コナンの世界に転生した少女の物語 (エリンギどくだみ)
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プロローグ
雨谷瑠璃の決意


 私、雨谷瑠璃(あまやるり)は所謂『転生者』だ。

 

 その事実に気付いたのは、ほんの数日前のことだった。

 ふと何の前触れもなく、どこにでもいる普通の勤め人だった前世の記憶が呼び覚まされ、現在に至る。

 

 そこまではまだ良い。驚きはしたものの、すぐに割り切ることができた。

 築き上げた社会的地位は平凡そのもので、似たような毎日をただつくねんと過ごす退屈な生涯だったから、人生のリセットという意味ではむしろ喜ばしいことだと思ったのだ。

 

 問題は、転生先となった世界である。

 

 東京都米花市米花町在住、私立帝丹高校に籍を置く二学年の女子生徒。

 それが今の私。

 

 そう、現実には存在しない創作の世界、しかもあの『名探偵コナン』だ。

 

 全て合点がいった。

 異常な頻度で勃発する犯罪も妙な治安の悪さも、全ては推理物という作品の都合というわけだ。

 

 頭を抱えたのは言うまでもない。

 なぜよりによって、行き着く先が犯罪の跋扈(ばっこ)するあの米花町(べいかちょう)なのだろう。これは夢だ、という希望的観測を全面に押し出して現実逃避に終始するも、やがてそれが詮無いことだと痛感してしまう。十七年の記憶はしっかり脳内に刻み込まれているわけだから。

 

 唯一得したことといえば、容姿だろうか。自分の見て呉れなんて歯牙にも掛けていなかったけど、前世を思い出した後で鏡を見てみると、その差は一目瞭然だった。

 端正に整った顔立ち、おかっぱに近いボブカットの艶やかな黒髪、生まれ立ての赤子のように瑞々しい雪肌。一言で形容するならば、大和撫子といったところか。

 

 若いって素晴らしい、と悦に浸る。

 

 ただそれだけ。虚しい。

 いつ凶悪事件に巻き込まれるかわからない恐怖を考えると、容姿の美醜など些末な事柄に思えた。死ねば何もかもが無に帰してしまう。

 

 そんなこんなで、ここ最近は鬱屈とした日々を送っていた。

 

 

 

 

 

 

 放課後、()()は速やかに帰路に就いた。

 雑居ビルや商店が立ち並ぶ米花の街中をてくてくと歩く。

 

 クリスマスシーズンのこの時期は落陽が早い。遠方の空はすっかり茜色に焼けていた。

 これからディナータイムに入る飲食店が多いのだろう。にわかに一帯が活気付いて、夜の賑わいを見せ始めている。私達と同じように下校する生徒や仕事帰りの会社員もちらほら目に付くようになってきた。

 

「はあ……」

 

 そこそこ大きい溜息を吐いた。

 『米花いろは寿司』とか『米花総合病院』とか、名前に米花の二文字を冠する建物を目にすると、否が応でも自分がこの町の住人であることを実感してしまう。

 

「ちょっと、瑠璃? るーりー?」

「うえぇ!?」

 

 街の景観をぼんやり眺めていると、耳元で呼ぶ声がして、私は現実に引き戻された。

 素っ頓狂な声を上げてしまったような気がする。

 

 声がした方に頭を振り向けると、前髪をカチューシャで留めた茶髪の女の子、学友の鈴木園子(すずきそのこ)が怪訝そうな顔付きで私を見ていた。

 

「うえ、じゃないわよ。話があるからずっと呼んでるのに、ボケっとしちゃってさ」

 

 彼女は最初こそむくれてみせたものの、やがて心配そうに眉をひそめた。

 

「どうしたの? 悩み事? それとも具合でも悪いの? ここんとこずっとそんな感じじゃない」

 

 園子は鈴木財閥の御令嬢だ。

 準レギュラー的な立ち位置で、さほど出番が多い方ではない。お転婆を絵に描いたような娘で、金満家の生まれとは思えないほど感覚が庶民的。育ちの良さを鼻に掛けたところが全くなく、お調子者だが素直で良い子、という認識をまだ一読者だった頃に私は抱いた。

 

 親友となった今でも、その所感に変わりはない。

 こうして真から私の身を案じてくれている。

 

 私はひらひらと手を振った。

 

「大丈夫だって。ちょっと考え事してただけだからさ」

「考え事? あ、まさか……」

 

 園子は何か閃いたのか、急に「むふっ」と恵比須顔になった。

 なにやら目の前で小指を立てている。

 

 こういう時の彼女は決まって何かくだらないことを考えているのだ。

 

「なになに? ひょっとして、レコ? 恋煩いってヤツかしらん?」

 

 案の定である。

 しかも「レコ」とか、それなりに年を食った中年オヤジでも今時口にしない言葉だろう。

 

 私は口の先を尖らせて、脇腹の辺りを小突いてくる園子の肘をやんわりと押し遣った。

 

「違うよ! まったく、園子は相変わらず他人の色恋沙汰に敏感だよね」

 

 彼女はすっかり肩透かしを食った様子で、なぁんだ、と心底つまらなそうに嘆息した。

 それからニヤニヤと口元を綻ばせて、無二の親友である毛利蘭(もうりらん)を見遣った。

 

「少しは蘭を見習いなよ。なんたって、もう未来の旦那様を確保してるんだから」

「ちょ、ちょっと、園子!」

 

 『彼』との仲を茶化す園子と、頬を赤らめながら「そんなんじゃないわよ!」と憤慨する蘭という構図は実に見慣れた光景だ。読者としても友人としても。

 

 私はそんな微笑ましい二人のやり取りを傍から静かに見守る。

 

 毛利蘭。メインヒロインにして、武勇の誉れ高い空手の有段者。

 名探偵コナンに詳しい方ではないが、彼女の存在は知っている、という諸兄姉も多いのではないだろうか。この作品はやたらと戦闘力の高い御仁が多いが、蘭はその筆頭だろう。とにかく高校生離れした身体能力と卓越した格闘センスで大の大人を圧倒する。

 

 私が蘭と園子の知己を得たのは、高校に入学してまだ間もない頃のことだった。

 だから取り立てて長い付き合いではないけれど、私自身は懇意な間柄だと勝手に思っている。

 

 それでも、前世の記憶を想起してから一度、二人との関係を断つべきではないか、と考えたことがある。

 

 それはなぜか?

 一番の理由は、保身だった。

 

 やはり推理物のヒロインとその親友だけあって、両者は事件に遭遇する頻度が非常に高い。今までも、そしてこれからも、命の危機に瀕する場面が多々あるのだ。

 そんな二人と蜜月の関係を続ければ、どうなるか。想像に難くない。いずれ巻き添えを食い、五体満足ではいられなくなるのではないか、という不安が頭をもたげてくる。

 

 二人はまだ良い。

 当人達は知る由もないだろうけど、蘭と園子には『作品の主要人物』という後ろ盾がある。先日の包帯男の事件のように――ちなみに私は他に予定があって不参加だった――多少恐ろしい目に遭ったりすることはあるだろうが、命を落とす事態にまでは至らないはずだ。

 

 反面、私はどうだろう。

 雨谷瑠璃という人間は、本来存在し得ないはずのイレギュラーな存在だ。詰まるところ、命の保証などは皆無に等しい。

 

 まあ結局、友情を捨て切れずに今まで通りの関係を続けているわけだけれど。

 

 数日悩み通した結果、半ば捨て鉢気味に「ウジウジ考えていても仕方がない。この十七年間、何も知らずにそこそこ安寧の日々を送れてきたのだから、この先もなんとかなるんじゃないか」という答えに行き着いてしまった。

 事件の現場に居合わせた経験も何度かあるから、死体を目の当たりにしても気が動転することはまずないだろう。肉体の一部が欠損するような惨たらしいものは、さすがに勘弁してほしいけど。

 

 園子と些細な口論を繰り広げていた蘭は、あらかた捲し立てたことでスッキリしたのか、一息吐いてこちらにくるりと向き直った。

 

「でも、本当に無理しちゃダメだよ、瑠璃ちゃん。ただの考え事ならいいけど、体調が悪いんなら大人しく安静にしてないと……」

 

 不安そうな面持ちで私の顔を覗き込んでくる。

 

 私はそんな蘭の物憂げな表情を、何を言うでもなくただじっと見詰めた。

 いざという時は彼女の類い稀な膂力(りょりょく)に頼ることになるだろうと、今の話の流れにそぐわない他力本願なことを考えながら。

 

 「ん?」と小首を傾げながら微笑む蘭の肩に、私はポンと手を置いた。

 

「頼りにしてるよ、蘭ちゃん。いや、マジで」

「えっ?」

 

 直前の会話から、もしもの時の看病を依頼されたんだ、と勘違いしたのかもしれない。私の切迫した事情など露も知らないはずの彼女は、戸惑いながらも「任せて!」と威勢良く応じた。

 

 特に誤解を正す気がなかった私は、話の矛先を園子に向けた。

 

「それで? 私に何か話があるんじゃないの?」

「あ、そうそう! 今度の日曜なんだけど、予定空いてる?」

「暇だけど、どこか出掛けるの?」

 

 園子は「よくぞ訊いてくれました!」と興奮気味に声を張り上げ、立て板に水のようにその日の予定を話し始めた。

 

「私達、お父さんのコネで『レックス』のライブの打ち上げに参加することになったのよ! ボーカルの木村達也(きむらたつや)に会えちゃうってわけ! ねえ、瑠璃も一緒に行こうよ! 場所は駅前のカラオケボックス! こんな機会滅多にないわよ!」

 

 よくもまあコネがあるとはいえ、目下売り出し中のバンドに有象無象の女子高生を捻じ込むことができたものだな、と感心する。

 日本有数の資産と権力を誇る鈴木財閥の手に掛かれば、それぐらい造作もないというわけだ。

 

 芸能関連の知識に疎い私でも、レックスという名前だけはたしかに聞き覚えがあった。飛ぶ鳥を落とす勢いで破竹の快進撃を続ける新星のロックバンド、という触れ込みで連日ニュース番組に取り上げられている様子をよく目にするからだ。

 生憎、私は音楽にほとんど関心がないため、メンバー構成やどういった曲をリリースしているか、というところまではほとんど存じ上げない。園子に「今時の女の子らしくないわねぇ」などと苦言を呈されてしまいそうだ。

 

「うーん、まあ、特にすることもないから別に出席してもいいか……な……」

 

 よく考えもしない内にOKの返事を出し掛けた私は、ある可能性に思い至って、はたと言葉に詰まった。恐る恐る、といった調子で蘭に尋ねてみる。

 

「あ、あのさ……もしかして、コナン君もその打ち上げに参加するの?」

「えっ? うん、そうだけど……」

 

(やっぱりー!?)

 

 頭の天辺に大きなタライがゴーンと落ちてきたような衝撃だった。

 

 なんてことだ。この作品の主人公である『彼』――工藤新一(くどうしんいち)こと江戸川(えどがわ)コナンも一緒に参加するというのであれば、その打ち上げで殺人事件が発生する可能性を考慮しなければならない。

 推理漫画という作品の性質上、主人公の赴く先で事件が起こるのは至極当然のことなのだから。その事実を知らない目暮警部などは、彼を行く先々で死を招く『死神』などと揶揄しているけれど。

 

 私は必死に脳をフル回転させた。

 精神統一するように、意識を思考の深部に沈めていく。

 

 新一が世間的に蒸発して行方知れずとなったのは、つい最近のことだ。

 さほど日は経っていない。

 

 つまり、もし本当にそのカラオケボックスで凶行が起こるとするならば、それは原作の初期に収録されている事件のはずだ。

 

 どういう内容だったか。

 

 レックス、木村達也、カラオケボックス――。

 断片的で心許ない情報を頼りに、記憶を隅々まで探ってみせる。

 

 やがて、私は愕然とした。

 

 ダメだ、やはり皆目見当も付かない。これといった心当たりさえなかった。

 

 被害者の人数は一人か、あるいは複数か?

 どのような方法で殺害されるのか?

 動機は? 凶器の種類は?

 

 そういった諸々の概要すら何ひとつ思い出せない。

 こんなことならもっと原作を熟読しておくべきだった、と後悔した。

 

 私は名探偵コナンに造詣が深いわけではない。

 熱狂的なファンには程遠く、かといって全くの無知でもなく、そこそこの知識を有するありきたりな読者に過ぎない。そんな輩に最初期の話を思い出せ、というのは土台無理な話だった。月影島や前述の包帯男の話のように、印象深い事件ならともかく。

 

(ヤバい、どうしよう……! カラオケボックスで起こった事件なんてあったっけ?)

 

 警察に話を持ち掛けても、まともに取り合ってくれないだろう。

 にべもなく撥ね付けられるのは目に見えている。新一ほどの実績と信頼があれば、彼らも重い腰を上げるだろうが。

 

 いや、相談くらいなら乗ってくれるかもしれない。

 『殺人』というワードを耳にすれば、彼らも心中穏やかではいられないだろう。耳を傾ける価値はあるのではないか、という考えに至るはずだ。

 

 だがその後、事件が起こると分かった理由をどのように説明すればいい。

 未来予知のような力を持っているから、あらかじめ予想できました、とでも言えばいいというのか。そもそも本当に事件が起こるか、それすらも定かではない。

 

(頭痛くなってきた……)

 

「……瑠璃ちゃん、大丈夫? 顔真っ青だよ? やっぱり本当は具合悪いんじゃない?」

 

 どれほどの間、黙りこくっていたのか。

 不意に肩を揺さぶられて顔を上げると、硬い表情で眉尻を下げている蘭と園子の姿が目に入った。私に対して憂慮の念を抱いているのがよく分かる。

 

 私は二人の心配を和らげるようにフッと笑って、ゆっくりかぶりを振った。

 

「大丈夫。ちょっとここ最近、寝不足気味でもあったからさ。今度の日曜だっけ? それまでにちゃんと睡眠取って、体調崩さないようにしておくよ」

 

 園子は「ならいいけど……」と安堵の息を漏らした。

 

「じゃあ、当日夜七時に現地集合ね!」

 

 正式に約束を取り付けて、しばし足を止めていた私達はまた歩き出した。

 

 最初から『断る』という選択はなかった。

 二人を殺人が起こるかもしれない現場に向かわせて、私だけ安全なところに腰を落ち着けるのはあまりに寝覚めが悪い。

 

 それに――

 

 直接現場に乗り込めば、事件そのものを未然に防ぐことが可能かもしれない。

 最悪それが不可能でも、殺人を『未遂』に終わらせることができれば――。

 

 そんな虫の良いことを考えてしまった。

 

 

 

 



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カラオケボックス殺人事件
前編――『運命の改変』


 現在の心境は、例えるなら銃弾飛び交う戦場に出征する兵士といったところか。

 草陰に身を潜め、息を殺しながら全身の神経を尖らせる。今の私はそんな緊迫感に包まれているに違いない。

 

 「達也に会える!」とはしゃぎ通している蘭や園子とはどこまでも正反対な様相だった。

 

 指定のカラオケボックスに到着すると、レックスの面々は既に一堂に会していた。

 

 メンバー最年少でまだ幼さが残る目鼻立ちのギター担当、芝崎美江子(しばざきみえこ)

 バンダナにサングラスという独特の風貌のドラム担当、山田克己(やまだかつみ)

 裏方に置いておくにはもったいないほどの美人マネージャー、寺原麻理(てらはらまり)

 

 そして、レックスのリーダー的立場であり、アイドル顔負けのルックスを誇るボーカル、木村達也(きむらたつや)

 

 料理が全て出揃い、四人は「カンパーイ!」と各々のジョッキを突き合わせた。

 

「最高だったね、今日のライブ! 客のノリも良かったし!」

「ああ、みんな達也のボーカルのおかげだよ」

「飲み過ぎちゃダメよ、みんな。この後、トーク番組の収録が控えてるんだから」

 

 ライブはさぞ盛況の内に終わったのだろう。

 充実感と達成感に満ち溢れた彼らの表情がそれを物語っている。

 

「最高……ねぇ……」

 

 ただひとり、木村さんだけが仏頂面でビールを煽っているのが気になるところだ。

 ライブの出来に不満を抱いているのかもしれない。

 

「…………」

 

 沸き立つ彼らとは対照的に、蘭と園子は驚くほど大人しかった。

 あれほど舞い上がっていたのに、いざレックスのメンバーを目の前にすると、窮屈そうに肩を窄めて俯くばかりだ。一言も言葉を発しようとしない。

 

 緊張で身体が凝り固まっているのが丸分かりだった。

 一応、マネージャーの寺原さんが気を利かせて一声掛けてくれたおかげで、だいぶ場の雰囲気に慣れたみたいだけど。

 

 一方、私は全く違う意味で緊張していた。

 

 その瞬間はいつ訪れるのか、被害者と加害者は一体誰なのか。専らこれから起こるであろう殺人のことばかり気にしている。

 有名人との交流を楽しんだり、料理に舌鼓を打つ暇は微塵もない。私がすることは、ただひたすら『思案』と『監視』だけ。あれこれ考えを巡らせながら、さりげなく怪しまれないようにメンバーの一挙一動を注視しなければならない。

 

(気が滅入るなぁ……)

 

 さほど暖房は効いていないはずなのに、じっとりと背中に汗を掻いているような気がする。

 

 上着を一枚脱ごうとすると、誰かに袖を引っ張られた。

 

「ねえねえ、瑠璃ねーちゃん」

 

 いつの間にか隣にちょこんと腰掛けている眼鏡の少年――我らが主人公、江戸川コナンだった。

 

 思えば、新一が行方不明になったという報せを耳にした時は、随分と気を揉んだものだ。

 それからしばらくして彼から音沙汰があり、そんな折、前世の記憶を思い出したのだ。労せずして彼の所在を把握すると同時に、全ての秘密まで知る人間の一人となってしまった。

 

 目の前の少女に正体を知られているなんて、彼は夢にも思うまい。

 

「なんだか元気ないね。身体の調子が悪いの?」

 

 憂わしげな顔でそう問い掛けられて、私は思わず自嘲気味に笑みを漏らした。

 

 このところ、他人に体調を気遣われてばかりだ。

 風邪でも何でもなく、心の底から意気軒高だというのに。

 

「瑠璃ねーちゃん?」

「ああ、大丈夫だよ、コナン君。テレビで見る人達ばかりだから、ちょっと緊張しちゃってさ」

「……ならいいけど」

 

 まだどこか釈然としない様子の新一、いや、コナンに私はひたと視線を据えた。あの気障で自己顕示欲の強い生意気推理オタクが随分可愛らしくなったものだ、と物思いに耽ってしまう。

 

 眼前の少年が工藤新一であることも忘れて、私はぎゅう、とその華奢な身体を抱き締めた。

 肌に伝わる温もりと胸の中にスッポリ収まる抱き心地の良さが堪らない。擦り切れてささくれ立った心が洗われるようだった。

 

「ああ、コナンくーん」

「ちょ、オイ!? 瑠璃っ! ……ねーちゃん」

 

 突拍子もない行動に面食らい、思わず本来の自分に戻り掛けてしまったらしい。

 コナンは一瞬私を呼び捨てにしようとして、すぐ様取り繕うように「ねーちゃん」を付けた。

 

 私はコナンを熱い抱擁から解き放ち、努めてにこやかに破顔して彼の頭にポンと手を置いた。

 

「私のことは心配しなくていいから、他のお姉さんやお兄さん達とお話しておいで。ね?」

「う、うん……」

 

 なんとなく後ろ髪が引かれる思いがするのか、コナンは去り際にちらっと私を一瞥して、蘭達の談笑の輪の中に加わっていった。

 

(さて、どうしたものか……)

 

 私は肩を落とした。

 現状、打つ手がない。何の対策も方針も立てられず、打ち上げ当日を迎えたことは痛恨の極みと言わざるを得なかった。

 

 もちろん、ただ何もせず、無為に時間を浪費していたわけではない。

 自分なりに粉骨砕身して、レックスの内情を調べ上げたつもりだった。メンバー間の殺人と仮定するならば、不仲の噂は囁かれていないか、何らかのトラブルは持ち上がっていないか、等々――。

 

 結局、何の成果も上げられず、徒労に終わった。

 まずそういったゴシップニュースとは無縁のようだったし、彼らは仲が悪いと声高らかに主張するネット上の書き込みもあるにはあったけど、なにせ誰が発信したかも分からない真偽不明の情報だ。著しく根拠や信憑性に欠けるため、そのまま鵜呑みにするのは憚られた。確実に裏付けを取る手段もない。

 

 分厚い情報網を張り巡らせる敏腕記者でもあるまいし、しがない高校生に過ぎない私の調査力などたかが知れている。それ以上できることは何もなく、今日という日を迎えた次第だ。

 

 だが、僥倖と言うべきか、意外な形で被害者と思しき人物が判明した。

 

「うるせえ、ドブス! 引っ込んでろ!」

 

 ボーカル、木村達也である。

 

 多量のアルコールを摂取して酩酊状態にあるとはいえ、彼の横暴な振る舞いは目に余るものがあった。過剰な飲酒を咎めるマネージャーの寺原さんに対して、あろうことか「ブス」などと聞くに堪えない罵声を容赦なく浴びせる。罵倒の矛先は他のメンバーにも及び、ヘタクソ、俺がいなきゃ何もできない、など最早やりたい放題だ。

 

 歯噛みする寺原さん達を見ていると、憤懣やるかたない、という内心の怒りがありありと見て取れる。それでも、三人は声を張り上げて言い返すことはなかった。

 

 私達子供の手前ということもあったのだろうが、実によく耐え忍んだと思う。

 

 こうしてみると、不仲説もあながち馬鹿にできないのかもしれない。

 

(……わかりやっすー)

 

 コナンに限らず、多方面に恨みを買っていそうな人物が事件の被害者、というのは推理物によくあるパターンだ。過信は禁物だが、今回は木村さんが標的と見てまず間違いないだろう。

 

 問題は、加害者の方だ。

 

 被害者の予想が容易だった分、こちらはより特定が難しい。

 敵が多いということは、その分加害者の候補も多岐に渡るということだ。

 

 なんとか三人の中から候補者を絞る方法はないものか。

 

 そんな風に考えていた時だった。

 挙動不審な寺原さんの仕草が目に入ったのは。

 

 木村さんの当て付けで『赤鼻のトナカイ』を歌い終えた彼女は、席に戻るや否や、妙に忙しなくキョロキョロと辺りの様子を気にし始めた。じっくりと凝視していなければ、気付かないほどの慎ましい動きだったけれど。

 

 まるで、商品を懐に収める寸前の万引き犯のような警戒の仕方だ。

 やがて、彼女は意を決したように曲を入力するための端末を拾い上げて、素早く操作し始めた。

 

 どんな些細なことも見逃すまいと腹に決めていた私は、無礼千万を承知で、そっと気付かれないように彼女の背後へ回り込んでみる。

 

 ディスプレイには、このような文字が表示されていた。

 

「……血塗れの女神(ブラッディ・ビーナス)?」

 

 思わず、声に出して読み上げてしまった。

 

「えっ!?」

 

 寺原さんは目に見えて動揺した。

 びくりと肩を跳ね上げて、驚愕の色に染まり切った顔をこちらに振り向ける。口から心臓が飛び出る、という比喩表現があるけれど、今の彼女がそんな感じだった。

 

 こんなに驚かれるとは思っておらず、私は慌てて謝罪した。

 

「ごめんなさい。それって、木村さんのヒット曲ですよね? マネージャーさんが歌われるんですか? それとも、彼へのリクエスト?」

「……え……ええ、まあ……。そんな感じ……かしら……」

 

 謝りついでに色々訊いてみた私は、すぐに引っ掛かりを覚えた。

 

 なんだろう、この狼狽ぶりは。

 いくら不意に後ろから声を掛けられたとはいえ、これほどまでに唖然茫然とするものだろうか。今の彼女は半ば放心状態にあると言っても過言ではなく、しどろもどろでほとんど舌が回っていない。顔面蒼白で、目の前でパンと手を叩いた方が良いかと思ったくらいだ。

 

「本当にごめんなさい」

 

 私はもう一度謝って、踵を返した。

 戻る途中、茫然自失の寺原さんを肩越しに振り返って、彼女に対する疑念を深めていく。

 

(この人は要注意かな……?)

 

 自分が元居た場所に戻ると、またしても隣の空席にコナンが腰を下ろしていた。

 まるで私の帰還を待っていたかのように。

 

 彼は足の先をブラブラさせながら、こてんと首を傾げて私に尋ねてきた。

 

「あのマネージャーさんのことが気になるの?」

「うーん、まあ……そんなところかな」

 

 どのように答えていいか分からず、私は曖昧な返事をした。

 そういうコナンは、私のことが気になるらしい。

 

 無理もない。

 打ち上げに臨む以前から異様な気配を身に纏っている女子が目の前にいるのだから。

 

 

 

 

 

 

 木村さんがリクエストした曲を芝崎さんが歌い切った時、次の曲のイントロが流れ出した。

 

 レックスの成り立ちだけでなく、メンバー個人の経歴や趣味嗜好まで事細やかに精査した私にとって、曲名を当てることなど実に容易いことだった。

 下手なファンより博識、という自負がある。

 

 滑り出しの序奏を聴いただけで、すぐにピンと来た。

 

 これは木村さん随一のヒット曲、血塗れの女神だ。

 彼が即座に反応を示すのは、至極当然のことだった。

 

「おっと、俺の曲じゃねーか! 誰だ、リクエストしたのは?」

 

 木村さんは反射的に立ち上がった。

 すっかり歌う気満々で、脇目も振らず壇上に上がろうとする。

 

 そんな時、思わぬ人物から「待った」の声が掛かった。

 

 マネージャーの寺原さんだった。

 

「達也、もう時間よ! 早くしないと、トークショーに間に合わないじゃない」

 

 私は思わず「えっ?」と驚きの声を上げてしまいそうになった。

 

 何を言っているんだ、彼女は。

 トーク番組の収録に間に合わないからもう歌っている暇はない、と声を荒げて抗議している()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んじゃないか。

 

「うるせえ! 俺は歌いたい時に歌うんだよ!」

 

 当然、木村さんはけんもほろろに制止の声を撥ね付けた。

 大量の酒が入ってへべれけ状態な上、これまで身勝手かつ粗野な言動を幾度となく繰り返してきたのだ。今更素直に物言いを受け入れるはずがない。

 

 寺原さんはさして食い下がることもなく、渋々といった感じで彼のわがままを容認した。

 

「しょうがないわね。スタジオに遅れる旨を伝えてくるわ」

 

 彼女は呆れながらそう言うと、スタッフジャンパーを脱いで、ポケットからケータイを取り出した。そのジャンパーを片手に抱えたまま、足早に部屋を後にしようとする。

 

 まるで逃げるように、そそくさと――。

 

(あの人……)

 

 私は去っていく寺原さんの後ろ姿を射抜くような視線でじっと()め付けた。

 

「よっぽど気になるんだね。あのマネージャーさんのことが」

 

 また誰かに袖口の辺りを引っ張られて、私は隣に視線を移した。

 その誰かとは、言うまでもなく江戸川コナンである。

 

 これまでの子供らしい純粋無垢な表情ではなく、口を真一文字に締めた凛々しい顔付きでコナンは真剣に訊いてきた。『工藤新一』の部分が前面に出ているようだった。

 

「どうしたの? ものすごく怖い顔してたよ、瑠璃ねーちゃん」

 

 私は一瞬、逡巡した。

 いつもなら今までのように適当にはぐらかすところだけど、たった今覚えた違和感、深慮の一端を彼に打ち明けてみてもいいのではないか、と思った。なにせ、現在の姿形こそ幼いが、彼は日本警察の救世主と謳われるほどの名探偵なのだ。

 

 ひょっとしたら、望外の収穫を得られるかもしれない。

 

「いくぜ! 血塗れの女神!」

 

 マイクの前に立った木村さんもまた、イントロが終わると同時にスタッフジャンパーを高々と放り脱いだ。気炎を上げて、自身のヒット曲を熱唱する。

 

 私はそんな彼の姿を目に焼き付けながら、思い切って話してみることにした。

 

「あのマネージャーの人、なんでわざわざジャンパーを脱いだんだろうね」

「うん?」

「だってさ、ポケットからケータイを取り出すくらいなら、ジャンパーを着たままでも簡単にできるよね? ただ手を突っ込むだけなんだからさ」

 

 コナンは「うーん」と唸った。

 

「部屋が暑かったから、ついでに脱いでいったんじゃない?」

「そうかもしれないけど、じゃあその脱いだジャンパーを手に持ったままなのは、どういう理由があってのことなんだろう。ハンガーに掛けるか、そこら辺に放っておけばいいのに。片手が塞がって不便だと思わない?」

「……案外すぐ着るつもりなのかもしれないよ?」

 

 コナンは訝しげに眉根を寄せた。

 「普通そんなこと気になるか?」とでも言いたげな顔付きだった。

 

 私も、普通だったら気にも留めていないだろう。

 重箱の隅を突くような細かい指摘であることは重々承知している。

 

 それでも、あの寺原麻理というマネージャーに対しては、猜疑的な感情が拭えない。

 リクエストの件といい、先の不可解な行動といい、不審な点はいくつもある。

 

 木村さんに『血塗れの女神』を歌わせることが殺人の伏線になるというのか?

 そもそも、こんなに大勢の人の目が揃った状況で殺人を決行するというのか?

 

 またあれこれ熟考していると、曲を歌い終えた木村さんが鷹揚な足取りで私達部外者組の席に戻ってきた。満足げに頬を緩めて、蘭達に感想を尋ねている。

 

 蘭と園子は「とっても良かったです!」と拍手喝采を浴びせた。

 

「よお、克己! 俺にもそのオニギリ取ってくれよ」

 

 まだ腸が煮え返る思いなのか、山田さんはぞんざいな仕草で木村さんが所望するオニギリを投げ渡す。私は注意深くその様子を眺めていた。

 

 雷に打たれたような衝撃が身体を襲ったのは、その時だった。

 

 不思議な体験だった。今日に至るまで事件の概要なんてまるで思い出せなかったくせに、突然フラッシュバックのようにある光景が脳裏を凄まじい速度で横切っていった。

 

 それは、オニギリを口に運び、血を吐いて、苦悶に満ちた表情を浮かべながら倒れ伏す木村さんの無残な姿だった。

 

 もしかしたら、天に御座す神様が「いつまで呆けているつもりだ」と活を入れてくれたのかもしれない。

 

 木村さんがオニギリを頬張ろうとしている。

 ()()()()が、今訪れようとしている。

 

 何も考えない内に、私は叫び声を上げていた。

 

「ダメだ!」

 

 弾かれるような勢いで、私はソファから飛び出した。

 最も遠い位置に腰を下ろしていたことを、心底悔やんだ。間に合うだろうか。

 

 蘭や園子を突き飛ばすようにして脇に追い遣り、彼の懐に飛び込んで腕を振り上げる。

 力加減など考慮する余裕はない。渾身の力で振り下ろされた平手は、彼の前腕部に命中した。パァンと軽快な音が響き渡る。

 

 木村さんを黄泉の国へ誘うはずだった悪魔のオニギリは、彼の口の先に触れる寸前で手の平から零れ落ち、転々と床を転がった――。

 

 



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中編――『令和の女ホームズ』

 辺りは水を打ったようにしんと静まり返っていた。

 耳朶を打つのは、自分の荒い息遣いと早鐘を打つ心臓の鼓動、それに別室から響く賑やかな喧騒だけ。私達の部屋だけが氷漬けになってしまったかのように、誰も声を発せず、身動ぎもしない。

 

 皆が何事かと瞠目するのは当然のことだった。一人の少女が突然絹を裂くような悲鳴を上げて、メディアに引っ張りだこの有名人を叩くという暴挙に出たのだから。

 こうべを巡らすまでもなく、全員の視線が狂態を演じた私に集中しているのが理解できた。奇異の目で見られているのは明白だ。精神的な問題を抱えた面倒な子、という印象を与えてしまったのかもしれない。

 

 ばつが悪い感じがして、唇を噛んだ。

 全く損な役回りだ。

 

「な、なんだよ……急に」

 

 中でも、引っ叩かれた木村さん本人は特に度肝を抜かれた様子だった。へなへなと床に腰を落とし、ぽかんとした表情を顔に浮かべて私を見上げている。余程驚いたのだろう。まだ頬はほんのり紅色に染まっているものの、酔いはすっかり吹き飛んで素面に戻っている。

 

 私はホッと胸を撫で下ろした。泥酔とまではいかないものの、相手はそれなりに酒に酔って気分が高揚していた。酔っ払いは得てして感情のコントロールが利かないものだから、逆上した彼に殴り返されるんじゃないか、と身構えていたのだ。

 が、その心配はどうやら杞憂に終わったらしい。私の行動があまりに出し抜けだったので、怒りが激発するより先に呆気に取られてしまったようだ。

 

「蘭ちゃん」

 

 私は気を引き締め直して、蘭に呼び掛けた。

 

 ()()()()()()()

 目を開け、口を動かし、表情を顔に浮かべている。

 

 最悪の事態は免れた。

 本来の運命を捻じ曲げて、殺人事件を殺人『未遂』事件に変えることができた。

 

 ならば、後はもう物語の終着地点に向かって一気に突っ走るだけだ。

 

「警察に連絡して。毒殺未遂事件だって」

 

 私が放った衝撃的な一言に、周囲は騒然とした。

 狼狽えて何度も空を噛む山田さんや芝崎さんの姿を見ていると、内心の声が聞こえるようだ。

 

 毒殺? この上何を言い出すんだ、この娘は。

 本当に気が触れているんじゃないか?

 

「えっ? で、でも……」

 

 蘭は尻込みした。少しもソファから腰を浮かそうとしない。とても実行に移せないようだった。

 無理もない。蘭もまた、彼らと同じ心境なのだろう。本気でそのようなことを言っているのか、と。仮に立場が逆だったとしたら、私も同様に躊躇して正気を疑っていたに違いない。

 

 だが、今は説明する時間も惜しい。

 私は語気を荒げて「いいから!」と強く促すと同時に、目顔で「信じろ」と訴え掛けた。

 

 私の強固な意志を汲み取ったのか、蘭はまだ幾らか戸惑いながらもこくりと強く頷いて、ケータイを片手に室外へ駆け出していった。

 

 私は再び木村さんに向き直り、噛んで含めるように言い聞かせた。

 

「いいですか、木村さん。絶対に、右手を口元に当てたりしないでください。いいですね? 絶対ですよ?」

 

 そう、毒が塗り込まれていたのはあのオニギリではない。()()()()だ。

 毒が付着した右手でオニギリを掴み、それを口に放り込もうとしたから、彼は危うくお陀仏になり掛けたのだ。

 

 状況からして、あらかじめ料理に毒を仕込んでおくやり方では殺害は不可能に近いと断言できる。例えば、料理全てに毒が混入されていて、木村さんだけが平らげて良いという決まりなら確実に彼だけを始末できるだろうが、実際は私以外の全員が料理に手を付けている。

 無論、彼らは体調に異変など来たしていないし、仮にあのオニギリにだけ毒が仕込まれていたのだとしても、木村さんが手に取るかどうかは不透明なのだから、結局確実性に著しく欠ける。

 

 ならば、あのオニギリを渡した山田さんが直前に毒を混ぜたと考えられなくもないが、その線も限りなく薄いだろう。二人のやり取りを穴が空くほど見詰めていたが、そんな素振りは一切見受けられなかった。

 

 ゆえに、毒が塗付されていたのは右手と結論付けるしかない。

 

 最も肝要なのは、毒を盛った方法と時期だ。

 

 時期の方は容易に見当が付く。

 木村さんは『血塗れの女神(ブラッディビーナス)』を歌う直前、サンドイッチを頬張っていた。その時点では特に身体の異常は認められなかったのだから、毒が盛り込まれたのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということになる。

 

 つまり、犯人は我々の視線が集まっている中で犯行に及んだのだ。

 堂々と、簡単に――。

 

 情報を整理し終わった私は、山田さんと芝崎さんに注意を促した。

 

「室内の物にはくれぐれも手を触れないでください。殺人未遂の現場ですから」

 

 いきなり奇行に走った少女がわけのわからない世迷い言をのたまった挙句、なぜだか我が物顔で場を取り仕切り始めた。周囲の目にはそういう風に映ったことだろう。

 ついに堪忍袋の緒が切れたらしい。山田さんは苛立ちをあらわにしながら私に詰め寄った。

 

「なんなんだ……? さっきから何を言ってるんだよ、君は」

 

 実を言うと、私は内心ヒヤヒヤしていた。先程の行動は天啓に従ったまでで、本当に毒が仕込まれているかどうか、まだ肝心の確認を済ませていない。

 万が一、これがとんだお門違いで毒など欠片も存在しなかったとしたら、一体どうなるだろう。虚偽の通報で警察を動かし、所属アーティストに暴行を加えたことで事務所の怒りを買い、終いには鈴木財閥の顔に泥を塗った、そんな痴れ者として一生分の恥を背負い込むことになる。

 

 山田さんの燻ぶり始めた怒りの炎も、すぐに烈火の如く猛り出すことになるだろう。

 

 そんな私の悩める胸中を察したのだろうか。

 まるでタイミングを見計らったように、コナンが救いの手を差し伸べてきた。「瑠璃ねーちゃんの言う通りだよ!」と声を上げ、私の言動を全面的に肯定する。

 

 見ると、コナンはまだ腰砕けになっている木村さんの右腕を掴み、鼻先を手の平に近付けてスンスンと蠢かしていた。

 

「この臭い、たぶん青酸カリじゃないかな?」

 

 私は安堵の息を漏らした。おそらく大丈夫だろうと心の中では思っていても、可能性がゼロではない限り、人は憂いを断ち切れないものだ。

 彼の本当の身分を知る私にとって、これほど心強い保証はない。

 

 一方、山田さんや芝崎さんは腑に落ちない様子で困惑気味に互いの顔を見合わせている。

 当然だ。二人にしてみれば、可笑しなことを口にする可笑しな子供が一人から二人に増えたというだけの話なのだ。

 

「でも……」

 

 コナンは何か言いたそうな目で私をじっと見据えた。

 

 何を問いたいのか瞬時に理解した私は、その刃物のように鋭い厳しい視線から逃れるようにそっぽを向いて、素知らぬふりを通した。

 頼むから()()()()()()訊いてくれるな、と半ば嘆願するようにひたすら祈る。答えに窮するのは目に見えていた。たとえ体の良い言葉を総動員して説き伏せようとしても、頭の天辺から爪先まで理論武装したこの少年には全く通用しないだろう。

 

 これまた必死の思いが通じたのか、結局追求されることはなかった。

 

「達也っ!」

 

 その時だった。

 

 木村さんを呼ぶ声と共に、どたばたと騒がしい足音がこちらに近付いてくる。

 やがて、一瞬蹴破ったのかと思うくらいの勢いでドアが開かれた。血相を変えた女性が一人、つんのめるようにして室内に飛び込んできた。

 

 スタジオに遅刻の連絡をしに外へ出たはずの寺原さんだった。

 

 全速力でここまで駆け付けて来たのだろう。今の寺原さんは、まるでフルマラソンを完走したランナーのようだった。顔中汗だくで、空気を貪り食うように肩で息をしている。退出する前に脱いだジャンパーを脇に抱えていた。

 

「達也……」

 

 彼女はようやく身を起こした木村さんを茫然と見詰めながら、もう一度その名を呟いた。

 壊れたお喋り人形のように、抑揚を欠いた声で――。

 

「その……大丈夫、なの……? さっき毛利さんに……あなたが毒を盛られて……殺され掛けたって……聞いたけど……」

 

 私に盗み見された時のように、彼女はひどく狼狽していた。完全に顔から血の気が失せている。比喩でも何でもなく、本当に血が通ってないんじゃないかと思うくらい唇まで真っ青だった。手足の先はぶるぶると震え、見開かれた目は驚愕の心中を表すように大きく揺れ動いている。

 

 彼女の姿を見て、ほとんどの人は「毒殺未遂の報せを聞いてひどく動転しているのだろう」と受け取るはずだ。

 

 違う。

 

 私は確信した。

 あの動揺の仕方。間違いない。

 

 寺原さんは()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

「さ、さあ……? 俺にも何が何だかよくわからなくてよ……」

 

 木村さんはちらりと私を横目に見ながら、首を横に振った。

 寺原さんはそんな彼に駆け寄り、ポンと肩に手を置く。

 

「とにかく無事なのね? なら、良かったわ……」

 

 安堵する裏で微かに引き攣った笑みを口元に湛えたのを、私は見逃がさなかった――。

 

 

 

 

 

 

 警察の出足は速い。

 背中に羽でも生えているのかと思うくらい迅速な出動だった。通報からほとんど時間を掛けず、彼らはこの事件現場の一室に雪崩れ込むように押し入ってきた。

 

 立派な口髭を貯え、茶色の中折れ帽とコートを着用した恰幅の良い刑事が私達の目の前で「ふうむ」と思案するように唸りながら、部屋の中を見渡している。

 

 彼もまた、コナンの中では知名度の高いキャラクターだ。

 

 警視庁捜査一課に所属する名うての警部、目暮十三(めぐれじゅうぞう)である。

 公正明大で、ともすれば厳烈とも取られかねない熱い正義感と使命感を秘めた優秀な刑事ではあるのだが、如何せん犯人のミスリードに引っ掛かる場面も多々あり、その推理力は新一などの名立たる探偵に比べると今一歩劣る感じは否めない。

 

 ちなみに、私は既に目暮警部の面識を得ている。

 下の名前で呼ばれるぐらいには親交があった。

 

 彼はやがて、詳しい事情は分かりました、と得心したように言った。

 

「まず、木村さん。詳しい検査はこれからですが、コナン君の言う通り、あなたに盛られたのは青酸カリと見てまず間違いないでしょう」

 

 警部の言葉を受けて、私とコナン以外の全員が一斉にどよめいた。

 ごく当たり前のことだが、半信半疑、いや、ほとんど十割懐疑的な目で見ていた彼らも、警察の見解であれば十分に信用に足るらしい。

 

「マジかよ……」

 

 木村さんは絶句した。彼が受けた衝撃とその落胆ぶりは特に群を抜いていた。

 無理もない。毒物を盛られたということはつまり、何者かが明確な殺意を以って彼を害しようとしたということに他ならない。

 

 動機がない私達部外者組を除けば、おそらく他のメンバーの誰かに――。

 

「あー、それで……ちょっと瑠璃君に伺いたいんだが……うーん……」

 

 目暮警部は頬をぽりぽりと掻きながら、私に質問を投げ掛けようとする。

 妙に歯切れが悪い。なにやら言い淀んでいる。

 

 何を訊き出したいのか事前に察知した私は、観念したように粛々とその時を待った。

 

「その……殺人を未然に防いだことは大変喜ばしいことだし、称賛に値することでもあるんだが……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んだね? そこが不思議でならないんだが」

 

 当然の疑問だろう。

 

 私は顔の裏側で表情を曇らせた。

 最も痛いところを突いてくる。コナンもおそらくそれを訊きたがっているのだ。

 

 神様のお告げがあった、なんて答えようものなら、確実に物笑いの種にされるだろう。それで納得するとは到底思えない。ここは「独特の甘酸っぱい臭いがして、それで分かった」とする方が無難ではないか。一応、筋が通っていると思えなくもない。

 

 が、それは徹頭徹尾、忌避しなければならない答え方だ。絶対にやってはいけない。

 

 私はあの時、部外者四人組の中で彼から最も遠い位置に腰を下ろしていたのだ。毒に一番近い本人でさえ、その悪魔の芳香についぞ気付くことはなかったのに、どうして私が判別できるのだろう。犬のような鋭い嗅覚を有しているわけじゃあるまいし。

 

 目暮警部程度ならその弁明でギリギリ押し通せるかもしれないが、あの優秀な頭脳を持つ目敏い少年だけは決して主張の穴を見逃さない。

 まったく、事件に対処しながら、同時にボロが出ないように国内屈指の名探偵を相手取らなければならないなんて。まだ十七歳のうら若き乙女なのに、ストレスで胃に穴が空いてしまいそうだ。

 

 いいだろう。とっておきの『秘策』がある。

 

 私はコホンと咳払いした。

 

「分かりました、お教えしましょう。それは……」

 

 目暮警部の喉仏がごくりと上下した。

 どんな言葉が飛び出すのか。緊迫の面持ちで次の二の句を待っている。

 

 私は鈴を転がすような音色の声を部屋中に響かせた。

 

「ビビッと来たんですよ! この私、令和の女ホームズと謳われる雨谷瑠璃の鋭利に研ぎ澄まされたシックスセンスがね!」

 

 瞬間、しーんと場の空気が静まり返った。

 猫も杓子も目が点になっている。あんぐりと顎が外れそうなほど口を大きく開け、その場に縛り付けられたかのように硬直している。

 

「……はあ?」

 

 ようやく、幾らか驚愕から立ち直った目暮警部が言葉を発した。

 「君、そんなキャラだっけ?」とでも言いたそうに憐みの視線を私に向けている。

 

 頼む。

 お願いだから、可哀相なものを見るような目で私を凝視しないでくれ。

 

 早くも顔が火照り出した。目尻に少し涙が浮かんでいる。

 もういい、ままよ。続けるしかない。愚策は承知の上だ。私は芝居掛かった口調で、身振り手振りを交えながら大仰に弁舌を振るう。歌劇団の演者のように。

 

「そう、我々が見ている前で毒を盛った犯人の手並みは見事なものでした。その早業は私が持つ三種の神器の内の二つ、真実を見通す『慧眼』を騙し切り、怜悧な『頭脳』をも鈍麻させた。しかし、最大の武器である『第六感』だけは制御の埒外だったようです。私は瞬間、木村さんの危機を察知し、なりふり構わず飛び出して行ったというわけです!」

 

 依然、場の空気は死んでいた。

 ご静聴ありがとうございました、とでも締め括れば良いのだろうか。

 

 恥も外聞もかなぐり捨てたゴリ押しが功を奏したのか、目暮警部は「ああ、そう……。よく分かったよ……」と目を逸らした。それ以上、説明を求める気はないようだった。

 

 恥ずかしい。

 今の私の顔は、茹で上がったタコのように耳の先まで真っ赤に染まっているのだろう。

 

 自分で発言しておいてなんだが、もっと他に適切な表現はなかったのだろうか。

 何だろう、令和の女ホームズって。推理クイーンを吹聴する園子じゃあるまいし。

 

 結局、神様のお告げと大差ない稚拙な弁明だった。

 さしものコナンも「ハハハ……」と苦笑いするしかないらしい。

 

 本当に損な役回りだ。

 

 気を取り直した目暮警部は、顎に手を当てて再び考え始めた。

 

「しかし、瑠璃君の推理通り、あらかじめ料理に毒を盛る方法は不可能だ。だとすれば、犯人は一体どうやって木村さんの右手に……」

 

 うんうん唸りながら、頭を捻っている。

 

 しかし、こう言ってしまってはなんだが、この事件はほとんど勝ち戦みたいなものだ。

 未だ詳細を思い出せなくても、手に取るように全て分かる。毒が塗り付けられた正確なタイミング、具体的な方法、そして犯人――。

 

 コナンの手を煩わせるまでもない。

 私の独力でなんとかなるはずだ。

 

 毒が仕込まれたのは、木村さんが『血塗れの女神』を歌い始めてから歌い終わって席に戻るまでの間だから、その時ちょうど席を外していた寺原さんに犯行は不可能だ、と結論付けることもできる。

 

 が、これもまた推理物の定番だ。

 確固たるアリバイを持ち、疑わしい点が最も少ない人物が逆に事件の真犯人。

 

 あくまで寺原さんを毒殺未遂事件の犯人と断定するのであれば、こう考えるしかない。

 

 その場に居なかったから犯行は不可能、ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

(やっぱり、あの瞬間を私に垣間見られていたのは致命的でしたね。寺原さん……)

 

 私は彼女の横顔をちらりと睨み据えた――。

 

 



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後編――『生きていれば……』

 犯人は九分九厘、マネージャーの寺原麻理で間違いないだろう。

 

 私は目蓋を閉じ、人差し指の先で額の中央をトントンと叩きながら思惟に耽った。

 木村さんの右手に毒が付着した時期は、彼が『血塗れの女神(ブラッディビーナス)』を熱唱してから席に戻るまでの間であり、曲を歌うように仕向けたのはその時中座していた寺原さん自身だ。

 

 これが意味することは、一体何なのか。

 『血塗れの女神』を歌わせることによって、遠く離れた場所からでも毒を仕込むという離れ業を可能にした、という事実を暗に示しているのではないだろうか。

 

 私は、歌の途中で彼の右手が『どこ』に触れていたのか、よく思い返してみた。

 

 記憶を取り違えていなければ、該当箇所は二つ。マイクの取っ手と、()()()()()()だ。

 なぜその二箇所に接触していたのか。前者については言うまでもないだろう。後者は曲の振り付けで、マイクを一旦スタンドに置いて腕を組み、反対側の手で左右の肘を掴むという部分があるのだ。

 

 寺原さんはどちらに毒を塗り付けて、間接的に彼の右手へ移したか。

 

 端的に言えば、取っ手の可能性は無きに等しい。木村さんの御指名で『赤鼻のトナカイ』を歌わされた際に仕掛けを施したと考えられなくもないが、それでは彼女の直後にマイクを握った芝崎さんの利き手にも毒が付いてしまう。

 無関係の人間を巻き添えにするほど狂気的な怨嗟に取り憑かれているとは思えない。あくまでターゲットは木村さんのみのはずだ。

 

 となると、残るは左肘しかない。

 

 おそらく、木村さんが身に纏っていたスタッフジャンパーの()()の左肘に当たる部分にあらかじめ毒を塗付しておいたのだろう。それに袖を通せば、下に着用したシャツの同じ部位の()()に毒が付着することになる。

 後は振り付けに従ってジャンパーを脱ぎ去り、右手で左肘に触れば、彼の命を絶つ『爆弾』が自動的にセットされるという寸法だ。彼の自前のシャツに直接細工することは困難を極めるだろうが、事務所が発注する上着であれば造作もないことだろう。マネージャーとして辣腕を振るう寺原さんであれば、尚更だ。

 

 私は深い思考の海から意識を引き上げて、目を開けた。マイクスタンドの近くに捨て置かれた木村さんのジャンパーに視線を向ける。

 

(もし私の推理通りなら、今もアレに毒が――)

 

 そこまで考えて、私はハッと息を呑んだ。

 自然と足が動いた。既に鑑識が入って捜査を進めているというのに、堂々とお構いなく室内のど真ん中を闊歩していく。その勢いと不躾さにぎょっとして、数人が私を振り返った。

 

「お、おい! 瑠璃君!」

 

 仰天したのは目暮警部も同じだった。無断で現場に立ち入る私を止めようと手を伸ばすが捕まえられず、すぐに背中を追ってきた。

 

 私の鬼気迫る様子にただならぬものを感じ取ったのか、コナンも遅れて追従する。

 

「コ、コナン君まで……。一体どうしたというんだね、いきなり」

 

 困惑する警部を意識の外に追い出して、私は壇上に立った。その場に膝を着いて腰を下ろし、件のジャンパーを食い入るように見詰める。

 思った通りだ。間違いない。木村さんが投げ捨てた時は背中が上を向く形で床に落ちていたのに、今は逆だ。()()()()()()()()()()()()()

 

 私は近くの鑑識官に鋭く尋ねた。

 

「このジャンパーですけど、弄ったりしましたか?」

 

 その鑑識官は鳩が豆鉄砲を食ったように、きょとんと目を丸くした。

 捜査関係者でもない少女に咎め立てするような口調でそんなことを訊かれるなんて、思ってもみなかったのだろう。彼はうんともすんとも言わず、たじろいだ。やがて、助けを請うような目付きで目暮警部に視線を送った。

 

 警部が仕方なさそうに肩を竦めて、彼の代わりに答える。

 

「いや、まだ現場保存の段階に取り掛かったばかりだから、誰も手は触れておらんよ」

 

 入口の近くで私達の様子を不安そうに見守っている蘭や園子、レックスの面々にも同じ質問を投げ掛けてみた。

 

 彼らは一様に首を横に振る。「ノー」ということらしい。

 

「コレがどうかしたの?」

 

 向かい側から四つん這いの姿勢でジャンパーを隈なく眺め回していたコナンが、顔を上げて私に問い掛けてきた。

 

 私は渋面で首を捻りながら、重々しく口を開いた。

 

「さっきと向きが違うんだ。それと、微妙に位置も変わってる」

「本当? よく見てるんだね」

 

 器用なもので、コナンは片方だけ眉を上げた。どうやら素朴に驚いたらしい。

 木村さんが殺されると既に予知していたから、彼自身や私物の配置に逐一気を配っていたとは口が裂けても言えなかった。

 

 最初はあの騒ぎで誰かがうっかり踏み付けてしまったのかと思ったが、見たところ、靴跡の汚れは一切見当たらない。

 

 コレを手に取ったのが犯人だとしたら、大した胆力だと舌を巻く他なかった。あれほど私が厳命に近いレベルで「室内の物に触るな」と警告していたのだから。

 警察が来るまで各人の動向には十分目を光らせていたつもりだったが、おそらく注意が逸れた一瞬のスキを突いて、素早く行動に移したのだろう。つまり、そのような危険を冒さなければならないほど、このジャンパーに重大な用があったということだ。

 

 それは何か?

 決まっている。()()()()()()()()()()()()

 

 普通であれば、外側ならともかく衣服の内側に毒など付着するはずがない。捜査が進展してその事実が発覚すれば、自分が仕掛けた殺人のメカニズムが洗いざらい解明されてしまうかも、と恐れを抱いたのだろう。

 

 しかし、やろうと思って簡単にできることだろうか。

 その場で毒を綺麗さっぱり拭い去るなんて。

 

 いや、たとえそれを可能にする手段を持ち合わせていたとしても、()()()()()()()

 

 私はジャンパーを掴み、ポケットの中を手当たり次第まさぐってみた。

 今度の目暮警部の慌てぶりは、さっきの比ではなかった。

 

「おいおい! 困るよ、瑠璃君! 現場の品をみだりに物色しないでくれたまえ! ホームズごっこも良いが、時と場所を考えてだね……」

 

 やはり、これほどのおいたになると見逃してはくれないらしい。

 致し方ない。再び名を捨てて実を取るとしよう。私は彼の言葉を遮るように、しーっ、と人差し指を口元に当てて茶目っ気たっぷりにウインクした。

 

 またあの痛々しい探偵気取りである。

 

「警部、どうかお静かに願います。かの名探偵、エルキュール・ポワロ氏のように今、私の灰色の脳細胞が活性化を始めたところなのですよ!」

「……そろそろ本気で怒っていいかね?」

 

(ひーん! やっぱり、逆効果だあ……)

 

 自分は探偵、という意思を明確に示せば多少は大目に見てくれるかもしれない、という甘い賭けに出てみたのだが、やはりそうは問屋が卸さないらしい。むしろ、彼の神経を逆撫でしただけだった。グルグルと唸る犬のようにちらりと歯を剥き出しにして、青筋を立てている。

 

 新一のように確かな実績と武勲を立てた上で知遇を得なければ、とても例外的な捜査権など与えられないということだろう。目暮警部にとって、私はどこまでも『一般人』に過ぎないらしい。

 

「……あれ?」

 

 目暮警部に応対しながら内ポケットの中を探っていた私は、本来あるはずの手応えがないことに違和感を覚えた。ジャンパーを逆さまにして、何度か上下に揺さ振ってみる。

 

 やはり、ポケットの中身は空だった。『例の物』が落ちてこない。

 

 さすがと言うべきか、私の一連の動作でコナンは察したようだった。

 

「もしかして、無くなってるの? 木村さんのライター」

「……うん」

 

 そう、彼は喫煙者でライターを所持している。

 打ち上げの最中、しきりに内ポケットから取り出して煙草に火を点ける姿を何度も目にしてきた。使用した後はテーブルの上には置かず、いつも決まってポケットの中に仕舞い込んでいたはずなのに、今は影も形もない。所在不明になってしまった。

 

(そうか……)

 

 全て合点がいった。なぜあの時、寺原さんはわざわざジャンパーを脱去して外に退出したのか。そして、完璧に毒を取り去った方法も。

 

 これなら消えたライターの謎も説明が付く。

 

 どこかに潜り込んでしまった可能性を考えたのか、コナンは辺りの物を片っ端から引っ掻き回そうとした。

 

「コナン君」

 

 そうする前に、私は彼の肩に腕を回して、そっと胸元に抱き寄せた。目暮警部に話を聞かれないように互いの頭をくっ付け合い、ヒソヒソと耳元で囁く。

 

「たぶん、ライターは出てこないと思うよ」

「どうして? 犯人が持ってるとか?」

「そのまさかだよ。これから私が犯人に問い詰める」

 

 一瞬何を言っているのか理解できなかったのか、コナンは一呼吸置いてから目を瞠った。

 

「……ええっ!? もう分かったの!?」

 

 驚愕するのも無理からぬ話だ。彼ほどの猛者であっても、今はまだ情報を掻き集めて、推理の筋道を構築していく段階のはずだから。

 言ってしまえば、私は徒競走でフライングを決めているようなものだった。皆、事件が発生した時は『ゼロ』の状態からスタートなのに、私だけ『七十』の辺りから始まっている。反則を犯しているのと同義で、決して威張れたものじゃない。

 

 だが、真実の究明に勝ったも負けたも卑怯もないだろう。

 任せろ、とばかりにニヤリと口の端を吊り上げて、コナンの頭をそっと撫でる。

 

 目暮警部が後ろでパンパンと手を叩いた。

 

「とにかく! 皆さん、一度署まで足を運んでいただけますかな? 詳しい話はそれから……」

「ちょっと待ってください、目暮警部」

 

 私は立ち上がり、入口へ引き返そうとする警部を呼び止めた。

 

 彼はまだ何かあるのか、と言いたそうなしかめっ面をこちらに振り向けてきた。

 さしたる功績もない少女の探偵ごっこにかなり辟易しているらしい。

 

 私は質問がある、と木村さんを名指しした。

 

 木村さんは最初こそいきなりの指名に戸惑ったものの、すぐに快く応じてくれた。どうやら、幾らかショックから立ち直ったらしい。まだどこか気落ちしている様子で、かつての居丈高な態度は見る影もないが、微かに笑みを湛えた。

 

「いいぜ。アンタは命の恩人らしいしな。何を訊きてえんだ?」

「あなたが愛用するライターのことなんですけど、いつも使った後はジャンパーの内側のポケットに仕舞っていましたよね? どこかに放っておかずに」

 

 木村さんはやや滑稽なほど驚いてみせた。

 

「よく見てるな。その通りだよ」

「でも、さっき私が調べた時、ライターはありませんでした」

 

 それを聞いて、彼は「おかしいな」と不思議そうに首を傾げた。

 

「放り投げた時に、どこかに吹っ飛んじまったのかな?」

 

 私は横目にちらりと寺原さんの様子を窺った。

 ついさっきまで特に取り乱した感じもなく私達の会話を傾聴していたのに、今の彼女は医者に余命を宣告された時のようにスウッと青ざめて、その場に立ち尽くしていた。

 

 あの反応。間違いない。

 今この時に至るまで、彼女は毛ほども気付いていなかったのだ。自分がとんでもないミスを犯したことに。知らず知らずの内に、自らの犯行を示す決定的な証拠を抱えてしまったことに。

 

 もはや焦りを包み隠す余裕もないのだろう。

 彼女は早口に捲し立てた。だいぶ声が上擦っている。

 

「あ、あの、警部さん? 警察に伺う前にお花摘みに行ってもよろしいかしら? 申し訳ないんですけど、我慢できそうになくて……」

「えっ? ああ……。婦警が付き添うことになりますが、それでもよろしければ」

 

 事件の容疑者とはいえ、尿意を辛抱できそうにないと訴え掛けられたら、さすがの目暮警部も首を縦に振るしかない。彼は婦警の随伴を条件に許可を出そうとした。

 おそらく、この機に乗じてなんとか証拠を隠滅する腹積もりなのだろう。そのままむざむざと背中を見送るわけにはいかない。私は「待ってください」と掣肘(せいちゅう)を加えた。

 

「それは私の推理を聞いてからにしていただけますか? 犯人の寺原麻理さん」

 

 この場にいる全員が「ええ!?」と悲鳴に近い声を上げて、驚愕の色を浮かべた。

 きゅっと唇を噛み締める彼女に視線を注ぐ。

 

 危うく殺され掛けた木村さん本人も、信じられないといった面持ちで唖然と目を据えた。

 

 しばらく衝撃に打ちのめされていた目暮警部は、やがて「何を荒唐無稽な……!」と非難がましく反論を展開した。

 

「寺原さんに犯行は無理だよ、瑠璃君。忘れたのかね? 木村さんの右手に毒が盛られたのは、彼が『血塗れの女神』を歌ってから席に戻るまでの間。彼女はその時期、ずっと外で電話を掛けていたんだぞ」

「確かに一見すると、寺原さんに犯行は不可能と思えます。しかし……」

 

 私は心の中で自分に落ち着け、と言い聞かせた。

 人前で推理を披露するのは初めてのことだから、思った以上に身体が強張っている。中身の整合性もそうだが、話の進め方、間の取り方も説得力を持たせる大事な要素のひとつだろう。女ホームズを名乗った時のように、大袈裟で堂々としているくらいがちょうど良い。

 

 大丈夫。私の推理は間違っていないはずだ。

 

 咳払いをして、まるで舞台を演じるような調子で先を続ける。

 

 最初から最後まで、順序立ててよく説明した。

 『血塗れの女神』をリクエストしたのは寺原さん自身であること、振り付けを利用して最終的に毒を右手へ付着させたこと、証拠の隠滅を図ったこと、丸ごと全部。

 

 その間、寺原さんは激しく言い募ることはなく、伏し目がちに自分の足元を見ながら黙々と耳を傾けていた。

 

 目暮警部は「うーん」と渋い顔で唸った。

 まだこの程度では、一から十まで納得するというわけにはいかないらしい。

 

「たしかに彼の左肘やジャンパーの内側から毒が検出されれば、君の推理を裏付けるものになるかもしれないが……。でも、そのジャンパーについては犯人が証拠の隠滅を図ってしまったんだろう?」

 

 私は足元のジャンパーを拾い上げ、皆に見えるように掲げてみせた。

 

「ところが、よく考えてみてください。毒なんてそう簡単に跡形もなく消去できるものでしょうか? この場でやるには、事前にそれなりの準備が必要になるでしょう」

「それは、まあ……」

「仮にそれを完璧に実行できる手段を持ち得ていたとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。私は皆さんの動向に注意を払っていましたから。ほんの少しの間目を離したスキに、一瞬だけジャンパーを手に取るぐらいはできるでしょうが」

 

 私は一度、ここで説明を中断した。

 一気に喋り過ぎたおかげで、喉がカラカラに渇いている。息を整える必要があった。よくもまあ、コナンは毎回他人の口調を真似ながら、あれほど流暢に弁舌を振るえるものだ。

 

 ごくりと唾を飲み込んで、続きを再開した。

 

「しかし、たったひとつだけ、ほとんど時間を掛けずに毒を除去する方法があるんです」

「なんだね、それは……?」

 

 警部はいつの間にか引き込まれているようだった。

 身を乗り出して、次の二の句を待っている。

 

「簡単です。()()()()()()()()()()()()()()()()()()んです。これならただひょいと拾い上げるだけだし、毒の痕跡もその場から綺麗さっぱり無くなります」

 

 警部は拍子抜けした様子で、そんな馬鹿な、と私の推理を一笑に付した。

 

「も、持ち去ったって……。現に今、君が持っているじゃないか。第一、ジャンパーくらいの大きさの物を抱えていたら、すぐに分かって……」

 

 レックスのメンバーを順に見回していた目暮警部は、不意に電池切れを起こしたおもちゃの人形のようにピタリと止まって、言葉を切った。見る見る内に顔色が変わっていく。

 

 ようやく、彼も真実に行き着いたようだ。

 

「ま、まさか……」

「そう、持ち去っただけじゃない。自分のと()()()()()んです。つまり、私の手元にあるのは元々犯人が着用していたジャンパーで、木村さんのものは犯人が今も身に纏っているというわけです」

 

 目暮警部は「なるほど」と得心した。

 

「スタッフジャンパーで色と柄も全く同じだから、袖を通していても、すり替えに気付かれることはないというわけか」

 

 私は死んだように黙りこくる寺原さんに語り掛けた。

 

「だからあの時、ケータイを取り出すふりをしてジャンパーを脱いで行ったんですよね? そのまま手放さずに脇挟んでいたのも、後のすり替えをよりスムーズに行うためだ」

 

 依然、彼女はがなり立てたり、気色ばんで反論に打って出ることはなかった。何か重い物でも圧し掛かっているかのように背中を丸めて、ただ下を向いている。

 反駁しても詮無いことだと観念しているのだろう。『アレ』を抱えている限り、生存への道は閉ざされたも同然だ。

 

 目暮警部は寺原さんに一歩詰め寄った。

 

「寺原さん、そのジャンパーを調べさせていただきます。例の箇所に毒が見つかれば、言い逃れは……」

 

 私は彼の言葉を遮った。

 

「いや、毒が検出されても、それはもう決定的な証拠には成り得ないでしょう。彼女は部屋に戻った時、木村さんの身体に触れていましたから。その手でジャンパーを着たのだから、毒が出てきても不思議ではないという主張が成立してしまいます」

 

 私は彼女のある部分を指差して、それより、と続ける。

 

「内ポケットの中身をさらってみてください。もっと確実な証拠が出てきますから」

 

 目暮警部は一瞬、ためらいがちに逡巡したが、やがて意を決したように「失礼!」と襟元の辺りを掴んで捲り、内ポケットに手を突っ込んだ。

 

 中から顔を覗かせたのは、金属製のオイルライターだった。

 

 警部は目を見開いた。

 

「こ、これは……!」

「そう、行方不明になっていた木村さんのライターです。それがポケットに入っているとは知らず、彼女は入れ替えを実行してしまったんですよ」

 

 瞬間、寺原さんは激しく身を捩った。今まで大人しく頭を垂れていたのに、ジャンパーを掴む警部の手をハエでも叩き落とすかのようにぞんざいな手付きで払い除ける。

 

 二、三歩後ずさり、凄まじい剣幕で喚き散らした。

 半狂乱に陥ったみたいだった。

 

「違う! 犯人は私じゃない! そのライターはただ床に落ちていたのをたまたま拾っただけよ! すぐに達也のだと分かったから……後で……返そうと……」

 

 だが、その勢いも次第に尻すぼみとなる。

 私が黙って見詰めていると、彼女は臆したように言葉尻を呑み込んだ。

 

 私は最後の一撃を見舞った。

 

「なら、そのライターからあなたの指紋が出るはずですよね? まさか、それを拾うためだけに手袋をしていたわけじゃないでしょう?」

 

 彼女は「あ、う……」と喘いだ。

 まだ逃げ道を模索しているらしい。頭の中で必死に言い逃れの算段を立てているのが分かった。キョロキョロと虚ろな視線を宙に彷徨わせ、何か言い訳の言葉を紡ごうと何度も口を開くが、声が出てこない。

 

 やがて、彼女は地面に吸い込まれるようにがくりと膝を落として、力無く座り込んだ。

 白旗を上げた瞬間だった。

 

「しかし、なぜ彼女は木村さんを……」

 

 いかような動機があって今回の凶行に及んだのか、気心の知れた間柄でもない目暮警部には皆目見当も付かないようだった。無論、それは原作知識がなければ、私にも当て嵌まることである。

 推理を披露する内に、だんだん思い出してきた。この事件がすれ違いの末に生まれた痛ましい悲劇であるということを。本当に今更だけど。

 

 なぜ今の今まで忘れていたのだろう。

 

「許せなかったのよ……」

 

 寺原さんは蚊の鳴くような声で呟いた。

 やがて、それは空気を裂くような怒号に変わる。彼女は目に大粒の涙を溜めて、恨みがましい目付きで木村さんを見上げた。憤怒に顔を歪めながら、内に溜め込んだ感情を洗いざらいぶちまけた。

 

「あなたのことをずっと信じてた……! 愛してた……! だから……許せなかったのよっ!!」

 

 

 

 

 

 

 寺原さんは、ぽつりぽつりと一言ずつ噛み締めるように動機を自供した。

 

 彼女は木村さんを愛していた。

 アマチュアのバンドで共に活動していた頃から、ずっと――。

 

 ある日、音楽制作会社のお眼鏡に適って、彼がプロの世界に足を踏み入れることになった。

 自分が想いを寄せる男性の華々しい門出だ。喜ばしいことではあったけど、同時に心にポッカリ穴が空いたような喪失感を覚えずにはいられなかった。彼と共に過ごす至福の時間も極端に減るだろう。ふと、陰鬱な気分になってしまう。

 

 そんな時だった。

 「マネージャーでも良いから、俺と一緒に来てくれないか」と誘ってくれたのは。

 

 嬉しかった。本当に。

 「ひょっとして、彼も私のことが好きなんじゃないか」と淡い期待を胸に秘めたくらいだ。

 

 が、現実はそう甘くないとすぐに思い知らされた。

 彼は人が変わったように、突然態度を一変させた。彼に相応しい女性になると決意して整形までしたのに、ブスなどとひたすら容姿をあげつらう。いつしか顔を合わせれば自然と口論するようになり、彼の方から辛く当たってくることも日常茶飯事だった。

 

 なんてことはない。夢見る女の馬鹿な妄想だったのだ。

 愛を注いでいたのは、自分だけ。いい気になって、勝手に舞い上がっていただけのことだ。

 

 きっと、仕事のストレスの捌け口として傍に置くことにしたのだろう。

 そうに違いない。結局、彼にとってその程度の役割に過ぎなかったということだ。

 

 ――許せなかった。信頼や愛情を裏切った彼を。

 

 だから、殺すことにしたのだ――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 違う。

 木村さんもまた、寺原さんに愛慕の情を抱いていた。

 

 素直になれなかったのだ。

 意固地でぶっきらぼうな性格が災いして、本心を上手く伝えることができなかった。

 

 整形なんてする必要はない。

 在りのままの自分でいてくれたら、それで良い。

 人目なんて気にすることはない。

 早く元のお前に戻ってほしい。

 

 伝えたいことは山ほどあるはずなのに、変なプライドとくだらない見栄が邪魔して、いつも心ない言葉をぶつけてしまう。本当はそんなこと、望んでいないのに。

 

 だから、歌にすることにした。

 自分の得意分野なら、嘘偽りなく気持ちを表現できる。

 

 ソロデビューの暁に披露する予定だった新曲。

 

 『素顔の君に伝えたい』にメッセージを込めて――。

 

 

 

 

 

 

 彼の真意を知った寺原さんは、もう怒ることも笑うこともしなかった。

 

 表情が消え失せている。蝋人形のように平べったい顔付きで、空虚な目はどこを見詰めているのかも分からず、枯れ果てた一筋の涙の跡が頬に残るだけだった。魂がどこかに飛んで、抜け殻だけが残ってしまったようだった。

 

 重苦しい空気の中で、私達は目暮警部に背中を押されて連行される彼女の姿をただ見守ることしかできない。不用意な言葉を口にしてはいけない感じがした。

 

 木村さんは、話が終わった後からずっと俯いていた。現実を直視できないように。

 拳をわなわなと震わせている。きっと、手の中は鮮血で滲んでいるのだろう。噛み締めた唇の先からも血が滴り落ちている。

 

 自責の念に苛まれているのだ。

 ここまで寺原さんを駆り立てたのは、他でもない彼自身だ。もっと早く歩み寄っていれば、もっと素直に底意を打ち明けていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。いらぬ誤解を与えて、愛する女性を犯罪行為に走らせてしまった。

 

「麻理……」

 

 木村さんはようやく顔を上げて、声と肩を震わせながら寺原さんを呼び止めた。

 彼女は振り向きはしなかったものの、ぴたりと歩みを止めた。

 

「すまねえ……」

 

 彼は絞り出すような声で、そう言った。

 

「今更許してもらおうなんて、虫の良いことは思っちゃいねえ……。ただ、言いたいこと、言えなかったこと、たくさんあるんだ……! だから……!」

 

 ほとんど叫ぶような感じだった。

 

「帰ってきてくれ、必ず! 何年、何十年経ったっていい! ずっと……ずっと、待ってる……!」

 

 寺原さんはやはり、振り向きも答えることもしなかった。

 

 ただ、華奢な頭が傾いた。縦に、こっくりと――。

 

 彼女は再び歩き出した。

 木村さんは遠ざかっていく背中を、いつまでも見守っていた。

 

 ふと、私は彼らの未来を案じた。これからレックスはどうなるのだろう。この騒動で、木村さんのソロデビューはお流れになってしまうのだろうか。

 日々特ダネを求める詮索好きなマスコミは、こぞって今回の一件をトップニュース扱いで取り上げるに違いない。色々、あることないこと書き立てるところもあるだろう。マネージャーが起こした不祥事だから、おそらく世間も厳しい目を向ける。彼らの行く道は前途多難だ。

 

 だが――。

 

 私は、哀愁漂う木村さんの顔にちらりと視線を向けて、もう一度こう思った。

 

 ()()()()()()()

 

 生きていればなんとかなる、と――。

 

 




※木村達也

レックスのボーカル。カラオケボックス殺人事件の被害者。
粗野な言動でマネージャーの寺原麻理を貶していたが、本当は彼女を愛していた。
しかし、すれ違いの末に誤解を与え、勘違いから彼女に毒殺されるという悲惨な末路を遂げた。

※寺原麻理

レックスのマネージャー。カラオケボックス殺人事件の加害者。
木村達也から日々耐え難い罵倒を受け、彼に嫌われていると思っていたが、実は両想いだった。
勘違いから彼を毒殺してしまい、真意を知って深い後悔の念に苛まれるも時既に遅く、一生彼の十字架を背負って生きていくことになった。

※レックス

目下売り出し中の若いロックバンド。
原作二十巻では、小五郎の口から後に解散したことが明かされた。



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江戸川コナンの独白――『雨谷瑠璃という女』

 オレが瑠璃(アイツ)に初めて声を掛けたのは、高校に入ってしばらく経ってからのことだった。それまでは「ああ、そういえば同じクラスにそんなヤツいたな」という程度の認識でしかなかったのだが、蘭や園子を通じて会話する内にいつしか友好的な間柄となったのだ。

 

 初めて間近で言葉を交わした時、精巧な造りで仕立て上げられた人形、という印象を抱いたのを今でもよく憶えている。

 谷川のせせらぎのように淀みなく流れ落ちる滑らかな黒髪、宝石をそのまま嵌め込んだような清澄の瞳。きめ細かい柔肌は作り物みたいな無機質さを感じさせる。そういった諸々の特徴が『人形』のイメージをもたらしたのかもしれない。

 

 とにかく、ただ純粋に綺麗な子だな、と思った。

 内面も非の打ち所がない。お淑やかであると同時に明朗で、闊達な気質の持ち主だった。誰が相手であっても分け隔てなく接することができるコミュニケーション能力と包容力も備え持っている。園子のヤツとはまた違った意味で快活な女の子だった。

 

 だから、先日蘭が「最近何かに悩んでるみたいで、全然元気がない」と心配そうにアイツの様子を語っていた時は、少なからず戸惑ってしまった。いつもにこやかに笑顔を振り撒くヤツだったから、鬱々と沈んでいる姿がちょっと想像できなかったのだ。

 

 レックスの打ち上げの日を迎えて久しぶりに会ってみると、その元気の無さは予想を遥かに超えていた。口数は極端に少ないし、顔も強張って血色が悪い。悩みを抱えているというより単純に具合が悪いんじゃないかと思って、ぎょっとしたほどだ。

 

 どうしても気になったので、単刀直入に問い質してみた。

 身体の調子が悪いのか、と。

 

 アイツは何でもないように薄く笑って、こう言った。

 

「有名人が目の前にいるから、少し緊張してるだけだよ」

 

 嘘だな、と思った。

 微笑が顔の上に張り付いているだけ、という感じがありありとした。体調に問題がないのは本当だとしても、緊張しているだけ、という主張は明らかな虚言だ。ただアガッているだけなら、あれほど深刻そうな相貌で延々と考え込んだりはしない。

 

 やはり何か心配事を抱えているんだ、とすぐに察しが付いた。

 それも、とびっきり性質の悪いヤツが――。

 

 けれど、具体的にどんな不安か訊いてみても、そう簡単に胸襟を開いてくれそうにない。ならせめて、今日一日だけは可能な限り傍に付いてやろう。

 

 そんな風に考えていた時だった。

 ボーカルの木村達也を狙った毒殺未遂事件が起きたのは。

 

 思えば、あの日のアイツには驚かされてばかりだったような気がする。

 殺人を防いだこともそうだが、何よりその後の完璧な推理と真相に辿り着く速度に仰天した。なにせ、事件発生からほとんど時間が経っていなかったのだ。通常であれば、まだ情報収集に着手する段階のはず。

 

 犯人の目星が付いていなかったオレは終始傍観に徹するしかなく、些か新鮮な気分を味わう羽目になった。

 

 元々、アイツは頭の回転が速い方だった。才女の見た目に違わず聡明で、眼力にも優れている。事件の現場に居合わせた時、捜査の過程でオレが見逃していた点にいち早く気付くのも大体アイツだった。

 

 だが、あの日のアイツはいつにも増して冴え渡っていた。

 推理力も洞察力も、以前より高次のレベルに昇華していると言っていいほどに。

 

 普通なら、よくやったと褒めるべきなのだろう。

 しかし、どうにも釈然としない気持ちを抱えているのもまた確かな事実だった。

 

 生来の負けず嫌いがもたらす嫉妬や対抗心じゃない。

 探偵としての矜持に関係なく、ただ素朴に疑問に思ったのだ。

 

 いくらなんでも()()()()()()()()()()()()()()()()()()ないか?

 推理力に秀でているだけの問題じゃないような気がした。妙に察しが良いというか、勘が鋭いというか――。

 

 それに、注意力も敏感に働き過ぎている。事件が起きた後ならともかく、その前からジャンパーの位置を寸分の狂いもなく正確に把握していたり、一見すれば何でもない他人の動作を緻密に熟視していたり。観察眼に優れていると言えば聞こえは良いが、ここまでくると、もはや病的と断ずるに相応しいレベルだ。

 

 やはり、腑に落ちない。

 ほとんど最初の内に犯人の寺原さんをマークしていたようだし。

 

 ――ひょっとして、アイツにはだいぶ前から分かっていたんじゃないか?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。あの時は咄嗟に舞い降りた第六感で殺人を防ぐことができた、なんてうそぶいていたけど。

 

 どういう経緯で掌中に収めたのかは不明だが、おそらくアイツは事件発生の可能性を示唆する有力な情報を握っていたのだろう。だから、あんなにひどく青ざめた顔していたんじゃないか。

 

 深く悩み込んでいたのも、事件を食い止める策を必死に模索していたからだ。

 そうとしか考えられない。

 

 意を決して、全部尋ねてみようかと思った。

 が、結局思い止まった。なぜかというと――。

 

「はああああああああぁぁぁぁ……」

 

 深く長い溜息を吐きながら、探偵事務所の来客用のソファに身体を横たえる当の本人の姿が目の前にあったからだ。額に手の甲を当てて、じっと天井の一点を見詰めたまま微動だにしない。すっかりしょげ返っている。

 

 瑠璃は今、また別の理由で意気消沈していた。

 いや、やさぐれていると形容する方が適当か。こんな有様だから、追い打ちを掛けるように根掘り葉掘り質問攻めするのはさすがに気が引けたというわけだ。

 

「元気出しなよ、瑠璃姉ちゃん」

「そうよ、瑠璃ちゃん。瑠璃ちゃんらしくないよ」

「……はあい」

 

 オレも蘭もコイツを励まそうとずっと耳元で声を掛けているが、何を言ってもぬかに釘だ。言葉がただ耳に入って素通りしているだけ。取り付く島もない。

 今が冬期休業でちょうど良かった。この体たらくでは、授業に身が入らないこと請け合いだ。学業に差し支える。

 

 どうやらあの事件以来、連日この調子らしい。見るに見兼ねて、今日はウチに一泊させようと蘭が無理やり連れ込んだのだ。明日はそんな瑠璃の気分転換のために、園子も交えて四人で遠出する予定だった。

 

「……おい、蘭。その小娘を何とかしてくれ。鬱陶しくて仕事にならねぇ」

 

 デスクに腰を落ち着けたおっちゃんが、顔の前に広げたスポーツ新聞の陰からしかめっ面を覗かせて苦言を呈した。片耳にイヤホンを突っ込んでいる。競馬中継に耳を傾けているのだろう。騒がしい実況の声がダダ漏れだ。

 

 蘭は口を尖らせて、声高に言い返した。

 

「何言ってるのよ! 仕事そっちのけで競馬に夢中になってるくせに!」

「しゃーねえじゃねえか。暇なんだからよ。年の瀬が近くて依頼人なんて来やしねぇ」

「だったら、瑠璃ちゃんがここにいてもいいじゃない!」

 

 あえなく言い負かされて、じゃあ三階にでも上がっとけよ、などとブツブツ呟いていたおっちゃんは、唐突に「あー! また負けた!」と悲鳴を上げて新聞紙を机の上に叩き付けた。悔しそうに頭を掻き毟っている。

 

 馬券が紙屑と化したのだろう。いつものことだけど。

 

 今でこそ『眠りの小五郎』のおかげで鳴かず飛ばずだったこの迷探偵も一躍時の人だが、根元の本質は一切変わっていない。今も酒やタバコ、ギャンブルに余念がないダメオヤジぶりを遺憾なく発揮している。

 

 なんとか心を落ち着けたおっちゃんは早速タバコを一本吹かして、少し興味深そうな視線を寝転がっている瑠璃に投げ掛けた。

 

「で? なんだってソイツはそんなに無気力なんだ?」

「うん、それがね……」

 

 蘭が事のあらましを説明する。

 

 瑠璃がこうなった原因は二つあって、ひとつは『ガス欠』だった。要するに、あの日の事件に全身全霊を捧げたせいで精根尽き果ててしまったというわけだ。

 あれから数日、疲れが抜け切らないらしい。あれほど頭をひねくり回して事件を推理したり、大勢の視線を一身に浴びながら論理が破綻しないように詳説したのは初めてのことで、とにかく神経を使ったと本人は後に述懐していた。

 

 探偵の沽券に関わると思ったのだろう。ただの女子高生が一縷の手落ちもなく事件を解決したことがよほど気に食わないらしい。

 おっちゃんは心底面白くなさそうな顔で吐き捨てるように言った。

 

「へっ! 素人のガキが慣れねえことすっからだよ!」

「もう、度量が狭いんだから! 瑠璃ちゃん、凄かったのよ。ねー、コナン君?」

 

 同意を求める蘭に対して、オレは素直に「うん!」と頷いた。

 たしかに気になる点はいくつもあるが、人命を救い、事件を解決に導いたのは紛れもなく瑠璃自身の功績だ。

 

 そして、最大の問題はもうひとつの原因の方にあった。

 本人曰く、より甚大な精神的ダメージを負う羽目になったのはこっちのせいらしい。

 

 事の発端は、事件が終結した直後の目暮警部とのやり取りだった。

 警部はそれまで邪険に扱っていた非を詫びて、功労者である瑠璃を手放しに褒め称えた。

 

「お見事だったよ、瑠璃君! 殺人を阻止するだけでなく、犯人まで特定してしまうとは! いやあ、本当に恐れ入った!」

 

 ところが、これ以上ない賛辞を受けた当の本人は特に愉悦に浸ることもなく、そんなことはどうでもいいとばかりに『あること』を警部に固く約束させた。反故にしたら承知しないというくらいの勢いで、念を押すように何度も何度も――。

 

 雨谷瑠璃の名を決して世に公表しないでほしい。

 警察の独力で事件を解決したことにしてくれ、という内容だった。

 

 妙に既視感があるな、と思ったら、自分の姿と重なって見えたのだ。

 もしオレが工藤新一として電話越しに事件の解決に当たっていたとしたら、きっと同じように血眼になって頼み込んでいたことだろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――。

 

 目暮警部は了承しつつも、瑠璃の必死な哀願に困惑した。

 

「それは別に構わんが……一体どうしたというんだね? あれほど令和の女ホームズだとか言って派手に自己主張していたのに、さっきとはまるで逆じゃないか」

 

 瑠璃は慌てて付け足すように弁明した。

 

「そ、それは、そのう……! あ、ほら、アレですよ! 私は普段、闇の裏世界に身を潜める謎の名探偵ですから! 世間の人々にその名を轟かせてはいけないのです!」

 

 警部はしばらくの無言の後、すげなく「あ、そう」とだけ呟いた。瑠璃を見る目がかつてないほど冷やかだった。所謂『中二病』というのだろうか。中学生的な痛々しい正義感に酔い痴れる格好付けたがりと認識してしまったらしい。

 己の失策に気付いた瑠璃は「やらかした……やらかした……!」と念仏を唱えるような調子で同じ言葉を繰り返し、がくりと項垂れた。

 

 そういう経緯があって、半ば不貞腐れるように落ち込んでしまったというわけだ。

 

 話を聞き終えたおっちゃんは、フッと鼻で笑った。

 

「なにが令和の女ホームズだよ。ダサいっつーか、安直っつーか……。もっとマシなネーミングなかったのかねぇ」

 

 嘲笑の的になった瑠璃は「うっ」と呻いて、瞬く間に顔中真っ赤になった。嗚咽を堪えるように口元はくしゃくしゃに歪み、目には大粒の涙が溜まっている。

 おっちゃんの容赦ない一言を受けて、すっかり拗ねてしまったようだ。ぷいっと顔を背けて寝返りを打った。焼いた餅みたいに頬がぷくっと膨れている。

 

「い、いいもん、別にっ……! どうせ私は痛い子ですよ……ダサいですよっ……! でも、私には私なりの事情があるんだもんっ……!」

「お・と・う・さ・ん?」

 

 蘭は鬼の形相で血管が浮き出る拳をわなわなと握り固めた。

 四十近い立派な大人が年頃の少女を辱めているわけだから、ひどく立腹するのは当然の話だ。せっかく元気付けるために自宅の敷居を跨がせたのに、おっちゃんのせいでより一層悪化してしまった。

 

 さすがのおっちゃんもあまりの怒気に怯んだらしく、これといった反論の余地も見出せないまま聞き苦しい申し開きに終始した。

 

「オ、オレはただ本当のことを言ったまでで……!」

「少しはオブラートに包みなさいよ! ったく、もう!」

 

 父親への叱責もそこそこに、蘭は身を屈めて瑠璃に優しく囁いた。

 

「ほら、元気出して、瑠璃ちゃん。今日は腕によりを掛けて御馳走を振る舞ってあげるから。瑠璃ちゃんの大好きな目玉焼きハンバーグもあるよ」

「……えっ? 御馳走!? ハンバーグ!?」

 

 すると、今までヘソを曲げていたのが嘘のように、瑠璃はカッと目を見開いて元気良く飛び起きた。どんよりと曇っていた顔は花が咲いたようにパアッと明るくなり、目は爛々と輝いている。

 

 意外とコイツはかなりの健啖家なのだ。食事を摂るという行為に目がない。大量の料理を胃に放り込んでも括れたままのウエストを見事に維持しているので、あの豊満な胸に栄養と脂肪が全部流れ込んでいるんじゃないか、なんて嘘みたいな冗談がクラスメイトの間で囁かれている。

 

 瑠璃は勢いそのまま蘭に抱き付いて、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。

 まるで餌を待ち焦がれる犬みたいだった。

 

「チーズ! チーズも入れて!」

「分かった、分かった。よしよし」

 

 蘭は呆気に取られつつも、正に犬をあやすように瑠璃の頭を撫でた。

 

(ハハ、現金なヤツ……)

 

 オレもおっちゃんも、この切り替えの早さには苦笑いするしかない。

 まさか好物一発で本来の調子に戻ってしまうとは。うんうん唸りながら上手く励ます方法を思案していたのが馬鹿みたいだ。

 

(ま、いっか……)

 

 オレは安堵の息を吐いて、無邪気に戯れる瑠璃を微笑ましげに眺めた。

 明るく活発で、普段は大人のように泰然としているけれど、時折妙に子供っぽいところがある。そんな瑠璃がやはり一番瑠璃らしい。

 

 色々事件について物申したいことはあるが、そんなことはもうどうでもいいと思えてきた。

 

 せっかく瑠璃が元気になったのだから――。

 

 

 

 

 

 

 あれ以来、瑠璃は高校生らしい平穏な毎日を過ごしていたらしい。

 

 オレの方は相変わらず事件の対処に忙殺される日々だったが、まあそれ以外は概ね平和だったと言ってもいいだろう。

 

 だから、今回ばかりは瞠目を禁じ得なかった。

 オレも瑠璃も、あんな()()()()()()()()に巻き込まれるなんて思いもしなかったのだから――。

 

 



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