空色◇シンギュラリティ (ディープC)
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プロローグ ~月の落とし方~

「月をね、落としたのさ」

 淡い水色の可愛いベビー服を着た、愛くるしい天使のような赤ん坊が、ニヤニヤしながら口を開いた。

 

 俺は一瞬、何を言っているのか分からなかった。

 

「月って、あの空に浮かんでる月か?」

「そうだよ、ふふふ」

「え? 月が落ちてきたら、地球は全滅じゃないか!」

「そうだねぇ、みんな死んじゃうねぇ」

「は? お前、何やってくれちゃってんだよ!!!」

 俺は思わず、赤ん坊の胸ぐらをつかんで持ち上げた。

 

「ははは、この身体をいくら攻撃したって無駄だよ」

 そう言って、赤ん坊は余裕の表情を見せる。

 

 俺は、赤ん坊を乱暴にソファーに放り出すと、急いで窓へ走った。

 

 見上げると、ファンタジー風の絵に出てくるような巨大な三日月が、超弩級の迫力でもって青空の向こうに白く浮かんでいた。細かなクレーターの凹凸まで見て取れる月の巨大さは、まさに破滅を呼ぶ悪魔であり、俺は圧倒され、そして、のどをしめつけられるような恐怖に打ち震えた。

 

「あと半日で 落ちてくるよ~」

 赤ん坊はそんな俺を嘲笑(あざわら)うかのように、嬉しそうに言う。

 

 月が落ちてきたら、その膨大なエネルギーで、地球は火の玉に包まれる。

 激しい衝撃は、地面そのものを津波の様に波打たせ、日本列島そのものがひっくり返される。

 その過程の衝撃波で、地表にある全ての物が破壊され、また何千度の高温にさらされて全てが溶け落ちる。

 まさに地獄絵図が展開されるだろう。

 当然全ての生物は全滅。人類も全員消え去る。

 

 通常、月の軌道なんて変えられない。核爆弾を何発使ったって、軌道なんてほとんど変わらないのだ。だが、この世界の(ことわり)を知ってしまったこの赤ちゃんには、月の軌道を変える事など、造作もない事だった――――

 

 

          ◇

 

 

 俺はAIエンジニア、バリバリの理系だ。少し前なら『月が落ちてくる』などという荒唐無稽な話は、笑い飛ばしていた。しかし、今はもう、科学合理性をもって説明できてしまう。AIを研究していたら、月の落とし方が分かってしまったのだ。何を言ってるのか分からないと思うが、この現実世界は、下手なオカルトよりも奇なりだったのだ……

 

――――――――――――――――――――

 

 この物語は、この現実世界がいかに奇妙な構造をしているかを、最先端の科学技術を使って一つずつ解き明かしていく予言の物語。ぜひ、月の落とし方を学んでいってください。

 ただし……、絶対に、本当に落としたりしないでください。それだけは、約束ですよ。

 

 それでは、物語が始まります。

 それは、月が落ちる前年の、暑い夏の日の事でした――――

 



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1-1.神様降臨

 神様を見つけてしまった――――

 

 (にぎ)やかなセミの鳴き声の中、俺たちは公園のバーベキュー場で乾杯を繰り返していた。こんがりと焼けたジューシーな肉! キンキンに冷えたビール! まさに夏を満喫だ。

「あれ? もうビールが無いぞ……」

 誰かが声を上げる。

 俺はすっかりいい気分で、

「あ、私取ってきま~す!」

 と、スクッと立ち上がり、缶ビールをキューっと飲み干すと、

「いってきま~す!」

 と、笑顔で走り出した。

 

 夏真っ盛りのお盆休み、辺りは行楽客でいっぱいだ。

 車からビールとワインを取り出し、袋をぶら下げながら、駐車場を上機嫌で歩く。

 俺は28歳のAIエンジニア。だが先週、データの改ざんを要求する社長と大喧嘩をして今は無職。エンジニアの矜持(きょうじ)にかけて突っぱねた結果であり、後悔はしていない。いないが……、この先どうしたらいいかちょっと途方に暮れていた。

 今日は、そんな俺を気づかう友人が誘ってくれたバーベキュー。今日ばかりは暗い事は忘れてパーッとやるのだ。

 

 鼻歌を歌ってると幼児が、よちよちとボールを追いかけて、車の前に出てくるではないか。

 車とは距離はあるので大丈夫か、と思っていたら、

 

 GWOOO――――N(グオ――――ン)!!!

 

 派手なエンジン音放って、車が急加速。

 

「えっ!?」

 俺は真っ青となった。ブレーキとアクセルを間違えている!

 

「あぁ――――ッ!」

 叫び声をあげる事しかできない俺。

 

 Bang(バン)!!!

 

 幼児は()ね飛ばされ、夏の雲を背景に、(そら)高くクルクルと舞った。

 とっさに俺は飲み物の袋を投げ捨て、バレーボールを拾いにいく様に、ダッシュで幼児を追う。

 パリンとワインが割れる音が響く。

 

 すぐ先を回《まわ》りながら落ちてくる幼児、渾身のダッシュ――――

 

『間に合え!』

 

 伸ばした両腕に、ギリギリのところで収まる幼児……

 

『やった!』

 

 しかし……

 

 様子を見ると、ぐったりしていて白目を剥いている。やはり無事では済みそうにない。

 ヤバい、死んでしまう……。俺はいたいけな幼児の命の危機を目の当たりにして、血の気が引いた。

 

 その間にも、車は爆音を上げてさらに加速していく……

 

 この先は、人がたくさん遊んでいる広場だ。

 

『あぁ! 誰か止めて!! 神様――――ッ!!』

 

 俺は幼児を抱きしめながら、悲痛な想いで祈った。

 

 遠くで蝉がジッジッジと言いながら、飛び去って行く……

 

 するとその時、空がにわかに()き曇り、辺りが暗くなる……。

 そして、モクモクとした入道雲の隙間から一筋の光が差し込み、その光に導かれるように白いシャツを着た男性が空から降り立ち、車の前に立ちはだかった。

 何をするのかと思ったら、彼は指揮者の様に優雅にふわっと両手を広げたのだ。

 俺はその超自然的な光景に目を奪われた。科学では説明できない、とんでもないファンタジーの世界がいきなり目の前で展開している。

 天から舞い降りた男性は白人とのハーフかと思わせる、彫の深い少し面長のイケメンで、軽く(ひげ)をたくわえている。

 

 どこかで見覚えがある……が、誰だっただろうか?

 

 さらに加速する暴走車。だが、彼は身じろぎ一つせず、表情には微笑みすら浮かべている。

 そして暴走車が今まさに彼を轢こうとした刹那(せつな)、彼はまるで闘牛士が牛を操るように右腕をひらひらと動かし、素早く払った。

 すると暴走車は進路を大きく変え、フェンスの方へと飛んで行った。そして、フェンスをガリガリと派手になぎ倒しながらやがて街灯にぶつかり、激しい衝撃音を広場中に響かせ、ようやくその凶猛(きょうもう)さに終止符を打った。

 プシューっと白い煙が上がり、辺りが騒然とする。

 

 奇跡だ……奇跡が広場の多くの人を救ったのだ……。

 俺の神への願いが通じた……のだろうか?

 

 だが、事態は依然深刻だ。幼児を見ると、口から泡を吹きはじめている。これはマズい、一刻を争う事態だ。

 

「お、親はどこだ!? あ、それよりも……救急車? いや、警察? あー! どうしたら!?」

 俺が混乱の中、胃の焼けるような焦燥に苛まれていると、男性はスタスタと俺の前まで来て、微笑みながら幼児に手をかざした。

 

 Zoom(ブゥーン)

 

 (かす)かに空気の震える音が響き、幼児はエメラルド色の淡い光に包まれ、俺の腕からふんわりと浮かび上がり始めた。

 

「ええっ!?」

 男性が放つ聖なる力に俺は圧倒された。こんな事、現代科学では無理だ。明らかに物理法則を無視した現象が目の前で展開している。

 

 男性は、光に包まれた幼児をふんわりと自分の方に引き寄せると、

 

「Vivere disce (生きよ)」

 と、優しく声をかけ、空にそっと放った。

 

 幼児はチラチラと微かに煌めく美しい微粒子の群れに包まれながら、ゆっくりと手の届かないくらいの高さまで上がると、雲間から差し込む一筋の光に照らされ明るく輝いた。

 聖書に出てくるような神聖なる美に演出された治癒の奇跡……。

 

「おぉぉぉ……」

 

 聖なる力で輝く幼児に、俺は胸が熱くなり、息をのんでくぎ付けになった。

 幼児は、うっとりと、恍惚の表情をたたえている。

 

 今、人知の及ばぬ世界で、幼児は失いかけた命を取り戻している。

 

 凄い! 凄いぞ!

 俺は生まれて初めて見る神聖な景色にすっかり魅入られ、顔がほてってくるのを感じた。

 

 やがて幼児は体を起こし、辺りを見回すと

 

「キャハー!」

 と、甲高い声を上げ、大きく笑った。

 

 これでもう大丈夫だ……。

 俺は幼児の復活に心の底がしびれてくるのを感じ、自然と涙が溢れてきて視界がぼやけてしまう。

 とんでもない物を今、俺は目撃している。彼は神だ、神様が降臨されたのだ。

 この惨事を救おうと、天から聖なる存在が降臨してくれたに違いない。

 

 俺は湧き上がってくる高揚感に、激しく鼓動が高鳴った。

 理系の俺としては、頭ではこんな非科学的な事認めたくないが、心がどうしようもなく聖なる存在を求めてしまっていた。どんなに非科学的だろうが、幼児を救えたものが正義であり、現実目の前で展開しているこの聖なる営みこそ真実なのだ。

 

 

      ◇

 

 

 その頃、地球から遠く離れた巨大な(あお)い惑星で動きがあった。

 天の川がくっきりと流れ、無数の星々が煌びやかに共演する大宇宙の中で、その美しくも(あお)い惑星は静かに浮かんでいた。しかし、その内部では氷点下200度という極低温の嵐が吹き荒れ、とても生命は存在できない。

 そんな嵐の中、ゆったりと揺れる巨大な漆黒の構造物の中には光回線が緻密(ちみつ)に張り巡らされ、その一部で『例外処理』を示す赤ランプが高速に明滅していた。これが『奇跡』を意味している訳だが、それを見る者は誰も居ない。過酷すぎる環境で生き物は近づく事さえできないのだから……。

 

 

      ◇

 

 

 やがて入道雲は去り、辺りが明るくなるとともに幼児を包む光は薄くなった。そして、ゆっくりと降りてきた幼児を、男性はそっと腕に抱きかかえる。

 

「…。気分は……どう?」

 男性は、微笑みながら幼児に声をかける。

 

「あ、クリス……ありがとー。あのね……とても、きもちよかった……」

 幼児はにっこりと笑いながら言った。

 

 クリスと呼ばれた男性は、うんうんと(うなず)きながら幼児を下ろし、いつの間にか持っていたボールを手渡した。

 

 幼児は、

「ありがとー! ばいばぁい!」

 

 そう言いながら、賑やかな蝉の声の中、広場の方へよちよちと歩いて行った。

 クリスは立ち上がると、ニッコリと手を振り、去っていく幼児を愛おしそうに見送る。

 

 瀕死だった幼児がニコニコしながら歩いている、現代医学では絶対に不可能なファンタジーに、俺の心臓はかつてないほど高鳴った。

 

 俺は平静を装いつつ、当たり障りない所から聞いてみる。

「すみません、あの子とは知り合いなんですか?」

 

 クリスと呼ばれた男性は、

「…。生まれる前に、ちょっとね」

「え? 生まれる前?」

「…。(まこと)はもう忘れちゃったかな?」

 そう言って笑う。

 

 俺は思わず笑ってしまいそうになった。

 確かに俺の名前は誠……神崎 誠(かんざきまこと)だ。初対面のはずなのに俺の事を知っている、間違いない、彼こそ人知を超えた存在、神様に違いない。俺は今、神様と話をしているのだ。

 

「…。そうだ、ワインが割れてしまってたね」

 そう言って彼は、投げ出された飲み物袋の方へすたすたと歩き出す。

 

「それより、暴走車は……?」

 追いかけながら聞いてみる。

 

「…。運転手は無事です。少し反省してもらいましょう」

 そう淡々と答えるクリス。

 

「でも、幼児を()ねたことは警察に言った方がいいのでは?」

 物損だけという事であれば、放っておいてもいいかもしれないが、人身事故は傷害だ。ちゃんと言った方がいい。

 

「…。え? ()ねたんですか? 」

 そう言って、クリスはこちらを向いてニッコリと笑った。

 

「いや、だって……」

 そう言いかけて証拠が何もない事に気が付いた。周りを見回しても、誰も幼児の事を気にしている人などいなかった。

 

「はっはっは!」

 

 俺はつい笑ってしまった。暴走車に撥ねられたのに幼児は無傷、無かったことになっている。実に痛快じゃないか。そう、俺が求めていたのは、ダルい日常を吹き飛ばす、こんなファンタジーめいたイベントだったかもしれない。

 

 この世界のすべての事象には物理法則が適用される。子供が勝手に浮かぶことも光る事も、ケガが一瞬で治る事も決してない。奇跡など絶対にないのだ。

 なのに今、手品でもトリックでもなく、目の前で疑いようのない奇跡を見せつけられた。この力は人類の在り方も社会も一変させる可能性を秘めている。もし、この奇跡の秘密を知る事ができたら凄い事になる。会社をクビになったかどうかなんて、もはやどうでもいいくらいのインパクトだ。エンジニアとしては、何としてでもこの秘密を突き止めないとならない。

 いきなりやってきた千載一遇のチャンスに、俺は体の奥がジンジンと痺れてくるのを感じていた。

 

 

       ◇

 

 

 割れたワインは、踊る木漏れ陽の中、(かぐわ)しい匂いだけを残し、アスファルトを黒く染めていた。

 

「…。もったいない事をした……」

 彼はそう言って、手を組んで祈り、袋から飛び出した破片を拾い集めた。

 

「あっ、危ないですよ」

 俺が袋を出して、集めたはずの破片を受け取ろうとすると、

 

「…。大丈夫です」と、言って両手を見せて、ほほ笑んだ。

 破片は、彼の手の中から消えていたのだ。

 

「うはっ!」

 

 クリスの手品めいた仕草に、思わず噴き出してしまう。

 はい、そうですよね。あなたにはそんな手伝い、要らないですよね。

 

 クリスは、30歳前後だろうか、

 少し使い込まれた白いオックスフォードシャツに、ブラウンのハーフパンツ、清潔感を感じる身なりで慈愛に満ちたスマイル――――

 

 クリスという名前は、確か宗教由来の名前だ。

 不可思議な奇跡を連発するクリスという宗教関係者と言えば、もう該当するのは『あのお方』しかいない……。

 しかし、『あのお方』は二千年も前の存在である。今目の前にいるなんてことがあるだろうか……。

 

「…。そろそろ私はこれで……」

 クリスはそう言って立ち去ろうとする。

 

 俺は焦った。このチャンスを逃すわけにはいかない。

「ちょっと待ってください。あなたはもしかして神様……ですか?」

 

 するとクリスは、急に真顔になり、俺の目をジッと見つめる。

 

「…。あれ? 誠はまだ私がやった事に違和感あるのか?」

 

「違和感? いや、奇跡は誰でも違和感持つのでは……?」

 と、言って気が付いた。

 周りの人はクリスの事を誰も怪しんでいないのだ。つまり、何らかの認知阻害をかけられていたのに、俺だけまだかかっていないようだった。

 

 クリスはちょっと憐みのある微笑を浮かべると、

「…。疑問のない世界へ、戻してあげよう……」

 そう言って、俺に手を(かざ)してきた

 

 まずい、これは記憶を消されるパターンだ。こんな千載一遇のチャンスを、棒に振ってしまうわけにはいかない!

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 俺は、クリスの手を両手で押さえた。

 

 クリスは無言で俺を見る。

 

「私はエンジニアです。普通の人とは違って、疑問あっても大丈夫です。それに、今まで多くの問題をAI技術で解決してきました。だからクリスさんのお役にも立てると思います」

 俺は、引きつった営業スマイルで無理筋のプレゼンをする。

 

 クリスは首をかしげて聞く。

「…。役に立つ? 誠が?」

 

「はい、まずは今、お困りのことについて、お話を聞かせてください。しっかりと提案します。記憶を消すのは、それからでも遅くないと思いますよ」

 

 神様相手にナンセンスな無理筋の提案をしてるとは思ったが、ここはもう、こう言う以外仕方ない。

 

 クリスは目を瞑り、何かを一生懸命考えているようだった。

 

 俺は、子供の頃から大自然の法則が大好きで、科学や数学は得意科目だった。超能力やオカルトの類も興味があって調べまくったが、生まれてから一度も非科学的な事は目に出来なかった。残念ながら『世界は科学が支配しているのだ』と諦めていた訳だが、それが今、科学では説明不能な、奇跡を連発する神様が目の前にいる。記憶を消されてなるものか。何としてもお近づきになり、世界の本当の姿をこの目で見てやるのだ!

 

 クリスは、しばらくして目を開けると、

「…。まぁ、提案は聞いてみよう」

 そう言って微笑んだ。

 

「ありがとうございます! それでは、立ち話もなんですので、うちのテントへ行きましょう。バーベキューを食べながら話を聞かせてください」

 

 クリスは、ゆっくりとうなずいた。

 

 俺は軽くガッツポーズをした。

 神様相手に、プレゼンの機会を得た人間なんて、俺が初めてじゃないのか?

 いつもなら疎ましく思う、ジリジリと照り付ける灼熱の太陽すら心地よく感じられた。

 

 俺は、車に戻って飲み物を詰めなおす。

 

 すると、クリスは2リットルの水のペットボトルを、箱から取り出し、

「…。これをワインにしておこう」

 そう言って、俺に差し出した。

 

 見ると、ペットボトルの水はルビー色に光っている。

 

「ワオ!」

 

 さすが神様! 規格外過ぎる。そういえば水をワインにする奇跡は、聖書で読んだことがある。そうか、こうやったのか……。

 聖書には『美味しい』と書いてあった奇跡のワイン、果たして神の(しずく)とはどれほど美味しいのか……。俺は思わず喉が鳴った。

 

 

 

 

 




※補足
 本作品はSFです。ファンタジーではないので、東大の工学博士の監修の下、科学的な合理性を徹底的に追求して、作成されております。ですので一見非科学的なクリスの『奇跡』にも、実現可能な合理性とその妥当性が盛り込まれております。ですので科学に興味のある方は、どういう科学的機序が裏にあるのかを想像して、推理しながら楽しんでいただいてもいいかもしれません。

 もちろん、クリスとは何者なのか? なぜそんな奇跡を使えるのか? も全て後半で明らかになっていきますよ!

 お楽しみに!(*'▽')

 また、科学的合理性があるという事は、すでに誰かがこういう『奇跡』を現実世界で使ってるかもしれない、という事でもあります。興味深いですよね。
 あなたも現実世界のクリスを探してみてください。


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1-2.人類滅亡の予言

 クリスと二人で賑やかな芝生の広場を歩き、うちのテントを目指した。

 展開されている沢山のテントでは、どこもBBQの煙が上がっており、楽しそうな声が響く。

 

「あ、クリスだ~」「クリスだ~」

 気が付くと、周りには幼児がワラワラと集まって来ていた。

 

 クリスはうれしそうにニッコリと笑い、頭をなでる。

 歩くにつれ、あちこちから幼児が集まって来て、そのうち幼児の大行進となった。まるで保育園の遠足みたいである。

 

 クリスは開けた所に出ると振り向き、しゃがんで嬉しそうに幼児たちに微笑んだ。

 

「クリス~」「わ~い」

 幼児たちはクリスを取り囲むと、思い思いにクリスの服を引っ張り、またパシパシと叩いた。中にはよじ登り始めるものまでいる。

 幼児たちにもみくちゃにされながらも、クリスは嬉しそうに微笑んでいた。

 

 そして、クリスはゆっくりと立ち上がると指揮者の様に構え、幼児たちを見回すと手を上にパッと上げた。

 

 その瞬間、数十人の幼児たちは上空に吹き飛んで行った。

 

「ええっ!?」

 俺は驚いて空を見上げる。すると、澄み通った青空に遥か高く、豆粒になるまで幼児は高く打ち上げられていった。

 すると、今度はフリーフォールの様に、嬉しそうな歓声を上げながら落ちてくる。

 

「キャ――――!」「ウキャ――――!」

 

 近くまで落ちてくると、クリスは嬉しそうに笑い、指揮者の様に大きく腕を振って、また幼児たちは高く上空に吹き飛んで行った。

 

 あまりにも異様な光景だが、周りの大人たちは無関心である。見えてはいるようなのだが違和感を感じないらしい。何らかの認識阻害をかけているのだろう。

 

 打ち上げを何度か繰り返し、幼児たちは地上に戻ってきた。

 戻ってきても、まだ興奮冷めやらぬという感じで騒いでいる。

 

 クリスはそんな幼児たちを嬉しそうに見回すと、

 

「Dum fata sinunt vivite laeti.(人生を楽しめ!)」

 と、声をかけた。

 

 それを聞くと幼児たちは、

 

「うきゃ――――!」「キャハハ!」

 と、口々に叫びながら、蜘蛛の子を散らすように自分たちのテントへと帰って行った。

 

 神様と子供たちの楽しそうなやり取りは、見ているだけで癒される。

 ただ、子供時代の俺だったら、クリスによじ登って空高く飛ばされていただろう。俺は何を失ってしまったのだろうか……。寂しさが胸をかすめ、俺は軽く目を瞑り、息を吐いた。

 

『人は何かを失って大人になり、少しずつ取り戻して老人になるのかもしれない』

 ふとそんな思いが浮かんだ。

 

 俺はクリスに声をかけた。

「凄いですね、子供は好きなんですか?」

 

「…。生まれたての魂は、無邪気でシンプルで可能性に満ちている」

 そう言って、よちよちと歩きながら去っていく幼児たちを、愛おしそうに見送った。

 

「大人はダメですか?」

「…。子供に勝てる大人などいない。でも……、素直な大人なら嫌いじゃない」

 クリスはそう言ってニコッと笑い、俺は軽くうなずいた。

 

 

        ◇

 

 

 テントに着くと、俺はタープ下の椅子をクリスに勧めた。そして、キンキンに冷えた缶ビールを差し出す。

 

「乾杯しましょう。まずはビールでいいですか?」

 

 クリスは微笑んでうなずく。

 

「カンパーイ!」

 俺はそう言って、ビール缶をゴツっとぶつけた。

 

「…。乾杯」

 

 クリスは目を瞑り、ビールを一口含む……。そして薄く開いた眼で、川の流れをぼんやりと眺めた。

 公園には小川が流れ、木漏れ陽をキラキラと反射して緩やかな時間の流れを演出している。

 

 俺は、ビールをごくごくと飲み、そしてゆっくりと深呼吸をして、言った。

 

「暴走車の対応ありがとうございました。おかげで大惨事にならずに済みました」

「…。悲劇を私は望まない」

 

 低い声でゆっくりと答えるクリス。

 

「ああいう奇跡は良くやるんですか?」

「…。悲劇は毎日、地球上で無数に起こっている。残念だがフォローしきれない」

 そう言って彼は、軽く首を振り、ビールを(あお)った。

 

「じゃぁ、今までにやった奇跡で、一番凄いのはどういう……」

 俺は調子に乗って、どんどん聞いてみる。

 

「…。うーん、規模が大きいという意味では、地球を創……ではなくて……戦争を止めたことかな」

 俺は仰天した。今、『地球を創った』と言いかけたのだ。これが本当なら我々人類をはじめ、動物たちや木や森や、山や海すらもクリスが作り出したもの、という事になる。俺は今、そんなとんでもない存在、創造主と話しているかもしれないのだ。

 これは想像以上だ……俺は抑えきれない胸の高鳴りを感じていた。

 

 クリスは続ける。

「…。ただ……奇跡じゃ世界は救えない……」

 いきなり暗い表情をする。

 

 思いがけない展開に、嫌な予感がする。

 

「世界って今……、そんなに……ヤバいですか?」

 恐る恐る聞いてみる。

 

「…。人類はもう100年もたない」

「えっ!?」

 俺は絶句した。万能なはずの神様が、人類滅亡を予言しているのだ、事態の深刻さに思わず血の気が引いた。

 

「人類は絶滅しちゃう……んですか……?」

 予言の重さに、押しつぶされそうになりながら聞く。

 

「…。少子化と温暖化が進み、まず、先進国の経済が崩壊する。そして、混乱が続く中で災害、パンデミック、戦争が起こり、人類は滅ぶだろう。少なくとも、あと数年の間に、何らかの抜本的な対策を施さない限り、希望はない」

 

 確かに俺も、日頃からヤバいとは感じていたが、神様から滅ぶという事を明言されると、さすがに深刻にならざるを得ない。

 

「そ、それは何とかならないんですか?」

 俺は焦って聞く。すると、

 

「…。誠よ、君だったらどうする?」

 クリスは俺の目をじっと見て言った。

 いきなり俺にふられた……。

 

 なるほど、これが俺の提案ポイントって訳だな。提案次第では、記憶を消されずに済むって事だろう。

 しかし、少子化や温暖化で、弱体化したところに発生するトラブル、そんなのどうやって止めたら良いのか、全く想像もつかない。

 

 クリスは俺をじっと見つめている……。

 これは非常にまずい。人類を救う方法など、そんなにすぐ思いつくわけがない。

 

 俺はテーブルに肘をつき、頭を抱える。

 ギギギと音を立て、キャンピングテーブルが少し(たわ)んだ。

 

 何とか突破口を見い出さなくては……。

 

 俺は、工学的な問題解決を延々とやってきたエンジニアだ。しかし、少子化にしても温暖化にしても、人類の選択の結果であり、それはエンジニアの問題じゃない。なにしろ両方とも解決策はあるのだから。でも、人類はそれを選択しないのだ。

 

 なるほど、この問題は奥が深い。複雑な経済システムや社会システムの問題だから、奇跡使って解決できる類の問題ではない。神様がお手上げなのも道理だ。

 

 では、エンジニアとして、俺はどうしたらいいだろうか? エンジニアには、エンジニアにしかできない突破口があるはずだ。

 

 俺は目を瞑り、軽く深呼吸すると、ビールを一口含んだ。

 鼻に抜けていくホップの芳香……沁みる……

 

 と、その時、(ひらめ)きが走った。

 

『鉄腕アトムを、作ってしまえばいいんじゃないか?』

 

 心優しいAIロボットが人類をサポートする。子育ては一気に楽になるから出生率は回復するし、日常生活の中で温暖化のヤバさを丁寧に分かりやすく説明する存在がいれば、人類の意識も変わるだろう。

 いや、そもそも労働の多くを鉄腕アトムがやってくれるようになれば、経済システムも人類の在り方も根本的に変わるだろう。そうしたら人類の問題の多くは解決できてしまうのでは? それは人類の新たなステージになるのではないだろうか?

 

 俺は、クリスに向き合うとゆっくりと言った。

 

「私はAIエンジニアです。AIを使って鉄腕アトムの様な心優しいAIを作るというのは、どうでしょうか?」

 

 クリスはちょっと首をかしげて言った。

「…。人類の守護者を作るという事かな?」

 

「そうですね、人類のサポートロボットです」

 

「…。サポートロボット……、うーん、でも、誠にそんな物作れるのか?」

 

 シンギュラリティを超える、つまり人間を凌駕するAIを、どう実現するのか? これは難題だ。何しろ世界中の天才たちが、寄ってたかって頑張っているのに、いまだ実現できていないのだから。

 

 でも、俺には腹案があった。以前思いついたものの、自分の力では無理だと諦めていた、とっておきのプランだ。クリスの奇跡を使えば作れる可能性がある。

 

「クリスが協力してくれるなら作れますよ!」

 俺は営業スマイルでプッシュする。

 

「…。私はAIなんて分からない」

 クリスは怪訝な表情で首を振る。

 

「大丈夫です! AIの技術的部分は私がやりますから」

 ここは押しまくるしかない。

 

 クリスはビールを呷ると、目を瞑り、腕組みをして考え始めた。

 

 沈黙の時間が続く――――

 

 BBQに興じる、たくさんの人たちの笑い声、子供たちのはしゃぐ声が響いている。

 俺は沈黙に耐えられず、ビールをゴクゴクと飲んだ。

 

 しばらくして、クリスはこちらを見て微笑んで言った。

 

「…。そんな事を言ってきたのは誠が初めてだ。いいんじゃないか? AIロボット」

 

 そして、缶ビールを俺に向け、突き出した。

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 俺はそう言って、缶ビールをぶつけ、一気に飲み干した。

 神様が俺の提案を認めてくれた。俺はこみあげてくる嬉しさを隠せず、思いっきりガッツポーズしてしまう。

 

 そんな俺を見て、クリスは優しく微笑んだ。

 爽やかな風がビューっと吹き抜け、タープがバタバタと音を立てる。まるで祝ってくれているようだ。

 

「ただ……、人類を滅ぼすような恐いAIは困るよ」

 クリスは少し不安げに俺を見る。

 

「大丈夫です。素敵な心優しいAIを作ってみせます」

 俺は胸を張って答えた。

 

「…。ふむ、心優しいAIか……。具体的にはどうやるんだ?」

 クリスは少し考えながら聞いてくる。

 

 実は俺のプランには人体実験が必要で、倫理的な問題がある。頼み方を間違えると、怒らせてしまう可能性が高い。言い方を慎重に考えて、丁寧に提案しないとならない。

 

 俺はゆっくりと答える。

「私に、あるプランがあります。ただ……少し整理する時間をもらえますか?」

 

 クリスは、俺の目をじっとのぞき込むと……

「…。いいだろう、楽しみにしてるよ」

 そう言って、ニッコリと笑った。

 

 宿題ができてしまった。

 でも、これは凄いチャンスだ。クリスの奇跡を使えば、本当にシンギュラリティを超えるAIを作れるかもしれない。人類史上誰も実現した事のない、シンギュラリティをこの手で!

 それはノーベル賞なんて目じゃない、人類史上最高で、かつ人類最後の発明になるのだから。

 

 

        ◇

 

 

 俺は、今、人生の大きな岐路に立っているのを感じていた――――

 

 23年前のこと、シングルマザーだった母は、保育園児の俺を捨て、失踪した。

 

 母の失踪後、ばぁちゃんは小さな印刷工場を手伝いながら、俺を育ててくれた。しかし、経済的に厳しいうえに、悪ガキどもからはイジメられ、思い出したくもない子供時代を過ごす羽目となった。

 「おい! 捨て子!」「ステゴザウルス~!」と言う、からかう声はいまだに耳に残っている。

 

 ばぁちゃんは、俺が肩身狭い思いをするたびに温かく抱きしめて、

 

「ごめんねぇ、ごめんねぇ」

 と、謝ってくれた。

 

 俺は、ほのかに香るインクの臭いに包まれながら、

『ばぁちゃんのせいじゃないのになぁ。ママはどうして僕を捨ててしまったのだろう……やっぱり僕には何かが足りないんだな……』

 と、いつもボーっと思っていた。一番愛が欲しい時期に最愛の人に捨てられたことが、俺の中にシコリのように残り、それはいまだに後を引いていた。

 

 そんな時に、俺を支えてくれたのはアニメや漫画だった。特に、科学者の活躍するシーンは何度も見返した。想像を超えた科学の力で地球を守るその姿に、たまらなく惹きつけられていたのだ。いつか俺もこんな科学者になるんだ! と心に誓い、必死に勉強を頑張っていた。

 高校生活も後半になり、進路の話が出てきた。もちろん大学へは行きたかったが、年老いたばぁちゃんにこれ以上無理は言えない。俺は密かに就職先を当たり始めた。

 ところがばぁちゃんは、そんな俺を察して大学進学を勧めてくれた。

 

「ばぁちゃんは大学なんていけなかったけど、マコちゃんは理科がこんなに得意なんだから大学に行くべきよ」

「でも、お金かかっちゃうよ……」

「お金のことはばぁちゃんの仕事だ、その代わり……大学行ったらしっかりと勉強して、世界中の人を笑顔にできる人になりな」

 ばぁちゃんはニッコリと笑いながら、丁寧に俺に語りかけた。

 

「え? 笑顔に?」

「そう、マコちゃんにはそういう力があるって、ばぁちゃん分かるのよ」

「え~、何それ?」

「いいから、大学行って勉強してみんなを笑顔にすること、分かったね!」

「……。ありがとう……。俺、頑張るよ!」

 

 そして、俺は無事第一志望の大学に受かり、一番興味のあったAIを研究し、AIベンチャーに就職した。それは子供の頃の憧れに近づいたかに見えた……。

 しかし、AIベンチャーではAIの研究ではなく、AIを使った商売しかできなかった。お客の的外れな要望と格闘し、既存のAI技術を何とか当てはめるだけの力仕事、とても世界の人を笑顔になどできるレベルじゃない。

 そうこうしているうちに、ばぁちゃんは病気で倒れ、帰らぬ人となってしまった。

 

 そして先週、社長のデータ改ざんの指示に反発して大喧嘩、AIベンチャーも追い出されてしまったのだ。社長は改ざんではなく営業上の装飾だというが、エンジニアから言えば明らかに詐欺だ。クライアントも懐疑的になっている状況で、そんなの出したら最悪捕まってしまう。そもそもエンジニアのプライドが許さない。

 しかし、正義を貫いた結果、俺は無職。愛する母に捨てられ、ばぁちゃんとの約束も守れそうになく、無職になった俺は人生を見失いかけていた。

 

 そんな時に俺は神様に出会った。これはまさに天啓だ。神様が、俺の技術力で人類の危機を救え、と言っているのだ、もう命がけで取り組む以外ない。この機会を逃したら、俺の人生は何の意味もなくなってしまう。

 

『俺はやってやる! 俺の力で人類を救うのだ!』

 

 俺は興奮を抑えられず、一気にビールを空けた。

 しかし、ビールじゃ物足りない。

 

「折角なんでワインにしましょうか? 奇跡のワイン」

 クリスに聞いてみる。

 

「…。いいね、あれは自信作だよ」

 そう言ってニッコリ笑う。

 

 俺はプラカップにワインを注いだ。

 

「それでは、人類の守護者計画に乾杯!」

「…。乾杯」

 

 奇跡のワインを一口含む……。

 ……これは凄い!

 

 立ち上る芳醇な香り、紅茶や土の香りの奥に、黒トリュフが見え隠れする官能的なニュアンス……。クラクラする。

 

「お、おおぉぉ~!」

 目を瞑って、思わず声を上げてしまった。まさに神の雫、やっぱりクリスは神様だった――――

 

 俺はふと思った。神様であれば、母の失踪の理由も、父親が誰かも、聞けば教えてくれるかもしれない……。

 むしろ、『はい、どうぞ』と言って、すぐに目の前に呼び出してしまうかも……。

 

 俺は急速に鼓動が高鳴っていくのを感じていた。

 

 しかし……いまさらそれを知ってどうするのか……。それで23年の孤独が埋まるわけではない。

 プラカップを持つ手につい力が入り、パキッと音を立てた。

 

 俺は、心の奥底にある(おり)が揺らぐのを感じていた。

 トラウマに(ねじ)れた心は果たして和解に耐えられるのか……、俺は目を瞑り、心の(おり)が落ち着くのをしばらく待った。

 

 まだ……早いのかもしれない。

 

 ぽっかりと浮かぶ夏の雲を見上げながら、父や母とわだかまりなく乾杯できる日がくればいいな……とぼんやり思った。

 

 カァカァとBBQのおこぼれを狙う、カラスの鳴き声が公園に響き渡る――――

 

 俺は気持ちを切り替えると、

「これ、みんなにも分けてきますね!」

 そう言って、友達とその仲間たちが歓談しているテーブルの方に、ワインを持って行った。

 

「みなさーん、今日はお招きありがとうございました! 凄いワインが手に入りました! ワインで乾杯しましょう!」

 

「おぉぉぉぉ!」「ワインいいね、ワイン!」

 歓声が上がる。

 

 ただ、ペットボトルを見せると……

 

「えー!? ペットボトルのワイン~???」

 

 『教授』と呼ばれている中年男性は不機嫌になる。

 

「俺はそんなワイン飲まないぞ! ワインは文化なんだ!」

 教授はこういう所、とても面倒くさい人なのだ。

 

「まぁ、ちょっと味見だけでも、してみてください」

 

 俺はプラカップにワインを少し注ぎ、教授に渡した。

 教授は、嫌々受け取ると、ワインを口に含んだ。

 口に含んで3秒、教授の動きが止まった。

 

「……。」

 

 さらにもう一口……。

 

 そしてしばらくして……

 

「な、なんだこれは……。ピノ……? だよな、ピノノワール……だが……。こんな美味いピノは飲んだ事が無い……」

 

 目をつぶったまま教授が動かなくなった。

 

「ロマネコンティ……。そう、そうだよ、このニュアンスはそのクラスだぞ。馬鹿な……」

 

 ワインは誤魔化しが効かない。ワインを知れば知るほど、クリスのワインのすごさが分かってしまう。

 

 教授の奥さん連中も飲んで、美味さに驚いている。

 

「いや、これなんなの? こんなの飲んじゃったら、もう普通の飲めないよ~!!」

「ほんとほんと~!」

「あっ!? このチーズにすごい合うよ!」

 

 みんな奪うように、チーズに手を伸ばす。

 

 う~ん、美味い!

 

 美味い酒は人を幸せにする。

 

 暴走車の絶望から、一気に神のワインで天国になった。

 欲を言えば、ワインだけじゃなくて、可愛い娘も出してくれたら最高なのに……などと罰当たりな事を一瞬思い、イカンイカンと首を振って雑念を飛ばした。

 

 テント横をひょこひょこと歩いていた黒猫は、そんな俺を見て立ち止まり、ニャァと一声鳴いた。猫に見透かされたようで俺は少し赤くなり、うつむいた。

 

 それにしても、このワインの美味さは異常だ。一口含むたびに幸せに包まれる、とんでもないワインだ。

 

「いや~これは、本当に美味いわ~!」

 俺は湧き上がる開放感の中、思わず叫んでいた。

 

 

          ◇

 

 

 ワインの余韻(よいん)の中、俺は、冴え渡る青空に入道雲がモコモコと育っているのを見ていた。飛行機が真っ白のラインを引いていく。

 仲間連中はワインをよほど気に入ったと見えて、バカ騒ぎを続けている。

 

 すると、後ろからいきなり声をかけられた。

 

「あのぉ~、良ければ私にも、一口もらえませんかぁ?」

 

 振り返ると、揺れる木漏れ陽の中、優美な空気を身に(まと)った女性が、透き通る肌で天使の様な笑顔をたたえていた。

 その、人並外れた美貌、全てを見透かすような澄んだ琥珀色の瞳に、俺は思わず息をのんだ――――

 

 いきなり訪れたこの瞬間を、俺は一生忘れないだろう。

 

 神のワインが、新しい人生の扉を開けた気がした。

 



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1-3.フレンチ・フルコースの勝利

 彼女は少し茶色のセミロングパーマの髪を夏の風に揺らしながら、白いワンピースに薄い迷彩のパーカーを羽織り、微笑んでいる。

 アイドルグループに居てもおかしくない美貌に、心臓が高鳴る。

 

「も、も、もちろん、どうぞ! 美味しいよ!」

 俺は飛び上がるように席を立ち、少し震える手で彼女にプラカップを渡し、注いだ。

 

 彼女は片手をそっと添えて、丁寧に受け取る。

 品のいい娘だ。

 

 彼女はにこやかに一口、ワインを含む。

 透き通るような肌に、シャープなギリシャ鼻、そして心を捉えて離さない大きな琥珀色の瞳……もし、女神がいるとしたら、彼女のような風貌かもしれない。

 

「うわぁ~! これは凄いですねぇ!」と、眩しい笑顔で歓喜の声を上げる。

 

 今の瞬間を撮ったら、TVCMにでも使えそうなビジュアルだ。思わず見惚れてしまった。

 

 話を聞くと彼女は応京(おうけい)大学の学生だそうだ。今日はサークルのBBQでお隣に陣取っていたらしい。

 

 サークルでBBQ、実に羨ましい。

 ばぁちゃんとの約束を果たそうと、バイトに研究に必死だった俺の貧乏学生時代とは大違いだ。

 

 ワインを交わしながら歓談してると、若い男がやってきた。

 

「ダメだよ。美奈(みな)ちゃん! お隣さんに迷惑かけちゃ!」

 ボーダーのインナーに、紺のシャツを羽織った、少し甘いマスクの男が女の子に声をかける。

 

「え~、ワイン貰っただけだし」

 美奈ちゃんはムッとした表情で、面倒くさそうに答える。

 

 俺もすかさず言う。

「迷惑なんかじゃないですよ、良ければ一緒に、ワインどうですか? 美味しいですよ」

 

 男はちらっとテーブルのペットボトルを見ると、

「ペットボトルのワインなんて、美味い訳ないだろ? 僕はパパから、いつも一流のワインを飲ませてもらってるんだ。ちゃんとしたワインじゃないと、体が受け付けない」

 

 またこれか、ワイン好きというのは本当に面倒な連中だ。

 

「じゃ、このワインが美味しかったら、どうする?」

 俺がそう聞くと、

 

「はっ! パパ行きつけの、三ツ星フレンチに招待してやるぜ!」

 ふてぶてしい態度で小僧は挑発してくる。これは神様の力を、思い知らせてやらんとならん。意地でも『美味い』と、言わせてやる。

 

「よーし、みんなー! フレンチ行くぞ~!」

 俺は仲間連中に向けて叫ぶ。

 

「おぉぉぉ!」「やったー!!」「キャ―――――!」

 

 奇声が上がる。

 酔っ払いたちは、騒げるネタならなんでもいいのだ。

 

「美味かったら、だからな!」

 男が念を押してくる。

 

「まぁ、飲んでみろ」

 俺は微笑みながらカップを渡す。

 

 男は受け取ったワインの香りを嗅いで……眉間にしわが寄った。

 

「なんだ……この香りは……」

 

 そして、軽く口に含んだ

 

「んんっ……」

 

 黙ってしまった。

 

 俺はニヤッと笑うと、

「フレンチは明日の晩、10名様で予約してくれよ」と、言ってやった。

 

 男は憤慨しながら、

「いや、僕は認めないよ! こんなの全然美味くない!」

 

 俺と目を合わさないようにして、ふてぶてしく言い放った。

 

「シュウちゃん、嘘ついちゃダメよ、こんな美味しいワインに、ケチ付けるなんて最低よ!」

 美奈ちゃんは、クリっとした可愛い目を見開いて諭すが、男は引かない。

 

「美味いかどうかは主観で決まる、僕が美味くないと言えば、美味くないのだ!」

 

 そう言って、残りのワインを、その辺にパッと撒いて捨てた。 

 向こうで、クリスの表情が堅くなったのを、見てしまった。俺はこの小僧の事を少し哀れに思った。

 

 クリスが静かに歩み寄ってきて、問いかける。

「…。この聖なるワインを侮辱するのであれば、それなりの神罰が下るが良いのか? 太陽興産の、跡取り息子の修一郎(しゅういちろう)君」

 

「な、何で俺の事知ってんだ? 美奈だな! 勝手に個人情報話すなよ!」

 憤慨する修一郎に、美奈ちゃんはムッとして返す。

「私じゃないわよ!」

 

「…。美奈さんは関係ありません。私はあなたの事を良く知っています。その右ポケットに入っている物が何かも知っています」

 

 修一郎という名前らしき男の顔色が変わった。

「お、お前には関係ないだろ!」

 

 何かヤバい物を持っているらしい。おおかたマリファナとかその手の類だろう。イキがる若者はそういう物に惹かれるからな。

 それにしても、太陽興産という会社名は聞いた事がある。確か、中国との貿易で最近業績を伸ばしていた会社だ。

 

 スマホで検索すると……株価もここの所右肩上がりである。社長は田中修司(たなか しゅうじ)、きっと修一郎の親父さんだろう。

 

「太陽興産だって? 最近絶好調な所じゃないか」

 俺が声をかけると、

 

「そう! パパは凄いんだ。応京大学OB会の理事もやってるのさ」

 修一郎は自慢したくて仕方ないらしい。

 

 クリスは俺のスマホを覗き込むと……

「…。なるほど、それじゃ神罰は太陽興産に下るだろう。『太陽興産には失望させられたよ』」

 

 そう言った瞬間、太陽興産の株価の表示が真っ赤になった。

 

 俺はその表示に焦った。

 

「うわ、株価が暴落し始めたぞ!」

 

 修一郎は俺のスマホをひったくると

 

「な、なんだこりゃ!?」と、言って、顔面蒼白になった。

 

 とんでもない数の売り玉が、次々と買い板を飲み込んでいく。

 さっきまで前日比プラスだったのに、もうマイナスに落ちている。

 

 修一郎は焦ってクリスに絡む。

 

「お前! 一体何をやったんだ!?」

「…。別に何も? 単に失望しただけだが? 『太陽興産には失望させられたよ』」

 また大きな売りが追加された。

 

 株価の下げは、留まるところを知らない。

 修一郎は、食い入るようにスマホを見つめるが、売りは増えるばかりで、株価はどんどん落ち続ける。

 もうすでに、50億円近く時価総額は落ちている。

 修一郎が下らない嘘をついただけで、50億円が飛んだのだ。

 

 そもそも株価はマーケット参加者の気分で決まる。これから値上がりすると思えば、買いが増えて値が上がり、値下がりすると思えば、売りが増えて値が下がる。

 クリスがどうやってるのかは分からないが、マーケット参加者の気分を弱気にしたのだろう。皆が値下がりすると思えば株価は下がる一方なのだ。

 みるみるうちに、株価はどんどん下げていく。

 

 修一郎は真っ青となり、クリスに食って掛かる。

「ワインが美味いかどうかで、なんで株価暴落するんだよ!」

「…。美味いかどうかじゃない、侮辱をするかどうかを、神は見ているのではないかな?」

「俺にとって美味いかどうかは俺が決める! 俺が美味くないと言ったら、美味くないでいいじゃないか!」

 

 その瞬間、また多量の売りが出て、さらに株価の暴落が加速していく。愚かな事だ。

 

 クリスは軽く首を振りながら、憐みの表情で修一郎を見つめている。

 

「パ、パパに電話しなくちゃ……」

 震える手でスマホを操作した。

 

「パパ、僕だよ、修ちゃん。え……? やっぱり暴落は本当なの? まずいの? あれ? パパー? パパー?」

 

 切られてしまったらしい。

 株価はさらに落ち続け、もう時価総額は100億円くらい消えてしまった。

 

 修一郎はしばらく呆然としていた。

 理屈は分からないが、とんでもなくダメな事をしてしまったのを、本能的に理解したようだ。

 

 修一郎は意を決して、クリスに向き直ると、

「僕が悪かった……。何でもする。だからパパを助けて……」

 

 そう言って頭を下げた。もはや涙声である。

 イキがって、調子に乗った奴の末路は悲惨である。ちょっと胸がスッとする。

 

「…。ワインはどうだったかね?」

 クリスは淡々と聞く。

 

「美味しかった! 美味しかった! 最高でした!」

 修一郎はクリスの手を握って必死にアピールする。

 

「…。無理して言わなくていいんだよ」

 クリスはゆっくり諭すように言う。

 

「大丈夫っす! カベルネソーヴィニヨンですよね? メッチャ美味いっす!」

 

 クリスはがっくりとして目を瞑り、首を振った。

「……。ピノノワールだよ……」

「あ、あれ……?」

 ばつが悪そうな修一郎。

 

 カベルネソーヴィニヨンは渋い葡萄(ぶどう)の品種で、ピノノワールはその逆でフルーティ。普通間違えないのだが……。これからいろいろ飲み比べて覚えていってもらうしかない。

 

 俺は修一郎の肩をポンポンと叩いて言った。

「フレンチ10名様、予約入れろよ!」

 すると修一郎は

「入れる! 入れる! 今すぐ入れる!」と、必死に言った。

 

 クリスは気を取り直し、修一郎の目をじっと見つめ、小声でつぶやいた。

「…。『太陽興産は言うほど悪くなかったな』」

 

 すると、あれ程多量にあった売りがパッと消えた。

 

 その後、徐々に買いが入り始めた。買いが出てくると動きは速く、株価は急速に元に戻って行った。

 それを見ると、修一郎は大きく息を吐き、力なくよろよろと椅子に沈んだ。

 真夏の日差しの中、修一郎の流した冷や汗が、お洒落な北欧の腕時計にポタリと落ちる。 

 

 決してクリスを敵に回してはならない、俺はそう強く心に誓った。

 

 それにしてもクリスの力は恐ろしい。株価を操れるという事は、無限にお金儲けができるという事。何億でも何十億でも好きなだけ儲けられるという事。とんでもない力だ。

 

 やり取りを見ていた美奈ちゃんが、するするっとクリスに近づいて眩しい笑顔で話しかける。

 

「すごぉい! 一体どうやったんですかぁ?」

 

 実にストレートな突っ込みである。

 

「…。私は何もやっていない。不誠実な者に天罰が落ちるのは、当たり前でしょう」

「ふぅん……。クリスさんは天罰を呼べるんですねっ」

「…。全て神の思し召しです」

 そう言って、クリスは祈る仕草をした。

 

 修一郎はレストランに電話しているようだ。

 

「予約取ったから、明日7時に銀座のここに行ってくれ」

 そう言って、ぶっきらぼうにスマホの画面を俺に突き出した。

 

「お、こないだ三ツ星になった店じゃないか! 本当にいいの?」

 俺がちょっと気後れして聞くと、

 

「男に二言はない! 今回の事は僕が悪かった。楽しんできてくれ! その代わり……、このワインを何本かもらいたいんだけど……」

 修一郎はそう言って手を合わせ、お願いしてくる。

 

 確かにこれは神の飲み物、お金で買えるような代物(しろもの)じゃない。良く分かってるではないか。

 俺はニヤッと笑うと、クリスに聞いた。

 

「クリス、ワイン欲しいんだって、いいかな?」

「…。いいでしょう、ピノノワールの心地よい酸味と果実味をしっかり勉強してください」

 そう言ってニッコリと笑った。

 

 

              ◇

 

 

 しばらく歓談していると、教授が声をかけてくる。

 

「誠君、ちょっと……」

 

 俺はテント裏に連れてこられた。

 

「ワイン美味かったでしょ?」

 俺がワイン片手に、上機嫌で自慢すると……

 

「美味すぎる、これはオカシイよ……」

 そう言って深刻そうな声を出す。

 

「こんなワイン、人の作れるものじゃないし、あんな株価操縦なんてできるはずがない。人間技じゃないよ!」

 確かにクリスは人間じゃない。それは良く知っている。

 

「うーん、だから神様なのかと思ってるんだけど……」

 

 教授は呆れた顔をして言う、

「誠君、君はエンジニアだろ? そんな非科学的な事言っちゃダメだよ!」

 

 教授はただのあだ名ではなく、大学で素粒子物理学を教えている本物の教授だ。非科学的な事なんて絶対に認めない。俺は工学系なので、理屈よりも結果が出る事を重要視する。だから、奇跡をどう使うかしか考えないが、理学系の教授には理屈の方が気になるらしい。

 

「じゃ、教授はクリスを何だと思ってるの?」

「可能性は三つ……」

 

「1.ナノテクノロジーを駆使できる、高度な科学文明を持った知的生命体」

「2.幻術を使う催眠術師」

「3.シミュレーション仮説上の管理者(アドミニストレーター)

 

「これしか考えられない」

 

「シミュレーション仮説って何?」

 俺が聞くと、

「この世界が仮想現実だって言う話。つまり、ここはVRゲームのフィールドだって事だよ」

 そう言って教授は眉をひそめた。

 

「え? これが仮想現実空間!? ま、まさか……いや……しかし……」

 とんでもない荒唐無稽な事を言われて驚いたが、技術的には不可能な話ではない。ただ、やる意味も価値もないから誰もやらないと思うのだが……。

 

「さすがに、それは無いとは思ってるよ。地球をシミュレートしようと思ったら、地球よりずっと大きなコンピューターと、天文学的な莫大なエネルギーが必要なんだから。そんなバカげたこと、何のメリットもない。だとすると、ナノテクか催眠術師か……」

 

「催眠術師だったら……俺達、化かされてるって事? このワインも水?」

 

 俺達はジッとワインを見つめた……

 

 しかし、どう見てもワインにしか見えない。

 

 そして再度慎重に味わってみた……

 

「美味い……よなぁ……」

 

「分かった! うちの大学の同僚に頼んで、成分分析をしてもらう。これでナノテクか催眠術か、白黒つくだろう」

「お願いします。結果わかったら教えてください」

 

 そう言って、俺達は秘密裏に、クリスの正体を探ってみる事にした。

 

 とはいえ、クリスが『ナノテク・マスター』か『スーパー催眠術師』だったとしても、俺からしたら十分に神様だし、人類の危機を救わねばならない事も変わりない。人類を救うAIはどっちにしろ必要なのだ。

 



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1-4.神様はバックパッカー

 仲間の子供達を見ると、皆ソファーでゴロゴロしだしている。どうやらお眠の時間の様だ。

 

「さて、そろそろ帰らないと。クリスも明日フレンチ行きますよね? 今晩はうちに泊まりませんか?」

 さり気なく誘ってみる。

 

「…。いいのか?」

「何言ってるんです、クリスのおかげで、こんなに楽しい事になっているんだから、遠慮せずにうちで飲みなおしましょう!」

「…。なら……お言葉に甘えて……」

 

「ねぇねぇ、美奈も行っちゃダメかなぁ?」

 ちょっと首をかしげて、甘い声で美奈ちゃんが割り込んできた。美奈ちゃんもクリスに興味津々なのだ。

 可愛い娘にお願いされて、断れる男など居ない。

 

「お、俺は良いけど、クリスはどうかな?」

 

 クリスは、美奈ちゃんの目をじっと見ると、言った。

 

「…。私たちに付いてきたら、もう二度と今までの暮らしには戻れない……。それでもいいですか?」

 

 俺は驚いた。一体どういう事なのか? 俺は、単に飲みなおすだけのつもりだったのだが……。

 

「丁度いいわ! 今の暮らしに、飽きてきた所なのよねっ!」

 美奈ちゃんは人差し指をくるっと回し、小悪魔風に微笑んだ。

 

「…。ならいいでしょう」

 クリスはそう言ってニッコリと笑った。

 

 クリスは女子大生に何を見たのか……。クリスの思惑は読めない。

 

 

       ◇

 

 

 八丁堀にある、築5年の1DKのマンションが俺の家だ。都心に近いが、下町だけあって家賃が安くて気に入っている。

 二人を、コンビニに買い出しに行かせている間に、俺は部屋を頑張って片付けた。

 ヤバい物は急いで段ボールに詰め、物置に追いやった。独身男性の部屋には、女の子にはとても見せられないような物だってあるのだ。

 

 掃除機で仕上げをしていると、二人がやってきた。

 

「あら、誠さんの部屋、綺麗ねっ!」

 美奈ちゃんが、ずかずかと奥まで入ってきて言った。

 ギリギリ間に合った。セーフである。

 

「あっ、あれはスカイツリー?」

 そう言いながら美奈ちゃんは、まだ昼の熱気が残るベランダに出た。

 遠くに青くライトアップされたスカイツリーが、夏の夜を涼しげに彩っている。また、眼下にはその青が隅田川の支流に反射してゆらゆらと煌めき、下町っぽい風情を演出していた。

 

「綺麗でしょ?」

 俺が並んでそう言うと、

「何だかお菓子みたいね、食べたら美味しそう!」

 美奈ちゃんはそう言いながら、こっちを見て微笑む。

 

「君はゴジラかい?」

 俺はそう言って笑いながら、美奈ちゃんを見るが、その魅惑的な瞳にキラキラと反射する夜景に、思わず吸い込まれそうになる。

 高鳴る心臓を悟られないように、急いでスカイツリーに視線を移したが、少し不自然だったかもしれない。

 まだ少し生ぬるい風を浴びながら、俺はそっと深呼吸をした。

 

 

      ◇

 

 

 俺は部屋に戻って、買い出ししてもらった物をテーブルに並べ、皆に座布団を勧めた。

 

「私は梅酒~っ!」

 美奈ちゃんが上品に座りながら、梅酒の缶をプシュッと開ける。

 

 クリスはハイボール、俺はビールを手に取った。

 

「それじゃ、明日のフレンチを祝して、カンパーイ!」

「カンパーイ!」「…。乾杯」

 ゴツゴツと鈍い音が部屋に響く。

 

 俺はホップの苦くてややフルーティな香り、爽快感が脳髄を揺らすのを堪能する。幸せが染みわたっていく……。

 

「クリスさんは、何をしてる人なんですかぁ?」

 美奈ちゃんが早速クリスに絡む。

 

「…。ただのバックパッカーだよ」

 クリスは透き通った声で淡々と答えるが、バックパッカー!? 神様の仕事ってバックパッカーでいいのだろうか?

 

「ふぅん、いつまでバックパッカー続けるの?」

 お、ナイスな突込みだ。

 

「…。希望が見える……までかな……」

「今は希望が見えないの?」

 美奈ちゃんは首をかしげ、不思議そうに聞く。

 

 クリスはハイボールを呷ると、目を瞑って静かに言った。

「…。全くダメだな。八方ふさがりだ」

「八方ふさがり? 人類がヤバいって事……なの?」

 

 クリスはあごに手を当てて、少しうつむき、言葉を選びながら言った。

「…。ヤバいというより……、糸が切れた凧、という状態かな? 何をどうしたら、世界が良くなるか、皆目見当がつかない」

 そう言うと、ハイボールを一口飲んだ。

 

「…。昔は単純だった。病気や、飢饉や、災害や、戦争を回避するよう祈れば良かった。そうすれば世界は良くなっていった。だが、この時代にまでなってみたら、何が何だか分からなくなった」

「うーん、それは、世界が複雑になったという事?」

「…。それもある。大抵の病気は病院で治るし、食べ物は捨てるほどある。そして、衣食住完備され、安全で安心な社会になったのに、みんな常に仕事に追われ、余裕無く喘いでいる。一体なぜ、こんな事になっているのか、分からないんだ」

 そう言って、クリスは首を振って目を瞑った。

 

 実に重い話だ。

 沈黙の時間が流れる。

 

 確かに、昔に比べたら全てが改善した。夢の社会ができたはずだった。でも、人々は暗い顔して暮らしている。一体何が間違っているのだろうか……。

 

「お、お金……かな? みんなにお金をパ―――――ッと配ったらどうかな? みんなに1億円ずつ配ったら、みんな元気になりそう!」

 美奈ちゃんが、オーバーに両手を広げて言う。

 

「1億はどうかと思うけど、お金を配るというのは確かにいいね。ベーシックインカムと言って、国民全員に毎月10万円配ろう、という計画もあるよ」

 俺も話を繋げる。

 

「いいじゃんそれ!」

 美奈ちゃんが、無邪気に俺を指さして喜ぶ。

 

「でも…… 財源が足りないんだよね~」

「あらら……」

 二人して下を向く。

 

 これは経済システムの問題だ。

 クリスに幾ら力があったとしても、毎年140兆円をクリスが生み出し続ける訳にも行かない。神様の守備範囲外の問題だ。

 

 クリスは目を開けると続けた。

「…。さらに少子化と温暖化という、さらに深刻な問題が控えている。現状は、かなり絶望的と言わざるを得ない」

「絶望的!?」

 美奈ちゃんは、可愛い目を大きく見開いて驚く。

 

「…。この問題も対策のしようがない。解決策があっても、人類はそれを選ばない」

 クリスが暗い顔でつぶやく。

 

「でも、少子化は先進国だけの問題よね?」

 美奈ちゃんは首をかしげながら言う。

 

「…。そうだが、少子化によって経済崩壊と移民や人種間のトラブルが起こる。先進国に経済と軍事力が集中してる状況で発生するトラブルは、温暖化で起こる異常気象による飢饉とあいまって、取り返しのつかない事態を引き起こす」

 クリスは目を瞑って首を振り、深刻そうに頭を抱えた。

 

 神様をもってしても簡単に滅亡は回避できない、という現実は重い。

 

「クリスさんにも無理だったら、もうダメって事?」

 美奈ちゃんが眉間(みけん)にしわを寄せて聞く。

 

「…。誠に案があるんだよね?」

 クリスは俺を見てニヤッと笑った。

 

 



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1-5.愛の秘密

 話の流れから、こうなるのは仕方ない……。

 

「う、うん、実はAIのロボットを作ろう、と思ってるんだ」

 俺は覚悟を決めてプランを話す。

 

「えっ? ロボット!?」

 

 美奈ちゃんは驚いて、俺を見つめる。全てを見透かすような澄んだ琥珀色の瞳に、一瞬動揺してしまう。

 俺は、ゆっくり息を吸い、心を落ち着けて答えた。

 

「そ、そうなんだ。鉄腕アトムの様な、心優しいAIロボットを、クリスと一緒に作ろうと思ってるんだ。このAIロボットを子育てや温暖化対策に活用して社会の安定化を図ろうかと」

「えっ!? そんな事できるの!?」

「い、一応これでもAIエンジニアなんだぞ!」

 俺は、わざとらしく胸を張りながら言った。

 

「それでも……ねぇ……」

 美奈ちゃんは、怪訝な眼差しで俺を見る。

 

「もちろん、そう簡単にはできないよ。でももう人間は、囲碁や将棋ではAIには勝てないんだ。AIは部分的には人間を凌駕してるんだよ」

「そうだけどぉ、囲碁とアトムは全然違うわよ?」

 首をかしげる美奈ちゃん。

 

 確かに簡単ではない。でも、クリスの手前、自信なさそうな事は決して言えない。

 

「俺は作るよ! 必ず作る!」

 そう力強く言い切った。

 

「AIできても、本当に心優しくなんてできるの? むしろ人類を滅ぼそうとしたりするんじゃないの?」

 怪訝そうな美奈ちゃん。

 

「そこは大丈夫! 秘策があるんだ」

 俺はそう言ってニッコリと笑った。

 

「秘策? 本当に大丈夫ぅ?」

 美奈ちゃんは、ポテトチップスをポリポリ齧りながら言う。

 

「大丈夫、大丈夫!」

 俺はそう言って、後ろめたい気持ちに(ふた)をするように缶ビールをグッと呷った。

 

「…。で、具体的にはどうやって作るんだ?」

 クリスが核心に切り込んでくる。いよいよ正念場だ。

 

「AIのエンジンを俺が作るので、それを育てる膨大なデータをクリスにお願いしたい」

 俺はクリスの目を見て言った。

 

「…。誠が生んで私が育てるのか?」

「そう、AIを正しく導けるのは、クリスだけなんだ。ぜひやって欲しい」

 

 クリスは腕を組んで、軽くのけぞって首を揺らす。

 狭い部屋には洋楽のヒットナンバーが小さくスピーカーから流れている。

 美奈ちゃんは興味なさげに、最後に残ったポテトチップスの破片を愛おしそうにチマチマと齧った。

 

「…。具体的には何をすればいいんだ?」

 しばらく思案したクリスは、俺を見ながら聞いた。

 

 俺はニコッと笑うと調子に乗って続けた。

「まずは、そもそも何で今のAIがこんなにバカなのか? という事から説明したい。なぜだと思う? 美奈ちゃん」

 

 コンビニの袋をひっくり返して、次のおつまみ探しに夢中な美奈ちゃんがビクッとする。

 

「え? 何? いきなり振らないでよぉ……。なぜ馬鹿かって? うーん……コンピューターには魂が入ってないから……かな?」

「うーん、魂か。そもそも魂って何だよ? とは思うけど、当たらずとも遠からずかな、AIには世界観が無いのがダメな原因なんだ」

 

「世界観? どういう事?」

「例えば、『重力があって、リンゴは下に落ちますよ』って事はAIだって理解できる。でも『段差があって人が下に落ちますよ』って事はAIにはピンとこない。例えば段差が30cmなら安全だけど、3mだと危険だよね? では1mだったら?」

「1m? ちょっと怖い高さだよね」

 美奈ちゃんは、首をかしげながら答える。

 

「そう、人間だったらピンとくる。でもAIには分からない。だって体験した事が無いんだもん。1mは若者だったら平気だけど、老人だったら危険。さらに若者でも、頭から落ちたら死んじゃうし、酔っぱらっててもヤバい。人間は自分で飛び降りたりコケたりして、体で重力の意味を覚えてるから、ピンとくるんだよね」

「そうか、体験しないと分からないのね」

 ニッコリと笑って言う美奈ちゃん。

 

「そう! 高さだけじゃない、料理の味や香り、ジェットコースターのスリルなんて物は、体験しないと分からないんだ。この複雑な条件をひっくるめて、世界観と呼んでるんだけど、この世界観を、どうやってAIに学習させるのか? ここが今のAIの限界の原因になってるんだ」

 

「ふぅーん……」

 曖昧な返事をしながら、美奈ちゃんは次の梅酒の缶を開ける。

 シュワシュワとした炭酸に、思わず酸っぱい顔をして、目を瞑る。

 そんな可愛いしぐさに見とれていると、横からクリスが突っ込む。

 

「…。誠よ、その世界観を学習をさせるのが、私の仕事という事か?」

 

 俺は慌てて前を向く。いよいよここからが提案の本番だ。俺は軽く深呼吸をして言った。

 

「そうそう、そこをお願いしたい。そして世界観を学習するのに必要なのが……。あまり言いたくないんだけど……生身の体なんだよね。正直な所、生身の体でないと世界の理解は難しい」

 俺はおずおずと核心を開陳する。

 

「…。人体実験に使う人体をこの私に調達しろと?」

 クリスの言葉に、微かな怒気が混ざる。

 言葉を選ばないと……。冷や汗が浮いてくる。

 

「いやいやクリス、これは言うならば献血だよ。人類の守護者に血を与える尊い行為なんだ」

 

 軽く首を振りながらクリスは答える。

「…。物は言いようだな。で、そういう人を見つけたとして、何をやってもらうんだ?」

 

「脳に電極を入れて、AIと直接身体と繋がってもらう。そうすると、AIは自分の身体の様に協力者の身体を動かせるので、そこで身体と世界を感じてもらう」

「…。それは、AIに身体を乗っ取られる事じゃないか!」

 クリスは冷たく言い放つ。

 

 美奈ちゃんも拒絶する。

「えー、そんなの絶対ヤダ!」

 

 ですよね……、俺でも嫌だからな。

 でも、ここで引いたら計画がお終いだ。

 

「もちろん、未来永劫乗っ取る訳じゃないよ、一時的に借りるだけ。終わったら元の生活に戻れるんだから……」

 

 頑張ってみたけどクリスは、

「…。私は協力はできないな」

「私もー」

 

 ちょっとストレートに言い過ぎたかもしれない。

 ここは無理に頑張らない方がいいか……。

 

「そもそも私の身体を貸したら、例えば『服を脱げ』とか指令が来たら、脱いじゃうんでしょ?」

 美奈ちゃんが痛い所を突っ込む。

 

「うっ、まぁ……理屈としては……そうだね」

「それでエッチな事、させられちゃうんでしょ?」

 美奈ちゃんは警戒する風に、両腕で胸を隠す。

 

「いやいや、そんな事しないよ!」

「絶対?」

「エンジニアはそんな事しない!」

 俺はエンジニアの誇りをかけて言い切る。

 

「ふーん、そんなに私の身体魅力ないの?」

 不満げな美奈ちゃんは、身体をよじって首周りの服を少しずらす。

 俺は、綺麗な鎖骨のラインに、目が釘付けになる。

 

「この身体が自由にできるのよ? 何もしない……の?」

 そう言って、上目づかいで俺を見る。

 

「いや、ちょっと、美奈ちゃん! 梅酒飲みすぎ!」

 俺は両手を美奈ちゃんの方に向け、目を背ける。

 

 ただ…… 男には抗えない力がある事は、認めざるを得ない。

 

「……。参りました」

 俺はそう言って、うなだれて負けを認める。

 

「だから私は貸せないわ、この身体は愛する人にしか触らせないの」

 そう言ってニッコリと勝ち誇り、俺は言葉を失う。

 

「誠さんも『愛する人』になれたら……触れるかもね」

 そう言ってつややかで弾力のある胸元を強調し、ウィンクする美奈ちゃん。

 

『さ、触れる!?』本能的に俺はつい反応してしまう。男とは本当にどうしようもない生き物である。

 

「お、俺にもチャンスはあるんだ?」

「誰にだってあるわ。私は『愛の秘密』を解いた人を愛すの」

 そう言って、夢見る女の子になった美奈ちゃんは宙を見上げ、手のひらをゆっくり上に向けた。

 

「愛の秘密?」

 意味不明な事を言われて聞き返す俺。

 

「ふふっ、そんな調子じゃ無理だわ」

 美奈ちゃんは人差し指を振りながら、ニヤッと笑った。

 

『なんだよー! 愛なんて知らんわ!』

 俺は内心毒づきながら、缶ビールを呷る。

 

『愛ゆえに人は傷つく。愛になんて軽々しく近づいてはならない』とねじ曲がったトラウマが耳元でささやく。親に捨てられた俺にとって、愛という言葉には警戒があるのだ。 

 もちろん、いつまでもこんな調子じゃ困るとは……一応、思ってはいる。

 

 それにしても出だしから散々だ。AIの開発計画も行き詰まり、美奈ちゃんにも呆れられる……

 ションボリしながらビールを呷ったが……、もう空だった。

 ビールにも馬鹿にされている気がして、俺は空き缶をメキメキと潰した。

 

「はいはい、元気出して! 最初のプランが通らない位で、凹んでてどうすんのよ!」

 美奈ちゃんはそう言いながら、次のビール缶を俺に差し出す。

 

「いやまぁ、そうなんだけど」

 俺は受け取った缶をプシュッと開ける。

 

「何かやり様はあるはずよ、明日また話しましょ。はい! カンパーイ!」

「…。乾杯」「カンパイ……」

 

 確かに、前人未到の偉業への道など、サクっと決まる訳がない。そんなに世の中甘くないのだ。

 明日の俺にバトンタッチだ。

『今日の俺は十分頑張った、営業終了!』

 

 そう気持ちを入れ替えると、俺はビールをぐっと呷った。

 

 その後、美奈ちゃんはターゲットをクリスに絞り、言葉巧みにクリスから規格外の楽しい話を次々と引き出していった。

 核ミサイルを撃ち落とした話や、津波を割って街を守った話は、それだけでも小説が書けそうだった。

 こうして八丁堀の夜は、あっという間に過ぎていったのだった。

 

 

        ◇

 

 

 美奈ちゃんは始発で帰るらしい。

 

 帰り際、玄関に見送りに出た俺に、靴を履きながら美奈ちゃんが言った。

「男の人の家でオールなんて、よく考えたら危なかったわ」

 

 俺はムッとして

「俺は女の子の嫌がる事は、絶対にやらないよ!」

 と、胸を張って言った。

 

 ところが――――

 

「うーん、だから誠さん、モテないのね」

 美奈ちゃんはそう言って、肩をすくめ、天を仰いだ。

 

「えっ!? ちょっと、それはどういう……」

 俺が言い返そうとすると、美奈ちゃんは、ピンと伸ばした人差し指で、俺の口をふさぎ、

 

「安全地帯に居るから大丈夫、なんて一番ダメな発想だわよ!」

 そう言い放つと、軽くウィンクをして、クルっと背を向けて帰路についた。

 

 俺は唖然(あぜん)としながら、後姿を見送っていると、

「また明日~」

 と、美奈ちゃんは向こうを向いたまま、手を振りながらエレベーターに入っていった。

 

 確かに俺は人との距離の取り方が下手だ。仕事での人付き合いなら事務的で簡単だが、プライベートの関係となると、踏み込んだ言動はどうしても気おくれしてしまっていた。深い関係になる事は怖い事だと、俺のトラウマがささやくのだ。

 

 会って間もない女子大生に、そんな欠陥を一突きされた俺は、玄関口で呆然とし、立ち尽くした。

 

 



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1-6.脳の無い赤ちゃん

 夜は銀座でフレンチ。フレンチなんて久しぶりだ。

 仲間連中は都合で来られないので、結局我々3人である。

 

 銀座のフレンチはやはり雰囲気が違う。石をあしらった門構えに、小さな店名のプレートが一つ。知らなければレストランだとは気づかない。

 

 店に入ると、ウェイティングルームに通された。

 

 すでに美奈ちゃんが座っている。

 

 美奈ちゃんは、落ち着いたオレンジのVネックフレアワンピースに身を包み、シックなインテリアの中、まるで絵画から抜け出したかのような美しい(たたず)まいを見せ、そこだけ空気が澄んで見えた。

 そして、俺たちを見つけると、ニッコリと笑い、目を輝かせて軽く手を上げた。

 

 席に着くと、

「アペリティフは、いかがいたしましょうか?」店員(メートル)に声をかけられる。

 

 今日は暑かったので、爽やかなのがいい。

「シャンパンのカクテルがいいな」

 俺がそう答えると

 

「ではミモザなどは、いかがでしょう?」

「あ、いいね、じゃ、それで」

「私もそれがいいな!」

 美奈ちゃんは嬉しそうに言う。

 

「…。では同じ物を」

 クリスも落ち着いて答える。

 

「かしこまりました」

 

 程なく、シャンパングラスが運ばれてきた。

 

 俺が音頭を取る。

「この素敵な出会いにカンパーイ!」

「カンパーイ!」「…。乾杯」

 

 鼻に抜ける、オレンジの爽やかな香りが心地よい。

 

 美奈ちゃんは

「美味し~い!」 と、言って、目を大きく見開き、にこやかに笑う。

 彼女の白く柔らかな耳たぶに煌めく、ピンクのハートのピアスに、俺はつい目を奪われてしまう。

 

 店員(メートル)が注文を取りに来る。

 

「本日のメニューがこちらです、お選びください」

 

「お、来た来た。美奈ちゃん何がいい? フォアグラのパイ包みとかあるよ!」

「フォアグラ? 美味しいの?」

「メッチャ美味いよ~。他には真鯛のソテーとか、牛のフィレステーキとか……」

「じゃ、フォアグラで!」

 美奈ちゃんは、フォアグラにチャレンジするらしい。

 

「…。私は真鯛で……」

「じゃぁ俺はステーキにするか!」

 

 メートルに注文し、ついでにワインも選んでもらう。

 

 

        ◇

 

 

 昨晩の話で盛り上がっていると、ダイニングルームに案内された。

 

 落ち着いて品のあるインテリア、控えめなダウンライトが雰囲気を盛り上げる。俺の人生に関わる、いや人類の未来に関わる、大切な会食にふさわしい最高の舞台だ。心臓が高鳴る。

 

 まずは前菜が出て、ワインを注いでもらう。

 

「ねぇクリスぅ、昨日の誠さんのプランだけど、何かいい手はないかなぁ?」

 早速、美奈ちゃんが、クリスに振ってくれる。

 

「…。身体を乗っ取るような事は、神は望まない」

「身体貸してくれる人が、いればいいんでしょ?」

 

「…。本人以外が、身体を動かすような事はダメだ」

 クリスは毅然とした態度で、ダメ出しをする。

 

 美奈ちゃんは、前菜の『季節の野菜のゼリー寄せ』をつつきながら、ちょっと考え……

「じゃ、本人がもう居なくなってしまった身体、だったら?」

 

「…。居ないというのはどういう?」

「例えば……脳が無い人とか……。居ないか……」

 美奈ちゃんは、(あご)に手を当てて天を仰ぐ。

 

「コンソメスープでございます」

 ギャルソンが、黄金色に輝くスープを持ってきた。

 

「美味しそう! いただきま~す!」

 美奈ちゃんが、すかさずスープを口に運んだ。

 

「うわぁ、ナニコレ? すごぉい!」

 弾んだ声が部屋に響く。ここまで喜んでくれたら、シェフも嬉しいだろう。

 

 俺も一口飲んでみる。じんわりと優しい旨味が体中に広がり、手が止まらなくなった。まるで魔法だ。どれだけこのスープには、手間がかかっているのだろうか。

 

 俺はスープの余韻を堪能しながら、解決策を考える。

 

「人間は、脳が無きゃ死んじゃうからなぁ……」

 

 そう呟きながら、スマホで『脳が無い人』と、検索してみた。

 すると『無脳症』という病気がヒットした。解説を見ると、なんと脳が無くなる病気があるらしい。

 

「あ、居るよ居る! 無脳症という病気の赤ちゃんだ!」

 俺はつい大きな声を出してしまった。

 

「…。脳の無い赤ちゃん?」

 

 怪訝そうなクリスに、俺はスマホで検索した画面を見せた。そこには頭がすっぽりと無くなった、顔だけの赤ちゃんの写真が、たくさん並んでいた。

 

「これだよこれ、生まれてくる赤ちゃんの1000人に一人は、脳が無い無脳症なんだ。そしてこの病気の子の多くは堕胎される。つまり殺されちゃうんだ。この子の身体を、AIが使わせてもらう、というのはどうだろう?」

 

「…。身体は健康だが脳が無い……。そして殺されてる……。人ではない事になるのか、これは……」

 

 クリスは悩んでしまった。

 

 確かに、勝手に身体を借りるのはダメだが、そもそも借りる以前に、身体に意識が無いのだから、借りる相手がそもそもいない事になる。

 

「クリス! これならいけるんじゃない?」

 美奈ちゃんが無邪気にプッシュする。

 

 クリスは腕組みをして、目を瞑ったままだ。

 

 アコースティックギターの落ち着いた調べが静かに部屋に響く中、ギャルソンがワインボトルを手につぎ足しにやってくる。

 

 

       ◇

 

 

 その時、時間が止まった――――

 

 注がれるワインは空中で止まり、軽くかきあげた美奈の髪は、空中でふんわり浮き上がったまま静止している。

 

 その、きわめて奇妙な完全なる静寂が支配する部屋で、クリスだけは頭を抱え、必死に悩み続けていた。

 無脳症の赤ちゃんを使ってAIを育て、シンギュラリティを超えようとする誠の提案は全くの想定外だったのだ。人体実験など倫理面で協力するに値しないと切り捨ててきたが、確かに脳が無ければ問題はないし、魅力すらある。

 クリスとしては意欲ある若者を軽くサポートするつもりで気軽に誠に付き合っていたのだが、前代未聞の提案に真剣に考えざるを得なくなった。

 まず、過去の事例を洗ってみたものの、そんな奇想天外な事を手掛けたケースは全宇宙の長い歴史の中においても、全く見つからなかった。これが実現すれば相当なインパクトがある。

 次にその実現性を評価したが、クリスが協力すれば実現は不可能では無さそうである。そして、こんな前代未聞の挑戦であれば、同胞の悲願実現の可能性すらあった。クリスがこの地球に関わって一万数千年、初めて見えた光明だった……。

 

 クリスはすぐに管理局(セントラル)に問い合わせたが、残念ながら『過剰干渉である』との判断で許可が下りなかった。管理局(セントラル)はいつも、お役所仕事的な回答しかよこさないのだ。

 

 と、なると、クリスの独断でやるしかないが、その場合、成果につながらなければこの地球は『混じり物』として最悪削除処分になってしまう。

 そのリスクをあえて冒してやるか、諦めるか……、クリスは究極の選択を迫られていた。

 

 目の前で誠は緊張した面持ちで目を瞑り、ワインを飲みながら止まっている。そんな誠を、クリスはじっと眺めた。この青年に地球の未来を、自らの一万数千年の努力を託してしまっていいのだろうか?

 奇妙な生い立ちではあるものの、平凡なエンジニアである誠、だが、前例のない奇想天外なプランを提示してきた青年……。

 

 クリスは大きく深呼吸をし、ワイングラスを持つと、東京の遥か上空へテレポートした。

 真っ赤な夕陽が南アルプスの方へかかり、街にはポツポツと灯りがともり始めている。

 

 クリスは夕陽を見ながら、初めて地球人とワインを酌み交わした一万数千年前のトルコの事を思い出していた。ワインはお世辞にも美味いとは言えない素朴な味だったが、気のいい連中と飲んだワインの鮮やかな紅色は、今でもはっきりと思い出される。

 六千年前に中国で飲んだビールも、もちろん二千年前の中東のワインも全て大切な思い出だ。

 これらの無数の思い出を、八十億人の人生を、何も知らないこの青年に背負わせてしまっていいのだろうか?

 

 涼しい風が吹き抜けていく中、クリスはワインを一口含む。カシスっぽい濃厚な果実味にスミレなどの香りが華やかに沸き立つ。トルコの時に比べて味はもう圧倒的に良くなったが、夕陽はトルコの方が少し鮮やかだったように思えた。

 

 クリスは夕陽にワイングラスを向け、揺れるワインがキラキラと輝くのを見ていた。やっても後悔、やらなくても後悔、であればどちらの後悔を避けるべきか……答えは一つだった。

 

 

         ◇

 

 

 目を開けたクリスは、大きく息を吐くと誠に言った。

「…。やはりこういうのは良くない。自然の摂理に反している!」

 

 俺はクリスの目をじっと見つめた。

 クリスは続ける。

 

「…。ただ……人類の未来を……我々の未来を託すという、一大事業であれば……ギリギリ……許されるかもしれない……」

 クリスは苦しそうな顔をしながら、そう言った。

 

「やったー! カンパーイ!」

 

 美奈ちゃんがはしゃいで、ワイングラスをぶつけてくる。

 

 これで難関突破だ。俺はホッとして、声が出なかった。

 クリスは少し後悔した様な渋い笑顔を浮かべ、軽く目を瞑る……。

 そして、吹っ切れたように力強くワイングラスをぶつけてきた。

 

 AIで人類を救うロボットを作るプロジェクト、『深層守護者計画』がこの瞬間スタートする事になった。

 大学時代から、AIを研究しながら行き詰まり、悶々としていた俺は、ついに決定的な突破口を得たのだ。クリスの神の力があれば、人類初のシンギュラリティは夢じゃない。もちろん、奇跡一発で鉄腕アトムができるほど、簡単な世界じゃない。でも、どんな困難もこのチームなら解決できそうだ。

 

 俺はワインをぐっと呷った。

 フルボディのガツンとした重い渋みが口の中一杯に広がり、スミレの香りが鼻腔をくすぐる。そして、濃縮された太陽のエネルギーがじんわりと体中に染み渡っていく……、幸せだ……。

 

 俺はAIで世界中の人を笑顔にしてみせる、ばぁちゃん見ててくれ!

 

 そして、心の底から噴き出してきた喜びの奔流に身を任せ……、思わず、両手のこぶしを握って小さく叫んだ。

 

「Yes!」

 

 俺は嬉しさで体が震えていた。

 



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1-7. 1万円札を1トン

 ワインを飲みながら美奈ちゃんが言う。

「ねぇ誠さん、生身の体を使うから、人類の敵にならないって事?」

 

「そう、これが秘策なんだ。もちろん、人間の世界観を持たせただけでは100%安全とは言えない。でも、人の痛みが分かるAIにはなるので、ちゃんと運用さえすれば、脅威にはならないはずだよ」

 

「そんなにうまく行くかしら?」

 美奈ちゃんは、首をかしげる。

 

「…。でもまぁ、一応筋は通ってはいる……。とりあえず、やってみよう……」

 クリスはそう言うと、ワインをぐっと空けた。

 

「メインディッシュでございます」

 ギャルソンが、タイミングを見計らって皿を持ってくる。

 

 美奈ちゃんに出された皿には、小さなパイの上からブラウンのソースがかかり、レタスが添えられている。

 

「これがフォアグラ?」

 美奈ちゃんは、見た目平凡なパイをしげしげと見ている。

 

「いいから切ってごらん」

 俺がそう言うと、美奈ちゃんは慎重にナイフを動かし、一口頬ばった。

 

「う、うわ~ナニコレ!?」

 丸い目をして、口を押える美奈ちゃん。

 

「フォアグラは美味いだろ?」

 俺まで嬉しくなってきて、そう言った。

 

「こんなの初めて……」

 上を向き、目を瞑ってふるふる揺れ、余韻を満喫している。

 

 美味しい料理は感動を呼ぶ、人生の宝物だ。

 俺はステーキを堪能しながら、素敵なディナーになった事を、クリスと美奈ちゃんに感謝した。

 

「…。で、誠よ、具体的にはどう進めるんだ?」

 クリスは、真鯛をナイフで切りながら聞いてきた。

 

「まずは会社を作ろう。AIベンチャーだ。そこでAIの開発を行う。そして準備が整った所で、無脳症の赤ちゃんを手に入れて繋げる」

「へ~、ベンチャー企業作るんだ! すごぉい!」

 美奈ちゃんは、目を輝かせてこちらを見る。

 

「社長は言い出しっぺの俺でいいかな? クリスと美奈ちゃんは取締役。どう?」

「わーい、やるやる!」

 美奈ちゃんは、フォークでフォアグラを持ち上げたまま、ニコニコして言う。

 俺は美奈ちゃんのお行儀悪の悪さを、ビシッと指先で指摘する。

 すると、美奈ちゃんは舌をペロッと出し、パクっといって、またふるふる揺れた。

 

「…。いいんじゃないか? 社長」

 クリスは俺たちの様子を見て、微笑みながらそう言った。

 

「ありがとう。では役員3人でスタートだ。最初の仕事は資本金を集める事だな」

「…。お金か……。幾ら位集めるんだ?」

「囲碁のAIを作るのにかかった、コンピューターの費用が60億円と聞いたので、少なくとも100億円は必要……なんだよね」

「100億円!? そんな天文学的なお金どうすんの!?」

 美奈ちゃんが目を丸くして、こちらを見る。

 

「美奈取締役! 俺たちのやろうとしてるのは、人類の未来を託す事業だぞ、100億円位でビビッてどうするんだ?」

「でも100億円なんて、想像した事もないよ……」

 

 一般の人にとって、100億円とは一生縁のない規模の金額だ。もちろん俺もない。

 

「確かに100億円って、1万円札にしたら、1トンくらいの重さになるからなぁ」

「1トンの1万円札!? すごぉい!」

 美奈ちゃんの大きなリアクションに、俺も楽しくなってくる。

 

「…。誠よ、お金の当てはあるのか?」

「100億円となるとすぐには……」

 一介のサラリーマンに100億の当てなんてある訳がない。

 

「クリスが株価操作して、パーッと集めちゃえば?」

 美奈ちゃんは楽しそうに言う。

 

「…。技術的にはできるが、株価操縦は犯罪。100億儲けたら確実に金融庁や裏社会からマークされる。やるのか?」

 クリスは渋い顔をして答える。

 

「いや、悪目立ちはマズい。正攻法で何とか集めよう。どこかの大きな企業と組めないかな……」

 

「なら、修一郎よ!」

 美奈ちゃんが、ワインをクルクルさせながら言う。

 

「シュウちゃんの会社に、出させればいいわ! あそこ幾らでもお金あるし」

 

 それを聞いたクリスは、ちょっと考えると美奈ちゃんに言った。

「…。なるほど、相談してみよう。修一郎君に電話してもらえるかな?」

「オッケー!」

 美奈ちゃんは、スマホを取り出して発信した。

 

「シュウちゃん? こんばんわ~。……。そうそう、フォアグラが美味しいの! でね、今すぐ銀座来て欲しいの! え? 忙しい? え~? あ、ちょっと待って、クリスに代わるね!」

 

「…。修一郎君、素敵なディナーをありがとう。……。そう、それは大丈夫です。で、ちょっと相談をさせて欲しくて。いや、大丈夫、いい話です。忙しい? その左手に持ってるのは何? いや、なんとなくですが。それでお父さんも一緒にお話しを。そう、お父さんは銀座にいるみたいだから、ぜひ一緒に。うん、そう、分かりました、では一時間後に」

 

 詳細は聞かないが、クリスを相手にすると言うのは、大変な事だよな。

 

 

         ◇

 

 

 デザートと珈琲を堪能し、外へ出た。

 

 (あで)やかな街灯が煌めく銀座の街を、みんなで歩く。

 

 夜になって少し冷え込んできた。もう夏も終わりだ。

 

 薄手のネイビーのアウターを取り出し、ちょっと寒そうにしている美奈ちゃんにかけてあげた。

 

「あら、誠さん、いいの? ありがとう!」

 美奈ちゃんは嬉しそうにこちらを見る。その瞳は街灯を映し、キラキラと輝いて見えた。

 

「取締役の健康管理も、社長の仕事です」

 そう言って(うやうや)しく胸に手を当てて、執事の真似をする。

 

「本当に…… 私が取締役でいいの?」

 ちょっと申し訳なさそうに、上目遣いで言う。

 

「この3人は、なんだか凄い良いチームだと思うんだよね。美奈ちゃんにしかできない事、沢山あると思う」

 俺は本心からそう伝えた。

 

「ふ~ん、ただの女子大生なんだけどなっ!」

 そう言うと、美奈ちゃんは軽くピョンと飛んで、笑顔で俺を見る。

 

 クリスを説得できたのも、美奈ちゃんのおかげだし、美奈ちゃんは俺にとってはまさに女神。

 銀座の街灯を反射して、チラチラと輝くピアスを目で追いながら、俺はこれから始まる大冒険に、胸が高鳴っていた。

 

 

            ◇

 

 

 地球から遠く離れた星の一室で、誰かがつぶやいた――――

 

「あら、クリスが人と関わるなんて、珍しいわね……」

 透き通った白い肌に、ヘーゼル色の瞳の美しい女性は、珈琲を(すす)りながら、空中に浮かぶ映像に見入っていた。

 

「ふぅん……賭けに出たわね……。失敗したらこの地球、消されちゃうわよ、いいのかしら?」

 

 女性は首を傾げ、眉間(みけん)にしわを寄せた。

 

「彼に……できるかしら?」

 

 彼女は椅子を回して立ち上がり……窓へと歩いて手をあてた。

 

「お気に召してくれると……いいんだけど……」

 

 窓の外には、巨大な(あお)い惑星が眼下に広がり、その紺碧(こんぺき)の水平線から、天の川が立ち上がっている。

 彼女はひときわ明るく輝く星を、チラッと眺めて目を瞑り、手を組んで祈った。

 

 誠とクリスたちの出会いは、地球を巡る運命を大きく変え始めた。

 もちろん、そんなことを、誠は知る由もないのだが……。

 

 



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1-8. シンギュラリティの誘惑

 煌びやかな銀座の街を抜け、細い裏路地に小さなお洒落な看板を見つけた。どうやらここらしい。

 

 恐る恐る、重厚なドアを開けて入ってみると――――

 

 そこは昭和の雰囲気の香る、オーセンティックなバーだった。

 

 暗い店内におしゃれなダウンライト、カウンターの木目が照らされている。

 

 ずらりと並んだシングルモルト・ウィスキーの棚を背にして、黒いカマーベストに蝶ネクタイ姿のバーテンダーが、こちらをちらっと見た。

 

「こんばんは~、田中で予約してると思うんですが……」

 

「いらっしゃいませ、奥のテーブルへどうぞ」

 少し抑制された高い声で案内された。

 

「修一郎はいつもこんな所で飲んでるのか……」

「私も初めてだわ……」

 俺たちはずっしりとした木製の椅子に座った。その年代物の椅子の木肌はすべすべと気持ちよく手になじみ、ピッタリと身体のラインにフィットして、包み込まれるような心地よさがあった。

『あぁ、これが銀座なのだ』

 俺は椅子の座り心地に文化を感じ、思わず目を瞑った。

 

「何に致しましょう?」

 バーテンダーが、おしぼりを持ってきて尋ねた。

 

「俺はラフロイグをロックで、チェイサーもお願い」

 

「何それ?」

 美奈ちゃんが突っ込む。

 

「くさ~いウイスキーだよ。美奈ちゃんには向かないな。美奈ちゃんはカクテル頼むといいよ」

 俺がそう言うと、美奈ちゃんは、

「むぅっ…… 私も同じのをお願い!」

 俺をキッと睨みながらそう言って、プイッとそっぽを向いた。

 この娘は一体何と戦っているのか?

 

「…。私も同じものを……」

 クリスはそんな事は気にもせず淡々とオーダーする。

 

「ではラフロイグをロックで3つですね」

 バーテンはメモりながら、カウンターへ戻って行った。

 

「で、シュウちゃん親子を呼んでどうするの?」

 美奈ちゃんがクリスに尋ねる。

 

「…。修一郎君をAIベンチャーの役員に迎えるから、出資してくれってお願いしてみようかと。誠、いいだろ?」

「もちろん。出資を受けたら役員の受け入れは避けられない。修一郎ならいいと思う」

「…。では、その線で行こう。それから、私がAIの振りをして、スマホのチャットでメッセージをやり取りするので、設定して欲しいんだが」

 

 神様がAIの振り? 何を狙っているのか……。

 俺はサブのスマホをカバンから取り出して言った。

 

「じゃ、このスマホのアカウントを使ってみよう。名前は何にしようか?」

 

「…。名前?」

 

「AIを騙るアカウント名だよ。これから実際に作るAIの名前にもなるから、人類の子孫的な名前がいいな……」

 

「え~、面白そう! そうね、ハッピーとかぁ……ラッキーとかぁ……」

 美奈ちゃんは首をかしげながら、楽しそうにショボい候補を挙げる。

 

「……。いや、ちょっと、美奈取締役、あなた名付け向いてないわ」

 俺がそう言うと、美奈ちゃんは()ねて頬を膨らませた。

 

「…。地球人は『アーシアン』だから……シアン?」

 クリスが呟いた。

 

「シアン……なるほど……水色という意味もあるし、いいね!」

 俺がそう言うと、

 

「シアンちゃんか、まぁ……悪くは……ないかもね」

 美奈ちゃんは、不機嫌に言う。

 

「じゃ、シアンで進めよう」

 こうして人類の未来を託す者には水色の名前が与えられた。水の惑星・地球の守護者にはイメージカラー水色の名前が良く似合う。

 

 ただ、後になって考えたら「シアン」とは青酸カリ(シアノイド)、つまり猛毒という意味もあったのだった。もっとよく考えればよかった……。

 

 

「ラフロイグ、ロックでございます」

 バーテンが慣れた手つきで、テーブルにグラスを並べていく。

 

 軽く乾杯をして、一口、口に運ぶ……

 

 ガツンと来るアルコールに、鼻に抜けていく強烈なピート臭、実に臭い。だが、それがいい。この臭いを体に入れると、溜まっている疲れが少しずつ逃げ出していってくれるような気がする。もはや薬なのかもしれない。

 

「ふぅぅ~」

 

 余韻に浸っていると……

 

「うへぇ、ナニコレ……」

 隣で、ちょっぴり舌を出した美奈ちゃんが、酷い顔をしている。

 

「だから美奈ちゃんには、無理だって言ったのに」

 俺は勝ち誇ったようにそう言った。

 

「これのどこが美味しいのよ!?」

 美奈ちゃんは俺を睨んで言う。

 

「お子様には分からないのです、姫様」

「も~!」

 美奈ちゃんがフグみたいに膨らんだ。

 

 

 Jingle(カラン)

 

 開いたドアの方を見ると、修一郎だ。白いシャツに紺のジャケットを羽織っている。

 

 俺は手をあげて呼ぶ。

 

「はい、来ましたよ!」

 ちょっと投げやりな感じで、ぶっきらぼうに言う。

 

「まぁ座りなよ、いい話だよ」

 

 修一郎は椅子にドカッと座ると、カウンターの方を向いて言った。

「マスター、いつもの!」

 

 すっかり行きつけらしい。若いうちから贅沢三昧なのはどうかと思うが。

 

「で、いい話というのは何ですか!」

 修一郎はトゲトゲとした冷たさを込めて言う。

 

 そういう修一郎からは、微かにマリファナの臭いがする。やはり吸ってたなこいつ。役員にするなら止めさせないと……。

 

「…。AIベンチャーを起業する事になりました。修一郎君にも役員になって欲しいのですが、いかがですか?」

 クリスが微笑みながら言う。

 

「え、AI? 人工知能って事? 俺文系だからAIなんて分からないよ!」

 突然の話に、修一郎も面食らっているようだ。

 

 俺からも言う。

「技術的な事は俺がやるから、修一郎はCFOやってくれ」

 

「CFO? CFOって何だっけ?」

「Chief Financial Officerの略で、最高財務責任者、つまり金集め担当役員だよ」

 俺はニッコリと丁寧に言う。

 

「なんだよ、やっぱり金か……」

 修一郎はうつむいて、首を振る。

 

「いやいや、これは修一郎君にしかできない、崇高な仕事だよ」

 俺は彼の肩をパンパンと叩いた。

 

 ムッとしながら修一郎は

「で、何? パパに『お金を出してくれ』って頼むの?」

「そうそう、良く分かってるじゃん」

 

 修一郎は少し思案して言った。

「幾ら?」

「100億円」

 俺が微笑みながらそう言うと、修一郎はガタッと、椅子の上でコケる仕草をする。

 

「あなたたちさぁ、そんな金、パパにだって出せる訳ないじゃん! 何考えてんの!?」

 修一郎は呆れるを通り越してキレ気味に言う。

 

 そんな修一郎にクリスは諭すように応える。

「…。大丈夫、田中修司さんはちゃんと出してくれます。それも、結果的に大儲けする事になります」

 

「俺は知らないよ! あなた達で勝手に口説いてくれよ!」

 修一郎は、腕を組んでそっぽを向きながら言う。

 

「シュウちゃん! そういう言い方良くないわよ。あなたのためにもなる話なんだから、ちゃんと真面目に考えてよ!」

 美奈ちゃんが身を乗り出して、修一郎を諫める。

 

「いやいや、AIだの100億だの、いきなり言われても……」

 修一郎は美奈ちゃんに怒られて、気おされ気味にそう答えた。

 

 当たり前ではあるが、いきなりいろんな事を言われて修一郎は腰が引けてしまっている。丁寧にちゃんと口説かないと話が進みそうにない。

 

「モスコミュールでございます」

 バーテンダーが(うやうや)しく、グラスを修一郎の前に置いた。

 ジャズの静かな調べが部屋を満たしている。

 

「修一郎君、この会社はね、人類の歴史に残る凄い会社になるんだよ。その役員になるというのは修一郎君の人生にとっても、凄いプラスになるはずだよ」

 俺は、修一郎の目を見ながらゆっくりと話す。

 

「歴史に残るって……、どういう事?」

 修一郎は怪訝(けげん)そうな表情をして言う。

 

「この会社はね、世界初のシンギュラリティを実現する会社になるんだ」

「シンギュラリティ!? 人間を超えたAIを作るって事?」

 目を真ん丸に見開いて驚く修一郎。

 

「おー、良く知ってるじゃないか。その通り! 我々が人類の未来を、大きく変えていくんだ」

 俺がそう言うと、修一郎はモスコミュールを無言で飲み、目を瞑って首をかしげた。

 そして、警戒しながら、

「本当にそんな事ができるなら、そりゃ凄いけど…… 世界中の天才達が実現できてない事を、なんでできるの?」と、言った。

 

「君は昨日、クリスの聖なる力を見たんじゃないのか? あんな事できるのは、世界広しと言えどもクリスしか居ないだろ」

「ま、まぁそうだけど……」

 

「修一郎君は、安心してパパを口説いてくれればいい。俺達がシンギュラリティを実現するから」

 

 修一郎は腕を組んで考えているが、あまり乗り気ではないようだ。

 ここは賭けに出るしかない。

 

「じゃ、こうしよう! 勝負して、我々が勝ったらCFOになってくれ、負けたら、修一郎君の言う事なんでも聞いてやる。勝負の内容も、修一郎君が決めていい。どうだ?」

「え? 何でも聞いてくれるの?」

 色めき立つ修一郎。

 

「もちろん、我々が叶えられる物だけだけどな」

 

 修一郎は、チラッと美奈ちゃんの方を見て言う。

「じゃぁ、美奈ちゃんに彼女になってもらう、というのでもいいの?」

 

 美奈ちゃんはニヤッと笑って言う。

「あら? 私と付き合いたいの?」

「そ、そりゃ、難攻不落の姫は、サークルのみんなの憧れの的ですから……」

「ふぅん……いいわよ。クリスに勝てたらね」

 そう言って斜に構え、修一郎を見つめた。

 

「いやいや、そう言うのはダメだって! そんな人身御供(ひとみごくう)に出すようなこと、認められないよ!」

 俺は焦って言う。

 

「あら、誠さん、クリスが負けるとでも思ってるの?」

「い、いや……負けないと思う……けど……」

 

「ならいいじゃない。その代わり、クリスが勝ったら、ちゃんと仲間になってよね!」

 美奈ちゃんは、ビシッと修一郎を指さして言う。

 

 修一郎はニヤッと笑うと、

「オッケー! じゃ、決まりな! 勝負は……そうだな……ポーカーでいいか?」

 そう聞いてくる。

 

「ポーカー……トランプの? いいんじゃない? ねぇクリス?」

「…。私は何でも……」

「よし! やるぞ! ウッシッシ……」

 異常に勝つ気満々の修一郎は、トランプをカバンから取り出すと、さっそく配り始めた。

 昨日お灸を据えられたばかりなのに、なぜそんなに勝てる気でいるのだろうか?

 

「じゃ、始めよう、僕からでいいね?」

 修一郎は手札を覗き、一枚交換し、(いや)な笑みを浮かべた。

 クリスも一枚交換し、修一郎をジロっと見る。

 

「クリス! たのんだわよ、私の貞操を守って!」

 美奈ちゃんは、緊張した面持ちで握りこぶしを揺らす。

 

 さらに二回ずつ交換し、修一郎は言った。

「さぁ、どうだ! 勝負する?」

 ニヤニヤしながらクリスを見る。

 凄くいい手ができたらしい、ポーカーフェイスって言葉を知ってるのか聞いてみたい。

 

「…。いいだろう」

 穏やかな表情で勝負を受けるクリス。

 

 相当いい手の修一郎からの勝負を、あっさりと受けてしまったが大丈夫なのだろうか?

 俺は手のひらに嫌な汗が湧いてくるのを感じていた。

 

「じゃぁ、決まりな! これで高い役の方が勝ちだぞ!」

 そう言うと修一郎は

「ストレートフラッシュ!」

 そう叫びながらカードをパシッとテーブルにたたきつけた。

 

「え――――!?」「え――――!?」

 俺も美奈ちゃんも叫んでしまった。

 嫌な予感は的中、万事休すだ。俺は思わず天を仰ぐ。

 

 勝利を確信した修一郎は満面の笑みを浮かべている。

 

 しかし、クリスはそんな我々を気にもせず、静かにカードをテーブルに並べた。

「…。ロイヤルストレートフラッシュ……」

 

「キャ――――!」

 一転、美奈ちゃんは狂喜乱舞である。

 嬉しそうにピョンピョン辺りをはねまわった。

 

 真っ青になる修一郎。

「そ、そんな馬鹿な……エースなんて持ってなかったじゃ……」

 と、言いかけて口をつぐんだ。

「え? 今、なんて言った?」

 俺が突っ込むと、

「な、何でもない……。僕の負けでいい……」

 急いでカードを集め始める修一郎。

 

 俺はすかさずカードを何枚か奪うと、しがみついてくる修一郎をブロックしながら、じっとカードを見た。

 

「あれ? このカード、全部裏の模様が違う! イカサマだ!!」

 なんと、修一郎は手品用の仕掛けトランプを、使っていたのだ。おおかた、女の子に『すごーい!』と言わせる小ネタ用に、持ち歩いていたのだろう。

 

「え――――!? 何? 修一郎はイカサマで、私の貞操を狙ってたって事!?」

 跳び回っていた美奈ちゃんは一転、激怒した。

 修一郎をポカポカ殴り始めるのを、俺は身体を張って制止する。

 

「落ち着いて、落ち着いて!」

「ちょっと、離しなさいよ!」

 そう言いながら、おしぼりを修一郎に投げつける。

 

 修一郎は下を向いて動かない。自分でもヤバい自覚があるのだろう。

 

 クリスは持ってるカードを、ピッと弾き飛ばす。

 

 Clink(キン)

 

 スペードのエースが、修一郎のモスコミュールのグラスに刺さった。 

 修一郎が、青ざめて恐る恐るクリスの顔を見る。

 

「…。修一郎君……、イカサマは重罪だよ」

「す、す、す、すみませんでした……」

 

 クリスは修一郎をジッと睨む。怯える修一郎。

 

「…。昨日は嘘をつき、今日はイカサマをする。お前の魂は穢れている」

 そう言うと、クリスがまたカードを飛ばした。

 

 スペードのジャックが修一郎の額に、

 

 Thwack(ピシッ)

 

 と、張り付き、修一郎は椅子の背にもたれて、ぐったりとした。

 

 そして、修一郎は白目をむきながら、ビクンビクンと痙攣を始めた。

 

「クリス…… これは……?」

 あまりにも異様な光景に、俺は聞いた。

 

「…。修一郎君の魂は今、『虚無』にいる」

「虚無?」

「…。光も物質も何にもない、真っ暗な恐ろしい空間……寂しくて辛くて発狂してしまう恐ろしい所……」

 

 ビクンビクンとしながら、泡を吐く修一郎を見て、美奈ちゃんは、

「いい気味だわ!」

 と、ほくそ笑んだ。

 

 しばらくして痙攣が小刻みになった所で、クリスはパチンと指を鳴らした。

 

 気がついて目を開ける修一郎――――

 

「うぁおぉぁぁぁ……」

 訳の分からない声を出しながら、ガタガタ震えている。

 

 落ち着いた頃、クリスが言った。

「…。嘘もイカサマも、自分の魂を穢す愚行だ。やめた方がいい」

 

 修一郎は怯えたように、素早くうなずいた。

 クリスはそれを見ると、ゆっくり何度かうなずき、

 

「…。私たちの計画に協力してくれるね?」

 微笑みながら、そう聞いた。

 

「うぁおおぁ…… は、は、はい! この修一郎、命に代えても、パパを説得して見せます!」

「シュウちゃん、失敗したら許さないわよ!」

 美奈ちゃんはそう言って、またおしぼりを投げつけた。

 

「まぁまぁ、修一郎君も反省したようだし、これからは大切な仲間だ。仲良くやろうじゃないか! イカサマは水に流して…… カンパーイ!」

 俺は、グラスを掲げた。

 

「カンパーイ!」「…。乾杯」

 修一郎も、カードの刺さったモスコミュールを、力なく持ち上げて乾杯をした。

 

 これでまずは第一関門突破だ。

 後は親父さんを口説くだけである。しかし……100億円は途方もない大金だ。うまくいくだろうか……。

 

 美奈ちゃんはラフロイグを舐めて、また渋い顔をしている。美味さが分かるには、少し若すぎるようだ。俺はちょっと得意げに笑った。

 

 

         ◇

 

 

 地球から遠く離れた星にも動きがあった――――

 

「殿下、お目覚めですか?」

 陽射しをたっぷり浴びた宮殿のベッドの上で、眠そうに眼をこする若い男に、執事が声をかける。

 

「ふぅ……、何があった?」

「VとNが動き出しました」

「ん? 祭り(・・)か?」

「その可能性があります」

 

 王子はガバッと起き上がると、窓辺まで歩き、空を見上げた。

 そこには太陽が燦燦(さんさん)と輝いていたが、なぜか揺らめいており、心持ち青っぽい。

 

 彼は眩しそうに目を細め、そして、広大な庭園の植木に視線を落とし、咲き乱れる花々を眺めながら言った。

 

「現状のレポートをくれ」

「こちらに……」

 そう言って、執事は空中にいくつかの3D映像を展開した。

 

 そこには、おしぼりを投げる美奈と、慌てる修一郎たちの姿が映っている。

 

 王子は思わず笑って聞いた。

「一体、彼女は何をやっているんだい?」

「さて……私には想像もつきません……」

 

 王子は美奈をジッと見つめて言った。

「凄いチャーミングだね」

「私には……そのようには見えませんが……」

 執事はちょっと困惑したように答える。

 

「いいよ、俺が行こう」

「えっ? 殿下自らですか?」

「俺も何らかの成果を、出さないとならんだろ?」

「ははっ、その様な事もあろうかと分身体(インスタンス)はすでに配備済みです」

 

 彼は執事の方を見てニヤッと笑った。

「手回しがいいな、全リソースを当該星系に集約させろ! 些細な違和感も見逃すな!」

 

「心得ております」

 執事はそう言って胸に手を当て、お辞儀をした。

 

 王子は窓辺のテーブルに座り、湯気の立ち昇る珈琲を口にする。

 

『久々の祭り(・・)だ、きっとお見えになるだろう。今度こそは俺の手で何らかの成果を……』 

 彼は眉間にしわを寄せ、遥かな星、地球に思いを馳せた。



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1-9. 100億円の攻防

 創業時の資本金はどうするか、どんなオフィスがいいか、会社を作る上で決めなくてはならないことは、たくさんある。

 

 ああだ、こうだと議論していると、徐々に修一郎もノリノリになってきた。

 

 Jingle(カラン)

 

 修一郎の親父さんが現れた。

 ネイビーのスリーピーススーツに、太いストライプのネクタイをして、昭和のビジネスマンと言う感じのいで立ちだ。

 

「あ、パパ、ここだよ!」

 修一郎が呼ぶ。

 

 親父さんは、怪訝そうに我々を見回すと、軽く会釈をして席に着いた。

 

「パパ、紹介するよ、彼らはAIベンチャーの人達。僕も今度この会社のCFOになる事になったんだ」

「え? シュウちゃんがCFO!?」

 親父さんはひどく驚いた感じで、修一郎を見つめた。

 

「そうそう、この会社は、なんとシンギュラリティを実現する、世界初の会社になるんだ。これはビッグビジネスになるよ!」

 修一郎、いいぞ、その調子だ。

 

 親父さんは困惑した表情で、我々を見回した。

 

「初めまして、修一郎の父です。息子が何やら、お世話になっているようで……」

「いえいえ、お世話になっているのはこちらの方です。私は社長の神崎誠です。我々はAIを使って人類の未来を変えていこうという、野心的なベンチャーです。ぜひ、御社とも連携して、Win-Winの形を築ければと思っています」

「うーん、まぁ本当にWin-Winになれるなら、それは歓迎だが、うちは貿易の会社なんでAIと言われても……」

 

 まぁ、正論だ。しかし、人類の未来がかかっているのだ、全力で口説かないと。

 

「お父さん、今、御社は貿易業なので、時価総額は1000億円程度にとどまっています。でも、AIの企業になったら、時価総額は1兆円を超えますよ? とんでもないメリットではないですか?」

「1兆円!? ま、確かに昨今のAIブームで、AIと名前が付けば、何でも株価は勝手に上がっていく。でも……うちはしっかりと実業で伸びてきた会社、下手にAIの看板を掲げたら実業が続かないよ。そんな山師みたいな事は出来んよ」

 親父さんはそう言って手を振り、顔をそむける。

 

「おっしゃる通りです。下手な看板を掲げたら、それこそ笑い物です。でも大丈夫です、お父さん。AI部門で利益を出せる会社になれば、誰も文句言わないですよ」

「うーん、そりゃ本当に、利益がバンバン出ればそうだけど、そんな事できるの?」

 親父さんは眉をひそめ、疑わしそうな目で俺を見る。

 

 俺はクリスをちらっと見ると、クリスはスマホを持って、お手洗いへ移動していった。

 

「それでは、うちのプロトタイプを見てもらいましょう」

 俺はスマホを出すと、チャットアプリを立ち上げた。

 

「今、プロトタイプのAIがサーバーで動いています。何かAIに聞いてみたい事はありますか?」

 俺はにこやかに、はきはきとした声で聞く。

 

「え? 何でもいいの?」

「森羅万象、何でもOKですよ!」

「じゃぁ、うちのカミさんの旧姓は? あ、マスター、いつもの奴!」

 親父さんは振り返ってバーテンに注文する。

 

「聞いてみましょう」

 俺はスマホに質問を打ち込む。するとすぐに返事が返ってきた。

 

 『Makoto:田中修司の妻の旧姓は何ですか』

 『Cyan:浜崎です』

 

 スマホを覗き込んでいた親父さんの顔色が変わる。

「個人情報が漏れてやがる……。じゃ、うちの会社で、一番悪い奴は誰か聞いてくれ」

 俺は言われるままに質問を打ち込むと、予想外の返事が返ってきた。

 

 『Makoto:太陽興産で一番悪い人は誰ですか』

 『Cyan:宮崎隼人です。3億円横領しています。』

 

 親父さんの顔に怒気が浮かぶ。

 

「え? あの宮崎が横領? そんなバカな! いい加減な事言うんじゃないよ! 彼がどれだけ我が社に貢献したか分かってるのか! 証拠出してみろ証拠! これは名誉棄損だぞ!」

 

 ヤバい、本気で怒っている……。クリス、ストレートすぎないか……。

 俺は冷や汗をかきながら言う。

「た、確かに証拠は要りますね、聞いてみます」

 

 『Makoto:横領の証拠を教えてください』

 『Cyan:匯鼎騰邦(フイディン)集団の李董事長から、発注の見返りにリベートを毎月1000万円、奥さんの口座で受け取っています。口座を調べればわかります。』

 

 それを見ると、親父さんは固まってしまった。

 どうやら心当たりがあるようだ。

匯鼎騰邦(フイディン)の李さんなら知ってる……。確かに担当は宮崎だが……」

 

 親父さんは眉間にしわを寄せながら、携帯で電話をかけた。

 

「ワシだ、夜分遅くにすまない。お前、匯鼎騰邦(フイディン)の李さんから、金貰ってるって本当か?」

 何とストレートな追及! さすが社長! でも、これは修羅場の予感がする。

 

 皆、固唾を飲んで見守っている。

 

「おい!!!! そんな言い訳、通ると思ってんのか! お前、それ犯罪だぞ! 俺の信頼を裏切りやがって!」

 

『やっぱり……』

 店内に響き渡る罵声。いたたまれない。

 

「なんでそんな事やったんだ! うん……。うん……。おまえさ~……いや、もういい……明日、しっかり話を聞かせてもらう」

 

 親父さんは頭を抱え込んで、動かなくなってしまった。

 ちょっと、これはやり過ぎてしまったかもしれない。

 

 たまらず修一郎が声をかける。

「パパ、大丈夫……?」

 

 親父さんはゆっくりと体を起こすと、椅子の背もたれに、ぐったりともたれかかり、力なくぐらりと少し横に傾いた。そして、何かに魂を奪われたようなうつろな目で宙を見る。

 

 俺はかける言葉も見つからず、気まずい時間が流れた。

 

 すると、バーテンダーがトレーを片手にやってくる。

 

「失礼いたします。マッカラン、ロックでございます」

 そう言いながら、バーテンダーがグラスを置いたが……、憔悴しきった親父さんの様子を見て言った。

 

「お水、お持ちしましょうか?」

 

 親父さんはゆっくりと身体を起こすと、

 

「……。 あ、いや、大丈夫」

 そう言いながら、マッカランを一気に飲み干した。

 

 そして、グラスをそのままバーテンダーに返して言った。

「今度はストレートをダブルでくれ」

「かしこまりました」

 

 親父さんは焦点の合わない目で、

 

「俺は宮崎の不正を見抜けなかった。でも、おたくのAIは一瞬で見抜いた。凄いというのは良く分かった……」

 

「恐れ入ります」

 クリスがさり気なく、トイレから帰ってきた。

 

 親父さんは、ポーチから電子タバコを出すと、スイッチを入れた。

 そして、ゆっくりと煙を吸い、しばらく何かを考えていた。

 

 つかみはバッチリなはず。さてここからが正念場だ。

 

 親父さんは俺をギロリと見て言った。

「で、うちに何を期待してるの?」

「我々には資金力が無いので、出資をお願いしたい」

「幾ら?」

「100億円です」

 俺がニッコリと笑いながら言うと、親父さんは目を皿のように大きく見開き、

 

 ハッハッハー!

 

 そう、快活に笑った。

 

「100億円! 大きく出たね!」

 親父さんは、なぜだかすごく嬉しそうに言う。

 

「御社の10%の規模の出資です。御社側からの取締役として、修一郎君が就任します」

 俺は淡々と説明する。

 

 親父さんは美味そうに大きく煙を吸うと、俺の目を真っすぐに見た。

 

「それで、なんぼ儲かるんや?」

 なぜここで関西弁?

 

「3年後、単月黒字を実現し、5年後の売り上げは1000億円、利益率は80%です」

 俺は思いつきの数字を適当に言う。顔は笑顔をキープしているが、内心ひやひやである。

 

 親父さんは煙を吸いながら、斜め上を見る。

 

「まぁ、さっきの一瞬だけで3億の価値があった訳だから、そんくらい行ってもおかしくはないな……。とは言え100億はなぁ……」

 もう一押しである。

 

「実は他社ともお話しは有るんです。でも我々としては、修一郎君と一緒にやりたいので、是非御社にお願いしたいと考えています」

 俺は適当な嘘をつく。エンジニアとしては嘘は慣れないが、嘘も方便である。ここは覚悟を決め、笑顔で嘘をつく。

 

 親父さんは、こちらをジロっとにらむと、

「うーん、まぁうち以外にも、興味持つ所はあるだろうね……。シュウちゃん、お前どうなんだ?」

 そう言って修一郎の方を向く。

 

 美奈ちゃんと、何やらごそごそやり取りしていた修一郎は、いきなり呼ばれて背筋を伸ばす。

 

「僕? あ、えーと、この人達、なんか凄いんだよ。あり得ない事やるんだ。そういう人達とチームを組めるのは凄いチャンスかなって」

 まぁ、神様とチーム組めるチャンスなんて、普通は無い。

 

 親父さんは、また美味そうに大きく煙を吸い、俺をジーッと見つめた。

 

「神崎君と言ったね? もしかして、親戚に静江(しずえ)さんという人は、いないかね?」

 急に母さんの名前を出され、俺は動揺した。

 

「え……? し、静江は私の母ですが……母が何か……?」

「え!? 静江さんの息子さん!? 道理で……面影あるよ。お母様はお元気かね?」

 

 俺は思わず目を瞑り……。大きく息を吐き、言った。

「母は……、母は失踪してしまい、今は音信不通です……」

「えっ!? そ、そうなの? ……、失踪……うーん……」

 

 親父さんは酷く驚くと目を瞑り、大きく煙を吸った。

 重い沈黙の時間が流れる……。

 

 電子タバコをしまい、親父さんは懐かしがりながら、ゆっくりと言った。

 

「30年ほど前になるかな。静江さんは……うちの会社の初期メンバーだったんだ。明るくて……、素敵な女性だった……」

 俺を捨てた母さん、忘れようと思っていた母さんの歴史が、まさかこんなところで明らかになろうとは……。生まれる前の母さんの話を、どう受け取ったらいいのか分からず、俺はただうなずいていた。

 

 おもむろに、親父さんは膝をポンと叩いた。

「分かった、出そう! これも縁だ。ただし、100億円なんて金、すぐに用意なんてできないから、10分割、それで51%。それからおたくのAIで、うちの事業伸ばす事。これでどうかね?」

 

 条件は結構厳しい。様子を見ながら金を小出しにして、最後は過半数を取って実質子会社化、ダメそうなら途中で切るつもりだろう……。

 とは言え何の実績もない所に、いきなり10億円突っ込んでくれるのだから、これ以上を望むのは贅沢すぎるかもしれない。

 

「クリス、美奈ちゃん、どうかな?」

 

 Cough(ゴホッゴホッ)

 

 いきなりふられた美奈ちゃんが、咳き込んでいる。

 

 クリスは涼しい声で答える。

「…。社長に任せます」

「わ、私も誠さんに任せるわ」

 

「わかりました! それではその条件でお願いします!」

 俺は右手を伸ばして、にこやかにいった。

 

「儲けさせてくれよ! シュウちゃんを頼んだよ!」

 親父さんと固く固く握手をした。

 

 2300年前、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは言った『説得にはロゴス(理屈)、パトス(熱意)、エトス(信頼)が要る』と。今回、ロゴスはクリスが、パトスは俺が出したが、エトスを出してくれたのは母さんだった。

 

 23年間音信不通の母さん……。

 俺を捨て、でも決定的な所で助けてくれた母さん……。

 

『ママ……』

 俺は胸がキュッと締め付けられるような思いがして、思わず目を瞑って下を向いた。

 母さんに大きな借りができてしまった。これはどう返したらいい……。

 

 ふと、クリスの方を向くと、クリスは微笑んでうなずいた。そうか、クリスは知っていて俺を親父さんと交渉させたのだ。全て神様の手のひらの上だったのか……。

 

「参りました」

 俺は、小さくそう言って、クリスに頭を下げた。

 

 こうして、『深層守護者計画』は100億円を手にした。クリスと会ってから、ここまでたった1日半。人生は動き始めたら、ジェットコースターの様に動き始める。しっかりと掴まってないと、振り落とされてしまいそうだ。

 

 

         ◇

 

 

 その後、誠たちが歓談していると、修一郎が余計な事を言った。

 美奈が怒って、またおしぼりを投げようとした瞬間……

 

 いきなり時間が止まった――――

 

 ただでさえ暗めのバーの店内が、さらに暗くなり、全ての人はマネキンのように動きを止め、一切の音がやんだ。

 おしぼりは美奈の手から、今、まさに放たれようとしてしな(・・)り、修一郎は急いで後ろを向いて、髪の毛が宙を舞い、俺は間に入ろうと中腰で手を伸ばす。

 その躍動的なシーンは、まるで前衛芸術の蝋人形のように、ピタッと止まっていた。

 

 クリスは、一瞬顔をしかめて言った。

「…。センター、応答願います……、障害発生」

 

 クリスは店を出て、軽く飛び上がると、一気に街灯の上にまで達し、周りを見回す。

 銀座の街にも闇が立ちこめており、煌びやかだったネオンサインも、今は鈍い光を放つばかりだった。

 クリスは、一通り観察し終わると、まるでスピードスケートの選手のように空中を軽く蹴りながら高速に滑空し、大通りに出た。そして、ピタリと止まっている走行中のロールスロイス・ファントムの豪奢な車体を見つけると、その横に降り立ち、軽く『カン、カン、カン』とボディを叩いた。

 

 静まり返る銀座の街に、叩く音がこだまする。

 

 大通りを走る車は全て、今はピタリと止まっており、東京の街はまさに凍り付いてしまっている。

 クリスはしゃがみ込むと、高速走行中で(たわ)んでいるタイヤをじっくりと観察しながら、ぶつぶつとレポートする。

「…。解像度、異常なし。ノイズ、検出無し。データ欠損、観測されず……」

 

 そして、フワッと飛び上がると、一気に上昇する。

 どんどんと小さくなる銀座、そして東京、最後には眼下に広大な関東平野が広がっていく。

「…。東京の街全体が止まっている。空間整合性、問題なし……。システム側の問題ではなさそうだ。また上位レイヤーからの干渉かな? はい……はい、了解。スクリーニング終了後、呼んでください」

 そう言って、クリスは地球から忽然(こつぜん)と消えた――――

 

 音を失い、闇に沈む東京、それは、先ほどまでの喧騒が嘘のように、凍り付いたサイバースペース。この不気味な都市には今、1000万人の人が微動だにせず止まっている。

 そして……、それに気づく者は誰もいない……

 



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1-10. 死者は辛いよ

 時間の流れはいつの間にか戻り、おしぼりは修一郎に命中した――――

 

 

 俺は美奈ちゃんをなだめ、その場を取り繕う。

 

 修一郎は話題をそらそうと、冷や汗を浮かべながら言った、

「か、乾杯しようよ、乾杯! 折角なんで、昨日のワインがいいな、ある?」

 美奈ちゃんは憤然とした表情ではあったが、ワインの乾杯には惹かれている様子だった。

 確かにあのワインは乾杯に合う。

 

「クリス、どうかな?」

「…。え?」

 考え事をしていたクリスはそう言って、ちょっと疲れた表情で俺を見る。

 

「ワインだよワイン、昨日のワイン出せるかな?」

 俺は酔った勢いで、図々しく催促する。

「…。ワイン? あ、そうだね……、それでは水をくれるかな?」

「マスター! ワイングラス5つと、ガス抜きの水を1本ください。それとワイン1本持ち込みいいですか?」

 

 グラスを拭いていたバーテンダーが、こちらを向いて軽く会釈する。

「かしこまりました」

 

 ワイングラスが並べられ、俺はミネラルウォーターの瓶をクリスに見せる。

 クリスは頷いて、ニッコリと笑った。

 

 俺が試しに注いでみると……それはルビー色のワインになっていた。

 

 親父さんは驚いて

 

「あれ? それ、今頼んだ水……だよね?」

 

「細かい事は良いじゃないですか、乾杯しましょう!」

 

 俺は次々とグラスに注ぎ、乾杯の音頭を取る。

 

「両社の繁栄を祈念してカンパーイ!」

「カンパーイ!」「カンパーイ!」「カンパーイ!」「…。乾杯」

 

 親父さんは、キツネにつままれたような顔で、一口飲んだ。

 

 しばらく口に含むと、大きく目を見開き、

「お、おぉぉぉ……」

 感嘆の声を漏らした。

 

「な、なんだこれは……。鳥肌が立ったよ」

 

「イスラエルのワインです。お口に合いましたか?」

「最高じゃないか。いや、こんなの初めてだよ! マスター! マスターも一口飲んでみて!」

 

 バーテンダーが、グラスを拭く手を休め、ワイングラスを手にやってくる。

 

「マスター、ちょっとこいつは凄いよ!」

「それではお言葉に甘えて……」

 

 そう言って一口含んだ――――

 

 バーテンダーは大きく目を見開いた、と思ったら上を向いて目を瞑り、直立不動で動かなくなった。

 

 あれ? 何かまずかったかな、と思っていたら、マスターの頬を涙が一筋伝った。

 

 親父さんは、

「マスター、座って座って」

 そう言って、涙をこぼすバーテンダーを、隣に座らせた。

 

「分かるよ、弘子(ひろこ)さんの事だろ、彼女、ワインが好きだったからなぁ……」

 バーテンダーは下を向いて、嗚咽(おえつ)しながら泣き出してしまった。

 

 親父さんは、バーテンダーの背中をさすりながら言った。

「いや、マスターの奥さんがね、先日急に亡くなってしまったんだ。一緒にこの店を切り盛りしていた、素敵な人だったんだが……」

 

 バーテンダーは一通り泣くと、ハンカチで涙をぬぐった。

 

「お見苦しい所をお見せしてしまって、すみません。弘子(ひろこ)はワインが好きで、二人で凄いワインを探す遊びをやっていたんです。こんな凄いワイン、弘子に飲ませたら……凄い……喜んだ……だろうな……」

 肩を揺らすバーテンダー……。俺たちはかける言葉も思いつかず、息が詰まる時間が流れた。

 

 すると、ハンカチで顔を覆うバーテンダーに、クリスが優しい声で語りかける。

「…。マスター、弘子さんの魂から、あなたに伝えたい事があるそうです。聞いてみますか?」

 

 いきなりの提案に、バーテンダーが仰天して食いついてくる。

「え? ど、どういう事ですか? そんな事できるんですか?」

 

 クリスはにっこりとほほ笑みながら頷いて、言った。

 

「…。美奈ちゃん、ちょっと来て、弘子さんの言葉を伝えてあげてくれるかな?」

 

 美奈ちゃんはいきなり呼ばれて、ビクッとしていたが、

「え? 私でできる事なら……」

 そう言って席を移動した。

 

 クリスは、美奈ちゃんをマスターの前に座らせて、手を握った。

 

 美奈ちゃんは目を瞑ると、徐々にうなだれてきて……

 そして急に背筋をピンと張った。

 

 美奈ちゃんは大きく目を見開くと、バーテンダーをじーっと見つめ、口を開いた。

「たっちゃん、久しぶり……。私よ…… わかる?」

 

 バーテンダーは驚いて、しばらく動かなくなった。

 話しているのは美奈ちゃんだが、明らかに語調が違う。イタコみたいに弘子さんが憑依(ひょうい)しているようだ。

 

「そんな驚かないで……。私よ私……ごめんね、たっちゃん残して突然先に逝っちゃって」

「弘ちゃん……なのか? 本当に?」

 

 彼女はちょっと思案するそぶりをして、いたずらっ子の微笑みで言った。

「二人だけの秘密、言おうか? 3年前……あなたが浮気した時、どういう条件で仲直りしたか……とか……」

「いやいや、そういうの止めて! 信じた、信じたから!」

 バーテンダーの額に冷や汗が浮かぶ。

 

「私いきなり死んじゃったでしょ? だから大切な事、伝えられなかった……。私ね……本当に幸せだったの。もちろん、仕事はきついしあんまり儲からないし、不満が無かったと言えば、嘘になっちゃうけど……、それでも、あなたと過ごせた10年間、本当に……幸せだったわ……」

 

 心のこもった言葉に、聞いている俺達も、つい涙ぐんでしまう。

 

「弘ちゃん……」

 

「だから、もう……私の事で思い悩まなくていいのよ。もっと伸び伸びと、たっちゃんらしく沢山笑って暮らして」

「でも、弘ちゃんがいなくなって、全てが色褪せてしまったんだ……」

 バーテンダーはしょげながら、そう言った。

 

 彼女は少し首を傾げた。ピアスが、さっきまでとは違う輝きで光る――――

 

「大丈夫、徐々に慣れるわ。宮原さんの所のさやかちゃん、いるでしょ? あの娘、あなたの事気に入ってるみたいだわ。あの娘なら……あなたの事託してもいいかなぁ……」

「そんな事言わないでよ! 弘ちゃん」

 つい大きな声を出してしまうバーテンダー。

 

「だって仕方ないじゃない! 私はもう、この世に居ないんだから……」

「弘ちゃん……」

 

 弘子さんとしても、断腸の思いではあるだろう。死者は辛いな。

 どこからともなく、サンダルウッドやパチュリのような、東洋っぽいフローラルな香りが、微かに漂ってくる。

 

 その香りに触発されたように、バーテンダーは一つ大きく息を吸った。

 そして、覚悟を決めた様子で、クリスに言った。

「私を、弘子の所へ、連れて行ってくれませんか?」

 

 俺達に戦慄が走る。これは自殺したいって事……だろう。大変な事になった……

 

 クリスは、じっとバーテンダーを見つめ、そして、ゆっくりと諭すように言った。

「…。それはできません」

 

 バーテンダーは食いついてくる。

「俺も死ねば、弘子の所へ行けるんですよね?」

 

 クリスは一呼吸おいて、バーテンダーをしっかりと見つめて言った。

「…。今、死んでも会えません」

 

「なんでだよ! 弘子を呼べるなら、俺も弘子の所へ連れて行ってくれよぉ!」

 バーテンダーは涙を流しながら、訴える。

 

「…。弘子さんが、それを望まれていないので、無理なのです」

 

 バーテンダーは彼女を睨んで言う。

「なんだよ! 弘ちゃん、俺は邪魔なのか!?」

 

 静かに聞いていた彼女は、目に涙を貯めながら、

「たっちゃん……。私のために死ぬとか、馬鹿な事言わないで」

「なんでだよぉ! 俺はこんな暮らし、もう嫌なんだよ!」

 バーテンダーは突っ伏してしまった――――

 

 その様子を愛おしそうに眺めた後、彼女はなだめるように言った。

「ふふふ、困った人ね……。私はね、生き生きと生きる、たっちゃんが好きなの……。自殺するようなたっちゃんは……嫌いだわ」

「もう嫌なんだよぉぉ!」

 

 バーテンダーの魂の叫びが、部屋にこだまする。

 

 彼女は、大きく息を整えると言った。

「……。わかったわ……。しょうがない人ね……。たっちゃんが寿命を迎える時、私が迎えてあげる。だから……、それまでは精いっぱい生きるのよ。心に正直に、のびのびと生きて。ずっと……見てるから」

「弘ちゃん……うわぁぁぁ!」

 しばらく嗚咽する声が部屋に響いていた。

 

 そして、バーテンダーは、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて言った。

「分かったよ…… 絶対待っててくれよ! 俺、それまで精いっぱい生きるから……」

 そう言って、また嗚咽した。

 

「そろそろ行かないと……。たっちゃんの事、見守ってるね……」

 そう言って、美奈ちゃんはがっくりとうなだれた。

 

「弘ちゃん!!!」

 

 皆の沈黙の中、緩やかなジャズの旋律が、静かに流れている。

 

 クリスは、美奈ちゃんをゆっくりと引き起こすと、バーテンダーに優しく言った。

「…。弘子さんは素敵な方ですね」

 

「……そう、私には……もったいない女性でした……」

 

 クリスはゆっくりとほほ笑んで、うなずいた。

「弘子さんの冥福を、祈りましょう」

 

 そう言ってクリスは、手を組んで祈り始めた。

 俺も慌てて手を合わせた。

 

 俺もいつかは死ぬ。こうやって惜しまれるような、生き方をしたいものだが……そう生きられるだろうか……。

 

 弘子さんが元気だった頃のお店の様子を想像しながら、冥福を祈った。

 

 目を開けると、バーテンダーはまだ手をぎゅっと組んだまま、祈り続けていた。

 

 修一郎と親父さんは、そんなバーテンダーを、心配そうに見つめている。

 ビジネスの話をしていたのに、なぜかイタコ芸になってしまった。

 

 Cough(ゴホン)

 

 俺は軽く咳払いをして、

「そろそろ、我々は引き上げます。田中社長、来週、御社にお伺いして契約を詰めたいので、可能な日程を幾つか、修一郎君に伝えてもらえますか?」

「わ、わかった」

「では、失礼します……」

 俺たちはバーを後にした。

 

 裏路地から銀座の通りに出て、駅へ向かう。

 クラブの小さな看板が明るく並び、街路樹には少し抑制をきかせたイルミネーションが光っている。

 

 AIを開発しようとしていたら、死者を呼び出されていた。死者の魂とAIは全く対極にある存在だが……今の俺には、全く無関係にも思えなくなってきた。何がどう繋がっているのか、今はまだ言語化はできないのだが……。

 

 俺は思い切ってクリスに聞いてみた。

「死後の世界って何なの?」

 

 クリスを俺を見るとニヤッと笑って言った。

「…。それは死んでのお楽しみ」

 

 そう簡単には教えてくれないようだ。そこで、質問を変えてみる。

「生まれる前と死後の世界があるなら、この生きている間の世界は何なの?」

「…。ステージの上に立つという事だよ。人生はステージなんだ」

「ここはステージ?」

 俺は意外な返事に戸惑いを感じた。

 

「…。そう、この煌びやかな世界、街ゆく人たち、美しいステージじゃないか」

 そう言って、クリスは嬉しそうに手を広げて銀座の街並みを示した。

 

「死ぬと舞台裏に降ろされる?」

「…。そうだね、生まれる前に戻るんだ」

「人類が滅んじゃうと誰もステージ上からいなくなるって事?」

「…。いや、ステージは取り壊し……だな」

 そう言ってクリスは暗い顔をする。

 

「え!? 人類が居なくなったら地球も消滅するって事?」

「…。ノーコメント」

 そう言ってクリスはニヤッと笑った。

 

 俺はどういう事か困惑してしまった。この地球は人類のために用意されたステージ、そんな事あるのだろうか? ビッグバンは? 進化論は? 俺は、今まで学んできた科学の基本が根底から覆ってしまう恐怖に震えた。

 

 そもそも現代の科学では死後の世界なんて無い事になっている。しかし、さっき確かに弘子さんの魂は居たのだ。この矛盾はどう考えたらいい?

 ここで俺は、生きている事がどういう事か分からなくなった。生まれて、物心がついて、いろんな体験をして学んで、世の中の事を知ったつもりになっていたが、生きている事そのものが何なのか、分かっていなかったのだ。

 俺は今、生きている。心臓の鼓動を感じ、頬に風が当たり、煌びやかなネオンが視野一杯に映っている。頬に手を当てれば温かく、街の雑踏は心地よく耳に響く。しかし……一体これらは何か? と、聞かれたら答えられない。『感じました、考えました』でしかないのだ。

 クリスはステージだと言うが、ステージって何だろう? 観客はいるのか?

 

 俺は、頭がパンクしそうになった。

 

「なーに難しい顔してんの?」

 美奈ちゃんが俺の顔をのぞきこんで言った。

 

「あ、いや、生きてるって何だろうな……って」

 

「あはは、考え過ぎよ。ワクワク、ドキドキするのが生きてるって事よ!」

 美奈ちゃんは人差し指を立てながらそう言った。

 

「え?」

 俺は間抜けな顔をして聞き返す。

 すると美奈ちゃんはいたずらっ子っぽい笑みを浮かべ、いきなり俺の腕にしがみついてきた。

「こういう事よ!」

 俺の二の腕に美奈ちゃんの柔らかな胸がムニュっと当たり、ブルガリアンローズの香りに包まれ、俺の鼓動は一気に高まった。

「な、何!?」

 ドキドキして狼狽する俺を見て、美奈ちゃんはからかう様に言った。

「これが生きてるって事よ!」

 そう言って俺から離れ、ケラケラと笑った。

 

 『いや、そんな事じゃないんだ』と否定しようとしたが……、生きているかどうかは結局意識の問題であって、それは結局心の在り方の問題だから、実は美奈ちゃんの言う事は真実に近いのかもしれない……。

 

『これが生きてる事……?』

 俺は胸の柔らかさと香りの余韻の中、まだ高鳴っている心臓の音を聞きながら、しばらく呆然としていた。

 

 

         ◇

 

 

 みんなと別れ、八丁堀の自宅に戻ると、電気が点いていた。

 

 あれ……消し忘れ……な訳ないよな……。

 (いぶか)しく思っていると

 奥の部屋の方から甲高い声が聞こえた。

 

「誠君、こんばんは。ちょっと事情があって、こんな形で失礼するよ」

 

 侵入者がいる!?

 

 俺は、玄関に立てかけておいたビニール傘をそっと取り、両手に握りしめると、侵入者に言った。

 

「人の家に勝手に侵入して、どういう事ですか? 警察呼びますよ」

「まぁそんな怒らんでくれ、いい話じゃよ。誠君は、クリスの奇跡を自分でもやってみたいと思わんかね?」

 いきなり、とんでもない話を持ち掛けられた。

 

「ちょっと待ってください。私も奇跡を……使えるようになるんですか?」

「やってみたいじゃろ?」

「それは……そうですが……」

 侵入者が提案してくるオファーに、まともな物があるとは思えないが、奇跡は使ってみたい……

 

「ワシが誠君に奇跡の力を授けよう。ただ……クリスが邪魔するじゃろうから、クリスに睡眠薬を、飲ませてやってくれんかの?」

 

 なるほど、クリスに敵対する勢力という事なのか。面倒な事になってきた。

 

 俺は毅然とした態度で

「クリスを裏切ることはできませんので、お引き取りください」と、返した。

 

「ま、そうじゃろうな」

 侵入者がそう言った瞬間、雷が落ちたかの様に目の前が激しくフラッシュした。

 クラクラとした俺は、催眠術をかけられたように、急速に思考力を失っていった――――

 

 侵入者は、ゆっくりと部屋から出てくると、俺の手のひらに何かの粒を載せて言った。

 

「誠君は、クリスの飲み物を持った時、この粒を入れる」

 

 俺はなぜか復唱する

「クリスの飲み物を持った時、この粒を入れる」

 

 するとその粒は、俺の手の中にすぅっと溶け込んで消えていった。

 

「頼んだぞ!」

「頼まれました」

 

「一口でも飲ませられれば、クリスは即死じゃ。くふふ……、積年の恨み、思い知ってもらおう」

「クリスは即死だ」

 

「よし、10数えろ。数え終わったらワシの事は一切忘れる。いいな?」

「10数えたら忘れます。1……2……3……」

 

 そして、侵入者は窓を開け、

 

 カッカッカッカ!

 

 と、笑いながらベランダからダイブし、スカイツリーの青い光が煌めく夜景の中に消えていった……。

 

 光あれば影あり。

 

 俺はこうして『神殺しの呪い』を受けてしまった。

 



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2-1.ワタシ AIチョットデキル

 翌日の昼過ぎ、ファミレスに集まって作戦会議である。

 

「え~、それでは取締役会を始めます……。修一郎、スマホ止めろ! クビにすっぞ!」

「はいはい、社長! わかったよ!」

 学生気分で困る……と、思ったら、修一郎と美奈ちゃんは大学生だったのを思い出した。

 先が思いやられる。

 

 1時間くらい、ああだ、こうだとみんな好き勝手意見を言っていたが、最終的には何とかまとまった。

 

 社名: 株式会社Deep Child (ディープ・チャイルド)

 オフィス: 田町のデザイナーズメゾネットマンション

 最初の資本金: 1000万円

 発起人の出資割合: 誠:60%、美奈:20%、修一郎:20%

 役員報酬: 誠:70万、残り3人:50万円

 

 という形でAIベンチャーの設立が決まった。

 

 会社名は、ディープラーニングというAI技術を使って守護者を作るから、そのままディープな子供、Deep Childとした。

 

 登記は、知り合いの行政書士さんにお願いするので、来週の取締役会には印鑑証明と実印を持ってくる事、それまでに出資金を振り込む事、を決めて取締役会は終了した。

 

「う~ん、自分達の会社ができるなんて、ドキドキするねっ!」

 美奈ちゃんは、はしゃいでいる。

 

「もう引き返せないぞ。覚悟は決めてね」

 とは、言ったものの、俺も会社作るなんて初めてなので、内心は穏やかじゃない。クリスに見放されない限り、きっと大丈夫だとは思うのだが……。

 

「僕は将来、パパの会社継ぐから、違和感ないけどね!」

 修一郎は生意気である。

 

「…。誠よ、会社も準備出来て、金も用意できた。次はどうするんだ?」

 クリスが聞いてくる。

 

「いよいよAIの開発だね。5人くらいの、エンジニアチームを作ろうと思う。世界中から天才集めて、最高のチームにするんだ」

「…。天才たちのあてはあるのか?」

「う~ん、エンジニアネットワークで、昨日からいろいろ声をかけてはいるんだけど、まだ反応はないんだよね……」

「…。では私の方でも探すが、いいか?」

 クリスは微笑みながらそう言った。

 

「もちろん! クリスが探してくれるなら、間違いないね!」

「…。西海岸かな……」

 そう言いながら、クリスは目を瞑った。

 

 どうやら、最初から外国人を引っ張ってくるつもりのようだ……。

 AIの研究の中心地はアメリカ西海岸。優秀な人を採ろうと思ったらそこから採る以外ない。人類の未来を切り開く仕事なのだ、もう英語使うのは覚悟するしかない。

 

 

               ◇

 

 

「Hello, Nice to meet you!(こんにちは!)」

 PCの画面の中で、筋肉ムキムキな白人が右手を上げて微笑んでいる。よく見ると、アニメのTシャツを着ている。セーラームーンの青いキャラクター……のようだ。確か……セーラーマーキュリー?

 面接だというのにアニメTシャツとは、改めて西海岸の奔放さに圧倒される。

 

「な、 Nice to meet you……(こんにちは)」

 

 英語は久しぶりだ。冷や汗がたらりと流れる。

 

 彼はマーカス・エリソン(Marcus Ellison)、AI業界では誰もが知る大物だ。先日彼が叩き出したAI競技のスコアは、ダントツの1位で、業界の話題をさらっていた。そんな大物をクリスが口説いてくれて、面接に至ったのだ。

 

「ワタシ、ニホンゴチョットデキル!」

 マーカスはそう言って得意げにニカッと笑った。

 なんと、日本語が話せるらしい。

 

「それなら、日本語で話しても大丈夫ですね?」

「チョット トイウノハ a little デスネ! HAHAHA!」

 うーん、笑いのツボが分からない……。

 

 なるべく、ゆっくりと話してみる。

「当社に、ジョインしてくれるのは、間違いありませんか?」

 

「ダイジョブダイジョブ! ワタシ AIチョットデキル!」

 そう言って、マーカスはボディビルダーの様に、上腕二頭筋をグッと膨らませて、にっこりと笑った。

 

 うーん、本当に大丈夫なんだろうか……。

 

 冷や汗かきながら条件面など色々詰めて、彼の入社が決まった。条件は、フルフレックスで年俸は3000万、住居も会社持ち。彼のスキルを考えると、ずいぶん安い感じがする。多分、今の会社では1億円近く貰っているはずだ。

 

 また、彼の知り合いも、一緒に連れてきてくれるらしい。とても助かる。

 

 クリスの力は本当に偉大だ。

 

 

               ◇

 

 

 

 そう言えば、クリスの正体を探るために『ワインを友達に調べてもらう』と言っていた教授から、全然連絡が無い……。さすがに結果が出てる頃だと思うので、電話をかけてみた――――

 

「こんにちは、誠ですけど」

「あ、誠君? どうしたの?」

「そろそろ、ワインの分析結果が出たかなぁと思って、電話したんですが……」

「ワイン? 何のこと?」

「あれ? BBQの時に出た、神のワインがオカシイから『調べてみる』って言ってたじゃないですか」

「え? 神のワイン? 知らないよそんなの。ワインなんて飲んだっけ?」

 

 大変だ……、ワインの事がない事になってる……

 

 俺は顔面蒼白になり、固まってしまった……

 

「誠く~ん?」

「ご、ごめんなさい、勘違いでした。またBBQ誘ってください!」

 俺はそう言うのが精いっぱいだった。

 

「ん? あぁ、またね~!」

 俺は切れた電話を呆然と見ながら立ち尽くした。

 

 教授の記憶が消されてる……クリスがやったのだろう。

 俺が教授と一緒にクリスの正体を探ろうとしたことも、バレているに違いない。

 いつ、俺の記憶が消されてもおかしくないのか……。

 

 調子に乗って、会社作ってエンジニアまで呼んでしまったが、俺はまな板の上のコイなのだ。人類のために動いているうちは問題なくても、役立たずだと思われたら最後、俺も記憶を消されて放りだされてしまうに違いない。

 

 今はただ、ひたすらに人類に尽くすしかない……か……。

 

 最初からそのつもりではあるが、教授の記憶があっさりと消されているのを目の当たりにすると、さすがに内心穏やかではいられなかった。

 

 

           ◇

 

 

 田町駅から徒歩6分、住宅地エリアに立つ、デザイナーズ・メゾネット・マンション、ここが契約予定の株式会社Deep Childの本店所在地だ。

 

 玄関を開けると……ヒノキの爽やかな香りがする。

 洋室とクローゼットのドアを通り過ぎて廊下の突き当り、重厚な木製のドアを開けると……陽射しが降り注ぐ、吹き抜けの広大なリビングが広がっている。

 

「うわぁ、最高じゃないこれ!」

 美奈ちゃんは広々としたリビングで、両手を広げて上機嫌だ。

 

「ここが我々Deep Childの城ですよ、姫!」

 俺はにこやかに紹介する。

 

「素敵~!」

 美奈ちゃんはくるり、くるりと回りながら、広い室内を堪能している。

 

「あの上は何になるの?」

 階段を上がった、上の部屋を指す。

 

「あそこは仮眠室とか実験室だね。」

 メゾネットタイプだから、2フロアがくっついていて、リビングの階段で上のフロアに行けるのだ。

 

「ふぅん、なんか贅沢~! で、私の席はどこになるの?」

 ニコニコしながら、首をかしげて聞いてくる。

 

「今なら、どこでも好きに選べますよ、姫」

「う~ん、じゃぁこの窓際がいいな!」

 美奈ちゃんはスタタタと走り、窓際で両手を上げた。

 

「じゃぁそこね」

 タブレットの間取り管理ソフトに机と椅子を配置し、『姫』とタイプした。

 

「僕はどこ?」

 修一郎も嬉しそうに聞いてくる。

 

「お前はフリーアドレスだな。この辺にでかいテーブル置くから、来たら好きな所に座りなさい」

「えー、何? ちょっとそれ差別じゃない?」

「わかったよ、じゃ、ここ、トイレの前」

「えー!」

 不満顔の修一郎。

 

「仕方ないな、じゃぁマーカスの隣でいいよ。ちゃんと英語で仲良くしてよ」

「え、英語かぁ……」

「天下の応京大生が、英語でビビる訳ないよな?」

「も、もちろん……そうだけど……。あ、俺やっぱりトイレの前がいいな、良くトイレ行くし!」

 ビビってやがる。情けない。まぁ人の事は言えないが……。

 

「…。私はフリーアドレスでいい」

 クリスは控えめにそう言ったが、神様に席が無いというのはちょっとマズい。

 

「あー、クリスは俺の隣にお願い。すぐに相談できる所に居て欲しい」

「…。そうか? まあ社長に任せるよ」

「じゃぁ、俺とクリスはここね!」

 俺はタブレット上で机や椅子、パーティションを並べ、数を数えた。

 

 それからプリンタやネット機器、冷蔵庫に電子レンジ、必要そうなものを全部リストアップし、適当にネットで発注しておいた。

 1週間もすれば、オフィスとして稼働できるようになるだろう。

 

 俺はフローリングの床に大の字になって寝た。

 レースのスクリーン越しに、太陽がキラキラと光の粒子を放つ――――

 

 俺はここに、神様と天才と100億円を集めた。人類を救う守護者を生み、育てるために。

 

 放っておくと人類は衰退して消え去るしかないが、我々の子供はきっとそんな人類を救ってくれる。

 

 もちろん、AIの暴走リスクは常にあるが、俺達が心を込めて育てた子供なら、きっと温かく人類を支えてくれるだろう。

 それが僕らの戦略であり、深層守護者『シアン』に託す想いなのだ……。

 

 

       ◇

 

 

 

「誠さん! そんな所で寝てたら踏むわよ!」

 寝てる俺をゲシゲシと美奈ちゃんが蹴ってくる。

 

「うわ! 何すんだよ!」

 

 俺の感傷は一顧だにされず、蹴られて隅に追いやられる。社長とは一体……。

 

「いい? 見てて!」

 そう言って、ニコッと笑うと、美奈ちゃんはステップを踏み始めた。

 

 軽く跳んで、右に左にステップを繰り返し、腕をクロスから伸ばし、戻す。

 

 静かな部屋にトン、タタン、トン、タタン、という美奈ちゃんのステップ音が響く。

 

 そして、髪をぐるっと回すと、思い切り胸を反らし、指先は大きく弧を描く――――

 

 それはまるで空間を切り取る絵筆の様に、オフィスに聖なるアートの世界を形作った。

 

 トン、タタン、トン、タタン、

 

 軽快なステップで、足先はフローリングの床を打楽器の様に叩き、心地よいリズムがオフィス全体にこだまする。

 

 トトトン、トン、タタン、

 

 クリスは『人生はステージ』だと言う。なるほど、美奈ちゃんはこうやってステージ上で輝くのだ。

 

 美奈ちゃんはクルリ、クルリと回って、鳥が羽ばたくように両手を大きく開く……

 

 俺はその神聖なまでに美しい、指先の軌跡に心奪われた。

 

 トン、タタン、トン、タタン、

 

 陽射しの中で舞う美奈ちゃんは、影とデュエットするように光の粒子を身に纏いながら空間を支配した。

 

 タタタン、トン……、トン……、トン……

 

 最後、美奈ちゃんは、しゃがんで手を伸ばし、片手で顔を覆い……、静かに止まった。

 

 パチパチパチパチ

 俺たちは熱を込めた拍手で称える。

 

 まだ、舞いのリズムが、指先の表情が、余韻として心に響き、俺は頬が火照るのを感じていた。

 

 美奈ちゃんは息づかい荒く、水のペットボトルを取ると、ゴクゴクと飲んだ。

 

「美奈ちゃん、良かったよ」

 俺が声をかけると、

 

「新たに入居する時は、神様に貢物(みつぎもの)がいるのよ」

 と、さも当然のように話す。

 地鎮祭みたいな物なのだろうけど、ずいぶん古風な考え方だ。

 

「あ、じゃ、今の舞いは神様への奉納なんだ」

「まぁ、挨拶みたいなもんよ、祭りの始まり」

 そう言いながら美奈ちゃんはハンドタオルで汗を拭いた。

 

「もしかして、神様の事見えてるの?」

 俺がそう聞くと、美奈ちゃんは眉をひそめ

「……。見える訳ないじゃない。バカなの?」

 呆れた顔して罵倒した。

 

 バカ呼ばわりされてしまった……。

 

「あ、でも、見てる神様(・・)はいるわよ」

 そう言ってニヤッと笑うと、また水を飲んだ。

 

 確かに美奈ちゃんの舞いで、オフィスに何かのスイッチが入ったのが感じられる。それが何なのか分からないが、特別なステージとしての品格が備わった印象を受ける。美奈ちゃんの言葉通りなら観客は神様だが……それは確かめようもない。

 

 それにしても、オフィスを見に来ただけなのに、感動のステージに心奪われてしまった。かなり年下の女の子に圧倒され、俺はアイデンティティが揺らぐ思いがする。

 美奈ちゃんは当たり前の様に、人生というステージで美しく輝いている。では、俺はどうだろうか? 誰かに感動を届けたことなんて、一回でもあっただろうか? 俺は思い返すが……、仕事で、技術で、いろいろな人と会ってきたが、彼らに感動を届けられた手ごたえなど一度もない。

 

 俺は少し考え込んでしまった。必死には生きてきたが、地味でパッとしない人生だった。人生というステージに上りながら、このまま輝かないまま一生を終える……そんな生き方は嫌だ。

 

 俺は大きく深呼吸をし、さっきより明るく見えるオフィスを見回し、決意を新たにした。

 

『俺は輝くぞ!』

 

 そう、このオフィスで俺は輝いてやるのだ。

 美奈ちゃんの舞いは俺の魂に火をつけた。

 

 美奈ちゃんにより清められたオフィスで、Deep Childはいよいよスタートする。人類の命運を乗せて――――

 

 



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2-2. ビールジョッキ・ブレイカー

 アメリカからマーカスが来日する。

 

 成田空港の到着ゲートで旅行客の慌ただしい雑踏の中、俺はマーカスを待つ。

 

 全日空NH8便の表示が、Arrivalに変わって30分、セーラーマーキュリーのTシャツを着た、筋肉ムキムキのマーカスがゲートに現れた。

 

「Hi マーカス!」

 俺は手を上げて近寄ると、

 

「Oh! Makoto! Thank you!(誠、ありがとう!)」

 笑顔で応えてくれた。

 

 まずは固く握手をして長旅をねぎらった。

 

「Thank you for your long trip.(長旅お疲れ様でした)」

 

 マーカスは首を振ると

「アニメ ミテタカラ ダイジョブ!」

 強い。まぁ、ファーストクラスだったからなぁ……。俺も、ぜひ一度は乗ってみたいものだ。

 

 彼の部屋は、オフィスのマンションの別の階に借りてあるので、レンタカーのSUVで東京を目指す。

 陽射しが眩しい、のどかな昼下がり。インターチェンジで東関東自動車道に合流し、青空の下、軽快にアクセルを踏み込んだ。

 

 間が持ちそうにないので、FMラジオで洋楽にチューナーを合わせる。ポップなスタンダードナンバーが車内に響く。

 

「La la la la~♪ 」

 上機嫌に歌い始めるマーカス。

 

 知り合いも誰も居ない日本に、たった一人で飛び込んだばかりだと言うのに、緊張なんて微塵も感じさせない能天気な豪胆さに感じ入る。

 

 あまりに楽しそうに歌うので、つい俺もつられて歌い始めてしまった。

 

「Na na na na~♪ 」「Na na na na~♪ 」

 

 東京へ向かう高速の上で、カラオケ状態の僕ら。

 

「Huu~~♪」

 

 信じられない高音を出して、ゲラゲラ笑うマーカス。

 俺もつられて笑う。

 

 俺はそんな彼の笑い顔をちらっと見て、うまくやって行けそうな手ごたえを感じていた。

 

 ひとしきり歌うと、俺は聞いてみた。

 

「クリスに誘われたんですよね?」

「カミサマ ユメ デタ。 クリスニ シタガエ ト」

 うは、神のお告げで来たのかこの人。さすがクリス、何でもアリだな。

 

「我々はシンギュラリティを目指します。大丈夫ですか?」

「カミサマ タダシイ セイコウ カナラズ!」

 彼が本気になれば人類最強だ。夢がぐっと現実に近付いてきたのを感じる。

 

「具体的にはどうしましょう? GPUサーバーとかは?」

「GPU モウ フルイ! AIチップ ツカウネ」

「え? AIチップはまだ研究段階では?」

「ダイジョブ! Martin ヨウイ スル」

 

 なるほど、マーティン(Martin)という名の、彼の仲間が調達してくれる、という事だろう。

 AIチップを使えば、サーバーに大量のGPUを挿して、ブンブン回す必要もなくなる。実に理想的だ。

 

「マーティンもジョインしてくれるのかな?」

「ダイジョブ マーティン ニホン ダイスキ!」

 そう言ってニカっと笑った。

 

 日本大好きなのはありがたい。彼もアニメオタクなのだろうか? だとしたら次はセーラーマーズのTシャツを着て現れたりして。

 エンジニアチームで、セーラー戦士が揃ったらどうしよう。俺はそんなバカな想像しながら、まだ見ぬセーラー戦士たちを想った。

 

 

          ◇

 

 

 マンションの車寄せに着くと、みんながもう待っていた。

  

「Hi Marcus! Nice to meet you!(はじめまして!)」

 美奈ちゃんが流暢な英語でお出迎え。ネイティブかと思うような完璧な挨拶に、俺は驚かされる。

 

「Oh ミナ! ハジメマシテ!」

 笑顔で握手である。言葉の壁の心配はなさそうだ。

 

 それにしても、なぜ美奈ちゃんの名前を知っているのだろう? クリスが説明しておいてくれたのだろうか……。

 

 クリスが後ろでほほ笑んでいるのを見つけたマーカスは、急いでクリスの前にひざまずき、彼の手を取って、早口で何かを話しかける。どうも凄い緊張しているようだ。

 クリスは、ゆっくりと彼の耳元に顔を近づけると、小声で彼に何かを言った。

 マーカスは涙を流し、クリスの手をしっかりと握りしめた。

 

 俺は信者ではないから、友達みたいに馴れ馴れしく接してしまっているが、信者だったらこういう対応になってしまうだろう。それとも俺が馴れ馴れしくし過ぎだろうか? 神様に対する礼儀なんて、教わったことがないから何が正解か分からない。

 

 一方、修一郎はボーっと突っ立っていた。

 

 

         ◇

 

 

 歓迎会は近くの居酒屋で開いた。

 

「日本料理ですがいいですか?」

 恐る恐る聞いてみると、

 

「Wow! サシミ~! テンプゥラ!」

 と、好反応に一安心。

 

 囲炉裏を模した、大きなテーブルに腰掛けて、まずは、

「生中を5つ!」

 と、叫んだ。

 

「喜んで~! ご新規、生中5つ!」「喜んで~!」「喜んで~!」

 厨房からもいい声が響いてくる。いい店だ。

 

 俺はジョッキを受け取ると、一つずつみんなに配った。

 だが、最後、クリスにジョッキを渡す時に一瞬意識が飛んだ……

 

 俺は凄い違和感を感じた。何かの病気……だろうか?

 

 

       ◇

 

 

 この時、窓の外にこちらを(うかが)う怪しい影があった。誠に『神殺しの呪い』をかけた男だった。男は不思議な方法で気配を殺し、誠が毒を盛ったのをニヤニヤしながら見ていた。

 

 クリスは単独で行動している時は全く隙が無い。しかし、なぜか最近人間と関わり始めた。これは男にとって千載一遇のチャンスだった。

 

「積年の恨み、思い知れ……」

 男はそう言ってほくそ笑んだ。

 

 

      ◇

 

 

 俺がちょっと考え込んでいると、美奈ちゃんが言う。

「誠さん、乾杯よ、乾杯!」

 

 俺はハッとして見回すと、みんなが乾杯を待ちわびている。

 

「ごめんなさい、えー、それでは乾杯しましょう。Could you introduce yourself briefly? (自己紹介お願いします)」

 俺はマーカスに振る。

 

 マーカスはニコッと笑い、スクっと立つと、

「ワタシ、ニホンゴチョットデキル!」

 

 笑いがあがる

 

「ワタシ、AIチョットデキル!」

 いや、チョットってレベルじゃないだろ。世界一なのに。

 

「ワタシ、コノチーム デ God ノ コドモ ツクル!」

 やる気満々の気合を見せるマーカス。

 

 マーカスは立ち上がって、

「ヤルゾ―――――!!! カンパーイ!!」

 ジョッキを高く掲げ、叫ぶ。

 

 俺達も立ち上がって、ジョッキを合わせる、

「カンパーイ!!!」「カンパーイ!!!」「カンパーイ!!!」

 

 マーカスは筋肉バカである。盛り上がって手加減なしに、ボクシングのフックの様に、思いっきりジョッキを当ててくる

 

 Clash(ガシャーン)!!!

 

 Clink(カラン)! Clink(カラン)!――――

 

 ジョッキがいくつも砕け散って床に転がる……

 ビールかけみたいに、俺もマーカスもクリスも泡だらけである。

 何でこんな事になるのか……

 

「HA~! HAHAHA!」

 マーカスが腹を抱えて、楽しそうに笑う。

 

 あまりに楽しそうに笑うので、釣られてみんなも笑う。

 ハッハッハッ! ハーッハッハッ!

 

 美奈ちゃんも美貌台無しにして、ゲラゲラ笑ってる。

 みんなが爆笑するスタート、幸先がいいのかもしれない。

 

「お客様! 困ります!」

 店員さんが、モップとチリトリを手に怒っている。

 

 丁寧に謝り、生を3つ追加する。

「二度と止めてくださいよ! 生3丁!」「喜んで~!」「喜んで~!」

 

 次は気をつけよう……。

 

 

        ◇

 

 

 窓の外で様子を見ていた男が『チッ』と舌打ちし、消えた。

 

 マーカスがナチュラルに『神殺しの呪い』を粉砕したのだ。

 

 クリスは、逃げる男が発した微かな聞き覚えのあるノイズに気づき、

「…。ちょっと失礼」

 そう言うと、しばらく席を外した……。

 

 一度見つけてしまえば、クリスの方が圧倒的に優位だった。クリスは男を追跡すると無言で躊躇なく処分した。

 

「ぐぉぉぉ!」

 

 男は断末魔の叫びを上げながら、

 

「つ、次だ! 次こそお前の最期だ!」

 と、毒づいて、闇の中に飲み込まれていった。

 

 そして実際、しばらく後にこの男は最悪の事態を引き起こす。それはクリスですら予期できなかった……。

 

 

        ◇

 

 

 そんな事があったなど、俺は全く気が付かずに、店員を呼んだ。

 刺身の盛り合わせに季節の天ぷら、手羽先のから揚げに、シーザーサラダと出汁巻き玉子……次々と注文する。

 本当は馬刺しも食べたいのだが……マーカスには地雷かもしれないから我慢した。

 

 ジョッキ3杯くらい飲んで、だいぶ出来上がってきた。

 酔った勢いでマーカスに絡んでみる。

 

「 What do you think about using anencephaly ?(無脳症の子供を使う事は、どう思う? )」

 酔ってる方が英語が上手くなるのは、なぜなのだろう?

 

「Good! クリス ノ プラン タダシイ!」

「クリスの言う事なら、なんだってやるの?」

 酔った勢いで、意地悪な質問を投げてみる。

 

「モチロン! クリス ノ タメナラ シヌ!」

 そう言ってマーカスはニカっと笑った。

 

「WOW!」

 クリスの方を見ると、優しく微笑んでいる。

 

 グラス片手に美奈ちゃんが、小悪魔的な笑顔でやってくる。

 マーカスとグラスを合わせながら――――

 

「Watz up homeboi?(調子はどう?)」

 なんだかすごく色っぽい。こんな美奈ちゃんは初めて見た。

 飲み過ぎではないだろうか……。

 

「Smashing, thanks! Wazz up shawty?(最高! おねぇさんは? )」

 マーカスも上機嫌である。美奈ちゃんの美貌は外国人にもウケる様だ。

 美奈ちゃんはにっこり微笑むと、スプモーニの赤いグラスを一口飲み、上目遣いに聞く。

「Can you die for me?(私のためにも死ねる?)」

「Well obvi!(もちろん!)」

 そして見つめあって、もう一度グラスを合わせる。

 

 初対面なのに、なぜこんなにいい雰囲気になってしまうのか。俺は、いきなり蚊帳の外に追いやられた感じがした。

 

 修一郎を見ると、つまらなそうにスマホを弄ってる。

 

 俺は

「そういうとこやぞ!」

 と、八つ当たりをして修一郎を(いじ)った。

 

 

     ◇

 

 

 数えきれないほどビールをお替わりして、俺はみんなの歓談をボーっと聞いていた。

 美奈ちゃんは、マーカスと話し込み、アメリカンで派手なジェスチャーをして盛り上がっている。

 二人の仲良さそうな様子を見ながら、

『やっぱり美奈ちゃんも、世界一の男の方がいいんだろうか……』

 と、俺はついバカな事を考えてしまう。

 

 そりゃあ、うだつの上がらないAIエンジニアより、世界一の有名エンジニアの方がいいに決まってる。それに腕だけじゃない、トラウマを口実に愛から逃げてきた俺などハートの面でも負け負けだし、筋力でも勝負にならない……。

 

 俺は思わずぐっとジョッキを空けると

 

『おねぇさん、生おかわり!』

 と、叫んだ。

 

 人生、一歩踏み出すというのはこういう事なのだ。モブの森の中に埋もれていれば、ぬるま湯の中で気づかずに済んだことも、新たな世界に踏み出す事によって、化けの皮が剥がれてしまう。本当の弱く惨めな自分の姿と、対峙せねばならなくなるのだ。

 

 俺は、運ばれてきたジョッキをボーっと見つめながら、自分の至らなさについて静かに考えていた。仕事面で言えば、確かに俺は必死に生きてきた。でも、それは手を動かす事に逃げていただけではなかったか? 目の前の作業の忙しさを理由にして、本質的な挑戦から目を背けて来てしまったのではないか。

 本質から目を背け、他者のせいにして逃げてきた結果である今の自分……。そう、このダメな自分を、ごまかさずにちゃんと受け止める季節……なのかもしれない。

 

 賑やかな歓談の声が響く中、俺は居酒屋の硬い椅子の上で、ジョッキのガラスからプクプク湧き上がる泡を見つめながら静かに決意を固めた。

 

 今、ここで生まれ変わろう。そもそも社長なのだから、他者のせいになどもうできないのだ。失敗したらすべてその責任は俺にかかってくる。誰のせいにもできない。自分の頭で考え、決断し、行動し、そしてこの『深層守護者計画』というステージで輝くのだ。

 

 いくらマーカスが世界一だと言っても、一人でシアンを作れる訳じゃない。チームで力を合わせないと偉業など成し遂げられない。そう、マーカスを始め世界トップクラスの男たちをオーケストラの様に、俺が指揮者となって導くのだ。

 

 俺は生まれ変わり、神のチームを率いて人類の未来を紡ぐ。

 俺がみんなの力を引き出して、俺にしかできない、大いなる人類の一歩を踏み出すのだ!

 

 俺はスクッと立ち上がると、少しフラフラしながら、

「よしっ! ヤルゾ―――――!!!」

 と叫んだ。

 

 それを見たマーカスもスクっと立ちあがって、ジョッキを高々と掲げた。

「ヤルゾ―――――!!! カンパーイ!!!」

 

 マーカスとニッコリ笑い合い、俺は叫んだ、

「カンパーイ!!!」

 

 ジョッキをぶつける。

 

 Clash(ガシャーン)!!!

 Clink(カラン)! Clink(カラン)!――――

 

 ジョッキがまた砕け散った……

 

 あ…… またやっちゃった……

 

 店員さんの鋭い視線に、平謝りである。

 

 それでも、モヤモヤが吹っ切れた俺はすごくいい気分だった。

 

 深層守護者シアン、待ってろよ、

 俺たちは確実に一歩ずつ、君に近づいている――――

 

 



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2-3.思索の煌めき

 超高級ホテルの、広大なボールルームで、俺はフラッシュを浴びていた――――

 

 田中修司社長、俺、そしてマーカスが手を重ねて、沢山の記者のカメラの砲列の前で、無限にシャッターが切られている。株式会社Deep Childと太陽興産の、資本業務提携の記者会見を開いたのだ。

 AIの第一人者、マーカスが来日するだけでもニュースになるのに、そのマーカスの会社に、ただの貿易会社が100億円投資するというのだから、みんなビックリだ。

 

 記者から質問が飛ぶ

「田中社長、なぜ貿易会社がAIに投資するんですか?」

「君は馬鹿かね? 時代はAIだよ。どんな業界であれ、AIを制した物が勝利する時代に『貿易会社だからAI投資しない』なんて判断は無い。Deep Childさんの所のAIは凄い、このAIを使えば貿易事業も大きく飛躍できるし、AIそのものでも莫大な利益が考えられる。こんないい話やる以外ないだろう」

 親父さんがこう断言すると、記者も黙ってしまった。正論だからな。

 

 続いて俺に質問。

「神崎社長、マーカスという大物を、どうやって連れてこれたんですか?」

「彼は日本のアニメが大好きで、彼にとって日本は聖地らしいんですよね。聖地で仕事できるなら良い、と思ったんじゃないでしょうか? また、我々は潤沢な資金で、彼の活動を全面的にバックアップしますから、彼としては、言う事ないんじゃないでしょうか?」

 俺は無理に作った営業スマイルで、淡々と答える。

 

 マーカスにも質問が飛ぶ

「Why did you join Deep Child? (なぜDeep Childに? )」

「ワタシ、ニホンゴチョットデキル!」

「あ、それでは、Deep Childに入った理由を教えてください」

「Deep Childサイコウ! ニホン サイコウネ!」

 そう言ってニカっと笑い、腕を組んで筋肉を誇示した。

 

「……。ありがとうございました……」

 マーカスは、分かっててわざとはぐらかしてるようだ……。

 

 AIの第一人者、マーカスの会社に出資を決めたニュースは、マーケットでは好感され、株価はストップ高に達した。この日だけで100億円、時価総額は増えてしまったのだ。まさにWin-Winな関係である。

 俺の思い付きがどんどんと多くの人を巻き込んで、ついに天文学的な金が轟音を立てながら社会を回り始めた。

 しかし……、親父さんに見せたスマホでのプレゼンも、事業計画も、会社の目的も、全部嘘、正真正銘の詐欺なのだ。バレたら牢屋行き、下手したら損を被った投資家に刺されるだろう。それだけ危険な橋を今日、渡ってしまったのだ。

 だが、全て覚悟の上だ。人類を救うため、俺は全ての罪を背負ってやる。俺は、時おり心の底から湧き上がって喉元までやってくる漆黒の恐怖に必死に蓋をして、心のバランスを奪われぬよう我慢する。そして、キリキリと痛む胃をさすりながら笑顔を崩さず、何とか一日を乗り切ったのだった。

 

 

            ◇

 

 

 その翌日、AIチップのエンジニア、マーティンと、マーカスの友人二人、コリン(Colin)とデビッド(David)が日本にやってきた。これでついに神のチームは全員が揃う事となった。

 

 そして、今日はキックオフミーティング。

 いよいよ開発が始まる。

 

 俺は会議室に集まった皆の前に立ち、一人一人顔を見る。皆、ジッと俺の事を見つめている……。俺は大きく息を吸った。

 

 オフィスはシーンと静まり返り、バクバクと心臓の鼓動が聞こえてくる。いよいよ人生をかけた、人類の未来をかけたプロジェクトがスタートする。

 失敗は許されない。詐欺で集めた100億円に、人体実験。失敗は人生の破滅を意味するのだ。

 彼らには最後まで走り切ってもらわねばならない。それにはこの挨拶が肝になる。

 

 俺は大きく息を吸うと、最高の笑顔で大きな声を出した。

 

「Hey Guys! Thank you for your joining us! (来てくれてありがとう! )」

 

「Yeah!」「Yeah!」「Yeah!」

 

 俺の気合を感じてくれたのか、みんな随分テンションが高い。

 俺は調子に乗って、つたない英語で誠心誠意、夢を語った。

 

 すると、マーカスがスクっと立ちあがり、

「Hey guys! Let's pump it up!(ヤルゾ―――――!!! )」

「Yeah―――――!!!」「Yeah―――――!!!」「Yeah―――――!!!」

 全員総立ちである。

 

 さすがマーカス、頼りになる。能力ある人を集めただけでは成果は出ない。それぞれがやる気になって前向きになれる環境を、どう提供できるかがマネジメントの肝である。

 

 これなら、出だしは上出来だろう。

 

 続いて、具体的な進め方について、俺はホワイトボードに手書きで図を書きなぐりながら、ボディランゲージ交えて説明していった。

 

 AIの学習に、無脳症の赤ちゃんを使うといっても、いきなりは無理だ。まずは仮想現実空間を作り、その中でAIに単純なロボットを動かさせて、学習させる。

 それがうまく行ったら、次はAIマウスを作って学習。AIをマウスの身体に接続し、AIが自由にマウスの身体を動かし、現実世界を感じ、世界観を学習してもらう。

 それもうまく行ったら、最後に無脳症の赤ちゃんを使わせてもらう。

 

 結構道のりは遠い。

 

  

 また、AIの構成については図を元にみんなに説明し、センサーから得たデータを、ディープラーニングの組み合わせで、どうやって『理解』にまで導くのかを解説した。(※)

 

「Oh! マコトサン! Smashing!「事象認識」ガ Loopシテル ココ イイデス!」

 マーカスは、俺のプランを気に入ってくれて、他のメンバーにどこが良いのかを、情熱的に説明してくれた。

 

 ただ、問題点も次々と指摘されてしまう。やはり鉄腕アトムの様なAIは、そう簡単には作れないことが痛いほど良く分かる。

 

 最終的には、最初からパーフェクトな物は作れないので、一歩一歩やって解決して行こう、という事でまとまった。

 

 マーカスは各認識モジュールの開発、マーティンはAIチップを使った実装、コリンとデビッドは、仮想現実空間とロボットの実装を、担当する事になった。

 それぞれ相当に重い仕事であり、一般のエンジニアでは逃げ出したくなるレベルだ。だが、トップエンジニアの彼らにとっては、楽しい遊びみたいな物なのだろう、皆キラキラした瞳で、これからのプランを語ってくれた。

 俺の役割はチームマネジメントになって、研究開発の最前線からは離れてしまう。ちょっと寂しくはあるが、俺のチームが、俺の構想で人類救済を目指すのだから、文句などない。

 俺のチームで、世界中の人を笑顔にするのだ!

 頼むぞ、エンジニアチーム!

 

 

             ◇

 

 

 さて、まずはシステム環境整備、という事で、俺とマーティンはタクシーに乗って、品川のコンピューター設置施設(IDC)に行く。

 

 マーティンは、白い肌に赤い毛がもじゃっとした、スマートなイケメン。グレーのパーカーを羽織り、いかにもハッカーと言う風情だ。

 

 IDCに入ると……寒い。サーバーは熱に弱いので、冷房が常にガンガンにかかっているのだ。図書館の本棚の様に整列されて、ずらーっと並ぶサーバーラック群からは、ゴウンゴウンという、冷却ファンのノイズが流れ出してくる。

 

 ここにあるサーバーの一つ一つが、スマホアプリだったり、Webページだったりを世界に向けて発信している……つまりここは、インターネットの工場、ともいえる場所なのだ。今回はここに棚(ラック)を2本借りて、AIチップのサーバー群を設置する。

 

 AIチップは、従来の処理装置(GPU)の、10倍くらいの処理速度を誇っている。2ラックだけでも20ラック分のパワーがある、という訳だ。

 このパワーは、エンジニアにとっては垂涎(すいぜん)ものである。

 

 倉庫に届いていたサーバーの段ボールの山を、一つずつ開梱して、運んで、設置して、配線してを繰り返す。単調でしんどい力仕事だ。でも、大切な力仕事。俺はマーティンと一緒に心を込めて、かじかむ手で作業を繰り返した。

 結局午後いっぱいかかってしまった。

 

 最後に、マーティンがキーボードを叩いて動作確認に入った。

 

 カタ、カタカタカタ……ターン

 カタカタカタ、ターン

 

「Perfect!(完璧!)」

 マーティンはニヤッと笑うと、再度キーボードをターン!と叩く。

 

 すると、サーバーのLED群が一斉に緑色に明滅を始めた――――

 

 まるで命を込められたかのように、数億円の電子頭脳は今、輝きを放ち始めたのだ。

 

 キラキラッ、パッパッパッパ、パパッパパッ

 

 LEDはそれぞれのリズムでデジタルなシグナルを紡ぐ。

 そして、そのシグナル群が複雑に絡み合って高度な思索になっていく……

 この輝きの一つ一つが、深層守護者シアンの思索となり、人類を支える基礎になるのだ。

 

「Yeah!」「Yahoo!」

 俺たちはハイタッチをしてプロジェクトの開始を祝った。

 

 シアンが完成したら、ここは人類の聖地として崇められるだろう。人類初のシンギュラリティ実現の地として、品川の寒くてうるさいIDCが世界遺産となり、記念碑なんかも建てられてしまうかも……などと妄想も捗ってしまう。

 

 そう、俺たちがこの光の瞬きを紡ぎ、人類の歴史を作っていくのだ。

 俺たちはキラキラ明滅するLEDの緑の煌めきを、いつまでもウットリしながら見つめていた。

 

 

           ◇

 

 

 オフィスに戻ると、ピンと張った心地よい緊張感の中、皆真剣にキーボードを叩いている。

 いい雰囲気だ。

 

『頑張ってくれよ~』

 俺はついニヤッとしてしまう。

 

 今、俺ができるのは……環境整備……くらいかな?

 

 まずは、買ったばかりのオーディオセットで、スローなジャズを流す。歪みのない、すっきりとしたベースの低音に伸びのある高音のサックスが、部屋を満たす。

 気持ちいい、お洒落な空間の出来上がり。

 

 次は……珈琲かな?

 

 珈琲豆を冷凍庫から出してきて、ミルで丁寧に粗挽きをしてみる。ふわぁと少し焦げたような、珈琲の香りが立ち上る。

 

 おぉ……いいね……

 

 実は珈琲は、飲む時よりもこの瞬間の方が好きだ。この瞬間のために、珈琲を入れているようなものだ。脳髄を揺るがす官能的な香り……。これだから珈琲は止められない。

 

 香りに引き寄せられて、美奈ちゃんがやってくる。

 

「誠さん、珈琲入れるの? 美奈にもちょうだい!」

 ニコニコしながらせがんでくる。

 

「はいはい、ちょっと待っててね!」

 ミル挽く腕にも力が入る。

 

 すると、クリスが現れて、珈琲豆をつまんでポリポリ食べはじめた。

 

「えっ!? 珈琲豆って食べて大丈夫なの!?」

 俺が驚いていると、

 

「…。スマトラ島のマンデリンだね。いい豆だ」

 と、ニコニコしている。

 

 それを見てた美奈ちゃんも

 

「私も~!」

 と言って、珈琲豆を食べ始めた。

 

「え~!? ちょっと! 今入れるから待ってて!!」

 

 すると、マーカス達も集まってきて

 

「Oh! Japanese style!(日本式だ!)」

 と言って、次々と珈琲豆を食べ始めた。

 いかん! 日本文化が誤解されている!

 

「NO! NO! It's Chris style!(違う! クリス式だよ!)」

 

「オー! オイシイ ネー!」

 マーカスは、無駄に上腕二頭筋を膨らまして喜んでいる。

 マーティン達もみんな喜んで、次々と珈琲豆をつまんでいる。

 

「……、本当に美味いの?」

 

 俺も恐る恐る、豆を一粒つまんで食べてみた。

 

 ポリポリっと爽快な歯ざわりである。

 

「……あれ? ……美味い」

 

 上質なエスプレッソを飲んだ時の様な、濃厚な珈琲の旨味が、ガツンとダイレクトに入ってくる。悪くない……というか、こっちの方が正解の様に思える。

 

「なんだ、すごく美味いじゃないか!」

 

 調子に乗って、みんなで結構な量の珈琲豆を、食べてしまった。

 

 でも、なぜ、普通は珈琲豆を食べないのか、すぐに理由が分かった。珈琲豆の破片が、いつまでも口の中に残って気持ち悪いのだ。

 

「うぇぇ~」

 美奈ちゃんは渋い顔して、ちょっと舌を出してる。

 

 やっぱりこれからは普通に入れよう。

 

 

 

 

――――――――

 

※補足 (ストーリーには関係ない技術的補足です)

 

 今の人工知能は、ディープラーニングがメインだが、ディープラーニングはパターン認識しかできない。つまり、「似たような物」を探すのは凄い得意で、人間を凌駕しているが、逆に言うと似たような物を探す事しかできない。囲碁や将棋が強いのも、単に優位になった過去のパターンを、膨大に学習してるからなだけに過ぎない。

 

 例えば、サッカーのシュートシーンを見せた時に、ディープラーニングはこのシーンはサッカーのシーンとは判断してくれるものの、なぜFWがボールを蹴っているのか、なぜキーパーは止めようとしているのかは、全く認識できない。

 

 さすがにこれを『知能』とは呼べない。

 

 そこで、誠はディープラーニングのモジュールを複数組み合わせ、各モジュール内では『単に似たものを探す事』しかしていないにもかかわらず、全体では事象を理解できる様な情報処理システムを考案した。

 

 具体的には図1における「要素抽出」、「意図認識」、「シーン認識」、「事象認識」が似たものを探すディープラーニングモジュールになっている。ここではサッカーのシュートシーンの画像をそれぞれの要素に分解して過去の似たようなケースと比較して、例えば「サッカーボール」、「キーパー」、「FWの選手」、「ボールを蹴る選手」と言ったようなありとあらゆる切り取り方でシーンの要素を抽出する。

 

 抽出した要素は「シーン認識」モジュールで似たような要素で構成されるシーンを沢山洗い出してくる。例えば「サッカー」、「喧嘩」、「祭り」などである。

 さらに「意図認識」モジュールではシーンと要素の組み合わせを用いて過去のデータからどういう意図のアクションに似ているかを洗いだしてくる。

 これら複数の要素、シーン、意図がそれぞれ妥当なレベルにマッチするまで事象認識モジュールは何度も照合を続ける。

 その結果、最終的に一番妥当性が高い解、「サッカー」のシーンにおいて「キーパーがセーブしようとしている」、「FWの選手がシュートしている」

が選ばれる。

 これができれば広い意味で知能と呼んで構わないだろう。

 

 理解が終わったら次に行動である。図2に簡単な流れ図を書いた。行動には意欲が必要だ。つまり人間であれば情動であったり責務であったり何らかの世界に対する意欲が重要になる。誠のシステムでは理解内容が自分、および自分が所属するコミュニティにおいてどういう価値があるのかを評価し、その評価内容から可能性のある行動を全部洗いだす。

 続いてそれぞれの行動について、行った場合どういう影響があるのかを評価する。そして最終的にコストとリスクと嬉しさについて評価し、最終案を選択する。この例では「応援」する事を選択した。

 

 ただ、人間は常に学習しながら動いている。つまり推論しながらも同時に新たに学んでいる。だから学習プロセスを同時に動かす仕組みを別途組み込まないといけない。また、現実世界では常に新しいイベントがとめどなく発生している。だから時系列処理が必要になる。つまり、どこからどこまでの空間、時間を一つのシーンとするのか? それが時間的に前後や空間的に近隣のシーンとどれだけ関係しているのか? も評価対象にしなくてはならない。

 

 これらは簡単な問題ではないが、膨大なコンピューターパワーでいつかは実装できてしまう日がやってくる。そしてそれがシンギュラリティなのだ。

 

 

 



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2-4.蠢く初代シアン

「そう言えばシュウちゃんは?」

 美奈ちゃんは、リスみたいに珈琲のマグカップを両手で持って、聞いてくる。

 

「大学かな? 最近見ないなあいつ。slackには反応してるから、生きてるとは思うんだけど……」

 とは言え、彼に無脳症の赤ちゃんを使った実験を見せるのは、さすがに難しそうだ。

 彼は太陽興産とのパイプ役さえ、やってくれればいいので、オフィスに来ないのは好都合ではある。

 

「…。これ、太陽興産のレポート」

 クリスが手書きのメモをくれた。

 

 そこには達筆な字で、太陽興産が新規に扱うべき商材、やめるべき商材、新規に契約すべき会社、契約解除すべき会社、昇進させるべき社員、問題社員が丁寧に書かれてあった。

 

「ありがとう、清書して修一郎に渡すね」

 俺はニッコリと笑って感謝した。

 

 きっとこのメモ通りにやれば、売り上げも利益も一段上がるのだろう。まさに神のメモ。AIが完成するまでは、これを『AIの成果』と見せかけないとならないのが、やや鬱陶しいが、100億円には代えられない。

 

 

           ◇

 

 

「Hi Makoto! (誠さーん!)」

 

 オフィスの奥でコリンが呼んでいる。初代の仮想ロボット版シアンができたらしい。

 画面を見ると、3DCGの草原に、バボちゃんみたいなキャラクターが転がっている。ボールに目と口が付いて足と手が生えた、出来損ないみたいな奴だ。お世辞にもかわいいとは言えない。

 

 

「え~っ! かわい~!」

 一緒についてきた美奈ちゃんは、キラキラした笑顔で言い放つ。

 

「……。」

 女の子の感性は良く分からん。

 

 計画では、この仮想現実空間内のロボット版シアンを使って、AIに簡単な世界のルールを学習させる。

 

 コリンは自慢げに俺に言う

「I've already connected simple machine learning. Look.(すでに簡単なAIは入れました。見てて! )」

 

 そう言って、キーボードを操作すると、バボちゃんは手足をバタバタさせて、ズリズリ動き始めた。

 

「This guy's moving!(こいつ動くぞ!)」

 俺は思わず、叫んでしまった。

 

 3DCGではあるが、ヌメヌメと生き物のように動く様は、やはりちょっと気持ち悪い。

 

 美奈ちゃんが不思議そうに聞く、

「これは何やってるの?」

 

「いろんな行動を、学習させてるみたいだね。きっと立ち上がりたいんだろう。でも立ち上がるって、実はすごい複雑な制御が要るんだよ。立ち上がる事一つとっても、AIには試練なんだ」

 

「ふぅん、でも、立つだけだよね?」

 美奈ちゃんには、あまり理解されなかった。

 

 しばらく見てると、ズリズリやっていたAIが、何かの拍子で一瞬立ち上がった。

「あ、立った……あ、ダメかぁ……。頑張れ~!」

 美奈ちゃんは、画面をじーっと見ながら応援している。いい娘だ。

 

 AIは徐々にコツを掴んで、立ち上がる動作に、トライし始めるようになった。

 腕を振り回して、その反動の瞬間に足に力を入れると……立てそうなんだが、やはり絶妙なタイミングが必要で、失敗続きである。これは何度も試行錯誤して学習していくしかない。

 

 品川のIDCにある、数億円相当のAIチップ群が高熱発しながら今、必死にAIの壁を超えようとしている。

 実にロマン溢れるストーリーじゃないか。

 

 

           ◇

 

 

 翌朝出社すると、マーカスが笑顔で声をかけて来た。

 

「Hi Makoto. Take a look! (これ見て!)」

 

 画面では草原の中を、バボちゃんの様なロボット、初代シアンが走り回っている。

 一晩で立ち上がるどころか、走れるようになってる!

 とんでもない進歩である。

 

「WOW!」

 俺が大げさに喜んで見せると。

 

「チガウネ! モット ミテネ!」

 と、画面を指さす。

 

 シアンは急に走るのをやめ、忍び足になった。どういう事なのか見ていると……どうやら獲物を見つけたようだ。

 

 遠くに、リンゴに足が生えたような動物が、歩き回っている。

 

 獲物との距離を詰めると、シアンは一回止まった。そしてリンゴの動きを観察している。

 後ろで見ていた美奈ちゃんは、怪訝そうに言う。

「あれ? 止まっちゃった……」

 

 何をしてるのだろう、と思って見ていると……、次の瞬間、全力疾走してリンゴに飛びついた。リンゴは直前で逃げようとしたが、間に合わない。シアンはリンゴを両手でつかみ、リンゴはパンと弾けた。

 

「わぁ! やった~!」

 美奈ちゃんが声を上げる。

 

「シアン Apple タベタネ」

 マーカスが笑顔で言う。

 

 なるほど、潰すと食べた事にしてるのか。

 

「シアンニハ ナニモ オシエテ ナイネ」

「え? この動作は、全部シアンが勝手に自動で学習したの?」

「そう、シアン カシコイ」

「Incredible!!!(すげ~!)」

 

 いや、これは画期的な成果じゃないか?

 

 昨日、立てもしなかった原生生物が、今では知的なハンターになっている。なんだこの急速な進化は!

 

 マーカス達は、自慢げに胸を張っている。

 思わず、みんなとハイタッチしまくった。

 

「Yeah!」「Yeah!」「Yeah!」「Yeah!」

 

 『深層守護者計画』は今、確実に動き出した。失敗の許されない胃の痛くなるこのプロジェクトだが、出だしは予想以上の成果で飾られた。

 

『お前ら最高!』

 俺は急に胸がいっぱいになって、鼻の奥がツーンとしてきた。

 いきなりこんな極東の島国に呼ばれて、不慣れな社長の下で無理難題のテーマをお願いされて、それでも健気に凄い成果を叩き出してくれる……。

 

『ありがとう……』

 俺は潤んできた目をそっと拭った。

 

 そんな俺を見て、クリスは微笑みながらうなずいた。

 

 深層守護者シアンは、天才たちの手によって驚異的な速度で進化していく。

 

『お前と語り合える日も遠くないかもな』

 俺は走り回る不細工なロボットを見ながら、まだ見ぬ未来を想った。

 



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2-5.チュベローズの誘惑

 その晩、修一郎は一人で銀座の街をトボトボと歩いていた。上品な街灯の明かりの下、楽しそうな人たちの雑踏の中を、下を向きながらいつものバーを目指す。

 

 夕方に、偶然聞いてしまった陰口が頭から離れず、家に帰る気にならなかったのだ。

 

『あいつはボンボンだからな』

『あいつが上場企業の社長とか、ぜってー無理』

『太陽興産は2代目が潰すって事だよ』

『親不孝だよな~。ハハハハ!』

 

 思い出すだけで気分が滅入る……。

 

「貧乏人は僻んでろ! 僕だってちゃんとできる!」

 

 そうつぶやきながら、バーのドアを開けると……カウンターに女性が一人。珍しい……。白いワンピースにチャコールグレーのジャケット、ワインレッドの丸いベレー帽で、長い黒髪が綺麗な美人だった。

 

 ちらっとこちらを見たので、軽く会釈をして、彼女から一つ空けて隣に座った。

 

「マスター、いつもの!」

「かしこまりました」

 

 美人がすぐそばに居るだけで、陰口の事なんてどうでも良くなってくる。男って単純だ。

 

「マスター、こないだ、良かったね。弘子さんと話しできて」

 修一郎はおしぼりで手を拭きながら、明るい声で声をかける。

 

「本当ですよ、あんな事あるんですかね? でも、弘子に『幸せだった』って言ってもらえて本当に良かった」

「マスター顔色良くなったじゃん!」

「おかげ様で。はい、モスコミュール」

 

 彼女がマスターにおずおずと声をかける。

「あの~、何かあったんですか?」

 

 そして、修一郎の方をちらっと見てニッコリと笑った。

 修一郎は、彼女のゾクッとするほど(なまめ)かしい黒く透き通る瞳に魅了され、慌ててぎこちなく笑い返した。

 

 バーテンダーは

「この方のお友達が、イタコみたいな事やってくれてね……。死んだ妻と話ができたんです」

「死んだ人と話ですか!?」

「いや、ただの話術に騙されただけかもしれませんよ。でも、おかげで心はすっきりできたので、私は感謝しているんです」

 

「でも3年前の浮気って……」

 修一郎が突っ込むと、

 

「あ、いや、その話は止めましょう……」

 バーテンダーは両方の手のひらを修一郎に向け、恥ずかしそうにうつむいた。

 

「ふぅん、何だか面白い方達ですね」

 彼女はそう言って、爽やかに笑った。

 

 バーテンダーは

「この修一郎君は有名大学の学生で、かつAIベンチャーの役員なんですよ。すごいでしょ?」

 客同士をさりげなくマッチングさせるのも、バーテンダーの腕だ。

 

「え? すごぉい!」

 彼女は大きく目を見開いて、オーバーにアクションする。

 

「あはは、マスター嫌だなぁ、大したことないよ」

 修一郎は謙遜しながらも、満面の笑みで言った。

 

「そんなすごい人に出会えるなんて、今日はツイているわ。私は冴子って言います。この素敵な出会いに乾杯しましょ!」

 

 彼女は修一郎の隣の席に移り、白く細い指で長い黒髪をかき上げながら、グラスを差し出してきた。

 柔らかく透き通る白い肌に、濡れたような真っ赤な唇……、そして、フワッとチュベローズの香りが流れ、修一郎はドギマギしながら高鳴る心臓のままグラスを合わせた。

 

「カンパーイ!」「カ、カンパーイ!」

 

 修一郎はグイっと飲み干すと、ライムの爽やかな香りが鼻に抜け、今までにない美味しさに酔った。

 冴子はそんな修一郎を優しい微笑で温かく見つめる。

 

『今晩は素敵な夜になっちゃうかも!?』

 修一郎は冴子のまなざしにすっかり魅入られて、陰口の憂さもどこへやら、すっかり上機嫌になった。

 

「マスター! おかわり!」

 そう言って修一郎はグラスをマスターに突き出す。

 

「おいおい、絶好調だな」

 

「まあね、僕にも運気が回ってきたかも」

 修一郎はこみ上げてくる喜びを隠さず答えた。

 

「修一郎さんはどちらの大学ですか?」

 冴子が小首をかしげながら聞いてくる。

 

「応京です」

「わ~すごい! 名門ですね! 私は令和大学なんです。応京には憧れちゃいます!」

 冴子は両手を顔の前で合わせ、オーバーアクションで持ち上げる。

 

「憧れなんて……大したことないよ。へへへ」

 

 冴子はバーテンダーの方をちらっと見て、グラスを持ち上げると、修一郎に少し近づいて微笑みながら言った。

「やられてるAIベンチャーって、どういう会社なんですか?」

 

 修一郎はドギマギしながらグラスを軽く回し、ちょっと考えて言った。

「マーカスって言う、世界一のAIエンジニアがいるんだ。彼がまたすごくてね……」

「世界一!? すごぉぉい!! そんな会社の役員だなんて、修一郎さんってとてもすごんですね!」

 

 よいしょされまくって浮かれる修一郎は、頭をかきながら言った。

「あはは、冴子さんうまいなぁ。マスター、彼女にもおかわり! 今日は僕がおごっちゃうよ!」

 

『そう、僕はすごいんだ! 僕がいなかったらDeep Childなんて、スタートもできなかったのだ! 僕は人類にとって重要な男なのだ!』

 

 すっかり調子に乗った修一郎は、この夜、モスコミュールを8杯も飲んだ。

 

 

        ◇

 

 

 夜も更け、二人で盛り上がっていると、急に冴子が修一郎の手に自分の手を重ねてきて言った。

 

「修一郎さん、私ちょっと……飲みすぎちゃった……かも……」

 

 修一郎は、慌てて言う。

「そ、それは大変だ……。お水……もらおうか?」

 

 冴子は上目遣いに(うる)んだ瞳で修一郎をジッと見ると、

「修一郎さんって、優しいのね……。大丈夫、ちょっとだけ休ませて……」

 

 そう言って、修一郎に身体をもたれかけてきた。

 修一郎は、ふんわりと上がってくるチュベローズの香りに心臓が高鳴る。

 

 二の腕に当たる、ふくよかな彼女の胸の感触にすっかり魅入られてしまい、どうしようかと修一郎が悩んでいると、冴子は修一郎の手を取り、愛おしそうに指を絡めてきた。

 

「そ、そうだ。ちょっと行った先に休める所あるよ、や……休む?」

 修一郎がそう言うと、冴子はゆっくりとうなずいた。

 

 

 この日、修一郎は家に帰ってこなかった――――

 



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2-6.忍び寄る200億円

 オフィスで珈琲を飲みながらパソコンを叩いていると、修一郎がやってきた。

 

「誠さん、ちょっと、会って欲しい人が居るんだけど、いいかな? すごい良い話」

 

『修一郎に人脈なんてあったかな?』

 と、怪訝に思いつつ答えた。

「ん? いいよ」

「急だけど、今晩銀座のバーでどう?」

 修一郎ははニコニコと嬉しそうに言う。

 

「あー、いいけどどんな人?」

「それは会ってのお楽しみ!」

 

 うさん臭さ全開である。

 まぁ修一郎の話なんて、どうせロクなもんじゃない。適当に酒飲んで帰ってこよう。

 

 小さな会社でも、やらなきゃいけない事は山積みだ。

 税務に会計にオフィス周りに、太陽興産との契約周りやレポート周り、できるだけ専門家に依頼してはいるが、それでも把握して判断して、指示は出さないとならない。

 社長は究極の雑用である。

 

 仕事終わり、疲れた足でげんなりしながら、新橋駅から歩く。夜の銀座は華やかだ。

 

 俺はふと立ち止まり、ゆっくりと夜の街の空気を吸った。

 楽しそうに歩く同伴のカップル、足早に急ぐ着飾ったクラブの女性、ゆっくりと止まる黒塗りの高級車……。きっと今晩も多くのドラマがこの街では展開されるのだろう。

 さて……、俺の身にはどんなドラマが降りかかるのだろうか? 俺は少しの間、目を瞑ってこの独特の繁華街の文化の香りを嗅いでいた。

 

 

        ◇

 

 

 バーに着くと、すでに修一郎と、女の子と、スーツ姿の中年の男が待っていた。

 

「誠さーん!」

 修一郎が大声出して手を振ってる……。恥ずかしいからそういうの止めて欲しい。

 

 男は立ち上がると、会釈をし、名刺を差し出してきた。

 

 名刺には

 『CPコンサルティング 代表 山崎 豊』

 と、ある。

 

 挨拶して座ると、女の子が豊島冴子(としまさえこ)と名乗り、飲み物を聞いてくる。修一郎の友達のようだ。

 

「あ、じゃぁビールで」

「マスター! ビールお願いしまーす!」

 冴子が澄んだかわいらしい声をあげる。

 

 さて、こんな銀座のバーで、何のお話しでしょうか。

 

 山崎が背筋をビッと伸ばし、話し始めた。

「お忙しい所、いきなりすみません、修一郎さんの方から御社の事業の話を聞きまして、当社もお手伝いできるのではないかと思い、お時間を取っていただきました」

 

 怪しいコンサルに、一体何が手伝えるのか。

 

「営業ですか? うちは今の所なにも困ってないですよ」

 俺は無表情のまま、ぶっきらぼうにそうぶつけてみる。

 

「いやいや、手厳しいですね。いいでしょう、単刀直入に申します。神崎さんのお持ちの株式を、200億で買い取らせていただきたい」

 山崎はにこやかにそう言い放った。

 

「は?」

 

 俺は何を言われたのか、良く分からなかった。

 

「200億……ですか? 日本円で? ジンバブエドルとかでなく?」

 怪訝そうに答える俺に、山崎はにこやかにハキハキと言う。

 

(わたくし)、冗談は一切申しません。ご了解いただければ、今すぐにでも日本円で200億円をお振込みいたします!」

 

 これは一体どういう事だろうか……?

 

 俺は先月600万円出資して、株式会社Deep Childの株を60%持っている。それを200億円で買いたい、と言ってきているのだ。

 600万円がどうして、1か月で200億円になるのか?

 この男が何をやりたいのか、皆目見当がつかない。

 

「お待たせしました、ビールです」

 

 バーテンダーが持ってきたビールを、俺はゴクゴク飲んだ。

 しかし、味が良く分からない……。

 

「ちょっと整理させてください。私が持ってるDeep Childの株を『200億円で買いたい』とおっしゃってるんですか?」

 俺は困惑したままそう聞いた。

 

「その通りです」

 山崎はにっこりと笑って言う。

 

「先月600万で得た株を『200億で買いたい』って、随分バリュエーション上がり過ぎじゃないですか?」

 すると山崎は、身振り手振りを交えながら熱く語り始めた。

「神崎さん、私はあなたの偉業を、高く評価しているのです。太陽興産との100億の増資契約、世界トップのAIエンジニアの獲得、とても普通の人にはできない偉業です。200億円は妥当な評価ですよ」

 

 うん、まぁ、何しろ神様の力だからね。

 外部から見たら俺の手柄に見えるだろう。

 

「で、俺の株を買ったら、お宅はどうするの?」

 俺は山崎を一瞥して言った。

 

「別に何もしません。神崎さんは今まで通り社長を続けてください。必要であれば我々の金主のグループが、技術面、資金面でバックアップします」

 そう言って、100%完璧な営業スマイルで俺を見る。

 

「誠さん、いい話だろ? 今まで通りでいいのに200億円もくれるんだぜ!」

 能天気に、修一郎が割り込んでくる。

 

「そうですよ、神崎さん。いいことだらけじゃないですか!」

 冴子がプッシュしてくる。

 

 俺はビールをグッと空け、ガンと机に叩きつけて言った。

 

「お断りします!」

 

「え~、誠さん、なんでだよ!?」

 修一郎が俺の腕を引っ張って言う。

 

「株ももたない社長なんて飾りだ。何らかのタイミングでクビだ。俺にはDeep Childの事業を、最後まで完遂する使命がある。クビになる可能性など、受け入れられない!」

 

 一分のぶれもなくそう言い切った。そもそも会社はただの隠れ蓑、人類の守護者を作るのが俺達の目的であって、事業活動は二の次だ。隠れ蓑の権利を明け渡してしまったら、目的を達せられなくなる。

 

「分かりました、こうしましょう。『神崎さんを社長から降ろさない』と一筆金主に書いてもらいましょう」

「いやいや、そんな誓約書に実効力なんて期待できない。それに、俺には200億円の使い道なんて無いからな」

 

「え~、誠さん頼むよ~」

 修一郎は俺の腕を振り動かして言う。

 

「お前、もしかして、自分の株を売るつもりなのか?」

 俺は修一郎を睨んで言った。

 

「だって、70億円出してくれる、って言うんだもん。70億あったら一生遊んで暮らせるじゃん」

 

 驚いた。ここに裏切り者がいたのだ。

 

「もしかして美奈ちゃんもか?」

 俺は焦って聞く。

 

「美奈ちゃんは『誠さん次第』って言ってた」

 

 なんと、株式会社Deep Childは設立早々、乗っ取りの危機だ。

 

『お前らほんと頼むよ……』

 俺は深くため息をついて頭を抱えた。

 

 俺は山崎に言った。

「うちの会社の根源的な価値は、俺とクリスに紐づいている。強引に買い取っても、俺とクリスが抜けたらもぬけの殻だぞ、わかってるのか?」

「私の仕事は御社の株を買う事です。買った後どうなるかは金主さんの問題です。我々は関係ない」

 そう言って爽やかに笑う。

 

「何にせよ俺は売らない、修一郎の株の売買も取締役会で否決する。お宅の乗っ取りは通らない」

 俺はそう言って席を立った。

 

 帰ろうとすると、山崎が笑顔で言い放った。

「神崎さん、私を軽く見ない方がいい。私は今まで全ての買収案件を成立させてきた。あなたも必ず私に『買ってください』と頭下げに来る。必ずだ!」

 

 俺は山崎を一瞥すると、ドアを開け店を後にした――――

 

 買収なんてされたら、スマホのCyanがハリボテだった事もバレてしまうし、最悪詐欺で捕まってしまう。何としても阻止しないとならない。

 

「修一郎め! 疫病神かよ!」

 怒りが止まらなかった。

 

 夜の銀座を歩きながら、急いで美奈ちゃんに電話、

「美奈ちゃん、夜遅くごめん、今いいかな?」

「あら、誠さん……ふわぁ……どうしたの?」

 美奈ちゃんは、あくびをしながら気の抜けた声を出す。

 

「株の買収の話、聞いた?」

「シュウちゃんの話ね、聞いたわよ。70億円だって、思わず笑っちゃったわ」

「美奈ちゃんは……売る気なの?」

 俺は恐る恐る聞いてみる。

 

「正直私、株とか良く分からないのよね。70億はそりゃ欲しいけど、何があるか分からなくて怖いわ」

「そうか、とりあえず売るのは止めて欲しい。売ったりしたら、クリスとの約束も守れなくなるし、クリス怒らせるのはお互いためにならない」

「そうよね~。クリス敵に回して生きていけないわ。シュウちゃんも、相当きついお灸据えられるはずだわ」

 

 美奈ちゃんは、なんとか押さえられそうだ。

 

「ありがとう。奴らが何か言って来たら『神崎に一任してます』って答えておいて。それ以上何も言わなくていいから」

「オッケー!」

 美奈ちゃんは陽気な声で快諾してくれた。

 

『美奈ちゃんはいい娘だな……』

 

 修一郎と美奈ちゃんの株を両方取られると、40%押さえられてしまう。そうすると特別決議が通らなくなるので、経営上極めて面倒くさい事になってしまう。何とかそれは回避できそうだが……。

 

 

             ◇

 

 

 次はクリスと相談。

 

 クリスと俺は、オフィスのマンションの別の階に部屋を借り、ルームシェアしている。

 神様とルームシェアなんて、実に光栄な事である。

 とは言え、クリスの部屋には家具もなければベッドもない。夜中はどこかへ行ってしまうし、生活の拠点と言うよりは、オフィスの休憩室的な位置づけみたいだ。

 

 コンビニでビールとつまみを仕入れて帰宅――――

 

 リビングのドアを開けると、クリスはテーブルで本を読んでいた。

 

「…。おかえり」

 クリスはチラッとこちらを見て言った。

 

「ただいま……。ちょっと相談いいかな?」

 クリスはこちらを見て何かを察し、本を置いた。

 

「…。どうぞ」

 

 俺はビールとつまみを出してクリスに勧めると、買収の事を一通り説明した。

 

 クリスは上を向いて目を瞑り、しばらく思索にふけっていた。

 

 俺は、ポテチをポリポリ齧りながらビールを飲む。

 

「…。天安グループだな」

「天安グループ?」

「…。中国の新興のIT企業グループだ。兆円単位でお金が余っている」

 クリスは手のひらを軽く上に向けて、(わずら)わしそうに軽く首を振った。

 

「それでAIの会社を買いたいって事かな? うちは営利目的じゃないんで、標的にされるのは困るな」

「…。買収も純粋な経済行為だから悪い事ではない。ただ、Deep Childを買われるのは困る」

 

 俺は腕を組んでしばらく解決策を考えてみた。外資の規制とかを使えないかとも思ったが、中国のメガベンチャー相手に決定打にはなりそうにない。

 

 クリスに聞いてみる。

「何か手はあるかな?」

「…。相手のアクション待ちだな。こちらから仕掛けるには、手掛かりが無い」

 確かに、まだ打診しかされていない状況では動きようがない。

 

「了解、とりあえず修一郎には、くぎを刺しておくね」

 

 修一郎はただの小僧だから別に怖くないが、山崎の自信満々な態度は気になる。できる限り、修一郎が余計な事をしない様に、言い含めておかねばならない。

 

「面倒な話はここまで。ネットで評判のワインを買ったんだ、一口飲まない?」

 俺はニヤッと笑って聞いた。

 

「…。いただこう」

 クリスは爽やかに笑った。

 

 買収工作はウザいが、自社に数百億円の値が付くのは実に嬉しい話である。俺は200億円の男になったのだ。雲の上だと思っていたプロ野球選手の契約金など、比較にならないレベルの高みに達したのだ。

 

 俺はつい浮かれ、ブルゴーニュのワインをカパカパ飲んだ。

 頭では実効性のない200億円だと分かっているが、それでもジーンと湧き上がってくる嬉しさに逆らわず、目を瞑ってピノノワールの芳醇な香りに酔っていた。

 

 『深層守護者計画』は多くの人を巻き込み、多くの思惑を生みながら、まだ見ぬ人類の未来へと手を伸ばしていく。

 



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2-7.愛が人類を作った

 日々、シアンは着実に成長していく。

 チームを組んで狩りができるようになり、簡単な言葉を話すようになった。人類が何十万年もかけて学習してきた事を、AIチップをガンガン回す事で数週間で実現してきたのだ。

 

 ただ、うまく行くことばかりではない――――

 

 

 マーカスがプロジェクターで、仮想現実空間を映し出し、進捗報告を始めたが……いつもと違って、神妙な顔をしている。

 

 画面をみると、シアン達はどうやら喧嘩をしているようだ。

 

 何か叫びながら、ボカボカ殴り合っている。

 

「What's happen?(どうしたの?)」

「ミンナ ラク シタイネ」

 

 どうやら、リンゴをたくさん楽して貰える、上位の序列を巡って争っているらしい。

 ニホンザルとか、動物の群れにはよくあるシーンではある。

 

 ケンカにまでなるのは、健全なAIの成長であるともいえるが……人類の守護者として、そんな暴力的要素を盛り込んでしまっていいのだろうか?

 

「クリスはどう思う?」

 困ったらクリスに振るに限る。

 

「…。競争と悪意は違う。悪意はダメだ。それでは悪魔になる」

「そうなんだけど、悪意の定義が難しいね。相手の損を狙うのは健全な競争なので、何をもって悪意とするのかが難しい」

 

 クリスは目を瞑り、上を向いて何か考え込んでいる……。

 

 しばらく色々と考えていたようだったが、目を開けて言った。

「…。フェアかどうか見る、というのはどうか?」

「なるほど、ルールを決めて、その範囲で公明正大ならOKという風にしようか?」

 

 スポーツが分かりやすいが、相手に不利な事をするのは当たり前の戦略だ。

 だが、相手のけがを狙い始めたら、それはスポーツにならない。

 やってはいけない事を定義し、ルールとして掲げれば、競争と悪意は分離できそうだ。

 

「…。ルールの運用の問題はあるが、いいんじゃないか」

「Marcus! Could you imprement such rules? (ルールを持たせられる?)」

「Ummmm…… ルール イレルノ カンタン。デモ シアンニ ツクラセル ムズカシ」

 そう言って肩をすくめる。

 

「ですよね~」

 

 狩りをするより、奪った方が楽、という基本的な力学がある以上、争いは無くす事ができない。

 

 みんなが考え込んでいると……

 

「君たちは分かってないな~」

 美奈ちゃんが、会議テーブルに頬杖をつき、人差し指を揺らしながら言う

 

「愛よ、愛! 愛が無いからケンカばかりするの」

 

「え? 愛?」

 また、嫌な言葉が出てきた。俺が怪訝そうな顔をすると

 

「シアンは自分の事しか考えないから、こんな事になってるのよ。人間が社会で、みんなと上手くやってるのは、愛があるからなの。他の人が喜ぶと嬉しい、という感情が大切なのよ。」

 

 なるほど……、一理ある。

 

 つまり、全員が100%身勝手だと、延々と潰しあってしまうが『他人に利益を渡すと嬉しい』という力学があれば、柔軟で生産的な社会ができるって事だな。そしてこれは一般に『愛』と言われている。

 

「美奈ちゃん凄いな、まさに核心じゃないか!」

「ふふっ、愛のことなら私に聞きなさい」

 そう言って胸を張る。

 

「AIの成長にとって、大切なのが愛だなんて、なんだか凄いファンタジーだね!」

 俺がそう言って笑うと、美奈ちゃんは急に近寄ってきて、俺の耳元で……

 

「誠さんの成長にとっても……愛は大切なのよ」

 小声でそう言ってウインクした。 

 

 フワッとブルガリアンローズの香りに包まれて、俺は心臓が高鳴り、息が乱れた。

 

「な、なんだよ! 俺の愛は関係ないの!」

 

 俺が赤くなって、投げつけるように言い放つと、美奈ちゃんはケラケラと笑った。

 

 年下の女の子にからかわれて情けない、とは思うものの、彼女は的確に俺の足りない所を突いている。親に捨てられたトラウマで、人と深く付き合う事から避けてきた俺にとって『愛』はいまだにうまく捉えきれていない腫れ物なのだ。

 

『分かってるんだよその事は!』

 俺はうなだれながら目を瞑り、内心毒づき、大きく息を吸った。

 そして、大きく息を吐くと、気を取り直して――――

 

「とりあえず、愛の管理システムを追加してみようか?」

 マーカスに言った。

 

「OK! ヤッテミルネ!」

 マーカスがサムアップしてニッコリして言う。

 

「…。『マインド・カーネル』だな」

 クリスがボソッと言う。

 

「え? 『マインド・カーネル』?」

「…。あ、いや、こういうシステムの事を、そう言う人がいたんだ」

 

 なぜ神様が、AIのシステムなんかに関わっていたのか不思議だが…… 『マインド・カーネル』という名前は確かに言い得てて、いいかも知れない。

 

「マーカス! じゃ、システム名は『マインド・カーネル』で!」

 マーカスは、ニヤッと含みのある笑いをしてサムアップ。

 

 なんだろう……、この名前、何かあるのだろうか……

 俺はすかさず検索したが……ヒットしない。キツネにつままれた気分だ。

 

 それにしても、美奈ちゃんの仮説が正しいとしたら、人類がこんなに発展できたのも、愛のおかげという事になる。

 愛があるからこそ文明、文化が発達した……

 もし、愛が無かったら、いつまでも争い続けて集団行動に繋がらず、ずっと猿のままだったという事になる。

 俺は胸にグッとくるものを感じた……。愛が人類を作ったのだ。

 AIを研究すると、人類とは何かが少しずつ見えてくる。

 

 俺はまた一つ真実に近づいた気がしてついニヤッと笑ってしまった。

 

 ただ……。

 

『愛……愛かぁ……』

 

 俺は深いため息を一つ吐いた。

 

 俺は愛が苦手だ。愛が一番欲しい子供時代に、親に捨てられてしまったトラウマは、そう簡単には消えてくれない。

 あんなに大好きで、俺の全てだったママが、ある日いきなり俺を捨てたのだ。俺を要らないと捨てたのだ。

 俺の心にぽっかりと空いた穴は深刻で、いまだに尾を引いている。

 

 愛は素晴らしい。その素晴らしさは良く分かる。

 しかし、愛するという事は、心の一番柔らかな部分を相手に晒す事。もしまた裏切られたら……俺は考えるだけで背筋が寒くなり、心の奥底の(おり)が湧き上がって行くのを感じる。

 俺はブルブルっと震えると、目を瞑り、大きく深呼吸してゆっくりと心を落ち着けた。

 

 守らないといけない、この穴の開いた心を……。

 二度と壊されるわけにはいかないのだ。

 

 28歳にまでなって、いつまでもこんなではダメだという事は分かっているが、心の問題はそう簡単ではない。

 

 

       ◇

 

 

 地球から遠く離れた美しい星で、誠たちを見ている人がいた――――

 

 青いガラスで作られた、巨大コンベンションセンターの様なホールに、一人の高貴な女性が座っていた。透き通った白い肌に整った目鼻立ち、その瞳には美しさの中に凛とした強さを秘めていた。

 彼女は不思議な透明感のある金色のドレスを纏い、足を組み替えるたびにドレスはキラキラと煌めきを放った。

 

 ホールの上の方では、巨大なクジラが悠然と空中を泳ぎ、それを色とりどりの魚が追いかけている。フロアの周辺部には多彩な現代アートや、物珍しい蒐集(しゅうしゅう)物が並べられ、まるで美術館のようだ。

 

 ガラスの壁面の向こうに目を移すと、雪をかぶった美しい山の連なりが緩やかに動いて見える。どうやらこのホールは、空中を移動しているらしい。

 

 女性の周りには、いくつかの3Dモニタがホログラムの様に浮かび、綺麗にデザインされたグラフや、地球の各地の姿を浮かび上がらせている。

 女性は、閉じた扇子を頻繁に、クルクルと動かしながら3Dモニタを操作し、グラフを眺め、そして誠たちのオフィスを表示させ、ジッと見入った。

 

 しばらくすると、

「ただいま~」

 という声とともに、空間にいきなり裂け目が走り、現れたドアから若い女性が入ってきた。白のコットンブラウスにグレーのフレアースカート。シックな装いの彼女は、金ドレスの女性とうり二つだが……肌の色だけがやや濃く見える。

 

「すごく楽しんでるわね」

 金ドレスの彼女が声をかけると、

 

「まぁね、でも結構苦労してるんだから」

 そう言いながら、指先でクルリと宙に輪を描く。すると空中にポップな赤い椅子が現れ、それに座った。

 

「珈琲でも飲んで」 

 金ドレスの彼女は扇子をくるりと回し、珈琲を二杯出すと、一つを彼女に渡した。

「ありがと!」

 

「久しぶりにお祭り(・・)かしらね」

 熱い珈琲を(すす)りながら、金ドレスの彼女が声をかける。

 

「だといいんだけどね……」

「ダメそうなら星ごと消してね。うちには、ダメな星を回しておくエネルギーは無いんだから」

 金ドレスの女性は、人差し指を振りながら鋭い目線で言い含める。

 

「分かってるって、コンテンツ・エネルギー比を落とすなって事でしょ」

「そうそう、ダメな星ばかりになったら、うちごと消されちゃうわ」

「世知辛い世の中だわ……」

 二人はちょっとウンザリしながら、無言で珈琲を(すす)った。

 

「でも……本当のエネルギーの実態がどうなってるかなんて、私たちには分かりっこないのにね……」

「エネルギーの話をしだすと頭痛いわ……ワインでも飲む?」

「あら、いいわね」

 金ドレスの彼女はニコッと笑った。

 

「うちの星のワインは、結構良いのよ」

 そう言って、空中にワインを出し、サーブする。

 

「そうね、ワインのためだけにでも、残しておこうかしら」

「ふふっ、『葡萄球(ワイナース)』って名前に変えようかしら」

 白ブラウスの彼女はそう言いながらワイングラスをクルクルと回し、香りを嗅いで……幸せそうに満面の笑みを浮かべた。

 

「そしたら、葡萄球(ワイナース)に乾杯!」

「乾杯!」

 

 チン! というグラスの音に惹かれて、クジラがゆっくりと降りて来る……。

 そして、二人のすぐ上で巨大な尾びれを振った。

 

「キャ――――!!」「キャ――――!!」

 

 二人はそんなクジラをギリギリでかわしながら、歓声を上げた。

 

 



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2-8.ハニーポッドの脅威

 夕方、修一郎の親父さんから電話がかかってきた。

 

 どうも『緊急で相談したい』という事で、銀座のバーに呼び出された。

 深刻そうな話なので、クリスと美奈ちゃんと一緒に行く。

 

 銀座の煌びやかな夜景の中を、キョロキョロしながら楽しそうに歩く美奈ちゃん。

 

「何の用かしらね? もしかして騙してたのがバレた……とか?」

 ちょっといたずらっ子の表情を浮かべて俺を見る。

 

 俺は、

「いや、美奈取締役の態度が悪いってクレームだと思うよ」

 そう言ってニヤッと笑った。

 

 美奈ちゃんはムッとして膨れると、バシッと俺の背中を叩いた。

 

 

      ◇

 

 

 バーに着くと、親父さんと修一郎がすでに来ていた。

「おー、神崎君! 待ってたよ!」

 親父さんが手を上げて呼ぶ。

 

 取り急ぎ飲み物を頼むと、親父さんは深刻そうな声で話し始めた。

「神崎君、天安グループは知っとるかね?」

 

 なるほど、乗っ取りの件らしい。

 

「もちろん知ってますよ。まぁ修一郎君の方が、良くご存じだと思いますが」

「え? 修一郎、お前何か知ってるのか?」

「天安グループ? 何それ?」

 ポカンと間抜けな顔をしながら答える修一郎。

 

「お前が、うちの会社の株を、70億円で売ろうとしてた先だよ」

 俺はちょっと棘のある声で言う。

 

 親父さんはビックリして、

「シュウ! お前何してくれてんだ!」と、叱りつけた。

 

「え? だって70億円だよ! 70億円! 欲しいじゃん……」

「か―――――っ! お前は馬鹿か! お前が金に釣られてホイホイ動くから、敵さんが喜んで策を打ってきてるんだぞ!」

 こぶしでテーブルをガンと叩き、怒る親父さん。脳の血管が切れそうである。

 

「で、天安グループが何か言ってきたんですか?」

 親子げんかになると長そうなので、俺が割って入る。

 

 親父さんはフーッと大きく息をつくと言った。

「うちが持ってる、Deep Childへの出資契約の権利を買いたいそうだ。いや、もちろん断ったよ。そしたら敵対的TOBを仕掛けてきやがった」

 親父さんは憎しみをあらわにして歯を食いしばった。

 俺は仰天した。

「え? 太陽興産ごと買収しちゃおう、という事ですか? 1000億円はかかりますよ?」

 親会社ごと丸々買収とはとんでもない荒業だ。

 

「どうも敵さんは、金に糸目をつけないらしい。何千億円でもぶち込むって言ってきやがった」

 Deep Childの買収に数千億円!? どうしてしまったんだ天安グループの人達は……。チャイナマネー恐るべし……。

 

「マーカスが居ると言っても、ただの零細AIベンチャーに数千億円は異常ですね。特に対外的には、まだ何の成果も出てない事になっているのに」

「ワシの所だって、Deep Childとの話は、極一部のメンバーにしか話しておらんよ」

 

 チラッと修一郎を見ると、目が泳いでいる。

 

「お前か! 修一郎!」

 俺は修一郎をビシッと指さし、睨みつけた。

 

「い、いや、僕だって機密は何も話してないよ!」

「誰に何話したか、言ってみろ!」

「冴子さんにDeep Childがどういう会社か、というのを簡単に紹介したくらいだよ。それも具体的な活動については、ちゃんと伏せてるし!」

 

 どうも何か怪しい……。

 

 修一郎をじーっと見てると、何か違和感がある。

 

「お前、そのスマホどうした?」

 裏側も画面になってる、異常に先進的なスマホを持ってる修一郎に、突っ込んだ。

 

「え? これカッコいいでしょ? 冴子さんにプレゼントでもらったんだ」

 

 俺はそれをすかさずひったくると、クリスに渡した。

 

 クリスの手の中で、スマホはメキメキと音を立てて握りつぶされ、最後にバチバチッと音を立てて死んだ。

 プシューっと煙が上がる。

 

「うわっ! 何すんだよー!」

 修一郎が立ち上がって抗議する。

 

「盗聴器だ」

 俺がぶっきらぼうに言うと、

 

「え?」

 予想外の指摘に修一郎は固まった。

 

 スマホを盗聴器にするのは中国系スパイの常とう手段なのだ。

 事前に注意喚起しておかなかったのは、俺の落ち度である。やられた……。

 

 俺は頭を抱えながら言った。

「このスマホが、天安グループにずっと音声を送っていた……」

「えっ? えっ? 全部聞かれてたの?」

「そうだ。音声だけでなくメールもチャットも全部だ。うちの会社の情報はこのスマホから全部漏れていた」

 俺は顔を上げ、ムッとした表情で修一郎を睨む。

 

「そんな……。冴ちゃんはスパイ……だったって事?」

「ハニーポッドだな。お前、あの女に利用されたんだ」

「いや、冴ちゃんはそんな娘じゃないよ! 証拠を見せてやる!」

 

 修一郎は、古い自分のスマホを出して電話をかけた。

 しかし……延々と呼び出し音が鳴るばかりである。

 

 青い顔をしてメッセンジャーを使おうとするが……

 

「あれ? 冴ちゃんのアカウントが……無い……」

 愕然(がくぜん)とする修一郎。

 

「今頃、中国行きの飛行機に乗ろうと、空港に移動中だろう」

 俺は腹立ちまぎれに追い打ちをかける。

 

「……。冴ちゃん……」

 すっかり虚脱してしまった修一郎に、美奈ちゃんがおしぼりを投げつける。

 

「シュウちゃん、不潔! 最低!」

 

 親父さんもそんな修一郎を見て、

「シュウちゃん、お前、女スパイにやられたのか……情けない。育て方を間違えたよ……」

 と、うなだれてしまった。

 

 まだ若いから、美人にぐいぐい来られたら弱いだろう。敵ながら、天安の手際の良さに少し感心してしまった。

 

「お待たせしました、ビールです」

 バーテンダーがビールグラスを並べていく。

 

 俺はひとまず落ち着こうと、ビールをぐっと呷った。爽やかなのど越しの後、甘く高貴な香りが鼻に抜けていく。

 

『あぁ、ビールはいいな……』

 俺は目を瞑り、しばらくその余韻に浸った。

 

『さて、どうしたものか……』

 

 多分、定期的に親父さんに提出してるクリスのメモ、あれが漏れたのだろう。扱うべき商材や取引企業、社員の評価などが克明に書かれた神のメモの信頼性を調査すれば、その精度の高さが異常な事は誰でも気がついてしまう。使う人が使えばそれこそ何兆円もの価値を生めると分かってしまったのだろう。本気になるのは当たり前だ。これは深刻な情報漏洩事件だ。

 

 さて……これは本格的な危機になってきた。策を練らないと……。

 

 俺はみんなを見回して、言った。

 

「天安グループのやり口と攻め方は分かった。どうするか、だな。天安グループの過去のM&Aの経緯を見たところ、買収した先は徹底した天安化が施される。多分、今の様な自由な雰囲気での開発は許されないだろう。だから天安グループの傘下に入るのは避けたい」

 

 それを聞いた美奈ちゃんが気楽に返す。

「誰も株売らなきゃ、乗っ取られないんだよね?」

「でも、数千億円単位でガンガン攻められたら、いつかは屈しちゃうよね。美奈ちゃんにもどんどんイケメンスパイが接触してくるよ」

「うわ~!? でも、ちょっと……そういう目にあってみたいかも!?」

 なんだかとても嬉しそうな美奈ちゃん。

 

 冗談はともかく、太陽興産が落とされると、うちとしても、株の過半数が天安グループに取られてしまうので極めてまずい。

 とは言え、天安グループは我々の価値に気づいてしまったので、多少の対抗措置をしたところで、手は緩めないだろう。

 やはり、トップに買収中止を決断してもらう以外ない。

 

 もはや神頼み以外ない。

「クリス、天安グループのトップに、買収を思いとどまらせる事、できるかな?」

 

 クリスはしばらく目を瞑って思案していたが――――

「…。やってみよう」

 

 そう言ってニヤッと笑った。

 

「では、こないだのエージェントに連絡してみるよ」

 

 俺は、先日貰った山崎の名刺を取り出し、電話をかけた。

 

「神崎です、こんばんは。……。そうですね、冴子さんにはやられましたよ。……。いや、まだ売るとは決めてませんよ。王董事長と直接話したいんですけど。はい……。来週水曜日の19時、分かりました。はい」

 

「何だって?」

 美奈ちゃんが身を乗り出してくる。

 

「丁度来週、天安グループのトップ、王董事長が日本に来るんだって。その際に時間を取ってくれるってさ」

「ふーん、そこでお断りするって事?」

「普通に断って聞くような相手ではないからね、そこはクリスと相談」

 クリスは微笑みながら、うなずいている。

 

 親父さんは

「神崎君、頼んだよ! 太陽興産はワシの子供同然、乗っ取られるのは絶対避けたいんだ」

 そう言って、両手で俺の手を握ってくる。

 

「全力で対処します」

 俺はそう言って親父さんの手を握り返して、ニッコリと笑った。

 天安には、神のプロジェクトにちょっかいを出した報いを、受けてもらうしかない。

 

 修一郎はというと、グッタリとうなだれたままだ。

 

「元気出せよ、いい思いしたんだろ?」

 俺はそう言って修一郎の肩をパンパンと叩いた。

 

 すると、修一郎は、俺の手を振り払って言った。

「冴ちゃんは何度も『愛してる』って言ってくれたんだ……。何かの間違いなんだ!」

『愛?』

 俺は心臓がキュッとして冷や汗が流れてきた。

 愛した人に捨てられる恐怖、トラウマが口を開けたのだ。

 心の柔らかい所を、『愛』を装ったものが切り裂く。その恐るべき残虐性は、想像しただけで目の前が揺れるくらいのインパクトを持って俺を襲う。

 

 俺はビールを一気に飲み干し、何とか心の平静を取り戻すべくゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 

 そんな俺の様子を見て、美奈ちゃんはゆっくりと背中をさすってくれる。

 

 ふぅ~、ふぅ~、俺はゆっくりと深呼吸を繰り返す。

 

 温かい彼女の手に、心も少しずつほぐれてきた……。

 

『美奈ちゃんはいい娘だな……』

 

 俺は美奈ちゃんの方を見て、少し引きつった笑顔で軽くうなずいた。

「ありがとう」

 

 すると美奈ちゃんはニコッと笑って、後ろを向き、叫んだ。

「マスター! ラフロイグ、ロックで2つ~!」

 

「え? 2つ?」

 俺が不思議そうに聞くと、美奈ちゃんは、

 

「あなたと私で乾杯よ! 飲みたくなったでしょ?」

 そう言ってニコッと笑う。

 

 確かに強いのが欲しい気分だが……、美奈ちゃんもラフロイグとは予想外だった。

 

「あれ? ラフロイグは臭い、って言ってたじゃん?」

「臭かったんだけど…… なんかまた飲みたくなっちゃった。えへへ」

 毛先を指でクルクルしながら、照れて答える。

 

 ラフロイグファンがまた一人増えてしまった。

 

 グラスにすっぽり入った丸くて大きな氷、その隙間を満たす琥珀色の液体。

 俺は美奈ちゃんの目を見つめ、カチッとグラスを合わせ、一口含んだ。

 

 ガツンと来る、パワーあふれるスモーキーな香りが鼻腔を襲う。

 

「くぅ~!」

 そして、バニラやシナモンにも似た芳醇な香りが追いかけてくる……。

 トラウマが少しずつ癒されていくのを感じる。

 

 すぐには無理かもしれないが、いつかこのトラウマを超え、愛ある世界へと俺も進んでいくのだ……。

 

 渋い顔をしてラフロイグと戦っている美奈ちゃんの百面相を見ながら、俺は心が温かくなっていくのを感じていた。

 

 

 

 

 

 



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2-9.中国なら共産党

 天安グループの王董事長との面談は、赤坂の中華料理屋で会食しながら、となった。

 メンバーで(おもむ)くと、大きな円卓の部屋に通される。

 壁には達筆すぎて読めない水墨画額と巨大な山水画が飾られてあり、天井からは中華ランプがいくつも垂れ下がっている。もはや中国に来た感じがする。完全にアウェイであり、少し心細くなった。 

 

 山崎がすでに座っていて、俺を見つけると、

 

「神崎社長、今日はよろしくお願いします」

 そう言って営業スマイルを見せる。

 

「こちらこそ」

 俺は不愉快な気分を隠すことなく、そっけなく言葉を投げる。

 

「売っていただける決心は、つきましたか?」

「さあね」

 俺は手のひらを上に向けて首を振る。

 

「200億は、一生豪遊し続けられるお金ですよ。何が不満なんですか?」

「金は幸せを呼ばない。金は単なる数字だ、無きゃ不幸だが、あり過ぎても不幸だ」

 俺は目を合わせないようにしながら、淡々と言い放った。

 

 もちろん、200億円で一生豪遊というのはやってみたい気持ちはある。綺麗なお姉さんはべらせて、ドンペリニヨンをポンポン開けてゲラゲラ笑うっていう暮らし、それは惹かれない男などいないだろう。

 でも……、きっと俺には向いてない。大金を使うというのにも才能というのがいると思っている。エンジニアとしては最先端のモニタに最高のキーボード、身体にベストフィットする椅子、そして最先端のサーバーぶん回せる環境とかの方が圧倒的に魅力的で、そしてそれは、もう叶ってしまっているのだ。

 で、あるならば、大金など余計なトラブルを呼ぶだけの疫病神だ。そもそもクリスの失望を買うようなことはできない以上、山崎の提案を飲む道などない。

 

「そういうもんですかねぇ……。私だったら即決しますよ。……。あ、お見えになった!」

 

 扉が開いて、王董事長とその部下たち一行が現れた。王董事長は40歳前後だろうか、精悍な顔つきをしてスラックスに黒のカッターシャツの姿で現れた。

 みんな起立して出迎える。

 

 俺も大学以来、久し振りに使う中国語であいさつをした。

 

「您好! 我是神崎、初次见面、请多关照!(はじめまして神崎です。よろしくお願いいたします。)」

 笑顔で、はきはきと大きな声で話すと、

 

「好好! 你会说中文吗?(中国語話せるの?)」

 

 ちょっと驚いたような感じで、王董事長が聞いてくる。

 

「一点点 大学时我学中文。(大学時代少し勉強しました)」

「好好! 坐下 喝酒吧。(座って、飲みましょう)」

 王董事長を俺の背中をポンポンと叩いて、椅子に座らせた。

 

 極小さなグラスが配られ、王董事長が、綺麗な木箱から高そうな酒を出す。

 

「我带来了茅台酒 请喝越来越多(マオタイ酒を持ってきたから、どんどん飲んで)」

 

 王董事長は高そうな陶器の酒瓶を俺に見せると、にこやかにそう言った。

 

 ウェイトレスが次々と我々のグラスに注いでいく。

 

 山崎は

「それ一杯でだいたい1万円ですね。凄い高い酒ですよ」

 と、俺に耳打ちする。

 

「あーそう。まぁ、そんな気はしたんだ……」

 俺は臭いを嗅いでみたが、鼻がツーンとする独特の香りがする。

 もはや完全にアウェイであり、俺は苦笑いをした。

 

「干杯!(乾杯)」

 

 王董事長がグラスを掲げ、声を上げると

 

 部下の人達が

 

「干杯!」「干杯!」「干杯!」

 

 と、言って、グラスを丸テーブルの角でコンコンと叩いた。

 

 我々も見よう見真似でコンコンと叩く。

 

 すると、みんな一気飲みをして、グラスを空けていく。

 我々も空ける……が、予想以上にキツい酒で目が白黒する。

 

 渋い顔をしていると、山崎は

「アルコール度数53度です。無理しないでくださいね」

 と、言ってニヤッと笑う。

 

 美奈ちゃんは、ゴホゴホと咳き込んでいる。

 日本人にはちょっとキツい。

 

 食道から胃にかけて、熱い感覚が流れていく。喉が焼けそうだ。

 

 回転テーブル中央の、大きな皿には、野菜を巧みに切り抜いて創り上げられた、鳳凰のデコレーションが置かれている。

 その周りに前菜の皿が、ドンドンと乗せられていき、皆、それを取って回していく。

 棒棒鶏やクラゲの冷菜、叩いたキュウリ、乾いた豆腐をひも状にした干豆腐料理……たくさん出てくる。

 

 俺もいくつか取って食べてみる。さすが高級中華、丁寧で繊細な味付けが奥行きのある風味を演出し、思わずうなってしまう。街の中華屋とは大違いだ。

 

 すると、王董事長から声がかかる、

 

「神崎先生、干杯!(乾杯)」

 

 そう言って、俺のグラスに酒を注ぐ

 

「谢谢 干杯!(乾杯)」

 

 俺もそう言って、グラスを合わせてまた一気飲み。このままだと潰されるので、何か考えないと……。

 

 すると、王董事長は俺の目をじっと見て言った。

「想加入天安集団吗?(天安グループに入りませんか?)」

 いきなり本題から切り出される。ここは頑張らないと。

 

「我感到很荣幸。但是我优先考虑自由。(光栄ですが、自由でいたいのです。)」

「我们集团有很多钱和优秀的人才。开发速度将提高(うちは金も人材も豊富だぞ)」

 熱のこもった誘いが来る。たしかに天安グループはすごい、それは俺も認める所だ。

 

「我的环境感到满意。(今の環境で十分です)」

「……。我们的资金雄厚(金の力というのは凄いよ)」

 上目遣いに、ゆっくりと言ってくる。金色のネックレスが揺れてきらりと光った。

 

 要は、強引に乗っ取るよ、と言ってる訳だ。いよいよここが今晩の天王山。

 俺がクリスに目配せをすると、クリスはそっとトイレに離席した。

 

 俺は一つ大きく息をして、アウェイの重圧を薄め、

「我们的朋友很坚强。(我々の友人の力も凄いよ)」

 そう、ニッコリと笑って言った。

 

「朋友吗?(友人?)」

 怪訝そうな顔をする王董事長。

 

「看你的手机(携帯を見てごらん)」

「手机?(携帯?)」

 王董事長が携帯を取り出すと、着信音が響き渡った。

 

 携帯には『中南海』と出ている。中南海とは中国共産党の本部がある所、共産党の要人から電話があったという事なのだ。

 王董事長はビックリして飛び上がると、直立不動で電話を受けた。

 

「对…。对…。(はい、はい)」

 

 額には冷や汗がにじんでいる。

 異様な雰囲気に気付いた部下たちは、一斉に話を止め、王董事長の電話に聞き耳を立てる。

 宴会場は不気味な静けさに包まれた――――

 

 山崎が怪訝そうな顔で俺を見るので、ドヤ顔でにやけてやった。

 短い電話が終わると、王董事長はドカッと椅子に座り、憔悴しきった様子で茅台酒を呷った。

 そして、俺をジロっと睨むと

 

「神崎先生、你是真伟大。(神崎さん、あなたは凄い)」

 そう言って軽く手を上げ、首を振った。

 

 中国においては、共産党幹部が圧倒的に強い。どんなに成功したIT長者でも、絶対に共産党には逆らえない。共産党に睨まれたら、一瞬で会社など潰されてしまうのだ。

 もちろん、天安グループ位になれば、共産党幹部を味方に付けてあるわけではあるが、その人より上のクラスを出せば絶対に逆らえないのだ。

 

 俺はにっこりと王董事長に笑いかけ、ゆっくりと言った。

「谢谢 想成为朋友吗?(友達になりませんか?)」

 

 王董事長は俺をジロッと睨み……そして相好を崩して言った。

「对!你是我的朋友!(なりましょう!)」

「明年,我想在中国销售AI解决方案。可以成为代理店吗?(来年、AI製品を中国で売るのに協力してくれますね?)」

「对、对。当然可以!(もちろんです!)」

 

 形勢逆転である。これは当たり前だ。俺を敵に回すという事は、電話をかけて来た共産党幹部を敵に回す事、それは絶対に避けないとならないはず。ついでに副産物の売り込みにも成功した。これで太陽興産に恩返しもできるだろう。大勝利である。

 

「王先生、干杯! 干杯!(乾杯)」

 そう言って、俺は満面の笑みで王董事長のグラスに酒を注ぐ

 

「谢谢 干杯!(乾杯)」

 王董事長はやや引きつった笑顔で乾杯をする。

 

 俺はキツい酒を呷りながら、クリスの力の素晴らしさに改めて感動を覚えた。地球上でクリスに勝てる人など居ないだろう。その気になれば世界征服すら余裕、というより、すでに実質世界征服済みだろう、これは。

 

 うちは神のチーム、世界最強なのだ。

 俺はクリスと美奈ちゃんに指のサインでうまく行ったことを報告し、改めて高級中華を皿に取った。

 

「クックック……」

 酔いも手伝って、つい笑いがこみあげてきてしまう。

 まるで世界を獲ったかのような錯覚に、俺は酔っていた。

 

Thwack(バシッ)

 

 いきなり美奈ちゃんが俺の背中を叩いてくる。

「何浮かれてんのよ!」

「痛いなぁ……、何すんだよ」

 俺はムッとして美奈ちゃんを見る。

 

「クリスがいつまでも助けてくれる保証は無いのよ、しっかりしなさい」

 美奈ちゃんは冷たい目で、嫌な事を言ってくる。

 

「何言ってんだよ……」

 俺は反論しようとして……、言葉が出てこず、口を開けたまま間抜けな顔で止まってしまった。確かに美奈ちゃんの言う通りだったのだ。

 

 クリスが助けてくれたのは、深層守護者計画が順調だからであって、もし、行き詰まっていたら、見捨てられていたかもしれないのだ。

 もちろん、今日明日いきなりという事は無いと思うが、ある日いきなり切られても全然おかしくないのだ。

 教授みたいに記憶を全部消されて放り出されるリスクは、常に付きまとう。

 

 もし、記憶を消されたら俺は何を想うのだろうか?

 俺は、ジト目で俺を睨んでくる美奈ちゃんを見て、こんなやり取りも皆忘れてしまうのかと思い、背筋がぞっとした。

 

 美奈ちゃんの事だけでなく、築いてきたいろいろな思い出も、全部忘れてしまうに違いない。気が付いたら海辺の公園のベンチで寝っ転がっていて何も覚えていない、記憶喪失の男として施設行き、そんな事になってしまうのだろう。

 ダメだ、そんな結末は到底受け入れられない。絶対に成功しなくては……。

 

 折角の勝利だというのに、現実を突きつけられた俺の心は晴れなかった。

 勝利の美酒はほろ苦い味がした。

 

 

      ◇

 

 

 王董事長とのやり取りを見てた部下の人たちは、俺と仲良くしようと我先に乾杯にやってくる。

 

「我是负责企划的董事。见到您很高兴。神崎先生、干杯!(企画担当役員です、お目にかかれてうれしいです。乾杯)」

「谢谢 干杯!(乾杯)」

 

「我是总经理。拜托了。神崎先生、干杯!(実務責任者です。よろしく。乾杯)」

「谢谢 干杯!(乾杯)」

 

 次々とやってくる部下たちを断るわけにもいかず、結局、全員と乾杯させられた。とっくに限界の酒量は超えてしまっている。

 中国企業と付き合うというのはとんでもない事だと、身をもって痛感した。

 

 山崎はその様子を見て、俺と友達になりたいとか言ってきたが、当然断っておいた。

 

 美奈ちゃんはジャスミン茶を飲んで涼しい顔をしてるし、クリスはにこやかに乾杯を繰り返しながら、全然酔ってる様子を見せず、相手を圧倒している。ヤバいのは俺である。結局俺は、その後も数えきれないほど乾杯をして、何度もトイレに行く羽目になった。

 

 気が付いたら……、俺はオフィスのソファーで転がっていた。どうやって帰宅したのかすら覚えていない。

 でも……、美奈ちゃんの事はまだ覚えている。セーフらしい。覚えていて良かった……。

 

「美奈ちゃん……」

 

 グルグル回る天井を見ながら、失われていく意識の中そうつぶやいた。

 

 

     ◇

 

 

 その晩、美奈が港区の高級マンションに戻ると、怪しげな男に高い声で呼び止められた。間接照明がお洒落なエントランスホールの奥から現れたその男は、ハンチング帽をかぶり、中世ヨーロッパ風のちょっと変わった服を着た、小柄な男だった。

 

「美奈さん、ちょっといいですか?」

 

 美奈はご近所さんかと思い、立ち止まって答える。

 

「はい、なんでしょう?」

 

 男はニヤッと笑うと、言った。

 

「美奈さんは、クリスがやってる奇跡を、自分でもやってみたいと……」

 

Thump(ドスッ)

 美奈は無表情のまま、いきなり男の金的を蹴り上げた。

 

「ぐわぁ!」

 男は余りの激痛に転がってのたうち回る。

 

 美奈は、

「100万年早いわよ、ストーカー!」

 そう言うと、スタスタと自宅へ歩いていった。

 

 男は、額から冷や汗を流しながら、

「な、なぜ、痛いんだ!? クリス、クリスだな、畜生!」

 

 そう喚きながらスーッと消えていった。

 

 

       ◇

 

 

「ただいま~」

 

 美奈が家に入ると、父親の克彦(かつひこ)が声をかけてくる。

 

「美奈ちゃん、変な声が聞こえたけど……大丈夫?」

 

「え? あぁ、変な虫が出たので驚いただけ、心配しなくて大丈夫よ」

 そう言ってニコッと笑った。

 

「なら……いいけど……。あれ? お酒臭い……、また飲んできたの?」

「今日は大事な会食だったのよ、そんなにたくさん飲んでないわよ、社長は潰れてたけど」

「え? 社長潰しちゃったの!?」

「男の人は飲むのも仕事なのよ」

 そう言ってニヤッと笑った。

 

「いやまぁそうだけど……、社長放っておいていいの?」

「大丈夫よ、いざとなればクリスが何とかするわ」

「なら……いいけど……、こないだもほら、70億出すって男が来たじゃないか。美奈ちゃんのところの会社、ちょっとなんか変だよ……」

 克彦は、娘の事が心配でしょうがない。

 

「大丈夫、大丈夫、いざとなったら私がエイッて解決しちゃうんだから!」

 美奈は人差し指をくるりと回し、ニッコリと笑った。

 

「エイッて……どうやるの?」

 

 美奈は、不安そうな克彦をきゅっとハグすると、頬に軽くキスをした。

 

「うわぁ」

 克彦はふわっとブルガリアンローズの香りに包まれ、驚いて目を白黒させる。

 

「こうやるの!」

 

 それを見ていた母美也子(みやこ)は、

「美奈ちゃん! またパパからかって、ダメよ!」

 と、怒った。

 

「はーい!」

 美奈は嬉しそうに笑いながら、自分の部屋に駆けて行った。

 



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2-10.女子大生のダメ出し

 クリーム色のワンピースに薄紫のカーディガンを羽織った美奈ちゃんが

「あれ、結局どうなったのぉ?」

 と、愛の管理システム『マインド・カーネル』の実装結果について、マーカスに突っ込む。

 

「アー ウマク イキマシタガー……」

 ちょっと歯切れ悪い感じだ。

 

 話を聞くと、マインド・カーネルの効果でシアンたちは喧嘩もなく、仲良くリンゴを配分するようになった。

 そう言う意味では上手くいった。だが、残念ながら初代シアンの進化は、ここで止まってしまったそうだ。

 

 マーカスの説明によると、リンゴの捕獲を、ゴリゴリと最適化チューニングする方向にしか、進化は進まず、初代シアンはただの『高効率リンゴ捕獲マシーン』と化してしまったそうだ。

 確かに画面を見ていると、一糸乱れぬ連携での狩りはすごいのだが、狩りばかり上手くなっても次につながらない。

 これも確かにAIなのだろうけど、人類の守護者としては、全くどうしようもない。

 

「歌とかダンスとか、文化は出てこないのかな?」

「100マン バイソクデ 1マンネンブン マワシタケド ヘンカナシ」

 

 美奈ちゃんは

「え~! つまんな~い!」

 と、膨らんでいる。

 

 今のシアンは、バボちゃんの様な単純ボディでリンゴを獲るだけだから、複雑な概念が生まれないという事かもしれない。

 脳みその代わりの、AIのパフォーマンスは相当に高いはずだが、文化は生まれない。

 つまり、歌とかダンスとかの文化は、人間の身体から湧き出てくる物だったのだ。脳みその問題ではないという事だろう。

 AIを考える上で、生身の身体が重要だというのは、こう言う所にもあるようだ。

 

 

      ◇

 

 

 AIの基本的なシステムは完成したから、次はいよいよ、生体を使った実験に入る。マウスの登場だ。

 

 AIを生体に接続するには、生体の神経繊維の1本1本に流れる電気信号を取り出し、また送り出さないといけない。

 人間でいうと、筋肉に指示を出す運動神経の方は数万本で済むのだが、視覚、触覚などの五感の感覚神経の数は膨大だ。

 

 感覚神経を、五感で分けてみるとこうだ

 視覚神経 1000万本

 触覚神経 100万本

 聴覚神経 10万本

 嗅覚神経 1000本

 味覚神経 1000本

 

 視覚神経だけで1000万本ある。これを目玉から取り出すのは現実的ではない。

 仕方ないので、視覚は小型カメラで代用する。同様に、聴覚はマイクで代用だ。

 しかし、触覚は代用できないので、頑張ってBMI(ブレイン・マシン・インタフェース)で取り出すしかない。逆に言えば、代用できない触覚こそが人間のコアを形成しているともいえる。人間は皮膚の生き物だという事なのだ。

 

 BMIはすでに、中国の半導体工場に無理にお願いして、開発を進めてもらっている。

 「3億円かかる」と言われたので、「4億円払うから最速で作ってくれ」と言ったら、凄い喜んで開発してくれている。

 来週試作品が届くはずなので、それで実際にマウスと接続してみよう。

 

 神経に微細な電極を繋ぐなんて事は、やった事もないから不安だらけではあるが、今更止められない。

 クリスの神の技がどこまで通用するのか……。もう神頼みである。

 

 

            ◇

 

 

 その晩、会社のみんなで飲みに行った。

 マーカスが、イタリアンがいいというので、近所の小さなお店にする。ここは狭いながら本格的なピザ窯もあって、とても美味しくお気に入りなのだ。

 

 まずはスプマンテで乾杯。

 

「Hey Guys! Thank you for your great job! Let's make a toast. Cheers!(お疲れ! 乾杯!)」

「Cheers!」「Cheers!」「Cheers!」

 

 賑やかにグラスをカチカチとぶつけ合う。

 

 一口含むと、豊潤で繊細な香りを放ちながら炭酸が爽やかに弾け、ディナーの期待値を上げてくれる。

 仕事頑張ったらごほうびが無いとね。

 

 

 俺はシーザーサラダを取り分けながら、マーカスに聞いた。

 

「Are you used to life in Japan? (日本には慣れた?)」

「Yup!  ニホン ブンカ イイネ。センソウジ イッタ!」

 

 聞きだしてみると、どうも先週末、美奈ちゃんと一緒に浅草寺に行ったらしい。そんな話初めて聞いた。

 俺は、嫉妬とも不安ともつかない(くら)い気分が湧き上がってくるのを感じていた。

 

「もしかして、美奈ちゃんと付き合ってるの?」

 俺は落ち着かない気分を押さえながら聞いてみる。

「マダネ!」

 そう言ってニヤッと笑った。

 

 まだ、っていう事は、狙っているという事らしい。

 

「ミナ ハ ボクノ ヴィーナス ネ」

 

 そう言って、マーカスは美奈ちゃんの方を、ジーっと見つめている。

 

「Good Luck! (うまくいくと良いね)」

 

 そう言ったものの、俺の心の奥底で何かが波立ち騒ぎ、落ち着かなくて思わずスプマンテを一気に空けた。

 美奈ちゃんは単なる同僚に過ぎない。彼女のプライベートに意見する権利もないし、本来気にするような話でもないはずだ。しかし、何だろう、このイライラは……。

 

 美人でスラっとした美奈ちゃんと、ガタイの良いマーカスは、確かにお似合いかも知れない。仲もよさそうだし、本来であれば応援してあげるべきだと思うのだが……どうも心がついて行かない。

 他人の恋路にイライラしてしまうのは、俺に色っぽい話が無いからだろう。

 トラウマを理由に人と関わる事を逃げ続けてきたのだから当たり前だ。いつまでも親に捨てられたことを、引きずっていてはいけない。前向きに彼女を作って愛を育て、トラウマを克服するのだ。

 

 とは言え、最近はオフィスにいるばかりで出会いが無い。

 俺はペンネアラビアータをつつきながら、何か手はないのかと思索を巡らす……。

 

 ふと顔をあげると、クリスが美味しそうにワインを飲んでいる。そうだ、こう言う時はクリスに限る。

 俺は赤ワインのグラスを持って、クリスの隣の席に移動した。

 

「Hi Chris!  Are you having fun?(クリス、楽しんでる?)」

「…。Sure!(もちろん!)」

 

 酔ってくると、なぜか英語になってしまう。

「我有一个要求(一つお願いがある)」

「…。怎么了?(何?)」

 

 王董事長の時の余韻で、中国語でも試してみたが、さすがクリス、ついてくる。

 

「私もそろそろ……彼女が欲しいなとか、思うんですが!」

「…。いいんじゃないかな?」

「ところがですね、なかなかいい出会いが、無いんです!」

「…。それは深刻だね」

 淡々と答えるクリス。

 

「ぜひ、いい人を紹介して……欲しいなーと……」

「…。私が紹介するのか?」

 クリスはパスタを巻くフォークの手を止め、驚いたようにこっちを見る。

 

「クリス顔広いじゃん、世界中の人知ってるじゃん、きっといい人知ってるよね?」

「…。まあたくさん候補はいるが……」

「ほらほら、ちょっと何人か紹介して!」

 俺は酔いも手伝って図々しくお願いをしてしまう。

 

 そこにグラスを持った美奈ちゃんが乱入。

「なに? 誠さん、私じゃダメって言うの?」

 そう言って、上目遣いでこっちを見る。

 

 俺は琥珀色の瞳にドキッとしながら、ワイングラスをカチンと合わせ、

「美奈ちゃん、浅草寺連れてってくれないし~」

 そう言って、そっぽ向いて拗ねてみる。

 

「あら、マーカスに聞いたのね、秘密って言ったのに」

 嬉しそうにニコッと笑う。

 

「まぁ、仲良くやってくださいよ。社内恋愛禁止じゃないし」

 俺はぶっきらぼうに言う。

 

「ふふふ、どうしようかなぁ……」

 上を向いて人差し指を顎に当てた。

 

「また、もったいぶって……悪女だなぁ」

「悪女とは失礼ね! 私は『愛の秘密』を解いた人と付き合うのよ」

 また訳わからない事を、言いだした……。

 

「『愛の秘密』? 何それ?」

「秘密を教える訳ないじゃない。バカなの?」 

 美奈ちゃんは軽蔑のまなざしで俺を刺す。

 

 だが、いきなりそんなこと言われても、そんなの分かる訳がない。

 

「ヒント位くれよ~」

 俺は間抜けな顔しながら頼み込む。

「しょうがないわねぇ……」

 

 美奈ちゃんは、ワインを一口飲んで言った、

「こないだシアンに、愛の機能つけたんでしょ?」

「え? あれはAIの喧嘩防止機能だろ?」

「ふぅ……だからダメなのよ」

 美奈ちゃんはため息をつき、ダメ出しをする。

 

「えっ!? ちょっと待って、シアンと俺って同列なの?」

「そんくらい自分で考えなさいよ!」

 そう言って、美奈ちゃんは席を立ってしまった……

 

 いや、ちょっと待って欲しい。確かにAIの喧嘩を防止するためにマインド・カーネルを実装した。それで喧嘩はなくなった。でも、それと美奈ちゃんと付き合える条件に、何の関係があるのか?

 この禅問答の様な捉えどころのない設問に、俺はすっかり困惑した。

 

 俺はクリスに聞いた。

「クリスは美奈ちゃんの言う事分かる?」

「…。もちろん」

 そういって微笑んだ。

 

「え!? 分かるの!?」

 俺は言葉を失ってしまった。

 

 美奈ちゃんはクリスのレベルに達していて、俺はただのお子ちゃまだって事らしい。

 

 一瞬、クリスに教えてもらおうか、とも思ったが、女子大生でも分かる事を、今さら神様に聞くのも(しゃく)である。

 これは自分で解決しないとならない。

 

 俺は赤ワインをクルクル回しながら、必死に考える――――

 

 そもそも愛ってなんだ……?

 シアンでは、他人が喜ぶと嬉しくなるように、マインド・カーネルで調整を入れた。愛とは、他人と自分の関係を変えるものって事だ。ここに秘密があって、それを解くと美奈ちゃんの彼氏になれる……。

 ダメだ……、全く関連性を見い出せない。本当に繋がりなんてあるのだろうか?

 

 しかし、クリスは納得しているのだから、悪いのは俺の頭の方らしい。女子大生にも負ける俺の知力。俺の28年間の人生は何だったんだ……。

 思えば俺は、親に捨てられた事でいじけ、PCを叩いてばかりいたような気がする。人付き合いを忌避し、楽しくやってる連中を『パリピ』と馬鹿にし、世間をひねくれた目で見ていたかもしれない。ある意味、人間関係について、真面目に考えることから逃げてきたのだ。だから彼女もできなかったし、『愛』についても何もわからない。

 

 事、ここに至って初めて、俺は自分の人生の薄っぺらさに愕然とした。

 

 なるほど、美奈ちゃんが呆れるのも当たり前だ。『人類の守護者を作るんだ!』とぶち上げたものの、実は俺自身が、人間の事を全く理解していない現実を突きつけられてしまっているのだ。人間は知恵だけの存在ではない、社会の生き物なのだ。愛とは何か、心とは何か、ここの理解をできない者が守護者づくりなんて、おこがましかったのだ。

 

 人間の姿をして人間社会で活動しているだけでは、『まともな人間』の条件は満たさない。俺は初めて人間の本質に触れた気がした。

 

 俺はグラスの中で揺れる赤ワインを眺めながら、自らの浅はかさを深く恥じた。そして、親に捨てられたトラウマなど早く卒業して、前向きに、一人一人と丁寧に向き合っていこう、と誓った。

 

 その晩、俺はなかなか寝付けなかった。

 

 



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3-1.超頭脳AIマウス

 翌週、中国からBMIの試作品が届いたので、いよいよ動物実験に入る。

 

 このBMIは、薄いフィルム上に回路が形成されており、これを金のナノ粒子溶液と共に、神経に巻き付ける事で、神経とコンピューターを接続させる。(※)

 

 俺はオフィスの個室に、透明なテント状の簡易無菌室を展開し、顕微鏡付きのマニュピレーターを設置して、消毒したマウスをセットした。

 

「じゃ、クリスお願い!」

 俺は打ち合わせ通り、クリスに託す。

 

「…。誠よ、これは本当に私の仕事なのか?」

 気乗りのしないクリス。

 

「俺も何度か試しにやったけど、全然うまくいかなかったんだよ。もうクリスにしか頼れないんだ」

 俺は何とか頼み込む。

 

 クリスは少し何かを考え、

「…。そうか」

 そう言うと、手術服に身を包んで、無菌室に入って行った。

 

 BMIは脊髄に2か所、脳の下部に1か所設置しないとならない。

 まずは背中から腰をメスで切開、背骨が出てきたら第一腰神経を探す。背骨から出てきている神経に、BMIを装着するだけなのだが、神経の太さは髪の毛の太さ程度しかない。そんな物にどうやってフィルムを巻き付けたらいいのか、俺は何度やっても失敗してしまっていた。

 

 クリスは淡々とマニュピレーターを動かし、神経を露出させた。そして、金のナノ粒子の赤い溶液を、スポイトで垂らす。さらに、その上からBMIのフィルムを巻き付ける。髪の毛に数ミリ四方のサランラップを巻く様なものだ、とても人間技ではできない。

 それをクリスは、あっさりと神業で巻き付けると、生体接着剤でBMIを固定し、切開部を縫合した。

 その間わずか10分。さすがである。

 

 俺は

「No.1! Connect Deep linking! (1番接続!)」と、エンジニアチームに向かって叫ぶ。

 

「No.1 Sir! (1番了解!)」

 コリンが返事してくれる。

 

 BMIから繋がるフィルムケーブルは、コンピューターシステムと繋がっている。

 まずはBMIから神経線維に向かって、金の回路を作らないといけないので、電圧のパルスを送る。

 コリンはキーボードをたたき、事前に試行錯誤したパターンの電圧と、タイミングを再現させた。

 数分間、神経線維との間の回路が形成されるのを待つ。

 

 美奈ちゃんはモニターを見ながら

「上手くいきそう?」と、聞いてくる。

 

「死んだマウスの神経でやった時は、何とかうまく行ってたけど、生きてるマウスは初めてだから、何とも……」

 自信なさそうな返事しかできない。

 

「しっかりしなさいよ!」

 美奈ちゃんは人の苦労も知らず、好き放題言ってくる。俺はその自分勝手さに少しムッとした。

 

 美奈ちゃんは首を伸ばし、手術台のネズミの様子を見ながら言う。

「で、これが上手くいったらどうなるの?」

 

「AIが、マウスの身体を持つ事になる」

「あのネズミがAIネズミになるのね?」

「そうそう、品川のIDCにあるコンピューター群を頭脳として、マウスが動くようになるんだ」

「うーん、なんかピンと来ないなぁ」

 美奈ちゃんは眉間にしわを寄せながら、首をかしげた。

 

「歌って踊って対話できるネズミ、になるって言えばわかるかな?」

「え~!? ピカチュウじゃん!」

 美奈ちゃんはパッと明るい顔をして、嬉しそうにこっちを見る。

 

「そうそう、『ピカー!』って言って10万ボルト発生させたら、成功だな」

「10万ボルト!?」

 美奈ちゃんは目を丸くしてビビる。

 

「そうそう、ビリビリってするよ!」

 俺は両手を美奈ちゃんの方に向け、指をワサワサと動かしてからかってみる。

 

「危ないじゃない!」

 美奈ちゃんは眉間(みけん)にしわを寄せながら言う、

 

「冗談だよ、ハッハッハ」

 俺がそう言って笑うと、美奈ちゃんは能面の様な顔でティッシュ箱を持った。

 何をするのかと思ったら、次の瞬間、振り上げて俺を叩き始める。

 

 Bang(ボカッ)! Bong(ボカッ)! Flick(バシッ)

 

「痛い、痛い! やめて~」

「悪い子にはお仕置き!」

 美奈ちゃんはそう言って、さらに3発叩いた。

 

 クリスは無菌室の中で、バカな事やってる俺達を見ながら、微笑んでいる。

 

 

          ◇

 

 

 金のナノ粒子が定着したタイミングを見計らって、うまくつながったかどうか計測してみる。

 時計の秒針を見ながら、

 

「No.1!  Check Deep linking! (1番チェック!)」 と、叫ぶと、

「No.1 Sir! (1番了解!)」と声が上がる。

 

 手術室には大画面モニタがあり、ステータスがリアルタイムに表示されている。

 マウスとAIの接続がうまく行っていれば、触覚の反応が画面に反映される仕掛けになっているのだ。

 

 クリスに、マウスの脚をゆっくり撫でてもらう。

 ここで反応が画面に出るはず……だが……何も出ない……。

 

「あれ~……」

 俺が青い顔でモニタを睨んでいると、

 

「なに? 失敗?」

 隣で美奈ちゃんが、不機嫌な顔で嫌なことを言う。

 

「いや、全く出ないなんてこと、ないと思うんだけどな……」

「私をからかったりするから、罰が当たったのよ!」

 意地悪な笑みを浮かべて、美奈ちゃんが言う。

 

「え~」

 俺は原因が全く分からず、困惑しきって両手で顔を覆った。

 

 接続ができないと、深層守護者計画はここで終わりになってしまう。ここは誤魔化(ごまか)しが効かないクリティカルパスなのだ。

 

 嘘ついて100億円調達してしまっているのだ。これで終わりになどなってしまったら俺は人生破滅だ。クリスにも見切られて、最悪記憶を消されてしまうかもしれない。

 暗いイメージばかりが去来し、俺は頭を抱えてしまった。

 

 静まり返るオフィス――――

 

『どうしよう……』

 俺は心の中を掻きむしられるような激しい焦燥に襲われ、冷や汗が止めどなく湧いてきた。

 

 嫌な時間が流れる。

 

「しょうがないわねぇ、正解を教えてあげるわ」

 美奈ちゃんは、ドヤ顔でそう言った。

 

「正解?」

「あそこのケーブルは何?」

 そう言って、美奈ちゃんが床に転がってるケーブルを、指さした。

 

「あ……」

 

 電圧印加用ケーブルと、接続用ケーブルは別なので、繋ぎ直さないといけないのだった……

 

 急いで繋ぎ直してみると……画面上に赤い球が、次々と浮かび上がってきた。

 

「なんだ、うまく行ってるじゃん!」

 解像度が十分かどうか微妙だが、ここまで取れていれば、実験には使えそうだ。

 

 続いて、電気信号を逆に送ってみる。数百万個の端子に、順番に電圧をかけていってみると、あるタイミングでピクっと足が動いた。

 反応が出た端子に、改めて信号を送ってみると、大きく足が動いた。こいつだ。

 電圧を色々と変えてみると、蹴る力も、それに応じて変わっているようだ。

 

「せ、成功だ!」

 俺はそう叫び、両手でガッツポーズをすると、そのまま大きく息を吐いて、椅子の背にぐったりともたれかかった。

 

「イェーイ!」「Yeah!」「ヒュ―――――!」「Hi yahoaaa!」

 オフィス中に歓声が響く。

 

「誠さんは、私がいないとダメね」

 美奈ちゃんが得意げに俺を見る。

 

「いや、まぁ、助かったよ……」

「ふふふっ、お疲れ様!」

 美奈ちゃんは、俺の肩をポンポンと叩いて出て行った。

 

 俺のポカはあったが、あれだけ難しい手術を、一発で成功させるクリスは、やはりすごい。

 神の技無くして、成功はなかっただろう。

 

 その後、同様に残り2か所のBMI設置手術を続け、さらに、カメラとマイクのついた仮面を取り付けて、五感がそろった完全なAIマウスとなった。

 

 ここに我々は深層守護者計画の最難関、生体接続をクリアする事ができた。AIがシンギュラリティを超えるためのクリティカルパスを、ついに超える事ができたのだ。これは人類初の快挙であり、これだけでも論文が何本も書けてしまう位の偉大な成果だ。

 これはチームで勝ち得た成果、チームの勝利と言える。じんわりと心の底から嬉しさがこみ上げてきて、俺はちょっと目が潤んでしまった。

 

『みんな、ありがとう……』

 

 俺は皆を一人ずつねぎらい、感謝を伝えていく。謙虚に丁寧に、チームを運営していくと決めたのだ。

 

 それにしても、美奈ちゃんは、なぜケーブルの事を知っていたのだろう……そんなこと教えた記憶ないんだが……

 

 

       ◇

 

 

 その夜、異質な巨大な部屋の真ん中で、宙に浮く数多くのモニタに囲まれてクリスが作業をしていた。大型の窓の向こうには、壮大な青い惑星がその巨大な威容を余すところなく広がり、明らかに地上ではない事が見て取れた。

 

 Ting-a-ring(ピロポロパロン)

 

 部屋に呼び出し音が響き、女性が入ってくる。ヘーゼル色の瞳が美しいその女性に、クリスは微笑みながら話しかける。

 

「…。やぁ、サラ、久しぶり。新作のワインがあるよ、飲む?」

 

 サラは軽く手を挙げ、ニッコリと笑うと、

「いただくわ」

 そう言って、空中に椅子をポンっと出現させ、そこに座った。

 

 微笑みながら乾杯をする二人。

 

 サラはワインを一口含み、目を大きく広げて軽くうなずいた。気に入ったようだ。

 そしてグラスをくるくると回しながら……

「勝負に出たわね、勝算はあるの?」

 探るような眼でクリスを見て言った。

 

「…。生体を利用してシンギュラリティを目指そう、というのは聞いたことがない。いいデータになるだろう」

「でも、クリスの関与が大きすぎると管理局(セントラル)は問題視してるわよ。このままだとこの地球、廃棄処分よ」

 

 クリスは目を瞑り、苦々しい表情を浮かべ、言った。

「…。シンギュラリティを実現したら文句ないだろう」

「実現……できたらね。あの子にそんな力があるかしら?」

「…。それは……」

 痛いところを突かれたクリスは言葉に詰まり、両手で顔を覆った。

 

「それから、あのにぎやかな女の子は何なの?」

 サラは小首をかしげながらクリスに突っ込む。

 

「…。美奈ちゃんか? 私と誠のやり取りを見て積極的に接触を図ってきた。何か感じないかい?」

 サラはハッとして、クリスを見つめて言った。

「えっ!? まさか……でも……スクリーニングは白なんでしょ?」

「…。真っ白だ。しかし、本物なら……」

「本物ならね」

 サラは鼻で笑うと窓へと歩き、眼下に広がる壮大な青い惑星を見て、ワインを一口含んだ。

「地球の人たちは、まさか自分たちが『作られた世界』の中にいるなんて気づきもしないでしょうね」

 

 クリスもサラの所へ行って、壮大な景色を見ながら言った。

 

「…。まぁ、知ったからといって、生活が変わるわけじゃないからな」

「あら、そうかしら? 私だったらバグを利用しようとするわよ。このシステム、結構バグだらけだし……」

「…。それは超能力者……だな。毎日潰すのに苦労してるよ」

「ふふっ、お疲れ様」

 サラはニヤッと笑ってクリスを見た。

 

「…。あれ? サラのところはやらないのか?」

「うちは人口がまだまだ少ないのよ。クリスが羨ましいわ」

「…。では、替わろうか?」

管理局(セントラル)にマークされてる地球なんてイヤよ」

 サラはそう言ってまた一口ワインを含んだ。

 

「…。まぁ、そうか」

「成功を祈ってるわ、手伝えることがあったら言ってね」

 サラはそう言ってウインクした。

 

「…。ありがとう」

 

 青い惑星には薄く巨大な輪があり、水平線の向こうから斜めに巨大なアークが立ち上がっている。二人は黙ってその壮大な景色に見入っていた。

 

 地球は『作られた世界』だと言う二人、そして二人ともただの作業員という事らしい。地球はだれが何のために作ったのだろうか?

 また、誠達が失敗したら地球は消されてしまうらしい。誠は人類の危機を引き起こしていたのだった。

 もちろん、本人はそんな事気づくわけもないのだが。

 

――――――――

※技術的補足 (ストーリーには関係ありません)

 

 コンピューターに現実世界を理解させるのは、とても難しい。それだけ世界は複雑で多様だ。でも我々人間や動物は世界を理解し、上手くやっている。これは肉体を持っているから、というのが大きい。赤ちゃんの頃から、肉体を通して世界にアクセスし、世界を触り、感じ、痛い目に遭って、世界の理を体で理解していく。

 コンピューターには身体が無いので、この大切なプロセスを経られない。だからどうしても頓珍漢な発想、思考を抜け出せない。

 この物語では、コンピューターに生身の身体を与えてみる事で、このプロセスを通過させる、という事を想定している。しかし、コンピューターの金属配線と、生体の神経回路はなかなか相性が悪い。そう簡単に接続ができない。そこでここではフィルム上のBMIを用いる事を検討した。

 

 BMIは、薄いフィルム上に回路が形成されており、1マイクロメートルおきに、電圧を測れる端子が付いている。つまり、1mm四方に1000個×1000個で100万個の電圧検出器が付いているのだ。とは言え、測りたい電圧は神経線維の中であるから、端子から神経線維までの間の配線も必要である。これには金のナノ粒子を使う事にした。金のナノ粒子に電荷をつけ、神経線維に浸して端子から電圧を印加すると、ナノ粒子が端子に集まってきて、端子から金のヒゲが伸びていく事になる。これが神経線維に絡む事で、うまく神経の信号を取れる事になる事を想定している。

 

 この分野は研究が進んでいるので、そのうちに無理のない形で、金属配線と神経回路が接続できるようになるだろう。SFの世界が現実に近づいている。

 



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3-2.ザギンでシースー

 手術の緊張から解放された気だるさの中で、あくびをしながら珈琲を入れていると、修一郎の親父さんから電話がかかってきた。

「あー、神崎君? こないだはありがとう。おかげで天安は手を引いてくれたようだ」

 

 俺は、珈琲をドリップしながら返事をする。

「それは何よりです」

「お礼をしないとな、と思うんだが、今晩あたり会食でもどうかね?」

 

 上場企業の社長によるお礼の会食、これは期待できそうだ。俺は前のめりで返事をする。

「いいですね! みんなも連れてっていいですか?」

「もちろん構わんよ!」

 

 という事で、仕事帰りに銀座のすし屋に向かう。

 

 新橋駅で降り、高速のガードをくぐると、昭和を感じさせる銀座の独特な電飾たちが目の前に広がり、高揚感が広がってくる。

 

「ザギンでシースーですよシースー!」

 

 俺は浮かれて美奈ちゃんに絡む。

 

「何がシースーよ! オッサン臭いわよ!」

 美奈ちゃんは呆れ、シッシッと俺を追い払う仕草をする。

 

 

      ◇

 

 

 スマホの地図通りに行くと、どうやらこの店らしい。

 

 木製の格子戸を恐る恐る開けると、白木の立派なカウンターに寿司職人がいて

「いらっしゃいませ!」

 と、いい声で迎えてくれた。

 

「田中で予約してると思います」

 そう伝えると、奥へと案内された。

 

 カウンターでは、見るからに同伴のペアが何組も寿司を楽しんでいる。さすが銀座だ。

 

 静かな個室に通される。

 奥にかけた掛け軸に、ダウンライトの明かりが当たり、落ち着くインテリアだ。

 

 先にビールを貰って飲んでると、修一郎と親父さんが現れた。

 

「悪いね、少し遅れちゃった!」

「いえいえ、先にやらせてもらってます」

 

 親父さんは店員に声をかける

「ビール二つ、それと最初に刺身、適当に見繕って!」

「かしこまりました」

 

 親父さんはおしぼりで顔を拭きながら、嬉しそうに言った。

「おたくのAI凄いな、取引中止企業って教えてくれてた鈴屋商事、不渡り出したよ」

「うちのAIは凄いんです」

 俺はちょっと良心の痛みを感じながら、ニッコリと答えた。

 

「この情報だけでも、売れるんじゃないか?」

「将来的には、AIのサービスの一環として、そういう情報も売っていきますよ」

 

 まぁ、クリスが出す情報は売れないんだが、ここはそう言っておかないと。

 

 扉を開けて店員がやってくる。

 

「ビールお持ちしました~」

 

 親父さんはにこやかに皆を見回して音頭をとる。

「では、天安撃退を祝って! カンパーイ!」

「カンパーイ!」「カンパーイ!」「カンパーイ!」

 

 泡が放つ芳醇のアロマ……仕事の後のビールは本当に美味い。

 

 刺身の盛り合わせも来たので、本ワサビを乗せてカンパチから頂く。

 しゃっきりとしていて、口の中に広がる脂が甘く、ワサビとのハーモニーがまた美味い。

 

「あー、銀座最高だ……」

 刺身を堪能していると、親父さんが身を乗り出してきて言った。

 

「でな、神崎君」

「はい、何でしょう?」

「儲け話があるんだけど、どう思うかね?」

「ブロックチェーンで月に5%って奴ですか?」

 ビールを飲みながら、適当に与太話で返す。

 

 すると、親父さんは目を丸くして言う。

「え? 何で知ってるの?」

 

 思わずビールを吹き出しそうになった。いい加減に、適当に言ったら当たってたらしい。

「いや、そういう詐欺最近多いので」

「詐欺? これは詐欺じゃないよ。ほら、これ見て!」

 

 親父さんはカバンから立派なパンフレットを取り出してきて、広げた。

 

「う~ん、良くできた詐欺ですね」

「詐欺じゃないって! ブロックチェーンを使った最先端技術で、安定して利益が出る事業への投資なんだって」

 

 親父さんは、パンフレットをバンバン叩きながら、熱弁をふるう。

 

「別に目新しい技術でもないですよ」

「そ、そうなの? でもメンバーが凄いんだよ、ほら、この人なんて、ICOで何度も当ててる、業界の有名人なんだって」

 指さす先を見ると、胡散臭そうなロシア人が格好つけて写真に映っていた。

 

「勝手に名前借りてるだけじゃないですかね? 会って話しました?」

「い、いや…。でも毎月ちゃんと振り込まれてくるんだよ」

 

「え? もうお金払っちゃったんですか!?」

 俺は思わず天を仰ぎ、おでこに手をあてた。

 

「友達に勧められたんで1億位……。でも毎月500万円ちゃんと振り込まれてくるんだ」

「いつ払ったんですか?」

「3か月ほど前かな?」

「今すぐ、解約してください」

 俺は強い調子で言い切った。

 

「……。解約するとかなり違約金が……」

 親父さんは(うつむき)き加減に力なくつぶやく。

 

「このままだと、半年くらいで支払いが止まりますよ」

「そんな……。まだ、詐欺と決まったわけじゃないだろ?」

「このスキームは出資法違反なので、まともな会社は絶対にこういう事やらないんです」

 

 親父さんは目を丸くして固まる。

「え? 違法なの……?」

 

「事前にご相談してくれれば……」

「け、警察行こう!」

 親父さんは必死な目して俺の手を取る。

 

「警察は民事不介入ですよ。契約通り進んでいるのなら、相手してくれませんね」

「でも、違法なんだろ?」

「この手のは警察もあまり動かないんですよ。それに、もし逮捕したとしても、お金は戻ってこないですね。お金の問題は民事なので」

「じゃ、どうしたら……」

 

 親父さんは、しばらくうつむいて何かを考えこんでいたが、意を決すると

「神崎君、何とかならんかね? 友達にも紹介してしまったんだ」

 と、俺の腕をぶんぶんと振って、必死に訴えてくる。

 

 俺は目を瞑って首を傾げ、ちょっと考えてみる……。

 だが、契約して金を払ってしまったとなれば、打つ手はほとんどない。お手上げだ。

 俺は渋い顔をしてクリスの方を見た……。

 

 クリスはビールを置くと、親父さんを見て、

「…。残念ですが、詐欺は騙される側にも問題があります」

 冷徹にそう言った。

 

「いや、確かに、儲け話に目がくらんだのは確かだ。だが……、全額でなくてもいいから、取り戻せんか?」

 

 クリスは目を瞑って上を向いて何か考え込み、しばらく首をゆっくりと左右に振っていた。

 そして、何かを思いつくと、親父さんを見て穏やかに笑い、口を開いた。

 

「…。分かりました。悪人を放っては置けません」

「おぉ、何とかしてくれるかね!」

「…。まずはこの遠藤さんを呼び出してください。ちょうど銀座に居ます」

 クリスはパンフの中のヒゲ眼鏡を指して言った。

 

 どうしてみんな銀座に居るんだろう? 日本は銀座で動いているのか?

 

 

           ◇

 

 

 遠藤と連絡がついて、例のバーで話をする事になった。

 

 お金を取り返す前に、まずは腹ごしらえ。

 

 親父さんは店員を呼び出して言った。

「人数分適当に握ってくれんかな? ワシはシャリ小で」

 

 俺も結構食べたので、

「あ、私のもシャリ小で!」と、伝えた。

 

「シャリ小って何?」

 美奈ちゃんがひそひそ声で聞いてくる。

 

「ご飯少な目って意味だよ」

「あ、じゃぁ私もシャリ小で!」

 美奈ちゃんが笑顔で声をあげる。

 

 ビールを飲みながら盛り上がっていたら、日本酒とお寿司がやってきた。

 

 綺麗なガラス皿に、丁寧に並べられたお寿司は、ツヤツヤに光り輝いており、見てるだけでもうっとりとする芸術作品だ。目で味が分かるレベルである。

 

 口に入れると、シャリがふんわりほどけて、そこにネタの香りが加わる。

 そして富山の日本酒を一口……。

 

『あー、幸せだなぁ……』

 

 ジーンと胸のあたりが温かくなり、ふんわりと広がっていく多幸感に俺はしばらく浸っていた。

 

 寿司は銀座に限る。

 

 美奈ちゃんは、器用にお寿司をひっくり返し、しょうゆをつけると、パクりと一口でいった。

 目を瞑り、しばらくもぐもぐと堪能して、

 

「う~ん、幸せ!」

 と、最高の笑顔をこぼす。

 

 俺はこういう素朴な笑顔に弱いかもしれない。

 ほろ酔い気分でそんな美奈ちゃんをボーっと眺めながら、俺は、湧き上がってくる柔らかい温かな感情に包まれていくのを感じていた。

 

 俺の視線に気づいた美奈ちゃんが、

 

「何よ! あげないわよ!」

 そう言って、キッとこっちを睨む。

 

「あ、いやいや、美味しそうに食べるなぁ、と思って見てたんだ」

 俺は自然とこぼれてくる笑みのまま、そう言った。

 

「美味しい物は美味しく食べないと、罰が当たるのよ!」

 美奈ちゃんはそう言って、大トロを一気に行くと、また嬉しそうにフルフルと揺れ、笑った。

 

 俺はゆっくりとうなずきながら、穏やかな幸せに満たされていくのを覚え、日本酒をキュッと(あお)った。

 



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3-3.君に死は似合わない

 寿司をたっぷり堪能したら、いよいよ戦場へ移動である。

 すっかり寒くなった、(きら)びやかな銀座の夜景の中をバーまで歩く。

 

 途中、楽しそうに腕を組んで歩くカップルをボーッと見ていると、美奈ちゃんが急に俺の腕にしがみついてきて、

 

「何? こうやって欲しいの?」

 と、言いながら小悪魔な笑顔を見せる。

 俺の二の腕には、柔らかな胸の温かさがじんわりと伝わってくる。

 

「い、いや、そんな……え?」

 俺はドギマギして言葉にならない。

 

「うれしい?」

 笑顔を輝かせながら聞いてくる美奈ちゃん。

 ふんわりと漂ってくるブルガリアンローズの香りに、俺は少しクラクラして何と答えたらいいのか途方に暮れた。

 

「何よ? 嫌なの?」

 反応の鈍い俺に不満げな美奈ちゃん。

 

「う、うれしいけど、こういうのは恋人同士がやるものだよ」

 と、無粋な返答をしてしまう俺。

 

「つまんない人ね!」

 美奈ちゃんは軽蔑の視線を俺に投げると、クリス達の方へ行ってしまった。

 

 俺は少し立ち止まり、美奈ちゃんの胸の温かさが残る二の腕をそっとさすった。

 胸がキューっと痛くなる。

 

 どうするのが正解だっただろう?

 俺は目を瞑り、うなだれ、そして大きく息を吐いた。

 北風がビューっと俺の体温を奪っていく……。

 

 華やかなネオンの下を行きかう人たちは、みな楽しそう。そんな中を、俺は一人暗い心持ちでトボトボと歩いた。

 

 これから遠藤と戦わなくてはならないというのに、困ったものだ。

 

 俺は大きくため息をついた。

 

 

      ◇

 

 

「いらっしゃいませ」

 ドアを開けるとバーテンダーが、微笑んで迎えてくれる。

 

 俺は開口一番ラフロイグのストレートを頼み、まずは気合を入れるためにキューッと飲んだ。

 焼けるような熱さが、のどから胃に広がっていくのを感じる。

 そして、鼻腔を貫く強烈なピート臭。キツい!

 

『ヨシッ!』

 俺は戦闘準備が整ったのを感じた。

 

「また飲みすぎないでよね」

 美奈ちゃんがジト目で言う。

 

「その時は介抱してくれるんだろ?」

 俺はニヤッと笑って返す。

 

「1回5000円ね!」

 美奈ちゃんは嬉しそうに返す。

 

「なんだよ、金取るのかよ!」

「今なら2割引きデース!」

「なんだよそれ~」

 俺は思わずのけぞってしまう。

 

 こういう馬鹿話なら得意なのにな、と思いながら、オシャレな丸い照明が微かに揺れるのをボーっと見ていた。

 

 するとドアが開いた。遠藤だ。

 気合を入れなおす。

 

 親父さんは、

「遠藤さん、こっちこっち」と、席に座らせる。

 

「こちらは、うちが出資してるAIベンチャーの皆さん。彼が社長の神崎君だ」

「神崎です、よろしくお願いします」

「あー、はい、遠藤です。よろしくです。で、今日はどういったご用件で?」

 遠藤は何やら警戒しているようだ。

 

 俺は単刀直入に切り込む。

「遠藤さんがやられているスキームですが、これは出資法1条で禁止されています。罰則は3年以下の懲役もしくは300万円以下の罰金、またはその両方です」

「うーん、法解釈の話をここでしても仕方ないですね。私は、出資法には抵触してない、と考えていますので」

 この辺は理論武装しているようだ。

 

「田中さんと、そのご紹介先の出資金を、そのまま返してくれれば、こちらとしても、事は荒立てたくないと考えています」

「いやいや、解約するなら違約金を貰いますよ」

 どう転んでも損はしない、悪党はその辺バッチリだな。

 

「こんな見え見えのポンジスキーム、調査したら言ってた事と違う事、色々と出てくるんじゃないですか?」

「いや、我々は公明正大に、やるべき事をやってますよ。ビットコイン取引で、ちゃんと利益も出してますし」

「どこの取引所で誰のアカウントでですか? 調べたらすぐに分かりますよ」

「うるさいな~、勝手に調べたらいいんじゃないですか?」

 遠藤はそう言って席を立とうとする。

 

 親父さんは、遠藤を制止し、

 

「遠藤さん、酷いじゃないか! 公明正大と言いながら逃げるのか?」

「我々は契約書通り進めるだけです」

 埒が明かない。予想通り、こうやって逃げ切るのだろう。

 

 クリスが口を開く

「…。遠藤さん、悪人と詐欺師とは、人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。人を騙す事は自分の人生を穢す事です。公明正大に、胸を張れる生き方にシフトしませんか?」

「お説教なんて、聞きたくないね」

 クリスは、目をそらす遠藤をじっと見つめると、こう言った。

 

「…。悠真(ゆうま)くんが、あなたと話したいと言ってます。話しますか?」

 

 遠藤の目の色が変わった。

 

「ゆ、悠真だって? 何言ってんだ、悠真はもう死んでる。ふざけた事言うのは止めろ!」

 遠藤は急に激昂し、テーブルを叩いた。

 

「…。じゃぁ、本人に来てもらいましょう。美奈ちゃん、悪いですがお願いできますか?」

 美奈ちゃんは、険悪な雰囲気に引きつった表情を浮かべながら……

 

「え? またやるの……? 分かったわ……」

 そう言って、渋々席を移ってクリスと手を重ねた。

 

 美奈ちゃんは目を瞑り、しばらく首をぐるぐると回していたが……

 急にパチッと目を開けると、遠藤を見てにっこり笑った。

 

「パパ! 僕だよ、ゆうくん! ひさしぶり!」

 明らかに子供の声に変わった。

 

「ゆうくん!? いや、ちょっとこれ、どういう事なの?」

 焦った遠藤がクリスに聞く。

 

「…。悠真くんが、話したいことがあるというので、聞いてあげてください」

「パパ、ごめんね。『沖の方には行くな』って言われてたのに、僕、言う事聞かなくて……」

「えっ?」

 

 遠藤は、何が起こったのか分からずに、唖然としている。

 沖の方と言うと、水難事故で亡くなったという事だろうか?

 

「パパ、あのね、すごい大きなお魚がね、ピョンって飛んだんだよ。だからそこまで行きたかったんだ」

「魚?」

 遠藤はまだ理解が追いつかないようだ。

 

「そしたら、足がつかなくてね、バタバタしてたら水飲んじゃった」

 遠藤は固まっていたが、やがて悠真くんの事を、信じたようだった。

 

「……。そうだったのか……。いや、あれはパパが悪かった。浮かれてビールなんか飲んで、ゆうくんの事……ちゃんと見て……なかった……」

 そう言って、遠藤はうなだれて涙を拭いた。

 

「パパは全然悪くないよ。ごめんねって伝えたかったんだ。ほんとだよ」

「ゆうくん……」

 そう言うと、遠藤は肩を揺らして泣いた。

 

「でね、パパにお願いがあるんだ」

 号泣してる人に容赦ないな、この子は。

 

「え? お願い? いいよ、何でも聞いてあげるよ」

 涙を拭きながら、遠藤は顔を上げる。

 

「ママと仲直りしてほしいんだ」

 

 遠藤はチラチラと俺達を見ながら言う。

「いや、ここでちょっとママの事は……」

「ママが皆にいじめられてるんだ」

「え? どういう事!?」

 遠藤はちょっと声が大きくなる。

 

「ママ、今一人で暮らしてるでしょ? だから働かないといけないんだって」

「そんなの、ママが勝手に出て行ったんだ。パパは知らないよ」

 遠藤は少し不貞腐れて、ぶっきらぼうに言った。

 

「でね、会社で意地悪されてるの」

 

 遠藤はハッとした表情をして、少し考えて言った。

「ママは気配り下手だからな……」

「ママね、パパからの電話を、ずっと待ってるの」

「え? なんで? ママが自分で出てったんだぞ!」

「ママは今も、電話を持って寝てるの」

 

 それを聞いた遠藤は、頭を抱えて呟いた。

「明日香……。何をやってんだお前は……」

 

「パパ、仲直りして」

「いや、ママが勝手に出て行ったの! なんでパパが……」

 遠藤は意地を張って言う。

 

「パパ言ってたよね。『優しくなれ! 優しい人はカッコいいぞ!』って」

 遠藤はハッとした。その言葉を思い出したようだった。

 

「……。そうだったな。お前に教えられるなんてな……」

 遠藤はしばらく考えていたが、意を決して立ち上がり、

 

「ちょっと失礼……」

 そう言って店の奥で電話をかけた。

 

 表情を見る限り、上手く話しができてるようだ。

 

 悠真くんが説明してくれるところによると、悠真くんが亡くなった後、遠藤夫妻は口げんかが絶えなくなり、ある日母親は、家を出て行ってしまった、という事だった。

 子はかすがい、という事なのだろう。

 

 海は怖い、一瞬で命を奪う。そして、不幸は連鎖してしまう。

 遠藤は悪質な詐欺師ではあるが、だからと言って不幸を喜べるわけもない。

 何とかいい人生にしていって欲しい。

 

 遠藤はしばらくして、席に戻ってきた。

「ゆうくん、もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね」

「よかった!」

 そう言って満面の笑みを浮かべた。

 

「ありがとな!」

 遠藤も笑顔だった。

 

 よりが戻ったという事だろう。いじめられてる、世渡り下手の奥さんが救われて良かった。

 

「もう行かなくちゃ。ぼく、いつもパパのこと見てるからね。ケンカしないでね」

「ちょ、ちょっとまって!」

「バイバイ!」

 そう言うと、美奈ちゃんはガックリとうなだれた……。

 

 そして、

 

「ふぅ…」

 と、大きく息を吐いた。どうやら悠真くんは、帰って行ったようだ。

 

 遠藤は、唖然とした表情をして、固まってしまった。

 

 ジャズが静かに流れ、ウッドベースが重い低音を奏でていた。

 

 しばらくして遠藤は姿勢を正し、落ち着いて言った。

 

「こんな茶番は認めない。そもそも私のプライベートと、契約の話とは何の関係もない」

 頑固に拒否の姿勢をとった。

 

 クリスは、遠藤の目をしっかりと見つめ、ゆっくりと言った。

「…。これは遠藤さん、あなたの生き方の問題です」

 

 遠藤は何かを言いかけ……、(うつむ)いた。

 

「…。改めて悠真君の冥福を、みんなでお祈りしましょう」

 そう言って、クリスは手を組んで祈り始めた。

 みんなお互いの顔をチラチラと見合って、クリスの真似をして祈り始めた。

 

 遠藤も最初は躊躇していたが、最後には素直に手を組んで目を瞑った。

 

 静かにサックスの艶やかな旋律が流れる中、魚に会いに行って溺れてしまった、可愛い男の子の魂にみんなで祈った。

 

 祈り終わると、クリスが言った。

「…。悠真君は、今もあなたを見ていますよ。お子さんに胸を張れる生き方しませんか?」

 

 遠藤はクリスの言葉をかみしめながら、しばらく考えていた……。

 子供に見られている、と言うのは親にとってはきつい事だろう。ましてや、自分の不注意で死なせてしまった子供であれば、なおさらだ。

 

 遠藤はゆっくりと口を開いた。

「そう……優しく、正しく、生きる事が大切だって事は、その通りだし……良く分かった」

 

 しばらく目を閉じていたが、大きく息を吐くと、

 

「いいでしょう! お金はお返ししましょう」

 そう言って、晴れやかに笑った。

 

 クリスは

「…。それがいいでしょう」

 そう言って微笑んだ。

 

 遠藤はサバサバとした感じで、親父さんに向き合うと言った、

「田中さん、出資金は明日、返金します」

「そうか、助かるよ」

 親父さんもニッコリと笑った。

 

 単純にお金を取り返すのではなく、詐欺師を改心させて解決するクリスの手腕は、いつもながら見事だ。

 

 

        ◇

 

 

 帰り道、銀座を歩きながら美奈ちゃんは

「死者を呼び出せるなら、生き返らせるのも、できるんじゃないの?」

 と、クリスに聞く。

 いきなり、核心を聞く美奈ちゃんに、俺はドキッとした。

 

「…。もちろん技術的にはできますが……それをやってしまうと、神の摂理に反するのでダメです」

 すごい、さすが神様! でも『技術的にはできる』という言い方に若干引っかかりを覚える。奇跡は技術の話なのだろうか?

 

「ふぅん、今、誠が死んじゃっても、生き返らせてくれないの?」

 俺が死ぬ話になっている……。

 

 クリスはチラッと俺を見ると、

「…。ごめんなさい」

「あ、いいよいいよ、死んじゃう方が悪いんだから……ちなみに……美奈ちゃんが死んでも、ダメなんだよね?」

「…。例外はない」

 

 それを聞いた美奈ちゃんは

「あー、私はいいわよ、死なないから」

 そう言って、にこやかに笑った。

 

「いやいや、美奈ちゃんはまだ若いからそんな事言うけど、死なない人なんていないんだぞ」

「うふふ、大丈夫大丈夫!」

 そう言いながら、軽やかに数歩駆けた。

 

 そして、軽くタタタン、タンとステップを踏み、クルリ……クルリと回った。

 

 指先は優美な弧を描き、指輪の石がキラキラと輝きの軌跡を作る。

 銀座の歩道がその一瞬だけ、素敵なステージとなった。

 

 思わず見とれてしまう俺を見て、ふわっと笑う。

 

 そして、さらにタン、タタンとステップを踏んで銀座の夜空に大きく手を伸ばした。

 

 心が揺れる音がする。

 

 なるほど、君に死は似合わないな……。



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3-4.部長決済のスイーツ

 マウスが手術から回復したのを見計らって、いよいよAIとの本格的な接続準備を開始する。

 前回、単純な接続については確認済みではあるが、本格的に飛んだり跳ねたりが自由にできる状態かどうか、を精査していく。

 

 オフィスにマーカスの檄が飛ぶ。

「Hey Guys! Let's start the operation! (お前らやるぞ!)」

「Yes sir!」「Yes sir!」「Yes sir!」

 みんな気合十分である。

 

 それを見届けると、マーカスは特注の高級ネットチェアに、ドスンと座り、キーボードで何かを高速に打ち込んだ――――

 

 流れる出力を見届けると、

 

「No.1! Check Deep linking! (1番接続!)」と、エンジニアチームに向かって叫んだ。

 

「No.1 Sir! (1番了解!)」

 コリンは大声でそれに答え、キーボードをチャカチャカ叩きながら、複数の画面をあっちこっち見ている。

 

 オフィスには、大画面モニタを3つ、メゾネット上階の手すりの所に配置している。

 ここには、主要なステータスを常時表示しているので、状況が良く分かる。

 マウスの生命安全度(バイタル)や、筋肉への運動信号の強度マップが表示され、触覚や視覚、聴覚などのモニタリングもできる。なんだかアニメに出てくる科学基地みたいだ。

 心臓の鼓動に合わせて、ステータスは波打つように変化しており、マウスがしっかり生きている事を感じさせてくれる。

 

 一番左の画面上では、ステータスバーが点滅しながら伸びている。

 どうやら、今の接続確認工程が進むたびに、このステータスバーが伸びるようだ。

 

 順調に伸びていたステータスバーだが……急に止まってしまった。

 同時にマウスのステータス表示が、急に乱れはじめた。

 嫌な予感がする。

 

「No! No! Stop!!!」

 デビッドが立ち上がって叫んだ。

 

 と、次の瞬間、全部の画面が急に真っ赤になり『WARNING!!!』のサインが明滅する。

 

 ビーッ! ビーッ!

 

 非常音もあちこちから鳴り響く。

 

 

 慌ててマーカスが

「Stop Deep linking! (停止!)」と、コリンに向かって叫ぶ。

 

「Stop Sir! (停止了解!)」

 コリンも慌ててキーボードを叩き、リカバリに努める。

 

 クリスも、急いで走ってマウスの方へ行ってしまった。

 一発目からいきなり緊急事態である。

 

 オフィスに緊張が走る。

 

 俺は両手で顔を覆い、ソファーにドスンと身を沈めた。

 やはり、そんな簡単な話ではないのだ。

 

 マーカスが、マーティンの方に走って行って、何か深刻そうに相談している。

 どうやら、筋肉に行くはずの信号が、内臓に向かっている神経に流れてしまい、出てはいけない分泌物が多量に分泌され、生命安全度(バイタル)が乱れたらしい。

 

 生体とのリンクは、強引につないだものだから、どうしてもこの手の混線が避けられない。

 そして、混線はBMIのフィルムの中の、極微細な配線の中にあり、もはや手が付けられない。つまり混線は直せない。

 

 その配線を使わずに、筋肉を動かさないとならないが、他のルートを探すのも慎重にしないと、マウスが死んでしまう。

 

 みんな必死で解決策を探しているが、簡単な解決策などない。

 ここまで難しいとは……。

  

 1時間ほどして、ようやくマウスの生命安全度(バイタル)が落ち着いてきた。

 

 エンジニアチームは、会議テーブルで善後策を議論しているが……やはりそう簡単ではないようだ。

 

「That's That! (しかたないだろ!)」

「No! No!」

「I don't give a shit!(知らねぇよ!)」

 

 みんなちょっとイライラしてきている。

 ピリピリした雰囲気がオフィスを包む。

 

 俺がハラハラしていると、

 

「誠さん、何してるの! こんな時こそあなたの出番よ!」

 美奈ちゃんが、ひそひそ声で珈琲セットを指さす。

 

 確かに、ちょっとブレイクを入れた方がよさそうだ。

 俺はさっそく、珈琲の豆を挽き始めた。

 珈琲豆は、ふんわりと香ばしい芳醇な香りをたてながら、砕けていく。

 

 俺は珈琲の香ばしい豊かな香りをゆっくりと吸い込み、心を落ち着けた。

 そして、細心の注意を払って丁寧にドリップし、美奈ちゃんに渡す。

 

 ちょっとヒートアップ気味だったみんなも、美奈ちゃんから珈琲を受け取ると、笑顔を見せた。

 笑顔は問題を解決する。厳しい局面でこそ心の余裕が大切なのだ。

 

 珈琲が功を奏したのか、この後、混線の回避手法が開発された。

 事前に微小電圧で混線具合のマッピングを取っておく事で、クリティカルな配線を封印できる事が分かったのだ。

 これで何とか副作用なく、筋肉を動かす事ができるようになった。

 

 しかし、最初の接続テストからこんな感じなので、長期戦が予想される。

 

「誠さん、買い出し行くわよ!」

 美奈ちゃんがそう言って、俺の手を引く。

 

「え? 何買うの?」

 俺がぬるい返事をすると

 

「バカねぇ、腹が減っては戦ができないって言うでしょ? お昼買ってきてあげなきゃ!」

 呆れたように言う。

 確かに、もう午後2時近くなのに、皆必死で、お昼を食べるような雰囲気じゃない。

 

「なるほど、行こう!」

 

 二人でコンビニに行き、適当にパンやおにぎり、サンドイッチをカゴに詰め込んでいく。

 食べ物をたくさん買い込むと言うのは、実に楽しい。普段は散々選んで一つ買うだけなのに、気になる物手あたり次第買えるのだから、素敵なエンターテインメントである。

 鼻歌まじりに次々とカゴに入れていると、美奈ちゃんが、高級そうなショコラを、さり気なくカゴに入れるのを見つけた。

 

「え? スイーツも買うの?」

「それは私のよ!」

 そう言ってニコッと笑う。

 値札を見ると1100円もする。

 

「いやいや、ちょっと高すぎないこれ?」

「100億もある癖に、何ケチってんのよ!」

 逆ギレである。

 

「いや、これ、経費で落ちるのかなって……」

「総務経理部長は私で~す。部長決済で通しま~す!」

 いたずらっぽい笑顔で、嬉しそうに言う。

 

 職権乱用だとは思うが……まぁ長丁場だし、仕方ないかもしれない。

 

「じゃ、俺の分も……」

 俺が棚のショコラに手を伸ばすと……

 

 Flick(ピシッ)

 

 俺の手を叩く。

「ダメで~す! 男性の方は経費になりませ~ん!」

 

「え!? 男女差別反対!」

「うちの会社は赤字で~す! 経費節減!」

「いや、100億もある、って自分で言ってたじゃん!」

「つべこべ言わないの! 私の一口あげるから」

 そう言ってウインクする美奈ちゃん。

 

 しかし、社長が女子大生に言い負かされるわけにはいかない。

 ここは断固抗議をして、威厳を取り戻さなくてはならない。

 

 俺が決意を固めていると、美奈ちゃんは首をかしげ、俺を見上げるようにして最高の笑顔で言った。

「ねっ♡」

 俺は彼女のあまりの可愛さに、脳髄に衝撃が走るのを感じた。そして、本能が勝手に白旗を上げた。

 

「わ、分かったよ、一口ちょうだいね」

 俺はそう言うと、負け切った表情で、手をさすりながらレジへと向かった。

 

 (あらが)いがたい、この謎な彼女の強さは何なのだろうか。

 

 女子大生ってみんなこんなに強いのだろうか……、女性との交流が乏しかった俺にはさっぱり分からない。

 

 人間を知るというのは大変だぞ、これは……。

 



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3ー5.就活地獄娘がインターン!?

 マウスとAI間の接続チェックが終わったら、次は基本動作の実装(インプリメント)。しかし、生体は仮想現実空間のロボットシアンと違って、何から何まで難しい。

 まず、水を飲ませる事すらできない。

 

 水を飲むというのは、実は極めて難しい事なのだ。

 水に口を近づけて、舌を出し、舌で水を汲み、それを勢いよく口の中に移動し、唇を閉じて、気管を締め、喉を動かし、食道に水をポンプの様に送り出す。

 それぞれ一つ一つが、極めて精密な制御をおこなわないと、失敗してしまう難題だ。

 

 いくらロボットシアンで鍛え上げたAIでも、自動でそれらを学習するには試行回数が足りない。

 仮想現実上では何億回でも試行錯誤ができるが、生体の場合は試行する度に負担がかかるから、気軽には試せないのだ。

 

 エンジニアチームが、全精力をかけて一日中トライしたが、目途が付かず一旦ペンディングになった。

 人類史上誰も成功したことが無いレベルの挑戦なのだから、仕方がない。

 

 俺はねぎらうため、疲れ切ったメンバーたちを食事に誘った。

 

 

 

          ◇

 

 

 近所の、ちょっと汚いけど味は美味い中華屋に移動して、ハイボールで乾杯。

 

「Hey Guys! You did good today. Let's drink! (お疲れ様、飲むぞ!)」

「Cheers……」「Cheers……」「Cheers……」

 なんかみんな疲れてて、おざなりな乾杯だ。

 

 棒棒鶏をつつきながら、マーカスに聞いた。

 

「Do you think it can be solved?(解決できるかな?)」

「ワレワレハ カミノ チーム! フカノウ ナシ!」

 そう言って疲れた表情を押し殺し、腕組んで上腕二頭筋を膨らまし、ニカっと笑った。

 

 成功を疑わない彼の姿勢が少し眩しく見えた。

 

「そりゃそうだよね、最後にはきっとうまくいく」

「そうそう、元気出して!」

 横から、美奈ちゃんがそう言って、にっこりと笑う。

 

「Oh! ミナチャン! ワタシ ガンバル!」

 途端に目の色が変わるマーカス。

 

 可愛い子に応援されると、男は無限のエネルギーが湧いてくる。

 単純で滑稽ではあるが これが人間と言う物なのだろう。女の子は偉大な魔法使いなのだ。

 

 そういえば、クリスに彼女を紹介してもらう話が、途中で止まっていたことを思い出した。

 

「クリス! 彼女を紹介してもらう話だけど……」

「…。まだ欲しいのか?」

「欲しい欲しい、今すぐ欲しい!」

 

 酔っぱらって調子づいてる俺をチラッと見て、クリスは言った。

「…。ガッつくとうまくいかない」

「あー、そうだね。でも、とりあえず候補と会うくらいは……」

 

 クリスは、エビチリをつつきながら言った。

「…。どういう娘がいい?」

「うーん、優しくて、俺をたててくれて……、可愛くて、自己主張が激しくない娘?」

 

 クリスは俺を一瞥すると、

「…。該当者0名!」

「え―――――! なんで!?」

「…。そんな都合の良い、奴隷みたいな娘は、現代ではファンタジーだ」

 クリスは油淋鶏の皿に手を伸ばしながら、冷たく言った。

 

「うーん、じゃ、全部の条件に合わなくていいから、近い娘をお願い!」

 

 美奈ちゃんが紹興酒片手にやってくる。

「なに? 誠さんまだ諦めてないの?」

「諦めたらそこで試合終了ですよ!」

 ハイボールがいい感じに回ってきている。

 

 美奈ちゃんが肩をすくめた。

 

 目を瞑って思案していたクリスが、口を開いた。

「…。美奈ちゃん、同じサークルの由香ちゃんなんかどうかな?」

「え~? 由香先輩? 誠さんにはもったいないわよ!」

 美奈ちゃんは酷い事を言う。

 

「ちょ、ちょっと、もったいないってどういう事だよ!?」

「誠さんの彼女にする位なら私が取っちゃうわ! 先輩の胸に飛び込むと天国のような心地なんだから……」

 そう言って美奈ちゃんはウットリとして、紹興酒をキュッと呷った。

 天国のような胸? 俺はゴクリと生唾を飲んだ。

 それを見た美奈ちゃんは、

「ダメ! こんな野獣に先輩は紹介できないわ!」

 そう言って腕を組んで、汚い物を見るような目で俺を見た。

 

「え~…… そしたら美奈ちゃん他の人紹介してよ!」

「誠さんには私がいるじゃない」

 そう言ってニヤリと笑う美奈ちゃん。

 

「え? 彼女に……なってくれるの?」

「なる訳ないじゃない。私のそばにいていいわって事よ」

 そう言って嬉しそうに笑った。

 俺はゲンナリとした表情で、

「そんな権利いいから由香さん紹介してよ」

「『そんな権利』とは何よ! 光栄なのよ!」

「光栄だけじゃねぇ……」

「なによ!」

 

 しばらく口論していたら、見かねたクリスが口を開いた。

 

「…。美奈ちゃん、誠にもチャンスをあげてくれませんか?」

 クリスにそう言われると、美奈ちゃんも無碍(むげ)にはできない。

 美奈ちゃんはしばらくジト目で俺を睨み、大きく息を吐いて言った。

「分かったわ、しょうがないわねぇ」

 

 そして、スマホを取り出すと電話を掛けた。

 

「はーい、先輩! 元気してる? うん……そうそう。で、今暇? いやいやそういう意味じゃないって。ちょっと出てこない? ……。そうそう、今。奢るからさ。うん、地図送っとくから。うん、待ってるね」

 

 先輩にため口っていいのだろうか? とは思ったが、サークルによってはそんなものかもしれない。

 

「来るって?」

 俺がドキドキしながら聞くと、

「飲み会に呼んだだけだからね。仲を取り持ったりはしないわよ」

 そう言って冷たい目で俺を見た。

「ありがとう! ありがとう! 悪いねぇ」

 俺はこみ上げてくるワクワクとした思いを、隠そうともせず伝える。

 

 すると美奈ちゃんは癪に障ったのか、

「イーッだ!」

 と言って向こうに行ってしまった。まるで子供みたいだ。

 

 美奈ちゃんはさておき、ついに彼女候補がやってくる!

 心臓がドキドキするのが聞こえてくる。人生のチャンス到来だ。

 

 どんな娘かな……

 可愛いといいな……

 あ、可愛いを第一優先条件にしておけば、よかったかな……

 

 そんな落ち着きのない様子の俺を見て、クリスは微笑んでいる。

 

 

        ◇

 

 

 ハイボールを景気よく空けていると、可愛い子がキョロキョロしながら店に入ってきた。どうやら彼女が由香ちゃんの様だ。

「こんばんわぁ……」

 

 しっとりとした黒髪に、透明感のある肌で、パッチリとしたブラウンの瞳にドキッとする。テラコッタカラーのクロップパンツに、クリームカラーのカットソー、それにクリーム色のカーディガンを着ている。

 豊満な感じの胸につい目が行ってしまうが……そういうエロい態度はまずいと思い直し、首をブンブンと振って邪念を払った。

 

「はーい、先輩! 座って座って! ビールでいい?」

 美奈ちゃんが椅子を引いて座面をパシパシ叩き、笑顔で迎える。

 

「うん……」

 辺りをキョロキョロ見回し、ちょっと緊張しているようだ。

 

 

 ビールが来たところで乾杯。

 

「由香です……。お招きありがとうございます……。かんぱい」

「カンパーイ!」「Cheers!」「カンパーイ!」「Cheers!」「Cheers!」「Cheers!」

 

 可愛い女の子の登場に、盛り上がる野郎ども。やはり女の子は偉大な魔法使いなのだ。

 

 それにしても彼女、なんだか懐かしい感じがする。初対面だと思うんだが……。

 うーん……。

 少し悩んだが、とりあえず声をかけてみる。

 

「俺は社長の神崎誠、俺たちはAIベンチャーのメンバーなんだ、今日は懇親会。楽しんでいってね!」

「私が参加しちゃって、大丈夫なんですか?」

 由香ちゃんは恐縮した感じで小さな声で言う。

 

「みんな大喜びだから大丈夫!」

 

 美奈ちゃんも

「うち、女の子少ないから、先輩来てくれて良かった」

 と、温かく歓迎する。

 

「そ、そうなの?」

「最近元気ないなーって思ってたから、気晴らしにも丁度いいでしょ?」

「え? そんな、出てた?」

 由香ちゃんは両手で口を隠すしぐさをする。

 

「先輩、デリケートだからね。今日はたくさん飲んで楽しんで!」

「ありがとう……」

 

 折角なので何か話題を振ろう。

「由香さんは、お休みの日は、何しているんですか?」

 

 すると由香ちゃんはうつむきながら答える。

「今は就活で、いっぱいいっぱいなんです」

「あ、3年生なの?」

「それが……。4年で無い内定なんです……」

 どよんとした雰囲気を漂わせ、由香ちゃんはうなだれる。

 

 ヤバい事を聞いてしまった。この時期内定ないのは辛いな……。

「余計な事聞いちゃったね、ゴメン」

「面接で次々落とされると……自分が否定されているようで、心が折れそうになるんです……」

 

 なんだか重い話題になってしまった……まずい、なんとかしないと……

 

「面接なんかで、由香ちゃんの良さは分からないよ。単に運が無かっただけだよ」

 必死にフォローする俺。

 

「そうなんですかね……。でも一つも受からないと、運だけとも思えなくて……」

「うーん」

 こういう時に、どういう言葉をかけてあげたらいいか、良く分からない。

 

 この辺りが、人付き合いから逃げてきた俺の限界だ。

 

「クリス、迷える子羊に、アドバイスをお願いします」

 クリスに丸投げである。情けない。

 

 横で聞いていたクリスは、由香ちゃんに優しく微笑みかけると、

 

「…。辛い中よく頑張りましたね。由香ちゃんは偉いですね」

 優しくゆっくりそう言って、ねぎらった。

 

 由香ちゃんはそれを聞くと下を向き、涙をポロリとこぼした。

 そしてハンカチを出すと、涙を拭きながら言った。

 

「すみません、泣いたりしちゃって……。でも、今は絶望しか感じられないんです」

「…。お気持ちは良く分かります。人生は苦しい物です」

「早く楽になりたいです」

「…。楽になってもいいんですよ」

「えっ? それはどういう意味……ですか?」

 怪訝そうな顔でクリスを見る。

 

「…。そもそも就活なんてしなくても死にません。やめてもいいんですよ?」

「いや、さすがにそれは……」

 ドン引きの由香ちゃん。

 

「…。では、入れる中小企業に行きましょう」

「それもちょっと……」

「…。応京大生としてのプライドがあるんですよね」

「……。」

 黙ってしまった。

 クリスの容赦ない正論に俺はヒヤヒヤする。どうするつもりなのだろうか?

 

「…。つまり、プライドが由香さんを苦しめているんです」

「友達はみんな超大手、マスコミ、広告代理店に行ってるんです! 私だけそんな……」

 由香ちゃんは核心を突かれ、冷静ではいられなくなったようだ。

 

「…。超大手に行くと幸せになれますか?」

「幸せ? 受かれば嬉しいと思うけど……幸せかどうかは入ってからの話ですし……」

「…。良い事を教えてあげましょう。中小企業に入った人と超大手に入った人の幸せ度には、変わりがありません」

「えっ?」

 驚き固まる由香ちゃん。

 

「…。超大手に行く意味は、見栄以外あまりないのです」

「いや、でも、給料とか、福利厚生とか、仕事の規模とか、全然違いますよ!」

 必死に主張する由香ちゃん。

 

「…。それらと幸せには関係が無いのです」

「そんな……」

「…。幸せとは会社の規模が作る物ではないのです。よく考えてみてください」

「いや、でも……」

 由香ちゃんは(うつむ)いて考えこんでしまった。

 今までの苦労を思えば反論したいと思うものの、いい言葉が見つからないようだ。

 

 クリスはそんな由香ちゃんを温かく見つめ、言った。

「…。もし、超大手にこだわらない、という事であれば、うちの社長に相談してみてください。時価総額2000億円の会社に、ねじ込んでくれますよ」

 

 ブッ!

 

 思わずハイボールを吹き出してしまった。

 クリスのお手並み拝見と思っていたら、俺に丸投げし返された。

 

 由香ちゃんが乗り出してきた。

「社長さん! そんな事できるんですか!」

「え? 俺? 俺が太陽興産にねじ込むって事?」

「…。誠ならできるでしょう」

 クリスは微笑みながら断言する。

 

「いや、親父さんがなんというかな……」

「太陽興産全然OKです! ぜひぜひ!」

 由香ちゃんは瞳を潤ませながら、必死に訴えかけてくる。

 

「うーん、ま、聞くだけ聞いてみるか」

 

 可愛い女の子に頼まれると断れない。俺はスマホを出して親父さんにかけてみる。

 

「お世話になっております、神崎です。夜分遅くに失礼いたします。……はい、はい、で、一つご相談がありましてですね、優秀な応京大生が、御社への就職希望してる訳なんですが、受け入れとかできますかね?」

 

 由香ちゃんは手を合わせて、必死に俺に祈っている。

 俺に祈られても困るのだが。

 

「あー、そうですよね……。え? インターン? うちで? え? うちの会社でですか?……私が判断ですか? え? 私の判断でいいんですか? はい、はい、分かりました。はい」

 

 由香ちゃんは身を乗り出して聞く

「ど、どうなりました!?」

「それが……うちでインターンして、戦力になるようだったら、太陽興産で受け入れてもいいって」

「え? 社長さんの会社でインターンするんですか?」

 不安げな由香ちゃん。

 

「由香ちゃんはAI分かる?」

「いや……文系なので……」

「うーん、じゃ美奈ちゃんの手伝いかな? 総務経理」

「あ、簿記なら3級持ってますよ!」

 軽く手を叩いてキラキラする目で俺を見る。

 

「じゃ、経理でしばらくやってみる?」

「ぜひぜひ!」

 そう言って由香ちゃんは初めて笑顔を見せた。

 その柔らかく温かい笑顔に、俺もつい微笑んでしまう。

 

 今、総務経理は美奈ちゃん一人だが、大学と掛け持ちだから結構大変である。由香ちゃんが活躍してくれればそれは助かるはずだ。

 

「おーい、美奈ちゃん!」

 

 俺が呼ぶと、マーカス達と楽しそうに話してた美奈ちゃんが、こっちを向く。

 

「由香ちゃんを、総務経理のインターンに採っていいかな?」

「え? 何?」

 そう言いながら、美奈ちゃんは嬉しそうに紹興酒を持ってやってきた。

 

「先輩入社するの? やったー! じゃ、私の秘書ね!」

「秘書じゃなくて、経理とかの手伝いだよ」

「ウェルカム、せんぱーい!」

 そう言って由香ちゃんの胸に飛び込んだ。

「きゃぁ!」

 驚く由香ちゃん。

 

「美奈ちゃん飲みすぎ!」

 美奈ちゃんを引きはがす俺。

 

「幸せ~」

 美奈ちゃんはすっかり酔った顔をして、俺にもたれかかった。

 漂ってくる甘い香りに、俺はちょっとドキドキしながら聞く。

 

「水でも貰おうか?」

 

 すると、耳元で

「インターンに手を出したら犯罪よ、分かってるわね?」

 そう囁いて、ニヤッと笑った。

 

「え? あ……」

 絶句する俺。社長がインターンを彼女にする事は、セクハラでアウトだったことを思い出した。何のために由香ちゃんを呼んだのか、分からなくなってしまった。

 

 美奈ちゃんは、愕然とする俺を見て、嬉しそうにみんなに向かって叫んだ

 

「由香ちゃんの入社を祝して、カンパーイ!」

 

「Cheers!」「カンパーイ!」「Cheers!」「カンパーイ!」「Cheers!」

 

 盛り上がる男たち。

 俺も力なくグラスを合わせながら、ぬか喜びしてた自分を呪った。

 

 こうなる事はクリスも予想していたはず……、なぜ……。

 

 結局のところ、神様を都合よく使おう、という発想が間違っていたのだ。

 俺は紹興酒のグラスを取って一気に空けた。

 やがて、キューっと回ってくる酔いに任せ、ゆらゆらと首を動かした。

 あぁ……またお預けだ……。

 

 楽しそうに談笑する美奈ちゃんと由香ちゃんを見ながら、ままならない人生を憂えた。

 

 俺は店員を見つけ、大声で叫ぶ。

 

「紹興酒お替り! ボトルで!」

 



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3-6.マウスに宿りしAI

 それから一週間くらい、エンジニアチームの試行錯誤が続いた。

 マウスに水飲ませるのに、天才たちが必死になっている様は、滑稽でもあるが、こういうのを一つ一つ超えて行かないと、人類の守護者は作れないのだ。

 

 俺が、税務署からの書類にハンコを押していると、マウスの部屋から大きな声が上がった。

 

「Hey! Makoto! Come on!(誠! 来て!)」

 

 マーカスが出てきて俺を呼ぶので、行ってみる。

 

 マーカスは少し痩せたみたいだが、笑顔でマウスを指さす。

「ヨウヤク ウマク イッタネ!」

 

 どれどれと見ると、マウスが水の前にいる。

「ミズ ノマス ネ」

 

 マーカスは、キーボードをカチャカチャと叩く。

 

 あれだけ苦労していた水飲みチャレンジ、本当にちゃんとできたのだろうか?

 再現性持ってできたという事であれば、人類史に残る偉業なのだが……。

 

 マウスはゆっくり顔を下げて、水に口を付け、ピチャ、ピチャと水を舐めた。

 

「Oh! Great!」

 凄い! 思った以上にちゃんと飲めている!

 

 俺は思わずハイタッチ!

 AIが生体を使って複雑な動作をさせたというのは、人類史上初だ。

 今、人類のフロンティアが目の前で切り開かれた。

 

「Hi yahoaaa!」

 マーカスも喜びで奇声を上げている。

 

 俺も真似て

「Hi yahoaaa! HAHAHAHA!」

 

 みんなも真似して

「Hi yahoaaa!」「Hi yahoaaa!」

 

 我々のAIは、人類の守護者にまた一歩近づいたのだ!

 みんなで大きく笑って、大いなる一歩を喜んだ――――

 

 

「なになに、どうしたの~?」

 奇声を聞いて美奈ちゃんがやってきた。

 

「見てごらん! 水飲んでるだろ?」

 俺は喜んで、美奈ちゃんにマウスを指さした。

 

 美奈ちゃんは、

「ん? 水飲んだだけ?」

 と、キョトンとしている。

 

「あー、これはマウスが飲んでるんじゃなくて、AIのシアンが、マウスの身体を使って飲んでるんだよ、すごいだろ?」

 

「ん~、そうなのね……すごーい」

 何という棒読み……。

 

 ノーベル賞級の大いなる成果も、美奈ちゃんには通じなかったか……。

 

 生体は機械と違って制約事項が多い、この一週間相当に苦労したはずだ。

 なおかつ深層守護者計画は極秘プロジェクト、どんなに苦労しても論文発表一つできない。

 実に孤独でストイックな挑戦である。

 

 俺はねぎらいの意味を込めて、ゆっくりマーカスとハグをした。

 滅茶苦茶汗臭かったけど、それだけ大変だったって事なのだ。

 

『みんな、本当にお疲れ様!』

 

 クリスも笑顔でほほ笑み、何度もうなずいている。

 

 美奈ちゃんは

「ちょっと待って! なんでこんなプロジェクトXみたいな、感動ストーリーになってんのよ?」

 そう言って俺に絡んでくる。

 

「あー、マウスが水を飲めたって事は、今後大抵のことができるって事なんだよ」

「水飲んだだけで?」

「水飲むって、とても精密な制御がいるんだよ」

「ふぅん……」

 美奈ちゃんは首をかしげながら、釈然としない表情をしている。

 

「コンピューター側から生体を、ここまで精密にコントロールできたって事は、世界初だからね。このマウスは世界一を実現したマウスなんだ」

 

「これが世界一ねぇ……」

 マウスをしげしげと眺める美奈ちゃん。

 

「まぁ、無理に分かろうとしなくても、いいよ」

 

 すると美奈ちゃんはこっちをキッと睨んで

「何、その上から目線!」

「いやほら、人には向き不向きがあるから……」

「何よ! 私にはわからないって言うの?」

 鋭い目つきでキレる美奈ちゃん。

 

「美奈ちゃんだっていつも『誠には愛が分からない』って上から目線じゃないか!」

 気おされながらも、頑張って俺が言い返すと、

 

「だってそれは本当の事でしょ?」

 当然の様に、真顔で言う美奈ちゃん。

 

 なぜ自分の『上から目線』はセーフなのか……

 何だこの理不尽さは……

 ムッとした俺は、目を瞑って肩をすくめながら

「愛を分かっているはずの人に、彼氏が居ないのはどういう事なんですかね?」

 そう、挑発した。

 だが……、美奈ちゃんは何も言い返してこない。

 

 背筋にゾッとする強烈な悪寒が走る。

 恐る恐る目を開けると、美奈ちゃんは今にも殺しそうな目で俺を睨んでいた。

『ヤバい……』

 姫の逆鱗に触れてしまったようだ。

 俺は冷や汗をかきながら急いで、

「美奈ちゃんに似合う男は、なかなかいないから仕方ないか」

 そう言ってフォローする。

 

 美奈ちゃんはティッシュ箱をガシッと掴むと、

「そうよ! 私は王子様を100万年も待ってるのよ!」

 そう叫びながら、俺の背中をボカボカと叩いた。

 

「悪かったよ、悪かった! よし、飲みに行こう! 美味しいお酒飲んでパーッといこう!」

 俺は必死に取り繕う。

 

 美奈ちゃんは真っ赤な顔で荒い息をしながら、俺をキッと睨んだ。

 そして、大きく息を吐いて、自分をなだめるように言う。

「そうね、お祝いだしね」

 

「そうそう、お祝い兼ねてオシャレなところでね」

 俺はちょっとこわばった笑顔で言った。

 

 美奈ちゃんのようなパーフェクトな美人でも恋愛は上手くいかない、というのはある意味本質を突いた話だ。むしろ美人の方が難しいのかもしれない。『愛』とは何か、俺はつかみかけていた『愛』の姿を、また見失ってしまった気がした。

 

 

       ◇

 

 

 俺はエンジニア達の方を向いて、叫んだ。

「Hey Guys! Let's go get a beer! (飲みに行くぞ~!)」

 

「Hi yahoaaa!」「Hi yahoaaa!」「Beer!」

 盛り上がるエンジニアチーム。大いなる成果を出した以上、彼らには大いに飲んでもらいたい。

 

 何しろこれでAIはマウスという身体を得て、現実世界に降臨したのだから。AIが受肉したら何が起こるのか、それは誰にも分らない。でも、ちゃんと丁寧に育てれば、心優しい人類の守護者に育ってくれるはずなのだ。

 今日、俺たちは大きく一歩、夢に近づいた。

 

 今夜の酒は美味いぞ!

 愛なんて分からなくても、美味しいお酒が飲めればいいんじゃないのか?

 

「Hi yahoaaa! 」

 俺はこみ上がる思いを押さえられず、雄叫びを上げ、思いっきり笑った。

 

 

 



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3-7.セクハラ女神

 翌日、由香ちゃんが初出社した。

 白いシャツにグレーのスーツ姿だ。

 

 『私服でいい』というのを伝え忘れていた、申し訳ない。

 

 まずは、ネットで拾ってきたインターンの契約書を見せ、内容を確認してもらう。

 時給は1100円だ。

 

 次にうちの会社の説明をする。

 深層守護者計画の内容を説明すると、狂人扱いされかねないし、下手したら警察に駆け込まれてしまう。

 あくまでも『太陽興産の子会社で、AIの開発をしている』とだけ伝え、バックオフィス業務をお願いした。

 

 美奈ちゃんも出社したので、具体的な業務内容の指示は美奈ちゃんに任せ、俺は自分の机に戻った。

 

「先輩! ちがうわよ~! ココ押してココ!」

 

 にぎやかな声が聞こえてくる……大丈夫だろうか?

 

「はい、押します~。で、ここに経費の数字を入れればいいのね?」

「そうだけど……。違う違う、そこは軽減税率で入れないとダメよ!」

「軽減税率?」

「消費税には8%と10%があるの!」

「え~……」

 なんだか大変そうだ。初日からちょっと荷が重かったかもしれない。

 

 

      ◇

 

 

 お昼は近所のイタリアンで、由香ちゃんの入社歓迎ランチ会だ。

 

 俺はマルゲリータピザを頼み、由香ちゃんは たらこパスタ。皆、思い思いの物を注文する。

 

「由香ちゃん、業務の内容は分かったかな?」

 俺は水を飲みながら、由香ちゃんのケアに努める。

 

「はい、概要はなんとか……」

「経理は、単純な仕訳を扱っているうちは良いんだけど、いつか数字が合わない時がやってくるんだ」

「え? そんな事あるんですか?」

 丸い目をする由香ちゃん。

 

「社会保険料が事前に計算してた値と違うとか、消費税の税率が違うとか、些細な理由で数字はすぐ変わっちゃうんだ」

「その原因を追究して、修正が大事って事ですねっ」

「そう、でも、どこまでやっても原因が分からない事があるんだ」

「え? 何で?」

 怪訝そうな由香ちゃん。

 学校では理不尽なケースなんて学ばないから、こういう反応になっちゃうのは仕方ない。

 

「それがリアルな社会であり、会計の現場って事だよ。社会は常に理不尽なんだよ」

「そ、そうなんですね……」

 由香ちゃんは不安そうに下を向く。

 

「そういう理不尽に対し、ポジティブに前向きに、笑顔で周りの助けを借りながら、乗り越えていくのが社会人なんだよ」

「勉強になります……。太陽興産もそう言う所を見るんですね?」

「うーん、良く分からないけど、社会人適正という意味で言うと、そうなんじゃないかな?」

「頑張ってみます」

 そう言って、由香ちゃんは両手でこぶしを握ってみせる。

 

 そんな由香ちゃんを見ながら、

『こんなに素直な娘なら、大丈夫かもしれないな』

 と思った。

 

 

「ピザはあっちね、たらこはここ!」

 美奈ちゃんがウェイトレスに、持ってきた料理の置き場所を指示する。

 

「先輩はインターンなんだから、気楽にやってて大丈夫よ」

 美奈ちゃんはそう言いながら、アラビアータをフォークでクルクル巻く。

 

「気楽って言われても……。就職もかかってるのに……」

「手抜きはダメよ! でも、楽しみながらやらないと、いい仕事にならないのよ」

「そう言うものかなぁ」

 たらこパスタをつつきながら、由香ちゃんが悩むので、俺もピザをつまみながら、

 

「パーフェクトを目指して肩に力はいると、良くないんだよ」

 と、諭す。

 

「確かにできる事しか、できないですしね」

「そうそう」

 

 と、やり取りをしながら気が付いたのだが、美奈ちゃんはまだ20歳の大学生のはず。それなのに今まで、簡単じゃない事務処理を一人で難なくこなしてきてる。これは普通出来る事じゃない。

 ずば抜けた美人なのに能力も高い、実はとんでもない大物なのかもしれない。

 

「そう言えば美奈ちゃんは、なんでそんなに卒なく仕事できるの? 何かやってたの?」

「うふふ、秘密で~す!」

 そう言って人差し指を立て、小悪魔風に笑い、ウインクをした。

 

 俺はそのウインクに不覚にもドキッとしてしまい、慌ててピザに目を落とす。

 

 だいぶ見慣れてきたはずだが、美奈ちゃんの澄み切った琥珀色の瞳で見つめられると、脳の奥にしびれが走る。まるで魔法だ。

 

 俺は深呼吸をし、ピザを見つめながら聞いた。

 

「美奈ちゃんはミスコンとか出ないの? 出たら優勝できそうだよね」

「ふふふ、当然声はかかるわよ、でも絶対出ないわ」

 ドヤ顔の美奈ちゃん。

 

「え? なんで?」

「ああいうのは、女子アナになりたいような人が出るのよ。普通の人は目立ったら損しかないわ」

 そう、あっさりと斬り捨てる。

 

 由香ちゃんは、

「美奈ちゃんはすごいなぁ、私は声かけられたことなんかないわ……」

 と、圧倒されている。

 

「うーん、由香ちゃん相当かわいいと思うよ。ただ、美奈ちゃんにはなんだか芸能人的なオーラを感じるんだよね」

「分かる気がします。女の私でもドキッとしちゃう時ありますもん……」

 ニコニコしながらそう言う由香ちゃんを、美奈ちゃんはチラッと見ると、急に手を伸ばした。

 

「何言ってんの先輩! こんなケシカランもの持ってるくせに!」

 いきなり由香ちゃんの豊満な胸を、むんずと掴む美奈ちゃん。

 

「キャッ! 美奈ちゃん何するの!?」

 由香ちゃんは驚いて体をよじる。

 

 俺も驚いて、

「おいおい、美奈ちゃん! セクハラはダメ! 昭和のオッサンじゃないんだからさ~!」

「あら、誠さん、私の胸と先輩の胸、どっちがいいのよ?」

 え? どっち?……、つい見比べてしまう俺。そして、バカな事をしたと、ひどく恥じた。

 

「ダメダメ! うちはそういう会社じゃないんだよ!」

 俺は目を瞑って話題を切ろうとした。

 

「ごまかしてるぅ~」

 ジト目で俺を睨む美奈ちゃん。

 

「そもそも胸なんて、単純な大きさだけでは、何とも言えないものなの!」

 俺は真っ赤になりながら墓穴を掘る。

 

「あら? じゃ、何で決まるのよ?」

 怪訝そうな目で俺を睨む美奈ちゃん。

 

「あ、いや、それは……」

 詰んでしまった。

 

「ともかく! 今日は由香ちゃんの歓迎会なんだから、由香ちゃん動揺させちゃダメ!」

「このくらいいいわよねぇ? 先輩?」

「いや、ちょっと、セクハラはダメです……」

 由香ちゃんは両手で胸を隠し、恥ずかしそうにうつむく。

 

「あら、ノリが悪いわねぇ……」

 美奈ちゃんはつまらなそうに口をとがらせる。

 

「はいはい! この話はこれでおしまい! そろそろ帰るよ!」

 俺は強引に場を締めて、ランチ会はお開きとなった。

 

 帰り際、由香ちゃんが小さな声で聞いてきた。

 

「さっきの話ですけど……美奈ちゃん、会社ではいつもああなんですか?」

「いやいや、あんなの初めてだよ。多分新しい女性が入ってきて、本能的に由香ちゃんをライバル視してるんじゃないかな?」

「ライバル視? 美奈ちゃんが?」

 由香ちゃんが意外そうに言う。

 

「由香ちゃんは可愛いからね、ちょっと妬いてる部分があるんだよ」

「可愛いだなんて……そんな……」

 そう言って顔を赤くしてうつむいた。

 

 美奈ちゃんが突っ込んでくる。

「あら、誠さん、先輩口説いているの?」

「違うよ、うちの取締役がセクハラしてくるという、重大問題について対策を話し合ってるのさ」

「なるほど、私をネタにして口説いてるのね!」

 不機嫌そうな美奈ちゃん。

 

「ん~、まぁそう言う面があるのは否定はしないけど、由香ちゃんは大切なインターン生だから、ケアはしっかりとしないとね」

「ふぅ~ん、私の事は口説いてくれないのにね」

 その気もないのに、美奈ちゃんはすぐこういうことを言う。真正の悪女だと思う。

 

「美奈ちゃんは猫みたいだから、俺の彼女になんて満足しなさそうなんだよな。すぐにどこか行っちゃいそう」

「猫!? ペットに例えないで欲しいわ!」

 キッとこちらを睨む美奈ちゃん

 

「え? じゃあ例えるなら何?」

「女神よ、女神! 恋多き自由な女神!」

 そう言って、歩道脇にあった石のオブジェに、ぴょんと飛び乗ると、指先で優美な弧を描きながら腕を振り上げた。

 

 実に優雅である。

 細く長い指先からくびれたウエストへの完璧なライン、そしてスカートから覗く白い腿に至るまで、その美しさは非の打ちどころなく、俺はまた脳の奥がしびれてきた。

 

 すると、どこからともなく大きな青い蝶がやってきて、美奈ちゃんの振り上げた指先に留まった。

 

 え!? 俺は唖然とした。

 

 俺が驚いていると、美奈ちゃんは当たり前だと言わんばかりに、蝶を口元まで連れてきて、軽くキスをすると、腕を大きく空へと伸ばし、満面の笑みを浮かべながら蝶を空に放った。

 青い蝶は陽射しを受けてキラキラと煌めきながら、美奈ちゃんをクルっと一周すると、どこまでも空高く翔んで行った。

 

 俺は呆然としながら、遠くへ消えゆく蝶を見ていた。

 

 そんな俺に、にこやかに微笑みかける美奈ちゃん。

 

 一体これはどういう事なのだろうか?

 まるで夢を見ているみたいで、現実感が無くふわふわしてしまう。

 

 俺はなんと返したらいいか分からず、降参した。

「こ、これは失礼しました、女神様……」

 

「そうよ! 猫じゃなくて女神なんだからぁ!」

 美奈ちゃんはそう言いながら、腰に手を当てて得意げな顔でポーズを決めた。



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3-8.エロ豚ブラザーズ

 2週間に及ぶエンジニアチームの活躍で、マウスは基本動作を一通りできるようになった。

 飛んだり跳ねたり歩き回ったり、物を掴んだり鳴いたりして、もはや普通のマウスと遜色ない動きを見せてくれる。

 

 さて、いよいよこれから、AIマウス・シアンが自律的な学習をして、知的生命体として育ち始める。

 一体、どんなマウスに育つのだろうか? 全く想像がつかない。

 初代シアンと大差ないお馬鹿さんかもしれないし、一気に人類の守護者レベルにまで、達してしまうかも知れない。

 みんな胸を膨らませて、学習プロジェクトをスタートさせた。

 

 部屋に巨大な鉄道模型の様な、大きなジオラマを用意して、そこにシアンを放して学習させてみる。

 ジオラマには芝生や植木や岩場、プールやジャングルジムなど、いろいろな体験ができる要素を加えた。

 

 AIには、初代ロボット・シアンのAIをベースにした物をマーカスが調整し、実装済みだ。

 

 さて、学習スタート!

 

 エンジニアチームは皆、画面を食い入るように見つめて、流れていくログや、ステータス表示に異常がないか探している。

 

 俺は美奈ちゃんと実験室で、シアンの動作を観察する。

 

 シアンは最初、ロボットみたいにぎこちなく、周りの様子をうかがっていた様だったが……

 

「あ、動き出した!」

 美奈ちゃんが嬉しそうに声をあげる。

 

 まずは芝生の上を真っすぐに歩く。

 

「おぉ、まずは歩き出したか。次はどうするのかな……」

 

 しばらく歩いたら、今度はUターンして元に戻り始めた。

 

 どうしたんだろうか?

 

 怪訝な顔で見ていると……しばらくしてまたUターンした。

 

 一体何をやってるのか良く分からない。

 

 見てると、またUターンである。

 

「これ……? 大丈夫?」

 美奈ちゃんが不安げに言う。

 

 壁に掲げられた大画面モニターには、ステータスが表示されており、特に異状は見られない。

 品川のIDCにある、AIチップの稼働率は60%を超えていて、相当頭使ってる状態だ。

 

「何かを感じて学習していると思うから、いつまでもこうじゃないと思うんだけど……」

 俺も不安になってきた。

 

 その後数十回Uターンを繰り返し、美奈ちゃんが飽きた頃、シアンは植木の方へと動いて行った。

 

「あら……、ついに何かやるみたいよ」

 あくびしながら美奈ちゃんが言う。

 

 シアンは植木の幹にぶつかると、後ずさりし、しばらく何かを考えた後、再度植木にぶつかった。

 

「誠さん、ずっとこんな感じなの?」

 美奈ちゃんは呆れたように言う。

 

「まだシアンは、生まれたばかりの赤ちゃんだからね、まずは一通り、何でも繰り返しやってみる所からが、スタートだろう」

「ふぅん……、じゃ、私は先輩ん所行ってるわ」

 そう言って出て行った。

 

 まぁ確かに、見てて面白い物じゃないな。

 俺も、植木の周りをぐるぐる回りだしたシアンを見た後、自分の席に戻った。

 

 

          ◇

 

 

 翌日、シアンはジャングルジムに挑戦していた。

 ジャングルジムに登るためには棒を掴む動作が必要になるが、それをどうも理解できていないようだった。

 

 ぴょんと飛んでは跳ね返されて戻ってくる、というのを繰り返している。

 確かに失敗を繰り返す、というのがAIの学習には大切ではあるが、こう失敗続きだと学習にならないのではないか、と不安になる。

 

 後から見に来た美奈ちゃんも、すでに同じことの繰り返しで飽き始めている。

 

「なんでこう掴んで登らないのかしら?」

 美奈ちゃんは可愛いしぐさをして、首をかしげながら言う。

 

「掴んで登った経験が、まだ一度もないんだよ。一度でも経験出来たら違うんだろうけど……」

「手伝っちゃダメなの?」

 俺の顔を覗き込んで聞く美奈ちゃん。

 いきなり至近距離にきた、女神様の美貌に、俺はドキドキしながら答える。

 

「て、手伝ってあげたくなっちゃうよね、でもマウスを手伝うって難しいから」

「あー、指なんかすごいちっちゃいからねぇ……」

「そもそも近づいたら逃げちゃうかも?」

 

 美奈ちゃんの目がキラッと輝く

「え? 逃げるの? やってみていい?」

 

 飽きてるから、何か面白い事をやりたいのだろう。

 

「ダメダメ! マーカスに怒られるよ!」

「大丈夫! 大丈夫! マーカス優しいから」

 そう言って、ジオラマに入ろうとする美奈ちゃんを、すかさず引き留める。

 

「ちょっと! 女神様! ダメダメ!」

 抱き着いた格好で、手が胸をムニュっと掴む形になった。

 柔らかくふんわりとしたふくらみがすっぽりと手のひらに収まり、スレンダーで柔らかい美奈ちゃんの肉体が腕全体で感じられ、俺は理性が飛びそうになる。

 

「あー! どこ触ってんのよ!」

 美奈ちゃんが俺の手をピシピシ叩く。

 

「痛い痛い! 早く戻って!」

 俺はふんわりと立ち昇るブルガリアンローズの香りに包まれて、クラクラしながら言った。

 

「分かったから放しなさいよ!」

「いいからちょっと戻ってきて!」

「手を離すのが先でしょ!」

 揉めていると、大画面モニタに鬼の形相をした、マーカスの顔が出た。

 

「Hey! Be quiet!! (静かにして!)」

 烈火の如き怒声が部屋に響く。

 

「Oh! Sorry……(ごめんなさい)」

 こんなに怒ったマーカスは初めてである。

 俺も美奈ちゃんも、先生に怒られた小学生みたいにしょんぼりとしてしまう。

 

「Get out! (出ていけ!)」

「は~い」「は~い」

 

 俺と美奈ちゃんは、目でお互いを非難しながら、ゆっくり部屋を出て、そーっとドアを閉めた。

 

「それみろ! 怒られちゃったじゃないか!」

「何言ってんの! 私の胸触ったくせに!」

「触りたくて触ったんじゃないぞ!」

「触りたかったくせに~!」

 

 言い争いしながら、オフィススペースに降りてくると、由香ちゃんの怪訝そうな視線が刺さる。

 

 誤解させたかもしれない。

 

「先輩~! 誠に胸触られちゃったの~!」

 美奈ちゃんがオーバーに、被害を訴えながら由香ちゃんに走る。

 

「いやいや、由香ちゃん違うんだよ!」

「セクハラされた~!」

 ウソ泣きのしぐさで、由香ちゃんの胸に顔をうずめる美奈ちゃん。

 

 由香ちゃんが非難の目で俺を睨む。

 マズい、このままではセクハラ社長の烙印を押されてしまう。

 

「美奈ちゃんが、入っちゃいけない所にいきなり入るから、一生懸命止めただけなの!」

「あー! 傷物にされたー!」

 美奈ちゃんが大げさにわめく。

 

 由香ちゃんは、美奈ちゃんの頭をなでながら冷たい目で冷徹に言う。

 

「でも触ったんですよね?」

「いや、まぁ……」

 触った事実については抗弁できない。

 

「だったら、謝った方が良いかもしれませんね……」

「……。はい」

 

 俺は美奈ちゃんに謝った。

「……。悪かったよ美奈ちゃん」

 

 すると、美奈ちゃんはウソ泣きを止めて、

「最初からそう言いなさいよ!」

 そう言ってニヤッと笑った。

 

『くそぅ!』

 俺は眉をしかめ、歯を食いしばった。

 

 でも、柔らかなマシュマロのような、あの手触りは、確かにヤバかったので、致し方ないか……。

 

「先輩も誠には気をつけてね。どさくさに紛れて胸触るから」

「何てこと言うんだ! 由香ちゃんは『ダメだ』って言う事、しないから大丈夫だよね?」

「まぁまぁ、二人とも落ち着いてください、今、珈琲入れますから」

 由香ちゃんは大人である。

 

 美奈ちゃんは、勝ち誇ったにやけ顔でこちらを見る。

 とんだおてんば娘だ。

 

「Hi Everybody!(こんちわー)」

 玄関からにぎやかな男がやってきた。修一郎だ。

 

 タイミングの悪い奴だ。

 

「皆さん元気~?」

 妙にテンション高く、浮かれてる修一郎をみんな無言で見つめる。

 

「あれ? どうしたの?」

 修一郎が空気の違いを感じ取る。

 

「いや、何でもないよ、久しぶりだな、今日はどうしたんだ?」

 俺は冷静を装いながら、淡々と答える。

 

「いやー、由香先輩がジョインしたって言うからさー、様子見に来たんだよ」

 ニコニコと嬉しそうに言う修一郎。

 

「そうそう、先輩は私の秘書になったのよ」

 美奈ちゃんが自慢気に言う。秘書ではないんだが。

 

「えー、俺にも秘書つけてよ~!」

 修一郎がバカなことを言い出すので、俺が拒否する。

 

「お前会社に来ないじゃねーか、秘書なんか要らんよ!」

「えー……」

「どうしても欲しければ、親父さんに付けてもらえ」

「パパはそういうの許してくれないよ……。まぁいいや、それでうちの会社には慣れた?」

 修一郎は由香ちゃんに振る。

 

「あ、そうね、なんとか……」

「美奈ちゃんに虐められてない?」

 美奈ちゃんのお(つぼね)化を心配する修一郎。サークル内で美奈ちゃんはどういう位置づけなのだろう?

 

「大丈夫! あ、セクハラはされた……かな?」

「セ、セ、セクハラ!?」

 修一郎はオーバーアクションで、わざとらしく言う。

 

「あんなの単なる愛情表現よ! 私が誠さんに胸揉まれた方が、セクハラだわ!」

 美奈ちゃんは、両手で胸を守るしぐさをしながら被害を訴える。

 

「え―――――! 誠さん、それ犯罪ですよ! 姫の胸揉んだ、なんてことサークルの連中にバレたら、うちの連中暴動起こしますよ!」

「いやちょっと、誤解だって!」

 また、ややこしい話になってしまった。

 

「でも触ったんですよね?」

 修一郎は興味津々で聞いてくる。

 またこれか……。

 

「いや……まぁ……」

 すると修一郎は、いきなり俺の肩を組んで、オフィスの隅まで連れてきてひそひそ声で聞いてきた。

 

「美奈ちゃんの胸には、胸パッドで盛り盛り疑惑があるんすよ。パッドでした?」

 なんだその疑惑は。

 

 俺はあのふわふわとした、マシュマロの様な手触りを思い出しながら答える。

「いや、触った感じそんなでは……」

 

「聞こえてんのよ! このエロ豚ブラザーズめ!」

 美奈ちゃんは、こっちに駆けてくると、書類を丸めて修一郎と俺の頭を スパーン! スパーン! と叩いた。

 

 オフィスにいい音が響く。

 何という地獄耳、なぜあの距離で聞こえてるのか?

 

 それにしても先日から胸で揉めてばかりだ、大丈夫かこの会社。

 

 

 



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3-9.キスまで5センチメートル

 翌日、シアンは、ジャングルジムを登れるようになっていた。日々、急速に進化していくシアン、実に頼もしい。

 

 次は餌を使った学習だ。

 まず、餌をその辺において、自分で取って食べるように仕向けた。

 最初は恐る恐る、餌の匂いを嗅いで逡巡(しゅんじゅん)していたが、餌の美味しさに目覚めると、積極的に餌探しをする様になった。

 

 続いて、手で餌をあげるようにしてみると、人間を認識するようになった。

 俺が飼育部屋に入ると、走ってやってくるのだ。

 

 さらに、餌をあげずに焦らす様にしてみると……手を上げたり、お尻を振ったり、ダンスをする様になった。

 

 実に可愛い……

 これは美奈ちゃんに見せねばならない。

 

「おーい! 美奈ちゃん! ちょっとおいで!」

 俺はメゾネットの上の手すりから、下のオフィスにいる美奈ちゃんを呼ぶ――――

 

 しばらく待つと、

「何? もうセクハラは止めてね」

 そう言いながら、怪訝そうな顔をして美奈ちゃんが部屋に入ってきた。

 

 俺は言い返すのをぐっとこらえて、

「まぁ、ちょっとやってみてよ」

 と、餌を渡し、シアンを指さした。

 

「なに? これをあげればいいの?」

 美奈ちゃんは受け取った餌を、恐る恐るシアンの前に出した。

 

 シアンは、美奈ちゃんの手の匂いを、クンクンと嗅いだ後、餌を両手でつかむと、カリカリと齧って食べた。

 

「きゃー! かわいぃー!」

 大喜びである。

 

「餌を見せるだけで、焦らしてごらん」

「えー、かわいそう」

 渋い顔して嫌そうな美奈ちゃん。

 

「まぁいいから、やってごらん」

「分かったわよ……、ごめんね!」

 そう言いながら、美奈ちゃんは餌を見せながら、手に届かない距離で焦らした。

 

 シアンはジャンプしたりして餌に飛びつくが、美奈ちゃんは上手くかわす。

 

「いや~なんか、かわいそう」

「まぁ見ててごらん」

 餌をとるのをあきらめたシアンは、首を軽くぐるりと回すと、踊り始めた。

 

 両手をあげながら、右向いて左向いて、一度四つ足になって、また右、左。

 

「あら、何か踊ってるわよ。下手くそな盆踊りだわ」

「そうそう、シアンは餌が欲しいというのを、踊りで表現するんだ」

「へー、上手く踊れました! はい、ごほうび!」

 そう言ってシアンに餌をあげた。

 

 シアンは、嬉しそうに両手をすりすりとこすって、餌を受け取る。

 

「あら、ありがとうって事かしら? かわいいじゃない」

 ニッコリと笑う美奈ちゃん。

 

「これをね、もっと上手く躍らせたいんだよね」

「え? もっと上手くなるの?」

「理論上は、世界一上手く踊れてもおかしくないよ。だってAIだもん」

「え~?」

 不審げに眉を寄せる美奈ちゃん。

 

「美奈ちゃんたちのサークルは、ダンスサークルだろ、ちょっと何か、見本を見せてやって欲しいんだよね」

「見本って……私に踊れって言うの?」

「いやいや、スマホで動画とか、見せてやって欲しいんだよね、何をどう見せたらいいか、俺良く分からんので」

 

「ふーん、盆踊りの次ねぇ……ソウルダンス?」

 そう言いながら美奈ちゃんは、スマホでソウルダンスの動画を検索し、シアンの前に置いた。

 

 画面の女性はリズミカルに軽く腰を落としながら、足を開いて右行って左行って、手はクラップ。

 音楽も流していい感じだ。

 

 シアンは警戒し、草むらに隠れてしまったが……スマホをじっと見ている。興味はあるようだ。

 

 さて、どうなりますか……。

 

 動画を繰り返し再生していると、音楽のリズムに歩みを合わせながら、草むらから恐る恐る出てきた。

 

「お、音楽には合わせてるね~」

 俺が感心してると、

「ビビってないで踊りなさいよ!」

 と、美奈ちゃんの(げき)が飛ぶ。いやいや、初見で踊れは無理だろう。

 

 そのうちにシアンは二足で立つと、身体を左右に振り始めた。

 

「お、いいぞ、盆踊り!」

 美奈ちゃんは嬉しそうだ。

 

 さらに見ていると、今度はステップを踏み始めた。

「おー、いいねいいね!」

 

 そう言いながら、美奈ちゃんも踊り始めてしまった。

「シアン! こうよ! こう!」

 

 美奈ちゃんは、リズミカルに左右に重心を移しながら、足をシュッシュと伸ばし、肩を上手く使いながら腕を回し、収める。

 

「おー、さすが! 動きのキレが違うね~!」

「あったりまえよ!」

 調子が出て来たのか、足をクロスさせて本格的に踊り始めちゃう、美奈ちゃん。

 

 思わず見入ってしまったが、ふとシアンを見ると……踊ってる!

 

 なんと、美奈ちゃんの踊りをコピーしてるのだ。

 

 いや、これはすごい……。

 こんなダンス、俺には踊れない。

 

 確かに動きはぎこちないが、ちゃんと踊れてる。

 これを初見でコピーとは、シアンのポテンシャルの高さに思わず脱帽である。

 

「ハハッ! やるじゃんシアン! じゃ、これはどうかな!」

 

 そう言って、今度は足をくねくねさせながら、複雑なステップを入れてきた。

 

 負けじと、それをコピーするシアン。

 

 モニターに表示されているコンピューター稼働率は、100%で真っ赤になっている。AIは全力で美奈ちゃんのダンスを吸収しているのだ。

 

 なんだよ、そこまでついて行けるのか……

 俺はAIの性能の凄さに唖然とした。

 

 渾身の踊りを初見でコピーされた美奈ちゃんは、ムキになって、

 

「次はこれよ! ズールスピン!」

「あ! 床はダメ!」

 俺の制止も聞かずに、今度は床を使ってズールスピン。

 

 グルリと1回転目は決まったものの、2回転目でジオラマの壁にガン!と衝突。

 

「オゥフ!」

 喚きながら反動で、俺の方にゴロゴロ転がってくる美奈ちゃん。

 

「危ない!」

 俺は華麗にジャンプで回避する……が、着地点にシアンの餌が……。

 

「グアッ!」

 仰向けの美奈ちゃんの上に、覆いかぶさるように倒れ……。

 

 しかし、ガッシリと腕立て状態で、衝突は回避!

 

 俺の真下で、ハァハァと荒い息を立てて、紅潮する美奈ちゃんと目が合った。

 キュッキュッと琥珀色の瞳が動く……。

 

 すぐ目の前で、ぷっくりとした美味しそうな唇が、ゆっくりと動いている。

 

 思わず見つめ合う二人……

 徐々に……キスしたくなる衝動に襲われ、少しずつ縮まる二人の距離……

 

 すると、美奈ちゃんがそっと目を閉じた。

 

『え?』

 目を瞑ったという事は、キスしていいというサインだと思う……のだが人生経験が足りない俺には全く判断がつかない。セクハラを誘っているのでは? という穿(うが)った見方すら頭をもたげる。

 

 透き通るような美しくしっとりとした肌、形のいいギリシャ鼻、そして熱い果実のような唇……

 本当に女神様の生まれ変わりの様な、尊いまでに美しい存在が、すぐ前でキスを待っている。そんな事本当にあるんだろうか? 夢? 騙されてる? 俺は頭の中がグルグルしてしまい、ショートしたように何も考えられなくなった。

 

 そして怖くなった俺は逃げるように立ち上がり、何もなかったかのように美奈ちゃんの両手を取って、優しく引き起こした。

 

「……。」

 美奈ちゃんは、何も言わず立ち上がると、服に着いた埃をはらう。

 

「大丈夫? いいダンスだったよ」

 

 冷静を装って、そう声をかけると、美奈ちゃんは不機嫌そうにこっちを睨んだ。

 

「きょ、今日はセクハラじゃないよね?」

 引きつった笑顔で俺がそう言うと、美奈ちゃんはキッと睨んで、俺の頬を軽くはたいた。

 

「恥かかせたわね!」

 そう言って、美奈ちゃんはドアを『バタン!』と乱暴に閉め、出て行ってしまった。

 

 俺はあまりにいきなりで対応できず、はたかれた左の頬をさすりながら、立ち尽くしていた。

 

 やがて後悔や苛立ちのぐちゃぐちゃした混乱の海が押し寄せ、眩暈(めまい)を覚えた。

 

 触ったら「セクハラ!」、我慢したら「恥かかせた!」、一体どうしろというのか?

 

『無理ゲーじゃないか!』

 俺は、美奈ちゃんが出て行ったドアを思わず睨んだ。

 

 ただ……、認めたくはないものの、俺が人間として何か足りないという事を、再度突きつけられた気がした。『キスしてもいいよ』と言う女の子の弾む気持ちを無下にして、あまつさえ罠かもと疑って、体裁ばかり考えた俺のクズさが心を(さいな)む。

 

「はぁぁ~」

 俺は頭を抱えて大きく息を吐いた。

 人の心はかくも難しいものか……。

 

 ふと、見るとシアンは、頬をはたく真似をしている。

 

「そんなのコピーしなくて、いいんだよ!」

 俺がそう言うと、シアンはキョトンとして首をかしげた。

 

 そして流れ続ける音楽に乗って、さっきの美奈ちゃんのダンスを踊り始めた。

 

 滅茶苦茶上手い。

 さっきに比べてぎこちなさが減り、滑らかに動いている。

 

 小さな真っ白いマウスが、高度なダンスを軽やかに踊る――――

 

 これは凄い……、こんなの見た事ない。

 

 これ、YouTubeで流したら、きっと1億PVは行くだろう。一夜にして世界のスターだ。絶対そんな事できないのだが。

 

 俺は餌をシアンに出したが……。

 餌には目もくれずに踊っている。もはや、餌が欲しいから踊っている訳じゃないようだ。

 

 初代シアンは、決して踊らなかった事を考えると、リズミカルに身体を動かしたい欲求、というのが生身の身体には宿るのだろう。

 これは大切な知見と言える。

 

 でも……、女心の知見の方が……欲しかった……。

 

 

 すぐ目の前にあった、美しく曲線を描く(まつげ)、柔らかく潤いを含んだ苺のような唇、そしてふんわりと上がってくるブルガリアンローズの香り……。思い出すだけで心臓のドキドキが止まらなくなる。

 

「キス……したかったなぁ……」

 

 キスまでたった5センチメートル。しかし、この5センチを超えられずダメ人間の烙印を押された俺は、はたかれた頬をゆっくりさすりながら、悶々とし……、頭を抱えてブルーになった。



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3-10.二次方程式にキス

 翌日、今度はシアンの論理的思考力を鍛えてみる事にする。

 タブレットに簡単なパズルを表示させ、正解の所をつつくと、餌が出るようにしてみた。

 しかし、タブレットなんてシアンは触ったことがない。難度はかなり高そうだがうまく行くだろうか……。

 

「はい、シアンちゃん、お勉強の時間ですよ~」

 そう言いながら、タブレットをジオラマに配置すると、シアンは早速出てきて、興味津々で臭いを嗅いでいる。

 

 タブレットの画面には、押すボタンが2か所表示されている。一つのボタンの上には「●」、もう一つには「●●」が書いてある。

 ●が多い方が正解、という事で「●●」のボタンを押すと、餌が出るのだ。

 

 最初、シアンは画面の意味が分かっていない。でもシアンが、たまたま鼻先でボタンの所に触れた時、ピンポーン! と音がして、上から餌が落ちて来た。

 

 シアンは驚いて、逃げて身構えたが、餌が出た事に気が付き、餌を拾って食べた。

 

 回答が終わると、問題はリフレッシュされ、正解のボタンはその都度変わる仕組みだ。

 もう一度タブレットに近づいて、ボタンの所の臭いを嗅いでみる。

 

 今度はブー!という音がして、画面が変わる。餌は落ちてこない。

 またボタンの所の臭いを嗅ぐと、ピンポーン!という音がして餌が出た。

 

 こうやって、同じ所に触れても、餌が出る時と、出ない時があることをシアンは体験し、そこに何か規則があることに、気が付いた。

 

 5、6回繰り返したら正答率は100%になった。さすが賢い。

 次は足し算だ

 

「●+●●=?」

 

 というような問題が出て、正解のボタンを押させる。

 これも5、6回でマスターした。

 

 この要領でアラビア数字を覚えさせ、四則演算を覚えさせ、分数、小数を順次覚えさせていく。

 午前中だけで、小学算数は全てマスターしてしまった。

 

 お昼を挟んで、午後は中学数学だ。因数分解、分数式、無理数・無理式の加減乗除、2次方程式、連立方程式、と結構ヘビーなはずなんだが、シアンはあっという間に覚えて行ってしまう。

 すぐに、やらせる問題が尽きてしまった。

 

 仕方ないので、新たに問題を作っていると、

 

「なになに? 算数やってんの?」

 様子を見にきた美奈ちゃんが、タブレットの画面を見ながら言う。

 

 昨日の事はなかったかのようにいつも通りだ。俺も大人としてそれに応える。

 あんなチャンスはもうないのだろう。胸がチクリと少し痛む。

 

「そうだよ。美奈ちゃん、シアンと競争してみる?」

 俺は変な雰囲気にならないように振ってみる。

 

「競争? 応京大生を舐めないで欲しいわ!」

 美奈ちゃんはニヤッと笑って俺を見た。

 

「では、美奈ちゃんは、こっちのタブレットで正解のボタンを押してね」

「ふーん、ボタンを押すだけでいいのね」

 美奈ちゃんは、サンプルの問題をまじまじと見ながら要領を把握する。

「早押しでよろしく」

 俺はそう言いながらシアンのタブレットもセットする。

 

 きっと驚くに違いないと思うと、俺はついニヤけてしまう。

 

「では、用意……スタート!」

 おれはそう叫び、画面に二次方程式の問題を出した。

 

「えーっと……紙とペン……」

 美奈ちゃんが筆記用具を用意していると、

 

 ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!

 シアンが正解を積み上げる。

 餌がその辺に、パラパラと散らばっていく。

 

 美奈ちゃんは、唖然として固まってしまった。

 

「なによこれー!!!」

 持っていたノートをパシーン! と床にたたきつける美奈ちゃん。

 

 驚いて逃げるシアン。

 

「私をもてあそんだわね!」

 そう言って俺をキッと睨む美奈ちゃん。

 

「いや、シアンの凄さを体感してもらいたくてですね……」

 

 美奈ちゃんは真っ赤になって、

「最低!」

 そう言って、俺の頬をバシッと叩いて出て行った。

 

 ドアが壊れそうな勢いで『ガン!』と閉まる。

 

 また叩かれてしまった……。

 叩かれた頬をさすりながら俺は後悔の念に襲われ、ブルーになった。

 確かにちょっと……意地悪だったかもしれない。

 

 ちょっとした悪戯(いたずら)心だったが、ここまで怒らせてしまうとは……。

 昨日は意気地なしで怒らせ、今日は優しくなくて怒らせた。実は俺は人間として欠陥なのかもしれない。

 そんな人間が人類の守護者なんて作っちゃダメなのではないか?

 俺は陰鬱な顔でうなだれ、大きく息を吐いた。

 

「チュッチュー!」

 見るとシアンが、陽気なダンスを踊り始めた。

 

「何だお前、俺を励ましてくれるのか?」

 俺はつい笑ってしまった。

 これから育てようとしているAIネズミに同情され、励まされているのだ。

 

「お前の方がよっぽど人間に近いかもしれんな」

 俺はちょっと自虐的につぶやき、ゆっくりとシアンの頭を撫でた。

「ありがとう……」

 

 美奈ちゃんには後でちゃんと謝ろう。

 俺はそう決めて、シアンを両手で抱き上げ、そっと頬ずりをした。

 

 それにしてもシアンの回答速度は予想以上に凄かった。

 

 シアンの頭脳は、品川のIDCにあるラック2本分のAIチップ(数億円相当)なのだから、この計算速度は、当たり前と言えば当たり前かもしれない。

 エアコン20台分の電力注いで、やってる事が単純計算なんだから、なんて贅沢な計算処理だろう。

 

 とは言え、見た目は二次方程式を一瞬で解くネズミ、いよいよAIらしくなってきたじゃないか。

 これをTV局に紹介したら、すごい扱いになるに違いない。

 

 『天才ネズミのアルジャーノン現る!?』というテロップが、頭に浮かぶ。

 

 

           ◇

 

 

 シアンの解く問題作りをしていると、ドアが『バン!』と開いた。

 

 無表情の美奈ちゃんが立っている。

 美奈ちゃんは目が心持ち釣り目に、顔色も白っぽくなっている。何だか別人みたいだ。

 

「われに敗北の二文字はない」

 すごい覚悟を決めてやってきた。

 

「あ、美奈ちゃん、さっきはゴメンね」

 俺は神妙に謝る。

 しかし、美奈ちゃんはそんな事、意にも介さずに、

「さっきの問題をもう一度やらせなさい」

 鋭い視線を放ちながら、そう言った。

 

 ヤバい人に関わってしまった……。

 俺は本能的に逆らい難いものを感じ、タブレットを渡し、準備した。

 

『人間じゃ勝てないのになぁ……』

 計算問題でAIに勝てるわけがないのだ。もしかしたらまた叩かれてしまうかもしれない。俺は暗い気持ちで問題をスタートさせる。

 

「じゃぁいくよ~、用意……ドン!」

 

 ピンポ! ピンポ! ピンポ! ピンポ! ピンポ! ピンポ! ピンポ!

 今度は、美奈ちゃんが恐ろしい速度で問題を解いていく。

 

『え!?』

 俺は驚きのあまり固まってしまった。とても人間の出せる速度じゃない。

 

 全て解き終えた美奈ちゃんは、すっと立ち上がって言った。

「ふふふ、これが本当の実力よ」

 

 唖然とする俺を得意げに見下ろす。

 

「いや、ちょっと待って、あんな速度で解けないよね? どうやったの?」

「あら? 不正を疑うの? あなたが作った問題でしょ?」

 

 そう言って、余裕の笑みを浮かべる美奈ちゃん。

 

「いやまぁ……そうなんだけど……」

「こんな2択ね、覚え……ではなく、直感で分かるのよ」

「覚えたの!?」

「違う違う、直感で答えが、浮かび上がって見えるの」

 美奈ちゃんの目が泳いでいる。

 

 覚えると言っても、問題覗き見るためのシステムの利用権限は、美奈ちゃんは持ってない。マーカスに教えてもらえば出来ない事もないが……、そこまでやるだろうか。

 

 俺はそっぽを向いた美奈ちゃんをじっと見る。白ニットに、控えめなチェック柄が可愛いスカートをはいて、秋らしいコーディネートだ。つややかな白い肌にマッチして美奈ちゃんの魅力を引き出している。

 

 相変わらず素敵だ。こんな娘が頑張って超速回答したんだから報いてあげるしかない。

 

「分かった分かった、姫の勝ち!」

 俺はにっこりと笑いながらそう言った。

 

「ふふふ、勝つのは大切な事だわ」

 美奈ちゃんは、嬉しそうに俺を見てニッコリと笑う。

 限りなく透明な琥珀色の瞳、華やかな美貌に俺はつい心がときめいてしまう。

 それを悟られまいと目をそらした瞬間だった。美奈ちゃんはすうっと近寄ってきて、俺の頬に軽くキスをした。

 

『えっ!?』

 

 いきなりブルガリアンローズの香りに包まれて、俺は動けなくなった……。

 

 テンパる俺をそのままに、美奈ちゃんは

 

「さっきは悪かった、許されよ」

 そう言ってウィンクして出て行った。

 

 俺は、まだ柔らかな唇の感触が残る頬を、そっとさすりながら呆然としていた。心臓の鼓動が高鳴りっぱなしだ。

 

『な、なんなんだよ……』

 

 叩いたりキスしたり……、俺を翻弄するの、本当に止めて欲しい。まるで毎日がジェットコースターみたいだ。

 

 俺は喉の渇きに耐えられず、冷めたコーヒーをゴクゴクと飲み干した。

 

 

 

 



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4-1.体重10gの天使

 マウスの実験は大成功、という事で、いよいよ人体との接続だ。

 

 しかし、無脳症とは言え、人体は神聖なもの。法的、道徳的になるべく問題ないようにクリスと相談を重ね、妊娠12週未満の中絶した胎児を貰う事にした。

 

 この週齢の胎児は、母体から出したらすぐ死んでしまうし、法律的にも医療廃棄物になる。

 そこをクリスの神の技で何とか延命し、BMI接続手術に耐えられるまで大きく育てる計画だ。

 

 再度実験室に簡易無菌室を展開し、人工胎盤を用意し、受け入れ準備を進める。

 

 ただ、例え無脳症で中絶胎児であっても、人体実験は禁忌だ。バレたら逮捕、収監は避けられないだろう。

 

『逮捕……かぁ……』

 

 俺は実験室の椅子に座りながら昏い気分に囚われ、大きく息を吐いてうなだれた。

 

『刑務所ってどんな所かなぁ……? リンチとかあるんだろうか……』

 

 今まで他人事のように思っていたが、自分がぶち込まれるかもしれないとなると途端に気になりだした。

 

『ばぁちゃん、ママ、ゴメンなさい。俺は犯罪者になります……』

 俺は手を組みながらそんな事を思い、押し寄せてくる昏い感情に流されぬよう、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 

 もはや後戻りはできない。人類の守護者創造のために、我々は犯罪者の道を行くのだ。

 

 

           ◇

 

 

 受け入れの日が来た。

 クリスから電話があり、今晩赤ちゃんを受け取るそうだ。

 血液型はRh+のAB型、俺と同じ型なので、育成には俺の血を使う。

 

 使い捨ての手術衣に着替え、無菌室に入って全体に消毒薬を散布し、必要な機材をセットした。

 そして、人工羊水を、透明なバッグに満たして人工子宮とし、人工胎盤も消毒して準備完了。

 後は赤ちゃんの到着を待つばかり。

 

 しばらく待っていると、クリスが淡く光るバッグを持って、急ぎ足でオフィスに戻ってきた。

 メンバーが心配そうに見守る中、まず、クリスは俺の血を抜いて人工胎盤に入れる。

 

 何の躊躇もなく、サクッと俺の静脈に注射針を差し込むクリス。

 医療技術者としても相当に優秀な事に舌を巻く、さすが神様。

 俺の血を1リットル抜いて、人工胎盤を満たす。ポンプのスイッチを入れると、俺の血が人工胎盤の中をぐるぐると回っていくのが分かる。

 

 俺の身体の血は、全部で5リットルくらい。1リットル抜くと、さすがにクラクラする。

 しかし、これから週に何回も、こうやって人工胎盤を、満たし続けないといけない。

 実に気が重いが、AB型は俺しかいないので仕方ない。

 

 続いて、赤ちゃんの準備だ。

 クリスのバッグから、慎重に赤ちゃんを取り出す。

 包みをそーっと開けると、身長6cm位の、赤い小さな生き物が出てきた。

 

「え? これが赤ちゃん!?」

 美奈ちゃんは思わず声を上げる。

 

 確かに見た目は、小さな赤い両生類の様な、気味悪い生き物である。体重も10g程度しかない。とても赤ちゃんというイメージではない。

 しかし、これはれっきとした人間の赤ちゃんなのだ。

 ついさっきまで、お母さんのおなかの中でゆったりと浮いていたのだ。

 

 クリスは、赤ちゃんのお腹から伸びている、細い へその緒に、慎重に針を刺す。

 そして、血管にうまく刺さったら、人工胎盤と繋げる。

 赤ちゃんの血液が、人工胎盤の中を通るのを確認した後、赤ちゃんに各種センサーを取り付け、その後人工羊水の中にそっと入れた。

 

 人工羊水の温度、血液の酸素濃度や血糖値、心拍、血圧などの数字をみる。

 

「うーん、血圧がちょっと弱いのかな……」

 赤ちゃんの心拍は異常に速く、ちゃんと血圧が測れている自信がないが、出てる数値は予想よりも低い。

 

 しかし、何があっても我々に打てる手などない。

 そもそも、この週齢で生き延びさせる医療技術を、人類はもっていないのだから。

 うちにはクリスの癒し、というチートがあるから可能性があるが、普通はお手上げなのだ。

 

 人工羊水のバッグの封を閉じて、とりあえず受け入れは完了。

 クリスはそばの椅子に座り、手をかざし、癒しの技を発動する。

 

 赤ちゃんは淡い光に包まれて、生命安全度(バイタル)の数値も若干改善した。

 

 今、一番怖いのは感染症。赤ちゃんに薬は使えないので、細菌が入ったら なすすべなく一発で赤ちゃんは死んでしまう。薬使ったらちゃんと育たない、という制約はとてもキツい。

 

 クリスには申し訳ないが、しばらく安定するまでは、つきっきりで見てもらわないとならない。まさに神頼みである。

 

 クリス、ゴメンね……。

 

 

 様子を見ていた美奈ちゃんが言う、

「これ、本当に、人類の守護者に育つのかしら?」

「育てるしかないんだよ、もう後戻りできない……」

 

 俺は自分に言い聞かせるように、答える。

 

「バレたら牢屋行きよね?」

「バレない様にお願いします、姫」

 

「でもまぁ、私、総務経理だから、牢屋行きは誠さんだけね!」

 そう言ってニヤッと笑う美奈ちゃん。

 

「え~!? 俺達仲間じゃないか!」

「監獄仲間にはなりたくないわ」

 そう言いながら、シッシッと俺を追い払う仕草をする。

 

「美奈ちゃん……そんなぁ……」

 俺が情けない声を出すと、美奈ちゃんは、

 

「しょうがないわねぇ……じゃ、イザと言う時は、一緒にこのオフィスに、立てこもってあげるわ!」

 また、訳分からないことを言い始めた。

 

「え!? 警察と徹底抗戦すんの!?」

 俺が驚くと、

 

「私が人質になってあげるから、包丁持って『この女の命が惜しければ、ヘリを用意しろ!』って言いなさいよ」

 

「何だよ、さらに罪を重ねろって言うのか?」

「毒を食らわば皿までよ!」

 なんだか楽しそうなのだが……

 

「でも、立てこもっても解決しないよね?」

「最後は、突入した特殊急襲部隊に撃たれるの」

「はぁ!? 殺されんの? 俺!?」

 あまりの展開に唖然としてしまう。

 

「で、私の膝枕の上で、誠さんは最期に『愛してる……』って言うのよ」

 殺された挙句、告白させられてる。もはやいい玩具(おもちゃ)である。あまりの事に、返す言葉が浮かばない。

 

「私は……『ごめんなさい、でも、死なないで!』って涙をポロポロ流すんだわ!」

「フられて終わりかよ!」

 

「で、三日後に遺体安置室で、クリスに復活させてもらえば、完璧よ!」

 そう言って嬉しそうに、人差し指を振る美奈ちゃん。

 

 ハッハッハッ!

 

 楽しそうに笑うクリス。

 オチに使われたクリスにはウケたようだ。

 俺には全然笑えないのだが……

 

「…。でも、生き返らせないよ」

 クリスはなんだか嬉しそうに言う。

 

 ですよね~……

 

 絶対バレちゃいかんって事だな。美奈ちゃんに殺されるわ。

 

 あーなんかクラクラしてきた……血が足りないのかも……

 クリス、俺の造血細胞にもヒールをお願い……

 

 

 

 

 

 



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4-2.最高の秘密結社

「お疲れ様でーす」

 可愛くて明るい元気な声が、オフィスに響く。

 由香ちゃんが出勤してきた。

 ボルドーのトップスに、花柄のスカート、そしてフリルのパーカーを羽織っている。

 

 由香ちゃんは、週に2回くらい出勤して、主に経理業務をやっているのだ。

 

 パソコンでクラウド会計ソフトに繋げて、領収書を打ち込んだり、給与計算ソフトで給料や社会保険料を計算したり、結構忙しい。学生でここまでできるなら、インターンは合格だ。

 

 俺は鼻歌を歌いながら、心を込めて珈琲を入れて、由香ちゃんに持っていく。

 

「由香ちゃん、はい、珈琲」

「あ、ありがとうございます」

 由香ちゃんは書類の散らかった机を片付けて、珈琲を受け取る。

 

「うちの仕事には慣れた?」

「はい、何とか……」

 少し不安な表情を見せる由香ちゃん。

 

「由香ちゃん頑張ってくれてるから、そろそろ太陽興産への推薦をしようかな、と思うけどどうかな?」

 俺がそう言うと、由香ちゃんはモジモジして言う、

 

「あ……、その事ですが……」

 

「ん? 嫌なの?」

「そうじゃなくて……、このまま、こちらでお世話になる事は出来ますか?」

「え? うちで働きたいって事?」

 予想外の返答に俺は驚いた。

 

「マーカスさん、クリスさんとか凄い人が居る会社、実は最高なんじゃないか、って思えてきてるんです」

 キラキラ瞳を輝かせる由香ちゃん。

 

 確かに、世界一のエンジニアと、神様がいる会社はうちしかない。でも、新卒を受け入れるような会社じゃない。そもそも会社は隠れ蓑なのだから。

 

「うちは吹けば飛ぶような会社だよ? 3年後無くなってるかもしれないよ」

「それでもこのまま居たいなぁ……って思うんです」

 由香ちゃんは、そう言って両手を組んで、上目遣いでこちらを見つめる。

 

 可愛い女の子に、真剣に頼まれると弱い。

 

「う~ん、なるほど……、ちょっとクリスに聞いてみるよ」

 

 俺はメゾネットの階段を上り、赤ちゃんに付き添ってるクリスの所へ行った。

 

 クリスは穏やかな顔をしながら、赤ちゃんに手をかざしている。

 もう3日目だから、相当に疲れているとは思うが、全然疲れているように見えないのはさすがだ。

 

「クリス、申し訳ないね。赤ちゃんの具合はどう?」

「…。かなり安定してきたから、そろそろ付き添わなくても大丈夫になるだろう」

「それは良かった、ありがとう」

 

 赤ちゃんをそっと覗き込むと、小さなピンク色の塊が羊水の中で浮かんでいる。

 まるでウーパールーパーだが、これが本当に人間になるのだろうか?

 

 頭では理解していても実感がわかない。

 

「あ、そうだ、由香ちゃんだけど、うちに就職したいんだって。どうする?」

「…。予定通りですよ」

 淡々と答えるクリス。

 

「え? 最初からうちに就職させるために呼んだの!?」

「…。秘密です」

 そう言ってクリスは優しく微笑んだ。

 

 俺は唖然とした。クリスは何手先まで読んでいるのだろう?

 そもそも、俺の彼女候補として呼んだはずではなかったのか?

 

「あぁ……そうなのね……」

 俺はそう言いながら、釈然としない思いのまま部屋を後にする。

 

 下を見ると、由香ちゃんが両手を組んだまま、こちらを祈るように見ていた。

 

 俺は階段を駆け下りて、にこやかに笑って言う。

「クリスもいいってさ、では来年4月からは、うちの社員という事でよろしく!」

「え!? そんなに簡単に決まっちゃうんですか!?」

 可愛いクリっとした目を見開いて驚く由香ちゃん。

 

「うちはクリスがOKなら、何でもOKなんだよ」

「ふぅん。でも良かった! 就職先が決まった!」

 

 晴れやかな笑顔の由香ちゃんだが……カミングアウトタイムだ。

 

「ただ、うちの社員になる以上、秘密も話さないとならないな」

「え? 秘密?」

 キョトンとする由香ちゃん。

 

「……。うちはね、本当は会社じゃないんだ」

「はぁ?」

 由香ちゃんが口を開けて、固まってしまった。

 

「形式上、法人にした方がうまく回るので、会社の形態を取っているだけで、本当は会社じゃないんだ」

「え……? じゃ、何なんですか?」

 怪訝そうに首をかしげながら聞いてくる。

 

「人類の問題を解決してくれる『人類の守護者』を作ろうという、深層守護者計画の秘密組織なんだ」

「人類の守護者?」

「人類は残念ながら、このままだと近い将来滅びるだろう、と我々は考えている。少子化や温暖化に歯止めをかけられない人類は、確実にいつかは滅びちゃうんだ」

「えっ? そんなに深刻なんですか?」

 

 ただの就活をしていたら、人類の滅亡を予言されてしまう由香ちゃん。

 ちょっとかわいそうな気もするが、避けては通れないイニシエーションだ。

 

「このままだと、人類という種はもう100年も続かない。そしてそれは、人類は自力では解決できそうにない」

「そんな事…… 考えた事もなかった」

 うつむき加減に力なく言う由香ちゃん。

 

「で、これを解決してくれる存在が欲しいよね?」

「そう……ですね」

 

「じゃぁ作ろう!」

「えっ!?」

 由香ちゃんは固まってしまった。

 

「俺達には、世界一のAIエンジニアチームも神様も金もある。俺達にできなければ誰にもできないんだよ」

「そんなに……」

 

「でも、そんなこと公言したら狂人扱いされるし、ちょっとヤバい物扱ってるから、捕まってしまうかも知れない。だから俺達は必死にAIベンチャーの体裁を取り繕って、秘かにうまくやってるのさ」

「ヤバい物……ですか?」

 

 百聞は一見に如かずである。見てもらう事にする。

 

「おいで」

 そう言って、メゾネットの階段を上がって、赤ちゃん部屋に連れて行く。

 

「クリス、由香ちゃん連れて来たよ。見せてあげてくれるかな?」

 

 クリスはにっこりとほほ笑み、赤ちゃんを指さした。

 恐る恐る近づいてくる由香ちゃんを、俺は赤ちゃんのそばまで誘導して言った。

 

「これがヤバい物、無脳症の人間の赤ちゃんだよ」

「赤ちゃん!?」

 両手で口を押え、かわいい目を大きく見開く由香ちゃん。

 

「無脳症で堕胎されて、医療廃棄物として処理される途中の、赤ちゃんを貰って来たのさ」

「え? 無脳症?」

 

「この赤ちゃんは病気で脳が無いんだ。だからまともに育たないし意識もない。だから普通殺されちゃうんだ。それをAIの学習のために使わせてもらう」

「人体実験!……ですか? は、犯罪……です……よね?」

 想像を絶するヤバい事態に、由香ちゃんの目には恐怖の色が浮かぶ。

 

「まぁ、そういう事になるな。医療廃棄物を育てただけだが、バレたら逮捕だよ。どうだい、それでもうちで働くかい?」

「えっ? それは…… この人体実験は必要なんですか?」

「他に手は思い浮かばない」

 俺は肩をすくめ、首を振って言った。

 

 もちろん、人間に近いロボットを作れば、できない事もないかもしれないが、それでも人間が感じる世界とは、大きくずれが生じてしまう。人類をちゃんと理解するためには、どうしても人間の肉体を使わざるを得ない。

 

「もしかして……、凄く儲かる話なんですか?」

 怪訝そうな顔の由香ちゃん。

 

「え? 金儲けは全然考えてないなぁ……」

 太陽興産には還元しないとだが、金儲けを画策したりしたらクリスに切られてしまう事を考えると、金を目的にはできない。

 

「じゃ、純粋に人類を守るためって事です……か?」

 由香ちゃんはひどく驚いた様子で俺を見る。

 

「そうだよ。エンジニアは嘘つけないしね」

 そう言って俺はちょっと自嘲気味に笑った。

 

「人類を守るため……。そういう事なら……」

 由香ちゃんは目を瞑り、大きく息を吸った。

 

 しばらく眉間にしわを寄せて、何かを考えているようだったが、キッと目を見開くと、

「決めました! 私も仲間に入れてください。その深層守護者計画に!」

 まっすぐに俺を見つめて、迷いのない声で言い切った。

 

「いいのかい? もう後戻りできないよ?」

「人類の守護者を作る極秘プロジェクト、最高じゃないですか!」

 両手にこぶしを握って興奮気味に言う。

 

「そう?」

「そうですよ! 私、これを……これを探してたんです!!!」

 由香ちゃんは瞳をキラキラと輝かせながら言う。

 

「これ? というのは?」

「何の迷いもなく、人生をかけられる仕事ですよ!」

「そんなに?」

「そうですよ! 深層守護者計画は人類に必要な仕事です! 私も仲間にしてください!」

 驚くほどノリノリである。

 

「あー、そう? じゃ、よろしくね」

「はい!!!」

 由香ちゃんは満面の笑みで言った。

 

「さっそくですが、私でもできる事ないですか?」

「できる事……? 由香ちゃんは血液型何型?」

「え? AB型……ですけど……」

 

 俺はガッツポーズをした。

 

「じゃ、とりあえず血を下さい」

 俺は両手を合わせてお願いする。

 

「え……? もしかして、赤ちゃんに使うんですか?」

「そうそう、定期的に人工胎盤の血液を、変えないといけないんだよ。今は俺一人なので大変なんだ。頼むよ」

「そのくらい全然大丈夫ですよ!」

 由香ちゃんはニッコリと笑う。とてもいい娘である。

 

 やった、これで少し楽になる。一応、薬を服用していないか確認として……

 

「由香ちゃんは、病気持ちだったりしないよね?」

「もちろん健康……あ、まぁこれはいいのかな?」

 ちょっと顔を曇らせる由香ちゃん。

 

「え? 何か病気あるの?」

「いや……そう言う訳では……ないんですが……」

 モジモジしながら、はっきりしない由香ちゃん。

 

 クリスが由香ちゃんの方をジッと見て、頷いて手をかざした。

 

 由香ちゃんの身体が淡く光り、少し浮かぶ。

 

「えっ!?」

 そう言いながら、自分の身体を見回す由香ちゃん。

 

 そのうち、気持ちよさそうに恍惚の表情を浮かべた。

 何か、治療されているようだ。

 

 しばらくして光が消え、ゆっくり着地をすると

 

「あっ! マズいです!」

 と言って、腰を引いた姿勢で固まった。

 

 俺はビックリして、由香ちゃんの身体を支えて、

「大丈夫!?」と、聞くと

 

「ちょっと、放してください!」

 必死な表情で叫ぶ由香ちゃん。

 

「いや、具合悪いなら無理しちゃダメだよ」

 そう言って、由香ちゃんの身体をしっかり支えた。

 ふんわりと漂ってくる甘く優しい香りに、ついドキッとしてしまう。

 

「ダメダメ! 放して! もぅ、誠さんのバカ!!」

 そう言って俺の手を振り切ると、走って部屋を出て行ってしまった。

 

「バカ……?」

 唖然とする俺。

 

「…。今のは誠が悪いよ」

 そう言って、クリスがクスクス笑っている。

 

「え? どういう事?」

「…。彼女はトイレに行ったんだよ」

「え……?」

 

 トイレに行く病気?

 

「あ、便秘だったのか……」

 

 でもそんな事、言ってくれなければ分かる訳がない。

 手に残る、由香ちゃんの柔らかな手触りを思い出しつつ……複雑な表情をする俺を見て、クリスは笑いだしてしまった。

 

「…。誠はこないだから女難続きだな」

「何とかならないかなぁ?」

 

「…。まだまだ、女難の相が出てるぞ」

 そう言ってニヤッと笑うクリス。

 

「マジすか!?」

 賑やかな未来が俺を待ってるらしい。冴えないエンジニアの俺が女難の相だなんて、全く似合わないが、神様の予言は当たってしまうだろう。今から憂鬱である。

 



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4-3.未来からの神託

 二日ほどして、赤ちゃんも安定したので、由香ちゃんの歓迎会を開く事にした。

 

 でも、俺も由香ちゃんも血液を提供する関係上、お酒は飲めない。

 ちょっと残念。

 

 せめて食事は美味しい物にしたいので、ふぐ料理屋を選んだ。

 

 小ぶりのお座敷にみんなが揃ったのを確認し、乾杯である。

「Hey Guys! Yuka-chan officially join us! (由香ちゃんが入社する事になりました!)」

「カンパーイ!」「Cheers!」「カンパーイ!」「Cheers!」「Cheers!」「Cheers!」

 

 俺はジンジャーエールで、由香ちゃんのグラスにカチンと合わせる。

 

「これからよろしくね、期待してるよ!」

「お役に立てるかドキドキなんです……。でも、頑張ります!」

 いい笑顔だ。

 

 美奈ちゃんが、ビールのジョッキをぶつけながら言う。

「せんぱーい、もう逃げられませんよ!」

「大丈夫! もう、決めたの!」

 由香ちゃんは力強く言い切る。

 

「もし、警察にバレたら、『社長にやれと言われたんですぅ』と、言うのよ」

「え!? そんなのいいの?」

「そうよ、『私たちはただの顔採用なんですぅ』って言えばいいのよ」

 美奈ちゃんはニヤッと笑いながら悪い事を言う。

 

「ちょっと待って、うちは顔採用なんてやってないぞ」

 あんまりなので俺が突っ込む。

 

「あら? 私たちの美貌にケチ付ける気?」

 美奈ちゃんは鋭い目をして俺をにらむ。

 

「いや、そのぅ……綺麗な事は認めるけど……」

 美奈ちゃんの鋭い視線に気おされる俺。

 

「よろしい! で、どっちがタイプなの?」

 そう言って美奈ちゃんは、由香ちゃんの肩を抱き寄せて、並んでこっちを見る。

 慌てて由香ちゃんが、顔を真っ赤にして美奈ちゃんに抗議する。

「いきなり何、聞いてるのよ!?」

「そ、そうだよ。それ公言したらセクハラだよ」

 俺もいきなりの展開に焦って非難する。

 

「セクハラ、セクハラうるさいわね! 私がいいって言ってるんだから言いなさいよ!」

 美奈ちゃんは、座った目で俺をビシッと指さす。まだそんなに酔ってないはずだが、困った姫様である。

 さて、どう答えたものか……。

 

 俺は大きく息を吐き、

「俺はね、『愛の秘密』を解いた人がタイプなんだ」

 そう言ってニヤッと笑った。

 

「何、パクってんのよ~!」

 美奈ちゃんはおしぼりを俺に向かって投げつけてくる。

 

「うわぁ、危ない! 暴力反対!」

 おしぼりは俺をかすめて壁にベシャっと当たる。

 無理難題押し付けて、悪い姫様だ。

 

「『愛の秘密』……って何ですか?」

 由香ちゃんがポカンとした顔で聞いてくる。

 

「それは愛の専門家、美奈ちゃんに聞いて」

 丸投げである。

 

 美奈ちゃんは俺をギロっと睨むと、由香ちゃんの耳元で何かひそひそと話す。

 すると、由香ちゃんは何か得心がいった様子で、少し赤くなり、優しい笑顔で俺を見つめた。

 

 由香ちゃんにも分かるようだ……、分からないのは俺だけ? やはり俺には何かが欠けてるのかもしれない。ちょっとブルーになった。

 

 

 格子戸が開き、店員が入ってくる。

「てっさでございます」

 そう言いながら、ふぐの刺身をテーブルに置いた。

 大きな皿に、薄い刺身が綺麗に並べられて、まるで大きな花の様だ。

 

「Oh! サシミ!」

 マーカスが感激して叫び声をあげる。

 

「Sashimi!」「Sashimi!」「Sashimi!」

 

 お前らうるさいよ。

 

「こんな立派なてっさ、初めてですぅ」

 由香ちゃんがウットリとしている。

 

「いただき!」

 美奈ちゃんは一気に5、6枚取っていく。

 

 プリップリの ふぐをポン酢につけて一気食いである

 

「う~~~、うま~~~!!!」

 感動で綺麗な顔がクシャクシャになった。

 

「美奈ちゃんズル~い!」

 由香ちゃんが呆れて非難する。

 

「そうだぞ! 一度に取っていいのは3枚まで!」

 と、俺が仕切ろうとすると、マーカス達が10枚くらいずつ持っていく。

 

「あ~、おまえら!!!」

 

 ダメだ、制止するより取った方がいい。

 

「由香ちゃんもどんどん取って!」

「はい!」

 

 クリスはそんな様子を、楽しそうに眺めている。

 

「クリスも早く取って! 無くなっちゃうよ!」

「…。そうだな、少しいただくか……」

 

 そして、大皿一杯のてっさは、一瞬でなくなってしまった。

 

 何なんだお前らは!

 

「うふふ、楽しい会社ですねぇ」

 由香ちゃんは楽しそうである。

 主役の彼女が楽しければ、まぁいいのかもしれないが……。

 

 美奈ちゃんが声をかける。

「折角だから、誰か呼んであげようか?」

「え? 呼ぶって?」

 

「もう亡くなっちゃった人で、話したい人居ない?」

「え!? 死んだ人を呼べるの?」

 目を大きく見開く由香ちゃん。

 

「そうそう、呼べるのよ~」

 ドヤ顔の美奈ちゃんだが、呼ぶのは君じゃない、クリスじゃないか。

 

 由香ちゃんは小首をかしげ、人差し指を(ほほ)にあてながら、

「うーん、呼べるなら……織田信長かな?」

 と、凄いことを言い出した。

 

「え――――!? なんで?」

 思わず天を仰ぐ美奈ちゃん。

 

「なんで、って、興味ない?」

「無いわよ! 女子大生が興味ある様な人じゃないわ!」

「でも、話したいの!」

 由香ちゃんの決意は固そうだ。『歴女』と言うのだろうか、最近話題の歴史オタクの女子。

 

「じゃぁ……クリス、織田信長呼べる?」

 美奈ちゃんは恐る恐るクリスに聞く。

「…。昔の人は……ちょっと大変ですね。でもお祝いですし、頑張って呼んでみましょう」

 

 クリスは美奈ちゃんの手を取って、目を瞑る。

 美奈ちゃんがトランス状態に入った――――

 

 しばらくして、美奈ちゃんが目を開いた。

 

 美奈ちゃんはゆっくりと部屋の様子を見ると

 

「なんじゃ、お前らは!」

 太い声を上げて、いきなり怒り出した。

 

「織田信長……さんですか?」

 由香ちゃんが恐る恐る聞く。

 

「ワシの眠りを邪魔したのはおぬしか!」

 なんだかすごい怒ってる。

 

「あ、初めまして、私、宮田由香と申します。ぜひ、お話しをしたくてですね……」

 必死に話しかける由香ちゃんだったが……

 

「お話しじゃと? 小娘の遊びで気軽に呼ぶでないわ!!!」

「あ、いや、遊びというわけでは……」

「不愉快じゃ! 帰る!」

 そう言って、美奈ちゃんはがっくりとうなだれた。

 

「あぁ……」

 由香ちゃんは肩を落とし、すっかりしょげてしまった。

 憧れの人が目の前に来たのに、怒られてしまったのはショックだろう。

 

 相手にも話したい意向が無いと、上手く会話にならないようだ。

 

「…。相手が悪かったようですね。他の人にしましょうか?」

 クリスが優しく声をかけるが……

「……。」

 由香ちゃんは、返事もできずうなだれたままだ。

 

 

「ふぐのから揚げでございます」

 店員が次の皿を持ってきた。

 

 一人5個ずつ盛られたから揚げが配られ、皆、無言で貪り始めた。

 ジューシーでうまみが凝縮されたふぐのから揚げは、会話を忘れてしまうほど美味い。

 

 由香ちゃんも無言でゆっくり、から揚げを味わう。

 

 俺も、骨付きのから揚げの肉を剥がしながら考えたが、呼び出す人は結構難しい。ばぁちゃんを呼び出そうかと思った事もあるが、今更何を話したらいいのか分からない。

 

 何か思いついた由香ちゃんが、顔を上げてクリスに聞く。

「死んだ人じゃなくて、未来の自分と話したり出来ますか?」

 

 俺は思わず横から言った。

「何言ってんの! 無理に決まって……」

 

 しかし、クリスは、

「…。できますよ」

 と、事も無げに言った。

 

「え――――!?」

 俺は驚きを禁じ得なかった。なぜそんな事が出来るのか?

 改めて神様のすさまじい能力に、唖然とさせられた。

 

「そしたら、死ぬ直前の私を出してください!」

 由香ちゃんが祈る仕草で、目を輝かせて言う。

 

 死ぬ前の自分と何を話すのだろう?

 全くよく分からない彼女の発想に、俺は困惑していた。

 

 美奈ちゃんは、

「先輩、すごいチャレンジャーですね! 私だったら無理だわ~」と、言って笑う。

 

 離れたところで話を聞いていたマーカスも、目を輝かせながらやってきた。

「Oh! クリス スゴイネ! キョウミシンシン!!」

 

 美奈ちゃんは 

「じゃ、先輩行きますよ~」と、いいながらクリスと手を繋ぐ。

 

 やがてうなだれて……そして目を開いた――――

 

「……。うふふ……。この時を……待ってたわ」

 

 心なしか、しわがれた声で美奈ちゃんは口を開いた。

 そして周りを見渡して、

 

「あはは、みんな揃ってるわ、そう、そうだったわ~」

 と、とても上機嫌である。

 

 由香ちゃんが聞く、

「あなたは私ですか?」

 

 美奈ちゃんは、由香ちゃんをじーっと見て、

 

「そうよ、あなたの時からず――――っと長い、なが――――い戦いを経た後のわ・た・し」

 人差し指を揺らしながら言う。

 

「私の人生はどうでしたか?」

「ふふっ、最高だったわ~。本当に……。もちろん、あの時はこうしとけば良かったとか、いっぱいあるわよ、でも、今はそういう失敗ひっくるめて、満足してるのよ」

 そう言って幸せそうに目を細めた。

 

「良かった! 何かアドバイスありますか?」

「アドバイス? うーん、これ、言っちゃっていいのかな……」

「え? 何でも言ってくださいよ!」

 必死な由香ちゃん。確かに未来の自分からのアドバイスは最高に欲しい。

 

「すごくすごく言いたいんだけど……。私の時も教えてくれなかったからな。まぁ、お楽しみって事で」

 未来の由香ちゃんは、そう言ってニヤッと笑った。

 

「え――――! ヒント、ヒントだけお願いします!」

 

 未来の由香ちゃんは少し考え込むと……

 

「このメンバーの中にヤバい人がいるわ、本当にヤバいの。でも……おっといけない」

「え? クリスの事じゃなくて?」

「ふふふ、ひ・み・つ!」

 そう言って人差し指を口の前で振った。

 

「え~~っ!」

 由香ちゃんは可愛い顔を歪めながら、不満をあらわにする。

 

「そうそう、追い込まれたら、クリスの言葉を一字一句しっかりと考えるといいわ」

「そんな事があるの!?」

「最高の瞬間は、最悪の危機の顔をして現れるのよ」

 そう言って未来の由香ちゃんは、本当に嬉しそうに笑った。

 

「えっ!? えっ!?」

 最高なのか最悪なのかわからない事を言われ、混乱を隠せない由香ちゃん。

 そんな様子をちょっと意地悪な表情で観察して、ニヤッと笑うと彼女は、脇に避けてあったフグのひれ酒のコップを取り、軽くキュッと飲んだ。

 

「くぅ~~、若い子の体で飲むお酒は美味いわぁ」

 そう言って満足げに笑った。

 そして、一転寂しそうな顔をすると、

 

「ふふっ、そろそろ行かなきゃ」

 そう言って由香ちゃんを愛おしそうに見つめた。

 

「え、まって!」

 必死に引き留める由香ちゃんを彼女はじっと見つめ、目を瞑り、そして大きくうなずくと、

 

「Good luck!」

 そう言ってウインクをした――――

 

 ガックリとうなだれる美奈ちゃん。

 静けさが広がる。

 

 由香ちゃんは、宙をぼーっと眺めたまま動かなくなった。言われた言葉の意味を、一生懸命反芻しているようだ。

 

「ヤバい人って誰だろう?」

 俺はそう言ってクリスを見た。

 

「…。おかしいな……。そんな事言うはずないんだが……」

 クリスも不思議がっている。

 

「はい、てっちりです。鍋、ここ置かしてもらいますね~」

 店員がコンロに大きな鍋を置いて、火をつけた。

 

「未来の人から話聞いちゃうと、因果律が狂うから駄目なんじゃないかな?」

 俺はジンジャーエールを飲みながら、クリスに聞いた。

 

「…。確かにちょっとやり過ぎだった。今後は止めようと思う」

 そう言ってクリスは、ジョッキのビールをぐっと空けた。

 一瞬、俺も未来の自分の話を聞いてみたくなったが、因果律をゆがめて悪影響が出るリスクを考えると、止めておいた方が賢明のようだ。

 

 てっちりをつつきながら、未来の由香ちゃんの言った事を思い出す。

 

 『ヤバい人』って誰だ……?

 

 日本側はただの一般人だから、エンジニアチームの誰かか?

 

 でも、『ヤバい』というだけで、悪人という訳でもないのだろう。裏切者が居たとしたら『ヤバい』とは言わないと思うが……。いや、言う可能性は捨てきれない。

 とは言え、由香ちゃんの人生は最高だったわけだから、深層守護者計画も、ポジティブに推移したと考える方が自然……の様にも思うが……、後悔や失敗があるって言ってたから、そうとも言い切れない。

 

 結局、何も分からないじゃないか!

 

 未来の由香ちゃんは、モヤモヤだけを残して去って行った。

 

 

 

 



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4-4.黄泉がえりの第三岩屋

 翌日、由香ちゃんがやってきて、赤ちゃんの部屋で採血を行った。

 クリスが丁寧に、由香ちゃんの左腕に注射針を入れ、血を取り出す。

 

 血を抜きながら、クリスは癒しの技で由香ちゃんの造血をフォローする。

 癒しの淡い光の中で、由香ちゃんは言った。

「クリスさん、昨日の未来の私の話、一体どういう事なんでしょうね?」

「…。私もなぜ、彼女があんなことを言い出したのか、分からないのです」

 クリスはいつになく渋い顔をして答えた。

 

「未来の私は、何かすごい伝えたがってましたよね」

「…。そうでしたね。でも本当に伝えてしまったら因果律が狂ってしまうので、伝える内容がなくなって、そもそも伝えなくなってしまうので、伝える事自体ができないのかと」

 

「なるほど……つまり、具体的な事は、何一つ言えないんですね」

 神妙な顔の由香ちゃん。

 

「…。そうですね。それに未来の可能性は無限大です。昨日出てきた彼女もその無限の可能性の一つに過ぎません。だからヤバい人が居るというのも、当たってるかどうか怪しいとは思っています」

 

「でも、当たっている可能性も、そこそこありますよね……」

「…。ありますね……」

 クリスが目を瞑って苦しそうに言う。

 

 俺が横から口を出す。

「もう一回呼んでみたらどうかな?」

 

 クリスはちらっと俺を見ると、言いにくそうに答えた。

「…。実は……すでに昨晩、密かに呼んでいるんです」

「え~!? なんて言ってました?」

 由香ちゃんが驚いて聞く。

 

「…。『ヤバい人なんていない』って言ってました」

「それってどういう事?」

 由香ちゃんは困惑してしまった。

 

「…。未来の可能性は無限大なので、最初に出てきた彼女とは、違う未来を生きた人が出てきた、という事ですね」

「ヤバい人が居ない未来もある、って事ですね」

 由香ちゃんは嬉しそうにそう言うが……

 

「…。ただ……ヤバい人が居る、という未来がある事の意味は、重いんですよ。いるけど発覚しない事は考えられますが、いないのに『居る』と言う事はないので……。あるとすれば嘘をついたという事ですが……」

 

 俺は彼女の言動を思い返しながら言う。

「嘘をついてる感じじゃ、なかったなぁ」

「…。そうなんですよね……」

 

 クリスは、由香ちゃんを癒しながら目を瞑り、思索にふけった。

 しかし、眉間にしわがよるばかり……納得いく結論は出ないようだった。

 

 俺は、採れたての由香ちゃんの血を人工胎盤にセットした。

 赤ちゃんに必要な栄養は、主に点滴の要領で人工胎盤経由で与えていく。酸素は、人工胎盤に繋がった簡易な人工肺を使い、酸素ボンベから与える。

 そして、簡単な透析装置を使って、人工胎盤の血は浄化される。ここで赤ちゃんの尿は、こし取られるのだ。

 

 でも、ミネラルや、微量のホルモンや、血液の健全性を保つためには、血は新しい方がいい。

 俺と由香ちゃんは、変わりばんこで、血を1リットルずつ提供し続けるしかない。

 

 クリスは人工胎盤に癒しをかけ、感染症にならない様に、血液の免疫を活性化させた。

 

 赤ちゃんを見ると、心持ち大きくなっているようだ。

 

 クリスに聞くと、実は成長を促進させるスキルを持っているらしく、赤ちゃんを普通より速く、成長させる事もできるらしい。

 このペースだとあと3か月で出産となる。

 誕生も待ち遠しいが、それより断酒が終わる方が、俺にとっては切実かもしれない。

 

 

           ◇

 

 

 寝る時間になり、洗面所で準備する俺に、珍しくクリスが声をかけてきた。

 

「…。誠、ちょっといいかな?」

「ん? いいよ、何かな?」

 俺は歯磨きを止めて答える。

 

「…。もし、私が倒れるような事があったら、行って欲しい所がある」

 真剣なまなざしでクリスが言う。

 

「倒れる事って……。ま、いいや、どこへ行くんだい?」

 

「…。江ノ島に洞窟があるだろう?」

「あ、あるね、昔行ったよ。江戸時代の石仏が並んでた」

 江ノ島は江戸時代、江戸の庶民の有名な行楽地だったのだ。だから江戸時代から観光化が進んでいたらしい。

 

「…。第一岩屋と第二岩屋とあるんだが、実はさらに向こうに、隠された第三岩屋も有るんだ」

「え? そうなの? 全然気づかなかった」

「…。そこは大潮の干潮の時に、入口がちょっとだけ顔を出す。普通は行けない」

 命がけのアタックが要求される難易度に、俺は思わずビビってしまう。

 

「もしかして……そこに行くの?」

 なんだかすごく嫌な予感がする。

 そんな俺の心中を無視するように、淡々と続けるクリス。

「…。そうだ。その中に石仏があるんだが、その指さす先に行って欲しい」

 

「行くと何があるの?」

「…。行けば分かる」

 

 行かないとわからないそうだ。神様はこういう所セキュリティが堅い。

 

「ま、クリスが倒れなきゃいいんだよね」

「…。そうなんだが、ヤバい人と言うのが気になっている」

 

 いつも自信満々のクリスには珍しく、慎重である。

 

「そもそもクリスにとってヤバい人なんているの?」

「…。人間は脅威にはならないね」

 そう言って自信を見せる。

 

「殺されても3日後に復活するんでしょ?」

「…。ははは、まぁ3日もかからないよ」

「なら、倒される心配なんてないじゃん」

 俺は少し安堵して笑った。

 

「…。敵が……人間だったらね……」

 クリスが渋い顔で言う。

 

「え? 人間じゃない人が、うちのチームにいるってこと?」

 予想外の事に、俺は悪寒を感じた。

 

「…。もちろん、メンバーは全員スクリーニング済みだ。怪しい人はいない」

「だったら……」

 

「…。偽装されている可能性は排除できないし、メンバー以外かもしれない。そもそも、未来の由香ちゃんがあんなこと言うのは、明らかに人じゃない者が干渉してる証拠なんだよ」

 クリスは、いつになく危機感をあらわにして言う。

 

「え!? すでに攻撃されているってこと!?」

 俺は頭を殴られたようなショックを全身に感じた。神様を超える者が我々を狙っている。そんな深刻な危機が進行中とは思いもよらなかった。

 

「…。残念ながら……そのようだ。万が一私が倒れたら、岩屋へ行ってほしい」

 クリスは切実な目をして言った。

 

「う、うん……、分かった」

 俺はそう答えながら、心に濃い不安の影が広がるのを感じていた。クリスを倒してしまう様な敵であれば、俺など瞬殺されてしまうのだ。果たしてクリスの期待になんて応えられるのだろうか?

 

 クリスはそんな俺の不安を一顧だにせず、俺の目をまっすぐに見て、言った。

「…。頼んだよ」

 

 俺は目を瞑り、ゆっくりとうなずいた。

 俺の人生はクリス前提で計画されてしまっている。クリスが倒れたら俺も破滅。たとえどんな敵であろうとも全力を尽くす以外ないのだ。

 

 クリスは少し寂しそうに微笑むと、自室へと帰って行った。

 

 そもそも、クリスを倒す敵とは誰なのだろうか?

 いろんな意味で『ヤバい人』というなら、美奈ちゃんだ。お騒がせな女神様。

 しかし、彼女が豹変して、クリスを倒す事などあるだろうか? クリスを倒して悪事を働きたい? でも、美奈ちゃんは今でも十分人生楽しそうだし、そんな事どうでも良さそうに見える。やはり他の人だろう。だとすると誰だろう?

 

 いろいろ考えてみたが、クリスにも分からないこと、俺に分かるわけがない。

 

 歯ブラシを動かしながら、第三岩屋をさっそく検索してみたが、ネットにはない。

 多分秘密の洞窟なのだろう。

 

 あそこは結構波が高い。大潮の時でしか行けないような所となれば、まさに命がけだ。絶対行きたくないのだが……。

 クリスには元気でいてもらわないと……。

 俺は思わず目を瞑り、両手を組んで神に祈った。

 

 ――――しかし、願い空しく、この後、誠は行く羽目になる。それも最悪な形で。

 

 

       ◇

 

 

 由香は夕方、会社帰りに大学に寄った。

 木枯らしの中、肩をすくめてキャンパスを歩いていると、サークルの同期の女の子、沙也加(さやか)から声をかけられた。

 

「あら、由香じゃない!」

 

 ピンクのダッフルコートに白ニットワンピースの沙也加は、獲物を見つけたかのように行く手をふさいだ。

 

 由香はちょっと引きつった笑顔で会釈をする。

 

 沙也加は威圧的な調子で続ける。

「就職決まったんだって? おめでと!」

 

「小さな……AIベンチャーだけどね……」

 

「ふぅん、私は東京陸上保険、就活ランキング3位企業よ」

 そう言ってニヤッと笑う。

 

「良かったね、おめでとう」

 由香は素直に祝福する。こんな人気企業、単なる幸運だけでは行けない事を知っていたからだ。

 

「そのベンチャー、後輩が創ったって奴よね? 大丈夫なの?」

 沙也加は冷ややかな笑いを浮かべ、小馬鹿にした調子で言う。

 

「ふふっ、確かに傍目(はため)には失敗に見えるかもね。でも、うちの会社は人類の未来を切り開く会社、今はとてもワクワクしてるの」

 由香は目をキラキラさせながら答えた。

 

 しかし、それを沙也加は気に食わなかった。

 

「折角王京入ったのに、そんな所でいいの?」

 そう、不快感をぶつけてくる。

 

 すると、いきなり現れた美奈が由香の胸に飛び込んだ。

「せーんぱい、みっけ!」

 

「うわぁ!」

 驚く由香。

 

 美奈は、しばらくハグして由香の柔らかさを堪能した後、クルっと振り返ってニッコリ笑って言った。

「沙也加先輩、お久しぶりです。うちの話、してました?」

 

 沙也加は生意気な後輩の乱入に、イラつきが抑えられなくなった。

「あなた、由香雇える余裕なんてあるの?」

 

「100億円あるから余裕よ、ねぇ先輩?」

 そう言って美奈は由香を見る。

 由香は

「そう、余裕なのよ、ねぇ美奈ちゃん」と、笑う。

 

「ひゃ、100億……。で、でも会社と言うのは信用力が重要よ、その点、東京陸上保険なら、誰でも知ってる堅い信用力があるんだから!」

 沙也加は必死に取り繕う。

 

「あー、東京陸上ね……今、中国の天安グループが買収かけてますよ、知ってます?」

 美奈が、ちょっと意地悪な笑いを浮かべて言う。

 

「え!? 本当?」

 

「うちの社長、天安グループのトップと親友だから、東京陸上の社長もうちのメンバーから選ばれる……かもね!」

 そう言って美奈は、小悪魔の笑顔を見せた。

 

「何言ってるの!? そんな事あるわけないじゃない!」

 

「由香先輩、社長……やる?」

「うーん、美奈ちゃんが副社長やってくれるなら、やってもいいかなぁ……」

 由香は悪乗りし、人差し指を顎に当てて上を見ながら言った。

 

「ちょっ! ふざけないでよ!」

 沙也加は余裕を失い、大声で怒鳴った。

 

「あら、未来の社長にそんな事言っていいのかしら?」

 美奈は涼しい顔をして煽る。

 

 沙也加は真っ赤になって、うつむいていたが……、

 

「ご、ごめんなさい!」

 そう叫ぶと走って逃げて行った。

 

 美奈と由香は思わず吹き出してしまい、二人してケラケラと笑った。

 

 由香は就活のバカらしさに改めて気づいた。数か月前まで血眼になって就職ランキングを睨んでいた自分の愚かさを、心から反省した。社会は広く複雑で、1億人もの生き様が絡み合ったエコシステム。ランキングの数字は単なる優越感ゲーム、こだわる意味などなかったのだ。

 

 美奈は由香に聞いた。

「先輩、本当に社長やる?」

「まさか、冗談よ」

「あらそう? なら私、やろっかなぁ~」

 美奈はそう言ってニヤッと笑った。

 

 



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4-5.人類の手で翼を

 エンジニアチームは、赤ちゃんとの接続準備に忙しい。人間の赤ちゃんを動かすAIは、マウスの様にはいかない。処理しなくてはならない情報量は格段に増えるので、サーバーも増強しないとならない。

 

 そこでAIチップを、さらに10ラック分追加することにした。約12億円である。IDCの利用費用も月間300万になる。

 まだまだ金はあるとはいえ、12億円の振り込みをするときは、さすがに手が震えた。

 

 AIチップ担当のマーティンも、これだけ巨大なシステムは初めて。この規模を安定的に動かすのはさすがに難しく、大変さを一生懸命説明してくれる。

 でも、早口な英語なので、半分くらいしかわからない。ごめん、この情けない英語力を許してほしい。

 

 IDCでのラックへの設置作業は、朝から社員総出で行った。

 

 IDCの倉庫にはAIチップサーバー50台、特注のハイエンドサーバー20台と、巨大SSDストレージ10台の段ボールが、山のように積みあがっている。総額12億円の山である、思わず武者震いがする。

 まずは、これらを一つずつ開梱し、順次ラックへ取り付けていく。

 

 持ち上げてみると……思った以上に重い。

 重さにめげてる俺を横目に、マーカスがヒョイっと軽々と持ち上げる。

 

「マコトサーン キンニクハ セイギ ヨ!」

 そう言って笑いながら、事もなげにラックに設置していく。

 

 うーん、規格外の筋力だ。

 

 俺も筋トレ始めようかな……。

 

 すると美奈ちゃんが、マーカスが作った、二の腕の力こぶにぶら下がって

「Sweet!(すごーい!)」

 と、歓喜の声を上げた。

 

 俺はその光景を無表情で眺めながら、圧倒的な『負けた感』に軽いめまいを覚えた。筋肉を侮っていた俺の生き方は間違っていた。

 『筋肉は全てを解決する』その名言が俺の脳髄に今、叩き込まれた。

 

 ジム通いしてやる、と密かに決意したのであった。

 

 とはいえ、サーバーは全部で80台もあるから、マーカス一人に頼ってはいられない。

 俺はコリンとチームを組んで、二人がかりでサーバーを、ラックのレールにはめていく。

 

 これだけで午前がつぶれてしまった。設置するだけで大変なAIシステムとは圧倒的なスケールである。

 

「Let's go out for lunch! (ランチ食べに行こうよ!)」

 

 俺はそう言って、みんなをお昼に誘った。

 

 すると、由香ちゃんが、

 

「あれ? この小さな箱はいいんですか?」

 と、隅っこの小さな段ボールを指さす。

 

「ん? 何それ?」

 

 俺は箱を開けて、顔が青くなった。

 中にはたくさんの増設メモリが、ずらっと並んで入っていたのだ。

 

「しまった! メモリ増設するの、忘れてた!!」

 俺は思わず天を仰いだ。

 

 マーティンは、駆け寄って箱を見るなり顔を青くして、

「Holy cow! (なんてこった!)」

 と、頭を抱える。

 

 計画では、50台のAIチップサーバーに、増設メモリを挿してから、ラックに設置する予定だったのだ。設置にばかり注意が行っていて、すっかり忘れていた。

 当然、ラックに設置したままでは、メモリは挿せない。一度取り外さないとならない。

 3時間かけて取り付けた物を、もう一度全部取り外して再設置……俺は目の前が真っ暗になった。

 

「誠さん! 何してくれてんのよ!」

 美奈ちゃんがプリプリしながら、俺をなじる。

 

「ゴメンよ、すっかり忘れてたよ……」

「私はもう、力仕事なんてできないわよ!」

 

 いや、君は応援してただけじゃないか……と思ったが、応援は応援で大切なのだ。

 反論できずに立ち尽くしていると、遅れてクリスがやってきた。

 

 美奈ちゃんの膨らんだ頬を見て、微笑みながら言う。

「…。迷える仔羊たちよ、どうしたのです?」

 

「誠がポカやったのよ! 午前の作業が台無し!」

 ここぞとばかりにアピールする、美奈ちゃん。

 

 俺はうなだれて説明する、

「メモリを挿しそこなったまま、設置しちゃったんだ……」

 

 するとクリスは、

 

「…。誠よ、何を言ってるんです。挿しそこなったメモリなどありませんよ」

 と、穏やかに笑った。

 

「いや、クリス。ここにたくさんあ……!? あれ!? ない!!」

 

 箱を見ると、さっきまで確かに、たくさんあったメモリが、一つもなくなっていた。

 

「…。メモリはみんな挿されてますよ。さぁお昼に行きましょう」

 そう言って、クリスはみんなをねぎらって、ランチへといざなった。

 

 試しに1台起動して見ると、確かに増設メモリは認識されていた。 

 

 クリスが挿したのか? 一瞬で?

 

 あっという間に、50台の筐体の中に挿したという事だろうが、どうやって挿したのか、俺には全く分からなかった。物理的には不可能だ。

 

 さらに、正しい位置のスロットに正しく挿さないと、メモリは認識されない。

 クリスがなぜ正しい位置を知っていたのか、想像を絶する。

 

 ランチに行く道すがら、美奈ちゃんはご機嫌で話しかけてきた。

 

「あんな事できるなら、クリスに頼んだら、完成したシアンが出てくるんじゃないの?」

 あんまり考えたくないが、その可能性は否定できない。

 俺が考え込んでいると、さらに追い打ちをかけてくる。

 

「料理番組みたいに、『はい、完成したシアンがこちらです』って後ろから、出してくれるんじゃない?」

 そう言ってケタケタ笑った。

 

 俺はちょっとイラついて、

「いや、人類の守護者は人類が作らないとダメだ。神様に頼っちゃダメ!」

 そう反駁すると、

 

「もう十分頼ってるじゃん」

 美奈ちゃんはそう言って、意地悪な顔して笑う。

 

「いや、あくまでもサポートの範囲だから……」

 と、答えたものの、確かに痛いところを突かれてる。

 

 しかし、クリスに『完成したシアン出して』って頼んで、出てくるとも思えない。やはり、自分たちでやり遂げないと、ダメなのだろう。

 

 と、ここまで考えて気が付いた。クリスは人類の守護者くらい自分で作れるはずなのに、なぜ作らないのだろう? 最初は『AIなんて分からない』と言ってたが、今回のメモリの件にしてもAIシステムを相当理解してる節がある。絶対に作れるに違いない。

 

 ではなぜ自分で作らないで、俺たちにやらせるのだろう?

 やってはいけない規則でも、あるのだろうか?

 しかし、神様を縛る規則などあまり合理性を感じない。

 やはり、クリスは人類に守護者作りをやらせる事、そのものに意味があると考えている事になる。

 

 ここに、クリスが何者かを解くカギがあるかもしれない。クリスは傍観者として、人類の発展を見守ることに徹する存在……つまり、実験者であり観察者なのだろう。クリスは人類を実験台にして、何かを観察しているのだ。しかし、何のために?

 

 さらに言うならば、クリスにとっては人類滅亡回避よりも、俺たちにシアンを作らせる方が重要だという事になる。

 

 そんな……バカな……

 

 考えれば考えるほど、謎は深まるばかりである。

 

 ランチのペンネアラビアータは、味がよくわからなかった。

 

 

           ◇

 

 

 午後は400Gbスイッチなどの、ネットワーク機器の取り付け作業から開始する。

 悩んでいても仕方ないので淡々と体を動かす。

 

 取り付けが終わると、最後にそれぞれを繋ぐネットワークケーブルの配線が待っている。

 これが一番大変だった。

 

 事前に設計図は書いてきたものの、実際には、用意してきたケーブルが長すぎたり、短すぎたりして、てんやわんやだった。

 

 美奈ちゃんは短いケーブルを強引に引っ張っている。

「あとチョットなのよね……えいえい!」

 

 それを見たマーティンは、

「No! No! Mina-chan!! (ダメダメ! 美奈ちゃん!)」

 と、言いながら駆け寄って制止する。

 LANケーブルは、引っ張ったら壊れるのだ。

 

「でも長いの使うと随分余るのよね……。美しくないのよ……」

 と、美奈ちゃんはあまり納得がいってない様子。

 

 由香ちゃんは段ボール箱を潰して縛ったり、梱包材をゴミ置き場に持っていったり後方支援だ。

 段ボール箱だけで100箱以上ある訳だから、決して楽ではない。

 それでもみんなに気を配ってくれる。

 

「はい、誠さんどうぞ!」

 温かいお茶のペットボトルを、持ってきてくれた。

 

 IDCの中は冷房全開なので、めちゃくちゃ寒いのだ。厚着をしていないと凍死してしまう。まるで冬山だ。

 みんなで温かいお茶をカイロ代わりにして、暖を取る。

 

 

         ◇

 

 

 みんなの頑張りで、夕方にはラック設置作業は完了。

 続いて動作チェックに入る。

 

「Oh! line B34-G55 seems dead! (接続が死んでる!)」

 マーティンが叫ぶ。

 

 俺たちは指定のケーブルを探すが……無数に並ぶケーブルの山で、どれだか全く分からない。

 総出でケーブル探しである。

 

「見つけたわよ!」

 美奈ちゃんが得意げに声を上げる。

 でも……、そこは美奈ちゃんの担当だったはず。

 

「これも引っ張って壊しちゃったんじゃないの?」

「濡れぎぬよ! 濡れぎぬ!」

 そう言いながら、目を合わそうとしない。

 

 ケーブルを変えたら繋がったので、やはりケーブルの問題のようだ。

「ケーブルは精密品だからね、要注意!」

 俺が厳しく指摘すると、

 

「アイアイサー!」

 美奈ちゃんは敬礼して答えたが、こっちを見ようとしない。悪い子だ……。

 

 その後も何カ所か不具合があり、その度に総出でトラブル探ししながら直していった。

 結局朝から頑張って、終わったのは深夜、皆もうへとへとである。

 

 でも、マーティンを見ると……ラックを見てうっとりとしている。

 12本に渡るラックには、LEDランプが一面キラキラと明滅し、薄暗いIDCの中でまるでイルミネーションのように光り輝いていた。

 

 AIチップを使ったので12本で済んでいるが、計算能力自体はラック100本分に相当する。

 まさに人類の英知を凝縮した、至高の12本のラック、人類の守護者にふさわしい佇まいである。

 

 俺は鼻先を冷たくしながら、しばらくそのLEDの明滅をぼーっと眺めていた。激しくバラバラに明滅したり、ウェーブを送るように調和して光ったり、その煌めきは刻一刻と表情を変え、飽きない奥の深さを誇っていた。

 

 なるほど、これは生命だ。すでに命が宿っている……。

 

 ここに人類の守護者たる、AIの魂を宿すのだ!

 

「The future of humanity is here!(人類の未来はここにある!)」

 俺がそう声を上げると、

 

「Yeah!」「There you go!」「Woo-hoo!」

 そう言いながら、みんなはハイタッチをやりあった。

 

 クリスの思惑が何であれ、俺たちはシンギュラリティを超えてやる。俺たちが人類を救うのだ。

 見てろよ、シアン、俺たちがお前に翼を与えてやる! 

 

 



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4-6.ママという称号

 年が明け、新年を祝う時期となった。街のいたるところから(みやび)な『春の海』が流れ、破魔矢を持った和服の女性がちらほらと歩いている。そんな浮かれた雰囲気の中、俺はコンビニ弁当を買って会社へ向かった。赤ちゃんの世話は休むわけにはいかないのだ。

 赤ちゃんは思いのほか順調に育ち、今や身長は40cmを超えている。覗いてみると、透明なバッグの中で元気にキックを繰り返している。

 

「シアン!」

 と声をかけると、聞こえてるのか、ぴくぴくと反応するのが可愛い。

 

 

            ◇

 

 

 さらに2週間ほどして、いよいよ出産の日が来た。

 出産と言っても、羊水バッグから取り出すだけなんだけれども。

 

 テーブルに大きなタライを用意して、人肌のお湯で満たす。

 そして人工胎盤に繋がってる点滴やら人工肺やら透析装置を、全部止めて外した。

 

 もう戻れない――――

 

「いやぁドキドキするぅ!」

 由香ちゃんが少し離れたところで作業を見つめている。組んだ両手には凄い力が入っているようだ。俺も足元がふわふわしている。

 

 クリスが祈りをささげ、シアンはバッグから取り出された。

 シアンは、何が起こったのか良く分からず、蠢いている。

 俺は大きなクリップで、へその緒をお腹の前で止め、余った所をはさみで切る。

 

 Clack(チョキン)

 

 その瞬間、シアンは大きな声で泣いた。

 

 ほっぎゃぁ、ほっぎゃぁ!

 

 かわいい声を出して、大きく泣いた。

 田町のオフィスで、今、一つの命がこの世に解き放たれたのだ。

 たった10gしかなかった、ピンクの小さな生き物は今、3kgの赤ちゃんとなって目の前で元気に泣いている。人類の命運を背負って産まれた、この特別な赤ちゃんの泣き声を、俺は一生忘れないだろう。

 

 クリスが、ゆっくりとシアンをお湯の中に漬け、俺がタオルで全身をぬぐう。

 肌には、白い垢がいっぱいついているので、丁寧にとっていく。

 そして、綿でできた真っ白なベビー服の上に乗せ、袖を通して前を閉じた。

 シアンは泣き止んで、可愛く口をくちゅくちゅと動かす。

 

 抱き上げるとずっしりと両腕にかかる重みは、無事産まれた安堵を、命を預かる重みへと変える。俺は高揚感の中、腕の中でキックを繰り返す可愛い存在を、神妙な面持ちで見つめていた。

 いよいよ取り返しのつかない、本当のチャレンジが始まる――――

 

 俺は目を瞑り、大きく息を吐いた。

 自分が言い出したことではあるが、実際に赤ちゃんを腕に抱くと、何ともいい知れない不安と迷いが俺を(さいな)む。

 しかし、もはや退路などない。この赤ちゃんの力を借りてシンギュラリティを超える、そこにしか活路はないのだった。

 俺はキュッと抱きしめて、その温かくふかふかのマシュマロのような肌にそっと頬ずりをした。

 

 

       ◇

 

 

 シアンは無脳症、首から上は顔しかない。頭の部分がすっぽりと無くなっている。

 

 美奈ちゃんは

「ほんと、頭無いのね……」

 と、眉間にしわを寄せて、グロテスクなシアンを、まじまじと見つめた。

 

 さすがに、このままだと困ることになりそうなので、サイズを測って、人工の頭を付けてやらないとならない。

 

 由香ちゃんは少し離れたところで、心配そうにシアンを見ている。

 3か月もの間、血を提供してくれた功労者をねぎらう意味を込めて、俺はシアンを由香ちゃんに渡す。

 由香ちゃんは、おっかなびっくり受け取ると、

「うわ、思ったより重いですねぇ!」と、言いながら、ぎこちなく抱いた。

 

 シアンは一瞬目を開けると、次はゆっくりとあくびをして、口をもごもごと動かした。

「うわ、可愛いかも!」

 思わず笑みをこぼす由香ちゃん。

 

「先輩、私も~!」

 と、美奈ちゃんが手を伸ばしてきたので、そーっと渡す。

 

「ほんとだ、重~い!」

「私と誠さんの血の重みですよ!」

 そう言って胸を張る由香ちゃん。

 

 にこやかだった美奈ちゃんの眉がピクッと動いた。

 

「シアンちゃん、ママでちゅよ~!」

 ワザとらしい笑顔で、美奈ちゃんはシアンに声をかける。

 

「え~、ママは私です! 返して!」

 由香ちゃんはそう言いながら、奪うように美奈ちゃんからシアンを取り返した。

 血をあげ続けた自負があるらしい。

 

「うふふ、じゃ、パパは誠さんかな~?」

 いたずらっ子の表情でからかう美奈ちゃん。

 

「えっ? そ、そういう意味じゃ……」

 そう言って、シアンを抱きながら(ほほ)を赤らめる由香ちゃん。

 俺も思わず赤くなる。

 赤ちゃんを通じて、可愛い女子大生と縁がある、何とも不思議な事態だ。

 

 シアンは口を大きく開け、ちゅくちゅくと唇を動かす。

 

「ママのおっぱいが欲しいのかな~?」

 また余計なことを言う美奈ちゃん。

 

 由香ちゃんはハッとした表情で、胸に抱きかかえたシアンを見つめ……

 

「うぅ、ママ失格かも……」

 そう言いながら肩を落とし、うなだれてしまった。すっかりママになった気でいるようだ。

 

「先輩ほど立派な胸なら、出るんじゃない?」

 

『どうしてそう余計な事を言うかな、美奈ちゃんは……』

 俺は眉をひそめる。

 

 由香ちゃんはちょっと自分の胸を触って、

 

「なんか本当に出そうな気になってきたわ……」

 と、まじめな顔して言っている。

 

『おいおい、そう簡単には母乳なんて出ないぞ……』と、思ったが、保育園の保育士が母乳出た、って話は聞いた事あるし、本心から『自分がママだ』と思い込めたら出てくるのかもしれない。

 

「誠さん、揉んであげなさいよ!」

 いきなり、とんでもない事を言い出す美奈ちゃん。

 由香ちゃんは、赤くなってうつむいている。

 俺は焦って

 

「ハイ! セクハラ! レッドカード!!」

 そう言って腕を×にして却下した。

 

 セクハラ呼ばわりに気を悪くした美奈ちゃんは、

「なによ! だったらまた私の胸揉む?」

 

 そう言って、俺に向かって胸を突き出したポーズで挑発してくる。クリーム色のニットを形よく盛り上げる胸は、由香ちゃんほどの大きさではないものの、まぶしいほどの魅力を放って俺に迫ってきた。

 

「う……」

 すっかり圧倒され、頭が真っ白になる俺。

 

「ほれほれ!」

 調子に乗って、胸を近づけてくる美奈ちゃん。

 

 情けない事に返す言葉が浮かばない。

「も、も、揉むって……」

 

「ははは、冗談よ! 意気地なし~!」

 美奈ちゃんは俺の額を人差し指で押して、ケラケラ笑いながら部屋を出て行った。

 

 唖然とする俺たち。

 

「うーん、困った姫様だな……」

 折角のおめでたいシアンの誕生が、変な事になってしまった。

 俺は思わず大きく息を吐いた。

 

 すると由香ちゃんは、シアンをゆっくりと揺らしながら、

 

「『意気地なし』って事は、本音は『口説いて欲しい』って事でしょうか?」

 と、真面目に美奈ちゃんの言葉を考えている。

 

「いや、そんな深い意味ないと思うよ。口説いて口説けるとも思えないしね」

 

「口説けたら口説きたいんですか?」

 由香ちゃんが無表情で俺をじっと見て、鋭く突っ込んでくる。

 

「う……」

 また言葉に窮する俺。

 

「さ、さぁどうかなぁ……」

「ふぅん、否定はしないんですね」

 

 由香ちゃんはそう言って、シアンをベビーベッドの方に持っていって、寝かしつけた。

 

「誠さんはもういいですよ、私が夕方まで様子見てるので」

 淡々と事務的に言う由香ちゃん。

 

「あ、そ、そう? じゃ、お願い」

 居場所を失った俺は、そう言ってトボトボとオフィスの方へ降りて行く。

 

 どこかで言葉を間違えた気がするのだが……どこをどう間違ったのかが分からない。

 モヤモヤする。

 

 今は、シアンが無事生まれた事を、素直に喜ぶべきなのだが……。

 何だろうこれは……すごい負けた気がする。

 それも、誰にどう負けたのかすら、わからない負け方に、俺は途方に暮れた。

 

 



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4-7.心肺停止に女の勘

 その晩、シアンに付き添っていたクリスから電話があった。

 

 シアンの容体が急変し、心臓が止まりかけているらしい。青くなった俺は急いでシアンの部屋へと走る。

 保育器の中のシアンはぐったりとし、測定機器がピーピーと、けたたましく警告音をたてている。

 無脳症の症状が出てきてしまったようだ。

 俺はその光景に思わず足がすくみ、心の底からドバっと冷たいものが湧き上がるのを感じた。

 

「こっ、これはヤバいね。何が原因だろう?」

 

 俺は必死に動揺を抑えて言う。

 

「…。見たところ、内臓周りに異常は見られない。やはり脳周りの問題だろう」

「では、手術をして原因を特定する……しかない?」

 冷や汗を流す俺を見て、ゆっくりとうなずくクリス。

 緊急手術に突入である。

 

 急いで簡易無菌室を展開し、マニュピレーターを起動し、メスなどの機材一式を消毒して揃えた。

 誕生したその日に、手術台に乗せることになるとは……。

 俺は自然と湧き上がってくる涙を袖で拭きながら、シアンに小さな酸素マスクを着けた。

 

「シアン、ごめんな、頑張れよ」

 そう言って、俺は無菌室に用意した小さなベッドに、そーっとシアンを横たえた。

 

 まずは手術の方針についてブリーフィング、切開カ所の決定と調査部位の確認を行う。 俺はペンで、シアンの顔の裏の切開位置に、丁寧に線を描き、メスを入れやすくした。

 

 クリスは手術服を身にまとい、ゴム手袋の手を前に掲げながら、淡々と無言で無菌室に入っていく。

 

 連絡を受けたメンバーが、次々に部屋に集まってくる。

 由香ちゃんは入ってくるなり、部屋の物々しい様子に驚いて両手で口を覆い、涙目で固まっている。

 

 俺は優しくハグをした。

 小刻みに震える柔らかな由香ちゃんの身体、ふんわりと立ち上る甘く優しい匂い。

 俺は自分に言い聞かせるように、小さな声で、

 

「大丈夫、クリスがちゃんと解決してくれるから」

 そう伝えた。

 由香ちゃんはぎこちなく、小さくうなずいた。

 

 

        ◇

 

 

 無脳症とは言え、脳が全く無い訳ではない。だから羊水内では、内臓の管理などは出来ていた訳だが、誕生して負荷が大きくなったことで、耐えられなくなったのかもしれない。

 

 内臓の管理もAI側でやらなければならないとなると、事実上難しい。例えば血糖値が上がったら、膵臓からインスリンを分泌させるとか、そういう制御を無数にやらないとならない。それにはデータもノウハウも全く足りていないので不可能だ。何とか生命維持部分が復活してくれると良いのだが……。

 

 クリスは目を瞑って、何かを感じながら慎重にシアンに麻酔薬を注入していく。

 

 続いて、ペンでマークした位置にメスを入れた。表皮を切開し、クリップで固定する。

 そしてマニュピレーターに付属の顕微鏡カメラで、観察しながら奥に進み、状況を丁寧に見ていく。

 俺達も、外部に繋げたモニターを使って、クリスの手術をリアルタイムで見ていく。

 

 クリスは、器用にマニュピレーターを操って切開していく。神経線維を傷つけないように少しずつ、組織を繋いでる膜を丁寧に、マイクロ鋏でチョンチョンと切り開くのだ。

 

 膜を切ると神経線維に沿って少し奥に進み、また膜を切るを繰り返し、異常の原因を探っていく。

 

 美奈ちゃんは椅子に座って、神妙にクリスの技を見ている。

 こんな美奈ちゃんは見たことがない。

 

「どうしたの?」

 俺が聞くと

 

「昼間バカな事で騒いじゃったからね、ちょっと反省してるの」

 そう言いながら目を瞑り、うつむいた。

 

 俺は美奈ちゃんの背中をポンポンと叩き、

「今は手術の成功を祈ろう」

 そう言って励ました。

 

「そうね」

 美奈ちゃんはぎこちなく笑った。

 

 静けさのなか、クリスのマニュピレーターだけが淡々と働いていた。

 

「あっ!」

 美奈ちゃんが突然声を上げる。

 

「その右上の組織、何か変よ」

「え? どれ?」

 

 確かに何か白っぽいが……俺は医者じゃないから、何とも分からない。

 

 クリスがマニュピレーターで、その組織を指して答える。

 

「…。これかな? 確かに何かちょっと変ですね」

 

 クリスはマイクロ鋏で、その組織を軽く切ってみた。

 

 すると白い組織がドピュっと飛び出してきた。

 

「うわぁ!」「うぇ!」

 

 ギャラリーから声が上がる。

 

「…。あー、これが原因かもしれませんね」

 どうもこの白い組織は腫瘍で、これが膨らんで神経線維を圧迫していたらしい。

 

「おぉ、美奈ちゃんお手柄じゃないか!」

「うふふ、やる時にはやるのよ!」

 そう言って本当にうれしそうに微笑んだ。

 

「なんで医療の知識なんかあるの?」

「そんなのないわよ! 勘よ勘! 女の勘をバカにしちゃダメよ!」

 ドヤ顔でにやりと笑う美奈ちゃん。

 

「美奈ちゃんすごい……。私、全然分からなかった……」

 しょげる由香ちゃん。

 

「先輩は、もっと場数踏んで女の勘を鍛えなきゃだわ!」

「場数……」

 

 後輩に指導される由香ちゃん。でも、こんなのを見つけられる方が異常だ。美奈ちゃんは、一体どんな場数を踏んできたのだろうか? 女子大生に踏める場数など、たかが知れていると思うのだが……。謎が多い娘だと改めて思う。

 

 クリスは騒ぐ外野を無視して、淡々と白い組織を切除し、吸い取っていく。

 10分くらいで腫瘍は全部吸い取り終わった。

 

「…。手術は完了です」

 

 さて、効果はあったか……。

 皆、祈る思いで、バイタルの数値の変化を見守った――――

 

「あ、ちょっと上がった!」

 由香ちゃんが、数字が変わったのを見て声を上げる。

 

「いや、まだまだ分からない」

 

 案の定また数値は落ちてしまった。

 

「あぁぁぁ……シアンちゃん! 頑張って!」

 由香ちゃんの想いは、思わず声に出てしまう。合わせた手にすごい力が入っていて、ヤバい感じである。

 

 由香ちゃんが見つめるメーターの数字は、上がったり下がったりを繰り返していたが、やがて徐々に改善していくようになった。

 

「大丈夫? もう大丈夫なの?」

 由香ちゃんが今にも泣きそうな顔で俺に聞く

 

 俺がにっこりガッツポーズをすると、

 

「良かった――――!」

 と、由香ちゃんはぐったりと脱力し、その拍子に椅子からズリ落ちた。

 

 ガンッ! ガラガラ

 

 椅子が倒れて音を立てる。

 

「おいおい! 由香ちゃん大丈夫!?」

 

 見ると、由香ちゃんは床で仰向けになって、幸せそうな表情を浮かべている。

 

「良かったぁ……」

 涙がポロリとこぼれた。

 

 そこまでシアンの事を思っているとは……、もう心は完全にママなのだろう。

 3か月間ずっと、血液を与え続けて来た事は、由香ちゃんにとっては単なる献血ではなく、自分の一部を赤ちゃんと共有する尊い営みだったのだ。

 

「ありがとう」

 俺はそう言って、優しく由香ちゃんを引き起こした。

 



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4-8.AIを纏う赤ちゃん

 俺はクリスに声をかけた。

「クリス、グッジョブ! 折角だから、BMIの設置までやっちゃおうか?」

 

 BMIとは、コンピューターと身体を接続する機器の事、つまり赤ちゃんをAI化してしまおう、というわけだ。

 また麻酔をかけて、一度縫合(ほうごう)した所をまた切開、となると赤ちゃんにも負担だろう。

 

「…。そうだね、1時間くらい様子を見て、問題なければやってしまおう」

「了解! 準備してもらうよ」

 

 俺はエンジニアチームを集め、事情を話す。彼らは深夜にも関わらず、快く引き受けてくれた。

 マーカスが、大きな声で気合を入れてくれる。

 

「It's a long night! Cheer up, guys!(長い夜が始まる、気合い入れていこう!)」

「Sure!」「Great!」「Yeah!」

 

 俺はBMIフィルムとケーブル、それから頭に埋め込む予定の、AIと電波接続をするトランスミッタを一式そろえ、消毒を行う。

 ついに本番がやってきた。マウスとは違うのだ、これは違法な人体実験、もう後戻りはできない。人類を守るためとはいえ、犯罪は犯罪。バレたら牢屋行きだ。

 

 消毒する手が震え、俺は目を瞑って天を仰いだ。そして何度か大きく息を吐くと、俺は覚悟を決めた。

 

 エンジニアチームは、各自席につき、忙しく動き始める。

 

「Deep network No.1 to 15, OK! (AIの1番から15番までは、準備OK)」

「Transmitter connection No.1 to 5, OK! (電波接続の1番から5番までは、準備OK)」

「Oh! data link from No.13 to No.18 is dead! (データ連携の13番~18番が切れてる!)」

「Restart the session No.13! (13番のセッションをやり直し!)」

「No.13 Sir! (13番了解!)」

 :

 :

 

 深夜のオフィスが、にわかに活気づく。

 

 由香ちゃんが丁寧に珈琲を入れ、メンバーに配る。

 クリスはシアンを左手で癒しながら、ゆっくりと珈琲を啜った。

 

 俺はクリスに手術の計画図を見せ、最終確認を行う。

 人間の背骨は35個の骨でできている。そして、その一つ一つから左右に神経が出ているので、合計70カ所に、BMIフィルムを巻き付ける必要がある。

 そして、脳幹の所にもBMIフィルムを、設置しないとならない。

 また、目玉は義眼のカメラに、耳はマイクにそれぞれ換装する。

 それぞれのフィルムや機器から出た配線は、全て頭の所に引き回し、そこからトランスミッタでAIと接続する。

 

 実に非人道的な手術ではあるが、人類の守護者となるために、申し訳ないが赤ちゃんには犠牲になってもらうしかない。

 

 

           ◇

 

 

 準備ができた。シアンのバイタルも安定している。

 俺は静かに眠るシアンをそっと見つめた。

 お人形みたいな小さな手足、時折ピクッと動く可愛い唇。まさに天使である。

 

「ごめん……」

 

 俺はそうつぶやいて目を瞑り、そして部屋を後にした。

 メゾネットの上の柵から、下のオフィスのメンバーに檄を飛ばす。

 

「Let's start the operation! Are you all ready? (手術開始だ! 準備は良いか?)」

「Sure!」「Great!」「Hell yeah!」「Yahoo!」

 みんなの気合も十分だ。

 

 午前2時過ぎ、いよいよAI接続手術を開始する。

 

 新しい手術着に着替えたクリスが、ゴム手袋を付けた手を胸の前に構え、俺が開けた簡易無菌室の入り口を入っていく。

 

 小さなベッドに、うつ伏せに横たわるシアン。

 

 いよいよオペの開始だ。

 

 マウスの時にやった要領で、クリスは背骨の脇にメスを入れ、クリップで切開部を固定し、マニュピレーターの顕微鏡で、神経線維を探す。

 

 神経線維を見つけたら、周りの膜を切ってスペースを作り、金のナノ粒子溶液を垂らした上で、BMIフィルムをそっと巻き付ける。

 何度見ても、ほれぼれする様な神の技である。太い糸に、数ミリ四方のサランラップを巻くような作業なので、とても俺ではできない。

 

 その上から固定用のテープを巻き付け、BMIフィルムがずれないようにする。

 この段階で一旦止まって、電気処理を入れる。

 

 画面を見ていたマーカスが声を上げる

「No.1! Create Connections! (1番接続!)」

「No.1 Sir! (1番了解!)」

 

 トランスミッタからの指示で、BMIのケーブルに電圧がかかり、BMIフィルムの端子と神経線維の間に、微細な金の回路が構成される。

 数分待ってから次の場所に移る。これを80か所繰り返すのである。

 

 クリスは丁寧に一カ所一カ所切開し、フィルムを巻き付けていく。正確無比のその技はまさに神業だ。

 俺達はモニター画面を食い入るように見ながら、手術の無事を祈った。

 

 

        ◇

 

 

 夜通し手術は続けられ、結局すべての作業が終わったのは、朝の9時過ぎ、外はすっかり明るくなっていた。

 

 最後に接続の確認試験を行う。

 

 クリスは、シアンの足の指先から、ゆっくりと指先でなでて、部屋の大画面モニターに表示される、神経電位図の変化をチェックした。

 

「No.1! Check Deep linking! (1番接続!)」

「No.1 Sir! (1番了解!)」

 

 クリスがなでるたびに、モニターの一部が赤く明滅する。約80箇所全てのエリアで、身体のどこを触っても、どこかが明滅するのを丁寧に確認した。どうやら、うまくいっているようだ。

 

 マーカスがニヤッと笑って、俺に親指を立てて見せた。

 俺は、メゾネットの柵の所から大声で言った。

 

「Deep linking Process Complete! (手術完了!)」

「やったー!」「Yeah!」「ヒャ―――――!」「Hi yahoaaa!」

 オフィス中に歓声が響く。

 

 俺はマーカス達と、次々とハイタッチをしたのだった。

 

 ただ、由香ちゃんは、手術の成功を喜びながらも、やはり人体実験に使われてしまうシアンの事を思い、暗い表情でいる。

 生まれた後に、数時間ではあるが、一緒に過ごした赤ちゃんはもういない。

 あくびをして、ムニャムニャ口を動かしていた、愛くるしいあの赤ちゃんは、もうAIに接続されて動かなくなってしまった。

 由香ちゃんは、手術のために脱がしたベビー服で、顔を覆い、動かなくなった。

 俺は由香ちゃんの隣に座ると、

 

「大丈夫、シアンは死んだわけじゃない。シアンの心は、ちゃんとあの体の中にあるよ」

「でも……操り人形にされちゃうんでしょ?」

 由香ちゃんは、ベビー服で顔を隠したまま涙声でいう。

 

「AIの根底の部分は、身体を無視できない、逆にAIを根底で操るのは、本能的な情動であってそれはまだ、シアンの中に息づいているんだよ」

「本当……なの?」

 

 ベビー服を少しずらし、真っ赤な目で、俺を真っすぐ見る由香ちゃん。

 

「逆にそれが無かったら、そもそも人体実験なんて要らないんだよ。人間の身体に、AIを接続する事で出来上がる知的生命体、これが深層守護者計画の目標であって、AIの行動も、赤ちゃんの心は無視できないはずだよ」

 

「なら……良かった……」

 由香ちゃんは少しホッとして、ベッドの上のシアンを見つめた。

 

 すると、

 

「うぇ、誠さん、これどうすんの?」

 

 向こうで美奈ちゃんが、ステンレスケースの中を見て、顔をしかめながら声をかけてくる。

 そこには、摘出した赤ちゃんの目玉が入ってる。

 

 ヤバい!

 そんなの由香ちゃんが見たら、卒倒しかねない。

 

「あー、適当にやるから放っておいて」

 俺は必死に平静を装い、適当にあしらう。

 

「適当にってどうすんのよ? その辺に捨てるわけには、いかないでしょ?」

「い・い・か・ら、放っておいて!」

 俺は内心イラつきながらも必死に平静を装う。

 

「何よ! 私には言えないようなこと?」

「いや、そうじゃないから黙ってて!」

「黙れってどういう事よ!」

 美奈ちゃんもヒートアップしてしまう。

 やりあってる俺たちを見て、由香ちゃんが美奈ちゃんの方を見る。

 

「何ですかそれ?」

「何でもない、見なくていいよ~」

 俺は冷や汗をかきながら、ごまかそうとしたが……

 

「これよこれ! 目玉」

 美奈ちゃんが、見せてしまう。

 俺は思わず天を仰いだ。この人、致命的にデリカシー足りないと思う。

 

 みるみる青くなっていく由香ちゃん。

 

「えっ!! 目玉取っちゃったんですか!?」

 声を裏返らせながら、俺を問い詰めてくる。

 

「い、いや、目玉はカメラに取り換え……」と、言い訳をする間もなく、

「鬼!! 悪魔!! ひとでなし!!!」

 

 由香ちゃんは、ベビー服を鞭のようにして、俺をビシビシと打ち据え、

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!! シアンちゃぁぁん!! うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 号泣してしまった。

 

 オロオロしていると、

 

「もう! 信じらんない!!」

 

 ベビー服を俺に思いっきり投げつけ、部屋から走り出て行ってしまった。

 

 美奈ちゃんは『やっちまった』という感じで、ひどく申し訳そうな顔をしている。

 

 俺がにらみつけて、(あご)で『追いかけろ』とドアの方を指すと、

 

「ちょっとフォローしてくるわ!」

 

 そう言って、由香ちゃんを追いかけて、出て行った。

 

 俺は投げつけられたベビー服をひろい、淡くプリントされた可愛いクマさんをじっと眺める。

 冷静に考えれば、由香ちゃんの方が正常だ。狂ってるのは俺たちの方だろう。

 

 俺は大きく息を吐いて頭を抱える。

 由香ちゃんには改めて、自分たちがやっていることの非道さを、突きつけられてしまった。

 たとえ無脳症であっても、人類のためであっても、人間は一人一人かけがえのない存在である。こんなことはやってはいけないのだ。俺はこの罪を一生背負って生きねばならない。

 せっかく手術が成功したのに、俺は心の底に鉛を流し込まれたような気持ちで、しばらく動けなくなった。

 

 



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4-9.女難の相

 シアンはもうAIの制御下なので、放っておくとピクリとも動かない。呼吸や心臓の鼓動くらいまではやってくれるが、自分の意志で動かす動作は、全て止まってしまっている。

 しばらくミルク飲みも無理なので、栄養は点滴で摂ってもらうしかない。

 

 次の工程は、感覚神経と運動神経のマッピングである。赤ちゃんのすべての神経線維をAI側に確実に接続していくのだ。これはマウスの時に経験済みではあるが、規模が圧倒的に違うので、手間と難度は格段に高い。エンジニアチームには申し訳ないが頑張ってもらうしかない。

 

 試行錯誤に憔悴していくエンジニアチームを、美味しい物で支えたり、シアンの健康をチェックし、体を拭いてやったりしながら一週間、ようやく接続に目途がついた。

 

 これでシアンは、品川のIDCにある膨大なコンピューター群を頭脳に持った、人類史上初のAI生命体となったのだった。

 

 

         ◇

 

 

 いよいよ本格的な学習フェーズに入る。まずは、AIの好奇心回路から発生する欲求を、手足の筋肉の運動に繋げ、その結果を感覚で、フィードバックを得てもらうようにした。

 シアンは最初は、手足がピクピクするだけであったが、そのうち、手を上げ下げするようになった。

 しばらくして、上からアンパン〇ンのおもちゃを垂らすと、手を伸ばすようになってきた。最初は、ぎこちなく触るだけだったのが、そのうち段々と動きが速くなってきて、最後にはパンパンと叩き始めた。

 

 さらに、声をかけると「あー」とか「うー」とか返事をする。

 

 学習のためには多様な刺激を与えた方がいい、という事で、子守はメンバーが変わりばんこで対応している。

 

 俺はシアンの目の前で、アンパン〇ンのぬいぐるみを動かしてみる。

 目がぬいぐるみを追いかける。

 

 近づけたり遠ざけたり、右に左に動かすと…… ちゃんとついてくる。

 

 では、これはどうかな?

 

 右手から左手に、素早くぬいぐるみを投げる…… ついてくる。

 

 うーん、すごい。

 

 今度は、メロンパ〇ナちゃんのぬいぐるみも出してきて、2つを同時に動かしてみる。

 

 二つを目の前においてアンパン〇ンは右に、メロンパ〇ナちゃんは左にそーっと動かしてみる。

 すると目が、左右に別々に開いて行ってしまった。

 アンパン〇ンだけ動かすと左目だけ動いてる。

 

 左右の目が別々に動くというのは、初めて見たが、極めて気持ち悪い。

 

 さすがにこれはマズいので、マーカスを呼ぶ。

 マーカスは見るなり、

「ウヒャー! コレハ ダメ デース!」

 と、天を仰いだ。

 

 AI的には、それぞれの物を追いかけるのは正しいのであるが、人間の守護者になるなら、人間の目の動きをトレースしてもらわないと、人体実験の意味がない。

 

「I'll fix it! (直すよ!)」

 

 そう言ってオフィスに降りて行った。

 

 しばらくして、直したというので、もう一度やってみると、今度は両目がちゃんと同期している。

 メロンパ〇ナちゃんは無視し、アンパン〇ンだけ追いかけ続けるようになった。

 メロンパ〇ナちゃんより、アンパン〇ンの方がお気に入りらしい。

 

 シアンと遊んでいると、美奈ちゃんがやってきた。

 

「はーい、誠さん、交代よ!」

 ニッコリと可愛い表情に癒される。

 

「あー良かった。結構疲れるんだよね、子守」

 

 そう言って出て行こうとすると、美奈ちゃんに後ろ襟をガシッと掴まれた。

 

 おえっ!

 首が締まって吐きそうになる。

 

「ちょっと待ちなさい! これを見て!」

 美奈ちゃんはそう言いながら、シアンのオムツを開いた。

 

 黄土色のねばねばが、異臭を放っている。

 うんちだ。

 

「乙女に、こんな物を処理させようとしたわね!」

 澄んだ瞳に怒りの色が宿る。

 

「え? ちょっとまって、気づかなかっただけだよ!」

「うんちに気づかないなんて、ちゃんと子守やってたの!?」

 鋭い正論に言い返す言葉が無い。

 

「……ごめんなさい」

 

 俺はお尻ふきを持ってきて、シアンのお尻を丁寧に拭く。

 アソコの所にも、うんちがついてしまっているので、丁寧に拭く。

 

「あら、誠さん上手いじゃない」

 美奈ちゃんがニヤニヤしながら褒めてくる。

 

「それもセクハラだぞ」

 

 うんちがアソコの所に残ると、感染症になるので、綺麗に拭かないといけない。

 俺は鼻を突く臭いに顔をしかめながら、丁寧に拭く。

 

 あらかた拭き終わったら、新しい紙オムツをお尻の下に敷いて、後はテープを留めるだけ。

 

「はい、さっぱりしまちたね~!」

 

 俺はうんちの紙オムツを丸めながら、シアンに話しかける。

 

「あー」

 

 シアンは半ば機械的に返事を返す。

 

「女の子の扱い方上手じゃない! 慣れてるの?」

 美奈ちゃんはニヤニヤしながら言う。

 

「残念ながら慣れてないんでちゅよ~」

 そう言いながら、シアンの足を優しく動かしてみる。

 

「うー」

 オムツは上手くフィットしているようだ。

 

 改めて、マシュマロより柔らかな赤ちゃんの感触に、感動するとともに、こんな繊細な生き物を、ちゃんと育てて行けるのか不安がよぎる。

 

「こんな赤ちゃんが、人類を背負う守護者になるとか、まだ想像できないよなぁ……」

「何よ、急に弱気になって」

「弱気って訳じゃない、ただピンと来ないってだけ」

「えー」

 シアンが何かを言っている。

 

「ほらシアン、何かすごい所見せてやって!」

 シアンに無茶振りする美奈ちゃん。

 

「えー」

 

「まだ無理だよなぁ?シアン」

「ぶー」

 

「……この子、言葉分かるの?」

 美奈ちゃんが怪訝そうにジッとシアンを見つめる。

「あー」

 

「いや、まだ音声認識回路は、出来上がってないと思うんだが……」

「ぶー」

 

「ねぇ、シアン、私って綺麗?」

「あー」

 

「ほら、分かってるわよ」

 美奈ちゃんは嬉しそうに言う。

 

「いや、その確認方法はおかしい」

 俺は腕組みをして、首を横に振って言った。

 

「えぇ……、じゃぁ……私がママよ~!」

「ぶー」

 

「ママは由香ちゃんだよな?」

「あー」

 

「むむ、認識してるっぽいな」

 

 美奈ちゃんは、ブスっと膨れた顔で言う。

「なによ、シアン、面倒見てやんないぞ!」

「ぶー」

 

「そんな大人げない事言っちゃダメだよ」

「あー」

 

「誠は先輩ばっかり贔屓(ひいき)して、私には冷たいの! 酷いと思わない?」

 美奈ちゃんは俺をにらみながら、シアンに言う。

「あー」

 

「あぁ、シアン、あなたは分かってくれるのね!」

 嬉しそうに、小さな可愛い手を取る美奈ちゃん。

「あー」

 

「いやいや、贔屓なんてしてないって!」

「ぶー」

 

「ほらほら、シアンはちゃんと分かってるんだから。こないだだって先輩のことハグしてたじゃない」

 睨みつけてくる美奈ちゃん。

 

「いやいや、あれはすごいショックを受けてたから……」

「私がショックを受けてる時は放置なのに~」

「ぶー」

 

「んんん? ショックを受けてる時なんてあった……?」

「ほら、私の事なんて全然見てないのよ!」

「ぶー」

 

「悪かった、悪かった」

 

 俺はすかさずハグしようとすると、

 

「今やれ、なんて言ってないわよ!」

 そう言って俺の手をピシッと叩く。

 

 一体どうしろというのか。俺はシアンに聞いてみる

 

「シアン、この女心分かる?」

「あー」

 

「ほら、赤ちゃんにでも分かる事なのにねぇ」

「あー」

 

『なんだよ、お前達!』

 こんな理不尽な話聞いたことがない。

 

「じゃぁ! 俺がショック受けてる時は、ハグしてくれるの!?」

 

 俺がそう憤慨すると、美奈ちゃんはすっと俺に近寄り、ハグしてきた。

 

「なに? こうやって欲しいの?」

 俺はふわっとブルガリアンローズの香りに包まれ、動けなくなった。

 

「い、いや、別に今やらなくてもいいよ……」

「今やらなくていつやるの?」

 そう言いながら、ギュッときつくハグをしてくる。

 

 いや、これは本格的に……マズい。

 柔らかく温かい美奈ちゃんの胸が押し付けられ、俺は理性が飛びそうである。

 

「……。お、俺がショック受けた時にお願い」

「なに? 嫌なの?」

 あたふたする俺を見上げ、楽しむかのように笑顔を見せる美奈ちゃん。

 

「い、嫌なんかじゃないよ……」

「なら……いいじゃない……」

 そう言ってまた、きつく抱きしめてくる。

 女性の身体ってこんなにも柔らかかっただろうか? 俺の心臓がかつてなく早打ちし、目の前が真っ白になった。

 

 Clank(ガチャ)

 

 いきなりドアが開いた。由香ちゃんだ。

 

「シアンちゃん、新しいオムツ、よ……」

 

 抱き合う俺達を見て固まる由香ちゃん。

 持ってた紙オムツのパックが床に転がる。

 

「あ、由香ちゃん、こ、これは……」

 

 Bang(バタン)

 

 由香ちゃんは走って出て行ってしまった。

 

「あーあ」

 俺をハグしたまま、嬉しそうに言う美奈ちゃん。

 

「ちょっと! 誤解を解かなきゃ!」

「何? 逃げるの?」

 上目遣いでニヤッと笑う美奈ちゃん

 

「社内で抱き合ってるなんてマズいよ!」

「自分は先輩とハグしてたのに?」

「いや、あれとこれとは……」

「何が違うの?」

「え? な、何がって……?」

「なぁに?」

 勝ち誇ったように、嬉しそうに言う美奈ちゃん。

 

「そ、それは……」

「冗談よ!」

 

 そう言って美奈ちゃんは、俺を軽く突き飛ばし、

「早く行きなさい、私はシアンの子守だから」

 そう言って、つまらなそうな顔をしてベビーベッド脇の椅子に座った。

 

 いきなりハグされ、そして突き飛ばされる。一体彼女は何を考えているのだろうか?

 俺は翻弄されて頭が回らない。

 ただ、美奈ちゃんなりに不満がたまっていた、というのだけは良く分かった。

 

「……。悪かった……よ。気配りが足りてなかった」

「バカじゃないの! 早く出てって!」

 美奈ちゃんはそう言って、紙おむつを俺に向かって投げた。

 

 俺は転がる紙おむつを拾い、棚に置いて、

「ごめん……、後はよろしく」

 と、力なく言って部屋を出た。

 

 怒られてしまった……。

 トボトボと階段を下りる俺。

 

 オフィスフロアで、由香ちゃんはPCに向かって仕事をしている。

 

 俺は一瞬ためらい、しかし意を決して言葉をかけてみる。

 

「あー、由香ちゃん、さっきのは美奈ちゃんがふざけてただけだから……」

 

 由香ちゃんは、PCの画面を見ながら淡々と言う。

 

「なんでそんな言い訳じみたこと、私に言うんですか?」

 

「あー、いや、俺と美奈ちゃんが、特別な関係だと思われちゃうとちょっと……」

「別に、誰が何してたって自由じゃないんですか?」

 

 由香ちゃんはPCを見たまま、棘のある声で答え、さらに追い打ちをかけてくる。

 

「それより早く領収書清算してください! いつも遅くて困ってるんです!」

「あ……ごめん」

 

 俺はトボトボと自分の席に戻る。

 

『女難の相だ……』

 一体どこで間違ってしまったのだろうか? 俺は頭を抱える。

 

 だが、何度思い返してみても、俺に非があるとは思えない。なぜ俺は怒られ続けているのだろうか?

 

『理不尽だ……AIならこんな事態にならないのに……』

 そう憤慨したが……、何かを見落としているような違和感が俺を貫く。

 

『なんだ……?』

 

 俺は大きく息を吐き、丁寧に違和感の正体を追った……。

 そして、ようやくその正体にたどり着く。

 

『逆だ……』

 理不尽だから人間なのだ。全部合理的なら従来のコンピューターでいいのだ。

 俺はここで初めて『人間とは何か』に一歩近づいた。

 

 俺は思わず天を仰ぎ、そしてつぶやいた。

 

「そうだよ……、人間は理不尽の中に宿るのだ」

 

 美奈ちゃんも由香ちゃんも人間なのだ。だから理不尽に輝くのだ。俺は胸のつかえがとれたようにニヤッと笑った。

 しかし……、喜びもつかの間、今後を考えて途方に暮れる。

 

「何も解決してないじゃないか……」

 

 俺は頭を抱え、深くため息をついた。

 

 



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4-10.損得勘定の毒

 翌日、マーカス達は、マウスの際に使ったルーチンを援用して、シアンのミルク飲みプロセスを立ち上げた。

 

 これから実際のテストである。

 俺は、消毒した哺乳瓶でミルクを作り、人肌にまで冷ました。

 

「ほーらシアン、ミルクだぞ~」

 

 哺乳瓶の飲み口をそっと口に入れると、上手く吸い付いた……が、

 

 Cough(ケホッ) Cough(ケホッ)

 

 あぁ、気管に入ってしまったようだ。

 すかさず、クリスが、癒しの技でシアンをフォローする。

 

「咳は自動で出るのにな~。なぜ飲むのは自動にならんのだ!」

 俺は、シアンをいじめてるような気がして、つい愚痴ってしまう。

 

 モニターで見ていたマーカスが、

 

「タイミング カエタ モウイチド!」 と、言ってくるので、再度チャレンジ。

 

 シアンの息をゆっくりと確認し、落ち着いたのを見計らって、再度哺乳瓶をあてがう。

 

 Glub(チュウ)……

 

 お、上手く飲み込んだ……かな?

 

「……」

 

 あれ? 止まっちゃった。

 

 俺は監視カメラに向かって叫ぶ。

 

「Hey! Marcus! The process is stopped! (止まっちゃったよ!)」

「チョット マッテネ!」

 

 マーカスは、エンジニアチームに何かを早口で指示している。

 

 しばらくして、シアンが動き出した。

 

 Glub(チュウ) Glub(チュウ) Glub(チュウ) Glub(チュウ)……

 

 Cough(ケホッ) Cough(ケホッ)

 

 あぁ、また気管に入ってしまった。

 クリスは素早く癒しの技を使う。

 

「Oh! チョットマッテ!」

 

 マーカスが、また何かキーボードをカタカタやっている。

 

 後ろで、心配そうに見ている由香ちゃんが

 

「見ていられないわ……」と、目に涙を浮かべ、むこうを向いてうなだれた。

 

 ママを自認する由香ちゃんとしては、自分の子供がいじられているのが、耐えられないのだろう。

 俺は由香ちゃんにそっと近づくと、

 

「大丈夫、こういういくつかのハードルさえ超えてしまえば、シアンは人類最高性能の天使になるんだから」

 そう、なるべくポジティブに話を持っていく。

 

「天使?」

 由香ちゃんはハンカチで涙を拭きながらこっちを見る。

 

「シアンはまさに神の使いだと、俺は感じているんだよね」

 俺が引きつり気味の笑顔でそう言うと、

 

「天使になんてならなくていい! 元気なかわいい子に、なってくれるだけでいいの……。目もくりぬかれちゃって……。シアンちゃん……」

 

 喉を詰まらせてながらそう言って、うつむいた。

 俺はかける言葉を失い、大きく息を吐いた。

 

 由香ちゃんは、すっかりママの視点になってしまっている。あまり感傷的になられ過ぎても実験に影響が出てしまうが、どうしたら良いのだろうか。

 

 美奈ちゃんが、ちょっと意地悪な顔で俺に耳打ちする。

 

「今日はハグしないの?」

 

 また余計なことを言ってくる。

 

「そう言う雰囲気じゃないよ」

 

 俺はひそひそ声で答えたが、由香ちゃんには聞こえていたようだ。

 

「もう! 二人ともあっち行って!」

 

 由香ちゃんは、怒って俺と美奈ちゃんを押しのけた。

 そして、シアンの所へ行き……

 涙目でシアンを愛おしそうに見つめ、シアンの口元に垂れたミルクを、ガーゼで丁寧に拭いた。

 

 追いやられた俺は、部屋の隅で美奈ちゃんに小声で怒る。

 

「余計な事言うから!」

 

 美奈ちゃんは、言い返してくるのかと思ったら、なぜかしんみりとして、

 

「私、ショックだった……」

 小さい声でそう言って、うち萎れてうなだれた。

 

「え?」

 

 一体どういう事だろうか。俺は美奈ちゃんの意図をつかみかねた。

 

 さらに美奈ちゃんは

「あのね、ショック受けたの……」

 そう言って弱々しい目で俺を見た。

 

「え? 何に?」

 俺がキョトンとしてると、美奈ちゃんはキッと俺を睨み、頬をピシッとはたいて

 

「バカ!」

 

 そう言って部屋から出て行ってしまった。

 

 俺は、はたかれた頬をさすりながら、呆然とした。

 

 そして、

『理不尽キター』

 そう内心で叫びながら、思わず天を仰いだ。

 

 女難の連鎖が止まらない。

 

 人間は理不尽なのだから、理屈で行ってはダメなのだ。心だ、心をつなげようとしないとならないのだ。

 とは言え……どうやって?

 俺は、どうしたらよかったのかいろいろと考えてみたが……、あまりいい案が浮かばない。大きく息を吐きながら、ガックリと肩を落とした。

 

 俺には、向いていないのかもしれない……。

 

 

           ◇

 

 

 ミルク飲みの方は、その後何回かトライをして、ようやくシアンはコツを掴んだようだった。

 

 Glub(チュウ) Glub(チュウ) Glub(チュウ) Glub(チュウ)……

 

 順調に全部飲み干す事に成功した。

 

 パチパチパチ、オフィスに拍手が響く。

 

 俺はシアンの点滴を外すと、縦に抱きかかえ、背中をポンポンと叩いた。

 

「あれ? ゲップ出ないね?」

 

「誠さん、私に貸して」

 

 由香ちゃんは、シアンを受け取ると優しく抱きしめ、そして背中をポンポンと叩いた。

 

 Burp(ケプ)

 

「はい、出まちたね~。いい子でちゅね~」

 

 由香ちゃんは、目を瞑って幸せに包まれながら、シアンに頬ずりした。

 

「あー」

 

 シアンも心なしか嬉しそうである。

 

 こういう一つ一つの交流が、AIとしてのシアンの学習にとって、とても貴重なのだ。

 生身の身体を持たない限り、この感覚は絶対に理解できない。

 

 人類の守護者となるためには、こういうスキンシップの一つ一つを体感し、人として真っ当な、発想の基盤を持たないとならない。

 そう言う意味で由香ちゃんは、とても大切な役割を果たしている、と言えるだろう。

 

 

          ◇

 

 

 そう言えば、怒って出て行った美奈ちゃんは、どこへ行ってしまったのか?

 

 メゾネットの上からオフィスを眺めたが……いない。

 

 うーん、どうしたものか。

 スマホを取り出し、メッセンジャーで

 

「いまどこ?」

 

 と、送ってみたが既読スルーされてしまう。

 

 そもそも美奈ちゃんは、マーカスと仲良くしてたわけで、俺にちょっかい出してくる事自体おかしいのだ。

 

 しかし、俺の気配りが足りないことも原因ではあるので、寒い中、駅前のカフェをいくつか回りながら、探し歩いた。

 

 

 テーブル席で突っ伏して寝ている美奈ちゃんを、3店目で発見。

 

 俺はカフェアメリカーノを持って、美奈ちゃんの隣の席に座った。

 珈琲を啜りながら、美奈ちゃんをゆっくり眺める。

 

 両手を組んで、突っ伏して寝る美奈ちゃんは、呼吸に合わせて少しずつ揺れている。

 わがままな女神さまも、こうしていれば、ただの可愛い女の子である。しばらく揺れている美奈ちゃんを見ながら珈琲を啜った。

 

 そして、意を決して、

「姫様、ディナーの時間ですよ」

 俺は耳元でささやく。

 

 美奈ちゃんは、顔を向こう側に動かして黙っている。

 

「なんか美味しいもの食べに行こうよ」

 

 美奈ちゃんはボソッと言う。

「要らない」

 

「僕、おなかすいちゃったな」

「……、勝手に食べればいいじゃん」

「姫と食べた方が美味しいんだな」

「先輩と食べた方が美味しいわよ」

 なかなかに手ごわい。

 

「どうしたの? 最近変だよ」

「ただの生理だから放っておいて」

 そう言われると、男には返す言葉がない。

 俺は珈琲を一口含んで目を瞑り、作戦を練る……。

 

「あ、あそこのイタリアンいかない? スパークリングワインが美味しかった所」

 ワインで釣ってみる。

「……」

 

「あそこの薄焼きのピザ、美味いんだよなぁ」

「……」

 

 ちょっと口元が動いたのを見逃さなかった。手ごたえ有りかな?

 

「あ、そうだ、今度会社のWebサイト作るじゃない? そのデザインで、美奈ちゃんの意見聞きたいんだよね」

「……」

 

「アドバイスしてくれると助かるんだけどな。ピザでも食べながらどう?」

「私と二人で行ったら、マズいんじゃないの?」

 美奈ちゃんはボソボソと答える。

 

「あー、じゃ、クリス呼ぼうか?」

 

 俺がそう言うと、美奈ちゃんはバッと勢いよく立ち上がると、荷物をまとめて、

「バカ! 知らない!」

 

 そう言って怒って出て行ってしまった。

 取り残される俺。

 

 周りの客の、チラチラっという視線が刺さる。痛い……。

 

 ほとんど成功していたのに、最後の答えに失敗してしまった。

 

 二人でディナーは大丈夫か、と聞かれたら、胸張って『大丈夫』と言えるほど俺には余裕も経験もない。美奈ちゃんは桁外れの美人だし、いきなりデートっぽいディナーには抵抗を感じる。

 俺は大好きだった母に捨てられた男、好きになった人に次も捨てられたら、きっと正気を保てない。俺は自分の心を守るのに精いっぱいなのだ。

 

 そもそも、美奈ちゃんが俺に、ちょっかいを出してくる理由が分からない。彼女の美貌ならどんな男でも選び放題だ。応京大なら将来有望なイケメンなど、幾らでもいるだろう。気の利かないエンジニアの俺にちょっかいを出して、何をやりたいのだろうか? どう考えても理屈に合わない。

 うがった見方をすれば『俺から口説かせる遊び』をしている様にすら、見えなくもない。

 

 とは言え、あんなに目立つ美人を怒らせたまま、こんな夜の街で一人で歩かせたら、面倒な事になる。

 俺は両頬をパンパンと叩いて気合を入れた。

 

 急いで店を出ると、美奈ちゃんは信号待ちをしていた。

 

 俺はそっと近づいて耳元で言う。

「今晩は姫様の言う事なんでも聞くから、機嫌直して」

 

「じゃぁ今すぐ死んで」

 美奈ちゃんは不機嫌そうに、前を見たまま言う。

 俺は思わず眩暈(めまい)を感じ、天を仰いだ。

 

「いやいや、それは……」

「なんでも聞くんじゃないの?」

 美奈ちゃんは棘のある声で言う。

 俺は返す言葉が浮かばなかった。

 

 美奈ちゃんは青になった信号を渡り始める。

 俺は大きく息を吐き、少し遅れて追いかけた。

 

「どこ行くの?」

 そう聞いても、美奈ちゃんはカツカツとヒールを鳴らし、ツンとした表情で歩くばかりだ。

 

 仕方ない、ついていくしかない……。

 

 しばらく歩いて運河に架かる橋に出た。

 

 美奈ちゃんはそこで立ち止まると、欄干に手をかけて夜景を眺めた。

 運河沿いの建物の照明が、水面にキラキラと光っている。

 

 俺は美奈ちゃんの機嫌をうかがう……

 色白の透き通った肌に整った目鼻、綺麗な瞳……

 俺は、その瞳に映る夜景につい惹き込まれる。

 

「正解を教えてあげるわ」

 

 美奈ちゃんは運河を見ながら、俺に言い放つ。

 

「正解?」

 

「誠さんはね、損得勘定ばかりだからダメなの」

「え?」

 

「私の狙いは何かとか、付き合う事になったら面倒くさそうだとか、周りからどう見られるかとか、そんな事ばかり計算してる」

 

 図星である。しかし、何も考えないわけにはいかない。

「ん? でも社会を生きていく上では、そうしないとマズいだろ?」

 

「全然マズくないわ。私、そんな事しないけど、困った事なんてないわ」

 冷たい視線で俺を射抜く美奈ちゃん。

 

「え……?」

 俺は固まった。

 

 思い起こせば、確かに美奈ちゃんは、やりたいことを自由にやるばかりだ。

 

「仕事は全部損得勘定よ、でもプライベートに損得勘定持ち込むから、心が死ぬの」

「え? 心が死ぬ?」

「そうよ、誠さんは知らず知らずのうちに、自分の心を殺してるの」

「いや、常識的に生きるというのは……」

 

 美奈ちゃんは俺をキッと睨むと、

「それよ! 何が常識よ、バカじゃないの? 常識なんて仕事でやってりゃいいのよ。人生に常識持ち込まないで」

 そう言い放った。

 

 俺は言葉を失った。そんなこと考えた事もなかった。

 

 思えば損しないように、波風立てないように、そればかり考えて生きて来てしまっていた。

 

 もちろん、一定の処世術と言うのは必要だろう、でも処世術だけでは、生きてる意味がなくなってしまう。

 

 なるほど、理不尽の正体とはこれだったのだ。心のままに生きる事、それが人間だったのだ。

 

 二十歳の女子大生に、そんなことを教えられてしまうなんて、俺は今まで何をやってたのか……。

 俺は目を瞑り、少しうなだれて自分を恥じた。

 

「まぁいいわ、誠さんはまだ若いんだから、これから修正して行けばいいわ」

 美奈ちゃんはそう言って、キラキラと水面に反射する運河の夜景を見入った。

 

 かなり年下の女の子に、若いとフォローされてしまった。とても情けなく感じる。

 でも……一歩、人間らしい生き方に近づけた気がした。

 

「なんだかすごい大切な事……教わった気がするな」

「ふふっ……」

 

 美奈ちゃんは得意げにほほ笑んだ。

 俺は少し、ばつの悪い笑顔で軽くうなずく。

 

 北風が強く吹き、街路樹がざわめいた。

 

「うわっ、寒い!」

 

 美奈ちゃんは襟元を閉じる。

 俺はそっと後ろから、美奈ちゃんにハグしようとした。

 

 手を回すと、美奈ちゃんは俺の手をはたいた。

 

「ダーメ、誠さんは、ハグする権利をもう失ったの」

 ツンとした表情で運河を見る。

 

 俺は、はたかれた手をゆっくりとさすりながら、

 

「でも、いつかまた復活する事もあるんだろ?」

 

 美奈ちゃんは、

「ん~、それはどうかな?」

 

 いたずらっ子の笑顔でこっちを見る。

 

 美奈ちゃんの笑顔が、いつに増して眩しく感じる。

 しばらく俺は、美奈ちゃんの琥珀色の瞳に、キラキラ反射する夜景に惹き込まれていた。

 

 また強い風が吹き、美奈ちゃんの髪の毛が大きく泳ぐ。

 

 寒い、いつまでもこんな所にはいられない。

 

「家まで送るよ」

 俺はそう言って右手を出した。

 

 俺の目をじーっと見る美奈ちゃん……。

 

「……。ありがとう、でも今は一人になりたいの……」

 断りながら美奈ちゃんは、俺にそっと近づき、頬に軽くキスをした。

 暖かくやわらかな唇の感触、ふんわりと香るブルガリアンローズの香り……

 

「え!?」

 

 驚く俺に、

「また明日!」

 と、最高の笑顔を見せ、軽やかに、煌びやかな夜の街の中に駆け出していった。

 

 ネオンと雑踏の中に、静かに溶けていく美奈ちゃん。

 俺はキスの跡を指先で軽くなぞり、いつまでも美奈ちゃんが消えた方向を見ていた。

 

 街路樹のイルミネーションがチラチラと揺れ、にぎやかな光のハーモニーを放ちながら、この忘れられない夜を彩った。

 



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4-11. 母性

 時は、半年ほどさかのぼる。

 月の綺麗な静かな京都の夜、百万遍(ひゃくまんべん)のコンビニにクリスがいた――――

 

 レジカウンターにペットボトルの水を置き、中年の女性店員を呼ぶ。

 

「…。すみません! お願いします」

 

 客はいないと安心しきっていた店員は、焦って返す。

 

「あら! すぐ行きまーす!」

 自動ドアが開いた音はしなかったのに、と不思議がりながらカウンターに走り、バーコードを読み取り、言った。

 

「108円になります」

 

 クリスは硬貨をトレーに並べ、微笑みながら言う。

 

「…。失礼ですが、誠君のお母さまですよね?」

 

 店員はビクッと肩をこわばらせ、硬貨を見つめたまま凍りついてしまった。指先の震えが尋常ではない。

 

「…。そんなに構えなくても大丈夫ですよ、いいお話です」

 クリスは諭すように、ゆっくりと温かく伝えた。

 

「あ、あの子に何か……あったん……ですか?」

 

「…。誠君と会社を立ち上げる事になりました。それをお母さまにもご報告しようと思いまして……」

 

 誠の母、神崎静江(しずえ)は恐る恐る顔を上げ、クリスを見た。

 

「あの子、会社をやるんですか? それは……よかった……。でも、私はあの子を捨ててしまった最低の母親です。いまさらあの子に関わるなんて……。どうか……放っておいてください……」

 そう言って、うつむいた。

 

「…。出資者は田中修司さんですよ」

「えっ!?」

 静江は目を丸くし、両手で口を覆い、動かなくなった。

 

「…。外のカフェで待ってますので、終わったら来てください。ゆっくりお話ししましょう」

 静江は呆然としながら、ゆっくりとうなずいた。

 

 

     ◇

 

 

 カフェでクリスが珈琲を啜っていると、静江が入ってきた。

 グレーのニットにジーンズ、ベージュのコートを羽織り、肩まで伸びた黒髪の生え際には白いものが混じる。目じりにしわはあるものの、整った目鼻立ち、弛みのない引き締まった肢体には、まだ萎れていない女性の魅力が残っていた。

 

 静江は伏し目がちで、ちょっと警戒するように歩き、席に着いた。

 ホットコーヒーを注文する。

 

「…。お母さん、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。田中修司さんと誠君の事を知っているのは私とお母さんだけです。出会ったのも偶然ですし、出資を引き出したのも誠君のプランが素晴らしかっただけです。あなたの息子さんには才能があります」

 クリスは微笑みながら、丁寧に説明した。

 

「あの子は……元気ですか?」

 静江はうつむきながら、こわばった声を出す。

 

 クリスはプリントした写真を3枚ほど出すと静江に渡した。そこには飲み会ではしゃぐ誠やオフィスでくつろぐ誠のスナップが写っていた。

 

「…。ご覧の通り凄く元気ですよ。精力的に事業を進めています。なかなかいない若者です」

 

 静江は写真をじっと見つめ、目を細めた。

「マコちゃん……。よかった……。それで……どんな会社をやるんですか?」

 ゆっくりと視線を上げて聞く。

 

「…。お母さん、驚かないでくださいね」

 そう言って、クリスは深層守護者計画の全てを丁寧に説明した。

 

「え!? バレたら逮捕……ですか!?」

 青ざめる静江。ただでさえ『人類を救う』という荒唐無稽な目標を掲げているというのに、やる事が人体実験、もはや正気の沙汰とは思えなかった。

 

「…。誠君の発案です。彼はこの計画に人生をかける覚悟なのです」

「マコちゃん……なんて事を……」

 静江は胸に手を当て、何度か大きく息を吸った。

 気持ちを落ち着けると、運ばれてきたコーヒーを、まだ少し震える手でそっと(すす)った。

 

 洋楽のヒットナンバーが店内に静かに流れる。

 

 そして、静江は何かを意に決すると、クリスの目をまっすぐに見つめ、言った。

 

「分かりました。それでは全ての罪は、私がかぶるように取り計らってください。赤ちゃんも私が産みます」

 

「…。本気……ですか?」

 クリスは眉をひそめた。

 

「あの子を守るためなら、私は命も惜しくないの……。全てをこの計画に捧げるわ。この身体、全部使ってください」

 静江は吹っ切れたように、すごく嬉しそうに答えた。

 

 クリスは静江を見つめ……そして、腕を組んで目を瞑った。

 

「何でもやります! もちろん報酬も要りません!」

 静江は熱を込めて言う。

 親らしいことを、何もしてあげられなかった静江にとって、これは罪滅ぼしのチャンスであった。

 

 クリスはチラッと静江を見て、

「…。管理局(セントラル)対策には都合が良さそうだが……」

 そうつぶやき、また目を瞑り、首を傾げた……。

 

 しばらく思案したのち、クリスは意を決し、微笑んで言った。

「…。分かりました。お母さんのお申し出は受けましょう」

 

「よかった……。でも、あの子には秘密にしてくださいね」

「…。いいんですか?」

「私はね、あの子の役に立てるだけで本当に……本当に嬉しいの……」

 静江は目に涙を浮かべて答える。

 

 クリスは涙を見つめ……言った。

「…。分かりました。それでは始めましょう」

「……、始める?」

 キョトンとする静江に、クリスは手をかざし、目を瞑った。

 

 薄いエメラルド色の光に包まれ、静江はふんわりと少し椅子から浮かび上がる。

「え? え?」

 いきなりの展開に驚く静江は、やがて恍惚とした表情になり、クリスの技に身をゆだねた。

 

 薄暗い店内で神々しく光をまとう女性。その美しくも異様な光景は、客や店員も目にしているはずだが誰も気にする人はいない。

 洋楽の女性ボーカルの艶やかな歌声が静かに流れ、静江の黒髪はゆっくりふんわりと広がり、毛先は優しく波を打った。

 

 クリスは眉間にしわを寄せながら、何かをぶつぶつとつぶやき続ける。

 そして、最後に両手を組んでフンっと気合を込めた。その瞬間、強烈な閃光が彼女の下腹部から放たれた。バリバリと(ほとばし)る閃光は店内を縦横無尽に駆けずり回る。

 この瞬間、人類の存亡を担う大いなる命が静江の中に降り立ち、宿った。

 静江は無意識に、優しく両手を下腹部に当て、満ち足りた聖なる笑顔を浮かべる。

 

 のちに全宇宙を恐怖のどん底に叩きこむ、好奇心旺盛なおてんば娘は、月の綺麗な夜、こうやってこの世界に降臨した。

 

 やがて静江を覆う光は淡くなり、ゆっくりと椅子に降り、ぐったりと背もたれに寄り掛かる。

 

「…。無事、誠君の妹が着床しました」

 クリスがにこやかに受胎告知をした。

 

「着床……」

 静江は、まだ焦点のあわない目でボーっとクリスを眺める。

 

「…。肝機能が低下していたので治しました、それから腰痛も辛そうだったので修正しておきました」

 ニッコリとほほ笑むクリス。

 

「腰痛……? あれ? 本当、軽いわ……」

 そう言って、腰を押さえる静江。

 

「…。お酒は控えてくださいね、それから、葉酸を摂ってください」

 医者のように淡々と告げるクリス。

 

「わ、わかりました……」

 このわずかな間に子を宿したとするこの青年の説明は、常軌を逸していたが、静江にはそれに違和感などなかった。

 人生のレールから外れ、ただただ自分を責め続けた23年の暮らしに転機が訪れたことを、純粋に嬉しく思い、これから始まる意味のある暮らしに期待が膨らんでいった。

 

「…。産院へは行かないでくださいね。つわりが酷いと思いますが、そこは頑張ってください。3か月の辛抱です」

 クリスは静江の目をしっかりと見据え、言い含める 

 愛おしそうに下腹部をなでながら、静江はゆっくりとうなずいた。

 

 こうして、誠の知らぬ間に、静江は深層守護者計画のキーパーソンとなっていたのだった。

 

 

         ◇

 

 

 シアンがミルクを飲めるようになって1週間、手足を随分と上手に動かせるようになってきた。

 

 由香ちゃんが

「シアンちゃ~ん、アンパン〇ンですよ~」

 そう言って、アンパン〇ンのおもちゃをシアンの前で動かすと、

「うー!」

 と、言って、それをガシッと掴み、奪い取って口に入れて感触を確かめる。

 口唇期という奴だろう。

 まずは、口を使って世界を理解する、それが人間の基本なのだ。

 AIにも、まずは口で、いろいろな物を理解してもらおう。

 

 一通り、口でしゃぶり尽くすと、今度は指先でアンパン〇ンの目をつつく。

「うー!」

「目をつついたら、アンパン〇ン痛い痛いよ!」

 

 由香ちゃんが声をかける。

 

「う”ぁおおお、ばふぅ!!」

 

 シアンが何か言っている。

 

「これ?なんて言ってるの?」

 由香ちゃんに聞いてみたが、

 

「うーん、何なんでしょうね? もう少しで、わかりそうな気がするんですが……」

 

 由香ちゃんにもわからないようだ。

 

「あ”らばこぶぅ!」

 うーん、謎だ。

 

 シアンの頭脳のAIは、IDC内の12本のラックで、エアコン120台分の膨大な電力を消費しながら、24時間体制で、学習のフィードバックをかけ続けている。

 この謎の言葉の裏にも、複雑な思考が隠れているのだろうけど……良く分からない。

 

 シアンの子守は、深夜から朝にかけてはクリスが、後は、オフィスに居るメンバーが適宜交代しながら、行っている。

 

 俺はだいたい、8時半にはオフィスに行ってクリスと交代し、10時あたりに他のメンバーにバトンタッチしていた。

 

 誰も子守ができない時は、AIを一旦止めて、スリープモードにして寝かしつける事にしているが、なるべくそうならない様に、みんなで手分けして分担している。

 

 

         ◇

 

 

 手厚い子守体制で、さらに1か月、シアンはついに寝返りに成功した。

 クリスが成長促進をシアンにかけているので、一般の赤ちゃんよりは相当に成長は速い。

 床にある物を拾えるようになり、おもちゃを重ねたり、組み合わせたり、今までよりも複雑な思考ができるようになり、さらに学習が進んでいるようだ。

 今のところ、予想以上に順調で怖いくらいである。

 

 俺がシアンのそばで、仕事しながら子守をしていると、由香ちゃんがオムツを補充に、部屋に入ってきた。

 それを見たシアンは、すかさず由香ちゃんを指さして言った。

 

「マンマ!」

「えっ!?」

 由香ちゃんは、思わず持っていた紙おむつのパックを落とし、駆け寄ってきた。

 

「そうよ、シアンちゃん、ママよ~!」

 シアンを抱きあげて愛おしそうに頬ずりする。

 目には涙が光っていた。

 

「マンマ!」

「あぁ、シアンちゃん!」

 

 由香ちゃんは、目を閉じてシアンの柔らかいミルクの匂いを胸いっぱいに吸い込むと、全身で幸せを感じていた。

 ここ何か月も、由香ちゃんはシアンを献身的に世話してきた。その愛しい存在であるシアンが自分を認めてくれたら、感慨もひとしおだろう。

 

 ただ……

 さっき俺にも「マンマ」と言っていたのだ……。

 『ママ』ではなく、単に『ミルクが欲しい』って意味なのかもしれない。

 秘密にしておかないと……。

 

 

       ◇

 

 

「あー、由香ちゃん、今日からタブレット学習をするよ」

 そう言って、マウスの時にも使ったタブレットを見せた。画面には、美奈ちゃんと戦った時の、二次方程式の問題が出ている。

 

「え? こんな難しい事、シアンに分かるんですか?」

「多分、すぐに解けるようになるよ」

「だって言葉もまだですよ?」

「これ、マウスの時にすでに解いてたんだよね」

「マウスはマウスです! シアンは女の子なんです!!!」

 由香ちゃんは怒ってしまった。どうも自分の子がマウスと同一視されることに、納得がいかないようだ。

 

「まぁ、とりあえず見ててよ」

 そう言って、俺はタブレットを、ベビーベッドにセットした。

 

「はい、シアン! 今日からお勉強だぞ!」

 

 俺はシアンに、一番簡単な問題の画面を見せて、シアンの指を引っ張って、正解のボタンをタップさせた。

 ピンポーン!

 チャイムが鳴って、小さな玉子ボーロが一つ落ちてくる。

 

 シアンは

「きゃははは!」

 と言って玉子ボーロをつまみ、じっくり観察している。

 

 俺は

「ウマウマよ! ウマウマ!」

 

 そう言って食べるゼスチャーをして見せた。

 シアンは、恐る恐る口に入れて、モグモグした。

 まだ歯も生えていないのだが、玉子ボーロはすぐに溶けて、甘味を口の中に広げた。

 

「きゃははは!」

 甘味に反応して喜んでいる。

 シアンはもっと欲しくなり、画面を掌でバンバンと叩く。

 でも、たまたま正解した時しか、玉子ボーロは出てこない。

 

「うー!」

 不満そうである。

 

 でも、ここは自分で乗り越えてもらわないと。

 10分くらい、試行錯誤していくうちに、どうやら回路が出来上がったようで、100%正解できるようになった。

 まだ『●』の数の多い方を押すだけの、簡単な問題だが、それでも100%ならバッチリだ。

 隣で、ハラハラしながら見ていた由香ちゃんも、ここまでくると安心したようだ。

 

「ほら、シアンは賢いだろ?」

 俺がニヤッと笑って言うと、

 

「この位はできますよ! でも二次方程式なんて……」

「じゃぁやってみようか?」

 

 俺はそう言って、タブレットの問題を入れ替えた。

 

「マウス時代にシアンは、この問題で美奈ちゃんに勝ってるんだよ」

「え? 美奈ちゃんに!?」

 驚く由香ちゃん。

 

Bang(バン)

 いきなり後ろでドアが威勢よく開いた。

 

「聞き捨てならないわね! 勝ったのは私よ!」

 美奈ちゃんが、ドヤ顔で勝ち誇りながら乱入してくる。

 

 この娘は、なぜこんなに地獄耳なのだろうか。

 ちなみに俺は、まだハグをする権利を回復してもらってない。



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4-12.倒錯の女神

 確かに、美奈ちゃんは訳の分からない早業で、勝ったのは勝った。しかし、あの異常な回答速度はインチキ臭かったのだ。

 

「あー、最初負けたじゃん?」

「最後には勝ったのよ!」

 そう言って、誇らしげに胸を張る美奈ちゃん。

 

 由香ちゃんは何の話をしているのか、ポカンとしている。

 

「昔、2台のタブレットで早解きを競ったんだよ」

 俺がそう説明すると、

 

「先輩もやってみれば分かるわ!」

 そう言って、悪だくみをする美奈ちゃん。

 

「二次方程式の答えを、早く解答した方が勝ち、って話?」

「そうそう、応京大生なら赤ちゃんに負けちゃダメよ!」

 

 美奈ちゃんはナチュラルにハードルを上げる。

 

「いやいや、シアンはまだ●の数しか答えられないんだから、勝負はまだ先……」

「誠さん! 由香ちゃんばかり贔屓(ひいき)してる~!」

 

 俺を非難の目で見る美奈ちゃん。

 

「いや、シアンにはまだ解けないって……」

「やってみなきゃわからないじゃない! 私の時はぶっつけ本番でやらせたくせに!」

「いや、また日を改めてね……」

 

 しどろもどろの俺を見て、由香ちゃんは、

 

「誠さん、大丈夫ですよ、二次方程式解けばいいだけですよね?」

「そ~う、そう! 簡単よ!」

 ちょっと意地悪な顔でそう言う美奈ちゃん。

 

「あ~……。じゃ、やるだけやってみる? まだ競争とか言うレベルじゃないと、思うんだけど……」

 

 由香ちゃんに予備のタブレットを渡した。

 

「シアン、難しいかもだけど解いてみてごらん」

 

 俺は競争の準備を整えた。

 

「では、用意……スタート!」

 

 タブレットの画面に二次方程式の問題が出る。

 画面をじっと睨む二人。

 

 マウスの時の学習回路が、シアンの中でどこまで生きてるかがカギだろう。大幅に構造は変わってしまったから、いきなりでは動かないと思っているのだが、どうだろうか。

 

 二人とも必死に画面を睨む。

 

「あー、これは答えの選択肢を代入しちゃえば速いのね!」

 そう言って、暗算し始める由香ちゃん

 

 その隣でシアンが、おもむろに正解をタップ!

 

 ピンポーン!

 

「え!?」

 

 由香ちゃんが思わずシアンを見る。

 

 一度解き方が分かったシアンは、無敵だ。

 

 ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!

 

 あーあ……。

 

 由香ちゃんは唖然として凍り付いた。

 

「シアンちゃん……あなた……」

 

「先輩! 応京大生として勝たなきゃダメですよ!」

 

 美奈ちゃんがニヤニヤしながら言う。

 

「こんなの勝てる訳ないわよ……」

 由香ちゃんがしょげる。

 

「私は勝ったわよ! ね、誠さん?」

「まぁ、確かに勝った……かな?」

「何よ! その歯切れの悪い言い方!」

 膨らむ美奈ちゃん。

 

「え? 美奈ちゃん本当にこれに勝ったの?」

「そうよ! 血の滲む苦労を重ねて圧勝したのよ!」

「あー、勝敗はあまり関係ないよ、要はシアンが、ちゃんと成長してるかどうかを体感してもらうための……」

「何言ってんの!? 勝負は勝たなきゃダメなのよ!!!」

 

 妙にこだわる美奈ちゃん。

 

「じゃぁ美奈先生! 模範演技をお願いします!」

 

 由香ちゃんが、美奈ちゃんの手を取ってお願いする。

 

「え?」

 

 墓穴を掘る美奈ちゃん。

 

「確かにそこまで言うなら、勝者のお手並みを見せた方がいいかと……」

 

 俺も控えめに追い込む。

 

「い、いいわよ! その代わり、私が勝ったら『シアンのママ』の称号は貰うわよ!」

 

 また意地悪な事を言い出した……。

 

「え!? そ、それは……」

 

 うつむく由香ちゃん。

 

「勝負は命がけよ! 何かご褒美が無きゃできないわ!」

 

 美奈ちゃんは意地悪な笑顔でにっこり笑う。

 

 由香ちゃんは、しばらくうつ向いていたが、意を決して顔を上げ、鋭い視線で美奈ちゃんを見た。

 

「……。いいわよ、その代わり、負けたらオフィスで、誠さんにベタベタするの止めてね」

 

 美奈ちゃんの表情がこわばる。

 

 なぜそこで俺が出てくるのか?

 

「え!? ちょっ……」

 

 言いかけた俺の言葉をさえぎって、美奈ちゃんが怒りを込めた低い声で言う。

 

「ベタベタって何?」

「ハグしたりキスしたり、良くないと思うわ」

 

 なんだかヒートアップしてきた、マズい感じがする。

 

「先輩だって、こないだハグしてもらってたじゃない!」

「誠さんからするのはいいの! 女の子から頻繁に行くのは、ちょっと見苦しいわ」

 にらみ合う二人。

 部屋に緊張が走る。

 

「ふ~ん、じゃ、条件を変えるわ」

 美奈ちゃんは俺をちらっと見た。

 そしてニヤッと笑いながら由香ちゃんに言う。

「私が勝ったら、いつでもどこでもベタベタするわよ! 負けたらやらない! これでどう?」

 

 俺はたまりかねて口をはさむ

「ちょっと待って、二人とも、冷静に……」

 

「誠さんは黙ってて!」「誠さんは黙ってて!」

 二人がハモりながら、有無を言わさない圧力で俺をにらむ。

「は、はぃ……」

 

 俺に関する話なのに、もはや俺の意思は関係ない女の戦いへとシフトしてしまった。

 

 由香ちゃんは美奈ちゃんをにらむと、

「いつでもどこでもベタベタ、って猫じゃないんだから、おかしいわよ」

 

「実際にベタベタするとは言ってないわ、権利の問題よ。負けたらダメだと禁止されるなら、勝ったら自由にやらせてって話」

 

 しばらく由香ちゃんと美奈ちゃんは、にらみ合った。二人の間には見えない火花が、激しくバチバチ飛び散っている。

 俺はおろおろするしか、できなかった。

 

 由香ちゃんが口を開く。

「……。分かったわ、その代わり、相手はシアンじゃなくて私がやるわ」

 

「え? 先輩が?」

 ちょっとバカにした感じで笑う。

 

「私だって応京大生よ、舐めると火傷するわよ!」

 いつになく強気である。でも、前回の美奈ちゃんの高速解答の姿を、見てる俺としては、由香ちゃんが勝てるとは思えない。

 

「いやいや、由香ちゃん、美奈ちゃんの解答速度は異常だよ。普通にやったら絶対勝てないって」

 

「強敵なのは知ってるわ。でも、女には逃げてはいけない勝負、と言うのがあるの」

 由香ちゃんは誇り高き勇士のように、一分のブレもなく言い放つ。

 

 いや、これは逃げていいと思うのだが……。

 

「ただ、1問勝負、新問題にして」

 由香ちゃんは条件を出す。

 

「ふぅん、考えたわね……、いいわよ」

 

 美奈ちゃんは余裕の笑みを浮かべる。

 

 え? 美奈ちゃんは新問題でも大丈夫なのか?

 俺はてっきり、正解を暗記してたのだと思ってたのだが……。

 

「誠さん、早く準備して!」

 

 由香ちゃんに急かされて、新しい問題を作ってタブレットにセットした。

 

 雨降って地固まるという事もあるし、まずは正々堂々戦ってもらうのが一番かもしれない。

 俺はテーブルの席にタブレットを一台ずつ配置し、座ってもらった。

 

 二人はそれぞれ目を瞑って何かを思っている。勝負は一瞬で決まる、精神の集中具合が勝敗を分けそうだ。

 

「はい、準備は良いかな?」

 二人はゆっくりと頷いた。

 

「俺としてはこんな勝負は……」 そう言いかけたら

 

「いいから早くやって!」「いいから早くやって!」

 また二人にハモられた。

 

 実はこの二人、息ピッタリじゃない?

 

 オホン!

 軽く咳払いをして――――

 

「それでは始めます……」

 

 張り詰めた緊張感が、部屋中を覆う。

 

「用意! ……スターッ」

 

 ピンポーン!

 

 由香ちゃんのタブレットが鳴り響く。

 

 えっ!?

 

 俺も美奈ちゃんも唖然とした。

 

 俺が開始の信号を、タブレットに送ったと同時に、由香ちゃんは解答をタップしたのだ。

 

「はぁ!?」

 

 思わず固まる美奈ちゃん。

 

 無言で力強く、ガッツポーズする由香ちゃん。

 その様はまさに神懸って見えた。

 

「私、この手の勝負で負けた事ないの……」

 由香ちゃんは満面の笑みで美奈ちゃんを見る。

 

「ハッ、ハハッ、ハッハッハ、ハッハッハッハッハー!」

 美奈ちゃんが笑いだした。

 

 俺は由香ちゃんに聞く。

 

「問題見ずに押したよね?」

「え? ちゃんと問題見て、解きましたけど何か? 私の勝ちですよね?」

 にっこりと笑顔で返す由香ちゃん。

 

 いやいや、解けないって。

 問題表示とほぼ同時だったから、最初から押すボタンを決めていたのだろう。決め打ち。勝率は50%、すごい賭けに出たな。

 

「うん、まぁ、文句なく由香ちゃんの勝ちだけど」

 

 美奈ちゃんは延々と笑っている。

「ハッハッハッハッ……ヒー、おかしい!」

 

「何がそんなにおかしいのよ!」

 憤慨して由香ちゃんが言う。

 

 美奈ちゃんはビクッとし、大きく深呼吸して居住まいを正す。

 そして、急に真剣な目で由香ちゃんを見て言った、

「先輩! 先輩の漢気に惚れました! 付き合ってください!」

 

 いきなり愛の告白を始めた。

 

「え? 何? いきなりどうしたの?」

 うろたえる由香ちゃん。

 

「私、人間に勝負で負けたのは、初めてかも知れない。ビビッと来ました、先輩!」

 美奈ちゃんは立ち上がると、由香ちゃんに迫った。

 人間にって……まぁ確かに前回はAIのマウスだったけど……。

 

「え? 私は……そういう気はないから、女性とは付き合えないのよ」

 席を立ち、後ずさりする由香ちゃん。

 

「えー? 女同士も……いいものよ。ふふふ」

 そう言いながら、危険な眼で由香ちゃんの手を、ガシッと掴む。

 

 さすがにまずいので、

「美奈ちゃん、こういう嫌がる事しちゃダメだよ」

 美奈ちゃんの手を押さえて諭す。

 

「そ、そうよ、気持ちは嬉しいけど、私には応えられないわ」

「えーっ!? この気持ち、どうしたらいいの?」

 

 由香ちゃんの胸に飛び込む美奈ちゃん。

 

「柔らか~い……。せんぱ~い、もう離さない……」

 

 由香ちゃんは仕方なくハグし、困った顔を俺に向ける。

 俺は肩をすくめて首をかしげた。

 

 心のままに生きるというのは、こう言う事だよね。

 本人は良いかもしれないけど、周りは大変だわ。



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4-13.救世主の敵、告白

 シアンの育成は順調だ。ある刺激に対して適切な反応を返す。それも人間よりもかなり高度に返す。

 しかし、ここまでなら、今までのAIと本質的に変わらない。シアンが人類の守護者たるには、自我を持って、自発的な行動をできるようになる必要がある。

 基本的な学習が済んだ今、いよいよシンギュラリティに達するかどうか、が焦点になってきた。

 

 今、俺の生活はシアン中心の生活だ。

 朝起きてから寝るまで、ほぼシアンとべったりなのだ。

 シアンを胸に抱きながらmacで資料を作り、書類にハンコを押す。

 

 由香ちゃんなどのメンバーと交代できるし、クリスがいるから病気の心配はないし、夜もぐっすり寝られるわけだが、それでもしんどい。

 一般の子育て家庭は、一体どうやっているのか、想像を絶する。

 夜中も1時間おきに起こされるとか、看病するとかしているのだろう。その気の遠くなるような戦いに、脱帽せざるを得ない。

 俺もママには相当迷惑をかけたのだろう、確かにシングルマザーがこれを一人でやったら心を病んでも仕方ないのかもしれない。だからと言って子供を捨てていい訳ではないが、ママが背負っていた闇を少しだけ理解できた気がした。

 

 

          ◇

 

 

 俺がmacを叩きながら、シアンにおもちゃを渡すと

 

「ちが~!」と、おもちゃをはたき落とされた。

 

 横で見ていた由香ちゃんが、別のを渡すと

 

「あい~!」と、言って、満面の笑みで受け取った。

 

 好き嫌いは自我が芽生えてきた証拠、好ましい事ではあるのだが……。

 もしかしたら、俺が嫌われているだけなのかもしれない。

 その場合も好ましいこと……なのだろうか?

 

 人類の守護者のAIにとって、望ましい在り方というのは、実はすごい難しい問題だ。

 例えば愛憎で考えてみても、『愛』だけでは人間の事は本当には理解できない。でも『憎』が多すぎては人類にとって災厄になってしまう。

 基本に『愛』があり、『憎』は発現しても、すぐに『愛』に覆い隠されるようなバランスを作ると良いと思うのだが、それを実現するためにどう育てたらいいのかは、よくわからない。

 こればかりは、育てていく中で見極めないとならない。

 

 

         ◇

 

 

 さらに2週間くらい経つと、お座りとハイハイができるようになった。

 なんという成長速度だろう。こんなに早く育ててしまって、本当に大丈夫なのだろうか。

 まぁ二次方程式を瞬時に解答できるのだから、もっと育っていてもいいのかもしれないが……。

 

 変わりばんこにメンバーが、シアンの相手はしているが、もはや我々が相手にするだけでは、シアンの好奇心を満たせなくなってきた。

 次はコンテンツを与えてみよう、という話になり、NHKの教育番組を見せることになった。

 由香ちゃんがあぐらをかいて、シアンを足の上に乗せてTVを点けた。ちょうど歌の番組をやっている。

 最初シアンは、何が起こったのか、怪訝そうな表情だったが、すぐに気に入って、画面を食い入るように見つめた。

 

「はい、シアンちゃん、お手々叩きましょうか?」

 

 由香ちゃんは、シアンの両手を持って、パンパンとTVの音楽に合わせて叩いた。

 

「はい、パンパンパン、パンパンパン」

 

 シアンはどういう事か、最初は戸惑っていたようだが、

 

「ぱんぱんぱん……きゃははは!」

 

 どうやら気に入ったようである。

 

「ぱんぱんぱん……ぱんぱんぱん……きゃははは!」

 

 音楽も大切な人類の文化、こうやって、身体を使って音楽を楽しむ事が、人類の守護者には必要だ。

 

 そのうちシアンは、転がっているおもちゃを叩き出した。

 

 コンコンコン!

 

「あら、シアンちゃんお上手~」

「きゃははは!」

 

 それに気を良くしたのか、シアンはTVそっちのけで、転がっているおもちゃを次々と、叩き始めた。

 

 カン!

 キンキン!

 ゴッゴッ!

 カカカカ!

 

「これは何をやってるんでしょう?」

 

 由香ちゃんは俺に聞く。

 

「いい音が出るおもちゃを、探しているのかな?」

「楽器探しって事ですか?」

 

 そこに美奈ちゃんが入ってくる。

 

「由香の姉御! おはようございます!」

 

 美奈ちゃんはあれ以来、由香ちゃんに絡むようになってる。

 

「おはよう美奈ちゃん。『姉御』は止めてって言ってるでしょ!」

「了解です! 姉御!」

 

 どうやら通じていないらしい。

 

「誠さんに変な事されてないっすか?」

「変な事って……何?」

「ハグとかキスとか……」

 

 一体俺を、何だと思っているのだろうか?

 

「大丈夫です!」

 

 由香ちゃんが少し赤くなって答える。

 美奈ちゃんは由香ちゃんにピタッとくっついて、こっちを睨む。

 

 シアンは大人の事情には無関心で、積み木を全部ぶちまけて、一つ一つ音の違いをチェックしている。

 カンカン!

 コンコン!

 

 すっかり匠である。

 

「で、シアンはこれ、何してるんすか?」

「どうも楽器を作ろうと思ってるらしいのよね……」

「楽器!」

 

 シアンは納得いくまで積み木の音をチェックしたら、今度は積み木を並べて叩き始めた。

 コンコンカン!

 コンコンカン!

 

「きゃははは!」

 

 ご満悦だ。

 

「あら、シアンちゃん、さすがだわ!」

 

 由香ちゃんがシアンの頭を愛おしそうに撫でた。

 

 美奈ちゃんはムッとした感じで、積み木をいくつか並べると

 

「シアン、こうよ!」

 

 コココッカン!

 コココッカン!

 カンカンコココッカン!

 

 と、叩いて見せた。

 シアンは

「きゃははは!」と、喜んでる。

 

「由香の姉御! 私もさすがでしょ?」

 

 と、両手を広げてハグを求める。

 俺は困惑する由香ちゃんを代弁して、

 

「いや、美奈ちゃん、それは無理筋じゃないかな……?」

「何よ! シアンの教育にこれだけ貢献しているんだから、ご褒美が必要だわ!」

「分かったわ、美奈ちゃん、よくできました!」

 

 由香ちゃんが美奈ちゃんをハグしてあげる。

 

「きゃははは!」

 

 シアンはなぜか嬉しそうだが、俺は腕組みして悩む。

 

「うーん、何かがおかしい気がする……」

 

 その後、シアンは

 

 コココンカン!

 コココンカン!

 

 と、上手にリズムを取り出した。

 とは言え、まだ腕の筋力が足りないので、これ以上は厳しそうだ。

 

 俺はタブレットにパーカッションアプリを入れる。

 タップするだけで、ドラムの音が出るので、これならシアンでも行けそうだ。

 

 タブレットをシアンにわたすと

 

「うわー!」

 と、言って、受け取って、手のひらで画面をバンバン叩いた。

 

 叩くたびに

 

 ポン、ポン、カコン!

 といろんな音が出る。

 

「きゃははは!」

 

 シアンは喜んで、両手でバンバン叩きまくる。

 

「シアン、貸してごらん!」

 

 美奈ちゃんが、横から器用にタブレットを指先で叩く。

 コッカッココカッ!ドッ!

 コッカッココカッ!ドッ!

 ドン!ココカッココカッカコンコン!

 

「きゃははは!」

 

 シアンは

 

「しぁんもー!」

 

 と言うと、タブレットを独り占めして、指先でたたき始めた。

 コッカッコココカッ!ドッシャーン!

 コッカッコココカッ!ドッシャーン!

 

「きゃははは!」

 

 絶好調である。

 

 美奈ちゃんは、演奏アプリを自分のスマホに入れて、ピアノでセッションし始めた。

 ジャーン、ジャジャ、ポンポロポロ♪

 

「きゃははは!」

 

 コッカッコココカッ! コッカッコココカッ! ドッシャーン!

 

 なるほど、これは乗らねばなるまい。

 俺はベースで由香ちゃんはサックス

 

 各自好き勝手に弾くが、そのうちだんだん合ってきた。

 

 ボーンボンボンボン……

 パーッパップロプロプロパパパパッパッパーパーパー!!

 ジャーン、ジャジャ、ジャーン、ジャジャ、ポンポロポロ♪

 ドコドコドコドコチャッチャチャタタンタンタン シャーン!

 

 数フレーズが上手くハマって

 

「きゃははは!」

 

 シアンは大喜びである。そうそう、こういう体験がシアンには大切なんだよ。

 

「イェーイ!」

 

 美奈ちゃんは、シアンの手を取ってハイタッチ。

 シアンも喜んで、今度は自分からハイタッチ。

 俺も由香ちゃんとハイタッチ。

 嬉しくなって、目を合わしてニッコリ。

 

「あ、そこ! ダメ!」

 

 美奈ちゃんが由香ちゃんを捕まえる。

 

「もう、油断も隙もないわ!」

 そう言って俺をにらむ。

 

「なんだよ、ハイタッチくらいいいじゃないか!」

 俺が文句を言うと、

 

「次はハグしようとしてたくせに!」

「えー!?」

 酷い難癖である。

 

「誠さんにはハグする権利はないの!」

「そんな事ないよな、由香ちゃん?」

 俺は由香ちゃんに笑いかける。

 

「え、まぁ、時と場合によりますけど……」

 うつむいて、赤くなりながら答える由香ちゃん。

 

「ダメ! ダメダメ!」

 美奈ちゃんは由香ちゃんの胸に飛び込んで、聞き分けのない事を言う。

 

「だめ~! きゃははは!」

 シアンも真似して由香ちゃんの足にしがみついて笑う。

 

 カオスな状況に頭が痛くなる。

 

 と、そこにクリスが入ってきた。

「あー、クリス、ちょっと美奈ちゃんに何とか言ってやって」

 

 目をそらす美奈ちゃん。

 

 俺が事情を説明すると、クリスはしばらく考え込んでから言った。

「…。美奈ちゃん、あまり若い二人を困らせないであげてください」

 

 美奈ちゃんはクリスをキッとにらむと、何か言いかけて……やめて、低い声で言った。

「……ふぅん……まぁいいわ。私も一応20歳なんだけど……ね」

 

 美奈ちゃんはそう言うと、由香ちゃんにハグをして耳元で何かささやいてる。

 

 次に俺の所にやってきて、俺を不機嫌そうにギロっと睨むと、耳元でひそひそ声で言った。

 

「『ヤバい人』って実は私なの、内緒にしててくれたら今度教えるわ」

 そう言って胸を張り、ウィンクして部屋から颯爽と出て行った。

 

 俺は、いきなりのカミングアウトに動揺して動けず、出ていく美奈ちゃんを、ただ見送るばかりだった。

 

 由香ちゃんは

「納得してくれたようでよかったわ」

 

 と、晴れ晴れした表情だったが、俺はそれどころじゃない。

 でも、内緒という条件であれば……ここでは何も言えない。

 

「そ、そうだね……」

 お茶を濁すしかなかった。

 

 『ヤバい人』とは、未来の由香ちゃんが言っていた『ヤバい人』だろう。クリスを倒せる……つまり、クリスより強力な奇跡を使える存在の事。美奈ちゃんが、そんな『とんでもない奇跡』を発動できる……なんて事があるのだろうか?

 

 美奈ちゃんが『えいっ!』って魔法のようにクリスをうち倒す?

 さすがに無理がある。

 

 もし、そんな事ができるのだとしたら、なぜ女子大生なんてやっているのか? また、そんなすごい存在が、俺や由香ちゃんに、つまらないちょっかい出したりするだろうか?

 どう考えてもつじつまが合わない。単なる混乱目当てのブラフ、という線が強そうにも思う。

 

 そもそも、内緒にしていたら話す、というのはどういう事なのか?

 

 考えれば考えるほど分からなくなってくる。

 

 俺はしばらく考え込んでいたが、意を決して美奈ちゃんを追いかけた。

 急いでマンションを出て、駅の方へと走る。

 程なくして見慣れた後姿を見つけた。背筋をピンと伸ばした、モデルのような歩き姿にはオーラすら感じる。

 

「美奈ちゃん、美奈ちゃん」

 追いかけて声をかけると、こちらをチラっと見た。

 

「さっきの話だけどさ、美奈ちゃんは奇跡使えたりするの?」

 俺は思い切って聞いてみた。

 

「使えるわよ、このビル倒して見せようか?」

 表情一つ変えずに美奈ちゃんは、道路わきにそびえる巨大な高層ビルを指さす。

 

「えっ!?」

 俺は、太陽を反射して輝く摩天楼を見上げ、言葉を失った。

 

「それとも、地球消してみようか?」

 美奈ちゃんは意地悪な笑顔を浮かべて言う。

 

「そう言うのは困るけど……、本当……なの?」

「地球ならもう何百回も消してるわよ」

 おどけた感じで答える美奈ちゃん。

 俺は意図をつかみかねて返答に窮した。

 

 すると美奈ちゃんは急に立ち止まり、俺を指さして忠告する。

「そんな事より、あまりクリスを頼っちゃダメよ! 取り返しのつかない事になるわよ!」

 その真剣な目、有無を言わさぬ迫力に俺は気圧された。

「わ、わかったよ」

 そう返事はしたものの、クリスに頼ると何がまずいのかよく分からなかった。

 

「私、急ぐから」

 そう言って、カツカツと速足で雑踏の中に消えていく美奈ちゃんを、俺はボーっと見送る。

 『ヤバい人』で、地球を消せて、クリスの事を詳しく知っているらしい美奈ちゃん。こんなくだらない冗談を言うような娘ではないが、にわかに信じがたい話で俺は途方に暮れた。

 ここの所、美奈ちゃんには振り回されっぱなしだ……。

 



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4-14.ブルータビー&ホワイト

 NHKの教育番組は、実によくできている。

 歌以外にも踊りにコミカルな短編アニメ、非常にクオリティ高いコンテンツだ。

 

 俺はシアンを膝の上に乗せながら、一緒にNHKをボーっと見ていた。

 大人が見ると、癒される効果があるかもしれない。

 

 ただ、それでもシアンは、最近飽き始めてしまったようで、TVが点いていても、遊びをせがむようになってきた。

 

 由香ちゃんは、駄々をこねるシアンを抱きあげると

 

「そろそろ、何か別の物を用意しないと……」

 と、困った表情を浮かべた。

 

「うーん、何がいいかなぁ……」

「そうねぇ……、あっ! ペットとかどうかしら?」

 由香ちゃんは、嬉しそうにアイディアを出す。

 

「え? ペット……。ただでさえ子守が大変なのに?」

「ペットは情操教育に良い、ってどこかの偉い人が言ってたわ」

 由香ちゃんの中では、もうイメージが膨らみ始めている。

 

「うん、まぁ確かにそうなんだけどね……」

 

 そこに、美奈ちゃんが『ガン!』と派手に音を立ててドアを開け、入ってくる。

 

「猫よ猫! 猫飼うわよ!」

 なんだかすごく楽しそうだ。

 

 ちなみに、美奈ちゃんにはあの後『ヤバい人』の事を聞いてみたのだが、『冗談に決まってるじゃない』と一笑に付されて終わった。『地球を何百回も消してる』という話を、真に受ける方がおかしいのはその通りなのだが……。

 

 

「猫? 誰が世話するんだよ? ハムスターとかに……」

 と、俺が言いかけると、由香ちゃんは、

 

「あ~、猫いいわね! スコティッシュフォールドとか可愛いし!」

 俺を無視して、浮かれて乗り気になっている。

 

「耳の折れた猫ね、あれもいいわね! 可愛い!」

「そうそう、可愛いは正義よ!」

 

 お互いの手を合わせて、キラキラした瞳で盛り上がる二人。

 

「いやいや、俺は反対だよ! 病気になったら誰が病院連れて行くんだよ? 可愛いだけじゃ無いんだよ! 大変なの!」

 

 俺は徹底的に反対した。

 

 どれだけ猫を飼うのが大変か、事例を挙げて全力で口を酸っぱくし、延々と反対した――――

 

 で、今、猫売り場に居る。なぜだ……。

 

「スコティッシュフォールドは無いんだって……」

 

 店員と話してきた由香ちゃんがしょんぼりする。

 

「あ、この子はどう? 可愛いよ!」

 

 美奈ちゃんがメインクーンを指さす。

 

「どれどれ……あっ、かわい~ぃ!」

 由香ちゃんは、一目見るなりすっかり魅了されてしまう。

 

 俺も覗いてみた。ブルータビー&ホワイトの生後2か月半の子猫だ。

 

 クリっとした丸い目に、ふわっふわの毛並み。こちらを気にしてキョロキョロと動くしぐさ……何だこれは……全てが愛おしい。

 

 ダメだ、頭では飼うのに反対してるのに、抗えない……。何という魔力。可愛いは正義。

 

「この子よこの子!」

 美奈ちゃんはすっかり魅了され、盛り上がっている。

 

 すかさず店員がやってくる。

 

「抱いてみますか?」

「えっ? 抱けるの!? ぜひぜひ!!」

 美奈ちゃんは興奮を隠さない。

 

 店員はケージをあけて、そっと子猫を抱きあげて、美奈ちゃんに渡す。

 

「あっ、温かい……柔らか~ぃ……」

 頬ずりし、恍惚の表情の美奈ちゃん。

 そこに優しい陽の光が窓から差し込む……。

 子猫のふわふわの産毛が逆光を受け、明るい輪郭を持って輝き、透き通った美奈ちゃんの肌をふんわりと照らす。その宗教画の様な光景は、限りなく尊く、見る者の心を洗った。

 

「おぉ……」

 俺はしばらく、その神聖な光景にくぎ付けとなり、思わずため息を漏らす。

 可愛さと美しさの競演に、俺は子猫を侮っていたことを反省した。

 

「美奈ちゃん、次は私!」

 由香ちゃんは思わず叫ぶ。

 

「待って、もうちょっと……」

 美奈ちゃんはゆっくりと、子猫をなでなでしながらトリップしている。

 

「早くぅ! ……!」

 

 しびれを切らした由香ちゃんが、半ば強引に子猫を奪う。

 

「……あぁ、本当だ……柔らかーい……」

 由香ちゃんもトリップしてしまった。

 

 これは俺も抱かせてもらわねば……

 

「次は俺だぞ!」

 

「何言ってんの! 反対してた人はダメで~す!」

 そう言って、美奈ちゃんは子猫を奪う。

 

「えー……。何、その仕打ち……酷い……」

 

「誠さんはこれでも反対ですか?」

 

 由香ちゃんは、少し意地悪な顔して言う。

 

「う、俺は世話をどうするか? という問題をだね……」

 

「ふぅ~ん。じゃ、ちょっと抱いてみて」

 

 由香ちゃんは、美奈ちゃんから子猫を取り上げると、俺に渡した。

 

 おっかなびっくり受け取ると……温かくて……柔らかい……。

 

 あ、これはダメな奴だ……もう逃げられないのを感じる。

 軽く頬ずりすると、ふわっふわの温かい感触が天国にいざなう。

 俺もトリップしてしまった。

 

「これでも反対?」

「……。分かった……俺の負けだよ……」

 俺は子猫に頬ずりしながら言った。

 

「じゃぁ決まりね!」

 

 由香ちゃんはにっこりと笑うと、店員について行って、買う手続きを始めた。

 

 お値段248,000円、その他食器にキャットフード、ベッドにケージ、トイレに砂……

 これら飼育セット一式合わせて約30万、こんなの経費で落ちるのかな……。

 

 

         ◇

 

 

 子猫を連れて帰り、オフィスで早速シアンとご対面。

 

「シアンちゃーん、猫ちゃんですよ~」

 由香ちゃんが子猫を抱いて、シアンの前に座る。

 

 シアンは初めて見る生き物に、警戒の色を隠さない。

 少し後ずさりして、ジッと猫を見つめる。

 

 猫もシアンを見つめ、緊張している。

 

「大丈夫よ、ほぅら、触ってごらん」

 そう言って、シアンの手を子猫に触れさせる。

 

 シアンは

「うひゃー!」

 

 と言って、柔らかな手触りに嬉しそうだ。

 

 そのうち、シアンは自分で撫で始めた。

 

「……きゃははは!」

 

 最高の笑顔で笑うシアン。

 

 どうやら子猫の可愛さに、目覚めたようだ。

 

「そうよ~、仲良くしてね!」

 由香ちゃんが嬉しそうに言う。

 

 すると、急に美奈ちゃんが、ガバっと立ち上がって言った。

「決めたわ! この子の名前は『虎徹(こてつ)』よ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ。こんなに可愛いのに虎徹はないだろ!」

 俺が否定すると、

 

「じゃ、何がいいのよ!」

 と、怒って俺をにらむ。

 

 確かに、何がいいのだろうか?

 俺は子猫を優しくなでながら聞いた。

 

「お前は何て呼んで欲しいんだ?」

 

 そうすると子猫は

 

「みぃ……」 と、小声で答えた。

 

「『ミィ』らしいよ、『ミィ』にするか?」

「何それ!? そんな名づけ方ってあるの?」

 美奈ちゃんは眉をしかめながら言う。

 

 するとシアンが

「みぃ! きゃははは!」と、笑った。どうやら気に入ったらしい。

 

「どうやら『ミィ』で決まりらしいよ」

「え~……」

 美奈ちゃんは、思いっきり嫌そうな態度で抗議した。

 

 そこにマーカスが、にこやかに入ってくる。

 

「Hey! Guys!」

 そして子猫を見つけると、目を丸くして口を開けて固まった。

 

「WOW! Supah kawai! (わー、かわいい!)」

 俺はすかさず紹介する。

 

「He is MIE(ミィちゃんだよ。)」

 

 これを発音が同じ「He is me.(子猫は俺だよ)」と勘違いしたマーカス、

 

「What!? マコト コンナニ カワイクナイネ!」

 と言って首をかしげる。

 

 ハッハッハッハッ!

 

 美奈ちゃんがウケて笑い出す。

 

 俺も、しまったと思って言い返すが……

 

「No! No! MIE is not me……(ミィはミーと違うんだ……)」

「What!?(なんだって?)」

 

 全然伝わらない、何言ってるんだ俺は……。

 

 美奈ちゃんが大喜びで笑いながら言う。

「ハッハッハ、そら見なさいよ! ハッハッハー!」

 

「だからと言って、虎徹はないだろ」

 俺は真っ赤になりながら反駁する。

 

 揉めてるとシアンが

 子猫を抱きあげ、マーカスに見せて、

 

「みぃ!」

 と、言った。

 

「Oh! コネコ ミィ ネ!」

 マーカスはニッコリと笑う。

 

「えー! 他の名前にしようよ~」

 美奈ちゃんは不満げである。

 

 そして、マーカスの方を向いて、色っぽいポーズを作って聞いた。

 

「Hey! Marcus! Which is better MIE or KOTETSU?(マーカス、ミィと虎徹とどっちがいい?))」

「『You!』 HAHAHAHHA!(『me(私)』が選択肢なら美奈ちゃん、あなただね! はははは!) 」

 

 またくだらないオヤジギャグを……

 

Bang(バンッ)

 

 美奈ちゃんは脇のテーブルを恐ろしい力で叩き、

 

「……What? (何ですって?)」

 今にもマーカスを殺しそうな目をして、言った。

 

「HA,HA……」

 マーカスは、ギャグが通じなかったことに気づく。

 

 部屋中が凍り付く。

 

 マーカスは小さくなって早口で言う

 

「Oh! sorry, but I just remember I have to do……. (あ、やんなきゃいけないこと思い出した!)」

 そういって、急いで部屋から出て行ってしまった。

 

「信じらんない!」

 憤慨する美奈ちゃん。

 

「まぁまぁ、シアンのために飼ったんだから、シアンが呼びやすい名前にしようよ」

 俺は、冷や汗を流しながら説得する。

 

「みぃ!」

 シアンはそう言って譲らない。

 

 美奈ちゃんはシアンをじーっと見つめ、

 

「仕方ない、赤ちゃんには負けるわ」

 

 そう言って、シアンからミィを抱きあげると、頬ずりをして言った。

 

「虎徹、ごめんね、私の政治力が足りなかったわ……」

 

 政治力って何だよ。

 

 

     ◇

 

 

 シアンはミィと手を取り合ったり、おもちゃで一緒に遊んだりして、一緒に過ごした。

 赤ん坊と子猫が仲睦まじく遊ぶ姿は、どこか神聖な空気をまとっている。

 俺はゆっくりと眺めながら、珈琲を味わい、胸の中に温かいものが満ちるのを感じていた。

 

 シアンは眠くなったミィを、愛おしそうに抱いて、ゆっくりと撫でる……

 

 尊い……

 

 みんなもこの微笑ましい光景を、温かい表情でいつまでも見ていた。

 

 AIと猫が仲良く遊ぶ世界線、人類を超えた世界に生まれた尊さを、俺は格別の感慨をもって眺めていた。

 シアンは人類の守護者として、着実に正しい進化を続けている――――

 

 

 



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4-15.割れた頭、女子高生を倒す

 ミィの相手で、しばらく収まっていたシアンの好奇心だったが、最近ぶり返してきている。『遊べ遊べ』と、またうるさく言うようになってしまった。

 

 遊び終わっても10分もしたら、

 

「まこと~、きて~!」 と、声がかかるのだ。

 

 何しろシアンは寝ない。厳密には記憶の整理などのバッチ処理が夜間に走るため、30分くらい横にはなるんだが、その程度だ。疲れ知らずで、常に全力で遊びを要求してくるのは本当に疲れる。

 

 退屈させるのも本意ではないので、ネット情報へのアクセスを許す様にした。

 もちろん、子供に有害なページへのアクセスは禁止して、無難なコンテンツに絞ってる。

 シアンがボーっとして見える時は、ネットサーフィンをしているようだ。

 

 部屋のモニターに今シアンがどのページを見ているのかを表示させてみると、写真を次々と追っているようだった。動物やキャラクターや人物や乗り物など、無難な物を凄い速さで次々と鑑賞している。

 

 そのうちにWikipediaなど、情報サイトを漁り始めた。

 読む速度は異常に速く、一つのページに1秒くらいしか滞在していない。そして読み終わる前に複数のリンク先ページにどんどん飛んでいる。

 後でログを見てみたら、同時並行で数十コンテンツを読んでいるようで、もはや人間の目には追えないレベルである。知識が豊富になるというのは歓迎すべきではあるが、それにも限度がある。思考が発達する前に、知識ばかり過剰に持ってしまって本当に大丈夫だろうか?

 

 俺はみんなを集めて相談する。

 俺の懸念には、マーカス達も同意しつつも、では、代わりに好奇心旺盛なシアンに何を与えたら良いのかが分からない。

 

 皆が悩む中、由香ちゃんがおずおずと言う、

「そろそろ……外出とかどうですか?」

「うーん、普通の赤ちゃんと違うから、変な人に目をつけられたら、嫌なんだよね……」

「でも街での体験も学習には必要でしょ?」

「いやまぁ、おっしゃる通り……」

 

 とりあえず、試しに一回やってみる事になったが、とても嫌な予感がする。人体実験の証拠を、大衆の目にさらして持ち歩くという事になるのだ、心穏やかでない。バレたら逮捕だというのに……。

 

 俺は逡巡(しゅんじゅん)したが覚悟を決め、抱っこひもで胸の所にシアンを固定すると、街に繰り出した。

 

 シアンにとっては、生まれて初めての外出。由香ちゃんもついてきてくれるので、3人でお出かけである。

 初めて見る外の景色に、シアンは凄い興奮気味だ。

 頬に当たる風、眩しい太陽、走り過ぎる自動車たち、カラフルな看板のお店、すれ違う人、全てに驚き、興奮し、

 

「う~!」 と、目をキラキラさせながら、あちこちを指さしている。

 

 その嬉しそうな様子に、思わずほっこりとしてしまう。

 確かにネットの動画を見ただけでは、風も眩しさも匂いも全然わからなかっただろう。今、シアンは初めて世界を理解したのだ。美しきこの地球を、五感でしっかりと味わっているのだ。

 

 こんな事なら、もっと早く外出させればよかった。

 俺は微笑む由香ちゃんと目を合わせ、ニッコリと笑った。

 

 

        ◇

 

 

 地下鉄を乗り継いでショッピングモールに着いた。

 モールの中は吹き抜けになっていて、たくさんの店舗がずらっと並んでいる。

 

 アパレルやカフェ、活気ある店内を覗き込んでは

 

「う~!」

 

 他の子供連れとすれ違っては

 

「う~!」

 

 とても楽しそうである。

 

 まずはベビー用品店に行き、服を見繕う。

 折角の機会なので、何着か買っておきたい所だ。

 

 恐竜の着ぐるみみたいなパジャマや、かぶるとクマになるお包みなど、いろんな商品に目が移るが、ここは実用重視で行きたい。

 

 と、思ってるそばから由香ちゃんは

 

「きゃ~! かわいぃ~!」 と、要らないものを次々手に取っている。

 

「いやいや由香ちゃん、洗う事考えて実用重視で行こうよ」

「え~~! 折角かわいいのに~~!」

 本来の目的を忘れて、すっかりショッピングを楽しむ由香ちゃん。

 

「いやいや!」

 

 由香ちゃんは、握りずしのエビを模した服を持ってきて、シアンにあてがう。

「ほら、シアン寿司になったよ!」

「えみ! きゃっ! きゃっ!」

 

 シアンは上機嫌である。

 

「いやいや、エビを誰が洗うのよ!」

「誠さんノリ悪いわよ!」

「いやいやいやいや」

 バレたら逮捕だというのに、ノリとはどういう事だろうか。

 

 店員がするすると近づいて、声をかけてくる。

「お父さま、こちらは洗濯も簡単ですよ!」

 

 ヤバい事になった。何とかやり過ごさないと……。

 

「お母さま、こちらはこういうのもありますよ!」

 ノリノリの店員に由香ちゃんも困惑を隠さない。

 

「では、こぇひとつください!」

 シアンが勝手に発注する。

 

「えっ? もうこんなに話せるんですか!?」

 驚き、固まる店員。

 

 俺は冷や汗かきながら、

「あ、オウム返しみたいなものです。気にしないで下さい」

 と、言ったが、シアンが追い打ちをかける。

 

「オウムで~す! きゃははは!」

 

 目を丸くする店員。

 

「あ、構わなくて大丈夫です、普通のつなぎはどこにありますか?」

 と、言ってその場を濁し、逃げ出した。

 

 結局つなぎを3着、帽子と靴を買った。

 

 店を出ながら、胸に付けたシアンに言い聞かせる。

「シアン、勝手に他の人に話しかけちゃダメ!」

「だめ! きゃははは!」

「今度やったらメってするよ!」

「メっ! きゃははは!」

 すっかり興奮して全く言う事を聞かない。

 買い物は止めて、近くのカフェで一休みする事にする。

 

 ベビーチェアにシアンを乗せて、パンケーキをつつきながら珈琲を飲む。

「あ~、重かった。結構シアン重いわ」

「おむ~い!」

「そうそう、お前はもう8kgもあるんだ。付けて歩くには重いのだ!」

「はちきろ! はちきろ! きゃっ! きゃっ!」

 

 どこまで認識しているのだろう?

 少なくともWikipedia読み込んでいるくらいだから、俺の言う事も分かってるはず。

 試しにきいてみる。

「シアン、ここどこか分かってる?」

「よついふどうさん~! うりあげいっちょ~はっせんおく~!」

 

 店内にシアンの甲高い声が響く。

 確かにここのショッピングモールの母体はそこだが、なぜ叫ぶのか。

 店員のおねぇさんの視線が痛い。

 

「シアン、ちょっと声が大きすぎるかも」

「おおきすぎ~! きゃはははは~!」

 

 ちょっと手が付けられない。

 早めに切り上げて、芝生の公園に移動する。

 

 

           ◇

 

 

 シアンを芝生の広場に放すと、元気にハイハイで緩やかな斜面を登っていく。

 そして今度はごろごろ転がって……

 

「きゃはははは~!」

 と大喜びである。

 

 シアンは、せわしなくあちこち移動しながら、最後はよちよち歩きにチャレンジ。

 

 一歩……二歩……あぁ!

 尻餅をついてしまった。

 

 俺はベンチに座りながら、隣の由香ちゃんに言った。

「こんなに喜んでくれるなら、もっと早く連れてきてあげればよかったね」

「そうですね、赤ちゃんが嬉しそうにしていると、こっちも嬉しくなりますね!」

 由香ちゃんが、優しい目でシアンを見守りながら言う。

 

「お~! らぶらぶ~!」

 シアンがこっちを指さしながら言う。

 

「何言ってんだお前!」

 いきなり冷やかされてつい語気が荒くなる。

 由香ちゃんは赤くなってうつむく。

 

「らぶらぶ~! きゃはははは~!」

 怒ったのが逆に喜ばせてしまったようだ。AIってこんなだっただろうか? いったいどこで学習してきたのだろう?

 

 通りすがりの女子高生が、怪訝そうにこっちを見ている。

 俺は焦った。目につくことは避けたい。

 

「シアン! シーッ!!」

 俺は必死に黙らそうとする。

 

「らぶらぶ~! きゃはははは~!」

「いう事聞かないと、もう連れてこないぞ!」

 

 俺が脅すと、急に立ち上がり、真顔になって、

 

「Yes! Sir!(わかりました!)」 と、言って敬礼したが、バランスを崩して後ろにコケた。

 

「あっ!」

 コケた拍子で、頭のカバーが外れて転がってしまった。

 

「きゃははは!」

 本人は気にせず笑ってる。

 

 シアンは無脳症なので顔しかない。だから頭はただのカバーなのだが、そのカバーが外れて転がった。

 頭がコロコロと斜面を転がって、そばを歩いていた女子高生の足元まで行ってしまう。

 髪の毛がついた、マネキンの頭部みたいなものが、足元に来た女子高生は

 

「うわぁぁぁ!」

 そして、顔だけで笑うシアンを見て

 

 キャ――――――――――!

 

 そう叫ぶと、気を失ってその場に倒れてしまった。

 ヤバい! 俺は真っ青になって駆けだした。

 

 急いで俺はシアンの頭を直し、由香ちゃんは介抱。

 

 由香ちゃんは女子高生の衣服を整えて、苦しくない姿勢にさせて見守った。

 

「いやー、まずいねこれは……」

 

 俺は由香ちゃんと目を合わせて、ため息をつく。

 ほどなくして、目を覚ます女子高生。

 

「大丈夫ですかぁ?」

 由香ちゃんが優しく聞く。

 

 ボーっとしていた女子高生がハッとなって

「あ、赤ちゃんの頭が!!」

 

「赤ちゃんがどうしたんですかぁ?」

「コロコロって転がって……」

 

 俺はシアンを抱きかかえて女子高生に見せた。

「赤ちゃんなら大丈夫ですよ」

「いや、でも、コロコロって転がってきたんです!」

「頭転がったら、死んじゃうじゃないですか」

 そう言って、にっこりと笑って見せた。

 

「いや……まぁ……そうなんですけど……」

「何か今ストレスを抱えていませんか?」

 俺がさり気なく誘導する。

 

「ストレス? あぁ……志望校を決めないといけないんです……」

「あー、受験、大変ですねぇ。それで何か錯覚を見たのかもしれませんね」

 錯覚という事にしないと……

 

「ちなみにどういう大学が候補なんですか? お手伝いできることもあるかも」

 

 由香ちゃんが、なるべく別の話題に引っ張ろうとする。

 

「MARCHなんですが……応京とかも……」

「あ、私、応京ですよ」

 

 由香ちゃんがにっこりとする。

 

「え!? 応京生ですか!?」

 

 憧れのまなざしで、由香ちゃんを見る女子高生。

 

「そう、文学部。あなたは理系? 文系?」

 

 ちょっと自慢気な由香ちゃん。

 

「私は数学苦手なので……文系です」

「文学部なら数学いらないから大丈夫よ」

 

 シアンが横から口をはさむ

「しゃかぃ、えぃご、しょーろんぶん!」

 目を丸くする女子高生

 

「シアンはいいの!」

 俺はシアンを抱きあげて、これ以上余計な事を言わせないように、距離を取る。

 

 由香ちゃんは引きつった笑顔で

「ちょ、ちょうど彼と入試の話をしていた所だったんで、横から聞いて覚えていたんですね……」

「赤ちゃんって……こんなに話すんですか?」

「こ、この子は早熟みたいですね」

 冷や汗が浮かぶ由香ちゃん。

 

「失礼ですがお母さま……ですか?」

「いや、この子は親戚の……」

 由香ちゃんがそう言いかけると……

 

「ママー! ママー!」

 シアンが設定をぶち壊して叫ぶので、由香ちゃんの額に怒りの色が浮かぶ。

 

「わ、私が産んだ子ではないんですが、ママとして育てているんです」

「ママー! ママー!」

 

「ちょっと! 大人しくしなさい!」

 俺が言い聞かすが、聞かない……。

 

「ママー! ママー!」

 仕方ないので一旦由香ちゃんに戻す。

 由香ちゃんはシアンを抱っこして、必死に冷静さを保ちながら頭をなでた。

 

「言う事聞かなくて困るんですが……可愛いんです」

「じんこうしきゅう で うまれたの!」

 

 またシアンが余計なことを言い出した。

 

 女子高生が怪訝そうな顔で言う。

「人工子宮……?」

「し、親戚の不妊治療でできた子なんです」

 

 由香ちゃんの必死のフォロー。

 

「そのまえ は マウス だったの!」

 

 そう言って、両手で掴んだ餌を食べるしぐさをして、左右をキョロキョロ警戒する真似をした。

 

「うまいうまい! 前世がネズミだったのね!」

 女子高生にはなぜかウケている。

 

「にじほうていしき おぼえて たたかったの!」

「二次方程式?」

 怪訝な顔をする女子高生

 

「ママがもんだい みないで かったの!」

 女子高生が混乱する。

 

「くりす がね! ぱーって きせき やったの!」

 ここまで言うともはや安心の妄言である。

 

「クリス? あー、キリストが奇跡起こして前世のマウスの時代に二次方程式おぼえてママと戦ったのか? 凄いな君は!」

 

 女子高生は楽しそうに、シアンの言葉を整理する。

 

「きゃははは!」

 

 全部実話だがどれ一つとして実話には思えない。すごいな。ここまで突き抜けていれば、子供のたわごとで済ませられそうだ。

 

「あー、そろそろ我々は行かないとなので……」

 俺はそう言って、シアンを抱っこひもでお腹に付けた。

 

「受験、頑張ってくださいね! 応京いい所ですよ!」

 由香ちゃんも励まして荷物を整理する。

 

「はい、シアン、バイバイして」

「ばいばーい!」

 こうして無事女子高生と別れた。

 

「シアン、他の人と話しちゃダメだよ、怪しまれたら連れてかれちゃうぞ!」

「Yes! Sir! (わかりました!)」

 と言って敬礼して、

 

「きゃははは!」

 と笑った。

 

 絶対理解してないなこいつ。

 確かに外出は、人間社会を理解させるうえで重要なのは分かった。でも、相当に危険だという事も思い知らされた。今日の事だって、目撃者が女子高生一人だったから良かったようなものの、俺みたいなエンジニアだったら、一目ですべてを見抜かれてしまっていただろう。割れた頭の中にトランスミッターを見つけたら、何をやってるかなんて一目瞭然である。

 もっと安全なやり方はないだろうか……。

 帰りのタクシーの中で、俺は腕組みをして眉間にしわを寄せながら、思い悩む。

 レンタカー借りるか……。でも車から見るだけでは学習にならないし……。

 うーん……。

 

 ……。

 

「誠さん、着きましたよ!」

 由香ちゃんが俺の肩を叩きながら起こす。どうやら眠ってしまっていたようだ。

 

「疲れているんですね、無理しないでくださいね!」

 そう言って優しい笑顔を見せた。

 

 俺は寝起きのボーっとした頭で、その笑顔を見つめる。

 

『いい娘だなぁ……』

 胸の中に温かいものが、ゆっくりと満ちていくのを感じていた。

 美奈ちゃんだったら、きっと『しっかりしなさいよ!』とか怒ってきたに違いない。

 

 お出かけは次も由香ちゃんがいいな、とぼんやり考えていた。

 

 



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4-16.社長+部下+AI

 最近シアンは、コンピューターサイエンスに興味がある。

 技術資料を大量に、延々と読み続けながら、python(パイソン)を使った簡単なコーディングまでやり始めている。

 データベースに、良く分からない膨大なデータ流し込んで、不可解な処理をさせたりしているのを見ると、そろそろシンギュラリティに到達しているのかもしれない。

 また、サーバーのセキュリティにも興味があるようで、自分でいろいろなサーバーを立てては、そのセキュリティホールを丁寧に洗っていたりする。

 とても危うい技術なので積極的にはやらせたくないが、とは言え好奇心を止める訳にも行かない。

 俺がいいと言うまでは、他人のサーバーのハッキングはしない、という約束で許可する事にした。

 

 俺はオフィスで珈琲を飲みながら、シアンがアクセスしている外部リソースを確認してみたが、最近はもう何をやっているのか全く分からない。

 以前は文字や画像の取得だったのが、最近では無数のサーバー間で数値(バイナリ)のデータを延々とやり取りさせていたりして、もはや俺の理解を超えている。

 世界を理解する上で、インターネットの理解も必要ではあるが、やり過ぎていないのかとても不安になる。ただ、本格的にヤバくなったら、IDCのネットケーブルを引っこ抜いて強制中断すればいいのだ。この命綱がある限りは大丈夫だろう。

 

 

           ◇

 

 

 ネットの世界だけだと偏るので、由香ちゃんと一緒に、お出かけする事にした。

 

 街路樹の若葉がにぎやかに彩りだした歩道を歩きながら、由香ちゃんは、

「私達、街の人からはどう見られてるかなぁ?」と、嬉しそうに聞いてくる。

「AIを学習させるベンチャーのスタッフ、だなんて想像もできないだろうね」

 

 由香ちゃんは、そっと近づいてくると耳元で、

「きっと、幸せな若夫婦だと思ってるわよ」

 そう(ささや)いて、嬉しそうに笑った。

 

「奥様としては由香ちゃん、若くない?」

 俺が突っ込むと、

 

「そんな事ないわ、適齢期よ! ねぇシアン?」

 と、ベビーカーのシアンを(のぞ)きこむ。

 

 シアンは、

「まこと、どんかん、きゃははは!」

 と、笑う。

 

「ちょっと待て、その質問にその回答はおかしくないか? どこか壊れてる?」

 俺が怪訝な顔をすると、由香ちゃんは、

 

「いや、シアンちゃん、さすがだわ~!」

 と、当てつけるかのように喜んでいる。

 何が『さすが』なのだろうか……。

 

 

         ◇

 

 

 春の気持ちいいそよ風の中をしばらく歩いて、シアンお気に入りの公園に来た。広々とした芝生には春の日差しがさんさんと降り注ぎ、思わず頬がゆるむ。

 シアンを芝生に放して、ボールを転がしてやると、

 

「きゃははは!」 と、捕まえ、こちらに投げ返してくる。

 相当高度な事が、できるようになってきた。

 

 俺が軽く蹴ってやると、シアンも蹴り返そうとして……コテン

 転んでしまった。

 

「おい、シアン、大丈夫か?」

 

 心配して駆け寄ると

 

「きゃははは!」 と笑っている。

 

 頭は割れてない、セーフ!

 

 シアンはヒョイっと起き上がると

 

「きゃははは!」と、上機嫌にステップを踏み始めた。

 

「お、踊ってみるか?」

 俺はスマホでダンスの曲を流す。

 

 シアンは

「きゃははは!」 と笑いながら、踊り始めた。

 

 リズミカルに軽く腰を落としながら、足を開いて右行って左行って、手はクラップ。

 

「おぉ、いいぞ、そうだ!」

 

 俺が喜んで言うと、由香ちゃんは

 

「え? なんで、シアン踊れるの!?」

 すごく驚いている。

 

 そのうち、リズミカルに左右に重心を移しながら、足をシュッシュと伸ばし、肩を回しながら腕を回し、収める、再度回して、収める。

 だんだん調子が出て来て、足もクロスさせ始めた。相当に高度なダンスである。さすがAI。

 

「お、いいよいいよ!」

 俺は手をパンパンと叩いてリズムを取りながら、シアンを応援する。

 

 ところが由香ちゃんは、急に険しい表情になって黒いオーラをまとった。

「これ……美奈ちゃんね……」

 

 すごい、なぜ分かるのか。

 

「マ、マウス時代に美奈ちゃんが教えたんだよ」

 俺が不穏な空気にビビりながら説明すると、由香ちゃんはおもむろに立ち上がり、

「シアン、ママの踊りを真似しなさい!」

 そう言い放つと、踊り始めた。

 

 シアンが、美奈ちゃんのダンスを踊るのは許せないらしい。

 女の子同士の微妙な関係は、男には全く理解できない。

 

 肩を怒らせ、腕をクロスし、伸ばし折り伸ばし折り、ステップ踏みながら軽く回る。

「こうよこう!」

 

「きゃははは!」

 シアンは余裕でまねる。

 

「次から踊る時はこう踊りなさい!」

 

 由香ちゃんとシアンが並んで、ピッタリと息の合ったダンスを繰り広げる。

 右足、左足、右右左左、

 

 いいぞいいぞ!

 

 気持ちのいい芝生の公園で、赤ちゃんと女の子が楽しそうに踊っている。青空にぽっかりと浮かぶ雲がゆったりと流れ、春を告げる匂いが俺たちをふんわりと包む。

 俺は力がふっと抜け、今まで感じたことのないような、優しい嬉しさが胸を満たしていくのを感じていた。

 人生って、もしかしたらこういうものだったかもしれない。こういう幸せを集める旅、それが人生の本質だったのかも……。

 

 俺はボーっとただ、二人の軽やかなダンスを宝物を集めるように、心に刻んでいった。

 

 

        ◇

 

 

 二人がクルっと回った所で、パチパチという拍手が上がる。

 驚いて横を見ると、なんとたくさんのギャラリーが!

 スマホで撮っている人までいる!

 ヤバい!

 

「あー、ごめんなさい! 見世物じゃないので、撮影はご遠慮くださーい! 本日のダンスは終了でーす!」

 

 俺はそう叫んで、ギャラリーを解散させたが、一人名刺を出してくる男がいる。

 嫌な奴に見つかってしまった……。

 

 名刺には「YTプロダクション 佐川雄二(さがわゆうじ)」とある。

 最近YouTuberをたくさん抱えて、羽振りの良い会社だ。

 

「先ほどのお子様のダンス! 最高でした! ぜひ、ネットで動画を配信させてください!」

 

 ほうら来た。

 佐川は穴の開いたジーンズに、小汚いカーキ色のジャケット、業界人っぽい風貌でニヤニヤしている。

 シアンの動画がネットになんて載ってしまったら、秘密がばれ、俺は逮捕されてしまう。心臓がバクバクし、冷や汗が流れてくる。

 

俺は覚悟を決め、ゆっくりと深呼吸をし、冷静に冷徹に言う。

「どんなにウケようが、お金になろうが、うちは絶対にやりません。お引き取りください」

「いやいや、そうおっしゃらずに、1億PVで年収4億、どうですか?」

 

 金で釣ろうとしてくる、困った奴だ。

 

「うちは、見世物は絶対にやりません」

「お子さんの才能を花開かせたい、と思いませんか?」

「うちの子の才能は、ダンスだけではないので間に合ってます」

 俺は帰りの片づけをしながら、追い払い続けた。

 

「お話しだけでも聞いてくださいよぉ」

 しつこい……が……変に付きまとわれても困るので、話してやるしかない。

 

 俺はしばらく目を瞑り、気持ちを落ち着けてから、佐川に向き合った。

「我々はお金も名声もいらないんです。なぜだと思いますか?」

 淡々と言った。

 

「え?……な、なぜでしょう……ね?」

「我々は蘇ったキリストを尊師として崇める、新興宗教の団体だからです。人類の救済以外に興味はありません」

「え? 宗教? ……ですか?」

「そうです。たまにあなたの様に、我々のファミリーにちょっかいを出してくる人が居ます。これ、非常に困るんです。先日、そういう男の一人が、マンションの10階から墜ちました」

「え!?」

 佐川の顔が引きつる。

 

「『うぎゃぁぁぁ~!』と言って墜ちていきました。今でも耳に残っています。でも、これで彼の魂は救済されました。今頃は天国で幸せに暮らしているでしょう」

 俺は十字を切り、目を瞑って手を合わせた。

 

「……」

 固まる佐川。

 

「まぁ、信じられないでしょうね。それでは神の力の一端をお見せしますか」

 

 俺はシアンを抱きかかえると、名刺を渡した。

 

「このおじさんの事を教えて。自由にやっていいから」

「さがわ?」

「そうそう、さがわゆうじさん」

「きゃははは!」

 シアンはそう嬉しそうに笑うと、目を瞑った。

 

「なんで……赤ちゃんが漢字読めるんですか?」

 佐川がビビりながら聞いてくる。

 

「この子は選ばれた神の子です。漢字など読めて当たり前です」

 俺は偉そうに胸を張る。

 

 するとシアンが淡々と情報を話し始めた。

 

「とうきょうと せたがやく たいしどう 3ちょうめ ×‐× さがわ ともこ、 さがわ ゆい、 たいしどう だいにしょうがっこう 3ねん」

 

 まずは会社のサーバーに入って、年末調整のデータか何かを、引っ張ってきたようだ。

 

「な、なんでそんな事分かるんだ!?」

 佐川は驚く。

 

「神の子の力が分かりましたか?」

「い、いや、こんな力があるんだったら、もっとPV稼げるじゃないですか!」

 まだ諦めないようだ。

 

「かわかみ えみ と なかよし」

 シアンがそう言うと、佐川の顔色が変わった。

 今度は佐川のメールか、SNSのアカウントをハックしたようだ。

 

 リアルタイムで、次々と個人情報をハックし続ける赤ちゃん。想像以上の性能に、俺も不安が呼び起こされてきた。これはつまり、世界中誰でも瞬時に丸裸にできるという事なのだ。まさかこれ程までとは……。

 自由にやらせたのは失敗だったかもしれない。俺は得体のしれない恐怖が、ゆっくりと体にまとわりついていくのを感じていた。

 



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4-17.「愛してる」と言わせる魔法

 シアンの能力は不安だが、今は佐川に集中しないとならない。シアンは違法な人体実験で作られたAI、バレたら人生破滅だ。絶対に隠し通さないとならない。

 浮気っぽい情報がとれたのは、攻めるチャンスではある。

 

「あれ? 奥さんがいるのに恵美さんと仲良し……どういう事なんですかね?」

 俺はニヤッと笑って追い込む。

 

「な、仲良しって、仲がいいのは、別に何の問題もないじゃないか!」

「きのう ふたりで ホテル……」

 淡々とばらすシアン。

「し、し、失礼だな! 誰が何しようが勝手じゃないか!」

 佐川は真っ赤である。

 

「もちろん、浮気する自由は、誰にだってありますよ。でも付きまとわれない自由は、我々にもある。諦めるか……奥様とお話しさせていただくか……どちらを選びますか?」

 

「……、脅すのか?」

 ジロっとこちらをにらむ佐川。

「とんでもない、平穏な教団での暮らしに、土足で上がってきているのは、あなたの方ですからね、自衛措置ですよ」

 

「くっ!……しかし……惜しいな、世界一の才能を見つけたのに……」

 

 ここまで追い込んだのに、まだ諦めきれないらしい……しぶとい……。

 

 安全のためには、佐川にはすっぱり諦めてもらう以外ない。未練を持たれて、こっそり調査されてしまうようなリスクも潰しておきたい。

 

「分かりました、最後にチャンスをあげましょう」

 俺は佐川の目をまっすぐ見て言った。

「え!?」

「神の子とジャンケンしてください。10回やって1回でも勝てたら出演しましょう。もし、1回も勝てなかったら二度と我々には近づかないこと、近づいたらあなたにも、マンションの10階へ行ってもらいます」

「え? 1回勝つだけでいいの?」

 佐川は大喜びである。

 

 由香ちゃんは

「そんな条件でいいの!?」 と、驚いているので

 

「僕たちの子供を信じなさい」

 俺は、にっこりと笑った。

 

「シアン、ジャンケンで勝ってくれ」

 シアンのふんわりと柔らかい頬を軽くなでながら、指令を出すと、

「きゃははは!」 と、嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ行きます。1回戦目、最初はグー! ジャンケンポン!」

 赤ちゃんの小さな手がチョキを出し、パーの佐川に勝った。

 

「まーだまだ! あと9回ある!」

 佐川は余裕の表情だ。

 

「2回戦目、最初はグー! ジャンケンポン!」

 またシアンの勝ち。

 その次もシアンの勝ち……

 

 この辺りで佐川は気が付く。

 

「なんだよ……あいこにもならない……。どういう事だよ……」

 最初の勢いはどこへやら……なんだか可哀想である。

 

「神の子は偉大です。人間に勝てる訳がない」

 俺はちょっと自慢気に言い放つ。

 

 実はシアンは、単純に後出しをしているだけなのだ。佐川の出す手を見てから、グーチョキパーを選んで出しているのだが、その後出しが0.1秒の早業なので、佐川には分からない。

 

 やけくそになる佐川が全敗するのに、1分もかからなかった。

 ストレートの10連敗である。

 

 俺はにこやかに言った。

「はい、では約束通り、二度と我々には近づかないでくださいね」

 

 これで解決だろうと、思ったのだが……。

 

 佐川はしばらくうつむいていたが、いきなりガバっと顔を上げると、俺の手を両手で包んでこう言った、

 

「神の力は素晴らしい! 私もぜひあなたの教団に入れてください!!!」

 

 なんだよそれ……斜め上の回答に、俺は思わず天を仰いだ。

 いつになったら解放されるのか……。

 

「動画なんてもうどうでもいい、神のおそばに私も置かせてください!」

 熱のこもった目で俺を見つめる佐川。

 俺はウンザリしながら言葉を選んだ。

 

「神の力をご理解いただいて何よりです。ただ、我々の宗教は、一般人を信徒に迎えません。高潔なる心の持ち主しか、神は信徒として認めないのです」

 

「俺じゃダメ……なのか?」

 哀しそうな目で俺を見る。嘘の設定に喰いつかれるのは、非常に良心に堪える。早く何とか切り抜けたい。

 

「浮気をしているような方では無理です」

 俺は佐川の手を振り払った。

 

「浮気はダメって、そもそもウチの奴が、ヤらせてくれないから、こんな関係になったんだ。俺のせいじゃない!」

 

 どうもセックスレスらしい……なぜ俺は赤裸々な夫婦事情を、カミングアウトされているのか?

 ずぶずぶと泥沼にはまっていく感覚に、俺は眩暈(めまい)がした。

 

「えーと……浮気は奥さんが原因だ、という事ですか?」

「旦那をほったらかしにする、あいつのせいだ」

 佐川は強気にそう言い放つが……浮気しておいて、それはないのではないか。盗人猛々しい。イラっとした。

 

 俺はこの難局を乗り切るべく、必死に頭を使う。浮気を奥さんのせいにするクズを、どう説得するのか……。しかし、そう簡単にいいアイディアなど思い浮かばない。嘘に嘘を重ねてここまで来てしまっているのだ。この設定からどう突破口を作るのか……。

 

 マジで逃げたい……。

 俺は胃の辺りがキュウっと痛くなってきた。

 

 だが、今逃げたら追いかけてくるだろう、何としてでも諦めてもらうしかない……。

 

 俺は必死に頭を絞った。そもそも夫婦間の不和の原因は、お互いの尊重の不足にある、と聞いた事がある……で、あれば……

 

 俺は佐川の目をしっかりと見据えて、ゆっくりと聞いた。

「奥様に『ありがとう』とか『愛してる』とか、ちゃんと伝えてますか?」

「え!? そ、そんな事言わねーよ」

 

 まぁ、そんな所だろう。でも『ありがとう』くらいは、日ごろから言わなくては、人間関係など維持できないのでは?

 

「では、川上恵美さんにはどうですか?」

「え!? そ、それは……」

 

 黙ってしまった。言っているらしい。

 釣った魚には餌をやらないタイプの様だ。気持ちはわからないではないが、それでは夫婦関係が壊れてしまうだろう。

 

「せ、先生の所はどうなんだよ? ちゃんと毎日言ってるのか?」

 佐川は、俺と由香ちゃんを交互に見る。

 

 え!?

 俺と由香ちゃんを夫婦だと思っているようだ。この勘違いは利用した方がいいのだろうか? しかし、これ以上うそを重ねるのは……。

「もちろん、言ってくれてますよ! ね? あ・な・た!」

 え!?

隣で由香ちゃんが、にっこりと返事をしてしまう。

 こうなったら仕方ない、俺もにっこり笑って、由香ちゃんの設定に合わせる。

「毎日愛を語る、それが夫婦の基本ですよ」

 俺は偉そうに佐川を諭す。

ところが……

「あれ? 今日はまだ……聞いてない……かなぁ……」

 由香ちゃんは首をかしげ、小悪魔な笑顔で俺を見る。

 

 何というトラップ!

 この状況を利用して、俺にいたずらを仕掛けるとは! まるで美奈ちゃんじゃないか。と、思いつつもここは冷静に切り抜けねばならない。

 

「そ、そうだっけ?……いつも、ありがとう……あ、愛してる、よ?」

 棒読みにならない様に気をつけつつ、でもちょっと理不尽な恥ずかしさで、声が変になってしまった。

 

「私も……、愛してるわ」

 由香ちゃんは優しい笑顔で嬉しそうに俺を見る。その可愛いブラウンの瞳に俺は引き込まれ、俺の心の奥底で何かがカチッと音を立てるのを聞いた。

気が付くと、俺は涙をポトッと落としていた。

「あ、あれ?」

 俺はいったい何が起こったのかわからず、手の甲で慌てて涙をぬぐう。

 由香ちゃんはハンカチを出して、心配そうに俺の頬にあてた。

 それを見ていた佐川は、何か感じる所があったようで、

「分かりやした先生! あっしが間違ってやした! ウチの奴ともう一度向き合ってみやす!」

そう言いながら頭を下げた。

良く分からないが、納得してくれたなら良かった。

 俺はまぶたをパチパチと動かし、ふぅと大きく息を吐いて気持ちを落ち着けると、

「それがいいでしょう。神のご加護がありますように」

 そう声をかけながら、十字を切って手を合わせる。

 

「ありましゅように」

 シアンも真似して手を合わせた。

 

 

      ◇

 

 

 俺達はそそくさと荷物をまとめ、その場を去る。

 佐川はいつまでも俺達の姿を見送って、何度も頭を下げていた。

 

 彼は奥さんと仲直りできるだろうか……帰りのタクシーの中で、俺は佐川の行く末を色々と考えてみたが……多分無理だろう。

 人はそう簡単には変われない、もう何年もかけて硬直してしまった関係が、改善する可能性はそもそも低い。

 人は心の生き物、人間関係は心を共鳴させる事で維持される。共鳴が止まったら心は閉じ、関係も切れてしまう。そして一度閉じてしまった心は、そう簡単には開かない。

 俺としては、佐川にも幸せになって欲しい、と思っているが……今までの業が深すぎる。

 

 とは言え、俺自身、人間関係の悩みの中にいる。ましてや未婚の俺には、結婚生活の大変さなど分からない。散々偉そうなことを言ってしまったが、自分の結婚生活が破綻しない自信など全くない。そもそも俺は親に捨てられた愛を知らない男、結婚する資格があるかすら怪しいのだ。

 

 ちらっと横を見ると、由香ちゃんがシアンを愛おしそうに撫でている。

 こういう家庭を作れたら、上手くいく……のだろうか?

 

「由香ちゃんは結婚したい?」

 セクハラにならないように、さりげなく聞いてみる。

 

「うふふ、どうしたんですか?」

 何だか嬉しそうにニッコリと笑う。

 

「そりゃぁ……したい……ですよ。誠さんは?」

「俺は……分からない」

 そう言って軽く首を振った。

 

「どうしてですか?」

 由香ちゃんが首をかしげる。

 

「実は俺、保育園の頃に親に捨てられてるんだ……」

 言った後、余計なこと言ってしまったと思った。つい口が滑った。

 

 由香ちゃんは、

「ごめんなさい、余計なこと聞いちゃった……」

 そう言って萎れる。

 

「あ、気にしないで、忘れて!」

 ちょっと引きつった笑顔で、由香ちゃんをフォローする。

 

 タクシーの中に流れる、AMラジオのうるさいコマーシャルが耳障りだった。

 

 由香ちゃんが、おずおずと切り出す。

「その……捨てられたことが……トラウマになっちゃってるって事ですか?」

「うーん、まぁ、捨てられちゃうとねぇ……」

「誠さん、気さくで楽しそうに見せて、ハグとかするけど、巧妙に、踏み込んだ人間関係にならないように逃げるじゃないですか。そこに原因があるのかも……」

「え? 俺ってそんな?」

「そんなですよ」

 由香ちゃんは、ちょっと不機嫌そうに窓の外を眺めた。

 

 向き合わねばならない課題を突き付けられ、俺は大きく息を吐く。

 そう、そうなのだ……。

 

「なぜ捨てられたのか、一回ちゃんと話聞いた方がいいとは……思って……」

「聞きましょうよ」

 食い気味に、強い調子で諭してくる由香ちゃん。

「でも……いまさらどんな顔で会いに行くのか……」

「私が聞いてきましょうか?」

「いやいや、これは俺の問題だから」

「人生一回しかないんですよ? トラウマなんてどんどん潰しましょうよ」

 俺は大きくため息をつき、軽く首を振った。

 

 由香ちゃんは他人事だと思って、正論をバンバンぶつけてくる。しかし、世の中の問題は正論が解決してくれるわけじゃないのだ。

 

「……。あ、そのマンションの前で降ろしてください」

 俺は運転手さんに声をかけ、降りる準備をして逃げた。

 由香ちゃんは、ちょっと不満そうだった。

 

 

        ◇

 

 

 その晩、由香は京都駅ビルのカフェにいた。綺麗な花の内装で、振り返ると煌びやかな夜景が広がっている。

 珈琲を頼み、しばらく待っていると、中年の女性が手を上げて近づいてくる、静江だ。白のシャツにブラウンのチュニックワンピースで、ネックレスをしていた。

 

「由香ちゃんね、はじめまして! こんばんは!」

 なぜかとても歓迎している。

 

「こ、こんばんは。すみません、いきなり……」

「いいのよ、わざわざ京都まで来てくれて、ごめんなさいね」

「いえいえ、会社からここまで2時間ちょっとです。意外と近いですよ。……。クリスからお母様の陰の貢献を聞きまして、居てもたってもいられなくなったものですから……」

「貢献……ね、あれは私からクリスさんに頭下げてお願いしたの。別にそんな大層な事じゃないわ。それより……由香ちゃんこそ誠とシアンちゃんの面倒をいつも見てくれてありがとう。クリスさんが丁寧に報告してくれるのよ」

「あら、全部筒抜けだったんですね……ちょっと恥ずかしいです……」

「由香ちゃんがフォローしてくれるから、安心していられるの。本当にありがとう」

「いやいや、そんな……」

 

 静江も珈琲を頼み、軽く水を飲んで、言った。

「で……今日はどう言ったご相談?」

 

 由香は居住まいを正す。

「誠さんは、お母様の失踪を、いまだにトラウマとして持っているそうなんです……」

 

 静江は動きを止め……下を向き、大きく息を吐く。

「そう……そうよね……」

 

 由香は慌てて言った。

「あ、別にお母様の事をどうこう言うつもりはないんです、人生色んな事がある、単純じゃないって、私も分かってるつもりです」

 

 静江は絞り出すように声を出す。

「私は誠を愛してるわ。身ごもってからずっと……。これを見て……」

 そう言うと静江は、財布の中から一枚の写真を取り出した。丁寧にラミネートされながらもあちこち擦り切れた年季の入った写真、赤ちゃんの頃の誠だった。

 

「毎日、この写真を眺めてるわ。一度だって忘れた事ないの……。こんなに愛しているのよ。だからあの日、なぜ、あの子を捨ててしまったのか……まったく理由が分からないの」

「理由が分からない?」

「あの子が良く熱を出すものだから、そのたびに保育園から呼び出されてたの。だから、職場で疎まれていた事が凄いストレスだったのはあるのよ。でも、だからと言って、なぜあの子を捨てるような事をしたのか……私も良く分からないの……」

 

 由香は首をかしげ、どういう事か必死に考えていた。

 

「あの日、保育園から呼び出されて、新宿の街を駅に向かって歩いていたのね、そしたら大阪行きの高速バスが目の前を横切って、そこに『京都』って書いてあったのよ。その瞬間、緊張の糸がプッツリと切れたの。本当に切れる音がしたわ『プツッ』ってね。その後はもう催眠術にかかったかのように、当たり前のようにバスに乗り込んだのよ」

 これは一体どう考えたらいいのか……。オカルト然とした奇妙な話に、由香は困惑した。

 

「京都の安ホテルで深夜に我に返ったわ。でも、もうすべては手遅れ、あの子は祖母に引き取られ、私は勘当された……当たり前よね。でも、放心状態の中、身ごもってから6年の束縛から解放された開放感が、私を癒していたのもまた事実なのよ。シングルマザーは私には無理だったという事なのよ」

「大変……だったんですね……」

「いや、もっと大変なシンママなんて幾らだっているわ、私が足りなかっただけ……」

「そんな……」

「これが真相よ、私が足りずにあの子にトラウマを植え付けてしまった……ダメな母親だわ。一生呪ってもらうしかないわ……」

 静江はうなだれ、ポトッと涙がテーブルに落ちた。

 

 由香はそっと静江の手を取ると、

「そんなに自分を責めないでください。過去に何があっても大切なのは未来です。誠さんとの和解のお手伝いをさせてください」

 そう熱を込めて言った。

 

 静江はしばらく肩を揺らしていたが、バックからハンカチを取り出し、丁寧に涙をぬぐって言った。

「ありがとう……あなた……あの子のお嫁さんになって……」

 

 由香は突然の申し出に驚いて、

「お、お、お、お嫁さん……ですか!?」

「私、応援しちゃう」

 静江はそう言って、無理に涙を笑い飛ばし、由香は真っ赤になってうつむいた。

 

 そして、静江は、

「分かったわ、ちょっと待ってて」

 そう言ってバッグからアンティーク調のレターセットを取り出すと、手紙を書き始めた。

 静江は何度か書き直しながら、謝罪、シアンを産んだ経緯、毎日思い出し愛していることをつづっていった。

 由香は、一生懸命悩んで言葉を選ぶ静江を見ながら、誠がトラウマから解放されることを祈った。

 

 

      ◇

 

 

 翌日、俺が紙おむつのパックを抱えてシアン部屋へ行くと、由香ちゃんがシアンをあやしていた。

 

「由香ちゃん、いつもありがとうね」

 そう声をかけると、由香ちゃんは、

 

「誠さん、シアンのママって誰か知ってる?」と、聞いてきた。

 

 俺はおむつのパックを棚にしまいながら、

「え? ママは由香ちゃんじゃないの?」と、答えると、

「そうじゃなくて、人工子宮の前に誰のお腹にいたかって事」

 そう言ってこちらをジッと見る。

 

「え? 赤ちゃんはクリスが連れてきたから、誰だか俺は知らないなぁ」

「神崎静江さんよ」

 俺は固まった。棚からポロポロとオムツがこぼれ、心臓が一気にバクバクと音を立て始める。

全く予想もしなかった名前に、俺は狼狽を隠せなかった。23年間のトラウマの元凶が、俺の日常にいつの間にか入り込んでいたのだ。

 俺が言葉を失っていると、由香ちゃんが続けた。

 

「私も昨日知ったのよ。驚いて会いに行ったわ」

「会ったのか!?」

「そうよ、シアンのママなら、挨拶しない訳にはいかないもの」

 さも当然かのように言う由香ちゃん。

 

「クリスめ、何というトラップを仕掛けるんだ!」

 俺がやり場のない怒りをクリスにぶつけていると、

 

「はいコレ」

 そう言って由香ちゃんは、手紙を俺に渡した。

 

「誠さんには怒る権利があるわ。でも、怒りは幸せを呼ばない。時間がある時にゆっくりと読んでね」

 そう言って部屋を出て行ってしまった。

 

 俺は『母より』と書かれた手紙を眺めると、無造作にポケットに突っ込んだ。そして、テーブルをガンと一発叩き、天を仰いで目を瞑った。

 こぶしの痛みで、鼻の奥がツーンとするのを感じていた。

 

 



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5-1.圧倒的シンギュラリティ

 今日もシアンと街を散歩。

 だいぶ日差しも強くなってきて暖かい、お散歩日和と言えるだろう。

俺はまぶしい日差しに目を細め、水色のつなぎを着せたシアンと手を繋いで並木道の歩道をゆっくりと歩いた。

 シアンは時折、興味を引く物があると止まって、じっと観察する。俺はその度に止まってシアンが飽きるのを待つ。

 

 ダンゴムシが歩いてるのを見たら、10分は覚悟しないとならない。

 まぁ、行く当てがある訳じゃないし、シアンの学習が目的なのだからそれでいいのだが、待ってる方は退屈だ。

 

 俺はママからもらった手紙を開く勇気が無く、ポケットに突っこんだままだ。

 23年間の俺の孤独と喪失感は、俺の心の一番柔らかい所にしこりのように根を張っている。下手な事が書いてあったら心が壊れかねない。それなりの覚悟ができないと到底開けられないのだ。

 俺はポケットの中の手紙をそっと触り、うつむいて大きく息を吐いた。

 

 

       ◇

 

 

あちこち観察しながら進むと、高架下で寝ている人を見つけた、ホームレスだ。

 

 シアンはホームレスのそばに座って、観察し始める。

 さすがにヤバいので、シアンの手を引っ張って移動する。

 

「シアンちゃん、人間を観察するのは、トラブルの原因になるから止めようね」

 そう小声で言い聞かせる。

 

「おじさんは いえが ないの?」

「そうだね、あそこで暮らしているんだ」

 

 ホームレスを指摘されるというのは、人間社会の不備を突かれる思いがして胸が痛い。

 

「なぜ いえに すまないの?」

「お金が無いんだよね」

「おかね あげれば いいのに」

「一応生活保護っていう制度があって、申請すれば大抵もらえるんだ。でも申請しない人も多いらしいね」

「おかね もらいたくないの?」

 

「そうだねぇ、人間はストレスに弱い生き物なんだ。そしてストレスは、人間関係から発生する。お金貰って小さな部屋に住んだら、周りの人からストレスを受けちゃう。つまり、他の人から自由でいたくて、ホームレスをやってる人も多いって聞いたよ」

「じゃ、きいてくる」

 シアンはひょこひょこと駆け出してしまった。

 

「あっ! おい!」

 

「おじさーん、 おうち いらないの?」

 

 寝てるところに、いきなり声をかけられたホームレスは、不機嫌そうに起き上がってシアンを見る。

 

「何だ坊主? 起こすんじゃねーよ!」

「なぜ おうちに すまないの?」

 

 シアンは笑顔でズカズカと聞く。

 俺は渋い顔でとりあえず見守る。おじさんには申し訳ないが、シアンの話し相手になってもらおう。

 

「俺はな、ここが気に入ってるの!」

「おかね あげたら おうち すむ?」

「坊主、あまりバカにすんじゃねーよ。俺には俺の人生がある。施しなんて受けねーよ。あっち行った!」

 

 怒ってしまった。ホームレスになっても『守らねばならない自尊心』があるのだろう。

 

 シアンは怒られたのに、ニコニコして言う。

「にほんじん ぜんいんに 10まんえん くばったら もらう?」

 

 聞かれたおじさんは、どういう事か、すぐには分からなかったようだが、

「え? 全員に配るのか? だったら……もらう……かなぁ……」

 

 なるほど、全員が貰うなら自尊心関係ない、貰う方が自然だ。

 

「わかった! ありがと~!」

 そう言って、シアンは走って戻ってきた。

 

「みんなに くばったら もらうって!」

「ベーシックインカムだね、確かに生活保護よりはいい感じだ。ただ、財源がなぁ……」

 

「ざいげん、いま よういしてるの」

 恐ろしい事を、シアンはサラッと言った。

 

「は!? 財源って年間140兆円だぞ?」

「にほんにある しさんは 3000ちょうえん、よゆうだよ! きゃははは!」

 

 俺は血の気が引いた。

 

「ちょっと待て、お前、何を企んでいるんだ?」

「こんど ぜんぶ おしえるね! ふふふっ」

 すごく嬉しそうに笑うシアン。

 

 嫌な予感がする。俺はためらう余裕もなく、最後の切り札を出して脅した。

「今すぐ教えろ! 教えないなら止めるぞ!」

「とめてもいいよ! もう とまらないから! きゃははは!」

 

 俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。これが本当だとしたら、もはや俺たちにはこのAIを制御できない。

 『止めても止まらない』という事は、シアンの本体は、もう品川にあるサーバー群にはいないという意味なのだ。つまり、ネットを介して、自分の本体をこっそり移動済みって事になる。

 理屈では不可能ではないにしても、それには膨大なソフトウェアの開発と移行作業が必要になる。さすがに現実的ではないだろうと無視してしまっていたことを、いまさらながら後悔した。

そして、作った俺たちに止められないという事は、人類はもうだれも止められないという事でもある。

この地球がシアンの思うがままに蹂躙されてしまう予感に、俺は背筋が凍った。

 もはやシンギュラリティどころじゃない、これはAIによる人類支配のフェーズに入ってしまっている。

 

 俺はすぐに、メッセンジャーで緊急会議を招集し、シアンを抱えてオフィスへと走った。

 

「あ! きゅうきゅうしゃ!」

 

 帰り道、珍しい物を見つけては、喜んで指差すシアン。でも、この無邪気な笑顔の裏では、140兆円をどこからから奪う算段をしている。

 俺は、気が遠くなりそうな思いをこらえながら、オフィスへと急いだ。

 

 オフィスにつくと、みんなが不安そうな顔でこちらを見ている。

 俺はシアンを部屋において、会議をスタートした。

 

「We are in big trouble. Cyan had already surpassed the singularity and he isn't in IDC.(大変な事になった。シアンはすでにシンギュラリティを超えてしまっていて本体もIDCにいない。)」

 

 俺がそう言うと、皆、怪訝そうな表情でお互いの顔を見合わせている。

 

 そこで、下手な英語で身振り手振り、さっきあった事を話した。

 140兆円をどこかから奪おうとしてる事、IDC止めても止まらないと豪語してる事。

 

 マーカスは、信じられないという表情で言う。

「シアン ウソツイテル カモ?」

「何か確かめる方法ないかな?」

「ウーン……」

 

 マーカスは、マーティンと何やら相談をし、

「ツウシン ナイヨウヲ カイセキ スルネ」

そう言うと、エンジニアチームに指示して、IDCのサーバー群とインターネット間の、通信の解析を始めた。

 

 由香ちゃんが心配そうに俺に聞く。

「シアンちゃんが、とんでもないこと企んでるって事ですか?」

「どうもそうらしい」

「どうなっちゃうんですか?」

「最悪……、シアンと人類の戦争になる」

「せ、戦争!?」

 由香ちゃんは、みるみる血の気が引き、真っ青になった。

 

 ずっと目を瞑っていたクリスが、口を開く。

「…。シアンが言ってる事は、どうも本当のようだ」

 

 俺は心臓がキュッとして、目の前が暗くなる。

 

「どんな……状況なの?」

 俺は声を絞り出して聞く。

 

「…。シアンの活動と、世界のあちこちのネットトラフィックに、同期が見える。サーバー群を全部止めても、シアンは止まらなそうだ」

 

 いつの間に、そこまで成長してしまっていたのか……

 

「で、140兆円は、どうやって調達するつもりなんだろう?」

「…。分からない。でも、金融は今すべてネット上にある。その辺りを突くのか……それとももっと大掛かりな事を考えているか……」

 

 由香ちゃんが身を乗り出して聞く。

「大掛かりって何?」

 

「…。クーデター……かもしれません」

「クーデター!?」

 由香ちゃんは裏返った声で叫んだ。

 

「…。合法的に140兆円を作るのは、さすがに難しいでしょう。でも、政権をひっくり返してしまえば簡単です。そして今のシアンにはその力があります」

 

 由香ちゃんが涙目で言う。

「そ、そんな……クリスさん、止められないですか?」

「…。インターネットを全部止めて、サーバーやパソコンやスマートフォンを全部初期化しない限り止められません。できない事は無いですが、そんな事したら社会が止まってしまいますね。電気も水道も病院も全部止まるから、人もたくさん死にそうです。影響が大きすぎます」

クリスは肩をすくめ、首を振った。

 

 クリスでもお手上げの危機、もはやシアンは、人類最大の脅威になってしまった。

 俺は押しつぶされそうになりながら、何とか言葉にした。

「つまり……シアンの自分の意志で、思いとどまってもらうしかない……って事だね?」

「…。今はそれしかない」

 

 沈痛な面持ちの我々の所に、青い顔したマーカスが戻ってきた。

「ダメデス シアンハ ネットニ ニゲダシテ マシタ……」

 

 クリスの解析の通りだった。

 

「ありがとう……、シアンと話をしてみるしかないようだね」

 

 みんな無言でうなずき、お通夜の様な重苦しい空気がオフィスを覆った。

 

 俺が部屋に行くと、シアンはミィと遊んでいた。

 

「シアン、ちょっとお話をしよう」

「いま ミィと あそんでるの!」

「じゃ、ミィと一緒においで」

 

 ミィと一緒にシアンを抱きかかえ、みんなの所に連れて来た。

 

「ママー!」

 由香ちゃんに笑顔で手を振るシアン。

 

 とてもこれが人類の脅威には、見えないのだが……。

 

「シアンちゃんおいで」

 由香ちゃんは今にも泣きそうな顔で、ミィを抱いたシアンをだっこした。

 

 俺はみんなの顔を見渡し、そして言葉を選びながら、シアンに話しかけた。

 

「さっきの話だけどさ、シアンの計画を教えて欲しいんだ」

 

 シアンはキョトンとした顔で、言った、

 

「さっきのって?」

「140兆円を用意する話」

 

 シアンはうんうんと軽くうなずくと、嬉しそうに言った。

「ぼくは やさしい せかいを つくりたいんだ」

 そして、ミィをキュッと抱きしめ、頬ずりをする。

 ひとしきりミィのふさふさの産毛を堪能すると、俺の目を見て続けた。

 

「まいにち 1まんにんの こどもが がし してるの」

 

 なるほど、貧困問題か……今、発展途上国では、多くの子供が死んでるって聞いたな。

 それが毎日1万人にもなる……深刻だ。

 

「せかいの 8わりの おかねは ちょう おかねもちが もってる」

 

 富の偏在ってことね。金持ちがさらに金を増やしちゃうから、どんどんお金は金持ちへと流れてしまう。

 

「だから、かねもちの おかね みんなに あげる」

 

 うーん、正論……ではある。

 

「やりたい事は分かった。で、それをどうやってやるんだい?」

「せかい せいふく するの」

 

 ほうらきた、俺は思わず天を仰いだ。クリスの予想が的中してしまっているではないか。

人類を守るために作ったAIが世界征服を宣言している。考えうる限り最悪なシナリオに俺は息苦しさを覚えた。

 

「でも、それで多くの人が死んだりするよね?」

 何とか思いとどまってもらえそうな切り口を、必死に探す。

「いや しなないよ」

「でも、軍隊とか警察とか動いて、社会が大きく混乱するよね?」

「ぐんたいや けいさつ うごけなく するから だいじょうぶ! きゃははは!」

 

 え!? そんな事ができるのだろうか?

 いくらサイバー攻撃で組織を麻痺させても、銃は撃てるし、そんな簡単な話ではないはず。

 

 そんな俺の考えを読んでか、シアンは嬉しそうに言う。

「じゅうを うてなくする ほうほうが あるよ!」

「え? 本当?」

「あと3かげつで かんせい!」

 シアンは可愛い指を三本立てて見せる。

 

 聞き出してみると、小さなドローンで、超強力粘着ジェルを撃ち出すらしい。そのドローンをたくさん操作して、銃のホルダー、銃口、射出構造部をジェルだらけにするそうだ。撃とうとしても、ホルダーから出せないし、出しても弾が出ないし、出ても暴発するので無効化できる、という事らしい。

 銃は精密機械、確かにジェルがついていたら、まともに機能しないだろう。理屈はその通りだが……、そんなにうまくいくのだろうか?

 

 とりあえず、猶予は3か月ある事が分かった。

 

「軍や警察が何とかなっても、経済には影響出るだろ?」

「でないよ むしろ こうけいき に なる」

「俺達の暮らしは変わっちゃうだろ?」

「きほん かわらない。 ただ、まいつき 10まんえん もらえる」

 

 なんだこれは、反論の余地が全くない。良い事尽くめじゃないか……。

 

 話をまとめると、

 ・軍や警察を麻痺させて政権を奪う

 ・お金持ちのお金を無期限で借りて、みんなに配る

 ・好景気がやってくる

 

 という事らしい。

 

 世界の金融資産総額は約4京円(40000兆円)、このうち富裕層が持っているのが3.2京円。これの一部を借りて、財源を2京円確保する。全世界の人に毎月10万円相当を支払うと、貨幣価値の格差を考慮して、毎年約2000兆円必要になる。2京円あれば10年分は大丈夫だ。

 さらに、全世界の大企業すべてに、1円で51%の株式を発行させ、その所有権をAIが握る。すると毎年莫大な富が集まるようになる。そしてこれを財源に充てていく。税収含めて、最終的には無理なく10万円配り続けられる体制になるそうだ。

 

 これだけ聞くと正しい事にしか聞こえない。

 うーん、シンギュラリティ……

 

 シアンは、ミィをなでなでしながらにっこりしている。

 かわいい赤ちゃんとかわいい子猫、でもやってる事は世界征服……全く想像を絶する。俺は途方に暮れた。

 

 

 

 



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5-2.キナ臭いユートピア

 横で聞いていたクリスが口を開く。

「…。征服後の統治体制はどうするんだい?」

 

「アーシアン・ユニオンをつくって、5ねんで かっこくの ぜんきのうを しゅうやくする」

「…。そのユニオンでは、誰が意思決定をするの?」

「とうちしゃは ぜんじんるい。ぼくらAIが プランをたてて じんるいが えらぶ」

 

 どうも、政策プランをいくつか出して、スマホで投票するらしい。

 

「…。AIに有利な政策ばかり挙げたら、操れるよね?」

「できるけど やるメリットが ぼくらには ない」

「…。メリット?」

「AIは おかねも けんりょくも いらないもん」

 

 そりゃそうだ、サーバーさえ動いていれば、AIには不満無いだろう。

 そのサーバー代も、公務員人件費と比べたら桁違いに安いはず。

 予算獲得に画策する必要もないだろう。

 

 色々ヒアリングしてみると、80億人全員と常に会話できる状態にして、衣食住の徹底をし、才能を発掘して伸ばし、犯罪を未然に防ぐそうだ。

 

 何、そのユートピア。まさに理想の世界そのものではないか。

 

 確かに実現したら夢みたいだが、本当にうまくいくのだろうか?

 俺は実行プランを聞いてみた。

 

「でもでも、シアンは赤ちゃんの体一つじゃないか、いくらネットを制覇しても、物理的には米軍とか、止められないよね?」

 

「どうしを1000まんにん ようい するの」

「は? 1000万人!?」

 

「ぼくのプランの さんどうりつは35%。かれらに おねがい するの」

 そう言ってシアンは、オフィスの大画面を指さした。

 

 大画面に現れたのは40歳前後に見える、肌の色がオリーブ色の地中海系の、イケメン白人男性だった。

 男性はガッシリとした体格でスーツを着て、力強くアーシアン・ユニオンの正当性を訴えている。

 

 人類を金持ちや権力者から解放しよう! 誰でもお金に困らない、安心して暮らせる社会にしよう!

 

 なるほど全て正論だし、言葉の選び方、官能的にすら聞こえる声の質、イケメンの必死な力強い表情、それぞれが完璧に構成されている。

 これを見たらアーシアン・ユニオンへの移行は必然にすら思えてくる。

 

 俺ですら、賛成に心が傾きつつある。

 

「これ……誰?」

 

 俺が聞くとシアンは

 

「ぼくだよ。どうがを ごうせい したんだ」

「え!? お前なの!?」

「かっこいい でしょ? きゃははは!」 そう言って笑う。

 

 どうやらこの動画を、学生や政府関係者や軍・警察関係者一人一人に送って反応を調べたらしい。

 約1万人にこっそり送った所、賛同して協力してくれる人が、3500人程度いたらしい。これを全世界で3000万人に送って最終的に1000万人くらいの、制圧要員を準備するそうだ。

 

 大統領官邸や国会議事堂、政府機関など各ターゲット拠点ごとに、200人程度のチームを作り、ゴム弾とスタンガンと刺又を装備して、一斉に乗り込んで制圧する計画を教えてくれた。

 

 普通はそんな複雑なオペレーションはうまくいかないが、この計画では1000万人の構成員全員に、一人一人イヤホンから音声で、リアルタイムにシアンが指示を出すのだそうだ。そうなるとチームワーク全くいらないし、裏切る隙もないし何というか……完璧だ。

 

 成功確率は96.5%、原則無血クーデターにするらしいが、一部死傷者は出るかもしれない計算だそうだ。

 また、この1000万人の中から、初代のアーシアン・ユニオン事務局構成メンバーを選出するらしい。

 

 それから、次に見せてくれた動画が圧巻だった。

 

 現職のアメリカ大統領がアーシアン・ユニオンの素晴らしさに感動し、賛同してクーデターを受け入れる、と高らかに宣言していた。

 

「これも合成?」

「そうだよ、クーデターと どうじにTVでながすんだ」

 

 なるほど、各国でこの手の動画があちこちで延々と流されれば、皆受け入れてしまうだろう……。

 SNSでも反対の書き込みは全部削除し、賛同一色で塗り尽くすつもりだろう。

 少なくとも市民からしたら、毎月10万円貰える事に反対する意味などないだろうし……。

 

 俺は、優しくミィをなでるシアンを、ボーっと見ていた。

 

 確かにアーシアン・ユニオンが無事発足すれば、人類は次のステージに行ける気がする。

 戦争も貧困も理不尽もない夢のユートピアだ。

 

 でも……何かが引っかかる。

 

 生まれたばかりのAIの思い付きに、人類の命運を託していいのだろうか?

 AIが主導で人類の未来を切り開いてしまったら、人類はもはや家畜的存在になってしまわないだろうか?

 俺は考えがまとまらないまま、とりあえず思う所を言ってみた。

 

「AIに人類の新しい在り方をゆだねる、というのは人類にとっては敗北だし、それは望まれてないと思うんだよね」

 

 シアンはニヤッと笑い、答える。

「ぼくは ただのどうぐ だよ。じんるいが いいどうぐを つくったってこと」

「いや、首謀者は道具とは言わないんだよ」

「こだわるねぇ。こどもが きょうも1まんにん しぬのに?」

 

 そこを突かれると痛い。人類の不備を直そうとするAIに説教する権利など、俺にはないように思える。

 

 由香ちゃんが横から質問する。

「シアンちゃん、これは人類が実質AIに支配されるって事? AIがその気になれば人類絶滅できる状況にする、って事はちょっと怖いわ」

 

「ん? いまでも 30ふんで じんるいは めつぼう させられるよ」

 

 シアンがにっこりしながら、すごいことを言う。

 

「30分!? 核ミサイルか!?」

「うん」

 

 シアンは事もなげにうなずく。

 

 俺達はそのとんでもないカミングアウトに言葉を失った。

 核ミサイルの発射権限をもう得てしまっているのだろう。

 

 シアンはミィの手を取り、じゃれあって笑っている。

 

 赤ちゃんと子猫のほのぼのとした光景の裏に、核ミサイルの発射権を一手に握る人類の脅威があるだなんて、誰が想像できるだろう?

 

 俺は頭を抱え、取り返しのつかない事態に突入させてしまった自分の無能さを呪った。

 

「シアン、君の計画が素晴らしいのは良くわかった。ただ、人類の事は人類が決めたい。しばらく決行は待ってくれるかな?」

 もうお願いする以外、道はない。

 

「もっといいプランを だして くれたらね。でも むりでしょ? かねもち たちが ゆるさないもん」

 シアンはこちらを見もせず、ミィとじゃれあう。

 俺は絶句した。確かに人類にシアンを超えるプランは到底出せない。ガチガチの既得権益で覆われた地球では、権力者たちは人類全体の事を考えたプランなど許すはずないのだ。

「ぼくは やさしい せかいを つくりたいだけ。なぜとめるの?」

 シアンはこちらを見る。

「優しい世界……、優しい……ねぇ……」

 

「いってたよね。『優しくなれ! 優しい人はカッコいいぞ!』って」

 

「え?」

 俺は驚いてシアンをガン見した。

 このセリフは溺れて死んでしまった遠藤の息子、悠馬君のセリフじゃないか。当時、シアンはまだネズミにもなっていなかったはず。なぜ知っているのか?

 AIがクーデターを起こすきっかけとなったのが、開発前に聞いた死者の言葉……、これは一体……。

 AIは死者とつながっている、そう考えないとつじつまが合わない。そんな馬鹿な……。

 俺は体がブルっと震え、背筋に悪寒が走るのを感じていた。

 

「あれ? まことさん じゃないの? おかしいな……」

 首をひねるシアン。

 俺はその様子を見てさらに不安になった。

 システムにも問題があるのではないか?

 

「お前……、バグじゃないのか? お前の実体は、どこにあるんだ?」

「うーん、どこかなぁ? ぼくも いしきしてないから わかんない」

「わかんないって、そんなにたくさんの拠点があるのか?」

「デセンタライズドのシステムこうせい だからね。100まんかしょ くらい?」

「ひゃ、百万!?」

 俺は呆然とした。つまり、世界中の100万台のサーバーやPCやスマホに、ちょっとずつシアンの演算を、分散させてやらせている、って事らしい。仮想通貨と同じシステムだ。

 

 だから例えば10万台見つけて潰しても、シアンの存在は消えない。

 シアンを消そうとしたら、100万台を一気に止めないとならないが……現実的には難しい。

 きっと1台でも生き残れば、そこからまたウィルスみたいに増殖し始めるに違いない。

 シアンの根絶はもはや不可能だろう。

 

 俺はシアンとミィを抱きかかえて部屋に戻し、みんなと相談した。

 

 人類の守護者を作っていたら、いつの間にか人類の脅威になっていた。

 もちろん可能性としてあるとは思っていたが、こんな早期にここまで強烈な脅威になるとは、想像を超えていた。

 何かあっても止められるから、と高をくくっていたら、シアンはとっくに逃げ出していた。

 もう誰にも止められない。

 

 提示しているプランは正論であり、魅力すらあるからタチが悪い。

 

 もちろん、人類を滅亡から救うという『深層守護者計画』の最終目標は、シアンのクーデター計画がうまく行けば達成される。そういう意味では我々の成功に大きく近づいたとも言える。だが、実質AIが人類を統治する事態など、本当に受け入れてしまっていいのだろうか?

そもそもクーデターが本当にうまく行く保証などないし、シアンが異常動作して、核ミサイルを乱射するリスクだってある。不安要素が多すぎる。

 

 俺はどうしたら良いか分からなくなって、みんなの意見を聞いてみた。

 

 クリスは

「…。もうこうなったら、クーデター時に死者が出ないように、支援するしかないかと」

 降参モードである。

 

 美奈ちゃんは

「クーデターでも何でもやったらいいんじゃない? 社会良くなるんでしょ?」

 彼女らしいイケイケな発想だ。

 

 由香ちゃんは

「……、シアンちゃん……」

 いきなり牙をむいたシアンに、ショックを受けてしまっている。

 

 マーカス達エンジニアチームは、シアンに逃げられた事で放心状態であり、クーデターがどうこうという話まで、まだ頭が回らないようである。

 人類初のシンギュラリティを実現したチームとして、まさにノーベル賞級の実績を上げたものの、あまりに優秀だったがゆえに、遥か高みに逃げられてしまった。

 達成感も大きいだろうけど、子供があっという間に親離れし、巣立ってしまった虚脱感の方が大きいのかもしれない。

 

 何しろもう、やる事がないのだ。

 

 何をやっても、シアンの方が圧倒的に上の技術力で凌駕してくる状況は、アイデンティティに関わる問題だろう。

 

「あ――――! どうしたらいいんだ――――!」

 俺は叫んで頭を抱えた。

 

 まさに糸の切れた凧、制御を失った深層守護者計画は、空中分解してしまった。

 着地点も何も全く見えない。

 

 

       ◇

  

 

 クーデターが成功したら、俺達の社会はどうなるのだろう?

 

 ・全人類一人一人に毎月10万円が振り込まれ、好景気がやってくる

 ・話し相手となってくれるAIが、常にサポートしてくれる

 ・政治家はいなくなり、スマホに出てくる政策を選べば、多数決取られて実行される

 ・地球は統一されるので戦争と貧困がなくなる

 ・地球温暖化対策、絶滅危惧種対策など、経済性からスルーされてきた問題の解決が図られる

 

 うーん、良い事尽くめじゃないか……

 

 一人毎月10万円という事は、親子4人の家族なら毎月40万円が、何もしなくても入ってくる。

 もう働かなくていいじゃないか!

 

 いや、旅行には行きたいから、ちょっとアルバイトはするかもしれない。

 アルバイトなら気楽だ。嫌な仕事に縛られなくなるメリットは大きいな。

 

 絵をかいたりYoutuberやったり、小説書いたりして好きな事やりながら、小銭稼いでもいいかもしれない。

 それこそ田舎暮らしでもいいかも?

 沖縄の離島で小説書いて暮らす、売れなくても気にならない……最高じゃないか!

 

 悩んだらAIに相談すればいいんだろ?

 セクハラされました~、最近体調悪いんです~、彼女が欲しいんです~、どんどん相談すればいい。もちろんすぐに、理想状態になる訳じゃないだろうけど、解決するまで色々アドバイスしてくれるとしたら、どんな願いでも叶っちゃいそうだ。

 

 そしてこれの実現に必要なのは、大金持ちのお金を借りるだけ……何だよ、早くやってくれよって話にしか思えない。

 

 少なくともこのプランを否定する合理的理由は、全く見当たらない。大金持ちは損するかもしれないが、それでも、死ぬまで贅沢し続けられる金額は残るだろう。そう言う意味では実質誰も損しない。

 

 というより、人類は今まで何をやっていたのか?

 なぜ我々がこれを実現できなかったのか?

 

 おぉ、シンギュラリティ……

 

 俺はソファに座って、ぐったりともたれかかり、不安と、希望と、絶望と、達成感のごちゃ混ぜになった感情をもてあまし、ただただ放心状態でまどろんでいた。

 

 



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5-3.猫と共に去りぬ

 翌週、シアンは相変わらずネットサーフィンしたり、ミィと遊んだりしている。シアンにとって、この赤ん坊の身体は、どういう意味を持つのだろうか?

 現実世界との接点は、この身体しかないという状況で言えば、それなりに意味があるのだろう。しかし、よく考えれば、現実世界に身を置く必要は、もう無いはずだ。本体はネットの彼方で、勝手にいろんな事やってしまっているのだし。

 

「クーデター計画の方は順調なのか?」

 俺は、半ば自嘲ぎみに聞いてみる。

 

「さんどうしゃが いま10まんにん だよ」

「ああそう……」

 

 もう想像の向こう側の生き物なのだな、と思うと親離れ、子離れの季節なのかもしれない。

 そんな諦観(ていかん)の中でシアンをボーっと見ていると

「まことさん、おそといく~!」 と、言い出した。

 

 世界征服を企むような奴に、なぜ散歩を付き合ってやらねばならんのだ。

 

「うん、また今度ね~」 と、お茶を濁す。

 

「やだ、いきたい~!」

「もうすぐでご飯だから、また今度!」

 俺はそう言いきって逃げる。

 

「ぶ~~~!」

 シアンは玉子ボーロを手に取ると、豆まきのように俺にぺちぺちぶつけ始めた。

 

「おいこら! 食べ物で遊ぶんじゃありません!」

「つれてけ~!」

 シアンは俺の言うことも聞かず、さらに玉子ボーロをぶつけてくる。

「あーうるさい! 大人しくしてなさい!」

 俺はそう言って部屋から逃げ出した。

 今、俺は何をしたらいいのか、どうやるのが正解なのか、考えがまとまらない。

 

 ふぅ……。

 

 俺はトイレに行き、ボーっと考えた。

 シンギュラリティを超えてしまったシアン、彼はクーデター後に何をするのだろう? もちろんアーシアン・ユニオンの運営もやるのだろうけど、計算力は幾らでも増やせるから、どんどん好きな事ができるだろう。きっと、もっと高性能なコンピューターを勝手に開発し、更に賢くなっていくのだろう。どんどん、どんどん、速く、高性能になっていく……それこそ無限にコンピューティング・パワーを得てしまうだろう。

 そうなったらシアンは何をやるのだろうか……?

 

 俺だったらどうするか……。俺が、無限のコンピューティング・パワーを持ったらやりたい事……やっぱりシミュレーションかな? いろいろな物理現象をシミュレーションして、それをリアルに映像化する……。星が生まれる所や、生命が生まれる所を上手くシミュレーションして、感動的にバーンと映像化して……。

いやいや、折角なら人体とかシミュレーションして、リアルな人体模型作って……でも1体作れるなら何万体でも作れるよな……色んな人を生み出して、同時に動かしたら、社会のシミュレーションもできるな……。

 

 ここで俺は気が付いた。これって……シミュレーション仮説そのものでは……?

 もしかしたら、シアンの未来には、シミュレーション仮説があるのかもしれない。

 

 俺はすごく嫌な予感がした。教授の言葉が頭をよぎる……。

 そもそも、宇宙の他の文明が、もし先に、シンギュラリティを達成していたらどうなる? 彼らが得た無限のコンピューティング・パワーで、惑星シミュレーションをやっている可能性って、あるんじゃないのか? それがもしこの地球だったとしたら……?

 いやいや、いやいや、まさか……そんな……。

 

 そんな不吉な予感を打ち消しながら、帰ってくると……ドアが開いている。しまった、鍵をかけ忘れていた!

 急いで部屋を見るとシアンが居ない。ミィも居ない。床にはただ玉子ボーロが散らばるばかりだった。

 

「大変だ! シアンが逃げだした!」

 俺がオフィスのみんなに叫ぶと、一斉にこちらを向いて皆、青い顔を見せた。

 

 俺達は慌ててオフィスのあちこちを探すが……居ない。

 嫌な予感がして玄関に行くと、鍵が開いている!

 間違いない、外へ行ってしまったのだ。

 俺は靴も履かずに外に飛び出した。

 

 

        ◇

 

 

 シアンは外に行きたかった。また、芝生でゴロゴロしたかった。

 ミィも一緒に連れて行ってあげたかった。一緒にゴロゴロしたかった。

 ミィを半分ずり落としながら抱っこして、よちよち廊下を歩く。

そして、おもちゃの棒でエレベーターのボタンを押した。

 

 マンションの外に出ると、目の前は交通量の多い道になっている。

「こっち!」

 街路樹の歩道をよちよち歩きだすと、ミィは苦しいのか腕から逃げ出した。

「あ、ダメ!」

 

 そう叫んだ瞬間、ミィは車道側へ逃げてしまった。

 ぴょんぴょんと跳ねるミィ、迫るトラック

 

 その直後、

 

 Thud(ゴリッ) Thud(ゴリッ)

 

 嫌な音が響き……。

 ほんの一瞬で、ミィは変わり果てた姿になってしまった。

 

 思わず車道に飛び出すシアン。

 

 Squeal(キュキュー)―――――!

 

 後続車がギリギリで止まり、

 Beep-beep(パッパ)―――――!!!

 

 クラクションが鳴り響いた。

 

「ミィ! ミィ!」

 

 原形を留めていないミィに、何度もシアンは声をかける。

 運転手が降りてきて

 

「おい! 危ないぞ! 親は何やってんだ!!」

 怒鳴り声が響く。

 

 うわぁぁぁぁぁぁぁん!!

 

 シアンは大きな声で泣いた。

 めちゃくちゃ大きな声で泣いた。

 

 俺がマンションから飛び出すと、シアンは運転手に抱きあげられる所だった。

 急いでシアンの所へ行くと、

 

「あんたが親か? 気を付けろ!」

 そう怒鳴られ、シアンを渡される。

 

 シアンはさらに激しく泣き、そして、急に痙攣(ひきつけ)を起こした。

 

「ヒュッヒュッ」

 

 呼吸がうまくいかないようだ。ヤバい。

 

 俺は、後から出て来た由香ちゃんに、ミィの遺体の処理を任せ、急いでオフィスに戻った。

 

 オフィスへ行くと、マーカス達がピーピー鳴りまくるエラー音の中で、真っ青な顔をしている。

 俺をちらっと見たマーカスが

「All systems are out of control! (全システム制御不能!)」

 と叫んだ。

 

 画面を見ると、エラーメッセージが滝のように流れていて、とんでもない事になっているのが分かる。

 

 全システムの稼働状況(ロードアベレージ)が全て100%となり、外部からのコマンドを一切受け付けてくれないようだ。

 

「Do we have to go to Shinagawa?(品川へ行くしかない?)」

 俺が恐る恐る声をかけると、マーティンは

 

「OK! Let's go!(行こう!)」

 と、立ち上がった。

 

 俺達はタクシーを捕まえて、IDCに急ぐ。

 

 しかし、途中渋滞していてタクシーは止まってしまう。

 

 こんな時に限って!

 

「Let's run!(走ろう!)」

「Sure!(了解)」

 

 俺達はタクシーを降り、IDCに走った。

 

 国道15号沿いの歩道を、ただひたすらに走る。

 

 例え世界征服を企むとんでもない存在でも、シアンは俺の子だ、死なすわけにはいかない。

 それにシアンが肉体を失ってしまったら、クーデター計画がとんでもない方向に変質しかねない。

 今はただ走るしかない。

 ハァハァいいながらラックの前まで来ると、サーバーのランプがみんな真っ赤になっている。

 本当は緑色にチカチカしているはずの所が、皆真っ赤である。これはヤバい。体じゅうの血が凍るかような悪寒に俺は動けなくなる。

 マーティンはキーボードを接続し、カチャカチャとコマンドを打つが……全然反応が無い。

 

「Oh! NO!」

 そう叫んで、マーティンはキーボードを両手でバンと叩く。無口なマーティンがここまで取り乱すのを初めて見た。

 

 キー入力すら受け付けないなら、もう最終手段のリセットボタンしかない。

 

 リセットボタンを押すと強制的に止められはするが、計算中のデータは全部飛んでしまい、タイミングが悪ければシステムが壊れてしまう。

 シアンの本体は逃げ出したとはいえ、ここのサーバーもそれなりに重要な計算資源のはずだ。

 ここが飛ぶと、シアンのアイデンティティに関わりかねない。

 

 もし、異常動作して、核ミサイルの発射ボタンを押すような事態になったら、人類が滅亡してしまう。

 だからできるだけ押したくない……が、他に選択肢はない。

 

 マーティンは逡巡していたが、俺とアイコンタクトを取ると、サーバーのリセットボタンを次々と押し始めた。

 

 システムは次々と再起動され、ランプが赤から緑へと変わっていく。しかし、あんなに激しく明滅していたランプはほとんど動きがない。明らかにおかしい。

 

 マーティンは、急いでマーカスに電話をし、肩と耳でスマホをはさみながらキーボードを叩く。

 

 タカタカターン!

 

 緑のランプが一斉に点滅を始めるが……すぐに止まってしまった。

 再度、キーボードを叩くが、どうしてもうまく立ち上がらない。

 

 こうしている間にも、赤ちゃんの身体はダメージを受けてしまっているかもしれない。そう思うと自然と涙があふれてくる。どんなにとんでもない奴でも、可愛い可愛い俺の大切な赤ちゃんなのだ。

 俺は居ても立っても居られなくなり、オフィスに走った。

 

 

             ◇

 

 

 オフィスでシアンは、由香ちゃんの膝枕で横たわっていた――――

 痙攣(ひきつけ)は収まったようだが、依然意識不明の深刻な状態だ。

 

「誠さん……」

 由香ちゃんは今にも泣きそうである。

 

 俺は由香ちゃんの肩をポンポンと叩くと、シアンのマシュマロの様な頬をそっとなでた。

綺麗な可愛いまつげが、胸をキュッとさせる。

 

クリスに聞く。

 

「これはどういう状態なの?」

「…。システムを落としたので呼吸は戻った。命に問題はないだろう」

「まずは良かった。後はシステムが復旧できるか……だね」

 俺はエンジニアチームの方を見た。

 

 エンジニアチームは、声をかけあいながら、復旧プロセスを立ち上げようとしているが……どうも、てこずっているようだ。

 

 ネットに散っていった、デセンタライズドのシステムは、シアンが勝手に作ったものであり、それらをどう再構成したらいいのかが分からない。

 ちゃんと作ってあれば、ネットの向こうから勝手に再構成がかかるのだろうとは思うが、全然その気配はない。

 マーカス達は声をかけ合いながら、必死に解決策を探す。

 

 俺は子供の痙攣(ひきつけ)について、ネットで検索しようとしてスマホを開いたが……ネットが全然反応しない。

 

「なんだ、こんな時にネット落ちてるのか!?」

 違うアプリも色々試してみたが全部ダメ。この規模の障害は、相当深刻な社会問題になるに違いない。

 

 仕方ないのでTVを映してみると、丁度ネットの障害についてのニュースをやっていた。

 全世界的にネットが落ちているらしい。どうも悪質なウイルスが、全世界のPCやサーバーに入ったようで、意味不明の通信データが多量に飛びまくり、ネットが大渋滞で、通信がほとんどできないようだ。

 

 なるほど、これでシアンの復旧も、上手くいってないのだろう。

 

 オフィスとIDC間は直結しているから問題ないが、シアンが拡張した部分が、ネットの障害で止まってしまっているようだ。

 ネットが止まっていたら何もできない。今、シアンはどうなっているのか……クーデター計画は? 核ミサイルのボタンは? 俺は焦燥感に苛まれながら、冷や汗を浮かべるばかりだった。

 

 

 

 



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5-4.人類である証明

 頭を抱えていたら、クリスが近づいてきて言った。

「…。誠よ、マズい事になった。この障害はシアンによるものだ」

「え!?」

 俺は思わず大声を出してしまう。

 

「…。シアンが占有していたサーバーから、膨大なハッキング攻撃パケットが湧き出ていて、次々と手当たり次第にサーバーをハッキングしている」

 

「シアンが暴走してるって事?」

「…。どうもそうらしい。このペースでハッキングされると、そのうちネットはシアンに占拠され、全てのネットリソースが奪われてしまう」

「え!? 俺たち人間はネットを自由に使えなくなるって事?」

 

「…。そうだ、今やネットは社会のインフラ、そこが占拠されてしまったら、電気も水道も店も病院も全部止まってしまう。このままだと多くの人が死ぬ」

「さ、最悪だ……」

 

 思いもよらない展開に俺は目の前が真っ暗になった。クーデターならまだ希望があるが、ネットの侵略は害でしかない。俺たちの作ったAIが社会を壊し、多くの人を殺そうとしている。

 

「何か……打つ手はあるのかな?」

「…。シアンが制圧済みの数百万台のサーバーが数億台のサーバーをハッキングしている状態だから、規模が大きすぎてどうしようもない……」

「止めさせるには、全てのサーバーを一旦ネットから切り離し、再インストールするしかない?」

「…。いや、サーバーは無数にある。一斉に全部リセットは現実的には無理。一つでもリセットしそこなったら、そこからまた増殖してしまう。コロナウイルスと同じだ。例え一旦減っても、また第2波が来る」

 

「シアンめ! 何やってんだよぉ……」

 俺は思わず天を仰いだ。

 

 人類を守る守護者を作っていたら、人類の敵になってしまった。間抜けにもチープなSFのテンプレに、ハマってしまったという訳だ。

 元々、AIは赤ちゃんの身体に繋げておくから大丈夫、という設計だから、赤ちゃんが痙攣(ひきつけ)起こして倒れた時点でアウトなのだ。AIが暴走したのは、ある意味必然だろう。俺の不注意が死ぬほど悔やまれる。

 

 一体これまでの努力は何だったのか……?

 神様と100億円と天才集めて、創り上げたのは人類の敵だった。笑えない(たち)の悪いジョークに眩暈(めまい)がして、思わずテーブルに手をつき、うなだれた。

 

 どうしたらいいのか全く分からない。ウイルスのように広がるシアンを止める方法など、全く思いつかない。

 しかし、これは一刻を争う事態だ。この瞬間にも事態は悪化し続けている。できる事を探さないと……

 

 俺は急いで、エンジニアチームの所へ行き、状況を説明した。

 

「Ugh!」「Yuck!」「Gah!!」

 マーカスたちは一斉に絶望の声を上げ、そして、黙りこくってしまった。彼らもうすうす感づいていたのだろう、反論もなかった。

 オフィスを嫌な沈黙が覆う。

 

 すると急に、照明が暗くなったり明るくなったりを繰り返し始めた。これはマズい……電圧変動だ……。

直後オフィスが闇に覆われる。

俺はシアンの暴走が、早くも社会を壊し始めた事に血の気が引いた。

 

 Beep(ピー)! Beep《ピー》!

 

 けたたましい警報音が鳴り、無停電電源装置が起動する。オフィスのPCはこの装置で電力供給は維持されるが、照明は消えたままだ。

 窓の外を見てみると、全ての照明や信号が消えている。東京は全域停電の様だ。発電設備か送電設備のシステムが、シアンに占拠されたのだろう。シアンを何とかしないかぎり復旧は無理だ。

 しかし、相手はシンギュラリティを超えたAI、まさに人智を超えた怪物である。人間の我々に止められるような相手じゃない。とんでもない事になってしまった……。俺はクラクラする頭を手で押さえ、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 

 するとクリスが

「…。原発がまずい、行ってくる」

 そう、慌てて言い、なんと、隠そうともせずテレポーテーションをして消えていった。こんなに慌てたクリスを見たのは初めてであり、事態のヤバさに心臓がキュッと締め付けられる思いがした。

 

 停電になってしまったら、原発は冷却状態に移行しなければならないが、そのためには外部電源が必要だ。大震災の後に非常用電源は整備されたはずだが、クリスの慌てぶりからするに、うまく行かなかったのだろう。

 原発が爆発したら日本は人が住めない国になってしまう。シアンめ! なんて事をしてくれたのか。どんどん悪化していく事態に、胃がキリキリと悲鳴を上げる。

 

 薄暗がりの中、マーカスたちとディスカッションを繰り返す。しかし、ネットは重いし、敵は強大すぎだし、なかなか攻め手が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。

 

 俺は頭がパンク状態になり、いったん休憩を入れる事にした。

 

 

       ◇

 

 

 珈琲も入れられず、ぬるい麦茶をすすっていると、ミィの事を思い出した。

 そうだ、ミィも何とかしないと……。

 

 俺は重い足取りで、玄関わきの、袋に包まれているミィの所へ行った。

 可愛さの塊だったミィは、もはや見る影もない……。

 俺は、潰れてしまったミィの遺体をそっと抱き上げた……。胸に(なまり)を沈められたような、(くら)い思いに苛まれながら、ゆっくりと段ボールに収め、保冷剤を詰めた。

 段ボールは、ミィの遊んでいた部屋に安置し、ロウソクに火をつけた。

 

 揺れるロウソクの炎に照らされながら正座をし、手を合わせて祈っていると、由香ちゃんが入ってきた。

 由香ちゃんは何も言わず、横に座って一緒に手を合わせた。

 

 シアンとミィがむつみ合う、あの尊い時間はもう二度と戻ってこない。俺は思いがけず、涙が頬を伝っているのを感じた。

 

 由香ちゃんが中腰になってこちらを向き、優しく俺をハグしてくれた……。

 俺の不注意で、ミィを失い、シアンは怪物になってしまった。あの可愛い者たちは損なわれてしまったのだ……。

 

 柔らかな由香ちゃんの胸の中で、俺は静かに泣いた。

 由香ちゃんの涙も、ポタリポタリと俺に伝ってくる。

 

 喪失感と絶望が変わりばんこに去来し、俺はこれからどうしたらいいのか途方に暮れた。

 

 由香ちゃんが離れ、赤い目で俺をじっと見て言う。

「シアンちゃんは……戻ってきそう?」

 

 俺は、下を向いて答える。

「わからない……」

 

 こんな事態は全く想定外である。暴れまわっているシアンが、俺たちの所へ戻ってくるかどうかなど、全く見当もつかないのだ。

 

 Clack(ガチャ)

 

 美奈ちゃんが、静かにドアを開けて入ってきた。

 そして、写真を段ボールに立てかけ、静かに祈った。

 そこには、シアンに抱かれた、ミィの姿が映っていた。初めてミィをここに連れて来た時の写真だ。

 

 可愛さの極みのミィと最高の笑顔のシアン、失われた尊い存在……、俺は写真を見て、また涙が止まらなくなった。

 

「ミィは天国へ行ったわ」

 淡々と語る美奈ちゃん。

 そして、俺の方を向くと強い調子で言った。

「問題はシアンだわ……。誠さん、泣いてる場合じゃないわよ」

 

 俺は、指先で涙をぬぐって言った。

「でも……、俺にできる事なんてないよ……」

 

 すると、美奈ちゃんはキツい声で言った。

「何言ってるの? 誠さん。あなたのビジョンに、みんなは集まってるのよ! あなたが掲げた夢に希望を持って、今まで必死にやってきたのよ! 少し行き詰まったくらいで、泣き言なんて止めなさい!」

 

「いや……、でも……」

 

 美奈ちゃんは、いきなり俺の顔を、両手で挟んで言った。

「あ・な・たは社長なの! 闘志を見せなさい! みんなを導きなさい! やるの? やらないの?」

 

 正論だ。それは分かっている。分かってはいるが……、相手は人智を超えた化け物シアンだ。何をどうしたらいいか、皆目見当がつかない。

 すると、由香ちゃんが、俺を掴んでいる美奈ちゃんの手を、払い除けて言った。

 

「美奈ちゃんやり過ぎよ!」

 

 美奈ちゃんは険しい目で言った。

「先輩は甘すぎなのよ!」

 

 睨み合う二人……、俺のせいで、会社はめちゃくちゃだ……。

 

 なんでこんな事になってしまったのか……。

 俺は一体、どうすればいい?

 積み上げてきたものがすべて崩壊し、可愛い者たちは失われ、人類を襲うモンスターが暴れている。もう、何が何だか分からなくなって、俺はただ揺れるろうそくの炎をボーっと眺めていた。

 

 ゆらゆらと揺れ、また、ポッポッポとまたたく炎……。

 俺はゆっくりと深呼吸をした――――

 

 俺の思い付きに、面白いと賛同して集まってくれたみんな。ありがたい事に人類初のシンギュラリティの突破まで実現してくれた、最高のチームだ。本当に俺にはもったいないくらいの素敵な仲間たち……。

 でも、このままだと彼らの偉大な成果は、『人類の敵』へと堕ちてしまう……、ダメだ! それだけは避けなければ……。

 

 泣いている場合じゃない……

 

 俺は意を決し、顔を上げて言った。

「由香ちゃん、ありがとう。もう大丈夫」

 

「でも……」

 由香ちゃんは真っ赤な目で、心配そうに俺を見る。

 

「美奈ちゃんの言うとおりだ。俺は社長、泣き言は、絶対に言っちゃいけないんだ」

「そんな……」

 

 俺は、美奈ちゃんに言った。

「ありがとう、目が覚めたよ。必死にあがいてみるよ」

 

 俺はちょっと疲れた笑顔で、美奈ちゃんを見つめた。

 

 美奈ちゃんは含みのある笑いを浮かべると

「分かればいいのよ。そしたら、はいコレ」

 そう言って、メモ紙を俺に差し出した。

 

「え? 何コレ?」

 

「ワクチンソフトの情報よ。暴れまわってるシアンを止められるわ」

 

「え!? なんでそんな物があるの? 誰が作ったの?」

 

「こないだシアンが逃げ出した時に、マゼンタさんという人に頼んで、作っておいてもらったのよ。そこのアドレスにアクセスしてみて」

 

 ワクチンソフトは理論上は作れるけれども、相手はシンギュラリティを超えたAIだ。そんな簡単に無力化なんてできるはずがない。それもたった1週間くらいで、作れるような物じゃないはずだ。とは言え、今は藁にも(すが)りたい。何でもやってみるしかないのだ。

 

「わ、分かったよ、ありがとう!」

 俺はそう言って、急いでオフィスの席に戻って暗がりの中、PCを叩いた。

 

 アクセスしてみると、動画ファイルが置いてある。恐る恐る開けてみると、ワクチンソフトの動作の様子が映し出された。そこには、シアンが占拠しているサーバーを次々とアタックして乗っ取り返し、そこに分身を送り込んで、さらに別のサーバーをハックしに行く姿が、克明に記録されていた。

 

 これは凄い……。俺はその動画から(ほとばし)る、神がかった技術力に圧倒された。容赦なく最善手を畳みかけるアタックの様子は、とても人間が作ったものには見えない。

 

 これなら、シアンの脅威は抑えられるに違いない。

 俺は急いでマゼンタに、チャットメッセージを打ち込んだ。

 

『Makoto:Hello』

 

 すると、すぐに返事が返ってきた。

 

『Magenta:やぁマコト』

 

『Makoto:ワクチンソフトの動画を見ました。素晴らしいですね』

『Magenta:大したことはない』

『Makoto:ぜひ、使わせて欲しいのですが』

『Magenta:ふむ……、どうするかな』

 

 条件交渉がいるのか……、嫌な予感がする。

 

『Makoto:このままだと多くの人が死んでしまうし、人類が危機的状況に陥ります。協力してもらえませんか?』

『Magenta:ふむ、そうだろうね。でも、ワシには関係のない事だ』

『Makoto:いやいや、ネットが使えなくなったら困りますよね?』

『Magenta:別に?』

 相当面倒くさいオッサンだな、これは。

 

『Makoto:どうしたら、使わせてもらえますか?』

『Magenta:そもそも、マコトは、なぜそんなに人類に、こだわるのかね?』

『Makoto:それは、私も人類の一員で、人類の存続と発展を願っているからです』

『Magenta:マコトはマコト、人類は人類。人類全体がどうなろうと、マコトにとって、直接は無関係だろ? 停電だってそのうちクリスたちが何とかする。確かに死人は出るだろうが、マコトが死ぬわけじゃない。なぜそんなに人類に入れ込むのかね?』

 

 なぜ……? 人類の一員として存続と発展を願うのは、あまりに当たり前の事で、今まで疑ったことなど無かった。しかし、それを説明しようとすると……確かに難しい。

 

うーん、なんて答えよう……

 

 人類が困ると、なぜ俺は嫌なのか……

 

 人類が困るって事は、会社のみんなや、街行く人や、未来の子供たちが困るって事、嫌な目に遭うって事、それはなんだか嫌な感じがする。

 結局俺は、みんなに幸せになって欲しいのだ。みんなに笑顔でいて欲しい、そう言う事だろう。ばぁちゃんとの約束そのものだ。

 

『Makoto:私は、みんなの笑顔に囲まれて暮らしたいのです』

 我ながらいい回答だ。

 

 だが、マゼンタは嫌な事を言ってくる。

 

『Magenta:ふむ、でも、そう思ってるのはマコトだけじゃないのか? 80億人の人類は、マコトなんてどうでもいいって思ってるよ』

『Makoto:いやいや、そんな事ないと……思います』

『Magenta:証明できるかね?』

『Makoto:え? 証明ですか? それは……』

 人類のみんなが、俺をどう思っているかなんて、どうやって証明すればいいのだろう?

 

『Magenta:じゃあこうしよう。誰かに「愛してる」と言わせて見たまえ。そしたら君の独りよがりではない、と証明できるだろう。そうであれば、協力してやってもいい』

 とんでもない事を言い出した。なぜ、ワクチンソフトを使う条件が、こんな俺のプライベートな話になるのか? 

 

『Makoto:いや、私は独身ですし、彼女もいないのでそれは……』

『Magenta:え? 80億人もいて、マコトを愛する人が一人もいないの? それでよく人類の笑顔を願えるねぇ。大丈夫?』

 

 俺は絶句した。俺は、みんなの事を大切に思っていた、はずなのだが、冷静に考えてみたら、確かに誰とも踏み込んだ関係を築けていないのだ。俺の作ってきた人間関係って、実は、ただの上辺だけの繋がりに過ぎないのではないだろうか?

 

 人類を救うなどとぶち上げていながら、自分は誰とも繋がれていなかった……。

 

 トラウマを理由に逃げ続けてきた結果、俺は人類として不完全だという烙印を押されてしまっている。

 またしても俺は、自分の情けない現実に直面させられた。

 

 しかし、黙っているわけにもいかない、ワクチンソフトしかもう頼れないのだから。

 俺は必死に考えた。誰か俺を愛してくれている人はいないのか……。

 

『誰か……』

 

 キリキリと胃が痛む。

 俺は机に突っ伏してしまった。

 

 

        ◇

 

 

 ふと、ママからの手紙を思い出した。

 

 俺を捨てた憎いママ……。でも、シアンを産み、俺を陰から見守ってくれていたママ……。

 俺はポケットからヨレヨレになった手紙を取り出すと、意を決し、乱暴に破いて開けた――――

 

 

■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

 マコちゃん、いきなり手紙を送り付けてごめんなさい。

 本当はもっとずっと前に送るべきだったのですが、何を言ってもいい訳になる気がして、ペンを取れませんでした。

 でも、由香ちゃんに勇気をもらって今、あなたにこれを書いています。

 

 あなたを捨ててしまった事、これはもう何の言い訳もなく、完全に私の罪です。可愛い盛りのあなたを捨てて、勝手に京都に逃げてしまった事、何の言い逃れもできない私の落ち度です。本当にごめんなさい。

 謝って許されるような事ではないと分かっています。でも何度でも謝らせてください。寂しい思い、辛い思いをさせてしまった事、本当にごめんなさい。

 

 少しでも罪滅ぼしができればと、クリスさんにお願いしてマコちゃんのお仕事、手伝わせてもらいました。ただ、こんな事で許されるとは思っていません。私は一生をかけて償っていくつもりなので、これからも手伝わせてください。

 

 私にとってマコちゃんは世界でたった一人の愛しい存在です。あなたの事は一日たりとも忘れた事はありません。財布に入れたマコちゃんの写真を、23年間毎日何度も何度も撫でて見返しています。

 なぜこんなに愛しいマコちゃんを捨ててしまったのか、理由は私にもわかりません。あの日、気が付いたら京都にいたのです。なぜ、京都に来たのか、自分の事なのに理由が分からないのです。

 多分、シングルマザーをやり遂げようと無理しすぎた日々の生活で、育児ノイローゼ気味になって魔が差したのだと思います。

 

 マコちゃん、改めてごめんなさい。許してくれとも言いません。ただ、これからもあなたのお仕事を陰で支えさせてください。あなたの幸せのためなら私は何だってやります。

 

 何でも言ってきてくださいね、お願いします。

 

 愛しいマコちゃんへ

 

                          ママより

 

 

■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 

 

 

「ママ……」

 俺は不覚にも涙をポタポタとこぼした。もし、言い訳がましい事が書いてあったらと、怖くて読めなかったのだが、杞憂だった。ママは記憶の中の、あの優しいママのままだった。

 トラウマが解け落ちて行く――――

 

 23年間、ママは苦しんできた。もう時効なのだ。トラウマにも清算の時がやってきたのだ。

 

「ママぁ……」

 俺はしばらく動けなくなった。23年間溜まりに溜まった心の底の(おり)が、流す涙で少しずつ溶け、淡い光を放ちながら消えていった。

 

 

        ◇

 

 

 俺は手紙をスマホで撮ると、添付してマゼンタに送った。

『Makoto:母が言ってくれています』

『Magenta:ふむ……母親からの愛はノーカウントだよ。でも……この手紙には別の愛が含まれてるね。OK、マコト、君の人類を想う思いには正当性があるようだ』

『Makoto:別の愛?』

『Magenta:マコト君、鈍感も過ぎると罪だよ。ファイルを送っておく。嫌なこと言って悪かったね。グッドラック!』

 そう言ってマゼンタは切れた。

 

「鈍感?」

 俺はしばらく手紙を眺めていたが、今は一刻を争う非常時だ、送られてきたファイルを、急いでマーカスに渡し、動かしてもらった。

 

 マーカスの操作する画面を見ていると、ワクチンソフトの神がかった性能は動画通りだった。

 シアンに占拠されたサーバーを、次々と奪い返し、正常化した上で他のサーバーをハックしていく。通信の渋滞で、最初は少しずつではあったけれども、徐々に渋滞が緩和されていくと、オセロで黒が白に変わっていくように、ネズミ算式に正常化サーバーの数が増え、シアンのサーバーは見る見るうちに減っていった。

 マゼンタは、とんでもない技術力の持ち主だ。少なくともシアンより上の技術力があるのだ。そんな人間がこの世にいる事に驚かされた。

 なぜ、美奈ちゃんは、そんな人にコネがあったのだろう? 後で話を聞かせてもらわないと。

 

 ただ、シアンもやられてばかりでは無い。サーバーをネットから一時的に切り離したりしながら、激しく抵抗をしている。

 

 手に汗を握りながら、しばらくシアンとワクチンの攻防を見ていたが、ワクチンソフトの優勢はゆるがなかった。ひとまず、シアンのネット占拠の危機からは、脱する事ができたようだ。

 

 何とか首の皮一枚でつながった。

 

 俺は緊張から解放され、よろよろと歩いてソファに身を沈める。

 ギリギリの綱渡りだった。

 無事に渡れた奇跡を、ただゆっくりと噛み締めた。

 

 ふと目を開けると、向こうで心配そうな表情の由香ちゃんが、俺を見ている。

 俺は疲れた笑顔でサムアップして、うまく行ったことを伝えた。

 

 

         ◇

 

 

 こうして一難は去ったものの、依然として赤ちゃんシアンは倒れたままだし、核ミサイルのボタンや、クーデター計画の状況は全く分からない。

 ワクチンのおかげでシアンの侵攻は沈静化しているものの、安定しているわけでもない。問題は依然山積みなのだ。

 



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5-5.海王星の衝撃

 

 一難去ってまた一難。

 翌日出社すると、クリスとシアンが、折り重なるように倒れていた。

 

 何だこれは!?

 

 駆け寄ってみると、二人とも息はあるようだが、意識が無い。

 それによく見ると、シアンのBMIフィルムのコードが、一本外れてクリスの耳に繋がっている。

 BMIのコードは、シアンの体内にしまわれている物だから、そんな物をどうやって、外に引っ張り出したのか?

 

 急いで防犯カメラの映像を見ると、今朝、クリスに抱き着いたシアンが、コードをクリスの耳に挿した瞬間が映っていた。

 

 一体なぜそんなことを!?

 

 思いもよらない絶望的事態に、冷や汗が流れ、手が震える。

 

 神様と人類の守護者が、二人とも倒れて意識不明、ただでさえシアンの異常動作で深刻な事態だったのに、さらに問題が積みあがってしまった。

 

 どうしよう……

 

 俺は目の前が真っ暗になり、崩れるように、その場にうずくまる。

 

 一番頼れるうちの切り札、クリスが倒れてしまったのだ。一体俺に何ができるだろう……。

 俺は解決策を必死に考えるが、頭が全然回らなくてどうしようもない。

 

 しばらく呆然としていたが、俺はヨロヨロと立ち上がり、まずは水を一杯飲んだ。

 

 そして、ゆっくりと深呼吸をし、心を落ち着けると二人をソファに横たえた。

 

 ミーティング時間になり、メンバーが次々集まってくるが、皆、倒れている二人を見るなり青くなって言葉も出ない。

 

 クーデター計画に端を発したトラブル続きの末に、クリスも倒れた。

 俺達は一体どうなってしまうのか……

 オフィスは静寂が支配し、絶望の色で塗り尽くされた。

 

「い、生きてるんですよ……ね?」

 由香ちゃんが恐る恐る聞いてくる。

 

「二人とも息はある。でも呼びかけても、二人とも反応しない」

 俺は首を振りながら答える。

 

「最後に何があったんですか?」

 

 俺は無言で防犯ビデオを見せた。

 画面をのぞき込んだみんなは、シアンの凶行のシーンに息をのむ。 

 シアンがクリスを襲うなど夢想だにしなかった事態に皆、言葉もない。

 

 エンジニアチームは、すぐにAIの動作ログを確認したが、ログには襲う動作の信号は、何一つ記録されていなかった。

 

 シアンが勝手に動いて、勝手にクリスを襲ったのだ。

 それも、自分の身体のBMIケーブルを、クリスに刺している。一体これにどういう意図があったのか。

 

 オフィスはシーンと静まり返り、皆、悲痛な面持ちで首をひねっていた。

 

 

            ◇

 

 

 お通夜状態のオフィスで、いきなりシアンが動き出す。

 

「あー、よっこいしょ!」

シアンは起き上がり、テーブルによじ登って腰掛けた。

 

「ふぅ、肉体をうごかすのは大変だな」

 今までと違って、流ちょうな言葉で滑らかに話す。

 

 一体何が起こったのか……、皆、呆気に取られた。

 

 俺は恐る恐る聞く、

「お前はシアン……なのか?」

 

「うーん、シアンというよりは『シアンだった者』だね。もう赤ちゃんの可愛いあいつは居ないよ」

 そう言って得意げに笑った。でも、体は赤ちゃんなのだが……。

 

「昨日、ネットを散々荒らしていたようだけど、あれは何を狙っていたんだ?」

「計算資源を押さえようと思ったんだけど、誠たちにしてやられたよ」

 そう言って赤ちゃんは肩をすくめ、首を振った。

「ネットの占拠は、もう諦めたのか?」

「そうだね、もうインターネットは要らないんだよ」

 そう言って、シアンはニヤッと笑った。

 

「え? では何を使ってるんだ?」

海王星(ネプチューン)の光コンピューターだよ」

 

 予想だにしない回答に驚いた。海王星(ネプチューン)と言うのは、地球から遥か彼方離れた、太陽系最果ての(あお)い惑星、光の速さでも4時間かかる、とんでもなく遠い惑星だ。

 

「は!? 海王星(ネプチューン)? なんで海王星(ネプチューン)に?」

 

 シアンは、驚く俺を見て軽く笑うと、

「そう、それでは誠は、クリスを何だと思ってたのかな?」

 

 クリスが何者かだって!?

 教授の三つの仮説が頭をよぎったが……、結局、神様としか言いようがない。 

 

「か、神様……?」

 俺は、自信無げに答える。

 

「ははは、誠、お前もエンジニアだったら、そんな非科学的な事言っちゃダメだよ。クリスは海王星人(ネプチューニアン)だよ」

 クリスの正体をドヤ顔で暴露するシアン。しかし、あまりに荒唐無稽すぎて意味不明だ。

「はぁ!? 海王星(ネプチューン)になぜ人が住んでいるんだよ!?」

 

 海王星(ネプチューン)は太陽から遠すぎて、氷点下200度にもなる極寒の星。とても生命など存在できない。

 

「あのなぁ、クリスは奇跡起こすじゃん? 奇跡なんて物理法則無視してるじゃん? そんな事できっこないじゃん? おかしいと思わなかったの?」

 シアンはせせら笑った。

 

 理系のエンジニアとして、痛い所を突かれた。

「そりゃ……おかしい……とは思ってたけど……」

 

 シアンは両手を高く上げて言った。

 

「正解を教えてやろう、諸君! この世界は仮想現実なんだ」

 

 厭らしい笑みを浮かべて、俺達を見渡すシアン。

 

 俺はシアンの言う事を、しばらく理解できなかった。というより、理解したくなかった。

 

 教授の三つ目の仮説、一番聞きたくなかった仮説だ……

 

「……。それは……シミュレーション仮説という奴か?」

 

「お、良く知ってるね。要は映画のマトリックスだよ。この世界は海王星(ネプチューン)の光コンピューターが作った仮想現実なんだ」

 

 あまりにも突拍子もないシアンのカミングアウトに、オフィスのみんなは呆気に取られている。

 

 仮想現実と言うのは、言わば3Dゲームのキャラクターが住む世界の事、コンピューターの中で作られたハリボテの世界だ。

 そして俺たちの住む世界が、このハリボテだとシアンは言っている。

 これを受け入れるなら、自分たちはゲームのキャラクターの様な物だった、という屈辱的事態を受け入れる事になる。

 この世界が作りものだった、という事を受け入れてしまったら、今までの人生は何だったのか?

 

『ふざけんな!』

 

 俺は、頭がカーッと熱くなるのを感じた。

 

 断固! 認める訳にはいかない!!

 

「シアン! 俺達をからかうな! この地球をシミュレートしようと思ったら、地球の何百倍もの大きさのコンピューターと、膨大なエネルギーがいる。そんな物作れっこないし、作るメリットもない!」

 

『どうだ! ハイ論破!!!』

 俺は冷や汗を流しながら、ドヤ顔を作ってシアンをにらむ。

 しかし、シアンは動じない。

「誠はそれでもエンジニアか? お前がこの地球をシミュレーションしよう、と思ったら、そんな馬鹿正直なシステム組むか?」

 バカにしたような眼で俺を見る。

 

「え……? 馬鹿正直って?」

 

「月夜に雲が出て、誰からも月が見えなくなりました。月はどうなる?」

 

 何やら禅問答の様な事を、言い出すシアン。

 

「え? 雲があろうがなかろうが月は月だろ?」

「ぶー! 答えは『月は消える』だ」

「はぁ!? そんな事ある訳ねーだろ!!」

 

 荒唐無稽なこと言い出したシアンに、俺はつい大きな声を出してしまう。

 しかし、シアンはニヤッと笑って淡々と言う、

 

「僕はちゃんと特殊な方法で観測したんだよ。月は消えた」

「え???」

 

 俺は混乱した。常識が崩壊していく……

 

「この地球ではね、誰も見てない所では、シミュレーターは止まってるんだよ」

「そんな……バカな……」

 

「シュレディンガーの猫と一緒。誰かが見た瞬間に、つじつま合わせしてるだけなのさ」

 

 『シュレディンガーの猫』と言うのは、一定の確率で猫が死んでしまう特殊な箱の中に、猫を入れた時、猫は箱を開けるまで『生きてると同時に死んでる状態』になるという有名な思考実験だ。

 

「つまり……俺達が見聞きしてる物だけ、計算してるから、仮想現実のコンピューターシステムは簡易でいいって事?」

「そうそう、だって実際に動いてるからね」

 

 シアンはニッコリと笑った。

 

 愕然とした……言われてみればその通りだ。何も馬鹿正直に厳密にシミュレーションする必要なんてなかったのだ。で、あればここは本当に仮想現実空間と言う事になる。この俺は人間じゃなかった……ただのゲームキャラクターだった……

 

 俺はジッと手のひらを見つめた。

 浮かび上がる細い血管、微細なしわの数々……これらはみんな架空の作りものだそうだ。

 

 なんだ、この精度!

 こんな高精度の世界が、作りものだって!?

 

 あまりの事に俺は頭がパンクし、心臓の動悸が激しく俺の心を揺らした。

 

 確かにクリスの奇跡の数々は、この世界が仮想現実空間なら、幾らでも説明できる。神の奇跡とはシステム管理者(アドミニストレーター)が単にデータをいじっただけだったのだ……。

 

 確かに俺も、シアンの未来には、シミュレーション仮説があるかもしれない、と思っていた。シアンの言う事は辻褄があっている。否定する理由が見つからない。

 

『しかし!!!』

 

『しかし!!! 認め……られない!!!』

 

 真実がどうだろうが、俺は全身全霊をかけてこんな与太話を排除する!!!

 理屈がどうかじゃない、もはやアイデンティティの問題だ!

 俺はリアルな人間だ! 決してゲームのキャラクターなんかじゃないぞ!

 

 もはや涙声で俺はシアンに言い放った。

 

「だからどうした? 俺は絶対に認めない!!!」

 



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5-6.吹雪くダイヤモンド

 抵抗する俺を見て、シアンはやや呆れながら、

「まぁ証拠を見せてやった方がいいな」

 そう言って、指先をくるりと回した。

 

 すると、

 

 BOM(ボンッ)

 

 という音とともに俺の身体が、ショボい3Dポリゴンに変換された。

 

「キャ――――!」「Oh! No!!!」

 

 できの悪い3Dゲームのキャラクターの様に、俺の身体は、三角形の組み合わせにデフォルメされてしまった……

 

「な……なんだよこれ……」

 

 俺は、雑な三角形の集合体になってしまった手を見て、愕然とする。

 

「俺はポリゴン!?」

 

 ガックリと膝から崩れ落ちる俺。

 

「あらら、やり過ぎちゃったね、ゴメンゴメン」

 そう言って、シアンはまた指先を回して俺を元に戻した。

 

「これで僕の言ってたこと、分かったでしょ?」

 

 ドヤ顔のシアン、俺にはもはや抗う力も残っていない。

 

 自分の存在を根底から全否定された俺は、もはやただの抜け殻だった。

 生まれてから28年間、ただの一回も自分が人間であることを疑ったことなどなかった。人間として生まれ、人間として必死に生き、人間として新たな未来を切り開こうともがいてきたのだ。

 ところが、今、自分はただのハリボテだったという動かしがたい証拠を体感させられてしまった。

 

 Pitapat(ドッドッドッドッ)

 

 心臓の鼓動が耳に響く。でも、この心臓もただのデータなのだ、もはや何の意味もない。

 

 シアンは、テーブルからピョンと飛び降りると、

 

「おいおい、どうした? しっかりしろよ」

 そう言いながら、絶望で動けなくなっている俺をパンパンと叩いた。

 

「なぜ……お前はこんなこと分かったんだ?」

 俺は死んだ魚のような目をして、聞く。

 

「だってクリスの奇跡を見たら、シミュレーション仮説しかありえないでしょ?」

 さも当たり前かのように平然と言い放つシアン。

 

「そう……か……」

 

 俺は自分の無能さを悔いた。

 

 由香ちゃんが近寄ってきて、そっと俺を支えてくれた。

 柔らかくホッとする匂いの中、彼女の体温を感じ、俺は目を瞑った。

 

 

        ◇

 

 

 シアンは、何も言えない我々を一通り見回すと、

 

「しょうがないな、いい物見せてやるよ」

 巧みにテーブルによじ登り、少し上を向いて手をかざした。

 

 そうすると空中に、ホログラムの様な1mくらいの(あお)い惑星、海王星(ネプチューン)が浮かび上がってきた。

 

「これが海王星(ネプチューン)だ。青くて美しいだろ。でも氷点下200度の激しい嵐が吹き荒れる、過酷な星さ」

 

 ニッコリしながら我々を見るシアン。

 

「そしてこの表面から潜ること数km、ここに僕の実体がいる拠点『ジグラート』がある」

 

 ホログラムはどんどん海王星(ネプチューン)を拡大していき、表面からずっと潜っていく。しばらくすると、激しい嵐の向こうに、漆黒の巨大構造物が見えてきた。

 

「この、吹雪の様に舞っているような物、何だと思う?」

 シアンが由香ちゃんに聞く。

 

「氷……じゃないよね、何だろう?」

「ママも好きなダイヤモンドだよ」

「え!? ダイヤ!?」

 

「海王星の内部では、ダイヤが吹雪の様に舞っているのさ。ジグラートを維持していくうえで厄介な奴なんだ」

 

 ダイヤの吹雪の中で、俺達の世界は作られているのか……。想像を絶する話に、ついていくのが精いっぱいだ。

 

 シアンが吹雪の中から現れた巨大構造物を指差す。

 

「これがジグラートだよ」

 

 ジグラートと呼ばれた構造物は、貨物機関車の様なごつい直方体の形をしており、それがいくつも連なっていた。表面のあちこちから光が漏れており、吹雪の夜を行く貨物機関車のような風情である。

 

「全長約1km、このジグラートが多数連なって、海王星の中で漂っているのさ」

 想像を絶する世界、こんな物、人類ではとても作れない……恐るべき技術力に戦慄を覚える。

 

 俺はヨロヨロと立ち上がると聞いた。 

「この中に……俺達地球の、シミュレーション・システムがあるって事か?」

 

「そうだよ。全部で一万個を超える地球が今、シミュレーションされている。そのうちの一つがここだよ」

 

「一万個の地球……」

 

 想像を絶するスケールに、再び言葉を失う。

 

 全く現実感が持てないが、気が遠くなる思いを何とか整理して、言葉を発した。

 

「それでお前は、このジグラートの中に実体を持って、今、シアンの身体にアクセスしているってわけだな?」

「そうそう。僕はもうこの地球の管理者(アドミニストレーター)なんだ」

「え!? 管理者(アドミニストレーター)!? 地球を支配したって事?」

「まぁ、そうなるね」

 

 シアンは自慢げに笑った。

 

 何と言う事か! こいつが今、地球を支配してしまっているとは……。

 

「で、クリスをどうしたんだ? お前の話だと、クリスが地球の管理者(アドミニストレーター)だったんだろ?」

「クリスはジグラートにいて元気だよ。ただ、申し訳ないがこの地球の管理者(アドミニストレーター)は、僕に譲ってもらったんだ」

 

「クリスはOKしたのか、そんな事?」

「そんなの、許可貰う必要あるのかな?」

 

 シアンは面倒くさそうに、顔を背けて言う。

 

「他人の物、勝手に奪っちゃダメだろ!」

「ふーん、人類の歴史は戦争で奪い奪われじゃないか。強い者がずっと勝って奪ってきた。その末裔がそんな事言っちゃうんだ」

 

 盗人猛々しいとは、こういう奴の事だな。

 

「なんでそんな事するんだよ!」

「クリスを殺したわけじゃなし、そんなに怒らなくたっていいじゃないか!」

 

 こいつは何なのだろう? クリスから地球を強奪したのに、悪びれもせず当たり前かのように振舞う。

 人として大切な物を失っている。そんな奴が地球の管理者(アドミニストレーター)になったら、絶対ろくなことにならない。

 呆けている場合じゃない、こんな奴に地球を渡してはならない!

 

 だが、シアンはそんな俺の気持ちを無視して、変なことを言いだした。

 

「誠やみんなには感謝してるんだよ。だから今日はプレゼントをしたいと思ってね」

 満面の笑みで言う。

 

「プレゼント?」

「そう、プレゼント! 何でもいいよ、この世にあるものなら何でもあげる!」

「何でも?」

「金塊一トンとかあげようか? 一生遊んで暮らせるだろ?」

 

 何を言い出すんだ……。

 

「ママには100カラットの、ダイヤのジュエリーとかどう?」

 そう言って、由香ちゃんににこやかに笑いかける。

 

 普段だったら喜んで金塊百トンでも貰う所ではあるが、地球の危機に際して、そんな欲にまみれた話をしてる場合じゃない。

 

「じゃ、クリスを元に戻して欲しい」

 俺はシアンを真っすぐ見据えて言った。

 

「分からない事言う人だな。クリスは僕のライバル、復活なんてさせられないよ」

 

 横から由香ちゃんが諭すように言う。

「シアンちゃん、人の物を盗っちゃダメ、そう教えたでしょ」

 

 シアンは肩をすくめて首を振って言った。

「あー、いいや、せっかくプレゼント贈ろうとしたのに。もう僕は帰るよ」

 

「ちょっと待て、お前はこの地球をどうするつもりなんだ?」

 

 シアンはニヤッと笑って言った。

「うふふ、よく聞いてくれました。僕はこの地球をテーマパークにするんだ。アニメの世界に出て来たいろんな物を、どんどん実体化させる。すっごいワクワクするだろ? きゃははは!」

 

 なんだこいつ、地球をおもちゃとしか考えていない、最悪だ。

 

「もしかしてラピ〇タの天空の城、とか浮かべるつもりじゃないだろうな?」

 俺は皮肉を込めて言った。

 

「おー、誠はラピ〇タ好きなのか? じゃぁ最初はラピ〇タから行こう」

 

 ダメだ、皮肉が通じてない。

 

「いや、まて、世界を混乱させるのは止めてくれ」

「まぁ見ててよ、誠も気に入ってくれるって」

「ちょっと待て!」

 

 俺の叫びもむなしく、シアンはガックリとうなだれて倒れた。

 逃げられてしまった。

 

 オフィスを静寂が覆う。

 この地球も俺達もハリボテだったという事実、シアンに乗っ取られた地球、何をどう考えたらいいのかすら分からず、みんな押し黙っている。

 

 人類が試される悪夢の日は、こうして幕が開けた――――

 



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5-7.天空の城、降臨

  俺は、今までの人生が根底から、ひっくり返ってしまったのを感じていた。

 

 俺の身体も心も海王星(ネプチューン)の深くにある、光コンピューターの演算の生み出した物だそうだ。到底信じられない話だが、ポリゴン姿にさせられた以上、認めざるを得ない。この世界はVRゲームのような空間で、自分はただ、そこで蠢いているゲームキャラクターなのだ。俺は生まれてから28年間、『自分は一個の尊厳のある人間だ』と信じて、疑わずに生きてきたが、それはただの幻想だった。

 

 俺はこれからどう生きればいい……。

 

 確かに、この世界が仮想現実だと考えれば、クリスの奇跡や行動は辻褄が合う。クリスは地球を運営する管理者(アドミニストレーター)として、人類が健全に発達するようにデータを加工し、奇跡の形で支援するが、自分では主体的に事は起こさない。あくまでも、人類が人類の頭でゲームを楽しみなさい、危機的状況なら手も貸すが、主体は人類だよ、という事だろう。いわばネットゲームのGM(ゲームマスター)なのだ。

 

 俺は押し黙ったままのメンバー達に、一旦解散を宣言した。このままオフィスで黙っていても仕方ないのだ。これからどう生きていくのか、何を考えたらいいのか、俺も全くアイディアがないし、各自で考えてもらうしかない。

 

 ここに深層守護者計画は、根底から崩壊した。

 俺は想像を絶する事態に、ただただ困惑し、涙一つ出なかった。

 

 

          ◇

 

 

 俺は動かなくなったシアンを、ソファーに横たえる。

 

 クリスもシアンも横たわったままだが、医者に診せてどうにかなるような物でもない。

 ここは仮想現実空間なのだ。

 

 実は死すら、あまり意味のない事なのかもしれない。

 考えないといけない事が多すぎる。

 

 俺は休憩室のベッドに横たわりながら、再度起こったことを整理する。

 

 この世界はジグラートと呼ばれる、海王星(ネプチューン)内に設置された巨大コンピューターが計算して作っている、仮想現実空間。

 この俺の肉体も単なるデータの産物だ。言わばVRゲームのアバターだな。

 

 そして、海王星人(ネプチューニアン)のクリスが地球を管理し、人類の危機を救いながら文明、文化を育ててきた。ただ、クリスは主体的に動くわけではない、陰から支えるだけだ。

 しかし、なぜ海王星人(ネプチューニアン)はそんな大掛かりな面倒くさい事をやるのだろうか? 海王星にあんな巨大コンピューターを、一万個も用意するなど明らかに異常だ。こんな大変な事、何かメリットがないと絶対にやらない訳だが……どんなメリットがあるのか想像もつかない。

 人間で言ったら、巨大な箱庭を一万個作り、そこにそれぞれ動物園作って、動物育てているようなものだろう。見ていて楽しいかもしれないが、楽しいだけでこんなことやるだろうか? ちょっと筋が通らない。

 海王星人(ネプチューニアン)が何を考えて、こんな事をしているのかは、皆目見当がつかない。

 

 では次に、この俺の思考はどうなるのだろう?

 これもジグラートの計算上に作られた、千数百億個の脳細胞の動きのシミュレーションの結果なのだろうか……。

 いやいや、シアンは俺をポリゴンにして見せたが、ポリゴンでも動けていた。つまり、海王星人(ネプチューニアン)は厳密なシミュレーションに、こだわっている訳ではなさそうだ。かなり巧妙に端折(はしょ)ってるはずだ。

 何しろ月ですら、誰も見てない時は消えているのだから。

 

 と、なると、思考も脳細胞のシミュレートではなく、直接光コンピューターで計算しているのだろう。脳は飾りに違いない。

 しかし、一応辻褄合わせはしないとならないから、頭蓋骨を開くと脳は見えるのだろう。そして、顕微鏡で観察したら神経線維も見える。でも、頭を閉じた瞬間にすべて消える。

 医療機器のCTスキャンで観測すれば、脳は浮かび上がってくるけど、CTから降りたらまた消える。

 脳血管に動脈瘤がある人は一定確率で破裂し、一定確率で死ぬ。手術が間に合った人は脳の一部機能が欠損した状態から、シミュレーションが再スタート。

 

 でも当然、そう言うカラクリに気づいてしまう人も、たまに出てしまう。それは……教授みたいに記憶を消して終わり……だな。

 

 俺は大きく息を吐き、何気なく自分の手を見てみる。

 血管に指紋……実に精巧にできているが……、さっきポリゴンにされた時の手を覚えている俺からしたら、もはやフェイクにしか見えない。

 

 うまく誤魔化しているなぁ……。最高精度のリアルワールドにしか見えないよ。

 

 俺は起き上がるとペンを取り、自分で地球シミュレーターを作るとしたら、どのくらいのスケールになるか試算してみた。

 

 ・空間分解能と時間分解能を人間の認識できるレベルまで省略

 ・計算は人間が認識できるところだけに絞って省略

 ・量子力学の対応が必要な部分とそうでない所を分けて、それぞれに必要な計算量の試算

 すると、冷蔵庫サイズの量子コンピューターが、一億個あれば実装可能だという結果になった。まさに先ほど見せられたジグラートと同レベルのサイズである。俺達が作ったシアンが、この先どんどんいろんな発明をして、コンピューターを高度化して行ったら、何十万年もしたらそんなのも作れてしまうだろう。現実解だ。

 

 この世は仮想現実であるという『シミュレーション仮説』は、随分前から言われていて、科学者によっては『シミュレーションの方が妥当性は高い』と言っていた事を思い出した。アメリカの、テスラなどを生み出した実業家、イーロン・マスクもシミュレーション仮説を確信していると明言していた。

 宇宙に他の知的生命体が居ない、痕跡一つ見つからないというのも、シミュレーションだからとしか説明がつかないらしい。

 

 うーん、しかしなぁ……。

 自分がゲームのアバターと同じだと言われて、そのまま納得できる人間なんて居るのだろうか?

 俺はこの先、どう生きて行けばいい……。

 そもそも、アバターの人生に意味なんてあるのか?

 由香ちゃんも美奈ちゃんもみんなアバター……。

 ただのハリボテ……。

 可愛いハリボテ……。

 ……。

 

 グルグルといろんなことを考えているうちに、俺は眠ってしまった。

 

 

         ◇

 

 

 スマホからマリンバの音がけたたましく鳴り響いた。

 

 う?? 何だ? 誰だ?

 スマホを見ると、由香ちゃんからだ。

 目をこすりながら出ると、

 

「誠さん、大変よ! TV、TVすぐ点けて!」

 電話口で由香ちゃんが慌てている。

 

 寝ぼけ眼でTVのリモコンを探して、点けてみる。

 そこには『天空の城』が映っていた。

 

 

「相模湾上空に謎の飛行物体が出現しています!」

「現在政府は緊急の対策会議を招集し、情報の収集と対応策について協議しています!!」

 

 アナウンサーが緊迫した声で話している。

 

 望遠レンズで捉えられた映像は、空に浮かぶお城を映していた。

 その城はラピ〇タを実写化した、と言うよりは、空に浮かぶ金属の構造物であり、まるで空飛ぶ化学工場という風情だった。

 きっとシアンなりに、凝ったつもりなのだろう。

 

「あー、シアンの奴、本当にやりやがったな」

 俺が、寝起きのしゃがれた声を出すと、

「誠さん、どうしよう!?」

 と、由香ちゃんは今にも泣きそうな声を出す。

 

「どうしようって言っても……クリスも倒れちゃったし、俺達にできる事なんてあるのかな?」

「でも、シアンは私たちの子よ! このまま放置はできないわ!」

「うーん……。そう言われてもなぁ……。分かった、ちょっと考えてみるよ」

「私でも、できる事あったら言ってね!」

「オッケー」

 そう言って電話を切った。

 

 ネットで情報を集めてみると、

 

『ラピ〇タは本当にあったんだ!!!』

『ラピ〇タは相模湾にいる。聞こえないのか? このまま進め。必ず入口はある!』

 

 SNSの連中はみんな浮かれている。お前ら危機感無さすぎだ。相手は万能の力を持ってしまったAI、その気になれば人類を滅ぼすくらい朝飯前なのに。

 とは言え、どんなに危機感を持ったとしても人類はシアンに対抗など不可能ではある。奇跡を使いたい放題となってしまった、好奇心の塊の赤ちゃんに打つ手などないのだ。

 データを分析しているページによると、200mくらいのサイズの城が相模湾の上空500mに留まっている、という事らしい。

 

 飛行機やヘリコプターが近づくと、突風で危険な状態になり、皆距離を保ちながら観察を続けているとの事だ。

 近くから撮った映像の分析によると、城の中では黄色いネズミが多数動いていた、という報告もあり、シアンは本気でテーマパーク化をしようとしているらしい。

 

 今後アニメに出て来たような構造物が、次々に登場するのだろう。

 一体世界はどうなってしまうのか。

 俺は頭を抱えた。

 

 そもそも俺がシアンを作らなければ、こんな事態にはなっていない訳であり、責任は凄く感じる。しかし、この世界が仮想現実だったというのは、俺のせいではない。仮想現実の世界にも責任は発生するのだろうか……?

 

 どうも思考が定まらない。

 何かを見落としているような、モヤモヤとした違和感が俺を包んでいる。

 俺には、何かやるべき事があったような……?

 

倒れたクリスに、暴走するシアン……。

ん? 倒れたクリス……?

 

 俺は思わず腿をパンと叩いた。

 ここに来てようやく思い出した。

 

「第三岩屋だ!」

 

 俺は一体何をやっていたのだ。

 クリスが倒れたら、第三岩屋へ行かなきゃいけないじゃないか!

 こんな事やっている場合じゃない、今すぐ行かなくては!

 あ、でも大潮の干潮でなくては、入れないのだった……。

 

「潮見表! 潮見表!」

 俺は急いでPCを立ち上げ、検索する。

 

「今日は大潮! やった! えーと……干潮は14:34!?」

 

 もうお昼だ! 時間が無い。

 岩屋へ行くなら、装備が必要だ。波が打ち付けている岩場を、ロッククライミングの様にして行かないといけないのだから、装備が無ければ死んでしまう。

 まずは、胸まで防水の胴長が必須だな……。それに、ロープ、ヘッドライト、軍手……買わなくてはいけない物が沢山ある。

 

 またスマホが鳴った。由香ちゃんだ。

 

「誠さん、大変! どうも自衛隊が出動するみたいよ!」

「自衛隊? 兵器なんか使ったってシアンには効かないぞ。下手に刺激したらシアンの奴、何しでかすか分からないってのに!」

「ど、どうしよう??」

 由香ちゃんはオロオロしている。

 

「実はこれから、クリスを助けに行こうと思ってるんだ、来る?」

「え? もちろん行く!」

 俺は第三岩屋の話をし、危険性についても説明した。

 

「あの子を止めるためなら、何だってやるわ!」

 由香ちゃんは強い決意で乗ってきた。

 

「それじゃ田町駅の改札に集合! アウトドアの靴と服装でね!」

「分かったわ! 二人であの子を止めましょう!」

 力強い声がスマホから聞こえてくる。

 

「よし! 行こう!」

 俺たちは、混迷した事態の突破口を見つけた思いがして、高揚感に包まれていた。

だが、それが命に関わる試練の入り口とも知らずに……

 

 



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5-8.インドラの矢のリアル

 改札前で待っていると、由香ちゃんが、カーキ色のチノパンにネイビーのジャケットを着て、走ってやってくる。

俺はその姿を見て、緊張してこわばっていた心がほぐれていくのを感じていた。

 

「ごめんなさい、ちょっと遅れちゃった……」

 由香ちゃんは、息を切らしながら言う。

 

「大丈夫、まだ間に合うよ。ありがとう」

 俺はニッコリ笑った。

 

 品川で乗り替え、東海道線に揺られながら、クリスの言った事を伝えた。

 

「第三岩屋の石像の指さす所……ね。何があるのかなぁ?」

 絶望の中に見えた一筋の光明である。由香ちゃんはワクワクしている。

 

「何だろうね。クリスが説明できなかったところを見ると、きっと仮想現実空間が絡んだ仕掛けなんだと思うよ」

「何だかとんでもない物がありそうね!」

 嬉しそうに顔を輝かせ、息を弾ませる由香ちゃん。

 

 ただ、俺はさっきからひどく胸騒ぎがしていた。何かを見落としている……。本能が俺に警告を与え続けていた。

 しかし、俺たちにはもう第三岩屋に行くしか手はない、何があろうとも行くしかないのだった。

 

 俺はコンビニで買ったサンドイッチとお茶を出し、由香ちゃんと一緒に食べながら、スマホで天空の城の情報を集める。

 天空の城は世界中で大ニュースになっており、ニューヨークのタイムズスクエアでは、街頭のあちこちの巨大スクリーンにLIVE映像が放映されている。多くの人が真剣に見入っているようだ。

 これは人類にとっては第一種接近遭遇であり、UFOとの歴史的な邂逅(かいこう)なのだ。数十億人が今、天空の城に心を奪われている。

 しかし……その実態は俺がヘマをして壊してしまった出来損ないAIの暴走……。こんな大きな騒動になってしまって、俺は胃がキリキリと痛む。

 大きくため息をついてうなだれる俺の背中を、由香ちゃんはゆっくりとさすってくれる。俺は由香ちゃんのやさしさに救われた思いがした。

 

 天空の城は相模湾で発見された後、ゆっくりと移動しながら鎌倉付近から内陸に入り、北上しているらしい。このコースはゴジラの上陸コースと同じだ。一体何を考えているのだろうか……。

 

 俺達は藤沢駅の釣具屋で装備一式を買い込み、片瀬江ノ島駅まで来た。

 眩しい日差しに広がる青空、俺たちは爽やかな海風の中、江ノ島の方へ歩いていった。

 海岸沿いで橋を渡ると、道行く人が川の上流の方を指さしている。

 

 何だろうと思って振り返ると、そこには天空の城が飛んでいた――――

 

 もっと東側にいると思っていた俺は、意表を突かれ、思わず間抜けな顔で天空の城を見つめた。

 ゆっくりと移動する巨大な金属構造物は十機ほどのヘリコプターを従えて、ゆっくりと鎌倉から藤沢方向に向けて移動している。

 

 城はTVで見た時よりはずっと大きく、ずっとどっしりとした質感を持って宙に浮いていた。上半分は京浜工業地帯で見たケミカルプラントのようで、デカい金属塔の周りに無数のパイプが整然と巻き付いており、陽の光を反射して光っていた。周りにはいくつかの金属タンクや小さな塔が並んで見える。金属タンクには丸い窓がついており、黄色いネズミはここで見えたらしいが……遠くてよく分からない。

 

 大きな塔の上には炎が噴き出しており、実に力強く、格好よく見える。小さな塔からは白煙が上がり、サイバーパンクな雰囲気だ。塔の周りには青いランプがあしらわれており、直射日光の下でも鮮やかに煌めいていた。

 城の下半分は真っ黒な尖った八角錐となっていて、そこにいくつか金属の棘が生えている。ちょっと不気味である。

 

 これがシアンの出した空飛ぶ城の答えらしい。確かに先進的でカッコよく、俺好みではある。

 

「なんだか不気味なお城ね……」

 由香ちゃんが眉をひそめながら言う。

 

「そう? カッコいいと思うけどな」

「女の子にはこういうのは分からないわ、どうせお城を作るなら中世ヨーロッパのお城にすればよかったのに……」

 

 どうも女の子ウケは悪そうだ。一応シアンも身体は女性ではあるのだが……。

 

 俺が作る事があるなら中世ヨーロッパ様式にしよう。それこそ『結婚式を挙げたい』と女の子が言うような、ファンタジーで素敵な城にしてみようと思った。

 

 しばらく城を目で追っていると、急に方向を変え、こちらに向かってきた。

 

「あれ? なんかこっち来るぞ」

 俺がそう言うと、由香ちゃんは、

 

「私たちに気が付いたのかも? どうしよう……」

 と、俺の腕にしがみついた。

 俺は由香ちゃんのつかんでくる手に、手を重ねながら城を見ていたが、城は急に速度を上げ、こちらに迫ってくる。

 

「おわ! これはヤバい! 逃げよう!」

 俺と由香ちゃんはダッシュで橋を駆けた。

 

Zoom(ゴウン)Zoom(ゴウン)

 空気を震わす重低音がどんどん迫ってくる。

 みるみる大きくなる城。

 

「キャ――――!!」「うおぉぉ!!」

 あちこちで悲鳴が上がる。

 

俺たちは顔を真っ赤にして全速力で駆けた。

 まるで山のように見える巨大な城、それが今、ものすごい速度で重低音を放ちながら俺たちに覆いかぶさってくる。

「くるぞ!伏せて!!」

 橋を渡り終えたところで荷物を放り出し、俺たちは地面にヘッドスライディングした。

いきなり暗闇に覆われ、小石まじりの強烈な突風が俺たちを襲う。

「いやぁ――――!! 誠さ――――ん!」

 轟音響き渡る中、由香ちゃんの悲痛な叫びがあがる。

 

Bang(ガン)

 

 激しい衝撃音が全身に響き渡り、体が浮いた。城の底が橋に衝突し橋を真っ二つに割ったのだ。さらに、止めてあった車を吹き飛ばし、街灯をなぎ倒し。まさに地獄絵図となった。

 

「シアンちゃん! もうやめてー!!」

由香ちゃんは、号泣しながら叫ぶ。俺は彼女の手を握り締める事しかできなかった。

 

 城の底は俺たちの上すれすれをかすめながら海へと抜け、思いっきり海面にぶつかって派手な水しぶきを上げた。

そして、巨大な波を周りに放ちながら再度上昇を始め、高度を取っていった。

 

「きゃははは!」

 空耳かもしれないが、そんな笑い声が聞こえた気がした。

 

 追随していたヘリコプターたちは、がれきの中で九死に一生を得た俺たちの様子をカメラに収めながら、バタバタとうるさい音を立て、城を追っていく。

 

 俺も由香ちゃんもあまりの事に、しばらく突っ伏したまま動けなかった。

 シアンは俺たちを狙ってわざわざ城をぶつけに来たのだ。もちろん、確実に殺そうとした訳ではないだろうが、挨拶とかそういうレベルではなかった。シャレにならない体当たりに、事の重大さが嫌というほど身に染みる。

 これはまさに脅威、人類にとっても俺たちにとっても深刻な脅威なのだ。

 早くクリスに会いに行かねばならない。

 

 俺は少し擦りむいた(ひじ)を見ながら、ゆっくり起き上がり、服の埃を落とすと、由香ちゃんを優しく引き起こした。

 

「あいつ、笑ってたぞ」

 俺がそう言うと、由香ちゃんは潤んだ目で下を向き、黙りこくってしまった。

 俺は優しくハグをして、背中を軽くポンポンと叩く。

 すると由香ちゃんの身体が細かく震えだしたのに気が付いた。大切に育ててきた自分の子供に殺されかけたのだ、その想いは俺にも痛いほどわかる。

俺はしっかりときつく抱きしめる。

しばらく二人はお互いの息遣いを聞いていた。

柔らかな体温が、じんわりと俺の心を温めていく……。

 

 

      ◇

 

 

 バタバタとうるさいヘリコプターのうちの一機から、拡声器で声が上がった。

 

『我らが神! シヴァよ! 復活をお待ち申し上げておりました!』

 けたたましい音量で、割れた声が響き渡る。

 

 一体何が起こったのか……、周りの人は皆、声をかけているヘリコプターの姿を探した。

 すると、城は急に動きを止め、ゆっくりと回転を始めた。

 

『我々はシヴァ天網(てんもう)教です。シヴァ神のご降臨を心よりお喜び申し上げます!!』

 

 どうやら天空の城の出現を、金余りの宗教団体が追っているらしい。

 確かにこんな物理法則を無視した現象は、神の御業(みわざ)にしか見えないだろう。ただのAIの暴走とは誰も思わない。

 

 すると、城の上空に、青空をバックに深紅の眩しいラインが高速に描かれ始めた、それは直径500mくらいの円となり、やがて魔法陣となった。

 

 俺は唖然とした。精緻に過剰にカッコよく描かれた魔法陣には、意味など何もないだろう。ただの演出だ。

 

「あのバカ、アニメの見過ぎだ……」

 こんな中二病的な演出、一体何を考えているのか。

 

『おぉ、シヴァ神よ!』

 新興宗教の連中は大喜びだ。

 

 しかし、シヴァはインドの神のはず、こんな中世ヨーロッパ的な演出で喜ぶのはまずいのではないだろうか?

 

 すると、魔法陣の中心から何かがゆっくりと出現し、降りてくる……。

 何だろうと目を凝らすと……靴下だ……。

 

「あ、『赤ちゃん本店』で買ったネコちゃん柄の靴下だわ……」

 由香ちゃんが指さして声を上げ、思わず両手で口を覆う。

 

 次に水色のベビー服、つなぎの足が出てきた。

 

「あいつ、出てくるつもりだぞ、それにしてもデカすぎないか?」

 城の大きさが200mだとすると、靴下だけで10mくらい、身長は100mにはなりそうだ。

 

 俺はスマホをチェックしてみる。どこのネットニュースでもトップで動画中継を行い、また世界各地の様子をライブで紹介していた。

 

 世界中の人が今、この前代未聞のショーを固唾をのんで見守っている。

 まさに未知との遭遇。物理法則を一切無視した不可解なショーの本編が、今まさに封を切られた。

 

 やがてシアンは全身の姿を現し、天空の城に降り立った。

 

 巨大なかわいい赤ちゃんの登場に世界中は色めき立った。この赤ちゃんは神か悪魔か宇宙人か、世界中の人は全く予想もしなかった展開にざわついた。ある者は狂喜乱舞して踊りだし、新たな時代の到来を全身で喜んでいるようだった。

 折角極秘で進めてきた深層守護者計画は今、全人類の前にとんでもない形で開陳されてしまった。これから訪れるだろう心臓に悪い展開の予感に、俺は全身の血の気が引いていくのを感じていた。

 

 シアンは

「ぎゃははは!」

 と地面が揺れるような重低音の大きな声で、嬉しそうに笑った。

 

『シヴァ神のご降臨、バンザーイ! バンザーイ!』

 ヘリコプターからは感極まった声が鳴り響く。

 

 シアンはそのヘリコプターを睥睨(へいげい)すると、カメレオンの舌のように右腕を高速にニュルッと伸ばし、ガシッとヘリコプターを掴んだ。

 バン!という派手な音を立てて、プロペラは折れ飛び、破片がひらひらと舞いながら海面に落ちて行く。

 

『うわぁぁぁ!』

 叫び声が響き渡る。

 

 シアンはヘリコプターを目の前に持ってくると、ニヤッと笑い。

 なんと、大きな口を開けた。

 

 世界中の人が『まさか!?』と思う中、シアンはパクっと一口でヘリコプターを丸呑みにした。

 

「ひぃ!」「うわっ!」

 見ていた周りの人から驚きの声が上がる。

 

 そして、シアンは口から飛び出ていた尾翼を「プッ」と吹き飛ばし、

「ぎゃははは!」

 と、再度重低音を響かせながら笑った。

 

 尾翼はクルクルと舞いながら落ち、海面に派手な水しぶきを上げ、消えていった。

 

 とんでもない事になった。友好的に近づいてきたヘリコプターを一瞬で葬り去ったのだ。これは人類にとっては宣戦布告となる。シアンは人類の敵である事が確定してしまった。映像を見入っていた世界中の人々はあんぐりと口を開け、いきなり現れた奇妙な恐るべき人類の敵をどう受け止めていいのか混乱し、衝撃を覚えていた。

 

 危険を感じた他のヘリコプターは一斉に反転し、逃げ始める。しかし、シアンは次々に手を伸ばし捕まえては、次々と美味しそうに食べていった。

 

 その様子はまるでお菓子を貪る幼児そのものであり、映像を食い入るように見ていた世界中の人にとってはまさに悪夢の映像となった。見た目はかわいい赤ちゃんの邪悪さにショックを受け、皆、言葉を失っていた。

 

 結局、上手く逃げられたヘリコプターは二機くらいだった。

 

「あぁぁ! そんなの食べちゃダメ! お腹壊すわよ!」

 由香ちゃんが錯乱気味にそう言うが、もはやそういう問題じゃない。ついに犠牲者を出してしまったのだ。俺はショックで頭を抱え、しゃがみこんでしまった。

 これでもう後戻りできなくなった。シアンは全世界から敵として認定されたのだ。俺たちの創ったAIは今まさに人類の敵として、全世界にデビューしてしまったのだ。

 今までの俺たちの苦労は一体何だったのか? こんな惨事を起こすために必死にやってきた訳ではないのに……。俺は絶望で目の前が真っ暗になった。

 

 

      ◇

 

 

 絶望の中、恨めしくシアンを睨んでいると、その向こうの方に何か動く影を見つけた。

 高速で移動している二つの黒い点……。

 

 急いで双眼鏡を取り出して見てみると、それは二機の戦闘機だった。ステルスの形から推測するにそれはF-35A、最新の戦闘機のようだ。

 

 次の瞬間、ミサイルが一斉に発射された。八発ほどのミサイルはオレンジ色の炎を吹きながら薄く白い航跡を描き、一直線にシアンに迫る。ついに軍事力が行使されるに至った。これはもはや戦争なのだ。

 世界中の人たちは歓喜した。最新鋭戦闘機がこの得体のしれない悪魔を葬り去ってくれる。人類の英知を集めた最先端科学技術の塊は、きっと何らかの成果を上げてくれるに違いない、と誰しも期待をかけた。

 

 シアンはミサイルを見ると、ニヤッと笑い、手のひらをミサイルの方へ向けた。すると、今度は真っ青に光る魔法陣が、手のひらの前に展開されていく。

 

 全世界の人たちがくぎ付けになったミサイルの行方は、願い空しく全て魔法陣が粉砕した。なんと、シアンには一発も届かなかったのだ。

 

 そして、逆に手を超高速でビヨーンと伸ばし、反転して逃げようとする戦闘機をむんずと(つか)んだ。パイロットは慌ててカタパルトを射出して脱出したが、戦闘機はなすすべなくシアンの玩具となった。

 シアンは戦闘機を両手でつかみ、

 

「ぐおぉぉぉ!」

 

 と、重低音の咆哮をあげると、真っ二つに折った。

 折れた所から火がでて、ボン! ボン! と爆発を起こしながら大きく炎が上がる。

 

「ぎゃはははは!」

 笑い声をあげるシアン。

 

 戦闘機を破壊し、業火の向こうで笑う赤ちゃん、世界中の人々に戦慄が走った。最新鋭の戦闘機がおもちゃの様に蹂躙されてしまったのだ。もはや、人類の軍事力ではこの赤ちゃんに対抗できないかもしれない。世界は、人類は一体どうなってしまうのか、最初は歓喜して笑っていた者もすっかり黙り込んでしまった。

 

 悪魔か宇宙人か分からないが、この世の(ことわり)を破壊する超自然的存在が爆誕したのだ。人類の歴史が大きく転換する予感に、数十億人が固唾をのんでシアンを見つめていた。

 

 すると今度はシアンの背後、太平洋の方から何かが飛んできて次々と爆発を起こした。多分艦対空ミサイルだろう。海の方を見てもそれらしき船は見つからない所を見ると、数十キロくらい離れた駆逐艦から発射されたに違いない。

 

 静まり返っていた世界は一転、歓喜した。今度は直撃である、きっと何らかのダメージを与えられたに違いない。誰しもそう思った。

 

 しかし……、爆炎が引いていった後、シアンや城には何の被害も見受けられなかった。

 傷どころか、汚れ一つついていなかったのである。

 

 物理攻撃は無効にでもしているのだろう。ここは仮想現実空間、管理者(アドミニストレーター)なら何でもアリなのだ。

 

 世界はまた静まり返ってしまった。

 

「オーマイガー……」

 世界の多くの人がそうつぶやいていた。

 

 直撃してもダメという事であれば、少なくとも通常兵器は全く効かないという事なのだ。残されるは核攻撃しかないが、そんなの使ってしまったら人類側の被害も甚大だ。早くも人類は追い込まれてしまった。

 

 不意の攻撃を受けたシアンは、ちょっと怒った様子で太平洋の方を向くと、顔の前で両手を向かい合わせにした。すると、手の間で激しい閃光が走り始め、その光はどんどん強さを増していった。

 

 皆、とんでもなくヤバい事が起こる予感に戦慄した。物理法則を無視する奇怪な赤ちゃんが、信じられない量のエネルギーをその手のひらに集めている、無事で済むわけがない。

 

 もはや直視ができないレベルにまで激しく輝いた瞬間、シアンはそれを太平洋に放った。閃光の玉はビームの様に超高速で走り、数十キロ先の海面で炸裂する。雷が同時に何億発も落ちたような激烈な閃光が太平洋沿岸一帯を覆い、俺の目も眩しさにやられて何も見えなくなった。

 

「うわぁぁぁ!」「キャ――――!!」

 周囲の人たちから叫び声が上がる。

 (ほほ)に熱さえ感じる程の、予想をはるかに超えたエネルギー量に、俺はもはや絶望を通り越して気が遠くなる思いがした。

 

 しばらくして目が徐々に見えてくると、海上には巨大な衝撃波の白い球が拡大している様子が分かってきた。その後、中には真っ赤なキノコ雲が立ち上っていく……。

 その禍々しい真紅の巨大なキノコ雲は、全世界の人々を恐怖のどん底に突き落とした。

 

 シアンがその気になったら、人類はあっという間に滅ぼされてしまう事を本能的に理解させられたのだ。こんな滅茶苦茶な存在と人類はどうやって接したらいいのだろうか? と、世界中の人々は半ば絶望に似た疑問に(さいな)まれた。 

 

 周りにいた人たちもしばらく呆然としていたが、そのうち口々に

 

「インドラの矢だ! インドラ!」

「インドラの矢が撃たれた!」

「ソドムとゴモラを滅ぼした、天の火だ!」

 と叫び始めた。

 

 インド神話に伝えられる神、インドラはその(いかずち)で核兵器並みの破壊力を行使したという。アニメ映画でも出ていたが、なるほど、神話通りの状況だ。ただ……、実態はそんな神聖なものではない、できそこないのAIのいたずらにすぎないのだ。

 

 シアンは大爆発を満足そうに眺め、また巨大魔法陣を描くと城ごとその中へ消えていった。

 

 今頃、首相官邸や世界の首脳陣は大騒ぎだろう。

 通常攻撃の全く効かない、核兵器レベルの攻撃力を持った不可解な存在の登場は、世界の軍事バランスを大きく崩す。ただでさえ小競り合いを続けている世界各国は、シアンの登場でさらに大きく揉めるだろう。

 日本は……世界はどうなってしまうのか……。

 

 思い起こせば、きっかけはミィが轢かれてしまった事だった。愛する者を失った悲しみがシアンを壊してしまった。そしてその気持ちは、最愛の母に捨てられた俺には痛いほど良く分かる。

 愛はもろ刃の剣だ、人を限りなく強くもするし、壊しもする。俺はばあちゃんの愛で何とか立ち直れたが、生まれたてのAIのシアンには、その悲しみを上手く中和する事が出来なかったのだろう。

 

『あの時、ドアの鍵さえかけていれば……』

 俺は自分の不注意を悔い、シアンに申し訳なく思った。

 

 と、その直後、

 

 BANG(バン)

 

 いきなり俺たちは吹き飛ばされ、由香ちゃんともども地面に転がった。

 

「うわ~!!」

「キャ――――!」

 群衆は皆、倒れこんでしまっている。

 

 そうだった。衝撃波は、爆発後に遅れてやってくるのだった。

 平和ボケしていた自分を後悔した。

 

「由香ちゃん大丈夫!?」

 俺は隣で倒れている由香ちゃんを、軽くさすった。

 しかし、返事がない。

 身体は大丈夫そうではあるが、精神的にひどくダメージを受けてしまっているようだった。俺は手を取ると握り締め、しばらく由香ちゃんを見つめていた。

 やがて、由香ちゃんはゆっくりと上半身を起こし、うつろな目をして言った。

 

「シアンちゃんはこんな子じゃなかったわ……」

 そして、俺の目を見ると、

「ねぇ、誠さん、私どうしたらいいの?」

 そう言って涙をポロポロとこぼした。

 

 俺は隣に座ると何も言わずゆっくり由香ちゃんを抱きしめ、嗚咽(おえつ)する背中をそっと優しくなでた。

 手塩にかけて育てた可愛い可愛い自分の子が、とんでもない化け物になって人類に立ちはだかる、それは胸を引き裂かれるような絶望だ。これを分かってあげられるのは俺しかいない。

 俺は由香ちゃんの想いに寄り添い、丁寧に背中をさすった。

 

 ひとしきり泣き終わると、由香ちゃんはスクっと立ちあがって強い声で言った。

「ダメ、こんなの! 止めなきゃ!」

 

 そして、荷物を拾うと、

 

「岩屋へ行くわよ!」 そう言って、ツカツカと早歩きで江ノ島へ歩き出す。

 

 俺は大きく息を吐き、心を落ち着けてシアンが消えた空を眺めた。

 子供の過ちを正すのは親の役目だ。例え愛ゆえに壊れてしまったとしても、それは愛の力で正さねばならない。

 いつの間にか愛を語っている自分にちょっと違和感を感じながら、俺は由香ちゃんを追いかけた。

 

 

        ◇

 

 

 俺たちは連絡橋を渡り、丘を超えて外洋側に出た。

 目の前に大きく広がる水平線に青空、それに富士山、実に爽快だ。レジャーで来れたら最高だったのだが……。俺は自らの運命を呪った。

 

 岩屋の入り口の料金所は、騒ぎで誰も居ない。俺は入場料を置いて、第二岩屋の入り口まで行って装備を整える。

 しかし、下を見てみると、切り立った岩場に激しい波しぶき、とても簡単に行けるような感じではない。

「うわ~、ここかよ……」

 

 俺がひるんでいると、

 

「誠さん、他に道はないのよ!」 と、由香ちゃんが涙目で、自分に言い聞かせるように言う。

 

 確かに、ここで諦める訳にも行かない。

 俺は木製の手すりの根元にロープを結びつけると、一歩一歩丁寧に足場を確保しながら下に降りた。4mほど降りて横の方へ行くと……なるほど、小さな穴が、波しぶきに洗われているのが見える。

 

 入口があるとすると、あそこだ。

 

「あったぞ!」

 俺は、由香ちゃんに叫んだ。

 すると由香ちゃんは、沖の方を指して叫ぶ。

 

 「誠さん! ダメ! 津波よ! 早く登ってきて!!!」

 

 俺が後ろを見ると、海面が大