1940年ローマオリンピック (神山甚六)
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「高橋翁の屍を越える覚悟があるのか」賀屋理財局長はいった。

 


 昭和11年(1936年)5月3日。帝都東京は、不穏な空気に包まれていた。

 

 同年2月20日に行われた第19回総選挙は、岡田(おかだ)啓介(けいすけ)(海軍出身)内閣の与党である立憲民政党の勝利に終わった。単独過半数にはおよばないものの、民意が岡田内閣続投を支持したのは明らかであった。それを裏付けるように、野党として岡田内閣と対決姿勢を強めていた立憲政友会は議席を大幅に減らし、鈴木(すずき)喜三郎(きさぶろう)総裁も落選する歴史的大敗を喫する。

 

 岡田内閣の長期政権化と内閣改造もささやかれ始めた2月26日。雪が降りしきる帝都東京において、軍事クーデターが発生した。首謀者は岡田内閣続投に反対する陸軍皇道派の青年将校であり、彼らが「君側の奸」とみなした政府首脳や軍高官を殺害。天皇親政による軍事政権樹立を求めた。反乱軍は早期に鎮圧されたものの、穏健派有力者が殺害された影響は大きく、日本政治は再び漂流を始めた。

 

 事件の責任を取り、岡田内閣は総辞職する。後任には貴族院議長の近衛(このえ)文麿(ふみまろ))公爵や、朝鮮総督の宇垣(うがき)一成(かずしげ))大将が有力視されたが、宮中による各政治勢力の調整の結果、大命は広田(ひろた)弘毅(こうき)外務大臣に降下した。

 

 広田は福岡県出身の58歳。東京帝大法学部を卒業後、高等文官試験外交科を首席で合格したエリートでありながら、見た目通りの朴訥とした人格者である。貧しい石工職人の息子から苦学力行の末に現在の地位に上り詰めたが、苦労人にありがちな人格的な頑なさとは無縁であった。外務省亜細亜派の雄である山座(やまざ)円次郎(えんじろう)門下として省外と幅広い交遊関係を有しており、「傲岸不遜な外務官僚の中では話せる男」として評判が良い。外務大臣として陸海軍の対ソ強硬論を抑え、支那大陸との協和外交を掲げた対話派のスタンスを維持したことから、宮中の信任も篤い。

 

 広田への大命降下は、誰からも歓迎された。

 

 既成政党と経済界は、広田が岡田内閣の政策を継承すると予想した。革新政党を名乗る社会主義者達は、苦労人の広田は経済弱者を重視した社会主義政策を実行すると期待を寄せた。国粋主義者は、欧米の植民地支配に素朴な反感を持つ亜細亜主義者の広田に、自分達との共通点を見出した。不祥事を起こしたばかりの陸軍は「押せば引っ込む」広田は組し易いと考えた。海軍は皮肉なことに陸軍と全く同じ理由で、ロンドン条約失効後の建艦予算が通りやすくなると算盤を弾いた。

 

 組閣が進むにつれ、広田への過度な期待は雲散霧消した。誰からも好かれる人格者の広田は、誰に対してもよい顔をするため、誰からも強く支持されなかった。

 

 既成政党は、広田が組閣の過程で人事案に対する軍部の横やりを受け入れたことに失望した。経済界は、電力企業国有化を始めとして産業統制を重要課題に掲げた新内閣に対する警戒に転じた。社会主義者は、広田の人事が既成政党に融和的過ぎると不満を持った。国粋主義者は、協和外交の継承に批判を始めた。自らの政治的要求を実現させた陸軍は広田の国意識の希薄さに不安を募らせ、海軍は陸軍に対して弱腰な広田の事なかれ主義に愛想をつかした。外務省は広田を強く支持したものの、政局音痴の外務省に政治工作は期待出来ない。

 

 「新内閣はきわめて権力基盤が脆弱であり、決断力に乏しい」と結論付けられるまでに、さしたる時間は必要なかった。紙面では依然として「苦労人広田」を持ち上げる風潮は続いていたが、その努力も虚しかった。

 

 そのしわ寄せが最も早く訪れたのは、政治的な庇護者を失った大蔵省である。明治の御代より日本の国家財政と金融政策の最前線に立ち続け、政界にも財界にも軍部にも睨みが利いた高橋(たかはし)是清(これきよ)(1854-1936)前大蔵大臣は、2・26事件により、非業の死を遂げた。各省庁はこの機を逃すまいと、予算要求を次々と突きつけた。

 

 組閣にもたつく新総理に期待出来ないとなれば、市場関係者の注目は新大蔵大臣の発言に集まった。ところがこちらは広田よりも話にならなかった。馬場(ばば)鍈一(えいいち)新大蔵大臣は、長年の積極財政論者である。そのためある程度の路線変更や修正は予想されていたが、馬場は前年度より高橋前蔵相が実行していた公債漸減路線の転換を明言してしまった。これでは高橋路線の完全否定に等しい。船頭が激流に竿を刺す事態に、市場関係者の顔は帝都の空模様のように曇りがちであった。

 

「このままでは、日本経済はとんでもないことになるぞ」

 

 広田内閣発足から約1か月後。事件後初となる第69回帝国議会(特別会)の開会が目前に迫る中、霞ヶ関の大蔵省理財局長室において、2人の高級官僚が引継ぎの挨拶をしていた。

 

 1人は賀屋(かや)興宣(おきのり)。主計局長から転じたばかりの新理財局長であり、その巨躯を椅子に沈みこませながら苦悶の表情を浮かべている。もう1人は、前任の理財局長である広瀬(ひろせ)豊作(とよさく)。すでに賀屋の後任として、主計局長への内示が出されている。花形部署への大抜擢であるにもかかわらず、広瀬の顔色は賀屋と同じように冴えない。

 

 旧加賀藩士出身の広瀬は、痩身長躯に口髭を生やしていることもあって、どことなく殿様顔をしている。共に大正6年(1917年)の大蔵省入省組、互いの性格も仕事も知り尽くした間柄であるだけに、言葉に遠慮がない。挨拶もそこそこに、賀屋は今回の人事に対する懸念を口にした。

 

「実現したい政策があり、そのために人事の体制を固めたいという新大臣の意気込みは理解する。理財畑一筋の貴様を、主計局長に持ってきた理由もわかる。だが、悪戯に人事を弄ればよいというものではないだろう」

「私では、主計局長の任は重いというのかね?」

「そもそも貴様は3月に理財局長になったばかりではないか。準備運動もせずに、いきなり全力疾走をすれば、如何に健康な人間であっても体を壊す」

 

 ムッとして眉を顰める広瀬に対して、喘息持ちの賀屋はぜーぜーと荒い息を吐きながら釘を刺す。

 

「高橋翁が、どれだけ公債の市中消化と海外の債券市場の動向に細心の注意を払っておられたか、理財局の貴様が知らぬとは言わさんぞ」

 

 省庁の幹部人事は引き継ぎ等を考慮した上で、数ヵ月前には内示が出るのが慣例である。3月付で高橋前蔵相の人事が行われたばかりなのに、すぐさま人事に手を突っ込んだ馬場新蔵相の意気込みは評価するが、事の成否とは別であると賀屋は断じた。

 

 馬場新蔵相の長年の持論は「国防拡充と地方振興」である。表向きは高橋路線の継承を掲げて公債発行乱発に反対する姿勢を示してはいるものの、経済界も債券市場も、大蔵省内ですら、大臣の言葉を信用していない。

 

 例えば大臣の掲げる看板政策の「一県一行主義」、すなわち都道府県単位の銀行再編計画であるが、これは資本増強による経営基盤強化というもっともらしい理由とは別に、新規公債発行の引受先として念頭に置いていることは明らかだ。現状、日本銀行引き受けを除けば、国内債券市場で公債の大部分を消化しているのは財閥系の5大銀行(三井、第一、三菱、住友、安田)である。彼らは既成政党と密接に結びついており、馬場蔵相の金融財政政策には批判的な姿勢を崩していない。馬場としては大蔵省銀行局主導の銀行合併を後押しすることで、財政政策の自由度を高めるねらいがあるのだろう。

 

 理財局は国有財産の管理を主な仕事としており、その中には政府発行の金銭債務である公債の管理業務も含まれている。また金融機関を監督することで、金融行政全般にも幅広い影響力を持つ。それを踏まえれば、国債課長も務めた理財畑一筋の広瀬を、理財局長就任から1か月もたたない短期間で、予算編成の中心である主計局長に据えた馬場人事は、わかりやすいといえばわかりやすい。

 

「確かにわかりやすさは大切だろう。だがな、丸裸でジャングルに飛び込むとあらかじめ予告するのは、無謀というよりも自殺行為だ」

 

 賀屋の不満は自らが理財局長に「格下げ」されたことばかりが理由ではない。一連の馬場人事では、広瀬の前任の理財局長である青木(あおき)一男(かずお)(対満事務局次長)を始め、主計畑が大蔵省の中枢部から外されている。

 

 確かに高橋路線の維持を求める彼らは、馬場体制の不穏分子たりえる存在だ。だが同時に、泣く子も黙る主計官として各省庁と渡り合ってきたのも彼らなのだ。本来であれば積極財政を掲げる大臣の下、政治の意思に基づいた予算の優先順位を定める能力を有するのは誰か。政策的一致を優先する馬場人事は、大蔵省全体の政治力と発言力低下につながるのではないか。賀屋の懸念はそこにあった。

 

「金本位制問題を始め、これまでの主計局中心の体制に問題がなかったわけではない。算盤感情は重要だが、それ自体は何も産み出さないという馬場大臣の批判にも一理あるだろう。だからといって、ブレーキのない車が使い物になるものか」

「貴様にしては、随分と情緒的な物言いをするな」

「茶化している場合か。この機会に予算要求を飲ませようと、相手は手ぐすねを引いているというのに、大蔵省の方針が固まっていないのだぞ」

「いや、方針は決まっている。国防拡充と地方振興を優先して……」

「理屈と名分はどうにでもなるものだ。頭に国防と地方がつけば、中身を精査せずに予算措置を講じるつもりか?」

 

 賀屋の反論に、広瀬は口を閉ざして黙り込んだ。ここで反論しないのは、職務に対する誠実さではなく、政治的な弱さとして評価されるだろう。人間としては好感が持てるのだがと、賀屋は独りごちた。

 

「このままでは来年度予算編成は取られるものだけ取られて、相手の言い分を一方的に飲まされるだけに終わるぞ。債券市場に巣食う沖仲仕のやり口は、貴様が誰よりもよく知っているだろう。悪性インフレーションにより国民経済が窮乏した場合、新聞から悪者にされるのは職務を全うしなかった無能な大蔵省ということになるぞ」

「しかし、これは新大臣の看板政策だ。今更、方針を撤回はできない」

「貴様の自己弁護を聞きにきたわけじゃあない。高橋翁の屍を乗り越える覚悟があるのか。それを問うているのだ」

 

 論難を続ける賀屋に、広瀬も色をなして机を叩いて反駁する。

 

「賀屋、私も国債担当者として高橋翁の薫陶を受けた人間だぞ!言うに事を欠いて、それはないだろう!」

 

 喧々諤々の議論を繰り返す賀屋と広瀬。だが馬場蔵相は、すでに高橋前蔵相を支えた主計局中心の人事体系を、政治の意思として否定している。組織としての方針が人事を通じて固まった以上、官僚機構は新たな方針のもとで予算を作らねばならない。それを承知しているが故に、2人の議論は虚しく響いた。

 

 国防拡充や地方振興が不必要であると2人が認識しているわけではない。実際、高橋前大臣時代にも両分野には多くの予算が投入されている。問題は日本企業の債券市場が海外に依存している割合が高いという点だ。

 

 例えば民間電力企業の大型発電所や港湾設備改修などの大規模な事業計画における債券発行は、ニューヨークやロンドンなどの海外市場抜きには成り立たない。産業にとって欠かせない屑鉄や石油なども、輸入に依存している。債券利払いや代金支払いのために、貴重な外貨を費やし続ける中で、現行を上回る公債を前提とした大型予算を編成するとなると、外国為替市場への影響は避けられない。ひいてはそれは、高橋翁の残した遺産を否定する事になる。

 

「とにかく新大臣も明言しているように、歳出削減の努力は続けるつもりだ」

「蛇口をひねりながら底の抜けた風呂に水を注ぎこむようなものだが、どこをだね?ただでさえ粛軍でピリピリしている陸軍か?またぞろクーデターを起こすとでも言いかねないぞ?海軍?山本五十六と話が通じるとでも?農林省か、鉄道省か、内務省土木局か。どこでもいいから新規公共事業をやめろと大臣に進言するつもりか?それこそ地方振興を重視する大臣にケンカを売るようなものだ。貴様の首が飛ぶぞ」

「そんなことは百も承知だ!」

 

 歳出改革の政治的ハードルを列挙する賀屋に、広瀬は顔を朱に染めて反論する。賀屋はふてぶてしい態度のまま、椅子に体を沈めて嘯いた。

 

「どうせ削ったところで、大臣があれ(馬場)では焼け石に水というものだ」

「それもわかっている。だがそれをやらねばいかんのが、今の私の職責だろう」

 

 広瀬は自分自身に言い聞かせるように言った。

 

「とにかく象徴的なものが欲しい。今はどこもかしこも、予算増額の好奇という熱にうかされている。だが債券市場の混乱は、間違いなく実際の経済指標に跳ね返るだろう。その時こそ、大臣に高橋路線への修正を迫る好機だ」

「馬場さんがおとなしく聞き入れるタマとも思えんがな。それに一度緩んだタガが、そう簡単に戻るものか。何より悪性インフレで泣くのは貴様ではない。自分が血を流さないのであれば、いくらでも耐えろと言えるだろうよ」

「……だからこそ、象徴的なものがほしいのだ」

 

 たとえ自分の首が飛んだとしても、自分の職務を与えられた範囲で全うする。その覚悟を広瀬の声と表情から感じた賀屋は、それ以上の追及を控えた。賀屋の視線の先では、広瀬が首に手を当て、唸るように思考を巡らせている。

 

「あの時、主計局は警句を出していた。それが国民に伝わるような象徴的な歳出削減があればよいのだが」

「呉海軍工廠で新造ドックをつくっているという、例の海軍の一号鑑とやらはどうだね?」

「それは貴様個人の私怨だろうが」

 

 ロンドン条約会議の遺恨を持ち出す同期に顔を顰めた広瀬であったが、ふと賀屋の背後に置かれていた局長室用の新聞ラックに視線が留まった。

 

 今朝の朝刊。東京朝日新聞と國民新聞の間に挟まれた東京日日新聞の一面には、次のように印字されていた。

 

 - 牛塚(うしづか)東京市長、五輪競技場月島案の撤回を拒否。副島(そえじま)伯爵と再会談へ -

 

「……あった」

「は?」

 

 

 ……まぁ、確かに競技場問題について「大会組織委員会に対する政府支出を見直す材料になるのではないか」と、馬場さんに提案したのは私で間違いありません。

 

 あの時は招致レースの最終版、対立都市のヘルシンキに負けまいと、最後の大盤振る舞いをしていた時期です。確か東京大会に参加した国の代表団には、渡航費に滞在費に運営資金まで、総額十数万にも及ぶ金額を援助するいう報道もありました。帝国大学を出た新入社員の初任給が、せいぜい80円前後の時代ですよ?それもまったくこちら(大蔵省)に相談もなく次々とぶち上げて、それが新聞報道によって事後報告をされるんですから、たまったものではありません。大蔵省も、私個人も相当頭にきていました。嘉納(かのう)治五郎(じごろう))先生を始め、招致活動に関わられた方々の努力を否定するわけじゃありませんがね。

 

 ベルリンの新競技場については、大会開催前から大変な話題になっていました。それまではオリンピック大会に、10万人が収容可能な競技場なんて必要ありませんでした。もっとのどかな、牧歌的なものでしたからね。それをヒトラーがナチス政権の国威発揚に使おうと、金と人員を湯水のごとくに注ぎ込んだものだから。まさに独裁国家ならではの金の使い方です。

 

 アジア初、そしてベルリン大会後の初めての大会。これが最後の最後まで響きましたね。東京大会の招致は、アジア初の夏季オリンピックということになります。前回大会よりも規模を縮小するようなことは、政治的にも不可能なんです。「アジア初のオリンピックはあの程度か」と、後世まで指をさされることになりますからね。行儀上問題の迷走は、トップダウンによってヒトラーが推進した巨大プロジェクトを、集団による協議と合意を優先する日本において、短期間のうちにぶっつけ本番でやろうとしたことにあったのでしょう。そんな大規模大会運営のノウハウは、どこにもありませんでしたし。

 

 東京市長の牛塚(虎太郎(とらたろう))さんは、隅田川河口の月島埋立地……佃島と石川島の埋め立て地を拡大した区画です。ここに新競技場を立てるべきだという主張でした。10万人単位を収容する巨大な競技場を作るのは、ここしかないと。東京市としては、ここ以外に責任を持てないと、それはもう強硬な姿勢でした。おそらく埋め立て地周辺の再開発もにらんだ、市としての考えがあったんでしょう。組織委員会に対する支出が膨らみ続けていたので、東京市議会から突き上げを食らっていたようですし。

 

 一方、招致活動の実務を担った大日本体育協会事務局と、国際オリンピック委員会の委員であった副島(道正(みちまさ))伯爵は、明治神宮の外苑部に新たな競技場を作るべきだという考えでした。ここはご存じの通り、旧青山練兵場跡地があった場所なので、土地の広さは文句がありません。埋立地と違い、地盤もしっかりしています。

 

 ところが神宮外苑案に、神宮を管轄する内務省神社局がノーをつきつけました。注文というよりも、ほとんど一方的な中止命令ですね。「そのような建物は、神宮の外観を損ねる」と。交渉の余地もなかったそうです。あくまでオリンピックは皇紀二千六百年記念式典に付属した記念行事のひとつである。そのために神宮外苑を再開発するのは筋が違うと。こういう理屈ですね。

 

 神宮外苑案には文部省も同様の理由で反対に加わりました。もっとも文部省には、五輪行政を自分の管轄におきたいという思惑があったようですが。そんなわけで競技場についても独自の代替案を出してきたんですが、委託した学者先生の案が、特別会前に新聞にすっぱ抜かれました。

 

 読んでびっくりしましたよ。なんと、代々木の練兵場に立ててしまえという内容でしたから。これが陸軍省との調整もなしに一方的に出てきたものだから、当時の寺内(てらうち)寿一(ひさいち))陸相が激怒しましてね。ああいう裏表のない性格の人だから「余暇を持て余して飛んだり跳ねたりする連中のために、帝国軍兵士が命を懸けて教練している場所を差し出せとは、何事か!」と。本気で怒るんですね。これがIOCに聞こえて、酷く不興をかったそうですよ。「日本はメインの競技場問題も決着をつけられてないじゃないか」とね。

 

 止めを指す格好になったのが、例の馬場演説です。2・26事件後の特別会として召集された帝国議会は、5月4日から3週間程度の会期予定でした。冒頭、広田総理の施政方針表明がありまして。内閣の重要政策を列挙するとともに、2・26事件に関する真相究明について、約束をされました。

 

 続いて馬場蔵相の財政演説です。あの馬場さんのいつもの調子で、進軍ラッパのような威勢のいい内容が続きまして。誰もがうんざりしながら聞いていました。「歳出改革の努力」についても触れられていましたが、誰も本気には受け取っていませんでしたよ。

 

 そうしていたら突然「大会組織委員会に対する支出を、ゼロベースで見直す」という発言がありまして。自分の耳を疑いましたよ。

 

 ……私が原稿に書いたんじゃないか?まさか。そんなことを書けるわけがありませんよ。まったくの馬場さんの独断です。恐る恐る閣僚席を確認して見たんですが……寺内陸相と(うしお)恵之輔(しげのすけ))内相が怒り狂ってるんです。前者は赤鬼、後者は青鬼でしたね。その横では平生(ひらお)釟三郎(はちさぶろう))文相と広田総理が、そろって呆然としておられたので「あ、これは事前に相談してないな」と。

 

 言い訳になりますが、私は確かに競技場問題は、組織委員会へのけん制材料になると考えてはいました。さんざん大盤振る舞いをした招致活動の後始末を、どうにかしなければという問題意識からです。寄せ集めの大会組織委員会に、嫌われ役となる締め付けが期待出来ない以上、こちら(大蔵省)でやるしかないだろうと。ところが、いきなり馬場さんが敵の総大将を目掛けて、ドン・キホーテの如く突っ込んだものだから。

 

 本会議場がしばらく静まりかえりまして、直後にとんでもない騒ぎになりました。

 

 考えてもみてください。3月にIOC委員長が来日したばかりで、臨時会が閉会した後の6月には、日本の代表団がベルリンで開催されるIOC総会に出発する予定でした。その直前で「これ」ですよ。畏れ多くも天皇陛下にも、決裁を頂いている内容を、大臣がいきなりひっくり返しちゃった。なのに当の馬場さんは、平気の平左で演説を続けている。

 

 2・26事件の真相究明なんか、どこかにとんでいっちゃいましたね。

 

- 広瀬豊作先生回顧録より -



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「IOC総会の延期が決まった」武者小路駐ドイツ大使はいった。

 1936年6月10日。ベルリン市内は、活気に満ちた喧騒に満ちていた。

 

 第12回オリンピック競技大会の開会日まで残すところ2ヶ月を切ったこの日、落成したばかりのオリンピア・シュタディオン競技場が、国際オリンピック委員会(IOC)の視察団と、各国の報道関係者に公開された。経験豊かなヴェルナー・マーチと、新進気鋭のアルベルト・シュペーアの両名により設計された屋外開放型の陸上競技場は、着工から28ヶ月という異例の速さで完成したことに加え、「メインスタジアムだけで5万人、周辺の円形競技場や広場を含めれば、10万人を収用可能である」というドイツ側の説明は、視察団の度肝を抜いた。

 

『まるで古代ローマやギリシャの神殿が、突如として現代に蘇ったかのようだ。神聖すら感じさせる厳粛な舞台の上で、躍動する現代のオリンピアン達の活躍が見られることを楽しみにしている』

 

 前IOC会長のピエール・ド・クーベルタン男爵は、案内役を務めたドイツ帝国体育連合(DRL)のフォン・チャマー=オステン会長に対して、称賛の言葉を惜しまなかった。視察団に随行した記者達は、男爵の発言を競い合うように記事にした。引退から10年以上になるが、今もなおICO委員に絶大な影響力を持つ老貴族の発言は、関係者の期待値を否が応でも高めた。

 

 この場に現IOC会長の姿がないことに、疑問を感じたものは誰もいなかった。

 

 

 帝政時代より続くホテル・アドロン・ケンピンスキーは、ブランデンブルク門に隣接するドイツ有数の格式と伝統を有する名門ホテルである。IOC会長であるアンリ・ド・バイエ=ラトゥール伯爵の姿は、最上階の貴賓室にあった。

 

「どいつもこいつも」

 

 カイザー(ヴィルヘルム2世)も愛好した部屋において、ジャポン(日本)の駐ドイツ大使との会談を終えたベルギー人貴族は、落胆を露わにしていた。その眉間には、長年の激務による肉体的疲労と精神的な苦悩による報いのような皺が、縦に深く刻まれている。

 

 ベルギー王国の首都ブリュッセルを有するフランデレン地方の政治家の家系の出であるアンリは、自他共に認める生粋の政治家である。競技選手経験を有してはいないが、1920年アントワープ大会を成功に導いた交渉手腕と実務能力を評価され、1925年にIOC会長へ就任した。

 

 アンリの就任は近代オリンピックの変質の象徴的な人事であった。世界大戦後の国際情勢の中、回数を重ねるごとに拡大する大会の運営、参加各競技の国際統括団体との交渉、スポンサー企業や報道機関との折衝、ドーピング問題や人種問題という新たな課題への対処等々。参加者の利害関係が複雑さを増すなか、IOC会長に求められたのは外交官としての素質であり、理事会運営には誠実な調整役と、政治家としての果断な決断力である。クーベルタン男爵の後任として、アンリは期待された役割を果たしてきたという自負があった。

 

 そのアンリをしても、今回のベルリン大会は苦渋の決断の連続であった。

 

 1933年に組閣したヒトラー首相は、ワイマールの置き土産であるオリンピック開催に消極的な姿勢であった。IOCからの働き掛けもあり開催を維持する姿勢に転換したものの、気まぐれな政治介入は絶えることなく続き、今では国際的な広報戦略と国威発揚の手段として堂々と利用するありさまだ。

 

 度重なる政治利用にアンリが開催地変更という強硬姿勢を示したこともあり、ナチス党のスローガンである反ユダヤ主義的なポスターは、街角から軒並み撤去された。だからといって政治犯収容所が閉鎖されたわけでも、悪名高い1933年国籍法が撤回されたわけでもない。5月にはスイス在住のノーベル賞作家トーマス・マンが、政治的言動を理由に国籍を剥奪されている。

 

 開催国ドイツの姿勢を真っ向から批判しているのは、アメリカ選出のアーネスト・リー・ヤンキーIOC委員である。ユダヤ人迫害政策と政治犯収容所の存在に警鐘を鳴らした。その矛先はIOCとアンリにも向けられ「IOCの沈黙は、ナチズムの片棒を担いでいるに等しい」と痛烈に批判。独自にボイコット運動を開始している。

 

 すでに彼に対してはアメリカ・オリンピック委員会(USOC)から解任動議が提出されているが、アンリからすれば忸怩たる思いが残る。IOC会長としてボイコット論には賛同出来ないが、ナチス政権の政治介入に苦い思いをさせられたのは一度や二度ではない。何を好き好んで、ベルギー人である自分がドイツの民族主義者の片棒を担がねばならないのか。

 

 アンリの頭痛の種は、今大会だけではない。次回大会である1940年の開催都市が未定のままなのだ。

 

 経緯はこうだ。1940年オリンピック夏季競技大会の開催地は、前年のオスロ(ノルウェー)におけるIOC総会において選出される予定であった。夏季大会の開催国には、冬季大会開催の優先権が与えられることが慣例となっており、事実上、両大会の開催国が決定することになる。ところが「某国」が土壇場で対応を変更したことで、総会が史上まれにみる紛糾を来した。結果、1936年7月のベルリン総会まで決定が延期された。

 

 現段階で立候補を表明しているのは、北欧フィンランド共和国の首都ヘルシンキ、そして極東の古の帝国の都であるトウキョウの2都市である。前回のオスロ総会における決定延期には、最有力候補であったトウキョウの関係者は無論のこと、北欧圏やバルト諸国からの支持を期待していたフィンランドの世論も激しく反発した。もしも今回の総会で決定が出来なければ、アンリのIOC会長としての責任問題となりかねない。

 

 こうした状況で行われたジャポンのムシャノコージ(武者小路)との会談内容は、アンリを大いに失望させた。

 

『7月に予定されているIOC総会を、8月のベルリン大会後に延期して頂けないか?』

 

 アンリとしてもある程度の無理難題や要望は覚悟していたつもりであったが、招致活動の継続にしろ撤退にしろ、政府としての何らかの決断が伝えられるものと予想していた。それが、まさか決定の先送りを求めてくるとは!

 

 2月に発生した軍事クーデター未遂事件は、ジャポンの政局を大いに揺るがしたことは、現地を訪問したアンリも承知している。クーデター事件直後の3月、かねてからの予定通り視察のためトウキョウを訪問したアンリは、IOC関係者や政界関係者と会談。皇帝(天皇)と謁見する機会も得た。この視察により「クーデター未遂の影響は最小限である」と判断したアンリは「オカダ(岡田)が辞職したことは痛手ではあるが、同じく招致に前向きな外務大臣のヒロタ(広田)が首相に就任した。招致活動への影響はない」という結論に至り、IOC理事会にも同様の報告を行った。

 

 ところが3月末にアンリがヨコハマを出発し、5月にベルギーへと帰国するまでの間、トウキョウの政局は激変した。財務担当大臣によるオリンピック関連予算見直し発言により、閣内不一致を露呈。財務大臣が辞任を拒否したことで、ヒロタ内閣は発足から1ヶ月もたたずに崩壊してしまう。

 

 ジャポンは政党や軍部、財界に官僚が入り乱れた政争の季節に突入している。陸相のテラウーチ(寺内)、元陸相のハッヤーシ()元老院(貴族院)議長のコノーエ(近衛)コリア(朝鮮)総督のウッガーキ(宇垣)……首相候補の名前が浮かんでは消え、消えては浮かび、その度に1から政局をやり直す。トウキョウ市の戒厳令は継続中であり、市場心理の冷え込みから株式市場は下落に転じた。ムシャノコージ大使は、再度のクーデターの可能性については断固として否定して見せたが、それも怪しいものであると、アンリは悲観的にならざるを得なかった。

 

 政局混乱の余波を受け、1940年冬季大会の開催地決定の動きも停滞した。サッポロ、ニッコー、ノリクラダッケーと、開催候補地が首相候補のように乱立し、さながら地域対立の様相を呈している。IOC総会に出席予定のカノウ(嘉納)委員の出発が直前で中止となったことも、トウキョウ開催を支持していたアンリを失望させた。あの尊敬するべき小柄な巨人がいなければ、海千山千の委員の心を動かすことなどかなわないだろう。

 

 だからといって、ムシャノコージの提案したIOC総会開催の延期の申し入れは、アンリにとって受け入れられるものではない。「招致活動に影響はない」としたアンリの理事会報告を問題視する声は高まりつつある。これ以上の妥協は、対立候補であるヘルシンキが納得しない。IOC理事会の開催を開催国の政局に従わせるとなれば、一体どこにIOCの独自性があるというのか。

 

 IOCの独自性(・・・)だと?

 

 自分の脳裏に浮かんだ言葉の滑稽さに、アンリは唇を奇妙に歪めた。オリンピックに限らず、現実から無縁でいられるスポーツなどありえない。もしもそんなものがあるのなら、IOCは現在のような醜態をさらすことはなかった。ソビエト連邦はスパルタキアードと称する独自の大会を開くことはなく、スペインもベルリン大会のボイコットという選択肢はとらなかっただろう。

 

 近代オリンピックが目指す、オリンピック精神の普及を通じた国際平和を希求するという高尚な理想が全くの無意味だとは思わない。そのために現実政治と向き合い続けてきたのは自分であるという自負もある。だがIOC会長であるアンリに、ドイツ軍の軍靴に踏みにじられたベルギー人としてのリアリズムが、激しく警鐘を打ち鳴らす。政治とは現実であり、現実といかに向き合うかが政治の本質ではないのか。現実から目を背けているのは、果たしてどちらなのか。

 

 オリンピック憲章には、クーベルタン男爵が目指すべき理想とするオリンピック精神が掲げられている。すなわち人類が古代ギリシャより継承してきた文化と教育の象徴たるスポーツを通じて、人間個人の総合的な育成(体力・知性・意思)を目指す人生哲学がオリンピック精神である。その育成と普及を通じた相互理解の促進による世界平和の希求……これこそが、IOCの設立目的に他ならない。つまり4年に一度の競技大会は、オリンピック精神を確認するための「手段」であって、「目的」ではない。

 

 アンリがIOC会長としての公平性を疑われる危険性がありながら、アジア初となるトウキョウ大会を後押ししたのも、IOC内部の慎重意見を押し切り、開催地変更というカードによってドイツ政府に民族政策の「修正」を迫ったのも、それがオリンピック精神の普及という、IOC本来の目的に合致すると考えたからだ。

 

 そして今回のベルリン大会において見せつけられた現実、政治を前面に押し出した「目的」と「手段」の逆転は、偽善と批判されつつも理想主義を貫いてきたアンリの価値観に、重大な挑戦を挑んでいる。

 

 ドイツの姿勢を疑問視する声はIOCでは少数派だ。ジークフリート・エドストレーム副会長(スウェーデン)や、アメリカ・オリンピック委員会(USOC)のアベリー・ブランデージを中心とする国際陸上競技連盟(IAAF)は、「オリンピックに政治を持ち込むな」をスローガンに、むしろ開催地変更をドイツ政府との交渉カードにしたアンリの姿勢を厳しく批判している。

 

 1890年代のスウェーデン陸上界を代表する短距離選手として、1902年にIAAFを立ち上げ、現在も会長の座にあるエドストレームと、近代五種と十種競技のアメリカ代表として1912年のストックホルム・オリンピックに出場経験を持つIAAF副会長のブランテージは、共に両国を代表する企業経営者として、IOCの有力なスポンサー企業でもある。競技選手経験者が各国のオリンピック委員会の中核を担い始める中、純粋な政治家であるアンリの影響力低下は著しい。

 

 ナチズムに反発する各国の社会民主勢力や共産党、左派系の新聞や文化人は、IAAFとは全く異なる視点でアンリのIOC運営を批判した。彼らに言わせれば、ベルリン大会におけるIOCの政治的な努力は「ナチズムの暴力性を糊塗する企みに乗せられている」に過ぎず「オリンピック精神を踏みにじる」振る舞いであり、アーネスト・リー・ヤンキーの除名問題に沈黙を保っているアンリはナチスと同列なのだという。

 

 この批判を背景に、スペインの人民戦線内閣を率いるアサーニャ首相は「ファシストの政治宣伝に利用される」として、オリンピックの正式ボイコットを宣言。独自に「人民オリンピック」なる競技大会を7月に開催すると宣言している。8月ではなく7月に開催期間をずらしたのは政治的配慮のつもりなのだろうが、IOCとベルリン大会への挑戦であることに変わりはない。

 

 ……いささか思考が脱線してきたようだ。アンリは首を振り、思考を戻す。

 

 ムシャノコージ大使が延期を提案した7月のIOC総会では、主に3つの議題に議論が集中することが予想される。1940年夏季競技大会の開催都市(すなわち冬季大会の開催国の優先権が与えられる)、人民オリンピックを看過するスペイン・オリンピック委員会の除名の是非、アーネスト・リー・ヤンキーIOC委員の解任動議だ。

 

 スペインの除名に賛同し、選手に対してボイコットを呼び掛けるリー・ヤンキー委員の解任動議を強硬に主張しているのは、やはりIAAFを中心とするIOC委員である。「オリンピックに政治を持ち込むな」「政治的理由で、選手の出場機会を奪うべきではない」というエドストレーム副会長の正論に、IOC委員が反論することは難しい。

 

 IOC会長としてもアンリ個人としても、ボイコット議論には与しない。今大会の政治利用の是非は別として、開催国の政権交代や政治的主張を理由に開催権を剥奪したと解釈されれば、近代オリンピックの掲げる政治的中立性は損なわれ、存在価値を失うことになるだろう。しかし現実から目を背け続けることは、オリンピック精神をIOC自身が踏みにじることにもなりかねない。

 

 果たして今の自分の判断が、後世の批判に耐えうるものであるのか否か。老練な政治家であるアンリをしても確証が持てずにいた。

 

「どうしたものか」

 

 再び視線をパリ広場に向けると、柱の影が先ほどよりも長く伸びている。腕時計を見やると、次の予定時刻が迫っていた。

 

 

 イタリア王立オリンピック委員会(CONI)委員長のアッキレ・スタレス。陽気な南イタリアの男は、1889年生まれの47歳。卵のようにつるんとした肌は日に焼けているが、これはエチオピア帰りだからだろう。

 

 これまでエチオピア帝国はオリンピックに参加したことはないが、おそらくこれから先もない。1935年10月から開始されたイタリアの第2次エチオピア(侵略)戦争は、今年の5月7日にイタリア国王により発表された「東アフリカ帝国」の樹立宣言により終結した。現地では残党勢力による抵抗が続いているが、少なくとも国家としての戦争は決着したと扱われている。

 

 この戦争において、国家ファシスト党の書記長であるスタレスは、自ら義勇兵である黒シャツ隊を率い、東アフリカ各地を転戦した。頼まれもせずに本人が言いふらすため、ベルリンでは彼の「武勇伝」を知らないものはない。

 

 これだけならば単なるお調子者のようだが、帽子につけられた黒い羽根は、彼がサルデーニャ王国以来の伝統を誇るベルサリエリ狙撃歩兵連隊の出身者であることを示している。ベルサリエは眉目秀麗かつ勇敢な兵士のみが配属されるエリート部隊。少なくともスタレスは勇敢な兵士であり、大戦中はいくつもの勲章を獲得している。義勇兵としての「武勇伝」も、あながち間違いではないのだろう。

 

 何より眉目秀麗という条件に関しては、万人が認めるところである。透き通った眼差しは純真さを、太い眉は意志の強さを感じさせる。頭髪こそ年相応に後退しつつあるが、顔のパーツのすべてが完璧なまでに計算されつくしており、さながらミケランジェロの手による塑像のようだ。ころころと変わる表情には愛嬌があり、ひどく人好きがする印象を与える。他人を魅了する、根拠のない好印象を与えずにはおられないという意味では、スタレスは完璧に近い。

 

 だが神の手による努力は、そこで唐突に力尽きる。

 

 「統領(ドゥーチェ)の腰ぎんちゃく」「無教養かつ無鉄砲な人種差別主義者」というのが、スタレスに対する一般的な評価であるが、それは正しい。年を重ねても短気で粗暴な性格は変わらず、交渉では威圧とはったりを好み、敵とみなせば手当たり次第に噛み付く。自分を大きく見せることに汲々としており、政治的闘争のためにはいかなる馬鹿げた考えにも飛びつく。弁舌が得意であると自負しているが、長いわりに中身はない。成果主義を好むが、本人は形式に固執する。党書記長として公私の区別がないと批判されるが、それは単に性格が大雑把であるためだ。

 

「私が呼吸をするのは、統領(ドゥーチェ)に許可を得ているからだ」

 

 このあまりにも有名なスタレスの言葉を「見え透いた追従である」と批判するファシスト党員はいない。念のために断言するが、スタレスを恐れているからではない。統領が息を止めろと言えば、この男は間違いなく死を選ぶ。それほどまでに無条件かつ絶対的な忠誠心の持ち主であるとスタレスは認識されていた。つまり、それ以外は何も期待されていない人物である。

 

 「握手はアングロサクソン流の脆弱な文化である」と信じて疑わないCONIの会長は、入出する際に見事なローマ式敬礼によって、IOC会長に対する最大限の敬意を示した。アンリは表情筋を動かさないように努めながら、どこまでも形式的な社交辞令を伝えた。

 

「東アフリカでは、随分とご活躍であったようですな」

「いやいや、我らファシスト民兵には鋼鉄のごとき敢闘精神がありますからな!土人ごときは物の数ではありません!」

 

 欠点も突き抜ければ長所に転じるのであろうか。ある意味、傑出した存在には違いない。感嘆とも諦念ともつかぬ感情をおぽえるアンリに対して、スタレスはいつもの長ったらしい前振りもなく、単刀直入に本題を切り出した。

 

「1940年大会に、ローマは再度(・・)立候補します!」

「……は?」

 

 

 IOC委員との交渉経緯に関する報告書

 

  作成:1936年6月18日

 

 報告者:子爵武者小路(むしゃのこうじ)公共(きんとも)(在ドイツ国特命全権大使)

 

 6月10日に受領した本省訓令第3452号に従い、IOC会長のバイエ=ラトゥール伯爵と会談。ベルリン大会後への総会延期を申し入れる。伯爵は不快感を示す。会談内容の詳細については別紙に記載。「総会の開催及び会期の変更については、IOC総会に議決権がある」「一定数のIOC委員の要求により開催される臨時総会により、出席委員の過半数の支持を得た場合であれば、IOC会長として考慮の余地があると判断する」。IOC総会の延期は可能性があると判断。ベルリン滞在中のIOC委員と接触を開始。イタリアのスタレス委員以外の反応は悪く、交渉は難航……

 

 12日、ドイツ外務省政務局長のフォン・マッケンゼン氏と会談。同日午後、同氏の仲介により、IOC副会長であるエドストレーム氏と会談。総会延期に関する臨時総会開催の支持を得ることに成功する。エドストレーム副会長を通じて、IOC委員の説得工作に着手(中略)16日の段階で、臨時総会の開催に必要な委員を確保。ここに私は、IOC総会の延期が決まったことを報告するものである。

 

 

 De gekken krijgen.de beste kaarten(最も良い手札を引く者、それは愚か者である)

 

 - ネーデルランドの諺 -



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「IOCは自分が責任をもってまとめる」エドストレーム副会長はいった。

 1936年7月20日。アルヘア・オリンビア市の空は、雲一つない快晴であった。

 

 ペロポネソス半島西部に位置する遺跡都市の名前は、ギリシャ語で古代オリンピア(アルヘア・オリンビア)を意味する。4年に一度、エーゲ海の各ポリスから集まった戦士たちは、この場所において最高神ゼウスに捧げる祭典を執り行ったとされる。ギリシャ世界が衰退すると伝統は途絶え、ローマの時代には、辺境の寒村に甘んじていた。ビザンツ帝国とオスマン帝国による平和を享受したアルヘア・オリンビアの住民達は、アルフィオス川沿いの痩せこけた耕作地を耕す農業と、イギリスの考古学者により「発見」された、遺跡見物の物好きな好事家を相手とした観光業により、細々と生計を立てていたのである。

 

 19世紀のオスマン帝国からの独立戦争により、ペロポネソス半島を含むバルカン半島南端が「ギリシャ」として独立すると、かつての遺跡都市は、再び脚光を集め始めた。おりしも欧州では、キリスト教以前のアイデンティティーを希求する新古典主義者を中心に親ギリシャ主義(フィルヘレニズム)、すなわち「偉大なるローマ帝国に影響を与えたギリシャ文明は、人類文明の起源である」とする主張が、一大ムーブメントを巻き起こしていた。各種の芸術家や文化人は競い合うようにギリシャを訪れ、歴史学者や考古学者は、パトロンや出資者から得た多額の資金を、惜しみなく発掘事業へとつぎ込んだ。

 

 かくして人口数百人の寒村は、人口数千人を超える一大観光都市へと発展した。

 

 オリュンピア遺跡のヘラ神殿。古代ギリシャの嫉妬深い女神の名前を冠する、崩れた古代遺跡の前には、ハーケンクロイツの紋章を腕に巻いたドイツ人の手により、奇妙な装置が組み上げられている。近代オリンピックのシンボルである5色の輪が施された白い大理石。その横には、金属製のボールをひっくり返したような凹面鏡(おうめんきょう)が設置され、白い一枚布を器用に編み込んだ古代ギリシャ風の長衣(へプロス)を身にまとう年若き少女達が、ぐるりと取り囲む。舞い上がる風による衣擦れの音すらも憚られるような緊張感が支配する中、穢れなき少女達の視線は、神々の住まうとされる天界へと向けていた。

 

 太陽が頂点近くに、装置の真上に差す。少女が金属製の松明を凹面鏡の上に差し出すと、くぼんだ鏡に反射する光が1点に集中し、白い煙が立ち上がった。次の瞬間、若人達の生命力が如き、眩いばかりの炎が立ち上がった。古代オリンピック以来の伝統に則り、聖火が灯されたのだ。

 

 神々から授かった炎の松明を、少女は初めてわが子を胸に抱く母親のような手付きで、聖火台の上へと移す。炎が安定するのを確認すると、別の少女の手により、クルップ製の金属製トーチに聖火が移され、最初のランナーであるギリシャ人のコンスタンティン・コンディリスに手渡された。

 

 コンディリスがトーチを高く掲げた直後、報道陣のカメラのフラッシュガンが激しく瞬いだ。

 

 聖火はギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアの7か国を経由して、最終目的地であるドイツはベルリンの、オリンピア・シュタディオン競技場の聖火台を目指す。総距離は約3187km。一定の距離ごとに交代するランナーの参加予定人数は、3331人。

 

 聖火リレーが、始まった。

 

 

 褐色の大地を駆け抜け、聖火がギリシャの首都アテネに入った。沿道には多くの人々が詰めかけ、ランナーに声援を送った。各国の新聞社と並んで、ドイツ国民啓蒙・宣伝省の海外報道局から派遣された撮影隊は、聖火リレーの記録を取り続けた。

 

 前年に王政復古(11年ぶり2回目)を果たしたアテネの議会では、王党派の勢力が派閥争いを繰り広げる人民党と、ヴェ二ゼロス派と反ヴェ二ゼロス派が主導権を争う自由党と、少数派ながらも勢力が拮抗する議会のキャスティングボードを握る共産党が激しく対立。共産党と連携する官公労のギリシャ公務員連合は、内閣辞職を求めてゼネラルストライキを宣言した。また軍部では、前年の王政復古クーデターを支持した新首脳部に対して、ヴェニゼロス元首相支持派であるパンガロス将軍派が(以下省略)

 

 という具合にギリシャは政治的に混乱していたが、独立以来の伝統行事であるため、誰も気にしなかった。

 

 7月23日。ゼネラルストライキに業を煮やしたギリシャのメタクサス首相は、国王の承認を得た上で、1年ぶり23回目(数え方によればさらに増える)となる憲法の停止と、半年ぶり35回目(数え方によれば桁が異なる)である戒厳令を実施。議会の全政党に対して解散を命じた。

 

 同日、ギリシャ国内の政局の混乱を横目に聖火ランナーが何事もなく国境を越えてブルガリアに入る中、アテネでは3人の人物が秘密裏に会合を持った。

 

 1人目は、スウェーデン人のヨハネス・ジークフリート・エドストレーム。国際オリンピック委員会(IOC)副委員長であるエドストレームは、北欧有数の重工業メーカーであるアセア社を率いる同国経済界の重鎮にして、国際陸上競技連盟(IAAF)会長を兼任するIOCの重鎮である。スイスとアメリカに留学した経験をもち、両国経済界やIOC関係者との人脈が深い。現在のIOC会長であるバイエ=ラトゥールの政敵とされるが、本人は祖国の外交政策と同じように「武装中立」路線を貫いているだけだと嘯いている。

 

 2人目は、ドイツ人のハンス・ゲオルグ・フォン・マッケンゼン。プロイセン王国以来の政治と伝統を継承するユンカーの出身であり、現在はドイツ外務省のナンバー2である政策局長の地位にある。実父はドイツ国防軍の長老であるアウグスト・フォン・マッケンゼン陸軍元帥、義父(妻の父親)は上司でもあるフォン・ノイラート外務大臣という華麗なる閨閥からもわかるように、ワイマール時代から続く国防軍と外務省の協調路線を象徴する人物だ。

 

 3人目は、イタリア人のアッキレ・スタレス。先の大戦で活躍した勇猛果敢な退役軍人であり、1931年から国家ファシスト党書記長を務めている。先のエチオピア戦争では自ら志願して現地に飛び、義勇兵を率いて戦った。古参のファシスト党員であり、指導者統領(ドゥーチェ)への忠誠心だけ(・・)は、万人が認めるところだ。また親ドイツ派として有名であり「民族政策についても学ぶところが多い」と公言している。

 

 この3者会談が、ベルリンIOC臨時総会における1940年夏季オリンピック開催招致の再々立候補(・・・・・)の流れを作ったということで、研究者の見方は一致している。

 

 

 学生時代のエドストレームは、欧州の陸上関係者ならば誰もが知るトップスプリンターであった。100mを11秒台で走れたというのだから、アマチュア選手としては相当なものだ。競技人生最後の大会で叩き出した150メートル競走のスウェーデンの国内記録は、今も破られていない。陸上競技における1秒の差は大きいとはいえ、本気で取り組めば10秒台も夢ではなかっただろう。

 

 卒業後、エドストレームはプロ契約を断り、工科高校への進学を選択した。スウェーデン屈指の重工業メーカーであるアセアに入社したエドストレームは、自らが技術者としての能力と管理者としての手腕、そして経営者としての知見を併せ持つことを証明した。アセア国内における公共インフラの巨大プロジェクトを次々と成功させたエドストレームは、1934年には代表取締役社長に就任。スウェーデン財界におけるリーダー的存在となった。武装中立国スウェーデンにおいて、軍事産業に関連する人材の層は厚いが、エドストレームの手腕を疑問に思うものはいなかった。

 

 企業経営者としての財界活動の傍ら、エドストレームはアマチュア・スポーツの普及に尽力した。スウェーデン・オリンピック委員会の創設メンバーとして、アマチュア・スポーツの祭典たるオリンピックの招致の旗振り役として私財を惜しみなく投入した。アマチュア・スポーツへの度を越した熱の入れように疑問を持つものはいたが、もともと寡黙な技術者であるエドストレーム自身は何も語らなかった。ひょっとすると、プロ・スポーツの道に進まなかったことに、内心で思うところがあったのかもしれない。「ただ走ることが好きだった」という解釈は、いささか感傷に過ぎるだろうか?

 

 1912年のストックホルム大会開催が決定すると、エドストレームは大会組織委員会の責任者に就任。自身の選手経験から、陸上各種目における国際的なルール策定と、国際的な統括団体の創設を主張した。エドストレームが選手として活躍した1890年代は、アマチュアスポーツの国別対抗試合の創生期である。国ごとに異なる競技ルールの違いや文化的差異によるトラブルが、選手個人の心理的負担になるということを、彼は選手として経験していた。その努力は、国際陸上競技連盟(IAAF)の創設として結集する。

 

 アマチュア・スポーツの祭典たるオリンピックに人生を捧げてきたエドストレームは、それを冒涜する存在を許容しない。フライング・フィン(空飛ぶフィンランド人)こと、パーヴォ・ヨハンネス・ヌルミのオリンピックからの「追放」は、彼にとっては当然のことであった。

 

 フィンランド人のヌルミは、現代陸上界における英雄である。貧しい労働者階級の息子に生まれた彼は、靴どころか食事にも事欠く環境で育ち、その中で強靭な肉体と精神、そして独自のトレーニング方法を編み出した。1934年に37歳で引退するまでのヌルミの14年の競技人生は、輝かしい成績と勝利に彩られている。通算の世界記録は22個。オリンピックには3回出場(1920年アントワープ、1924年パリ、1928年アムステルダム)、長距離から短距離まで、あらゆる種目に出場。殆どの種目でメダルを獲得(金メダル9個、銀メダル3個)。特にクロスカントリーと10000mでは、14年間無敗のまま引退した。文字通り伝説的な陸上選手であり、フィンランドのみならず世界的にも知られた存在であった。

 

 ヌルミは1932年のロサンゼルス・オリンピックの出場を目指した。選手としてはすでに高齢であったが、陸上競技の王者ともされるマラソン競技の金メダルで、自らの競技人生に幕を閉じようと考えたからである。彼の競技人生最後の挑戦を誰もが応援し、そして実現可能な目標であると考えていた。

 

 オリンピックの開催直前。エドストレームが招集したIAAF理事総会は、ヌルミの複数企業とのスポンサー契約や広告出演を理由に「プロ選手の疑いが生じる」と認定。同大会への出場停止を決定する。この決定に、世界中の陸上ファンと報道関係者は怒り狂った。

 

 当時はアマチュアとプロの境界が曖昧であり、確かにヌルミの活動はプロとみなされる余地は存在した。それでも肝心の「ヌルミの選手活動がプロかアマチュアであるか」の判断を総会が保留したことは、いかにも姑息な印象を与えた。恣意的な英雄の狙い撃ちであるとしてIAAFの議決には「もっとも恥ずべき政治行為」として非難が集中。「オーランド諸島領有問題をめぐる、スウェーデンのフィンランドに対する意趣返し」「エドストレームが、英雄ヌルミに嫉妬しているのだ」などとと書き立てたイエローペーパーもあった。

 

 ヌルミ問題は1934年まで尾を引いた。IAAF内部でも「やりすぎではないのか」として、決定に異議を唱える声が強かったためだ。ヌルミは直接的なコメントを避けたが、プロへの転向は拒否し続けた。結局、ヌルミはアマチュアのまま1934年に引退する。英雄の潔い進退も、スポーツファンのIAAFへの批判を増幅させた。

 

 おびただしい批判や罵倒に対する本音はどうであれ、このようにエドストレームは「オリンピックは、アマチュア選手のためのスポーツ祭典」であると主張してきたのであり、実際の行動もそれを裏付けている。バイエ=ラトゥールIOC会長の理事会運営に対する批判も「アマチュアリズムの軽視」という観点に重きが置かれたものだ。彼にとって民族政策を理由に開催地の変更を突き付けるなど、それこそがオリンピックの政治化に他ならない。

 

 オリンピックがアマチュア・スポーツの祭典である限り、エドストレームは開催地がどこであろうと問題はない。そのため1940年大会の開催地について、IOC執行部の支持する東京にも、北欧諸国が支持するヘルシンキにも中立を維持していた。

 

 1936年7月12日。ベルリン大会組織委員会のカール・ディーム事務総長が、聖火リレーの正式コースを記者団に発表したこの日、エドストレームはフィンランドのIAAF関係者から、1940年ヘルシンキ大会における複数のアイデアについて報告を受けた。東京開催が絶望的という観測が広まるにつれ、この手の先走った話はヘルシンキ関係者から漏れ聞こえるようになっており、そのこと自体にはエドストレームに驚きはなかった。

 

 問題は、その内容である。

 

「聖火リレーの最終ランナーは、フライング・フィン」

 

 エドストレームの脳裏に、とある近い未来の光景が浮かんだ。

 

 1940年8月のフィンランド共和国ヘルシンキ。新設された競技場に詰めかけるのは、全世界の陸上ファンとフィンランド国民。彼らの割れんばかりの拍手と大歓声の中、1人の聖火ランナーが入場する。飄々としてつかみどころのないフィンランド人は、気恥ずかしげな笑みを浮かべながら、ゆっくりと聖火台に通じる階段を上り、聖火の炎を灯そうとしている。そして貴賓席から、それをなすすべなく見守るしかない自分……

 

 静かなるスウェーデンことエドストレームが、ヘルシンキ大会招致反対の急先鋒に転じたのは、この日からである。

 

 

 1918年の革命により、ドイツには最高意思決定者である皇帝(カイザー)が不在となった。新たな指導者であるワイマールの政治家は政争に明け暮れ、その関心も内政と経済問題に集中していた。彼らは「ヴェルサイユ体制の修正」「賠償金支払いのボイコット」「偉大なるドイツの復活」などといった有権者向けの勇ましい選挙公約とは裏腹に、具体的な外交安全保障政策に関しては、ほとんど関心を持たなかった。

 

 こうした中、国防軍と連携した外務省が共和国外交のイニシアチブを握るようになるのは、ごく自然なことであった。

 

 1933年。外務省と国防軍は「ヴェルサイユ体制打破」を掲げるヒトラー内閣の発足を許容した。だがこれはワイマール時代からの外交政策のイニシアチブを、ヒトラーに預けたことを意味しない。両者はヒトラーはワイマールの政治家同様、内政と経済に関心が集中しており、「ヴェルサイユ体制の打破」はスローガンに過ぎないと考えた。仮に実行に移したとしても、外交素人の「オーストリアの伍長」ならば御しやすいだろう。

 

 彼らの誤算は、ただ一つ。ヒトラーが何事にも「本気」であったということだ。

 

 ヒトラー新首相は外交の継続性を内外に示すために、帝政時代からのベテラン外交官であり、前内閣でも外務大臣を務めたノイラート男爵を留任させる。同時に自分の政治顧問であるリッベントロップを、自分直属の外交特使に任命した。この人事について、外務省に相談はなかった。

 

 ベルリン政界におけるウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップの立ち位置を一言で言うのなら、「鼻つまみ者」である。大戦後に実業家として成功をおさめ、共産党に脅威を覚える保守系財界人として活動。ナチス党に接触すると、ヒトラーに心酔して熱心な支援者となった。ヒトラーが首相に指名される際には、水面下での政界工作に功があった。前述のように総統直属の外交特使に任命されると、自分が出資し、自らの名前を関した外交政策研究機関(シンクタンク)を開設。特使として欧州各国を飛び回っている。

 

 つまり現在のリッベントロップの地位は、アドルフ・ヒトラー個人との直接的な関係に依拠している。おまけに「外様」の「新参者」とあっては、ヒトラーを頂点とした新たな宮廷政治が日夜繰り広げられるナチスドイツにおいて、彼を嫌う相手には事欠かない。ルドルフ・ヘスに代表される古参のナチス党幹部、フォン・ブロンベルク率いる国防軍、フリック内相やゲーリング国会議長などの政府閣僚も「成り上がりの貴族」「おべっか使いのワイン売り」として嫌悪していた。

 

 ただ、直接的な権限や職務範囲がぶつからない彼らとは異なり、外務省はリッベントロップの存在を許容する余地はない。外交政策における自らの主導権の確立に強いこだわりを見せているヒトラーの切り札がリッベントロップである。この男を通じてドイツ外務省から主導権を奪い取ろうとする総統官邸に、外務省は動揺した。

 

 どの国家であれ、職業外交官は外からの介入を嫌う性質を有する。それが「素人」であれば猶更である。上昇志向が強い上にスタンドプレーを好むリッベントロップは、「総統閣下の御意向」を根拠に、外務省との事前折衝や調整もなく独断で外交交渉を繰り返した。現地の大使館は総統特使発言の釈明に追われ、日常業務もままならない。国内のみならず国外においても、既存の外交政策に批判的な言動を繰り返すのだから、ノイラート外相とリッベントロップの関係は悪化の一途をたどった。

 

 だが外務省という巨大官僚組織がバックにあるノイラートと、シンクタンクとは名ばかりの個人事務所を率いるリッベントロップでは組織力という点で勝負にならない。リッベントロップ特使の外遊が成果を上げられなかったのは、外務省の協力が得られなかったことが大きい。

 

 流れが変わったのは、1935年の独英海軍協定締結の成功である。この年の4月、イタリア北部のストレーザにおいて、イギリス・フランス・イタリアの3国首脳会談がおこなわれ、ドイツに対する共同歩調が確認された。欧州におけるドイツの外交的孤立が鮮明になる中、リッベントロップは外務省の猛反対を押し切る形で渡英。両国の長年の懸案であり、再軍備の一里塚とされた独英海軍条約の締結交渉に臨んだ。

 

 外務省が危惧した通り、外交素人のリッベントロップはヒトラーの猿真似である威圧一辺倒の交渉を繰り返した。ところが外交素人という点ではリッベントロップと大差のない労働党政権が、まさかの腰砕けによる妥協を選択。再軍備をイギリスに認めさせた上に、ストレーザ戦線の崩壊による英仏の関係悪化という副産物まで引き出す「大成果」をドイツ外交にもたらした。リッベントロップの外交勝利を絶賛したヒトラーは、同時に外務省の非協力的な姿勢を激しく叱責した。

 

 リッベントロップと外務省が対立しているのは、その方法論だけではない。対仏戦争計画にはイギリスの参戦による第2の世界大戦になりかねないとして慎重な外務省に、独英同盟の締結による英仏分断を主張するのがリッベントロップである。ラッパロ条約以来のソ連との関係を重視する外務省と国防省に、ナチス党の公約通りの反共政策を教条的に振りかざすのがリッベントロップ。アジア外交で国防軍と足並みをそろえ、中華民国政府との同盟関係を重視する外務省に、「腐敗したチャイナ」よりも日本との同盟関係を考えるべきだとするリッベントロップという具合に、具体的な外交政策でも両社は真っ向から対立している。

 

 独英海軍協定の締結により、英仏分断というリッベントロップの主張は、にわかに現実性を増しつつある。ドイツ外務省内でもリッベントロップに理解を示すものが増え始め、1936年に入ると、リッベントロップの駐英大使案が浮上した。もしもリッベントロップが独英関係の再定義に成功し、その成果を背景に外務大臣に就任しようものなら、これまで外務省が積み上げてきた政策や人事体系は崩壊してしまう。

 

 リッベントロップの駐英大使人事が正式に決定されると、ノイラート率いる外務省主流派の危機感は強まった。

 

「むしろ好機ではありませんか。あの男がベルリンにいないうちに、こちらも手を打つのです」

 

 外務省政策局長のハンス・ゲオルク・フォン・マッケンゼンは、義父であるノイラートに提案した。マッケンゼン元帥の長子であるハンスは、国防軍将校にも顔が広い。国防軍のナチス化を推進するブロンベルグ国防大臣に反発する反ブロンベルグ派閥は、古き良き国防軍の伝統を守り、ソ連とヒーナ外交を外務省と国防省の伝統的な政策に引き戻すため、この策謀に協力した。

 

 日本の政局的混乱は、ハンス達には千載一遇の好機と映った。そして、この好機をリッベントロップに対する反撃につなげるためのアイデアも、すでに彼らは用意していた。

 

「イタリアを、オリンピックに立候補させましょう」

 

 独英海軍協定によりストレーザ戦線が崩壊した以降「持たざる国」として接近しつつあった両国だが、そもそも先の大戦においてイタリアは中央同盟を裏切った、まごうことなきドイツの「敵」である。ファシズム体制を築き上げた統領が、内心ではドイツの総統を侮蔑しているということは、イタリア駐在のドイツ外交官の間では有名な話だ。

 

 リッベントロップの後ろ盾であるヒトラー自身、統領に対する個人的敬意とイタリア政策を別個のものと判断している。昨年発生したイタリアのエチオピア侵攻では、エチオピアに対する軍事支援物資を検討しているほどだ。ドイツ民族の悲願であるアンシュルス(オーストリア併合)の障害となるのは、オーストリアの後ろ盾となっているイタリアのファシスト政権。その弱体化はヒトラーも歓迎するだろう。

 

 ハンスを中心とする反リッベントロップ派は、自分達の策謀に熱中した。

 

「東アフリカ帝国建国記念とでも理由をつけて、オリンピックをやれと扇動するのか」

「ファシズムの先輩風を吹かす統領のことだ。ベルリン大会よりも小規模な大会はやれまい。財政的に雁字搦めにして動けなくさせるのだ」

「しかし、あの男がそれを受けるか?あの党派乱立のイタリア政界をまとめ上げた男だぞ」

「ローマ帝国の再来を夢見る男だ。パンとサーカスの重要性は理解しているだろう」

「来月ベルリンに来るイタリアのオリンピック協会会長は、確かファシスト党の書記長だったな」

「あてになるのか?」

 

 彼らの議論を引き取った「第三帝国の高貴なるプロイセン人」の息子は、酷薄な笑みを浮かべて言った。

 

「なまくらなハサミでも、使いようによっては役に立つものだ」

 

 

 政治的なパフォーマンスを優先するあまり、数々の奇行と珍言を繰り返したことで、イタリア国民に数々のジョークの材料を提供し続けているアッキレ・スタレスであるが、彼は「自分が政治家としては無能である」という自覚がある。「無知の知」なる格言に従えば、自分が無能であることを知る自分は、上等な部類に入るだろうと考えている。ただ他人に対する自分の評価よりも、少しばかり過大に評価している嫌いはあったが。

 

 大戦中はベルサリエリ狙撃歩兵として幾多の功績をあげたスタレスは、同じベルサリエリの一員であり、大戦後は国政から腐敗した既存政治と社会主義者を叩き潰した統領に、絶対の忠誠を寄せている。国家ファシスト党の創成期から統領の兵士として戦うことが出来たのは、彼が最も誇りとするところだ。政治的な賭けであったローマ進軍が成功した時の感動は、今でも忘れることはない。最も苦しい時期に党を支え続けた自分こそが書記長にふさわしいと、彼は確信していた。

 

 だが党内では自分を追い落とす動きが強まりつつあるという。スタレスは兵士としての自らの原点に戻り、義勇兵である黒シャツ隊を率いてエチオピアに渡った。獅子奮迅の大活躍(スタレスの主観)により、党内の地位は確固たるものになるかと思いきや、帰国してみると、その動きはさらに激しさを増していた。

 

 ローマ進軍を見よ!ファシスト党は政権を戦って獲得したのである。戦争の英雄である自分を追い落とす大義名分が、一体どこにあるというのか!このようにスタレスは激怒してみせたが、誰の賛同も得られなかった。党の書記長が党を長期間不在にしたという事実を考えてみれば、その理由もわかりそうなものだが、この辺りがアッキレ・スタレスが二流と評される所以なのだろう。

 

 このままでは駄目だ。スタレスはこの男なりの危機感を高めてはいたが、戦うことしか知らない兵士である彼に、有効な打開策が思い浮かぶはずもない。精々、ローマ文明からのアングロサクソン文化の排除に勤しむぐらいが関の山だ。それでも、おめおめと書記長を譲る負け犬となるつもりはなかった。ローマ進軍以前は路傍の野良犬を見るがごとき視線を向けていた連中が、政権を握るや手のひらを返す様を嫌というほど見てきた。あのような信用に値しない連中を、統領に近づかせるわけにはいかない。ではどうすればいいのか。自分が統領を支え続けるためには、どうすればいいのか。

 

 悩みを深めながらIOC総会に出席するためベルリンを訪問したスタレスに、接触してきた男達がいる。

 

 敗戦後もドイツ外交の前線に立ち続けた海千山千の職業外交官は、熱意を込めてCONI会長を説得した。

 

「昨年のオスロ総会におけるローマの辞退は、東京開催が前提でした。そして招致活動を取り巻く環境は変わりました。ドイツとイタリア両国の友情と関係関係の証として、ドイツは1940年大会のローマ開催を支持します」

 

 IOC創成期から第一線に立ち続けるスウェーデンの財界人は、CONI会長に確約した。

 

「東京開催の可能性はないというのが、IOC委員多数派の見解だ。ヘルシンキ市の財政規模では、ベルリン大会と同じ大会規模を維持することは期待出来ない。ベルリン大会の次、1940年大会の開催都市はローマをおいてほかにはないと私は確信している。IOCは自分が責任をもってまとめる。IAAFの支持は、会長である私が保証する」

 

 空腹のガチョウの如く、スタレスは差し出された餌に飛びついた。

 

 

「東京オリムピック招致活動につきましては、国際オリムピック総会において複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑みまして、東京市及び大日本体育協会との三者協議の結果、従来準備し来った招致活動は之を打切る決断に至りました。慚愧の念に堪えません」

 

 - IOC臨時総会を受けた平沼騏一郎総理談話(9月15日) -



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「ドルフースの二の舞だぞ」ベーメ情報局長はいった。

 1936年7月20日から8月1日。バルカン半島および中央ヨーロッパは、穏やかな好天に恵まれた。

 

 古代ギリシャのオリンピックは、最高神ゼウスに捧げる祭典であった。その加護があったか否かは定かではないが、イタリア王立気象局の長期予報や気象観測データによれば、アルヘア・オリンビアを出発した聖火がベルリンに到着するまでの間、天候悪化に伴うコース迂回や延期は実行されなかった。

 

 だが神々の王にして人類の守護者たる最高神をもってしても、民族自決という甘美な夢物語を父に、世界大戦という愚行を母として、中東欧に次々と産み落とされた諸国家の政治情勢に干渉するだけの力は持たなかったようだ。あるいは、プロメテウスが自らのもとから盗み出した炎を、無邪気に捧げものとする人類の態度にへそを曲げただけなのかもしれないが。ともあれ聖火ランナーが走り抜けた国々は、炎の明かりが影を払うがごとく、自分達が抱える諸問題を世界中へと喧伝した。

 

 先の大戦における「戦勝国」であり、政治混迷が続くギリシャを走り抜けた聖火は、7月22日に2ヵ国目の「敗戦国」であるブルガリア王国に到着。聖火リレーを「戦友ドイツの復活」として認識した同国世論の大歓迎を受けた。

 

 1908年にオスマン帝国から独立したブルガリアは、「バルカン半島のプロイセン」と呼ばれた軍事国家であった。世界大戦が開戦すると、中央同盟陣営として参戦。第2次バルカン戦争の失地回復をもくろんだ前国王(ツァール)フェルディナンド1世の野心は、一時的には成功したものの、最終的には連合国に屈服することになる。

 

 父王の退位と亡命により、若干18歳で即した新国王(ボリス3世)の治世は、縮小した領土と賠償金、そして国内の社会政治状況の混乱という三重苦から始まった。王室を取り巻く厳しい環境の中、若き国王は政治的な沈黙を保ちながら、慎重に大戦中に将校として従軍した国軍の掌握を進めた。

 

 1935年のクーデター成功まで、足掛け17年にも及んだ長い雌伏と忍従は、18歳の青年国王を、老練な政治家へと成長させた(頭髪は後退したが)。国軍の強い支持を背景に、王党派勢力による議会掌握によって政局を安定させたボリス3世は、旧中央同盟陣営との関係を維持しながら、サヴォイア王室との婚姻を通じて旧協商国との関係改善にも着手。世界恐慌による経済の落ち込みから、いち早く同国経済を回復軌道に乗せた。今や国王の手腕を疑うものはおらず、バルカン半島において最も政情が安定している国家であるとの評価も高い。

 

 首都ソフィアで朝野の歓迎を受けた聖火は、24日には3ヵ国目の「戦勝国」ユーゴスラビア王国に到着する。

 

 バルカン半島におけるスラブ民族の統一国家である同国は、ここ20年の間に国名が2回変わった。1度目は1918年。「戦勝国」であるセルビア王国議会は、セルビア王室のカラジョルジェヴィッチ家を国家元首に、旧ハプスブルク家領のバルカン半島領を併合した上でのセルブ(セルビア)クロアート(クロアチア)スロヴェーヌ(スロベニア)王国の建国を宣言した。2度目は1928年。前国王アレクサンダル1世が「南スラブ人の土地(ユーゴスラビア)」と国名を改めた時だ。

 

 二重帝国というハプスブルクの牢獄を脱却し、南スラブ人による統一民族国家を樹立するという悲願を達成した同国であったが、共通の敵を失った南スラブ人勢力の間では、国政の主導権争いが勃発。セルビア人とクロアチア人による権力闘争が延々と続く現状に、アレクサンダル1世は憲法を停止し(1928年)、国王独裁体制による政局安定化を図るが、むしろ民族勢力間の対立は激化した。

 

 1934年に前国王が暗殺されると、若輩の新国王(ペタール2世)が即位した。10代の新国王に代わり、国政を掌握したのは王族と軍高官により構成された摂政会議である。摂政会議はクロアチア政治勢力との妥協を推進。一時的に政局を安定させたが、根本的な解決には程遠い、首都ベオグラードでは反ドイツ感情の強いセルビア人による聖火リレーへの抗議活動が発生し、逆にイタリア政府から支援を受けているとされるクロアチア勢力が多数派の地域やスロベニア人地域では聖火は歓迎を受けた。

 

 さながら二重帝国の亡霊が、カラジョルジェヴィッチ家に憑りついたかのような民族の分断と亀裂を内外に見せつける中、聖火は25日に4ヵ国目となる「敗戦国」、かつてハプスブルク皇帝を仰ぎ、オーストリア帝国と共に二重帝国を構成したハンガリー王国へと入った。

 

 国名こそかつての王国と同じだが、同国が建国されたのは1920年。ソヴィエトによる革命政権の成立と内戦、続く「戦勝国」ルーマニアによる干渉戦争を排除した末に成立したマジャール人の王国である。ところが王国でありながら国王不在という現状が16年以上続いている。連合国がハプスブルク皇族の即位を拒否したためであり、なかんづくチェコスロバキアは軍事介入もちらつかせながら圧力を加えた。やむなく摂政に就任したホルティ・ミクローシュ提督が、疑似国王として国政のかじ取りを続けている。

 

 同国ではトリアノン条約により国土が大幅に縮小されたことから、国外在住のマジャール人居住地域を含めた「聖イシュトヴァーンの王冠の地」の回復を目指す大ハンガリー主義が、政治的立場や党派を超えた国民共通の悲願である。経済的な先進地域を失ったものの、むしろ領土が縮小したことで農業国として安定したが、1929年の世界恐慌の直撃を受けて急進的な政治勢力が躍進。1932年にはドイツ・ナチス党との関係が深い国家統一党のゲンベシュ・ジュラが、首相に就任した。

 

 同国内において、聖火リレーはおおむね歓迎された。ハプスブルク帝室への忠誠心を維持するホルティ総督はナチス党の民族政策には距離を置いていたが、同じ先の大戦の敗戦国であるドイツがベルサイユ体制の打破を公言しながら、オリンピックを開催したことは、マジャール人を大いに勇気づけた。特にゲンベシュ・ジュラ首相はドイツとの友好関係を強調するために病躯をおして聖火リレーを観戦したが、無理がたたり10月6日に死去した。

 

 ブタペストを駆け抜けた聖火は、26日には5ヵ国目となる「敗戦国」オーストリア連邦国に入り、熱狂的な歓迎を受けた。

 

 ベルリンとの外交問題に神経をとがらせるシュシュニック政権の大号令の下、聖火リレーのコースには軍憲兵隊と武装警官による厳重な警戒態勢が敷かれていたが、沿道には彼らをはるかに上回る群衆が、オーストリアのあらゆる年代、階層、性別、職種の「ドイツ民族」が押し寄せ、ランナー達の一挙手一投足に大歓声を上げた。彼らの手にはオーストリア警察が禁止したハーケンクロイツのドイツ国旗が握られており、双頭の鷲があしらわれた紅白のオーストリア国旗の姿は、ほとんど見られなかった。

 

 敗戦後にハプスブルク帝室を追放したことで、多民族国家の楔から解き放たれたオーストリアは、大ドイツ主義に回帰。同じく小ドイツ主義の枷であったホーエンツォレルン家を追放したワイマール共和国との墺独合邦(アンシュルス)を目指したが、これは連合国に阻まれた。

 

 かくして連合国謹製の「ドイツ民族による共和国」として産声を上げたオーストリアであったが、脆弱な経済基盤と国内の政治対立により、政局は安定せず、内閣は短期間で入れ替わった。これはハプスブルク家領としての性格が強く、カトリックのドイツ民族という以外の国民国家を形成するための共通の政治的基盤が、決定的に欠落していたためである。

 

 1933年。議会の解散に伴う社会民主主義者との政治内戦に勝利したエンゲベルト・ドルフース首相(当時)は、ファシスト・イタリアに範をとったオーストロ・ファシズムと呼ばれる権威主義体制を確立。国名を現在のものに改めた。軍事力と警察力により、国内の民族運動と労働運動を抑えつけたドルフース前首相であったが、首相官邸に「乱入」したオーストリア・ナチ党の党員に暗殺される(1934年)。後任首相にはドルフース体制の継承を掲げるクルト・シュシュニック教育大臣が就任したが、その後も相次いだ政治スキャンダルは、オーストリア国民の政治不信を決定づけた。

 

 ドイツ民族の栄光の象徴として聖火リレーを歓迎する国民を、政府と軍が苦々しく見守る中、聖火は28日に6ヵ国目となる「敗戦国」にして「戦勝国」チェコスロバキアに入り、オーストリアとは対照的な罵声と怒号を浴びた。

 

 スラブ民族のチェコ人とスロバキア人が合同した共和国は、旧ハプスブルク帝国から独立した新興国家の中では、ポーランドと並んで親英・親仏国家の筆頭格である。もっとも最近では英仏両国の外交的な混乱から、東のソビエト連邦との外交関係を強化している。また同国はズデーデン地方のドイツ人の分離独立勢力に悩まされ続けており、プラハでは聖火リレーに対する抗議運動が活発に行われた。

 

 ちなみにチェコスロバキアは、1934年のイタリアで開催されたワールドカップの準優勝国である。名フォワードのオルドリッヒ・ネイエドリーを有するチェコスロバキア代表チームは優勝候補の呼び声も高かったが、開催国イタリアは、国家と民族、そして政権の威信をかけた戦いを「グラウンドの外」でも展開。決勝戦はイタリアとチェコスロバキアという大会屈指の好カードになったが、開催国イタリアの気迫の前に、チェコスロバキアは延長の末に2-1で敗れ、惜しくも優勝カップに手は届かなかった。

 

 このワールドカップの成功は、イタリアに1940年夏季オリンピックのローマ誘致を()()に決断させる大きな要因となった。またワイマール共和政府が誘致したオリンピック開催に消極的だった同時期のヒトラー政権に、国際スポーツ大会を通じた国威発揚とプロパガンダ戦略に利用することが可能であることを実証して見せたという意味で、大きな影響を与えたとされる。

 

 閑話休題

 

 ギリシャはいうに及ばず、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、そしてチェコスロバキア。敗戦国とソビエト連邦を排除して、戦勝国により作られたベルサイユ体制の矛盾を詰め込んだような国々は、大なり小なり、何らかの形で「戦勝国」イタリアとの関係を有している。

 

 同じ欧州だから当たり前といえば当たり前の話なのだが、この事実は、ちょっとした思考実験の材料を我々に与える。

 

 イタリア半島中部に位置するローマは、アフリカ大陸の地中海沿岸の植民地領土やイベリア半島、西ヨーロッパから中央ヨーロッパにバルカン半島南端まで、かつてローマ帝国を形成していた地域の植民地都市、あるいは現在の主要都市とも、約1000km前後の距離にある。

 

 つまり全ての道「が」帝国の首都であるローマに通じさせられたのではない。あの場所にローマが位置していたからこそ、帝国を構成する主要な「すべての道」は「ローマに通じる」ことが出来た。

 

 だからこそナポレオンは「イタリアは地名であって、国ではない」として、この半島における統一国家の形成を許さなかったのであり、ビスマルクはフランスに対する牽制として、統一イタリア形成を後押した。先の世界大戦においてイギリスの外交官は、中央同盟陣営側の中立国イタリアの協商陣営取り込みに奔走した。

 

 ベルサイユ体制の崩壊と再編への試みが続いていた1930年前半における、欧州外交におけるファシスト・イタリアの重要性と存在感は、同じ文脈の中で説明が可能だろう。1915年同様、イタリアはあらゆる勢力から働きかけを受けていたが、その中心はロンドンとベルリンであった。棟梁(ドゥーチェ)は、両国の外交官に対して含みのある発言を繰り返しながら、そのどちらにも決定的な言質を与えなかった。

 

 そして1936年9月10日。ベルリンで開催されたIOC臨時総会の投票において、永遠の都(ローマ)はヘルシンキを36対27で破り、オリンピック開催権を勝ち取った。

 

 勝ち取ってしまった。

 

 

320 名無しの落ち武者 2019/03/8(金) 13:00:40.05 ID:Bipp2MUJi

東京とヘルシンキで争ってたのに、どこからローマが出てきたの?

 

321 東西新聞です 2019/03/8(金) 13:04:31.35ID:xBKuodrc

>>320

事前の経緯がある

 

【1933年年末】

イタリア「ワールドカップの次はオリンピック!1940年はローマでやるぞ!」(1回目の立候補)

日本政府「今回は東京に譲ってくれませんか。1944年はローマ支持しますから」

イタリア「条件次第かな。うちは1944年でもいいよ」(1回目の立候補撤回)

日本政府「感謝します」

 

日本世論「ドゥーチェ!ドゥーチェ!ドゥーチェ!」

 

【1935年7月IOCオスロ総会直前】

イタリア「1944年はIOC設立50周年記念大会になるから、ジュネーブが立候補するって?分が悪いな」

イタリア「というわけで1940年出るから」(2回目の立候補)

日本政府「ふぁ?!」

IOC総会「(どったんばったんの大騒ぎの末に)とりあえず来年のベルリン総会で決めますので」

 

日本世論「あの糞イタリア人ども!!」

 

【1935年10月】

イタリア「(エチオピア戦争開始)イタリアは友好国日本を支持するよ!」( ー`дー´)キリッ(2回目の立候補辞退)

日本政府「あ、はい(この野郎、よくもぬけぬけと)」

 

日本世論「エチオピア頑張れ!」

 

【1936年2月】

日本「2・26!馬場失言!首相決まらねーぞ!」

 

日本政府「すいません、ベルリンのIOC総会延期させてくれませんか?」

イタリア「いいよ」( ゚Д゚)b

ドイツ「いいよ」( ゚Д゚)b

 

【1936年9月ベルリン総会】

日本政府「いや、どうもご迷惑おかけしまして……」

イタリア「やっぱりローマ出るわ」(3回目の立候補)

総統閣下「ベルリン大会の後は、永遠の都がふさわしいだろう」

日本+フィンランド「ふぁ?!」

 

日本世論「ドイツ絶許、イタリア〇ね」

 

322 名無しの帝国軍人 2019/03/8(金) 13:11:50.07 ID:+H9qqqTR

>>320

・イタリーにオリンピックをNTRれた

・くやしい…!でも…幹事長!

・んっほおおお!!いたりあゆるしゃないの~!!!

 

323 第四帝国 2019/03/8(金) 13:38:29.14 ID:t3qapiGI

>>320

・日帝政治がグダグダすぎた

・ドイツの反リッベントロップ派(自動的に反日・親中派)が煽りまくった

・イタリアが火事場泥棒に成功

 

324 名無しの首かり族 2019/03/8(金) 13:50:11.18 ID:ewww0Ep

>>321

そりゃ日本で反伊運動起きるわw

>>320

チョビ髭「イタリア人には、ローマでオリンピックでもやらせておけ!」

 

325 名無しの落ち武者 2019/03/8(金) 14:00:00.05 ID:Bipp2MUJi

>>322

憲兵さんこの人です

>>323

ドイツ人は本当にそういうところだかんな

 

326 第四帝国 2019/03/8(金) 14:37:20.14 ID:t3qapiGI

エチオピア戦争で日本が初めの頃はエチオピア支援に傾いてたので、それに不信感あったという話もある

統領はブリカスを見習っただけかもしれないけど

 

オーストリア・ナチ党によるドルフース首相暗殺(1934年5月)→「旧協商国で対ドイツの共同戦線張らない?エチオピア?別にいいんじゃね?表立っては支持しないけどね」

ストレーザ戦線結成(1935年4月)→「これで英仏伊はずっ友だよ!絶対に裏切っちゃだめだからね!」

英独海軍協定締結(1935年6月)→「やっぱりさ、ドイツ君の言うことにも一理あるよね」

第2次エチオピア戦争(1935年10月~)→「イタリア君、そんなひどいことしちゃいけないよ(経済制裁開始)」

イタリア勝利(1936年5月)→「イタリア君おめでとう!僕は信じてたからね!(7月に経済制裁解除)」

 

なおエチオピア皇帝一族の亡命先はロンドン

 

327 東西新聞です 2019/03/8(金) 14:31:19.35ID:xBKuodrc

>>326

イギリスの平常運転っぷりに草も生えない

どうしてイギリスの場合は、どうみても行き当たりばったりであっても「舌三枚」と褒め(?)られて

イタリアの場合は計算づくであっても、行き当たりばったりに見えるんだろう

 

328 亡命政府副首相代理心得補佐代行 2019/03/8(金) 14:35:13.05 ID:+HomkiqTR

>>327

そりゃ実際、内政でも外交でも軌道修正が多いから。柔軟性あるといえば聞こえはいいけど

力業で押し切っちゃう剛腕だから勘違いされやすいけど、ドゥーチェは意外と世論を気にするタイプだから余計にそう見えちゃうんだろうな

 

329 第四帝国 2019/03/8(金) 14:39:11.09 ID:t3qapiGI

>>328

ものすっげえ勉強家で知識人なんだけど、ベースが自己流だから体系的なものじゃないしなあ

それでも寄せ集めの思想と理想をかき集めて、独自の大衆運動に基づく民族主義独裁体制を作り上げたのは流石なんだけど

自由主義でも社会主義でも共産主義でもないが、自由主義でも社会主義でも共産主義でもあるというね

 

330 名無しの落ち武者 2019/03/8(金) 14:40:49.55 ID:Bipp2MUJi

なるほど。皆の衆、教えてくださり大義であるぞよ

棟梁はオリンピック開催には消極的だったって話も聞いたことあるけど、それはどーなのじゃ?

 

331 亡命政府副首相代理心得補佐代行 2019/03/8(金) 14:42:13.05 ID:+HomkiqTR

>>330

キャラがドゥーチェなみにぶれまくってんなw

ドゥーチェがヒトラーの狙いに気が付かなかったわきゃないと思うんだけど

ベルリン大会が大盛り上がりしたからなあ。1934年ワールドカップの成功再び!ってことかな

まさかノリと勢いってことはないだろうし

 

332 名無しの落ち武者 2019/03/8(金) 14:43:10.05 ID:Bipp2MUJi

それで結局、誰が得したの?

 

333 名無しの帝国軍人 2019/03/8(金) 14:45:51.35 ID:+H9qqqTR

棟梁「んほぉおおおっ!!ベルリンおりんぴっくしゅごかったのおおおほほおおおお!!ローマでもやっちゃうのおおおおおおおおお!!!」

 

334 東西新聞です 2019/03/8(金) 14:49:11.04ID:xBKuodrc

>>333

憲兵さんこの人です

もうやだ、この帝国軍人……

 

335 第四帝国 2019/03/8(金) 14:50:51.21 ID:t3qapiGI

>>332

誰が得したかは見方によって変わるからな。日本も長期的には得したほうに入るかもしれん

フィンランドと日本の政局が混乱してスターリンがほくそ笑んだ、といいたいけどモスクワ裁判でそれどころじゃなかったし

明確に損をした国という意味なら、ここ一択

 

つオーストリア

 

- 電子掲示板4チャンネル(政治・歴史板)雑談スレ『犬とイタリア人お断り』より抜粋 -

 

 

 IOC総会を散々にかき回した挙句、後から掻っ攫うように開催権を獲得したイタリアに、フィンランドと日本の世論は激高した。特にヘルシンキ開催が確実視されていた、フィンランド首相キヴィマキの怒りは激しく、IOC事務局に対する抗議申し立てと同時に、国際連盟の常設国際司法裁判所への提訴を表明した。しかし少数与党内閣であったことから政権が崩壊。キュオスティ・カッリオ元首相による超党派内閣が発足することとなった。日本においても3か月近く続いた政治空白の末に発足した平沼内閣に対する不信任決議が衆議院に提出されるなど、政局の流動化が進んだ。

 

 この2ヵ国よりも激しい動揺と危機感をあらわにしたのが、中央ヨーロッパの内陸国であるオーストリア連邦国である。

 

 オーストリアにとって、イタリアがワールドカップを買収しようが、エチオピア人相手に毒ガスを使おうが、オリンピックを開催しようが、それこそ知ったことではない。ドルフースの後継者達が問題としたのは、オリンピックの招致活動において「ドイツとイタリアが手を結んだ」という事実そのものである。7月に勃発したスペイン内戦に続く独伊接近を意味する事件に、ウィーンの危機感は高まった。

 

 1932年に組閣したエンゲルベルト・ドルフースが、1918年以降の歴代オーストリア首相と最も異なる点は、主権国家としてのオーストリア存続を目指したという点である。学生時代から国家主義者として政治活動を続け、保守派の反ユダヤ主義者として知られたドルフースであったが、敬虔なカトリックであるドルフースは、ドイツ国内で台頭するナチスの反教会思想には生理的な嫌悪感を抱いていた。彼はアンシュルスを完全に否定したわけではないが、国家社会主義と共産主義を一卵性双生児とみなす彼からすれば、ナチス・ドイツ主導の併合はあり得なかった。

 

 社会民主主義者との内戦に勝利したドルフースは、返す刀で共産党とオーストリア・ナチス党(ヒトラー運動)を弾圧。与党勢力を「祖国戦線」に統合すると、軍部と警察を背景に、ファシスト・イタリアを範とする権威主義体制を確立した。イギリスやフランスは口先ばかりであてにならず、実際の政治的暴力の行使をためらわないイタリアとの政治同盟だけが、あの野蛮なナチズムの政治的侵略を食い止め、オーストリアの存続を可能たらしめると判断していたドルフースであったが、1934年7月25日に暗殺される。

 

 ドルフースの後任に就任したのは盟友であった教育大臣のクルト・シュシュニックである。彼はドルフース路線を継承しつつ、国家としてのオーストリア承認をベルリンに求めた。敵の本丸に水から攻め込んだ形だが、シュシュニックには勝算があった。アンシュルスに反対していたドルフース暗殺事件はドイツの国際的孤立を深め、英仏はもとより、盟友の暗殺に激怒する棟梁もドイツに対する国際的非難に加わっていた。シュシュニックの思惑通り、ベルリンはウィーンとの交渉のテーブルに乗ることを渋々招致した。

 

 かくしてドルフース暗殺から約2年が経過した1936年7月11日。イタリアの支援を受けたオーストリアとドイツは、歴史的な政治合意を結んだ。この7月合意により、ドイツは1918年から一貫して承認を保留し続けてきた、主権国家としてのオーストリアを承認。アンシュルスを明確に否定する姿勢を国際社会に向けても認めたのだ。

 

 シュシュニック政権としても何の大家も払わなかったわけではない。見返りにシュシュニックはオーストリア国内のヒトラー運動を解禁した。7月合意の実務交渉を担当した外務官僚のグイド・シュミットを外務大臣に、元陸軍将校のエドマンド・グレイズ・ホルステナウを無任所国務大臣とする内閣改造を実行する。この2人はヒトラー運動の支持者であったが、シュシュニック首相はイタリアの支持があれば、ヒトラー運動を抑え込めるであろうと判断し、祖国運動内部の慎重意見を押し切った。

 

 シュシュニック首相の思惑に、今回のオリンピック招致決定は頭から冷や水を浴びせかけた。IOC臨時総会が閉会した9月10日直後、シュシュニック首相(国防相兼任)は、即座に臨時閣議開催を決定。深夜遅くにもかかわらず、新首相官邸であるベルヴェデーレ宮殿に閣僚達と軍高官を招集した。

 

 かつてはドルフースと棟梁との個人的な関係を頼ることも出来たが、今となっては、それも不可能である。スペイン共和国で発生した内乱において、独伊両国が反乱軍支援で共同歩調をとる中、棟梁が独伊両国の緩衝地帯(バッファーゾーン)としてのオーストリアの重要性よりも、ベルリンとの関係強化を選択すればどうなるか。沈痛な表情で始まった閣僚達の議論は、自然と苛立ちの隠せないものとなった。

 

「要するに、ドイツ外務省と軍部に巣食う、ユンカーの馬鹿息子共の火遊びか」

「これで味を占めた以上、ユンカー共のイタリア政府に対する働きかけは強まるだろう。もしも今後の独伊関係を外務省が主導することになれば、我が国を取り巻く環境はより厳しくなることが予想される。少なくともナチス党のような外交素人には、付け入る隙があったのだが」

「発端が火遊びであろうと、山火事になる可能性はありますな」

「何を悠長なことを!」

 

 ぞんざいに語ったシュミット外相に、ハンス・パーンター教育大臣が聞き捨てならないと噛みつく。しかし批判された本人は「慌てたところで事態が転するわけでもあるまい?」と、諦観を感じさせる皮肉な色を顔に浮かべた。

 

 ドイツ政界の実力者であるゲーリングとの個人的パイプを持つシュミットであるが、彼もベルリンの宮廷政治に振り回され続けてきた一人である。ようやくベルリンとの政治合意にこぎつけたかと思えば、これである。落胆を通り越して自分自身が滑稽であると感じているらしく、表情には精彩がない。

 

「7月11日合意は、ベルリンが棟梁の顔を立てたに過ぎない。ベルリンとローマの接近を警戒する必要があるのは認めるが、現段階で連邦国軍が独自に軍備を拡大することは、むしろ我が国が国際緊張を高めたと批判されかねない。何より、イタリアの誠意を疑うような真似は……」

「イタリア人の誠意?そんなものはドイツ人との約束同様、あてになるものか!そんなものがあれば、先の大戦でイタリアはイギリス人に唆されることはなかった」

 

 忌々しげな表情のまま、パーンター教育大臣はシュミット外相の政治責任を追及する。これにシュミットが再び反論、両大臣の議論は白熱したものとなった。

 

「外務大臣はお忘れのようだが、ベルサイユ条約により定められていた非武装地帯に、ヒトラーが軍を駐留させたのは今年の3月である。そしてフランスもイギリスも、軍事的な報復はおろか、経済制裁すら実施しなかった。イタリアだけが誠意をもってわれらを支持し続ける保証がどこにある?」

「だからといって、イタリアの後ろ盾がなければ、ドイツと対峙し続けることなど不可能だ」

「我が国は独立国だ!ドゥーチェがどうであろうと、我々は自分の国を守る責務がある!」

 

 シュシュニックの腹心であるパーンターが顔を主に染めて机をたたくが、他の閣僚達はどこか距離を置いた、沈痛なまなざしを返すばかりである。臨時閣議を招集したシュシュニック首相ですら、険しい表情で沈黙を維持していたが、突如としてオブザーバー参加させた軍高官に意見を求めた。

 

「軍はどう考えるか」

「用意はあります。ただ勝てるとは断定出来ません」

 

 死刑制度を復活させた法務大臣であり、政治犯や反体制派を容赦なく政治犯収容所に投獄し続けている強権政治家とは思えぬ首相の問いかけに、ドイツ系貴族の家系に属する参謀総長アルフレート・ヤンザ中将は、希望的観測や憶測を排除した軍の作戦行動計画を説明した。

 

「現在の国土防衛戦略大綱は、イタリア軍の支援と協力が前提となっております。国境部に展開するドイツ軍が国境を超えた段階で、主力師団は敵兵力を誘引しつつ、西部はインスブルックまで、東部はウィーンまで遅滞戦闘を展開。西部には天然の要害たる東アルプス山脈があります。イタリア軍の展開まで持ちこたえることが出来るのならば-」

 

 縦深防御を展開しようにも、オーストリアは国土の縦深性が乏しい。いかに天然の要害たる東アルプス山脈を有しているとはいえ、道路網が整備された西部のチロルやザルツブルグは、一度突破を許せば戦力の後退すらままならない。たちまちイタリア国境まで到達してしまうだろう。だが、ヤンザ中将は意図的にそれを説明しなかった。事前にシュシュニック首相から伏せる様に厳命されていたからだ。

 

 もっとも首相の思惑が、どこまで通用したかは疑わしい。ヤンザ参謀総長の発言内容や表情から真意を察した閣僚達は、ただでさえ険しい表情をさらに深めた。そして再び沈黙が支配する閣議室の中で、シュミット外相が冷笑を浮かべながら口を開いた。

 

「戦う用意をするのは大いに結構。だが、ハーケンクロイツを振り回して聖火ランナーを歓迎したオーストリア国民が、ドイツ民族同士の戦いを望むとは思えませんがね」

「自らを守る決意を有さない国を、どこが助けてくれるというのだ!」

 

 オーストリア単独では、ナチス・ドイツの軍事力に対抗出来ないという客観的な事実、そして国民の大多数がドイツとの統合を望んでいるという世論の現実を無視するのか。外務大臣の発言に、カトリック愛国教育を推進する教育大臣が再び噛みつく。他の閣僚も参加した激論は日付が変わっても続けられていたが、首相秘書官がシュシュニック首相に一枚のメモを届けたことで、突如として終了した。

 

 シュシュニックは突如として立ち上がると、閣議の一時中断と、明朝9時からの再開を伝えた。何事かといぶかしがり、互いの顔を見合わせる閣僚達に対して、冷ややかな視線を向ける高官がいた。オーストリア軍情報部長のフランツ・ベーメ少将である。

 

 悪名高きマクシミリアン・ロンゲの後継者として、二重帝国と共和国の影を担った二重帝国参謀本部情報局(クンドシャフト・ステル)の後継組織を率いるベーメは、遅かれ早かれベルリンが主導するアンシュルスは避けられないと認識している。ドルフース暗殺事件の責任を問われて解任されたロンゲ少将のことを思えば、積極的にベルリンの野蛮人に与するつもりはないが、経済が破綻しても政争を続けるウィーンの政治家から、人心は離れつつあるのも事実だ。

 

 一つの国家や一つの民族なる実態の伴わない政治スローガンに賛同するほど、ベーメは政治的に純粋ではない。ましてや「一人の総統」に、積極的な忠誠を誓いたいとも思わない。だが国民の要求を強権的に押さえつけた結果が、前首相の暗殺という結果ではなかったのか。「諜報活動により国民を監視することは出来るが、支配することは出来ない」。かつての上官であるロンゲ少将の言葉を、ベーメは今更ながら噛み締めた。

 

 シュシュニック首相が退出したドアを見ながら、ベーメは言った。

 

「このままでは、ドルフースの二の舞だぞ」

 

 

 スペイン内戦の勃発から、ちょうど2か月後である1936年9月17日。

 

 オーストリア内戦が勃発した。



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【閑話】スペイン内戦と独伊関係

*ほぼ史実と同じ展開なので、読み飛ばしていただいても大丈夫です*
*史実通りという意味ではありません。作者個人の独自解釈が混じっています*


 1936年7月18日。イベリア半島に位置するアフリカ大陸に最も近い南欧州のスペイン共和国において、大規模な反乱が発生した。世に言う「スペイン内戦」の幕開けである。長くキリスト教勢力とイスラム勢力の対立の最前線であり続け、キリスト教勢力の奪還後がハプスブルクやボルボーン朝など幾多の勢力が覇権をめぐり興亡を繰り広げた褐色の大地は、再び流血により染められた。

 

 この内戦に至るまでの過程、すなわちナポレオン戦争以降のスペイン近現代史については長くなるので省略するが、簡単に内戦の構図を説明すれば、同年2月16日総選挙において勝利した反ファシズムを掲げる人民戦線側に対する、陸軍の民族主義派勢力の反乱である。

 

 スペイン陸軍のエミリオ・モーラ准将を中心とするクーデター勢力は、現在の人民戦線に加わる急進社会主義者や無政府主義者、カタルーニャやバスクに代表される分離主義者の排除を目的としていた。つまり彼らは、内戦途中から王党派勢力の支持を取り付けるために王政時代の国旗を掲げるようになったとはいえ、ボルボーン朝復古を目的としていたわけではない。特にモーラ准将は筋金入りの共和派であり、彼個人としては軍人達の共和国である隣国ポルトガルに範を取った権威主義体制の確立を目指していたようだ。

 

 内戦直前のスペイン国内の政治的混乱や社会騒擾に関する責任論、または非合法手段による政権転覆を目指した将軍達の行動に大義があったか否かは、この際どうでもいい。肝心なのは7月18日の一斉蜂起は、クーデターによる短期の政権交代を目指したのであり、それが失敗に終わったということだ。

 

 蜂起直後の状況を見てみる。クーデターの成否を左右する首都マドリッドと最大都市バルセロナでは、反乱軍は治安警察と民兵組織を相手とした市街地戦闘の末に敗北。政府側はカタルーニャからの地中海沿岸部全域と大西洋沿岸部の大部分を維持することに成功した。反乱軍はモロッコ全域を制圧したものの、本土ではモーラ准将が指揮した北部と一部地域を確保したに過ぎない。これでは成功と呼べるはずもない。

 

 反乱軍側の準備不足を除くと、クーデターの成否を決めたのはスペイン軍の動向である。1923年。スペイン軍はプリモ・デ・リベラ将軍のクーデターを支持することで、スペイン版ローマ進軍を成功させる原動力となった。1931年の王政廃止も、スペイン軍はやむを得ないとして黙認した。仮にクーデター計画に賛同するにしても反対するにしても、軍が一致結束して行動すれば短期間で集結する可能性はあっただろう。だが実際にはそうはならなかった。陸軍は分裂し、空軍は政府支持にまわり、海軍は消滅した。

 

 反乱部隊の中核は陸軍であったが、クーデター計画を指導したのは准将クラスであり、軍司令官や中央省部の要職を占める高官達の支持は得られなかった。クーデター側が指導者として擁立したホセ・サンルフホ将軍が、不慮の事故死を遂げたのも響いた。かくして反乱軍の指導権をめぐり、クーデター計画段階からの中心人物であり北方軍を指揮するモーラ准将と、最終段階まで参加の意思を明らかにしていなかったモロッコ軍を指揮するフランコ元参謀総長の間で暗闘が開始される。

 

 空軍が政府支持で結束したのは、創設の経緯に寄るところが大きい。産業近代化が遅れたことで必然的に航空後進国となったスペインは、航空先進国のフランスを範にして空軍を組織した。1931年の共和制移行により両者の関係はさらに深まり、空軍将校であったフランコの弟を含めた大多数が政府を支持した。

 

 空軍とは対照的に悲劇的な結果となったのは海軍である。高級士官の多くは反乱軍を支持し、下士官や圧倒的多数の水兵は政府を支持した。各艦艇毎に衝突が発生し、短期間のうちに勝敗は決した。艦艇ごとの「水兵委員会」の手により、艦橋や甲板から艦隊司令や艦長達が吊るされた。かくしてスペイン艦隊は実質的な戦闘能力を喪失した。

 

 反乱軍の早期勝利が困難であるのなら、人民戦線政府が短期間のうちに反乱軍を鎮圧する可能性はあったか。そんなことは天地がひっくり返ろうとも望める状況になかった。陸軍の約半数が反乱軍に加わるという共和制の危機にも関わらず、人民戦線を構成する政治勢力は一致結束には程遠く、内部での主導権争いを繰り返していた。

 

 2月16日総選挙において人民戦線は得票率4割を獲得して勝利宣言をしたものの、政党ごとの得票率だけで言えば中道右派が依然として第1党を占めていた(だからこそ反乱軍は、人民戦線内閣の発足は民意を軽視していると主張した)。人民戦線の中心である社会労働党は過半数には到底及ばず、これに左翼共和党と共和連合の2党、更に分権主義政党を加えた上での薄氷の勝利である。主導権争いは熾烈を極め、新大統領に就任したマヌエル・アサーニャは、暴力革命を主張する急進派を抑えることに苦心惨憺していた。

 

 総選挙から何ヶ月にも渡って続けられていた大統領の政治的努力は、反乱軍の決起により水泡に帰した。すったもんだの末に5月に成立したばかりのキローガ内閣は、一斉蜂起と同日の7月18日に総辞職に追い込まれた。19日に新内閣が発足するものの、わずか半日あまりで崩壊。翌20日にアサーニャ大統領の仲介により、ようやくピラール内閣が発足するという具合である(これも9月に崩壊する運命なのだが)。

 

 中央政府が弱体化する中、政権内部で発言力を拡大したのは急進左派や無政府主義者である。マドリッドやバルセロナの反乱軍を民兵組織が鎮圧した「功績」を盾に、各地に「コミテ」や「フンタ」を自称する基礎自治体、あるいは「人民裁判所」を乱立。社会革命の不徹底と政府の弱腰が反乱軍蜂起に繋がったと考える彼らは、独占資本から資産を解放し、教会を破壊。武器庫から略奪した武器による武装化を独断で推し進めた。アサーニャ大統領は、彼らの暴走を苦々しい表情で追認するしかなかった。

 

 かくして反乱軍のクーデター計画が無残な失敗に終わり、共和派政府が統治能力を喪失した結果、スペインは後戻り出来ない内戦へと突入した。王党派と共和派、自由主義者と社会主義者、共産主義者と無政府主義者、中央集権派と分離独立勢力、資本家と労働者、労働運動をめぐる組合の主導権争い……これらは対立構造の一部に過ぎず、同じ主義主張の中でも方法論や主導権をめぐる争いが絶えないという有様である。あらゆる政治勢力が内へ外へと闘争を繰り広げる中、反乱軍(防衛委員会を自称)と政権側の双方は、諸外国に支援を求めた。

 

 仰ぐ旗や主義主張こそ異なったものの、両者の形振り構わない要請は驚くほど似通っていたという。

 

「「食料と兵士と武器弾薬をくれ!」」

 

 

 スペイン国内においても国際社会においても、当初から反乱軍支援にまわると目されていたのは、ベルサイユ条約打破を掲げる「現状打破勢力」のドイツと、先の大戦における戦勝国でありながら、独自外交を続けるイタリアであり、結果としてその通りになった。とはいえ決定に至るまでの決定過程は、両国の指導者のキャラクターを感じさせるものであった。

 

 まずドイツである。

 

 同国のスペイン政策は、フランスを抜きにしては語れない。フランスにしてもスペインにしても、人民戦線が掲げる第一の政治目的は「反ファッショ」。加えてベルリン・オリンピックに当てつけるかのように人民オリンピックを開催しようとしていたスペイン政府をドイツが支持するわけがなく、内戦開始直後から民間や現場レベルでは、反乱軍に対する情報提供や物資の支援が行われていた。だが本格的な軍事介入ともなれば、最高位者の決定は不可欠である。そして1936年当時のドイツの絶対指導者アドルフ・ヒトラーは、良くも悪くも素人故の慣例にとらわれない大胆さと、絶対的な経験不足からくる過度なまでの慎重さが入り混じり、彼個人の精神状態に応じて両者の間を揺れ動く傾向が見られた。

 

 かくして総統の支持を求め、ドイツ国内におけるスペイン介入支持派と反対派の綱引きが始まった。

 

 ドイツ外務省と国防軍は、スペイン内戦への介入そのものに否定的な姿勢を示した。ワイマール時代から共同でドイツ外交を主導してきた両組織は、スペインの地政学的な重要性を理解していたが、同国への本格的な軍事介入が英仏を刺激しかねないという懸念に加え、内戦長期化は避けられないという状況分析、内戦の当事者に直接軍事支援を行うことへの是非など、数多くの問題点と懸念材料を短期間の間に共有した。外務省はヒトラー総統との会談を求める反乱軍側の使者を門前払いし、国防軍はパリ駐在武官を通じて行われた航空機供与の要請に、明確な言質を与えなかった。

 

 これとは対照的に内戦介入に積極的な姿勢を示したのが、ヘス副総統とゲーリング空軍総司令官である。前者は政権与党のナンバーツーであり、後者は国会議長を始めとして、複数の要職を兼職する政界の実力者。ワイマール体制下で異端視されながらも、自分達の信じるやり方を貫くことで総統を政権の座に押し上げたと自負する彼らは、良くも悪くも正規の手法にこだわらない。また失敗した場合のリスクが過大であったとしても、それ以上の成果がが望めるのであれば、大胆に行動するべきであるという身近な成功体験(ラインラント進駐)が、彼らをより冒険的な外交へと駆り立てた。

 

「スペインに親ドイツ政権が発足すれば、フランスは背後に仮想敵国を抱えることとなる」

「フランス中心の小協商陣営が形骸化しつつある中、軍事的に孤立化した同国を屈服させることは容易だ」

「ドイツの軍事支援は英仏の介入を招く可能性があるが、明確な条約違反であったラインラント進駐でも明確な軍事行動に出なかった」

 

 こうした内戦介入派の分析は、ドイツ側に都合のいい希望的観測を積み重ねたものであったとはいえ、それなりに説得力を有しており、現にそのいくつかは彼らの予想通りに展開した。ヒトラーの私的な外交ブレーンとしてナチス党幹部とは犬猿の仲であるリッベントロップ新駐英大使も、外務省主流派と敵対する経緯から「イギリスの保守党政権は、ソビエト連邦の支援を受けるスペインの現政権を好ましく思ってはおらず、ドイツが反乱軍を支援したとしても黙認する可能性が高い」として介入論を支持した。

 

 かくして7月25日。副総統ヘスの仲介に加え、この手の根回しとゴリ押しならお手の物であるゲーリングにより、ドイツ南部のバイロイトにおいて、スペイン反乱軍の使者はヒトラー総統との面会に臨んだ。彼はスペイン反乱軍の防衛委員会から委任を受けた軍人、あるいは外交官……などではなく、たまたまモロッコに滞在していたために依頼されたというだけの企業経営者であった。それもスペイン人ならまだしも、なんとドイツ人である。反乱軍側の準備不足と苦境が伺える人選であり、これでは外務省と国防軍がまともに取り合わなかったのも無理はない。連日続くレクチャーにより慎重論を吹き込まれていたヒトラーも、あからさまな失望を表情に浮かべていたという。

 

 一見すると介入支持派には不利な状況に思えるが、多忙な総統閣下のスケジュールに会談を捩じ込んだゲーリングには確たる勝算があった。ヒトラーのバイロイト滞在の最大の目的は、ワーグナー家が主催するバイロイト音楽祭への出席である。お気に入りのワーグナー、それも当代随一との呼び声も高い名指揮者フルトヴェングラーによる『ジークフリート』の官能的なまでの世界を味わった直後であれば、必ずや前向きな回答を出すであろう……

 

 「ビア樽男」の予測は的中した。最初こそ胡乱な眼差しで出迎えたヒトラーであったが、ベラベラと観劇の感想と持論であるワーグナー観を話している間に気分が高揚し、万能感からくる自己陶酔に酔いしれてしまった。当初の消極姿勢はどこかに吹き飛んでしまい、その場でユンカースの最新型爆撃機の供与を決定。国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリスを責任者に任命する。かくして介入派のヘルマン・ゲーリングは、政治的な勝利を収めた。

 

 ナチス党における政治闘争の勝敗は別として、国家意思として内戦介入の決断が下されたのであれば、官僚機構である外務省と国防省は従うほかに選択肢はない。外務省は表向きはロンドンが主導したスペイン不干渉政策に同調するような、いつもの実が伴わない口先外交を繰り広げ、国防軍は義勇軍の編成と物資供与を開始。派遣された義勇軍の先陣を切ったのはゲーリング子飼いの空軍から選抜された航空部隊であり、8月初頭には既に本格的な作戦行動に着手している。

 

 さてイタリアであるが、同国はドイツよりも本命とみなされていた。カトリック教国という共通点に加え、アルフォンソ13世がローマに亡命して以降は王党派の拠点である点。何よりスペインの保守勢力や民族派はドゥーチェを英雄視していた。強権政治で国論を団結することで国威を高めたファシズム政治こそが、彼らの目指す政治の理想であったからだ。

 

 このような経緯もあり北方軍を指揮するモーラ、モロッコ軍団を指揮するフランコ、統領の政治を理想としていたプリモ・デ・リベラ将軍の息子が率いるファランへ党、スペイン国内における教会弾圧を危惧する教皇庁、共産主義者の加わる人民戦線のままでは王政復古はありえないと判断する王党派など様々な勢力が、イタリアに対して反乱軍側への支援を要請した。

 

 一方的なラブコールを送られた統領は、奇しくもドイツと同じく当初は慎重な姿勢であったという。6月に就任したばかりのチャーノ外相が支援に前向きな姿勢を示していたものの、統領は功名に逸る娘婿に苦々しい表情で自重を求めたとされる。地中海帝国ローマの復活を掲げる統領だが、この鍛冶屋の息子は自分の言葉に酔うということがない。スペイン艦隊の無力化はイタリアにとって喜ばしいことであり、むしろ内戦が長引くことでフランスがイベリア半島に掛り切りになればいいと考えていた節すらある。

 

 イタリアの冷笑的な雰囲気を一変させたのは、フランス議会においてスペインへの軍事支援が検討されてるというパリ発の特電であった。イタリア軍のみならず統領個人としても、地中海覇権を巡るフランスへの感情的なまでの対抗意識を有していたのは事実だが、このファシストの創設者をして反乱軍への大規模支援を決意させたのは、イタリア軍情報部長マリオ・ロワッタ少将の意見具申によるところが大きい。

 

「御承知の通り、フランス人民戦線の内部分裂はスペイン以上に激しいものです。急進社会党右派がスペイン介入に消極的なのも事実。ですが万が一にも、フランスがスペイン政府に対する本格的な軍事支援に乗り出せば如何なりましょうや」

 

 チャーノ外相と共にスペイン内戦への積極的な軍事介入を主張する数少ない将軍であったロワッタ少将は、先の大戦においては西部戦線でフランス軍と共闘した経験を有しており、個人的にも感情的な反仏感情とは無縁である。だが情報参謀としての長く豊富な経験を有する彼は、外からは内部分裂ばかり起こしているかのように見えるフランスが、三枚舌を駆使する腹黒紳士と渡り合いながら植民地帝国を維持し続ける謀略国家としての顔をもつことを認識していた。

 

「盛況無比なモロッコ軍とフランス軍が直接戦う必要はありません。彼らのスペイン本土上陸を阻止さえすればよいのです。地中海沿岸地域を政権側が確保している今ならば、フランスの地中海艦隊はジブラルタル海峡と主要港湾の監視活動という最低限の活動で政権側に勝利をもたらせるでしょう。陸軍中心の反乱軍に、フランスの地中海艦隊に対抗する手段はありません。両国空軍の共同作戦行動により孤立化した北方軍を殲滅し、モロッコ軍が自壊するのを待つ。この場合、内乱は年内にも政府側の勝利で終わるでしょう」

 

 かくして無力化されたスペイン艦艇は地中海艦隊に取り込まれ、フランスはモロッコを影響下に治める。地中海におけるフランスの影響力は絶対的なものになる……ロワッタ少将の指摘する不愉快な可能性に、統領は軍事介入の必要性を認めざるを得なくなった。かくして7月中旬には、チャーノ外相が反乱軍側との本格的な交渉を開始。ロワッタ少将を指揮官とするイタリア義勇軍の編成が始まった。

 

 なおイタリアは軍事支援の条件として、自国の地中海政策に対するスペインの全面的な支持と支援を求め(有り体に言えばモロッコを始めとした海外領土を寄越せということだ)、スペイン側の交渉責任者を大いに鼻白ませたという。

 

 こうして独伊両国から提供された輸送船団に加え、イギリス海軍の黙認を得たモロッコ軍団はジブラルタル海峡を無事通過。8月初頭までに主要兵力をスペイン本土に輸送することに成功。ロワッタ少将の危惧するイタリアにおける最悪の事態は避けられることとなった。またスペイン反乱軍への支援に向けてドイツとイタリア両国が足並みを揃えたことは、ローマ・オリンピック招致問題と並んで、オーストリアのドルフース首相暗殺事件から冷え込んでいた両国関係を改善させる効果をもたらした。

 

 バルセロナに首都を移転させたスペイン政府は、南下を続ける北方軍との戦線に加え、モロッコ軍団との戦いに兵力を振り向けざるを得なくなった。アサーニャ大統領とピラール首相が最後の頼みの綱としていたパリの人民戦線内閣は、政府与党内部で実の伴わない議論を延々と続けるばかり。殺戮と破壊を続けながら北上するモロッコ軍団がマドリッドまでわずか100キロの距離に迫る中、ピラール内閣は9月4日に崩壊した。

 

 事ここに至れば、もはや穏健派とされるアサーニャ大統領にも選択肢はない。不干渉政策を掲げるイギリスの目など気にしていられないと、社会労働党左派に属するラルゴ・カバジェーロが首相に就任する運びとなった。「スペインのレーニン」の異名をもつ新首相は、さっそくソビエト連邦からの大規模な軍事支援受け入れを決定。マドリッド方面への進撃を続けるモロッコ軍団に対抗するため、急ピッチで軍の再編を進めた。

 

 かくしてイベリア半島を舞台にドイツとイタリア両国が関係を深めようとしていた矢先の1936年9月17日。欧州諸国に新たな激震が走った。

 

 オーストリア内戦の勃発である。



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