Lostbelt No.5+『残滓異聞海域ブルースフィア』 ー青杯の想いー (ユーホー腐れ男子)
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絶望のほとり

 その物語の始まりは終わりからでした。

 

 行き止まりの人類史。続かなかったもの続きもの――異聞帯。

 

 なれば、更にその続きと言えば何なのでしょう。

 切除され、終わらされたその続きを更に続かせることができたのだとしたら。

 

 これは蘇生の物語にして、最初から終わっている物語。

 

 燃やされた彼の物語の灰を墨として、続きを無理矢理綴らせた二束三文な紙芝居。

 

 燃え尽きはしなかった。枝は焼け焦げ、幹は二つに裂けようとも空想(それ)は終わることを許されなかったのです。

 

 それは彼も此れも同じように――

 

 

 

 

 

 

 

 ギリシャ異聞帯。

 

 それは汎人類史よりも圧倒的に秀でた、神によって統治される至高の楽園。誰もが幸福を享受出来ていた具現化した理想郷。

 

 全ては美しく、麗しく、秀でていた。

 

 これ以上に理想が現実化した世界があっただろうか?

 いや、そも他の世界など想像しても見はしないのだから比べようもないが、比べずともこのギリシャに勝るほど素晴らしい世界を誰も想像することはできないだろう。

 

 大神ゼウスとその盟友キリシュタリア・ヴォ―ダイムはその()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 偉業だ。偉大すぎてただの矮小な僕たちには意味を把握することは叶わない。

 風の噂で聴いた程度のことでしかなかったけれども、それをギリシャの一臣民として喜び、誇らしく思っていた。

 

 僕は下界に降りたことはない。追放海アトランティスも見たことはない。オリンピア=ドドーナ以外を直接見たこともない。

 ただそれでも――いつか見たオリンピア・ドドーナからの世界は僕の記録にはない最高の景色だったと断言できる。

 

 だから、あのオリュンポスが、アトランティスが、ギリシャ異聞帯が破壊されるのは間違っていたはずだ。遠い下界より、微かにでも感じられた幾億の人間たちの幸せが壊されるべき理由がどこにあっただろうか?

 

 人理保障継続機関カルデア。

 

 ギリシャを、ゼウス様とキリシュタリア様を殺した汎人類史の獣。

 ギリシャも含め五つの世界を破壊した悪魔。

 

 どんな奴らなのか、ドドーナにいたというのに僕には知ることがなかった。

 それはどれだけ願っても仕方のないこと。

 だって、僕はゼウス様にネクタールを捧げるだけの給仕係。

 戦士には適さないと神が選ばれたのだから、僕は僕の役目をきちんと果たすことが最優先であった。

 

 だから、僕にはカルデアからこの世界を守る機会さえも……王女様、エウロペ様ですら勇猛にターロスと共に戦っていたとお聞きしたけど、僕は僕でしかなかった。

 

 戦うことを許されなかったことを嘆くのは筋違いだ。

 ただ自分の身を、戦士には満たないこの貧相な体を嫌悪した。

 

 

 

 

 

 僕は結局。

 ギリシャが終わるその刹那まで何もできなかった。

 

 ディオスクロイ様でもない僕が、剣を振るわず戦士を指揮することはできないのだから、予定運命に従ったまでだと言えばそうなのかもしれない。ギリシャの運命を左右できるほどこの細腕に力はない。

 

 でも、もし、これはあり得なかった運命だろうけど。

 

 僕ならゼウス様を倒してしまうような奴らにどう立ち向かっていたのだろうか?

 剣を取るなんて真似はできなかっただろう、卓について必死に懇願しただろうか。大神の膝下に置かれたという称号を捨ててまでも、罪深くも僕はやれる限りの懇意をカルデアにしましていたはずだな。

 けれど、やっぱりそれはあり得ないことで、一臣民のくだらない、出来の悪い空想だった。

 

 

 奇跡を願ったわけじゃない。空想を抱いただけなんだ。

 叶わなくてよかったんだ。

 

 

 けれど、終わる直前。

 空想樹が燃え上がり、アトラス様ごと斬られた時。

 

 燃え上がり今にも死に絶えるアトラスの世界樹、ゼウス様に霊子を抜かれては生きるリソースもないのは分かっていた。

 それを見て僕は初めて自分で決断した。

 我らが神は失墜してしてしまったのだから、僕はある意味本当の自由を得た。守りたいものを守る自由を。

 

 僕は役割を放棄し、蒼瓶に手をかけて、天高く自分の名を告げた。

 

 宝具、真名解放。

 

 ――汝、清酒を注がれし青杯(ネクタール・アクエリウス)

 

 流るるは銀河の如く。輝くは星霜の如く。

 

 その時気づいた。僕はそう、神霊という奴だったらしい。記憶にかけられた暗天幕が剥げて、テッサリアの星空のように全てが明滅に輝きを放った。そう、僕が何者でどうしてゼウス様のおそばにおいていただけていたのかも。

 

 最後の最後に気づくとは。何とも不甲斐ない。

 僕は給仕係としての自分を捨て、思い出した本当の自分としてこのギリシャを守ろうと確信した。この絶命ギリギリ、終わってしまいそうな物語の最後のページを絶対に開かせてはなるものか、と。

 

 神に臨まれて神霊へと至った僕だからこそ、この時のために生き残っていたのかもしれない。僕はこのギリシャの神話を再興するために、永遠と続く神の国、神の港を守るためにいたのだ。

 

 晩鐘の鳴り響く世界で、僕の宝具から顕現した銀河の如きエーテル=ネクタールは空想樹なる存在と大気中に散らばったゼウス様の残骸を回収した。

 クリロノミアのような小さなパーツはともかく、ゼウス様であった巨大な破片はカオス神によって吸い取られてしまい、奪還は叶わなかったのは残念でならない。

 

 リソースとしてのゼウス・クリロノミアと空想樹の遺骸を注がれた僕はそれだけでも霊器の中身が満ちてしまいそうだった。大神の血なぞ注がれたこともなければ、剰え空想の楔を入れられたこともなかったのだ。体はたちまちにヒビ割れが生じていき、自分の内から何かがこぼれ出してしまいそうな恐怖がやってきた。けれども、僕は壊れない。壊れなかったのは僕が器という面で意味を持った神霊であったからだろう。

 

 ただゼウス様の一部、空想樹を持ってしてもこの世界の復活はなせない。固定帯としての役割をなくしてしまっているのだから、滅びてしまう。

 

 デメテル様……アフロディーテ様……彼方のマキアで召されてしまった十二の神々よ、どうぞ……僕の全てを捧げます。だから、ギリシャを、もう一度ここに……!

 

 その時、不快な声がこだました。

 

「ンンンン、あなたのその内にあるのは――空想樹・マゼランッ! いけませんねぇ、持ち逃げなどとは。拙僧ですら、堅実に手ずから育てているというのに……ですが、まぁ、そのような抜け殻ではどうともできませんでしょうとも。だから、ギリシャは終わったのです」

 

 そこに現れたのは――アルターエゴ・リンボ。

 否。術を斬られた本体は逃亡した。それ以上の身代わりももう使えぬ。ならばそれは、アルターエゴという特殊クラスであったがこそできた荒業。霊基を削り、作った分身ならぬ分体。生活続命などではなく、それなるはアルターエゴ・リンボの本体でもある分け御霊であった。

 

「ギリシャ是にて閉幕。ルチフェロなりしサタンさまが降り立つのには丁度いい異聞帯でありました。妨害もありましたが何、些末な事ゆえ。数刻もせずにカルデアを滅ぼしましょう」

 

 

 ギリシャは――終わってない。

 

 

「――おやぁ? これは大変滑稽なことを申されますなぁ。空想樹の根がなき異聞帯はすぐに剥がれ落ちる。寸暇もなく消え去るのは自明の理でしょう」

 

 

 それでも、ギリシャは終わってない。

 

 

「面白い! あなたが足掻くというのならば、拙僧がお手伝いいたしましょう。ンフッ、ンフフフフフフッ! 是なるは外つ国の黒き呪なりて、あなたを手助けする祝福――急急如律令!」

 

 足元がぐらりと揺れたかと思えば、奈落のように黒い孔へと変わってしまっていた。

 

「地獄界曼荼羅、もしその準備で興が乗れば、あなたをまたお呼び出しするかもしれませぬ。その日まで、あるいは永劫を、虚数の海でお過ごしください……ンンンンンッ!!」

 

 僕は沈んでいった。

 あの異性の使徒に掛けられた謎の呪いによって、不可視の海、虚数空間に落とされた。そこは時間が止まり、実数物体を融解させる別次元。

 

 あぁ……溶け合っていく――あぁ……絶えていく。

 

 ギリシャの滅ぶその瞬間にも立ち会えず、僕は僕としての霊基を溶かしてしまった。

 

 ドロドロに溶け合った一つの神霊として、僕は虚数の中で長く保管されることとなる。

 

 

 

 

 



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或る日明くる日

 

 

 ――ン

 

 ―――ンン

 

 ――――ンンンンンンッ!

 

 

 あぁ、拙僧としたことがあの時ギリシャ異聞帯に残して活動させていた分体・チェルノボーグの所業を今の今まで忘れておりました。あの時は確か、そう。クリプター・スカンジナビア・ペペロンチーノにしてやられ、一旦は我が身を引いた時のことでした。あれ以上カルデアともギリシャの神々と戯れるつもりも有りはしませんでしたが、我が主、異星の神がギリシャ異聞帯で顕現するのは予想がついておりました。ブリテン異聞帯の空想樹はとうに使い物にならず、南米異聞帯にはグランドクラスがいましたから。最上の成長と魔力の結実による空想樹の開花、運命にあるかな。

 

 異星の使徒としての記録を保持しつつ、芦屋道満としてつい紙一重にわが物顔で跋扈しておりましたが、これは密やかな窮地ではありませんかな? 

 

 ギリシャ異聞帯。その残留物。

 あの空想樹・マゼランを受容した神霊を虚数の海にて幽閉したままにしていたばかりに、こんな予期せぬ誤算を孕むとは。

 虚数空間の性質とあの神霊の神性を加味すれば、拙僧の急急如律令の呪は残留してるでしょう。

 その上で空想樹の反応が検知されれば、間違いなく拙僧は退去を命じられる。

 

 それは――

 それ、は――

 

 大いによろしくないッ!

 

 虚数潜航なる技術。虚数空間で活動を可能とするサーヴァント。

 もしあの虚数と実数の同時証明、即ちペーパームーンからなる実数から虚数への観測によって()()の存在が露見したのだとしたら……

 

 ぐぬ、ぬぬぬ。

 

 ――万が一、ではなく百が一くらいには可能性があるでしょう。けれどもこればかりはどうしようもなく。あの女狐めのように単独顕現を拙僧も所有していれば、多少の霊基破損をしてでも虚数空間にて漂い続けるアレを破壊するというのに……もどかしいッ!

 

 祈るしか、ありませんな。

 

 

 祈る、しか……

 

 

 ――祈るしかない、とな。この蘆屋道満が?

 ――羅刹王・髑髏烏帽子蘆屋道満へと登り着いた拙僧が?

 

 ………。

 

 いえ、いえいえ。

 

 そもそも枯れ木同然のアレと残留物にいったい何ができると言いましょう? どうせ浮上したところで空想樹を正しく扱えるわけもせぬ凡百の小神霊如き一体に拙僧が蹴躓くわけもなし。

 虚数の藻屑と成り果てて、暗黒にでも朽ちてるが関の山。憂う必要などなく、これ杞憂というもの。

 

「……フ」

 

「フ? なーにー、今なんかよくないこと考えてた?」

 

 物思いに耽っていたらば、いつの間にか色鮮やか髪色が視界の下端にチラチラと。

 えぇ、この物言い、生前を超越したこの伊達衣装。心当たりなぞついぞなかったはずなのに、彼女はそう、お会いしたこともある清少納言でした。

 

「清少納言殿。今のはただの思い出し笑いにて、何事もありはしませんぞ」

 

「えぇー? じゃあ、なーにを思い出したのか、言いなよー」

 

「ふふ、まぁまぁ」

 

「あー、今ごまかしたっしょ! 言えないってんなら、その無駄に目立つ服を芋みたいに剥いちゃうかんね!」

 

 彼女のかけた黒いサングラスの奥からでも分かります。

 この物言いは本気。

 

「またでございますか!? お、おやめなされ……おやめなされ……!」

 

 こうして戯れていますが、清少納言殿は拙僧の監視をしにきたのでしょう。平安京の人間、しかも内裏にいた人間ならば澄ました顔の下それこそ碁盤の如き思惑を埋めておるのです。

 

 しかし、清少納言殿だけではないようですね。

 

 感ぜられるのはかつて縁ありし忍び二体。

 

 まぁ、完全に拙僧を補足し続けてるのはそれだけだとしても、日本由来のサーヴァント……特には平安時代に縁ある者に似たほどの警戒を張られてしまってる。

 

 ふむ。

 やはり、拙僧が動くのは不可能。

 

 アルターエゴのクラス霊基と我がうちに宿し神霊或いは怨霊をば削り、英霊級の式神でも――

 

「まぁ、まぁ、一体何のお戯れでしょう?」

 

「ふふーん! これはドーマン剥きって言ってねー、ってアレ?」

 

 いつの間に、いたのか……?

 

「こんにちは。つい楽しそうな戯れを見てしまい、お声をかけてしまいました」

 

 尼僧のような格好に、聖人のような気配。

 しかしてその内々の核は拙僧と似て非なる獣の香り漂わせる。

 

 あなや。これなるは月の関係者にして拙僧と同じアルターエゴクラスに収まる殺生院キアラ殿。実のところ拙僧以外にもマスターや他のサーヴァントが危険視しているサーヴァントは少なくはないですが、この尼僧はそれも別格の魔性菩薩でありましょう。あの月下夢想のBBが危険視し、彼女のアルターエゴ達も歯牙を剥き出しにして、唸るほどでございます。

 

「えーっと、キアラっち? あれ、でもいつも水着を着ていたような……? 衣替え?」

 

「えぇ、そのようなもので少しだけ違いますわ、清少納言様。わたくし元はしがない尼僧でしたので、この姿こそ本来のもなのです。今は諸事情で元に似た姿を取らせていただいております」

 

 そう言って殺生院殿は微笑むと、二本の魔羅角を錯覚のように一瞬だけ表出させたように見せた。

 

 ンンンンン、わざわざ獣の瘴気を拙僧だけに嗅がせるとはそういう意味があるのですね? 殺生院殿は拙僧の生命線を握ったつもりでいらっしゃる。或いは拙僧に探りを入れている。なればこそ、それを利用させていただくとしましょうか――具体的な策は思いつきませんがな!

 

「なるほどね! キアラっちはっちゃける前はこんな感じだったんだー! 根は変わってないけど見せ方が変わった、って感じする! メイク変えた、みたいな?」

 

「うふふ。今も昔もわたくしはわたくし、ということなのでしょうね。この殺生院、衆生無辺誓願度の誓いは、えぇ、きっといつまでも」

 

 天女の微笑みを宿す方でありますが、拙僧は月にてあった在れ也此れ也を知ったわけではあらずとも、虚数事象へと果てて消えたビーストⅢのことをおぼろげながら知っております。これもまた拙僧がビーストに至ろうとしたことの思わぬ副作用でありましょうか。

 

 人類悪、ビーストなるクラスは元より異星の神が狙っていた大器であります故、それだけでなく拙僧もそうなろうと尽力した身。

 

 一つ目はゲーティア、二つ目はティアマト神、そして三つ目はこの女と愛の神カーマが押さえていた。

 そのくらいは存じております、存じております。

 

 敗れた獣としての記録は剪定され、カルデアにおいてそれを察知できる者は少ないことでしょう。本人ですら獣としての力は残滓でしかない。

 それでもなお、獣として拙僧の前に現れた意味とは何ぞ?

 

「殺生院キアラ……なるほど。ンン、殺生院殿もしや拙僧に御用がありますかな?」

 

「蘆屋道満様への用は申しつけられてはおりませんわ。個人的にはございますけれど……」

 

「なんなりと。この蘆屋道満、このように今日はすこぶる調子が良く、飼い主に腹を見せる犬のよう! ならぬ、猫のように! 貴女様の要望に応えましょうぞォ?」

 

「まぁ、うれしい。芦屋道満様といえば平安京でも屈指の陰陽師だったとか、わたくしも日本の出でございましたから、お噂はかねがね……ですので、安倍晴明様はどれほどすごい陰陽師だったのか、あなた様の口から語っていただけませんでしょうか? ほら、芦屋道満最大のライバルなのでしたよね?」

 

「晴明……ッ! 貴様ッ!」

 

「あぁ~だめだめ! キアラっち! 道満にその話NGだから! どうどうどうどう~ドーマン!」

 

「それは大変失礼しました。知らず知らず地雷を踏み抜いてしまうとは……ソワカソワカ、許してくださいましね、道満様?」

 

 この腐れ尼僧いと悪しき……!

 我もろともこの女、切り裂き、屠り、霊子すら残さず粉々に粉砕してやりたいッ!

 

 いずれ特大のしっぺ返しをお見舞いしてやりましょうかな!?

 

「そうそう――あなたの蒔いた種、私が介入するまでもありませんが、そろそろ時節となりましょう。身の振り方にはお気をつけあそばせ」

 

 そう意味深長に言葉を吐いて、蝶のように軽やかに廊下の奥へと消える殺生院。その口元が下ぞりの三日月のようであったのは言うまでもないでしょう。

 

 やはり! 拙僧が何をしたのかをこの獣は知っている!

 まさか、単独顕現を持ってしてその秘を暴こうというのか!

 

 ンンンンン……!

 

「……獣というのは、本当にたちが悪い。はぁ、そしてこれで思っていたことが的中していたと裏付けられてしまったというのも、なんとやるせないことでしょうッ」

 

 あらゆるところに設置されていた赤ランプが活性化し、一斉に廊下も食堂も警告色の赤色に染まり上がる。

 

『管制室より緊急アナウンス! 新たな異聞帯反応あり! 藤丸くん至急管制室まで来て下さい!』

 

「なんかヤバい感じ? こういういきなりなのってイベント系だってあたしちゃん思ってたけど、これはそんなんじゃないよね」

 

「えぇ、でしょう。何せ特異点ではなく、異聞帯なのですから。此度は拙僧の法力が役立ちそうなこともなくはないですが、同行するのはまた別の方でしょう。大人しくマスターを陰から応援するのが吉と見ました」

 

「ふぅ〜ん。まぁ、でも! マスターなは呼ばれたら吉でも凶でも一緒に行きなよ! 絶対いとエモしだからさ!」

 

 清少納言殿は赤に染まる廊下の中を堂々と鼻歌交じりに進んでいく。その後ろ姿に不安も、迷いもなく、だから恨めしく憎らしいものだった。

 しかし、その言い分に拙僧は、はたと、気付かされました。

 

「いと、エモし……? ――いや、そうか、そうでございますな! ンン、ンンンンン! 清少納言殿のおっしゃる通りでございます。この道満、マスターにこの身全てを捧げたただの使い魔! サーヴァント! なればこそどのような吉凶流転があろうとも付き従うのみ! 全てはマスターの望むがままに!」

 

「おう! その調子でーい!」

 

 ンンンンン!

 カルデア。この数奇な縁の寄り合わさった絶景を呼ぶならば、云うべきことは一つのみ。

 

 いとえもし!

 

 



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管制室より

 

 管制室にはすでにダ・ヴィンチちゃん、ホームズ、所長、キャプテン・ネモがいた。

 シオンはまだマシュのオルテナウスの調整から手が離せないらしく、分割思考による画面参加となっている。

 俺は駆け足気味に入室し、緊張しながら状況を聞いた。

 

「来てくれて早々だけど、早速本題に入るね。新たな異聞帯、いや、復刻された異聞帯について」

 

 ダ・ヴィンチちゃんが言い直した復刻という言葉に俺は首を傾げた。

 

「復刻……? それはまたイベントみたいな?」

 

『残念ながらそうじゃないみたいなのですよねー。恒例の楽しいイベント! 素材うまうま! っていうのとは格段に違います。簡潔に言いますと、大西洋異聞帯と同様の反応が現れました』

 

 ――ッ!

 

 新生アルゴノーツを以てして踏破したアトランティス、機神たちの権能を越えたカオスすら彼女の空で塞ぎ斬ったオリュンポス。

 かつて滅ぼしてしまったどの異聞帯よりも強固で、幻想的で、誰もが理想としていたからこそ人が人足りえなかった完成された異聞帯。

 

 鼓動が早まり、瞳孔が開く熱い感覚に苛まれる。

 

「大西洋異聞帯……ギリシャ異聞帯。クリプターのリーダー、キリシュタリア・ヴォーダイムと壮絶で熾烈な戦いの末に消滅したはずではなかったのかね?」

 

「うん。異聞帯の消滅は確認したし、あの時空想樹はベリル・ガットの手によって空想樹から空想樹への引火によって焼却された、はずだったんだけど――」

 

「迂闊だったということだね。我々はあの時、ゼウス、カオス、そしてビーストⅦこと異性の神という大敵と連続で会敵してしまったがために空想樹のことを視野から外してしまっていた。ミスディレクションというやつさ」

 

 あの異聞帯は良くも悪くもスケールが大きかった――ほとんどの場合悪い意味でではあったけどね――ゼウスやカオス、それにコヤンスカヤのことを抜きにしてもデメテル、アフロディーテだっていた。

 だから、俺たちの目は空想樹を伐採するという目的がうやむやになっていたのかもしれない。あの時最後に燃えていった空想樹が本当に死滅したのか、確認を怠ってしまった。

 それが今回の異聞帯反応に関わりがあると言われると心を縛る鎖のようなものがより強く引き締められた。

 

「空想樹・マゼランはゼウスによるリソースの吸い上げ、他の空想樹による引火によってその時点で死滅しているはずだったんだ」

 

 ダ・ヴィンチちゃんの言葉に続けて、ホームズが言う。

 

「けれどその時に何者かが空想樹を守った。枝の一欠片か、幹か、根かの燃えていない部分、恐らく五割にも満たないそれを匿い、密かに転用していた」

 

「空想樹の維持・成長には地球規模の莫大なリソースが必要となる。けど、異聞帯の固定という役割だけに特化した場合は格段に魔力消費が抑えられ、聖杯一つでも運用が理論上は可能になるんだ。特異点が維持されるのと同じ理論だよ。――つまり、瀕死の空想樹だからこそ、何者かに利用されてしまった」

 

「まさか、アルターエゴ・リンボのように空想樹を使って異聞帯を作ったとでも!?」

 

「リンボは異星の神の使徒だったからサンプルにはし難いけど、恐らくはそうだと思う。けど、あの時点で瀕死だった空想樹を活かし、保存し、尚且つ異聞帯を展開できるほどの術を持つものじゃないと不可能なんだよねー、神霊級だよこれ」

 

 困ったようなダ・ヴィンチちゃんの言葉に今度はシオンが続ける。

 

『となるとおかしいんですよね。ギリシャ異聞帯は神々こそ居ましたが、全員我々で討ち滅ぼしました。それに彼らにはそんな回りくどいやり方をする必要なんてないはず。もちろん、村正やラス・プーチンが異聞帯を保持しておく動機も素振りもありませんでしたし……』

 

「我々の確認していなかった神霊がいた、というのもある。空想樹を生かし続けるだけの魔力を持った巨大魔力炉のような神霊が」

 

 魔力炉――ギリシャ随一の魔女メディアの工房ですら、そんな魔力を生み出すなんて芸当はできない。

 彼女の魔術は霊脈から魔力を引き出し、集積させることによって魔力の貯蔵を行っている。

 あの異聞帯は高濃度の魔力とエーテルに満ちていたらしいけど、もしや空想樹を持ち去った犯人もオリュンポスの魔力結晶山脈のように魔力を貯めていたのだろうか?

 

「そ、そんなサーヴァントがいたら真っ先に我々と戦っていたはずだろう!」

 

「そうですね。ヘラを内包していた神姫エウロペですら我々と戦っていた。戦う役目を与えられていた。ならば犯人はよっぽど戦闘に向かない、或いはアトラスのように別の役割があり、姿を見せるわけにはいかなかったのでしょう」

 

 戦闘に向かないギリシャ神話の神は多い。

 

 ノウム・カルデアに存在する図書館でギリシャ神話に関する魔術的な解説書があったので一度読んでみたが、炉の神はヘファイストス以外にもヘスティアという女神がおり、彼女は極力表舞台には出てこなかったそうだ。温厚でオリュンポス十二神の座すらもとある神に開け渡してしまったとも。

 

 魔力炉ということであれば、彼女もまた相応しい神格である――しかし、彼女はあの異聞帯で人類に次代を託そうとそうとして、散ってしまっていた。

 

『私はとりあえずギリシャにゆかりのある神霊や半神半人の中から凡そ大量の魔力を持ち、空想樹を保存することができそうな逸話、性質を持つ方をリストアップしておきます!』

 

 そう言って分割思考によるサーチをかけるためか、画面からシオンの顔が逸れる。

 

「これ以上は憶測の域をでないし、一旦空想樹を隠し持っていた人物の話はシオンに任せて、発生した異聞帯についての情報を話そうか」

 

 仕切り直す。

 

「太平洋海底……座標にして、ポイント・ネモ。スペースクラフト・セメタリーなんても呼ばれる場所だね」

 

「ポイント・ネモって……キャプテンと何か関係あるの?」

 

 傍らにいたネモに是非を問う。

 海底二万マイルは子供のころに読んだことはあったが、それでもそんな名称が出てきた覚えはない。

 無論、忘れてしまっているだけなのかもしれないけど。

 

「うーん、太平洋ってことくらい以外あまり関係ないよ。孤独な場所ってことでポイント・ネモなんだろう? 僕も太平洋の孤島でノーチラスと一緒に最期を過ごしたから」

 

 そうか。

 彼のキャプテン・ネモの話には続編があるとは風の噂を耳にしていたが、ネモがどのような最期を迎えたのかを知ることのできる作品だったのか。

 

 きっと、いつか、読んでみたい。今じゃない、遠いいつか。

 

 ここでシオンが作業をしながら、画面にフレームインしてくる。

 

『んで、私たちはそのポイント・ネモに向かわなければならないわけなんですけど、ハッキリ言って普通は無理ですね』

 

「無理ィ!? いやいや、シオンくん! 我々はいつもその無理を押し通してどうにかこうにかしてきたじゃないか! それをあっさりと、君ィ!?」

 

 まぁ、無理を押し通すのがカルデアでしょう? とゴルドルフ新所長の焦りっぷりを軽く冗談めかして笑った後、その顔を真剣なものに戻した。

 

『ポイント・ネモは白紙化以前から人間の到達できない場所として位置付けられていました。太平洋に概念として存在する一点。あらゆる島々から現代科学ですらも人を乗せての到達・帰還は難しい。いわば、人が観測はできても、到達できない神域なんです。あの時計塔の天体科曰く、魔力は神代級を保ち、しかも未知の幻想種が存在する可能性すらあると言わしめたんですよ』

 

「つまり、あの場所は人類が到達できない場所としての概念が強すぎる、ということか。虚数潜航でも無理なのかい?」

 

『寧ろそれに賭けるほかないかと』

 

 プラスの海においての距離がどれだけ離れていようとも、概念的に到達不可能だったとしても、マイナスの海に潜行すれば、その制約からは解き放たれる。

 

『それもキャプテンの宝具とアトランティスで改造したストームボーダーあってこそで、更には相手がギリシャ異聞帯の空想樹を使って異なる人理を築いたからこそ、できる荒技なのです。無理中の無理、我々はその中にある細い縁を辿っていくしかありません』

 

『ちなみに失敗すると、ポイント・ネモの結界の中に閉じ込められると思います。そうなると、虚数潜航でも脱出不可能! 一生太平洋直上で過ごすことになります! 控えめに言って死よりも恐ろしい事態ですね!』

 

 恐ろしいことを軽く笑顔で言うシオンに所長の顔がみるみる青く染まっていく。

 

「ハァァァ……! し、しかし! ふふっ、その程度ならばもう慣れたぞ! 行くのが大変ってだけならもう怖くはない! ゼウス神による雷霆はもう降り注がないのだし!」

 

「おぉ、その息だよゴルドルフ所長! まぁ、そこでちょっとした情報なんだけど、今回の異聞帯は平安京の時と同じくらい特殊なんだよね」

 

「というと?」

 

 ホームズが眉を潜めて反応する。

 

「今回の異聞帯……いや、ギリシャ異聞帯の残り香、『異聞残域』。仮称を『残滓異聞海域ブルースフィア』は未知の青色の外殻に包まれてるんだよね。その代わりいつものストームは消えてるんだけど。それから神霊を――

 

 そこまで言いかけたところで、扉から職員・ムニエルが肩で息をしながら入ってきた。

 その様子に皆呆気にとられて黙る。

 数秒、ムニエルは呼吸を整えると、振り絞った最後の力で大声で言った。

 

「ダ・ヴィンチ技術顧問! 緊急報告です! カルデアに現界していたサーヴァント八騎が姿を消しました!」

 

 衝撃が管制室に走る。

 目くばせをするように皆が一斉に顔を見合わせる。

 

 サーヴァントが、いなくなった……!?

 

「な、なんだって!? 誰がいなくなったか分かるかい!?」

 

「確認されたのはイアソン、キングプロテア、カーマ、イシュタル、刑部姫、ケツァルコアトル、パールヴァティー、ニトクリスの八名です!」

 

「このタイミング、異聞帯反応検知後すぐってことは!」

 

 これも異聞帯――ダ・ヴィンチちゃんの言った異聞残域による影響。

 特異点にカルデアのサーヴァントが逆召喚されたことはあっても、異聞帯に引っ張られたことはなかった。

 

 やはり、今までの情報通り残滓異聞海域は今までの異聞帯とは違う。

 異聞帯としての機能が欠けている代わりに、汎人類史におのずから干渉できる力があるんだ。

 防衛機構としてのストームはなくとも、ポイント・ネモの概念が人類に簡単にはたどり着かせないように守っている。

 大西洋から太平洋にどのようにして渡ったのかは分からないが、それでも太平洋に異聞残域を展開する利点はあったということだ。

 

「分かった! こちらで今解析をかける! シオンは『ブルースフィア』に何か動きがないか観測してくれ!」

 

『了解! 仮称の由来となってもいる異聞残域を覆ってる青い外殻による干渉遮断が強いッ! でも、他の異聞帯と違って、完全に遮断されてるわけじゃない、ならば!』

 

 シオンの十指が一斉にキーボードを疾走する。

 三面観音のように次々と並列接続されたパソコン画面を見合わせて、ブルースフィアの内部情報をどうにかして探ろうとしている。

 

「イアソン、を除けば全員神性持ち……八騎というのが気がかりだが、なるほどこれは……」

 

 ホームズは推理モードに入ったのか、ぽつりとつぶやきながら管制室を出て行ってしまった。

 

「どうやって干渉したのかは不明だけど、これ以上待っていたら、どんどんサーヴァントを奪われるかもしれない! 大奥の時のようになったらそれこそ終わりだ! 『残滓異聞海域ブルースフィア』の攻略には一刻の猶予もない。事態は深刻だ、今から間に合うかな、シオン!」

 

 十指を指揮しているはずのシオンだったが、分割思考を使ってか、それとも素のスペックの高さでか、ダ・ヴィンチちゃんの言葉に苦し紛れの笑顔を浮かべながら答える。

 

『今色々と分割思考をフル回転させていますが、行けます! ゼロセイルを使えばきっとあの青い外殻も突破できますし、空想樹がまだ完全に回復しきってない今がチャンスかも? てなわけで、早急にノーチラス号へ!』

 

 新所長はあぁは啖呵を切っていたが、まだ心構えをちゃんとできていなかったらしく、行きたくないとわめいている。しかし、すぐにキャプテンにずるずると引きずられて行ってしまった。

 

「矢継ぎ早ですまないけど、神性持ちのサーヴァント六騎に、ギリシャにゆかりあるアルゴー号の船長イアソンが消えたとなれば、これはかなりの異常事態だ。フィニス・カルデアの磁場による守りと彷徨海のあり方はにて非なるものだけど、それに干渉されたとなると、まだ見ぬビーストがいる可能性だって視野に入れていいくらいだ」

 

 ビースト。災厄の獣。

 ゲーティアのことが思い起こされる。

 

 強すぎる人類愛ゆえに人類悪。それはリンボのときのことでより鮮明に証明された。

 彼らの共通のクラススキル。それがあれば、カルデアからの逆召喚も可能なのかもしれない。

 

「ビースト……単独顕現だっけ」

 

「そう、彼らは時間場所問わず存在できるし、カーマのようにこちらから召喚を促してくることもある。カーマの時はゴルドルフくんが操られてたというのもあるけど、今回はだからこそ怖い。誰一人としてこちらからサーヴァントを送っていないのに、八騎も強制召喚された」

 

「手強そう……でも、負けないよ。またここに戻ってくる、みんなの為にも」

 

「うん。ちょっと気負いすぎだけど、それも君のいいところだね。藤丸くん」

 

 ダ・ヴィンチちゃんはそういって少しだけ寂しそうに、けれど優しく微笑みかけてくれた。

 俺は応えるように、その手を引いてノーチラス号のある整備場に向かった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ストームボーダー内を駆けまわる軽い足音。

 無数に響き渡り、指揮するキャプテンにも熱が回っている。

 オルテナウスの点検を途中で終えてきたマシュも合流した。

 

「遅れてすみません、マシュ・キリエライト準備万端です!」

 

 緊急時で整備中だったために体調のことを心配している節があったが、この調子であれば大丈夫のようだ。

 と、背後でネモシリーズの指揮と返答が幾度ともなく聞こえてくる。

 

「トリトンエンジンの準備はいい?」

 

「バッチリ温まってんぜ、キャプテン!」

 

「船内設備のロック完了したよー!」

 

「分かった。電算室、ゼロセイルに向けた各解析はどうなってる?」

 

『ほぼほぼ完了してます~』

 

 全ての持ち場のチェックが終わり、キャプテンはより一層その声を鋭くして最終宣言を発した。

 

「よろしい。これよりゼロセイルに入る! 船員はシートベルトを締めて!」

 

 カチャリカチャリ、と横並びの座席から順調に締められる音が立つ。

 そんな中最後まで難色を示す者がいた。

 

「くぅぅぅ、いつになっても虚数空間に入るとなると酔って仕方がない。誰か酔い止めを持っていないか! ラザニア―!」

 

「ムニエルです! そして持ってませーん」

 

 渋々シートベルトを装着した所長は意を決したようにその両目を強く瞑り、うぅっ、と小さく唸った。

 

「目標・太平洋異聞帯――否、異聞残域。残滓異聞海域ブルースフィアに設定」

 

 ドラムロールの如く回転していたペーパームーンの回転が止まり、座標が確定される。

 

『ストームボーダー、現実退去(ザイルカット)。虚数潜行――ゼロセイル、敢行する!』

 

 虚数へ向けての発進。

 概念防壁が展開され、すぐにマイナスへと船体は落ちていった。

 どこか重力が存在するようには思えない世界への侵入。それとともに全身を液体に浸されるようなぬるい感覚に浸された。

 心臓を優しく撫でられるような恐怖と理由のない安心感が麻酔のように全身に回っていく。

 

 次に新たな景色を見るときは、それは新たなる敵――残滓異聞海域・ブルースフィアに辿り着いた時である。

 

 

 

 



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青と黒。その旅路

 

 太平洋異聞残域――ブルースフィア。

 

 異聞帯と呼ぶには決定的に必要な要素が欠けた海底の神域。

 異聞帯という名称を使わなかったのはそういう意味では正しかったのかもしれない。ニュアンスは随分と違うが。

 

 

 ブルースフィアの由縁ともなる青き外殻のその一枚下には世界が広がっている。

 ギリシャに似た世界。

 しかし、そこは太平洋でもある。大西洋に存在したかもしれない可能性が――アトランティスならば、それが太平洋でもおこりえる可能性が、物語があっても何ら不思議ではない。

 

 その大陸、その真名を――ムー或いは■■■■という。

 

 しかし、此度は外なる神の干渉はない。

 いつか見た、誰かが夢見た虚数の夢から目覚めたのだから。

 

 なので■■■■という海底都市の可能性は排斥された。

 それは多少なりとも、救いになっただろう。

 向日葵の画家は偶然にもこの未来がより荒むことを防いだのだった。

 

 

 太平洋に存在し、いつの間にやら沈没していた大陸。

 そう人々が夢想した可能性の塊こそ異聞残域の要石。

 

 

 もちろん、ポイント・ネモの人類には到達できないという天然の概念防御も要ではあるが、さしてこの異聞残域にとっては気休めでしかない。どうせ本命は虚数の海から侵入してくるんだ。プラスの防壁の役目なんていうのはルートの絞り込みで十分。このブルースフィア内には既に人理がない。なぜならば、既にここは異聞帯としては選定されていると言って過言ではないからだ。いわば、異聞帯の表面だけを張り付けた固有結界に近しい。

 

 問題は新しきゼウスがこの星に誕生するのを、抑止力はきっと良しとはしない。異聞帯であれば別だが、此度ここは異聞帯の一部の情報を張りぼてながら張り付けただけの世界。まだ中身が伴わないゆえに、人類史の最後の抵抗を食らいやすい。

 だが、それは逆手に取りやすいものでもあった。霊脈が管理されているオリュンポス内部ではいくら抑止力がずるい手を以て召喚できても、維持はできない。だからこそ、それを逆手にとってカルデアのサーヴァントのみを許すようにした。

 この異聞残域はこの星にとって毒だ。大方星はセファールのときのことでも思い出しているのだろう。

 

 僕の力は戦闘向きではないけれども、あのギャラハッドの盾のようにサーヴァントを召喚するだけの能力はある。杯の神霊なれば、あのカルデアの真似事ぐらい十分に、十全にこなせるとも。

 神に再臨していただくには工程と材料が必要だ、そのために奴らを寵愛する神霊の力を持ったサーヴァントを使うのだ。

 

 

 

 カルデアは来る。

 カルデアと異星の神。

 どちらも警戒することに越したことはない――

 

 

 

 山頂の神殿――オリンピア=ドドーナ。

 大きく開けた中央議会。そこには三体のサーヴァント。

 

 黒のアベンジャー、青のライダー、そして――英霊イアソン。

 

 イアソンに関しては正常な状態ではない。その前身は紫色のヒビが幾つも雷のように刻まれており、加えてその全身を霊薬ネクタールが覆っている。彼はわざわざカルデアから強制逆霊子召喚されたサーヴァントの一体だった。

 

「我らの敵はカルデアだ。だが、その排除は今や通過点でしかない。カルデアしか汎人類史の様々な神々の縁を持つのはカルデア以外にはおらん。我らが行う儀式に必要不可欠なのは奴らで、我らが真に敵対するのは異星の神なのだ」

 

 アベンジャーは他所から取り寄せたアジア風の絨毯の上で、胡坐をかきながら幼い姿の青のライダーに忠告する。

 逆に青のライダーは主神ゼウスのいた席の隣に立っていた。

 

 座ればいい、とアベンジャーが言ったこともあったが、どうしてもその場所から離れがたいのだとか。

 アベンジャーからしてみれば、一切理解できない行為であったが、それもまた子供故かと適当に流していた。

 

「了解していることだ。僕もその儀式を完成させるために呼ばれた一騎にすぎないのだから。カルデアは憎いが、それ以上に異星の神などと獣の霊基を持って、世界を超越しようとするアレの方が気にくわない。ゼウス神の猿真似でしかないではないか……」

 

 青のライダーはそう言って、主神の席を悲しげに見つめる。

 

 彼が見つめるのはそこに居たはずの主神。ゼウス。

 遠い昔のことのように、青い瞳に映るその幻想は風化しつつ、滞留し続けているのだ。

 

 神霊たるアベンジャーとしてみれば、なんとも哀れなことか、と黙しながら言わざる終えなかった。

 

「汝らが主神ゼウス――この度の戦いで、我も決めねばならぬことができそうだ。いずれ、ギリシャより昇陽する世界の中に組み入れてもらうか、或いはこのまま朽ちるべきか」

 

 入れ替わり立ち替わり。

 この自分はきっとこの場で朽ちるだろう。

 

 さて、それでいい。

 平安京で喫した敗北。撃ち込まれる刹那の前に、膨張したハイ・サーヴァント霊器の一部を使って、いつぞやの魔人柱の如く逃げ出したこの身。

 

 虚数の海で奴と再邂逅し、再鋳造されたこの身ではどれだけ青杯からの魔力供給があろうともいずれひび割れた器のように破裂するだろう。だが、その前に奴らを焼き尽くし滅ぼさなくては気が済まない。新たな霊基を拝領し、最早自身の神話体系を捨て去って、新たなギリシャの黄金時代の一柱になろうか。

 

「……そう、君が計画通りに動くのなら、君は儀式の生贄になるかもしれないだろう。だから、アヴェンジャー。確認だけど、君は神として返り咲ければいいのかい?」

 

「神としての復権が我が願いよ。そのために元来の威信を捨てて、新たなる神として人々に救いを与えるのもいいだろう。悪神、冥界神としての地位なぞ、最早灰となったのだから。――青杯との契約は済ませている。この我は必ず死ぬ、その後のことはその後の我に任せる」

 

「そう。僕は君の事情をよく知らないけど、仇なさないのならそれで良いよ。好きにして。僕もカルデアを抹殺することには賛成だしね……でも、本当に成功するの? ()()()()()()だなんて」

 

「ことさえうまく運べばな。カルデアから呼んだサーヴァントはほぼほぼ我が術とお前の霊基干渉でこちらの世界に馴染ませた。一騎だけその術を掻い潜った者がいるのは懸念すべきかもしれんが、概ね順調。後は儀式を遂行させろ」

 

「うん……イアソンの完成を急ぐよ」

 

 振り返り、件のイアソンの苦悶に満ちた顔を見つめる青のライダー。

 

 純粋にして残酷。ギリシャの神の典型のように我が思うままに人の処遇を決める。いくらイアソンが様々な神の寵愛に恵まれたからといえども、ここでは青のライダーの思うがままだった。

 神とはそういうものである。特に青のライダーの無垢なる少年性の中に内包された性格からしてこのような凄惨がなされるのは必至のことであっただろう。

 

「ヒハハハッ! お前は本当に趣味が悪いぞ?」

 

 アベンジャーは笑う。

 イアソン、しかしてライダーのサーヴァントと呼ぶにはあまりにもアベンジャーの前身であるリンボのようなツギハギな霊器だったのだ。

 

 彼の者の霊器の中身は混沌。

 おぞましい蠱毒の坩堝である。

 

「臨時とはいえ、僕はギリシャの代表なんだ。ギリシャのサーヴァントを使うべきなのは当たり前だろう?」

 

「とはいえ、とはいえだぞ? まさか、一つの霊基に数体の英霊を押し込むとは、聖杯ありきのむごたらしい所業よなぁ」

 

「異聞帯の願いは人類史から排斥されないこと、僕の願いは神話時代の復権。異なるギリシャを思うが、僕は神代ギリシャの復権を望む。それゆえに僕はこの身を大罪に賭すのだ。ならば、どんなルール違反を犯してでも勝つとも。一度罪過に呑まれしからには……」

 

 末恐ろしい覚悟とでもいうのだろうか。アヴェンジャーからしてみれば戦う能がないと宣うこのライダーも十分に戦士に足りえる。どころか、英霊としての側面を強く押されたこのサーヴァントには神霊としての精神があまりない。ゆえにそこに高潔さはなく、戦士ではないはずなのに護国の戦士よりも惨たらしい所業を成す。

 

 遥か昔に天に抱え込まれ、自らの役割を得てなお、天の切先となれなかったことを悔いるせいか。

 

 悔みとはかくも生前の自分とはかけ離れたものにしてしまう。と、アヴェンジャーは自分の言えた義理ではないなと感じながら思った。彼らはベクトルや性格は違えど悔恨を根に持つところが、あり方として似ていたのだ。

 

「子供らしい狂気と愚かさ、お前は我を飽きさせんな。霊基を好きなように歪められるサーヴァントの中でもそれに特化したお前だからこそ許される所業、存分にその権能と凶暴を振るうといい」

 

 ニタニタと笑ってあぐらの姿勢をさらに崩して、絨毯の上に寝転がるアベンジャー。その視線だけはずっと青のライダーと囚われたイアソンの方に向け続け、早く壊れるところを見たがっていた。

 

 あれはギリシャの切り札だ。

 ヘラクレス、アキレウス、ペルセウス。

 英雄すら凌ぐ大英雄。その凄まじさは時に神すら恐怖させ、凌駕した。

 

 だが、それは純正たる英雄譚であればそうだ。

 生前であっても彼らの強さを凌げるサーヴァントは少なかっただろう。

 だが、法外な手を使えばその限りではない。

 

 市井の民に聖剣を使えば、兵隊に宝具を使えば、英雄に神造兵器を使えば――つまり、過剰な強さをぶつければ塵一つすらなく殺せることもあるだろう。(アトランティスで示された例があるので確実とは言えないが)

 

 だが、正にイアソンはここでいう過剰な強さを持つ兵器に換装させられつつあった。

 ゆっくりと、戦艦を建造するようにゆっくりと。

 

「イアソン……僕の時代より少し未来の人よ、あなたに剣は似つかわしくない。乗るべき船にその身を任せ、多くの英霊とともにあなたは海の大波を退け、馳せた。幾多の困難を、仲間と神々の力を受けた伝説を今ここに示すがいい。ギリシャの海の上、霊基を戴冠し、我らがギリシャに勝利を齎せ! ――汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に!」

 

 エーテル=ネクタールの中のイアソン。

 奪われようとする真名をイアソンとする英霊は彼の呼び声に応えて、目を見開いた。

 だが、何もかも遅かったのだ。

 

 注がれてしまったからにはもう、満たされるほかあるまい。

 

 そして、すぐに彼を見ては怒りと絶望と恐怖が混ぜ込まれた顔をして、必死に液中で慟哭する。

 

「ご……ろぜ……も、ごろぜッ! ……グァァァアッ!!」

 

 全身の紫のひび割れがより光だし、イアソンは変生していく。

 セイバーのクラス霊器などは粉々に砕かれ、霊体となる。

 

 霊核だけが霧散せずにその液中に残り、新たな霊器を再構築させていく。

 

「死にはしない、殺されはしない。あなたの霊基は無限に壊れながら、治っている。その苦痛がどんなものかなど想像はしたくないけど……早く狂ってしまいなさい、イアソン。いえ、複合神霊■■■■■■」

 

 粉々になった体がつなぎ合わされていき、元の姿からまた別の霊器になった姿が少しずつ現界する。

 全身を造り替えられ、縫い合わされるその想像を絶する霊器凌辱はインド異聞帯でのアシュヴァッターマンの受けたそれを超えるだろう。

 

 恐怖。絶望。苦痛。恥辱。快楽。苦悶。堕落。忘我。蒙昧。憤怒。狂気。

 

 イアソンは変わる。

 

 理性など、思い残すことも消し潰された。

 

 カルデアのイアソンは消えた。

 

 そこにいるのはテセウスの船如く全てを入れ替えられたイアソンを引き継いだだけの何者か。

 

 ライダー。

 

 エーテルの水槽を爆発させ、その濡れた五体を地に伏せる。

 

 そして、生まれたての赤子のように、その身に宿る絶望を咆哮した。

 

「あぁ……ァァァァアアーーーー!!」

 

 

 

 

 

 



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黒き流星一条

高校時代に描き始め、矛盾を指摘されてそのまま放置してたこのFGO二次創作ですが、久々にやり直したいと思ってまた書き始めました。
描写力や設定、至らぬところあると思いますが、どうぞよろしくお願いします。


 ――何時間。何年。

 ――今回のゼロセイルはいつもより長い気がする。

 

 ――いや、これは長いより重い、か。

 

 ――レムレムのやつに近い気がする。

 

 ――あぁでももうすぐトンネルを抜けていくみたいだ。

 

 

 

 

   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 

 

 

 異聞深度_None   ロストデブリ

 

 

      青杯の想い

 

 

 AD.2019  残滓異聞海域 ブルースフィア

 

 

   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 

 

 

 全身が重い。

 けれどすぐに虚数要素は除外されて、安定化が促されていく。

 沼の底から引きずり出されているみたいだ。

 

 駄目だ、いつの間にか寝てた。

 異聞帯に赴いているのに気が抜けているぞ、俺。

 

「異聞残域――ダ・ヴィンチ、君はそう呼んだね」

 

『あー待って待って、まだ船内を安定化できてないんだ。タイミングってのを――ううん、君に言わせてみればこのタイミングしかないのかな』

 

「そう、到着してからでは遅いのだよ。今がベストタイミングではないが、異聞残域について皆と知識と認識のすり合わせをしておきたい」

 

『うーん、そうだね。今回は特異点とも異聞帯とも違う異称を付けるくらいには特殊な事例だったから、緊急で動き出したんだ。その旨はまず皆にもわかってもらいたい』

 

『今回の異聞残域はギリシャ異聞帯の残滓を含有している――主要構成要素として空想樹マゼランが挙げられるけれど、それだけならまだ特異点規模で収まるはずだった。異聞帯としての空想樹を育てる機能は最早消失しているからね』

 

『率直に言ってもっとも異常なのは――ブルースフィアはギリシャ異聞帯の続き物なんだよ。それもギリシャ異聞帯の消滅が確定した時の状態で、人理を必要とせず、ただ空想樹に『異聞帯の固定』だけをさせている。役割が逆転しているんだよ』

 

「は、はぁ――それってつまり誰も彼もがいなくなった街だけが残り続けてるってことかね? まるで、ジオラマみたいに……」

 

『そうだね。ジオラマ、IFの世界設定だけが永遠に続いている、まるで奈落に落ちているかのようだ。ゼウスやデメテル、ヘファイストスにディオスクロイ、マカリオスとアデーレ、彼らの戦いも正義もその跡だけが残されて、本人たちは消失してしまっている。星間都市山脈、その全土一千万人規模の生命反応もなし……ここは人理すらなくなった異聞残域だ』

 

「ゆえに異聞残域……なるほど」

 

 人理の消えた異聞帯――異聞残域。

 確かにこれには大掛かりな謎がある。

 ホームズは外套の胸ポケットにしまっていたキセルに指を当てながら、深く頷いて推理を始める。

 

 大きく分けてこの事件の謎は三つに分けられるだろう。

 

 フーダニット?

 ホワイダニット?

 ハウダニット?

 

 WHO――これは絞れつつはあるが、如何せん決め手に欠けることも多い。

 WHY――これは今のところ当てようがない。ただギリシャ異聞帯を残滓だけでも残そうとしているところがこの謎を解くとっかかりにはなるだろう。それは同時にフーダニットを解くカギにもなるかもしれない。

 HOW――空想樹を『保存』したのか或いは『継続』したのか。いずれにせよ、この異聞残域を仕立て上げた黒幕はそういう規格外のストレージを持っているように思われる。

 

 三つが三つともに影響を与えている分謎がヒントとして機能している。もし一つでも解くことができたならこれらは互いに共鳴しあいその正体を白日の下に晒すだろう。名探偵の手助けも相まって。

 

 

 と、ホームズが思索を巡らせているその時だった。

 

「こちらキャプテン・ネモ。ブルースフィア内部に突入した。ブルースフィア内部はあのオリュンポスそのものだ。ダ・ヴィンチが言ったみたいに『残域』って呼ぶにふさわしいね――って! 急速に接近してくる魔力を感知!」

 

「や、やはり残党がいるじゃないかね――! しかし! すごいぞ僕らのストーム・ボーダーはあのゼウスの大雷霆すら躱した高性能マシーン! 今回も華麗に避けられるんだよね?」

 

『飛翔体の解析結果:神霊級のサーヴァントと判明! でも、属性も神話体系も緊急じゃ暴けなかった! 恐らくはアサシンクラスの持つ気配遮断、情報抹消のようなスキルを持っているみたい! 外部魔力障壁に魔力を回してみる!』

 

 外部から迫る飛翔体。

 黒きヴェールに覆われた暗黒の流星のようなソレは敵意を持って、報復心を持って、天翔けるストームボーダーを自ら撃ち抜こうとしていた。

 

 それはあの黒のアヴェンジャーそのもの。

 サーヴァントの攻撃や宝具ではなく、己が手であの白銀の戦艦を真っ二つに轟沈させてやらねば、霊基のうちでくすぶる大熱海の如き復讐心が収まらない

 

 ストーム・ボーダー内部ではネモ、ダ・ヴィンチ、そしてマリーンズとの連携によって魔力障壁その他回避に向けた行動が取られている。しかし、アヴェンジャーの捨て身の流星報復は、例えるならば、第七特異点でケツァルコアトルがビーストⅡに与えた大衝突に近い威力を持っていた。

 

「  怨敵カルデアァァァァアア――!!!!  」

 

 黒き流星から地の底すら震え上がらし、空の星々すら落とさんとする咆哮が木霊した。

 身に纏った煙幕の羽衣から憤怒の炎が漏れ出してロードクロサイトのように輝きを放つ。

 間違いなく、凶兆の証。

 

 この時、霊基の解析を断念し、直接被弾の威力を演算していたダ・ヴィンチにとっては絶望的なことであったろう。それはどんなに魔力障壁を積み重ねようとも、直撃すれば轟沈は免れないからだ。

 

 神の一撃。

 神の怒り。

 

 それの届くもの、聖書にも神話にも、全てこともなげに人の命は散りゆくのだ。

 色彩もなく、逆光もなく、躍動もなく。

 

 ただ散る。

 

 さァ! 今こそカルデアの命運、散らす時であるッ!

 黒き神は猛々しく吠える!

 

 

 激突まで、後500m、400m、300m、200m――――

 

 

 星々は輝く、一番星はオリュンポスでも変わらず金星か――

 

「アヌ神に捧げましょう――さぁ、ひれ伏しなさい!」

 

 

 

 

 

 

 

 



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金黒神話対戦

 

 流星のような黒。

 それを彩るように七色の宝石弾が空を馳せて射抜く。

 

 一撃一撃が軽く見える?

 

 否。

 降り注ぐ無数の星のような煌めき、月よりも明るく輝き、ドレッドノートの砲弾よりも強い爆発力を持つ。

 そんな宝石弾の群れが鰯の大渦巻の如く飛来すれば神霊の外側を削るに足りた。

 

 その宝石は神代メソポタミアでイシュタルが臣民から供物として受け取った最高級の宝石たち。

 そこに宿った精霊にも神秘、神性が宿っている。

 

 そう、これは純粋な神性勝負。

 

 先ほどまであれほど燃え盛り、降り注いだ全てを焼き潰す勢いを持っていたアヴェンジャーもその宝石に撃ち抜かれて、その威力と勢いを減衰させられた。なんと憎たらしいことか、メソポタミアの神何するものぞッ!

 

 怒りで震える。

 胸に開いた穴から炎が湧き出る。

 漆黒の枝のような毛髪の合間からも焔がメラつく。

 

 目と鼻の先には怨敵がいるのに、何故だ、何故だ――ッ!

 

 

 アヴェンジャーは零落した神だった――

 

 

 彼の属するスラブ神話は他宗教の弾圧によってそのほとんどが焚書され、信仰は零落し、今や断片だけの情報となってしまった。

 

 本来持っていた神性も、役割も、伝説も、その時に燃やされてしまい、無辜の怪物の如く歪められてしまった。

 核となる話はなくとも、殻となる設定だけが残った。

 

 故に自らにも穴が開いており、そこを永遠と人に対する憎悪の炎で燃やしていないと今にも体は冷え固まり、砂のように崩れてしまう。忘却補正だけが彼の霊基を崩さず保てる解決方法だった。それが、永遠の憎悪の苦しみだとしても――

 

 

「あ、あれって! イシュタル!? ブルースフィアに召喚されていたのか!」

 

『霊基グラフと照合した結果、間違いなくアレはカルデアのイシュタルだ! あの神霊の大衝突を宝石弾で食い止めてくれたみたいだ!』

 

「イシュタルがいるなら俺が外に出て魔力パスを繋げれば押し通せる!」

 

「本気で言ってるのかね!?」

 

「いやいや、こんな不安定なところで神霊級サーヴァント同士の争いに加勢するのはいくらなんでも無茶だろ!」

 

 ムニエルや新所長が口々にそういうが、俺は満面の笑みで答えた。

 

「俺なら大丈夫だよ。空中戦も慣れてる!」

 

「そういう問題じゃあないんだよ、君ィ! まだまだ敵勢力がどんなものか分からないのに、君を外に放りだすわけにはいかないのだ!」

 

 新所長がそう言うと、隣で推理を続けていたはずのホームズがおもむろに言い出した。

 

「ミス・キリエライトが補佐につけばその限りではないのではありませんか。新所長」

 

「ほ、本気で言っているのかホームズ!?」

 

「あの神霊サーヴァント、先ほどストーム・ボーダーに突貫しようとしたときの威力は目算でも一撃でこの船を轟沈させるに足るものだと分かります。彼ないし彼女は我々に相当の執着があり、うち滅ぼすためには自身の霊格が砕けようともかまわないように見えました。今は神霊・イシュタルが優勢を取っていますが、反対にあの神霊が命を捨てて、ストーム・ボーダーだけを狙えばほぼ確実にこの船は落ちます」

 

「キャプテン・ネモの操縦とムニエルの補佐があれば、たかが一条の神霊くらいあの大神の雷霆を躱した時より容易いんじゃないのかね?」

 

「雷霆を避けれたのは霊基チャフのおかげでした。あのサーヴァントは意思を持ついわば神霊弾頭。追尾から逃げ切ることはできません」

 

「うん。イシュタルが足止めしてくれている間にどこかに着地して身をひそめるって言うのもありだと思うけど、イシュタルの宝石と魔力が尽きてしまえば、一気に戦況は不利になる。サーヴァントを失い、船を失う可能性が出てくる」

 

「つ、つまり――ここで落ちるくらいなら、藤丸に連携を取らせイシュタルに彼奴の首を取らせた方がマシということか。だが、余りにも危険じゃないかね!?」

 

 危険。

 不可能。

 無理。

 

 いつも隔たり、立ちはだかってきた絶望達。

 けれども、それを俺たちは何時だって乗り越えてきた。

 

 だから、彼女とともになら――

 

 俺は答える。

 

「新所長、マシュがいれば大丈夫! それにイシュタルもいるし!」

 

「先輩……はい、必ず先輩を守って見せます!」

 

「ぐぬぬぬ……若者二人のその純粋な誠意に、私はノーって突き返したいんだけどね! そこまで言うならやってきなさい! ただし、絶対にケガ一つなく帰ってくることだ! 撃破まで至らずともこのストーム・ボーダーに対する脅威が退けられたならそれで帰還することだ。分かったね?」

 

「「はい!」」

 

 新所長ゴルドルフは駆け足で甲板へのハッチへと向かう二人とそれを補佐するマリーンズの忙しなさを見届けながら、髭をこそいでため息をついた。その姿は正に明日を駆ける生きるものの姿だけど、どこか心のうちに寂しさが湧き出てきてしまって……でも、それでも、彼らに期待してしまってる自分がいる。今回も笑って帰ってきてくれるはずだ、と普通に思ってしまう自分がいる。

 それはこんな特例塗れの旅で、普遍なことになるなんて奇跡だというのに。

 

「まったくぅ、七つの特異点と五つの異聞帯を攻略して、彼らちょっと蛮勇になりすぎだと思わんかね、ラザニア」

 

「俺はすごく頼もしいと思いますよ。確かにあの二人に全てを任せるのは不安ですけど……」

 

「それでも我々には見守るしかない。むず痒くとも、なんとも無力でも、我々は彼らを縁の下から支えるほかない」

 

「僕から言わせてみれば、白紙化に巻き込まれずにこうやって生き残り、五つの異聞帯攻略の船員になった君たちも随分と蛮勇だけどね」

 

 ネモはそっと何気なく言った。

 操縦補佐席と指令席から顔を見合わせていた二人は各々の画面に目を戻して、そっと笑うのだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 甲板での戦闘用のアミュレットを持たされ、礼装に落下防止の魔術が組み込まれる。足裏が磁石のように吸い付き、歩きにくいが万が一に吹き飛ばされそうな衝撃が船体に走っても相対座標固定でそうそう飛ばされない仕組みになっている、らしい。詳しい魔術については知らないし、魔術は人に教えるとその神秘を減衰させ、効力が働きづらくなるらしいので、詳細を教えてもらうことは逆に不利になるだろうから、余り聞くことはない。

 

 飛び交う宝石。

 怒りに震える黒炎の神。

 

 オルテナウスを装備し、バイザーを付けたマシュが盾を展開して俺の前に立つ。

 

「先輩、イシュタルさんとのパスは繋がっていますか?」

 

「うん。繋がってる。けど、この距離、魔力支援が届くのがギリギリかもしれない」

 

 イシュタルは空中にてマアンナとともに俊足勝負を繰り広げている。

 食らいつくのはアヴェンジャー。避けるようにして宝石を打ち込むのはイシュタルだ。

 

 マアンナがある分空中での行動はイシュタルの方が精密に動けるが、速度自体はアヴェンジャーも引けを取らない。纏った煙幕のようなヴェールと胸部や四肢から迸る炎がまるでジェットのようにその体を乱雑に飛行させていた。

 

「メソポタミアの稲神如きがァ!」

 

 アヴェンジャーのムーンサルトキックを翻って、避けるが追撃が迫る。

 

 拳。足。炎。連続した打撃がイシュタルを襲うが、それをイシュタルはジグザクと飛びながらよけ、宝石弾で逆に撃ち落とそうとする。

 

 焔と輝きが交わる。

 

「誰が稲神よ! この私を怒らせようとは……度胸だけは一人前ね。いいわ、少しだけ遊んであげる!」

 

 人差し指を銃身のように固定して、イシュタルは神性を充填して発射し始めた。

 アヴェンジャーは空中を飛び回りながら、ヴェールで宝石を反射させて、イシュタルに一直線に向かう。

 

 間合いを詰めて渾身の右打ちをイシュタルの腹部めがけて殴りこませるが、イシュタルはそれをマアンナで防いだ。

 

 そうして、拳とマアンナとがぶつかり合う音が大鐘の如く響き渡ったと思ったら、アヴェンジャーの拳から炎が漏れ出しイシュタルを襲う。

 指の神性弾を発射し、マアンナに宝石矢を番えて、発射した。

 着弾とともに煌めく爆風が吹き荒れ、二騎は空中を回転しながら間合いを取った。

 

「炎の闇よ、空を抱け!」

 

 アヴェンジャーが腕を振るうと、炎が吹き荒れ、鞭のようにイシュタルを取り囲むが、マアンナに乗ったイシュタルはそれを踊るように躱していく。

 

「私の俊敏さを忘れているのかしら? ……って、見失った!」

 

 見渡す限り茨のように渦巻く炎がしなっている。立ち上る柱が倒れるようにして、こちらに向かってくるがそんな緩慢な動きでイシュタルをとらえることはできない。

 

 天を舞う雲雀の如く軽やかさと速さを魅せつけ、肉体の黄金律をこれでもかと誇示するイシュタルだが、やはりアヴェンジャーを見つけることはできない。どこを見渡しても炎、炎、炎。しかもその炎自体がアヴェンジャーの魔力によって発火したものであるから、魔力感知がうまく働かない。陽炎と魔力の揺らめきを巧妙に操り、彼奴は炎上のフィールドを展開したのであった。

 

 くっ!

 小癪な。私の特権である『空』を飛び回り、剰え私を炎の迷宮に閉じ込めようだなんてムカつくわ!

 

 だめよイシュタル。

 冷静になりなさい。

 

 私の気配察知を惑わすこの炎。そして、忽然と姿を消したアヴェンジャー。あれだけ宝石をぶち込んでやったのだから、少しは霊格に響いたのかしら?

 

 このままここで惑わされていたら、態勢を立て直されてしまう。

 その前に確実に……討つッ!

 

 うふふ。

 あいつがどこに逃げようが、隠れようが関係のない方法を思いついたわ!

 

「宝具は――1発ならどうにか現界を維持できそうね。アーチャークラスを、ひいては私の単独行動(A)に慄きなさい! ゲートオープン! ――!?

 

 真名開放をしようとイシュタルが手を挙げたその時、背後から途轍もない一撃が迫った!

 黒き星は白き神がした行いへの意趣返しかのように報復の踵を天の女神の背中へと振り下ろそうとした。飛び込んだ彼は正円の軌道を描いた。

 天を踏みしだく冥界の一撃!

 

「慄くのは貴様の方だ、天の女主人! 沈めッ――!」

 

 なんということか。

 アヴェンジャーはイシュタルを囲った炎の群れの陰に隠れ、襲うタイミングをうかがっていたのだ。

 姿晦ましのヴェールに、気配遮断、背後からの暗殺などとここまでくると本当はアサシンクラスなのではないかと疑いたくなるほどの戦闘スタイル。

 

 しかし、迫りくる黒炎の踵はまごうことなきアヴェンジャーの憤怒を体現した爆炎の如くである。

 

 先ほどまで立ち上っていた渦巻く柱の如き炎群は一気にアヴェンジャーの踵に吸い込まれていく。

 その踵の一撃はイシュタルの記録にもあるあのケツァルコアトルのように、神霊の背骨をへし折るものだろう。

 

 どうにかして、躱さないと――!

 

マアンナを即座に後ろに回して、ガードさせるがそれが持つのは数秒もないだろう。

 そこから態勢を立て直し、近距離戦に持ち込まれたときのことをイシュタルが想定しようとした、その時。

 

 黒いスパークが飛来した。

 

 

 あれ、は――

 

 

 

 

 

 



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泥を見るか、星を見るか

 

  ガンド。

  敵単体にスタンを付与(1T)

 

   ――カルデア戦闘服。『スキル2:ガンド』より引用

 

 

「なん、だと―――――ッ!」

 

 アヴェンジャーが空中で固まる。

 鼻先ならぬ背先で止まった踵への大衝突。

 大蛇のように蠢いていた柱火の残滓も、チリチリと掻き消えて、踵に籠った焦土の熱も緩やかに消え始める。

 

 痺れる霊基では浮遊を保つこともできず沈むようにチェルノボーグは下に落ち始めた。

 

「イシュタル!」

 

「イシュタルさん!」

 

 ストーム・ボーダー甲板に上がった二つの人影がアヴェンジャーの残り火に照らされて現れる。

 金星の女神は硬直するアヴェンジャーをしなる弓のような足で蹴り飛ばし、跳ねあがった。

 

「くッ――!!」

 

 イシュタルの鮮やかな蹴りを背で受けたアヴェンジャーは難破船が沈没するように高度千六百メートル地点から急速に墜落していく。

 

 離れていく天の神霊。

 己は地の果てすらない奈落に落とされ、暗闇に閉じ込められていく。

 

 不落。

 不沈。

 絶対なる太陽のようにある。

 それが神という存在だというのに。

 

 離れていく……空が自分の足元から、手元から、突き放されるように……ッ!

 

 天を仰いで、目端に怒りが宿る。

 

 ベロボーグとの戦いで奈落の底に落とされた日をチェルノボーグは思い出した。

 

 あの時も、このように、純白の……宝石を散らしたような夜空を見たぞ……!

 あぁ、墜落、させられたッ……!

 

 憎い。憎い。

 いつだって天にて輝くのは白き衣のやつだけだ。

 

 我は神霊、神霊()()()()()()()だというにッ!

 

 何故私は地に落ちなければならない。

 

 汎人類史や憎きかなッ!

 我が憤怒はアレを見て痛むように燃ゆるというのにッ!

 

 再び胸の火が鼓動する。

 

 一筋の光として、願いは見えた。

 自ら手を下す機会を得て、冷静でいられるわけがない。

 一種の狂化状態のようにチェルノボーグはなっていた。

 手を伸ばす、汎人類史の揺籃から離れ、今こそあの世界の希望を焼き尽くさんとする。

 

 あの人類最後のマスターを我が炎の薪としてくれるッ!

 

 神霊・チェルノボーグの胸部の孔で燃ゆる炎が勢いよく噴出した。生命の息吹が戻るように炎は吹き出し、チェルノボーグの体を落ちないように支えた。

 

 暗き虚空は冥界の如く。

 異聞残域に生命はなく、途方もなく静か。

 故にそこは冥界に似ていた。

 そこに吹き込まれる獅子の毛並みの如き炎。

 その炎を命に見立てて、チェルノボーグは己が冥界から這い上がらんとする。

 

 多分な魔力を含んだそれは黄金の炎上回廊となって、ストーム・ボーダーの方へと魔の手を伸ばす。あの星を掴むように、白銀の方舟を掴んで天に返り咲くために。

 

 熱波が歪める天上、チェルノボーグが甲板に捉えたのは三人の人影であった。

 

 三、人――?

 

「藤丸、バックアップ頼んだわよ!」

 

 藤丸はその右手に宿った令呪をイシュタルの背中に翳しながら、しっかりと彼女の行いを見護る。

 

 そう、訂正しよう。

 二人と一柱である。

 

 その神の名前こそ、神霊チェルノボーグにいざやと宣言されるのだ。

 

 金星の女神、天の女主人。

 チェルノボーグはその姿を仰ぎ見るしかない。まるで草原に寝転んで星を見上げるように。炎を漏らす胸の内さえ須臾のまにまに、涼やかさを覚えた。

 

 天の神の手に握られた短剣が空へと捧げられ、門の鍵となりて天への道を切り開く。

 

 切り裂かれし空間から星が覗く。

 人も神も圧倒する彼方に翳すはずのそれがイシュタルの手が届きそうなほど近くに来た。

 突如として現れたそれは途轍もない暴風を吹き荒れさせ、チェルノボーグの頬をも撫でた。

 

 しかして、それこそ金星。

 イシュタルを象徴する天体、明星の一番星である。

 

 そしてそれは、開戦には相応しく今至宝の如き宝石を放つ――!

 

「私は天の女主人、イシュタル! スラブの黒き神よ、今ここに金星の真意を示しましょう」

 

 イシュタルはその赤き目を金色に塗り替えて言った。

 そして、マアンナに金星をセットして詠唱する!

 

「大いなる天から大いなる地に向けて! 山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)!!」

 

 霊峰エピフ山を蹂躙し、神々の王すら恐怖させたイシュタルの大山宝具。

 あれ程までに手が届きそうなまで巨大だった金星が彼女の手に概念として落とし込まれ、圧縮された。

 宝石魔術の如く惑星の概念を射出すればそれは先ほどチェルノボーグを消耗させた宝石の光弾を遥かに凌ぐ一撃になるのは必定。

 

 

 打ち出されし、一射―――――

 

 

 チェルノボーグは手を突き出し、火炎を噴出させる。まるで大山の噴火の如き焔の昇竜。炎の回廊に続き、イシュタルの宝具を防ごうとはや天を駆け上る。

 

「させませんッ!」

 

 円卓の盾がその一射御した。

 歯噛みするチェルノボーグ。

 

 小娘がッ!

 

 炎は逸れ、回廊は陽炎の揺らぎのように崩れてしまった。

 

 再度充填するにも空を縦横無尽に渡らせられるほどの魔力は徐々につき始めている。ストーム・ボーダーとの直線距離だって、100mは離れているだろう。そこに向かって火柱を矢継ぎ早に撃ったのが誤算だったか。

 

 それでも充填し、放つほかなしッ!

 

 けれど、次に放たれた焔の二重螺旋は美しくも、宝具と拮抗するには威力が足りなかった。燃え盛る双頭の昇竜は打ち下ろされる金星の裁定の前に共に顎を砕かれ、喉を砕かれ、尻尾の先まで串刺しになり、チェルノボーグまで突き抜かれたッ――!

 

 くッ、直撃はまずい――

 

 こちらも宝具で迎え撃つか?

 不可能。自分の宝具はアレに拮抗できるほど直線的には撃てない。

 そして、魔力の充填率が奇しくも足らない。

 

 であるならば、アレを使うしかあるまい。

 しかし、それも好ましい手段とは言えない。

 それでもここで倒れては強襲した意味がなくなる。

 

 刹那の間にチェルノボーグは目いっぱい己の思考回路を滾らせた。

 多岐にわたる可能性と選択肢。軍略の神でもないゆえにそんなことをするのは性分ではない。

 

 憤怒に燃える頭に細やかな戦略など立てられないからだ。

 故にそれは何とも蛮勇なる行動であった。

 

 チェルノボーグはヴェールをといて、初めてその姿を世界に晒した。

 黒き長髪に隠れた口角が少し上がったと思いきや、その目には必殺の殺意が込められていた。

 

 迫りくる一撃に如何な英雄さえも震え上がらせそうな睨みを返す。

 直後その身は黒から黄金の焔に裏返った!

 

 

 身体を燃え上がらせ、迎え撃つ――ッ!

 

 

 チェルノボーグは魔力放出をした。

 一瞬にして自身が炎に包まれ、文字通り爆発的な瞬間火力を得る。

 それを以てして己が拳で天の女主人の渾身の一撃を砕こうというのであろう。

 

 拳が矢じりに触れる。

 接地面は急速に温度を上昇させ、二つの炎波が波紋のように広がっていく。熱の壁が生成され、波紋となって逃げた熱は即座に周囲をプラズマ化させていく。

 

「危ないッ、マスター!」

 

 炎と星のぶつかり合い。

 高温はストーム・ボーダーにまで届くが、カルデア戦闘服にはある程度の熱耐性があるため藤丸はジッとその行方を見守ることができた。それでも体感温度は百度を超えるだろう。

 

 チェルノボーグの右拳の表面が蒸発し始め、肉がめくれ上がる。

 血などは吹き零すことすらなく、視界も逆光に埋もれつぶれた。

 それでも、その右手は復讐の誓いを立てる。

 

 我々を忘れた汎人類史を許さない。我々を改ざんした汎人類史を許さない。

 その拳は最早咆哮すらできないチェルノボーグの代わりに金星に突き立てる。

 

「くッ、往生際の悪い神ね、いい加減ぶっつぶれなさいッ――!」

 

 

 押し返せる道理はなく、燃え盛る復讐心だけが金星の前に慟哭する。

 チェルノボーグは流れ来る氷山に豪華客船が潰されるようにゆっくりと追い詰められていき――

 

 

 熱波の境界面から劫火が零れ落ち、やがて琥珀のようになっていた右腕にひびが入る。

 そして、その右腕が砕けたその時――

 

 

 爆散。

 

 

 宙に山脈にさえ届きそうな焔が伸びる。

 

「物凄い熱量……! 皮膚が焼けそう……ッ!」

 

 盾を構えたマシュも熱波の勢いに驚嘆の声を漏らす。

 しかし、その隣で金星を打ち下ろしたイシュタルは確信しながら、微動だにせず見下ろしていた。

 

 アレは確実に霊核砕いてやれたでしょう。

 そうであろうとも。神霊サーヴァントの宝具直撃。それ必然として対象の消失を意味する。

 

 甲板の上から未だに渦巻く煙と熱のグラデーション。

 髪を靡かせながら満足げに見守るイシュタル。

 マシュも熱波の収まりを感じ、バイザーを取って目下広がる炎の乱気を見続けた。同じく藤丸も。

 

 時を同じくしてストーム・ボーダー内部でも、キャプテン・ネモがチェルノボーグの宝具直撃を艦内で知らせていた。

 

「イシュタルの宝具は完全に直撃した。まぁ、直撃してなくてもアレだけの距離で爆発したんだ。霊核は破壊できたはず」

 

 あの直撃を相殺するのは並みの技ではできやしまい。

 キャプテン・ネモは残熱が消えたのを確認しようと計器を見るとおかしなことに気づいた。いやさ、何故かまだ反応があるじゃないか、と。

 

 爆炎が冷め、煙が退き、夜空に渦巻く星空すら明確にその姿を映し出す。

 

「な、なんで」

 

 一番に驚いたのは宝具を撃ったイシュタルであった。

 全身全霊の一撃に変わりない。マスターとのパスも繋がり、魔力伝導率も良好だった。

 最善の一撃をもってしてあの神霊を撃ち落としたに決まっていた。

 

「ヒハ……カルデアァ、カルデアァア……汎、人類史ィ……!」

 

 我は許さぬ。

 我を追いやったあの汎人類史を、我が神話のように燃え滓なく燃やし尽くすことこそ、我が悲願……ではあるが……

 

 我を召喚したマスターのためにもここで奴らを倒さねばならぬのだから

 

 眼下、チェルノボーグは恨めしそうにイシュタル、藤丸、マシュを見ていた。

 ストーム・ボーダーに乗った全ての汎人類史を見据えていた。

 

 彼の体、右半身は焼けただれ、右腕は消し飛んでいた。

 まずそれだけで済んだことが奇跡だろう。腐っても神霊の器ということか。一つ要因としてそれもあろう。逸話として、創世後にもう一柱との創世神と戦ったことに由来し耐久に秀でたおかげであったか。

 

 もう一つの要因として、青きライダーのサーヴァント召喚術はカルデア召喚式よりも霊基が特殊な作りになっていることだ。奴が器にまつわる神霊故にそんな外法並みの高等技術が使えたのだ。

 

 そうして、さらにもう一つはその彼の体から湧き上がる泥の効力だった。

 

 ドロドロとチェルノボーグを原点として注がれし黒く暗く悍ましき泥。イシュタルはその泥に見覚えがある。それは母にして地母神、メソポタミアの地の神、ティアマトより発せられた創世の泥に似ていたからだ。

 藤丸もマシュもその絶望的な威力、人類のみならず全てをマグマの如く飲み込んでは新たな命に作り替えてしまう光景を何万人規模で見てきた。あの第七特異点で。

 

『この反応は――ッまずい! これは第七特異点でティアマトが使用した創世の泥、ケイオスタイドと同質のものだ!』

 

 アナウンスで流れるダ・ヴィンチの言葉に数名の職員が小さく悲鳴を上げた。

 

『そして、それを扱う彼はつまり――創世を成した神霊!』

 

「ミスター・ムニエル、藤丸へ通信で艦内に退避するよう指示を!」

 

「了解!」

 

 急ぎムニエルが藤丸たちの通信端末を通じて帰還命令を発する。

 ゴルドルフはモニターに映し出された砕かれた復讐神と流れ落ちていく滝のような泥の映像を見る。

 

「なんとも悍ましい、あれが創世の神だとはな」

 

 ゴルドルフは神霊の睨みにも冷や汗こそ流せども毅然と司令官の態度を崩さない。

 冷静に判断すると、ゴルドルフにも疑問となる点がいくつか思い当たった。

 

「いやいや、これまで私たちは幾柱の神と相まみえてきた。例えばインド異聞帯のアルジュナ・オルタ。例えばギリシャ異聞帯のゼウス。しかし、彼奴はどうみてもそれに匹敵するには見えなかった」

 

 そうである。

 神たるアルジュナは見ただけで動けなくなる気迫を持ち、世界そのものを転輪させた。

 異聞帯ゼウスは言葉一つに精神的な重量を感じさせるほどの魔力があった。

 

 しかし、この復讐に滾る泥の神はこうして宝具は地の力で防いで見せたが、まさしく風前の灯である。とても創世神とはゴルドルフには思えなかった。

 

「恐らくですが、零落した神でしょう。ディオスクロイ・カストロのように人の風説や認識によって零落させられた神は少なくない。豊穣の神バアルやダゴンも信仰が失われた今では悪魔や水怪などに例えられることも多いですから」

 

 ホームズが言うように神話や伝説には風説、弾圧、焚書、二次創作がつきものであり、ゆえにその神性を零落させるものが多い。

 信仰を失った神というのはいとも簡単にその姿と力を老いさらばえる。

 

「とはいえ、創世の神が零落したとなると、それは神話規模の零落でしょう。そして、創世期に泥を扱う神話」

 

「おぉ、随分絞れてきたじゃないか……いや、何か疑問があるような」

 

「えぇ分かります。ですが、ここで暴きましょう。彼の正体は、スラブ神話が創世の一柱、黒き邪神と呼ばれしチェルノボーグ!」

 

「なるほどな。……いや、なんでスラブの神がここに?」

 

「……それはまだ、明かす時ではないでしょう」

 

「何故! 歯がゆいなぁ!」

 

 しかして、黒き神はカルデアをにらみ続ける。

 己が夢の先走りの星を見つめるように。

 

 憎い。憎い……

 

 覚めぬ悪夢に疲れたように……

 

 

 

 

 

 

 

 





 カルデア側にチェルノボーグがむざむざやられ、負け犬の如くにらみ返す状況。
 一撃にて決めるはずだったのに、長期戦になり、あわや横やりまで入る始末。しかもその横やりに矢で射られるという。

 イシュタルを野放しにしていたのは間違いであろうて。

 一応資料設定です。
 漫画版でガンドは対魔力CのサーヴァントにはじかれたらしいのでC-相当に引き下げています。
 イシュタルとの戦闘を基準にしたため、イシュタルとエレシュキガルのステータスを参考にしながら作りました。


【元ネタ】スラブ神話
【CLASS】アヴェンジャー
【マスター】――――
【真名】チェルノボーグ
【性別】男
【身長・体重】190cm・59kg
【属性】悪・混沌
【ステータス】筋力B 耐久A 敏捷B+ 魔力D 幸運D 宝具B

【クラス別スキル】
忘却補正:B
人は多くを忘れる生き物だが、復讐者は決して忘れない。自身の神話体系を弾圧の名の下に人々が手放したことをアヴェンジャーは許すことはできなかった。

復讐者:C~A
復讐者として、人の恨みと怨念を一身に集める在り方がスキルとなったもの。周囲からの敵意を向けられやすくなるが、向けられた負の感情は直ちにアヴェンジャーの力へと変化する。
アヴェンジャーは復讐者ではあるが、それはスラブ神話を弾圧するものに対する復讐である。ゆえにとある宗派に対しては強力な力を発揮する。

神性:D
神霊適性を持つかどうか。
アヴェンジャーは神話体系ごと断片的に焚書されてしまっているがために神性が低くなってしまっている。

自己回復(魔力):A
復讐が果たされるまでその魔力は延々と湧き続ける。
アヴェンジャーの場合単独行動も複合されているため、現界を維持するだけの魔力を得ている。

対魔力:C-
 第二節以下の詠唱による魔術を無効化する。
 大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。
 ただし常に一定の魔力を消費しなければC相当の対魔力は得られず、魔力を消費しない場合はC未満である。


【固有スキル】
魔力放出(炎):B-
武器、ないし自身の肉体に魔力を帯びさせ、
瞬間的に放出する事によって能力を向上させる。
身体に炎を纏わせ、熱と火炎と己が一撃で穿つもの、全てを灰燼に帰す……しかし、スラブ神話を壊されたという復讐が一心で憎悪の火を燃え上がらせているアヴェンジャーにとっては、権能とミスマッチであるため威力が高いとは言えない。

ケイオスタイド:D
スラブ神話における創世を白き神と共に担った時に世界の基盤として救い上げた泥。
創世の泥。それはティアマトのそれや聖杯の泥の如く世界を汚染してしまう。
ゆえにチェルノボーグは自らの創世権能を縮小させ、ケイオスタイドの侵食率を下げている。

故に黒き邪霊なり:A
このスキルの効果の一部は復讐者のスキルと合併している。
邪精霊としての側面をスキル化させたモノ。冥界権能の如く邪霊を召喚したり、または気配遮断と情報抹消を兼ねた煙幕上のヴェールを纏うことができる。魔術による攻撃も軽減する機能も備わっている。


【宝具】
『汝、泥中を照らす太陽(チェルノ・ソルセン)』
ランク:B 種別:対地宝具 レンジ:10~999 最大捕捉:1000人

 その身を黒き太陽に変え、大地を全て泥に変え、創世の再演をする。
 全ての生物は泥に飲み込まれ、その上から黒き炎が降り注ぐ。
 最後は唯一明確にされた神話の通りチェルノボーグ自身が地に落とされ全てが灰となる。
 この宝具は白き神との共同でなくては真なる創世へと至ることはなく、ただ既存の地に住まう生命を焼いてしまうだけなのだった。
 宝具名に匹敵する効果は得られず、それゆえにチェルノボーグはこの一撃を嫌った。

【Weapon】
炎、或いは素手。

【解説】
スラブ神話の創世神の一柱。黒き神、冥府の神、夜闇を司る悪神とも。しかし、スラブ神話は九世紀から十二世紀に至るまでの間に宗教的な弾圧をくらい、スラブ神話に関する記述や信仰は殆ど失われてしまった。それどころか一部の考古学者がギリシャ神話に出てくるオリンポス十二神と習合しようとしたためにどれが本当のスラブ神話かも判別が難しくなった。神話は過去に向かって伸びる枝、最早その過去さえ有耶無耶の暗闇にされたチェルノボーグの怒り、悲しみは彼を復讐者とするに至った。異聞残域でのみ召喚できる霊基であるがゆえ、汎人類史の人類とは決別し、新たな神話の一部になろうと夢を見る。

捕捉。此度召喚されたチェルノボーグは失われた神話に対する怒りを強調して召喚されたために悪神としての側面があまりない。黒き神、冥府の神、として、そう……エレシュキガルとかマンドリカルドとかと同じ方向性なのである。
アクティブだけど、それは夢の為だから。本当は土いじりしながら木陰で本読んでたいから……


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スラブの神性、アルゴーの船、金星の堕天

 

 我は憎悪となったのだ。

 我は炎となったのだ。

 

 『我ら』は人に寄り添った。

 『我』は人の悪を教えた。

 

 光を与え、闇を与え、黒も白も火の下に平等であることを告げた。

 極寒の中でどれほど世界が白黒に移ろうとも己が火を絶やさぬように黒き神ながら施した。

 

 神からの祝福。

 神からの呪詛。

 

 そして、いつしか人々が焼いたのは我らだった。

 火にくべられていったのは我らの神話だった。

 

 我は――その存在を宝石が割れるように欠落させられた。

 キラキラと輝くこともなく、静かに灰の下に埋められる。

 

 あぁ、なんて絶望的なのだろうか――

 

 だからこそ、我には報復する権利があるのだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ドロドロと煮えたぎる。

 重力に沿って落下していく泥は火を巻き上げている。

 

 ケイオスタイドは砕かれた黒神の霊基が回復するのを手伝っていた。

 例えるならそれは膨大な血液が損傷した人体を内外問わず循環しているようで、量にモノを言わせた荒療治だ。

 

『なんて馬鹿げた霊器修復……! いや、そもそもイシュタルの宝具が直撃して消滅していない方がおかしいんだけど、流石神霊サーヴァントっていうべきなのかな!』

 

「誉めてる場合じゃないのだけれど!」

 

 黒神は滅びず。

 なお憎悪を逆巻かせる。

 

 上空から見下ろすその行為すらもためらわれるほど彼は絶対的に殺意を孕んだ視線を飛ばしていた。

 零落したる神霊とは言え、その視線は邪視のようなもので礼装とマシュの盾による加護が無ければ、呪いのように藤丸の身を蝕んだろう。

 

『藤丸くん。その場で英霊召喚はできるかい? 霊脈によるサポートはないけど、ストーム・ボーダーの魔力的に一騎分の召喚余裕はある!』

「じゃあ、その魔力を私に渡すことね。この私の宝具に砕けきれぬ者がいたなんていうのは女神の恥よ。もう一度、完全に復活する前に私がぶっ潰す!」

 

 イシュタルの眼は黄金色に輝く。

 ストーム・ボーダーの甲板からマアンナとともにすっと浮き上がり、再度短剣を天に向ける。

 

 ギリシャの宇宙に金星の意が示されようとする。

 絞り取られるような魔力の徴収感覚が藤丸を襲うが、それでも彼は冷や汗もかかずにしっかりと女神に信頼を託す。

 

『い、イシュタル!?』

「ここはイシュタルに任せよう。ストーム・ボーダーから俺に、俺からイシュタルに魔力を流すよ!」

 

 再度金星は開かれる。

 待ってましたとばかりに短剣は天を裂き、金星がその尊顔を覗かせる。

 

 開門(ゲートオープン)

 

 威光と神威を帯びた黄金の裂け目を見るや否や、チェルノボーグは五割修復で来たところで、獣が駆け回るようなスピードで天へと上りだした。

 武人ではないのに素早い判断だ、復讐心という熱に浮かされているのに、その思考は常に冴え渡っている。片腕はまだ動かせないが足と胸の噴出口は未だ健在、これならば空中移動に事欠かない。

 攻撃力より今はスピード勝負だ。

 

 金星は黒をうち滅ぼせなかった。

 しかし、これほどに我を焼き尽くした報いは受けてもらおう。

 翻るは黒き神の燃ゆる逆巻髪。

 

 大いなる冥府より大いなる天へ。

 

 チェルノボーグは、もう一度受ける前に決着をつけるつもりだった。

 黒き岩が炎を纏って宇宙を駆け上がるその姿は花火が打ちあがるが如くだった。

 

「――汝、友と征く煌々の船(アストラプスィテ・アルゴー)

 

 だが、二柱の決戦の間に入り込む者がいた。

 その真名解放を聞きて、誰も彼もが遥かなる宇宙(うみ)を見た。

 

「チィッ! ライダーめ、水を差しおって」

 

 チェルノボーグは恨めしそうに遠雷の彼方を睨みつける。

 

 流星を纏った神代の船がそこに煌々と輝いていた。

 遥かなる航路の果てから、星の海を漕いで現れたのは紛れもない――

 

「アルゴー船……」

 

 藤丸は何度も見覚えのあるその船の名を、愕然としながら零した。

 なぜならその船があまりに生き生きと躍動していたから。

 オケアノスのときも、アトランティスのときも、船の旅路と言うのは心のどこかに躍動を齎すものだった。

 磯波を超え、カモメの鳴き声と星のコンパスに従い、船長の命を聞く。

 船に乗るもの全てが一体となって動く。それが船を駆るということだった。

 

 藤丸の眼に映るアルゴーはそういう船上の躍動を体現していた。

 本当に生きている。

 神々しい生命体のようだった。

 

 誰もが困惑していたが、その大船は見計らったかのようにストーム・ボーダーに遥かなる大霊峰――オリュンポスの頂上から迫ってくる。

 

 イシュタルは気づいていた。

 アルゴー船が纏っている七色の星のような光は魔力の副産物ではない。

 かの船に纏わりついた流星はただの光ではなく、それぞれが英霊一騎分の魔力そのものだった。

 

「あれは、まずいわね……しょうがないわ! 私の許可なく空を航行した船、エレシュキガルだったら既に七度ほどキガルの刑罰を与えているでしょうね!」

 

 即座に構えた山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)の砲身を百八十度変え、アルゴー船に向ける。

 女神の本能があの天上を引き裂く煌々の船を狙えと警鐘を発した。

 

 あの船は――神霊級、あれもまた神霊そのものなのだわ。

 けれど、この構造はあまりに歪すぎるでしょう。

 

 いろんなものがつぎはぎされてできたデミ・ゴッド。

 或いは神を冒涜したような何かおぞましきもの。

 

 強がりなセリフとは裏腹に、イシュタルは畏怖した。

 神霊として、サーヴァントとして、あのアルゴーの在り方を許容できなかったのだ。

 

 あの船がただの神霊、ノアの箱舟のようなものだというのなら良かったのに。

 感じる気配はそれだけじゃない。

 サーヴァント五十騎に相当する気配がある。

 

 ――それも全員が一等級、間違いなく距離を詰められれば最悪な事態は免れないわ!

 

 そうだと知れたのなら、イシュタルに迷いはなかった。

 金星の女神は明星を導として、かの神霊戦艦に狙いを定める。

 

 だが、それは同時に黒き神に背中を見せることになった。

 

山脈震撼す明星の薪(アンガルタ・キガルシュ)!!」

 

 明け透けな背中に爆炎の拳が迫る。

 

「女神ィィイイ!!!」

 

 放たれた極大の流星一射は空を裂き、かの船の衝角にぶつかった。

 轟音を立て焼けつくような爆風と煙を巻き起こし、真正面からの命中を確認する。

 

 しかし、既にイシュタルの背には黒き神の一撃が入ってしまっていた。

 猛き炎は狂い、金星を夜空から撃ち落とした。

 

「アァ、アッ――!」

 

 痛切な悲鳴。

 

 気丈な女神の肉体は輝きを失いながら虚空の底へと落ちていく。

 今度は彼女が見上げるのだ。

 自らが守ったあの船、逆光に包まれるカルデアの灯を。

 

 

 ――だが!

 

 

 ――――金星は果てず!

 

 

 いったぁ……でも、神霊崩れのあの黒神が短慮にこうしてくることくらい予想はついていたわ。

 

「ふぅ……ッ! イシュタルの権能、輝ける大王冠の底力を見るがいい!」

 

 

 墜落していた女神は一度深く息を吐くと、すぐさま流星のように翻り、天に向かって弓船を駆る。

 マアンナは肉薄したチェルノボーグを半月状の弧を描きながら撃ち落とす。

 ひとまず神霊船は相手に出来る規模じゃない。いくら強い戦士だろうと、余りに質量がでかすぎる戦艦が倒せないように、アレは今のイシュタルの宝具でも倒しきることはできないだろうと踏んだのだ。

 

 背部の一撃は中々に女神の神格を揺るがしたが、そこは対魔力Aを保有する彼女。

 ただの一撃では死にはしなかった。

 

 今は先にこっちを倒すのを優先するほかなさそうね。

 輝く二等辺三角のラピスラズリに魔力を込めて、矢じりとし優雅に宙を舞って距離を取る。

 

 アーチャークラス得意の遠距離戦で有利をとるつもりだった。

 

 だが、そのアイディアがイシュタルにあるのならば彼女は真っ先に気づくべきだった。

 いくらまだ距離のある神霊船だとしても、それが従える数十のサーヴァントの中に彼女と同じアーチャーがいることを。

 

 山脈から下る船の先頭で、弓を引き絞る獣耳の生えた灰色の神の女が凛然と呟いた。

 

「メソポタミアの金星の女神。アフロディーテ神に連なる神。ふっ、中々に素晴らしいものを見せてくれる。だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ストームボーダーの内部ではまたもあり得ないことが観測されていた。

 イシュタルの宝具が直撃したはずの謎の船の反応が消滅していないこと。それはまだ想定内だが、恐ろしいのはその無敵さだった。

 減衰もせず、軽減でもなく、ただ何のダメージもなく今に姿を現す。

 

 嵐の中から船首像が現れる。一つの欠けも、罅もなく。

 夢の終わりに崩れ去ったはずの船は冥府の河より復活する。

 

 甲板の藤丸は今にも飛び降りそうなほど体を晒して、落下していくイシュタルに令呪を向ける。

 しかし、その背中を狙う魔猪の如き弓が彼の神霊船より構えられていた。

 

「まずい! イシュタルが!」

「先輩!」

 

 藤丸の首を狙って矢が飛来する。

 

 ヒュンッ!

 

 マシュが素早く盾を展開したおかげでコンマ一秒のジャストタイミング。

 飛来した黒曜石のように黒く輝く矢をラウンドシールドで弾いた。

 一射にして同時に三つの矢が降り注ぎ、餓えた猪の牙のような矢が弾かれ、甲板に散る。

 

 遥か彼方からもう二射飛来するがその一切をマシュは盾で弾き飛ばす。

 憎悪の籠った一撃は不浄を退ける盾には通用しない。

 

 盾に守られた藤丸には甲板から転げ落ちていくその呪詛の籠った獣の矢に覚えがあった。

 それはあの弱者を許さぬ極寒の大地で、ヤガの反乱軍を率いた狂戦士の矢。

 

「まさか……」

 

 一方管制室は船を見やり、解析する。

 そして、マシュのラウンドシールドに当たった矢の魔力には該当する英霊がいた。

 奇しくもそれは藤丸とマシュが予期した英霊に違いなかったのだ。

 

「……アタランテさん」

 

 彼女はアルゴー船の船首に仁王立ち、かつて自分が弓兵だったことを忘却させない神の弓を携える。

 もはや自分に弓兵の感覚はなく、獣の本能だけしかないはずなのに、この身はアルゴー船に乗りて弓で魔獣を狙い撃った日々を思い出させる。

 思い出に、伝説に、神話に消えたこの一射を、もう一度復活のために彼女はエメラルドの瞳を見開く。

 

「まぁ、そうやすやすと首魁は上げさせてくれぬよな」

 

 その言葉は重く、平然たる水面のよう。

 しかし、氷点下のような冷酷さで射殺さんとする。

 

 弓にそっと指をかけ見果てぬ宇宙を視野に入れる。

 もはやその目からは何人も逃れられぬだろう。

 

「では、……女神からいただくとしようッ!」

 

 右手のうちに魔力がひしゃげるように凝縮し、一本の魔物のような矢へと変わる。禍々しいそれを神聖な弓に番えて本能のままに狙う。

 

 狙いは良好。

 華麗に飛翔する金の小鳥を、1000m離れた上空から狙いを引き絞る。

 古代ギリシャにおいてアポロンにも、アルテミスにも届いた訴状の矢が、金星に届かぬわけもなし。

 

 呪え。狂え。

 我らの船の征く先に、あらゆる天は遮らず!

 

闇天の弓(タウロポロス)――ッ!」

 

 船上から放たれた極大の一射は一塊に撃ち落とされる。

 番えられた矢は音を置き去りにして飛んでいき、猪突猛進の風を巻き上げた。

 

 滑り落ちる滝のような矢の雨は途中で呪いの華を咲かせ、一斉にクラスター爆弾のように散り散りに空を埋め尽くす。もう逃げ場は与えはせんと矢は憎悪とともに宣言する。

 

 ギリシャ宇宙を覆う黒き呪いの矢の雨。

 女神アルテミスから授かったその弓は引き絞れば、引き絞るほどに威力を増し、月にすら届く。

 そんな超遠距離・超広範囲の宝具は、回避しようとするストーム・ボーダーの横を素通りし、全てがイシュタルへと立ち向かう。

 

「な、何よこれ……!?」

 

 見上げる空に遍く落下星。

 黒神を相手取りながら千から万への矢を躱すなど女神だって音を上げる。

 

 魔力放出をし、宝石弾を弾幕状に張っても矢がいくつか落ちるだけで機能しない。

 ならば自らの機動性を生かして回避を試みようとするが、全ての矢が追尾し、逃げ切ることを許さない。

 

「何をやっている金星の女神、お前の相手はこの我だッ!」

 

 煮えたぎる炎の乱舞も彼女を逃がさず捉えようとする。まさに前門の虎、後門の狼。

 

 だ、大丈夫よイシュタル。

 私には女神の神核がある。神性を帯びていないあらゆる俗物の攻撃はこの霊器に何も能うることはない。

 まずは眼前のコイツを処理し、矢はマアンナで蹴散らしてやれば――

 

 それは誤算だ。

 彼女にとってギリシャ世界は遠い異郷の話でしかなく、アタランテの伝説も聞き及ぶことがなかったせいだろう。彼女は矢に籠る魔性だけを見てしまった。

 

 だが、神の弓はアルテミスの神性を帯びている。

 ゆえに女神の神核を持っていたとしても、当たれば霊器を削り――

 

「――ガハッ、霊核に矢、がッ!?」

 

 ――霊核を撃ち砕く。

 

 呪詛の矢が一本、胸部に刺さり、アーチャーの機動性を失ったところで追撃の矢が、足に、腕に、下腹部に、容赦なく女神を撃ち抜く。

 狼の群れが偉大な獅子を狩るようなジャイアントキリング。

 貪り食われた栄光の輝きは見るも無残な姿を晒した。

 

 黄金の光は禍々しき矢の雨とともにゆっくりと落下していく。

 

 マアンナは魔力を失い、ギリシャ宇宙の藻屑となる。

 輝きは消え、復讐の炎が自らを見下すことに苛立ちを覚えても、その体は水に沈むように動かない。

 

「その身ではもう舞えはしないだろう。お前を焼き焦がすのは我のつもりだったのだが、ライダーめッ……せめても情けだ。静かに落ちていくがいい。夜明けに白む星の如く、な」

 

 遠ざかっていく。

 どこまでもどこまでも、手を離れて。

 

 随分と、お早い退場になってしまったわ……

 私はメソポタミアの女神なのに、こんなに早く墜落してしまうなんて弱いみたいじゃない……

 

 続かないはずの空白の歴史。

 

 カルデアによってそのIFもピリオドが打たれた。

 

 

 なのに継続しているこの場所は果たして異聞帯とも、人類史とも呼べるのかしら。

 

 

 人の根付かぬ大地でギリシャの神は何を夢見るの。

 

 

 あなたたちはこの宇宙を飛んで、海を漕いで、どこへと羽ばたいているの。

 

 

 そんな疑問を発することも、答えることも誰もしない。

 

 ただ一度、彼に向かって手を翳す。

 神が助けを求めるような倒錯を起こしたわけではない。

 それはかの女神の最後の抵抗。

 一射、ラピスラズリが青い一筋の涙となってストーム・ボーダーへと届く。

 

「気をつけて、藤丸――ここの神々は何か、おかしいのよ――」

 

 黄金の光となって。

 砂漠の砂が嵐に巻き上がるように。

 

 彼女は金星の意を示し、消えていった。

 

「イシュタル!」

「イシュタルさん!」

 

 一滴の黄金の雫。

 青き聖杯に下る。

 

 満たせ。

 満たせ。

 満たせ。

 満たせ。

 満たせ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




久々の更新となりました。
お待たせしました。

この小説を完結させるのが先か、FGOが終わるのが先かという岐路に絶たされつつありますが、なんとか完結させたいとは思っています。



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