闘神演義 (不知東西屋)
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第1章
第1回:女丑が雨乞いを行うこと


 登場人物の名前(特にフリガナ)は結構適当です。
 あしからず


 燃えるような炎天の下、乾ききった大地に民草の怨嗟がむなしく響いている。

 

 空には雲一つない。

 

 史上稀にみる干ばつのさなか、人々は必死に雨を祈るが、天にその祈りは届いていない。

 

 代わりとばかりに、眩く輝く太陽が死体に鞭打つように更なる日差しを投げつけてくる。

 

 それも、ただ一つではない。

 空駆ける太陽は全部で十。

 

 はしゃぎまわる子供のような無軌道さで天空を動き回り、思うさま光を投げつける。

 

 地上はまさしく灼熱の地獄と化していた。

 

 川も泉も枯れ果てて、草も木も立ったまま渇き朽ち果てる惨状。

 一杯の水のために兄弟が争い。親子が殺し合う。

 

 そんな、人の尊厳さえ奪われる未曽有の危機に一人の巫女が立ち上がった。

 

 その力は天地に通じ、一度祈祷を行えば降らぬ雨はなく、癒えぬ病もないと言われた。

 自他ともに認める当代随一の巫女。

 

 名を女丑(じょちゅう)といった。

 

 この日のために建てられた祭壇とその遥か上空で輝く10の太陽を前にして、巫女は傍らの侍女に言う。

 

「もしも、私が仕損じた場合には、すぐさま櫓に火を放ちなさい。」

 

 年の頃、十六か七。

 いまだあどけなさの残る顔には、不釣り合いな確固たる意志が宿っている。

 

 生来の巫女の家系ではない。

 ある年、加持祈祷を生業とする家の門前に放り出されていた赤子が彼女である。

 

 以来、十六年。

 自らを養育してくれた父母、一族への思いはすこぶる篤い。

 

 多感な年頃でもあった。

 日々に積み上がる悲劇に湧き上がるものもある。

 

 彼女にとって、これは恩返しでもあり、義挙でもあった。

 力及ばず、雨を呼べなかった場合には、自ら生贄となる覚悟。

 

「そんな、女丑さま。おやめください。」

 火付けを命じられた侍女の表情は蒼白である。

 

 女丑より十ばかり年長で、付き合いも長い。

 娘とも妹とも思い世話をしてきたのだ。

 その主人を自らの手で火刑にかけよと言われれば、無理もないことといえた。

 

 狼狽える侍女とは対照的に、女丑はむしろ落ち着いて、幼い娘を教え諭すように言う。

 

「心を痛めるにはあたらないわ。死ぬなどと考えないで。私はただこの肉の身体を捨てるだけ。煙とともに昇天すれば、直接天帝陛下に我らの窮状を奏上することができるでしょう。」

 

「それでも、私には出来かねます。」

 いやいやと聞き分けぬ侍女に女丑は困った顔。

 

 そこに横合いから声をかける男があった。

「そのように己が身を粗末に扱って、従者を困らせてはいけないよ。」

 

「尭様」

 色あせて、擦り切れたような服を着た痩せた男。

 目の下には濃い隈がベッタリと張り付いている。

 

 はっきり言ってみすぼらしいことこの上ないが、彼こそが当代の天子・尭であった。

 寒さに震えるものあれば自分の衣をかけてやり、飢えるものあれば自分の皿から分けてやる。

 さらには寸暇を惜しんで政ごとに取り組み、錦の衣も豪華な食事も縁遠い。

 

 もとより口数の多い人物ではないが、普段よりもさらに言葉につまる様子なのは満足に水の飲めない現状に合って、舌が回らぬせいだろう。

 

「確かに今回の干ばつは尋常ならざる事態だ。しかし、だからといって自ら命を捨てるような真似はしないでほしい。仮に今日の雨ごいが上手くいかなかったとしても、お前の力がなくなるわけではないのだ。また、それが必要とされるときはいくらもあろう。くれぐれも短慮を起こすのではないぞ。」

 

 噛んで含めるように穏やかな口調で説き伏せられ、女丑はうやうやしく頭をさげた。

「かしこまりました。ありがたいお言葉、恐悦至極。この女丑、必ずや風雨を呼び寄せて御覧に入れましょう。」

 

 巫女の返答に侍女は明らかにホッとして、尭は満足げに頷いた。

 

 しかし、文武の百官、近隣の民、そして天子である尭。

 数多の人が見守る中で、今から少女が挑むことの困難と過酷さを真に理解しているのはただ1人。

 

 女丑本人だけであった。

 

 1つきりでさえ人智の及ばぬ力を持つ太陽。

 それが今や10個。

 いずれも我を忘れたように荒ぶっている。

 

 これから巫女は1人きり、それに立ち向かおうというのだ。

 決死の覚悟は、むしろ必然であった。

 

「それでは、行ってまいります。」

 

 女丑は笑みを浮かべた。

 

 磨き上げた翡翠の小刀のように硬く澄んだ強い表情だった。

 

 日よけのための四阿(あずまや)を後にして、丸太を高く組んだ(やぐら)の上、祭壇へと向かう。

 

 日陰でさえとどまることのなかった汗は、吹き付ける熱風と押し寄せる日差しによって瞬く間に塩の結晶と化した。

 

 少女は青い衣をはためかせて一段ずつ祭壇へ登っていく。

 そのさまは、青ざめた空の色と相まって天空へ溶けていくかのような錯覚を見る者に与えた。

 

(ここが、私の戦場。私の死地)

 

 巫女が頂上の円座に腰かける。

 高まる緊張感に周囲がシンと静まり返る。

 

 ジリジリと大地の焦げる音が聞こえるようであった。

 

 女丑は祭壇の上から周囲を見渡した。

 

(そして、私の守るべき人たち)

 

 眼下の人々はいずれも飢え、渇き、落ちくぼんだ眼で、すがりつくように女丑を見つめている。

 手を合わせ、跪いている者も多かった。

 

 あたりは一面、茶褐色の荒れ地が広がり、彼方では岩山が力なく横たわっている。

 ほんの一月前までは草木が茂り、湖沼や小川もちりばめられた美しい平原であったのに。

 

 息を吸えば、熱気と砂埃を含んだざらついた空気が押し寄せてくる。

 視線をあげ、女丑は黒ずむほどに青ざめた忌々しい晴天を見据えた。

 

(いざ、参ります。)

 

 手にした(カネ)を打ち鳴らす。

 一度、二度、三度。

 

 虚空に韻々と漂う残響と呼応するように、祭壇周辺の陰陽が整えられる。

 鐸の余韻が消え去る間際、乙女の淡い唇から朗々と祝詞が流れ出す。

 

 10個もの太陽にあぶられ続ける地上にあって、その声はただ1つ澄み切って涼しげだった。

 

 尭をはじめとした貴人、そして見物の民草が皆聞き惚れ、それぞれに祈りを捧げる。

 皆の思いを背中に受け、女丑は必死の祈祷を続ける。

 

 遮るものなき日差しと熱風が容赦なく体力を奪う。

 乾ききった空気に喉が切り裂かれるように痛んだ。

 

 血の滲むような思いに天地が呼応したのはおよそ一刻の後。

 

 おりから、湿った風が吹きはじめ、一同の中に期待感が高まっていた時、不意に見物人の1人が空を指さした。

 

「く、雲だ!」

 小さく、(もや)のように心もとないが、それは確かに雲だった。

 

 雲は湿った風が大地に吹くたびに僅かずつ、薄絹を一枚ずつ纏う様に大きくなっていく。

 

 どよめきが広がる。久方ぶりに希望を見た思いで、涙を流す者さえあった。

 

 その矢先。

 斬ッ!!

 唐突に、皆の願いそのものである白い雲が寸断される。

 

「「「!?」」」

 群衆が状況を理解できずに固まった。

 

 雲を切り裂いたのは太陽から放たれた十本の光熱線。

 

 子供が遊び場に転がる邪魔な石を蹴り飛ばす無邪気さと迷いのなさで、雲が細切れにされた。

 

 やはり、駄目なのか。と、周囲が絶望の嘆きで埋まる中、女丑は闘志を失ってはいなかった。

 

(まだ!!)

 

 あらかじめ、このような事態も予期していた。

 限界を超えた喉から出る音は既にかすれて聞き取れない。

 

 しかし、ありったけの力をこめて巫女は祈った。

 

(慈雨よ、あれ。喜びよ、来たれ。)

 

 巫女の祈りに感応し、一際、長く風が吹いた。

 そこから生じた薄い膜が散らばり行く雲をまとめ上げ、さらに大きく成長させていく。

 

 ポツリ、と(しずく)が生じた。

 

「あ、雨だ。雨だぞ!」

「お、おぉぉおぉぉぉぉぉ。雨だぁー!」

 

 ポツリ、ポツリとまばらに降り注ぐ。

 それはまさしく慈雨だった。

 

 群衆が歓声を上げ、涙をこぼす。

 当代随一の巫女というにふさわしい力。

 

 しかし、それゆえに遥か天空の太陽に己が存在を知らしめてしまう。

 

 焦ッ‼

 再度、十個の太陽から熱線が放たれた。

 

 九本は先程と同じく雲を寸断し、最後の一本は女丑を襲った。

「ッ!」

 巫女の細いからだが雷に打たれたかのように反り返る。

 

「女丑様っ!」

 櫓の下で侍女が悲鳴をあげる。

 

 巫女は、倒れなかった。

 祭壇に踏みとどまるかのように、胸を張った。

 

 大丈夫とでも言うように片手をあげて侍女を制止する。

 

 だが、無事ではなかった。

 

 熱線に焼かれた両の瞳は白濁し、目の前にはただ暗闇が広がっていた。

 背後を振り返らないのは、無残な両目を見せぬため。

 歯を食いしばったのは、苦痛の悲鳴を漏らさぬためだ。

 

 我が物顔で飛翔する太陽をにらみつけるが、その目には既に何も映っていない。

 

(ごめんなさい。私は、届かなかった。)

 

 女丑はこれから自身に降りかかるであろう事態を正確に理解していた。

 

 十個の太陽に直に相対したために、分かったのだ。

 それらが抱える幼稚性が。

 

 一つ一つが強大な力を持ちながら、その行動には意味が感じられない。

 ただ、解き放たれた嬉しさにむやみに力を振るっているだけなのだ。

 

 故に乞うべき慈悲、窺うべき意図、そんなものは存在しない。

 

 つまり、相手は道理の通じぬ子供で、自分は彼らの遊び場に迷い込んだ虫けらのごときもの。

 

 子供が面白半分に虫を踏みつけにした後、相手がまだ息絶えていなかったらどうするか。

 もう一度、足を振り下ろすだろう。それもより念入りに。

 

(東方の天帝たる帝俊陛下。願わくば、皆に慈悲を。)

 

 最後の祈りを捧げる女丑の上に十本の熱線が降り注ぐ。

 

 業ッ!!

 女丑のいる祭壇、青い衣、黒い髪、そしてその肉体全てが一瞬にして炎に包まれる。

 

「女丑様っ!!」

 絶叫し、祭壇に向けて駆け寄ろうとする侍女を尭配下の兵が推しとどめる。

 

 消し止めるための水もない。

 助ける術は皆無だ。

 

 乾ききった空気と皆の悲嘆の中、当代随一の巫女を乗せた櫓はものの半刻で燃え尽きた。

 




 書き溜めてある所までは毎日更新、それ以降はまとまったところまで書けたら順次投稿します。


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第2回:女丑が東天の都で羿と会うこと

 気が付いた時、女丑は草原の端、街道と思しき整備された道の上に立っていた。

 

 青々とした草と色とりどりの花をかき分けるように伸びる道の先には、石の壁に囲まれた街が見える。

 

 現在地も己の状況にも確信はなかったが、ともかくの手がかりを求めて歩き出した。

 

 歩をすすめ、近づくほどに磨き上げられた壁は高さを増していくようだった。

 しかし、それ以上に女丑を驚かせたのは街の入り口を守る門番。

 

 何と、二本の角と四本の腕を持つ鬼神であった。

 身の丈一丈あまり。筋骨隆々、顔つきも厳めしく、口元には鋭い牙が並んでいる。

 

 迂闊(うかつ)なことをすれば頭から丸かじりにされそうであったが、もとよりこの街よりほかに行く当てもない。

 たっぷり半刻ほどの逡巡の後、女丑は勇を振るって声をかけた。

 

「お、お勤め中に申し訳ありません。ここは東方の天帝・帝俊陛下のおわす東天の都でよろしいでしょうか。」

 

 これに対して鬼神は厳つい顔に似合わぬ気さくな様子で応じた。

「左様。こここそが東方において天地の運航を司る東天の都。お主、見かけぬ顔だが一体どのような用向きだね。」

 

 期待通りの答えに女丑は躍り上がるような気持になった。

 

 そうであればよい。と考えていた通り、どうやら本当に昇天したらしい。

 ならば、この機会を逃す手はない。なんとか地上の危機を天帝陛下に訴えたい。

 

 相手が思いのほか親切そうなのもあって、質問にも素直に答えた。

「私は女丑と申す者ですが、この度は帝俊陛下に奏上させていただきたき議がありまして、こうしてまかり越した次第にございます。」

 

 フム、と思案顔で肯く鬼神。

「天帝陛下の宮殿は街中どこからでもみえるから迷う心配はいらないが、しかしなぁ。お主、誰ぞ神仙の紹介状を持っておるかね。」

 

 その様子に不安をあおられたのか。女丑の表情が曇る。

「紹介状?いえ、何も持ってはおりませんが」

 

 女丑の返答を聞くと、鬼神は悩ましげな様子で顎に手をやった。

 もとより、面倒見が良くお人好しな性格なのであろう。

「う~む。紹介状がないと順番待ちだが、そうなるといつになるかわからんぞ。1月や2月ならいい方で半年以上待つこともざらにあると聞く。」

 

 これは完全に悪い知らせだった。

 何せ地上では毎日毎日いくつもの村が消えている。

 悠長に順番待ちなどしていたら、地上の人間は1人残らず死に絶えてしまうだろう。

 

 女丑は真っ青になった。

「そ、そんな、でも私、ここには来たばかりで。とても紹介状など」

 

 門番もまるで自分の事のように頭を悩ませている。

「どうやら、余程の用件のようじゃな。なんとか力になってやりたいが、ワシもしがない門番にすぎんし、そんな大層なコネなど持ってはおらぬのでな。」

 

 世も末とばかりの顔色をなくした少女といかつい顔一面に苦悩を貼り付けた門番の姿は否が応にも目を引く。

 

 通行人がチラチラと視線をよこして通り過ぎていく中で、二人に声をかけるものがあった。

 

「東天の都の玄関たる門前で何をそんなに辛気臭い顔をしているんだい。」

 

 女丑と門番が顔をあげてみれば、1人の男が質素だが造りのしっかりした衣をまとい笑顔を浮かべていた。

 鬼神に比べれば小柄だが、おおよそ人並み以上の堂々とした体躯。

 顔は童顔といってよい造りだが、眼だけは鷹のように鋭い光を放っていた。

 巫女である女丑は気づかなかったが、見る者が見れば、衣の下に鍛え抜かれた鋼のごとき肉体が隠れていることに気が付いただろう。

 

 男の言葉に反応したのは女丑ではなく、門番の鬼神の方だった。

 うやうやしく頭をさげてかしこまる。

「これは羿(ゲイ)様。無事のお帰り何よりにございます。」

 

 羿と呼ばれた男は鷹揚な顔で肯いた。

 鬼神の態度から、若く見えても相当な貴人と思われたが、偉ぶったところは感じられない。

 

 いかにも気楽な様子で手にした包みを鬼神に差し出しながら、口を開く。

巴鬼(ハキ)殿こそ、いつもお役目御苦労。これは土産だ。皆で分けてくれ。それで、妙な顔をしていたがどうかしたのか。」

 どうやら包みの中身は差し入れの菓子か何からしい。

 

「いつも心遣いありがとうございます。」

 鬼神は二本の腕で受け取ると丁重に礼を言うと、続けて事情の説明をする。

 

「お恥ずかしいところを見られてしまいましたが、実はこの娘が天帝陛下に奏上したいことがあるのに、残念ながら紹介状の類を持ち合わせていないとのこと。火急の用で順番待ちの間がないとのことで、どうしたものかと頭を悩ませておった次第で。」

 

 この台詞に男は少し考える表情になった。

「なるほどな。こうしてあったのも何かの縁。場合によっては力になれるかもしれない。良ければ何を奏上したいか教えてくれないか。」

 

 溺れる者は藁をもつかむ。地獄に仏の気持ちの女丑に否も応もない。

 いきおい込んで羿と門番・巴鬼に地上の窮状を訴えた。

 

 巴鬼は聞き上手なうえに同情的で、何度も大きく相槌を打つ。

 羿の方はといえば、要所でいくつか質問をした以外は腕を組んで静かに聞いていた。

 

「なんと、そんなことがなぁ」

 話を聞き終えた鬼神が長々と嘆息する。

 

 羿も応じるように口を開く。

「しばらく、都を離れていたが、その間にまさかそれほどの事態が地上で起こっていたとはな。」

 

 フム、と力強く肯いて腕をほどいた羿は女丑の目をまっすぐに見据えて言った。

「女丑と言ったか。お前の赤心、確かに聞いた。この羿が力を貸してやろう。」

 

 この言葉に喜んだのは状況のよくわかっていない女丑よりも、むしろ巴鬼の方だった。

「おお、良かったのう。羿様の力添えがあれば百人力。まさに大船に乗ったようなものじゃ。」

 

 既に問題が解決したような口ぶりで言われ、女丑も心強くなる。

 

 一方で羿はさばさばとした調子だ。

「それじゃあ、善は急げだ。早速宮殿に行くとしよう。はぐれないように着いて来いよ。」

 言いながら、脇に置いてあった荷物を担ぎ上げて歩き出す。

 

「え?」

 思わず、女丑の口から驚きの声が出た。

 

 驚いたのは荷物の大きさだ。

 大人10人が手を広げて、やっと周りを囲めるほどの大きな箱。

 

 それを長い棒の端に括りつけ、軽々と肩に担ぐ羿に女丑は今日何度目かの仰天をした。

 

 羿が近づいてきたときは、巴鬼と考え事に忙しく。

 また、あまりに軽々と静かに運ばれてきたので気づかず。

 近くに置かれた後はあまりに大きくて荷物と認識していなかったのだ。

 

 思わず足を止めてしまった少女に対し、羿は足を止めずに声をかける。

「早くしないと置いていくぞ。」

 

 早く行った方がいいと、手を振って見送ってくれる巴鬼に頭をさげてから、女丑は羿の後を追った。

 

 とはいえ、遠目から見てもハッキリわかる巨大な荷物。

 はぐれる心配など皆無だった。

 

 一刻ほど、迷いのない足取りの男について歩いただろうか。

 女丑は荘厳な宮殿の前にたどり着いた。

 

 遠目からも周囲とは一線を画す大邸宅だったが、どうやらここが天帝の住まう宮殿で間違いないらしい。

 

 周りを囲む濃い色の塀。その中央に大きな門があった。

 門は二重になっているらしく。奥の門は締め切られ、手前の門だけが開かれている。

 

 そこから長蛇の列がずらりと伸びていた。

 行列の先は通りの角まで伸びており、その先は見通せない。

 

「もしかして、あの行列は謁見の順番待ちですか?」

 尋ねると羿は同情するように眉根を寄せて答えてくれた。

 

「その通り。アレは帝俊陛下への謁見の申し込みの行列だ。なんの伝手もないものはああして1日かけてやっと、順番待ちの一番後ろに名前を載せられる。そこからさらに何ヶ月も待たされるわけだ。」

 申し込みをするためだけで1日仕事とは。

 

 唖然とする女丑。

 羿はそんな少女の驚きに微笑をもらしながら、行列を素通りして奥の門へと歩いていく。

 

 表側の門の脇には行列の人々のための受付口があったが、奥の門には衛兵が二人、脇を固めるようにして立っていた。

 

 物々しい様子に女丑が挙動不審になる。

 それを見とがめたのか、衛兵が警戒心のこもった視線を投げかけてくる。

 

 女丑の背中を冷たい汗が流れたが、羿が笑顔で衛兵をとりなした。

「そう心配しないでくれ。コイツは女丑、俺の連れさ。」

 

 その一言で衛兵の態度が明らかに変わる。

「ハッ、失礼しました。今、先ぶれを出しますのでしばしお待ちください。」

 言うや否や、衛兵の一人が通用口をくぐって駆け出していく。

 

 宮殿内に羿の来訪を告げに走ったものと思われた。

 貴人だろうと思ってはいたが、どうやら想像以上らしい。

 

「羿さんって一体、何者なんですか?」

 我慢できずに質問すると、羿は答えの代わりに笑い声をあげた。

 

「すぐに分かるさ。それよりも、帝俊陛下に何と申し上げるか今のうちからよく考えておけよ。」

「え、帝俊陛下に?それってどういう」

 

 女丑はさらに問い詰めようとしたが、それは締め切られていた奥の門が音もなく開かれたことで遮られた。

 

 門をくぐり、宮殿の前庭に進む。

 広がる光景に少女の口から感嘆が漏れた。

 

 燦々と降りそそぐ陽光の中、五色の花をつけた木々が枝を伸ばし、その足元を流れる小川では優美なひれをした魚が玉のように輝いている。

 せせらぎにあわせるようにして、どこからともなく妙なる調べすら響いて来ていた。

 

「わあ、スゴイっ」

 年相応に無邪気な声をあげ、2歩、3歩と駆け寄る。

 

 よくよく見れば五色の花と思われたのは大小さまざま、色とりどりの鳥たち。

 辺りに響く楽の音は彼らのさえずりであった。

 

 鳥たちは天上天下から集められ、いずれも声も姿も非の打ちどころのない。

 鳴き交わし、飛び交う小鳥たちによって風景も楽の音もつねに彩りを変え、見る者を飽きさせることがない。

 

 東天の都に名高い百鳥の庭園であった。

 

 見惚れ、聞き惚れ、危うく当初の目的を失念しかけた女丑だったが、羿の声に現実に引き戻される。

 

「お~い、何やってんだ。はやく来な。」

 見れば、すでに庭の端、宮殿の建物の入り口でニヤニヤと笑っている。

 

 あわてて駆け寄ると羿は家令と思しき壮年の男となにやら相談を終えたところらしかった。

 脇に置かれた羿の荷物を宮殿の使用人が8人がかりで持っていく。

 

 どうやら巨大な荷物とはここでお別れ。

 ようやく身軽になったとばかりに羿が軽く肩を回している。

 

「それでは、ご案内させていただきます」

 そう言って家令が先に立ち、羿が続く。

 

 壮麗極まりない宮殿だが、羿は全く気負う所もなくスタスタと歩いて行ってしまう。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ~」

 

 女丑は自分の足が廊下の敷物を汚してしまうのではないかと心配しながら、心持ち爪先立ちになって足を踏み入れた。

 



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第3回:女丑が東方の天帝に奏上を行うこと

(!?)

 

 我に返った時、女丑はすでに謁見の間で頭をたれていた。

 隣では羿が同じように跪いている。

 

 顔を伏せているため、天帝の姿を直接見ることは出来ない。

 しかし、目の前、ほんの十間ほどの距離に東方の天帝たる帝俊陛下が腰かけているはずだった。

 

(え、え?ちょっと、ちょっと待って)

 

 完全にテンパっている女丑だった。

 

 とは言っても、いきなりここに連れてこられたわけではない。

 半刻ほどは控えの間で待たされたし、他にも心を落ち着ける時間はあった。

 

 そもそも、少女は天帝陛下に奏上を行うためにここへと来たのではなかったか。

 しかし、それは人ごとだから言える外野の意見だ。

 

 奏上、と言っても直接の面会など想定していなかった。

 近習の何某に取り次いでもらえれば重畳だと考えていたのである。

 

 女丑は呪力こそあり、名も高かったが、本来的にはそれほど高い身分でない。

 はっきり言ってド田舎のイモねえちゃん。

 そんな彼女にとっては宮殿に存在する全てがプレッシャーのもとだった。

 

 生まれてこの方、見たことも聞いたこともないような荘厳な宮殿に心の準備なしで通され。

 落ち着きを取り戻すための控室でさえ、己が何百年働いても買うことは不可能であろう天界産の茶器でもてなされるのである。

 

 落ち着くとか、落ち着かないとかの次元の話ではなかったのだ。

 

(う、吐き気がする。)

 

 緊張のあまり、胃液がせりあがるが、必死に平静を装う。

 そんな彼女の内心を置き去りにして、謁見は進行していた。

 

 今は、羿が直答を許され、なにやら命じられていた仕事の首尾を報告しているらしかった。

 

「この度は猪婆竜の捕獲御苦労だった。いずれも良型ぞろい。丸々と肥えておるうえに、最近なかったほどの大猟。ほめてつかわす。」

「ありがたきお言葉、恐悦至極」

 天帝より送られた賛辞に羿が深々と頭を垂れる。

 

 ちなみに猪婆竜とは今で言うワニを太らせたような形をしていて、腹の皮が太鼓の材料として一級品であるばかりでなく、楽の音にあわせて自ら腹太鼓を打ち鳴らすおもしろ生物である。

 

 羿の謙虚な態度に、天帝は東方の統治者としてふさわしい悠々とした仕草で肯く。

 

「他の者なら得意満面に手柄を吹聴するであろう成果だが、お主には物足りないようだな。流石は羿よ。褒美を取らせたいが、なにか望みがあるか。」

 

 対する羿はあくまで控えめな態度を崩さない。

「お言葉のみでも過分でございますが、もしよろしければ後ろに控えし女丑の話をお聞き願いたく。」

 

 その言葉に、天帝は初めてその存在に気が付いたとでも言うように女丑に目を向けた。

 無論、帝俊とて女丑の存在には気が付いていた。

 どのような者かも先んじて報告を受けている。

 

 しかし、それはそれ。宮廷というか、支配者の行動には色々とお約束が付きまとうのだ。

「フム。他ならぬ羿の頼みとあらば是非もない。その方、直答を許すゆえ、面をあげよ。いかなる用で参ったのか。」

 

 指名を受け、女丑は顔をあげる。

 玉座にゆったりと腰かける天帝。

 帝俊の、穏やかな表情の中にも神々しい威容がにじみ出す佇まいに圧倒される。

 

 緊張のあまり、体が震えそうになる。

 それをこらえるべく手を握りしめ、女丑は自分を叱咤する。

 

 思い出すのは地上の惨状。背負っているのは自分の運命だけでないことを再確認する。

「ご威光に一片の陰りなく、高徳の比類なき天帝陛下。本日はぜひともお耳に入れていただきたいことがあり、非礼を承知の上でまかり越しました、」

 

 何とか一息にそこまで言えば、わずかに緊張もほどけてくる。

 後は、思いが自然と言葉になって現れた。

 

 しばしの後、少女が奏上を終えると天帝は重々しい表情になっていた。

 眉間には深い皺は刻まれている。

「お主の訴えはまことにもっともだ。ただちに策を講じよう。」

 

「あ、ありがとうございます」

 反射的に礼を口にしていた。遅れて言葉の意味が理解される。

 

 まさか、これほど上手くいくとは。

 驚きながら、女丑は平伏し、さらに感謝の言葉を述べる。

 

 天帝は少女の言葉にうなずくと、今度は羿に向き直った。

「羿よ、お前のことだ。このまま他人に始末を任せるつもりはないのだろう?」

 

 水を向けられた羿が胸を張って応じる。

「無論でございます。一部始終の面倒を見る積りがなくば、このような場まで女丑を連れては参りません。」

 

 この言葉に、天帝は我が意を得たりと肯いた。

「それでこそだ。なれば、汝に命じよう。女丑とともに地上へくだり、狼藉を働いている太陽を懲罰せしめよ。」

 

 ()()、の部分に力をこめて天命が発せられる。

 

 既に平伏している女丑にならう様に羿も頭をさげる。

「ありがたき幸せ。見事、大命を果たして御覧に入れます。」

 

 天帝が命じ、羿が請け負った。

 それで話が終ったかに見えたが、横から声をかけてくる者があった。

 

「お待ちください。恐れながら申し上げますが、これなる女丑は地上では既に死んだ身。いかに天命をおびてのこととはいえ、このまま降下させるのはいささか障りがあるかと。」

 

 声の主は帝俊の脇に控えた副官・理秤(リショウ)であった。

 万事に置いて帝俊を補佐する以心伝心の腹心である。

 

 帝俊もその台詞の意味をすぐに察っする。

「ふむ、確かに。女丑が焼身によって昇天したと明らかになれば、我も我もといたずらにその身を炎へ投ずるものが現れるやもしれん。となれば、女丑にあってはなにか正体を隠せるような工夫が必要だな。」

 

 わずかの間考えて、天帝は即決した。

「よし、女丑は何か禽獣の類にでも化生させてやれ。何人たりとも女丑と分からんようにな。」

 

「かしこまりました。では、早速。」

 言うが早いか。理秤は両の手のひらを重ねて筒のようにすると、それを口元にあてて女丑に向けて息を吹きかけた。

 続いて、呪文を唱える。

『心のままに、駆けよ。翔けよ。』

 

 すると、まだ呪文を言い終わらぬうちから女丑の身体が縮み始めた。

 一方で、耳はとがり伸び始める。

 

「え⁉」

 女丑が驚きの声をあげ、慌てふためくが変化は止まらない。

 見る見るうちに体は小さくなり、そして綿毛のような白い毛に覆われた。

 

「……うさぎ、ですな。」

 羿が確認するようにつぶやいた。

 

「白うさぎですね。」

 無感動に肯定したのは理秤だ。

 

「え、え、私、うさぎになってるんですか。」

 本人が一番状況を理解していなかった。

 床に落ちた衣の中からなんとか這い出したのはいいものの、周囲に鏡がなく、自分の姿を見ることができない。

 

 そのせいで、ただただオロオロとしていた。

 長い耳が主人の動揺にあわせてピョコピョコと揺れている。

 

「よしよし、これで問題なく地上へ向かえるだろう」

 些細なことは気にしないとばかりに、天帝が満足げに肯く。

 

「女丑どの。人の身に戻るときには『縮耳消尾』、うさぎに化生するときには『伸耳生尾』と唱えるようにしてください。くれぐれも、地上では人前で人の身をさらさぬようにしてください。」

 ついでのような調子で理秤が重要情報を告げてくる。

 

 あたふた、困惑しきりの女丑は元に戻りたい一心。とっさに呪文を唱えてしまう。

「え?しゅ『縮耳消尾』」

 

 さて、賢明なる読者諸兄であればご記憶の事とは思われるが、先ほど副官の不意打ちによってうさぎへ変じた女丑は自身の衣に埋もれる形になり、悪戦苦闘の末にそこから這い出した。

 

 現状は、いわば衣の上に腰を下ろしている状況である。

 

 つまり、毛皮に覆われているゆえに意識から外れているが、女丑は現在一糸まとわぬ裸なのであった。

 その少女が人の身に戻るための呪文を口にするとどうなるか。

 

「「あ」」

 

 帝俊と羿が状況を理解して声をあげる。

 

 1人、冷静かつ迅速なのが理秤だった。

 女丑が呪文を半分口にした時には懐から懐紙を一枚取り出し、宙へと放っている。

 

『伸び、延びて。疾く覆うべし。』

 呪文に応じて大きく広がった懐紙が人へと戻ろうとする少女の姿を覆い隠す。

 惜し……、危ういところであった。

 

「あ、ありがとうございます。」

 人間の姿に戻り、自身の恰好を把握した女丑が副官に礼を言う。

 彼女は今、紙製の円錐型テントの中にいるような形であった。

 

「礼など不要です。こちらも説明不足で術をかけてしまい申し訳ありません。」

 澄ました顔で応じる理秤。

 

「素早い術の展開。冷静な判断。流石だな。」

「もったいなきお言葉。」

 帝俊の賛辞にもクールに応対している。

 

「…本当に、流石ですな。」

 どこかとりつくろうような羿の台詞にはテント越しに女丑が応じた。

「なんで、ちょっと残念そうなんですか。」

 

 おそらく少女はジト目になっているだろう。

 紙製テントのために見えないが。

 

 ほどなく、衣服を整えた女丑がおずおずと出てきたのだが、その姿に一同は少々戸惑った。

 

「ん?耳がうさぎのままだぞ。」

「いや、それが、ここだけ元に戻らなくて。元々、こういうものかと思ったのですが、違うんですか?」

 羿が声をあげると、女丑も「あれ?」とばかりに首を傾げる。

 

 その頭上には長い耳がぴょんととび出している。可愛い。

 

 出来る副官はこの場においても取り乱しはしなかった。

「まあ、そう言うこともあります。耳は良くなるでしょうし、問題はないでしょう。」

 シレっと断言。

 

 静かだが確かな自信に裏打ちされた姿。

 それは羿と女丑に心中の疑問を飲み込ませるには十分な圧力を放っていた。

 

「まあまあ、ともかくこれで地上へ行くには障りない。二人とも気を付けていくのだぞ。」

 そして、天帝陛下はどこまでもおおらかに言い放つ。

 

「あっ、ハイ…」

 力なく返答したのは羿か女丑か。恐らく両方である。

 

 ともかくこれで二人の地上行は決定し、女丑は史上初のウサミミ巫女となったのだった。

 



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第4回:羿と女丑が地上へ降り立つこと

 赤茶けて、埃っぽい風の吹く荒野に2人は立っていた。

 天界で準備を整え、先ほどこの地に降り立ったのだ。

 

 周囲には岩と砂、乾ききった草木が転がっているだけだ

 空には今も10個の太陽が光を放ち、地上の生き物を責め立てている。

 

「さて、どうしようか。」

 このまま突っ立っていてもいたずらに体力を消耗するだけである。

 そんな状況で周囲を見回して羿がつぶやいた。

 

「あれ、なにかお考えがおありだったのでは?」

 女丑が尋ねる。

 

 準備から、出立、そして地上に至るまで迷いなく、女丑をひっぱってくる勢いだったため、てっきりなにか計画があるものと思っていたのだ。

 

 ちなみに彼女は兎の姿である。

 どこに人目があるか分からないため、地上に降りる前に変身している。

 

 名前も「姮娥(コウガ)」と改めている。女丑のままでは正体がばれる心配があったためだ。

 

 足下に居られては話がしづらいと言われ、羿の肩に乗っている。

 

「いや、大まかには考えているが、なんにしても地上の状況を実際に目にしない事には何も分からないからな。」

 

 羿の言葉はの意味は、つまり具体的な計画は考えてきていないと言うことだ。

 

 ふむ、と女丑改め姮娥は少し考えてから口を開いた。

「それでしたらまずは地上を治める天子の尭様にお目通り願うのはいかがでしょうか。身分を明かせば無碍にはされないでしょうし、助けを得られれば行動もしやすくなるかと。」

 

 暑さに加えて毛皮を着こんだ兎状態は相当な過酷さ。

 それでも地上の危機を救うと言う使命感から、なんとか自分を奮い立たせていた。

 

 この提案に羿は考える素振りを見せた。

「そうだな。天子に話を通しておけば色々とやりやすくなるかもしれない。でも、身分をそのまま告げるのは少し考え物かもな。」

 

 羿はまごうことなき天神であるが、それは少々肩書が大きすぎるのだ。

 場合によっては、天子である尭よりも上になってしまう。

 後々その名の大きさが無用なトラブルを引き寄せかねない。

 

「では、どうしましょうか。私から説明しようにも今はこの姿ですし」

 姮娥が困ったように言う。

 

「どのように名乗るかは道中に考えるとして、ともかく天子のもとに向かうとしよう。天子・尭の屋敷は此処から遠いのか?」

「え、はい。そうですね。ここはあまりなじみのない場所なので自信はありませんが、多分歩いても3日ほどではないかと。」

 

 姮娥の説明に羿は満足そうに肯いた。

「そうか。よし、ではひとまず出発しよう。姮娥は口上を考えるのにくわえて、道の指示も頼むぞ。」

 そう言って、山となっている荷物を背負って歩き出そうとする

 

「わ、わかりました」

 姮娥は荷物の隙間の日の当たらぬ場所に体をねじ込んで返事をした。

 

 意気揚々、と言うには周囲の景色がさみしすぎるが、ともかく2人は一路地上の都、平陽に向けて進みだした。

 

 

 ………。

 

 

「ここが、本当に天子の館なのか?」

 羿が姮娥に確認する。

 ちなみに二度目の念押しである。

 

 よって、返答も二度目になった。

「ええ、間違いありません。ここが天子・尭様の館です。」

 

 繰り返した姮娥の口調にも諦めというか、「ですよね~」的な苦笑じみた抑揚がある。

 

「そうか。いや、しかし、これはあらかじめ言われていなければ天子の館とは決して思わないだろうな。」

 羿が言う通りだった。

 一見して、ここが天子の館だと思うものはそうはいないであろう。

 

 周囲に塀を巡らせて、門には衛兵が立ってはいるが、屋敷というより小屋である。

 

 百姓の住まいだと聞いても納得したであろう。

 色々な意味で心配になる佇まいであった。

 

「もとより質素倹約を旨とする方ではあったのですが、この度の日照りには特に心を痛められ、与えられる物はすべて民にお与えになったとのことで」

 

 なんとなく言い訳がましくなった姮娥の言葉に羿が肯く。

「なるほどな。仁君だと噂に聞いたが、偽りなしというところか。」

 

 案内役の男に導かれるまま、ためらいなく門の中へと足を進めていく。

 都に着いてからここまで、実にスムーズに事が運んでいる。

 

 というのも、一行は都の手前で尭直属の兵士たちに出迎えられたのだ。

 事情を問いただしてみれば、尭に天帝の副官たる理秤からお告げがあったという。

 

 夢の中でこのたびの干ばつを解決すべく武神を派遣すると告げられ、驚いて四方に探索の兵を遣わしてみれば、果たしてお告げ通りの人物が都に向けて歩いていたと言うわけだった

 

 さて、尭の屋敷は内側も外見からの印象を裏切らない質素さ。

 いや、質素を通り越して粗末と言っても言い過ぎではなかった。

 

 それでも、一応は広間と言えなくもない部屋で2人は天子・尭と面会した。

 

 その姿、ガリガリである。

 骨と皮しかない。

 

 玉座とは思えぬ飾り気のない木の腰掛の上。

 背筋を伸ばして座った様子は即身成仏したミイラの様だった。

 

(え、死んでる?)

 と、思った羿は若干ヒいていたが、姮娥の受けた衝撃はその比ではなかった。

 思わず近くに駆け寄ろうとして、羿に押しとどめられる。

 

(突然、どうした。)

(す、スイマセン。尭様があまりにもお痩せになっていたので思わず)

(アレが普段の状態ってことじゃないのか?)

(違います。元々、痩せてはいらっしゃいましたけど、ここまででは)

 ささやき交わす二人。(見た目には1人と1羽である。)

 

 平伏はしていない。

 現在、羿は地上の混乱を納めるために天帝陛下につかわされた武神であると名乗っており、その立場は天帝に地上を任された天子に勝るとも劣らぬものだからだ。

 

 対する尭は満面に喜びを見せていた。

 未曽有の危機に、文字通り天から救世主が降り立ったのだから、当然である。

 

「よくぞ、来てくださった。貴方を迎えることが出来てまさに望外の幸せ。天帝陛下の慈悲には言葉もありません。」

 

 今にも五体投地し天への祈りを捧げ初めんばかりの様子。

 しかし、あいにく乾ききった喉から出る声はかすれて小さい。

 よくよく耳を澄ませても容易には聞き取りが出来なかった。

 

「尭どの。どうやら貴方はかなり心労がたまっておられる様子。日照りは必ず私が解決します故、一度しっかりとおやすみになられてはいかがですか。」

 

 見かねた羿がそう勧めてみるが、天子は首を横に振る。

「貴方の力を疑う訳ではありませんが、民は未だ渇きに苦しみあえいでいます。私一人、のうのうと惰眠を貪るわけにはまいりません。」

 言い切る天子の目は揺るがぬ覚悟に光っている。

 

 完全な余談ではあるが、この尭という男。中国の伝説に名高き王の一人である。

 ではあるのだが、あまり名君という印象はない。

 民を気遣う仁君であり、その心根が高潔で人望もあるのは間違いない。

 

 しかし、どうにも博愛主義が過ぎると言うか、自分の身を安く見積もる癖が見受けられる。

 民には積極的に施しを行い、自身は粗食を摂り、あばら家に住んでいたらしい。

 だが、天子とは替えの効かない立場である。

 

 統治の事を考えるのであれば健康のためにしっかりとしたものを食べ、暗殺などの恐れのない防備の整った屋敷に住んだ方がいいと思うのだ。

 側近の心労はいかばかりかと思うが、いかがだろうか。

 閑話休題。

 

 天子・尭の痩せっぷりはともかくとして。

 何事もなく謁見を終えた羿たちは提供された屋敷にひとまず腰を落ち着けていた。

 

 羿は弓や矢といった武具の荷ほどきを行い。

 周りに地上の人間もいないので、姮娥も人の姿(だが、兎耳だ。)に戻って、武具以外の荷をほどいていた。

 

 天子・尭は女中をつけたがったが、人目があっては姮娥が人の姿に戻れぬため、理由をつけて断っていた。

 

「羿様、こちらの作業は終わりました。何かお手伝いすることはございませんか。」

 一通りの仕事を終えたところで、姮娥は羿にたずねた。

 

 羿の居室と定めた部屋の外から声をかけたのだが、返事がない。

 別に声が小さかったわけでもなく、怪訝に思って三寸ほど開いていた戸の隙間から中を窺う。

 

 どうやら武神は部屋から中庭に出て、弓の手入れをしているらしかった。

 弦の傷みをあらためて、握りの具合を確かめる。

 いつにない凛々しさがうかがえる横顔に、つい見入ってしまう。

 

 やがて羿が弓の手入れを完了し、それを契機に姮娥の存在に気がついた。

「なんだ、何か用事だったか?声をかけてくれれば良かったのに」

 

「え、あ、いえ、声をおかけしたのですが、お返事がなかったので」

 声をかけられて初めて自分が見とれていたことに気がつき、姮娥の頬が熱くなる。

 

 羿は姮娥の表情の変化に気づいたそぶりもなく苦笑した。

「そうか、それはすまなかった。昔から、何かに集中すると周りが見えなくなる癖があるんだ。」

 

「そんな、こちらこそ(?)。それで、あの荷ほどきも終わりましたので、これからどうするかの相談が出来ればと思っていたのですが」

 姮娥の問いかけに対して、羿の返答は迷いがなかった。

 

「そうだな。俺としては準備が整い次第、懲罰のために出立しようと考えている。この異変はすでに甚大な被害を生み出している。一刻も早く解決しなければならないだろう。」

 

 自信ありげな自然な笑みを浮かべ、いっそ軽やかに武神は言う。

 姮娥は頼もしさと確かな希望を感じたが、同時に不吉な予感も胸をよぎった。

 

 それは、天の都で聞き知った1つの事実に根ざすものだった。

 

「1つ、聞いてもよろしいですか。」

「ああ、何でも聞いてくれ」

 

 あくまで気楽な調子の羿。

 羿の力強い瞳と黒目がちな姮娥の瞳が真っ直ぐに向き合う。

 

「どうか、正直におっしゃってください。10個の太陽の懲罰という任務ですが、具体的にはどうされるつもりなのですか?」

 

 羿の態度は変わらなかったが、それでも返答までに一拍の間が生まれた。

「…、10個のうち9個を討ち果たす。残った1つについては兄弟の死を戒めとして、天道の巡りを順守させるようにするつもりだ。」

 

 予期した通りの答え。昇天し、天の都に行く前の姮娥であれば小躍りして喜んだであろう計画。

 しかし、今の姮娥は素直に喜ぶことが出来なかった。

 

 口をついたのは強い否定。

「それは、だめです。」

 

 羿もその反応を予期していたのだろう。

 視線こそそらさなかったが、うまい言葉が見つからないというように沈黙した。

 

 沈黙した羿の代わりに姮娥は言葉を続ける。

「それをしてしまえば、貴方様は必ず不利益を受けることになります。」

 

「干ばつの解決方法も、太陽たちの懲罰も私に一任されている。問題はない。」

 淡々と、羿は言う。

 

 姮娥は首を大きく振った。

「それでも、討伐してしまえば、天帝陛下は貴方をお許しにならないでしょう。だって、あの太陽たちは」

 

 小さく、しかしはっきりと決定的な言葉を吐き出す。

 

「天帝陛下の御子なのですよ?」

 

 地上では未だ知られていない事実。

 この未曽有の被害をもたらした太陽は天帝・帝俊と女神・羲和の間に生まれた、正真正銘の天帝の御子であった。

 

 羿の表情は動かなかった。

 羿も姮娥も理解していた。

 

 天帝は太陽を「()()」せよと命じた。通常、使われる「()()」ではなく。

 

 つまり、懲らしめよと命じられているのであって、討てとは命じられてはいない。

 天帝は太陽(わが子)の命が奪われることまでは望んでいないのだ。

 

「奴らはやりすぎた。お前だって、いや、お前の方がよく知っているはずだ。ここに来る途上だけでも、滅んだ村々を、いき倒れた人々をいやになるほど見た。1杯の水のために兄弟が殺し合い、母は幼子に自分の血を飲ませて死に、親の亡くなった幼子がその晩に死ぬ。すでに事態は太陽どもの命以外では、いや命をもってしても償いきれぬところまで来ているのだ。」

 

 それは、事実だった。

 

 太陽が天帝の御子だと、知られていないうちはいい。

 しかし、真実とは明らかになるものだ。

 

 そして、明らかになった時、この事実は必ず天帝の治世に影を落とす。

 生半可な対応では、だれも納得できない。失われたものが多すぎて、ふりあげた拳をそのまま下ろすことなど出来ないだろう。

 

「それに、天帝陛下は賢きお方だ。一時、お怒りになっても、いずれは私の行いの理由を分かってくださるに違いない。」

 

 最後の部分は自分に言い聞かせるようでもあった。

 羿の言葉に、姮娥はイヤイヤするように首を振る。

 

 大きな目は感情のたかぶりに揺れ、小さな手はすがりつくように相手の衣を掴んでいた。

 

「だめです。それは、いけません。確かに天帝陛下は賢い方でしょう。貴方の行動の意味を正しく理解されるはず。」

 

「それなら」

「それでも、頭で理解することと心に収まることは全く違います。どれほど理があることと分かっていても、割り切れない思いは、こらえきれない感情というのはあるのです。」

 

 さらに、こぼれ落ちる涙とともに姮娥の台詞は続けられた。

 

「お願いです。太陽を討伐するのはおやめください。さもないと、御子を殺された天帝はいずれ必ず貴方に牙をむく。地上の民のため、私に手を差し伸べてくれた貴方に、そこまでの重荷を背負って欲しくはないのです。」

 

 天帝・帝俊がいかに理性的で賢いとは言え、御子の9人までを手にかけた羿に、なんのわだかまりも抱かぬだろうか。

 

 たとえ、それが御子自身の悪行に端を発し、自身の命令によってなされたとしても。だからと言って割り切れぬのが心というモノだ。

 

「ありがとう。私のために涙してくれることを、本当にうれしく思う。」

 その言葉は心からのものであると同時に断固たる決意を示していて、姮娥の言葉を詰まらせた。

 

 羿は続ける。

「許されぬ一線をはるかに超えた太陽たちの所業を天帝の御子だから見逃すと言うのは、つまり理を曲げること。今回はそれでよくとも、いずれ陛下のご政道の障害となる。

 かと言って、己が子をためらいなく切ったとあれば、世の人は陛下を冷血と非難するだろう。

 全て私の一存、功にはやったがための勇み足とするよりない。少なくとも、私には思いつかなかった。」

 

 胸の詰まって言葉の出ない姮娥の目から、ほろほろと涙がこぼれ落ちていく。

「それでは、貴方が報われないではありませんか。」

 やっとそれだけ言う。

 

 羿は笑みを浮かべた。右手で傍らに置いてあった弓を持つ。

「私はコレしか能のない武神だからな。天下のためとあらばそれがどんなに困難だとしてもやり遂げて見せるのさ。むしろ、私でなければならないような大任を負う機会を用意してくれたことを感謝したいくらいだ。」

 

 それは天帝の忠臣とは別の、武神・羿の掛け値なしの本心に聞こえた。

 

「ありがとう、ございます。」

 これ以上の謝罪はかえって無礼にあたる。

 代わりに、どうにか礼を口にした。

 

 羿は肯くと、ことさらに明るい口調で姮娥を促した。

「さあ、私とともに討伐に赴くのであれば準備をしてくれ。用意が出来次第、この干ばつに終止符を打ちに行く。」

 

「は、はい。すぐに」

 返事を残して姮娥が駆け出す。

 

 1人になった羿は天を見上げる。

 

 青ざめるような晴天。

 視線の先になるのは、討つべき太陽か。

 それともさらにその上。天帝の座す天の都か。

 

 黙して語られぬ心中は誰にも知られることがない。

 



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第5回:商丘にて太陽と闘うこと

 手甲脚絆に身を固め、左手に天虹の弓、腰には神鉄の短剣と矢で一杯になった矢筒。さらには火浣布の外套。

 

 武装を整えた羿はまさに武神の名に恥じぬ威容を感じさせるたたずまい。

 

 一方、同じく手甲脚絆に身を固めた姮娥。

 こちらは衣装に着られている感がまったく拭えない。

 

 兎耳と顔を隠すために笠を目深にかぶり、短剣を腰に差しているが、凜々しいというよりも微笑ましい印象であった。

 

 とはいえ、準備は万端。意気高く出立した2人は商丘にほど近い山岳地帯へと至っていた。

 

 枯れ果てた大地と同じくこちらも岩石ばかりのはげ山と化しているが、大岩や峡谷を利用すればまだしも遮蔽が得られる。

 そこを見込んで羿が狩場とすることを決めたのだった。

 

「姮娥、くれぐれも見つからぬように身を隠しておいてくれ。10対1では流石に君を守り切れない恐れがある。」

 

 ここまでの案内で姮娥の役目はほぼ終わり。

 ゆえに羿の言葉に素直に肯く。

「羿様、ご武運を」

 

 そして、大岩の陰、半ば洞穴のようになっている場所へと身を隠した。

 姮娥がひとまずの安全を確保したのを確認し、羿は歩を進める。

 

 山頂を望む尾根の近く。わずかに落ちくぼみ溝のようになった地形へと紛れて弓を構えた。

 

 両目を絹布で覆い、天空を見据える。

 10もの日輪を直接見れば即座に目が焼ける。それゆえの工夫だ。

 

 周囲の状況もおぼろにではあるが伺え、標的たる太陽はそのまばゆさのために絹布を透かして軌道が追える。

 

 そして、彼らの舞う天空に矢を遮るものは何もない。

 

 灼熱の大気の中、羿の神経が急速に研ぎ澄まされていく。

 

 不意に世界から音が消え、瞬間、武神が起動した。

 

 犧韻ッ!!

 大木を穿つ稲妻のような甲高い音が鳴る。

 

 生じた音は1つなれども、放たれた矢は3本。

 神速の挙動によって放たれた矢は過たず3つの太陽へと突き刺さる。

 

 千射必中の名手たる羿に無防備な姿をさらせば、それすなわち死。

 けたたましい断末魔の悲鳴をあげて落下した太陽は瞬く間に金烏へと姿を変え、大地へと亡骸を横たえた。

 

「ッ!」

 会心の射撃に思わず羿の喉から小さく声が出たが、すでに体は次の行動へと移っている。

 

 いまだ状況がつかめず右往左往する残りの太陽めがけて追撃の矢を放つ。

 

 犧、犧韻ッ!!

 発射音は2つ。

 

 兄弟が撃ち落とされ混乱のさ中にあるとはいえ、いや、だからこそ太陽たちの警戒心は跳ね上がっている。

 

 大気を切り裂いて飛来する矢にむけて熱線を集中させれば、神鉄の矢じりと言えど燃え尽きる。

 しかし、ここでも羿の技が上を行った。

 

 初撃は一挙動で3本の矢を放った。ならば今度も1本だけのはずがない。

 2度の発射音、2個の太陽に向けて、それぞれ2本ずつの矢が放たれる。

 

 熱線により焼き尽くされた1本目の矢の影、まったく同じ軌道によって放たれた2本目の矢が太陽の心臓を深々と穿つ。

 

 地上に転がる骸の数が2つ増え、天に残った太陽と同じ数となる。

 

 順調この上ない展開。しかし、不意打ちが通じたのはここまでだ。

 

 轟ッ!!

 同胞の半数を無残に撃ち落とされた太陽が怒りに震えて怨敵へと熱線を浴びせかける。

 

「チイッ!!」

 とっさに目隠しを外し飛び出した。

 身をひねり、襲い来る熱線をかわす。

 

 同時に直線的な熱戦の軌道から敵の位置を逆算し、視線を向けないままに矢を放つ。

 だが、すでに種の割れた手品だ。2度は通じない。

 

 放った矢はことごとく撃ち落とされた。

 

 攻勢は一転し、羿は圧倒的な劣勢へと回る。

 

 拷ッ!!

 降り注ぐ熱線の雨。

 

 一撃でもまともに熱線を喰らえば動きは衰え、続く一撃を防ぐ術はない。

 常人であればまさしく絶対絶命。

 

 しかし、羿の瞳から光は失われず。その足が止まることもない。

 

 赤熱する岩肌を駆け抜けて、頭上からの攻撃をかわし、尾根の陰に身を伏せ、あるいは宙に身を躍らせる。

 

 縦横無尽に駆け回り、浴びせかけられる熱線を回避しながらも、その五感は周囲の状況を細大漏らさずにとらえ、頭脳は突破口を求めて回転する。

 

 羿は今、まさしく己が真価を発揮すべき闘争の中へとあった。

 

 

………。

 

 

「ど、どうしましょう。このままじゃ羿様が」

 オロオロと色を失った姮娥が岩陰で情けのない声をあげる。

 

 兎耳も内心を現すようにキョロキョロピョコピョコ右往左往している。

 あたふたと動揺しながら、羿のために出来ることがないかと可能な限りの速度で思考を巡らせる。

 

(太陽の速度や軌道、さらには撃たれる熱線。これは羿様にとっては致命的な脅威ではないはずです。戦いが長引けばともかく、今はすべて見切ってかわしている。一番の問題は奴らの纏う予想以上の炎熱に神鉄の矢尻が燃え尽きてしまうこと。)

 

 思考と同様に巡らされる視線。それがあるものの上で止まる。

 生まれる思いつき。

 

 もとより、たった独りで太陽たちに戦いを挑んだ巫女である。

 思い切りと度胸は人一倍だ。

 

 一拍の検討の後、勝機ありと見た姮娥は迷いなく行動を開始した。

 

 太陽に気取られぬように無言のまま岩陰よりとび出す。

 大小の岩石が転がる斜面をかけながら帯に差していた短剣を引き抜いた。

 

 出発の前に羿から預かった神鉄製の業物だ。

 

 向かう先にあるのは、今しがた羿によって撃ち落とされた金烏の骸。

 

 死してなお金色に輝く大鳥に向けて姮娥は短剣を突き入れる。

 両の翼を切り落とし、羽根もろとも皮を裂き、肉を切る。

 手際よく、絶ち落とされたのは翼を支える左右一対の上腕骨と橈骨(とうこつ)

 姮娥は手が汚れるのも構わず、しっかと握る。

 

「キェエエエエエエエエッ!!」

 同胞の骸が辱められていることに気が付いた太陽が、奇声を上げて姮娥に襲い掛かる。

 

「っ!!」

 身を守るものは何もなく。かわすすべもありはしない。

 

 だが、駆けつける者がいた。

「姮娥!!」

「羿様ッ」

 熱線が降り注ぐ中、間一髪。

 姮娥を横抱きにして羿が跳ぶ。

 

 わずかにかわし損ねたか。

 外套の裾が煙をあげるが気にしている余裕は流石にない。

 

「なぜ、こんな無茶をした!」

 人智を超えた速度で疾駆して、放たれる熱線の雨をやり過ごす。

 問い詰める口調がきつくなったのはそれだけ姮娥の身を案じるが故だ。

 

「ごめんなさい。でも、これを見てください。」

 羿の腕の中、危機を脱したことで改めて恐怖を感じたか。

 震えながら姮娥は答える。

 

 差し出したのは先程金烏の骸から切り出した4本の骨だ。

 神鉄の短剣によって一方の端が斜めに切り落とされ、鋭い断面がのぞいている。

 

「これは、」

 武神の嗅覚か。それとも肩を並べて闘争を行う者同士の以心伝心か。

 それだけで姮娥の言わんとするところを理解したらしい羿の目が見開かれ、続いて口から称賛が出た。

 

「流石だ。」

「ふふっ、ありがとうございます。」

 未だに窮地の中にあったが、羿と姮娥は笑みを交わした。

 

 羿は姮娥を抱えたまま、右手で金烏の骨を受け取る。

「今から、太陽を片付ける。舌を噛まないように気を付けてくれ。」

 

「え?」

 言葉の意味ができず、姮娥が不吉な予感を感じた瞬間だった。

 

 羿が渾身の力で巫女の身体を上空へと投げ上げた。

「ッ、きゃああああああああああああ!!」

 

 まさに絹を裂くような悲鳴が上がるが、それよりも一瞬早く羿の両手は弓をかまえ、矢の代わりに金烏の骨をつがえている。

 

 弩ッ!!

 地響きたてる踏み切り。求めたのは高さではなく速さ。

 

 地面スレスレに宙返りする刹那。

 背後から迫っていた太陽へと右の上腕骨を放つ。

 

 吟ッ!!

 

 迸る閃光のような速度で左の上腕骨をつがえ、直上より今まさに熱線を放たんとする2つ目の太陽を迎え撃つ。

 

 韻ッ!!

 

 ちょうど、自分で放り投げた姮娥と標的が重なるが、その程度で羿の放つ矢は阻まれることはない。

 

 わずかに湾曲した骨の形状を利用した曲射は姮娥の脇を見事にすり抜ける。

 

 さらにもう一射。

 着地の瞬間に左の橈骨を前方斜め上空へと雷のごとき激しさで打ち込んだ。

 

 犧韻ッ!!

 

 空気を引き裂く甲高い衝撃音と断末魔があがるなか、羿が姮娥を柔らかく受け止める。

 

 一拍の後、新たに亡骸と化した3羽の金烏が相次いで墜落した。

 

「キャアアアアアアアアッ!!って羿様?」

 悲鳴を上げていた姮娥は羿に受け止められていることに気がつき目を白黒させる。

「乱暴に扱ってすまない。無事で何よりだ。」

 

 見つめ合い、互いの無事にホッと安心する2人とは対照的に、生き残った2つの太陽は完全に恐慌をきたしていた。

 

 不意さえ突かれなければ如何なる矢も自分たちには届くことはないという確信、それが愚かな慢心でしかないことが露になったのだ。

 

 太陽たる金烏の胎内に宿る骨。いかなる炎熱にも耐えうる同胞の亡骸によって、無残に撃ち落とされる自分自身のイメージは太陽たちを逃げ散らせるには十分にすぎた。

 

 無論、大人しく逃がす理由はない。

 姮娥をそっと地面に降ろし、羿は最後に残った右の橈骨を弓につがえてゆっくりと引き絞る。

 

 一瞬の静寂。

 

 犠韻ッ!!

 

 天に尾を引く一筋の白光。

 前後して逃亡を図る2つの太陽のうち、不運にも貫かれたのは先を行く方だった。

 

 頭を射抜かれて血を吐きながら墜落していく同胞。

 

 その様を目の前で見せつけられた最後の太陽の心は今、完全に叩き潰された。

 最早、二度と天の摂理に逆らおうなどとは思うまい。

 

「終わったんですね。」

 残心し、弓を下ろす羿に姮娥は小さく声をかけた。

 

 最後の太陽が地平の果てに逃げ去って、あたりは急速に闇に包まれていた。

 久方ぶりの夜の訪れ。

 

 熱気が去り、汗が冷え始めたのか。

 思わずくしゃみをする姮娥の肩に、羿の手で火浣布の外套がかけられた。

 

 戦いのなかで焦げ跡などが付いていて、お世辞にも優美な召し物とは言えないが、それでも姮娥は笑顔になった。

 

「姮娥のおかげだ。金烏の骨に気が付いてくれて助かった。」

「お力になれたのなら、良かった。でも、次からは放り投げないようにお願いします。」

「できる限り、そうしよう。」

 

 言葉を交わすうちに雨も降り出した。シトシトと耳にも清らかに音が響く。

 

「帰りましょうか。でも、濡れてしまいますね。」

「久方ぶりの雨なのだろう?濡れていこう。」

 

「…そう、ですね。」

 笑みをかわして、2人は都に向けて歩き出した。

 

 今頃、都の人々のうえにも雨が降っているだろうか。

 喜びの声が、ここまでも聞こえてくるような気がした。

 

 

・・・・・・・・・。

 

 

 東天の宮殿。

 

 名前の通り、東方における天地全ての運航を司る中枢の、そのさらに中心。

 天帝の執務室で2人の男が向かい合っていた。

 

 1人は天帝である帝俊、もう1人は副官である理秤だった。

 

 とりたてて珍しい組み合わせではない。

 それどころかいつも通りの光景と言える。

 

 ただひとつ、帝俊の表情だけがいつになく精彩を欠いて、いっそ憔悴していると言っていい様子だった。

 

 いかに(あまね)く天地を統括する天帝と言えど、離別の悲しみに震え、喪失の痛みに気力が萎えてしまう日もある。

 

 9人の子供と死別とその後の妻の慟哭に立ち会うことは、帝俊の心をすり減らすのには十分すぎるものだった。

 

「主上。もう、本日はおやすみになられてはいかがでしょうか。」

 理秤は主君を思いやり声をかける。

 

 表情こそ普段通りの平静さだが、声音からは真に迫った気遣いが感じられた。

 

 しかし、帝俊は首を横に振る。

「いや、明日にも羿が帰ってくるかもしれぬ。今のうちに考えておかねばならぬことがあるだろう。」

 

 副官はうやうやしくうなずいた。

「羿への報償のことですね。天帝の命を受け、地上の混乱を治めたのです。本来であれば相応の褒美を与えなければならないところですが」

 

「それはならんッ。」

 短く、かたくなな返答。

 

 そもそもの原因が御子を御すことが出来なかった自分自身にあること。

 そして、討伐(それ)が必要であったことを理解しても、子を殺された恨みつらみが消えてなくなるわけではない。

 

 帝俊自身もそうであるし、妻であり、太陽たちの母でもある女神・羲和にあってはなおさらだった。

 

 仮に帝俊が感情を理性で抑え込み、通常の場合に妥当と思われる褒美を羿に与えた場合、今度は羲和との間に不和が生じかねない。

 

 羲和も強力にして高位の女神である。

 不和、乱心、と言ったことにでもなれば、一層世が乱れるだろう。

 

 しかし、羿を冷遇した場合も問題だった。

 

 信賞必罰は治世の要。

 たった一度でも過ちが明らかになれば統治の根幹は大きく揺さぶられることになる。

 

 さらに、羿は天界でも有数の強力な武神だ。

 万が一、反乱でもされようものなら、並の神将では相手にならないだろう。

 

 天帝の重苦しい表情には理性と感情の板挟みのみならず、どちらによっても大きな問題を産みかねない現状に対する重圧がハッキリとあらわれていた、

 

「主上。恐れながら、私に一つ策がございます。」

 静かに、しかし淀みなく理秤が口を開いた。

 

「なんだ、申してみよ。」

 藁にもすがる思いという訳ではないだろうが、帝俊すぐさま食いついた。

 

「この度の事態。今すぐに裁可を下しては、例えそれがどのようなものだとしても、決して丸くは治まりません。」

「分かっておる。だからこそ、こうして窮しているのだ。」

 忌々し気に吐き捨てられる主人の言葉。

 

 余人なら委縮して二の句が継げなくなるところだが、理秤は顔色を変えることなく言葉を続けた。

「なればこそ、まずは時間を稼ぎましょう。ひとまず、今回の件については報償も罰則も与えず、そのうえで羿を天界より遠ざけてしまうのです。」

 

「ふむ、どういうことだ。」

 相手の話に聞くべきところがあると判断したのか。帝俊が先を促す。

 

「羿に対しては、太陽たちへの対応がやりすぎであったとして報償を保留します。そのうえで、更なる任務を地上で与えるのです。首尾よく新たな任務をやり遂げたならば、今回の件もあわせて評価を下すと言えば否とは言いますまい。

 一方で羲和様にあっては、羿は理由をつけて地上へ追い落したと思われるように計らいましょう。」

 

 新たな任務を理由として羿への報償を先延ばしにして、それにかこつけて羲和には頭を冷やす時間を与える。

 理秤の案に対し、帝俊は顔をしかめた。

 

「それで、羿が新たな任務を首尾よくやり遂げた場合はどうするのだ。」

 気にしているのは、羿が任務を終えた後、それでも羲和の怒りが緩んでいなかった場合の事だろう。

 

 無論、理秤もそれは想定している。

 羲和はもちろんだが、天帝である帝俊にも羿に対して強いわだかまりがあるのだ。

 

 むしろ、羿は許される可能性などほとんどないと冷静な副官は判断していた。

「その場合についても、私に考えがございます。」

 

 切り出された理秤の策。

 ひそめられた声が2人の間を何度か往復した後、帝俊はその献策を受け入れた。

 




※火浣布:燃えない不思議な布。多分、元ネタは石綿。火鼠の毛皮とか言われることも

 今回でひとまず連続投稿は終了。あとはキリのいいところまで書け次第投稿します。


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第2章
第6回:羿が新たな天命を受けること


 太陽を打ち落としてから3日。

 天子・尭よりあてがわれた屋敷に天帝の副官・理秤からの文が届いた。

 そろそろ、天界へと帰る準備を始めようかという時であった。

 

 羿は書状に目を通し、使者を帰してから、姮娥を呼んだ。

 

「お呼びになりましたか」

「ああ、先日の件について、天界より書状が届いた。そのことについて話をしたくてね。」

 

 言いながら手にしていた書状を差し出す。

 使者の用向きはもてなしをした姮娥も把握していた。

 

「読ませていただいても」

「ああ、かまわない」

 書状を受け取る自身の指先の冷たさに、姮娥は自分が緊張していることを知った。

 

 おそるおそる、書状を開く。

 

 そこには、先の天命・太陽たちの懲罰においてのやりすぎを責める文言と新たな命として地上に蔓延る悪獣・怪物を討伐すること。

 そして、それを完遂すれば、今回の分とあわせて十分な褒賞が与えられること。

 新たな命を達成するまで天界への帰還を禁ずるという旨が、天帝からの命にふさわしい体裁で記されていた。

 

 いかに美辞麗句で隠されていたとして、馬鹿でも真意を見抜けよう。

 つまりは、事実上の追放であった。

 

「これは」

 姮娥の声が震えた。

 

 いかに、天帝の意に背いたとはいえ、表面上は天命を遂行した羿に対しての無体な仕打ちとしか言いようがないものに思えたのだ。

「申し訳ございません。私が、貴方を巻き込んだばかりに」

 

 姮娥の言葉に羿は笑って首を振った。

 こういった事態も覚悟のうえで、非道を働く太陽たちを射落としたのだ。

 

「私は、私の意思で動いている。気にすることはない。」

 実際に気にしていない様子の羿に、姮娥が尋ねる。

「それで、これからどうされるのですか。」 

 

「私はこの書状に書かれているとおり、悪獣・怪物を討伐する。満足な扱いとは言わないが、従順にしていれば天帝陛下の怒りもいずれは解けるだろう。天子・尭殿にも面会し、引き続きこの屋敷に滞在する許可も貰うつもりだ。」

 

 地上の天子・尭にしてみれば渡りに船の申し出と言ってよい。なにせ、民草を悩ます災厄を振り払ってくれると言うのだから。

 

「そうなのですか。」

 うなずきながらも姮娥はけげんに思った。

 

 すでに方針が決まっているのであれば、自分が自分がこうして呼ばれた理由がないからだ。

 そんなことを考えていたからか。次に羿が口にした台詞の意味を一瞬正確に理解し損ねた。

 

「姮娥、君はどうする。」

 

「え、どうする。とは?」

 困惑する姮娥の様子に言葉足らずを悟ったか、羿が説明を付け加える。

 

「この悪獣退治はあくまで私に下されたものだ。だから、君まで危険な戦いに付き合う必要はない。元々の望みである太陽の異変は解決した。ここで、一旦身の振り方を考えた方がいいのではないか。」

 

 姮娥は地上では死んだことになっている。ゆえにここにとどまり続けることは難しいが、天界で修行なり、奉公なりを出来るように手配は出来る。

 そう言う羿に対して、少女は迷うことなく首を横に振った。

 

「そんな寂しいことをおっしゃらないでください。天の都で右も左も分からずに途方に暮れていた私と苦しみあえぐ地上の民に手を伸ばしてくれたのは、他の誰でもない羿様です。まだとてもご恩をお返しできていませんし、それを除いても私は貴方のお側で仕えたいと思っています。どうか、お許し願えませんか。」

 

「しかし、それは」

 いらぬ苦労をすることになると止めようとした羿だったが、姮娥の畳みかける方が速かった。

 

「それとも、私ではお仕えするのに力不足でしょうか。」

「そんなことはないが」

「それでは、これからもよろしくお願いします。」

 姮娥の笑顔。意思の固いことを悟り、羿はため息をついた。

 

「わかった。よろしく頼む。」

 こうして、羿と姮娥の2人は天帝の命に従って悪獣・怪物の退治に赴くことになったのである。

 

………。

 

 あたたかな日差しの降り注ぐ草原を2人は進んでいた。

 格好は太陽を打ち落としたときと大きな違いはない。

 

「本当に気持ちのいい日よりですねぇ。草木も青々として美しいです。」

 野道を行く姮娥が日の光につやめく草葉を眺めて、うっとりしている。

 

 かつての荒れ果てた景色と見比べているのだろう。

 いま、野に満ち満ちる生命の息吹に思わずの笑みが浮かんでいる。

 

 悪獣・怪物を退治する試練が始まりはや数か月。

 天子である尭から情報を受け、すでに3頭ほどの怪物を討ち取っていた。

 

 怪物退治の過程であちらこちらへと足をのばすのだが、姮娥ときたら行き先々で同じような台詞を吐いて感動しているのだった。

 

「確かに。太陽もあれで懲りたらしいな。以来、わずかの乱れもなく天道を進んでいる。私も骨を折ったかいがあったと言うものだ。」

 そういったのは羿だ。従者の浮ついた様子に苦笑しながらも、口調は朗らかだった。

 

 天界より半ば追放されている状況だが、すでに吹っ切れているからか。2人の表情に暗いところはなかった。

 

 しかし、のどかな空気も目的地、悪獣・鑿歯(さくし)の住むという森に着くまでのことだった。

 

「さて、まもなく話に聞く鑿歯の出没地点にさしかかる。話をしていたいのはヤマヤマだが、気を引き締め直してくれ。」

 宣言するような声音で羿が言えば、姮娥の視線にも緊張感がまし、長い耳はわずかな異音も聞き逃さないとばかりにピンと立った。

 

 行く先には森が広がっており、細道が木々の間をぬうように奥へと続いている。

 森は山の麓に広がっているため、細道も自然と緩やかな上り坂になっている。

 

鑿歯(さくし)。姿は人に似ていて、巨体で鋭い歯を持っていると言うことでしたよね。」

 確認するように姮娥が言う。

 

 答えたのは羿である。

「そうだ。とは言っても、生き残った者は混乱していたのか証言がまちまちだ。馬のような後ろ足をしていたという者もあれば、虎の爪を持っていたと言う者、あるいは前脚も人の手に似ていたと言う者もある。さっき姮娥が言ったのは、その中でも複数の証言に共通する部分を抜き出した信ぴょう性の高い部分だな。」

 

「と、言うことはつまり、」

 姮娥が形の良い眉を下げて困った顔を作る。

 羿がうなずく。

 

「「よく分からない。」」

 2人の声がハモった。

 

「まあ、いつも通り。油断せずに行くとしよう。」

 最後を締めたのは羿。

 

 軽いやりとりに2人の顔には薄い笑みが浮かんでいた。

 気が緩んでいるのではない。

 高まる鉄火場の匂いを感じ取り、無用に硬くなるのを防ごうとしているのだ。

 

 そのまま進んでいくことしばし。道がさらに細くなり、今にも消えそうになっているあたりで羿が口を開いた。

「とまれ。」

 

 命じられ、姮娥の足が止まる。。

「かすかだが血なまぐさい気配がある。恐らくだが、ここから先は本格的に鑿歯の縄張りだろう。一層、気をつけてくれ。」

 

 姮娥は羿の言葉に小さく肯く。

 本音を言えば、姮娥には都の屋敷で待っていてほしいと思う羿だったが、その問題は既に何度も議論を重ねた後である。

 

 それも連戦連敗の後であれば、いまさら姮娥の同行に異論を唱える気概はなかった。

 さらに集中力を高めながら、再び前進を開始した2人だが、進むほどに森はうっそうとし、道はいつの間にか消え去っていた。

 

 漂う空気も徐々に陰鬱で不吉なものに感じられてくる。

 

 そんな中にあって、姮娥の態度は緊張しつつも平静であった。

 一歩前を歩く羿がいればこそ、自身の無事を確信しているのだ。

 

「ただならぬ気配は間違いなく感じます。でも、のこのこと姿を現すでしょうか。羿様の姿を見て、武威を恐れて隠れてしまうかも」

 

 それは実際、以前にあったことだった。

 羿の武威を本能的に察したのか、怪物が雲隠れしてしまい見つけ出すのに非常に苦労したのだ。

 

 尋ねられた羿の口調も落ち着いている。百戦錬磨の武神は不必要な緊張などすることはない。ただ、必要な時に必要なだけ集中するのだ。

 

「いや、どうやら相手はやる気らしい。場所までは分からないが忌々し気にこちらを窺っているのを感じる。文字通り、血に飢えた野獣だな。大人しくしている気はないようだ。」

 

 この台詞に姮娥の緊張感がいや増した。

 長い耳が怪物の位置を探るようにピョコピョコと動く。

 

 そのまま、じりじりとした緊張感の中を進むことしばし、

「何にも起こりませんね。」

 沈黙に耐えかねたのか。姮娥が言った。

 

「ああ、だがやはりいるよ。臆病で手が出せないでいるのか、それとも狡猾にこちらの消耗を待っているのか。」

 羿は油断のない表情でゆっくりと先頭を進んでいる。

 

 その問答に、一瞬注意がそれたのか。

 地面を波打つ古木の根に姮娥の足が引っかかった。

 

「あっ」

 小さな声。

 

 瞬間、森が震えた。

 

「姮娥ッ!!」

 羿がつまずいた巫女を抱きすくめて跳躍する。

 刹那、巨大な影が殺到した。

 

 轟く地響き。

 落ち葉が盛大に舞い上がる。

 視線を遮る落ち葉の壁を突き破り、怪物が咆哮とともに羿へと追撃する。

 

「チィッ」

 腕のうちの姮娥を支えながら羿は再び跳躍する。

 

 紙一重、襲い来る怪物の爪牙を身をひねってかわし、横面に強烈な蹴りを放つ。

 

 弩ッ!!

 

 鈍い音が響き、怪物がギィッと呻く。

 質量差ゆえに吹き飛ぶ形になったのは羿の方だったが、それも狙い通り。

 

 地に足がつくまでのわずかな間に武神の目が怪物を観察する。

 身の丈は1丈(3.3m)に及ばんとし、毛のまばらな上半身と長い前脚は証言の通り人の形に似て見え、鋭い爪が光っている。

 

 下半身は強いて言えば、カモシカのよう。岩をも砕きそうな頑健な蹄を備えたつま先。大の大人でも抱えきれない太さの大腿部にはミミズ腫れのように血管がのたくっている。

 首から上は毛のないネズミか。殊更長い前歯は長方形で、鑿のような鋭さを見せていた。

 

「なるほど、“鑿歯(さくし)”とは分かりやすい名前だな。」

 独り言ちて着地する。

 

 早くも衝撃から立ち直りつつある怪物と目があった。

 野獣の殺意。

 

 姮娥を抱えることで、羿が両手を封じられていると察したのか。

 退くつもりは毛頭なさそうだった。

 

 もっとも、羿も退くつもりなどない。

 腕の中の花を抱きしめなおす。

 

 振り回されたせいか。

 やや髪の乱れた姮娥はそれでも悲鳴も上げず、羿を信じきった瞳をしている。

 羿と姮娥の視線が一瞬ぶつかり、意思が疎通される。

 

 完全に蹴りの衝撃から立ち直った鑿歯が咆哮をあげ、さらなる攻撃に移る。

 この時点で怪物は2つの判断ミスを犯していた。

 

 1つは羿という、完全な上位者に勝負を挑んだこと。

 もう1つは羿の腕の中に納まった姮娥を守られるだけの無力な足手まといと断じたことだ。

 

 故に、ツケを払うことになる。

 

「回刃飛刀。剣よ奔れ!」

 姮娥の白魚のような指が流れるように動く。鈴のごとき音が鳴り、白刃がきらめく。

 

 惨ッ!!

 

 ギャンッ、と鑿歯が犬のような悲鳴をあげる。

 放たれた短剣は野獣の鼻面を深々と切り裂き、羿はそれによって生じた隙に余裕を持って突進をかわす。

 

「止刃帰刀。剣よ戻れ!」

 姮娥の声に応じて、短剣が空を舞い、自ずから鞘に収まった。

 

 神鉄の短剣に巫女たる姮娥が(まじな)いをかけ、式となす。

 主の命に従い、自ずから敵を討つ“飛刀の術”だ。

 

 何が起きたか鑿歯が理解するより先に、羿は姮娥を地に降ろし、手にした弓に矢をつがえていた。

 

 天虹の弓に神鉄の矢じり。放つのは武神たる羿。

 

 邪ッ!!

 本能的な恐怖に苛まれ鑿歯が森の中へと逃走を試みる。

 

 木々が縦横に枝を張り巡らした深い森だ。

 一度逃げ込めば追跡できる狩人などいはしない。

 

 だが、それは3つ目の判断ミス。

 

 勝ち目がなければ逃げる。

 確かに、それはある意味で正解だっただろう。

 

 しかし、いままで鑿歯が対峙した者の中にはいなかった。

 そう、武神たる羿はいなかったのだ。

 

「お前の隠形は中々のものだ。あのまま隠れられていたら、俺でもおいそれと見つけることは出来なかっただろう。」

 むしろゆっくりとした動作で羿は弓をひき絞る。

 

「だが、これだけ暴れ、血を流し、あまつさえ恐慌を起こして逃げ惑う。もはや見失うことはない。」

 

 吟ッ!!

 

 弦が鳴り、矢が放たれる。

 無数の木の葉と枝をかすめて。

 

 一呼吸の後、森の奥から野獣の断末魔が聞こえてきた。

 

「これで討伐完了ですね。お疲れ様でした。」

「ああ、それにしても助かった。よくあそこで飛刀を使ってくれた。」

 羿が笑いかける。

 

 姮娥はやや大げさに得意げな表情を作って応じた。

「あれくらい当然です。これでも、東方一の武神の従者ですので」

 

 ふ、ふふ、と笑みが交わされる。

「さて、骸を検めて都に帰るとしよう。」

「そうですね。はやくしないと日が暮れてしまいます。」

 

 鑿歯の死骸があるであろう鬱蒼とした森の中へ歩を進めながら、羿が姮娥に向けて手を差し出す。

 先ほど、木の根に躓いた彼女を思いやってのことだろう。

 

 一瞬のためらいの後、姮娥はその手をとった。

 筋張った大きな手。その体温を感じ、頬が熱くなる。

 

(薄暗くて良かった。)

 熱さの理由は考えないことにした。

 

 



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第7回:姮娥が森の中に怪しい声を聞くこと

「…、あれ?」

 鑿歯討伐の証として、特徴的な前歯を抜き取るという血なまぐさい仕事を手際よくこなした後のこと。

 姮娥の長い耳が森の中から1つの音を拾い上げた。

 

「どうかしたか?」

「いま、赤子の声が聞こえたような」

 足を止め、耳を澄ます。

 

「やっぱり、聞こえます。」

「ああ、確かに。かすかだが私にも聞こえた。」

 2人は顔を見合わせた。

 

 深い森の中である。

 普通であれば赤子の泣き声などするはずもない。

 

 人心惑わす、魑魅魍魎の仕業か。

 

 しかし、可能性は低いが、

「鑿歯がさらってきたか、それとも親の方が犠牲になって子供だけが残されたとか」

 

 姮娥の言葉に羿は弓の弦を検めながら応じた。

「ありえないとは言い切れないな。念のため、確認しに行くとしよう。」

 

 そうして途切れがちな泣き声を頼りに歩くことしばし。

 2人はこぢんまりとした集落にたどり着いた。

 

 いや、より正確に集落跡と言うべきか。

 すでに人の気配は絶え、うち捨てられた籠や桶が砂埃にまみれて転がっている。

 森に住む狩人、木こり、そういう者たちが住まう小集落だったと見えた。

 

 しかし、それも今や過去の話だ。

 小屋の壁、集落の広場。そこ、ここに残された血痕と周囲に漂う生臭い臭気。

 

「鑿歯の、しわざでしょうか」

 姮娥が心当たりを口にする。

 

「可能性は高いが、分からないな。なにか、他の獣かもしれない。」

 羿はあくまで慎重な態度で答えた。

 

 ほにゃあ、ほにゃあ、ほにゃあ…。

 

 まるで2人を誘うように再び赤子の泣き声が響く。

 声の源は集落の奥。倉庫か何かに使われていたらしい、一番大きな小屋だった。

 

 扉、というよりはただ大きな板で塞いだだけの入り口。

 その目前まで近づいたとき、赤子の泣き声がピタリと止んだ。

 

 濁った空気が深くなる。

「姮娥はそっちに」

「ハ、ハイ」

 

 指図の通り、姮娥が近くの木の陰に控える。

 それを確認してから、羿は小屋の入り口に向き直った。

 

 左手に弓の代わりに短剣を握り、静かに歩を進める。

 入り口の脇に立ち、右手の拳で板を叩いた。

「誰か、いるか?」

 

 蛮ッ!!

 羿が後ろへ跳びすさる。同時に板が内側から弾けとび、褐色の獣がとび出した。

 

「ッ!回刃飛刀、剣よ奔れッ!」

「駄目だッ!!」

 とっさに姮娥の放った飛刀を、間にとびこんだ羿が空中でつかみ取る。

 

「!?」

 混乱の中、姮娥の目が獣の姿を捉える。

 

 その獣は全体的には巨大な馬に似ていた。

 だが、比ぶべくもなく汚らしく、おぞましい腐臭を身にまとっている。

 

 褐色の身体は馬に似て、後脚には頑強な蹄。前脚には虎のような獰猛な爪。

 人の赤子を思わせるつるりとした頭部。その中で口は耳まで裂け、そこから真っ赤な舌とさびた釘のような無数の牙がのぞいている。

 

 醜悪な獣は、なかでも一等おぞましい部分である口から、耳障りな声を発した。

「キキ、キキキ。コロセル?ネェエ、コロセル?」

 挑発するかのように前脚が何かを身体の前にぶら下げた。

 

「な!?」

 思わず、姮娥はうめいた。

 

 それは人の子供。

 まだ、10にもならないだろう、少女だった。

 

「ぅ…、…ぁ…」

 吐息とも、声ともつかぬ音が紡がれる。

 

 まだ、息があった。

 

(危なかった)

 姮娥の背中を冷や汗が伝った。

 

 もし、羿が止めてくれなければ、自分の放った短剣は獣の代わりにあの少女の身体を切り裂いていただろうことに気がついたのだ。

 

「キキ、キキキキ。コロセナイ、コロセナイヨォ。ネェ」

 赤子の声で、獣が啼いた。

 

 人質の子供を挟んで、獣と羿の視線が交差する。

 場の圧力がギリギリと音を立てて高まっていく。

 

 にらみ合いながら、羿は逡巡していた。

(どうする?)

 

 弓をとれば、目の前の悪獣を射殺すことは難しくない。

 しかし、即死させるという条件がつくと、途端に困難になる。

 

 本能のなせる技か、それともどこかで知恵をつけたか。

 獣は子供を自身の急所をかばうように掲げている。

 

 そして、即死させることが出来なかった場合、獣は最期の力で子供の身体を八つ裂きにしてみせるだろう。

 

 一呼吸分の思考。

 迷いが、一瞬の遅れになった。

 

 轟ッ!!

 獣が足下の岩を投擲した。

 

「えっ?」

 標的は、

「姮娥ッ!!」

 

 とっさに巫女にとびつき、押し倒した羿の頭上を西瓜ほどもある岩が通過し、近くの小屋の壁を粉砕した。

 

「大丈夫か?」

 羿はすぐさま立ち上がった。

 

「はい、大丈夫です。」

 姮娥も立ち上がりながら返事をする。

 

 だが、既に集落の中から獣の姿は消えている。無論、人質の少女もだ。

「逃げられたか。獣のくせに知恵が回るな。」

 

「申し訳ありません。私がうかつに仕掛けたせいで」

 姮娥はわびたが、羿は首を横に振った。

「いや、人質がとられたままでは、どのみちこうなっただろう。」

 

 羿から飛刀の短剣を受け取りつつ、尋ねる。

「これから、どうしますか」

 

 すぐに迷いのない返事が返ってきた。

「もちろん、追う。人質も心配だし、あのような悪獣、捨て置けん」

 

「……、わかりました。行きましょう。」

 少しのためらい。

 

 失態の後である。足手まといはいらぬと置いて行かれることも覚悟していた。

 しかし、次の瞬間。姮娥の身体はひょいと持ち上げられていた。

 

「!?」

 もちろん、持ち上げたのは羿である。

 

 抱きかかえられるのは初めてではない。

 しかし、今回は以前と勝手が違った。

 

 今回は以前のような横抱きではなく、荷物のように左肩に担がれていたのだ。

 

「あの、羿様。これは?」

「いそぐから、舌を噛まないように気をつけろよ。」

 言うが早いか武神は駆け出す。

 

「~~~~~~ッ!!」

 いくら非常時でもこんな扱いは女が廃る。と、いう抗議が姮娥の口から出ることはなかった。

 

 走行の激しい揺れにより攪拌された胃の中身。言葉以外が出てくるのをこらえるのに必死にならねばならなかったからだ。

 

………。

 

 いかに獣に地の利があり、巧みな逃走を行おうとも、練達の狩人でもある羿の五感を欺くことなど出来ようはずもない。

 

 土の上の足跡、わずかに先の折れた小枝、なにより血の混じった生臭い腐肉の臭い。

 

 獲物に向かって羿は疾走する。

 追いかけながら、山の斜面をかなり登った。

 森の木々は少しずつ疎らになり、岩山の風情が強くなってきていた。

 

 その揺れる肩の上で、姮娥は途切れ途切れに問いを発っする。

「で、…ど……ハ」

(でも、どうするんですか。追いついても人質をとられていたら、結局は手が出せないのでは?)

 

 ほとんど言葉になってはいなかったが、それでも意味は通じたらしい。

 大岩を飛び越えながら、羿が応じる。

 

「あの獣は年経て小賢しい。子供が無事だからこそ、自分が生きていることも理解しているはずだ。それ故、敗北が決定的になるまでは盾にはしても手は出さない。小細工は無用。なにかする間など与えずに肉迫して、白兵戦で首をとばしてやる。」

 

 そう、羿が言い切るのを見計らっていたかのように、森が途切れ、視界が開けた。

 獣と羿が同時に互いの姿を捉える。

 

 俄ッ!邪ッ!!

 獣が足下の岩石と砂利を投げつける。

 

「無駄だッ!」

 姮娥を担いだままだというのに、羿の動きは舞うがごとし。

 

 迫る岩石や砂利を最小限の動きでかわしながら、一歩分ずつ獣との距離を詰めていく。

 一歩分ずつ、しかし、高速で。

 20mの距離が10mに。10mが5m、5mが…

 

 あと一歩で間合いに入る。

 

(一太刀で首を飛ばしてやる。)

 羿が構えた瞬間、赤子に似た獣の頭部が、一際醜悪にゆがんだ。

 

 にやりと。

 

 蟦ッ!!

 投擲。

 

 投げたのは岩でも、石でもない。

 人質の少女だ。

 

「ッ!!」

 投げつけた先では地面が唐突に消え去り、千尋の谷が奈落に向けて口を開けている。

 反射的に羿は虚空に跳び、空いていた右腕で少女の身体を抱きとめる。

 

「キキキ、キキッ!!」

 囂々ッ!!

 獣が嘲笑を浮かべながら追撃を放つ。

 襲い来る、岩石の嵐。

 

「オオオオオオオオオオオオ!!」

 羿が雄叫びを上げて繰り出した蹴撃が、飛来する岩石をはじき、さらには粉砕する。

 

 だが、両腕に守るべき者を抱えたままで出来たのはそこまでだった。

 

 一瞬の後、武神の身体は重力に引かれて、谷底への落下を開始する。

 頭上から、獣が赤子の泣き声をあげながら駆け去る音が、かすかに聞こえきた。

 

………。

 

 かまどの中で、薪がパチパチと小さく音をたてる。

 母が夕餉の準備をしていて、家の中に料理の匂いが漂っている。

 父は弓や山刀、狩猟の道具を真剣な顔で手入れしている。

 

 そして、自分は一日の疲れの中で「お母さんを手伝わなきゃ」と思いながら、うつらうつらとしている。

 目を覚ます前のわずかの間。

 少女はかつてあった生活の一場面の中で微睡んでいた。

 

 覚醒は冷たい現実への回帰を意味する。

 

 目を覚ました少女はまず最初に、一瞬前まで眼前に広がっていたぬくもりが永遠に失われたことを再認識しなければならなかった。

 

 小さな胸がねじ切れそうに痛み、息が詰まって苦しくなったが、乾いた両目から涙は出なかった。

 2度、3度、慎重に呼吸を繰り返す内、周囲の状況に目をやる余裕が戻ってくる。

 

 そこは岩に囲まれた洞窟のような場所だった。

 自分以外に、1組の男女がいた。

 どちらも若い。弓を持った青年と頭巾をかぶった女の人。

 

 青年の方は入り口付近に外を見張るように座っている。

 女の方はたき火にかけた鍋を見ていたようで、今は少女の方に優しげな眼を向けている。

 

「よかった。目が覚めたんですね。どこか痛いところはありませんか。」

 食べられますか。の言葉とともに椀に入った粥と竹筒に入った水が差し出される。

 途端に猛烈な空腹と喉の渇きが自覚される。

 

 奪い取るように受け取り、口の中がやけどするのもかまわずに、抱え込んでガツガツとかき込んだ。

 女の人はその様子に安心したのか。微笑みを浮かべていた。

 

 そのまま、粥を2杯おかわりした後でようやく話が出来るようになった。

「あの、あなたたちは?」

 少女は尋ねた。

 

「私は姮娥。あちらは羿様です。私達は天帝陛下の命で地上の悪獣、怪物を退治している者です。」

「退治?じ、じゃあ、あいつは、アツユ(けものへんに契、むじなへんに愈)は?」

 

 女の人、姮娥は申し訳なさそうな顔になった。

「アツユ、と言うのはあの、人面馬体の怪物のこと?」

 

「そう、です。」

 怪物の姿をありありと思い出し、少女の声が震えた。

 

「ごめんなさい。残念だけど、あの怪物、アツユは逃がしてしまったわ。」

 その言葉にショックを受ける少女を慰めるように姮娥は続ける。

 

「でも、安心して。貴方を街の安全な場所まで送り届けたら、必ずアツユを探し出して退治しますから。」

 そう言って、姮娥は少女にどこか身を寄せられる親類縁者の心当たりはないかと尋ねた。

 

「わからない。けど、いないと思う。」

 半ば予想していた回答だったのか。姮娥もそれ以上掘り下げては来なかった。

 

 一旦、途切れた会話。

 再開したのは少女の方だった。

 手を握りしめ、意を決して口を開く。

 

「あの、わたしも。わたしにもアツユ退治を手伝わせてください。」

 姮娥は驚いた顔をした。

 

「おねがいします。わたし、お父さんが猟師で、その手伝いもしてたし、なんでもやりますから」

 すがりつくように、たたみかける。

 

 驚いた顔が、困った顔になり、入り口付近に陣取った羿の方を助けを求めるように振り返った。

 

 その時、はじめて青年が正面から少女を見た。

 射貫くようにまっすぐで、しかし、とがったところのない強いまなざし。

 

 少女の喉が鳴った。なかば無意識につばを飲み込んでいた。

「どうして、手伝いたいと。危険なことは分かるだろう。わざわざ、怖い思いをする必要もない。」

 

 責めているのではなく、確かめる口調。

 どうして?そんなの、決まっている。

 少女の感情が一気に高ぶった。

 

「だって、…アイツは。アイツがッ!お父さんも、お母さんも殺された。それで、私の知らないところで勝手に退治されても、そんな。そんなの納得できない。できるわけないッ!!」

 乱れる少女の言葉。

 

 対する、羿の言葉は端的で短い。

「アツユを殺したところで、父も母も戻っては来ないぞ。」

 

「それでも、私はアイツを殺したいんだッ!!」

 少女が吠えた。

 幼い双眸におよそ不釣り合いな憎悪と殺意がみなぎっている。

 

「復讐に意味があるかどうか。それを決めるのはお前自身だ。だから、私はお前の気持ちを否定しない。その上で言うが、」

 少女の顔を羿はまっすぐに見据えて、眼をそらさない。そらすことも許さない。

 

「今のお前に、アツユを殺す力はない。」

 

「ッ、」

 言葉に詰まる少女。

 

「そして、私はお前が成長して力をつけるのを待つ気もない。その間に、何人が犠牲になるか分からないからな。」

「で、でもッ」

 

 うつむきそうになるのを必死にこらえ、少女は顔を上げ続ける。

 羿は変わらず、まっすぐに視線を向けている。

 

 悠々たる威厳の虎に、生まれたての子猫が必死に毛を逆立てている様子に似ていた。

 

「………、いくつか条件がある。それを守れるのなら、連れて行ってもいい。」

「!!」

 しばらくのにらみ合いの後、根負けしたかのように羿が言った。

 

「1つ、私と姮娥の指示には必ず従うこと。2つ、自分でアツユを殺そうとは考えないこと。代わりに、目の前でアツユの息の根を止めてやる。守れるか?」

「守る!守りますッ!」

 

 勢い込んで肯く少女に羿はわずかに表情をゆるめた。

 そして、今度は姮娥の方へと向き直る。

「すまない。君の負担が増えるが、面倒を見てやって欲しい。」

 

 姮娥も肯く。正直、この武神に頼りにされるのはまんざらでもない気分だ。

「任せてください。でも、良かったんですか。羿様のおっしゃったとおり、たとえ仇をとったところであの娘の苦しい状況が良くなるわけではありませんよ。」

 

 台詞の後半は声を落とし、少女に聞こえないようにささやくものになった。

 両親を亡くし、頼れるものはない。少女を待ち受ける未来に明るい予測はできない。

 羿もそれは否定しない。

 

「それでも、生きていかねばならない。そして、苦難の多い人生の中で、この復讐によって取り戻した何かが彼女の支えになるかもしれない。私は、闘うしか能のない武神だ。だからこそ、闘うことに意義があるのなら、手助けをしてやりたいと思う。」

 

 姮娥は笑みを浮かべた。

「わかりました。私も精一杯お手伝いをさせていただきますね。」

「ああ、よろしく頼む。」

 

「ところで、気になっていたのですが、」

「どうかしたか。」

 姮娥がくるりと少女に向き直る。

 

「あなたのお名前は?なんとお呼びすればいいでしょうか」

「あッ」

 命の恩人に名乗りもしていなかったことにうろたえながら少女は口を開く。

 

「猟師・逢啓の娘、蒙と申します。よろしくおねがいします。」

「ああ、よろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

 

 こうしてアツユを追う一行に猟師の娘・逢蒙が加わったのだった。

 



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第8回:姮娥と逢蒙が山中を行くこと

「この策の要点はつまるところ、あの小賢しく臆病な獣の目利きを俺たちがどれだけ超えられるかだ。」

 

 明け方、羿は2人に対してそんな言葉で作戦の説明を始めた。

 

 端的な説明の後に、いくつかの質問、そして道具の配分。

 

 おおよそ全てがスムーズにすんだ。

 唯一の例外は姮娥が兎に化身するところを逢蒙に見せたときだった。

 

 生死をともにすることから、いざの際に驚かないようにとの配慮だったが、これが少女の感性に刺さった。

 

「姮娥様は山の女神だったのですね。」

 大きな目をキラキラとさせて言う。

 

 どうやら、彼女の村を含むこの辺りの信仰らしい。

 猟師に良い獲物を恵んでくれる美しい女神が山にいて、時折、鹿や兎に化身して人の様子を見守りに来ると。

 

 姮娥自身は否定しようとしたのだが、羿が「それで逢蒙が元気になるならいいじゃないか。」とささやいてきたために強く言うこともできない。

 

 その上、「実際、昇天したことで神通力も強まっている。今の君は神を名乗ってもおかしくない。」などと、姮娥自身が初耳の情報すらぽろっと出てきたのだった。

 

 そんな一幕はあったが、太陽が昇りきる前には準備が整い、3人は行動を開始した。

 

 まずは野営地を抜け出し、(このとき、初めて逢蒙は自分たちが谷底に立っていることに気がついた。)そのまま南に向かう。

 

 一里ほど歩いたところで、岩壁が低くなっているところが見つかり、谷底から脱出。

 今度はそこから北へ一里と少し。

 つまり、昨日逢蒙がアツユに放り投げられた地点まで戻ってきたことになる。

 

「ここからなら、帰り道が分かるか。」

 羿が姮娥に確認する。

 

「ええ、大丈夫です。」

「逢蒙もしっかりな。姮娥を手助けしてやってくれ。」

「は、はい」

 いささか緊張した様子の少女が答える。

 

 朝、顔や身体を拭き、ぼろの代わりに羿の火浣布の外套を身体に巻き付けているおかげでみなしごの乞食から、親のいる乞食くらいの様子になっている。

 

「それじゃあ、ここからは予定通り。私はアツユの跡を追う。2人ともくれぐれも気をつけて帰ってくれ。」

 心配からか、わずかに眉根がこわばった羿に対して、姮娥は笑みを向けて応じる。

 

「はい、羿様もご武運を」

 逢蒙も生真面目な表情でそれを真似た。

「ごぶうんを」

 

 身なりも顔つきも大きく違うが、どこか姉妹を思わせる2人の様子。

 フ、と羿の口角が上がった。

 

「じゃあ、また後で」

「はい、また後で」

 

 最後にそう交わし、羿はアツユの痕跡をたどりさらに北へ。

 姮娥と逢蒙は昨日来た道を南西に。

 2手に別れて歩き出した。

 

………。

 

 昨日はなんとも思わなかった森の中も、今日、羿と別れて行くとなると不気味で恐ろしい。

 

 月日を経た木の根が地面をぐねぐねと這い回り、野放図に伸びた枝が日差しを遮る。

 薄暗く、足場も悪い森の中を姮娥と逢蒙は最大限、注意力と速度を両立させつつ進んでいた。

 

 頼りは姮娥の記憶と昨日残した目印。

 

 ともにゆく逢蒙は気丈な様子で泣き言1つ口にしない。

 それでも、薄暗い森が恐ろしいのか。姮娥の外套のスソをぎゅっと握りしめている。

 

 本当なら手を直接にぎってやりたい。

 それどころか手に手を取って物陰に隠れていたいところだった。

 

 しかし、今この場で頼れるのは自分のみ、さらには果たすべき役目もある。

 逢蒙と自分をまもること、役目を果たすこと、両方やらなければならないのが今の姮娥のツラいところだった。

 

 ゆえに、姮娥の右手は逢蒙の小さな手ではなく、飛刀の短剣を握っているし、左手は不測の事態に備えて空けられている。

 

 慎重に歩を進め、最初にアツユと遭遇した集落まで四半里の地点。

 

 一際、樹勢が強く、暗ぼったい場所で声がした。

 耳障りな鳴き声が、木の枝の揺れる音やカン高い鳥の声に混ざって2人の耳に届く。

 

「キキキ、キキキキ」

 覚えのある声。

 

 とっさに身構えて辺りを見回すが、声の主は影も形も見えない。

 空耳か。

 怖がっているから、ありもしない声を聞いてしまうのか。

 

 姮娥はそんな風にも考えたが、逢蒙の青ざめた表情を見れば、自分だけが聞いたのではないことは確信できた。

 

「いそぎましょう。はやく、森を抜けないと」

 励ますつもりで握った少女の手はまるで真冬の風に吹きさらされた様に冷え切っていた。

 

 それでも、逢蒙は決意の籠もった表情でうなずきを返してくる。

 

 追い立てられるような焦燥の中、再び歩き出す。

 深い藪の中から粘つくような視線が向けられている気がして、どうにも恐ろしい。

 

 知らぬ間に早足になり、そのせいで木の根につまづきそうになりながら、どうにか集落の寸前までたどり着いた。

 

「キキ、キキキキ。ハナレタナぁ。アイツとハナレタナアッ」

 声との距離は至近。

 走る悪寒。

 

 とっさに逢蒙を抱いて横っ跳びしたのは、半ば以上に当てずっぽう。

 しかし、功を奏した。

 

 そこに樹上から怪物の巨体が落ちてきたからだ。

 

「走って!!」

 

 戦っても勝ち目はない。

 逢蒙を叱咤し、自分自身も駆け出す。

 

 意外なことに怪物・アツユはすぐには襲いかかってこなかった。

 

 代わりにスンスンと鼻を鳴らし、2人を値踏みするようにぎょろと視線を巡らせながら、余裕のある駆け足で姮娥たちを追い込もうとしてくる。

 

「キキキキキキキ、」

 漏れ出た嗤いは、自身の勝利を確信しているが故だろう。

 

「くっ!」

 姮娥は歯を食いしばった。

 

 気を抜くと、恐怖で奥歯がガタガタと鳴ってしまいそうだった。

 逢蒙の前で情けない姿は見せられない。

 必死に足を動かす。

 

 集落の外縁部を抜け、中央の広場へ、その先には頑丈な倉庫が見えた。

「あの倉庫の中に!」

 

 立てこもれば、少なくとも時間稼ぎは出来る。

 姮娥の意図を察してくれたか。逢蒙も返事を返す。

「はい!」

 

 だが、たまった疲労か。それとも気がはやって足下がおろそかだったか。

 不意に逢蒙の足がもつれ、小さな身体が転倒した。

「ッア!!」

 

 倉庫まで、あとほんの1丈(3m)ほど。だが、致命的な停止だ。

 

「立って、はやく!!」

 呼びかけながら、姮娥は逢蒙をまもるように立つ。

 

 腰の短剣に手をそえ、いつでも抜き放てるようにして後方から迫る怪物を威嚇する。

 それは傷つき追い詰められたネズミが必死に相手を威嚇する様にも似ていた。

 

「キキ、ッキキキキキキ」

 彼我の距離、おおよそ2丈。

 

 アツユは嗤いながら足を止め、猫が弱ったネズミをいたぶるような声音を発した。

「キキキ。ネェエ、タスケてヤロウカ?」

 

 言葉の意味がとっさに理解できず、返答しそこねた姮娥にむけて怪物はさらに言葉を投げる。

 

「コドモをクレタラ、オマエはタスケテヤルヨォ?」

 

 背後で逢蒙の身体が、おびえるように震えたのが分かった。

 同時に、自身の芯がカッと燃えるように熱くなる。

 

「コドモぉ、ステナヨォ?」

 

 姮娥の口が、考える前に動いていた。

「黙れ化け物!命ほしさに子供を捨てるような大人になどなるものか!」

 

「回刃飛刀、剣よ奔れ!!」

 繆!!

 

 裂帛の気合いとともに放たれた短剣は今までで最高の鋭さで眼前の敵へと襲いかかった。

 

 だが、不意打ちでもない、ただ正面からの攻撃を受けるほどアツユも油断はしていなかった。

 

 齦!

 怪物の虎のごとき爪に阻まれて、飛刀の短剣は力なく斜め後方の地面へと墜落する。

 

「キキッキキキキキ!!」

 化け物は一際高い声で嗤いながら、クンクンと鼻を鳴らし、ぎょろぎょろと姮娥たちを舐めるような眼で見る。

 

 ゾっと姮娥の背筋が凍る。

 化け物が匂いと身なりから姮娥たちの武装を、化け物を絶命しうる武器を持っていないかを見定めようとしていることを察したからだ。

 

「ハガネノニオイがナイ。モウ、ブキハナイヨネ。ネーェ、キキキキキキ」

 

「ッ!」

 反応してはいけないと分かっていたにもかかわらず、小さく喉が鳴った。 

 事実、あとは作業用のごく小ぶりな短剣が1本あるだけだ。

 

 その反応で確信を得たのか。化け物の口がつり上がり、汚らしい牙の隙間から生臭いよだれがこぼれ落ちる。

 

 ジリ、と半ば無意識に半歩後退する。

 泣き叫びながら逃げ出さなかったのは、背後にいる逢蒙をかばおうとしたおかげだ。

 

 湧き上がる恐怖と涙をこらえて姮娥はなおも化け物をにらみつける。

「来なさい。化け物。あなたなんかちっとも怖くない。」

 

「キキキキッ!!」

 駄ッ!!

 アツユが嗤いながら、姮娥と逢蒙に躍りかかる。

 

 怪物の爪が襲いかかる刹那。

 姮娥は懐の内から、1つの呪具を抜き放つ!

 

 羿より託された秘策。

 

 長さ三尺。軽くしなやかで何処までも神々しい燐光をまとう黄金色の羽根。

 その正体は羿が打ち落とした太陽、金烏の羽毛。

 

『来たれ黎明!!』

 嘩ッ!!

 

 ほとばしる閃光が森の暗がりになれたアツユの眼を強かに焼く。

 

「ギャンっ!!」

 眼を押さえ、悲鳴を上げる怪物。

 

 対して姮娥は追撃の手を緩めない。

『止刃帰刀。剣よ戻れ!』

 

 後方で地面に転がっていた短剣を息を吹き返したように主の元、その前にいる化け物へと飛翔する。

 

「俄アアアアアアアアア!!」

 野獣が咆哮し、しゃにむに振り回された爪が飛来する短剣をはじきとばす。

 

 弩ッ!!

 瞬間。怪物・アツユは絶命した。

 

 閃光に眼を焼かれ、短剣に気をとられたその刹那。

 雷光のように空気を裂いて飛来した神鉄の矢がその胴体を貫いたのだ。

 

「ア、ァア?」

 混乱する内心のまま、虚空に視線を漂わせたアツユ。

 

 神鉄の矢は野獣の肉体を完全に貫通し、今は地面に尽き立っている。

 

 渺々と生臭い血が傷口から吹き出し、続いて化け物がドウっと大地に沈んだ。

 

「姮娥さま、終わったのですか?」

 背後からの逢蒙の声に姮娥も我に返る。

 

「ええ、策の通り、羿様がやってくれました。」

 ほう、と息を吐いた瞬間。足の力が抜け、その場にへたり込んでしまう。

 

 金烏の羽根も取り落としてしまったのか、地面に転がっている。

 拾おうとするが、手が震えて上手くつかめない。

 

「姮娥さま、どうぞ。」

 そんな姮娥を見かねたのか。逢蒙が小さな手で羽根を拾い上げてくれる。

 

「ありがとう」

 なんとか受け取りながら礼を言うが、言われた少女は顔を伏せてしまう。

 

「ごめんなさい。私がムリを言ったから、こんな無茶を」

 ここ数日の苦難にやつれ、汚れているがそれでも子供らしい柔らかな頬をポロリポロリと涙が落ちていく。

 

 姮娥は小さな身体を抱きしめた。

 

 背中を優しく叩いてやりながら言う。

「無茶でも、ムリでもないんですよ。貴方に言われなくても私達はアツユを討つつもりでした。むしろ、手伝ってくれて、ありがとう。おかげで無事討伐が出来ました。」

 

 抱きしめられた温かさに、逢蒙のかみ殺した泣き声が、次第に号泣へと変わる。

 羿が合流するまで、二人はそのまま身を寄せ合っていた。

 

………。

 

 眼下、遙か下方に逢蒙たちの集落を一望できる山頂に羿は独り立っていた。

 いましがたアツユを仕留めた天虹の弓が吹き抜ける風を受けて韻々と鳴っている。

 

「なんとか、首尾良くいったか。」

 独りごち、小さく息を吐く。

 

 もとより並外れた視力を神通力でさらに底上げした羿は、姮娥と逢蒙の無事とアツユの絶命も見てとっていた。

 

 2人と別れた後、急いでここに陣取って待ち伏せを仕掛けたのだ。

 狙いは2人を囮にした超長距離からの精密射撃。

 

 己の腕と2人の覚悟を侮った獣が罠にかかるか、それとも彼我の力を見切られて逃げ出されるか。

 雲を霞と逃げ散られれば、それが一番厄介だったが、幸いにも無事に片がついた。

 

「さて、はやく2人に合流してやらなければな。他の獣に襲われでもしたらことだ。」

 つぶやき、走り出す。

 

 天下に武神の矢から逃れる術なし。

 怪獣・アツユの討伐。ここに完了。

 




武器とか、術とか

 天虹の弓:虹が七色の光を放つように、その時々、使い手の望みに応じて強さや大きさを変化させる。

 金烏の羽根:使用者の望みに応じ光を放つ。光量は調節できるので、閃光による目潰しにしたり、松明の代わりにしたり。『来たれ黎明』『薄暮よ過ぎ去れ』

 飛刀の短剣:宙を舞い、使用者の敵を切り払う。熟達するほど自由に使えるようになる。『回刃飛刀、剣よ奔れ』『止刃帰刀。剣よ戻れ』


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