妖魔世界図 (オンドゥル大使)
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第一章 旅館幽霊篇(8月15日)
第一話 夜を征く者達1


『慰安旅行を計画しようと思うのですが――』

 

「断る」

 

 一言で切り捨て、電話口から次の言葉が発せられる前に電話を置いた。

 

 通話を示す明かりが消え、帷(とばり)レンは息をつく。春日(かすが)から突然かかってくる電話は、いつだってよくない通知ばかりだ。

 

 春画師という仕事柄、お世辞にも胸を張れない連中とつるむことが多い春日に関われば自分まで腐ってしまうような気がする。せめて顔を合わせる必要のない日ぐらいはゆっくりとしたかった。落ち着いて、茶でも飲もうと電話から離れようとした直前、またも電話が鳴った。レンは電話を取り、「もしもし」と声を吹き込んだ。

 

『ああ、よかった。繋がって。急に切らないでくださいよ。間違ってかけたかと思ったじゃないですか』

 

「お前は間違ってかけた相手に慰安旅行を提案するのかよ」

 

『やだなぁ、レン君。そうカリカリしないでくださいよ』

 

「お前からの電話は嫌な予感しかしねぇんだよ。で、用件は?」

 

『ああ、そうそう。慰安旅行を――』

 

「断る」

 

 再び電話を置こうとすると、電話口から『ちょっと! ちょっと!』とこの男にしては珍しく大声が返ってきた。レンはため息をついて電話を耳に当てる。

 

「なんだよ」

 

『何もそう嫌がることないじゃないですか。いつもお世話になっているから、こうして慰安旅行を計画しようとしているんですから』

 

「いつもお世話してやっているから、察してくれるんじゃねぇのかよ」

 

『レン君の気持ちも分からないでもないですけど。最近、疲れることも多かったでしょう? 学校もようやく長期休暇に入ったんですから。本来なら学生であるレン君にも休んでもらおうと思うのは当然でしょう。この機会に羽根を伸ばしていただこうと思いまして』

 

「疲れることの九割がお前の持ってきたことだろうが。学生が長期休暇に入ったこと知ってんのなら、なおさら余計なことでかけてくんな」

 

『まぁまぁ。最近暑くなってきましたし。どうですか、温泉でも』

 

 レンは窓の外に視線を投げた。高く遠くまで望める青空が広がっており、太陽の熱線がじりじりと空気を焼いていく。地表から湧き上がるむんとした空気は窓一枚で隔てられているが、それでも部屋が完全に涼しいわけではない。電話の対角線上に位置するカタカタ音を立てる扇風機がなければ、夏を乗り切ることなどできないだろう。

 

「男同士でか? 気持ち悪いっての」

 

『いけませんかねぇ……』

 

「いけませんかね、ってなんだよ。生憎だが、俺にはそっちの趣味ねぇからな。ただでさえ暑いのに、しょうもない想像させんな、馬鹿馬鹿しい。じゃあな。この夏はてめぇにだけは会いたくねぇ」

 

 電話を切ろうとしたその時、電話口からぼそっと声が聞こえてきた。

 

『……アカリさんも来るんですけどねぇ』

 

 その言葉に、レンは手を止めた。数秒間、身体を硬直させた後に電話を耳元まで持ってくる。今度は春日の声がより明瞭に聞き取れた。

 

『アカリさんにもう言っちゃったんですけどね、レン君も来るって。でも、来れないのなら仕方がないですよね。それでは、レン君は不参加ということで……』

 

「ちょっと待て」

 

 レンは話を区切ろうとする春日の声を押し止め、額に手をやって思案を巡らせた。レンを呼び止めるために春日の思いついた嘘という線も捨て切れない。しかし、もし本当だった場合、アカリが春日と二人きりという最悪の想定が思いつく。

 

 もちろん、アカリはよしとはしないだろうと考えられるが、アカリならば一度交わした約束を裏切ることもまたしないだろうというのが、幼馴染である自分の結論だった。レンはできるだけ落ち着いた口調で、取り澄まして応じた。

 

「誰も行かないとは言ってないだろ」

 

『僕とは会いたくないんじゃないでしたっけ?』

 

 わざとらしく確認してくる春日に苛立ちを覚え、電話を叩きつけたくなったがその衝動を必死に押し止めて冷静沈着な自分を演出する。

 

「あれは冗談だ。仕事仲間に会いたくないわけがないだろ」

 

 我ながら心にもない台詞だと思いつつ、発した直後に胸焼けのようなものを感じた。どうやら身体が拒否反応を起こしているらしい。それほどまでに今の言葉は不快感を催すものだったようだ。

 

『では、慰安旅行はどうします?』

 

 あくまでもレンの口から言わせたいようだ。

 

「行くよ。行けばいいんだろ」

 

『そうですか。では、レン君参加、っと』

 

 予定調和のように返された言葉に、レンは行く前からどっと身体が疲れたのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 焼け付く日差しが重たく瞼の上に連なり、頭痛を伴わせて身体を包む。

 

 激しい陽光を白い地面が反射して、憎々しいほどの高温に晒された身体の節々が悲鳴を上げる。

 

 その逆光を背にして、一軒の平屋が立っていた。木造でさほど大きくもないのだが、この坂道は平屋の主の土地らしい。道の両端に小さな木々はあるが木陰を生み出すほどではなく、夏は暑く冬は寒い最悪の坂道だった。

 

「……呪うぜ、高畑のジジィ」

 

 恨み言を呟いてみても暑さが半減するわけではない。レンは着実に一歩ずつ坂道を重い足取りで進み、ようやく踏破して来た道を振り返った。

 

 急勾配、という言葉が似合う道だ。レンは「高畑」と刻み込まれた玄関の表札を見やってから、扉を叩いた。二、三度叩くと、中から扉が開けられる。現れたのは若竹色の着物に身を包んだ初老の男だった。頭の上には同じ色の帽子を被っている。丸眼鏡の奥の眼がレンを見下ろすと、男はつまらなそうに呟いた。

 

「なんだ、レン坊か」

 

「なんだとはご挨拶だな、ジジィ」

 

 男がくるりと身を翻す。レンはその後に続いて家の中に入った。

 

 家と言っても、普通の家のように玄関がまずあるという造りではない。扉を抜けるとまずあるのは大きく間取りが取られた空間に、本棚の群れである。中央付近にはガラスケースの中に本が広げられて展示されている。

 

 ここは店なのだ。

 

 だが、本が置かれているからといって書店や古本屋を期待してはならない。

 

 レンはガラスケースの中の本に視線を飛ばす。

 

 男と女がくんずほぐれつしている姿を簡素な筆致で描いたものが大っぴらに広げられている。本、というよりは一枚の絵画のようである。端のほうが僅かに変色しているが、見劣りするものではない。それが何なのかは春日の下で嫌というほど見せられた。

 

 それは春画である。

 

 ここにあるのは多くが江戸時代に作られたものだ。高畑と春日は珍しい春画を集めては交流する仲であったが、高畑が出不精であるのとレンが春日の事務所に現れるようになってからは二人の橋渡し役として、主にレンが出向くことになっていた。高畑は、レンではとてもではないが届かないほどの値で春画を流通させているその道のエキスパートである。

 

 春日曰く、「あの人の売る春画を一枚でも買えたら、それは一生の価値に匹敵する」とのことらしいのだが、レンにはそれは一生を棒に振るのと何が違うのか分からなかった。

 

「引きこもってエロ本愛読して、何が楽しいんだよ」とレンはこの交流が始められた当初、二人によく言ったものだが、二人の返答は決まっていた。

 

「芸術を愛好するのには方法が幾つもあるが、もっとも愛する方法は決まっている。自身の手元に置くことだ」と尋ねる度にそう答えられるので、もうレンはそんな疑問を浮かべることはなくなった。

 

 当の高畑といえば、奥にある畳敷きのカウンターの中で扇子を開いて服の間に風を送っている。暑いのならばもっと軽装にすればいいのに、とレンは思ったが、この男なりの矜持なのだろう。高畑はいつでも同じ服だった。あるいは正装とでも思っているのかもしれない。

 

「なんだ。何か言いたそうだな、レン坊」

 

「別に。何でもねぇ。それよか、春日に頼まれていた奴。あんのかよ」

 

「ちょっと待ってろ。今、入れっからよ」

 

 高畑が慎重な手つきで箱に巻物を入れる。それほどに高価なものなのだろうか。既に金は支払い済みだと聞いたが、どれほどのものなのだろう。レンは気まぐれに訊いてみたくなった。

 

「ジジィ。それ、いくらぐらいすんの?」

 

「国が傾くくらいだな」

 

 すぐさま返ってきた声に、思わずレンは目を見開く。高畑は目を大きく開き、にたりと笑う。妖怪めいたその笑みにぞくりと総毛立った。

 

「冗談だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 箱を受け取り、レンは帰路についていた。

 

 坂道を下り、街中へと向かう。高畑の家は街の中心部から少し外れた場所にあり、二十分ほど歩かなければ街へと向かうバス停にすら辿り着けない。

 

 バスに揺られながらレンは、今持っているものがもしバスの中で広がったら自分は捕まるのだろうか、と考えた。

 

 その場合の罪状とはなんだろうか。

 

 公然わいせつ罪だろうか。

 

 ならば、とレンは二つ前の座席に座っている中年男性を見つめる。

 

 彼はバスの中で十八歳未満お断りの動画を観ているようだった。立っている女子中学生がちらちらとその男性を見て、何かしら呟いている。中年男性には聞こえないようで、動画を食い入るように観ている。

あれも何かしらの罪にはなるのだろうか。決めかねているうちに、中年男性も女子中学生も降りて、レンも目的の場所に辿り着いて降りた。

 

 色とりどりの金魚の提灯が軒先に居並び、煌びやかな装飾と涼しげな鈴の音が、熱砂の塊のようなアスファルトの街の中に響き渡る。

 

「もうすぐ、祭りの時期か」

 

 金魚を御神体とするこの街――金海市にはこの季節になると涼しげな装いの金魚の置物や提灯がぶら提げられる風習が古くから根付いている。金海祭りでは金魚すくいなどは禁止されており、御神体として崇めるだけに留まっていた。

 

 そのためか、金魚そのものの生息数はほとんどないが、金魚を象った代物は多い。時期を問わず、街を出歩けば出目金に会うことができる。

 

 レンは華やかな街頭を抜け、裏通りに入った。提灯がたゆたう光の列が消え、人工の明かりが静かに照らし出す夕暮れの街の最深部に、雑居ビルがある。全体的には小豆色のモダン風の建物なのだが、どこかじめっとした印象を与えるのはこの雑居ビルの主のせいかもしれない。

 

 入りかけると、「おぅい」と呼ぶ声がしてレンは顔を上げた。雑居ビル同士を繋ぐように走る電線に目を向け、それの元である電柱に視線を転じると、電柱の上で手を振っている少女を見つけた。電柱の上に座っており、足をぶらぶらとさせている。レンはため息をついて、額を押さえた。

 

「馬鹿。何やってんだ。降りて来い」

 

「ここが都合いいんだよー。見晴らしもいいし」

 

「そいつは結構なことで。でもよ、見えてんぞ」

 

「何が?」

 

「黒」

 

 少女はバッとスカートを押さえ、レンに向かって飛び降りてきた。

 

 ふわりと風を服に纏わせながら、木の葉のように着地した。

 

 胡桃色のショートボブで後ろに尻尾のように長い髪をひと括りにして垂らしている。黒の短いスカートに、エプロンドレスのような服装である。頭から猫耳が生えており、金色の眼が好奇の光を伴ってレンを見つめた。少女は上目遣いの涙目でレンに抗議した。

 

「見るなんてサイテー」

 

「お前があんなとこにいんのが悪いんだろうが。いいのかよ。その姿で」

 

「誰にも駄目だって言われてないもーん」

 

 少女は歌うようにそう言ってくるくる踊った。レンは周囲を気にしながら、「目立ちすぎんなよ」と告げた。

 

「今日、何軒怪しい店に誘われた?」

 

 少女はその言葉に唇の下に指を当てて考え込んだ。

 

「えっと……、四軒くらいかな」

 

 その言葉にレンは呆れたため息を漏らす。この容姿のせいで怪しい店からの勧誘をよく受けるのだが、本人は意に介していないらしい。おかげで周囲の人間のほうがあたふたするはめになる。

 

「でも、今日は少ないほうだよ?」

 

「そういう問題じゃねぇっての。お前、自分のこと分かってんのか?」

 

「女の子」

 

「じゃなくってだな、その姿の時はいいとしよう。でも、なんかのはずみで戻ったりしたらだな――」

 

「そんなドジ踏まないもーん」

 

 少女はまたくるくると踊りながら、笑みを咲かせる。能天気ここに極まれりだな、と息をつきながら、レンはここまで心配してやるのも馬鹿らしいと結論付けた。本人が気にしていないのならばいいだろう。

 

 人間である自分とは生きている軸が違うのだ。

 

 少女のスカートの中から二本の尻尾がひょっこり出ている。髪の色と同じ、胡桃色の尻尾をレンは掴んで思い切り引っ張った。

 

 少女がびくりと肩を震わせ、髪の毛が逆立ったかと思うと、その姿がポンと消えた。

少女のいた場所には一匹の猫がいた。二股に分かれた尻尾を持っており、毛の色は胡桃色だった。猫は全身の毛を逆立たせる。

 

「見ろ。こんなすぐに元に戻っちまうじゃねぇか。尻尾掴まれたら終わりなんだから、もうちょい危機感持てよな」

 

「うっさい! レン君のバカ!」

 

 猫の口が動き、そう言葉を発する。レンは猫の額を指先で小突いた。

 

「馬鹿はお前だ。猫の状態で喋るな」

 

 猫は前足で小突かれた額を拭いながら、恨めしそうな眼で言った。

 

「レン君だから喋っているんだよ。他の人には喋らないもん」

 

「そういう問題じゃねぇっての。猫の状態でも二股の尻尾が目立つんだから大人しくしてろ」

 

 その言葉に、猫は前足で目元を擦りさめざめと泣く真似をした。

 

「レン君のケチ。あたしはこんなにも苦労してるって言うのに……」

 

「嘘つけ。苦労している奴はのほほんと人間形態で出歩いたりしねぇよ」

 

 レンは箱を持ち直し、猫の頭をもう一度撫でて立ち上がった。

 

「じゃあな。俺はこれを事務所に持ってかなくっちゃいけないんだ」

 

「それ何? おいしいの?」

 

 猫が前足でレンの足に寄り添い、這い登ろうとする。レンは屈んで、猫の額にデコピンを食らわせた。

 

「馬鹿丸出しの発言してるんじゃねぇよ。春日の荷物だ」

 

「春日さんの? ああ、えっちな奴か」

 

 猫はデコピンされた額を掻きながら、得心したように頷く。その後、口元に前足をやって、

 

「まさか、レン君。ついにそういう興味が……!」

 

 嘆かわしい、とでも言うように叫んだ猫の耳をレンは引っ張った。

 

「んなわけねぇだろ」

 

「痛い! 痛いよ! 動物は大事に!」

 

「大事にして欲しい動物は、自分でそんなこと言わねぇよ」

 

 耳から手を離し、レンは歩き出した。その背中へと猫が声をかける。

 

「レン君。アカリちゃんは引いちゃうかもしれないけど、あたしはえっちなのが好きなレン君も大好きだよ」

 

 レンは立ち止まり、苦虫を噛み潰したような顔を振り向けた。

 

「アカリのことを引き合いに出すな。あと、猫に好かれる趣味はねぇ。じゃあな、ミャオ」

 

 ミャオと呼ばれた猫はその名の通りの鳴き声を返して、ゆっくりと路地裏の闇の中へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春日の事務所は一階が書庫になっており、二階が事務室である。

 

 レンはまず階段を上り、事務室に向かうことにした。事務室に入ると同時に、むわっとした熱気が身体を包んだ。窓を開けておらず、冷房も入っていないのだ。

 

 テレビはついているが、音量がほとんどないために、外の蝉の鳴き声のほうが大きいくらいである。レンはソファに寝転がっている男を視界に捉えた。服装は白いワイシャツに、スーツのズボンだ。読んでいる本は村上春樹訳のサリンジャーの作品『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。

 

 息をついて箱を執務机の空いているスペースに置くと、男へと歩み寄り、その腹へと拳を振り下ろした。男が呻き声を上げ、本が宙を舞う。頭に当たりかけた本を空中で受け止めて、レンは腹を押さえて蹲っている男を見下ろした。

 

「起きろ、春日」

 

「……もう、起きてますよ。なんですか、藪から棒に」

 

 その言葉にレンはずいと顔を近づけて言い放った。

 

「俺が暑い中、お前の使いで行ってやったのに居眠りとは大層な身分じゃねぇか。え?」

 

 春日はずれた眼鏡の角度を直して、「まぁまぁ」と取り成すように言った。

 

「怒らないでくださいよ。レン君には感謝しているんですから」

 

「感謝しているんなら、それなりの待ち方っていうのがあるだろうが」

 

「高畑さんから預かってくれましたか?」

 

「ああ、執務机に置いといた」

 

 春日は執務机へと向かい、黒い箱を見てプレゼントをもらった子供のように目を輝かせた。

 

「開けていいですか?」

 

「……どうぞ」

 

 対照的にレンは半ばげんなりとした様子で返す。なにせ中に入っているのは、子供の純粋な心とは正反対の大人のための絵巻なのである。春日が箱を開け、中から巻物を取り出して、ほうと感嘆した声を漏らす。

 

「さすが高畑さんだ。一級のものを用意してくださったようですね。どれどれ、保存状態は……」

 

 春日が白い手袋をつけ、ゆっくりと巻物を解き広げていく。レンは事務室のエアコンの電源を入れた。首から風を入れながら、「どうだー?」と声をかける。春日は何度も頷き、眼鏡の奥の瞳を細めた。

 

「素晴らしい。レン君も見ますか?」

 

「俺はいい。どうせ、春画だろ」

 

「まぁ、春画ですが。写本ですけど、これほど良好な保存状態のものも珍しい。一見する価値はあると思いますけどね」

 

 レンは春日にかなりの数の春画を見せられているために今更見る価値のあるものなんてないと思っていた。そもそも、芸術作品に自分は疎いのだ。

 

「そういや、ミャオを見た」

 

 先ほど事務所の前で見かけたミャオの話を振ると、春日は巻物を元に戻しながら、「よく見かけますよ」と返す。

 

「彼女も大変ですね。猫として生きるわけにもいかず、人間として生きるのも難しいなんて」

 

「あいつにそんな悲壮感があるとは思えないけどな。猫娘なのに、普通にその辺出歩いているし」

 

 ミャオは人間ではない。

 

 長いこと生きた猫が人間の姿かたちを取る『猫又』と呼ばれる種類の妖怪に属している。

 

 だが本人にその自覚は全くと言っていいほどなく、妖怪界隈では変わり者の妖怪として忌み嫌われ、人間として生きるにはその習性が邪魔をしている。

 

 春日の言うように普通ならば悲哀を誘うような生き方だが、当の本人は自身の境遇をさほど不幸とも思っていないだけに、周りが可哀想がっても仕方がないとレンは思っていた。

 

 ミャオという名もいつから付けられていたのか分からないらしい。

 

 春日とも交流があるが、これは春画の関係ではなく春日のもう一つの顔のせいだ。

 

 どこかの大学で民俗学を教えているらしく、何度か教壇にも立ったという。

 

 まだ子供のレンには嘘か真かを判断する術はない。ただ春日が妖怪や霊的なものに詳しいのは確かで、その知識に何度か救われたことがあるのも事実だった。ミャオを人間と妖怪の板ばさみから救ったのも春日だと聞くが、それも真偽のほどは分からない。

 

 春日は巻物を箱に戻し、レンを呼んだ。

 

「これを下の書庫に持っていってくれますか。今じゃなくても、帰りでいいので」

 

「俺は今すぐ帰りたい気分だけどな」

 

「まぁ、そう言わずに。明後日の慰安旅行の打ち合わせもありますし」

 

 春日が執務机から手帳を取り出し、万年筆を片手に予定を見始めた。レンは先ほど春日の読んでいた『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のページを適当に捲る。春日の声が蝉時雨に混じって雑音のように聞こえてくる。

 

「明後日の十時に、事務所前に集合としましょう。車は僕の持っている奴を使います」

 

「誰が運転すんだよ」

 

「僕が運転しますよ。不安ですか?」

 

「ああ」

 

 正直に答えると春日は肩を竦めた。眼鏡のブリッジを上げなおし、

 

「参加者はレン君とアカリさん。それに僕の三人ですね」

 

「ミャオは誘わないのかよ」

 

「ミャオさんは猫の集会があるそうです」

 

 突然に春日の口から出たファンタジックな言葉にレンは眉根を寄せる。ファンタジーの世界ではお決まりのように使われる言葉も、現実で唐突に現れると違和感の塊のようにわだかまる。猫の世界も妖怪の世界も詳しくは分からないが、人間の世界と同じような構造なのだろうか。ならば、複雑怪奇という表現もあながち間違ってはいないのかもしれない。

 

「お茶くらいは入れていきますけど」

 

「いらねぇし、帰れるのなら早めに帰りたいんだよ」

 

 レンは箱を片手に事務室の扉を開けた。その背中に声がかかる。

 

「慰安旅行。忘れずに来てくださいね」

 

 断りたい気持ちでいっぱいだったが、アカリと春日を二人っきりにさせるわけにはいかない。

 

「ああ」と返答して、レンは片手を上げた。春日がそれに返したかどうかまでは確認しなかった。

 



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第二話 夜を征く者達2

「……にしても、暑い」

 

 手を翳して降り注ぐ太陽光を遮って、青空を忌々しげに見つめる。

 

 熱気が周囲を包み込み、むんと重たい空気が身体から水分を奪っていく。早くも渇きを訴える喉に、バッグから取り出したペットボトルのお茶を流し込んだ。

 

 この暑い中、本当に行くのだろうかと今更に不安になってくる。車と言っていたが、春日がまともな車を用意するだろうか。不安が口からついて出る前に、事務所の輪郭が見え始めた。思ったとおり、既に車が事務所前に停まっている。春日は手回しだけは早い。

 

 さっさと冷房にありつこうと駆け寄りかけた、その時である。

 

「あっ、レンじゃん。お久しぶりー」

 

 車からひょっこりと顔を出した人物にレンの足が凍りついた。そのまま大きく迂回して回れ右の姿勢を取ろうとしたのを、車から駆け寄ってきたタンクトップの影に首根っこを引っ掴まれた。

 

「何? 走ってきちゃって。私がいるのがそんなに楽しみだったのかしら、あんたは」

 

 快活に笑いながらも目は笑っていない。レンは振り返って首根っこを強引に掴んで引き寄せようとしている主を睨んだ。

 

 ショートカットの黒髪に、整った目鼻立ちをしている女性だった。切れ長の黒曜石のような瞳に、すらりとして引き締まった体躯に黒のタンクトップとタイトなジーンズがよく似合っている。しかし、レンはこの女性の本性を知っているために、今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

 

「こいつぅ! 相変わらず男の癖にちっちゃいわね!」

 

 レンの頭に拳をぐりぐりとめり込ませ、女性は太陽のように笑った。だが、レンからしてみれば冗談ではなかった。空の太陽が働きすぎなほどに暑いというのに、地上にもう一つ太陽があっては堪ったものではない。レンは身体をばたばたさせて抵抗した。

 

「うっせぇ! 離せ! ミヤビ!」

 

「あら? ミヤビお姉さんでしょ?」

 

 ミヤビと呼ばれた女性がレンの首筋に腕を引っかけてそのまま絞め殺さんばかりに圧力を加える。レンは腕を叩きながら、「ギブ! ギブ!」と叫んだ。

 

「あーあー」と言いながら後頭部を掻く春日は明らかに部外者の位置でミヤビとレンを見つめていた。

 

「てめぇ、春日! 助けろ!」

 

「いや、しかし、僕じゃミヤビさんのヘッドロックを解くことはできませんね。僕が間に入ろうにも、ミヤビさんとレン君はぴったりと引っ付いていますし、引き剥がすには相当な力がいります。僕は力自慢ではないので、この状況をどうにかするのは難しいでしょうね」

 

「冷静に分析してんじゃねぇ。結構、食い込んで、苦しいんだよ」

 

 今にも意識が落ちようとする中、春日の後ろから控えめな影が顔を出した。その姿にミヤビが気づいて、「おっ」と声をかける。

 

「アカリちゃん。レン、来たよー」

 

 レンはその瞬間に緩んだのを見逃さずにミヤビの腕から離れて距離を取った。すると、春日の後ろにいた人影と視線が合った。

 

 長い黒髪にオレンジ色の髪飾りが眩しい少女だった。小さめの顔にある大きな瞳は僅かに紫がかっていて、水色のワンピース姿と大き目の麦藁帽子が太陽の下で映えている。レンは視線に射止められたかのように、身体が硬直するのを感じた。レンよりも少し背の高い少女はレンを見て、大輪の笑顔を咲かせた。

 

「おはよう、レン君」

 

「……ああ。おはよう、アカリ」

 

 レンは視線を逸らして後頭部を掻く。訳知り顔の春日とミヤビがそれを観察するように眺めているが、今のレンには構っている暇はなかった。アカリはレンのバッグを指し示し、「すごい大荷物だね」と言った。

 

「わたし、ちょっとしか荷物持ってきてないの。ミヤビさんがわたしの分も持ってきてくれるって言ってくれて。それに春日さんもわたしの荷物をわざわざ家まで取りに来てくれて」

 

 その言葉に春日とミヤビに睨む目を向ける。

 

 ――えらく俺と待遇が違うじゃねぇか。

 

 その意思が届いたのか。ミヤビは涼しい顔をして口笛を吹き、春日は苦笑した。

 

「では、乗ってください。出発しますから」

 

 春日が運転席の扉を開けて促す。レンは「ちょっと待て」と春日に耳打ちした。

 

「ミヤビもついてくんのかよ」

 

 ミヤビへとちらと目を向ける。ミヤビはアカリと話していたのでその視線には気づかなかった。

 

「言い忘れていました。昨日、話したら行きたいとのことでしたので、お誘いしたんですが」

 

「あんな暴力女がいたんじゃゆっくりもできないっての。今から何とかして、帰ってもらうわけにはいかないのか?」

 

「聞こえてるわよー。レン」

 

 背後から聞こえてきた言葉にぞくりとして振り返ろうとすると、頭を二、三度叩かれた。

 

「ちっちぇえことは気にすんな、レン。身長も伸びないぞ」

 

「大きなお世話だ!」

 

 手を払いのけて、車の後部座席に乗り込んだ。フロントミラーに映る自分の姿を見る。赤毛で小柄な身体はまるで猿のようだった。確かに、ここにいる誰よりも身長が低い。身長が低いことはレンにとって大きなコンプレックスだった。

 

 牛乳は毎日のように飲んでいるのだが、どうしてだか身長は伸びず、高畑に「坊」と呼ばれるのもそれが一因としてあった。

 

 春日が運転席に乗り込み、助手席にアカリが座った。後部座席に乗ってきたのはミヤビだった。レンは露骨な嫌悪感をあらわにする。

 

「何? 私が隣なのがそんなに嬉しいの? レン」

 

 レンは窓の外に視線を向けながらおざなりに答えた。

 

「逆だ、逆。お前、いいのかよ。祈祷師としての仕事は」

 

「ああ、お休みもらったから」

 

 ミヤビの本職は霊や妖怪などを祓う祈祷師である。金海市、金海神社の巫女でもあった。本名は桐坂ミヤビといい、一時期はテレビにも取り上げられていた。「美人霊能力者」という触れ込みだったが、そのキャッチコピーがとんだ見当はずれだったことをレンや春日は知っている。見た目は美人かもしれないが、中身はオヤジそのものだ。

 

「休みって、そんな簡単に出るのかよ。世も末だな」

 

「まぁ、私が祈祷師として名があったのはもう過去のお話だからね。今はただの女の子に戻ったってわけ」

 

「……ババァの間違いだろ」

 

 ぼそりと発した言葉に、ミヤビの腕がすかさずレンの首にかかり、またも絞め落とそうとしてくる

 

「はい。出発するんで、そこまでにしてくださいミヤビさん。シートベルトを締めてくださいね」

 

 春日の声でようやく中断され、レンは荷物を足元に置いてシートベルトをつけた。四人の乗る車は車体を揺らしながら、ゆっくりと発進した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んー、どうしましょうかねぇ」

 

 春日の発したその言葉にレンは眉間に皺を寄せた。

 

「まさか、迷ったなんて言うんじゃねぇだろうな」

 

 周囲を見渡すと、金海市からは随分と離れ、田んぼと山や森しか見えない。道路を行きかう他の車はなく、ほとんど立ち往生の状態だった。山の木々が風に揺れ、大きな鳥が木の天辺から飛び立つのが見えた。

 

「この辺りのはずなんですが、一向に見えませんね」

 

「何で、カーナビの一つもないんだよ」

 

「いや、お恥ずかしいことですが機械には疎いものでして」

 

 レンが舌打ちを漏らした。ミヤビは傍観者を決め込んでいたが、地図を一読するなり、「よし」と意気込んだ。

 

「春日。このまま真っ直ぐ、二キロ直進」

 

 まるで部隊長のようにはきはきとした口調で命令を下した。それに従い、春日が車を再発進させる。レンは意外な展開に驚いていた。ミヤビに地図を読む心得があったとは思わなかったのだ。

 

 上り坂を決して乗り心地がいいとは言えないワゴン車が進んでいく。がたがたと車中が揺れ、レンは尻が痛くなった。車は徐々に山中へと入っているようだ。木々の緑が深くなり、枝葉の網を突き破りながらワゴン車は道を切り拓いていく。もはやここは獣道ではなかろうかと思ったレンは、ミヤビに尋ねた。

 

「なぁ、本当に地図分かってんのか?」

 

「当たり前じゃない。お姉さんを信じなさい」

 

 信じて欲しかったら普段からそれなりの行動をすべきだと、レンは冷たい眼差しを返した。

 

 その時、春日が出し抜けに「おっ」と声を上げた。何だ、と思う間もなく車が急停車し、レンは運転席の後部に額をぶつけかけた。顔を上げると、開けた空間に出ていた。

 

 そこにあったのは二階建ての建物だった。コの字型になっており、控えめだが特別こじんまりとしているというわけでもない。木造で、見たところ旅館のようだがここが宿泊先なのだろうか。春日へと尋ねる。

 

「春日。ここに泊まるのか?」

 

「いや。僕も電話予約と所在地しか聞いてないから、なんとも……」

 

 春日は後頭部を掻いて弱々しく笑うが、今の状況でそんな笑い方をされても不安になるだけだった。その時、旅館の入り口から人影が歩み寄ってきた。赤い着物を着た背の高い女性だった。その女性はレンたちの前まで来ると、恭しくお辞儀をした。

 

「ようこそ、いらっしゃいました。春日様ですね」

 

「は、はい」

 

 顔を上げた女性の顔は車のライトに照らされていたが、どこかこの世のものとは思えないほど白く見えた。

 

「ご予約を承っております。車はそこで結構ですので。それではどうぞ」

 

 どうやら女性はこの旅館の女将らしかった。春日とレンは顔を見合わせるが、後ろから駆け寄ってきたミヤビが二人の肩を掴んだ。

 

「何? 着いたんでしょ? 早く晩御飯にしましょうよ。温泉も入りたいし」

 

「まだ食うのかよ。さっきまで菓子食ってたろうが」

 

「えー。お菓子じゃ、お腹いっぱいにはならないし」

 

 子供のようなことをいうミヤビに、胸に微かに浮かんだ疑念は消え去った。アカリが車から出てきて控えめに言葉を発する。

 

「あの、ここなんですか?」

 

 レンは空を仰ぐ。夕日はとうに沈み、月が空に出ていた。暗がりに没した山奥でいたずらに動くのは危険である。何よりも女将が予約を承っていると言っているのだから、断る理由もない。

 

「レン君。行きましょうか」

 

 レンと同じことを考えていたのか、春日はレンに目配せした後、車へと荷物を取りに向かった。レンはしばらく旅館を見つめていたが、同じように車に置いておいた荷物を運ぶために身を翻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 旅館のロビーは思ったよりも広く、入ってすぐのところに巨岩の彫刻があった。拳のような果実のような巨岩で、木の根が纏わりついている。レンは周囲を見回してみたが製作者の銘も作品の名も入っていなかった。

 

 部屋は二階層の部分だった。隣り合う二部屋で、春日とレンは角部屋をあてがわれた。内装は落ち着いた和室で、木の座卓が一つと、座椅子が二つ、ベランダはなく窓が一つだけあった。

 

 テレビは最近の旅館にしては珍しく、この部屋にはない。押入れがあり、そこに寝巻きや布団があるという説明を受け、女将は食事の準備は整っているので三十分ほどしたら呼びに来ると告げて部屋から引き返した。

 

 レンは何時間も車の中で座っていたせいか、思いのほか疲れが溜まっていたために畳に寝転がった。身体の奥底から息が漏れる。春日も運転疲れか、肩を回していた。

 

「先に温泉に浸かりますか」

 

 春日の提案に、レンは頷いた。タオルと着替えの浴衣を用意し、部屋から出るとちょうど同じように部屋から出てきていたミヤビとアカリに出くわした。

 

「奇遇じゃない。あんたらも温泉に?」

 

 ミヤビの言葉に春日とレンは首肯した。

 

「じゃあ、さっさと行くか、野郎ども」

 

 自分も野郎みたいなものだろう、という言葉をレンは寸前で呑み込んで四人で連れ立って温泉へ向かう。一階にあった温泉は当然のことながら男湯と女湯に分かれていた。

 

「じゃあ、またね。あっ、そうそう、レン」

 

 青い「男」と書かれたのれんをくぐろうとしている最中にかかったミヤビの声に半分だけ顔を出す。ミヤビはニヤニヤとしまりのない顔をして、レンを指差して言った。

 

「覗くなよぉー」

 

「誰が覗くか」

 

 オヤジそのものなミヤビの言葉にレンは冷静に返した。しかし、よくよく考えればアカリもいるのだということに気づき、のれんをくぐってから顔が赤くなっていった。それを見た春日が、「大丈夫ですか?」と声をかける。レンは平静を装って、「何が?」と顔を背けた。

 

「既に湯あたりしているように顔が赤いですが」

 

「何でもねぇっての」

 

 春日は訳知り顔でレンを見たが、それ以上言葉を重ねようとはしなかった。レンは春日と共に岩で固められた露天風呂へと向かった。木の敷居で男湯と女湯が遮られている。他に宿泊客はいないようだった。それぞれ離れて湯に浸かりながら、レンは周囲の音に耳を澄ませた。

 

 鳥の鳴き声一つしない。他の宿泊客がいればその生活音ぐらいするものだが、それすらない。本当にここは宿泊用施設なのか。そんな疑問が浮かぶが、次の瞬間、疑問は掻き消えた。

 

「結構広いねー、アカリちゃん。こっちだって」

 

 急に聞こえてきたミヤビの声に、レンは驚いて湯に顔の半分をつけた。それを怪訝そうに春日が見ている。

 

「どうかしたんですか?」

 

「何でもねぇって言ってんだろ」

 

 妙にひそめた声で話すものだから、春日もそれに気づいたらしい。「ああ、なるほど」と合点したように言葉を発した。

 

「隣の女湯の声が聞こえるわけですね。……なるほど。想像力をかきたてられますね。ふむふむ」

 

 何度も頷きながら、春日は恥ずかしげもなく女湯の物音に耳を澄ませている。レンは糾弾するように言った。

 

「変態め」

 

「何を言いますか。春画を愛好するものにとって、女性の裸体とは芸術の一部ですよ。それを頭に思い描くことに、なんら変態性などないのです。あるとしても、それは誇るべき自身の創作の原動力となるのですよ」

 

「屁理屈こねんな。結局、そういうことじゃねぇか」

 

「いやいや、レン君。君はまだ造詣が甘いですね。この程度で恥ずかしさを覚えることこそ、恥ずかしいことだと何故気づかないのですか。むしろ、積極的に聞いてあげたほうが芸術に帰依するという意味ではいいのですよ。ぜひとも、お二人の姿を描いてみたいですね」

 

 その瞬間、レンの怒りが沸点を迎えた。温泉のせいもあったのかもしれない。レンは飛び上がるように、春日を怒鳴りつけた。

 

「何言ってんだ! てめぇ! そんなことしやがったら、ただじゃ――」

 

 怒りで視界が滲み、レンはくらりと身体をよろめかせた。春日が心配して歩み寄る前に、レンはふらふらと怒りがしぼんでいくのを感じた。代わりのように身体がカッと熱くなり、思考が白く塗り潰された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「のぼせちゃったのか、レン」

 

 部屋に戻ってレンは寝転んでいた。春日に扇子で風を送ってもらっていると、ミヤビが部屋に入ってきた。春日が顔を上げ、「どうしましたか?」と尋ねる。ミヤビは親指で示しながら、「食事、できたって」と言った。

 

 そういえば女将が三十分後ぐらいに呼ぶと言っていたのを思い出す。春日がレンの顔を覗き込み、「食べられますか?」と訊いてきた。レンは額に手をやって首を横に振った。

 

「……ちょっと今は無理だ。春日、お前らだけで先に行っとけ」

 

「いいんですか? でも、扇子を扇ぐ人がいなくなりますよ」

 

「あとは自分でやるから。窓を開けときゃ大丈夫だろ」

 

「冷房は、ないみたいですね。扇風機もないですし。何かあったら携帯で呼んでください。駆けつけますから」

 

 春日が立ち上がり、レンに扇子を手渡した。レンはそれで額に溜まった熱を逃がそうと扇ぐ。春日とミヤビが部屋の前で合流すると、扉の陰からアカリが顔を出した。

 

「レン君。大丈夫?」

 

 その声に一度冷めかけた熱がまた上がりそうになる。そんなレンの様子を察したのか、ミヤビが明るい声で言った。

 

「レンは大丈夫だって。私らだけで先に食べろって。すぐに来るんだよね、レン」

 

「ああ、行ってこい」

 

 片手を上げてぶらぶらと振るう。アカリはミヤビに背中を押される形で扉の陰に消えた。春日が心配そうにレンに一瞥をくれてから部屋から出て行った。部屋にはレンだけが残される形になった。

 

 窓から吹き込む風が思ったよりも涼しく、そういえばここが山中であることを思い出させる。ざわざわと木々が騒ぎ、鳥の羽ばたく音が聞こえてくる。大きな鳥だったのか、声が朗々と響き渡る。

 

 その時、しんと澄んだ空気の中に一点の濁りを感じた。

 

 レンは立ち上がり、窓の外に目をやる。冷たい風に一瞬、纏わりつくような生温さが混じった気がして、レンは近くに置いてあった画材ケースを手に取った。右手首に視線を落とす。数珠はある。先ほどの温泉でも外していない。

 

 窓に駆け寄り、暗闇に目を凝らした。闇そのものが蠕動するかのように、ざわりと総毛立つ気配がどこからか向けられている。視線だ、と感じたレンは画材ケースの蓋に手をかけた。茫漠とした闇がレンを手招くように騒ぐ。挑発のような感覚に、レンは口元に笑みを浮かべた。

 

「……そっちがその気なら、乗ってやるよ」

 

 画材ケースの蓋を開き、するりと中から拳二個分ほどの棒を取り出した。石の棒である。端のほうには円環を描く龍の装飾があり、自らの尻尾に食いついている。レンの右手首の数珠が擦れ合い、鈴のように澄んだ音を響かせる。絡みついた金の文様が捩れ、薄く光を発しようとした。

 

 その時、レンは背後に衣擦れの気配を感じ振り返った。

 

 そこにいたのは女将だった。レンの部屋の扉が開いたままだったためか、何の言葉もかけずに部屋に入ってきていた。レンは窓に足をかけた状態だったため、すぐさま佇まいを直し、咳払いを一つした。

 

 それで気づいたのか、女将は、「失礼いたします」と今更にそんな言葉を発した。レンは浴衣の袖に石の棒を隠しながら、窓の外に意識を飛ばす。気配はもう探れなかった。女将を見やると、氷枕を持ってきていた。どうやら春日たちが気を利かせてくれたらしい。

 

「氷枕をお持ちしました」

 

 女将が抑揚のない声で告げる。レンは座卓を指差して、「そこに置いといてください」と言った。女将はその通りに行動する。

 

 レンはまだ窓の外が気にはなっていた。今の気配は何だったのか。視線のように感じたが、こんな山中で何が見ているというのだろう。猿か、獣の類かとも思ったが、それにしては生々しい。野生特有の鋭さよりも、人間のような薄気味悪さが先行している。

 

「いかがでしょうか、当館の泊まり心地は」

 

 そのような思考に気を取られていたせいだろう。女将の言葉の意味が一瞬分からなかった。レンが顔を向けると同時に、女将はすっと顔を上げた。

 

 照明の下なのに、読めないような表情をしている。顔から表情を形成するパーツが抜け落ちたような印象だ。レンは何度か頷いて、ようやく意味を咀嚼した。

 

「別に。悪くないんじゃないですか」

 

 こういう時にどう返すのが正解なのかレンは分からず、結果として失礼な言い方になってしまった。しかし、女将は気にする素振りもなく、「そうですか」と無表情に返した。

 

「どうか、ごゆっくりなさってください。他に宿泊されるお客様もいらっしゃいませんし」

 

 その言葉に引っかかるものがあったが、それを追求する前に女将は一礼し、「失礼いたします」と言って去っていった。

 

 再び一人取り残されたレンは、窓の外に視線を向けた。見られている気は、今はしないが気分のいいものではない。レンは窓を閉め、明かりを消して春日たちのいる食事のための間へと向かった。鍵をかけなければと思って、先ほどの女将の言葉が脳裏に蘇った。

 

 他に宿泊客はいない。確かにこの山中では宿泊客は稀だろう。しかし、それにしては不審な点が多い。女将しか従業員がいないように感じる。あまりにも人の気配がない。そのくせ、獣の気配の一端も感じない。

 

 レンはしばしの逡巡の後に、鍵をかけた。

 



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第三話 夜を征く者達3

 食事の席では、既にミヤビが酔っ払っていた。酒臭い吐息を振りまき、ミヤビはレンに突っかかった。

 

「レンー。ようやく来たかー。まぁ、食べなさいよ」

 

「ああ」

 

 短く応じて、レンは箸をつける。しかし、味がほとんどしなかった。その疑問をそのまま、ミヤビに投げかける。

 

「ミヤビ。これ、味するか?」

 

「んー。いいんじゃない、薄味で。お酒がおいしいからさぁー」

 

 どうやらミヤビは相当出来上がっているようだ。今の彼女にまともな返答は期待できないだろう。アカリに尋ねようかと思ったが、アカリは行儀よく食べており、レンの視線に気づくと小首を傾げた。

 

「どうかした? レン君」

 

「……いや。別に」

 

 アカリの前では言葉少なになってしまう。レンは春日へと視線を移した。春日も同じように感じていたのか、「確かにほとんど味はしませんけど」と応じた。

 

「こういうものなんじゃないんですか、旅館の料理って。僕はあまりよくは知らないですけど」

 

 春日の言葉に納得しかけたが、先ほどの女将の台詞が脳裏に引っかかった。他に客がいないという言葉。ありえるのか、と自問したが、ありえない話ではない。

 

 しかし、だからといって従業員が女将一人なのはどこからどう考えてもおかしいだろう。この料理も女将が全て作ったというのか。それとも他の従業員がいるというのか。だが、それらしい気配は全く感じない。

 

「なぁ、この料理って女将が運んできたのか?」

 

「いえ。僕らが来た時には全ての準備が整っていましたけれど」

 

 たった三十分で、とレンは料理を見渡す。山菜の天ぷらや凝った郷土料理が並んでいる。並みの数ではなかった。作りおきでもしてあったのだろうか。それにしては、まだ料理が温かい。

 

 違和感は重いしこりになり、レンは喉元が狭まるのを感じた。箸を置き、「俺はもういい」と言って立ち上がる。

 

「ほとんど食べてないじゃないですか」

 

 春日の声に、「食欲ないんだよ」とレンは返した。ミヤビがレンの浴衣の裾を引っ張り、「まだ飲んでないぞー、レン」と言った。

 

「飲めねぇし、お前一人で随分と出来上がっているじゃねぇか。酔っ払いの相手をする趣味はねぇ。じゃあな」

 

 踵を返すと、ミヤビは「つれないなー」とまた飲み始めた。レンは廊下に出ると、女将とすれ違った。先ほど言葉の片鱗も見せず、女将はただ会釈しただけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋に引き返して二十分ほどすると、春日たちも部屋に戻ってきた。春日はぐでんぐでんに酔っ払ったミヤビを担いで連れてきた。

 

「ミヤビさん、飲みすぎです。明日二日酔いになっても知りませんよ」

 

「んー、うっさいなぁ、もう。どれだけ飲もうが私の勝手でしょー」

 

 ミヤビが赤ら顔でレンの姿を認めると、カッと目を見開きレンへと一目散に駆けてきた。レンは咄嗟に足を振り出し、ミヤビの顔に蹴りを見舞った。

 

「春日。こいつは駄目だ。さっさと寝かせちまおう」

 

「そうですね」

 

「あー。まだ寝ないっての! 私は朝まで起きてるんだから!」

 

 ミヤビが虫のようにわさわさと両手両足をばたつかせながら這い回る。それをレンと春日は呆れた様子で眺めていた。

 

「……修学旅行じゃねぇんだから。布団の上に寝かせるとすぐに寝るだろ。そっちの部屋、布団用意してるか?」

 

「今、アカリさんが用意してくれています」

 

「じゃあ、春日。運んでやれ。俺は疲れた」

 

「だーめだって、レン。レンが来なきゃやだー」

 

 ミヤビがレンに寄りかかってくる。レンがちらりとミヤビを見やると、ミヤビの浴衣がはだけていた。カッと熱くなる顔を逸らし、ミヤビに忠告する。

 

「ミヤビ、浴衣」

 

 簡潔に告げたその言葉に、ミヤビは「わけわかんないんだけどー」と間延びした声で返す。レンは顔を伏せて向き直り、「ああ、もう!」とミヤビの浴衣の胸元を直した。それを見て、ミヤビがにたりとしまりのない笑みを浮かべる。

 

「レンってば、むっつりだなー」

 

「うっせぇ。春日。さっさとこいつ寝かせるぞ」

 

 レンがミヤビの片腕を担ぐ。春日も頷き、反対側を担いだ。ミヤビは足に力を込める気は全くないらしく、男二人の力でどうにかミヤビを部屋の布団の上に寝かしつけることができた。アカリがすまなそうに頭を下げる。

 

「ごめんなさい。わたし、何もお手伝いできなくって」

 

「いいんですよ、アカリさん。ミヤビさんはいつものことですから」

 

「それじゃあ、おやすみなさい。レン君も、おやすみ」

 

 レンはアカリの顔を見ずに「……おやすみ」と短く告げた。部屋に戻り、布団を敷きながら春日がレンに話しかける。

 

「そんな無愛想に振舞っていると、嫌われますよ」

 

「うっせぇな。余計なお世話だ」

 

「確かに余計なお世話といえばそうですけど、見てられないんですよ。もっと素直になったらどうですか?」

 

「俺なりの事情があるんだよ。関係ないだろ」

 

「まぁ、確かに恋愛の形は人それぞれですけど……」

 

 春日の発した「恋愛」という言葉にレンは顔を赤くして、布団を手離し、ふるふると首を振った。

 

「れ、恋愛とかじゃねぇよ! 何言ってんだ、春日てめぇ!」

 

 春日はため息を漏らしながら、布団の準備を完了させて頷く。

 

「まぁ、それを自覚するのも本人次第ですからね。僕は所詮、他人なのでアドバイスと言っても他人事になっちゃうんでしょうねぇ」

 

「いらん。何だ、アドバイスって」

 

 レンも布団を敷き終わり、携帯の充電をしようとコンセントを探して周囲を見渡すが、どこにも見当たらない。

 

「春日。コンセントどこだ?」

 

「その辺にあるんじゃないですかね」

 

「いや、ないから聞いてんだけど」

 

「最近の旅館はそういうのに凝っていますから、インテリアの一部になっているんじゃないですか?」

 

「そ、そうか? でも……」

 

 レンは目を凝らすが、どこにもそれらしいものはない。携帯を開いて電波を確認するが、電波強度は一もなかった。圏外という表示が出ている。

 

「春日。この辺って圏外なのか?」

 

「そりゃ、山の中ですからね。繋がらないのも無理ないかもしれません」

 

「お前の携帯、新しい奴だろ。そっちはどうだ」

 

 春日が浴衣の胸ポケットから携帯を取り出す。画面を見て、「おや?」と声を上げた。

 

「圏外ですね。ほとんどの場所で繋がるはずなんですけど」

 

 レンは顎に手を添えて、圏外の表示を眺めた。先ほどの視線、女将の言葉、不自然な料理、それに電波の繋がらない、コンセントもない旅館――。おかしいといえばおかしいが、どれも山の中だから、という言葉で片付けられなくもない。

 

「まぁ、今日は寝るとしましょう。電池が持たないわけじゃないでしょう」

 

「まぁ、な」

 

 違和感を払拭しきれずにレンが応じると、春日は電灯から吊り下がった紐に指をかけた。思えばこの機構も古臭いが、全く存在しないわけでもないのだろうと納得はできる。紐を二度引くと、電気が消えた。

 

「では、僕は寝ますんで。おやすみなさい、レン君」

 

「ああ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 眠りにつくこともできず、起き上がって窓へと静かに歩み寄った。

 

 窓の外から覗き込んでくる視線も気配も今は感じない。窓に耳を近づけると、どこからか鳥の鳴く声が聞こえてきた。その鳥の声が部屋を透過して反対側からも聞こえてくる。

レンは春日へと視線を向けた。春日は全く気づく素振りもない。寝入っているのが分かった。

 

 携帯を手に取り時刻を確認する。相変わらず圏外のままだったが、時間だけは正確に分かった。午前一時半だ。どうやら二時間近く寝付けなかったらしい。

レンは画材ケースから石の棒を取り出した。右手首の数珠を確認し、部屋を出ようとした。直前に春日に声をかけるべきか悩んだが、違和感を覚えているのは自分だけだ。ひょっとしたら、〝何か〟は自分だけを狙っているのかもしれない。あるいは――、と考える。

 

 春日と出会ってから感じている既視感。それが同じような形で現れたか。

どちらにせよ、行動しなければ何かを探ることもできない。レンは石の棒を片手に部屋から出た。廊下には必要最低限の照明しか点けられていなかった。かろうじて足元は分かる程度だ。

 

 踏み歩くと、廊下が軋んだ。四人で行動している時には気づかなかったが、どうやらこの旅館はそこそこ年数が経っているらしい。真っ直ぐに廊下を歩くと、突き当たりに人影が見えた。ゆらりと身体を傾がせ、ゆっくりとこちらへと振り返る。

 

 そこにいたのは女将だった。青白い顔が照明の下で浮き立って見える。すると、照明が点滅し、レンの姿と女将の姿を何度か闇の中に呑み込んだ。

 

 レンは右手に掴んだ石の棒をゆらりと持ち上げる。数珠が擦れ、鈴のような音を発した。その音に反応するように照明の明滅が激しくなる。

 

「なるほどね。いやがるな」

 

 すっと右手の棒を突き出す。すると、手首の数珠から金色の光が放たれ石の棒に纏わりついた。瞬間、棒が光を纏って両端がそれぞれ拡張する。レンの身の丈よりも大きい長さにまで伸長した。

 

 レンは両手で長物を振り回し、風を巻き起こす。片方の柄を突き出し、レンは女将を見据えた。女将は動かない。息を吸い込んだ。それを止め、細く息を吐き出すのと同時に走り込む。一足飛びに跳ね上がり、棒を振り上げた。棒に纏わりついた金色の文様が輝きを増し、柄が女将の頭部へと打ち下ろされた。

 

 頭部を打ち砕いた、かに見えた柄はその実、女将の背後の闇を捉えていた。女将の背後で暗く凝った何かへと食い込んだ一撃は、次の瞬間耳を劈くような叫び声と共に弾けた。

 

 沈んだ柄を支点として、レンが飛び退く。女将の背中から飛び上がった影が天井に張り付き、バッタのように壁へと跳ね回る。レンは棒を握り直し、振るった一撃で影を引き裂こうとした。

 

 しかし、影は壁から壁へと跳躍し、レンの棒術の攻撃範囲を難なくかわす。舌打ちが漏れ、レンは振り返った。照明が点滅する廊下の中の闇を縫うように影が水音のようなものを立てながら階下へと向かって遠ざかっていく。

 

 すると、背後で女将が倒れた。駆け寄って抱き起こすと、どうやら気を失っているらしかった。ほとんど身体に力がない。着物から伸びる腕を見ると、どうして動いていたのか危ぶまれるほどに細かった。

 

「生気を吸うのか……」

 

 呟くと同時に危機感が身体を電流のように走る。だとすれば、春日たちに危険が及ぶ。春日とミヤビはかろうじて自力でも抜け切れるかもしれない。しかし、アカリは――。そう考えた途端、いてもたってもいられなくなり、レンは駆け出した。

 

 直後、点滅する照明の下で妙なものが揺らめいた。壁や天井の隙間からぼうと浮き上がってくる。煙か、と口元を押さえたがそれらしい臭いはしない。靄のように見えた。靄は寄り集まり、渦を巻いて表層に三つの穴が開く。

 

 それぞれが眼窩と口に見える靄は、穴を大きく開き風が木の葉の合間をすり抜けるような甲高い音を立てた。

 

「低級霊かよ。今時のホラーショーじゃ流行らない、ぜっ」

 

 呼気を吐き出すと同時に棒を回転させ、レンは柄を靄の横っ面へと叩きつけた。棒に絡みつく金色の光が眩く輝き、靄から低い呻き声が聞こえたかと思うと霧散した。だが、それ一つではない。壁や天井から雨漏りのように靄が次々と出現している。舌打ちと共に駆け出そうとすると、道を阻むかのように前に現れる。

 

「……さっきの影を守ろうってのかよ。ってことは、あれに何かあるのか」

 

 レンが頭上で回転させた棒を振るい落とす。靄が弾け、血飛沫のようにその残滓が舞い散る。

 

「こいつら雑魚だ。でも、キリがねぇ」

 

 走り込む先から阻まれるのでは成す術がなかった。かといって強行突破するには廊下は狭い。レンの棒術はリーチの長さが強みであるが、それが今は仇となっていた。小回りが利きにくく、このままでは一歩も動けない。加えて、低級霊とはいえ相手に触れれば何かしらこちらに不調はあるかもしれない。棒以外では触れるわけにはいかなかった。

 

「このまま朝になれば消えてくれるか……」

 

 そんな呟きを発した時、足の裏に妙な感触を覚えた。足を持ち上げると、廊下がゴムのように足の裏に引っ付いていた。少し力を加えると取れるが、どうやら粘着性を持ち始めているようだった。

 

「ここに縫い付けて、消化でもする気かよ」

 

 言ってから冗談にもならないと思った。つまりはこの旅館自体が相手の胃袋の中というわけだ。朝までは待てそうにない。できる限り動きながら相手にするしかなかった。しかし、今も靄は増え続けている。消化液のように垂れ下がってくる靄を叩き落とし、レンは息をついた。

 

「どうにかしねぇと。どうにか……」

 

 その時、この場には似つかわしくない鼻歌が聞こえてきた。レンが来た方向から聞こえてくる。照明が明滅し、その人影を映し出した。

 

「ミヤビ!」

 

 その名を呼ぶと、ミヤビがびくりと肩を震わせた。レンを下から上へと見やり、寝ぼけ眼で首を傾げる。

 

「どったの? レン。如意棒なんて持ち出して。まぁ、いいや。トイレどこ?」

 

「そんな場合じゃねぇんだよ! 鉄甲、持ってんだろ!」

 

「えっ、持ってるけど? 一応、言われた通り肌身離さず……」

 

 戸惑うミヤビへとレンは手を振り翳し、素早く指示を出した。

 

「鉄甲つけて、この辺殴れ! 時間がねぇんだよ」

 

 レンが周囲を指差すと、ミヤビは怪訝そうにレンを見つめた。

 

「何も見えないんだけど……。なに? また私には見えない奴なの?」

 

「いいから! この辺だよ、この辺!」

 

 大声で怒鳴り散らしていると、ミヤビは頭を押さえながら、「大声出さないでよ、頭痛いんだから」とぼやきつつ、黒い手袋を取り出した。指の部分が出るようになっている手袋で、手の甲に当たる部分には丸い鉄の装飾があり、鉄にはそれぞれ文字が刻み込まれていた。それを両手にしっかりとはめ、ミヤビは構えを取った。

 

「なに? レンの周りでいいの?」

 

「ああ。とりあえず、早く」

 

「急かすな、っての!」

 

 深く吸い込んだ呼気を放つと同時にミヤビの拳がレンの眼前を薙ぎ払った。黄金の光が明滅し、靄が根こそぎ吹き飛ばされていく。これがミヤビの法力だった。ミヤビは霊や妖怪なるもののほとんどが見えない。だが、法力だけは持っているためそれを拳に凝縮して放つことができる。それも全てレンの如意棒と同じように春日が考案したものだ。

今だ、とレンは踏み込み、駆け出した。

 

「えっ、ちょっと、レン!」

 

 代わりのようにその場に縫い付けられたミヤビがレンへと顔を振り向ける。レンは「悪い」と片手を出して謝った。

 

「俺はこの現象の根幹を叩く。お前はその辺を殴っといてくれ。そうしたら、低級霊はお前に標的を定めるはずだ」

 

「それって、囮になれってことじゃないの! 私見えないのに嫌だってば!」

 

「見えないんじゃ原因を突き止めることもできねぇだろ。俺に任しとけ。十分程度で終わらしてやるよ。じゃあな」

 

「レンの奴! トイレ十分も待てないってば!」

 

 それでも叫ぶことに意味はないと悟ったのか。ミヤビは何を殴っているのか分からぬまま、拳を放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 階段を滑り落ちるように駆け降り、一階を見渡す。

壁や天井からまたも靄が溢れ出している。レンは如意棒を回転させ、靄を吹き飛ばしながら考える。

 

 こういう時に春日ならばどう判断するか。

 

 一行の中でもっとも妖怪や霊なるものに造詣が深いのは春日だ。春日を叩き起こしてこの事態の究明をさせる手もあったが、部屋まで戻ってから影を追うのは効率が悪い。階下への道を封じられればそれまでだ。一階に降りた今こそが、好機なのである。

 

 レンが思案を巡らせていると、靄が吸い寄せられるように一箇所に固まった。瞬く間に巨大な靄の塊となり、入道雲のようにもくもくと湧き上がる。巨大な三つの穴が開き、口に当たる穴を大きく開いてオオン、と獣のように鳴いた。

 

 靄から細い手のようなものが生え、それを地面につく。

 

 レンは舌打ちを漏らした直後、走り出した。靄が両手を伸ばして、レンへと猪突する。レンは跳び上がって、壁を蹴りつけた。その勢いを借りて、靄の真正面に出る。靄の二つの眼窩がレンを正面に捉えた瞬間、レンは如意棒を横薙ぎに振るった。靄の頭部が黄金の光に根こそぎ剥ぎ取られ、身体を刃のように引き裂く。

 

 その時、足の裏に妙な感触を覚えて視線を落とす。またもや床が粘着剤のようになっていた。これでは跳躍ができず、沈ませた姿勢が逆効果になる。レンが体勢を整えようとする前に、靄が眼前に近づいてきていた。三つの穴を開き、そこから目には見えない何かを吸い上げる。

 

 眩暈とふらつきを覚え、レンは棒から手を離しそうになった。生気を吸い取られている。それが分かったが、攻撃に転じる姿勢ではない。

 

 靄がさらに穴を開き、生気を吸い込む速度を速める。どうやら勝負を急いでいるらしかった。薄れゆく意識の中で、レンはただアカリのことを考えた。春日とミヤビと自分はいい。こちら側の道を選んでしまった人間だ。しかしアカリは無関係なのだ。せめてアカリだけは、と命乞いしてみたところで無駄だろう。相手は低級霊だ。こちらの意思が通じる道理はない。

 

 今にも意識が闇に没すると思われた瞬間にもレンはアカリのことだけは諦められなかった。

 

 ――アカリだけは、必ず助ける。

 

 心の中はそれだけだった。指の筋肉が弛緩し、棒を持つことすら危うくなる。このままではと思われた時、春日の言葉が思い出された。

 

「低級霊には必ず、核となる霊が存在します」

 

 いつもの事務所の風景だった。自分はその時には何をやっていただろうか。本を読んでいたと記憶しているが、何を読んでいたかまでは覚えていない。

 

「核となる霊の依り代さえ破壊すれば、霊はその場に留まれなくなる。この場合、この世と彼の岸を結ぶような自然物が依り代となる場合が多いです。神木や、霊石などが」

 

 自然物などない。この旅館自体が依り代だというのならば、旅館をまるごと破壊しなければならない。しかし、そんなことは不可能だ。ならば自然物とは――。

 

 その時、レンは脳裏に閃くものを感じた。眼前に迫る靄へと鋭い眼光を飛ばす。靄が一瞬たじろいだように見えたのを、レンは見逃さなかった。

 

「縮め、如意棒!」

 

 叫ぶと同時に床についていた如意棒が再び拳二つ分ほどの長さへと縮まり、レンはそれを逆手に握ってナイフのように振るい上げた。靄の顎から額へと一直線に黄金の粒子が切り裂く。

 

 靄は呻き声を上げて退いた。レンは後ろへとよろめいたのを感じたが、ここで尻餅でもつくわけにはいかなかった。足を寸前のところで踏み止まり、ほとんど感覚のない足に最後の活力を込めた。それでも足は粘着する床からなかなか離れない。靄が再びレンへと近寄ろうとする。レンはぎりと奥歯を噛んだ。

 

「冗談じゃねぇ! 動け、足!」

 

 叫ぶと同時に如意棒の一撃を膝に叩き込んだ。

 

 瞬間、鋭角的な痛みと共に感覚が僅かに戻ってきた。レンはそれを逃さず身を翻し、足を床から剥がす。駆け出すと、緩慢な動きだった靄が身体から無数の手を生やし、今までの鈍さが嘘だったように追いかけてくる。やはりこちらにあるのだ、という確信と共にレンは旅館のロビーへと向かい、目的のものを視界に捕らえた。

 

 それはロビーにある巨岩だった。木の根が纏わりついていた巨岩は、今、血のように赤く染まっている。木の根はまるで血管のようで、巨岩は心臓かと思われた。

 

「あれが、この現象の心臓部……」

 

 レンは呟くと同時に右手に力を込めた。レンの意思に反応した如意棒が光に包まれて再び伸長する。

 

 巨岩には腫瘍のように黒い影が纏わりついていた。レンが如意棒を構え、柄を突き出した時、黒い影が泥のように粘りを持ってその身を靄の頭部と同じ形状に変えた。三つの穴を開き、そこから搾り出すような声が響く。

 

 ――貴様、何故邪魔をする。

 

「邪魔も何も、襲ってきたのはそっちだろうが」

 

 ――こちらは網にかかった獲物を取っているだけだ。自らあだなす害悪ではない。ここに来た貴様らが不運だっただけだ。

 

「そいつはお互い様だな。お前も、俺がここに来たのが不運だったのさ。今まで散々、食い散らかしてきたんだろ。それも今日までだって話だ」

 

 レンは如意棒の柄を真っ直ぐに巨岩へと向ける。影の泥はその身を揺らして嗤った。

 

 ――馬鹿な。貴様一人程度で、何ができる。ここは我々の餌場だ。溶けて消えるがいい。

 

 ずぶずぶと音を立ててレンの足場が沈んでいく。レンはそれでも影から視線を外すことはなかった。影が哄笑を上げる。

 

 ――ここまでだ。朽ち果てろ。

 

 背後に迫った靄が三つの穴を開け、レンの生気を今度こそ吸い尽くそうと覆い被さろうとする。その瞬間、レンはぼそりと呟いた。

 

「冗談」

 

 如意棒に光が纏いつき、次の瞬間、光が弾け、音もなく伸長した如意棒の柄が影を捉えていた。影がそれに気づいて顔を向ける前に、レンは如意棒を食い込ませるように握り直した。

 

「腹の中に収まるのはゴメンだな」

 

 影から叫び声が迸るのと同時に、覆い被さろうとしていた靄がレンに触れる前に掻き消えた。壁や天井から垂れ下がっていた低級霊が霧散し、床から粘度が消えていく。レンは如意棒を縮ませながら、巨岩へと歩み寄った。影は如意棒の先端に刻まれている龍の文様に食いつかれて動けなくなっていた。影の眼前でレンは言葉を発する。

 

「それに、お前は標的にしちゃいけない人間を標的にした。朽ち果てるのは、お前だ」

 

 その言葉と共に振るい上げた如意棒を打ち下ろした。影が縦に断絶され、断末魔の叫びが木霊する。呪いの言葉だったのかもしれないが、レンには関係がなかった。如意棒の汚れを落とすように振るい、踵を返す。

 

 振り返ると、巨岩は真っ二つに裂けていた。木の根も朽ち果て、見る影もない。照明の点滅が収まり、レンは階段を上った。二階の廊下で、まだミヤビは拳を振るっていた。とっくに床の粘性は切れているのに、その場から動こうとしない。レンは声をかけた。

 

「ミヤビ。終わったぞ」

 

「え? ホント?」

 

「もう動ける。ためしに動いてみろ」

 

 ミヤビが足を上げると、ずっとその場で見えないものと戦っていたせいか少しよろめいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、春日に事の顛末を伝えると、それは旅館型幽霊だという言葉が返ってきた。

 

「旅館型幽霊?」

 

「聞いたことないわね」

 

 時刻は早朝の五時半である。ミヤビは春日たちの部屋に来ていた。アカリだけを部屋に残すことに一抹の不安は感じたものの、自身の手で事は終結させたという自負はあった。春日は窓を開けて朝の風を部屋に取り込みながら続ける。

 

「いわゆる群体の幽霊ですね。個体じゃなくって。つくもがみと似たところがあります。旅館という、個人や集団を問わない場所がいつの間にか意思を持って人を食らうようになったということですかね」

 

「どうして人を食らうようになったんだ? おどかすとかが先じゃないか?」

 

「もちろん、最初はおどかすなどが主だったんでしょうけど、この山奥です。次第に人も途絶えたのでしょう。人の行き来がない宿泊施設は駄目になりますからね。これは家でも同じことが言えるわけですが、このように旅館となるとそれがさらに深かったのでしょう。見たところバブル以降に建てられた旅館のようですし、そう古いわけでもない。原因は、やはり人の往来のなさでしょうね。立地が悪かったと言えましょう。加えて、ロビーの巨岩です」

 

「巨岩って?」とミヤビが尋ねるので、レンはロビーにあったものだと説明した。

 

「見た記憶ないんだけど」

 

「それはお前が温泉やら食事やらで騒いでいたからだろ。そういや、食事とか温泉とか、何だったんだ? 女将一人しかいないのにおかしいだろ」

 

「食事は多分、幻術だったんでしょうねぇ。砂や葉っぱでも食わせられたのかもしれません」

 

「す、砂?」

 

 ミヤビが吐く真似事をするが、今更どうしようもない。レンは無視をして、「じゃあ、温泉は?」と尋ねる。

 

「温泉は本物だったんでしょう。幻術で綺麗に見せていたかもしれませんが、確認しに行きますか?」

 

「いや、いい」

 

 旅館型幽霊の幻術が切れた今となっては、恐らくは寂れた温泉が見えるのだろう。湯だと思って浸かっていたのも、もしかしたら泥水だったのかもしれない。確認して気分を害するよりは、そう思い込んでいたほうがいいこともある。

 

「どちらにせよ、ここに長居するのもよくなさそうですね。女将さんは、どうですか?」

 

「空いている部屋に寝かせてある。免許証を持っていたから、あとで連絡しとけば何とかなると思う」

 

 女将は結局、麓の町の女子大学生だった。恐らく行方不明の扱いになっているのだろう。どうしてこの旅館にいるのかはあまり追求しないことにしておいた。自分たちと同じように何も知らずに来たのならば、恐らく連れはもういないだろう。財布に入っていた何人かで撮られた写真を思い返し、レンは顔を伏せた。

 

「なら我々はここで帰るのが望ましいでしょう」

 

「俺も、それがいいと思う」

 

「えー、朝御飯はどうするのよー」

 

 状況を分かっていないミヤビの言葉に、レンは眉根を寄せた。

 

「昨日持ってきた菓子の余りでも食っておきゃいいだろ。それとも、砂か葉っぱがいいのか?」

 

 そう言うとミヤビは、「むぅ」と膨れっ面をしたが黙り込んだ。

 

「アカリさんには知らせないでおきましょう。ミヤビさん、キーを渡しておくので、先にアカリさんを車の中へお願いします」

 

 春日がミヤビにキーを手渡す。ミヤビが部屋を出て行く時、春日は窓の外を眺めていた。

 

「春日。お前、勘付いていただろ」

 

 レンの声に春日は振り返らずに応じた。

 

「いいえ。どうしてです?」

 

「幻術程度ならお前が分からないはずがないからだ。俺に如意棒を渡した張本人だろ。それぐらいの心得がないのはおかしい」

 

「買いかぶりすぎですよ」

 

 レンはあの巨岩に取り憑いていた影を思い出す。自分たちの餌場に迷い込んできたのが悪いと言っていた。それは確かにその通りだろう。誰もこの場所に踏み込まなければ害はないのだ。ならば自分は罪なき命を葬ってしまったのかと考えたが、その思考を読み取ったように春日が言葉を発する。

 

「しかし、僕らだってまだ死にたくない。抗う権利くらいは持っているはずです」

 

 何もかもお見通しというわけか、とレンは合点して立ち上がった。窓の外から涼しい風が吹き込んでくる。昨夜のような視線や生ぬるさは感じない。これがこの旅館の本来のあるべき姿なのだろうとレンは感じ、まとめた荷物を肩にかけた。

 

「先に行ってるぜ、春日。長居する気はないんだろ」

 

 その言葉に春日は「ええ」と応じながらもその場から動こうとしなかった。春日の目には何が見えているのだろうか。分からぬことを考えても仕方がないと思い、レンは身を翻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車に揺られていると隣にいるアカリが目を覚ました。寝ぼけ眼を擦りながら、アカリが周囲を見渡す。

 

 旅館の布団の中ではないと気づいたアカリが、「ここは?」と腑抜けた声を出す。その言葉に運転席の春日が応じた。

 

「ちょっと旅館のほうでトラブルがありまして。どうやら手違いだったようで、早朝に追い出されることになったんです」

 

「ホント、大変だったんだから」

 

 ミヤビが助手席から顔を振り向けて言った。

 

「あの程度の待遇だったのに、一泊分きちんと料金取られるし。もうちょっとゆっくりしたかったなぁ」

 

 後半は本音が滲み出ていた。アカリはゆっくりと身を起こす。すると、先ほどまで自分が膝枕されていた相手が固まっているのを見て小首を傾げた。

 

「どうしたの? レン君」

 

 レンは、「何でもねえって」と素っ気なく応じながら、前の座席にいる春日とミヤビを睨みつけた。春日は微笑み、ミヤビは口笛を吹いて素知らぬ顔で前を向いた。アカリはまだ眠いのか、目を擦り小さく欠伸を漏らした。

 

「レン君。もう少しこのまま寝かせてもらってもいい?」

 

 その言葉にレンはブリキ人形のようにぎこちない動作でアカリに顔を向け、何度も頷いた。

 

「お、おお。まぁ、うん。いいけど……」

 

 アカリが再びレンの膝に寝転がって、目を閉じる。長い睫が陽光に照らされて柔らかく輝く。「よかったねー、レン」とミヤビが前の席からレンを茶化した。レンは怒鳴りつけようとしたが、静かに寝息を立てるアカリを見て躊躇った。春日はまだ笑っている。

 

「レン君。慰安旅行。いかがでしたか?」

 

 レンは窓の外を見ながら、赤くなった顔を背けて鼻を鳴らした。

 

「まぁ、悪くはなかったな」

 

 こんな機会があっても悪くはない。そう、レンは思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一章 旅館幽霊篇 了



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第二章 金海怨神篇(6月21日)
第四話 -100度の瞳


 

 新しく通うことになった学校は、金海市の街中にあった。

 

 こぢんまりとしたグラウンドに六月の湿気た風が吹き抜ける。砂が巻き上がり、帷レンは目を細めた。その視線の先を追って、前を歩いていた担当教師が口を開く。

 

「このグラウンドは狭いんだけど、第二グラウンドがあってそっちを主に使っているんだ。運動部は全部そっちだな。体育館も第二グラウンドに隣接している。第一グラウンドにあるのは格技場だけで、剣道部とか柔道部とかがローテーションで使っている。帳君は、前の学校では何部に?」

 

 部活に入っていることが前提として話を進められていることが気に入らなかったが、ここで嘘を言っても仕方がないとレンは正直に答えた。

 

「薙刀部です」

 

「薙刀、ねぇ。うちの学校にはないけれど、剣道とかそっちには興味ない?」

 

「いえ、別に……」

 

 最初からまともに取り合う気がないのならば聞かなければいいのに、とレンは感じるが口には出さない。

 

 余計なトラブルを招くのは御免だから、というのもあるがこの場合、どう答えても剣道部の顧問であるこの教師はそちらに話を持っていくつもりだったのだろう。自分の都合のいいように他人の話を解釈する。

 

 苦手なタイプだ、と内心思う。

 

 レンは薄汚れた校舎の壁を見やる。これから卒業するまでの二年半、この場所で過ごさなければならないのかと思うと気が重かった。校舎はコの字型になっており、三階建てで渡り廊下が中央にある。

 

 休日だというのにも関わらず、部活に勤しむ生徒たちの姿が多く見られた。レンは、といえば転入する前に学校のことをある程度知ってもらおうという教師のはからいで休日を潰してまで見学をさせられていた。

 

 前を歩く教師に視線を向ける。いかにも体育会系らしいがっしりとした身体つきでボーダーのシャツを着ていた。髪の毛は短く刈っている。レンは前を歩く教師に引っ張られるように力なく歩を進めていた。湿気が纏いつき、窓の外を見上げれば今にも降り出しそうな重い曇天である。

 

 六月の中旬、あと一ヶ月もすれば夏休みというこの時期に転入とは我ながらついていない。このような中途半端な時期に来る生徒は珍しく、その理由ももちろん特殊であった。前を歩く教師はその理由を知っているはずなのだが、口火を切ろうとしてなかなかタイミングをはかりかねているようだ。何度かちらちらとこちらの様子を窺う教師の反応がじれったく、レンは自分から口を開いた。

 

「こんな時期に転校してくる人間は、やっぱりいないですか」

 

 教師が目に見えて動揺したのが分かった。それでも平静を保とうと明るい口調で返してくる。

 

「ああ、そうだな。もうすぐ夏休みだからな。みんな、浮き足立っている時期だ。それに期末テストもある」

 

「そんな時期に、自分みたいな問題のある生徒を抱え込むのは、学校側も嫌なんじゃないですか?」

 

 教師は立ち止まった。レンは次に何が来るのか予想した。熱血教師を気取った言葉が来るのか。体罰か。それとも、当たり障りのない言葉か。教師は振り返り、レンを見下ろした。レンはこうして見下ろされるのが好きではなかった。背丈は百四十センチ程度しかない。

 

 運が悪ければ女子にも見下ろされてしまう。教師はレンの肩を掴んだ。体罰が来るのだろうか、と思っていると、教師は熱のこもった口調で、「気にするな。前の学校は前の学校だ」とだけ告げて、身を翻した。

 

 レンは肩を手で払いながら心の中で、くだらないと一蹴した。熱血教師にもなりきれず、かといって当たり障りのない言葉で適当に誤魔化すだけの器用さもない。そんな言葉で子供が大人の言うことを聞くとでも思っているのだろうか。だとすれば見当違いも甚だしい。

 

 教師はその後、レンに剣道部を見学させた。場内を突き破るような声が響く中、教師は満足そうな顔をしてレンに「どうだ?」と尋ねてきた。

 

「まぁまぁですね」とレンは答えた。入る気はないかと訊かれたが、やんわりと拒否した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日は学校へ行かなければならなかった。

 

 レンにしてみれば、新しい生活の始まりでもある。学校見学の日の夜のうちに、次の日の荷造りは済ませたが、レンには特に必要なものなどなかった。授業進度はその都度、聞けばいい。期末テストが迫っているようだったが、高校一年の前期ではさして重要視もされないだろう。

 

 後期に入る前に慣れればいいだけの話だった。レンにとってしてみれば、授業の重要度などその程度のものだった。問題なのは前の学校での行動がどう影響してくるかだったが、これも気にしても始まらなかった。

 

 どう受け取るかは個人次第だし、弁解したところで人の口に戸は立てられない。クラス内での秘密は必ず公然の秘密となる。教師が口を割らなかったとしても、興味本位で調べる連中はいくらでもいるだろう。

 

 レンがこの街で暮らすに当たって必要だったのは、一人になれる時間と部屋だった。姿見の前で自分を見つめながら、それは手に入ったと周囲を見渡す。六畳ほどの部屋で、隅には勉強机がある。

 

 まだダンボールから出されていない荷物もあるが、生活必需品はあらかた出しておいた。勉強机の反対側には薙刀が立てかけられている。もちろん、本物ではない。刃の部分は木製である。試合時には、その部分さえ取り替えねばならない。

 

 一人になれる部屋は手に入った。あとは時間だと、レンは壁の厚さを確認する。隣の物音は聞こえない。誰かが住んでいるのかもしれなかったが、まだ顔を合わせておらず表札もまともに見ていなかった。

 

「一応、挨拶ぐらいはしておくか」

 

 煩わしい人間関係は嫌いだったが、わざわざこじらせる必要もない。円滑に物事が進むのならば、それに越したことはなかった。レンは買っておいた引越しそばを引っさげ、外に出た。

 

 レンが引っ越してきたのは学生用のアパートだ。といってもトイレや風呂はきちんと部屋についているために、安アパートという感じではない。しかし、外に出ると廊下内の掃除はあまり行き届いておらず、ここの大家はそういうものには無頓着らしいことが分かる。

 

 レンは隣の部屋の表札を始めて見た。西垣、というらしい。インターホンを押すと、扉が開いた。西垣、という人物はどうやら自分とそう歳は変わらなさそうだった。背は高く、ひょろりとしており、青いTシャツに半ズボンを穿いている。レンは好印象を与えようとは思わなかったが、隣の部屋で悪印象を与えるのもよくないと思い、愛想笑いを浮かべた。

 

「隣に越してきた帷です。これ、お近づきのしるしにどうぞ」

 

 引越しそばを差し出すと、西垣はレンと引越しそばを見比べてから、「どうも」と会釈をした。西垣は部屋から出ると、レンの部屋の表札を見て、「ああ」と合点したように頷いた。

 

「引越しだったんだ。何の音かと思った。ほら、このアパートって防音がちゃんとしているから。あんまりお隣の音って聞こえないんだよね。それに、トバリって読むの? この漢字。珍しい苗字だね。えっと……、失礼ですけどいくつですか?」

 

 レンに対してこういった質問をしてくる相手は珍しくなかった。レンはもう慣れっこだったので、特に怒りも何も覚えずに返す。

 

「十五ですけど」

 

「中三?」

 

「いえ、高一で」

 

「あっ、じゃあ俺と同じじゃん」

 

 西垣は顔を明るくさせてレンに手を差し出した。その手をレンが怪訝そうに見つめていると、西垣は言った。

 

「握手しよう。このアパートで同い年の奴が来るのは初めてなんだ」

 

 はぁ、とレンは気のない返事をしてその手を掴んだ。西垣は後頭部を掻きながら、「親御さんは?」と尋ねる。

 

「いや。俺一人で……」

 

「おー。俺も一人暮らし。いやー、同い年の相手が隣とは心強いな」

 

 西垣は勝手に盛り上がっている中、レンは妙に醒めた気持ちでそれを見つめていた。だからどうだというのだろうか。少なくともレンは、今まで生きてきて心強いと思える相手と出会ったことがない。

 

 そもそも心強いという言葉自体、普段では使わない。そんな言葉を簡単に口にする西垣を、レンは信用していいものか迷っていたが、西垣のほうはレンを既に信用しているようだった。

 

「まぁ、お互い頑張ろう。一人暮らしって大変だけど、なんか困ったことあったら俺に聞いてくれればいいから。と言っても、俺も春からここに住み始めたばかりなんだけどね」

 

 快活に笑い、西垣は言った。レンは適当に相槌を打ちながら、嵐のように喋る西垣から解放されるのを待っていた。西垣はひとしきり喋ってから、「それじゃ」という簡素な言葉で扉を閉めた。

 

 レンは息をついて、自室へと向かう。どっと疲れた身体を布団に沈みこませる。腕を額にやりながら、「悪い人じゃ、ないんだろうな」と言葉を発した。西垣は全て善意からレンに歩み寄ろうとしているのだろう。

 

 しかし、初対面の人間に突然歩み寄られても、レンには距離を取る以外の選択肢が思い浮かばなかった。

 

「同じ学校じゃなさそうだし、できるだけ会わないようにするか」

 

 そう結論付け、レンは夕食を作り、さっさと食べて早めに寝た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チョークというものには慣れない、とレンは思う。

 

 黒板に書くときの音だとか、指の腹にこびりつく粉だとかが異物として認識される。それでも名前だけだからマシだ、と思い、レンは黒板に大きく自身の名前を書いて、振り返った。じっと黙したクラスメイトたちの視線が集まる中、レンは昨日会ったばかりの教師に促されて自己紹介をした。

 

「帷レンです。よろしくお願いします」

 

 簡素な自己紹介に、教師が勝手に補足説明を付け始める。

 

「えー、帷君は昔、この街に住んでいたそうだ。だけどもう六年ぶりになるらしいから、みんな、よろしく頼む。授業進度はその都度、担当の先生に聞いてくれ。帷の席は新山の隣だ。新山、よろしく頼む」

 

 レンは教室の窓際に近い席へと歩を進めた。隣に座っていた男子が「よろしく」と小さく口にする。レンは少し会釈して、その男子生徒を見た。小柄で、どこか虚弱そうな顔立ちをしている。小柄と言ってもレンよりは背が高い。彼が新山なのだろう。

 

 ホームルームが終わり、一時間目の授業が始まる。レンは教科書を出すが、ノートは取る気がなかった。取ったところで仕方がない。赤点さえ取らなければ、どうにでもなる。レンは頬杖をついて、窓の外を眺めようとした。その時、視線を感じてそちらへと目を向けた。一人の少女がレンと目が合ったのを気まずそうに逸らす。黒い長髪で、オレンジ色の髪飾りをつけている。レンの席からはそれくらいしか分からなかった。どうして自分を見ていたのか。

 

 気にかかったが、どうでもいいことだと割り切った。レンは外の景色を眺めていた。遠くの山間部にかかった高速道路を車が行き交う様子が視界の中で何度も反復された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後に、レンは真っ先に帰ろうとしたが教師に呼び止められた。どうやら今日も剣道部の活動があるらしい。

 

 もうすぐ大会も近いとあって、部員の士気は上がっているとのことだが、それがどうしたというのだろうか。レンは自分に関係のあることとは思えずに教室を出た。教室の前で新山が数人の大柄な生徒に連れられて帰っているのを見た。

 

 彼らは一様に髪を染めており、ピアスも空けている。制服を着崩した彼らに付き従うように新山は歩いていた。どうやら新山は彼らの標的にされているようだったが、関わり合いになるのは御免だとレンは視線を合わせずに行き過ぎた。校門近くまで俯き加減で歩いていると、突然、前方を影が遮った。

 

 避けて通ろうとすると、影も合わせて動く。レンは顔を上げた。

 

 そこにいたのは教室の中でレンを見ていた少女だった。正面から見れば整った顔立ちで、目は小動物のように大きく、僅かに紫がかっている。レンよりも少し背の高い少女は、レンの前に歩み出るとノートを差し出した。レンが訝しげにそれを見ていると、少女は喉の奥から引っかかりながらも言葉を発した。

 

「あの、レン君。多分、授業の進み具合とかまだ分からないと思って。ノート貸すから」

 

 レンは眉根を寄せた。この少女は何を言っているのだろうか。転校してきた異性の生徒にノートを突然貸して、どうしようというのだろうか。何か見返りでもあるのだろうか。レンがじっとノートと少女を見比べていると、少女は胸元を押さえて、つっかえながらも口にした。

 

「わ、わたしのこと。覚えて、いない……?」

 

「悪いけど、知らない。あんた、誰だ?」

 

 その言葉に少女は目に見えて落胆したようだった。肩を落とし、「そっか。そうだよね」と呟いてから顔を上げ、

 

「日下部(くさかべ)アカリ。名前でも、やっぱり覚えていない、よね」

 

 日下部、という苗字に心当たりはなかった。アカリ、という名前にも該当するような記憶はない。レンは今にも泣き出しそうな日下部アカリの顔を見たが、やはり思い出せそうになかった。首を振って、

 

「悪い。やっぱ思い出せねぇ」

 

「……そう。あ、でもノート貸すから。役立てて欲しいなって」

 

 レンはノートを写すつもりなどさらさらなかったが、ここまでしつこく言われると借りないのも悪い気がしてきた。周囲の目も気になるレンは、ノートを受け取って、「分かったよ、悪いな」と言った。

 

 日下部アカリは顔を明るくして、「ありがとう」と笑顔を咲かせた。どうして貸した側が礼を言うのだろう、とレンは思ったがそれは口にしなかった。今は一刻も早く、この場から離れて家に帰りたい気持ちが先行し、「じゃあな」と素っ気ない言葉を投げて日下部アカリの横を通り過ぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋に帰って勉強机の上でレンはノートを広げた。

 

 綺麗な字で、等間隔に余白の取られた見やすいノートだった。レンは自分のノートを広げ、まだ習っていない範囲を写し始めた。数式とそれに至る解の求め方を写しながら、レンはぼんやりと日下部アカリのことを考えた。

 

 以前に会っているのだろうか。向こうは知っている口ぶりだったが、レンには心当たりがなかった。数学のノートそっちのけで、レンはペンを額に当てて思い出そうとする。

 

「日下部、日下部……。俺がこの街にいたのが六年前だから……、九歳のときか。小学校三年生の時で、日下部……。そんな奴、いたか? 日下部、アカリ……。アカリ……」

 

 数式を解くよりも頭の中がこんがらがってくる。黒い長髪の少女などいたか。

 

「いや、長い髪だという記憶に頼らなけりゃいいのか。えっと、とりあえず女子の友達で、日下部……。アカリ……。アカリ?」

 

 その時、レンの脳裏に閃くものがあった。ダンボールに飛びつき、中を漁る。昔のアルバムがあったはずだった。アルバムを見つけ、ページを捲るとようやく見つけた。小学校二年生の時の写真である。その中に、髪を二つに結った少女と自分が、それぞれの両親と共に写っていた。

 

「……アカリか。完全に忘れちまっていたな」

 

 日下部という姓と、もう七年も前だから記憶から掻き消えていた。この街に住んでいた頃、アカリとは家が近く幼馴染だった。よく遊んだものだったが、その頃のアカリは男勝りで今の様子とはかけ離れていた。

 

 だから頭の中で符合しなかったのだ。しかし、そうだとして、どうしてアカリは声をかけようと思ったのだろう。普通ならば、知らない振りをするのが当然ではないか。少なくともレンは知っていても転校初日に声をかけたりはしない。

 

「覚えていてくれたのか」

 

 その言葉で胸にやわらかな灯火を感じるが、それを押しとどめるようにレンは首を振った。アルバムを閉じて、静かに息を吐く。

 

「んなわけない、か。あったとしても気まぐれだな。それに今の俺は……」

 

 そこから先は言葉にならなかった。かつての日々は戻らない。レンは別のアルバムを取り出して眺めた。

 

 両親は転勤続きで同じところに留まるということはなかった。しかし、この街は気に入っており、この街だけはレンが生まれてから九年間はいた。しかし、そこから先はぶつ切りのような日々だった。

 

 長くても一年、短ければ二ヶ月ほどで去らねばならないために友人も作れず、作ったとしても大抵は友情が深まる前の別れが待っている。それでもレンは一度も両親を恨んだことはなかった。両親も大変なのだと身に沁みて分かっていたレンは、何も言うことはなかった。

 

 両親が写っている写真に視線を落とし、レンは悔恨を滲ませた言葉を喉から発する。

 

「でも、いなくなっちまったら恨み言も言えねぇよ」

 

 両親は先日、自動車事故で亡くなったのだ。レンは親戚に引き取られるよりも、一人で生きていくことを選んだ。それはレンのある〝体質〟によるところもあった。以前いた場所でそれを明かしたことがある。周囲の反応はやはりというべきか、予想されうるものだった。

 

 レンの〝体質〟に理解を示す者など皆無で、大抵は気味悪がられた。薙刀部が唯一、安らげる場所だったが、そこさえも追われる結果になった。人の口に戸は立てられない。身をもってそれを知ったのだ。好奇の視線を浴びせ、時によっては糾弾の対象とする。人間なんてものはそんなものだとレンは思っていた。

 

「アカリも、そうなんだろうな」

 

 いくら幼馴染の間柄だったとはいえ、話は別だ。物心ついた時からあった〝体質〟は呪いのようについてまわる。

 

 レンに近づく者を遠ざけるかのように。だとするならば、レンは周囲の人間などいらないと考えていた。呪いを振りまく存在になるくらいならば、誰も呪いに近づかなければいい。

 

 近づかせないことこそが、最大の思いやりになるのだと。それはいつの間にかレンの処世術の一つに成り果てていた。生きるためにやっていたことが、それがないと何もできない木偶の坊になっていた。しかし、それを間違っていることだとレンは思ったことはない。こうあるべきなのだ。こうあらねば、誰かが呪いと不幸を背負うことになる。

 

 レンはアルバムをダンボールに仕舞い、机の上に広げられたノートに視線を落とした。明日には返そう。そう思い、ノートを閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学校に行こうとすると、西垣がちょうど出てきた。制服を着ているので、学校に行くのだろう。レンの学校とは制服のデザインが違っていた。西垣が「おっす」と手を上げるので、レンは軽く会釈をして行こうとすると、「まぁ待てって」と西垣が呼び止めた。

 

「一緒に行こうぜ。西高だろ。俺、金高だからさ」

 

 金高というのは金海中央高等学校のことだろう。偏差値の高い高校だった。金海、という名前だが駅で電車を乗り継がなければならない。駅までの道が同じだから一緒に行こうということなのだろう。

 

 レンの通う金海西高等学校は駅の向こう側にあった。レンが承諾すると、西垣は荷物を担いでレンの横を歩く。西垣が担いでいるのは黒い大荷物だ。中に何が入っているのか尋ねると、西垣は「コスチュームとか色々だな」と答えた。

 

「コスチューム?」

 

「あれ? 言ってなかったか。俺、コスプレ同好会なんだ」

 

 初耳だったし、コスプレ同好会なるものが存在するのかどうかも疑わしかったが、レンは「ふぅん」と適当に返した。

 

「これは俺らにとっていわば正装だからな。大切にしないと。クリーニングしたから、今日持っていくんだよ」

 

 レンにはコスプレのことは今一つよく分からなかった。しかし、西垣は背が高いので似合うのかもしれないと思った。

 

「何のコスプレするんだ?」

 

「最近では魔法少女だな」

 

 その言葉にレンは疑問符を置くように沈黙を挟んだ。先ほど似合うかもしれないと思ったが、それはバーテンダーのような格好を想定していたので、まさか魔法少女だとは思わなかった。レンは頭の中のイメージを練り直そうとしたが、うまく構築できずに諦めた。きっと似合うコツでもあるのだろう。

 

「帷は? 部活やってないのか?」

 

「教師に剣道部に誘われているけど、やる気ない」

 

「前は何やっていたんだ?」

 

「薙刀部」

 

「薙刀って、あの武士の家とかに置いてある長くって、先のほうに刃がついている奴か」

 

「そう、それ。でも、ちょっと色々あってやめちまった」

 

 やめた理由についてあれこれ詮索してくるかと思ったが、西垣は「ふぅん。大変だな」と言うだけで特に追求してはこなかった。

 

 今まで勘繰る連中が多かったせいか、西垣のようなこちらが踏み込んで欲しくないラインを見定めてくれる人間が珍しく、レンは妙な居心地のよさを感じた。歩いていると、駅が見えてきた。

 

「この辺で。じゃあな、帷。お前、話していると面白いな」

 

 レンはその言葉に立ち止まった。西垣は一度だけ振り返って手を振り、駅のほうへと歩いていく。レンの胸中には戸惑いがあった。何も自分は面白いことを言っていない。それなのに面白いと言われたことに、僅かながら喜びを見出している自分と、期待してはならないと感じている自分が同居している。

 

 ――期待すれば、裏切られた時に辛いぞ。

 

 胸の内の自分が発する言葉にレンは顔を伏せた。その通りだ。西垣はレンの〝体質〟のことを知らない。きっと、知れば遠ざけるだろう。そうなった時の傷は浅いほうがいい。ならば、関わらないほうがいいのだ。今までもそうしてきたし、これからもそうすべきではないか。レンは踏み切りに差し掛かった。遮断機が下りて、揺れる電車の発した風が叱責のようにレンの頬を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学校に着くとレンは何も言わずに席に着いた。そこに至るまでクラスメイトから挨拶されたが、全て無視した。

 

「感じ悪」という小言が聞こえてくる。どうせ小言ならば聞こえないように言えばいいのに、とレンは思いながら時計を眺めた。ホームルームが始まるまで、残り十分ほどだ。文庫本でも買っておけばよかったと後悔しながら、指の腹で机を叩きつつ時間が過ぎるのを待つ。

 

 その時、机に影が差した。顔を上げると、アカリが立っていた。何だ、と訝しげな視線を向けていると、アカリがノートを差し出す。

 

「レン君。昨日は数学だけだったから。世界史のノートも。明日は国語のノートも貸すから――」

 

「日下部」

 

 思いのほか冷たくレンの口から発せられた声に、アカリは肩を震わせた。レンはアカリへと真っ直ぐに目を向け、ため息混じりに言った。

 

「昨日は思い出せなくて悪い。俺はお前のことを知っていた。七年前の写真が出てきた」

 

 その言葉にアカリはパッと顔を明るくさせて、レンへと歩み寄った。

 

「思い出してくれたの?」

 

「ああ。よく覚えていたな。だけど、日下部。俺はお前と高校になってまで仲良くするつもりはない」

 

 アカリは一瞬何を言われたのか分からないようだった。今度はアカリにはっきり分かるように、ゆっくりと口にする。

 

「俺の何を知っているのかしらないが、こういうのは迷惑だって言っているんだ。安い同情心で関わっているのかもしれないが、そういうのはいらないんだ」

 

 その言葉はクラスメイトにも聞こえていた。女子生徒が眉をひそめてレンを見ている。構いはしなかった。言っておかなければ、アカリはいつまでもレンのことを構うかもしれない。

 

 それに甘えて、自分を知られてしまってから裏切られるのが怖い。臆病かもしれないが、レンにとってはその恐怖こそが生きていく上での障害となっていた。甘えるのは簡単だ。しかし受け入れてもらえるはずがない。その先を考えるのならば、ここで断ち切るのが賢明に思えた。

 

「レン君。わ、わたし、何か悪いことしたかな。悪いところあったのなら、謝るから」

 

 アカリが声を震わせる。悪いことなど何一つしていない。ただ自分と関わってもろくな目に合わない。忠告のつもりで言っているのに、何故分からないのか。それがレンの神経を逆撫でした。

 

「俺のことは放っておいてくれ。ノートもいらない。自分のことぐらい、自分で何とかする」

 

「何とかって、それじゃ駄目だよ。レン君。ノートなら、わたしのできることなら、やるから。だから、もっと素直に――」

 

「素直になってどうしろって言うんだよ!」

 

 レンは立ち上がって叫んだ。気がついた時には、アカリの手からノートを叩き落していた。ノートが床に叩きつけられ、中身が捲れる。捲れたページの中に、赤いペンで丁寧に授業についてのことが書いてあるのが見えて、レンは覚えず目を背けた。

 

「……鬱陶しいんだよ。日下部」

 

 アカリはよろめくように後ずさった。すぐにアカリの友達がアカリへと駆け寄り、「アカリ、大丈夫?」と心配してくる。レンは見せつけられているような気がして、その場から走り去った。

 

 ちょうどホームルームに来ようとしていた教師とすれ違い、背中に声をかけられたが振り切って走った。誰の声も聞きたくなかった。この世界から切り離されてしまったほうがマシだと思えた。なまじあのように優しくされるから、孤独が色濃く迫ってくる。最初から闇の中に身を投げてしまえば、そんなもの怖くはないのに。

 

 レンは階段を駆け上がり、いつの間にか屋上に来ていた。蒸し暑い風が吹き抜け、身体を重くさせる。息をつきながら、屋上の手摺へと歩み寄った。手摺の向こう側には背の高いフェンスがあり、飛び降りることはできない。だが、レンには自傷に及ぶような神経も持ち合わせていなかった。そんなことをしても何の解決にもならないことは〝体質〟が証明しているからだ。レンは手摺に背中を預け、この場にいるものを見据えた。

 

「俺は、お前らみたいになるのはゴメンだ」

 

 レンの眼にはこの場所でかつて飛び降りた者たちが見えていた。それこそがレンの〝体質〟だった。幽霊や妖怪が見える。何の価値もない、この世でもっとも忌むべきものこそがレンの持つ唯一のものだった。

 

 



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第五話 鏡面世界の処世術

 

 初めてこの体質が発現したのは記憶を辿れば、六歳の頃であった。神社の境内でなにやら奇妙なものが見えたのだ。金色の狐に見える何かだったが、街中の神社にそんなものがいるはずもない、と思った。

 

 しばらく境内で遊んでいると、そちら側からしきりに呼びかけられる。レンは歩み寄り、見やると狐が二足で立って喋っていた。

 

「お前、見えるのかエ」

 

 そう言われた時にはどういう意味だか分からなかったが、狐が喋るものではないと知っていた六歳の頃のレンは気味が悪くなって逃げ出した。それ以来、妙なものが見えるようになった。

 

 取り憑かれたりすることがないのは〝体質〟なのか分からなかったが、そういったものが存在する世界が自分たちの普段生活している世界と地続きだという事実を知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幼いレンは恐怖し、慄いたが、恐怖したのは何も見えるからではない。他人と違うという事実に恐怖したのだ。他人に悩みを打ち明けても理解されない、程度ならばまだよかった。

 

 レンの場合は、自身の恐怖が他人にとってレンという存在自体への恐怖に繋がったことが苦痛だった。他人はレンが見えるものよりも、レンを恐れるのだ。レンは誰かと悲しみを分かち合うこともできないことを成長するに従って知った。加えて、レンはよく転校したために理解も得られなかった。

 

 レンを分かってもらう前に噂だけが先行して、全てをぶち壊しにしてしまう。レンは自身の〝体質〟に価値がないことを知った。これはただの疫病神だと。神が与えたのだとしたら、神はなんと意地が悪いのだろうか。

 

 それでもレンは一線を越えて不良になることもなかった。両親という歯止めがあったからだ。しかし、その両親も今やいなくなってしまった。歯止めの消えたレンにとって、苦痛を生み出すだけの世界などに価値を見出せなかった。

 

 いっそのこと全てを忘れて、暴力に走れればと考えていた時に、以前の学校で問題を起こした。レンの〝体質〟を聞きつけた生徒がからかい、いじめの対象にした。最初のうちは気にしなかったが、レンにある一言が投げかけられた瞬間、理性の歯止めが消えた。次の瞬間には、相手の鼻の骨が砕けるまで殴っていた。

 

「馬鹿だよな、俺は」

 

 呟いても見えている彼らから答えは返ってこない。彼らに基本的に話しかけてはならないのだということをレンは経験から学んでいた。なので、今の言葉はレンの独り言として、曇り空に吸い込まれていった。

 

 雨が降りそうだった。今にも泣き出しそうなほどに立ち込めた重い曇天は、レンの瞼に覆い被さった。眠ってしまいたい。それで全てが忘れられるのならば。だが、それも叶わぬのだろう。眠っても、起きても、同じ世界の繰り返しだった。

 

 レンが天を仰いでいると、ぽつりと雨粒が一滴、レンの眼前に落ちてきた。手で眉間に落ちた雨粒を払っていると、ぽつりぽつりと雨音が木霊する。レンは屋上にいるのはまずいと感じて、屋上に続く非常階段に向かった。非常階段には庇があるので雨をしのぐことができた。

 

 あっという間に視界を灰色に染める豪雨が降り出した。トタン製の庇を雨粒が激しく叩く。レンは踊り場に寝転がって時間を潰すことにした。今更教室に戻ることもできない。アカリにどう顔を合わせたらいいのか分からない。どうしてアカリは覚えていたのだろう。

 

 どうして転校初日から話しかけてくれる気になったのだろう。今頃に気になることが山積したが、それを片付けるには脳内がこんがらがっていた。文庫本の一つでも持ってくれば、もう少し苦痛を和らげて時間を潰すことができたのに。時間は過ぎれば過ぎるほど、重く凝りのようにレンの身体にわだかまる。

 

 自分の重心が分からなくなるほどだった。どこに重きを置いて生きてきたのか。何を信じるべきだったのか。何もかもを眠りの向こう側においていけたらどんなにいいだろうと感じたが、生憎、今は眠くなかった。何度も顔を拭い、雨音に耳を澄ませる。

 

 その時、雨音に混じって砂利を踏む音が聞こえてきた。瞑りかけていた目を開いて、その音に意識を集中させる。複数人のものらしく、非常階段を上ってくる。レンは身構えかけたが、誰が来ても構うことはないとそのまま踊り場に寝転がった。しばらくして足音がやみ、影が差した。

 

 レンが薄く目を開けると、レンよりも頭一つ半ほど高い男子生徒が三人、立っていた。レンは目を擦りながら、上体を起き上がらせる。昨日見た新山と共に帰っていた不良だった。彼らの一人がレンへと歩み寄ったかと思うと、屈み込んでいやらしく笑った。歯を剥いて笑う様は猿のようだった。

 

「よぉ、転校生」

 

 ヤニ臭い息を間近に感じ、レンは顔をしかめる。下階に降りる階段へと視線を向けると、しっかりと一人が階段を塞ぐように立っていた。どうやらレンを逃がすつもりはないらしい。レンは首を傾げて、「なんだよ」と尋ねる。

 

「転校した次の日からさぼりとはいいご身分じゃねぇか」

 

「俺がどうしようとお前らには関係がない」

 

「それが関係あるんだよなぁ。この非常階段、俺らの場所なんだよ」

 

 レンは時間を気にした。この時間帯だということはまだ授業中だろう。彼らとて授業をボイコットしてここに来ているというわけだ。それで自分たちの居場所とは見当違いも甚だしい。レンは鼻で笑った。

 

「お前らの場所って何だよ。名前でも書いてあんのか――」

 

 その言葉尻を腹に叩き込まれた衝撃が消し去った。レンは腹腔に痺れるような痛みを感じながら、仰向けに倒れ込む。蹴り飛ばされたのだと認識した時、痛みが全身に毒のようにまわって顔をしかめた。

 

「生意気言ってんじゃねぇぞ、チビが」

 

 レンを蹴った不良が歩み寄り、髪の毛を掴んで引き寄せた。レンは拳を握り締めたが、ここで振るえば居場所が本当になくなる。学校にも行かず、自分は何をするのだろうか。そう考えると振るう気にもなれず、結局、意気地がない自分が嫌になって顔を背けた。

 

「猿みてぇな赤い髪しやがって。これ、黒に染めてこい」

 

 突き飛ばされ、レンは鉄柵に背中を打ちつけた。掴まれていた頭部に触れる。赤い髪は生まれつきだった。何度も黒に染めろと言われたが、一度も染めたことはない。

 

「……なんで、てめぇらの言うこと聞かなきゃならないんだよ」

 

 搾り出した声に不良の一人が胸倉を掴んでくる。レンはその手首を掴んで強く握った。不良が僅かに呻き声を上げる。

 

「猿はてめぇらのほうだろうが」

 

 怒りを滲ませた声に、不良は惑うような挙動を見せた後、振り払うように拳をレンの頬に叩き込んだ。レンは踊り場に身体を打ちつける。鈍い痛みが背中から同心円状に広がった。

 

 手を振るいながら、「いい気になってんじゃねぇぞ、チビが!」と罵声を浴びせかける。レンは頬に手を当てる。焼けたように熱い頬の痛みに怒りよりも悲しみが勝った。何もかもうまく回らないものだ。アカリのことも不良のことも。どう立ち回っていいか分からない。

 

 レンは虚脱感が身体を包んでいくのを感じていた。不良に無理やり立たされ、ふらふらとよろめく。その身にさらに一撃、拳が振るわれる。レンは夢の中を彷徨っているような心地で外側からそれを見ていた。身体と心が切り離される。殴られているのが自分だと思わなければ、身体の痛みも心の傷も感じずに済む。

 

 ひとしきり殴って気が済んだのか、不良たちは行ってしまった。レンは再び一人になり、今更に痛み始めた節々の傷を感じた。

 

 踊り場で寝転がり、感情が身体の底に沈殿して腐敗していくのを感じた。何かを感じる心が麻痺していく。自分のことなのに、本気にもなれずかといって全く別のこととも割り切れない。

 

「……結局、中途半端か」

 

 呟いた言葉は誰もいない非常階段の鉄筋に吸い込まれた。断続的に降りしきる雨が無感情に庇を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼過ぎになってもまだ雨はやんでいなかった。レンは傘立てに置いてある傘を無作為に取って、家路につくことにした。

 

 雨が黒い傘の表面を叩く。二階にある教室を見上げるが、何をやっているのかは分からなかった。分かったところで、という感情が湧き立ち、レンは校門をくぐった。

 

 真っ直ぐに帰ろうかと思ったが、今日の夕食の買い物をついでに済ませたほうがいいと考え、レンはそのまま街中へと向かった。この時間帯に制服の人間はもちろんいない。目立つことは確実だったが、レンはそういったことに頓着しなかった。前の学校でも似たことがあったので、慣れていた部分もあったのかもしれない。

 

 ただ腫らした顔だけは隠すことも誤魔化すこともできず、レンは消毒液と絆創膏を買った。食材と間食の菓子を籠に入れ、レジへと向かう途中、主婦たちがレンを見てなにやら囁きあっているのが目に入った。

 

 顔のことや制服のことについて話しているのだろう。高校生がどうしてこんな時間に、ということを話題に上げているのかもしれない。レンが一瞥を向けると、主婦たちは視線に入らないところへと移動した。檻の外から猛獣を眺めているような気分なのだろう、とレンは想像した。

 

 買い物を済ませ、いつもと違う道で帰ることにした。下校する生徒たちと会いたくなかったのもあるが、気分転換のつもりだった。金魚の提灯がぶら下がっている街の中心部から少し離れ、ジャングルの奥地に分け入るように静かな場所を探して歩き出す。

 

 金魚を模した提灯や街灯がある大きな道から徐々に小さな道に入ると、人工的なデザインの街灯が多くなってくる。金魚が御神体であるこの街のイメージ付けを表でしてはいるが、裏までは気が回らないということなのだろうか。それとも街の表層だけを飾り立てるのがうまいだけなのだろうか。裏通りに入れば湿り気も強くなったような気がする。雨は相変わらず降り続いていたが、狭い路地なので空を小分けにするように幾筋もの電線が走っている。

 

 それを眺めていると、不意に小さな声が聞こえた。そちらに身体を振り向けると、一匹の猫がじっとレンを見ていた。胡桃色の毛並みをした猫である。小柄で、今日の雨のせいか薄汚れていた。レンは無視しようとしたが、その背に小さな鳴き声がまたも降りかかった。振り返り、猫へと歩み寄る。屈んで目線を合わせると、金色の眼がじっとレンを見つめている。

 

 飼い猫なのだろうか。人間を怖がる様子はない。レンは猫の頭を撫でてやった。気持ちよさそうに喉を鳴らして、猫が首を振る。首筋を撫でてやると、くすぐったそうに前足を払った。レンは首輪があるかどうか確認をしたのだが、首輪はどうやらついていないようだった。

 

「野良猫なのか、お前」

 

 尋ねても猫は欠伸をするだけで答えようとはしない。万が一答えられても猫の言葉など解せるわけがない。聞いてみただけだった。

 

「汚れてんぞ。ほれ」

 

 レンはポケットからハンカチを取り出し、猫の顔を拭ってやった。猫は目を閉じて首を振ったが、レンから離れようとはしなかった。その場に縫い付けられたかのように、猫は動かない。本当に縫い付けられているのか、と疑って足を見てみたが、もちろんそんなことはなかった。

 

 汚れを拭いてやった後は、何かやろうかと思ったがそもそも猫にやっていい食べ物が何か分からず、レンは「ちょっと待ってろ」と告げて近くにあったコンビニに入り、猫缶を買ってやった。

 

 戻るともういないかと思われたが、猫はその場で行儀よく待っていた。レンは猫缶を開けて、猫の前に差し出す。すると、勢いよく食べ始めた。

 

「お腹空いてたのか?」と尋ねるが、もちろん答えは返ってこない。食べるのに夢中な猫を眺めながら、レンは小さく呟いた。

 

「お前はいいな。自由に生きられて」

 

 猫の世界をレンはよくは知らないが、人間社会のようなしがらみはないのだろう。同族から忌避されることも、暴力を振るわれることも人間に比べれば少ないのだと想像できる。

 

「どう生きるべきか、か……。自由気ままに生きてみたいけど、そうもいかないんだろうな。お前らみたいにその辺で寝ていても、しがらみがついてまわるんだから」

 

 頬の痛みが再び戻ってきて、レンは奥歯を噛んだ。再び問題を起こして、また居場所がなくなれば次はどこに行けばいいのだろう。アカリは居場所をくれようとしていたのかもしれない。

 

 それでも、その気持ちを真っ直ぐに受け止めることができなかった。受け止めるには、歩んできた道がもう捻じ曲がっている。

 

 捻じ曲がった道を矯正しようにも、どうすればいいのかレンにはまるで分からなかった。手に視線を落とし、拳に変える。力を振るえばいいのだろうか。しかし、それで本当に居場所が手に入るのだろうか。答えは出ずに呻くように目を閉じると、猫が前足で拳に触れていた。

 

 一瞬、慰めてくれているのかと思ったが、どうやら猫缶がもうなくなったらしい。猫は正直だと思いつつ、レンは猫の頭を撫でた。

 

「明日また来てやるから。今日はこんだけだ。じゃあな」

 

 レンは立ち上がり、歩き出した。猫が声をレンに投げて、踵を返したのが気配で伝わった。次に振り返った時には猫はもういなかった。電線から伝った雨粒が猫缶の底に落ち、鈍い音を立てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴッと鈍い音が眼前で弾ける。レンは突き飛ばされ、屋上の鉄柵に背中を預ける格好となった。

 

 震える視界の中、目の前にいる不良たちに目を向ける。重たく沈んだ薄曇りの下、レンはよろめく身体を支えるように鉄柵を掴んだ。不良の一人がレンに歩み寄り、髪の毛を掴んで顔を引き寄せた。整髪剤の臭いとヤニの臭いが混在して、鼻をつく異臭となっている。

 

 レンが顔をしかめると、不良はレンの腹に膝蹴りを打ち込んだ。一瞬意識が遠のき、肺の中の空気が一気に吐き出される。

 

「田中から聞いたぜ、帷。お前、前の学校で暴力沙汰を起こしたんだってな?」

 

 田中、というのは担任教師の名前だった。教師に裏切られることは何度もあったので特別ショックではなかったが、それが不良に知れ渡っていることに疑問を感じた。

 

 彼らは体制に反抗しているというのに、その体制と情報を共有している。その在り方がレンにとっては滑稽に映った。その感情が表に出ていたのだろうか。「何笑ってやがる!」という怒号と共に、頬を殴りつけられた。視界がぶれ、レンは口中に鉄の味を感じた。

 

「その理由も聞いたけど、何、お前ってユウレイとか見えんの?」

 

 不良の一人がさもおかしそうに笑いながら言った。レンは顔を伏せ、奥歯を噛み締めた。これだから嫌なのだ。蔑視の対象になるか畏怖の対象になるかしかない。不良たちに知られているということはクラス中に知れ渡っていると見て間違いないだろう。

 

 レンは舌打ちを漏らすと、髪を掴んでいた不良がレンの頭部から手を離して突き飛ばした。フェンスがなければ落ちているほどの強さのせいか、一瞬浮遊感が襲った。くらくらする思考を繋ぎとめるように、レンは陰湿な笑みを浮かべている不良たちを睨み据えた。

 

「なんだよ、その目は。赤毛猿の分際で、人間様をそんな眼で見てんじゃねぇぞ!」

 

 振るわれた拳が頬を捉え、レンはその場に転げ落ちた。それを見た不良たちが興ざめしたように、「行こうぜ」と屋上から出て行った。

 

 レンは鉄柵を支えにして、起き上がった。口の中が切れているせいか、唾を吐くと血が混じっていた。よろよろと歩き出すと、痛みが鋭く傷口から滲んだ。レンは今にも萎えそうな気持ちに喝を入れようと、膝頭を力いっぱい叩いた。拳を振るえばこの状況を打開できるのかもしれない。

 

 しかし、自分は不良になりたいわけではない。全てを諦念の向こうに捨て去って、何もかもを消し去れたらどれほど楽だろうか。レンは教室に戻る勇気もなく、かといって不良たちへと報復する度胸もなかった。どっちつかずの身を持て余し、今にも泣き出しそうな空の下、痛みだけがわだかまる身体の足を進ませた。

 

 せめて雨が降る前に帰ろう。そう思い、レンは屋上の隅に置いてあった鞄を手に取った。昼食を食べる前にレンは学校を後にした。昨日の焼き増しのように絆創膏と消毒液を買い、買い物を済ませた。昨日と違うのは、予め猫缶を買っていることだった。

 

 昨日と同じように裏通りに入る。同じ場所にいるという確証はなかったが、何故だかあの猫が待っているような気がした。

 

 果たして、猫は昨日と同じ場所にいた。薄汚れた身体もそのままだった。猫はレンのほうに顔を向けると、一声鳴いてから視線を足元に落とした。猫缶を置けということなのだろう。

 

「太い奴だな、全く」

 

 レンは猫缶を袋から取り出し、開けて猫の前に差し出した。猫は腹が減っていたのか、すぐに飛びついてきた。レンは猫を見下ろしながらため息をついた。猫が顔を上げる。無意識的に出たため息にレン自身驚いていた。

 

「どうして。ため息なんてつくんだろうな」

 

 今の状況に満足していないからだろうか。では、どうなったら満足するというのだ。満足している人間は不満を語る。満足していない人間は、不満など語りようがない。自分がどうするべきかの指針が見えていないのだから。道標もなく、闇の中を歩き続けているようなものだ。

 

「すべきことが分からない。俺に、何ができるんだろうな。お前に相談したって仕方がないだろうけど」

 

 猫の頭を撫でる。猫は前足で猫缶を引き寄せながら食いについている。食事中にこんな話をするのも無粋か、とレンは口を閉ざした。

 

 その時、靴音が聞こえレンはそちらへと視線を向けた。その瞬間、目を見開いた。そこにいるはずのない少女の姿が視界に入り、「どうして」と呟きかけた。

目の前にいたのはアカリがだったからだ。

 

 アカリは片手に猫缶を握っている。服装は制服だった。そういえば、とレンは思い出す。今日は期末テストで半日だけで終わるのだったか。アカリはレンを見つめた後に、猫に視線を投じ、猫缶に目を向けた。レンは気まずそうに顔を背け、その場から立ち去ろうとする。その背へとアカリは言葉を投げた。

 

「待って、レン君」

 

 レンは立ち止まる。しかし振り返りはしなかった。アカリはその沈黙を必死に手繰るように言葉を発した。

 

「気にしてないから。ノートのこと。だから、さ。何て言うのかな。レン君、テストの時にもいなかったから心配したんだよ」

 

「なんで日下部が心配するんだよ」

 

 返した言葉に窮するように、アカリが「それは……」と濁した。レンはため息をついて振り返った。

 

「日下部。俺のクラスでの印象。よくないだろ」

 

「そんなこと――」

 

「嘘つかなくていい」

 

 レンの言葉にアカリは暫しの逡巡を挟んだ後に小さく頷いた。

 

「だったら、印象の悪い俺に関わるべきじゃないだろ」

 

「でも、レン君は何も悪いことしてないんだし、別に、そんな」

 

「お前には悪いことをした。それで多分、充分なんだろ」

 

「わたしは、悪いことをされたと思ってないから……」

 

「そんなんじゃ、周りが納得しねぇよ。もう関わるな。俺は帰る」

 

「でも、レン君」

 

 アカリの言葉を振り切って、そのまま踵を返そうとすると、猫が大きな鳴き声を上げた。レンが振り返ると、アカリが慌てて猫缶を差し出した。

 

「ミーコ、今食べたばかりじゃない。欲張りな子なんだから」

 

「ミーコ?」

 

 レンは猫とアカリを交互に見つつ、「こいつの名前か?」と尋ねた。

 

「うん。わたしが勝手につけているだけなんだけどね。この子、首輪付けてないから多分、野良だと思うんだけど、やっぱり名前があったほうがいいかなと思って」

 

「どうして名前が必要なんだ? 猫で充分だろ」

 

 レンの言葉にアカリは「そうなんだけどね」と言ってから曖昧に笑ってみせた。

 

「でも、それだけだとここにいる意味がないから。猫だけだとここにこの子がいる意味がないし、他の猫と一緒になっちゃう。わたしはこの子を可愛がりたいから、名前をつけるの」

 

「勝手な押し付けだろ、それ。猫にとっちゃ迷惑かもしれない」

 

「それもそうだけど。でも、呼びたい時に名前がないことって、多分寂しいよ」

 

 アカリはそう言ってから弱々しく笑った。寂しい、という感情がレンには分からなかった。何故、寂しいのだろう。名前がなくてはならないのだろう。呼ばれなくてはならないのだろう。

 

 そういえば、とレンは思い返す。

 

「どうして、俺を下の名前で呼ぶんだ?」

 

「えっ。だって、小さい頃はお互い、下の名前で呼び合っていたじゃない」

 

「もう高校生だぞ。変な勘繰りをされたら困るとかないのかよ」

 

「勘繰りって?」

 

 アカリは小首を傾げる。どうやら本当に分かっていないらしいと感じたレンは説明しようとしたが、それも馬鹿らしく思えた。後頭部を掻いて、「まぁ、どっちでもいいけどよ」と言った。

 

「レン君もわたしのこと、名前で呼んでいいよ」

 

「何で会ってすぐの奴を名前で呼ばなきゃならないんだよ」

 

「会ってすぐじゃないもん。昔、よく遊んだでしょ」

 

「昔の話だろ。もう六年も経ってるんだ。この辺の街並みも変わったし、昔遊んでいた場所なんて思い出せねぇよ」

 

 レンの言葉にアカリは「わたしは覚えているよ」と胸を張った。「えばれることじゃないっての」とレンが返すと、アカリは指折りながら遠くに視線を投げた。

 

「えっと……、確かかえる公園で遊んだでしょ。わたしがかえる嫌いだったから、レン君、わたしにかえるが寄りつかないように守ってくれたよね。わざとかえるを一箇所に集めたりして」

 

「覚えてねぇ」

 

 レンが視線を背けて頭を掻いていると、アカリは続けた。

 

「でもかえるが可哀想だからって、わたしがやめてって言って。そしたらレン君が逆に泣いちゃって。おかしかったなぁ」

 

 アカリは微笑んだ。レンはあったかどうかも分からないことで笑われていることが気に食わずに、憮然として返した。

 

「俺は多分、泣いてねぇと思うけど」

 

「泣いたよ。わたしが覚えているもん」

 

「その記憶が定かだか分からねぇだろ」

 

 アカリは立ち上がり、腰に手を当てて、「泣いたよ」と言った。レンはどうしてだかむきになって「泣いてねぇ」と返す。

 

 泣いた、泣いてないの議論が十回ほど続き、やがてアカリが不意に笑った。レンはそれを呆然と眺めながら、笑われている理由が分からずにむすっとして言葉を発した。

 

「何がおかしい」

 

「だって、レン君。急にむきになるんだもん」

 

 その言葉でハッとした。話すことなどないと思っていたのに、どうして今の会話だけでこうも熱がこもったのだろう。自分の中の制御できない部分に、レンは戸惑った。レンが言葉を探しあぐねていると、アカリが先に言葉を発した。

 

「レン君。学校でも、今と同じように喋れないかな」

 

 その言葉に、レンは胸中で急激に醒めていくのを感じた。学校であんなことをしておいて今更アカリとまともに喋れるわけがない。それよりも学校ではレンは格好のサンドバッグだ。アカリが不良たちに目をつけられないとも限らない。レンは首を横に振った。

 

「駄目だ。それはできない」

 

「どうして。ノートのことなら――」

 

「もう、そういう問題じゃねぇんだ。そういう話がしたいんなら、俺はもう帰る。じゃあな、日下部」

 

 アカリを巻き込むわけにはいかなかった。これは自分の問題なのだ。ならば自分で決着をつけなければならない。レンは身を翻し、アカリに背を向けた。アカリは言葉を発しようとはしなかった。言っても無駄だということが分かったのだろうか。それならば、レンにとっては安心だった。これ以上、その話を続ければ自分の言葉でアカリを傷つけかねない。

 

 その時、アカリが、「じゃあ」と口を開いた。レンは立ち止まらない。

 

「じゃあ、放課後にこの場所で話そう。それなら、レン君も」

 

 レンはその言葉を確かに聞いた。もうすぐ表通りに抜ける。アカリがどんな表情でその言葉を発したのかは分からない。しかし、それでも――、と惑う胸中の中で、レンは一つの結論を出した。

 

 レンは片手を上げ、振り返らずに応じた。

 

「またな」

 

 それがどういう風に伝わったのかは分からない。アカリの満足いく答えだったのかも定かではない。しかし、レンにとってはこの決断も一つの甘えのような気がしていた。最後の一線で、結局、孤独を選べない。どっちつかずの精神でいつかアカリを傷つけてしまうかもしれない。

 

 返事を聞く前に、レンは表通りの喧騒に埋没した。

 



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第六話 金魚鉢の街

 次の日から学校にレンの居場所はなくなった。

 

 いや、今までもなかったのだから、それがより明確になったと言ったほうが正しい。レンは孤独を自覚するようになった。屋上へと上り、不良たちに殴られもしたが、今日のレンは無抵抗ではなかった。

 

 頭上から打ち下ろされた拳を受け止めて流し、レンは不良の懐に踏み込むと、その腹へと鋭い肘鉄を食らわせた。肺から吐き出された煙草臭い息に顔をしかめながら、レンは足を引っかけて不良を転ばせる。不良たちは一人が倒されたことに呆気に取られていた。獲物と規定した人間からの反撃を予想していなかったのだろう。レンは吹き付けるぬるい風に制服を煽られながら、両ポケットに手を突っ込んだ。

 

「何見てんだよ、間抜け共。来るなら来いよ」

 

 片手で手招くも、不良たちは向かってこようとしない。サンドバッグが喋るとは思っていないのだろう。標的には的以上の役割を求めないのが、彼らの性分のはずだ。次の暴力の前に、叫びが発せられた。

 

「てめぇ! 今更反抗するような立場があると思ってんのか!」

 

「立場なんかねぇよ。俺は前の学校でも暴力やった。今回も同じだ。教室戻ったって、それは変わらねぇ。だったら、大人しくお前らの玩具やっているよりかは、お前らを玩具にしたほうが面白いって思ったんだよ」

 

 倒れこんだ不良に歩み寄り、レンはその足で不良の頭を蹴りつけた。昏倒した不良が鼻から血を流す。

 

 その顔を仲間たちに向けた瞬間、彼らの顔色が一変した。狩る側は狩られる側になった途端に弱くなる。レンが経験則で知っていることだった。

 

 彼らの中にも階級はあるのだ。頭を潰されて生きている生物がほとんどいないように、彼らもまた中枢が消えれば脆い。頭が挿げ変わる、というのは実は稀なのだ。強い力を笠に着て、彼らは威勢よく吼えていたに過ぎない。檻の中だと知ることもなく。

 

「どうすんだ。やるのか、やらねぇのか。はっきりしろよ。それともボス猿がやられてびびっちまっているのか。ションベン垂れてねぇで、男なら腹ァ括れよ」

 

 レンが歩み寄る前に、彼らは倒れた不良を連れて、非常階段へと逃げ出した。息をつき、レンは鉄柵にもたれかかる。

 

「……ああ、終わったな」

 

 学校に来られるのも今日までだろうという予感に、レンは思わずため息が漏れる。校内暴力となれば一方的に糾弾されるのはレンだろう。不良というものは体制の枠組みの中で吼えているだけで、実のところは体制に守られている。

 

 教師陣だって厄介者呼ばわりはしても、心の底では真面目に生きている人間よりも彼らのほうを愛しているのだ。教師の中にも幻想を持っている人間はいる。幻想の対象である彼らを守りたいという、「熱血教師」を演じる自分に酔っている。だから、こういう場合、咎められるのはレンの側なのだ。

 

「全く、理不尽だよな」

 

 理不尽は理不尽として戦うような時代ではない。そんなものが流行るわけがない。流行っても、それは物語の中だけの話だ。現実の人々は実直に生きるだけだろう。現にレンだって、そんな得体の知れないものと戦おうという気はなかった。

 

「でも、これでよかったんだ」

 

 遅かれ早かれ、こうなることは分かっていた。レンの我慢がなかっただけの話だ。一日目にこうなっていてもおかしくはなかった。元々、学校という空間が合わないのだ。〝体質〟のせいにしなくても、まともに楽しめたためしがない。

 

 鉄柵に体重を預け、レンは教師陣が息せき切って走ってくるのを待った。不良の言葉を、どうしてだか彼らは信じる。ドラマでは正しいだろうが、現実では違うということを彼らは知らない。

 

 しかし、待てど暮らせど、彼らがやってくる気配はなかった。不良たちもこれで終わらせる気はないのかもしれない。報復、なんていう時代遅れのことをやってくる可能性もないわけではない。

 

 そのためには面子という奴が重要になってくる。ここで教師に泣きついていては、それこそ不良の名折れだろう。そこまで考えているかは分からないが。

 

「誇りも、矜持も、あるかどうかは分かんねぇな」

 

 あったとしても自分には関係がない。せいぜい夜道に気をつけることぐらいができることだろう。

 

 足元の鞄を手に取り、レンは屋上を後にした。教室を覗いてから帰ろうかと思ったが、そんな気にもなれず、レンは朝方から学校を早引けした。

 

 後ろには注意したが、バイクが突然走ってくることもなければ、影がナイフを手に駆け寄ってくる気配もなかった。さすがにバイクやナイフをいなすほどの心得はない。そうされればレンも終わりだったが、その時はその時だという諦観があった。誰でも、どうしようもない時はある。

 

 レンは自分の身に大した危機感は抱いていなかった。

 

「やられる時はやられるもんだ。正義の味方だろうが悪の親玉だろうが、それは変わらねぇし、きっとこれからも未来永劫、変わることもないだろう」

 

 人類の価値観がどれほど進化しても、そういう根幹で人類は変わらない。変わらないから、争いは絶えないし、時代の流れが読める人間などいつまで経ってもいやしない。

 

 レンは裏通りへと向かった。この時間帯にはさすがにいないかと思ったが、猫は同じようにそこにいた。猫が顔を向ける。どうやら覚えていてくれたらしい。猫缶を袋から取り出して見せると、猫のほうからレンへと歩み寄ってきた。

 

 レンは足元に猫缶を置いて、猫を眺めた。胡桃色の毛並みは、今日は汚れていない。誰かが世話をしているのだろうか。それとも自分で何とかしたのだろうか、と考えて、まさかと首を振った。

 

 アカリの他にもこの猫のことを知っている人間くらいはいるだろう。頭を撫でながら、「もう、駄目になっちまったよ」と呟いた。

 

「居場所が完全になくなっちまった。親戚が出してくれている学費もストップするだろうな。もう学校には行けない」

 

 どこへ行こうというのか。自分でもはかりかね、決めかねている。働こうにも自分に何の価値があるのか分からなかった。今すぐに行動することはできそうにもない。思わずため息を漏らしそうになると、早足で近づいてくる靴音を察知してレンはそちらに目を向けた。

 

 不良が報復に来たのだろうか、と思ったのである。しかし、そこにいたのは不良たちではなく、一人の少女だった。

 

「日下部。どうして……」

 

 肩を荒立たせて、アカリがそこに立っていた。レンが戸惑いながら立ち上がると、アカリはつかつかと歩み寄り、息も絶え絶えに言葉を発した。

 

「レン君、が、早退したって、聞いたから……。多分、ここだろうと思って」

 

「ここだろうって、お前、学校は?」

 

「レン君が大変な時に大人しく学校にいられないよ。聞かせて、レン君」

 

 アカリは真っ直ぐにレンの目を見た。その目を直視することができずにレンは顔を伏せた。暴力を振るって自分から居場所を捨てた人間に、アカリの目は眩しすぎた。アカリはそれでもレンから視線を外すことなく、そのまましばらく見つめていたが、やがて息をついて、「そっか」と呟いた。

 

「話したくないことくらい、あるもんね。わたしだってたくさんあるし、レン君だってきっとそう。大変なら、なおさらだよね」

 

 話したくないわけではない。ただどう切り出せばいいのか分からなかった。暴力を振るったことをどう取り繕っても、うまく話せる自信がない。そもそも、そんなことをアカリに話して何になるのだろう。

 

 アカリに同意を求めたいのだろうか、同情が欲しいのだろうか。きっと、自分はそんなものを必要としていない。アカリには自分のそういった面を知って欲しくなかった。しかし、恐らくはクラス中に知れ渡っているであろう。

 

 おしゃべりな教師が話したか、そうでなくても誰かには伝わっているはずだ。アカリがここに来たのも、レンが学校にいられなくなったことを察したからに違いなかった。

 

「軽蔑するか? 日下部」

 

 軽蔑されてもいいと思っていた。最低だと思われることでアカリを自分から遠ざけられるのならば。それがアカリのためならば、と。レンは自分のせいで誰かが不幸になるのは見たくなかった。

 

 しかし、アカリは首を横に振った。

 

「ううん。逆にわたし、不謹慎かもしれないけれどよかったと思っている」

 

「よかった?」

 

 アカリは自身の顔を示した。レンの頬にはまだ絆創膏が貼られている。昨日までの痛みがまだ色濃く残っていた。

 

「レン君、傷だらけなんだもん。それを見ているのが、一番辛かった。だから、わたしはよかったと思う。レン君が、そういう状況を自分で変えたのって。それって嬉しいし、すごいよ」

 

 意想外のアカリの言葉はレンの中で妙な感触を伴って響いた。その言葉を繰り返す。

 

「嬉しいし、すごい、か……」

 

 そんなことは思いもしなかった。いつでも脱することのできた状況だ。しかし、学校という居場所に固執していたら、もしかしたらズブズブと抜け出せなくなっていたかもしれない。サンドバッグの日々が当たり前になっていたかもしれない。そう考えれば、自分で起こした行動にも正当性まではいかなくとも納得することはできた。傷に指先で触れながら、

 

「確かに、怪我は痛い」

 

「でしょ」

 

 アカリは笑顔を向けた。真っ直ぐな笑顔に、レンは照れ隠しのように屈んで猫の相手をした。

 

 そのことを見透かしているように、猫は前足でレンの手を払って鳴いた。猫はまだ半分残っている猫缶を置いて、どこかへと歩き出す。その時になって、レンは猫に尻尾がないことに気づいた。どこかで切ったのだろうか。表に出れば車の往来もある。事故にでも遭ったのかもしれなかった。

 

「嫌われちゃった?」

 

「かもしれねぇ」

 

 レンは立ち上がり、アカリに向き直ろうとした。その時、背後に肌に絡みつく湿っぽい視線を感じた。振り返って、レンは身構える。裏通りの向こうに、何かがいたような気がしたがもう何も見えなかった。

 

 この状況でレンの動向を探る人間といえば少ない。不良たちに見られたか。相手は一人か、複数人か。じっとりと汗が滲み、レンは額を拭った。レンの様子がおかしかったからか、アカリが首を傾げて、「レン君?」と尋ねる。

 

「ああ。何でもない。ちょっとな」

 

 平静を装いながらレンはアカリに向き返る。もし見られたのならば、自分に報復の矛先が向かない可能性もある。その場合、弱いものを狙うに違いないだろう。レンはアカリへと訊いた。

 

「日下部。家って、この辺なのか?」

 

「えっ、うん。十分ほど歩いたところだけど」

 

「送るよ」

 

「えっ、悪いよ。それにまだお昼過ぎだし」

 

「気にすんな。俺もやることがないから。ちょっと話したいこともあるし」

 

 そう言うと、アカリは渋ったが悪い顔はしなかった。

 

「じゃあ、お願いします」

 

 どこかかしこまったアカリと共にレンは歩き出した。自分のせいで誰かを傷つけるわけにはいかない。その念が強かったせいか、ほとんど会話はなく、レンは鋭い眼差しを周囲に向け続けていた。

 

 アカリの家は木造の二階建てだった。小さくもなく、かといって大きくもない家で、住宅地の中にひっそりとあるような印象だった。記憶の中でアカリの家に抱いていた印象を探すが、それらしいものは思い出せなかった。元々、家では遊ばなかったのかもしれない。レンは別れ際に、アカリに言い含めた。

 

「コンビニなんかにも夜には出歩くなよ。物騒だからな。とにかく夜には出るな」

 

 アカリはきょとんとしていたが、レンの目が本気だということが分かると頷いた。レンが踵を返しかけると、アカリはその背に呼び止めた。

 

「何だ?」

 

「いや、大したことじゃないんだけど、ね。レン君。学校にはもう来ないの?」

 

 その言葉はアカリの中では重要なものだったのだろう。言うまでに逡巡があったに違いなかった。レンはどう答えるべきか悩んだが、正直なことを言うことにした。

 

「ああ、もう行かない。行くとしても、次は退学届けを出しに行くときだろう」

 

「でも、レン君、何も悪くないんでしょ?」

 

「俺が悪くないとか、正しいとか喚いたって関係ないさ。問題のある生徒を置きたくないだろ、学校も。日下部も、俺と昔、遊んでいただとかは言わないほうがいい。面倒くさいことになる」

 

 レンはその言葉を潮に、立ち去ろうとした。その足を、「でも、レン君」と一歩踏み込んだアカリの声が止めた。

 

「また会えるよね。ミーコの世話、しなきゃいけないし」

 

 その言葉にどう返せばいいのか、レンには分からなかった。希望的観測を振り翳して、また会えるとでも気の利いたことを言えばよかったのだろう。しかし、レンはそこまで器用ではなかった。

 

 自分の中でも整理するだけの時間が必要だった。アカリのことも、学校のことも。どうすることが正しいのか、答えは出ずにレンは黙ってその場から歩み出した。アカリがずっとその背中を見ているのが分かったが、振り返りはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日は学校に行かず、そのまま猫の世話をしにいった。それでも習い性で制服を着てしまい、脱ぐのも面倒なのでそのまま街へと向かう。

 

 猫缶を買っていると、さすがにこの時間帯は不審に思われるのか、レジの女性が怪訝そうな目を向けていた。レンはその視線から逃げ出すように店内から出て、真っ直ぐに裏通りへと向かう。

 

 いつもと同じ場所に、猫はいた。ひょっとすると、ここが猫のテリトリーなのかもしれない。

 

 猫は人につくよりも、場所につくという。だとするならば、懐いているわけではなく、ただ単にテリトリーに入って勝手に餌をくれる人間として認識されているのだろう。

 

 アカリは来ていない。当然、学校に行っているのだろう。通学路も危険といえたが、レンが常に注意の目を光らせておくわけにもいかない。そちらのほうが周囲から見れば危険に見えるだろう。

 

 レンは猫缶を前に置いてやった。しかし、今日はいつものようにがっついてくることはなかった。じっとレンを見つめている。レンもじっと見つめ返した。

 

 その金色の瞳に吸い込まれそうになりながらも、どこか別の光があるような気がした。ただ毎日を生きるのではなく、何かしら目的があるような、本能とは違う部分で生きているような光だ。それを一瞬、強く感じたがすぐに気のせいだと断じた。猫の毛並みは汚れていた。

 

 また何かあったのかもしれない。ひょっとすると、飼い主のような人物から暴力を受けているのかもしれなかった。だが、レンにはそれを打開するような行動力も経済力もない。こうして気まぐれに餌をやるくらいしかできないし、仕送りがなくなればそれもできなくなるだろう。

 

 頭を撫でてやりながら、レンは言った。

 

「お前らだって大変だろうな。人間だけが大変だと思うのは、確かに違うか」

 

「そうね」

 

 不意に差し込んできたのは澄んだ少女の声だった。聞こえた声にレンは振り返る。しかし誰もいない。

 

 見回してみるが、人影はなく、それらしい気配もない。レンが息を詰めて気配を探っていると、「ここだよ、ここ」と足元で声がした。視線を向けると、猫が前足で空を掻いていた。レンが目をしばたたくと、猫の口が動き言葉を発した。

 

「せっかく返事をしてあげたのに、無視は酷いよ。レン君」

 

 レンはそれを見てから深く息をつき、顔を拭ってから、「疲れてんのか」と呟いた。猫が顔を突き出して、「幻聴じゃないよ」と喚く。

 

「あたしが喋ってんの。どう? 驚いた?」

 

「いや。まぁ、驚いたっていや、驚いた」

 

「……あんまし驚いていないみたいだね」

 

 猫が頬を膨らませて抗議する。レンはまじまじと猫を見つめながら、「んー、まぁ」と頷いた。

 

「昔、狐に話しかけられたこともあるからな。動物が喋るのは、俺にとっちゃ珍しくない」

 

 それでも驚いていないわけではない。昨日まで一言も喋らなかった動物が急に喋りだすことは、心臓にいいものではなかった。

 

「そっか。別に脅かそうってわけじゃなかったんだけどね」

 

 軽やかにそう口にする猫を、レンは異形を見つめる眼差しを向けた。

 

「お前、ただの猫じゃないな」

 

「ご明察ー」

 

 猫の背後から二本の尻尾がゆらりと持ち上がった。毛並みと同じ、胡桃色の尻尾がゆらゆらとそれぞれ動いている。レンは呆気に取られたように、口をぽかんと開いた。

 

「俺にしか見えていないのか? お前」

 

「いやー、そういうわけじゃないけど。普通の人にも多分、見えてるよ。あたしはレン君とアカリちゃんともう一人からしかご飯もらってないけどね。他の人のは突っぱねることにしているから」

 

「そういう問題じゃねぇだろ」

 

 レンは眩暈を感じながら額に手をやって呻いた。悪いものを引き寄せているのかもしれない。その予感を察したように、猫は明るい声で「大丈夫だよー」と言った。

 

「あたしは猫又。妖怪の一種だけど、悪いものじゃない。それと本当の名前があるんだけど、まぁ、それはこれから来てもらえれば分かる話だから」

 

 猫は身を翻し、四足でゆっくりと歩き出す。レンは立ち上がり、聞き返した。

 

「来る? 来るってどこにだよ」

 

 猫は振り返り、口をゆっくりと動かした。

 

「君を必要としている人のところにだよ。あたしの後について来て。大丈夫。五分もしないところだから」

 

 猫は前を向いて歩き出す。レンは夢見心地でその後ろについていった。特別な道を通るわけでもなく、猫にしか通れない道というわけでもない。裏通りを真っ直ぐに進むと、小さな事務所へと辿り着いた。

 

 二階建てでしっかりとした鉄筋のビルである。しかし、昨日アカリを送った時には気がつかなかった場所だ。意識しなければ、曇り空の中に溶けていきそうな薄汚れた事務所だった。

 

 扉の前で、猫が振り返った。

 

「ここなんだけど、開けてもらえるかな?」

 

 前足で扉を開ける真似をする。レンは丸い取っ手に手をかけた。瞬間、心臓が一つ大きな脈動を刻んだ。額に走る疼痛に、レンは顔をしかめながら取っ手から手を離してよろめく。ぐらぐらと視界が揺れ、頭を殴打されたように思考が遊離しかける。

 

「何だ、これ。ここ、やばいぞ」

 

 何が、という主語を欠いたまま口からついて出た言葉に、猫があっけらかんと応じる。

 

「あ、分かるんだ。うん。ここ、あまりいい場所じゃないんだよね。元々、鬼門方向だし、お札もいっぱい貼ってあるし。この事務所を建てる前には石のお宮さんがあったらしいんだけど、移転させてお祓いもせずそれっきりで」

 

「ろくな場所じゃないじゃねぇか」

 

「でも、ここが適材適所なんだよね。木を隠すには森の中、っていうでしょ」

 

 猫の言っている意味がいまいち汲み取れず、レンはよろめいた身体を立て直した。もう一度、取っ手に手を伸ばす。

 

 猫は二本の尻尾を揺らめかせて待っている。開けさせようとしているのだ。レンは取っ手に触れた。先ほどと同じ感覚が襲い、平衡感覚が麻痺する。視界がぐるぐると転じ、今にも落ちようとする意識の中、感覚だけを頼りにレンは扉を開いた。

 

 その瞬間、それらから解放されたように一気に気分が戻った。

 

 異常な脈動も、額の疼痛も感じない。入った場所は事務所のエントランスだった。といっても、人間一人いればそれだけで狭く感じる廊下があるだけで、受付も何もない。レンは周囲を見回す。

 

 廊下を真っ直ぐ行けば奥のほうに扉がある。まだ朝方だというのに、蛍光灯は夜の病院のように暗く沈んだ廊下にぽつりぽつりと点在している。

 

 入ってすぐのところに階段があり、二階へと続いているようだった。猫は、「開いた、開いた」と言いながら、レンの股の下をくぐって階段へと歩を進めた。レンがその小さな身体を呼び止める。

 

「お、おい!」

 

 猫が振り返り、澄ました顔で「何か?」と尋ねる。

 

「今の何だ。何で入った途端に何ともなくなった?」

 

「一種の防御装置みたいなものだから。初めて入る人間を拒むようにできているの。だから普通の人はここには気づかないし、見つけたとしても入るのがすごく嫌な感じがして入らない」

 

「その、すごく嫌な感じがするところに俺を入らせた理由は?」

 

「それをこれから話すんだってば。二階に行けば嫌でも分かるから、あんまり喋らせないでよ。猫の状態だと疲れるし」

 

 猫はそう言い置いて階段を一歩ずつ上り始めた。レンは納得できないことが多かったが、猫に続いて二階に行くことがそれを解消することに繋がると思い、その後ろ姿を追った。

 

 上りきると、そこにまたも扉があった。おっかなびっくりに手を伸ばす。今度は先ほどのような感覚はなく、普通に開いた。猫が部屋の中に飛び込む。レンは扉から恐る恐る顔を出した。

 

 大きな執務机が一つあり、机の上には書類がうず高く積み上がっていた。中央に応接用のソファが向かい合って設置され、挟まれる形で小さなテーブルがある。そのソファの上に、寝そべっている人間がいた。

 

 身体つきはほっそりとしているが、凹凸がなく、身体も無骨で男性のようだった。顔がちょうど本で隠れている。どうやら寝息を立てているようであった。生きているのか、とレンが声をかけようとする前に、猫がその男に飛び乗り、大声を発した。

 

「春日さーん! 連れてきたよー!」

 

 慌ててレンが猫に組み付き、その身体を引き剥がしながら口元に手をやる。

 

「何すんの、レン君!」

 

「こっちの台詞だ。人間の前じゃ喋らないんじゃなかったのかよ!」

 

 レンの手に猫は噛みついた。思わず手を緩めると、猫はするりと拘束から抜け出し、ソファの上の男の傍に駆け寄った。男がゆっくりと身を起こす。顔の上にあった本がずり落ち、その全貌が明らかになった。

 

 ほっそりとした顔つきで、眼鏡をかけている。刈り上げた黒い短髪を掻きながら、男はボーダーのシャツの首筋から風を取り込みつつ、ぼんやりとした視線をレンに向けた。

 

 レンはぽかんとしてその顔を見つめる。見れば見るほど、印象に残りづらい顔立ちだと思った。顔のどのパーツも平均的な個性のために、突出したものがなく覚えづらい。

 

 男はレンの姿を数秒間見つめた後、ハッとしたように目を見開いて、周囲を見渡した。猫を見つけると、「ああ、なんだ」と口を開いた。その声も低くもなく高くもなく、中性的で頭に入りづらかった。

 

「連れて来てくれたんですか」

 

「何言ってんの。自分がそろそろ連れて来て欲しいって言ったんでしょ」

 

 その声に男は乾いた笑いを浮かべながら、「手厳しいな」と言った。男は立ち上がり、レンを見下ろした。背丈もレンより高いが、高身長というわけでもない。平均的な身長だろう。

 

 男は手を差し出して、柔和な声で言った。

 

「僕は春日トオル。この事務所の主です。君が来てくれるのを待っていました。帷レン君」

 

 差し出された手にレンは戸惑いながらも、言葉を発した。

 

「どうして、俺の名を?」

 

 その質問に、春日と名乗った男はニコリと笑った。

 

「有名ですよ。この界隈で君の名前は」

 

 どの界隈なのか、問い質したい気もしたが、レンはこの奇妙な事態を頭に入れることで精一杯だった。差し出された手に警戒していると、春日は手を引っ込めた。

 

「いきなりじゃ不躾ですかね」

 

 春日は執務机へと歩き出す。レンは先ほど春日の顔の上に乗っていた本に目を向けた。ドストエフスキーの『罪と罰』だった。

 

 それを見て、一体この場所は何なのだ、とレンは不安に駆られた。春日は執務机に寝起きでよろめく身体を近づける。危ない、とレンが思った瞬間、春日の手が執務机に積まれた書類に引っかかった。書類の山がバランスを崩し、レンのほうへと崩落する。

 

 猫が「あーあ」と声を漏らす。レンは咄嗟に書類を数枚受け止めていた。その書類に視線を落とす。

 

 直後、顔が沸騰したように熱くなった。そこに描かれていたのは、男と女が絡み合う様子だったからだ。

 

 レンの手から書類を受け取り、春日が「すいません」と頭を下げる。レンは今の一瞬で、春日という男の印象を固めてしまった。先ほどまで霧のように不確かだった春日の全体像が、鏡面を合わせたようにぴっちりと輪郭が分かってくる。

 

「それがこの人の仕事ってことなの」と猫が知った風な口を利きながら、レンの足元を行き過ぎる。春日は、「参ったな」と後頭部を掻きながら言った。

 

「これは趣味みたいなものなんですけど。まぁ、趣味と言っても聞こえはよくないでしょうが、本業であって本業じゃないと言いますか。……どう言えばいいかな?」

 

 春日が猫に尋ねる。執務机に飛び乗った猫はそっぽを向いた。

 

「知らないって。あたし、これはあんまり好きじゃないから、フォローする気もないし」

 

 前足で書類を引っ掻く。春日が慌てて書類を書き抱き、自分のほうに引き寄せた。レンは目の前で展開されている物事に対処しきれずに、頭を抱えた。猫と普通に喋っている大人がいて、その大人の趣味はいかがわしい。

 

 どうして自分がこんな空間にいるのか、疑問に感じ始めた時、猫が振り返って、「そうそう」と言った。

 

「あたしのもう一つの姿。見せてあげる。そのほうが話しやすいだろうし」

 

 猫は二本の尻尾を揺らめかせると、体表から薄く光を放出した。その光が盛り上がっていき、見る見る間に人間の形を作る。光が弾けると、そこにいたのはもはや猫ではなかった。

 

 少女だった。年のころはレンと同じぐらいに見える。エプロンドレスのような服に、ミニスカートを穿いている。

 

 髪の毛は胡桃色のショートボブで、後ろに尻尾のように長い髪を結って垂らしていた。しかし最も奇異なのは頭頂部にある耳だった。猫の耳が髪の毛と一体化してついている。少女は呆然としているレンへと言葉を発した。

 

「これならさっきよりもまともに話せるでしょ。目線も合わせる必要もないし」

 

 少女の声は猫の声と同じものだった。編み上げのブーツを履いた足を揺らしながら、執務机に座って少女はレンを見やる。レンは頭がパンクしそうだった。先ほどとは違う種類の疼痛を額に感じる。

 

 現実が受け止められない。そもそもこれは現実なのか。夢だと思ったほうがまだマシに思える。

 

「お前、さっきのミーコなのか? どうして人間の姿に――」

 

「あたし、その名前嫌いだから、それで呼ばないでもらえるかな。アカリちゃんとか、近所の人が勝手につけた名前だし。あたしにはミャオって言う立派な名前があるんだよ」

 

 少女――ミャオはそう言ってから欠伸をした。レンは状況が飲み込めずにふらふらと後ずさる。何なのだ、この状況は。自分が何をしたと言うのか。考えが纏らず、叫び出したい気分に駆られたが、狂気に沈む前にレンは正気の言葉を発した。

 

「お前ら、何なんだ?」

 

 それが今、精一杯の正気を保てる言葉だった。ミャオと春日は顔を見合わせ、春日が、「これは失礼」と話し始めた。

 

「色々と込み入った話もあります。どうぞ、そこに腰掛けてください」

 

 春日がソファに座るように促す。レンは警戒の目を注いだが、春日はニコニコと掴みどころのない笑みを浮かべている。信用はできない。だが、疑う材料も少ない。今は話を聞くことがこの事態を解明する近道だと、レンはソファに腰掛けた。

 

 ミャオが急須から湯飲みにお茶を入れて、レンの前と対面に置き、自分の分も入れて飲んだ。「熱っ」と舌を出して、ミャオは目の端に涙を溜める。どうやら猫舌らしい。対面のソファに春日が座り、ミャオは執務机に座っている。

 

「さて、どこから話しましょうか。レン君は何が気になりますか?」

 

「まず、どうして俺の名前を知っているんだ。そこから話してもらわないと、何も始まらない」

 

「この界隈では有名だと言ったでしょう?」

 

「有名だと。俺は、何も有名になるようなことはしていない」

 

 そこまで言ってから、もしかすると春日とミャオは前の学校の暴力事件を知っているのかもしれないと思った。教育関係者ならば、なるほど、その界隈だろう。しかし、目の前の二人が教育関係者にはとてもではないが見えない。

 

「あるでしょう。レン君。君は見えるはずです」

 

 その言葉が発せられた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。呼吸が一瞬できなくなり、視界が一瞬暗くなる。どうしてこの男が自分の〝体質〟のことを知っているのか。思わず、どうして、と問いかけそうになったが、寸前で思い留まった。鎌をかけているだけかもしれないと思ったからだ。

 

「何のことだ?」

 

 全く思い当たる節がないとでも言うように、湯飲みを口元に運ぶ。あまり熱くはなかった。

 

「とぼけないでください。ここいらの連中の間では、君が見える人間だということは周知の事実です。何故なら、君は幼少時、ここで過ごしたから。その時に既に見初められていた。その〝体質〟を」

 

 春日の言葉にレンは湯飲みをそのままに、目の前の得体の知れない男を見つめた。眼鏡の奥の瞳は優しく細められている。全てを見透かしている、とでも言うように。事実、春日の言葉は正鵠を射ている。

 

 この街でレンの〝体質〟は発現した。しかし、周知の事実とはどういうことなのか。見初められたというのは、どういう意味なのか。

 

「あんたが何を言っているのか、俺には分からねぇ」

 

 それでも、まだ認めるわけにはいかなかった。今まで誰にも言わなかったことを、そう簡単に認めることは今までの生き方を否定するようなものだ。しかし、春日は静かに続けた。

 

「レン君。僕は他の人間のように君の力を馬鹿にしているわけでも、過小評価しているわけでもない。ありのまま、事実としてそれを認めて欲しい。君のような人間が必要なんです」

 

「必要? 俺が?」

 

 レンは湯飲みをテーブルに置いた。必要という言葉になびきそうになるが、それでも一線を保つために、言葉を重ねる。

 

「あんたの言葉はさっきから要領を得ない。あんた自身は何なんだ? そこを意図的に飛ばしている気がしてならない」

 

「失礼しました。確かにそれが先でしたね。僕は、君と同じ種類の人間です」

 

「同じ種類?」

 

「ええ。簡潔に申しますと、見える体質です」

 

 レンはその言葉に息を呑んだ。今まで自分と同じ種類の人間には会ったことがなかった。テレビで取り上げられている霊能力者は全てインチキだと分かっていたし、そういう人間が簡単に見えるということを暴露するとは思えなかった。

 

「信じられないな。何か証拠でもあるのか?」

 

「証拠、と言われると弱りましたね……」

 

 春日は後頭部を掻いて周囲を見渡す。どこかに幽霊がいないかと思っているのだろう。レンはこの部屋に入った時にそれは確認した。この事務室にはいない。春日は困惑した様子で、首を巡らせた。証明しようがないからだろう。逆に、いないと言うことが見えている証明になるのだが、それぐらいは誰でも言える。その時、ミャオが助け舟を出した。

 

「春日さんは本物だよ。あたしが証明する」

 

 ミャオは湯飲みに息を吹きつけ、必死に冷まそうとしている。

 

「ありがとうございます、ミャオさん」

 

「どういたしまして」

 

 それでもレンは信用できなかった。二人してレンを担いでいる可能性もあるからだ。しかし、ミャオは明らかに人間ではない。

 

 奇術の類だとしても見破れないが、こんなに近くで種も仕掛けもない奇術を見せられたことがないために、どうとでも考えられた。そんなレンの様子を見て、春日はため息をついた。

 

「……信じて、もらえてはいないようですね」

 

「まぁ、そうだな」

 

 レンは再び湯飲みに口をつける。春日の後ろでようやくミャオも茶を飲み始めた。春日が一口、口に含んでから頷く。

 

「お気持ちは分かります。簡単な話じゃない。信じてもらえないとこれから話す内容の説得力がなくなるのですが……。では、僕の独り言だと思って聞いてください。信じる信じないは、レン君の勝手で構いません」

 

「ああ、分かった」

 

 春日は幾分か気落ちした様子だった。どうやらこれからの話はレンが春日のことを信じることが前提条件だったらしい。いきなり連れてきて信じろと言うのはさすがに無理があるな、とレンは感じた。

 

「この事務所は何か、というのをまずお話しましょう。この事務所は妖怪専門の事務所です。主に彼らのトラブルを解決するために存在しています。だから、普通の人間は入れるようになっていません。この場所を察知できるのは、レン君のように見える人間か、妖怪たちだけです。そもそもこの事務所の始まりは――」

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 

 レンは春日の話を途中で遮って言った。春日が不思議そうに首を傾げる。

 

「何でしょうか?」

 

「妖怪を信じろって言うのが、そもそも無理がある」

 

「見たことないんですか? レン君ほどの力なら、見えるでしょう」

 

 レンはその言葉に幼少時に見た狐を思い出した。妖怪、なのだろうか。

 

「この街は妖怪が多いです。他の街にもいますが、際立って多い。それは何故かというと、この事務所のように彼らの意向を無視して作られた建築物が多いからです。居場所をなくした彼らは彷徨い、澱みとなって増えていきます。そのくせ、この街の人間は信仰心が厚い。知っているでしょう。金魚の御神体」

 

「ああ、街中にあるからな」

 

「そういう中途半端な心が彼らを増やすんです。妖怪は信じないけれど、神は信じている。ならば逆説的に神が認めているのならば、妖怪も存在するということです。この街の伝承には神と妖怪の話が多い。神がいるのならば妖怪もいる。そういうことなんです」

 

 春日の話は、何となくだが分かる。神と妖怪の話があったとして、片方を認めるのならばもう片方も認めざるを得ないということだろう。片方を信じないのならば、もう片方も信じられないことになる。

 

「どうしてそんなことを?」

 

 春日が自分にそんな話をする意図が分からない。春日は、「そこでこの事務所なんです」と言った。

 

「この事務所はいわば、妖怪たちの駆け込み寺です。彼らのトラブルを彼らに適した方法で解決する。彼ら専用の何でも屋みたいなものでしょうか。これからする話も、彼らに関わってきます」

 

「その話とやらを聞かないと、俺にはどうしようもない」

 

 春日はその言葉に頷き、神妙な口調で語り始めた。

 

「今回の相手は、その、何といいますか神様なんです」

 

「神様?」

 

 思わず聞き返すと、春日は真面目な表情で頷いた。

 

「この街の神様は、ご存知ですよね」

 

「金魚、か」

 

「そうです。正確に言えば金魚というよりかは、氾濫した河の神がデフォルメされていくうちに金魚に落ち着いたのですが、その経緯は今はいいでしょう。その神様と、ある人間が取引した、という話を耳にしました」

 

「取引? 神様と取引なんてできるのか?」

 

 レンの疑問に、春日はすかさず「できます」と応じた。

 

「それ相応の要求はされますが、普通の人が思っている以上に神様というのは気まぐれで、意外と小さなことを対価にしても要求を呑んでくれます。ただし、小さなことと言っても後々大きく影響してくることなのですが、それは人間にははかり得ません。しかし、限定的な願いならば叶えてくれます。この街はそうでなくと信仰心が強い。信仰心の強い神は実体化します。実体化するということは現実に影響力を持つということです」

 

「あたしみたいなのは、実体化した妖怪だけどね」

 

 ミャオが口を挟む。レンは「なら」と言葉を返した。

 

「神様を実体化させてどうしようっていうんだ?」

 

 レンの疑問に春日は首を横に振った。

 

「分かりません。ただあまり好ましいことではないようです。神様の力を使って、ある人間が悪さをしようとしている、としか伝え聞いていませんから。分からないことだらけですが、一つだけ分かっていることがあります」

 

 春日は指を一本立てた。レンはいつの間にか話に聞き入っていたのか、前傾姿勢になっていた。

 

「何だ? 分かっていることって」

 

「それをお聞かせする前に、条件としてレン君には協力していただきたい」

 

「協力?」

 

「今回は僕の力じゃ及ばないかもしれない。でも、レン君ならばできる可能性があるんです。それだけ今回は特殊なケースなんです」

 

「つまり、俺に妖怪の手助けをしろと」

 

「平たく言えばそうです。この事務所の一員として、僕はレン君をスカウトしたいというわけです」

 

 春日の言葉に、レンは身を引いて湯飲みをテーブルに置いた。半分ほど飲んで残しておいた。注ぎに来ようとするミャオを、「今はいい」と手で制して、レンはテーブルに視線を落としていた。

 

 春日の話を信じる信じないの前にはっきりさせておくべきことがある。レンは顔を上げて、口を開いた。

 

「春日さん、と言ったか。その提案だが、考えるまでもなく論外だ」

 

 レンの言葉に春日は、「どうして」と尋ねる。レンは春日を見据えて言った。

 

「えらく買ってくれてるようだが、俺にはそんな力はない。妖怪なんて見たことねぇし、あんたらが俺を担いでいる可能性は捨て切れない」

 

「あたしが変化するところを見たじゃない。猫の状態で喋るのも」

 

 ミャオが割って入るが、レンは首を横に振った。

 

「どうせトリックだ。スピーカーでも使っていたんだろ。それかここに入った時点で俺に幻覚でも見せるような仕掛けをしていたか。そういえばここに入る時に気分が悪くなった。あれが催眠の開始だったんじゃないか?」

 

 春日とミャオは何も言わない。そのせいかレンの口調は徐々に攻撃的になっていった。

 

「あんたらが言っていること、全て証明のしようのないことだ。凝った舞台装置まで使わせておいてなんだが、俺はあんたらの話を信じる気分にはなれねぇ。どうせ、面白がっているだけだ。みんな、勝手だよ」

 

 レンは立ち上がった。もう話すことはない。その意思表示のように踵を返し、事務室の扉へと向かう。その背中へとミャオの声がかかった。

 

「アカリちゃんはどうするの?」

 

 その声にレンの足が止まった。しかし、振り返らない。

 

「アカリちゃんも、今回は危ないかもしれないんだよ。それでもレン君は平気なの?」

 

 その言葉にレンは振り返った。ミャオは顔を明るくしたが、レンは吐き捨てるように言い放った。

 

「苦しくなると他人のことを引き合いに出すのかよ。日下部は関係ねぇし、それで脅そうとしているんならお門違いだ」

 

 ミャオは思いのほか強い口調のレンに気圧されるように後ずさった。

 

「……そんな。そんなつもりじゃ」

 

「じゃあ、どういうつもりなんだよ!」

 

 思わず声を荒らげる。

 

 ミャオが肩をびくりと震わせる。どうして自分でもこんなに怒りがこみ上げてくるのか分からなかった。アカリのことを引き合いに出されたことがそんなに気に入らないのか。自分でも説明不能な胸中に、レンは踏ん切りをつけるように言葉を発した。

 

「お前らと関わるのはゴメンだ」

 

 身を翻そうとした、その時、「レン君」と春日が呼んだ。顔だけ振り向けると、春日が何かを投げてきた。咄嗟に受け止める。手の中にあったのは黒い数珠だった。金色の文様が螺旋のように刻み込まれている。

 

「それはお守りです。常に持っていてください」

 

「……いらねぇ」

 

「協力していただかなくても、もうレン君は当事者です。ターゲットにされている可能性がある」

 

 春日の言葉に何か引っかかるものを感じながらも、レンはそれ以上追及しようとはしなかった。踏み込むには協力すると言わなければならない。レンは扉を引いて、事務室を後にした。

 

 乾いた扉の音が、取り付く島のないように虚しく響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋に帰ると西垣が隣の部屋の扉を開けて顔を出した。

 

「よう」と西垣が挨拶するので、レンは「どうも」と会釈した。

 

「どうしたんだ? 元気ないな」

 

 レンは心の内を見透かされたような気がしてどきりとしながら、努めて平静に応じる。

 

「そうか。変わらないよ」

 

「ならいいんだが。なんだか、妙な噂を聞いてな。西高の話なんだが、そこの生徒が暴力沙汰を起こしたらしい。肝心の生徒が今日来ていないから、教員連中も対処を決めかねているという話なんだが」

 

 レンは内心の動揺を表層にも出さず、澄ました顔で「そう、か」と返事をした。

 

「そんなことがあったのか」

 

「帷、西高だろ。なんか聞いてんじゃないかなと思ったんだけど、知らないか?」

 

「そういや、教員が慌しくしていたな。そういうのにはてんで縁がないから」

 

 嘘八百が口からついて出る。自分がその当事者だとはどうしても言えなかった。西垣はその言葉を聞いてどこか気抜けしたように、「だよなぁ」と言った。

 

「言っちゃ悪いけど、お前、そういうのとは無縁そうだもんな。優しい顔してるし」

 

「俺が、優しい?」

 

 思わず聞き返すと、西垣は恥ずかしげもなく頷いた。

 

「おう。お前は優しい男だ。目を見りゃ分かる。これでも俺はそういう部分の目利きは冴えているんだ」

 

「そうか?」

 

 西垣は怪我をした直後のレンの顔も見ているはずなのに、それが暴力によるものだとは思いもしなかったのだろうか。

 

 剣道部の話をしたので、もしかしたらその関係だと思っているのかもしれない。どちらにせよ、気楽な奴だと思った。

 

「そういやコスプレ同好会はどうなった?」

 

「ああ。おかげで次のイベントの準備は万全だ」

 

 西垣がいい笑顔でサムズアップを寄越す。レンは苦笑を漏らした。どうにも西垣という人物が掴みづらい。裏表のない人間かと思えば、こうして読めない一面もある。人間なんてみんなそんなものか、とレンは結論付けることにした。

 

「じゃあ、おやすみ、帷。暴力事件のほう、進展があったら教えろよ。違う高校とはいえ、お前が行っているんだ。気になるからな」

 

「ああ。分かったよ、おやすみ」

 

 扉が閉まった後、レンは息をついた。きっと根はいい奴なのだろう。越してきたばかりの人間にここまでよくするなんて相当だと思った。

 

「お人よし、って奴か」

 

 レンは鍵を開けて、部屋に入り、まずは風呂に入った。湯船にお湯を満たしながら、レンはポケットから数珠を取り出す。

 

 春日が投げた、「お守り」と言う数珠には細やかな螺旋の装飾があり、よくよく見ると文字のように見えた。照明に翳すと、星屑を塗したようにきらきらと輝いている。

 

 レンはそれが何なのか分からなかったが、常に持っていろと言われた手前、どうすべきか判じかねていた。ためしに右手首に巻いてみる。

 

 すると、思いのほかよく馴染んだ。つけているのも悪くない、とレンは思った。どうせただの数珠だ。

 

 今まで星の数ほど嫌なものを見てきたが、それを遠ざけるだけの力などあるはずがない。きっと、要は気の持ちようだということを言いたかったのだろう。生憎、レンは今までこういった類は試してきたが、どれも成果を上げては来なかった。

 

「今回も、同じだろうな。何も変わらない」

 

 レンはお湯を止めてから、台所に向かった。冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターと小分けにした野菜しか入っていなかった。これでは腹を満たせない。一日くらい食べなくとも何ということはなかったが、今日は色々とあって食べて忘れたい気分だった。

 

「買出しに行くか」

 

 レンは照明を消して部屋から出た。

 

 制服のままだったが、コンビニまでは十分ほど歩けばいい。夜とはいえ、暦の上では初夏だ。

 

 少し粘っこい空気がぬるく吹いている。車が粘性を伴った風を纏って、すぐ横を通り過ぎる。思えば、中途半端な季節に転校したものだ。不良に目をつけられるのも、当然と言えば当然かもしれなかった。

 

 レンはコンビニで軽く惣菜を買った。

 

 米は確かまだあったはずなので買わなくてもいい。帰り際、レンは派手な重低音が夜風に混じって静寂を掻き鳴らしたのを聞いた。

 

 そちらへと視線を向けると、一筋の光の帯が闇を貫いて、こちらへと向かってきていた。

 

 バイクの光だ、と感じてレンはその場で立ち止まった。光と音はコンビニの前で停まり、聞き覚えのある声が一団の中から聞こえてきた。レンがのした不良たちの声だ。

 

 報復に来たのか、とレンは身構えるが、どうやら彼らはコンビニにたむろしに来ただけらしい。

 

 二人ほどがコンビニの前で待ち、蛍火を灯している。もう二人はコンビニへと入って行った。標的にされていないのだったら、こちらからわざわざ飛び込むこともない。

 

 レンはそのまま家路につくことにした。部屋に帰った時、どこからともなく鈴の音が聞こえた。

 

 誰かが早めの風鈴でも鳴らしているのだろうか、とレンは思いながら、惣菜を開けているとやがて鈴の音はやんだ。



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第7話 ゼロから始まるもの

 退学届けというのは今更古めかしいと感じる。

 

 それでも、必要なのだから仕方がないとレンは特筆すべき事項を探したが、こちらから歩み寄らなくても向こうから退学にしてくれるに違いないと、適当なことを書いた。書き終わる頃には昼前になっていた。

 

 レンは元々、文字を書くことがあまり好きではない。仕方がなく、昼食を部屋で取ってから学校へ出ることにした。当然ながら既に西垣は学校に行った後で、通学路には制服姿の人間はレンしかいない。退学届けを手にしながら、どこへ出すのだったかと思い返す。

 

 そもそも転入して一週間と経っていないのに、退学することは可能なのだろうか。できなければその期間が来るまで休めばいいとレンは考えていた。

 

 学校に着くと、俄かに騒然としていた。どことなく生徒たちの落ち着きがないように見える。自分の気持ちのせいだろうと思っていると、担任の教師がレンの視界に入った。呼び止めようとすると、担任の教師からレンに駆け寄ってきた。レンは少し驚いて身を引こうとすると、教師はレンの腕を握った。

 

「帷。話があるから、生徒指導室まで来なさい」

 

 いつになく硬い声音で発せられた言葉に、レンは自分の退学届けのことを言いそびれた。そのまま教師に引っ張られ、レンは生徒指導室という殺風景な部屋に案内された。向かい合った机以外、何もない。取調室のようだ、とレンは思った。椅子に座った教師は、しかしレンに座れとは言わない。教師の手には何かの紙があった。気になっていると、教師が口を開いた。

 

「帷。先日の暴力沙汰の主犯はお前だな」

 

「主犯も何も、俺は暴力を受けたから正当防衛しただけですが」

 

「あれは明らかに過剰防衛だ。あのグループの一人は全治二週間だそうだ」

 

「治療費を払えと?」

 

 レンが先回りして発した言葉に、教師は机を叩いて、怒鳴りつけた。

 

「そうじゃない! あれだけならまだ謹慎で済んだ。問題はこれだ!」

 

 教師が手に持っていた紙を叩きつける。レンはそれを見た。そこには見覚えのある不良の写真があり、その能天気な笑みを上書きするように赤い文字で「粛清した」と書かれていた。

 

 昨夜見た四人の内の二人だ、とレンはすぐに分かったが、口にはしなかった。

 

「これが、どうしたんです? 随分と物騒ですが」

 

「今朝方から校舎のそこらかしこに貼ってあった。暴力事件に次いでこれとなれば、庇いきれなくなる」

 

「俺がやったって言うんですか」

 

「他に誰がいるんだ」

 

 レンは自身を擁護するつもりはなかったが、頭から決め付けてかかる教師の態度には反目したい気分になった。

 

「俺は確かにこいつらの仲間を病院送りにしました。でも、こんなビラを貼った覚えはありません」

 

「だが、この写真に写っている生徒は昨夜から行方不明だ。こいつらの仲間にも話を聞いたし、別れる直前の行動も洗ったが。帷。お前、こいつらがコンビニに入る直前に同じコンビニに行っていたそうじゃないか。店員が言っていたぞ。同じ制服だからよく覚えているって」

 

「それだけで俺を疑っているんですか?」

 

「それだけ? 充分すぎる理由だと思うがな」

 

「理由?」

 

 レンには彼らを襲う理由などない。どう考えたら、レンが彼らを襲ったと判断できると言うのだろう。教師はまるで刑事のように、立ち上がってレンの周りを歩きながら話し始めた。

 

「お前はこいつらにいじめられていた。暴力も受けていたんだろう。それはこいつらも認めている。しかし耐えられなくなって仕返しをした。だが奴等が報復をしてこないとも限らない。不安で仕方がないお前は、逆に彼らを仕留めようと目論んだ。前の学校でも暴力事件を起こしているお前ならば、そこそこ腕はたつが、四人全員を一気に仕留めるわけにはいかず、夜の闇に紛れてまずは二人を片付ける。さらに彼らの恐怖心を煽るために、そして自身の復讐心を満たすために、こんなビラを作った」

 

 教師はビラの置かれた机を再度叩く。レンは奥歯を噛んだ。とんだ妄想だ。しかし、教師から見える事実は全て列挙されている。レンのことをよく知らない人間ならば、それで結論をつけてしまうのが妥当だろう。レンが教師の立場でも、そう思うに違いない。

 

「でも、俺は何もしていない」

 

 搾り出したレンの言葉に、一喝するような教師の声が響く。

 

「嘘をつくな! しらばっくれても意味がないことが、まだ分からないのか。できれば警察沙汰にしたくないというこっちの気持ちにもなれ。今なら、認めれば退学処分だけで許してやろうというんだ」

 

 何だそれは、とレンは拳を握り締めた。端から信じる気などないではないか。レンの意見などこの場では関係がない。ただやったと一言、言わせたいだけだ。なら、自分がここにいる意味は何だ? どうしてこんな目に遭ってまで、自分はここにいなければならない。

 

「何とか言ったらどうなんだ!」

 

 耳元でがなる教師に、レンは睨む目を向けた。教師が指差しながら「何だ、その反抗的な目は」と言う。レンは燻る怒りを押し殺して言葉を発した。

 

「先生。先生ですよね、こいつらに、俺が前の学校でどういう風に言われていたのか話したのは」

 

 不良たちの言っていた言葉を思い出す。すると、教師は急にばつが悪そうに顔を背けた。「今はそういうことを言っているんじゃ――」と開かれかけた口を制するように、レンが続ける。

 

「それが教師のやることですか。他の場所から来た問題のある生徒は厄介だから、まだ自分の知っている厄介者に任せればいいって? そんなの、何の解決にもならないじゃないですか。あんた、結局、自分の手を煩わせるのが嫌なだけだろう! 何も見ていないじゃないか!」

 

 レンの言葉に気圧されたように教師は一歩下がった。レンは握り締めた拳から力を抜いて、教師の横を通り過ぎた。

 

 静止の声がかかる前に、生徒指導室から走り出す。生徒たちの視線が矢のようにレンを突き刺す。小言が耳に絡みつく。レンは耳を塞ぎ、学校を飛び出した。どこをどう走ったのか、まるで分からないが、いつの間にかレンは街中へと出ていた。

 

 雑踏に紛れれば、嫌なことに惑わされずに済むと思ったのか。力ない足取りからは、全てが抜け落ちていくように感じられた。学校にもいられない。それどころか、噂が広まればこの街にもいられないだろう。

 

 どこに行けばいいのか。どう生きればいいのか。判然としない頭を持て余し、レンが俯きながら歩いていると、「おい」と声をかけられた。振り返ると、そこには不良の仲間の二人がいた。

 

 彼らに引っ張り込まれるように、レンは裏通りに行き、壁に背中を打ちつけた。昼間だと言うのに、雑多な街並みと廃ビルが人目から隠す。人通りもないこの場所は、私刑にうってつけだった。

 

 不良の一人がレンの胸倉を掴む。レンは抵抗しなかった。放たれた拳が頬を捉え、視界がぶれる感覚と共に身体を地面に打ち据える。立ち上がる気力もなく、レンはそのまま蹴りつけられた。腹腔に鋭角的な痛みが走り、息ができなくなる。咳き込むレンを見下ろしながら、不良は仲間の名前を言った。

 

「何しやがった!」

 

「……何も」

 

「嘘つくんじゃねぇ!」

 

 ここでも嘘か、と思いながらレンは頭部を蹴りつけられた。咄嗟に目を瞑ったが、それでも視界が白んだ。額から生温いものを感じる。血が出ているのかもしれなかった。確かめる前に、レンは襟首を掴まれ、無理やり立たされた。

 

「言え!」

 

「……知らねぇって。何で知らないことまで言わなきゃならないんだ?」

 

「この野郎!」

 

 不良が拳を握り締める。

 

 次にまともな一撃を食らえば昏倒するな、と他人事のようにレンが感じた。拳が頬を捉えるであろうと思われたレンは、目を閉じていた。しかし、いつまで経っても拳は振るわれない。どうしたのか、と薄目を開けると、不良二人は、レンとは反対側の方向に目を向けていた。

 

 レンもそれを視界に捉える。そこにいたのは見覚えのある学生服に身を包んだ男子生徒だった。小柄で痩せ型の、虚弱そうな顔立ち。転校一日目に見たその顔を、レンは覚えていた。

 

「新山。何のつもりだ」

 

 不良がその名を呼ぶ。新山はふらりと不良へと歩み寄った。

 

 レンを掴んでいない不良が掴みかかろうとすると、新山の手がその手を逆に掴んだ。その瞬間、レンと不良はぎょっとした。新山の手は人間の手ではなかった。五指はあるが、赤い鱗に覆われている。

 

 湿った皮膚は水棲生物のそれに近かった。不良が短い悲鳴を上げて後ずさろうとすると、新山は不良の首根っこへと手を伸ばした。新山はさほど手が長いほうではないはずだったが、この時はまるで間接がないかのように伸長した手が不良の首に絡みついた。不良はそれを引き剥がそうとするが、その前に新山が青白い顔で言葉を発した。

 

「粛清する」

 

 その瞬間、新山の前髪から鼻の辺りにかけてどろりと溶け出した。

 

 爛れたように見える皮膚の下から何かが這い出してくる。

 

 不良は思わず叫び声を上げた。皮膚の下から現れたのは巨大な眼だった。電球のような形状の眼がぐるぐると回転しながら、不良をその視界に捉える。口が裂け、厚ぼったい唇を開いた。

 

 奈落に通じているのではないかと思われる常闇がその先には広がっていた。レンももう一人の不良も見ていることしかできなかった。新山は口を大きく開いたかと思うと、頭から不良を食らった。

 

 暴れる不良を鱗の浮いた手で押さえつけ、踊り食いのように口の中へと不良の姿が押し込められていく。レンを掴んでいた不良はその手を離した。レンが膝から崩れ落ちるのも構わずに、悲鳴を上げながら一目散に表通りへと逃げていく。

 

 不良を呑み込んだ新山の顔には赤い表皮が浮き上がっていた。金色の目玉が昼間でも煌々と輝く。厚ぼったい唇は僅かに紫がかっており、髪の毛は全て退行していた。喉が膨らんでおり、袋のようになっている。それは全体的なシルエットで言うのならば、巨大な金魚を人間の上半身と無理やりくっつけたような形をしていた。

 

 レンが片手をついて立ち上がると、新山はごくりと喉を鳴らしてから、急激に収縮していった。赤い表皮が消え、髪の毛が戻り、鱗が消えていく。後に残ったのは人間の姿の新山だった。レンは言葉すら忘れてその様子に見入っていた。新山は青白い顔に引きつった笑みを浮かべる。

 

「どうだい? 帷君」

 

「新山。お前……」

 

「何も言わなくていい。君を助けようと思ったわけじゃないからね。ただ単に社会のゴミが許せなかっただけだよ。それとも、さっきの姿のことを気にしているのかな」

 

 レンは春日の言っていたことを思い出していた。金魚の神と取引した人間がいると。まさか、新山がそうなのだろうか。だとしても、何故、という問いが浮かんだ。

 

「新山。さっきの姿、人間じゃないな」

 

 その言葉に新山は場違いな笑い声を上げた。澱んだ川底から浮かぶ泡のような、聞いたものを不愉快にする声だった。新山は呼吸を落ち着けながら言った。

 

「人間じゃない、ねぇ。そりゃ、そうだろうさ。僕は契約したんだ。この街の神様とね。どうやったのか、気になる?」

 

「……別に」

 

「強がることはないよ。僕はね、いつもあいつらにいじめられていたんだ。あいつらっていうのはつまり、さっきの不良たちだね。君も標的にされていたんだろう? 君は暴力という手段を持って彼らを封じようとしたようだが、僕は腕力に自信がなかった。だから、いつも願っていたんだ。帰り道の神社の神様にね。あいつらを懲らしめたい。力をくださいって。話は逸れるけど、僕の家は信仰心の強い家だったから、昔から神様仏様は大事にしていたんだ。それにね。君にだけ言うけれど、僕がいじめられていた理由。それは君と同じなんだ」

 

 新山の眼がレンを捉える。レンは背筋にぞわぞわとした悪寒を覚えた。先ほどまで金魚の眼だったその眼が、自分を見つめている。それだけではない。新山は自分と同じと言った。それはつまり、

 

「見えるのか?」

 

「そう。僕には見える。人ならざる者たちが。君がターゲットになってくれた時、悪いけど少しほっとしたんだ。ああ、これで僕もいじめから解放されるだろうって。でも、あいつらは僕をしつこく追い回した。標的が変わったけれど、君は狩られる獲物じゃなかった。むしろ狩る側だったんだね。だから、すぐに標的は僕へと戻ってきたよ。僕は君を一瞬、恨んださ。でも、それはお門違いだってことは分かっていた。君を責めるわけにもいかない。堂々巡りの末に、神様が僕に語りかけてくれたんだ。そんなに力を欲するのかって」

 

 レンは陶酔したように話す新山の姿に、一種の狂気めいたものを感じていた。

 

 新山と話すのは席が隣になった転校初日の時と今とで二度目だが、正反対の印象だった。そんなレンの思考を他所に、新山は続ける。

 

「神様は僕の身体を借りる代わりに、それ相応の力をくれると言ってくれた。そして手に入れたのがさっきの姿ってわけさ。最高だよ。味はしないけどね。と言ってもあいつらは不味そうで食いたくもないんだけど、神様が言うんだ。神饌を用意しろって。神饌って言うのは神様に供える飲食物のことさ。ほら、僕の復讐を果たせて神様のお腹を満たせる。これって一石二鳥じゃないかって思ったんだ」

 

「それで、あいつらを食ったのか。昨日の夜も」

 

「ああ、学校に貼っておいただろう。悪いことをすると粛清されるって分からせるために貼ったんだけど、なんかまずかったかな?」

 

「おかげで俺のせいにされた」

 

 レンの言葉に新山は手を叩いて笑った。「ゴメンゴメン」と笑顔で言うが、その笑顔もどこか作り物めいている。本心ではそれを狙っていたことは、容易に分かった。

 

「でも、これで分かったと思うんだけどね。学校の連中も。今まで見て見ぬ振りをしていた奴らもね。僕は最後の一人を食ったら、この力を公表しようと思うんだ」

 

 新山の言葉にレンは目を剥いて驚いた。

 

「馬鹿な。そんなことをして何に――」

 

「何にもならないよ。けどさ、分からせてやったほうがいいだろう。僕に逆らえば、命はないって」

 

 新山の言っていることは破綻している。そんなことを言っても信じる輩などいないし、信じたとしても既に復讐の意図からは外れている。

 

「君もだよ、帷君」

 

 新山の眼がぎょろりとレンを見据えた。レンは身体が硬直するのを感じた。

 

「僕に逆らえば命はない」

 

 レンと新山との間に緊張が降り立つ。

 

 新山は紫色の舌で唇を舐めた。

 

 レンはじっと新山を視界の中央に据えたまま、動かなかった。動けなかったというのもある。どこからか鈴の音が聞こえる。昨夜の風鈴と同じ音だった。その音が急くように響き渡り、鼓動の音と同期する。早くなっていく脈動に合わせて、鈴の音がレンの思考を逸らせる。

 

 どうするべきか。ここで逆らってみすみす食われるか、それとも命乞いをするか。新山の眼は既に正気を失っているようにレンには映った。命乞いをしても助かる保証はない。ぐっと息を詰めていると、新山が不意に笑みを浮かべた。

 

「冗談だよ。同じ境遇の君の命を奪ったりするはずがないだろう。君になら、僕の気持ちが分かるはずだ。そうだな、君には協力してもらおう」

 

「協力だと?」

 

 新山は顎に手を添えて考えながら、頷いた。

 

「そう、協力だ。最後の標的が逃げたろう? 彼を夜までに捕らえて、僕の前に差し出して欲しい。その後も、君は僕に仕えるんだ。なに、悪いように使おうっていうんじゃない。神饌を供える役目をして欲しいと言っているんだ。腕がたつ君にとってしてみれば簡単な仕事だろう。反逆者を捕らえる役目だ。とても神聖な役目だよ。この条件を呑むのなら、君の身の安全だけは保障しよう。それに君の大切な人の命も」

 

 その言葉で真っ先にアカリの姿が浮かんだが、レンはその像を振り払った。しかし、新山は全て心得ているかのように口にした。

 

「君は孤独を愛しているのかと思ったけれど、意外と情に厚いみたいだ。彼女は大事な人なんだろう。この辺りで前に見かけたよ。猫に餌をあげていたね」

 

 以前感じた視線は新山だったのか、と思うと同時にレンは睨む目を向けた。

 

「日下部は関係ねぇ」

 

 思わず口をついて出た言葉に、しまったと思う間もなく、新山はいやらしく笑った。

 

「そう日下部さん。僕も結構、好きなんだよねぇ。彼女、綺麗だろう。だから、本当は食べたくないんだけど、おいしいんだろうなぁ」

 

 レンは拳を握り締めた。今すぐに新山に飛び掛りたい衝動に駆られたが、敵うはずもないことは先ほどの不良との一戦を見ても明らかだ。安い挑発だ、乗るな、と必死に自己を押し止める。

 

 新山はレンが抵抗できないのを知っているからか、余裕のある態度で歩み寄ってきた。レンは後退することも、殴りかかることもできずにその場で固まる。新山が耳元まで近づき、囁いた。

 

「返事は夜まで待つよ。場所はこの街の神様が祀られている金海神社だ。君は聡明な人間だから答えは分かっているけど、考えを整理する時間も必要だろう。でも、期待しているよ、帷君」

 

 新山は身体を離し、そのまま裏通りの奥へと歩いていった。その背中が見えなくなってから、レンは力が抜けたように壁に手をついた。敵わない、とはっきりと分かった。相手は人間ではない。

 

 いつの間にか鈴の音が消えており、レンの動悸もそれに従って正常に戻っていった。ぬるい風が裏通りに吹き込む。レンは思考を冷やす間もなく、次の思考に駆られることになった。

 

 不良に殴られた痛みなど、もはや消し飛んでいた。新山の力の前に、何も言い返せず、何もできなかった自分への憎悪が募り、レンは壁を殴りつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか昨日の事務所へと足が向いていた。

 

 裏通りを抜け、いつもミャオがいる場所を通り抜ける。今日は、ミャオはいなかった。レンと顔を合わせるのが辛いのだろうか。思えば、酷いことを言ってしまったと後悔したが、今更遅かった。

 

 レンも呼び止められることを心配していたために結果的に安心した。事務所は記憶していなければ、素通りしてしまいそうなほどに存在感がない。ミャオの言っていたことは本当なのだろう。この場所は普通の人間は気づかない。

 

 取っ手に手をかける。昨日のように嫌な感覚は襲ってこなかった。

 

 一度入ったからか、気を許されているのか。レンはしかし、入る前に躊躇した。春日やミャオに言ってどうなる。結果として彼らに協力することになってしまう。あれだけの言葉で拒んでおきながら、自分からすがることにレンは自尊心が邪魔をしていることに気づいた。

 

 振り払ってしまえば楽なのだが、目の前に立ちはだかる自尊心の壁は高く、どう足掻いても無視はできない。レンは扉のガラス部分に映る自分を見つめた。自分一人で何ができる。春日たちに今からでも協力を仰ぐべきだという自分がいる反面、昨日のことを帳消しにはできはしないと嘆く自分も存在し、両者に板ばさみにされたレンは低く呻いた。

 

「……どうすればいい?」

 

 問いかけたところでガラスに映る自分はただの虚像だ。

 

 答えなど何も持ってはいない。自分は何を期待しているのか。

 

 春日たちならばこの状況を打開する術を持っているというのか。胸中の答えは、否、だった。春日たちも自分たちではどうにもできないからレンに協力を申し出たのだろう。逆に自分がいれば、どうにかなるのか。取っ手にかけた指に力を込めるが、やはりもう一歩を踏み出すことはできなかった。

 

 取っ手から手を離し、レンは歩き出した。誰にも頼らないでおこう。自分で自分の進路と退路を塞いだのだ。

 

 そのけじめは取らなければならない。誰かの力を借りれば容易く乗り越えられることでも、一人でやらねばならないことはある。今までだってずっとそうだったではないか。今更、誰かの力は借りられない。

 

 暮れかけた陽の光が事務所にかかり、裏通りを朱色に染め上げる。レンは夜の到来を告げるその色を踏みしめながら、一人歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事務所の屋上でミャオはじっとレンを見つめていた。

 

 春日から強制はしないようにと念を押されている。レンはしばらく事務所の扉の前で動かなかったが、やがて意を決したように立ち去っていった。

 

 その背中を見ながら、ミャオは猫の姿のままでレンの名前を呼ぼうとしたが、寸前で憚られた。今のレンには誰も声をかけてはならないような気がしたのだ。

 

 ミャオはレンの姿が裏通りの中に消えていくのを確認してから、事務所の二階に降りた。人間の姿に変じ、春日を見つめる。春日は手にした本に視線を落とし、ミャオを出迎えた。

 

「ミャオさん。いかがでしたか」

 

「レン君は、もうここには来ないかもしれない」

 

 その言葉に春日は大した感慨を浮かべることなく、淡白に「そうですか」と返した。その態度が気に入らなかったせいか、ミャオが突っかかる。

 

「もうちょっと、何かないの? レン君がいないと、今回はまずいんでしょ」

 

 春日は本から視線を外さずにページを捲りながら応じる。

 

「そうですねぇ。確かに、彼の助けは必要です。しかし、無理強いするものじゃないでしょう。彼が望まなければ意味がない」

 

「でも、レン君。ついさっきまで事務所の前にいたよ。もしかしたら、少しなら手を貸してくれるかもしれない」

 

「それでも、我々が手出しをすることじゃないんですよ。僕はレン君に、取引をしたのがクラスメイトだということを黙っていた。それは彼を、内心、利用したい気持ちがあったからです。カードを隠し持つことで有利に立ちたかった。しかし、彼の前でそれは意味のないことを悟りました。レン君は、その程度で揺らぐ人間じゃない」

 

「じゃあ、余計に協力してもらうのは難しいじゃない」

 

 ミャオは唇を噛んだ。レンの協力を仰ぐためとはいえ、アカリのことを引き合いに出した自分が今更に卑怯者に思えてきた。

 

 春日は最初からレンが協力関係というものに縛られない人間であることを判っていたのか。しかし、それならば何故自分に連れてこさせたのだろう。無駄だと知っているのならば、正面から協力を申し出なくても春日ならばいくらでもやりようはあったはずである。

 

「春日さんは、レン君に期待していたの? 協力してくれるって」

 

 春日は本を閉じて、息をついた。眼鏡を取って目頭を揉み、本をテーブルに置く。

 

「彼は優しいんですよ」

 

 春日の言葉にミャオは頷いた。確かに、レンは優しいと思う。その優しさにつけ込もうとした自分たちは、やはり最低ないのではないのだろうか。春日は立ち上がり、大きく伸びをしながら、執務机へと向かう。

 

「優しいが故に、全てを一人で背負い込んでしまう。弱さと取れなくもありませんが、僕はそれこそ彼の強さだと思っています。一人で立ち向かう意志の力。それを僕は尊重したい。僕らがやるのは、あくまで手助けです」

 

 引き出しから布に包まれた物体を取り出す。棒状の何かだった。それを見たミャオが言葉を発する。

 

「レン君の力を見込んでいるの?」

 

「見込んでいなければ数珠は渡しません。彼にはこれが必要になる。これも、彼を必要としている。ミャオさん。例の件は任せます。僕はこれを届けなければならない」

 

 春日は鞄に棒状の物体と、プラスチックのファイルを入れた。窓の外を見やる。既に傾いた朱色の光が、暗く沈んだ事務所の中に差し込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レンは一度家に帰り、鞄を下ろした。

 

 時計を見やると、既に五時半を回っている。新山の要求に応えるのならば、そろそろ探し出さなければまずい時間帯だ。レンは窓を開いた。生温い風が部屋の中に吹き抜ける。その風の行方を探すように、視線を部屋の隅へと向けた。

 

 うず高く積みあがったダンボールに追いやられたように、部屋の隅に立てかけられた薙刀を見やる。

 

 ふわりと風を孕んだカーテンが揺れ、レンの髪を撫でる。レンは長く息を吐いて、目を閉じた。何をするべきか。どうしたいのか。心の中の整理されていない物事がわだかまり、胸がつかえる心地がする。しかし、それでも進まなければならない。

 

 レンは目を開いた。その瞬間、覚悟は決まった。

 



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第8話 神を討つ刃

 金海神社の歴史は古い。

 

 一説には和銅元年、即ち700年代に創設されたと言われている。

 

 金海市の北部を流れる金海河の氾濫による水難事故と河の神を結びつけたのが起源とされている。

 

 学業成就などのお守りは売ってはいるが、それが主要ではなく金海河の鎮護の神として崇められているのが主である。

 

 河の神が何故、金魚という品種改良された魚を御神体とすることになったかは諸説あり、偉大な河の神をそのまま形にすることはできず、様々な偶像が作られた末に、デフォルメされたのが金魚という説が有力である。

 

 金魚はしかし、野生ではほとんど存在せず、この街にあるのは金魚を象ったモニュメントや提灯ばかりである。

 

 金海神社にも金魚の提灯はあり、闇の中で赤い光がぼうと浮き上がっていた。参道に並び立つ光を受けながらレンは歩いていた。時折、その輪郭を血のように赤い光が浮き彫りにする。

 

 レンの顔からは一切の表情が抜け落ちている。参拝客はこの季節でしかもこの時間となれば一人としていない。参道から鳥居を抜け、広い境内に入ると、社殿のある場所とは反対側の中央の広い場所に新山がいた。新山の周囲にも金魚の提灯があり、輪郭を赤く染めている。

 

 月明かりの下、その全貌が明らかにはなったが、レンは本当の彼ではないような気がしていた。

 

 そこに人間が立っているというよりかは、むしろ、彼と並ぶ金魚の提灯と区別するのが難しい。新山は、今は人間の姿だったが、昼間に見たあの異形の姿が鮮烈でその像が嫌でもちらつく。

 

「やぁ、帷君。来てくれたね」

 

 レンの姿がちょうど影になって見えないので、新山は少し前傾姿勢になって言った。レンは無表情の相貌を崩すことなく、黙って立っている。

 

「連れてきてくれたかい?」

 

 新山はレンの背後の空間が盛り上がっているのを確認する。布を被せられているようだったが、背丈はレンよりも高い。新山は俄かに期待した。

 

「ああ、約束は――」

 

 レンが背後の布を剥ぎ取る。紫色の布が舞い上がり、そこにあったのは、果たして不良の頭ではなく、薙刀の切っ先だった。

 

 レンより高く見えたのは、レンが担いでいる薙刀に被せられた布だった。その事実に新山が呆気に取られていると、レンは薙刀を袋から出し、それを構えた。身長よりも長い薙刀を両の手で握り、新山へと丸まった切っ先を突き出す。うろたえる新山へとレンは言い放った。

 

「破棄だ。俺はお前には従わない」

 

「何だと……。帷君。君は賢い。だったら、どうするのが正解か判るはずだよ……」

 

 押し殺した声で発する新山に、レンは静かに返した。

 

「かもな。でも、お前、読み違えてんだよ」

 

「何がだい? 僕に読み違えなんてないさ。これほどの力を手に入れれば、それより下位の人間は従うのが当然だろう」

 

「そういうことじゃねぇんだ。新山。答えはこうだ。お前は自分が思っているよりも愚かで、そんで俺はお前が買ってくれているよりも馬鹿だったってことさ」

 

 その言葉で新山は全てを悟ったように目を見開き、奥歯を噛み締めた。

 

「……そうかい。君もそういう人種だってことか。だったら、いいさ。粛清する!」

 

 新山の前髪から額にかけてがどろどろと溶け出す。皮膚の下から眼球が現れ、唇が厚ぼったく変化する。

 

 鈴の音がどこからともなく鳴り響き、レンの鼓動と同期する。早鐘を打つ鼓動を抑えるように、レンは左胸に手をやった。

裂けた口角から泡を飛ばし、新山は叫ぶ。

 

「今まで散々我慢してきたんだ! どうして僕が愚か者でなくちゃいけない!」

 

「そういうのが愚かだって言ってんだよ。いいか、新山。思い上がりってのは何も見えなくするんだ。でかい眼持っていてもそれは変わらねぇ」

 

「偉そうなことを!」

 

 新山が鱗の浮いた両手を開き、口から長い息を吐き出す。レンも同じように息を吐いた。肺の中の空気を入れ替え、ぐっと息を止めた。

 

 瞬間、新山が走り出した。頭部は人間の身体に不釣合いな大きさだが、四足で進む新山にとってしてみればそれは大した問題ではなかった。レンは短く息を吐き、すり足で間合いに入ると先制の打突を繰り出した。

 

 新山が横に転がるように避ける。全身を使っているために、まるで獣のような動きだった。レンは頭上で薙刀を回転させ、すかさず左手に持ち替え片手で薙ぎ払った。

 

 しかし、その一撃は予期していたかのように新山は僅かに身を沈ませる。頭上を行き過ぎた切っ先をぎょろりとした眼で確認してから、新山は頭から突っ込んできた。

 

 レンは咄嗟に地を蹴って後退するが、新山は猛虎のように大口を開いてレンへと飛び掛ってきた。新山の体重を受け、レンは背中から倒れ込む。新山がレンを頭から食らおうとしてくるのを、薙刀で必死に押し返しながら、レンは顔をしかめた。

 

 新山の口から漂ってくる臭いが、どぶ川のような醜悪なものだったからだ。

 

 薙刀を新山が掴んでくる。新山のほうが力は上だった。薙刀を引っ張り込まれかける。レンは咄嗟に足を振り上げ、新山の腹を蹴り上げた。新山が呻きを上げ、力が僅かに緩んだ隙をついて渾身の力を込め、薙刀で払う。

 

 レンは逃れた途端、片手を地面についた。

 

 今、組み付かれただけでもう消耗している。長引かせてはまずいと感じたレンは、すぐさま攻撃に転じた。

 

 振るい上げた薙刀を、新山の頭頂部に向けて全力で打ち下ろす。死にはしないが昏倒はするであろうという一撃を、新山は地面を蹴って僅かな体重移動だけで避けた。

 

 空を切った切っ先を新山は手で押さえつける。レンが歯を食いしばって逃れようとするが、押さえ込まれた切っ先は地面に食い込み新山の手から抜け出ることはできない。新山はそのままの姿勢で言葉を発した。

 

「帷君。本当に残念だ。こんなにも君は強いのに、一時の迷いで永久に道を閉ざすことになるなんて」

 

「ふざけろ。お前の言っていることは穴だらけだ。気の迷いで選んだわけじゃねぇ」

 

「そうかな」

 

 新山は口元に笑みを浮かべた。ぎょろりと眼球が動き、レンを視界に捉える。レンは一瞬、射抜かれたように息ができなくなった。

 

「たとえば僕が日下部さんをこれから食らうと言えば、君の考えも変わるかもしれないだろう」

 

 レンはその言葉で、思考が白熱化したのを感じた。奥歯を噛み締め、レンは薙刀を握る手にさらに力を込める。

 

「日下部は関係ねぇ」

 

「それは知らないな。約束を反故にした君が悪いんだ。僕が何をしても文句は言えないはずだろう?」

 

「ふざけんな」

 

 レンが薙刀を振るい上げようとする。新山は呆れたようにため息をつき、もう一方の手を薙刀の表面に当てた。

 

 瞬間、レンは前につんのめった。辛うじて体勢を整えるが、振るい上げた薙刀は新山の触れた箇所で折れていた。新山は切っ先部分を掴んで、興味なさげに放り投げる。

 

「僕が本気を出せば君の足掻きなど、児戯に等しい。玩具で僕に勝てると思っていたのかい?」

 

 レンは折れた薙刀を見やる。これで戦えるか、と自問する。リーチは確実に短くなった。加えて、相手は触れれば薙刀程度は折ることができる。勝てるのか、という疑問にレンは唾を飲み下した。

 

「やめておこうよ」という言葉に、レンはハッとして顔を上げた。新山が肩を竦める。

 

「これ以上やっても君は勝てない。さっきの無礼は許そう。迷うこともあるさ。でも、君だって分かっているはずなんだ。何が最善か、くらいはね。そこまで馬鹿じゃないだろう。帷君」

 

 新山が踏み出す。レンは一歩後ずさった。どうすればいいのか。答えが闇の中を彷徨う。新山が身体を開き、レンへと手を差し伸べる。レンは虚空に向けていた眼差しを、再び新山へと据え直した。

 

「……何をするんだい?」

 

 新山が尋ねる。レンは無意識のうちに新山の手を折れた薙刀で払いのけていた。

 

 鱗の浮いた新山の手から血が滴る。折れた部分が尖っていたために切ったのだろう。レンは喉の奥から声を搾り出した。

 

「俺は、お前には従わない」

 

 その言葉に暫時、沈黙が流れた。新山は顔を伏せているようだった。レンは薙刀を突き出したまま、硬直していた。永遠のような一瞬の時間がぬるい風の吹き抜ける境内に降り立つ。その沈黙を破ったのは新山だった。

 

「……度し難い」

 

 その声が聞こえ終わらぬうちに、新山の手がレンへと伸びた。不意打ちに、一拍遅れたレンは薙刀を振り回して手を払おうとするも、掌に全て弾かれる。後ずさるが、相手の速度のほうが速い。

 

 薙刀を掴まれ、引っ張り込まれる。レンがそれを認識した瞬間には、鳩尾へと深い掌底が食い込んでいた。レンの身体が突き飛ばされ、宙を舞ったのも一瞬、地面に強く叩きつけられる。

 

 鳩尾から広がる痛みがレンの意識を暗色に塗り潰そうとする。咳き込みながら、澱む視界でレンは新山を見た。新山は薙刀を真っ二つに折って、投げ捨てた。ゆっくりと近づき、その口から叫びが迸る。

 

「度し難い悪だ、君は! 従わないだと? 君だって僕の痛みは分かるはずなのに、一人だけ正義を気取るつもりか! そんなことは許されない!」

 

 今にも閉じそうな意識を叩きつけるかのような叫びに、レンは立ち上がろうとした。しかし、痛みが尾を引いてなかなか身体が言うことを聞いてくれない。そうこうしている間にも新山の影が迫ってくる。

 

 ぐっと奥歯を噛んで、レンは新山を睨んだ。彼に屈服する姿だけは見せてはならないと思ったのだ。たとえこの場で食われようとも、心の敗北だけはあってはならないと。

 

 新山が大口を広げる。口の端からは唾液が垂れ下がっていた。唾液が地面に触れた瞬間、じうじうと地面が焼け爛れる。レンは思わず目を閉じそうになったが、無理やりにでも新山を見据えた。

 

 その時、靴音が境内に響き渡った。レンが先に反応し、新山が周囲を見渡す。ぎょろりとした眼が音源を捉え、見つめた。レンもそちらへと目を向ける。

 

 提灯と月明かりの照らす参道から、一人の男が歩いてきていた。ボーダーのシャツに、ジーンズという井出達で、平均的な体躯をしている。提灯の光が眼鏡に反射しており、レンはようやくその人物が誰なのか判った。

 

「春日、か……?」

 

 その言葉に応じるように、男――春日は足を止めた。鞄を手に提げている。そこからプラスチックのファイルを取り出し、没個性的な声で喋り始めた。

 

「金海神社、だと特定するのは難しかったです。金魚を御神体とする神社は三つありますから。しかし最も規模の大きい神社だとは。厄介な相手になりそうだという予感は当たっていたようですね」

 

 プラスチックのファイルを開き、春日はふぅと息をついた。レンと新山を交互に見やってから、レンに向けて微笑んだ。

 

「一人でやろうという気概はさすがと言いましょう。でも、レン君。僕は初めから君を助けるつもりでした。その厚意まで無下にする必要はないでしょう」

 

 レンが言葉を発せずにいると、新山は春日へと身体を向けた。この場での目撃者を消そうと思ったのだろう。春日は新山を認めると、ふむと顎に手を添えた。

 

「御神体との融合。いや、君の身体を一時的に借りているのですから憑依でしょうか。どちらにせよ、そのままでは自我が持たない。無理をしないことをお勧めします」

 

「何を分からないことを」

 

 新山が春日に飛びかかろうと両手を地面につける。春日は顎にやっていた手をファイルに触れさせた。

 

「――奔れ」

 

 新山が駆け出すのと同時に発せられた声に、春日の手のファイルから何かが飛び出した。

 

 空気を裂いて新山にその何かが張り付く。見る見る間に、春日のファイルから飛び出したものが新山の顔を埋め尽くしていく。新山は怯んでその場から後ずさった。

 

 ひらひらと漂って、それは新山の足元に落ちた。レンが目を凝らすと、それは紙だった。矢じりのような形をした紙に赤い文字が刻まれている。

 

 新山が呻き声を漏らす。紙は新山の鱗に食い込んでいた。むき出しの眼球を紙で作られた矢じりが突き刺す。新山は顔を押さえて仰け反り、叫び声を上げた。

 

 レンが呆気に取られていると、春日はレンへと歩み寄った。もう矢じりの紙はないのか、ファイルからは何も発射されない。春日は鞄を下ろし、中をまさぐった。レンが何も言えずにいると、春日が先に口を開いた。

 

「何も言う必要はありません。レン君は自ら考え、行動した。そのことに対して、僕が言えることは少ない。恨み言があるとすれば、少しくらいは頼りにして欲しかった、という程度です」

 

 その言葉にレンが返そうとすると、春日は鞄から布に包まれた何かを取り出した。布を解くと、拳二つ分ほどの長さの石の棒が現れた。両端に自身の尾を噛む円環の龍の図柄がある。石の棒を差し出し、春日が告げる。

 

「これは如意棒です。伝承のものとは少し違いますが、ほとんど同じ強さと言ってもいいでしょう。レン君の法力に反応します」

 

「法力、だって。俺にはそんなものは――」

 

「あるでしょう。右手の数珠がそれを証明しています」

 

 その言葉にレンは初めて右手首へと目を向けた。数珠同士が擦れ合い、鈴のような音を発している。

 

 先ほどから聞こえる鈴の音はこれだったのか、と合点すると同時に、数珠に刻み込まれた金色の文様が薄く光を放っていることに気づいた。

 

「これ、は?」

 

「見える人間には少なからず法力があります。普段は霧散しているレン君の力を数珠が一点に集約してくれているんです。その力を如意棒の力へと変換します。これを」

 

 春日が如意棒をレンへと差し出す。その時、新山の声が響き渡った。ほとんど獣同然とも言える叫びに、春日は僅かに振り返る。

 

「僕の術では足止め程度にしかなりません。彼を本当にどうにかしたければ、レン君がやるしかないんです」

 

 レンは新山へと目を向けた。新山は身体を震わせて紙の矢じりを振り落とし、体勢を沈めて飛びかかろうとしている。肩を荒立て、節々から血が滲んでいるが、傷口が泡立ったかと思うとすぐに修復した。

 

「憑依とはいえ神です。大抵の傷は治してしまう」

 

 新山は喉から呻き声を発する。その姿を見て、レンはもう目の前の相手は人間ではないと改めて知った。これ以上、後戻りのできない道に踏み込ませるわけにはいかない。

 

 レンは春日の差し出した如意棒を手に取った。立ち上がり様、春日が頷く。新山がレンへと目を向ける。レンは右手で如意棒を握り、肩の高さまで持ち上げた。深く息を吸い込み、瞳を閉じる。

 

 春日の言っていることがどこまで本当か分からない。こんなものを使っても、何も変わらないかもしれない。

 

 ――それでも。

 

 レンは目を開くと同時に、右手に思惟を流し込むイメージを視た。黄金の光が迸り、血脈のように如意棒に文字が刻み込まれる。新山が駆け出す。レンは如意棒を振るい上げた。

 

 喉が裂けんばかりの雄叫びと共に如意棒を打ち下ろす。

 

 飛び掛った新山の頭部へと、黄金の光を纏った一撃が振るい落とされた。迫っていた新山の姿がレンの眼前で沈み込み、頭を垂れる。

 

 レンの目の前で光がパッと弾け飛んだ。身の丈ほどに長くなった如意棒が新山の頭部に打ち込まれていた。

 

 手応えが指先に伝わる。

 

 しかし、まだ新山は健在だった。ぎょろりと眼球が動いたのを本能的に感じたレンは地を蹴ってその場から飛び退く。横合いから入った新山の手が先ほどまでレンの首筋があった場所を掻いていた。

 

 反応が一拍遅れていれば、頚動脈を掻っ切られていただろう。

 

 レンは右手の如意棒に目をやる。血脈の文字が生命の灯火のように熱く滾っている。新山がよろめきながら頭を上げた。鼻先から頭頂部にかけて真一文字の焦げ痕がある。その焦げ痕こそが如意棒の一撃の証だった。

 

「如意棒は魔を払い、持ち主の意思で大きさも長さも変化する。レン君の意志の力が強ければ強いほど、如意棒はそれに反応して浄の力を示す」

 

 春日の言葉に背中を押されたように、レンは如意棒を強く握った。光が瞬き、如意棒から流れ込んでくる意思が告げる。

 

 ――魔を討て、と。

 

「言われなくても」

 

 レンは頭上で如意棒を回転させ、光を周囲に払った。

 

 燐光が煌き、火の粉のように舞い散る。

 

 右手で主として構え、左手を添える。柄を真っ直ぐに新山へと向けた。それは明確な敵意の表れだった。

 

 それに呼応するように新山がぎょろりとした眼を向け、大口を開いて咆哮した。焦げ痕の上に赤い表皮が泡立ち、傷を修復していく。法力で受けた傷でも修復するのか、とレンは息を詰めた。新山が身体を沈みこませる。レンは構えの姿勢を取り、新山の動きに意識を集中した。

 

 春日は何も言わなかった。この戦いにもう自分の介入するものはないと思っているのだろう。事実、この戦いはレンと新山のものとなっていた。レンは長く息を吐き出す。新山が鱗の浮いた指を動かした。

 

 息を止めた、刹那、新山とレンは同時に動いた。

 

 新山が獣のように駆け出す。レンは柄を突き出して新山へと真正面から迫った。二つの影が重なり合うかに見えた瞬間、レンは鋭い打突を繰り出した。

 

 しかし、新山はそれを先読みしているかのような素早さで地を蹴って横に避ける。レンは追い立てるように如意棒を薙ぎ払った。軌跡を描くように黄金の一閃が煌く。新山は身体を一瞬沈みこませると、如意棒の攻撃を跨ぐように跳躍した。

 

 頭上を行き過ぎる新山の姿をレンは一拍遅れて目にする。

 

 空中にいる新山の眼球がレンを見下ろし、視線が交錯する。レンは如意棒を地面に突き立てて制動をかけ、即座に反転した。地面に着地した新山が振り返り様に鱗の浮いた手を放つ。制動に使っている武器は普通ならば間に合わない。しかし、レンは春日の言葉を覚えていた。如意棒は持ち主の意思で大きさも長さも変化すると。ならば、とレンは叫ぶ。

 

「縮め!」

 

 その言葉で如意棒が光を纏いながら、その長さを変化させる。振り翳した如意棒はナイフ程度の長さだった。新山の手と振るった如意棒がぶつかり、黄金の火花が散ると同時にお互い僅かに後退する。レンは両手で如意棒を握り、後ろへと引いて叫んだ。

 

「伸びろ!」

 

 その言葉で如意棒が今度はレンの身の丈よりも長く、三メートル近くの長さへと変化する。レンはそれを思い切り薙ぎ払った。新山との間合いは二メートルあるかないか。この長さならば充分に通用する、と思ったのだ。

 

 如意棒から黄金の文字の血脈が迸り、軌道上の闇を切り払う。突如として横合いから切り込まれる形で迫ってきた如意棒の一撃を、新山は避けることができなかった。

 

 横っ面に叩き込まれた一撃に確かな手応えを感じた直後、新山の異形の身体が吹き飛ばされる。

 

 新山は絵馬掛けへと背中から突っ込んだ。

 

 ガラガラという音と共に粉塵が舞い散る。レンは肩で息をしながら如意棒を最適な長さに戻した。今の一撃は確かに顔面を捉えた。少なくとも昏倒はするはずだ。レンはしばらく新山が倒れているはずの場所を見ていたが、立ち上がってくる気配がない。

 

「……終わったのか」

 

 レンは緊張を解いた。

 

 右手の如意棒に視線を落とす。初めてだというのに、自分の意思にちゃんとついてきてくれていた。突然渡された武器にも関わらず、初めて使ったという感覚がしない。その不思議さにレンが如意棒を持ち上げて観察の目を注いでいると、春日が叫んだ。

 

「レン君! まだです!」

 

 その言葉に反応して新山のいた場所へと視線を戻す。

 

 次の瞬間、粉塵を縫って一直線に飛んできた手がレンの首筋を掴んだ。

 

 喉が圧迫され、痛みにレンは左手でそれを掴む。表面が鱗でざらざらとしている。砂埃が消え、手の主が視界の中で立ち上がる。新山だった。右手を突き出しており、それがレンの首にかかっている。

 

 新山は顔の右半分が焼け爛れていた。黄金の文字が浮かび上がり、焼きごてでも押し付けられたかのようになっている。新山は左手で傷跡に触れながら、「ああ」と喉から呻き声を発した。

 

「君は酷い奴だ。なんてったって神様に傷をつけたんだからね。そして同類である僕にも傷をつけた。許されないよ」

 

 レンは徐々に気道が狭まっていくのを感じた。

 

 酸素を求めるように口を開くが、新山の手が万力のように食い込んでいるのでうまく取り込めない。

 

 レンはぐっと奥歯を噛んで、右手に意識を集中させた。如意棒が一瞬でナイフの長さに縮み、レンは新山の手に柄を押し当てた。ジュッと接触部分が焼け焦げる。新山が僅かに顔をしかめたが、それは醜悪な笑みの中へとすぐに隠れた。

 

「僕の手を焼き切るつもりかい? でも、その妙な棒が僕の手を焼くのと、僕の手が君の首の骨を折るの。どっちが早いかぐらいは分かるだろう」

 

 レンは舌打ちを漏らし、ならばと新山本人に柄を向けようとするが、それでこの状況が打開できるかと自問する。

 

 新山を伸長した如意棒で突き飛ばしたとしても、そのはずみで首の骨を折られる可能性もある。新山本人を狙うのはリスクが大きい。しかし、手を焼き切るには時間がかかる。如意棒で手首を折ろうとしたが、春日はすぐに回復すると言った。

 

 ――ならば、どうする? 

 

 考えを巡らせるも答えは出ない。脳に酸素が行き届いていないのか、思考が薄ぼんやりとしてくる。

 

 新山に刻み込まれた文字が点滅し、如意棒から光が失せかける。それが自身の命の灯火に見えた。考えろ、と自分に喝を入れようとするも、既に手の感覚すらない。このままでは、とレンの思考が暗闇に没しかけた。その時、新山が言葉を発した。

 

「これで終わりだね、帷君。後は僕に任せなよ。おいしく食ってあげるよ。後で日下部さんも食ってあげるから。寂しくないよ」

 

 その声にレンは閉ざしかけていた瞳を開いた。ほとんど声帯を震わせることもできない喉から声を搾り出す。

 

「……ふざ、けんな」

 

 レンは左手で新山の手を掴んだ。右手に握った如意棒を持ち上げ、左手を伸ばし、両手で如意棒を握る。新山はレンが何をしようとしているのかはかりかねて、「なんだって?」と口にする。

 

 レンは奥歯を噛み締めて、閉じそうな意識を無理やりこじ開けるように口を開いた。

 

「お前なんかに、日下部を、――アカリをやるかよ。俺も食わせやしない。終わるのは、お前のほうだ」

 

 その言葉の直後、如意棒を手に向かって振り下ろす。両手で抉りこむように放った渾身の攻撃に呼応するように黄金の血脈が眩いまでに輝く。

 

 表皮を融かし、筋肉繊維まで至った痛みに新山の手が緩んだ。

 

 レンはそれを見逃さず、右手に持ち替えた如意棒で下から払いのける。手が解け、レンは激しく咳き込んだ。目の端に涙が滲んだが、今は自分の痛みに頓着している場合ではない。

 

 新山はゴムのように伸びた手を戻そうとする。レンは駆け出して足で手を踏みつけた。頭上に振り上げた如意棒で足元の手を薙ぎ払う。

 

 黄金の光が刃のように手を切り裂いた。断面から血が迸り、レンの足元を濡らす。新山の叫びが境内に木霊する中、レンは新山へと猪突するように地面を蹴った。新山はもう一方の手をレンへと突き出し、それを矢のように伸ばす。

 

 レンは半身になってかわすと同時に、その手を左手で引っ掴んだ。無意味に伸びた手がのたうち、境内の砂利を巻き上げる。新山が驚愕する前に掴んだ手を自分の側に引き寄せる。新山の身体が僅かに持ち上がり、バランスを崩す。レンは如意棒を突き出し、叫んだ。

 

「伸びろ、如意棒!」

 

 その言葉に呼応して如意棒が光を纏い、槍のような鋭さを伴って新山の腹腔へと突き刺さった。

 

 新山が呻き声を上げる。レンは柄を食い込ませるように手を捻った。新山の身体を侵食するように黄金の文字が刻み込まれ、袈裟のように纏わりついていく。レンは左手を離し、如意棒を払った。

 

 新山の身体が境内を転がり、砂利が音を立てた。レンは荒い息を繰り返しながら倒れている新山を見つめていた。

 

 今度こそ――、という思いとは裏腹に新山は手をついた。よろめきながら身体を起き上がらせ、腹腔を押さえている。新山の唇の端で血が糸を引いていた。今の一撃は効いたはずだ。それなのに、まだ起き上がるのか。新山は眼球を動かしてレンを見据えた。

 

「……いい気に、なるな。神様の力だぞ。そんな武器で、どうこうできる相手じゃない。僕は、不死身だ」

 

 レンはもう一度如意棒を構える。

 

 今の攻撃が決定打にならなかったとなれば、どう打ち込めばいいのか見当もつかなかったが、やるしかなかった。その決意を新たにした眼差しを新山に向ける。新山が動き出そうとした瞬間、袈裟のように絡まっていた黄金の文字が一際強く輝いた。新山が喉の奥から呻き声を上げて蹲る。

 

「そんな、どうして……」

 

「もう契約が切れたからだよ」

 

 その声にレンは目を向けた。本殿のほうから歩いてくる影があった。胡桃色のショートボブの髪に猫耳は見間違えようがなかった。

 

「ミャオ、か。どうして、ここに」

 

「話をつけてきた」

 

 ミャオはそう言って、新山に視線を向けた。

 

「金海神社の神様はこれ以上痛い目見るのは嫌なんだってさ。で、あたしはそれなら契約を切ればいいって言ったの。神様って気まぐれだから、自分の勝手で簡単に人間なんて見限っちゃうんだよ」

 

「そんな……。じゃあ、今の僕は」

 

 新山の身体が徐々に元に戻っていく。

 

 金魚の眼球は沈み、裂けていた口が戻り、伸びていた手が縮んでいく。異形の姿は一分とかからずにちっぽけな人間の姿になった。それでもレンが掻っ切った右手や打ち込んだ傷は癒えていない。青白い顔をした新山は這いずりながら、ミャオへと近づいた。

 

「僕はどうなるんだ? このままじゃ、死んでしまう。神様と話せるんなら、お前も見えるんだろ。だったら、僕を助けてくれよ。なぁ」

 

 足元から這い寄ってくる新山を、ミャオは足で蹴り払った。

 

「知らないって。あたし、君とは違うし。自業自得。神様と契約するんだったら、もっと賢くあるべきだよ。神様はそれ相応の力を与えたけれど、その先までは保障してくれないからさ。いい加減だから、君みたいな人間にも力を貸してくれたんだよ。その辺、分かってるよね?」

 

 新山は目を見開き、俯いて乾いた笑い声を上げた。大きくなっていく自嘲の笑い声が静寂の境内に木霊する。ミャオは腰に手を当ててレンへと視線を向ける。レンはまだ鈴の音が鳴っていることに気づいた。

 

「レン君。まだ終わってない。今の彼は妖怪でも人間でもない。数珠が反応しているってことは、この世界にあってはならないものだってこと。とどめをさして」

 

 その言葉にレンは背後の春日へと視線を振り向けた。春日は黙したまま何も言わない。ミャオの言葉が間違っているわけではないということなのだろう。レンは如意棒を手に新山へと近づいた。新山は引きつった笑みをレンへと向ける。レンは頭上へと如意棒を振り上げた。

 

「殺すのか?」

 

 その言葉にレンは躊躇の間を置いた。相手はしかし、自分の大切なものを奪おうとした許せない存在だ。

 

 ここで生かして何になる。禍根は断ち切らなければ、何も解決したことにならない。レンは瞳を閉じて深く息を吐いた。救うべきは何だ? やるべきことは何だ? 今、この場で本当に求められていることは――。

 

 レンは目を開け、如意棒を振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日未明。

 

 金海神社の神主が敷地内で倒れている高校生を保護した。

 

 本殿で三人が倒れており、彼らは一様に「金魚に食われた」という証言を繰り返している。

 

 警察や学校関係者は精神的な錯乱があるとして彼らを停学に処した。もう一人、境内で倒れている少年も保護された。裂傷や打撲などの怪我と共に右手首から先を失ってはいるが、既に処置は施された後であり、命に別状はなかった。

 

 彼は意識を取り戻した後に、「殺さなかったのか……」と呟いたと言うがそれが何に対することなのかは口を開こうとしなかった。

 

 後に、倒れていた生徒同士でのいじめの因果関係が明らかになり、この不可解な事件はいじめの延長として片付けられることになった。警察や学校は、殺す殺さないの関係にまで彼らのいじめが発展したと見て捜査をしている。

 

 直前に学校で不審なビラが撒かれたこととの関係性については不明であり、ともすればいじめていた生徒たちの自作自演を疑う声も上がった。

 

 事件は完全にこの四人の間でのみ回ったものであり、目撃者もおらず、彼らの一日も早い回復と明確な証言の聴取を得るのを待つばかりとなっている。



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第9話 アカリ灯るところ

 退学届けを提出された担任教師は目を丸くしてレンを見つめた。

 

 先のビラ事件の責任か、と思ったのだろう。考えていたよりも簡単に受理された。正式な執行は後日になるらしい。その時は書面にて報告する、と言われた。

 

 教師はどこか名残惜しそうに、職員室から出て行くレンの背中に声をかけた。

 

「帷。あいつらは見つかったという報告も受けたんだ。何も、その……、世間様の目を気にする必要はないからな」

 

 レンは視線を振り向けたが、首を横に振った。

 

「そういうわけじゃないんです。俺は別に無実の証明とか、償いとかで学校を辞めるわけじゃない。俺が自分でよく考えて決めたことなんです。世間の目なんてはなから気にしていませんよ。失礼します」

 

 扉を閉めると、教師の視線も遮られた。レンは学校を去る前にもう一度だけ教室に立ち寄ってみようかと思ったが、やめておいた。そんなことをして何になろう。未練があるわけではない。

 

 一週間と通っていなかったのだ。

 

 しかし、せいせいした、というわけでもない。校門から見上げた教室の廊下を生徒の姿が行き交う。その中に本来ならば自分もいたかもしれないことを幻視するのはいけないことだろうか。

 

「たら、れば、の話をしたってしょうがない、な」

 

 その一言で未練を打ち消し、レンは踵を返した。

 

 その足で街へと向かい、レンは表通りの喧騒を抜け、裏通りに入った。

 

 気配をほとんど感じさせない路地裏に佇む事務所の扉に手をかける。嫌な感覚は訪れず、レンは二階の事務室へと向かった。事務室へと入るのに、レンは一応ノックをした。

 

「どうぞ」という言葉を確認してから、レンは扉を開けて入る。初めて会った時と同じ、ソファに寝転がっている春日の姿が目に入った。

 

 執務机の上でミャオが人間の姿で足の指のネイルを塗っている。意味があるのだろうか、と問いかけようかと思ったがやめておいた。春日は上体をすくっと起き上がらせ、レンの姿を認めると眼鏡のブリッジを上げた。

 

「こんにちは、レン君」

 

「おう。昼間っからやることねぇのか、お前ら」

 

「その言葉、そのまま返しますよ。学校はどうしました?」

 

「辞めてきた。正式に辞めることになるのは少し先だけど、退学届けは出した」

 

 レンはそう言って春日の対面のソファに腰を下ろした。春日は目を瞑ってふんふんと頷いた。

 

「まぁ、それも一つの選択でしょうね。一昨日の夜にレン君がしたのと同じように」

 

 その言葉にレンは一昨日の夜を思い返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 如意棒を振り下ろした。

 

 しかし、新山の頭上にではなかった。如意棒は新山の頭部の数センチ横の地面を抉った。

 

 新山は短い悲鳴を発する。レンは息をついた。春日とミャオはその様子を黙って見つめている。咎めるわけでも、褒め称えるわけでもない。レンはしばらくそうしていたが、やがて左手で顔を押さえた。

 

「……格好つかねぇな。戻れ」

 

 如意棒が光に包まれて元の拳二つ分程度の長さに収縮する。新山は鼻水と涙にまみれた顔を上げた。

 

「殺さないのか?」

 

「俺はお前をさほど憎んでねぇ。それにお前を裁く権利なんてないだろ。正義のヒーローじゃねぇんだから。裁くとしたなら、お前にそんな妙な力を気まぐれでやった神様のほうだ。お前は苦しんだ挙句にその力にすがっただけだし。ただ、一つだけ言っておく」

 

 レンは一歩踏み込んだ。新山が慄くように後ずさる。

 

「その力を自分のものみたいに過信して、もう一度同じことをしてみろ。その時は迷わず頭かち割ってやる」

 

 レンは身を翻した。新山がその場で緊張の糸が切れたのか、崩れ落ちる。レンは春日に言った。

 

「お前なら、治療くらいできるんだろ。朝まではせめて死なないようにしてやってくれ」

 

 その言葉に春日は首肯してファイルを開けてレンと入れ替わりに新山に近づこうとする。レンはその背中に春日の声を聞いた。

 

「いいんですか? 僕は彼をどうにかして欲しいと頼んだ。弱っている彼を殺すかもしれませんよ。今なら、僕でもできる」

 

「知らねぇよ。そこまで見守る義務、あんのか? どっちみち、お前は殺さないだろうさ」

 

「ほう。それはどうして?」

 

 レンと春日はお互い振り返りもしない。背中を向けたままの会話に、レンは区切りをつけるように言った。

 

「殺すつもりなら、ずっと前にそうしてる。それに、お前は俺に協力して欲しいって言った。倒すだの殺すだのして欲しいとは一言も言ってねぇ」

 

「詭弁みたいですけどねぇ」

 

 くっくっと春日は笑う。レンはそれ以上言葉を返そうとはしなかった。遠ざかる足音を聞きながら、春日はゆっくりと処置に入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「結局、レン君は彼を倒すことも殺すこともしませんでした。どうしてですか?」

 

 尋ねられてレンはハッとして春日に目をやった。ミャオもネイルを塗り終わったのかレンのほうをじっと見ている。二人相手に誤魔化しは通じないな、とレンは正直に話すことにした。

 

「……俺にはそんな権利があるとは思えないし、それに立場が逆だったら、きっと俺も新山みたいになっていた。だからかもしれねぇな」

 

 その答えに春日は自分の中で吟味するように顎に手を添えて、「ふむ」と神妙に頷いた。

 

「彼のように、レン君が、ただ見えるだけで状況を打開する力がなかったら、の話ですか」

 

「ああ。結果論だが」

 

「確かにそれは結果論でしょうね。……いいでしょう。レン君が話してくれたから正直に言いますけどね」

 

 春日はレンの目を真っ直ぐに見つめた。男に真正面から見られることが何だか気持ち悪かった。レンは思わず視線を逸らす。

 

「何だよ?」

 

「僕らには新山君を選ぶという選択肢もあったんです。もし、レン君のほうが彼のような考え方を持っていたとしたら、ですが」

 

 その言葉にレンは頬に手をやって、春日に視線を据えた。

 

「どっちでもよかったのか。傾いたほうを崩しただけで」

 

「どっちでもってわけじゃありません」

 

「あたしは最初っからレン君のほうがよかったけどね。ご飯くれるし」

 

 ミャオが口を挟む。レンは不満そうに返した。

 

「何だよ。飯くれるんなら、結局、どっちでもよかったって話じゃねぇか」

 

「違うよ。それでもレン君の味方をしていたと思う。レン君、優しそうだったから」

 

「優しい? 俺が?」

 

 西垣のようなことを言う。

 

 ミャオは大真面目に頷いた。そういえば西垣もふざけた風ではなかった。だとすれば、本気で言っているのだろうか。しかしレンには、自分が優しいという判断は下せなかった。

 

 むしろ冷酷で薄情なほうだと思っていた。むすっとして、レンは呟く。

 

「買い被るな。褒めても俺からは何も引き出せない」

 

「そうかなぁ」とミャオが首を傾げる。春日はその間中、微笑んでいた。レンにはその微笑みが不気味なものに見えて、背中に悪寒が走ったが二人の前ではそれを見せなかった。「それよりも」とレンは話を切り替える。

 

「何ですか?」

 

「今日は、その、なんつーかだな」

 

 頭を掻きながらレンは言葉を発する。いざ言葉にしようとすると喉の奥で引っかかってうまく出てこなかった。ミャオと春日は茶々をいれずに黙って待っている。レンは言わなければ、と腹を決めた。

 

「その、今更っていうのは分かっているんだけどさ。断っておいて何だし。でも、そのほら。当面俺は無職なわけでさ。多分、仕送りも打ち切られるんだ。だからってわけじゃねぇんだけど、いやないんですけど……」

 

「もう、いいですよ、レン君」

 

 春日が息をついた。ミャオは口に手をやって笑みを隠している。レンは顔を上げて言葉を搾り出した。

 

「俺を、いや僕を雇って――」

 

「慣れないことはしないほうがいいですよ。レン君。こちらこそ、よろしくお願いします。ちょうど、働き手が欲しかったところなんですよ」

 

 遮って春日は手を差し出した。

 

 レンは手汗にまみれた手を上着で拭ってから差し出された手を握った。強く握り返し、春日は笑った。レンもつられて笑おうとしたが、どこか正直に笑顔を出すのは憚られて引きつった笑みを浮かべた。春日がミャオへと振り返って言う。

 

「ミャオさん。レン君が僕らと働いてくれるそうです」

 

「ああ、よろし――」

 

 発しようとした声を飛び掛ってきたミャオの影が遮った。エプロンドレスの姿が視界いっぱいに広がり、次の瞬間にはミャオがレンに抱きついていた。レンはソファごと後ろに倒れる。床に後頭部を打ちつけて、眼前で星が飛んだ。

 

「レン君! これからよろしくね!」

 

 ミャオが顔をこすり付けて猫のように喉を鳴らす。猫なのだから当たり前か、と考えつつ髪から漂う少女の匂いと肌の柔らかさにレンは顔を赤くして、まだ痛みの残る頭に手をやった。

 

 照れ隠しの無愛想さで「ああ、よろしく」と言うと、ミャオはさらに強くレンを抱き締めた。レンは石膏のように固まったまま、顔だけが熱くなるのを感じて動けなかった。春日に助け舟を渡してもらおうとするが、春日はただ二人のやり取りを楽しむように微笑んでいる。笑ってはいるが、我関せずというのが伝わってきた。

 

「厄介になりそうだな」

 

「楽しくなりそうですね」

 

 対照的な言葉を二人はお互いに呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事務所を後にするとミャオがついてきた。人間の姿ではなく胡桃色の猫の姿だ。ミャオは歩きながらレンに話しかける。

 

「レン君があたしたちの仲間になってくれて嬉しいけど、本当に学校を辞めてよかったの?」

 

「自由気ままな猫の癖に、そういうのは気にするんだな」

 

 その言葉にミャオが立ち止まり、レンの足を前足で引っ掻いて抗議した。

 

「猫の癖に、って何。猫でも心配してもいいじゃない。半分は誘ったあたしにも責任はあるし」

 

「心配、ねぇ」

 

 レンが中空を見上げながらミャオの言葉を咀嚼する。思えば巻き込まれたようなものだ。

 

 しかし、どちらにせよレンは選ばなくてはならなかったのかもしれない。朽ちていくばかりの日々か、苦痛が待っていても新しい日々かを。朽ちることを選ぶのは簡単だろう。だが、それでは何かを得ることなどできない。

 

「心配はいらねぇよ。俺が決めたんだ。だったら、俺の責任でどうにかする」

 

「強がりだね」

 

「強いね、じゃないのかよ」

 

 ミャオはそっぽを向いた。

 

「強がりだよ。現にレン君は本当のところでは割り切れていないんだから」

 

「どういう意味だよ」

 

 それを問い詰める前に、こちらへと駆けてくる靴音が聞こえてきた。レンが振り返ると、荒い息をついてアカリが立っていた。

 

 鞄も持っておらず、レンは時計を確認したがまだ昼前で授業も終わっていないはずである。「どうして」と尋ねる前に、アカリはつかつかと歩み寄り、レンに問い質した。

 

「学校、辞めたって、聞いたから。本当なの?」

 

 レンはばつが悪そうに視線を逸らした。アカリはそれを見て顔を翳らせる。「本当なんだ」と呟いて、アカリはその場に座り込んだ。レンが慌てて取り成すように言った。

 

「いや、でも働き先も見つかったし、そんな心配されることじゃねぇって」

 

 自分で言ってからその言葉がミャオの言っている強がりだということに気づいた。アカリには心配をかけさせたくない。

 

 割り切れいていないというのはこういうことか、とレンはミャオを見やった。ミャオは当然のことながら口を開くことなく、二股の尻尾も隠して普通の猫のように振舞っている。

 

 アカリは立ち上がり、顔を上げてキッとレンを睨んだ。

 

 アカリのそのような顔を初めて見たのでレンは気圧されたように後ずさる。元々アカリのほうが背も高いので、この状態だとアカリに圧倒されているように見える。

 

「心配だよ! 急に辞めちゃうなんて、どうかしてる! わたしにも言えない理由なの?」

 

 その眼差しにレンは何か言葉を発しようとしたが寸前で憚られた。聞こえのいい嘘ならいくらでも思いつく。しかし、真正面から見つめてくる視線に嘘は通用しそうになかった。

 

 だからといって本当のことを言うわけにもいかない。レンはふぅと息をついて、アカリから視線を逸らして頭を掻いた。

 

「今は、まだちょっと言えねぇ。何というか、これはあまり誰かに言いたくないんだ。自分の問題だからさ。でも、いつかは言うよ」

 

「そのいつかって、いつ?」

 

「いつかだって。絶対言う時が来るから。それまで待っていてくれ。お願いだ」

 

 レンの言葉にアカリは幾分か不服そうな顔をしていたが、やがて承服したように頷いた。

 

「分かった。待っているけど、絶対忘れないからね。これ」

 

 アカリが小指を差し出す。レンが目をぱちくりさせてそれを見つめていると、アカリは「約束」と言った。

 

「小さい頃はいつもやっていたでしょ。指きりだよ。高校生だと恥ずかしくてできない?」

 

 レンは自分の小指を眺めてから、それを躊躇いがちにアカリへと差し出した。するとアカリが小指を絡み付けて強引に振るった。

 

「嘘ついたら針千本のーますっと」

 

 指を離すとレンは先ほどまでよりも身近にアカリを感じられた気がした。きっと繋がりができたからだろう。

 

 遠ざけていた距離に橋が架かったように、アカリという存在がレンの中で形を伴っていく。

 

 それと同時にアカリだけは巻き込むわけにはいかないとレンは強く感じた。近しい人ほど遠ざけたいとは奇妙な心理だったが、アカリと自分との間には明確な線があり、その線をアカリに踏み越えさせることはあってはならない。

 

 レンはもう当事者だが、アカリはまだ境界を越えるに至っていない。ならば、自分はそちら側へと引き込まないのが自分にできる精一杯のことだろう。

 

 アカリはレンの足元にいるミャオに気がつき、「あっ、ミーコ」と言って屈んだ。ミャオは普通の猫のように振舞っていたが、その鳴き声がいつもよりも一オクターブ低いことに気づく。何か不愉快なことでもあったのだろうか。

 

「ミーコ、ちょっと機嫌悪いのかな。ご飯あげた?」

 

 ミャオの首筋を撫でながらアカリが尋ねる。

 

「いや。日下部。俺さ……」

 

 何かが口からついて出ようとする。しかしそれは形を持つ手前の喉元で霧散した。果たして何を言おうとしたのか、分からなかったが、アカリは振り返って聞く姿勢に入っている。

 

 引っ込みがつかなくなったレンは、頬を掻きながら代わりの言葉を探した。

 

「えっと……、小さい頃、お前のこと何て呼んでいた?」

 

「うん? アカリだよ。わたしがレン君って呼んでいて、レン君はアカリって呼んでくれていた。前も言ったじゃない」

 

「そうだったか? じゃあ、俺は今からアカリって呼ぶ。お前が俺のことを勝手に下の名前で呼んでいるんだから、いいよな?」

 

「うん。別にいいよ。そのほうが何だか昔に戻ったみたいだし」

 

 アカリは微笑んでミャオの頭を撫でた。レンも屈んで、アカリと同じ視点で言う。

 

「あと、こいつの名前、ミーコじゃなくってミャオっていうらしい。覚えといてやってくれ」

 

「そうなの? 誰かがつけたのかな。でもミャオって可愛い名前だし、いっか。よろしくね、ミャオ」

 

 その言葉にミャオはそっぽを向いた。アカリは目を丸くしてレンへと振り返った。

 

「嫌われちゃった?」

 

「かもな」

 

 アカリが困ったように笑ったので、レンもつられて笑った。思えば、この街に来てから笑ったのは今が初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二章 金海怨神篇 了



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