蒼赤一閃 (蒸しぷりん)
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新月

 針葉樹の葉に積もった雪が、とさりと音を立てて落ちる。

 すると、ちょうど真下からニャアと悲鳴が上がった。傍のポポ車に腰掛けていた青年は、小山の中から雪まみれの仕事仲間を抱き起こす。

 

 真白に包まれた、しかし決して雪に吸われない活気の満ちる前線拠点、セリエナ。

 ここは新大陸古龍調査団という、古龍たちの謎を解くべく集まった人々による組織の、第三の拠点となる場所だった。

 

 古龍とは厳密には種族を表す名称では無いものの、往々にして人知の及ばぬ力を持つモンスター達を指す言葉だ。

 彼らを生物と呼ぶべきか神と呼ぶべきかは、人々の立場やその地域の信仰によって変わるため、曖昧な存在とされていた。

 

 飽くなき探究心を持つ人々は、昼夜を問わず現地調査や拠点の整備、そして第一の拠点であるアステラとの物品交換などの仕事に勤しむ。

 

 そんな中この場所に似合わない、砂漠地帯の主の防具を纏った大柄な男が一人。

 男は白い息を吐きながら、湯気の立つ食事場を通り過ぎて、集会所へと続く階段を上がっていった。その身なりから一目で、日々フィールドに直接赴きモンスターと相対するハンターであることがわかる。

 男の名を、ヒアシといった。

 

 普段は酒を飲む先輩や同僚の声でがやがやと騒がしい集会所も、早朝ともなると比較的静かだった。

 カウンターで書類に目を通していた受付嬢と目が合い、軽く会釈をする。その横を、自分の身体ほどもある荷物を抱えたアイルーが、とててて、と通っていった。

 奥からは、風に乗って湯煙が流れてくる。

 

 この新天地には、こんこんと温泉の湧き出る場所が銀世界のあちこちに存在する。ちょうど安全地帯でも源泉が見つかったものだから、調査で冷えた身体を温めるべく、人々は恵みの湯を堪能しているのだった。

 

 調査団の大事な連絡手段となる、翼竜の止まり場を抜けて扉を開ける。

 普段は汗のツンとした臭いがこもる脱衣所も、今は鏡の水滴ひとつなかった。ヒアシは慣れた手つきでベルトを外し、重い防具から貸し出されている湯浴み衣に着替えた。

 せめて草履でも支給されれば良いのにと思いながら、ヒアシは酒場の冷たい床を早足で抜け、そそくさと掛け湯をした。

 足から肩へと何度か繰り返した後、とぷん、と右足の指から熱い湯に身体を沈めていく。ヒアシはほーっと溜息を吐いた。

 

 湯気の向こうからは、食事を楽しむ調査員の声が聞こえてくる。会話の内容までは分からないが、おそらく戦果に関することだろう。

 

 集会所「月華亭」は湯屋としてだけでなく、ハンター達が集まってクエストを受けるクエストカウンター、また食事や酒盛りをする場としての役割も併せ持つ。

 受付嬢たちが身体を冷やさないようにするためか、屋内では常にあちこちで火が焚かれており、湯場の側には中に入ると途端に汗が噴き出るようなサウナも設置されていた。

 

 しかし壁のない面からは、外の雪まじりの風がもろに入ってくるため、お世辞にも温かい空間であるとは言えない。

 そのため、集会所に隣接した脱衣所からこの湯場へと辿り着くまでに、身体が冷えてしまうのだった。

 何せ、湯浴み衣は薄いのだ。中には、この衣と同じデザインの防具で、拠点周辺でのクエストに出かける猛者もいるが。

 

 湯に鳩尾の辺りまで浸かると、手足の末端にビリビリとした痛みを伴って血が戻ってくる。ヒアシはその感覚に、しばらく目を閉じて耐えていた。

 その痛みが消えていくのと同時にじんわりと身体に熱が広がり、再び自然と溜息が漏れる。湯に包まれる心地良さに、力が抜けていく。どこか怠いようなその感覚を、極楽と呼ぶのはわかる気がした。

 

「やっぱり、ここにいたか」

 不意に掛けられた耳馴染みのある声に、ヒアシは振り向いた。

 こちらへと歩いてきた黒髪の青年は、苦笑を浮かべつつ軽く手をあげる。自らのバディの姿に、ヒアシは口の端を上げて応えた。

「お疲れ、サク」

 

 サクと呼ばれた青年は、呆れたと言わんばかりに大袈裟に溜息を吐いて見せた。

「ヒアシの風呂好きは大概だよね。どこにも居ないと思ったら、大体ここに来れば見つかるんだから」

「湯加減は違っても、故郷を思い出すんだ。君だってそうだろう?」

 ヒアシが問いかけると、幼馴染みでもある彼はまあね、と頷いた。

 

 ヒアシもサクも、温泉地として知られるユクモ地方の出身だった。

 子どもの頃はよく一緒に遊んだものだが、やがて声変わりし始める頃になると二人は違う道を選び、離れることになった。

 今でこそどちらも調査団に在籍しているけれど、働ける年齢に達してすぐにハンターとなったヒアシと、学び舎で様々な資格を身につけてからハンターとなったサクは、終ぞ会うことがなかったのだった。

 

 そんな中、新大陸古龍調査団の五回目の募集がかかった。

 生涯、生活に困らないだけの資金を手にするためにヒアシは応募し、見事合格して新大陸の地面を踏みしめることが叶った。

 だが野心があるかと言われれば首を傾げるだろう。家族と自身が暮らしていければ良いという程度の望みだった。

 

 その一方で、学者あがりのサクは自力で現地調査できることに加え、情報処理にも長けている。そこで編纂者として渡らないかと声をかけられたのだという。

 今は救護班の助っ人として、怪我人の手当てを任せられていることが多いのだが。多種の資格持ちも色々と苦労があるらしい。

 

 古龍調査のため新大陸へ渡る船着場で、二人は再会した。バディとして選ばれたのは偶然で、互いの顔を見て驚いたものだ。

 どちらも少年時代の面影を残しつつも場数を踏み、年相応の雰囲気を持つ青年となっていた。サクは子どもの頃もう少し大人しかったと記憶しているが、暇さえあれば本ばかり読んでいるのは今も変わらない。

 

「ところで、用件は? おれに何か伝えることがあって来たんじゃないか」

 額に滲む汗が目に入らないよう拭いつつ、ヒアシは尋ねる。

 サクは笑みを収めるやいなや、そのことなんだけど、と鋭い目でこちらを見た。彼が真顔になると雰囲気ががらりと変わる。

 その金色の瞳が、何か深刻な事態が起きたということを、暗に告げていた。

「今すぐに司令エリアに来い、だって。前線拠点にいるハンターと編纂者、全員に招集がかかった」

 

 声を低めてそれだけ言うと、サクは踵を返して音を立てることなく足早に去って行った。

 その姿が扉の向こうへ消えるのを見届けると、ヒアシは立ち上がり、身体の水気を払った。

 

***

 

「えっ、陸珊瑚の台地が?」

「それだけじゃないワ。谷も調査してみたけど、小型の環境生物以外の生き物がほとんど見当たらないのヨ」

 古龍の痕跡があるわけでもないのに、と香の匂いを漂わせる竜人族の学者は呟いた。司令エリアのテーブルに寄り掛かるその女性は、学者衆をまとめる三期団の期団長その人である。

 集まった複数のハンターと編纂者たちの前で、彼女はいつになく沈痛な面持ちでため息を吐いた。

 

 陸珊瑚の台地は、巨大な珊瑚が連なって出来た地域一帯だ。

 驚くべきことに、その名が表す通り色とりどりの珊瑚が生えているのは、海中ではない。高低差のあるその場所はいくつかの層に分かれており、それぞれで異なる様相が見られるのだった。

 そして更にその下層には、この新大陸の胃袋のような役割を果たす、瘴気の谷と呼ばれる地域が広がっている。

 

 期団長は普段、陸珊瑚の台地の上空を浮遊する飛行船の中の研究基地にいる。

 そんな彼女自らがわざわざセリエナに足を運んでくるというのは、余程のことがない限りあり得ない。

 

「それは……古龍の来訪から、しばらくの間どこかに隠れているというだけでは? 特段珍しいことではないように思えます。我々が立ち入れない場所も沢山ありますし」

 編纂者の一人が疑念を口にすると、期団長はきっぱりと首を横に振った。

 

「それは無い。あったのは、異臭と巨大な足跡だけヨ」

「……異臭と、巨大な足跡?」

 ヒアシがおうむ返しをすると、期団長はかけていた眼鏡を下ろし、彼に視線を向けた。

「この異変が、生物によるものだと証明する臭いネ。足跡の形状は、獣竜種のものと似ている。……でも、あんな大きさ、見たことがない」

 

 陸珊瑚の台地にいる獣竜種と聞いて、まず皆の頭に浮かんだのは白い体毛を持つアンジャナフ亜種だった。

 しかし、暴れん坊の異名を持つ竜の亜種と言えど、一帯の様子を変えてしまうほどの力はない。瘴気の谷にもディノバルド亜種やラドバルキンなどがいるが、わざわざ彼らが上がってくるとは考えにくい。

 そうなると、考えられるのは一種のみ。

 

「……まさか」

 サクが目を見開くと、期団長は頷いて見せた。

「そのまさかヨ。まだ確証はないけど」

 

 その地域の生態系を狂わせる獣竜種として、真っ先に浮かんだのは恐暴竜の異名を持つモンスター、イビルジョーだった。

 かの竜は高い体温を保つためにひたすらに肉を喰らい、食料を求めて各地を彷徨う。そして時にはその地域の生態系を根絶やしにしてしまうこともある、恐ろしい捕食者。

 

 この種は現大陸でもよく知られ、上位階級以上の実力を持つハンターのみに、狩猟が許されていた。

 基本的に、イビルジョーが目撃された地域は、狩猟もしくは撃退が達成されるまで、原則立ち入り禁止となる。その付近の危険度が跳ね上がることは勿論、人々を支える物流にも甚大な被害をもたらす存在として、忌み恐れられていた。

 

 イビルジョーは、新大陸でもアステラの近隣にある古代樹の森というフィールドで発見されたことがあった。五期団の中でも抜きん出た実力を持つ"青い星"と呼ばれる猛者が、かの竜を狩猟しに行ったことは記憶に新しい。

 

「あれ、でもおかしくない?」

 飛雷竜の装備を纏った女性ハンターが、疑問の声を上げた。

 実際に彼女の言う通り、イビルジョーがいる可能性が高いというには、些か不審な点がある。

 小型の環境生物以外の生き物がいないという状況は、通常ならば一部を除く古龍のみが作り出せるものである。青い星が出向いた時さえも、小型の草食竜はのどかに草を食んでいたという。

 それならば、なぜ。

 

「古龍とイビルジョーが、同時に出現したという可能性は無いのですか? それに、未発見のモンスターだということも考えられませんか」

 サクの問いに、ヒアシを含めた数名は自分も同じ考えだと、期団長にこくこくと頷いて見せた。

 しかし、彼女はまた首を振る。

 

「わからない。でも、上と下の両方で異変が起きている。……それも、死を纏うヴァルハザクが発見されてから」

 ヒアシは何故そこでその名前が出たのかと疑問に思ったが、何人かは思い当たる節があるようだった。

 

 それに、と期団長がこれまで以上に虚な声で告げる。

「死者が、出たのヨ」

 その一言で、司令エリアにいた全員が絶句した。

 向こうにもハンターは残っているのに、どうして期団長がこの事について知らせに来たのか。

 おそらく、凍てついた大地に生きるモンスターと対等に渡り合えるほどの強者でなければ、手に負えないと判断したからだ。

 

「こんな時に……」

 先程の編纂者が唇を噛んで俯いた。その隣にいた同僚も天を仰ぐ。

「こういうことは、今まで青い星が解決してくれていたんだがな」

 五期団のエースとその相棒の編纂者、そしてフィールドマスターの三人は、現在ここには居ない。

 死を纏うヴァルハザクをはじめとする、モンスターたちの混乱を引き起こした、地殻変動。その原因であろう"大いなる存在"を追って、地脈が続く先へと調査に行っているのだ。

 そして本来なら待機している筈だった総司令や大団長、調査班リーダーといった調査団のトップの人々も、後からそちらへと向かってしまったのだった。

 残る戦力は、四期団と五期団に属する一部の団員のみ。

 

「……あいつや調査班リーダーたちは今、大いなる存在の謎を突き止めに行っているんだ。ここはオレたちがなんとかしなきゃな」

 四期団のハンターが、努めて明るく言った。しかしその声はどこか頼りない。

 暫しの間、沈黙が降りた。

 

「悩んでいても仕方ないわ。その調査にあたる者と、ここに残る者で分かれないといけないわね」

 五期団のハンターの"ドスバギィの一声"に皆が顔を上げ、ややあって頷いた。彼女のバディが懐からメモ用紙を取り出し、その場にいる全員の名前を書き出していく。

 その様子を見ていた期団長は表情こそ変わらないものの、どこかほっとしていたように見えた。

 

 その時、すっと手が上がる。

「僕を、今回の調査に携わらせてください」

 凛とした声で言い放ったのは、サクだった。すると辺りにどよめきが起こる。

「お前はここに残った方が良いんじゃないか」

「そうよ。青い星たちが戻ってきたときのために、救護班は少しでも人数が多い方がいいわ」

 同僚が口々に制止の言葉をかけるも、サクは意思を変えなかった。

「死を纏うヴァルハザクと関連がありそうなところが引っかかるんだ。僕は微生物について少し明るいし、武器も持てる。

 うちのチーム(救護班)も人は足りないけど……もし本当に相手が"そう"だった場合、僕なら何か手の打ちようがあるかもしれない」

 

 そんな幼馴染みの姿を見て、ヒアシも挙手をした。

「それなら、おれも。一度でも奴らとやり合ったことのある者の方が、生存率は高まるだろう」

 ヒアシの言葉をきっかけに、他の皆々も自分の意見を口に出し始めた。

 そして最終的に、もしも全滅した場合の被害を考えねばならないという理由から、およそ三分の一が飛行船に乗ることとなったのだった。

 

 外はもうすっかり日が高くなり、ちらちらと舞う雪の結晶がその光を弾いていた。

 まるで、強力なモンスターの痕跡に群がる導虫のように。

 

***

 

 情報共有の時間も兼ねて、二人は朝餉を食べに行くことにした。

 セリエナの食事場では、おばあちゃんの料理長をはじめとしたアイルーたちがせっせと料理の仕込みをしている。彼女らは、日々温かい食事で調査団の腹を満たしてくれているのだ。

 

 料理長が切り株のように分厚いポポノタンを用意している間に、他のキッチンアイルーはグラタンを竈門へと放り込む。肉とごろごろ野菜の煮込まれたブラウンシチューに、焦げたチーズの匂いがたまらない。

 重い話題の後でもきゅう、と腹が鳴った。

 

 料理長の鼻歌と共に料理ができあがっていく様子を眺めつつ、ヒアシとサクはテーブルで地図とメモ帳を広げていた。

 以前二人が調査を担当していた地区とはいえ、あれからだいぶ時間が経っている。特に今回は地形や環境の変化も考慮する必要があった。地理を把握しておくことは、重要な生存率の上昇因子となる。

 

「お坊ちゃんたち、お仕事してるところごめんなさーいね」

 料理長の声に顔を上げると、アイルー達が料理を持ってこちらを覗き込んでいる。つい熱中して話してしまったために、時間が経つのを忘れていた。

 成人して久しいのにお坊ちゃんと呼ばれる気恥ずかしさに顔を赤らめつつ、二人は頭を下げてテーブルの上を片付ける。

 

 テーブルに置かれたのは、ほこほこと湯気の立ち上る朝餉というには品数も量もヘビィ級の食事。生クリームで飾られたシチューにスープ、ジュワジュワと音を立てるチーズがなんとも食欲をそそる。

 この量を一人で食べ切れないサクは、パンとグラタンを半分取り皿に分けてヒアシに渡した。

 最初から少なめにしてもらえば良いのにといつも思うけれど、サクはヒアシが沢山食べるのを見て満足するらしい。実際自分もぺろりと平らげてしまうし、この寒さでは多少余分なエネルギーを摂っても太らないのだから何も言えない。

 

 料理アイルーのうちの一人が、時折周りを飛ぶ蝶に気を取られながらも大鍋をかき混ぜている。その姿を横目にヒアシはまず、熱々のシチューをはふはふと口に含んだ。

 まず葡萄酒のコクのある味わいが、口いっぱいに広がる。そして肉を頬張ると、ほろほろの舌触りと柔らかい旨味が心まで満たしてくれた。

 それをじっくり味わってから嚥下すると、飲み物で口の中を落ち着けて、ところで、と切り出した。

 

「さっき期団長が仰っていたことだが、死を纏うヴァルハザクとどう関連があるんだ?」

 サクはグラタンに息を吹きかけていたが、その冷ましかけの一口の乗ったフォークを皿に置いた。

「ゾラ・マグダラオスが眠りにつく前、大峡谷に通り道ができたよね」

「ああ、それで調査範囲が広がったんだよな」

 

 熔山龍ゾラ・マグダラオス。五期団が新大陸に渡ってくるきっかけとなった、巨大な火山がそのまま命を宿したような古龍である。

 以前はアステラの位置する側と研究基地のある側の間に大峡谷があり、行き来することができなかった。

 しかし、彼が大峡谷を訪れた際、そびえ立つ岩壁に穴を開けたのだ。

 

「あの道を通れるようになったのは僕たちだけじゃない。当然モンスターにも同じことが言える」

 サクは、一呼吸おいてヒアシの方を見た。

「おそらく、古代樹の森に死を纏うヴァルハザクが来て環境が大きく変わったから、そこに住めなくなった個体が移動してきたんじゃないかと思うんだ」

「!」

 流石に新大陸に生息しているイビルジョーが、過去に討伐された一頭のみということはない筈であるし、それなら唐突に谷と台地で被害が出始めたことにも説明がつく。

「けど、それならもっと早くに気づいていた筈じゃないか? あの調査から結構経っていると思うが」

「そこが僕もわからないんだ。急に食い散らかすようになったとしても、一体どうして……?」

 

 サクはふと思い出したように、すっかり冷めてしまったグラタンを口に入れた。

 険しい顔で飲み込んだ時、それまで鍋の具合を確かめていた料理長が、ふいに口を開いた。

「オバーチャンよくわからないけど、お腹がものすごく空いてたら、いっぱい食べたくなっちゃうと思ーうわ」

 彼女らしい、ほんわかとした喋り方。しかしそれが核心を突いていることに気づき、サクはハッと顔を上げた。

 

「もしかして台地に現れたのは、怒り喰らうイビルジョー!?」

 怒り喰らうイビルジョーは、数年前にタンジアという海産物で有名な地方周辺で、初めて存在が確認されたモンスターだ。年老いて食欲を抑えることができなくなった個体がそう呼ばれるのだという。

 通常イビルジョーという種はその生態上、多くが短命であるが、運と実力で生き延びた個体はひたすらに食べ物を求めて暴れ狂う。

 そして書物には、彼らは通常個体よりも一回り大きな身体を持つとも書かれていた。

 

 もし本当にそんなモンスターが暴れまわっているならば、生態系のバランスはたちまち崩れてしまうだろう。生態系の破壊者の異名は、決して大袈裟なものではないのだ。

 期団長は、このことに気がついているだろうか。どちらにせよ、早急に現場に向かわねばならないことに変わりはない。

 

 二人は顔を見合わせて頷くと、冷めかけた食事を急いで口に運んだ。

 

***

 

 飛行船の扉が開いた途端、陸珊瑚の卵による独特な甘い匂いと胸の悪くなるような臭いが混ざって押し寄せる。それまでも隙間から入り込んできてはいたものの、現場は比にならなかった。

 頭装備を外していたサクは、思わずえずいて口を押さえた。菌の発する臭いには慣れていても、ここまで強烈なことはほとんど無い。

 ヒアシも手で鼻の辺りを覆いながら、彼の背をさする。

 

「大丈夫か」

 期団長の言っていた異臭というものが、ここまで酷いとは想定していなかった。

 瘴気の谷のそれとは違う、血と酸っぱい何かとこやし玉の臭いを混ぜて濃縮したような悪臭は、ヒトの嗅覚で感じるにはあまりにも強烈だった。

 

「……ありがと、も、だいじょぶ」

 しばらく苦しそうにしていたサクは、何度か唾を飲み込むと、滲んだ涙を拭いながら礼を言った。臭いを確かめるために防具を外していたのが仇となってしまったと、苦く笑う。

「この中を調査しなきゃならないなんてな」

「全くだよ。消臭玉が欲しいくらいだ」

 サクは鳥の嘴のような形状の防具を身につけ、多少ましになったらしい。明らかな異変に警戒しつつ、そんな軽口を飛ばす。

 

 今回の調査の目的は、あくまでもこの状況を作り出した元凶の特定と観察。

 もしも襲われて逃げることになったときのために、少しでも身軽になるようにと、荷物になるタル爆弾などは用意していない。

 ベースキャンプから飛び降りるよりも、慎重に進んだ方が良いだろうと、二人は丸太でできた足場からの道を選んだ。

 

 そして岩の下にある小さな抜け穴を通り抜けた途端、この異臭の謎が一瞬にして解けた。

「なんだこれ……」

 そこにあったのは、広範囲に渡って地面を汚す大量の吐瀉物。

 陸上にいながらも深海へ潜っているかのような錯覚にとらわれる、幻想的で美しい景観が台無しだった。次の一歩を踏み出すことすら躊躇ってしまう。

 この惨状でも青白く光りながら律儀に痕跡に群がる導虫に、ヒアシはぎょっとした。

 胃腸の病を患った大型のモンスターが、ここに来たのだろうか。それにしても、その量が多すぎる気がする。

 

 茫然と立ち尽くすヒアシをよそに、サクは周りにモンスターの気配がないことを確認し、籠手を外して手袋を嵌めた。

 嘔吐物や排泄物は、往々にして危険な感染源となるためだ。

 その痕跡の側に蹲み込むと、サンプルを特殊な容器に採取する。素早く手袋を丸め込み、にが虫由来の消毒液を手に擦り込んだ。

 サクはしばらく地面に広がったそれを観察していたが、やがて振り返った。

 

「これ、全部うまく消化されてない。見て、所々に肉塊があるんだ」

 ヒアシは爪先歩きで、サクの傍に移動した。

 サクの指差す先を覗き込むと、そこにはどろりとした吐物に混じって、胃酸で溶けかけた肉塊や骨が数多くあった。

 鼻が慣れてきたらしく、最初ほどの気分の悪さはもう感じない。

 

「もし、これの主がイビルジョーだったとして……吐き下してまで食事を続けようとするかな」

「いや、あいつらに限って流石にそれはないだろう」

 

 ヒアシは首を横に振った。

 生きる栄養を得るために食べるのに、それを体外に排出してしまっては意味がない。

 他の生き物以上に食に特化したイビルジョーが、正気でも失っていない限り、そんなことをするとは考えにくい。

 

「ん?」

 今、何かが引っ掛かったような気がしたのだが。しかしいくら考えてもその正体がわからず、ヒアシは気のせいかと首を傾げた。

 サクは装備を直しながら、しばらく汚物の周辺を観察していたが、やがて何かを見つけたようで、あっと声を上げた。

 

「見つけた、足跡だ。確かに獣竜種のもので間違いなさそうだけど、かなり大きいな」

 見間違えではないかと疑ってしまうほどの大きさの足跡が、糞便の側にあった。サクくらいなら、すっぽりと入ってしまえそうだ。

 ふと目線を上げると、薄桃色の珊瑚の幹に、何か衝撃を受けたような凹みがあることに気がついた。

 

「サク、見てくれ。これもそのモンスターのものなんじゃないか」

「本当だ。何度も思い切り打ち付けられたみたいな凹みだね。──ん?」

 

 珊瑚に近づいてその痕跡を観察していたサクが、再び何かに気づいたような声を上げた。

「これは……ナルガクルガ? 結構古いけど、ここを通ったみたいだ」

 緑に光る導虫が集まっていたのは、既に乾き切っており時間の経過で所々薄くなっている足跡。

 大きく丸みがあり三本の爪の跡が見られることから、おそらくこれは迅竜ナルガクルガのものだろう。

 

 このフィールドに降り立ってからまださほど経っていないが、怒り喰らうイビルジョーらしきもの以外のモンスターの痕跡も見つかり、二人は少しだけほっとした。ここの生態系が、完全に食い尽くされたわけではないとわかったからだ。

 サクは珊瑚の痕跡の周辺をナイフで削り、容器に入れる。それから得た情報を帳面にさらさらと書き込むと、ぱたりと閉じた。

 

 それにしても、生き物の気配が薄い。この劣悪な環境では、普段低空を飛び回っているサンゴドリたちも見られなかった。

 二人は無闇に物音を立てないよう、ターゲットの足跡を辿って慎重に歩めを進めていく。

 足跡はそれなりに新しいものであった。だが道中で見かけた、危険が近づくと腹の色を変える生態を持つキッチョウヤンマは落ち着いていた。それがかえって不気味だった。

 

 死んで白くなった珊瑚のある広場を歩いていると、ヒアシは砂地に妙な筋があることに気がついた。

 古くなっているようだが、爪の跡でも翼で引っ掻いたものでもない。例えるならそう、幼い子どもが砂場に棒で線を引いたような。

「なあサク、これ──」

 言いかけた言葉を、サクがシッと遮った。

「何か聞こえる」

 

 音などするだろうか、と耳を澄ませる。

 だがしばらく待ってみても何も聞こえず、気のせいではないかとヒアシは口を開きかけ……いや、聞こえた。

 微かに、だが確かに何かを砕くような音がした。

 

「ここからは、隠れ身の装衣を着た方が良さそうだ」

 ヒアシはそれまで小脇に抱えていた、周囲の背景に溶け込むカモフラージュの役割を果たす小型のマントを広げた。粘着性のある表面に珊瑚のなれ果ての白粉をまぶし、所々にぬめりのある植物を付ける。

 準備を終えると、カモフラージュの役割を果たすそれを頭からかぶった。

 二人は目を合わせると、息を殺して音の方へと近づいていく。静かにツタを上るのは少々骨が折れた。

 ばくばくと鳴り続ける心臓の音が、緊張によるものなのか、運動によるものなのか、わからなくなった。

 

 音がしていたのは、ツルの降りた窪地状のエリアだった。そこは、この台地に住むパオウルムーくらいのモンスターが座れそうな、リュウノコシカケに似た珊瑚が集まって形成されている。

 二人は音の主に気取られぬようゆっくりと近づき、万一に備えて武器に手をかけ、覗き込んだ。

 

 まず目に入ったのは、ボロボロになった黒い体毛の生えた尻尾。ナルガクルガだった。とうに力尽きているようで、あちこちを食い破られて無残な状態になっている。

 そしてその亡骸の背中に突き立てられる、ゴツゴツとした牙。

 黒い体毛が口に入るのも厭わず、乱暴に首を振って強靭な顎で肉を引きちぎる姿は、見る者に絶望と恐怖を与える。

 光を反射する、ぬらついた濃い緑色の皮膚がおぞましい。

 

 ナルガクルガは、そこまで小型の竜ではなかった筈だが、首の太さとそれを喰らう竜の足の太さは、ほぼ同じであった。

 決して喰われている個体が特別小さいのではない。竜が大きすぎるのだ。

 

 亡骸を貪っていたのは、最大金冠を優に超えるであろう恐暴竜イビルジョーだった。

 ヒアシはごくりと唾を飲み込んだ。鼓動は早鐘のようで、この心音が聞こえてしまうのではないかと不安になった。

 だがその一方で、サクは怪訝そうに眉を潜めて、じっとかの竜を見つめていた。

 

 怒り喰らうイビルジョーとは、老齢の個体を指す名称であった筈。そして彼らの多くは、長く生きた者ほど身体中が傷だらけであることが殆どだ。

 しかし今目の前にいる個体は、生傷こそあれど古傷が少なすぎる。それに皮膚や牙、爪などの質感も到底年老いているようには見えない。

 中でも一番気になったのは、その体色だった。書物には、頭部に龍属性エネルギーを纏っており体表は黒ずんでいると書いてあった筈だが、記憶違いだろうか。

 あの個体は、頭から胴体にかけて、白っぽい蜘蛛の巣のようなモヤがかかっているように見える。

 あれは龍属性エネルギーを纏っているというよりも、むしろ──。

 

「……瘴気浸食状態?」

 



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二日月

「──瘴気侵蝕状態?」

「え?」

 サクの呟きに、ヒアシは意識を引き戻された。サクはヒアシの方には目もくれず、イビルジョーを凝視していた。

 

「あのモヤ、瘴気の谷にいるギルオスやラフィノスの状態とよく似ている。でも、これまで大型モンスターが瘴気に侵されたなんて、聞いたことがない」

 囁き声でそのことをヒアシに伝えると、サクは極力装衣が動かないようにしながら、帳面に記録を付け始めた。

 サクの指摘に、ヒアシは再びかの竜を見た。

 確かに、頭部の様子は瘴気の谷に跋扈する、肉に飢えた獣たちの状態とよく似ていた。

 しかしイビルジョーは小型モンスターのように、瘴気に侵されるほど柔な身体をしていない筈だった。そのようなことがあり得るのだろうか。

 

 もう殆ど可食部のない亡骸を、かの竜は一心不乱に齧る。

 地形の影響と竜が作り出した状況によって、酷く空気の澱んだ腐りゆく肉や血の臭いのする空間。そこは陸珊瑚の台地でありながら、宛らその下の層にある瘴気の谷を思わせる様相になっていた。

 

 次第に余裕が戻ってくると、ヒアシはかの竜の足元にナルガクルガ以外のモンスターの亡骸もあることに気がついた。

 肉片の様子からしてまだ新しそうだが、殆どが喰われてしまっているオドガロンの鉤爪のある足、アンジャナフ亜種の尾らしきもの、かろうじて残ったレイギエナの嘴と頭の甲殻。

 小型モンスターの亡骸が見当たらないのは、その場で丸呑みされたからだろうか。

 縄張り意識の強い彼らは、おそらく外敵を排除するために必死に戦ったのだろう。それでも抵抗虚しく命を落としてしまったのだ。

 

 それにしても、イビルジョーが獲物を一箇所に持ち込むとは。

 台地にも上ってはくるものの、普段は食料の少ない瘴気の谷をテリトリーとするオドガロンは、得た肉を塒に持ち込む習性がある。

 しかしイビルジョーという種において、このような行動が見られたという例というのは聞いたことがなかった。

 この竜は自らが生きのびるために効率を求めている。そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。

 

 ブチッ、と音を立てて肉塊を引き千切ったかと思うと、異端なイビルジョーはぴたりと動きを止めた。

 何を考えているのか、唸るような呼吸音を響かせるばかりで、ただその場に突っ立っている。

 せめて前面が見えれば何かわかるかもしれない、とサクが腰を上げかけたところで、イビルジョーは口に咥えたそれを飲み込むことすらせずに、予兆なくこちらへと振り向いた。

 

「……ッ!?」

 

 背筋が凍りつく、とはこのことだ。

 わずか三歩ほどで一気に距離を詰められ、咄嗟に背の武器に手をかける。柄のヒヤリとした感触は、まるで今の自分の心臓を掴んでいるようだった。

 

 しかし、かの竜は二人のことなど目に入っていないかのように走り去っていく。前につんのめるようなその走り方は、まるで何か見えないものに引っ張られているかのようだった。

 大いに肝を冷やしたが、取り敢えず体制が整わないまま応戦することは避けられたと、ヒアシはほっと胸を撫で下ろした。

 狩場での油断は命取りになる。当たり前のことだが、こうして観察に夢中になったり、対象を深追いしすぎたりした時には、つい忘れがちだ。

 今生きていることは、この上なく幸運だと言えるだろう。

 

「寿命のことも考えて迷っていたけど、これは見逃してはおけないかもしれない」

 まだ青い顔で苦々しく呟くサクに、ヒアシは頷いて同意を示した。

「今回の異変も、奴が元凶と見做して良いだろうな。あれほどの個体なら、地域一帯を駄目にしかねない」

 貯め込まれた大量の食料から、この地に降りてすぐに見つけた吐瀉物も、あのイビルジョーによるものだと、ほぼ確定したようなものだった。

 

「少しあの辺りを探ってみよう」

 サクは周りを見回し、イビルジョーが戻ってこないことを確認すると、隠れ身の装衣を脱いで、手早くもう一つの装衣を纏った。ヒアシもそれに続く。

 灰色の生地で、のっぺりとした見た目のそれは、免疫の装衣と呼ばれ、特殊加工をされているため高い抗菌作用を持っている。唯一の欠点はそのダサ──実用性に全振りしているところだろうか。

 近くに襲ってくるモンスターの気配が無い限り、屍肉という危険な菌の温床となるものに近寄るならば、隠れ身の装衣よりこちらの方が適していた。

 モンスターの返り血を浴びることも珍しくないこの職でそんなことを気にするのかと言えばそれまでだが、危険の種は少しでも取り除いておいた方が良い。

 

 亡骸の傍まで来ると、ヒアシは片膝を付いて目を閉じ、束の間頭を下げた。

 ハンターとは、誰よりも命を思う者のことだ。ヒアシはそれだけは決して踏み外してはならぬと、自らの胸に刻んでいた。

 足音に顔を上げると、隣でサクも首を垂れているのが見えた。

 装衣の隙間から覗く幼馴染みの横顔を眺めながら、ヒアシは別のことを考えていた。

 

 サクは優秀な人材だ。元々の能力もあるのだろうが、育ってきた環境による影響も大きいのだということを、ヒアシはなんとなく察していた。

 父の堕落によって苦しい生活を強いられていたヒアシと違い、両親が共にギルド直属の学者であるサクの家は、比較的裕福だった。 

 だが、サクの母が華美なものを好まぬ質だったようで、着ているものも話し方も自分たち親子とそう変わらなかったし、気さくに接してくれていたから、隣に住んでいた頃は特に何も感じることはなかった。

 

 しかし、成長してからサクが学び舎に進むということを聞き、その時初めて彼と自分との間にある、溝の存在に気が付いたのだった。

 

 ヒアシはサクに気づかれないよう、小さくため息を吐いた。

 殆ど女手一つで自分を育ててくれた母に、少しでも楽をしてもらいたい一心でハンターになった。この職は収入に年齢も性別も関係なく、自身の功績のみで評価される。

 そのことは後悔していないし、危険と引き換えに自分がいつ命を落としても、母が国で暮らしていけるくらいの稼ぎは手にした。

 しかし、目を輝かせて調査に勤しむ幼馴染みの顔を見ると、時々えもいわれぬ寂寥感に苛まれるのだ。

 

 決して今の仕事が楽しくない訳ではない。むしろこの組織に入ってからは充実感を覚えてすらいる。

 だが、大人しい草食竜のポポのようだと揶揄されるくらいには、ヒアシは元来温厚な性格であった。

 ハンターになりたての頃は血を見ることすら嫌だったし、生きたモンスターの肉に武器の鋒が刺さった感触を初めて味わった時には、手の震えが止まらなかった。

 

 セリエナでのヒアシの仕事内容は、主に兵器置き場の警備と、研究班や物品班の護衛だった。

 実際に武器を振るう回数は、そこまで多くは無いものの、やはりどうしても柄に手を掛けなければいけない時はあるのだ。

 特に、止むを得ず攻撃することになったモンスターに、拠点や何かしらの匂いを覚えられてしまった場合。担当者は細心の注意を払っているものの、漏れを零にすることはできない。

 そういう時に、ハンターの力が必要になる。モンスターに警戒されるだけならまだしも、襲ってくるようであれば残された選択肢は討伐一択だった。

 

 ヒアシはそっと目を伏せた。

 この仕事は、生と死が常に間近にある。

 自分も生きていれば、モンスターだって生きているのだ。家族を愛する気持ちも、死を恐れる気持ちも変わらないと思う。

 依頼を達成するためにフィールドへ赴き、自然を観察し、同胞を守るために武器を振るい、時には相手の命を奪う。

 楽な仕事などありはしないけれど、この職を続けるならば心に蓋をしない限り、自分が壊れてしまうと悟った。

 

 ハンターや調査団の一員としての誇りはあれど、重苦しさを振り払えないまま仕事を続けるヒアシには、サクの姿が眩しく映った。

 彼は研究職に就くために学び舎に通ったと聞いていたが、何故ハンターの道を選んだのかと尋ねたことがある。もっと安全な居場所を選ぶことだって、サクには容易だったろうに。

 するとサクは、探索する際に護衛を頼む手間が減るからだ、とこちらを見ずに答えた。調査をすることもでき、自分の身を守れるならば、これほど効率的なことはないと。

 その言葉を聞いて、ヒアシは胸に小さな風穴が開いたような心地がした。

 そうか、この道を選ばざるを得なかった自分と、そうでない彼との間の距離は埋まることはないのか、と冷たい納得をしてしまったのだった。

 

 サクを羨む仄暗い気持ちも、きっとどこかにある。

 だが、ヒアシの胸を沈める鉛となっているのはそのことではなく、隣にいながらも決して手の届かない存在だと思ってしまう、自分自身の気持ちそのものだった。

 これまでのように普通の仕事仲間として、幼馴染みとして接していたいのに、それがどうしても難しい。彼のことを良い奴だと思っているからこそ、その葛藤が苦しかった。

 

 ヒアシ、とやや強く名前を呼ばれ、ヒアシは間の抜けた声をあげた。サクの心配そうな眼差しに、それまで自分が彼を凝視していたことに気がついた。

「どうしたの? 体調が優れない?」

「いや、大丈夫だ。……すまない」

 サクは、ならいいけど、と一瞬こちらにちらりと視線を寄越し、すぐに亡骸の方へと戻した。

 

「どれも腐敗し始めてはいるけど、そんなに古くないな」

 サクが口の中で呟く。

 その言葉の通り、どの亡骸も独特な臭いを発しているものの、そこまで時間が経っているようには見えなかった。

 おそらく、喰われた時期はほぼ重なっているだろう。

 

「さっきの痕跡に下血は見られなかったし、症状としては食中毒に似ているんだよね。原因のバクテリアにもよるけど、あれは大体食後から数刻で症状が出始めるから、痕跡と合致している」

「ああ……アステラで注意喚起されている、あれか」

 ヒアシの呟きに、サクは頷いた。

 食中毒は原因菌が口を経て大量に体内に入ることで発症し、嘔吐や下痢、発熱のほか、重症ならば麻痺などの症状を引き起こす。

 第一の拠点・アステラは比較的温暖な気候であるため、食品に付着した毒性を持つ細菌が、あっという間に増殖してしまう。よって、食材の加熱調理が推奨されていた。

 イビルジョーがここに持ってきたらしい最も古い痕跡は、数刻前に食べられたと予測されるものだった。

 

「そうなると、もう何かを食べられるような状況じゃないと思うんだけど。あれから回復したにしては、早すぎる。まだ新しい嘔吐の形跡もあったし」

 でもイビルジョーだからなあ、とサクは溜息を吐いた。

 優れた身体能力を持つ牙竜種・ジンオウガは「無双の狩人」の異名を持つが、「喰」における無双の名を冠するのは、間違いなくかの種だろう。

「大層食い意地が張った奴らだものな。それくらい、やってのけてしまいそうだ」

「まったくだ。ヒトの枠で当て嵌めようとしたら、例外ばかりでキリがないよ」

 

 サクは獣医ではないが、先程の予想も、人間の症状に当て嵌めて考えるとこうだ、ということだろう。

「人間の場合は、どちらかというと生肉や生魚を食べたり、放置したものを食べたりして罹ることが多いんだけど」

 サクは眉を潜めて、ヒアシをじっと見た。

「そもそもの話だよ。普段から加熱調理なんてせず、腐肉すら平気で食べるモンスターが、急に食中毒を発症っておかしくない?」

「ああ、確かに」

 考えてみれば当たり前のことだ。ヒアシの反応に、サクは辺りを見回して危険が無いことを確認しながら「でしょ」と頷いた。

 

「しかも、瘴気の毒素はどちらかというと、気道とかに害を及ぼす傾向が強いから、直接この吐き下しに関係しているとは考えづらいし。それに、何よりあの変な動き方も気になるんだ」

「あれは不気味だったな。……まるで、死体が歩いているようだった」

 ヒアシの例えは言い得て妙だった。

 ぴたりと動きを止めたかと思えば、突然駆け出すあの一連の動作は、どこか生き物離れしていたのだ。

 

「それに、行動が変わっているのも気になる。あれは本当に、イビルジョーなのか?」

 ヒアシの疑問に、サクはいよいよ腕を組んで唸った。

 その地域の生態系を食い荒らすのは、イビルジョーという種においては、さほど珍しいことではない。

 だが、こうして獲物を溜め込むことや、過剰とも見られる量の獲物を一度に喰らおうとすること、体躯が異常発達していること──狩猟において"通常"で括ることは危険ではあるが、あの個体は目安を超えすぎている。

 

「このことと瘴気のようなあのモヤは、何か関係がありそうだけどね。そこまではまだ掴めないな」

 瘴気に侵蝕されたモンスターに共通する症状といえば、大人しかった個体までもが凶暴化するくらいだろうか。

 それが単に気分が優れず苛々しているからなのか、脳に何らかの物質が影響しているのかはわからない。

 

「凶暴化する……瘴気……」

 蝿が音を立てて飛び、骨に付いた肉片に止まると、忙しなく前足を擦り始める。

 その様子をぼんやりと眺めていたサクは、唐突にあっと声をあげた。

「そうだ、何か引っかかると思ったら狂竜ウイルスだ!」

 

 狂竜ウイルス。

 それは、とある盲目の古龍の幼体が、周囲を知る術としてばら撒く鱗粉、または成体による生殖細胞のことを指す。

 五期団の陽気な推薦組の青年が、以前一緒に飲んだ際に語ってくれた情報によると、それらに感染したモンスターは暴れ狂い、ドス黒い体液を流して命を落とすのだという。

 

 ヒアシはしばらくユクモ地方で活動していたので、耳に挟んだことがある程度だった。

 だがサクはその頃ドンドルマという大きな都市の学び舎にいたため、より身近なものだったようだ。

 

 今まで思いつかなかった考えを閃いたことで興奮したサクは、早口に捲し立てた。

「あのイビルジョーの状態、狂竜ウイルスの症状に似ているんだ。異常行動も、消化器のダメージを無視した過食も、何か別の生き物に操られているんだとしたら、説明がつく。それが──」

 瘴気か、とヒアシが目を見開くと、サクは大きく頷いた。

「期団長は、瘴気の正体は肉食バクテリアの出すガスのようなものだと仰っていた。あのイビルジョーはおそらく、何らかの経緯でバクテリアそのものに、脳の一部をやられてしまったんじゃないかな」

 

 詰まるところ、あのイビルジョーは寄生されているのではないか、というのがサクの見解だった。

 体内の遺伝子を書き換えられて、それに身体が適応してしまえば、突然変異となる。あの大柄な体躯は、その類だと考えるのが有力だという。

 想像するとゾッとした。ヒアシは防具で覆われた二の腕を、意味もないのにさすった。

 

「解剖でもしない限り、はっきりとしたことは言えないけど、少なくとも僕はそう考える。……そうなると、やっぱり飢餓じゃなくてもあの個体は長くはなさそうだ」

 それまでの興奮を収め、サクは静かに目を閉じた。

 その種類にもよるが、寄生された生き物、それも脳や神経をやられてしまった者は大抵の場合使い回されて、やがて死に至ることも多い。

 もしかしたらあの巨体も、寄生による行動操作とその途中に力尽きることのなかった強運によるものなのかもしれない。

 哀れだがこちらにも被害が出ている以上、何もせずにかの竜の死を待つことは難しかった。哀れむことも、狩猟の場では命取りとなる。

 

 二人の間に沈黙が降りる。ヒアシは顔を曇らせてしまったサクの肩に手を置いた。

「多分、しばらく奴は中層あたりに留まるだろうな。今鉢合わせると分が悪いし、迂回して一度上層のベースキャンプに向かおう」

 

 場の雰囲気を変えようとするヒアシの提案に、サクは頷いた。

 

 普段であれば、気性が穏やかな小型の翼竜が群れを成している、桜火竜のように鮮やかな珊瑚のある広場の傍の崖を登ると、淡い色彩の広場に出る。

 ここを縄張りとするモンスターが多いため、お世辞にも安全とは言い難い場所であり、御多分に洩れず今日も先客がいた。

 

「ツィツィヤックか……。大分気が立っているな」

 

 広場の中央では、頭部に反射器官を持つ、中型のすらりとした鳥竜種が、苛立たしげにガリガリと地面を引っ掻いていた。

 ヒアシたちがイビルジョーの痕跡を発見した辺りは、このツィツィヤックの縄張りがある。自分が領地と定めた場所の近くをあのような怪物が徘徊しているならば、こうなるのも無理もないだろう。

「普段なら素通りするけど、今はそううまくいきそうにないね」

 サクは前方のツィツィヤックの様子を観察しながら、ポーチからモンスターが嫌う臭いを放つ弾を取り出し、左手のスリンガーに装着した。そして目を細めて狙いを定めると、スリンガーの射出機構を握った。

 勢いよく飛び出したそれはツィツィヤックの眼前で炸裂し、竜は敵襲かと一瞬身構えた。

 近くにこやし玉を投げつけられたら、その臭いをもろに吸い込んでしまうことになる。案の定ツィツィヤックは首を振って嫌がり、まるで文句でも言うかのように鳴きながらその場を後にした。

 

「本当は、鼻のすぐ側に当てる筈だったんだけどな」

 サクは不満そうに己の左手を見る。

 手先が不器用な彼は、スリンガーを扱うことが得意ではなかった。練習はしているようだが、どうもうまくいかないらしい。

「まあ、結果的に行ってくれたし十分なんじゃないか」

 ヒアシが宥めると、サクは肩を竦めた。他にはいないかと辺りを見回したヒアシは、あるものに気がついた。

 

「ここにもナルガクルガの足跡がある。この小さい足跡は……テトルー?」

 蹲み込んでよく見てみると、大きな足跡の隣に、複数の小さな足跡が残されていた。

「いや、テトルーの足跡とは形が違う。もしかしたら、幼体かもしれないね」

 幼い命の存在に、ヒアシは目を細めた。

 だがそれは同時に、子連れのナルガクルガがこの辺りに生息していることを意味している。

 ただでさえ子を持つ親は気が立っているため、草食竜のいない今、もし遭遇したら即応戦することになるかもしれないということを表していた。

 

 ヒアシとサクは、目を合わせて頷いた。とにかく今は、体制を立て直さなければならない。

 ツィツィヤックの痕跡の下に隠された、もう一つの足跡に気づくことなく、二人は蔦を登っていった。

 



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三日月

 ベースキャンプへの道中、ムカシマンタゲラという、盾虫と女帝エビを足して割ったような見た目をした環境生物がよく浮遊している踊り場がある。

 

「これは酷いな……」

 衝撃やストレスに弱い彼らは、すべて力なく地面に横たわっていた。そのうちの何匹かは絶命しているようだ。

 この陸珊瑚の台地は、下から絶え間なく湧昇風と呼ばれる上昇気流が吹いている。そのため、下層の汚染された空気が風とともに上層へと運ばれてしまったのだろう。

 湧昇風に乗って舞う、本来は淡い桜色をした珊瑚の卵も、心なしか色が変わってしまっているように見えた。

 

「ここにもある。でも、これは少し古いかな」

 かの竜の苦しんだ跡は、少ないながらもこのエリアにも残されていた。

 風向きから考えて、ベースキャンプの方には臭いが届かなそうだったのは、幸運だったと言えよう。

 辺りには微かにモヤが立ち込めており、喉にいがらっぽさを感じた。

 ヒアシが咳払いをしていると、突然サクが目を見開いて吐物の傍らへと蹲み込んだ。

「このモヤ……まさか、あのイビルジョーが瘴気の発生源になっているというのか!」

 

 これまでサク達は、かの竜は瘴気を発する肉食バクテリアに寄生されていると仮定していた。

 そしてそれは、あくまでもラフィノスやギルオスのような小型モンスターと同様、脳の一部を侵食されるか、ホルモンを操作されるかして、凶暴化しているだけだと思っていたのだった。

 

 しかしこの痕跡を見るに、寄生したバクテリアは、彼もしくは彼女の身体を拠点とし、自らの生息範囲を広げようとしているのではないかという、新たな仮説に至ったのだ。

 食料を求めて各地を彷徨うイビルジョーは、まさにバクテリアの思うままに動く存在と言って良いのだろう。

 

 先程は気がつかなかっただけなのか、二人が来る前に、瘴気が霧散してしまったのか。

 いずれにせよ、本来は下層にしか存在しないものが上層に生じれば、環境に適応できない者は、その命を散らせていくしかない。

 

「なんてヤツだ……」

 ヒアシが溜息を吐くと、サクは片足を付いて立ち上がり、ごそごそと自らの懐を弄る。

「そもそも、大元の死を纏うヴァルハザク自体、古代樹の森を自分が住みやすいように変えようとしていたんだ。バクテリアの性質が谷で見られるものから変化していたとしても、何ら不思議じゃない」

「さすが古龍だな。想像もできないことを、難なくやってのけてしまう」

 

 ヒアシの感嘆の声を聞きながら、サクは取り出した簡易なインク壺にペン先を浸すと、さらさらと紙面に走らせていく。

 それからペンを親指で挟み、残った四本の指をヒアシに見せた。

「僕ら──ヒトが菌の出した瘴気を吸うと、息が苦しくなるし、咳も出るよね。でも、ヒトよりずっと前から谷にいる筈のギルオス達に、その症状は見られない」

 

 つまり、咳やくしゃみによる飛沫感染、空気感染の可能性は除外できる。そう言ってサクは、人差し指と中指を折り込んだ。

「そうなると、おそらく瘴気を放つバクテリアは、経口感染するか、接触感染するかのいずれか、もしくはどちらも当てはまる可能性が高い」

 サクは、びっしりと文字の並んだ帳面をヒアシに見せ、ペン先で示した。

 跳ねの強い角ばった字で、箇条にして書かれたそれらは、ヒアシにとっては見慣れない字面で、思わず目を瞬かせる。

 

「けい、こう……感染?」

 経口感染とは、その名の通り、口を介してウイルスやバクテリアに感染してしまうことである。汚染された食物を摂取することで、体内に有害なものを取り込んでしまうのだ。

 ヴァルハザクの巣で、腐肉を漁っていたギルオスが感染していたのが良い例だ。

 その説明を聞くと、ヒアシはああ、と納得した。

「古代樹の森で、アプトノスのような草食竜が発症したのも、死を纏うヴァルハザクの纏った菌が付着した植物を、口に入れたからなんじゃないかと思う。──そしてきっと、イビルジョーも」

「はあ……だから谷ではラフィノスも感染しているんだな」

 

 遠くでオソラノエボシという、海月のような生き物が、気流に乗って舞うのが見えた。

 

「待てよ。それじゃあ谷で腐った肉塊を掻き分けたり、返り血の付いた武器を持ったりした手で回復薬の瓶を触ってるおれ達は大丈夫なのか?」

 ふと浮かんだ疑問をヒアシが恐る恐る尋ねると、サクは微妙な顔をした。

「まあ、衛生上よくないし、そこで感染してる可能性も十分にあるよね。とはいえ全部を清潔に、なんて無理だし、緊急時なら尚更そんなこと言ってられないけど。フィールドで口を付けた瓶を落としたら、飲み止しでも捨てなきゃいけないのは、そういうことだ」

「なるほどな」

 ヒアシは顎に手を当てた。そこにサクがでもさ、と切り出す。

「瘴気の谷の調査が進んだ後も、あそこに行った人間や竜人、獣人の間で、大規模な感染症が起こった例は、聞いたことがないよね」

「言われてみれば、そうだな」

 

 拠点全体に広がるほどの病が流行した、という記録があるならば、期団長やフィールドマスターから、説明がある筈だった。

 ヒアシが相槌を打つと、サクはでしょ、と言いながら腕を組んだ。

「そこから考えると、瘴気のバクテリアが身体に潜伏したり、発症したりする期間は、短いんじゃないかって思うんだ。……勿論、調査の後に研究基地で何日か隔離されるから、っていうのも大きいと思うけど」

 一見完治したように思えても、保菌してはいる可能性もあるが、それが元で病的に興奮したり、異常行動をとったりしたという話は聞かなかった。

 

 イビルジョーに話を戻そうか、とサクは帳面のページを捲る。

「僕ら人間の例もそうだし、元々ずっと瘴気の谷で生きているモンスターは、何かしらの免疫を持っているか、細菌の毒素は彼らには作用しないか、のどちらかなんじゃないかと思うんだ。……でも、外から来たあのイビルジョーは違う。きっと、瘴気に耐えうるだけの身体は持っていない」

「しかし、大型モンスターだぞ。あちこちに来るバゼルギウスだって感染しないのに、イビルジョーだけが感染するなんて、おかしくないか?」

 各地を飛び回っては、場を爆撃していくモンスターの名前を挙げると、サクは腕を組んだ。

 

「結局そこなんだよね。……で、僕なりに考えてみたんだ。谷でギルオスは感染するのに、親玉であるドスギルオスは感染しないでしょ? 彼らの違いは、成熟しているか否か」

「そうだな」

「そこで、さっき言った免疫の話が出てくるんだけど、ギルオスが成長の過程のどこかで免疫を獲得するとして……それと同じように、もしもあの個体が幼体だったとしたら?」

「幼体? あんな図体で、か?」

 ヒアシは、予想すらしていなかった言葉に目を見開いた。

 

「勿論、今は成熟しているかもしれないけど、もし幼体のうちに感染して、バクテリアが脳に回ってしまったんだとしたら、説明がつくんじゃないかなって。多少強引な仮説だけどね」

 そんな小さい頃から操られてしまうなんて、とヒアシは束の間かの竜を哀れんだ。

 するとその時、妙なことに気がついた。

 

「だったら、もっと早く被害が出ていたはずじゃないか? それこそ古代樹の森や、その間の大蟻塚の荒地で、あんなでかいのが暴れていたなんて話、聞いてないぞ」

 サクは、ううんと唸りながら、再びインク壺にペン先を浸した。

「そもそも、彼らの成長速度がわからないからなぁ。極端な発想をするなら、菌の影響で脳の一部がやられたことで、成長ホルモンに異常が起きて急激に巨大化した、とか?」

 サクは、マスクの下で神妙な表情を浮かべて呟くと、目にした状況と自らの立てた仮説を、手早く書き込んでいった。

 相棒が、さっとメモ書きを丸く囲んだのを見届けると、ヒアシはかの竜の痕跡をぼんやりと眺めた。

 

「……もしも環境が変わりきってしまったら、ここはどうなるんだろうな。それも、新大陸の姿として受け入れて、調査を続けるべきなんだろうか」

 ヒアシの何気ない呟きに、サクは手を止めて束の間彼を見つめ、やがて目を逸らした。

 その答えは、誰にもわからないこと。

 そして同時に、誰もが思案し続けていることだった。

 新大陸という、未開と言って差し支えないこの場所に、人間がどこまで踏み込んで良いのかは、まだまだ手探りである。

 何せ、そのままの大自然が相手なのだ。

 この大地にとって、自分たち現大陸の人間や竜人、獣人らは、新参者と等しいだろう。ロープリフトなどを設置してはいるものの、人間が拠点として借りている場所は限られている。

 もしも何らかの理由で淘汰されるならば、きっとそれも運命なのだろう。そのような場所を守る、管理する、などと考えるのは、些か傲慢ではなかろうか。

 

 けれど、とサクは思う。

 四十年以上前に、一期団が足を踏み入れて開き、今に至るまでの地道な努力を積み重ねてきた結果、こうして五期団の自分たちが調査できているのだった。

 自然を敬う気持ちは当然あれど、そうしてやっと人々が築いた礎を、崩すわけにはいかないのだ。

 

 あのイビルジョーの寿命は長くはないであろうことは判っても、その間に生態系に及ぼす影響は甚大に違いなかった。

 かの竜は、植物を主食とする一次消費者だけでなく、彼らを食べる高次消費者までもを食い尽くす勢いである。もしそうなってしまえば、それまでその地にあった循環が、断ち切られてしまうのだ。

 

 一種の生き物が減少しただけでも、その周囲の生態系の食物網は、かなり影響される。

 例えば、ヒエラルキーの上位に位置する、空の王者リオレウスのような生き物が激減したとする。そうなると、それまで彼らに食われていた草食竜らの個体数は見る見るうちに増え、周辺の草本が食い尽くされる。

 すると、植物を主食とする他の生き物が食料にありつける確率が下がり、個体数が減少してしまうのである。勿論、草食竜を食料としているのは彼らだけではない為、実際にはもっと複雑な形で崩れるであろうが。

 

 まして、新大陸の要である、瘴気の谷に被害が及んだとなれば、この後様々な地の環境までもが変化することは、容易に想像できる。

 そしてそれは勿論、アステラにも。

 食べるものが無くなった時、生き物の多くは死に至るか、場所を変えるかの選択をするのだ。

 

 調査団の人々は──自分たちの仲間は、そうした困難を苦にするほど、柔な組織ではないけれど、できるだけ降り掛かる火の粉は払いたかった。

 あくまで拠点は仕事の為の場所であり、故郷の家のように、一所に落ち着く場所ではない。

 それでも、心の拠り所であることは確かなのだ。サクは温かで探究心溢れる、この組織が好きだったし、守りたいとも思う。

 守る為には、考えねば。

 少しでも苦しみのない、最善の道を。

 

 未だに黙り込み、思索にふけるサクをちらりと見てから、ヒアシは念のためにと拾っておいた赤茶色の石──種火石をスリンガーに装着し、足元に打ち込んだ。

 ジッという音とともに摩擦によって石が発火し、拳ほどの大きさの火種となって地面に着地する。

 すると、忽ちモヤが消えた。

 

 その時、聞き覚えのある甲高い鳴き声と共に、小さなモンスターが驚いた様子で岩陰から飛び出し、思わず二人は顔を見合わせた。

 そこにいたのは、ケルビと呼ばれる小さな大人しい草食獣の、灰色の体毛を持つ雌個体だった。

 かの竜が彷徨いているせいか、彼女はこの大陸の個体にしては随分と臆病で、ヒアシと目が合った途端に逃げ去ってしまった。

 その先に、複数の緑と灰のよく似た姿をした生き物──仲間がいることに気づき、ヒアシは安堵の溜息を吐いた。

 

「よかった、草食種にもちゃんと生き残りがいたんだな」

 サクも顔を綻ばせ、先程から手に持っていた帳面に、今見た事実を書き込んだ。

 そこに命の芽がある限り、全てが消えてしまわない限り、未来は育まれていく。

 その未来を潰しかねない存在に対し、自分たちがどうするべきかは、方位磁石の針が揺らぎながらも一所を指すように、決まっているようなものだった。

 たとえそれが、その存在自身の未来を奪うことを意味していても。

 

***

 

 ユラユラと呼ばれる、細長い魚のような姿をした環境生物のいる辺りの岩の下には、人一人が通れるくらいの小さな穴がある。

 そこを潜り抜けると、中には入口からは想像もできないような広い空間があり、調査団の利用するテントや、簡易な食事場などが設置されていた。

 北東ベースキャンプと呼ばれるそこは、陸珊瑚の上層部の調査に大いに役立っていた。

 

 大きく息を吸い込むと、テントに残った微かな古い汗の臭いが、鼻腔を掠めた。

 回復薬の代わりに、水筒に入れてきた水を沸かした白湯を啜り、どっかりと丸太に腰を下ろしたヒアシは、大きな溜息を吐いた。

「なんとか、必要な情報は集まってきたな」

 その明らかに疲れている様子を見て、サクが肩を震わせながら頷く。

「なんだ?」

「ふっ、や、お湯啜って溜息吐きながら座るとかもう、オジサン超えておじいちゃんじゃん」

 目を瞬かせたヒアシは、一拍置いて吹き出した。それから尚もおかしそうに笑う幼馴染みの脇腹を小突き、抗議する。

「家の中での君だって人のこと言えないだろ」

「まさか! 僕はまだまだ若いし」

「はいはい、おれ達は同い年です。というか台詞からして若くないぞ、それ」

 

 ユクモ地方の顔は幼く見られることが多いが、二人とも一、二年もすれば三十になる。

 人間の年齢としてはそれなりだが、現役ハンターとしてなら、話は別だ。

 瞬発力や筋力は十分にあるし、洞察力などは昔よりも鍛えられた自覚はあるけれど、その分スタミナを維持しきれなくなるのだ。

 もう若い頃ほど無茶はできないと、己の身体が告げていた。

 

 やがて笑いを収めると、ヒアシは肩を回しながら徐に立ち上がった。

 そして備え付けの箱から、二羽ぶんの翼竜の餌を取り出すと、背を屈めてテントから出ていった。

 身長はサクと然程変わらないというのに、上質な筋肉が多分についた恰幅の良いヒアシの身体。それは巨大な巻角を誇る大砂漠の主・ディアブロスの、堅牢な素材をあしらった装備によって、さらに大きく見える。

 顔まで覆う頭装備を身に付けていればかなりの威圧感があるが、それを外せば一変して優しい眼差しの青年が出てくるのだった。ずっと変わらないその眼差しを向けられると、サクはつい年甲斐もなくふざけたくなってしまう。

 

 武装した男二人が肩を寄せ合っていたせいか、先程までは狭いと思っていたテント内は一人になった途端、急に広くなったように感じる。

 外から翼竜が餌をもらい喜ぶ声が聞こえてくるのをよそに、サクはぐっと足を伸ばした。

 

 このフィールドは、鬱蒼とした古代樹の森と違い、日が暮れても比較的明るい。

 まるで海の中に差し込む日差しのように、台地全体を包み込む光は、天井辺りに生い茂る珊瑚の隙間から、この空間にも差し、青白いリボンを作り出していた。

 換気のために半分開いた垂れ幕の下から、そのさまをぼんやりと眺めながら、サクは白湯の入った器を素手で包み込む。

 沸かしたての時よりは冷めてしまったが、人肌に比べると大分熱いそれは、節くれ立った長い指を赤く染めた。

 

 サクは長く細い溜息を吐く。自分の呼吸以外の音が遠い状態は、えもいわれぬ不安や恐怖に似た何かを掻き立てる。

 今回の任務の難易度と重要性がかなり高いことは、言わずとも知れたことだった。犠牲になった仲間の命が、それを何よりも雄弁に物語っている。

 そもそも、新大陸に足を踏み入れることさえ、危険を承知した上でのことだったのだ。今更何に怯えるというのか、と独り目を閉じるも、漠然とした不安は消えない。

 そればかりか、ずっと目蓋の裏から消えない、悍ましい光景を呼び起こす引き金となった。

 

 音もなく背後に感じた、ひやりとした気配。

 地面に散らばる、沢山の付箋が貼られた帳面と、割れた瓶。

 血に染まったような皮膚が、凄まじい速さで通った風圧。

 本来あるべき場所から大事なものが溢れた、嫌な臭い。

 

 そして。

 自分の人生の目標が、夥しい量の血を流して倒れている姿。

 何も映していない、虚な目。

 どうすることもできずに、震えるばかりの、己の手。

 

 そして──。

 

 今や何年も前の、胸が潰れるような映像が一瞬脳裏に閃き、サクはひゅっと息を吸って目を見開いた。

 

(……僕のせいだ。僕には何の力も無かった)

 

 何度も反芻した言葉が、微かな音となって脳に流れ込む。それから逃れるように、サクはかぶりを振って小さく呻いた。

 

 映像は一瞬で霧散しても、胃の辺りに残る不快感は消えない。

 一人になると毎度のように起きるこの現象ももうすっかり慣れてしまったけれど、それでも気持ちの良いものではなかった。

 ヒアシが近くに居ることを確かめたくなって腰を上げかけたけれど、すぐに座り直した。ただでさえ緊急度の高い任務で、相方に余計な心配をかけたくない。

 

 サクはオトモアイルーが座る為の、座布団の上に置いておいた帳面を手に取ると、努めて内容を頭に入れようと、その中に記された文字を追う。

 何か一つのことに集中していれば、多少はその頻度や辛さが緩和されるのだ。以前は自分が楽しむためのものだった文章を読むという行為は、いつしか気を紛らわせるためのものと化した。

 サクは目を閉じて帳面に額をつけると、細く、そして長く溜息を吐いた。

 

 ヒアシが、装備の肩部分に付いた巻角が引っかからないように、テントの垂れ幕を持ち上げて入ってくると、サクはハッと顔を上げた。安堵する反面、自分の今の状態を悟られてはいけないという思いが勝る。

 サクは何事もなかったかのように器に残った白湯を飲み干し、分厚い帳面に挟んでいた、きっちりと折り畳まれた地図を引っ張り出した。

 

「さて、そろそろ計画を立てなきゃ」

 さっさと行動を開始した相棒の姿にもう少し休んだ方が良いのでは、と言いたくなるが「時間がもったいない」と返されるのがわかり切っていたので、ヒアシは黙って頷く。

 それから肉を細かく切って焼きしめた、携帯食料の入った包みを懐から取り出し、ぽいぽいといくつか口に含むと、サクにも渡して地図を覗き込んだ。

 

 先程イビルジョーを見かけたのは、中層と下層を繋ぐ場所。

 そこから北東ベースキャンプへ来るまでに、一度も会わずに済んだのだから、かの竜は中層の南側にいるか、下層へ向かったと考えるのが妥当だった。

 今回は、この二人が偵察を担っていたため、大体の状況を把握し、拠点にいる仲間に伝達せねばならない。伝書をしても良いが、口頭での説明が最も正確に伝わるだろう。

 

「まずは研究基地に、報告しに戻らないとね。徒歩は間違いなく危険だし、翼竜で移動するとして……」

 そこで過ったのは、この地に生息する飛竜らと鉢合わせる危険だった。

 食事の時間と合ってしまえば、彼らの狩りに巻き込まれる可能性も出てくるし、何よりこの一帯の飛竜たちの縄張り意識の強さは半端ではないのだ。

 

「今はもう夜だし、飛竜の食事時間とは被らないだろう。立つなら今が一番良いんじゃないか?」

「そうだね。僕もそれがいいと思う」

 日が沈んだ今であれば、危険な目に遭う可能性は低いだろうと踏んだ。

 そもそも彼らの主な食糧であるラフィノスの個体数が激減しているのだから、あまり考えなくても良いのかもしれないが。

 

 サクは肯定の意を表すと、自分のぶんの携帯食料を食べ始めた。白湯を飲もうと器を傾け、先程飲み終えてしまったのだった、と少し肩を落とす。

 回復薬の入った瓶などを持ち込むことを考えると、あまり重い物は持ち歩けない。サクはあっさりと諦め、手に付いた油を拭いた。

 

 腕装備を嵌め、すっぽりと頭装備を被ると、インナー素材特有の匂いと、やや篭った空気が顔を包む。

 丸く赤いレンズ越しに外を見て、それに曇りや汚れがないことを確認すると、サクは立てかけておいた、二つの刃を背に具えた。

 一方、ヒアシはテントに立てかけておいた大盾を、引き摺らないように持ち上げ、槍を担ぐ。

 兜を被ると、ずしり、と頭と肩に己を守る重みがのしかかった。

 

 谷に潜み駆ける者の黒皮を纏った青年と、砂を掻い潜り猛る者の重殻を纏った青年。

 二人の狩人は目配せをすると、休んでいた翼竜に指笛で合図を出し、安全な場所から飛び立った。

 



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上弦

 新たに生まれた気流に乱され、陸珊瑚の卵がばらばらと舞う。

 翼竜の胸当てに付いた金具に、スリンガーのロープを引っ掛けていると、末端から血が下がっている手が、空を吹き渡る風にさらされて冷たかった。

 

 徒歩で移動すれば、それなりにかかる距離も、空を飛べばそうかからずに済む。

 人に飼い慣らされた翼竜は、鳥のような澄んだ鳴き声を上げながら、真っ直ぐに研究基地へと羽ばたいていた。

 遠くに小さく見えていた気球が、少しだけ近くなってきて、このまま何事もなく帰れそうだと、二人は息を吐いた。

 

 その時、急に冷たい突風が吹き、翼竜の動きが乱れた。

 二人と二匹の背に影が落とされるとともに、ばさりと聞き覚えのある羽音が聞こえ、振り返った先には。

「レイギエナ……!」

 一対の薄い皮膜がついた鶏冠をもつ、陸珊瑚の台地の主、風漂竜レイギエナ。その飛竜は風を巧みにとらえる青く美しい翼を持ち、空を自由自在に飛び回る。

 彼らは、大型の飛竜の中でも指折りの縄張り意識が強い種であった。そして、そんな台地の主が侵入者を易々と見逃してくれる筈もなく。

 まもなく、威嚇を意味する甲高くどこまでも響き渡る鳴き声が、珊瑚の卵の漂う空を劈いた。こうなっては、移動などしていられない。

 

「仕方ない、降りるぞ!」

 ヒアシが叫ぶと、二人は翼竜に高度を下げる指示を出し、再び陸上の海底へと潜った。

 レイギエナは逃げていった翼竜を追うことはせず、二人の方へと舞い降りてきた。

 

 あのイビルジョーが出現中の今も、こうして生きているということは、このレイギエナの生命力の強さと、運の良さを表していると言っても良い。

 身体中に古い傷痕が見られる割には、皮膚に艶もある。調査団の区分で言うところの最上位──マスターランクに相当すると考えるのが無難だろう。

 細長い首が持ち上がり、息を吸い込むのと同時に、二人は防具に内蔵された耳栓をした。

 

「来るぞ!」

 レイギエナは二度目の長い咆哮を終えるやいなや、翼を折り畳んで二人の方へと突っ込んできた。空気抵抗を極限まで減らしたその動きは、凄まじく速い。

 ヒアシは背に担いだ槍に手をかけると、回避の勢いを利用してレイギエナの頭を目掛け、それを突き出した。

 

 黄金に輝く槍、ロストバベル。

 陸珊瑚に降り注ぐ柔らかい光を反射したその鉾先は、レイギエナの眼球から、ヒトの指三本分ほど離れたところを通った。

 しかし、台地の主はそれを簡単に受け入れるほど甘くはない。

 

 レイギエナはすぐに空中で体制を立て直すと、胸を反らして大きな翼を広げた。

 パキパキ、と軽い音と共に、みるみるうちに氷麗がレイギエナの胸に美しい氷の花を咲かせる。もしそれに見惚れてしまえば、忽ち表皮を凍らせる寒風に身を晒すことになるだろう。

 レイギエナは二人の位置を確認すると、一息に翼で前方を扇いだ。

 ごう、と地面が凍りつく。何も無かった砂からは霜が生え、辺りは生物の動きを鈍らせるほどの冷気に包まれた。

 

 敵の動きを確認次第、次の攻撃をするためにホバリングを始めたレイギエナ。

 その傍から一対の刃が弧を描きながら宙を舞い、台地の主の大腿を二度、三度ととらえた。

 すぱりと切れた傷口は、一拍置いて痒みを伴う痛みを訴える。鬱陶しい、とレイギエナが尾で薙ぎ払うも、素早い獲物はそれを避けてしまった。

 

 ぎろ、と対象を睨んだところで、台地の主はもう片方から先程の金の槍が接近していることに気付いた。高所に回避しようと翼を持ち上げる。

 その時、思いもよらない速度で金槍が迫ってきて、レイギエナはぎょっとした。

 先程は当たらなかったその鋒は、レイギエナの白く滑らかな下肢を的確に深く突いた。

 その痛みに、陸珊瑚の主は思わず悲鳴を上げる。

 

 こんなに小さな侵入者に怯まされるとは。一瞬の恐れは瞬く間に怒りとなり、レイギエナは再び甲高い咆哮を上げた。

 

 その隙にサクはヒアシと目を合わせると、右腕をくい、と上げて合図をした。

 このままレイギエナを上に誘導する、という意味である。

 その意図を汲んだヒアシは頷き、再度武器を構えてレイギエナに向き合った。

 

 このレイギエナによる襲撃は、侵入者を追い出すことが目的だろう。そうであるならば、こちらが縄張りの主として相応しいのだと示せば自ずと去っていく筈だ。

 ただでさえ生命が薄くなっているこの地の生態系の崩壊を、助長してはならない。今はとにかくレイギエナの戦意を喪失させ、安全な場所へと逃げてもらうのが優先だった。

 

 ヒアシはレイギエナの後方に回り込もうとするが、主も意地を見せ、どこまでも追いかけようとする。このままでは埒が明かないとヒアシは敢えて盾を構え、レイギエナに先制を許した。

 レイギエナは、遂にスタミナが切れたか、とほくそ笑み、牙の生え揃った口を開けて、盾の上から噛み付こうとする。

 ヒアシは狙いを定めて台地の主に向けて左腕を振るうと、槍が唸りながら空を切り、その顎を打ち付けた。

 まさかカウンター攻撃が来るとは思っていなかったのか、レイギエナは短く悲鳴を上げる。

 ヒアシはすぐに槍を持ち直し、バックステップで距離を取った。

 

 その隙にレイギエナの懐へと潜り込んだサクが、逆手で太腿を切り裂いた。

 先程から集中攻撃されているその脚は赤く染まり痛々しいが、致命傷を避けるには、内臓や太い血管を避けた場所を狙うしかないのだ。あと数回は切れるか、とサクは遠心力を使って刃を振るい続ける。

 飛竜一頭分くらい離れたところから、それを見ていたヒアシは、突如レイギエナが力を溜めるような仕草をしたのを認めて、目を見開いた。

 

「危ない!」

 ヒアシは身体を傾けて坂を一気に滑り降りると、咄嗟に肩を捻って足でブレーキをかけ、サクを後ろにして大楯を構えた。

 次の瞬間、レイギエナの巨体による衝撃。

 さらに、氷の混じる冷風。

 なんとか受け流したものの、金属製の盾はきんと冷え切り、表面は霜で白く覆われていた。

 

「大丈夫か」

 ヒアシが問いかけると、耳栓で声は聞こえなかっただろうがサクは頷いた。そのレンズ越しの目には、安堵と何かが混ざった色が浮かんでいたが、今のヒアシにはそれを考える余裕は無かった。

 

 吹き飛ばしたかった相手が無事なのを見て、レイギエナの腹の虫の居所はさらに悪化した。

 

 サクは、目を爛々とさせて低地であるこちら側へと駆けてきたレイギエナを避け、やや大袈裟であるほどに距離を取る。

 そして助走をつけて坂を一気に滑り降り、地面を強く蹴った。

 双剣は他の武器種と比べれば小さく見えるものの、その実、多くは人の腕ほどの長さがある。

 サクは身体の回転軸を横に傾けるとそのリーチを存分に活かし、勢いを威力として乗せ、レイギエナの頭から尾にかけて滑るように何度も斬りつけた。

 最後の一薙ぎが尾の先端を切り裂くと、サクは、ざっと音を立てて着地した。詰めていた息を吐き、相手を見やる。

 

 台地の主は、尚も目の端を吊り上げていたが、その口の端からは、だらだらと唾液が垂れ流されていた。

 

 サクは再び集中して双刃を己の顔前で構え、向こうに居る相手を鋭く見据える。

 その武器の名はベニカガチノドクヅメII。骨素材でできた一対の剣には、寒冷地に生きる飛毒竜の、鮮やかな赤褐色の毛皮や鱗などの装飾が施されている。

 そしてその中に隠された袋に繋がった針からは、劇烈な毒が噴き出す仕組みになっていた。

 

 その効果は、覿面だった。レイギエナは毒に極端に弱いのだ。

 冷気を操る力と軽やかな身のこなしを得た代わりに、その代謝が災いして、毒素が身体に入るとあっという間に全身に回ってしまう。

 最初の三閃の時点で、猛毒針はレイギエナにしっかりと刺さっていた。それが時間をおいて、彼の消化器をはじめとした身体のあちこちを蝕んでいたのである。

 

 レイギエナは苦しげに鳴き、幾度となく多量のどす黒い血を吐きながらも、眼光を失うことなく懸命に威嚇する。だがその動きは、目に見えて鈍っていた。

 このような生き物がこのままここにいれば、先程消したとはいえ、残った瘴気の影響を大いに受けてしまうことは明らかだった。やや荒い手立てではあったが、あちらが戦闘状態になってしまった以上、こうするしかない。

 ただでさえ飛行能力に優れているというのに、気が立っている状態のレイギエナから飛んで逃げるのは至難の技だ。

 

 今の状況ではあまり騒ぎは起こしたくないし、手早く済ませねばならない。

 ここにいるのは危険だと判らせるように。

 そして、なるべく翼は傷つけないように。

 

 レイギエナは尚も苦悶していたが、やがてサクに向かって細長い尾を鞭のようにしならせた。

 サクはそれを腰を屈めて避けた。立ち上がると同時に納刀し、上方向に射出したスリンガーのトリガーを引く。

 ロープが巻き取られると同時にサクの身体も引き上げられ、ヒアシの後ろへと着地した。

 サクの役目はここまでだ。

 

 ヒアシはステップをして飛んできたレイギエナの尻尾を避けながら、彼の斜め後方へと入り込み、筋肉だけに刺さるよう脇腹に槍先を突き出した。

 黄金を引き抜く度に、鮮血が飛び散る。

 

 あまりの具合の悪さに最早怒りすら湧いてこなくなったのか、攻撃を受けても、レイギエナの動き自体は先ほどよりも落ち着いていた。

 低空に舞い上がり鋭い爪でヒアシを捕らえようとするも、平衡感覚を失ったレイギエナの狙いは、当たらない。

 何度繰り返しても空を切るばかりで盾すら掴めず、レイギエナはとうとう嫌気がさした。

 

 やがてレイギエナは鳴きながらよろよろと後退り、負け惜しみのような咆哮をあげた。

 そして傷のない翼を広げ、上空へと飛び立ったのだった。

 

 耳栓を外し、二人はどちらともなく歩み寄る。

「やっと行ったね」

「ああ。無事でいてくれると良いが」

 小さくなるレイギエナの背を束の間見送ると、ヒアシとサクは翼竜を呼ぶ指笛を吹こうと、人差し指と親指でつくった輪を下唇に当てる。

 狭い隙間に吹き込まれて抑揚のある軽い音に変わった息に、近くに隠れていた翼竜が律儀に飛んできた。

 

 スリンガーから再びロープを射出し、翼竜の胸の金具に取り付ける。

 ヒアシにやや遅れてサクもロープに掴まると、ふわりと身体が宙に浮いた。

 予想外の戦闘に、帰還が遅くなってしまった。

 これも報告しなければ、と考えながらふと下を見たサクは、凍りついた。

 

 淡い珊瑚のカーテンの向こう側。

 夜の闇と見まごう黒い身体が。

 その顔に纏わり付いた白いモヤが。

 そして何より、濁りきった瞳が真っ直ぐにこちらを見上げていたのだ。

 

「まずい、気付かれた……!」

「なんだって!?」

 予想すらできないほどの、最悪の事態だった。

 二人は失念していたのだ。

 一度目にかの竜がこちらを襲ってこなかったのは、その動きがあまりに微小だった為に、自らの食らう命として捉え損ねていたに過ぎないことに。

 

 このまま最寄りのベースキャンプに戻れば、その位置をわざわざ教えるようなものだ。

 いくら大型モンスターが入ってこられないような場所を選んでベースキャンプを立てているとはいえ、それはそこに仮の拠点があることをモンスターに知られていないのが前提である。

 イビルジョーをはじめとする獣竜種は、見上げるほどの巨体を持ちながら、軽々と崖をも登ってみせるのだ。

 

 しかも、この地に最初に設置されたベースキャンプの裏には、ヒアシ達が乗ってきた三期団の気球がある。

 巨大な気球が燃え盛る炎によって空へと浮かび上がるには、少しとは言えないだけの時間がかかるのだ。

 もしイビルジョーを連れてきてしまえば、全滅は免れない。

 

「ヒアシ……」

 サクの呼びかけに、ヒアシは強張った顔で頷く。

 こうなったら、ヒアシとサクに残された道は一つ。この地に残り、かの竜を撒いて逃げ延びることだった。

 しかしその成功率が限りなく低いということは、二人の間の沈黙が何よりも雄弁に物語っていた。

 

 今回の調査はクエストとして受注したわけではないから、余程遅くならなければ、二人が帰還するまで他の調査員は来ない。

 もしも最悪の事態になった時に犠牲者は少なく済むけれど、それは同時に、二人が助かる可能性の低さも残酷に突きつけていた。

 

 ヒアシとサクが掴まる翼竜の飛ぶ方向をしっかりと濁った目に映し、涎を滴らせながらかの竜はついて来る。

 どこまでも、どこまでも。

 



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十三夜

 二人は、こちらを追ってくる恐暴竜を見つけて気が動転している翼竜を必死に宥めながら、半ば叫ぶようにして意思疎通をした。

 

「救難信号を打つか!?」

「いや、それなら気球から十分離れた場所で打つべきだ! この辺りで打って、調査員が来るところを見られたら、元も子もない!」

 

 今回は調査が目的であり、大タル爆弾や罠などの道具の類は、一切持ち込んでいない。

 一度の出征で複数のモンスターを相手にすることになる、現大陸での大連続狩猟クエスト形式ならば、狩猟を行うごとにギルドから支援が入る。縄張りを虎視眈々と狙っている複数のモンスターが、主の不在を察知してすぐに駆け付けてくる為、ハンターは暫くその場から離れられないからだ。

 実際にヒアシも何度かそういったクエストを受注したことがあったし、ギルドがその地域一帯の事情を把握している場合はある程度融通が効く。

 また、新大陸では支援こそ無いものの、大抵は翼竜を呼んで近くのベースキャンプにファストトラベルすることができる為、休息と活動のバランスが取れるようになっていた。

 普通であればキャンプにすら戻れない、ということはまず無いのだ。しつこく追いかけてくるモンスターはいても、その縄張りから離れれば、興味を失って自ずと去っていく。

 この状況は、異常だった。

 

 怒っているモンスターを撒くのだとすれば、隠れ身の装衣を着て背景に紛れるか、物陰に隠れるかしてしまえば良い。

 だがそれは、怒りで我を忘れたモンスターや、こちらを絶対的な排除対象、または捕食対象として見ていないモンスターだからこそ通じる手法だった。

 

 こちらを執拗に狙う正気のある相手に対して、それが成功するかと問われれば、すぐに首を縦に振ることはできない。

 大抵のモンスターは、優れた聴覚や嗅覚でこちらの居場所を探り当ててしまうからだ。

 ここ陸珊瑚の台地は比較的、風に流されて匂いの残らないフィールドではあるけれど、それでも空気の淀む場所は点々と存在する。そこを辿られればこちらはどうすることもできない。

 

 このまま狩猟を行うのは大きな負担を伴う。とてもではないが、普通の人間であればまずこの選択はしないだろう。

 それでも今は緊急事態だった。どんな状況であっても、生き延びることが最優先だ。

 

 ヒアシは一つ息を吸い、眉をぐっと寄せた。とにかく、冷静にならなければ。

 それは言葉にせずともサクにも伝わったようで、胸に手を当てて深呼吸するのが見えた。

 

 サクはヒアシに、ドーム状の青い珊瑚のある場所に降りることを伝えた。

 あそこならば薄暗いだけでなく程良く狭い上、様々な抜け道があり、こちらに有利な状況に持ち込めると踏んだのだ。

 

 翼竜から手を離すと二人はバタバタと空中で足を動かし、衝撃を流して落下後すぐに走り出せるようにした。

 迫る地面と、少しの衝撃。近づいてくる地響きを後ろに、二人は駆け出した。

 直線上で逃げれば、自分たちと比べて圧倒的に歩幅の広いイビルジョーに追いつかれるのは時間の問題だった。

 そうであれば、スタミナの消費量には目を瞑るとして何度も迂回を繰り返し、かの竜がこちらを見失っているうちに、小さな隙間などに入り込んでしまうのが良い。

 幸い、このエリア付近は逃げ込めそうな場所が多かった。

 

 本来ならば直進するところを右へ、左へ。乳酸が溜まっていることを訴える下肢を叱咤し、なんとか走り続ける。

 気管がひりついて、鉄の味が口に広がる。重い盾で走りづらい筈のヒアシも、一切遅れることなくフィールドを駆けた。

 それでも、確かに足音は近づいてくる。

 

 やがて二人が辿り着いたのは、桃色の大きな珊瑚の広場の手前にある、飛び石のある場所だった。

 そこは中層と下層を繋ぐ中継地点で、下を見るとモヤで覆われているのが確認できる。

 二人は人の半身ほどの高さの段を二、三と降り、その先にある小さな抜け穴へと逃げ込んだ。

 

 そこは緑色の筒状の植物が上下左右にびっしりと生えた、なんとも不気味な空間だった。土の性質も変化しているのか、歩くたびに、もきゅもきゅと変な音がする。

 このぽっかりと空いた穴の中の空気は淀んでいるが、その上にそれが流れ出ることはない。おそらくこの植物は、浄化作用を持つのだろう。

 

 二人は、狭い入り口からは死角となる奥の方へ入ると、安堵の息を吐いた。

 ここならば、イビルジョーが入ってくることはできないだろう。このまま見られないようにしながら、下層へと降りてしまえば良い。

 翼竜なしに瘴気の谷と呼ばれる区域まで降りることは難しいけれど、複雑に入り組んだ下層であれば、逃げることの難易度はやや下がる筈だった。

 

 首筋と頰が火照り、身体は酸素を求める。肩で息をしながら、サクはヒアシに声をかけた。

「気休めだけど、これ。無いよりはましでしょ」

 サクはポーチを開けると、黄色い液体の入った小瓶をヒアシに渡した。

「良いのか? もし戦闘になった場合、必要になるだろうに」

 

 瓶の中身は強走薬という、一時的に身体の疲労を軽減させる薬だ。サクのような、スタミナを消費しやすい戦い方をする双剣使いには、必須と言って良い物品だった。

 これは、現大陸で普及していたものよりも効果そのものは薄いけれど、より長時間効き目がもつため重宝されている。

 

 心配げに尋ねるヒアシに、サクは躊躇いなく微笑んで頷く。

「一緒に生きて帰ることの方が、ずっと大事に決まってるだろ」

 その言葉にヒアシは目を丸くした。生きられることが最も大事なのに、いかに戦闘に有利になるかを考えてしまっていた。

 ハンター歴は自分の方が長い筈が、一瞬だとしても基礎を忘れるとは。

 それに、この幼馴染みは昔からこういうことに対して、こちらが恥ずかしくなるくらい率直にものを言う。言葉での表現が苦手な自分に、そして自分が彼に対して引目を感じていることに対して情けなくなり、ヒアシは曖昧な微笑みを浮かべた。

 

 ヒアシは礼を言ってそれを受け取り、コルクを抜いて一気に呷る。嚥下すると、心なしか今の疲れも和らいだような気がした。

 サクの方をちらりと見ると、瓶を大きく傾けていて、もう少しで彼の分の強走薬を飲み終えるところだった。

 与えてもらっているばかりでは、こちらの気が済まない。せめて戦闘面では自分が彼のサポートをしなければ、と思った。

 

 ヒアシはサクが薬を嚥下したタイミングを見計って、相棒の名前を呼んだ。そして盾を備えていない左手で彼の肩を抱く。

「生きて、帰るんだ。……絶対に、二人で」

「勿論」

 すぐに力強い眼差しと返事が返ってきて、ヒアシはふっと顔を綻ばせた。サクはぽんぽんと軽くヒアシの手を叩き、瞼を閉じて微笑む。

 

 当然ながら不安は大きいし、恐ろしい。

 以前、別個体のイビルジョーと相対した際に生き延びられたのは、奇跡だったのではないかとすら思う。

 けれど、それでも自分たちならやれると、そんな希望を互いに確かめ、己を奮い立たせることができた。

 さあ、迫り来る死の手を、振り切って見せようではないか。胸を蝕む不安の渦は、いくらかその威力を落ち着かせていた。

 

「暫くここでやり過ごしたら、外に出て信号弾を打とう。青い珊瑚の広場の方に戻れば、合流して体制を立て直せる筈」

 サクが頭装備を装着し直しながら提案すると、ヒアシは頷いた。

 隠れている最中に目立つ音と光を放つそれを打つのでは、自分たちの居場所をわざわざ相手に教えるようなものだ。

 ならば、最も効率的に打てるのは、こちらの準備が整い、かの竜と再び相見える直前。仲間が駆けつけるまでにはタイムラグがあるけれど、今ここで休息を取れば、それまで持たせることはできるだろう。

 この下層への道は、先程の広場の下に位置している。ここであれば仲間もすぐにわかる筈だった。

 

 その時、足音と何かが軋むような音がして、二人はハッと顔を上げた。

「!」

 小さな欠片が、ぱらぱらと落ちてくる。

 やがてその音は頭上から、そして後方へ。

 ヒアシは兜を下げ、その隙間から音の方を見据える。

 

 ずん、と重い音。

 ヒアシ達が入ってきた穴の反対側の出口に、瘴気に侵された悪魔が、降り立った。

 

「そんな……!」

 まさか、逃げ道を塞がれるとは。

 かの竜が振り向く前に二人は逆方向へと駆け出した。入り口に辿り着く前にスリンガーのワイヤーを伸ばして引っ掛け、その勢いで蔦を上る。

 

「こうなったらもう応戦するしかない! 広いところに移動しよう!」

「ああ!」

 一体、何があの竜をここまで駆り立てるのか。

 現大陸の降雪地帯に住まう、群れを率いるドドブランゴのような狡猾なモンスターならば、なんとしても獲物を逃さんとするだろう。

 しかし、相手は恐暴竜・イビルジョーだ。元々生態系を脅かす程の大食漢とはいえ、かの竜の食に対する執着は、これまでに二人が出会った同種のものとは比べ物にならなかった。

 それに加えて、獲物が隠れている場所を正確に割り出す計算力。これまで先人たちが積み上げてきた、恐暴竜という種に対する数少ない常識を、かの竜は凄まじい速度で塗り替えていく。

 

「まったく、あの無尽蔵の体力は、どこから来るんだ!」

 低い唸り声が、後方から聞こえていた。その間に、少しでも遠くへと逃れなければ。

 

 やがて竜は、二人の匂いが自身のいる場所より下からは感じられないことに気付いた。

 そして再び洞穴の上部に上ると、少し離れたところを駆けていく二つの小さな影。

 

「来たぞ!」

 ヒアシは腰に下げていた信号弾に着火すると、腕を真っ直ぐに空へと上げた。間も無く、危機を知らせる光が打ち上がる筈だ。

 

 しかし、準備をしていたのは、こちらだけではなかった。

 イビルジョーはあと少しで追いつく、というところで急に立ち止まり、その巨体を屈めたのだ。

 

「!」

 何をしようとしているのか察したサクが、咄嗟にヒアシを抱えて横に飛んだ。

 光の玉は明後日の方向に飛び、珊瑚に当たって穴を開けた。着火石も手を離れ、地面に落ちる。

 直後、ヒアシのいた場所に大きな窪みができ、その周囲には立っていられない程の地震が起きた。

 

 イビルジョーの最大の武器の一つである、捕食攻撃。

 世にも恐ろしいその攻撃は、巨躯に似合わぬ精密さで獲物をがしりと後ろ足で押さえつけ、捕まえる。

 そして、食らう。顎の外まで不規則に生えそろった牙で、ガツガツと肉を引き裂いて、食らうのだ。

 

「ッ、大丈夫?」

「ああ、すまない!」

 間一髪でその牙を逃れた二人はじりじりと後退しながら、ふらつく足を叱咤して立ち上がり、次の攻撃に備えて回避の態勢をとる。

 ヒアシの信号弾は無残に踏み潰され、最早道具としての機能を失っていた。

 

 何もない地面を踏んだだけだと判ったイビルジョーは、己の体制が整うことすら待たず、身体を振り子のようにして片足を大きく上げた。

 

 再び、地震。

 しかし二人はそれに影響される範囲を抜け出しており、攻撃によってできた隙を突いて、臨戦態勢に入った。

 

 最初に繰り出されたのは、ヒアシの突撃。

 金色の槍は、多くのモンスターの弱点となる横腹を正確に突いたけれど、その厚い表皮と発達した筋肉に阻まれ、深くまで達しない。

 それでも二撃、三撃と同じところを突くうち、なんとか目視できる傷跡にはなった。

 

 その間にサクは集中して力を溜め、ある一点で息を止めると、双剣を逆手に持ち、頭部を狙って思い切り二振りの刃を振り下ろした。すぐさま持ち替え、身体の回転も用いて上方、水平、斜に切り刻んでいく。

 サクが一連の動きを終えた時には、イビルジョーの顎に沢山の細かく白い切創ができていた。

 

 イビルジョーは鬱陶しげに身震いをする。そしてがぱりと大きく口を開けて、そのまま身体を半回転させながら踏み込み、二人をまとめて飲み込まんとした。

 

 サクは予備動作を確認するや否や、腰を低く落とし、敢えてイビルジョーの口側から急な角度で足下へ。

 そしてヒアシは一瞬目の端で後方を確認すると、大きく三回後ろに跳び、口を閉じたイビルジョーの顔面に槍を突き出した。それは下顎の筋肉に刺さり、太い木の幹を刺したような感触が手に伝わる。

 

 かの竜はその図体が災いしてか、一つ一つの動きは遅く、単調だった。

 けれど先の捕食攻撃のように、体重を乗せた一撃の威力が尋常ではない為、いかにその巨体に巻き込まれずに安全圏で闘うかを第一に考えねばならない。

 その上、二人の付けた傷はいずれも浅く、真皮にすら届くか届かないか、という程度であった。

 

 こちらが行うのは突撃と斬撃で、相手が堅い甲殻を持っているならば、その甲殻と甲殻の隙間を狙えば良い。動きに柔軟性を持たせるために、多少は柔らかくなっている筈だからだ。

 しかし、このイビルジョーは甲殻があるわけではなく、攻撃を阻んでいるのはその発達した筋肉だった。

 もし年老いた個体であったなら、脆弱になっている可能性もあっただろう。だがこのイビルジョーは若い。活発な細胞は、己の身が傷つくのをそう容易く許しはしない。

 そうであるならば、狙うべきは腋窩や鼠蹊部といった関節の部分。

 どちらも太い動脈が通っているうえ可動部であるため、大抵はどんな生物でも比較的柔らかい部位である。

 だがその分、懐に深く潜らなければまず攻撃が当たらないことに加え、健脚な獣竜種の骨格から、隙のできるタイミングを測るのが難しい場所だ。そのためこの竜の討伐難易度は跳ね上がっていた。

 

 そして、何より警戒すべきは。

「ヒアシ、下がって!」

 息を吸い込んだイビルジョーの口元に、黒いモヤが燻る。

 直後、赤い稲妻を伴ったガス状のそれは、噴煙のようにもくもくとその範囲を広げながらヒアシの居た場所を薙いだ。

 ヒアシは口元を覆い、全速力で範囲外へと逃れた。

 

 このブレスの特徴は、その場に滞留することである。

 イビルジョーは他のモンスターのように目立った特殊な臓器を持っているわけではない。それでも未知の強い力・龍属性エネルギーを、電気エネルギーとして発現させ広範囲にばら撒くという、竜の域を超えるほどの芸当をやってみせるのだ。

 それは空気中で化学反応を起こし、黒いガスという副産物を生む。走る赤い稲妻が生物を著しく傷つけるものであるというのは勿論だが、ガスを吸い込んだり触れたりするのも危険なのは、言うまでもないことだった。

 リオス種の放つ火球などとは違い、その瞬間だけ避けるのではもろにダメージを食らってしまう。

 

 なんとか怯ませて、こちらに有利な状況を作れないものか。

 いつまでも表皮の角質を傷つけているだけでは埒が明かない。少しでも有効な決定打を打てれば、戦況を変えられるのだが。

 

 ヒアシが逃げ込んだ場所から、ガスの霧散を確認したサクが飛び出し、かの竜の背後へと回り込むことに成功した。その内腿に、二度、三度と斬撃を与えていく。

 サクの持つ双剣の毒は、血液に関与する効果のある、所謂ヘビ毒の類である。小さな傷口でもその作用が発揮されれば激痛が走る筈だが、生憎この毒は遅効性であった。

 研究によると、イビルジョーはレイギエナと同様に、大型モンスターの中では代謝の良い方だとされている。しかし、この毒は主要な血管に注入されなければ、あまり意味がない。

 それに加え、免疫力の高いイビルジョーには、ただ毒を入れてもすぐに無意味なものとされてしまう。体力を削って、その機能を身体の修復に充てさせたうえで、ある程度の量の毒を注入せねばならない。

 実際、傷周りに変色や腫れている様子も見られず、期待するような効果が出ているとは思えなかった。

 

 どう攻めるべきかと思考を巡らせていた、ちょうどその時、イビルジョーは、突如ぴたりと停止した。

「……?」

 通常、スタミナを切らした大型モンスターは、時折立ち止まって呼吸を整えることがある。

 だが、この止まり方は呼吸すらも止めて、何かを考えているようにも見えた。影から観察しているときにも見られたこの不自然な行動は、ますます寄生されているという事実を裏付けているようで、えもいわれぬ不気味さを感じさせた。

 

 サクはその状態を警戒し背後を確認しながら、じりじりと距離を取る。

 次の瞬間、イビルジョーは猛烈な、と形容するに相応しい速度でこちらを向いた。

 火山の噴煙と同様、あまりにも大きいものは動く速さがゆっくりとしているように見える。しかしそれは、ただの錯覚に過ぎないのだ。

 あっと思う間もなく涎が糸を引き、牙と呼ぶには歪な形状の突起が不規則に並ぶグロテスクな口が迫ってきて、サクはハッと息を飲む。

 

 大口が、がちん、と閉じられた。

「ッ……!」

 サクは予備動作を認識した瞬間に、咬合部を避けようと動き出していたが、竜のその巨体ゆえに範囲があまりにも広すぎた。

 間一髪、致命的な程に身体を噛み砕かれる、という羽目にはならずに済んだ。

 しかし受け身をとろうとして、その前に珊瑚の塊に背を強かに打ち付けてしまい、咳き込んだ。

 

「サク!」

 ヒアシはスリンガーをかの竜に向けるやいなや、付属の鋭い鉤爪状になっている金属──クラッチクローを射出し、力強い蹴りと共にその手の中のトリガーを握った。

 気味良い音と共に、ワイヤーを戻す勢いに乗って宙を直線上に滑りゆく様は、どの飛竜の動きにも似つかない。

 ヒアシは手を伸ばし、その巨大な側頭に張り付いた。もう一度クローを展開させると、腕を振りかぶって、思い切り爪で殴りつける。

 大事な感覚器官である目を傷つけられるのには、流石に抵抗があったのか、イビルジョーは顔を逸らし身体ごと向きを変えた。

 先程の種火石は、まだ残っている。ヒアシはスリンガーの射出機構を握ると、それらを竜の頭に向けて一気に打ち出した。

 後頭部から衝撃を受けたイビルジョーは、何が起きているのか確認する間もなく前につんのめり、壁に激突した。

 

 ヒアシは片手をつき、地面に着地した。それから苦い面持ちでかの竜を見る。

 心の支えとなる前提が、あっという間にかき消された。この竜は、決して素早い動きができない訳ではなかったのだ。

 

 一方でサクは投げられた場所で蹲り、浅く息をしていた。ヒトの身体の倍以上もある顎の衝撃をもろに喰らったことで、背が激しく痛む。

 息は吸えるため、肺に穴は空いていないようなのが幸いか。だがもしかすると骨にヒビが入っているかもしれない。

 そしてその肩は、痺賊竜・ドスギルオスの黒い皮がべろりと剥がされ、中の鮮やかな緑色の甲殻が剥き出しになっていた。

 それすらも抉られており、所々がジュワジュワと音を立てて溶けている。

 

 サクの防具はマスターランクの強さを誇る雌火竜・リオレイアの装備の上に、ドスギルオスの皮をあしらい、その見た目を整えたものだった。

 この防具には、武器に塗る毒を補充する為の余裕が備え付けられており、サクはそこに余分の毒腺を保管していた。

 生きていればいくらでも分泌される毒も、その主が命を落としてしまえば、それらは使い切りのただの嚢となってしまう。勿論、工房の工夫により、それが内部で破裂しても外に漏れ出ないようになっているが。

 

 しかし、この装備には欠点があった。リオレイアの甲殻は、龍の力が形をとった龍属性エネルギーに対してすこぶる脆弱なのだ。

 例えるならば、電流をよく通す素材を見に纏ったまま雷の中に飛び込むようなもの。

 それを補うために、リオレイアよりは龍に耐性のあるドスギルオスの皮で覆っていたのだが、この破損によって防御が薄くなってしまった。

 

 防具の腐食が進行しているのは、空腹時に分泌されるイビルジョーの特殊な唾液の特性によるものだった。

 獲物を確実に追いかけ仕留める為に、その消化液は強い酸性へと変質する。塩基性のもので中和しなければ、どんどん化学反応が進んでしまう。

 

(ここまで疲れ知らずなイビルジョーなんて、この後どう立ち回れば良いんだ!)

 サクはぎゅっと眉間にしわを寄せた。

 イビルジョーの勢いは、衰えるそぶりすら見せなかった。もしこの隙間からあのガスが入り込めば、たちまち大きなダメージを食らってしまうだろう。

 それだけは、避けねばならない。生死の境が限りなく薄い戦闘の中で、片方に枷がはめられた瞬間だった。

 

 サクはよろよろと立ち上がり、再び双刃を眼前に構えて、威嚇の姿勢を取る。

 もしかしたらヒアシ一人だったならば、この竜の討伐をもっと容易く成し遂げてしまったのかもしれない。

 そんな思いが一瞬脳裏をよぎり、サクは唇を噛む。

 

 本人は謙遜しているものの、ヒアシのハンターとしての実力は抜きん出ている。

 事前に戦術を立てるのはサクであることが多いが、彼がいざ狩場に出てランスを構えると、技術的な面は勿論、瞬発力や咄嗟の判断力といった、この職業をやっていく上で欠かせない能力が秀でていることは、素人目だとしてもすぐにわかるだろう。

 何より闘技場を運営する者たちに、その実力を認められた上で生産できるようになる彼の愛武器こそが、数多くのモンスターを制した証であった。

 

 戦闘が始まるとヒアシは普段の穏やかな雰囲気とは一変し、対象をどこまでも冷静に、確実に攻めるような戦い方をする。

 以前本人に聞いてみたところ、それは意識的に切り替えている、とのことだった。

 

 必死に食らいついてはいるけれど、サクは狩猟をする上でのバディとして、自分がヒアシに釣り合っていると思えたことは一度としてなかった。

 ぐ、と双剣の柄を握る手に力を込める。

 ただ守られる対象に成り下がって足手纏いになるのだけは、御免だった。

 

 ヒアシによって壁に叩きつけられたイビルジョーは、目の前に火花を散らせて体制を崩し、暫くもがいていた。

 その間ヒアシは大きく晒された腋窩に、集中的にその槍先を突き出していた。

 何度か刺すうちに動脈のある場所に見当をつけ、そこを狙って突き刺す。

 やはり、硬質化していない場所ならば攻撃は通るようだ。少しでも出血させ、ダメージを稼がねば。

 ヒアシは目の端で、相棒が立ち上がったのを確認した。

 

 やがて、巨竜は起き上がる。その目に、並々ならぬ熱を湛えて。

 黒緑の皮膚の間から、その筋肉がみちみちと音を立てて大きく隆起し、塞がっていた筈の傷口が、一気に開いていく。

 その痛みに、竜は呻きながらも歯を食いしばる。

 

 嗚呼、鬱陶しい。

 嗚呼、煩わしい。

 この飢えを満たせぬことが、もどかしい。

 さっさと臓腑に収まれば良いものを。

 

 竜は白いモヤを覆い尽くすほどの、黒いガスを顔や首周りに纏わせ、台地を震撼させる、悍ましい咆哮を放った。

 



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幾望

「サク、伏せろ!」

 

 ヒアシの声に、サクは咄嗟に地面へ飛び込んだ。その頭上すれすれのところで、凶悪な尻尾が唸りをあげて通り過ぎる。

 軸を整えるのに踏み換えられた幹を、横に転がって躱すと先ほど負傷した背と肩に痛みが走り、息を漏らした。

 もしあのまま立っていたら、その勢いで首をもがれていたことだろう。

 

 当たり前のことだが、大型モンスターと人間では身体のスケールに差があり過ぎる。

 比較的リーチのあるモンスターは、足下が安全だと言われている。だが巨躯であればあるほど、その攻撃に切り替わる予備動作を見極めるのは難しい。

 

 ヒアシはサクに目標を定めさせないよう、イビルジョーの顔面に突きを入れた。

 頭部は最も危険な場所だが、その分注意を引きやすい。

 頭に血が上っていたイビルジョーは、見事にヒアシの挑発に乗り、盛んに噛みつく。

 だが、ヒアシはそれらをすべて避け、または盾で巧みに受け流して、かの竜を翻弄した。

 

 サクは這って体制を立て直し、イビルジョーから距離を取った。衝撃を受けた掌が、ひりひりと痺れている。

 直前に納刀していたお陰で、無事に回避できたが、もしあの場で武器を手放していたら、と思うと肝が冷えた。

 

 その間にヒアシは、サクと対角の位置となるようにイビルジョーに接近し、その腹部に向かって突きを入れた。

 怒りによる興奮で、かの竜の心の臓は活発に血を巡らせ、組織は柔軟さを増していた。例えるならば、縄だ。どんなに太くても、逆方向から同時に引っ張られれば刃が通りやすくなる。

 それと同様に、皮膚が裂けて隆起した筋肉は、槍先の侵入を深くまで許した。

「通った……!」

 引き抜かれた鋒と共に噴き出た鮮血に、思わずサクは感嘆の声を漏らした。

 

「ッ、このままッ、畳み掛けるぞ!」

 イビルジョーの噛みつきを避けながら、攻撃を続けていたヒアシは、盾を構えて力を溜めると、思い切り槍を振り上げた。

 集中して繰り出された一撃は、先程まで突いていた場所を、的確に穿った。

 ダメージを受けたイビルジョーが、呻き声を上げて後ずさる。これまでの状況に、僅かに光明が差したかのように思えた。

 

 自分も再び奴の懐に入らなければ、とサクは背負った得物の柄を握る。

 それを見たヒアシは、ステップで距離を取った。

 双剣は、よりモンスターと肉薄せねばならない武器種だ。イビルジョーが怯んだこの隙に、肉質の柔らかい場所の近くに陣取ることが、戦況を有利にする。

 

 サクは鋭く息を吸い込んだ。

 先程の怪我では、肋骨は折れていなかったらしい。幸運だ。

 肺が十分に膨らむと、そのまま姿勢を低くして駆け出す。

 イビルジョーの股下に到達すると、かの竜が動き出す前に双刃で股関節の周辺を斬りつけた。できることならヒアシが作った損傷部位に攻撃したかったけれど、流石に平地でこの武器を扱うのでは、そこまで届かない。

 

 双剣使いの多くが身につける"乱舞"と呼ばれる動きは、身長のあるサクが行うと自らの身体まで傷つけてしまう恐れがある。

 そのため、普段から片手剣のように斬り上げる動きを主としてその動作を行っていたのだが、それが功を奏した。

 

 斬撃に弱くなっている皮膚──それも、ただでさえ表皮の薄い鼠蹊部を切り裂かれ、遂に刃が血管に到達したのだ。

 サクは剣を少し傾け、毒腺から液が噴出するのを促した。この間に、でき得る限りの毒を注入しなければ、すぐにかの竜の免疫系に食い尽くされてしまう。

 二度目以降に毒を受けた際、自身の身体が激しく拒絶反応を起こすことは、イビルジョーにはあまり期待できない。

 

 ここで致命傷を負わせられれば尚のこと良いのだが、かの恐暴竜が、それをそう易々と許す筈もない。

 わずかだが確かな痛みにさらに苛立ったイビルジョーは、サクを標的と定めた。蹴り飛ばそうとしたが、すばしこいその獲物はいずれの攻撃をも避けてしまう。

 

 ならばこれはどうだと、イビルジョーは身体を大きく逸らした。

 振り子のようなその一連の動き。歪な牙の生え揃う顎が通った直後、地面には大穴が開いていた。左右に地を抉るそれは動きがコンパクトな分、出が速い。

 

 サクは顎の届く距離と、自分に到達するまでの時間を瞬時に測り、右方向に顎が振り切ったのを確認するや否や、そちらへと飛び出した。

 遠心力で威力が増大するその攻撃は、すぐには止まれない。イビルジョーの背後は、がら空きとなった。

 

 ヒアシはすう、と息を吸い込んだ。

 標的までの距離は、およそ大型モンスター一頭半といったところだ。

 腰を低く落とし、槍を地面と平行に構える。ぐ、と踏み込んだ直後、ヒアシはイビルジョーの斜め後方から駆け出した。

 

 走れば走るほど、その突撃は威力を増す。

 あとドスジャギィ一頭分ほどのところに来た時、遂に最高速度に達した。

 ヒアシは脇を締め、平行だった槍を僅かに上方に持ち上げる。角度さえ気をつければ、鍛えられた長槍は、相手が巨大なモンスターであっても届くのだ。

 鋭い鋒は、イビルジョーの脇腹へ。そしてそれは厚い角質、表皮、真皮をあっという間に貫き、深く肉を抉った。

 

 予想外の場所からの攻撃に、イビルジョーは驚き、尻尾でなぎ払おうとする。

 肉に巻き込まれた槍が持っていかれそうになるのを、ヒアシは走力で補った。イビルジョーの思惑通りに事が運ぶどころか、身体を捩ったことにより、槍が自らの体内に侵入するのを助長したのだ。

 

「やったか……!?」

 サクは期待の声を上げ、様子を見守る。

 その刹那、イビルジョーと目が合った。

 

──イタイ、痛イ。痛い。必ず喰ってやる。

 

 言葉は無くとも、イビルジョーの剥き出しの感情が、ダイレクトに伝わってくる。

 そのあまりの強さにサクは心底ぞっとして、すぐに目を逸らした。元来モンスターと目を合わせるのは、良しとされていない。

 

 その時、ランスが刺さっている場所の側から、ぼふっと粉状のものがけむり玉のように舞い散った。

「うわっ!」

 ヒアシはすぐに息を止めて槍を引き抜いたが、微量に粉を吸い込んでしまい、咳き込んだ。

「ヒアシ!」

 サクは近くに落ちていたヒカリゴケを鷲掴みにすると、イビルジョーの顔に向かって思い切り投げた。ヒカリゴケは破裂すると、内部のアメーバ状の物質が広がり、赤く発光する。

 それが目の側に当たったイビルジョーは、激しく顔を振った。

 

 サクは巻き込まれないよう距離をとりつつ、耳栓を片方外してヒアシに駆け寄った。

「大丈夫?」

 サクが尋ねると、ヒアシも同様にしながら頷いた。

「ありがとう。少し吸い込んだが問題ない」

 

 それを聞いたサクはほっと息を吐いた。そして、顔を地面に擦り付けているイビルジョーを、険しい眼差しで見やる。

「あれは多分、真菌だ。まさか活性を失っていなかったなんて……!」

 真菌とは、即ちカビの仲間である。

 死を纏うヴァルハザクが、通常瘴気の出ていない古代樹の森で生活できた理由。それは、その地に元々いた真菌とバクテリアの共生に成功したためであった。

 その真菌は胞子塊を作り、破裂させることで子孫を残す。その勢いで瘴気のバクテリアが放散されれば、どうなるかは一目瞭然だった。

 

 暴れ回るイビルジョーを、なんとか避けながら会話を続ける。

「さっきまで何も無かった筈なのに、どうして急に?」

 ヒアシの問いに答えようとサクは口を開いた。だが、目に飛び込んできたものに、言葉を失う。

 

「あ……!」

 先程ヒアシが突撃してできた傷口は、いつの間にか白い何かに、びっしりと覆われていた。

 表面には小さな子実体──真菌の繁殖する役目を果たすものが、いくつもできている。

 元々ところどころが白かった身体は、頭から小麦粉をかぶったような姿になっていた。

「なんだあれ!」

 イビルジョーのおどろおどろしい変化に、ヒアシは眉をひそめる。

 その一方で、元研究者であるサクは目を輝かせた。

「うわぁサンプル持ち帰りたい」

「えっ」

「あっ。……んんッ」

 ぼそっと呟かれた言葉に、ヒアシが振り返る。サクは顔を赤くして咳払いをした。

「──じゃなくて、これが鍵になるかもしれない」

「鍵?」

 

 ヒカリゴケを除き切れないと悟ったのか、イビルジョーは再び二人に狙いを定めた。

 それを見たヒアシとサクは腰を落とし、イビルジョーの次の攻撃に備える。

 

 イビルジョーは側にあった珊瑚に噛み付くと、力づくでそれをへし折り、こちらに投げてきた。

 暴れるオドガロン亜種を長時間咥え続け、ディアブロスをも容易に投げ飛ばす顎の筋力は、伊達ではない。

 幸い、下がキノコのような柔らかい珊瑚だったため、砕けた欠片が飛んでくることはなかった。

 しかし、イビルジョーは連続で、的確に珊瑚を飛ばしてくる。どうやら視覚は戻ったようだった。

 

「っ、これじゃ近寄れない!」

 前後左右に避けながら、サクは顔をしかめた。

 ヒアシは、比較的小さな珊瑚は盾で受けつつ、前に踏み込み、着実に距離を縮めた。

 それに気づいたイビルジョーは、素早く息を吸い込み、ヒアシに向かってブレスを吐く。

 

 ヒアシは二度横に飛び、ブレスの範囲から逃れる。

 それを見たイビルジョーが、顔を傾けてなんとか当てようとするものの、その時には既に、ヒアシは懐に入り込んでいた。

 

 イビルジョーはその場で片足を蹴り上げる。当たった、と思ったのは束の間。

 盾で受け流していたため、殆どダメージが入っていなかったのだ。

 カウンターで手痛い攻撃をされたのを覚えていたイビルジョーは、一度回避の体勢をとり、狙いを変えることにした。

 

 イビルジョーが身体をたわめる。ヒアシはサクに呼びかけると、十分に距離をとって盾を構えた。

 その直後、ずん、と地面が揺れる。

 かの竜は、この青い珊瑚の特性を理解しているようで、その着地点は中心部を避けていた。

 

 盾を着いてすぐに重心を分散できるヒアシと違い、双剣使いのサクは揺れを逃せない。

 攻撃を回避した彼が、片手をついて姿勢を低くしているのを確認すると、ヒアシは相棒が狙われないよう、即座に槍を突き出した。

 

 その時ふいに、ぽっかりと空いた空間に影が差す。

 その影は翼竜の作るものとしてはあまりにも大きく、素早く、そして──。

「嘘だろッ……!」

「ナルガクルガ!?」

 一陣の風と共に現れたのは、迅竜ナルガクルガだった。

 ナルガクルガは奇襲を仕掛けるつもりだったようだが、気づいたイビルジョーが咄嗟に、振り向きざまに噛みつく。

 

「!?」

 ナルガクルガは短く悲鳴を上げ、即座に珊瑚へと逃れた。牙が引き裂いたその右肩は、皮膚がべろりと剥がれ、筋肉が剥き出しになっていた。

 

 痛々しい傷を負ったナルガクルガを、イビルジョーは更に攻めようとする。当然だ、サクとヒアシよりも、余程食い出がある獲物が現れたのだから。

 だが、わざわざ戦術を立てて挑んできたナルガクルガが、ただ黙っている筈がなかった。

 

 イビルジョーが大口を開けてナルガクルガに迫る。

 ナルガクルガは爛々と光る目で、イビルジョーを鋭く睨み付けた。

 そして次の瞬間、その場で高く跳躍した。

 

「あ……!」

 イビルジョーの巨顎が、ナルガクルガの尻尾を捉えようとするが、虚しく空を切る。

 ナルガクルガは空中で身体を捻るやいなや、長い尻尾を振り下げた。

 その勢いで回転が生まれ、双刀が月光を反射し、青い軌跡が描かれる。

 

 そして左右の刃翼が、重力を伴ってイビルジョーの巨体に深く斬撃を与えた。

 一瞬遅れて、どす黒い血飛沫が飛ぶ。

 

 ナルガクルガは、大怪我をしているとは思えない動きで、素早く着地した。そしてイビルジョーに向かって、鋭く威嚇の咆哮を放つ。

 

 ヒアシは最初、あのナルガクルガは、縄張りの侵入者を排除する為に来たのかと思っていた。

 だがイビルジョーのみを標的にしたことと、その明らかな警戒と怒りの滲む声音に、これは何かあると察した。なんとも人間臭いが、野生のモンスターが感情的になる場面は幾度も経験している。

 

 イビルジョーは珊瑚の壁に打ち付けられたものの、なんとか踏みとどまった。しかしダメージは大きかったようで、背からは血が溢れている。

 大型モンスター同士の戦いは、双方へのダメージが大きい。

 だが、迂闊に立ち回れば攻撃に巻き込まれる可能性が高く、あまりにも危険だった。今のイビルジョーは、ナルガクルガと応戦しているが、いつまた意識がこちらに向くかわからない。

 それに、あのナルガクルガがこちらへ敵対してくる可能性も十分にある。

 

 サクとヒアシは目配せをし、一時撤退をすることにした。

 それぞれが自分のポーチを探り、モドリ玉を取り出した。この煙幕を見た翼竜はすぐに飛んでくる。

 

 だがその時、動きが止まっていたイビルジョーが、これまでにない奇妙な呻き声をあげた。

「なんだ?」

 二人が振り向いた直後、イビルジョーはティガレックスに並ぶ音量の大咆哮をあげた。

「うっ……!」

「ッ、さっきの傷が……!」

 先程のナルガクルガによる大きな裂傷は、イビルジョーの咆哮と共にどんどん白くなっていく。これを見るに、どうやら傷の深さに応じて真菌が活発になるらしい。

 

 次の瞬間、傷口から大量の胞子とともに瘴気が噴出した。

「吸っちゃダメだ!」

 その声に、ヒアシはすぐに兜の口当てを押さえながら、先刻サクが言おうとしていたことを察した。

 ”鍵”──すなわち真菌とやらは、おそらく傷の深さに応じて体表に出てくる。

 イビルジョーの傷口を治そうとしているのか、むしろそこから喰おうとしているのか。本当の意図は分からないが、後者の可能性に賭けてみよう、ということなのだろう。

 

 二人と二頭のいる空間は、見る見るうちに真っ白になってしまった。これではモドリ玉の煙が見えない。そのうえ、二人の距離は大きく離されてしまっている。

 この状況で下手に動けば、無防備な姿をさらすことになってしまう。

 どうすべきかと必死に考えていた時、ふと聞き覚えのある螺貝の音が聞こえて、サクはハッと顔を上げた。

「下で合流しよう!」

 そう叫ぶや否や、サクは珊瑚の下へと潜り込んだ。すぐにその姿は見えなくなり、珊瑚と地面の隙間から差し込む光が戻る。

 それを見てヒアシは相棒の意図を察し、納得した。

 

 ヒアシは槍を背に納めると、劣悪な視界の中でじっとかの竜の動きを窺った。幸い、ナルガクルガが乱入してくれたおかげでイビルジョーの注意は散漫している。少し観察すれば、大体の意識の流れは把握できた。

 

(──今だ!)

 その隙を見計らい、ヒアシは背後の珊瑚の隙間に素早く滑り込んだ。

 

 一方でサクは、常時であればほふく前進して入るような場所に、勢い良く飛び込んでしまった。距離感を見誤り、危うく段差から落ちそうになる。

 咄嗟に右手で蔦を掴み、反動で壁に身体をぶつけはしたものの、何とかことなきを得た。

 緊張で呼吸は乱れ、心の臓はドクドクと音を立てている。

 見られていない時を狙ったとはいえ、いつまたイビルジョーが追いかけてくるかわからない。

 サクは急いで蔦を降り、幾つもの珊瑚の段を下っていった。

 

 少し降りたところに、小さく色鮮やかな羽を持つサンゴドリたちが優雅に舞う広場がある。どうやら、台地に生息している彼らの多くがここに避難しているようだ。

 通常は三羽ほどの群れが、一つのエリアにいくつか存在する程度だが、今日はその規模が大きかった。

「少し、お邪魔させてもらうね」

 人間の言葉が伝わる筈もないが、サクは彼らに声をかける。

 大人しい気質のサンゴドリたちは、頻りに鳴きながらも逃げたり威嚇したりしてくることはなかった。

 

 サクは青みがかった身体の雄がいる群れの横を通り過ぎ、その傍らにある珊瑚の影に座り込んだ。

 少し開けたところにずれると上の通路から見えてしまうが、ここならば死角になる。流石にどこが足場になっているかも確認できないところには、あのイビルジョーが来るとは到底思えなかった。

 

 下層は比較的、強い湧昇風が吹いている。そしてこの広場を降ったところには、朽ちた珊瑚が自然のトンネルをつくる細い通路があるのだ。

 おそらくヒアシはそこを伝ってこちらへ来るだろう。尤も、その通路こそが当初目指していた場所だった。

 

 上から断続的に、地響きや威嚇の鳴き声が聞こえてくる。

 サクは来た場所を見上げ、息を整えた。呼吸をするたびに傷を受けた場所が痛む。

 傷口の周辺をそっと手で触ると、サクは徐にポーチから透明な緑色の液体が入った瓶を取り出した。鎮痛作用のある薬草を煮出して、成分を抽出したそれは回復薬と呼ばれるものだ。

 新大陸に生える薬草は、アオキノコと調合すると薬効が失われてしまう。そのためある意味では、現大陸よりも簡単に入手できるものとなっていた。

 金属の蓋を開けると、薬独特のにおいが広がる。これはグレートと評される上級品であり、それを少しずつ飲み下すと微かな苦味と、混ぜ込まれたハチミツの甘味が口腔を満たした。

 鎮痛効果が表れるまで、およそ四半刻。できればじっとしていたいが、そうもいかない。

 

 イビルジョーの唾液が付着した防具は、次第に茶色く劣化してきており、動く度にぱらぱらと破片が落ちていた。このまま腐食が進めば、皮膚にまで到達する恐れがある。

 下手に脱ぐと皮膚へ付着するリスクもあるため、このままの方が良いだろう。

 

 ふとサクはあることを思い出して、もう一度蔦を降りた。

「あ、あった」

 水場で人の顔ほどもある貝殻を見つけると、サクはよろよろと歩み寄った。

 腰の剥ぎ取りナイフを抜き、柄を下にして何度か叩き付けると、貝殻は適当な大きさに砕ける。

 

 サクは上でまだ戦闘音がしているのを確認すると、再びポーチを開け、紙の包みを取り出した。中に入っていた丸薬を取り出し、薬包紙を広げて貝殻の破片を置くと、柄で集中的に砕いて粉末にする。

 イビルジョーの唾液と逆の性質を持つそれは、その場しのぎの簡易な中和剤である。

 

 サクは薬包紙を折って、ある程度まで砕けたそれを一所に集めると、指で摘んで防具へと振りかけた。

 唾液に粉がかかるとじゅわじゅわと溶けて泡が生じ、やがて反応が鎮まる。これで酸は弱まった筈だ。

 あくまでも応急処置ではあるが、何もしないよりはましだろう。

 

「これじゃ足りないかな……」

 サクは少し考えた後、貝殻の欠片をもう二つ砕くことにした。この後応戦するうえで、再び唾液を浴びる可能性は高いためだ。

 

 かの竜は脳への影響のせいか常時空腹状態であるらしく、危険な唾液が産生され続けているようだった。その証拠が口を開いたときに一瞬見えた、爛れた頬と舌だ。

 おそらく凄まじい空腹感だけでなく、異常に産生され続ける酸による身体症状もあるのだろう。体内の均衡は保たれて然るべきなのだ。

 

 薬包紙を念のため採取容器に入れた時、微かな金属音と足音が聞こえ、サクはハッと顔を上げた。

「サク、無事か」

「ヒアシ!」

 サクは少し前に別れた相棒の姿を認め、安堵の息を吐く。

 

「無事に会えてよかった。……ところで、それは何をしているんだ?」

 ヒアシの問いに、サクは手元を見せながら答えた。

「即席だけど、あの唾液を中和する粉を作ってるんだ。ヒアシは浴びたり噛まれたりしてない?」

「今のところ大丈夫だ」

 

 そっか、と応答をしながらサクは手早くそれらを片づけ、代わりに砥石を取り出した。

「まさか、ナルガクルガが乱入してくるなんて」

「ああ。どうやら、訳ありのようだが」

「やっぱりそう思う? ともかく、あのナルガがイビルジョーに傷を負わせてくれたから、この後少しは楽になるかもね」

 

 サクは、剣の表面についたぬめりや皮脂を丁寧に落としていく。

 この場所は深層部の割に、珊瑚や岩から出た水で小さな滝ができるほどに水源が豊富だった。純度の高い水を遠慮なく使えるのが有り難い。

 

「最後のあれは、正直おれたちだけではどうにもならないな。傷の深さを測る目安にはなりそうだが、その前にこちらがやられてしまう」

 ヒアシは小さな白い袋を取り出すと、口に当てて勢いよく吸った。これは生命の粉塵と呼ばれる、吸入して服用する薬だ。呼吸器のダメージを軽減するため、瘴気の谷に降りる調査員の必需品とされていた。

 使用済みの袋をしまうと、ヒアシもランスの手入れを始める。

 

「ヒアシも気づいていたか。……ああなったらもう、菌が全身に回るのも時間の問題だろうな」

 粗方汚れを落とすと、サクは本格的に刃を研ぎ出した。刃こぼれした骨製の剣から削れて出た細かな破片が、水を濁らせる。

 研磨する小気味良い音を聞きながら、ヒアシは上を見た。それから、意を決して相方に声をかける。

「一旦このまま研究基地に戻ろう。奴がナルガクルガに気を取られている間に、応援を呼んだ方が良いとおれは思う」

 生態系が崩れるのを見逃すわけにはいかない。だがこのまま戦闘を続ければ、自分たちが助からない可能性は跳ね上がる。そうまでして続ける必要のある仕事だとは、ヒアシには思えなかった。

 

「そうだね。そのほうが──いや、待って。ナルガクルガ?」

 サクは一度頷きかけたが、突然、顔からさっと血の気が引いた。

「あの殺気……まさか、あれは……」

「どうしたんだ?」

 ヒアシが心配になってサクの目を覗き込むと、サクはヒアシのいる場所を見つめ返した。だが、それはどこか不自然だった。

 まつ毛が震え、瞳に水の膜ができていく。

「ううん、何でもない……」

「何でもなく無いだろう。言いづらいことなら、無理して言わなくてもいいが……もし大丈夫なら教えてくれないか」

 

 ヒアシが優しくサクの腕に触れると、サクはひとつ息を吸い、ぎゅっと眉を寄せながらヒアシに訴えかけた。

「僕の思い過ごしかもしれないし、こんなこと考えちゃ駄目だって、分かってる。……でも、もしもあれが、あの時の足跡の主で、このまま喰われてしまったら、子どもが……」

「子ども?」

 ヒアシは相方が何の話をしているのか掴めず、聞き返す。

 サクは頭を抱えた。

「ミツムシの広場で見つけた足跡だよ。もしあのナルガクルガが親なら、みなしごになってしまう。そう考えたら……」

 そんなの駄目だ、とサクは首を振る。

 その言葉に、ヒアシは道中で見かけた小さな足跡のことを思い出した。

 

「確かに、その可能性はあるが……」

 ヒアシは肯定の言葉を返したものの、内心ではその違和感に首を傾げていた。サクは一体どうしてしまったのだろう。

 同じナルガクルガという種であっても、全く関係ない個体の場合もある。実際、陸珊瑚の台地では、よく見かけるモンスターだった。

 もしくは、逆に子を奪われた親かもしれない。

 だが、後者をサクに伝えるのは、なんとなく憚られた。

 

「あのレイギエナと同じように、早くナルガクルガも逃すべきだ。やっぱり僕らがなんとかしなきゃ」

「待ってくれ、おれたちだって丸腰なんだぞ。一度体制を整えないと、こちらがやられてしまう」

 ヒアシが反論すると、サクはでも、と食い下がった。

「せめて、興味を逸らすことはできない? そうしたら、あのナルガクルガにとって有利になるかもしれない」

 

 今のサクは、驚くほどに冷静さを欠いて、思考が一点に集中してしまっている。

 ヒアシは、幼馴染みの肩を掴んで、彼の目を覗き込んだ。

「サク、せっかく伝えてくれたのにすまないがあそこに戻るのは危険だ。生態系を守ることは大事だが、何故そんなにあのナルガクルガにこだわる? 一体どうした、君らしくないぞ」

 

 その言葉を聞くと、まるで夢から覚めたかのように、サクはハッと目を見開き、肩を跳ねさせた。

「……ごめん、僕どうかしてたかも」

 サクは囁くような声で謝ると、項垂れた。

 その表情があまりにも悲痛で、ヒアシは思わず手を離してしまう。

 

 このやり取りで、ぼやけていた違和感が、はっきりとした形を成した。

 サクはただ焦っているだけでなく、何かをとても恐れている。

 確かに幼体は非力であるし、同情したくなるのもわかる。

 しかし、今回は非常事態だからこそ自分たちが介入したものの、この世界の理が弱肉強食であることには変わりはない。本人の言葉通り、サクもそれはわかっている筈だ。

 それなのに、どうしてサクはナルガクルガにここまで感情移入してしまったのだろう。

 これではまるで──。

 

 ヒアシは唸り、しばらく考えていたが、やがて腰を上げた。

 背に光を取り戻した長槍を納め、盾を持ち直す。

「……わかった。準備が終わり次第、すぐナルガクルガのところに戻ろう」

「え……」

 良いの、と言葉無しにまるい金色が問いかけてきた。

 ヒアシは頷き、手を差し伸べる。

「できるところまで、頑張ってみよう。それに、行くなら早く向かった方が良いだろう」

 

 相棒の穏やかな声と意志の強い眼差しに、胸がぽうっと熱くなる。サクは目元を赤く染めて何度も頷いた。

 幼馴染みが知らない自分の過去も、いつか話さないといけないとは思う。だが未だ心を蝕み続ける苦しい時間のことを口にしたら、彼も困ってしまうかもしれない。

 今は、何も聞かずに受け入れてくれることが有り難かった。

 サクは唇を噛み締めてぐ、とヒアシの手を握り返す。

 

 その時、二人が聞き馴染みのある──そしてここでは聞こえる筈のない咆哮が、辺りをこだました。

 



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十五夜

 その時、衝撃と共に、飛竜などの咆哮に比べると、明朗かつ凛々しい咆哮が聞こえてくる。

 新大陸にいるモンスターとは大きく異なる、この特徴的な鳴き声は──。

 

「今のって!」 

「ジンオウガか!?」 

 二人は思わず顔を見合わせる。 

 衝撃と共に聞こえてきた、凛々しい遠吠え。 それは雷狼竜ジンオウガの鳴き声に酷似していた。 

 二人の故郷である渓流地帯にもジンオウガは生息しているため、その声は耳慣れたものだったのだ。 

「近縁種の可能性もあるけど、確認しないと!」 

 即座に帳面を取り出すサクをよそに、ヒアシは重苦しく嘆息した。 仮にジンオウガまで合流したとなると、ますます戦いにくくなる。 

 ヒアシは、どうしたものかと腕を組んだ。 

 

 その時背後から、呼びかけるような低いゴロゴロ声が聞こえて、二人はサッと振り向いた。 

「あ……」 

 そこに居たのは、テトルー──新大陸に生息している獣人族の中でも、台地のかなで族と呼ばれる部族たちだった。 

 陸珊瑚の台地で暮らす彼らは、楽器を用いて音を盛んに操る。 

「そうか、ここは彼らの行動範囲だったね」 

 

 真ん中にいたテトルーは、ニッと口角を上げる。 

『チョウサダン!』 

『××××! ××××××?』 

『我ら××××、××××!』 

「えーっと……」 

 彼らは頻りに話しかけてくるが、サクたちは部族交流が専門分野ではないため、殆ど意味がわからない。 唯一伝わるのは、こちらに敵意を示す内容を言ってはいないこと。 

 二人は眉を下げ、再び顔を見合わせる。 狩猟目的ではないからと、通訳のできるオトモアイルーを連れてこなかったことを後悔した。 ヒアシのオトモも、今はアイルーのみの隊で他の調査に行っている。

 

 そんなサクたちの様子を見て、言葉が通じていないことを察したらしい。 

 テトルーは背中の武器をひっくり返し、ガリガリと珊瑚に傷をつけ始めた。どうやら、絵で意思伝達をしようとしているようだ。 

 二人はしゃがんで覗き込む。 

 

「これは……イビルジョー。耳があるのがテトルーで、これが僕たちかな」 

 凸凹したテーブル珊瑚では、やや線が見にくかった。 

 だが、導虫が照らしてくれたおかげで、それらが意味のある絵として浮かび上がってきた。 

 テトルーがペン代わりの武器を地面から離す。そこには、イビルジョーを紐のようなもので引っ張っている絵が描かれていた。 

「なるほど、奴を捕縛してくれるのか。これは有難いな」 

 ヒアシがテトルーに目を合わせて微笑みかけると、テトルーは嬉しそうに頷いた。 

 

「強い風が吹いているし、あのモヤもずっと出ているわけではない筈だから、視界は戻っていると思う。……問題は、ナルガクルガとジンオウガらしきモンスターだね」 

 サクが帳面から紙を一枚破り、簡単な二頭の絵を描く。 

 随分と愛嬌のある迅竜と雷狼竜だったが、テトルー達にも伝わったようだ。 

「万が一どちらかが掛かってしまえば、その時点でイビルジョーはそれを喰おうとするだろう。そうなっては意味がないな」 

 ヒアシはスリンガーの弾数を確認しながら、作戦の懸念を挙げる。 

 どうしたものかと、二人と十匹は腕を組んで唸った。 

 上からは、絶えず戦闘音が聞こえてくる。 

 まだ僅かに猶予はありそうだが、もたもたしているわけにはいかない。 

 

『××××、××?』 

 その時、左にいたテトルーが、何か言いながらまた絵を描き始めた。 

「……ああ!」 

 理に適った彼の提案に、その場にいた皆が目を丸くして頷く。 

 提案したテトルーは、誇らしげに胸を張った。 

 

 そうと決まれば早速、とツタの準備に取り掛かったテトルーたちを眺めながら、サクは手帳を開いて溜息を吐いた。 

「今度の休みにでも、獣人族の先生にお願いして教わりに行かなきゃ……」 

 ふいに聞こえてきた相棒の呟きに、ヒアシは兜の中でくすっと笑った。 

  

 

*** 

 

 

 サクの予想通り、青い軟体珊瑚の広がる空間は、いくらか視界が晴れていた。 これならば、戦闘に持ち込めるだろう。 

 そしてその中央で、蒼い光の球を伴う稲妻が幾度も閃く。 

 低い唸り声と、遠吠えのような凛々しい咆哮。 

 

「やっぱり居た……!」 

 目を丸くするヒアシの横で、サクが喜色を浮かべて囁いた。 

 一際まばゆい蒼光を纏ったその主は、まさしく雷狼竜・ジンオウガだった。 

 現大陸の個体よりもやや手足と尾が長く、ふさふさとした帯電毛がその身体を覆っている。 地域ごとの違いはあるだろうが、年若い個体なのかもしれない。 

 彼が近くに来ると、産毛が逆立つような感覚があった。 

 

 逞しい腕の輝きが増したかと思うと、ジンオウガは素早く前脚を広げた。鋭い爪がザッと地面を傷つける。 

 岩礁の隙間から覗いていた二人は、見慣れないその動きに、つい力が入ってしまう。 

 

 ジンオウガが身体をたわめ、大きく飛び上がる。 

 次の瞬間、蒼い雷光はイビルジョーの背中に向かって、隕石のように降ってきた。 放電音と共に、青い珊瑚が激しく波打つ。 

 

 ただでさえウェイトのあるジンオウガだ。それが高さによって威力を増して突撃してきたのだから、いくらイビルジョーだとしても無傷ではいられない。 

 半身の白くなった巨体はバランスを崩し、悲鳴を上げて倒れ込んだ。 

  

 おそらく打撲、骨折、血管や臓器などの損傷のいずれか、もしくは全てが当て嵌まっている状態だろう。 

 だが、表面の胞子が電気エネルギーと相殺されたのか、視界が覆われるほど撒き散らされることは無かった。 

 

 それを見届けたヒアシは、息を吸い込んだ。 

「皆、目を閉じてくれ」 

 素早く囁くと、ヒアシは種火石をその小さな弩で打ち出した。 

 カシュ、と小さな音が空気を震わせる。 

 大型モンスターを除いたその場にいた全員が、すぐさま目を覆った。 

  

 その時、ナルガクルガの耳がぴくりとヒアシ達の方へ動き、短く吠えた。 弾は真っ直ぐに、チカチカと舞っていた閃光羽虫の方へと飛んでいく。 

 

 次の瞬間。 

 与えられた衝撃に危険を感じた蟲は、その身を思い切り発光させた。 

 まるで、その場で花火が打ち上がったかのように、辺りが一瞬閃光に包まれた。 

 それは瞼をも突き抜け、何も予期していなかった者の眼球を焼く。 

 

 著しい刺激を受けたかの竜は、呻き声を上げた。 

 死を纏うヴァルハザクはその胞子によって目を守っているが、瘴気はかの竜には、己の主ほどの利益をもたらさなかったらしい。 

 視覚を奪われて身の危険を感じたのか、横倒しになったイビルジョーは太い尻尾を乱雑に振った。地面から細かい砂塵が舞う。 

 

 辺りが元に戻るやいなや、ヒアシは珊瑚の下から覗き込む。それとほぼ同時にテトルー達が穴から駆け出した。 

 それに遅れて腕を避けたサクは、息をのんだ。 

「あっ……」 

 既にジンオウガはイビルジョーの上から退いており、何が起きたのかわからない様子で周りを見回していた。 

 そしてその瞼は、しっかりと開かれている。 

「失敗か……!」 

 サクは下唇を噛んだ。 

 

 テトルーが考えた作戦は、こうだ。 

 まず、閃光羽虫で三頭の目を眩ませる。 

 そして動きが止まった瞬間に、テトルーはイビルジョーを大ツタで捕縛する。 

 その間にヒアシとサクは、ジンオウガとナルガクルガにこやし玉を当てて彼らをここから離れさせる、というものだった。 

 

「まあ、これならいけるだろう」 

「え?」 

「だってほら、あれ」 

 サクはヒアシの指が示すほうを辿る。 

 その先に、ナルガクルガが発達した前脚で這うようにして、キャンプに近い方向へと駆けていくのが見えた。 

 それを見たジンオウガが、きゅんきゅんと仔ガルクのように鳴きながら追いかける。 

 やがて追いついた彼は、ナルガクルガの傷を気遣うような素振りを見せると、ぶるぶると水気を振り払うように身体を震わせた。 

 そしてジンオウガは蒼い雷光の消えた身体を、よじよじとナルガクルガの傷ついた腕の下に潜り込ませた。 

 

「仲が良いなぁ」 

「……」 

 すぐにでも突撃せんとする姿勢とは裏腹に、ヒアシはのほほんとした感想を漏らす。 

 一方でサクは呆気にとられて去っていく二頭を見つめていた。 

「多分あいつはナルガを助けに来たんだろうな」 

 あの時ナルガクルガが鳴いたのは、ジンオウガに危険を知らせるためだったと考えるのが妥当だろう。 

 閃光を見抜かれたのは、おそらく偶然ではない。調査団の誰かしらとの応戦経験があると見て良さそうだ。 

 あのジンオウガとナルガクルガは、異種同士の友か擬似家族か、はたまた番か。 

 真相は彼らしか知り得ない。 

 

「さて、と」 

 作戦通りにはならなかったが、ひとまずイビルジョーの動きは止まっている。 

 ヒアシは合図の指笛を吹いた。 

 それを聞いてテトルー達は頷き、大ツタを一斉にかの竜に放った。 

『××××!』 

 太い脚に、凶悪な尻尾に、傷ついた肩にツタが絡みつく。 

 状況確認ができない状態で身体を拘束され、半ばパニックに陥ったイビルジョーは、一層激しく暴れた。 

 

「行くぞ! サク、奴の腹側は頼む!」 

「っ! ──任せて!」 

 岩場からヒアシが駆け出し、サクもそれに続く。 

 

 何はともあれ、近辺のモンスターを遠ざけるという、第一の目標は達成した。 

 残るは三つだ。 

 かの竜を討伐すること。 

 陸珊瑚の台地に、これ以上被害を与えないこと。 

 そして、自分たちが生還すること。 

 

 ヒアシは大きく息を吸い込んだ。 

 静かな威圧を放つ群青の視線が、暴れ竜へと向けられる。 

「──悪いが、大人しく餌になるわけにはいかないんだ」 

 ヒアシの呟きは、竜の呻きによってかき消された。 

 もがき狂う巨体に、ツタがみしみしと音を立てて引っ張られる。 

 テトルー達は小さな身体をぜんぶ使って、懸命にイビルジョーを押さえつけてくれていた。 

 彼らの努力を無駄にするわけにはいかない。 

 

 ヒアシは走りながら背に手を回し、槍の柄を握る。 

 そして今にもイビルジョーと肉薄しそうなところまで来ると、先ほどのジンオウガのように飛び上がった。 

蒼い月光を鈍く反射する矛先が、素早く円を描く。 直後、振り下ろされた黄金の塔は、巨竜の頭蓋を打ち付けた。 

  

 おそらく、今の衝撃で脳震盪を起こしたのだろう。

 それでも尚イビルジョーはもがくのを止めなかったが、荒れ狂っていた尻尾の動きがやや落ち着く。 

 無防備になった腹の幅は、横になっていてもサクの身長を超えていた。一体どれほどの獲物を食らってきたのだろうかと思いをはせる。 

 サクはベニカガチノドクヅメの、右の一振りだけを握った。 懐に入り込んでしまえば、こちらのものだ。足を取られないよう気を付けながら、サクは凶悪な顎を縛り付けたツタを飛び越えた。 

 サクは空中で剣を両手で握り直すと、イビルジョーの首へと向けた。

 これは賭けだった。頸動脈にさえ刃が届けば、致命傷となる。 

「届けっ!」 

 圧力が一点に集中した剣が、イビルジョーの左顎の下を貫く。 

 次の瞬間、ドス黒い血が噴き出し、トビカガチ亜種の鮮やかな体毛がその色に染まった。 胞子が舞い散り、イビルジョーは酷く苦しげに呻き声を上げる。 

 それを見届けたサクは、成功した喜びを噛み締める間もなくその場を離脱した。 

 

 イビルジョーは、残像で不完全な視野に苛立ちながらも、なんとか目を開ける。 

 先ほどの蒼い竜の攻撃を受けてから、胸の辺りが痛んでうまく息を吸えなかった。それに加え、急所である首を狙われたのだ。 

 これまでは耐え難い空腹に身を任せていたが、このままでは喰う前にこちらがやられてしまうかもしれない。 

 産声を上げてからずっと慣れ親しんできた、死への恐怖と生への焦りが、欲を上塗りしていく。 

 

 とうに匂いと足音で気づいていたが、大きな獲物たちは逃げてしまったようだった。 

 イビルジョーは、己の自由を奪った小賢しい不届き者たちを、ぎろりと睨み付ける。自分の存在に怯えを隠し切れていない者、睨み返してくる者、それらの目から読み取れる感情は様々だ。 

 だが、そんなことはどうでも良い。最早まとめて殺さなくては、気が済まなくなった。 

 

 イビルジョーは折れた短い前脚を庇いつつ、沢山の小さな毛玉を渾身の力で振り払った。 

 それらは悲鳴をあげて四方八方に散らばるが、奴らでは腹の足しにもならない。 今は二匹の獲物が優先だ。 

 黒い息を吐きながら、イビルジョーは憎き小物たちに牙をむいた。 

 

 立ち上がったイビルジョーに、ヒアシとサクはそれぞれ距離を取る。 

休憩もせずにずっと戦い続けていたうえ、ナルガクルガやジンオウガと交戦したことにより、かの竜は憤怒しながらも大いに疲弊しているようだった。 

 ここまで追い詰めたのであれば、もう一息といったところだろうか。                                                                                                  

 救難信号を打つことは、もう諦めていた。 最も危険なのは、連携がうまく取れていない状態で危機に陥り、パーティが全滅してしまうことだった。 

 瀕死の竜は、恐ろしい。命惜しさに行わなかった捨身の攻撃を、満を辞して放ってくることもあるからだ。 そうなるくらいなら、信頼関係の築かれた少人数で押し切ってしまう方がリスクを回避できる。 

  

 目を爛々と光らせたイビルジョーは大きく息を吸い、ブレスで薙ぎ払った。地面に散らばったツタが焦げる。 

「あれ……」 

 ガスを回避しながら、サクは目を見張る。 

 イビルジョーのブレスは今までのものと異なり、断続的に漏れるように吐き出されていたのだ。

 そのガスが少ないせいか、赤黒い稲妻もさほど起こっていないように思う。 

 呼気に変化がみられるということは、呼吸器にもダメージを負っている可能性が高い。

 あれでは、さぞ苦しいだろう。自分たちの手で、早く終わらせてあげなければならない。

 サクはちらりと相棒のほうを見やる。 

 

 ヒアシは盾を構えて、残留した微量のガスを振り払うやいなや、イビルジョーの肩にクラッチクローを放った。

  金属の爪はイビルジョーの皮膚の割れ目に食い込み、ヒアシはワイヤーの戻る勢いと共にランスを突き出す。

 肉を貫いた後に硬い骨に当たる感触がして、自分の肩に痺れが走る。

 ヒアシは眉間にしわを寄せた。この体勢では、薙ぎ払っても威力が槍に乗らない。

 ならば、もう一突きするまでだ。

 

 イビルジョーはなんとかヒアシを引き剥がそうと、噛み付いたり身体を捩ったりと、滅茶苦茶に動き回った。

 だが、壁にぶつけてこないということは、当竜も身の危険を察知しているのだろう。ヒアシはしがみついて揺れに耐えながら、好機を待つ。

 

 前後左右など構わずにイビルジョーは激しく動いた。

 離れて見ていたサクは、かの竜が足場を踏み外すのではないかと、何度もひやひやした。

 そのうち暴れ竜は、桃色の軟体珊瑚や海綿のそびえる広場へと辿り着いていた。 

 

 やがて肩で息をしながら、イビルジョーが足を止めた。

 下からジュワジュワと何かが溶けるような音が聞こえてくる。ヒアシは槍をイビルジョーの身体と垂直になるよう構えると、身体を思い切り捻った。

 一突き、そして力を込めてもう一突きして、筋層を穿つ。それと同時に蹴った勢いでランスを引き抜き、地面へと着地した。

 僅かに出血し、すぐに胞子が傷口を覆う。

 その時、痺れを切らしたイビルジョーが身体をたわめた。

 

「ヒアシッ、左に避けて!」 

 サクが叫んだ直後、イビルジョーは筋骨隆々とした上半身を勢いよく地面に叩きつけて転がった。 

 全てを轢き殺さんとする、憎悪の念がひしひしと伝わってくる。かの竜はとうとう、捨て身の反撃を始めたようだ。

 

「くっ……!」 

 ヒアシはなんとか左方向に飛び込むが、竜の巨大さ故に、回避距離が足りない。 

 このままでは牙の生えた顎に巻き込まれる。 

 ヒアシはその場で足を開くと、瞬時にロストバベルの盾を構えた。 

 

 次の瞬間、白い巨体が迫る。 

 一拍遅れて、盾に重い衝動。 

 右腕から肩にかけて痺れるような痛みが走り、ヒアシは呻いた。 盾で受け流していたとしても、その衝撃は凄まじい。 

 足元に出来た、地面に踏ん張って引き摺られた跡がそれを物語っていた。 再びあの巨体が当たれば、ただでは済まないことは明白だ。

 

(──このままヒアシを攻撃させるものか)

 サクは息を大きく吸って止め、体勢を立て直そうとしているイビルジョーの方へと駆け出した。 

 回復薬の効果が出てきたようで、先程よりも肩の痛みが和らいでいる。 

 やるならば、今しかない。 

 サクは海綿のヒダのある根元を駆け上がり、身体を捻って勢いをつけると、イビルジョーの背後へと大きく飛び込む。 

 その間に回転軸を整え、胞子の目立つ背へと、毒の双刃を叩き込んだ。 何度か肋骨の上をかすった感覚はあったが、同時に柔らかい肉を傷つけた感触もあった。 

  

 サクが着地した直後、傷を付けた部位からボシュ、と胞子が噴き出す。 

 ナルガクルガに付けられた大きな傷の上から斬りつけたから、より深部へと刃が到達している筈だ。 

 イビルジョーの首は、いつしか不自然に拘縮し始めていた。 

「毒が回ってきたか」 

 ヒアシの言葉に、サクは息を整えながら首を振る。 

「いや、この毒では、ああはならない筈。これはむしろ──」 

 

 雪のように胞子が舞う。 

 桃色の卵と灰色のそれらは、戦闘中であることを忘れさせてしまうくらいに幻想的だった。 

 そして、表出した胞子がこれほどまでに多くなっているということは、イビルジョーの衰弱を意味しているのだ。 

 傷だらけの身体は、屍肉となりゆくのを心待ちにする胞子によって、ほぼ完全に乗っ取られつつあった。 

 イビルジョーはふらつき、ゼエゼエと肩で息をする。 ここまで衰弱していれば、もう半刻と持たないだろう。 

 

 故に、失念していたのだ。 

 この竜の生命力が、如何に並外れているかを。 

 何故この竜が、“古龍級”生物と呼ばれているかを──。 

 

 きゅおん、と場違いに思えるような吸音が響く。 

「!」 

 頭にクラッチクローで掴まっていたヒアシは、それを聞くや否や、咄嗟に筋肉の剥き出しになった背へとクローを伸ばした。 

 

 直後、赤い稲妻を伴う黒いガスが辺りを覆った。

 二人は直撃を免れるが、しかし。

 陸珊瑚の台地の生命を豊かにする風。常時であれば恵みを運ぶそれが、凶となった。 

 

「逃げろ、サク──」 

 その言葉が紡ぎ出されると同時。 

 ガスはあっという間に、風下にいたサクのもとへと到達し、視界を妨げる。 

 サクは珊瑚にワイヤーを伸ばし、ヒアシと同様に回避しようとしたものの、あと僅かのところで横に逸れてしまった。 

 

「そんな……ッ!」 

 こんな時に限って失敗するとは。目の前が真っ暗になったような心地がした。 

 せめてそれを吸い込まないよう、サクは瞬時に目を瞑って息を止めた。 このマスクは瘴気を通さないが、ガスの粒子はそれよりも小さいのだ。 

 

 だが、感覚器官を守ることを優先したその行動は、その場からの撤退を遅れさせた。 サクが駆け出した時には、既にその身体が半分近く黒いガスに覆われていた。 

 龍の稲妻はバチバチと音を立て、剥き出しになった雌火竜の甲殻を伝い、サクの皮膚を焼く。 

 

「ぅ、ぁッ……!」 

 左肩から背にかけて激痛が走り、サクは詰まった悲鳴を上げた。 

「サク! おい大丈夫か、サク!」 

『チョウサダン!』 

 ヒアシはすぐに倒れたサクの傍に駆け寄った。 

 不幸中の幸いと言うべきか程なくして風でガスは霧散したが、瞬間的に強烈な電気ショックを受けたサクは、気を失っていた。

 火傷を負った肩が痛々しかった。

 

 白いモヤで視界が悪くなっている為、イビルジョーは頻りに匂いを嗅いで、こちらを探ろうとする。 

 その時、少し離れたところから、螺貝の音が聞こえた。リーダー格のテトルーだ。 

『やい! ××××!』 

 叫ぶやいなや、テトルー達はイビルジョーの気を引こうと一斉に挑発し始めた。テトルーがちょこまかと攻撃をかわしながら、イビルジョーを引き付けてくれているのを確認する。

 イビルジョーがそちらを向いた隙に、ヒアシはぐったりとしたサクを軟体珊瑚の陰に避難させた。 

 下手に電流が流れれば、勘違いをした心ノ臓は簡単に誤作動を起こす。ヒアシはサクの頭装備を手早く外して気道を確保し、口元に耳を近づけた。 早く微弱ながらも、息はある。 

 それからサクの首に手を入れ、脈をとった。本当は橈骨から確認したいがその時間はない。

 やや乱れているが規則的な拍動が指に触れる。どうやら心停止はしていないらしく、ほっと息を吐いた。

 

「サク、わかるか! サク!」 

 ヒアシが何度か強く呼びかけると、サクは微かにうなり、億劫そうに一瞬目を開ける。ヒアシが負傷している方とは逆の肩を叩くと、サクは何度か瞬きをし、こちらを見た。 

 その様子を見て、ヒアシはほっと息を吐く。そしてすぐさま撤退をしなければと、サクの身体を抱き起こそうとした。

  

 その時、低い唸り声が聞こえ、ヒアシはハッと息を飲む。 

 咄嗟にサクを庇って盾を構え、振り返った先には、こちらを捉える一対の目があった。 

 イビルジョーの歩幅では、三歩ほどで辿り着いてしまう距離だ。 今モドリ玉を使ったとしても、サクを抱えては逃げきれない。 

 

 巨大な口が、大きく開かれる。 

 その刹那、視界は赤黒く染まった。 

 



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十六夜

 真っ暗な中、サクは温い水の中を漂っているような感覚に身を任せていた。

 いくつもの光景が、閃いては消えていく。これが走馬灯というものか、とぼんやり思った。

 

 そのうち、意識は一つの場面を映し出した。

 

 窓の外に見えた真っ赤な紅葉に、此処が故郷であることを悟る。 

 一生懸命に絵本をめくる自分の手は、指が短くてぷくぷくとしていた。

 ふと足音が聞こえて振り返ると、そこに居たのはいかにも学者らしい装いをした、自分と同じくらいの齢の男。 

 若い頃の、父だった。 

 

 幼い自分は、大喜びで父に飛びついた。 

 温かい手で抱き上げられ、頬に接吻をされて、きゃあきゃあと笑う。 

 絵本を読んでいたのかと父は聞いた。 

 幼子は無邪気に頷く。 

 見て、と得意げに音読して見せる息子の声を聞きながら、そのまるい頭を父は愛おしげに撫でた。 

 

 サクの家は、両親が共働きだった。 

 相当忙しかっただろうに、父も母も合間を縫ってよく構ってくれていた為、寂しい思いをすることはあまり無かったと記憶している。 

 勿論入れるところは限られていたけれど、時には父の仕事場についていくこともあった。 

 白衣を着て仕事に勤しむ父の後ろ姿が、サクは大好きだった。

 

 この頃は、これほど純粋に父を思うことができたのだ。 

 幼い自分が笑っている感覚がわかるし、はしゃぐ声も聞こえるのに、大人の自分の胸だけがひたすらに痛かった。 

 

 

 場面が切り替わった。 

 

 雨がしとしとと降っている。 

 先程と同じ紅葉の見える部屋は、玩具や絵本の代わりに、書物が並ぶようになっていた。 

 まだまだ稚いが、手足の長くなった少年は、ひたすら算式を書いている。 

 時折それらが滲んで見えなくなり、その度に腕でごしごしと拭った。 

 

 これは、自分も学者になりたいのだと、思い切って両親に告げた日の記憶だ。

 母はとても喜んでくれたから、父も同じように受け入れてくれると思っていた。 

 だが、その時父は形容しがたい表情を浮かべた。 そして少年にかけられたのは、反対の言葉。 

 

──やめておきなさい。苦労をするだけだ。 

 

 ショックを受けつつも食い下がる息子に、父は背を向けた。 

 

──なら、応援はしないからな。決して甘くはないぞ。 

 

 我が子に苦難の多い道を歩ませまいとした言葉だったとはいえ、幼い子どもにあんな言い方をすることは無かったのに、と今でも思ってしまう。

 母が説得しようとしてくれたが、父はついぞ首を縦に振ることはなかった。 

 

 それからは、あんなに子煩悩だった父は、息子を一切褒めなくなった。 

 どんなに良い成績を取ったとしても、素っ気ない返事をするばかり。時折こちらを物言いたげに見つめてくるけれど、積極的な言葉はない。 

 当時はそれが大好きだった父からの拒絶に思えて、悲しくてたまらなかった。 

 ちょうど反抗期に差し掛かっていた頃だった少年は、その日から反発するように猛勉強をした。 

 

 本当は、誰かに話を聞いて欲しかった。 

 けれど母にも言いづらかったし、幼馴染みの家は母子家庭だったから、彼にはなんとなく父親の話をしてはいけないような気がしていた。 

 

 

 再び場面が変わる。 

 

 賑やかな街を歩いていると、学者やハンターとよくすれ違う。 

 これはユクモ村を離れ、大都市ドンドルマへと足を踏み入れた時のことだった。 

 ずっと夢見ていた研究者になるため、必死にここまで辿り着いたのだ。 

 

 寮生活だったのでよく時間を共に過ごす学友もできたし、幾度か春も訪れた。 大変だとはいえ勉強にもついていけていたし、周りから見れば充実していたと思う。 

 それでも、満たされなかった。 

 自分が望んでいたのは、一言。たった一言で良かったのだ。 

 父のペンだこだらけの、ふしくれだった手で「よく頑張ったな」と肩を叩いてほしくて、直向きに努力を重ねた。 

 実家からの手紙が来るたびに、父からも一筆くらい無いものかと無意識に探してしまう。 

 母は、父も心配していると書いてくれたけれど、それが態度で示されたことは終ぞ無く、苛立つとともに酷く落胆した。 

 

 認めてほしいのに、今更自分からそれを言うのは癪だった。身体ばかりが大きくなっても、考え方はまだ幼稚だったのだ。

 おそらく、この時点で精神的な親離れがうまくいかなかったのだろうと思う。 

 ここで生じた歪みが、編み目を飛ばした織物のように後の人生を少しずつ形の崩れたものにしていったのだ。

 

 

 そして、場面が移り変わる。 

 

 その風景を見た途端、ぐらぐらと視界が揺らぐ。 

 その場所に立っている昔の自分と、その場面を見ている今の自分が乖離し、サクは吐き気を堪えるように口元を押さえた。 

(嫌だ。やめてくれ。もう見たくない、あんなの二度と見たくない……!)

 目を瞑っても耳を塞いでも、意に反して場面は脳裏で進んでいってしまう。呼吸が乱れ、心の臓は激しく胸を打ち付けている。 

 これまで何度もサクの心を蝕んできた、あまりにも鮮明で残酷な悪夢に、呻きが口から漏れた。 

 

 巨大な蜘蛛の巣が張り巡らされた、おどろおどろしい地底洞窟は、当時の研究場所だった。 

 この場所は、火山活動が始まると全く違う姿に変わる。 溶岩に飲み込まれる前に研究サンプルを採取するため、サクを含めた数名の若い学者衆が、足を踏み入れていたのだ。 

 

 その中には、父の姿もあった。 

 父とサクは厳密には違う分野の研究者であったが、調査の対象が重なっていたため、同行していたのだった。 

 サクは緊張しながらも父に認めてもらうには今しかないと、内心では張り切っていた。 

 

 勿論、護衛のハンターは雇っていた。 

 大型モンスターの出現は予報されていなかったし、腕利きだという彼の存在に、白衣のしわが少ない誰もが安心して観察を続けた。 

 それが仇となるのだと、当時の自分に教えてやりたかった。 

 

 ぽたり、と足元から突然聞こえた音に、仲間の一人がしゃがんで確認しようとした。 

 落ちるほどの水滴が発生する条件など、この辺りには存在しただろうか。 

 次の瞬間、仲間の姿は無かった。 はらりと音を立て、彼の持っていた記録用紙だけが落ちた。 

 その場にいた誰もが目を見張り、残影が消えていった方を見上げる。 

 

 皆一様に、凍り付いた。 

 そこに在ったのは、ぬらついた赤い皮膚と、目の無い顔。 奇怪竜フルフルの亜種だった。 

 

 その口は咀嚼というより、食を覚え始めた赤ん坊が、食物を奥へと送り込むように動く。 その食物が何かは、言うまでもなかった。 

 

──逃げてください!

 ハンターが叫ぶのとどちらが早いか、恐慌状態に陥った学者衆は、我先にと駆け出していた。 

 大型モンスター、それも世にも珍しい亜種が出現するなど、一体誰が想像していただろうか。 

 ハンターは学者衆を庇って片手剣を握るが、その手は震えていた。 それもその筈、彼は小型モンスター討伐専門のハンターだったのだ。 組織から下りる額で雇えるハンターなど、限られている。

 

 フルフル亜種は長い首を人間たちの方へと伸ばした。 

 咄嗟にハンターが阻止しようと切りつけるも、伸縮性に富んだその表皮は、骨製の刃では歯が立たない。 

 おぞましい口はあっという間に無防備な人間のうちの一人を捉え、その足をすくった。 

 鋭い歯が引っ掛かって破れた鞄の中身が地面に散らばる。瓶が落ちて割れる音が、いやに大きく響いた。 

 

 彼は悲鳴を上げてもがいたが、その甲斐なく、みるみるうちに身体が飲み込まれていく。

 牙が動脈を貫いた時、血が噴き出して辺りへと降り注いだ。

 若い学者のうちの一人は、それをもろに浴びてしまい、恐怖で腰を抜かしてしまう。

 サクはフルフル亜種が再び首をもたげる前に、狂ったように悲鳴を上げ続ける彼女の身体の下に肩を入れ、立たせようとする。

 

 だが、捕食者とはいつも弱い者を狙うものだ。

 匂いが滞ったのを感知し、まごついている二人の方へと、赤い首が伸びた。

 

 振り向いた時、サクと学者は絶望した。

 歪に生え揃った牙のある口が、大きく開かれる。

 あっという間に生臭い息が顔を包み、真っ暗な口腔が視界を覆った。

 

 

 どん、と横腹に衝撃が走る。

 その直後、地べたに投げ出された。

 

 己の感覚器官が拾ったのは、血や肉が本来あるべき場所から溢れた、嫌な臭い。 

 そして。 

 大人の男が、夥しい量の血を流して倒れている姿だった。その腹から下は、無くなっている。

 それが自分の人生の目標だと気づいた瞬間、サクは心臓を鷲掴みにされたような心地がした。

 

──あ、あ、あああ……ッ!!

 変わり果てた父の姿に、呼吸ができなくなった。

 何も映していない、虚な目と視線が合い、歯の根が合わなくなる。

 

 なぜ。

 どうして。

 なにゆえ、庇ったのだ。

 貴方は、息子に興味が無くなったのではなかったのか。

 自分が今まで、どんな思いで生きてきたか。

 こんな筈ではなかった。

 こんな筈では──。

 

 いくつもの感情が津波のように押し寄せてきて、サクは父の方へと手を伸ばす。

 だが、己の手はそのままどうすることもできずに、ただただ震えるばかりだった。

 

 赤い奇怪は、父の下半身をゆっくりと飲み込んでいく。

 膨らみが腹の方へと動いていくのが、生々しかった。

 

 上半身まで喰わせるものかと、サクは無我夢中で駆け寄ろうとした。

 だが、後ろからがっしりと肩を掴まれる。振り向くと、ハンターが必死の形相で押さえ付けていた。

 離してくれともがくも、彼は決してそれを許さなかった。

 

 そして、横たわった父の残りが咥え上げられ、赤の中に飲み込まれていく。

 叫ぶことしか、できなかった。

 

 もし、己がハンターだったならば。

 己に力があれば。

  後悔など、降り積もるだけで僅かな益にもならないのだと、その時知った。

 

 

 

 もうやめてくれ、とサクは消え入りそうな声で呻く。

 最後に、顔だけが黒く塗り潰された父が、佇んでいるのが見えた。

  

 

 

******

 

 

 

 どん、という衝撃と共に視界が回転し、空が地面と入れ替わる。

 負傷部の痛みに、サクは意識が明瞭になっていくのが分かった。自分はまだ生きていたらしい。

 

 己が突き飛ばされたのだと気づくのに、一拍。

 

 顔を上げると、ロストバベルを構えたヒアシの後ろ姿が見えた。

 その向こうには、黒々としたおぞましい口が広がっている。

 

 自分の置かれた状況を思い出し、あっという間に血の気が引いていく。

 ──この瞬間を、自分は知っている。

 

「ッだ、め……!」

 それからのことは、一瞬がまるで永遠であるかのように思えた。

 

 

 

 叫び声と共に、金色のロストバベル(護るための塔)が、かの竜の口腔を突き刺した。

 柔らかい粘膜の感触の直後、槍先は堅い口蓋骨を貫き、脳天へと達する。そして頑健な巨大竜の頭には、一人の狩人によって穴が開けられた。

 イビルジョーは、耳をつん裂くような悲鳴を上げる。

 

「ぐッ、うおおおおおっ!!」

 ヒアシはありったけの力を込めて、黄金の槍を肉に押し込んだ。

 向かってきた竜の慣性によるエネルギーと、ヒアシが槍を突き出した速さが合わさり、一点への圧力は極限にまで高まる。

 体格差には勝てず、地面に踏ん張っている足が、元いた場所から大幅に引きずられた。

 だが、ヒアシは構わず力を入れ直す。

 

 めりめりと、穂先が肉を抉っていく感触が手に伝わる。

 駆け出しの頃に初めて味わい、狭い寮の隅で震えた、生命を貫く確かな感触。

 あの恐怖は、殺めるという行為に対する恐れと、僅かながらも快感を覚えた、自分自身に対する恐れだった。

 自分は変わったのだな、と心のどこかでふと思う。

 

 腹を空かせた竜の唾液が、防具を溶かす音がする。空気に直に触れている目元に飛び散れば、失明のおそれもあった。

 だが、今ここで自分がとどめを刺さなければ、二人とも生きては帰れないだろう。

 ヒアシは目の端で、絶望に染まった幼馴染みの顔を見た。

 

 遠い昔のあの日、実父の暴力から母を守れない、己の幼い手に絶望した。

 だが、今は違う。

 こちらへ近づけさせない大槍も、大切なものを護る大楯もある。

 これまでの日々は、決して無駄ではなかったのだ。

 絶対にサクを死なせてなるものか。

 ヒアシは歯を食いしばった。

 

 

 断末魔の悲痛な咆哮がこだました。

 竜はもがき苦しみ、己を苛むそれから逃れるように、最後の力を振り絞って、頭を思い切り後ろに振る。

 おそらく、無意識の行動だったのだろう。

 同時に下顎が閉じられ、ヒアシの肩装備を巻き込んだ。

 ランスを構えた腕が得物を手放す間もなく、一緒くたにして引っ張られる。

「あ、」

 みしみし、と嫌な音がした。

 

 

 

 その刹那、赤い首と、白に覆われた巨大な顎が、重なって見えた。

 口端から見える足、口の中に消えた腕。

 一体どちらが、本物の風景なのだったか。

 

 目の前の光景に、サクはひゅっと息を吸った。

 ただならぬ恐怖、怒り、悲しみ、罪悪感といった負の感情が一斉に蘇り、鳩尾を殴られたような感覚に陥る。

 酷く手が震え、うまく呼吸ができなかった。

 

 ヒアシが顔を顰めるのが見える。

 

 その直後。

 耳を塞ぎたくなる音が響いた。

 

「ッ、ぁぁあああっ!!」

 ヒアシの悲鳴とうるさい耳鳴りが、頭に響いた。

 目の前が真っ赤に染まる。

 吹き出す体液は、最早どちらのものなのか見分けがつかない。

 

「……ッう……ぁ、ぁ……!」

 目眩がして、冷や汗が止まらない。

 はやく、はやく助けなければ。

 これまで自分は、何のために治療技術を身につけてきたのか。いま活かさずして、どこで活かすというのか。

 そう思うのに。

 身体が、動かなかった。

 

 

 

「っは、……ッぐ、うぅ……この……ッ!」

 あまりの痛みに、意識が飛びそうになる。

 ヒアシはなんとか己を手放さないようにと、強く歯を食いしばった。

 

 イビルジョーは首を振り上げて、ヒアシの一部だったものを飲み込んだ。

 酷く衝撃的な光景だったが、ヒアシはそのまま睨み続ける。

 するとイビルジョーは、程なくして口元に稲妻の走る黒い霧を燻らせた。

 

「……!」

 今これを食らえば、間違いなく二人とも助からない。

 形容しきれない痛みの先から一切の感覚が無くなった腕を見ては、きっと怖気づいてしまうと思った。

 ヒアシは眉間に力を込め、イビルジョーだけを睨め付けた。

 どうなろうと、構わない。

 なんとしても、自分が護り抜いて見せる。

 

「させる、ものかあああっ!!」

 ヒアシは対を無くして一気に重くなった右腕を、腰を捻ることで勢いをつけ、イビルジョーに向かって振り上げた。

 ロストバベルの重厚な盾は、その上部の最も圧力がかかる場所をもって、イビルジョーの顎を打ち上げた。

 規格外の巨躯といえども、その不意打ちに耐え切れる筈もなく、口が閉じられた。

 

 重い衝撃が盾を伝って傷に響き、ヒアシは呻き声をあげる。

 

 瘴気で白くなった喉が、内側から赤く光る。

 直後、爆音と共に凄まじい衝撃が、イビルジョーの喉を中心に放たれた。

 

「ッ、ぅあっ……!」

 吹き飛ばされたヒアシは、受け身を取れずに地面に転がり、咳き込む。

「ひ、あし……っ!」

 サクは必死に立ち上がろうとするが、地響きに妨げられる。

 

 頭に槍を生やした竜がのけ反り、中枢を断たれたその身体が、制御を失って倒れ込んだのだ。

 砂煙の中でしばらく痙攣していたそれは、やがて動かなくなった。

 

『……!?』

 テトルーが訝しげな声を上げる。

 イビルジョーの身体は、まるで霜が降りるように白くなっていく。

 小さかった霜はみるみるうちに成長し、やがて巨大な胞子の塊となった。それがいくつもできて、イビルジョーの頭部を覆っていく。

 やがて、歪なほどに成長したその身体は、真っ白になった。

 

 ふわふわと舞う胞子は、陸珊瑚の台地に降り注ぐ光によって照らされる。

 そこに横たわるは、一頭の哀れな白い竜。

 それはさながら、死化粧のよう。

 そして同時に、純潔を捧げる花嫁のようでもあった。

 

 美しい台地に、漸く沈黙が訪れた。

 くらりとするような甘い匂いには、生命の終わる金臭さと生臭さが混じる。

 

 サクはイビルジョーには目もくれず、必死に息をしていた。

 肩から胸にかけて、焼けつくように熱い。だが、こんな痛みなど無視してしまえ。

 自分が救わなければならないのだ。たった一人の幼馴染みを、大事な相棒を。自分が行動を起こさなければ、彼の命の炎は消えてしまうかもしれない。

 朔は、鉛のような身体を引き摺った。

 

「ヒアシ……っ、いま……君の、ところに……行くから……!」

 目の前の身体は、ぐったりと横たわっている。

 兜の隙間から見える顔は、苦痛に歪んでいた。

 腕のあった場所からは、脈打つように止め処なく鮮血が流れ出るばかりだった。太い動脈までも千切られているのだ。

 死んだ珊瑚の成れの果てである、白い砂を、赤黒い血が飲み込んでいく。

 

 一刻も早く、あの血を止めなければ。流れ出る赤い滝は、ヒアシの生命と等しい。

 ヒトの身体は、太腿から下の二本分ほどの血液量が無くなれば簡単にショックを起こして絶命してしまう。

 

 ようやくヒアシの元に辿り着いた時、彼が億劫そうに目を開けてこちらを見た。

 寄せられていた眉間のしわが、フッと消える。

 その群青は、この場に似合わない優しい光を湛えていた。

 

「さ、く……」

「……っ!」

 この期に及んで、どうしてそんな顔ができるのか。

 サクは唇を噛み締めた。

 

 ヒアシは呼吸も意識もあるが、汗がびっしりと浮いた青白い顔をしている。出血で少なからずショックが起きていることは、明白だった。

(今すぐ止血をしないと。この場所を押さえられるか、いや無理だ。でもやらないよりは……ああもう!)

 気が動転して手順がまとまらず、サクはひどく焦った。普段も超急性期の怪我人を手当てしているというのに、身内となるとここまで駄目になってしまうものか。

 サクは駄目元でヒアシの体位を変え、血塗れの腕を地面に強く押さえつける。それでもピュ、ピュッと血が溢れてくるのだから焦って仕方がない。

 

 その時、ヒアシの口元が動いているのが見え、聞き直す。

「なに?」

 耳を近づけると、微かな囁きが鼓膜を揺らした。

「いき、てて……く、て……よかっ、た……」

 

 生きていてくれてよかった。

 ヒアシは、確かにそう言った。

 自分を犠牲にしたというのに。

 大切な腕を失ってなお、相棒を気遣う言葉を、無事を喜ぶ言葉を発したのだ。

 

「……ッ!! なんで、なんで……!」

 サクは、怒りと悲しみにわなわなと唇を震わせた。自己犠牲をするにもほどがある。こんな思いをするくらいなら、いっそ自分が喰われていれば良かったのに。

 だがヒアシの言葉を聞いた途端、思考が鮮明になっていった。それと同時に、痛みが少しだけ遠のいていくような感覚があった。

 

『(よせ、チョウサダン! お前も怪我をしているだろう!)』

 ヒアシを寝かせるやいなや、治療道具を出し始めたサクに、台地のかなで族のテトルーが訴えかける。

 サクにその言葉はわからなかったが、心配してくれていることは伝わった。

 テトルーが案じたように、サクは先ほどのブレスと、その熱が伝導した防具の金属部分によって、広範囲に火傷を負っていた。火傷はその深度と範囲によっては命に関わる。

 凄まじい痛みがあるということは、真皮から下までは焼けていないのだろう。とうに気絶していてもおかしくない状態のサクを動かしているのは、気力だけだったのだ。

 

 サクは顔を顰めて脂汗をかきつつも、首を横に振った。

「もう、二度とッ……僕のせいで、ッ大切な人が、命を落とすのを……見たく、ないんだ……!」

 

 それを見たテトルーは、仲間同士で顔を見合わせると、武器を振り上げて何か意思を確かめ合った。

 直後、二匹がそれぞれ逆方向へと駆け出し、残った一匹がサクの手に自らのそれを重ね、力強く頷いた。

 

 手伝うぞ、と言われているのがわかった。

 サクはテトルーの眼差しに、ハッと息を飲む。

 種族や言葉が異なっても、味方の存在のなんと心強いことか。

「っ、ありがとう……!」

 サクは上手く動かない手で、なんとかテトルーに必要なものを伝え、いくつかの救命道具を取り出してもらった。

 

 すう、と息を吸うと、できるだけ冷静に目の前の状況を分析する。

 負傷部位が上腕である以上、体重をかけて圧迫するのではなく、止血用の帯を使うのが最適だろう。

 サクは片手で道具を確認した後、辺りを見回すが、目的のものは見つからない。焦りでさらに呼吸が乱れる。

 その時ふとある考えが浮かび、サクは腕を伸ばして近くに置いてあった自分の頭装備を手繰り寄せた。決して推奨される方法ではないけれど、手段を選んでいる暇はない。

 

『チョウサダン?』

 サクは、なんとか自分の首元と腕の紐の端をナイフで切った。

 それから、首を傾げたテトルーに防具を繋ぎ合わせている紐を外す動作を見せて、これをやってほしいのだと伝えた。

 テトルーは、その意図はわかっていないようだったが、小さな手で結び目を解き始める。

 

 その間にサクはポーチを探り、紙の包みを取り出した。

 先ほど砕いておいた貝殻の粉だった。衝撃で紙が破れ、やや中身が漏れてしまっているが、量としては十分だ。

 サクはヒアシの肩装備を慎重にずらすと、変色しかけた剥き出しの筋肉に、赤みがかった白い粉末を振りかけた。

 

 すると、音を立てて白い泡が発生し、ヒアシが呻いた。

 これでひとまず腐食は食い止められるだろう。感染のおそれも高いため最適な方法とは言えないが、今できる精一杯の処置だった。

 

「頑張って、必ず、助けるから……!」

 サクは強い光をたたえた瞳で、ヒアシを見つめた。

 ヒアシは浅く弱い呼吸を繰り返していたが、サクの言葉に微かに瞼を開け、瞬きで応えて見せた。

 

『(取れたぞ!)』

 テトルーが差し出した紐を受け取ると、サクは再びヒアシに向き合った。清潔なガーゼを創部にあて、その上から止血帯代わりの紐を緩めに結ぶ。

 そして棒を紐にくぐらせ、静かに回していった。ある程度の硬さになってくると、ヒアシが顔をのけぞらせて呻く。

「痛いね、ごめん、痛いよね。ごめんね」

 サクはヒアシの肩をさすって声を掛けながら、尚も棒を回す。

 やがて出血が止まると、サクはヒアシの左腕を自分の太腿に乗せ、生命兆候を確認した。

 弱く、そして早くなっているが、脈拍は確認できた。なんとか最悪の状態は免れたが、緊急事態は続いている。

 

 サクは懐から、光沢のある粒を取り出した。

 小さく丸められたそれは、秘薬と呼ばれる薬である。

 即時に血管収縮作用だけでなく、麻酔のような効果を発揮するため、劇薬とされる。

 しかし、動けなくなるような怪我をする危険と、常に隣り合わせであるハンターは、持ち歩くことが許可されていた。

「ヒアシ、これを噛まずに、口の中に含んでいて」

 サクが一言一言を強調するようにして指示すると、ヒアシは大儀そうに口を開けた。

 真っ青になった下唇を、サクはそっと指で広げると、歯と歯茎の間にその小さな粒を押し込んだ。

 秘薬は口腔に留めておくことで、粘膜から吸収され、素早く薬効があらわれるのだ。

 

 これで、少しでも痛みから逃れられれば良いのだが。

 応急処置はしたものの、事態の深刻さに変わりはない。むしろ、大事なのはここからだった。

 一刻も早く、拠点に戻らなければ。

 

 サクはふらつきながらも膝をつき、歯を食いしばって身体を起こす。

 神経までは焼き切れていなかったため、立った瞬間に走った、凄まじい激痛に呻いた。

 

 

 その時、パキ、と重い何かが珊瑚の死骸を踏んだ音が背後から聞こえた。

「……!」

 サクはハッと息を飲み、咄嗟にヒアシを後ろに庇う。

 

 朦朧とする意識の中で、ヒアシは音のした方へと徐に首を巡らせた。

 白い死の地面の上に立つ、黒い一頭の竜。ナルガクルガだった。

 右翼の怪我から、すぐに先ほどの個体だとわかった。あのジンオウガは連れていないようだ。

 ナルガクルガは唸り声を上げ、こちらを見ている。

 

 サクは、末梢から血の気が引いていくのを感じていた。

 

(ナルガクルガの狙いは何だ? もし敵対されたら、僕らは……!)

 

 全滅。

 考えうる中で、最悪のシナリオだった。

 息が浅くなるのがわかる。

 サクは目を合わせないように気を付けながら、ナルガクルガを見つめた。

 

 彼、または彼女の視線はゆらゆらと揺れる。

 イビルジョーの大きな亡骸と、小さな人間たちを何度も見た。

 その目元の皮膚は、みるみるうちに真っ赤に充血していった。

 中心にある瞳が、爛々と輝く。

 

「……!」

 ナルガクルガの目の奥に宿るものを見たサクは、これ以上ないほどに目を見開いた。

 襲われるかもしれないという恐怖よりも、何よりも。

 言葉が無くとも、解ってしまったのだ。

 

 あの目は、大事なものを奪われた者の目だ。おそらく、縄張りだけではない。

 自分の見立てはある程度正しかったのだと思った。手負いのナルガクルガは、かの竜によって大切な相手を失ったのだろう。もしかしたら、子が命を落としたのかもしれない。

 さぞ、さぞ辛かっただろうに。

 

 モンスターに感情移入などしてはいけないのに、その気持ちが痛いほど判ってしまう。

 サクは目蓋を伏せ、唇を噛み締めた。

 

 その時、ナルガクルガの低い唸り声に、サクはヒアシを庇う身体を硬らせた。

 勝手にこちらが同情しているだけで、向こうにとっては自分たちの意思など、関係ないのだ。

 よもや、怒りの矛先がこちらへ向けられるのではないか。

 心臓が激しく胸の内を打ち付ける。

 

 いよいよナルガクルガが尾を振り上げ、サクは咄嗟に目を瞑る。

 シュン、と風を切る音。

 だが、いつまで経っても衝撃は訪れず、サクは恐る恐るそちらを見た。

 

 そこには、地面にめり込んだイビルジョーの顔があった。

 ナルガクルガは、亡骸を思い切り叩きつけたのだ。

 めり込んだ尾を地面から引き抜くと、体当たりをしたり、刃翼で切り裂いたりと、力の限りの攻撃をする。

 

 かなで族のテトルーは、呆気にとられたようにその行動を見つめていた。最早抵抗することのない亡骸に、理不尽なまでにぶつけられる激しい怒り。

 だが、あの目を見てしまった以上、サクはナルガクルガを責める気にはなれなかった。

 自分もかつて、復讐しようとしたから。

 そしてそれは叶わず、砂を噛むような虚しさを味わったから。

 

 やがてナルガクルガは、後ろ足だけをひょいと持ち上げ、尾を振りかぶる。

 その直後、それはイビルジョーの脇腹を打ちつけた。

 音を立てて、珊瑚が崩れる。

 かの竜の巨大な白い亡骸は、下層の黄色いモヤを切り裂いて、谷の底へと消えていった。

 風の唸りが、悲しい断末魔のように聞こえた。

 

 ナルガクルガは暫く亡骸が落ちていったほうをじっと見ていたが、やがてか細い鳴き声を漏らし、走り去っていった。

 その姿はまるで、泣いているかのようだった。

 

「おわっ、た……か……」

 下から聞こえてきた、殆ど吐息のようなか細い声に、サクはぱっと振り向いた。

「っ、ヒアシ……」

『チョウサダン!』

 

 

 

 花のような珊瑚の枝の隙間から、橙に焼けた空が見える。

 はて、春にも雪は降っただろうか。もしかすると新大陸なら、そんな現象もあり得るのかもしれない。

 あまりにも美しい風景に、ヒアシはこれが彼方側というやつかと、回らない頭で考えた。

 その光を透かした二つの金色が、瞼の裏に焼き付いた。

 

 サクが何かを必死に呼びかけているが、酷く耳鳴りがして、うまく聴き取れない。

 頭の中で響くそれから逃れたくて、そのままヒアシは意識を手放した。

 

 

 

***

 

 

 

 力が抜けて重くなった──しかし、腕一本分軽くなった身体を、なんとか背負い、サクは近くのベースキャンプへと降り立った。

 

 スリンガーを戻すやいなや、サクはぐったりとしたヒアシの身体を、テントの下に横たえた。

 左腕の下に手頃な大きさの箱を置き、挙上する。再び大出血が起きるリスクを減らし、生命維持を図るためだ。

 そしてすぐさま草籠に点火し、救難信号を上げる。

 煌々とした光と煙が上がる速度さえも鈍く感じて、サクは何度も指を打ち付けた。

 武器を運んでくれたテトルーが、やや遅れてベースキャンプの入り口をくぐり抜けてきた。

 

 ハンターをはじめとして、フィールドに赴く場合は、大怪我をすることも少なくはない。そのため、ベースキャンプには応急処置の道具一式や、様々な毒に対する解毒薬などが保管されている。

 今回は緊急の偵察だったため、輸血用の血液製剤までは用意していなかったのが悔やまれた。とにかく今は急速に循環を改善して、救援を待つしかない。サクは手早く生理食塩水を炉で温め、ヒアシの腕に針を刺すと両手で輸液バッグを握り締めた。

 

 サクはバッグを吊り下げると、ヒアシの防具のうち呼吸の妨げになりそうなパーツを慎重に脱がせていった。外しながら診ていくと、腕の欠損のほか、いくつも擦り傷や打撲の跡があるのを見つけた。

 サクはキャンプに常設してある清潔な水を汲み、一つ一つ丁寧に手当てをする。

 消毒薬が滲みるのか、時折ヒアシは呻いた。

 だが、もう痛み刺激がなければ、殆ど反応を返さなくなっていた。

 

「痛いね、痛いね……。今、助けが来るから……!」

 サクは謝りながら、締めた止血帯を一度緩めて再び締める。

 一通りの処置が終わると、サクはくしゃりと顔を歪め、ヒアシの手を摩る。

 それはヒアシの痛みを緩和するための行為であったが、サク自身を励ますものでもあった。

 

 自分にできることは、全てやった。言い換えれば、今の自分には、ここまでしかできないのだ。

 もしも長く研鑽を積んだ医師であったなら、もっと良い治療ができたかもしれない。

 もっと優れた狩人だったなら、そもそもこんな怪我を負わせることもなかったかもしれない。

 

 サクはヒアシから、カクカクと震える自分のもう片方の手に視線を移すと、きつく握り締めた。

 どちらも中途半端な自分の無力さが、酷く悔しかった。

 サクは泣きそうな顔で空を見上げる。

 まだ救援は来てくれないのか。早くしないと、助かるものも助からなくなってしまうというのに。

 一秒一秒が、耐えられないほどに長く感じた。

 

 そんなサクを見かねて、テトルーが怪我をしていないほうの肩を叩いた。

『(ここに来る前に、仲間がお前達のハコに救援を呼びに行った。そう焦らずとも、じきに来る筈だ)』

 テトルーが武器の柄で地面に絵を描き、身振り手振りを使いながら説明してくれた言葉に、サクは目を見開く。

『(おあいこというやつだ。お前たちが、ヤツを倒して平和を取り戻してくれたからな)』

 テトルーはニッと口端を上げた。

 まさか、知らないうちにそんな気回しをしてくれていたとは。獣人族の温かさが、有り難かった。サクは唇を震わせながら、礼を言って微笑み返した。

 

 次第に慣れて感じなくなってきた、汗と薬品、そして血の匂いが、風に乗って鼻腔を掠める。

 やがて落ち着きを取り戻すと同時に、怪我の痛みが、自分を忘れるなと言わんばかりに振り返した。頭の中から響くような耳鳴りがうるさい。

 持ち込んでいた秘薬は使ってしまった為、もう僅かな回復薬しか残っていなかった。この怪我では誤魔化せるとは思えないが、サクは残った深緑の液体を口に含む。

 顔を顰めて痛みに耐えるサクの汗を、そっとテトルーが拭ってくれた。

 

『(大丈夫か、お前も少し休め)』

 アイルーよりも、少しだけ硬い肉球の感触。"手当て"とはよく言ったもので、その不器用ながらも優しい手つきに、痛みが和らいだように感じた。

 サクは強張った顔ながらも微笑んで見せる。

 

 それから、再びヒアシに視線を移した。

 力なく上下する胸を見て、思わず視界がぼやけた。この呼吸がずっと続いてくれたなら。すぐに手当てはしたものの、重大なリスクばかりを考えてしまう。

「ヒアシ……」

 サクはヒアシの手を握り、優しく声をかけた。

 その様子に、テトルーがそっと席を外してくれる。

 

 サクは、汗で張り付いた赤い髪をかき分け、布で額を拭った。

「考えてみたら、僕ら、再会してから働き詰めでさ、ろくにゆっくり過ごせなかったよね」

 聞こえているのかいないのか、ヒアシは呼吸を繰り返すばかりだった。痛みで無理に覚醒させるくらいなら、返事などなくてもいい。

 それでも、今伝えなければならない。大事なものを失うのはいつも予期せぬタイミングで、伝えたいことを伝えられないまま終わってしまう。

 サクはただただ、言葉が届いていることを願った。何事も、後悔してからでは遅いのだ。

 

「勿論、君とミランとの生活は楽しかったよ。でも、もっと自由に旅行とかもして、離れていた間の、君のことを知りたいなって思うんだ」

 当然、言いたいことは他にもたくさんある。それでも今は、希望のある言葉だけを贈りたかった。

 これまでヒアシと一緒に過ごしてきた日々が脳裏によみがえる。もし彼が助からなければ、ヒアシのオトモアイルーにも自分が傍にいない間に主人が息を引き取るという、一生消えない傷を負わせてしまう。

 サクは狭まる喉をなんとか制し、ヒアシに語りかけ続ける。

「ユクモに帰省するのもいいし、しばらく寒いセリエナで過ごしたから、温かいところにも行きたいなぁ。だから……」

 

 だから。

 どうか。

「……絶対に、死ぬな……っ!」

 サクは、ヒアシの手を強く握り締めた。

 目に水の膜が張るが、決して溢しはしなかった。

 今ここで自分が涙を見せてしまえば、それが望まない結末の呼び水となってしまうような気がしたのだ。

 

 こんなことになってしまったのは、自分が判断を誤ったせいだ。

 一時撤退をした時にナルガクルガに同情などしなければ、ヒアシが大怪我をすることも無かったかもしれない。

 そもそもこの調査に立候補などしなければ、他の誰かが犠牲を出すことなく、達成していたかもしれない。

 自分の我儘が、幼馴染みを危険な目に遭わせた。彼の健やかな未来を、奪ってしまったのだ。

 到底、赦されるなどとは思っていない。

 

 だが、それでも。

 あと一つだけ、叶えてくれるのなら。

「──独りに、しないで……」

 自分の輪郭を作ってくれた人たち。父だけでなく幼馴染みまで失ったら、自分はもうきっと元には戻れない。

 過去に溺れながら生きてきた人生だった。今ヒアシを喪えば、二度と水面には顔を出せなくなってしまうだろう。

 

 相棒に生きてほしいと願う気持ちに、こんな理由を付ける浅ましい自分は、どこまで身勝手な人間なのだろうか。

 どうせなら、自分を喰ってくれれば良かったものを。そうしたら、心置きなく贖罪ができるというのに。

 悉くが嫌になり、サクは視界を閉ざした。

 

 

 

 その時、ヒアシの手がぴくりと動いた。

 サクははっと目を見開く。

 

 まだ、まだ彼は生きている。

 うじうじと考えている場合では無かった。

 なんとしても、繋ぎ止めてみせるのだ。彼方になど、連れて行かせるものか。

 

 その時、頭上に影が落とされる。

 ハッと顔を上げると、テトルーを連れた同期が、翼竜に掴まって降りてくるのが見えた。

 

「ああ、やっ、と……」

 

 ぷつり、と緊張が切れる音がした。

 サクは自重を保っていられなくなり、ふらりと後ろに倒れた。

 

 自分が説明をしなければ、と思うのに、どうしても身体が言うことを聞かない。

 仲間が何か呼びかける声が遠くなるのを感じながら、サクはそのまま意識を手放した。

 

 



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虚を喰らう冥妃

 朽ちて脆くなった骨の下を、小さな蜘蛛が走り抜けていく。

 群れに追いついたその蜘蛛は、家族と共に暗闇へと消えていった。

 

 生命溢れる、陸珊瑚の台地のずっと下。

 飛竜すら立ち入らないその場所には、仄暗く静かな空間が広がっていた。

 

 その空間は、何かの液体が降り注ぐ音や、微生物の分解によって命の成れの果てが腐敗し、泡立つような音が響く。

 黄色いモヤが立ち込める場所は、余所者であれば吐気を催すほどの臭気が漂っていた。

 

 ここは、瘴気の谷と呼ばれる場所である。

 生き物がその生涯を終えては、(陸珊瑚の台地)でまた新しい命が芽吹くための糧となるのだ。

 その一方で(瘴気の谷)で生まれた命は、過酷な環境の中で、血肉を求めて跋扈する運命を辿る。

 

 

 

 瘴気が立ち込めるその場所は、比較的高地にあるため、陸珊瑚の台地から光が降り注ぐ。

 粒子の流れが、不可思議な影の模様を作り出す中、正気を失った翼竜が飛び交っていた。

 

 その時、柔らかな光を覆い隠し、何かが落ちてくる。

 巨体が地面に衝突するや、下敷きになった骨は砕け、周囲の骨は飛び散った。

 闇に潜んで蠢いていたモノたちは、咄嗟に物陰へ隠れる。

 

 力尽きた飛竜が落ちてくるのは常のことだ。だが、"それ"は翼を持たない。

 強力な脚を持つその身体は、上の世界からのモノでありながら、下の世界のモノのように、白いモヤで覆われ尽くしていた。

 特に頭部や胸元は、ふわふわとした胞子嚢が菌糸を伸ばして張り付いており、まるで純潔を捧げる乙女のようであった。

 

 その身体──若い恐暴竜の生命は、脳天に刺さった槍、そして龍の力の暴発によって、とうに尽きている。

 娘の身体は、血の中にまで細菌が侵入し、己の意のままに繁殖していた。

 それと同時に自己融解が起こり、内臓の組織は分解され、柔らかくなり始めていた。

 

 

 

 その時、タッタッと軽快な足音が下から近づいてくる。

 程なくして現れたのは、全身と皮が剥かれたガルクのような姿をした、おぞましい竜だった。

 獲物が落ちてきた音につられて駆けつけたその竜は、食い出のある獲物の姿に喜んだ。

 だが、亡骸の匂いをしきりに嗅ぎながらも、竜はなかなかそれを喰らおうとはしない。それどころか、キュウンと鳴きながら首を傾げる。

 やがて竜はプイと顔を逸らし、不機嫌そうに鼻を鳴らして、元の場所へ帰っていった。

 

 竜が去ると、娘が落ちてきた直後には避難していた痺賊竜の子分たちが、ひたひたと足音を立てて近づいてくる。

 頭領は下層の縄張りを見回っているため、彼らの仕事は上層の見張りである。

 だが、彼らもまた、身体が白いモヤに覆われており、その瞳は濁っていた。

 

 群れのうちの一頭が、獲物の動きを奪う牙が生えそろった口を大きく開け、腹にかじり付く。柔らかくなった肉の繊維が、ブチッと音を立てて千切れた。

 

 次の瞬間、猛烈な破裂音を立てて、ガスと臓物が勢いよく噴き出した。

 若い痺賊竜は驚き、一目散に逃げ出す。

 

 周囲には液体が飛び散り、辺り一帯が凄まじい激臭に包まれた。

 体内のバクテリアによって腐敗の早まった死骸の腹部は、ガスで膨満していたのだ。

 

 もう破裂することはないと察した痺賊竜たちは、なおも食い物にありつこうとしたが、ふいに辺りを見回し始めた。

 最初に噛み付いた一頭が鳴くと、周りの個体が応じ、自分たちの持ち場へと戻っていった。

 

 

 

──しゃなり、しゃなり。

 

 "彼"の気配に、その場の空気が張り詰め、厳かなものへと変わる。

 肉や骨を踏み締める音すらも、どこか優雅だった。

 

──しゃなり、しゃなり。

 

 “彼”は白銀の身体を、白の胞子で飾る。瞳すらも覆い尽くすその様子は、不気味でありながら、ひどく美しい。

 

──しゃなり。

 

 “彼”はやがて、娘の亡骸の前で足を止めた。

 腐って赤黒い臓物が飛び出した腹とは対照的に、今は旧き塔の刺さった頭部は、純白を纏っている。

 古の時を生きてきた”彼”にとっては、そう珍しくもないもの。

 だが、ここまで壮麗に変化した生命を目にするのは、初めてだった。

 

 “彼”は、やっと戻ってきてくれたのか、と満足そうに赤い唇を弓形にする。

 自らの創り出したモノが、自分の棲む奈落の底まで辿り着いたことは、喜ばしかった。

 顔貌に浮かべられた感情は、龍の知性の表れだった。

 尾に付着した胞子嚢が、”彼”の機嫌に呼応するように、胞子を噴き出す。

 

 “彼”は臭いや汚れを気にするそぶりなど、露ほども見せず、若い娘の頬に、自らのそれを擦り寄せる。

 冥の王に見染められた処女は、もう二度とこの世で目を覚ますことはない。

 

 “彼”は胴体を持ち上げて、咆哮をあげた。

 数多の亡者たちの声をかき集めたようなそれは、薄暗い空間で反響する。

 弔い歌であり、歓喜の歌でもあるそれは、周囲の生命ある者たちを畏怖させた。

 

 次の瞬間、“彼”の身体へと、みるみるうちに白い瘴気が吸い上げられていく。

 その根源は、力なく横たわった娘の身体だった。

 

 卵の殻を破ってから、親の温もりすら知ることなく、孤独な生涯を終えた娘。

 故郷の森からは瘴気によって追い出され、それらによって操られた彼女に、安息の場所などなかった。

 腹の満たされる幸せを享受することなく、喰っても喰っても満たされず、耐え難い渇きに呻きながら生きてきた。

 最期に向けられたのは、妻を失った夫の憎悪とやり切れない悲しみ、彼を守ろうとした若者の怯えと敵意。そして、己にとどめを刺した小さき者たちの、哀れみと大事なものを護ろうとする決意だった。

 娘がようやく飢えから逃れられたのは、死した後。

 

 そんな彼女が、生まれて初めて他者に求められた瞬間であった。

 たとえそれが、生命の糧となることを意味していたとしても。

 

 

 

 生のエネルギーを喰らい終えた冥の王は、妃の目蓋に口付けた。

 二重の細い顎に生えた鋭い牙は、彼女を傷つけることなく離れていく。

 

 栄養の殆ど無くなった亡骸は、もう朽ちる一方であろう。

 いずれ、この地の一部として成り代わっていくのだ。

 

 ”彼”はしばし考えた後、大きく息を吸い込んだ。

 妃に向けて灰色のブレスを吐きかけると、皮膚が所々剥がれ落ちながらも、その巨体が少しずつ動く。

 

 ずりずりと音を立てながら、妃の身体は下へと運ばれていった。

 途中で出会った、酸の尾を持つ竜や、轟く声を持つ竜は、心底悍しいものを見たような目を向けて逃げていく。

 彼らの行動は何らおかしくはない。むしろ、この光景こそが異様であった。

 

 やがて妃が運び込まれたのは、死体が山積みになった最奥だった。

 筋で閉ざされる狭い入り口は、本来の妃の身体であれば、おそらく通り抜けられなかったであろう。

 そこは龍脈──新大陸を栄養する血管のようなものが、煌々とそれらを照らしている一方で、手前は発光する酸が湧き出ている。

 

 蒼と赤の光の中で、妃は頂点へと横たえられた。

 冥の王は慈しみに満ちた眼差しで、動かない妃を愛した。

 この上なく丁寧に、壊してしまわないように。

 

 時間を止めることはできないけれど、微生物の営みに働きかけ、腐食を遅らせることはできる。妃の若く美しい姿を、長く見ていられるのだ。

 王は、これほどまでに自分の力を誇らしく思ったことはなかった。

 脈が止まっていることが惜しいが、仕方がない。彼女は、元々この場所で生きる者ではないのだから。

 そして、生きていればきっと、自分とは相容れないのだから。

 王は妃に再び頬擦りをする。

 

 押し付けられる一方的なその情を、妃が知ることはない。

 だが、胞子嚢の下の表情は、変わらず穏やかなままだった。冥土に連れ込まれた娘は、もう苦しみを味わうこともないのだ。

 

 娘の魂と肉体は、これから長い時間をかけて分解されていく。

 そして、強き者たちを惹きつけてやまない結晶へと、変わっていくのだ。

 

 嗚呼、新大陸とは、なんと素晴らしい場所であろうか!

 

 

 

 瘴気の谷で、間違った滞在の仕方をすれば、誰もが正気を失っていくという。

 その主すらも、もしかすれば。

 

 

 薄暗い谷の底には、ぽこぽこと泡が水面で弾ける音だけが響いていた。

 



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立待月

 高く昇った太陽の光が、幾つもの船の浮かぶ蒼い海面に、きらきらと反射している。

 そんな中、忙しなく行き交う人々に揉まれ、小さなプーギーが立ち往生していた。

 すれ違い様に、それを認めた若い女性調査員に抱き上げられ、桃豕は嬉しそうに鳴いた。

 

 

 ドアを開けると、鮮やかな空や雲のコントラストが視界を覆う。

 長身の男──ヒアシは、手で庇を作りながら屋根の下から出た。青い瞳には、昼前の日光はいささか滲みる。

 

 すれ違う同期や先輩に軽く挨拶をしながら、元々は船の甲板だった板の階段を降りていると、温かい潮風が柔らかく頬を撫でる。

 磯の香るそれを胸いっぱいに吸い込むと、清々しい気持ちになった。

 

 ここは古代樹の森の麓に存在する、新大陸古龍調査団の拠点・アステラ。

 船を解体して作られたこの場所は、一期団がこの地に足を踏み入れてから、人々が羽を休める止まり木となっていた。

 限られたスペースを活用するために、アステラは層に分かれた、やや入り組んだ作りをしている。

 今でこそセリエナに籠もりきりだが、ヒアシもほんの一、ニ年前までは、ここで働いていたのだ。防寒着を纏っていても染み入ってくるような寒さが無いことが、どこか懐かしく感じた。

 

 ヒアシは伸びをすると、書類に不備がないことを確認しながら、足で木材のまろやかな音を響かせた。

 

 

 四週間ほど前に、陸珊瑚の台地および特殊なイビルジョーの調査を終えたヒアシとサクには、それらの報告をする義務がある。

 先日、サクが恐ろしいほどの早さで書き上げたその報告書は、人伝いにヒアシへと渡された。

 

 二人はアステラで暫く入院していたが、整形外科と皮膚科で、別病棟だったこともあり、サクとは殆ど顔を合わせられていない。

 そのうえ、二週間ほど経って、ある程度傷が塞がると、サクはすぐにセリエナに召集されてしまった。

 なんでも、五期団のエースが古龍ネルギガンテを追って向かった先に、また新たな陸地が発見されたらしい。その陸地は、調査班リーダーによって"導きの地"と名付けられた。

 違う環境同士が間近に存在するという稀有な環境に、珍しい骨や鉱石、特殊な成分の痕跡など、ありとあらゆるものが学者たちを夢中にさせた。

 しかし、そこに生息するモンスターは、龍脈の影響なのか、いずれも好戦的で戦闘慣れしている個体ばかりなのだという。気を付けて調査をしていても、怪我を負う調査員が後を立たないのだそうだ。

 そのため、アステラとセリエナの医療班のうち、それぞれ三分の一ずつが導きの地調査の人員として集められたのだった。治療のほかに護身もできるサクが、そちらに選ばれない方がおかしな話だ。

 だが人員不足とはいえ、いくらなんでも人使いが荒いとヒアシは思う。

 

 ヒアシは視線を上げ、水平線を眺める。

 あと一刻ほどで、セリエナからの連絡船に乗ってサクが帰ってくる筈だ。

 ヒアシは、彼と合流してから一緒に会議に向かうことになっていた。

 サクは船に乗っている間、少しは休めているだろうか。

 

 

 

「さて、全員揃ったな。これより先日の陸珊瑚の台地の件について、会議を始める」

 

 流通エリアを見渡せる甲板は、十数人ほどが囲める大きな会議机が占めていた。その広さに見合うだけの地図も敷かれている。

 

 その最奥で厳格に言葉を切り出したのは、初老のハンター。否、そう見間違えてしまう程の精悍さを持つ、新大陸古龍調査団の総司令だった。

 短く刈り込まれた銀髪に、日焼けして皺の寄った肌。鋭く光る眼差しには、四十年もの昔から新大陸で生き抜いてきた貫禄と、高いカリスマ性が表れていた。

 

 今回の件は危険度の高いクエストだったことに加え、死者が出ている。そのため、総司令に直接報告する案件として見做されていた。

 

 その経緯から、同席者も多い。ヒアシも顔を見たことのある人々が集まっている。

 ヒアシの傍で何やら話し込んでいるのは、"三爺"の名で親しまれる竜人族の御老体、学者のトリオだ。

 陽気、快活、明朗。人々からはそう呼び分けられている。好奇心の高さだけは共通していて、大蟻塚の荒れ地にも意気揚々とフィールドワークに出て行ったのは記憶に新しい。

 彼らは新大陸でイビルジョーが出現したときから、その調査や編纂を請け負っている。この場に出てくるのも当然、出てこなければおかしい、といった具合か。

 

「──あたしも混ぜてもらうよ。今回のことは是非とも話を聞いておきたいからね」

 

 三爺から大机を跨いで発せられた、張りのある声。この人も顔を見せるだろうと言われていた、フィールドマスターだ。

 ただ、ヒアシは少し驚いていた。彼女は今、五期団のエースと共に導きの地の調査に出ていた筈。そんな彼女がこのアステラに戻ってくるとは。

 そんなヒアシの視線を読み取ったのか、フィールドマスターはこちらを見て少し口角を上げた。総司令に負けず劣らずの才人だが、纏う雰囲気は朗らかだ。ほら、肩の力を抜きな、という言葉が聞こえてくるようだった。

 瘴気の谷のプロフェッショナル。谷底の神秘を見たひと。三爺が竜の担当なら、事後報告ながら、彼女は瘴気を巡る事象の担当と言えるだろう。

 

 その他にも、書記として呼ばれた編纂者、救難に来てくれた四期団のハンター。彼らはやや緊張した面持ちで大机を囲んでいる。

 フィールドマスターが来たなら、同じくらい台地と谷に明るい三期団の期団長もいるかも、と思われたが。あの独特な香の匂いは、この場にはなかった。

 それこそ、新たな調査対象の件で忙しいのかもしれない。そもそも、期団長は滅多にアステラに帰ってきたがらないので、疑問に思う人もいないようだ。

 

 

 

 

 まずは、と総司令がサクとヒアシに視線を向けた。調査団が誇る切れ者の視線に、思わず手汗が滲み出る。

「今回の調査、ご苦労だった。早速だが、調査結果の報告を」

「はい」

 サクは少し会釈をし、手に持っていた紙束の紐を解いた。

 新大陸では紙を無駄使いできないため、基本的に殆どが口頭で会議が行われる。

 

「今回は、私のバディと私の、計二名での偵察任務でした。事の始まりから、順を追ってご説明いたします。まず──」

 

 発端として、陸珊瑚の台地の下層部や瘴気の谷の上層部で、モンスター数の激減が確認されたことを話した。

 これは死を纏うヴァルハザクが、古代樹の森に出現した事件の後に起こった現象だった。

 そして、それらの関連について記録した調査員は、記録書だけを残して命を落とした。

 

「このときの陸珊瑚の台地は、まさに惨状、と言っていいものでした。調査の結果、モンスターの数が減ったり、狂暴になったりした原因は、イビルジョーであると特定されました。血痕のほか、目立つ痕跡が残っていなかったことから、調査員の死因も、この竜に襲われたことであると推測されます」

 

 その場にいた全員が、深く黙祷する。

 やがて皆が目を開けたことを確認すると、サクは再び説明を始めた。

 

「このイビルジョーは、特殊な瘴気に侵されていました。その由来として、死を纏うヴァルハザクの胞子が有力視されています」

 

 サクの一言に、微かに場がざわつく。一瞬だけサクは黙ったが、話を止める者がいないことを確認すると、あとは箇条書きされたものを読み上げるように、報告を続けていった。

 

 このイビルジョーは、ヴァルハザクと同様に瘴気を広範囲にばらまいたが、他モンスターや、陸珊瑚への瘴気の感染は確認されなかったこと。

 レイギエナとの交戦があり、瘴気の汚染が少ない上層部へ逃したこと。

 その後にイビルジョーと交戦状態になり、ジンオウガとナルガクルガが手を組んで応戦している姿が確認されたこと。

 

「ほう、陸珊瑚の台地にもジンオウガか」

 

 ぽつりと漏らした総司令に、ヒアシは目を瞬かせる。

 

「にも、ということは、新大陸で他のジンオウガが発見されたのですか?」

 

「ああ、導きの地でな。現在、推薦組の者が中心となって、調査を行っているとのことだ」

 

 せっかく、新たにこの地に生息している種を見つけたと思ったのに。

 サクは平静を装って頷いていたが、ヒアシには彼が落胆したのが分かった。こういう時、サクは唇を内側に巻き込む癖がある。

 自分はともかく、学者気質のサクには堪えたことだろう。

 

 ヒアシはサクが口を開く前に、やや食い気味に報告した。

 

「こちらのジンオウガは、若い個体のようでした。こちらに対しては敵意を示さなかった為、自身の縄張りを獲得する年齢には達していないかと」

 

「じゃあ、ナルガクルガを守る為だけに来たってことかい?」

 

 フィールドマスターが、整った眉を跳ね上げる。

 

「そう考えられます。怪我を負ったナルガクルガを、庇いながら逃げる場面も目撃されました」

 

「おお、なんと」

 

 学者たちは感嘆の声を上げる。

 

「そもそも、縄張り意識の強い大型モンスター同士が、どうして協力関係になったのでしょうな。食糧が少ないなら、むしろ争いが起きそうなものですが」

 

「彼らの主な栄養源は被っていないということだろうか? これが一時的なものなのか、長期的なものなのかもわからない。ボク達でぜひ観察してみたいところだ」

 

「ジンオウガは群れを作るモンスターじゃ。彼らの高い社会性を鑑みるに、他の種に仲間意識を持ったとしても、おかしくはないのかもしれんのう」

 

 ジンオウガの生態に、学者たちは色めき立った。自分たちのことを「生態調査それいけ捕獲班」と称するだけのことはあり、この手の話には目がないようだ。

 

「他に情報はあるかね?」

 

 総司令が集まった者たちの顔を見回す。

 すると、サクが手を上げた。顔を伏せていると、目の下の隈が際立つ。

 

「……足跡を調査したところ、ナルガクルガには子どもがいるようでした。イビルジョーに襲い掛かったのも、子ども達を守る為に、やむを得ない行動だったのでしょう」

 

「ふむ、子連れの母親か……。珍しいケースだが、知恵が回る迅竜ならば、別種との協力行動にも納得がいく」

 

 総司令は腕を組んで呟いた。

 

(そういえば……)

 

 ヒアシは物思いに耽る。

 サクはあの時、何故あんな必死にナルガクルガの親子を守ろうとしていたのだろう。当時は切迫していたので、すぐに決断してしまったが、改めて考えてみると不思議だった。

 彼には子どもがいるわけでもないし、そもそも今は良い人がいる様子もない。

 

 その時、総司令の隣で考えていたフィールドマスターが口を開いた。

 

「もしくは、父親ってこともあり得るかもしれないよ。子育て中の母親は、大抵気が立っているから、周りに対して攻撃的になることも多いし。人間だってそうじゃないか、ねえ?」

 

「いやあ、ははは……」

 

 フィールドマスターが四期団のハンターをつつくと、笑いが起こる。彼には現大陸に姪っ子が居り、妹の尻に敷かれていたという話は有名だ。

 

 ヒアシはちらりとサクを見る。強張っていた表情は、フィールドマスターの軽口で少し和らいだようだ。

 フィールドマスターに眼差しを向けると、彼女は頷いて笑いかけてくれた。流石の機転だ。

 

 サクが、さりげなく人差し指の側面で鼻頭を弄る。

 その時ヒアシは、ふと彼が幼少期によく父の話をしていたことに思い当たった。自分も父のような立派な研究者になりたいのだと、誇らしげに話してくれたことを。

 そしてそれがある時を境に、ぱたりと止んだことも。

 正直、自分の父親と比べてしまって心苦しい時もあったから、ほっとしたことも事実だった。しかし、今考えてみれば、彼の心情を知る手掛かりとなり得る。

 

 父親。誇り。子を守ろうとしたこと。決死の状況。

 もしかすると、何かしら重なることがあったのかもしれない。サクの気分を害さない程度に、後で聞いてみることにした。

 

 

「──さて、話を逸らしてすまなかった。二人とも、続きを頼む」

 

 総司令が、サクにバトンを繋ぐ。

 サクは頷き、読み終えた資料を後ろに重ねた。

 

「かのイビルジョーは、傷の少なさや皮膚の状態から、若い個体と見做されました。しかし、老齢の個体のように、食欲の抑制が効かないようでした。おそらく、脳組織の一部がバクテリアによって破壊されていたと考えられます。類を見ない巨躯も、それらによって起きた、幼少期における成長物質の過剰な生成が原因でしょう」

 

 サクはそこまでで言葉を切り、ヒアシと視線を合わせた。

 ヒアシは頷き、事前の打ち合わせ通り、その後の経緯を話した。

 

 イビルジョーとの交戦により、自分たちが負傷してしまったこと。

 彼もしくは彼女の亡骸は、同一個体であるナルガクルガによって、瘴気の谷底へと落ちていったこと。

 ナルガクルガは、こちらには敵意を示さず、その後の親子とジンオウガの行方は掴めていないこと。

 

 あの日あの場所で、全身で感じ取った事柄を、ヒアシは順を追って話し終えた。

 

「私共からは、以上になります」

 

 二人が頭を下げると、総司令が質疑の有無を確認する。

 その時、横から控えめに手が上がった。

 

「ちょっと話の腰を折っちゃうけど、あんたたち、怪我の方は大丈夫なのかい? ずいぶん長く医療室にいたって聞いたけど」

 

 フィールドマスターが心配そうな眼差しを向けているのは、ヒアシの左腕だ。

 

 レザー装備の袖の下から見えているのは、体温のある皮膚ではなく、滑らかな木目だった。

 ヒアシは仮の手背をさすりながら、苦い笑みを目に浮かべて頷く。

 

 瘴気に喰われたイビルジョーの脳天を貫いた大槍は、腕ごと喰い千切られて谷底へと消えた。傷口を縫い、いくつかの抗菌薬を慎重に試して、ようやく退院できるまで癒えたのだった。

 

 しかし、辛かったのはここからだ。日常動作のリハビリの際に、出来なくなったことを自覚する瞬間は、ヒアシの自尊心を抉っていった。

 ヒアシは、武器を構える上での利き手は右だが、普段の利き手は左手だった。

 そのため、暫くは筆記にも苦労したし、スプーンやフォークも使えないことはなかったが、違和感が拭えなかったのは言うまでもない。

 何より、ズボンや下着の紐が片手ではうまく結べないため、何日かは着替えを人に手伝ってもらわないといけないことが悔しかった。

 

 幻肢痛が起きても摩る場所もなく、虚となった左腕のことを考えてしまう日々が続いた。

 あの大口が迫ってきた時の生臭さや、腕が千切れた時の音が蘇るたびに、寝汗で枕をびっしょりと濡らした。

 

 欠損のショックには一ヶ月近く苦しめられた。が、今は落ち着いている。生活の殆どを右だけでこなせるようにもなった。

 この会議も、二人が心身共に癒えるまで延ばしてもらったのだ。

 

 ヒアシは微笑み、頷いた。

 

「リハビリも終え、近々調査活動に復帰する予定です」

 

「おかげさまで、この通り私も復帰できております」

 

 サクも口角を上げ、ヒアシと一緒に礼を述べる。

 だがフィールドマスターと総司令の視線は、サクが腹部に当てた手に向けられていた。

 

「ふむ……そうなのかい。悪いね、続けてちょうだい」

 

 フィールドマスターは何か言いたげだったが、四期団のハンターの言葉を促した。

 ハンターは、端正な顔立ちを引き締める。

 

「は、はい。……ではここからは、わたくしがご説明いたします」

 

 四期団のハンターが、手元のバインダーに視線を移す。

 

「二人を救助した後、すぐに四期団と五期団合同で、瘴気の谷の調査が行われました。その結果ですが、イビルジョーの亡骸は、確認できませんでした」

 

「なんだと?」

 

 総司令が目を見開く。

 ヒアシも眉をひそめた。あれほどの巨体が、そうすぐに無くなるものだろうか。

 

 調査班はイビルジョーが落ちた場所から計算して、瘴気の谷の調査にあたったらしい。

 だが、そこにはギルオスたちが蔓延るだけだったのだという。

 

「しかし、イビルジョーのものらしき新しい骨片が発見されました。その年輪を調べたところ、異常な速度で成長したことが判明しました。よって、五期団の推測通り、かのイビルジョーは歪な成長を遂げた個体であったと考えられます」

 

「やっぱり……」

 

 サクが口の中で呟く。

 

「また、その周辺に、死を纏うヴァルハザクのものと類似した、灰色の瘴気が確認されました。何か巨大なものが地面を擦った跡と、その上にヴァルハザクのものらしき足跡も残っています。また、近くのモンスター達の気が立っていたことから、かの古龍が訪れたことは間違いないと思われます」

 

 件のイビルジョーが、死を纏うヴァルハザクの影響を色濃く受けていることは、明白だった。

 しかし、まさかあの古龍自身が、直接干渉していたとは。

 

「下層部は瘴気が濃くなっており、それ以上は立ち入れませんでした。一週間経って調査しに行ったところ、既にヴァルハザクは姿を消していました。……わたくしからの報告は、以上になります」

 

 四期団のハンターが一通り説明し終えると、総司令は白髪混じりの眉を寄せ、腕を組んだ。

 

「ふむ。お三方は、どうお考えですか」

 

 陽気な学者は布マスクの位置を直した。

 

「ティガレックスやオドガロンが食い荒らした痕跡もない。となるとやはり、そのヴァルハザクがイビルジョーの亡骸を、下層部に運んだ説が濃厚かのう」

 

「たっぷり溜め込んだ瘴気を喰らおうとしたのか、単なるコレクションか、はたまた別の目的があったのか……。全く、古龍の行動はいつだって謎ばかりだな」

 

「ヴァルハザクの棲家を調べれば、何かわかるかもしれません。引き続き、調査が必要なことに変わりはないでしょうな」

 

 学者たちの、先程までの朗らかな様子は、鳴りを潜めている。その代わりに、よく光る彼らの眼差しからは、重ねた長い年月と知性が感じられた。

 

「まさか、離れている間にそんなことがあったなんてね……。こっちの調査に片が付き次第、あたしも瘴気の谷の下層を調べてみるよ」

 

 書記が全て書き留めたことを確認すると、総司令は会議内容をまとめ始めた。集まった者たちから、その他に質問等がないことを認め、咳払いをする。

 

「それでは、調査班は引き続き調査を続行するように。何か新しい痕跡や、気になることが見つかった場合は、すぐにお三方に伝えること」

 

 総司令の言葉に、全員が頷いた。

 

 

 

 

 トウゲンチョウの桃色の羽が、朝方の光を浴びて、白っぽく染まっている。ヒアシが階段を上っていくと、彼らは飛び立っていった。

 

 アステラはモンスターが入ってこられないよう、自然の障害で補えないところは、頑丈な木の柵で囲まれている。

 

 その外れに、慰霊碑が二つあった。

 一つは、討伐したモンスターや、研究中に衰弱死してしまったモンスターを弔う為のもの。

 そしてもう一つは、調査中に命を落とした調査員の功績を讃え、魂を慰める為のものだった。墓石の前には、まだ新しい色とりどりの花が供えられている。

 

 ヒアシは持ち込んだ花をそっと添える。それからその前にしゃがみ込むと、手を合わせた。

 

「旦那さん、その姿勢つらくないのニャ?」

 

「大丈夫だよ。ありがとう、ミラン」

 

 ヒアシが真っ白な額を撫でると、彼女はゴロゴロと嬉しそうに鳴き、自らの花も添えた。

 ミランは、ヒアシがユクモ地方で働いていた時からの相棒だった。やや慎重な性格で、オトモアイルーとしてよくサポートしてくれている。

 

 今回の調査は偵察だけの予定だったことに加え、ミランはモンニャン隊の調査に行っていた為、ミランが最後に会ったのはヒアシがまだ五体満足の時だった。

 そのこともあって満身創痍になって帰ってきたヒアシの姿を見て以来、ミランはヒアシの傍を離れなくなった。

 この点に関しては、申し訳ないことをしてしまったと思っている。その分、一緒にいる時間を増やそうと決めたのだった。

 

 

 あの会議から、既に三回も月が沈んでいた。何かと忙しく、なかなかここに立ち寄れなかった。

 今回の調査が無事に終わったのは、旅立った仲間の力も大きい。彼女が、少しでも浮かばれれば良いのだが。

 

 ヒアシは少し考えたのち、モンスターの慰霊碑の前でも手を合わせると、踵を返した。

 

 

 アステラの最上部には、岩場に鎮座する船がある。シンボルともなっているそれは、「星の船」の名を冠する集会所だった。

 一期団が新大陸に足を踏み入れた際、荒波に打ち上げられた船を元に造られたというのだから、彼らの逞しさが窺える。

 

 集会所へと続く階段の途中に、開けた踊り場がある。そこをずっと歩いていくと、こぢんまりとした小屋が建てられていた。

 滝や波の音だけが微かに聞こえるその場所は、独りになれる場所の少ないアステラでの、調査員の安らぎの場となっていた。

 

 ヒアシは手摺りにもたれかかり、溜息を吐く。挨拶などを済ませているうちに、なんとなく気疲れしてしまったのだ。

 

(サクも、一緒に来れば良かったのに)

 

 ヒアシはぼんやりと相棒を思った。

 サクはあの後、速達の交易船に合わせてすぐに帰ってしまったのだ。

 

 解散してから、それぞれの宿に帰る途中、ヒアシはサクにどう声をかけたものか、悩んでいた。

 最初にサクを迎えに行った際には、ヒアシは目を見張った。久しぶりに会う相方は顔色が悪く、とても疲れている様子だったからだ。元々肉付きの良くなかった頬は、こけてしまっていた。

 だが会議前に長話をすることもできず、打ち合わせの内容以外の話は殆どできなかったのだ。

 

 結局口をついて出たのは「大丈夫か」という言葉だけだった。サクは曖昧に笑い「大丈夫」とだけ答えた。

 あの様子では、言葉通りである筈がない。余裕のなさに、振り回されてしまっているようだった。

 

 ヒアシは今日の船でセリエナに帰る。家に着いたら、一度サクと話をする必要があると思った。

 

 

 その時、ミランの耳がぴくりと動いた。同時に、ヒアシの耳も足音を拾う。

 

「あ、あの!」

 

 振り返ると、プラチナブロンドの髪を編み込んだ女性が、不安そうにこちらを見つめていた。

 歳は自分とそう変わらないように見える。だが、緑のインナーに学者の装いをしていることから、彼女が四期団の先輩だということがわかる。

 女性は暫くの間、何か言いたげに口を開閉させていた。

 だが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。

 

「突然声をかけてしまってごめんなさい。あなたのお名前は、ヒアシさんでしょうか」

 

「ええ。そうです」

 

「あなたがサク君の相棒だと聞いて……たしか、こういう書き名、で」

 

 そう言って手帳を取り出した彼女がさらさらと書いてみせたのは「朔」の文字。

 

「確かに私が彼のバディですが……何かご用ですか?」

 

 ヒアシが努めて柔らかい口調で尋ねると、彼女は顔を硬らせながらも話してくれた。

 

「わたしは、現大陸にいた時に、サク君と同じ研究班に所属していた者です。彼と話ができればと思ったのですけれど……」

 

 その学者は、モーネと名乗った。

 十年以上前に渡ってきてから、アステラで古代樹の森に自生する、地衣類の研究をしていたのだという。

 

「この前の、陸珊瑚の台地の調査依頼書で、彼とあなたの名前を見たんです。まさか彼がこちらに来ているとは思わなかったし、同姓同名の別人かもしれないとも考えました。でも……」

 

 モーネはそっと目を伏せ、左手で右手をぐっと握った。

 

「でも、もし本当にサク君なら……会っておきたかったの。お見舞いに行きたかったのですが、部外者だからと断られてしまって」

 

「そうだったんですね」

 

 サクは現大陸にいたころ、微生物の研究をしていたと言っていた。彼女が探しているのは、自分の相方で間違いないだろう。

 

 モーネの言葉にヒアシは相槌を打ったが、内心では頭を悩ませていた。

 サクはもうセリエナに戻ってしまったため、ここにはいない。がっかりさせてしまうだろうが、正直に言うしかない。

 言葉を選びながらそのことを伝えると、モーネは落胆した様子を見せた。

 

「もし良ければ、私が伝言を預かりますよ。どっちにしろ、今日の船でセリエナに帰るので」

 

「本当ですか!」

 

 モーネは目を輝かせる。

 その様子に、ヒアシは彼女の心の内が垣間見えたような気がした。

 

 モーネはしばらく口に手を当てて考えていたが、やがて首を横に振った。

 

「……いいえ。これは直接伝えるべきですね。いつでも構いませんので、アステラの植生研究所に来てほしいとだけ、伝えていただけますか」

 

 ヒアシは目を瞬かせたが、やがて頷いた。本人たちにしか分からない事情があるのだろう。

 

「旦那さん、色々聞かなくてよかったのニャ?」

 

 ミランが見上げてくる。ヒアシは頷いた。

 

「ああ。こちらから聞かなくても、いずれ話してくれる時が来るだろう」

 

 モーネの小さな背を見送りながら、ヒアシは自分が知らないサクの時間に想いを馳せた。

 



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居待月

 身体に何かが被さった感覚に、ヒアシの意識はゆっくりと浮上した。

 微かにシュンシュンと湯が沸いた音がする。

 

 肩の辺りを手で探ると、薄いふわふわとした感触が手掌を撫ぜる。覚えのある触り心地に、合点がいった。

 重い目蓋を開けると、ちょうど幼馴染みがやってしまった、という顔をしたのが見えた。

 

「……ごめん、起こしちゃったね」

 

「いや、むしろ毛布ありがとう。──おかえり、サク。遅くまでお疲れ」

 

 ヒアシは欠伸をしながら、労いの言葉を口にした。ソファで寝てしまったせいで、身体のあちこちが強張っている。

 サクはちょっと目を見開いて、やがて安心したように微笑んだ。

 

「ただいま。……ヒアシも、おかえり」

 

 ヒアシはその声の張りの無さに、思わず顔を上げる。

 あの日から、サクの顔色の悪さは変わらない。暖炉の火の揺らめきが、その影をより一層濃く見せていた。

 

 だが、急にそれを聞くのも無粋だと思い、ヒアシは他愛もない話題から切り出すことにした。

 

「もう飯は済ませたのか?」

 

 ヒアシの問いに、サクは首を横に振る。

 

「まだだけど、なんか今日はいいかな。食欲がなくて」

 

「良くないなぁ。夜中に腹が減るぞ」

 

「そしたら何か食べるよ」

 

 大袈裟に目を開いて見せたヒアシに、サクはくすくす笑いながら立ち上がった。

 薬缶を火から下ろし、棚から瓶を取り出す背中に、ヒアシは少しほっとする。

 

 掛けてもらった毛布を片手で畳んでいるうちに、サクは両手に湯気の立つティーカップを持ってやってきた。

 ヒアシは礼を言って一つ受け取る。

 サクが隣に座ると、ふわりと石鹸の匂いがした。

 

 薄い黄金色のカップの中身は、蜂蜜を湯で溶かしたものだった。冷え込むセリエナの夜には、嬉しい一杯だ。

 息を吹きかけながら口に含むと、芳しい香りと、優しい甘さが舌を満足させてくれる。

 

 雪が音を吸収するため、外の音は遠い。

 眠そうだったミランには、先に布団に行くように伝えた。今頃、ベッドで寝息を立てているだろう。

 そんな中で、ふたりが白湯を啜る音と、暖炉の火が木を舐める音だけが響いていた。

 

 ヒアシにとっては心地よい沈黙だったが、サクにとってはそうではなかったらしい。何度もカップを置こうとしては、また口を付けるのを繰り返していた。

 その時、ヒアシは寝落ちする寸前まで読んでいた資料が、いつの間にかテーブルの上にまとめて置いてあることに、ふと気がつく。

 

「これ……」

 

 ヒアシの言わんとすることを察し、サクが気まずそうに口を開く。サクの挙動不審さは、これらが原因だったようだ。

 

「……ごめん。盗み見するつもりは、なかったんだけど」

 

「いいや。むしろ、置きっぱなしにした、おれが悪いしな」

 

 先程までの沈黙に、砂鉄が入ったような重さが増す。

 反応を見るに、サクはこの書類が何を指すかを知ったのだろう。それが、ヒアシにとっていかに重大なものかということも。

 

 この数枚の竜皮紙は、ヒアシが購入した義手の請求書だった。

 現大陸では、ハンデを負ったハンターのその後の生活は見捨てられる。一度のクエストで高額な報酬を手にするという、甘い蜜がある代わりに、そのリスクも自己責任だった。

 

 だが、新大陸古龍調査団という組織は、人数に限りがある。一人が抜ければ、その者が担っていた仕事周辺に、大きな損害が残るのだ。

 そのため、ギルドへの貢献度に応じて、資金の補助が下りるのだった。

 ヒアシは護衛や警備の他、調査班の活動にも積極的に参加していた。研究サンプルを着実に入手するには、こうしたハンター達の協力が必要不可欠である。

 背に担いでいたロストバベルは、闘技場でのモンスターの生態調査に貢献した証だった。五期団のエース程とまではいかずとも、ヒアシも十二分に労働力を提供していたのだ。

 

 従って、ヒアシの義手は、殆どがその補助金によって賄われていた。だが、それでも総額のうちの二割は自己負担なのだ。軽くはない負担となることに、変わりはなかった。

 

「……ハンター、続けるつもりなんだね」

 

 サクの静かな声に、ヒアシは息をか細く吸い込み、やがて諦めたように吐き出した。

 コト、と音を立ててティーカップを置く。

 

「君に、隠し事はできないな」

 

 ハンターを続けるだけの機能や耐久性のある義手は、それだけで家が買えてしまうような額になる。

 そのことはサクも知っている筈だから、その値段で判断したのだろう。

 

 今ヒアシが装着している義手は、外見の復元や、体重のバランスを整えることを目的とした、仮の義手だ。

 アステラで測ったサイズや可動域、希望する機能などの記録を元に、本義手は後日セリエナの加工屋で受け取ることになっている。

 

「この仕事を辞めることも、国に帰ることも考えたよ。だが、別の生き方をする自分の姿は……どうしても浮かばなかったんだ」

 

「そう……」

 

 ハンターは一度にたくさん稼げる代わりに、武具のメンテナンスなどで、その多くが消費されてしまう。

 母への仕送りをしていたヒアシにとっては、今回の医療費は無視できない痛手であった。

 

 ハンター業以外で手取り早く稼ぎを手にしたいのであれば、暗宿に潜ることもできる。しかし新大陸古龍調査団では、人員損失のリスクを減らす為に、定期的に性感染症の検査が行われていた。

 救護班を中心に、微生物学に長けた学者が病理医として加わるのだが、ヒアシはサクが呼ばれる場面も目にしていた。

 何故なら、彼の本職は細菌学分野の研究だからだ。

 

 検査の際に対面することはないかもしれないが、採取した検体には名前が貼られるため、ヒアシのものだとすぐに分かってしまう。それを見た時のサクの気持ちを考えると、そちらに手を伸ばそうとは思えなかった。

 

 国に帰るという選択も、すぐに決断できることではない。

 新大陸にいるうちは名誉よりも実績で評価されるが、現大陸に戻ればそうはいかない為だ。新大陸帰りのハンターには、大なり小なり噂がついて回る。

 

 

 やがて、暫く黙り込んでいたサクが、懐から厚い封筒を取り出し、ヒアシの前に置いた。

 それから、ぽつりと呟く。

 

「その費用、僕が出すよ」

 

「……え?」

 

 あまりに突然のことで飲み込めず、ヒアシは茫然とした。

 

「今、なんて?」

 

 ヒアシが聞き返すと、サクは目を伏せたまま話し始めた。

 

「医療職としての経験は浅いけど、大怪我をしたハンターは何人も見た。ハンデを背負ってでも続けようとした人達のことも、その末路も」

 

 ギルドに所属するハンターは、クエストを受注する際に契約金を支払っている為、負傷時に救命措置は為される。だが、予め設定された金額以上に、高度な治療が必要になることも少なくはなかった。

 それでも、纏まった金額を用意できるだけの職は限られていた。ずっとハンターとして生きてきた者ならば、他の道ですぐにそんな額を稼げる術を知る筈もない。

 彼らの選択は、賄い切れない額の医療費を得る為、止む無く選んだ道だったのだ。

 

 やがて、借金返済に充てる金を稼ぐのに精一杯で、狩りの為の準備が十分にできなくなる。そして無念のままに命を落としていくハンターも、数多く居た。

 

 サクは、ヒアシの瞳をじっと見据える。その語尾は、微かに震えていた。

 

「僕は君に、そうなって欲しくない」

 

 サクには全てを伝えることはできなかったが、ヒアシは言わんとすることを察していた。何せ、自分の方がハンターとして生きてきた年月は、ずっと長いのだから。

 

「待ってくれ、サク。気持ちは有り難いが、流石にそれはできない。これは受け取れないよ」

 

 だが、それとこれとは話が別だった。添い遂げることを決めた伴侶であるならまだしも、サクとはそこまで深い関係ではない。

 確かに自分たちは幼馴染みで、新大陸でも二年以上バディとして過ごしてきた。

 けれど、金銭面でお互いの人生に干渉するような付き合いはしていない。それが二人の距離だと、認めていた筈だ。

 

「なんで? 今回の件では、出て当然の案でしょ」

 

 サクの顔に、さっと剣呑な雰囲気が滲む。

 普段であればあり得ない程に変化の激しい感情の波を、ヒアシは怪訝に思った。

 今思えば、イビルジョーの一件以来、サクがまるで別人のように思える瞬間は何度かあったのだ。

 その揺らぎが、最も大きくなっているように感じた。

 

「なんでって……君に義手のことは関係ないだろう」

 

 戸惑いを隠せないヒアシの言葉に、サクはぴくりと眉を動かした。

 

「……関係ない、だって?」

 

 その刹那、双つの金色に烈火が宿る。

 

「ヒアシ、それ本気で言ってる? どうしてこうなったのか、君が一番よく分かってるだろ。僕を庇って負った怪我だ、僕に責任がある」

 

「それでも、おれの選択だ。自分がしたいからそうした。こんなところまで君の世話になる訳にはいかない」

 

 きっぱりと告げると、サクはぐっと眉を寄せる。ヒアシが引こうとしている線引きに、どうしようもなく腹が立ったのだ。

 

「それじゃ結果的に、君だけが不利益を被ることになる。そんなの許されないよ」

 

「これくらい、覚悟していたことだ。ハンターなら、誰だってこうなる可能性はあるし、完全に働けなくなった訳じゃない」

 

 ヒアシは溜息を吐く。すると、サクはいよいよ身を乗り出してきた。

 

「だから、それが問題なんだって。ハンターとして必要な額に加えて、これからは治療費とかメンテナンス代だって嵩むんだよ。少しでも負担が少ない方が良いでしょ」

 

「……おれにだって貯蓄はある。君がそこまで負担する必要はない」

 

「それなら僕にだって貯蓄はあるよ。たぶん、君よりもある。……っ、僕の負担のことは考えなくていい」

 

 口に出してしまってから、サクは失言に気づいた様子を見せたが、言葉を切ることはなかった。

 

「そういう話じゃないだろう……」

 

 平行線だ。話が進展する様子が全く見えてこない。

 自分も頑なになってきているのかもしれない、心の隅でそう思ったけれど、それ以上に、サクの口から突いて出た言葉がヒアシの心の余裕を奪っていた。

 

 どうして、彼がおれの懐事情を知っていて、そこに口を出そうとする?

 ヒアシは右の拳を握った。それは、ヒアシの逆鱗のような、敏感なところに触れかけている。

 それ以上、踏み込んでくるのなら────。

 

「おばさんを安心させてあげたいんだって、聞かせてくれたじゃないか。それも難しくなるんだよ? だったら──」

 

「……っ」

 

 ヒアシの唇がわななく。

 それを見たサクは、一瞬怯んだ。

 

「……君に。君にそこまで言われる筋合いは、ない!!」

 

 滅多に聞かない幼馴染みの怒声に、サクはびくりと肩を震わせた。サクの目の光の反射が変わり、その周りが赤くなっていく。

 しかし、それでも眉をぐっと顰めて睨みつけてきた。

 

「……なら、どうして僕を庇った。死ぬか怪我するかの、どっちかだって、すぐに判った筈だろ」

 

「君が喰われると思ったから、咄嗟の判断だった。狩り場でごちゃごちゃ考えている暇はない」

 

 ヒアシの言葉に、サクは浅く息をしながら、尚も言い募る。

 

「もし……ッ、…………助からな、かったら……どうするつもりだったわけ? ……誰も彼も、置いていかれる方の気持ちも知らないで!」

 

 まるで、血を吐くような言葉だった。

 ヒアシはつかの間言い淀む。それから下唇を舐め、再び溜息を吐いた。

 

「……あの無茶なシフトは、その為か」

 

 ヒアシが低く問うと、一瞬サクは図星だという反応を見せた。

 

「っ、今その話はどうでもいいでしょ」

 

 ヒアシは憔悴してしまったサクを、何よりも案じていた。

 セリエナの住居に戻ってすぐに目にしたのは、休みなく予定の詰まったシフト表だった。

 調査班と救護班では管轄が違う為、サク本人が申告しない限りは、上の者は把握できないのだろう。

 まだ若い男とはいえ、生身の人間が働くには、あまりにも無茶なスケジュールだった。自分の為にそんな働き方をされるのは、心苦しい。

 

「良くない。今だって、酷い顔色だぞ。おれが君を庇ったのは、君を苦しめる為じゃない」

 

「…………じゃあ、どうすればいいっていうんだよ」

 

 先程とはまた違う、苦悩にも似た何かを滲ませた低い声で、サクは絞り出すように呟いた。

 

 二人は暫く、無言で睨み合っていた。

 怒りで潤んだ互いの目尻に、暖炉の火が揺らめく。

 

 声にならない息が震えて、鼻を啜る音。ヒアシははっとした。

 咄嗟にサクに声をかけようとして、言葉に詰まる。そのうちに、苛立たしげな溜息が沈黙を破った。

 

「……もう、いい。勝手にして……勝手にしろよ」

 

 そう言い放つと、サクは乱雑にカップを置き、コートを掴んで出て行った。

 封筒は、置き去りにされていた。

 

 

 ヒアシは、音を立てて閉じられた扉をしばらく睨んでいたが、やがて深く嘆息する。

 

 長い移動の後なのだし、もう寝てしまおうか。

 ヒアシは悩んだ末、封筒を共用の棚に仕舞う。

 収まりのつかない苛立ちを滲ませつつも、音を立てないように自室のドアを開けた。

 患部に体重がかからないように気をつけながら、毛布とマットレスの間に、身体を滑り込ませる。

 

 明日は見舞いに来てくれた人への挨拶やら何やら、やるべきことが沢山あった。

 早めに寝て、体力を温存せねばならない。

 そう思うのに、目が冴えてしまって、なかなか寝付けなかった。

 

「……まったく」

 

 ヒアシは深く溜息を吐いた。

 サクはこんな寒空の中どこに行ったのかと思ったが、自分が知ったことではない。

 

「旦那さん……」

 

 か細い声の方に目をやると、いつの間にか起きていたミランが、こちらを見上げていた。

 ヒアシは努めて棘のない声を作る。

 

「騒いで悪いな、ミラン。うるさかっただろう」

 

「ううん、ボクは良いのニャ。でも……」

 

 ヒアシは続けようとしたミランを抱き上げ、優しく背を撫でた。

 

「気にしないで大丈夫だよ。落ち着いたら、話し合うつもりだ」

 

 考えてみると、こんなに激しく口論になるのも久しぶりだった。

 数年ぶりの──下手をすると再会してから、初めての喧嘩かもしれない。

 普段は冷静な幼馴染みが、ああまで怒りを露わにするのは、ヒアシも片手で数えるほどしか見たことがなかった。

 

 深呼吸をすると、アロマランプの芳香が鼻腔を通り抜ける。ミランの柔らかい毛を撫で、好きな香りを嗅いでいるうちに、どうしようもない苛立ちが次第に収まってきた。

 時を同じくして、途端に苦い後悔が突き上げてくる。

 いくら触れられたくないことに踏み込まれたからといって、あまりに薄情な言い方をしてしまった。カッとなってしまった自分に嫌気が差す。

 

 自分が怒鳴った時の、サクの怯えた表情が脳裏に過ぎる。勢いも勿論あるが、おそらくその内容が原因だった筈だ。酷く傷ついたに違いない。

 こんなつもりでは無かった。ただ、心配していることや、サクがそこまで負担に思う必要はないことを、伝えたかっただけなのに。

 

(ああ、おれは何ということを……)

 

 これでは、酒に溺れて怒りに身を任せていたあの男と、何ら変わらない。

 激しい罪の意識が、ヒアシの鳩尾の辺りを炙った。口元を手で覆う。

 

 正直なところ、急に深いところに踏み込まれて驚いた、というのが大きかった。

 自分たちは幼馴染みで、昔のお互いのことはよく知っている。バディで、一緒に仕事をすることもある。

 それでも親子でも、血を分けた兄弟でもないし、婚約をした恋人でもない。

 今回の件で、サクが強い罪悪感を覚えていることははっきりと分かった。だが、どうして自分にそんなに肩入れするのだろう、というのがヒアシの本音だった。

 

 無意識に言い訳を考え始めている自分に気が付き、ヒアシは首を振った。自分を正当化しようとしても、埒が明かない。

 それに、たとえ今謝ったとしても、それで解決する問題ではない。どちらにせよ、冷静に考える時間が必要だった。

 

 

 もしも、あの封筒を受け取っていたら、どうなっていただろうか。

 サクは納得したかもしれない。だがそれは、自分のプライドを捨てることを意味していた。何せ、自分はまだ働けるし、義手の費用だって払えない訳ではないのだ。

 これまでよりも周りの助けを借りることにはなるが、生きていけるとは思う。

 

 母のことも、心配してくれているのは伝わった。それでも、自分の問題には自分でけじめをつけたかった。

 サクだって、それを悟ることができないほど、鈍い男ではない。

 

(……それでも、あいつは)

 

 どうしても耐えられなかったのだろう。自分のせいで、相方が苦労をする未来が。

 

 ヒアシは、ミランを潰さないように寝返りを打った。暗闇の中で、左腕のあった場所を見つめる。

 

 こんな怪我を負ってまで、ここでハンターとして働き続けたい理由は、最終的には一つにまとまる。

 どれほどの苦悩や葛藤があろうと、結局はこの仕事が好きなのだ。

 

 現大陸では、まとまった額を手にする為に、人々に脅威をもたらすモンスターの狩猟クエストばかりを受けていた。しかし、こちらでは命を奪う仕事でなくても、きちんと評価される。

 ヒアシがよく受注していた闘技場でのクエストだって、彼らの筋肉の動きやその際に分泌される体液、思考回路などを知る為のものなのだから。

 勿論止むを得ずに背のランスに手を伸ばすことはあったけれど、そのシステムが、自分で思う以上に救いになっていた。

 

 できるならば、これからもこの組織で働いていきたいと思う。その為の負担ならば、莫大な医療費でさえも軽いと思った。

 だが、それは自分だけの視点で考えた話だ。自らを全ての原因であると責めるサクには、この決断はどう映るだろうか。

 

 大きなお世話だと、咄嗟に突っぱねてしまったけれど、それは彼の思いを拒絶するに等しかったのではなかろうか。

 サクとの仲を険悪にしたかったわけではない。ただ純粋に、彼のせいではないと思っていたのだ。

 

(置いていかれる方の気持ちも知らないで、か……)

 

 あの時の、堪らない苦痛に満ちた目が、目蓋の裏に焼き付いていた。

 自分たちが離れていた空白の時間に、何があったのかヒアシは知らない。だが、それがどうしようもなくサクを苛んでいることは、あの一件以降、痛いほどに伝わってきた。

 ともすれば、護りたいものを護ることができたという喜びすらも、自分勝手なものだったのかもしれない。

 

 イビルジョーを谷底に突き落とした、あのナルガクルガの悲痛な声が脳裏を過ぎった。

 

(あの竜は……)

 

 一体、何を想って鳴いたのだろう。

 あんな怪我を負ってまで、何を守ろうとしたのだろうか。

 やはり子どもを守るため、それとも、伴侶や友を守るためか。

 

 あのナルガクルガに、自分とサクのどちらを重ねているのかさえ、わからなかった。

 

 ヒアシは暗闇の中で、静かに目を閉じた。

 



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寝待月

 寒空の中、サクは居住区から集会所へ続く橋を怒りを滲ませた足取りで渡る。このむしゃくしゃした気分を抑える為に、もう酒を飲んでしまおうという魂胆だ。

 だが扉を開けて飛び込んできた風景に、サクは頭痛がして、思わず目を押さえた。

 

(そうだった。すっかり忘れてた……)

 

 新大陸では、アステラでもセリエナでも一定の周期でそれぞれの宴が開催される。

 仕事を頑張れるように楽しみを作るため。月の間隔を思い出すため。ただ単に旨い飯と旨い酒を飲む口実を作るため。

 理由は様々だが、賑やかな宴を心待ちにしている者は少なくなかった。

 

 そして今セリエナの集会所「月華亭」には、星を象った装飾が、あちこちに散りばめられている。外は灯籠が絶え間なく上っており、幻想的だった。

 そんないかにも冬らしい装いは、普段であれば心躍るだろう。しかし喧嘩して飛び出してきた人間を受け入れるには、些か派手すぎた。

 人の少ない深夜の集会所に逃げるつもりで来たのに。しかも、よりによって「大感謝の宴」ときた。最悪の気分だった。

 サクは鼻をすすり、それはそれは大きな溜息を吐いた。幸せが逃げることなど、気にするものか。

 

 かと言って、夜も遅いというのに外にもたくさん人がいるのを見たし、話しかけられるのも面倒だ。

 すぐに自宅に戻るのも癪だった。

 アステラと違ってあまり広さのないセリエナでは使えるスペースが限られており、独りになれる場所も少ない。

 

 サクは仕方なく人目につきにくい奥のテラス席を見つけ、酒場の受付嬢に注文をした。

 今日は高い酒を味わうのではなく、安い酒を流し込みたい気分だった。

 

 セリエナの集会場は、建物自体が大きな吹き抜けになっている。

 設立当初は「寒い」「風が身に染みる」などという苦情が寄せられたものの、なんだかんだで改築などもされずに親しまれていた。

 併設する温泉の湯との温度差は少々身に堪えるものの、心地よさに長湯してしまってのぼせる、なんて事態はあまり聞かなくなった。閉じた酒場特有の酒気と煙草の匂いも全く染みつく気配がないので、これはこれで受け入れられているのだった。

 

 実際、かなり不本意ながら席についていたサクも、屋内なのに粉雪混じりの外の空気が当たってくるという特性の恩恵に預かっていると言えた。

 

 冷えた空気に当たり、ぼんやりと空を上っていく灯籠を眺めているうちに、針山のようだった心の棘が、少しずつ落ち着いてきていた。

 数の少ない青色の灯籠を見つけた時、幼馴染みの瞳に浮かんだ激情が脳裏に蘇った。

 サクは短く息を吸い、肺が空になりそうなほど長く吐き出した。

 

(勢いとはいえ、なんであんなこと言っちゃったんだろう)

 

 もしも立場が逆だったとしても、激昂するだろう。冷静になって考えてみると、あまりにも不躾な言葉だった。

 そもそも、いくらバディでも相手の詳しい懐事情など知る由もない。完全に口喧嘩の勢いで出まかせに言ってしまった。

 

「僕の馬鹿ほんと馬鹿……」

 

 サクはぶつぶつと独り言ち、髪を鷲掴んで項垂れる。ただでさえ四六時中キリキリと痛かった胃が溶けてしまいそうだった。

 拒絶された悲しみとショックに加えて、激しい後悔が、遠くの優しい光をぼやけさせた。

 

 その時、後ろから突然肩を叩かれ、サクは咳き込んだ。

 

 

 

 少し時は戻って、サクが居住区を飛び出した頃。

 カウンター席で女人がひとり、物憂げにグラスを傾ける。落ち着いたルージュは、彼女を年相応に魅せる。

 普段は気軽に絡みに行く周囲の男衆は、彼女の霧のかかった朝のような雰囲気に、踏み止まっていた。

 

 彼女の名は、ヴァイオレット。

 菫がかった群青のアビスマリンの耳飾りが揺れる。

 ヴィオラの愛称で親しまれる彼女こそが、調査団の期待を背負う、導きの青い星であった。

 

 集会所の喧騒の中で、ヴィオラが座る辺りだけに静かな空間があった。

 グラスの氷が溶け、からん、と音を立てて下に落ちる。

 ヴィオラは、艶やかな髪を指に絡ませては解いていた。そんな意味のない戯れを繰り返すうち、ふと奥の人影に気付く。

 

 少し癖のある短い黒髪には、見覚えがあった。彼も一人であるようだが、その後ろ姿はいつもの彼と違い、哀感が漂っている。

 

 ヴィオラはやれやれ、と溜息をひとつ吐くと、徐に立ち上がった。

 自分に寄せられる視線は気にも留めず、彼のいるテーブルへ、すたすたと歩く。それでも顔を上げる気配のない彼に、彼女は軽く景気付けをすることにした。

 

 

 

 咳き込んだのは決して驚いたからだけではない。数秒経っているというのに、まだ叩かれたところがジンジンと痺れる。

 こちらに構うなという雰囲気を少なからず作っていた筈だが、相手が気にしていないのか、自分が情けないだけなのか。

 

「まったく、あんた何そんな辛気臭い顔してるんだい」

 

 サクが振り返ると、豊かな髪を横に流した女性が、腰に手を当てて立っていた。

 

「ヴィオラさん……」

 

 サクは慌てて下瞼に溜まった涙を拭った。

 

「ご無沙汰、しております」

 

「やだね、ちょっと会わないうちに人見知りかい。堅苦しい敬語なんてやめとくれよ、わたしらは同期じゃないの!」

 

 ヴィオラは豪快に笑った。並の男衆よりも筋肉質な女人の腕が、ばしばしと音を立ててサクの肩を叩く。

 

「いだだだだ、痛いって」

 

「ははは! 悪い悪い」

 

 彼女からすれば、ほんの僅かな力で叩いたつもりだったのだろうが、日頃から大槌を振り回す筋力に、病み上がりの身体が悲鳴を上げる。

 彼女がサクの人を寄せない雰囲気になど、屈する筈がなかった。

 

「隣失礼するよ」

 

 ヴィオラは近くにあった椅子を引き、長い足を組んで腰掛けた。それから給仕係のアイルーを呼び止めると、ウィッチシードルを注文した。

 

「今は一人かい?」

 

「ご覧の通り」

 

 ふうん、とヴィオラは事も無げに流す。

 程なくして、アイルーがお通しと共に重たそうに運んできたジョッキを美味そうに煽る。今日はもう完全にオフの日らしい。

 独りになるために来たのに、とサクは内心ぼやく。

 

 ヴィオラとは、幾度か怪我の手当てをするうちに顔見知りになった。細かな傷は多いものの、そのいずれも綺麗な受け方をされていた。

 多くの女性ハンターは同性に治療を頼む。だがヴィオラはそんなことはどうでも良い、むしろ話し相手にちょうど良いのだと言って、しばしばサクがその傷を請け負っていた。

 最近は他の調査員の担当である日が多かったため、たまに遠目で見かけるくらいだった。

 

 ヴィオラが動くたびに、雪の結晶のような細かい装飾がキラキラと光っていた。

 冰龍・イヴェルカーナを制した者のみが纏うことのできる、雪崩の異名を持つドレス。世辞抜きで美しいが、大きく開いた胸元は、正直目のやり場に困る。

 

 サクの居心地悪そうな様子に気づいたのか、ヴィオラはテーブルに肘をつき、妖艶に紅を弓形にする。

 

「わたしの相棒がね、宴の飯が食べたいって言うから、どうせならと思って一張羅で来たのさ。どうだい、見劣りはしないだろう?」

 

「はあ……よく似合ってる」

 

「あら嬉しいこと」

 

「その相棒さんは今どこに?」

 

「あの子は帰ったよ、もう夜も遅いからね。飲み相手を探してたら、あんたが居たってわけさ」

 

 ヴィオラはジョッキをちょっと持ち上げて見せた。

 

 ヴィオラとそのバディである編纂者は、五期団の推薦組だ。つまり、彼女こそが調査団の誇るエースだった。

 ヴィオラは、誰よりも早く標的の元へと駆け、自らの胴よりも太い得物を軽々と振り回す。狙い澄ました精密な一撃は、地を啼かせる龍すらも沈めた。

 その実力を買われ、未知のモンスターの調査へとよく駆り出されているが、その分傷を受けて帰ってくることも多かった。

 現に今も、煌びやかな装飾に隠れた包帯が、時折顔を覗かせている。

 

「わたしはさっき、導きの地の調査から帰ってきたんだ。……フフ、聞いて驚きな。猛り爆ぜるブラキディオスが見つかったんだよ」

 

 猛り爆ぜるブラキディオスの名に、サクは視線を上げる。

 

「ああ……あの特殊な粘菌の?」

 

「そうさ、あのおっかない粘菌のヤツだよ」

 

「それはすごいね」

 

 勿論リアルタイムでのことだろうが、ヴィオラは敢えてサクが食いつく話題を選んだのだろう。

 しかし、普段なら興味の湧く専門分野の大事件にさえあまり感動を覚えることができず、サクは自分でも驚いていた。一体自分はどうしてしまったのだろう。

 

 サクの反応の薄さに、ヴィオラは肩透かしを食らったような顔をしていた。 

 少しの間サクの様子を眺めていたが、やがて辺りを見回し、再び肘をついた。

 

「ねえ、あんた」

 

 ウェーブのかかった黒髪が、はらりと一房落ちる。とろりとした琥珀の眼差しが、こちらを見上げた。

 

「良ければ、この後ウチで飲み直さないかい?」

 

 そんな前屈みになられると、どうしたって豊かな谷間に目が行ってしまう。彼女の雰囲気に呑まれそうになり、サクは咄嗟に視線を逸らした。

 思わず思春期の少年のような反応をしてしまった。だが大抵の人間は、ヴィオラにこんなふうに誘われたら生唾を飲み込むだろう。

 「家で」とはつまりそういうことだ。その意味するところに、サクは束の間頭を悩ませたが、やがて首を横に振る。恥をかかせるようで申し訳ないが、最近は欲すら湧かなかった。

 

「悪いけど、今そういう気分じゃないんだ。他をあたって」

 

 サクが断ると、ヴィオラは鼻にかかった笑い方をした。これは酔っている。

 

「いいじゃなぁい、今夜はオトモがモンニャン隊メンツのとこに泊まりに行っちゃってるんだ。付き合っておくれよ、一杯だけでいいから。ね、一杯だけ!」

 

「わっ」

 

 ヴィオラはサクの頭に、それまでハンマーに巻いていたアストラの布を雑に被せた。それからサクの脇の下に腕を突っ込むと、そのまま引きずって行く。

 はて。”良ければ”とは、辞書に一体どういう意味として載っていたのだったか。

 冰龍の息吹でキンと冷えた宮廷鎚の刃が、目前に迫る。ハンマーというより斧のような形状のそれは、サクの抵抗する気をいとも簡単に削いだ。

 

「ちょ、まだ飲み終わってないんだけど!」

 

「代わりに、うーんと良いのをご馳走してあげるよ。美女にお酌してもらえるなんて嬉しいだろう?」

 

 いくら性差があるとはいえ、日頃から鈍器を振り回す筋肉には敵わなかった。

 流石にいい歳をして駄々をこねるわけにもいかず、サクはおとなしく付いて行くことにした。

 

「へへ、今日の青い星はアイツをお持ち帰りだとよ」

 

「俺なんか、まだ声すら掛けられてへん」

 

「ウルファだから、誰か分からないわね」

 

 酔っ払い達から冷やかしの口笛を吹かれ、サクは不可思議に煌めく布を深く下げた。この時ばかりは、支給品のコートを羽織っていて良かったと思う。

 別にやましいことがある訳ではないのだが。いや、あるのか。彼女の真意は分からないが、仮にそういう展開になったとしても、今の自分にそれを期待する余裕はありそうになかった。

 

 仕方がない。あのまま集会場にいるのもどうかという雰囲気ではあったし、何より今は家に帰りたくない。この夜を過ごす居場所があるなら、もうそれでいい。

 何もかも投げやりな気持ちをため息に変えて、サクはヴェールの靡く彼女の背中を追った。

 

 青い星の住居は、さもありなんと言うべきか、集会場から専用の通路を通ればすぐに辿り着ける場所にあった。

 一瞬、セキュリティとかプライベートを考えてしまったけれど、それこそ、彼女が青い星だから成り立ち、維持される距離感なのだろう。

 玄関の前でつま先を地面に叩きつけると、泥混じりの濡れた雪が落ちる。セリエナの道はそこまで綺麗とは言えない。他人の家に入るときには、入念に泥落としをするのがマナーだ。

 

 ドアを開けるやいなやルームサービスを呼び、退出するよう伝えると、ヴィオラはサクを中に通した。

 

「ほら、入った入った」

 

「お、お邪魔します」

 

 部屋に入ると、外の空気とは一変して不可視の温かい層が全身を包む。

 それまで顔を隠していた布を捲ったサクは、目を丸くした。

 廊下が水槽のトンネルになっており、寒冷地の魚達が優雅に泳いでいる。青い水の中は、陸珊瑚の台地を小さくしたらこんなふうになるのではないか、といった様子だった。

 

 壁に水紋の揺れる廊下を進むと、開けた空間に出た。サクは、今度は違う意味で目を見開く。

 質素な家具に、控えめな灯り。自分たちの住居と、そう変わらない。先程の水槽からして、てっきり導きの青い星ともなれば、豪華な部屋が充てられているのだろうと思っていた。

 ヴィオラの華美なドレスが、どこか浮いて見える。

 

「コート貰うよ」

 

「え? あ、はい」

 

 彼女に言われるがままに外套を外して手渡す。ヴィオラは受け取った外套の裾が床につかないように軽く折りたたむと、衣紋掛けにそれを吊るしに行く。

 そこまでしてもらって、ようやく自分の気の利かなさに気が付いた。ウルファの装備は室内ではやや過剰すぎる防寒服だから、それを脱ぐことになるのは少し考えれば分かるはずなのに。言われてから動くなんて、母親に面倒を見られる子どものようだ。

 

 ただ、女性の部屋なので勝手ができないのも事実。「こっちだよ」という声に大人しく従うしかない。サクは少し赤面しながら彼女と隣の席に着いた。

 

 四人ほどが囲めそうな木製のテーブル。その上には簡素ながら湯気の立つスープやパンなどが置かれていた。ルームサービスの手配だろうか。家主がいつ帰ってきても軽食をいただけるように、常に準備しているのかもしれない。

 

「それ、自由に食べていいよ。お腹が空いているんなら、だけど」

 

「……いえ。今は、ちょっと。酒も入ってるので」

 

「そうかい。まあ気が向いたときに口に運んでくれればいいさ。冷めてても味は悪くないよ」

 

 流石にオバーチャンの料理には敵わないけどね、と呟きつつ、彼女はバゲットをひとつ千切って口に運ぶ。

 ……なんだか、彼女に言われるがままに振る舞った結果、どうしてか席に座って飯を食べる流れになった。何故、なのだろう。それこそ、集会場でやればいいのに。

 

 そんなサクの困惑を感じ取ってか、彼女は手についたパン屑をナプキンで拭き取る。

 そして数秒の沈黙を挟んでサクの方を向き、唐突に口を開いた。

 

「……で? 一体何をそんなに悩んでるんだい、あんた」

 

 ヴィオラは、今度は自室のテーブルに肘をつき、凛々しい声で話を促す。

 先ほど、散々面倒臭く絡んできた酔っ払いと同一人物だとは思えない。あの話し方は演技だったのだと、今になって気付く。

 

 どう説明したものかとサクが口籠っていると、ヴィオラは伸びをした。

 

「安心しな、わたししか聞いてない。ハンマーを振り回す怪力女の部屋を覗こうなんざ、誰も思わないだろうさ」

 

 ヴィオラの言葉に、サクは目を瞬かせた。

 確かに、ここならば誰にも話を聞かれない。ヴィオラは初めからこのつもりだったようだ。

 この人には敵わない、と苦笑する。

 

 サクが礼を言うと、ヴィオラは面倒臭そうにひらひらと手を振った。

 

「礼なんか後でいいよ。……仕事かい、それとも人間関係?」

 

「どっちもあるけど、特に人間関係。バディと、うまくいってなくて」

 

「あら珍しい。あんたら、いつも仲良さそうなのにねぇ」

 

 サクは目を伏せ、膝の上で指を組んだ。

 

「全部、僕が悪いんだ。このままじゃ……バディを解消されても、僕は何も言えない」

 

 そのあまりに気落ちした様子に、ヴィオラは慌てて椅子をサクの方へと移動し、斜め前辺りに座った。

 

「待て待て、本当に何があったんだい? あんた達、ついこの間でかい任務を終えたばかりだろ」

 

 サクとヒアシが達成した陸珊瑚の台地の調査およびイビルジョーの狩猟は、ヴィオラ達の調査した地啼龍アン・イシュワルダの件の陰に隠れる形になっていた。

 しかし、大規模な任務クエストの話は、推薦組レベルの人間の耳には入る。意欲的に仕事を行なっている人であれば、尚更だった。

 

「そこで、バディが大怪我をして」

 

「ああ、同期から聞いたよ。腕飛んだ、ってね。でも、相手はあのイビルジョーの特異個体で、下準備も何もない遭遇戦だったらしいじゃないか。言い方は悪いけど、二人がかりでそれなら……御の字だと、わたしは思うよ」

 

 ヴィオラの慰めに、サクは萎々と俯く。

 

「それがそもそも問題だった。僕が出しゃばったから、バディのヒアシも道連れにする形になったんです。編纂か救護の方に回っていれば、ヒアシはあんな怪我をしなかったかもしれないのに」

 

 サクは手首を白くなるほど握り締めた。

 後悔が溢れて止まらない。もしあの時ほかのハンター達に任せていたら、きっと違う結末があった筈だ。

 

「つまり、あんたはヒアシの怪我は自分のせいだって思ってるわけだね」

 

 サクはこく、と頷く。

 

「僕がイビルジョーのブレスを受けて動けなくなったから、ヒアシが庇ってくれて……結果的に、その一撃が元になってイビルジョーは力尽きた。…………でも、その代償が……」

 

「──ヒアシの左腕だった、ってわけか」

 

 ヴィオラは敢えてはっきりと告げる。

 サクは下唇を噛み締め、再び頷いた。

 

「失ったものは、取り戻せない。だからこそ、少しでも力になれたらと思って、義手代は僕が工面したいって伝えたんです。……でも、断られてしまった」

 

「それで喧嘩になった、と」

 

 サクは押し黙る。その沈黙こそが、何よりも明確な答えだった。

 

 イビルジョーの件からずっと、まともに眠れていない。瞼を閉じる度に、父とヒアシが喰われる光景を見せつけられる。夢の中でも、自分はどこまでも無力だ。

 そんな状態の中、休みなく働けばどうなるか。誤って注射針で自分の指を刺したり、調査ポイントの位を間違えたりと、普段はしないようなミスをして、周りにも迷惑をかけるばかりだった。

 様々な要因によるストレス、限度を超えた過労、不眠、そして消えないトラウマ。

 酒が入っていることもあるが、それらが重なってサクの精神を蝕み、次第に心の脆いところが露わになってきていた。

 

 サクは震える息を吐き出す。

 

「僕の弱さに、ヒアを巻き込んじゃったんだ。これじゃあ、お父さんが亡くなった時と同じだ。ぼくが何も成長してないから、また大事なひとを傷つけて……だから、自分ががんばって、償わなきゃって」

 

 ずっと胸の中で燻っていた本音が溢れ、サクは手で顔を覆った。幼馴染みの呼び名が昔のものに戻っていることすら、気づかなかった。どうしようもなく泣きたい気持ちなのに、涙が出てこない。

 そんなサクを見かねて、ヴィオラは肩を叩く。今度は、優しい手付きだった。

 

「傷ついてるのは、あんたも同じじゃないか。もうちょっと自分を労ったって良いんだよ」

 

 頷くことも首を横に振ることもできず、サクは顔を伏せる。少しの間、沈黙が降りた。

 やがてヴィオラは一つ息を吸い、腕を組んだ。

 

「アクシデントは、起こる時には起こる。どんなに気をつけて確率を下げたって、0.1%の方に当たることだってあるんだ」

 

「だとしても、ヒアシが無事でいたほうが、組織にとっても良かった筈です。それなのに、また僕なんかが助けられて、ヒアシは大怪我を負って……」

 

 サクは苦しげに呻く。

 

「僕が身代わりになれたら、どんなに──」

 

「やめなさい」

 

 ヴィオラはぴしゃりと言い放った。

 

「そうしたら、今度はヒアシが悲しむよ。第一あんたの相棒は、それを防ぐために身を挺してあんたを庇ったんじゃないのかい」

 

 サクはハッと目を見開き、顔を上げる。

 

「何かを守ろう、って思うのには」

 

 ヴィオラは、サクに静かな眼差しを向けた。

 その目には、あの時のナルガクルガと同じ色が浮かんでいた。守りたいものを、守れなかった者の色だ。

 

「必ず、理由がある。例えそれが大きかろうと、どんなに些細だろうと」

 

 その一言一言に、まるで血が通っているような温もりと重みがあった。

 サクはじっとヴィオラの言葉に耳を傾ける。

 

「要するにあんた達は、お互いに相手がどうして自分の為にそこまでしたのか、ですれ違ってる訳だろう? 相棒があんたを助けようとした時、何か言ってなかったかい」

 

 その刹那、脳裏にあの時の光景が蘇る。

 

──いき、てて……く、て……よかっ、た……。

 

 顔色は真っ青で、呼吸すら辛そうだというのに、どこまでも優しい光を湛えていたあの群青を。

 

「あ……」

 

 ぽう、と光が灯ったかのようだった。

 

「あの時、生きててくれてよかった、って。僕に、そう言った……」

 

 しかしサクは悲しげに眉を下げ、力なく首を横に振る。

 

「でも、僕はヒアシに無事でいてほしかった。本当に、僕はそんなふうに思ってもらえるような人間じゃないから……」 

 

「あんたはそう思ってるんだろうけどね。その気持ちも分からないでもない。……でも、案外周りはあんたのことを大事に思ってるんだよ、サク」

 

 ヴィオラはサクの手に自分のそれをそっと重ねる。手袋を外しているとはいえ、ドレスの影響で冷たい筈なのに、どこか温かい手だった。

 

「ヒアシだって、あんたが大切だから護った筈さ。幼馴染みなんだろう? こっちに来てからずっと一緒に居るんなら、それが伝わる瞬間もあったんじゃないのかい」

 

 視界の端にあった暖炉の火が、どんどんぼやけていく。涙腺が馬鹿になっている、と思った。

 いくら年上とはいえ、女人に情けないところを見せたくない。サクは唇を内側に巻き込んで俯いた。

 

 そんなサクを見て、ヴィオラはやや大袈裟に「よっこらせ」と立ち上がる。

 それから、自分は何も見ていないと言わんばかりに、辺りを飛んでいたサンゴドリ達に餌をやり始めた。

 

「たんと食べな。食わなきゃ力が出ないよ」

 

 彼らは調査のために捕獲してきた鳥達だが、今ではすっかり屋内での生活に慣れている。チチチ、と囀る様が愛らしい。

 

 ヴィオラの気遣いに感謝しながら、サクは暫くの間ハンカチに顔を埋めていた。

 



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更待月

 サクが落ち着いてきた頃を見計らい、ヴィオラは鍋で温めたポポミルクを出してくれた。

 それから自分も椅子に座り、薄黄色の甘い乳に息を吹きかける。

 

「そうさね。話してもらってばかりじゃあ何だし、むかし話でもしようか」

 

「むかし話?」

 

「ああ。今は遠い、西の国の話だよ。その国の、貴族に生まれた娘の話さ」

 

 ヴィオラは、パチパチ爆ぜる暖炉の炎を見つめて、話し始めた。

 

「現大陸に、シュレイド地方があるだろう。そう、黒龍伝説のそれさ。シュレイドには西と東にそれぞれ国があってね。

 東の国は山岳に囲まれた盆地にあるから、冬はとにかく寒いんだ。海沿いのセリエナとは少し違う寒さだけどね。

 でもキャラバンも発達してたから、人の出入りも多い場所だった。

 ガウシカやポポなんかが主な食糧だったから、彼らの鳴き声や追い立てる声が響く……。わたしの故郷は、そんな国なのさ」

 

 ヴィオラは、語り続けた。

 

「その大都市に、由緒ある貴族の家があった。それが娘の生家だったわけさ。

 娘は家族に囲まれて、何不自由なく暮らしていたよ。だからこそ、思い通りにならない暮らしというものに興味があった。

 娘は次女だったし、ある程度は拘束が少なかったから、ある日両親にわがままを言って、身一つで飛び出したのさ。

 ……あんた、ミナガルデには行ったことがあるかい?」

 

 問われてサクは首を横に振る。

 

「いいえ。故郷のユクモ村を出てから、ずっとドンドルマを拠点として過ごしていたので」

 

「そうかい。あそこは色々な人種が集まる、賑やかなハンターの街さ。

 そこには、とある腕の良いハンターが居たけれど、その人はもう高齢でね。だから、ハンターは何人か弟子をとったんだ。

 中でも秀でていたのが、ミーシャ。ライトボウガンを扱う、寡黙な青年だった。

 街にいた時、ミーシャとひょんなきっかけで出会って、娘は後の師匠のところに転がり込んだのさ」

 

 ヴィオラの目に、懐かしむような色が浮かんでいた。

 

「師匠は厳しい人だった。狩り場になんて最初は絶対に行かせてくれなかったし、朝から晩まで稽古に家事に、何でもやらされたよ。

 箱入り娘が皿洗いや床拭きのやり方なんて知るわけもないから、何度も怒られた。疲れて意識を飛ばそうものなら、拳骨が飛んでくる」

 

 ヴィオラは柔らかく笑った。

 

「必死に喰らいつく日々だったよ。そんな中で兄弟子のミーシャが気にかけてくれて、そのうち娘はミーシャと一緒に鍛錬をするようになった。師匠から散々しごかれた後に、夜遅くまで訓練場に残ってね。

 娘はミーシャとは違う武器を選んだけど、ミーシャは師匠の身体の動きを覚えるのが上手かった。だから、見たままの動きを娘に教えたのさ。

 娘は娘で、モンスターの動きを模して的を動かしてやって練習に付き合ったよ。そうして、二人は師匠の教えを叩き込んだ」

 

 なんとなく二人の行く先が読めてきて、サクは何故こんな話を自分にするのだろう、と不思議に思った。

 そんなサクをよそに、ヴィオラは楽しげに話し続ける。

 

「免許皆伝後のミーシャと娘は、ペアを組んで狩りをしていた。

 バルバレにドンドルマ、ギルデカラン……色々なところを旅して回ったものさ。途中の村に寄ったりもして、その時々で依頼を受けて回った。

 そうしているうちに、ハンターランクはどんどん上がっていった。どっちが手負いのモノブロスを狩猟するかで揉めたこともあったね」

 

 事もなげに言ってのけたヴィオラに、サクは顔を引きつらせた。

 手負いのモンスターは恐ろしい。それも飛竜クラスになると、G級──最高ランクの依頼として入ってくることが殆どだ。

 それなのに、あろうことか凶暴なモノブロスの依頼を受けようとする辺り、彼女が青い星になるべくしてなったのだと思い知らされる。

 

 ヴィオラが髪をかき上げる仕草に、サクの意識はそちらへと戻った。

 その時、ヴィオラの左薬指がきらりと光った。

 

(そういえば──)

 

 サクはふとあることに気付く。

 ヴィオラの左の薬指には、ノヴァクリスタルが埋め込まれた、ごくシンプルな指輪が嵌まっている。

 デザインから見て、おそらくそれは装飾というより、相手が居ることを示すための物。

 しかしカルテには独身であると記載されていたため、恋人を現大陸に残してきているのだろうと思っていた。

 

 ヴィオラの目に、かすかに哀しみの色が浮かんでいた。

 

「ずっと一緒に過ごしていれば、情だって湧く。……お互いに相手が唯一になっていることなんて、とうに分かり切っていたよ。

 でも、どちらも素直じゃなかったから、二人の関係が一線を越えることはなかった」

 

 ヴィオラの目の中の哀しみの色が深くなった。

 

「素直になれるくらい歳を重ねた時には、既にミーシャの身体は限界だったのさ。

 タンジアの港にいた頃だった。腹を痛そうに押さえることが増えて、目や肌がどんどん黄色くなって……。

 どんなに強い狩人でも、病に勝てるとは限らない。場所が悪くてね……手術すらも、できなかった。

 こういう時、ハンターにできることは何も無いんだ。何一つ、ね」

 

 ヴィオラの言葉にサクは絶句した。その症状と手術ができないということが、何を意味するか判ってしまったからだ。

 おそらく病に蝕まれていたのは、ミーシャの膵臓か肝臓だ。膵臓に重い病を患えば、再び健康に長生きすることはとても難しいと言われていた。

 

 武力、知力、行動力、免疫力……すべてに対して秀でた人間など、存在しない。

 病に対してハンターがあまりに無力であることも、サクは身に染みて知っていた。

 この新大陸でも病気になったり持病が悪化したりして、泣く泣く調査から降りるハンターを診てきた。

 調査団のハンターは比較的若い者が多いため、死に至ることは少ない。

 それでも、治る見込みがなく家族の元に帰るための船に乗る者や、劇症化して息を引き取る者も、零ではなかった。

 

 サクは相槌を打ちながら、ひたすらヴィオラの気持ちに耳を傾けつづけた。

 

「相方を亡くして暫くの間、娘は現実を受け止めることができなかったよ。朝起きるたびに、おはようってつい言ってしまうんだ。返事なんて来ないのにね。

 それでも、時間は容赦なく過ぎていくし、ミーシャとの別れの儀式も形式上は全部済んでしまって、自分の生活をしていかないといけないことに彼女は気付いた。

 ハンターが狩りをしなくなったら、後には何も残らない。だから娘はハンター業を続けた。生きていくためというよりもむしろ、他に何も考えないようにするために。

 自分への罰だけを求めて、何か、本当に怖いものを見ないようにするために」

 

 それは、とサクは小さく唇だけを動かした。それは今の自分、そしてかつての自分と同じだ。

 父親を目の前で失い、心に大穴が空いたようになったあの時の姿。そして今、ヒアシの怪我の重さを思い知って、逃げるように大量の仕事を求めた自分の姿が浮かんでくる。

 ぐさぐさと剣が心に突き刺さるようだ。苦しいけれど、不快とは少し違う。

 その剣の痛みはただ悲しかった。哀しかった。

 

 ヴィオラは、とうに温くなったポポの乳をひとくち飲み、話を続けた。

 

「ちょうどその頃、タンジアのハンターズギルドに、イビルジョーの狩猟クエストが入ってきた。生憎そこらで名を上げていたハンターは、溶岩島の調査に行っていたからね」

 

 イビルジョーの名に、サクはびくりと肩を震わせる。

 ヴィオラはそれに気付いているのかいないのか、淡々と話し続けた。

 

「その頃の娘は、ハンターとしてある程度の地位を築いていたから、推薦されない筈がなかった。

 イビルジョーは強かったけど、討伐するのはそう難しく無かったよ。ただ、その後が問題だった」

 

「その後?」

 

「そのイビルジョーにはね、想ってくれる相手がいたんだよ。しかもイビルジョーよりもずっと非力な存在だった。彼らの間に何があったのか、娘は知らない。

 それでも……よほど離れがたい存在だったんだろうね。相手が自分よりも力量が上であることくらい、わかり切っていた筈さ。それでも奴は、食ってかかってきた。かけがえのないものを奪った相手を、殺すために。

 その目に浮かんだ色が、ミーシャを病に殺された時の自分と、あまりにも似ていたから……娘は、号哭したよ。そこでようやく、ミーシャが死んだことが身に迫ってきた。

 やっと心の整理がついて独りで狩場に赴くようになった頃には、娘は大人の女になっていた」

 

 長い話がおわった時、薪はあらかた燃え尽きて、熾に変わっていた。やや薄暗くなった家の中に、静けさがもどってきた。サクが、つぶやいた。

 

「その娘が、あなたなんですね、ヴィオラさん」

 

「……そう、その娘がわたしさ」

 

 ヴィオラは、酷く寂しげに微笑む。

 

 この人にも、自分と同じ剣が深々と刺さっているのだろう。

 そう思うと、サクにはこれまでどこか人間離れした存在だと思っていたヴィオラが、あえかな女性に見えた。

 

「わたしが傍に居たかったひとは、ずっと前に、遥か彼方の星になってしまったけど……あんたたちは、星ほど遠くは無いじゃないか」

 

 サクはヴィオラを見つめた。

 

「大切にしたいと思うなら、どんな形だっていい。傍に居たいと思ったって、相棒として幸せを願ったっていいんだ。ただし、伝えたい言葉は、口に出さなきゃ伝わらないよ」

 

 ヴィオラは笑みを収め、とん、とサクの肩に手を置いて離した。

 サクは頷き、自分の胸に手を当てる。

 

「僕は──」

 

 自分は一体、どうしたいのだろう。

 五年前、タンジアの港で新大陸への船に乗ったのは、編纂者として渡らないかと誘いを受けたから。

 しかしそれは表向きの理由で、真実の理由は父親の死という柵から逃げるためだった。

 

 現大陸で、人間でありながら目覚ましい研究成果を出し、叩き上げの地位を手にした父の名は、それなりに広く知れ渡っていた。

 そして、あの悪夢のような事故を経て。彼が亡くなってから、周囲のあちこちから憐みの眼差しが向けられる日々。

 まるでお前のせいだと指をさされているようで、やがて研究室にすら行けなくなり、サクは崩れ落ちるように心を病んだ。

 同時に、あれほど望んだ研究の道からサクの足は遠のいていった。

 

(他の仕事を降りて、怪我人の治療に専念することも、今の僕にはできるんだよな……)

 

 息子を心配した母は、自分とて辛かっただろうに、これまでの経験を生かせる新たな道を提案してくれたのだった。そしてその経験は、現在も大いに生きている。

 

(ハンターとして武器を振るうのは……正直、もう無理だ)

 

 医療の勉強に少し慣れてくると、サクは学生時代の少ない稼ぎを注ぎ込んでギルドに足を踏み入れた。

 程なくして仇のフルフル亜種が、既に討伐されていたことを知り、自分の行動が無意味だったことを思い知った。

 自分がハンターと学術を両立できないことなど、とうに分かっていた。潮時だと区切りをつけるのを、いつまでも先延ばしにしていただけだった。

 

 新大陸に渡った後も、瘴気の谷には興味を惹かれたが、三期団の研究基地も極力避けていた。

 父を知りながら、父の死を知らない学者に声を掛けられるのが、辛かったからだ。

 

 そして今も、現実を変えようとしているように見えて、その実、責任の重さから逃れるのに必死になっている。

 ヒアシの為と言いながら、肝心な彼の気持ちに耳を傾けられていなかった。

 

(ヒアシは、どうすることを望んでいる……?)

 

 あの時ヒアシは、これからもこの地(新大陸)でハンターとして生きる道以外は考えられないと言っていた。

 そして、自身の怪我のことをサクが気負う必要はないとも。

 つまり、イビルジョーの一件が起こる前からできるだけ変わらない日々を過ごしたい、ということだろう。

 

 これまでの自分たちの関係。

 それは同郷の幼馴染みで、友人で、バディで、同居人で、理解者だった。

 もしこの先これらが崩れるとすれば、残るのは幼馴染みであるという肩書だけだ。

 

(──じゃあ僕は、これからヒアシとどう付き合っていきたいんだろう)

 

 サクは手の中のティーカップを覗き込んだ。円の中には、膜のできた真っ白な飲みかけの乳しか見えない。

 

 自分から金銭の話を持ち出した以上、ただの友人では居られなくなってしまった。

 それは覚悟しているし、ヒアシが最初に拒んだのは、サクがこの線を越えようとしたからだろう。

 

 勿論、罪の意識は大いにある。暫くの間はずっと苦しみ続けることになる筈だ。

 だがそれ以前に、ヒアシの為に自分にかかる負担など、どうでも良いと思ってしまえるくらいには、ヒアシはサクの心の深いところにいた。

 幼い頃のお互いを知っている上、こちらに来てからもう五年も一緒に過ごしてきたのだから、大事な片割れだと思っていた。

 サクがヒアシの言葉に傷付いたのは、彼にとってはそうではなかったのか、と思ったからだ。

 

 サクはポポの乳を飲み干し、カップをテーブルに置いた。そして、視線を上げる。

 

 もう一度話し合ってみよう。

 お互いの距離感を、ふたりの望む関係を探り合っていこう。

 それは、自分がこれから新大陸でどう生きていきたいか、ということにも繋がる。

 もしかしたら肩書きが減るかもしれないし、新しく増えるかもしれない。

 それでも──。

 

「今までだって、あいつが居てくれたから乗り越えられた場面はたくさんあった。だから、今度は僕が支えになりたい。その思いは変わりません」

 

「なら、その正直な気持ちを本人にお言いよ」

 

 ヴィオラは仕方ない子だね、とでも言いたげに目尻を下げ、頷いてくれた。

 

「ありがとう、ヴィオラさん。やっと自分がすべきことに気付けた気がします」

 

 サクは憑物が落ちたようなさっぱりとした笑みを浮かべる。

 第三者の力を借りて、ようやくずっと頭を悩ませていた事柄に整理がついた。あとは、これらをお互いの心にどう収納していくかだ。

 

「なに、お互い様だよ。……まあ、もしうまくいかなくても、慰めるくらいはしてやるさ。ハグでもしようか?」

 

 冗談めかしたヴィオラの言葉に、サクは肩を竦めて苦笑した。

 

「そうならないように頑張ります」

 

 ヴィオラは満足げに口角を上げ、伸びをした。

 そして一拍置いてサクに視線を向け、「で、」と切り出した。

 

「あんたはちょっと寝て食べたほうがいいね。うちのリーダーに話つけとくから、二、三日休んでおきな!」

 

「えっ」

 

 唐突な休暇宣言に、サクは目を瞬かせる。

 休む間を惜しんで皆が働いている時に、この人は一体何を言い出すのか。

 

「そんなこと言われても、今週は休みなんて──」

 

「あの心配性な兄ちゃんが、今のあんたの働き方を知って許すと思うかい?」

 

「ええ……調査班リーダーにバラす気満々ですか」

 

「勿論。職場はホワイトでなきゃね」

 

 サクが顔を顰めると、ヴィオラはけらけらと笑った。

 

「あんた一人が無理しなくても、この組織なら大丈夫だよ。存分に休んで頭を冷やしてから、目の前のことに向き合いなさいな」

 

 とん、と胸を指で突かれたような心地を覚え、サクは目を瞬かせた。

 人手が足りないからと気を張っていたが、今思えばなんだかんだで現場は回っていた。休んでも、良いのだろうか。

 

 考え込むサクをよそに、ヴィオラはソファに移動して寛ぎ始めた。

 「そうそう」と声を掛けられ、サクは顔を上げる。

 

「別にこの後ウチに泊まっても構わないけど、今のあんたじゃ、わたしが居ると眠れないだろう? 気持ちも落ち着いただろうし、さっさと帰って寝な」

 

 サクは頷き、礼を言った。豪快でありながら、どこまでも行き届いたヴィオラの気遣いが有り難い。

 

 

 

 鍵を開け、おそるおそる自宅のドアを開ける。真っ暗な空間は、しんと静まり返っていた。どうやら、ヒアシとミランはもう寝ているらしい。

 サクは足音を立てないよう、慎重に洗面所へ向かった。

 鏡に映った、ランプの灯りに照らされた自分の顔は、どことなくすっきりしているように見えた。

 

 自室に戻ると、籠に外行きの服を放り込み、寝巻きに着替える。温かい飲み物を出してもらったとはいえ、すっかり湯冷めしてしまっていた。

 サクは震えながらベッドに潜り込んだ。

 

 半刻ほどの間、何度も体勢を変えてサクは溜息を吐く。

 疲れて眠たい筈なのに、目を閉じても一向に寝付けない。先程まであんなに意気揚々としていたのに、独りになると途端に不安が襲ってきた。

 

 ヒアシに自分の気持ちを伝えたとして、もし再び拒絶されたら。

 顔も見たくないと言われて、本当にバディを解消されてしまったら。

 急に休みが欲しいなどと言って、代わりの誰かに過度の負担がかかってしまったら。叱責を受けるだろうし、そもそも休みなどもらえないかもしれない。

 

 いくつもの悩みの種が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。昔から何か心配事があると眠れなくなる質だった。

 サクは徐に身体を起こし、暗闇の中でも慣れた手付きで棚の引き出しを開ける。そこからネムリ草由来の錠剤を取り出すと、台所に向かった。

 

 

 

 翌日、サクの思惑は良い意味で裏切られた。

 

 出勤した時には既に話は通っていたようで、サクは朝一番に調査班リーダーに呼び出された。

 信頼を置いている青い星からの頼みに、仲間思いの彼が首を縦に振らない筈がなかった。

 ついでにサクが、なぜ早く申し出なかったんだと怒られたのは、言うまでもない。

 最低限の仕事を終えると、そのまま帰されてしまった。なんと風通しの良い職場だろうか。

 

 数時間後、サクは仮眠をとってから夜勤に入った。

 その際、駄目元で救護班リーダーにも相談したところ、拍子抜けするほどあっさりと話が通ってしまった。

 

「休みが欲しいって? いつ? ……良いわよ、そんなフラフラな状態でいられた方が困るわ。しっかり体調を戻してから帰ってきなさい!」

 

 などと言って。手厳しくも優しい上司たちに、頭が上がらない。

 

 そうして、翌朝の申し送りが終わった後から、久方ぶりの何もない休日が訪れた。

 こんなトントン拍子で進んでしまって良いものだろうか。正当に休みをもらっている筈なのに、焦燥感が拭えず落ち着かなかった。

 

 ヒアシはサクが帰ってくる前に仕事に出かけてしまった。

 だがテーブルには、まだ湯気の立つ食事が置かれていた。喧嘩をしていても、サクの分の朝食までちゃんと用意してくれるあたりが彼らしい。

 

 蜂蜜とバターのトーストをかじりながら、少し温くなった珈琲を飲もうとカップを持ち上げた際、何かがはらりと落ちた。

 

「ん?」

 

 それは小さな紙切れだった。

 その中央には少し崩れた、しかし見慣れた丸い字が綴られていた。

 

──すまないが、義手代は先に自分で払う。この件については、また話し合おう。

 

「ヒアシ……」

 

 文面を読んでも、怒りは湧いてこなかった。

 わざわざこうして置き手紙を残してくれたこと──ヒアシはこちらに対して最大限の思いやりを示してくれたのだから、それはそうかもしれない。

 

 サクは書き慣れていないその文字をそっと指でなぞった。左利きだったヒアシが、きっと右手で一生懸命書いたのだろう。

 ここまで書けるようになるのにも、かなりの苦労を要した筈だ。器用な彼のことだから案外すぐに獲得してしまったかもしれないけれど、その過程で葛藤もあったに違いない。

 ヒアシの自立に対する思いが、伝わってくるような気がした。

 

 ヒアシは二十八歳だ。

 ハンターとしてではなく、人としてはまだ若いと言える年齢だし、復帰の意志も強かったことから回復や適応が早いのも頷ける。

 利き手を失っても、そのうち大体の日常生活行動も自分だけでこなせるようになるかもしれない。

 

 そうであるならば、自分ができる支援は何か?

 どうしても生じる不便を軽減することや、身体を労わること、心理的なケアをすることなどが求められるのではないだろうか。

 自分があれこれ口を出すのではなく、助けが必要な時にだけ応じるという形ならば、ヒアシの自己効力感と自尊心を尊重できるだろう。

 この文面を見る限り、全面的に拒絶されてしまうことは無いと確信が持てた。

 

 だがヒアシは性格上、きっと自分から積極的に周りを頼ろうとはしない。だからこそ言葉のない求めを感じ取り、頼る相手がいるのだということを伝えるべきだろう。

 まずは、そこからだ。

 

 サクは掌をじっと見つめ、拳を握った。

 

 金銭でなくても、目に見える何かでなくても良い。自分にできうる限り、たった一人の幼馴染みを傍で支えていこう。

 それこそがヒアシへの償いであり、自分を助けてくれたことへの感謝を示す手段だ。少し気恥ずかしいが、近いうちに言葉でも伝えたい。

 

 その日サクは、久方振りに夢を見ないで眠ることができた。

 カーテンの閉められた窓の外には、雪がこんこんと降っている。

 サクの安らかな寝息を、振り積もったそれらが外の音を吸収して、静かに見守っていた。

 



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有明月

 船体が波を切る音が、断続的にくぐもって聞こえる。そろそろ流氷の浮かぶ区域を抜ける頃だろう。

 小窓から差す帯は、朝の澄んだ光から昼の眩しいくらいのものに変わっていた。

 

 仕事をする者や、昼間から酒盛りをする者などで船内は騒々しい。そんな中、一人の細身の男が物思いに耽っていた。

 男──サクは何をする訳でもなく、手に持った紙切れをぼんやりと眺めている。

 

 それは、相方に長年連れ添っているオトモアイルーからの伝言をメモしたものだ。

 主とサクがうまく意思疎通が図れていない状況の中、ミランはわざわざ時間を合わせて話しに来てくれたのだった。

 彼女本来の性格もあるだろうが、こういうところはずっと一緒に居ると似てくるものなのだなと思う。

 

──あのね、アステラでサクさんに会いたいって人がいたのニャ。

 

 セリエナならともかく、アステラで自分と関わりの深い人など居ただろうか。心当たりを探すサクに、ミランはこんなことを呟いた。

 

──四期団の研究者さんで、金色の髪の綺麗なおんなのひとだったニャ。確か名前は──……。

 

 研究者。金色の髪。女性。

 その特徴を聞き、サクは束の間何も言うことができなかった。

 だって、その条件で思い当たる人物はひとりしかいない。忘れる筈がなかった。

 

(まさか彼女が、こっち(新大陸)に来ていたなんて)

 

 既にアポイントメントは取ってある。ミランの言う人物が本当に彼女であるなら、すぐにわかるだろう。

 

「モナさん……」

 

 サクは口の中で呟く。

 それはかつての呼び名。互いに心を通わせ、共に歩む未来を夢見たこともあった。

 自分が守りたかったひと。守り続けることができなかったひと。

 あの事故で自分がモーネを庇ったことで、父は命を落とした。決してモーネのせいではない。それでも、暫くはまともに彼女の顔を見ることもできなかった。

 

 もしもあの事故のとき、自分たちが一緒にいなければ、結末はまた違うものになっていたかもしれない。新大陸に来ることもなく、ごく普通の家庭を築いていたかもしれない。

 だが、過ぎてしまった過去は二度と変わることはないのだ。

 

 モーネは今、どうしているだろう。

 彼女は一体どんな思いで、何の目的で自分に会いたいなどという伝言をしたのだろうか。こんな甲斐性のない男に。

 会ってみるまで、モーネの真意はわからない。再会してから彼女にかける言葉を探すけれど、いくつも浮かんでは泡のように消えていく。

 

(──もし、やり直したいと言われたとして……)

 

 この新大陸で、もしくは現大陸に帰って。また恋人として傍に居たいと思ってくれたとして。

 果たして自分は、その思いを受け入れることができるだろうか。悲しみと混乱のあまり、一度はモーネのことが大切かどうかさえ判断できなくなった。そんな自分が、彼女を一人の女性として幸せにできるのか。

 

(……ああ、また迷ってばかりだ)

 

 復縁しても絶対にうまくいくという保証はないし、結婚にまで至るかもわからない。

 けれど、もし子どもを望むなら相手の年齢や国への帰還も考慮しなければならない。男性と女性では、流れる年月の重さも意味も異なるのだから。

 自身も研究者である母から、ずっと言い聞かされていた言葉だった。

 そうは言っても、自分が夫となり子の父親になる姿は、うまく想像できない。

 

 そもそも新大陸古龍調査団の一員としてここにいるのだから、研究をしたいがために来ている筈だ。そんな彼女が、探究心よりも生活を取るだろうか。

 それに、自分の気持ちもわからないまま先へと思考を巡らせるのは、モーネに対して失礼だと思った。

 

(何はともあれ、会ってみるしかない)

 

 自分はこれからどう生きていきたいのか。

 仕事を取るか、生活を取るか。

 勿論、ヒアシを傍で支えたい気持ちや、新大陸で調査を続けたいという気持ちも大きい。そしてこれらは、決して矛盾するものばかりではない。

 

 船は止まることなく進んでいく。

 アステラに着くまでサクは仲間の輪に加わることもせず、ただただ波に揺られていた。

 

 

***

 

 

 朝の日差しがちかちかと雪に反射する。瞬きをすると、目蓋の裏に景色そのままの残像が見えた。

 

 針葉樹のそびえ立つ雪原の中、ヒアシは腰をかがめて草陰に隠れていた。ここは渡りの凍て地の中でもエリア一と呼ばれる区画だ。

 

 目線の先にいるのは、凶暴な肉食モンスター……ではなく、巨大なポポ。

 彼らは労働力としてだけでなく、肉は食糧、骨は資材、そして脂は燃料としても重宝されていた。成熟した個体であれば、一頭分だけでも多くの調査員の腹が膨れる。

 

 今回のクエストは、物資班リーダーからの依頼だった。

 古龍イヴェルカーナの到来によって苦しくなっていた食糧事情が回復してきたため、また何かあった時に備えて貯蓄する分の肉が欲しい、というわけだ。

 

 普段はあまり受けない任務であったが、今回は体調や義手の具合の確認も兼ねている。おとなしい草食モンスターの討伐とはいえ、ただ狩れば終わる、という簡単な仕事ではない。

 

「それじゃあ行ってくるのニャ」

「頼んだぞ、ミラン」

 

 小声でオトモアイルーの背中を見送る。

 セリエナへ続く道の中で、平らな場所を通っていけるルートは一つ。

 そのルートには肉食の翼竜コルトスに加え、獣纏族ボワボワと呼ばれる部族の縄張りがある。

 調査団は一部の部族と友好関係を結んでいるが、フィールドにいるボワボワ達は異なる種族だった。ボワボワ達に敵意がないことを示し、道を譲ってもらえるよう交渉することが、今回のクエストの鍵だ。

 ミラン達オトモアイルーは、覚えた異種族の言葉についての勉強会を積極的に行っているらしい。ここぞとばかりに磨いてきた腕を試そうというわけだ。

 

「お、早速こっちに来たぜ」

 

 ポポの群れの動きに、隣で同僚のエドが囁く。

 ヒアシとミランのほか、このクエストに参加しているのはエドとキャスリーンの二人だ。どちらも五期団のハンターで、力には自信があるという。セリエナでは度々話したり食事をしたりする仲だが、仕事で一緒になるのは初めてだ。

 ミランがボワボワへの協力を仰ぎ、一名が辺りの警戒を、そして残りの二名が荷車を押すという手筈だった。流石に同胞の遺体をセリエナのポポに引かせる訳にはいかない。

 

 ヒアシとキャスリーンは頷き、じっと様子を窺った。

 成体三頭、幼体一頭。ポポの中では平均的な群れの規模だ。

 そのうち二頭は、母親らしき個体よりも一回り大きい。差し詰め、あれらが牡だろう。ヒアシは注意深くその個体と群れの動きを観察する。

 のどかに雪の下の草を食むポポの姿に、「わかってると思うけど」と笑顔で釘を刺した物資班リーダーの顔が浮かんだ。

 

──できるだけ、大人の牡をお願いね。ポポが少なくなっちゃうと大変だもの。

 

 セリエナの土地は限られているため、農場のような施設は作れない。厩舎も簡易なものしかなく、繁殖は期待できなかった。

 そこで野生の個体を狩るのだが、逃げ足の遅い幼体は他の肉食モンスターの餌食になりやすい。

 そのため自分たち人間はポポの繁殖を妨げないよう、生殖上の余剰となる牡を狩る。

 アステラと定期的に資源のやり取りをしているとはいえ、食糧が足りなくなっては調査団の士気が落ちるからだ。

 

「今回はエリア一で仕留める手筈で良いんだよな?」

 

 ヒアシが囁くと、キャスリーンは頷いた。

 

「ええ。南の方から狙えば、うまく群れも捌けると思うわ」

 

 あまり同じ場所で狩りをすると、ポポ達に拠点近くが危険な場所だと認識されてしまう。この辺りに寄り付かなくなれば、わざわざ遠出しなければならなくなる。

 ポポには分厚い皮下脂肪があるとはいえ、討伐自体はさほど難しくはない。しかし、食べられる状態でその身体を持ち帰るのに骨が折れるのだった。

 凍て地の奥であればあるほど、様々なモンスターの縄張りが複雑に絡まり合っているため、運搬の難度が増す。

 

 過酷な環境で生きるモンスター達は、常に獲物の気配に目を光らせている。幼体、手負いの個体、群れから逸れた個体などは格好の的だった。

 捕食者たちは血の匂いに敏感だ。遠い場所からでも的確に嗅ぎ分け、自らの糧にしようとする。

 そんな彼らにとって、仕留められた獲物を乗せた荷車など、食卓に並べられた御馳走のように見えるだろう。

 そのため仕留めたポポを荷車に乗せた後は、一刻も早くセリエナに帰らなければならなかった。

 

「頼んだぜ、ヒアシ」

 

 エドはヒアシの背を軽く叩いた。

 

「任せてくれ」

 

 ヒアシは左肩に装着した、以前使っていたものより少し銃身の長いスリンガーを構えた。

 それは義手というよりは、手の機能の代わりに、狩りに特化した道具をそのまま取り付けたような見た目をしていた。工房に注文する際、ヒアシがデザインよりも実用性を重視してほしいと頼んだからだ。

 通常のスリンガーよりも長く、目と一直線にしやすいため、威力と精度の高い射撃ができる。

 背中のハーネスが筋肉の動きを義手に伝えて、右手を使わずとも肘を曲げるなどの複雑な動きを可能にしていた。

 今はこれが体重のバランスを保つ重りであり、ワイヤー移動やスリンガー弾射出の道具であり、そして武器でもある。

 

 サクとはあれ以来話せておらず、結局すべて自費で支払ってしまった。

 だが置き手紙を残してきたし、彼ならきっと解ってくれる筈だ。根拠はないが、どこか確信めいたものがあった。

 

 ヒアシは仔ポポの足元を狙って、石ころを打ち出した。次の瞬間ざく、と小さな音がして雪に穴が開く。

 仔ポポや周囲の成体は首を振り乱して驚き、悲鳴を上げながら一目散に逃げ出した。

 そんな中で一頭、その場に留まって猛然と牙を振り回す個体がいた。

 

 ポポは幼体に危険が迫ると、体躯の大きな牡が残って群れを守ろうとする習性がある。

 キャスリーン考案の作戦は、それを利用したものだった。スリンガーの弾を使って驚かせ、幼体や牝達が逃げたところで牡を狩ろうというわけだ。

 これならば巻き込み事故も少ない。

 

 やがて草叢の中に明らかに生物が潜んでいるとわかる場所を見つけたポポは、そこへと突進した。

 ポポの前脚が下草を踏む。直後、ポポは驚いたように仰け反った。だがそれ以上身体が持ち上がることはない。その前脚には、ピンと縄が張っているからだ。

 仕掛けられていたのは、小型モンスター用の簡易な罠だった。ヒアシとキャスリーンがわざと居場所がバレるようにしていたのは、ここまでポポを誘き出すためだ。

 

 興奮状態に陥ったポポは、罠から逃れようと暴れ出した。牙を振り乱し、縄を千切ろうと後退する。

 ポポが隙を見せた次の瞬間、雪原に薬莢が割れる音が響いた。一拍遅れて、巨体が新雪に倒れ込む。

 その胸からは血がどくどくと流れ出していた。エドの撃った斬裂弾が、心臓上部の頸動脈を貫いたのだ。

 

「よーし! 持ち帰るぞ!」

 

「腸抜きが先よ。美味しく食べられなくなるじゃない」

 

 はしゃぐエドをキャスリーンが嗜める。その傍らで、ヒアシは絶命したポポへ少しの間黙祷した。

 

「旦那さん! こっちは準備完了ニャ!」

 

 ミランが雪に埋まりながら駆け寄ってくる。どうやらボワボワ達への交渉は成立したようだ。

 

「おかえり、ミラン。助かるよ」

 

 ヒアシは真っ白になってしまったミランの雪を手で払った。白い毛並みの彼女が飛雷竜のポンチョを着ていると、まるで雪だるまのように見える。

 ヒアシに撫でられると、ミランは嬉しそうに喉を鳴らした。

 

「流石だな、エド。一発で決めるなんて」

 

「お前がうまいことポポを退かしてくれたからさ、ヒアシ。サンキューな!」

 

 二人が労い合っている間に、キャスリーンは周囲の危険を確認しながら長い手袋を嵌めた。

 キャスリーンは腰から剥ぎ取りナイフを抜くと、ポポの下腹部に刺し込み、分厚い毛皮や皮下脂肪を裂く。

 キャスリーンの鮮やかな手付きに、ヒアシは思わず見入ってしまった。長くハンター業に就いていても、普段はここまでしっかり剥ぎ取らないため、新鮮だった。

 

 ポポの尿道を取り出して外に向けた後、慎重に皮を切っていく。すると腹膜に包まれた内臓の塊が顔を出した。

 彼女はポポの胸を開いた後、暫くナイフを片手に腹の内側へ腕を突っ込んでいた。やがて肺やら心臓やらを引っ張り出し、巨大な臓器塊が雪の上に滑り出た。

 

「うん、臓物にも特に異常は無さそうね」

 

 キャスリーンは内臓のうちから、食べられるものだけを選り分ける。

 周囲には独特の臭いが漂っていた。腹を空かせた屍肉を喰らう者達が、それに気付かない筈がない。

 ポポの処理はエドとキャスリーンに任せ、ヒアシは空に向けてスリンガーを構えていた。

 寄ってくるコルトスの、すれすれのところに弾を撃ち込んでいく。あくまでも威嚇射撃であるため、絶命させる必要はないからだ。

 ミランもブーメランで加勢してくれていた。

 

「ウルグが来ないうちに、終わらせねえと、なっ!」

 

 エドとキャスリーンはドサ、と重い音を立てて荷車の上にポポを乗せた。牙を落として内臓も抜いたとはいえ、ポポの体は人間の数倍もある。

 筋骨隆々とした体格を持ち、こうした狩りに慣れたハンターだからこそこなせる仕事だった。

 

 恐れているのは、ウルグと呼ばれる小型の牙竜種だ。ギルオスのように社会性を持つ彼らは、群れで協力して獲物を狩る。

 また縄張り意識も強く、この辺りはよく偵察役が様子を窺いに来ていた。

 もしウルグに囲まれたら、格好の餌食になってしまう。せっかくの獲物と苦労を無駄にするわけにはいかない。

 

 残った内臓を雪の下に埋めると、エドとキャスリーンは荷車を浮かせ、雪道を歩き始めた。寒冷地用の車輪とはいえ、動かしにくいことに変わりはない。

 

 やや視界の悪い雪路を抜け、エリア二と呼ばれる区画に差し掛かると、一気に雪が深くなる。

 歩きにくい雪原で、嵌った足を引き抜いてはまた嵌る。それを繰り返すうち、セリエナへの門が見えてきた。

 ふいに子どものような声が聞こえてそちらを見ると、茶色の毛玉と形容するに相応しいシルエットが複数。色とりどりの角のボワボワたちが、小さな丘の歓声を上げていた。

 ボワボワはポポの姿を見て飛び跳ねているようだ。彼らは愛らしい見た目に反して狩猟民族であり、狩りの腕に長けた者を尊敬するという。

 

 キャスリーンがお裾分けに、とポポ肉の一部を切り分けると、ボワボワは大いに喜んだ。

 彼らはそれをぶつぶつ交換と捉えたらしく、蓑から何かを取り出そうとする。

 

 その時、雪原の向こうから妙な音が聞こえた気がして、ヒアシは足を止めた。

 気のせいだろうか。否、気のせいなどではない。近づいてくるにつれ、これは足音だとはっきり判る。

 地を揺らす特徴的なこの音は──。

 ヒアシは目を見開き、二人に危険を知らせた。

 

「まずい、ティガレックスだ!」

 

 現大陸でもよく見られる轟竜ティガレックスは、最近この渡りの凍て地でも発見された。

 

 ティガレックスやナルガクルガ、ベリオロスなどは飛竜でありながら原始的な骨格を持ち、四足歩行で生活している。

 一般の人々はともかく、寒冷地で生きるハンターが何よりも足音を警戒するのは、それが危険な飛竜の存在を示すものだからだ。

 

 ティガレックスの本来の生息地は乾燥地帯であり、寒さを苦手としている。だが食に貪欲な彼らは、好物のポポを求めてわざわざ寒冷地に足を運ぶ。一部の学者は、ポポにしか無い必須の栄養を求めているのだろうと考えた。

 ティガレックスである限り、大陸は違えどその生態は変わらないのだろう。

 

「なっ……ここは奴の行動範囲なんてとっくに過ぎてる筈じゃないの!」

 

 しかし、キャスリーンが驚いたのはそこではなかった。

 隣接するエリア一区画はポポの姿をよく見かけるが、ティガレックスの狩場ではない。モンスターは基本的に縄張りの外へは出向かない筈だ。

 もし外れた行動を取るとすれば、それは何か異変が起きていることを意味していた。

 

「くそ、まだ地殻変動の影響が残っていやがったか……」

 

 地啼龍アン・イシュワルダによる自然への影響は、すぐに元に戻るわけではない。植生の変化や地盤の崩落などで、住処を追われた生き物は多かった。

 おそらくティガレックスの狩場付近に生息していたポポは、こちらへと逃げてきてしまっていたのだろう。

 

「隠れるぞ!」

 

 エドとキャスリーンは荷車を岩陰に隠し、自らも伏せた。

 その直後、針葉樹林に飛び出してきたのは、黄土と青緑のゴツゴツとした鱗を持つ竜。ヒアシの見立て通りだった。

 

 ティガレックスは血痕を見るや、頻りに鼻をひくつかせる。やがて雪に埋まったポポの内臓を嗅ぎ当てた。

 ティガレックスは発達した前脚で掘り起こしたそれを、うまそうに喰らう。

 食事に気を取られている今こそ、撤退のチャンスと言えた。

 

 エドとキャスリーンはティガレックスの動きに警戒し、なるべく音を立てないように荷車を押す。

 だがその時、近くにいた小さなボワボワが興奮して声を上げた。その体格から、まだ狩りの経験が浅いのかもしれない。

 即座に仲間が彼もしくは彼女の口を塞いだが、遅かった。

 間もなく、ティガレックスが長い首を持ち上げてこちらを見た。その視線は、荷車のポポに注がれている。

 

「あーあ、バレちゃったわね……」

 

 キャスリーンが苦々しげに呟く。

 三人とボワボワは固唾を飲んでティガレックスを見つめていた。

 

 いつまで経ってもポポの側を離れない自分たちを、ティガレックスは敵と認識したようだ。どうやら内臓だけでは腹が満たされなかったらしい。

 轟竜が、息を吸い込んだ。

 

 針葉樹の葉に積もっていた雪が、ばらばらと落ちる。

 耳を塞いでいてもなお、圧に押し負けそうになる音の波。いくつもの修羅場を潜り抜けてきた三人の心臓さえも、拍動を増した。

 だがその咆哮に掻き立てられたのは、それだけではない。

 

「はは、ターゲットにされちまったみたいだな」

 

 エドは口角を上げ、背負っていた重弩を下ろす。折り畳まれたそれを素早く展開し、銃口をティガレックスへと向けた。

 

「元々あいつが狙ってたポポだったんじゃないか? でかいし」

「呑気に言ってる場合じゃないでしょ!」

 

 盾の具合を確かめるヒアシの呟きに、すかさずキャスリーンが突っ込みを入れた。

 ティガレックスが一直線にこちらへと駆けて来る。

 

 自分たちは狩人だ。己の力と武器をもってモンスターと対峙する者だ。

 エドはやれやれと首を振った。

 

「ったく、せっかくオレ達が綿密に計算してここまで来たってのに」

 

 キャスリーンは背中の大剣を抜刀した。勿論エドの言葉に対する指摘も忘れない。

 

「"オレ達"じゃないでしょ。あんたアタシの話聞いてなかったじゃない、エド」

「はいはい、感謝してるよキャシー」

「ふん、どうだか」

 

 そんな軽口を叩きながらも、ティガレックスから目線が外されることは決してない。

 敵と見做されたならば、こちらとて迎え撃つのみ。

 

 全速力でティガレックスが突っ込んでくる。強靭な前脚でぐっと踏み込んだかと思うと、竜は一息に飛び掛かってきた。

 新雪が煙のように宙に舞い散る。

 身体の大きなティガレックスはそれでもよく分かるが、小さな──人の中では大きい方だが──人間達とアイルーは、雪に紛れ込んだ。

 

 一面の白の中に、きらりと光るものがあった。それは雪煙を突き抜け、ティガレックスの側頭へと振り下ろされる。

 一拍置いて、キャスリーンの黒く長い髪がぱらぱらと靡いた。

 

 ティガレックスは即座に飛び退き、先程鼻先があった場所に刃が刺さった。

 獲物の姿こそ捉えられていないが、これで十分だとばかりにティガレックスはその場所へと噛み付く。だが、噛み応えはない。

 

 徐々に鮮明になっていく視界に、ティガレックスが今の獲物を見つけようと目線を彷徨わせた。

 その目の端に捉えたのは、迫ってくる赤だ。頭を殴られる、と瞬時に首を反らす。しかしこちらに訪れたのは殴られる痛みではなく、首の皮を切り裂かれる痛みだった。

 

 ヒアシは深追いすることはせず、盾を構えながら後ろに飛んだ。その盾の両側と下からは、仕込み刃が覗く。

 惨爪竜の名を冠したランス・惨槍オドガロン。瘴気の谷に生きる牙竜の赤い装甲は、その硬さに反して驚くほど軽い。

 この左腕で槍を持つことは、もう諦めている。その代わりに得たのが、特注の刃が仕込まれたこの盾だった。元々設計されていた形も斬撃に適したものだったが、これはさらに片手で扱いやすくなっている。

 

 ティガレックスは苛立ちを隠しもせずに唸り声を上げた。

 ティガレックスは種族の特性上、力に任せた狩りが得意だ。ちょこまかと翻弄してくる相手とは、あまり戦いたくはない。

 ならば。ティガレックスは舌舐めずりをして、腰を落とした。二人をまとめて轢いてしまおう、と。

 

「キャシー、そっちに行くぞ!」

 

 後方から援護射撃をしていたエドの掛け声に、キャスリーンは回避の準備をした。

 

「わかってるわ、よっ!」

 

 キャスリーンを通り越した直後、ティガレックスはその場で両脚を動かして方向転換し、ヒアシの方へと突っ込んでくる。

 

 追尾を逃れるため、ヒアシは突進の要領で大きく避けた。ヒアシを通り過ぎたティガレックスは、おそらく次の標的をとらえるだろう。そう、思ったが。

 鉤爪の生えた前脚は、その場で足踏みをする。ヒアシがハッと盾を構えると、鞭のようにしなる尻尾が叩き付けられた。

 

「ぐ……ッ」

 

 あまりにも強烈な衝撃に、盾を持つ腕が痺れる。これをまともに食らえば、骨を何本か持っていかれることは必至だ。

 ティガレックスは直線的な突進を得意としており、ジグザグに避けることができれば苦労しない。

 しかし慣性を無理やり止めてまで回転してきたこの攻撃は、こちらの手を読まれているとしか思えなかった。

 

 その時、騒がしい雪原には異質な角笛の調べが響く。

 ミランは高台に上り、羽飾りのついた巨大なホルンに息を吹き込んでいた。自分の身体ほどもあるのに、様になっている。

 ミランの十八番の曲のリズムに乗ると、長い距離であっても走れるような気がしてきた。

 

 フィールドで楽器演奏をしていれば当然目立つ。ティガレックスはミランに向かって走り出した。

 ミランは楽器を背負うと、素早く雪の中に潜った。彼女の白い毛並みはこの地ではよく紛れる。

 

 ティガレックスはミランを見失い、荒い鼻息を吐き出した。見回した先にきらりと光るものが見え、考える前に前脚で雪玉を蹴飛ばした。

 空気中の水分が固まった雪は、下手をすると岩よりも重いため、軽く投げたくらいではすぐに落下してしまう。

 だが凶悪な前脚から弾き出されたそれは、真っ直ぐに潜んでいた狩人の方へと向かった。

 

 武器を背負う暇すらなく、エドはボウガンを抱えるようにして転がる。

 

「くっそ、相変わらずガンナー殺しな奴だぜ……ッ!」

 

 眼鏡を掛け直し、にやりと笑う。その背には冷や汗が流れていた。

 動体視力に優れたティガレックスに目を付けられた際は、少しも油断できない。複数で相手をするときは、より顕著だった。

 

「ティガレックスだけあって、流石にしつこいわね……ッ、ウルグが!」

 

 気づけば黒と白の毛に覆われた牙竜たちが、ポポに群がっていた。

 狡猾な雪狼たちは、深雪に潜んで機会を窺っていたのだろう。この辺りには居ないと思っていたが、最初からこうするつもりだったのかもしれない。

 エドが彼らの足元に数発撃ち込むが、何頭かがこちらに牙を向けるばかりで散る気配はない。

 このままでは、全て喰い尽くされてしまう。

 別の個体を捕獲しようにも、ポポの群れはセリエナから離れた場所に逃げてしまっていた。そうなれば、またこうして狙われるリスクは跳ね上がる。

 

 ポポを取り返して、撤退しなければ。

 だが自分は片腕だし、荷車を押してうまく逃げることは難しい。足手まといになる可能性すらあった。

 だとすれば。ヒアシはスリンガーに弾を装着しながら、エドとキャスリーンに声を掛けた。

 

「おれが囮になる。君たちは荷車を頼む!」

「何ですって、一人で大丈夫なの!?」

 

 キャスリーンの驚愕に、ヒアシは口角を上げて見せた。

 

「何も狩ろうというわけじゃない。隙を見て逃げるさ」

「ボクが援護するニャ!」

 

 ティガレックスが再び突っ込んでくる。ヒアシは雪原の中央にスリンガーを向け、岩に金具を引っ掛けた。

 ワイヤーを巻き戻してヒアシが通り過ぎた直後、ティガレックスとすれ違う。一瞬でも遅れていれば、間に合わなかった。

 獲物に当たらなかったと気づいたティガレックスが、再び雪を撒き散らす。

 ヒアシはその顔にスリンガーを向けるや、鋭く叫んだ。

 

「目を閉じろ!」

 

 直後、眩い閃光が辺り一帯を包んだ。

 常でも非常に強いその光は雪に反射し、影となる場所がほぼ無くなっていた。

 

 ティガレックスは仰け反り、その痛みとも形容できる眩しさを激しく嫌がった。おそらくウルグの群れにも効いているだろう。

 言葉の伝わらないボワボワは大丈夫だったかと心配になったが、咄嗟にミランが教えて免れたようだ。

 

「死ぬんじゃねえぞ! ヒアシ、ミラン!」

「任せたわよ!」

 

 ウルグから荷車を取り返した二人は、セリエナへ続く門へと走る。ミランが先回りして、盾ともなる重い木を引き上げた。

 その間にヒアシは二人と一匹を後ろに庇い、腰を落とした。

 

 未だ視覚の戻らないティガレックスは、その場を動かないまま盛んに噛み付いた。近くに寄る者を逃さまいとする動きは、いかにも貪欲なかの種らしい。

 ヒアシはティガレックスの頬にスリンガーの弾を数発打ち込み、敢えて居場所を教えた。

 硬い鱗には石ころごときでは、与えられる痛みなど些細なものだろう。だが細い瞳孔はギョロリとこちらを向いた。気の短いティガレックスは、すぐに挑発に乗ってくれる。

 

 ティガレックスは素早く軸を合わせ、こちらへと突進してきた。

 ヒアシは高台の影から直角の方向へと駆け出す。その先にあるのは、雪原と雪原を繋ぐ谷だ。深い雪に足を取られて走りにくかったが、なんとか抜けられた。

 

「ミラン、こっちだ!」

 

 背後で雪が砂埃のように舞い、幹がミシミシと音を立てて崩れる。

 ティガレックスはヒアシとミランがいないことに気付いた上で、口に入った厚い幹を噛み砕いた。側にいるのは分かっている、次はお前がこうなる番だとでも言うように。

 

 その時、ふとティガレックスはヒアシ達とは違う方に目を向けた。視界は回復してしまったらしい。

 視線の先には、セリエナへ続く門を閉めようとしているキャスリーンの姿。門は拠点側から閉めれば、こちらからはどうにもできない構造になっている。

 

「いけない!」

 

 キャスリーンが腰に下げたナイフを構える。ティガレックスがそちらへと駆け出す。

 初動はややティガレックスの方が早かった。巨大な鉤爪が門に迫り、キャスリーンは決死の表情を浮かべる。

 

 ヒアシは夢中でティガレックスの前脚に向けて、ハジケ結晶を数発打ち出した。

 ピシピシと音を立て、いくつもの結晶が破裂する。同時に、キャスリーンが門を持ち上げる縄を切り落とした。

 次の瞬間、ティガレックスが足をもつれさせて倒れ込んだ。その目前で勢いよく門が閉まる。

 

 ヒアシはティガレックスから目を離さず、追加のハジケ結晶を装填した。衝撃が加わると弾けるその結晶は、モンスターすらも怯ませる。

 大人の足で百歩ほど離れた場所からでも当たったのは、スリンガーの性能ゆえだろう。

 

 ティガレックスの背に銛が当たる。見れば、ボワボワが加勢してくれていた。おそらく、ポポ肉のお礼のつもりなのだろう。

 

 獲物にありつく寸前で邪魔され、尾を踏まれたような心地になったらしい。程なくしてティガレックスの前脚が充血していく。

 こちらへと振り向いたその目は血走り、爛々と光っていた。

 

 ヒアシはティガレックスが軸を変え切る前に足を踏み出した。それに続き、後ろから激しい足音が迫ってくる。

 地を駆けることに特化したティガレックスの速さから、まともに逃れることなど不可能だ。

 故に、ヒアシはケルビのように右へ左へと交わしながら走った。疲れにくいのは、耳に残った曲のリズムに合わせているからだろう。

 

 それに加えて、これほどに身軽な動きができるのは、飛毒竜トビカガチ亜種の素材のおかげだ。軽く温かいうえに、身に付けていても動きを邪魔しない。

 相棒はかの竜の猛毒を武器にしていた。対して自分は、その俊敏さを身に纏っている。

 バディ揃って、凍て地のモンスターの力を借り、彼らに生かされている。その事実に、必死の状況だというのに、なぜか口角が上がった。

 

 開けた場所に出ると、ヒアシは雪の積もった場所に向かって走り出す。

 ティガレックスは腹立たしい獲物を押し潰してやろうと、さらに速度を増した。

 ヒアシはティガレックスの翼の下を、前転をして掻い潜る。すれすれのところを、獰猛な巨体が通り過ぎた。

 

 ヒアシはポーチから金属の円盤を取り出すと、地面に置いて上部を回した。規程位置にはまったことを確認すると、すぐにその場を離れる。

 直後、凍て地に似合わない火花が散った。

 

 ティガレックスは積まれた雪の上で再びバタバタと足を動かし、こちらへと向き直して掛けてくる。

 轟竜は怒りに身を任せ、ヒアシのいる場所へ飛び掛かった。だが着地の瞬間、悲鳴を上げて倒れ込む。その巨体は痙攣を繰り返し、随意に動かすことができなくなっていた。

 

 ティガレックスの足元には、断続的に稲妻が走る。それは万が一ブラントドスが出た時に備えて、予めポーチに忍ばせていたシビレ罠だった。

 

 ヒアシはそれを見届けると、その場から離れながら耳を済ませた。

 微かに、だが確かに聞こえて来る。

 雪に閉ざされた地に生きる者ならば、誰もが心得ている音。そして何よりも恐れる音だ。

 

「──かかったな」

 

 次の瞬間、折れた木や礫を巻き込んだ雪の波が押し寄せる。ティガレックスが逃れようとした時には、既にその身体は雪崩に飲み込まれた後だった。

 ティガレックスは必死に顔を出そうとするが、シビレ罠による麻痺が残ってうまく身体を動かすことができない。雪に大穴が開き、その無骨な身体は地下洞窟へと飲み込まれていった。

 

「これでしばらく戻ってこないニャね」

 

「ああ。だが念のため離れておこう」

 

 ヒアシはため息を吐き、雪崩を見届けずにミランを連れてキャンプの方向へと走った。

 少し可哀想だが、ティガレックスはあの程度で命を落とすほど柔ではない。

 

 

 ポポを狩った針葉樹林を抜け、朽ちた丸太を潜り抜けると、最南のベースキャンプに着く。

 それまで黙って歩いていたヒアシは、手早く簡易な炉に火を付けた。

 するとミランは喜んでそそくさと肉球をかざす。ヒアシ達と同じくユクモ地方出身の彼女には、凍て地は寒すぎるらしい。

 その様を眺めながら、ヒアシは椅子に腰掛けた。

 

 紫、桃、橙へと滲み変わっていく空には、糸がいくつも折り重なったような雲が流れている。

 そんな中、ふいにミランが呟いた。

 

「旦那さん、やったニャね。ずっと悩んでたから……久しぶりに生き生きとした姿が見られて、ボクとっても嬉しかったニャ」

 

 ミランは少し寂しげな、それでも明るい表情を浮かべる。ヒアシの苦悩の種に立ち会えなかったことを、ミラン自身もずっと悔いていた。

 ヒアシは目を瞬かせ、己の両手を見た。片方は生まれ持った、片方は造られた手を。

 

「そうか……」

 

 ヒアシは空を仰ぎ、既にいっぱいになった胸で息を吸った。上がった口角から、白い息が漏れる。

 

「やった。……はは、やったんだ。おれは、おれは……!」

 

 その言葉に意味はない。だが、声に出さずにはいられなかった。ヒアシは人知れず拳を握る。

 

(おれは、今の姿でも自分らしく生きていけるんだ)

 

 利き手を失って、これまで通りにできないことや、他人の目を気にしないといけないことが一気に増えた。

 職を失う恐怖は常に燻っていた。義手を使ったとして、もし狩りができる程までに動けなかったら。それが原因で仲間に迷惑をかけたら。そして、そのまま生命を落としたら。

 外には見せないようにしていたが、やり切れない怒りを抱くこともあった。本当はずっと不安でたまらなかったのだ。

 

 だが、今ここで己の力でもってティガレックスを撃退することができた。

 槍を失っても、盾だけの立ち回りで。腕を失っても、義手をその代わりとして。

 これまでの孤独や苦しみが、ようやく報われたような気がした。

 

 流れていく雲の輪郭が、見る見るうちにぼやけていく。ヒアシは口を塞ぎ、嗚咽を漏らした。

 そんな相棒の姿に、ミランはそっと寄り添い微笑んだ。

 ヒアシは目尻を拭う。

 

「…………ありがとう、ミラン」

「ふふ、何のことニャ? ボクはなんにもしてないニャ」

 

 これで十分だ。心から、そう思った。

 

「……サクさんにも、見せてあげたかったニャね」

 

「これから何度でも、機会はあるさ」

 

 もう、互いの過去だけを知っている間柄ではない。知らないことも、喜びやすれ違いを繰り返すうちに、一つ一つ重ねていけばいい。

 ヒアシが笑い掛けると、ミランは安心したような表情を浮かべた。

 

「さあ帰ろうか、セリエナへ」

「ニャ!」

 

 大きさの違う二つの足跡が、薄く積もった雪に模様をつけていく。

 遠い山の頂上では、七色の透き通った身体を持つ月の化身が、優雅に空を泳いでいた。

 

 

 無事にセリエナに届けられたポポ肉が、熟成してから皆に振る舞われたのはまた別の話。

 



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最終話 朔月

 海面に突き出た岩に次々と波が押し寄せ、白い飛沫をあげる。

 境界線などあるのかと感じるくらいに広がる青と蒼は、今日は灰と群青にくっきりと分かれていた。

 怪しげな空模様に、人々は慌ただしく品物を船──否、屋根の下へと避難させる。

 

 船着場に下りた時、ぽつりと頭に水滴が落ちてきて、サクは空を見上げた。

 少し動くと汗ばむほどに暑いアステラは、それに比例して降水量も多い。稀に古龍クシャルダオラの来訪で急変することもあるが、ほとんどはその立地による影響だろう。

 サクは手で庇を作り、船の帆でできた屋根の下へと急いだ。

 

 アステラを訪れた理由は二つある。

 ひとつは自らの所属変更をすること。正式にハンターとしての任を降り、編纂と救護に専念するつもりだった。

 セリエナの管轄および人事は調査班リーダーが担っており、大体の手続きは行える体制がつくられていた。だが所属の変更や資格関連の手続き等は総司令がすぐに目を通せるよう、アステラで確認してもらうことになっている。

 そして、もうひとつ。モーネと会い、彼女の真意を聞くことだ。

 

 この短期間に二度もアステラに足を運ぶことになるとは。今は雨で少し肌寒く感じるが、セリエナとの気温差に風邪を引いてしまいそうだ。

 サクはすれ違う面々に挨拶をしながら、賑わう中央エリアを歩いた。

 それぞれの仕事場からは、鉱石のきらめき、なめした皮の匂いや花の香りなど、様々な情報が飛び込んでくる。

 少し前に訪れたときは頭がぼやけて何も入ってこなかったのだから、よほど疲れていたのだろう。

 

 やや雨脚が強くなってきた。サクは屋根の下を抜ける前にちょっと気合を入れ、小走りで滝の前にあるリフト乗り場に向かう。

 サクはハンカチで軽く取手を拭うと、リフトに足を掛けた。人が利用するほか、物資を乗せた荷台も鎖のレールを上下している。

 大粒の雨が顔に当たる。サクは冷えた鎖を握りながら、帰ってくる時を間違えたと後悔した。

 

 滝よりさらに上に行き、穴の開いた船の中を通ると、アステラの集会所「星の船」に出る。酒場として創設されたそこは、普段は夕方から夜にかけての時間帯が一番賑わう。

 だが今は、色とりどりの風船が飾られ、華やかな雰囲気に変わっていた。セリエナで宴が開催されている期間は、こちらもまた違うテーマの催しが行われているためだ。

 食事場の中央にあるテトルーやアイルーを模した巨大な風船も、受付嬢たちの選んだものだろう。なんとも女性が喜びそうなデザインだ。

 それらが濡れないためにも、屋根のない集会所も今日ばかりは大きな帆が広げられていた。

 

 サクが奥へと歩いていくと、酒を注いでいた受付嬢が顔を上げた。書類を取り出す姿に酒場の利用ではないことを察した彼女は、酒と盆を同僚に預けると、カウンターへと着く。

 

「こんにちは。本日はどのようなご用件ですか?」

「記録事項の変更がしたいんです。ハンターとの兼任ではなく、編纂者と医療者としての所属に変えていただけますか」

 

 サクはセリエナで手続きを済ませてきた申請書とギルドカードを出した。

 それを見た受付嬢はちょっと目を見開き、声に困惑を滲ませた。

 

「あの……免許を返納されなくても、編纂や救護の業務のみを続けることはできますが……本当によろしいのですか?」

 

 受付嬢が確認をしたのは、狩猟免状の返納申請も同封されていたためだ。

 サクは一見、大怪我をしているようにも、生活に支障が出るほどの精神的な症状があるようにも見えない。

 あの時の後遺症も無いわけではないが、免状の返納を決めた事由は健康上の問題ではなかった。

 

「ええ。お願いします」

 

 サクはきっぱりと頷く。

 自分が今しているのは全く必要のない、むしろ場合によっては不利になる行為だとは分かっている。それでもけじめを付けておきたかった。

 受付嬢はやがて何事もなかったように受け取る。

 

「少々お待ちください」

 

 手続きは思った以上にすんなりと進んだ。

 書類に目を通して必要事項を記入し終えると、サクは判子の印面に朱肉をつける。そしてひとつ息を吸うと、思い切って印鑑を押した。

 書類に赤々と鎮座する、自分の苗字。

 これで、もうハンターとしてクエストを受注することはできなくなった。フィールドにスリンガー以外の武器を持参することもない。

 しかし、サクの顔は晴れやかだった。

 これで良い。復讐のために手にした資格など、きっと最初から無かったほうが良かったのだから。

 

「ギルドカードも返納されますか?」

「ああ……いえ。ギルドカードは、そのままでお願いします」

「わかりました。ただ、これからは提示されても無効となるのでご注意くださいね」

 

 ギルドカードはハンターとして過ごしてきた日々の記録そのものだ。先日の陸珊瑚の台地でのことも記載されている。

 ハンターを辞めたからといって、全てが消えるわけではない。自らの誤ちを決して忘れないため、戒めとして残しておくつもりだった。

 

 サクは受付嬢に会釈をすると、受付を後にした。

 そろそろ昼時を過ぎる頃だろうに、空は鈍色のままだ。なんとなく気分も晴れず、サクは溜息を吐いた。

 待ち合わせまではまだ時間がある。だが腹も空いていないし、散歩をするにもこの天気だ。仕方なくサクは端の席に座り、給仕アイルーを呼んだ。

 

 「星の船」では時間帯に関係なく酒類が提供されているが、昼間は喫茶店として利用する者が多い。今は宴の特別メニューでタワーケーキが提供されるため、それを幸せそうに頬張る調査員もちらほら見かける。

 

 サクも珈琲を片手に本のページを捲っていた。船に乗っている間に読もうと持参したが、結局手が付かなかったものだ。

 それは古代樹の森周辺の植生について書かれた書物だった。著者の中にはモーネの名前もある。

 地衣類を含め、古代樹の植物は研究が進んでいないものも多いという。精巧なスケッチやグラフとともに緻密に記載された文章は、硬い文面でありながら好奇心に溢れていた。

 

 じっくりと目で追ううちに、知らず知らずのうちにサクの表情が綻ぶ。

 彼女の好きなものをひたすらに追求する姿勢は、少しも変わっていない。昔のままの一面があることが喜ばしかった。

 知りたいことから逃げられないのは、自分だって同じだ。フィールドで痕跡を集めては編纂する今の仕事も、結局は興味のある分野だからこそ続けられているのだろう。

 

 夢中で読み耽っているうち、とん、と肩を叩かれてサクは顔を上げる。

 

「あ……」

 

 振り向いた先には、金色の髪に学者服を纏った女性がいた。

 

「久しぶりね」

 

 女性──モーネは柔らかい表情を浮かべる。サクはつられて微笑んだ。

 

「久しぶり。モナ……モーネさ──」

「モナのままでいいわ。……来てくれてありがとうね、サク君」

 

 モーネは目を細める。

 数年ぶりに会う彼女は、少し大人びた雰囲気になったこと以外、あの時のままだった。その服装からして、仕事帰りに来てくれたのだろう。

 サクが隣の椅子を引くと、モーネは礼を言って腰掛けた。

 

「元気だった?」

「ええ、それなりに過ごしてたわ。……あなたは? あれ以来、ずっと心配だったの」

 

 モーネの気遣わしげな眼差しに、サクは眉を下げた。

 いま思えば、モーネと最後に会った時の自分は、とても他人に見せられるような状態ではなかった。当時は話すことすらやっとだったし、別れを告げる為に会いに行ったことでむしろ心配をかけてしまったかもしれない。

 そんな不甲斐ない最後にしてしまったことが、心苦しかった。

 

「元気、だったよ。……本当に申し訳ない」

「謝ることじゃない。ただ、サク君がまた毎日笑顔で過ごせるようになったなら、それでいいの」

「……………ごめん」

「もう。そこは"ごめん"じゃなくて、"ありがとう"でしょう。ほら、せっかくの再会なんだから笑って!」

 

 モーネは手本を見せるように明るく頬を上げる。

 かつて自分は彼女のこういうところに惹かれたのだと。荒天の中でも輝きを失わない金色の髪を眺めながら、サクは寂しく微笑んだ。

 

 大きなケーキを運び終えたアイルーを呼び止め、サクはモーネの分とおかわりを注文した。

 程なくして運ばれてきた二つのカップは、良い香りと共に湯気が立ち昇っている。両手で包み込むと、冷えた指先を温めてくれた。

 

「読んでくれたのね、それ」

 

 モーネの視線にサクは頷く。

 古代樹の森の地衣類の発生条件や、モンスターの特殊な行動による条件変化、それに応じた周辺の植物の再生など、魅力的だと思った項目を次々と挙げた。もしかしたら学者時代の口調に戻っていたかもしれない。

 モーネはそれを聞くと、嬉しそうな顔をした。

 

「着眼点といい、検証の精密さといい、流石だったよ。モナさんらしいね」

「ふふ、ありがとう」

 

 モーネは四期団として新大陸に来てから、しばらくは研究所に籠もってひたすら資料を読み漁っていたのだという。基礎知識を十分に付けたうえでフィールドワークを始めて、今は忙しい日々を送っているのだと。

 

「全然会わなかったのは、そういうことだったのか。四期団の先輩と一緒になる機会自体少ないけど、今までモナさんがこっちにいた事も知らなかったから不思議だったんだ」

「そういうことよ」

 

 モーネはカップを傾けた。

 

「わたしは先生方と違って人間だし、こっちではまだ新米なの。だからそれは、わたしが調査団として参加した初めての本」

 

 モーネは誇らしげに笑う。昔よりも、今の方がずっと生き生きとしているように見えた。

 そしてサクは、同時に悟った。この聡明な女性は、このまま新大陸で学ぶ者として生きるつもりなのだと。

 きっと彼女は、誰かの作った型にはまるような生き方を良しとしない。だからこそ、新大陸へと渡る船に乗り込んだのだろう。

 それを感じ取って、どこか安心している自分がいた。口の中に残った珈琲の香りと苦味が、後になって舌の奥で感じられた。

 

「あ、そうだわ。この前の台地での調査お疲れさま。怪我の具合はどう?」

 

 モーネの言葉に、カップに口を付けていたサクは目を瞬かせた。

 

「え、知ってたの?」

「たまたま掲示板で見かけたのよ。本当はお見舞いに行きたかったんだけど、断られちゃって。それであなたのバディの方とオトモさんに声を掛けて、繋いでもらったってわけ」

「そうだったんだ。怪我もおかげさまで大分良くなったよ」

 

 サクの火傷は範囲が広く、傷口から感染しないよう病室には医療者しか入ることができなかった。しばらくは面会もできず、独りで悶々と考える時間が長かったのはこのためだ。

 自分の昔の知人から話しかけられて、ヒアシとミランは驚いたことだろう。

 

(ヒアシとも、早いうちに話し合わないとな……)

 

 心身共に落ち着いた今であれば、今後のことも冷静に確認し合うことができるだろう。置き手紙を残してくれた以上、向こうの準備は整っている筈だ。

 とはいえ、声を荒げ合った手前なんとなく話し掛けづらく、そのままになってしまっていた。

 サクはカップの中の黒褐色の液体を揺らす。

 そんな様子を見て、モーネはテーブルに肘をついて微笑んだ。

 

「彼、優しそうな人ね。ちょっと話しただけだけど、人柄が伝わってきたわ」

 

 サクは視線を上げ、すぐに手元に戻して顔を緩ませた。ずっと二人三脚で仕事をしてきたバディを褒められるのは、素直に嬉しい。

 サクはしみじみと呟く。

 

「……うん。僕には勿体ないくらいの相棒だよ」

「そう……」

 

 それを見たモーネの瞳に、混じり気のない穏やかな色が浮かんだ。彼女がどうしてそんな表情をしたのか、サクにはなんとなく分かった気がした。

 

 パッと辺りが明るくなり、二人は顔を上げた。見れば、アイルーや受付嬢たちがランプやバルーンの明かりを付けている。

 いつの間にか雨は止んでいた。

 

 二人の間に、不快ではない沈黙が降りる。 

 しばらくして、サクは肝心なことを聞いていないのを思い出した。

 

「それで、話って?」

 

 サクが尋ねると、モーネは少し口籠った。目線を彷徨わせながらしばらく言葉を探し、やがて意を決して息を吸う。

 

「…………あなたにとって、つらいことを思い出す話題かもしれない。先に謝っておくわ」

 

 "つらいこと"。その一言が彼女の口から出たことで、どういう話かなんとなく察しがついてしまった。

 サクは束の間自分の手元を見つめていたが、やがて続きを促した。

 

「あの日……先生が亡くなってから、研究室の整理をしたでしょう? その時に先生の私物は引き取ってもらったわよね」

「……うん。父の遺品は実家にあるけど……それがどうかした?」

 

 サクが問うと、モーネは胸元に下げたロケットペンダントを開けた。中から取り出した紙を広げ、サクに見せる。

 その中身を見たサクは、目を見開いた。

 

「これは……」

 

 幼子が描いたものだと一目でわかる、両親に手を引かれる子どもの絵。紙の中の三人は、満面の笑みを浮かべている。

 それは、自分が幼い頃に父の誕生日に贈った絵だった。裏の隅には、父の小さな字で当時の日付と共に「三歳の朔から」と書かれている。

 

「どうしてこの絵が……?」

 

 サクが消えそうな声で呟く。

 

「あの後、研究所にある雑誌を読もうとして、開いたらこの絵が挟まっていたの。今思えば、先生が研究室でよく読んでいた本だったんだわ。……これ、やっぱりサクくんのもので間違いないわよね?」

 

 サクは何も言えなかった。やっとの思いで、ひとつ頷く。

 

「いつか再会できたら渡したいと思って、ずっと保管していたの。……まさか、新大陸で会えるとは思わなかったけれど」

 

 モーネはテーブルに投げ出されていたサクの手を開き、その絵を渡した。

 サクは二十年以上も前に父によって書かれた、角張った字を指でなぞった。こんなものを、父は後生大事にしていたなんて。

 目を閉じると、幼い頃に父が頭を撫でてくれた感触が蘇る。ずっと忘れていたというのに、手の温もりと優しさの記憶はまるで昨日のことのようだった。

 

「その時にね、思い出したことがあるの」

 

 モーネは静かな声で語る。

 

「……あれは確か、あなたと出会う前の、遺伝子についての講義の後だった。わたしが質問をしに行った時にね、先生が家族の話をしてくださったのよ」

 

──私には、息子が一人いてね。顔は妻によく似ているんだが、気難しくて不器用なところは私にそっくりなんだ。

 

 父の口調を真似て低めた声。

 サクは一言一言を噛み締めるように聴き入った。

 モーネはサクをちらりと見て、かつて己の師が残した言葉を紡いだ。

 

──我が子は、いくつになっても愛おしいものだ。あの子が私と同じ道に進みたいと言ってくれた時、心配で突っぱねてしまったが……本当は、とても嬉しかったんだ。

 

「え……?」

 

 サクは目を見開く。今モーネから聞いたのは、自分に都合のいい幻聴ではないだろうか。

 サクは戸惑いを隠せず、首を横に振る。あの父の口から出た言葉だということが、信じられなかった。

 

「……そんな…………お父さんが……? まさか、そんなこと……言う筈がない……」

「ずっと前のことだから、多少口調は違うかもしれない。でも、先生が仰っていたことはよく覚えているわ」

 

 モーネが偽りを口にしているようには、とても見えなかった。つまりそれは、父の言葉そのものであるということだ。

 

「その時の先生の表情が、本当に温かくて。ああ、この方は息子さんを心から大切に思っているんだって感じたわ。……やっとあなたに伝えられた」

 

 モーネの唇が静かに閉じられると、サクは顔を手で覆う。まるで頭の中が、何かにかき混ぜられたようだった。

 

 父の遺した言葉は、あまりにも家族──息子である自分への慈愛に満ちていた。その本質は、昔の父が向けてくれていた愛情と何ら変わっていない。

 もう自分には関心を寄せてくれないと思っていた父。

 けれど、学力以外の障害がなく学者への道を志せたのは、母の協力だけで果たせたことだったか。学生時代に食に困るほどの苦労をしなかったのは、誰のおかげだっただろう。

 本当は、どこかで父の思いに気が付いていた。見ないふりをしていただけだった。

 

「あの事故の日、先生が庇ってくださったから、今わたし達はここにいる。──わたしは……そのことを、決して忘れはしないわ」

 

 モーネは強い光を湛えた目でサクを見た。

 思慮深い彼女が、何故あの日サクの父親が犠牲になったかを理解していない筈がなかった。きっと自責の念も伴っていただろう。

 長いこと自分を蝕んできた苦痛でたまらない体験を、共に心に留めてくれる人がいる。サクはそれだけで、救われるような心地がした。

 

 サクは再び父の字に目を落とし、表の絵を見つめる。

 固く冷えたままだった蝋燭に、小さな火が灯った。火は揺れながらも、柔らかだが確かな光を伴った熱で蝋を温める。

 やがて溶けて縁いっぱいに溜まったそれは、透明な雫となって溢れ落ちた。

 

 様々なものが綯交ぜになった感情の波が胸に押し寄せ、うまく息を吸うことができない。

 

(──そうか。お父さんが亡くなって、心の整理がつかないままで……僕はずっと寂しかったのか)

 

 考えてみれば簡単なこと。それがようやく府に落ちた。胸の中で燻っていた成長しきれない自分に、ようやく日の光が差したような気がする。

 

 今すぐ父に会いたかった。会って、感謝を伝えたかった。

 それなのに、父はどうしてこの世に居ないのだろう。生きていてくれさえすれば、機会はあったかもしれないのに。自分たちには、もうその機会すら無い。

 サクは深い哀しみと後悔、そして突き抜けるような愛惜しさに、嗚咽を堪えきれなくなった。今にも身がバラバラに張り裂けてしまいそうだ。

 モーネが腕をそっとさすってくれるのを感じながらも、サクは俯くことしかできない。

 

 もし自分が生きて現大陸に戻ることができたら、真っ先に父の墓参りに行こう。父の身体は残らなかったけれど、魂はそこに居てくれると信じて。そして、陸珊瑚色の花を供えよう。

 ぼやけた文字に、父の優しい笑顔が重なって見える。サクはそれを胸に抱き、ぐしゃぐしゃになりながらもこの上なく幸福な表情を浮かべた。

 

 

 

 モーネを送り届けた帰り際にふと思いつき、サクは流通エリアに立ち寄った。少し迷ってから選んだのは、良い香りのする小さな花束だ。

 サクはそれを二つ抱えて、人通りの少ない道を進む。やがて見えてくるのは、並んだ慰霊碑だ。

 先程の雨で濡れてしまっているが、墓石の前に萎れた花はなく、定期的に人の手が入っていることがわかる。

 

 サクはしゃがみ込み、そっと二つの花束をそれぞれの碑の前に供えて黙祷した。

 喰った者も喰われた者も、いずれも命を落とした彼らに罪はない。彼らだって、必死に生きようと足掻いただけに過ぎないのだから。もたらした結果に憤りを覚えることはあれど、あのイビルジョー自身にも恨みは無かった。

 この世に生まれた命が旅立つのは道理。残される者は、別れを惜しむことはできても連れ戻すことはできない。そして長い時間が傷を癒すことはあっても、その瞬間の痛みは避けられない。

 

(きっと、あのナルガクルガも──)

 

 彼も、そのどうしようもない悲しみを背負って生きていくのだろう。

 人とモンスターでは、ものの感じ方や価値観は異なる。それでも、彼の眼差しと声からは確かな感情が伝わってきた。

 願わくば、彼の大切な存在が無事に天へと昇れるといい。

 

 サクは目を開けて立ち上がると、大峡谷のほうを見やった。その先には陸珊瑚の台地がある。

 ナルガクルガの心にも、再び暖かな晴れ間が差すことを願った。失った代償の為に頑なになっていた自分が、周りの人々に手を差し伸べてもらったように。

 もしかしたら、あのジンオウガが支えになってくれるかもしれない。

 

 雨で荒れていた海は、いつしか穏やかな旋律を奏でるばかりになっている。

 遠くの雲の切れ間からは、赤みがかった陽脚が差し込んでいた。

 

 

***

 

 

 日が落ちてもなお、人々の働くセリエナは真暗闇に包まれることはない。

 昼間の目を焼くような照り返しと違い、篝火や月光を反射する雪明かりが、穏やかに足元を照らしていた。

 

 窓から明かりの漏れる居住区のあちこちから、夕餉の匂いが漂ってくる。

 サクは滑らないように気をつけながら雪路を進み、懐から鍵を取り出した。

 

「ただいま」

「おかえりなさいニャ!」

 

 靴底の雪を落としてから玄関に入ると、ミランが出迎えてくれた。風呂に入ったばかりなのか、まだ白い毛がしっとりとしている。

 

「あれ、ヒアシは?」

 

 靴はあるのに、姿が見えない。

 ミランが「旦那さんなら」と言いかけたところで、ドアが開く。

 

「あ、おかえり」

「……た、だいま」

 

 タオルで髪を拭きながら、ヒアシが顔を覗かせた。面と向かって彼と話すのは、かなり久しぶりに感じる。

 

「こっちの風呂使ってたんだ」

「ああ。家なら、何も気にせずゆっくり入れるからな」

「そっか」

 

 交わされる会話は、どこかぎごちない。

 何となしにサクが目線を彷徨わせた先に、ヒアシの左腕があった。風呂の直後なのだから当然だが、それは義手ではなく彼が生まれ持った腕だ。

 サクはヒアシが何気なく言った"何も気にせず"という言葉が、人目を指すのだということを察してしまった。

 

 集会所の浴場は沢山の調査員が利用する。

 防具を着ている時ならまだしも、肌を見せるとなると、人々に悪気はなくともついヒアシの方を見てしまうだろう。

 彼はそれを厭って自宅の風呂を使ったのかもしれない。それまでは広い集会浴場を好んで利用していたというのに。

 

 サクはすぐに視線を戻し、考えを振り払うように新たな話題を出した。

 

「二人とも、夕飯は?」

「これからだ。さっき帰ってきたから、まだ下処理しかできていないんだが」

「サクさんはもう食べたのニャ?」

「ううん、まだだよ。僕も今着いたところなんだ」

 

 サクはマフラーを外しながら、ヒアシの名を呼ぶ。ヒアシが振り返ると、サクは少し躊躇った後に口を開いた。

 

「あのさ……料理、僕も手伝っても、いいかな」

 

 サクの言葉に、ヒアシはちょっと目を見開く。これまでは基本的に料理はヒアシが担当していた為、サクがこんな提案をしてくるのは珍しい。提案というよりは、ニュアンス的には確認の方が正しいだろうか。

 ヒアシは束の間黙っていたが、やがて表情をやわらげ、頷いた。

 

 

 

 備え付けられた小さな台所は、大人が二人並ぶには少し狭い。

 

「これ、どう切ればいいの?」

「まず横から包丁を入れて、縦に同じくらいの間隔で切れ込みを入れる。それから横方向に切ってくれ」

「わかった」

 

 ミランが箸やら食器やらを用意してくれている間、サクとヒアシは必要な会話だけをしながら調理した。

 

 切れ込みを入れたオニオニオンをみじん切りにしていく。独特のにおいを嗅いでいるうち、目がツンと痛くなり涙が滲んできた。

 鼻をすすって顔をしかめながら残りを切っているサクを見て、ヒアシがくすくすと笑う。

 

「口で呼吸をすれば、涙は出にくくなるぞ」

「そうなの? 先に言ってよ……」

 

 相変わらず目は痛いままだったが、ヒアシが久しぶりに笑顔を見せてくれたのが嬉しい。サクは口角を緩めながら、熱したフライパンに少量の油を引き、切った具材を炒めた。

 そのうち香ばしい匂いが漂ってくる。

 飴色に変わったそれらとポポの挽肉をヒアシが捏ねている間、サクは根菜を切っていく。

 下に水を入れた蒸し器に切った根菜を並べて火にかけると、サクはヒアシの隣に並んだ。

 ヒアシが先に茹でておいてくれたミリオンキャベツの中心に、肉だねを適量置いて、くるくると巻いていく。爪楊枝を刺しても、ヒアシが巻いたものと違い、自分のものは少し形が崩れて不格好だ。

 肉だねが溢れないように気をつけながら巻いているうち、気づけば最後の一個になっていた。

 サクがバットにそれを置くと、二人は同時に相手の名前を呼んだ。

 

「あ……ごめん」

「こちらこそ。先にどうぞ」

 

 サクはヒアシに向き直り、目を伏せた。

 

「……この前は、本当にごめん。勝手なことを言い過ぎた」

「おれの方こそ、酷いことを言って悪かった。あの後、反省したよ」

 

 意地を張って、言いたくても言えなかったことがやっと伝えられた。二人は互いにホッとした表情を見せる。

 

「封筒、受け取ってくれなくても、いい。ただ──」

 

 サクはちら、とヒアシを見て口を開閉させた後、決心したように切り出した。

 

「また何か困ったことがあったら……いや、大して困ってなくてもいいから、いつでも頼ってほしい」

 

 サクは真剣な眼差しでヒアシを見つめる。その金色の瞳は、あの日に陸珊瑚の下で見せたものと同じ光を湛えていた。

 

「僕じゃ頼りないかもしれないけど、君が独りで苦労しているのを見るのは、つらい。力になりたいんだ」

「……!」

 

 ヒアシは眉を下げた。

 喧嘩した日にサクが封筒を渡そうとしてくれたのも、きっと同じ気持ちからではあったのだろう。

 時間を経て、彼はこちらの気持ちを汲んだうえで言葉を掛けてくれた。相棒からの思いやりが、心に染みる。

 

「……ありがとう、サク。頼りにしている」

 

 ヒアシは柔らかく目尻にしわを寄せた。

 サクはヒアシの表情に吐息を漏らす。

 

「正直……バディ解消しようって言われることも、覚悟してた」

 

 サクの呟きに、ヒアシは心外だと言わんばかりに目を見開く。

 

「君は、誰か他のやつとバディを組み直したいと思ったことがあるのか?」

「そんなこと一度だって無いよ!」

「そうか。おれもだ」

 

 サクが慌てて顔を上げると、ヒアシは満足げに微笑んでいた。してやられた。サクは頬と耳を赤く染め、ヒアシの背をぽん、と軽く叩いた。

 ヒアシは笑いながら手を洗う。水気を切ると、ロールキャベツを詰めた鍋に、セリエナの料理長から分けてもらったスープを注いで火にかけた。

 蒸し野菜の具合を見ながら、ヒアシは再び口を開く。

 

「おれは、この先も新大陸でハンターとして生活していきたいと思っている。できるだけ、今まで通りに働いていきたい」

「……うん」

 

 もうヒアシの意思が揺らぐことは無いのだろう。サクは相方の行く末を案じて不安げにヒアシを見つめる。

 するとヒアシはちらりと目線だけをサクに向け、ニッと口角を上げた。

 

「それと、これからも君が相棒として隣に居てくれたら、おれはとても嬉しい」

「ヒア……」

 

 拒絶されてしまうのではないかという恐れは、ヒアシ本人の言葉によってかき消された。一拍遅れて、傍に立つことを認めてもらえたのだという喜びが胸を駆け巡る。

 サクは顔の緩みを隠すように、そっぽを向いた。

 

「そんなの、当たり前じゃないか。言われなくてもそうするよ」

「君ならそう言ってくれると思った」

 

 ヒアシとサクは笑い合い、調理の続きを始める。

 そんなふたりの様子を、ミランは後ろからにこにこと見守っていた。

 

 

 

 やがてテーブルには、色とりどりの食事が並んだ。暖色の照明の中に湯気が立ち上り、なんとも食欲をそそられる。

 

「うわぁ、すごい豪華だね」

「久しぶりに皆揃っての飯だからな」

「おいしそうニャー!」

 

 ヒアシは椅子に座りかけたところで、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

 

「せっかくだし、酒も飲むか」

「賛成!」

「ニャ!」

 

 いただきます、と皆で手を合わせる。

 サクはまず息を吹きかけながら、スープを口に含んだ。野菜や肉の優しいコクの中に、ぴりっと胡椒が効いている。スプーンで切れるほどに柔らかく煮込まれたロールキャベツは、頬張るとスープやら肉汁やらがじゅわっと溢れ出した。

 ヒアシは香草を練り込んだソーセージやマッシュポテトを、パンに乗せてかぶりついた。ハーブと小麦の香りが鼻に抜ける。

 

 もうさほど熱くない温野菜も、ミランにとっては怖々と口に運ぶ温度らしい。彼女が用心深く何度も息で冷ます様子を、ふたりは顔を見合わせて笑った。

 盛んに「おいしいニャ!」と顔を綻ばせるミランに同調しながら、ワイングラスを傾ける。

 

「こんなに食事が楽しいって感じたの、久しぶりだな」

 

 チーズを齧りながらしみじみ零したサクに、ヒアシが微笑みかける。

 

「それは良かった。元気になって何よりだ」

「心配かけてごめん。あと、朝食と置き手紙もありがとうね」

 

 ヒアシはロールキャベツをおかわりしつつ、緩く首を振る。

 それまでちびちびとワインを飲んでいたミランは、サクに尋ねた。

 

「休暇、ゆっくりできたのニャ?」

「おかげさまで。知人にも会って話をしてきたよ」

 

 サクの返事に、ヒアシはあっと臍を噛んだ。

 

「すまない、そのことを伝えそびれていた」

「ううん、ミランが教えてくれたから気にしないで。──あと、事後報告で申し訳ないんだけど……僕、ハンターは辞めることにした」

 

 サクは黙っていたことを非難されるのではないかと身構えたが、ヒアシはあっさりと了承した。

 

「何となく、そんな気はしていた。無理をすることはないし、君がやりたいことをやればいい」

「……うん。心機一転して頑張るよ」

 

 サクは朗らかな笑みを浮かべた。

 

 

 

 食器を片付け終えて、二人と一匹は各々でくつろいでいた。時計の針は、そろそろ日付が変わる時分を指している。

 ソファで茶を飲みながら、ヒアシはぼんやりと呟いた。

 

「……あの時」

「うん?」

 

 風呂から戻り、隣で濡れた髪を拭いていたサクは、視線をヒアシに向ける。

 

「君は何故そんなにおれに肩入れするんだ、って不思議に思った」

「何故って……僕らはずっと一緒にやってきたんだから、負担を分け合うのは当然のことだと思ったんだよ」

 

 サクはちょっとばつが悪そうに乱れた髪を手櫛で整える。

 

「ずっと、か。……そうだな。昔を入れると、もう十年以上も一緒にいたことになるのか」

「え、そうだっけ? ……あ、本当だ。離れてた時はあるけど、下手すると親元にいた時間より長いかもね」

 

 指を折って数えていたサクは、懐かしそうに少し遠くを見た。

 ヒアシは目元に微笑を浮かべる。

 

「そう思うと、なんだか感慨深いものがあるな」

「まあ、そうだけど……もう、何だよ急に。水臭いじゃないか」

「いや、別に。ただ何となく考えてみただけだ」

「なにそれ」

 

 サクはくつくつと笑った。

 その横顔を見てふと思い当たり、ヒアシはサクに尋ねる。

 

「君は、もう研究の方に戻るつもりはないのか?」

 

 サクがハンターを志した理由は聞いていたが、なぜ学者の道を諦めたのかヒアシは知らない。

 幼少期から父のような研究者になりたいと目を輝かせていたサクが、夢を諦めざるを得なかったその理由を。

 

 ヒアシの問いに、サクは酔いが覚めていくのを感じる。

 目を伏せて指を絡め、しばらく黙り込んでいたが、やがて視線を上げて口を開いた。

 

「そのことなんだけど……少し、長くなると思う。…………聞いてもらっても、いい?」

 

 ヒアシとミランは手を止めて、じっとサクの言葉に耳を傾けた。

 サクは時折詰まりながらも、一つ一つ語っていく。

 

 父のこと、あの日の事故のこと。

 ナルガクルガの親子に対しても、父を失った自分と重ねてしまったこと。

 ──そして。

 ヒアシが庇ってくれたとき、再び自分のせいで大切な人を失うのではないかと恐怖したこと。

 苦い昔を思い出す研究職ではなく、今は新しい道で生きていきたいのだということ。

 

 すべて話し終えて、サクは口を閉じる。

 あまり口数の多いほうではない相方が、何度も相槌を打ってくれているのは分かっていた。それでも、しばらく顔を上げられなかった。

 すると、右手が温かな感触に包まれる。見れば、ミランが身を乗り出して両手で握ってくれていた。言葉はなくとも、彼女の表してくれた気持ちは十二分に伝わってくる。

 

 ヒアシに視線を移すと、二つの優しい群青は、潤んだ光沢を持っていた。

 ヒアシは右手をサクの肩に置いた。

 

「……話してくれて、ありがとう。……今まで、頑張ってきたんだな」

 

 混じり気のない、真っ直ぐな言葉。

 それは、サクがずっと待ち焦がれていたものだった。

 ヒアシの言葉の一つ一つが、手の心地よい重みと共に、サクの心に刻まれた深い傷を癒していく。 

 これまで身を削って重ねてきた経験と時間は無駄ではなかったのだと。ようやく、そう思うことができた。

 

「…………ッ、うん」

 

 ふたりは視線を合わせ、目尻にくしゃりとしわを寄せた。

 ヒアシが指で目頭を拭う。

 

「つらい思いをした分、これからはいっぱい笑ってほしいのニャ。旦那さんもボクも付いてるニャ!」

 

 ミランが振ると、ヒアシはしっかりと頷いた。

 熱いものが込み上げてきて、サクは天を仰ぐ。するとヒアシに肩を揺さぶられ、思わず笑いを溢した。

 

 "しあわせ"という言葉の成り立ちは、元は様々なものの重なり合いや、巡り合わせを指すものだったという。それが転じて、幸福を表すようになったのだと。

 青い星に導かれた場所で、たくさんの出会いがあった。その中でも、特にサクにとってかけがえの無いもの。

 きっと、今のような瞬間をしあわせと呼ぶのだろう。ここでその言葉を遣わずして、一体どこで遣うのか。

 サクは大切な友人たちに、精一杯の笑顔を見せた。

 

「……ありがとう。ヒア、ミラン」

 

 タンジアの港で船に乗り、それぞれ別の人生を歩んできた幼馴染みと再会して。ひたすらに新大陸の謎を追って、凍えるほどに寒いこの地に辿り着いて。

 気づけば、随分と時間が過ぎていた。

 過去の柵から逃げてきた筈が、正面からその過去や自分の幼さと向き合うことになった。

 それでも、今は少しも後悔はしていない。ようやく人生の次の段階へと踏み出せたような気がした。

 

 新大陸古龍調査団での活動が、いつまで続くかは分からない。

 十年程度で帰ることになるかもしれないし、一期団のように年老いてもなお謎を追い求めることになるかもしれない。

 

 それでも。

 時間の許す限りはこの地で、胸を張って自分らしく生きていきたい。

 

 心の底から、そう思った。

 

 

***

 

 

 吹き抜けからちらちらと粉雪が舞い込む中、昼間から乾杯の掛け声が響く。一仕事を終えた調査員たちは、達人ビールをうまそうに呷った。

 宴が終わった後も、少し落ち着いたとはいえセリエナの集会所「月華亭」の賑わいは絶えない。受付嬢や給仕アイルーたちは、くるくると忙しなく立ち働いていた。

 

 サクはカウンター席に腰掛け、鞄の中身と持参する物品のリストを照らし合わせていた。

 今日の調査先は渡りの凍て地だ。古龍イヴェルカーナが姿を消した今、調査班の一部はその後の生態調査を任されている。

 サクはリストをテーブルに置き、地図を取り出した。

 

(ええと、今日は地下を通るから……)

 

 途中でトビカガチ亜種をよく見かける広場を経由するが、刺激しなければ敵対されることはまず無いだろう。

 だが地下洞窟にはドクホオズキが自生しているほか、様々な性質のガスを発するガスガエルが生息している。サクは万が一に備えて、それぞれに適した解毒薬や、防毒マスク等を持ち込むようにしていた。

 

 地図に書き込まれた注意事項と薬品を照らし合わせ、揃っていることを確かめる。

 包帯やガーゼの残り枚数が十分なことも確認し終えると、サクは鞄を閉めた。

 

「あれ、サクかい?」

 

 その時、後ろから聞き慣れた声と共にらコツコツと足跡が近づいてくるのが聞こえ、サクは振り向いた。

 そこに居たのは案の定、オトモアイルーを連れたヴィオラだった。

 

「ヴィオラさん。お疲れ様です」

「お疲れさま。……で、あんたその格好どうしたんだい。武器は?」

 

 ヴィオラは不思議そうに首を傾げる。

 今のサクはハンターに支給されていたウルファ装備ではなく、編纂者用の収納が多いものを着ていた。ヴィオラが訝しんだように双剣も背負っていない。

 サクは柔らかな表情を浮かべ、首を横に振った。その瞳は、満ち足りた色をしている。

 

「これからはもう、編纂と救護だけでやっていこうと思って。武器は家にあるんですけどね」

「あら……そうだったの」

 

 サクの顔にヴィオラは一瞬呆気に取られたが、やがて照察した笑みを見せた。

 

「その様子を見るに、うまくいったみたいだね。おめでとさん」

「見苦しいところを見せてすみませんでした。……でも、おかげであいつと今後のことについても色々話し合えたんですよ」

 

 サクはちょっときまりの悪そうな顔をした。だが、すぐに穏やかな喜びを浮かべる。

 

「まあ頑張りなよ。あんたなら大丈夫だと思うけど、何かあったら手伝うからさ」

 

 ヴィオラは唇を弓形にしてばし、とサクの背を叩く。サクは笑いながら痺れる背をさすった。

 

「ありがとうございます。……あ、相棒が呼んでるので、僕はこれで」

 

 サクの視線を辿ると、モンスターの骨でできた門の側で、盾を携えた男が手を振っているのが見えた。

 サクは「いま行くよ」と手を振り返し、ヴィオラに笑いかけた。久方ぶりに見る、生き生きとした笑顔だ。

 

「じゃあ、行ってきます!」

「無事に帰って来るんだよ!」

 

 ミランを連れたヒアシの隣に、サクが駆け寄って並ぶ。ふたりは顔を見合わせて頷くと、翼竜を呼ぶ指笛を吹いた。

 

 翼竜の澄んだ鳴き声と共に、二人と一匹は雲の流れる空へと舞い上がる。彼らの背中を押すように、追い風が吹き渡っていた。

 

 白雪まじりの風は、止むことなく新大陸を駆け抜けていく。

 瘴気と同様、時に生き物の命を呆気なく奪うもの。だがそれは、今はただひたすらに優しいきらめきを放っていた。

 

 

 

 

Fin.

 



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番外編
虚を照らす光 上


 

 別れてしまえば赤の他人。そんな言葉を聞いたのは、一体いつだっただろうか。自分を慰めるつもりで発されたであろう言葉が、何年も経った今でさえ胸のどこかに棘となってつかえている。

 

 伝えたいことがあるので直接会って話したい。かつて恋仲だった相手からそんな手紙が届いたのは、よく晴れた昼下がりのことだった。

 降雨の多いアステラでは、保管する書物の全てにある程度の防水加工がされていた。しかしそれはあくまでも湿気に多少強くなる程度のもので、飲み物を溢しでもしたら駄目になってしまう。給湯室などというものは無いため、研究所に出入りする調査員らは各々で食事場やら自宅やらに戻って休憩していた。

 ちょうど昼時の為、食事場はハンターで満席だった。自宅で簡単に昼食を済ませ、一服してそろそろ戻ろうとしていた頃、ノック音が聞こえてきたのだった。

 

 モーネは顔の横に落ちてきた髪を、耳にかける。

 改まってどうしたのだろう。学生時代にお世話になった教授──彼の父親に関することは二年前に全て伝えた筈だし、掲示板にもあちら(セリエナ)と合同の急を要する依頼も無かったと思うけれど。ふと、寄りを戻す提案をされるのかという考えが過る。しかし以前会った時にも、そんな雰囲気はなかった。

 

 ガラス製のポットの中で、茶葉の色素がゆらゆらと水の中へと降りてゆく。手紙を読んでいるうちに、それらが水出しとは言えやや濃すぎるくらいに抽出されていることに気づき、モーネは慌てて茶漉しを取った。

 

 モーネの通っていた学舎では、卒業後も研究の継続を希望する学生は、実験やフィールドワークの際に下級生の面倒を見ることになっていた。ちょうどその班で一緒になったのが、彼──(サク)・琴平だった。

 彼は学舎で教鞭をとっている教授の息子であるということに加え、人目を引く容姿の一年生が微生物学科に来たということで話題になっていたらしい。モーネは彼の属性について特に気にしたことは無かったけれど、本人は周囲から寄せられる好奇の目に対して、居心地悪そうにしていた。

 それはそうだろう、と思う。生まれ持った容姿についてとやかく言われることもそうだが、ここには他人の身分や家柄も気にする人が大勢集まっている。かくいうモーネも専攻を選んだ時には、自分に対する陰口に対して聞こえないふりをしていたものだ。生まれが何だというのか。モーネは姉の結婚によってそういうものからは逃れられたけれど、それでも華々しいネームバリューを得なければ周りは黙らないらしい。

 緑は生命の循環に必要不可欠なものだ。地衣類と共生する微生物に関する研究だって、すぐにとはいかなくてもきっと世の役に立つ。そう信じて、モーネはひたすら自分が好きなものに対する研究と勉強を続けた。救いだったのは、定期的に手紙をくれる両親と姉が、自分の進路を応援してくれていたことだった。そうでなければ、今自分は新大陸に居なかっただろう。

 

 モーネは渋味の出てしまったぬるい紅茶を口に含む。氷を入れるのを忘れたことに気づいたのは、液体を飲み下して、香りと苦さだけが舌に残った時だった。

 

(だからこそ、サク君はわたしに興味を持ってくれたのかも)

 切欠が何だったのかは忘れてしまったけれど、研究室で会話を重ねるうちに、いつしか彼の眼差しに温かなものを感じるようになっていった。

 二人の関係が変わったのは、彼の入学から一年半ほど経った、研究室の無機質な窓から三日月が綺麗に見える夜のことだった。下級生のうちは座学が中心とはいえ、出される課題の量はかなり多い。モーネも先輩に世話になったから、そのお返しのつもりで後輩達の面倒を見ていた。

 要領の良い学生達はさっさと終えてしまって、元気な足取りで寮やら自宅やらに帰って行った。だが、サクは教科書と睨めっこしながらレポート用紙を細かい文字や式でびっしりと埋めるものだから、なかなか終わらない。先輩は先に帰ってください、と気を遣ってくれたけれど、どうにも過去の自分を重ねてしまい、放って置けなかった。

 伽藍とした部屋でようやく書き終えたのは、学部棟が閉まる半刻前だった。サクはモーネに何度も頭を下げ、無事に紙の束を提出ボックスに入れたのだった。

 

 茹だるような暑さの昼間と裏腹に、湿った匂いのする涼しい風が頬を撫ぜる。月明かりに照らされた道を、二人は並んで歩いた。

──この時間になると涼しいわね。

──そう、ですね。

 元々どちらも口数が多いわけでは無いけれど、普段はもっと会話の応酬が続くのに。モーネがサクの方をちらりと見やると、長いまつ毛で縁取られた瞼は伏せられ、視線は下の方で彷徨っている。明らかに緊張している様子の後輩が可愛らしく思えて、モーネは彼の名札をとん、と突いた。

──そういえばあなたの名前、ユクモ地方の文字よね。どういう意味のある字なの?

 不意の問いかけに、彼はきょとんと目を丸くしてモーネの方を見たが、やがて口を開いた。

──ええと……新月、だったと思います。物事を一から始める力を持てる子に育つように、って。

──まあ、素敵な名前ね。実はわたしの名前も、うちの地方では"月"という意味なの。わたし達、なんだか似ているわね。

 モーネが微笑みかけると、サクはいよいよ暗がりでも分かるくらいに顔を赤くした。それから彼は決心したように、鞄からチケットを取り出した。

──あの、もし良かったら。今度、ふたりで出かけませんか。

 それは、この辺りでは有名な花火大会のチケットだった。手に入れるのも大変だっただろうに、わざわざ二枚取っていてくれただなんて。

 モーネが了承すると、サクはそれはそれは嬉しそうに笑った。あれが、彼の表情が大きく変わったのを見た、初めての瞬間だった。時間が経った今でさえ、ありありと思い出せる。

 

 モーネは引き出しを開けた。手帳に挟まれているのは、美しい花火の描かれたチケットだった。もうとうに色褪せてくしゃくしゃになってしまっているけれど、どうしても捨てられずにいる。未練があるかと言われれば首を傾げるが、思い出の物であることには違いなかった。

 それを手に取って眺め、モーネは溜息を吐いた。

 

 何度か二人で過ごす日を重ねるうちに、彼と思いを合わせるようになった。今思えば、若いうちにしか得られない輝きを放っていた日々だったと思う。

 これまで異性と交際をしても、どうしても自分のやりたいことを蔑ろにすることができず、愛想を尽かされてしまうことがよくあった。周りの友人にもプライベートを優先する娘は多かったし、その辺りの感覚が、自分はずれていたのだろう。

 だが彼はそんなことは気にせず、自分の姿勢を肯定的に認めて応援してくれた。年齢差を埋めようと背伸びをして頑張る姿も好ましかったし、何よりモーネのことを大切にしてくれた。

 外面にあまり関心がないのが玉に瑕ではあったけれど、気づいて欲しいならアピールをすれば良いだけのことだった。

 価値観の擦り合わせもこまめにしていた為、大きな喧嘩やすれ違いも起こることなく過ごすことができた。互いの相性も良かったのだろう。

 

 モーネは卒業しても学舎の研究員として働いていたし、向こうが就職してからも交際を続けていた。学者という職業上、お互いに経済的に安定しているかと言われればすぐには頷けないが、なんとか食べていくことはできる。まとまった資金が必要になるであろう将来のことも、少しずつ考え始めていた。

 同棲が決まった際は、二人で暮らしていくにあたり必要なことも、若いながらも懸命に調べたり周りに聞いたりしてくれた。期間を決めて、それでも思いが変わらなければ一緒になりたい、とまで言ってくれた。彼が自分との将来を真剣に考えてくれているのが、嬉しかった。

 

 そんな日々に終わりが訪れたのは、一週間後に同棲を控えた日のことだった。

 新人教育を目的とした複数分野での合同のフィールドワークで、偶然サクとモーネが琴平教授の班になった。確か、地底洞窟が火山地帯に飲み込まれる前の、限られた期間にだけ繁殖する菌類に関する調査だったか。二人で同じ班になれたことに浮き足立っていた所もあったかもしれない。

 それにサクは以前から、いつか父に良い所を見せたいのだと言っていたから、彼にとっては満を辞してのタイミングだったのだろう。これまで積み重ねてきたものを見せれば、きっと認めてもらえる筈だと。

 経験を積んだ教授が居るとはいえ、危険なフィールド調査ということでハンターも雇っており、十分な警戒態勢が敷かれていた。事前に予測されていた天候も安定していて、モンスターの繁殖期も避けている為、環境は良好だった。そう、良好な筈だったのだ。

(わたし達にあてられた予算は少なかったし、当時はあれが限界だった。でも、もっとエマージェンシーに慣れているハンターが居たなら……)

 安全地帯で生活している一般の人間は、中型モンスターにすら遭遇したことがないという者も多い。実際、それまでのモーネも獣人族以外のモンスターは、荷車を引くアプトノスや、乳を搾るために飼育されているポポくらいしか間近では目にしたことがなかった。調査団に入団してからは当たり前となった、モンスターの残した痕跡探しも、あの頃は足跡すら見分けが付かないほどだった。

 そして雇っていたハンターのランクも、小型モンスターの討伐が主で、仲間と協力してやっとイャンクックを討伐できる程度。通常種の飛竜はともかく、亜種の行動パターンなど、知る筈も無かったのだ。特に地底洞窟に生息しているフルフル種の痕跡は、粘菌などの菌類や元々の岩肌の質感と混同してしまいがちだった。だからこそ、見落とされてしまった。

 

 あの悲痛な事故を思い出し、モーネはこめかみを抑えた。同期や後輩だった身体から吹き出す血飛沫が降ってくる悪夢を、今もたまに見ることがある。その度に酷い動悸と恐怖に襲われ、己の身を掻き抱くことになるのだった。

 肉食モンスターが他のモンスターを喰らうのは、道理だ。小型であれば、その姿も遠目でなら見たことがない訳ではなかったし、別段グロテスクなものが苦手という訳でもなかった。

 しかし、喰われているものが人体となると話は別だった。本体から引き千切れて皮や脂肪の垂れ下がる肉を美味そうに喰らう様は、悪魔としか言いようがなかった。そして尊敬する教授の顔も、肉塊の中に紛れていた。

 

 義父になるかもしれない人だったとはいえ、血の繋がらない他人でさえ、これほどまでに恐怖と嫌悪を刻みつけられている。敬愛していた肉親を自身の目前で奪われたサクは、どれほどの気持ちだっただろうか。

 護衛のハンターが必死の形相で彼を押さえつける中、冷たく嫌な風の吹き抜ける洞窟に、響き続けた絶叫が脳裏に走る。声が枯れても、洞窟から離れて車に乗っても、彼の全身を裂かれるような苦痛に満ちた呻きは絶えることはなかった。

 あの時、自分が腰を抜かさず走って逃げることができていたら。彼が自分を守ろうとしなければ、そしてその息子を教授が守らなければ。一体どんな未来があっただろうか。もしかしたら琴平親子は無事だったかもしれないし、むしろこうして自分達が生き延びることもできなかったかもしれない。

 

 それからのことはよく覚えていない。威圧的なギルドの役人からの調査もあったし、学舎の遺族への対応やら現場にいた者への事情聴取やらで目まぐるしかったような気がする。

 だが、後日の葬式で、抜け殻のようになってしまった彼を見るのが、モーネには本当につらかった。

 喪主であるサクの母親もつらそうではあったが気丈に振る舞っていた。そしてサクは、遺族として果たすべき役割を淡々とこなしてはいたけれど、よく輝かせていた黄金色の瞳からは光が消えてしまっていた。悲嘆のあまり涙すらも出てこないのだろう。そう思うと、己もこの結末を招いた一因であるということに、凄まじい罪悪感が胸を炙った。

 

 それから程なくして、同棲の話は取り止めとなった。いつしか、サクの姿を学舎でも見かけなくなった。そのうち、琴平教授の息子が休職届を出している姿を見たという噂が流れた。

 どうやら噂は本当だったらしい。モーネが帰り際にサクの住む寮の近くを通っても、灯りが付いている日の方が少なくなっていった。サクの傍に居たいと思ったけれど、今は人に会うことすら苦痛だろう。そう思うとどうしても一歩踏み出せないまま時間だけが過ぎていく。

 モーネは何度か心の治療を依頼して、ようやくこれまでと同じような日常生活を送れるようになってきていた。琴平教授が教えていた教科は、ぼそぼそと聞き取りづらい話し方をする教授が代わりに講義を行うことになった。

 彩りに溢れていた日々が味気なく感じるようになって、どれほど経った頃だっただろうか。会いたくて仕方のなかった人が訪ねてきたのは、大粒の雨が波紋を生み出し続ける夕方だった。

 

(きっと、あの時のわたしでは彼を支えるなんてできなかった)

 久しぶりに会った恋人は、顔色が悪いどころの話ではなかった。身なりは辛うじて整っているものの、明るく暖かい部屋に通すと、その容貌が明らかとなる。まるで死人のようになってしまった彼は、モーネと目が合うとその顔をさらに苦しげに歪めたのち、深く頭を下げた。

 雨の湿気を吸った黒い髪が、重力に従ってぱらぱらと下がってゆく。その様を見た時に理解してしまった。ああ、これで自分たちは終わりなのか、と。

 

──誰も悪くないって、頭ではわかってる。でも……このままじゃ、僕は大事なひとを恨んでしまうかもしれない。そんな思いを抱えたまま、モナさんの傍には居られない。

 

 やっとの思いで発されたであろう掠れた声は、全てを語ったわけではなかった。それでも、彼が言わんとすることはモーネには十分伝わっていた。

 もしもモーネを庇わなければ、とあり得たかもしれない未来を、頭の回る彼が考えていない筈がなかった。やり場のない感情を消化する為に、モーネを糾弾すれば少しは気が紛れるだろうに。

 苦しみの最中にあるこの期に及んで、彼はモーネを気遣ってくれている。優しいこのひとをこれ以上傷つけずに寄り添ってあげられたら、どんなに良かっただろう。

 時間が経つにつれて、珈琲の熱が香りと共に空気中に奪われていった。湯気すら立たなくなったそれらは、窓を止めどなく濡らす雨とは裏腹に、二つのカップの中で静かに佇んでいた。

 

──今まで本当に幸せでした、ありがとう。そして僕と付き合っている間、モナさんの大事な時間を奪ってしまって、ごめんなさい。

 

 紡ぎ出されるにつれて震えていった言葉に、モーネはたまらなくなった。よく共に食事をしたテーブルに手をついて通り過ぎ、力無く項垂れた彼を抱き締める。自分がなにを言ったのかは覚えていないけれど、とにかく彼の言葉を否定していた気がする。時間を奪われただなんて、微塵も思っていない。こんな惨い運命を辿らされた人が、自分自身を責める必要などこれっぽっちも無いのだ、と。

 傘から出ていた肩口はしとどに濡れて、ただでさえ低い彼の体温をさらに奪っていた。モーネは自分が濡れることなど考えもせず、冷たく骨ばった身体を強くかき抱いた。自分の背に彼の手が回ってくることは無かったけれど、程なくして聞こえてきた嗚咽が、彼の心情を何よりも明確に伝えていた。

 

 それからは空虚な時間だけが過ぎていった。失恋の悲しみ、などという言葉で片付けられるものではない。これまで彼がいた空間や聞こえてきた声、使っていた柔軟剤の匂い、そういった身近なものが全てなくなってしまった。

 失って初めて、彼が自分の中でどれほど大きい存在であったかを思い知った。まさか他人に興味を持てなかった自分が、これほどまでに誰かを想えるとは思わなかったから、心の冷静な部分で、場違いに感心してしまった程だ。

 これがお互いにとって最善の道であるということには、理解していたし納得もしていた。それに、不思議といつか再び同じ関係を取り戻したい、とも思わなかった。長く付き合いはしたし、彼がいなくなってぽっかりと虚は空いてしまったけれど、何故かそれを埋めるのは彼自身ではないような気がしていた。

 ただただどうしようもなく哀しい。それは事故に対してなのか、大切な人と別れざるを得なかったことなのか、不甲斐ない自分を呪ってのことなのか。感情の整理が必要だと思う一方で、実は自分を取り巻いているものは案外シンプルなのかもしれなかった。

 

 モーネはポットの中に残っていた、一杯分というには少ない茶をカップに注ぐ。渋みの強いそれを飲み下し、深く息を吸って吐き出した。

(──でもあの経験があったからこそ、今わたしはここに居る)

 あれから、随分と時間が経った。それまでの間には、それなりに仲を深めた相手もできたが、結局誰ともきちんとした交際をしないまま終わっていた。でも、別にそれで良いと思っていた。

 

 粗熱のような苦しみが過ぎ去ってしまえば、残るのは自分とその前に広がる道のみ。モーネはこれまで通り、自身の興味のあることにだけ集中することにしたのだった。

 社会の体裁を気にしないようになれば、驚くほど心が軽くなった。女性だから何歳までにどのようなキャリアを重ねる必要があるか、出産や子育てがあるから選べない道はどれか、などといった型に嵌めていた未来予想図を捨てた途端、この歳になっても可能性は無限大にあることを知った。論文も沢山書いたし、いつしかそれが上層部の人間の目に留まっていたらしい。

 いま新大陸古龍調査団としてここに居るのは、正真正銘自分で切り拓いた道の先で得たものだった。

 

 モーネは最後の一口を飲み干すと、カップを軽く洗って立てかけた。物思いに耽っていると、時間が経つのがあっという間だ。

 サクがこちらへ来るまでにはまだ一週間ほどあるし、また夜にでもゆっくり考えよう。

 

 ペーパーナイフを筆箱に仕舞い、椅子に掛けていた薄手の上着を羽織る。ドアを開けると、水の匂いと共にそれまで聞こえていた滝の音が大きくなる。

 部屋の鍵を掛けると、モーネは住居の建ち並ぶ長屋を後にした。




ずっとハーメルンにアップしようかどうか迷っていた話です。蒼赤本編から2年と少し後、青ナナの半年くらい前の話。
槍剣コンビ(今回はサクだけですが)やモーネの人となりについて掘り下げた番外編の前半でした。いかがだったでしょうか。後半も近いうちに投稿しようかと思っております。
よろしくお願いいたします。


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虚を照らす光 下

 

 

 太陽が最も高い位置に昇る頃には、アステラの賑わいもピークになっていた。朝方から調査に出かけていた調査員が、仕事を終えて昼餉を食べに戻ってきたり、彼らに振る舞う料理や食材の商いに精を出したり。そんな光景は、食事場以外でもちらほら見かけられた。

 所謂二等と呼ばれる、多くの調査員が利用する長屋からのアクセスはやや悪く、どこへ移動するにも一度流通エリアへと降りなければいけない。

 あちこちに吊るされている虫除けのハーブの香りも、飯時になるとたちまちかき消されてしまう。表情を緩めて昼食を頬張っている彼らを見ると、生きることと食べることは同義だとつくづく思うのだった。

 

 しかしモーネは、何かを口にする気分にはなれずにいた。音を立てて脈打つ胸から胃にかけての辺りが、すうすうと冷たく気持ちが悪い。何度深呼吸しても、拍動が落ち着くことはなかった。

 サクからの手紙が届いて、ちょうど一週間。今日がその約束の日だった。以前は仕事をずらすことができず、退勤してすぐに集合場所に向かったけれど、今日は一日休みだった。集中するものが無いと、止めどなく思考を占拠されてしまう。午前中は準備をしながら、ずっとそわそわしていた。

 

 もし、万が一復縁の話をされたとしても、寄りを戻すつもりは無いと答えよう。何にも気兼ねせずに自分の見つけた道を歩みたいからと。もうこちらで大事な人をつくるつもりは無いからと。

 頭ではそう思っている筈だった。それなのに、普段は気にしないような雀斑やしみにコンシーラーを乗せてしまったり、編みこんだ髪の束を引き出して抜け感を演出してみたり。

 これは人前に出る為に必要な身だしなみだと自分に言い聞かせている時点で、それだけでは無いという意識がどこかにあるのだろう。仕事以外で一対一で異性と会うのも久し振りだったし、気もそぞろになっている自覚はあった。

 

(まあ、でも。こんなに浮かれているのは、きっとわたしだけだわね)

 ピアスが耳朶の穴から外れそうになっていないか確かめて、モーネは深く嘆息する。

 夜ではなく昼時を指定する時点で、彼の誘いに下心が無いことが察せられた。そもそも双方共にどちらかというと淡白なほうだったし、そんなことは起こらないだろうとは思っていたけれど。彼はそういう線引きに関しては、潔癖な人だった。むしろそんな誠実さが、彼といる時間の中に安心感をもたらしていたのかもしれない。

 あれからずっと考えていたが、やはりサクに未練がある訳ではないのだと思う。ここ(新大陸)で、もしくは現大陸に帰って彼との家庭を築くビジョンは浮かばなかったし、ここまで来て自身のやりたいことを諦めるなどできる筈がなかった。

 だが、もし触れられたら戻れなくなりそうな危うい何かは、自分の中で静かに燻っていた。相手に幻滅して愛想が尽きた状態で別れることができていたなら、こんな浅ましい情はきっと残らなかった筈だというのに。

 

(ああ、今日は何の話をされるのかしら)

 それが早く知りたい。もしかしたらプライベートに全く関係のない仕事の話で、拍子抜けするかもしれない。それならいっそ安心するのにと思う自分と、少し落胆するであろう自分が共存していた。

 ふと、これは二年前のサクも同じだったのではないかと思い当たる。話そうとしていた内容が繊細な話題だった故に、彼を呼び出す手紙にはその旨を書けなかった。きっと彼も、同じように緊張していたに違いない。

 

 そんなことをぐるぐると考えながら居住区に張り巡らされた道を歩いていると、気づけば鍛冶場の前まで来ていた。暖かいアステラでは気温との差はさほどでもないが、入り口近くに来ると独特の臭いのある熱気がむわりと押し寄せる。

 絶えず響くベルトコンベアの可動音の中で、鞴が萎むたびにゴウ、と炉の炎が燃え上がる。しかし加工屋たちは皆手を止めており、熱された金属を叩く音は聞こえない。いつもはハンターの出入りが多いこの場所も、今は機械以外は休憩時間らしい。若頭もハンマーを置き、差し入れであろう味付きの握り飯を頬張っていた。

 

 モーネは彼らに軽く挨拶をしながら、巨大な炉を丸く囲うようにできた階段を上がっていった。無骨なパイプが張り巡らされている壁は若干不気味だが、そこを通り過ぎるとぽっかりと木製の出口が現れる。屋根のある踊り場に出るとまたすぐに階段が続いており、集会所へと続くリフトが上下するのがよく見えた。リフトを使わなくても、そのまま真っ直ぐに行けば、船を支える大岩に沿ってアステラのシンボルである船に着く。

 だが、モーネの目的は枝分かれした階段の先にあるテラスだった。集会所に行っても良かったけれど、そこまで行かなくてもここであれば海全体が見渡せる。

 

 ようやく階段の終わりが見えてきてほっとしていると、椰子が庇を作る道の先に、小さな旗のある屋根が見えてくる。一期団の人々も、この達成感のままにあの旗を付けたのではないかと思うと、なんだか可笑しかった。

「あら」

 モーネは目を瞬かせる。屋根の下には、先客がいた。上はインナーのみ、腰から下は防具という装いからしてハンターだろう。その後ろ姿には、見覚えがあった。

「アルトゥラス?」

 モーネが同期に声を掛けると、彼は──足音で既に気づいていただろうが──こちらを見た。気さくな彼は、五期団の後輩たちからはハンサム先輩、などというふざけたあだ名で呼ばれている。

 だが近くに行くにつれ、彼の目元と鼻が赤くなっていることに気づき、モーネは思わず足を止めてしまった。

「やあ、モーネ。悪いな、見苦しいところを見せた」

 アルトゥラスは鼻を啜り、口角を上げて見せる。だがうまく笑えていなかった。

 この高台はアステラだけでなく、古代樹の森も大蟻塚の荒れ地も、遠く広がる海も空も、雄大な大峡谷も、すべてが一望できる。この風景に縋りたくて、彼はここに来たのだろう。

 アステラで数少ない喧騒から離れられる場所ではあるが、辿り着くには鍛冶場の職人たちをはじめとした多くの人の目に留まることになる。だがそれらは、追い詰められた者への最後の一押しをしない為に、必要なのかもしれなかった。

「わたしこそ、邪魔をしてしまったみたいね。もし嫌なら離れるわ」

「いや、いいんだ。……今日は彼女の、命日だから。誰かが傍に居てくれるなら、有り難い」

「レジーナ……そう、そうだったわね。もうそんなに経ってしまったなんて」

 アルトゥラスの横顔には、愛する人を喪ってから、未だに癒えない寂しさと悲嘆が滲み出ていた。心底大事そうに指輪を撫でる手つきは、哀れだった。

 目を閉じると、彼の隣でいつも微笑んでいた、亡き同期の顔が瞼の裏に浮かぶ。聡明な彼女は、陸珊瑚の台地に起きた異変を真っ先に察知した学者だった。そして寄生された冥妃(イビルジョー)に喰われていく順番の中に、数えられてしまった人でもあった。

「どうか、あまり気を落とさないで」

 無理なことを言っているのは分かっている。だが、今のモーネにはこれ以外の言葉が浮かばなかった。

「ありがとう」

 アルトゥラスは滲み出てきた涙を押し隠すように目頭を指で拭い、俯いた。普段明るく振る舞う分だけ、押し隠したつらさは蓄積される。この組織に限った話ではないが、何か大きな苦痛に曝露した時、他人に弱みを見せられない人間から潰れていってしまう。

 けれど、苦痛の根源である大切なものを喪う悲しみばかりは、他人にはどうすることもできない。時間が苦痛を和らげてくれるのを待つのみだ。モーネも、これ以上仲の良い同期を喪いたくはなかった。

「わたしも、お墓に行くわ。あの娘に……レジーナに、会いに行こうと思う」

 モーネが微笑み掛けると、アルトゥラスは少し目を見開いてこちらを見る。それから顔をくしゃくしゃに歪め、頷いた。

 その時、どこまでも続く紺碧にぽつりと浮かぶ船が視界の端に映り、モーネは顔を上げた。アルトゥラスのことは気掛かりだったが、モーネに見せた表情からは、すぐに行動に移してしまいそうな危うさは読み取れなかった。

 モーネはいつでも相談してほしいという旨を伝え、その場を後にして階段を駆け降りた。

 

 

 

 波が打ち寄せるたびに、磯の匂いが身を包む。大きな荷物を抱えて船を降りてくる人々の中に、癖のある黒髪が見えた。サクはこちらを認めると、笑って手を頭のあたりまで上げた。

「モナさん。出迎えありがとう」

「サク君も、わざわざ来てくれてありがとう。たまにはわたしをセリエナに呼んでくれてもいいのよ?」

「フフ、それなら案内ルートを考えておかなくちゃね。そうだ、これ良かったら。ほんの気持ちだけど」

 後に続いて降りてくる人々の邪魔にならないところまで来ると、サクは持っていた包みを渡す。

「まあ、ありがとう。何かしら」

「お酒のチョコレートにしてみたんだ。ブレスワインのフレーバーとか、何種類かあるんだって。モナさん、こういうお菓子が好きかなと思って」

 包みには、シンプルだが美しいデザインの箱が入っていた。モーネの好みを覚えていてくれただなんて。喜びと共に、年下の彼に気を遣わせてしまったことに引け目を感じ、モーネは眉を下げた。

「ごめんなさい、こんな素敵なものを貰えると思わなくて、何も用意してなかったの。今日はわたしが奢るわね」

「いいよいいよ、僕の気持ちだから」

 サクは柔らかく微笑んで首を振る。その眼差しには、すっかり光が戻っていた。

 モーネは目を瞬かせる。元々優しくはあったけれど、昔はここまで気が回るような人ではなかったのに。この場所には居ない誰かの影を感じ、モーネはサクをちらりと見て、再び箱へと視線を戻した。

 

 ピークを過ぎると、食事場の混雑は落ち着いてきていた。忙しなく働いていたアイルー達も、やれやれといった様子で皿を磨いている。

「そういえばお昼は食べたの?」

 階段を上り終えたモーネが問い掛けると、サクは頷いた。

「船の中で簡単に済ませてきた。モナさんは?」

「わたしもよ。それじゃあ、ここじゃなくて上に行きましょうか」

 本当は食べていないけれど、いちいち言うこともないだろう。そう思い、リフトを指差す。最初から一気に上ってしまっても良かったのだが、せっかくなら歩きながら話そうと思い、アステラをぐるりと囲むように続く階段を選んだ。

 セリエナ暮らしの長い彼には酷かと思ったけれど、フィールド調査は続けているようで、難なく着いてきていた。そんなモーネの考えていることを察したのか、サクは悪戯っぽく笑う。

「明日は筋肉痛かも」

「あら。まだ翌日なだけ良いじゃない」

「えっそれどういう意味」

「いつか分かるわ」

 モーネが遠い目をすると、サクはひくりと顔を引き攣らせた。そんな冗談もそこそこに、下から上ってくる鎖にリフトを引っ掛け、小さな足場へぐっと体重を乗せる。数年前は乗り場に一つしか無かったけれど、今はいくつか予備があるので、サクも続いて足を掛けていた。

 ここまでは、いつも通りだ。モーネはサクに気づかれないよう、静かにゆっくりと詰めていた息を吐き出した。

 彼とは新大陸で再会して以来、仕事のやり取りをすることもあったし、他の同期を交えて食事をすることもあった。けれど意識的に二人きりになることは無く、あくまでも同じ組織に所属する人間として、良好な関係を保てていたと思っていた。

 サクの表情からは、言いたいことは読み取れなかった。ということはやはり、仕事の話なのか。もうすぐで胸のつかえが取れる安堵と、まだ何を言われるか分からない不安が入り混じっていた。

 

 

 

 船の甲板にある集会エリアは、人の姿は疎になっていた。クエストの斡旋やサークルの管理をする受付嬢たちやアイルーの姿がいつもの場所にいないからと見渡すと、それぞれが思い思いに散らばっている。

 彼女らは籠いっぱいの色とりどりの花を、集会所のあちこちに撒いていた。そういえばもうすぐ開花の宴か、と思い出す。考えてみれば、朝に植生研究所の若所長が調査員に大きな籠を押し付けていたのは、それだったのだろう。

 

 期団旗の並べられた奥の席に歩いていくと、給仕アイルーが駆け寄ってきた。今日は暖かい為、モーネはアイスラテを注文する。セリエナとの交易船が出るようになってから、ようやく乳製品が手に入るようになった。飼育に向かないケルビでは、子を持つ母親から乳を搾ることなど到底できない。

 冷やされたおしぼりで手を拭うと、指先や手首からすっとした心地よさが広がる。ふとサクの方を見ると、使い終わったそれはきちんと畳まれていた。新大陸に来てからも染まっていないのだな、と思わず小さな笑いがこぼれ、それをきっかけに取り止めのない雑談を交わす。

 ややあって、飲み物が運ばれてきた。今日ばかりは向こうも冷たい珈琲を注文しており、広いテーブルに二つのグラスが並ぶ。

 間に第三者を挟まないことで気まずくならないか、と心配していたけれど、杞憂だった。まるで付き合っていた頃に戻ったかのようだ。

 

 やがて、自然な話の終わりを待っていたかのように、サクが再び口を開く。

「それでね。手紙のこと、なんだけど」

「ええ」

 彼は下唇を巻き込み、一つ息を吸って吐き出す。それから意を決して、こちらに眼差しを向けた。

「籍を、入れることになりました」

 モーネははじめ、何を言われたのか理解できなかった。目を瞬かせる僅かな時間のうちに、その意味が頭に浸透していく。気づけば、口が勝手に動いていた。

「そうなの。おめでとう、サク君」

「ありがとう」

 自分はうまく笑顔で祝福できていただろうか。だがサクの安堵したようなはにかみに、自分の表情筋と声帯がマニュアル通りに動いていたことを知る。

 その一方で内心は「ああ、道理で」と凪いでいた。彼の雰囲気の変化や、どこか薄い紙を一枚隔てたような距離感は唯一と決めた相手ができたことが理由だったということだ。同時に、気掛かりが解決して、自分でも驚くくらいにあっさりと溜飲を下げていた。

 モーネは手元のカフェラテを口に含む。いつしか氷が溶けて、上の層に透明な水の膜を張っていた。ミルクが入って、より下の濃厚な液体との分離は顕著になっている。

「こんなこと、お付き合いしていた相手に言うのは非常識だろうし、直前まですごく迷ってた。でもモナさんには、どうしても伝えなきゃって。──いや、ごめん。そんなことを言って、本当は僕がすっきりしたかっただけなのかも」

 サクが頭を下げる。モーネは首を横に振った。

「何を謝ることがあるの? 喜ばしいことじゃない」

 モーネの言葉を聞き、サクは眉を下げながらも微笑んだ。恥ずかしそうに絡めた指に、指輪は嵌っていない。気を遣われたのだと分かった途端、胸に苦いものが広がった。

 

「お相手、聞いてもいいかしら」

 サクはこくりと頷く。彼が答えたのは、モーネも知っている人物の名前だった。予想外の返答に、モーネは思わず目を見開いてしまう。

 かつて街で見かけた親子連れを目で追っていたあなたが。よりによって、自身の血を引いた子どもを一生望めない相手を選ぶだなんて、と。諦めにも似た、しんとした何か冷たいものが広がる。

(いえ、これは思い上がりね。きっとそうじゃないんだわ)

 憧れの父の背中を追って学者になるという夢も、我が子を誰かと共に育てていくという夢も。青少年の頃に抱いた夢を、すべて捨てざるを得なかった彼の人生の中で、ようやく掴み取った幸福の形なのかもしれない。

 自分たちは同じ時に同じ場所で痛みを共に感じた。しかし、それを舐め合い昇華していくことのできる道には居なかったのだろう。

 以前サクは、二年前の陸珊瑚の台地での事故で、あの時と同じような苦しみを味わったと溢したことがある。きっとその相手は、その苦しみごと彼を包み込むことができる人だったから、そのひとと共に生きることを選んだのだろう。大切なひとの傍に居られる権利を守る為に、それを他の何者からも崩されることが無いように。生涯を共にする契約で、ふたりを結んだのかもしれない。

 昔の彼のことをよく知っていたから、その分だけ彼の心情に想いを馳せることができてしまう。なんという皮肉だろう。

 

 悲しくはなかったけれど、受けたショックは大きかった。めでたい話だというのに、彼に見せる笑顔の一方で、心ノ臓は冷たく脈打っている。

 一度はまともに生活を送ることすら難しいほどに心を病んでしまった彼が、時を経て人生を取り戻すことができた。そして、愛する人を見出して再び前に進もうとしている。もう彼は自分だけの大事な人ではなくなってしまったけれど、一安心ではないか。

 サクに会う前にも、自分の胸の内を何度も確かめたのに。無駄な努力で終わるかもしれないと思ってはいた身支度も、まさかこんな形で徒労となるなんて。別に彼は悪いことはしていないのに、どうしようもなく惨めな気持ちになった。この歳にもなって自分の感情を揺らがせるなど、なんとも情けない。

 もやもやと荒れる心情を置き去りにして、口からは馴れ初めはどうだったのかやら、式は行うのかやら、いかにも心から祝福しているかのような言葉を吐き出す。

(あ、そうか)

 顔を赤くして俯きながら質問に答えるサクを見ているうちに、モーネは自身の感情の形を見出したような気がしていた。

 半分ほどにまで減ったカフェラテの中で、氷が溶けて沈む。その一方で、冷たい珈琲ははじめと比べて水の膜こそできているものの、グラスの外側を結露させるばかりだった。

 

 

 

 あれからどれくらい一緒にいたのか、いつ別れたのかよく覚えていない。確かなのは、自分の部屋に戻ってきたのはモーネ独りきりということだけだった。

 湯浴みをする元気も出ず、髪を解くとそのままベッドに倒れ込む。窓枠の中の赤い空に、トウゲンチョウが舞っているのがぼんやりと見えた。

 

 傷ついている訳ではないと思う。元婚約者が別の人と結婚していたことそのものへの嫉妬、というのも違うような気がする。

 ただ、置いていかれたと感じてしまった。自分で仕事を最優先にすると決めた筈なのに。自分が自信を持って行きたいと思った選択肢を一つ一つ辿ってきて、論文だけでなく本も出せるほどに成果を積み上げてきたのに。それが、幸せそうな彼の姿を見て、根本から揺らいでしまったような気がしていた。幸福など、他人が決めるものでもないというのに。

 元々サクと付き合っていた時も、彼との日々自体も大切だったけれど、その心底にあったのは自分も社会のレールに乗れているという快感だったのかもしれない。はみ出ていると散々言われ続けていたけれど、自分もきちんと誰かと沿うという女らしい生活に適応できているのだと。周囲から求められるものを自分は持っているのだと。

 そんな自分自身の、サクの存在さえも自己顕示欲の一部として消化してしまっていた醜さに吐き気がする。勝手に裏切られたような気になっていたが、結局自分のことしか考えていなかったのだ。触れた彼の体温も、共に過ごした時間も、きっと無駄ではない。それなのに、一度生まれてしまった虚しさは、夜の間じゅうずっと、眠りに誘う手を払いのけ続けるのだった。

 

 ふと、サクにもらった包みを思い出す。ベッドに放られたその中身を開けると、ふわりと酒精の混じる薫香が鼻を通り抜けた。箱の中には、一口大の可愛らしいチョコレートが六つ並んでいた。

 それらのうち、ハート型のチョコレートを齧る。中にはとろりとしたガナッシュが入っており、咀嚼のたびにチョコレートの甘さとほろ苦さ、そして林檎(シードル)の甘い香りと共にアルコールが舌の奥を焼く。普段であれば美味しいと感じるであろうその味も、今は孤独を助長させるばかりだった。溶けたチョコレートを嚥下する前に、もう半分も口の中に放り込む。

 

(ああ、今すぐに温かい珈琲が飲みたい)

 砂糖もミルクも入れずに、口内の甘さと消えない香りを、喉の火照りを洗い流してしまえるように。眠気に邪魔されることなく、明日使う資料を書き上げられるように。だが今は湯を沸かすことすら億劫で、代わりに水瓶から汲んだ水を口に含む。

 そうだ、これが今の自分の生き方なのだから。もう誰にも、自分の中の邪念にすら妨げられることはない。わたしには、これで十分だ。モーネはベッドの奥にある本棚の、自分がこれまで書き上げてきた論文の束をいくつもそっと撫でていった。面の柔らかな手触りは、鋭く指先を切ることも無い。

 これからも、また地道な研究を一つ一つ積み上げていこう。きっと満ち足りることは無いのだろうけれど、それらは自分自身の道標となる筈だ。

 灯りとなる虫籠の中でふわふわと鮮やかな緑の光を放っていた導虫は、嗅ぎ慣れない甘い匂いに反応してか、常よりも明るく体を光らせる。それを眺めているうちに、ざらついていた心がいくらか落ち着いてきた。

 明日はこれまでの研究発表を行う学会が控えているため、忙しくなる。早いところ身体を休めて、英気を養わなければ。それに、今日行けなかったお墓参りにも行きたいところだ。

 

 狭い部屋を隔てる薄い壁の向こうからは、同期の楽しげな声が聞こえてくる。大方宅飲みでもしているのだろうと思いながら、モーネは下着と寝間着を引き出しから引っ張り出した。

 その時、はらりと紙が床に舞い落ちた。それは昨夜も眺めていた、とうに終わった花火大会のチケットだった。モーネはそれを千切り、屑籠へと捨てる。これはもう、必要ない。綺麗な花火とあの日の熱は、記憶の中に留めていれば良い。

 

「結婚おめでとう、サク君」

 本人には決して聞こえる筈のないその言葉を、モーネは独りベッドに腰掛けながら呟いた。

 




 ここまでお読みくださりありがとうございました。というわけで、青ナナに繋がるモブの背景でした。
 モーネの心情をとっても簡単に言うとしたら、きっと「あの野郎ーー!!!!」です。本人に未練は無くても、自分が必死にキャリア積んでる時に元彼が結婚してたらそりゃあモヤモヤする。でもやはりモーネは誰かと結婚することで得られる幸福を望んでいた訳ではないので、幸せの形は色々あるよねということで書いてみたかった話でした。
 最後のお酒チョコですが、ウィッチシードルはスノウホワイト(凍て地のレアフキノトウ)入手で選べるようになるお酒ということで、サクの心はあちら(セリエナ、凍て地)にあるという暗喩にしました。


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