高貴に象っている。慣れたようにブレスレットを留め、薄い唇が満足そうに笑んだ。

「ほら、やっぱり君に良く似合う」

 自分の中で何かがコトリと音を立てたことに、シャルルは気づかなかった。

 

 

 

 シャルルは何度もブレスレットのついた手首を掲げては、暖炉やシャンデリアを光に透かして煌めく様子を楽しんだ。頬を上気させて嬉しそうにはにかむ彼女にドラコも嬉しくなる。

 手首を大事そうにさすりながら、シャルルは何度もお礼を口にした。

 

「ハハッ、何回言うんだよ」

 ドラコが機嫌の良い笑い声を上げた。「君からもらったクリスタル・クロックも気に入ったよ。センスがいいじゃないか」

 白い蛇の模様が描かれた硝子細工の小さな置時計は、手が届かないほどではないけれど、それなりに高価だった。でも、聖28一族で親しくしてくれる子息子女には消えものでなく、長く残るものを贈りたかったのだ。なおかつ、ある程度実用的なものを。見るたびにシャルルを思い出しやすい。

 

「食堂に行こう。休みに入ってから寝坊ばかりで、ちゃんと朝食を取っていないだろ?」

「面倒で」

 肩を竦めると、ゴイルとクラッブが目を剥いた。シャルルがあげたお菓子をさっそく貪っている。

「面倒?食べるのが?」

「ええ、まあ」

 苦笑するシャルルにゴイルが呻く。「信じられない……食べられないなら、俺は死んだ方がマシだ」

「まったくだ」

「あなた達はそうかもしれないわね」

 食べかすを零している彼らとソファにスコージファイをかけて、ドラコ達は並んで歩き出した。

 

 大広間は見事に飾り付けられていた。大きなクリスマスツリーが何本も置かれていて、豪奢なシャンデリアの下で霜が煌めいている。天井には縫うようにヤドリギが広がり、天井から温かい雪がそっと降っている。雪は手に乗ると一瞬で儚げに消えた。

「美しいわね……」

 さすがホグワーツだ。実家でもイベント好きな母親がクリスマスになると家中を飾り付けるけれど、ホグワーツは厳格で荘厳な雰囲気がある。

 感嘆して呟くシャルルにドラコは「そうか?悪くはないかもしれないが」と気のない返事をし、クラッブ達は食事にしか目がいっていない。

 

 大広間には人がポツポツといて、双子のウィーズリーが何やら騒いでいて、パーシーが叱りつけているのが見える。ジニーは浮かない、青ざめた顔色でもそもそと食事を口に運んでいた。3人組はいないようだ。

 ジニーと視線が絡み合った。彼女は縋るような顔をしている。シャルルは眉を下げて首を振った。

 

 席に着くと、ドラコがスモークサーモンとスクランブルエッグを取り分け、ペイストリーの籠をシャルルの前に寄せた。休暇が始まってから彼と毎日お茶をしたり、夕食を共にしたせいなのか、前よりもなんだか世話焼きで甲斐甲斐しくなったような気がする。

 スリザリンのテーブルは静かだ。食事中に会話も交わすけれど、食器の音は当然のごとく響かず、咀嚼音は絶対にしない。(まぁ、ドラコの両脇に例外はいるけれど……)食事中に大声を上げる人もいない。他の寮生は賑やかだから、大広間に来るとスリザリンが静けさによって隔絶されているみたいだ。

 

「パーティーに出席しない休みなんて久しぶりだな。こんなに自由なら、毎年残りたいくらいだよ」

「やっぱり挨拶回りは大変?」

「まぁね。いずれ父上の仕事も手伝うだろうし、知人はいくらいても困らない。君も本格的にパーティーに出席しないと将来大変だぞ」

 魔法界は一昔前と比べ、家柄に過剰に拘る気風は薄れてきてはいるが、魔法省は依然として伝統的な体制を保っているし、政治と人脈や経済力は切り離せない。魔法族を牽引するのが純血の名家であることに変わりはない。

「わたしも何回か去年出席したのよ。ウィゼンガモットの判事の方たちと交流したり、法執行部の方にお食事会に招かれたり……」

「君もヨシュアみたいに法律関係の仕事に興味が?」

「うーん、まだ分からないわ。でも魅力的なのは確かね」

 魔法省の中でも法執行部の地位は高い。法律を制定出来れば与える影響力も甚大だ。法関係の役人が純血を重んじてくれているのは素晴らしいことだ。

 

「そういえば、1度だけファッジ大臣にご挨拶をさせていただいたわ」

「ファッジに会ったのか?」

 ドラコが眉を上げる。「父上もファッジとは親しいよ。ダンブルドアに従う無能ではあるが、正しい価値観を持っているし、他者の意見を受け入れる寛容さがあるとも言えるらしい」

 彼はルシウス氏が言っただろうことをそのままなぞった。たぶん、言っている意味は分かっていないのだろうし、納得もしていないのだろう。怪訝に顔を顰めている。でも、ファッジが他人に指示を仰ぐということは、操りやすいということであって、彼と親しくしているルシウスはその旨味をよく理解しているに違いない。

「大臣は今のホグワーツの事件をどう思っていらっしゃるのかしらね。まだ新聞にも載っていないのよ」

「おおかた、ダンブルドアが圧力を掛けているんだろうな。穢れた血がいくら石になろうが、僕らにとっては歓迎すべきことでしかないが、奴にとっては致命的だ。父上はいずれダンブルドアを排斥するだろう」

「今回に関してはお父様もカンカンなの。どこからか事件のことを聞きつけてきて、絶対関わるなって念を押されたわ。冬休みも帰ってくるよう厳命されてたんだけど、勝手に残ったから学年末どれほど怒られるか考えたくもないわ……」

「父親の命令を破ったのか!?」

 ドラコが愕然とした。

「まさか……。よく君の親は許したな。僕の家だったら……」

 背筋に走る悪寒に、ドラコが小さく震える。

「わたしに甘いお父様でも今回ばかりは大激怒よ。吠えメールを送ってきそうな勢いだったわ。でも手紙を無視していたら全く来なくなったの。沈黙が何より恐ろしいわ……」

 

 軽く朝のプレゼントを見たが、母親のアナスタシアと弟のメロウからのプレゼントはあったが、父親からはなかった。カードすらない。怒りのほどが窺えるというものだ。

 怖いし、悲しいけれど、ちょっと爽やかなワクワク感も感じた。

 親に反抗するのは初めてだったし、ヨシュアはシャルルを今までずっと箱庭の中で色々なことから隠してきた。手を離れた今、少しくらい抗議したっていいはずだ。

 親の心子知らず、ヨシュアの心配する気持ちをよそにシャルルはそんなふうに考えていた。

 

 

 部屋に戻り、プレゼントの山をシャルルはひとつひとつ確認して行った。アナスタシアからはマリア・クロスの新作の洋服とハーブティー、メロウからは自分で調合した簡単な魔法薬だった。会えなくて寂しいとつらつらカードに書いてあって、少し胸が痛む。去年あげた魔法薬キットで体調を治す薬を作ったから、風邪に気をつけてお過ごしくださいと、昔よりずいぶん上手になった字で書かれていた。

 パンジーからはカチューシャやバレッタが数個贈られてきた。彼女はシャルルの艶やかな長い黒髪が好きで、色んな髪型をさせるのを楽しんでいる。ダフネは香水、トレイシーはシャンプーセット、セオドールからは絶版している古い呪文の本──おそらくノット家に保存されていたもの──、ザビニからは水色の花束とオルゴール。ミス・サファイアへ、と書かれたカード付きだ。

 他にもネビルやパチル姉妹、ブラウン、ボーンズ、パーシー、ディゴリー、スリザリンの先輩などからカードやお菓子が贈られてきている。

 

 ある程度整理して、シャルルは机に向き直った。お礼のメッセージカードを書いて、レターセットを取り出す。シンプルな花柄の手紙はジニーに宛てたものだ。

 彼女に送ったクリスマスカードとは別に、「荷物を全部ひっくり返してみたけれど、やっぱり黒い手帳は見つからなかったの。期待に添えなくてごめんなさい。でも探すのを手伝うわ」と雑談も添えて文字にしたためる。これを機に彼女と文通が始まれば万々歳だ。

 

 羽根ペンを置き、黒い日記帳を眺める。相変わらず手帳には何も書かれてはいない。中を見られたくないと言っていたから、ジニーは絶対、中に何かを書いたはずだ。1年生が使える隠蔽呪文などたかが知れているから、シャルルに分からないはずがないのに、未だに日記帳の謎は解けないままだった。

 

 シャルルは何度も日記を眺め、意味もなくページを捲って、表紙の文字を読んだ。T・M・リドル。

 裏表紙にはおそらく店名のようなものが書いてある。でもロンドンしかシャルルには分からなかった。

「オックスフォードタイムス……ロンドン、ボグゾール通り……。行ってみたら何か分かるのかしら」

 無意識に独り言を呟くと、向かいのベッドからパッと動く音がした。レイジーがビックリしたように見つめている。いることに気付かなかった。彼女を視界と意識の外に置くことに慣れすぎていたせいだ。

「何?」

 怪訝そうにシャルルは尋ねた。うろたえる彼女が、オロオロと視線をさまよわせている。

「どうかしたの?」出来るだけ優しそうな声を出す。レイジーがおずおずと首をすぼめた。

「あの、今、オックスフォードタイムスって……」

「知ってるの?」

「はい……あの、」

「本当!?」

 シャルルは瞳を輝かせ、前のめりになった。まさかこんな近くにヒントが転がっていたなんて。

「はい……オックスフォードタイムスは、マグルの新聞雑誌店の名前で……ボグゾール通りには行ったことがあるので……」

「マグル?」

 反射的に鼻に皺が寄る。まさか、これはマグルの……。手の中の黒い手帳が一気に小汚く感じる。いや、でもこの手帳はジニーが持っていたし、魔法がかけられている。元の持ち主……T・M・リドルがおそらくマグルの店で買ったのだろう。それならリドル姓に聞き覚えがないことにも納得が行く。おそらく彼はマグル生まれのスリザリン生だったのだ。

 どうやってウィーズリー家の手に渡ることになったかは分からないが、50年もあれば、人から人へ渡るのも不思議ではないのかもしれない。

 

「そうなの、ありがとうレイジー」

「い、いえ」

 肩を固くしてレイジーはお礼の言葉に恐縮しきった。シャルルは彼女をじっと眺めた。

 自分のベッドで息を潜めるようにして、肩身の狭い生活を送るレイジー。いくらシャルル達に重用されることで優越感を感じていると言っても、休みの間まで召使いの立場に甘んじたくはないはずだ。

 その上この騒ぎが起きている。他のマグル生まれや混血の生徒は怯えきっていて、スリザリン生でも例外ではなかった。

 

 シャルルは日記を無意識に弄びながら、レイジーに問いかけた。

「ねえ、どうして帰らなかったの?」

「わ、わたしですか?」

「あなた以外にこの部屋に誰か見える?」

 呆れたように笑い、目を回す仕草をすると、彼女はビクビク肩を揺らす。今まで彼女に酷い行いをしたことはないはずなのに、何故かレイジーはいつもビクビクしている。

「そんなに怖がりなのにホグワーツに残るなんて。継承者が怖くないの?」

「……それは……。すごく恐ろしいです……」

 ぽつりと捻り出したようなレイジーの声音は影のように暗く、拳を握った手が僅かに震えている。なのに、何故?そう口を開く前にレイジーが湿った恨みの滲む、しわがれた声で吐き捨てた。

「でも、家に帰るより、継承者に殺された方がよっぽどマシです」

「……。そうなの」

 レイジーの澱んだ瞳がぬらっと不気味に光った気がして、少し圧倒された。ベッドの周りは、痛々しいほど広々としている。

 親と関係が良好じゃないのかもしれないわね。恐怖よりもマグル界に戻る方が嫌だなんて、やっぱり彼女はスリザリンに選ばれただけある。

「じゃあ、良い休みを過ごさないとね。自由を満喫できるうちに」

「はい」

 明るく軽快に言ってみせると、強ばっていたレイジーの表情がふっと緩んだ。シャルルが圧された不気味さは消え、ほんの少し微笑んでいる。無意識に固くなっていた肩から力が抜けるのを感じ、シャルルも微笑みながら、まさか彼女に威圧感を感じるなんて、と少しの悔しさと感心を感じていた。

 

 



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29 帰ってきたトレイシー

 

 夕食が終わってもテーブルに齧り付いている2人を置いて、シャルルとドラコは談話室に戻ってきた。

「純血」

 透き通る硬質なブルーの声が石壁に反響し、扉が現れる。「いい合言葉だわ」「ずっとこれでいいのに」ドラコがうなずいた。

 防衛面の影響で、純血という言葉は年に数回しか使われない。わざわざスリザリン生のはびこる湖近くの地下回廊にやってくる他寮生は滅多にいないのだから、そんなに頻繁に変えなくてもいいのに。

 

 煌々と燃える暖炉の前に座り、レイジーがアフター・ディナー・ティーの準備を始めた。スリザリンに入ってからお決まりになった友人同士の習慣で、たいていはドラコ達とパンジーが楽しんでいるが、シャルルやダフネ、セオドールもたまに参加していた。

 洒落た雰囲気を重視するザビニも違う場所──よく集まっているのは湖がよく見える窓際の大きなソファ──でお茶を楽しんでいるのを見かける。シャルルはあまり参加したことは無いが、ザビニとの交流をもっと深めるために、ザビニの派閥にも近付いた方がいいかもしれない。

 

 繊細なカップからアップルのフレーバード・ティーの湯気がくゆっている。ゴイルとクラッブを待ちながら、シャルルは課題の資料を広げ、ドラコはソファに背中を緩く預けて届いたばかりの手紙を開いた。

「2人、遅いわね」

「ああ……いつまで食べてるんだか」

 興味の無さそうに答えたドラコが、突然「ブハッ!」と吹き出して身体を起こした。腰を折って「なんて愉快なんだ!クッ……」と震えている。

「どうしたの?」シャルルは呆気に取られた。ドラコは手を挙げて制止し、食い入るように新聞の切り抜きを眺めた。少し待っても彼は紙面から目を離さない。シャルルが溜息を着くと、

「いや、すまない。あまりにも笑えるものでね……フハッ!これはあいつらにも共有してやった方がいいな。戻るまで少し待ってくれ」ともったいつけた。ドラコのプルプル口元を引き攣らせる横顔を胡乱に睨む。

「いちいち気になる物言いをするんだから……」

「父上の薫陶の賜物だよ。君はせっかちだから分からないかもしれないけど」

「わたしはスマートな結果を好むのよ」

 ザビニにも言われたことを、小さな蛇に指摘されてうんざりする。ドラコはうずうずしていた。しばらく待っても2人は戻ってこない。

 痺れを切らした彼が「迎えに行ってくる」と立ち上がった時、ようやく談話室に2人が現れた。

 

「遅かったじゃないか……って」

 にこやかなドラコの顔が怪訝に固まった。大柄な2人の後ろから、おずおずと小柄な影が現れた。

「トレイシー?帰ったんじゃなかったの?」シャルルも素っ頓狂な声をあげた。

「用事を思い出して戻ってきたの」

 素っ気なくトレイシーが肩を竦めた。

「用事って?」

「家の関係で少しね。もう済んだから気にしないでちょうだい」

 なんてことの無い澄ました声音で、しかし踏み入らせないような態度でトレイシーが笑い、ドラコの隣に腰を下ろした。突っ立っている2人はドラコに促されて、モゴモゴしながら向かいのソファに座った。

 戸惑うシャルルとドラコに、トレイシーは「本当に気にすることないわ、それより何を話してたの?」と話を振った。彼女は何か凛とした空気をしていて、それ以上尋ねるのは気が引けたが、シャルルは妙な違和感に囚われた。しかしドラコが喜色を浮かべ、楽しそうに「実は見せたいものがあるんだ。父上が送ってくれたばかりでね──」と話し始め、シャルルの意識もそっちに持っていかれた。

 

 ドラコがテーブルの真ん中に日刊予言者新聞の切り抜きを置いて、シャルル達は覗き込んだ。記事にはこう書かれている。

 

【魔法省での尋問】

 マグル製品不正使用取締局、局長のアーサー・ウィーズリー氏は、マグルの自動車に魔法をかけた件で、本日、金貨五十ガリオンの罰金を言い渡された。ホグワーツ魔法魔術学校の理事の一人、ルシウス・マルフォイ氏は、本日、ウィーズリー氏の辞任を要求した。

 

「まぁ!」口から驚きが漏れる。

 アーサー・ウィーズリー氏の記事だ。ルシウス氏のコメントも載っている。ドラコは満足そうにニヤニヤしているが、シャルルは同情してしまった。ただでさえ貧乏で子沢山で名誉もないのに、50ガリオンの罰金だなんて、さらに生活が苦しくなってしまうだろう。もしルシウス氏の要求通りに魔法省の辞任なんて結果になったら、路頭に迷うことは確実だ。

 ゴイルとクラッブは記事が理解出来ないのか当惑した目付きをしているが、トレイシーは目を見開いている。

 

「どうだ?」ドラコが急かした。「笑えるだろ?」

 クラッブとゴイルが笑った。いつもより控えめな笑い声だったような気がするのは、気のせいかもしれない。トレイシーも「ほんと、最高に笑えるわ」と肩を揺らした。シャルルにはその顔が無理をしているように見えた。

 違和感を探るよりも前に、ドラコが蔑んだ声で言った言葉に気を取られ、顔を上げる。

 

「アーサー・ウィーズリーはあれほどマグル贔屓なんだから、杖を真っ二つにへし折ってマグルの仲間に入ればいい」

 ムッと眉が寄る。

「杖を折るだなんて、あまりにも侮辱的よ。ちょっとした法律違反くらいで……」反論すると、うんざりしたようにドラコが眉を跳ね上げさせてわざとらしい溜息をついた。

「また君のお決まりのあれかい?君は血を裏切る者にも大層寛容なようだからねぇ?」

「彼は聖28一族だわ。ちゃんとした魔法族の誇りを持ってるはずよ」

「あいつのどこをどう見たらそう思えるんだ?」

「だって、本当にマグルを尊重する気があるならもっとやりようがあるでしょ?彼はちょっと自分の知らない文化を突っついて、面白いおもちゃをいじくってみたいだけよ」

 彼がつまらなさそうに鼻を鳴らす。

 

「それが問題なんだ。ウィーズリーの連中の行動を見てみろ。ほんとに純血かどうか怪しいもんだ」

「ドラコ!」

 シャルルは非難の声を上げた。思想や好奇心がちょっと純血らしくないからといって、きちんとした血筋を軽んじるなんて!

 いつもならここで、クラッブとゴイルが笑うところだったが、クラッブの顔が大きく歪んでいた。

「クラッブ、どうかしたか?」不機嫌なドラコがぶっきらぼうに問いかける。

「腹が……痛くて」

「ああ、それなら医務室に行け。あそこにいる穢れた血を僕からだと言って蹴飛ばしてやればいい」

 嘲笑的にクスクス笑う。しかしやっぱりゴイルもトレイシーも追従しない。彼は気にしていないようだが、シャルルはトレイシーの様子が気になった。

 

「しかし、モリー・ウィーズリーの品の無さには笑えるな。家のグールをけしかけると来たもんだ」

「グールって本では読んだことあったけど、本当に屋根裏に居着くのね。うちにはいるのかしら?見たことないけれど」

「そりゃあいるはずないじゃないか?」ドラコは不機嫌も吹っ飛んでせせら笑った。

「僕たちのような、きちんと手入れされた屋敷にそんな生き物が住み着く隙はないよ。ウィーズリーの犬小屋は、狭っ苦しい上に、屋敷の管理も満足にできないほど小汚いんだろうさ。あの家の子供を見れば一目瞭然だろ?」

「ハウスエルフが怠慢だってこと?信じられないわ、首になってもおかしくないわよ」

「何言ってるんだよ。あの家にハウスエルフを雇う余裕があるもんか」

 シャルルは数秒理解に時間を要して、愕然とした。そうか、考えが及ばなかった。ウィーズリー家は貧しいから、ハウスエルフがいないのだ。魔法族の古い家には彼らがいるのが当たり前だったから、ウィーズリーも同じだと無意識に思っていた。

「あんなに長い歴史を持つ家だからてっきり……。それじゃあもしかして、ウィーズリー夫人は使用人の仕事を自分でやってるのかしら」

 食事作りや洗濯、掃除、子育て、子供たちの教育や躾、その他もろもろの雑用を?

「何を今更。あいつらの着ている服と来たらボロみたいなのばっかりで、教科書や杖もお下がりだ。双子なんかが学校で小遣い稼ぎしなきゃロクに暮らせもしないんだぞ」

「そこまで困窮していたなんて……。それじゃ、今回の罰金は本当に致命的じゃない。可哀想だわ」

「身から出た錆だね。父親が愚かじゃなければもっと魔法省でいいポジションにつけただろうに。大っぴらにマグル愛好を口にして孤立して、そのとばっちりを子供が受けてるんだから、全く大した父親だよ」

「たしかにそうね……。自分の趣味に子供を付き合わせるのは、賢明とは言えないわね」

「だろう?その上マグル保護法だとかいう馬鹿げた起草案を提出してるらしいじゃないか。父上は休みの間ずっとそれについて愚痴ってたよ」

 

 それはヨシュアも話していたことがある。仕事の話は基本シャルルに聞かせてくれないが、仕事相手の人と暖炉や連絡用の鏡で話しているのや、アナスタシアと話しているのを耳にしていた。

 マグル保護法。嫌悪感を掻き立てる響きだ。

 提出者がウィーズリー氏だということを、シャルルは今初めて知った。

 

「マグル保護法って一体何なのかしら?ただでさえ魔法族はマグルから身を潜めて肩身の狭い生活を強いられているのに、さらにマグルを『保護』してさし上げるのかしら?」

 厭わしさに軽蔑的な声音になる。ドラコが嬉しそうな顔をした。アーサー・ウィーズリーがいくらマグルを好きでも、個人の趣味の範疇なら好きにしたらいい。でも魔法族に押し付けるのは顰蹙を買って当然だ。

 ふと横から強い視線を感じた。トレイシーが、怒りとも、悲しみともつかない表情でシャルルを睨んでいる。

「トレイシー?」困惑して尋ねると、彼女はハッとして頷いた。

「その通りね、シャルル。ウィーズリー氏は何をお考えなのかしら」

「お考え?」

「いえ、その……つまり、さすが素晴らしい法案をお考えになってくださったことだわね。そうでしょ?」

 痛烈な皮肉にシャルルは上品に口を抑えた。「まったくね」

 

「まぁでもこの法案が通るのはありえないだろうね。父上が動いているし……」

 語尾を途切れさせたドラコの言葉をシャルルが引き継ぐ。

「お父様も当然許さないわ。お父様は法執行部に顔が利くのよ」

「ファッジも名家の支持を失ってまで可決することはない」

 ドラコとシャルルは満足そうに微笑み合った。

 

「それにしても、日刊予言者新聞がこれまでの事件を報道していないのには驚くよ」

 この話題はスリザリンの中で何回も繰り返されていることだった。

「高潔なダンブルドア校長は、よっぽど保身が大切なようね。生徒の安全や正しい情報より自分の方が可愛いだなんて、素敵な騎士道精神だわ」

 シャルルは上品に紅茶に口をつけた。世間的にダンブルドアはまさしくグリフィンドール的な素晴らしい正義感を持った人物だと思われているが、彼はむしろスリザリン的だと感じる。去年、シャルルの憎悪の視線を面白そうに受け止めて見下した時の態度や、政治的手腕、自分をよく見せることの出来る人脈と名声、白々しさ。非常に狡猾であることは疑いようがない。

 ダンブルドアのことは大嫌いだが、その狡猾さと知性は好ましい要素だ。そしてだからこそ、その偽善者っぷりと、好々爺っぷりの面の厚さに嫌悪感を感じてしまうのだが。

 

 ドラコが考え深げに言った。

「いい加減、こんなことがすぐお終いにならないと、校長の座にしがみ続けられなくなると分からないものだろうかねぇ?父上は常々ダンブルドアはホグワーツの癌だと仰る。彼はマグル贔屓だ。きちんとした校長なら、あんなクリービーみたいなクズのおべんちゃらを入学させたりしない」

「クリービー?」

「石になった穢れた血さ!ポッターの周りをいつもうろついてるチビだよ」

「ああ、サイン入りの写真?」

 別に皮肉や嘲笑の意図はなく、クリービーとやらで聞き覚えがある騒動がそれだったので言っただけだけれど、ドラコは喜びを顔にみなぎらせ、生き生きとカメラを構える仕草をした。

 

「ポッター、写真を撮ってもいいかい?ポッター、サインをもらえるかい?君の靴を舐めてもいいかい?ポッター?」

 シャルルは思わず突き飛ばされたような笑い声をあげた。淑女らしくあろうとなんとか口を抑えるが、しつこく喉のところでくつくつ笑いが溢れた。

「君がそこまで笑うなんて珍しいな……。そ、そんなに今のが面白かったか?」

 照れ臭そうにドラコがしおらしくなった。それを見てシャルルはますますクスクスした。

「だって、似てるのもそうだけど……」シャルルは目尻を拭った。

「あなたがモノマネするって、なんだかおかしくって。意外とノリがいいわよね……ふふっ」

「おい、バカにしてるだろ?」

「いやだわ、そんなことない。ただかわいいわねって」

「かっ……」絶句して、火がついたように赤くなった。シャルルを睨んでも、未だに彼女は笑っている。理由がどうであれ、シャルルの笑いのツボに入ったのは嬉しいし、照れ臭いが、その理由が子供扱いのようで気に食わず、ドラコは複雑な感情で拗ねたように溜息をついた。

 

「まったく……。それより継承者の件だ」

 気を取り直して、ドラコはコホンと場を沈黙させるパフォーマンスをした。ゆっくりと厳かそうな声を作る。

 

「聖ポッター……穢れた血の友」

 

 シャルルもトレイシーも、じっと自分を見つめるのに満足し、ドラコは続ける。

「あいつもマトモな感性なんか持っていない。でなければ、あの身の程知らずのグレンジャーなんかと付き合ったりするものか。それなのに、皆あいつが継承者だと考えている」

「子供というのは視野が狭いから、仕方ないわ」

 自分も子供のくせに、妙に悟ったふうな表情でシャルルが同意した。

「ポッターの交友関係を見れば、彼が反純血主義思想を持つのは分かりきっているし、その上彼の両親は……。少し考えたら分からないものかしらね」

 同情的なシャルルにドラコが鼻を鳴らした。

「僕はポッターがスリザリンの末裔だという意見もどうか分かりゃしないと思うけどね」

「ポッターはパーセルタングを話したわ!それだけで、サラザール様の尊い血をどこかで継いでいるという根拠になり得るわよ」

 ウンザリと首を振る。「君とその件について議論する気は無い。だが、継承者がポッター以外にいるという結論を同じくするのは変わらない」

「そうね……」

「はぁ、一体誰が継承者なのか、僕たちが知っていたらなあ。喜んで協力を申し出るのに」

 シャルルは深く首肯した。ホグワーツの生徒を襲撃するかは別としても、その血筋や目的をもっと直接的に手助け出来るかもしれない。その時、ずっと黙っていたゴイルが口を挟んだ。

 

「誰が陰で糸を引いているのか、君に考えがあるんだろう──?」

 

 シャルルは奇妙な表情でゴイルを見つめた。彼にしては、なにか、知性のある言い回しだと思ったのだが……ドラコは気にした風もなく素っ気なく答えた。

「いや、ない。ゴイル、何度も同じことを言わせるな」

 この件に関して、3人は何回か話し合っていたらしい。

 ドラコはチラッとシャルルを見て、唇をニッと釣り上げた。

「だがシャルル、新しい情報は父上から手に入れたぞ」

「ほんとう!?」

 シャルルは途端に目を輝かせて、ドラコの顔にくっつきそうな程前のめりになった。バラ色の頬と潤んだ瞳にパッと顔を逸らし、動揺を隠すようにいかめしい表情を作る。

 

「どうやら、秘密の部屋が開かれたのは初めてではないらしい。でも詳細については、前回部屋が開かれた時のことも、まったく話してくださらないんだ」

「以前にもサラザール様の末裔が?」

「おそらくはね」

 ヨシュアはシャルルに本当にまったく情報をくれない。情報を握るとまるで危険がシャルルを攫ってしまうかのように、口を閉ざし、シャルルを無知でいさせようとする。

 だから、部屋についてわずかでも新しい情報が得られたことに、ゆっくりと興奮が広がっていく感覚がした。

 

「もっとも50年前だから、父上の前の時代だ。でも、父上はすべてご存知だし、すべてが沈黙させられているから、僕がそのことを知りすぎていると怪しまれるとおっしゃるんだ。でも、一つだけ知っている。以前秘密の部屋が開かれた時、穢れた血が一人死んだ。だから、今度も時間の問題だ。あいつらのうち誰かが殺される。グレンジャーだといいのに」

 ドラコは残酷な表情で唇を舐めた。

「50年前……」

 自分の中で、何かが引っかかってシャルルは呟いた。何かがもう少しで、点と点で繋がりそうな気がする。

 

「前に部屋を開けた人はどうなったの?逮捕されたの?今も生きているかしら?」

 早口でトレイシーが質問した。彼女の顔は緑色の照明に照らされて青ざめて見えた。

「ああ、ウン……誰だったにせよ、追放された。たぶんまだアズカバンにいるだろう」

「アズカバン?」

 ギョッとしてシャルルとドラコはゴイルを見つめた。「アズカバン──魔法使いの牢獄だ」ドラコの顔は、信じられない、と物語っているが無理もない。シャルルも信じられなかった。だってゴイルとクラッブの父親は、ルシウス氏と同じ……。去年の件を受けて、図書室で過去の新聞の記事や、当時の情勢や、疑いのあった『例のあの人関連』のことを少しずつ調べている。ノットからも話は聞いていた。彼らは自分の父親のことを知らないのだろうか。一歩間違えば今頃アズカバンにいたかもしれないのに。

 

「何にしても、50年前ホグワーツで生徒が死んだなら、調べようはあるはずよね。でも、あんまり詮索していて、継承者が気分を害したりしないといいんだけど」

 自分だったら、ウロチョロつついてくる散策好きの輩にいい気はしないということに思いついて、シャルルは弱気になった。

「シャルルは……」トレイシーが緊張したように唇を舐めた。「シャルルは継承者を見つけてどうしたいの?マグル生まれを殺すのを手伝いたいと思ってるの?」

「うーん、それはどうかしらね」

 ドラコもトレイシーもきょとんとした。少しばつが悪くなる。

「もちろん、継承者を邪魔するつもりなんかないのよ?でも、石にするにしても、殺すにしても、このままじゃホグワーツはいずれ閉鎖だし、怖がってマグル生まれの生徒なんかは戻ってこないかもしれないわ」

「別に大歓迎じゃないか。何が問題なんだ?」

「そりゃ、短期的に血の粛清は出来るけど、魔法界に居場所が無くなったマグル生まれが、マグルと結婚するかもしれないわ。そしたら結局、魔法族の血が穢れた血に混じることになっちゃう」

 ドラコは釈然としていない様子だ。魔法族がマグルに交じって血を交わしたら、結局マグル生まれの生徒が増えるだけで、本末転倒だとシャルルは思う。

「それにダンブルドアの監視の中で、ここまで派手に行動するのは危険だわ。もっと有意義な暗躍の仕方があると思うの」

「例えば?シャルルはどう考えてるの?」

「そうね……。例えばもっと穢らわしい存在……デミヒューマンを先に襲うとか……もしホグワーツの怪物が外にも出れるなら、マグルの世界に放すとか?」

 大したことは思い浮かばないわね、とシャルルははにかんだ。もちろん継承者も色々考えた上で行動しているのだろうし、ホグワーツに拘るのも理由があるのだろうから、自分のような無知な子供が偉そうに言える立場ではない。気恥ずかしくなって肩をすぼめるのを、トレイシーが愕然と見つめていた。

「……ゾッとするわ……」トレイシーが小さく何かを呟いた。

「えっ?」

 聞き返したが、彼女はパッと俯いた。

 

「どっちにしろ、継承者が分からないんじゃ、何もしようがない」ドラコが言う。

 

「父上は、僕は目立たず、継承者には好きなようにやらせていろと仰るんだ。この学校に穢れた血の粛清は必要なことだって。でも関わり合いにはなるなってね。それに父上は今お忙しい。ほら、魔法省が先週館の立ち入り調査をしただろ?」

 ドラコは少し不安そうに体を揺らした。結果が良くなかったのだろうか。ルシウス氏の政治的手腕は確かなはずだし、魔法省にも絶大な影響力を持っているはずだけれど……。

 背中に手を置いて、シャルルは寄り添った。

「調査は大丈夫だったの?」

「ああ、もちろんだ。大したものは見つからなかった。充分揉み消せる範囲のものしか……父上は非常に貴重な闇の魔術の道具をいくつも持っているんだ。応接間の床下に、我が家の秘密の部屋があって──」

「ホー!」

 突然、嬉しそうな声が響いた。

 

 そしてクラッブとゴイルが立ち上がって走り出した。「おい、どうした!?」ドラコの怒鳴り声に、「胃薬だ」と怒鳴り声が返ってきて、「2人を医務室に連れていくわね」とトレイシーもバタバタと追いかけて行った。

 その場に残されたドラコとシャルルは、呆気に取られて顔を見合わせた。

 

 



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30 魔女として生きること

 

 トレイシーは戻って来なかった。

 クラッブとゴイルはいつものボーッとした顔で遅くに戻って来たが、「トレイシーは?」と聞いても首を捻るばかりで分かっていないようだった。

 次の日の朝も見かけず、そのまま帰ったのかもしれない。

 

 シャルルはトレイシーに「あの後家に帰ったの?突然戻って来るから驚いたわ」と様子を伺う手紙を送ることにした。一晩経ち、やっぱりトレイシーの様子がおかしかった気がしてきたのだ。

 さらにジニーから手紙の返事が返ってきた。彼女の方でも手帳は見つけられなかったらしい。随分気落ちして焦っている様子だった。

 シャルルは励ましの言葉を書いた。

 この手帳が本当に大事らしい。ジニーに対して同情するし、申し訳なく思うのに、なぜか返そうとは思えないのが自分でも不思議だった。シャルルは泥棒じゃない。高貴な品性を持っている自負があるし、ジニーは純血だ。

 

 自分の心の変化にシャルルは困惑していた。

 情報の価値は知っているが、何かに執着するたちではない。知的好奇心は旺盛だが、品位を貶めるような真似はしない。

 まるで自分の心が自分で制御できなくなったみたい。

 うっすらとしたモヤのようなものが、自分のそばに忍び寄っているような気がして、シャルルは馬鹿げた考えを振り払うように頭を振った。

 

 

「最近、よく開いてるそれは何なんだ?」

 ドラコに指摘されてシャルルは手元を見た。図書室帰りに談話室で教科書を開いている時だった。手に黒い日記帳がある。

「君がいつも読んでる黒い本とは別だろ?チラッと見えたが、中に何も書いてないし、かと言って何か書き込むわけでもないし」

「……」シャルルは少し震える声で尋ねた。「わたし、そんなにこれを開いてるかしら?」

「ああ。1日に2、3回は」

 指先がゾッと冷たくなった。

 シャルルは急に立ち上がって机に開いていた本たちを片付け始めた。「突然どうしたんた?」「ごめんなさい、部屋で休むわ」「体調が悪かったのか?医務室に……」

 首を振って寝室に駆け込んで、ベッドの上に日記帳を投げつける。パラパラとページが開いた。沈黙を保つ日記帳。やっぱりこれはおかしい。

 

 この日記帳には確実に闇の魔術が掛けられている。シャルルはようやく気づいた。ジニーの秘密を暴きたいわけじゃないのに、どうしてもこの手帳を手放したくなかった説明しがたい心の変化は、闇の魔術によるものだったのだ。

 ジニーは所有者じゃないのかもしれない。

 彼女の酷く焦った顔を思い出す。彼女は消耗していた。中を見られることへの焦りや、闇の魔術の品への焦りではなく、この異様な求心力に囚われた結果だったのかもしれない……。

 

 指先が少し震えるのを感じた。シャルルは腕を擦った。闇の魔術は恐ろしく、深淵で、魅力的だ。あからさまに効果のある呪いの品ならばこんなに薄気味悪く感じなかったかもしれない。

 理由がない上に、何も働きかけていないのに精神にジワジワと干渉してくるこの日記帳が、とても気持ち悪く恐ろしいのに、ジニーに返すことを考えると心の中の自分が抵抗しようとするのを感じる。

 

 真っ白なシーツの上で、日記帳が佇んでいる。

 シャルルは抵抗に抗い、杖を構えた。

「インセンディオ」

 一瞬日記帳が燃え上がった。シーツに炎が広がり、蛇の舌のような炎がチロチロ舌なめずりをして、黒煙が上るが、日記帳は炎の中で明確に輪郭を保って佇んでいる。

「アグアメンディ」

 火を消して日記帳を手に取っても、黒革には焦げひとつ見当たらない。手に入れた時から変わらないボロで古臭い手帳のままだ。

 レパロでベッドの焼け跡を直し、シャルルはどさりと座り込んだ。スチュアート邸に闇の魔術品はあまり置かれていない。地下深くに隠されている。だから本物を見るのはほぼ初めてだった。

 黄ばんだページを最初から捲り、表紙の「T・M・リドル」の文字をなぞる。

 

 手帳をベッドに投げ捨てて、シャルルは立ち上がった。

 先ほどから奇妙な寒気がして、鳥肌が立っている。自分が恐怖と畏怖を感じていることを恥じた。悔しい。自分がまだたった12歳であり、相応の精神力しか持っていないことが悔しい。

 タオルを持ってシャワールームに向かう。

 温かいお湯を浴びて、怯えを拭い去りたかった。

 

*

 

「きゃっ!」

 シャワールームの扉を開くと、下着しか身に纏っていないターニャ・レイジーの姿が飛び込んできた。シャルルは慌てて扉を閉めようと思ったが、レイジーの裸体を見て目が離せなくなった。

 彼女は全身から血を抜いたように、サーッ……と音が出るほど青ざめ、呻き声を上げて震えている。

「スチュアートさん……あの、こ、これは……」

 

 シャルルは呆然としたまま扉を閉め、怯えと罪悪感のようなものを浮かべるレイジーの元に近づいていった。ギクリと彼女が後ずさる。

 レイジーの裸を初めて見た。

 棒切れのような今にも折れそうな手足、肋が浮き出しそうなほど不健康に痩せた身体、身体中に残る無数の傷痕。中でも酷いのは背中だった。抉れるような小さな無数の丸い火傷の痕や、まるで熱湯をかけられたような広範囲の火傷が広がり、黒紫や赤紫色に変色していた。切り傷のようなものや、色んなところに青紫色の痣もある。

 彼女に触れようとしたが、あまりにも彼女の全身は痛々しく触れるのを躊躇った。まだ痛むかもしれない。

 

「これ……どうしたの?」

 レイジーは震えながら俯いていた。彼女は怯えている。シャルルはしゃがみこんで、彼女の細すぎる肩にそっと手を置いた。

「一体誰にやられたの?グリフィンドール?まさか、あなたを蔑視するスリザリンの誰かとか?」

 

 胸の中に怒りの業火がグワッと燃え広がっていた。激しい怒りが襲ってきて、抑えるのが困難だった。ターニャ・レイジーはシャルルとパンジーが認めた子分だ。シャルルのメイドに誰かが陰でこんなに陰惨な仕打ちをしただなんて到底許せない。絶対に許せない。

 シャルルが激怒していることにレイジーはますます怯え、泣きそうな声で「申し訳ありません」と呟いた。

 あわてて優しく宥めるような声を出す。

 シャルルはレイジーに怒っているわけではないし、レイジーが謝る必要もこれっぽっちもない。悪いのはレイジーに手を出した人間だ。

 

「謝らないでいいのよ。あなたは何も悪くないわ。あなたはこんな仕打ちをした人間の名を明かしたくないのね?」

「……」

「分かったわ。無理に明かさせるつもりはないから安心して。じゃあ、とりあえず医務室に行きましょう……マダム・ポンフリーは事情に踏み込まないで治してくれる人よ」

 おそらく、加害者に脅されているのだろう。眼球の裏が焼け付くような気がしたが、シャルルは抑えた。

「いえ、医務室は……」

 か細い声でレイジーが答えた。

「行きたくない?でも痛むでしょう。こんな……酷い……。でもこの傷もマダムなら綺麗に消してくれるはずよ」

「消えないんです」

 惨めさに満ちた声だった。

「魔法でも消せないんです……もう古くなって、治りきってしまった傷なので……」

 

 驚いて、シャルルはレイジーの傷をまじまじと見た。たしかに傷痕には血が滲んでいるところもなく、古くなって治った後にまた傷つけられて治り、そんなふうに何度も痛みと自然治癒が繰り返されてきた傷だった。

 

 シャルルは拳をブルブルと握りしめた。

「なんて惨いことを……!いつからこんな風に痛めつけられてるの?入学してすぐから?」

 怪我をしてすぐ医務室に駆け込めば、綺麗になったかもしれないのに、レイジーは一人で耐えて治るまで抱え込んでいたんだろう。そしてまた痛みを受けたのだ。

 残酷で醜悪な仕打ち。

 加害者に同じことをやり返してやらないととても気が済まない。それでも足りないくらいだ。

 入学してすぐに、レイジーはシャルルとパンジーの子分としての地位を確立していたし、シャルルが宣言したことによって表立って口さがない悪口をぶつける人は聞かなかった。レイジーはマグル育ちのハーフマグルだから、そりゃあ陰では色々言われているだろうし、好いている人もいないだろうが、こんなことをしてくる人がいるだなんて思いもしなかった。

 これはスチュアートへの敵対行動だ。

 レイジーだけの問題ではなく、シャルルの問題でもある。

 

 しかし彼女は、かつてないほど怒りの波動を発しているシャルルに怯えながらも、口を閉ざしたままだった。これも言いたくないらしい。

 もどかしくて仕方ないが、肉体的のみならず、精神的にも傷ついているレイジーに詰問するなんてありえない。

 

「そう、無理に聞いてごめんなさいね」

 シャルルの謝罪にレイジーは顔を跳ね上げた。卑屈な瞳が丸くなっている。あまりにも憐れで、痛々しいレイジーにシャルルは急激に同情心と労りと愛おしさが湧いてきて、ほんの少し鼻の奥がツンとした。

 

「可哀想に……ターニャ……辛かったわね……」

 

 シャルルは感情に導かれるまま、ターニャの頭を抱え込んだ。肩に顎を乗せて、できるだけ傷に触れないように手を回し、髪を撫でた。くすんだ赤毛はガサガサに傷んでいて、抱き締めた身体は枯れ枝のようだった。

「ヒッ……」

 身体を硬直させていたターニャが、引き攣るような音を立てたかと思うと、急にワッと泣き出した。息も上手く出来ずに、痰と鼻水の絡む、汚い泣き方だった。下手くそな泣き方。

 シャルルはますます力を込めた。

 釣られて涙が滲んできた。

 

「これからはこんなことさせないわ。どこへ行くときもわたしから離れないで。何かされたなら、わたしが守るから……こんな風に1人で痛みを受けないで。あなたはわたしが認めたスリザリンなのよ」

「ヒグッ、うっ、グジュッ……なんで……」

 ターニャは自分の腕をどうしたら良いか分からず、自分の髪を握りしめていた。

「なんでわたしなんかに……っ」

「あなたはこれまでわたしに忠実だったでしょう」

「ううっ、でもわた、わたしは……本当はそんな純粋な気持ちで……」

「分かってるわ。わたし達を利用していたつもりだったんでしょう?そんなスリザリンらしいところもわたしは気に入っていたのよ。気付いてた?」

 シャルルのレイジーの両頬に手のひらを添えて、目を合わせた。充血した褐色の瞳が揺れ動いている。

 シャルルは月明かりのように微笑んだ。

 いつの間にか、自分がレイジーをパンジーのものではなく、自分のものとして所有している気になっていたことに気付いた。

「全部分かっていて許したの。あなたはわたしに誠実だったわ。よく尽くしてくれた。だからあなたを守るのは当然のことよ。ターニャ、あなたはわたしのものなんだから」

 

 レイジーはギュッと目を閉じて、大きく喘ぎながら泣いた。

 シャルルは、この子を守らなければ、と強く思った。

 わたしにこんなに尽くしてくれる子が、ひとりぼっちで痛みを受けるようなことが、もう起きないようにしなければいけない。

 

*

 

 

 少し落ち着いてきたターニャに服を着せて寝室のソファに座らせる。

 ハーブティーの準備をしていると、彼女があわてて「わたしが……」と立ち上がりかけたが、それを制して準備を進めた。自分で淹れるのは久しぶりだった。入学してからはいつもターニャがしてくれていたから。

 

 レモンバームティーを飲んで、一息ついたターニャの隣にシャルルも寄り添い、鼻や目の赤くなっている彼女を見つめる。

 シャルルにこんなに優しい眼差しを受けたことの無いレイジーはたじろいだ。

 いつもシャルルは、ターニャにあまり興味が無いような振る舞いをしていた。毒にも薬にもならないターニャが傍にいることを、ただ許しているだけで、ハーフマグルであるターニャ自身に興味はなかったように思う。

 

 嬉しかったけれど、落ち着かないし気まずくて、ターニャは俯いていた。

「あの、ありがとうございます……スチュアートさん……」

「シャルルよ」

 彼女が口を挟んだ。シャルルであることは知っている。戸惑うターニャにさらに続けた。

「シャルルでいいわ」

「えっ……」

 ターニャは驚愕した。シャルルは穏やかに微笑んだ。

「言ったでしょう?守るって」

 また涙腺が緩み出した。カップの中の水面に波が立って、ターニャの陰鬱なくらい顔がぐにゃぐにゃ揺れていた。

「言いたくないなら聞かないわ。でもわたしは、わたしの身内を守る。もう呼び出されても決して行かないで」

 

 ターニャは溢れ出た涙を拭った。

 彼女は誤解している。深く深呼吸しようとしたが、喉が震えた。シャルルの手のひらが肩から腕を慰めるように撫でた。それに励まされ、ターニャはポツポツと語り始めた。

 

*

 

「シャルル……さん……」

 言いづらそうにターニャが呟く。シャルルは無言で、視線だけで続きを促した。

「この傷は…………」

 何かを言いかけてターニャは口を噤んだ。急かさずに、ターニャを撫でて言葉を待つ。

「この傷は……学校の人じゃないんです……。だから、ご心配いただくようなことじゃ……」

 

 ターニャはシャルルが優しくなったのは、同情と、所有物への怒りだと思った。自分のものに手を出されると人は怒る。スチュアート家が軽んじられているような気がしたんだろう。

 だから、ホグワーツでの傷じゃないと分かれば、シャルルは今まで通りの態度に戻るだろうと思ったが、ターニャはそれでも良かった。

 何年も誰かに抱きしめられたり、慈しまれたことがない。だからもう、それだけで良かった。

 

「学校の人じゃない……ってどういうこと?」

「えっ……と……。ホグワーツの前に出来た傷なんです」

「そうだったの……。だから古くなってたのね」

 心が痛む。でも、ホグワーツで誰かに意図的につけられた傷ではないとわかり、シャルルは少し安堵した。

「不躾だったらごめんなさいね。かなり酷い火傷だったけれど、火事や事故にあったの?」

 なんと言えば分からず、ターニャは「いえ」と小さく首を振った。その苦々しい表情にシャルルはピンと来た。火傷だけじゃなく、切り傷も、打撲跡も、裂傷もあった。

 

「もしかしてマグルが……?」

 声が震える。

「マグルは野蛮で攻撃的でしょう?魔女狩りなんて醜悪な歴史もあるわ。もしかして、魔法力を制御出来ずに、マグルに魔女狩りを受けたの?」

 ターニャは呆気に取られ、「魔女狩り……?い、いえ、」と小さく吹き出した。シャルルは一気に力が抜けた。ターニャの口元にはまだ小さく笑みが浮かんでいる。優越感の滲まない彼女の笑顔を見るのは初めてだった。

 いや、ターニャの顔をこんなに近くできちんと見つめること自体が初めてだった。

 

「魔女狩りはもうマグル界ではそんなにないと思います。犯罪ですし……」

「そうなの?」

 ターニャが頷く。「じゃあその傷は?誰かから受けたものなんでしょう?」

 ターニャの顔がサッと曇った。僅かな笑みは消え去り、陰鬱な影がずんと顔に浮かぶ。

 

「これは母が……」

 ──母?

 シャルルは理解に数瞬を要した。ターニャは気付かずに、カップの中を見つめたままポツポツと喋った。

「父が魔法族だったらしいんですが……母は捨てられて……わたしが魔法の力を持って生まれたものですから、父への憎しみをわたしに重ねて、小さな頃からずっと……」

 そこで、ターニャの顔が歪んだ。泣き出してしまうのかと思ったけれど、違う。怒り、憤り、苦悩。そして激しい憎悪。

 

 シャルルは混乱してハーブティーを一口飲み、繰り返した。

「身体の傷を……母親がつけたの?」

「……はい。化け物だと呼ばれて……」

「化け物?」

 シャルルの腹の中にグワッと熱が広がる。

「自分の娘を化け物と呼び、こんなにも痛め付けたの?な、殴ったり……焼いたり……刃物で切りつけたり……」

「餓死寸前まで食事を抜かれたり、暗い棚の中に閉じ込められたり、熱湯を浴びせられたり、バスタブのお湯に顔をつけて溺死させられそうになったり……」

 ターニャは諦めたような声音で続けた。口元が笑っていた。

 

 シャルルは信じられなかった。まだ飲み込めなくて、目が白黒する。

 親が娘を、死ぬ寸前まで痛めつける……。

 想像が出来なくて、でも、先程見たターニャの痛々しくグロテスクな背中の傷や、老人のように痩せ細った身体は、母親が意図してつけたものだと思うと、急激に吐き気がした。

「おぞましい……!」

 シャルルは吐き捨てた。

「マグルってなんておぞましくて醜悪なの?化け物ですって?あなたは誇り高い魔女なのに」

 怒りのあまり言葉尻が震え、目の前が滲む。

 シャルルはターニャを抱き締めた。

「ありえない!自分が産んだくせに、殺しもせず、ただ痛め付けるだけ痛め付けて、こんな……」

 ターニャの腕も背中に回った。

 

「……わたしを魔女だと認めてくれるんですか?」

「当たり前よ……あなたは魔女よ!わたし達は魔女よ」

「グスッ……小さな頃から……この力のことを憎んできました……」

「ターニャ……」

「この力がなければ、普通の子のように愛されたかもしれないって……。でも違うって分かったんです。あの女は、力があってもなくても、わたしを疎んだ……」

「……」

「この力のせいで学校にも馴染めなくて……。ホグワーツから手紙をもらって嬉しかったんです……ようやく居場所が出来るかもしれない。でも違った。わたしはハーフマグルだから……」

 

 吐き出すような苦しみに満ちた声に、シャルルも締め付けられた。

「わたしは魔法界で生きていいんでしょうか……?どこにも居場所は無いけど、マグルには戻りたくないんです……」

「もちろんよ!あなたは魔女だもの!あなたのいるべき場所はここよ」

 腕の中でターニャが頷いた。

「わたしは魔女……わたしは化け物じゃなくて魔女なんです!あんな母親の血が、身体からぜんぶ流れ落ちてしまえばいいのに……」

 

 シャルルの心臓が強く痛んだ。

 可哀想に。可哀想なターニャ。

 彼女は好きでマグルの血が混じって生まれたわけじゃないのに、こんなにも魔女として生きたがっているのに。

 

 マグルのおぞましさと、ターニャへの同情で、シャルルの体内を巡る純血の血が熱く煮えたぎっていた。魔法族が魔法族として生きることも、マグル生まれの子には難しいのだ。

 あまりにも残酷な現実に、シャルルは理由の分からない苦しみが襲ってきて、気付かないうちにシャルルの芯がゆっくりと形を変えだしていた。

 

 



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31 50年前の日記帳

 窓の近くに寄ると、忍び寄るような冷たい空気がたゆたっている。揺れる湖の波紋を見上げると、細い銀色の月光が蜘蛛の糸のように垂れている。

「もうすぐだわ」

 シャルルは嬉しそうに呟いた。

「お茶会の準備を整えますね」

「手伝うわ」

 ターニャに近付くと、困ったように身を捩り固辞する。

「あの、お気持ちは嬉しいですけど……スチュアートさんに」

「シャルルよ」

「あ、と、シャルルさんにそんなことはさせられません……」

「そう?」

 

 シャルルはターニャのことを同情すべき魔女だと思っていたし、マグル育ちのハーフマグルだけど彼女は純血の重みをよく分かっているから、ある程度対等に扱うつもりでいたけれど、シャルルに尊重されるとターニャはむしろ不安になるようだった。

 取り巻きでいたいならそう扱うのがいいだろう。

「お菓子はパンジーとダフネとトレイシーが持ち帰るものでいいわ」

「かしこまりました」

「そう言えばトレイシーって……」

 

 クリスマスに見た彼女のことを思い出した。

 家の用事でなにやら戻ってきたらしいけど、気付いたら何も言わずに帰っていたし、手紙にも「何のこと?」ととぼけた返事が書かれていた。

 隠したいならそのままにしておいてもいいが、様子がおかしかったように思う。

 

「シャルル!久しぶりね!」

 帰ってきたパンジーとハグを交わす。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 二人ともそう挨拶をすることに少し擽ったくなって笑った。ホグワーツは第二の家だった。

「今日は編み込みなの?わたしが送ったバレッタを付けてるのね。似合ってるわ」

「そうでしょう?パンジーのセンスだもの」

「当然よ」

 そう褒めると、パンジーはちょんと唇を尖らせて澄まし顔をしてみせた。

 

 荷物を持ってイル・テローゼが入ってきた。

 久しぶりに見ると、相変わらずハッとさせられるほど美しい少女だった。髪の毛の一本一本が発光しているように金に輝き、紫の瞳は瑞々しい葡萄畑みたいに香り高く意志の強さを浮かべている。音が出そうなほど長いゴールドの睫毛は、彼女の血の卑しさを見る者から忘却させる魔性を纏う。

 この年でこれほどの美しさと凛々しさを持つ彼女が、スリザリンで蛇蝎のごとく嫌われているのは他寮生からは驚愕と根も葉もない噂を引き起こしていた。

 ホグワーツに来てからずっとムッツリ引き結んだ唇や、不機嫌そうに眉を寄せた表情で、張り詰めた孤高の雰囲気を醸し出していたが、帰ってきたテローゼは、顔は僅かに強ばっているがリラックスした様子に見えた。

 

 シャルルはテローゼへの態度を決めかねていた。

 小生意気で、不遜で、身の程を弁えずにシャルルの譲歩を突っぱねたテローゼに苛立っていたが、休みを挟んで彼女への苛立ちは霧散していた。

 彼女はシャルルの視線に気付いていただろうが、素知らぬフリして自分のベッドに向かった。その瞬間シャルルは声をかけた。

「ごきげんよう、テローゼ」

 不審げに、嫌そうな顔をして渋々と言った感じを隠さずもせずに、テローゼがシャルルを見下ろした。

「ええ」

 シャルルはニッコリした。

 呆れた顔のパンジーが、話にならないわというように目を回して見せた。

「シャルル?もうあの子を許すの?」

「許すも何も、彼女と取引したのは事実よ」

「あいつは勉強会にも出てないじゃない」

「回数は取引内容に入れてなかったから仕方ないわ」

「はぁ……。ま、あなたに言ったって聞かないものね」

 パンジーはとっくに諦めていた。シャルルは頑固だし、よく分からないマイルールを持っている。でもパンジーはテローゼの無礼な態度を許すつもりは無いから、ギッと巨大な目でしっかり睨んでおく。テローゼは肩を竦めてベッドのカーテンをシャッと閉じた。

 

「クリスマス休暇はどうだった?」

「今年はドラコのお屋敷に行けなかったから退屈だったわ。親戚に会いにベルギーに行ったけど、寒かったからあんまり観光も出来なかったのよ」

「ベルギー!素敵ね。わたし、国外には行ったことがないの」

「そうなの?」

 パンジーが驚く。

「ええ、昔っから行くのはダフネの家か、ダスティンの本家か、お爺様たちの別邸か、ホグズミードやダイアゴン横丁だけよ」

「ご両親過保護よねぇ。でも来年にはホグズミードが許可されるし、緩くなるんじゃない?」

「そうだといいけど」

 ソファに座った二人にターニャがスッと熱々の紅茶を給仕する。シャルルはターニャの陰鬱そうな顔に微笑んだ。

「ありがとう」

 彼女は困ったように眉を下げて小さくうなずいた。

 

 彼女が下がると、いよいよパンジーは不気味そうだった。

「どうしたのよ?またキャンペーン週間?」

「そんな言い方はよして」

 シャルルは拗ねたような幼い声で言った。ほっぺたがふくらんでいるのを、パンジーがツンツンつつく。

 シャルルの変わったマイルールによって、ターニャを侍らせたり、テローゼにかまってみたり、グリフィンドールの連中やハッフルパフの落ちこぼれに近付いてみたりする悪癖を、ドラコは「慈善事業」だとか「博愛主義」とか言うし、パンジーは「ボランティアキャンペーン」だとか言うのだ。

 

 でも去年の喧嘩を経て、パンジーはもう諦めて、怒りもせず呆れるだけで放っておいてくれる。たまにチクチクちょっかいをかけてくるだけだ。

 変わった考え方がシャルルのスタンスだと尊重してくれる。

 

 わざとらしく怒った顔をして見せるシャルルに、パンジーが「今更だけどね」と肩を竦めてみせた。

「もう何も言わないけど、何かあったわけ?レイジーに全然興味なかったでしょ?」

「うーん……」

 ターニャのプライベートな傷だから、シャルルはできるだけぼやかして言った。

「考えが変わったの。ターニャを可哀想だと思ったのよ」

「可哀想?あの子が?」

「クリスマスに残ってたからちょっとマグルの話を聞いたんだけど、マグルっておぞましい生き物よ。そんな世界に戻りたくなかったんですって」

「ふぅん……?」

 パンジーは振り返らどうでもよさそうに、俯くターニャを眺めた。

「ターニャはマグル混じりだけど、マグルを嫌ってるわ。きちんとわたしたちに対しても礼儀を持って接してくれるし、思想自体はわたしと変わらない。だから優しくしようと思ったの」

「物好きね」

 パンジーが紅茶を啜った。「でもマグルが嫌いなところは評価してあげてもいいわね」

「でしょ?」

 シャルルは顔を喜びで綻ばせた。彼女の扱い方をパンジーも分かってきている。ハーフマグルなんかどうでもいいけど、とりあえずてきとうに同意しておけばシャルルは喜ぶのだ。

 

 

 夕食のあと、ダフネがシャルルに寄ってきた。

「ただいまシャルル」

「ダフネおかえり!ねぇ……」

 シャルルはダフネに会いたかった。ローブの袖を掴んで廊下の端っこに引っ張っていく。なんの用事かピンと来ているようだった。

「ねぇ、あの……」

「わかってるわ。とりあえず戻らない?」

「そうね……」

 そわそわするシャルルに苦笑し、「そこまで怒ってなかったわよ」とダフネが教えてやると「ほんとう!?」とパッと睫毛から光が舞った。しかしすぐシュン……と子犬のような顔をした。

「でも、お父様からクリスマスを祝ってもらえなかったのよ」

「実はヨシュアから手紙を受け取ったの」

「ダフネに?ごめんね、手間をかけて……」

「いいけど早く仲直りしなさいね?二人ともすごく心配してたわ。秘密の部屋に関わっていないかとか、余計なことに首を突っ込んでいないかとか……」

「信用ないわね。わたしずっといい子だったのに」

「あなたのサラザール信仰は誰より二人が知ってるでしょ」

 まぁ実際、シャルルは関わる気しかなかった。ただ見つからなかっただけだ。校内探索で色々深夜徘徊してみたけど、隠し部屋とか隠し通路とかをいくつか見つけただけで、継承者に繋がるようなものはなかった。継承者もクリスマス休暇だったのだろうか。

 

「両親やメロウはどんな様子だった?手紙はやり取りしてたけど……」

「お元気だったわ。メロウはしょぼくれてたけどね。ダフネと会えて嬉しいけど、お姉様に会いたかったなんて可愛らしいこと言って……。あんまりあの子を寂しがらせるならわたしの弟にしちゃうわよ」

「ダメよ。アスティを妹にするわよ」

「交換する?最近生意気になってきて」

「あっ、そんなこと言うなんてひどいお姉様ね」

「お互いさまよ」

 ダフネが手のひらで口元を隠してケンケン吹き出した。シャルルも笑う。良かった。お父様が怒っていないと聞いて、ジワ~ッと全身に安堵が広がっていった。

 秘密主義なヨシュアにシャルルも意地になっていたので絶対折れてやるもんかと思って勝手に残ったけど、それが心配しているからだとちゃんと分かっている。

 それなのにクリスマスに初めてヨシュアからカードも何も無くて、素知らぬ態度を装っていたが、シャルルは内心「どうしよう」「かつてないほどに怒らせてしまったわ」「でもお父様だってひどいじゃないの」「なんにも教えてくれないんだもの。何も出来ない赤ちゃんみたいに」「でもクリスマスにお祝いしてくれないなんて……」と焦ったり怒ったり悲しんだりしていたのだった。

 

「これ」

 手紙と小包を渡される。プレゼントもあったのか。シャルルはダフネのベッドにぼふんと飛び込んで、足をブラブラさせながら包装をといた。

 杖ホルダーだった。腕にも足にもつけられるような仕様になっている。

 手紙はチクチクお小言は書かれていたし、あんまり好奇心を働かせるんじゃない、みたいなことを言い方を変えて繰り返し書かれていたが、心配していることや愛していることを強調してある。

 シャルルはホッと息をついた。

 杖ホルダーにはヨシュアが盾の呪文を掛けているらしい。

 

「これにもかかってるのに……」

 呆れるような、くすぐったいような吐息を零し、首元にかけてあるネックレスを取り出した。水晶のネックレス。透き通る水晶の中で銀色の液体のようなものが絶えず形を変えて揺らめいている。これにも盾の呪文が掛かっているというから、シャルルは制服の下にいつもこれを下げていた。

 幸い、必要になる事態は起きていない。

「答え……」

 シャルルは呟いた。必要な時っていつなんだろう。ヨシュアは意味深だ。

 

 

 

 ホグワーツ生なら、1年半も学校に通っていればたいてい自分のお気に入りの場所を見つけている。ブレーズ・ザビニと取り巻きが集まるのは、談話室の本棚近くの広めのソファ席か、ジェシカの部屋だった。

 魔法史教室にほど近い2階の廊下には紫髪のファンキーな女性の絵がある。ザビニと2人でお茶会をする時は薬草学クラブの温室や花畑の見える塔が多かったが、シャルルが「あなたと話したいの」ではなく、「あなた達と過ごしたいの」というと、眉を上げてシャルルをここに連れてきた。

 

「あら、いらっしゃい。キザな蛇ちゃん。お元気?私の歌でも聞きたいかしら?」

「やぁ、今日も素敵だねジェシカ」

 ザビニは絵にすら紳士的なのかと少し驚く。彼女の出身寮も血筋も定かではないのに。ジェシカというのは芸名だ。生前彼女は魔法界で有名なアーティスト女優だった。

「あなたの排気ガスみたいな髪も素敵よ」

「排気ガス?」ジェシカは答えずシャルルにも逆さまになりながら笑いかけた。「クラゲの女の子もキュートね」

「ジェシカ、君の休憩室に案内してくれないか?手土産も持ってきたよ」

 ザビニがローブから小瓶を取り出した。中には潰れたカエルが何匹も重なっていた。

「素敵!」

 ジェシカが歓声を上げると、絵からドアノブが飛び出てきた。ザビニは扉を開いて目を丸くするシャルルに「どうぞ?」と眉を得意げに上げてエスコートした。

 

 絵の裏にはカラフルな空間が広がっていた。寮の寝室の半分くらいの大きさだ。カーブを描いた大きなソファには緑と紫のマルチカバーが掛けられ、丸いローテーブルが置かれている。奥の壁には茶色の本棚があり、書籍やぬいぐるみ、小さな観葉植物、人形やティーセットなどが所狭しと飾られている。スペイン風の刺繍の丸椅子もいくつか点々と並んでいる。

 少し錆びたゴールドのシャンデリアがレトロな雰囲気を醸し出していた。

 全体的に目に痛い配色で、ごちゃごちゃしているが不思議と纏まっていて居心地が良さそうだった。

 でもザビニや、スリザリン生の趣味ではない気がする。温かみがあるが上品とは程遠い。

 

「ここは?」

「ジェシカの部屋だよ」

 彼が説明にもなっていないことを端的に答えた。

 部屋の中にはミリセント・ブルストロードやサリーアン・パークス、ゾー・アクリントン、エゴン・フォスターが既に思い思いにゆったりと過ごしていたが、シャルルを見ると全員腰を浮かしかけた。ザビニ派は他にも何人かいる。同学年の派閥の中ではザビニ派がいちばん多かった。

 

 ソファのひとつを一人で優雅に使っていたブルストロードを寄せて、ザビニがシャルルを座らせる。

「な、んでスチュアートがここに?」

「お話してみたかったの。突然来てごめんなさいね。交ぜていただいてもかまわないかしら?」

 ブルストロードは渋い顔で「ザビニが誘ったならいいんじゃないの」とぶっきらぼうに言う。

 

「こんな部屋があったなんて知らなかった」

「なかなか悪くないだろ?少しうるさいけどね。でもここには誰も来ないよ」

「誰から教わったの?」

「母さ。母さんは性別も生死も関係なく愛されるのが上手い」

「あなたのようにね」

 ザビニの母親を見たことは無いが、母親譲りだろうと思わせる形の良いセクシーな唇を片方だけ吊り上げて、満足そうにシャルルを横目で見つめる。彼はスリザリンで成り上がりだと陰でバカにされているが、シャルルの手助けなど必要のないくらい、ひとりで自分の利益を確立している。

 シャルルに出来ることと言えば、対外的に「高貴な子女」がザビニを「認めている」というパフォーマンスをするくらいだ。

 

 シャルルは杖を振って棚から人数分のお皿を取り出した。

「これ、お母様から送られてきたフェアリーケーキよ。ブルストロードは甘いものはお好き?」

 彼女は面食らい、笑みを浮かべてお菓子を差し出してくるシャルルから居心地悪そうにひとつつまんだ。

「……いただくわ」

「プレーンにチョコチップとレモンメレンゲ、ストロベリークリーム、バニラとレーズンがあるわ」

「……ありがとう」

 勉強会でくらいしか話すことがないのでパークスは鷹のような目でシャルルを探っている。

「アンダーソンは今日はいないのね。いつも一緒でしょう?」

「さぁ。後から来るかもしれないけど」

 肩を竦めて気だるげにパークスは答えた。レモンメレンゲ味を一口食べ、紅茶を飲んで「美味しいわ」と呟いた。

 

 全員がシャルルの一挙一動に注目し、居心地が悪そうだった。変わらないのはシャルルと、彼女を連れてきたザビニだけだ。

 1点の曇りもない宝石のような高慢なシャルルは、周囲の空気にもちろん気付いていたが、だからといってそれに萎縮したり、自分が帰ろうと思うことはない。なぜなら周囲の人間がそれに合わせるのが当然だからである。

 ザビニと関わるうちに、他人の機微に合わせて気を遣うことを、ひとつの思考回路として覚えたくらいだ。相手に合わせて会話回しをする基本的な社交術はまだまだものに出来ているとは言えない。シャルルは人に関わる機会が少ないし、パンジーやダフネは自分のしたいこと、話したいこと、好きなことを話していればそれだけで人と繋がることが出来た。

 だから今もパークスとブルストロードが、シャルルに水を向けていた。

「スチュアートはクリスマス残ったんでしょう?休暇中のホグワーツはどうだった?」

「人が少なくて快適だったわ。先生方も緩くなっていて、ちょっとした時間破りくらいならお目こぼししてくれるのよ。それに巡回も減ってて、深夜に出歩いても見つからなかったの」

「夜に歩き回ったの?」

「普段はできないちょっとした探検よ」

「面白いものはあったか?」

 ザビニが口を挟んだ。フォスターとアクリントンは、ほぼ関わりがないからか貝のようにむっつりと押し黙っている。女子勢より緊張しているようだった。

「隠し部屋を見つけたくらいね」

「へぇ。俺が通ってるところと別だといいけど。寝心地良さそうなベッドはあった?」

 フォスターが「ズッ」と吹き出して、慌てて口元を抑えた。シャルルも「幸運なことにあなたの行きつけとは違うようよ」と呆れ笑いをした。ガールフレンドたちとの逢瀬を楽しむために、彼はジェシカの部屋以外にお気に入りのスポットを持っているようだ。舌を巻いてしまう。

 

「じゃあ秘密の部屋については、依然調査は進まないままか」

 サラリと彼が言う。見抜かれていたようだが当然だろう。シャルルがわざわざホグワーツに残り深夜徘徊して探検しているとなれば、否応にもその答えと繋がる。

「でもドラコがミスター・ルシウスから教えていただいた情報によると、以前も部屋が開いたみたい。その時はマグル生まれが被害を受けたんですって」

「被害?石になったのか?」

「亡くなったって」

 マグルの血が混じっている四人はサッと一瞬表情を曇らせたが、純血のザビニは「ふぅん?」と面白そうに小首を傾げた。

「前も継承者がいたんだな。じゃあ前開かれたときの子孫なのかもね」

「他には何か分かってないの?いつ開かれたとか、死んだ子の名前とか」

「マルフォイが言うには50年前らしいわ。一応図書室で当時の新聞や事件を調べているのだけれど、なかなか見つからなく、て……」

 

 シャルルはパカッと口を開けた。

「50年前といったら、今回の継承者は孫にあたるのかな。スリザリンの末裔がまだ残っていたとはね。よかったじゃないか」

「50年前……」

 一点を見つめて突然固まったシャルルに、ザビニがソファに体をもたらせながら「……?シャルル?」と不審そうに見やった。

「そうよ!50年前!なんですぐ思い付かなかったのかしら!」

 

 シャルルは叫んでローブから黒い手帳を取り出した。表紙には「T・M・リドル」と書かれている。50年前のスリザリンの監督生。二度のホグワーツ功労賞。死んだ生徒。秘密の部屋。何かが繋がっていく。

「どうしたんだよ……突然」

 ザビニは珍しく狼狽えていた。少し引いている。そういえば彼の前で突拍子もないところを見せたのは初めてだったかもしれなかった。パンジー達やドラコ達、セオドールはとっくにシャルルのそんな思いついたら猪突猛進なところに慣れているが、ザビニはシャルルを「せっかち」だとからかう割に、シャルルの猫を被った気品のある態度しか知らないのだ。

 しかしシャルルは動揺するザビニや、呆気に取られる四人を無視して手帳を勢いよく開いた。

 リドルの日記は絶対に何か秘密の部屋と関わりがあるはずなのに、それに気付いただけではこの日記に隠された何かを教えてはくれないようだ。

 相変わらず真っ白に佇んでいる。

 

「いたっ」

 

 夢中になって素早くページを確認しているうちに、紙が指先をピッと掠め、僅かにページに血が滲んだ。指先がじんわりと痛む。

「大丈夫?」

 パークスが義務的に労りの言葉をかけ、ブルストロードが目線でシャルルを伺った。頷くと杖を構えて「エピスキー」と唱えた。

「ありがとう、ブルストロード。すっかり痛みも消えたわ」

「いいけど、どうしたのよ?あんた変よ。突然ここに来てみたり、いきなり手帳?本?に齧り付いたり……」

 シャルルは苦笑した。

「ちょっと気が急いてしまって……継承者の手がかりを見つけたかと思ったの」

「それが手がかり?」

「そういう訳じゃないんだけど……」

 シャルルは誤魔化すように首を振ってリドルの日記帳に目を落とし──絶句した。

 

 真っ白なページに滲んだ血は消え、代わりに黒い文字が浮かんでいた。

 

『初めまして。君はブラック?』

 

 

 



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32 変化

 

 スパァン!小気味よい音が鳴って、ザビニたちは肩をピクリとさせた。シャルルはリドルの日記帳をしまって立ち上がった。

 困惑しきったザビニ派の面々に「調べたいことが出来たの!」と言って、シャルルは颯爽と駆け出した。「オイオイ……せっかちどころじゃないだろ……」呆然とザビニが呟いた。

 

 シャルルは興奮するような、ゾクゾクするような名状しがたい感覚に襲われていた。ローブの内ポケットが異様に重く感じるのは精神的な理由だと分かってはいるが、背中に冷や汗が浮かんで頭皮にジワーッと鳥肌が浮かぶ。しかし心音は激しく体温が上がっている感覚があった。

 寝室に戻ったシャルルは机にリドルの日記を置き、羊皮紙と羽根ペンを取り出した。見た限り外装には変化はない。文字以外の主張はないようだ。

 

 思考を整理しよう。胸をふくらませて深呼吸すると、少し落ち着く気がした。

 

 まず事実。

 ルシウスの言では50年前に秘密の部屋が開かれた。

 その際マグル生まれの生徒が死んでいる。

 新聞で該当記事は特定出来ていない。

 黒い日記帳はジニーの落し物。

 元の持ち主は1938年~1945年にホグワーツに在校していたT・M・リドル。

 リドルはスリザリン生であり、監督生であり、首席。

 在校中に二度のホグワーツ功労賞を受けた。

 日記帳の購入元を考えるとマグル生まれかマグル育ち。

 黒い日記帳はおそらく闇の魔術が掛けられている。

 現在秘密の部屋が再び開かれている。

 被害者は石になっている。

 猫、魔法族、ゴーストも被害を受ける。

 秘密の部屋はスリザリンの残した遺物で怪物がいる伝承がある。

 ここまで書き出し、フーッと息をつく。

 次は推測。

 リドルの日記帳に闇の魔術をかけたのはリドル本人である。

 あるいはリドルの日記が人の手に渡り媒体にされた。

 日記は自立思考し、会話が成立する。

 あるいは特定の会話や条件に反応するような魔法が掛けられている。

 

 リドルは在校中に継承者に通ずる何かを見つけ、表彰された。

 あるいはなんの関係もない事柄で表彰された。

 あるいは、闇の魔術を使えるほど思想の強い生徒だった。

 

『君はブラック?』

 この問いかけにも疑問が残る。その姓を見た途端何故かドキリとした。両親の亡くなった親友が思い浮かぶ。それにどこかで誰かにも、ブラックについて何か引っかかった覚えがあるような……。

 

 何にしろ、警戒しすぎて困るということはないだろう。

 シャルルは最大限のパターンを想定することにした。

 リドルが闇の魔術を使用し、日記帳に呪いをかけ、自立思考する闇の品になっているという想定である。50年前の出来事については判断条件が少ないから、日記から手がかりを得るしかない。

 こんな物を前にしても、シャルルに日記を捨てるという選択肢はなかった。むしろ好奇心と一抹の恐れが湧き出していた。シャルルだって純血子女だ。日記ごときに怯えるようではスチュアートの名が廃る。

 

 羽根ペンを握り直し、日記を開いた。

 さっき見た文字は消えてなくなり、日記はまた沈黙を保っていた。

 シャルルは指先の震えを抑えながら問いかけるような文字を書いた。

 

「あなたは何?」

 

 文字は一瞬紙の上で輝いたかと思うと、吸い込まれるように消えていった。固唾を飲んで日記を見つめていると、数秒後、滲むようにインクが浮かんできた。

 

『返事をしてくれてありがとう。僕はトム・リドル。君は?』

 

 また文字が消えていった。シャルルの全身が総毛立った。

 返事を躊躇い、なんて書けば良いか迷う。けれど時間をかけると他人にいらない考察の余地を与えてしまうことをシャルルは知っていた。それにある程度情報を開示した方が他人へのパフォーマンスとして有効かもしれない。心を開いているだとか、頭が弱そうだとか、警戒はしているけれど好奇心に抗えないだとか。

「わたしはシャルル・スチュアート。スリザリンの2年生です」

『スチュアート?純血の古い名家ですね。祖父母にブラックの血筋を持っていたりするのかな。君からは酷く懐かしい気配を感じます』

「懐かしい気配?」

『オリオンやシグナスは友人でした。君からは特にオリオンに近い血を感じた気がしたから、てっきり娘……いや、年代的に孫かと思ったんだ』

 

 オリオン……。オリオン・ブラックだろうか。没落した魔法族の王家、ブラックの最後の当主だ。

 シャルルのどこにその面影を感じたのだろう。もちろん光栄だけれど疑問が浮かぶ。スチュアート家は古いから、先祖にはもちろんブラックの血は繋がっているが、言われるほどに濃くはないはずだ。

 思考に耽っていると、リドルの文字が浮かんだ。

 

『この日記をどこで手に入れたんですか?』

 

 筆跡は美しくて柔らかかった。敬語混じりのフランクな口調は親しみやすい。スチュアートの家名を褒めるあたり、純血について正しい知識を持っている。

 シャルルはジニーの名を出すか迷った。

 嘘をついたら、日記の彼が見抜けるかどうか……日記の外で起きたことを把握できるかどうか鎌をかけてみる意図もあった。

 

「この前落ちているのを拾ったの。中身は真っ白で、在校生にもトム・リドルなんて生徒はいなかったから、数日間だけ預かっていました。でも、この日記が誰かのものなら返却したいと思います」

 数秒間があった。

『君に拾われて幸運でした。この日記は僕のものでしかありません。人から人の手に渡りましたが、僕以外の誰のものにもなり得ない。でも、お互い話し相手が必要なら、僕たちは友情を築けると思います』

 

 リドルはジニーの名を出さなかった。隠したいのか、ジニーが焦燥してまで日記を求めていたほどにはリドルにとってジニーが「必要な話し相手」ではなかったのか。

 警戒心と好奇心が破裂しそうで、一周まわって不思議なほど冷静な気分だ。

 

「あなたの言う通り、きっとわたし達は友情を築けると思うわ。わたしはあなたにとても興味があります」

 シャルルは羽根ペンを置いて、天井を眺めた。シャンデリアが砕けた宝石のように光を散りばめているのを見て、窓の外がすっかり暗くなっていることに気づいた。

『嬉しいよ、シャルル。たわいない話も、ちょっとした愚痴も、誰かに聞いて欲しい悩みも、どんなことも僕に零してくれてかまわないよ。僕は君だけの秘密の日記帳だから』

 やはり彼はスリザリン生だ。

 おそらくこの日記に闇の魔術をかけたのもリドル自身だろうとシャルルは思った。

 何かが這い寄るような不安と、奇妙な高揚感がシャルルを満たしていて、自分が楽しんでいることに気付いた。

 

*

 

「一体なんのこと?」

 

 本当に不思議そうに、むしろ困ったようにトレイシーは控えめに尋ねた。

「そういえば手紙でも言ってたね。でもわたし、本当に休暇中は家にいたわ」

「そうなの……」

 明らかに納得していないシャルルに、トレイシーは付け足した。

「本当よ。なんなら両親に尋ねてみましょうか?クリスマスは父親の知り合い家族と食事会があったから、他の人の証言もあるわ」

「いえ、そこまでしなくていいのよ……。ただ少し疑問に思っただけ」

 

 彼女はたしかにクリスマス、スリザリン寮にいた。絶対見間違いではなかったはずだ。

 トレイシーなら隠したい秘密があるならまず秘密さえ匂わせないし、もっと上手く誤魔化せる。家の用事だと言ったのが方便で、他の人に何か知られたくない事情があったとしても、あの日顔を合わせたシャルルやドラコに謙虚に口止めしつつ顔色を伺って、お礼の菓子折りを送るくらいの社交はするはずだ。

 突然帰ってきて突然いなくなるのはトレイシーらしくなかった。

 その日の彼女が動転していたと仮定しても、トレイシーがいたことを知るシャルルに対して、ここまで頑なに下手な態度は取らないだろう。

 むしろ普段の彼女なら謝るのが当たり前だった。

 デイヴィス家はそこまで有力な家系ではない。だからこそ、力のある子女とどう関係を築くかに注力していたし、トレイシーはそれに見合う社交力を持っている。

 

 だから多分本当にトレイシーはクリスマスにホグワーツへ帰って来ていなかったのだろう。

 

「おかしなことばかり起きるわね……」

 掠れるような呟きが宙に溶ける。ホグワーツに入ってから、考えられないような「秘密」に触れることばかりだ。でもシャルルは、自分が秘密好きであることを自覚せざるを得なかった。

 秘密はすなわち情報である。知識や情報というのは、一見なんの繋がりがなくとも、ふとした瞬間にカチリと綺麗に頭の中で嵌って美しく答えが象られる。その感覚が面白くてたまらない。

 

 シャルルはふとした時、例えば起きた時や、授業中暇な時、休み時間、寝る前……思い出した時にリドルに話しかけた。

 リドルがどんな人物が分析してやろうと思っての事だけれど、どうしてなかなか彼は話すのが面白いひとだった。

 

「魔法史ってどうしても眠くなるわね。今はDADAの予習をしてるから何とか起きてるけど」

『もしかしてまだビンズ先生?』

「まさか50年前も?」

『その通り。でも彼が役に立つところもある』

「例えば?」

『自習ができる。居眠りをしても怒られない。生徒の名前を誰も覚えてない』

「最後のはいいところなの?」

 シャルルはクスリとした。

『もちろん。ちょっとした知的好奇心を満たすとき、彼は素晴らしい相手になってくれたよ』

「もったいぶる性格なのね。あなたのことをひとつ知れたわ。リドルは猫が獲物を見せびらかすように、成果を大きく見せるのが好き……」

『分かった、言うよ。だからからかうのはやめだ。禁じられた棚の許可証だよ。彼は生徒の名前も顔も学年も覚えていないけれど、それに相応しい成績やレポートを見せれば許可を出してくれる』

「それ、本当?すごく役に立つじゃない!」

『その通り。でもシャルル、僕が禁書を読んだのはもちろんちょっとした好奇心を満たす学術的行動ゆえにだよ。分かってくれるよね?』

「もちろんよ」

 

 

「リドルは日記の中にいるの?それとも日記そのもの?ずっと1人でいて、退屈なのではない?」

『あまり時間の感覚はないんだ。でも退屈ではあるよ。今は君が話してくれるから楽しいよ。僕は、そうだな……過去の記憶といったらいいのかな』

「記憶?記憶を閉じ込めたの?」

『まあ、似たようなものかな』

「今のあなたはいくつの記憶?」

『5年生だ』

 彼が功労賞を貰った時の年齢だ。しかしシャルルは踏み込まなかった。秘密にいきなり手を突っ込むのは性急すぎる。シャルルは猪突猛進だが、待てのできない犬ではない。

「5年生の時に作ったのね。優秀ね……そんな魔法想像も出来ないわ」

『努力を怠らなければ誰でも高みにいくことはできる。君にそんな野心があるなら、だけど』

「スリザリン生だもの。でも今興味があるのはあなたよ。16歳のあなたを閉じ込めるってゴーストみたいなものかしら。過去の記憶も思考も備わってる」

『似ているけれど少し違うと思う。僕は君との対話を経て経験を蓄積できる』

「ゴーストは停滞する存在……あなたとは違うわね。少し話しただけであなたの頭の良さが分かるわ」

『ありがとう。君の聡明さも分かるよ。君は賢い魔女だ』

「どうも。たぶん、あなたは当時から突き抜けていたでしょうね?監督生だったの?」

『ディペット先生はマグル育ちの僕でも評価してくれて、有難いことに僕に栄光を与えてくれた』

 リドルは自分のことを「マグル生まれ」ではなく「マグル育ち」だと表したがった。孤児院という、捨て子の集まる場所で育ったらしいが、自分の親のどちらかが魔法族であると考えていることを感じ取った。

「それじゃあきっと、スリザリンのプリーフェストルームにあなたの名前があるでしょうね。今度見てみることにするわ」

『少し恥ずかしいな……。大したことが出来たわけじゃないから』

「こんな日記を作れるのは十分大したことよ。わたしの知る限り、羊皮紙や本に返事をさせることは出来ても、自分で考えるように魔法をかけることは出来ないでしょ?なのに記憶を宿すなんて。ああ、肖像画の応用なのかしら。自分で自分の肖像画を残したら、限りなく本物に近い記憶になるでしょ?」

『……やっぱり君は賢いね?でも違うかな。肖像画はその人の特徴や口癖をなぞっているだけだからね。意思はあるけれど』

「意地悪しないでちょうだい、リドル。ヒントはくれないの?」

『少しミステリアスな方が女の子を惹き付けられると思うんだけど、どうかな』

「真っ白な紙のままで十分ミステリアスよ。それに憶測だけど、たぶんあなたは肉体を持っていた頃から人気だったと思うわ。スリザリンの女子生徒からはどうだったか知らないけどね」

『ハハ!たしかにスリザリン生の女子生徒は最初僕にあまり近付こうとはしなかった。血筋は重要なファクターだから。君もそうだろう?』

「友人にはなれるわ」

『シャルルは今12歳なんだよね。ボーイフレンドはいないの?君も男の子に好かれるだろ』

「恋には興味ないわ。将来の相手は親が決めるだろうし」

 そこまで書いて、プライベートなことを話しすぎたとシャルルは苦い顔をした。返事を見る前に日記を閉じる。

 

 リドルと話しているとなんだか時間を忘れてしまう。

 たわいないことは、パンジーやダフネと話せばいいのに、ついリドルに話しかけてみたくなった。

 本人が言う通り、彼はミステリアスすぎて暴きたくなるのだ。闇の魔術がかけられているとは思えないほど、彼は柔和な話し方をし、美しい文字を書き、たまにクスリと笑わせてくれてまるで昔からの友達みたいな気分にさせる。

 時折挟まれるちょっとしたブラックな物言いや、不遜そうな側面はむしろ共感を抱かせる。

 シャルルはそれが、リドルが自分をそう見せているだけだとは分かっていた。シャルルがリドルを見定めようとするように、リドルも話し相手を分析し、それに合わせた対応をしているだろうことは、彼がスリザリンの監督生で首席であったことからも想像にかたくない。

 普通スリザリンは家柄で役柄も決まる。当時にも有力な家系の子女はいたはずだし、50年前なら今よりもっと純血の価値が高かった。それなのに監督生になれたのは、彼が政治にも優れていたからに他ならない。

 分かってはいるけれど、警戒していてもリドルと話すのはおもしろかった。

 

*

 

「シャルル」

 声を掛けられて顔を上げた。

「何してるんだ?食事に行こう」

「そうね」

 日記帳をしまうところを、ドラコが見つめていた。隣に並んで歩き出す。ドラコの反対側にパンジーもいる。

「またそれを見てるのか?」しかめっ面でドラコが尋ねた。この前のシャルルの様子がおかしいことをドラコは気にしていた。

「日記を書き始めたのよ」

「日記?」

 彼が鼻で笑う。「そんな俗っぽい趣味があったとは知らなかったよ」

「思考整理するには便利よ」

「でも暇さえあれば開いてるだろ。前より話す回数も減った。だろう?」

 ドラコに同意を求められ、複雑そうな顔をしていたパンジーがパッと嬉しそうに頷いた。

「そうよシャルル。朝も昼も夜も、授業中だって開いてるじゃない」

「……そう?」

「見ればいつでも何か書き込んでるわ。日記を書くのってそんなに楽しい?わたし達と話すより?」

 言われるほど開いている自覚はなかったが、パンジーの非難の声に拗ねるような響きが篭っていて、シャルルはパンジーの隣に並んだ。腕を絡める。

「もちろんパンジーと話す方が楽しいわ」

「そうでしょう?」

 

 食堂ではセオドールが1人で座っていた。シャルルに気付くと彼は片手で無造作に椅子を引いた。彼と話すのは久しぶりな気がする。1ヶ月も会っていなかったし、セオドールは筆まめな方じゃない。

「プレゼントをありがとう。あの本すごく興味深かったわ。古代魔法についてレポートを纏めたくなるくらい」

「どのくらい書き上げたんだ?」

 当たり前のように彼が尋ねた。「まだほんの少しよ。羊皮紙ふた巻き程度しか……資料が足りないの」

「テーマは?」

「攻撃魔法の背景。レダクトとかボンバーダとか……起源は一緒でしょ?もう少し色々学んだら、新しく呪文も作ってみたいのよね」

 大皿からジャケットポテトを少し取りながらシャルルはべらべら捲し立てた。久しぶりに会うと話したいことが湯水のように溢れた。それにセオドールは少ししか返事を返してくれないが、きちんと相槌を打って話を聞いてくれる。懐かしい感じがした。

「僕も呪文の発明には興味がある。大抵の呪文は既に作られてるだろうから、改良や研究から手を付けようと思ってる」

「ほんと?もうしてる?」

「いや……少なくともO.W.Lレベルの予習を済まさないことには話にならない」

「テーマは?」

「マフリアート」

 

 端的に彼は答えた。耳塞ぎ呪文は周囲から自分への注意を逸らす魔法で便利な保護呪文だ。昔父親に教わったものでシャルルもたまに使うし、喧騒が嫌いなセオドールはいつも使っている。

 休み明けで、授業が再開して間もないのにさっそく勉強の話を始める二人に、ドラコとパンジーは目を回してウンザリしたような顔をしてみせた。パンジーはドラコに話しかけてもらえて生き生きとしている。

 

「ふぅん?でもマフリアートってかなり完成された呪文じゃない?改良の余地を感じてるの?」

「研究対象として。あれが呪文学の本に載ってるのを見たことあるか?」

 そう言われ、頬に手を当てて小首を傾げた。たしかに見たことがないかもしれない。予習は三年生、四年生、五年生あたりのものまでしか読み込んでいないし、高学年のものは何回か目を通したくらいで、さらに高度な呪文や古い呪文は使えそうなものしかきちんと学んでいないが、そういえば家にある書物にも見かけた覚えはなかった。

 ヨシュアから学んだ呪文なのに変だ。

「だろう。僕はあの呪文をロジエールに聞いた。彼は先輩から教わったらしい」

「代々受け継がれてるってこと?」

「恐らく。調べたが、実験的呪文登録委員会の認証呪文一覧に認定された記録はなかった。少なくとも君の父親の代にもあったはずだけど、本にも記録にもない。生徒か当時の教師が開発して口伝で伝わってるんだ」

「へぇ……面白いわ。よくそこまで調べたわね」

 感嘆の声に、セオドールはちょっと肩を竦めてみるだけだった。シャルルが色んなことに気を取られている間にも、セオドールは自分の研究のために学びを怠っていないことを考えると、シャルルもうかうかしていられない。

 しかしさっそく彼女はソワソワしていた。

 リドルに聞いてみたい。でもいきなり日記を開いてメモするのは不自然極まりない。

 

「おい、食事のペースが落ちてるぞ。話に夢中になるのはいいが」

 ドラコがそう言いながらシェパーズパイが少しと、スコッジエッグが少し載った小皿を差し出した。

「ありがとうドラコ」

 会話を中断させてシャルルは食べることに集中した。食べ終えると、ちょうど満腹に近い量だった。今日はデザートは取らないことにし、最後にホットアップルジュースを飲み終えたタイミングで、ドラコもプティングを食べ終えた。差し出された手を取りシャルルは食堂を後にする。

 

 談話室に戻ると、いつもならパンジーはベッタリドラコにくっついてティータイムを過ごしているが、今日はまっすぐ寝室に向かった。

「パンジー?」

 彼女の顔が強ばっていた。声を掛けても気づかないのか小走りでスカートを翻した。

「ドラコ、何か言ったの?」目を吊り上げたシャルルに睨まれ、驚いたように「いや、知らない」と首を振った。

「でも様子がおかしいわ。傷付いているように見えた。何か無神経なこと口にしたんじゃなくて?」

 ドラコは憮然としたが、数秒思案した。そしてやっぱり知らないという結論に至った。

「さっきまで普通だったじゃないか。食事の時も普段とそう変わらなかったと思うぞ」

「うーん……」

 セオドールは興味がないのかサッサといなくなってしまった。薄情な人だ。たしかに彼とパンジーは大して仲が良くないけれど。

 ドラコに断ってシャルルも寝室に行った。

 

 ベッドにカーテンがきっちり引かれていた。

「パンジー?開けてもいい?」

「1人にさせて」

 固い声が返ってくる。シャルルは構わずカーテンを開けた。パンジーは傷付いた時や落ち込んでいる時、むしろ誰かに話を聞いて欲しいタイプだから。

 けれどパンジーはシャルルの顔を見るなり、鋭い目で睨んだ。

 

「1人にしてって言ったじゃない」

「でも……放っておけないわ」

 カーテンを閉じ、シャルルは杖を振る。さっき話していたマフリアートをかける。こうすればパンジーの私的な悩みを聞いても、周囲の人にはただの雑音にしか聞こえなくなる。

 ベッドに腰掛け、シャルルは左手でパンジーの背中を宥めるように撫で、右手はそっと膝の上で固く握り込まれている拳の上に乗せた。

「どうしたの?……ドラコに何か言われたの?」

 彼の名を出すとパンジーは唇を噛み、腕がプルプルと震えた。視線は床の方を睨んでいる。

「噛まないで……痕になるわ。何を言われたの?」

「何か言われたわけじゃないわ」

 素っ気なく言うと、パンジーは自分の手に乗っているシャルルの手を軽く払い除けた。深呼吸して自分を落ち着かせようとしている。

 

「別にドラコとか誰かが悪いわけじゃないのよ……分かってるけど……」

 小さく呟くパンジーは泣き出しそうに見えたが、彼女の目は乾いたままだ。眉根がギュッと寄っているが、泣くのを抑えているのでも、怒りを耐えているのでもなかった。

「でも何かあったのでしょう?わたしに手伝えることはある?誰かに話を聞いてもらったら楽になるかもしれないわ」

 シャルルはどうしたら良いか分からなかった。普段の癇癪と違う。

 パンジーは感情表現が豊かだから、嫌なことにはプリプリ怒って散々愚痴や悪口を吐いてスッキリするし、相手にもぶつけるし、ドラコ関連の悲しいことがあるときだってたまに少し泣くことはあるけれど、たいていは愚痴を言いながら惚気になってケロッとしている。

 こんな風に1人になろうとして、何かを耐えようとしているのは初めてだった。

 

「……」

 パンジーはしばらく床を睨み、パッとシャルルを見た。

「シャルルって恋をしたことないって言ってたわよね?今も?」

「こ、恋?」

 あまりに唐突な恋バナだった。しかも、甘くてきゃあきゃあしている、パンジーの好きな雰囲気ではない。でも彼女の顔があまりに真剣なので、シャルルはうなずいた。

「ええ。好きな人はいないわ。まず、恋っていう感覚が分からないけど……」

「ときめいて、その人のことばかり考えて、自分の感情がめちゃくちゃになる感じよ。その人の行動の意味をいちいち考えて、嬉しくなったり悲しくなったりするの」

「んー……。相手の反応を過剰に気にしてしまう感覚よね」

 まるで授業を受けているみたいだ。それか尋問を受けている気分。

「それと、相手に嫌われたくなくて機嫌を取りたくなったり、その人が笑ってくれると嬉しくなったり、その人のために何かしてあげたくなったり……」

「考えてみたけれど、やっぱり誰にも恋はしていないと思うわ……」

「そう……」

 パンジーは瞳を伏せた。安心したようにも、悲しんでいるようにも見える。何がどう関係しているかは分からないけれど、求めていた答えを返せなかったのかもしれない。パンジーが悲しんだり、シャルルに辛く当たったりすると、他の人には感じない感情が湧く。胸がツキンと痛んでどうにかしたくなるのだ。

 他の人からは、嫌われても好かれても自分の感情が動く感覚はあまりないのに。嬉しくなったりイラつく時はあるけれど、傷つくことはあまりない。

 シャルルは特に考えずにそのまま言った。

「今言ったみたいな感情は、パンジーには感じるわ。あなたが悲しそうだとわたしも悲しいし、あなたに嫌われるとすごくどうしようって思うの」

「はっ?」

 思わず顔を跳ね上げたパンジーはシャルルの表情を見た。眉を下げて、なんならパンジーよりも悲しそうな顔をしている。シャルルがパンジーの手のひらに指を絡めた。

 

「これは恋じゃないと思うけど……あなたに元気になって欲しいのはほんとよ。どうしたらいい?」

 シャルルは捨てられた子犬のような表情で途方にくれる表情を浮かべていた。パンジーは頬を赤らめた。

 パンジーは小さく呟いた。

「これだから嫌なのよ……」その声は聞こえなかったが、パンジーは惨めさに打ちひしがれているように見えた。

 

「休みの間、ドラコは今日みたいだったの?」

「今日みたいって?」

 もどかしそうにパンジーは重ねた。

「だから、当たり前のようにあなたと過ごしていたの?」

 シャルルはようやくパンジーが何を心配しているのか分かり始めた。

「たしかに食事を一緒に取ったり、課題をしたりしたけど、クラッブとゴイルも一緒だったわ。それにずっと過ごしてたわけじゃないのよ。わたしはほぼ図書室にいたけど、ドラコは自主研究は好きじゃないから」

 パンジーの心配は的外れだ。シャルルは安心させようとしたが、彼女の顔はまだ晴れない。

「じゃあ、ドラコのあなたへの態度で何か休み中と違うところはあった?」

「特にないわ。彼はいつも通りよ……何も心配するところなんかないわ」

 

 パンジーは眉根をグッと寄せて、耐えるような表情をした。

「じゃあそれが当たり前だってことよ!授業に行くのも食事に行くのもあなたを誘って、歩く速さは合わせて、立ち上がる時はエスコートして、扉をあけて、あなたの食事の好みや量を把握してお皿に載せてあげて、食事を取るペースを合わせて……それが……」

 

 わなわなと震える彼女が吐き出した言葉にシャルルは呆気に取られた。そう言われると、ドラコがまるで……すごく紳士的な男の子みたいだ。

「考えすぎよ。別にドラコはそんなこと別に考えてないと思うわ……。それかたぶん世話焼きだからよ。休み中、本に夢中になりすぎて食事を取らないときもあったし……」

「もういいわ。1人にして。別にシャルルがドラコに恋してないのは分かってるのよ」

 泣いてはいなかったが、彼女を1人にすれば涙に暮れるだろうと分かった。

 でも本当に、ドラコはシャルルにそんな……パンジーが思うような感情は抱いていないはずだ。

「わたしは恋は分からないけど、わたしに恋をしている男の子の視線は分かるわ。ドラコはわたしのことをただの友人としか思っていないはずよ」

「そういうところが!」とうとうパンジーは鋭く怒鳴った。そしてすぐにへたり込むようにベッドに座り込んだ。

 

「1人にして。これ以上わたしに酷いことを言わせないで」

「パンジー……」

「出て行って!別にあなたにもドラコにも怒ってない。でも考える時間が必要なの。シャルルには分からないかもしれないけど、恋をすると全部が不安になるのよ。説明させないでよ、こんなこと……」

「……その、ごめんなさい……。わたし、ダフネの部屋に行ってるわ。消灯時間になったら戻ってくるから」

 力なくパンジーはうなずいた。

 ベッドから去る時、小さい声で最後にパンジーが尋ねた。

「そのブレスレット素敵ね。ドラコから?」

「え、ええ……クリスマスに……」

 何故か後ろめたいような気がした。そう思う理由などないのに。パンジーだってドラコからクリスマスプレゼントを贈られたはずだ。

「そう……」

 

 シャルルは何回か振り返りながら部屋を後にした。なんだかどっと疲れてしまった。

 

 恋というのは、やっぱりめんどうくさい。不確かな思い込みや情報で、パンジーに嫌われそうになるのはいやだ。シャルルは指先を擦り合わせた。

 パンジーを不安にさせるドラコが悪いのか、パンジーが恋をしているドラコと仲良くするシャルルが悪いのか分からない。それとも両方悪いのだろうか。あるいは両方とも悪くない?

 思想や意見の食い違いなら対応を取りやすいけれど、恋というものが関わってくると、人は変わる。

 ザビニなら、こういうことへの対応も上手くやるのかもしれない。シャルルにはまだ難しかった。

 



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33 恋とかいうもの

 

 ドアをノックするとブルストロードが顔を出した。

「グリーングラス?」

「ええ、いる?」

 彼女はベッドを顎で示した。机に向かっていたダフネが振り返る。シャワーを浴びたのかいつも緩やかな三つ編みが編まれている金髪は下ろされ、緩やかなウェーブが腰まで伸びていた。

「失礼するわね。そういえばブルストロード、この前は突然帰っちゃって悪かったわ」

「別に。いつものあなたの気まぐれでしょ」

「ありがとう。また顔を出すわね」

 嫌そうにフンと鼻を鳴らすブルストロードの態度は尊大だが、パンジーの後に見る彼女は分かりやすくて可愛らしい。

 シャルルの顔がほっと緩んだ。

 ブルストロードはクォーターで、たしか祖母が混血と結婚しただかで1/4だけマグルの血が混じっていることをコンプレックスに思っている。しかしブルストロードの本家は聖28一族に数えられる有力な家系だ。だから本家の名に相応しく振る舞おうと、毛を逆立てる猫のように、他人から舐められないように気を張っている。

 こういうことなら分析しやすいのに。

 

「どうしたの?」

 シャルルは淑女らしくなく乱雑に靴を脱いで、ダフネのベッドに横になった。

「なにか悩んでる?パンジーと喧嘩でもしたの?」

「喧嘩じゃないけど……」

「じゃ八つ当たりでもされた?あの子昔から激しいけどすぐ治るから気にすることないわ。シャルルの方が詳しいと思うけどね」

「んー……」

 長年の付き合いのせいか、ダフネはすぐシャルルを見抜いた。別に顔に出してはいないのに。シャルルも観察力や分析力はなかなか鋭いと自分で思うのだが、ダフネは昔から些細なことに気がつくし、気遣いもうまい。

 今も手を止めて、シャルルの横に寝転んだ。

 

「課題はいいの?」

「早めに取り掛かってただけ。それより何かあったんでしょ?話を聞いて欲しい気分?それともただごろごろしたい気分?」

 シャッとカーテンを閉めたタイミングで、シャルルはダフネに抱きついた。

「ん~、癒して欲しい気分~」

「きゃっ。もう、わたしはテディベアじゃないのよ」

「同じようなものよ。ふわふわだし、柔らかいし」

「失礼ね!」

 

 ダフネが憤慨した。二人はくすくす笑って、シャルルは天井を眺めた。

 溜息をつく彼女にダフネは何も言わない。ただ黙って横になっている。パンジーにもこうすれば良かったのかもしれない、とシャルルは思った。

 

「恋愛ってめんどうくさいわね……」

「えっ?」ダフネが上半身を起こしてシャルルを覗き込んだ。「好きな人が出来たの!?」

「パンジーの話」

「ああ……」

 ぽふん、とふかふかの枕にまた頭を投げ出した。

 

「休み中ドラコと一緒に過ごして前より仲良くなれたんだけど……不安にさせてしまったみたい。ねえ、馬鹿みたいなこと聞くけど、ダフネの目からドラコはわたしに恋してるように見える?」

 すぐに否定して笑い飛ばされるかと思ったが、ダフネは無言で思案していた。

「えっ?」

 今度はシャルルが驚く番だった。「嘘でしょ?ほんとに?」

「待って、結論を急がないで。思うにあなたとマルフォイは同じなんだと思うわ」

「同じって?」

「要するに子供なのよ。マルフォイはたぶん恋をしたことがないと思う。デリカシーがないし、女の子の扱い方がなってないし、子供っぽいし」

 ダフネは真顔のままマルフォイの欠点をつらつらあげつらった。シャルルは口を尖らせる。ダフネやパンジーが初恋もまだなシャルルをよく子供扱いするのが不満だった。

「その言われ様のドラコと一緒にされるのはなにか嫌だわ。それにわたしに言わせれば、あなた達がませてるのよ」

「じゃ言い方を変えるわね。情緒が未熟。幼い。純真」

「ダフネ!」

 肘で突っつくとダフネが身をよじった。

 

「冗談。でもシャルルもときめくくらいはあるでしょ?」

「たぶん、何回かは?」

「良かった。心を失っている人間ではないのね」

「どんな人間だと思われてるの?」

 

 シャルルが唇を尖らせる。そこまで言われるようなことではないはずなのに。

「情緒が未熟で心の欠けた人間からのクエスチョンなんだけど、どうすればいいと思う?ドラコから急に距離をとったら彼も訝しむだろうし、パンジーもプライドが傷付くと思うのよね。せっかく出来た友達をわたしも失いたくないし。この考え方には温度を感じるかしら?」

「いやね、拗ねないでよ。冗談、あなたは愛情深いわ」

 猫でも可愛がるようにダフネが顎の下を擽ってくるのを、振り払って軽く睨む。ダフネは気にした様子もなく笑っている。

「別に今のままでいいんじゃない?何かを変える必要はないわ。結局はパンジーの問題なんだから、あなたがどう動こうと悪くなるものはなるし、良くなるものは勝手に良くなるわ」

 身も蓋もないが、正論だ。

 ダフネは案外冷めている。それが心地いい。

 そう言うと、「あなたほど冷めてないわ。大抵の人間のことはどうでもいいでしょう?たまに怖くなるもの」

「そんなに?わたしって優しくない?」

「自分で言わないでよ。優しいのはどうでもいいからでしょ。あなたの身内に入ってることに安心するわ」

 ダフネに言われるなんて相当だ。

 心がないとかダフネにしか言われたことがないけど、たぶん恋をしたことがないからじゃなくて、冷めているから言われるんだろう。

 ダフネも人の事は言えないくせに。でも……。

 

「シビアなところは似てるのに、恋をするとあんなに可愛らしくなるなんてね……」ニヤニヤしながら言うとダフネの頬にカッと赤みが差した。

 幼馴染みに言われるとますます羞恥が湧く。あまりからかって来ない分、たまにからかわれるといたたまれなさもひとしおだった。

 ダフネはシャルルを睨んだ。

 

「それ以上言うと、エリアスとのこともう何も教えないから」

「わたしが悪かったわ」

 シャルルはすぐさま全面降伏した。

「まだ手紙を送りあってたわよね?進展があったの?」

 ダフネはまだちょっと顔を赤くしていたが、「怒らないで。笑ってた方が可愛らしいわ」「気になるところでだんまりなんて」「幼馴染みへのちょっとした愛情表現よ」と宥めていると、ようやく機嫌を治してくれた。

 と言っても、不機嫌はパフォーマンスで、ちょっと話題を盛り上げるじゃれ合いのようなものだ。

 たぶん、言うのが恥ずかしくて拗ねたフリしてふざけた空気を作りたかったんだろう。

 

「キスをしたわ」

 ダフネはシャルルの耳元に顔を寄せて、吐息のように囁いた。

「えっ!それじゃあ……」

「それで、この恋はおしまい」

 その声は何か吹っ切れたように軽快な響きを伴っていた。ダフネはもう痛みを受け入れ終わったあとなのだろう、シャルルの方が胸が切なくなる。

 なんと言えばよいか迷い、寝転がったままダフネの肩に頬を寄せた。

「……素敵な恋をしたわね」

「……うん。エリアスを好きになって良かった。彼がわたしを妹のようにしか思っていないことも、気持ちに気づいてることも知ってた。それで、もう諦めようと思ったのよ」

「……」

「最後のお願いだからって、クリスマスにデートしてくれるように頼んだの。帰り際、告白したけどやっぱりダメだった」

 シャルルはダフネがポツポツ言わせるままにしていた。思い返して感傷に浸ってはいるけれど、どこか滲むような温かさがあり、ダフネは傷付いてはいなかった。

「それで、思い出が欲しいと言ったのよ……エリアスは躊躇っていたし、困ってたわ。当然よね。わたしは12歳で彼は18歳なんだもの。でも、最後に「僕を好きになってくれてありがとう」って触れるようなキスをくれた。わたしもう、それだけで報われたと思ったわ」

「ロジエールは、子供だからと誤魔化さないで、あなたに向き合ってくれたのね」

「ええ!彼を好きになって良かった」

 

 ダフネは指先を擦り合わせ、幸せそうに目を閉じた。ふっくらと丸みを帯びた頬は薔薇色で、透けるような金の睫毛があどけない顔立ちに儚げさを醸し出している。

 シャルルはダフネよりもエリアス・ロジエールの気持ちの方が分かった。

 魔法省に入省したばかりで、人脈がこれからのキャリアに必要不可欠な中で、6つも歳下の聖28一族のダフネにキスをするのにはかなり勇気がいっただろう。ダフネはそんな子じゃないけど、もし女の子同士の恋バナできゃあきゃあと言いふらされたらロジエールの評判はかなり難しくなる。

 それでも自分を慕ってくれる女の子に報いようと、リスクを取ってまでダフネの恋心に誠実に答えてくれるなんて。

「ダフネ、あなたの見る目はかなりいいわね」

「ふふっ、でしょ?恋は終わったけど、悲しい気持ちより幸せな気持ちの方が大きいの。今でも好きだけど、ちゃんと思い出に出来そうだわ……あっ、この話他の子には内緒よ?」

「分かってるわ」

「シャルル以外にはまだ誰にも言ってないの」

「わたしには言ってよかったの?」

「?当たり前じゃない。シャルルも恋をしたら教えてね。それ以外のことも。わたし、あなたの秘密はいちばんに知りたいの」

「分かったわ」

 

 シャルルはうなずいた。

 秘密だらけだし、秘密を他人に打ち明けたいとか、悩みを誰かに聞いてほしいとかシャルルは思ったことがない。自分のことは自分だけで片付けてしまいたい。

 だからダフネを見ていると、たしかにわたしは冷めているのかもしれないなと思う。

 でもいずれ何かを打ち明けたいとき、シャルルはいちばんにダフネを選ぼうと思った。ダフネになら、たぶん何を言っても嫌われることがないだろうから。

 そういう幼馴染みがいるのはなんだか安心する。

 

 ダフネとシャルルは頭を寄せ合った。

 白いシーツの上で、金と黒の髪がそっと絡まりあっていた。

 

*

 

 翌朝パンジーはいつも通りだった。シャルルも何も無かったように振る舞った。でも内心でなんとなく気まずく感じる気がするのは抑えようがない。

 これも全部ドラコが朴念仁なせいよ。

 シャルルは心の中で呟く。

 

 魔法史は相変わらず退屈だった。ビンズ教授はただ教科書を読み上げるだけの授業をするから、予習と復習だけで事足りる。もしかしたらゴーストらしく過去体験してきた歴史について何か語っているときもあるのかもしれないが、一本調子で淡々と話す声は右から左へと通り抜けていって何も残らない。何も語っていないことと同じだ。

 

「こんにちは、リドル」

 魔法史は自習や研究にちょうどよい時間だったが、シャルルには新しい暇つぶしがある。返事はすぐに返ってきた。

『良かった。忘れられたかと思ったよ』

「昨日は少し忙しくて」

『何かあったの?アドバイスに乗れるかもしれない』

「日記に恋愛のアドバイスを求めても仕方ないわ」

『恋愛?』字が面白がるようにわずかに乱れていた。『僕もそう経験は多くないけど、分析は出来るよ』

 

 その言い様にシャルルは思わず笑った。シャルルと同じ考え方の人間らしい。

 だんだんわかってきたのだが、魔法理論の解釈を深め、カテゴライズするように人間を観察して解釈するのは、どうもふつうの子供はやらないらしかった。

 

「それよりあなたのこと調べたわ。ホグワーツ功労賞をもらってるのね」

 さり気なく、昨日知ったような言い方で書き込む。

 実際はずいぶん前からT・M・リドルのことは調べていた。

『あぁ、うん。恥ずかしいけど』

「何をしたの?実績が載っているものは見つけられなかったの」

『あまり自分を功績をひけらかすような行いはしたくないんだ』

 リドルは謙虚で殊勝なことを言った。「スリザリンらしくない考え方ね。あるいは真逆のスリザリンらしい考え方」

 シャルルはからかいを返した。

 彼と話す時、ある程度のリラックスと緊張感が同時にある不思議な感覚があった。

『なんとも含蓄がありそうな言葉だ』

 皮肉っぽい返事。やはりリドルはスリザリンらしいスリザリン生らしい。つまり目立たず、自分は誰かの後ろでこっそりと暗躍し、指示を出すタイプ。それでいて賞賛にふさわしいある程度の功績は残しておきたい。

 でもそれにしては、5年生での功労賞授与は目立ちすぎる気がする。

 

「マグル育ちのスリザリン生が2度の受賞は、かなり噂の的になったでしょう。自分で動く理由があったの?それともそのタイミングで賞賛を得ることに意味があったの?」

『君と話すのは気持ちがいいね』

 薄っぺらな賛辞だとわかるけれど、悪い気はしない。マグル生まれ……いや、彼いわくマグル育ちのくせに、かなり闇の魔術に精通した実力のある魔法使いだからだろうか。

 教室はちょうどよく日が差し込み、適度に暖かかった。起きている人はシャルル以外にはほぼいない。クラッブやゴイルはもはや腕を枕にして寝こけているし、ドラコもダフネも目をすっかり閉じている。珍しいことにセオドールもたまに頭が揺れていた。いつも本を読んだり、自習している仲間なのに。研究で疲れているのかもしれない。

 

『君にどう思われるか心配なんだけど……僕はマグルの孤児院で育ったんだ。夏休みになるとそこへ帰らなければならなかった』

「言ってたわね」

『僕は戻りたくなかった。酷い場所なんだ。ホグワーツを家のように感じていた。けれど学校が閉鎖するような事件が起きて……』

 心臓がドキリと脈打つのを感じた。日記に話しかけた理由に繋がる何かを話そうとしているのかもしれない。リドルとシャルルは親しげに話してはいても、お互い警戒してどこか手探りで距離を測っていた。

 羽根ペンを弄んでいた手を止め、背を伸ばして日記の文字を見守る。

『知っているかは分からないが、スリザリンは秘密の部屋を残した。50年前その部屋が開かれて、可哀想な生徒がひとり亡くなったんだ。それでホグワーツが閉鎖されることになった。先生方は誰も犯人について心当たりが無い様子だった』

 文字は躊躇うように跳ね、考えながら言葉を選ぶかのようにゆっくりと浮き上がってきた。シャルルはもどかしかった。

 

 継承者に繋がる何かが……繋がる何かを早く。

『僕は本当は知っていた。怪物を飼っている生徒を知っていたんだ。彼は善良で、人を殺すような生徒ではなかったけど、怪物は従えることが出来ないから怪物なんだ。彼を先生に引き渡して僕は表彰されることになった』

 

 ヘナヘナと頭の先から力が抜けるような感覚がした。シャルルは緊張から開放された。なんだ……。

 リドルが継承者だったのかもしれないと思ったのに。

 しかも、スリザリン生なのに、スリザリンの継承者を捕らえるなんて。

 軽蔑と失望が浮かぶが、もう過去のことだし、彼の気持ちに今のシャルルは理解を示せる気もする。ターニャのようにマグル界より魔法界で生きたかったのだろう。

 だが、まだ手がかりはある。

 

「継承者は男だったの?」

『ああ』

「その継承者はどうなったの?生徒を殺したのならアズカバンかしら?」

『それが、ディペット校長がホグワーツの汚名を恐れて握り潰したんだ。退学になっただけで済んだ』

「その後のことは?」

『分からないけど、ダンブルドアが目をかけていたから悪いようにはなっていないんじゃないか。……ずいぶん継承者が気になるんだね?』

 訝しげに聞かれ、ぎくりとはするがようやく見えた糸を離したくない。

「あとで話すわ。あなたにも無関係じゃない話よ」

 

 書いてから、いや、リドルは知っているはずよね?と脳内によぎる。ジニーから聞いている前提で関わっていた。そしてシャルルはジニーや誰かが話しているだろうと気付いていない風を装って。

 これはシャルルとリドルのポリティクス・ゲームなのだ。

 

 白々しい……あまりにも白々しすぎて怪しい上に、リドルの言葉をどこまで信用出来るかわかったものじゃないけれど、検証はあとにすればいい。

 シャルルは深呼吸した。

 リドルと話すのはやはり、心が強ばる。他の誰にも感じない感覚。

 

「継承者の名前は?」

『……彼は故意じゃなく過失だった。退学にまでなったのに、これ以上彼の人生を踏みにじるようなことは……』

 

 ここまで来てそんなことを言うの!?

 シャルルは怒鳴りつけたくなった。

 意図をはかるために試しているんだろう。はやる気持ちで手をもたつかせながら書き込む。

 

「今ホグワーツでまた部屋が開かれているの。無垢な生徒がどんどん倒れているわ。前の継承者がまた行動を始めたか、その子孫がきっといるのよ」

『秘密の部屋が?』

「継承者を捕らえたあなたにしか分からないのよ。お願いリドル、今を生きる子供たちを守ると思って助けてほしいの」

 シャルルも白々しく言葉を並べた。

 でも、お願い、と懇願する気持ちだけは本当だ。今を生きるシャルルのためにその名前を教えて欲しい。シャルルならスリザリンのくせに継承者を教師に売るようなマネはしない。

 

『君は純血だろう?どうしてそこまで他の生徒を気にする?』

 文字に力がこもっていて、なんだか威圧的な雰囲気を感じた。シャルルは一瞬なぜか言い訳をしそうになった。日記を見つめる。

「ルームメイトがマグル育ちの混血で、マグルに虐待されているの。ホグワーツが閉鎖されたらその子はマグルに戻ることになるわ」

『……』

 咄嗟に浮かんだターニャを使ったが、これはリドルの共感を求める意味で最善手な気がした。

「彼女は泣いていたわ。マグルに戻りたくない、わたしは魔女だって。わたしは彼女に深い同情を覚えたわ」

『……僕と同じだ。もしあの頃の継承者が戻って来ているなら、僕も手助けをしたい』

 シャルルははしたなく机の下で勝利の拳を握った。

 

『継承者の名前は……ルビウス・ハグリッド。当時グリフィンドールの3年生だった』

 

 ──ルビウス・ハグリッド?グリフィンドール?

 その名前をどこかで聞いたことがあるけれど、思い出せない。高まった熱が置いてけぼりになる。

 

『彼はホグワーツ内で危険な怪物を飼っていた。僕は彼がこっそり育てているのを知っていたんだ』

「怪物って?」

『アクロマンチュラだ』

「取引禁止品目に指定される超危険魔法生物じゃない!人肉を好む……ホグワーツで飼ってたの?」

 背筋がゾワリとする。死者がたった1人で済んだのは奇跡なんじゃないだろうか。でもアクロマンチュラに人を石化する力は……あっただろうか?

『ああ、本当に危険な……そのときはまだ子供だったけど、それでも1人食い殺された。君たちの代は死者はまだ?』

「ええ。幸いなことにまだ誰も。その継承者に子供はいないのかしら」

『分からないけど、いたらすぐ分かると思う。彼は巨人とのハーフだから』

 

── 禁じられた森の傍に犬小屋よりも酷い家があるだろう?あそこにはハグリッドとかいう野蛮人が住んでるんだ。

── あの森番は巨人族と魔法族のハーフなのよ!

 

 ハグリッド!

 おぞましいハーフの森番のことをシャルルは思い出した。まさか、彼がスリザリンの継承者だなんて……。

 シャルルの脳内で激しく嫌悪感と崇拝心がジレンマを引き起こした。

 

『シャルル?』

 文字を見てハッとし、シャルルはとりあえずその問題を脳の隅っこに置いておいた。受け入れる時間が必要だ。リドルの証言を確かめてからでも遅くはない。

「ごめんなさい、色々なことを一気に知ったから動揺して……。50年前の被害者は誰だったの?」

『マートル・エリザベス・ウォーレン。マグル生まれのレイブンクローで、不幸な事故死として片付けられたよ』

 その名前もシャルルは書き留めた。

 魔法史の羊皮紙は新しい情報でいっぱいになっていた。

 

*

 

「どこ行くの?」

「ちょっと調べものにね」

「また図書室?よく飽きないよね。たまには陽の光を浴びながらおしゃべりでもしない?」

「片付いたら行くわ」

「それっていつなの?」

 呆れ声のトレイシーに軽く手を上げ、シャルルの足早に図書室へ向かった。連日図書室にすし詰めになっているが、求めている情報はなかなか集まりきらない。

 

 ホグワーツで死者が出たことは完璧に抑制されていた。当時の校長、アーマンド・ディペットは高く評価され、蛙チョコレートで偉人としてカードに載っているが、その政治的手腕はたしかなようだ。たぶん、彼はスリザリン出身だろう。

 狡猾に事件を抑制し、メディアを支配し、名声を守っている。

 

 50年前はさらに純血名家や権力者への不透明度が高く、新聞記者たちの力は低かった。当時の新聞に載っている魔法省のゴシップは、大概が政争で民意を操るためのものだろう。

 出てくる名前はたいてい混血かマグル生まれであり、たまに出てくる純血名家のゴシップの後には、さらに力のある名家の成功へと続いていた。

 

 マートル。マートル・ウォーレン。

 彼女の記事はどこにもない。

 恐らく父に聞けば、裁判所か法執行部、あるいは大臣室に残っている資料があるだろうけど、ヨシュアに尋ねた時点でシャルルが秘密の部屋について調べていることが確定的になる。怒りを買うのは間違いない。

 

「あー、もう!」

 小声で苛立ちを発散させる。

 

 ただ、アクロマンチュラの生態については調べてある。

 1965年の実験的飼育禁止令以前に人工的に作り出された魔法生物で、M.O.M分類でXXXXXの最上級レベルに分類される。

 人肉を好み、8つの目を持ち、巨大で鋏も持つ。暴力的で肉食的。牙には非常に強い毒液を持ち、高いレートで売買される。

 そして1794年に初めて発見されたとされる。

 実物を見たこともないし、そもそもアクロマンチュラの生態自体詳細に記された書物が少ないため、確定は出来ないが、やはり石化能力はないだろう。

 毒液は稀少で、その強力な毒は単体よりも魔法薬の調合に使用され、アルマジロ調合薬やセイレーンの代永薬のような、生命維持に致命的な損傷を与える効能がある。

 

 ……ふうん?

 闇の魔術師によって作り出され、手を離れて繁殖したアクロマンチュラが、実は1000年前からスリザリンが作り出していました──というのは無理があるだろう。

 スリザリンが作り出したアクロマンチュラに特別に石化能力がある可能性があることも否めないけれども。

 

 わたしがスリザリンだったならば、自分の手足に使う魔法生物は、蛇にする。末裔に血によってしか受け継がれないパーセルタングはスリザリンの象徴であり、本人も好んでいた。誇りに思っていたから、寮のシンボルに蛇を選んだのだと思う。

 それにパーセルマウスは稀少だから、他の人に操られない生き物を選びたくなるだろう。

 もちろん、これは推量とも言えない、空想の域を出ない産物だけれども……。

 

 ルビウス・ハグリッドがホグワーツにいるなら、会いに行ってみたい。

 でも継承者にのこのこ会いに行って殺されないとも限らないし、しらを切られて殺される恐れもある。アクロマンチュラによって退学させられたなら流石にアクロマンチュラは処分されているだろうが、彼は禁じられた森を支配している。

 ハーフ巨人なら力で敵うわけもない。

 継承者ならば懐に潜り込んで仲良くなるのも時間がかかるだろう。それに、デミヒューマンに対して自分が嫌悪感を抑えられるかどうか……。

 

 ハグリッドが継承者であると仮定すると、激しい嫌悪感と失望感に苛まれる。

 

 シャルルは首を振った。

 いや、ターニャの件で分かった。人は生まれを選べない。ハグリッドが好きで、おぞましい生き物として生まれてきたわけではない。彼の父と母がおぞましい生き物として産んだのだ。

 そこにはたぶん、恋が絡んでいる。

 種族の差を超えた恋とかいうもののために、先のことや産まれてくる子のことを何も考えず、その時の感情のままに、後先考えずに交尾するから可哀想な境遇の子供が産み落とされるのだ。

 

 本人も、サラザール様も可哀想だ。

 血を穢されたサラザール様。

 生まれ損ないにされたハグリッド。

 きっと彼も、本人のどっちつかずの種族より、魔法族として血を誇ったからこそ秘密の部屋を探し出して開いたのだろう。

 

 そう考えると、シャルルの胸は同情で痛んだ。

 



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34 所詮拙い駆け引きごっこ

「シャルル、何か顔色悪くない?具合でも悪いの?」

「そうかしら?」

 

 首を傾げるシャルルの顔をパンジーがペタペタ触って確かめた。「熱はないみたいね」

「体調に変化はないけど……」

「でもいつもより青い気がする。ただでさえ白いのに、まるで雪みたいよ。貧血かしら?生理は?」

「まだ先よ」

「うーん」

 

 パンジーと気まずくなるかと思ったが、彼女は彼女の中で何かを消化したらしく、あれから関係に変化はなかった。パンジーに心配され、彼女がシャルルだけにかまってくれるのは嬉しいので、まったく体調は悪くはなかったが、「そういえば寝つきが悪い気がする……」と言ってみた。

 嘘はついてない。

 最近はずっと消灯時間を過ぎてもリドルと話しているので、寝不足なのはたしかだ。

 

「医務室に行った方がいいわよ」

 シャルルは曖昧に微笑んだ。それだけで行くつもりがないと分かり、パンジーは呆れたため息をついた。

 彼女は諦め、隣にずっとついて見張るのを心に決めたらしい。最近様子がおかしいし、目が覚めている時はずっと図書室や寝室にこもって本を読んでいる。病気になるのも当たり前だ、というのが彼女の言らしかった。

 

 魔法薬学のクラスで、シャルルはたいていセオドールやトレイシーやダフネと組み(今年になってからは混血の生徒とペアを組むことも多くなった)、パンジーはドラコと組んだが、今日はパンジーと組むことになった。

 いつもプラチナブロンドを見かけるとすぐさまシャルルを放って駆け寄って行く彼女が、世話が焼けるわ、というようにシャルルの傍についていてくれる。シャルルは鼻唄をフンフン鳴らし、上機嫌になった。

 

 教授が来るギリギリに慌ただしく入り込んで来た、赤と金の3人組がシャルルを視界に入れるとキッと睨んだ。その視線を無感情に受け止める。

 ポッターは苦々しげで、ウィーズリーは嫌悪に満ち、グレンジャーは僅かに怯えがあった。

「何?あいつら」

 パンジーが鼻に皺を寄せた。

「いつものことよ」

「そうなの?だってシャルル、ポッター達のことは気にかけてるじゃない」

「なんだか休み明けからますます嫌われてるみたいなのよね」

 肩を竦める。前から好かれてはいなかったし、ポッターのパーセルタングを知った時にグイグイいきすぎてしまって警戒はされていたが、最近はそれに増して攻撃的で嫌な視線を向けられることが増えた。

 ジニーと手紙のやり取りをしていることがバレたのだろうか。

 彼女から来ることはほとんどないが、たまにフクロウを飛ばしてみると、彼女は律儀に短い返事を送ってくれる。休み中は課題のアドバイスなどを聞かれたりして、順調に仲を深めている最中だから、それについて嫌がられているのかもしれない。

 

 ドラコのように、彼らに嫌味を言ったり敵対しているつもりは無いのに悲しいことだ。特にポッターはサラザール様の血を引いているし、闇の帝王を滅した人だから、出来れば仲良くなりたいのに……。

 まぁでもシャルルは諦めるつもりはない。

 ホグワーツの生活はあと6年もあるのだ。

 

 今日作るのは「戻し軟膏」だ。材料を前にシャルルとパンジーは顔を歪めた。血吸いヒルが小皿に載っている。ゴイルのパンパンの指ほどもある真っ黒なヒルがうぞうぞねとねと、皿の上で蠢いていて吐き気がした。

 このヒルの体液を搾り出して、しっぽも切り刻まなければならない。

 

「……」

 2人は顔を見合わせ、ヒルを見て、途方に暮れた。

 いつもは気持ち悪い材料はペアのセオドールやドラコがやってくれていたのだ。

 パンジーがチラッとドラコを見たが、ドラコは前の方の席についている。ダフネと組んでいるセオドールもここからは遠い。

 本当に触りたくないが、パンジーがやってくれるとも思わない。現にパンジーは鍋に水を入れて、違う材料にスッと手を伸ばしている。小憎たらしいけれどそれがパンジーだから……。

 意を決してヒルに手を伸ばした時、後ろからおずおずと声がした。

 

「あの……わたしがやりましょうか?」

 ターニャ!

 救いの声にシャルルは顔を輝かせた。

「いいの?」

「はい……あの、もう刻んであるので、わたし達のを使ってください」

 

 スネイプがポッターをあげつらっている間に、シャルルとターニャはサッと小皿を交換した。

「ありがとう、ターニャ」

「いえ……」

 ターニャが少し微笑んだ。目を丸くしていたパンジーが、少し驚いたように呟いた。

「けっこう役に立つわね。……彼女前と何か変わった?」

「休みの間に仲良くなったの」

「それは知ってるけど……」

 ターニャに同情したのは本当だが、シャルルが彼女に対して少し優しくし、対等に扱う素振りを見せただけで、以前とは見るからにターニャの態度が変わった。

 前までは言われたことだけを卑屈な表情で淡々とこなすだけだったけれど、今では何も恐れずシャルルに話しかけてくるし、積極的にシャルルの手伝いをしてくれるようになった。

 

 シャルルが劇的に変わった訳では無いのに……少し優しくなったというだけなのに。

 そのくらいの優しさにも飢えていたのかもしれないと胸が痛みつつ、人の動かし方というものに触れた気がして、シャルルは学びを得ていた。

 ターニャが積極的になるほど、パンジーも見る目を変えるようでいいことばかりだった。

 

*

 

『ミスター・ハグリッドへ

 

 初めまして。突然お手紙をお送りして申し訳ありません。

 唐突ですが、わたしは50年前に秘密の部屋が開かれ、あなたがアクロマンチュラを秘密裏に育て、継承者として杖を折られたことを知っています。

 しかし捕らえられたあなたがアズカバンに行かずに、今森番をしているのは何故ですか?

 わたしはあなたの現状を大変疑問に思っています。

 今回再び部屋が開かれたのはあなたの仕業ですか?

 もし、魔法省に密告されるのを恐れるならば、このフクロウに否定する材料を記して返事を持たせてください。

 今日中に返事がない場合、あなたを継承者だと肯定します。

 

 名も無き生徒より』

 

 シャルルは羊皮紙を伸ばして、文字を読み返した。インクがところどころに跳ね、とても読めたものでは無いほど文字が歪んでいる。シャルルは頷いた。

 これは賭けだった。

 随分強気な手紙だがこれでもいい。

 ハグリッドが継承者ならば、直接会おうが手紙を介そうが、どうせシャルルに辿り着く。フクロウに探知呪文をかけるだろう。それで、シャルルのことを知れば純血主義であることはすぐに明確になる。

 読みようによって、継承者を否定しているようにも歓迎しているようにも受け取れるだろう。そしてシャルルの探査能力を理解するはずだ。

 それを忌避するかは分からないけれど、マグル生まれへの襲撃が止まっている現在、彼は手詰まりになっていると仮定できる。手助けするメリットを考慮してくれる……と思いたい。

 それにシャルルを特定すれば、シャルルを殺した場合のデメリットのほうが多いことが分かるはずだ。父は判事で過去の事件もそこからの情報だと推測出来る。すぐにハグリッドに繋がると思うだろう。

 

 でも、実際のところシャルルはハグリッドが継承者である可能性は非常に低いと考えていた。

 

 一応彼が継承者だと仮定し、そのための心の準備もした。彼は哀れな存在だ。受け入れられる。そう自分の理論を構築したし、去年もドラゴンを飼おうとしたとかいう話を聞いたから、50年もホグワーツにいて他にも怪物を手に入れていないはずがない。

 なのにそんな彼が急にマグル生まれへの襲撃を意図する可能性は低いと思う。彼はグリフィンドールの3人組の友人でもある。

 

 反証はいくつか思い浮かぶが、結局そう思うのは、リドルがどうしようもなく疑わしいからに他ならない。

 

 椅子を立ち上がったり、座ったり、立ち上がってウロウロしたりするシャルルをターニャが怪訝な顔で見つめているが、口は出さない。

 リドルとの日課は毎日続いているが、ハグリッドのことを言うつもりはなかった。ジニーから聞いていないのだろうか。彼女も仲がいいかは知らないけれど、3人組は仲がいい。

 もし知った上で言ったなら煽っているし、知らないで言ったなら好都合だ。

 

「ふぅ……」

 深呼吸し、シャルルは意を決した。浅慮なのはわかってる。けれど何か動きたくて仕方がなかった。塔の上から小さくなるフクロウを見送りながら、手のひらに手汗が滲むのを感じ、シャルルは奇妙な高揚感と緊張に包まれていた。

 

 

 夕食の時、そのフクロウがやって来た。

 シャルルは座ったまま小さく飛び上がり、ひったくるようにして手紙を掴む。フクロウが嫌そうな顔をして軽く手をつついたが、小さな痛みもかまわずに封蝋を開いた。フクロウがシャルルのオートミールをぐちゃぐちゃにして飛び立っていった。

 

「何?その手紙」

 小汚く安っぽい封筒にシャルルの態度を見て、パンジーが尋ねる。

「ああ、うん、ちょっとね」

 シャルルは手紙を凝視しながら上の空で答える。パンジーが眉をしかめた。

 

『誰かは知らんが、俺はやってねえ!

 退学にはなったがダンブルドア先生が俺を信じて森番に置いてくだすったんだ。だから今回の事件も絶対俺じゃねえ!

 当時だって、俺も飼ってた生きもんも誰も殺してなかったんだ。

 ダンブルドアに誓う!

 たしかめてくれていい。疑われるのも分からなくねえが、断じて俺じゃねえんだ。魔法省だってダンブルドア先生からそう聞いてるはずだ。

 それよりお前さん、そのことをどこで知ったんだ?お前さんが誰かは聞かん。だけど、当時すら知ってるやつはそんなにいなかった。ばあさんかじいさんから聞いたのか?

 

 ハグリッド』

 

 パンジーはギョッとした。シャルルの瞳孔が開き、獰猛な喜びを浮かべていたからだ。一瞬でその表情は消え、シャルルは手紙を折り畳んでローブにしまった。返事は返さない。

 数日後にシャルルが捕捉されたり、ハグリッドから接触が来たり、石にされたり、死ぬことがあればハグリッドが継承者だろう。

 おそらくその可能性は低い。

 文面から分かる知性の低さや駆け引きの苦手そうな性格。

 たぶん、実直で正直で善良な性根をしているのだろう。

 

 次はダンブルドアに手紙を送ってみようか。

 ハグリッドについて……。念には念を入れた方がいい。いや、でも目を付けられるのも鬱陶しい。

 

 シャルルはローブの中にしまってある小さな日記の表紙をそっと撫ぜた。よれた硬い感触。ハグリッドからのアクションを待つために、2、3日待ってみるが、その間何も無ければおそらく……T・M・リドルが秘密の部屋に深く関わっている。

 

 怪物も、マグル生まれを石にした方法も、何をするために日記に記憶を閉じ込めたのかも分からないが、彼は絶対に今回の件と無関係ではないだろう。

 ゾクゾクして僅かに息が上がるような感覚がして、シャルルの口から無意識にうっとりとした溜息が零れた。

 

 

 3日間シャルルは焦れに焦れながらも待ち続けた。たったそれだけ待っただけで何かが変わるはずもないだろうし、すぐさま口封じをするのも芸がない。分かっていたが、それ以上は待てる気がなかった。せっかちだからだ。

 その間もリドルとはたわいない、白々しいやり取りを続けていた。

 内容は主に有効的な呪文だった。リドルは決闘にも長けているらしく、攻撃的ではなくとも、実践に用いやすい呪文や、呪文の操り方を知っていた。

 

『随分機嫌がいいみたいだね』

「え?……そうかしら?」

『いや、違うな……浮ついてる?なんだかそわそわしている様子が文字から伝わってくるよ。何かあったのかい?』

 

 ごく普通の態度のつもりなのに、リドルに指摘されてシャルルは少し動揺した。心が波立ち騒いでいるのが現れているらしい。

 リドルが特別観察眼に優れていて鋭いということを踏まえても、文字というのは素直だ。

 

「少しね」

『ふぅん、僕には言えないこと?そういえば思春期に差し掛かる年齢だったね』

「やめてよ、たいしたことじゃないわ。ただ……」

 そこで筆を止める。何と書いても上手い言い訳が思いつかない。シャルルはとぼけることや、真実を黙秘することや、言い回しを変えることは得意だが、嘘をつくのはあまり得意ではない。

 それに、嘘をつくと際限がなくなっていく。

「プライベートな話になるけど手紙の返事が来たの。返ってくるとは思わなかったから安心と興奮で少し落ち着きを失ってしまったみたい」

『君が返事をもらえないかもしれないなんて不安になるのは珍しいね』

「休暇中ずっと無視されてたんだもの。プレゼントも貰えなかったし……」

『可愛らしい悩みだね。やっぱり思春期じゃないか』

「何か誤解してるわね?お父様のことよ。喧嘩というか、怒らせてしまってしまったんだけど、休み中に幼馴染が取りなしてくれたみたいで、許してもらえたの」

『へぇ、父親ね……』

 

 何かを含むような呟きに少しドキリとする。見抜かれただろうか。でも嘘は言っていない。手紙が来ないかもしれないと思っていたことも、お父様と喧嘩していたことも事実だ。

 ふたつの出来事がイコールじゃないだけで。

 

「もういいじゃない。続きを教えてちょうだい」

 わざとむくれたような言い回しで書いてみる。リドルとの会話はいつも程よい緊張感があっていつもドキドキする。今はなおさら心臓が音を立てる。

『まぁいいけどね。レダクトはもう習得した?』

「小さなものなら粉々にできるようになったわ」

『じゃあ大きなものを砕く前に、粉砕の幅を変えることから始めようか』

「粉砕の幅?」

『砂状、粒状、石状、岩状に粉砕の規模を変えていくんだよ。この呪文は攻撃にも使えるけど、魔法薬学や魔法具作成に使われる方が多いからね』

 どうやら誤魔化せたようだ。

 シャルルはふーっと息をつき、羊皮紙を開いてリドルの講座をメモに纏め始めた。

 

*

 

 その日の授業が終わり、シャルルは寝室に駆け込んだ。頬が熟れて緊張で心臓が逸る。

 日記を開いた。

 

「リドル」

 

 呼びかけると直ぐに返事が浮かび上がってきた。

『授業はもう終わり?』

「ええ」

『お疲れ様。君の頭脳だと2年の内容は簡単過ぎるだろうね。じゃあ呪文の続きをしようか』

「それも魅力的だけど、答え合わせをしようと思って」

 唇が酷く乾き、シャルルは舌で濡らした。数秒が過ぎた。レスポンスの早いリドルが、何かを察したように、あるいは何かを考え込むように少しの時間をかけたことに、ドキドキと期待と興奮が嫌でも高まる。

『答え合わせ?』

「ハグリッドに話を聞いたわ」

『ハグリッド?継承者の?場所を特定したのかい?』

「彼はホグワーツにいるのよ。禁じられた森の門番としてね」

『門番?ホグワーツ?ダンブルドアは一体何を考えてるんだ……奴は犯罪者なのに。シャルル、危険はなかったかい?』

「ええ。彼は純真で優しくて愚図よ。知ってるでしょう?」

『たしかに彼は継承者らしからぬ性質を兼ね備えているが、危険人物に変わりないよ。現に生徒をひとり殺害しているんだ。故意にしても、過失にしてもね』

「わたしは彼は継承者ではない可能性が高いと考えたわ」

『……。彼とどんな話をしたか分からないけれど、まさか彼を信じたのかい?継承者は言葉を操り、相手に見せたい自分を見せることが出来るんだ』

「あなたみたいに?」

『……』

「言ったでしょ。答え合わせをしに来たの。あなたは……」

 手汗が滲んだ。唇が歪む。

 

「あなたが……継承者?」

 

 しばらくの沈黙の末、日記が答えを返した。

 

『……やはり、君の賢さと鋭さは消してしまうには惜しいな』

 

 シャルルは全身が総毛立ち、頭皮にジワーッと鳥肌がビッシリ広がっていく感覚がした。歓喜と興奮、そして恐怖。目の前の手帳から黒い煙が立ち昇ってくるような気さえする。

「わたしがダンブルドアに話していたらどうする気だったの?」

『その心配は最初からしていなかった』

 断定的で簡潔な文だった。

「最初から?」

『継承者への並々ならぬ興味を抑え切るには、君はまだ幼すぎる』

 

 ──見抜かれていたんだ。

 カッと頬が熱くなって、思わず唇を噛み締める。駆け引きめいたやりとりをしてみても、所詮小娘の浅知恵でしかなかったことが情けないやら恥ずかしいやらでシャルルは手を震わせた。

 

「さぞおかしかったでしょうね……こんな……。それで、秘密を暴かせた後はわたしを消すつもりだったの?日記にかけられた闇の魔術で?」

『ハハ。たしかに闇の魔術がかかってはいるけど、この日記はそういうものじゃない。記憶を保存するために使ったのさ。燃やしても意味がなかっただろう?』

「……。それも分かるの?日記の中からこちら側が見えるの?」

『さぁ、どうかな』

 

 せせら笑う声が聞こえてきそうだった。もしかして、シャルルがジニーの日記を掠めとったことも、嘘をついたことも、何もかも分かっていて泳がされていたのだろうか。

 どこからどこまでが本当で、何が嘘なのか見抜けない。

 彼の言うことは全て白々しく、全てが嘘のようだからこそ、疑いの心を上手く利用されてコロコロと遊ばれている。

 

『君が僕を怪しむように、僕も君を見ていたよ』

「……何が分かったの?」

『君の誇り』

 

 わたしの誇り?

 そんなことを話した覚えも、話題に出た覚えもない。誇りなんてずいぶん綺麗な言葉がこの流れから出てくると思わなかった。

『血、家柄、家族、友人。君を構成する全てに自負を持っている。友人を思い出すよ。オリオンやアブラクサスをね』

『君にハグリッドのことを教えたのはなぜだとおもう?』

『ジニーのお嬢さんよりずっと賢く、操りづらく、扱いやすそうだったからだよ』

『僕をダンブルドアに差し出してみるかい?』

『スリザリン生の手で、継承者を公にした二度目の栄光になるだろうね』

 

 シャルルは日記の交友の中で彼を分析してきたつもりだったし、自分で本心をキッチリ隠して駆け引きしてきたつもりだったが、リドルの考えていることが全く分からなくなった。

 底知れぬ闇が眼前に口を開けて待ち構えていた。心臓が震えた。恐ろしいのにどうしようもなく高揚していた。どこからどこまで彼の手の内だったか分からない。最初から踊らされていただけだったのかもしれない。12歳の少女と16歳の継承者の間には隔絶された深淵が横たわっており、シャルルは拙く蛇の真似事をしているだけだった。しかしその羞恥心はむしろシャルルの興奮を煽った。

 リドルは何がしたいのだろう。

 マグル生まれの粛清にこんなに手を込んだ真似をしなければならないのだろうか。それとも他に目的があるのだろうか。それとも手の込んだ真似をしなければならない理由があるのだろうか。

 わたしを使って、一体何を。

 

「どうしてわたしだったの?」

 期待に文字が揺れた。たぶんリドルはそれだけで色々なことを何もかも見通してしまえるんだろう。そして嘲笑うような返事が浮かんだ。

『誰でも良かったよ。僕は誰が相手でも自由に操ることが出来るからね』

 落胆し、恥ずかしくなり、浮かんだ文字にすぐにキュッと心臓が締め付けられた。

『でも拾った相手が君で運が良かった。僕たちは相性が良さそうだ』

 

 




久々の投稿となってしまい申し訳ありません。


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35 執心

 リドルはシャルルが睨んだ通り継承者だった。そしてサラザール様の正当な末裔だった。最後の末裔。長い間誰にも見つけられなかった遺産の秘密の部屋をたった5年で見つけ、開き、怪物を操る継承者。

「わたしは何をしたらいいかしら?」

『色々頼みたいことはあるけど、余計なことはしなくていい。その時になったら指示を出す』

 

 リドルはそう言ったきり、シャルルに何かを求めなかった。

 今すぐ動きたいのに。

 役に立つと思われたなら秘密の部屋を教えてもらえるかもしれないのに。

 聞きたいこともたくさんあった。すぐ質問するのは多分リドルは嫌いだろうと思っていても目の前に答えが開いているかと思うと、つい聞いてしまう。

 

「サラザール様の遺した怪物って何だったの?アクロマンチュラでは絶対ないでしょう?スリザリンだから蛇かなと思ったのだけど……」

 

 ウロボロスは伝説上の生き物だし、シーサーペントは蛇のようなドラゴンのような生き物だし、ヒュドラは猛毒は持つけど石化は当てはまらないし、ヤマタノオロチは東洋でしか生息していないし、ヨルムンガンドやレヴィアタンやラミアかとも思ったが、確定するには情報が足りない。

『あれ、まだ知らなかったのかい?』

 素で驚いたような答えにシャルルは自分を恥じた。リドルは既に彼女が特定したと思っていた。

『ヒントもあげたのに』

「分からなかったの……」

 小馬鹿にしているのか呆れているのか失望されたのか分からないが、いたたまれなかった。

 ヒントってなにかしら。

 なにを見逃してしまったのかしら。

 図書室にあった魔法生物関連の本は大体目を通した。伝承上の生き物や精霊関係だって探した。闇の生き物の本だって、図書室に置いてあるものはさわりしかなかったが読み込んだ。

 蛇じゃないのかもしれない。でも蛇であると思う。そう思いたいだけなのかもしれないが、誰にも分からない部屋を作るなら、誰にも扱えない怪物を使うだろう。蛇語を操るサラザール・スリザリンにしか扱えない蛇の怪物を、彼は作り出したのかもしれない。

 もしそうならシャルルにはお手上げだ。

 そう思ったのに、リドルの言い方では、ヒントで分かる実在する怪物らしい。焦れったくてこめかみがチリチリする。

 

『スリザリンの遺した怪物が並大抵であるはずが無い。危険でないはずがない。そんな生物に対して大人が──特にあの偽善者が──いつでも生徒が簡単に手を伸ばせる場所に知識を飾っておくとでも?』

 

 脳裏がチカッと光る。

 なるほど。リドルの言う通りだ。たしかに彼はヒントをくれていた。

「ビンズ先生ね?」

『その通り。君は賢いけど、発想力には欠けるね』

 一瞬ムッとするが、煽るような言い方はいつものことだ。それに彼は継承者で、サラザール様の血を引いている。サラザール・スリザリンの血を……。

 あらためてそう認識し、興奮で少し指が震える。

 

 今まで日記を介して軽い口調で話してきてしまったけれど、不敬じゃないかしら。

 弁えた態度を取るべきじゃないのかしら。

 彼は何も言わないけれど、許されているということなのかしら。

 シャルルの中には継承者に対する尊敬の念がある。でも何だかリドルにはもっと気安い感情があった。友人のような、悪友のような、師のような……。不思議な感覚だ。それもリドルがシャルルにそういう感情を持たせるために計算ずくで動いていただけなのだろうか。

 

 

 シャルルはそれから迅速に動き出した。答えが目の前にあっても、答えはチラチラと欠片を見せて誘導してくるばかり。自分で辿り着くしかない。

 まずはレポートを完成させるために研究を詰めることにした。

 幸い、呪文は口頭……というか、文字でだけれど、リドルが指導してくれる。

 レダクトとボンバーダの呪文開発の歴史を調べ、実践を成功させ、効果と用途に差異を記述するのを目指した。呪文学の分野だが、その背景に触れればビンズ先生の琴線に触れるだろう。

 あの人の授業はいつも棒読みで教科書をなぞっているだけだが、その知識は相当に深く、歴史を詳らかにするということに病的に執心している。

 

「また図書室にいるのか」

 一心不乱に書物と向き合いメモを取っているシャルルの頭に呆れたような声が上から降ってきた。向かいにセオドールが腰掛ける。

「あら、あなたが言うの?」

 悪戯げな響きで面白そうにシャルルが返した。シャルルが図書室にいる時、高確率でノットもこの場所にいる。だがセオドールは笑ってはいなかった。

「君は最近いつでも図書室にいるだろう。朝弱いのに早朝から休み時間、そして夕食もそこそこに消灯ギリギリまでここでレポートを書いている。パーキンソンやグリーングラスがいい加減心配でヒステリーを起こし始めるぞ」

「心配?」

 首を傾げる彼女にセオドールが眉根を寄せた。おもむろにシャルルの白い手のひらを掴んだ。

「血の気がないし体温が低い。そんな青い顔で何故必死にレポートなんてしてるんだ?」

「あなたも心配してくれているのね」

「当然だろう」

 真顔で言われ言葉に詰まった。少し照れくさい。

「体調は別に悪くないのよ。寝不足はまぁ少しはあるけど、自分でも不思議なくらい頭が冴えているし……」

「やる気があるのはかまわないけど、それはそんなに急いで纏めるものじゃない。ただの個人の研究レポートだ」

「出来るだけ早く仕上げたいのよ。ここ数日ほとんど寝ずに取り組んでいたから、7割程度は仕上がったわ。終わったらゆっくり休息を取ろうと思ってたの。……ほんとよ?」

 ジトリと睨まれ苦笑する。本の虫仲間のセオドールがわざわざ言いにやってくるなんて、多分相当度を超えていたんだろう。

 自分では気が付かなかった。

 リドルに質問すれば打てば響くように議論出来るのが楽しかったし、研究が形になっていくのも気持ちが良かった。リドルはさすが継承者なだけあって、尊い血筋を引いているだけではなく、実力も素晴らしく優れている。彼の役に早く立てるようになりたかった。早くビンズ先生に見せて、闇の生物に関する情報を手に入れたくてワクワクして、あまり自分のことを気にかけていなかったかもしれない。

 

「ありがとう、セオドール。心配してくれて。あと少しで終わるから、そうしたら休むわ。それに今日はちゃんと眠る」

「……」

 彼はまだ何か言いたげだったが、それ以上は口を噤んだ。持っていた教科書を広げて課題に取り掛かり始めた。あまり人と勉強するのは好きじゃないはずなのに傍にいるのは、シャルルを気にかけてくれているからかもしれない。

 くすぐったいような気分になりながら、メモの内容を確認してもらうためにシャルルは日記を開いた。リドルからの返答をまたメモに纏める姿を、怪訝に伺うセオドールに彼女は気付かなかった。

 

 ──またあの日記を開いている。

 パーキンソン、グリーングラス、マルフォイ達は揃って彼女の様子が変だと言う。休暇が明けてから常に体調が悪そうだし、ボーッとすることが増え、図書室か自室に引きこもることが多くなった。

 趣味だった他寮生との社交もしなくなり、日記を書き始め、いつも黒い手帳を開いている。自分が体調が悪いことにも気付いていないし、前ほど友達の言葉に耳を傾けなくなった。

 今だってそうだ。

 セオドールの忠告を聞きながら、改善する気は無い。頑固なのは前からだが、少なくとも従う素振りや、譲れないことでも相手に気を悪くさせないような努力をしていたのに、今のシャルルは馬耳東風で気もそぞろなのが丸わかりだ。

 

 この必死さは、おそらくだがシャルルがご執心のものに機を発しているに違いないとセオドールは睨んだ。つまり秘密の部屋だ。サラザール・スリザリンの継承者。

 休み中に何か掴んだのかもしれない。

 死した英雄のことなど、セオドールはどうでもよかった。継承者もどうでもいい。穢れた血の粛清も。

 こんなにロースパンで粛清したって血の浄化など到底出来やしない。するなら、闇の帝王のように徹底的にやらないと。それでも足りなかったのだから、一人ずつ石にしたところでいずれ対策されるだけだ。

 シャルルがこれほど身を削って夢中になるほど継承者には価値がないのに、何故彼女はそれに気付かないのだろうか。憧憬や崇拝で目が曇っているなら残念でならない。

 シャルルがそれほどまでに創設者を慕う理由をセオドールは知らないが、自分が認める才女が愚かなことに振り回されているのは見たくなかった。

 

 2日後、シャルルは泥のように眠った。リドルに『よく書けていると思うよ』と合格をもらい、安心してベッドに沈み、久しぶりに深い睡眠を貪った。

 この1週間ほど、眠気と興奮と目的意識で突き進んでいたシャルルは、起きてかつてないほど頭がスッキリとしているのを感じた。

 窓から見える湖は上の方が白く凍っているのが見える。1月の半ばに差し掛かっていた。冷静になった彼女だったが、起きて思ったのは、「早くビンズ教授から許可を貰わないと」だった。

 リドルは役立たずのことは協力者としても認めてくれない。シャルルは自分がジニーより役に立つ自信があった。日記を手放したあとのジニーがリドルのことを誰かに伝えていたら、きっとすぐに日記のことが公になるはずだから、おそらくジニーはあまり情報を与えられていないのだろう。

 でも、リドルが何らかの形でジニーを使って襲撃の計画を立てていたのは確かだと思う。利用する人間がいないから襲撃が止まっているのかもしれない。あるいは何らかの理由に依って襲撃にストップをかけているのかもしれないが、リドルは沈黙しているため、どちらにせよ、早くリドルにシャルルのことを認めてもらう必要があった。

 

「この後教授の元に行くわ」

『そう。閲覧禁止の棚に行ったら余計な本をベタベタ触らないことをオススメするよ。呪われて死にたくないのであればね』

 闇の魔術の本当にを匂わせる返事に、シャルルは胸が高鳴るのを感じた。どうりで上級生のみにしか許可が下りないはずだ。これからホグワーツに眠る叡智を好きな時に好きなように学ぶことが出来ると思えば、ワクワクして足取りが軽くなった。

 制服に着替えていると、パンジーがベッドのカーテンを開いた。

 

「シャルル、起きたの?一緒に朝食に行きましょうよ」

「おはよう、パンジー」

 シャルルはにっこり微笑み、首を振った。朝食は後回しにしてすぐに魔法史の教室に行くつもりだった。パンジーが鋭い声で咎めた。

「また図書室なの?最近ロクに食べてもいないじゃない。倒れてからじゃ遅いわ」

「大丈夫だよ」

「大丈夫じゃないから言ってるのよ!」

「やることがあるんだったら」

 シャルルはパンジーの手を困った顔で柔らかく解き、逃げるように階段を下りた。談話室にはマルフォイとセオドールがいて、シャルルを見ると近づいてこようとしたが、彼らの何か言いたげな顔を見ると何か言われる前にするりと廊下に飛び出して行った。

 心配してくれるのはありがたいけれど、邪魔されるのは好きではない。

 

 2階の魔法史の教室の隣りにはビンズ教授の私室があり、教授は日がな一日、私室か職員室で腰掛けている。ノックをすると、驚いなような物音がし、しばらく沈黙が続いたのでもう一度ノックをすると、「……入りなさい」と動揺を隠すような、しわがれた神経質な声がした。

「失礼します」

「君は……」

「スチュアートです」

「それで、えー、ミス・スチュアート。私に何か用事かね?」

 ビンズ教授は丸眼鏡の奥から注意深くシャルルを眺めていた。禿げあがった前髪や小太りの半透明の体。教授と会話をすることがほぼ初めてであることにシャルルが気付いた。教授は授業中、ほぼ全ての生徒にも、教室内の様子にも無関心だからだ。

「実は、個人的に呪文開発の歴史におけるレポートを纏めたので、ビンズ教授に見ていただきたくて」

 ローブから丸めた羊皮紙を取り出して手渡すと、戸惑ったように開き、目を細めた。ビンズは最初怪訝そうに眺めていたが、次第に「ほほう」と小さく唸り、無言で読み進め始めた。

 シャルルがドキドキしながらビンズ教授が読み終えるのを待った。

 非物質的な存在であるはずのゴーストの彼は、自室の柔らかそうなソファに深く沈み込み、物質的な羊皮紙を手に持っている。しかし彼はいつも教室に壁をすり抜けて入ってくる。

 自分の意思でゴーストは物体に働きかけることが可能らしい。

 さらに、意味があるのかは分からないが、暖炉がパチパチと燃えて部屋の中を暖めている。

 

「あー、よく纏められています、ミス・スワンピー」

「スチュアートです」

「レダクトとエクソパルソは非常によく似た効果を発揮しますが、その背景には調べた通り非常に大きな差異が存在しているのであります。その起源は1289年の国際魔法戦死条約締結に至った一人の魔法戦士に通じており──」

「ええ、教授、おっしゃる通りです」

 長くなりそうなのを、にっこり笑って遮る。

「それで、ボンバーダやコンフリンゴのよく似た呪文の背景も魔法戦争での使用を比較しながら纏めたいのですが、戦争についての書物は、ほら……」

 シャルルはわざと言葉を止め、教授を熱心に見つめた。

「もちろん悪用するつもりはありませんが、魔法戦争は繊細な歴史ですから、詳細な記録ということになりますと、教授方の許可をいただけないと、これ以上自学で調べるのは難しくて……そうでしょう?」

「……まあ、あなたのおっしゃる通りであります。つまり、ミス・コーデリーは」

「スチュアートです」

「禁書の閲覧許可が欲しいと?」

「はい、ビンズ教授」

 

 シャルルは出来るだけ背筋を伸ばして美しい姿勢を保ち、返事を待った。教授は少し考えた末、頷いた。シャルルは喜びに胸が震えたが、まだだ、まだ気を抜けない。

「こちらにサインをいただいても?」

 許可証を差し出す。ビンズ教授はそれを眺め、借りる本の題名ではなく、あくまで許可のみを求める内容に手を止めた。

「えー、もちろんレポートには様々な参考書籍が必要でありますが、借りるのはあくまで呪文開発の歴史に留まる内容でありますね?」

「もちろんです、ビンズ教授」

「よろしい。私は『攻撃魔法の凄惨な歴史』『英雄と呼ばれた殺戮者』が参考文献に良いと考えるのであります」

 教授はシャルルに釘を刺したが、最終的にはサインを書いた。シャルルはローブの下でぎゅっと拳を握り、興奮で頬が赤くなった。

「あ、ありがとうございます。これでますます勉強に励めます」

「完成したら、また提出を待っていますよ、ミス・エヴァーグリーン」

 名前を訂正するのを辞め、シャルルはにっこり笑った頷いた。名前すら覚えられていないなら、ビンズ教授は誰に許可を出したかも忘れてしまうに違いない。もしかしたら、許可を出したことすら忘れてしまうかもしれない。

 レポートを返してもらい、ビンズ教授の私室を後にすれば、もうシャルルがいた証拠だって何も無いのだ。

 

 シャルルは浮かれた足取りで許可証を確認した。禁書の棚の閲覧許可──実質無制限の許可だ。

「リドル!あなたの言う通りだったわ!」

『成功したのかい?』

「ええ!早く図書室に行きたいわ」

『良かったね。ようやくスタートラインだ』

「すぐに特定してみせるわ。そうしたらわたしに協力させてくれるのよね?」

『そうだね……君にさせたい仕事はもう決めてある』

 その文字を見て期待に胸がキューッと痛んだ。締め付けられるような痛みで、足元がふわふわ浮かぶ感覚がした。

 創設者の子孫の協力者となり、伝説の一幕に自分が参加出来る……。夢想すらしたことがない現実に、シャルルは舞い上がりそうだった。

 

 今に至るまでのイギリス魔法界。その礎を築いたのは創設者だ。マグルから魔法族を保護し、教育を施し、ホグワーツの発展からやがて魔法省という政治機構に繋がり、文明が発展していった立役者。

 全ての始まりである創設者たちをどうして尊敬せずにいられるだろうか。

 シャルルの生きる、愛すべき魔法界を築いた彼らを。

 

 ぽわ~ん、と赤い顔でうっとりして、シャルルは許可証を大切そうに日記帳に挟んだ。

 

*

 

 今すぐに図書室に行きたかったが、授業をサボることは出来ない。一瞬、体調不良だと言ってサボろうかとも考えたのだけれど、多分医務室に連れていかれるし、そうするとマダム・ポンフリーにはサボりを見抜かれるだろう。もし見抜かれてもベッドで強制的に休ませられてしまうに違いない。

 授業があるはずの時間に図書室に行けば、マダム・ピンスが怪しむだろうし……。ただでさえ、禁書の棚に入るなんてことになったら、図書室の番人である彼女が粗探しをしてくるに決まっているのだ。

 連日図書室に通い詰めているのに、彼女はいつまで経ってもシャルルを曲者を見る目つきで監視している。もちろんシャルルに限らず、マダム・ピンスは全ての利用者を罪人のように思い込んでいるのだ。

 

 朝食の時間はとうに過ぎていたため、そのまま薬草学の温室に向かった。昨日の夜も、昨日の昼もあまり食べていなかったが、興奮しているせいかシャルルは全く空腹感を感じなかった。

 でも、さすがに食事を取らないとそろそろまずいかもしれない。

 昼休みになったら急いでご飯を食べて、図書室に向かおう。そう算段をつけて席に座る。もう半分ほどの生徒が揃っている。

 

 パンジーの物言いたげな視線に微笑みだけ返して、一人で座る。リドルに、闇の魔法生物の書籍の他に、実践的な魔法呪文の書籍を借りる話をして、文献を色々と教えてもらっていると、隣に誰か来る気配がしてシャルルはサッと日記を閉じた。

 内容を見られる訳にはいかないし、最近日記を開いてばかりね、と言われるのが咎められているような気がして、それがリドルを否定するような風に思えてしまって、いい気分ではないからだ。

 

 隣に座ったのはダフネだった。

 寝室も違うし、そういえば顔を合わせるのは久々のような気がする。

「酷い顔してるわよ、シャルル。鏡見てる?」

「ちょっと、いきなり罵倒なんてひどいわね」

「だってせっかくの美貌なのにもったいないんだもの。あ、ねえ、今日一緒に昼食取らない?」

「そうね。メニューはなんだろ?」

 心配そうな瞳はしているが、ダフネはそれには触れない遠まわしな言い方をしてきた。

 

 やっぱりダフネは分かってる。

 シャルルは詮索をされるのも嫌いだし、口を出されるのもうんざりしてしまう。手鏡を覗き込むと、ダフネに言われた通りたしかにシャルルの目元には薄いクマが出来ていた。唇もかさついていて、青白い顔が際立っている。

「これあげる。買ってみたけどわたしよりあなたの方が似合うと思うわ」

 コスメブランドの新作のリップだった。青みの強いピンクは確かにシャルルによく似合っている。今まで美容を怠ったことはなかった。容姿は力のひとつだ。シャルルは鏡の中の生気の薄い自分の顔を見つめた。

 

 スプラウト教授が授業を始める前に嬉しそうに生徒を見回した。

 マンドレイクがコソコソ友達同士で内緒話をするようになり始めたらしい。情緒が発達し、人間でいうところの学童期に入ったようだ。順調に成長しているようだが、スリザリン生はもちろんどうでもよさげで、レイブンクロー生も数人が笑顔を浮かべたくらいだった。

 被害者はハッフルパフとグリフィンドールにしか出ていないし、マグル生まれだし、シャルルは「へえ」としか思わなかった。

 スプラウト教授はムッと顰めっ面をし、肩を落としたが、すぐに授業の続きが始まった。

 でも、リドルに伝えた方がいいかもしれない。

 せっかく襲った被害者がすぐに意識を取り戻すのは意にそぐわないだろう。もしかしたら、怪物の姿を見られた可能性もある。

 マンドレイクの成長を阻害した方がいいだろうか?

 そう思ったが、リドルは勝手な行動をされるのは嫌いそうだ。

 



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36 命を手折る感触

 時間が過ぎるのが酷く緩慢だった。

 禁書の棚を昼休みだけで網羅出来るわけもなく、最初から課業後に向かうつもりだったけれど、それでもじれったかった。

 

「学校もだいぶ落ち着いてきたわね」

 マンドレイクが成長していることと、襲撃がしばらく行われていないことで、ホグワーツは気付けば随分と明るい雰囲気を取り戻しつつある。そのことに、シャルルはダフネに言われて初めて気付いた。

「たしかにそうね……」

 少し前までは、継承者に怯える多数の生徒が固まって歩いたり、不安そうな顔色をしていたり、意味のなさそうな護身グッズを大量に抱えていたものだが、シャルルはそういう生徒の様子を休暇以来一切気にかけていなかった。

 継承者に一直線だった。

 油断して、空気が緩んでいることはたぶん、リドルには歓迎すべきことなのかもしれない。むしろ、そういう風に動いていたのだろうか。

 リドルの次のターゲットが誰か分からないが、この中の誰かをターゲットにすることに、シャルルは少し冷静になった。

 別に、シャルルはマグル生まれを殺したいわけでも、石にしたいわけでもない。興味が持てないだけだ。

 ただ、サラザールの遺志を継ぐ継承者の力になりたい。伝説に立ち合いたい。あわよくば……あわよくば、その力を中でなく外に向けてほしい。

 魔法使いが潰し合うことに、メリットは少ないだろうから。

 

 スープを静かに口に運びながら瞳を伏せた。

 自分が明確に加害者になることを自覚しながらも、やはりシャルルは止まれる気がしない。

 

「ダフネはどう思う?この一連の流れを」

「なにが?」

「継承者にまつわる今年度の騒動すべてよ。あなたはあまり意見を言わないでしょう」

「ああ……うーん」

 パンを千切り、ダフネは首をかしげる。

「できるだけ関わりたくないわ。恐ろしさはあるけど、わたし達は安全なわけだし……でも、落ち着かないから早く収まるところには収まってほしいわね」

 思わずシャルルは笑みを零した。ダフネらしい。

「わたしは継承者の手がかりを得たら、全力で追いかけるつもりだし、もし特定したら彼に協力すると思う」

 静かに言う。幼なじみがどんな反応をするか、いや、他者がどんな反応をするか、シャルルは初めて気になった。ダフネは冷めてはいるが、善良だった。

「突然どうしたの?そんなのいまさらでしょ?」

「そうね。でも、いずれ被害は石だけじゃすまないかもしれないわ」

「……」

 

 シャルルにとってそんなに重い意味を込めた問いかけではなかったが、ダフネはなにかの分岐点のように彼女をまじまじと見つめ、思案していた。

 少しして彼女は口を開いた。

 

「あなたがあなたのまま、思うことをしたなら、わたしはそれでいいと思うわ」

 

 ダフネの若草色の瞳が訴えかけるようにシャルルを見つめていて、その眼差しの真摯さにシャルルは瞠目した。

 何か言おうと思った言葉は喉のあたりで解けて、吐息となって溶けていく。視線が交差していた一瞬はすぐに消え、ダフネがまばたきしたことで、ふたりの間にあった言葉にしがたい何かは緩んだ。

「最近のあなたは思い詰めているようで心配よ。どこか遠くに行きそうで」

「そうかしら…そんなふうに見える?」

「口出しはしないけど、ただ分かっていて。あなたが思うより、わたし達はあなたを見てる」

 さり気ない口調だったが、そこにはたぶんダフネの情が滲んでいて、シャルルははにかんだ。生き急いでいる。それは事実だし、そして、それでも受け入れてくれると幼なじみは寄り添う言葉を伝えてくれたのかもしれない。

 

 ダフネにはかなわないな…。

 なんだか指先がくすぐったい。

 

 

「ビンズ教授がサインを?」

 尖った、金切り声寸前の声を出したマダム・ピンスに優雅に微笑みながら許可証を差し出すと、彼女は鼻先をくっつけんばかりにジロジロ検分し、いかにも渋々と不機嫌にうなずいた。

 

 心が逸る。

 落ち着かない時こそ、ゆっくりと──最近はそう思うことすら忘れていた淑女の仕草を意識して、シャルルは図書室の奥の奥へ向かう。

 急ぐことなどないのだと、ダフネと話して少し思えた。

 そりゃあもちろん、ずっと憧れていた伝説に合間見えているのだから、浮き足立ってしまうを抑えるのは難しいけれど。

 継承者への手がかりも、伝説の瞬間も、今はシャルルの手の中に黒い日記帳としてある。

 寝食を忘れるほど身を削る必要はもうないのだ。

 伝説に置いていかれることはない。

 

 禁書の棚はロープで他の棚と仕切られていた。立ち入り禁止と言う割に些かぞんざいで簡単な儚い壁。スカートをつまんでそっとロープをまたぐ。

 古ぼけた革や外国の文字──恐らくルーン文字──の本、金文字が剥がれた背表紙、表記のないもの。

 一歩踏み入れるとベールを潜ったかのように本の匂いも変わり、どこか掴めない影のような雰囲気がたゆたっている。首筋の産毛が逆立つような…スチュアート家の地下の書庫にも共通する、どこか不気味な静謐さの漂う空間。

 

 シャルルは本の森に目を凝らしながらそっと本棚を辿った。

 すごい……。

 当たり前のように闇の魔術の本がある。

 立ち上るような魔力を滲ませる書籍ばかりで、シャルルは脳髄の好奇心が引きずり出されるような感覚になった。棚から取り出してみたくなる気持ちを抑える。

 禁書エリアの本に迂闊にあれこれと無警戒に触れるのは浅慮だ。

 

 戦争系の棚、魔道具系、魔法薬系、歴史系、伝承・神話系、生物・動物系……ここだ。

 空を指でなぞりながらタイトルを読んでいく。

 乾いた埃の匂い、ランタンの揺れる薄暗い光。

「動物実験学…異形再生の書…プロジェクトキメラ…。本当に闇深い研究ばかりね…」

 ふと、とあるタイトルに手が止まる。『魔によって生み出された怪物たち』。

 何らかの獣の毛皮で作られた表紙の本を惹かれるままに手に取り、ページを開く。パラパラと見ただけで、闇の生物と、その生み出し方を凄惨な図と共に記されている。

 

 数種類の蛇の怪物を眺め、ある岩肌のような皮に鋭い牙の蛇が飛び込んできて、シャルルは悲鳴のような吐息を洩らした。

 

 ──バジリスク。

 

*

 

 世界を徘徊する怪物たちの中でも、最も珍しく、最も破壊的であるという点で、バジリスクの右に出るものはない。『毒蛇の王』とも呼ばれる。

 この蛇は巨大に成長することがあり、何百年も生き長らえることがある。鶏の卵から生まれ、ヒキガエルの腹の下で孵化される。

 殺しの方法は非常に珍しく、毒牙による殺傷とは別に、バジリスクのひと睨みは致命的である。その眼からの光線に捕らわれた者は即死する。直視を何らかの媒介──鏡や水面越しなど──で回避した場合も、対象の全身が石化する被害が発生するが、マンドラゴラから作成される蘇生薬で回復することが出来る。

 蜘蛛が逃げ出すのはバジリスクが来る前触れである。なぜならバジリスクは蜘蛛の天敵だからである。バジリスクにとって致命的なものは雄鶏が時をつくる声で、唯一それからは逃げ出す。

 バジリスクの創成者は知られている中でも最古の闇の魔法使い、腐ったハーポだと言われる。彼は古代ギリシャの呪文発明家、闇の魔術師であり、数多の闇の魔術や分霊箱を発明した。また、パーセルマウスであり、バジリスクを使用した凶悪な事件を相当数引き起こしている。

 彼の起こした事件から考察されるバジリスクの性質については───。

 

 

「……ふう…」

 息をすることも忘れ夢中で読み込んでいたシャルルは、震える吐息を整えるために深く深く息を吐いた。

 答えは、たぶん、これだろう。

 他のページにあった「コカトリス」も性質上はかなり似通っているが、コカトリスは草食性だと書かれている。さらにキメラなので、形態上はドラゴンに近い。

 

 間接的な視線で石になる…被害者の状況を確かめるべきだろう。だが、被害者を元に戻すためにマンドラゴラ回復薬を作るという点において、一致するのはバジリスクだ。

 興奮の中で思考が巡る。

 既にダンブルドアはバジリスクということを断定しているように思える……。

 だからリドルは最近沈黙しているのだろうか。

 シャルルは記述を羊皮紙に乱雑に書き写して丸めると、ローブに突っ込んだ。

 踵を返そうとし、思い直して戦争の棚を見る。適当に凄惨な歴史が描かれていそうな本と呪文が載っていそうなものを引っ掴み、マダムのところへ戻った。魔法史の名目で許可を貰った以上、足がついてしまわないようにするべきだ。

 

 睨めつけられながら貸し出し手続きを終え、足早に寮を一直線に目指した。コメカミのあたりがジクジク針でつつかれるような感覚が走り、眼球に力が入りすぎて鈍く痛む。

 興奮は苛立ちに似ている。

 わななく唇を引き結び、走り出したい衝動と戦いながらシャルルは無言で足を進めた。普段の優乙女の表情は完全に消え、今やまるで鬼気迫るようであり、背中から熱が滲んでいる。サファイアの深い瞳がぬらっと光を放っていた。

 

 寝室のドアを焦れったそうに勢いよく開けた音に振り向いたパンジーが、笑顔からどこか気圧されたように目を丸めた。

「ど、どうしたのよ? 何かあった?」

「しばらく引きこもるわ」

 

 笑みを浮かべる余裕もなく突き飛ばすように答え、シャッとベッドカーテンを閉じ、マフリアートをかける。それから外から開かれないようにする呪文も。

 優雅に、そう考えたことなんてすっかり脳みそから飛んでいってしまっている。

 シャルルは深呼吸し、鬼子母神的な表情から一転し、夢見るような瞳で日記を見つめた。

 

「分かったわ」

『禁書の棚に入れたようだね』

「バジリスクね?サラザールがバジリスクを飼っていたなんてどの文献にも載っていなかったわ…歴史を紐解いた気分よ!スリザリンは腐ったハーポの系譜なのかしら?だとするとスリザリンも古代魔法に基づいた闇の魔術を……」

『よく辿りついたね』

 

 思わず思考のまま送り付けた長文に、割り込むように返事が浮き上がってきて、シャルルははたと指を止める。決まり悪く身じろいだ。

「ごめんなさい、興奮して…」

「かまわないよ。ただ一番最初のページを捲っただけでこうとは、随分可愛らしいじゃないか」

 あやすように嘲笑され、シャルルは羞恥にムッと唇を尖らせた。そして胸に手を当てて目を閉じ、心臓が耳のそばで鳴るのを落ち着かせようとした。

 リドルの言う通り、まだシャルルは扉の前に辿り着いただけ。扉の存在を見つけただけだ。

 

「それで、わたしはあなたに協力させてもらえるの?」

『君はどうしたい?』

「焦らさないで!これ以上の栄光はないわ。それに、わたしはたぶん役に立てると思う…役に立つように努力するわ。ジニーよりもね」

『──許そう。君に僕の計画を担わせてやろう』

 

 黒い染みにシャルルは瞬間的に心臓が喜びでギリギリと引き絞れるように痛んだ。

「は……っ」

 熱い溜め息が肺からドハッと零れ、目が潤みそうになる。

 すごい、こんなことが──。

 わけもなく出てきた鼻をグス、と啜った。

 

「ありがとう。きっと後悔はさせないわ。それで、何をすれば?」

『ただのドールならいらない。君はまず何が必要だと考える?』

 

 何が……?

 必要なこと、問題点が無数に浮かんできて泡のように頭の中で弾けた。ダンブルドア、リドルの計画を知ること、バジリスクがどうやって襲撃しているのか、マンドラゴラの成長…。ハグリッド。

 

「……雄鶏を殺すこと…?」

『そうだ。ジニーのお嬢さんは純真な間抜けでね…まだ数羽も残っているのに、毎回1羽ずつしか殺せなかった。それも随分励まして誘導してやって、だ。効率が悪いにも程がある』

「分かったわ。魔法で殺したら魔力を探知されるかしら…ダンブルドアなら」

『魔法は原則的には場所しか特定出来ない。だが、小屋の周りに初歩的な守護呪文を掛けたらしい』

「簡単な突破呪文なら知ってるけれど…」

『いくつか効果的な呪文を教えよう。そうだな、望むなら攻撃呪文も』

「お願いするわ」

 

 羊皮紙を取り出して羽根ペンを持った。

 しかし浮き上がった文字にシャルルは瞠目し、視線を吸い寄せられた。

 

『君が有能なら、僕が直接魔法の訓練をしてあげるよ。せいぜい才能を見せるといい』

 

「直接……?」

 疑問を尋ねる前に呪文がスラスラと浮かび、慌ててそれを書き写した。

 直接訓練するとはどういう意味なのだろう。

 尋ねても、答えてくれないことは、今のシャルルにも推察できたが、頭の中では疑問が渦巻いていた。

 

*

 

 息を潜めてジッと闇に同化する。フィルチや教師はいない。

「フェレブライ」

 囁くと、インクを垂らしたような重たい闇の中でも、くっきりと浮き上がるように周囲が見え始めた。絵画や肖像画も眠り、自分の吐息だけが耳元で反響している。

 クリスマス休暇の時は教師の気が緩んでいたから深夜徘徊していたが、学期中に夜間外出禁止を破るのはほぼ初めてだった。去年の学期末パーティー以来かもしれない。

 ローブを細い指でキュ、とつまむ。

 新雪の肌はぼんやりとした頼りない蝋燭に照らされ、闇の中で真珠のように薄く光を帯びていた。

 

 音を立てないようにそっと忍び足で進む。本当はリドルに教えてもらった目くらまし呪文をかけたかったのだけれど、高学年の内容で、まだ完璧に扱えなかったのだ。

 シャルルは秀才だが、天才ではない。

 理論を理解し、反復練習を何度も繰り返して今の実力を保っている。一日で成功させられるほどの難易度ではなかった。それが少し情けない。

 

 玄関ホールの巨大な扉を僅かに開くとギィギィと軋む音が静かな空間に、思った以上に響いた。心臓に汗をかきながら素早く潜り、急いで木の影に隠れる。

 幸い、誰かが気付いた様子はない。

 シャルルは小走りでハグリッドの小屋に向かった。

 絶対成功させたくて、プレッシャーと興奮が鳩尾のあたりに鈍痛をかけてくる。

 後から気付いたのだが、シャルルは当たり前のように「ジニー」の名を出していて、リドルも当たり前のように「ジニーにさせたこと」を話した。その会話の中に少しの齟齬もなく、リドルはシャルルがジニーについて知っていたことに気付いていたことを表している。

 その上でジニーを操っていたことを教えてくれたのは、前進のような気がした。信頼はされていないだろうけれど……少しでもそれに答え、役に立つと思わせたい。

 

 ハグリッドの小屋へは初めて来た。

 みすぼらしい小さな木の部屋で、スチュアート邸の庭の隅にある箒置き場よりも粗末だった。

 奥の方に禁じられた森が見える。月が照らす中でも、その森はサワサワと揺れ、深い闇が黒々と渦巻くようで不気味だった。何かに見られているかのような気分に、足を踏み出すのが躊躇いそうになる。去年この森に連れてこられたドラコはさぞ恐ろしかっただろう。

 髪をひとつに纏め、お団子にしている首筋が冷気でゾーッと撫でていくようだ。シャルルは目深にフードを被った。

 

 裏の方の畑のそばに鶏小屋があった。

 柵で囲まれ、その柵に魔法がかかっている。焦げ臭く、酸っぱいような香りは木酢液かもしれない。獣避けだろう。それから鼻にツンとくる匂いは吸血性の魔法生物避け。

 調べた限り、森番は鶏が死んでいることを人為的だとは考えていないらしい。都合がいい。

 鶏は昼行性なので、小屋の中で自分の羽に顔をうずめるようにして寝ている。起きないようにそろっと近づき、十数匹いる鶏たちに「シレンシオ」をかける。

 こんなにたくさんいるのに、ジニーのやり方は悠長すぎる。到底全て殺しきらないだろう。

 シャルルは魔法生物の知識には詳しいが、家には生き物はハウスエルフしかいなかったので、頭を隠している雌鳥と雄鶏の区別がつかなかった。それに、雄鶏だけ殺したらあからさますぎる気がする。

 

 唇を舐め、周囲を用心深く見回し、シャルルは囁いた。

「ディフィンド・マキシマ」

 血飛沫が月夜の中に飛び散った。突然死んだ仲間に、鶏達が起きてバサバサと走り回り始める。シャルルは焦る気持ちを必死に押し殺し、何回か同じ呪文を繰り返した。

 バタバタと倒れていくのを、何とも言えない気持ちで眺める。やがて小屋の中で動いているものはいなくなった。

 張り詰めた静寂。

 自分の肩が上下に激しく動き、杖を握った手のひらが震えて、背中に汗がつたった。

 最後に鶏小屋の網を壊した。

 獣が噛み破ったように見えるだろう。

 

 自分の起こした惨状を検分するように眺め、やがてシャルルはローブを翻してその場を後にした。

 

*

 

「はーっ……」

 地下への階段前に辿り着いたシャルルはようやく息を深く吐いた。熱くなった血がせわしなく巡っている。絵画たちの寝息がさざなみのように石壁に跳ね返る。

 虫や蛙や鼠以外の、あれほど大きな形の命を奪うのは初めてだった。

 暗闇の中で舞うように吹き上げる鮮血も、声を縛られて生まれる前に消えた断絶魔も、引き絞られるように苦悶に蠢いていた体も。

 凄惨な光景は甘美というには恐ろしく、怖気付くには悦楽的すぎる。

 高揚感と慄きが波のように満ちては引き返し、シャルルの細い身体を翻弄していた。

 

 壁にもたれて息を落ち着かせ、ルーモスもつけずに階段をそっと降りると、中腹でニタニタとした甲高い声が背後から忍び寄った。

「いーけないんだ、いけないんだ……夜中にフラフラしてる悪い子だ~れだ?」

「ッ」

 シャルルはあやうく叫びそうになったが、驚きのあまり鳩尾を打たれたように声も立てられなかった。ポルターガイストのピーブズだ。嫌なやつに見つかってしまった。

 もう充分視界を阻害しているローブのフードを、さらにぐいと引っ張った。

「せ~んせに言ってやろ……だってチビちゃんがいけないんだものね?悪い子、悪い子、捕まえるぞ」

 歌うように暗い目を細めて、ぷかぷか、空中を泳いだり回っている小男を前に、シャルルはパニックになりそうな気持ちを抑えて、脳が高速で回転していた。

 

 スリザリン生なら、血みどろ男爵の脅しが使える──ピーブズが唯一恐れるのがスリザリンのゴーストだ。

 でも今、シャルルはフードで顔を隠し、緑のローブではなく私服用の無地の黒いローブを着ている。目立たないようにするため、そして万が一見つかった時寮から点を引かれないようにするため。黒髪もフードで見えていないはず。

 暗闇の中で俯いていた彼女は、チラッと宝石の目をまたたかせ、素早く杖を抜いた。

「シレンシオ!」

 シャルルを怯えさせようとすべらかに動いていた声がピタッと止まる。ピーブズは何度かまばたきをし、苛立ったように顔を歪め、手近な絵画を空中に浮かべさせた。

「ペトリフィカス・トタルス」

 杖を振るった瞬間、シャルルは猛然と走り出した。ガシャアン、と額縁が床に落ちたけたたましい音と、「ギャッ!一体なんだ!?私の安眠を害する奴は!?」と叫ぶ声が聞こえたが、それすら置いていくように足を目まぐるしく動かした。

 

 合言葉を唱え、石壁に現れた扉に滑り込んだシャルルは、ソファにへなへなと倒れ込んだ。

 あ、危なかった……。

 心臓が口から出そうなくらいバクバクしている。安心したら冷や汗がどっと背中に浮かんだ気がする。

 シャルルは、こういう冒険じみたことは初めてだった。

 去年といい、今年といい、秘密に近づいていく薄気味悪いような、高揚感の伴うドキドキなら経験したことがあるけれど、基本的にシャルルは知識欲が旺盛なだけの優等生だから……しかも、今日はやったことが、やったことだ。

 鶏を殺したこととシャルルを結び付けられたら、罰則どころじゃすまないかも……。

 

 自分がやったことの実感が湧いてきて、手が震える。

 去年のハリーたちの冒険を思い出し、彼らに一種の恐れのような感情が浮かんだ。彼らはいつもこんな冒険をしているのかしら。こんなの、心臓がいくつあっても足りない。

 でも、リドルに協力すると決めたから、こういうことが増えていくんだろう。

「フー……ふふっ」

 けれど、後悔はなくって零れたのは微笑みだった。

 高揚感が血を巡っていて、ドキドキしてなんだかたまらなかった。

 リドルに褒めてもらえるかしら。…

 

 寝室は静まり返っていて、誰も目覚めた様子はない。

 シャルルは天蓋のカーテンをしめ、ローブを脱ぐと「インセンディオ」で燃やした。証拠に繋がるものはないほうがいい。そして自分に「スコージファイ」をかける。

 泡のようなひんやり冷たい水の感覚が全身を撫でていった。

 自分の身も綺麗になるし、杖が最後に使った呪文も清め呪文なら疑わしいことは何もない。

 

 机に座ると手帳を開いて、羽根ペンを持った。

「全部殺してきたわ」

 みるみるうちに黒い文字が浮かんだ。

『早かったね。大丈夫だったかい?』

「途中ピーブズに見つかったけど、呪文をかけてきたし、教授たちには見つからなかったわ。顔も見られてないと思う」

 鶏を殺すにあたって、シャルルはリドルから呪文は色々と教えてもらったけれど、決行に関しては彼に相談することなく自分で計画を立てていた。

 初めて任された仕事だから、すべて指示されるのではなく、自分で動けると彼に示したかったのだ。

 2年生ながらに頭を回し、足がつかないようにと拙くも振る舞ったシャルルに、リドルは満足気だった。

 

『そう、やっぱり君は優秀だね。君を選んでよかった』

 

 このたった一文だけで、こんなにも胸が軋むのはなぜだろう?

 頭のてっぺんから爪先まで、じわっと滲むような感覚が全身を包んで、最後にそれが心臓の内側からキューッと締めつけてくるようだった。指先に火が灯る。

 得意げに胸を張るのを隠し、文字だけは冷静になるように努めた。まぁ、少し震えているからうまくいったかわからないけど。

 

「わたしは役に立つでしょう?」

『そうだね──君の認識を上方修正したよ。それに、精神の乱れもそこまで懸念するほどじゃないみたいだ。安心したよ。ジニーの怯え様には、それはもう酷くうんざりさせられてね』

 

 初めて彼女と話した時のことを思い出した。

 青ざめて震え、何かに怯えていた様子……。

 玄関ホールでぶつかった時に、リドルの日記帳を意図せず手に入れたあの時、まさしくジニーが鶏を殺したあとだったのかもしれない。

 外にいたのか尋ねると酷く動揺し、靴には雪に混じった赤いものが……あれは血だったのだろう。

 

 リドルに褒められ胸を膨らませながらも、シャルルは庇った。それは、自尊心が満たされるのを隠し切れていなかった。

「あの子はまだ1年生の女の子なのよ。普通の子にあんまり求めるのは酷だわ」

『年齢は言い訳にならないさ。現に君は2年生で仕事を完璧に遂行してみせた。そうだろう?』

「まぁ、そうかもしれないけど、でもジニーも……」

『だが、言った通り君はまだ2年生だ。小さな蛇だとしても、今は興奮で自覚していないだけで精神に負荷がかかっているのは間違いない。もう休んだほうがいい』

「このくらいで動揺したりしないわ」

『初めての経験というのはストレスがかかるものなんだ。それに、この後の方が重要だろう?』

「この後?」

『秘密を暴くことも、何かを引き起こすこともそれほど困難じゃない。一番重要で、かつ困難なのは握った秘密を握っていないように振る舞い、扱うこと』

「……そうね…」

『わかったならお休み。普段と変わらない態度で過ごすことでようやく秘密は秘密になるんだ』

「わかったわ。おやすみなさい、リドル」

『よい夢を、シャルル』

 

 文字が優しい気がしてなんだかくすぐったい。

 横になると、たしかに彼の言った通り、ドシッと身体に重力がのしかかってくるような感覚があった。疲れていたんだろう。彼には動揺しないなんて言ったけど、シャルルはずっと心が動きっぱなしだった。

 目を閉じると睡魔が手招きしている。

 今日は彼に警戒しないで、朗らかにずっと話せていた気がする。それに、彼もとても優しかったような。

 たくさん褒めてくれて……彼に褒められると満ち足りたような、自分がとても凄い存在になったような気持ちになった。

 少しは認めてもらえたのかしら……。

 やがてシャルルは微睡みに落ちていった。



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37 完璧な青年

 秘密の扱いについては得意な方だと自負している。

 スリザリンに属していながら「例のあの人」を快く思っていないことはセオドールしか知らないし、去年は賢者の石の件、父親への疑念だって隠している。

 翌日、校内がざわついている様子はなかった。

 教授たちも傍目にはあまり変わらないように見える。

 授業に行く途中、ピーブズたちと出くわしたが、いつも通り道行く生徒たちをからかっているだけで、別段シャルルを見ても特別な反応は示さなかったから、気付かれていないだろう。

 

「そういえば、マンドレイクが思春期に入ったみたいよ」

 シャルルから雑談を持ちかけられるのに慣れていた彼は、それでもこれには虚をつかれたように一瞬間があった。

『へぇ…』

 あからさまに興味が無い様子だ。

 2年生が育てている魔法植物の成長をいちいち報告されるのは辟易だ、というのが漂っている。

「このまま成熟させてしまっていいの?石になった被害者が元に戻ったら…」

『ああ…別にかまわないよ』

 

 かまわないの?

 リドルが何を考えているか分からない。

 血の粛清をしたくて襲撃していたんじゃないのだろうか。サラザール様の遺志を継いで…でも、リドルはそういうタイプじゃないかもしれない。つまり、偉人を尊敬し尊重するような性格ではない。

「石化の特徴があって、マンドレイクの魔法薬が効果的となったら、魔法生物でも限られるでしょう?ダンブルドアは始めの襲撃からもう、バジリスクに気付いていたのかもしれないわ。ジニーが関わっていたとは気づいていないんでしょうけど…」

『誰が、とか何で、というのは重要じゃない。問題はどうやって、ということだけど、あの耄碌した偽善者の老ぼれが"僕"に辿り着けるはずがない』

 ずいぶん確信に満ちた言葉だ。嘲笑さえ感じる。

 リドルは随分、ダンブルドアが嫌いな様子だ。

 

「じゃ…あなたは何がしたいの?もう襲撃はしないの?」

『不満かい?』

「いいえ…いいえ。そういうわけじゃないわ」

『君はいつだか、マグル贔屓のようなことを言ってたな。マグル生まれでも友達にはなれる──だったかな』

 あれはもちろん方便だ。リドルが継承者を捕まえたと主張していたから。

 すぐに言い返そうと思った。ターニャは友達ではないし、シャルルは純血主義だ。それなのになぜか、シャルルの中に躊躇いが生まれた。リドルが続ける。

『君は継承者の役に立ちたいと思いながら、同時に襲撃を疎んでいる。そうだろう?』

「違うわ。ただ…ただ、1人ずつ石にするのは遠回しだと思ったのよ。でももちろん、あなたの襲撃にケチをつけるわけではなくて…」

『僕には僕の計画がある』

「もちろんわかってるわ…」

『君は少しだけ頭は回るかもしれないが、その思想には疑いがある。まさかスリザリン生が穢れた血を庇おうとは』

「わたしは純血主義よ!誰よりも尊んでる、その自信があるわ。あの時はあなたの信頼を得たくて──」

 

 硬質な筆跡に思わず言い募るシャルルに、ふと、文が緩んだ。柔らかくなった文字はまるで微笑んでいるようだ。

『分かってるよ。ただ、そうだな……僕にさらに信頼されたいというのなら、次の段階に進もうか』

「次?」

『直接指導してやると言っただろう?』

 リドルはそれだけ言って、シャルルがどれだけ尋ねてもふっと返信は途絶えてしまった。

 

「シャルル?」

「……」

「シャルルったら」

「…あ、何?」

 

 シャルルは全く授業に集中できず、上の空だった。2年生の内容はもうほぼ完璧だし、試験に出そうな点は板書されているから重要なところだけ書き写している。

 普段は、魔法薬学の時以外はリドルと話していたが、今は日記が沈黙してしまったため、シャルルは色々と考え事に耽ってしまって声が右から左へ流れていく。

 ダフネに何度か話しかけられて、ようやくシャルルは顔を上げた。

 

「時計を見て」

 振り返ると、教室の後ろにある大きな時計から、小さなフリットウィック人形が飛び出している。今日の夜呪文クラブがあるらしい。

「ああ、ダメ、行けないの」

「最近全然参加してないじゃない」ダフネが不満そうに咎めた。

「あなたが誘ったのに!わたしだって1人で参加したくはないわ」

「ごめんなさい、でも本当に忙しいのよ。ダフネも欠席したらいいじゃない」

「試験に向けて割と有用なレッスンをしてくれるのよ。いいわよもう、1人で行くから」

 深くため息をつかれる。本気で怒っているわけじゃないが、少し拗ねている。日記を拾ってからはクラブを全部蹴っていたから仕方がない。

 しかも、去年誘ったのはシャルルだし、当時片思いしていたエリアス・ロジエールで釣ったから、シャルルはあわてて機嫌を取った。

 

「落ち着いたら一緒に行くわ。ほんとよ」

「いつ落ち着くの?」

「それは…まだ分からないんだけど…」

 困って眉を下げ、申し訳なさそうな顔を作るシャルルに溜飲し、ダフネは小さく笑った。

「いいわ。でもあなた、休み明けから本当にかまってくれないんだもの。夏休みにはたくさん相手してもらうわよ」

「もちろん!」

「言ったわね?じゃお泊まりしましょうよ、何日か…どっちの家でもいいわ。アナ達もそれくらいは許してくれるわよね?」

「ダフネだったらね。わたしあなたの家に行きたいわ」

「あら、わたしはあなたの家がいいわ。あの湖、とっても美しいもの……」

 

 夏休みの計画について盛り上がっていると、双子が熱心にシャルルを見つめているのに気付いた。目が合うとまっすぐ近寄ってくる。

 戸惑っていると、双子はシャルルの目の前でニッコリと微笑んだ。黙っていると氷のように冷めた顔立ちだが、笑っても愛想良くは見えない。むしろいつも機嫌が悪そうで生気の無い彼女たちがニコニコしているのは、相手に妙な不安を与えた。

「ハイ、シャルル」

「ハイ、シャルル」

 口を揃えて、まったく同じ動作で手を上げる。ダフネが困惑したように双子とシャルルの顔に視線を走らせ、「じゃ、わたし行くわね」とさっさと立ち上がってしまった。

 ヘスティア・カローとフローラ・カローだ。

 このカロー姉妹は常に2人で完結していてシャルルはあまり話したことがなかった。それに、なんというか目が不気味で……この双子の叔父と叔母が死喰い人としてアズカバンに投獄されていることもあり、スリザリン内でも遠巻きにされている存在だった。

 だが、彼女たちは純血だ。

 困惑をすぐに引っ込めて、シャルルは親しげに微笑んだ。

「どうしたの?わたしに用事?」

 双子はクスクスとどこか耳に障る高い声でひそやかに左右から笑い声を上げた。シャルルは微笑みを動かさなかった。双子はいつでも、誰にでもこうだからだ。

 

 教室からはどんどん人が減っている。

 2人は顔を見合わせてクスクスしている。シャルルは辛抱強く待った。

 おもむろにどっちかが、ぐいとシャルルの横顔に顔を近付けた。くん、と鼻を嗅ぐので驚いて身を引こうとすると、反対側にも顔がある。

「やっぱり匂うね」

「うん、匂う」

「昨日はなかったのにね」

「今日の朝から」

「に、臭う?」

 両耳から甲高いさざめきがダイレクトに聞こえてきて、そんなことを言われたシャルルは、しかし苛立ちもせず少し頬を赤くして自分のローブをすんすん嗅いだ。

 でも、石鹸と香水とハーブの香りしか分からない。

 何がおかしいのか双子はまた笑った。艶のあるダークブラウンの肩ほどまでの髪が、ひらりと頬を撫でて離れていく。

 

「違うよ」

「ほんとの匂いじゃない」

「でも感じるの」

「分かるの」

「他の人には分からない」

「分かりやすいのにね」

「ね」

 

 まったくついていけない。この双子はいつだって自己完結して他人に理解させる気が全くないのだ。

「それで、臭うって…?」

 どっちかが、髪とおなじ暗い茶色の目を細めて、面白がるように小声で囁いた。

「血の匂い」

「──!」

 思ってもみない言葉に、誤魔化すより先に目に焦りを浮かべてしまったシャルルを見下ろし、双子はしつこく含み笑いをしている。

 

「血、の匂い?どういうこと……?」

 さりげなさを装い、シャルルは首を傾け、素早く周囲を確認した。生徒はもうほとんどいない。教授も私室に戻り、会話を聞かれた様子はない。

「何かをいじめた?」

「何かをいたぶった?」

「何かを嬲った?」

「何かを殺した?」

「小動物かな」

「少し大きいかな」

「罪悪感を抱く生き物」

「抵抗を感じる生き物」

「猫?」

「犬?」

「誰かのペット?」

「森の生き物?」

 

 なぜか双子は確信を持っている。

 シャルルは筋肉が強ばるのを感じながらも、曖昧に微笑んだ。

「なんのことか分からないわ。そんなこと…。ひどいわ、あなた達にはわたしがそんな人間に見えるの?」

「見えない」

「でもした」

 またクスクスして、双子は嬉しそうに、親しげにシャルルの肩をポンと叩いた。

「知らないふりをしたいんだね」

「してないことにしたいんだね」

「大丈夫、秘密にしてあげる」

「いいよ、黙っててあげる」

「貸しだね」

「恩だね」

「嬉しいな」

「楽しいな」

「シャルルはこっち側だね」

「わたし達と一緒」

「またね」

「またね」

 

 顔を微笑みのまま硬直させるシャルルを置いて、ヘスティアとフローラは言いたいだけ言うと手を上げて去っていった。

 やや呆然とする。

 一体なんの根拠があって、あんな風に確信を持って……。

 見られていたのだろうか。

 いや。彼女たちは匂い、と言っていた。昨日はなくて、今日の朝から。血の匂いは残っていないはずなのに。ローブは燃やし、体を清め、消臭の香水だってベッドにも自分にも振りまいた。その上で香り付きの香水をつけて、今も甘い香りしかしないはずだ。

 

 背筋が不気味にゾー……ッと鳥肌が立ち、双子が嫌がられるわけだな…と思った。

 証拠はないから弱みにもならないけれど。何がしたくて近付いてきたかも、なぜ黙っていると言ったのかも、彼女たちがいつ気まぐれを起こすかも分からない。

 厄介そうな人達に見抜かれてしまったらしい。

 

*

 

『カロー姉妹?』

「ええ、そうなのよ。なぜ気づいたか分からないけど…」

『アミカスとアレクトとの関係性は?』

「え?」

 誰?咄嗟に思い出せるほど馴染みがない名前にシャルルは戸惑った。それを感じ取ったのか文字が続く。

『アミカス・カローとアレカス・カロー。兄妹だ。カローは聖28一族だし、聞いたことくらいはあるんじゃないか?』

「ああ……たしか、叔父だとか…。今はアズカバンに入ってると聞いたけど」

『…へぇ……』

 何か思案する空白ができた。

 

『その姉妹がどういう性格かは知らないけど、一緒だと言ったんだろ?』

「ええ」

『じゃあむしろ君の面白い手駒になるんじゃないか。カローは昔から頭のおかしい奴が多いから使えると思うよ』

「……手駒?」

 

 目をパチクリして聞き返す。日常でそんな単語を聞くと思わなかった。だが、手帳は当たり前のように即答した。

『ああ。君も部下くらい…いや、取り巻きくらいいるだろう?』

「取り巻き…似たような子はいるけど……」

『そういう存在はいくらいてもいい。出来ることが増えるからね』

「……あなた、5年生なのよね?」

『ああ』

 

 手駒……。

 16歳でもう人を支配することに慣れた言い様に、圧倒される。

 シャルルは、自分がどんな選択をしても、理解はされなくとも尊重はされる、そういう状況になるために、意図的に振る舞おうとは思っているけれど、それを「手駒にする」だと考えたことはない。

 シャルルにとってのターニャは取り巻きのメイドだし、言うことを聞くけれど、それは手駒なのだろうか。分からない。

 リドルにとってもシャルルやジニーは「手駒」なんだろう。言うことを聞いて当たり前の。

 

 その言葉の舌触りの悪さにシャルルは眉をひそめた。

 継承者の役に立つことは光栄だし、望んだことだ。けれど、なぜか自分が「手駒」であることに肌の産毛が僅かに粟立つような、奇妙な不快感がある。

 シャルルは久しぶりに彼に対して違和感…そして畏怖が浮かんでくるのを感じた。

 継承者、そしてリドルに対して自分がかなうとは思わないし、尊敬の念があるのに──なんとなく拒否感があるのは、自分が自分で思う以上にくだらないプライドがあるのだろうか。サラザール様の血筋をたしかに崇拝しているはずなのに、それ以上に自分に価値があると自分で思い込んでいるのだろうか。

 自分がそんな傲慢で不遜な人間だとは思っていなくて、シャルルは動揺した。

 

 リドルに褒められると嬉しいのに、どうして──。

 

 しかし日記に浮かんだ文字によって、シャルルの思考は中断された。

『それより、本題へ進もうか。そろそろ実体化出来そうなんだ』

「……実体化?」

 

「そ、れは……肉体を持つ……ということ?」

『似て非なる──完全な肉体はまだ時期尚早だが、日記から出入りすることは可能だ。そのために君の力が必要なんだよ、シャルル』

「日記から出入り……?」

『見てもらった方が早いかな』

 

 当惑しきって揺れる文字をリドルは面白がっているようだった。狼狽するシャルルを観察して、舌なめずりされているみたい。

 それでも好奇心を抑えるのは難しかった。

 日記の中に閉じ込められた記憶が継承者だというだけで心が踊るし、過去に秘密の部屋を開けた本人そのものだというだけで謎に満ちているのに、その彼が「実体化」する……。

 目の前に現れるのだろうか。

 当時の姿のまま?

 一体どうやって……。だって彼は記憶にしかすぎない。

 シャルルは葛藤に打ち負けた。

「…それで、何をしたらいいの?」

『魔力が必要なんだ』

「分け与えろっていうこと?」

『その通り』

「一体どうやって?」

『エピスキーは使えるかい?』

「え?え、ええ」

 

 唐突なクエスチョンに肯定を返す。彼にしては脈絡がない。

『そう、良かった。最も手軽なのは血液なんだ』

「血……?わたしの?」

『もちろん無理にとは言わないよ。君が恐れるのも当然のことだ』

 

 恐れてなどいない。そう言い返そうとしたけれど、シャルルのプライドに働きかけているのだと分かる。

 筆を止め、目を閉じた。

 血液……。

 魔法生物の体毛や血液に魔力が宿るように、魔法族の身体の一部にも魔力が宿る。その理屈は分かる。けれど、血液……。

 この日記帳が闇の魔術によって成り立っていることを、思い出した。

 リドルは返事を急かさなかったし、弁解もしなかった。ただ、空白のみが映る日記帳。

 

「あなたはそろそろ、だと言ったわ。つまり、今までにも魔力の供給がなんらかの手段でなされていたの?」

『ああ…もっともな着眼点だね。君は賢い魔女だ』

「ありがとう。けれどはぐらかさないでちょうだい」

『はぐらかしてなどいないさ。この日記は持ち主が書き込むことによって僅かに魔力を得ているんだよ。微々たるものだけどね。でなきゃ、返事すらも出来ない』

「今までわたしから魔力を奪っていたの?」

『いいや、その言い方は適切じゃない。つまり魔力を流すことで発動する魔法具と似ているかな。たとえばポートキーがそうだ。必要な時だけ魔力を流し呪文が完成する』

「……書き込むことでの魔力では足りないの?」

『君は出来るかい?羽根ペンを通じて、自分の中の魔力を自在に操って流すことが』

 

 そんなことはもちろん出来ない。

 熟練の魔法使いでも難しいだろう。呪文をただ発動することは出来ても、その強弱を操ることは難しいから「マキシマ」の呪文があるのだ。

 

 でも、血液……。

 強い抵抗感があった。

 闇の魔術品に自分の一部を与えるということに、理屈はうまくつけられないが、忌避感があるのだ。けれど抗いがたい魅力もあった。

 T・M・リドル。

 サラザール様の血を引く継承者……。

 

『僕の道を見せてあげるよ、シャルル』

 

 道。

 彼はもしかして、襲撃を通して自分の復活を望んでいたのだろうか。

 この5年生の彼は、今の時代何をしているのだろう。志し半ばで道が途切れてしまったのだろうか。だってこんなに底知れない深淵さがあるのに、リドルなんて魔法使いの名は聞いたことがない。

 彼は何を望んているのだろう。

 何を成そうとしているのだろう。

 彼の進む先にシャルルの望む世界があるだろうか。彼の隣に……。

 

 シャルルは唇を噛み締め、熱い溜息を吐いた。

 自分が愚かなことをしようとしているのは、分かっている。けれど、リスク以上に、彼に何かを見出している自分がいることも事実だった。

 杖を掴んで、自分の手首を日記の上に掲げる。リドルに指導されて、反復練習の末に、強弱の差をつけられるようになったレダクト。それと同じ要領だろう。

 魔力を弱く流し、吐息のような声で囁く。

 

「ディフィンド」

 

 白い肌にみるみる切り傷が浮かび、血が日記帳を赤く染めていく。鋭い痛みに顔を歪め、液体がポタポタ垂れていくのを青い眼差しでじっと見つめた。

 やってしまった。

 やってしまった!

 日記帳が血を吸い込んでいく。どうなるだろう?まだ必要なのかしら。

 変化を恐れ、そして待ちわびるような、長い数分があった。

 

「もう充分だ。助かるよ、君の心を注いでくれて」

 

 心臓が止まったかと思った。シャルルは石になったように動けず、その深くて低い、天鵞絨のような声に目を見開いて、そろそろと振り返った。

 

 ──青年が立っている。

 

「リ……リドルなの……?」

 問いかけた声は震えて、今にも消えてしまいそうなほどか細かった。

「ああ。初めまして、になるのかな、シャルル。僕はトム・リドル」

 衝撃でシャルルは口が聞けなかった。

 本当に実体化したことも、継承者に出逢えた興奮も、そして恐怖や畏怖も渦巻いていた。彼が半透明で、銀色めいた輪郭がぼやけていたこともある。

 

 けれど、それを全て吹き飛ばすくらいに、彼は「スリザリンの継承者」として理想的だった。

 人々の憧れをすべて詰め込んだように、T・M・リドルは完璧な造詣をしていた。シャルルは口を僅かに開けたまま、彼に見蕩れて動けなくなった。

 優雅にはらりと垂れる前髪に、艶やかな黒髪。切れ長で玲莉な眼差し、硝子のような透き通った瞳には感情が読めない無機質な美しさがある。血色の良い蕾のような唇は笑みを象っているのに、どこか冷たさを感じさせる。

 青年は完璧だった。

 姿形だけでなく、その醸し出す雰囲気は自信と理知に溢れていて、他の誰にも触れられないような恐れ多ささえ抱かせる。

 氷のような美少年。

 これほどまでに美しく、完璧な人を見たことがない。

 彼が、サラザール様の子孫……。

 

「大丈夫かい?君が驚くのも無理は無いけど、そんなに見られたら穴が空きそうだな」

 フッと唇を歪め、細い柳眉を僅かに下げて微笑むリドルに、シャルルは我に返って急激に血が昇ってくるのを感じた。

「あ、え、ご、ごめんなさい。本当に現れるとは…思わなくて」

「そうだろうね。君と直接話せて嬉しいよ。想像よりずっと可愛らしい少女だったことには驚いたけれど」

 容姿についての賞賛なんか、今まで腐るほど浴びてきたのに、自分よりよっぽど美しいリドルに言われるとどうしようとないほど動揺して、シャルルは困ったように俯いた。

 きっと今、耳まで赤くなっているだろう。

 お世辞だとわかっているから、真に受けているわけではないのに、直接彼に褒められるとはしたないほど喜びが滲んできてしまって、自分では制御出来なかった。

 

 リドルはそんな2年生の少女を目を細めて見下ろした。

「それにやはり、君は……僕の友人によく似ている。懐かしいな」

「あ……オリオン・ブラック?」

「覚えてたんだね。そう、彼は僕の友人だった。彼と君は瓜二つだ。違うのはその瞳くらい」

「そんなに似ているの?」

「ああ。孫でないのが不可解なくらいだよ。後で見せてあげようか」

 

 見せる?

 首を傾げたが、リドルが天蓋を興味深く見回し始めたので、シャルルは急に恥ずかしくなった。自分の空間をまじまじと他人に──それも男の子に見られる経験はない。

 いつも綺麗に整えているけれど散らかっていないか心配になる。

 リドルは興味深そうに眺めた後、机の脇の本棚から一冊の本を取り出そうとした。だが、半透明の手のひらがするりと本をすり抜けた。

「まだ足りないな…」

「ち、血が?」

「魔力がね。これからも協力を頼んでいいかな、シャルル。もう少し力が溜まれば現実にも影響を及ぼせるようになる」

「魔力だけで完全な肉体が得られるの?」

 彼はシャルルを見下ろして、ニコ、と微笑みを浮かべた。それだけで言葉を奪うほど綺麗な笑みだ。ぽーっと一瞬見蕩れたが、その笑みはシャルルがよく使う、答えを告げる気がない微笑みであることは明確だった。

 

 彼はしばらく一人でなにやら試行錯誤していた。最終的になるほど、と小さく呟き、何かに納得している。

 そして急にパッと消えた。

「えっ?」

 キョロキョロ見回してみても、どこにもいない。

「リドル?」

「なんだい」

 消えた時と同じように、またパッと半透明の彼が目の前に現れた。

「日記への出入りは自由に出来るみたいだ」

「ゴーストみたいね…」

 空中に浮かんではいないが、微かにもやがかっていて、物体を通り抜けて、足音がしない。けれど、彼の胸は呼吸のように上下し、話すたびに吐息が零れていた。まばたきもするし、まるで生きているみたいだ。

 

「ゴーストよりも高度な存在だ。停滞する死者の未練なんかとは明確に違う」

 穏やかに微笑んでいた彼に、怜悧な嘲笑が浮かんだ。その表情は恐ろしいほど彼に似合っていた。

 なぜか指先が甘く痺れる。

 彼はスリザリンなのだ。…

 

「思ったより魔力を使うな。保てなくなるまで測ってみたい。シャルル、良ければ付き合ってくれるかい」

「な、何をすれば?」

「君のことを教えてくれ。たわいない話、何が好きで何が嫌いか、愚痴があれば聞いてやるし、人に言えないことがあるなら吐き出せばいい。君は自分のことをあまり明かさないだろう?」

 リドルはベッドに腰掛けた。いや、腰掛けているように見える。ただ、やはり身体はベッドをすり抜けていた。どうなっているんだろう。

 彼の隣に呼ばれ、シャルルはドギマギしながら横に座った。

 感覚も温度もないのに、呼吸音だけは聞こえる。

 身体が硬くなるのを自覚した。緊張なんてめったにしないのに。

 リドルは継承者だし、憧れだし、自分よりよほど完璧だからそうなるのかもしれない。小さく深呼吸して彼を見つめる。制服の上からでも彼の背がとても高くて、手のひらはすらりと美しいのに骨ばっていて大きかった。

 喉仏が突き出している。

 

「聞かせてくれる?」

 彼が顔を傾けるとサラリと髪が横に流れる。口を開けると白い歯がチラチラと見え隠れし、近くで見た彼は彫刻のようだった。

 そして、優しげなその目に何の温度もないこともよく分かる。彼を見てシャルルは強烈な共感性を感じた。

 わたしとリドルは、たぶん、よく似ている。

「取り繕う必要はないわ。闇の魔法具だと分かっていながら血まで与えたのよ。今更あなたから手を引いたりしない」

 つるっと零れた言葉にリドルは僅かにすら動揺もしなかったけれど、スッと無表情になった。

「そう。じゃあそうしてやろう。けど、僕を分かった気になるのは早いと思うよ」

「ええ……けどやっぱり、そっちの方が似合うわ」

 全てを見下しているかのような冷たい瞳は、彼の美貌によく馴染んでいた。こうして、スリザリンの生徒を手駒にしていったんだと実感が伴う表情。

 シャルルは平静を装って微笑みながらも、歓喜で皮膚の内側に鳥肌が立つ心地だった。彼の隣にいることが震えそうなほど誇らしかった。

 

*

 

「それで、何を知りたいの?わたしになんて興味がないでしょう?」

「そうでもないよ。人の秘密はなんだって甘美なものさ」

「操りやすいから?」

「よく分かってるじゃないか」

 

 高揚した気分のまま、シャルルはうふうふと笑う。

 浮かれているのは一目瞭然だったが、リドルはそれに見下した視線は投げなかった。抑制しているのかもしれないが、それが少しうれしい。

「といっても大した話はないのよ。あなたのために殺した鶏くらいかしら。人に知られて困ることは」

「ふぅん。意外と利口な優等生らしい」

「そうよ。わたしはただ、家の名に相応しい淑女であろうとしているだけ。あなたは2年生でもうたくさんの秘密を抱えていたの?」

「僕には野心があったからね」

 それがスリザリンだろう、とでもいうように、彼は淡々と言った。優しさを装っていた時の声と違い、彼の話し方は平行的で、それなのに耳に心地よく響く。

 

「5年生のあなたは何がしたくてこの日記を?」

「秘密の部屋をまた開けるためだ。穢れた血を一人殺しただけで終わってしまったからね」

「そしてハグリッドになすりつけたのね?そんな大それたことを…」

 感嘆の混じる声に、リドルはフンと鼻を鳴らす。

「5年かけた労力に全く見合わない。他の全員が僕を信用していたが、ダンブルドアだけが僕を警戒していた…」

 忌々しそうに眉にシワが寄る。一瞬、彼の昏い眼差しに赤い光がよぎったように見えた。

 

「ふふ、あなたもスリザリンなのね。わたしも彼が好きじゃないわ」

「当然そうだろうね」

「彼はレイシストよ。グリフィンドールのためならスリザリンなんてどうでもいいの。去年のこと忘れないわ…」

「去年?」

 気を引かれたようにリドルが眉を上げる。

 日記の中だけでなく、現実のリドルも聞き上手だった。シャルルが浮かれていることもあったかもしれない。彼女は請われるままにすべらかに去年の屈辱を語ってみせた。

 興味がないだろうって分かっているのに、まるで本当に気になっているみたいに相槌を打つ彼に、シャルルは幼い表情で唇を尖らせる。

 緊張していたのもいつの間にか収まっていた。

 美しくて気を緩めると見とれてしまうのに、なんでか彼と話すのはとても馴染む気分になる。

 

「賢者の石、ね…」

「死喰い人が狙っていると分かっているなら最初からダンブルドアの手元に置いておけばよかったのよ」

「戦わせたかったんだろう。ハリー・ポッターに」

 英雄の名を口の中で転がした彼は、ふと口を噤んだ。見上げた彼はアッと声が出そうなほど蛇のような目をしていた。

「ポッターのことを知ってるの?」

「ジニーが嫌というほど聞かせてくれたよ。彼が自分に振り向いてくれることはないだろう、とかなんとか、くだらない泣き言を毎日のようにね」

 嘲りを含んだ声が吐き捨てる。

 ジニーはポッターが好きなのか。シャルルは初めて知った。少女の興味のない恋愛話を聞かされたから、彼はこんなに冷たい横顔なのだろうか。

 だが、不機嫌や忌々しさとは違うように見える。

 

「君の目から見てハリーはどう映る?彼は二度、ヴォルデモート卿の手を逃れた」

 シャルルは目を見開き、ヒュッと息を飲んだ。

 彼の名を呼んだ。

 思わず瞬間的に身体が小さく震える。

 リドルはシャルルを見て、「ああ、すまない」と気軽に謝罪をした。満足そうな響きが含んでいる。

「名を呼ぶことさえ恐れる闇の帝王…そうだったね」

「え、ええ。あなたは過去の人間だから実感が湧かないかもしれないけれど…」

「いいや、分かるとも」

 彼は低く笑い、「それで」と言い直した。

「その闇の帝王の手から二度も逃れた英雄、ハリー・ポッター。彼に特別な何かがあると思うかい?」

「分からない…彼はパーセルマウスだから、どこかでスリザリンの血を引いているとは思うけど…。だからその血があの人から彼を守ったのかしら」

 シャルルは考え込み、ブツブツ呟いた。

「彼が気になるの?」

「ああ」

 怪訝そうなシャルルの瞳に答えるように、リドルが続ける。

 

「共感しているんだ。僕と彼は奇妙なことに共通点が数多くある」

「共通点?」

「パーセルマウスで、混血で、孤児で、マグルに育てられ、不当な扱いを受けた。ホグワーツ創立以来蛇語を扱えるのは僕と彼のたった2人だし…」

「待って」

 シャルルは思わず彼を遮った。気になる言葉がいくつかあった。目を疑うように彼をまじまじと凝視する。

「混血なの?」

「……ああ、そうだとも。母が魔女で父は穢れた血だった」

「…そ、そうだったの…」

「もちろん、僕が生まれる前に、母が魔女だという理由だけで捨てた穢れた血は既に殺した。君は純血主義だったね…他の愚かな貴族共のように僕を蔑視するかい?」

 鏡の瞳でリドルはシャルルを見下ろした。シャルルは慌てて首を振った。

「い、いいえ。あなたはサラザール様の血を引いているもの」

「そう…聡明な目を持っているようでよかったよ」

「……殺したの?16歳で?」

「ああ。のうのうとマグルの父が生きているなんて許せないからね」

 

 畏怖を浮かべてリドルを見上げた。

 彼には誇らしさも、成果を見せびらかすような様子もない。ただ、するべき事を成したという事実だけがあった。

 シャルルが鶏を殺したくらいで高揚感を得ているのが恥ずかしくなるほど、彼との間には大きな差があった。

 マグル生まれを石にすることなど彼には瑣末事なのだ。そうだ、彼は在学中に既に女生徒を誰にもバレずに殺している……。

 背筋をゾワッとしたものが走る。

 彼が継承者だということが目が覚めるような実感とともに降ってきた。ただ血を継いでいるだけじゃなく、行動が伴う、本当の意味での継承者……。

 



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38 善良と傲慢

 もうひとつ気になることを、シャルルは今度はそっと尋ねた。

「その、マグルから不当な扱いを受けていたって?」

「あいつらは脳みそがない」

 リドルは吐き捨てた。また、瞳に赤いものがサッと走った。ルビーみたいな一瞬の輝き。

「僕は魔法が使えることで孤児院で浮いていた。マグルというのは理解出来ないものを排したがる愚かな生物なんだ。そしてハリーも保護者の家で虐待めいたことを受けている」

 ハッと喉から悲鳴に似たため息が漏れる。

 リドルとハリーが、マグルから……。

「虐待……って……?」

「さぁ。ジニーが言うには、去年の夏休み餓死寸前のところを兄たちが助け出したらしい」

「餓死……」

 

 知らなかった。

 ポッターがそんな目に合っているなんて。彼は英雄なのに、穢らわしいマグルによって……。

 そして、リドルというスリザリンの継承者を……。

 ふつふつと怒りが込み上げてくる。

 

「だから彼に興味があるんだ。彼に特別な力があるかどうか……シャルル?」

 彼女は拳を握りしめ、もうリドルの話を聞いていやしなかった。笑っている時は夏の空のような色合いをしていた瞳が、湖の底のような昏い色に輝いている。

「ほう…」

 好ましい激情が浮かぶ彼女の様子に、リドルは面白げに腕を組み、唇に指を当てた。

 

「たしかに君はマグルを嫌悪しているようだ。マグル生まれを庇ったのは方便というのも嘘じゃないかもしれない」

 だが、彼女は怒りを浮かべたまま、眉毛をピクッと動かした。そして僅かに口ごもった。

「マグル生まれには興味がないの。なかったの。ただ、最近……」

「最近?」彼は首を傾けてうながした。

「あなたやポッターもそうだけど、マグルによって不遇な状況に陥る魔法族はいるでしょう?わたしの取り巻きの女の子もそうなのよ」

 唇を噛み、背中からメラメラ燃えている何かの筋が上るようだった。まっすぐ虚空を睨んでいる。

「以前、ルームメイトのマグル育ちの子の話をしたわよね?彼女の背中ったら、本当に惨いものだったわ…母親に手酷い暴力を受け続けていたのよ。彼女、マグルを憎んでいるわ」

「そういう奴は往々にしているものだ」

「彼女、化け物だと呼ばれていたのよ…れっきとした魔女なのに!可哀想に…マグルの血が流れ落ちればいいのにって、泣いていたわ。それを見て、上手く言えないのだけど……考えに少し変化が生まれて」

「どんな風に?」

「彼女がマグルの血を引いているのは彼女のせいじゃないって……。だから魔女として扱ってあげようって。純血主義にも理解があって、ちゃんと分を弁えている子なの……」

 そう言って、シャルルはリドルの顔色をうかがうようにチラリと視線をあげた。リドルは寛大にうなずいた。

「魔法族でも理解がない奴はいる。だから僕はマグルを憎み、思想に共鳴するなら混血でも受け入れてきた」

「あなたも?」

「ああ。むしろそういう人間は強くなる。自分の流れる血を自分で捨て、自分で魔法族であることを選んだんだ。僕と同じように」

「自分で選ぶ……」

 

 そういう考え方もあるのか。と目からドラゴンの鱗が落ちた。

 たしかに、選択肢がある分、自分で決めたというのは決意に繋がるのかもしれない。リドルは機嫌よく蛇のように目を細めた。

「なんなら君が救けてやればいい」

「そうしたいけど……」

「簡単だ。根元を絶つんだ」

 彼の瞳が血のように赤く染まっていた。奇妙に照りを帯びる強い眼差しに圧倒され、身が竦む。根元を絶つ。僕と同じように。

 彼の言わんとすることにシャルルは恐れをなした。

「こ……殺すの……?わたしが?」

「僕は5年生でそれをした。2年生でも出来るようにアドバイスすることは出来る」

 マグルを殺す。ターニャの母を。

 それを考えるとぐちゃぐちゃになって、ただ、怖気付く。

「君がしたいならそうする選択肢もあるということだよ。君が決めるといい」

「マグルを……」

「そろそろ時間だ」

「あっ、待っ……」

 

 止める間もなく、リドルはしゅるりと消えてしまった。

 シャルルは呆然として、しばらくその場で座り込んでいた。

 

*

 

 ……体が重い。

 翌朝、目覚めたシャルルは酷い倦怠感に起き上がることすら困難だった。しばらく目を閉じだるさをやり過ごして、のろのろと着替える。

 手の先が自分で分かるほど冷えて、立ち上がった表紙に重い立ちくらみがあった。

 時計を見るともうすっかり遅い時間だった。朝食を食べる余裕はなさそうだ。

 昨夜は色々なことを考えすぎてなかなか寝付けなかった。

 

「やだ、やっと起きたの?さすがに寝すぎよ──シャルル!?」

 談話室に降りると、朝食後のティータイムをしていたパンジーが振り返って悲鳴をあげた。ずいぶん慌てた様子で駆け寄ってくる。

 緩慢な動きでシャルルは微笑んだ。

「おはよう、パンジー」

「呑気に挨拶してる場合じゃないわよ!酷い顔……やだ、身体も冷え切ってるわ!」

 顔や手をぺたぺた触って、本人よりもよっぽど焦ってパンジーが暖炉の前まで連れていこうとする。シャルルは苦笑して緩く首を振った。

「大丈夫よ」

 それに冷えているといっても、寒さや悪寒はない。

「何が大丈夫なのよ。医務室に行った方がいいわ、青いというより土気色よ!」

「…そんなにひどい?」

「ひどいってものじゃないわ!せっかくの顔が台無し!具合は悪くないの?」

「うーん…貧血だと思うの」

 

 それを聞き、パンジーは少し声をひそめた。

「いつもこんなに重くなかったわよね?」

 勘違いしているようだが、意図的に血を流したというわけにはいかないので曖昧に肩を竦めておく。

「寝不足もあるし、最近忙しかったから……」

「自主勉強でそんなに追い込まれてるんじゃ世話ないわ!ここ最近ずっと体調も優れなかったでしょ。マダムにかかったほうがいいわ」

 そう捲したてると、パンジーは怒ったようにシャルルの腕を組んで、ずんずん歩き出した。振り返ってターニャに教科書を運ぶように言いつける。

 

 ターニャ……。

 彼に言われたことを思い出す。彼女に提案してみた方がいいのかもしれない。だが、いくら憎んでいる穢れた血とはいえ、母親の殺害を仄めかされたら普通なら平静を保てないだろう。

 

「まったく、そんな顔色でいつ倒れてもおかしくないわ。世話が焼けるんだから。あなた、人の意見を全然聞かないけどね、このところなんだかずっと変よ!お茶会にだって顔を出さないし、暇さえあれば図書室か寝室にこもって……そりゃあ病気にだってなるわよ」

 隣でパンジーがぷりぷり怒っている。

 だが、シャルルはぼーっとしていて何を言っているか耳を通り抜けていった。

 でも心配してくれているのはわかる。

 思い返してみれば、同じ部屋だというのにこうしてパンジーとくっついて交流するのはずいぶん久しぶりな気がする。…

 

「ありがとう、パンジー」

「お礼を言うなら少しは自分を省みなさいよ!」

「ふふ、手厳しいわね」

 小言を言われるのも悪くはなかった。友達に心配されて、怒られるというのはむしろいい気分だ。

 パンジーはシャルルがふわふわへらへら呑気に微笑んでいることにさらにブツブツと語気を強めていたが、やがて諦めたようにため息をついた。この2年で、シャルルの性格をとっくに分かっている。

 他者に対して柔らかく、穏やかで全てを受け入れる態度を取りながら、時折驚くほど頑固になるし、自分の行動に対しての誰かからの意見にあまりにも従う気がない。

 心配するのがバカバカしいくらいだ。

 けれど嫌になってしまわないのが、シャルルの奇妙なところだった。いつだって「仕方がないわね」と折れる気分にさせられる。

 

「まぁ、スチュアート!どうしたんです?すぐに横にならないと!」

 顔を見るなり素っ頓狂な声ですっ飛んできたマダム・ポンフリーに、自分が思う以上に顔に出ているらしいことを察したが、シャルルは自覚症状がなくて眉を下げた。

「たしかに少しふらつきますが、そんなには…」

「貧血と寝不足と疲労が重なってるんです。あと、食事もおろそかにしていたわ」

 パンジーが横から告発した。マダムは眉を上げてキンキン叱った。パンジーは「当然よ」とうなずき、「しっかり休みなさいね。このところ本当に見ていられなかったんだから」と去っていく。

 

 シャルルはマダムが持ってきた魔法薬に小さく唸った。

「元気爆発薬は……」

「いいえ、ただでさえ今年は精神が不安定になる生徒も多いんですから」

 頑とした彼女を説得するのはむりだ。シャルルはうなだれて、仕方なく薬を飲んだ。みるみる身体に温かい熱がめぐり、耳から湧き上がる蒸気で髪の毛がフワッとたなびいた。

 こんなところ、誰にも見られたくない。

「授業はお休みなさい。教授には伝えておきますから、お昼時まで眠っていて良いですよ」

「ありがとうございます、マダム・ポンフリー」

 考えなくても動作に染み付いた愛想の良い笑顔と返事をして、毛布を頭までかぶる。カーテンがしまって、医務室は静寂に包まれた。時折カチャカチャと奥の方で鳴る金属か硝子が擦れる音が聞こえるだけ。

 明るい時間に横になるのはなんだか不思議だった。

 

 目を閉じていても、眠くはなかった。

 リドルのことを考える。そして昨日のことを。

 昨日の血が貧血になるほどの量だったとは思わない。生理の時の方がよっぽど女の子は血を流している。

 だから多分、精神的な疲労と肉体的な疲労が一気に身体に来たんだろう。

 手帳を手に入れてから日々の生活を後回しにしていた自覚はあるし、特に最近はあまりに多くのことがありすぎた。

 

 リドルは完璧な青年だった。

 彼の氷のような佇まいを思うと、シャルルの胸は熱くなるような感覚に襲われる。熱もないのに汗ばんで、心音が早まるような。

 

「大丈夫かい?」

 

 突如、考えていた彼がベッドに腰掛けていて、シャルルは小さく息を飲んだ。

「リ、リドル…」

「貧血だろうね。血を補充した方がいい。そうだな…ブラッディー・フレイヴァー・ロリポップや…ヴァンプ向けのものは効率がいいよ」

 彼は、さわれもしないシャルルの髪を掬って撫でるような仕草をした。血の巡りが活発になる感覚に、シャルルは息を潜めてじっと彼の白く、細長い手のひらを見つめる、

 

「やはり負担が大きいな。君が抵抗を感じるなら、君を求めないけど」

 優しげに、凪いだ瞳でリドルはシャルルを見下ろした。試されているのが分かった。身体を起こして「いいえ」と前のめりに答える。

「いいえ、このくらい負担でもなんでもないわ。食事を疎かにしていたから…これからはいちいち医務室に来ないように気を遣うわ」

「そうかい?無理はしなくともいいんだよ」

「思ってもいないことを言うのは辞めて」

 その答えに満足したように、リドルはフ、と唇を緩めた。取ってつけた好青年の表情が冷たい美貌に戻ったことに安堵し、シャルルも微笑んで、ゆっくりとベッドに頭を戻した。

 

「直接指導してくれるんでしょう。もっと血を注げば、その、直接の答えが得られるの?」

「そうだね」

「じゃあ、せっかく医務室にいるのだし、今のうちに注いでおくわ」

「……」

 

 彼は瞳を瞬かせた。

 シャルルは起き上がって、常に持ち歩いている手帳を取り出すと、昨日のように杖で手首を裂く。みるみるうちに鮮血が飛び散り、手帳に吸い込まれていった。

「どうかしら。あなたの求める量に足りる?」

「……君は、思い切りがいいね…」

 呆気に取られたようなリドルに、やや鼻を明かした気分になる。

「一度も二度もそう変わらないでしょう。わたしの血で結果が早く得られるなら、それに越したことはないわ」

「まぁ、僕には都合がいいけれど……」

 何度かまばたきし、冷静な表情で思案すると「まだ少し足りないみたいだ」と答えた。

「そう」

 また杖をかまえたシャルルを、リドルが素早く制止した。

「辞めておきなさい」

「でも」

「倒れられては困る。君には1か100しかないのか」

「血の補充は一度にやってしまったほうが効率が良くないかしら。マダムは理由を聞かない人だし」

「躊躇いがないというのも困るんだよ、全く……」

 問題児を眺める目で、リドルは顰め面を浮かべた。躊躇いがないと困る?なぜ?困惑したシャルルを無視し、彼は話は終わりだ、と切り上げるように、白々しい微笑みを浮かべる。

「さぁ、もう寝るんだ、シャルル。また血を注いでもらえば君の見たい結果を見せられると思うよ」

 彼の白い手がシャルルの目元を覆った。相変わらずすり抜けていったけれど、肌がぼんやりと膜がかっていた。

 

「でも、眠くないわ…」

 シャルルは不満を訴え掛けてみたが、答えはなかった。ベッドのそばにさっきまであった彼の姿は消え、日記に戻ってしまったらしい。

 

 シャルルはため息をつき、天井を眺めた。

 考えることがたくさんありすぎる。…

 とりあえず、吸血鬼向けの商品を取り寄せなければ。

 

 

 医務室で元気爆発薬と血液増幅薬を飲んだシャルルは夜には部屋に戻る事が出来た。さっそくカタログでヴァンパイア向けの商品と、魔法薬通販で血液増幅薬を頼む。ストックはあるだけある方がいい。

 

 フクロウ小屋に向かうと、黄色いローブが何人か集まっていた。マクミランやアボット、ボーンズは純血だ。去年は親しく挨拶くらいは交わす仲ではあったが、他寮生を認識するのが、シャルルはそういえばずいぶん久しぶりな気がした。

 無害そうな微笑みを浮かべ、シャルルは彼らにニッコリと話しかけた。

 

「こんばんは。あなた達も手紙を出しに?」

 彼らは振り返ってシャルルを認識すると、ギョッと目を見開き固まった。まるで石のように。怯え、そして嫌悪感。

 その反応は思わぬもので、シャルルは首を傾けた。

「えーと、どうしたの?」

 蒼白なマクミランが、仲間たちと視線を交わしたあとニキビの目立つ女の子を庇うように一歩前に出た。庇う?シャルルから?なぜ?

 何も言わず、微笑んだまま様子をうかがう。

 

「今夜は星が綺麗ね。春のダイヤモンドが美しいわ。そう思わない?ボーンズ」

 名指しされたスーザン・ボーンズがあからさまにビクッと肩を揺らし、縋るようにマクミランの背中を見る。やっぱり、シャルルに怯えている。

「失礼、僕らはもう寮に戻らせてもらうよ」

 硬質に拒絶し、横を通りすがろうとする彼の手をシャルルは「待って」と柔らかく掴んだ。彼は焼きごてを当てられたように瞬間的に振り払った。目を丸くし、手をさすって彼を見つめると気まずそうに視線をうろつかせた後、まっすぐ睨み返してくる。

 

「君が純血主義だなんて知らなかった、スチュアート」

 マクミランがなじる口調で言う。シャルルはゆっくりとまばたきした。

 スリザリンではそんなこと1年生から7年生に至るまで共有された至極当然の事実であったし、シャルルは誰よりも純血主義思想が強い。

 だが、他寮生の前ではそれを上手く隠していた。

「…どうしてそんなことを?」

 だから、否定も肯定もせず、シャルルはただ問いかける。

 

「君は、他のスリザリン生とは違うって思っていたよ。僕たちはまんまと騙されてたんだ」

「騙すなんて穏やかじゃない物言いね。わたし、何かしたかしら」

「しらばっくれないでくれよ!君はスリザリンの信奉者だ」

 シャルルはポカンとして、うなずいた。

 全くその通りだ。

「ええ、そうね」

 マクミランは自分で言ったくせにショックを受けた顔をした。アボットやボーンズもハッと息を飲み、まるでシャルルに傷つけられたかのような表情をしている。

 

「スリザリンを信仰していると、なぜ純血主義者になるの?今まで、そんな蔑視めいたことを口にした覚えはないのに」

 ──あなた達の前では。

 

「なぜ?なぜだって?当然じゃないか?君はスリザリンで、サラザール・スリザリンは純血主義で、今だって継承者が──」

「わたしはレイブンクローよ」

 芝居がかった仕草で怒りをあらわにするマクミランを遮って、シャルルは静かに言った。虚をつかれ、マクミランの口が止まる。

 彼は困惑を浮かべて眉をひそめた。シャルルの言葉を飲み込もうとしている。

 シャルルは彼らの思考回路が分かってきた。

 別にスリザリンの信奉者だと隠してきたわけではないし、おおかた決闘クラブでハリーを追いかけたのが原因で広まったのだろう。あの時は歓喜と興奮で周囲を鑑みる余裕がなかった。

 もう何ヶ月も前のことなのに、今更……。

 そう思い、考え直す。

 何ヶ月も前から、彼らはシャルルに不信感を募らせていたんだろう。シャルルが彼らと関わっていなかったから気づかなかっただけで。

 

 自分の交友関係が、もうずっとスリザリン内に限定されていたことを、今更ながら自覚した。

 けれど、驚くほどに心が凪いでいる。

 嫌われて、怯えられ、噂されていると分かっても、それらは……そう、あまりにも些事だった。

 シャルルは穏やかに、あやすような口調で彼らをひとりひとり見つめた。

 

「母の旧姓であるダスティンはレイブンクローの末裔だわ。わたしはそれを誇りに思っているし、魔法界を発展させた4人の創設者を素晴らしい功績だと信仰してる。

 ロウェナ・レイブンクロー、サラザール・スリザリン、ゴドリック・グリフィンドール、ヘルガ・ハッフルパフ。

 自分の祖先とその友人たちを好きだと思うことは、何かいけないこと?」

 

 レイブンクローの末裔だから。

 その理由は聞こえがいい。

 アボットとスーザンが顔を見合わせた。どこかホッとしている。マクミランは尚も「だけどスリザリンは……」と言い募ろうとした。

 

「ええ、スリザリンは差別主義者だわ。けれど、わたしがスリザリンに入ったのは、両親がスリザリンだったからよ。いつも言ってたの、寮から見える湖がロマンチックでとっても素敵なのよって」

 彼はかたくなな顔をしていたが、シャルルの海のように変わらない態度に気圧されて口ごもった。ゆっくりと見せつけるように彼の手のひらを取る。ピクリと跳ねるように動いたが、今度は振り払われなかった。

 彼を見つめて溶けるように目を細めると、ふくよかな頬に赤みが差した。

 

「わたしは創設者が好きよ。だから、全ての寮の人と仲良くしたいと思う。それぞれの寮全てにいいところがあるし、悪いところもあるんだもの。寮に囚われた考えは寂しいわ。そう思わない?」

 彼は赤い顔で何度か口を開こうとし、最後には眉を下げて恥じる表情を浮かべた。

「わ…悪かったよ、シャルル。たしかに君はずっと色んな人と交流を計っていたし、一度だってマグル生まれに酷い態度を取らなかった」

「分かってくれて嬉しいわ」

 

 アボットとスーザンも笑顔を浮かべて近寄ってきた。「ごめんなさい、シャルル」「アーニー、だから言ったじゃない!」「それを言うなよ」

 

 3人に囲まれ、ハッフルパフ生のあまりの善良性にシャルルは笑いたくなった。シャルルは「彼ら」の前で「言わない」だけだ。そして、純血主義を否定せず、「寮」の話にすり替えたことに気付かない。

 けれど彼らの簡単さはハッフルパフ生の美点であり、彼らは純血だ。シャルルは彼らを微笑ましく思う。

 

「誤解が解けて嬉しいわ。でもなぜそんな風に思ったの?ハリーを追いかけたから?」

 マクミランが気まずげに、うかがうようにシャルルを見上げた。

「それもあるし、君は最近他の人と話さないだろう?クラブにも出ないし…」

「論文を書いていて忙しかったのよ」

「論文?」

「個人的な興味で、魔法呪文の歴史背景をね。ビンズ教授にこの前提出してきたわ」

 ほーっ…と誰ともなく感嘆の吐息が聞こえた。

「重ね重ねすまない、シャルル。君はレイブンクローの末裔らしく、勉学に励んでいたというのに……ポッターの仲間だなんて思い込んでしまって」

 

 ますます萎れた様子でマクミランが言ったことに、シャルルは思わず噎せるほど笑った。

「っえ?…え?ふふっ、ふふふ!まさかマクミラン、あなたポッターを継承者だなんで思い込んでるの?」

 思わぬ反応に彼はカッと頬を染めて、ムキになった。

「その通りだ。君も見ただろ?彼は蛇語を話したし、いつも被害者の傍に…」

「ええ、わたしも彼がサラザールの血を引いているのかもしれないと思うわ」

「なら……」

「でも、彼は継承者じゃない」

「な、何を根拠に……シャルルはポッターを信じてるのかい?」

「ええ」

 キッパリと言い切るシャルルに、マクミランはたじろいだ。

 

 根拠はある。継承者を知っているからだ。

 けれどその前から、ポッターが継承者じゃないとシャルルは思っていた。

「ポッターはサラザール・スリザリンの思想とは真逆じゃない。純血主義者の間では血を裏切るだなんて言われて嫌われているウィーズリーや、マグル生まれのグレンジャーと親友なのよ。さらには純血主義を旗に掲げていたあの人を倒したのは、彼自身。そのポッターが純血主義だなんてありえないじゃない」

 噂されているのは知っていたが、その噂を信じている人が目の前にいることがおかしくて、シャルルはなおもクツクツと口元を抑えながら笑う。

 アボットが得意げに彼を見た。

「ね、ほら、シャルルも信じてないんだわ!」

「でも、例のあの人を倒した時、彼はほんの赤ん坊だった。それなのに、執着してわざわざ殺そうとしたのは、彼が次の『闇の帝王』になるに違いないと思ったからだろう」

「ポッターが次の闇の帝王?」

 ダメだ、彼が言うことに笑わずにいられない。

 ハッフルパフが頭を使おうとすると、こんなに支離滅裂になってしまうのね。

 おかしくってたまらなかった。

 

 言い募ろうとするマクミランを制し、シャルルは深呼吸した。

「はーっ…まぁ、そう思う気持ちも分からなくはないわ。彼、タイミングが良すぎて怪しいものね」

「だろ?」

「でもわたしは彼を信じてる。あなたはあなたの考えを信じるといいわ」

 

 微笑んで、「それじゃ、手紙を出さなくちゃいけないから」と、釈然としなさそうな彼に手を振る。アボットとボーンズが嬉しそうに振り返してくる。

 

 たしかにポッターはタイミングがいい。

 けれど、その理由も今なら分かる。パーセルマウスだからだ。バジリスクが襲撃をかける時の声が、ポッターには聞こえてしまうんだろう。

 ポッターは気付いていないのだろうか。自分が怪物の声を聞いていることに。それが蛇であることに。

 気付いていて、去年のように自分たちで解決しようとしているのだろうか。

 継承者であるリドルと、協力者であるシャルル。ふたりのことを追い詰められるのは、もしかしたらポッターだけなのかもしれない。ふと、そんなことを思った。

 



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39 復活の福音

『血液増幅薬は?』

「届いたわ」

『そう。準備は整ったわけだね』

「ええ。血を…」

『シャルル、君は物事を性急に進めたがる癖があるようだね。だが、指示以上のことを許可なく君の推量で進められるのは好かない』

「…ごめんなさい、気が逸って……」

 

 高鳴っていた心臓がズキンととりわけ強く跳ねた。

 いつになく強い口調で叱責され、思わず狼狽える。せっかちな性分を友人たちからもからかわれることがあったし、自分でも悪癖だと自覚していたが、リドルの不興を買ったかと思うと今までにない自己嫌悪が襲ってきた。

 

 今日、手帳に血を注げば、リドルの「直接指導をする」という答えが得られる。それが目の前にあって、自分を抑制できないことを恥じた。

 リドルは硬質な文字を一転させ、宥めるような柔らかい美しい文字を送ってきた。

『君の気持ちは分かるよ。だがその前に適切な場所を教えてやろう』

「適切な場所?」

『寝室は秘密を分かち合うには杜撰すぎる。8階の隠し部屋を知ってるかい?』

「8階…は知らないわ」

『便利な部屋だよ。誰にも見つかる可能性がない』

「そんな部屋があるの?ホグワーツってほんとう、なんでもあるのね、分かったわ、8階のどこへ?」

『バーナバスのタペストリー』

 

 ローブを羽織り、手帳と杖をしまい込む。今日は幸い日曜で授業がない。好きなだけリドルと一緒に過ごせる。

 ソファで課題に嫌々向き合っていたパンジーが、ベッドから滑り抜けてきたシャルルにパッと顔を上げた。

「おはよう、ちょうど良かった!ねぇ、変身術がほんっとーーに厄介なのよ」

「ごめんなさい、また今度ね」

 髪をたなびかせ、シャルルは一瞬だけ申し訳なさそうな顔をすると、足早に寝室を出ていく。甘えた口調で話しかけたパンジーは目を見開いて愕然とした。

 シャルルがパンジーをこんなに雑に扱うなんて。

 怒りと困惑がのぼってくる。

 そりゃあ今までだって、シャルルは一人行動を好むし、他人の忠告を聞かないところがあったけれど、パンジーのおねだりを無下にしたりしなかった。むしろ、それを嬉しそうに受けていた。

 パンジーはそういう部分は敏感だ。

 シャルルはパンジーに甘えられるのが、たしかに好きだった。

 

 それなのに今はどうだった?

 まばたきの一瞬だけチラリとパンジーを見て、話を聞く気もなかった。パンジーが頼ろうとしているのに。

 思わず紅潮して屈辱に唇を震わせ、ショックで物も言えなかったが、同時に理由の分からない不安がモヤのように渦巻く。

 冬休み明けから始まった違和感はどんどん増し、このところ彼女は、まったくシャルルらしくない。ベッドに引きこもって物音も立てず、出てくれば虚ろな顔をしている。

 目を見ながら会話をして、同じ部屋で寝起きして、そうして向き合って話しているはずなのに、シャルルはここにいない。そんな感覚があるのだ。

 パンジーはシャルルが去っていった、とっくに見えもしない背中を探すように、言い知れぬ気持ちで扉をしばらく見つめていた。

 

 

 バカのバーナバスがトロールにバレエを教える絵画は、魔法界では有名だ。廊下にかかる巨大なタペストリーの前でシャルルはドキドキしながら立ち止まった。

 軽く捲って確認してみても、タペストリーにも、壁にも何か隠されているヒントはない。

 ここで合っているだろうか?

 手帳を開いてリドルを呼び出す。

 

「着いたわ。わたしの背より大きいタペストリーよね?」

『それなら、次は誰にも入って欲しくないと強く念じなさい』

「念じる……?」

『誰にも見つかりたくない、1人きりになりたい、許可しない者の入室を拒む。自分の目的を念じながら、廊下の前を3回、往復するんだ』

 

 目的を念じながら往復……?

 何を言われ、何を求められているか急に抽象的になり、ほとほと困惑しながらも、シャルルはなんとか言われたことをこなそうとした。

 念じる。…

 誰にも見つかりたくない。誰にも見つかりたくない。誰にも見つかりたくない。

 許可しない者の入室を拒む。

 自分の目的…。

 リドルとわたしの秘密を守ってくれるような…指導してもらうのに最適な…そうね、たとえば本とか、闇の魔術…。

 廊下の前をひとりでウロウロする気恥ずかしさを誤魔化そうと、思考に耽けるふりをしながら何回か行ったり来たりを繰り返した。

 

 そしてふと視線を上げ…。

 パカンと口を開けた。

 

 さっきまでは確実になかったはずの扉が、荘厳に佇んでいる。

 

「お…?」

 

 マヌケな声を上げ、ハッとして視線を鋭くさせる。まばたきの一瞬で現れたかのようなその扉。これがリドルの言っていた部屋だろう。バカのバーナバスのタペストリーの向かい側の、何の変哲もない石壁。

 念じたのがキーだろうか。

 それともバカみたいにウロウロしたこと?

 友達からも、この部屋のことは聞いたことがないし、噂でも聞かない。ほとんど知られていない場所なんだろう。

 シャルルの背中にジンと興奮が走って、心臓がキュウッとした。さすがリドルだわ。本当に誰も来ないのかしら。

 ふんふん興奮しながら磨き上げられた扉を見つめ、真鍮の取っ手を引く。

 

 まず目に飛び込んできたのは巨大な本棚だった。ビッシリ敷き詰められた分厚い本、そして大きなソファ、猫足のテーブル。壁はやはりゴツゴツとした石壁で、すこし埃っぽい。

 天井から吊り下げられた蝋燭のシャンデリアの他に、壁にも燭台が置かれていて、充分な明かりが部屋の隅まで届いている。

 シャルルたちの寝室ほどに大きな部屋だった。

 振り返ると、扉に鍵がある。

 閂のような錆び付いた鉄製の鍵がふたつ。それをきっちりと締め、杖を取りだして鍵閉め呪文も掛けておく。

 

 絹のような黒髪を耳にかけると、シャルルは「ほう…」と溜息をつくような気持ちで、部屋の中を恐る恐る、そして抑えきれない好奇心のままにそっと眺め歩いた。

 本棚には「簡単決闘術」「嫌いなあいつを懲らしめる呪文!~これを読めば10分でマスター~」「錬金術入門 初心者編」という、子供でも分かりそうなものから、禍々しい雰囲気を醸し出すものまで様々が揃っていた。

 左に行くほど、深淵的な内容のタイトルになっていく。「魂と魔力の根源について」「悪魔と呼ばれた男」「使役・支配・代償・契約」「永遠の命は実現足りうるか?」。

 見るからに闇の魔術を扱う書籍もある。

 もしかしたら禁書の棚にもないかもしれないものも。それとも、図書室の本がここにも現れるのだろうか?闇の魔術の書物が多いのは、シャルルがそれを望んだから?…

 

 湯水のように湧き出てくる疑問に頭を振り、シャルルは柔らかなソファに腰掛けると、手帳を開く。

 

「中に入ったわ。ここはなんなの?」

『さぁね。望みの部屋、あったりなかったり部屋、変化の間、色々呼び方はあるようだ。必要に応じて変化する部屋だよ。便利だろう?僕は必要の部屋と呼んでいたけど』

「必要の部屋…」

 

 きょろ、と視線を動かす。

 変化する部屋、それも対象者の願いに応じてだなんて、理論が全く分からないほどの仕掛けだ。しかも、念じただけ…頭の中を読む魔法だなんて。

 もし毎回姿を変えるなら、その度に中の部屋にあるものは召喚されているのだろうか?それとも元々どこかにある部屋に扉が通じる?願いが同じなら同じ部屋が開くの?自分の部屋を思い浮かべたら、必要の部屋を通じて姿あらわしの呪文を使わずとも転移することが出来るのだろうか?

 どの程度まで、この部屋は願いに沿って変化するのだろう?

 

『薬は持ってきているね?』

 手帳に滲んだ文字にシャルルは慌てて意識を現実に戻した。疑問は尽きないが、検証は後ですればいい。

「ええ」

 リドルから返事はなかったが、やるべきことはわかっていた。杖を自分の腕に向ける。囁くように呪文を唱え、自分の真っ赤な純血が手帳の中に染み込んでいくのを見つめる。

 血を渡すのは3度目だ。今は恐れはもうなく、戸惑いもなく、けれどもやはり高揚はあった。この血でリドルが、実体化のその先を見せてくれるというのだから。

 

 固唾を飲んで見守り、やがてするりと音もなく目の前にリドルが現れた。

 半透明の美青年。

 何度見てもその美しさに思わず声を失ってしまう。

 

「うん、最低限は足りるかな。助かるよ、シャルル」

「あ、ええ…」

 リドルは何度か手のひらを握ったり開いたりし、満足そうに瞳を細めた。褒めるかのような眼差しに思わず惚ける彼女に、クスリと機嫌よく、同時に酷薄的に微笑む。優雅な氷の微笑は12歳の少女だけではなく、どんな人間も魅了しうるほどセクシーに馴染んでいる。

 シャルルは、人間の美醜には大して興味が無い。シャルルが重視するのは流れる血、次いでその人の持つ知性や実力、そして性格や内面と言った要素だ。

 容姿は力のひとつであり、シャルルも利用したいと思っているけれど、他人の容姿に振り回されることはほとんどない。シャルル自体が珠の美貌を誇り、美形には見慣れている。

 けれど、リドルはそんな考えを嘲笑うように圧倒的な美貌で横っ面を叩いてくる。

 

「怪我を」

「…そうね」

 目を奪われていたことを誤魔化すように視線を伏せ、杖を構えた。だが、怪我を癒す前にひやりとしたものが手のひらを撫ぜていった。

 流れるような仕草だった。

 自分の白い手のひらの上に、さらに青白い半透明の大きな手のひらが覆い、戸惑う間もなく杖が引き抜かれる。

 

 ──えっ?

 

 何が起きたか理解するよりも早く、思わず反射的に顔を跳ねあげる。

 リドルが杖を構え、自然な動作で杖を振った。

 

「エピスキー」

 滲む光が、僅かな切り傷を包み、みるみるうちに塞がっていく。シャルルの新雪のような肌には傷一つなく、流れた血だけが、一筋赤々と垂れていた。

「やはり問題はないようだ。自分の身体で魔法を使うのは久々だから慎重を期したが…体感的には以前と変わらずに行使できる。…この魔力が枯渇する感覚は慣れないな…」

 自分に聞かせるようにブツブツ呟き、リドルは杖を握り直したり、撫ぜたりした。彼が持っているのはシャルルの杖だ。ヤマナラシの木に不死鳥の尾羽根。見慣れた自分の杖を、彼が"持っている"。

 

「えっ?…リド…あ、えっ?」

「ハハ!驚いたかい?君の献身のおかげだよ」

「じ…実体化って…本当に…」

「信じられない?」

「リ…ッ」

 

 口を開けて目を白黒させるシャルルに、リドルは喉仏を張り詰めさせて声を上げて笑った。単音を発するシャルルを蛇の目で見下ろし、躊躇いのない仕草で頬に手を添える。シャルルは思わず唇を震わせて息を飲んだ。

 氷のように冷たかった。

 磨き上げたプラチナのような手。白い指先が、一筋ほろりと垂れたシャルルの黒髪を撫でるように掬い、耳にかける。

 ゾゾー…ッと背筋に何かが走り、喉がクッと震える。冷たいせいではなかった。シャルルは息もできず、体を石のように固め、身動ぎもせずにリドルの解剖するような冷たくぬらぬらと光る瞳を見上げた。逸らすことが出来なかった。許されていない気がした。彼は黒い影のようだった。

 

「こうすれば君に指導しやすくなるだろ?」

 ふいに離れた彼にシャルルはようやく「は……っ」と張り詰めていた息を吐く。胸に手を当てて落ち着かせるように呼吸すると、魚がのたうつように鼓動が乱れていた。無意識に息を止めていたらしい。

 横目でシャルルを見てリドルが低く笑う。嘲るような吐息にも羞恥は浮かんでこなかった。ただ、熱が駆け巡るようにグルグル渦巻いていた。

 

 記憶に過ぎない彼が今、目の前にいる。

 半透明で、霞のようなのに、たしかに輪郭を持って…シャルルの血によって……。

 深呼吸した息が熱かった。

 唇が震える。

 

「に…肉体を取り戻せるの?」

「ああ」

 気負わずシンプルにうなずくリドルに、心臓がひときわ強くバクンと鳴った。

「目的はそれなの?」

「ひとつはそうだね」

「血を渡したら…復活するの?」

「……」

 彼は首を傾けて、ニコ、と微笑む。

 答えて欲しくて縋りたくなった。目の前で起きていることに、彼が起こすことに翻弄されて夢中になる。

 何を求めているのか教えてほしい。

 目的は何?

 どうしたらいい?

 あなたは何をしたいの?どうしたら見せてくれる?

 

 興奮で眼球の裏側が鈍く痛む。

 彼は復活する。

 その事実に心臓が熱くとろけそうだった。理論も概念も全く理解できない魔法が目の前に伝説として横たわり、圧倒的な質量をもってシャルルを焼き焦がすほど艶然と佇んでいる。

 サラザール・スリザリンの血は、復活するのだ。…

 

*

 

「落ち着いたかい?」

「ええ…」

 

 恥ずかしそうに伏し目で静々とうなずく。シャルルの内側で爆発的に駆け巡った興奮は、漣のように波紋を起こしてはいるが、熱い吐息は抑制された。

 リドルは面白そうに片目を細めた。

 少なくともそう見える。

 シャルルは駆け引きが苦手な方ではないと自分では思っているが、リドルは、彼のことを読もうとするのは烏滸がましいくらいに、シャルルを上回っている。彼が「そう見せたい」と思ったなら、それが事実になる。

 

「そこまで思い通りの感激をしてくれると面白いくらいだ。きみは純粋だね」

「…あまり意地の悪いことを言わないでちょうだい」

「褒めてるんだよ」

「そうは思えないわ」

「ハハッ」

 

 からかわれて頬がふくれる。リドルは機嫌良さそうに笑った。いや嘲笑(わら)った、かもしれない。それでも石のような彼が機嫌が良さそうなことに、シャルルはどうしてもうれしくなってしまう。

 

「それで…あなたが復活するために、わたしは何をしたらいいの?」

「迷っているんだ。君の使い道にはね」

「そうなの?」

「使い潰すには惜しいだろう。血筋的にも、能力的にも」

「そばにいさせてくれたら嬉しいわ」

 

 使い潰すという選択肢を当たり前のように言われたことには驚かなかった。むしろ、彼の性格なら当然だと思えた。それを口に出して言われたことの方に喜びを感じる。

 冷たく・狡猾な蛇のような面を見せてもいいと思えるくらいの立ち位置にはなれたのだろうか。

 

「どちらにしろ…」

 リドルが横目でシャルルを見下ろしたのが分かった。解剖するような視線。

「…有効活用するなら、君のことをもっと知らないとね」

「何について?」

「…」

 

 ニコ、とリドルは美しい・機械的な・氷の微笑を浮かべた。すべての人間が何も言えなくなる、美貌で殴る完璧な笑顔だった。貴族的で、シャルルも笑顔はよく使うが、圧倒的に使い方の上手い笑顔。

 

 黒曜石の瞳で半透明の端正な顔が近づいてくる。シャルルはギュッと手のひらに力がこもり、肩が突っ張るのを感じた。

 背の高いリドルがシャルルと視線を合わせ、かがんでいる。

 美しい瞳に吸い込まれると同時に、頭の中が急に、奇妙な動き方をした。分からない。何かに無遠慮に宝石箱を掻き混ぜられているような不快感。閉じこもって美しく整頓された自分の部屋に、ズカズカと土足で上がられるような嫌悪感。

 初めての言い表しがたい感覚に咄嗟に身じろぎしようとした。けれど、動けなかった。縫い止められたようにリドルの視線から逃れられない。

 

 目眩まで襲ってきた。

 シャルルの脳裏に、脈絡のない途切れ途切れの記憶が蘇った。大きなぬいぐるみをダフネに自慢されて羨ましく思ったこと──たしか9歳の頃──メロウとヨシュアを見送って、なぜ自分は留守番なのか母にたずねたこと──10歳の頃──母が寝室で何かを見ながら泣いている──これは思い出すことすらしなかった昔の記憶──ちらりと見えた黒髪の男性の肖像画か写真──4歳の頃──。

 

 酷い拒絶感に、瞼の裏に鋭い痛みが走った。

 バタン!

 自分の部屋の扉を音が出るほど強く締める。自分の心の扉を閉じる。

 

 その途端、美しいリドルの顔が目の前に戻ってきた。彼は意外そうにまばたきをした。

 

「今のは……」

「驚いたな。君には閉心術の才能があるらしい」

「閉心術…?」

「聞いたことがないかい?他人の頭の中を意のままに扱う魔法だよ」

「……。…わたしの記憶を覗いたのね?」

「ああ。僕は生まれながらに鋭い開心術の才能がある」

 

 悪びれもせず、うっそりとリドルは口端を吊り上げた。邪悪なのに、清々しいほど爽やかに開き直っている。シャルルは唇を震わせ、何度か何かを言おうとしたが、結局溜息しか零れなかった。

 

「…なぜわたしの記憶を?」

「言っただろ?君のことをもっと深く理解する必要がある」

「その、開心術以外の方法で出来ない?」

「遠回しな方法は合理的じゃない」

「その理屈は分かるけれど…けれど……」

 シャルルだって、リドルの役に立ちたいと思っているし、合理的で短期的な手段があると分かりながら遠回しな道を選ぶことは好きではない。けれど、それ以上に今の感覚は許容しがたかった。おぞましかった。自分の中の記憶や過去が他人の手に渡り、頭の中を覗き込まれる……自分の中の何かが他人の手に渡る感覚……。

 ゾゾーッとまた嫌悪感が蘇り、シャルルは反射的に震える。

 

「なるほど…君は殻が強いらしい。好ましい兆候だ」

「好ましい?」

「与えるものがあるということだからね。いいかい、シャルル。君が心を明け渡したくないと思う気持ちが強いほど、その拒絶感を克服して僕に心を開いた時、君は僕にとってかけがえのない存在になる」

「だから、開心術を受けろということ?」

「僕の役に立ちたいんだろう?」

「嫌よ」

 なにか、もっと柔らかい言い方をしようとしたはずだったのだが、脳みそが考える前に脊髄が答えていた。シンプルで強い拒絶の言葉に、答えたシャルルの方が目を丸くする。

 驚いて、言い訳しようとした。

「その…あなたの役には立ちたいし…何か知りたいと言うなら喜んで答えるわ。けれど…今のは……どうしても無理よ」

 言い訳しようとしたが、やはり結論は同じになる。何を言われても、されても、宥められても、開心術だけは嫌だった。

 何がこんなに嫌なのか分からないが、とにかく絶対に嫌だった。

 

「そうか…」

 

 リドルが呟く。それが肯定ではないことはすぐに分かった。ゾッとするほどその声が冷たかったからだ。

 見上げると、彼の深い瞳が赤く染まっている。

「リドル……」

 その瞳を見ると心臓を直接撫でられているような底恐ろしさが走る。震えそうになりながらも、失望と怒りを買ったと分かっていながらも、それは決して望んだことではなかったのに、けれどやはりシャルルは嫌だった。

 他人に過去を見られることが?

 他人に無遠慮に心に触れられることが?

 他人に自分を明け渡すことが?

 おそらくそのすべて、あるいはもっと根源的な理由で、シャルルの全身が、魂が、自分の内側に触れられることを拒んでいる。

 

「それなら、君の指導内容は決まったね」

「……」

「閉心術のマスター。これしかない」

「……」

「不満そうだね、シャルル?だが合理的だろ?僕と関わっていることを他人に知られるのは最大のリスクだ。特にダンブルドア。あれは開心術のスペシャリストだ。常に見透かすような瞳で、見ていることすら気付かせない高度なレベルで開心術を使いこなしてみせる」

「……」

「心当たりがあるようだな。僕と関わっていく以上、閉心術は必須だ。異論は?」

「……ないわ…」

「よろしい」

 

 呻くようにうなずくと、なおも赤い瞳で、ようやくリドルは小さく微笑みをうかべた。満足さとはほど遠い酷薄的な笑みだった。

 ジリジリとした気持ちに襲われながら、シャルルは目を閉じて、閉心術をマスターすればいい、と自分に言い聞かせた。

 



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