一般隊士の数奇な旅路 (のんびりや)
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序幕・立身編
1話 寺で出会う


「見ろ。あの峠を越えたところに、村があるはずだ。武仁」

「はい、師匠。日が暮れる前には、たどり着けそうです」

 

 武仁(たけひと)が物心ついたときは、もう、その男と旅をしていた。

 

 終わりのない旅だった。

 主に、山嶺や谷でほとんど外と隔絶されたような、小さな町や村を訪れる。そこで、人助けをするのだ。山菜採り、薪割り、家の修繕の手伝い、獣の退治など、それが罪でさえなければ何でもやる。その対価は、ほんの僅かな銭だった。

 

 武仁は、14歳だった。師匠、と呼んでいる男との人助けの旅は、5歳から続けている。

 それより以前、自分がどこで、どんな生活をしていたのかは、ほとんど覚えていない。

 何故か両親の下を離れ、北方の町の貧民窟にいた自分を、師匠が拾った。

 

「お前は、今日から私と旅をするのだ。これまでのことは全て忘れて、私と共に来い。忘れられなくても、別人の出来事だと思え。今日から、武仁(たけひと)と名乗るのだ。必要な時が来れば、姓は自分でつけるといい」

 

 出会ったとき、師匠にそう言われた。

 詮索しなかったが、自分がどこで生まれ、両親がどこにいるのか、気にならないわけではなかった。だが、自分よりも幼い子供が、親を失い、飢えで痩せ細っている。獣に襲われて怪我を負う。そんな光景を、旅の中で何度も目撃した。

 家族がいないのは、自分だけではない。この旅は、そういう人を助けるためのもの。武仁はそう思っていて、むしろそれができるということは、喜びでもあった。

 

 平坦な山道から、登りに差し掛かる。途中、背負っていた荷物を下ろし、休憩した。

 自分の荷物の中から、握り飯を取り出した。一昨日に泊まった村で、作ってもらったものである。冷えて硬かったが、食えなくはなかった。

 

「足りないだろう、それだけでは」

「師匠が、お礼をもっと多く貰っていれば、この倍はあったと思いますが」

「だが、そんなことはしないのさ。銭や米の為に働くのは、私は好かん」

「私も、馬鹿ではありません。腹一杯食べたければ、師匠と旅などしていませんよ。だから今はこれで、十分ということです」

「いいや、馬鹿な弟子だよ、お前は。師匠が馬鹿だと、弟子も馬鹿になるのさ」

 

 師匠が、けたけたと、声を上げて笑った。

 

 年齢は知らなかったが、9年前からほとんど見た目は変わっていないと思えた。笑うと、意外と若いような気もする。闊達な性格が、その感じを強くしていた。

 外見は華奢な印象を受けるが、むしろ、意外なほどの力がある。武芸の腕もかなりのもので、一度山間の道で絡んできたやくざ者を4人、道に落ちていた木の枝で、瞬く間に打ち倒したことがあった。

 ただ、人に見られるところでは、決してその技を見せようとはしない。

 

 山中で野宿する時など、武仁も稽古をつけてもらえる。師匠と呼んでいるのは、そのためだった。

 ただ、自分にはあまり武芸の素質はないようだった。それは、稽古の中で自然と感じたことだ。

 どうしても先に手が届かない、もどかしいような感覚。それを時々感じるのだ。自分の限界が見えている、ということなのかもしれない、と武仁は思っていた。

 

「自分に才能がない。それを知っている者と知らない者は、全く違う」

 

 武芸の話をしていたら、ある時、師匠は真面目な声でそう言った。だから、師匠との稽古をやめようとは思わなかった。

 それに自分には、別の才能があるかもしれない。足腰や体力には、いくらか自信があるのだ。

 

「さて、行こうか。登りきるまで、あと一息だぞ」

「はい」

 

 硬い飯を水筒の水で流し込み、武仁は木箱を背負い直した。

 荷の中身は、塩や薬、釘や包丁などの金物など、時によって変わる。歩荷を生業にしていた爺が腰を悪くしていて、その代わりに山奥の村に荷を届けるのが、今回の仕事だった。

 

 軽くはないが、動けなくなったりはしなかった。丸太運びの手伝いなど、比べ物にならないほどの苦行を、数日にわたって続けることもあった。

 一歩一歩を確実に歩き、息を乱さない。視線は高いところに置く。山道を登るときは、それだけに集中する。

 荷はあらかじめ2つに分けていた。より重い方を武仁が背負っている。それが、自分の務めなのだ、と思っていた。

 

 登りきると、眼下に村が見えた。立ち並んだ家から、炊事の煙がいくつも上がっている。

 あとは下りで、村の入り口までは早いものだった。

 入る前に、互いの身だしなみを整える。師匠は上下黒色の羽織と袴で、武仁は灰色だった。人前に出る時、落ち葉や蜘蛛の巣が服に引っかかっていることを、師匠はみっともないと言い、許さない。

 

「よし。やはり暗くなる前に、到着できたぞ。銭もいくらか貯まっているし、今日は肉でも買って、たらふく食べるか」

 

 笑いかけてきた師匠に、武仁は頷いた。

 

                       

 

 師匠が荷物を村長に引き渡している間、武仁は、村長の家の前で待っていた。

 

 荷物と引き換えに、報酬を受け取る。師匠がその額をどう決めているのか、最初はよく分からなかったが、今は少しずつわかるようになっていた。

 村の生活の状況で、決めているのだ。だから、豊かな村の樵の手伝いの報酬が、貧しい村の熊退治より多い時もある。時には、無償で動く。師匠らしい、と思うだけだった。

 

 村長の家から、師匠が出てきた。少し、難しい顔をしている。

 

「どうされましたか?」

「すまん、武仁。今日も野宿になる。いや、泊まる事はできん。急ぎの仕事だ。これを、これから山を2つ越えた所の、寺まで運ぶ」

「珍しいですね、急ぎの荷物運びというのは。それに、これだけですか」

 

 師匠が出したのは、拳3つほどの大きさの麻袋だった。受け取った時のかすかな匂いで、中身がわかった。

 

「藤の花ではないですか。私たちも、野宿する時はよく焚いていますが」

 

 獣避けの効果がある、と師匠は言っていた。野宿では最も恐るべき事であり、欠かさず焚いている。

 

「そうだ。もう少し西の方へ行ったところで、悲鳴嶼行冥という若い僧が、寺で孤児達を育てている。一昨日我々がいた村が、そこに藤の花を届けるはずだったようだ。だが、爺さんが腰を悪くしたから、このところは届けられてはいないかもしれない。これは、村長から聞いた話だが」

「では、その寺は藤の花を切らしている、という事ですか?」

「わからん。だが、嫌な予感がする」

「出発は、すぐに出来ます」

 

 もともと、私物は少ない。服、小さな鍋や食器、筆や紙といった最低限のものしか持っていなかった。

 背負い袋に入るもの以外は、稽古で使うための木の棒があるだけである。武仁の棒に比べて、師匠の棒は、太さは四本分、高さも武仁の胸ほどの高さはあった。まるで杖かこん棒で、それを軽々と振り回す。

 

 するべき事は、水筒に水を汲むことだけで、それはもう済ましている。

 

「では行くぞ」

 

 日が暮れたが、わずかな休憩を挟む時以外は、黙々と歩き続けた。寒い季節ではないので、月明かりを頼りにすれば、夜の旅もそれほど苦ではなかった。

 師匠の歩みはかなり速く、昼間は乱れなかった息が、少しずつ苦しくなってくる。

 

 藤の花は、獣除けではないのかもしれない。息を深く吸い込みながら、そう思った。

 一度そう思うと、藤の花を寺に届けるということが、師匠にとって何か別の意味を持っているとしか、武仁には思えなくなってきた。それを聞いたところで、師匠は答えてくれないだろう、とも思った。師匠の人助けに、理由はないのだ。

 それに、獣が寺を襲うということが、全くない訳ではないだろう。

 

「少し、急ぐぞ。武仁」

 

 答えるより先に、師匠は走り出していた。一瞬遅れて、武仁も走り出す。

 いくつ山を越えたのか、ほとんど覚えていなかった。丸一日はかかる行程を、一晩で踏破したのだというのは、体で分かった。

 丘ほどの斜面を越え、そのまま駆け下った。ほとんど全速の疾走に近い。

 

「武仁、お前はここにいろ。私が戻ってくるまで、絶対に出てくるな」

 

 そう言い、師匠が荷物を捨て、棒を携えて飛び出していく。

 立ち止まって軽く息を整えると、周りの様子が分かるようになった。麓に近いところまで、降りてきていた。

 そして、微かな血の匂いが漂っている。

 

「何が起きているんだ、一体」

 

 声が出ていた。

 

 夜通し歩いて来た先で、なぜ血が流れる。藤の花を届けに来たのではないのか。師匠は一体、ここに何をしに来たのか。

 思念が渦巻いた。首を振って断ち切り、身をひそめながら移動していく。

 

 寺の位置は、さっき駆け抜けた頂上から見えていた。今いる場所は、寺の裏山にあたる。

 師匠には戻るのを待て、と言われたが、この事態である。寺の様子を見てくるだけだ、と思った。

 しばらく駆けると、寺の方向に続く裏道に出た。

 

「おやぁ、こんなところにも子供がいるとはなぁ?」

 

 男の声。人影が、いつの間にか背後に立っている。

 武仁は影に向かって、棒を構えた。

 

「向こうから血の匂いがするから急いで来てみれば、まだ生きのいいガキが、ここにもいるじゃねぇか」

 

 影が、一歩ずつ近づいてくる。

 不意に雲が晴れ、月光が数条、頭上から射した。角の生えた額、濁り切った眼、鋭く伸びた犬歯が浮かび上がる。

 鳥肌が立った。目の前にいるのは男だったが、人間ではなかった。獣でもない。化け物だ、と思った。

 

「お前は、何者なんだ。この血の匂いは、お前がやったことか」

 

 腰を抜かしそうになったが、声を出して何とか耐えた。

 

「はっ。そんなことも知らねえのに、こんなところにいたのか。まあ、今更何も知ることはねえ。俺に食われて、お前は死ぬんだからなぁ。向こうで死んでる奴らも、俺が食ってやる」

「この先には、行かせない」

「だからよ、それはお前が決めることじゃねえって言ってんだよ。ほらっ!」

 

 怪物が手を伸ばしてくる。武仁は棒で打ち払いつつ、2歩後方へ下がった。稽古通りに、体は動いた。同じことをもう一度、繰り返した。

 打ったのは、木の棒である。手の甲ならば、痣くらいはできるが、目の前の化け物は痛そうな素振りすらない。嫌な笑みを、口元に浮かべている。

 

「いいねぇ。こういうのをなんていうのかな。そうだ、そそられるっていうのかな。お前らみたいな家畜が、最後に、必死の抵抗をする。豚とか鶏の断末魔みたいだなぁ。実に、実に俺好みだよ」

「この、鬼が。お前は」

 

 怪物は、口元に不気味な笑みを浮かべて、腰を低く構えた。それで武仁は、動けなくなった。以前、山中で猪と遭遇した時のことを思い出した。出くわした時には、間近で、しかも突進の態勢に入っていた。

 次にくる攻撃は、躱せない。躱せるとは、とても思えない。

 

「ああ、俺は鬼さ。じゃあな、楽しませてくれてありがとよ」

 

 鬼。次の瞬間、目の前いっぱいに、その姿が広がった。手、足。動けなくても、倒れない。眼だけは、閉じない。それだけを思った。

 

「死ねや!」

「いや、死なせん」

 

 声。弾かれたように、鬼が飛び退くのを、武仁は棒を構えて立ち尽くしたまま見ていた。

 師匠の後ろ姿。武仁と鬼の間に立っていた。

 

「師匠」

「よく、眼を閉じなかった。倒れなかったな」

「どうして鬼狩りが、ここにいやがる。それに他にも、何匹かいたはずだ」

「もう、何も知る必要はない。お前は、ここで滅ぶのだ」

 

 師匠が、棒を八双に構えた。いや、刀だった。鬼が跳んだ。同時に、師匠の姿が消え、月光が周囲に迸った。そう見えた瞬間、鬼の首が高々と飛んでいた。師匠は、元の位置で変わらず立っている。

 頸のない鬼の体が、灰のように崩れ落ちていく。

 

「立て、武仁。付いてくるのだ」

 

 師匠に言われて、自分が腰を落としていることに初めて気づいた。

 師匠に続いて走り出す。刀は、鞘の中だ。

 

「すみません、師匠。私はなんてことを」

「今は、それどころではない。説明などしている、暇がない」

 

 師匠の声は、怒っているというより、焦っているようだった。

 

「夜明けが近い。あの化け物共は、日の光を天敵としている」

 

 小道を、2人で駆けた。本堂の形が、木々の間に見えている。道を抜けると、寺の庭先に飛び出した。

 

 異様な光景だった。

 若い僧侶が、どす黒い色の肉塊を、叫び声をあげながら何度も素手で殴りつけていた。さほど鍛え上げた肉体ではなさそうだったが、血みどろの拳を振るう様は、凄まじいものだった。

 

「もういい」

 

 僧侶は、師匠の声に反応しなかった。

 さらに殴りつけようとする腕を、さらに師匠が止めた。もう片方の腕は、武仁が止めた。凄まじい力で、両手でしがみつくようにしなければならなかった。

 

「夜が明けた。その鬼は、もう死んでいる。もう、いいのだ」

 

 朝日が射しこんできた。師匠の言う通り、鬼の体が日に照らされたところから、炎に包まれていく。すべてが灰になるのに、そう時はかからなかった。

 腰を落とした若い僧侶が、再び、獣のような咆哮を上げた。声は尾を引いて、朝の空気に、ただ吸い込まれていく。

 

 武仁は、男の叫びを聞きながら、少し俯いた。



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2話 馬鹿弟子

 目指せ3000から5000字以内!
 進行はゆっくりです。


 臭いが、鼻をついた。

 

 死んだ人間を、見たことがないわけではない。切り刻まれ、身ぐるみはがされている死体を、2人で埋葬したこともある。

 しかし、武仁(たけひと)の目の前に広がっている光景は、あまりにも悲惨だった。

 

 朝日が射しこんだ寺の境内には、そこら中に血が飛び散っている。だが師匠の指示で立ち入った本堂や庫裏は、その比ではなかった。まさに血の海で、何人が死んでいるのか、見ただけではわからなかった。

 

 吐き気よりも、涙が込み上げてきて、武仁は唇を噛んだ。

 

 死んでいたのは、ほとんど子供だった。鬼という、あの化け物にやられたのか、手足がおかしな角度に曲がっていたり、首元が抉られているのがほとんどだった。

 

 それでも、生存者を探していると、物音がした。見ると、童女がひとり、庫裏の一室の片隅に座り込んでいた。

 

「生きている、生きているのか。お前、名前は。怪我はしていないか?」

 

 息はしている。だが、茫然とした眼をしていた。何を話しかけても、全く反応しない。

 武仁は、その童女を抱え上げた。童女の服も血で汚れていたが、気にしなかった。体は冷たく、微かに震えている。

 

 抱えながら、自分もどこか麻痺しているのかもしれない、と武仁は思った。色々なことがあった、一夜だった。

 

 外では、師匠が半紙に筆を走らせていた。墨も筆も、常に身に着けている。

 鬼を殴り潰していた若い僧侶は、最後に見た姿勢から、微動だにしていない。その傍らに、武仁は童女を下した。凍り付いたような顔を、朝日が照らし出していく。

 

「沙代」

 

 不意の声に、童女がぴくりと動いた。

 続けて、他の名前が発せられていく。9人の名前。それがこの寺にいた、子供たちの名前だろう、と武仁は思った。生き残ったのは、ひとりだけだ。

 

 僧侶の額には手拭いが巻かれていた。師匠が手当てをしたようだ。

 手ぬぐいから視線を下げると、白濁している眼が並んでいる。不意に武仁は、僧侶が盲目であることに気づいた。盲目なのに、鬼を肉塊になるまで殴り続けたのか。

 それに驚いたことに、僧侶は拳の皮が破れているほか、大した怪我はないらしい。

 

 師匠が、指笛を吹いた。高い音で三度、山中に鋭く響く。一匹の老いた鴉を、師匠はたまにそうやって呼び出すことがある。

 

 細く畳んだ半紙を鴉の足に括り付け、再び空へと放った。いまいましいほど、空は晴れている。

 

「悲鳴嶼行冥殿だな」

 

 師匠が、僧侶の傍らに立った。

 

「我々は、もう行かなければならん。辛いだろう。家族を失った後にのこのことやってきた私が、憎いだろう。だが、この武仁も、実の親を失っている身。仏門に身を置く貴殿に説くようなことではないが、生きるということは、辛く苦しいことだらけだな」

 

 悲鳴嶼は何も語らないが、肩が微かに上下しているように見えた。

 

「だが、互いに失ったものを比べあうことに、意味はない。ご住職は一晩かけて鬼と戦い、勝った。そして、この童の命と、自分自身を守った。それを、忘れないでくれ」

 

 師匠は悲鳴嶼の肩を叩くと、再び、駆け下ってきた山に向かって歩き出した。

 

「師匠。良いのですか、あの方たちを残して」

「すぐに、麓の村から人が来る。我々がいても、話がややこしくなるだけだ」

 

 途中に投げ捨てられていた荷物を拾い、さらに山の奥へと進んでいく。

 無言である。疑問は許さない。師匠の背中が、そう言っている気がした。

 

 勝手に飛び出したことを、やはり怒っているのかもしれない、と武仁は思った。しかし、あの時鬼の注意を引いていなければ、寺はさらにもう一匹の鬼に襲われ、あの僧侶と沙代という童女は死んでいただろう。もしあの場で死んでいても、自分が間違ったことをしたと、武仁は思わなかった。

 

 数度、休憩した時を除いて、ひたすら歩き続けた。

 

「今日は、ここで泊まる。準備だ」

 

 日没直前まで歩いたので、寺からはかなり離れただろう。

 

 武仁は素早く薪を集め、火を起こし、藤の花の香を焚く。小鍋に水を入れて、火にかける。普段の野営の準備は、それだけだった。

 

 他にも、獣を捕える罠、糸と木の板で、近づく者がいれば音が鳴る仕掛けも、作ることができる。

 

 師匠は石に腰を下ろして、刀の手入れをしていた。今まで刀を持っていたことにすら気づかなかった、と武仁は思い、それと同時に、師匠の棒がなくなっていることに気づいた。

 

 あの棒の中に、刀を仕込んでいたのかもしれない。そう思えるほどの、大きさだった。大っぴらな帯刀は官憲に咎められる。

 

「今朝のことは、忘れろ。武仁」

 

 刀を納めた師匠が、唐突にそういった。

 

「悪い夢か、別の国の出来事か、何かだと思え」

「私は、あの鬼という化け物について、師匠に説明していただけるものと、思っていました。師匠がお持ちのその刀のこと、鬼狩りというものも」

「説明して、何になる。あれを理解したところで、お前では勝てないことは、よくわかっただろう」

「私より幼い子供たちが、寺で大勢死んでいました。悪い夢で済ますことなど、私にはできません」

「あれが、人の死だ。そしてそれは、珍しいものではない。病、飢え、獣との闘い、人間同士の些細な争いごとでも、人は死んでいく。今朝の出来事は、そのひとつに過ぎん」

 

 師匠の言葉にはどこか、まやかしがある、と武仁は思った。今までの旅は、そのひとつひとつを無くしていくためのものではなかったのか。

 

「これまであんなに、人助けをされてきたではありませんか。どんな仕事も、僅かな礼で。それを今になって、人が死ぬのは当たり前だなどと、どうして言えるのですか」

「これは人助けなどと、甘い言葉で片付く話ではない、と言っている。もういい。話は、これで終わりだ」

 

 言い捨て、師匠は火の傍で横になった。

 

 大らかな人だったが、旅で怒られた経験は何度かある。卑怯、姑息、廉恥心のない行動をしたときは、強い語気で叱りつけられた。

 それでも、こんなにも頑なな態度は、初めてだった。鬼が原因なのは、間違いないだろう。

 

 横になり、ふと武仁は気づいた。師匠の過去を、自分はほとんど知らない。

 

                       

 

 翌日から、元通りの日常に戻った。

 最初に行き着いた山間の村で、仕事を受けた。薪を作るため、山で木を斬る仕事である。

 

 斧で木を倒し、村まで運んで、さらに断ち割っていく。生木はすぐに薪にせず、乾燥させるのだ。それが終われば、次は乾燥し終えた木を、鉈や斧で割っていく。一抱えもある木の幹が、村にはいくつもあった。

 

 すべての作業を終えるまで、数日はかかった。

 

 作業している間、何度も、寺のことが頭に浮かんだ。死んだ子供たちの無残な姿、酸鼻極めた寺の中。

 生き残った2人は、どうしただろうか。そして、あの鬼というのは、他にもいるのだろうか。

 

「こんなところで、何をしているんだ」

 

 何度も、声に出ていた。

 師匠は忘れろといったが、あの光景は、瞼に焼き付いて離れない。薪割りなど、誰にでもできる仕事をしていて、本当にいいのか。こんなことをしている場合ではない、という気がしていた。

 

 村を発つ日、入り口で村長と数人の村人が見送りに出ていた。

 

「ありがとう、影法師殿、お連れの方も。冬の準備が、大分捗りましたぞ」

「我々は、当然のことをしたまでです。長らくの逗留を、許してもらいたい」

「最近は若い者が村を出ていってしまうことが多くてな。影法師殿のような方なら、いつまでも村にいてほしいものじゃ」

 

 師匠は、必要があって名乗るとき、自らを、影法師と名乗っていた。慣れると、法師様などと呼ぶ人もいる。

 

「我らは、流れ歩く身。またいずれ会うことが、あるかもしれません」

「本当に、あれだけの銭で良いのか? 村には、いくらかの貯えもあるのだが」

「それは、村の方々のもの。冬の費えにしていただきたい」

 

 師匠と共に一礼し、村を辞去した。村には何人かの子供たちがいて、姿が見えなくなるまで、こちらに手を振っていた。

 

 再び、山の中だった。道なき道を、踏破していく。

 

 山腹の、一段高くなったところ。武仁は立ち止まった。ほとんど同時に、師匠が振り返った。お前の心の中はすべて知っている、と言いたげな視線を向けてくる。

 

「師匠、私はどうしても、納得がいきません」

「私のやり方に対してか、それとも、自分自身か」

「鬼に殺されかけたのに、何一つできなかった私自身の弱さが。そして、鬼という化け物が、跋扈しているということが」

「何が言いたい、武仁」

 

 武仁は荷物を下ろすと、地に額を擦り付けた。

 

「私を、強くしてください、師匠。非力の身であることは、重々承知しています。人を助けて歩く師匠のあり方が、間違っているとは思いません。しかし今の私は、あの寺での出来事を、忘れることもできないのです。真に助けられるべき人が、どこかにいる。そして今の私には、その人たちを救うことはできない。そう思うと、何も手につかないのです」

 

 沈黙が、山間に流れた。枝葉のざわめきや、鳥の鳴き声が、頭上を流れていく。

 

 額を擦り付けたまま、師匠の声を待った。もし呆れて見捨てられたなら、それまでのことだ、と武仁は思った。その時は、一人でも今の旅を続ければいい、とも思い定めた。

 

「あれと関われば、確実に死に近づくぞ。そうでなくても、お前はその決断を、後悔することになる。死ぬなど、本当は生ぬるいのだ。生き地獄を、お前は味わうことになる」

「覚悟の上です。自分で選ぶことです」

「ふん。子供が簡単に、覚悟などという言葉を使うな」

 

 唐突に、武仁の棒が視界の中に転がり込んできた。

 

「持て、武仁」

 

 立ち上がり、棒を構えた。師匠の手にも、同じくらいの木の枝があり、互いに向き合う形になった。鬼の首を飛ばした刀は、今は袋に収められている。

 

「育て方を間違ったな。まあ、当然のことか。馬鹿な師匠なら、弟子も馬鹿になる」

 

 師匠が、笑った。気合を発して打ちかかってきたのを、武仁も棒で受けた。




 次回から修行パート(長い)


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3話 修行修行修行

 その道は、地獄への入門でもある。


 水を掛けられた。

 

「立て、武仁(たけひと)。強くなりたいのだろう。お前の力は、こんなものか」

 

 続いた師匠の声で、武仁の意識は急に覚醒した。

 

 人助けの旅は中断となった形で、代わりに、地獄の訓練の日々が始まった。

 

 一日は、まず剣術の稽古から始まる。

 互いに木刀を構え、まず武仁が打ちかかる。入った、と思った瞬間、地面に打ち倒される。

 逆に打ちかかられると、防いだはずが、見当違いの方向から襲い掛かってくる。

 

 師匠の剣は、打ちも突きも、変幻自在である。何が起きているのか、技を食らっている自分でも、よく分からなくなってくる。

 

 昼頃、わずかな休みを与えられてからは、体術の稽古である。

 最初だけ、体術の基礎を教わった。すぐに、打ちかかってくる師匠を、武仁が素手で払うものに代わっていた。全身を木刀で、時には空いた手足で、容赦なく打たれる。

 

 夕刻からは、ひたすら山中を走った。師匠が終わりというまで走り続けるもので、休むことは許されない。遅ければまた、木刀の餌食である。

 

 日に、何度も気を失った。しかし水をかけられれば、すぐに目覚める。いつまでも寝ていれば、木刀が叩き込まれるのだと、体で理解していた。

 

「お前の望む通り、厳しい訓練をくれてやる。苦しいだろう。だが、死ぬことは許さん。強くなるとは、そういうことだ。その代わりに、いつでも、私を殺していいぞ」

 

 最初に、そう言われていたが、殺されないように立ち回るだけで、武仁は精いっぱいだと思えた。師匠なら、自分の殺気すらも察知するだろう。

 

 数日で、全身が痣だらけになった。木刀で自分を打ち倒すのを、楽しんでいるとすら思えるほどで、憎悪のような気持ちにも襲われた。

 しかし、諦めはしなかった。

 

 強くなりたい。鬼の前で、情けなく棒立ちしているような人間に、なりたくないのだ。

 訓練で混濁する意識を通しても、それだけは見失わなかった。見失ってはならないと、最初に自分で決めたのだ。辛いときは、寺の光景を思い出した。

 

 次第に、師匠の棒や身のこなしが見えるようになってきた。山走りのほうは、旅路で鍛えていたこともあって、わりと早く慣れていた。

 夜は、泥のように眠る。眠りつつ、気配は感じていた。

 気を抜けば、木刀が襲ってくる。

 

                       

 

 季節が回っていた。始めた時は夏だったが、もう冬に入りかかっている。

 訓練を始めて、3か月程は経っただろう。

 

 遠くの山並みが、初めて薄く白く染まった日も、武仁と師匠は、木刀を構えて向かい合っていた。互いに吐く息も、微かに白い。

 日中の稽古は、木刀と体術を織り交ぜた立ち合いに変わっていた。

 

 向き合ったまま、互いに固着した。師匠の構えに、隙は無い。隙が見えても、実は隙ではない。そういう駆け引きがあるというのも、体で理解していた。

 

 動いた。正面に、振り下ろされてきた木刀を、武仁もその場で受けた。一呼吸おいて、左右から次々と打ち込まれてくる。右は棒で払い、左は半身回して躱す。

 甘い動き。そう思うのと同時に、左肩に衝撃が走った。

 

 木刀を落とした。いつもなら、ここで仕切りなおす。だが、師匠の木刀は、唸り声をあげて襲い掛かってくる。

 

「誰が、終わったといった」

 

 師匠の声。転がりながら、躱す。二度地べたを回り、体を起こした。木刀。軌道は見えていた。師匠の腕を、咄嗟に体術の構えで捌く。

 立てた膝。逸らした切っ先が跳ね返ってきて、打たれた。自分の動きの甘いところを、容赦なく衝いてくる。

 

 落ちている木刀に飛びつき、再び構えた。

 

「戦え、武仁。今日は、お前に死ぬまで戦ってもらうことにした」

 

 息を深く、吸って吐く。構えたまま、立ち位置が何度も交錯した。師匠の動きに、ひたすら食らいついていく。剣術も体術も、体に叩き込まれた全てをつかった。

 そして、一度打たれた動きは、繰り返さない。

 

 さらに何度か、深い呼吸を重ねた。山走りの成果で、息の深さと長さには、自信がある。

 

 二度、木刀を振るい、競り合って離れる。木刀を握る手に、痺れが走った。

 三度目。肩を突かれ、体制が崩れた。さらに打ち倒されたが、木刀だけは離さない。

 跳ね起きる。四度目の斬撃。下から来た。木刀を撥ね飛ばされたが、両手で師匠の服の袖を掴んでいた。捩じれば。そう思った。それで、腕を折れる。

 力を入れる寸前、息ができなくなった。膝で腹を蹴り上げられている。

 

「躊躇などするな。わずかな戸惑いが、隙を作る」

 

 武仁が距離をとるのと同時に、師匠が跳躍した。頭上。振り下ろされてくる木刀の動きが、のんびりとしたものに見えた。

 死んだ。そう思った瞬間、師匠と眼が合った。死ね。いや、戦え。そう言っていた。

 不意に、視界が白くなった。

 

                       

 

 木々の間に、星が浮いていた。日が暮れている。

 そう理解するのと同時に、武仁は跳ね起きようとしたが、体が動かない。

 

 火が焚かれている上に、毛布が掛けられていた。体はほとんど、冷えていない。

 だが、やはり指一本動かせなかった。全身が疲労感に包まれている。今までにないことだった。

 

 体を動かそうともがいていると、そのうち林の中に気配を感じて、武仁は首だけを回した。

 

「おう、起きていたか。さすがに、若いだけのことはある」

 

 師匠が、闇の中から現れた。手には野菜をぶら下げている。

 

「近くの村まで行っていた。ちょうど野菜の収穫が終わったらしい。それも豊作で、安く手に入ったぞ」

 

 そうですか。そう声を出そうとしたが、のどが痙攣して、うなり声のようなものが飛び出る。

 

 師匠は笑い、武仁に水筒を傾けてきた。水を飲み下すと、冷たい潤いが口や喉から、全身に染み渡った。もっと飲みたいと思ったが、飲まされたのは少しだけだった。

 

「ありがとう、ございます」

「声が出るなら上々だ。寝ていろ。晩飯はまだだ」

 

 言われて、目を閉じた。意識が吸い込まれるように落ち、旨そうな匂いで、眼を開いた。

 焚火に掛けられている鍋が、湯気を上げている。それを見て、武仁は猛烈な空腹感に襲われた。体も、少しは動くようになっている。

 

「飯はたっぷり用意してある。遠慮せず、食いたいだけ食え」

 

 焚火の前に座り込むと、師匠に器を渡された。

 米を、野菜や肉を刻んだものと合わせて炊きこんだ雑炊。それに、山で自生している山椒や辛子をすり潰したものも入れてある。

 

 1杯目は、気づいたら食い終わっていた。2杯目からは、自分で鍋からよそっていく。それにも、すぐに食らいつく。鍋が空になるまでに、4杯は平らげた。

 片づけをしてから、再び火を囲った。

 

「ほとんど、一人で食ったな」

「すみません。腹が、減っていたのです。今までにないほどです」

「当然だな。お前は、今日はそれだけの動きをしていたのだ」

「覚えているのは、師匠が跳んで、私に木刀を振り下ろしたところまでですが」

「これを見ろ」

 

 師匠が、半分灰になった燃えさしを取り上げた。一目見て分かる。木刀の柄だった。

 

「お前の木刀だ。お前はその後、私の一撃を紙一重で躱し、ほとんど夕刻まで戦い続けたのだ。折れなければ、まだ戦っていたかもしれんな」

「師匠が言われている意味が、よくわかりません。私は、何も覚えていないのです」

「人間には、時折、そういう力が働くのだ。死を前にするとな」

 

 いわゆる走馬灯や、火事場の馬鹿力のようなものだろう、と思った。

 

 師匠は木刀を、再び焚火の中に戻し、その上にいくつか細い枝を重ねていく。すぐに、全てが炎に飲まれた。

 武仁はしばらく、炎のうねりを眺めた。

 

「私は、死んだのですか?」

「お前はどう思う。自分が死んだと思うか」

「わかりません。死んだような気もしますし、実は死した後の妄想を見ているのかもしれません。死んだのは本当で、その後に蘇ったのかも」

「面倒くさい子供だな、お前は。聞くのではなかった。私もお前も、確かに現世を生きている。それに私は死人に、飯を作ってやるつもりなどはない」

「そうですね」

 

 またしばらく、炎を眺めた。この数か月、訓練の後は眠っていることが多かったのだ。炎を落ち着いて眺めたのは、いつぶりだろうか。

 焚火を眺めていると、弱くなる気配があるのに気づく。それに合わせて枝や、薪を加えていくのだ。

 

「本当はな、武仁。私はお前が、死ねばいいと思った」

 

 師匠の言葉を聞いても、意外なほど驚きを感じなかった。

 

「半端な強さほど、無意味なものはない。武芸は特に、そう感じる。自分より強い相手が、必ずどこかにいる。そしていつか、負ける」

 

 そう語る師匠の眼は、焚火に向けられていた。武仁は、黙っていた。まるで、師匠が自分のことを語っているようにも思えたからだ。

 

「今日、私はお前を、本気で殺すつもりでいた。鬼狩りなどになって死ぬくらいなら、いっそ私が殺してしまおうか、とな。しかし、お前は何度私が追い込んでも、生き残った。私は、ひとつ確信した。生きようとするその執念が、お前を強くする」

 

 師匠の眼が、焚火から武仁へ向いた。

 鋭さや強靭さ、優しさをも備えている眼。しかしどこか、思いつめたものを孕んでいるようでもある、と思っていた。

 今日は、この眼で、戦えと語りかけてきたのだ。

 

「これまでの稽古は、今日で終わりだな」

「師匠、それは困ります」

「武芸だけの稽古は、終わりということだ。立ち合いは、まず朝か夕のどちらか一度。お前が身に着けるべきものは、まだ多くある。夜は私が、鬼と鬼殺隊について教えよう」

「そういうことですか。では、今晩はどの話を?」

「焦るな。そうだな」

 

 師匠は小さく笑い、枝を2つに折り、焚火にくべた。山の空気は冷えているが、寒さはそれほど感じない。しっかり飯を食ったからだ、と思った。

 

「鬼からだな」

 

 枝が、軽い音を立てて爆ぜた。




 呼吸は次に持ち越しです。

 戦闘シーン書いただけで疲れてしまったぁ。


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4話 呼吸法と笛吹き

 全集中の呼吸について、独自の解釈があります。


 旧題 鬼殺隊の笛吹き(小声)


「ここで見ていろ」

 

 そう言い、師匠は刀を抜き放つと、低く構えた。息を吸っていく。どこまでも、深く。呼吸音と同時に、全身に気迫がみなぎっていく。

 突如、師匠の全身から、凄まじい闘気が噴出した。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 前方に跳躍して、刀を横に一閃させた。一瞬の間を置いて、木が傾いていく。雪が舞い、武仁の視界を覆い隠した。

 

 何が起きたのか、武仁(たけひと)には理解できなかった。

 大人3人ほどが手を繋いで、ようやく一周回れそうな大木がそびえていたのだ。それが、切り倒されている。

 

「これは、全集中の呼吸という。鬼という化け物と人間が互角に戦うための、技だ」

 

 霧中から、師匠の姿が現れた。

 

「お前には、これから呼吸法の鍛錬を積んでもらう」

 

                       

 

 武仁は木刀を構え、心気を研ぎ澄ませた。冷えた空気をゆっくりと吸い、肺に取り込んでいく。

 すぐに、胸が苦しくなってくるが、構わず呼吸を続けた。吸った空気は、体の隅々まで行き渡らせていく。

 いきなり体の中心が、かっと熱くなった。心臓の鼓動が激しくなり、血が全身を駆け巡っていく。熱が、頭から指、足先にまで広がった。

 

 今。そう思った瞬間、武仁は雪を踏みしめ、木刀を振った。振り抜いた直後、悪寒と眩暈に襲われ、うずくまった。まるで、口や耳から内臓が飛び出しそうな感覚に襲われた。

 腹の中身を吐き出しそうになるのを堪え、ゆっくりと呼吸を整えていく。立ち上がったが、軽い眩暈はまだ続いていた。

 

 いつも、こうだった。朝から夕方まで、息を吸ってはうずくまることを、繰り返している。

 

 全集中の呼吸のうち、基本と呼ばれる流派の一つ、水の呼吸の訓練である。

 空気を吸いこむのは、何の問題もなくできた。山走りで鍛えた心肺が、役に立った。だが、吸った空気を力に変えることが、上手くいかない。

 

 呼吸もやりすぎれば毒。師匠がそう言っていた。力に変えられなければ、大量に取り込んだ空気が逆に体を狂わすのだろう、と思えた。

 

 それから数日、武仁はひとりで訓練を積んだ。

 呼吸の訓練を始めてから、あまり長い距離は移動していない。師匠は時々、麓まで降りて、食料などを買い込んでくる。

 

 武芸の稽古は、ひとりでもできた。山走りも続けている。落ちれば大怪我するような急峻な岩場を、木刀を持って抜けることも、日に一度はやった。それで、息が乱れるようなことはない。

 唯一、全集中の呼吸だけは、思うようにならなかった。

 

「やっているな。寒い中でも。感心、感心」

 

 師匠が戻ってきたときは夜で、武仁は石に腰かけ、瞑想していた。

 吸った息を、体に馴染ませる。動きはなくても、瞑想も訓練だった。

 

「どれ、ひとつ稽古の成果を見せてみろ。狙いは、そうだな。その木でいい」

「わかりました。この、木ですね」

 

 武仁は木刀を構えた。足程の太さの、まだ若い木だった。

 深く吸った息を、全身に駆け巡らせていく。鼓動。徐々に早くなった。体の内側で、小さな熱が沸き上がる。全身に広がるのと同時に、木刀を振った。

 かん、という乾いた音が耳に響いた。幹には跡も残っていなかった。

 

 呼吸は止めず、ゆっくりと続けていた。それで、あの反動はかなり楽になる。徐々に、普通の呼吸に緩めていけばいい。

 

「なるほど。あまり根を詰めても仕方ない。座れ。お前に話と、土産がある」

 

 木は倒せなかったが、師匠は気にした様子ではなかった。最初から倒せるとは、思っていなかったのかもしれない。

 

 木刀で木を倒すことが不可能とは、武仁は思わなかった。師匠はあの大木を、刀で倒したのだ。岩すら斬れるかもしれない。

 

「私が見る限り、お前に、呼吸の適性はなさそうだ」

 

 二人で焚火を囲んで最初に、師匠がそう言った。

 

「武芸の才能も、自分にはないと思っています」

 

 火が弱くなる気配。手早く枝を半分に折って、放り込んだ。雪を掘ったところに火を焚いているので、穴に投げ込むだけだった。

 

「正確には、鍛えるべき呼吸の流派がない、というべきか。あるとしても、私が知らない呼吸だろう。基本の呼吸の話は、覚えているか?」

「はい。水、炎、風、雷、岩の5つの流派があるのですよね?」

「そうだ。だがそれは、即ち5つの剣の流派でもある。だが、全集中の呼吸の本質は、剣技ではない、と私は思っている。お前は、どう考える」

「呼吸による、体の強化、ではないかと思います」

 

 師匠は、深くうなずいた。

 

「お前は、全集中の呼吸ができるだけの体は作っている。深く吸って、深く吐く。それだけの空気を取り込める肺腑がある、ということだ。だが肉体への注力が、うまくできていない」

「繰り返せば、いつかはできるようになる。私は、そう信じています」

「いずれは、できるようになるだろう。だが、人は老いる。思わぬ傷を負うこともある。なによりも鬼は、お前が強くなるのを、待ちはしない」

 

 素質のある人間は、全集中の呼吸にも容易く順応できるのかもしれない。肺腑を鍛えるだけなら、誰でもできるのだ。

 

「それでも、私はただ、繰り返すだけです。師匠に教わったことをできるまで、何度でも」

「それが、お前のいいところだ。それに、水の呼吸だけでも、拾まで型があるが、使わなければならないというものではない。肝要なのは、全集中の呼吸ではなく、日輪刀で鬼の頸を飛ばすことだ」

 

 鬼殺隊という、闇で鬼を狩ることを使命とする組織がある。鬼殺隊士に支給される日輪刀で頸を斬れば、日の光でなくても鬼を滅することができる。

 鬼や鬼殺隊に関する細かい話は、夜の師匠との話で、かなり頭に入っていた。

 

 師匠は、かつて鬼殺隊士だった時は水の呼吸を使っていたらしいが、今は鬼殺隊を引退している。

 新隊員を育成する育手なのかどうか聞いたが、そんな大層なものではないと言い、苦笑いを浮かべていた。

 

「ところで、土産だ。これを、お前にやろう」

 

 師匠がおもむろに、袋から細長い包みを取り出した。出てきたのは、竹笛である。

 

「麓で、小さな市が開かれていた。どうせ息を吸ったり吐いたりしか、することがないだろう。だったら、笛でも吹いてみるといい」

「私は、吹き方も、曲も知りませんが」

「音の出し方は、吹きながら知ればいい。音を出せるようになれば、お前が考えていること、思いを込めて、この笛を吹いてみろ」

 

 笛を、試しに吹いてみると、痩せこけたような音が流れた。師匠が、笑っている。

 武仁は吹く気を失って、笛を手元に戻した。

 笛を吹けないことがなんだ、と思った。今までの旅路で、笛で人を救った覚えなどない。芸人の一座などの演奏を聞いて、心を動かされたりもしなかった。

 

「お前、全集中の呼吸の修行に、笛など役に立たないなどと思っているな」

「笛に悪気はないのですが、何の役に立つ、とは思います」

 

「必要かどうか、という堅苦しい物差しは、いまここで捨ててしまえ。そもそも、生きていくのに、笛など不要。だが、その笛の音を聞きたがる者がいるし、吹きたがる者もいる。笛を作ることを、生業の一部としている者もいる。無論、笛に限ったことではない」

 

 武仁は再び、手元の笛に眼を落とした。

 師匠は村で買ったと言っていた。多分、高級なものではない。しかしよく見てみると、手作りの跡が随所に滲み出ている。作り手の思いも出ている、と思った。

 

「お前は既に、十分な稽古を積んでいる。そして今更、努力を怠ることもない。だからこそ、時には気を緩ませるのだ。だが、そのあてが笛である必要はない。お前が要らぬと思うなら、そんな物は捨ててしまえ」

「わかりました。ですが、捨てません。これは、師匠にもらった大切な笛ですので」

 

 師匠が、また小さく笑い、枝をひとつかみ焚火にくべた。

 周囲は雪に包まれていた。夜は雪を盛り上げて風よけを作り、毛布に包まって眠る。

 

 雪が深ければ、雪に穴を掘ることもある。そうすれば、冬でも意外と暖かい。

 武仁は笛を抱いて、目を閉じた。

 

                       

 

 雪が朝から、絶え間なく降り続いていた。岩場の縁に座った武仁の全身も、すぐに薄い雪に包まれた。

 夕刻、師匠との立ち合いを終えた後、この岩場に来ていた。

 

 年が、改まろうとしている。世間は年の瀬の雰囲気に包まれているだろうが、武仁の日常は、変わっていない。

 夏ごろに始めた訓練も、半年ほどは経ったことになる。

 

 今日も、師匠には容赦なく打ち倒されたが、倒されること自体は減っていた。躱す、受け流す、急所を外して受ける。反射的にできるようになっている。

 だが、師匠に木刀が届いたことは、一度もない。

 

 武仁は羽織の懐から、竹笛を取り出した。稽古終わりと晩飯までの間の1刻(2時間)の間、岩場の上で笛を吹く。

 

 最初は、音の出し方ばかりを考えていた。音が出せるようになってからは、吹きながら様々なことを考えるようになった。

 俺は、鬼殺隊士になれるのか。鬼から人を救えるのか。そもそもこの訓練をしている間にこそ、救えるものがあるのではないか。何のために、人助けをするのか。

 最後には、大抵、この人生で何がなしうるのか、というところで思念は燃え尽きる。そして気づいたら、笛を奏でているのだ。

 

 一刻、武仁は吹き切った。笛を吹いている間、寒さは全く感じない。むしろ、体の中心は熱いほどだ。

 しかし、1刻を吹き続けたのは、初めてのことだった。

 

 武仁は笛を収め、傍らに置いていた木刀を掴んで立ち上がった。頭や肩に積もっていた雪が、どさりと足元に落ちた。

 岩場には、割れ目から灌木がいくつか生えている。その中の1本の前で、武仁は木刀を構えた。

 

 寒くはあるが、剣先は震えていない。

 呼吸を、少しずつ深くしていく。冷気が喉から肺腑に流れ込んできた。刃物のような冷たさに、まず耐える。耐えて、吸った空気は徐々に全身に回していく。

 

 木刀の柄を、さらに強く握りしめた。徐々に、指先も暖かくなってきた。

 

 笛の音に気持ちを込める。知らず知らずのうちに、そうしていたのかもしれない。ある時から、そう思っていた。笛を吹き終えると、爽やかな気分に包まれていることがある。

 

 武仁の中では、笛を吹くことと全集中の呼吸は似ていた。

 どちらも、自分の思いを形にすることができる。かたや笛で、かたや自身の肉体で。

 笛を吹くように、呼吸する。それを意識した。笛には、減り張りがある。ただ穴に空気を吹き込めばいいというものではない。全集中の呼吸も、同じことだ。

 

 熱が回る。肩、足、頭の頂点まで張りつめたようになった。しかし、どこも破裂させないように、なんとか抑え込む。

 足。ひとりでに踏み出していきそうになった。息を吸って、その衝動を堪える。

 

 徐々に、息苦しさが増した。体がもう空気を求めていない。しかし、耐える。凡庸な自分にできるのは、耐え続けることだけなのだ。

 

 熱が頂点に達した。そう感じたのと同時に、すっとからだが冷たくなり、不意に目の前の全てが固着した。

 風。雲。雪。灌木のたなびき。すべてが止まった。全身には、力が漲っている。

 今。そう思った。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 跳んだ。同時に、木刀を振りぬいた。

 着地しても、しばらく動けなかった。悪寒や吐き気は襲ってこない。そして、木刀を握る手には、軽い手ごたえがある。

 振り返ると、灌木が半ばから倒れていた。断面はまるで、刃物で断ち切ったようになっている。

 

「出来たようだな、全集中の呼吸」

「師匠」

 

 師匠が近づいてきて、武仁の手に握られたままの木刀を外した。指が寒さでこわばっていて動かないことに、それで気づいた。

 手に息を吐いて解し、懐に入れた。それでようやく、温かさを取り戻していく。

 

「半刻もじっと構えていれば、誰でもそうなる」

「私は、そんなに続けていたのですか?」

「いつまでたっても帰ってこなかった。様子を見に来てみれば、雪が降っているのに、木の前で木刀を構えていたのだ。それも、なかなかの気を放っていた。これは面白いと思って見ていれば、お前はちっとも動かない。しかし、いきなり跳んだと思えば、水面斬りだ」

 

 師匠に言われて、自分が全集中の呼吸の一部を本当に遣えたのだと、改めて分かった。

 呼吸を、ひたすら続けていた。そうするうちに、全身に力が漲った瞬間があったのだ。

 あれが、動くべき瞬間だったのだろう。そして、見逃しはしなかった。

 

「半刻もかかったが、確かに水の呼吸の、壱ノ型だった」

「私は、ようやくできたのですね。私にも、鬼から人を救う力が、あるのですね」

「とりあえず、帰るぞ。これ以上は、寒くてかなわん」

 

 師匠がそう言い、背を向けて歩き出した。

 振り返る寸前、師匠の口が微かに動いたのを、武仁は見逃さなかった。

 

 この時が来たか。そう、呟いたように見えた。




この時が来たか……(修行終了)


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5話 さらば影よ

 ようやくひと段落。


 2か月ぶりに、街に下りた。

 冬の間は、2人だけで山籠もりを続けていた。

 それも一週間くらい前に、峠は越えたらしい。このところ、山中にも温かい日差しが射すようになっていた。

 師匠に、荷物をまとめるように言われたのは、それからすぐのことだった。

 

「まず風呂に入る。それから、服を新調するぞ」

 

 山での生活に、風呂などない。できるのは、全身を布で拭いたり擦ったりすることくらいだった。それだけなら、旅でもよくあることだった。

 苦慮したのは、服がどんどん傷んでいくことだ。破れは糸や細くちぎった布で塞いだが、補修しきれなかった小さな穴やほつれは、数えきれないほどある。

 

 流石に師匠も、街に入るときに服がみすぼらしいなどとは言わなかった。師匠の服も裾や袖が、軽く傷んでいる。

 

 風呂を済ませた後、服屋を回り、新しい衣に身を包んだ。それで、2か月で纏わりついた汚れを、すっかり落としたような感じになった。

 師匠は黒色、自分は灰色。羽織と袴という、古風な和装である。旅の中で、自然にそういう格好に落ち着いた。

 

「私は行くところがある。お前は、先に宿屋へ行っていろ。いつものところだ。金はこれを使っていい」

「わかりました」

 

 街には北から入った。今までにも、何度か同じ方向から街に入って、泊まるときはいつも同じ宿屋を使っている。藤の花の家紋を、掲げている宿屋だ。

 

 武仁(たけひと)は人込みを避け、裏道で宿屋へ向かった。

 山間の村ばかり回っているので、久しぶりに人出のある街を歩くと、慣れるまではちょっと息苦しい。冬が終わり始めた頃で、人の間には活気もあった。

 

「おい、お前」

 

 左右に、男が2人立っていた。その間を抜けようとしたら、前に立ちふさがってくる。

 

「いい着物着てるじゃねえか。坊や、お使いかなあ?」

「兄貴。そんな言い方したら、またこの前みたいに、小便漏らしちまいますよ」

 

 汚れた服、ざんばら髪、黄ばんだ歯。やくざ者のようだ。

 大して驚かなかった。山の中ですら、こういう手合いと出会うことがある。人が多い街なら、それこそ山ほどいるだろう。

 そんなことを、武仁は2人を見ながら、ぼんやりと思った。ただ、黙って言いなりになるつもりもない。

 

「くそっ、こいつ何にもしゃべりませんよ。もういい。おい小僧。持ってるもん、全部出しな。全部だ」

「貴方達に渡せるようなものは、何もありません」

「小僧。てめえ、俺たちを舐めてんのか?」

 

 ひとりが掴みかかってきた。反射的にその手をはじき、徒手を構えた。木刀は背中に差している。

 

「こいつ、一丁前に構えなんてしやがって。子供だからって、手加減しねえぞ。お前も、やっちまえ!」

 

 2人の拳や蹴りが襲い掛かってくるが、全て捌き、躱していく。師匠の技に比べれば、いかにも遅かった。

 避けるだけで、反撃はしない。下手な打ち方は、相手に怪我をさせることになる。

 

「こ、こいつ。気味の悪い奴だ」

 

 しばらすると男たちは激しい息をつき、捨て台詞を吐いて去っていった。

 服の乱れを直し、武仁は再び歩き始めた。

 

 攻撃を躱している間、武仁は冬山での訓練を思い出していた。

 冬の山籠もりは、訓練の総仕上げのようなものだった。雪の中、木刀や拳で立ち会う。過酷な環境での戦いを支えてくれたのは、全集中の呼吸だった。

 水の呼吸は、今も壱ノ型しか使えない。だが深い呼吸を重ねると、不思議と寒さにも耐えられた。

 

 酷寒の中で、ひとつ見出した、と武仁は思っていた。

 相手を打ち倒すことより、生き残ることの方が重要である。どんなに屈強な相手でも、傷つくことを防ぎ、生き残り続ければ、いつかは勝機を見いだせる。

 

 勝つために敵と刺し違える、という考えは、武仁にはなかった。厳しい訓練を経ても、結局、自分は大して強くはないのだ。相打ちできる敵など、最初から高が知れている。

 

 道を何度か曲がって、表通りに出た。目の前が、藤の花の家紋を掲げた宿屋だった。構えは小さく、質素なものである。

 

「2人分です。今晩も、お願いします」

「はい、いつもの部屋だからね。影法師さんは?」

「師匠は後で来るそうです」

 

 女将に2人分の前金を渡し、部屋に入った。

 布団、ちゃぶ台、座布団。無駄なものは、ひとつも置いていない。この静かな佇まいが、武仁は好きだった。いつ来ても、部屋には少しの塵も見つけられない。

 

 部屋の端で、武仁は笛を磨き始めた。

 山籠もりの間、何度か師匠の前でも笛を吹いた。お前には、笛吹きの才能があるな。そう言って笑っていたが、吹くことを何度かせがまれもした。

 日が暮れてから、師匠が宿屋に合流してきた。袋をひとつ、脇に抱えている。

 

「旅の荷物だ。冬の間に、かなりのものが傷んでいて、使い物にならなくなっている」

 

 袋はしっかりと裁縫されていて、かなり丈夫そうだった。内側には革が張られているので、雨露くらいなら防ぐ作りになっている。

 

「ここに座れ、武仁」

「はい」

 

 師匠の前に、武仁は正座した。しばらくの間、部屋の真ん中で、2人で向き合った。

 視線が激しくぶつかり合う。これも、戦いだった。眼光が繰り返し襲い掛かってくる。見返すのではなく、武仁はただ耐えた。耐えて、受け流していく。

 

「藤襲山という、山がある。鬼殺隊入隊のための、最終選別がそこで行われている」

「以前、お伺いしましたね。山域全体を、藤の花に囲まれているのだとか」

「お前は明日から、その藤襲山へ向かえ。ひとりで行くのだ。ここからなら、半月もあれば到着できる。目印を書いたものも、荷物に入れておいた」

「私は、最終選別に行っても良いのですか?」

 

 武術ならまだしも、全集中の呼吸は水の呼吸だけ。それも、壱ノ型しか使うことができない。まだまだ訓練は必要だ、と思っていた。

 

「お前には、私から教えられるものは、全て教えた」

「しかし、全集中の呼吸は、ほとんど使えません。こんな私が、鬼殺隊に入ることができるのですか? 入れたとして、何の役に立つのですか。私は、師匠のように強くなりたいのです」

「お前はやはり、大きな勘違いをしている。今のお前は、呼吸の型がいくつか使えないということに過ぎん。そして鬼殺とは、鬼の頸を飛ばすことであって、呼吸をすることではない。お前は今の自分を弱く、私を強いという。だが私は、武術が他人より多少優れているだけだ」

「それは、私にとっては凄いということです。師匠の強さは、いつでも私の憧れでした」

「武術だけが人の強さであれば、人は誰もが武術を極めなければならなくなる。だが、現実はそうではない。人間には、いろいろな形の強さがある。お前には、お前の強さがあるのだぞ」

 

 自分の強さ。そう言われると、気づくものがあった。

 

「冬の間に、師匠と立ち会っていて、思ったのです。倒すだけではなく、生き延びることのほうが、私には大切なのではないかと」

「思うものがあるなら、自ら実践するのだ。お前は、人を助けたい、といったな。お前が鬼殺を為すのであれば、私がお前を鍛えた意味もある」

「わかりました、師匠。明日、ひとりで藤襲山へ向かいます」

「それでは、これも持っていけ」

 

 師匠が、布に包まれた長物を渡してきた。黒塗りの鞘が、端から覗いている。

 

「私の日輪刀だ。お前に貸しておく。最終選別は、7日間を生き残ることが合格の条件だ。折れても、新しい刀はない。大事に使え」

 

 無茶な使い方をすれば、簡単に折れるのかもしれない、と武仁は思った。それが鬼との戦闘中だったら、致命的な隙になる。

 柄を握り、少しだけ抜いた。刃は灯に照らされて白く、刃紋はかすかに黒く波打って見えた。手入れはしっかりされていて、曇りはない。

 

「師匠の刀です。大切に、使います」

 

 刀を納め、荷物の傍らに置いた。

 

「さっきはああ言ったが、お前は志願者の中で、まず最弱だろう。全集中の呼吸の極めるべき型が見えず、武芸の方はまだまし、といったところか」

「周りはみんな、私よりも強い。その気持ちを、忘れないようにします。それに師匠は、私の生きる執念を買ってくださった、と思っています。だから、私は何があっても生き残ります」

「そうだ、武仁。何があっても、生きることを諦めるな。辛いことがあろうと、必ず生きろ」

「はい」

 

 それ以上、話すことは何もない、と思った。

 そう思うのと同時に、不意に、武仁は別れの気配を感じた。もし藤襲山での最終選別を終えても、師匠はここにはいない。そのことを理屈でなく、直感で感じた。

 

「師匠」

「何だ?」

「私と初めて会った時のことを、覚えていますか? 必要が来たとき、自分で姓をつけろ、と言われました」

「よく覚えているものだ。確かに、私はそう言った。では、今がその時か」

御影(みかげ)と名乗ります」

「影、か」

 

 師匠が、人に名乗る際の名前である、影法師から一文字取ったのだ。

 影法師。海外の劇曲の一節にも、その言葉があるようだ。その意味も聞いていたが、武仁には難しく、その意味はよく分からなかった。

 

御影武仁(みかげたけひと)。私は、良い名前だと思う」

「これからも、旅は続きます。どうか、お健やかに」

「武仁。生きることは、別れの積み重ねだ。だからこそ出会いは、別れと同じくらい、尊いものになる」

「そうですね。私は、師匠と出会えて、本当に良かったと思います」

「折角だ。お前の、笛を聞きたい」

 

 武仁は頷き、竹笛を構え、瞑目した。

 

 様々な思いが、沸き上がっては、立ち消えていく。師匠と出会った日。人助けの日々。人々の笑顔。すべてを変えた寺での出来事。地獄の訓練。そして、唐突の別れ。

 去来する思いを眺める中、自然と音が流れ出す。師匠という一人の男との出会いと、別れの曲。一言でいえば、さよなら、という言葉に過ぎない。

 吹き終えると、外からぱらぱらと拍手が部屋に入り込んできた。

 

 師匠は、何も言わない。

 武仁も笛を構えたまま、動かなかった。

 

                       

 

 夜明け前に、武仁は眼が覚めた。荷を背負い、刀は布に包んで腰に下げる。笛は、帯に差していた。

 師匠はまだ布団の中にいる。その背に向かって一礼し、宿屋を出た。

 速足で歩き、まだ暗い内に、街を出た。

 父親のような、兄のような人だった。そう思って、はじめて、涙が零れ落ちてきた。




 次回、最終選別へ


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6話 最終選別前編・男同士

 最終選別は前中後の3話を予定しています。
 まずは、友達を作る話を。


 評価、お気に入り登録等ありがとうございます。
 拙作を読んでいただき、感謝します。


 そこに近づいていくと、藤の花の匂いも、どんどんと濃くなった。

 武仁が藤襲山の入り口に到着した時、山道上には20人くらいがまばらに集まっていた。志願者は男だけでなく、女もいるようだ。

 お互いに、緊張した雰囲気が流れている。打ち解ける、という雰囲気はまるでない。

 

 武仁(たけひと)は集団の端に加わると、藤襲山の方へ眼をやった。

 藤襲山と言っても、裾野を含むかなり広い範囲を指すようだ。20人が入っても、誰とも出会わないことの方が多いかもしれない。

 さらに数人が、ばらばらと加わってきた。

 

 しばらくして、白い着物を着た若い男が、山道の一段高くなったところに立った。

 

「本日は、鬼殺隊最終選別に大勢の集まってくださったこと、心から感謝を申し上げます」

 

 見た目の若さに反して、落ち着いた声だった。聴く側に、すっと染み入ってくるような感じがする。

 若い男の口から、最終選別の説明が一通りされた。鬼殺隊士が捕らえた鬼が、藤襲山には放たれている。その中で、7日間を生き延びれば、鬼殺隊士として認められる。

 説明は多くなかった。

 

「それでは7日後、皆さまの無事のお戻りを、祈念いたします」

 

 若い男はそう言い、落ち着いた挙措で身を翻した。周囲を、数人の黒い詰襟の集団が囲んでいる。その全員から、手練れの気配がした。

 

 挨拶は、それだけのようだ。

 朱色かかった髪の男が、先頭で山道を進み始める。それが始まりとなって、次々と志願者が山へと入っていた。

 武仁も山道を登り始めた。藤の花が狂い咲いている山道を抜けると、すぐに山の中だった。

 ここから先は、どこから鬼が襲ってくるかわからない、敵地だった。

 腰に佩いた日輪刀の重みを、武仁は片手で確かめた。

 

                       

 

 日没から、しばらく経ってからだった。背後から誰かに見られているような感じが、じっとりと付きまとってくる。

 月は出ている。武仁は、周囲の地形を思い浮かべた。この辺りは、昼に一度見て回っている。

 頭上が開けていて、月明かりでも視界がある場所がある。そのひとつに向かって、ゆっくりと歩いた。

 その間も、視線は背中に張り付いたままだ。

 

 気配を感じた瞬間、武仁は身を低くして転がった。同時に、武仁が立っていた場所に、何かが音を立てて降り立った。

 

「人間だぁ! 飯が来たぞぉ!」

 

 目を血走らせた、鬼。涎を垂らしながら、飛び掛かってきた。

 唐突に、以前、鬼と対峙した時の光景が、武仁の脳裏に鮮やかに蘇った。あの時は、確かに無力だった。だが、今は違う。忌まわしくても、ただの記憶に過ぎない。

 だから、縛られはしなかった。

 

 鬼の爪が迫る。武仁は半身を逸らして躱し、抜き打ちで日輪刀を走らせた。鬼の両足を、斬り飛ばしていた。

 

「痛ぇ! てめぇ、やりやがったな! 殺す! ぶち殺して、てめえを食ってやるぞぉ!」

 

 罵声を散らした鬼が、腕だけの力で、武仁に向かって跳ねてくる。その時、武仁はもう刀を構えていた。息を吸い込むと同時に、全身に力があふれ出す。

 1歩、踏み出した。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 馳せ違い様に、鬼の頸を飛ばした。

 鬼の肉体がぼろぼろと崩れ、掻き消えていく。他に襲ってくる鬼はいない。それを確かめてから刀を納め、武仁は歩き出した。

 

 昼の間に、夜潜むための拠点を見つけていた。

 まずは水場が近くにあり、風下であること。小さな火を焚いても、外からは見えにくい場所であること。それを優先した。

 やくざ者にしつこく追われた時など、師匠は巧みにその追跡を躱していた。旅で覚えた知恵が、思わぬ形で生きている。

 

 戻ってから、土を掘って火を起こした。水を入れた小さな鍋を火にかけ、藤の花の香を焚くと、武仁はようやく落ち着いた。

 

 落ち着くと、さっきの鬼のことを思い出した。

 初めて、鬼を殺したのだ。この手でだ。

 鬼はもともと人間だったもの、と師匠には言われていた。

 つまり、鬼を殺すということは、人を殺めるということではないのか。鬼ならば、殺しても構わないのか。

 考える時間は、冬の間にたっぷりとあった。

 

 鬼は、人間を襲い、食らう存在だった。鬼を放置すれば、それだけ人は傷つき、死んでいくことになる。

 最後は、人間と鬼のどちらを選ぶか、というところに行きついた。

 自分は人間のほうを選ぶ、と武仁ははっきりと結論を出していた。

 人間の側に立って、人助けをする。だから、この手で鬼の頸を打つことに、抵抗はない。

 

 鍋が細い湯気を上げているのに気づくと、それで鬼のことを考えるのはやめた。そして、荷物から小さな団子を取り出した。

 小麦の粉を練った生地に、肉や野菜を包んで、灰の中で焼いたもの。7日間を食いつなげるように、少しずつ準備したのだ。

 

 不意に、木に吊っていた鳴子が揺れ、からからと音を立てた。

 焚火に砂をかけて消す。そして、刀に手をかける。自然にそう動いた。

 そして、息をひそめた。周囲の明かりは、月の光だけになっている。

 

「待て、俺は鬼じゃない」

 

 離れたところで、声が響いた。

 

「俺も志願者だ。鬼はいない。もしよければ、そっちに行かせてくれないか?」

「あまり動かないほうがいい。この辺には、いくつか音の出る罠を仕掛けてある」

 

 周囲には、軽く弛ませた縄を、いくつか打ってあった。鬼でも獣でも、引っかかれば鳴子が動く。

 その罠にかからない通り道も、いくつかつけてある。その一つを教えると、声の主はすぐに近づいて来た。

 

「まさか、あんな仕掛けがあるとは思わなかった。準備のいいやつだな、お前」

 

 朱色の髪の男だった。見覚えがある。先頭で藤襲山に入っていった男だ、と思った。

 

「俺は南原朱雀(なんばらすざく)。お前は?」

「武仁。御影武仁という」

「武仁か。せっかく入れてもらったんだ。火を起こしても、構わないか?」

「さっきまで、そこで焚火をしていた。鳴子が鳴ったから、消してしまった」

「なにっ、それはすまないことをした。待ってろよ。俺は、火付けは得意技でね」

 

 待つほどのこともなく、小さな火が灯った。朱色の髪が、さらに鮮やかに浮かび上がる。

 今度は2人で、火を囲った。

 

「いいな、火があると。まず、気持ちが落ち着く。根を詰めても、この7日が短くなるわけでもない」

 

 朱雀と名乗った男はそう言い、にっこりと笑った。年恰好は自分よりも、少し上くらいだろう、と思った。

 

「朱雀殿は、どうして私のところに来たのだ?」

「腹が減っていたから、かな。獣を獲ったのだ。すると、近くに人の気配がした。武仁。お前のことだ。流石に、罠の気配までは分からなかったが」

「腹が減った。そんな理由で、出歩いていた? 鬼がいるかもしれないのに」

「お互いに出せるものを出せば、飯が豪華になる。これは、俺にとって大事なことだぞ。古来から、腹が減っては戦はできぬともいう」

「私が持っているのは、これだけだ」

 

 武仁は、団子をいくつか並べた。

 朱雀が取り出したのは、2羽の鳥だった。首が切られている。軽い血抜きは、済ませているようだ。

 

「気にするな。火を消させた詫びとでも、思ってくれ。今日は、1羽食う。もう1羽は、後で燻しておけばいい」

「それでは、朱雀殿が」

「おい。その朱雀殿っていうのは、やめてくれ。男同士が、これから一緒に飯を食う。対等に俺、お前で話そう」

 

 男同士。そう言った朱雀の言葉が、何とも言えない感情となって、武仁の中を駆け巡った。

 今まで、こういう人付き合いはしてこなかった。

 師匠はいた。その師匠に、家族のような感情も持っていた。だが、友人と呼べるような人間は、ひとりもいなかった。

 

「わかった。改めて、私は。いや、俺は御影武仁。よろしく頼む、朱雀」

「ああ。とりあえず、飯だな」

 

 飯を食いながら、武仁は朱雀と様々な話をした。

 朱雀は話していて、気持ちのいい男だった。年は武仁より上で、17歳だという。だが、年上然をしているようなところは、全くない。

 

「俺の家は、昔、柱に救われたのさ」

「柱。鬼殺隊最高の剣士のひとりか」

「ああ。炎柱様に、俺たちは助けられた。だから俺は、恩返しのために鬼殺隊に入ることにした。炎柱様が俺たちの家族を救ってくれたように、俺も誰かを救う。それが炎柱様への、俺なりの恩返しだと思う」

「なら、呼吸は炎の呼吸を使うのか?」

「育手を探すのに、苦労したけどな」

 

 朱雀が、自分の日輪刀を抜いた。刃が炎のような赤色を放っている。

 ふと、思った。師匠の日輪刀は、こんな色はしていない。

 

「朱雀。俺の日輪刀は、色などついていないぞ」

「それは、珍しい。日輪刀は、別名を色変わりの刀という。それぞれ、持ち手の適性のある全集中の呼吸の色に染まる、といわれているのだ」

「俺は、さっきこの刀で鬼を斬った。日輪刀であるのは、間違いないはずだが」

「お前の師匠は、不思議な人だな。色のついていない日輪刀といい、その凄まじい武芸の腕といい。それに、人助けの旅か。考えたこともなかったな」

「おかしいと思うか?」

「何を言う、武仁。良い師匠ではないか、と言っているのだ。お前が師匠と続けていた人助けの旅など、俺にはとてもできない。それは、武芸に秀でている事などより、ずっと凄いことなのだ、と俺は思う」

 

 朱雀にそう褒められ、武仁は嬉しくなった。

 焚火は半分くらい灰になっている。小さな明かりの中で、朱雀は残った鳥を小刀で捌くと、木の葉に包み、灰の下に埋めた。

 

「さて、寝るか。ただし2人で、交代しながらの方がいいだろう」

「それなら、俺が最初に見張りをする」

 

「いいのか?」

「さっき、お前が鳴子を鳴らした。緩みがないか、点検してくる必要がある」

「そういうもんか。じゃあ、任せたぜ」

 

 朱雀はそう言い、荷物を枕にして横になった。すぐに、軽い寝息を立て始める。しかし、手は日輪刀にかかっていて、即座に抜けるようにもなっていた。

 

 武仁は立ち上がると、一通り罠を確認し、また戻ってきた。

 ふと、頭上を見上げた。夜空に、星が瞬いている。

 友人が、ひとりできた。心の中で、そう呟いた。




 最終選別は、原作では夜から始まっていましたが、展開上初日の朝から8日目の夜明けまでとしています。


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7話 最終選別中編・戦闘開始

 文字が増える増える。
 最終選別編は本当に3話で終わるのか。

 1/2 タイトル変更しました。



 翌日からは、朱雀(すざく)と組んで行動することにした。それで、別々に動くよりも生き残れる可能性は高くなる。武仁(たけひと)に、拒否する選択肢はなかった。

 行動を共にすると言っても、昼は別々に行動し、夕方に合流する。もし合流できなくても、お互いを探しにはいかない。約束事は、それだけだった。

 

 武仁は、昼間は藤襲山の地形を調べることに終始した。

 一対一で鬼と渡り合うことは、何とかできそうだった。だが、血気術という異能の力を、持つ鬼がいる。術は使えずとも、複数で襲い掛かってくることもあるかもしれない。

 

 藤襲山には、血気術を使える程に人を食った鬼はいない。師匠からはそう聞かされていたが、それが正しいという保証もない。

 全集中の呼吸の型を一通り習得できれば、不意の状況にも対応できるだろうが、自分には使えない。地形でも何でも、使えるものは使うべきだった。

 

 事が起こったのは、3日目、早朝のことだった。

 夜が明ける直前、拠点から離れたところの茂みが、激しい音を立てた。続けて、細い悲鳴が上がった時には、朱雀と共に駆けだしていた。

 

 異変の場には、すぐに着いた。木の根元で、鬼が人を組み敷いている。

 朱雀が駆けながら、日輪刀を抜き放っていた。同時に、呼吸音も武仁の耳に届く。

 瞬時に、朱雀の姿が鬼の背後に立った

 

 

  全集中 炎の呼吸・壱ノ型 不知火

 

 

 鬼を片手で掴んで剥がし、更に頭上に投げ上げると、赤い日輪刀を振り下ろして袈裟切りにしていく。

 武仁は、横たわっている人に駆け寄った。首辺りの出血が激しい。すぐに手ぬぐいを宛がったが、少しの隙間から流れ出てくる。

 肩の辺りの肉を、ごっそりと抉られているのだ。多分、太い血管も破れている。

 

「母上」

 

 幼い声だった。徐々に明るくなり、顔も見えた。傷を抑えながら、自分と同じくらいの年かもしれない、と武仁は思った。

 手ぬぐいは1枚では足りず、2枚目を重ねた。それも、血に染まっていく。

 

「気をしっかり持つんだ。血は、止めてやる」

「母上、私は。みんなの仇を、うてませんでした」

 

 少年の口から零れているのは、うわごとのようだった。顔面は白く、眼はうつろだ。流れ出る血の勢いも、徐々に弱くなっているような気がした。

 目の前で、死のうとしている。そしてそれを、自分には止められない。

 

「気にせず、休め。今日まで、よく頑張ったな」

 

 朱雀が傍らにしゃがみ込むと、少年の手を両手で握りしめた。その手に、ぐっと力が籠められるのが、見ていても分かった。

 

「お前の思いは、俺が受け取った」

「そっか。うけとって、くれた」

「だから何も心配せず、家族に会いに行け。今日まで戦い続けたお前には、その権利がある」

 

 少年の口元が微笑み、直後に、全身の力が抜けた。死んだ。そう思い、武仁は手ぬぐいを外した。

 できる事は、精いっぱいやったのだ。それでも、助けられなかった、という気持ちだけが残っている。

 

「埋めてやろう。残しておけば、鬼に食われる」

「ああ」

 

 2人で黙々と穴を掘り、少年の遺体を埋めた。少しだけ盛り上がった土に、少年の持っていた日輪刀を刺した。ささやかな墓標だった。

 手を合わせると、近くの小川で、血をぬぐった。

 

「俺は、もう我慢ならない」

 

 朱雀が唐突に、そう言った。

 

「これは選別だ。合格以外は死、というのも理解はできる。だが死んでいく人間がいる。それを、指をくわえて見過ごすことは、俺にはできん」

「朱雀。俺も、同じ気持ちだった。俺は、人を助けるために、ここにいる。選別でこそこそと立ち回ってまで、鬼殺隊士になりたいわけではない」

 

「よし。俺ひとりでは、どうにもならなかっただろう。だが、俺たち2人でなら、いくらかできる事もあるはずだ」

「俺は、お前ほど強くない。それでも、できる事をやる」

「刀で片付くものは、俺に任せろ。だから、他のことは、お前に任せるぜ」

 

 拠点に戻ると、武仁は荷物の中から半紙を広げた。簡単な藤襲山の地図を描いてある。確認してきた地形も、いくつも書き加えてあった。

 

「寝泊りする場所は、毎日変える。それで、夜は歩き回ることにしよう。これだけ広いのだから、ここの他にも、鬼から身を隠せる場所があるはずだ。それに、単独で複数の鬼を足止めできる場所、追跡を断てる岩場や崖。それをうまく利用すれば、夜に何もせず歩き回るよりはずっと安全になる。俺は、昼間はそういう場所を探すのに、集中しようと思う」

「なるほど、それなら2人でも十分に立ち回れるな。なら俺は、昼に歩けるだけ歩いて、他の志願者を探すことにしよう。日陰に潜んでいる鬼がいれば、頸を飛ばす。合流はどうする?」

 

「笛を吹こう。日没前の、一刻。その間に合流できなければ、最初の拠点に戻る。夜の間に探し回るのだけは、絶対にしない」

「わかった」

 

 朱雀が、にやりと笑った。

 

「面白い奴だよ、お前は。戦えないというが、剣技が劣るなりの戦い方を、しっかりと考えてもいる」

「師匠との約束なんだ。決して、生きることを、諦めはしないと。つまり、死にたくなければ頭を使え、と教えられていたのだと、今になって思う」

「鬼殺隊士といえば、まずは剣技と全集中の呼吸だ。でも、お前みたいな鬼殺隊士だって居てもいい、と思う」

「行こう。時間はいくらあっても足りない」

 

 武仁はひとりで、藤襲山の裾野を回り始めた。身を隠せそうな場所を見つけては、周囲にいくつか鳴子を仕掛け、安全な通路が分かるように目印をつける。

 あと5日では、藤襲山の全てを踏査することはできないだろう。それでも、山域全体の何割かは押さえられる。そこで動き回れば、救える命がある。

 

 5つ、拠点にできそうな場所を見つけた。そのうちのひとつで、武仁は笛を吹いた。

 空一面が、夕焼けに染まっている。はっとするほどの鮮やかな赤だった。だが、すぐに藤襲山は闇に包まれ、鬼が跋扈する時間になる。

 

「俺だ、朱雀だ」

 

 すぐに、声が届いた。

「右から、回ってくれ。枝を折ってあるのが、目印だ」

 

 朱雀が鳴子の内側に入ってくると、すぐに火を起こして手をかざした。

 

「何人か、見つけたぞ。昼も夜も、ほとんど隠れているようだ。一緒に行動することはできないが、逃げ込める場所はいくつか伝えてある」

「それで、十分ではないかな」

 

 すべての鬼をこの2人で狩るのは、現実的ではなかった。生き残れるだけの、手伝いをする。そして、危険なところは救う。

 今の自分たちにできるのは、それくらいだろう。

 

「行くか」

 

 日が暮れてから、2人で動き出した。

 身を晒すと、何度か鬼が襲い掛かってくる。そのほとんどを、武仁が想定した地形で迎え撃ったので、狩るのは簡単だった。武仁は1匹倒したが、朱雀は容易く4つの首を飛ばしている。

 

 炎の呼吸は、文字通り燃えるような心を、原動力としている。朱雀は、そう言っていた。事実、人間としての朱雀に怯懦なところはまったくなく、剣技も息を呑むほどだった。

 

 月が傾いていた。

 夜更けをいくらか越したか、と武仁が思った時、森の中で激しい音がいくつも入り乱れた。

 音の方向へ、朱雀と並んで走る。前方から男がひとり、乱れた足で走ってきた。表情は笑っているようで、恐怖に歪んでもいる。

 

「おい、お前。ちょっと待て」

 

 朱雀が声をかけたが、それをぶつかるようにして突破し、駆け去っていった。

 

「何だ? あいつは」

「朱雀、まだだ。誰か、先で戦っているぞ」

「何っ?」

 

 男が走ってきた方へと駆ける。今度は、朱雀よりも早く走り出した。

 

 左右を崖に挟まれた小道。小柄な剣士が、道の真ん中で刀を構え、鬼と対峙していた。

その剣士の立ち方に、違和感があった。右足に体重を預けている。そんな立ち方だった。

 

 剣士の前にいた鬼が、跳んだ。それと同時に、武仁も道に飛び出していた。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱の型 水面斬り

 

 

 剣士の傍らを飛び抜け、鬼の頸を飛ばした。

 刃を直上に向けて、構える。鬼の気配は上にもあった。

 

「餌がもう1匹きやがったぞぉ! もう、お前らには譲らねえ!」

「うるせぇ! こいつらは俺の餌だ!」

 

 頭上から鬼の声と、地を蹴るような音が響く。隣にいた剣士が、身動きしようとして、膝をついた。

 

「伏せていろ!」

 

 武仁は片手で剣士の頭を押さえつつ、大声で叫んだ。

 2匹まで見えた。降ってくる爪を切り上げて払い、続いてくる足を、何とか刀で受け止める。圧倒的な衝撃が、刀から両腕を駆け抜けた。低い姿勢で、衝撃と一緒に、鬼の体も受け流していく。

 

 影がもうひとつ、頭上で踊った。3匹目の鬼。自分ではない方へ降りていくのを見て、武仁は咄嗟に傍らの剣士に覆いかぶさった。衝撃。背中を中心に、熱い感じが広がった。

 すぐに立ち上がり、構えた。鬼は前に2匹、後ろに1匹いる。

 

 片側からの攻撃は凌いで、もう一方は躱すか、急所を外して受ける。見えていれば、体術も使える。痛みは、耐えればいい。

 そうやって、時間を稼ぐ。それで、いつかは敵の隙をつける。あるいは、味方が駆けつける。

 

 鬼の口からは、言葉にもなっていないうなり声と、涎が零れ出ていた。手負っている2人の剣士を囲っている。どうにでも料理できる、という状態だった。

 だが、朱雀がいる。武仁はそれを信じて、疑っていなかった。

 

 鬼が跳躍したのと同時に、赤い光もまた飛び込んできた。

 

 

  全集中 炎の呼吸・参ノ型 気炎万象

 

 

 鬼の頸が、同時に3つ宙を舞った。体は空中で燃え尽きて消えていく。

 朱雀が目の前に降り立ってくる。それで、武仁も構えを解いた。

 

「手負ったな?」

「軽い傷だ。血止めをすれば、すぐに動けるようになる」

 

 羽織の背中は、血が流れ出していて、張り付いたようになっている。服は破れているので、替えを着るしかないだろう、と何となく思った。

 

「無茶をするものだ。それから」

 

 自分の日輪刀を納め、剣士の日輪刀も鞘に仕舞うと、朱雀が剣士の前でしゃがんだ。剣士がまだ起きていないことに、武仁はそれで気づいた。

 顔を覗き込んだ朱雀の表情が、ちょっと驚いたように見えた。

 

「この小さい方は、気を失っているが、生きてはいるな。お前が、身を挺して守ったのに、死んでいたのではな」

「一度、戻ってもいいか。血止めはしたい。このままでは、鬼に居場所を教えてやるようなものだ」

 

 鬼は、人の血の匂いをよく嗅ぎつける。血にもいろいろあり、特に稀血と呼ばれる、鬼が好む血もある、という話だ。

 武仁は破れた羽織を脱いで、傷を上から押さえるように結んだ。多少は、出血を抑えられる。少なくとも、垂れ流すよりは幾分ましだろう、と思った。

 まだ、痛みは遠い。だが時間が経てば、遠ざかった痛みも近づいてくる。

 

「この子は、お前が抱えて連れていってくれ。俺は離れたところで、鬼に備える」

「この子?」

 

 お前はいつからそんなしゃべり方をするようになった。内心でそう思ったが、言葉には出さなかった。朱雀が、やはり困ったような表情を浮かべていたからだ。

 

「そいつは、女だ。足も怪我している。手荒に扱うなよ」

「女。この剣士がか」

 

 そんなことがあるか。そう思い、両腕で剣士の体を抱え上げると、羽織の内側から、縛られた長い髪が流れ落ちてきた。最初に思ったのは、軽いな、ということだった。

 

「おい、ちょっと」

 

 何か言おうと思って首を回した時、朱雀の姿は、もうどこにもなかった。




 朱雀君は個人的に書いてて好きですが、勝手に動き回るので辛い。


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8話 最終選別後編・影と炎と水

 皆様、明けましておめでとうございます。
 1歩進んで2歩足踏み。登場人物が、今年も勝手に動き回る。

 これは後編であって、終わりではありません。
 すみません、最終選別終わりませんでした。


 拠点に戻ってから、小さな火を起こした。

 朱雀(すざく)は、用事があると言い残し、すぐにどこかへ出発した。

 

 傷の手当ては終わっている。傷を洗い、薬を塗った晒を背中に当てられた時は、思わず涙目になるほどの痛みが全身を駆け抜けた。声も上げそうになったが、それだけは我慢できた。

 女の剣士は、火の傍で布を掛けて眠らせている。毛布などは、ここにはない。

 

 左足の手当てだけは、寝ている間に済ませた。骨に異常はなく、腫れもひどくはない。軽く捻った程度と見えて、添え木と濡れた布を当ててある。

 いずれにしても、今夜はこれ以上、動けそうになかった。

 

 女の顔を横眼に見てみる。目鼻立ちのしっかりした、端整な顔の女だった。

 最初は気を失っていたが、今は眠っていた。最終選別で、よほど休めていなかったのか、穏やかな寝息を立てている。

 

 その眼が、唐突に開いた。半身を起こして、周囲を見回している。布を見て、焚火を見た女の黒い瞳が、最後に座っている武仁(たけひと)に向けられた。

 

「私の刀。刀は、どこ?」

「そこにある」

 

 近くの木に立てかけてあった日輪刀を見て、女は安堵したような息を吐いた。

 

「私は、貴方に助けられたのですね。ありがとうございました」

「鬼と戦っていて、危ないように見えた。助けるのは、当然のことだ」

「そうですね。私もさっきまで、そう思っていました」

「あってない。言いたくないことは、言わなくていいが、喋るならもっと楽な喋り方でいいと思う。俺は御影武仁。南原朱雀という男もいて、鬼の頸を飛ばしたのは朱雀だった」

 

 同じようなことを、初めて会った時の朱雀にも言われたことを、武仁は思い出した。今では、そういう口調の方が自然な言葉と思える。

 

「わかった。私は、壬生芭澄(みぶはすみ)芭澄(はすみ)でいいよ」

「ひとりか。戦っていたところに向かう途中で、男とすれ違ったが」

「そうだったの。1日だけ、その人と一緒に行動したんだ。向こうから、一緒に戦いたいって言われてね。でも、見捨てられた。足を痛めて思うように動けなくなったところで」

 

 つまり、あの男は、芭澄という剣士を盾にして逃げだした、ということなのか。

 武仁は、それに怒りは覚えず、むしろ哀しいと思った。

 命が惜しいことと、生きようとする執念は、同じようなものだろう。他人のその感情を否定するだけのものを、自分は持っていない。

 あの男は逃げ出して、今もまだ生きているだろうか。

 

「それで、何だか馬鹿みたいになっちゃった。鬼殺隊に入って、鬼に家族を殺される人を1人でも減らしたい。私みたいな思いをする人を1人でも減らしたい。そう思って、女なのに、必死になって稽古したのに。みんな同じ志があるんだって、思っていたのにな」

 

 まるで、涙と一緒に出てきそうな言葉だったが、芭澄は泣いてはいなかった。ただ、嘲るように笑っている。自分を嘲っているようだった。

 

「泣かないんだな、芭澄は。辛いことだと思うが」

「泣くことは、何の解決にもならない。そう思っているから。泣いても、何も帰ってこない」

 

 鬼殺隊に入ることを決意するだけの涙は流した、ということかもしれない。芭澄という少女が、慰めなど求めていないということは、それだけでもはっきりと分かった。

 

 誰しもの根底には、鬼への恨みや憎しみがある。明朗な印象が強い朱雀ですら、家族ごと鬼に襲われたことが切っ掛けになっている。

 自分のように、人助けのために鬼殺隊に入る、というのはやはり珍しいのだ。

 

「武仁。あなたが持っているのは、笛?」

「これか。師匠にもらったものだ」

 

 帯から、竹の笛を抜いた。夕刻に朱雀への合図のため、一度吹いている。

 

「吹けるの?」

「大した腕ではないが。それに、人を楽しませるために持っている物じゃない。何というか、言葉や文字でものを考える代わりに、笛を吹きながら考えている、という感じだ」

 

 全集中の呼吸を自分に馴染ませるのにも、笛を吹くことを意識した。いま考えると、笛を渡してきた師匠は、全てを知っていたのではないか、と思えるほどだ。

 

「吹いてもらっても、いい? 私も聞いてみたいから」

「大きな音ではだめだ。鬼に気づかれる」

 

 芭澄が、小さくうなずくと、集中するように眼を閉じた。

 周囲は、闇と静けさに包まれている。その中で、鬼が跋扈しているとは思えないほどだ。

 

 武仁は笛を構えた。夕方は何かを奏でたのではなく、ただ音を出した、というだけだった。

 思念。人が生きるということ。芭澄を見捨てたあの剣士と、生き延びることを信条とする自分は、何が違うのか。自分が生き延びたいと思うことは、他人を見捨てる、ということではないのか。

 

 笛から、滑り出すように音が流れ出す。はっきりと分かった。

 生き延びるとしても、それは、その果てに人を助けるためだ。だから、朱雀と共に志願者が死んでいくのを減らそうとしたし、鬼に囲まれている芭澄を庇った。

 人を見捨ててまで生きる事は、俺はしない。

 その思念は音と共に、ゆったりと武仁の中を巡った。

 

「上手いな。俺も最初から聞きたかった」

 

 いつの間にか、朱雀が戻ってきていた。芭澄が眼を見開いている。物音ひとつ立てていなかった、と思った。

 臭いが鼻をついた。朱雀の服はいくらか、返り血を浴びている。それは気にせず、朱雀は憂鬱そうな表情で、息をついていた。

 

「怪我じゃない。鬼が何匹か襲ってきたから、返り討ちにした」

「そうだったのか。笛はこの子に、芭澄に頼まれて吹いていた」

 

 芭澄が軽く会釈すると、朱雀も頭を下げた。

 

「俺は南原朱雀。武仁の、友人だ」

「壬生芭澄。私は貴方にも、助けられた」

「芭澄か。武仁と同じように俺、お前で通させてもらう。俺は、遠回しな物言いとか、隠し事が苦手な奴だ。これから、面白くない話をする。だがお前には、言っておかなければならないことでもある」

「何でもいい。聴かせて」

 

 朱雀が言っていた用事のことだろう、と武仁は思った。ひとりで出て行く朱雀からは、止めるな、という雰囲気が強く感じられたのだ。

 一瞬、空白が流れ、朱雀は口を開いた。

 

「お前、男の志願者と一緒にいたのだな。ひとりで鬼に囲まれていたが。俺は、その理由は聞くつもりはない」

「ええ」

「その男は、死んだ。すまない。助けられなかった。俺が見つけた時、もう鬼に食われていた」

 

 やはり、そのことだった、と武仁は思った。どうせ助けるなら、あの男も助けたい、という朱雀の思いはよく理解できる。最終選別を抜けてしまえば、鬼と戦わない生き方もあったはずだ。死ねば、全て終わりなのだ。

 しかし、助けられなかったのだ。そのことを余程、朱雀は気にしていたのかもしれない。

 

「そっか。気にしていてくれて、ありがとう。やっぱり、気になってたんだ。あの子は、そんなに強そうにも思えなかったし」

 

 沈んだ芭澄の横顔を見ていると、あの男の恐怖で歪んだ顔も思い出される。

 見捨てられた芭澄が生き、逃げたあの男が死んだ。応報ともいえるのかもしれない。だが、本当の意味での報いを受けるべきは、鬼の方だ。

 

「ふたりとも、どうしてそこまでやってくれるの? 私には、もうなにもない。この体と、日輪刀しかない。盾にも囮にもならない」

「それは違う、芭澄。俺は、ただ人を助けたいんだ。その人の中には、お前もいるし、他の志願者達も含まれている、と思っている。目の前で傷ついていく、消えていくかもしれないものから目をそらすことは、俺の生き方にも反する」

「武仁の言う通りだ。そういう意味では、俺たちは自分のためにやっている。自分たちが、鬼殺隊士足る男だと、自分で思いたいがために、やっているのさ」

 

 朱雀と視線がぶつかると、2人で同時に笑い声をあげた。口にするとそれだけ、馬鹿げた理由としか思えなかった。しかし、そんなことのために、命を懸けてしまうのだ。

 

「お願いがあるの。私も連れてってくれないかな。私だって、人を助けたい。足手まといなら、すぐに追い出していいから」

「身を挺して庇ったのは、お前だ、武仁。これは、俺が口を出すことじゃない」

 

 芭澄の黒い瞳が、武仁に向けられた。その眼に引き込まれるように、武仁は頷いていた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 2人だけの戦いが、3人になった。それも、女である。最初は、武仁も昼に見回る時間を短くするなど気を配っていたが、その程度のものは、芭澄に容易く看破された。

 

「余計な気遣いはしないで。私にも、戦う力はある。私が女だから守るのであれば、ここからすぐに出ていく」

「わかった。だが、足が治るまでの間は、このままにさせてくれ」

「じゃあ、明日まで。私は水の呼吸を使えるの。このくらいなら、立ち回りで補正できる」

「そういうものなのか」

 

 壱ノ型しか使えない自分には、芭澄の言っていることはいまいち想像しきれなかった。芭澄は口元に微笑みを浮かべただけだ。

 

 その翌日、芭澄と2人で行動していた時に、その言葉の意味を武仁は知った。

 鬼が2匹、空中から飛び掛かってきた。武仁が日輪刀で防御の構えをとるより先に、芭澄の体が宙を舞った。

 

 

  全集中 水の呼吸・弐ノ型 水車

 

 

 青い刃の日輪刀が円を描き、鬼の頸を次々と飛ばした。

 その後も、何度か鬼が襲ってきたが、ほとんど芭澄がひとりで狩ったようなものだった。

 芭澄は朱雀の炎の呼吸とは一風違う、水の流れを体現した動きをする。それも、片足を庇いながらだ。

 

 左足は、他の志願者を守るために無理な動きをしたから痛めたものだろう、と思えた。芭澄は自身の怪我について、何一つ説明しなかった。

 

「武仁は、水の呼吸は壱ノ型しか使えないの?」

 

 何度目かの鬼の襲撃を退け、何人かの志願者と接触した後、芭澄が真剣な表情で話しかけてきた。

 武仁はようやく、鬼の頸をひとつ飛ばしたところだった。

 

「ああ。師匠には、俺は全集中の呼吸の適性がないと言われた。水の呼吸も、最初は半刻(1時間)かけて、ようやく放っていたのだし」

「水の呼吸の真髄は、その名の通り水のように自在な精神性。水面みたいに静かな心から始まって、わずかな隙間からでも染み入り、岩をも穿つ。体の動きは、その延長線上にあるんだよ」

「水の呼吸は向いていないが、壱ノ型だけは何とか使えるようになった。他の型も、いつかは使えるかもしれない、とは思っているんだが」

 

 自分は、全集中の呼吸がほとんど使えない。そのことは他人に言われるまでもないことだった。自分にできるのは、いつかは使いこなせる日が来るかもしれない、と信じて戦い、生き抜くことだけだ。

 

「上手く言えないんだけど、武仁は私たちとは違う気がする。武仁はまず、凄い体力がある。私は全集中の呼吸で、瞬時の動きは武仁に勝てる。でも武仁は昼にひとりで動き回っている上に、夜も一緒に行動しているんだよね。1日の動きは、むしろ武仁の方が多いくらい。多分、朱雀もそう思っていると思う」

 

 むしろそれくらいしか、取り柄がないのだ、と武仁は思った。

 師匠と別れた後も、体力だけは落とさないように走り込みは続けた。この最終選別でも、昼に半刻ずつ、2度は走るようにしている。

 

「今の武仁は、刀はそれなりにつかえるけど、全集中の呼吸はほとんど使えない。でも私は、それを気にしない。武仁は強いよ。今は強くなくても、これからどんどん強くなる。それでも武仁が勝てない相手は、私が倒す。貴方が助けてくれたから、私も貴方を助ける」

 

 芭澄の眼に、武仁は不意に気恥ずかしさを感じて、眼をそらした。

 背中の傷が軽く疼いた。その痛みも、呼吸を続けていれば遠ざけられる。だが、この気恥ずかしさは、なかなか消えていかない。

 だが、嫌な感じではない。朱雀に男同士と言われた時と、似たような感じだった。

 

「あまり褒められても困るな。師匠に、お前は志願者の中で最弱だ、と言われて送り出されてきた男だぞ」

「そうだね。まだ、弱いよ」

 

 武仁は、笑っている芭澄よりも先に出て、歩き出した。回れる範囲を一巡して、拠点に戻る。今日は朱雀が単独で動き、武仁達とは別々の場所に泊まることになっていた。

 

 芭澄は日輪刀の手入れをすると、すぐに寝始めた。

 武仁も横になったが、しばらく寝付けなかった。昼間歩いている最中に、気になるものを見ていた。

 

 木が根元から倒れていた。それも、大人2人が横になれそうな幅である。その跡は、山奥まで続いていた。

 巨大な岩が通過したとも思えたが、木は斜面を登る方へと倒れていた。何かが木をなぎ倒しながら、登っていったということだ。

 巨大な鬼が、ここにはいる。それを想像せずにはいられなかった。




 次回、最終選別終了。
 奴が来る。


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9話 手と手

 生きるため、勝つために、逃げる。


 7日目の夜を迎える前に、3人で合流した。

 この夜を生き延びれば、最終選別は終わりである。しかし昨日から武仁(たけひと)朱雀(すざく)も、生きた志願者とはほとんど出会えていなかった。

 この数日で接触できた数は、およそ8人である。そのうち何人が、今も生きているのか。その他の志願者は、影も見えない。

 

「今のうちに麓に向かうこともできる。夜が明ければ、それで終わりだ」

 

 朱雀が一度だけ確かめるように言った。武仁は、首を横に振った。

 

「まだ、取り残されている人間がいるかもしれない。見るだけは見ておこう」

「私も賛成。それにこの3人なら、大抵の鬼とは戦えると思う」

 

 最後の夜は、3人で藤襲山を回った。寝泊りしていた拠点にも手分けして、目を通す。いくつか寝泊りした痕跡はあったが、誰もいなかった。

 

 だが夜明けの一刻ほど前、山の方から轟音が響き渡った。

 

「なに、今の音?」

「考えるな、芭澄(はすみ)。武仁、走るぞ」

 

 朱雀を先頭に、武仁、芭澄と続けて走り出す。

 闇に呼吸音がいくつも交わった。朱雀と芭澄は、全集中の呼吸をそれぞれで応用して走っているようだ。武仁は呼吸を深めつつ、山を駆けのぼった。山走りは慣れたものだ。

 

「確か、この先は崖だったはずだ」

 

 7日も経っていれば、大抵の地形は見慣れている。この先は背丈5つほどの岩壁で、簡単に登り降りできるような場所ではなかった。

 唐突に、朱雀が急加速し、そのまま姿を消した。

 

 

  全集中 炎の呼吸・肆ノ型 盛炎のうねり

 

 

 赤い日輪刀が何かを切り払うような動きをした。朱雀は蹲っている人影の前で、庇うように立っている。

 

 声を交わしている暇はなかった。武仁はうずくまっていた人影を背負い、走り出した。背後では2度、3度と朱雀が日輪刀を振るっている。そこに、呼吸を整えた芭澄が、低い姿勢で突っ込んでいく。

 

 もう背後を、振り返る余裕はなかった。激しい戦闘の気配だけが、色濃く伝わってくる。

 背中にいるのは、自分と同年代の少年である。言葉ではなく、うめき声をあげていた。全身を痛めているようだった。

 あの崖から、飛び降りたのかもしれない、と武仁は思った。もしそうなら、息があるのが不思議なほどだ。

 

 近くの拠点のひとつに、少年と共に駆けこんだ。地面に横たえ、全身を観察する。まだ息はあるが、危険な状態だった。

 とりあえず、出血点を布で抑えていく。曲がった骨には添え木を当て、外れた肩は力ずくではめた。一通り手当を終えた頃、朱雀と芭澄も駆け戻ってきた。

 2人とも、激しい息をついている。

 

「とんでもない鬼だ。見上げる程の大きさで、手を次々と伸ばしてくる。掴まれれば、まず命はない」

「狩ったのか?」

 

「いいや。逃げるだけで精いっぱいだ。芭澄がいなければ、俺も今頃どうなっていたかわからない」

「あの様子じゃあ、相当人を食っている。私たちに、対処できる相手じゃない」

 

「ここは、俺が引き付ける」

 そう言った朱雀の顔には、ある種の覚悟が満ちていた。

 

「その子は武仁が背負え。芭澄は、武仁を守れ。2人で下山するんだ。これは、年長者として指示している」

 

 そのまま立ち上がって行こうとする朱雀の袖を、武仁は掴んだ。

 

「待ってくれ、朱雀」

「止めるな。俺はあの鬼を倒す。奴は、鱗滝という育手の子供を殺している、と言っていた。このまま奴を放っておけば、確実に誰かが死ぬことになる。俺がこの手で、奴の頸をとる」

 

「だがお前が、死ぬかもしれない。夜明けまであと一刻なのに、ここで友人を失えば、俺は一生後悔する。そんな後悔を、俺にさせないでくれ。やってみなければわからない、なんて言い方はするな。俺たちは鬼ではない。2度目はないんだ」

 

 何か言おうとした朱雀が、口ごもった。

 朱雀の顔を突然満たしたものを、武仁はぬぐいたかった。ある種の狂気、と言ってもいいのかもしれない。あの鬼とはここで刺し違えても構わない。そういう顔を、朱雀はしていた。

 

「ではどうする。奴はこっちに来ているぞ。どこかで、追跡は断つ必要がある。放っておけば、他の志願者と一緒になって襲われるかもしれない」

「俺に考えがある。皆で、朝を迎えたい」

 

 そう言い、武仁は半紙を広げた。

 隙間もなく書き込んだ、藤襲山の地図である。

 

                       

 

 風が、背後から吹き付けてきた。

 山道上に、武仁はひとりで立った。日輪刀は佩かず、左手で握りしめていた。

 

 足元には、布袋が転がっている。最終選別で、血を吸わせてきた布が何枚も入っていた。鬼に嗅ぎつけられないように埋めていたのを、掘り起こしたのだ。

 

 風下に向かって、血の匂いが流れていく。これで、鬼を引き寄せられるかもしれない。そういう使い方も、選別の最中に思いついたことのひとつだ。少なくとも、朱雀や芭澄の匂いを嗅ぎつけられる心配は、これでなくなった。

 

 武仁は、心気を研ぎ澄ませた。鬼を待っていた。それも異形の鬼だ。だが、絶対に生き残らなければならない。

 夜明けまで、あと半刻ほどだろう。東の方から、空は白み始めている。朝日が射すまでは、まだかかる。朝日さえ射しこめば、どんな鬼でも手出しはできないのだ。

 

 最初に、地面が揺れたのを感じた。次には、酷い臭いがただよってくる。まるで腐った肉と肥溜めの臭いを、足したような臭いだった。

 

「何だぁ。お前も、鱗滝のところのガキじゃないなぁ」

 

 木々の間から現れたのは、醜悪な鬼だった。見上げる程の巨体から、無数の手が生えている。手鬼、と武仁は内心で名付けた。

 異形でも頸はあるようで、図体の上に、ちょこんと突き出ていた。

 武仁は臭いを堪えながら、その鬼の眼を見返した。

 

「さっき俺の邪魔をしたガキとも違うなぁ。血の匂いがするから来てみたが、お前ひとりでなんのつもりかなぁ?」

「お前の姿を、一度は見ておきたい、と思った。異形の鬼がいることは、途中でわかっていたから。お前みたいな人間離れした鬼も、いるのだな」

 

「もう、50人位は喰ってやった。特に、鱗滝のところのガキは全員だ。あいつは本当に馬鹿な奴だよ。いつもいつも、厄徐の面をつけて送り出してくる。それが目印で、弟子の命を奪っているとも知らずになぁ」

「なるほど。やはりお前達は、この世にいてはいけない存在だ」

 

 手鬼がくつくつと籠ったような笑い声をあげた。

 武仁も、思わず笑っていた。これほど、悪意で人の命を奪うことに執着した存在に、出会ったことがあるだろうか。しかしこれが、鬼の性なのだろう、とも思った。

 人と違って、哀れとは思わなかった。

 

「お前、何のつもりでここにいるのかはしらないが、鱗滝と同じくらい馬鹿な奴だ。馬鹿さに免じて、俺がばらばらにして喰ってやる。手足を捥がれる感覚を、特別にお前にも味あわせてやる」

「俺は、死なない」

 

 武仁は横へ走り出した。同時に、手が伸びてきて、さっきまで立っていた地面を砕いた。土が頭上から雨のように降り注ぐ。

 朱雀と芭澄から、この鬼は手を伸ばして攻撃してくると聞いていた。しかもその手は、地面からも襲ってくる。知ってさえいれば、いくらでも対策の仕方があった。

 

 走った。しかし、緩急はつけていた。この戦いは生き延びることが勝利なのだ。あと半刻は、走り続ける必要がある。

 風切り音。反射的に、横に跳んだ。何度も手が背後から迫ってくる。左右に走り分けたり、岩を飛び越えたりして、凌いだ。掠ったり、どこかを掴まれるだけでも、終わりなのだ。

 

「どこまで逃げるんだ? お前に、逃げる場所なんか無いだろ?」

 

 手鬼が何か言っていたが、耳は貸さなかった。頭の中では、この7日間で調べ上げた藤襲山の地形を繋いだ線だけを、思い浮かべていた。

 地面が、不意に揺れた。手が飛び出てくるよりも先に、左に跳んだ。その先、頭上からも手が伸びてきた。日輪刀。武仁は振り返りざまに、手首の辺りから切り落とした。茶色い血が、降り注いでくる。

 

 走った。刀は走りながら納める。岩場を越え、小川を渡り、崖から崖へと飛んでいく。呼吸は、まだ乱れていなかった。

 ある速さで走り続けていると、いつの間にか息苦しさを忘れる。さらにそれが続くと、全身が快感に包まれるのだ。呼吸だけは、決して乱さないことだった。

 

 更に、走った。手鬼の動きは遅いが、武仁の動きも遅い。手を躱すために、左右に走り分けているからだ。それに、これは手鬼を撒くことが目的ではない。手鬼を夜明けまで引き付け、藤襲山の下山口へと向かわせないためにやっていることだ。

 この鬼が下山する者たちの前に現れれば、戦うしかない。朱雀や芭澄が苦戦した相手である。状況によれば、自分も含めて全滅もあり得た。

 

 走り続けていた。足が、勝手に動いている。空はかなり明るくなっていた。周りもよく見えるようになった。今のところ予定通りだった。

 この先で、崖に出る。夜明け直後には霧が沸くので、下は見通せない。

 その淵で武仁は立ち止まると、下を軽く見た。思わず足が竦むような高さで、霧は沸いていた。

 

「鬼ごっこは、これでおしまいだ。さあて、どこから千切ってやろうかなぁ。足か、腕か、いっそ胴体を半分食らって、残った方の中身を吸いだしてやるのもいいな」

 

 手鬼はすぐに、目の前に現れた。どれだけ走り回ろうが、酷い臭いは変わらない。

 

「今回は鱗滝ところのガキはいなかったが、楽しませてもらった」

「今の俺では、お前に勝てない。だから逃げた。俺の友人は、お前を刺し違えてでも、倒そうとしていた。だが、いずれお前の頸を打つ剣士が、必ず現れる。人間を、甘く見るな」

「へえ。それが最期の言葉でいいのかな?」

「言ったはずだ。俺は、死なない」

 

 身を翻し、武仁は崖から身を投げた。

 手鬼が、この崖を飛び降りるかどうか。それは賭けだった。夜明けは近い。全集中の呼吸が使えても、飛び降りれば間違いなく死ぬだろう。

 自分は、飛び下りない方に、賭けた。

 

 霧が、敷物のように広がっている。白い色が、目の前いっぱいに迫ってくる。笛。武仁は片手で口に押し当て、吹いた。

 高い音が霧の中に吸い込まれると、聞きなれた呼吸音が返ってきた。

 

「全く、無茶をする男だ」

「本当。見ている方が、おかしくなりそう」

 

 朱雀が霧の中から飛び出してきた。芭澄も続いて現れる。

 完璧だった。一刻、藤襲山の中を逃げ回る。最後にこの崖から飛び降りるから、受け止めてくれるよう、頼んだ。これは賭けではなく、ただ信じていた。

 生き延びた。そして、勝った。武仁は空中で、伸ばされた2人の手をしっかりと握りしめ、そう思った。




 序幕はこれで終わりです。
 読んでくださった方々に、感謝します。


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第1部・隊士編
10話 蝶の前で再び出会う


 無事鬼殺隊に入隊。
 しばらく、原作キャラと交流していきます。

1/8 すみません、主人公の年齢が間違っていましたので修正しました。
  (17→16)


 露に頬を打たれて、武仁(たけひと)は眼が覚めた。

 

 周囲はまだ薄暗い。焚火はほとんど灰になっていた。灰を吹いて除き、まだ燃えている部分に、乾いた枝を慎重にくべていく。それで、すぐに再燃した。

 しっかりとした火になったところで、武仁は体を起こした。

 

 鬼殺隊士となってから、丸1年が経っていた。気づけば、16歳になっている。

 

 昨年の最終選別を生き残ったのは、4人だけだった。武仁、朱雀(すざく)芭澄(はすみ)、それに全身を怪我していた後藤という少年だけで、他の志願者は誰も戻らなかった。

 その時は絶句したが、1年間鬼殺の前線にいると、それも仕方のないことのように思えてくる。藤襲山を生き延びることができないのであれば、早晩どこかで鬼に殺されていてもおかしくない。選別を切り抜けた正規隊士ですら、次々と死んでいくのだ。

 ただの人助けでは済まない。それが、鬼殺隊の実態だった。

 

 最終選別の後、朱雀たちに別れを告げ、また半月かけて出立した街の宿屋に戻った。そこにはやはり、師匠の姿はなかった。長生きしろ。それだけの短い文が残っていただけだった。

 

 自分が鬼殺隊士になって、まず宿屋の人間の態度が変わった。藤の花の家紋を掲げている家は、善意で鬼殺隊士に寝泊りの場所や食事、怪我の手当などを提供してくれるとのことだった。

 そのまま、藤の花の家で待っていると、日輪刀も届けられた。

 

 色変わりの刀と言われている刀だ。自ら抜いたが、やはり、刃の色は変わらなかった。その理由は、刀を持ってきた刀鍛冶も知らず、むしろどういうことかと詰問された程だ。

 そうだろうな、と思う。1年を過ぎようとしているが、未だに水の呼吸の壱ノ型しか使えない。刃が染まることもなかった。

 

 それから程なく、最終選別後に付けられた鎹烏で指令を受け、武仁は出立した。

 1年間、鬼殺の合間に、かつてのような人助けも続けている。それが、御影武仁(みかげたけひと)という人間の原点でもある。そこを変えるつもりはなかった。人を助けるために、鬼と戦う道を選んだのだ。

 

 簡単な食事を済ませ、日の出と同時に、武仁は出発した。

 山から下りて、人が歩く道を進む。鎹烏の指令以外にも、人の口の端に上る噂を聞くためだ。それで、鬼の尻尾を掴んだこともある。

 

 歩くときは、いつも速足だった。

 入隊してからは、黒色詰襟の隊服に、灰色の羽織を被っている。羽織で見えないが、隊服の背には、白字で滅の文字が刺繍されていた。人波の中でも、よく目立つ。

 日が暮れるまでは、歩き通す。鎹鴉が指令を伝えてくるまでは、人助けか移動だった。

 人がいないところでは走った。1日のうち、通じて1刻以上は走るようにしている。呼吸も常に意識した。だから、体力は全く減っていない。

 

 夕方になると、道を外れて、人目につかないところで野宿場所を探す。夕食時になると、鎹鴉が姿を見せるので、ひとりではなかった。

 鎹烏は、伝令を伝えるときなど、まるで人間のように言葉を放つ。知能は高く、性格も鴉それぞれにあるようだ。

 武仁に支給された鎹鴉は無口で、ほとんど喋ることはない。その分、任務や指示には忠実だった。それに時々、武仁が笛を吹くと、すぐ傍に降りてきたりもする。

 鬼殺隊士として、あたりさわりのない、1日だった。武仁はそう思い、床に就いた。

 

                       

 

 禍々しい感じが肌を打ち、眼を見開いた。 

 

「弦次郎」

 

 武仁は跳ね起きるのと同時に、鎹鴉の名前を呼んだ。弦次郎はすでに、背丈ほど高さの枝に乗っていて、翼を広げている。

 

「近くにいる鬼殺隊士に、伝令。鬼に襲われている人がいる。すぐに隠の手配を」

「ワカッタァ!」

 

 弦次郎の姿は、すぐに夜闇に溶けて見えなくなった。

 

 武仁は日輪刀を佩き、禍々しい感じが伝わってくる方へ走り出した。斜面を駆け下ると、すぐに道に出る。そこでも迷わず、一方へと向かった。

 この先に、鬼がいる。禍々しい感じは、まだ続いている。

 

 気配を感じるのとは、違う。鬼が放つ臭いや活動音、鬼が潜みやすい地形、それに、人を襲う鬼がもつ悪意。そういうものを総じて、不意に鬼の存在を感じることがある。

 勘、と言ってもいいかもしれない。当たることもあるし、外れることもある。

 だが、いま感じているものを、そのまま放っておくことは、武仁にはできなかった。

 

 家が一軒、見えてきた。周囲に他の家はなく、灯は消えている。ただ寝静まっているだけなら、自分はただ胸騒ぎに踊っただけだ。

 さらに近づくと、はっきりした血の匂いを嗅ぎつけられた。走っている勢いのまま、武仁は家の壁にぶつかった。

 

 音を立てて、壁が割れる。武仁は家の中に転がり込んだ。鬼がいた、と思うのと同時に、日輪刀で切りかかった。子供の高い悲鳴。そして、何かが音を立てて床に落ちた音。

 

「痛てじゃねえか! 何だ、俺の邪魔しやがって! 誰だてめえ!」

 

 鬼は大声を上げて、玄関の方へ下がっていく。頸はまだ胴体についていて、左の腕がなかった。完全に切り落としたので、すぐには再生しない。

 

「俺は、鬼殺隊だ」

「鬼狩りだとぉ? くそっ、せっかくいい獲物を見つけたってのによ。良い所を、邪魔しやがって」

 

 背後をちらりと見た。まだ幼い少女が2人、部屋の隅で縮こまっていた。そして自分の足元には、人が2人、血を流して倒れている。確かめるまでもなく、死んでいた。

 

「邪魔するんじゃねえ、てめえも殺すぞ」

「殺されるといわれて引き下がるくらいなら、最初からここにはいない。それに、俺は死なん。この2人を、助けるまでは」

「いいねぇ。お前は男だからいらねえ。だが、殺し甲斐がありそうだ!」

 

 日輪刀を構えるのと同時に、鬼がうなり声をあげ、低い姿勢で飛び込んでくる。距離は瞬時に詰まった。

 拳。音を立てて振り上げられてくる。見極め、体術で流した。半歩下がり、鬼の剥き出しの胴を薙いだ。うめき声を上げた鬼が、玄関へ下がっていく。それと同時に、武仁も前に跳んだ。跳びながら、日輪刀を振り下ろす。鬼の右腕も、胴体を離れた。

 がら空きだった。返しの一撃で、頸を刎ねられる。呼吸を深めた。しかし、武仁は背後から強烈な力で引っ張られ、背中から床に叩きつけられていた。衝撃で肺から空気がはたき出され、意識が遠ざかろうとする。

 

 血の臭い。少女達の泣き声。武仁は、すぐに立ち上がった。

 

「お前、やるじゃねえか。鬼狩り相手にこの力を使うのは、初めてだったぜ?」

 

 ニタニタと笑う鬼の背中から、細い触手が2本飛び出ている。触手の先には切り落とした腕がついていた。腕は、何事もなかったかのように、元通りだった。

 

「決めた。お前は、そこでなぶり殺しにしてやる。動けなくなってからは、俺がその子娘どもを食うところを、じっくりと見せてやる」

 

 光景も想像しているようで、鬼は愉しそうに笑っていた。

 

「他の者には、決して手出しはさせない。そして、俺は死なん。それが、俺の戦いだ。たとえ朝までだろうと、俺は戦い抜く」

 

 そう言い、武仁は再び日輪刀を構えた。

 本気だった。弦次郎の応援要請が、いつ届くのか。もし隊士が近くにいなければ、朝まで戦わなければならない。しかし倒れれば、背後にいる少女たちが死ぬ。自分と同じく、親を失った子供である。逃げることも死ぬことも、許されない。自分で、それを決めた。

 鬼が笑いながら、触手を飛ばしてくる。2本とも、切り払った。触手は、先端を何度切り落としても、腕とは違いすぐに生えてくる。絶え間ない攻撃が始まった。

 

「おらおら、どうした? まだ終わらねえぞぉ?」

 

 3本目の触手が、新しく生えた。それでもまだ、防ぎきれないほどではない。武仁は、呼吸を意識した。最終選別のこと。手鬼から一刻、逃げ回った時もそうしたのだ。どちらの鬼も離れたところから攻撃してくるが、その威力は比べるまでもない。

 

 日輪刀を上へ、下へと振った。触手の動きは、じつに執拗だった。武仁を、決して休ませようとはしない。だが、隙を見て足や、背後に飛ばしてこようともする。

 徐々に息が、苦しくなってくる。どれだけの時間、刀を振っているのか。防ぎきれなかった攻撃が、いくつも体に掠るようになっている。日輪刀を握る手も自分の血でぬるぬるとしていた。致命傷とよぶほどのものは、まだない。

 

「てめえ、いい加減にしやがれぇ!」

 

 触手。2本が、上下から伸びてくる。1本を切り上げ、もう1本は足で踏みつけて固定し、切り落とした。さらに2本、正面からきたそれを、ほとんど同時に切り落とした。

 

 腕を振っているという感覚も、薄れつつあった。

 師匠の剣に比べて、どうか。息苦しさの中でそう思った。師匠の剣は、凄まじいときは同時に4つの方向から斬りつけられる錯覚を覚える程だった。それに比べれば、この鬼の攻撃など、どれほどのものか。

 

 これでいいのだ。触手を払いのけながら、武仁は思った。

 もし自分が全集中の呼吸が使えれば。例えば、朱雀や芭澄なら、こんな鬼の頸は瞬く間に刎ねるだろう。だが、できないものは仕方がない。全集中の呼吸の適性がない自分でも、これだけ戦えるなら、それで十分ではないか。この戦い方でも、人を守れるのだ。

 

 その瞬間、鬼の気配がおぞましいものに変わった。

 

「鬼狩り風情が、調子に乗るな! 俺の、邪魔を、するなあああ!」

 

 四本、五本と触手が鬼の背中を突き破り、生えた。まず、数えるのをやめた。

 血気術とは違うようだ。鬼の感情の高ぶりに引きずられるように、肉体が変異している。

 一斉に襲い掛かってくる。武仁は、刀を縦横に振るった。上へ、下へ。左へ、右へ。細かい動きで、しかし確実に斬り落とす。

 

 視界の端を、触手が抜けた。背後に向かっていこうとするそれを、咄嗟に掴み、引き寄せた。その触手を斬り、足を上げようとしたが。左足が動かなかった。一本、左足の甲を貫通していた。切り、貫通したままの触手は、引っ掴んで抜いた。

 それで、動きが遅くなった。肩、腕、腹に、何やら熱い感じが広がった。刺された。そう思うのと同時に、血の味がした。

 

 ぐらり、と視界が揺れた。膝をつきそうになっている。少女たちの泣き声も、遠くなる。

 

 立て。お前の力は、こんなものか。

 

 聞こえた。師匠の声だった。それで踏みとどまった。俺はまだ、倒れることは許されない。

 血を吐き、息を深く吸い込んだ。全身が、刺された時よりも、もっと熱くなった。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 目の前の触手を全て切り落として、数歩下がり、日輪刀を構えた。ぎりぎり全集中の呼吸はできたが、前に跳ぶような力は、とても残っていない。

 

「それだけの傷で、どうして倒れねえ? お前、大して強くねえのに、何で立ってやがる」

 

「俺が倒れたら、誰がこの子たちを守る。誰がお前を倒す。俺は弱いが、倒れない。ここでむざむざ倒れることを、俺は自分に許していない」

 

 言い、武仁は鬼の眼を、睨みつけた。

 鬼は表情をちょっと歪ませ、取り繕うように笑った。一瞬でも、鬼を怯ませられたのかもしれない、と武仁はそれを見て思った。

 

「だが、その怪我だ。足も痛めた。もう、お前は逃げ回れねえ。お前が死んでいく様を、守りたかったその子娘どもに見せてやるぜ」

 

 鬼の背後で蠢いている触手が、一斉に武仁に向かってきた。刀を握る血塗れの手に、力を込めた。切り払えるだけ払い、残りは体で受けるしかない。そしたら、最後の力で鬼のところまで走り、頸を刎ねる。それだけやれば、倒れてもいいだろう。

 腹をくくった。

 

 その瞬間、鬼の頸が、背後から飛んできた鉄球に叩き潰された。

 

「南無阿弥陀仏」

 

 武仁は、燃えていく鬼の体の向こう側に、鎖でつながれた鉄球と手斧を持った、偉丈夫の姿を見た。羽織の下に、鬼殺隊の隊服を着ている。

 

「援軍! 援軍到着ゥ! 岩柱ァ! 悲鳴嶼行冥殿到着ゥ! 武仁ォ、援軍連レテキタァ!」

 

 弦次郎の声も、耳に届いた。

 間に合った。この少女たちも、これで救われる。そう思った。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 全力で移動しても、一刻はかかった。

 

 悲鳴嶼行冥が、鎹烏に導かれてその家に駆け付けたとき、まだ中では隊士が鬼と戦っていた。

 その鬼は、背中から触手を何本も生やして攻撃しようとしていたが、背後にいる自分には全く気づいていない。だから、頸を獲るのは、容易いことだった。

 

 燃え尽きていく鬼の向こうで、若い隊士が立っている。全身から血を流していたが、日輪刀を構えていて、まだ死んではいなかった。近くには大人の死体が2つ。そのさらに奥で、2人の少女が小さくなっていた。

 悲鳴嶼は盲目である。すべて、気配でわかったことだ。

 

 少女は、ひとりがもうひとりを庇っているようだ。下の子供は、縋りつくようにして泣いていたが、庇っている方の少女は震えてはいたが、泣き叫んではいなかった。こちらを、じっと見ている。

 恐怖や悲しみの感情の中に、子供特有の純粋さも残している眼。その眼の持つ残酷さは、苦い記憶と共に、自分の中に深く刻み込まれている。

 

 悲鳴嶼は少女達ではなく、立ったままの隊士に近づいた。

 

「お前は……」

 

 悲鳴嶼は、思わず声が出た。

 若い隊士は立ったまま、気を失っていた。どこか、覚えがある感じがする。




 悲鳴嶼さん2度目の登場。
 次回も悲鳴嶼さんのターンです。

 どうにも戦闘シーンが長くなりがち。
 もう少し短く書く努力をしてみます。


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11話 岩柱

本作のコンセプトその1:基本的に柱は強い

ちなみに、今更ですが私の作品は視点変更をする場合があります。
1話中では1度だけ、それに読んで数行で視点主が分かるように作ります。
もし分かりにくければ、申し訳ありません。



 眼を開けると、見たこともない天井が広がっていた。次に、旨そうな匂いが鼻腔をくすぐった。どこかの家の中で、寝かされているようだった。

 

 腹が減った。武仁(たけひと)は最初にそう思い、身を起こそうとした直後、体中を痛みが駆けまわった。声は出さなかった。横になったまま、しばらく鈍い痛みに耐えた。

 だが、痛みを感じている。自分は死んではいない、と思った。

 

「起きていたか」

「師匠」

 

 首を回し、部屋の前に立っている男を見て、武仁は思わずそう呟いた。

 

「落ち着け。私は、お前の師匠ではない」

 

 低い声で言われた通り、人違いだった。よく見ると、全く似ていない。

 大柄で、いかつい顔をした男。詰襟の隊服に、襟に南無阿弥陀仏と刺繍のある羽織を着ている。

 不意に、思い出した。あの家で、鬼の頸を叩き潰した隊士。弦次郎(げんじろう)は最後に、柱と言っていなかったか。

 男が近づいてきて、武仁の枕元に座した。なんとか起き上がろうとしたが、動けない。

 

「動くな、傷に障る。岩柱、悲鳴嶼行冥だ」

「階級壬、御影武仁(みかげたけひと)です」

「もう違う。先般、鎹烏の知らせが届いた。お前は、辛に昇進した」

 

 鬼殺隊には階級制度がある。だが武仁は、その制度自体、あまり自分に縁があるとは思っていなかった。

 自分にとっては、生きていることの方が第一で、昇任はその結果に過ぎない。癸から壬への昇進を告げられた時にも、そう思ったものだ。

 

「あの家にいた、娘たちは?」

「無事だ。隠たちが、親戚の下へ連れて行った」

 

「そうでしたか。感謝します、岩柱様。岩柱様が来てくださらなければ、多分、あの娘たちは死んでいた」

「よくやったのは、君達の方だ。弦次郎という君の鎹烏は、夜闇の中でも私の下にたどり着いた。そして私が到着するまでの一刻以上の時を、君は死なずに戦い抜いた」

 

 岩柱。目の前で正座している男は、鬼殺隊最高位の9人の剣士のひとりということだ。

 柱合会議というものが半年に一度、鬼殺隊の本部で行われているという。武仁は、あまり気に留めていない。柱が誰だろうと、顔を見ないことの方が多いのだ。

 しかし今は、その柱のひとりに、褒められている。褒められるためにやったものではないが、やはり嬉しかった。

 

 喋っている悲鳴嶼の顔。どこか、見覚えがあるような気がした。

 悲鳴嶼の眼。白濁して光は見えない。武仁の体に、稲妻が走った。

 数年前の寺での惨劇。そこで生き残った、盲目の若い僧。その男を、悲鳴嶼と師匠は呼んでいた。それに額の傷は、師匠が治療していたものではないか。

 

「先に、師匠、と言ったな。私の記憶の中のとある子どもは、武仁と呼ばれ、ある男と共にいた。まさか、ここで会うことになろうとはな」

「岩柱様が、あの時の和尚だったのですね。あの晩、師匠と私は、藤の花を届けるために、寺へ向かっていたのです。しかし、間に合わなかった」

「今更気に病んでも、仕方のないことだ。沙代だけは、生き残ることができた。私はそれから、縁あって、鬼殺の道を歩んでいる」

 

 縁、と言った悲鳴嶼の言葉に、異様な雰囲気がある。良縁もあれば、悲しみや苦しみから生まれる縁もある、と言っているようだった。

 

「君の師匠は、今はどこにおられる」

「わかりません。最終選別を終えて戻ると、いなくなっていました。私も、あの寺での出来事を、一つでも減らしたい。人を助けたい。そう思い、師匠から稽古を受け、鬼殺隊に入りました」

 

 悲鳴嶼は何も言わず、しばらく沈黙していた。その眼から、涙が一筋流れ出てきたのを見て、武仁は眼をそむけた。男でも女でも、他人の涙など見るものではない、と思っている。

 

「ここは私の屋敷だ。快適とは言い難いが、傷はここで癒すといい」

 

 悲鳴嶼はそう言い、武仁の前から姿を消した。

 足音ひとつ、立てていなかった。

 

                       

 

 眼が覚めた翌日には、起きて、立ち上がれるようになった。

 胴体への傷は深いようで、意外と浅かった。隊服が胴への攻撃をかなり軽減していたのだ。事実、履物だけだった左足は、鬼の触手が完全に貫通していて、そちらの傷の方が治りは遅そうだった。

 手当はしっかりされていて、傷が膿んだりはしていない。あとは、自分の回復力次第だった。

 

 数日経ってから、左足を動かさない方法で武芸の鍛錬を始めた。呼吸も、同時に鍛える。深い呼吸を、乱さず、できるだけ長く続けること。朝まで戦い続けるとは、そういうことだ。

 

「私が、稽古の相手になろう」

 

 悲鳴嶼の屋敷に逗留しはじめて数日後、悲鳴嶼がそう声をかけてきた。

 

「良いのですか? お忙しいようですが」

「何もしていなくても、同じこと。それに、隊士に稽古をつけるのも、柱の勤めのひとつだ」

「では、お願い致します」

 

 一礼し、武仁は棒を構えたが、悲鳴嶼は無言で日輪刀を投げてきた。

 何を言いたいのか、直ぐにわかった。武仁が日輪刀を佩いたとき、悲鳴嶼は鎖付きの鉄球と斧を持っていた。

 

「参る」

 

 低く言った瞬間、悲鳴嶼の姿が、武仁の前から音もなく消えた。

 どこだ。そう思った瞬間、頭上からとてつもない気配を感じ、武仁は右足で跳躍した。

 

 

  全集中 岩の呼吸・弐ノ型 天面砕き

 

 

 さっきまで立っていた地面を、鉄球が打ち砕いた。背丈以上の、土煙が上がる。その中から、今度は鉄球と斧が同時に飛んできた。

 驚いている暇も、与えるつもりはないようだ。

 

 

  全集中 岩の呼吸・壱ノ型 蛇紋岩・双極

 

 

 咄嗟に、斧の方へ身を晒す。まず鉄球を躱し、斧には鞘ごと日輪刀を叩きつけた。全力で打ったが、軌道を逸らすので精いっぱいだった。むしろ日輪刀を握っていた掌の方が、痺れたほどだ。

 

 武仁は踏み込まず、更に跳んで離れた。鉄球と斧は、鎖でつながれているのだ。下手に間合いに入れば、鎖に絡めとられるか、後ろから飛んでくる鉄球や斧を食らう。

 

「いつまでも逃げ回っていても、私には勝てない」

 

 土煙の中から、悲鳴嶼がゆっくりと歩いて近づいてくる。鉄球と斧を、鎖で振り回しながらだ。見ていて恐ろしいほどの、筋力だった。

 それに、呼吸も凄まじい。全集中の呼吸を使っているようだが、呼吸から技を放つまでの間隙が、ほとんどない。

 

「岩柱様。私は、弱い隊士です」

「だから、鍛えているのだろう」

 

「しかし弱いなりに、生き残ることはできます。私はこれから、自分を鬼と思って戦います。鬼ならば、岩柱様の攻撃をどう避けるか、どう凌ぐか。それだけを考えます」

「君は、鬼殺隊士だ。私が鬼だったときは、どうする」

 

「相手が鬼なら、夜明けまで戦えば、生き残れます。少なくとも、応援が来るまでは、何としても生き残ります」

「良かろう。では私も、君を鬼と思って戦うこととする」

 

 悲鳴嶼の気配が、唐突に暴力的なものを帯びた。

 弾かれるように、跳んで、走った。鉄球。斧。自在の動きで、間断なく襲い掛かってくる。

 

 本当に元僧侶か。武仁は内心で思った。思いつつ、悲鳴嶼がかつて鬼を素手で殴り殺していたのを、思い出した。

 

 横に走った。その時には、正面から斧が弧を描いて飛んできている。動きを読まれていた。武仁は初めて日輪刀を抜いた。刀と斧が触れる瞬間、切り上げ、斧の軌道を逸らす。それで受け流せるはずだ。

 

 そう思っていると、不意に眼前に青い空が広がった。ゆっくりと雲が移動していく。いや、動いているのは自分の方だ。斧と刀が触れた瞬間、撥ね飛ばされたのだと、それで気づいた。

 身を回して着地した時、肩を叩かれた。悲鳴嶼の巨体は、背後にある。

 

 武仁は、唇を噛んだ。

 負けた。実戦であれば、死んだということだ。一刻どころか、ほんのわずかな時間しかもたなかった。自分は所詮、この程度か、とも思った。

 

「刀を納めろ。いつまでも、見せびらかしているものではない」

 

 言われて、納刀した。納める前に一通り確認したが、刃こぼれはしていない。

 悲鳴嶼は、武器を腰に仕舞いこみ、縁側に腰を下ろした。

 

 最高位ともなると、豪奢な屋敷にでも住んでいると思ったが、外から見るとむしろ質素にも思える程度の構えだった。

 どこから持ってきたのか、家の裏には悲鳴嶼の背丈と同じくらいの、大岩が置いてある。

 

 立ったままでいると、隣に座れ、と仕草で促された。

 

「剣技は、今のままでいい。私に勝てなかったことを、悔いているのなら、次に同じ負け方をしないように努力するのだ」

 

 稽古の講評は、突然始まった。武仁は悲鳴嶼の言葉に、耳を立てた。

 

「動きは、体術を基本にしたものと見える。受け流そうとする動きも、悪くはない。だが、相手にする鬼の膂力がお前を上回ることは、当然にあることだ。それを忘れるな」

「はい」

 

「それと、全集中の呼吸が使えないのだな。私も入隊して長くはないが、色の変わっていない日輪刀という話は、聞いたことがない。そういう使い手がいるということも」

「水の呼吸の、壱ノ型は使えます。それで、今日まで戦ってきました」

「たとえ流派が馴染まずとも、呼吸の深さと長さには、見どころはある。全集中の呼吸の応用に、常中というものがある。君は、まずそれを会得するのだ」

 

 曰く、全集中の呼吸を朝から晩まで、つまり絶えず続けることで、身体能力が鍛えられる。さらに、血の巡りも良くなることで、回復力の増強などの効果も見込めるようだ。

 難しいことを言われている訳ではない、と武仁は思った。深い呼吸は、常日頃から意識していることでもある。

 

 冬の山籠もりでの酷寒を耐えられたのは、全集中の呼吸によるものだった。深い呼吸をすると、体が熱くなる。そう思うと、常中に近いものは今までにもやっていたのかもしれない。

 ただ、寝る時まで呼吸を続けるとなると、無意識にできるまで、体に叩き込まなければならないということだ。

 

「全集中の呼吸は使えないが、新人隊士の割に深く長い呼吸ができるのは歪にも思える。その肺腑は、どうやって鍛えたのだ?」

「師匠との旅で、9年は山歩きを続けていました。武芸の稽古も、旅の中で多少。修行は半年でしたので、特別なことと言えばそれくらいです」

「そうか。それは」

 

 悲鳴嶼が何か言おうとした瞬間、羽音が頭上から降ってきた。

 屋敷の上で、鎹烏が一羽、羽ばたいている。

 弦次郎ではない。それは一目でわかった。

 

                       

 

 民家での戦いから、およそ半月が経っていた。その間は鍛錬の他に、飯炊きや掃除などの家事の手伝い。時には、屋敷に居ついている野良猫の世話もする。

 ただひとつ、何をしていても、呼吸だけは忘れないようにした。

 体の機能は、ほぼ回復した。傷跡は残ったが、動きに支障は全くない。

 

 全集中の呼吸の常中も、徐々に会得しつつあるのかもしれない、と武仁は思っていた。

 体の変化は、すぐに表れた。まず、傷の直りが明らかに早くなった。そして、今までよりも長く、走ったり跳んだりすることができるようになった。

 

 常中を会得し、長い間、全集中の呼吸を続けることができれば、それだけ体を鍛えることができる。自分はこの半月、常中の訓練に、熱中しているといってもよかった。

 

 悲鳴嶼は、屋敷にいないことの方が多かった。鴉からの指令だけでなく、柱其々に割り振られた区域での鬼狩りなど、やらなければならないことは多いらしい。稽古をつけられたのも1回だけである。

 

 怪我から完全に回復した。そう思った頃、悲鳴嶼が帰ってきた。

 任務に行くときも帰ってくるときも、悲鳴嶼の様子には全く変化がない。ちょっと、そこらに出てきた帰り。任務に出たことを知らなければ、そんな風にしか見えない。

 傷が癒えたので、明日ここを発つ。夕食で、そう切り出そうと思った時だった。鎹烏の弦次郎が、窓から飛び込んできた。

 

「伝令、伝令ィ! 御影武仁に任務ゥ!」

 

 武仁は箸を止め、弦次郎に向き直った。

 

「武甲山周辺デ、人ガ次々ト消エテイルゥ! 隊士2名ト藤ノ花ノ家紋ノ家で合流シィ、共同デ調査ニ当タレェ! 鬼ガ居レバ、コレヲ滅殺セヨォ!」

「承知した。明日早朝、出立する」

 

「武仁ォ! 笛ェ! 笛ェ! 笛ェ!」

「分かった」

 

 弦次郎は満足げにひと鳴きすると、武仁の肩に止まった。

 

「岩柱様。お聞きの通りです。長らくお世話になりましたが、指令に従い、明朝出立します」

「わかった。武運を祈る」

 

「岩柱様も、ご武運をお祈りします。1曲、縁側でよろしいですか。お耳汚しであれば、打ち倒してください」

「構わない」

 

 武仁は一礼し、縁側に座った。

 見上げると、月が輝いていた。降り注ぐ月光で、見えるものすべてが白く透き通っていくようだった。

 

 武仁は、笛を構えた。

 半月前の民家での戦いが、蘇った。鬼の頸こそこの手で取れなかったが、俺は人を守ることができたのだ。自分の戦いは、決して無駄ではなかった。そして岩柱である悲鳴嶼行冥と再会して、これからさらに、強くなることもできるのだ。

 朱雀と、芭澄に会いたい。武仁は、強く思った。俺はあの2人の同期として、恥じない剣士に必ずなる。

 渦巻く高揚感が、音となって流れ出ていた。そして、吹き切った。

 

 笛を置くと、弦次郎が夜空に飛び去って行く。満足してくれたようだ、と武仁は思った。

 

                       

 

 夜が明けると、武仁は出立していった。

 悲鳴嶼は玄関まで送ったが、改めて別れの言葉などは言わなかった。向こうも同じ気持ちだったのだろう。一礼だけして、出発していった。

 

 鬼殺隊士はどんな別れも、今生の別れなのだ。再会できるという保証は、どこにもない。鬼と戦うとは、そういうことでもあるのだ。

 

 武仁の気配が遠くなっていく。唐突に、その気配に不吉なものを悲鳴嶼は感じた。感じたが、言葉にはしなかった。口にすることで、現実のものになってしまうものある。

 そのまま、武仁の気配は山中に消えた。

 

 9年間、師匠と呼ぶ男と旅をしていたという。逆に言えば、御影武仁はそれだけの時間を、全集中の呼吸の鍛錬に費やしていたとも言えるのではないか。そうでもなければ、半年で鬼殺隊士としての修行が終わるはずがない。

 

 何の才能もなければ、鬼殺隊に入ることはなかっただろう。どこかで、見事な笛を吹いていたかもしれない。そう思うと、武仁という隊士がいること自体が残酷であり、鬼という存在の悪辣さの証だった。

 

「武運を祈る」

 

 悲鳴嶼はそう低く呟き、館へ身を翻した。あの隊士に運があれば、自分が感じた不吉なものも、不吉でなくなるかもしれない。

 

「あの」

 

 館に入った悲鳴嶼に、不意に声をかけてくる者がいた。

 

「悲鳴嶼行冥様のお宅ですね」

 

 何をしに来たのだ。まず、そう思った。

 半月前、民家で助けた少女達が、門の前に立っていた。




こういう、すれ違いが好きです。
だから視点変更をやめられないのです。


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12話 今、この時がずっと

 オリキャラで原作キャラのことを語らせるの、すっごい楽しいです。


「あんた、旅人かい?」

 

 道沿いの茶屋で一服していた時、そう声をかけられた。店主らしい男が、店の奥から姿を現した。

 

「はい。武甲山の方へ行くつもりです」

「悪いことは言わない。やめておけ」

「どうしてです」

 

 主人曰く、数か月前から、武甲山周辺で、時折人が消えるようになったのだという。それだけなら、鎹烏からの指令と同じだった。ただ、それだけでもないようだ。

 

「お兄さん、そこそこだけど、腕が立ちそうだし」

「どういうことですか?」

「私も、ここで長く店をやっているから、通っている奴の顔を見れば何となくわかる。いなくなるのは、大抵は腕の立ちそうな奴らだ。この前は、陸軍の一部隊がそっくり消えちまった。その時は、ひどい騒ぎになったものさ」

「熊に食われたとか?」

「役人共も、そう言って帰って行ったな。可哀そうな熊を、何匹か手土産にして。だが、地元の連中は誰もそんなこと信じちゃいない。熊なら、それとわかるものがある。糞もすれば、足跡もあるってもんだろう」

 

 つまり、いなくなった人間は何の痕跡も残していない、ということだろう。

 獣に襲われること自体は、割とあることだ。しかし襲われる人間がいるなら、生き残る人間もまたいる。しかし誰ひとり、獣など見ていないという。

 

「お陰で、この辺は鳴かず飛ばずさ。一度悪い噂が経てば、こんな田舎は誰も通らねえ。お兄さんだって、何日かぶりのお客だよ」

「武甲山には、何かあるのですか?」

「四半刻(30分)位登れば、山頂に神社がある。武甲神社っていうんだ。その昔は、御神刀を奉納されたこともある、由緒正しい神社だったんだぜ」

「そうですか」

 

 武仁(たけひと)は残りの茶を飲み干すと、銭を置いて立ち上がった。

 

「貴重な話をお聞きしました。私は一回、街に戻ります」

「ああ。そうした方がいい。ありがとよ、こんな店で飲んでくれて」

 

 武仁は荷物を背負い、道を南の方へ向かった。

 季節は、秋に入っている。周囲の山肌は、鮮やかな紅や黄に染まりはじめていた。あと半月もすれば、見えるものすべてが紅葉に包まれるだろう。

 

 日没前、街の近くに戻った。集合場所に指定された藤の花の家紋の家は、街からは少し外れたところにあったが、すぐに見つかった。

 

 連れられた部屋には、先客がひとりいた。窓際で正座していた朱色の髪の男が、武仁の方に向いて、笑顔を見せた。

 

「おう、久しぶりだな」

「合同任務と聞いていたが、朱雀(すざく)だったのか」

 

 生きていることは人づてに聞いていたが、顔を合わせるのは最終選別以来だった。その快活明朗な様子は、全く変わりない。

 

「もうひとり来ることになっているが、何となく見えてきたな」

「そうだな」

 

 荷物は畳まれた布団の傍に、一塊にして置いた。

 すぐに、もうひとり入ってきた。やはり、と武仁は思った。芭澄(はすみ)だった。選別の時は長かった黒髪が、今は短く整えられている。

 

「貴方達だったの。朱雀とは、何度か一緒に任務に就いたことはあったけど。武仁とは最終選別以来だね」

「ああ。まさか再会してすぐに、一緒に任務に就けるとは思わなかった」

「積もる話は多い。お互いに。飯を食いながら話すとしよう」

 

 朱雀は手を叩いて、家の人間に合図している。

 食事の準備は、すぐにできた。卓いっぱいに、料理が並んでいく。

 

「これは凄い」

 

 武仁の口から、思わずそう零れた。

 藤の花の家紋の家での食事は、大抵が豪華なものだ。死と隣り合わせの鬼殺隊士は、何が最後の食事になるかわからない。だから、旨いものを沢山食べてもらいたい。

 そういう家人の気づかいはよくわかったが、どこか重くもあった。武仁は特別な指示がなければ、藤の花の家紋の家には泊まらない。

 

「俺は今、煉獄家に居候させてもらっている」

「煉獄と言えば、あの炎柱の煉獄家ということか」

「今の炎柱は、煉獄槇寿郎様だ。俺の家族を助けてくれた方だよ」

「凄いな。なら、朱雀は炎柱様の、継子になるということか?」

「いいや、俺は継子ではないのだ」

 

 そう言った朱雀の表情が、ちょっと陰りを帯びた。こんな顔もするのだ、と武仁は思った。

 

「あまり大声では言えないが、今年に入ってから、槇寿郎様の様子がおかしくてな。情熱的な人だったんだが、このところどうも元気がない。奥方である瑠火様も、病に臥せっている。継子になりたいなどと、押しかけていった俺が、言いだせるような状況ではなくなってしまった」

 

 言葉にしている以上に、あまりよくない状況なのかもしれない。それは束の間、朱雀の表情に浮き出ていたが、すぐに元の明るい笑顔を浮かべた。

 

「なに、継子であろうが無かろうが、俺には大きな問題じゃない。俺は任務に出て、鬼を狩り、人を助ける。そのことを、炎柱様と瑠火様に伝える。きっといつか、炎柱様も元通りになるし、瑠火様もきっと元気になる。俺は、そう信じている」

「それでこそ、俺の知る朱雀だ。炎の呼吸の使い手だ。湿っぽい顔は、お前には似合わない」

 

 黙ったままの芭澄が、くすりと笑った。

 

「それに、凄い男を、俺は見つけた」

「ほう」

「槇寿郎様には、ご子息が2人いる。その長子である、杏寿郎という男だ。まだ12歳だが、この男は必ず強くなる。それだけの天稟を、持って生まれてきた。今はまだ俺の方が強い。だが数年後には互角。いずれは、俺など比べ物にならなくなる位、強くなるはずだ」

 

 朱雀は、煉獄杏寿郎のことを、既にひとりの男と認めているようだ。それも12歳の子供である。どんな男なのか、と興味はわいた。

 

「だが、父と母がその様子では、辛いことも多いだろうな。その杏寿郎という男も」

「そこで、俺の出番さ。杏寿郎が大きく成長するまで、俺はあいつと共に切磋琢磨することができる。それに、炎柱様が元の様子になるまでの辛抱だ。あの方は、必ずまた立ち上がってくれる」

「俺もいつか、その杏寿郎という男に、会ってみたい。朱雀がそういうからには、俺よりも、ずっと強いのかもしれないな」

「ああ、ぜひ来てくれ。瑠火様も杏寿郎も、お前のことは話の中で知っている。お前がいなければ、俺は煉獄家に行くこともなく、最終選別で死んでいた。俺が生きているのは、戦うことよりも先に、生き残る方法を考えているお前と、組んでいたからだ」

「そんなことはない」

 

 逆に、お前と芭澄なら、あの鬼を殺すことができたのではないか。俺は、結局その邪魔をしたのではないか。武仁はそう思ったことがある。

 最終選別を終えた後、先任の鬼殺隊士に藤襲山の異形の鬼のことを伝えたが、ただの鬼が緊張で大きく見えたのだろう、と一笑に付されただけだった。

 おそらく、あの手の鬼は、まだ藤襲山で生きている。鱗滝という育手の送り出す志願者は、今も危険にさらされているということだ。

 

「武仁。俺も選別が終わって、1年以上任務に当たり、すこしは物が分かるようになった。あの異形の鬼と戦ったところで、俺は大して傷を与えることもなく、無様に死んでいただろう」

「私も、武仁のやり方は、間違っていなかったと思う。まあ、崖から飛び降りるのは、あれきりにしてほしいと思うけど」

 

 芭澄の黒い瞳が向いて来たので、武仁は横を向いて、茶をすすった。

 継子の話で、ひとつ思い出したことがあった。

 

「そういえば、噂に聞いたのだが、芭澄。お前は水柱様の継子になるのか?」

「ああ、そのこと。武仁も知ってたんだ」

 

 2か月ほど前、任務で一緒になった隊士から聞いた話だ。芭澄は、水の呼吸の使い手である。水柱の下で修行することに、違和感はない。

 武仁と話した隊士は、その経緯について驚いていたのだ。

 

「まだ、継子じゃない。いつか継子にする。そういう約束を、してもらっただけだから」

「俺もその話は知っている。そのわりに、自分から水柱様のところへ押しかけたのだろう? 何度追い払われても聞かず、挙句は柱合会議の議題にまでなって、水柱様は根負けして認めたと聞いたぞ」

 

 朱雀は声をあげて笑っているが、武仁は口を開けたまま声が出なかった。芭澄の横顔がほんのり赤く染まり、卓上の握り拳は震えていた。

 

 気配にも、それぞれ違いがある。いま、芭澄が放っている気配は、師匠との稽古でも数える程しか感じたことがない、危険なものに匹敵している。

 

 卓上の食事は、ほとんどはけた。それを見て、武仁は笑っている朱雀を放って、立ち上がった。しかし戸に手をかけた瞬間、肩に手をかけられた。

 芭澄が背後に立っていて、微笑んでいた。

 

「武仁。どこに行くの?」

「ちょっと、外へ。風にでも当たってくる」

「じゃあ、私も行く」

「朱雀は」

「彼はもう、眠いんだって」

 

 馬鹿な。そう思って横を見ると、朱雀は膝を立て、布団に顔を突っ込んでいた。体がぴくぴくと、不気味に痙攣している。

 音はなく、気配すらも感じさせず、朱雀を打ち倒したらしい。肩にかかった手には、異様な力が込められている。とても、女とは思えない。

 

「ああ、構わない」

「じゃあ、行こう。笛も、まだ持ってるんだよね? 朱雀は勿体ないな。寝てるから、武仁の笛が聞けないなんて。何度か一緒に任務に就いた時は、聞きたいって言ってたのに」

 

 抵抗すれば、お前も寝かしつけてやる。あるいは、力ずくで笛を吹かせてやる。そうも聞こえた。

 武仁は、芭澄の背後で、苦笑していた。

 友達と過ごす時間は、やはり良い。そう思ったからだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 はしごを使い、家の屋根に登った。登り切った時、どういう訳か、芭澄も屋根の上に立っている。

 

「それも、全集中の呼吸でできることか」

「慣れると、こういうこともできるようになるんだよ」

「俺には、とても真似できないことだ」

 

 屋根の上で、芭澄と並んで座った。小さな光が、ぽつぽつと見えた。街の明かりだろう。

 芭澄が指笛を吹いた。鎹烏が降りてきて、芭澄の腕に止まった。

 

 師匠も何度かこうやって、老鴉を呼びだしていた。武仁も、弦次郎に同じことをさせようとして、最初はうまくいっていた。しかし、竹笛の音を聞かせると、指笛には一切反応しなくなった。

 戦闘中の指笛には反応するので、聞き分けているのは間違いなかった。

 

「武仁の笛を、この子にも聞かせようと思って」

「俺の鎹烏は、無口だったのに、笛を吹けと我儘をいうようになった。芭澄の鎹烏も、同じことを言いだすかもしれないな」

「別にいいよ。その時は、こっちから武仁に会いに行くから」

 

 芭澄の笑顔に、思わず武仁は惹き寄せられた。

 最終選別から1年以上の時を鬼殺に投じていても、芭澄に血に汚れたという印象は全くない。初めて会った時の、秀麗な印象はまるで失っていなかった。

 

 女には特別な感情を傾けない。それが、師匠の生き方のひとつだった。自分が幸せになることよりも、人を助けることを選ぶ。いや、人を助けることで幸せになろうとしている。

 そういう生き方を、自分の生き方にもしたのだ。だから、芭澄にも特別な思いは抱いていない。それに自分は、まだ女を知るような年齢でもないだろう。

 

 そう思うと、武仁の気持ちは落ち着いた。芭澄から眼を外し、笛を構えた。

 出てきたのは、静かな音だった。友との再会。そして、気兼ねのない、穏やかな時を過ごしている。この時が、ずっと続けばいい。そういう気持ちも、籠っていたかもしれない。

静かなまま、吹き終えた。

 

 武仁の傍らに、2羽の鴉が横並びでうずくまっていた。弦次郎。もう1羽は、朱雀の鎹烏だろう。鴉にも、仲の善し悪しがあるのかもしれない。

 

「やっぱり、良い音だな」

「みんな大抵、そう言う。自分のことだが、俺には何がいいのかよく分からない。例えば、他の芸人と何が違うのか。俺は、自分が吹きたいように吹いている。それだけだ」

「だから良いんじゃないかな。みんな、言葉にできないものがいっぱいある。武仁の笛の音は、それを代わりに言葉にしてくれているような、そんな気持ちになるよ」

 

 この子も、良い音だったって言ってるよ。芭澄はそう言い、鎹烏を向けてきた。鴉のつぶらな眼も、武仁の方をじっと見ている。

 

「そうか。なら、吹いてよかった」

 

 笛を隊服の懐に戻した。師匠からもらった笛。いまも、使い続けている。

 

「最終選別にいたあの鬼の事だけど、水柱様にも話したの。朱雀も私も、鱗滝っていう育手の居場所が、どうしてもわからなかったから」

「水柱様は、何と?」

「わかった。もう心配いらない。そう言ってた。それと、武仁のことを話したら、会いたいって」

「そんなこと言われても、俺にも任務があるからな。それに柱というのは、忙しいものだろう? ただの一般隊士の相手をしている暇があるものなのかな」

「任務がどこかで一緒になったら、終わり次第、引きずってでも連れてこい」

 

 不意に、芭澄の声音が変わった。

 

「そうすれば、その日から継子にする。水柱様とは、そういう約束をしているの。だから、この任務の後で、武仁には一緒に来てもらうからね」

「そういう人なのか、水柱様は」

 

 岩柱である悲鳴嶼行冥は、武仁が知っているだけでも、壮絶な過去を負っている。しかもそれ以上に、傷ついている気配もあった。悲鳴嶼の強さは、その内に秘めた感情の裏返しのようにも思えた。

 鬼への恨みや憎しみは、やはり強い力になる。柱ともなれば、それだけ大きいなものを背負っている。何となく、そう思っていた。

 しかし水柱は、ちょっと感性が違うのかもしれない。

 

「芭澄は、どうして継子にこだわるんだ?」

「それはね」

 

 返事は、すぐには戻ってこなかった。芭澄は眼を細めて、街の明かりを見ている。

 

「朱雀は、炎柱様に助けられて、炎柱様への恩返しのために鬼殺隊に入った。武仁は、純粋に人助けのために、鬼殺隊に入ってきた。2人とも、本当に強くなったよね。武仁なんて、もう全集中・常中ができつつある」

 

 唐突に言われて、武仁の呼吸は思わず乱れた。数度、深く吸って吐き、すぐに呼吸を安定させる。一度でも全集中の呼吸を中断すると、慣れていても再開するのはそれだけでも苦痛を伴うのだ。

 

「私も、貴方達2人みたいに、誰かを助けられる強さが欲しかった。いいえ、強くなりたい。それくらいの気持ちがなければ、私はとても2人と一緒に歩くことなんて、できないと思う」

「それで継子か。だが、忘れるなよ。芭澄は、何もしていないわけじゃない」

「えっ?」

「選別で、俺たち3人以外にもう1人合格した志願者がいただろう。崖から飛び降りた。後藤という子だが、そいつは今、隠になっている。怪我がひどくて、実戦には耐えられないそうだ。現場で会った時に、礼を言われた。あの時助けてくれてありがとう、って」

 

 今は、隠の後藤ってんだ。とある現場で、向こうから接触してきた。黒子が着るような装束なのに、江戸っ子な口調で啖呵を切ったのは、なかなか強烈で忘れられない。

 

 横を向くと、芭澄の黒い瞳が、ちょっと揺れていた。揺れているのではなく、潤んでいる。それに気づいたとき、武仁は立ち上がった。

 

「そっか。私は、知らなかったな」

「なら、話しておいてよかった。俺は、もう寝ることにする」

「私は、もう少しここにいるよ」

 

 武仁は芭澄に別れを告げて、部屋に戻った。

 夕食は片付けられていて、代わりに布団が2つ敷かれている。打ち倒されていた朱雀の体も、毛布を掛けられていた。芭澄の部屋は、隣だった。

 

 武仁は隊服の上着だけを脱いだ。着物も用意してあったが、1年以上も隊服を着て過ごすと、逆に落ち着かない。

 日輪刀を手の届くところに置いて、武仁は布団の中に滑り込んだ。野宿にはない、温もりがあった。

 

「炎柱様はな、若くして結婚されたそうだ。まあ、お前ほど若くはなかっただろうが」

 

 朱雀の声。どこか面白がっているような響きがある。

 

「芭澄はあれで、なかなか隊士の中でも人気がある」

「うるさい。俺は寝る」

 

 押し殺したような笑い声が、しばらくの間、漏れていた。

 そんなことは、俺も知っている。朱雀を打ち倒した芭澄の気持ちが、少しだけ理解できた。全集中の呼吸を続けながら、武仁はそう思った。




いざ、戦いへ


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13話 血闘場

 戦え。そして、生き残れ。

 感想、お気に入り登録等ありがとうございます。


 夕刻、3人でまとまって街を出た。北へと進んでいく。

 日が山なみに没する前に、武甲山が見えてきた。悪評がかなり流れているのか、道中では、誰ともすれ違うことはなかった。

 

「情報を総合すると、あの武甲神社というのがまず怪しいな」

 

 3人で武甲山を見張りながら、話し合いの場を設けた。最初に口を開いたのは、朱雀(すざく)である。

 これは共同任務だが、指揮権は基本的に階級が上の者にある。朱雀は丙、芭澄(はすみ)が戊だったので、今は朱雀に指揮権があった。

 

「それに、いなくなっているのが、腕が経ちそうな人間か」

「稀血でもなければ、普通の鬼が獲物を選り好みするとはちょっと考えにくい。腕の立つ人間が消えているというのなら、それなりの理由があると思わないか、朱雀」

「理由というと?」

「例えば、何らかの血鬼術によるものであるとか」

「まあ、そこだろう。だが血鬼術であると想定自体は、あまり解決にはならない。血鬼術とはつまり、鬼の気の持ちようで、何でもありだ」

 

 尤も武仁(たけひと)は、血鬼術を使ってくる鬼の相手をしたことはほとんどない。そのわずかな数も、数人の隊士と合同の任務で、武仁が直接戦ったわけではなかった。

 

「朱雀。武甲山に入る前に、他の隊士と合流することになってるんだよね?」

「そのはずだが」

 

 朱雀によると、4人の隊員が先行しているらしい。合わせて7人。武甲山に潜む鬼の調査のために、動員された数だった。他の隊士が集めた情報があれば、より確実に戦える。

 しばしの間、思い思いの場所で他の隊士を待った。朱雀は座り込んで赤い日輪刀の手入れを、芭澄は瞑想を、そして武仁は武甲山のほうに、眼をやっていた。夜の山に、人気はまったくない。

 

 秋だが、羽織を着ているので肌寒さはなかった。朱雀は髪色と同じ朱色の、芭澄は薄い水色の羽織を着ている。羽織は隊士それぞれの好みであり、着ない者もいた。芭澄は、動きの妨げになるのが嫌で、戦闘が始まればすぐに脱いでしまうらしい。

 

 1刻程、流れた。朱雀がおもむろに日輪刀を納め、立ち上がった。

 先行した隊士が合流してくることはなかった。そして、どれだけ待っても、合流してくることはない、と武仁は確信した。おそらく、もうこの世にはいない。

 

「この場にいる人間だけで、決めなければならない。俺は、本部の指示に従って、武甲山へ向かおうと思う」

「指揮権は、朱雀にある。私は、異論はないよ」

 

 2人の眼が、武仁に向いた。隊士4人が消えた以上、今いる3人で行くことに、異論はなかった。だが、それだけでいいのか、という気もしている。

 

「一応、本部に応援を要請した方がいいのではないだろうか。それに、4人が消息を絶ったのであれば、鎹鴉で何かしら報告を入れたかもしれない」

 

 恐怖が言わせたものではなかった。4人の隊士を倒した者がいると想定されるところに、3人で乗り込む。それは無謀な試みとも言えるのではないか。

 朱雀はちょっと考え込むような顔をしたが、すぐに顔を上げた。

 

「偵察。今晩は、そういうことにしよう。鬼がいるのかどうか、まずはそれを確認する。それをはっきりさせなければ、応援は来ない。柱も動かないだろう。分かっているだろうが、鬼殺隊の戦線は、ここだけではない」

「分かっている。一応、言ってみたことだ」

 

 偵察、という言葉を朱雀は使ったが、鬼がいれば結局は戦うことになるだろう。たとえ隊士が死んでも、報告は鎹烏がすればいいだけのことだ。

 仕方のないことだった。不利を背負った戦いは、鬼殺隊の宿命と言ってもいい。

 

「では、行こう。先頭から俺、武仁、芭澄の順番だ」

 

 道を少し歩くと、武甲山への参道の口だった。石段の道を朱雀は先頭で登りながら、周囲の林にも気を配っていた。

 朱雀が決めた順番はそのまま、戦闘を開始する順番であり、撤収の順番でもある。つまり朱雀は、誰よりも先に戦うし、万が一の時は殿を務めるつもりなのだ。それは、朱雀の戦闘への自信の表れでもあり、どこか覚悟めいたものを武仁に感じさせる。

 

 参道を登り詰めると、ちょっとした広場になっていた。鳥居。その向こうに、楼門が見えた。

 

「今のところ、誰も追って来てない」

 

 芭澄が小さな声で言う。武仁は、黙って頷いた。

 鳥居を抜け、門に近づいた。分厚い埃が積もっていて、所々が朽ちている。人がいなくなってからずっと、何の手入れもされていないようだ。

 門は隙間もなく閉じられていたが、境内の周囲は背丈以上の塀で囲まれている。乗り越えるのでなければ、この門を通るしかない。

 境内の中には物音も、気配もない。少なくとも、武仁に感じられるものは何もなかった。

 

「行くぞ」

 

 朱雀が門に手をかけたので、武仁も一緒に押した。軋んだ音を立て、開いていく。3人で素早く門を抜け、境内に入った

 

 瞬間、異変が起きた。臭い。武仁は素早く、口や鼻を袖で覆った。嗅いだことがないほどの濃い血の臭いが、充満している。

 

「お前たちは、聞いたことがあるか。その昔、西の果てで栄華を極めた大秦という帝国には、円形の闘技場があった。そこでは、戦士達による血で血を洗う殺し合いが、民の愉しみとして行われていたという。願わくば、私もその場に生まれたかったものよ」

 

 拝殿前に、人影が立っていた。その影が、一歩踏み出した。それだけで、息苦しいほどの圧迫感が、武仁の全身を打ってきた。

 武仁は息を整え、日輪刀に手をかけた。血の臭いには、慣れた。朱雀と芭澄も、戦闘の態勢に入っている。

 

「ようこそ参られた、鬼狩りの剣士たち」

「鬼か。武甲山に潜む鬼というのは、お前のことだな」

 

 月光の下に、鬼が姿をさらした。具足を身に着けていて、姿形は人に近い。だが、額の端には角が生えていて、しかも3つ眼だった。額にある眼球が、ぎょろぎょろとせわしなく動いていた。

 それ以上に、今までの鬼とはどこか違う。そう感じさせるほどの、気迫を発していた。

 

「いかにも。某は斬魄(ざんぱ)。そしてここは、某の血鬼術で血闘場となった。うぬらの血を吸わせるか、某の頸を落とさねば、この地から出ることは叶わぬ」

「いなくなった人たちを、どこへやった。いや、なぜ襲った」

「見てみるがいい」

 

 鬼が、境内の左右を指さした。無数の刀が、地に刺さっていた。中には、軍が使っていそうなサーベルや、銃も落ちている。

 武仁は、眼を細めた。色のついた刀もあった。4本どころか、10本以上は刺さっている。

 

「女子供を食らうは、弱き鬼のすること。強き者、戦う力を持つ者を打ち倒し、その血肉を食らう。それでこそ、真なる意味での某の力となる」

「身勝手な理屈を吐くな。お前が殺した人間にも、家族がいて、友がいた。お前に食われるために、生きていたわけではない。その頸、打たせてもらう」

「良かろう。やってみるがいい」

 

 鬼の全身から流れ出る気迫が、不意に残忍なものに変わった。戦いは、唐突に始まった。

 まず朱雀の呼吸音が、境内に響いた。

 

 

  全集中 炎の呼吸・壱ノ型 不知火

 

 

 間合いは、瞬く間に詰まった。

 赤い日輪刀。斜め上から、斬魄に吸い込まれていくが、空を切った。躱されたようだが、動いたようには見えなかった。斬魄が、片腕を振り上げている。刀。頂点から、朱雀に振り下ろそうとしている。

 朱雀がさらに、一歩踏み込んだ。

 

 

  全集中 炎の呼吸・弐ノ型 昇り炎天

 

 

 切り上げた朱雀の刀と、振り下ろされた斬魄の刀が、鋭い音を立てた。

 朱雀が、気合を上げた。全力で鬼と競り合っている。その僅かな間。斬魄の背後に、芭澄の姿が現れた。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 水平に振るわれた青い日輪刀が、火花を上げて止まった。芭澄の一撃を、斬魄は受けている。もう1本、刀を握っていた。

 

 朱雀と芭澄が、同時に離れた。

 構え直していくのを見て、俺は動けなかった、と武仁は思った。2人の戦いは、武仁が知っている時よりも数段、早い。斬魄の動きにも、武仁が付け入る隙が全く見つからない。

 全て、2、3回呼吸をしている間のことだった。

 

 自分が入ると、2人の動きの妨げになる。ならば、別のことをすればいいのだ。朱雀と芭澄は、前後で斬魄と対峙しているが、今は互いに動いていない。

 まず、くぐってきた門扉に向かった。何か別の力が加わっているように、押しても引いても全く動かない。

 次に、地面から拳ほどの石を掴み、塀の外に投げた。塀を越えた瞬間、石は幻のように消えた。ここから出られない、という鬼の言葉に、偽りはないようだ。

 

 甲高い鳴き声。鎹烏の声が、微かに聞こえる。それも、頭上からだった。武仁は指笛を吹いた。鎹烏が2羽、次々と武仁の前に降り立ってきた。

 ある程度の高さを越えると、この血鬼術は及ばなくなるのではないか。一掴みの砂利を、今度は縦に散らすように投げる。消えるものと、外に飛び出ていくものがある。門の高さ。もう一度投げて、それを確認した。

 

「ほう。勘のいい者がいたか」

 

 斬魄の視線が、武仁に向いている。その瞬間、芭澄が動いた。一泊遅れて、朱雀の姿も消える。

 

 

  全集中 水の呼吸・漆ノ型 雫波紋突き

  全集中 炎の呼吸・参ノ型 気炎万象

 

 

 初動の差がそのまま、斬撃が届く差になる。普通の鬼なら、ひとたまりもないはずだ。武仁はそう思ったが、斬魄の両手が目まぐるしく動き、2人同時に切り払われていた。

 何度も、2人と鬼とが、交錯する。火花。刀と刀が、触れ合う音。しかし、頸には届かない。むしろ朱雀は胸、芭澄は腕。それぞれ隊服を切り裂かれている。

 

「鬼狩りの剣士よ、お前たちの剣術は、某には通じぬ。鬼狩りは多少の流派の違いはあるが、誰もが同じ剣筋、同じ身のこなしを使う。それも分かりやすく、刀に色をつけている。破れぬ道理はない」

 

 斬魄はそう言うなり、2本の刀を額前で交差させた。再び地に向けて下げた時、武仁は、息を呑んだ。他の2人も、同じような音を立てた。

 

 下弦。参。額に開いている眼に、そう刻まれていた。

 十二鬼月。鬼の首魁である、鬼舞辻無惨に直属する12体の鬼。武仁は、噂でしか聞いたことがなかった。しかし、目の前にいる。

 

「伝令」

 

 すぐに、武仁は叫んだ。朱雀も声を上げている。

 

「武甲山にて、下弦の参と遭遇」

 

 分かっている範囲の、斬魄の血鬼術。応援要請の言葉を添えて、弦次郎を飛ばす。

 飛ばすのと同時に、嫌な予感が武仁の全身を襲った。今まで斬魄と遭遇した鬼殺隊士は、誰も鎹烏を飛ばさなかったのか。

 

 山の方から、細い光が弦次郎に向けて飛んできた。悲鳴のような鳴き声の後、鴉が1羽墜落してくる。武仁は下で、落ちてきた鴉を受け止めた。体を矢に射抜かれている。

 弦次郎ではなかった。朱雀の、鎹鴉だった。

 

「行け! こちらに構うな!」

 

 朱雀の声。頭上にいた弦次郎だが、その声で林の中に消えていった。弦次郎に向かって、さらに数発、矢が放たれた。林の中は、飛ぶのに時間はかかるが、矢は凌げる。

 

妖箭(ようせん)めが。しくじったな」

 

 妖箭。それが、矢を放った鬼の名前だろう。毒づいている斬魄の前に、武仁は出た。朱雀の鎹烏は、まだ息があり、門の傍に横たえている。

 

「朱雀、芭澄。ここは俺が受け持つ。もう1体の鬼を、2人で倒すんだ」

 

 武甲山には、鬼がもう1体いる。しかも、斬魄とうまく連携していた。鬼は連携して戦わない、という前提が崩れている。このまま斬魄と斬りあっても、わずかな隙にもう1体の鬼に射殺されかねない。

 

 朱雀の、返答はなかった。

 自分であれ、芭澄であれ、ひとり欠ければこの場に勝ち目などない。朱雀が何も言わないのは、それが分かっているからだろう。

 

「門よりも高く飛べば、この神社の中から出られる。俺にそんな力はないが、2人なら、跳べない高さではないはずだ。俺はここで、この鬼の相手をする。まず先に、外の鬼を倒すべきだと俺は思う」

 

 最後には、語気が強くなっていた。迷っている暇はない。

 

「ひとつ、約束しろ。決して、死なないと」

「当然だ」

「信じるぞ、その言葉。行くぞ、芭澄」

 

 芭澄は迷ったような顔をして、こちらを見た。信じてくれ。武仁がそう念じてうなずくと、朱雀に続いて走り出していく。

 

 塀を越える時、2人は異様な跳躍をして見せた。矢で狙われていたが、切り払い、そのまま塀を越えていく。それ見て、武仁は斬魄の方に向き直った。

 下弦の参。額の文字が、獰猛な光を放っている。正面から向かい合うと、放たれている気迫だけで、呼吸を忘れそうだった。

 

「無駄なあがきをする。高がひとりの鬼狩りが、某の相手をするか」

「俺は」

 

 日輪刀を抜き放ち、構えた。色の変わっていない日輪刀が、月夜に照らし出される。

 斬魄の眼。3つ全てが、日輪刀に向いている。

 

「俺は、死なん」



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14話 武甲山の狩人

本戦前に、短めのをひとつ。
同期ふたりが、戦います。


 境内の外に出ると、はっきりと鬼の気配が感じられた。

 武甲山の山頂。鬼は、そこにいる。

 

 朱雀(すざく)は走りながら、刀を振るった。炎の呼吸の型には、遠距離からの攻撃への防御に応用できるものがある。離れたところを駆けている芭澄(はすみ)は、水の呼吸らしい緩急のついた立ち回りで、矢を躱しているようだ。

 

 この2人なら、矢を射るだけの鬼など、容易く首を刎ねられるだろう。そして、すぐに武仁のもとに駆け戻り、下弦の参を倒す。

 柱がいれば。そう思った。十二鬼月とはいえ、下弦の鬼なら簡単に首を獲れる。だが柱が駆けつけてきた時には、一般隊士は屍の山を作っている。そういうものだった。

 切り抜けたければ、勝つしかない。武仁(たけひと)や芭澄と、一緒にいるのだ。不可能ではない、と朱雀は思っていた。

 

 斜面を、駆けあがっていく。足腰には十分に余裕があるが、呼吸を乱さないようにするので、精いっぱいだった。

 武仁は素の肉体で、異様なほどの速さで山を走る。最終選別では内心、舌を巻いたものだった。

 

 上を見上げた。鬼の気配は、動いていない。

 矢。再び、飛んできた。朱雀の遥か頭上を越えていく。何となく気になって、軌道を見ていた。その矢が唐突に、あり得ない角度で曲がった。防げたのは、偶然見ていたからだ。

 

 もう一矢、正面から飛んでくる。切り上げようとしたが、また急に向きを変えた。地を這うように、飛んでいく。その先。芭澄がいた。

 朱雀が、声を掛ける間もなかった。走っている芭澄が、姿勢を崩し、倒れた。

 瞬間、朱雀は走り出した。うずくまっている芭澄のもとに駆け寄ったが、今度は音を立てて斜面が揺れた。複数の岩が、斜面の上から転がってくる。

 

「跳ぶぞ。我慢しろ、芭澄」

「分かってる。ごめんね」

 

 左手で芭澄を抱え上げ、一跳びで岩を躱す。着地した。そこには、大木が倒れてきた。山のあちこちに、罠が仕掛けられている。

 反射的に、朱雀は右腕で押し止めた。とてつもない重量が、かかってくる。足が、地面にめり込んだ。気合を、上げた。全力を出して、なんとか横に押し流した。

 矢。目の前に飛んできた。躱せない。日輪刀で打ち落とそうとしたが、途中で腕に衝撃が走った。矢を、刀でなく腕で受けた。朱雀は走り出してから、それを理解した。

 

 身を低くして、駆け下った。このままでは、相手の掌の上である。大岩の陰に身を隠して、ようやく芭澄を下ろした。

 芭澄の右足の踝に、矢が刺さっている。

 

「芭澄。もう少し、我慢だ。俺が矢を抜くから、手ぬぐいを噛んでおけ。舌を噛み切るか、歯を砕くかもしれない」

「別に、大丈夫だから」

「分かった」

 

 朱雀は、鏃を折ると、反対側から矢を一息で抜いた。その瞬間、芭澄の全身がぴくりと痙攣したが、声は出していなかった。すぐに、自分から傷を布で縛っていく。

 自分の腕は、矢が完全に貫通している。右手の感覚はなくなりつつあるが、日輪刀は離していなかった。

 

「抜こうか?」

「いや、このままでいい」

 

 腕の、太い血管を破っている感じがした。抜くと、体内で血が流れて、肘から下はしばらく使い物にならなくなるだろう。

 日輪刀を離さないように、手を布で縛るだけにした。

 

 そこまでやって、朱雀は一息ついた。

 斬魄(ざんぱ)という下弦の参は、流石の強さだったが、この矢を放つ鬼もかなり厄介だった。

 あの折れ曲がる矢は、血鬼術だろう。それと岩や木の罠を組み合わせて、接近されることに対して十分に備えている。

 

 むしろ、下弦の参との戦いには、朱雀は違和感を覚えていた。

 あの鬼は、こちらの手の内を、完璧に知っているような動きをしたのだ。多少剣筋を知っているとして、それを寸分の狂いもなく、対応などできるものなのか。

 しかも、そのことを、利用しようともしなかった。もし、自分や芭澄を斬ることにこだわっていたら、逆にこちらも腕くらいは斬れただろう。

 人とは比べ物にならない再生能力を持つ鬼が、何故こだわらなかったのか。それが、違和感を生んでいた。結果的に自分たちは、わずかな負傷で済んでいる。

 

 尤も、武仁が単独で立合うには、危険すぎる相手でもある。

 

「朱雀」

「行けるか?」

「行くしかないよ。武仁は、今も戦ってる。これから、私が少しだけ時間を作れるとして、朱雀はどれくらいあれば、この鬼を倒せる?」

「姿が見えるところで、一呼吸あればいい。俺が、必ず首を獲る」

「わかった」

 

 芭澄が、片足で立ち上がった。それとなく、右足を庇うような立ち方をしている。

 最終選別でも、足を庇いながら戦い、見事な剣技を見せていた。あの時痛めていたのは、左足だった。右でも左でも、同じようなものなのだろうか。

 

「お前、自分が犠牲になるつもりではないだろうな。それなら、俺はやらん。そんなことをすれば、俺は武仁に殺される」

「つまらないことを、言わないで。私だって、こんなところで、死ぬつもりなんてない」

 

 芭澄が、左足で軽く跳んだ。右足の具合も、何度か地につけて確かめている。しばらくして、しっかりと深く頷いた。

 

「じゃあ、私が先に行くから、朱雀はついてきて。後ろから飛んでくる矢だけ、気を付けておいてくれればいい。鬼が見えたら、あとは任せるよ。絶対に、頸をとって」

「承知した」

 

 矢は何度か、ここにも射込まれてきたが、ほとんど岩肌に当たって落ちている。離れるとそれだけ、狙いが狂うようだ。

 芭澄が、呼吸を深めるなり、岩から飛び出した。

 

 

  全集中 水の呼吸・拾ノ型 生生流転

 

 

 日輪刀を横に構えた、芭澄が走る。朱雀も続いた。矢。すぐに飛んできたが、芭澄が次々と斬り飛ばしていく。左右に立っている木も、斬り倒していた。

 走り、跳び、倒木を掻い潜る。足を怪我している人間の動きとは、とても思えなかった。しかも、斬れば斬っただけ、技の威力が増していく。

 死角から折れ曲がる矢は、全て朱雀が叩き落した。

 山頂直下。登り詰めた時、不意に地が轟いた。途轍もない大岩が、転がり落ちてくる。

 

「こんなもので」

 

 芭澄が、宙に跳びあがった。

 

「私たちの邪魔は、できない!」

 

 叫び声。芭澄の刀が降りおろされていく。巨大な水竜が、岩を打ち砕いていく。そんな錯覚を覚えるほどだった。

 一呼吸おいて、岩が綺麗に両断された。その間隙に、見えた。巨大な弓を構えている、鬼の姿。

 呼吸。全身が、燃えるように熱くなった。自分が使いこなせる、最後の大技。

 

 

  全集中 炎の呼吸・伍ノ型 炎虎

 

 

 跳んだ。芭澄を飛び越え、木々の間を抜け、ただ、突っ込む。虎が、獲物に襲い掛かるが如く。その咆哮も、聞こえた気がした。

 鬼の姿。目の前いっぱいに広がった。鬼が弓を引き絞る。同時に、頸に日輪刀を振り下ろした。弓ごと、頸を切った。黒い塊が、宙に舞い上がっていく。

 

 鬼の肉体はすぐに燃え尽きた。しかし、弓を破壊する寸前、矢を1本放っていた。それは、芭澄でも、自分でもない方へと飛んでいた。

 朱雀の全身に、鳥肌が立った。神社に向かって、打ち込まれていたことに気づいた。

 

「芭澄、戻るぞ!」

 

 返事はなかった。芭澄の姿も、どこにもない。




本当は1話でまとめる予定でしたが、いつも通り、文字数が想定を超えたので分けました。


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15話 十二鬼月

数奇とは
 1 運命が様々に変化すること。
 2 ふしあわせ。不運。また、そのさま。


 互いの位置が、幾度も入れ替わった。

 

「ちょこまかと、逃げ回っていては戦いになるまいが」

 

 斬魄(ざんぱ)の声には、苛立ちが滲み出ている。何度かそうやって声をかけてきたが、応じなかった。斬魄の動静だけを、見続ける。

 

 相手の動きに応じて、攻撃を刀や体術で凌ぐ。あるいは、躱す。それを、愚直に繰り返す。

 師匠から叩き込まれたこの戦い方が、自分を今まで生き延びさせてきた。半月前、民家で2人の娘を助けた時も、岩柱が来るまで生きて戦うことができたのだ。

 

 武仁(たけひと)は、唾を飲み下した。最初はその回数を数えていた。愚直に戦うつもりではいる。だが、何かしていなければ、日輪刀を振り回して、自分から突っ込んでいきそうにもなる。

 それだけ、眼の前に立っている鬼が放つ威圧感は、凄まじいものだった。今まで相手にしてきた鬼とは、比べ物にならない。

 

 ただ、頸を取る必要はなかった。朱雀(すざく)芭澄(はすみ)が、外の鬼の頸を飛ばして戻ってくる。それまでの、時間を稼ぐ。やるべきことは、見失っていはいない。

 

 斬魄の姿が、揺らいだ。踏み込んでくる。振り下ろされてきた刀を、その場で受け、流した。何度も繰り返した動きだった。直後、下から掬い上げるような斬撃が来たが、その時には、間合いの外で反転していた。

 再び、位置が入れ替わった。

 

 ひとつ、わかったこともある。血鬼術の領域内では、斬魄はこの場の武器を、自在に手にできる。それも、瞬時の出来事だった。

 朱雀と芭澄が境内を出た後、斬魄は自分から、刀を1本に減らしていた。

 それで十分と思われているのなら、むしろ好都合ではある。しかし、力比べのような鍔迫り合いは、しない方がいいだろう。

 

「うぬは、鬼狩りであろう。呼吸とやらを、使うのではないのか?」

「なぜ、聞く。お前は刀を見ればわかる、と言っていたではないか」

 

 言い返すと、斬魄は苦々しい顔をした。その反応に、なぜ、と思う。

 もし逆の立場なら、全集中の呼吸を使わないうちに、勝敗を決しようとするだろう。全集中の呼吸こそ、鬼殺隊士が鬼と互角に戦い、あるいは凌駕するための技だからだ。

 しかし、この鬼は逆に、全集中の呼吸を使わせようとしているように思える。

 

 斬魄の構えが、変わった。半身で刀を隠している構え。この鬼の構え方は、定まったものはなく、別人のように変幻自在だった。武仁は常に、正眼で刀を構えている。

 

 斬魄が、再び気迫を放ち始める。両肩から、腕、日輪刀までもが重くなったように感じた。この重さを、はね除けたい。どうしようもなくそう思った。だが、動き出したその瞬間、斬魄の刀が、自分の身を斬り裂くだろう。

 

 耐えた。決して、動かない。足を地に張り付けたようにして、斬魄の動きを、刀を、見続ける。構えは微動だにせず、隙は無い。額の眼だけは、ぎょろぎょろと回っている。

 

 この気迫。剣によるものだから、剣気とでもいうのか。師匠が似たような気を放っていたのを、武仁はふと思い出した。自分もまた、そういうものを放っているのかもしれない。これも、立合いの一つの形だった。

 

 互いの間、眼に見えない何かが、満ちていく。斬魄が踏み込んで、弾けた。刀が、月光に照らし出された。武仁も刀で応じる。瞬間、刀がもう1本現れ、しかも自分の顔に迫っていた。

 

 肌が、ひりついた。死。それを色濃く感じつつも、体は動いた。

 すり足で、斬魄に身を寄せた。腕をとり、全力を込めて投げた。初めて、先手を取った。そう思うのと同時に、呼吸を深くした。斬魄の体。まだ、空中にあった。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 跳んだ。日輪刀。水平に振るうが、防がれた。空中で身を回しながら、こちらの攻撃を見切ってもいる。

 武仁が着地した時、互いの距離は、最初よりも開いていた。そして斬魄は、両手に刀を握っている。

 

「使えるではないか。その呼吸の剣術。青い刀を持っている剣士のものだな。それでいい。お前も、某の血闘場で戦う資格があるということだ」

「わかった。それが、お前の血鬼術か。そういうことだったのか」

 

 全集中の呼吸を使わせようとしてきたことへの違和感。居なくなった、腕利きの人間たち。それが今、武仁の頭の中で、ひとつの像を結んでいた。

 

「今のお前は、倒した鬼殺隊士の剣技を、完璧に見切れるのだな。だから、あの2人の攻撃を、お前は容易くいなした。普通の鬼なら、どこかしら斬られていても、おかしくなかったはずだ」

「ほう。やはり、うぬは勘のいい男よ。生きている間に、某の血鬼術を見切った人間は、初めてだ」

 

 斬魄が、笑った。否定する素振りもなく、自分の言葉を認めていた。

 この血鬼術の範囲内で死んだ者の、武器だけでなく、技能をも自分のものにする能力もある。武仁はそう推定した。

 事実なら、厄介な能力だった。左右に林立している武具の中には、青色や赤色の日輪刀がいくつもある。緑や、黄色のものもあった。

 空中でも、水の呼吸に対しては完璧に対応してきた。全集中の呼吸の型は、悉く通用しないと思えた。

 

 それで、別の違和感も解けた。

 

「某は、あの方に鬼にしていただき、悠久の時を己の鍛錬に費やすことができるようになった。そして、さらなる境地に立たれている、御方にも出会った。某は、あの御方に打ち勝つため、貴様らのような強き人間を食らう。行く行くは、柱も食らってやるのよ」

「鍛錬。そんな嘘は、やめろ」

「何だと?」

 

 斬魄が、足を軽く地に叩きつける。

 初めて、斬魄の感情が、眼に見える形で出てきた、と思った。

 

「お前は、そんな強力な血鬼術を持ちながら、弓を放つ鬼などと、なぜ組む。なぜ戦えない鎹鴉を狙う。何よりも、なぜ、俺のような男ひとり倒せない。俺は、全集中の呼吸など使えない、ただの一般隊士だ。俺などにてこずるお前が、自分を鍛え、柱に勝つだと?」

 

 笑わせるな。そうも言い、武仁は口元で笑った。

 鬼という生き物は、時として精神的にこだわったものを見せるものもいる。それは、時に弱点にもなる。だから、それを刺激することに、武仁は何のためらいもなかった。

 そうでもしなければ、自分のような男が、鬼相手に立ち回ることなどできない。

 

「お前は、ただでさえ人間よりも強靭な肉体を持ち、異能の力を振るいながらも、決して死なない、頸を取られないように立ち回ってもいる。十二鬼月というのは、そういう鬼しかいないのか。逆に、お前はよく今まで、頸と胴体が分かれなかったな」

「柱でもない鬼狩り如きが、下弦の参である私を、愚弄するか」

「お前の血鬼術は、散々罪もない人を喰って、鍛えたのだろう。だがその能力は、俺には通用しない。俺の剣技は、俺だけのものだ。そして俺も、お前と同じく、何よりも生きるために、この刀を振るう。だが、お前のように、姑息な生き方はしないと決めている」

「ぬかせ。その薄汚い口、2度と利けなくしてくれる!」

 

 気配が、完全に変わった。最初の気取ったような仮面は、かなぐり捨て、口調も乱暴になっている。

 突っ込んできた斬魄が、叩きつけるように刀を振り下ろしてきた。2本、同時にくる。受け止めず、武仁は後方へ跳んだ。地が、音を立てて割れた。

 

「逃がさん」

 

 追ってきたところで、互いに刀を合わせた。衝撃で、刀が吹っ飛んでいきそうになった。まともに受け止めれば、先に刀が破壊されるかもしれない。さっきとは違い、力ずくという感じで、襲い掛かってきている。

 

 斬魄の眼。3つ全てが、赤く血走り、しかもこちらを凝視してくる。見て取るだけの、余裕はあった。冷静でない動きのほうが、ずっと御しやすい。

 

 何度か、刀がかすめた。いつの間にか、血の味もしている。

 振り下ろされた刀を、武仁は身を低くして、何とか受け止めた。さらに上から、圧倒的な力がかかってくる。

 

「何故だ。何故、お前は死なない」

「言っただろう。俺は、生きるために、戦っている。生きて、お前たちのような獣から、人を守るため」

「家畜風情が、程度の低いことをほざく。お前たちは、我々鬼を強くするための、餌だ。餌なら餌らしく、黙って死ね。私の血闘場を、下らん綺麗事で汚すでないわ」

 

 ぐい、と押し込まれる。ほとんど片膝をついて、日輪刀を支えていた。常中を会得していない体では、とても耐えられなかっただろう。

 さらに、押し込んでくる。崩れる。崩しつつ、身を回した。同時に、日輪刀を振るう。手ごたえは、十分にあった。

 斬魄の叫び声。武仁が立ち上がった時、刀を握ったままの手が、2つ地に落ちていた。斬魄の手首から先は、ない。

 

 好機だった。頸を取れる。ここで、勝負をつけられる。

 呼吸を整え、武仁は跳んだ。3つ眼は、せわしなく動いている。しかしもう、逃げ道はない。外しようのない距離だった。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 頸を飛ばす寸前だった。

 不意に、武甲山の斜面が閃き、光が突っ込んでくる。

 

 胸元で、何かが弾け、視界が回った。そして、気づいたとき、武仁は倒れていた。

 羽が、まず見えた。なんとか、首を下に向ける。矢が一本、胸に突き立っていた。

 

 もう1匹の鬼。油断した。思ったが、口から声ではなく、血が噴き出てきた。

 

「よくやった。よくやったぞ、妖箭(ようせん)

 

 斬魄の笑い声。そして、足音が、ゆっくりと近づいてくる。

 早く、立て。自分で、自分に言い聞かせた。

 呼吸はやり辛いが、できないほどではない。矢は、貫通したわけではないようだった。矢が刺さっている辺りを触ると、硬い感触が、伝わってくる。

 師匠からもらった竹笛に、矢が刺さっていた。

 

 生きているなら、立て。そう言われた気がした。

 

「手こずったが、これまで。私を相手に、よく戦った。死ね」

 

 振り下ろされてきた刀を、武仁は全力で跳ね起き、刀で防いだ。口から、血が噴き出る。それでも、受け止める力はまだ十分にあった。

 斬魄の眼が、見開かれている。

 

「まだ、動けるというのか。お前は」

「約束したからな。俺は、死なんと」

 

 朱雀や芭澄だけではない。師匠との、約束でもあった。

 

 全集中の呼吸は、ゆっくりならできる。肺腑はどこも傷ついていない。浅く入った矢が、血管を破っている。だから、血が口から出るのだ。

 

 胸元全体に、武仁は力を込めた。常中のさらなる応用のひとつに、筋肉に異常な力を籠めて、出血を抑えるというものがある。それは、悲鳴嶼から聞いた。

 理屈は分かったが、できるとは限らない。だが笛を懐に入れていなければ、既に死んでいたはずだ。生きたければ、やるしかない。

 

 体が、徐々に熱くなった。それで、呼吸する度に上下していた矢羽が、微動だにしなくなり、吐血の衝動も徐々に収まっていく。

 

「見事。本当に、見事だ。未だに生きているのは、驚嘆に値する、鬼殺の剣士。名を、聞かせてもらえるか?」

「階級辛、御影武仁(みかげたけひと)

 

 斬魄は喋りつつ、飛び退り、武仁と距離を開けていた。

 

「武仁か。お前は、強い男だった。だがお前でも、それでは動けまい」

 

「だが、刀は振れる。妖箭とか言ったか。俺に向かって矢を放つ隙など、あの2人が見逃すはずはない。あるいは、頸を斬られる直前に、放ったのかもしれない。すぐに、あの2人がここに戻ってくる。俺は、そう信じる」

「そのころには、お前は死んでおるわ」

 

 笑いながら、斬魄が言う。声音に、さっきのような怒りはない。腕を切り落とされ、冷静になったようだ。しかし同時に、別の顔も飛び出したような、笑い方だった。

 

 斬魄の手から、刀が消え、直後に別の物が現れた。刀ではない、ちょっと違った構え方をしている。

 構えていたのは、小銃だった。武仁に、思い当たるものはある。

 以前、陸軍の部隊がごっそりいなくなった。昨日、店の主人と、そんな話をしたのだった。思い出しても、どうにもならない。

 

「少し前に、群れていた現代の武人どもから、手に入れた。無論、私の血鬼術の領域で死んだ。使い方はわかっている。それにしても、やはり人間は弱い。こんな小石同然の鉄を撃ち込まれただけでも、死ぬ」

「お前、さっき大秦帝国の決闘場がどうのとか、言っていたな。刀で勝てなければ、飛び道具か。人でなくなって、矜持も無くしたか」

「所詮、鬼と人。人間であるお前が、勝つ道理など、最初からなかった。それだけのことよ」

 

 斬魄はもう斬り結ぶつもりはないようだ。

 銃口は、正確に武仁の胴を狙っているように見えた。弾を打ち返すなどという芸当は、自分にはできないだろう。

 躱すしかない。それも、常中を維持しながらだ。

 

 武仁はいままで、銃と接したことなど、一度もない。引き金を引けば、銃弾が放たれる。その程度の、認識だった。

 逆に斬魄は、少なくとも死んだ軍人程度には、銃を扱えるということだ。

 

「終わりだ。これでお前の剣技も、私のものになる」

 

 斬魄の人差し指が、軽く動いた。

 跳ぶ。それしかない。足に力を込めた瞬間だった。

 

 青い光。それが境内の外から、宙を舞うように飛び込んできて、着地した。そして、斬魄に突っ込んでいく。残像は、まるで山間の渓流のようだった。

 

 斬魄が、小銃を向け直しているが、青い光は既に、間合いの中に入っている。

 呼吸音も、聞こえていた。

 

 

  全集中 水の呼吸・参ノ型 流流舞い

 

 

 破裂音と同時に、青い光が跳ね上がり、斬魄を小銃もろとも斬り上げた。日輪刀を振るう芭澄の姿が、それで見えた。

 斬魄の手。既に、刀を握り直している。しかし、遅かった。芭澄が日輪刀を、頸にかけている。

 断末魔とともに、斬魄の頸が胴体から離れ、飛んでいく。

 下弦の参の、頸を取った。生き残ったのだ。そう思った。膝が崩れそうになるが、誰かが自分の体を支えている。

 

「ごめんなさい。遅くなって」

「助かった、芭澄。最後の動きは、流石だったな」

「こんなに、傷ついて。それでも、武仁が生きて戦ってくれたから、勝てた」

 

 芭澄の体が、すぐ傍にあった。お互いに血の臭いしかしない。それでも、温もりはしっかりと感じられた。

 

「朱雀は、無事か?」

「うん。外にいた鬼は、朱雀が倒した。でも、武仁が心配だったから、置いてきちゃった。本当に、無茶するんだから。でも、まだ生きてる」

「笛が、守ってくれた。もし持っていなければ、死んでいただろうな」

「そっか。壊れたんだ、あの笛」

「また、手に入れるさ」

 

 村で開かれていた市場で、師匠が買ってきたものだった。息抜きにでも使え。いらなければ捨てろ。そう言って、渡されたのだ。

 何の変哲もない、ただの竹の笛だった。使っているうちに、様々な思いを音にしてきた笛になり、最後は自分の命を守って、壊れた。

 

「それに、お前が駆けつけてこなければ、矢など関係なく死んでいた」

「やっと、借りをひとつ返せた。朱雀と武仁なら、そういうのかな?」

 

 笑っている芭澄に、肩を支えられながら、武仁はようやく歩き出した。

 

 背後で、笑い声が起こった。

 

「流石だ。見事なり。鬼狩りの剣士たち。認めよう。此度は、私の負けだ。そして、取り返しのつかない負けでもある」

 

 頸だけとなった斬魄が、武仁たちを見ていた。体は燃えていて、ほとんど形をなしていない。死んでいこうとしているのは、間違いない。

 

「刀を持っていれば、私もお前の頸を飛ばすのは、難しかった。敗因は簡単。真に使うものを、お前は間違えた」

「お前も、人間の男に負けぬ、凄まじい剣技であった。私が間違えたというが、それもその武仁なる男が、私に使わせたのだ。死力を尽くして。これを、見事といわず、なんというべきか」

「何が、言いたい」

 

 武仁の言葉に、斬魄はにやりと笑った。

 

「見える。地獄への旅路を前にして、私には見えている。お前たちの血で、月が赤く染まる様が。お前たちの歩く道に、呪いあれ、と」

 

 口が燃え尽きたので、言葉が途切れた。それでも、顔は笑ったまま、斬魄は消滅した。

 

「負け惜しみだ、武仁、芭澄」

 

 朱雀が、普通に塀を乗り越えてきた。斬魄が死んだので、境内への出入りができるようになったようだ。

 

「気にするな。俺たちの、勝ちだ」

「そうだ。俺たちは、勝った。ありがとう、朱雀」

 

 朱雀の右腕にも、矢が刺さっていた。右腕が不自然に揺れていて、あまり力が入っていないようだ。それだけでなく、芭澄も右足を引きずるようにしているのに、武仁は気づいた。

 勝ったとはいえ、それぞれ負傷したのだ。

 

「とりあえず、藤の花の家紋の家だ。武仁は、その矢は常中で止血しているな。もう、返事はしなくていい。絶対に、それを止めるなよ」

 

 武仁は口を結んだまま、軽く頷いた。

 戦闘中は、気を張って誤魔化していたが、今はいつ倒れても不思議ではないという気がしている。全身が、痛みと疲労を思い出したように、くたくただった。

 

 東の空を見ると、いつの間にか明るくなりつつある。戦いは、かなりの時間だったようだ。

 

「では、行こう。芭澄の鎹鴉は、まだ残っているか?」

「ええ。まだ、外にいる」

「俺の鎹鴉は、しばらく飛べそうにない。伝令を頼む」

 

 武仁の両脇に朱雀と芭澄が付き、3人で並んで、歩き出した。

 門を押し開けた、瞬間だった。

 

 

  べべん

 

 

 どこからか、琵琶の音が鳴った。

 振り向いた先に、新たにひとつ、人影がある。後ろで束ねられた長い黒髪。紫色の羽織。刀。まるで侍のような出で立ちで、佇んでいる。

 しかし現れたのは、人間ではなかった。

 

「ほぅ……柱ではない者たちが……斬魄を斬ったか……」

 

 顔には眼が、6つ並んでいる。上弦。壱。眼球にそう刻まれていた。

 

 武仁は、呼吸をするのを忘れた。




次回、赤い月が昇る


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16話 赤い月が昇る

遅かれ早かれ、最悪の状況がかならず起こる。
(マーフィーの法則より)


 刀を抜くどころか、柄に手をかけてすらいない。

 その鬼は、ただ立っているだけだ。それなのに、隙は全くない。

 むしろ朱雀(すざく)は、自分がその鬼に気圧されているのがわかった。

 

 上弦の壱。十二鬼月最強の鬼ということだ。

 下弦の参とは、普通に向かい合えた。しかし、眼の前の鬼が放つ気迫や凄味は、その比ではなかった。しかも、内に秘めているのか、殺気や闘気の類は全く感じられない。

 

 下弦の参どころではない。おそらくこの鬼は、炎柱よりも、強い。

 朱雀はそう思うのと同時に、ひとつ覚悟を決めた。

 

芭澄(はすみ)武仁(たけひと)を連れて、山を下りろ」

「待ってよ、朱雀。私も、一緒に」

「お前たちがいても、もうどうにもならん。武甲山を下山し、このことを報告しろ。これは、上官としての命令だ」

 

 そう言って、朱雀は数歩、前に出た。命令。同期に対して、そういうことをしなければならなくなっている。

 

「逃がすと……思うか……」

 

 上弦の壱が、動きを見せた。鞘に手をかけた。その瞬間、とてつもない斬撃が、襲いかかってきた。

 

 朱雀は左手一本で、日輪刀を抜いた。しかし、受け止めることができたのは、ほんの僅かにすぎなかった。頭も、腕も、足も、次々と斬られていく。

 このままでは、全員斬り刻まれる。斬撃の理屈より先に、まずそれがわかった。

 

 振り向いた。武仁と芭澄が、見ている。いや、何か叫ぼうとしている。

 2人を境内から突き飛ばし、左手で門扉を閉めた。すまん。最後に2人の顔を見て、そう思った。その瞬間、背中に次々と衝撃が走った。

 

 視界が暗転し、気づいたら地面が傍にあった。倒れている。そして、見えているものの、半分が赤かった。

 

「朱雀!」

 

 武仁の声。そんな必死に、叫ぶなよ。傷が開いたら、どうする。さっさと、山を下りろ。

 なぜ、とも思った。なぜ俺が倒れていて、武仁が外にいる。俺たちは同期で、友達だったはずだ。

 思考は、靄がかかったようで、とりとめなく渦を巻いていた。

 

「まだ……生きているか……」

 

 虚ろ気な声が、朱雀を引き戻した。

 上弦の壱。この鬼を、先に行かせてはならないのだ。

 地面に手をついて、体を起こそうとした。右手は、全く力が入らない。弓で射抜かれた。それに、今の斬撃で腕自体をずたずたにされた。

 ただ、右が駄目なら、左手で立ち上がればいい。日輪刀も、眼の前に転がっている。

 

 門の片隅。うずくまっている鴉が、不意に眼に入った。

 自分の鎹鴉。武仁の鎹鴉を庇って、矢を受けた。そして、今の斬撃に巻き込まれたようで、命の灯が消えかかっている。しかし、小さな瞳は、自分をじっと見ている。

 

 お前は、男だ。人間に負けないくらい、男だった。仲間の鴉のために、命を懸けた。朱雀は眼で、語りかけた。俺も、男としての生きざまを見せる。

 

 気がついたら、立ち上がっていた。

 全身から、血が流れ出ている。特に、斬撃をまともに受けた背中は致命傷だろう。

 体は不思議なほど軽く、頭は冴えていた。

 

 上弦の壱。まだ眼の前にいる。依然変わらぬ、静かな佇まいだった。

 

「もし……お前があの方の血を受け入れれば……斬魄を上回る……鬼になるだろう……」

「断る。それに、下弦の参を倒したのは、俺ではない」

 

 鬼になれ。上弦の壱の言葉から、それだけは伝わってきた。返答は、考えるまでもなかった。

 

 鬼を恨む気持ち。それが、自分にない訳ではない。だがそれ以上に、人間の善性で、自分の家族は救われた。

 故郷を離れ、家族からも別れ、鬼殺隊士となった。全ては、炎柱から受けた恩を、この手で多くの人に返すためだ。

 

「俺は鬼殺隊士、南原朱雀(なんばらすざく)。死んでいった人々のため、これからを生きる者たちのため、お前の頸を、ここで取る」

「そうか……」

 

 ついぞ、上弦の壱には、一切の感情が感じられなかった。淡々と喋り、淡々とこちらの言葉を聞いている。

 そして、何の痛痒も感じることなく、自分を斬るだろう。

 

 日輪刀を、肩に担ぐように構えた。

 あともうひとつ、炎の呼吸の技を知っている。槇寿郎が健在であれば、直接教わるつもりだったが、それはできなくなった。だから、煉獄家で秘伝書をこっそりと読み、いずれは覚えようと思っていた技だった。

 その技を、ここで使う。最期の、一撃だった。

 

 全集中の呼吸。どこまでも深く空気を取り込み、体の隅々へと回っていく。慣れ親しんだ、炎の呼吸。すぐに、体の中心に熱が生まれた。

 もう、痛みは感じなくなっている。

 

「決死……良き気迫だ……」

 

 上弦の壱の声。褒め言葉すら、無感動だった。

 心臓が、激しく動いていた。それだけ、傷から流れ出る血の勢いも増している。刀を構える左手が、微かに震えていた。

 

 もう自分は、長くはもたない。呼吸の途中で、この命が尽きるかもしれない。それでも、諦めるな。

 心を燃やせ。煉獄家での生活で、言葉なくとも教わった、心の在り方。それを、お前も体現しろ。

 

 不意に、体の中心で、何かが爆ぜた。大炎が燃え盛っている。震えが止まり、力が戻ってきた。そして、跳んだ。

 間合いは、即座に詰まった。上弦の壱は、動いていない。

 刺し違えてでも、その頸を、ここで飛ばす。

 

 

  全集中 炎の呼吸 奥義・玖ノ型 煉獄

 

 

 全ての力を込めた左腕を、朱雀は解き放った。

 赤い刃が、炎が、尾を引きながら走る。

 上弦の壱の、頸。それだけだ。それだけを、見ていた。

 

「片腕ながら……見事……」

 

 上弦の壱の手が、再び柄にかかった。

 

 

  全集中 月の呼吸・壱ノ型 闇月・宵の宮

 

 

 頸に刃が触れる、寸前だった。日輪刀が半ばから折れ、さらに何かが体の中を突き抜けていった。

 そして気づいたら、地面に仰向けで倒れていた。手も足も、感覚がない。

 

 刃が届く、その刹那に斬られた。刀も、そして体も、斬られた。言葉では言い表せないほどの、力の差だった。

 

 空が、白かった。鬼の時間が、ようやく終わろうとしているのだ。

 

 死もまた、すぐそこまで、来ている。死ぬことへの、恐怖はなかった。

 上弦の壱と対峙することを決めた時に、その覚悟も決めていたのだ。鬼殺隊士にとって、死はいつでも身近なものだった。

 

 ただ、今まで死を迎えた隊士に、お前の思いは受け取った、と声をかけてきた。背負ったまま、ここで死んでいくことに、忸怩たる思いはある。

 

 不意に、朱雀の眼前に様々な光景が去来した。

 武仁と芭澄。あの2人は、無事に下山できただろうか。頸どころか、時間もあまり稼げなかった。だがあの2人には、生き残ってほしい。そう強く願った。

 自分の戦いは、ここで終わる。だが思いは、いつでも、あの2人と共にあるのだ。自分が背負ってきたものも、生きている者たちが果たしてくれるだろう。

 

 そして、煉獄家の面々。

 杏寿郎の成長を、直に見守ることはできなくなってしまった。自分が先に死んだと聞けば、瑠火様は悲しむだろうか。そして炎柱様は、いつかまた元気になってくれるだろうか。

 できれば武仁と一緒に、煉獄家に帰りたかった。あの笛を聞けば、みんな元気になれたかもしれない。

 

 一度、眼を瞑り、全ての思念を頭から追い払った。

 生きている者たちを、信じる。男なら、それだけでいい。

 

 眼を開けた時、不意に朱雀は、強い眠気に包まれた。眠れば、自分はもう目覚めないだろう、とも思った。

 もう一度、武仁の笛を聞きたかった。そう思いながら、朱雀は眼を閉じた。

 

                       

 

 とても、走ることはできなかった。

 武仁は、芭澄に肩を支えられつつ、芭澄の右足を庇ってもいた。2人で支えあい、できるだけ早く歩く。それしかできなかった。

 まだ山道の半分も下っていない。鎹鴉だけは、芭澄が飛ばしていた。

 

 どうしてこうなったのだ。武仁は歩きながら、そのことを考え続けていた。

 下弦の参を、何とか倒した。その直後に、上弦の壱が出現するなど、誰が予想するだろうか。柱どころか、一般隊士しかいない。その攻撃も、不可視の斬撃が嵐のように襲い掛かってくる。それしか感じられない、凄まじいものだった。

 

 朱雀は、境内に残った。自分と芭澄を、逃がすためだ。

 最後に眼が合い、思わず、大声で名前を呼んだ。

 すると、自分の体の中で何かが破れる音がして、血が口から噴き出てきた。常中を止めれば、血が止まらずに自分は死ぬだろう。

 朱雀は、覚悟を決めて、残ったのだ。友達として、それを無碍にしたくはなかった。

 

「ごめん、武仁」

 

 芭澄の声は、申し訳なさそうだった。それに対しても、首を横に振ることしかできない。

 先の戦いで、芭澄は相当、右足を酷使したらしい。今はほとんど、右足を使わないように歩いている。石段は、武仁が先に下りて、一段ずつ降ろしていた。

 

 不意に、背後で凄まじい闘気が立ち上った。山鳥が弾かれたように、一斉に羽ばたくと、武甲山は再び静けさに包まれた。

 立ち上っていた闘気も、それで消えていた。

 

 朱雀が負けた。そして多分、死んだ。それを確信した武仁の頭に、最後に見た朱雀の顔が鮮やかに蘇った。涙がこみ上げてきかかったが、耐えた。

 

 次は、自分の番だ、と思った。朱雀が命を懸けたのなら、自分も命を懸ける。それで芭澄だけでも、逃がす。

 

「武仁、貴方にお願いがある」

 

 不意に芭澄が、武仁の傍から離れた。片足で跳躍したのか、石段の下ではなく、上にいる。そこは参道の中間位の、踊り場になっている所だった。

 

「私の鎹鴉は那津(なつ)という名前で、食事は何でもいいけど、炊いた米が好きだから、たまには食べさせてあげて欲しい」

 

 見下ろしてくる芭澄と、視線が交じり合った。朱雀が最後に見せたような、ある覚悟を決めたような瞳。

 やめろ。お前は、逃げろ。声は出なかったが、芭澄は自分が伝えたいことを、理解したようだ。しかし、動かない。

 武仁が石段を登ろうとすると、芭澄は首を振った。

 

「本当に、ごめんなさい。貴方を、ひとりにさせてしまうけど、武仁なら大丈夫。あと、鍛錬は毎日すること。人間は、すぐに強くなったりはしないから」

「芭澄」

「お願いだからもう、喋らないで!」

 

 芭澄の大声には、悲痛さすらあった。武仁はまた、血を吐き出した。ちょっと力を抜いただけでも、口内に血が流れ込んでくる。

 

「お願いだから、行って。武仁では、あの鬼の時間稼ぎはできないよ。あの鬼は、多分、全集中の呼吸を使ってる。どの流派かは分からないけど、常中は使ってると思う。本部に、伝えて」

 

 芭澄は上弦の壱の前に立ちながら、冷静に見て取ってもいたようだ。

 自分は、上弦の壱の動きを見定めようとするだけで、頭がいっぱいになっていたのだ。

 

「それに、私は貴方に生きていてほしいの。最終選別で見捨てられた時、私、本当は死のうと思った。でも、貴方が怪我をしてでも、助けてくれた。だから、まだ生きていようと思えた。そんな貴方が死ぬなんて、私は、受け入れられない」

 

 武仁は束の間、芭澄と見つめ合った。

 やはり、気持ちのどこかでは、芭澄に惹かれていたのかもしれない。ただ、自分が信じる人助けのために、そういう想いとは距離を置いてきた。

 いずれ、理解する時が来る。そう思っている内に、別れが来た。それも、今生の別れだ。

 

「もう、行って。あいつが来る。私は、貴方に命令なんてしたくない」

 

 芭澄はもう、こちらに背を向けていた。

 さよなら。武仁は視線にそれだけを込め、身を翻した。

 

 独りきりになった。石段をどうやって下りているのかは、ほとんど意識にない。

 なぜ、とだけ思っていた。

 なぜ、上弦の壱が来た。なぜ、全集中の呼吸を使ってくる。そしてなぜ、朱雀と芭澄が捨て身の覚悟で戦い、自分は生きようとしているのだ。

 

 思念は、とりとめもなかった。しかし足は止まらず、血を吹くこともない。自分で、体を動かしている感覚すらない。それでも、常中は続けているのだろう、と思った。

 

 気づいたら、参道の登り口だった。

 眩しい、と思った。東の山並みから、朝日が昇っていた。

 ここから、俺はどうすればいい。自問するのと同時に、藤の花の家紋の家だ、と答えを出した。朱雀が、そこへ行けと言っていたではないか。

 

「止まれ、武仁」

 

 誰かに、声をかけられた。しかし、止まらない。藤の花の家紋の家に行って、怪我を治療する必要があるのだ。治療した後、俺はどうすればいいのか。

 

「止まるのだ」

 

 体が奇妙な浮遊感を覚えるのと同時に、視界が闇に包まれた。

 

                       

 

 眼が覚めた時も、まだ浮遊感に包まれていた。体が、揺れている。

 

「おっ、気がつきやがったな。岩柱様、武仁が、眼を覚ましました」

 

 その声で、自分が担架で運ばれているのだと、分かった。それに周囲には、かなりの人数の気配がする。

 悲鳴嶼行冥の顔が、武仁の眼の前にぬっと現れる。

 

「生きていたのだな。少々手荒いが、矢を抜いて血止めはしてある。傷の心配は、不要だ」

「私よりも、朱雀と、芭澄は。あの2人は」

 

 悲鳴嶼行冥は、問いに即答しなかった。沈黙する間、逡巡しているような表情だった。

 

「お前の鎹鴉が、付近にいる鬼殺隊士の多くを呼び寄せた。十二鬼月、下弦の参がいる、と」

 

 そんなこと、どうでも良かった。下弦の参は、死んだ。そこに、上弦の壱が現れたのだ。

 武仁は、苛立ちを抑え込みつつ、口を開いた。

 

「2人は、どうなったの、ですか」

 

 再び、沈黙した悲鳴嶼行冥の眼から、涙が溢れだしてきた。

 

「南無阿弥陀仏」

 

 それで、武仁はすべてを理解した。

 朱雀と芭澄は、死んだ。それも、自分ひとりを庇って。

 訳も分からない衝動が、こみ上げてきた。声。叫んだつもりが、かすれ声にもならない。むしろ、呼吸ができなくなった。しかし、自分のどこかが叫び続けていた。

 

 また、眼の前が、暗転した。




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 閲覧、お気に入り登録等、感謝申し上げます。
 感想も多数いただいておりますが、内容に関することを返答で書いてしまいそうになったので、お返しは後日、改めてさせていただきます。


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16.5話 日の出前にて

 少し巻き戻します。
 この視点を書かなければ、終われないので。


 すべての気持ちを、振り切っていた。

 そうして、研ぎ澄ました全身の感覚に、何かが触れてきた。

 感じた瞬間、跳んだ。

 

 

  全集中 水の呼吸・玖ノ型 水流飛沫・乱

 

 

 回避しながら、芭澄(はすみ)は見て取った。小さな三日月様の刃。それが、自分の下で無数に蠢いている。上弦の壱の能力と、関係があるのは間違いないだろう。

 上弦の壱の姿。石段の上にあった。

 

 着地の時間と面積を、最小限に。斬撃の理屈は、分かりつつある。真っ向から突っ込めば、ただ刻まれるだけだ。

 右足は、もうほとんど使えない。それでも変幻に動き、間合いを詰める。

 

 芭澄は、日輪刀を低く構えた。

 左足で、石段を踏みしめる。あと1段。あと1歩で、上弦の壱まで刃が届く。

 

「遅い……それは片足で……使う技ではない……」

 

 抑揚のない、静かな声。聞こえた瞬間、体が何かに弾かれた。落ちていく。背中から、石の床に叩きつけられていた。

 上弦の壱は、刀が届く寸前まで、動いてはいなかった。少なくとも、自分に見えるような動きは、なかったはずだ。

 しかし気づいたら、斬られていた。

 

「お前は……弱い……所詮これが……今の鬼狩りの力か……」

 

 上弦の壱が、石段を下りてくる途中で、無造作に何かを放り投げてきた。

 転がってきたのは、朱雀(すざく)の日輪刀だった。半ばで、折れている。

 やはり朱雀は、最期まで戦ったのだ。

 

 立ち上がりたかったが、体が動かない。自分の血で、隊服が張り付いたようになっている。傷はかなり深い。全集中の呼吸も、もうできそうにない。

 

「さっきの……剣士は……多少は腕が立った……斬魄を討ったのは……お前ではなかったか……」

 

 そう言い捨て、上弦の壱が芭澄に背を向けた。

 私は、弱い。そんなこと、殊更に言われなくても、自分が知っていた。

 そう思った瞬間、自分でも思ってもいないような声が、口から発せられていた。

 

「私は、弱い隊士だよ。あの2人とは、もともとが違う」

 

 朱雀は、心技体どれを取っても、自分よりも凄かった。

 武仁(たけひと)と稽古で立ち会えば、多分、自分が勝つだろう。だが、武仁はどんな窮地でも生きる事を諦めない、強い心がある。それも、人を助けるための心だ。

 

 自分は、どうだ。家族を鬼に殺され、鬼殺隊を志願した。悲劇ではあるが、理由としてはありふれたものだ。

 最終選別で2人に助けられ、共に行動するようになったが、それまで自分から何かをしようとしてはいなかった。むしろ、足を痛めたところで一緒にいた志願者に見捨てられ、生きる事に絶望していた。

 

 鬼への恨みも、人を守りたいという想いも、一瞬だが捨ててしまった。

 その程度の、隊士に過ぎないのだ。

 

「お前は、上弦の鬼だから、きっと鬼になる前も、凄く強かったと思う。私たちとは、居場所が違う。でも、その強さは結局、大したものじゃない」

 

 自分の言葉の、何に反応したのか、上弦の壱が立ち止まった。

 ゆっくりと、振り向いてくる。不気味な6つの眼が、すべて自分に向けられていた。

 

「鬼は、いつだって人を踏みにじる。私は、その悲劇で生まれた。私たち鬼殺隊士は、ひとりひとりはお前より弱くても、決して折れることはない。例え死んでも、誰かが生きる。想いを、持っていってもらうことはできる」

「下らぬ……弱者の……戯言だ……」

「何とでも、言っていい。孤独で闇に生きる鬼の命なんか、人の歴史に比べれば、些細なもの。私たちは、命を守り、繋ぎ続ける。そしていつの日か、誰かが必ず、お前と同じ場所にたどり着いて」

 

 頸を取る。そう言おうとした時、不意に何かが体の中に入ってきて、声が出せなくなった。

 刀が、胸に突き立てられていた。その刃が、微かに揺れている。柄を握っている上弦の壱の手が、震えている。

 

「お前は……存在してはならぬ……」

 

 声。初めて、上弦の壱が見せた、感情らしいものだった。その言葉はまるで、自分ではない誰かへ、向けられているようでもあった。

 

 芭澄は、空を見た。朝日。木々の間から、温かい光が差し込み始めている。

 

 もう、十分だろう。

 自分たちを逃がした朱雀の戦いは、武仁が生きてくれれば、無駄にはならなかったということだ。自分が死んでしまったことは、この後で、謝ればいい。

 

 水柱との約束も、もう守れない。武仁を連れて行けば、継子として育ててもらえることになっていた。

 なぜ水柱が、武仁に会いたがったのかは、わからない。だが武仁が生きてさえいれば、どこかで会うことができるはずだ。

 継子も、自分よりももっと相応しい隊士がきっと、どこかにいる。

 

 ただひとつ、最期に思うのは、武仁のことだった。

 自分たちの死を、全てを背負って、たった独りきり。もしかしたら、人助けなどやめてしまうかもしれない。

 

 もしできるなら、一緒に生きていくつもりだった。ひとりでも十分なくらい強かった朱雀より、武仁を支えることが、自分の役割だと思ったのだ。それは、自分を絶望から救い出してくれた人への、恩返しでもある。

 

 自分の中には、慕うような気持ちも、混じっていたかもしれない。だが、深く考えたりはしなかった。武仁の方は、どうだったのだろうか。

 もう、確かめようもない。

 

 さよなら。芭澄は眼から、熱いものが流れていくのを感じて、眼を閉じた。




次回から、生残編へ入ります


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第1部・生残編
17話 生き残り


 矛盾を抱えた時、さてどうする。


 獣のような気配が、山から放たれていた。まるで手負いの獣が、傷の痛みにのたうち回り、咆哮を上げているようだ。禍々しさすら、感じるほどだった。

 悲鳴嶼行冥は、麓にある自分の館でそれを感じながら、涙を流していた。

 

 武甲山で下弦の参を発見。血鬼術で、神社からの出入りができなくなっている。鎹鴉の伝令を受け、悲鳴嶼も急行した。

 

 下弦の参は、一般隊士達が滅殺していた。そこに、上弦の壱が現れたのだという。

 上弦の鬼には、鬼殺隊の柱ですら単独では勝ち目がないと言われている。その上弦の中でも、最強の鬼が姿を現したのだ。

 

 夜が明けた後、集結した隊士達で徹底した山狩りを行ったが、上弦の壱の姿はどこにもなかった。

 先行で派遣されていたはずの4人の隊士の死体もなく、後発だった男と女の隊士が、境内と山道で死んでいただけだ。

 

 男の一般隊士が、ひとり生き残った。上弦の鬼と遭遇したのであれば、生きているだけでも大金星と言っていい。

 しかしいま、その男は生き残ったことに苦しみ、獣のようになっている。

 

「残酷だ」

 

 悲鳴嶼は手に掛けた数珠を擦りながら、そう口にした。

 苦しんでいることが、ではない。弱いという事実が、残酷なのだ。強くありたい。本気でそう思うとき、いつでも人は無力なものだった。

 

「岩柱様。泣いている場合じゃあ、ありませんよ」

 

 男の隠が、庭先にいた。

 

「このままじゃ、あいつは死んじまいます。せっかく生き残ったのに、ここで死ぬんじゃ、他の連中が何のために死んだのか、わかりませんよ」

 

 御影武仁が、自分の屋敷に運び込まれたのは、武甲山から下りてきてすぐの事である。

 報告より先に、傷を癒すこと。上弦の壱の捜索には、他の柱を向かわせる。それが、本部からの指示だった。

 

 悲鳴嶼は藤の花の家紋の家ではなく、自分の屋敷へと運び込ませた。口封じのために、鬼が襲ってくる可能性は、否定できなかった。

 

 武仁は眼を覚ますなり、日輪刀だけを携え、山へと向かっていった。胸の矢は抜いたが、傷はまだ癒えてはいない。夕刻、山中で昏倒しているところを、この隠に発見されて館に連れ戻される、ということを連日繰り返していた。

 

「君は、あの隊士とは、それほどに親しかったのか?」

「俺は、後藤と言います。武仁だけじゃない。死んだ朱雀と芭澄とも、一応、俺は同期なんですよ。恥ずかしいことに、俺だけは隊士にはなれなかったんですがね。俺は、最終選別で死ぬはずだった。追い詰められて、崖から身を投げたんです。それで身動きできなくなった俺を、あいつらが全員で助けてくれた。俺は、あいつがあんな様で死んでいこうとしているのを、もう見ていられねえんです」

「君の言葉は、彼には届かぬか」

「全く。隠の分際で、柱に意見するなど、おこがましいのは十分承知しています。でももう、俺は岩柱様に、縋るしかないんです」

「もう良い。後藤、君は任務に戻れ。鬼殺隊の戦いに、貴賤はない。隠もまた、日夜戦っているのだ。君だけが、ここで寄り道をすることは許されない」

 

 さらに何か言い募ろうとしていたが、後藤は一度深々と頭を下げ、姿を消した。

 そのまま夕方まで、悲鳴嶼は縁側に座り込んでいた。虫達の鳴き声が、心地よく耳に届いてくる。

 

 不意に、山の気配がぷつりと途切れた。悲鳴嶼は、腰を上げた。

 

 館から出て、山に入っていく。鴉の鳴き声がある。それを、追って行けばいい。

 山中の様相は、異様なものだった。そこら中の木に、刀を斬りつけた跡がある。中には、根元から斬り倒されているものもあった。

 

 斜面を登る山道の途中で、武仁はうつ伏せで倒れていた。完全に、気を失っている。

 傍らに、野太い丸太が落ちていた。今日はその丸太を担いで、斜面を上り下りしていたようだ。

 

 倒れている武仁の傍らに、鴉が1羽寄り添っていた。鳴いていたのはその鴉だろう。今はもう、大人しくしていた。

 悲鳴嶼が武仁の体を肩に担ぐと、鴉はまた一鳴きし、飛び立った。

 

 武仁が以前連れていた、弦次郎(げんじろう)という鴉ではない。その鎹鴉も、死んでいた。

 相方のため、必死だったのだろう。伝令のため休むことなく飛び続け、朝には力尽きていた。体には、矢で攻撃されたような跡がいくつもあり、飛べるのが不思議なほどだったという。

 

 館に戻ると、武仁の体を、庭先に横たえた。鴉がすぐに降り立ってくる。武仁の傍から、ひと時たりとも離れようとしないようだ。

 胸板は大きく上下し、貪るような呼吸音が漏れている。気を失っていても、常中を止めてはいなかった。

 

 人を助けたい。その思いで鬼殺隊に入った、と言っていた。鬼への恨みや憎しみを糧に戦う隊士がほとんどの中で、綺麗事と言ってもいいほどの純粋な理想を、この男は持っていたのだ。

 ただ、綺麗事や理想というものは、圧倒的な力の前では、容易く崩れ去る。

 

 この男を見送った時に感じた、不吉な気配のことを、悲鳴嶼は思い出した。

 自分が信じる人助けのために自分を鍛え、挙句に常中まで会得しつつあった。そしてどこか、揚々とした気配で去っていった。それが、気がかりの元だった。

 現実というものは、そういう時にこそ、牙を剥く。

 

「ああ、残酷だ」

 

 悲鳴嶼の眼から、また涙が溢れ出た。

 この少年の師匠という男は、鬼の存在を知っていた。もし鬼殺隊士であれば、人助けのためなどという目的が、いかに生ぬるいものなのか、知っていそうなものだ。

 あるいは、それも承知の上で、送り出したのか。そんな残酷なことを、する人間だったのか。

 

 武仁が、不意に身を起こした。そのまま、何も言わずに立ち上がると、悲鳴嶼に背を向けて歩き出していく。

 

「どこに行くつもりだ」

「山へ、稽古に」

「その体でか。胸の傷が、まだ治っていない」

「構いません。傷は、稽古で癒します」

 

 門の方へ歩いていこうとする武仁の前に、悲鳴嶼は立ちふさがった。一瞬で目の前に移動したように見えたはずだが、武仁に動じた仕草はまるでない。

 最後に会った時とは、全く違う気配を、武仁は放っている。間近にすると、奥底に禍々しいものが渦巻いているのが、よくわかる。

 

「柱として、命じる。まず、その傷を治せ」

「力のない隊士が傷つくのは、鬼殺隊では当然のことなのでしょう。弱いものは、特に。怪我の直し方は、自分で決めます。失礼を承知で申し上げますが、柱だからといって、命令などしないでいただきたいと思います」

「君は、私を恨むか? もし柱が武甲山にいれば、君の同期の隊士は、あるいは死なずに済んだかもしれない」

 

 武仁は、それには返事をせず、顔を俯かせた。

 数年前、寺を鬼に襲われた日の夜明け、武仁の師匠にも似たようなことを言われた。後からのこのことやってきた私が憎いだろう、と。

 

 しかし、自分に、誰かを恨む気持ちは、全くない。あの場で、唯一生き残った沙代に、子供殺しの罪を被せられても、それで獄門に落とされようとも、誰も恨みはしなかった。

 ただ、気づいただけだ。鬼という滅すべき存在のこと。そして、子供の本質的な残酷さを。

 

 それは、この男も同じだろう。人助けという想いは、仲間の死や己の無力さ、強大な鬼という現実の前で、いま袋小路に陥っている。

 

「私と、戦え」

 

 武仁が、顔を上げた。

 

「君がやっていることは、稽古ではない。ただの蛮行だ。知り人故に抗命は聞き流すが、隊士が無駄死にするのは、岩柱として見逃せん」

 

 返事はなかった。ただ悲鳴嶼が、鎖で繋いだ斧と鉄球を取り出すのと同時に、武仁も跳び退っている。

 鴉が、激しく鳴いた。

 

「静かにしろ、那津(なつ)

 

 武仁の声は、静かだった。鴉の名前が、やはり違う。

 互いに距離をとって、向かい合った。武仁は、日輪刀を抜いている。正眼ではなく、低い構えだった。

 

 悲鳴嶼は盲目だが、その分、あらゆる感覚が優れていた。特に耳では、武器が鳴らす音の反響を感じ取り、正確に相手の動きを掴むことができた。

 人を相手にする稽古は、悲鳴嶼はほとんどやらない。自分と互角に戦える人間が、他の柱を除けば、ほとんどいないからだ。

 自分には、それだけの天賦の才があった。ただ、それに気づいたとき、多くのものを失っていた。

 

 武仁は構えたまま、微動だにしない。この振り回している鉄球と斧を前にすると、鬼ですら怯む。

 さっきまでの禍々しい気配は、己の内側に押し込めているようだ。

 

 鉄球。続けて、斧を飛ばした。武仁が動く。鉄球を躱し、斧を掻い潜ると、そのまま悲鳴嶼の方へ近づいてきた。斧と鉄球を交差させ、鎖で絡めとろうとしたが、それも身を低くし、地面を転がるようにして回避している。低い姿勢と同時に、日輪刀で鎖を押し上げ、地面との間に僅かな隙間を作ってもいた。

 

 以前の立合いとは、まるで動きが違う、と思った。あの時は、決して悲鳴嶼の間合いの中には入ろうとしない、堅実な戦い方だった。その戦闘の主眼は、生き残るというところにあったのだ。

 

 今は、こちらの間合いに、迷うことなく踏み込んでくる。

 ただ、捨て鉢になった訳でもない。動きつつ、鉄球や斧は躱している。まともに打ち合えば力の差で負けることを、忘れてはいなかった。

 

 武仁の姿が、迫った。日輪刀は低く、あくまで静かに、確実に近づいてくる。今まで、ここまで自分の間合いに入れた鬼はいなかった。

 

 

  全集中 岩の呼吸・参ノ型 岩軀の膚

 

 

 悲鳴嶼は瞬時に斧と鉄球を引き戻すと、力任せに振り回した。防御技ではあるが、やわなものでは触れただけで粉砕することも、十分にできる。斧や鉄球が届く間合いの寸前で、武仁の姿は止まっていた。

 後ろへ引いた瞬間、悲鳴嶼の方から、踏み込んだ。

 

 

  全集中 岩の呼吸・壱ノ型 蛇紋岩・双極

 

 

 鉄球。斧。同時に放った。叩きつけられた地面が、地震の如く揺れる。そこに、人影はなかった。

 武仁の体は、宙にあった。身を回しながら刀を振り上げ、悲鳴嶼の方へ突っ込んでくる。

 

 こちらの攻撃を、紙一重で跳躍し、躱した。ゆとりがある躱し方をすれば、2撃目の斧の攻撃で、打ち落とすこともできた。

 

 やはり、以前とは全く違う。

 ただ、隠された力が、唐突に覚醒している訳でもない。

 師匠との稽古で、相当厳しく打ち据えられてきたのか、相手の攻撃やその間合いに対しては、もともと敏感なところがあったのだろう。それは、悲鳴嶼も気づいていたことで、それが常中で、研磨されているだけだ。常中の能力増強は、反射神経にも影響する。

 

 以前と違うものは、もっと深い、精神のところにある、と思った。

 もともと持っていた、生き残りたい、という想い。その中に、死にたい、という渇望が入り混じっている。

 

 武仁を囲むように、空中に鎖を走らせた。走らせながら、凌ぐだろう、と悲鳴嶼は思った。締め上げてもそこに手応えはなく、武仁は地面に降り立っていた。片手に、鞘を握っている。咄嗟に、鞘で鎖を打ち、自ら地面に落下したようだ。

 

 この男は生き残るために戦いつつ、死にたがってもいる。それが、死と紙一重の戦い方をさせているのだ。

 この残酷な心の在り様から、いっそのこと開放してやった方がいいのではないか。武仁が突っ込んでくるのを感じつつ、悲鳴嶼はそう思った。

 同時に、自分でも、自らの気配が変わるのが分かった。

 

 

  全集中 岩の呼吸・肆ノ型 流紋岩・速征

 

 

 鎖を引き戻そうとした悲鳴嶼の耳に、別の声が届いた。

 

「行冥」

 

 1羽の鎹烏が、屋敷の上で羽ばたいている。

 

「すまないね。武仁を本部に連れてきて欲しい」

「御意」

 

 その声に、居住まいを正しそうになったのを、悲鳴嶼は堪え、まず鎖を手放した。

 それでも構わず突っ込んできた武仁を、拳で殴り飛ばした。手ごたえは、軽い。武仁の体は2、3度地べたを石ころのように転がり、塀にぶつかって止まった。

 起き上がってはこないが、呼吸音はある。気を失っただけだ。

 

 まるで、武仁を打ち殺そうとする自分の気持ちすらも読んだ指令だった。いや、御屋形様は自分の心も読んでいたのだ、と思った。鬼殺隊の総帥である、産屋敷燿哉には、予知にも近い先見の明がある。

 

 また、鴉が騒ぎ始めた。

 

「大丈夫だ。死んではいない。那津と言ったか。君は、先に本部に行きなさい」

 

 語りかけると、鴉は大きく一鳴きし、飛び去って行った。

 その時になって、既に周囲が闇に包まれつつあることを、悲鳴嶼は肌で感じた。




 悲鳴嶼さんの圧倒的登場率。
 一度関わらせると、こんなものです。


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18話 死に場所はいずこに

 本作のコンセプトその2:人間側の登場人物は、ほとんどが覚悟をキメています。


 体が、揺れている。

 

 また、担架か何かで、運ばれているようだった。目隠しだけでなく、耳栓もされていた。自分がどういう状態なのか、武仁(たけひと)には全く分からなかった。

 どうにでもなれ。そういう気持ちがある。殺気を向けられれば、体が勝手に反応するだろう。反応しなければ、それまでの命ということだ。

 

 ぼうっとしているうちに、どこかから声が聞こえてきた。

 最初は何を言っているのか分からなかったが、聞き覚えがある声だ。声の主は、徐々に近づいてくる。

 聞こえてきたのは、師匠の声だった。

 

「お前は、その選択を後悔することになる。死ぬことなど、本当は生ぬるい。生き地獄を、お前は味わうことになる」

 

 あの時、師匠が言っていたことは間違っていなかった、と武仁は思った。

 朱雀(すざく)芭澄(はすみ)が、死んだ。才能溢れるあの2人が、大して強くもない自分を庇って、死んだのだ。それは、とても受け入れられることではなかった。

 

 人助けのために、鬼殺隊に入り、戦うことを選んだ。そのはずだった。しかし自分は、あの2人を助けもせず、生き残ってしまった。

 

 死ぬべきでない人間が死に、死ぬべき自分は死に損なったのだ、と思った。これが生き地獄なら、確かに、いま自分は地獄を味わっている。

 

 悲鳴嶼行冥の屋敷で目覚めてからは、苛烈な訓練を自分に課した。

 そうすれば、強くなれる。強くならなければ、死ねると思った。少なくとも、常中ができれば強くなれる、などと甘えた事を考えていた自分を、まず捨ててしまいたかった。

 

 鎹鴉の弦次郎も、死んでいた。それを、隠の後藤から聞いた時も、武仁には最早、何の感情も湧き起こらなかった。

 いつか、俺もそっちへ行く。そう思っただけだ。

 

 それでも、何もせず死ぬことは、できなかった。悲鳴嶼と立合った時も、自分から鉄球や斧に身を晒したりはしなかった。

 戦いもせず、何も為すことなく死ぬ。それも、許せないのだ。

 頭の働きも、どこか鈍く、揺らいでいるようだった。生きたいのか死にたいのかも、判然としない。そういう自分を、俯瞰してもいた。

 

 奇妙な時間が、しばらく続いた。

 ふと、揺れが止まり、耳栓が取られた。

 

「起きろ」

 

 声に続けて、目隠しも外された。日の光が、眩しい。

 

 しばらくして、まず眼が捉えたのは、陽光の眩しさを映したような白い砂利だった。枝葉の整えられた松や藤の花。庭石。澄水が引かれた、池すらもあるようだ。

 見たこともないほど広大な屋敷の庭に、連れてこられていた。

 

「君が、御影武仁(みかげたけひと)だね」

 

 声。屋敷の縁側から、声をかけられた。

 男がひとり、立っていた。

 

「御屋形様の御前だ。何を、突っ立っている。控えろ」

 

 低く腹の底に響くような、悲鳴嶼の声。ほとんど反射的に、武仁は膝をついて、頭を下げた。向かって右側に、悲鳴嶼の巨体が鎮座している。

 

「そんなに、畏まらなくてもいいよ。いきなり連れてきて、すまなかったね。私は、産屋敷燿哉。武仁達とは、確か最終選別の時に、一度会っていたかな」

 

 言われて、最終選別の場に来ていた若い男の事を、武仁は思い出した。それに、悲鳴嶼は御屋形様、と呼んでいた。鬼殺隊の柱からそう呼ばれる人間が、それほどいるとは思えない、

 では自分は今、鬼殺隊の中枢にいるということなのか。

 

「下弦の参に続けて、上弦の壱と遭遇した、と聞いているよ。朱雀と芭澄の事は、本当に残念だった。弦次郎も、精いっぱい戦ってくれた。でも、武仁と鎹鴉の那津だけでも、生きていてくれて良かったと思う。鬼殺隊を率いる者として、礼を言わせてほしい」

「御屋形様。私はただの、死に損ないの隊士です。礼を、いただける立場ではありません」

 

 自然と、言葉が出ていた。言葉遣いが正しいのかどうかは、よくわからない。

 燿哉の眼は、武仁をじっと見つめている。改めて顔を見ると、燿哉は御屋形様と呼ばれつつも、自分と年恰好が近いのが分かった。

 しかし、それを思わず忘れさせる程の、風格がある。

 

 事態が飲み込めて、ひとつ気づいた。

 自分がここに連れてこられた理由は、ひとつしかないのだ。そう思うのと同時に、探していたものを見つけた、とも思った。

 自分の為すべきことと、死に場所である。

 

「私がここに呼ばれたということは、上弦の壱について詳しく報告するため、ということで、よろしいのでしょうか」

「怪我が癒えてから、改めて、ここに来てもらおうと思っていたんだよ。他の柱たちはすぐに話を聞きたがっていたけど、武仁が重傷だと、行冥からも報告を受けていたからね」

「では、この場にて、報告いたします」

 

 そして、報告の後に屋敷の外で、腹か首を切って、死ぬ。

 その選択が、眼の前に唐突に現れた。そしてそれが、実に甘美なものに思えて、仕方がなかった。

 

 朱雀と芭澄があの場で死んだのは、自分に上弦の壱について報告させるためだったのだ。その役目さえ果たせば、今度は何の迷いもなく、自分から死ねるだろう。

 無為に死ぬわけでもなく、無駄に生きながらえることもない。

 

 燿哉は、こちらを見据えたまま、深い湖面のような表情を浮かべている。返事はいつまでもなかった。

 焦れるような気持ちで、武仁から声を発しようとしたが、手で制された。

 

「まだ、武仁の傷は、癒えていないね」

「この通り、怪我は治っております。口さえ開けば、報告はできます」

「でも心は、傷ついたままだ」

「前線は、身も心も傷ついている隊士で、溢れています。私ごときの心と、上弦の壱の情報。どちらが大事なことか、明白であると思いますが」

 

 悲鳴嶼の足元の砂利が、僅かな音を立てた。殺気めいたものが、自分に向かって放たれている。

 別に今更、どう思われてもいい。そういう気持ちにもなっていた。どうせ、この後で死ぬのだ。

 

「武仁。私はいつだって、私の剣士たちには、死なないでほしいと思っているんだよ。たとえそれが、自決であってもね」

 

 この声を藤襲山で聞いた時、不思議な聴き心地の良さを感じたのを、武仁は思い出した。

 しかし今、改めて聞いても、あの時のような心持ちにはならない。

 ただの、男の声。何を言われようと、そうとしか感じられなかった。

 

「生きていてくれた君を、ここでむざむざ失うくらいなら、私は上弦の壱の情報など必要ない、と思っている」

「では、紙に書き残しておきます。鎹鴉にも、仔細を伝えておきます」

「御影。御屋形様に対して、無礼であろう」

「いいんだよ、行冥」

 

 燿哉の声は、あくまでも静かだった。

 

「君の気持ちは、よくわかった。それなら、私からひとつお願いがある。それを聞いてくれれば、上弦の壱についての報告を、聞かせてもらうことにするよ」

「死ぬことを禁じるものでなければ、何なりと」

「行ってきてもらいたい場所があるんだよ。行き先は、那津が知っている。来年の桜が咲くころまでには、ここに戻ってきて欲しいんだ」

「それだけで、よろしいのですか?」

「戻ってきてくれたら、報告を聞いた上で、君の願いをひとつ叶えよう。私の、お願いを聞いてもらったことへの、感謝として」

 

 無論、できる範囲だけどね。付け足すようにそう言い、燿哉は再び微笑んだ。

 

 金が欲しい。柱になりたい。そういう類の馬鹿げた願いなど、するつもりはない。

 これで誤魔化されることなく、自裁できる。

 燿哉の言葉を、武仁ははっきりとそう捉え、頭を垂れた。

 

                       

 

 武仁は再び、隠達に荷物のように担がれ、連れ出されて行った。

 悲鳴嶼はひとり、庭の池の畔でひとり佇んでいる燿哉の後ろに控えていた。武仁が去った後、残るように声をかけられたのだ。

 

 昼の日差しが降り注いでいるのを肌で感じたが、かすかな冷たさもある。季節が、冬に移りつつあるのだ。

 

「優しい子だね、あの子は」

 

 おもむろに、燿哉が口を開いた。

 

「私に、恨みのひとつでも、言うことができたのに。私が、朱雀と芭澄を死に追いやったようなものなのに。生きている自分が悪いのだと、自分を責めていた」

 

 隊士ひとりひとりの名前や来歴、死に至るまでの全てを、記憶している人だった。自分よりも4歳年少のこの方は、これまで一体どれだけの人の死と向かい合ったのか。想像するだけで、体が震えそうになる。

 

 それだけのものを背負いつつも、常に柔和な笑顔を浮かべ、口にした言葉は人の心を掴んで離さない。その様には、ある種の荘厳さすら、感じる程だった。

 

「あまり、気になされぬが、よろしいかと。煉獄家のような、代々鬼狩りを生業とする家柄のほか、あのような隊士はそういるものではありません」

「あの子は、人助けのために鬼殺隊に入ってきてくれた、と聞いた。私はね、思うんだよ、行冥」

 

 燿哉が振り向き、悲鳴嶼の方に向き直った。やはり、微笑みを浮かべているのだろうか。

 優し気な視線を向けられていることは、肌で感じた。

 

「武仁のような隊士が、ひとりでも居てくれれば、それだけで私たちは救われるのではないかな。恨みや憎しみを晴らすために鬼殺を為す剣士(子ども)たちが多い中で、純粋に人を助けるために刀を振るってくれる。そういう剣士を、死なせるべきではない。死なせてはならないのだと」

「お言葉ですが、御屋形様。あの隊士は、死にたがっております。死ぬことこそが、唯一の希望であると、思っています」

「そうだね。でも、武仁もまた、救われなくてはならない。死にたがっているあの子を、こちら側に引き留められるのは、私ではなかったみたいだ。でもあの子を、待っている人がいる。そしてあの子に、救える人もいる。私はね、行冥。武仁に、人を助けて欲しいんだ。私が、何もできない分も」

 

 悲鳴嶼は、体ではなく、心が震えるような思いがした。

 この御方は、ほとんど顔を合わせることのない一般隊士に対してすら、こういう想いを持っている。鬼殺隊が今日まで潰滅することなく、鬼との絶望的な戦いを戦い続けられた理由のひとつが、この人の存在であるのは間違いないだろう。

 

 不意に、冷風が吹きつけてきた。

 

「御屋形様。体に障ります故、そろそろ御屋敷の中へ。あまね様も、心配なされます」

「そうだね」

 

 歩き出した燿哉の後ろを、悲鳴嶼はついて歩いた。

 鎹鴉の鳴き声が、遠くに聞こえている。




 次回の更新はちょっと遅くなります。


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19話 煉獄家

 この方が逝去された時期は、原作でも明記はされてなかったと思います。
 なので、ここで手を貸していただきました。


 数日前、遠くで眼にした山並みは、うっすらと白く染まっていた。

 その様相が、少しずつ変わった。木は建物に、草花は人の姿に。陽光は、電気の灯に。

 

 帝都、東京府である。

 まず、人が多い。ものを売る店も、所狭しと建ち並んでいる。他の街とは比べ物にならない、活気や熱気に覆われていた。しかし、その何もかも全て、武仁(たけひと)の眼中になかった。

 空を飛んでいる、黒い鴉。ただそれだけを、見ていた。

 

 那津(なつ)という名前の、芭澄(はすみ)に付けられていた鎹鴉だった。

 元々がそうなのか、主が死んだからか、全く言葉を発さない。しかし、自分から離れようともしない。追い払おうという気にはならなかったが、声も掛けなかった。

 

 那津は華やかな中心街から、家が集中している郊外に向かって移動すると、ある館の前で、降り立った。

 門構えは、まるで武家の大名のようである。

 

「ここは」

 

 思わず、声が漏れた。表札には、煉獄とある。

 朱雀(すざく)が居候をしていた、炎柱の家。思わず、身を翻しそうになったが、耐えた。そして、何かあれこれと考えるよりも先に、邸内へ訪いを入れた。

 

 那津がここに連れてきた。つまり御屋形様である産屋敷燿哉が、ここへ自分を導いたということである。

 手前勝手に自裁する前に、罵詈雑言や悲嘆の声を聞け、ということなのか。しかし逆に言えば、それこそが、朱雀の死を受け入れるということだ、とも思える。

 朱雀は、自分にできた初めての友達だったのだ。その死について、全てを受け止めた時、自分も死ぬことができるはずだ。

 

 訪いを入れて、しばらくすると、正面ではなく脇のくぐり戸が開いた。

 まず眼に入ったのは、燃えるような赤い髪だった。

 出てきたのは、少年である。自分よりも、頭ひとつは背が低い。しかし、くりっと開かれた瞳が、武仁をまっすぐに見つめていた。

 

「どなたですか?」

「鬼殺隊士、御影武仁(みかげたけひと)と言います」

「あっ、武仁殿ですか! 朱雀から、話は聞いておりました。私は、煉獄杏寿郎と申します! 中へ、さあどうぞ!」

 

 言い終えるなり、杏寿郎という少年に、手を掴まれた。履物を脱ぐと、そのまま屋敷の奥へと引かれていく。

 

「話は全て、鎹鴉から聞きました。朱雀が任務の先で、上弦の壱と遭遇したのだと。それでも、武仁殿だけでも生きていてくれて、本当に良かった。朱雀は、父上への恩返しのため、誰かを守るために炎の呼吸を使うと、いつも言っていました」

 

 手を引かれながら、煉獄杏寿郎の名前を朱雀から聞いていたのを、武仁は思い出した。

 自身をいずれ必ず上回る、天稟を持っている男。そう言っていたような気がする。

 

 確かに、自分の手を引いている少年から発せられる気配は、今まで武仁が感じたこともないものだった。

 触れるものすべてを焼き尽くす大炎のような力強さと、人を守り包み込む温もり。それを、折り合いをつけることなく、しっかりと持っているようだ。

 

「折角いらしたのです。是非、父上にお会いになってください。あっ、父上!」

 

 縁側の廊下を曲がった先に、杏寿郎と同じ髪形、髪色をした男が立っていた。杏寿郎の呼びかけで、顔をこちらに向けた。

 武仁は素早く、膝をついた。

 杏寿郎の父ということは、つまりは炎柱である。しかし、寸前に見た炎柱の瞳には、荒んだ色が混じっているように見えた。

 

「父上。この方が、御影武仁殿です。朱雀が、以前話していた、選別で命を救ってくれた友人の方です」

「ああ、そうか」

 

 声を聞きながら、武仁は奇妙な感覚に襲われた。

 覇気のない、炎柱の声。それに杏寿郎の声には、どこか懸命そうな感じがある。

 確か朱雀は、今の炎柱は元気がない、と言っていた。それも、あの朱雀の表情を、曇らせる程だった。

 

「お前は、色が変わっていない、日輪刀を持っているらしいな。それに、全集中の呼吸も大して使えないと聞く」

「はい」

「なら鬼殺隊士など、もう辞めてしまえ」

「父上、それは」

 

 武仁が身を硬くするのと同時に、別の声も上がった。杏寿郎の声だった。

 

「黙れ、杏寿郎。いいか、全集中の呼吸を使っている者でも、鬼相手では所詮、大したことはできん。雑魚鬼の頸を、何百と飛ばそうとだ。それは、お前も良くわかっただろう、御影武仁とやら」

「父上。朱雀は、炎の呼吸を使って、武仁殿や多くの人を助けたのです。それは、大きなことだと、私は思います」

「だから何だ。結局、炎の呼吸だろうがなんだろうが、上弦の鬼にすら勝てんのだ。朱雀の戦いなど、結局は無駄な事だった。だから、杏寿郎。お前も、鬼殺隊になど、入るのは止めろ」

 

 朱雀の戦いは無駄だった。炎柱の口からその言葉が放たれた瞬間、武仁は立ち上がっていた。

 俯いた杏寿郎の顔も、自分に向いている。

 

「いま、無駄、と言われましたか。朱雀のしたことを」

「ああ、そうだ。無駄だった」

「炎柱様のお言葉ですが、撤回していただきたい」

「なんだと?」

「朱雀は、炎柱様への恩返しのために、刀を振るったのです。それに、あいつは炎柱様のことを、心配していました。今は元気がないが、いつかかならず元に戻ると。そのために、自分が鬼を狩り、人を助けるのだと。その朱雀の戦いを、無駄とは言わせません」

「ふん。無様に逃げ延びておいて、偉そうに抜かすな」

「私のことは、何と言っていただいても結構です。すぐに、死ぬ身です。しかし朱雀を、悪し様に言うことは、許せません」

 

 体に走った衝撃が、その返事だった。外へ蹴飛ばされたのだと、すぐに理解した。武仁は空中で身を回し、同じ膝をついた体勢で、庭に着地した。

 腰のあたりが、痛みの中心である。しかしむしろ、痛みがあることが、心地よいほどだった。死ねば、痛みすらも感じないだろう。

 

「どうか、撤回して下さい」

 

 しばらく、炎柱の眼と視線が交錯した。

 燃えるような眼。しかし意外なほど、そこに力はなかった。情熱をかき消すほどの、別のものがある。諦念。武仁がそう感じた瞬間、炎柱は身を翻していた。

 

「失せろ。俺がお前と話すことなど、なにもない」

 

 炎柱の姿は奥の部屋に消え、障子がぴしゃりと大きな音を立てて、閉じられた。

 

                       

 

「申し訳ありません、武仁殿。お怪我は、ありませんか」

「気にしなくていい。私も、ひどい口の利き方をした。だが、朱雀の戦いを無駄と言われて、かっとなってしまった。相手が誰であっても、同じことを言ったと思う」

 

 縁側から下りようとする杏寿郎を、武仁は押しとどめ、再び屋敷に上がった。予備の足袋は、様々な道具と一緒で、いつも身に忍ばせてある。

 

「朱雀は友達だ、と言っていました。武仁殿のことを」

 

 その友達を、俺は見捨てて生きている。口をついて出てこようとした言葉だが、出てこなかった。

 杏寿郎の笑顔を見ると、それができなかったのだ。

 

 お前は、俺を恨んでいないのか。武仁はむしろ、そう思った。

 朱雀は杏寿郎が成長するまで、一緒にいるつもりだったのだ。父親である炎柱は、あの有様である。朱雀がいれば、どれほど杏寿郎は心強かっただろう。それを奪われた時の衝撃は、いかほどのものだったか。

 しかし、考えてもどうにもならなかった。自分は、朱雀の代わりには、絶対になれないのだ。

 

「杏寿郎」

 

 不意に、細い声が聞こえた。

 杏寿郎が、すり足である部屋に近づき、障子を少しだけ開けた。

 

「母上。どうなされましたか」

「御父上の、声が聞こえました。どなたか、いらしているのですか?」

「はい。御影武仁殿です。朱雀が、話していた鬼殺隊士の方です」

「あの、武仁殿ですか。もし、よろしければ、私も話したいと思います」

「しかし母上、お体は大丈夫なのですか?」

「大丈夫です、杏寿郎」

 

 声は聞こえている。杏寿郎の顔だけ向いたので、武仁は黙って頷いた。

 もう少しだけ、開けられた障子から、その部屋に入った。四方の鉢で炭が焚かれていて、中は暖かかい。

 

 中心に敷かれた布団で、女性が横になっている。病に臥せっているのかもしれない。面貌はやつれていたが、確かな気品に包まれていた。

 体をゆっくりと起こすのを、杏寿郎が傍らで支えている。

 

「このような姿でいること、申し訳なく思います。私は、煉獄瑠火。煉獄槇寿郎の妻です。朱雀が、貴方の事を、色々話してくれました」

「私は朱雀に、何度も助けられました。朱雀は本当に、強い男でした」

「もしよろしければ、話をしてもらえませんか。朱雀の事を。貴方が知っているあの子の事を、杏寿郎にも聞かせてやって欲しいのです」

「わかりました」

 

 話は、そう多くはなかった。最終選別での出会いと共闘。再会。

 瑠火も杏寿郎も、武仁が話している間、一片の口も挟まなかった。

 

 そして、別れ。武甲山の神社で、自分と芭澄を押し出し、朱雀はひとり神社の中に残ったこと。そして参道を下りている途中で感じた、凄まじい闘気のこと。それが、唐突に途絶えたこと。

 

 全てを話し終わった時、武仁の手は震えていた。部屋は熱いほどなのに、震えは止まらなかった。その手に、別の手が重ねられた。

 瑠火の手だった。

 

「まず、感謝します。貴方が生きていてくれたことに」

「それは、違う。本当に死ぬべきなのは、私でした。朱雀は、死んではならない男だった」

 

 思わず本音が、口から出ていた。

 朱雀や芭澄との時間は、何ひとつ忘れてはいない。それを、何度思い返したところで、同じ結論に達するのだ。自分は、無駄に生きている。その思いを、押さえておけなかった。

 なぜこの家の人間は、誰も自分を責めないのか。その思いもあった。

 

「杏寿郎。武仁殿の隣に、お座りなさい」

「はい、母上」

 

 杏寿郎の小さな体が武仁と並ぶと、瑠火の視線が一度、武仁と杏寿郎を行き来した。

 

「2人とも、今から私の言うことを、考えなさい。今を生きている人間の務めとは、何だと思いますか」

 

 杏寿郎はしばらくうんうんと唸り、わからない、と答えた。

 武仁は、なにも言葉が出てこなかった。これから死のうとしている自分には、関わりのないこととも思えたからだ。

 

「生きている人間の務めとは、その生で一所懸命に、己の責務や使命を全うすることです。そして生きている人間は、死んだ者の分も、その生を全うしなければなりません。たとえその生が、辛く苦しいものであっても。朱雀もきっと、貴方にそれを望んでいます」

「どうして、それが分かりますか。朱雀は、死にました。死んだ人間の思いなど、なぜわかるのですか」

「それは、私がもうすぐ死ぬからです」

 

 瑠火の言葉に、思わず息を呑んだ。

 死ぬ。そう語る瑠火の眼には、とてもそうは思えない、強い光がある。しかしまた、その光の前では、死相という影もまた、浮き彫りになっているようにも見える。

 

「夫と、まだ幼い子供たちを残して、私は逝くでしょう。その死を前にして、私もまたそれを望んでいます。たとえ私がいなくなろうとも、立派に責務を果たしてほしいと」

「しかし朱雀は、その責務を果たせなかった。あれだけ強かった朱雀が死んで、呼吸も剣技も劣る私が、のうのうと生きている。私に、朱雀と同じことは、できないのに」

「貴方が、朱雀と同じことをする必要はありません。そのようなことは、あの子も望んではいないでしょう。ただ友として、覚えているだけでいいのです。忘れてはなりません。武仁殿が覚えていれば、その想いの中で、朱雀は生きられるのですよ。だからこそ私も杏寿郎も、貴方が無駄に生きているなどとは、思いません」

 

 覚えているだけでいい。不意に、朱雀の笑顔が、眼の前を去来した。芭澄の声も、聞こえた。忘れるはずもない。

 眼の周りが熱くなり、自分の頬を何かが伝った。伝ったものは顎先へ、そして自分の手を包む瑠火の手の甲へ、ぽたぽたと滴っていく。

 自分が、泣いている。朱雀や芭澄が死んでから、絶対に涙だけは流さなかった。それなのに、泣いていた。そして、止まらなかった。

 

「これからは泣いても、辛く苦しくとも、最後には必ず立ち上がり、前を向きなさい。そして、生きなさい。まだ子供の貴方に、このようなことを言うのは、酷な事かもしれません。でも貴方は、それだけのものを背負ったのです。背負ったものから、眼を逸らしてはいけません」

 

 武仁はこれまで、自分の事しか考えていなかった事を、初めて恥じた。

 ずっと、死にたがっていた。しかしそれは、自分が楽になりたかったからではなかったか。

 

 もし自分が願った通り、逆の立場ならどうだろう。自分は死んで満足したかもしれないが、その後で朱雀と芭澄に、同じように苦しむことを願うのか。そんなことは、あり得ない。

 自分ならば、生きていてくれることを、願ったはずだ。

 

 手の震えも、涙も、いつの間にか止まっていた。

 瑠火の手が外れて、武仁は居住まいを正した。

 

「瑠火様、ありがとうございます。見苦しい所を、お見せしました。多分朱雀は、怒っているでしょう。芭澄も。こんな無様な私を見て」

「朱雀が言っていました。貴方は、師匠からもらった笛で、見事な音を奏でるのだと。私も、聞きたいと思ったものです」

「あの笛は、壊れてしまいました。私を、矢から庇って」

「そうだったのですか。しかし、武仁殿には、まだ行かなければならないところがあるのでしょうね」

「すべてが終わったら、また参ります。その時は、笛を持って」

「楽しみにしています。朱雀とは、とうに別れをしたつもりでした。もう、任務から帰ってくるまで、私は持たないだろうと。それでも、武仁殿が訪ってくれました。朱雀が生きられなかった分も、これからは精いっぱい生きるのですよ」

 

 武仁は、ただ頷いた。あれだけ自分の中に渦巻いていた死への憧憬が、いつの間にか、遠いものになっている。

 

「杏寿郎。武仁殿をお見送りしなさい」

「はい、母上」

 

 瑠火に一礼し、部屋を出た。外は、冷たい空気が満ちている。

 しかし、震えはしなかった。

 

 廊下の奥で、人影が動いた。見ると、炎柱の後ろ姿が、部屋の中に消えていくところだった。

 その姿が見えなくなる寸前、鼻をすするような音を、武仁は確かに聞いた。

 

「武仁殿、ありがとうございました。母も、少し元気になってくれたと思います」

「礼を言うのは、私の方だ。今まで見ようともしてこなかったものを、教えてもらった。私はただ、死ぬことだけを考えていた。朱雀の事も考えずに」

「武仁殿は、もう大丈夫です。また、いらしてください。武仁殿の笛を、母も楽しみにしています」

「承知した」

 

 答えとは裏腹に、もう瑠火には会えないだろう、とも思った。

 死んだ朱雀が、ここへ自分を導いた。根拠などなにもないが、武仁はそれを確信していた。自分が立ち直るためではなく、朱雀を煉獄家へ連れて帰るために、自分はここへやってきた。

 自分の役割は、終わった。笛が壊れていたことは、巡り合わせのひとつだろう。

 

「最後に聞かせてくれ、杏寿郎。朱雀は、君にとって、どんな男だった?」

「強く、優しく、炎のような男でした。私も、朱雀のことは、決して忘れません!」

「そうか。ありがとう」

 

 きょとんとした表情の杏寿郎の頭を、武仁は片手で撫でた。

 掌に、熱が伝わってくる。杏寿郎の心が燃えているのだ、と思った。

 

「また、会おう。どうか元気で」

 

 武仁は、杏寿郎に背を向けて、走り出した。

 心の中で再び、瑠火に別れと、感謝を告げた。

 

                       

 

 那津は、今度は東京府から離れる方へ、飛んでいた。やはり、本部へ帰還するわけではないらしい。

 夕刻。指笛を吹くと、那津は武仁の腕へと、降り立ってきた。音は、以前聞いた芭澄の指笛と、ほぼ同じだったはずだ。

 

「那津、すまなかった。お前も芭澄を失って辛かっただろうに、ずっと私の傍にいてくれた。ただ死んでいこうとしている人間を、見守ってくれていた。それなのに私は、お前を芭澄に頼まれたことも、忘れていたよ」

 

 穢れのない、黒い瞳。芭澄の瞳も、同じような綺麗な色をしていた。見ていると、吸い込まれそうな気持ちになったものだ。

 

「教えてくれ。俺は、次はどこへ行けばいい。多分、何かしら芭澄に、縁のある場所なのだろうと思う。何も知らずに連れられて行くなんてことは、したくない」

 

 しばらくして、那津が小さく声を発した。

 狭霧山。それが、初めて聞いた那津の声だった。




 いよいよ原作キャラとの絡みが増えて参りました。


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20話 霧煙る山の麓

 プロット上、鬼を除けば、この人が最後のオリキャラになる予定です。


 東京府から離れた翌日、ついに、雪が絶え間なく降り始めた。今はもう、見えるものの殆どが、白く染まっている。

 

 武仁(たけひと)は今まで通り、野宿を続けていた。積もった雪に穴を掘って、寝場所を作るのだ。

 震えるほど寒い夜は、あらゆることを考える。かつて、笛を吹いていた時のようにだ。

 

 このところ考えるのは、自分の責務や使命とは何か、ということである。煉獄瑠火に、考えろと言われたことだった。

 何度、夜を過しても、これという答えは出なかった。すぐに出るようなものが、答えであってほしいとも思わない。

 多分、生きてさえいれば、見えてくるものもあるだろう。

 

 そうして、那津(なつ)を追っているうち、目的地の狭霧山が遠くに見えてきた。全体が白く、頂は厚い雲に覆われていた。それなりに、標高がありそうだった。

 

 ここで、自分は何をすればいいのか。そう思いつつ、狭霧山の裾野の道を歩いていた時、森の奥から強い気を感じ、武仁はとっさに身構えた。

 それは、血の臭いや、殺気を孕んだものではなかった。真っ直ぐなまでの、闘気。まともに感じなくなって、久しいものでもある。

 

 武仁は、引き寄せられるように、森の奥へと踏み入った。その間も、闘気のぶつかり合いは続いている。しばらく木々の間を進むと、丸く拓かれた場所に突き当たった。

 そこで、宍髪と黒髪の少年達が、木刀で立合っていた。姿は幾度も交錯し、木刀とは思えない鋭い音を立てている。

 

 武仁はしばし、その立合いに見入っていた。

 宍色の髪の少年の剣技は、見ていて凄まじいものだった。力だけでなく、技の鋭さも、並のものではない。

 立ち合いと言っても、その少年が、もうひとりの黒髪の少年に、激しく打ちかかっているようなものだ。自分が感じた闘気も、宍髪の少年から強く発せられている。

 

 しかし武仁は、そのもう一方の黒髪の少年に、注目していた。

 宍髪の少年は、確かに強い。息継ぐ間もない猛攻を、かけているのだ。しかし、その攻撃を冷静に、幾度も受け止め、凌いでいる。

 

 それが、どれほど困難な事か、武仁にはよくわかっていた。

 攻撃を刀で受け止めたり、流したりするのは、見た目ほど簡単なことではない。棒のように力任せに扱えば、簡単に刀は折れるのだ。

 

 黒髪の少年は、木刀とはいえ、それを淡々とした顔でやってのけている。真剣の扱いも、なかなかのものだろう。正統的な剣士としての動きに、近いのかもしれない。

 一度、激しくぶつかり合い、直後に2人が距離を取った。

 

「行くぞ、義勇!」

「ああ」

 

 宍髪の少年が叫び、気合を発すると、義勇と呼ばれた少年も静かに応じた。

 2人の呼吸が、同時に深いものになる。風のような呼吸音に、武仁は思わず眼を見開いた。

 

 

  全集中 水の呼吸・弐ノ型 水車

  全集中 水の呼吸・陸ノ型 ねじれ渦

 

 

 跳躍し、宙を舞う宍髪の少年。弧を描いて振り下ろされてきた木刀を、黒髪の少年はその場を動くことなく、受けきった。2度。木刀が、激しく打ち合う音が響いていた。

 

 武仁は、内心で舌を巻いていた。それだけ、少年たちの動きは凄まじいものだった。

 水車の基本は、縦方向の回転と同時に、周囲に一撃を入れる技のはずだ。しかし宍髪の少年は、初撃を弾かれるのと同時に、さらに回転を加えて2撃目を入れていた。

 

 黒髪の少年は、全身を限界まで捩じり込むと、戻す勢いを使って木刀を周囲に放ち、連撃を防いだのだろう。

 しかし、水の呼吸の陸ノ型は、本来水中で真価を発揮する技だと、師匠から聞いた。それを、地上でもこれだけ見事にやってのけている。

 

 動と静。形は違うが、2人とも優れた才能を、持っている。水の呼吸の剣士としての才能は、芭澄すらも凌いでいるのかもしれない。

 

 宍髪の少年が着地し、向き直ると、互いに木刀を納めて一礼した。立合いは、終わりということだろう。

 

「また、腕を上げたな。義勇」

「まだまだだ。まだ俺は、錆兎には勝てない」

「そんなことはないぞ、義勇。俺たちは、もっと強くなれる。俺たちが、2人でいれば、きっと誰にも負けることはないさ」

「昨日、あの人に、あれだけ叩きのめされたのに、もう忘れたのか。錆兎らしいよ」

「それは、言うな。鱗滝さんが、あんな人と知り合いだったなんて、俺は思ってもいなかったんだぜ」

 

 鱗滝。錆兎と呼ばれている少年の言葉を聞いた瞬間、武仁の背筋を何かが走った。手鬼が憎悪し、その志願者をつけ狙っているという育手の姓だ。

 

 そして、これは偶然ではない、と武仁は思った。

 煉獄家から続けて、自分を狭霧山へ向かわせた産屋敷燿哉の判断には、必ず何かの意味がある。その思いは、確信に近いものになった。

 

「すまない、2人とも」

 

 木々の間から現れた武仁を、2人が見上げてくる。

 

                       

 

「ふうん。あんた、御影武仁っていうのか」

「呼び捨ては失礼だ、錆兎。鬼殺隊の、隊士の人なのに」

 

 錆兎を、素早く冨岡義勇が窘めている。

 森から出て、3人で並んで道を歩いているところだった。

 

「構わない、義勇。私は隊士だが、君達2人と、そう歳は離れていないのだし」

 

 2人は孤児だった。鱗滝左近次に拾われる形で入門し、共に鬼殺隊士を目指しているらしい。2人とも、13歳だという。

 自分は5歳で師匠に拾われ、師匠と共に生きてきた。今は、16歳である。

 

 2人は武仁に鬼殺隊の事を、聞きたがった。特に錆兎が、次々と質問を振ってくる。

 

「武仁は、何の呼吸の使い手なんだ? 俺と義勇は、水の呼吸の稽古を積んでいる」

「私は、全集中の呼吸の流派は、ほとんど使えない隊士だ」

 

 錆兎と義勇が、同時に首を傾げたので、武仁は日輪刀を少し抜いてみせた。色の変わっていない刃を見て、その意味がよくわかったようだ。

 

「錆兎、義勇。私には、君達2人のような才能はない。適性もない。それは鬼殺隊に入る前から、師匠に言われていたことでもある。それでも入隊し、何とか生きていた」

 

 入隊してからの1年間は、ただ生きる事に必死だった。その生きるために戦っていた日々は、いつの間にか、遠いものになっている。

 

「生き延びるだけ力が、自分にはある。そう思い込んでいた甘さを、私は思い知らされた。一度は、全てを投げ出そうと思ったほどに」

「武仁も、失っているのか。多分、俺たちのように」

 

 義勇が、ぽつりと言った。

 敢えて、聞かなかった事である。錆兎と義勇ほどの歳の子供が、なぜ育手の下にいるのか。少し考えれば、鬼が絡んでいることは、想像に難くなかった。

 しかし、鱗滝という育手がいて、互いに友人がいる。それは、幸せな事でもあるはずだ。

 

「それでも、私を進ませてくれる人がいた。失った者とはもう会うことはできない。だが、死んだ者たちは、心の中で生きているのだ、と。それに、死ぬことの方が、ずっと簡単だ。私は、とにかく生きていようと思う。そうすればいつか、自分の生きる意味や為すべきことで、見えるものがある。そう信じている」

「そうだ。それでこそ、男だ。武仁は、弱くない。強い男だ、と俺は思う」

「ありがとう、錆兎」

 

 錆兎が、はにかんだような笑みを浮かべた。

 男らしさ。まるで朱雀のようなこだわりを持っているのは、すぐに分かった。それに木刀を持たせると、はっとさせるほどの闘気を放つ。しかし笑顔は、年相応の少年のものだった。

 

 そのまま道沿いに、狭霧山の裾野を巻く様にいくらか登ると、眼の前に茅葺の家が現れた。屋根に、那津が降り立っている。

 

「ただ今戻りました、鱗滝先生」

 

 錆兎や義勇に続けて、武仁も訪いを入れた。

 土間から上がったところの囲炉裏を、2人が囲っていた。赤い天狗の面をつけた白髪の男。それと、もうひとりである。こちらに背を向けていて、顔は見えなかった。

 

 2人とも水色の羽織を着ていて、手練れの気配がある。それは、内に秘めてもいるようだ。

 

「私は鬼殺隊士、御影武仁と言います。御屋形様の御依頼により、参りました」

「ほう。遠路はるばる、よく参られた。儂は鱗滝左近次。今はこの通り、育手を務めている。だが、御屋形様の御依頼とは、一体いかなることか」

 

 そう言われて、武仁は改めて戸惑いを覚えた。

 狭霧山に行けと言われて、那津はここに自分を導いた。だが、ここで何をするのかは、誰も知らないのだ。あの手の鬼のことを、話せばいいのだろうか。

 

「用件というのは、俺の事だろう」

 

 不意に、背を向けていた方がそう言い、振り返った。

 壮年ふうの、男。やはり、ただ者ではない。振り向けてくる眼には、不敵な光がある。

 

「俺は水柱、瀬良蛟(せらみずち)。お前とは、初めましてだな。尤も、芭澄(はすみ)から名前は聞いていたが」

「水柱様でしたか。私は」

「口で、語らう必要はなさそうだ。その眼。見るべきものは、一応見てきたらしい。ちょっとでも腑抜けた、死人のような面をぶら下げてきたら、叩き出してやるつもりだった。だが、考えが変わった」

 

 そう言い、右手で湯飲みを傾けると、瀬良は立ち上がった。

 その上背は悲鳴嶼ほどではないが、武仁よりも頭ひとつ以上は大きい。いつの間にか、右手で木刀を握りしめている。

 

「義勇。お前の木刀を、御影に渡してやれ。これから俺が、稽古をつけてやることにする」

「はい」

 

 武仁は荷物と日輪刀を家の中に置くと、義勇から木刀を受け取り、瀬良に続いて外に出た。

 

 相変わらず、雪が降り続けている。薄く、雪が積もった家の前の広場で向かい合った。他の3人は、家の前に立っている。

 

「御影。お前は、上弦の鬼と遭遇したが、柱と戦ったことはあるか」

「はい。岩柱様と立合った時は、互いに真剣で」

「そうか。一応言っておくが、この稽古を木刀でやることに、深い意味はない。俺は、悲鳴嶼以上に、手加減というものができん。うっかり稽古で隊士を殺して、後で会議など開かれてつべこべ言われるのが、面倒なだけだ」

 

 もっとも、木刀でも十分に人は殺せる。最後に付け足すように言うと、瀬良が構えた。

 半身。左手を体で隠し、右手1本で、木刀を正眼に構えている。ちょっと、体を動かした。しかしそれだけで、息苦しいほどの圧迫感が、武仁に襲い掛かってきた。

 

 その、押し寄せる圧力に抗うように、武仁は木刀を低く構えた。あらゆる動き方を自分なりに考えた結果、この構えが最も馴染んだのだ。

 眼に見えない何かが、互いにぶつかり合い、固着した。降り積もる雪以外のすべてが、止まったように感じた。いや、呼吸だけは、止めていない。

 

「見せてみろ、お前の戦いを。お前が見聞きし、教わり、経験したもの全てを駆使して、俺と戦え」

 

 声。瀬良の口が動いているのが、信じられないほどだった。自分は、足を1歩も踏み出せそうにないほどの、重圧を感じているのだ。

 滲みそうになる眼を、見開く。瀬良の全身を、視界に収めるようにした。そして、呼吸を続ける。踏み込んでいきそうになる足を、武仁は雪面に押し付けた。

 

 耐えた。押しかかってくる重圧を、徐々に受け流していく。それで、どれだけの時間でも耐えられる。

 

 瀬良の右肩。少し、低くなった。その動きを感じた瞬間、武仁は地を転がった。水柱の木刀が、眼の前から振り下ろされてきていた。その切っ先が、地面すれすれで返り、這うように追ってくる。

 

 掬うような斬撃を、武仁も木刀で、受けた。片手だけなのに、途方もない力が込められている。すり足で体を下げ、衝撃を殺す。それでなんとか、木刀を飛ばされずに済んだ。

 

 一度離れると、すぐに瀬良の方から踏み込んできた。やはり、半身。口元には、冷ややかな笑みを浮かべている。

 

 瀬良の斬撃は、変幻自在を極めていた。さっきまでの静かな対峙が、嘘のようだ。

 武仁は、何とか食らいついた。木刀で受けるときは、両手で把持する。躱せないものは、身を投げるようにして、地をごろごろと転がった。

 

 無様でもいい。切られさえしなければ。そして、死にさえしなければ。

 隊服が、余すところなく、濡れていた。髪も履物も、泥まみれである。足元の雪が蹴散らされ、黒い地面が剥き出しになっていた。

 

「そうだ。生きるためなら、地べたでも這え。泥水でも啜れ。芭澄から聞いた。お前は、全集中の呼吸が使えない。日輪刀の色も変わっていない。そのくせ、人助けをしたいのだ、とな」

 

 瀬良の声。口とは別に、木刀が襲い掛かってくる。まるで浜に打ち寄せる、波のようだった。凌いでも、躱しても、止むことは決してない。

 

「見ておけ、錆兎、義勇。鬼殺隊は、一千年の歴史の中、幾度も負けた。負け続けてきた。しかしその度に、我々の先達は立ち上がってきたのだ。最後に、鬼共に勝利するために」

 

 声は聞こえていたが、内容は武仁には理解できなかった。瀬良の動きに、全ての集中を向けていた。徐々に体は熱くなり、動きすぎる程、動くようになっている。

 絡み合うように3度、木刀で打ち合った。互いに切っ先を下へ向け、鍔競る。やはり片腕とは思えないほどの、とんでもない力が込められていた。

 

「鬼殺隊を支えているのは、俺たち柱だと言うものもいる。だが、土台なき柱は、ひとりでに朽ちて、倒れるだけに過ぎん。真に鬼殺隊の戦いを支えてきたのは、この御影のような隊士達だ。誰しもが鬼への怒りや憎しみ、そして人を想う気持ちを糧に、生きて戦い続けてきた」

 

 べらべらと、そんなに喋っている余力があるのか。武仁はひと時全力で押し、直後に、すべての力を抜いた。圧倒的な力で弾かれた木刀が、宙を舞う。

 

 同時に、踏み込んでいた。瀬良の右肘を、小脇で固める。力を込めた瞬間、瀬良の右腕がするりと抜け出した。さらに、取り落とした木刀をつま先で蹴り上げ、再び右手でつかみ取っている。

 唖然とするほどの、滑らかな動きだった。錆兎と義勇が、驚きの声を上げている。

 

「一般隊士のわりにいい動きだが、まだ甘い。何のために、鬼と戦う。その程度では、生き残ることなど、とてもできんぞ。お前が死ねば、他の者は、どうなると思う」

 

 瀬良の姿勢が、また低くなる。瞬時に、眼の前に姿が現れた。木刀。雪を巻きながら、迫ってくる。

 

 相手は全集中の呼吸も使っていないとはいえ、柱だ。もう、十分戦ったではないか。

 どこでもない、内からそういう声が聞こえてきた。

 

 まだだ。その声を振り切るように、武仁は身を後ろに反らした。2撃、3撃と襲ってくるが、雪を蹴立てるように転がり、躱した。

 

「考えろ。お前のこの無様な戦いは、一体何のためだ。芭澄がなぜ、死んだのかではない。お前は、何のために生きて戦うのだ」

 

 瀬良の声が、はっきりと聞こえた。それと同時に、師匠。朱雀。芭澄。煉獄家の面々。悲鳴嶼行冥。御屋形様。あらゆる光景、あらゆる声が、まるで走馬灯のように去来した。

 

 すると、別の言葉が湧いて出た。

 俺は生きる。生きて、生き延びて、ひたすらに戦い抜く。人の死すらも乗り越え、ただ戦う。その果てに、人を助けるために。

 

 師匠から独り立ちし、唐突に仲間を喪い、結局はそこに戻ってきた。最初から、答えなど出ていたのだ。

 堂々巡りしたこの想いが正しかったのか、否か。それも、生きていれば分かる。

 

 転がり抜いた先。雪の中に埋まっていた木刀を、武仁は掴み取った。

 呼吸はほとんど使えないだけで、使えるものもある。常中はひと時も途切れていない。この技は、いつでも放つことができるのだ。

 

 振り返ると、瀬良の半身は、すぐそこにあった。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 立ち上がるのと同時に、跳んだ。己の全力を込めた、壱ノ型。回避など許さないほどの、間合いである。それに対し、瀬良は左腕を突き出してきた。

 馬鹿な。左手を、捨てる気か。そう思った瞬間、武仁の木刀が粉々に砕け散った。破片は雪に紛れ、消えていく。

 

 馬鹿な。再び、思った。僅かな柄と、硬いものにぶつかったような感触だけが、掌に残っている。そして、瀬良の姿は健在だった。

 

 

  全集中 水の呼吸・捌ノ型 滝壺

 

 

 最後に見たのは、木刀を振り下ろしてくる、瀬良の笑顔だった。




 気を失って終わる話、多すぎる問題。


 先日、誤字報告機能というものを使っていただきました。
 恥ずかしいことに、キャラの名前を間違っていたのですが、指摘していただけるほど読んでいただけていたことに、感激しました。
 それにしても、誤字報告機能は面白い機能ですね。どしどしと、使ってみてください。


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21話 水柱との約束

 とりあえず、オリキャラが出たので、掘り下げます。


 眼が覚めた。見たことのない天井と、旨そうな匂い。

 少し前にも、同じようなことがあったような気がした。ただ、違うものもある。

 

「おう。こいつめ、明日まで寝ていればいいものを、食い意地で起きたぞ」

 

 まず、笑い声が聞こえてきた。すぐに、笑顔の男が、視界に入り込んでくる。

 この男は、水柱の瀬良蛟(せら みずち)。ここは、狭霧山の鱗滝左近次の家。家の表で瀬良と立合い、木刀で打ち倒された。

 何があったのかは、はっきりと思い出すことができている。このところ、何かと気を失うことが多かった。

 

 体を起こすと、頭がくらくらした。額に手をやると、いくらか腫れていて、熱を帯びている。

 武仁(たけひと)の背中を、何か硬いものが叩いた。

 それが、瀬良の左手だった。

 

「一般隊士で、俺の奥の手を使わせたのは、お前が初めてだった。褒めてやる」

「水柱様のその腕、義手だったのですね」

「そうだ。生身より便利な時もある、自慢の左腕さ」

 

 相当硬い素材でできているのか、自分の全力で放った水面斬りを平然と受け止めた。まるで岩にでも叩きつけたような硬さで、木刀が跡形もなく砕け散ったのだ。

 

「蛟、武仁。起きたのなら、こっちへ来い」

「わかりました、先生」

 

 鱗滝の声がした。

 腰を上げると、さらにひどい眩暈が襲ってくる。何度か呼吸を繰り返すと、それでようやく、頭の中がすっきりとした。

 

 全員で、囲炉裏を囲った。湯気の上がっている鍋が、火にかけられている。武仁のほか、瀬良、鱗滝、錆兎、義勇だった。

 錆兎と義勇は、流石に旺盛な食欲で、がつがつと飯にありついている。

 

 武仁は食事よりも、瀬良や鱗滝と、話し込んでいた。師匠と旅を始めてからのことも、余すところなく喋った。

 瀬良蛟という男は、陽気で、饒舌であり、そして口が悪かった。辛辣なことも、平然と口にする。だが不思議と、嫌な感じはしなかった。

 

「そうか。瑠火殿の容態は、それほどに」

 

 煉獄家のことを話したときは、流石の瀬良も、表情を曇らせた。

 

「私ももう、瑠火様に会うことはない、と思います。私の、気持ちの中でのことですが、別れは済ませました」

「それも、仕方あるまい。人間、最後に待っているのは、別れと死だ。覆しようのない結末を前にして、何ができるのか。その点、瑠火殿は見事に生きている、と俺は思う」

「炎柱様は、かなり弱っているようでしたが」

「気にするな。どうせ、何か取るに足らないことでも、気にしているのだろうよ。ああいう熱のある人は、最初から硬い芯がある分、風向きが変われば、それだけで簡単に折れるところがある。俺みたいに、片腕を持っていかれても、しぶとく生きている奴もいるというのにな」

 

 瀬良はそう言い、左手に乗せた椀を持ち上げると、箸で中身を掻っ込んだ。

 肘から下が全て作り物で、鬼殺隊の刀鍛冶が鍛えた鉄で、作られているらしい。しかし一見では、見分けがつかないほど、器用に扱っている。

 

「お前は相変わらず、継子は取っていないようだな」

 

 赤い、天狗の面の下から、低い声が聞こえた。

 いつの間に食ったのか、鱗滝の椀は空いていた。

 

「先生。俺はもう継子なんてのは、ご免なんですよ。柱になるような奴は、己の才覚で上がってくるものでしょう。何も、俺と一緒に死地に飛び込む必要はない」

「水柱様は、鱗滝殿の継子だったのですか?」

「違う。ただ俺は、先生の次の代の、水柱だ。先生と呼ぶくらいの、縁はあったと思っているが」

「何が、縁だ。お前が、勝手に儂の近くを、うろうろしていたものを」

「ええ。それでも、先生のお陰だと思っています。片腕でも、柱なんてのを続けていられるのは」

 

 食事を終えると、錆兎と義勇が、こくりこくりと船をこぎ始めた。2人は相当に厳しい鍛錬を、積んでいるようだ。夜は寝る事しかできないというのも、よくわかる。

 

 瀬良が錆兎を、武仁は義勇を抱え上げると、家の奥に敷かれた布団まで運んだ。目覚める様子は全くない。2人とも、穏やかな息を立てて、寝入っていた。

 

「先生が育手として感じているものと、同じものを、今の俺も感じていると思います」

 

 火を囲むのが、3人になった。鱗滝が茶を淹れて出してくる。

 

「先生が育てて送り出してきた志願者と同じように、俺の継子も、大勢死にました」

 

 鱗滝の天狗の面が、微かに左右に動いた。

 

「どいつもこいつも、どれだけ鍛えてやっても、鬼憎しの気持ちに誘われて、どこかで必ず無茶をする。そして、満足した面で死んでいく。馬鹿馬鹿しいでしょう。格好つけて死ぬことの手助けは、柱の任務ではない」

「さっきのお前は、鬼殺隊を支えてきたのは、武仁のような隊士達だと、言っていたな」

「良いんですよ、武仁の前では」

 

 瀬良の声が、ふいに別の感情を帯びたように聞こえた。その理由をちょっとだけ考えたが、分かるわけがなかった。

 ただ、瀬良が自分を名前で呼んだことに、武仁はすこし経ってから気づいた。

 

「それに、俺は言ったはずですよ、先生。隊士が、生きて戦い続けたのだと。一度継子になったのなら、柱よりも長く生きる義務がある。そもそも俺は、そう思いますよ。それを分かっていない奴が、多すぎるんです」

 

 瀬良は弱音を、吐いている訳ではない、と武仁は思った。多分、正直な人間なのだ。常に腹を割って、話している。時に辛辣な口は、その表れなのだろう。

 

 多分、今まで継子たちを死なせたくなかった。そして、これからも。だから継子は取らない、ということなのだろうか。

 しかしひとりだけ、瀬良の思惑を乗り越えようとしていた者がいた。

 

芭澄(はすみ)と、継子にする約束をしていた、と聞きました。任務の後に、私を引きずってでも連れてこいと。そうすれば、継子にすると」

 

 瀬良は、その自分の言葉に、即答しなかった。

 横から見た瀬良の眼の周りは、細かい皴が刻み込まれ、軽く吊り上がっている。笑っていなければ、相当の威圧感を与えるだろう。その鋭い眼は、囲炉裏で立ち上る、赤い火に向けられていた。

 

「今更、お前に話すことは、多くはない。ただ、俺はあの娘の強くなりたいという気概を認めたし、芭澄は俺の言う通りにしようとした。そして、お前は俺の前に現れた。なら俺も、約束を守ろう。芭澄は、俺の継子だ。たとえ死んでいても、そう認める。誰にも、文句は言わせない」

「ありがとう、ございます。その言葉を、芭澄は喜ぶと思います。きっと、那津も」

「お前も、継子が何だというのか。お前が生きていることの方が、あいつは喜ぶだろう」

 

 一瞬、芭澄の顔がよぎったが、武仁は湯飲みをぐいと傾けた。温い茶が、喉を潤していく。

 瀬良はこちらを見て、また口元で笑っていたが、一言も発しなかった。鱗滝も、黙っている。

 錆兎と義勇の小さな寝息と、炭がぱちぱちと立てる音。それだけが、頭上を流れている。

 

                       

 

 布団で横になるのは、悲鳴嶼邸で寝かされて以来のことだった。その温もりの中で、かなり深い眠りに落ちていたはずだ。

 しかし、眼が覚めた。何かに、呼ばれた。そんな気がしたのだ。

 

 武仁は寝床から出ると、履物に足を押し込み、音を立てないように外に出た。

 月光と降り注ぐ雪の中に、人影がある。

 

「瀬良様」

「おう、出てきたか」

 

 瀬良が、にやりと笑った。

 黒色詰襟の隊服に、水色の羽織を引っ掛けている。羽織は左腕のところが、少しだけ長い。腰には、日輪刀を佩いていた。

 

「お前、自分の最終選別で遭遇した異形の鬼のことを、覚えているか?」

「はい。鱗滝殿の、志願者を狙っていると、奴は言っていました」

「錆兎と義勇は、来年の選別に行くことになっている。このままでは、戦うことは避けられまい。俺は聞いただけだが、そいつと戦ったとして、あの2人が生き残れるかどうかは怪しいものだな。才能が多少人よりあろうが、まだ小童に過ぎん」

「だから瀬良様は、あの2人を鍛えるために、来ていたのでは?」

「俺は柱だ。つまり、忙しい。隊士でもない、志願者の相手をしている時間はない。そこで、お前の出番だ。どうせ何も任務を受けてないのだろう。お前が、何とかしてやればいい」

「しかし、私にはどうすればいいのか」

「人に聞くな。自分の頭で考えられないのか」

 

 遮るようにそう言うと、左手で肩をどつかれた。瀬良の顔はしばらく、神妙な表情を浮かべていたが、すぐにまた破顔した。

 

「鱗滝先生なら、そう言うだろうよ。まあ、深刻に考える必要はない。せいぜい志願者が2人、危険に晒されるだけだ。これまで最終選別で死んできた人間に比べれば、取るに足らない数だ」

「やるなら、これも人助けです。私は、錆兎と義勇のことが、取るに足らないとは思いません」

 

 瀬良のような開き直りは、自分にはできない、と武仁は思った。錆兎や義勇とは、わずかだが共に時を過ごし、人となりを知ったのだ。

 それにもし、今ここで何もしなければ、自分が生きる意味は本当に失われてしまう。立ち直った意味も、失われる。そんな気がした。

 

「なるほど、人助けか。錆兎と義勇の命が惜しいなら、俺が今から藤襲山に行って、鬼共の頸を全て刎ねれば、それで済む話だ。だが、そんなことに何の意味がある。人を助けるとは、そういうことではあるまい。それに、錆兎と義勇以外の志願者はどうなる。その顔も知らない志願者まで、お前は守れるのか」

「何もかもから守る。そんな必要はない、ということですか」

「お前に、それができるのであれば、俺は何も言わん。だが、できまい。これも芭澄に聞いたことだが、お前が最終選別でやったことと、その結果を、思い出してみろ」

 

 瀬良の言いたいことが、少しわかってきた。

 自分は朱雀(すざく)や芭澄と共に、最終選別で死んでいく志願者を減らそうとした。それは、鬼を全て倒すのではなく、傷ついた志願者を助けるという形でやったのだ。

 それでも、結局生き残れたのは、4人だけだった。だが、それ自体に後悔はない。

 

「俺がお前の立場だったとして、同じことをするつもりはない。だが、お前たちがやったことが、無駄だったとも思わん。お前は、自分にできる事を、全力で為せばいい。それで、錆兎や義勇が死んだとして、誰がお前を責められる。もし責める者がいれば、それは水柱である、俺が許さん」

 

 不思議な、心持ちだった。瀬良の言葉は時に厳しく、こちらを強く突き放すようで、優しさもまた感じるのだ。

 

「わかりました。錆兎と義勇のことは、私ができることをやってみます」

「それでいい。お前がやりたいように、人を助けてみろ」

 

 そう言い、瀬良は背を向けた。その大きな背中に、武仁は声をかけた。

 ひとつ、聞きたいことがあったのを、思い出したのだ。

 

「瀬良様は、私のことを、本当にご存じなかったのですか?」

「どういう意味だ。俺は、お前などに、会ったことはない」

「先ほど、私のことを、武仁と呼ばれました。知っている人間に、呼びかけるように聞こえたのです。無論、気にしすぎたのかもしれませんが。しかし、他に私に会いたがる理由が、全く見つからないのです」

 

 するとまた、逡巡するような顔になった。何か思うときは、笑顔を浮かべなくなる。瀬良には、そういう癖があるのかもしれない。あるいは、こちらが素顔なのか。

 しばらくして、瀬良が口を開いた。

 

「お前と同じ名前で、同じく呼吸法の適性がなく、色が変わっていない日輪刀を持っている。そういう男を、俺はひとり知っていた。尤も、武芸の腕は、お前とは比べ物にならん程、長じていたがな」

「それは、誰なのですか?」

 

 その言葉を聞いて、勝手に声が震えはじめた。だが、聞かずにはいられなかった。

 

「名は、武人と書いて、武人(たけひと)という。俺の同期の隊士だった。適性がないにも関わらず、水の呼吸を自在に使いこなしていた。そいつは嫌がっていたが、いずれは柱になれただろう」

「その方は、今はどこに?」

「知らん。ある日、鎹鴉ごと姿を消した。だがそれは、鬼殺隊では珍しいことではない。行方不明になった柱など、大抵どこかで死んでいるのだ。俺も、あの男は死んだと思っている」

 

 瀬良から聞いた話は、明確に武仁の中でひとつの男の像を結んでいた。

 武人という、元鬼殺隊士。それが、自分の師匠の、正体なのか。正式な育手ではない。それは、薄々とだが感じていたことだった。

 

「芭澄から、お前のことを聞いて、まさかと思った。俺がお前に会いたかったのも、それが理由だ。あるいは、奴が帰ってきたのか、とな」

 

 まあ、似ても似つかない小僧だったが。再び、そう笑いながら言うと、瀬良の姿は忽然と消えた。去る前の、僅かな呼吸音だけが、耳に残った。

 

 外は、降り続けている雪が他の音の全てを吸い込んだように、静かだった。独りになると、静寂を色濃く感じる。立ち尽くしていると、自分だけが宙にでも浮いたような、そんな感覚に包まれてくるほどだ。

 武仁はしばらくの間、その感覚に身を委ねた後、家の中に戻った。

 規則正しい寝息が2つ、よく聞こえている。




 拙作でも、原作キャラクターの生存を、可能な限り試みていきます。


 なお、元々は鱗滝さんに手鬼がいるから後よろしくぅ!するだけでした。
 書けば書くほど、プロットがぼろぼろになります。


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22話 水の子ら・冨岡義勇

 自分なりに原作と向き合った結果、錆兎より先に、この人を何とかする必要があると思いました。


 瀬良(せら)を見送った翌朝、武仁(たけひと)は朝食の後、鱗滝に声をかけた。

 

「しばらく、ここでお世話になっても、構いませんか?」

「お前は、御屋形様の御依頼で来ているのだ。儂が、何か言うこともない。好きにするといい」

「錆兎と義勇の、稽古の相手をします。隊士として、彼らに教えられることも、あるかもしれません」

 

 鱗滝が、手鬼のことを知っているかどうかは、分からない。お前がやれ。そう言っていた瀬良のやり方なら、稽古はつけても、具体的なことは何ひとつ伝えていないような気もした。

 弟子を付け狙っている鬼。それを、そのまま鱗滝に伝えるほど、単純とは思えない。ただ、鱗滝の方も何か感じてはいるだろう。

 

 赤い天狗の仮面は、何も言わず、ただ頷いた。

 

                       

 

「瀬良様は、忙しいとのことだ。俺で良ければ、君達の相手をしよう」

「そういうことなら、俺は武仁とも戦ってみたい」

「俺も。よろしく、お願いします」

 

 武仁は木刀で、錆兎や義勇の打込みの相手をした。

 この2人は、やはり強い。実際に向かいあうと、そのことがよく分かった。自分が2人の歳だった時には、こんな武術は身に付けてはいなかった。

 

 ただ、気になるところも、少しずつ見えてきた。

 錆兎は、膂力も剣技も優れたものを持っていたが、力任せなところがある。それに、自分の実力に対して、相当の自信を持っていた。

 

 義勇は実際に戦ってみると、いくら何でも守りに傾きすぎている。それも、剣士との立合いでの話だ。

 選別で相手にするのは、鬼である。その攻撃を防ぐというのは、剣士の斬撃を捌くのとは訳が違う。得物など持たない雑魚鬼であれば、それはなおさらの事だった。

 

 さらに数日、錆兎と義勇の稽古を見ていた。その間に何度か、鱗滝が直接指南している。それでも、2人に対して抱いた気がかりは、少しも消えていかなかった。

 

 その間も、雪は絶えず降り続けていた。瀬良が立ち去ってからずっと、雲は重く垂れ込めていて、払われる様子はない。

 

 年の瀬が、迫っていた。来春までには本部に戻らなければならないし、この2人は最終選別がある。

 

 錆兎を動とすると、義勇は静。最初の印象はそのまま、戦い方にも表れている。しかし、それは2人の長所である反面、互いに高めあった結果生じた、癖のようなものとも思えた。

 

 このままでは、義勇は鬼との戦闘で、不意の一撃を喰らいかねない。それに錆兎は、なまじ強いだけに、突っ込んだ挙句、あっさりと死ぬかもしれない。そんな気がした。そうでなくとも、手鬼と戦うことになるかもしれないのだ。

 

 今の2人では、勝てない。水柱である瀬良は、それを見抜いた上で、そう言い残したのかもしれない。

 

 自分はあの2人に、何をしてやれるのか。

 歴代の弟子たちをつけ狙っていた鬼の存在を伝えたところで、怒りで眼が曇るだけだろう。人が、簡単に強くなることはないのだ。それは、芭澄(はすみ)に言われたことだった。

 

 ならば他に、何ができるのか。

 自分は、どうだったか。まず、それを考えた。師匠は立合いの中の癖や隙を、決して見逃さなかった。そして、容赦なく木刀や拳で、打ち据えてきたのだ。挙句、一度は、死すれすれまで追い込まれたこともある。

 

 自分も同じように、あの2人を鍛える。それしか、思いつかなかった。

 今ならまだ、自分の方が強い。全集中の呼吸の技では比ぶべくもないが、体力や膂力については、圧倒しているはずだ。

 

「今日の夕刻、私はここを発とうと思う」

 

 ある日、朝食の前に、武仁からそう切り出した。

 錆兎と義勇が、大きな声を上げ、見上げてきた。鱗滝は囲炉裏の反対で、ちょっと視線を投げかけてきただけである。

 

「俺も義勇も、選別が終わるまで、武仁は居てくれるかと思っていた」

「すまないな、錆兎。春までには、行かなければならないところがある。そういう約束で、今の私は隊の任務を外れているんだ」

「約束なら、しかたないな。今日は、武仁に稽古をつけてもらいたい。本気の武仁と、俺は立会ってみたいんだ。なあ、義勇」

「うん」

 

 錆兎はその気になっているようだが、義勇はそれほどでもないらしい。錆兎ほど、戦うことが好きなわけではないからだろう。そういう反応の違いも、言われる前から分かる。

 それくらい、2人の人となりは、掴めていた。

 

 武仁は、2人の光るような視線を受け止めながら、昨晩決めた覚悟を、思い返していた。

 心を、鬼にする覚悟。それで、この2人を強くする。

 鱗滝の鍛錬では、まだ足りない。限界まで追い込むことは、しないのだ。無口だが、鱗滝左近次という育手の優しさが、滲み出ていた。

 ここは、自分が鬼になるしかない。

 

「食事が終わったら、まず義勇からだ。木刀を持って、いつもの稽古場に来い。ただし、独りでだ。私は、先に行っている」

 

 それで構わないか、と鱗滝に視線を投げた。天狗の面が軽く上下する。それを確認してから、手早く食事を腹に入れ、武仁は鱗滝の家を出た。

 

 狭霧山。その裾野の森にある、丸く拓かれた場所。日々の稽古で雪が踏み固められ、かなり足場は硬くなっている。

 その片隅で、座禅を組み、瞑目した。武仁は呼吸をさらに深め、心気を研ぎ澄ました。

 

 結局のところ、どれだけ鍛えても足りないのだ。そう思った。朱雀や芭澄は自分とは比べ物にならないくらい強かったが、上弦の壱には負けた。

 錆兎も義勇も、強くなれる。いつかは、朱雀達よりもずっと、強くなれるかもしれない。ただ、それも生きていてこそだ。いつか強くなれるのと、いま強いのかは、別のことなのだ。

 

 足音が、近づいてくる。それを感じて、武仁は眼を開いた。

 すぐに、葡萄色の着物が、木々の間から姿を現した。武仁から離れたところに、義勇の小さな体が立つ。その表情は、強張っている。

 

 武仁は既に、木刀を低く構えていた。雰囲気が違うのは、自分でも分かっていた。そうでもしなければ、自分の中の覚悟が、緩んでいきそうになる。

 

「義勇。これは、ただの稽古ではない。私は、お前たちは強いと思っている。だが、弱いところもある。それを、今から教えてやる」

 

 義勇は硬い表情のまま、こくりと頷いた。

 木刀。綺麗な所作で、正眼に構えている。

 

「では、行くぞ」

 

 武仁から踏み込み、木刀を振り上げた。それに打ち合わせた義勇の木刀を、力任せに跳ね上げる。受け流しなどさせなかった。さらに身を寄せると、義勇の襟元を掴み上げ、投げ飛ばした。

 義勇は小さな体を回して着地したが、武仁も既に眼前に立っていた。まず、木刀を弾き飛ばす。そこから、さらに打ち据えた。

 うずくまっている義勇が、呻くような声を上げている。その眼の前に、木刀を放り投げた。

 

「立て、義勇。鱗滝先生の下で修行して、覚えたのはそんなことか。お前の力は、そんなものか」

 

 どこかで、聞いたような台詞が、自分の口から出てくる。義勇の手が木刀を握りしめ、立ち上がってきた。眼の光。そこは、まだ死んでいない。

 

 何度も、ぶつかる。その度に、義勇は木刀で防御しようとしていたが、武仁はそれを許さなかった。立ち回りは、剣技だけでなく、体術も織り交ぜる。義勇もそこそこ体術の心得があるようだったが、それは攻撃に転ずるほどのものではなかった。

 

 何度か、全集中の呼吸を使おうともしてくる。呼吸音が聞こえる度に、即座に木刀を打ち落とした。技は見事なものだが、放てなければ何の意味もない。

 

「全集中の呼吸を使えば、何とかなる。強くなれる。そんな甘い考えは、鬼には通用しない。私ごときにできる事は、鬼にもできると思え」

 

 義勇は自分の言葉に、何も言わなかった。恨み言も、弱音も、一切ない。唇を噛みしめて、じっと見据えてくるだけだ。その眼が放ってくる光も、どこか弱々しくなりつつある。

 よろよろと立ち上がった義勇と、しばらく向かい合った。

 

「攻撃してこい、義勇。その木刀で、私を殺してもいい。こちらはその覚悟で、お前を打っている」

 

 しかし、義勇から攻撃してくる気配は、まったくない。構えるので精いっぱい、という感じだ。それを見て、また武仁から打ち込んだ。

 

 2合、木刀が触れた。3合目。競り合うのと同時に、義勇の木刀に手をかける。大した力はなく、簡単に木刀は武仁の手に収まっていた。

 

 義勇の表情。何が起きたかわからない、という驚き。そして、僅かな恐怖が浮かんだ。

 なぜ俺は、こんな幼子を痛めつけているのだ。人助けが、したかったのではないのか。不意に、心がどうしようもなく痛んだ。

 その心を、鬼にすると決めた。痛みなど、感じる必要はないのだ。その覚悟を再び奮い立たせ、木刀を振り上げると、また打ち据えた。

 

 死ぬことなど、本当は容易いのだ。それは、師匠の言う通りだった。

 自分のような、生きながらの死。そんなものを、この少年に感じさせたくはなかった。それには生きて、勝つしかないのだ。

 

 躱そうと身を屈めた義勇を、足から掬い上げ、さらに柄で突き飛ばした。軽い体が、何度か雪面を転がった。また蹲る。木刀を、投げ渡す。

 

「義勇!」

 

 不意に、声が上がった。首を回すと、木刀を握った錆兎が、飛び掛かってくるところだった。

 宍色の髪が、宙を舞う。唸り声をあげて襲い掛かってきた一撃を躱し、襟首を掴むと、飛び込んできた森の方へ、投げ返した。

 錆兎は動じる事なく、見事な着地をして見せた。

 

「あんた、何のつもりだ!」

「錆兎。今は、義勇に稽古をつけている所だ」

「これが、こんなものが稽古か。ふざけるな」

「お前が言いたいことが山ほどあるように、私もお前に言いたいことがある。だが、お前は後だ」

 

 錆兎の表情が歪み、右頬の傷がひきつっていた。怒り。それが強く表情に出ている。

 もとより、正義感の強い男である。豹変した自分に対して抱いているものは、困惑よりも、憤りの方がずっと強いだろう。

 

 再び跳ぶ構えを見せた錆兎を、唐突に現れた鱗滝が、手で制した。

 

「鱗滝先生、止めないでください。この男は義勇を痛めつけているだけです。俺は」

「静かにしろ、錆兎」

 

 天狗の面の奥から放たれた言葉は、相も変わらず低く、耳の奥に響くようだった。錆兎が立ち止まると、天狗の面は、次に武仁へと向いた。

 

「義勇を殺せば、お前も殺す。分かっているな」

「無論、その覚悟もできています」

 

 そう言い、武仁は義勇に向き直った。錆兎と鱗滝は、気に留めない。

 義勇はまだ、雪に突っ伏していて、何度か激しく咳き込んでいる。さっき突いた柄は、腹に入ったのだ。呼吸を立て直すだけでも、苦しいだろう。

 

「お前には、私にはない力がある。それは、錆兎に決して劣ることはない。己の敵を討滅することができる、強い力だ」

 

 義勇が、顔を上げた。眼の端で、光っているものがある。泣いていた。そこから視線を逸らすことなく、武仁は正面から向き合った。

 

「己の力を、奮い起こせ。敵を殺す、覚悟を持て。それができなければ、お前は大事なものを、また失うぞ。いまのお前の剣技は、お前ひとりを守ろうとしているだけだ。鬼殺隊に入ってまで、そんな生を、お前は送りたいのか」

 

 たったひとりで、生き残る。その筆舌に尽くし難い虚しさは、誰に言われるまでもなく、よく知っていた。

 

 義勇が一度、激しい息をつくと、木刀を掴んで立ち上がった。そこから2度、武仁は、義勇を打ち倒し、投げ飛ばした。

 

 唐突に、義勇が跳ねるように跳び上がる。その姿と向かい合った瞬間、思わず足が下がりそうになった。先ほどとは、比べ物にならないほどの気が、義勇の小さな体から放たれている。

 

 そして、斬りかかってきた。まず、その斬撃を、武仁は受け止めた。おや、と思うほどの力が込められている。横へ流そうとしたが、義勇は木刀を引き、即座に2撃目を見舞ってきた。どちらも、剣筋には何の歪みもない。

 

 3撃目。振り下ろされてくる義勇の木刀を、撥ね上げ、さらに首元に振り下ろした。当たれば、確実に倒せる。しかし寸前で、義勇は流れるように身を捌いて、木刀を躱し、間合いの外へと姿を移していた。

 追撃する、暇はなかった。その回避と同時に、深い呼吸音が聞こえている。

 

 

  全集中 水の呼吸・肆ノ型 打ち潮

 

 

 全集中の呼吸の技。身を転がして斬撃を躱したが、その先にも木刀が迫ってくる。義勇の動きに、淀みや迷いは全くない。

 膝をついた姿勢で木刀を構え、軌道を逸らしたが、すぐに刃が返ってくる。

 

 横薙ぎだった。明確に、自分の首を狙っている。見て取った瞬間、武仁は木刀を手放し、掌底で義勇の手元を打った。1度で動きを止め、2度目で木刀を吹き飛ばした。

 

 互いに、無手。まず、義勇が木刀へと跳躍した。その裾を掴んで引き寄せ、地に叩きつける。ほとんど、全力に近い。それでも、義勇は起き上がってくる。

 最後は着物の襟で首元を締め上げ、ようやく動かなくなった。

 

 気を失った義勇を、抱え上げ、鱗滝に渡した。顔も着物も、全身がぼろぼろだったが、その表情はどこか穏やかだった。

 

 攻撃に転じてきた義勇には、もう手加減する余裕はなかった。もし最後に、木刀を握っていたら、負けていたのは自分の方だったかもしれない。そう思えるほどの力を、剥き出しにしていたのだ。

 

 武仁は雪上から木刀を拾い上げ、切っ先を錆兎へ向けた。

 

「次は、お前の番だ。かかってこい、錆兎」

 

 錆兎の眼は、怒りの炎が燃え盛っているようだった。




 なお主人公は、指導力については皆無です。


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23話 水の子ら・錆兎

 ひとつの結末を、覆すための戦いを。


 周囲が暗くなってきて、初めて、日没が近いことに気づいた。

 相変わらず、雲は垂れている。月明かりは、しばらく望めそうにない。

 

 武仁(たけひと)は、錆兎との立合いを中断すると、近くの枝をまとめて篝を4つ作った。

 円形の稽古場に、4つの明かりが灯る。それから、再び対峙した。

 

 義勇を打ち倒してすぐ、錆兎との立合いが始まった。それから、何刻経ったのか。少なくとも、昼間から日没までの間、戦い続けている。

 途中まで見ていた鱗滝は、呆れたのか、もう姿はない。

 

 錆兎の木刀。微かな動き。感じた瞬間、武仁も、木刀を握り直しつつ、少し動かした。そんな、見えるか見えないかの交錯は、絶えず続けている。

 

 錆兎の剣技は、流石のものだった。義勇のように、付け入る隙は全くない。跳躍するも、地を駆けるも、自在だった。下手に踏み込めば、簡単に一撃を入れてくるだろう。

 体格は義勇と同じくらいだが、放ってくる闘気は、鬼殺隊の高位の剣士と遜色がないほどだ。

 

 錆兎の木刀。また、動いた。今度は、気のせいではない。風のような呼吸音を響かせながら、構えに移っている。

 

 

  全集中 水の呼吸・拾ノ型 生生流転

 

 

 錆兎がその場で跳躍し、宙を舞う。1撃目は、こちらも木刀で弾いた。そこからの錆兎の攻撃は、息継ぐ間もないものだった。生生流転は、回転するごとに威力を増すのだ。

 

 何合目かには、打ち合った瞬間、体が押し込まれるほどの威力になる。武仁はあくまで、錆兎の攻撃を凌ぐことに、集中した。

 

 ただ受け流したり、躱したりするだけでは、構えを破られる。時には、体術や拳、蹴りでの牽制も織り交ぜた。

 身に叩き込んだ、生き残るための戦技。そして、生き残ることへの執念。そのすべてが、自分の武器だった。

 

 拳を、攻撃の僅かな合間に放ったが、避けられた。錆兎は着地するや、瞬時に体勢を整えて、突っ込んでくる。とても水の呼吸の遣い手とは思えないほどの、攻撃力。

 

 呼吸音。武仁は即座に、身を下げた。しかし、錆兎が迫る足も早い。

 

 

  全集中 水の呼吸・漆ノ型 雫波紋突き

 

 

 神速の突き。それが複数、ほとんど同時に襲い掛かってきた。切っ先が届く寸前、武仁は森に転がり込む。木を盾にした。背後で、枝が音を立てて、吹き飛んでいく。

 

「くそっ」

 

 錆兎が軽く、唸り声を上げた。

 対峙が、山の斜面に移っていた。明かりは無いが、眼はすぐに闇に慣れる。いつしか、雲に隙間ができていて、僅かだが月光が射しこんでもいた。

 

 雪を蹴立てて、斜面を駆けた。平場よりもずっと雪深い。足場の悪さで、錆兎の動きはさっきよりも制限されていた。

 

「武仁。あんたは、鬼殺隊の隊士なのに、そうやって逃げ回ることしかできないのか」

「逃げ回っている、か。だがこれが、私の戦い方でもある」

瀬良(せら)様は、あんたみたいな隊士が、鬼殺隊を支えてきたと言っていた。だが、そんなことがあるとは思えない」

 

 武仁は常に、錆兎との間に木が入るように立ち回った。それで相当、苛立っているようだ。おもむろに跳躍すると、木々の間を一直線に抜けてくる。

 読めていた。空中。はためく亀甲柄の着物。その袖を掴むと、その勢いのまま、雪面に投げ落とす。錆兎の全身が、それで雪の中に消えた。

 

 埋もれた方へ、一歩踏み出す。その瞬間、全身が嫌な感覚に包まれた。

 後ろ。跳ぶのと同時に、眼前で雪が勢いよく飛び散った。遅れて、呼吸音も聞こえてくる。

 

 

  全集中 水の呼吸・陸ノ型 ねじれ渦

 

 

 舞い上がった雪の中から、何か飛び出してきた。錆兎。見えたときには、木刀が上段から振り下ろされている。

 

 身を、限界まで反らした。紙一重。斬撃が抜ける。重ねるように、武仁も木刀を振り下ろしたが、錆兎は体勢を立て直している。柔らかい雪上での立ち回りに、慣れつつあるようだ。

 

 立ち上がった錆兎と、視線がぶつかった。燃えるような眼の中に、平静さも伺える。良い眼をしている、と思った。

 互いに、間合いの中にいる。その場で、激しく斬りあった。4号目。打ち合ったまま、柄で競り合った。

 

 錆兎の木刀には、明確な闘気や、殺気が込められている。斬撃だけでなく、死も迫ってくる。師匠と立合っていた時のことを、彷彿とさせるほどだ。

 降りかかってくる死を凌げるか。あるいは、踏みとどまれるのか。もたげたその問いを、即座に否定した。できなければ、こうして戦う意味もない。

 

 武仁が押し込むと、その力を利用する形で、錆兎の体も下がる。肩が上下している。息が乱れるのは、なんとか抑え込んでいた。

 雪から抜け出た時の陸ノ型は、かなり強引に放ったのだろう。雪に埋もれると、呼吸はほとんどできない。

 

 既に、昼夜戦い続けている。

 常人なら、どこかで倒れていてもおかしくない。錆兎自身の無駄な動きが少ないから、まだ耐えていられるのだろう。

 武仁には、まだいくらか余裕があった。それとて、常中を会得していなければ、とうに限界を超えていただろう。

 

「臆病、怯懦。あんたの戦いは、男の戦い方ではない」

「思い上がるな、錆兎。鬼は、お前よりもずっと強く、狡猾な存在だ。お前のいう男らしさを、鬼が相手にするとでも思うか」

「俺も義勇も、あんたとは違う。俺たちは2人とも、水の呼吸を使うことができる。鱗滝先生の教え通り、岩も斬った」

「お前は、何もわかっていない。鬼殺とは、全集中の呼吸をすることではない。岩を斬る事でもない。日輪刀で、鬼の頸を刎ねることだ」

 

 錆兎の右頬の傷が、わなないた。怒り。最初は眼の色だけで、その感情を制御できていた。今は、その気持ちに、振り回されつつある。溜まった疲労が、そうさせるのだ。

 

「確かに、あんたの言う通りかもしれない。だが、あんたは俺の友達を、義勇を傷つけた。俺は男として、それは絶対に許さない!」

「それでいい。私を、倒してみろ」

 

 だが、俺は死なん。口の中で、小さくそう呟いた。

 

 錆兎が跳ぶ。武仁は、木々の間を縫うように、駆けた。風が唸り、雪が舞う。時折、木刀と木刀が、かんと高い音を立てて交わる。再び、互いの戦技のぶつけ合いだった。

 錆兎の木刀には、どこに隠していたのか、と思うほどの力がまだ籠っている。腕程の太さの枝だろうと、小枝のようにへし折っていく威力だった。

 

 再び、離れた。その時、不意の突風が、雪を巻きあげた。視界の全てが、白に覆われる。

 気配も感じられない中、動くか、留まるか。刹那の思考の後、武仁は斜面を駆け下った。錆兎なら、雪で視界が遮られても、好機と見て斬りかかってくる。そう判断した。

 

 木がなくなり、足場が硬くなった。稽古場に戻ったのだ。灯がひとつだけになっている。それも風に曝されていて、弱々しい。

 すぐに、背後から錆兎の姿も現れた。

 

「もう終わりにするか、錆兎」

「まさか。男は、立ち止まったりはしない。ただただ、突き進む。それ以外の道は、俺にはない」

 

 そう言いつつも、錆兎の顔には、疲労の色が見え隠れしていた。

 

 このまま、体力の限界まで引き回して勝つことに、意味はない。武仁はそう思っていた。

 どこかで、錆兎と勝負する。その戦いに、勝つ必要がある。

 

 義勇は立合いの中で、自分の殻を破って見せた。それは、義勇にまだ伸びしろがあったからだ。

 錆兎の戦闘には、ある種、完成された美しさすらある。義勇のように、立合いの中で気づかせられるようなものは、見えなかった。

 

 そして、その思いは錆兎も持っているはずだ。

 

 しばらくの間、木刀を下ろしたまま対峙する。そして同時に、構えをとった。細かい所作は違う。だが、やろうとしていることは、同じだろう。

 呼吸音。それも、同時だった。

 

 錆兎の全身から、再び闘気が立ち上り始める。武仁は逆に、内へ内へと向けていた。

 寒さなど感じない。むしろ頭からつま先まで、熱いほどだった。

 風。最後の篝が消え、束の間、周囲が闇に包まれる。頭上で雲が割れ、月光が射しこんだ。

 

 まず錆兎が、一泊置いて武仁も跳んだ。彼我の間は、瞬時に詰まった。

 互いの姿。互いの首。それしか、見ていなかった。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 乾いた音。そして、何かが弾けた感触。跳んだ勢いはそのまま、立ち位置が入れ替わっている。武仁はゆっくりと、振り返った。

 

 勝負は、既についていた。錆兎の木刀が、折れている。

 

「勝負あったな」

 

 茫然と立ち尽くしている錆兎の首に、武仁は木刀を突き付けた。

 錆兎は信じられないといった表情で、手元を見ている。これまで折れたことなど、なかったのかもしれない。

 

「お前は、力がある。技も見事だった。私よりも、お前の方が既に強いだろう。だが、武器がなければ、どうにもならん。これが実戦だったら、お前は死んでいた。おそらく、義勇を残して」

「分かっていたのか? 俺の木刀が、ここで折れると」

 

 押し殺したような声。錆兎は、顔を俯かせている。その肩がぶるぶると震え始めた。

 嗚咽は堪えているが、泣いていた。

 

「私が折ったのではない。お前が、折った。お前の強さに、刀が耐えられなかった」

 

 木刀の破壊。拍子抜けするような結末は、狙ったものではなかった。だが、生きようとする自分の戦いが、その結果を生んだとすれば、これも成果なのかもしれない。

 

「俺は、弱い男だ」

「違う。お前は、強い男だ。だが、その強さが仇になることもある。刀が折れることなど、鬼との戦いでは、当然に起こることだ。鬼殺隊士なら、誰でも知っている」

「同じことは、俺は繰り返さない。絶対に」

「それでいい。それが分かっただけでも、お前はまた強くなったはずだ。だから、こんなところで、死ぬな。生きろ、錆兎。私は、お前と義勇に、生きていて欲しい」

「あんたは。いや、武仁は、俺たちが死なないために、戦ってくれたのか? それに、瀬良様も」

「私もできる事をする。そう、瀬良様と約束をした。だから、私の師匠がかつてしてくれたように、お前たちの相手をした。しかし結局、生きるか死ぬかは、お前達次第でもある」

「俺は武仁に、命を繋いでもらった。今日のことは、絶対に忘れない」

 

 頷いた錆兎が、武仁を見上げた。

 まだ子供だが、男の顔だった。もう泣いてはいない。

 

 こんな稽古をやらなくても、死ぬことなど無いのではないか。今日1日の間、何度かそう思うこともあった。

 それでも、やって良かった。真っ直ぐな視線を受け止めつつ、武仁はそう思った。

 

                       

 

 鱗滝の家に戻ると、手早く旅装を整えた。ひと纏めにしておいた荷物のほか、日輪刀があるだけである。灰色の羽織は、隊服の上に着込んでいた。

 

 最後に、並んで眠っている錆兎と義勇に一礼し、家を出た。ここに戻ってくる前から、錆兎は武仁に背負われながら寝息を立てていた。今はただ、ゆっくりと休めばいい。そう思い、起こさなかった。

 縁があれば、また会えるだろう。

 

 どこにも、鱗滝の姿がなかった。その所在は、すぐに分かった。武仁が鱗滝の家を出て、しばらく歩くと、人影が眼の前を塞いだのだ。

 

 天狗の面と、水色の羽織。月明かりの下、面の陰影が濃く浮き彫りになっている。最初に感じた、内に秘した気配と相まって、なかなか迫力があった。

 

「錆兎と義勇が、世話になった。育手として、礼を言う」

「私は、何も。彼らがもともと持っていたもの。尖っていたところ。それを、少し指摘しただけです。私のような無才には、それがよく見えましたので」

「儂には、できなかった。どれだけ、育てた者たちを喪おうとも。元水柱などと呼ばれようとも、最低の育手であろうな」

「鱗滝先生は、優しい。その優しさに救われてきたものもある、と私は思います。厳しさだけで、人は育たないものでしょう。今日は、私が彼らを打ち据えました。あとは、お願いします」

 

 狭霧山での生活で、自然と鱗滝に対しては、先生とつけて呼ぶようになった。瀬良がそう呼んでいたからでもある。

 

(みずち)といい、お前といい」

 

 天狗の面が、軽く左右に振られた。天狗の眼にあたる部分には、小さな穴が開いている。そこから放たれてくる視線は、柔らかいものだった。

 

「どの口で、人が優しいなどと。嘘が下手な柱と、人助けを志す一般隊士。お前たちの方こそ、鬼殺隊の柱と隊士にあるまじき優しさだ」

 

 嘘、という鱗滝の言葉。眼前の老人は、手鬼の存在に気付いている、と武仁は確信した。言葉や気配ではない。何か別の方法で、それを察したとしか思えない。

 

「お前が気にすることは、もう何もない。行くといい、御影武仁(みかげたけひと)。武運を祈る」

 

 その言葉を残し、鱗滝は走り去った。

 

 狭霧山を背に、武仁は歩き出した。野宿できそうな場所を見つけるまでは進み続けるつもりである。

 もともと、夕刻には発つ予定だった。錆兎と義勇が、よく耐えた。夜まで長引くとは、思っていなかったのだ。

 

 しばらくすると、那津(なつ)が肩に降り立ってきた。震えているその小さな体を、武仁は羽織で覆った。




 原作に対する、露骨なピンポイントメタでした。


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24話 生き残った者たち

 冬の峠は、越したようだった。陽気は暖かい。平地の雪は、早くも溶けつつある。

 桜が咲くころには、本部に戻る。そういう約束だった。期限はまだ先だが、これ以上の時は必要なかった。

 

 本部に、那津(なつ)を飛ばした。数日の後、那津が戻り、ある場所まで連れてこられた。

 隠が、ひとりで待機していた。

 

「後藤だったのか」

「やっと、来やがったな。待ってたぜ」

 

 地味な黒子の装束だったが、覆面の下からは、相変わらず快活な声がする。

 武仁(たけひと)はまず、深く頭を下げた。最初に後藤に会ったら、そうすると決めていた。

 

「すまなかった。岩柱様の館にいた時、何度も俺に、声をかけてくれていた」

「しおらしい顔するんじゃねえ。お前達は、俺の命の恩人なんだ。その恩人がああなってるのを、黙ってみてる奴はいねえ」

「そう言ってくれるだけでも、俺は、また立ち上がれる」

「おう。頼むぜ、隊士なんだからよ」

 

 そう言い、後藤は頭の後ろを掻いた。いくつ位の歳なのだろうか。声は自分とほとんど同じか、すこし若いくらいだろう。

 もっとも、歳などどうでもいいことだった。共に最終選別を受けた人間で生きているのは、もう後藤だけになっている。この男との間柄は、それだけで十分だった。

 

「じゃあ、行くぜ」

 

 武仁はその場で目隠しをされると、後藤に背負われた。ある程度移動すると、別の隠が待っている。そうして何人かを乗り継ぐと、下され、目隠しを外された。

 鬼殺隊本部。産屋敷邸。前に来た時と同じ、庭園にいた。

 

「思っていたより、早かったではないか」

 

 からからという笑い声とともに、横から声をかけられた。

 水柱、瀬良蛟(せら みずち)。その隣には、悲鳴嶼行冥の巨体もある。咄嗟に膝をつこうとしたが、瀬良に笑って制される。

 

「無事、御影は戻ってきた。とりあえず、良かったではないか、悲鳴嶼」

「意味のある、旅だったようだな。ここを発った時とは、気配が違う」

「こけおどし。あるいは、空元気。そういう言葉もあるがな」

「私はここに、御屋形様への報告のため、参りました。そうすれば、私の頼みをひとつ聞いていただける。そういう約束でしたので」

「一般隊士の頼みを聞く、ねえ。それは本当か、悲鳴嶼?」

「いかにも。御屋形様は、確かにそうおっしゃった」

 

 じゃらりと、数珠が音を立てた。胸の前で合わさっている手も、よく見ると、かなり分厚いのが分かる。

 その手にかかっている数珠も、普通の大きさではないのかもしれない、と思った。

 

「それを聞くのは、後の楽しみにしておこう。もし死にたければ、俺が介錯をしてやってもいいぞ」

 

 笑った瀬良に、武仁も笑って返した。

 ここを出立したときは、ただ死ぬことだけを考えていた。しかし今は、全く違うことを考えている。

 

 これは、折角の機会でもある。御屋形様に対して、自分はなにを願うのか。それを考える時間は、狭霧山を出立してから今日まで、いくらでもあった。

 

 時が過ぎて、最初に、悲鳴嶼が縁側の近くに移動した。瀬良もその隣に続く。それで、武仁も気づき、独りで館に正対して膝をついた。

 待つほどもなく、御屋形様の姿が、館の奥から現れた。

 

「お帰り、武仁。よく、帰ってきてくれたね」

「御屋形様との、約束でしたので」

 

 武仁は、低頭しながら、その声を聞いていた。

 改めて聞くと、不思議な声だ。発せられている言葉。そのすべてに、聞き心地の良さがある。ただ、その心地よさに、身を任せないようにした。

 あくまでも、ただの男の声。そういう聴き方をした。

 

「行冥と蛟も、来てくれたんだね。蛟とは、前の柱合会議以来かな」

「はい。御屋形様にあっては、御子息様方の無事の御誕生、真にめでたい。御当家の益々の繁栄を、この場で御祈念申し上げます」

「ありがとう。それに、武仁もだ。私の頼みを、よく聞いてくれたね」

「煉獄家、狭霧山。旅の中で、多くの人に会いました。水柱である瀬良様にも。私は、多くの人に助けられた、と思います。いままでも、そしてこれからもです」

「それだけではないよ。武仁もまた、助けてきたんだ。煉獄家でも、狭霧山でもね。君は前にここに来た時、自責の念の一心で、死のうとしていたね。でも、死ななかった。武仁は、まだ死んではならない。その助けを、待っている人たちがいるということなんだよ」

 

 武仁は、顔を上げた。御屋形様は澄んだ眼で、静かな微笑みを浮かべている。

 

「先に逝った者たちの分も、私は生きます。生きて、人を守ります。先日の御無礼、お詫び申し上げます」

「頼むよ、武仁。私は、君たちにお願いすることしかできない。私は御屋形様なんて言われているけど、無理してそう扱うことはないよ。私などよりも、日々を平穏に生きている人たちを、助けてあげて欲しい」

「はい」

「これは、柱の皆も知っていることだけど、私の体はいずれ、ある病に冒される。代々、産屋敷の男子はその病のために、短命なんだ。私も、この弱い体では、真剣ひとつ振るうことさえもできなかった」

 

 御屋形様の表情は穏やかな様子を、全く変じていないが、発している言葉はまるで、己が身を自嘲しているかのようだった。

 眼。その奥で渦巻くものがあるのに、武仁は気づいた。どろどろとした、怒りや憎しみ。束の間見えたそれは、すぐに柔和な笑顔の裏に消えた。

 

「ところで、武仁の報告を聞く前に、まず君に会ってほしい子達がいる」

「私が、ですか」

「必要ないのかもしれない。でも、私は会ってもらいたいと思った。君も会うべきだ、と行冥も勧めてくれた」

 

 右側に控えている悲鳴嶼は、軽く頭を下げると、音もなく姿を消した。しばらく待つ。すると、足音がいくつか近づいてきた。その足音が、不意に砂利を蹴って、走り出した。

 

 武仁の傍で2人、跪いた。長い黒髪。女というのは、それでわかった。

 2人の顔が上がった時、武仁は全てを理解した。あの夜、民家にいた娘たちだろう。顔は見ていなかったが、他に思いつくものは何もない。

 

 

「私は、胡蝶カナエ。こちらは妹の、しのぶといいます。あの夜、私たちを鬼から守ってくれた、隊士の方ですね。御影武仁(みかげたけひと)というお名前は、悲鳴嶼様から伺ってはいたのですが」

「君たちを助けたのは、私ではない。私は結局、あの鬼を倒せなかったのだ」

「でも、悲鳴嶼さんが来るまで戦ってくれてたんでしょ。守ってくれたんだから、私たちにとっては同じよ」

 

 髪の長い方が姉で、短く後ろで束ねているのが妹。2人とも、蝶の髪飾りをつけている。

 姉は物腰穏やかそうだが、妹はまだ子供らしい真っすぐさで、言いたいことを言う。最初の印象は、それだった。

 

「しのぶの、言う通りです。私たちを守ってくれたのに、今日までお礼も申し上げられませんでした。本当に、ありがとうございます」

 

 そういい、カナエとしのぶが再び頭を下げた。何となく、むずがゆさを感じた。やるべきことをやっただけで、礼を言われる筋合いなどない、と考えていた。

 

 その時、引っかかっていたことに、ようやく気づいた。

 鬼殺隊士として、関わった人間と事後に会うこと自体は、ないとは言えない。だが、鬼殺隊の本部である。無関係な人間が入ってくる場所ではなかった。

 

「君たちは、なぜここにいる」

「私たちは、鬼殺の隊士になります。悲鳴嶼様に、育手を紹介していただきました」

 

 武仁は何を言われたのか、咄嗟に理解ができなかった。

 こんな小娘が、鬼殺の隊士になるというのか。

 

 2人とも華奢で、線は細い。男である煉獄杏寿郎や錆兎、冨岡義勇よりも、さらに細いのだ。頸を斬る力がなければ、鬼殺は無理である。それは、武芸が劣るとか、全集中の呼吸の適性がないといわれた自分よりも、さらに向いていないということだ。

 

 姉は鍛えれば、まだ何とかなるだろう。体の作りは、芭澄と似ているところがある。だが妹の方は、既に背丈が足りない。

 

 だから、悲鳴嶼行冥がこの2人を認めたというのは、いささか信じがたいことだった。

 

「私たちは、鬼に両親を奪われました。だからこそ、他の人には同じ思いをさせたくない。2人で、戦うことを決めました。御影様に守っていただいたこの命で、人だけでなく、鬼も救いたい。私は、そう思っています」

 

 胡蝶カナエは、澄んだ声で、臆することなくそう言い切った。カナエの湛えている気配は、少女のそれとはとても思えない。あるのは、悲劇を経てきた鬼殺隊士特有の、覚悟だった。

 

 色々、言いたいことはある。そもそも、鬼殺隊になど入るのは止めておけ、という思い。鬼を救いたいとはどういう意味か、という疑念。何よりも、御影様という呼び方は、やめてくれ。だが何ひとつ、声にはならなかった。

 

 助けた2人と再会できたことを、喜ぶべきか。鬼殺の道を歩むことを、悲しむべきなのか。武仁には、よく分からなかった。

 

「誇れ」

「瀬良様」

 

 不意に、瀬良が声を発した。

 

「これが、人の生き方だ。守った人間の人生に、お前があれこれ感じる必要はない。人助けとは、そういう類のものではないはずだ」

 

 瀬良に、いつもの笑顔はない。鋭く吊り上がった眼が、武仁を真っすぐに見据えている。

 

「此度は、ただ誇ればいい。鬼殺隊士として、お前は命を賭して2人を守り抜いた。その命が、いつか別の命を守る。朱雀(すざく)という男でも、俺の継子の芭澄(はすみ)でもない。誰でもない、お前の人助けが、数多の命をこれから繋ぐ。お前の師匠という男も、きっと誇りに思うだろう」

 

 不意に、目頭が熱くなった。強く瞼を閉じ、溢れそうになったものを、押さえこむ。

 瞼の裏。様々な光景が流れた。鬼殺隊に入ってから、多くのものを自分は失った。しかし、失っただけでなく、守れた命もまたある。前にいる姉妹が、まさにそうではないか。

 

「ああ。生きていてくれて、良かった」

 

 武仁の口から出たのは、それだけだった。眼を開けた時、瀬良の顔はもう笑っている。

 武仁も座り込んでいる胡蝶姉妹に、笑いかけた。上手く笑えたかどうかは、わからない。

 だが、咲き誇る花のような笑顔で、笑い返された。

 

                       

 

 

 胡蝶姉妹が去った後、改めて、報告の場に移った。

 

 上弦の壱の特徴は勿論、その前の下弦の参との戦闘から、武仁は思い出せるものは些細なことまで、その全てを報告した。記憶は整理していたが、実際に口にしてみると、さらに出てくるものがいくつもある。

 

 全ての報告が終わると、武仁は瀬良と、門の前で別れた。悲鳴嶼は任務のため、早々に居なくなっている。柱は、やはり多忙なのだ。

 

「やはり、瀬良様には似合いません。特に、真面目な顔は」

「お前、次は木刀じゃなくて、俺の左手を食らってみるか」

「同じ手は食らわない。それが、私の師匠の教えのひとつです」

 

 瀬良は、声を上げて笑った。狭霧山がどうだったのか、瀬良は何ひとつ尋ねてこない。一度手元から離れたものは、もう気にしないのだろう、と思った。

 

「お前の願いとやらが、あんなものだとはな。口にしたからには、努力しろ。死線を生き残れば、それだけ人は強くなる」

「はい。この後で、朱雀と芭澄に報告に行きます。鴉の、弦次郎にも」

 

 武仁は手で、懐を軽くたたいた。そこにある硬い感触は、何度も確かめている。

 

「まあ、武運を祈る」

 

 言うなり、瀬良の姿が消えた。柱が移動するときは、何故か誰もが忽然と消えていく。

 隠に導かれて、館の裏手に回った。細い道をしばらく進むと、開けた場所に出る

 

 鬼殺隊士の、墓地である。遺書に特段の記載がなければ、死んだ隊士はここに埋葬されることになっている。その一角に、導かれた。

 

 南原朱雀(なんばらすざく)壬生芭澄(みぶ はすみ)。彫られているのは、名だけだった。だが、何度も線香をあげた跡がある。それに、墓石に雪などついていなかった。

 

 流石に、弦次郎の墓石はなかった。しかし鎹鴉も、しっかりと埋葬されているらしい。

 武仁は墓石の前に膝をつくと、懐から、竹笛を取り出した。

 

 本部に戻る途中、ある街の骨董屋で手に入れたのだ。何の装飾もないが、それを見た時、思わず手が伸びた。

 

 笛らしい笛だ。不愛想な骨董屋の主人は、そう評していた。武仁自身も、良い笛だと思っている。

 何度か吹くと、師匠からもらった笛と同じくらい、自分に馴染んでいくのがわかった。

 

「しばらく、そっちに行くのは遅くなる。そう何度も、墓参りなどできないだろうし。だから、俺は生きて、どこかで笛を吹く。その音だけでも、聞いていてくれ」

 

 聞いている人間も、返事もなかった。ここまで連れてきた隠は、姿を消している。

 武仁はひとり、笛を構えた。音がゆっくりと滑り出る。

 

 鬼との激戦地や、被害が多く出ている現場。そこへ、優先的に送ってもらいたい。それが、この旅路の対価である、自分の願いだった。

 現状では、一般隊士の犠牲が出すぎている。だが自分なら、どんな手を使ってでも生きる。生きて、鬼を倒す。あるいは、柱の来援まで、持ちこたえる。

 

 死を厭う気持ちは、全くない。その時が来れば、簡単に死を受け入れられるだろう。その一方で、自分は生きるために戦うのだ。

 生きて、人を助けるため。その人の中には、他の隊士も含まれる。

 

 笛を吹いていると、唐突にある鬼の姿が、鮮やかに蘇った。侍のような出で立ちの、6つ眼の鬼。無数の不可視の斬撃を放ってきた、鬼の姿だった。

 

 いつか。ふつふつと沸き起こってくる思いを押し込めながら、そう思った。

 いつの日か、上弦の壱を滅殺する。それは、口にはしなかった。自分だけがそう思っていれば、いいことだ。

 

 思念が途切れると同時に、笛を吹き終えた。

 

 傍らに、那津が降り立っている。芭澄の墓をじっと見つめたまま、動かない。かつての主と、言葉でも交わしているのだろうか。

 

 2人の墓を前にして、武仁には驚くほど、何の言葉も湧かなかった。涙も出ない。

 死は、ただの死。それを確認しただけだ。死んだ者のことを、決して忘れない。生きている自分にできるのは、それだけだ。

 

 那津が飛び去ると、武仁は立ち上がった。さらば。胸の内でそう呟き、身を翻した。




 本話をもって、第一部が完全に終了となります。
 読者の皆様のお陰で、ここまでたどり着くことができました。
 評価、感想、お気に入り登録等も、執筆のモチベーションとなりました。
 心から、感謝申し上げます。


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第2部
25話 影来る


 本話から、第2部に入ります。


 薄い月明かりの下、巨影が暴れた。

 瞬く間に、人の悲鳴がいくつも交錯する。肉体が潰れる嫌な音。濃い血の臭い。

 死の気配。それが、周囲に充満した。

 男は、気づいたら走り出していた。

 

「何なんだよ、あいつ。あんな奴に、俺たちが勝てるわけないじゃないか」

 

 共に任務に当たっていた隊士数人が、一瞬で殺された。自分が生きているのは、ほんの何歩か、後ろに立っていたからだろう。

 

 襲ってきたのは、鬼である。それも、異形の鬼だった。見た目は遅そうだったが、飛び掛かった隊士数人を、簡単に蹴散らしていた。

 

 単独で、勝てる相手ではない。別方向から近づいているはずの隊士達と、合流する。走りつつ、それだけは考えることができていた。

 

 喉が痛い。肺が、破裂しそうだった。それでも、走った。

 

 背後。ばきりという、異様な音。首だけ振り向くと、根元から折れた木が、こちら目掛けて飛んでくるところだった。

 

 咄嗟に、体を投げ出した。その前方は、急斜面になっていた。ごろごろと、転げ落ちていく。その間も、腕を回して頭を守るだけで、精一杯だった。

 頭が、おかしくなりそうなほど転がった。平場で何かにぶつかり、ようやく止まる。

 

 瞼を上げると、星が回っていた。早く立ち上がれ。頭はそう騒いでいるが、体が動かない。まるで天地そのものが、狂っているようだ。

 

 唐突に、腕を何かに掴まれた。反射的に、腕を振り回し、大声で喚く。転げ落ちた時に、刀は落としたらしい。手には、何も握っていなかった。

 

「おい。大声を出すな。お前、頭は大丈夫か。しっかりしろ。階級と、名前は言えるか」

 

 そう言われて、相手が鬼殺隊の隊服を着ている男であることに、気づいた。

 眼を袖で擦ると、姿や顔もよく見えてくる。

 自分の名前。それは、すぐに思い出せた。

 

「階級癸、村田です」

「癸か。俺は、庚だ」

 

 隊士の男は、諦めたように首を振った。癸の隊士では、戦力とはとても呼べない。そんなことは、自分がよく知っていた。

 

「こっちの隊は、俺以外は全員やられました。そちらの方は」

「先に、こっちが襲われた。死んだのは数人だが、全員蜘蛛の子散らすように、逃げる事しかできなかった」

「柱の応援を」

 

 要請するべきだ。そう口にしようとした瞬間、衝撃と爆音が走った。眼の前の地面が、土煙を上げて吹き飛ぶほどで、村田の体も簡単に飛ばされた。

 

 背中から、地に叩きつけられる。吸っていた息が、肺から押し出された。意識が、遠のきそうになる。ふと、鴉の鳴き声が、聞こえた気がした。

 

 それで、何とか意識を繋いだ。何度か咳き込むと、息を吸いつつ、顔を上げた。

 眼の前。あの巨大な影が、再び立っていた。

 

「ああぁ。逃がさねえぜ。鬼狩り共はよう」

 

 鬼。涎を垂らし、こちらを見下ろしている。

 異様な図体が、月明かりに照らし出された。途轍もない肥満体で、のっぺりとした喋り方をする。しかし、動きは速いのだ。

 あのごつい手や腕に打たれれば、首だろうが手足だろうが無事では済まないのは、よく見ていたのだ。

 

「あちこち逃げ回るような奴は、こうしてやるよおぉ」

 

 自分に声をかけてくれた隊士の頭を、その鬼は掴み上げていた。その手に、力が籠められている。

 しかし、掴まれている隊士が発した言葉は、痛みでも、恐怖でもなかった。

 

「斬れ! 俺はどうなってもいい。今のうちに、この鬼の頸を、お前が斬れ!」

「五月蠅い奴だなぁ。ほれぇ。黙れよぉ」

「うぅっ、待ってろ!」

 

 村田は、周囲に眼をやった。すぐそこに、光るものがある。自分の日輪刀だった。

 あいつらがいてくれれば。村田は日輪刀を掴みつつ、そう思った。

 

 昨年の最終選別を共に受けた、宍髪と、黒髪の志願者。2人とも、見事な水の呼吸を遣っていた。自分も同じ水の呼吸を遣うが、技の威力は比べるのもおこがましい。

 日輪刀も、色こそ変わったが、よく見ないと気づけない程度だった。

 

 それでも、鬼殺隊に入り、戦ってきた。鬼を狩り、いつかは家族の仇である、鬼舞辻無惨を討つ為に。

 ここで、逃げるという考えはなかった。

 

「そいつを、放せ。放せよおお!」

 

 村田は日輪刀を構え、鬼に向かって突っ込んだ。その汚い頸を、刎ねてやる。それしか、考えられなくなった。

 

「うへぇ、じゃあお前から、死ねぇ」

 

 隊士を掴んでいない方の手が、振り上げられた。どす黒く変色し、ひび割れた肌。次の瞬間には、すぐ眼の前に迫っていた。

 

 死ぬ。そう思った。思っただけで、体は縛りつけられたように硬く、ぴくりとも動かない。

 ああ。俺は、ここで死ぬんだ。不意の浮遊感を感じながら、村田はそう思った。

 

                       

 

 真っ直ぐに突っ込んでいこうとした隊士は、縄で絡め取り、引き戻した。自らは、その反動を利用して飛び込む。隊士は、もう一人いるのだ。日輪刀で鬼の腕を斬りつけ、拘束が緩んだところを、手をかけて引き下ろした。

 鬼は、甲高い悲鳴を上げ、跳びながら下がっていく。

 

 武仁(たけひと)は隊士の体を下ろすと、すぐに前に出た。

 気を失ってはいたが、まだ生きている。間に合った、と武仁は思った。

 

 とある市街地にほど近い、山中である。街の隅で、人が叩き潰されるという、あまりに凄惨な事件が連続し、鬼殺隊が調査することとなったのだ。そして、鬼と接敵した。

 

 4日前の時点で、5人の隊士が戦死。増援を送り込む。その連絡を那津が拾ったのは、一昨日の事だった。伝令中の鎹烏から、横聞きして得た情報である。

 

 その時、武仁は別の任務を終えて移動中だったが、それを聞いた瞬間、走り出したのだ。

 丸1日半。それだけ駆けて、ようやく到着したところだ。しかし既に、増援の隊士達も鬼に襲われ、散り散りとなっていた。

 

 隊士による鬼討伐は、とても望めない状況である。だが、全滅はしなかった。最悪の結果だけは、免れることができたのだ。

 それだけで十分だ、と武仁は思っていた。

 

「君は、立てるな。その隊士を連れて、下がれ。ここは、私が引き受ける」

「あんたは、柱か?」

「違う。階級戊、御影武仁(みかげ たけひと)だ。柱ではないが、私よりも階級が低いのであれば、この場は従ってもらう。下がって、傷の手当てをするんだ」

「……わかった」

 

 返事をしているのは、突っ込んでいこうとした隊士だった。若い声。新人隊士だろう、と武仁は聞きながら思った。もうひとりは、呼吸こそしているが、覚醒する気配はない。

 

 すまない。そう言い残し、もうひとりの隊士を抱えて離れていく。

 代わりに犠牲になる。その覚悟で、ここに残ろうとしている。そう思ったのかもしれない。

 

 気配が遠ざかり、感じられないほどになった。武仁は隊士達への関心を、それで完全に打ち切った。

 刀は低く構えたまま、鬼の一挙手一投足に、より意識を向けていく。

 

「あれぇ、俺の腕、動かねぇ」

 

 見上げる程の、巨漢の鬼。言動は鈍そうだが、実際の動きは素早いだろう。今までにも何度か、こういう手合いを相手にしたことはある。

 血鬼術を操るのか否か。鬼と対峙した時は、まずはそこを見抜くことだった。

 

「腕、繋がったぁ」

 

 しばらく、揺すっているうちに、傷が塞がったらしい。両腕を振り回している。それが実に嬉しいようで、歯を剥いて笑っていた。

 

「お前、俺の邪魔しやがったな。弱っちいくせに、強い俺の邪魔をしやがったな」

「お前は、自分が強いと思っているのか」

「ああ。俺は、強いぞお。お前ら鬼狩りなんか、全員喰ってやる。それで、俺も、お月さんの仲間入りだあ」

 

 お月さん。つまり、十二鬼月ということだろうか。

 鬼舞辻無惨に直属する、十二体の鬼。その一座を占めることは、鬼たちにとって名誉なことなのだ。それとて、首魁たる鬼舞辻無惨の血に、踊らされているに過ぎない。

 

「お前みたいな鈍間そうな鬼が、十二鬼月になれるのか。お前は一体、これから何百年、その姿で生きるつもりだ」

 

 鬼はしばらくの間、首を傾げていた。そして唐突に、地団駄を踏み始める。

 

「俺を馬鹿にしたな。俺が、鈍間だって。俺が、弱いって言ってやがるな」

「弱いとは思わない。だが、頭は悪そうだ」

「お前、殺すぞお」

「俺は死なん。かかって来い」

 

 鈍間。再び、最後に付け加えた。それが、戦いの火蓋を切った。




 第2部は、原作キャラ其々との個別のオリジナルの話を書いていく予定です。
 その中で、ぼちぼち原作のイベントを入れて行ければなと思っています。

 ちなみに最初は序章感覚で打っていたはずが、どんどんと文字数が伸びましたので、また分割と相成りました。


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26話 ささやかなる戦いを

 ちなみに主人公の戦闘法は、某対馬ゲーをプレイしながら設定を練りました。


 鬼が喚き声を上げながら、突っ込んできた。武仁(たけひと)は、横に走る。鬼は、木など勢いでへし折りながら、一直線に追いかけてきていた。

 

 距離は、あっという間に詰められた。

 

 風切音。頭上だった。武仁は、右手を振った。黒い縄。手元から鞭のように伸び、離れたところの木に掛かった。

 引くと同時に、強烈な衝撃が右腕から全身を貫いたが、耐える。地を滑るように、走る向きが変わる。

 鬼の攻撃を、それで躱した。走り出したとき、縄は弛ませて外し、手元に引き寄せていた。

 

 鬼殺隊の縫製担当に作らせた縄に、鉤爪をつけたものである。さっき、飛び込んでいこうとした隊士も、これで引き寄せた。

 使い方は、無数にあった。物を引き寄せたり、高所の昇り降りだけではない。さっきのように、走りながら木にかければ、普通ではあり得ない角度で曲がることも出来るのだ。

 全集中の呼吸を使えなくても、生き残る。そのために、考え出した。

 

「おおい、待て」

 

 鬼は立ち止まったが、すぐに追いついてくる。どたどたと走るたび、地が揺れていた。

 

 振り向くことなく、縄を今度は頭上に飛ばす。手応え。それを手元で確認し、武仁は全力で地を蹴った。足と同時に、腕も引き付ける。

 宙を、飛んでいた。浮遊感の中、身を回す。真下。鬼の巨躯が、飛び込んできていた。

 

「あれぇ、どこだあ?」

 

 鬼が再び、立ち止まった。野太い頸。そこ目掛けて、武仁は日輪刀を叩き込んだ。取った。そう思ったが、返ってきたのは硬い感触だった。

 

 咄嗟に、刀で自分の体を突き放す。掴みかかってきた手から、何とか逃れ出た。

 地を転がるように着地した時、鬼はまだ、自分を探して、両手を虚空で振り回していた。

 

「それほどまでに、人を喰っていたか」

 

 呟いた。まともに斬れないほど、頸が硬い。相当の数の人間を、喰らっているようだ。

 全集中の呼吸の技が使えれば。微かなその思いを、横に追いやった。空中という不安定な体勢では、水面斬りは覚束ない。考えたところで、その現実が覆ることはない。

 

 鬼がようやく、武仁の方を向いた。

 

「見つけたぜ。痛えじゃねえかよ。でも、そんな力じゃ、俺の頸は斬れないんだよぉ」

「そうらしい」

 

 武仁はまず、考えを切り替えた。頸を飛ばすのではなく、戦い抜く。それも、朝まで戦う必要はない。応援の要請は、既にしてあるのだ。

 今のところ、この鬼が血鬼術を使ってくる感じはない。肉弾戦であれば、十分に可能。武仁は、そう判断した。

 

「これで分かったかあ? 俺は強い。俺は速い。俺は馬鹿じゃない。でも、よお。お前は、弱い。お前、馬鹿だ」

「私よりも強いから、どうした。そんなことは、珍しくも何ともない。そんなことで喜んでいるから、鈍間だと言っているんだ」

 

 鬼の放つ気配が、危険なものに変貌した。

 瞬時に放たれた横薙ぎは、身を下げて躱した。巻き起こった風で、体が揺らぐ。さらに拳骨が叩き込まれてきたが、地を転がって、避け切った。

 

 鈍間という言葉に、反応していた。だから、抉るように何度も繰り返した。挑発して、冷静さを失わせるというよりも、自分に気を引く為だ。

 この鬼が、人の住む街や隊士達の方へ行けば、どれだけの犠牲が出るかわからない。だから、ただひとり、自分だけを相手にさせる必要がある。

 

 いま、鬼の口から洩れ出ているのは、意味のある言葉ではなかった。眼は血走り、狂ったように両手足を振り回している。

 目障りな蠅を叩き潰すように、眼の前にいる自分を殺す。その意志は、挙動から強く感じた。

 

 鬼の拳が、地面を次々と吹き飛ばす。土塊が、飛沫のように飛び散る。怒涛の攻撃を掻い潜りながら、武仁は駆けた。

 

 掠っただけでも、かなりの怪我になるだろう。だが、相手は凶暴になっている分、動きは単調になっている。体術が通用する体格ではない。躱すだけなら、まだ余裕はあった。

 この鬼は、見た目の印象に反して、確かに動きは速い。だが、新人隊士の頃ならともかく、今の自分なら、食らいついていける。

 

 息は、まだ続いていた。

 常中を完璧に会得して、1年以上は経っている。背は伸び、体も大きくなった。体力も、さらについてきている。

 

「くそお、くそお。お前、しぶてえ奴だなあ」

 

 鬼が動きを止めた。鼻息は荒く、肩が激しく上下している。鬼は人間より、あらゆる点で強靭だが、同じように疲れることもある。

 その向こう側に、武仁の眼は引きつけられていた。夜空に、那津が飛んでいる。自分達の頭上を越え、背後へと飛び去った。

 

 武仁は、即座に走り出した。すぐに、足音が追ってきた。だが息は切れている。足は、さっきよりも遅い。

 

 武仁は不意に、猛烈な闘気に打たれた。触れるもの全てを焼き尽くす。そう思えるほどのものが、近づいてくる。熱いという錯覚すら、肌が覚える程だった。

 

「何だ? こいつはもしかして、は、柱かあ?」

 

 そして鬼も、同じものを感じ取ったらしい。立ち止まり、身を翻そうとする。

 武仁は、腰に吊るしているものをひとつ掴み、投げた。拳半分ほどの塊。鬼の顔の前で、爆音を立てた。

 

 火薬の量を調節した爆竹。鬼にとっては、小石をぶつけられたようなものに過ぎない威力である。しかしほんの一瞬、怯んだ。

 その瞬間が、命を分けることもある。

 

 赤い光。武仁を飛び越え、一直線に突っ込んでいった。

 呼吸音と共に、白い外套が、闇に翻った。

 

 

  全集中 炎の呼吸・壱ノ型 不知火

 

 

 黒い塊が、赤い光に斬り飛ばされ、宙に舞い上がった。音を立てて倒れた体は、灰のように崩れていく。

 鬼の気配はない。それを確かめてから、武仁は日輪刀を納めた。

 

「感謝します。炎柱様」

「また、お前か」

 

 赤い日輪刀。そして、燃えるような赤髪。一度見れば、忘れようのない独特な顔の形。

 炎柱、煉獄槇寿郎である。鮮やかな赤い日輪刀は、既に鞘の中だった。

 

「柱を、これほど利用する隊士は、お前の他にはいない」

「人々だけでなく、他の一般隊士も、死なせない。私にとっては、それも大切な事です」

「甘い考えだ。弱い奴は、どうせ死ぬ。それが、早いか遅いかの違いに過ぎん」

「しかし、生きています。生きているうちに、強くなれる機会が与えられても、無駄にはならないかと」

 

 槇寿郎が、鼻を鳴らした。

 

 かつて、朱雀の死を無駄死にと貶められ、ひと悶着あった。その時の槇寿郎の眼には、諦念が渦巻いていた。それが、何に対するものだったのかは、分からない。今はそれほど、強くは感じなくなっている。

 

「杏寿郎が、お前に会いたがっている。千寿郎もだ。たまには、顔を出してやれ」

「いずれ、会いに行きます。生きていれば」

「ふん。お前のような奴が、今更、そう簡単にくたばるものか。全集中の呼吸の流派に頼らず、何年も生きている奴など、聞いたこともないわ」

 

 そう言い、煉獄槇寿郎の姿は消えた。

 

 任務以外で会ったのは、先年行われた、煉獄瑠火の葬式が最後だった。

 葬列には加わらず、墓の前で、武仁は笛を吹いた。全てが終わったら、笛を持ってまた訪れる。それは、煉獄瑠火との約束でもあった。

 煉獄瑠火の事もまた、決して忘れない。生きている自分にできるのは、それだけだ。

 

 武仁はひとり、山奥の方へ歩き出した。風が、血の臭いを運んでいる。それを、追っていく。しばらく風上に進むと、足を止めた。

 

 鬼殺隊の隊服を着た人間が、何人も倒れている。

 増援で送られた隊士達だろう。全員、首や腕がおかしな具合に曲がり、捥がれている。生きている者は、ひとりもいなかった。

 

 武仁は、倒れている隊士達の下をひとりずつ回り、顔の泥や血を拭うと、見開かれた眼を閉じていった。それだけで全員、ただ眠っているようにも見える。

 

 死んだ隊士達の、名前は知らない。誰もが、勇敢にあの鬼に立ち向かったのは、間違いないだろう。誰ひとり、日輪刀を手離していなかった。

 

 お前たちが戦い抜いた事を、俺は決して忘れない。武仁は、内心でそう語りかけていく。なにひとつ、声にしなかった。

 

 全員を回り終えてから、武仁は背を向けた。残された死体は、隠が回収する。

 

 山を下っていると、不意に、逆に近づいてくる気配を感じた。

 鬼ではなく、人間だろう。既に朝日は差し始めている。鬼殺隊の隊服。見て取ってから、武仁は刀の柄から手を離した。

 

「ああ、よかった。もう、行ってしまったかと思った」

「君は、さっきの」

 

 頭を下げてきたのは、あの鬼に突っ込んでいこうとしていた、若い隊士だった。頭に真新しい包帯を巻いているが、大事はなさそうだ。

 

「隠がすぐそこまで来てくれて、生きている皆で、手当てを受けてます。炎柱様も来てくれたって、みんな喜んでますよ。柱に会ったのも、初めてな隊士が多かったんじゃないかな」

「そうだろうな。あの鬼も、炎柱様が倒してくれた」

「でも、柱が来るよりも先に、御影(みかげ)さんが来てくれなければ、俺はもう死んでました。本当に、ありがとうございます」

 

 そう言い、また頭を下げようとする隊士を、武仁は手で制した。

 自分の戦いには、感謝も誹謗もない。武仁は、そう思っていた。生き残れたことを喜ばれる一方で、なんでもっと早く来てくれなかった。そう、大声で迫られたこともある。

 あるのは、生きるか死ぬかの、結果だけだ。自分のささやかな戦いは、死んでいく命を少しでも、現世に留めるためにある。それ以上のものは、望まない。

 

「君は、まだ新人か」

「村田って言います。階級はまだ癸で、去年の最終選別で隊士になりました」

「昨年。というと、宍色の髪と黒髪の、2人組の志願者が、いなかったか?」

「ああ、あいつらのことを、知ってるんですね」

 

 村田は、錆兎と冨岡義勇のことを、よく覚えていた。2人は見事に戦い、最終選別を突破したのだ、と武仁は思った。あの異形の鬼にも、打ち勝ったのかもしれない。

 

「でも俺は、あいつらみたいにはなれないと思います。他の奴らも。俺たちは、あの2人がいたから、選別を突破出来たようなものだし」

「言いたいことは、分かる」

 

 選別の篩に掛かった後は、更に厳しい鬼との殺し合いが待っている。力なくして生き延びた者の苦しさは、武仁にはよく理解できた。

 

 今の自分が生きているのは、常に生き残ることを考えていたからだ。そういう風に自分を鍛えてくれた、師匠がいた。そして、仲間が自分の身代わりになって、死んだ。

 

「生きろ、村田隊士。死にさえしなければ、君なりの強さが、いつか身につく時が来る」

「俺も、強くなれますか?」

「なれる。私はそう信じている。だから、君たちを助けた。そして、これからもだ」

「信じてください。俺はきっと、強くなりますから。あの2人には、勝てないかもしれないけど」

「期待させてもらう。また、会おう」

「はい!」

 

 武仁は、大声で答えた村田の肩を叩くと、走って山を下りた。

 太陽の光の下には、血の臭いも、鬼の気配もない。平穏な人の世に入り込んでも、武仁は走り続けた。

 

 鬼殺隊本部に向かっているのだ。そのための、隠との合流地点だけが、伝えられていた。

 激戦地や、危険な鬼の情報を、優先的に得る。その条件として、半年に一度、本部に顔を出すことになっているのだ。

 

 昨晩を、鬼との戦いに費やしたが、走ればまだ間にあうはずだった。

 走りながら、眠気を感じた。ここ数日、満足に寝ていない。だが、寝るのは、隠に背負われているときでいい。

 

 武仁はそう思い、欠伸を噛み殺しながら駆けた。




 次話から新章として、ある原作キャラと絡ませます。

 3/7 タグ更新しました。


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第2部・抜け忍編
27話 笛の音に惹かれて


 悲鳴嶼さんの次は、この方にご登場いただきます。


 桜の花びらが舞っている様。邸内からも、それは良く見える。

 御屋形様に並んで、武仁(たけひと)は縁側に座していた。思い返したが、今まで花見などというものをやったことは、一度もない。

 

「武仁は今年で、何歳になったのかな」

「18です、御屋形様」

「生まれた日付は、知っているのかい?」

「しりませんが、私が師匠に拾われたのは、冬でした。冬が終わった後、春になれば歳を取る。そう思い定めています」

「私は、いいことだと思う。この美しい季節に、生まれたと思えることはね」

 

 御屋形様は、微笑んでいる。その左目の周りに、紫色の薄い痣が浮かんでいた。以前来た時には、無かったものだ。

 武仁はちょっと頭を下げ、出されていた湯飲みに手を付けた。ほのかに暖かい風が、庭先から吹き付けてくる。

 

「それでも私は、冬の方が好きです」

「そうなのかい?」

「いつでも、冷たさや寒さの中に、身を置いていたいと思います。あくまでも、私ひとりがそう思っているだけですが」

「私ひとり、か。それも、武仁らしい考えだね」

 

 暖かみや温もり。それは、どうしようもなく、気持ちのどこかを緩ませる。そこに、長居をするのは、武仁にとってはあまり、気分のいいことではなかった。

 

「半年前に聞いた答えは、今も変わらないのかな」

「変わるも何も、私は最初から、独りで戦うつもりです」

 

 誰か一緒に、戦ってくれる剣士(こども)はいないのか。半年前に本部を訪れた時、御屋形様にそう問われた。

 いない、と即座に答えたことは覚えている。

 

 独りで戦う。負けた時は、独りで死ぬ。それでよかった。すぐ傍で誰かに死なれることも、誰かを道連れにすることもない。

 

「単独というのも、慣れれば気楽でいいものですからね」

(みずち)とも、よくそういう話をするよ」

「あの人なら、柱気取りで偉そうに、くらいのことは言ってくるだろうと思います」

 

 それが水柱、瀬良蛟(せら みずち)という男だった。一々辛辣な口を利くが、隊士には慕われている。態度は偏屈でも、その根っこの優しさまでは、隠せていない男だった。

 

「蛟も行冥も、この前の柱合会議では、武仁のことを褒めていたよ。武仁が戦っているだけでも、隊士の犠牲が、確実に減ったと」

「そうであれば、良いのですが」

 

 本部に赴いたところで、他愛もない話をするだけである。

 互いの近況や、隊士を助けた戦いの話。時には、鬼殺隊と鬼のことについて、かなり踏み込んだところまで語り合う。ただし、死んだ隊士の話だけは、一度もしたことがない。

 

 半年に一度、自分がわざわざ呼び出される理由は、未だ見えなかった。まるで、ただの話し相手として、呼びつけられているようにも思える。

 

 それでも、この呼び出しを無視するつもりはなかった。

 御館様は、このところ屋敷からほとんど外には出ないらしいが、世情に対しては実に博識でもある。会話の中で気づかされることが、武仁には絶えずあった。

 

 話しているうち、日が傾き始めた。

 

「では、そろそろ」

 

 そう言い、辞去しようとしたが、引き留められた。

 

「君に、会わせたい子がいるから、もうしばらくここにいて欲しいんだ。あと少しで、ここに来ると思う」

「私に会わせたいとは。隊士ですか?」

「私の剣士(こども)のひとりだよ。でも武仁は、会ったことはないと思う。私が、会ってほしいと思っている」

 

 会ったこともない隊士に何の用か、とは思わない。

 

 御屋形様の判断には、その英明さからくるものとは別に、底知れない何かがある。自分を煉獄家や、狭霧山に向かわせた時のようにだ。

 この人が会わせたいという人間なら、誰だろうと会うし、どこへでも行く。武仁にとって、そこに疑いを差し挟む余地はなかった。

 

 太陽が山並みに没した。屋敷の中には灯が入れられているが、外はほどなくして、闇に包まれる。

 鬼殺隊士にとって夜とは、眠りの安らぎではなく、鬼との戦いの始まりを意味する。武仁も、まず肌が緊張する。

 

 赤子の泣き声。武仁は、思わず軽く腰が浮きそうになった。しかし、その声は、屋敷の奥の方から聞こえてくる。

 最初はひとり。すぐに、いくつもの泣き声が入り乱れた。にわかに、屋敷の中があわただしい気配に包まれていく。

 

 武仁はまず、自分の心を落ち着かせた。傍らにいる御屋形様は、全く動じていない。自分があれこれ慌てても意味はない、と思った。

 

「くいな、かな。最初に泣いたのは」

「ご子息様方ですか。五つ子だとか」

「武仁、お願いがある。少しでいいから、あの子達に笛を聞かせてやってくれないかな」

「それは構いませんが。私の笛で、よろしいのですか? 子守歌など吹くことは、できませんが」

「人を、助けることを信条とする人間が吹くんだよ。私は、何も心配していないさ」

 

 御屋形様はそう言って笑うと、あまね、と背後に声をかけた。

 静かな足音が近づいてくる。障子が開くと、雪のような白髪の女性が入ってきた。

 

 産屋敷あまね、という御屋形様の御内儀である。これまでも何度か、声をかけられたことはある。こちらの身を労わる言葉が、ほとんどだった。

 

「武仁が、笛を吹いてくれる。折角だから、輝利哉達にも聞いてもらいたい」

「ですが、御屋形様」

「大丈夫だよ、あまね。君も、ここで一緒に聞くといい」

「はい」

 

 あまねは、たおやかな挙措で一礼し、御屋形様の傍に座した。

 子供たちの鳴き声は、まだ続いている。屋敷の中、人の声はまだいくつもある。

 高貴な家で育つ子供には、乳母という存在がいると聞く。多分そういう者たちが、子供達を泣き止ませようと、いま手を尽くしているのだろう。

 

 5人もの子育て。言葉にするのは容易いが、全く想像がつかない。それが、かなりの労力を要するということは、この泣き声だけでもわかる。

 

 武仁は、隊服の懐から笛を取り出し、口に当てた。そして、眼を閉じる。

 唐突に思念が閉じられ、感じられるもの全てが、遠くなった。御屋形様とあまねの視線。子供たちの泣き声。そして、夜闇に対する自らの緊張も、何もない。

 ただ、静かな音だけが、聞こえていた。

 

 笛を吹いている。誰に対して吹いているのか、何を込めた音なのか。このところ、自分でもよく分からなくなっていた。かつてのように、内から言葉が湧いてくるようなことは、もうない。

 しかし、笛を吹いていた。指も呼吸も、自然のままに動いている。

 

 しばらくすると、音が聞こえなくなり、武仁は笛を下ろした。

 眼を開けた。周囲の様子は、全く変わってはいない。ただ、子供達の泣き声は、止んでいた。

 

「いい音だったね、あまね」

「はい、御屋形様。あの子達も、聞き入っていました」

 

 あまねは、目元を拭うような仕草をして、立ち去っていく。

 また、御屋形様と2人になった。合わせたい隊士というのは、まだ姿を現していない。そう思ったとき、御屋形様が庭先に向かって、何かを手招いた。

 

「君も、そう思わなかったかい、天元?」

「ええ、御屋形様。吹いている奴も、笛も地味だが、良い音でしたよ」

 

 闇の中から、男がひとり、音もなく近づいて来た。

 

 現れたのは、白面で、端整な顔立ちの男である。

 派手な宝石が輝く額当てが、まず眼を引く。隊服は肩から先がなく、剥き出しの上腕には、金色の腕当てらしきものが付いている。他にも、顔や爪に、まるで遊技のような化粧をしていた。

 

 総じて、派手。最初の印象はそれだが、恰好だけの男ではなさそうだった。

 闇の中に、気配など全く感じていなかった。つまり、この男が間近にいたことに、自分は気づけなかったのだ。

 

「よく来てくれたね、天元。今日は、この武仁に会ってもらおうと思って、来てもらったんだよ」

「なるほど。御屋形様の命令なら、文句は言いませんが」

 

 天元と呼ばれた男の姿が、庭先から瞬時に消えた。

 

「よりにもよって、こんな地味な男と一緒に、俺に何をしろと? 鬼なら、俺と嫁で派手に頸を吹っ飛ばして来ますが」

 

 続いた声は、背後から放たれていた。

 

 速すぎる。武仁は座したまま、そう思った。

 ただ移動しただけだろうが、見るどころか、感じる事すらできない。読ませるような仕草すらも、なかった。

 これが敵なら、自分の首と胴はとうに離れているだろう。

 

「天元、私はまだ何も言っていないよ。まずは、自己紹介からだ」

「おっと、そうでした」

 

 武仁は、隣に座り込んだ男に、向き直った。

 全体的に、自分よりも少しだけ大柄である。しかも、その肉体はまだまだ成長しているのだろう、と武仁は思った。間近に見ると、思っていたよりもさらに若い。

 

「俺は、宇随天元。見ての通り、元忍だ」

「御影武仁。人を助けるため、鬼殺隊に入った。君に比べれば地味な隊士だろうが、よろしく頼む」

 

 武仁が軽く頭を下げると、宇随天元はおや、という表情を浮かべた。

 

「あんたが、御影武仁(みかげ たけひと)か。そういや、灰色の羽織を着ているしな」

「私の事を、知っているのか?」

「ここに来る前の任務で、鬼の頸をひとつ取ってきた。そこにいた隊士が、あんたの事を話していたのさ。前に、御影隊士に命を救われた。ありがとう、だとよ」

 

 しばらく間を置いて、武仁は口を開いた。

 

「死んだのか、その隊士は」

「ああ。鬼相手に、戦ってな」

 

 天元の言葉は淡々として、何の感情も篭っていなかった。死んだ隊士の言葉を、伝言のように伝えてくる。

 それだけだが、自分がこの宇随天元という男に興味を持っていることに、武仁は気づいた。

 同情や、怒り。そんな見え透いた感情で飾ることなく、ただ事実を伝えてきた。そういう言葉の方が、武仁は好きだった。

 

「構わないさ。私は、まだ生きている。死んだ人間の最期の言葉くらい、聞くべきだろう」

「おう、そうかい」

 

 天元は腕を組むと、首を武仁とは反対の方向へ向けた。

 

 助けた人間が、死ぬ。初めての事ではなかった。隊士を助けたところで、鬼殺に身を投じ続ける限り、いつでも死と隣合わせなのだ。

 繰り返される人助けと、死。その繰り返しの中で、自分は多分、強くなっているだろう。ただし、失っているものも、確実にある。

 

「さっきの笛、良い音だったぜ。耳の良い俺が言ってるんだから、間違いねえ」

「そうか。お話の前にもう一度、吹いてもよろしいですか。御屋形様」

「私は、構わないよ」

 

 武仁は頷くと、再び笛を構えた。

 相変わらず、湧き出てくる言葉は、何もない。

 出てくるのは、ただ音だけだった。




 4話程、地味に続くかもしれません。


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28話 その地に潜む者

 山間に、ぽつんとあるような村。

 

 武仁(たけひと)は付近の山から、村人の様子を見ていた。かなり遠いので、人ではない、胡麻粒のようなものが動き回っているようにしか見えない。

 

「武仁、天元。君達2人に、当たってほしい任務がある」

 

 数日前、御屋形様に、そう切り出された。

 ある山村に、怪異の影あり。50人ほどの村人の中には、既に犠牲者も出ているようだ。

 合同任務に、思うところはある。だが、御館様の指示を拒否する程のものでもない。

 

「待たせたな」

 

 気配もなく、声が上から降ってきた。武仁が首を回すよりも早く、宇随天元の姿が、隣に現れる。隣に、女をひとり連れていた。

 

「こいつは雛鶴。俺の嫁だ」

「鬼殺隊士、御影武仁(みかげ たけひと)。御屋形様の御指示で、共に任務に当たらせてもらうことになった」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 雛鶴と呼ばれた天元の嫁は、真面目そうに頭を下げた。

 天元とは違い、鬼殺隊の隊服は着ていない。派手でも粗末でもない、普通の着物を帯で締め、長い髪は後ろで束ねている。

 

「俺の嫁達は、どいつも腕利きの、くの一だ。他にも2人いて、そっちは別の所からあの村を見張っている。場所の選定で、時間がかかった」

「その前に、確認しておきたい。君は、くノ一の嫁が3人いる。そういうことだな、宇随隊士」

「そうだ。派手にな。15の時に全員、俺の嫁にした」

 

 そう言い、天元は笑った。

 元忍という、異色の経歴を持っている男。嫁が3人いると言われても今更、可笑しいこととは思わなかった。

 

「任務に支障がなければ、私は気にはしないが」

 

 武仁は、天元と雛鶴から、山村へと眼を移した。

 見る限り、ただの閑静な村である。畑があり、木を伐り出す山があり、村内では大小の内職が行われている。人の移動もあり、外界から完全に閉ざされている訳ではない。

 

「村人数人が、1人ずつ消息を絶っている。あの村に関わるどこかに、鬼がいる可能性は高い。それを見つけ出すのが、私たちの任務だ」

「いない場合は?」

「いない、と報告する。それも、全てを調べ尽くしてからだが」

「そう簡単に、尻尾を出すものかねえ。俺は、まだ鬼殺隊に入ってひと月位だが、馬鹿な鬼なら、ほいほいと人を襲うもんだろう」

 

 天元が今年の春に、最終選別を受けたというのは、御屋形様から聞いていた。それも、育手を介さずに選別を受けている。全集中の呼吸など後回しでもいいほどの、力量があるということだろう、と武仁は内心そう思っていた。

 この男と嫁達にとって、7日間を藤襲山で生き残るなど、容易いことだったに違いない。

 

「君なら、どうやって、鬼を見つける」

「俺は癸、あんたは戊。上官はあんただろう」

「柱でもないのに、階級が何の役に立つ。私は元忍という男の、やり方を聞きたい」

「やり方も何も、ぼろが出るまで見張ればいい。犠牲者が出ているなら、またいずれ、人を喰いに出てくるだろうからな」

「よし。では宇随隊士は、村外で見張りを頼む。君の奥方達の動きについては、私は関知しない。鬼を見つけたら、確実に頸を飛ばせ」

「あんたは?」

「あの村に行く」

「そんな馬鹿な」

 

 天元の声が、不意に色をなした。

 

「俺たちを、信用してないってのか」

「信用はしている。だが、見ているだけでは、村人に犠牲が出る可能性がある。私は、それを許容するつもりはない。それに、情報を集めるなら、村の中の方がいい。見張るだけでは、限界もある」

「俺達の援護に期待しているのなら、大間違いだ。俺は堅気の連中よりも、嫁の命の方を優先する。それが、俺が決めた命の順序ってやつだ」

 

 嫁の命。天元は、はっきりとそう言った。つまり、自分の命は堅気以下。この派手な男は、そう決め込んでいるのだろう、と武仁は思った。多分、その覚悟に裏打ちされた、過去もある。

 

「敵地にのこのこ踏み込んでいく馬鹿を助けるために、命を捨てさせるつもりはない」

「私は、あるときからずっと、独りで戦ってきた。生き延びるために、誰かの力を借りるつもりはない。君たちの力を借りる時は、鬼の頸を飛ばす時だ」

「あそこにいるのが十二鬼月だったら、どうするよ」

「その時は、上官として、交戦を禁ずる。鬼の特徴を見届けた上で、本部へ報告しろ。私のことは、見捨てろ」

 

 言いながら、昔ならこんな博打のような真似はしなかっただろう、と武仁は思った。

 今は、人を助けるためなら、どんな死地にでも飛び込める。躊躇しなかった分、生きる事にも、同じだけ貪欲でいられるのだ。

 

「お前、死ぬ気か? 御屋形様に、いたく気に入られているようだが」

「君の言葉を借りれば、こんな地味なところで、死ぬつもりはない」

 

 その言葉でようやく、天元が相好を崩した。

 

                       

 

 どうせ、長生きはできないだろう。

 宇随天元は、村に近づいていく隊士を見下ろし、そう思った。

 

 人助けのために、鬼殺隊に入った。御影武仁というあの男は、前にそう言っていた。

 それ自体は十分、共感に値する。過去に何があったのかは知らないが、一般隊士を助けて回っているという話も、立派なものだ。

 

 その分、あの男は自分の命を大事にしようとしていない。死ぬつもりはないが、死んでもいい。そう思っているのは、明らかだった。

 人助けのためなら、何でもする。その無機質な在り様は、かつて自分が抜け出てきた、忍びの里の連中をどこか彷彿とさせる。

 

「それに、何が私だ。俺と大して歳も変わらねえのに、似合ってねえってんだ」

「どうしたの、天元様?」

「おっ、須磨か」

 

 さっきまで近くにいた雛鶴は、武仁が村に入るまで間近に潜み、見張らせている。まきをは、村の反対側だった。

 虹丸という鎹鴉が定期的に嫁達の下を回って、自分に報告を入れる。それで、全ての情報が集約されるのだ。

 

「あの人、本当に行っちゃったんですねえ」

「ここは、先輩のお手並み拝見だな」

 

 武仁の姿は、ほとんど粒のように、小さくなっている。天元の眼はまだ、その姿をはっきりと捉えていた。忍の訓練で、視力も鍛えられている。

 

 何の逡巡もなく、武仁は村の中に入った。気づいた村人が数人、遠巻きにしているが、さらに奥の家の方へと進んでいく。その家から出てきた腰の曲がった爺に一礼するや、武仁は何やら話し込み始めた。

 

 村長か長老の家に、見当がついていたのかもしれない、と天元は思った。それを、どうやって見抜いたのかは、ここからでは全く分からなかった。建っている家など、どれも粗末で、似たようなものだ。

 

 しばらくすると、武仁は村人数人と連れ立って、山の方へと向かい始めた。余所者として追い払われることは、なかったらしい。

 

「あいつ、何かやってるな。須磨、ちょっと見てきてくれ」

 

 須磨は、快活な返事を寄越すと、駆け去っていく。

 天元はひとり眼を閉じると、村だけでなく、周囲の山々に意識を飛ばした。周囲の音に、集中する。

 

 天元は、音を聴く力が、人よりも優れていた。人が眼で見るもの、気配で悟るものを、自分は聴くことで察知できる。鬼などは、実に不愉快な音となって、耳に届くのだ。

 

 その不愉快な音は、今は全く聞こえない。

 やはり昼間は、どこかに潜んでいるようだ。もし居場所が分かれば、日の下に引きずり出してやれば、それで片が付く。

 

 須磨が戻ってくるのに気づいて、天元は眼を開けた。自分を呼ぶ声が、聞こえていた。

 

「樵の真似事だと」

 

 須磨の報告に、思わぬ声が漏れた。不安げな表情になった須磨の頭を、撫でてやる。だが、内心では、目まぐるしく思考が回っていた。

 

 いま武仁は、村人と一緒になって、斧で木を切り倒しているという。それも、情報収集というより、村人の手が足りないから手伝っている。須磨が見聞きした時は、そういう様子だったようだ。

 

 その後も、切り倒した木の枝払いや、運搬。家々の修繕。内職の手伝いなど、村の手伝いに、精を出している。情報を集めるなら、村人ひとりひとりに聞きこんだりしそうなものだが、そんな様子は全くない。

 

「こいつ、本気か。人助けも、本気でやれば、ここまで派手になるか」

 

 須磨に、まきをと一緒に行動するよう指示をした後、天元はひとりそう口にした。

 あの男は、本気で人助けをやっているのだ。これまでの行動を見ていて、そうとしか思えなかった。

 

 人助けをしつつ、村に馴染み、情報を得ようとしている。あるいは、鬼を炙り出そうとしている。

 

 逆に、鬼からすれば、目障りな存在とも言えるのではないか、とも思えた。鬼殺隊士であることは明かしていないようだが、かなり目立つ動きをしている。まるで、自分を狙えとでも言っているようだ。

 

「俺は、村の中に潜入する。雛鶴、まきを、須磨は別々に離れて、山中で待機しろ。周囲から、眼を離すなよ」

 

 まず虹丸を、伝令に走らせた。既に夕刻は過ぎ、日が暮れかかっている。

 村の中央で、炎が起こされていた。村人の多くが、その火を囲っている。天元はある家の屋根に登って、その様子を見下ろした。

 座は賑やかで、交わされている人の声は明るい。今のところ、鬼を感じるようなものは、何もなかった。

 

「皆の衆よ」

 

 声を張り上げているのは、あの腰の曲がった老人で、そこに村人の視線も集中した。その背後には、正座で座り込んでいる武仁の姿もある。日輪刀は見えないが、どこかに仕込んでいるのだろう。

 

「このところ、立て続けに村の者を喪うなど、辛いことがあったな。だが、辛いことがあれば、必ず良いことがあるのだ、と思わされた。この影法師殿が、来てくれた。我々のことを、助けてくれると、最初に言ってくれた」

 

 武仁は、自分の事を影法師と名乗っているようだ。そう呼ばれた武仁の表情は、微動だにしない。おそらく自分と同じく、鬼の気配を感じ取ろうとしている。

 

「儂は、最初は疑っていた。だが、今日一日、虚心に村のために手を貸してくれた影法師殿を、儂は信じたい」

「村長。私は、当然のことをしたまでです。しかし、村の方々の手助けになったのであれば、これに勝る幸せはありません」

「なんと。影法師殿はお若いのに、まるで仏のような御仁であるな」

「過分な御言葉です。その、返礼にはならぬかもしれませんが、失礼致します」

 

 武仁の手に、笛が握られている事に、天元は気づいた。直後に、澄んだ笛の音が、流れ始める。

 

 心の底をかき混ぜるような感じがする、不思議な音だった。

 哀しみ、苦しみ、虚しさ。人間なら誰しも、抱えて生きている。しかし誰もが、心の奥に押し込めてもいる。そういうものを、直に揺り動かすような音色。

 

 御屋形様の声にも、似ている。天元は、そう思った。そのどちらも、聞く者の琴線に触れてくる。

 

 集まっている村人全員が、笛の音を聞いている。そして、心を動かされている。天元は自ら聞いた音で、それが分かった。中には、涙を流して聞いている者もいる。

 

 いや、違う。微かな、雑音が混じっていた。それに気づき、天元は屋根から身を乗り出した。

 音の出処。炎を囲っている村人の端。壮年ふうの男が立っている。

 

 見た目は、人間である。だが、耳障りな音も放っている。何かある。そこに思考が至った瞬間、天元は迷わず、屋根から跳躍した。

 

 同時に、何かが噴き出すような音が、いくつも立ち昇る。たちまち、視界が煙に包まれていく。煙幕。天元は即座に理解したが、唐突の事態に、村人には悲鳴を上げているものもいた。

 

 天元の耳は、男の音を、聞き逃さなかった。

 男の背後に着地すると、首根っこを掴み、一気に村の外まで連れ出すと、立木にその身体を叩きつけた。

 

 骨が折れる程ではないが、普通なら失神するだけの力を込めた。しかし男は、ゆっくりと、立ちあがってきた。

 

 こいつは、鬼だ。天元は、その確信を深めていた。

 異様なほど、男の体は軽い。体を引くどころか、片手で持ち上げて、村から連れ出したようなものだった。まるで、張りぼて人形のようだ。

 

「見つけた」

「俺も、お前を見つけたぜ、鬼」

「見つけた! 新しい体! 俺に寄越せ!」

 

 男の眼。濁りきっていた。そして、狂気の光を走らせながら、自分に向かって突っ込んできた。

 速い。そう思った。だが、自分はその数倍は速い。天元は、背中に差した日輪刀に手を掛けつつ、踏み出した。体が交差した瞬間、男の頸は、胴から切り離されていた。

 

「何だ、こいつは」

 

 天元は、軽く眼を見開いた。男の頸と胴は、燃えていかない。こいつは、人間だったということなのか。そう思った瞬間、切り離された頸が、爆散した。

 

 頭蓋の破片が飛び散り、凄まじいほどの腐敗臭が辺りに漂う。天元は咄嗟に、腕で口元や鼻を覆った。

 

 その時だった。お前の、体をもらうぜ。微かな声。天元は咄嗟に腕を振り、苦無を投げた。その直後、聞こえてくる声が、断末魔に変わる。

 

 何かが、苦無に貫かれ、さらに木の幹に留められていた。まるで、小さな蛆のようだ。だが、そいつが声の正体らしき、鬼だった。

 

「はっ。こんな、地味に小さな鬼もいるのか。参考になったぜ」

 

 言いながら、天元はもう1本の刀を抜くと、鬼を2刀で徹底的に切り刻んだ。どこが首かは分からないが、刀を納めた時、その鬼は消滅していた。

 付近に、鬼の気配も、耳障りな音もない。人が1人。武仁が近づいてきている。それは、聴き取れた。

 

「鬼は、狩ったのか?」

「ああ。そいつの頭が吹き飛んで、中から飛び出てきやがった。蛆みてえに小さな、地味な鬼だったぜ」

 

 武仁は黙って頷き、胴体だけになった男の傍にしゃがむと、胸や腹の辺りを軽く指先で押し込んでいた。指先は、ずい、と異様なほど沈み込んでいく。

 

「体の中まで、食い荒らされている。残っているのは、骨や最低限の肉くらいだろう。この男は、昼間は普通に村を出歩いていた。体内なら、日の光も届くことはない。そういう、鬼だったのだな」

「寄生虫みたいなやつということか。他に、潜んでいるものかな」

「恐らく、いないだろう。1人ずつ、餌食にしていったのだな。この男は、既に死んでいたのだろう。生気がないことが多少気になっていたが、日の光を浴びていたから、鬼という確証はなかった。まさか笛で炙り出すことになろうとは」

「俺は、派手に耳がいいからな」

「君がいてくれて、助かった。宇随隊士」

 

 武仁は、まだ喧噪収まらぬ村の方を一瞥すると、山の方へと向かって歩き出した。鬼さえ狩れば、もう村にいる必要はないのだろう。

 

 歩きながら、指笛で鎹烏を呼び出すと、2言3言伝え、闇に放っている。任務終了。後は、隠に引継ぐ。小声だったが、天元には充分に聞こえていた。

 

「さっきのは、煙幕かい」

「ああ。他にも、縄や爆竹を使うこともある。どれも小細工に過ぎないが、工夫さえすれば、使いどころはある」

「俺はそういうのも、悪くないと思うぜ。元忍としての、意見だがな」

「ではこれで、忍者のお墨付きになった、という訳か」

 

 武人とは、途中で道を分かれた。合同任務として指定されていたのは、この任務だけである。

 武運を祈る。別れの言葉まで、地味な男だった。

 

 天元も、虹丸で嫁達に伝令を送ると、走り出した。集合場所だけ、伝えておけばいい。

 

 山を幾つか、越えた時だった。不意に天元は、背中にむずがゆさを感じた。それは、誰かに見られているような感覚にも似ている。

 

「誰だっ」

 

 天元は素早く立ち止まると、声を上げた。

 周囲は、闇である。木の枝葉が擦れる音のほか、天元の耳は、何も感じられなかった。




 新しい鬼を考えるのは難しいですね。

【アンケートのお知らせ】
 読者の皆様、拙作の閲覧等、ありがとうございます。
 抜け忍編後のプロットはあるのですが、翌年に展開が進む流れとなりそうです。このまま年を改めるのももったいないと思い、せっかくの機会にアンケートを実施してみようと思います。
 28話と29話の2回実施し、それぞれ1番票が多かったキャラクター2人と、主人公が絡む話にしようと思います。
 どんな組み合わせでも、なんとか話に纏めます。読者の皆様が出て欲しいキャラクターに、気軽に投票していただけると嬉しいです。


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29話 頑固者

 色々詰め込んだら、また長くなってしまいました。


「そろそろ、指令が来ないものか、那津(なつ)

 

 武仁(たけひと)は歩きながら、頭上へ声をかけた。那津は、宙を舞いながら、カァカァと鳴くばかりである。

 

 宇随天元との合同任務から、ひと月ほど経っていた。

 その間に2度、本部からの指令を遂行した。また、移動の途中で聞いた噂話を端緒に、別の鬼を1匹見つけ出した。

 

 どれも、大した鬼ではなかった。常中で強化された身体と、暗器を使った立ち回りで、仕留めることができたのだ。

 尤も、鬼は人間よりも強い。武仁の考え方の根本に、変わりはなかった。偶然、これまで自分を殺せた鬼はいなかった。ただ、それだけのことだ。

 

 日が暮れた頃、武仁は地面に落ちている枝や石を拾い集めると、一箇所に積み上げた。その前に立ち、ゆっくりと呼吸を深める。心気も、研ぎ澄ませていく。

 

 このところ、あまりやっていなかった、ある武術の鍛錬である。

 鍛錬それ自体は、常にやっている。だが、これからする鍛錬は、そういう類のものとは性質が違うのだ。

 

 山になっている木枝や石。それを掴み、頭上へ投げた。直後、日輪刀を抜き放つ。一呼吸置き、雨のように降り注いでくる石や枝を、その場で次々と払っていく。

 

 当然、払いきれないものはある。隊服の上からでも、当たれば痣くらいにはなるし、素肌に当たれば、皮が破れ、血が流れることもある。

 山がなくなるまで、それを続けた。数えきれないほど打たれたが、急所に向かってきたものは、全て払っている。

 

 その次、近くの木の前に立った。

 野太い幹から、横に分かれた枝。そこ目掛けて跳躍する。枝を飛び越えつつ、日輪刀を振り下ろす。跳ぶ、斬る。それを、愚直に繰り返していく。

 

 跳ぶと同時に、斬りつける。回避と攻撃を瞬時に行うこの技は、師匠の十八番だった。自分はこの技を破るどころか、回避する事すらできなかった。

 だが、師匠との鍛錬の中で、誰よりもこの技の見取りをしてきたのだ。使いこなせるようになるまで、ひたすら続ける。それしか、考えていなかった。

 

 日輪刀を納め、武仁は火を起こした。まるで天上に浮かぶ、月を斬ろうとしているようだ。微かに揺れる火を眺めながら、武仁はそう思った。

 無駄な事。手が届きようのないものに、自分は手を伸ばしているのかもしれない。だが、月は斬れずとも、その光の一筋だけでも、斬り払えるようになりたいのだ。

 

 自分が本当に見据えているのは、月光ではなく、あの6ツ目の鬼の技である。あの暴風雨のような攻撃は、今も眼に焼き付いていた。上弦の壱を滅殺するためには、まずあの攻撃を掻い潜る必要がある。

 

 湯が沸くのを、待っている時だった。気配。武仁は日輪刀の柄に、手を掛けた。

 点々と、途切れ途切れの気配が、近づいてきている。それは、隠すのではなく、こちらに教えているような感じがする。

 

 小さな火。それで浮かび上がる程の、派手な身なり。森の中から出てきた男を横目に見て、またか、と武仁は思った。

 

「こんな所にいたのか。やることなすこと、とことん地味な奴だな。おい」

「別に、君を呼んではいない、宇随隊士」

「そんな、堅いことを言うものじゃねえよ。さっき、そこそこの気迫を感じたが、あれはあんたかい?」

 

 宇随天元は、こちらの返答を聞くこともなく、火の傍で胡坐をかいた。

 

 今日は、鍛錬だけでなく、この場所で野宿をするつもりである。

 選定する場所は、いつも変わりない。水場があり、風下であること。その周囲に、鬼の気配や痕跡がないこと。最低限の安全確保は、無意識でもやっていた。

 

「武仁。あんたは、地味な男だ。俺と比べると、霞んじまうくらいに。だが、笛は良い」

「結局、それが言いたいだけだろう」

「なあ、頼むよ。嫁まで呼ぶと迷惑だろうと思ったから、今日は、俺一人で来てるんだぜ。撒くのに苦労したんだからよ」

 

 まるで、駄々をこねる子供のようだ。

 このところ、天元はよく自分の前に現れる。その度に、笛を吹いてくれと、強請られる。雛鶴だけでなく、まきをや須磨という女忍者の嫁を連れて来たこともあった。

 

「仕方がないな」

 

 笛を取り出し、構えた。

 音が、静かに立ち上がった。高揚した律動で、音を紡いでいく。

 

 吹いているのは、宇随天元という男の事だった。派手好きで、嫁が3人いる元忍者。武術と言い、体の捌きといい、並々ならぬものがある。しかし、戦いへの姿勢は、堅実だった。

 そして、何があっても嫁の命を優先すると公言しつつ、自分の命を一番安く見積もっている男でもある。

 

 笛を吹き終えた時、天元は腕を組んで首を振っていた。

 

「いったい、どういう過去があれば、こんな音を吹けるようになるのかね」

「私は、君の過去に興味はないぞ」

 

 隊服の懐。笛をしまっておく場所は、一度たりとも、変えたことはなかった。かつて、不意に放たれた矢の一撃を、笛が防いでくれた。それで、生き残ったこともある。

 

「詮索するな、ってことかい。鬼殺隊は、そんな奴らばかりだ」

「笛は、吹いた。私は寝る」

「やっぱり、似合ってねえよ」

「私の、何が似合っていないという」

「それだ。手前のことを、私。俺のことは君だの、宇随隊士だの。喋り方が、合ってねえ」

「何が言いたい」

 

 天元の口調が、ちょっと硬いものになる。宇髄天元という男が、一歩こちらに踏み込んできた。そう感じた瞬間、武仁の声も硬くなっていた。

 

「俺、お前で喋らねえか。俺もあんたも、歳はほとんど同じはずだ」

「どういう口を利こうが、私の自由だ。人に、とやかく指図されたくはないな」

「俺とあんたは、鬼殺の隊士として、相性はいいと思うんだがな。笛といい、この前の煙幕といい。はっきり言うぜ。俺と組まねえか?」

 

 天元の視線を躱すように、武仁は火を見据えた。

 

 この派手な男が言いたいことは、何となく分かった。これは、任務を共に遂行しようという話ではない。

 互いの戦い方を語り合い、手の内を見せあえば、より強くなれる。そういうことだろう。錆兎と冨岡義勇のような関係と、言ってもいいのかもしれない。

 

 ただ、それは理屈として理解できるだけで、自分の内側のどこかには、それを強烈に拒絶するものがある。どう断ったものか、答えを出すよりも先に、口を開いていた。

 

「私に、友人はいない。そんなものは、必要ない」

「へえ、そうかよ」

 

 天元は全く納得していない様子だったが、武仁が顔を上げた時、その姿は消えていた。

 小さい火に、乾いた小枝を幾つか重ねる。その上に被せるように、太い木を組んだ。息を吹き込めば、ひと時、火は炎となって燃え盛る。

 燃える枝が立てる乾いた音のほか、耳に届くものは何もなかった。

 

 横になると、夜空を見上げつつ、天元の提案を受け入れられなかった理由に思考を巡らせた。そして、その理由は、すぐに見つかった。

 

 友人など、自分はもう作りたくないのだ。

 かつて、肩を並べて戦った、朱雀や芭澄という気の置けない友人。あの2人は、親友と言っても良かったかもしれない。それを失うときは呆気なく、衝撃は凄まじいものだった。

 

 鬼殺隊の人間は、自分よりも上か、下か。ただそれだけでいい。武仁はひとりで戦い始めてからずっと、そう思っていた。

 俺、お前。朱雀が教えてくれた喋り方も、やめたのだ。

 

                       

 

 翌日も、その次の日も、天元は武仁の前に現れた。

 

「しつこい奴だな。君は、私よりも強い。ずっとだ。そんな君が、なぜ私などの前に現れる。構わず、好きに動き回ればいいではないか」

「おいおい、話がぐるぐる回ってるぜ。そもそも、好きに動き回ってるから、ここにいるんじゃねえか」

 

 また、無駄なことを言った。武仁は内心で舌打ちをして、横を向いた。

 

 宇随天元は、そこそこに弁も立つ。こちらの理屈の、裏をかいてくるのだ。それを理解してから、天元を口で追い返すことは、諦めていたのだ。

 次には、何度か本気で撒こうとした。山歩きは、手慣れたものである。だが、どういう訳か、天元は必ず自分の居場所を探り出し、現れる。

 

 何度もそれが続き、武仁はこの元忍を追い払うこと自体を、諦めた。

 

 天元の前で、あの月を斬るような鍛錬は行わない。というより、人前では決してやらなかった。笑われるのも、詮索されるのも、嫌だった。

 だから、何度も天元が現れるのは、迷惑という思いの方がずっと強い。

 

 天元が、何に拘って自分の前に現れているのかは、全くわからない。ただ、宇随天元という男が頑なな分、自分も同じくらい頑迷になっていく。それが、俯瞰しているようによくわかる。

 

「武仁、あんたは全集中の呼吸がつかえないってのは、本当か?」

「水の呼吸の、壱ノ型は使えるが、他の技も流派も、何一つ使えない。一応、常中は使えているようだが、日輪刀の色すら、変わらなかった」

「俺には、適性とかいうのがあるらしい。基本の呼吸ではなく、いわゆる派生した呼吸になるらしいが」

 

 基本の5つの流派。それを極める者だけでなく、そこから派生させ、独自の呼吸を練り上げる者もいる。それは噂で聞いたことがあるだけで、眼で見たことはなかった。

 

「派生した、全集中の呼吸か。君らしい、派手な技にでもすればいい」

「はっ、無論だな」

 

 こんな適当な返答でも、天元は朗らかに笑う。

 武仁はまた、横を向いた。この男は、自分の心の中の凍らせておきたい部分に、熱をもって触れてくる。そういう笑顔の癖に、覚悟もまた垣間見えていた。

 

「その腰にぶら下げているの、見せてくれよ」

 

 武仁は羽織の下から、爆竹や煙幕を投げ渡した。天元は拳大のそれを、手の中でくるくると回している。

 

「あんたは、苦無は使わねえのか? 当てるのは簡単じゃねえが、慣れれば結構、便利だぜ」

「私は、忍者になるつもりはないのだ」

「忍者でもない奴が、こんな地味な小細工するかよ。最初は御屋形様の紹介で、こんな地味な奴が何だと思ったものだが、今の俺は、あんたに興味がある。まさか鬼殺隊に入って、忍がつかうような暗器で、人助けをしている男に会うとは思わなかったからな。地味だが、派手だ」

「あまり、褒められているとは思えない」

「そうやって捻くれた奴は、女にもてないぜ」

「私にとって、あまり意味のないことだ」

「ったく、頑固者め。壁にでも、話しかけているような気分だぜ」

 

 天元は静かな挙措で、立ち上がった。宝石をぶら下げたような髪飾りを付けている割に、物音はほとんど立てていない。

 

「また、明日も来る」

 

 その言葉だけを残し、天元の姿は消えた。

 日はほとんど、没しつつある。帰り道を急いているのか、山鳥が鳴いていた。

 

 天元が現れるのは、大抵、夕方頃である。聞けば、任務先に指定されている場所は、とんでもない遠隔地だった。それでも、天元は僅かな時間で移動し、任務を遂行するのだろう。

 

 だが、その翌日、天元は姿を現さなかった。何かがおかしい。そう思ったのは、それから数日経っても、天元が現れなかったからだ。

 最初は、ようやく面倒事から解放されたくらいにしか思わなかった。だが、姿を見ない日が続くと、どこか引っかかるような感じもする。

 

 それでも武仁は、那津で探りを入れることも、自ら探しに行くことも、しなかった。鬼との戦いが長引くことなど、当然にある。それに何より、宇随天元は、自分よりも強い。

 

 そんな男でも、死ぬ時は死ぬのだ。それこそ上弦の鬼と出会えば、ひとたまりもないだろう。もし死んでいれば、それが宇随天元という男の、巡り合わせというしかない。

 

 もし、あの男が死んでいたら。自分は宇随天元という男を忘れることなく、生きて戦い続ければいい。それだけで、いい。

 内心でそう呟き、武仁は笛を構えた。

 

 気の抜けたような音。武仁は途中で、笛を吹くのを止めた。

 

                       

 

 那津が、久方ぶりに指令を運んできた。東京府の近郊に、鬼の影あり。内容は討伐というより、調査に近いものだった。

 

 このところは、激しい戦闘へと送られるよりも、こういう陰に潜む鬼を探る任務を振られることが多い。そのこと自体に、不満はなかった。そういう鬼の方が意外と手強く、下手に隊士を差し向ければ、犠牲も多くなる。

 

 実態を暴いて、討伐できそうなら、頸を飛ばす。できなければ、柱が来るまで、犠牲が出ないように抑え込む。

 

 東京府へと向かい始めた、その夕方頃の事だった。

 突然、離れたところの茂みが、激しく動揺した。闘争の気配。そして、血の臭い。武仁は日輪刀に手を掛けつつ、走り出した。

 

 人影が2つ、森の奥から飛び出してくる。その片方。風に髪をたなびかせた女に、見覚えがあった。天元の嫁のひとり。逆手に握る短刀で、何者かと渡り合っている。

 

 鬼。そう思ったが、まだ夕日の下である。朝だろうが夕刻だろうが、太陽の下では、鬼は焼かれて消える。わざわざ、切り結ぶ意味はない。

 雛鶴が渡り合っている相手は、それ自体が黒い影のように見えた。

 

 雛鶴と影。2つの姿は、何度も交錯し、その度に鋭い音を放っていた。何度目かの交錯の後だった。短刀が一本、宙を舞う。直後、再び双方の立ち位置が入れ替わる。雛鶴の姿が、崩れ落ちた。

 黒い影。雛鶴へと突っ込んでいこうとしていたその前に、武仁は何とか立ち塞がった。

 

 相手は、黒色の装束に身を包んでいる。人間だった。それに雛鶴と同じ、逆手の構え。まるで忍者だった。武仁は眼を細めつつ、つぶさに見てとった。

 

「何者だ、君は」

 

 言い終えるのを待たず、相手が動く。並みの鬼より、速い。だが、視界の中だった。這うような姿勢で脇を抜けようとしたところを、縄を飛ばし、引き倒した。

 

 倒れた黒装束の面布に、日輪刀を突き付ける。布の間から見える眼は、濁った沼のようで、何の感情も透き通ってこない。まるで、絡繰人形のようだった。

 

「退け。これ以上やるなら、私は人間でも容赦はしない」

 

 煙。武仁は咄嗟に、雛鶴を抱え、風上へ飛び退いた。自分が使うのと同じような煙幕だが、喉に痺れるような感じがした。毒性の煙玉だろう。

 呼吸を深めつつ、武仁は意識を周囲に放った。全集中の呼吸を応用すれば、毒の巡りを遅らせることもできる。

 

 これは、人を殺す類の毒ではない、と武仁は既に判断していた。あまりに強すぎる毒は、使用者をも殺す、諸刃の剣になる。こちらの動きを、悪くさせるためのものだろう。

 煙が掻き消えた時、既に人影はなかった。微かな気配。それが、山奥へと遠ざかっていく。

 

「しっかりしろ。このくらいで、忍者が死んでどうする」

 

 雛鶴は全身に、深浅の傷を負っていた。体を木陰に横たえ、深そうなものから布と薬で、血止めを施していく。手当の最中、呻き声の中に、か細い言葉が混じっていることに気づいた。

 

 それを無視して手当てをしていた武仁の腕を、不意に雛鶴の細い手が掴んだ。意識は薄れているが、異様な力が篭っていて、指が食い込んでくる程だった。

 

「お願いです。天元様を」

 

 助けてください。そう振り絞るように言うと、雛鶴は武仁の腕を掴んだまま、気を失った。

 力のこもった指を、1本ずつ解し、外していく。残りの手当は、簡単に終わらせた。

 

「那津。お前はこの娘の側にいろ。東京府には、少し遅れることになるぞ」

 

 那津の返事は、聞かなかった。これが任務の放棄に当たるのかどうか。束の間頭をよぎったその考えを、即座に捨てた。ここで何もせずに、何のための人助けなのか。

 武仁は、走り出していた。




 抜け忍編はあと1話で終わりますが、天元殿とも長い付き合いになりそうです。

【アンケートのお知らせ】
 詳細については28話のあとがきに譲ります。
 1回目は、多くの方の投票、ありがとうございます。オリキャラにも票をいただけたりと、大変うれしかったです。
 2回目ですが、特に投票先は変えません。もし、1回目と同じキャラクターが得票1位だった場合は、2位のキャラクターを登場させることとします。

 期限は30話を投稿するまでとしますので、どしどし投票していただけると嬉しいです。


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30話 追いすがる過去

 抜け忍設定を見た時から、こういうストーリーが無いかな、と夢想してました。


 昼は森の中で気配を殺し、周囲を探るのは、日が暮れてからだった。

 

「地味にやばいか」

 

 天元は身を低くしたまま周囲を伺い、そう呟いた。

 今、自分のほかには、まきをと須磨の2人がいるだけである。僅か3人だが、何倍もの人数に包囲されていた。

 

 数日前、任務を終えた自分達の前に、黒衣の装束の集団が現れた。その連中を見た瞬間、鳥肌が立った。あれこれ考えるよりも先に、その連中を打ち倒し、嫁達と共に駆けた。

 それは、戦いでいう、斥候か瀬踏みのようなものだったのだろう。気づいたら、分厚い包囲の中に、追い込まれていた。

 

 包囲している集団の正体は、既にわかっている。

 自分が生まれ育ち、そして抜け出した里の、忍者共である。抜け忍である自分と嫁を、始末するために現れたのだ。

 

 わざと自分だけ捕まり、その隙に嫁達を逃がすことも考えたが、この包囲を指揮しているのは親父か、あるいは跡を継いだ弟だろう。

 これは里の秘密の保持だけでなく、裏切り者への制裁という意味もあるはずだ。生きたまま捕えるなどという、生温いことはしないだろう。

 

 枝擦れの音が、天元の思念を断った。現れたのは、まきをだった。

 

「里の連中、まだあたしたちを探してる。ここまで来るのに、もう少し時間はあるけど」

「わかった、ありがとよ」

「雛鶴は大丈夫かな、天元様」

「信じろ。あいつが、俺やお前達を置いて、その辺で死ぬもんかよ」

「そうだよね」

 

 雛鶴と別れたのは、昨日のことだ。自分達に、探索中の敵の一部が肉薄して、包囲が乱れた。その隙に、雛鶴ひとりが包囲を突破していったのだ。自分の指示ではなく、雛鶴がひとりでやったのだ。

 雛鶴は逃げたのではなく、応援を要請しに行った。天元は、それを疑っていなかったが、問題は誰に接触するかである。

 

 可能性があるのは鬼殺隊だが、天元はこの身内との争闘に、鬼殺隊を巻き込むつもりは毛頭なかった。鬼殺隊の敵は鬼であり、人間ではないのだ。いくら時代錯誤の忍者集団とはいえ、人であることに変わりはない。

 鬼殺隊士に、人間と戦わせる。それは、忍びの里から逃げ出した自分を受け入れてくれた御屋形様への、裏切りにも等しい。

 

 誰の援護を受けることなく、この場を凌ぐ。それしかない。そういう自分の思いも、雛鶴なら汲んでいるはずだった。

 

「そろそろ、少し動くぞ。まきを。須磨の奴にも声をかけておいてくれ」

「わかった」

 

 まきをと須磨が戻ってくると、即座に互いの配置を決めて、移動を開始した。周囲を探りつつ、決して離れすぎない。そういう配置だが、何かあった時はまず自分が接敵するようにしてある。

 徐々に徐々に、低い方へと移動していく。決して、斜面は登らないようにしていた。山の上に行けば視界は確保できるが、孤立は深まることになる。

 

「やっぱり、地味にやばいな」

 

 周囲の空気そのものが、肌に絡みつくような感じだった。四方のどこかを抜けようとしたが、包囲網に隙はない。どこへ行っても、遠くから見られているような感覚が、付きまとってくる。

 この感覚に、心当たりはある。ひと月程前、背中で感じた視線めいたもの。最初に捕捉されたのは、あの時だろう。

 

 その後も、武仁の所に行くため、幾度も移動を繰り返した。その間、必ずしも隠密での移動を心掛けているわけではなかった。

 自分の負けだ。天元は再びその言葉を反芻し、唇を噛んだ。最初に自分が捕捉された時点で、この結果は決まっていたのだ。派手だなんだと言って、自分の気持ちに緩みがあったのだろう。

 

 だが、まだ付け入る隙はあるはずだった。相手も、自分たちの正確な居場所は掴んでいないからこそ、何日も包囲網を作って、こちらを炙り出そうとしているのだ。

 この包囲網を絞られる前に、逃げる。少なくとも嫁達だけでも、逃がす。それが、自分の為すべきことだった。

 

 天元は、反射的に顔を上げた。耳に、微かな音が届いている。

 

「こいつは」

 

 笛の音。御影武仁の笛。気づいて、天元は拳を握りしめた。自分の耳は、音が発せられている方向までも、感じ取っている。

 

「まきを、須磨。逃げるぞ」

「天元様?」

「つべこべ言うのは後だ、派手に走れ」

 

 迷う暇はない。気配は殺したまま、駆ける。天元が先行し、嫁2人は後ろにいた。

 纏わりつくようだった空気が、ざらざらしたものに変わっていく。左右の木の上。飛び降りてきた人影を、天元は身を回しながら跳躍し、空中で蹴飛ばした。

 

 さらに数人、眼の前に飛び出てくる。天元は、鞘に収めたままの日輪刀を振り回し、ど真ん中の間隙を駆け抜けた。笛の音は、まだ聞こえている。

 

「俺は、宇随天元だぞ。死にたくねえ奴らは、どきやがれ!」

 

 叫んだ。まきをも須磨も、しっかりとついてきている。

 かなりの人数が、闇の中に蠢いているのは、音で分かっていた。最早、存在を隠そうともしていない。

 

 人影が、眼の前に沸いた。4人。低い姿勢で、刃の短い刀を構えている。馳せ違い様に2人を打ち倒し、もう1人は胸ぐらをつかんで、傍らに生えている木の幹に叩きつけた。

 最後のひとり。跳躍し、自分の背後に降り立ったところを、まきをと須磨が倒している。

 敵が、一斉に飛び掛かってくることはなかった。ただし、執拗である。何度も切り結べば、傷は免れない。そうやって、こちらを消耗させようとしているのだろう。

 

 何度かの攻撃を切り抜けた時、不意に、天元達の前を十数人の集団が塞いだ。

 その真中。弟がいた。天元はまず、自分が生き残るという考えを、放棄した。

 弟の無機質な瞳は、自分だけを見ている。そこに何ら感情がないのは、聞こえてくる音からも明らかだ。しかし、忍としての技量は、正直侮れない。

 

 自分がいなくても、武仁がすぐそこまで来ている。雛鶴の無事は、信じるしかない。自分がやるべきことは、まきをと須磨をこの死地から逃がすことだけだ。

 

「俺が宇随天元と知ってのことなら、覚悟は決めてきたのだろうな。俺は刺し違えてでも、お前らを全員、ぶちのめすぞ」

 

 弟の眼は、まるで動じなかった。敵が、動き始める。扇状に広がり、少しずつ近づいてくる。天元も1歩、踏み出した。

 その瞬間だった。忍者集団の背後から、拳大の塊がいくつも投げ込まれてきた。笛の音が聞こえなくなっている。気づくのと同時に、視界一面が煙に飲まれた。煙幕が発火する寸前、躍り込んできた武仁の姿は、しっかりと捉えていた。

 

「殺すな!」

 

 天元は咄嗟にそう叫びつつ、自らも白煙の中を、斬り込んだ。日輪刀を2本。刃を返して、振るう。人だろうが武具だろうが、触れるものは次々と打ち払っていく。

 

 殺すな、と叫んだ。それは武仁を殺すな、という意味なのか、武仁に里の連中を殺すなと言ったのか。その問いが、天元の脳裏をよぎった。たぶん、後者だ、と思った。

 

 静かな、殺し合いだった。声もなく、刃物と刃物がぶつかり合う音だけが響き渡る。奪われた視界。それと、乱入者の登場で、里の連中は浮足立っている。

 

 忍は諜報や暗殺だけでなく、闇の中での集団戦闘にも長じている。ただ、武士や軍人のような、真っ向から斬り合うようなことはしない。姿を見せてきたということは、逆に言うと、その時点で勝算があるということだ。

 武仁は止まることなく動き続け、必ず一対一の間合いで、日輪刀を振るっているようだ。向かい合った時は、何合か切り結び、離脱する。そして隙があれば、打ち倒す。

 忍同士の連携を崩す。それを狙っているのであれば、実に効果的な立ち回りをしていると言っていい。

 

 相手の備えが、散漫になった。天元は敵が薄くなった方へ、自ら飛び込んだ。忍数人。苦無が何本も飛び交っている。耳で、捉えていた。全て打ち払い、立ち塞がる敵は、体をぶつけるようにして吹っ飛ばす。

 浅手はいくつも受けたが、立ち止まらなかった。そして血路を、切り開いた。

 

「行け、須磨、まきを!」

 

 叫んだ。天元を追い越すように、嫁が2人、次々と駆け抜けていく。天元はそれを横目に見ながら、自らは身を翻した。

 

「立ち止まるんじゃねえ!」

 

 また、叫んだ。

 

「俺は、こいつらを派手に足止めする! その後で、お前達のところに戻る!」

 

 嫁達は、鈍くなりかかった足を再び早め、離脱していく。

 これでいい。天元は身を翻しつつ、そう思った。煙幕は、薄くなりつつある。視界はすぐ晴れるだろう。

 

 ここからは、自分の命が続く限り、戦い続ける。少なくとも、嫁達が離脱できるだけの時間は必ず稼ぐ。稼げなくとも、いくらかの手傷は与える。それできっと、武仁が嫁を助けてくれるだろう。

 この期に及んで、都合がいい考えをする。自嘲しつつも、自分はそれを信じて、疑っていなかった。今はもう、御影武仁という男を信じるしかない。

 

 煙が晴れた時、忍び装束の集団が、自分を取り囲んでいた。嫁を負っていく気配や音はない。逆に、自分を包囲していた者たちの殆どが、この場に集結しているようだ。

 ただ、囲まれているのは、自分ひとりではなかった。

 

「あんた、なんでここにいやがる」

「君を助けて欲しい。君の奥方にそう頼まれたから、私はここに来た」

 

 御影武仁が、背中合わせで立っていた。




 あと1話で終わるといった気がしますが、終わりません(焼き土下座)

【アンケート回答の御礼】
 多くの方のアンケート回答ありがとうございます。
 結果は
 1回目:胡蝶カナエ
 2回目:胡蝶カナエ→胡蝶しのぶ
となりました。カナエさんの人気には脱帽です。
 よって、抜け忍編の次章は、胡蝶姉妹とのストーリーとなります。
 選ばれなかったキャラクターも、別の機会で登場しますので、また読んでいただけると幸いです。


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31話 音と影

 抜け忍編、これにて終幕です。


 一度視界を覆いつくした煙は、完全に晴れていた。

 

「馬鹿だ。死ぬかもしれねえってのに」

「前に、似たようなことを言われたことがある。師匠が馬鹿だと、弟子も馬鹿になるらしい」

 

 喋っている間にも、敵は動いている。徐々に、包囲が狭められた。そして、自分に相対する位置には、弟が立っている。

 天元は、日輪刀を握る掌に力を込めた。まだ刃は返している。今の自分は、鬼殺隊士であって、忍ではない。不必要な殺しを、するつもりなどない。

 ただ、嫁や仲間が傷つく。その時は、容赦なく刃を向けなおせるだろう。

 

「あんたの道具は、いくつ残っている?」

「縄は予備も含めた2本、爆竹が4個。煙幕はない」

 

 煙幕は、飛び込んできたときに、全て使ったのだろう。以前、村で見た煙とは、規模が違うものだった。

 

「こいつらは、俺を狙っている連中で、鬼じゃねえ。あんたが関わる必要は無かったんだ」

「言っただろう。君を、助けに来たのだと」

「ちっ。この、頑固者が」

 

 唐突に、弟の姿が消えた。頭上。天元も衝き動かされるように、跳躍していた。空中。刃と刃が火花を上げ、そのまま立ち位置が入れ替わる。

 それが、火蓋を切った。武仁にも、忍が複数人で襲い掛かっていく。だが、天元は動けなかった。対峙する弟に、隙はない。

 

 真っ直ぐ突き出されてきた小刀を、天元は日輪刀で切り払った。何度か、弟と刃を交わす。横やりを入れてきた雑魚は、打ち倒した。その間、武仁(たけひと)の動きや、息遣いは、音で伝わってきた。

 感情のない弟の瞳が、闇に踊る。低い位置から飛んできた苦無を日輪刀で払うと、天元から斬りかかったが、それは軽い身のこなしで避けられた。

 

 里を抜け出る切っ掛けとなったあの出来事が、不意に天元の脳裏をよぎる。

 覆面を被り、兄弟と知らずに殺し合った時のこと。最後まで生き残ったのは、自分と弟だけである。その2人が再び出会い、そして、殺しあっている。

 自分のこれまでの人生は、まさに血に塗れたものだった。そして、その過去は、簡単に消えないということなのか。

 

「宇随隊士」

 

 一度、攻撃の手が止まり、敵が下がる。武仁は、すぐ背後に立っていた。傷は負っているようだが、深い呼吸に乱れはない。

 

「まだ生きているな」

「あんたは、何でそうまでして俺を、助けようとするんだ。お節介にも、程があるぜ」

「言っただろう。私は人助けを」

「俺の前で、その腑抜けた喋り方はやめろ。そんな地味な奴に、助けられるつもりはねえ」

 

 返す言葉はなかった。しかし、音は聞こえている。何かを懐かしんでいるような音。一方でそれは、押し殺そうとしているような、か細い音だった。

 

「俺は、耳がいいっていったはずだぜ。今、ここで言う事じゃないかもしれねえ。でもな、あんたが本音てのを塗り潰してることが、俺の耳には嫌というほど分かるんだよ」

 

 しばらく、沈黙が間を埋めた。

 

「昔のことだ」

 

 そうぽつりと武仁の声がと同時だった。遠巻きに囲んでいた敵が、動き出した。

 足音ではなく、苦無が飛来する音。それも、全方位から。聞き分けた瞬間、天元は武仁の襟首を掴み、地を蹴った。直後、眼下を無数の苦無が交錯した。苦無同士が衝突したのか、火花も散っている。

 

「くそっ、こいつら」

 

 天元は思わず、毒づいた。

 

 周りにはまだ、自分達に打ち倒された忍達が何人もいたのだ。そいつらに刺さろうが、まるで気にとめない戦い方。倒れた者、手負った者は足手まとい。故に自決するか、他の者が止めを刺す。それが、忍びのやり方なのだ。

 枝葉が擦れる音。待ち伏せされていた。それを理解した時には、人影が近くの木から飛び降りてきている。

 

「俺を投げろ、宇随隊士!」

 

 叫び。天元はその声に従い、武仁の体を投げた。ひとりは絡み合いながら拳で打ち、ひとりは身を回して蹴り落としていく。さらに、左手から鞭のように紐を伸ばして、近くの木に掛けた。

 武仁の眼が、天元の方へ向く。こちらへ右手を伸ばしている。武仁が何をするつもりなのか、天元は瞬時に理解した。

 

「こっちだ。掴まれ!」

 

 再びの叫び声。同時に、天元は武仁の右手を掴んでいた。腕から肩へ、とんでもない衝撃が走る。だが、放しはしなかった。天元と武仁は、凄まじい勢いで弧を描くと、唐突に浮遊感に包まれ、森の中を飛んだ。

 黒い、地面が迫る。天元は地を転がりつつ、着地した。包囲網の外に出ているのは、気配で分かった。

 傍らには、上手く着地できなかったのか、泥にまみれた武仁がのっそりと体を起こしていた。左腕が不自然に、だらりと下がっている。

 

「肩、外れたのか?」

「ああ。だが、慣れている。縄で跳躍して、肩が外れるのはかわいいほうさ。幹に叩きつけられて、一昼夜気を失ったこともある」

 

 喋りながら、武仁は肩を嵌め戻していた。まるで物を組み立てるような無造作さで、声音一つ変わっていなかった。

 

「よし、逃げるぞ」

 

 天元は頷き、武仁と肩を並べて走った。全身が軋むように痛んだが、立ち止まることはできない。敵がこちらを猛追してきているのは間違いない。気配自体が巨大な一つの塊となって、波のように迫ってくるのを感じる。

 

「そういや、さっき、何かしゃべろうとしていたか?」

「昔、俺、お前と対等に喋ることを、俺に教えてくれた男がいた。それが、男同士の話し方だと」

 

 どこか、懐かしむような声。いつの間にか、武仁は自身のことを、俺、と呼んでいた。それだけでも別人のようだった。いや、むしろこちらの方が、素に近いのかもしれない。

 

「友人だったのか」

「俺は、親友だと思っていたよ」

 

 つまり、その男は死んだのだろう。そしてそれは、鬼殺隊では珍しいことではないのは、入隊間もない自分でもわかる。

 

「だから、何があっても1人で戦うってか」

「鬼殺隊に、強い隊士は多くいる。それこそ、俺などよりも」

「あんたが自分を弱いというのは、傲慢がすぎると思うぜ」

「俺には、自分の眼に映るもの全てを守る、そういう力はない。共に肩を並べる隊士がいても、そいつに迫る死を、どうしようもなく払えない。俺にできたのは、ただひとり、自分を生き延びさせることだけだ」

「ひとつ、言っておいてやる。俺は、簡単には死なねえ。お前が、俺のことを、どう評しているのかは知らねえが」

 

 武仁の視線を横に感じながら、天元は己の身の上を口にした。

 自分の生まれ。父親と、その生き写しとなった弟のこと。里から脱走した経緯。兄弟を手に掛けた自分は地獄に落ちる、との自責に苛まれていたが、3人の嫁のお陰で立ち直れたこと。

 自分の過去を知っているのは、御屋形様に次いで、2人目である。武仁は自分が語る間、一言も口を挟まなかった。

 

「俺は、派手に命の順序て奴を決めている。一に女房、二に堅気、三に俺だ。だが、簡単に死んでやるつもりもねえ。俺が死ねば、嫁共が泣くだろうしな」

「死なない人間など、いないんだよ」

「生きてるやつが勝ちだ」

「宇随隊士、君は」

「お前、でいい」

 

 再びの、逡巡しているような間。次に零れたのは、ふんと鼻を鳴らす音だった。

 

「馬鹿な男だよ、お前も」

「何だと?」

「言っただろう。俺に、友人など必要なかった。笛が聞きたければ、勝手に聞いていればいい。これまで、そうやって戦ってきた。それでも、人の心にわざわざ踏み込んできたのは、お前だけだった」

「不愉快だったか?」

「いや」

 

 そこで、言葉は途切れた。眼の前。黒装束の人影が5つ、左右から飛び出てきたからだ。

 

 一応、後方で突破に備えていたようだ。ただ、こちらの出現が唐突だったからか、連携が取れた動きではない。

 天元はつぶさに見て取ると、まず自分が突っ込み、2人を峰打ちで倒し、もう1人は肩からぶつかり、突き飛ばした。敵の動きが、束の間止まる。

 

 そこに、武仁が何かを投げ込んできた。拳大の塊がひとつ。天元が後ろに跳び退った直後、爆音が轟いた。天元は顔を、腕で覆っていた。音だけでなく、衝撃も続く。

 

 対鬼のための暗器だという。威力は調整してあるようだが、爆竹というより、小ぶりな爆弾に近い。余波が収まった時、忍者共は地に伏していた。息はあるようだが、すぐには動けないだろう。

 天元は、武仁と共にその間を駆け抜けた。

 

「くそっ、しつけえ奴らだ」

 

 天元は毒づいたが、なすすべはなかった。いつの間にか、背後の気配は間近に迫っている。爆音が、獲物の近さを教えたのかもしれない。

 敵の動きが、不意に速さを増した。息が乱れることも厭わず、駆け始めたのだ。こちらは既に、疲労困憊である。自分たちの左右を、影が並走し始める。進める方向は、前にしかなくなった。

 

 しばらく2人で駆け、足を止めた。急斜面に出たのだ。立木こそあるが、ほとんど崖に近い。敵を凌ぎながら下るのは、至難だろう。

 振り返る。見えないが、何が遠巻きに近づいてくる。音からして、人数は減っている。だが、2人で抗しきれるとはとても思えない。

 

 死地である。ちらりと見た武仁は、何の動揺もしていないように見えた。ただ、内心はどうなのか。武仁が放っている音は、平静とは異なる。ただそれを、顔には出していない。

 

 天元の頭は、目まぐるしく動いていた。敵はひたひたと、こちらに近づいてきている。もう、どこか一点を破るような余裕はないだろう。あの縄も爆竹も、多分、次は通用しない。

 あと一手、必要だった。それも、数を減らせる一手だ。それで背後の斜面を下ることができれば、この場は凌げる。

 

 思考が、巡り巡った。

 自分が見聞きしてきたもののどこかに、活路がある。周囲の地形地物、自分と弟の忍者としての技量、武具、武仁の暗器、そして全集中の呼吸。

 

 不意に、天元の脳裏に稲妻が走った。自分がまだ会得していない、全集中の呼吸。それが、できるかできないかは、関係ない。できなければ、枕を並べて、死ぬしかないのだ。

 

「武仁。あの縄、まだあるだろう。ひとつ俺に貸しな。あと爆竹も、ありったけだ」

「どうするつもりだ」

 

 問いつつも、武仁は手早く装備品を手渡してきた。拳大の爆竹は、あと4つある。天元はその全てを腰に下げ、縄は腕に括った。

 必要なものは、揃っていた。後は自分が、思った通りにできるかどうかだ。それも、できる、と天元は考えていた。

 

「先に感謝しておく。俺ひとりだったなら、この死地は抜けられなかった」

「もう切り抜けたようなことを言う」

 

 木々の間から、再び人影が覗いた。弟もいる。黒い無機質な瞳に、変わりない。

 天元は一歩、前に踏み出した。並んで来ようとする武仁は、手で制する。

 

「ここからは、俺ひとりで、ド派手にやらせてもらう。離れてな」

 

 ざっと十数人。崖際を完全に囲んでいる。減っている分は、ついて来られなかったのか、あるいは足手まといとして始末されたのか。

 弟。再び視線が交わった。親父そっくりの眼。親父もろとも始末するべきだったかと、里を逃れた後で悩んだこともある。

 

 お前たちは、消せはしないが、振り払ったはずの過去だ。追いすがってくるならば、この場で断ち切ってやる。天元は、眼でそう語りかけた。弟から、伝わってくる言葉は何もない。ただ右手を、振り上げただけだ。それが合図で、周囲に展開した忍者たちが、姿勢を低くする。

 

 呼吸。天元は、思い切り息を深くした。深く吸い、深く吐く。それを続けると、鼓動がとてつもなく早くなり、全身が破裂しそうなほどの力で漲った。

 これが、全集中の呼吸というものなのだろう。尤も、失敗するつもりはなかった。全集中の呼吸を絶えず続けている男と、しばらく行動を共にしていたのである。見取りならぬ、聞取り稽古というやつだ。

 

 弟。右手が、振り下ろされる。敵が一斉に、飛び掛かってきた。それを視界に収めつつ、天元は日輪刀を抜いた。忍者。逆手に構えた小刀。漫然と、しかし鮮明に見えていた。

 刹那、天元は頂点に振り上げた日輪刀を、全力で振り下ろす。その刀の動きに、爆竹も合わせた。

 

 切先。地面に届いた瞬間、天地が、爆ぜた。

 

  全集中 音の呼吸・壱ノ型 轟

 

 何もかもが、弾け飛ぶ。自分の体だけでない。地面、忍者達も、何もかもが吹き飛んだ。天元は吹き飛ばされながらも、武仁の腕を取った。柄だけ残った日輪刀は、捨てた。

 にわか仕込みだったが、俺の勝ちだ。ざまあみやがれ。そう思いながら、天元は武仁とともに、崖下へと落ちていった。

 

 縄は、握りしめている。

 

                       

 

 隠の背から降ろされると、待たされるほどの事もなく、奥に通された。

 

「久しぶりだね、武仁」

「御屋形様も、お変わりないご様子、何よりです」

 

 武仁は一礼すると、御屋形様の傍らに腰を下ろした。御屋形様は静かな佇まいで、ただ座している。武仁は庭先へと、眼をやった。

 季節は既に、夏である。砂利が日の光を照り返し、蝉の鳴き声が、熱い空気と共に、邸内へ飛び込んでくる。

 

 宇随天元を助けるため、忍集団と交戦したのは、ひと月ほど前の事である。崖に追い詰められたが、天元が突如放った大技で、脱することができた。それぞれ傷こそ負ったが、天元と嫁達は全員、いまも無事に生きている。

 あの後、忍者たちは現れていない。最後の衝撃は、爆死したと思われても、おかしくない程の規模だった。ただしお互い、周囲には気を払うようにしている。

 

 ただ、天元を救った結果、帝都で果たすべき指令を、独断で放棄した形にもなった。その経緯については、那津を通じて全てを本部へ報告してある。

 任務放棄について、いかなる罰でも受ける覚悟はある。だが、何の連絡もないまま日が流れ、数日前に、本部への呼び出しを受けたのだ。

 

 御屋形様の顔が、唐突に武仁の方へ向いた。左眼を中心に、痣のような紫色に染まっている。それは以前見た時より、いくらか濃くなっているような気がした。

 

「天元達を救ってくれたこと、礼を言うよ。鬼ではなく、人間が相手だったそうだね。それに、よく武仁は無事でいてくれた」

「追い詰められました。天元がいなければ、私は首を突っ込んだ挙句、死んでいただけだったと思います」

「天元も、同じことを言っていたよ。君が来なければ助からなかったとね」

「あの男が土壇場で、全集中の呼吸を会得したのです。音の呼吸だとか本人は言っているようですが」

 

 自分が会得している常中を、耳で聞いていた。だからできた、と天元は言っていた。もとより、常人離れした聴力を有している男である。できる事だけでなく、言っていることも、自分の理解の範疇を超えている、と思ったものだ。

 

「天元とは、仲良くできそうかな?」

「はい。自分でも、不思議ですが。ただ、仲良くなるというのとは、いくらか違う気もしています」

 

 あの戦いの後、天元とは自然に、俺お前と口を利くようになった。

 朱雀や芭澄のように、心を通わしたとは思っていない。ただ、一度の戦いで互いの命を守り、預け合った。だから、信じる。理屈ではなく、ただ信じているのだ。

 

「対等の仲間がいるというのは、心強いものだと思う。そしてそれは、決して、武仁のこれまでの過去を否定するものじゃない」

 

 その言葉に、武仁はただ頷いた。

 鬼殺隊の総帥ともなれば、対等な人間などいないだろう。瀬良蛟(せら みずち)や悲鳴嶼行冥といった屈強な柱を従えていようとだ。頂点に立つとは、そういうことなのかもしれない。

 御屋形様は穏やかな視線を、庭先に送っている。そのとき不意に、武仁の脳裏にある言葉が過った。同時に鳥肌が立ちそうになったのを、呼吸を深めて落ち着かせた。

 

「御屋形様、お伺いしてもよろしいですか?」

「何だい?」

「もしかして、全てご存じだったのでは。忍者たちが襲ってくることまでも、その全てを。だから私と天元を共同任務として、引き合わせたのでは?」

 

 御屋形様の視線は、庭先に注がれたまま動かない。武仁は頭を下げながら、その返答を待った。

 

「私のことを、高く見積もってくれているんだね、武仁は」

「御屋形様には、それだけのお力があります。私を、立ち直らせて下さったときのように」

「私には、そんな大層な力はないんだよ、武仁。もし、それだけ先を見通す力があれば、決して隊士達を死なせはしなかった。それは、これまで死んでいった朱雀(すざく)芭澄(はすみ)達の墓前に、誓ってもいい」

「失礼を申し上げました」

 

 武仁が更に低頭しようとすると、御屋形様の手が肩に掛けられた。顔を上げると、こちらを覗き込みながら、変わらぬ微笑みを浮かべている。

 

「でも、予感があったのも事実だ。それが、天元と武仁の気が合うという私の思い込みだったのか、何かを感じ取ったものだったのか、はっきりとしたことは何とも言えなくてね。ただ、武仁なら何があっても、最善に対処してくれると思っていたよ」

「御屋形様は、私に人を助けて欲しいと言われました。そして私は、人を助けるため、日輪刀を振るいます」

「これからも、頼むよ。私の剣士達を」

「ところで、私の任務の放棄についてですが」

「今更、武仁を罰するつもりはないよ。もし武仁が罰せられるようなことがあれば、自分も罰してくれ。故郷の人間に襲われたのは、自分に責任がある。武仁に助けを求めたのも、自分の独断。天元ははっきりと、そう言っている」

 

 自分に助けを求めてきたのは、天元自身ではなく、嫁の雛鶴だった。それを、自分の責任だと主張する。いかにも、天元が言いそうなことだ、と武仁は思った。

 

「しかしそれとこれとは、話が違います。天元は振りかかった火の粉を払い、私は下されていた指令を、独断で無視した。結果が良ければ不問、というのであれば、隊律を守る隊士がいなくなります」

 

 御屋形様の視線が一度、庭先に向き、そして再び武仁の方を向いた。

 

「どうしても、というのなら、笛を吹いてもらおうかな。それと天元を助けてくれたことと併せて、不問にしよう」

「それで、よろしいのですか?」

「武仁の笛には、それだけの魅力がある、と私は思っているよ」

「承知しました」

 

 武仁は一礼し、隊服の懐から、笛を取り出した。一度、深呼吸する。そして唄口に、息を少しずつ吹き込んでいく。

 吹いている間、思考は澄んでいて、何の言葉も湧いては来ない。そのはずだった。ただ、宇随天元と共に戦った光景が去来した。そして不意に、言葉が入り混じった。

 

 俺は再び、友人を得たのかもしれない。

 武仁は、眼を閉じた。音が滑り出してくる。




 大変お待たせ致しました。
 抜け忍編は、宇随天元が抜け忍であるところを使いつつ、主人公の武仁に新しい友人と呼べるキャラを作りたいと思って始めました。
 閲覧やお気に入り登録等、ありがとうございます。

 次章は胡蝶姉妹と絡みます。
 今度こそ、短くまとめよう。


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第2部・花蝶の道中編
32話 寄り道の始まり


 先日のアンケートにより、本話からは、第2部・花蝶の道中編と称し、胡蝶姉妹とのストーリーとさせていただきます。


 門の前で、武仁(たけひと)は立ち止まった。引き戸の傍らには、小さな提灯が出されている。火袋には、藤の花の家紋が、鮮やかに浮かび上がっていた。

 

「ここでいいのだな、那津」

 

 肩に止まっている那津が、小さな声で鳴いた。武仁は特段の指令がなければ、藤の花の家紋の家に立ち寄ることは、ほとんどない。

 訪いを入れ、出てきた家人に対し羽織をはだけ、着込んでいる隊服を見せる。それで身分は伝わったらしく、丁重に奥へと通された。

 

 敷地は家というより、邸宅と呼べるほど広い。母屋だけでなく、離れや蔵らしきものが、幾つも建っている。

 

「待ち合わせの方は、今は道場にいらっしゃいます」

「先に、会いましょう」

 

 廊下の突き当りが、そのまま道場の出入口になっている。案内してくれた家人は、そこで引き返していった。道場からは、気持ちのいい気合が、壁と隔てられたここまで伝わってくる。

 

 中には、隊士が2人いた。共に隊服の上に白色羽織を被り、木刀で向かい合っている。おや、と思ったのは、その2人が、女の隊士だったからである。

 

 武仁はその2人の対峙に、固唾を飲んだ。どちらも女とは思えない程、いい構えをしている。

 特に、一方の隊士の構えや放っている気は、もうひとりのそれと比べると、幾段も上手の遣い手であることが、はっきりと分かる程だ。

 

 何度か木刀が交わる。そして、再びの対峙。突如、気が武仁の全身を打った。2人の姿が入れ替わった時、木刀が1本だけ、宙に舞い上がる。木刀を弾き飛ばしたのは、見事な構えを見せていた隊士の方である。

 2人は互いに木刀を納め、一礼すると、構えを解いた。

 

「惜しかったわ、しのぶ」

「そんなことなかったわよ。全然、姉さんにはかなわない」

「もう、そんな言い方をしては駄目よ。しのぶだって、これからもっと強くなれるんだから。今だって、医学や薬学は私よりも、ずっと凄いじゃない。それに何より、しのぶは可愛いもの!」

「姉さんは、いつもそうやって煙に巻こうとするんだから」

「ところで、途中で入ってきた貴方はどなたかしら。あら?」

 

 2人の顔が唐突に、武仁の方を向いた。艶のある黒髪や秀麗な面貌よりも、まず眼に入ったのは、蝶を模した髪飾りだった。

 

 2人が何者なのか、武仁はそれで思い出した。

 かつて武仁が、生家を襲った鬼と戦い、そして鬼殺隊本部で再開した少女達。胡蝶カナエと、その妹である胡蝶しのぶ。

 眼の前の隊士達が、記憶と重なった。

 

                       

 

「3人での合同任務か」

「この子からは、そう伝令を受けたのですが」

「那津は、私の鎹烏は、そんなことは言っていなかった」

「それは、奇妙ですね」

 

 夕食を胡蝶姉妹らと囲みつつ、情報共有の場を持った。相変わらず、豪勢な食事が卓上を埋めている。

 武仁が最初に本部から受けた指令は、この藤の花の家紋の家で隊士と接触しろ、というものだった。せいぜい、何かしらの伝達を受けるのだろうと思っていたのだ。

 

「階級は?」

「先日、丁に昇進しました」

「丁か。ということは、私と同じだな」

 

 異様な昇進の早さである。自分が3年かけて昇進した階級に、今春隊士になったばかりのカナエが、肩を並べているのだ。

 ただ、それだけの実力があるということだろう、と武仁は思った。鬼殺隊は、女だから特別扱いするような、生温い場所ではないのだ。

 

「御影さんの方が、先任になります。任務の指揮はお任せいたします」

「任務のことは、順を追って聞かせてくれればいい、胡蝶隊士」

「カナエ、で結構です。姓では、私と妹の区別がつきません。しのぶも、それで良いわね?」

「ええ、良いわよ」

 

 しのぶは、カナエの隣で、どこか硬い表情で箸を運んでいる。気が強いという印象は、その顔つきからも伺える。あまり、会話にはあまり加わってこようとしない。

 

 任務の詳細は、簡単に詰めることができた。

 このところ武仁は、危険性の高い任務だけでなく、入隊間もない若手隊士との共同任務の指令も、受けるようになっている。

 

 無駄に隊士の命を落とさせない。そのためには、自ら凶悪な鬼と交戦するだけでなく、隊士と共に戦い、生き残れるよう導くこともまた、意味がある。それは、認めざるを得ないことだった。それだけ、若手隊士の殉職率は高いとも言えるのだ。

 

 変化の切掛けとなったのは、数か月前の、天元との共闘だろう。あの頃は、頑なに単独戦闘に拘っていた。その時よりは、少しは柔軟な考え方ができるようになっているのか。

 

 夕食を終えると、武仁は当てられた居室に戻った。既に、布団は敷かれている。

 

 障子戸を開けると、涼しい風が吹き込んできて、部屋に居残る残暑を払った。既に、夏の盛りは過ぎ、秋に季節は移ろいつつある。

 

 武仁は縁側に座り込むと、懐から笛を取り出した。

 裂いた綺麗な布で、隙間なく磨いていく。笛は日輪刀と同じく、手入れは欠かさない。このところ、笛の色味は鮮やかでなくなる一方で、深い輝きを放ち始めた。年季が入り始めた、と言えるのだろうか。

 

 手入れを終えると、笛を構えた。音が、ゆっくりと流れ出る。微かに聞こえていた家人たちの声が、止んだ。

 藤の花の家紋の家の人間への、返礼のつもりである。

 

 かつてのように、己の気持ちや願いを込めているわけではない。気の赴くままに吹いているだけで、芸能の道に生きる者の演奏とは、比べ物にならないはずだ。自分ではそう思うが、しかしこの笛の音は、聴く人のどこかに響くらしい。

 

 笛を体よく利用しているとも、言えるのかもしれない。だが、鬼殺以外でこの家の人間に報いるものは、これしかないのだ。

 

「良い音ですね」

 

 吹き終えると、傍らに人影があった。浴衣に身を包んだ、カナエが立って、微笑んでいる。胡蝶姉妹の部屋は母屋ではなく、離れだった。わざわざ、ここまで出てきたらしい。

 

「隣に座っても、よろしいですか?」

「構わない」

 

 武仁は、少し横に動くのに合わせて、自分の服の臭いを軽く嗅いだ。襟や袖口を緩めただけで、隊服のままである。

 かつては余裕があれば、脱いで洗うこともあった。だが、結局は鬼との交戦で破損し、交換する方が多く、今では洗濯などほとんどしなくなっている。

 それに、男の一般隊士などそんなものだろう、とも思う。

 

「鬼殺の隊士になってから、何度も噂で、御影さんのことを聞きました。とても綺麗な笛の音を奏で、それに他の隊士の方の死地を救っているのだと。刀の色は変わらず、全集中の呼吸も使わずに。まるで、柱のようだと言われる方もいらっしゃいます」

「そうなのか。だが笛も戦いも、私が自分のやりたいようにやっているだけのこと。まして、柱などとんでもない話だ」

 

 これまでの己の戦いに、悔いなどはない。失ったものばかり見つめても、仕方がないのだ。だが、悲鳴嶼や煉獄槇寿郎のような力があれば、散らせずに済んだ命がいくつもあった。それもまた、事実である。

 

「私は、今でも思い出します。あの夜、どれだけ血を流しても倒れず私たちを庇ってくれた、御影さんの背中を」

「そんなもの、忘れてしまえ。あの時は手こずったが、いま思えばあの鬼は強くはなかった。私が、弱かっただけのこと。多分、今の君なら傷ひとつ負うことなく、容易く首を飛ばせるだろう」

「そんな弱い頃の御影さんがでも、あの日、駆けつけてくれました。だから、私もしのぶも、私たちと同じ思いを他の人にはさせないために、2人で戦うことができているんですよ」

「妹の任務を代わりに受けるのも、そのためなのか?」

 

 微笑んでいたカナエの表情に、ふっと影が差した。視線を膝の辺りに落としている。

 

「やっぱり、分かる方には、分かるのですね」

「推測だった。だがそれ以外に、昇進の速さに説明がつかなかった」

 

 昇進の速さで言えば、天元も相当のものである。来年には、本当に柱になるかもしれない。だが、あちらは元忍としての経験や技能があり、3人の嫁と連携して戦えるという前提がある。

 

 カナエは、あくまでも普通の家に生まれた、普通の娘だろう。それだけに、昇進の速さについては、やはり気にはなっていた。

 

「悲鳴嶼様にも言われたことですが、やはり妹には、鬼の頸を切るだけの、力がないのです。木刀は振れるのですが、真剣を使いこなせるだけの力が。だからあの子を、ひとりで戦わせるわけにはいきません」

「そうだったのか」

「それでも、しのぶは頑張っているんです。素振りも欠かしたことはありません。それに鍛錬の後は、毎晩本を読んでいて、傷の手当や薬の知識は並みの御医者様を凌駕するほどです」

 

 道場で見た2人の立ち合いのことを、武仁は思い出した。

 しのぶは並みの構えこそできていたが、カナエと打ち合った瞬間、木刀を弾き飛ばされ、負けた。逆に言うと力負けこそしたが、カナエの動きに対応は出来ていたとも言えるのだ。

 

「御影さん。ひとつ、聞いてもいいですか?」

 

 武仁はカナエの方に向き直り、頷いた。

 しかし、カナエはすぐには口を開かず、逡巡したような視線が向けられてきた。吸い込まれるような黒色だった芭澄とは違う、藤色がかった眼。太陽の下で見れば、より鮮やかに見えるだろう、と武仁は思った。

 

「御影さんは、もし誰かに鬼殺の隊士を辞めて欲しいと言われたら、どうしますか? これは、たとえの話ですが」

「断るだろう。私に家族はいないが、誰に言われても同じこと」

「そうですよね。私でも、同じことを言うと思います」

「遠回しな言い方は、しなくていい。妹に、鬼殺隊を辞めて欲しいと思うか」

「しのぶは、私の大切な妹ですから。2人で戦うという思いは、今も変わりありません。でも、しのぶにはもっと安全なところにいて、幸せにもなって欲しい。そう思うのは、我儘なのでしょうか」

 

 無茶なことを言う。武仁は腕を組み、そう思った。

 そもそも、自分自身は鬼殺隊士を辞めるつもりはないのだ。自分がやってもいないことを、妹が受け入れるとは思えない。

 だが、家族の情愛というものはそういうものなのかもしれない。それを否定するつもりは、武仁にはなかった。

 

「改めて聞くが、君は何のために鬼殺隊に入った?」

「私たちと同じ思いをする人を、減らすために。そして私は、鬼も救いたい、と思っています。鬼という哀れな生き物を、その苦しみから解放するために」

「人に鬼に、それに加えて、妹も守りたい、か。特に鬼を救いたいというのは、こと鬼殺隊においては、狂言と言ってもいい」

「悲鳴嶼様にも、異常な考えだとはっきりと言われました。妹も、これだけは納得してはくれません。でも、私の思いは決して変わりません。太陽の光を恐れて闇に潜み、人を喰らって永遠の時を生きる。それは、とても哀しいことです」

 

 胡蝶カナエという人間について、武仁は穏やかで、どこか暢気な雰囲気を感じていた。だが、今のカナエは眼にも表情にも、固い意志がにじみ出している。

 

「何度でも言うが、私たちがいるのは、鬼殺隊だ」

「はい」

「鬼を救いたいという君の我も、そして、妹を守ることも、自ら戦って勝ち、生き続けることで成し遂げられる。そして柱になれば、誰もその言葉を無碍にはできない。ここは、そういう場所でもある。カナエ」

「わかりました」

 

 何をわかったのかは、言わなかった。カナエの視線が武仁から外れ、夜空に移った。

 その横顔。変わらぬ意志が、ありありと浮かび上がっている。

 

                       

 

 

 眼を開けた。闇。まだ、夜は明けていなかった。

 横たわったまま、周囲の気配を探る。害意を含むものは、何も感じられない。ただ、近くの部屋に、何者かがいる気配がある。

 

 武仁は起き上がると、音を立てないように廊下に出る。気配を探りつつ、歩き出した。

 家人が起きているような時間ではない。藤の花の香が焚かれているのも、匂いで分かる。多分、鬼ではないだろう。盗人の類だったら、捕えるか、打ち倒せばいい。

 

 母屋の端にある小部屋の前で、武仁は立ち止まった。感じた気配の元は、そこだった。

 

 戸を少しだけ開けると、すやすやと穏やかな、寝息が漏れ聞こえてきた。誰かが机に突っ伏し、眠っている。

 武仁は気配を殺したまま、部屋の中に、身を滑り込ませた。

 

 寝ていたのは、胡蝶しのぶだった。高窓が開いていて、寝顔には白い月明かりが降り注いでいる。開きっぱなしの本が、枕替わりだった。

 

 武仁が傍らに立ち、様子を覗き込んでも、目覚める様子はない。

 カナエが言っていたことを、ふと思い出した。夕食からずっと姿を見せなかったが、勉強をしていたのだろう。姉を起こさないように別の部屋で、そして独りで。

 

 しのぶが枕にしている本は、文字こそ読めたが、内容は全く武仁には理解ができなかった。

 ただの書籍ではない。学術書と呼ばれる類の本だろう。こんなものを読んでいる隊士など、これまで聞いたことも無い。

 

「父さん」

 

 不意に、しのぶが言葉を放った。武仁は咄嗟に、身構えた。だが、しのぶは穏やかな寝息を立てたままである。

 

「母さん」

 

 寝言だった。親の夢でも見ているのかもしれない、と武仁は思った。だが、しのぶの眼から流れ出している涙を見て、武仁は眼を背けた。

 

 起きている時は勝気そうでも、まだ年端もいかない少女なのだ。

 本当なら、姉と一緒に、父母の下で暮らすことができていただろう。それが今や鬼殺隊士となり、武術はおろか、身の丈を超えた知識をつけようと、藻掻き足掻いている。

 

 カナエという、姉がいる。その姉には、妹を守るために命を賭ける覚悟がある。だが、しのぶが本当の意味で子供に戻れるのは、こうして寝ている時だけなのかもしれない。

 

 そして全ては、鬼が引き起こしたことだった。

 

 部屋に置いてあった毛布を、しのぶに掛け、武仁は部屋を出た。

 この姉妹の境遇に対して、自分にしてやれることは、何もない。言辞を弄したところで、失ったものが戻ることはない。

 人助け。自分が為すべきことは、既に決まっているのだ。

 

「姉さん」

 

 再びの、家族を呼ぶ声。それは、どこか苦い感覚と共に、武仁の耳に残った。




 今後の展開への前振りをしつつ、ぼちぼち胡蝶姉妹と絡ませる。
 そんな展開をしていこうと思います。


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33話 その眼に魅入られた

 共同任務は、サクッと終わらせます。


 どこにでもあるような、古ぼけた集会所。街そのものからは少し外れたところにあって、周囲は、取り囲むように樹木が林立している。

 武仁(たけひと)は森の中に身を潜ませながら、様子を窺った。四方に誰もいないことは、入念に確認してある。今は全ての意識を、建物に向けていた。

 既に夕刻である。日没までは、まだ時間はあった。

 

 町はずれにある集会所に入った者は、2度と外には出られない。端緒は、そんな噂話だった。

 あらすじはまるで、子供を脅かすための怪談話である。確かに、木々の間から見える建物は所々朽ちていて、突然崩れても不思議はないと思えた。

 だが、本当に消えた人間がいた。何人もの人間が、神隠しにあったかのように、居なくなったという。

 

 確かに、特異なものも感じられた。微かな血の臭い。それが、武仁が潜んでいるところまで、漂ってくるのだ。風で簡単に流れてしまうほどだが、確かに臭う。

 普通の人間では、まず気づかないだろう。だが、伊達に何年も鬼殺隊の隊士をやっている訳ではない。

 あらゆるものに敏感になれなければ、どこかで死んでいて、おかしくなかった。そういう自分の感覚は、決して疑わないことにしているのだ。

 

那津(なつ)

 

 小声で、上空に呼びかけた。近くの枝に、那津が降り立てくる。

 

「胡蝶隊士らに伝令。現場と思われる場所を、発見した。今のところ、鬼の姿は認められない。日没間際だ。こちらはこのまま、外から監視を続ける」

 

 那津が飛び去ると、武仁は少し離れたところの木陰に移動した。胡蝶姉妹は、街中で情報収集に当たっている。今のところ、連絡は何もない。

 鬼がこの事態に関わっているのは、間違いないだろう。それがどの程度の鬼で、何をしているのか。血鬼術を会得していることも、十分に考えられた。

 

 胡蝶姉妹が合流してくるまで、まだ時間はある。その間に、考えられる限りの想定を、積み上げておく。

 生き残るために取りうる手。刀や暗器といった形あるものだけが、武器ではないのだ。

 

                       

 

 日没後、不意に、人の出入りが増えた。

 2人、3人とまとまって街の方から現れ、廃屋同然の集会所に集まってくる。およそ、30人は入った頃、胡蝶カナエとしのぶが合流してきた。

 

「情報は共有しておきたい」

「街に住んでいる人たちの集まりが、今日あそこで開かれるらしいわ」

「あんな廃屋ですることもないだろうに。神隠しの噂がある建物だ」

 

 建物には何か所か高窓があり、そこから、薄明かりが外に漏れている。何度か影が、灯の側を横切っているらしく、影で揺れていた。

 

「いろいろな人に聞いたのだけど、間違いないらしいわ。このところ何日かに一度、ああやって人が集まるらしいの」

「そうか」

 

 武仁は集会所に眼をやった。人の気配。伝わってくるのはそれだけである。ただ、人が集まっているというだけなら、血の臭いは何だったのか。

 

「もし鬼が現れなければ、振り出しか」

「何よ、その言い方。居なかったら私たちが悪いみたいじゃない」

「そんなことはないが」

「余所者が、怪しまれないように話を聞くのは、大変なんだから」

「だからこそだ、しのぶ。その大変さがわかるからこそ、私は早急に鬼を見つけたい。私たちは、鬼殺隊なのだ。死人を前にものを考えるのは、誰でもできる」

「そうですね。私たちがいる以上、これ以上の犠牲者は、出したくありません」

 

 カナエがそう言うと、しのぶはもう何も言わず、憮然とした表情で、ぷいと首を横に向けた。

 枝葉の間に見える空は、まだ暮の色に染まっている。だが武仁の周囲は、既に闇の中に沈んでいた。

 先ずは、様子見。武仁が地に腰を下ろそうとした、その時だった。

 唐突に、血の臭いが漂ってきた。それも、徐々に濃くなっていく。

 

「この臭いは、血?」

「行くぞ。先頭は私、次にカナエ、最後がしのぶだ」

 

 言葉を放ったとき、武仁は既に走り出していた。

 集会所の壁の一箇所。明らかに脆くなっている箇所。建物を見張っている内に、それは見切っていた。容易く蹴破り、中に飛び込んだ。

 まず、濃い血の臭いが、鼻をついた。でかい盥に、人が群がっている。飛び込んだ武仁にも、何ら反応がない。いや、一体だけ反応していた。

 

「お前は、鬼狩りか!」

 

 言葉。返さずに、日輪刀を抜き放つ。一ツ目の鬼の姿は、眼で捉えている。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

「お、お前! 俺を、守れ!」

 

 鬼が何か喚いている。構わず、日輪刀を振るう。不意に、刃と鬼の間を、何かが遮った。人間の男。体を切り裂く寸前、何とか武仁は刀を止めた。

 刀を下ろし、下がる。男は追ってこない。ひどく虚ろで、何の意志も感じられない眼を、向けて来るだけだ。

 その男の左右に、次々と、人影が横並ぶ。男も女も、中には子供もいる。誰も声ひとつあげない。まるで、人形か何かのようで、鬼を守るように立ち塞がっている。

 

「なによ、何なのよ。姉さん、これって」

 

 カナエとしのぶは、背後にいた。近くの盥を覗き込んで、顔をしかめている。

 

「人間の血を、貯めていたのね。ここにいる鬼が、飲むためだと思うわ」

「でも、どうして、こんなことを」

「2人とも、油断するな。これは、血鬼術だ」

 

 3人の周囲を、異様な雰囲気の群衆が取り囲む、という様相だった。

 自我を失った様子。そして鬼の、己を守れ、という言葉。そこから察するに、この鬼には人間の精神を錯乱させる能力がある。

 いま、あの鬼は、人垣の向こう側に隠れている。どす黒い肌。一つ目。まるで子供のような大きさの鬼。まだ、気配はある。

 しかし、外からでは、全く感じなかったものである。地下に穴でも掘ってあって、日中は隠れていたのかもしれない。尤も、気配などはいくらでも殺しようがある。

 

「鬼狩りの癖に、目敏い奴がいるな」

 

 鬼の声ではなかった。取り囲んでいる人間のひとりが、代わりに声を発していた。

 

「こいつらは、見ての通り、今は俺の奴隷だよ。夜な夜な俺のために、こうして血を流してくれるのさ」

 

 また、別の人間が声を放った。女の声だった。

 武仁は、口を開かなかった。胡蝶姉妹には、何も口を利くな、と手で合図する。こちらの意志は、2人とも汲んだようだ。

 何が血鬼術の発動条件となっているのか、知れたものではなかった。言葉を交わしたり、匂いを嗅がせたりするだけで発動しても、おかしくない。

 

「何か、言えよ。別に、口を利いたからって、俺の術には引っかからねえさ」

「大したやり方だ」

 

 慎重に喋った。気づくような異常は、何もない。先ず、武仁はそれを確認した。胡蝶姉妹は、口を噤んだままである。

 

「狡猾だな。人の血肉に飢えた鬼のやり方とは、とても思えない」

「俺には俺の、順序ってものがある。まずは街の連中を全員、術に嵌める。喰ってやるのは、そこからさ。そして、それは遠い日のことじゃあない」

「相当な人数を、術に嵌めているということか。ここにいない人間達も」

「まあ、一度に動かせるのは、これが限界だがね」

「約30人といったところか。少し、喋りすぎだな」

「この人数、それに人間だぜ。斬れないよなぁ、お前達鬼狩りには。鬼狩り以外にも、俺のことを詮索する奴が何人かいたが、全員、喰ってやった。そして、お前達もそこに加わることになる。いや、その女2人は、生かしてやってもいい。俺の、人形としてだがな」

 

 一斉に、取り囲んでいる人間たちが笑い声をあげた。そのあまりに無感情な声は、汚れて朽ちた壁や天井に反響し、より一層、不気味に聞こえた。

 

「ふざけないでよ」

 

 しのぶが、声を荒げた。

 

「しのぶ」

「姉さんに、手出しはさせないわよ。絶対に」

「しのぶの言う通りだ」

 

 武仁から一歩、踏み出した。笑い声が、やんだ。

 

「鬼殺隊を、甘く見ない方がいい」

 

 腰に吊っていた塊を、投擲した。白煙。それが、武仁の視界を、一瞬で覆いつくした。

 

                       

 

「殺すな、打ち倒せ!」

 

 武仁は叫びつつ、置いてあった盥を人垣に向かって蹴り飛ばした。血臭が鼻をつく。眼前にいた男の首元に、手刀を叩き込んだ。

 鬼が何か喚き散らしているが、ほとんど聞こえない。そのせいか、鬼に操られた人間たちの動きは、鈍い。

 数を恃みにしようとも、所詮は一般人である。そして、不意を打ったこちらに、分はあった。

 

 戦いは、一方的なものになった。

 カナエの動きはやはり凄まじく、群がる人間を日輪刀の鞘で、次々と打ち倒していく。それも、最小限の負傷で済ませている動きだ。しのぶの動きも悪くはないが、自分よりも大柄な人間を相手に回したときは、手こずっているところがある。そこにも、カナエは合いの手を入れていた。

 武仁は日輪刀ではなく、体術で打ち倒しつつ、鬼の気配を探った。数えて9人倒した時、立っている人間の気配が消えた。

 

「くそっ、覚えていやがれ! まだ、街には俺の術にかかった奴がいるんだからな!」

 

 鬼の声。建物の外からだった。

 武仁が飛び出した時、鬼は意外な素早さで、木々と暗夜の狭間へと消えていこうとしていた。

 

 このまま逃がせば、あの鬼は街の人間をどれだけ操り、どれほどの混乱を巻き起こすのか。走るしかない。そう思った武仁を、等々に呼吸音が追い越した。

 武仁が横へ跳んだ瞬間、カナエの姿が鬼の背後に立ち、日輪刀を抜き放った。

 

 

  全集中 花の呼吸・肆ノ型 紅花衣

 

 

 桃色の刃が振るわれる。鬼が振り向く。躱しようがない、必殺の距離だ、と武仁は思った。

 言葉にならない断末魔。鬼の頸と体が両断されていた。体だけが林の奥へと走り続け、その途中で、燃え尽きた。

 頸はカナエの足元に、転がっている。

 

「馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!」

 

 喚き散らしているが、斬り落とされた頸の断面から、燃え尽きつつある。

 

「こんなはずが、ありえない! 俺が、こんなところで、こんな奴らに!」

「可哀そうに」

 

 日輪刀を納めたカナエが、鬼の頸の前で、しゃがみ込んだ。

 

「その力で大勢を操っても、結局、あなたのために最後まで戦ってくれる人は、誰もいなかったということよ」

「俺は、ひとりでいたくなかっただけなんだ。寂しいのは嫌だ。ひとりは嫌だ」

「大丈夫、私が最後まで、傍にいてあげるから」

「駄目よ、姉さん」

 

 鬼の頸に手を伸ばしたカナエを、しのぶが鋭い声で引き留めた。

 

「しのぶ」

「頼むよ。血鬼術じゃねえ、俺の頼みを聞いてくれよ。俺はもう、死ぬんだからさあ」

「黙りなさい。あんたに操られていた人も、喰われた人も、そんな泣き言は言わなかったはず。それを今更、自分のお願いを聞いて欲しいなんて、都合が良すぎるわ!」

「ごめんね、しのぶ。でも、最期を迎えた鬼の思いを無碍にすることは、私にはできない」

「姉さん、忘れたの。私たちの父さんも母さんも、そいつと同じ鬼に殺されたのよ? お願いだから、私たちの前で、そんなことしないでよ」

「ごめんなさい、しのぶ。御影さん。でも、これで鬼になった人の心だけでも救われるなら、私はそうしたい」

「任務は終わった。新たな犠牲者もいない。気が済むように、すればいい」

 

 建物の中。人が身じろぎをする気配が伝わってきて、武仁は身を回した。見ていられなかったのか、しのぶも後をついてくる。

 

「大丈夫か?」

「俺、どうしてこんなところに。それに、腕に傷が」

「動かないで。深い傷じゃないけど、しっかり手当てしないと。別の病気にかかることもあるから」

 

 喋りながら、しのぶの手は目まぐるしく動いていた。傷を針と糸で縫い合わせ、薬を塗った包帯を巻きつける。そこらの村の医者などよりもずっと、処置の手際は良い。

 

「ここは、街の集会所だ。何か、覚えていることはあるか?」

「日中に畑仕事をしていたことは、何となく。でも、集会所に用事なんてあったかな」

 

 武仁の刃を、身を挺して遮った男だった。一度気を失ったからか、鬼の頸を刎ねたからか、正気を取り戻している。瞳にもはっきりと、意志の光がある。

 

「あっ、そういえば」

 

 男が何か思い出したように、声を上げた。

 

「いつのことかはよくわからない。変な生き物と、眼を合わせたんだ。知人に森に連れられてきたとき、見たこともない小さな動物がいてさ。じっと見てたら、頭がぼうっとして」

 

 男の言葉を聞いた瞬間だった。武仁の背中から冷たいものが噴き出るのと同時に、嫌な気配が背後で広がった。

 

 

  血鬼術・鬼眼の甘言

 

 

 操られていた男としのぶを残し、外へと飛び出る。

 鬼の頸。カナエの腕の中で、灰となって消滅してくところだった。ただその眼元は、こちらを嘲るように、歪んでいた。まるで、一矢報いたとでも言うように、笑っていた。

 

「どうしたの、御影さん?」

「離れていろ、しのぶ」

 

 立ち上がったカナエが、振り返った。藤色かかった眼。そこに、光はなかった。




 次話は悲鳴嶼さん以来の、柱級との勝負です。


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34話 ここから先は

 なぜ、花の呼吸の型は壱、肆、伍、陸、終しかないのでしょうか


 しのぶを後ろ手で、集会所の中へと押し返した。

 瞬きほどの間である。カナエの姿が掻き消えた。次の瞬間、天から降って来たように、眼前に現れた。桃色の日輪刀。月光を照り返しながら、自分目がけて振るわれてくる。

 

 

  全集中 花の呼吸・肆ノ型 紅花衣

 

 

 鬼の頸を飛ばした、花の呼吸の技。咄嗟に剣筋を読んで、身を反らす。風と共に、切っ先が首を掠める。

 カナエが、頸を飛ばしたあの鬼に、操られた。眼を合わせることが、血鬼術の発動条件だったのだろう。それは、自分の首を狙っていることから明らかだ。

 

 

  全集中 花の呼吸・弐ノ型 御影梅

 

 

 桃色の刃。舞い散る花弁のように、襲い掛かってくる。反撃どころか、武仁(たけひと)は鞘に納めたままの日輪刀で、斬撃を防ぐことしかできなかった。カナエの攻撃に、迷いや容赦は一切感じられない。

 

 鞘と刃。火花が幾つも散った。一撃一撃の威力はそれほど高くない。だが、それを補うほどの、手数だった。

 防ぎつつ、斬られる。全身を浅く、余すところなく、傷を負っていく。何とか、致命傷だけは避けていた。

 

 斬撃の僅かな合間、爆竹をひとつ掴み、放った。宇随天元の助言で、より小さく、より高威力になるよう、改良を重ねたものである。だがそれも、爆ぜるより早く空中で斬り刻まれていた。

 

 さらに2つ、間を置いて投じた。ひとつとして爆発しなかったが、時間稼ぎにはなった。ただ、爆竹を防がれたのは初めてのことだった。新人とは思えない、驚くほどの技量だ、と武仁は思った。

 

 とにかく、カナエを失神させる。それで血鬼術の解除を図るしかない。斬り合いながらでは、それ以上、複雑なことは何も、考えられなかった。

 

 もうひとつ。頭上に投げた。カナエを飛び越え、背後で破裂する軌道。カナエの意識が、ほんの一瞬逸れた。振り返ることも無く、落ちてきた塊を、切り飛ばしていく。

 いま。そう思った瞬間、武仁は地を蹴った。鞘に収まったまま、日輪刀を構える。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 取った。そう思った瞬間、不意にカナエの姿が消えた。

 

 

  全集中 花の呼吸・陸ノ型 渦桃

 

 

 何が起こったのか。ひと時巡った思考が、凍り付いた。

 宙返りしたカナエの姿。桃色の刃。視界の中だった。その刃は、今にも自分の首を、斬り落とそうとしている。

 

 負けた。そして、死ぬ。理解できたのは、それだけだった。

 

「姉さん!」

 

 火花。カナエの刀が、毛一筋のところで、何かに弾き飛ばされた。しのぶの声は、後から聞こえた。

 何ひとつ、眼で追えなかった。ただ、死ななかった、という事だけは確かだ。

 

 呼吸。それで何とか集中を取り戻す。武仁は、今度こそ日輪刀を抜き、構えた。鞘は地に投げ捨てる。

 

「感謝する、首を取られるところだった」

「刀を振って鬼の頸は斬れないけど、突きだけなら、そこそこできるわ。それに、姉さんの花の呼吸の剣筋は、毎日見ていたから」

「これが、花の呼吸か」

 

 これまで話に聞いていただけで、相対したことは無かったが、凄まじい剣技だった。

 

「あの陸ノ型だけは、絶対に受けては駄目。考えなしに攻撃すれば、命はないわ」

 

 カナエは、数歩の距離を空け、立っている。

 操られていた人間と同じ、光無き眼。まるで、人形のようだ。気迫のひとつも発さず、しかし隙はない。

 

「斬って」

「何?」

「お願い。姉さんを、斬って。鬼に操られている姉さんなんて、もう見たくない」

「駄目だ。それだけは」

 

 覚悟。しのぶの言葉には、それを感じさせる重みがあったが、認めるわけにはいかなかった。

 

「鬼はもう死んだ。これは、鬼殺ではない」

「そうよ、だから」

「ここからは、人助けだ。カナエも、君も、操られていた人も、私は誰一人として死なせるつもりはない。鬼に操られたから、何だ。助けられるかもしれない命は、どんな手を使っても救う。それが、私のやり方だ」

「そんな、綺麗事を」

「君は、どうだ。あれだけの速さの突き。私は、捉えることも出来なかった。私など放っておけば、カナエを殺さずとも、動きを止めることくらいはできたはず。そうしなかったのは、まだ姉を助けたかったからではないのか。カナエの手を、人の血で汚させたくなかったのではないか?」

 

 何か、思うところがあったのかもしれない。しのぶの眼は、カナエではなく、日輪刀に向いている。

 

「あの時は、体が勝手に動いただけ。でも、御影さんが言った通りのことを、考えていたと思う。ただ、姉さんは手加減しながら勝てる相手じゃない。それはよく分かったはずよ」

「簡単ではない。だが、できる。君が、手を貸してくれればだ」

 

 しのぶと言葉を交わすのも、絶えず動こうとしているカナエを、暗に牽制しつつだった。しのぶは気づいていないかもしれないが、日輪刀の構え方や暗器を忍ばせる仕草などで、激しい駆け引きが行われている。

 

 爆竹への対処といい、あの鬼に操られたからといって、理性を失う訳ではないようだ。逆に言うと、胡蝶カナエの戦闘技能の全てが、自分達に向けられているという事でもある。

 事実、一度は殺されかかった。それでも、付け入る隙はある、と武仁は踏んでいた。

 

「どうすればいいの。どうすれば、姉さんを助けられる?」

「私がまた、カナエの相手をする。君は、日輪刀を叩き落してくれ」

「叩き落せって、そんな簡単にできるなら、さっきやったわよ」

「その突きだ。私では、カナエを無傷で倒すことはできない。それはよく分かった。だが、隙ぐらいは何とかする。その突きが生きるように、私が誘導する」

 

 日輪刀さえ握ってさえいなければ、いくらでも打ち倒しようがある、と思う。体術ならば膂力や経験で、圧倒できるはずだ。

 

「念のため、聞いておきたい。カナエは日輪刀以外に、何か武装しているか?」

「そんなもの、姉さんが必要とすると思うの?」

「なら、勝てる」

 

 武仁は日輪刀を握り直し、前へ踏み出した。

 

「お願い。姉さんの刃を、人の血で汚さないで」

「同じ手は、2度と喰らわない。絶対に、俺は死なん」

 

 もう一歩。踏み出した瞬間、カナエの姿が消えた。

 

                       

 

 

  全集中 花の呼吸・肆ノ型 紅花衣

 

 

 また、同じ剣筋。躱すまでもなく、桃色の日輪刀を、武仁も日輪刀で弾き返した。その刃が、返る。畳みかけるような連撃となって、襲い掛かってきた。

 

 武仁は、致命傷になりそうなもの以外、一切、斬り払わなかった。連撃を防ぎながら、暗器での牽制もする。

 隊服は、流れた血を吸い、全身に張って付いたようになっていた。刃が体を掠める。それを、走った痛みで自覚する。ただ、痛みを感じるとは、まだ死んでいないという事でもあった。

 

 カナエが唐突に、呼吸を深めた。

 

 

  全集中 花の呼吸・伍ノ型 徒の芍薬

 

 

 一息の間に、刀が次々と飛来した。こんな風に、人が刀を振るえるのだと、驚く暇もない。ただ、受け、払うだけなら、まだ余裕はあった。カナエの速さに、こちらも順応しつつある。それに、何連撃だろうと、斬られているのは自分ひとりなのだ。

 

 9度。斬り払った。間合いをとったカナエに、2度、間をおいて腕を振る。そして、武仁から踏み込んだ。

 桃色の刃。無造作に振るわれる。刻まれた爆竹から、火薬の臭いが広がった。そして、刃は頭上へ撥ね返っていく。

 

 カナエの動作が一瞬、固着した。返した刀に手応えは無かっただろう。もう一投は、投げた動作だけだったからだ。技で劣っていても、駆け引きでなら、機先を制することはできる。

 カナエの眼が向いた時、武仁は日輪刀を構えていた。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

  全集中 花の呼吸・陸ノ型 渦桃

 

 

 日輪刀を横に薙ぐと同時に、カナエの姿が消えた。

 いや、消えたのではなかった。立った状態から、身を回しながら跳躍したのだ。女とは思えない、とんでもない脚力である。跳ぶと同時に、横に捻り込んでいるから、自然、日輪刀は首に向かって払われることになる。

 

 ただ、見極めた。

 武仁も同時に、跳んでいた。空中で身を回しながら、刃を躱す。日輪刀を振り上げたとき、カナエは着地したところだった。回転する勢いを乗せ、刀を振り下ろしていく。

 独りで鍛錬を積んできた師匠の技。鬼相手ですら一度も使ったことはなかったが、遅れは取らなかった。

 

 桃色の日輪刀。色の変わっていない日輪刀。触れた瞬間、眼前で大きな火花が飛び交った。

 カナエの細い手は、まだ刀の柄をがっちり握りしめている。打ち落とせない。だが、カナエの日輪刀を上から押さえこみ、切っ先は地面に固定させた。

 

 今だ。そう声を出すよりも先に、光のようなものが、横から突っ込んできた。しのぶの渾身の突き。桃色の日輪刀だけが、宙を舞った。

 カナエの動きは、素早かった。跳躍し、日輪刀に手を伸ばそうとしている。その時には、武仁は縄を飛ばして日輪刀を絡め取り、後ろへと飛ばしていた。

 

 刀を捨て、武仁はカナエに近づいた。無手で掴みかかってくるが、大した力ではなかった。払うと同時に踏み込み、首元に手刀を打ち込む。それで、カナエの姿は崩れ落ちた。

 カナエは、穏やかな呼吸を立てていた。起き上がってくる様子はなかった。

 

 終わった。そう思った。カナエが瞼を落とす寸前、藤色の瞳と一瞬、視線が合った。微かだが、眼の輝きが戻ってきていた。多分、幻ではないだろう。

 

「御影さん、大丈夫?」

 

 ああ。そう言おうとしたが、声が出なかった。

 自分が荒い息をついていることに、その時になって気づいた。




 余談ですが、私が話を作るとき、始まりや結末などのポイントは最初に決めていて、そこに至るまでの過程については、気が向くままに作っています。
 その結果、まさか主人公が本気で死にかけるとは、よもやよもや。


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35話 寄り道の終わり

 ひとまず、これにて終幕。


「任務完了。住民及び隊士は無事。後は隠に引き継ぐ」

 

 武仁(たけひと)は那津を飛ばすと、カナエの体を、抱え上げた。思いの外、軽かった。カナエの日輪刀は、しのぶが持っている。

 周囲に鬼の気配はない。それを確認してから、男に声をかけた。

 

「私たちは、もう行く。しばらくすれば、ここにいる全員、眼を覚ますだろう。それぞれ街へと戻るといい」

「わかった。でも、あんたは酷い怪我じゃないか。それに血も出ている」

 

 隊服は、腕も足も胴も、切り裂かれていた。血も流れている。それだけ、カナエの剣技は凄まじいものだった。

 ただ、どれも浅い。防ぎきれなかった箇所があまりに多く、常中による止血をしきれない。それだけのことだった。

 

「大した傷ではない。私のことは気にするな。今宵見たものは全て夢だと思い、日常に戻ってもらいたい。それが、私たちの願いでもある」

「ありがとう。それだけは、言わせてくれよ。理由は分からないけど、多分俺は、君たちに助けられたんだよな」

「では、失礼する」

 

 武仁は一礼すると、表へ出た。しのぶは後ろをついてきていた。

 歩く間、言葉は交わさなかった。すぐに街の明かりが見えてくる。そこからは慎重に道を選び、藤の花の家紋の家を目指した。

 

 血みどろの男が、少女を抱え上げているのである。他人に見られれば、とんでもない騒ぎになる。幸い、すれ違う者はいなかった。

 来た時とは異なり、裏口から訪いを入れる。迎えた家人は落ち着いていて、事情を聴くことなく、武仁達を離れの一室に招じ入れた。

 

 敷かれている布団に、気を失ったままのカナエを横たえた。隊服は多少、返り血を浴びているが、綺麗なものだ。運ぶ間、血で汚れないように、羽織でカナエを包んであった。

 

「お医者様をお呼びしましょうか?」

「それには及ばない。私は、直ぐにここを発つ」

「何を言っているんですか。医者は要りません。お湯、晒と包帯をありったけ、お願いします。すぐに」

 

 しのぶの語気はいくらか強く、威圧されたように家人は去っていった。口を差し挟む隙もない。すぐさま、武仁の方に向き直ってくる。

 

「じゃあ、座って。隊服を脱いでください」

「この程度の傷は、自分で治す」

「聞き分けがないのは、姉さんだけで十分です」

「こうしている間にも、鬼は跋扈し続けている。人が傷つく。動ける限り、次の任務に備える。それが先任の隊士としての、私のやり方だ。そもそも、私は君の家族ではない」

 

 軽い煩わしさが、それ以上の問答をする気を奪った。瀬良のように、腕がなくなったわけではないのだ。まして、これまで見届けてきた数多の隊士達の死に比べれば、大騒ぎするのも馬鹿馬鹿しいとすら武仁は思っていた。

 

「さらばだ」

 

 羽織と荷物を掴み、立去ろうとしたが、腕を引かれていた。しのぶの両手が、隊服の袖を掴んでいた。

 

御影(みかげ)さんはまた、私達を助けてくれました。私は刀を取り落とさせただけで、血を流したのは、御影さんだけ。お願いします。一晩待って欲しいとは言ってません。少しの時間だけ、私にも何かさせてください」

 

 瞳を潤ませたしのぶを前に、武仁の息は詰まった。女としての自分の涙を利用する。そういう感じではない。

 姉を助けたかった。自分でも、もっと何かしたかった。自分の弱さを深く噛みしめているような表情。その心情が、不意にどうしようもなく理解できた。

 

 しのぶの白い手先が、血で赤く汚れている。自分から流れ出ている赤い血が、今は別人のもののように見えた。

 

「わかった。頼もう」

 

 武仁は床に座ると、隊服を脱いだ。

 

「多少深いもの、止血できていないものだけ、縫ってくれるか」

「はい」

 

 しのぶの処置は、やはり手早かった。縫合。薬を塗った晒は、包帯で固定する。眼を瞑っている間に、全て終わっていた。

 しのぶは更に、横たわったカナエの様子を観察し始めた。脈を測るだけでなく、閉じたままの瞼を開いて、瞳を覗き込んだりしている。

 

「大丈夫、寝ているだけです。ただ、全身がひどく疲労してる。体の限界を超えて、動いていたのかもしれません」

「そうか」

 

 しのぶの言葉に、武仁は頷きで返した。

 かつて師匠との稽古で、自分も一度、限界を超えたことがある。その時の自分は、意識を失ったまま、師匠と戦い続けていたのだという。その結果は、同じく深い疲労だった。

 ふと見ると、針は湯に通しているものと、血の付いた布に包んでいるものと、分けてあった。

 

「これは?」

「この針は、何回か使ったので、処分します」

「熱を通せばいい、というものではないのか」

「当り前です。針も金物ですから。傷めば折れるだけでなく、錆もするんですよ。汚れた器具で治療をすれば、逆に病気になってしまうんです」

「流石に、詳しいな。カナエが褒めるだけのことはある」

 

 武仁は喋りながら、隊服を着込んだ。縫い合わせたいくつかの所が、張っている感覚がある。ただ、流血は収まっていて、常中で傷を押さえる必要はなかった。

 

「もう行くんですか? もう少しだけ、休んでいけばいいのに」

「この姿を、カナエに見せるわけにはいかない」

 

 不自然な記憶の空白と、刃物で切り裂かれた隊服。多少でも聡い人間なら、真相に気づいてもおかしくない。

 操られていた男は、気を失った後に正気を取り戻し、しかもその間の記憶はない様子だった。カナエが気を失っている今のうちに立ち去る必要がある。しのぶの手当を拒んだのは、そのためでもあった。

 鬼に操られた挙句、日輪刀で隊士を殺しかけた。気づかせていいことなど、ひとつもない。

 

「姉を恨むな、しのぶ。あの鬼の血鬼術にかかったのは、カナエが油断したからではない。鬼をも救いたい。カナエが、カナエであるからこそだ。そういう人間だからこそ、カナエは強い」

「でも、姉さんの甘さで、御影さんは傷ついたんですよ。首だって」

 

 その先を口にしようとしたしのぶを、手で制する。それ以上、口にさせたくなかった。

 

「甘さを責めるのであれば、私も甘かった。鬼は死んだ。そう思って、カナエから眼を離したのだからな。カナエに責任があるというなら、私もまた、同じだけの責を負うべきだ。私はそれでも構わないが、カナエに余計なものを背負わせたくはない」

「御影さんは、それでいいんですか。どれだけ身を削って戦っても、姉さんはそれを知らないままなんですよ?」

「それでいい。誰かに感謝されるために、戦っているわけではない。私が鬼殺を為す理由は、別のところにある」

「じゃあ、最後に聞かせてください。何のために、御影さんは鬼殺隊に入ったんですか」

「カナエが鬼を救いたい。それと同じように、私は人を助けたい。それは、隊士も同じこと。消えていくかもしれない命を、少しでも減らすため、私は鬼殺隊士として刀を振るう。鬼に殺された人の冥福は祈ろう。だが私たちが来てからは、傷ついた者はいても、誰も死ななかった。その結果があれば、それで十分だ」

 

 誰も死ななかった。それだけが唯一重要なことであり、己の傷など勘定にも入らない、と武仁は思った。

 しのぶが、ふっと息を吐くすると、小さく笑った。

 

「そこまで考えているなら、仕方ないです。その、自分の信念に真っすぐなところは、本当に姉さんそっくりですよ」

「端から見れば、難儀な性格だろうと思う」

「たまには、姿を見せてください。鎹烏の文でもいいですから。起きて御影さんが居なかったら、姉さんもきっと心配します」

「約束はできん。だが、互いに生きてさえいれば、また会うこともある」

「はい。御影さんは、感謝しなくてもいいと言いましたけど、忘れないでください。少なくとも2人は、御影さんに感謝している人間がいることを」

「君は鬼の頸が斬れないと言うが、何も出来ない訳ではないな。自分にできる事で、しっかりと戦ってくれた。だから私は生きているし、カナエを助けることもできた。そして、生きていれば、もっと強くなれる、と私は思う」

「本当ですか。私でも、強くなれる。そう、信じてくれますか」

「信じよう。命の恩人だからな」

 

 しのぶが瞳を潤ませながら、にこりと笑った。瞳の色が姉よりも色濃いことを除けば、よく似た姉妹だ、と思う。いささかしのぶの方が幼げではあるが、笑顔は殊の外よく似ている。

 

「世話になった」

 

 武仁は羽織を引っ掛け、立ち上がった。

 

「昨日の笛、とても良い音でした。また、聞かせてください」

 

 しのぶの声は背中で受け、武仁は部屋を出た。

 家人には礼と、幾ばくかの銭を押し付けて、裏口から家を辞去した。

 

 季節。冬に入りつつあり、外気は冷えていた。息が仄かに白く、灯で浮かび上がってくる。

 

 あの2人は、ともにいればもっと強くなれるだろう、と武仁は思った。互いに互いを想い合う、良き姉妹だった。

 だが、鬼殺は、修羅の道である。昨日まで肩を並べていた人間との死別など、当然に起こりうる。胡蝶姉妹とて、例外ではない。

 

 大切な人間を失うことで強くなれる。それもまた、人間の不可思議な強さではある。ただ、その時が来たとして、自分は決してその別れを看過するつもりはない。

 人を守る、隊士を守る。自分の為すべきことは、変わりないのだ。

 

 武仁は、夜空を見上げた。傷は、全く痛まない。




 アンケート結果から執筆を始めた本章、わりと短くできた(作者比)ものの、明るい話になることもなく無事シリアスな流れで、しかもカナエさんよりもしのぶさんの方が目立つ話になってしまいました。
 読んでくださった方、また投票して下さった方々には心からの感謝を。
 カナエさんが活躍できなかったことについては、心からの謝罪を。

 次章から、再びプロットに戻り、とある原作キャラと絡みます。
 また読んでいただけると幸いです。


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第2部・水面の蝶編
36話 炎起つとき


 本筋の前に、ちょっと幕間を。


 大きく見開かれた眼。赤い瞳が、燃えていた。

 背筋がぞくりとするほどの眼光。それが、全身に漲る気迫と入り混じり、こちらに襲い掛かってくるようだ。

 

 武仁(たけひと)は、煉獄杏寿郎と向かい合っていた。低く構えた木刀。握る掌。力を籠めた。既に薄く、汗が滲んでいる。

 杏寿郎の構えが、気配が、変わった。呼吸も深くなっている。

 

 

  全集中 炎の呼吸・壱ノ型 不知火

 

 

 一歩。杏寿郎の踏み込み。同時に木刀が、眼前に迫っていた。振り上げ、弾く。武仁の掌から腕にかけて、稲光のように衝撃が走った。

 今度は、武仁から踏み込んだ。木刀。振り下ろした。だが、止められた。杏寿郎は受け流すことなく、真っ向から、こちらの斬撃を受け止めている。

 

 その場で、斬り合った。何度木刀が交錯しても、杏寿郎の構えは全く揺るがない。まるで岩のような硬さで、こちらの掌が痺れを覚える程だった。

 一度、間合いを取りたい。武仁は木刀を横に薙ぎつつ、身を下げた。その動きを、読んだのか。杏寿郎の姿が、宙を舞った。

 

 

  全集中 炎の呼吸・参ノ型 気炎万象

 

 

 空中。赤い髪。杏寿郎が木刀を振り下ろしてくる。既に、間合いの中に入られていた。

 考えるよりも早く、武仁は身を投げ出し、砂利の上を転がった。風切り音。何とか、躱した。だが顔を上げた時、杏寿郎は地に降り立り、今にも踏み込もうとしている。

 

 身を起こしつつ、全ての意識を足に向けた。全集中の呼吸。さらに深めつつ、跳んだ。杏寿郎の木刀が届くよりも早く、今度は武仁が宙で身を回していた。躱すと同時に、斬る。

 眼下。杏寿郎の赤い眼。はっきりと自分を追っていた。勝負。それだけを、眼で語りかけた。

 

 

  全集中 炎の呼吸・弐ノ型 昇り炎天

 

 

 木刀。回転する勢いを乗せ、振り下ろした。だが、凄まじい力で迎え撃たれた。空中からの攻撃で、一撃の威力はこちらの方が勝るが、押し合えば逆に、宙にいる自分の方が不利である。武仁は杏寿郎が斬り上げる勢いそのまま、再び宙で身を翻すと、距離を置いて着地した。

 

 再び、対峙する。杏寿郎の構えに隙は無かった。こちらから仕掛けて崩せるとは思えない。こちらも、隙を見せないようにした。斬りかかろうとする杏寿郎の機先を、僅かな木刀の動きで制する。そんな駆け引きが通用するほどの、技量だった。

 互いの息遣いが、流れる。しばらくして、2人同時に木刀を納めた。

 一礼し、顔を上げた杏寿郎は、にこにこと笑っている。

 

「強くなったな、杏寿郎」

「なんの。父上や武仁には、まだまだ及ばない、未熟者だ!」

「そんなことはない。もう、立派な炎の呼吸の剣士だと私は思う」

 

 杏寿郎は嬉しそうに笑っているが、武仁は言葉以上に、内心で舌を巻いていた。

 こちらは、常中で鍛えた肉体を駆使していたのだ。それを杏寿郎は、受け流すことも躱しもせず、真正面から立ち向かってきたのである。炎の呼吸による強化を勘定に入れても、膂力は既に、自分と同等に近いという事だ。

 

 初めて杏寿郎に会ったのは、3年前の冬のことである。その後も、任務の合間を縫って、何度か煉獄邸を訪ってきた。

 会うたびに大きく成長する姿に、驚いたものである。事実、杏寿郎の背丈は武仁より少し低いだけで、ほとんど変わらないほどだ。

 

 館の奥から、足音が近づいてくる。程なく、小さな姿が縁側に現れた。

 杏寿郎の弟の、煉獄千寿郎だった。盆を持っている。

 

「あ、兄上、稽古は終わったのですね。いま、茶が入りました」

「うむ! ありがとう、千寿郎! 武仁も、さあこちらへ!」

 

 武仁は杏寿郎、千寿郎と共に、縁側に腰かけた。

 年がまたひとつ、改まっていた。昼間は陽気こそ差し込むが、春はまだ遠い。そんな、冬の終わりの寒さには、温かい茶がよく染みた。

 

「武仁さん。兄上だけでなく、僕にも、稽古をつけてください」

「また今度、だな。千寿郎も随分体が大きくなったが、まだ細い。今は、体を成長させる事こそが大事だ。立合い稽古など、その後でも遅くはない」

「はい。それに素振りは、兄上が見てくださいます」

 

 そう言い、千寿郎がまだあどけない笑顔を浮かべた。

 

 不意に、武仁の胸の奥がちくりと痛んだ。線が細い。その印象はそのまま、鬼殺の剣士としての印象でもある。その点杏寿郎と比べると、千寿郎は明らかに劣っていると思えた。

 だが、胡蝶しのぶのような隊士がいる。自分もまた、鍛えられるだけの武芸や道具を駆使し、今日まで鬼と渡り合ってきた。

 生まれ持った才能が人より劣っていることは、諦めさせる理由にはならないのだ。

 

 その後、二言三言と言葉を交わすと、千寿郎は茶碗を持って、館の奥へと消えていった。杏寿郎と2人きりになって、武仁は口を開いた。

 

「それで、行くのか、杏寿郎。最終選別へ」

「うむっ」

 

 武仁の問いに、杏寿郎は深く頷いた。杏寿郎が選別に行くことは、那津が運んできた文で知った。顔くらいは見ておこうと思い、煉獄家を訪ったのである。木刀での立合いは、そのついでだった。

 2人で話すとき、杏寿郎の普段の快活さは潜み、幾分か落ち着いた喋り方をする。己の顔を、微妙に使い分けていることも、最近気づいたことだった。ただ声が大きく熱いだけの男ではなく、思慮深いところもしっかりと持ち合わせている。

 

「父上はやはり、あまりいい顔をしてはくれない。だが、決めたのだ。力持つ者は、弱き人々を助けねばならない。それは、母上が教えてくれた、俺の責務でもあるからな」

「そうか。それが、杏寿郎が刀を握る理由なのか。瑠火様は、素晴らしいものを残されたと思う」

「ありがとう、武仁。だからこそ、俺は戦うことにした。父上や武仁、そして朱雀がそうしてきたように。母上が、願われたように」

 

 物言いは穏やかで、気負いのようなものは、全く感じられない。その分、内で燃える意志は、より強く感じた。その思いの中で、煉獄瑠火は生きているのだ。

 それだけではない。南原朱雀。かつての友人もまた、生きている。

 

「炎柱様は、お変わりないか?」

「健勝だ。一時のように、酒を飲んで任務を放棄することは、もうない。だが、武術だけは、一度も教えてはくれなかったが」

「その割に、随分と炎の呼吸を使いこなしていたと思う。我流なのか?」

「代々炎柱を輩出してきた煉獄家には、炎の呼吸の指南書がある。それを読み込むことで、一通りの炎の呼吸を学ぶことができた。それに父上の代わりに、朱雀が稽古をつけてくれたこともあるからな」

「なるほど」

 

 確かに、杏寿郎の剣技は、まるで朱雀の剣を見ているようだった。頷きながら武仁は、朱雀の言葉も思い出した。

 数年後には互角。いずれは、俺など比べ物にならなくなる位、強くなる。かつて朱雀は、杏寿郎のことをそう評していた。そして、その言葉は間違ってはいなかった。

 

 武仁はふっと息を吐き、腰を上げた。杏寿郎の顔がこちらを向く。

 父親である煉獄槇寿郎と瓜二つの、燃えるように赤い髪や瞳。それだけでなく、大きく見開かれた眼が、特徴的だった。視線はどこか、別の方を向いているようにも見える。

 

「もう、行くのか?」

「春が来る前に、本部へ行くことになっているからな」

「そうか。では、また会うときを、楽しみにしているぞ!」

 

 武仁に付いて、杏寿郎も玄関まで出てきた。

 表道。雪は積もっていない。今年はわりと、過ごしやすい冬だった。

 

 冬もたまに街に立ち寄る時のほか、寝泊りは野宿である。厳冬の山中を生き抜くためには、全集中の呼吸を続けることだった。雪山での野宿には、天元すらも現れなかった。

 酷寒で、心のどこかを凍らせておく。人の持つ温もりの中に、自分を長く置いてはおかない。それだけのためにやっている事だった。

 

「ありがとう、杏寿郎」

 

 くぐり戸を抜け、武仁がそう言うと、杏寿郎はきょとんとした表情を浮かべた。

 

「朱雀のことを覚えていてくれる男が、ここにいる。今日は、それを改めて知ることができた。朱雀の友として、改めて礼を言わせてほしい」

「そんなことは、当然のことだ! 朱雀のことを、俺は決して忘れない。初めて会った日にも、そう言ったな!」

「最終選別、死ぬなよ、杏寿郎。私が君に言えることは、それだけだ」

「武仁も、武運を祈る!」

 

 武仁は杏寿郎の肩を軽く叩き、身を翻した。目立たないように通りの端を歩き、街中を抜けると、郊外へと向かっていく。本部行きのために、まず隠と合流する。そのために指定されている場所は、毎回違うのだ。

 人里を外れれば、すぐに山間である。人の眼が外れたところで、武仁は走り出した。頭上では、那津が気持ちよさそうに飛んでいる。

 

 足取りは軽い。そうして、杏寿郎との立ち合いを、思い返していた時だった。武仁は、自分の気持ちの中に高揚に似たものがあることに、気づいた。

 かつて、悲鳴嶼行冥や瀬良蛟(せら みずち)と立ち合った時に感じた、強い気のようなもの。それと似たものを、杏寿郎は若いながらに、色濃く放っていた。

 そしてそれは、杏寿郎だけではない。宇随天元や胡蝶カナエ、錆兎と冨岡義勇から感じたものも、似ていた。

 

 鬼殺隊の歴史は、一千年にわたると言われている。そして当代の隊士の中に、柱となるべき人間が多く現れているという事なのか。

 所詮、気の持ちようである。感情のさざ波のような高揚は、できる限り抑え込む。意識しなくても、そうしてきた。

 それでも、足取りは軽かった。




 杏寿郎の入隊が、地の文での描写では勿体ないと思い、話にしてみました。


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37話 己が道はここに

 前半はまた御屋形様との話
 後半は任務に移ります


 隠の背から降ろされると、目隠しが外された。

 日輪刀。鉤爪つきの縄。それに暗器を吊った帯革を預けると、すぐに、館の奥まで招じ入れられた。

 

「やあ、武仁。そろそろ来てくれる頃だと思っていたよ」

「ご無沙汰しております、御屋形様」

「そんな、固い挨拶はいらない。さあ、ここへ」

 

 武仁(たけひと)は手招きされるまま、御屋形様の隣に腰を下ろした。

 鬼殺隊本部での面会は、決まって庭に面した大広間である。縁側に座布団が敷かれており、そこに、2人並んで腰かけるのだ。

 ここからの景色も見慣れたものだが、見飽きたと感じたことは一度もない。

 

「先日の柱合会議で、新しい柱を2人、任命した」

「ほう」

「君も知っている2人だよ。音柱宇随天元と、花柱胡蝶カナエだ。奇しくも先年、君と関わった剣士達だね」

「そうですか。あの2人が、もう柱に」

 

 入隊から僅か1年で柱に昇りつめるとは、どれだけの努力を積み重ね、どれだけの戦いを潜り抜けるということなのか。少なくとも、自分の最初の1年は、生き残ることに必死になっていた。昇任など、意識の外である。

 ただ、あの2人が得難い隊士ということは間違いないだろう、と武仁は思った。

 

 天元は元忍の経験に加え、3人の嫁を上手く指揮して戦うことができる。一対一の戦闘が多い鬼殺隊士の中で、それは、稀有な能力と言ってもいい。

 そして胡蝶カナエは、凄腕の花の呼吸の遣い手である。

 

「嫁を使っている天元はともかく、胡蝶カナエは女でありながら、僅かな間に柱となった。これは、驚くべきことだと思います。かつて瀬良様が、柱になる奴は己の才覚で上がってくるもの、と言っていました。正に、その通りでした」

「そのカナエが、柱として最初に、あるものを求めてきた。柱の階級にある隊士は、館だけでなく、給金も求めるだけのものを与えている。だけど、そんなものは必要ない、と言ってね」

 

 それが何かわかるかい。そう言いたげな表情で、御屋形様が顔を向けてきた。

 

「鬼の研究をしたいとでも言い始めましたか」

「悪くない考え方だ。でも、違う」

 

 武仁は首を傾げた。鬼と仲良くしたい。それが、胡蝶カナエが持つ理想である。それは、信条のようなもので、学問のようなものとは思えない。

 

「館をひとつ、そしてそこに、鬼殺隊の治療所を作りたい、と言ったんだよ」

 

 その屋敷では、鬼との戦いで負傷した隊士の治療をする。それだけでなく、製薬や、負傷した隊士が現場に復帰するための訓練も行うようだ。

 

 鬼殺隊での負傷の治療は、藤の花の家紋の家が手配する医者でなければ、心得がある隊士や隠が、我流で処置しているのだ。だから戦いで生き残れても、悪化した傷が原因で命を落としたり、手足を失って戦いを諦めたりする隊士も少なくない。

 

 たとえ、そういう実態がわかっていても、組織を変えるというのは、多分簡単な事ではないのだろう。そもそも政府非公認の組織である。隊お抱えの医者など、こと細やかに整備できるとは思えない。

 

 だが、この鬼殺隊において特権的にそれができるというのが、柱という存在でもある。いま、それを為そうとする胡蝶カナエは、やはり卓抜な人間だった。

 

「御屋形様は、どうされるおつもりですか」

「もちろん、私が拒否する理由はない。かつての花柱が居を置いていた屋敷を、カナエが受け継ぎ、そのまま鬼殺隊の治療所として運用することになる。その名も、蝶屋敷」

「蝶屋敷、ですか」

 

 花ではなく、蝶。妹の居場所を作りたい。鬼を救いたいというカナエが語った、もうひとつの願いのことが、武仁の脳裏をよぎった。

 我儘を通したければ柱にでもなれ。これが、自分が放った言葉への、カナエなりの答えという事なのか。

 

「カナエの妹のしのぶは、優れた医術の腕を持っている。私は、見てみたいと思います。カナエ達が作りあげる蝶屋敷を。それが、何を変えていくのかを」

「多くのものが、これから変わる。いや、既に変わりつつある。カナエ達はこれからきっと、多くの剣士達を救ってくれるだろうね」

「それも、御屋形様の予知ですか?」

「いいや。願い、かな」

 

 そう言い、御屋形様は庭先に眼を向けた。

 顔の痣は、以前見た時よりも更に色濃く、より大きく広がっていた。左眼は白く濁り、光は無い。この痣が全身に回ったときが、御屋形様の最期なのだろう。

 

 御屋形様はこの山奥の屋敷で、ただ待っているのだ、と武仁は思った。隊士達の死を刻みながら、己の死を待っている。

 

「これから君に、やってもらいたい任務がある、武仁。今日は、それを直接伝えたいと思って、君を呼んだんだ」

「何なりと」

「ある海際の漁村で、疫病が流行している。犠牲者は多く、それも医師が匙を投げる程の状況らしい。既に、送り込んだ隊士が2名、消息を絶っている。病とは言うが、恐らく鬼によるものだと私は思う。それも、相当に強力な鬼だ」

「柱は、動くのですか?」

「動かない。鬼というのは私の所感で、柱を動かせるだけの、確たる証がないんだよ」

「では、やむを得ないですな」

 

 柱はそれぞれ、鬼殺の戦線で大きな役割を果たしている。噂話だけで動かせるほど、暇ではないのだ。

 その柱を動員するのにもっとも有効なのは、一般隊士が流す血と言ってもいい。

 

「これ以上の被害の拡大は看過できない。しかし、剣士達の犠牲も、避けたい。だから、武仁を呼んだ。都合の良いことを言っていることは、十分に承知している。だが、君ならきっと、成し遂げてくれると思っている」

「御屋形様は、ただ命令されるだけでいいのです。人を助けろと。私はそれを、隊士として遂行する。それがいかに危険な任務であっても」

「そういう任務に、優先的に送ってほしい。私にそう言ったのは、何年も前の事になる。それでも武仁は、今日まで生き抜いてくれた」

「私は、決して死にません」

 

 既に、2人の隊士の犠牲が出ている。それ以上、住人にも隊士にも犠牲を出さず、しかも柱を送ることのない手を打つ。そのために自分が選ばれたと思えば、これまで戦ってきた意味もある、と武仁は思った。

 

「隠と、隊士を1名、既に差し向けてある。彼らと合流し、任務に当たって欲しい。行先はいつも通り、那津が知っている」

「承りました」

 

 武仁は一礼し、腰を上げた。御屋形様は座したまま、穏やかな陽気が射しこんでいる庭先を、ただ眺めている。

 

「笛は、また今度だね」

「隊士が先行している以上、一刻でも惜しいところですので」

「君ならそう言うと思っていた。だから私は、ここで待っている。それと、輝利哉達も、君の笛を楽しみにしているよ」

「それでは、お健やかに」

 

 再び一礼し、武仁は広間を辞去した。

 

                       

 

 連れてこられたのは、街道沿いにある一件の宿屋だった。武仁は、どこか寂れた装いの建物を見上げた。那津の黒い小さな体は、屋根上にある。

 目的地までは、ここから半日もかからない。ここで、隊士と隠と合流するということだろう。

 

「失礼」

 

 戸を開けて、誰何する。奥から、腰が曲がった老人がのそのそと現れた。

 

「おや、また若い人とは、それもおひとりで」

「私は、宿を取りに来たわけではありません。ここに、知人が逗留していると聞いて、参った次第です」

「ふむ。それは、上の階にいるあいつらの事か」

「何か?」

「いいや。だが、ひとりは今日日見ない黒子のような恰好。もうひとりは顔が整っておるが、とんでもない口下手でな。何を考えているのか、わかったもんじゃない。あまり、長く泊めておきたくはないのう」

 

 割とよくある反応だった。隊服や日輪刀で気味悪がられて、一晩の宿すら断られることも、そう珍しいことではない。

 そうでなくとも、自分達は血で血を洗う鬼殺の戦いに身を投じている人間達である。客商売をやっている人間ともなると、相手の素性にはとくに敏感なところがあるものだろう。

 

「とりあえず、会うことにします」

「階段を上がって、右奥の角部屋じゃ」

 

 老人に説明された部屋はすぐにわかった。一部屋だけ襖が閉じている。武仁が、その部屋の前に立った瞬間だった。

 

「だあああ! もう、やってられねえってんだ!」

 

 大声。荒々しい足音が近づいてくるなり、戸が音を立てて開けられた。隠。眼があった瞬間には、名前は出てきていた。

 

「後藤か。大声を上げてどうした。どこに行く」

「おっ、武仁じゃねえか。早く来いってんだよ、全く」

「待たせたことは、謝罪する。本部に呼ばれていた。この任務も那津ではなく、御屋形様から聞いた」

「何でもいいぜ。ここに居るならな。お前が来るのがあと一日でも遅かったら、俺はもう、ひとりで先に行ってたぜ」

 

 部屋。後藤が顎をしゃくった先、畳の上で、姿勢よく正座している隊士の姿があった。

 不揃いな黒髪と、葡萄色の羽織。水面のような静かな眼が、武仁の方を向いていた。

 

「後藤、ここは私に任せてくれ」

「任せろって言われてもなあ、そいつ、全然口を利かねえんだぞ」

「だが私は、この男と2人だけで話したい。先に、宿代を払っておいてくれ。外で会おう」

 

 首を傾げながら、後藤は階下へと消えていく。それを見て、武仁は部屋の中に入った。

 布団とちゃぶ台、燭台だけの質素な客座敷で、隊士と向かい合う形で腰を下ろす。しばらく視線を交わしたが、会話はなかった。

 

「久しぶりだな、冨岡隊士」

 武仁の方から、声をかける。

 こくり。冨岡義勇の返事は、それだけだった。

 

                       

 

「無事に最終選別を突破したのだな。錆兎は、息災か?」

「分からない」

「そうか。だが文のやり取りくらいは、しているのだろう?」

「していない」

「鱗滝先生のところにも、行っていないのか」

「ああ」

 

 随分と感じが変わった、と武仁は思った。狭霧山にいた頃とは何もかもが、別人のようになっている。

 元々、冨岡義勇という男は、冷静さが目立つ男だった。だが、久しぶりに会った義勇はそれに輪をかけて、口下手と言ってもいい域にある。

 宿の主も後藤も、この調子の人間を相手にしていたと思えば、あの反応も頷けた。

 

「俺は、弱いから」

「いいや」

 

 不意に呟かれた義勇の言葉を、武仁は否定した。

 

「君は弱くなってなどいない、冨岡隊士」

 

 決して、口下手になっただけではなかった。義勇の全身から漂う気のようなもの。それが伝えてくるものは、明らかな手練れの気配である。

 沈黙の中に、多くのものを秘めている。そういう姿とも思えた。

 

「掌を、見せてくれないか」

 

 無言で返された義勇の掌は、見た目以上の分厚さがあった。

 木刀や刀を握る掌の皮は、戦いや鍛錬と共に破れ、治ると共に徐々に厚く、丈夫になる。鬼殺隊士なら誰でもそうなのだが、義勇の掌は、既に歴戦の隊士のそれだった。

 これを見ただけでも、義勇が今日までどういう鍛錬を積んできたのか眼に浮かぶ。

 

「今回は、私達2人での合同任務となる。それは、聞いているな?」

「ああ」

 

 階級を示せ。義勇の小声が部屋に流れた。甲、とある。柱を除けば、最高位の階級である。武仁は先月、乙に昇進したばかりだった。

 胡蝶カナエといい、実力ある隊士が昇進する速さには、やはり凄まじいものがある。

 

「甲か。私よりも階級が高い上に、もう柱は目前だな。任務の指揮は、君に執ってもらおうか」

「そんなことは、どうでもいい」

 

 義勇の眼は変わらず、水面のような平静さを湛えたままだ。何の感情も、浮かび上がっていない。しかし、それは内に秘めたものの裏返しなのか。

 

「俺は、柱になどならない。そんな力はない」

「そうなのか」

 

 狭霧山で別れた後、義勇に何があったのかは、わからない。多分、自分から語ることはないだろう。

 最終選別を錆兎とともに生き残り、そこからはただ独りで戦技を磨き続けてきた、冨岡義勇という男の強さ。それだけは間違いないだろう。




 花屋敷ではなくて、蝶屋敷。
 何となく、そこに意味を求めてみました。


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38話 潮騒

 つん、とした匂いがした。

 潮の匂い。すぐに分かった。磯臭いとも言われるが、武仁はこの匂いが、嫌いではなかった。

 

 村に入る前、後藤が武仁と義勇の方に向き直った。宿で後藤と冨岡義勇と合流して、2刻(約4時間)は経った。太陽は西へ傾きつつある。

 

「こっから村の中だ。とりあえず、その刀は隠しておけよ。面倒は御免だからよ」

「隊士達が2人、先行していた話は聞いている。既に消息を絶ったとも」

「俺を誰だと思ってんだい。隠の、後藤だぜ。村の連中との、顔つなぎくらいはできるようにしてらぁ」

 

 大怪我を負って、隊士にはなれなかった男。だが、自分が隊士であるのと同じだけの時間を、隠として生きてきた。事後処理部隊などと言われているが、鬼殺隊士が縦横に動き回れるのは、隠の支援があるからだ、と武仁は思っていた。流石に、抜かりない。

 

 義勇に、視線を送った。出発してからずっと、一言も口を利いていない。日輪刀は背中に隠したのか、手元は空いている。

 3人でまとまって、村中に入った。村人らしい、何人かとすれ違う。時折武仁達を一瞥するだけで、ほとんどは顔を下に向けていた。

 

「活気がないな。山村に比べると、海際の方が賑やかなものだと思うが」

「疫病だ、何だと、村の連中がばたばたと倒れてるんだ。浮かび上がる気分にゃあならねえと思うぜ。これから連れていくところを見れば、猶更よ」

「村長のところか?」

「いいや。ここの村長も、病でやられちまったらしい」

 

 後藤が首だけ振り向くと、通りの奥にある建物を指さした。かなり大掛かりな、木造の建物である。

 

「いつもは、干した魚だ何だを、保管しておくための倉庫だ。でも今は、病にかかった人を寝かしておくために使っているのさ」

「そうか、良かった。医者は無事なのだな」

「まあ、無事と言えば、無事なんだがなあ」

 

 肩を竦めた後藤が、扉を軽く叩いた。僅かに空けられた隙間から、首だけが出てくる。眼元以外は布で隠している男だった。

 

「おう、後藤か」

「遅くなりましたね、先生」

「一緒にいるそいつらは何だ。このところの病人にしては、顔色は悪くない」

「助けを呼んでくるって、言ったでしょう。こいつらは、この村で起こっている疫病を調べに来たんですよ」

 

 先生、と呼ばれた男の視線が、武仁と義勇を行き来した。布の隙間の眼元には、深い皴が刻まれている。髪の毛も、見えるものの半分が白かった。

 

「俺たちも一度、中に入っても良いです?」

「奥までは入ってくるな。それと口と鼻くらいは、布で覆わせろ」

 

 それ以上話すことなどない、とばかりに言い捨て、医者の顔は引っ込んだ。

 その指示に従い、布で口元を覆い隠して、扉をくぐった。まず、饐えた臭いが、布の上からでも武仁の鼻をついた。

 

 十数人ほどの村人だろう。並んで寝かされ、その周りを何人もの人間が、ばたばたと動き回っていた。その中には、黒子姿の隠も混じっている。

 医者も、武仁たちには目もくれず、今は村人ひとりの手首に指を当てていた。脈を測っているのだろう。

 看病の様子を見ていると、ある違和感に武仁は気づいた。

 

「症状が、それぞれ違うようだが」

「ああ。流石に気づいたな」

「氷嚢を使っている者もいれば、毛布を何枚も被っている者もいる。これが、この村の疫病なのか?」

「これは病などではない」

 

 医者が、声だけをこちらに向けてきた。

 

「高熱、寒気、震え、全身の麻痺、小傷の腐敗、血が混じった糞尿が止まらないというもの。誰ひとりとして、同じ症状はない。夜毎に新たな患者が担ぎ込まれてきて、同じ数だけ、死んでいく。こんな病など、私は聞いたことがない」

「これだけの人数を、貴方ひとりで。この村に、他に医者はいないのか?」

「村長すら倒れた疫病の噂で、お上ですら見て見ぬふりをしている。今、この村にそんなものがいると思うのなら、お前の頭も病だ」

 

 再びの吐き捨てるような言葉。だが、看病をする村人への指示は、的確そのものだった。

 か細い呻き声が絶えず上がっている。ここに寝かされている者たちは、まだ死んでいないのだ、と武仁は思った。

 

「行こう、武仁」

「義勇」

「俺たちが、ここにいる意味はない」

 

 言うなり、義勇は羽織を翻して、外に出ていった。

 

「その小僧の言う通りだ。野次馬するだけなら、出ていけ」

 

 武仁は義勇が出ていった扉、後藤と視線を送って、医者に向き直った。

 

「一晩。それだけ、待ってもらいたい」

「ほう、一晩か。治療もできぬお前らが、何かやってくれるというわけか」

「わからない。だが、全力は尽くす」

 

 疫病とされているものは、恐らく、鬼の血鬼術によるものと思えた。だから、鬼の頸を飛ばせば、いくらかは症状を和らげることができるかもしれない。

 だがそれは、市井の人間に語るようなものでもなかった。鬼が原因などと語ったところで、妄言としか思われないだろう。

 

「君はどうする、後藤」

「俺は、ここで他の奴らと一緒に、手伝いでもしてるさ」

「そうか。私は夜まで、村の中を歩き回っていようと思う」

 

 まず、地形地物を把握するところから始める。それが、武仁のやり方だった。鬼との戦闘で生死の境目に立った時、そんな些細なことが、命を生の側へ引き寄せることもある。

 

「日暮れ前に、また来る」

 

 外では、義勇が待っていた。

 

「俺は周辺を見回ってくるが、君はどうする、冨岡隊士」

「何も。夜にならなければ、鬼は出てこない」

「なら、一緒に来るか? ただ歩くだけの、散歩にしかならないかもしれんがな」

 

 義勇はしばらく無表情のまま、そして、不意に頷いた。

 

 村の北側は入り江の港になっていて、周辺は人が通る道以外、森に囲まれている。海際を中心にして、環状に拓かれた村だった。

 作りは単純である。ただ、地形差があまりない。高所から見下ろすような待ち構え方は、できそうになかった。だが、そもそも広い村ではないので、鬼殺隊士が2人もいれば、十分に対応できるだろう。

 

 鬼の気配や痕跡。鬼の存在を感じさせるもの。そういう類のものは、何もなかった。

 そもそも、人が喰われている訳ではないのだ。疫病が広まっている村という情報と、自分が見ている現状は、変わりがない。柱を動かせない、と語っていた御屋形様の考えも頷ける。

 

 武仁は指笛で、那津を呼び出した。変わりないとは言え、何もしないわけにはいかない。

 

「蝶屋敷へ向かい、胡蝶しのぶを連れて来るんだ。村の奇病は極めて重篤な状況。村医者が治療に当たっているが、芳しくない。鬼殺隊として、しのぶの知見を借りたい。御屋形様の許可は、後で私が責任をもって取る」

 

 那津は一声鳴き、南へ飛び立って行った。既に蝶屋敷の場所は知っているのだろう、と思った。

 同時に、本部へ義勇の鎹鴉を飛ばすこともできた。だが、もし自分達に万が一のことがあれば、義勇の鴉を使うしかないのだ。本部への報告は、後回しにするしかない。

 

「蝶屋敷とは、何だ?」

「冨岡隊士は、聞いていないのか。花柱胡蝶カナエの館が、鬼殺隊の治療所となっている。私も、自分の眼で見たわけではない。だが花柱の妹の胡蝶しのぶは、鬼殺隊士でありながら、医術に秀でている」

「胡蝶姉妹」

 

 義勇はぼそりと、呟いた。興味がない訳ではないらしい、と武仁は思った。首が微かに上下していた。

 

「もうすぐ日が暮れる。そうしたら、私と君は、分かれて行動しようと思うが。上級の隊士として、何か意見はあるか?」

 

 義勇はまた、黙って頷いた。

 

「この村に潜む鬼を見つけて、頸を斬るぞ。冨岡隊士」

「隊士じゃない」

「何だって?」

 

 思わず言い返した。だが、義勇の表情は淡々としていて、顔からは何の意図も読み取れない。隊士じゃない。何が言いたいのか、武仁は唐突に理解できた。

 

「わかった、義勇。これでいいか?」

 

 こくり、と頷く。冨岡隊士、という呼び方を止めて欲しかったらしい。

 ただの口下手ではない。ただ、内心と実際の発言とに、微妙な不一致がある。この男との会話に必要なのは、機知というよりも忍耐力だろう。丸一日対して、武仁はそう思っていた。

 義勇の後ろ姿が、角を曲がっていく。それから、武仁は足を倉庫へ向けた。

 

 表で後藤が待っていた。

 

「俺に、何かできる事はあるか?」

「いや。夜が明けるまで、ここで待て」

「やっぱりよ、鬼がいるってことか?」

「恐らくは」

 

 武仁は帯革から爆竹と煙玉を幾つか外した。きょとんとしている後藤に、押し付ける。

 

「念のため、預けておくものだ。もしここに鬼が現れれば、迷わず使え。音でも煙でも、異常があれば、私達ならすぐに感づける」

「おう、ありがとよ」

 

 後藤は爆竹や煙玉をしげしげと見まわして、懐にしまい込んだ。

 

「あと、村人が不用意に家の外に出ないよう、眼を光らせておいてくれるか。これは、隠何人かでいい」

「分かった。そいつは俺の方でやっておくぜ。気の利く奴らが、何人かいる」

「頼む。出来れば、今晩には片を付ける」

 

 武仁は軽く会釈して、身を翻した。

 海へ向かうのだ。村回りは、そこから始めると、決めていた。山歩きがほとんどだったからだろうか。海というものに、不思議な魅力を感じるのだ。

 

 もしこれが任務でなければ、とふと思った。海岸の岩に腰かけて、竹笛を吹く。どんな音が流れ出るだろうか。

 束の間そんな想像をして、すぐに止めた。

 

                       

 

 日が沈んで、1刻(約2時間)程か。走りながら見上げた月の角度で、そう読んだ。

 

 村の北側だった。微かな血の臭いと、何かが激しく動く気配。走りながら、鳥肌が立っていることに、武仁は気づいた。

 鬼がいる。それと戦っている者もいる。そして、血が流れている。

 

 家と家の間を駆けた。経路は頭の中で、しっかりと描けている。角を2度曲がり、塀に両手を掛け、飛び越えた。

 海岸に程近い、村道の真ん中に、冨岡義勇が佇立している。その周囲には黒い塊が幾つも散乱していた。

 

 両断された鬼の体。分身を作る血鬼術だろう、とそれで見当がついた。そして、大人程のどす黒い影が、道の奥の方に見えた。

 武仁は日輪刀の柄に手を掛けた。その時には、義勇も動いていた。青い刃が、地を這うように突き進み、武仁の視界を追い抜いた。

 

 

  全集中 水の呼吸・肆ノ型 打ち潮

 

 

 青い光。縦横に動き、影に吸い込まれていく。太刀筋は見惚れる程で、しかも鬼の体が3つに切り裂かれた。それを武仁は、月明かりで何とか見て取った。

 

 鬼を斬った義勇はすぐにその場を離れ、隣に飛び退ってくる。

 肩に、人を担いでいた。浅い呼吸をしている娘。武仁は娘を受け取ると、その場を離れ、近くの小道に横たえた。

 服の上から見回したが、重い怪我は見えない。背に、黒光りする棘が何本も刺さっている。そこから、血が流れ出ていた。

 

 棘は抜かず、慎重に周りを布で押さえ、細く縒った紐で縛り上げた。だが、血は止まらなかった。布が少しずつ、ぬめりを帯びていく。

 

 思い当たるものはある。師匠との旅の最中、血が止まらなくなる病というものを、武仁は何度か見たことがあった。もし、この娘が同じ状態にあるのなら、棘が刺さった傷どころか、壁にぶつけた痣ですら致命傷となりかねない。

 

 その時、不意に獣のような唸り声が降ってきた。頭上。見上げるよりも早く、武仁は爆竹を頭上へ投げると、娘を抱え上げて小道から飛び出した。背中に爆風が打ちつけてくるが、何とか体勢は崩さなかった。

 

 慎重に娘を下ろし、振り向くと、さっきまで自分が立っていた場所で黒い塊がのたうち、転げまわっていた。

 そいつが、立ち上がった。まるで雲丹のように、全身に棘が生えている鬼。ぞわり、と思わず鳥肌が立ちそうになった。

 顔も棘まみれだが、眼や口があることは、何となく見て取れる。白濁した涎が、だらだらと口の端から垂れていた。

 

 武仁は刀に、手を掛けた。この鬼がどれほどの強さかは分からない。だが、この娘を巻き込まないように戦う。爆竹や煙玉を使った派手な立ち回りは、控えた方がいい。

 

 思念は、唐突に断たれた。狂った叫声をまき散らしながら、鬼が向かってくる。伸びてくる腕。身を低くして躱し、鬼の胴を日輪刀で薙いだ。刃が、火花を散らした。

 鬼の姿が離れた。手応えはない。何か極めて硬いものに斬りつけた感触だけが、武仁の掌には残っていた。

 

 鬼の棘一本一本が、硬いのだろう。並みの刃では、文字通り歯が立たない。全集中の呼吸の技で、頸を斬るしかない。

 再びの、叫び。元々が人間だったものの声とは思えない。だが、その叫びの中に、ある言葉が混じった。稀血。はっきりと聞こえた。

 

 鬼が姿勢を低くした。来る。同時に、武仁も日輪刀を横に構えた。呼吸は、既に整っている。その時、別の呼吸音も入り混じった。動き出した鬼の頭上から、青い光が降ってくるなり、鬼を幾度も貫いた。

 

 

  全集中 水の呼吸・参ノ型 流流舞い

 

 

 光が消えた時、鬼の体は内側から裂けたかのように、いくつにも散らばっていた。

 

「遅くなった。こいつらは、斬ったところから分身する。少し、手間取った」

 

 義勇の姿が、傍らにあった。表情や息に、一糸の乱れもない。日輪刀の抜けるような青い刃だけが、鮮やかだった。

 

「分身する鬼か」

「胴の辺りを半分に斬ると、間をおいて2体に増える。頸を斬るか、全身を細かく斬る必要がある」

「この鬼の力は、それだけではないと思う。この棘が刺さると、件の病に冒されるようだ。この娘は、血が止まらなくなっている。本体の頸を飛ばさなければ、この戦いは終わらないぞ」

「一度、下がったほうがいい」

「そうだな。この娘を抱えたまま戦うのは至難だ。あの鬼は、この娘を稀血と言っていた。匂いを辿って、どこまでも追ってくる」

「俺が、鬼の相手をする」

 

 武仁は刀を鞘に納め、娘を抱え上げた。警戒と鬼への対応は義勇に任せたほうがいい。技量が自分とは比べ物にならない事は、よく分かった。

 

 散乱した鬼の死骸は、動くことはなかった。鬼の気配もない。それを確認してから、義勇に先行して、歩き出した。

 背後。不意に、皮袋でも破れたような乾いた破裂音が立った。同時に何かが、背中に突き立った。痛みは大したものではない。

 何が起きたのか。そう思うよりも先に、視界がぐらついた。




 まだまだ夜は明けない


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39話 活路にて棘を断つ

 傾いた上体を、空足を出して、何とか踏みとどまらせた。視界が激しく、揺れ動いていた。

 咄嗟に行ったのは、呼吸を深めることである。全集中の呼吸は、毒の巡りを遅くすることもできるのだ。

 

 視界はぐらついたまま、頭は回り続けている。何が起きたのか、武仁(たけひと)はすぐに理解した。

 散乱していた鬼の体が破裂し、無数の棘を放ったのだ。回避する機などなかった。気配すらも、なかったのである。

 

「義勇」

 

 振り返る寸前、どさりと音が立った。義勇の体が崩れ落ちていた。青い日輪刀は握ったままだが、身じろぎひとつしていない。

 

 まずい。武仁の背中に冷や汗が滲むのと、叫び声が上がったのは、同時だった。

 民家の陰や小道の奥から、棘を生やした鬼が姿を現してくる。それも、1体ではない。2体、3体。武仁はそれ以上、数えるのを止めた。闇の中にはまだ潜んでいる気配がする。

 

「義勇」

 

 もう一度、絞り出すようにして声を掛けた。返事はない。日輪刀を握った義勇の腕が、微かに動いた。

 

「呼吸を、深くしろ。君はもう、常中はできているはずだ。ただ呼吸することだけを考えろ」

 

 喋りながら1歩、2歩と足を動かした。その場で身体を回し続けた後のように、平衡の感覚が狂っている。

 不意に足がもつれ、舌を噛んだ。痛みと血の味。むしろそれで、頭が透き通った。

 何とか義勇の傍らに歩み寄ると、武仁は娘を肩に担ぎ上げ、義勇は反対の腕で脇に抱えた。

 

 叫び声。鬼が唾液をまき散らし、一斉に動き出した。

 この場は、逃げる。その覚悟とともに、深く息を吸い込んだ。それと、同時だった。頭上から拳大の塊が幾つも降ってきた。

 煙玉。認めた瞬間、走りだした。視界が白い煙に覆われたが、それでも走った。

 

 揺らぎは、ひどい。催した吐き気を何とか抑え込み、脚だけは動かし続けた。向かうべき場所も、向かい方も、体で覚えている。走りながら傍らで、誰かが声をかけてきた気がした。

 気づいたら、村人が寝かされている倉庫の前にいた。肩と腕が、不意に軽くなる。義勇と村の娘が、隠に担がれ中へと運ばれていくところだった。

 

「おい、しっかりしろ!」

 

 声が上がり、頬を張られた。後藤だった。

 

「まさかお前も、やられちまったのか? あの棘々の奴が、鬼なんだな」

「ああ」

「とにかく、お前も中に入れ。藤の花の香は、もう焚いてある」

 

 助かる。そんな声も、出てこなかった。後藤は自分と義勇の戦闘をどこかで見ていて、加勢したのだろう。爆竹と煙玉を預けておかなければ、やられていたかもしれない。

 

 後藤に促されて倉庫に入る直前、武仁は思わず露脇に突っ伏して、腹の中のものを全て吐き出した。歪み切った視界がさらに、涙で滲んだ。背中を、後藤に擦られている。

 しばらくして、膝をついて立ち上がった。壁沿いによろよろと歩き、何とか、倉庫の中へ身を滑り込ませた。

 倉庫の中は、香の匂いで充満していた。血鬼術に冒されているからだろうか。香りを吸うと、頭の奥の方がすっと冴えたような感じがする。

 

 武仁は壁際に端座し、瞑目した。瞼の裏の暗闇の中なら、このぐらぐらした感覚も、まだ堪えることができた。なまじ景色など見えるから、辛いのだ。

 あの娘は。義勇は。どうなったのか。ただ、全集中の呼吸を続けていた。

 

「明日まで待てとか言っていたな、お前。2人揃ってこの様とは。これでは、何しに来たのか分からんな」

 

 医者の声だった。どこか疲れたような感じがある。

 

「あの2人は」

「まだ口が利けるのか。血が止まらなくなる病と、脈が極端に弱くなる病と見た。そして、お前は」

 

 喋りながらも、脈や眼、口内を診ていく手際はよかった。胡蝶しのぶにも、似たようなことをされたことを、ふと思い出した。

 

「瞳の動きがおかしい。だが、眼ではないな。人間には平衡を感じる器官がある。その部位がおかしくなっているのだろう。ふらふらとした歩き方と、外で吐いていたのも、その証左よ」

「死ぬのですか」

「お前と、あの小僧はしばらく持つだろう。これだけの状態になっても、並みの人間以上に深い呼吸できるのは見上げた根性だ。だが、あの娘は厳しいぞ。傷からの流血が止まらなければ、どうにもならん。今は何人もついて、傷口を布で押さえつけている」

 

 つまり、程なくして全員死ぬ、とこの医者は言っている。

 自分と義勇に違いがあるとすれば、ひとつは体格だろう。自分は19歳だが、義勇はまだ16歳である。体は比較的小柄で、その分毒が回りやすいのだ。

 

 ここは、まだ体が動く自分が何とかするしかない、ということである。

 考えた。事前の情報。村の地形。増殖し、さらに毒針を掌る鬼。稀血の娘。全てを賭して、あの鬼の頸を飛ばす。考えることを諦めなければ必ず、活路は見いだせる。

 暫くして、武仁は眼を開け、立ち上がった。まだぐらつく体を、壁に手を添えて支えた。

 

「どこに行くつもりだ」

「外へ。まだ、やるべきことがあります」

「あの娘にも小僧にも、小さな棘がいくつも刺さっていた。これは勘だが、あれは毒針ではないかと思う。もし毒なら、体を動かすということは、死を早めるようなものだ」

「何もしなければ、全員死ぬのでしょう。誰かが死んでいくのをただ見ているのは、私の生き方に反する。そして私も、こんなところで、死ぬつもりはない」

「狂っているな、お前。人助けのためなら、命でも捨てられる。そういう顔をしている」

「確かに」

 

 武仁は、小さく呟いた。

 もし狂っているのなら、いつからだろうか。人助けのために鬼殺隊に入った時か、上弦の壱に友を殺され独り生き残った時か、それでも尚立ち上がって鬼殺に身を投じた時か。この人助けの思いが間違っているのなら、最初から狂っていたのかもしれない。

 

「私のことなど、気に留めることはありませんよ、先生」

「当り前だ。患者でも何でもないのだから、お前の好きにしろ。だが、餞別代りにくれてやる、飲め」

 

 医者から、重湯のようなものが入った器を渡された。傾けると、むせ返りそうな苦味がまず舌に広がる。喉から胃に伝わり、そして全身が熱くなった。

 

「気付けだ。少しはましになるだろう」

「感謝します。村人や義勇を、頼みます」

 

 武仁は、医者に一礼した。扉の前に、後藤が立っていた。

 

「武仁。お前、ひとりで行くのか」

「本部に、伝令を送っておいてくれ、後藤。義勇の鎹烏がいるはずだ。数日もすれば、柱が来るだろう」

「あの娘が外に出ていくところを、俺たちは止められなかった。俺たちにも、何かさせてくれよ」

「君たちがいるだけで、これまで幾度も助けられてきた。今更、何を責めることがある。棘の攻撃を受けたのは、私の未熟さによるものだ」

「何でもいい。何か、手伝えることがあるはずだろ。もしこのまま、お前を行かせて死なれでもしたら、俺は自分が許せねえ」

 

 自分が許せない。後藤の言葉に含まれた感情が、武仁にはよくわかった。

 

「わかった。ひとつ、頼まれてくれるか。貸しや借りではない、1人の仲間として」

「ああ、任せろってんだ」

 

 後藤が、深く頷いた。ぶれていた視界がすっきりとしていることに、武仁は気づいた。

 

                       

 

 村のはずれの海際に、小屋がひとつ建てられている。

 そのすぐ傍に生えている木の上に、武仁は潜んでいた。唾をつけた指で、風向きを測った。さっきから変わらず、海の方から吹き続けている。

 

 棘鬼。あの鬼の事は、そう呼ぶことにした。斬ったところから再生して増えるという棘鬼は、再生と増殖を重ね、今や何体いるのか分からない。だが、本体は1体だけのはずだ。

 

 耳を澄ませた。小屋の中には、娘の止血のために使っていた布が山ほど置いてある。後藤が仕込んだもののひとつで、今は風下に向かって、稀血の匂いは流れている事になる。

 

 呼吸を深くした。

 気付け薬の効果が出始めたのか、今のところ、問題なく動くことはできている。だが、解毒薬ではないのだ。徐々に毒が回り、村人たちのように身動きできなくなるのも時間の問題だろう。

 動けなくなる前に、鬼の頸を飛ばす。そのための作戦は、立てていた。

 

 音。眼下に、鬼の姿が現れていた。2体いる。小屋を外側から窺うように、うろうろ動き回っている。稀血の匂いには抗いがたいのか、涎をぼたぼたと砂浜に垂らしていた。

 本体はいない。武仁はそう思った。離れたところか、全く違う手段でこの状況を見ている。それと分かるところにいれば、義勇が頸を飛ばしたはずだ。

 

 1体。小屋に近づいた瞬間、武仁は身を投げた。回転斬りの要領の抜き打ちで脳天から股まで斬り裂き、着地と同時に、腰から両断した。

 もう1体。向き直った時、呼吸は整えていた。

 

 

  全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り

 

 

 呼吸。同時に、日輪刀を横に振るう。軽い手応えで、もう1体の頸が宙に跳ね上がった。死骸は2つ、小屋の中へと蹴り込んだ。直後、小屋の中から破裂音が飛び出してくる。

 息はつかなかった。硬いもの同士が擦れる耳障りな音が、別の唸り声と入り混じって、聞こえていた。

 

 海に背を向け、村の方へと走り出した。左右に、あの鬼の気配がある。追ってきているのは4体ほどか。

 

 長くは走らなかった。空き家が一軒、すぐそこにある。持ち主がいないことは、隠の手で確認してあった。玄関の引き戸を蹴破り、屋内に転がり込んだ。

 奥で息を整えた。気付け薬が早くも切れつつあるのか。少しだけ、体がふらつき始めていた。

 壁にもたれ、藤の花の香が入った袋を鼻に押し付けた。理屈は分からないが、少しだけ調子が良くなったような気がする。

 

 壁が不意に、音を立てて、破られた。棘が生えた異形の姿が、月の逆光で浮かび上がっていた。やはり4体いる。

 香の袋を捨て、腰に手を回した。この中に本体がいるのか。少なくとも、分身はこれで全部だろう。

 

 棘鬼が一斉に飛び込んできた。武仁は身を低くしながら踏み出すと、腰の煙玉をひとつ掴み、足元に叩きつけた。むっとした匂いが鼻を衝く。宙にいた鬼が体勢を崩し、壁にぶち当たっていた。

 

 煙玉に、娘の稀血を吸わせておいたのである。煙玉の応用として考えてはいたが、実戦で使ったのは初めてだった。血の匂いの中で全集中の呼吸をするのは難儀な事である。だが、唐突に稀血の匂いに晒される鬼の方が、もっと苦しいものだろう。

 

 墜落してきた鬼の頸を、1体ずつ斬り落とした。2体の頸を飛ばし、もう1体に刃を振り下ろした時だった。離れたところにいたもう1体が身を起こすなり、家の外へと消えていく。

 

 他の鬼とは、明らかに違う動き。武仁は3体目に止めを刺すと、鬼を追って、外に飛び出した。

 棘鬼の姿。近くの民家に飛び移ろうとしていた。咄嗟に鉤爪付きの縄を飛ばし、足首の辺りに掛けた。引きつける。しかし不意に、体が平衡を失い、踏ん張りがきかなくなった。

 鬼の勢いに引かれ、引き倒されていた。だが、鬼も音を立てて落ちてきている。

 

 毒。時間切れ。その言葉が、頭の中を駆け回った。あと1歩、あと少しなのだ。本体かもしれない鬼が、すぐ目の前にいる。だが、体が動かなかった。

 

 強風が地を這うように、吹きつけてきた。顔に水が掛けられたような感覚にも似ていた。

 立て、武仁。師匠の声だった。聞こえたと思った瞬間、反射的に跳び起きた。日輪刀は、放していない。

 

 立ち上がろうとしている棘鬼に駆け寄ると、胴を踏みつけ、頸に日輪刀を振り下ろした。鬼殺隊で支給される靴の底なら、棘は貫通しない。

 

 頸が、斬れなかった。

 本体の頸の硬さは、分身体よりも増しているようだ。棘の隙間から覗いている眼が、醜く歪んでいる。まるで無駄な努力と、嘲笑うように。右腕を殴るように、突き出してくる。

 

 動き。見た瞬間、武仁は跳んでいた。腹に痛みが走る。浅く刺された、と思った。気にしなかった。跳躍と同時に回転し、その勢いで刀を振り下ろす。動きは身体が覚えている。今更、毒などで止められはしない。死んでも、止まりはしない。

 

 日輪刀が、棘鬼の頸に再び食い込んだ。斬れる。火花だけでなく、今度は、頸も飛んだ。

 

 着地したが、そのまま地面に手をついたまま、動けなかった。もしこれも分身で、骸が破裂したら、一身に棘を受けることになる。叱咤したが、まるで固まってしまったかのように、指一本動かせない。

 

 最期の攻撃は、こない。視線を上げた。震える視界の端で、棘鬼の頸も胴も燃え、灰のように崩れ始めている。

 あるのは、くぐもった唸り声のような断末魔だけだった。

 

                       

 

 呼吸。続けながら、勝った、と武仁は思った。それに、まだ生きている。毒は回っているだろうが、まだ死んではいないのだ。

 不意に、風と共に潮騒が耳に届いた。日輪刀を鞘に納めると、杖代わりにして立ち上がった。海の方へ行きたい。ふと、そう思った。

 

 海岸に出ると、流木に腰を下ろした。水平線の境が薄く見えている。あと何刻かで、夜が明けるだろう。

 武仁はがたがたと震える手で、懐から竹笛を取り出した。

 

 口につけ、眼を瞑ると、息を吹き込んだ。震えが、収まる。音が静かに流れ出てくる。師匠と過ごした最後の夜に吹いたものと、同じ音だった。

 笛を吹き続けていた。村人達は、義勇はどうなったのか。毒は寛解したのか。胡蝶しのぶはいつ到着するのか。吹きながら言葉がよぎり、消えていく。

 

「武仁」

 

 声。不意に聞き覚えのある声が聞こえてきて、武仁は眼を開いた。

 どれだけの時が経ったのか。夜は明けていて、陽光が眩しかった。しばらくして、狐の面が、まず眼に入ってきた。その端から覗く、宍色の髪も見えた。

 

「また、義勇を助けてくれた。友人として、礼を言う」

「錆兎。来てくれたのか」

 

 面が横に外された。久しぶりに再会した錆兎が、にこりと微笑んでいた。




 次話から、場所を移します。

 なんと本日で、投稿を開始して1年が経ったようです。
 ここまで執筆を続けられたのは、やはり読者の方々の存在があったからです。
 読んでくださった多くの方々に、感謝申し上げます。
 ゆっくりでも話を進めてまいりますので、また読んでいただけると幸いです。


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40話 彼らの道はひと時別れた

「立てるか?」

 

 武仁(たけひと)は頷き、腰かけていた流木に手をついた。僅かに体勢を変えただけである。それだけで、凝り固まった節々が、ばきばきと音を立てた。

 

 立ち上がる。血が、脳天から足元まで一気に落ちたような感覚が襲ってきたが、倒れはしなかった。更に踏み出すと、不意に、白い浜が眼の前一杯に広がった。砂の一粒一粒までも、見て取れそうになる。

 倒れている。そう思った。だが顔面を浜に突っ込む寸前で、錆兎に肩を支えられていた。

 

 日は高く、昼頃を指していた。棘鬼の頸を飛ばしてから、夜が明けたということなのか。更に、時が経っているような感じもする。喉の渇きが、ひどかった。

 

「何日、経った?」

「お前がこの村の鬼の頸を飛ばしたのは、昨日のことだろう」

 

 もう、そんなに。喉が張り付いたようになっていて、掠れた声しか出なかった。つまり、一昼夜は浜にいたということになる。

 分からないことは、いくつもあった。どうして錆兎がここにいるのか。本部へ応援要請を送ったのは一昨晩である。対応が早すぎる。

 

「なぜ君が、ここにいる」

「義勇の鴉の伝令を、途中で聞き出した。この村に来たのは、義勇や武仁が手負った程の鬼を、見過ごすことはできないと思ったからだ。その鬼は、武仁が狩ったようだが」

「蝶屋敷の人間は」

「花柱の一行の事なら、もう村についているだろう。俺は途中で追い抜いて、大した話はしていないから、詳しいところは知らない。到着してからは、この辺りに潜む鬼を始末していた。戻ってきたのも、ちょうど今しがたの事だ」

 

 遠くまで行き過ぎたらしい。そう言って、錆兎はにこりと笑った。

 鮮やかな宍色の髪や、亀甲柄の羽織は、狭霧山で出会った時と変わりない。しかし全身から発せられている気迫は、以前とは比べ物にならない程の強者のものだった。

 

 錆兎と並んで倉庫まで戻ると、様相が一変していた。

 倉の壁が根こそぎ剥がされ、隠達が動き回っている。中から、寝込んでいた村人たちが運び出され、陽光が当たるところに列になって寝かされている。既に体を起こしたり、声を上げている者もいた。

 

「武仁!」

 

 隠がひとり小走りで、こちらに走り寄ってくる。

 声でそれが、後藤だとわかった。

 

「無事だったんだな。心配させやがってよ。一日振りだぞ」

「心配をかけたが、君たちの助力があったから死ななかった。鬼の頸も斬れた。本当に、助かったぞ」

「なんの。それよりもお前、鬼殺の後、浜で笛を吹いてただろ。声を掛けようと思ったが、俺はできなかった。あの時、笛を吹くのをやめさせたら、お前がそのままどっかいっちまいそうな気がしてな。本当に、生きてて良かったぜ」

「笛は、吹きたいから吹いていただけだ。そうそう簡単に、死ぬつもりは無い」

「まあ、それもそうだよな。御影武仁が、死ぬはずがねえ」

 

 後藤は武仁の肩を叩き、駆け戻っていく。看病に回っている隠の中に、すぐに溶け込んだ。

 一昨晩、村人たちが放っていたのは、死の気配だった。何もしなければ、ただ死んでいくだけだったろう。しかし、棘鬼の頸を斬ったことで、血鬼術が寛解に向かっているのか。いま眼前に広がるのは、眩しいほどの生の気配である。

 

 慌ただしい人波の中、あの医者の姿があった。向こうも、こちらに気づいたらしい。

 面布を捲り上げた医者の口元が、にやりと笑っていた。武仁は軽く手を上げ、会釈で返した。

 

「すまない。水を飲みたいのだが」

 

 かすれた声で言うと、すぐに隠が器を持って飛んできた。並々と注がれている水を、一息で呷る。ほとんど1日振りの水である。飲めば飲んだだけ、力が戻ってくる気がした。

 気づけば、錆兎の助けを借りる事なく立ち上がり、3杯は立て続けに飲み干していた。

 

「旨いな。水が、旨い」

「ただの水ではないんですよ、それは。御影(みかげ)さん」

 

 背後から声をかけてきたのは、胡蝶しのぶだった。

 

「私が藤の花から抽出した粉末を溶いてある水で、血鬼術の治癒に効果があります」

「蝶屋敷が。いや、君が作ったものか。実に素晴らしいと思う。臥せっていた村人も、大勢救われている」

「私だけではありません。柱になった姉さんが蝶屋敷を作ってくれた。それに御影さんが、私たちを助けてくれた。私がひとりで成し遂げたものだとは、全く思っていません。それでも、褒めてもらえて嬉しいです」

 

 言い、頭を下げたしのぶの笑顔には、どこか自信が満ちていた。

 顔を合わせて話すのは、昨年の共同任務以来である。しかし、気まずさやぎこちなさは全くない。人となりは、互いによく分かっているからだ。

 

 体躯は今も細いが、刺突の速さは眼を見張るほどである。この腕にも、自分は命を救われたのだ。

 

「義勇は、どうなっている? 黒髪の隊士で冨岡義勇という。俺がこの村に来た時は、まだ眠ったままだと隠から聞いたが」

 

 錆兎が横から声をかけてきた。

 

「あの隊士の方は、冨岡さん、と言うのですね。あの人は、まだ目覚めていません」

「大丈夫なのか。薬は、飲ませていないのか?」

「意識のない人に、口からものを飲ませるのは、非常に危険です。薬を少しずつ、血管に直に流し込んで様子を見ています。貴方は、冨岡さんの友達ですか?」

「階級甲、錆兎だ。義勇とは同門になる」

「私は、胡蝶しのぶです。起きてこそいませんが、脈はしっかりしていますし、危険な状態という訳ではありません。言い換えれば、ただ眠っているだけとも言えますね」

「ならば、無理して起こすこともない、錆兎。義勇の事だから、無理を重ねてきたのではないかと思う」

 

 武仁が口を挟むと、しのぶが深く頷いた。

 

「相当、疲れていたのでしょう。今は休ませるべきです。蝶屋敷で治療を受けている隊士の方の多くもそうですが、休みなく戦えるほど、人の体は強くはありません」

「胡蝶しのぶ。花柱の妹か。鬼の頸が斬れないという」

「それが、何か?」

 

 しのぶの声が不意に硬くなる。

 半歩。反射的に身を出そうとした武仁だが、錆兎の視線で制された。その眼は真剣そのもので、悪意のような感じは、微塵も浮かべていなかった。

 

「気を悪くさせたのなら、謝罪する。そういう下らん噂は聞いていたが、俺は信じていなかった。己の眼で見なければ、その人となりなど、本当に分かりはしないものだからな」

 

 思わぬ言葉だったのか、しのぶが首を傾げている。

 錆兎が、横にずらしていた面を被った。手作りらしい狐の面である。所々が色褪せ、線状の傷が何本も走っていた。

 

「その医術の腕が本物だということは、俺のような男にもよく分かる。それに比べれば、鬼の頸が斬れないことなど何ほどのものか。噂など、気にする価値もない」

「つまり、信じてもらえた、ということで良いんですか?」

「ああ。義勇を頼む、胡蝶しのぶ。友達なんだ」

「はい、任せてください」

 

 身を回したしのぶが、不意に立ち止まり、武仁の方を向いた。

 

「一応言っておきますが、この後は御影さんも蝶屋敷に来てもらいますからね」

「私は見ての通りだ。何の問題もない」

「鬼の毒を受けて、しかも一昼夜は飲まず食わずの人間を、そのまま立ち去らせる人間がいると思っているんですか? あれこれ言うなら、今回は姉さんに言って、力づくで連れて行ってもらいますからね」

「諦めろ、武仁。流石のあんたも、胡蝶の前では形無しだな」

 

 錆兎が仮面の下で、笑い声をあげた。

 

「では、私はこれで。あと2刻程で出立する予定ですから、どこにも行かないでくださいね」

 

 言うと、今度こそしのぶは、小走りで立ち去った。しのぶを呼ぶ声が、さっきから何度も聞こえていた。

 

「俺はここまでだ、武仁。次の任務が届いている」

「もう行くのか。せめて義勇に、会っていけばいいものを」

 

 錆兎の顔が不意に横を向いた。返事はない。潮の騒ぐ音と、海鳥の鳴き声が、沈黙の間に流れ込んでくるだけだ。

 

「義勇は俺たちの事を、何か言っていたか?」

「何も。選別の後、錆兎にも鱗滝先生にも会っていない。それだけは教えてくれた。私が狭霧山を発った後に何があったのかも、何一つ語ろうとしない」

「大した話じゃない。武仁が去った後、俺と義勇は鱗滝先生の下で更に鍛錬を続け、藤襲山での最終選別に臨んだ。そこで、あの鬼に出会った」

「全身から手を生やした、異形の鬼か」

 

 兎の面が、軽く上下した。

 

「俺の仮面を見て、これを目印に、鱗滝先生の弟子を何人も食ってきたと言っていた。無論、腹は立ったし、奴自身も手強い鬼だったが、俺たちの敵ではなかった。何よりも義勇がいたから、俺は死ななかった」

 

 死ななかった。そこに、微妙な含みを感じたが、武仁は頷いただけで、口は挟まなかった。

 

「手の攻撃を掻い潜って、俺は奴の頸を飛ばそうとした。だが、斬れなかった。硬すぎて、刀が通らなかった。笑ってくれていい、武仁。岩を斬ったなどと浮かれていた俺が、本当に斬るべき鬼の頸は、岩よりもずっと硬かったんだからな」

「誰が笑うものか。あの日、言ったはずだ。刀が折れる事など、鬼殺隊士には当然に起こり得る。鬼の頸が硬くて斬れないことも、あって当然。私は今に至っても、この村を襲っていた鬼の頸を、一度では斬れなかった」

「それとて、生きて選別を抜けてこその言葉だろう。武仁、俺はな。本当は、最終選別で死ぬはずだったのだと思っている。もしあの時、義勇がいてくれなければ、俺は死んでいた」

「仮に、君の言う通りだったとして、君と義勇の2人が力をあわせて、生き残った。それが事実だ。そこに、何の不満がある。まるで君は、鬼の頸を斬れなかったことに、拘っているように聞こえる」

 

 口にしてから、この男ならば拘るだろう、と武仁は思った。

 頸を斬れなかった理由など、いくらでも付けられる。鬼との戦いで疲弊していた。刀の刃毀れ。異形の鬼の頸の硬さが、並外れたものだったのかもしれない。

 そういう理屈をどれだけ並べられようとも、自分ならば斬るべきだった。男として、あの鬼の頸を斬らなければならなかった。自分が知っている錆兎と言う男は、そう思ってしまう男だった。

 

「俺は、強くありたい。鱗滝先生の弟子として、義勇の友として、そして男として」

「男として強くありたい、か。君も変わらんな」

「俺が大した剣士ではないことは、俺自身がよく分かっている。義勇も多分、同じ思いだろう。だから俺と義勇は選別の後、道を別ったんだ。互いに、もっともっと、更に強くなるために」

「一時、道を違えようが、君たちの道はいつか再び交わるだろう。その時が、楽しみだ。もっともそれは、柱合会議の場かもしれんな」

「俺たちの道が再び交わる場所が柱なら、それでも構わない」

 

 それも、さほど遠いことではない、と武仁は思った。

 義勇も錆兎も、ともに階級は甲だという。甲の階級の者が、十二鬼月を滅殺するか、鬼を50体討つこと。それが、柱に就任するための条件である。今の錆兎と義勇ならば、そう難しいことではないだろう。

 

「それに義勇の心に火をつけたのは、武仁だ。何よりも、狭霧山での言葉が義勇を変えた。そして、強くなった義勇に、俺は助けられた」

「あの日の事は、私も忘れはしないさ」

 

 己の力を奮い起こせ。敵を殺す覚悟を持て。あの日、義勇へ向けた言葉は、今も覚えている。それに特別な意味があったと、武仁は思っていなかった。例えば、水柱である瀬良蛟だったら、もっと上手い方法で、それを自覚させただろう。他の方法が、自分では思いつかなかった。

 ただひとつ、はっきりしているのは、今の義勇は攻守自在にも見える見事な剣を遣っている、ということだけだ。

 

「少し、安心した」

「何がだ?」

「君達2人が、仲違いしたのではなかったのだな」

「埒もないことを。義勇は今も変わらず、俺の大切な友達だ」

 

 錆兎が、再び仮面を外した。白い歯を見せて笑った錆兎と、視線が交わった。

 共に並んで切磋琢磨するのではなく、己を孤独に追い込んで、鍛え上げる。義勇の掌も、錆兎の威風堂々とした気迫も、その中で培われてきたものなのだろう、と武仁は思った。

 

 不意に、羨ましさにも似たものが、武仁の胸にじわりとひろがった。同じ別離や孤独を経ても、自分はこの2人のような強さは得られていない。それは、克服するということもなく、ただ霧消していった。

 自分の目的は、この2人のような強さを得るのではなく、人助けをすることなのだ。それを見失うことは、決してない。

 

「事情は分かった。もはや、私からは何も言うまい。何か、言伝はあるか?」

「ない。何も、ない」

 

 錆兎が面を被り直し、身を翻した。

 亀甲柄の羽織の裾が、潮風で捲りあがる。隊服の背に刺繍された、黒地に白の滅の文字。それが、陽光よりも、日輪刀の刃よりも、眩しいもののように見えた。

 

「武運を祈る、錆兎」

「互いに。笛、良い音だったぞ。俺が声をかけるまで、吹き続けていた」

 

 言い、錆兎は振り返ることなく、軽快に駆け去った。

 

 武仁はひとり、看病されている村人たちを、端で眺めていた。自分が手助けできるようなことは見つからない。隠もそれなりの訓練を受けているのか、手際はいい。

 しばらくすると、隠を集める声が聞こえた。しのぶの声である。武仁は声がした方へ、足を向けた。今更、意地を貫いて立ち去ろうという気はなかった。

 

「あっ、御影さん。そろそろ、出発しますよ。私たちの、蝶屋敷へ」

 

 声をかけてきたしのぶに、武仁は頷いた。




 錆兎に再登場してもらったら、またまた筆が乗りすぎました。
 次こそ、場面が変わります。

【錆兎生存についての多少の考察】
 錆兎の生存を試みようと思って、いろいろ考えていた時の事です。
 プロットでは、鱗滝さんに手鬼の存在を教えて鍛えなおしてもらうだけで、済ませる予定だったのは、以前あとがきで書いたと思います。
 ただ、それで錆兎が選別で生き残れるのか、とも疑問に思いました。
 錆兎は多少鍛えなおされたところで、性格上同じことをしてしまうだろうし、そうなれば、手鬼戦もまた本編通りになるほうがむしろ自然ではないのかと。
 そうして自分なりに納得できる筋を考えたとき、冨岡さんの覚醒を期待する、という展開を思いつきました。
 ポテンシャルがあることは、それこそ本編の冨岡さんを見れば明白でしたので、この人を原作の選別時よりも少しでも強くさせて、錆兎とともに選別を戦わせることが、拙作の錆兎生存の肝でした。
 次話以降で描写しますが、冨岡さんが原作並みに口下手なのは、そこに理由を求めています。
 また読んでいただけると幸いです。


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41話 蝶屋敷

 お久しぶりです。
 またのんびりと投稿を開始します。


 蝶屋敷の庭に聳える1本の桜を、武仁(たけひと)は窓から見上げた。

 花弁がひらひら舞い、散っていく。陽光は枝葉の間を突き抜け、それを掻い潜るように、無数の蝶が飛び回っていた。

 必勝。初代花柱が、桜にそう名付けたのだという。果てない鬼殺の戦いへ賭けた、ささやかな願いだった。

 

「もう異常はなさそうです」

 

 診療室、と看板が掛けられた部屋の中である。胡蝶しのぶが、脈を取りながらそう言った。

 

「私は最初から、差し障りがあるとは思っていなかったが」

「血鬼術を受けた御影さんが、これからも戦える身体なのかどうか。それを見ていたんです。ご自分では気づいていないと思いますけど、相当の無茶を重ねていたんですよ。そもそも、身体を休ませていない、というところもありますし」

 

 蝶屋敷に来て3日経ったが、その間に口にできたものは、薬と重湯だけである。

 漁村での戦いで、棘鬼の毒を受けた。その循環を全集中の呼吸で遅らせ、気付け薬で正気を保たせて戦い続けたが、身体がかなり傷んでいたらしい。

 蝶屋敷で最初に受けた診察で、まず、立ち去ることを禁じられた。依然軽いめまいや、脈の狂いはあったが、それ自体は今までもあったことで、大して気にしていなかったが、胡蝶姉妹の剣幕は一切の抗弁を許さない程だった。

 

「確かに。それで私は、戦える体、ということで良いのか?」

「あと2日。それだけ我慢してください。稽古は、始めても構いませんが。食事も徐々に、普通のものに戻します」

「それは、良かった」

「御影さんは、機能回復訓練は必要なさそうですね。もしお暇なら、回復した隊士の稽古相手でも務めてもらえると有難いです。姉さんは殆ど屋敷にいませんし、私とアオイだけでは、そこまで手が回りませんから」

「見てみよう」

 

 この数日、鍛錬どころか刀を握ることも禁じられ、やっていたことと言えば笛を吹くことくらいだったのだ。身体を動かすには丁度いいだろう。

 

 しのぶに一言礼を言い、武仁は部屋を辞去した。宛がわれている部屋に戻り、まず隊服を着込む。帯革も締めたが、数ある暗器は日輪刀と共に取り上げられていて、ここにはない。

 蝶屋敷で治療を受けている者は、患者用の服を着ることが規則である。生地は柔らかく、ゆったりとしたもので、過ごしやすい。だが武仁はすぐに、隊服が懐かしくなった。寝心地の良い寝台も正直、体に合わなかったが、どれも我慢するしかなかった。

 

 隊服を着込むと、2度3度と体を左右に捻って伸ばす。診断通り、動きは悪くない。長い間、薄い衣のように纏わりついていた疲労が、すっかりなくなっている。

 

 母屋とは別の棟の道場まで、足を運んだ。

 数名の隊士が、機能回復訓練に当たっていた。寝たきりから復帰した隊士がほとんどで、柔軟や薬湯のかけ合いといった単純な動きから、鈍った身体の回復を図るものらしい。

 武仁の眼は、その隊士達ではなく、反対側で木刀を向け合っている隊士の方へ向いていた。

 

 隊士が2人。そのひとりは、冨岡義勇だった。もう1人の黒髪の若い隊士が、気勢を上げながら何度も斬りかかっている。そちらも、見覚えがあった。

 義勇は茫洋とした様で、ただ立っているだけのようにも見える。だが、なまじ闘気など放たずに対峙することが、どれだけ不気味な事なのか。義勇と立合っている隊士は、そこまで感じていないだろう。

 

 3度。次々と斬りつけた隊士が木刀を振り上げた。義勇が、木刀を横に傾ける。呼吸音が武仁の耳に届いた次の瞬間、隊士の体は激しい音とともに反対側の壁に叩きつけられていた。

 

「冨岡さん!」

 

 機能回復訓練に当たっていた隊士達が一斉に首を向けるよりも早く、アオイが甲高い声を上げ、義勇に詰め寄っていく。

 

「前から言ってるじゃないですか! ここは、隊士の方の治療所なんですよ? 訓練なのに、怪我させるようなことはしないでください!」

 

 義勇はばつの悪そうな表情で俯いている。そこに、吹き飛ばされた隊士が駆け寄ってきた。

 その顔が眼に入った時、村田という名前が、不意に脳裏に蘇った。何年か前に、鬼に突っ込んでいったのを引き留めたことがある。確か、義勇や錆兎と同期の隊士と言っていたはずだ。

 

「あの、そんなに冨岡を責めないでください、アオイさん。そもそも、立合いだって俺が言い出したことですし」

「関係ありません。冨岡さんも村田さんも、今は蝶屋敷の患者です。こんな乱暴なやり方を認めるわけにはいきません」

「患者だなんて大げさな。俺はちょっと手足を擦り剥いただけですよ」

「村田さんだけじゃありませんよ。冨岡さんだって、ようやく回復し始めたところなんです。確かに、機能回復訓練に参加しないことはカナエ様やしのぶ様がお認めになりましたけど、乱暴な稽古まで許したわけじゃありません!」

 

 義勇が眼を覚ましたのは、一昨日の事である。

 眼覚めたことに気づいたアオイがしのぶを呼びに行っている間に、早くも蝶屋敷を出ていこうとしたことで、酷くしのぶに怒られたようだ。周りで見ていた者たちには、無表情で内心が全く読めない義勇よりも、しのぶの方が遥かに恐ろしかったという。

 

「ここは、後は私が受け持とう、アオイ」

「御影さん」

「しのぶに許されている。稽古の手伝いくらいなら、やっても良いと」

「わかりました。でも、危険な稽古は絶対、駄目ですからね」

 

 しのぶと同年代のはずだが、大人びたところもある娘だった。両親を鬼に殺され、身寄りがなくなってしまったところを、カナエが引き取ったのだという。

 

「手厳しいな、義勇」

「俺は、こんなことをしている場合では」

「言うな。任務のため、傷ついた体を休めることも、隊士の務めだぞ。柱目前の隊士なら、殊更、大事にしなくてはな」

 

 口にしてから、カナエやしのぶに言われたような言葉を繰り返していることに気づき、武仁は内心で苦笑した。義勇は納得したのかしていないのか。何も言わず、道場の隅に移動していく。

 村田だけが残った。

 

「あのっ、久しぶりです、御影さん。俺です、村田です」

「覚えている。君も、生きていたか」

「なんとか。折角なんで、稽古をお願いしても良いですか?」

 

 村田は片腕に力こぶを作るような仕草をする。爽やかで、陰のない笑顔が、眩しかった。

 

「生き残れた分だけ、ちょっとは強くなれたかな」

 

 すべて、立ち会ってみればわかる。武仁は壁から木刀を一振り掴むと、中央で向かい合った。即座に村田が、先と変わらぬ気勢を上げ、斬りかかってくる。

 

 受け流すだけでも、技量はすぐに見えた。義勇や錆兎らと比べても、これといった凄味はない。動きは果敢だが、隙は見える。打ち倒すだけなら容易いが、それではアオイの逆鱗に触れるだろう。

 

 木刀。上段から勢いよく振り下ろされたが、武仁は僅かに体を下げることで躱した。切先が放った風が、頬を掠める。刀が空を切ったことに驚いたのか。村田の眼が、丸く見開かれている。

 胴を突くことも出来たが、腕を狙った。木刀を振るう。おや、と思った。刃が打ったのは腕ではなく、硬いものだった。

 

「あ、危なかったけど、何とか守れた」

 

 ほっとしたような声で、村田が言う。ぽたぽたと汗を滴らせつつ、木刀を横に構えていた。剣筋も何もない咄嗟の動きで、こちらの斬撃を防いだのだ。

 その後、何度もこちらから斬りつけたが、村田は悉く躱し、受けきってみせた。最後は村田の木刀を弾き飛ばして終わったが、それとて、急所への攻撃を防いだものだった。

 

「参りました。冨岡もそうだし、やっぱり御影さんも強いなぁ」

 

 剣術は、正直未熟である。全力での稽古なら、いくらでも弱点を教えられただろう。だが、致命傷を受けない立ち回りは、ある種の才能と言ってもいいかもしれない、と武仁は思った。

 一度義勇に打ち倒されているわりに、動きも悪くなかった。義勇の一撃も、反射的に受け止めていたのかもしれない。

 

「剣術に、全集中の呼吸。日々の鍛錬を怠らないことだ。日にできる事は僅かでも、長ければ、それだけ多くのものを積み重ねることができる。生きるとは、そういう事だと私は思う」

「はい。でも、苦手なんです、全集中の呼吸。俺は水の呼吸を使うんですけど、日輪刀の色も他の奴のより薄いですし」

「私の日輪刀は、色すらついていないぞ。私にできる事が、君に出来ない道理はない」

 

 武仁は村田の肩を叩き、身を翻した。これ以上掛ける言葉は無い、と思った。強くなれるかどうかは、結局は己次第でもある。

 

「君もやるか、義勇?」

「俺は本気の戦いがしたい。武仁とは」

「まるで、私が手を抜いている、と言いたいようにも聞こえるが」

 

 義勇の返事は無い。ただ、少しだけ眼元や口の端が硬く引き攣ったようにも見えた。

 逆に、言葉通りの意味かもしれない、と武仁は思った。その昔、狭霧山で散々に打ちのめした時のように、本気で相手をしてもらいたいということか。

 もし義勇が再戦を望むなら、その相手は必ず努めなければならないだろう、とも思った。

 

「いずれにせよ、今日は駄目だ。また後日」

「いつになる?」

「焦るな。私が、蝶屋敷を去る前には。私とて、君と同様、無茶な立ち回りは許されていない」

「そうか」

 

 ぽつりと零すように口にすると、義勇は道場に背を向けた。その背中に、何か言いたげな視線を村田が送っている。

 

「君達は、同期なのだろう」

「はい。でも俺なんかが」

「まるで口下手だが、素直な男のはずだ。どうでもいい人物と、立ち合いなどするはずがない。話があるなら、行ってやってくれ」

「わかりました」

 

 村田が小さく微笑むと、義勇の後を追って道場を出ていった。村田は幾らか気後れしているが、義勇は多分、同期であることを認めているだろう。

 

「何か、そっちで手伝えることがあるか?」

「いいえ。機能回復訓練の方は、私が担当していますので」

 

 真面目なアオイの返答だった。柔軟、薬湯の掛け合い、鬼ごっこと単純そうに見えて、隊士ひとりひとりの様子を見ながらやっているのだろう。

 門外漢が下手に手を出さない方が良いのかもしれない。

 

「庭で鍛錬している。何か用があれば、声をかけてくれていい」

「はい。御影さんも、無茶は厳禁ですからね。あと、できれば私の鍛錬にも付き合ってください」

「そうか。君も、鬼殺隊士を目指しているのだったな」

「はいっ」

 

 アオイのような子供ですら鬼殺を志していた。桜に必勝と名付けた初代花柱の頃から、鬼殺の戦いは何かが変わったのだろうか。

 考えたところで詮無いことだ、と武仁は思い直し、身を翻した。

 

                       

 

 陽が落ちた。武仁の姿は、蝶屋敷の屋根の上にあった。

 気が向いたら、笛を吹いて欲しい。しのぶにそう言われていた。笛の音が、蝶屋敷で治療を受けている隊士達に効果があるらしい。

 

 隊服の懐から、笛を取り出し、構えた。世話になっている義理もある。武仁に断る理由は無く、何度かこうして、夜になったら吹いていた。

 

 音。流れ出てきた。蝶屋敷内の喧騒が、不意にやんだ。低音から、徐々に高音へ。転調。再び、低い音。無心に吹き続けた。

 息が絶えると同時に、音が消えた。暫くの静けさの後、ぱらぱらと拍手が窓から送られてくる。

 すぐ背後からも、拍手が聞こえる。

 

「また良い音色を、聞かせてもらいましたね」

 

 胡蝶カナエだった。少し前から、気配で気づいてはいた。もっとも、気づかせるような気配の発し方ではあった。

 

「御影さんの笛の音は、やっぱり違うと思います」

「しのぶが言っていたが、こんなものが治療になるのか?」

「音楽は、聴く人の心を穏やかにしてくれます。ここでお預かりしている隊士の方の中には、鬼との戦いで、心を傷つけられた人もいます。中には、鬼と戦えないというだけで、気が立ってしまう方もいますから」

 

 カナエが、並んで腰かけてきた。

 武仁が蝶屋敷に来てからも、その姿をほとんど見ていない。そこに、柱というものの激務を生々しく感じた。それでも可能な限り、屋敷に帰ってきているという。

 

「私は自分の笛に、大きな意味は無いと思っている。息さえ吹き込めば、音は出る。笛とは、楽器とは、そういうものだ。君も、始めてみるといい」

「まあ、芸人の方が聞いたら、なんて思うかしら。こんなにいい音色を奏でるのに。嫉妬してしまうかも。私も昔、箏をやっていたから、少しくらいは分かります」

「劇団にいるような芸人の方が、遥かに上手い。私の笛が出しているのは、何の気も思いも篭もっていない、ただの音にすぎないと思うのだが」

「でも、その音が好きだって言う人が、沢山いるのも、本当のことですよ。御屋形様、悲鳴嶼さん、それに宇随さんもね。もちろん、私たちも」

 

 武仁は横を向いた。カナエが、くすくすと笑った。

 

 ふと、灯が入れられている周囲に、眼を送った。蝶屋敷は裏山も含めた敷地こそ広大だが、豪奢というわけではなかった。

 屋敷の殆どを療養所としての用途に充てていて、カナエらが生活する敷地は、むしろ狭いのではないかと思えた。尤も、女所帯の生活がどういうものなのかなど、旅だらけの半生を過してきた自分に、分かるはずもない。

 

 不意に、闇の中で何かが動いたように見えて、武仁は目を凝らした。蝶屋敷の塀の向こう側の森。それぞれ離れた場所で、2つ見えた。

 冨岡義勇。もうひとりは、胡蝶しのぶだった。どちらも木刀を持っている。すぐに、カナエも気づいたようだ。

 

 それを鍛錬と呼ぶには、あまりも対照的だった。

 義勇が木刀を振るう様は、武仁の眼でも、追うのが精いっぱいだった。舞うように義勇が動き、その間に水の呼吸の型を一から拾まで見事に放っている。流麗、と言うより他にない。

 逆にしのぶは木刀の素振りを繰り返していたが、すぐに力が尽きて、振るう手を止めていた。肩を落とすが、しばらくすると素振りを再開する、ということを繰り返していた。

 

 あまりの力量の差に、不意に武仁は切なさに似たものを感じた。

 義勇は血が滲む努力を積み重ねて、今に至るに違いなかった。だが同じように、どれだけ鍛えてもどうにもならないという者も、確実に存在する。

 

「柱になっても、思い通りにならないこともあるのですね。いえ、これは、当然分かっていたこと。悲鳴嶼さんに初めて会った時にも、言われていたのに」

「刀を握る理由は、人それぞれにある。それを止めることは誰にもできない、と言うことだろう」

「冨岡君はきっと、柱になるでしょう。同期の錆兎君と並んで、柱合会議でも名前が出てくるほどですから。でも誰しもが、冨岡君のようになれる訳ではありません。こうして並べて見てしまうと、しのぶを鬼殺隊に入れたのは間違いだったかもしれないって思ってしまうこともあります」

「しかし、彼女のための居場所を作った。そのありようは、私は素晴らしいと思う。ここは花屋敷ではなく、蝶屋敷。花柱ではなく、胡蝶姉妹達の居場所なのだからな。それに、鬼の頸を飛ばすことだけが、鬼殺ではない。傷を癒すこともまた、鬼殺の戦い。私は今回の任務で、身をもってそれを教わったと思う」

「御影さんは、人を助けることも鬼殺だと、思っているのですね」

「私は君や義勇のように、強くはなれなかったからな。だが、今日まで自分が生き残ってきた理由は、生きて人を助けるためだと思っている」

「本当に、御影さんは変わりない人。またお会いしましょう。あっ、あとしのぶ達をお願いしますね」

「そちらも、武運を祈る」

 

 柔和に微笑んだカナエが、軽い跳躍音を残して、屋根から飛び降りた。

 

 木刀を下ろした義勇が、動きを止めていた。しのぶがいる方に、首を向けている。直接見えるような距離でも、明るさでもない。だが、明らかにしのぶに気づいている様子だった。

 しばらくして、義勇は蝶屋敷へ向けて歩き出した。しのぶはまだ、鍛錬を続けている。

 

 歩いていた義勇が、不意に武仁の方を向いた。視線が交った瞬間、義勇の姿は闇に消えた。




 次こそは、次こそは今章の肝になるはず…


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42話 吐露

 時の流れが外とは違う。そんな気がした。

 そう思えるほど、蝶屋敷の生活は穏やかなものだった。日中は回復した一般隊士の鍛錬相手を務め、夜は寝たきりの隊士達のため、笛を吹く。勝手に屋敷を去らなければ、今はもう何をしようと自由なのだ。

 

 ただし、己の訓練は夜明け前や深夜に厳しいものを行った。

 木や石を縛った背負子を担いで、近くの山中を走る。どれだけ息を乱しても、全集中の呼吸は止めない。野放図に張り出した岩角や枝は、鬼の手足だと思った。

 

 頂についたら背負子は木に引っ掛け、担いできたものを、頭上から雨のように振らせる。それを、その辺で拾った枝で弾き飛ばす。

 木刀はそこそこ頑丈だが、朽ちた枝は触れた瞬間、衝撃を受け流すように振るう必要があった。

 木や石の雨を凌いだ後は、跳躍して斬りつけ、背負子を打ち壊す。それで、終わりだった。

 

 夜半に人が寝静まった蝶屋敷へ戻り、しばらく眠る。自分が夜中に出て行っていることに気づいているのは多分、義勇だけだろう。アオイが知れば、叱りつけてくるのは眼に見えていた。

 

 だが、厳しい鍛錬をする理由は生き残るためである。蝶屋敷での生活で最も気が楽なのは、鬼の気配を探りながら眠る必要がない事だった。抜かりなく藤の花の香が焚かれているし、近づくまでもなくカナエが滅殺してしまうのだ。

 どこかで厳しさを意識していなければ、気が緩む。それはそのまま、戦いでの死に繋がる。己ではなく、仲間や守るべき者が死ぬこともある。

 

「あなた一体、何が言いたいんですか?」

 

 敵意が肌を打った。声よりも一呼吸早く、武仁(たけひと)は眼を覚ました。反射的に日輪刀を帯革に差そうとしたが、左手は空を切った。武器は今も没収されている。

 

 身一つで飛び出した。玄関先で、しのぶと義勇が向かい合っている。

 しのぶが握っている木刀はぷるぷると震え、頬が首筋からうっすらと紅潮していた。対する義勇の表情は、冷ややかなものだった。

 

「私がやってることが無駄だって言いたいのなら、はっきりそう言ってください。でも、わざわざそんなことを言うために、早起きして声を掛けたんですか?」

「大声だ。他の者が起きるぞ、しのぶ」

「御影さん。冨岡さんが声を掛けてくれたんです。それじゃ駄目だ、ですって。でも、何が駄目なのかは、全然、教えてくれない」

 

 姉に比べて勝気ではあるが、しのぶがこれほど感情をむき出しにして声を上げるところは、見たことがなかった。義勇の何かがしのぶの怒りを買ったのは間違いないだろう。

 

「俺は」

「もっと、大きな声で喋れないんですか?」

「何か、誤解があると思う。見ての通りだ」

 

 ふん、と鼻を鳴らし、しのぶが横を向いた。頑なそうな横顔に浮かぶのは、生来の気の強さではなく、必死に自分を支えようとする、ある種の悲壮さにも見えた。

 一度、閉じられたしのぶの眼が、きっと横を向いた。

 

「冨岡さんから見ると、誰でも弱いと思えるのでしょう。柱になれるかもしれない冨岡さんには、私のような隊士の事なんか、まともに相手する必要はない、と思っているかもしれない。だけど」

 

 義勇が顔を俯かせる。

 明らかに間違った認識だが、義勇はそれを否定しようとしない。

 

「でも、今更。花柱の妹なのに、鬼の頸ひとつ切れない。はっきりとそう言われたことだって、一度や二度じゃない。それでも、諦める訳にはいかないじゃない」

 

 返事を求めてはいなかった。言い捨てるようにして、しのぶの後ろ姿は門を抜け、木々の間へと消えていった。

 追うように歩いていこうとした義勇の腕を、武仁は咄嗟に掴んだ。手に思わぬ力が籠る。

 

「話をしよう、義勇」

 

 声は無かった。ほんの少し、首を縦に振っただけだ。

 

                       

 

 道場で向かい合って座した。

 空気は冷えて、静かだった。義勇が湛えている気もまた、静謐である。刀を突きつけ合った立ち合いにも似ていた。

 

「話してくれないか」

 

 武仁から口を開いた。

 痺れを切らした訳ではない。冨岡義勇という男を、理解する。そのためには、この口下手な男と話をしなければならないのだ。意味もなく、しのぶを怒らせるような男であるはずがない。

 

「何があろうと、君を責める言葉は私にはない。鱗滝先生の下を離れてから、今日までのことを。いや、いままで君がどう生きてきたのか、私に話してくれないか」

「そんな話に、意味はない」

「そうか。では、私から話そう」

 

 義勇が、眼を見開いた。

 

「只の昔語りだ。聞きたくなければ、出て行って構わん。私を打ち倒してもいい。どちらも、君なら容易いことだろう」

 

 武仁は、口を開いた。

 師匠との人助けの旅、最終選別で出会った仲間達と唐突の離別、そして人助けのための戦い。大して語ることのないと思っていた半生が、いつの間にか語ることが多いものとなっている。

 

 口を動かしている間、武仁は義勇から眼を離さなかった。途中で義勇は立ち去るだろう、と思っていたが、座ったまま話を聞いていた。

 

「君は、自分は柱になどなる力はない、と言ったな」

「ああ」

「私が愚かで、間違っていたのだろうか。かつて君に、自分だけを守ろうとしているだけだ、と言った。今の君が、それほどまでに己を軽蔑するとは、思いもしなかった」

 

 自分自身、己を守ることに終始して生きてきたようなものだ。人助けなどと偉そうに言ったところで、義勇の剣は自分よりもずっと多くの人を助けてきたはずだ。

 

「違う。それは、違う」

 

 強い語気。初めて剥き出しになった、義勇の感情らしいものだった。

 

「錆兎は、君に救われたと言っていた。異形の鬼の頸を斬れず、殺されかかったところを、君が助けてくれたと。自分の剣は大したことない、とも言っていた」

「それも、違う。錆兎が、俺を助けてくれた」

「どういうことだ」

「最終選別での俺は、錆兎についていくので精一杯だった。最初に俺に襲い掛かってきた鬼も、異形の鬼の頸を刎ねたのも、錆兎だった。俺はずっと、鬼の攻撃を凌ぐことしかしていない」

 

 不意に饒舌になった義勇に驚きを感じつつ、ようやく分かった、と武仁は思った。

 手鬼を前にして、錆兎は頸を斬ろうとし、義勇は伸びて来る手を斬り払っていた。錆兎は頸を斬れなかった、とも言った。それは、致命的な隙である。あの異形の鬼なら一瞬の間に、文字通り搦手の2、3本は伸ばせただろう。

 その手すらも、義勇は払いのけたのだ。

 

「俺は」

 

 義勇が言葉を詰まらせた。

 

「狭霧山で武仁と立ち合った時と、何も変わっていない。俺は自分の命を守るのに必死なまま、錆兎の背中に守られたまま、鬼殺隊士になってしまった。俺はこんな様で、錆兎と一緒に選別を突破したとは思っていない。錆兎がいなければ、俺などとうに死んでいる。柱になど、なっていい人間ではない」

 

 錆兎は義勇にその命を助けられ、義勇は錆兎がいなければ隊士にすらなれなかったと思っている。だが、錆兎と義勇で藤襲山の鬼という鬼を滅殺し、かなりの数の志願者が生き残ったのだ。それは、村田からも聞いた話である。

 何もしていない訳ではない。ただ、錆兎と肩を並べたかった。そう思っているのか。

 

「強くありたいか、義勇」

「俺は、弱い。武仁の言った通りだった。そして弱ければ、ただ奪われる。そうならないために、俺は戦い続けるしかない」

「だから今日まで、独りで」

「武仁も、同じはず」

 

 瞬間、霞んで見えていた義勇の眼が、強い光を放った。

 

「狭霧山に来た時も、ここで自分を鍛えている時も、武仁はずっと独りだ。誰とも深く交わることなく、まともに人前に姿を出すのは、笛を吹くときだけだろう」

 

 武仁は息を呑んだ。義勇は無表情で、口下手なだけの男ではなかったのだ。この男は人の本質を、実によく見抜いている。

 

「確かに、君の言う通りかもしれない。私は確かに、独りだろう。だが本当の意味で独りきりだとは、思ってはいない」

 

 友がいる。宇随天元がそうだ。

 それに先に逝った者は、たとえ言葉は交わせずとも、覚えている限り心の中で生きている。ただ、そう信じている。

 

「君も同じだ。錆兎がいる。錆兎がいるからこそ、それだけの強さを得たのだと、私は思っている。君がどれだけの血反吐を吐いて自分を鍛えたのか、知る由もないが」

「それでも、足りない。俺はまだ、錆兎の足元にも及ばない」

 

 武仁は内心で苦笑した。その認識だけは、絶対に変わらないようだ。だが、その精神のまま己を鍛えていくだろう。

 

「ひとつ、聞かせてくれ。今の君の眼に、胡蝶しのぶはどう映る」

「あれでは、駄目だ」

 

 義勇は対して考えるような仕草もなく即答した。そして、その理由を説明する様子はない。恐らくしのぶにも、こんな調子で声を掛けたのだろう、と武仁は思った。

 己を鍛える間、人を遠ざけすぎた。強くなると同時に、口下手になったという事だ。

 

「それは、能無しという意味ではないのだな? 大事なところだ。しのぶは、君に侮辱されたと本気で思っているだろう」

 

 即座に、義勇が首を横に振った。そんなつもりは無かった、と仕草が物語っている。

 問いかけたが、返答に確信はあった。

 

 冨岡義勇という男を多少は理解できた、と武仁は思っていた。その義勇がしのぶの力量を、駄目だ、などと無駄な言葉で否定するとは、どうしても思えなかった。

 その言葉を引き出せれば、少なくとも誤解は解ける。武仁が口を開く前に、勢いよく道場の扉が開いた。

 

「あっ、ここにいたんですね」

 

 割烹着姿のアオイが、頬を膨らませて仁王立ちしている。

 

「早く食べないと、朝ご飯片付けてしまいますから!」

「すまない」

 

 立ち上がりつつ、戸の外を見る。日がかなり高く昇っている。

 義勇との会話にかなりの時間をかけていたことに、武仁は初めて気付いた。




 冨岡さんが動かない


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