二夜廻 (甲乙)
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01:序章(ぷろろーぐ)

 『人生は後悔の連続である』とは、誰の言葉だっただろうか。

 

 それなりに苦難の多い人生だったと自覚している。

 そして、その中で精いっぱい生きてきたと自負している。

 

 それでも、思うのだ。

 

 もしも生まれ変われるならば、私は――。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 祖母は時々、変なことを言う人だった。

 

『夜道を出歩いてはいけません。どうしても行くなら、必ず明かりを持ちなさい』

『夜道でマンホールを踏んではいけません。中にいるモノが出てきてしまうから』

『夜道で赤ちゃんの泣き声を聞いても、近づいてはいけません』

『夜道には、夜を見張るナニカがいるの。もし出会っても、ぜったいに目を合わせてはダメ』

 

 すべて、寓話(ぐうわ)なのだろう。「夜道は危険だから出歩いてはいけない」という教訓を、子どもにトラウマとして植えつけるための寓話。多かれ少なかれ、どこの家庭でもやっていることだ。ただ、祖母のソレらは、少し度を過ぎていたように思う。

 あまりにも恐ろしいのだ。不気味で、醜悪で、残酷で、()()()()()()()()()()()()()()。おかげで、私も子どもの頃は夜が恐ろしくて仕方がなかった。もっとも、私も母も夜遊びをせず、非行とも犯罪とも無縁の人生を送っているのは、そのおかげだったと言えるのかもしれないが。

 大人になった今でも、夜は恐ろしい。新素材ライトが町をくまなく照らす、この時代になってもだ。

 

『――様の病室は、401号室です』

 

 病院の受付AIに住民コードを読ませると、親族と認証され病棟へのゲートが開放された。私と同じ見舞い客、滑るように動く無輪車イス、丸いフォルムの看護ロボット、それらとすれ違いながら病室を目指す。エレベーター前で、しばし黙考。もう珍しくなった手動ドアを開けて、階段を使うことを選択した。祖母曰く「足腰は鍛えておきなさい」だ。

 すこし息が上がってきたあたりで4階に辿りつく。季節は夏、天井のセンサー付き冷房が、私という熱源を見つけて冷風を吹きつけてくるのがありがたい。汗が引くのを待ち、祖母ゆずりで色素の薄い髪を整えてから病室に入った。暖色系の調度品で統一された個室の奥、窓際のベッドに、祖母がいた。

 

 こちらを見て微笑む、柔らかな相貌。

 ゆるく編まれた、長く真っ白な髪。

 そして、存在しない左腕。

 

 私は、祖母よりも美しく老いた女性を知らない。その顔にも手にも、年齢と苦労の数だけ皺が刻まれているというのに、内側から淡く輝くような美しさ。欠けた左腕ですら、かの女神像のような神秘性を感じさせた。まるで月のようだと、私は常々思っている。

 祖母は、夜が似合う女性だった。

 

「いらっしゃい。また来てくれたのね」

 

 すすめられた椅子に座り、今日もとりとめの無い話をした。仕事のこと、流行っている映画のこと、太ってきた父が運動を始めたこと、母が犬を飼おうと思っていること、伯父が旅行に行ったこと、従妹に恋人ができたこと。そして、私も秋になったら結婚すること。

 

「あら、じゃあ来年には、また曾孫(ひまご)の顔を見られるのね」

 

 でも間に合うかしら? などと冗談めかしながら、片手を口に当てて祖母は笑う。祖母は先月に卒寿、つまり90歳を祝ったばかりだ。目立った病気もなく、痴呆の気配もない。それでも、祖母は病院にいる。

 

「大丈夫よ。まだまだ元気だもの」

 

 ……私が逆に励まされてしまった。努めて笑顔をつくり、話を再開しようとすると、ベッド脇の置時計がチャイムを鳴らした。午後5時。面会時間が終わるにはまだ早い。

 

「そろそろ帰りなさい。これから日が落ちるのも早くなるわ。夜道には――」

 

 はいはい。夜道には気を付けます。ちゃんとまっすぐ帰ります。あいかわらずな祖母を見ると力が抜け、今度は自然に笑えた、と思う。そのまま病室を出ようとすると、祖母に呼び止められ、振り返った。

 祖母は、じっと私の目を見てから、すこしうつむき、顔を上げて、

 

「またね」

 

 と、手を振った。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 夜半に、目が覚めた。

 ずっと霞んでいた視界がやけに鮮明で、耳鳴りも聞こえない。

 暗い天井をしばし眺めた後、片腕の老女――ハルは、ベッドから起き上がった。ひどく、体が軽い。

 

「……」

 

 孫から贈られた肩掛けを羽織り、愛用の杖を右手に握る。私物の入った鞄を探り、三つの物を取り出した。

 一つは、骨董品のような懐中電灯。二つは、青と赤のリボン。

 それらをひとしきり指で撫でた後、懐中電灯を首から下げ、リボンは杖ごと握りしめて、病室を後にした。

 

 そろそろ、その時がくる。

 

 エレベーターで1階に降り、無人のロビーをゆっくりと歩く。

 いや、無人ではない。

 柱の陰に、待合椅子の下に、受付パネルの奥に、そこかしこに、()()

 ソレらは、ただぼうと佇んでいるだけで、かつてのように追ってはこない。やはり、あの町が異常だったのだろう。あるいは、気を使ってくれているのか。

 そのまま裏口からこっそりと抜け出し、中庭に出た。

 普段はまぶしい程に道を照らしているライトも鳴りを潜め、大きな噴水もさらさらとせせらぐのみ。真ん中に置かれた、もう滅多に見られない木製のベンチに腰掛ける。

 ハルは天を仰いだ。大きな満月が、こちらを見返している。

 

「……いい、夜」

 

 そう、死ぬには、いい夜だった。

 

 

 

 

 

 それなりに苦難の多い人生だったと自覚している。しかし、決して孤独ではなかった。

 父がいた。母がいた。愛犬もいた。

 新たな友人も多くできた。心から愛せる伴侶とも出会えた。3人の子と、5人の孫を得た。

 2人目の曾孫は、もう間に合わないようだが。

 孤独ではなかった。精一杯生きてきた。

 だが、それでも。いや、だからこそ。

 

「……、……ィ」

 

 ぽつりと、何かをつぶやいたハルの耳に、奇妙な音が響いた。

 

 

 

 

 ずりずり ずずず ごりっ

 ずりずりずり ごりっ ずりずり

 

 

 

 

 病棟の陰、暗がりに目を向ける。

 そこに、なんとも(たと)えようのない、ナニカがいた。

 

 灰色の闇のような体色。芋虫のような、深海魚のような胴体。

 体から生えたミミズに似た何かで、大きな袋を3つ抱えている。

 正面にある白い円は顔なのか、目なのか、仮面なのか。

 

 人の想像の範疇を越えたその存在を、ハルは知っている。

 怪異の中の怪異。夜を見張るモノ。

 

「よまわり、さん……」

 

 ハルは、その名を呼んだ。

 灰色の怪異――よまわりさんが近づいてくる。あいかわらず、その動きからは何の感情も、意思も感じられない。心など無いのか、あるいはそんな人間の物差しで計れるものではないのか。

 

『よまわりさんは、夜に出歩く子どもをさらうモノ』

『理由なんて分からない。あれは、ああいうモノだから』

 

 かつて、故郷の隣町で出会った片目の少女はそう語った。だが、ここに子どもはいない。いるのは老いたハルだけだ。いったい何のために現れたのか。ここにハルしかいないのであれば、それはもしかして、

 

「私を、迎えにきてくれたのですか」

 

 ハルは、そっと微笑んだ。元より、もう逃げる必要などない。手から、足から、力が抜けていく。体のすべてが、命が、終わっていくのが分かる。

 思えば、ハルにとって怪異は身近な存在だった。

 物心がついた時には、感じていた。あの夏の、あの夜ほど鮮烈な記憶は生涯なかった。あの夜の後も、故郷を去るまで夜廻りを続けていた。

 怪異で始まり、怪異で終わる。己を看取る存在としては、ふさわしいと思えた。

 

 よまわりさんは、ただ動いた。2つの袋を、そのミミズのような何かでつかみ、

 

 

「――――ユイ…」

 

 

 最期に、己の生涯でもっとも鮮やかな名前を、大切につぶやき、ハルは、目を閉じた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 もしも、生まれ変われるならば――。

 

 

 

 



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02:帰郷(ただいま)

 私は、いつ間違ったんだろう。

 

 私は、何を間違ったんだろう。

 

 私は、どうするべきだったんだろう。

 

 

 ねえ、ユイ。

 

 

 私は、いつ、何を、どうすれば、あなたと一緒にいられたの?

 

 あの時、手を放さなければよかったの?

 ――いいえ。放さなくても、朝になれば、きっとあなたは消えていた。

 

 あの時、あなたとの縁を切らなければよかったの?

 ――いいえ。私がお化けになっても、一緒にはいられなかった。お化けは孤独(ひとりぼっち)なんだから。

 

 あの時、もっと早くあなたを見つければよかったの?

 ――いいえ。離れ離れになる前にはもう、あなたは幽霊になっていた。

 

 あの時、私が引っ越さなければよかったの?

 ――いいえ。引っ越しが決まる前から、あなたの心と体は傷だらけだった。

 

 あの時、私がもっと強ければよかったの?

 ――そうかもしれない。でも、私は弱虫だった……。

 

 あの時、あの時、あの時……。

 

 

 私と、あなたは、こうなる運命だったの?

 

 どうしようもなかったの?

 

 もう、分からないよ。ユイ。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ハルは、柔らかなベッドの上で目覚めた。

 コチコチと、ベッド脇の置時計の音がする。窓から、赤くなりかけた光がさしこんでくる。薄汚れた天井の、大きな染みが怖い顔で見返してくる。

 手足のたしかな重み、シーツから香る自分自身の匂い、カーテンを揺らす風の涼しさ。

 生きているという、実感。

 

「……」

 

 どうやら、死に損なってしまったらしい。

 落胆と、安堵が入りまじった溜息をひとつこぼし、両手で目を覆った。

 最期は夜の中で逝こうと中庭に出たが、そのまま眠ってしまったのか、あるいは警備ドローンにでも見つかったのか。どちらにせよ無断で病室を抜け出したのだ、主治医と子と孫に説教される未来が目に見え――。

 

「…………」

 

 待て。今なにか、ひどい違和感を覚えた気がした。

 そっと目を開けて、両手を離すと、ふたつの小さな手のひらが見えた。

 

「………………」

 

 ぎゅっと目をつぶり、目頭をもむ。もう一度目を開け、じっと()()()見て、

 

「……ッ!?」

 

 ベッドから転げ落ちた。

 

「ぶえッ!」

 

 鈴の鳴るような声で、まるで可愛らしくない悲鳴が出た。しかし無理もない。

 目覚めたら失くしたはずの左腕が復活していたなんて、誰が想像できるだろうか。

 

「な、に……これ」

 

 しかも、なんだこの小さな手は。何度も断ったのに、無断で生体義手を移植されたのだろうか。ならばせめて普通の手をつけてほしかったと思う。

 ふらふらと立ち上がっても、ハルの混乱は収まらない。

 そもそも、ここは病室ですらなかった。青い花柄のシーツが敷かれた子ども用ベッド。開かれっぱなしのノート。勉強机。赤いランドセル。

 忘れもしない。ここは、80年前に去ったはずの、生家の子ども部屋だ。

 

「冗談、でしょう……?」

 

 冗談であってほしかった。それとも悪戯好きな次男の娘がしかけたサプライズだろうか? 遠い昔に取り壊されはずの生家を、わざわざ復元したというのか?

 痛み始めた頭を抱えながら、ふと、棚に置かれた手鏡に目が留まる。

 

 

 頭に揺れる、空色のリボン。

 皺ひとつ無い、色白で、小さな丸い顔。

 色素の薄い髪で編まれた、ふわふわの三つ編み。

 

 

 もう古い写真の中にしか無いはずの、少女ハルの姿がそこにあった。

 

 

 

 

 ハルは気絶した。

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 よまわりさん……孫……看護ロボット……主治医……。

 

 

 私は、夢を見ていた。新しい記憶から古い記憶へと、逆回しで流れていく風景を見ていた。

 

 

 夫の葬式……母の葬式……父の葬式……。

 

 

 お父さん、お母さん、あなた、私はやっぱり死んだようです。でももう十分に生きたはずです。決して早くはないでしょう?

 

 

 長男の結婚式……次男の結婚式……長女の結婚式……。

 

 

 子どもたちはみんな立派に育ちました。みんなひとり立ちして、自分の家族を持ちました。もう私の役目は終わったんです。

 

 

 結婚式……入社式……卒業式……チャコのお墓……。

 

 

 チャコとのお別れは悲しかったけれど、愛する人と出会えました。不自由な体では苦労もいっぱいしたけれど、私は幸せでした。

 

 

 新しい町……新しい家……新しい学校……新しい友達……。

 

 

 こんな体でも、みんな良くしてくれた。こんな私でも、ひとりでがんばったんだよ。新しい友達だってできたんだよ。

 

 

 蜘蛛神……コトワリさま……お化け……お化け……お化け……。

 

 

 あの夏の夜は今でも、こわくて、つらくて、さみしくて。

 

 

 ユイ……ユイ……ユイ……。

 

 

 ねえ、私は、あの時、どうすれば。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「――ユイっ!」

 

 再び、ハルは飛び起きた。

 そのまま転げ落ちるように階段を降り、何も持たないまま外に飛び出す。考えるより先に、走り出した。思い出すまでもなく、体が道を覚えていた。

 黄昏に沈もうとする町並みが見える。ジグザグの水路。夕日に温められたアスファルト。錆びついた標識。魔法陣のようなマンホール。退屈そうな電信柱。何もかもが記憶通り。

 いったい何が起こっているのかなど、ハルにはまったく分からない。死ぬ直前によまわりさんに会って、目覚めたら子どもの姿になっていて、80年前の故郷にいて……。

 過去に戻った? そんなバカな。

 でももしかしたら。もしそうだとしたら!

 

「ユイ……!」

 

 遠い昔に失くした親友と、もう一度会えるかもしれない。その思いだけが、ハルを突き動かしていた。

 しかし、視点が低く、歩幅の短い体をうまく動かせない。そして左腕が重い。長年を片腕で生きてきたハルにとって、五体満足であることの方が平衡感覚を狂わせていた。そのくせ体は軽いのだから、加減を誤って何度も転んだ。

 それでも、すり傷だらけになりながら、夕日の町をハルは走り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、辿りついた。

 赤い屋根の一軒家。かつてはよく遊びにいったのに、いつからか招かれなくなった、ユイの家。

 息も絶え絶えになりながらインターホンに飛びつく。1回、2回、もどかしくなって一気に5回連打するが、錆びた電子音が聞こえるだけ。

 返事は、無い。2階の窓も、開かない。

 

「ユイ! ユイっ! 私よ! ハルだよ! いないの!?」

 

 たまらなくなったハルは、小さな手で玄関を叩きだした。ドアを開けようとするが、鍵がかかっている。ガチャガチャと固い音だけが響くだけ。

 玄関を離れ、家の周りをぐるぐると歩いてもユイはいない。狭い庭の片隅に、古びた赤い三輪車を見てやけに不吉な気分になった。

 窓枠に手をかけて中をのぞきこんでも、家の中は(くら)い影に満たされていた。誰も、いない。

 ここに来て、ハルの脳裏に最悪の可能性が浮かんだ。

 

 ――過去に戻っているとして、()()()()()

 ――左腕がある以上、あの夜よりは過去のはずだ。

 ――ならば何故ユイはいない?

 ――もしかしたら、ユイは、今まさに、あの木で、首を……。

 

 一瞬で血の気が引いた。半狂乱で山に向かって駆け出すハルの耳に、

 

 

 

 

「ハル?」

 

 

 

 

 あまりにも懐かしい声が響いた。

 

 



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03:再開(もういちど)

 その日、ユイはご機嫌だった。

 

 お父さんとお母さんと一緒に、朝からバスと電車に乗って、遠くの町のデパートに行ったのだ。ユイは近所のスーパーや本屋も好きだが、やっぱりデパートは特別だ。

 色とりどりの色えんぴつ、かわいい動物が描かれたノート、たくさんのぬいぐるみ、見たこともないお菓子、どれもユイの心をワクワクさせる。

 最近また靴が小さくなってきたから、新しい靴を買ってもらった。赤い運動靴と、かわいらしい赤い靴。すこしだけ悩んで、運動靴に決めた。外でハルと走って遊ぶためだ。ユイは赤が好きだった。ハルと外で遊ぶのも好きだった。

 ゲームコーナーでウサギのぬいぐるみを見つけた。ふわふわした形を見てハルに似てるなと思っていたら、お父さんが「一回だけだよ」と百円玉をくれた。UFOの形をしたクレーンは何も取ってくれなくて、その後お父さんが百円玉を4枚入れてもダメだった。二人でお母さんに怒られてしまった。

 食品売り場では、お菓子を一個だけ買ってもらえる。10個入り、8個入り……、ハルと二人で分けられるお菓子を選んでいたら、お父さんもひとつ欲しいと言ってきた。おかげで、ユイは頭がこんがらがってしまった。

 3階にはレストランがたくさんあって、ユイははじめて回転寿司を食べた。ツナマヨを食べるのもはじめてで、つい5皿も食べてお腹がパンパンになってしまった。ツナマヨはおいしい。ハルにも教えようと思った。

 帰る前、ウサギ形のナップサックを見てユイは目を輝かさせた。目が釘づけになっているユイを見て、ぬいぐるみの代わりにと、お父さんが買ってくれた。本当はもう一つ買ってほしかったけど、さすがにガマンした。ハルのお父さんも買ってくれないかな。

 とても楽しい一日だった。今日の絵日記はきっと1ページにはおさまらない。でも、

 

 ――ハルとは遊べなかったな……。

 

 朝、今日は遊べないことを伝えた時の、ハルの寂しそうな顔を思い出す。チクリと胸が痛くなった。

 ハルはすごく怖がり屋で、寂しがり屋。放っておけない妹みたいな子で、ユイの一番の友達。

 もしかしたら一人で泣いているんじゃないか、さすがにそれはないか。なんて思っていたけれど……。

 

「泣きすぎだよ、ハル……」

「ぅぅっ……ぐぅ……。ごめんなざいぃ……」

 

 まさか、本当に泣いているとは思わなかった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――数分前。

 

 

「ハル?」

 

 デパートからの帰り道。両親と手を繋ぎながら歩いていると、ユイは自宅の前から走り去ろうとする親友の姿を見つけた。

 自然と声をかけると、青いリボンの少女――ハルは、ぴたりと固まってしまった。まるでビデオの一時停止でも押した時のように、完全に固まったものだからユイはすこし驚いてしまう。

 その後ゆっくりと、怖くなるぐらい本当にゆっくりと、ハルが振り返る。

 

「うちで何し……って、どうしたのそれ!?」

 

 やっと振り返ったハルは傷だらけだった。手にも足にも、柔らかそうなほっぺたにまで、すり傷がある。白いシャツは砂で汚れていて、なぜか靴も履いていない。石でも踏んだのか、白いソックスには赤い染みができていた。おまけに、三つ編みもほどけかけている。

 元々かけっこは苦手な子だけど、いったいどこをどう走ったらこんなことになるのか。傷の手当のために、まずは家に入れてあげようと両親にお願いしようとした時、

 

 

「ユ……イ……?」

 

 

 呆然とつぶやきながら、傷だらけのハルがよたよたと近づいてくる。テレビで見た映画に出てきた、ゾンビみたいですこし怖い。

 

「ユイなの……?」

「う、うん」

 

 今朝に会った時とはまったく違う親友の様子に、だんだんユイは不安になってくる。思わず後ずさりすると、すぐに平垣に背中が当たった。

 

「ユイ……」

「ハル? いったいどうしうにゅっ」

 

 今度は、両手で顔をつかまれた。そのままぺたぺた肩やらお腹やら触られるものだから、くすぐったくてユイは身をよじった。

 

「ユイ……」

「ねえハル、どうしたの? なんか変だよ」

 

 尚も触ってくる両手をつかんで止め、すこし屈んで目線を合わせる。二人の視線がまっすぐ交差した瞬間。

 

 ぶわっ、と。

 

「へ?」

 

 ハルの大きな瞳から涙があふれた。

 

「ちょ、ちょっとハルうわぁっとっと!」

 

 半ば押し倒すように抱きついてきたハルを支えきれず、ユイは尻もちをついた。

 

「ユイ……! ユイぃ……ッ!」

「えぇ……」

 

 しかも、そのまま泣きだされるものだから、さすがのユイも遠い目になってしまう。ずっと成り行きを見守っていた両親ですら、どうしたものかという様子で顔を見合わせていた。

 

「ずっと会いたかった……。会いたかったよう……!」

「いや、朝に会ったばっかりじゃない……」

 

 ほんの一日、自分と遊べなくてそんなに寂しかったのか。呆れ半分、嬉しさ半分で、ハルが泣き止むまでの間、ユイは背中をさすってあげることにした。

 ちょうど目の前で、ハルの青いリボンがひょこひょこ揺れているのが見えて、ユイは目を細める。

 町が黄昏に沈むまで、二人の影はずっと重なっていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「もう、ほんとハルは寂しがり屋なんだから」

「うぅ……。ごめんなさい……」

 

 呆れるような口調とは裏腹にユイは嬉しそうに世話をやいてきて、ハルは年甲斐もなく恥ずかしくなった。

 あの後ようやく落ち着いてきたハルを、ユイは快く家に迎えてくれた。

 濡らしたタオルで体中の傷をきれいに拭い、消毒。小さな傷には絆創膏を、大きめの傷には切ったガーゼを貼りつける。汚れたシャツとソックスは脱がされて、代わりにユイの服を着せられた。元の服は下洗いした上でビニール袋に詰められ「忘れちゃダメだよ」と手に持たされる。ついでとばかりに髪まで結いなおされた。

 なんという手際か。ものの数分で、リビングには小綺麗になったハルが鎮座していた。ユイもやりとげたような顔で、ソファの隣に座ってくる。

 

「で、何があったの?」

 

 小さな缶ジュースを手渡されながら、先ほどの醜態の説明を求められた。家に押しかけ、傷だらけの状態で泣きついてしまったのだ。気になるのも当然だろう。とはいえ。

 

 ――なんて言えば良いの…?

 

 まさか「老衰で死んだら若返ってタイムスリップしてきました。80年ぶりの再会で感極まって、つい」などと言うわけにもいかない。言えば間違いなく病院送りだろう。しかも扉が鍵付きの方の。

 どうしたものかと見返すと、ユイは缶ジュースに口をつけながらハルの言葉を待っている。

 

 後ろ髪(ポニーテール)をくくる、ハルとおそろいの赤いリボン。

 すこし日に焼けた、傷ひとつ無い健康的な肌。

 釣り目がちな、でもやさしい眼差し。

 

 すべて、すべて、記憶の中のユイだった。

 自分は確かに帰ってきた。またユイに会うことができた。神の御業でも怪異の仕業でもなんでも構わない。この奇跡に心の底から感謝した。

 また涙がこぼれてきて、ハルは顔を覆う。

 

「ああもうほら。ちーんってして、ちーんって」

 

 すかさずユイにあやすように抱き寄せられ、柔らかいティッシュで(はな)までかまれてしまう。嬉しいやら情けないやら恥ずかしいやらで涙が止まらず、なかなかハルは顔を上げられない。

 

「……あれ、ティッシュもう無いや。おかーさーんっ!」

 

 

 涙が、ひっこんだ。

 

 

 “前回” つまりハルにとっては80年前、ハルはユイの家族のことを知った。

 始まりは、ユイの父親の失踪だった。それを夫の不貞と疑ったユイの母親は豹変。家庭を放棄し、男を連れ込み、娘に暴力を振るった。

 ユイの体には絆創膏が増え、包帯を巻いていることすら珍しくなくなった。ハルは家に招かれなくなり、ユイも家には帰りたがらなくなった。

 そして全てが終わった後、彼女は警察に出頭したという。ユイの捜索が打ち切られた直後のことだ。ユイは、公式には行方不明のまま。葬式すら、あげられなかった。

 それらの事実を、ハルは引っ越し先で知った。新聞で、雑誌で、インターネットで、あらゆる方法でユイの死の真相を調べあげた。

 それがユイへの弔いであり、ユイを助けられなかった罪と向き合うことであり、ユイの死という現実を直視することだと考えていた。

 

 ――娘のことは愛している。でも感情(きもち)を抑えられなかった。

 ――娘に謝りたい。だからはやく見つかってほしい。

 

 彼女は、そう語ったらしい。その後、彼女自身がどうなったのかまでは、ハルも知ろうとはしなかった。

 憎んでいない、と言えば嘘になる。彼女もまた、ユイを死に追いやった要因の一つであることは間違いないのだから。

 蜘蛛神、父親、母親、そしてハル。多くの縁に絡めとられて、ユイは死んだ。憎むものが多くて憎み切れないだけなのではないか、それは今でもハルには分からない。

 だからハルは、未だに彼女への気持ちを割り切れないでいた。

 

 

 

 

 パタパタとスリッパを鳴らしながら、一人の女性がリビングに入ってくる。

 女性は、ユイとよく似ていた。気が強そうながらも優しげな目元が特に似ていて、ユイの母親だと一目で分かった。初対面ではないはずだが、ユイの家には招かれなくなって久しい。ましてやハルにとっては80年以上会っていない相手だ。顔にはまったく見覚えが無かった。

 

「あら、ハルちゃん。もう大丈夫なの?」

 

 しかし、明るく微笑むこの女性にとってはそうではなかったらしい。ユイは「朝に会ったばかり」と言っていた。もしかしたらその時、彼女にも会っていたのかもしれない。自分と周囲の時間感覚にあまりにも差がありすぎて、ハルは頭痛がしてきた。

 更には、ユイを虐待していた心神喪失の母親というイメージとまるで重ならない。よく見ればリビングの中は掃除も行き届いており、荒れた様子も無い。ユイ自身にも怪我など無く、その頭にも包帯は巻かれていなかった。いったい、どういうことなのか。

 

 ――あれ?

 

 ユイの姿を見ていると、違和感を覚えた。

 怪我の有無ではない。今の今まで気付かなかったが、記憶の中のユイより、すこしだけ髪が短いような。背が低いような……。

 

「……あのね、ユイ」

「うん?」

 

 母親から新しいティッシュの箱を受け取りながらユイが顔を向けてくる。その顔はやはり、すこしだけ幼く見えた。

 

「……もうすぐ、夏休みも終わりだね」

「そうだねー。あっという間!」

「……夏休みが終わったら、2学期になるね」

「当たり前じゃん」

「……2学期と3学期が終わったら、学年もいっこ上になるね」

「ちょっと気が早すぎない?」

 

 まるで要領を得ない会話を始めるハルに、ユイもだんだんと怪訝な表情になってくる。どうやら、単刀直入に聞くしかなさそうだった。 

 

 

「私たち……今、何年生だっけ……?」

 

 

 コトッ、と。ユイがティッシュの箱をテーブルに置いた。そのまま真顔でハルの目を見つめてくる。視線が痛い。あと沈黙も痛い。

 

「ハル」

「う、うん」

「起きてる?」

「お、起きてるよぉ!」

 

 ユイは「はぁー」と心底呆れたような様子で溜息をついた。仕方のない事とはいえ、ひどく頭の悪い質問をしてしまったハルも赤面する。

 

 

「……2年生だよ。ほんとに大丈夫なの? ハル」

 

 

 ゴトッ、と。今後はハルが缶ジュースを落とした。

 幸いタブを開ける前だったため床は汚さずに済んだが、裸足の小指に直撃してハルは悶絶した。「あーもう」と既に何度目かの溜息をつくユイに介抱されながら、涙目でハルは反芻(はんすう)する。

 2年生。小学2年生。あの夏が4年生時の出来事であったことは忘れようもない。つまり今は、

 

 ――あの夏の、2年前……?

 

 ハルの中で、あの夏が生涯でもっとも鮮烈な記憶であった為か、子ども時代つまり(イコール)あの夏という図式ができあがっていたようだ。子ども時代に戻ってきたと気付いた時点で、あの夏に戻ってきたものだと思い込んでいた。

 80年前ではなく、()()()()。それがハルが戻ってきた時代だったのだ。

 

「うわぁ、痛そう。ハルちゃん大丈夫かい?」

「ああ、ちょうど良かった。お父さん湿布もってきて、湿布」

「はいはい、了解」

 

 それを裏付けるように、男性がまた一人リビングに現れる。

 ひょろりと背が高く、痩せた体つき。気弱そうに下がった眉毛と(まなじり)を黒縁眼鏡が覆っている、いかにも学者然とした男性だった。

 まちがいなく、ユイの父親だ。

 その彼は、娘にお使いを言いつけられてすぐにリビングを出て行ってしまう。気の強そうな妻にもきっと逆らえないのだろうが、本人は満更でもなさそうだ。

 気弱な父親、しっかり者の母親、明るい娘。誰一人欠けていない、幸せそうな一家。

 

「――っ、ふ、ふふ……」

「ちょっともう、今度はどうしたの」

 

 思わず笑いがこみあげてきた。涙目のまま笑い出すと、うんざりしたような――でもやさしげな顔を向けてくるユイに笑いかける。

 

「ユイ」

「なに?」

「お父さんもお母さんも、やさしいね」

 

 ユイはしばらくキョトンとしていたが、花がほころぶように笑い、

 

「――うん!」

 

 そう、答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その笑顔を見ただけで、ハルは全てが報われた心地だった。

 

 遠い昔に失った親友。小さな体にあまりに大きな苦難を背負い、あまりに短い生を終えた少女。

 

 80年、想い続けた。せめて死後の安寧を、叶うなら来世の幸福をと祈り続けた。

 

 今のこの奇跡が、神の御業だろうと怪異の仕業だろうと構わない。

 例え、すべてが今際の夢であっても良い。

 

 この子が、幸せであるならそれで――。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――さい、だま――はな――――るな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠くから、声が聞こえた。

 怪異による声ではない。空気を震わせ、ハルの耳に響いた現実の声が。

 

「ユイ、ちょっとお手洗い借りるね」

「どうぞー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗く、狭い廊下の奥に、彼はいた。

 

「だめだ。だめだだめだ、絶対につれていかない」

 

 誰もいないというのに、壁に向かってぶつぶつと呟いている。

 

「嘘だ。ふざけるな。信じないぞ」

 

 両手で耳を覆い、何かを(こら)えるかのように壁に頭を打ち付けている。

 

「くそぉ……! ……ッ “ ()()()――」

 

 

「おじさん!」

 

 

 びくん、と。ハルの鋭い声に男性――ユイの父親は肩を跳ねらせて振り返った。

 その目は血走り、唇がひくひくと痙攣している。さっきとはまるで別人のように険しい、張り詰めた顔だった。

 

「誰と、話していたんですか」

「え、ああ、いや……。独り言だよ。ごめんねハルちゃん、すぐに湿布を持ってくるからね」

 

 ハルの横をすり抜け足早に去っていく男性を、ハルもまた険しい顔で見つめていた。

 その左腕を、右手で強く握りしめながら。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

“ オイデ オイデ オイデ ”

 

 

“ ミンナ イッショ ”

 

 

“ イッショニ オイデ オイデ ”

 

 

 

 



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04:父親(おとうさん)

 娘の様子がおかしい。

 

 その日、私が仕事から帰ると、留守番していたはずの娘――ハルがいないのだと妻から聞いた。

 娘も今年で8歳。最近よく友達のユイちゃんと外で遊びまわっていることは聞いていた為、また外に遊びに行っているだけだろうと思っていた。

 妻が帰った時、玄関は開けっ放しで靴も置いたままだったというが、世間は夏休み。それもまあ、すこしはしゃぎすぎただけだろうと思っていた。

 

 しかし、辺りが暗くなり始めても帰ってこない娘に、私もさすがに冷静ではいられなくなった。

 大人たちは皆、知っている。夜になるとこの町は、その姿を変えるのだと。

 

 愛する娘の為に覚悟を決めるしかないと、懐中電灯と塩を手に探しに出ようとした矢先、娘は帰ってきた。いったい何があったのか、体中に絆創膏やらガーゼやらが貼られており、見慣れない服まで着ている。

 変わり果てた娘の姿に卒倒せんばかりの妻をなだめつつ、門限を破った不良娘に対し、ここは心を鬼にしていざ愛の鞭を振るわんと決心を固めた瞬間、

 

『お父さん、お母さん……っ!』

 

 涙目の愛娘に抱きつかれて、何を決心しようとしていたのか忘れた。私はわるくない。

 「おひさしぶりです……」とか言っていたが何かの遊びだろうか?

 それはともかく。

 曰く、ユイちゃんの家に遊びに行ったが転んでしまい、傷の手当と着替え、更には帰り道のために懐中電灯まで貸してもらったとのこと。なんという心遣いか。今度、菓子折りを持っていかねばなるまいと心に決める。

 とはいえ、妙な話でもある。あの怖がり屋の娘が、ましてや物心ついた時には「見えて」いた娘が、この夜道をひとりで帰ってきたのだ。娘が泣き止んだ後、何か変なモノは見なかったか、それとなく聞いてみたが、

 

『――()()()()()()()()()?』

 

 にこり、と笑いながら答えた娘に、何故か背筋に寒いものを感じた。私にそんな趣味はない……はずだ。

 その娘はというと、今は2階の自室で机に向かっている。学校の成績はともかく、生真面目な娘だ。夏休みの宿題も早々に終わらせているはずだが、一心不乱に何かをノートに書いている姿には、どこか鬼気迫るものがある。

 もしや反抗期かと、なるべく足音を立てないように階段を降りる。しかしそんな私の努力を嘲笑うように階段はギシギシと音を響かせるものだから、更に憂鬱になって溜息をついた。

 やはり、そろそろ引っ越すべきか。これもハルのためだ。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ガリガリと、鉛筆を走らせる音だけが響く。書かれている文字も、達筆と言って良いほど。しかし、それを書いているのが幼い少女で、書かれているのも子ども用の自由帳というのは、ある種の異様な光景でもあった。

 ハルは、帰宅してから両親との再会と夕食と入浴を手早く済ませ、自室で机に向かっていた。しかし宿題を片付けているわけでも、絵日記を描いているわけでもない。

 自由帳にはびっしりと文字が並んでいる。更には簡単な年表や人物の相関図まで書かれており、さながら警察の捜査資料のごとき様相であった。

 ハルは情報を整理していた。

 ここ数時間で起きた理解不能の現象について、ユイの一家に起きた出来事について、あの夏について。かつての経験と記憶、調べ上げた事実を元に、思い違いや記憶違いが無いよう確認していく。

 それらの要点を大まかに分ければ、以下のようになっていた。

 

・自分はタイムスリップに似た何らかの現象に巻き込まれ、若返った姿で過去に戻ってきた。

・今は、あの夏のちょうど2年前である。

・ユイの一家はまだ全員が無事である。

・ただし、ユイの父親はすでに「あの声」を聞いている。危険な状態。

 

 何の為にこんなことをしているのかなど、分かり切ったこと。ハルは今度こそ助けるつもりなのだ。

 ユイと、あの夏に失われた全てを助ける。自分がこの時代に戻ってきたのはその為なのだと信じて疑わなかったし、例えそうでないとしても、自分の意思でやってやる、と。

 故に失敗は許されず、細心の注意を払いながら慎重に事を進めるべきだった。

 だが、しかし。

 トン、と尖った鉛筆の先がユイの父親の文字を指す。あの状態を見るに、彼はすでに「あの声」に取り込まれかけている。もはや猶予は無いように思えた。

 問題はまだある。

 そもそも今のハルは8歳の少女に過ぎない。できることなど、たかが知れている。それであの凶悪な蜘蛛神に対し、いかにして反攻に転じるか。

 ハルは黙考する。トン、トン、トン……、と鉛筆が紙を叩き、最後にトンっと、ある一点を指した。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 深夜、暗い廊下の奥でうずくまっていた男は、のろのろと立ち上がった。ようやく「声」がおさまったのだ。

 一歩、一歩、確かめるように歩く。これは自分の意思だ、「声」ではなく、自分の意思で歩いているぞと、自分に言い聞かせながら階段を上った。

 そっと、一室に入る。

 橙色の常夜灯に照らされた六畳間、その真ん中に敷かれた布団の中で、最愛の娘が眠っていた。

 普段は溌剌(はつらつ)と束ねられた髪は下ろされ、あどけない寝顔をさらしている。特に気に入っているらしい赤いリボンは、勉強机の上で丁寧にたたまれていた。

 買ってあげたばかりの、ウサギ形のナップサックを大事そうに抱えているのを見て、ついに男は耐えられなくなって顔を覆う。娘の眠りを邪魔しないよう、必死に嗚咽(おえつ)を噛みころした。

 わたせない。わたせるはずがない。

 なのにあの忌々しい「声」は、この娘と同じだけ愛している妻も共に、わたせよこせ連れてこいと男を(そそのか)してくる。元より意志薄弱を自覚している男には、これ以上あの「声」に逆らっていられる自信も無かった。

 その内に自分は、それが良い事であると確信しながら妻子を差し出してしまうのだ。最後は、山の中に首吊り死体が三つ仲良く並ぶだろう。

 ふざけるな。

 それだけは絶対に許さない。死ぬのは自分一人で良いはずだ。好奇心に負けて禁忌に触れてしまった愚か者だけで良いはずだ。愛する家族を道連れになどしたら、それこそ死んでも死にきれない。

 

 ――ユイ。

 

 声には出さず、カサカサの唇だけで娘の名を紡いだ。涙を拭い、起こさぬよう亜麻色の髪にだけそっと触れる。

 覚悟を決めなければならない。

 昨日、突然デパートに行こうと妻子を誘ったのも「最後の思い出」にする為だったはずだ。

 男には一つ、切り札があった。

 自分を苦しめる「声」の主とは対を成すとされる「あの神」の力を使えば――。

 

 

 トゥルルルル トゥルルルル

 

 

 階下から鳴り響く電子音に、男の思考は中断された。怪異でもなんでもない、ただの電話だ。慌てて、だが娘を起こさぬよう部屋を後にし、足早に階段を降りる。

 

 ――誰だ、こんな時間に。

 

 どうせ(ろく)な電話ではないだろうが、妻子の眠りを妨げたくない一心で受話器を取った。

 

「……もしもし?」

『このような夜分に申し訳ありません』

 

 高くて錆びの無い、女の声。しかしひどく凛然(りんぜん)とした、よく響く声でもあった。聞き覚えは無いが、どこかで聞いたことがある気もする。

 不審に思った男が電話を切る前に、相手は無視できない言葉を投げかけてくる。

 

『貴方は、山の神の禁忌に触れましたね』

「な……」

 

 ――何故、それを。

 

 動揺した男は、訳もなく周囲を見回す。暗い廊下には、誰もいはしなかった。

 

『そして今、貴方は頭の中で響く声に苦しめられている。違いますか』

「……」

 

 電話口の向こうからは、わずかに風の音が聞こえた。外からかけているのだろうか。近くの窓を覗いてみるが、外は真っ暗で何も見えない。

 

『単刀直入に言います。私は、貴方を助けたい』

「待ってくれ。君は誰だ。いったいなぜそんな」

『これ以上は、会ってお話を。南の公園で待っています』

 

 切られた。呆然と手に下げた受話器から、ツーツーと虚しい音がわずかに聞こえる。

 

「何なんだ……」

 

 ――しかも外で会うだって? 今から? 冗談だろう。

 

 この町の大人たちは、決して夜に外出しない。その理由は、男も当然知っている。常ならば一顧だにしない悪戯(いたずら)電話。だが、

 

「……ああ、くそ」

 

 玄関に向かい、懐中電灯を探すが見つからない。夕方、娘の友達に貸してしまったことを思い出す。

 そういえば、あの子は無事に帰れただろうか。送っていくと言ったのに固辞されてしまった。

 仕方なく、予備のペンライトだけを持って外に出た。目指すは、町の南の公園。

 

 助かりたいと、思ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()

 自販機の陰に、横断歩道の中に、塀の上に、車の下に。

 人に似たナニカから、まるで似ていないナニカまで。悪意に満ちた姿のナニカから、まるで理解不能な姿のナニカまで。

 

 ――勘弁してくれ。

 

 電柱に張り付きながら、男は早くも後悔し始めていた。

 これこそが、大人たちが夜を恐れる理由。

 変質した町中を我が物顔で闊歩する「人でないナニカ」の群れだ。

 公園までは、昼間であれば徒歩で5分もかからない距離。それが今や果てしなく遠い。

 痩せた体を活かして電柱と同化している男の脇を、犬のようなナニカが通り過ぎていく。はっきりとは見えなかったが、犬じゃないことだけは確かだ。

 そういえば、娘が犬を飼いたいと言っていた。ポメなんとかとかいう犬種がいいとかなんとか。……などと、頭はすぐに現実逃避を始めようとする。

 なかなか次の一歩を踏み出せない男の目に、古びた公衆電話が映った。時代に取り残されたような電話ボックス。特に根拠もなく、電話の主はあそこからかけてきたのではないか、と思った。

 とにかくあそこまで行こう、と決める。根が生えそうな足をなんとか動かし、歩き始めた男の背に「わんっ」と鳴き声がかけられた。

 犬のような鳴き声。しかし犬じゃないことだけは確かだ。

 振り返りたくもなかったが、振り返らないわけにもいかない。背後には案の定、巨大な頭で、一つ目の、犬じゃないナニカがいた。

 

「……勘弁してくれ」

 

 今度は声に出た。

 さてどうしたものか、と半ば思考を放棄し始めている頭を回す。そして自分が丸腰であることに今更気付いた。こんなことなら塩か骨付き肉でも持ってくるんだった。

 走るしかないと無謀な決意を男が固めたあたりで、不意に小石が落ちる音を聞いた。見れば、犬のようなナニカはどこからか飛んで来た小石を(くわ)えて走り去っていく。

 なんだか分からないが、助かった。

 気を取り直して進もうとした矢先、今度は道の向こうから(なた)を振り上げながら迫ってくる白いナニカがいた。分かりやすすぎる凶悪な姿。その数、3体。

 

「勘弁、してくれ……っ!」

 

 もはやアレが人だろうと人じゃなかろうと逃げるしかない。来た道を戻ろうとする男の手を、誰かがくいと掴んだ。

 

「え――」

「走って!」

 

 言われるがままに走りだす。誰だ、とか。電話の主だ、とか。背が低い、だとか。なんであの凶悪そうなのにつっこむんだ、とか。状況に思考が追いつかない。

 対して、男の手を引く誰かは冷静に対処した。3体が持つ鉈の間合いに入る2歩前で、紙飛行機を放る。見事なフォームと軌道で飛ばされたそれを追いかけていくナニカを尻目に。男と誰かは夜道を駆け抜けて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 辿りついた公園もまた、不気味な夜に包まれている。遊ぶ者のいない遊具はどれも、意味不明な形状のオブジェのように見えた。

 かわりにナニカ達の気配は無い。見れば公園内には点々と、盛り塩が施されている。誰がやったのかなど、考えるまでもない。

 

「ここまで来れば、ひとまずは安全です。危なかったですね」

「まあ……、その……、とりあえず……、ありがとう……っ」

 

 息も絶え絶えな男に対し、誰かは平然と「どういたしまして」と(うそぶ)く。流れるように差し出された水のペットボトルを受け取り、中身を半分ほど流し込んでようやく、男は一息ついた。

 

「……それで、これはいったいどういうことなんだい。……ハルちゃん」

 

 普段は下がっている眉毛を申し訳程度に吊り上げながら凄んでみせるも、誰か――ハルは泰然(たいぜん)とした態度を崩さない。

 

「驚かないんですね」

「まあ、ね」

 

 正確には、驚きすぎてかえって冷静になっている。

 深夜にかかってきた奇妙な電話の奇妙な相手が、まさか娘の友達でもある幼い少女だったなど、いっそ全部が悪い夢だった方がまだ現実味があるだろう。

 しかも、雰囲気がまるで違う。

 直接会ったことは少ないが、いつも娘に引っ張られているような大人しい子だったはずだ。少なくとも、この夜の町であのナニカ相手に大立ち回りした目の前の少女と同一人物とは思えない。

 ましてや、ほんの数時間前には娘に抱きついて大泣きしていたというのに、この変わり様はいったい何なのか。

 まるで別人。特にその目が、少女らしからぬ異様な輝きを放っていた。

 

「……言いたいことは山ほどあるけど、とりあえず僕に何の用なのかな」

「電話でお話した通りです。私は、貴方を助けたい」

「助けるって……」

 

 ――君は、まだ子どもだろう。

 

 しかし、何故かその一言が出ない。出せない。

 この少女が、少女の姿をした得体のしれない何者かに思えてならない。夢と現実の境を曖昧(あいまい)にするこの夜のせいか、どうにも思考が地に足をつかない。

 

「普通は、逆だろう」

 

 結局は、そんな陳腐な一般論しか口から出てこない。

 

「普通、ですか」

 

 笑いを含んだような声でハルは言う。言いながら、手元も見ずに折った紙飛行機をつい、と飛ばした。

 男の顔を掠めるように飛んだそれを目で追うと、巨大な顔と目が合った。

 もはや悲鳴すらあげられずに尻もちをつくと、道をふさいでいたその巨大な顔のようなナニカは、無数の足を(うごめか)かせながら暗い道に消えていく。

 

「こんなモノを見てもまだ、そのような言葉が出せるのですね」

 

 ハルが、男の正面に立つ。視点は、ハルの方が少し上。

 街灯を背後にするハルの顔は闇に塗りつぶされ、眼光だけが爛々(らんらん)と輝いていた。彼女もまた怪異の一員だとでもいうように。

 

「貴方達は皆、知っているはずです。この町は、普通ではないモノで満ちている」

「お化け、幽霊、妖怪、化け物、なんと呼ぼうが、怪異であることに違いは無い」

「それでも貴方達は、貴方はそれを受け入れている」

「アレは “そういうもの” なのだと受け入れている」

 

 畳みかけられる。夜の闇が、怪異の群れが、ハルの声が、ぐらぐらと男から現実感を奪っていく。

 

「だから、そうやって私のことも受け入れれば良い」

「私は貴方の娘の友達で、まだ子どもで、しかし貴方が山の神の禁忌に触れたことを知っている」

「貴方の力になりたいと言っている」

「ならば、深いことなど考えず、力を借りれば良い」

 

 だって、“そういうもの” でしょう? ハルは、そう締めくくった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ダメだ」

 

 数秒か、数分か、自分でも分からない長さの黙考の末、男はなんとかその言葉を発することができた。

 流されそうになる自分を叱咤するように立ち上がり、ハルを見下ろした。これが “普通” の関係だと。

 

「君はまだ子どもなんだ。確かに君はお化け達のことに詳しいみたいだし、何故か僕の事情も知っているようだけど、だからと言って君を巻き込むわけにはいかないんだよ」

 

 気持ちは嬉しいけどね。申し訳程度に謝意を付け足すも、案の定ハルは不服そうだ。

 

「ご自分でどうにかできる、と」

「方法が無いわけじゃ、ない」

 

 自分の左手を見ながら、絞り出すように答えた。薬指に光る指輪。この手でつないだ小さな手。未練など山ほどあるが、それでも――。

 

 

「 “()()()()()()” 」

 

 

 またしても、ハルの言葉に意識を揺るがされる。

 

「あの山の神と対を成す “縁切りの神” の力。それを使って家族との縁を切り、貴方ひとりで死ぬ。……そういうことですか」

「……本当に、なんでもお見通しなんだね」

 

 もはや驚きもできない。どこまでも底のしれないこの少女に、しかし男は別の希望を見出し始めてもいた。

 

「なら話が早い。ハルちゃん、君が何者なのかは分からないけど、僕がいなくなった後、どうかユイの力に――」

 

 

「それで家族を救ったつもりですかっ!」

 

 

 裂帛(れっぱく)の怒声。

 ギラギラと地獄の炎のような輝きを放つハルの目に射貫かれ、男はつい「ひゃい!」と情けない返事をしながら再び尻もちをついてしまう。

 ハルも、どこか芝居じみていた態度は消え、今や本気としか思えない怒りを露わにしている。

 

「何も言わずいなくなって! ひとりで死んで! それで満足ですか!」

「残された人が、それで幸せになると思うんですか!」

「ユイが! ユイのお母さんが、そんなに薄情だとでも思ってるんですかっ!」

 

 更に「ユイが、」と何かを言いかけ、ハルは男に背を向ける。荒ぶる感情を抑えるように肩を震わせているその後ろ姿だけは、年相応の少女に見えた。

 男もうつむき、沈黙だけが夜の公園を流れる。

 数秒か、数分か、ようやく男が声をかけようとした時、

 

「ハルちゃ――」

「断言します」

 

 背を向けたまま、ハルは決然と告げた。

 

「貴方がひとりで死んでも、誰ひとり幸せになんて、なりはしない」

 

 今度こそ、男はかける言葉を無くす。

 わかっているのだ。自分がやろうとしていることが、家族を不幸にすることなど。しかし、だからといって。

 

 ――じゃあ、どうしろって言うんだ。

 

 持ったままのボトルが、くしゃりと音を立てて歪む。

 男とて、死にたいわけではない。もっと生きたい。愛する妻と添い遂げたい。愛する娘の成長を見守りたい。今この場に来たのも、もしかしたらと(わら)にも縋る思いだったからだ。

 しかし現実は、自分ひとりが死ぬか、他の誰かも巻き込んで死ぬかの二択を迫ってくる。ならば前者を選ぶしかないと、毒を(あお)るような心地で決断したのだ。

 全ては、禁忌に触れてしまったが故。あの時、好奇心に負けなければ。あの蜘蛛のような神さえ、いなければ。

 ……あいつさえ、いなければ。

 

 

「そもそも」

 

 

 男が後悔と自身への怒り、そして「声」の主への憎悪に沈もうとした時。それを感じとったように、ハルのぞっとするような声が耳に流れ込んでくる。

 目を落としていた左手に、小さな手がするりと絡みつく。白い蛇のように。

 そして男の耳元で、ハルは囁いた。

 

 

()()が、ユイを生かしておくとでも思うのですか?」

 

 

 男が、顔を上げた。

 

 

「――――なんだって?」

 

 

 火の点いた顔だった。

 カサカサに乾き、枯れた落ち葉のようになっていた心に、その火は容易に燃え広がっていく。あとは、煽るだけとばかりにハルは続けた。

 

「これも断言します」

「あの蜘蛛のようなナニカ、山の神、縁結びの神。なんでも構いませんが、あの悪辣(あくらつ)なアレが、貴方ひとりの命で満足するはずがない」

「たとえ家族の縁を切ろうと、一度目をつけた獲物を見逃すなどありえない」

「貴方がひとりで死んだ後、守る者のなくなったユイと奥様を、ゆっくりと、」

「殺すでしょう」

 

 男は、ただハルの言葉を待った。

 もはや選択肢など無かった。自身の死が何の解決にもならないというなら、道は一つしか無かった。そしてその為には、この少女のようなナニカに縋るしか無かった。

 

 

「あの山の神を倒す。その為にどうか協力してください、()()()()()

 

 

 男は、ユイの父親――ユウジは、その手を取った。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――上手くいった。

 

 ユウジを家まで送り届けた後、ハルは塀に背をもたれ、ほっと息をついた。

 元より交渉事に秀でていたわけでもないが、そこは年の功。長年の人生で培った口八丁(くちはっちょう)でなんとかなった。

 依頼か、脅迫か、あるいは煽動か。とにもかくにも、ユウジに協力の約束をとりつけることができたのだ。

 

 ハルは早々に、独力での戦いを諦めていた。

 元より、ハルには何の力も無い。“前回” にしても、あの蜘蛛神を打倒できたのは偶然と幸運がいくつも重なり、更にあの縁切りの神の助力を得られたからでしかない。もう一度同じ道をたどったとして、また上手くいく保障などなかった。

 武器となり得るとすれば、ハルの知識。

 時間逆行か、繰り返しか、この奇妙な現象で生まれた優位性(アドバンテージ)。過去の調査で明らかにした、あの事件に関する全ての情報と、己の90年の人生という後ろ盾だけ。

 しかしそれでも、今のハルはただの少女、しかも前回より更に2歳も幼い。もはや幼児と言っても差支えの無い少女にできることは、そう多くない。

 協力者が必要だった。

 そこで目を付けたのがユウジ。親友の父親という間柄、大学教授というそれなりに力のある立場、この町の住人特有の怪異への理解、そして何より事件の当事者でもあるという、この上ない適任であった。

 そもそもユイを襲った悲劇の多くは、ユウジの死が起因するものだ。仮にハルが独力で蜘蛛神を打倒したとして、結果としてユウジが死んでは意味が無い。

 ユウジを協力者とし、監視下におくことで同時に護衛する。それがハルの出した結論だった。

 

 その為にハルは迅速に行動した。

 ユウジが「声」を既に聞いている以上、悠長に作戦を練っている時間も、気長に説得する時間も無い。だから、あえて夜に呼び出した。

 この町の危険な夜を体験させ、ハル自身の正体をさらし、見るモノ全てが異常という状況を作り上げて、冷静さを奪った。

 ユウジがしようとしていることを予見し、その結果を暴露し、後悔を憎悪にすり替え、蜘蛛神への敵愾心(てきがいしん)を煽った。

 ユウジへ語ったことも、全てが嘘ではないが真実でもない。家族の縁さえ切れば、彼の妻も命だけは助かっただろう。前回ユイは確かに蜘蛛神に殺されたが、それはユウジでなくハルとの縁によるものだった。

 半ば騙したようなものだが、致し方なし。謝罪なら、全てが終わってからいくらでもすれば良い。ハルは開き直った。

 

 ――帰ろう。これから忙しくなる。

 

 顔を上げ、空を見上げる。新月の暗い空の中、北に(そび)える山の巨影を睨んだ。その影に、左手を重ねる。かつて失ったその手で、山を握りつぶすように。

 それは、静かな、ひとりだけの宣戦布告だった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 暗い夜道、ひとり、はるか遠くに左手をつきつける少女。

 

 それを、その “お化け” はただ見つめていた。

 

 その黒い触手をゆらめかせながら。

 

 ただ、見つめていた。

 




ユイパパの名前は捏造です。

ユイ父 → ユイヂ → ユウジ(この間3秒)


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05:黄昏(かげり)

『この町は呪われている』と、誰かは言う。

 

『この町にはまだ神様がいる』と、別の誰かは言う。

 

 それはどちらも正しくて、決して相反するものではないということを、知る人はすくない。

 

 (まじな)いは、(のろ)い。神様は慈悲深く、恐ろしい存在。

 

 二人の少女が、それをよく知ることになるのは、また別の話。

 

 確かなのは、明けない夜が無いように、沈まない太陽もまた無いということ。

 

 今日もまた、深い夜が廻ってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 黄昏時。

 まだ日も沈む前から、この町の住人は足早に帰路につく。

 遊び盛りの子ども達ですら、幼少から厳しく植えつけられた躾けに従い、家に籠る。

 店は仕舞われ、家々はその門扉を固く閉ざし、息を潜めるように夜が終わるのを待つ。

 

 皆、知っているのだ。

 

 太陽が完全に山の陰に沈み、昼が終わる。

 夜は、彼らの時間。町が、彼らの物となる。

 黒い影が、白い靄が、小さなナニカが、大きなナニカが。

 笑い、泣き、叫び、怒り、狂い、歩き回り、走り回り、飛び回る。

 『百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)

 そんな言葉が生まれたのも、この町のような地だったのかもしれない。

 

 その百鬼夜行の如き町を、“お化け” は進む。

 すれ違う別のナニカ達は、それを気にも留めない。

 元より彼らは、同族に頓着しない。

 元より “お化け” は、特に希薄な存在だった。

 道を渡り、橋を越え、壁をすり抜け、一件の家の前に立つ。

 赤い屋根の2階の窓で、カーテンがゆらゆらと揺れている。

“お化け” の真っ黒な触手もまた、ゆらゆらと揺れていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 最近、ユイはつまらない。

 理由は簡単、ハルが遊んでくれないのだ。しかも一日ではない、もう三日もだ。

 今日も! 昨日も! 一昨日(おととい)も!

 

 『ごめんなさい、ユイ。今日はちょっとやることがあって』

 『今日もダメなの。うん、大事な用があって。ごめんね』

 『……うん、ごめん。え、明日は……たぶん、無理』

 

 しかたなく、ひとりで遊んでみるも、ちっとも楽しくない。公園も、空き地も、田んぼも、河原も、なんにも楽しくなかった。

 ハルとなら、どこでだって楽しかったのに。

 いつまでたっても真っ白なままの絵日記を前に、ユイは溜息をついた。

 

 今日はハルとあそべませんでした。だからひとりであそびました。

 今日もひとりであそびました。すぐにかえりました。

 今日も、

 

 このまま、つまらない日記を書いてばかりいたら先生に怒られそうだ。ユイはまた溜息をついた。

 鉛筆を投げだすと、床の布団にゴロンと横になる。もう何もする気にならなかった。

 視線の先にウサギのナップサックが見えて、ユイはもう何度目かもわからない溜息をつく。

 3日前、急にお父さんがデパートに行こうと言いだして、その日に買ってもらったものだ。ウサギはかわいい。ハルもかわいいと言っていた。

 これを見せれば、ハルも欲しいと思うにちがいない。ハルのお父さんはハルを甘やかしてるから、ハルが欲しいと言えばすぐに買ってくれるだろう。

 おそろいのリボンをつけて、おそろいのウサギを背負って、ふたりで遊ぶのだ。考えただけでユイはわくわくした。

 だというのに……。

 

 ――ハルのばか。もう、さそってあげないから。

 

 じんわりと目が熱くなってきて、ごしごし目をこすった。

 起きて、窓から外をながめる。夕日がもうすぐ沈みそうで、一日が終わろうとしていた。

 風が、カーテンをゆらゆらと揺らす。ユイの髪と赤いリボンも、ゆらゆらと揺れる。涙のにじんだ目元がひんやりしてくる。

 どうやったら、ハルと遊べるだろうか。

 何かこう、すごく楽しそうなことがあればいい。ハルの用事より楽しそうなことが。

 そのまま考えこんでいると、玄関の近くで何か、白いものが揺れているのが見えた。

 じっと見てみるが、まだ目がぼやけてよく見えない。しかたなく1階に降りて、玄関から外に出てみる。

 

 ――なあんだ。

 

 それは、ただの紙だった。ポストに入れられたチラシが風で飛ばされて、植木にひっかかっていただけだ。

 退屈していたユイは、なんとなくチラシを見てみる。むずかしい漢字も多かったが、読める字と写真とイラストをもとに中身を解読していくユイの目が、みるみる輝いていく。

 

 ――これだ!

 

 ユイの頭に、すばらしいアイデアがうかんでいた。

 すぐに家に戻り、ハルの家に電話をかける。ハルのお母さんが出たが、ハルはまだ帰ってきていないそうだ。大事な用とやらは、そんなに忙しいのか。

 電話を切ったあともユイはおちつかない。はやくハルに会わなければ。モタモタしていたら、ハルはまた別の用事を先に決めてしまう。

 お父さんは、お仕事でまだ帰ってこない。3日前からずっとそうだ。お母さんも、今日は用事で遅くなると言っていた。

 外は、暗くなりはじめている。暗くなったら外に出てはいけないと、昔からなんども言われている。

 玄関の懐中電灯が目にとまる。

 

 ――ハルは、ひとりで帰ってた。わたしだって!

 

 背負ったウサギにチラシをつめ、懐中電灯を手に、ユイは夜の町に飛び出した。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――数時間前。

 

 

 ユウジは、隣町の神社にいた。

 木陰の石段に座っているというのに、真夏の太陽は容赦なく降り注いでくる。冷房に慣れ、日差しにも暑さにも弱いユウジは既に参ってしまっていた。

 しかも虫が多い。さっきも足元を大きなムカデが這っていって、「ぎゃっ」と大声をあげてしまった。

 ちょうどお参りに来ていたらしい少女の二人組にも見られた。おそらく姉であろう少女の、不審者を見るような目が忘れられない。

 深い深い溜息をついていると、石段をひとりの少女が登ってくる。

 小柄な、年端もいかぬ少女。しかしその目だけが、ギラギラと異様な光を放っていた。

 

「お待たせしました」

 

 トレードマークの青いリボンは外され、特徴的な色素の薄い髪も、大きな麦わら帽子に隠されている。

 軽い変装をした上で現れたハルは、「暑いですね」と近くの商店街で買ってきたらしい麦茶のペットボトルを渡してきてから、ユウジの隣に座った。

 

「調子はいかがですか?」

「おかげ様で大丈夫だよ。熱中症にはなりそうだけど」

 

 ハルの言う調子とは、「あの声」を聞いていないかどうかだ。曰く、この神社には大ムカデの神様がいて、他のナニカからこの商店街を守っているとかなんとか。

 現に、この神社に入ってからは耳鳴りも聞こえない。ありがたい話ではあるが、巨大なムカデだなんてゾッとしない。冷たい麦茶と寒気のする想像のおかげで涼しくなってきたユウジを横目に、ハルは鞄から自由帳と筆箱を取り出した。

 真夏の神社、中年男性と少女の二人組。傍目から見れば、親子連れが夏休みの自由研究でもやっているとしか見えない光景。まさかこれが、神の(たた)りに触れた男と正体不明の少女による、神殺しの算段だとは誰も思わないだろう。

 

「やはり、私はプランAを推したいところです。これがもっとも手っ取り早い」

「まあ、そうなんだろうけど、予算がね……」

「命あっての物種ですよ、ユウジさん。お金なら後でいくらでも稼げば良いではないですか」

 

 ――簡単に言ってくれるよ!

 

 件のプランAの欄に書かれた必要経費の額を見て、ユウジは唇をひくつかせた。これを全て己の財布から出せというのだから恐ろしい。例え命が助かったとして、こんな使い込みがバレたら今度は妻に殺されるのではないか。あの愛しくも恐ろしい妻の顔が般若の如き(かお)と化すのを想像してしまい、更に涼しくなる。

 すこしは援助してくれないかと、恥を忍んで頼んではみたものの、

 

『無理を言わないでください。こんな子どもに、そんな大金を用意できる訳がないでしょう』

 

 にべもなく断られた。まったくもって正論ではあるが納得はできない。君のような8歳児がいるか。

 思えば、3日前のあの夜、自分は明らかに冷静ではなかった。自宅で朝を迎えた後、妙な夢を見たものだと思いながら新聞を取りに行けば、ポストにはノートの切れ端が挟まっていた。嫌な予感を覚えながら開いてみれば、今後の打ち合わせは隣町のこの神社で行う旨が達筆な文字で書かれているのを見て、夢ではなかったことに絶望したものだ。

 そして今もまた、この老獪そのものの少女と “()()()()” を倒す算段を立てている。まったく本当に、

 

「何者なんだ君は……」

 

 思わず口に出てしまった。鉛筆を止めたハルが、呆れたように口を開く。

 

「何度も言いますが、ユウジさん。私の話は事が終わってからにしてください。その時は好きなだけお話しますから、今は」

「ああ、分かってるよ。君は “そういうもの” だ。今は “あの野郎” を倒すことだけに集中する」

 

 “あの野郎” とは、例の蜘蛛神のことだ。到底ユウジらしくない強い言葉だが、ユウジはあえてその言葉を使っていた。

 

「その意気です。あの神は言葉で精神を操り、獲物を死に誘う。反抗には精神力こそが必要となります」

「……それって、つまり」

「気合いです」

 

 ぶは、と麦茶を吹き出す。

 可愛らしい眉をひそめるハルを横目に、ユウジは大声で笑った。腹の底から笑うのは、ずいぶんと久しぶりだったように思う。

 “あの野郎” に目をつけられて数週間、まるで生きた心地がしなかったが、この少女らしくない少女のおかげで今はひどく心が軽い。今なら、あの声が聞こえたとしても “あの野郎” に放送禁止用語のひとつでも言い返せる気がした。

 

 ようやく笑いがおさまったユウジの目に、揺れる赤いリボンが映った。

 一瞬ユイかと思ったが、道を歩いていたのは別の少女だ。白い大型犬を連れているが、まるで犬の方に散歩されているようで微笑ましい。よくよく見れば、お参りに来ていた姉妹のひとりだ。

 ちらと横を見れば、ハルもまたその少女を見つめている。小さな唇が何かをつぶやいたが、聞き取れはしなかった。放心したような表情は、見た目通りの少女にしか見えない。

 あの少女も、ハルとユイと同い年ぐらいに見えた。

 

 ――そういえば。

 

「ユイとは、あまり遊べていないんじゃないのかい?」

 

 特に何も考えず発した問いだったが、ハルは、なかなか答えなかった。

 

「……遊んでいる暇はありませんから」

「……そうだね」

 

 再びノートに目を落とすハルを横目に、空を見上げる。

 日が、傾いてきていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――なんでこんなに、人がいるんだろう。

 

 懐中電灯を片手に、ユイは不思議に思った。

 元々この町は人がすくない、らしい。かそかとか、ドーナツがどうとか学校の先生は言っていたけど、この町で生まれ育ったユイにはよく分からなかった。

 人混みなんていうのは、テレビでだけ見る遠い世界のもの。しずかなこの町が、ユイは嫌いではない。

 なのに今は。

 

 ふらふらと道を歩く人たちと、さっきから何度もすれ違う。みんなやけに猫背で、顔も見えなかった。

 横断歩道の前に立っている人は、車も来ていないのにいつまでも道を渡ろうとしない。

 ぽつぽつと、釣りでもしているみたいに河原で座り込んでいる人がいる。釣り竿も持っていないのに。

 あの電信柱の横にいる人は、工事の人なんだろうか。いつ帰るんだろう。

 

 すこし歩くたびに変な人たちを見つけるせいか、なかなかハルの家に着かない。

 ユイは、ハルの家になら目をつぶっていても行ける自信がある。それぐらい通い慣れた道だ。

 なのに、着かない。

 

「……」

 

 きっと暗いせいだ。よそ見ばかりしてたから、どこかで道をまちがえたんだ。

 だったら、すぐに来た道を戻らないといけないのに、足を止められない。

 うしろを、見たくない。

 

 なんだか、誰かがついてきている気がする。

 なんだか、誰かが家の窓から見ている気がする。

 なんだか、誰かが笑っている気がする。

 

 ユイは、早歩きになって、小走りになって、ついに走りだした。

 せわしなくブレる懐中電灯の光が、いろんなところにいる変な人たちを照らし出す。

 

 なんで、こんなに人がいるの。

 なんで、誰も家にかえらないの。

 なんで、みんな顔が見えないの。

 

 怖い。

 なんでか分からないけど、怖い。なんだか分からないから、怖い。

 

「ハル……」

 

 ハルといっしょなら、怖くないのに。

 ハルはすごく怖がりで、たまに変なことを言う。何も聞こえないのに声がしたとか、誰もいないのに人がいたとか。それを聞かされるとユイもすこし怖くなるけど、それ以上にハルが怖がるものだから、かえってユイは怖くなくなる。

 ユイが手を握ってあげると、ハルは元気になると言うけど、それはユイも同じなんだと思う。

 だから、早くハルに会いたかった。

 

 

「……っ!」

 

 

 曲がり角の先に、また変な人がいた。

 なんとか悲鳴はこらえて、塀の陰に戻る。そっと、目だけを出して、見た。

 

 背が低い、ちいさな女の子。

 大きな帽子をかぶっていて、顔は見えない。

 手には懐中電灯を持って、光をあちこちに向けている。

 

 誰かを探している、と思った。あの光に照らされたら、きっと見つかってしまう。

 頭をひっこめて、声をださないよう口を覆った。さっきまで走っていたから息が苦しい。

 向かいの塀を、丸い光が照らしている。女の子のじゃない、ユイの懐中電灯だ。

 そっとスイッチを切ったのに「パチンッ」と音が響いて、ユイは青ざめた。

 じゃり、と女の子の靴が鳴った。こっちを見たのだ。

 心臓の音がうるさい。女の子の足音が聞こえない。近づいてきてる? 見つかった?

 ころん、と近くに小石を投げられて、今度こそユイは悲鳴をあげそうになる。

 次はなぜか紙飛行機が飛んできた。

 何なの? 何をしてるの? わたしをどうするつもりなの?

 じゃり。

 足音。

 すぐそば。

 もうダメだ! お父さん! お母さん! ハル!

 

 

 

 

「…………ユイ?」

 

 



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06:別人(だれか)

“ タイムスリップ ”

 

“ タイムワープ ”

 

“ タイムリープ ”

 

“ タイムトリップ ”

 

 表現は数あれど、摩訶不思議な現象であることは間違いない。

 現代はもちろん、ハルの生きた未来の時代でさえまだ不可能とされた現象。

 それを成したのが、よまわりさんと呼ばれる常識外の怪異であったことは、必然と言うべきか、皮肉と言うべきか。

 

 たしかに、ハルは過去に戻ってきた。

 90年の人生、その全ての記憶を持ったまま、8歳の少女の姿となって、82年前の世界に戻ってきた。

 少女時代に大きな後悔を残していたハルにとっては、まさに奇跡であっただろう。

 

 

 だが、ハルは知らない。気にも留めていない。

 

 

“ この時代に生きていたはずの少女は ”

 

“ 怖がり屋で寂しがり屋の、ユイの親友である少女は ”

 

()()()()()は、どうなったのか? ”

 

 

 ハルは、知らない。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――やっちゃった。

 

 赤い夕陽を浴びながら、ハルは額を押さえた。

 隣町のムカデ神社、作戦会議の場となっているここでユウジと別れてから、既に2時間以上経っている。彼を見送った後、しばらく時間をあけようと木陰に座ったのがまずかった。連日の夜更かしと準備でろくに休んでいなかったのが災いし、そのまま眠ってしまったのだ。

 隣町は既に夕焼けで赤く染まっており、この町も()()である為か、人影もほとんど無くなっている。

 

 なお、この神社を集合場所としている理由は、第一に蜘蛛神の声を寄せ付けない為であるが、これはユウジの外聞を守る為でもある。

 都心から離れた田舎町のこと。世間は狭く、良くも悪くも人同士の繋がりは強い。妻子持ちの男が娘でもない少女をつれていたなど、万が一にでもユウジを知る者に目撃されたら。ましてやそれが噂となり、彼の妻の耳に入ってしまったら。

 蜘蛛神との戦いを前にして背中から刺されるなど、もはや笑い話にもなりはしない。

 そのような最悪の事態を避けるべく、二人はわざわざ隣町に現地集合・現地解散という形をとっているのだ。ハルに至っては、軽い変装までする念の入れようだ。

 

 閑話休題。

 

 賽銭箱に十円玉を投げ入れ、場所を借りたことへの感謝と、一時でも寝床にしてしまったことへの謝罪を心中で唱える。ついでに必勝祈願も申し訳程度に祈っておいた。

 

 ――早く帰らないと。まだ考えなくちゃいけないことが沢山ある。

 

 足早に石段を下り帰路につこうとしたハルの目が、商店街のシャッターに貼られた、ある物に留まった。

 

【花火大会のお知らせ】

 

 (つたな)い技術で飾り文字(ワードアート)を精いっぱい使ったような、見方によっては味のあるチラシだった。何年前の写真なのか、夜空に咲く大花火の画像だけが良くも悪くも浮いている。夕日に沈む、寂れたシャッター通りに貼られた、もの悲しいチラシ。この手の風景を好む人間なら思わずカメラを構えていただろうか。

 だが、ハルが見ていたのはチラシそのものではない。

 そっと当てられた左手が、くしゃりと、チラシに皺をつくった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハルが町に戻ってきた時、既に太陽は沈みかけていた。常に持ち歩いている懐中電灯を手に、ハルは速足で町を進む。

 やはりというべきか、町の中は様々なお化けの展覧会と化していたが、どれもハルには見慣れたモノたちだった。

 懐中電灯で照らし、照らさず。目を合わせず、そらさず。走り、歩き、時には止まり。

 石を、紙飛行機を、人形を投げながらお化け達をあしらい、それでも近づいてくる不届きモノには容赦なく塩を浴びせた。

 

 あの夏の夜、ハルはほぼ一生分の恐怖を味わったと言って良い。

 ユイと離れ離れになり、ユイを探し、お化けだらけの町をさまよった。

 そして長い一夜が明け、病院に担ぎ込まれ、左腕の手術が終わり、退院した頃にはもう、引っ越しの日は目前だった。

 だから、あんな事があった後だというのにハルは毎夜、家を抜け出した。夜をさまようお化け達をかいくぐりながら、深夜の町を歩き(まわ)った。

 ユイを探していた。見つかるわけもなかった。

 ユイと二人で作っていた町の地図も完成した。もう何の意味も無かった。

 ユイに何か関係があるんじゃないかと、変な物を集めたりもした。どれもユイとは何の関係も無かった。

 あの時、ハルの心はからっぽだった。もう何も無かった。

 どちらがお化けなのか分からなくなるほど、夜道をさまよった。

 

 なんにせよ、その夜廻りの経験は今も十分に活かされている。

 お化け達の性質に合わせて動き、冷静に対処していく。恐れず、油断せず、適度な緊張を保ったまま夜の町を進む。

 このままなら、あと5分もあれば家に着きそ――。

 

 パチンッ

 

 考えるより先に懐中電灯を向けた。手にも既に小石が握られている。何の音? 疑問は最後に抱いた。

 塀の角から、わずかに影が見える。あれで隠れているつもりか。

 手始めに小石を投げる。反応なし。

 片手で素早く折った紙飛行機を飛ばす。影がすこし動いた。

 もしや新種かと、十分に距離をとった上で角を曲がり……。

 

「…………ユイ?」

 

 道にうずくまっている少女を見つけた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「…………ユイ?」

 

 頭上からかけられた声に、ユイは「へ?」と素っ頓狂な声を返してしまう。

 恐る恐る顔を上げれば、帽子の女の子がユイを見下ろしていた。

 

 ――なんで、わたしの名前を知ってるの?

 

 固まったまま動かないユイの手を、女の子はぐいっと引っ張って起こしてくれる。そのままスカートのお尻のあたりをパンパンと掃われて、なんだか恥ずかしかった。

 

「ひとりでここに来たの? お母さんは?」

「お、母さんは、いないよ。お父さんも」

 

 頭がぐるぐるし始めたユイは、つい正直に答えてしまった。知らない人と話しちゃいけないって、お父さんが言ってたっけ。あれ、でも、この子は子どもだからいいのかな。

 

「……危ないでしょ。なんでこんな時間に外に出たの」

「友達の、家に行こうと思って。ハルに、」

「私に?」

 

「へ?」

「え?」

 

 ユイは、また素っ頓狂な声をあげて、まじまじと女の子の顔を見て、

 

「……ハル?」

「……分からなかったの?」

 

 ハルに呆れたような顔をされた。……ハルのくせに生意気だと、ユイは思った。

 「これのせいだね」と帽子を取ったハルは、いつもの三つ編みじゃなくて、すごく難しそうな髪形をしていた。ハルの変わった髪の毛の色に合っていて、お姫様みたいだと思ったけど、ユイとおそろいのリボンをしていないのを見て、すこしモヤモヤする。

 

「だって、いつもとぜんぜん違うんだもん……」

「今日は、暑かったから」

「ふーん……」

 

 そんな暑い中を出歩いていたのか。自分とも遊ばずに。ユイは口をへの字にした。

 ユイは面白くない。ハルが、ちっとも寂しがっていた様子がないからだ。3日前はあんなにワンワン泣いていたのに、今は大人の余裕(よゆー)みたいな顔をしてる。……自分は、こんなに寂しかったのに。

 だから、あのチラシを見た時にすごくいい考えがうかんで――。

 

「あ、そうだ! ハル! こんどね、」

「ねえ、ユイ」

 

 ひたり、と。ハルの冷めた声が、ユイの興奮をかき消した。

 

 

「ここに来るまでに、ナニか変なモノとか、見た?」

 

 

 おなかが、ぎゅっと痛くなった。お母さんや、怖い先生に叱られた時みたいな、すごく苦しい気持ち。

 なんで? なんで今こんな気持ちになるの? ハル、怒ってるの?

 

「ユイ。答えて」

「……みて、ないよ。変な人は、いたけど」

「……」

 

 答えたのに。ちゃんと正直に答えたのに。そんなに怖い顔しないでよ。

 

「わぷ」

 

 いきなり目の前が暗くなった。頭を押さえるように帽子を深くかぶせられて、ほとんど何も見えない。

 

「行こう。早く帰らないと」

「ハル、待ってよ、前が見えないよ」

「大丈夫、引っ張ってあげるから」

 

 ぐいぐいと引かれる手が痛い。ハルと手をつないでいるのに、ちっとも元気になれない。

 もっとゆっくり歩いてよ。なんにも見えないよ。怖いよ。

 ハル、どうしたの。こんなの、ぜんぜんハルらしくない。

 

「ハル……っ」

「大丈夫。大丈夫だから……」

 

 

 ――怖いよ、ハル……。

 

 

 今、つないでるこの手は、ほんとうにハルの手なの?

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――()()()は、やらせないよ。

 

 ハルは決然と、お化け達を睨み据えた。

 もはや容赦はしない。少しでも近づく素振りを見せたモノから、塩の塊を投げつけていく。

“ この子 ”を少しでもお化けから遠ざける為に、多少強引でも手を引いた。握った手から震えを感じて、更に強く握りしめる。何も見えない中で歩かせているのだ。無理もない。しかし背に腹は代えられなかった。

“ この子 ”に、お化けを見せてはならない。二度と、怪異に関わらせはしない。

“ この子 ”を“ ユイ ”と同じにしてはならない。その為に、ハルは今ここにいるのだから。

 

 そう、“ この子 ”と、“ ユイ ”は、違う。

 

 同じにしてはならないのだと、ハルは強く自戒している。

 この時代に来た直後は取り乱していたが、今は違う。3日という時間が、何よりも80年という歳月が、ハルを冷静にしていた。

 

 ハルと共に歩んだユイは死んだ。死んだのだ。それはもう、神様にも怪異にも覆せない事実。

 残酷な運命が、この町の怪異が、愚かな自分が、ユイを死に追いやった。

 それを忘れてはならない。ハル自身がそれを許さない。

 どちらが大事かなどという話ではない。どちらも大事なのだ。しかし混同だけはしてはならない。

 それは、自分が死なせてしまったあの“ ユイ ”も、今を生きているこの“ ユイ ”も侮辱することだ。

 そう、自戒していた。

 

「大丈夫。大丈夫だから……」

 

 ハルは群がるお化けを掻い潜りながら、夜の町を進む。“ この子 ”を無事に家に送り届ける為に。

 

 ――“ あなた ”は、私が守るから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんとか、ユイの家に着いた。

 2階の窓は開いたままで、電灯の光に照らされたカーテンが風に揺れている。

 1階は暗く、ユイの母親はいないらしい。ユウジは、打ち合わせ通りなら今頃は準備に忙しいだろう。

 ユイは、本当にひとりで飛び出してきたのか。

 

「ユイ、着いたよ」

 

 返事は無い。

 

「ユイ?」

 

 帽子を取ると、ひどく怯えた顔と目が合った。

 手も、まだ震えている。両手で握ってあげても、震えは止まらなかった。抱き寄せて背中をさする。びくりと、小さな肩が震えた。

 

「ユイ、もう大丈夫だよ。お(うち)にいれば、何も心配ないから」

「変な人たちも、もう近くにはいないよ」

「もう、何も怖くないよ」

 

「…………、……うん」

 

 消えるような声だったが、ようやくユイの返事が聞けた。

 背中を押して玄関に促すと、ユイが背負ったナップサックに目が留まった。

 

「その鞄……」

 

 記憶の中のユイは、そのほとんどの中でこの鞄を背負っていた。

 ピンク色の、ウサギの頭を模したナップサック。

 ハルの手を引いて走るユイの背中で、いつも元気にポンポンと跳ねていた。幼い頃のハルはそれを見て、父にねだって同じ物を買ってもらったのだ。

 ハルが遠い過去に思いを馳せている横で、ユイの顔にすこしだけ笑みが戻った。

 

「う、うん。これ、かわいいでしょ。この前、お父さんに買ってもらったんだ」

 

 3日前のことか。ユウジがどのような気持ちでこれをユイに与えたのか、想像に難くは無い。

 いや、“ 前回 ”でもそうだったのかもしれない。

 あの日、あの木の下で見つけたユイのナップサックは、ユイの家の前に置いてきた。引っ越し当日のことだ。

 ハルが持って行ったユイの遺品は、赤いリボンだけ。それだけにしようと、決めたのだった。

 

「――のデパートで――ルもほしかったら、ハルのお父さんに……。ハル、聞いてる?」

「――え? ああ、ごめん。なに?」

 

 上の空になっていた。また暗くなり始めたユイの顔を見て、何か言おうとするが話題が思いつかない。

 思えば、この時代に来てからユイとまともに話をしたのは再会の時だけだった。

 それからは、一度も。

 

「その、ユイは、そういえば、私に何か用があったんだよね?」

 

 今度こそ、ユイの顔が輝いた。それを見て、ハルも心底ホッとする。

 ユイは背負ったウサギから、何かのチラシを取り出して、言った。

 

 

「こんどね、隣町で花火大会があるんだって!」

 

 

 ハルは、凍りついた。

 

 

「だから、ハルもいっしょに見ようよ! どこか高いところでさ!」

 

 

“ こうして、ハルと二人で花火を見るのも ”

 

 

「マンションのところとか、――()()()()()!」

 

 

“ 今年で最後だね ”

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――めよ」

「ハル?」

「駄目よっ!」

 

 絹を裂くような怒声に、ユイの顔が再び恐怖に染まった。

 

「あの山は駄目! 絶対に近付いちゃいけないの!」

「は、ハル、痛いよ」

 

 自分の手が、ユイの両肩にくいこんでいることもハルは気付かない。

 恐怖に染まったユイの顔が、徐々に陰っていることも。

 ハルも怖かったのだ。

 また、もう一度。再びあの山でユイを失ったりすれば、今度こそ自分は狂い死ぬだろう。

 

 

「危ないのよ! 絶対に駄目!」

「だいたい、今日もなんでこんな時間に外に出たりしたの!」

「夜は外に出ちゃいけないって、いつも言われてるでしょう!」

 

 

 ぱん、と。手を振り払われた。

 ハルの手を払ったユイは、うついむいたまま無言で玄関に向かう。

 

「ユイ!」

「もういい。わたし一人で行くもん」

「な……っ!」

 

 ――何を言っているの!

 

 慌ててユイを追いかけて肩をつかむも、今度はユイも抵抗した。

 ほとんど揉み合うような形で振り向かせたユイと、目が合う。

 ユイは、泣いていた。

 真っ赤な顔でハルを睨みつけながら、その両目からは、ボロボロと涙があふれていた。

 

「ユ――」

「ハルのばかっ! ……もう、嫌いっ!」

 

 叩きつけるように玄関が閉められ、無意味に左手を伸ばしたままのハルだけが残される。

 その足元で、くしゃくしゃになったチラシだけが転がっていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

“ お化け ”は、すぐ近くでそれを見ていた。

 伸ばしたままだった左手をダラリと下げた少女が、それこそお化けのような暗い眼差しでチラシを拾い上げ、(かかと)を引きずりながら帰っていく。

 それを見送った後、“ お化け ”は目の前の一軒家に進んだ。玄関をすり抜け、暗いリビングを通り、階段を上る。辿りついた一室で、少女がひとり泣いていた。

 頭からタオルケットをかぶり、声を押し殺して泣いているのは、まだ外にいるかもしれない友だちに聞かれたくないためか。

“ お化け ”は、その黒い手でそっと少女の顔を撫でた。

 少女は、何も気付かなかった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 ――ハルのばか! ハルのばか! ハルのばか!

 

 ユイは、ひたすら泣いた。

 ハルと遊べないのが寂しくて、お父さんもお母さんもいないのが心細くて、夜の町が怖くて、あの時のハルが、ハルじゃなかったみたいで。

 せっかく誘ってあげたのに、せっかくいっしょに花火を見れると思ったのに、なんであんな、怖い先生みたいなことを言うのか。ハルのくせに。ハルなのに。

 今日のハルは、かわいかった。あんなおめかしして、きっと誰かと会っていた。ユイじゃない誰かと、遊んでいた。ユイとも遊ばずに。

 だから嫌いだと言ってやった。嫌いだと、言ってしまった。

 

「ハルぅ……っ」

 

 怖くて、寂しくて、腹立たしくて、ハルに会いたくて、会いたくなくて。

 ユイは、また泣いた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 また鉛筆が折れて、ハルは苛立たしげに息を吐いた。

 電動の鉛筆削りに突き刺し、ガリガリと暴力的な音を立てる機械にまた苛立つ。

 

 ユイに嫌われたのは、好都合だったはずだ。

 これから自分とユウジは、あの蜘蛛神に戦いを挑まなければならない。当然、危険な戦いとなる。ユイが自分から距離を置いてくれるならば、それに越したことは無い。

 ただし、ユイが意固地になって一人で花火を見に行かないようにだけは、何か対策しなければならないだろう。方法によっては更にユイとの仲が悪化する可能性もあるが、それも仕方のないこと。

 仲直りは、全てが終わった後ですれば良い。

 

 削りすぎた鉛筆は、ほとんどその身を無くしていた。

 思わず舌打ちして、ノートに向かうも一向に思考がまとまらない。書き損じた文字を消しゴムで消すのも億劫(おっくう)になって、乱雑に塗りつぶす。

 また、鉛筆が折れた。

 

 思考がまとまらない。きっと寝不足のせいだ。苛立ちが止まないのもそのせい。

 それとも、聞き分けのないユイのせいか、ユイをそうさせた自分にか、あの夏にユイを死なせた自分にか、今日はあの夏のことばかり考えている気がする。

 思考がまとまらない。今度こそユイを守らなければいけないのに、自分はユイを死なせたのだから、もうユイを失いたくなくて、それがユイを死なせたことへの罪滅ぼしで、でもユイを死なせたことを忘れてはいけなくて、ユイを、ユイが。

 

「ユイ……」

 

 今、口から出たのは、()()()()()()()

 ユイがいなくなっても、死んでしまっても、自分は生きて、生きて、生きて、死んで。

 後悔は無いはずで、でも、もしも、もしも、生まれ変われたら、その時は、

 

 

 ――わたし、何をしたかったんだっけ……。

 

 

 机に突っ伏したまま、ハルは眠りに落ちた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

“ お化け ”は、すぐ近くでそれを見ていた。

 



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07:喧嘩(なかなおり)

『ユイ、どうしたのそれ!?』

 

 朝、いつものように家を出たハルは、頭に包帯を巻いた親友の姿に色をなくした。

 対して、ユイはただ「寝ぼけて階段から落ちちゃった」と笑うのみだが、ハルは気が気でない。

 

『大丈夫なの? 休んだほうがいいんじゃ……』

平気(へーき) 平気(へーき)、ほら行くよ!』

 

 いつものように、力強く手を引かれて二人で学校まで走る。赤いランドセルと、赤いリボンが元気に揺れていた。いつも通りのユイだった。そしてまた、いつも通りに教室の前で別れる。

 「また後でね」と手を振って自分のクラスに向かうユイの表情が、こちらに背を向ける瞬間、わずかに歪んだのを覚えている。

 

 ハルは授業中もまったくの上の空だった。ユイのクラスが校庭で体育の授業をしているのを窓から見ても、ユイの姿はない。運動神経ばつぐんのユイは、いつも体育では大活躍なのに。移動教室の時、ユイのクラスをのぞいてもいなかった。今日はほとんど一日を保健室で過ごしていたのだと、先生から聞いた。

 そう聞いたのに、放課後のユイはいつも通りだった。手をつなぎながら、家とは逆方向に歩く。

 

『ユイ、もう帰ろうよ』

 

 空き地、河原、田んぼ、ぶらぶらと歩き回り、ユイはなかなか帰ろうとしない。本当は傷が痛むのではないかと心配で、ハルは帰宅を促す。いつもはハルの方が別れたがらないのに。

 

『ユイ』

『……』

 

 夕日が、ユイの顔を照らしていた。黙っているユイの表情は、陰になって見えない。つながれた手が、更に強く握られた。

 

『もうちょっとだけ。おねがい』

 

 あの時、ユイの目に涙が光っていたのを、ハルは見ていた。

 だが、幼く愚かな自分は、傷が痛んだからだとしか思わなかった。その傷が、母親からの暴力によるものだと気付いたところで、無力な自分にはどうしようもなかったのだけれど。

 しかし知る機会はあったのだ。

 ユイは、無敵のヒロインなんかじゃない。ハルと同じ、ただの女の子で、その心も体も容易に傷つくのだと。つらい時も、助けてほしい時もあるのだと。

 ハルが、ユイといる時に勇気をもらえるように。ユイもまた、ハルとのつながりを求めていたのだと。

 それを知った時はもう、何もかもが手遅れだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 最悪の目覚めだった。

 机に伏せたまま朝を迎えたせいか、体のあちこちが痛む。枕になっていたノートが涎で台無しになっているのを見て、深い溜息をついた。見れば窓も開けっぱなしだ。8月とはいえ、夜となれば気温も下がる。途端に寒気を感じて薄い上着を羽織った。

 窓の外は既に明るい。朝霧につつまれた町をぼんやりと眺めながら考えるのは、今しがた見た夢のこと。そしてユイのことだった。

 もう二度と繰り返してはならない。ユイを守るのだ。それは今も変わらない。間違えてなどいない。

 

『ハルのばかっ! ……もう、嫌いっ!』

 

 例え、それでユイに嫌われても。

 ……ユイの心を、傷つけてでも?

 

 ――やめなさい。

 

 頭を振って、思考をかき消す。自分がユウジに言ったのではないか。今はあの蜘蛛神を倒すことだけに集中しろと。他のすべては、命さえあれば後から取り戻せるのだと。

 ……そんなに簡単に取り戻せるとでも?

 頭を掻きむしる。さっきからなんだ。もしや自分にも「あの声」が聞こえ始めているのではないかと疑い始めた時、霧の中を走っていく人影が見えた。

 それが誰かを見て取った後、ハルもまた家を飛び出した。

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 朝、起きてきた娘の目が真っ赤だったものだから、ユウジはトーストを落としそうになった。

 

「……おはよう」

「お、おはよう、ユイ」

 

 そのままノロノロと食卓の席につく娘を横目に、さてどうしたものかとユウジは考えを巡らす。

 何かあったのは明白。だがそれを聞くべきか否か? 父として聞くべきだろうと決意を固める。たとえそれが藪蛇(やぶへび)でも。

 

「……大丈夫かい、ユイ。何か悩み事でも、」

「別に」

 

 胃が痛い。トーストが戻ってこないよう、インスタントスープでのみ込んだ。

 どう考えても、ハルと何かあったのだろう。子どもの喧嘩など可愛いものだが、相手があの少女だとすれば、何が起きても不思議ではない。

 

 ――勘弁してくれ。

 

 ここ数日でもはや何度目か分からなくなった愚痴(ぼやき)を心中で漏らす。くわばらくわばら、と胃のあたりを撫でていると、当のユイが口を開いた。

 

「お父さん、今日もお仕事?」

 

 寂しそうな眼差しに、射貫かれる。

 今すぐ抱きしめて海でも遊園地でもハワイでもつれて行ってやりたい衝動に駆られるが、自制心を総動員してなんとか堪える。やるべきことを、やらなければならない。

 

「……うん、そうなんだ。いつもゴメンね、ユイ」

「……そっか」

 

 ゴトリ、と目の前にコーヒーが置かれる。

 横を見上げれば、妻がニコリと微笑んだ。微笑んだのに、何故かまた胃が痛みだす。何故か? 目が笑っていないからだ。

 

「あなた、今日もお仕事?」

 

 なんで同じことを聞いてくるのか。

 

「……うん、そうなんだ。いつもゴメ」

「そう」

 

 返事し終える前に、愛しい妻はスタスタと洗い物に戻っていく。

 愛しい娘は、じっとりとした目でこちらを見ながらトーストをかじっている。可愛いけれど怖い。

 胃が痛い。

 

 ――勘弁してくれ。

 

 妻が淹れてくれたコーヒーは、地獄のように熱かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

“ オイデ ”

 

 

 

 

 

 

 

 

 胃から、すべてを逆流させそうな「声」だった。

 熱いコーヒーを一気に流し込み、焼けるような舌と喉の痛みで、反抗の意思を奮い立たせる。

 

 ――うるさい。こんな朝から話しかけるな。

 

 淹れたばかりのコーヒーを一気飲みするという奇行に、二人が目を丸くする。

 

“ オイデ オイデ ”

 ――黙れって言ってるだろ。ぶん殴るぞ。

 

 気弱な自分をぶん殴るように、あえて暴力的な思考で気合いを入れる。

 

「ごちそうさま。今日は早いから、もう行くよ」

“ ミンナ イッショ イッショニ オイデ ”

 ――もう一度言ってみろ。その目玉をえぐりだしてやるぞ。

 

 貼りつけたような笑みを妻と娘に向けてから、身支度もそこそこに玄関に向かった。

 ユイが追ってくる。「お父さん? どうしたの?」不安そうな顔に後ろ髪を引かれそうになる。

 

「ごめんねユイ。大丈夫だよ。大丈夫だから」

“ サミシソウ サミシソウ カワイソウ ”

 ――殺すぞ。

 

 限界だった。

 火傷した舌を噛んで、痛みと血の味でなんとか正気を保つ。ユイの声を振り払うように玄関を飛び出し、朝霧の中を走った。

 

 

 

 

 隣町まで走れる気はしなかった。田んぼ道をつっきり、墓地を通り過ぎて、町のはずれにある神社に飛び込んだ。

 ムカデ神社ほどではないが、多少は「声」が遠くなる。狛犬(こまいぬ)の石像に頭をこすりつけながら、ありったけの罵詈雑言をぶつぶつと呟くこと数分、ようやく「声」は聞こえなくなった。

 そのまま、石畳の上で大の字になって転がる。さっきから不審者そのものの様相だが、もはや構っていられない。

 だから、すぐ近くまで来ていた足音にも気づかなかった。

 

「ユウジさん!」

 

 起き上がる気力も無く顔だけを横に向けると、鳥居に手を置きながら息を切らせるハルがいた。こちらに歩み寄りながら、スカートのポケットからハンカチを取り出そうとするような動きをするが、どうやら手ぶらなようだ。ここ数日は超然とした佇まいしか見ていなかったが、どこか抜けた様子にすこしだけ口元がゆるむ。

 

「血が……。まだ起き上がらない方が良いです」

 

 額に手をやると、わずかではあるが血が流れていた。別に頭を打ったわけでもなく、すこし狛犬の世話になっていただけだ。

 

「……大丈夫だよ。“ あの野郎 ”にちょっと頭突きしてやっただけさ」

 

 明らかな強がりだが、ハルも否定はしなかった。苦笑とも安堵ともつかない笑みをわずかに浮かべる。その目には、濃い隈がみられた。

 ユイのあの様子と無関係でないのは明白だが、さて詮索すべきかどうか。眼鏡をかけ直してから再び考えを巡らせようとして、神社の入り口にたたずむ影を見た。

 蜘蛛神の「声」にも耐えたユウジの顔が、今度こそ青ざめた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ユウジの影を追うハルが辿りついたのは、町のはずれにある神社だった。

 おそらく「声」が聞こえ、慌てて避難したのだろう。こんな朝から聞こえたということは、蜘蛛神の力は確実にユウジの精神を侵し続けているのだろう。

 案の定、境内の真ん中で倒れるユウジの顔はやつれ果てていた。元々やせ過ぎな顔は、もはや骸骨のような有様だ。その上、自傷でもしたのか額と口からは血も流れている。ハンカチを貸そうとしたが、手ぶらで飛び出してきたことを思い出して、ハルは歯噛みした。

 

 ――もう、時間がない。

 

 ユウジは強気な様子だが、明らかに無理をしている。根性論などで耐えるのも限界だろう。計画を早めるべきかと思案していると、ユウジの顔が青ざめていた。

 その視線を追った先に、

 

「ユイ……」

 

 ユイが、いた。

 

 

 

 

 ユイは無表情だった。

 表情の無いまま、つかつかとハル達の方に歩み寄ってくる。ハルの顔を一瞥(いちべつ)すると、ぷいと視線を外し、ユウジのそばにしゃがみ込んだ。

 

 ――なによ、それ。

 

 ハルの存在を無視するような態度に、昨夜の苛立ちが再燃するのを感じる。心中穏やかでないハルを置いて、ユイはユウジの額にハンカチを当てた。

 

「お父さん、ケガしてるよ」

「あ、ああ、うん、ありがとう、ユイ」

「もう帰ろう。お仕事は休んでよ」

「いや、それは……」

 

 助けを求めるような目を向けてくるユウジにも、思わず冷たい目を返してしまう。しゃんとしなさいよ、父親でしょう。

 

「……あのね、ユイ。おじさんには大事なお仕事が、」

「ハルには関係ないでしょ」

 

 こちらを見もせずに言い放つユイに、ハルもいよいよ抑えが効かなくなってくる。

 

「ユイ、ちょっとあなた、」

「うるさいっ!」

 

 肩をつかんだ手を振り払われる。もはや、我慢の限界だった。

 

「わたしはお父さんと話してるの! あっち行っててよ!」

「な――」

「他の人と遊べばいいでしょ! もうほっといて!」

 

 

「ハルはもう、わたしのことなんて、どうでもいいんでしょ!」

 

 

 目の前が真っ赤になった。

 

「――――して」

「……なにさ」

「取り消してよっ!」

 

 それだけは聞き捨てならない。いったい、自分がどれだけ。

 

「私が、わたしがどれだけ、あなたのことを……っ!」

「なに言ってんの? ずっと他の人と遊んでたのはハルでしょ!」

「ユイこそ何言ってるの! 遊びじゃないんだってば!」

「意味わかんない!」

 

「ふ、二人とも、ダメだよ喧嘩は! まずは落ち着い」

 

「「 お父(ユウジ)さんは黙っててっ!! 」」

 

「あ、ハイ」

 

 邪魔者(ユウジ)を黙らせると、少女達はますます激昂(ヒートアップ)していく。もう相手の言葉など半ば聞こえていない。ただただ、自分の腹の内に積もった物をぶちまけるのみ。

 故に、それは必然だった。

 

 

 

 

「ユイの――」

「ハルの――」

 

 

 

 

「「 分からず屋っ!! 」」

 

 

 バチンッ!!

 

 お互いの柔らかい頬に、お互いの平手(ビンタ)が炸裂したのは、まったくの同時だった。

 こうなればもはや止まらない。

 手が出る、足が出る、髪をつかんで馬乗りになり、ゴロゴロと地面を転がり、上下が激しく入れ替わる。子犬がじゃれ合うような動きの合間にも、溜まりに溜まった不平と不満が口撃(こうげき)となって飛び交った。

 

「人が大人しくしてれば調子にのって! すこしは聞き分けてよ!」

「なにさ大人ぶっちゃって! ハルの方が子どもじゃない!」

「8歳児が生意気言わないで!」

「同い年じゃん! わたしの方が誕生日先だもん! 背だってわたしのほうが高いもん!」

「もうあなたの10倍生きてるのよ、こっちは!」

「意味わかんないってば!」

 

 子どもの体力は無尽蔵である。その半面、感情を制御する能力には欠ける。それは今のハルとて例外ではなかったか。

 必然、この本気喧嘩(マジげんか)が勢いを無くすまでには長い時間を要した。少なくとも、太陽の位置が変わるほどには。

 夏の朝、さわやかな空気の境内で、少女達の怒声だけが響き続けた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

“ お化け ”も、それを見ていた。

 完全に蚊帳(かや)の外となったユウジの横、その特等席で、少女達の喧嘩を眺めていた。

 不揃いな両目を、羨ましそうに細めながら。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ぜえぜえ、はあはあ。

 可憐と呼んで差支えのない二人の少女だったが、今や無残な姿となり果てていた。

 平手(ビンタ)の応酬により白かった頬は共に赤く腫れている。ハルの色素の薄い髪はぼさぼさに乱れて四方に跳ね、ユイの後ろでくくられた亜麻色の髪も、散々つかまれて解けてしまった。お互いの服も手も足も顔も泥にまみれ、それぞれの母親が見れば卒倒することは必至。

 ユイは体力面で圧倒的に優れ、ハルはその知識量による口撃で的確に急所をえぐる。戦況は互角といえた。

 それでも、喧嘩はまだ終わらない。まだまだ、やり足りなかった。

 

「もう……っ いいかげんっ 観念してよ……っ!」

「ハルこそ……っ あやまってよ……っ!」

「わたしは、悪くない、でしょっ!」

 

 全力で突き飛ばしたつもりだったが、元より乏しいハルの腕力では、ユイはわずかによろめく程度だった。とはいえ、ユイも満身創痍。フラフラと体勢を崩し、反撃までにかかる時間も長かった。

 

「さっきから……っ えらそうに、説教しないでっ! ハルのくせにっ」

「なによ、それっ ユイこそ……、子どものくせに、生意気なのっ!」

「ハルのくせに……ハルなのにっ!」

 

 狙いを外したのか。偶然、ユイの手はハルの耳に命中した。耳がキンとして、足元がふらつく。

 

 

「なんなの……! ハルは、わたしのお母さん? お姉ちゃん? ちがうでしょ!」

 

 

 すがりつくように、ユイはハルの襟元をつかんだ。吐息もかかる距離で、ハルと目が合った。

 ハルは、グラグラと揺れる視界の中でユイの言葉だけが聞こえていた。

 

 

「ハルは――――っ」

 

 

 ユイは、おもいきり頭をふりかぶり、

 ハルは、ただユイの言葉を、

 

 

()()()()()()()でしょ!」

 

 

 渾身の頭突きをお見舞いした。

 その言葉を、聞いた。

 

 

 

 結果としては、お互いの顔面が直撃するような形となった。小さな鼻がぶつかり合い、タラリと鼻血が垂れる。

 二人とも、精魂尽き果てたように座り込み、そして、

 

 

 

 

「――――ぷっ」

 

 

 

 

 先に噴出したのは、ハルだった。石畳の上に寝転んで、高らかに笑い出す。

 鼻血を垂らしながら大の字で笑い転げる親友の姿に、ユイもまた、腹をかかえて笑い出した。

 日も高くなり始めた境内で、二人の少女の笑い声だけが響く。

 

 

 ハルは、痛快な気分だった。憑き物が落ちたとも言える。

 いったい自分は何を思い悩んでいたのか。ユイとユイは違うだのなんだのと、バカバカしい!

 ユイは、ユイではないか。

 前回でも、今回でも。過去でも、未来でも。生きていても、死んでしまっても。

 ユイは、いちばんの友だち。

 タイムスリップだろうがタイムリープだろうが、それだけは絶対に変わらない。

“ そういうもの ”ではないか。

 

「……ダメね。歳をとると頭が固くなっていけないわ」

 

 こんな少女の姿(なり)で何を言っているのか。それが自分でも可笑しくて、ハルはまた笑った。

 

 

 

 

 ユイは、ただただスッキリしていた。

 ハルに対する不満も、不安も。ここ数日ろくに遊べなくて有り余っていた体力も、何もかも吐き出した。頭も体もからっぽになって、心が軽い。

 そして何より、

 

「はじめて、ケンカしたね!」

 

 ハルと遊べた。最高に刺激的な遊び(ケンカ)だった。それがただ面白くて、ユイはまた笑った。

 

 

 

 

 ――そう、初めて喧嘩したね、ユイ。

 ――あれ、でも。

 ――前にも、こんなことがあった気がする。

 

 

 

 

 二人の笑い声だけが響き、それも無くなる。

 気付けば、ふたり並んで、横になって、空を見上げていた。

 ハルの左手と、ユイの右手がつながっていた。どちらが先につないだのか、あるいは同時だったのか。

 謝罪の言葉など無くとも、仲直りは、済んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ユウジさん」

 

 どれぐらいそうしていたのか、いろんな意味で隅に追いやられていたユウジに、寝転んだままでハルは言う。

 

「ユイにも、協力してもらいましょう」

「え? ああ、…………はぁ!?」

 

 さしものユウジも、こればかりは声をあげずにいられない。

 そもそもユウジは、ユイと妻を守る為に戦っているのだ。それにユイを巻き込むなど、本末転倒もいいところではないか!

 

「元々、人手は足りなかったんです。それに目の届く所にいた方が、ユイも安全でしょう」

「いやいや待ってくれ! その理屈はおかしいだろう!」

「――お願いします」

 

 ようやく起き上がったハルと目が合う。ハルの目に、あの異様な眼光はもう無かった。ただ瞳の奥に不思議な輝きを残すのみだ。

 

「やっぱり、わたしは、その……ユイがいないと、ダメみたいです」

 

 はにかむように、大人しい性格の、娘の友達の少女は、そう言った。

 

 

 

 

「……もう、好きにしてくれ」

 

 ユウジは天を仰いだ。胃が痛い。あと舌と喉も痛い。ついでに額も。

 

「ねえ、なんの話なの?」

 

 ひとり、話についていけないユイが口を尖らせる。

 ハルとユウジは顔を見合わせ、ハルは満面の笑みで、言った。

 

「お化け退治だよ!」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

『ねえ、ハル』

 

 田んぼ道でようやく腰を上げたユイは言った。

 

『プロレスしない?』

『へ? ああ、うん。…………えぇ!?』

 

 やっと帰る気になったのかと胸をなでおろしていたハルは、親友のあまりに突然な提案に変な声が出てしまう。

 

『だ、ダメだよ! ユイ、ケガしてるのに!』

『へーきへーき、ほら行くよ!』

『ひゃあっ!? ちょ、ちょっと、やめてってば!』

 

 朝と同じような返事と共に、ユイが体当たりしてくる。思わず田んぼ道に転んだハルに馬乗りになった上、こちょこちょとしてくるものだから、くすぐったがりのハルはたまらない。

 

『あはっ! あひゃはっ! ……もう、この!』

 

 仕返しとばかりに下からくすぐり返すと、ユイも笑い転げて、上下が入れ替わる。そのままゴロゴロと転がっていると、二人とも泥だらけになっていた。

 

『もう! お母さんに怒られちゃうよ!』

『ごめんごめん』

 

 泥だらけの恰好で、ふたり並んで歩く。ぷりぷりと怒るハルに対し、何故かユイは嬉しそうだった。

 

『いっしょに、お母さんに怒られようね!』

『なに笑ってるの! ユイのばかっ!』

 

 ――ハルといっしょなら、へーきだよ。

 

 涙は、とまっていた。

 



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08:反撃(しかえし)

「ユウジさん、やっぱりプランAで行きましょう。あれが一番早く済みます」

「ええ……。いやだから、予算が、」

「それと、決行は明日にしましょう」

「明日!? 無理いわないでくれ!」

「お父さん、おねがい! はやくしないと間に合わないの!」

「間に合わないって……何が?」

 

「「 花火大会!! 」」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「ごちそうさまでした!」

 

 結構な量の朝食を平らげ、手を合わせたハルは食器を流しに運んだ。その目から隈は消えている。

 パタパタと忙しく歯を磨きに行く娘の姿に、ハルの父親はホッと息をついた。最近どうも様子のおかしかった娘が、ようやく元に戻った気がしたからだ。もしや悪い虫でもついたのか、いやまさかそんなと不安に思う事もこれで無くなると、新聞を広げ、

 

「あ、そうだ。今日はお昼ごはんいらないから。夕方までには帰るね!」

 

 前言撤回。手にした新聞が、グシャリと折れ曲がった。

 

 

 

 

 懐中電灯よし。電池よし。小石よし。折り紙よし。お塩よし。マッチよし。十円玉よし。

 必需品をバッグに詰め込み、服を着替える。白いシャツ、紺のスカート。髪を梳かし、三つ編みにして、最後に青いリボンを結んで完成。

 手鏡に映る自分自身と目を合わせる。

 

「……よしっ」

 

 心身ともに良好。気合いは充分。準備も万端。

 階段を駆け下り、靴を履いて、何か言いたげな父親を置いて玄関を飛び出した。

 

「いってきます!」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「ごちそうさま!」

 

 普段の倍近くは朝食をつめこんだユイは、食器もまた倍速で片付けた。バタバタとまたまた忙しく歯を磨きにいく娘の姿に、おもわず苦笑する。

 

「そんなに急がなくても大丈夫よ」

「はーい!」

 

 今日は久しぶりに夫も休み。父娘(おやこ)ふたりで「デート」だそうだ。最近すこし元気のなかったユイも、昨夜から興奮しっぱなしだった。

 これで、すこしは自身の疑念も晴れると良いのだが……。

 

 

 

 

 懐中電灯よし。電池よし。小石よし。紙飛行機よし。お塩よし。十円玉よし。

 ハルに言われた物をウサギのナップサックに詰め込み、服を着替える。黒いシャツ、白のスカート、赤のネクタイ。髪を後ろでくくり、最後に赤いリボンを結んで完成。

 そして、昨日に準備していた()()()を手に取る。

 

『お父さんは悪いお化けに呪われてしまった』

『だから、お化けがよく見えるハルにも、お化け退治を手伝ってもらっている』

 昨日、ハルとお父さんにはそう聞かされた。そして、ユイにもそれを手伝ってほしいとも。

 お化け退治。お化けは怖いけど、ハルとお父さんの為だ。それに、ハルもいっしょなら怖くない。ユイは燃えていた。

 

「よしっ!」

 

 今日も元気。()()を渡せば、きっとハルも喜ぶ。楽しみ。

 階段を駆け下り、靴を履いて、ようやく出てきたお父さんより先に玄関を飛び出した。

 

「いってきます!」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「置いてかれちゃうわよ?」

「ごめんごめん、今行くよ」

 

 妻の淹れてくれたコーヒーを充分に味わった後、カップを置いて立ち上がった。準備は全てできている。愛用の眼鏡をかければ完成だ。

 洗い物を再開した妻の後ろに近づき、危なくないタイミングを計って、そっと抱きしめた。わずかに身を固くした肩を撫でて、静かに告げる。

 

「行ってくるね。夕方には帰るよ。ユイといっしょに」

 

 この体勢で言うことがそれか、とでも言いたげな妻に苦笑し、ユイがもう行ったことを確認して、唇を重ねた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 山のふもと、小さな地蔵の前に十円玉を置く。しゃがみ込んだハルは、静かに両手を合わせた。特に何を祈るでもない。ただなんとなくだ。

 思えば、お地蔵様に手を合わせたのは随分と久しぶりだった。何せ、つい最近まで合わせる手が片方無かったのだから。

 じっと左手を見て、思うのはこれまでのこと。

 

 ユイと出会えた。ユイと友達になれた。ユイが死んだ。左手も失くした。ひとりでも生きて、精いっぱい生きて、立派に死ねた、と思う。それはハルの小さな誇りだ。

 だから、よまわりさんがくれた、この奇妙な生は「二度目」。やり直しでも、巻き戻しでもない、ハルの歩んだ道の先に続いた、二度目の道。

 だから、次は違う道を行く。過去を無かったことにするのではない。過去のその先で、新たな道を――。

 

 

「まーた難しいこと考えてるでしょ!」

「ひゃっ!」

 

 

 突然、耳元にかけられた声に、思わず飛び上がる。口を膨らませた赤いリボンの少女――ユイに、眉間をツンとつつかれた。

 

「ほら、しわがよってる! そんなことばかりしてると、すぐお婆ちゃんになっちゃうよ?」

「……どうせ中身は90歳ですよーだ」

「え?」

「なんでもない!」

 

 きゃあきゃあと緊張感の無い二人の少女に、遅れてきたユウジは苦笑した。娘はいつも通りだが、ハルも年相応の少女にしか見えない。数日前の、あの怪異も顔負けな凄みは一切感じられなかった。不安と言えば不安だが、きっとこれで良いのだと、ユウジは確信している。

 

「はいはい、二人とも。お望みのプランAを始めるから、お喋りはやめ!」

「「 はーい!! 」」

 

 完全にハイキングか何かのような雰囲気。だがそれでも、ハルも、ユイも、ユウジも、その意思は盤石。準備もすべて整っている。

 やがて、その「準備」が姿を現し、寂れた山道には似合わない、騒がしい空気が場を満たし始める。

 

 神殺し。そのプランAが、始まった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 暗い、暗い洞窟の最奥に、“ ソレ ”はいた。

 

 人の手と、人の指と、人の目を、出鱈目(でたらめ)に組み合わせて、無理矢理に蜘蛛を形作れば、このような姿になるだろうか。

 

“ ソレ ”に名は無い。

 

“ 山の神 ” または “ 縁結びの神 ” あるいはただ、“ 蜘蛛のようなナニカ ”と。

 

 かつては、名のある神だったのだろう。

 

 だがしかし、嗚呼(ああ)しかし。

 

 (けが)れ、穢され、堕ち、堕ち果て、今やこの有様。

 

 ただただ、供物を求め、(にえ)を求め、その代償にまた、人の(えにし)を死に繋ぐ。

 

 対となる彼の鋏神も、堕ちて久しく。故に止める者も無し。

 

 まさに荒神。まさに悪神。

 

 怒りなど無い。愉悦も無い。慈悲もまた無い。

 

 ただ。ただ、その力ある故に。

 

 そうできるが故に、そうするのだ。

 

 今日もまた、祟りに触れた愚かな供物がひとつ。

 

 小癪(こしゃく)にも、囁きに背いていた贄がひとつ。

 

 故に囁く。故にその縁を、この赤き糸で死に繋ぐのだ。

 

 

“ オイデ オイデ オイデ オイデ ”

 

“ コッチニオイデ ミンナ イッショ ”

 

“ ダカラ オイデ オイデ オイデ ”

 

 

 死すれば、皆、同じ縁となるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………………。

 

 …………。

 

 ……。

 

 解せぬ。

 

 ありえぬ。

 

 贄が、供物が、その場から動かぬ。

 

 死せぬ。

 

 囁きは、届いている。その四肢の先まで、染み込ませた。

 

 背いている気配も無し。

 

 なのに、動かぬ。

 

 ありえぬ。

 

 何故、その身を死に繋げぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………………。

 

 …………。

 

 ……。

 

 しびれを切らす。

 

 その赤き(まなこ)をすべて見開いて、()た。

 

 己の領域、この山の地を、すべて視わたす。

 

 視て、視て、探して、探して、見つけた。

 

 山の端。その樹の陰。鉄の(はこ)

 

 その中に、贄がいた。

 

 函の中も視通し、そして、視た。

 

 贄の眼を、視た。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ユウジは、もがいていた。

 はやく、はやく首を吊らなければいけないのに。そうしたくてたまらないのに。

 そう、できない。

 はやく、死ななければいけないのに。死にたいのに。

 ユイも、妻も、みんな一緒に死にたいのに。

 そう、できない。

 ユウジは、叫んだ。

 蜘蛛神の「声」に指先まで侵されたユウジは、ひたすら叫んで、もがいていた。

 

 

 

 

『前にも言いましたが、あの神は言葉で精神を操ります』

『巧みな話術で思考を誘導し、あたかも自分の意思であるかのように、言いなりにしてしまう』

『逆に言えば、肉体を直接に操るわけではない』

『そして、遠く離れた相手を、直接に殺傷することもできないということです』

 

 

 

 

 山のふもと、木陰にひとつのコンテナが置かれていた。

 鉄製。重機でもなければ破壊は不可能。その扉も、厳重に外から施錠されている。

 その中に、ユウジはいた。

 手足を雁字搦(がんじがら)めに縛られ、布で簀巻(すま)きにされ、猿轡(さるぐつわ)を噛まされ、頭にヘルメットをかぶせられた姿で。

 その姿で、必死にもがいていた。

 

 ユウジの精神は、既に限界に近かった。これ以上「声」に耐えることはできなかった。

 ならばどうするか。簡単だ。

 従いたくても、従えなくしてしまえば良い。

 ユウジは「声」に逆らってなどいない。もう逆らう必要など無かったのだ。

 首を吊りたくても、コンテナから出られない。

 自分の身を抉りたくても、手も足も出ない。

 舌を噛みたくても、噛むことができない。

 頭を打ち付けたくても、ヘルメットが邪魔をする。

 一切の自傷を封じられ、死にたくても死ねない状態で、完全に拘束されていた。

 

 ユウジの精神は狂乱の中にあったが、「視線」を感じた瞬間、わずかに「声」が途絶えた。

 ギョロリと、ユウジの目が動き、蜘蛛神を視返す。目が合った。

 ユウジの「声」が、逆流する。

 

 

“ やっと気付いたか、間抜け ”

“ だけどもう遅い。今からぶっ殺してやるから、震えて待っていろ ”

“ 山の神だかなんだか知らないが、今のお前はただの快楽殺人者だ ”

“ お前は人間を、生き物を甘く見たんだ ”

“ 親という生き物が、子どもを守るためにどれだけ凶暴になるのか甘く見た ”

“ あまり人間を舐めるなよ。この■■(ピー)野郎め ”

 

 

 あまりにも口汚い罵詈雑言が、「声」となって蜘蛛神に逆流する。

 それに何かを感じた訳でも無いだろうが「視線」は途絶え、再びユウジは狂乱の中に戻る。

 確かに自害は封じられたが、このままでは衰弱死は避けられない。

 だが当然、そんなことは織り込み済み。

 ユウジの役目は、陽動。蜘蛛神の目を引きつけ、釘付けにすることだった。太陽はもう南まで登っている。時間は十分に稼いだ。

 

 尖兵は、既に放たれていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 山の頂上付近、町を一望できるその丘に、その「群れ」は現れた。

 蜘蛛神は、それを視ていた。

 それは一見、ヒトに視えた。だが、よく視れば異なる。

 

 ヒトでない、何かの群れ。

 

 その群れは迷うことなく、蜘蛛神の住処(すみか)、その入り口を隠す地蔵の前に集う。

 そして、手にした何かを振り上げ、また迷うことなく、叩き壊した。

 ありえぬ事だった。

 ヒトは、蜘蛛神の知るヒトというモノは、地蔵を壊したりはしない。“ そういうもの ”であるはずだった。

 やはり、ヒトではないのだ。

 群れが入ってくる。ぞろぞろと、ヒトでない何かが、己の住処に入ってくる。

 次に視えたのは、強烈な光だった。

 一切の光を通さぬはずの住処に、もう一つの太陽が現れた。

 否、一つどころではない。二つ、三つ、……増えに増え、十を超した。

 その太陽は異様な音を放ち、また臭気を撒き散らす、偽りの太陽。

 その光に、己の住処は余すことなく照らされた。

 咲き狂う彼岸花、己を祀る地蔵、地蔵、地蔵、地蔵……。

 

 その全てを、群れは蹂躙しはじめた。

 

 花を毟り取り、地蔵を壊し、壊し、壊してゆく。

 それだけで飽き足らず、清めの塩をも撒き散らす。

 盛り塩などという生易しいものではない、地を埋め尽くし、その地を穢すほどの塩、塩、塩……。

 

 もはや我慢ならぬ事だった。

 

 久しく感じなかった、その怒りに任せ、群れの全てに囁く。

 ただ死せと。()く死せと。

 

 

 

 

「――――?」

「――?」

「――? ――?」

 

“――――?”

 

 

 

 

 疑問が、場を埋め尽くす。

 群れに囁きは届いている。だが、何かが遮っている。

 囁きが意味を成していない。囁きの意味を解していない。

 やはりヒトでないモノに、囁きは通じぬのか。

 蜘蛛神は、久しく感じなかった()()()を、理解できなかった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

『古来、神通力(じんつうりき)と呼ばれる物と「言葉」は密接な関係にあったそうです』

()()()()()人たち、渡来人と呼ばれた人々には、神通力が効かなかったという伝承もあります』

『いわゆる言霊(ことだま)を操るあの蜘蛛神なら、なおさらでしょう』

 

 

 

 

「What did you say?」

「Nichts sagen」

「我的耳朵疼」

「Давай закончим раньше」

「――――、――」

「――」

 

 

 洞窟内を、様々な言語が飛び交っていた。今この場に日本人は一人としていない。

 ユウジの大学に通う外国人講師、留学生、その知り合い、家族、はては出稼ぎ労働者まで、多種多様な国籍の男たちが数十人。

 方々からかき集めてきた彼らの人選における条件は2つ。

「日本の生まれではないこと」そして「日本語が堪能ではないこと」

 この国の血が流れておらず、この国の言葉も分からない彼らには、蜘蛛神の「声」の効きが著しく悪い。

 蜘蛛神に翻訳機能じみた力まであるかどうかは未知数だったが、元より「声」に即効性が無いことは確かだった。

 時間をかけて心を弱らせ、その隙につけ込むことこそが、あの蜘蛛神の力。

 ユウジの時間稼ぎにより、その隙を与えずに奇襲を成功させることができた。

 

「This is it.Let's break」

「我明白」

 

「現地調査のための下準備」と称し、アルバイトとして雇われた彼らは、何の躊躇いもなく地蔵を叩き壊していく。

 日本人では躊躇っただろう。しかし彼らはそうでなかった。

 この国への信仰心が無い、あるいは祖国に確固たる信仰を別に持つ彼らには、それはただの石でしかない。

 

 道祖神(どうそしん)にとって、己を祀る地蔵や石碑といった物は木の根に等しい。

 それは土地に己を縛り付ける(いまし)めであると同時に、その力を支える(いしずえ)でもある。その地蔵が、つるはしで、ハンマーで、削岩機で無遠慮に破壊され尽くしていく。

 各所に張り巡らされていた赤い糸による障壁も、岩盤ごと破壊されれば意味を成さなかった。

 更に、塩分を多量に含んだ凍結防止剤を地面に敷き詰めていく。清めの塩であると同時に、それは塩害となって土地を侵食してしまう。

 土地もまた神々の力を支える。それを侵せばどうなるかは明白だ。

 

 蜘蛛神とて、黙ってそれを視ている訳も無い。

「声」が届かぬのなら手ずから葬るまでと、子蜘蛛を放つ。昼中といえここは己の住処、ヒト(もど)きであろうと葬ることは容易い。

 だが。

 新たに設置された工事用投光器が太陽の如く輝く。懐中電灯などとはわけが違う、ディーゼルエンジンが生み出す強烈な光は、洞窟内を昼間のように照らし出す。闇の中でしか活動できない子蜘蛛には、まさに手も足も出ない。

 それでも、わずかな影をたどり、果敢にも男たちに牙を剥いた子蜘蛛もいた。見たことも無い不気味な姿の、子犬ほどの大きさの蜘蛛に男たちは慌てふためくが、

 

「Fuck you!」

 

 ぐしゃり。

 命知らずの男が投げた岩により、子蜘蛛が無残な死骸へと変わる。そこから先は早かった。

 岩が、安全靴が、スコップが、ハンマーが、つるはしが、時には削岩機が、子蜘蛛を潰していく。

 子蜘蛛がお化けのように虚ろな存在だったなら、潰されなかっただろう。しかし子蜘蛛は血肉を持っていた。

 相手がか弱い少女だったなら、容易く葬れただろう。しかし相手は屈強な男たちだった。

 相手が一人しかいなかったなら、群がって食い尽くせただろう。しかし男たちの方が数が多かった。

 ぐしゃり、ぐしゃり、と、子蜘蛛が潰されていく。それはもはや、ただの害虫駆除でしかなかった。

 

 

 

 

“ ヤメテ ヤメテ ヤメテ ”

 

 蜘蛛神の「声」は男たちに届かない。届いたとしても、男たちは聞く耳を持たない。

 

“ ヒドイ ヒドイ ヤメテ ”

 

 削岩機で地蔵が石クズと化していく、刈り払い機で彼岸花が生ゴミと化していく。

 

“ イタイ カワイソウ カワイソウ ”

 

 仕事を邪魔した害虫の死骸を踏みにじり、唾を吐きかける。

 

“ ヒドイ ヤメテ ヤメテ ”

 

 塩害が土地に深く侵食する。もはや草一本生えないほどに。

 

“ ヤメテ! ヤメテ! ヤメテ! ”

 

 遂には、奥地の巨大な注連縄(しめなわ)がチェーンソーで断ち切られる。

 

 消えていく。

 蜘蛛神を縛っていた戒めが、力を与えていた礎が消えていく。

 その身が軽く、軽くなっていくが、それは血や内臓を失ったことと同義。

 蜘蛛神が、ただのお化けと大差なくなるほどにその身を軽くするまで、男たちの作業は続く。

 

 

 だがこれですら、まだ本命ではない。

 人が画策した神殺し。その最後の仕上げが、始まろうとしていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「やるよ! ハル!」

「うん!」



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09:鋏神(はさみ)

 遠い、遠い、何時(いつ)か。

 

 遠い、遠い、何処(どこ)か。

 

 其処には、二つの “ 手 ” があった。

 

 右の手は、縁を切り。

 

 左の手は、縁を結ぶ。

 

 故に。

 

 右の手には、赤い “ (はさみ) ” が、

 

 左の手には、赤い “ (いと) ” が、

 

 一つずつ、握られていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 アルバイトの男たちを見送り、ユウジを()()してコンテナに閉じ込めた後、ハルとユイも行動を開始した。

 まず目指すは、山の頂上付近。ユウジが蜘蛛神の目を引きつけている間に到着する、はずだったのだが……。

 

「はあ、はあ、ひい……」

「ハルー、がんばってー、ほらー」

 

 ハルは山登りに音をあげ始めていた。

 朝の元気はいったい何だったのか。ユイに手を引かれ、時に背中を押されながらようやく山道を登っていく。

 元よりハルは運動が得意ではない。むしろ苦手だ。更に“ 前回 ”より幼い体は脚力にも乏しく、ついでに言えば中身も90歳の老女であった。

 そして何よりも、

 

「重いぃ……!」

「ちょっと入れすぎじゃないの、これ?」

 

 二人がかりで運ぶ荷物のせいだった。大きな袋に詰められたのは、大量のぬいぐるみ。その全てが、頭と手足を持つ人型だった。一つ一つは軽くとも、塵も積もれば何とやら。数十個のぬいぐるみを詰められた袋は結構な大荷物と化していた。

 

「ひい、ひい、ふう……」

「あーもう、ハルはいいよ。ほら貸して」

 

 ついには変な呼吸を始めるハルを見かねたのか、ユイに荷物を取り上げられた。その大荷物をひょいと担いだ上でスタスタ進んでいく親友の姿を見て、ハルは自身との体力差に絶望すら覚える。もっとも、ユイの身体能力は同年代の女児と比べて、明らかに突出してもいたのだが。

 当のユイは、スキップでもしそうな軽い足取りで先を行き、くるりと振り返った。

 

「ね? わたしがいて良かったでしょ」

 

 悪戯っぽい笑みで言われれば、もはやぐうの音も出ない。実際、これを一人で運ぶのが本来のプランだったのだ。見通しが甘かったとしか言いようがない。

 

「はーい、頼りにしてまーす……」

「ん、よろしい」

 

 実に嬉しそうな顔のユイは、更にハルの手も引いて山道を進む、ユイの力も加わって、さっきよりも楽に登ることができた。

 

 ――かなわないなぁ。ほんとうに……。

 

 またユイに甘え始めていることを自覚しながらも、それも悪くないかと心のどこかで思ってしまってもいた。

 ユイに手を引かれながら、もう片方の手で背負った物の()を撫でる。眼前で揺れるユイの物とおそろいの、ウサギ形ナップサックだ。前回のように、父にねだって買ってもらった物ではない。なんとユイの手製である。

 元々ユイが使っていたナップサックを自ら改造したらしい。ボタンの目と、フェルトの大きな耳をしっかり縫い付けられたそれを、今日の出発前に渡された。ユイの指にいくつも絆創膏が貼ってあるのが見えて思わず目が熱くなったのも、ついさっきのことだ。それを見ていたアルバイトの男たちも何故か泣いていた。

 ユイの手。ユイの鞄。力強いことこの上ない。ユイと力を合わせて、今度こそ皆で帰るのだ。それで良い。

 だからこそ。

 

 ――コトワリさま……。

 

 あの縁切りの神の力を、なんとしても借りなければならない。

 プランが全て上手くいけば、人の力だけでも蜘蛛神を追い詰められるだろう。だが最後の詰めだけはあの神の力を借りる必要があるというのが、ハルの考えだった。

 その為にハル達は、山の頂上から下山する形であの神社を目指しているのだ。この大荷物も当然、かの鋏神への供物である。そしてまた一つ、大事なことをハルは思い出した。

 

「ユイ、何度も言うけど、()()()()だけは絶対に言っちゃダメだからね!」

「わかってるよ、アレでしょ。“もうい――」

「ダメだってば!」

 

 冗談なのか本気なのか、あっさりと例の言葉(おまじない)を口にしようとしたユイの口を慌ててふさぐ。肉体労働はともかく、頭脳労働は自分がしっかりと手綱を握らねばならない。年長者としても。

 モガモガ言わなくなったのを確認してから、ユイの口を開放した。

 

「ぷは。……それでなんだっけ、そのハサミお化けにお参りするんだっけ?」

「お化けじゃなくて神様だよ。でも今はちょっとおかしくなってて、良いお化けみたいになっちゃってると言うか……」

「良いお化け」

「見た目は怖いけどね。でも良くも悪くも容赦が無いから、やってる事は悪いお化けになっちゃってると言うか……」

「悪いお化け」

「うん」

「……」

 

 ユイは口を尖らせた。

 

「……いま、わたしのこと体力馬鹿(バカ)だって思ったでしょ」

「お、思ってないよぉ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ようやくたどり着いた神社は、記憶の中の通りに荒れ果てていた。

 (ただ)れた鳥居、砂埃に塗れた拝殿、境内に散らばるゴミ、ゴミ、ゴミ……。

 

「……ひどいね」

「うん……」

 

 この惨状を初めて見たユイも、前回のハルとまったく同じ感想を漏らした。怨みつらみに満ちた願いを書かれた絵馬を横目に、改めてハルはかの鋏神に思いを馳せる。

 ここまで穢されてもなお、あの神は慈悲深くあろうとした。己に助けを求める()()()()を聞けば、どこであろうと現れた。ただ、もうその言葉に区別をつけられなくなってしまっていただけで。

 ハルが境内を清めた後は、本来の姿に近い在り様となっていた。ハルを助け、その力を貸し、そして最後にハルとユイを……救ってくれた。

 左手を胸に当てて祈る。かつて、鋏神に断ち切ってもらった左手を。

 

 ――もう一度、お力を借ります。

 

 

「……よし! じゃあユイ、まずはこのゴミを――」

 

 

 ユイの背後に “ ソレ ” がいた。

 

 

「っ!」

 

 叫ぶ間すら無い。全力でユイを押し倒し、その上にかぶさる。すぐ頭上で、金属音が通り過ぎて行った。

 

「――な、ハ、え?」

「ユイっ! 立って!」

 

 目を上げれば、金属音の主は再び迫っている。今度はユイを引っ張り起こして突き飛ばし、袋からぬいぐるみをつかんで放り投げた。

 

 ジョキキキキキンッ!

 

 恐るべき速さだった。金属音がほぼ一度に聞こえる程の、まさに神業(かみわざ)。一瞬で頭と手足を断ち切られたぬいぐるみだった物が、ボトボト落ちてくる。

 ハルと共に、ようやく立ち上がったユイも、その姿を見た。

 

 まず何よりも先に見えたのは、巨大な赤い()(ばさみ)。それを掴む、死体のような腕。

 一本ではない、太さも大きさも異なる何本もの腕が、我先にと鋏を掴んでいる。

 腕たちの根本には赤い霞が塊を成し、そこにまた巨大な口があった。

 鋏を持つ手。それをこの上なく恐ろしげに描けば、このような姿になるだろうか。

 

「コトワリさま……?」

 

 ハルが、その神の名を呼んだ。

 元よりこの神への助力を乞いに来たのだ。ここにいるのは当然であり、いてもらわなければ困る。だが。

 

 ――なんで? なんで現れたの?

 

 この神に助けを求める()()()()を、ハルもユイも未だ口にしてはいない。しかも、供物を差し出したのに消えない。

 何かがおかしい。

 

 

()アァァ――ッ! ”

 

 

 考える間もあればこそ。金属音と雄叫びを同時に響かせ、鋏神がみたび突進してくる。

 

「うわぁっとっと!」

 

 対してユイは俊敏な動きでこれを回避。代わりに、落ちていたタイヤのゴミがきれいな半円になったのを見て顔を引きつらせた。そしてまた金属音。切っ先がユイを指す。

 そうはさせじと、ハルがぬいぐるみをばら撒いた。鋏神を囲むように3つ投げられた供物は、その全てが地面に落ちる前に裁断、計18の残骸となって降り注いだ。あまりの手際に拍手でも送りたくなる。こんな状況でなければの話だが。

 金属音。その切っ先はやはりユイに向いている。これはもう明らかに、

 

「ユイを狙ってるの……?」

「だね」

 

 見れば、ユイはナップサックを下ろし、袋からぬいぐるみをいくつか取り出す。どこか不敵な笑みを浮かべ、つま先をトントンと鳴らした。

 

「あの神さま、わたしと遊びたいってさ」

「な……、ダメだよユイ! そんな」

「へーきへーき、鬼ごっこじゃ負けなしだよ? わたし」

 

 ユイの声は、わずかに震えていた。その手も、足も。

 ユイは無敵のヒロインなんかじゃない。容易に傷つく。容易に、死ぬ。

 だが、それでも。

 

「……わかった。絶対つかまっちゃダメだからね!」

「はいはい。ほら神さま! こっちだよ!」

 

 ユイが駆け出し、鋏神がそれを追う。ハルはもうそれを見ず、境内に走った。

 ユイを信じる。信じて、一秒でも早く境内を清める。それがハルの役目だ。

 命がけの鬼ごっこと、命がけのゴミ拾いが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――これは鬼ごっこ! ただの鬼ごっこ!

 

 半泣きで境内を走りまわりながら、ユイは必死にそう繰り返していた。

 ハルにはああ言ったが、もちろん強がりだ。あんなモノを見て、怖くないはずがない。追いかけられれば尚更だ。

 捕まれば鬼を交代するどころの話ではない。どうなってしまうかなど、あのハサミを見ればイヤでも分かる。

 だが捕まらなければ、捕まりさえしなければ。

 

「いよっと!」

 

 神さまが間近まで迫っていたのに気付き、ぬいぐるみを投げる。2秒ともたずにバラバラにされたが、2秒は2秒。その間に距離を稼ぐ。

 いったい、どういう基準(ルール)で動いているのか。あれだけユイを狙ってくるというのに、投げられたぬいぐるみは必ずバラバラにする。そのおかげでユイは助かっているのだが。

 

「変な神さま!」

 

 置かれた袋から素早くぬいぐるみを補充。休む間もなく、ユイは駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――はやく! はやく! はやく!

 

 境内のゴミをかき集めながら、ハルは必死にそう繰り返していた。

 境内の中央に敷かれた石畳、よく見ればそれは人の形をしている。特殊な石材で作られたそれ自体が巨大な形代(かたしろ)であり、鋏神をこの地に繋ぎ留める戒めとなる。

 だが大量のゴミが、その輝きを隠してしまっていた。だからハルは、今こんな状況でゴミ拾いなどしているのだ。

 

「ひとつ!」

 

 ようやく一つ目、右手にあたる部分の石畳が輝きを取り戻した。息つく間もなく次のゴミ拾いに取りかかる。

 両手に抱えて運ぶなど時間がかかりすぎる。もはやなりふり構わず、ゴミをつかんで石畳みの外に放り投げた。掃除どころか逆に境内を荒らしているような有様だが、それはそれ。

 あの鋏神とて問答無用で襲ってきたのだ。後で改めて掃除するので勘弁してもらいたい。

 

「ふたつ!」

 

 右足が輝いた。あと、3つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユイは、神さまの奇妙な動きに気付いた。

 ふわふわと浮かぶあの神さまは、足音など当然しない。後ろから迫られれば、近づいているかどうかすら分からないはず。なのに。

 金属音。そして雄叫び。ユイは横っ飛びで回避。やっぱりだ。

 あの神さまはユイに突進してくる前に必ず、ハサミをジョキジョキと鳴らす。そして雄叫びをあげながら突っ込んでくるのだ。そういう癖なのか、それとも何か理由があるのか。

 ユイは何故かその時、予防接種の注射を思い出していた。「チクッとするよ」と心の準備をさせてくれるお医者さんの声。まさかあれも、そうなのだろうか?

 

 ――「今からジョキンとするよ」って? 冗談(ジョーダン)でしょ。

 

 優しいんだか怖いんだか分からない。まったく本当に、

 

「変なっ、神さ、まっ!」

 

 酸欠寸前の体を必死に動かし、ユイは走り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「みっつ!」

 

 幸い、左足の部分はゴミが少なかった。これで6割はおわり。左手の部分に取りかかる。

 汚れた空き缶、片っぽだけの長靴、割れたバケツ、もうよく分からない何か。手あたり次第に掴んで放り投げていく。それがいけなかった。

 

「痛っ……!」

 

 割れたビンを、左手で掴んでしまった。柔らかい掌から血が流れる。ドクドクと、傷が脈打つ。深い。

 

 ――知るもんか!

 

 視界の端で、ユイが転んだ。すかさずぬいぐるみを投げて囮にし。その間に立ち上がって走りだす。その足はガクガクと震えていた。

 左手がなんだ。元より80年前に失ったもの、欲しいというならもう一回くれてやる!

 

「よっつ……!」

 

 痛みを無視し、血まみれになったゴミを放り投げる。ついに頭の部分に辿りつき、そして絶句した。

 

「嘘でしょ……」

 

 いったい誰がこんな物を捨てたのか。墓石のように聳え立つ、大型冷蔵庫がそこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれだけあったぬいぐるみが、無くなった。

 ここからは、もう自分の足だけで逃げ切らないといけない。でも。

 

「はあ……、はあ……っ!」

 

 足が痛い。胸も苦しい。息をするたびに喉で血の味がする。頭まで痛くなってきた。

 もう、走れない。

 神さまは、当然というか疲れた様子なんてない。ずるいと思う。

 

「はあ……、はーっ」

 

 神さまが、ジョキジョキ鳴らしてから、ハサミを向けてくる。

 まっすぐじゃなくて、()()()()()()

 雄叫び。

 

「……ほっ!」

 

 左足だけを、ひょいと上げる。靴のすぐ下で赤いハサミが閉じた。

 神さまがハサミを引く。律儀に、またジョキジョキ鳴らしてくれている。こんどは、右。

 右手だけを上げる。ジョキジョキ。

 次は左手。ジョキジョキ。

 また左足。

 右手。

 左足。

 右手。

 左手。

 左…。

 ……。

 ……。

 

 首!

 

 仰向けに倒れて避けた。後ろ向きにでんぐり返って立ち上がる。神さまが、ハサミを開く。

 ほんのすこしだけ、体力も戻ってきた。だから、口をひんまげて、悪そうな顔で言ってやった。

 

「どう? うまいでしょ」

 

“ ………… ”

 

「……なんか言ってよね」

 

 あんなに大きな口があるのに、全然しゃべらない。本当に変な神さまだ。

 その変な神さまの向こう側で、ハルが変な声を出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふんぬうぅああぁっ!」

 

 乙女の恥らいもかなぐり捨てたような声をあげながら、ハルは冷蔵庫と格闘していた。

 両手を広げてがっぷりと組みつき、がに股になろうと構わず、両足に全霊を注いで押し出そうとする。

 しかし、ビクともしない。

 中に何か詰まっているのか、明らかに異常な重さだった。扉を開けようとするも、錆びついていてまったく開かない。

 散乱したゴミの中から使えそうな道具を探したが、そんなもの都合よく落ちてはいなかった。

 

「うごいてえぇ……っ!」

 

 こうしている間にも、ユイは追い詰められている。バラバラになった親友の姿を頭から振り払いながら、ひたすら押して、押して、押し続ける。

 左手の出血が止まらず、白いシャツの左半分は真っ赤に染まっていた。それでも、動かない。

 はやくしないとユイが、ユイが。

 

 

「ユイぃ……!」

 

 

 

 

「ハル――っ!」

 

 

 

 

 目を開ける。

 ユイが、こちらに走ってきた。

 その後ろには当然、鋏神が追ってきている。既にジョキジョキと鋏を鳴らし、雄叫びをあげていた。

 

 

()()()っ!」

 

 

 まるで意味不明の、ユイの叫び。だが、ハルは動いた。

 

 

 その場でうずくまり、丸くなる。

 

 大股で、跳ぶように助走する。

 

 頭を抱えて、衝撃に備えた。

 

 踏み台となったハルを、遠慮なく踏みつけ、

 

 予想以上の衝撃に耐えきれず、

 

 冷蔵庫の上に両手をつき、

 

 「ぐえ!」と潰れたカエルのようになり、

 

 見事な開脚飛びを披露し、

 

 その頭の上を、

 

 その足の下を、

 

 金属音と共に、鋏神が通り過ぎて行った。

 

 

 真っ二つになった冷蔵庫の上半分は、なんと神社の外まで飛んで行ってしまった。

 残った下半分の断面からは、雨水であろう汚水がバシャバシャとあふれ出てくる。

 

 ハルは、潰れた体を石畳から引っぺがすように立ち上がり、

 

 ユイは、猫のように軽やかに着地するとすぐに反転し、

 

 全身全霊の押し出しを、

 

 全速全力の飛び蹴りを、

 

 

「「 せえ―――のっ!! 」」

 

 

 重さが激減した冷蔵庫にお見舞いした。

 

 

 いつつ。

 形代が、完成した。

 



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10:幽霊(おばけ)

“ お化け ”は、山道を歩く二人を見ていた。

 息も絶え絶えなハルを応援するように横に立ち、

 その背を押すユイの真似をするように横に立つ。

 二人は、それに気づかない。

 

“ お化け ”は、その不揃いな両目で、じっと自分の手を見た。真っ黒なその手を。

 

 やがて荒れ果てた神社に辿りつき、二人の後を追った“ お化け ”が境内に足を踏み入れると、あの神が現れた。

 あの神だけが、“ お化け ”を視ていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 石畳が青白く輝きだし、その本来の姿を取り戻した。

 体力を使い果たしたユイはついに崩れ落ち、ハルがその背を支えた。油断なく、鋏神の動きを見守る。

 

()アァァ――――ッ! ”

 

 金属音と共に鋏神がユイめがけて突進する。

 だが、まるで吸い寄せられるように石畳の形代へと方向を転じた。赤い鋏は無意味に形代を(ついば)み、甲高い金属音が響く。その後も何度となく鋏を開くも、その刃がユイに届くことは無かった。

 

「やった……」

 

 ハルもようやく体から力を抜く。

 これで、あの鋏神をこの地に繋ぎ留める戒めが完成した。恩人ならぬ恩神(おんじん)に対する行いとしては不届きとも言えるが、あの形代は鋏神に力を与える礎でもある。力を取り戻し、その身に降り積もった穢れが(はら)われれば、()()()()を聞いただけで無差別に人を切ることもなくなるだろう。

 あとは、あの神が鎮まるのを待ち、境内を改めて掃除すれば――――。

 

 

 ばつんッ

 

 

「……え?」

 

 ハルは目を疑った。

 鋏神の、背にあたる部分に生えた腕の一本が、弾け飛んだのだ。赤黒い霞がまるで血煙のように宙を舞う。

 

()ウゥゥ…………ッ! ”

 

 唸っている。何かを堪えるかのように、何かに耐えるかのように。

 ミチミチと、鋏を掴む腕が膨らんでいる。ギシギシと、赤い鋏が軋んでいる。また腕が一本、弾け飛んだ。

 

 ――戒めに、逆らっている?

 

 前回とは違う。あの時は、形代以外はまったく眼中に無い様子だった。ただただ石畳を無意味に突いていたのに。

 いや、そもそも最初からおかしかったのだ。

 ()()()()も聞かずに現れた。供物を捧げても消えなかった。そして、ユイに対する異様な執着。

 

「ユイ! ユイ、起きて!」

「うーんにゃ……」

 

 嫌な予感がした。

 今にも寝てしまいそうなユイを揺すって起こし、肩を貸して立ち上がる。とにかく今はこの神社を離れようとした時。

 

 腕が弾け飛ぶ。霞が宙を舞う。鋏が、甲高い金属音を奏でる。

 徐々に減っていく腕は、まるでカウントダウンのよう。

 そして。

 

 

()オォ――()ア゛アァァ――――ッ! ”

 

 

 咆哮。神社を、山を揺るがすような咆哮。

 ハルの肌をビリビリと震わせるほどの大音声に、朦朧(もうろう)としていたユイも飛び起きる。

 それと共に、背の腕が全て弾け飛んだ。もはや満身創痍となってなお、あの鋏神は抵抗を止めない。

 

「どうして、そこまで……」

 

 いったい何があの神を駆り立てるというのか。ハルには到底、理解できない。

 だがその時、鋏神の執念がついに実を結ぶ。

 ピシリ。石畳に亀裂が入る。光が、消えた。

 

 

 ぐるん

 

 

 鋏神が、こちらを向く。

 霞にまみれながらも、ただ二本残ったその腕で鋏を(しか)と掴み。その眼なき眼で、こちらを視た。

 

 切る。

 必ず切る。

 何としても切る。

 

 その絶対の意思を、ハルは確かに感じた。

 

「――ユイ! 逃げよう!」

 

 無理だ。

 あの常軌を逸した執念、いつまでもどこまでも追ってくるに違いない。絶対に諦めはしないだろうという確信がある。

 だがそれでも逃げるしかないのだ。ユイの手を掴んで、神社の入り口へと走り、

 

「え、」

 

 ドン、と。

 ユイに、突き飛ばされた。

 鋏神が、咆哮と共に、ユイに向かって。

 ユイは、ただ、じっと鋏神の方を見ていて。

 

「ユ――――」

 

 血しぶきが、舞った。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 なにも考えていなかった。

 ただ、逃げられないな、と思って。あの神さまは、わたしを狙ってるから、と思って。

 だから、ハルをつき飛ばした。

 やってすぐ後悔した。

 だって、ハルは助かっても、わたしはきっとバラバラにされちゃう。

 バラバラになったら、もうハルと遊べない。

 それに、ハルはきっと、わたしがいないと泣いちゃって、あの神さまからも逃げられない。

 イヤだ。そんなのは絶対にイヤだ。

 だから。だから、

 

 ――だれか、たすけて!

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユイの視界は、灰色に染まっていた。

 

「…………へ?」

 

 鬱蒼(うっそう)と茂っていた緑色の木も、あの神さまの赤いハサミも、何かを叫んでいるようなハルの青いリボンも、すべて灰色。

 テレビでよく見る、昔の映像みたいになって、しかも一時停止したみたいに止まっていた。

 色があって動いているのは、自分の体と、()()()()()()()だけだった。

 

「……、だれ?」

 

 ソレが一見、人間のように見えたため、ユイはそう問いかけた。だが、ソレが振り返った瞬間、その考えが間違っていたことに気付く。

 

 何よりも目立つのは、その不揃いな目。どこか焦点のおかしい二つの目は大きさが異なり、上下でも左右でもない歪な並びをしている。

 顔だと思われる部分は影を切り取ったように真っ黒で、鼻も耳も口も無い。その周りから伸びた髪はウネウネと蠢いており、深海生物の触手を思わせた。

 そして首から上は異形そのものなのに、その体は華奢な人型だった。しかも女物の服のような物まで着ている。

 

 どこまでも歪な、まさに異形のナニカがそこにいた。

 あまりに不気味な姿にユイは悲鳴をあげそうになったが、ハサミの神さまを思い出して何とか堪えた。あんな怖い見た目でも神さまだったのだ。お化けだって、見かけにはよらないのかもしれない。

 それに、そのお化けは、あの神さまと自分の間に立っている。もしかしたら、助けてくれたのかも。

 

「あなた、良いお化け?」

 

 だから、期待をこめてそう聞いた。

 

“ちがうよ、悪いお化け”

 

 期待はあっさり裏切られた。

 しかも当然のようにしゃべった。高い、女の子みたいな声で。

「ひゃっ」と思わず後ずさると、お化けは「待って」とでも言うように片手を上げる。本当に人間みたいな動きだった。

 

“大丈夫だよ、ひどいことはしないから。今も、助けてあげたでしょう?”

 

 今のこの、時間が止まったみたいになっていることを言っているのだろうか。それなら、確かに助けてもらった。

 

“かわりに、あなたにお願いがあるの。大事なことだから、よく聞いて”

 

 どこか逆らえない、お姉さんみたいな口調だった。思わずうなずいてしまう。

 

“ハルに伝えてほしいの。コトワリさまに力を借りるのは諦めて、って”

“あの神様は、絶対にあなたを切ろうとする。もう何をしてもそれは止められない”

“わたしの声はもう、ハルには届かない。だから、あなたから伝えて”

 

「?」

 

 ユイは首をかしげた。

 なんでハルの名前を知ってるんだろうとか、なんでハルと自分の目的まで知ってるんだろうとか、なんでハルには聞こえないんだろうとか、分からないことが多すぎた。

 ユイが理解できていないと察したのか、お化けは更に続ける。

 

“一度断ち切られた絆が、また結ばれている。だから、あの神様はそれを絶対に切ろうとする”

“でも、ハルの左手は一度切られているから、もう捧げることはできない”

“だから、今度はあなたを切って、絆そのものを無くそうとしているの”

 

「???」

 

 もっと分からなくなった。

 このお化けも、精いっぱい分かりやすく説明してくれているようだが、分からないものは分からない。そもそも、ハルには両手がちゃんとあるではないか。

 更に首をかしげていると、お化けに溜息をつかれた。お化けでも溜息をつくのか。口も無いのに。

 

“つまり、こういうことだよ”

 

 まばたきする間に、お化けの姿が変わった。

 

「――――え?」

 

 しかも、その姿はユイには非常に見覚えのあるものだった。それこそ、見ない日が無いほどの。

 

 切れ長の目。後ろでくくられた亜麻色の髪。それを結ぶ、赤いリボン。

 服まで同じ。黒いシャツ、白のスカート、赤のネクタイ。ウサギのナップサックまで。

 見間違えようもない。この姿は……。

 

 

『はじめまして、わたしはお化け。名前は、――ユイというの』

 

 

 お化け(ユイ)は、そう微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 …………。

 

 ………………。

 

『聞いてる?』

「――へ?」

 

 ユイは、ぽかんと口を開けたまま、頭が真っ白になっていた。

 しかし、いったい誰がそれを責められるというのか。ハサミの神さまにバラバラにされそうになって、変な灰色の世界にいて、目の前に不気味なお化けがいて、そしてそのお化けは、ユイと同じ姿でユイを名乗っている。

 

「かんべんしてよ……」

 

 こんなの、完全に理解できる範囲を超えている。頭がいたくなってきた。しかしお化け(ユイ)はその反応に満足したらしい。

 

『ね? おかしいでしょ?』

『ユイが二人もいるのは、おかしい』

『だからコトワリさまは、あなたを切って、ユイを減らそうとする』

『これなら、分かる?』

 

 それならば、さっきよりは分かりやすい、だろうか? ユイは首をかしげるとも、うなずくとも言えない動きをした。

 

「まあ、……うん?」

『よかった』

 

 お化け(ユイ)は微笑んだが、すぐにその表情を正す。何かを決意したような顔で、神さまに向き直った。

 

『じゃあ、ハルをお願いね。……コトワリさまは、わたしが』

「ちょ、ちょっと待ってってば!」

 

 慌ててお化け(ユイ)の前に走り出る。すこし驚いたような顔は、よく見ればユイより目線がだいぶ高い。まるで、ユイがいくつか歳を重ねたみたいに。

 

「それだけじゃ何にも分かんないって!」

「なんで、わたしがもう一人いるの!?」

「ハルの手を切るってどういうこと!?」

「ちゃんと説明してよ!」

 

 まくしたてると、お化け(ユイ)はひどく困った顔になってしまった。おでこに手を当てて、何か考えこんでいる。そのおでこには、何故か包帯が巻かれていた。

 お化けでもケガするんだ、とユイはまたいくつ目かの発見をしていると、お化け(ユイ)が言葉を選ぶように口を開いた。

 

『……あなたが、分かる必要はないよ。ハルに言えば、きっと分かるから』

「なんで?」

『え?』

「なんで、ハルなら分かるの?」

 

「しまった」と思っているのがありありと分かる顔で、お化け(ユイ)は頭を抱えた。

 ことハルに関することなら、ユイの頭の回転は速い。ここ最近のハルの変な様子、あきらかにハルのことを知っているようなお化け(ユイ)の言葉、二人のユイ。ユイが二人いるのなら、まさか。

 

「ハルも……」

 ――二人いるの?

 

 

 

 

『そうだよ』

 

 観念したように両手を上げてから、お化け(ユイ)は語りだした。

 

『わたしとあなたが二人いるみたいに、ハルも二人いる。……いえ、()()の』

『でも、今は一人』

『ちょっと前までは分裂しかかってたけど、もう大丈夫。自分(ハル)たちでも分からないぐらいに、自然に溶け合ってる』

『あの喧嘩のおかげだね』

 

 見られてたんだ、とユイはすこし恥ずかしくなった。まだちょっと腫れている頬を掻きながら目線をそらす。

 

『だから安心して。今そこにいるハルは、あなたが知っているハルでもあるし、わたしが知っているハルでもある』

『青い絵の具を2つ混ぜても、色は変わらないでしょう?』

 

 分かりやすい例えだったが、なんだか子ども扱いされているようでユイは面白くない。同じ顔なのに。ちょっと背は高いけど。

 

『それで、その、わたしとハルは、すごく色々あって……』

 

 その色々を聞きたいのだけれど。

 

『とにかく! あなたはハルを助けてあげて! わたしのことはいいでしょ!』

『わたしが囮になるから、その間にハルと逃げるの!』

『コトワリさまの力が無くても、山の神はきっと倒せるから!』

 

 話は終わりだとばかりに、神さまの方に向かおうとするお化け(ユイ)の手を掴む。

 今、聞き捨てならないことを言った。囮になる。それはつまり、あのたくさんのぬいぐるみのようにバラバラになって時間稼ぎをするということか。

 止めようとして、その掴んだ手が、ずるりと抜け落ちた。

 

「ひっ!?」

 

 思わず離してしまった手は、地面に落ちる前に花弁のように散って消える。お化け(ユイ)の左腕は、もう無かった。

 お化け(ユイ)はそんな自分の腕を見て、なんとも言えない笑みを浮かべる。

 

「切られちゃったの!?」

『……驚かせてごめんね。大丈夫だよ、痛くないから』

 

 そうお化け(ユイ)は笑うが、そんなわけがない。おでこの包帯だけじゃない、残った右手にも両足にも、絆創膏やアザがたくさんあった。

 すごく、痛そうだった。

 それを隠すように、お化け(ユイ)はまた不気味なお化けの姿に変わる。

 

“ほら見て。わたしはお化けなんだよ”

“お化けは死なない。だから、大丈夫”

 

 嘘だ。その姿になっても、左腕は無いままじゃないか。

 だから、ユイは絶対に行かせたくなかった。相手がもう一人の自分(ユイ)じゃなくても、ユイはそうしただろう。

 ほんのすこしの時間で考えて、考えて、一つだけ閃いた。

 

「……ユイが、一人になればいいんだよね」

「ハルは、一人になったんだよね」

「だったら、」

 

“ダメ!”

 

 そんな考えはお見通しだったのか、お化け(ユイ)は髪にも触手にも見えるソレを蠢かせた。まるで、ユイを威嚇するように。自分の異形の姿を、見せつけるように。

 

“見てよ! わたしはお化けなの!”

“ハル達とは違う! わたしと混ざったりしたら、あなたはタダじゃ済まない!”

 

「大丈夫だよ」

 

 ゴチャゴチャうるさいもう一人の自分(ユイ)を黙らせるように、残った右腕を両手で掴む。べっとりと墨に濡れたような黒い手は、とても冷たかった。

 

「へーきへーき。きっと何とかなるって」

“どうして……”

「勘だよ」

 

 「かん……」と、あまりにもいい加減な返事に、お化け(ユイ)の触手が萎れたように下がった。

 

“あなたねぇ……”

「同じなくせに」

 

 はあ、と。またお化け(ユイ)は溜息をつく。口も無いのに。その不揃いな両目を一度閉じて、こちらを睨みつけながら言った。

 

“――――後悔するよ”

「しないよ」

 

“頭がおかしくなるかも”

「ならないよ」

 

“すごく、苦しいよ”

「……へーきだよ」

 

“すっごく、つらいから”

「そんなに脅かさないでよ……」

 

 せっかくの決心がグラグラし始めてしまう。そんなユイに満足したのか、お化け(ユイ)は手を握り返してきた。

 

“まあ、もう逃がさないけどね!”

 

 本当に悪いお化けみたいなことを言いながら、その触手をユイに巻き付けてくる。手足や首に感じるゾワゾワと冷たい感触に耐えるユイに、お化け(ユイ)はその不気味な顔を近づけた。

 

 

“全部、見せてあげる。これが、わたしの歩いてきた道”

 

 

 ユイ達の額が触れ合い、何かが、頭に流れ込んでくる。

 ユイの視界が、影にのみ込まれた。

 

 

 

 

 そして、ユイは知ることとなる。

 

 ある少女が歩んだ、あまりに多くの苦難に塗れた道を。

 



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11:記憶(おもいで)

 はじまりは、赤い夕焼けの空と、両手を引く背の高い二つの影だった。

 これは自分の記憶だ。

 右手をお父さんに、左手をお母さんに引かれながら、夕日の町を歩いている。

 自分の、いちばん古い記憶。

 大好きな、お父さんと、お母さん。大好きだった。

 

 幼稚園の記憶。

 ユイは、ままごとよりも、走りまわっている方が好きだった。

 鬼ごっこでは誰にも負けなかった。鉄棒だって、木のぼりだって。

 だから、女の子の友達はあまりできなくて、ユイはよく一人で遊んでいた。

 田んぼで大きなガマガエルを捕まえた。神社では大きなザクロの実を取ろうとして、落ちてしまった。

 一人でも、ユイは楽しかった。

 

 

 そんなユイに、はじめて女の子の友達ができた。

 

 

 ある夏の日、大きな松ぼっくりの木の下に、小さな女の子がしゃがんでいた。

 色のうすい、かわった髪の毛の女の子。

 

『どうしたの?』

 

 声をかけただけで、女の子は、ひゃっ、と尻もちをついた。

 とてもおとなしそうな顔をしていて、実際におとなしい子だった。

 

『セミが……』

『セミ?』

 

 女の子の足元には、元気のない(セミ)がモゾモゾと動いていた。

 

『かわいそうだから、木にもどしてあげたいの』

『もどせばいいじゃん』

『でも、こわい……』

 

 大きな目から涙が出そうになっているのが見えて、あわてて蝉をつかんで木に戻してあげた。

 泣きそうになっていた女の子は、今度は満面の笑みを浮かべた。

 

『――ありがとう!』

 

 その日から、ユイの記憶にはいつもハルがいた。

 

 

 小学校の記憶。

 ハルが同じ小学校に行くと聞いてから、ユイは毎日が楽しくて仕方が無かった。

 入学式の日、ハルがおそろいのリボンをしているのを見て、ユイは飛び上がらんばかりだった。

 ユイがあげた青いリボンはハルの髪の色にも合っていて、はにかむハルはとてもかわいかった。

 朝起きれば、大好きなお父さんとお母さんに、おはようを言う。

 家を出れば、ハルの家まで走って迎えに行く。

 学校では同じクラスになって喜び、違うクラスになった時は落ち込んでしまった。

 でも、学校が終わればいつも一緒だった。

 田んぼも、河原も、神社も、ハルといればいつだって、どこだって楽しかった。

 夕方になれば、ハルを家まで送って、また明日遊ぶ約束をして家に帰る。

 家に帰れば、大好きなお母さんが待っている。お父さんは、どんなにお仕事が忙しくても、夕ご飯までには必ず帰ってきた。

 夜、布団に入れば、あっという間に寝てしまう。夢の中でもハルと遊んでいることだって、よくあった。

 ユイは、毎日が楽しかった。

 ユイは、幸せだった。

 

 

 それが綻びはじめたのは、8歳の時。

 

 

 お父さんが、帰ってこなかった。

 あの日、お父さんが突然デパートに行こうと言い出して、お母さんとみんなで遠くの町に出かけた。

 とても楽しい一日だったけど、それがお父さんとの最後の思い出になった。

 買ってくれたウサギのナップサックが、お父さんの遺品になった。

 お母さんはずっと何度もいろんなところに電話をかけた。電話を切るといつも暗い顔をしていた。

 

『お父さん、いつ帰ってくるの?』

 

 ある日、ついに聞いてしまった。

 バン、と。何かが顔に当たって、床に転んだ。

 何をされたのか分からなかった。お母さんも、自分が何をしたのか分からないみたいだった。

 はじめて、お母さんに叩かれた。

 すぐに抱きしめられた。「ごめんね、ごめんね」お母さんは泣いていた。ユイも泣いた。

 でも、次の日にもまた叩かれた。

 

 お母さんも、あまり家に帰ってこなくなった。

 あんなにきれいだった家の中は、ゴミと埃に埋もれていった。

 あんなに大事に育てていた花も、ぜんぶ枯れてしまった。

 ユイは、一生懸命がんばった。

 お母さんは忙しいんだから、代わりに家の仕事をしようとがんばった。

 お父さんがいつ帰ってきてもいいように、家をきれいにしようとした。

 自分のごはんを自分で作って、一人で食べた。

 掃除しても掃除しても、ゴミは消えなかったけど、それでも掃除した。

 でも、電気がつかなくなって、ガスが出なくなって、水道が止まって、ついにユイは諦めた。

 ユイのごはんは、千円札になった。

 

 お父さんがいなくなって一年ぐらいたった頃から、お母さんが知らない男の人をつれてくるようになった。

 怖くて、会いたくなくて、ユイはずっと2階の自室に閉じこもった。

 頭から布団をかぶって、耳をふさいで、ずっとハルのことを考えていた。

 お父さんは、もう帰ってこない。ユイは諦めた。

 

 ユイは、一生懸命がんばった。

 お母さんに叩かれた時も泣かなかった。

 お母さんの気が済むまで、黙って叩かれた。

 お母さんが抱きしめてくる時は、黙って背中をさすってあげた。

 お母さんが気まぐれに玩具(おもちゃ)を買ってきた時は、精いっぱい喜ぶフリをした。

 お母さんはそれを暗い目で見て、また叩かれた。

 お母さんは、変になってしまった。ユイは諦めた。

 

 ユイは、一生懸命がんばった。

 がんばれたのは、ハルがいたから。

 家の外に行けば、ハルがいる。ハルといれば、つらいことも忘れられた。

 ハルが心配しないように、がんばってケガを隠した。

 ハルと遊んでいれば、どんなに大きなケガも痛くなかった。

 ハルの他にも、友達ができた。

 空き地で拾った、二匹の子犬。

 こんな子犬、きっと捨てられたに違いない。自分と同じだ。そう思うと涙が止まらなかった。

 クロとチャコ、そう名付けた。

 家にはつれて帰れないから、空き地でこっそり飼った。

 空き地は、ユイの心のオアシスになった。

 

 ユイは、一生懸命がんばった。

 がんばったけど、痛いものは痛かったし、つらいものはつらかった。

 それでも、がんばって、がんばって、がんばった。

 大人になるまでの辛抱だと思った。

 大人になれば、あの家を出ていける。ずっとハルとクロとチャコと遊んでいられる。

 そう思っていた。

 それまでは、がんばろう。

 それまでは、ハルと遊んで、つらいことを忘れよう。そうすれば、またがんばれる。

 ハルがいれば大丈夫。

 ハルがいて本当に良かった。

 ハルさえいれば。

 

 

『あのね、実はわたし、8月いっぱいで……遠くの町にひっこすことになったの』

 

 

 一生懸命、がんばったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 泣き叫ぶユイを、お化け(ユイ)は必死に抑え込んでいた。

 いやだ、どうして、こんなのいや、はなして、ゆるしてと、どんなに叫ばれても離さなかった。

 かつてお化け(ユイ)が感じた、2年分の苦痛と絶望。それを一気に流し込まれているのだ。発狂しても不思議ではない。

 だが、もう引き返せない。

 こんな中途半端な状態で止めてしまえば、それこそユイの心にどんな悪影響を及ぼすか分かったものではない。

 それに、これですらまだ序の口なのだから。

 

“がんばって、ユイ(わたし)。もう、あと少しだから……”

 

 祈るように不揃いな両目を閉じて、記憶の同化を続ける。

 そして、あの夜が来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユイは、一生懸命がんばった。

 ハルの前で泣いちゃいけない。ユイが泣けばきっと、ハルも泣くだろう。そんなのは嫌だった。

 それに、ハルの方がつらいのだ。

 ユイが失うのは、ハルだけ。でもハルは、好きだと言っていたこの町も、家も、学校も、ユイも、全部を置いていかなくてはいけない。

 こんなに寂しがりで怖がりのハルが、それに耐えられるのか。

 だからユイは、がんばってハルを励ました。

 一緒にいられる時間が短いなら、泣いてる暇なんてない。たくさん思い出をつくろう。

 それに、ハルが引っ越しても、手紙を書けばいい。電車に乗って会いに行けばいい。

 ハルがいなくなるわけではないのだから。

 

 

 でも、ハルをさらいに、あの夜が来た。

 

 

 ユイは、一生懸命がんばった。

 消えたハルを、クロを連れて、夜の町を探し回った。

 グロテスクに変貌した夜の町を、そこら中から現れるお化けをかいくぐりながら、探して、探して、探して。

 あの山のあの洞窟の奥に、ハルと、あの蜘蛛のようなナニカがいた。

 

 ユイは、一生懸命がんばった。

 だから、ハルを助けることができた。

 そのかわり、クロは死んでしまった。

 一生懸命、がんばったのに。

 

 ユイの大切にしているものは、どんどんユイからはなれていく。

 別れはいつも、痛くて、つらくて、たえられない。

 

 ユイは、一生懸命がんばった。

 ハルを家まで送り、チャコと共に、山に戻った。クロの亡骸(なきがら)を抱えて。

 土を掘り、クロを埋め、お墓を作った。

 山を登り、チャコを逃がし、木箱を運んで、赤いリードを木にかけ、木箱に登って、首を輪に通し、箱を蹴った。

 ユイは、一生懸命がんばった。

 自分が死んでいることも忘れて、ハルといっしょに花火を見に山に登った。

 怖がるハルの手を引き、ハルの怖がるものは無くそうとがんばった。

 ユイは、一生懸命がんばった。

 しらない場所にとばされてもあきらめず進んだ。ハルを探した。やがて見つけたハルはユイのことも見えなくて自分が死んだんだと知った。

 記憶を取りもどすために町をめぐりたどりついた山のなかでお父さんの死体をみつけた。

 なんでどうしてわたしばかりがこんな目にあうのわたしが何をしたのどうしてどうシテどウしテ

 ハル

 ハル

 ハルどこにイるのなんでイなイノわたしをオイていかなイデイッショニキテ

 ヤダヨコワイヨサミシイヨハルハルハルハルハルハルハルハ

 

 

 

 

 いっしょうけんめい がんばったのに!

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユイは、叫んだ。

 喉が張り裂けるような、血を吐くような叫びだった。

 両目から、涙じゃない、どろりとした血が流れているのを感じた。

 絶叫と、血の涙という形でしか、心に渦巻く、夜のように真っ暗な感情を吐き出せなかった。

 叫んで、叫んで、流して、流して。

 やがて、叫ぶ力も流す血も無くしたように、ユイは膝をつく。お化け(ユイ)が、ただその背を支えた。

 

 

 そのまま、二人のユイは寄り添うように座っていた。

 時の止まった灰色の世界で、完全な無音の中、ただ寄り添っていた。

 

 

 

 

「どう、して」

 

 ガラガラの声で、残骸のような言葉が出てくる。

 

「ひどい、よ。あんまりだよ」

 

 頬の血の跡を洗うように、透明な涙があふれてくる。

 

「やだよ……」

「わたしも、こうなるの……?」

「やだよ……! どうして、やだ、やだ……!」

 

『ならないよッ!』

 

 頬を張り倒すような声をあげて、お化け(ユイ)はユイの肩を掴む。その姿は人に戻っていた。

 

『これは、わたしが歩いた道! あなたは違う道に行くの!』

『その為にハルは帰ってきた!』

 

「ハルが……?」

 

 ようやく現実に戻ってきたようなユイに、再びお化け(ユイ)は顔を近づける。記憶の同化はまだ終わっていない。

 しかしユイは恐怖に顔を引きつらせてそれを拒む。

 

「や……っ! やだ! もうやだ!」

『もう遅いの!』

 

 お化け(ユイ)はそれを許さない。何度も止めた。警告はした。もう今更逃がすものか。

 

『ちゃんと見て! 最後まで!』

『ハルのがんばりを無駄にするなら、わたしはあなたを許さない!』

 

 間近でユイを睨みつけるお化け(ユイ)の目は、目をそらすことも許してくれない。だが、無理矢理に触れることだけはしなかった。

 ユイの意思で、触れなければいけないのだ。

 ぎゅう、と唇を噛む。

 もう嫌だった。怖かった。あれ以上つらいものをまだ見ろというなら、本当に頭がおかしくなる。

 こんなの、自分から崖に飛び降りろと言っているのと同じだ。自分から、自分に包丁を突き刺せと言っているのと同じだ。

 自分から、首をロープに……。

 

「うぅ……ッ!」

 

 怖い。怖くて、涙が止まらなくて、どうしてもお化け(ユイ)に触れられない。

 怖いよ。やだよ。たすけてよ。

 お父さん! お母さん! ハル!

 

 

『はやくして。ハルが待ってる』

 

 

 急かすような言葉と裏腹に、お化け(ユイ)の口調は優しかった。

 その肩越しに、灰色のハルがいた。

 こちらに手を伸ばしながら、悲痛な顔で叫んだまま止まっている。

 

 ――ハル……。

 

 そうだ。

 ハルは怖がりで、寂しがりで、時々へんなことを言って。

 それを聞かされるユイも怖くなるけど、それ以上にハルが怖がるから、ユイは怖くなくなる。

 

 

「ハルと、いっしょなら……!」

 

 

 ユイは顔をあげた。涙は止まっていた。

 お化け(ユイ)は、もうこちらを睨んでいなかった。ただ、その目から透明な涙を流していた。

 

『ハルを、お願いね』

 

 これで、最後。

 これで記憶は完全に同化され、ユイとお化け(ユイ)は一人になる。

 お化けのユイ(ユイ)は、ここで終わるのだ。

 

 

「ちがうよ」

 

 

 ユイはそっとお化け(ユイ)を抱き寄せ、

 

 

「赤い絵の具を混ぜても、色は変わらないから」

 

 

 二人のユイは、抱擁(ギュッと)した。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

『――またね』

 

 

 酸漿(ほおずき)色の空の下、燃え上がるような枝ぶりの木の下で。

 

 片腕のハルが、涙を流しながら、笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 ユイの目の前に、赤い鋏が迫っていた。

 

 

 ジョキン!

 

 

 金属音と共に、赤黒い血しぶきのようなモノが舞う。

 まるで、左腕を何かが通り過ぎたような感覚を覚え、鋏神がすり抜けていった。

 ユイは地面に倒れ、すぐにハルがかけよってくる。

 

「ユイ! ユイっ! 大丈夫!? しっかりして!」

 

 手足があることを確かめているのか、ぺたぺたと首やら手やら足やらを触ってくるものだから、いつかのようにくすぐったくてユイは身をよじった。

 

「……へーきだよ、ハル」

「もうばか! なんてことするの!」

 

 ハルはご立腹だ。あやすようにその左手をそっと撫で、手が血まみれなのに気づく。

 怪我をしていることを心配する気持ちと、久しぶりにハルに触れて嬉しい気持ちが同時に沸いて、ユイはすこしだけ混乱した。

 立ち上がって頭を振る。体は、問題ない。

 

「ユイ! はやく逃げるよ!」

「……ハル」

 

 目の前に、ハルがいる。さっきまで一緒だったのに、もう何年も会っていないような気もした。じわりと目が熱くなる。

 しかし。

 

 

()ァァ――――ッ! ”

 

 

 勢い余って神社の外まで飛び出していた鋏神が戻ってきたのを見て、ユイは気持ちを切り替えた。

 まず、やるべきことをやらなければいけない。

 

「ユイ! なにしてるの!」

 

 一向に逃げようとしないユイにしびれを切らせたのか、ハルはぐいぐいと手を引っ張ってくる。

 その左手を、そっと掴んだ。

 

「ユ――」

「ハル」

 

 目を合わせて、ただ一言。

 

 

()()()

 

 

 ハルは、うなずいた。

 

 頼もしい親友にユイも微笑み返すと、ハルと手をつないだまま鋏神に向き直った。

 掴んだ掌から、ハルの体温が伝わってくる。その傷から、ハルの血潮を直接に感じる。

 その熱をもっと感じるように、その傷を押さえるように、手を握る。強く、強く。

 その絆を、あの神に見せつけるように。

 

「コトワリさま!」

 

 挑むように、ユイは鋏神の名を呼んだ。

 言葉はいらない。ただ願った。視て、と。

 

 

 視て。

 どうか、その眼で視て。

 たとえ、一度断たれた絆でも。

 今この時、これを断つことは、誰も望んでいないのだから!

 

 

 ハルは、ただ目を閉じていた。ユイを信じていたから。

 

 ユイは、目を閉じなかった。この絆を、そしてあの神を信じていたから。

 

 鋏神は、その刃を開いた。それこそが己の使命なのだから。

 

 

 赤い刃が、ユイの首を捉えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

「…………」

“ ………… ”

 

 三者の沈黙だけが、その場にあった。

 手をつないだ二人の少女。そのユイの首に、鋏の刃を触れさせたままで、皆が止まっていた。

 ハルは、動かない。

 ユイも、動かない。

 鋏神だけが、動いた。

 

 ずい、と。鋏は微動だにさせないまま、赤い霞の塊が近づいてくる。

 そこにある巨大な口は何も語らず、ただその眼なき眼で、ユイを視た。

 ユイも、その眼を視返した。

 目を逸らせばきっと、この鋏は閉じられるだろう。

 鋏神は、ユイを視て、視て、視て……。

 

 

 鋏を、引いた。

 

 

 その首を開放されても、ユイは目を逸らさない。

 その視線を視返しながら、ふわりと浮かび上がった鋏神――コトワリさまは、音もなく、何も語らず、ただ、消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――ぷはぁっ!」

 

 それこそ気が抜けた声を出しながら、ユイは座り込んだ。

 その声に、今の今まで目を閉じていたハルも驚いて目を開ける。

 

「おわった……の?」

 

 ハルは信じられないように、まだ辺りを警戒している。あれだけの執念を見せていたのに、あまりに唐突な幕切れ。疑うのも無理はなかった。

 だが確かに、コトワリさまは引いてくれた。

 ハルが境内を清めたおかげで力を取り戻し、ハルとユイの絆をその眼でしかと視て、認めてくれたのだ。

 

「うん、へーきへーき。もう終わったって」

「あのねぇ……」

 

 適当な返事に、ハルはじっとりした目を向けてくる。色々と無茶をやらかしたユイにまだご立腹なのかもしれない。

 それにしても疲れた。ユイは石畳の上に、それこそ形代のように大の字になる。

 体も、心も、いろんな意味で疲れ果てていた。

 

「ユイってば! ダメだよ、こんなところで!」

「うん……、ごめんって、でも、もう……無理かも」

「ユイ――――」

 

 ハルの声も、もう聞こえない。

 

 

 

 

 ――ねえ、ハル。

 ――起きたら、あなたに伝えたいことがあるの。

 ――たくさん、たくさん……。

 

 

 

 

 ユイの意識はまた、記憶の奔流の中へと落ちていった。

 



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12:朝闇(くらやみ)

 長い夜が、明けようとしていた。

 

 一人の少女はその命を失い、一人の少女はその片腕を失った。

 

 失ったものはあまりに多く、得たものは果たして何だったのか。

 

 ただ確かに、夜は明けようとしていた。

 

 明けない夜は無いのだから。

 

 

 

 だが、少女たちは知らなかった。

 

 

 夜が明けるその瞬間(とき)こそ、もっとも空が暗くなるのだと。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 光も死ぬような陰鬱な洞窟の奥、ガラガラと瓦礫(がれき)が降るその中で、ユイは目が覚めた。

 

『――あれ、わたし』

 

 たしか、自分がどうして死んだのか確かめたくて、山に行って、……お父さんの死体を見つけて。それから、それから、

 

『どうしたんだっけ……』

 

 幽霊になってから、どうしようもなく記憶が曖昧だ。

 辺りを見回すと、どこか見覚えのあるような無いような光景が広がっていた。

 何か大きなモノが暴れでもしたみたいな、割れた岩の破片。

 何かが大量に降ってきたのか、赤い染みがそこら中にこびりついていた。

 来たことがあるのか無いのか、どちらにせよ、あまり長居したい場所ではない。

 

 ほんのわずかに明るい方向に向かって歩くと、右手に何かが絡みついていた。

 糸だ。赤い糸。

 すこし前にも見えていた糸だが、なんとなく張りが無くなっているように見えた。まるで、切られてしまったみたいに。

 進む当ても無かったユイは、その糸を辿ることにした。

 触れられない糸を辿って、歩いて、その先はすぐに見つかった。

 

『うっ……』

 

 白くて細い、小さな腕が落ちていた。

 糸は、その左腕につながっていたのだ。その指に、手首に、何重にも雁字搦めに絡みついている。二の腕の半ばで断ち切られた断面からは、まだ鮮血が流れていた。

 恐る恐る触れてみると、触れたその場所から、白い肌が一気に黒ずんでいく。

 

『ひっ』

 

 思わず尻もちをついて見ている間に、その腕は腐り落ちて、骨だけになって、その骨も塵になって消えてしまった。

 そこに繋がっていた糸も、端から透明になって消えていく。その消滅がユイの右手にまで達した時、ユイの中で、何か大事なものが消えてしまった気がした。

 

『なんなの……』

 

 ひどく胸が苦しくなった。何か、何か、絶対に失くしちゃいけないものが……。

 結局なにもわからなくて、仕方なく立ち上がると、今度は何歩か先に、鮮やかな赤が見えた。

 その辺の赤い染みとは違う、とても鮮やかな、つい今しがたできたような、血痕。

 血痕を、辿る。辿って、歩いて、そして……。

 

 

『――――ハル!』

 

 

 どうして、こんなに大事な親友のことを忘れていたのか。駆け寄って、無事を確かめようとして、絶句した。

 ハルは、左腕が無かった。さっき落ちていた腕と無関係なはずもない。

 

『ハル! ハル! しっかりして!』

 

 倒れていたハルを抱き起す。今度はちゃんと触れることができて、心底安心した。

 だけど体勢が変わったせいか、ハルの腕からボタボタと血が落ちてきて、ユイは青ざめる。

 血を止めないと。でも(ひも)なんて落ちていなくて、しかたなくハルの三つ編みを勝手にほどいて、髪ゴムを歯で噛みちぎった。

 なんとかハルの肩口をきつく縛ると、肩をかして歩きだす。

 その時、ハルの口がすこしだけ動いた。

 

『……ごめんね……ユイ』

 

 いつも通りのハルで、ユイはすこし安心した。

 ハルは、すぐに謝る。ユイが何かしてあげるとすぐに「ごめん」と言ってしまう。そういう時は、他に言うことがあるといつも言っているのに。

 とにかく、ハルを安全な場所に運ぼうとして、

 

 ――あれ、前にも、こんなことが。

 

 すぐ目の前に現れた、灰色の残像(ユイ)に重なった瞬間、ユイはすべてを思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 お父さんの遺書。

 お父さんの死体。

 お父さんは死んじゃって。

 お母さんは壊れてしまって。

 わたしも幽霊になって。

 わたしがなにをしたの。

 どうして、わたし達ばかり、こんな地獄を味わうの。

 ハル。

 ねえ、ハル。

 ずっと一緒だって、言ったよね。

 ずっと友達だって、言ったじゃない。

 なのに、どうして引っ越すなんて言うの?

 ハルまで、わたしをおいていくの? うらぎるの?

 

 つらかった。

 さみしかった。

 いっしょにいたかった。

 いっしょにきてほしかった。

 ひとりにしないでほしかった。

 

 だから、

 

 だから、

 

 ハルを、ころそうとした

 

 

 

 

 

 

 

 

 ざわざわと、視界の端に黒い触手が蠢いていた。

 これは、自分のものだ。見下ろした自分の手は、真っ黒に染まっていた。

 自分は、お化けになっていた。

 

 ユイは、すべてを理解した。

 孤独に、苦痛に、ハルとの別れに、クロの死に心を弱らせた自分は、あの「声」を聞いてしまい、自殺した。

 幽霊になって、記憶を失くして、町をさまよって、お父さんの死体を見つけて、絶望して、お化けになった。

 お化けになって、ハルを、道連れにしようとした。

 だからハルは、自分との縁をコトワリさまに切ってもらったのだ。その左腕と引き換えに。

 

『――――ッ!』

 

 ユイは叫ぼうとした。

 でも、ハルをこれ以上苦しめたくなくて、……この姿を見られたくなくて、叫びを抑え込んだ。

 歩きながら、なんとか心を落ち着ける。なんとか、元の姿に戻れた。

 

 ……元の姿?

 ……こんな、親友を殺そうとした「悪いお化け(わたし)」の元の姿とは?

 

 自虐と呼ぶにはあまりに凄惨な考えを振り払い、洞窟を出る。ほどかれたハルの薄い色の髪が、光に照らされて輝いていた。

 夜が、明けようとしていた。

 自分の手が朝日に透けているのを見て、ユイは足を速める。名残を惜しんでいる間は無かった。

 

 ――ごめんね……ハル

 

 ハルと山道を下りながら、ユイは泣いていた。泣きながら、ハルに謝り続けた。

 

 ――いっぱい怖がらせて、ごめんなさい。

 ――道連れにしようとして、ごめんなさい。

 ――わたしのせいで手を失くしてしまって、ごめんなさい。

 ――こんな。こんなお別れになって、ごめんなさい。

 

 

 

 

 山道の入り口に、チャコが待っていた。

 ピンク色の舌を覗かせながら、大きなしっぽをぶんぶんと振っている。

 自分の姿が見えているのかどうかは、もう分からなかった。

 ここが終わり。

 手を、はなさないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 やだ。

 やだ。

 やだ!

 こんなのやだ。ひどい。あんまりだ。なんでわたしが。どうしてわたしばかり。

 ハル。ハル。ハルと別れたくない。いっシょがイイ。このマまいっシょニキテホシイ

 

 

“わんッ!”

 

 

 チャコの鋭い鳴き声に、ハルに絡みつこうとしていた触手の動きが止まった。

 また自分がやろうとしていたことに気付き、思わずその手を離した。

 どさり、と。道路にハルが倒れる。チャコが、その頬をペロペロと舐めていた。

 

『――ダメだなぁ。わたしって』

 

 ユイは絶望した。

 絶望しすぎて、かえって清々しい気分ですらあった。

 

『本当に、ダメな……悪いお化け』

 

 こんなお化け、縁を切られて当然だ。

 もう、ハルと関わるべきじゃないんだ。

 これで、よかったんだ。

 

 その内に、完全に夜が明けて、朝が来る。

 通りがかった車から人が降りてきて、すぐに救急車が来た。

 ハルが、車の中に消えて、サイレンといっしょに、遠ざかっていく。

 

『さよなら……ハル』

 

 ――こんな、悪いお化けで、ごめんなさい。

 

 あとは、自分が消えるのを待つだけ。ふらふらと、意味もなく山の中をさまよった。

 

 

 だけど、いつまでたっても、ユイは消えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうしようもなくなって、ユイは山を下りた。

 そして結局は、ハルの家に来た。

 でも、ハルはいなかった。

 夜になっても窓は真っ暗で、ハルのお父さんもお母さんも帰ってきていないみたいだった。

 家の前でハルを待って、待ちくたびれたら町をさまよう。それに疲れたら、またハルの家に戻る。

 そんなことを何度か繰り返している内に、自分がひどく希薄な存在なんだと気付いた。

 他のお化けも、自分のことはまったく見えていないみたいだった。たまに夜道を歩いている人と出くわしても、何の反応も無かった。

 元々こういうものなのか、それともコトワリさまに縁を切られたせいなのか。

 どちらにせよ、もうどうでもいいことだった。

 ハルの家で待ち、町をさまよい、ハルの家に戻り、そしてある日の夕方、ハルが帰ってきた。

 でも、帰ってきたハルは、もうユイの知っているハルじゃなかった。

 

 

 ハルの体は傷だらけだった。夜の町をあちこち走り回っていたんだから当然だ。

 おでこに、自分とまったく同じような包帯が巻かれていて、ひどく胸が苦しくなる。

 当然、その左腕は無いまま。中身のない袖が、むなしく揺れていた。

 そして何よりも、その目が。

 暗い、夜のように真っ暗な、闇色の目がそこにあった。

 ハルの、泣いたり笑ったり、また泣いたりしていたあのキラキラした目は、どこにも無かった。

 

 

 無言で車から降りてきたハルは、隠れることも忘れていたユイをすり抜けて、ただいまも言わず玄関に入っていく。

 一緒に帰ってきたハルの両親は、それをつらそうな顔で見ていた。

 ユイの視界の端で、また黒い触手が蠢いていた。

 

 

 

 

 どれぐらい、そうしていただろう。

 ハルの家の前で、抱えた膝に頭を埋めていたユイは、玄関の扉が開いた音に顔を上げた。

 玄関から出てきた小さな影は、モタモタと右手の懐中電灯を持ち直して、スイッチを入れる。

 小さな影――ハルは、当然ながらユイには目もくれず、夜の町へと進んでいった。

 

『ハル? どこに行くの。もう夜だよ』

 

 声は届かないと分かっていても、声をかけずにいられなかった。もう触れることはできないから、ただ後をつけることしかできなかった。

 やがて、ハルの前にお化けたちが現れる。

 ハルは何か投げようとしたみたいだけど、手が懐中電灯でふさがっていることに気付いたのか、表情を歪めた。そのまま、お化けの間をすり抜けて走っていく。

 

『危ないよ。帰ろうよ』

 

 逃げ切ったハルは息を切らせながら、傷が痛むのか左腕を押さえる。まるで、無くなった左手を探すように、右手が宙を掻いていた。

 そんな状態で、いったいどこへ向かおうとしているんだろう。

 ユイが途方に暮れた頃、チャカチャカと爪がアスファルトを叩く音が近づいてくる。

 

『……チャコ』

 

 久しぶりに、ハルの声を聞いた。

 夜道を駆けてきた茶色の子犬――チャコも、久しぶりに会うハルに嬉しそうな様子だった。大きな尻尾を振りながら、ハルの足に頭をすりつけている。

 茶色の毛並みを撫でていたハルの顔にも、すこしだけ笑みの影がかすめた。

 

『チャコも、いっしょに探してくれる?』

 

 チャコは、その言葉を分かっているのかいないのか、クゥーンと鳴くのみだ。またハルは歩きだし、その後を、チャコとユイがついていく。

 お化けから逃げ回りながら、ハルは町中を徘徊した。

 田んぼ、神社、図書館……。目についた所にそのまま向かうように、ハルは進んでいく。懐中電灯をぐるぐると巡らせ、自販機の裏をのぞき込み、茂みの中をガサガサと探る。

 いったい、何を探しているのか。

 

 そのまま、ハルは空が白み始めるまで歩き続けた。

 もともと色白な顔は真っ白になって、暗い目の下に濃い隈ができていた。ずっとついてきたチャコも、どこか元気がない。

 最後に、ハルはあの場所に向かった。

 

 

 夜が明ける直前の空が見せる、ひときわ暗い青。

 その下に、ポツポツと明かりが目立ち始めた町並みが広がっている。

 この町を見渡せる、あの山の、あの木の下に、ハル達はいた。

 大振りの枝――ユイが首を吊ったあの枝を、じっと見上げていたハルは、木の下に何かを置く。

 ちぎれた、赤い組み紐(ミサンガ)

 ついさっき、ハルが町で拾ったものだった。

 

『――ユイ』

 

 思わずハルを見るが、ハルの視線はこちらには向いていない。ただ、その木を見つめていた。

 まるで、そこにユイがいるとでもいうように。

 

『赤い色が好きだって、言ってたよね』

 

 もう一度、置かれた赤い組み紐を見る。まさか、これを探していたのだろうか。

 だがそれは、ユイの物ではない。

 眠くなってきたのか、目を細めていたチャコを撫でると、ハルは木に背を向けた。

 

 

『明日は、()()()()()()()()()()()

 

 

 当たり前のように、ハルはチャコに言って。ユイは、凍りついたように足を止めた。チャコは、困ったように首をかしげる。

 ふらふらとお化けみたいに山を下りるハルを、ユイは不揃いな両目で見つめていた。

 きっと聞き間違いだと、自分に言い聞かせながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ユイ、今日も見つからなかったね』

 

 次の夜も、その次の夜も、その後の夜も、まったく同じように夜廻りをしたハルは、またチャコにそう言いながら山を下りていた。

 昼の内は家からまったく出ず、夜になると家を抜け出して、チャコをつれて町中を探索する。

 拾い集めた赤いガラクタを持って、明け方に山に登り、あの木に供える。

 ハルは、ずっとそれを繰り返していた。

 

『どこに行ったんだろうね』

『また、きれいな赤が見つかったよ。ユイ』

『ここにもいなかったね。明日はきっと見つかるよね』

『すごいでしょこのスカーフ。高そう』

 

 言っている事もやっている事も滅茶苦茶だ。

 ユイを探すと言いながら、あの木の下にユイが眠っているかのように赤い物を供える。赤い物はすべて、ユイの物だとでもいうように。

 

 ハルの首には、改造された懐中電灯がぶら下がっていた。

 片手を失くしたハルにあんな工作ができるわけがない。きっと、夜廻りを止めないハルを見かねて、ハルのお父さんが作ったんだろう。ハルの心を守るためにはそれが必要だと。

 ハルに甘いあの人は、どんな気持ちであれを作ったんだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ねえ、ユイを知らない?』

 

 何回目かの夜から、ハルはお化けに話しかけるようになった。

 昼間、玄関をすり抜けてハルの家に忍び込んだ時に知ったのは、あれ以来、ハルが誰とも口をきいていないということだった。

 あの夜にいったい何があったのか、どうして左腕を失ったのか、警察の人にも、お医者さんにも、両親にも、一言も話さなかったと。

 退院してからもそれは変わらなくて、昼はずっと部屋で寝て、夜になると外に抜け出す。そんなハルに、ハルの両親は頭を抱えながら、泣いていた。

 

『あなたたち、わたしの友達を知らない?』

 

 ハルが口をきくのは、チャコと、木の下のユイと、お化けだけ。

 話しかけられたお化けはそれに答えるわけもなく、ただハルにその手を伸ばす。答える様子がないと見たのか、ハルは紙飛行機を投げてから、別のお化けに向かう。

 

『ユイを見なかった? 赤いリボンをしている女の子なの』

『あっち行ってよ! ハルに近づかないでっ!』

 

『あなたは知らない?』

『来ないでよ! 来ないでったら!』

 

 ハルは知り合いにでも話しかけるみたいに、無防備にお化けに近づいてしまう。

 ユイは必死にお化けを追い払おうとするが、その手はハルにもお化けにも触れられない。

 どんなに止めようとしても、ハルは自分から死に近付いていく。

 あまりのもどかしさに、ユイは頭がおかしくなりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

『見てよユイ。やっと完成したよ』

 

 暗い空の下、あの木の前で、ハルは大きな画用紙を広げた。

 それは、この町の地図だった。あの夜より前、ユイと二人で作りはじめた手描きの地図。

 ハルの家、ユイの家、田んぼ、神社、図書館……。二人で遊んだ場所が記され、その周りには二人の落書きが散らばっている。

 たしか、半分ほど出来た後で、あの夜が来た。ユイも、地図のことは忘れてしまっていた。

 ハルは、それを一人で完成させたのだ。

 

『この町ぜんぶ、まわっちゃった』

 

 ハルの真っ暗な目は、ただあの木と、山積みされた赤いガラクタしか見ていなかった。

 ユイも、チャコも、ただそれを見ていることしかできない。

 やがて、カサカサと地図が震えはじめる。それを持つハルの右手が震えているからだ。

 

『――――っ!』

 

 ハルが、何かを叫んだ。

 何を叫んだのかは聞き取れなかった、もしかしたら、言葉ですらなかったのかもしれない。

 グシャリと右手で地図を握りつぶし、左手のかわりに口で地図を噛んで、破り捨てていく。

 紙クズになったそれを、手で叩いて、叩いて、足で踏んで、次は赤いガラクタも蹴り飛ばす。

 虫の声すらしない山の中で、ただハルが暴れる音と、荒い息遣いだけが響いた。

 チャコは怯えたように草むらに隠れてしまった。

 ユイは、ただ見ていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝日が顔を出す頃、散乱した紙クズとガラクタの中で、ハルはうずくまっていた。

 死んだように動かないハルの右手は、暴れた時に切ったのか、血が滲んでいる。それを、草むらから出てきたチャコが小さな舌で舐めた。

 ハルが、顔を上げる。

 

『はげましてくれるの?』

 

 真っ暗な目で、ハルは笑った。お化けみたいな笑顔だった。

 

『がんばらないとね。ユイを探さなくちゃ』

 

 赤い残骸を踏みつぶしながら、ハルは山を下りていく。チャコは尻尾を下げながら、それを追った。

 ユイは、ざわざわと黒い触手を蠢かせながら、黒い両手で顔を覆っていた。

 ユイは、ただ見ていることしかできない。狂気に、心の夜にのまれていく親友の姿を、ただ見ていることしか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰か。

 誰か、助けて。

 神さま、誰でもいい。お化けでもいい。

 助けて。

 わたしは、もうどうなってもいいから。

 ずっとひとりぼっちでもいいから。

 だから、だから。

 

 ハルを、たすけてあげて。

 

 だれか……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あぶないよ』

 

 ハルが、ついに隣町まで夜廻りに行った夜、その子は現れた。

 



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13:朝日(ひかり)

 かつて、いくつもの長い夜があった。

 

 ある少女は、己の命と引き換えに母を失い。

 

 ある少女は、姉の命と引き換えにその目を失った。

 

 またある獣は、死してなお主を守り続け。

 

 またある怪異は、一人の少女をただ見守り続けた。

 

 明けない夜は無かった。

 

 ただひとつの例外を除いて。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

『このトンネルは通れないよ。このあいだの地震で崩れちゃった』

 

 隣町の、山道の先にあるトンネル。お化けになったユイでも分かるほどイヤな雰囲気のするその先に、ハルが進もうとした時。

 ゆらりと、その子はいつのまにか、トンネルの前に立ちふさがっていた。

 

 小柄で、色白な女の子。頭の上には、ユイと同じような赤いリボンが花のように揺れている。

 くりっとした可愛い目をしていたけど、ものもらいでもあるのか、左目には眼帯をしていた。

 

『あれ?』

 

 女の子は、何かに気付いたようにハルの顔をのぞき込む。ひとつだけの目が、すと細められた。

 

『前にも会ったよね?』

『……うん』

 

 ユイは初めて見る子だったが、ハルとは知り合いだったらしい。つまり、あの夜に知り合ったということだろう。

 

『雰囲気が変わってて分からなかったよ。――お化けかと思った』

 

 あまりに核心をついた言葉に、ユイの視界にまた触手がざわつきだした。

 ハルは、それを皮肉と受け取ったのか、暗い笑みを浮かべた。ハルには全然似合わない、イヤな表情(かお)だった。

 女の子は、そんなハルを見ても特に動じた様子もなく、手にした懐中電灯をぶらぶら揺らす。その右目が、ハルの中身のない左袖と、暗い目を順に見て、

 

()()()()()()()()()?』

 

 また、見透かしたようなことを言う。

 あの夜に出会ったのなら、ユイを探していることもハルは話したのだろう。

 でも今の言葉は、きっと。

 

『……まだ、見つからないの』

『そっか』

 

 絞り出すように答えたハルに対し、女の子はあっさりと返した。くるりとトンネルに向き直った後、懐中電灯をトンネルに向ける。

 あまりにも深い暗闇が、懐中電灯の弱い光を飲み込んでいた。

 ユイですら寒気を覚え、チャコは既に工事看板に隠れている。見れば、ハルも恐怖に顔を強張らせていた。久しぶりに見る、ハルらしい表情だった。

 

『とにかく、このトンネルはあぶないから、入らない方がいいよ』

『それとも、あぶない場所(ところ)へ行きたいのかな?』

 

 女の子が振り返る。闇夜に爛々と光る右目が、ハルの暗い瞳の芯を捉えていた。

 言外に、ここは通さないというように。

 

『探すなら町の方にしなよ。商店街とかさ』

 

 ユイは、この女の子がハルに夜廻りをやめるよう説得してくれることを期待していたが、その気は無いようだった。

 ハルは無言で(きびす)を返すと、山道を下り始める。商店街とやらに向かう気なんだろう。

 

『見つかるといいね』

 

 ユイだけが振り返るが、暗いトンネルの前には、もう誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『こんばんは』

 

 それからハルは毎晩、隣町に向かった。そして、あの女の子もどこからともなくハルの前に現れた。

 ハルのことを見張っているのかと思えば、挨拶だけしてすぐに立ち去ってしまうこともある。トンネルにだけは行かせたくないようだったが、それ以外の場所なら止めようともしない。

 そんな女の子の態度にユイは正直やきもきしていたが、ハルはそうでもないようで、何度目かの遭遇からはハルも多少は話をするようになっていた。

 

 女の子は、ことも という名前らしい。この町で生まれ育って、ハルと同い年。お姉さんと二人で暮らしているそうだ。

 しかも、もう2年間も夜廻りを続けていると言う。

 明らかに普通の女の子ではないと思っていたが、ユイの想像以上に変わった子だった。

 

『見つかった?』

 

 今夜も、小さな神社の前でこともと出会った。ハルは、ただ首を横に振る。こともは「そっか」と、いつものようにあっさりとしていた。

 どちらからともなく、神社の石段に並んで座る。ユイは、すこし離れた場所で色褪せた鳥居を見上げていた。

 何度か、ハルと来たことのある神社だった。たしか、図工の宿題で(しおり)を作るために、紅葉を拾いにきた。あの時は、もう少しきれいな神社だったはずだが。

 

『引っ越しは、いつだっけ?』

 

 こともは、右目で夜空を見上げながら聞いた。ハルは、暗い目でじっと石段を見つめながら、だいぶ間をあけて答える。

 

『…………あした』

『じゃあ、もう今日だね』

 

 商店街に立てられた錆びた丸時計の針は、0時を過ぎていた。

 ついに、夏が終わろうとしている。ユイもその時が来たことをようやく実感しはじめたが、ハルは……。

 

『ハルともお別れか。寂しくなるね』

『わたしは行かない』

 

 抑揚のないハルの声に、ユイは振り返る。こともは、ただ黙っていた。

 

『一人でも残る。まだ、ユイを見つけてないから』

 

 あの花火の夜と同じようなことを、ハルは言う。

 だけど、あの夜の、寂しさと決意に濡れた瞳とは違って、今のハルの瞳には、ただ暗い夜の闇だけがあった。

 

『ずっと探す。ユイを、見つけるまで』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『私が探すよ』

 

 ハルとユイは、同時に振り返った。

 しかし石段に座っていたはずのこともは、いつの間にか境内でチャコをうりうりと撫でている。

 

『なにを……』

『どうせ暇だからね』

 

 暇だから。

 ユイを探すことを暇つぶしのように言われたからか、ハルの顔に怒りの表情が浮かぶ。それもまた、ユイが久しぶりに見るハルの人間らしい表情だった。

 ハルが石段から立ち上がり、こともに詰め寄ろうとした時。

 

 

『私は、もう戻れないから』

 

 

 決然とした、でも諦観に満ちたような声に、ハルは足を止める。

 その横をすりぬけるように、こともは立ち去ろうとしていた。撫でられ足りなさそうに、チャコは甘えた声で鳴く。

 

『ハルに何があったかは聞かないけど、引っ越しても元気でね』

 

 後ろ向きにヒラヒラ振られた左手を、ハルの右手が掴んだ。こともは足を止め、眼帯にふさがれた左目をハルに向ける。

 

『……待って』

『聞いてよ』

『聞いて、ほしいの』

 

 消えるような声で、ハルは言った。縋るような口調だった。それに何を言うでもなく、こともはただ聞く姿勢を見せる。

 

 

『わたしは、ハル。隣町に住んでいて――』

 

 

 そしてハルは語りだした。

 ハルのこと。ユイのこと。家族のこと。クロとチャコのこと。話の順序の整理も、話題の取捨選択もされていないハルの話は長かったが、こともは黙って聞いていた。

 やがて話は、引っ越しのこと、お化けのことと、あの夜に近付いてくる。徐々にハルの声は震え、右手は左腕を握りしめていた。

 あの夜の話は、ハルの恐怖と悲しみにばかり満ちて話の道筋がたっておらず、ユイが聞いても滅茶苦茶だった。こともが理解できるはずもない。

 最後は、ハルが自分を責める言葉だけが続いていた。

 こともは、ただそれを黙って聞いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『わたしのせいで、ユイは、しんだんだ』

 

 何時間たったのか。ようやく話し終えたハルは、そう締めくくった。

 途中から石畳に座り込んでいたハルの顔は、何もかも吐き出したような無表情で、その目にはもう何も無かった。あの夜の闇ですら。

 右手だけが、ずっとこともの左手を掴んでいた。誰かの体温を求めるみたいに。

 

 ユイは、叫びたかった。

 違うんだと。ハルは悪くないんだと叫びたかった。でももう、ハルに声は届かないと分かってしまっていた。

 叫びの代わりに、黒い触手だけが激しく蠢いていた。

 

 夜明けの直前、もっとも暗い空の下で、重い沈黙だけが横たわっていた。

 

『だから、ユイを探す。わたしが、探さないと』

『私が探すよ』

 

 ハルの声に再び狂気が首を(もた)げた時、こともはもう一度同じことを言った。

 ハルが透明な瞳をこともに向ける。右目だけでそれを見返しながら、こともは続けた。

 

『キミの代わりに、私がユイちゃんを探すよ』

『見つかったら、手紙を出すから』

『だから安心して』

 

 こともは、ハルの言葉を否定も肯定もしなかった。ただ、受け止めてくれた。

 

『私はもう、この町を離れられない』

『夜廻りをやめることもできない』

『でも、キミは違うんでしょ?』

 

 ただ、ハルの背負った重荷を、すこしだけ肩代わりしてくれた。その心の中の狂気(よる)を、預かってくれた。

 

 

 

 

『だから、キミはもう、夜廻りをやめていいんだよ』

 

 

 

 

 こともの背後から、太陽が顔を出す。

 朝日を正面から浴びて、ハルの瞳が涙でにじんだ。まぶしかったから。でもきっと、それだけじゃない。

 ハルは泣いた。

 泣き虫のハルが、あの夜からはまったく泣かなかったのに。今は、ただ泣いた。

 こともに縋りつきながら、ユイの名を呼んで、泣いた。

 泣いて、泣いて、ハルの涙が涸れた時。

 

 夜が、明けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 別れ際、こともは赤い花を一輪くれた。

 ハルは赤い花弁を愛おしそうに撫でてから、ウサギのナップサックに丁寧に仕舞った。

 一言二言、別れの挨拶をして、ハルは神社を後にする。泣きはらしたハルの目は、朝日を反射してキラキラと輝いていた。

 チャコがボールのように跳ねながらそれを追い、最後にユイが続く。

 ユイが肩越しに後ろを見ると、こともは鳥居の下で、ヒラヒラと手を振っていた。

 

 その右目が、ユイを視ていた、気がして。

 

 もう一度振り返った時、鳥居の下には、もう誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 酸漿(ほおずき)色の空が町を染めていく。

 一望できる町を黄昏が飲み込もうとしている時。あの山のあの木の下で、ハルが奮闘していた。

 

『うん……しょっと!』

 

 つい先日に自分が散らかした紙クズやらガラクタの破片やらをようやく片付けたハルは、右手で額の汗をぬぐった。

 大きく膨れたゴミ袋を見て、ハルはげんなりとした顔で溜息をつく。チャコはもちろん、ユイも手伝うことはできない。これを持って山を下りるのはハルの仕事だ。

 一人なのにころころ変わるハルの表情を見て、ユイも肩の荷が下りた心地だった。しゃがみこんでハルを観戦していたユイの足元を、チャコが何かを咥えて走っていく。

 

『あ……』

 

 チャコからハルに渡されたのは、紙片だった。ハルが破り捨てた地図の切れ端。それを見たまま動かないハルの後ろから、ユイも覗きこむ。

 

 黒の色鉛筆で描かれた、二人の女の子。

 いいかげんな線で描かれているのに、色もついていないのに、どちらがどちらかすぐ分かった。

 

 偶然その部分だけが破られなかったのか、ハルが無意識にそうしたのか、二人の落書きだけがきれいに残っていた。

 ハルは、一回だけ鼻をすすった後、太腿を机がわりにしてその紙を折りはじめる。

 きれいな折り紙でもなく、まして片腕のハルが作ったそれは、ひどく不格好な紙飛行機だった。

 まともに飛ぶかも不安な代物だったが、精いっぱいの助走と力で放られると、わずかな風にのって、茜色(あかねいろ)の空へと消えていく。

 

 あれは、だれが読んでもいい、だれが受け取ってもいい手紙。

 予想もしていなかった場所に()ちて、想像もしなかったような人に拾われる。

 

 ひとつも文字が書かれていないあの手紙に、ハルはどんな想いを込めたのか。

 ユイが横から見たハルの目は、夕日を反射させながら、点になって消えていく手紙を追っていた。

 

 

 

 

 やがて、遠くから夕方を報せるサイレンが聞こえてくる。

 ハルは木の方へ向き直ると、ナップサックから花を取り出し、木の根元へと供えた。

 こともがくれた、一輪の花。赤の百日草(ジニア)

 花を置いたその手を、そのまま胸に当てる。もう手を合わせられないハルの、祈りの姿だった。

 

 それをユイは、木に重なるように立って見ていた。

 もう声をかけることも、手を触れることもできない親友の姿を。

 だがもうその必要もない。ハルは、やっと前に進もうとしているのだから。

 

 立ち上がったハルは、涙に濡れた、きれいな目をしていた。

 ユイが大好きだった、泣き虫な、ハルの目。

 何かを振り切るように、ハルは木に背を向ける。

 

『いってらっしゃい。ハル』

 

 あふれる気持ちのまま、ユイは親友を送り出す。

 

 

 潮騒(しおさい)のような音がして。

 尾根を撫でるように、強い風が吹く。

 

 

 ハッとした顔で振り返ったハルと、ユイの目が合うことはなかった。

 しかし。

 こぼれた涙を手でぬぐい、ユイが見た中で、もっともきれいな笑顔を浮かべたハルの。

 

 

 

 

『――またね』

 

 

 

 

 その言葉だけは、たしかにユイに届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親友の背を見送りながら、ユイの目からは透明の涙だけが流れていた。

 

 これだけ心が波立っているのに、その姿は少女のままで。

 

 ハルは「またね」と、再会を約束した。

 

 だが、ふたりが再び会うことはもう、無い。

 

 ならば、それは。

 

 ユイは理解していた。

 

 だから泣いた。

 

 ハルは、本当の意味で、ユイに別れ(さよなら)を告げたのだ。

 

 

さよなら(またね)。ハル……』

 

 

 それは、喜びの涙だったと、ユイは思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でも、ユイはまだ消えなかった。

 



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14:未練(くさび)

 ひらひらと舞う紅葉が、ユイの手をすり抜けて落ちていく。

 ユイは、また途方に暮れていた。

 この木の下でハルを見送ったあの日から何日たったのか。夏はとっくに過ぎ去り、山の木々は見事に色づいている。

 それでも、まだユイは消えずにいた。

 

 ――いつまで、こうしていればいいんだろう。

 

 落ち葉の山と同化するように寝ころびながら思う。

 何をするでもなく、お化けが眠るわけもなく、ただこうして時間が過ぎるのを待っていた。

 

 ……あの家の自室で、ただ朝を待っていた時のように。

 

 がばりと起き上がって、頭を振る。溜息をひとつして、立ち上がった。

 結局は、ハルのところに行くことにした。

 

 

 

 

 ハルの家には、誰もいなかった。

 当然だ。あの日に引っ越してしまったのだから。ここに来たのは、ただそれを確認する為だ。

 玄関をすり抜け、からっぽになった家の中に入る。2階のハルの部屋も、からっぽだった。

 天井を見上げれば、大きな染みがある。ハルは、これが怖い顔に見えて寝られなくなったことがあると言っていた。

 1階でお父さんたちが歩く時、廊下がキィキィと蝙蝠(こうもり)のように鳴くのも怖くて、そんな時は布団を頭からかぶって寝るのだとも。

 

 ……自分が、知らない男の人たちの声から逃げていたように。

 

 また頭を振ってから階段を降りる。壁をすり抜けて道に出ると、ユイは歩きだした。

 

 

 

 

 ハルの引っ越し先は、町の名前しか知らない。詳しい場所や住所を聞く前に、あの夜が来てしまった。

 だから、ユイは歩いた。

 まさか電車やバスが使えるわけもない。ひたすら歩く。

 町の周りをぐるぐると歩き、道路の看板にハルから聞いた町の名前がないか探した。

 そして大きな道路の看板にその名前を見つけた時には、雪が降っていた。

 あとは看板を辿って、雪道を歩き続けた。

 

 この頃から、ユイの時間感覚はひどく曖昧になっていた。

 眠ることはないからずっと歩けるが、ふと意識が途切れると、朝が夜になっていたりもする。

 さっきまで桜が舞う木の下を歩いていたのに、気付いたら同じ木で蝉が鳴いていた時は呆然としてしまった。

 だから、ユイの体感時間は生前の一割にも満たなかっただろう。

 

 

 

 

 だから、ようやくユイが目的地に辿りつき、ついにハルを見つけた時、ハルはもう、お姉さんになっていた。

 中学生なのか高校生なのかは分からないが、当然ながらハルはすごく大きくなっている。

 それでも、一目でハルだと分かった。

 

 人目を引く、色素の薄い髪。色白な小さな顔。

 青いリボンは頭の上じゃなくて、長い三つ編みの先に結ばれていた。

 そして、中身のない制服の左袖。

 

 お姉さんになったハルはびっくりする程かわいくて、きれいだった。

 まわりには、親しげな人たちもいる。

 人数はそんなに多くないけど、とても仲が良さそうで、みんな優しそうな人達だった。

 

 ――新しい友だち、できたんだね。

 

 寂しさを感じなかった、と言えばウソだ。でもそれ以上に、やっぱり嬉しかった。

 新しい学校でも、ハルはがんばっていた。

 片手ではできないことも多かったけど、そんな時はまわりの人たちが助けてくれていた。

 きっと、ハルがとてもがんばり屋で、とてもいい子だってことも、みんな分かってくれていた。

 なにせユイの自慢の親友だ。すこしだけユイも得意げな気持ちになった。

 

 

 

 

 チャコも、一緒に引っ越していた。

 あいかわらず小さいままだったけど、もう子犬ではなかった。

 お休みの日はいつもハルと散歩に出ていて、甘えん坊な仕草だけは変わらない。

 

 ハルとチャコの散歩についていくのは、ユイにはそれなりに大変だった。

 なにせ歩幅が違う。ユイの姿は10歳のまま止まっているのだから当然だ。

 そんな自分に今さら不満があるわけでもないが、不安に思うことならあった。

 

 ――わたしは、いつ消えるんだろう。

 

 お化けになってから、もう何年もたっている。

 ユイのおかしくなった時間感覚はアテにならないが、季節はどんどん変わっていくし、ハルもどんどん変わっていく。

 気が付けばハルは大学生になって、チャコは動きがよぼよぼしだして……死んでしまった。

 

 大きくなってもハルは泣き虫のままで、動かなくなったチャコを抱いて泣いていた。

 ユイもそれを見ながら、久しぶりに泣いた。視界の端で、黒い触手がざわざわ動いていた。

 でも、ハルは強くもなっていた。

 泣きはしたけど、ふさぎ込むことは無かった。ハルのお父さんがチャコのお墓を掘るのを、片手だけで手伝った。

 右手を胸に当てて、チャコにお祈りした後のハルは、ちゃんと笑っていた。

 あの笑顔を見れば、チャコだって迷わず天国にいけただろう。クロと、またいっしょに遊べたに違いない。

 

 

 

 

 ハルは、どんどん変わっていく。

 ユイは、なにも変わらなかった。

 

 

 

 

 ユイも、ずっとハルばかりを見ていたわけではない。

 変わっていくハルを見ていると、なんとなく心がざわつくことがあった。そんな時はあえてハルのそばを離れて、新しい町をぶらぶら歩く。

 夜はたまに他のお化けも見たが、あの町とは比べものにならないぐらい少なかった。散歩に飽きるとまたハルのところに戻る。その頃には、またハルも変わっていた。

 

 気が向いた時は、物に触る練習をしていた。

 地面を足でふむように触る。ユイ以外にはきっと分からない感覚だ。コツをつかめば、すこしだけなら物を動かすことだってできた。

 

 ――今ならハルに何かできるかもしれない。

 ――手紙を、書くとか。

 

 正直、すごく迷った。

 迷って、結局は、出さないことにした。

 あの時ハルは、ちゃんとユイにさよならを言った。さよならを言って、ハルは前に進んでいる。進み続けている。

 それを邪魔してはいけない。

 

 ……一歩も進んでいない自分なんかが、邪魔してはいけない。

 

 拾ってきた紙をクシャクシャと丸めて、公園のゴミ箱に投げた。

 

 

 

 

 ――わたしは、なんで消えないんだろう。

 

 大人になったハルがお仕事に行くようになった頃から、ユイはそればかりを考えていた。

 よくテレビなんかで言われていたのは、死んだ人に何か未練があると、お化けになってしまうという話だった。

 ユイの未練。

 まず思いつくのはハルだ。

 自分の死がハルに大きな傷を残してしまった。その心にも、体にも。ハルには幸せになってほしいと、ユイは心から願っている。

 

 ……あの時、道連れにしようとしたくせに。

 

 このまま、ハルの人生を見守ることが、ユイの未練なんだと思った。ハルがその命を終える時、ユイもまた消えるのかもしれない。

 

 ……本当に?

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハルは、ひとりの男の人と仲良くなっていた。

 優しそうな顔の、すこし気が弱い男の人。なんだかお父さんに似ているな、とユイは思っていた。

 

 ……お父さん。

 

 真っ白なドレスを着たハルは、本当に絵本から飛び出してきたお姫様みたいで、ユイは感動してしまった。

 ハルのお腹はすぐに大きくなって、ハルはお母さんになった。

 

 ……お母さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 本当は、ずっと分かっていた。

 

 ずっと、目をそらしていた。

 

 ユイの未練。

 

 それは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハルが3人目の子どもとして女の子を産んだ後、ユイは決心した。

 小さな女の子が、両手をハルとお父さんに引かれて歩く。かつての、ユイの一番古い記憶そのものの姿。

 それを見て、ユイはようやく自分の過去を直視できたのだ。

 

 ハルは忙しい毎日に疲れたのか、イスに座ったままうつらうつらとしている。その髪を、そっと撫でた。

 きっと、長い旅になる。

 もしかしたら、ハルの命が終わるまでには間に合わないかもしれない。それでも、ユイは行かないといけない。

 ハルは前に進み続けている。ユイも、進まないといけない。

 

『いってくるね。ハル』

 

 あの日とは逆に、ユイがハルに背を向け、走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユイは走った。

 人も、車も、家も、全部すりぬけて走った。目的地に向けて一直線に、ただ走った。

 あの時に辿った道を、逆に戻っていく。

 朝がきて、昼がきて、夜がきて。

 桜が咲いて、蝉が鳴いて、紅葉が舞って、雪が降って。

 ユイは走り続けた。

 ユイの未練の場所。

 自分が生まれ育った、あの町へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 故郷の町は、ずいぶんと小さかった。

 新しい町を歩いた後だからか余計にそう思う。

 この道はこんなに狭かったのか。何度も通った道も、ぜんぜん違う道に見えた。

 建物もいくつか減っていた。

 ユイがいつもご飯を買っていたスーパーも、シャッターが下りたまま。ハルとよく行った本屋も、文房具屋も。

 寂れた小さな町を、歩く。

 

 

 ユイの家は、まだあった。

 あったけど、もうボロボロだった。

 雑草だらけになった小さな庭を横切り、玄関をすり抜ける。実に数十年ぶりの帰宅だった。

 家の中は、きれいなものだった。

 きれい、というより、何もなかった。何も無くなった上で、ボロボロになっていたのだ。

 砂で汚れた廊下を歩き、中を進む。

 かつては、家族みんなでご飯を食べていたキッチン。その後、ただ千円札だけが置かれていたキッチン。

 かつては、ハルも招いたことがあるリビング。その後、ゴミに埋もれていたリビング。

 かつては、両親が眠っていた寝室。その後、知らない男の人たちがいた寝室。

 かつては、ユイが大好きだった家。その後、ユイが帰りたくなくなった家。

 ざわざわと、黒い触手をゆらめかせながらユイは不揃いな両目を閉じた。落ち着かないと。(ここ)に帰ることが目的じゃない。

 なんとか人の姿に戻った後、階段を上って自室に入る。

 ユイは、息をのんだ。

 

 ユイの部屋だけは、そのままだった。

 勉強机。赤いランドセル。本棚。畳まれた布団。壁のカレンダーも、あの年の8月のまま。

 すべてが、あの時のままだった。あの時のままで、すべてが朽ち果てていた。

 虫食いだらけの畳を歩き、黄ばんだカレンダーに触れる。ただそれだけで、紐がちぎれて落ちてしまった。

 時が止まったような家の中で、この部屋の時間は完全に止まっていた。

 まるで、ユイのように。

 

 誰が家を片付けたのか。誰がユイの部屋をそのままにしたのか。

 一人しかいない。

 その人に、ユイは会いにきたのだ。

 

 家を出て、ユイはその人を探しはじめた。

 手がかりなんて何も無い。ただ、歩く。

 家を中心に、ぐるぐる、ぐるぐると円を描くように歩き続ける。

 他の人の家の中だって探した。ほとんどの家は空き家になっていた。

 ハルの家はもう無かった。ただ草がすこし生えているだけの空き地になっていた。

 この町は、もう無くなろうとしているのかもしれない。

 生き物がみんな死んでしまうように、消えない物なんてないのだ。

 急がないといけない。このままでは、ユイだけがすべてに置いていかれてしまう。

 それだけは、イヤだった。

 

 

 

 

 そのまま、この国すべてを探す覚悟もしていたが、その人はあっさりと見つかった。

 元々、近くにいたのだ。ただ、ユイが探そうとしなかっただけで。

 町の北側。

 あの山の麓。

 真っ白な木の下に、その人はいた。

 

 

 

 

『……お父さん』

 

 父の死体は、あの日のままだった。

 左手のない父の白骨死体は、今も自分の頭蓋骨を胸に抱えている。

 あれから何十年もたっているのに、誰にも見つけてもらっていなかった。あの時にはもう骨になっていた父は、今もそのまま。

 だが、その横に。

 

『……お母さん?』

 

 死体が、増えていた。

 父と同じく骨になっているその死体が、母だという証拠は何もない。

 だが、他に誰がいるというのか。

 父に寄り添うような死体の近くには、もう読めないほどに朽ちたノートが置かれていた。

 父の死の真相が書かれた、遺書。

 

 

 

 

 ノートに、ぽつぽつと、水滴が落ちる。雨ではなく、ユイの涙が。

 だが、その涙がノートを濡らすことはない。

 

『お母さん……』

 

 母が、このノートを読んだということは、その真相を知ったということ。

 父は不貞などしていない。最後まで妻子を愛し、それを守るために一人で死ぬことを選んだ。

 それを、知った。

 

『お母さん……っ!』

 

 ――仲直り、できたんだね。

 

 母がどうやってここに来たのかは分からない。自分で探したのか、何かに導かれたのか。

 母がなぜここで死んだのかも分からない。自殺だったのか、そうでなかったのか。

 確かなのは、母が、父を許すように、父に謝るように、寄り添って死んだということ。

 それで、充分だった。

 

 

 

 

 充分、だったのに。

 母が大きな旅行鞄を抱えていることに、ユイは気付いた。

 大きな、ちょうどユイと同じぐらい大きな鞄。

 その中を、見る。

 

『……ぁ』

 

 ウサギのナップサックが顔を出した。唯一の父の遺品が。

 

『……あぁ……』

 

 あとは、服がぎっしりと詰まっていた。子ども用の、女の子の服が。

 

『ああぁ……っ!』

 

 すべて、ユイの服だった。

 まるで、ユイの抜け殻を集めて、ユイの代わりにしたみたいに。

 母は、ユイを抱いて、死んでいた。

 

 

『――――――っ!』

 

 

 ユイは、両親に抱きついた。

 甘えるように、縋るように、しがみついた。

 泣きながら、ただただ感情のままに、言葉が流れ出てくる。

 

 

 おとうさん

 おかあさん

 ありがとう

 ごめんなさい

 よかった

 あいたかった

 だいすき

 だいすき

 

 

 その言葉を、慟哭を、聞く者はここにはいない。

 

 いたとしても、そこにあるのは、ただ2体の白骨死体でしかない。

 

 だが、それでも。

 

 死体と、死体と、幽霊となっていたとしても。

 

 それは確かに、ひとつの家族が、再会を果たした瞬間だった。

 

 

 

 

 ――おかえり、ユイ。

 

 

 

 

 それはきっと、ユイの願望が生んだ幻の声。死体が喋るはずもないのだから。

 

 

 

 

『ただいま……っ!』

 

 

 

 

 それでも、ユイはそう答えた。

 

 答えて、また泣き続けた。

 

 これも、喜びの涙だったと、ユイは思う。

 



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15:墓標(おはか)

 どれぐらい、泣いたのか。

 

 両親にしがみつきながら、ユイは降り積もる雪を見ていた。

 

 思い出すのは、チャコのお墓。その前で祈るハルの姿。

 

 やがて雪が融けて消えた時。

 

 ユイは立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 固く冷たい土に、木の枝を突き立てる。

 何度も、何度も突いて、土をほぐし、手でかき出した。枝が折れたら、別の枝にとりかえる。枝が無くなったら、さがしに行く。

 ユイは穴を掘っていた。

 公園の砂場ではない。山奥の地面だ。掘ればすぐに、石が、木の根が、時には岩が顔を出す。それらをすべてほじくり、石で叩き折り、無理なら横に穴を広げた。

 ユイは穴を掘り続ける。

 クロを埋めた時とはわけが違う。人間の、それも3人分の穴。

 無心で掘り続けるユイの頭上で、月と太陽が何度も行き来する。また雪が降ってきたのを見て、ユイは土を掘る手を速めた。

 

 

 

 

 穴を掘りきった時は、紅葉が舞っていた。

 それが何度目の秋だったのかを、ユイはもう数えていない。

 穴の中に紅葉が降り積もるのを見て、暖かそう、とユイは久しぶりに笑った。

 

 骨だけになった両親を、穴の底に並べる。

 小さな骨も残さず、一本ずつ丁寧に、並べていく。父の足りない左手の骨は、削った木の枝をかわりにした。天国で、不自由しないように。

 最後に、ユイの服が詰まった鞄を、両親の間に置く。

 本当は、自分がここに納まるべきなのかもしれない。

 でもまだユイには、やらなければいけないことと、やりたいことがあった。

 

 土を、かぶせていく。

 白い骨がだんだんと見えなくなり、ユイの視界もだんだんと滲んでくる。

 一度手を止めて涙を拭い、両親の頭蓋骨を目に焼きつけた後、最後まで土をかぶせた。

 

 できあがったこんもりとした墓に、大きな石と、中くらいの石と、小さな石を並べる。

 お父さんと、お母さんと、ユイの墓だ。

 

 自分で掘った墓の前に座る。

 ハルの真似をして、重ねた両手を胸に当てた。目を閉じて、頭を下げて、祈る。

 念仏を唱えたわけではない。ただ、両親との記憶を思い出していた。

 それが楽しい思い出でも、つらい思い出でも、すべて、思い出していた。

 父とも、母とも、つらい別れとなった。

 それでも、大好きな両親だったのだから。

 

 

 

 

 ユイなりの祈りが終わった時、見下ろしたその手は、ほとんど消えかけていた。

 それをじっと見るユイの顔に悲哀は無い。ただ静かな笑みだけがあった。

 墓に眠る両親にもう一度だけ笑いかけてから、ユイは歩きだす。

 

 

 最期の場所へ、向かうために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭がふわふわしていた。

 体もすごく軽くて、それこそ消えてしまいそうに軽い。

 時間の感覚はいっそう曖昧になって、もう朝も夜も区別がつかない。まばたきする度に季節が変わっている気がする。

 きっと、ユイの未練は二つあった。

 ひとつは、ハル。

 でも、あの木の下でハルとお別れした時にはもう、ハルは未練ではなくなっていた。

 もうひとつは、家族。

 それを今、終わらせてきた。両親と、自分自身の弔いを済ませてきた。

 だから、今のユイを繋ぎとめているのは、未練ともいえない小さな欲。

 

 ハルに会いたい。

 話したいことがたくさんある。たとえ声が届かなくても。

 

 ふわふわ、ふわふわと。ユイはまた、ハルの元へ向かう。

 これがユイの、きっと最後の旅になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハルの家に、ハルはいなかった。

 かわりに、ハルにそっくりな女の人がいた。

 はじめはハルの娘さんかと思っていたら、おばあちゃんがどうとか言っていて、まさかと思った。

 どうやら、帰りがだいぶ遅くなってしまったらしい。

 運よく、ハルのお見舞いに行くというその人の後をつけていった。

 

 

 病院は、ユイの知っている病院とはぜんぜん違っていた。

 いろんな物がかってに動いていたし、丸っこいロボットがあちこちにいる。探索したら、さぞ面白いだろう。

 でももう、その時間はない。

 階段を上る女の人についていった先の、4階の部屋。

 暖かな色の部屋の奥、窓の近くのベッドの上に、ハルがいた。

 

 

 ハルは、おばあちゃんになっていた。

 やさしい顔をした、きれいなおばあちゃん。

 孫の女の人と話しているハルの横に座って、心の中だけで語りかけた。

 

 ――おそくなってごめんね。

 ――ハル、がんばったんだね。

 ――たくさんがんばって、たくさんの家族に囲まれて。

 ――つらいことも乗りこえて、こんなに長生きして。

 ――そして、天国にいこうとしてる。

 

 女の人が帰って、ハルが眠って、夜に起きる。ハルが鞄をあけて、中から、懐中電灯と、

 

『あ――』

 

 赤と、青のリボンを取り出した。

 それは、とても古い物のはずなのに、今でも鮮やかな色をしていた。

 きっと、大事に、大事にされていたから。ハルが、色褪せないようにしてきたから。

 あの日、ハルはユイにさよならを言った。でも、忘れてはいなかった。

 ユイのことを、忘れないでいてくれた。

 

 

 自分は、不幸だったとは思う。

 お父さんが死んで、お母さんはおかしくなって、家族は壊れてしまって。

 毎日、痛くて、苦しくて、寂しくて。

 ハルも、クロも、大切にしているものはどんどん離れていって。

 お化けになって、死ぬこともできなくて。

 でも、お化けになったから。

 お父さんも、お母さんも、ハルも、自分のことを大切に思ってくれていたことを知った。

 こんなに、あんなに、自分を想ってくれた人たちがいた。

 不幸だった。でもそれだけじゃなかった。

 ユイは、そう、思った。

 

 

 

 

 病院を抜けだして、中庭のベンチに腰掛けたハルの、隣に座る。

 きっとハルは気付いている。そろそろ、その時がくるということを。

 ハルの右手。ふたつのリボンを握るその手に、ユイも触れた。

 

『……、……ュィ』

 

 ハッと、横を見る。

 ハルは、ただ月を見上げていた。自分の手を握るモノの存在には気づいていない。それでも、良かった。

 いっしょに月を見上げる。あの時、いっしょに花火を見た時みたいに。

 

 

 

 

 そして、灰色の怪異が現れた。

 

 

 

 

 ユイも見たことのないお化け。いや、お化けですらないナニカ。あの山の神や、コトワリさまとも違う気がした。

 久しぶりに感じる恐怖に、思わずハルの手を強く握る。

 

『よまわり、さん……』

『私を、迎えにきてくれたのですか』

 

 ハルは、笑っていた。

 ハルはすべてを受け入れている。なら、ユイも怖がることはない。

 ハルの手を握り、ハルによりかかって、語りかけた。

 

 

 ――ねえ、聞いてよハル。

 ――わたしも、がんばったんだよ。

 ――お母さんを見つけたよ。

 ――お母さん、お父さんと仲直りできたんだよ。

 ――それでね、ちゃんとお墓だってつくったんだよ。

 ――わたしのお墓だってつくったよ。わたしがつくったんだよ。

 

 

 よまわりさんが、近付いてくる。

 

 

 

 ――だからね。

 ――こんな、ダメなわたしでも。

 ――こんな、悪いお化けでも。

 ――お父さんと、お母さんと、ハルと、同じところにいけるかな。

 ――いけたら、いいな。

 

 

 よまわりさんが、その袋を。

 

 

 ――でも、もし。

 ――もし生まれ変われるなら。

 ――また、ハルと友達になりたい。

 

 

 その、()()()()を。

 

 

 ――あなたも、そう思うでしょ?

 

 

『――――ハル…』

 

 

 最期に、己の生涯でもっとも鮮やかな名前を、大切につぶやき、ユイは、目を閉じた。

 



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16:再会(もうにどと)

 長い、長い追憶が終わろうとしていた。

 

 まじり合った二つの魂が、ふたたび一つの形を成す。

 

 形はそのまま、密度だけを増したかのような、その魂。

 

 それが小さな炎のような輝きとなって、瞳の奥に灯った時。

 

 深い眠りの底から、ユイは目覚めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まず最初に、ハルの顔が見えた。

 目が合うと、心配そうな顔が更に近づいてくる。

 

「ユイ、起きたの? 大丈夫?」

 

 頭の下に、柔らかな感触がある。どうやら膝枕をしてくれているらしい。前かがみになったせいで垂れてきたハルの三つ編みが、ユイの鼻をくすぐる。

 

「……へぶしっ」

「ひゃっ!」

 

 おもわずくしゃみが出てきて、更に唾が飛んでしまったのかハルが顔を押さえる。

 ……なんとも締まらない再会となってしまった。

 

「……もうっ!」

「ごめんって」

 

 まだ起き上がる気にはなれなくて、怒り顔のハルをあやすようにその三つ編みを弄った。

 お姉さんのハル、お母さんのハル、おばあちゃんのハル。いろんなハルを見てきたが、やはり少女のハルが一番しっくり来た。あと2年すれば更にそうだろう。

 

「ユイ、動ける? 疲れてるみたいだけど、そろそろ行かないと」

 

 忘れてはならないが、今はあの蜘蛛神との戦いの真っ最中だ。プランA、その最後の仕上げに向かわなければならない。

 それはユイも分かっている。分かってはいるが。

 顔を傾ければ、ハルの左手が見える。かつて失われ、今もまた傷ついた、細く小さな左手。掌の傷にハンカチを巻いただけの、血まみれの手をそっと撫でる。

 

「……ごめんね、ハル」

「なにが?」

「左手、痛かったでしょ」

「ああ、これ? 大丈夫だよ」

「わたしが、切らせちゃった」

 

 

 ハルの動きが、止まった。

 

 

「…………え?」

 

 

 信じられないものを見たようなハルの顔が見えて、その顔も涙で滲んでくる。

 もう、気持ちを抑えられない。

 

「ごめんね。いっぱい怖がらせて」

「ごめんね、あの時……道連れに、しようとして」

「ごめんね……。あんなお別れで……っ。本当に……っ!」

 

 目をこすってもこすっても涙は溢れて。くしゃくしゃになった顔をユイは手で覆う。

 ハルは、ただ呆然と、ユイを見下ろしていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ハルは、自分がついにおかしくなったのだと思った。

 あの夜すべてが夢なら良かったと、もはや何度思ったか分からない。ユイが生き返った夢など、もう何度も、数えきれないほど見た。

 毎日、何年も、80年、ユイを想って、想って、ついに夢と現実の区別がつかなくなったのだ。そうでなければこんな、都合の良いことがあるはずがない。

 ユイが生き返る? 馬鹿な。ありえない。死者は生き返ったりしない。過去を変えられたりも、しない。

 ああ、そうだ。

 この、こんな、よまわりさんの手で若返って、過去の世界に戻ったなど、こんなこともありえない。

 きっとこれは、今際(いまわ)(きわ)に見た、自分の最期の夢。もし夢から覚めれば、きっと自分はまたあの病室に――――。

 

 

「うにゅ」

 

 

 頬を、手でつままれた。

 膝に頭を乗せたままのユイは、その顔もくしゃくしゃなままで、ハルの頬を両手で引っ張る。

 痛い。

 

(いひゃ)っ! (いひゃ)いっ(ちぇ)ユイ(ヒュイ)!」

「ほら、痛いでしょ!」

 

 見下ろしたユイの、涙で濡れた瞳に、自分の顔が映る。頬を引っ張られたまま泣いている、なんとも間抜けな顔が。

 

「夢じゃないんだよ! ハル!」

 

 ユイは手を離した。

 今度は、ハルがユイの頬を両手で挟む。その感触を確かめるように、そっと。

 

「ユ……イ……?」

「うん」

 

「ユイなの……?」

「そうだよ」

 

「ユイ…………?」

「そうだってば!」

 

 しびれを切らせたように、ユイががばりと起き上がる。ハルの両肩をがっしりと掴み、真正面から。

 

 

()()()()()()!」

 

 

 あまりに単純な。それでも、二人にとっては、あまりに重い一言。

 その言葉が、ハルの頭に届いた時。

 

 

 

 

「――――――ぁ」

 

 

 

 

「――あぁ……」

 

 

 

 

「ああぁ……っ」

 

 

 

 

「あああぁぁっ!」

 

 

 

 

 80年。

 ユイと過ごした月日より、遥かに長い年月を生きてきた。

 ユイの死を受け入れられず、夜をさまよった。

 ユイの死を受け入れ、別れをつげた。

 ユイの死を乗り越え、生きてきた。

 それでも、ユイを忘れたことなど無かった。

 

 80年。

 ずっと、ずっと祈り続けてきた。

 その死後の安寧を。その来世の幸福を。

 それでも、ユイを想わない日など無かった。

 

 80年。

 ユイがいなくても、生きてきた。

 孤独ではなかった。新しい家族も、新しい友人も得た。

 精いっぱい生きた。立派に死んだ。

 自分は、幸せだった。

 だけど、もし。もしも、生まれ変われるなら、その時は。

 

 80年。

 そのすべての、積年の想いが、はじけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 山奥の、荒れ果てた、忘れられた神社。

 

 傾きはじめた太陽の、赤く色づきはじめた光に照らされたそこで。

 

 ふたつの影が、かさなっていた。

 

 影は、少女たちは、泣いていた。

 

 互いの涙が、涙を呼ぶように、ふたつの慟哭(どうこく)が、かさなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい! ごめんなさい、ユイ!」

「たすけられなくて、ごめん……! ごめんなさい……っ!」

「ずっと、ずっといっしょにいたかった! ほんとうは! ずっと!」

 

「ごめんなさいハル! わたしが、わたしがわるかったの!」

「ちゃんと言えばよかった! たすけてって、もっとはやく!」

「あんな、ダメなわたしでごめん……、あんな悪いお化けで、ごめんなさい……!」

 

「ユイとの、縁を切っちゃった……! わたしが、死にたくないからって……」

「最低だ! 卑怯者! ユイは、わたしをたすけてくれたのに! わたしは、わたしは……」

「わたしのせいで……ユイは、あんな……!」

 

「痛かったよね……つらかったよね……」

「わたし、ずっと見てたよ。お化けになって、ずっと!」

「ハルががんばってるのを! わたしは、ぜんぶ見たよ!」

 

「みつけられなくて、ごめんなさい!」

「もっと、もっとはやく、みつけてれば!」

「わたし、いつも、……いつも……」

 

「ありがとう……あの時、わたしを、さがしてくれて!」

「あの後も、ずっと、わたしを、わたしなんかを……」

「みてたよ、みてることしか、できなくて……っ!」

 

「ユイは、ずっとみててくれたのに!」

「わたしだけ……わたしだけ生きた! ユイだって生きたかったのに!」

 

「ハルはがんばったよ! ずっとみてた!」

「がんばってたじゃない! ハル!」

 

「ほんとうは、ユイと生きたかった……!」

「ユイと、おとなに、おばあちゃんになりたかったのに!」

 

「わたしだって生きたかったよ!」

「みてたけど、さわれなくて、はなせなくて、さみしかった……!」

 

「ずっと、ずっと……」

 

「ずっと……」

 

 

 

 

 あいたかった!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 慟哭がやみ、嗚咽もやみ、やがて影がかさなるのみになり、黄昏が山を覆いはじめた頃。

 

 ふたつの影は、立ち上がった。

 

 成すべきを、成すために。

 

 もう一度つないだその手を、もう二度と、はなさないために。

 



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17:花火(ほのお)

 男たちの手により、蜘蛛神の住処は蹂躙され尽くしていた。

 己を祀る地蔵はひとつ残らず叩き壊され、注連縄も断ち切られた。

 彼岸花はすべて毟りとられ、草一本はえぬよう塩を撒き散らされた。

 

 この地は、もう死んだ。

 

 残るは、石クズと、子蜘蛛の死骸と、男たちが食い散らかした弁当のゴミと、置き土産だけ。

 夜になれば一匹残らず屠らんと、蜘蛛神は執念深く耐えていたが、男たちは日が傾く前には撤収してしまった。

 壊されるだけ、壊された。

 嬲られるだけ、嬲られた。

 穢されるだけ、穢された。

 

 許せるはずもない。

 

 最奥の暗がりから、蜘蛛神はよろよろと這い出してきた。その身は軽く、そして小さい。もはや子蜘蛛とそう変わらぬ程に力を失くした。

 戒めであり礎でもあったこの地は、もう死んだ。

 土から抜かれた木がやがて腐り落ちるように、蜘蛛神もその力を失くしていく運命(さだめ)

 

 だが自由だ。

 

 手近にいた子蜘蛛を捕らえ、喰らう。

 元より己の身から生み出されたモノ、その血肉はよく馴染んだ。それこそ蜘蛛の子を散らすように逃げ出すモノたちを、捕らえ、喰らって、力を蓄えていく。

 もはや蜘蛛神を縛る物はない。

 戒めが無くなった以上、もうこの地に留まる理由も無かった。子蜘蛛を喰らい尽くし、洞窟の出口へと進む。

 

 じき、夜がくる。

 

 こんなモノでは足りない。

 山を下りれば、贄がいる。いくらでもいる。

 囁き、その縁を死に繋ぎ、喰らう。贄が無くなるまで喰らい、また別の地へ向かう。

 

 そうしなければならない。

 

 その力を持つのだから。そうできるのだから、そうしなければならない。

 止めるモノなど、いない。

 出口へと近付き、斜陽が差しこむ前で、足を止めた。

 その赤い眼をすべて見開き、贄を探す。

 

 贄は、すぐそこにいた。

 それも、ふたつ。

 それも、生気にあふれた、幼子(おさなご)が。

 

 逃す手など無い。すぐに、囁く。

 

 

“ オイデ オイデ オイデ ”

 

“ コッチニオイデ オイデ オイデ…… ”

 

 

 

 

「「 うるさい 」」

 

 

 

 

 贄が、(こた)えた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 山の頂上。蜘蛛神の住処への入り口に、ハルとユイはいた。

 夕日に照らされたその姿は、満身創痍。

 ハルは、全身が泥と汚物にまみれ、その左半身は血に濡れている。

 ユイは、傷こそ少ないものの、その体力は既に限界を迎えている。

 しかしその心は意気軒昂(いきけんこう)

 ただその精神力だけで、頭に直接響いた蜘蛛神の「声」を一蹴する。

 

“ オイデ オイデ オ…… ”

 

「「 うるさい 」」

 

 ハルも、ユイも、その瞳の奥に、不思議な輝きを宿していた。

 炎と呼ぶには儚い。蝋燭(ろうそく)の火のように小さな、しかし確かな輝き。

 二つの魂が、かさなった証。

 

 その輝きを視た時、蜘蛛神はその足を止めた。

 

 そして少女たちは動き出す。

 神殺し。その最後の仕上げを始めるために。

 

 

 

 

「やるよ! ハル!」

「うん!」

 

 ハルとユイは同時に走り出した。

 

 方向キーで移動します

 

 

 その先には、一つのドラム缶。

 

 視界内にアイテムがあると、頭上に?が表示されます

 

 

 大きなそれを、二人でゆっくりと横に倒す。

 

 押すことができるオブジェクトに対しては、手のアイコンが表示されます

 

 

「「 せぇーのっ!! 」」

 

 ゴロゴロと転がされるドラム缶の中身は、ガソリン。

 

 ボタンを押したまま、押す方向に移動してください

 

 

 ドラム缶が二人に押され、蜘蛛神の住処へと近付いていく。蜘蛛神はその意味を解せない。だが、何かをしようとしているのは解る。

 ドラム缶の周りには、大量のパチンコ玉と、そして花火が括り付けられていた。

 

 アクションできるオブジェクトの前では、!アイコンが表示されます

 

 

 ハルが、マッチを擦った。

 ユイが、導火線をその火に向ける。

 蜘蛛神が「声」をあげた。

 

 !アイコンが表示されている間、ボタンで対象にアクションできます

 

 

 

 

“ ヤメテ ヤメテ ヤメテ ”

 

“ ヒドイ ヒドイ ヒドイ ”

 

“ ヤメテ! ヤメテ! ヤメテ! ”

 

 

 

 蜘蛛神は、はじめての情に戸惑った。気が付けば、命乞いに等しいことを囁いていた。

 はじめての情、恐怖ゆえに。

 しかし。

 

 

「「 やだ!! 」」

 

 

 少女たちがそれを聞くには、蜘蛛神は罪を重ね過ぎていた。

 

 

 

 

「あなたの言う事を聞くのは――――」

 

「あんたとの、この腐れ縁は――――」

 

 

 

 

 ()()()()()

 

 

 

 

 言葉(おまじない)と共に、爆弾と化したドラム缶が、住処の中に押し転がされた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ドラム缶は、緩やかな傾斜にそって蜘蛛神の住処の中へと転がり落ちていく。

 舗装などされていない、ゴツゴツとした地面の上を跳ね、岩肌にぶつかり、また転がる。

 その内に外装に穴が開き、中に詰められたガソリンが漏れ出した。燃料を撒き散らしながら、ドラム缶は転がっていく。

 そして、導火線の火が、花火に達した。

 

 一片の光も差さない暗闇の中で、鮮やかな炎が乱舞する。

 

 打ち上げ花火が次々と撃ちだされ、遠くまで炎を届かせる。

 手持ち花火が炎を噴き出し、転がるドラム缶に合わせて炎を回す。

 漏れ出した燃料にもそれは達し、炎が洞窟の地面を舐めていく。

 最後に、ドラム缶の中へと炎が達した。

 

 炎が、炸裂した。

 

 爆発的に燃え上がったガソリンはドラム缶の破片を、パチンコ玉を高速で弾き飛ばし、火の玉と化したそれらが第二の花火となって炸裂する。

 だがまだ終わらない。

 男たちが残した置き土産。

 同じ仕掛けを施されたドラム缶が、点々と、そこら中に、奥へ奥へと、いくつも置かれていた。

 それらにも、炎が届く。

 炸裂。

 炸裂。

 炸裂。

 もはや逃げ場などない。

 蜘蛛神の住処は、その奥まで満遍なく、炎に焼かれていった。

 

 

“ アアアアアアアアアアアアッ! ”

 

“ アツイ! アツイ! アツイ! ”

 

 

 蜘蛛神も、その身を炎にのみ込まれた。たしかな血と肉を、持っていたが故に。

 

 

 

 

『あの神に炎が有効か、ですか?』

『効きますよ。必ず』

『……理由は言えませんが、確信しています』

『これだけは、絶対に』

 

 

 

 

 正直なところ、このプランは積み木細工のように脆いものであった。

 なにせ神殺しである。前例などありはしない。

 蜘蛛神がユウジを直接に殺傷する術を持たないというのは、あくまで推測だった。

 蜘蛛神の声が外国人に効かないというのも、推測だった。

 住処を荒らすことで蜘蛛神の力を本当に奪えるかどうかも、分からなかった。

 すべてハルの推測。希望的観測とも言ってよかった。

 ただ、ひとつを除いて。

 

“ 前回 ”の蜘蛛神は、その眼のひとつを潰されていた。

 鮮血を流すそれは古傷などではなく、つい最近に失ったようであった。

 そう、ほんの一夜ほど前に。

 考えるまでもない。ハルは確信している。

 あれを成したのは、ユイとクロだ。

 あの夜の前夜、さらわれたハルを助けるために、ユイとクロは蜘蛛神に戦いを挑んだ。

 なんの力もない少女と子犬が、あの怪物に一矢報いたのだ。

 故に、確信した。

 あの蜘蛛神はたしかな血肉を持つ。故に、人の手でも討てると。

 

 蜘蛛神が、焼かれていく。

 神の炎でもない、怪異の炎でもない、人の生み出した、ただの炎で。

 たしかにクロは死んだ。ユイも死んだ。

 だがその少女と子犬が成した一刺しが因果となって巡り、今ふたたび蜘蛛神に届いたのだ。

 

 

“ アツイ! アツイ! アツイ! ”

 

“ イヤダ! イヤダ! イヤダ! ”

 

 

 蜘蛛神の「声」が、断末魔が、ハルと、ユイと、そしてユウジにも届いた。

 多くの悲嘆を生み出してきた悪神の悲鳴が響き渡る。

 

 蜘蛛神は、ただ逃げた。

 その身を焼かれながら、出口へ、出口へと這い進む。

 這うための足も焼け落ちていく。一本、二本と焼け落ちていく。すべてが焼け落ちていく。

 その最後の足が焼け落ちる直前、ついに蜘蛛神は出口に辿りついた。

 

 ボンっ、と。

 

 火の玉と化した蜘蛛神が、入り口から飛び出す。まるで、花火のように。

 

 その先に、手をつなぐ、二人の少女がいた。

 

 手をつないだまま、それぞれの、もう片方の手を、蜘蛛神に向けている。

 

 ぴたりと指さされた蜘蛛神は、すべての眼で、

 

 

 少女たちの頭上に浮かぶ、赤い鋏を持った、己の半神(かたわれ)を、視た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠い、遠い何時か。

 

 遠い、遠い何処か。

 

 其処には、二つの “ 手 ” があった。

 

 右の手は、縁を切り。

 

 左の手は、縁を結ぶ。

 

 故に。

 

 右の手には、赤い “ 鋏 ”が、

 

 左の手には、赤い “ 糸 ” が、

 

 一つずつ、握られていた。

 

 故に。

 

 常に。

 

“ 鋏 ”と“ 糸 ”は、箸のように共にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬だった。

 鋏神の刃は、ほんのまばたきする間に、蜘蛛神をバラバラにした。

 ハルとユイが願った縁切りの対象、そして同時に供物として。

 小さな火の玉と化したそれらは、赤い空にパラパラと消えていく。

 まるで、空に咲き損なった花火のように。

 悪神の、あまりにもあっけない最期だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

「「 ありがとうございました 」」

 

 ハルたちは、最後の詰めを成してくれた鋏神に頭を下げた。

 それに対し、かの神は何も語らず、ふわふわと浮かぶのみ。だがハルは、その様になぜか違和感を覚える。

 蜘蛛神が消えたその空を視ている、気がして。

 

 シャキンッ!

 

 今までとは違う、澄んだ金属音を鋏から響かせた。その意味を、ハルもユイも理解することはできない。

 それきり、鋏神――コトワリさまは、赤い空へと消えていった。

 

 

 

 

「あいかわらず、カッコいいなぁ、あの神さまは」

「見た目は怖いけどね」

 

 二人で改めて深々と頭を下げた後、ユイはそう評した。言い方こそ軽いが、ハルも概ね同意するところではある。

 黙して語らず、成すべきを成す。終始一貫したその在り方には、一種の憧憬(あこがれ)を覚えなくもない。

 あとはその、見た目がもうすこしこう、親しみやすければ……。

 

「“礼には及ばぬ。フッ……また、つまらぬものを切ってしまった”」

 

 唐突に響いた、無駄に良い(イイ)声でやたらと気取った台詞に思わず吹き出してしまう。

 声の主のユイはといえば「コトワリさまごっこ!」とノリノリであった。

 

「ちょっと、ユイ! やめてってば!」

「“ひかえおろう! このハサミが目に入らぬか!”」

(ばち)当たりだって、それぇ!」

 

 きゃあきゃあと笑いあっている内に、何故かユイが体当たりしてきて押し倒される。そのまま、いつかのようにくすぐられて、くすぐり返して、ふたりで笑いながらゴロゴロと転がった。

 ふたりの笑い声がようやくおさまり、並んで赤い空を見上げる。夕方を報せるサイレンが聞こえた。

 

「……おわったね」

「……うん」

 

 どちらからともなく、言った。

 長い一日だった。しかも、ハルはここ数日ろくに休まず奔走していたし、長い追憶の旅をしたユイの体感時間は一日や二日どころではない。更に“前回”から続く戦いだったと考えれば、80年。そう考えると、疲労がドッと押し寄せてきて眠くなってくる。

 とはいえ、ここは夜ともなれば、お化けたちが跋扈(ばっこ)する山の中。閉じそうな目をなんとかこじ開けて「どっこいしょ」と起き上がった。すぐに隣から「おばあちゃん」と楽しそうな声が飛んでくる。そのおでこにデコピンをお見舞いしてやった。ほっといて。

 

 まだ寝ころんでいるユイに右手を差し出そうとして、――止めた。

 

 手を取ろうとして空振りしたユイは、怪訝な顔で起き上がる。自分の手をじっと見ていたハルは、固い表情で、言った。

 

「……ねえ、ユイ」

「んー?」

 

 ユイは、すべて見ていたと言った。

 ハルが、ユイとの縁を切ったところも。ハルが、自暴自棄になって夜の町をさまよったところも。ハルが、あの木をユイに見立てて別れを告げたところも。

 ハルが、その後、のうのうと生きてきたところも……。

 

「こんな、こんなこと聞くの、今更だと思うんだけど」

 

 怖い。

 聞くのが怖い。でも聞かないと。

 

 

「わたしのこと、恨んでないの……?」

 

 

 巨大なお化けに戦いを挑んだ時と同程度の勇気を以って、ハルは聞いた。

 対して、ユイの顔からは表情が消える。ハルの血の気を引かせるには充分な変化だった。

 だから勇気が(しぼ)まない内に、最後まで言うことにした。

 

 

「それで、それでも、こんなこと言うの、最低だと思うけど」

「もし、もしも、ユイがよければだけど」

 

 

 

 

「もう一度、わたしと、友だちになってくれない……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 返事は、溜息だった。

 深い、深い、ひどく深い、溜息。

 ユイは腰に手をあてて、頭を下に向けて、ボリボリと頭を掻きながら、

 

「ハル」

「う、うん」

「起きてる?」

「お、起きてるよぉ!」

 

 ほんの数日前にも、同じやり取りをした気がする。

 ユイはまた「はあぁぁ――――」と大きくて深い溜息をついてから、呆れた顔で。

 

「あのさ」

「その言い方だとさ」

「まるで、わたしとハルが友だちじゃなかったみたいなんだけど?」

 

 つまり、どういうことだろうか。やはり拒絶されたのかと、ハルの目に涙がにじみはじめた頃。

 がっしりと、両肩をつかまれた。そのまま、ユイは「あーもう、つまりね」と続けて、

 

 

「もうずっと! これからも! わたしたち、友だちじゃない!」

 

 

 ユイの切れ長の、でもやさしい瞳。

 ハルの大好きなその目の奥に、今は不思議な輝きがあった。

 すこしだけ涙で濡れたその目に、自分の泣き顔が映っていて。

 ハルは、また泣いた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――先を越されちゃった。

 

 泣き虫なハルの背中をさすりながら、ユイはすこし自嘲していた。

 本当は、自分が聞くべきことだと思っていた。

 こんなダメな自分が、一度はハルを殺そうとした自分が、あなたの友だちでいいの? って。

 ユイはずっと友だちでいたいと思っていたが、ハルはどうだったのか。怖くて聞けなかった。

 

 ――やっぱりダメだなぁ。わたしって。

 

 元々、自分などよりハルの方がよっぽど強いと、ユイは思っていた。

 そんなハルが、長い人生を経てもっと強くなったのだ。お化けとしてさまよっていた自分とは比べものにもならない。

 今に立場も逆転してしまうかもしれない。

 でも。

 

「泣きすぎじゃない……?」

「うぐぅえぇ……っ。ごめんなざい、ユイぃ……!」

 

 ――まあ、いっか。

 

 別にそうなってもいいし、ハルもこの調子ならまだまだ先だろう。その間に、ユイも追いつけばいい。時間は、たっぷりあるのだから。

 ユイは、そう思った。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「おちついた?」

「うん、ごめんね……ユイ」

「またそれ。こういう時は、なんて言うんだっけ?」

「……うん。ありがとう、ユイ」

「ん、よろしい」

 

 

 

 

「あのね」

「うん?」

「わたし、なにか忘れてるような気がするんだけど……ユイは?」

「え?」

 

 

 

 

「「 あ 」」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ユウジは、なんとか生きていた。

 大急ぎで下山したユイたちがコンテナをこじ開け、全身の拘束を解かれたユウジはぐったりとしていた。

 木陰とはいえ、真夏のコンテナ内で数時間もがいていたのだ。汗やらなんやらで燦々(さんさん)たる有様である。

 

「お父さん! しっかりして!」

「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

 

 元々やせていた体が干物のようになっていた父に、ゆっくりと水を飲ませる。少女たちの(かしま)しい声に、父は弱々しく笑った。

 

「あ、ああ……ユイ。ケガは、無いかい?」

 

 こんな状態でも、まず最初に娘の心配をする父に、じんわりと目が熱くなる。あの時、自分の手で埋めた父と、目の前の父が、かさなる。

 ポン、と。ハルが背中を押してきた。

 

 ユイは、父に飛びついた。そのまま、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。

 

「ユ、ユイ、汚いから」

「うん、くさい」

「えぇ……」

 

 本気でショックを受けている様子の父に、ユイは、笑いも、涙も止まらなかった。

 

 

「――ただいま。だいすきだよ、お父さん」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「ああ、さすがに疲れたよ。もう、くたくただ」

「本当にお疲れ様でした。ユウジさん」

「はやく帰らないと、お母さんもカンカンだね」

「ははは……それは参ったな」

 

「あ、そうだ。お母さんに何かプレゼントしたほうがいいよ?」

「……あのね、ユイ。お父さん、もう本当にお金がね?」

探偵事務所(たんてーじむしょ)? に、浮気調査(うわきちょーさ)? の電話してたよ、お母さん」

「は、え? …………本当に?」

「うん!」

「……ご愁傷様です」

 

 

「…………勘弁してくれ」

 



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18:不安(みらい)

 また娘の様子がおかしい。

 

「お父さん、やっぱり時代はリフォームだと思うの」

「わたしはお(うち)は好きだけど、あちこち痛んできてるじゃない?」

「おじいちゃんが建てたりっぱな家なんだから、大事にしないと」

 

 ニコニコニコニコ。

 娘の笑顔に癒されながらも、何故かひどく圧を感じる。

 目の前のテーブルには、リフォーム業者のパンフレットやら我が家の見取り図やら見積書やらが整然と並んでおり、娘の背後には何故か、ユイちゃんが画用紙(フリップ)を持って立っていた。

 

「オール電化もいいと思わない?」

「ほら、このキッチンなんてすごくきれいだよ」

「というか、お母さんはもうその気なんだけどね」

 

 ニコニコニコニコ。

 ニコニコニコニコ。

 娘の笑顔がだんだんと近付いてきている。

 ついでに笑顔のユイちゃんも近付いてきている。その画用紙には、笑顔の妻が親指を立てている謎の似顔絵(イラスト)が描かれていた。なんだこれ。

 

「バリアフリー化すれば、おばあちゃんだって喜ぶでしょ?」

「お盆になれば、おじいちゃんだって喜ぶでしょ?」

「いいことずくめじゃない」

 

 まるで、盆になれば本当に私の父があの世から戻ってくるような口ぶりだった。画用紙の中では、私の両親が肩を組んで親指を立てていた。父の頭上には天使の輪。だから、なんなんだこれは。

 

「いくつかの業者さんで、相見積(あいみつもり)をとってきたから」

「ここなんか安いよ。今けっこう話題の業者さんなんだって」

「これならお父さんのお給料でもなんとかなるんじゃないかな」

 

 娘が淹れてくれた緑茶を噴き出しそうになった。画用紙には頭の禿げ(ハゲ)た男がうんうんと悩んでいる似顔絵が……待ってくれ、まだ私は禿げていないぞ!

 おもわずユイちゃんを見れば、画用紙で顔を隠しており、その裏から「ぶふっ」と吹き出す声が聞こえてきた。確信犯!

 

 ……とはいえ。

 我が家にもだいぶガタがきているのは確かではある。このままでは足の悪くなってきた母にはつらいだろうし、なによりハルの為にもならない。

 ここはひとつ、ニコニコと笑顔で発表(プレゼン)している娘とその親友をすこし驚かせてやろうと、私はとっておきの計画を披露した。

 それはズバリ、引っ越し!

 リフォームなどとケチなことは言わず、新しい町に行き、新しい家を構え、新しい生活を、

 

 

「……()()()()?」

 

 

 心臓に冷えた包丁が刺さる。

 そんな幻覚を感じるほどに冷えた声がどこからか聞こえてきた。声の発生源は明らかに娘だが、信じたくなくて心なしか冷めた緑茶を啜る。

 チラと湯飲みの陰から覗けば、娘とユイちゃんは素早くハンドサインを送り合っている。小声で「プランB」とかいう不穏な単語も聞こえた。

 ずい、と。娘が間近まで距離を詰めてきて、

 

 

「ね? お父さん、お願い!」

 

 

 うるんだ目。不安そうな顔。すがるような声。組まれた両手。

 反則であった。

 古来、男など可憐な乙女に縋られれば応と言わざるを得ないのだ。(いわん)や、愛娘をや。

 よし分かったリフォームだ! と思わず口にしてしまった瞬間。

 

 ピッ!

 

 見れば、ユイちゃんの手には録音機(レコーダー)。ニヤリ、とその口が三日月のように笑っていた。腕の中の娘はいったいどんな顔をしているのか。それを確かめる勇気は、私には無かった。

 リフォーム……。この家に住み続ける、つまりはこの町に住み続けることに不安が無いわけではない。

 だが、普段は大人しい娘がこんなにまでして、この家に住みたいと言うのだ。滅多に言わない娘の我儘(わがまま)を聞いてやるのも必要な度量というものではなかろうか。そう、父として!

 それもこれもハルの為だ。そう結論付けて、私はパンフレットを手に取った。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 空き地に、2つの缶ジュースが打ち合わされる音が響いた後、ハルはオレンジジュースをぐいと呷った。隣ではユイが赤い缶の炭酸飲料をグビグビと一気飲みしている。

 

「うまくいったね!」

 

 勝利の美酒とばかりにユイは嬉しそうだ。ハルは「そうだね」と返しながら、あれだけ飲んでよくゲップが出ないなと変な感心をしていた。やはり体力が違うのだろうか。

 なんにせよ、ユイ考案の「ハル引っ越し阻止大作戦」はおそらく成功した。あの戦いの次の日から動き出したというのに、ユイは本当に元気だった。

 

 蜘蛛神との戦いから、はや数日。あの後、ハルはユイから全てを聞いた。

“ 前回 ”のユイは、死後もずっとハルの近くにいたこと。

 両親を自分の手で弔うことで未練を断ち、消える直前でよまわりさんと()ったこと。

 ハルと同じようにこの時代に来たが、幽霊のままであったこと。

 コトワリさまとの戦いの最中、この時代のユイと同化を果たしたこと。

 どれもこれも信じられないことばかりではあったが、そもそもハルがこの時代に来たことも不可思議きわまりない出来事なのだ。今更といえば今更であった。

 ただ。

 

 ――わたしも、二人いた……?

 

 本来はハルも二人いたが、この時代に来てすぐに同化していたということだけは、いまいち実感できない。

 ハルの意識も記憶も、あの病院の中庭からずっとつながっている。他のハルと混ざりあったという実感は、まるで無い。じっと手を見ていると、ジュースを飲み終わったらしいユイが察した様子で声をかけてくる。

 

「まだ信じられない?」

 

 穏やかな笑みを向けてくるユイは、ハルから見れば明らかに変わったと分かる。

 年相応で天真爛漫(てんしんらんまん)そのもののユイに、どこか(かげ)のある落ち着きが足されたような雰囲気。前回のユイとも今回のユイとも違う、いや、どちらでもあると言うべきか。

 考え込んでいると、眉間を指でつつかれた。

 

「また皺がよってるよ、おばあちゃん?」

「……ほっといてよぉ」

 

 気にしているのに。眉間を撫でていると、ユイは「ていうかさぁ」と続け、

 

「ハルもだいぶ変わったよ? 最初のころは、その……怖かった」

「え……」

「目なんてギラッギラしちゃってさ。顔もこーんなだったんだから」

 

「こーんな!」と目を指で釣り上げてみせるユイに、おもわず吹き出してしまった。

 たしかに、この時代に来た直後は余裕が無かったという自覚はある。もう二度とユイを死なせまいとハルも必死だったのだ。手段など選んでいられなかったし、特にユウジには悪いことをしてしまった。

 

 戦いが終わった後、約束通りにハルはユウジに全てを打ち明けようとした。信じられるかどうかは別として、彼にはそうするのが筋だと思ったのだ。特に、協力させる為に嘘を吹き込んだことは真摯に謝罪するべきだったし、何よりもユイのことは話しておく必要もあった。しかし。

 

『……いや、いいんだ』

『君はユイの友達で、僕の命の恩人で、ひどく変わった女の子だ』

『“ そういうもの ”だろう?』

『だから、これからもユイと仲良くしてやってくれ』

 

 そう語ったユウジの顔は、以前よりも若々しく見えた。元より、家族の為ならば死も(いと)わないような男ではあったのだ。蜘蛛神の声に逆らい続けた精神力は見事なものであったし、命がけの戦いを乗り越えた彼に精悍(せいかん)さが増したのは必然とも言えた。ユイの様子の変化に気付かないはずもないだろうが、それであの子煩悩がどうこうなるものでもなさそうだ。

 

 なお、そう語った顔の傷が、明らかに戦いの後よりも増えていたのはご愛敬である。

 なにせプランAの必要経費は、全プラン内でも群を抜いて高額だった。アルバイトの男たちへの報酬、使用した重機の借用(レンタル)代、大量のガソリン、その他諸々。それら全てをユウジは家庭の貯蓄から捻出(ねんしゅつ)したのだ。彼の妻に隠し通すのは不可能だった。

 結局、「研究の際に(たち)の悪い悪霊に憑りつかれてしまった。ある高名な霊能力者に祓ってもらったが、報酬は莫大だった」という旨の、ある意味では事実そのものな言い訳をするしかなかったのだという。しかも、コソコソと動いていたせいで浮気の疑いまでかけられる始末。故に、その後の妻の反応は推して知るべし。「あの野郎より怖かった」と遠い眼で語ったユウジの顔は……、まあ、幸せそうではあったから問題ないだろう、たぶん。

 問題なのは、ユイの方だった。

 

「……ところで、お母さんとは、どうなの?」

 

 びくりと、ユイの手が震えた。

 

「うん、まあ、ぼちぼち」

「……そう」

 

 今回の戦いにおける全てがうまくいったわけではない。ユイと、ユイの母親との関係がそうだ。

 ユウジと妻との夫婦喧嘩の際、ユイは恐怖で家を飛び出してしまったのだ。前回のユイが母親から受けた暴力は、その心に深い(トラウマ)を刻んでいた。母親の怒声が引き金となって、それがフラッシュバックしたのだろう。しかも本来のユイにとっては見慣れた、ある意味で微笑ましい光景でだ。ユイの中で相反する感情に混乱したせいか、ハルの家に飛び込んできたユイは恐慌(パニック)状態に近かった。

 それ以来、どうしても母親が怖く感じてしまうのだという。母親も急変した娘の態度に困惑しており、どこかギクシャクした関係になっているらしい。このままではいけない、とハルも危機感を募らせていた。

 

「心配しないでよ、本当につらくなったら、今度はちゃんと言うからさ」

 

 苦笑の表情を浮かべる顔の前で振っているその手を捕まえて、ぐいと引き寄せた。驚いたような顔のユイと正面から目を合わせる。

 

「ダメ。つらくなる前に言うの」

「……。もー、おばあちゃんは心配性なんだからー」

「ユイ?」

「ごめんなさい。やっぱりつらいです。助けてください」

「はい、よくできました」

 

 やっと素直に助けを求めてきたユイに、安堵と焦燥を同時に感じる。ユイと母親の関係修復に向けて、早急にプランを練らなければならない。家庭のことであるなら、またユウジに協力してもらった方が良いだろうか。彼なら協力は惜しまないだろうが、いろんな意味で満身創痍な状態に追い打ちをかけるような真似はしたくない。いやしかし。

 考え込んでいると、視界にヒョイとユイが現れる。どこか曇った顔で、

 

「やっぱりいいよ、ハル。わたしが自分でちゃんとやらなきゃ」

 

 またそんな往生際の悪いことを言い出す。

 

「ダーメ。ユイはすぐそうやって無理するんだから」

「……ハルだって人のこと言えないじゃん」

 

 左手をそっと握られて、ぎくりとした。図星だったのと、あと多少の痛みで。

 ハルの左手には、分厚い包帯が巻かれていた。あの時に負った掌の傷は深く、その後の無理もたたって、結局は何針か縫うはめになった。幸い、後遺症こそ無かったが一生ものの傷となってしまい、卒倒した母と狂乱する父をなだめるのには非常に骨が折れた。

 ユイは包帯の上から傷を撫でるようにしながら。

 

「ちゃんと手当してれば、傷は残らなかったかもしれないじゃない」

「……うん」

「どうせ、一度は無くなった腕だからどうなってもいい! とか思ったんでしょ」

「あはは……」

 

 完全に図星で、ぐうの音も出ない。目を泳がせていると、今度は逆に手を引かれた。

 

「あはは、じゃないでしょ?」

「……はーい」

「あと、()()もまだ許してないから」

「……はい」

 

 ユイの言うアレとは、プランの事後処理についてだ。

 なにせ派手にやりすぎた。蜘蛛神の住処とはいえ、貴重な文化財にもなり得る地蔵群や注連縄を完膚なきまでに破壊した上に、火まで放ったのだ。全員まとめて罪に問われても不思議ではない。

 無論、ハルもユウジもお縄になる気は無かったため、隠蔽工作には念を入れた。

 住処内での破壊活動については、案外なんとかなった。あの住処自体が元より未発見であり、使用した金銭もすべてユウジ一家の私財である。よほど運が悪くない限り、問題になることはないだろう。

 問題は、最後の火攻めだった。住処を破壊することで蜘蛛神の力をどれだけ削げるかは未知数であり、確実に倒すためには最大の火力が必要だった。そのために、一歩間違えば山火事もあり得る危険な手段を選んだのだ。

 運よくその火が洞窟の外に出ることはなかったが、最悪の場合はハルがその責任を負うつもりだった。

 大人(ユウジ)の放火よりも子ども(ハル)の火遊びという形にした方が、多少は罪も軽いだろうという打算もあったが、単にユウジを、ひいてはユイを不幸にしたくないが故であった。

 そのことは当然ユイには黙っていたし、ユウジにすら伏せていた。だが、まさか幽霊のユイがずっとハルのノートを見ていたなど、予想できるわけもない。

 

「やだよ、わたし。刑務所にハルの面会に行くなんて」

「刑務所っていうか、少年院かな」

「そういう問題じゃないよね?」

 

 話を逸らそうとすると、笑顔のユイが眼前まで顔を近づけてきた。もちろん、その目は笑ってなどいない。

 

「ごめんなさい。反省しています。もうしません」

「ん、よろしい」

 

 頭を下げるとユイはやっと笑ってくれる。「……まあ、その時はわたしも一緒に捕まってあげるけど」というユイの呟きを聞き、改めて自分の運の良さに感謝した。お地蔵さまに祈っておいてよかった。

 ハルの答えに満足はしたようだが、ユイはまだ手を離してくれなかった。人さし指、中指、と一本ずつ撫でられてくすぐったい。やがて薬指を撫でながら、とんでもないことを言い出す。

 

「左手、大事にしてよ。……だって、今度はちゃんと左手に指輪してもらわないとね?」

 

 飲みかけていたオレンジジュースを噴き出しそうになった。ゲホゲホとむせていると、ユイの口角がだんだんと上がってくる。これはあれだ、ハルに意地悪する時の顔だ。

 

「かっこよかったもんねー、ハルの、だ・ん・な・さ・ま!」

「ねえ、ユイ。ちょっとやめて」

「いいなー。わたしも、あんな情熱的(ロマンチック)なプロポーズしてもらいたいわっ!」

「やめてってば! もう!」

 

 顔が熱くて、真っ赤になっているのが分かる。自分で言っておきながら赤くなっているユイの顔をつかんで、その口をふさいだ。

 

「だ、誰にも言わないでよ! 約束だからね!」

「ていうか、わたしの口からは言えないよ……あんな、ねえ……?」

 

 相変わらず赤い顔で目を泳がせるユイに対して、ハルは一気に血の気が引いていくのを感じた。

 

「……あのね、ユイ。ちょっと、聞きたかったんだけど」

 

 むしろ絶対に聞きたくはなかったが。

 

 

「ずっと見てたって、どこまで見てたの……!?」

 

 

「え? 全部」

 

 

 最悪の答えが返ってきた。

 

 

「……ぜんぶ?」

「うん」

「………………」

「信じられないなら、ハルの勝負下着(パンツ)の色でも当てる?」

「ユイ――――ッ!」

 

 このお喋りな親友の口をふさごうとして、逆に押し倒される。そのまま、またゴロゴロとチャコとクロのように空き地でじゃれ合うはめになった。なんだか最近、ユイとプロレスごっこばかりしている気がする。晴天の空き地に、ユイの楽しそうな声が響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――ごめんね」

 

 ぜえぜえと息も絶え絶えなハルに対し、土の上で大の字になったユイは静かな声で言った。ハルの恥ずかしい秘密云々については墓まで持って行く約束をさせたばかりだが、他に何を謝るというのか。

 すこし間をあけてから、ユイにしては小さな声で。

 

「引っ越し、本当はしたかった?」

「……」

 

 そんなことはない、とは嘘でも言えなかった。

 新しい町、新しい家、新しい学校、新しい友人。引っ越しはつらかったが、全てがそればかりではなかった。得られたものだって、少なからずあった。引っ越しをしないということは、それらを全て諦めてしまうことになる。ユイはそう言っているのだろう。

 それに、この町の異常性もある。夜な夜な怪異が大量発生するなど、他の町にはないことであった。ハルに甘い父があれだけ強硬に引っ越しを行おうとしたのも、怪異から娘を遠ざけようとしたのだと今なら思う。この町に住み続けること自体が、危険なことでもあった。

 

「なのに、わたしの勝手で、引っ越しさせないようにしちゃった」

「わたしって……、ほんとに、ダメな子だなぁ」

「だから、ごめんね。ハル……」

 

 恥じるように、交差した手で顔を隠しているユイを見て、思う。

 

 ――わたしは、どうなんだろう?

 

 引っ越ししたかったのだろうか。したくなかったのだろうか。前回なら迷いなく、引っ越しなどしたくないと答えていた。でも今は?

 ユイをとるのか? 新しい友人たちをとるのか?

 

 

 すこしだけ考えて、バカバカしいと頭を振った。

 

 

 ユイの両手をこじ開けて、その顔と目を合わせてやる。

 

「両方!」

 

 なんのことかと、涙目をぱちくりとさせる親友のおでこにデコピンしてやる。

 

「どっちかなんて嫌! 両方もらうもん!」

「え、でも」

「行けばいいじゃない、あの町まで! ユイもいっしょに!」

 

 簡単な話だった。

 ハルが引っ越さなくても、あの町が消えてなくなるわけではない。あの友人たちも、そして夫も、今たしかに生きているはずなのだ。ならば会いに行けばいい。

 

「大きくなったら……ううん、もう冬休みに行こうよ!」

「みんな見つけて、また友だちになる!」

「もちろん、ユイもいっしょにね!」

 

 丸くなっていたユイの目から、すこしだけ涙がこぼれて。

 ユイは、やっと笑ってくれた。

 

「……だんな様とも?」

「だから、やめてって言ってるじゃない! ユイのばかっ!」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 生きていくのは、とても怖い。

 

 未来がどうなっているのか、とても不安に思う。

 

 どんなに幸せでも、それはある日とつぜんに崩れてしまう。

 

 どんなに大切でも、それはある日とつぜんに消えてしまう。

 

 わたしたちは、それを知ってしまったから。

 

 でもそれでも。だからこそ。

 

 不安だから、怖いから。

 

 

 つないだその手を、はなさない。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「ねえ、ユイ。ひとつ、お願いがあるんだ」

 




次回、(実質)最終話です。


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19:夜廻(よまわり)

「まって、まってよー」

 

 ぐいぐいと引っ張られる赤いリードを離すまいと、わたしも駆け足になる。右目のあたりで、頭の赤いリボンがちらちら揺れている。

 リードの先には、わたしの家族――ポロが、元気に尻尾を振りながら走っていた。クラスの中でもいちばん背が小さいわたしより、犬としては大きなポロの方がよっぽど力も強い。かけっこも苦手なわたしよりも、当然ポロの方が走るのも速い。結局は、わたしが追いつくのをポロが待って、追いついたらポロがまた走るという形になっていた。

「どっちが散歩しているか分からない」なんてお姉ちゃんは笑っていたけど、わたしはポロと遊べればそれでいいもの。お姉ちゃんと遊ぶのも楽しいけど、お姉ちゃんだって勉強とか家のお仕事とか、友達と遊ぶのに忙しい。こんど、はやっている映画を見にいくんだって言ってた。友だちがあんまりいないわたしは、やっぱりポロと遊ぶことが多くなる。

 

 その日も、学校から帰ってすぐにいつもの散歩コースを歩いたわたし達は、夕暮れどきの山道にいた。夏休みが終わったばかりの9月はまだ暑かったのに、急に風がひんやりしてくる。汗が冷えてきて、体を冷やさないように両手で自分の体を抱きしめた。もうそろそろ帰ろうかな、と思いながらゴムボールを投げた時だった。

 

「あ!」

 

 いつもならすぐにポロが口でキャッチするのに、上の空で投げたせいかポロの頭より上を飛んでいってしまった。テンテンと転がっていくゴムボールをポロと追いかけると、山道の先にある、暗いトンネルの中へと転がっていくのが見えた。

 

 ――こんなトンネル、あったっけ。

 

 大きな、古い、とても暗い、トンネル。

 真っ暗なトンネルの中が大きな口を開けている怪物のように見えて、ぶるりと体が震えた。誘われるように入り口に近づくと、背中を押すように冷たい風が吹いてくる。あのゴムボールは、ポロのお気に入り。取りにいかないと。

 そう思って、なんとか一歩ふみだした時。

 

“わんっ!”

 

 ポロのどこか険しい鳴き声が聞こえて、風がやんだ。目の前の暗闇が急に怖くなって、おもわず後ずさる。

 

「……ごめんね。ポロ」

 

 足にすりよってきたポロの白い毛並みをなでながら、謝る。ゴムボールはお姉ちゃんに買ってもらおう。怒られるかもしれないけど、わたしが悪いんだから仕方ない。もしダメだったら、わたしのお小遣いでも買えるおもちゃを探そう。

 そう諦めて帰ろうとしたわたしの足が、小石を蹴った。なんとなく拾ってみると、丸くてスベスベとしていた。おもわず、投げたくなるような。

 ポロの黒い目は、何かを期待するみたいにキラキラしている。

 

「一回だけだよ?」

 

 ポロにそう、断って。わたしは石を、

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぶないよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 うしろから突然かけられた声に、わたしは「ひゃっ」と尻もちをついてしまった。ポロにつながった赤いリードを、誰かの手がくいと引いて道の端に寄らせる。

 

 そして、わたしの目の前を、大きなトラックが走りぬけていった。

 

 しばらく呆然としていると、ポロに顔を舐められてハッとする。もし今、石を投げていたら、ポロは……。ゾッとするような想像をしてしまい、ポロの真っ白な体をぎゅっと抱きしめた。お日様の匂いを吸い込んでいると、ドキドキしていた心臓もやっと落ちついてくる。

 

「大丈夫?」

 

 わたしとポロの後ろに、いつの間にか、二人の女の子がいた。

 はじめは、双子なのかと思った。でもよく見るとぜんぜん似ていなくて、なんで双子だと思ったのか分からない。似ているのは、その頭のリボンだけなのに。

 赤いリボンの子が、わたしの手を引いて起こしてくれる。気の強そうな、でもやさしそうな目をしていた。知らない人や、いじわるな友達にはすぐ吠えるポロも、頭をなでられて尻尾を振っている。

 青いリボンの子は、まだ夕方なのに大きな懐中電灯を持っていた。トンネルの中をじっと照らしながら、さっきわたしが拾った小石を奥に放り投げる。同時に中に走って、すぐに戻ってきた。

 

「はい、これ」

 

 変わった髪の色をした、おとなしそうな子だった。色白な手にはゴムボール。拾ってきてくれたんだ。お礼を言いながらボールを受け取ると、じっと目を見つめられた。なんだろう、わたしの顔に何かついてるのかな。

 

「――気を付けてね。ボール遊びは、あぶなくない場所で」

 

 にこりと笑う顔は、わたしと同じぐらいの女の子なのに、なぜか先生に怒られたような気持ちになった。おもわず「はい!」と背筋をのばしてしまう。

 それを見ていた赤いリボンの子に「おばあちゃん」と頬をつつかれた青いリボンの子はムッとして、しかえしのようにデコピンしていた。ケンカしだしたのかとヒヤヒヤしたけど、二人ともすごく仲がよさそうで、……すこし、羨ましかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 日がかたむいてきた山道を、みんなで下りる。二人はわたしにもよく話しかけてくれて、なんだか楽しい。ポロもすっかり懐いていた。

 二人は友だちで、ハルとユイという名前。隣町に住んでいると聞いて、びっくりしてしまった。こんな遠くまで遊びにくるんだ。

 

「こともちゃんも、そのナップサック持ってるんだね」

「うん、お姉ちゃんに買ってもらったんだ。デパートに行った時に」

「じゃあそれ、同じお店だね! わたしのもそこで買ってもらったんだ」

 

 赤いリボンの子――ユイちゃんがくるりと背中を向けると、ピンクのウサギと目が合った。何が詰まっているのか、わたしのと違ってパンパンにふくれた丸い顔がおかしくて、つい笑ってしまった。

 

「入れすぎだって、ユイ。また破れちゃうよ」

「へーきへーき。自分で直すから」

 

 呆れたような顔をしている青いリボンの子――ハルちゃんの背中にもウサギのナップサックがあった。でもなんだか形がヘンで、耳の大きさも左右ですこし違う。ボタンの目もあさっての方向を向いていた。

 じっと見ているとハルちゃんに気付かれたのか、

 

「ああ、これはね、」

「わたしが作ってあげたんだ!」

 

 まってましたとばかりにユイちゃんが嬉しそうな顔で自分を指さす。「自信作!」と腰に手を当てるユイちゃんを見てから、もう一回ハルちゃんのウサギを見た。……もう一回見たからって、形が変わるわけもない。目が合ったハルちゃんは困ったような顔をして、人差し指を口に当てていた。

 ……みんな得意なことと苦手なことがあるよね、うん。

 

「す、すごいよね。わたし、お裁縫なんてできないもん」

「簡単だよ。慣れれば針だってそんなに痛くないし」

「そういうことじゃないよ、ユイ」

 

 でも、わたしもボタンぐらいは自分で付けられるようになった方がいいかな。お姉ちゃんはいつも自分でやってるし、だから。

 

 

「わたしも、お母さんに教えてもらおうかな」

 

 

 ピタリと二人が歩くのをやめて、わたしとポロだけが前に出てしまった。振りかえると、なぜか二人がおどろいたような顔をしている。

 

「ど、どうしたの?」

「……え、あ、うん? こ、こともちゃん? あのね?」

「ちょっとハル!」

 

 なんだか混乱したようなハルちゃんを引っ張って、道の端っこに二人で座る。そのままゴニョゴニョと何か話していた。置いていかれたようなわたしは足元を見ると、ポロも「くぅん」と困ったような声ですり寄ってくる。

 戻ってきた二人はゴホンと咳をしてから、何事もなかったように話しはじめた。

 

「……こともちゃんの、お母さんって、お裁縫が得意……だったの?」

「うん、ボタンが取れたらよく付けてもらってるよ」

「……今でも?」

「? うん」

「…………」

 

 また黙りこんでしまった。

 なんだろう。わたし、何か変なこと言ったかな。お母さんにボタンを付けてもらうなんて、子どもだと思われてるのかな。帰ったらすぐに教えてもらおう。お母さんがダメならお姉ちゃんに……。

 

 

「ことも!」

 

 

 山道を下りて町に入ろうとした時、向こうの道から聞きなれた声がした。

 

「お姉ちゃん?」

 

 なんでお姉ちゃんがここにいるんだろう。考える間もなくポロが嬉しそうに走り出して、わたしも引っ張られてしまう。

 お姉ちゃんはポロを確かめるように撫でると、次はわたしをぎゅっとした。

 

「わぷ」

「ああ、ことも! 無事だった? ポロもケガはない?」

 

 お姉ちゃんはいつもいい匂いがして、ぎゅっとされると安心するけど、今日はすごく苦しい。「ああもう私のドジ!」「なんで今日にかぎって」とよく分からないことを言っているお姉ちゃんは、ぎゅうぎゅうとわたしを抱きしめて離してくれない。だんだん息も苦しくなってきた時、

 

「お姉さん降参(ギブ)です、降参(ギブ)

 

 ユイちゃんの声にハッとしたようなお姉ちゃんは、やっとわたしを離してくれた。お姉ちゃんは恥ずかしそうに赤い顔をしていたけど、汗ばんでいて息も荒い。きっと、ここまで走ってきたんだ。なんでかは、分からないけど。

 ハルちゃんは鞄から小さな缶ジュースを取り出して、お姉ちゃんにあげていた。最初は遠慮していたお姉ちゃんも、最後はそれをもらっていた。ユイちゃんは、そんなお姉ちゃんの顔を、じっと見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お友達?」

 

 二人を見送ってから、お姉ちゃんと手をつないで歩く。両手がお姉ちゃんとポロでふさがっているのが、なんだか嬉しかった。

 

「……ううん。さっき会ったばっかり」

「そうなの?」

 

 思えば、知らない子たちとあんなにお話したのは初めてだった。なんというか、うまく言えないけど、すごく、気が合った。ポロも懐いていたし。

 でも、なんで隣町の、あんな山道にいたんだろう。聞きそびれちゃった。

 

「じゃあ、また会えるといいね」

「隣町の子なんだって」

「あら。じゃあ今度のお休みに行ってみようか」

 

 見上げれば、夕日に照らされたお姉ちゃんが優しく笑っていた。

 お姉ちゃんはすごくきれいな人。特にその目が、なんだか不思議な色をしている。

 

「お母さんとお弁当を作るから、ポロもつれて隣町まで行くの。さっきの子達とだって、また会えるかも」

「でも夕方までには帰ろうね。日曜日にはお父さんも帰ってくるから」

「そうしたら、みんなで晩ご飯を食べるの」

 

 聞いただけでワクワクするような計画だった。「ホント?」と思わず聞いてしまうと、お姉ちゃんは頼もしそうに笑った。

 

 

「本当よ。絶対にそうしてみせる。()()()()()

 

 

 すこしよく分からないことを言っていたけど、それはよくあることだ。

 嬉しくて、日曜日が楽しみになって、手をぎゅっと握ると、お姉ちゃんも握りかえしてくれた。思わず駆けだしてしまって、お姉ちゃんとポロといっしょに家まで走る。

 暖かい光が灯ったまわりの家から、それぞれの晩ご飯の、いろんなおいしそうな香りがしてくる。

 わたしたちも、お(うち)にかえろう。

 きっとお母さんも待ってる。

 今日の晩ご飯、なにかな!

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

「ポロちゃん、かわいかったね!」

「……うん。そうだね」

 

 ことも達と別れてから、ユイはあの白い毛並みに思いを馳せていた。大きな体に甘えん坊な仕草。小型犬とはまた違った魅力であった。

 

「あーあー、はやく再来年(さらいねん)にならないかなぁ。わたしもクロとチャコに会いたいよ」

「……しかたないよ。まだ二匹(ふたり)とも生まれてないし」

「分かってるけどさー」

 

 頭の後ろで手を組んで赤い空を見上げる。対してハルは、まだ視線を下に向けたままだ。

 

「ハルさーん? もしもーし?」

「…………」

「ハルばーさんや? めしはまだかの?」

「やめてってば」

「あ、起きた」

 

 鉄板の老女(いじり)ネタで意識をこちらに向かせると、眉間の皺をウリウリとしてやる。

 

「まだ悩んでるの? もうやっちゃったものは仕方ないじゃん」

「そうだけど……」

 

 相変わらず煮え切らない親友の態度に、ユイはやれやれと肩をすくめた。

 

 

 

 

“ 前回 ”の、あの夜の後、ハルは隣町でこともと再会した。ユイも、幽霊としてそれを見ていた。

 自暴自棄になっていたハルでも、彼女とは多少の話はするようになり、その際、今日のことを聞いたのだ。

 

 2年前のこの日、この山道で、愛犬(ポロ)を失ったのだと。

 

 その話を覚えていたハルが、それを阻止したいと言い出した。ユイはそれに反対する理由など無かったが、当のハルはなぜか躊躇うような様子も見せていた。やっぱり、でも、だって、と迷いすぎて、なかなか一歩を踏み出せない。そんなハルの手を引いて、進む決断をさせるのはいつもユイの役目であった。

 そして文字通りに尻を引っぱたいて隣町まで連れてきて、今に至る。

 

 ――そんなに悩むことでもないと思うんだけどな。

 

 それとも自分が考え無しなだけだろうか?

 いや、ユイの勘ではやるべきだと思ったし、それは今でも変わらない。それに、もう一つの根拠もあった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ハルにとっては、もう80年前。片目の少女(ことも)は語ってくれた。

 

 

『2年前、私はあのトンネルの前で、大事な友達を死なせちゃった』

『お化けのせいじゃないよ。私のせい』

『ポロは、私のせいで死んだの』

 

 あの時の、心が夜に囚われたハルには理解できなかった。

 自分のせいだと思うなら、何故そんなに気軽に話せるのか。

 ハルと重ねているつもりか。ユイを失った自分とは違う、所詮は犬ではないか。……そんな、最低なことまで考えていた。

 

『でも、私はそれを受け入れられなくて』

『ポロは、どこかに行っちゃったんだって、自分に嘘をついて』

『逃げ出したの』

 

 逃げている。

 今のハルがまさにそうだ。ユイを探すなどと、自分に、嘘を。

 

『私が嘘をついたから、お姉ちゃんまでいなくなっちゃった』

『だから私は、夜の町を探したよ。お姉ちゃんを』

『そして、ポロを』

 

 ハルは、左腕を掴んでいた。

 もう無くなったはずの左手が、ひどく痛んだから。

 

『探している内に、自分でも分からなくなった』

『ポロは本当に、どこかに行っちゃっただけなんじゃないかって』

『私の目の前で、死んだのにね』

 

 もう、聞きたくなかった。

 それを察したのか、こともは話を切り上げてしまった。

 

『でまあ、色々あって、私の目は一個なくなっちゃった』

『お姉ちゃんは見つかったけど、ポロは死んでた』

『それで私は、生まれて初めて、考えたんだ』

 

 振り返ったこともの右目が、ハルを射貫いた。

 

 

『――――死ぬってことを』

 

 

 その目は爛々と輝いていながら、その奥にはどこまでも暗い夜が渦巻いていた。

 

 2年前、その失った左目で何を見たというのか。

 2年間、その残った右目で何を見てきたというのか。

 いったい、何を見れば、そんな目になってしまうというのか。

 戦慄(せんりつ)するハルをひとしきりその目で見つめた後、こともは目を細めて笑った。その目を隠すように。

 

『でも、だから、私とお姉ちゃんは生きてるんだ』

『ポロの死が、お化けたちが、この夜が』

『私を、すこしだけ強くしてくれたから』

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、あの夜明けがこともと会った最後だった。

 その後の人生で、ハルが故郷に戻ることはなかったし、その隣町にも行くことはなかった。

 当然、ユイが見つかったなどという手紙も来なかった。

 

 だから、彼女とその姉が、その後でどのような道を歩んだのか。それをハルが知る由もない。

 

 だが、明けない夜に囚われたその道が明るい物だとは、どうしても思えなかった。

 それでも、あの少女なら、あの悲しくも強い目をしていた彼女なら、なんとかなったのではないか。

 そう、祈ることしか、できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「わたしは、あの子から、強さを奪ってしまったんじゃないかな」

 

 ぽつりと、ハルの口から言葉がこぼれた。

 苦難は、良くも悪くも人を変える。現に、いま会ったこともと、あの時のこともは、まるで別人だ。

 ポロの死が彼女を強くしたというのなら、それを奪ったのは自分(ハル)だ。

 彼女とその家族に降りかかったであろう苦難。その根元が何なのかを、ハルは何も知らない。その根元を放置したまま、ただ自己満足のためにポロだけを助けた。それは果たして、こともの為になったのだろうか?

 むしろ、それが原因で彼女たちに更なる苦難が……。

 

 

 

 

 脇腹を思いっきり掴まれた。

 

 

 

 

「うにょわあぁッ!?」

「はーい、笑って笑ってー」

「あはっ! あひゃはっ! やめてってば、もう!」

 

 最近、やたらと悪戯好きになった親友に両手でデコピンを2発お見舞いする。このやり取りもすっかり慣れてしまった。「だって眉間は怒るじゃん」と(のたま)うユイの脇腹をつついてやる。そういう問題じゃない。

 

「へーきへーき。なんとかなるって」

「……また勘?」

「それもあるけど、ハルは気付かなかった?」

 

 脇腹を撫でながら考える。そういえば。

 

「こともちゃんの、お母さん……」

「前の時は亡くなってたんだよね?」

 

 たしかに、そう聞いていた。こともが物心つく頃には、もう母親はいなかったと。

 しかし、いま会ったこともは、まるで母親が存命なような口ぶりだった。嘘をついているとも思えない。いったいどういうことなのか。

 考えても答えは出ず、ユイもまた、珍しく何かを考え込んでいた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――あの目……。

 

 ユイが気になっていたのは、こともではなく、その姉。

 あの瞳の奥に見えた、不思議な輝き。あれは間違いなく、ハルの瞳にあるものと同じだ。

 自分では分からないが、ユイの瞳にも同じ輝きがあると、ハルも言っていた。

 ハルとユイの共通点。

 そして、彼女も()()であるならば。

 その結果が、彼女たちの母親の生存であるならば。

 

 ――じゃあ、大丈夫でしょ。

 

 何も心配することはない。そう結論づける。

 顔を上げると、不安そうなハルと目が合った。どうやらハルは分かっていないらしい。

 とはいえ、ユイの考えはすべて推測。この心配性の親友に話しても、逆に不安にさせてしまうかもしれない。

 だから、もっと単純(シンプル)な答え合わせにしてあげることにした。

 

 ハルの手を引いて、ぎゅっとする。ことものお姉さんを見習って、ぎゅうぎゅうに。

 

「ユ、ユイ、ぐるじぃ……」

「はい、ではここで問題です」

 

 肩を叩いてくるハルを無視して、耳元に囁いてやる。

 

 

「わたしが死んで、つらかったですか?」

 

 

 腕の中のハルが震えた。親友の心の傷を抉るような真似はしたくないが、仕方がない。「ゆっくりでいいから、答えて」とできるだけ優しく囁く。

 すこし間があいてから、ハルは頷いた。

 

 

「わたしが死んで、ハルは強くなりましたか?」

 

 

 ハルは動かなかった。世話のやける親友に苦笑しながら「わたしは見てたよ」と付け足してやる。

 小さく、ハルは頷いた。

 

 

「もう一回、わたしに死んでほしいですか?」

 

 

 今度は、ハルが激しく首を振った。なんてことを聞くんだとばかりに、背中を叩かれる。

 親友の微笑ましい抗議に苦笑しつつ、最後の問題を出す。

 

 

「もう一回、わたしの死を乗り越えて、強くなりたいですか?」

「……そんなの決まってるよ」

 

 ようやく答えを出せたらしいハルが、顔を上げた。

 どこか、ふっきれたような顔で。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「ユイとお別れするぐらいなら、わたしは弱虫のままでいい」

 

 

 これだけは絶対に変わらない。前回でも今回でも、いつ聞かれようと、絶対にそう答える。

 

 ならば、こともだってそうだろう。

 ポロを、大事な家族を失ってまで、強くなりたいはずがない。

 今の年相応なこともでも、前の強くて悲しいこともでも、きっとそう答える。

 だから、ハルのしたことは間違いではない。今なら、ハルはそう思う。

 

「それにさ、あの子ならきっと大丈夫だよ」

 

 ハルの答えに満足したのか、ユイが笑顔で付け足してくる。

 

「勘で?」

「そ。勘で」

 

「だって、わたしたちの先輩だし!」とよく分からない根拠も付け足してきて、ハルも笑ってしまう。「こんど会ったら、ことも先輩って呼んでみようか」というハルの言葉がツボに入ったのか、ユイはお腹を抱えて大笑いした。

 それにつられて、またハルは笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「わたしも……」

 

 ひとしきり大笑いした後、ユイが静かに言った。

 

「わたしも、ハルとお別れ(さよなら)するぐらいなら、ダメな子のままでいいや」

 

 夕日に照らされたユイの顔は、どこかユイらしくない、弱気そうな顔だった。

 いや、どんな顔をしていても、ユイはユイだ。

 

「弱虫と、ダメな子かぁ。ぜんぜんダメな二人だね。わたし達って」

「そうかも」

 

 二人で苦笑して。どちらからともなく、手をつなぐ。

 手をつないで、隣町を出た。

 

「帰ろう」

 

 西に、夕日に向かって歩く。

 二人の、わたし達の町に向かって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もしかしたら、わたし達は、また間違ったのかもしれない。

 

 これは、依存ともいえる、よくない関係なのかもしれない。

 

 強すぎる絆が、ときには悪縁となるように。

 

 また、コトワリさまに切られてしまうのかもしれない。

 

 

 

 

 この戦いで、この不思議な二度目の道で、

 

 すべてがうまくいったわけじゃない。

 

 未来(さき)のことだって、不安でいっぱいだ。

 

 

 

 

 でも。

 

 それでも。

 

 この手を、はなしたいとだけは、どうしても思えない。

 

 わたしも、きっとユイも、そう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、また明日」

 

 いつも通り、ハルの家の前で別れる。

 手は、握ったまま。

 この手を離すのは、ハルの役目だ。

 以前は、別れるのが寂しくて、なかなか離せなかった。

 ユイは、そんなハルの手をずっと握ってくれていた。

 でも今は。

 

「うん。おやすみ、ユイ」

 

 あっさりと手を離したからか、どこかユイが物足りなさそうな顔で帰っていく。

 しばらくそれを見た後、

 

 

 

 

「ユイ!」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 振り返ったユイが見たのは、

 

 ユイが、この世で一番きれいだと思う笑顔で。

 

 

 

 

「――――またね!」

 

 

 

 



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20:終章(えぴろーぐ)

 祖母は、病院の中庭で事切れていた。

 

 朝方、出勤してきた医師によって発見されたそうだ。夜中には警備ドローンが巡回していたはずだが、なぜ発見されなかったのかは分からないという。

 責任問題がどうのと病院側から謝罪されたが、私も、他の家族も病院の責任を追及する気にはならなかった。

 

 祖母の死に顔が、あまりにも安らかだったからだ。

 

 ベンチに座っていた祖母の手には、二色のリボンが握られていた。

 青いリボンには、見覚えがある。古い写真の中の、まだ幼い少女だった頃の祖母の頭に、同じリボンが結ばれていた。

 赤いリボンにも、見覚えはある。それも古い写真の、祖母の隣で笑っていた少女の物だ。

 違うのは、写真の枚数。

 青いリボンは、祖母が結婚する前後までの間、多くの写真に残されていた。

 対して、赤いリボンを着けたあの少女の写真は、とても少ない。

 

 私は、祖母が左腕を失くした理由を知らない。私だけではない。みんな知らなかったのだ。

 祖母は、両親にも、夫にも、子どもにも、誰にもそれを話さなかったから。

 誰にも話さないまま、その秘密はついに墓まで持っていかれてしまった。

 

 だが今なら、ある程度の推測はできる。

 祖母が最後に手にした二色のリボン。

 幼い姿しか残っていない、赤いリボンの少女。

 とても、とても悲しい、何かがあったのだろう。

 だから、あのリボンは祖母と一緒に灰にした。せめて、天国で一緒になれるようにと。

 

 だが、その必要も無かったのかもしれない。

 祖母の死に顔は、まるで楽しい夢を見ているように微笑んでいた。

 最期のその瞬間に、せめて夢の中で、祖母があの少女と再会できたことを、私は祈るばかりだ。

 

 

 

 

 いま私の首には、唯一の祖母の遺品がぶら下がっている。

 旧式もいいところの、骨董品のような懐中電灯。

 祖母が最期に身に着けていたものだが、さすがに火葬することはできなくて、私が譲り受けた。

 首飾りにするには重く、大きすぎる。しかも旧式の電池(バッテリー)しか使えないから、もう光ることもない。

 それでも捨てる気にはならない。大好きな、祖母の遺品なのだから。

 年に一回、こうやって墓参りする時ぐらい、着けても良いだろう。

 

 

 

 

 辿りついた、祖母の墓。そのそばに。

 誰が植えたのか、赤い百日草(ジニア)が、風に揺られていた。

 

 

 

 

 まるで、赤いリボンのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ずりずり ずずず ごりっ

 

 ずりずりずり ごりっ ずりずり 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灰色の怪異は、すべてを視ていた。

 

 その町を、その夜を、その空を。

 

 その夜空に、炎が舞う。

 

 

 太鼓を鳴らしたような音が響き渡り、

 

 暗い空に大輪の花が咲いた。

 

 いくつも、いくつも。

 

 

 それを見る、多くのヒト。

 

 それを見る、二人の少女。

 

 その少女たちを、怪異は視つめていた。

 

 

 少女たちの影は、肩がふれるほどの近さで、夜空の花を見上げていた。

 

 ひときわ大きな花が咲いた後、二つの影は立ち上がる。

 

 その手をつないだまま、山を駆け下りてゆく。

 

 

 やがて、雑多なお化けたちが、小さな影に立ちふさがる。

 

 だが、二つの影が、その手を離すことはない。

 

 くるくる、くるくる、と。

 

 お化けたちをすり抜け、時には飛び越え、走り抜けてゆく。

 

 

 

 

 灰色の怪異は、それを視ていた。

 

 二度目の夜を廻る、その影を。

 

 

 

 

 夜が、少女たちを見つめている。

 

 

 

 

 (ふた)つの影は、(よる)(まわ)りつづける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二夜廻(ふたよまわり)  おわり

 

 

 

 



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