EVA マヤとシンジの愛の劇場 (風都水都)
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第0章
登場人物紹介


30話まで書いた所で、「登場人物紹介」をぶっこんだ為、皆様のブックマークの位置が一段ずつズレてしまいました。
申し訳ないです。(´・ω・`)


<主人公とヒロイン>

■ 碇シンジ

本SSの主人公。性格は原作準拠。

 

■ 伊吹マヤ

本SSのヒロイン。

アニメ『ふしぎの海のナディア』の大ファンで、裏ではコスプレイヤー&腐女子。

とある事件を切っ掛けに、ネルフで働く事に。実はその正体は・・・。

(番外編「ファーストコンタクト」参照)

シンジと自分が似た者同士である事に気づき、二章目から保護者として立候補する。

 

 

<ネルフ関係者>

■ 青葉シゲル 日向マコト

通称、長髪と眼鏡。本業は、同人作家。

冬月副司令に弱みを握られた事を切っ掛けに、エヴァにノーギャラで出演する事に。

(番外編「ファーストコンタクト」参照)

 

■ 葛城ミサト

碇シンジの最初の保護者。

日向が、とあるDVDを発見してしまった事を切っ掛けに、保護者から解任される。

(二章目「知ってしまった未来」参照)

一章目、二章目では、かろうじてシリアスキャラで通るが、とある事件を切っ掛けに「アホ」に認定される。

(番外編・葛城ミサトの実力を参照)

 

■ 赤木リツコ

今の所、まともなキャラ。

 

■ 綾波レイ

三章目に入るまで、余り出番なし。

原作準拠のキャラかと思いきや、実は武闘派で肉食系である事が判明。

14歳の身で、ベンチプレス80キロいけるらしい。

 

■ 冬月コウゾウ(副司令)

長髪と眼鏡の二人を騙して、エヴァに出演させている。

 

■ 碇ゲンドウ

ほとんど出番なし。原作準拠のキャラかと思いきや、三章目からツンデレの疑惑が。

 

■ ハンゾル と ミハイル

元々は、「ふしぎの海のナディア」からゲスト出演していたハンソンとサンソンを改編したキャラ。

再編集に当たり、出番が大幅に激減。しかし、ヤシマ作戦で活躍させる予定。

 

■ 惣流・アスカ・ラングレー

今の所、未登場。登場したら、武闘派のレイと厄介な事になると思われ。

 

■ 加持リョウジ

未登場。

 

 

<学校関係者とその他>

■ 鈴木さん

マヤのマンションの近所に住んでるオッサン。シェパード飼ってる。

 

■ 鈴原トウジ 相田ケンスケ

シンジの同級生。ふざけた方法でシンジと仲直りを試みるが、ヒカリの仲裁であやふやに。

 

■ 洞木ヒカリ

委員長

 

 

<その他・用語>

■ サークル・ブルー&サン

眼鏡と長髪が主催していたナディアの二次創作を中心とした同人サークル

創設以来、「萌えウサ」とかいう半ストーカーのファンに付きまとわれている。

 

■ エヴァ・レボリューション

眼鏡と長髪がエヴァで働かされるようになってから新たに立ち上げた同人サークル。

ネルフのメンバーを勝手に登場させ、不本意ながら、ボーイズラブやガールズラブ作品を描いている。

 

■ ブックオフ

普通に、エヴァのDVDが売られている。

原作の内容(未来)を知ってショックを受ける事も。

 



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第一章・出会い……欠けた二つの心
プロローグ 見知らぬ天井


チ、チ、チ、チ、チ、チ……・。

 

耳障りな時計の()が聞こえる。

耳を澄ませても、逆に、布団を目深(まぶ)にかぶっても、いつものカチカチという、聞きなれた音に変わる事はなかった。

閉じた(まぶた)を開き、天井を見上げる。数分おきに……。

でも、そこに広がるのは無機質な真っ白な景色だけだった。何度くり返しても、見慣れた木目の天井に戻る事はなかった。

 

少年は溜め息を付くと、起き上がった。

薄暗い辺りを見渡す。

白い天井に、同じく白い壁。そして、薄暗くて良く見えなかったが、おそらくベットの下にも、白い床が広がっているのだろう。

どうやらここは病室らしい。

 

「やっぱり、ボクの部屋じゃないんだ……」

 

少年がポツリとつぶやいた時、部屋のドアが、静かに横にスライドした。

 

「あら、お目覚め?」

 

自動ドアの向こう側から現れたのは、スーツ姿の女性だった。

センサーが感じ取ったのか、勝手に部屋の灯りが付き、彼女はツカツカと近づいてきた。

 

急に明るくなった景色に視覚が慣れるまで、ほんの少し時間が掛かった。耳障りな時計の音を十数回聴くくらいの時間が。

でも、ボンヤリとした視界の中ですら、その女性の美しさは察せられた。

キリリと引き締まった腰。ふくよかな胸。その身を引き締めるような赤い色のスーツ。

その背には、長い艶やかな髪が下ろされている。

確か、葛城(かつらぎ)ミサトとか言ったっけ……。

 

「今、起きた所?」

 

ベットの(かたわ)らに立ったミサトの声に、少年は視線だけを上げて答える。

 

「いえ……さっき、食事を運んできてくれた時に、もう起きてました……」

 

言いながら、上げたはずの視線が自分の手元にまで落ちる。

 

「でも、もう少し眠れば起きた時に……全部、夢になってくれるように思えたんです」

 

少年は、視線の先の……自分の手を握り締めた。

 

「で、でも……何度耳を澄ませても、時計の音が聞き慣れた自分の時計の音に変わらなくて……何度天井を見上げても、自分の部屋の天井に戻らなくて……」

 

握り締めた少年の拳が震える。

 

「結局、起きても、時計の音も天井もみんなボクの部屋と違ってて……」

 

少年は、震える手で自分の体を抱きしめた。視線が虚空を見詰め、口元が引きつった笑みを浮かべる。

 

「はは……やっぱり夢じゃなかったんですね……あれと戦ったのは、本当だったんですね……」

 

ミサトは、うなずいた。

 

「そうよ。あなたは使徒(しと)と呼ばれる化け物と戦ったの……全ては現実よ……」

 

ミサトは、少年の両肩をつかむと、自分の方を向かせた。“シンジ君”と彼の名を呼びながら。

 

「そして、あなたがこの街を救った事も……現実にあった事なの」

 

シンジと呼ばれた少年は、小さく、喉の奥から乾いた笑い声を上げた。

 

「ははは……お、おかしいな……き、急に、怖くなってきちゃった……」

 

定まらない視線を泳がせ、「な、なんだか、混乱しちゃって……」と、震える自分の拳を握りしめる。

 

「大丈夫よ。もう少し落ち着いたら、私たちが何者なのか、そして、アナタの使命が何なのか……全て話して上げるわ……」

 

そう告げると、ミサトは肩に添えた手を背に回し、少年を優しく抱き締めた。

彼の、少年の震えが静まるまで……。

 

この少年の名は、(いかり)シンジ……。

この物語の主人公にして、少し臆病な、わずか14歳の少年だ……。

 

 

 

 

第3新東京の胎内(たいない)奥深くに広がる巨大な地下空洞。

この神のなせる奇跡の空間には、エデンより追放された人類の手によって、巨大建造物が築かれていた。

 

ピラミッド型の巨大建造物……これがネルフ本部施設だ。

情報局、作戦局などの各部署、エヴァ格納庫、整備室などの各施設が、その角錐(かくすい)の内部に詰め込まれている。

テロ対策の為か、内部は複雑に入り組み、入り口から目的地にたどり着くには、幾重(いくえ)もの人工の道をたどらねばならなかった。

 

建設中の頃から活躍し、完成後も、そもまま用いられている幾つもの無骨な旧式エレベーター。

ピラミッドの上下を繋ぐ、長短のエスカレーター。

人々を迅速に運ぶ為に、各部署・各施設をつなぐ、長い長いオートウォーク。

 

少年は、保護者となった女性と共に、そのオートウォークに立っていた。

足元が勝手に移動し、たたずんでいるだけで、辺りの景色が変わって行く。

病棟を抜け、景色が開ける。視線を落とすと、自分が立っているオートウォークが高架にある事に気づいた。

下の方で、幾つもの格納庫らしきものが見える。整備服の人々が、機材を運んでいる姿も見受けられた。

 

機械の海の上に渡された電動の道。それに並行するもう一本のオートウォークは逆方向に人々を運んでいる。

少年は、(つい)のオートウォークに立つ職員が近づく度に、自分の方から挨拶(あいさつ)をしていた。

 

「お、お早うございます……」

 

背の低い少年を(のぞ)き込むようにして、職員たちも挨拶を返した。そして、すれ違った後で、みな、必ず(ささや)いていた。

 

「ほら、今の子が例の……」

「サードチルドレンって奴か……」

「あの歳でなあ……」

 

職員たちが残してゆく言葉には、新しいパイロットに対する好奇の声や、過酷な運命を背負わされた少年への哀憫の声の他、時おり、女性職員の「可愛い」という黄色い声が混ざっていた。

 

だが、目立つことに不慣れな少年には、それは心地よいものではなかった。

すれ違い、遠ざかりながらも、背に浴びせられる職員たちの眼差し。点在する高所のラボの窓から、少年の存在に気付いた整備士たちから注がれる視線。

それが少し痛かった。

 

「へえ~、シャイな割には、ちゃんと挨拶はするのね」

 

大人しいシンジの事を心配していたミサトは、その意外な態度に感心していた。

 

「はい……その辺は、先生にしっかり教育されていましたから……」

「先生?」

 

学校の?とミサトが付け加える前に、シンジは答えた。

 

「父さんと別れてから、ずっとお世話になっていた人です……先生っていうのは、音楽家で、みんなからそう呼ばれてたから……」

 

ミサトは、彼の父親……碇司令が、息子は知人に預けていると言っていた事を思い出した。確か、チェロの奏者だと。

 

「そっか……(しつけ)には厳しい人だったのね」

「はい」

「じゃあ、今までは、その先生が、シンジ君のお父さん代わりだったんだ」

「いえ……」

 

シンジは視線を落とした。

 

「そんなんじゃありません。先生は、あくまで先生です……」

 

同じ家で暮らしていても、先生は、シンジの事を「君」付けで呼び、いや、むしろ「碇君」と他人行儀に呼ぶ事の方が多かった。一度も「シンジ」と親しげに呼んでくれる事はなかった。そして、彼の方も、先生を「先生」という敬称以外で呼ぶ事はなかった。

 

どれほど月日が経とうとも、あくまで、お世話になっている先生と、世話をしている他所の子だった。

 

「ほら、シンジ君。こないだのお姉さん……赤木リツコ博士よ」

 

ミサトの声に、シンジは視線を上げる。対のオートウォールの向こうから、白衣姿の女性が近づいてきていた。その後ろに付き従うようにして、ネルフの制服をまとった女性がいる。

 

「あら、もう大丈夫なの?」

「ええ、外傷もないし、問題ないわ。今日は、司令室と訓練室を案内している所よ」

 

リツコとミサトが軽く言葉を交わす。

 

「お早うございます」

 

シンジは軽く会釈(えしゃく)をした。

 

「お早うシンジ君」

 

白衣の女性は挨拶を返したが、付き従う女性は無言で会釈を返しただけだった。

保護者と一人の少年。博士と一人の後輩。

 

二組は、わずかな言葉と挨拶と交わしただけで、すれ違い、離れていった。

 

リツコに付き従う女性は、シンジの後姿を見詰めながら尋ねた。

 

「先輩。司令の息子さん……シンジ君って、第3新東京に越してきたんですよね?」

「もちろんよ」

「じゃあ、やっぱり司令と暮らすんですか?」

 

父子が一緒に暮らす事に、何も不思議はない。だが、息子に対して一片の愛情も見せなかった指令が、父親として息子を迎える事に違和感があった。

 

「いいえ」

 

少女の質問に、リツコは否定した。

 

「職務柄、同居してくれた方がいいんだけど……お互いにそれは望まなかったみたいなの」

「実の親子なのに?」

「実の親子だからこそ、職責にも義務にも()われずに拒絶し合えるのよ……」

 

 

リツコの意味ありげな言葉に、少女は、初めて少年が訪れた日の事を思い出した。

 

数年ぶりに再開した実の子に対し、一遍(いっぺん)感慨(かんがい)も見せずに、ただエヴァ……兵器に乗る事を強要した司令。それを拒否する息子に向かって「帰れ」と言ってのけた父親。

そして、その父に向かって、自分を「捨てた」と主張した少年。

 

後でリツコに聞かされた話では、司令は、息子を十年以上も伯父に預けたまま、ほとんど連絡を取らなかったのだという。

子の存在を無視し続けた父と、捨てられたと思い込んできた少年。

その二人の間に生じた溝は、今更、“実の親子”という架け橋だけでは越える事はできないのだろう。

 

「彼の事は、ミサトが保護者として、面倒を見てくれる事になったの」

 

少年に同情し始めていた少女は、リツコの言葉に顔色が変わった。

 

「え……それって、葛城さんと暮らすって事ですか?」

「そうよ」

「大丈夫なんですか……!?」

 

リツコの怪訝(けげん)な顔に、少女は「だって葛城さんて……」と言いかけるが、向い側のオートウォールから別の職員が近づいてきた為、声を切った。

そして、通り過ぎるのを確認してから、小声で続ける。

「だって葛城さんって……一尉の階級も作戦部長の地位も、全部、ドイツ支部にいた頃に、あのボディで手に入れたって噂ですよ」

 

そんな人に未成年を預けて大丈夫なのかと訴える少女に、リツコは苦笑した。

 

「大丈夫よ。ミサトだって、未成年にまでは手を出したりしないわよ」

 

階級も地位も体で得たという噂は、若くして出世した彼女への嫉妬から生まれたものに過ぎなかった。だが、リツコはわざと訂正しなかった。

そんな噂を真に受ける少女が、少し微笑(ほほえ)ましかった。

 

遠ざかり、ほとんど見えなくなった少年の方を見詰めながら

 

「それにしても、良く似ているわね」

 

リツコはつぶやいた。

 

「それは、親子ですもの」

 

リツコは苦笑した。

 

「そうじゃないわよ。あなたに良く似てるって言ったの」

「は、私にですか……?」

「ええ、あなたが初めてここに来た時も、あんな雰囲気だったのよ」

 

あの陰鬱(いんうつ)な少年と、昔の自分が似ているのだろうか?

少女は、心外な顔付きで首をかしげた。

 

 

少女の名は、伊吹(いぶき)マヤ・24歳。

ネルフの本部・技術局に所属するオペレーターだ。

彼女の職務は、エヴァのパイロットたちのモニターと補助を勤める事だ。

シンジとの間柄は、その職務以外には何ら繋がりはなく、二人の間には十歳という年齢の(へだ)たりがあった。

だが、やがてこの少女と少年が、もっとも近い存在になろうとは、この時、誰が想像できえた事だろうか……。

 

 

ミサトとリツコの二組がすれ違った時、一人の男がポツリと吐き捨てていた。

 

「気にいらねえ……」

 

オートウォークを見降ろす位置に設置された作業用ゴンドラ。

そのゴンドラで身を屈めながら、作業服姿の男が、オートウォークを進むシンジを見下ろしていた。

溶接マスクを引き上げて(あらわ)になった白い肌と堀の深い顔立ち。どうやら白人らしい。

 

顔立ちは白人でも、吐き捨てた言葉は日本語だ。

海外支部から派遣された日本語が堪能な技師だろうか?

それとも日本生まれの二世か、あるいは、十五年前のセカンドインパクト(隕石の衝突)の時にやってきた移民の一人だろうか?

あの時は、世界の国境が一時的に破綻し、安全な場所を求めて日本から出ていく者も逆に入ってくる者も多かった。

 

白人風の男は、溶接マスクの下に、なぜかサングラスを掛けていた。そのグレーのグラスで、しかめっ面を抑えている。

 

 

「気にいらねえ……」

 

サングラスの男がもう一度つぶやいた時、

 

「おい、ミハイル!お前、サボってんじゃねえよ。そっち、さっさと繋げちまえよ!」

 

隣から怒声が飛んできた。

 

「ここは、オレだけ先に(つな)いじまうと、フレームが(ゆが)むんだよ!」

 

怒声を浴びせるのは、隣で溶接作業を行っていた小太りの男だ。同じく白人風の顔立ちで、日本語を喋っている。

 

だが、サングラスの男はそれを無視すると、代わりに「見ろよハンゾル」と(あご)で、オートウォークの方を指し示した。

 

「あん?なんだよ……」

 

相棒の仕草(しぐさ)に、ハンゾルと呼ばれた小太りの男も、オートウォークを見下ろす。彼は、直ぐに少年の姿に気付いた。

 

「ああ、サードチルドレンか……もう退院したのか」

 

小太りの男は溶接マスクを引き上げると、やはり白人らしき顔立ちを(あらわ)にし、改めてシンジを見詰めた。

 

「髪とまつ毛を伸ばせば、昔のアニメに出てた「ナディア」って()にソックリになるって、医療局のお嬢さん方がはしゃいでたけど、どんな(ツラ)してんだろうな……体格も随分(ずいぶん)と小柄みたいだけど」

「オレッチが14の時は、170あったぜ。あんな軟弱そうなガキをエヴァに乗せるなんて、日本人は何考えてんだか……」

 

サングラスを(くも)らせる溜め息を吐きながら、ミハイルは不満を口にした。その様子に、ハンゾルは苦笑した。

 

「なんだよ、お前。気にいらねえって……嫉妬(しっと)してんのかよ」

「嫉妬だあ?」

「だってお前、戦自からこっちに来たのは、もともとエヴァのパイロットになりた……」

「そんなんじゃねえよ!」

 

ハンゾルの言葉が終わる前に、ミハイルは(さえぎ)った。

そして、

 

「あんなガキに、オレッチが整備したエヴァを玩具(おもちゃ)にされちまうのが、気にいらねえっつってんだよ!」

 

不機嫌に否定する。

怒声で遮られたハンゾルは、大袈裟(おおげさ)に肩をすくめてみせると、溶接マスクをかぶりなおした。

 

「はいはい、おっしゃる通りで。いいから、さっさと仕事に戻れよ」

 

相棒が呆れた様子で作業に戻り始めると、ミハイルも荒々しく溶接マスクをかぶりなおす。

そして、マスクの下で、もう一度吐き捨てるようにつぶやいた。

 

「気にいらねえ……」



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エヴァのパイロット

「目標をセンターに入れてスイッチ……」

 

ネルフのエヴァ操縦訓練室。

LCLで満たされた操縦席から、液体越しに眺めるモニター。

そこには、コンピューターによって作り出された擬似都市と使徒が映し出されていた。

パイロットの少年は、片手操作のハンドルを左右に握り締め、その擬似世界の中でエヴァを動かす。

(りき)む事無く柔らかく(にぎ)()められたハンドルが動き、エヴァが巨大なバレットライフルを構える。 

 

リツコに、ハンドルを握る時は力を抜けといわれた。だが、少年は、その指示に従ってハンドルを握り締めている訳ではなかった。

 

熱意も抵抗感もなく、ただ、与えられた指示をこなすだけ……そんな気持ちでハンドルを握る少年の指先に、(りき)みなど(しょう)じるはずがなかった。

ただ、ハンドルに手を()え、言われた通りにバレットライフルを操作する。そして、モニターに表示された照準のセンターに使徒を合わせ、殺意も敵意もなく……ただ、トリガーを引く為のスイッチを押す……それを繰り返すだけだった。

 

銃口から放たれた劣化ウラン弾が、使徒を貫こうとも、大きく目標を反れて付近の建造物を破壊しようとも、少年の心には喜びも後悔も何もなかった。

 

「目標をセンターに入れてスイッチ……」

 

オペレーション室から青葉の音声が届く。

 

「よおし、シンジ君、その調子だ!的中率が順調に上がっているよ。次は、使徒を移動させるから、君もエヴァを動かしながら策敵してくれるかな」

「はい」

 

使徒が素早くビルの陰を()って移動し始めた。少年は慌てる様子も無く、ゆっくりとエヴァを動かしながら、同じ事を繰り返した。

 

「目標をセンターに入れてスイッチ……」

 

劣化ウラン弾が、鉄筋コンクリートを(くだ)く音が増え始めた。

 

オペレーション室が、誰がこぼすでもなく、自然と溜め息に包まれた。

 

「命中率、82%から一気に24%まで低下。エヴァ、順調に第3東京を破壊中……っていうか、あんな動きじゃ当然ですね」

 

横の青葉を振り返って、マヤが呆れたように言った。彼女のマイクはoffになっている為、シンジの元には届いていない。

 

青葉は困った顔で、マイクを寄せると、

 

「よおし、シンジ君。使徒に追い付けるように、もっとエヴァを速く動かしてみようか」

 

当たり前の事を口にし、根気良く少年に指示を与えた。そして、マイクを一旦(いったん)offにしてつぶやいた。

 

「やる気あんのかよ……シンちゃん」

「やる気なんかある訳ないだろ。無理に乗せられてるんだからさ」

 

隣席の日向の言葉に、青葉は肩をすくめて「まあ、そうだよな」と同意した。

 

「つーかさ……やる気がないのに、何でサボラないんだろうかねえ?遅刻だってしてこなかったんだろ?」

「やる気がなくても、几帳面な子なら欠席や遅刻なんてしませんよ。青葉さんじゃないんですから」

「はいはい、今朝は遅刻して、どうもスイマセン」

 

マヤの皮肉に、今朝一時間も遅刻してきた青葉は、口を(とが)らせた。その青葉に構わず、マヤは(いぶか)しげな表情で、モニターに映る少年を見つめた。

 

「しかし、よく乗る気になってくれましたね、シンジ君……」

 

初めてネルフにきた時、あれほど搭乗を拒絶し、司令(父)への嫌悪感を(あらわ)にした少年。

それが、どうして、幾日も()たぬ内に大人しくエヴァに乗り込み、こうして黙って訓練を受けているのだろうか?

 

「他人の言う事にはおとなしく従う、それがあの子の処世術なんでしょう」

 

マヤの疑問に、日向が応えた。

 

「……て、今朝、ボクが同じ事を言った時、赤木博士がそんなふうに言ってたよ」

 

その言葉に、マヤの脳裏に「シンジとマヤは似ている」というリツコの台詞がよみがえった。

 

(先輩は、私が先輩に素直に従ってきた点が、あの男の子と似ているって言いたかったのかしら……)

 

だがマヤは、カブリを振った。

 

(私は、先輩に実力で敗れたから……尊敬できる相手だから、ネルフに来てからは、素直に従ってきただけよ)

 

再び、青葉の指示がシンジに告げられる。

モニターのスピーカーから、コンクリートを砕く音が少し減った。

 

「命中率、46%まで回復です……」

(あの子の処世術と、私の先輩への敬意を一緒にされるなんて……心外だわ)

 

 

 

「はい、先輩。ここ一週間のシンジ君のデータです。シュミレーション成績、シンクロ率及び脳波になります」

リツコのオフィス。

PC画面に映し出されたマヤが、リツコのPCにデータを転送した(むね)を伝えていた。

 

「ありがとう、マヤ」

 

リツコは転送されたデータを確認すると、それを手早くプリンターを使って印刷する。

 

「ミサト、ホッチキスそっちにあるから。このプリント持って帰って、アナタも目を通しておいて」

「あら、わざわざペーパーファイル化しなくたって、私のPCに転送すればいいじゃない」

「何言ってるの!ネルフのものは外部への転送は禁止でしょ」

 

リツコは(あき)れた顔で、印刷し終わった数枚のプリントをミサトに差し出した。

 

「部外秘だから無くしちゃダメよ。水に溶ける紙で出来てるから、破棄する時は食べてもいいわよ。一応、イチゴ味の紙にしといたから」

 

リツコはPCに向き直ると、

 

「マヤ、シンジ君の様子はどうかしら?」

 

パイロットのメンテも担当している後輩に、少年の状況を確かめた。

 

「はい、脳波を見る限り、リラックス状態とはいえませんが、感情の起伏は余り見られません。でも、ストレスホルモンの量が標準値より少し高いですね。しかし、エヴァの操作に支障をきたすほどでは……」

「そうじゃなくて」

 

淡々と説明するマヤの言葉を、リツコは遮った。

 

「そういうデータ上の事じゃなくて、マヤからみて、彼は、どんな感じに見えるか聞きたいのよ」

 

画面のマヤは、少し眉をよせた。

 

「……別に、不服そうでも無いし、ちゃんと訓練はこなしてるし、活気は無さげですが真面目そうですよ」

「じゃあ、この一週間を通して見てきた彼の印象はどうかしら?」

 

リツコの妙な質問にマヤは首をかしげた。

 

「印象……ですか?」

「そう。パイロットとオペレーターの信頼関係を取り持つのも私の仕事なの。オペレーターさんの彼の印象、聞かせてもらえるかしら?」

「そうですね……」

 

かぶりを傾け、マヤは考え考え印象を口にする。

 

「レイみたいな使命感が見られないというか……。なんだか、教えられた事を教えられただけやってるって感じで。要望だとか、自分の意見も言おうとしないし。いえ、意見以前に、何も疑問も抱かずにロボットみたいに操縦席に座ってるだけ……」

 

そこまでいうと、マヤはかぶりをただし、ハッキリと不快感を述べる。

 

「それと根暗!あの歳で、あの外見なのに、可愛げないなんて、ちょっと嫌ですね……!」

「あら、手厳しいわねぇ~」

 

マヤの言葉に、(かたわ)らのミサトが肩をすくめた。リツコも少し困った顔をした。

 

「そう……それがマヤの印象なの。でも、分かっていると思うけど、あの子も好き好んでパイロットになっている訳じゃないから、もう少し暖かく見守って上げてね」

「もちろん承知しています。それがオペレーターの仕事ですから」

「仕事ね……」

 

「では、先輩、失礼します!」

 

画面のマヤが、にっこりと微笑みながら、片手で敬礼のポーズを取って見せた。そのまま映像が消え、リツコのPCの画面に少年のデータグラフだけが映し出される。

 

 

 

「ところでミサト、家では彼の調子はどうなの?」

「どうって……。家の中じゃ明るい面もあるし、家事も手伝ってくれるし、けっこう良い子なんだけどね~」

 

ミサトは、少し頬を引き上げて笑みを作る。

 

「そうそう。ちゃんと年頃の男の子らしい事もやってるから、体の方も健全ね」

「年頃の男の子がやることって?」

「あら、やだ……リツコ。年頃の男の子なら、ほら、夜中に独りでやるじゃない~」

 

意味深な笑みを(たた)えるミサトに、リツコは少し眉を寄せた。

 

「ミサト。そういうプライベートな事は、見てみぬ振りして上げなくちゃダメよっ」

「残念、手遅れだわ」

「どういう事?」

「あの子、終わった後に“あれ”をトイレに流しちゃってたのよ。でも、それだと配水管が詰まっちゃうから、ゴミ箱に捨ててくれて構わないって、本人にはっきり言っちゃったのよ」

「あなたって人は……」

 

リツコは呆れたが、それ以上ミサトを注意しようとは思わなかった。

 

 

15年前、南極大陸への隕石の落下によって生じた災厄・セカンドインパクト。

南極で調査団を勤めていた父親に同行していたミサトは、幼い身でそれを経験し、父親を亡くしている。その時のショックで、長らく失声症に苦しんだという。

世界と自分の家族にもたらされた災厄。彼女の胸には、その災厄で受けた大きな傷跡が生々しく残っていた。そして、その心には、それ以上に大きな傷跡を(かか)えて、誰よりも不安で不安定な少女時代を過ごした。

そんな彼女の事だ。見知らぬ土地で、不慣れな新生活を強いられている少年の気持ちを()まぬはずがない。

 

(私が、余計な口出しをするよりも、ミサトのやり方に任せておく方が無難ね)

 

「まあ、そんな感じで同居生活の方も問題ないんだけどさあ。ちょっち、学校の方では上手く行ってないように見えるのよねえ……」

 

軽く腕組みをし、困った様子で小首を(かたむ)けるミサト。

 

「必需品だから携帯持たせたんだけど、私以外、誰からも掛かってくる様子がないよの。まだ、友達いないのかしらねえ?それに……」

 

右頬に軽く手を当てる。

 

「この間、ここ、凄く()らして帰ってきたのよ。ソフトボールでミスしただけだって本人は言ってたんだけど……もしかしたら、イジメられてるんじゃないかって気になってるのよ」

 

ミサトの言葉に

 

「ああ、それなら知ってるわよ」

 

リツコはPCに向き直ると、キーを打って学校の敷地をディスプレイに映し出した。

 

「え?」

 

ミサトは、画面に顔を寄せた。シンジの姿が映っていたのだ。

 

「ちょっと、やだ……。学校の中までモニターしてんの?」

「学校の警備用カメラを少し拝借(はいしゃく)してるだけよ。で、これは録画ね」

 

リツコはキーを操作し、シンジと二人の男子生徒が映っている映像を表示させた。

PCのスピーカーから、集音機が拾った三人の会話が響く。

 

『すまんな、転校生。わいはお前をなぐらなあかん。なぐっとかな気がすまへんのや』

 

ジャージ姿の生徒が、拳を固めて振り上げる様子が見える。

 

『悪いね…こないだの騒ぎであいつの妹さん、怪我しちゃってさ…ま、そういうことだから……』

 

横からメガネを掛けた生徒が、殴る理由を説明してくれていた。

 

この間の騒ぎとは、おそらくシンジが初めて使徒と戦った時の事だろう。どうやらジャージ姿の生徒の妹が、あの時の戦闘に巻き込まれて、怪我を負ったらしい。

 

『僕だって、乗りたくて乗っているわけじゃないのに……』

 

(おび)えたシンジの声が聞こえる。だが、次の言葉が発せられる前に、スピーカーから(にぶ)い音が鳴った。

 

画面に、一撃を浴びせた後、「根性なしが!」と吐き捨てて去ってゆく少年たちの姿が映っていた。

 

「という訳よ。頬の傷は、この時のものね。幸いにも、これだけで終わってるから、イジメとはいえないでしょ」

 

リツコは、シンジに同情するでもなく、淡々と状況を説明した。そして、チラリとミサトの様子をうかがう。

予想外にも、ミサトは笑顔だった。

 

「あらあら、シンジ君。ちゃんと、青春してんじゃない~♪」

「これが青春……?」

 

ミサトの態度に、いぶかしむリツコ。

 

「当然よ。私がドイツにいた頃なんて、向こうの女どもに随分(ずいぶん)なめられたもんよ。初めの頃は、こんな場面しょっちゅう会ったわよ。まあ、そのお陰で訓練に発奮できて、直ぐに見返してやったけどね~」

「へえ、そうなの……」

 

リツコはPCの映像を消すと、ミサトに向き直った。

 

「そういえばアナタがドイツにいた頃って、向こうの料理が粗末だの、アスカが乱暴だの、そういうプライベートな話は良く聞かされたけど、支部の話って余り聞いてなかったわね」

「リツコの方も、別に聞きたがろうとしなかったじゃない」

 

ミサトは近くにあった椅子に腰掛けると、良い機会だとばかりにドイツ支部での体験を話し始めた。

 

「もともとアジアの女って、肌が綺麗だから結構モテるのよ。ましてや私なんて美女は、男どもがほっとかない訳よ。それで女子部の子達に妬まれちゃってさ……」

 

ミサトは少し得意げに、ドイツに赴任(ふにん)して間もない頃、自分が男たちからモテて困っていた事を話した。

赴任(ふにん)早々、現地の男たちから交際を申し込まれた事。それを拒まず、恋愛遍歴を重ねた事。女性職員に(ねた)まれ、何度も絡まれた事……。

少しは法螺(ほら)を混ぜているかも知れないが、ミサトの容姿と性格なら有りそうな話だった。

 

「それで、初めの頃は、ただの容姿が良いだけのバカ女みたいな目で見られちゃってさ、結構なめられてたのよ」

「でも、ただのバカな女じゃないって事は、直ぐに分かってもらえたんでしょ?」

 

リツコは、片手で軽く射撃の構えを取って見せた。ミサトは、ドイツ支部時代に射撃大会で何度も優勝している。射撃の他、体術や戦術でも常にTOPの成績を修めていたはずだ。

 

「まあね。男遊びも程ほどにして、実力で勝負するようになってからは、少しは見直されてドイツのデカイ女どもに絡まれる事はなくなったわ。でもさあ……」

 

困った様子でクビを傾けるミサト。

 

「体術課の女教官の中に、嫌な奴がいたのよ……ほら、私が三尉に昇進したって連絡入れた時あったでしょ」

「入れてないわよ。アナタが何も言わないから、私の方からお祝いのメッセージを送ったのよ」

「そうだっけ?まあ、それはともかく、その三尉に昇進する少し前の事なんだけど……その教官が私に言ったのよ「ミサト准尉、アナタは体術に関して随分(ずいぶん)と慢心しているようだけど、いざ危険が迫った時は、大概(たいがい)の人は(おび)えてろくに対処できないものよ。アナタの体術だって、本番では、はたしてどこまで通用するかしら」って」

「見くびられたものね」

 

「だから私も言い返してやったのよ。じゃあ、教官殿は対処できるんですかって。そしてら、何て言ったと思う?私に特殊警棒を渡して「私にスキがあったら、これで、いつでもどこでも掛かってきなさい」って自信満々でいうのよ」

 

ミサトは忌々(いまいま)しげな表情を浮かべると、右拳を握り固めた。

 

「腹立ったから、お言葉通り、教官の寝込みを襲撃してやったわ」

 

「やだ……寝てる所を殴っちゃったの?」

 

リツコが眉を寄せたが、ミサトはカブリを振った。

 

「とんでもないわ。あんな奴を倒すのに素手で十分よ!」

 

突然、ミサトは椅子から立ち上がった。ミサトの口調に熱がこもる。

 

「いいえ、素手どころか、素っ裸で十分だったわ!!」

「……は?」

「私は一糸まとわぬ丸腰で、教官のベットを襲撃してやったのよ!

教官も目を覚まして、枕元にあった警棒で反撃しようとしたけど、その時は既に、私がマウントポジションを決めてたの。そして、そのまま得意の寝技へ……手ごわかったけど、夜が明けた時には、すっかり昇天してたわ」

 

感慨(かんがい)深げに、自分の武勇伝を振り返るミサト。

 

「ちなみに、この襲撃を他の上司にも繰り返してたら、どういう訳か准尉から一尉まで一気に昇進しちゃったのよね……って、リツコ、何で頭抱えてるのよ?」

 

 

リツコの方は、途中から(ひたい)(おさ)えだしていた。

 

「……もちろん、冗談よね?」

 

しぼり出すような声を上げるリツコ。

 

「やあね、リツコ。寝技に上段も下段もないわよ」

 

下らない冗談を言っているつもりなのか、それとも、本当にそれに近い事があったのか……ミサトがボディのお陰で昇進できたという噂は、あながち根拠がない訳ではないらしい。

そう気付いた時、リツコは、ハッと、カブリを上げた。

 

「ちょっとミサト!アナタ、冗談のつもりで、シンジ君にまで変な事してるんじゃないでしょうね!」

 

一瞬、リツコは蒼白になったが、

 

「残念。あのオッサン(司令)の親類になるなんて、間違ってもごめんよ」

 

肩をすくめて否定するミサトの様子に、すぐに顔色を戻した。

 

「それに、風呂上りのシンジ君のヌード見ちゃった事あるけど……」

 

ミサトは、椅子に腰を戻した。

 

「てんで、ガキ……あれじゃオッサンの息子じゃなくても手は出せないわ」

 

確かに、発育途上の少年に手を出すなど、特殊な趣味か、よほど男に飢えていない限りありえないだろう。そして、リツコが知る限り、ミサトにはそんな趣味はなかったはずだ。男に不自由しているようにも見えなかった。

 

「ま、まあ……。アナタなら、ああいう少年の扱い方は分かってるでしょうし……。今はアナタに預けておくのがベストよね」

 

うなずくミサト。

 

(まあ、後、三年も経てば分かんないけどね……)

 

本音は、胸の内にしまっておいた。



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使徒、襲来

「あら、もうこんな時間ね……じゃあ、シンジ君の事があるから」

 

ミサトは、リツコから受け取ったファイルを鞄にしまうと、ネルフの職員から少年の保護者へと変わろうとした。

が、それはジオフロントに鳴り響く、けたたましい警戒音によって延長させられてしまう。

第一種警戒体制を示すサイレンの()だ。

 

「何事!?」

 

作戦局課長して、ネルフ作戦本部長・ミサトは、リツコを押し退けるとPCのキーを打ち、応答を求めた。

画面に日向が映し出される。

 

「南南西の方角より、甲殻型の巨大生物接近の報あり……パターン青!使徒です!」

 

画面に、別ウィンドウが開き、マヤが映る。

 

「既に、ファースト及びサードチルドレンに召集命令が出されました!作戦本部長も、至急、司令室へ!」

 

「分かったわ!」

 

ミサトはうなずくと、再度時刻を確認する。

 

「今なら自宅にいるはずね」

 

そして、携帯電話を取り出すと、短縮ダイアルを押した。

 

「……シンジ君、来て!」

 

 

 

サイレンの音が、第一種“警戒体制”から“戦闘体制”を告げる音に変わった。

 

 

「はい……分かりました。直ぐに行きます」

 

マンションのリビングで、シンジは上官の指示を受けていた。学校から帰宅したばかりの為、まだ学生服のままだった。

 

『マンションの前に、黒服の人が待機しているはずだから!その人の車に乗って!』

 

「分かってます。さっき本部からも電話がありましたから……」

 

シンジは、かたわらの電話機に目をやった。

さきほど固定電話で召集命令を受けた所だった。その受話器を下ろした時に、鞄の中にしまっていた携帯が鳴り出したのだ。

 

「はい、着き次第、エヴァに乗ります……」

 

シンジは携帯を切ると、じっと、その画面を見詰めた。

十字キーの右を押し、着信歴を確認する。

着信歴には、携帯番号がたった一件だけ表示されていた。

シンジに携帯をくれた保護者……ミサトの番号だ。

それ以前の着信記録はなかった。

 

シンジは溜め息をついた。

 

シンジがエヴァのパイロットである事は、既に学校中に知れ渡っていた。

ネルフ本部が拠点を置く都市だけあって、学校には、それに関わる人たちの子供が多く通っていた。親から聞きかじったのか、同級生の間には、少し前から、パイロットが14歳である事と、新しいパイロットが選出された事が噂として流れていた。

そんな時に、転校生が現れたのだ。シンジが疑われるのは自然な事だった。そして、シンジには、別に隠す理由はなかった。

携帯のアドレス帳には、そんなシンジへの好奇心から言い寄ってきたクラスメイトの番号が、数十件か登録されている。

 

正直に答えた時、シンジは、クラスメイトに囲まれ、色々と質問を浴びせられた。

 

『どうして、パイロットに選ばれたの?』

……知らない。

 

『この前の爆発事故って、本当は使徒の仕業なんだろ?使徒って何なんだよ』

……知らない。

 

でも、好奇の目で見られ質問を浴びせられても、何も答える事ができなかった。

本当に何も知らないのだから……なぜ、自分がここにいるのかすらも。

興味をもたれても、それに応える事ができない少年。

エヴァのパイロットという以外に、何の特徴も取り得も無い少年。

彼らの好奇の目が冷ややかなものに変わるのに、それほど日時を要しなかった。

数日の内に登録された数十件のクラスメイトの番号。でも、一度も携帯の着信音が鳴った事はなかった。

 

鞄の中から呼び鈴が聞こえた時、シンジは少しだけ嬉しくなった。

使徒が迫り、その危機感から、クラスメイトの誰かが掛けてきたのかと思った。

でも、携帯を耳元にあてがった時に聞こえたのは、クラスメイトの声ではなく、年上の女性の声だった。

そして、その言葉は、シンジの身の上を心配する言葉でも、シンジを(はげ)ます言葉でもなく、作戦本部長から与えられる指示だった。

 

ボンヤリと携帯画面を見詰める。

何度目かの戦闘配置を告げるサイレンが、辺りに轟いた。

 

「行かなきゃ……」

 

シンジはつぶやくと、携帯電話をズボンのポケットにしまおうとする。だが、寸前で止まり、少し躊躇(ちゅうちょ)してから鞄の中に戻してしまった。

持ち歩かなくたってボクには必要ないんだ、とでも言いたげに……。

 

「進路クリアー、オールグリーン!エヴァンゲリオン零号機発進準備完了!発進します!」

 

ネルフの作戦本部司令室に、オペレーターのマヤの声が響く。

数秒後、司令室のメインモニターに、地上に発進された零号機の姿が映し出された。

 

「こちら零号機。地上に出ました……目標を確認」

 

零号機パイロット、綾波レイの声。

前回の使徒との戦闘で重症を負った彼女は、まだ完治していない身だ。だが、彼女の声には、少しの不安も感じられなかった。わずかな緊張感だけをにじませ、冷徹に任務を遂行しようとしている。

 

「いいレイ?あなたは無理をしないで。まだ病み上がりなんだから」

 

リツコが、ヘッドマイク越しにレイに言葉をかけた。

 

「零号機パイロット・綾波レイ。今回は、零号機と初号機の二体で撃退します。あなたの使命は、初号機が到着するまでの時間稼ぎ及び陽動。そして、使徒の特性を見極める事」

 

作戦本部長の(リン)とした声が響く。さきほど、親友相手に下卑(げび)た話をしていた女性とは思えぬ凛々(りり)しさだ。

 

ミサトは、自分のデスクに着かず、メインモニターがよく見える司令室の中央で、威厳を正して立っていた。その後ろの一段高いステージに設けられた席には、総司令・碇ゲンドウが沈黙を保ったまま鎮座(ちんざ)している。

 

今まで幾度も繰り返してこられた使徒迎撃シュミレーション。総司令のはずのゲンドウは常に言葉少なく、大方(おおかた)の指示を本部長に委ねていた。

そして、この本番に至っても、彼の態度は変わらなかった。

 

若き本部長の指示が続く。

 

「使徒が零号機を捕捉次第、BブロックからDブロックに後退。途中の対空迎撃施設を利用しながら距離を保って防戦に(てっ)し、決して決戦には挑まないように」

 

前回の初の使徒襲来では、零号機では対処できず、レイは戦闘不能に陥ってしまった。彼女に代わって、父親……総司令に呼び出されていたシンジが初号機へと乗り込み、何とか使徒を撃退した。だが、それはパイロットが気を失い、初号機が暴走した上での勝利だった。

この二つの事実は、今のパイロットの実力では、一対一の戦闘で使徒を撃退できるレベルに達していない事を意味していた。

 

確実に使徒を仕留める為にも、作戦本部長・葛城ミサトは二機による連携攻撃を計画していた。

 

「了解……」

 

短い返事を返し、レイは慎重に使徒へと向かった。

海中から突如(とつじょ)現れ、第三新東京に上陸した第四使徒・シャムシエル。

深海魚のようなグロテクスさと、愛らしいイルカを合わせたような容貌(ようぼう)を持つそれは、まるで、深海の暗闇でヒッソリと生息していた未知の生物が、地上に迷い出たかのようだった。

はたして、この海底からの来客は、どんな能力を秘めているのか?

 

「しかし、おかしなものね……」

 

メインモニターを眺めながらミサトはつぶやいた。

 

「使徒が最後に現れてから15年……その間、こっちが使徒に備えて要塞都市を築いている時は、何の音沙汰もなかったのに……ゼーレがエヴァのパイロットを三人選定した年に、続けて二体も使徒が出現するなんて……」

 

ミサトは、かたわらの親友を一瞥(いちべつ)する。

 

「まるでゼーレは、使徒が出現する時期を知ってたみたいじゃない」

「知ってたんじゃなくて、予測したんでしょ」

 

ヘッドマイクをオフにし、リツコは親友にささやく。

 

「予測したって……」

「それがゼーレの仕事じゃない」

 

ミサトは少し不服そうな表情を見せると、視線をメインモニターに戻した。

 

零号機出撃前から稼動し始めていた対空迎撃システムが、火を()きながら轟音(ごうおん)を響かせている。各所の自動砲塔が、ミサイルポッドタワーが、無人戦車群が、砲撃を繰り返している。だが、モニター越しに視認しても、使徒にはなんらダメージを与えていない事が見て取れた。精々、足止め程度の役割しかはたせていない。

 

硝煙(しょうえん)が立ち込める中、悠々(ゆうゆう)と前進を続けていた使徒が、急に二本の触手を伸ばした。そのまま(むち)のようにうならせ、対空砲を搭載した塔やタワーを次々と破壊してゆく。

いや、破壊というよりも、コンクリートと特殊合金で作られた迎撃兵器を触手の一振りで切断していた。

真っ二つに両断された戦車が炎上し、切り倒されたタワーの切断口から火花が上がり、爆音に空気が震える。

 

「ただの税金の無駄遣いだな」

 

背後の段上から、冬月・副指令のささやきが聞こえた。彼もまた、作戦指示を本部長に(ゆだ)ね、その手腕(しゅわん)を見守っている。

 

ミサトは唇を()むと、ポケットに手を入れ、携帯を取り出した。

携帯は、ずっとシンジの番号に掛けっぱなしの状態になっていた。

 

「変ね、どうして出ないのかしら?」

 

既にシンジを呼び出してから40分が経過している。ネルフの諜報部が用意した車に乗り込み、非常用ルートを通っていれば、とっくにジオフロントに到着していて良いはずだ。

だが、本部にサードチルドレンが到着したという報告はまだ届いていなかった。

 

「車内電話からキャッチホン?」

 

携帯の画面を見つめ、キャッチホンに気づいたミサトは、慌てて応答する。

 

「はい……え、シンジ君!?」

 

シンジからだった。

 

『すみません、ミサトさん!車が横転してダメなんです!近くに流れ弾が落ちちゃって』

 

「大丈夫なの!?」

 

『ボクも、運転手の人も無傷です。でも、気を失ってて……ボクじゃ、運転できないし……』

 

ミサトがシンジと交信している事に気づき、職員たちがミサトに注目した。

 

「今、どこにいるの!?」

 

『ええと……近くの電柱に、Dブロック・299って書いてます』

 

「Dブロック・299ね。今、救護班を向かわせるわ!」

 

いいながらミサトは顔をしかめた。

今から救護班を向かわせていたのでは、遅すぎる。救護班に出動要請を出し、Dブロックに向かわせ、シンジをジオフロントにまで連れてこさせるには、どう考えても往復で一時間以上は要する。

そこまでレイ一人で時間稼ぎができるとは思えない。しかも、既に零号機は使徒の攻撃を防戦しながら、Cブロックに後退し始めた所だ。

 

「レイ聞こえる?Dブロックじゃなくて、Eブロックに向かって後退して。後、60分……いえ、後40分、決戦を()け続けれるかしら?」

 

「やってみます」

 

レイの落ち着いた声が返ってきた時、ミサトに振り返っていたオペレーターの少女が一人、

 

「あの、今、Dブロック・299って言われました?」

 

驚いたようすで発言した。伊吹マヤだ。

 

「そこでシンジ君が立ち往生してるんですか?」

「そうよ」

「そこなら、非常用の通路があります!正規の通路じゃありませんが、私が以前、Dブロックの周辺データを調べた時に発見したんです」

 

後輩の言葉に、リツコが思い出した。

 

「そういえばマヤ。Dブロック・299って、あなたのマンションがある所よね」

「はい、地元ですから地理も私が詳しいです!」

「じゃあ、伊吹二尉。あなたにナビをお願いするわ」

 

ミサトはうなずくと、シンジに告げた。

 

「シンジ君。救援が来るから、運転手の人はそのままにして。あなたは車から出て携帯を出して。こっちからナビするから……え、どうしたの?」

 

『その……慌ててたんで、携帯を忘れちゃって……』

 

「バカ!」

 

ミサトが苛立(いらだ)った声を上げる。

 

「こういう時の為に、携帯を持たせたんでしょうが!」

 

言ってしまってから、ミサトは唇を噛んだ。任務の為だけに携帯を持たせた訳じゃない。だが、『こういう時の為に持たせた』と思わず言ってしまったのだ。

 

「……とにかく、そこで救護班を」

「葛城本部長!」

 

ミサトの言葉を遮ったのは、マヤだった。

 

「通路はあるんです!こっちからも行けるんです!第三・予備ゲートの13番中継地点から、Dブロック299へ行ける通路があるんです!」

「13番中継地点って、あんな所から!?」

 

マヤはうなずく。

 

「特別なルートがあるんです!ここから行くには少し時間が掛かりますが、そのルートを使えば、13番中継地点まで一分も掛からないはずなんです!」

「あなたは、そのルートを知っているのね?」

「まだ使った事はありませんが、知っています!」

 

ミサトは、マヤの目を見詰めた。そして、マヤの真剣な眼差しを受け止めると、

 

「伊吹二尉……行って!」

 

意を決し、彼女に希望を託す。

 

「はい!」

マヤは立ち上がった。

 

ミサトは、駆け出して行ったマヤの背中を見詰めながら、シンジに、迎えの者が来るから近くの公園まで移動するようにと指示した。

返事と共に、車内電話の通信が切られる。ミサトは、しばらく使う必要がなくなった携帯を閉じ、ポケットにしまった。

シンジが携帯を忘れた以上、以降の交信は無理だ。後は、マヤを信じて任せるしかない。

 

「赤木博士……」

 

メインモニターに映し出される戦況を見詰めながら、ミサトはつぶやいた。

 

「なにかしら?作戦本部長」

「さっき、私が口にしたゼーレの話……聞かなかった事にしてもらえるかしら?」

「いいけど、どうして?」

「この間、日向君にエヴァのDVD借りて見ちゃったから、ゼーレや人類補完委員会の事は百も承知してるんだけど……」

 

ミサトは、肩をすくめて見せる。

 

「良く考えたら、アニメ本編では、私はまだこの時点では、ゼーレの事を知らない設定になっているのよね」

「あら、私もウッカリしてたわ……良く気付いたわね」

「ええ、親切な人が掲示板で教えてくれたの」

(作者注※これを某所で書いていた当時、そう指摘してくれた方がいました)

 

「なるほど。まあ、作者もSS書く前に一回エヴァを見ただけだから、仕方ないわね」



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逃げた少年

「はあ、はあ……」

 

無人と化した街を、少年は駆けていた。

人々の喧騒(けんそう)も車の騒音も失せ、ただ爆音だけが空気を震わせている。

時おり、巨大な流れ弾がさほど遠くない距離に着弾する。その度に地面が()れ、少年は身をすくませた。

 

震動と爆音に気を取られ、一瞬駆け足を止めては、直ぐにまた駆け出す。

アスファルトの上を霧のような煙が横切り、少年の行く手を(さえぎ)っていた。

自動砲塔のもとから流れてきた硝煙か?それともどこかで火災が発生しているのか?

その煙の中を息を止めて走り抜ける。煙が目に染みた。

 

「はあ……」

 

シンジは立ち止まると、手を(もも)()えて上半身を支え、息を整えた。少年の小さな肩が、大きく揺れる。

シンジの視界に、一枚の標札が入った。標札には大きな矢印が描かれ、『○○公園まで50M』と記されている。

待ち合わせ場所の公園だ。もう直ぐだ。

 

(急がなくちゃ……!)

 

シンジは気を取り直すと、再び走り出した。

周囲は住宅街だったが、既に人の気配はなかった。

 

(学校の子達も、もう無事に避難したのかな……)

 

クラスメイトたちの姿が脳裏に浮かんだ。

エヴァのパイロットである事がバレ、質問攻めにされた時の事を思い出す。あの時は驚いたけれど、少し嬉しかった。

 

(明日、登校したら、第三新東京を守った事、みんな喜んでくれるかな?)

 

委員長の姿が浮かぶ。

 

『碇君、有難う。あなたのお陰で皆救われたわ。さあ、みんな、碇君の健闘を称えましょう!』

 

興味本位のクラスメイトに囲まれた時、みんなを(しか)ってくれた委員長……彼女なら、そんなふうに皆をしきってくれるような気がした。

彼女なら、きっと真っ先に()めてくれるはずだ。彼女なら……あれ……?

 

(そういえば委員長の名前……なんだっけ?)

 

クラスメイトたちの顔が浮かんでも、名前まで思い出せたのは、ほんの数人だけだった。少し気になっていた委員長の名前すら、まだ覚えてはいなかった。

転校してから一週間が過ぎたのに、まだ親しくなれた子は一人もいない。

 

でも、使徒を倒したら、少し思い出せる名前が増えるかも知れない。

携帯の着信履歴に、ミサトさん以外の番号が残るようになるかも知れない。

明日からは、もう少し、学校生活が楽しくなるかも知れない。

 

(委員長も、みんなも喜んでくれるよね?また、みんなに質問されたら、今度は何て答え……)

 

わずかな期待感を称えていたシンジの表情から、急に笑みが消えた。

 

(何て……答えればいいんだろ……?)

 

情報統制がしかれている為、エヴァと使徒の戦闘が報道されない事は知っていた。前回の戦闘では、使徒の存在さえ()せられていた。

クラスメイトたちはエヴァの存在を知っているとはいえ、彼らとて戦闘を見ることはできなかった。

何も見ていない彼らに、一から質問された時、上手く答えられるだろうか?

初戦の時は途中で気を失い、後の事はほとんど覚えていなかった。じゃあ、今回は?

もし、今回の戦闘でも、気を失ったり、錯乱(さくらん)したら……?

それにパイロットでありながら、使徒やエヴァに対する知識が皆無なのも相変わらずだ。

 

(また、初めに興味をもたれるだけで、終わっちゃうのかな……)

 

わずかな不安感が胸の奥から湧き出してきた。それが胸中に(あふ)れ、息苦しさを覚えた始めると……シンジは、次第に速度を落とし、遂には、駆けるのを()めてしまった。

 

駆け足を止め、トボトボと歩き始めるシンジ。

ふと見ると、すぐ横に小さな喫茶店があった。その喫茶店のウィンドウに映る自分の姿を見た時、シンジは完全に歩を()めてしまった。

ウィンドウに近づき、自分の姿を(なが)める。ウィンドウのガラスに映った顔。その頬に小さな青いアザが残っていた。

トウジとかいう、クラスメイトに殴られた時の(あと)だ。

シンジは、そっと頬の傷に触れてみた。少し痛みが走った。

 

(上手く応えられたとしても……みんな、ボクが戦った事、本当に褒めてくれるかな……)

 

『すまんな、転校生。わいはお前をなぐらなあかん。なぐっとかな気がすまへんのや』

 

トウジの言葉が、耳の奥でよみがえった。

 

(それとも、また、殴られるのかな……?)

 

『碇君、さっそく正体がバレちゃうなんて、エヴァのパイロットとして失格ね』

 

委員長の軽蔑した声が聞こえる。

 

『碇君、本当に君が使徒を倒したの?本当は、もう一人のパイロットのお陰じゃないの?』

 

『碇、なんでもっと早く使徒を倒してくれなかったんだよ!お前のせいで、逃げ遅れた弟が大怪我したんだぞ!』

 

『一体、どこ狙って撃ってんだよ!お前がぶっ放した弾丸のせいで、道路も公園も無茶苦茶じゃないか!』

 

クラスメイトが、シンジを罵倒する風景が幾度も浮かんでは消える。

シンジは激しくかぶりを振った。

 

(そんな……ボクだって、ボクだって……)

 

「好きでエヴァに乗って戦ってる訳じゃないんだ!」

 

思わず口に出して叫んだ時、突然、サイレンの音が鳴り響いた。サイレンの種類は、さきほどから鳴っている戦闘配置を告げるものだったが、今度は直ぐ近くからだ。

今、シンジが立つ街道に備え付けられたスピーカーから、一斉に発せられていた。

たまらず、シンジは両耳をふさいだ。

 

砂埃(すなぼこり)が立ち上がる。轟音(ごうおん)と共に周囲のマンションと建物が、次々に地下へと沈んで行った。代わって、自動砲塔やミサイルポッドを備えたタワーが地下から浮上する。

この地区も、住人の避難が完了し、戦闘配置に入ったらしい。

シンジは耳をふさいだまま、ふらふらと歩き出した。とにかく、公園に行かなくちゃならない……。

 

 

直ぐ向かい側のビルから、ミサイルが発射された。身をすくめ、中空に残った一筋の煙幕の行方を視線で追う。シンジは息を()んだ。

 

煙幕の終点には、周囲のビル群ほどの大きさを持つ生物の姿があった……。

 

(使徒だ……)

 

シンジの小さな胸が、激しく鼓動した。

胸中にあふれ出していた不安感が、鼓動を乱し、少年を苦しめる。息苦しさに、シンジは耳をふさいでいた手で、自分の胸元を抑えだした。

爆音がとどろく。

使徒に巨大な弾丸とミサイルが衝突し、その体が激しい発熱と煙幕におおわれる。だが、使徒は何ら外傷を負うことなく、平然と突き進んでいた。

何かに誘われるかのようにして使徒が進む先……。

 

(綾波……!)

 

ビル群の向こうから、わずかに零号機の頭部が見えていた。距離にして、十数キロ……いや、もっと近いだろうか?

使徒の触手が舞った。零号機の周囲をおおっていた建物が、あっさりと切断され、大爆発が起きる。爆風の一部が、ここまで襲ってきた。

その場に身を屈め、硝煙交じりの突風に耐えるシンジのその体は、震えていた。

 

(ボクも……あの中に参戦しなくちゃならないんだ……)

 

爆風が静まると、シンジは立ち上がった。しかし、その顔にはもはや、その白い肌をさらに蒼白に染める感情以外、残ってはいなかった。

 

(戦ったって、また殴られるだけなのに……どうしてボクが、どうして、あんな化け物と戦わなくちゃならないんだ……!)

 

使徒と零号機の戦闘を眺めながら、後退(あとずさ)る。シンジは、錯乱したかのように何度もかぶりを振り出した。

 

(嫌だ……嫌だ……嫌だ……嫌だ……)

 

「嫌だ!!」

 

次の瞬間、シンジは公園とは違う方向に向かって駆け出していた。

 

横転した車から出た時、ただ、ミサトさんに命じられたから、公園に向って走っていた。

使徒を倒せば、クラスメイトたちと仲良くなれるかも知れないという小さな期待が、その足を急がせていた。

 

「嫌だ……嫌だ……嫌だ……嫌だ……」

 

だが今、息を切らせながらシンジを駆けさせているものは、期待感ではなく、激しい嫌悪の感情だった。

胸が、心が……(むしば)まれ、黒い闇の中に飲み込まれようとする。それを拒絶し、逃れようとする意思が、深慮も目的もなく、シンジの足を公園から遠ざけ、使命からも遠ざけようとしていた。

 

「はあ、はあ、はあ……」

 

轟音(ごうおん)が響き、再び地面が揺れた。周囲の建造物が激しく振動する。今までの中で、一番大きかった。

 

急に、足元の影が膨らんだ。辺りから陽の光が失せる。

 

「え……」

 

異変に気づき、シンジは上空を見上げた。

流れ弾があたったのか?

それとも、触手以外の使徒の反撃がここまで届いたのか?

それとも、使徒に破壊され爆発した建物の破片が飛来したのか?

シンジが見上げたそこには、今まさに、崩れ落ちようとするタワーがあった。

日がおおわれ、タワーの陰がシンジを飲み込む。コンクリートの断片と粉塵が辺りに降り注いだ。

一瞬、何が起きたのか分からなかった。

ただ、鼓膜が激しく振動した事と、視界が暗転した事だけは覚えていた。

とっさに頭を(おさ)え、うずくまる。目を閉じ、押し寄せる恐怖から逃れようとする。

 

 

数秒後、鼓膜が正常な活動を取り戻した時、シンジは目を閉じたまま、自分の鼓動を確認した。

恐怖感で心臓が高鳴っていた。でも、停止していなければ、弱ってもいない。少なくとも命は取りとめたらしい。

(まぶた)を下ろしたまま、全身に意識を巡らせる。どこにも痛みはなかった。

頭を抑えていた手で、自分の両腕が無事である事を確かめる。屈んだ姿勢のまま、両足を抱きしめ、五体満足である事を知る。

シンジは、固く(つむ)った目をおそるおそる開いた。

 

(た、助かった……)

 

砂埃に()き込む。

視界が(せま)く、辺りが薄暗かった。だが、その原因は直ぐに分かった。

どうやら落下してきたコンクリートの残骸に、閉じ込められたらしい。

奇跡的にも、降り注いだ瓦礫(がれき)は一片たりとも、シンジを傷つけてはいなかった。最初に落下した巨大なコンクリートの破片が、シンジに(おお)いかぶさってくれたお陰で助かったのだ。

 

薄暗がりの中、近くに陰を払う日溜(ひだま)りを見つける。一筋の陽の柱が、地表からコンクリートの残骸を貫いて、空に伸びていた。

 

シンジは、出口……残骸(ざんがい)の隙間を見つけると、慌てて瓦礫(がれき)をよじ登り出した。

大人二人分程度の高さだ。良かった、直ぐに抜け出せそうだ。

だが、つかんだ瓦礫は崩れ易く、シンジは途中で足を滑らせた。勢い良く地面に膝を付き、直ぐにまた立ち上がってよじ登ろうとする。

 

「痛っ……」

 

足首から走る痛みに、シンジは顔をしかめた。

滑り落ちた時に、少し足を(くじ)いたらしい。でも、大した怪我じゃない。登る分には問題は無かった。

だが、痛みを感じた途端、シンジは手を止めてしまった。

体に問題は無くとも……シンジの心には問題があった。

 

「いや、登らなくてもいいんだ……」

 

自分に言い聞かせるようにつぶやく。

シンジは登るのを止め、地面に降りてしまった。

 

(そうだ……ここでずっと救助を待ってればいいんだ……)

 

仕方がないんだ。事故に巻き込まれて、足を挫いてしまったんだから……。

エヴァに乗るつもりだったけれど、不幸にも、身動きが取れなくなってしまったんだ。

もう歩けない。ここでじっと、救助を持つしかないんだ。

その間に、きっと綾波が使徒を倒してくれるはずだ。

もう、逃げなくたっていいんだ。こんな状況なんだ。ネルフの人だって納得してくれるはずだ。ミサトさんだって、きっと怒らないだろう。

 

(仕方ないんだ……)

 

シンジは、その場にうずくまると、自分の両膝を抱いた。

 

(仕方ないんだ……怪我しちゃったんだ……)

 

どれくらい時間が経っただろうか?

既に、サイレンの音は鳴り止んでいた。今は、規則正しい砲声と不規則な爆音だけが辺りにこだましている。

コンクリートの瓦礫越しに聞こえるそれは、何だか、ずっとずっと遠くで起きている出来事のように思えた。

何だか、TVのディスプレの向こう側で起きているような、非現実なものに。

 

シンジ……シンジ君……。

 

どこかで自分の名を呼ぶ声が、聞こえた気がする。でも、直ぐに砲声の(とどろ)きの中に(かす)み、それが気のせいなのか、聞き間違いなのか、本当に自分を呼んでいるのか、分からなくなってしまう。

いや、どうだっていい……どうだって。

 

(綾波……まだ戦ってるのかな?)

 

シンジは、うずくまったまま、ちらりと腕時計に視線をやった。

デジタル時計の数字は、まだ一桁目が五度入れ替わっただけだった。その下の小さな数値が、秒を刻みながら激しく動いている。

息を(ひそ)ませながら、既に一時間は待ち続けた気がするのに、現実はまだ五分にしかならない。

 

(綾波……ごめんね。でも、ボクは怪我しちゃったんだ。行っても足手まといになるだけだよ……)

 

 

秒を刻む、小さな液晶画面を見詰め続ける。

一秒って、こんなに遅かったっけ?

一分って、こんなに長かったっけ?

 

心は、爆音も使徒も不安も速く去ってくれる事を望むのに、時は、なかなか進んではくれなかった。いつもは短く感じていた一分一分が、とてもとても長く感じられた。

遠くで、使徒の咆哮(ほうこう)が聞こえた。シンジは目を閉じ、固く身を(ちぢ)めた。

 

(仕方ないよ……。走ったせいで、体力だって残ってないんだ。ほら、頬だって、あいつに殴られたせいで怪我したままなんだ……これじゃ戦えないよ……)

 

体が震える。

 

(だから綾波……君が戦ってよ。ボクは怪我して……)

 

ふと、シンジの脳裏に、ギブスと眼帯を付けた少女の姿が浮かんだ。使徒との戦闘で重傷を負った、全身を包帯でおおわれた痛々しい綾波の姿。

シンジは、ハッと顔を上げた。

 

(そういえば綾波も……怪我してるんだった……)

 



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つかまれた手

シンジは十年以上もの間、伯父の家に預けられていた。

父は、彼の存在を忘れたのか、それとも捨ててしまったのか、ただの一度も会ってくれようとはしなかった。

数週間前、そんな父から、突然メッセージをもらった。父の働くネルフに来いと。

長年、放っておいた事を後悔し、親子としての時間を取り戻そうと考えたのか?

それとも、14歳に成長した息子を教育の為に、都会に住まわせる気になったのか?

父が息子を呼び出した理由は分からない。でも、シンジは戸惑いながらも、その呼び出しに応じる事にした。

 

一週間前、初めてシンジは、真新しいアスファルトと近代的な建造物が並ぶ第三新東京の地を踏んだ。

15年前のセカンドインパクトで、日本の陸地の何パーセントかは水没し、多くの都市が衰退した。それと共に、日本の復興を目指して新しい都市も幾つか再建された。

その中で、もっとも新しく、もっともテクノロジーが集結し、もっとも繁栄しているのが、第三新東京だ。だが、始めて見る第三新東京を悠長(ゆうちょう)に見物する事は許されなかった。

 

シンジは、その都市を訪れたその日に、使徒を見たのだ。後で、十五年ぶりの出現だったと聞かされた使徒を、シンジは、迎えの車を待っている時に目撃した。いや、目撃というよりも、巻き込まれたと言った方がいい。

 

待ち合わせ中に起きた“特別非常事態宣言”。

どうしたものかと困り、連絡を取る術を模索していた時に、シンジは激しい地響きに共に巨大な影に気づいた。その影の正体を見上げた時、ちょうど今しがた崩れ落ちるタワーを見上げた時のように、一瞬、シンジは何が起きたのか分からなかった。

 

巨大で、不可解な生物ともロボットとも判断が付かない物体。それを迎撃しようとする自衛隊の戦闘ヘリ群。

最新の都市で、最新の趣向(しゅこう)をこらした特撮映画を見せられている訳じゃない事に気づいたのは、外車に乗ったお姉さんに拾われた時だった。

 

 

『シンジ君ね。お待たせ、乗って!』

 

両肩が露出(ろしゅつ)した少しセクシーな衣装で登場した迎えの女性……葛城ミサトだ。

 

使徒と自衛隊の攻撃の中、ミサトに救われたシンジは、ネルフへとたどり着いた。

第三新東京の巨大な地下空間・ジオフロント。その中に立てられたネルフ本部施設に案内され、さらにその内部の格納庫へと連れられたシンジは、巨大なロボット……いや、汎用決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオンの前へと立たされた。

 

……ひさしぶりだなシンジ

 

呆然とエヴァを眺めるシンジの耳に届いた、十年ぶりに聞く父の声。

 

「父さん……」

 

エヴァを見下ろすようにして設置されたオペレーション室。その中にたたずむ男が、シンジの父・碇ゲンドウだった。

エヴァの前に立つ少年と、オペレーション室から見下ろす父は、分厚いガラスとスピーカー越しに十年ぶりの再会をはたした。

 

だが、(なつ)かしの父が発した言葉は、長年放置した息子に対する()びの言葉でも、息子の成長を喜ぶ言葉でもなかった。

ただ無表情のまま、父はいった。

 

「お前が、そのパイロットの一人に選ばれた。乗れ」

 

呼び出されたのは、それだけの理由だった。それ以上のものは何もなかった。肉親への感情も、父としての責任感も、息子への哀愁(あいしゅう)も何もなかった。

失望し、怒り、拒絶した時、父は素っ気無く「帰れ」と告げた。そして、代わりに一人の少女を呼び出した。

 

それが、零号機のパイロット・綾波レイだった。

呼び出された少女は、全身を包帯に包まれ、治療用ベットに横たわったままだった。彼女は使徒の迎撃に出動し、大怪我を負い、その治療中にエヴァへ再搭乗を命じられたのだ。

 

「了解しました」

 

心配そうに見詰める看護士に「大丈夫」とうなずいて見せると、少女は自ら点滴を外し、ベットから起き上がろうとした。無情な命令を告げる父に苦情一つこぼさずに。

 

ベットから看護士の肩を借りて、冷たい金属の床に下りた時、しかし彼女は上手く立つ事ができなかった。

使徒の攻撃で、地下施設まで振動が届いたせいかも知れないが、それ以上に、彼女の体に問題があったのだろう。彼女は施設がわずかに揺らいだだけで、その場に倒れてしまった。

慌てて、看護士が手を伸ばす。だが、彼女のもとに駆け寄り、その肩を抱いたのはシンジだった。

 

(こんなものを見せ付けてまで……ボクを乗せたいのか……!)

 

苦痛に震える少女の肩を抱きながら、少年は父に向って叫んだ。

 

「もういいよ、分かったよ父さん!ボクが乗るよ!乗ればいいんだろ!」

 

 

……使徒を撃退した数日後、退院した綾波と学校で再会した。

まだギブスも眼帯も取れていなかった彼女に、シンジは思わず「大丈夫?」と声を掛けた。だが、それに対して、彼女は素っ気無く「ええ、いつでも乗れるわ」と応えただけだった。

 

(まだ一週間しか経ってないんだ。全然、()えてる訳ないよな……)

 

遠くで、零号機がポジトロン砲を連射する音が聞こえる。

 

(でも、そんな状態で綾波は……今、たった一人で戦ってるんだ……)

 

突然、シンジは拳を地面に叩き付けた。わずかに皮膚が裂け、血がにじんだ。

 

(なんで、そんな大事なこと忘れてたんだ……!?あいつ、一人で戦える訳ないじゃないか!!)

 

シンジは立ち上がった。

 

(足を挫いた?走ったから?頬の傷が痛むから?綾波の方が、もっと酷い状態で戦ってるんじゃないか!)

 

激しく鼓動する胸を抑え、かぶりを振る。

 

(ボクがここで逃げたら、綾波が死んじゃうじゃないか!!それなのにボクは……!自分の臆病さのせいで、女の子を一人見殺しにしようとしてたんだ!)

 

「逃げちゃダメなんだ!逃げちゃダメなんだ!」

 

シンジは、陽が差し込む瓦礫の隙間を見上げた。

 

(行かなくちゃ!綾波を助けなくちゃ!)

 

シンジは足の痛みも忘れ、再び瓦礫に手を掛けた。

幸いにも、まだ五分を過ぎたばかりだ。まだ綾波は戦っている。急げば間に合うかも知れない。いや、絶対に間に合わなくちゃいけない。

シンジは鉄筋とコンクリート片にしがみ付き、夢中になって出口に手を伸ばした。

何度も何度も手を伸ばし、足を掛け、体を引き上げ、騒音うるさい外の世界に出ようとする。

 

「待ってろ綾波!直ぐに行くから……あ!」

 

だが、焦って登ったのが悪かったのか、シンジの手が出口に届こうとした時、足場が突然消えてしまった。

足を掛けていたコンクリート片が、握り締めていたむき出しの鉄筋格子が、まるで雪崩のように一斉に崩れ落ちる。

 

「うわ……!!」

 

だが、その雪崩に飲み込まれ、床に砕け散ったのは、無機物の瓦礫だけだった。少年の体は落下する事無く留まっていた。

 

足場を失い、一瞬、絶望と共に落下しようとしたが、なぜか無事である事に気づく少年。

左腕に、何か暖かいものを感じる。細く小さなそれが、シンジの左腕をしっかりとつかみ止め、それ一つでシンジの体を支えてくれていた。

瓦礫の出口に陽光を(さえぎ)るものがあった。それがシンジの左腕をつかみ止め、安堵の吐息をもらしている。

 

陽の光を背にしている為に、それの輪郭以外は見えなかった。だが、わずかに木漏れ日を作る短い髪形から、何となく、それが女性である事は分かった。

シンジの手と命をつかみ止めたその女性は、シンジに取って、少し拍子抜けるような口調で言った。

 

「シンジ君、見っけ……♪」

 

 

白い手が差し出された。

小さな木漏れ日の中へと伸ばされたシンジの手が、それをつかんだ。

 

「声が聞こえたから、まさかと思ったけど、正解だったわね……」

 

彼女の左手とシンジの右手が、しっかりと握り合った。

シンジの右手を握り締める彼女の左手と、シンジの左腕をつかみ止めていた彼女の右手に、力が入る。

 

「よいしょ……と!」

 

小さな掛け声一つ。何と、それだけで彼女は、シンジの体を瓦礫の闇から引き上げてしまった。

 

「あら、簡単に上がっちゃった……シンジ君って、軽いのね~」

 

引き上げたシンジを抱き上げ、ニ、三歩移動してから、しっかりとした足場にシンジを下ろす。

 

「大丈夫、シンジ君?」

 

無事、陽の下へと生還したシンジは、「はあ」と嘆息した。

地面に打ち付けた拳には血が(にじ)んでいたが、出血は止まっていた。それを気づかれないように、後ろに回して隠す。

助けてくれた女性は、シンジよりも少し背が高かった。視線を上げ、改めて誰なのか確認する。

少し砂っぽい風が、二人の間を吹き抜けて行った。

その風に、ショートカットの前髪をゆらす彼女は、シンジの見知った人だった。

 

「あ、有難うございます……。え……と、あの……」

 

少し悩んでから、シンジは言葉を続ける。

 

「オペレーターのお姉さん……ですよね」

 

シンジの制服についた砂埃をパンパンと払い出していた彼女は、その言葉に、不機嫌に頬を(ふく)らませた。

 

「あ~、シンジ君!やっぱり、私の名前覚えてくれてないんだ~!」

 

彼女、いや、マヤは溜め息を吐いた。

 

「まあ、しょうが無いわよね……訓練の時も、いつも、何となく来てるだけって感じで、私たちの事、無関心ぽかったものね」

 

マヤは自分を強調するかのように、両手を腰に当て、大仰な姿勢を取って見せた。そして、改めて自己紹介をする。

 

「イ・ブ・キ・マ・ヤ……伊藤さんの“伊”に、吹雪から雪を取った“吹”に、北島マヤの“マヤ”よ。ちなみに、北島マヤっていうのは『ガラスの仮面』の主人公で……」

「伊吹……マヤさん?」

 

マヤの説明が終わる前に、反芻(はんすう)するシンジ。マヤは、言葉を切ると、満足げにうなずいた。

 

「そうよ、伊吹マヤ。ネルフの入社試験を藤原紀香に勝ち、赤木リツコ先輩が唯一認めた後輩にして、24歳にして二尉にまで上り詰めた、ネルフ1の女性エンジニアとは私の事よ!覚えててね!」

(作者注※これを書いていた当時、藤原紀香は若くて人気の高い女優だったのです)

 

 

マヤはまくし立てるように自己紹介を終えると、

 

「いい、シンジ君!」

 

シンジの両肩をつかみ、呆然(あぜん)と見上げる少年の瞳に、真剣な眼差しを注いだ。

 

「アナタが、いやいやエヴァに乗っているのは百も承知しているわ!やる気がない事も十分に分かってるわ!でも、シンジ君……!?」

 

突然、近くに爆音が轟いた。直ぐに、激しい爆風が辺りに流れる。

思わず目を閉じ、首をすくめる二人。

瞼を開いた時、シンジは、はっと今の状況を思い出した。

 

「シンジ君、アナタが来てくれなくちゃ……」

「お願いします!ボクをエヴァの所に連れてって下さい!!」

「え……?」

 

シンジは、自分の両肩をつかんでいたマヤの手を取ると、すがるような眼差しを向け、叫ぶように言った。

 

「綾波が一人で戦ってるんです!ボクが行かなくちゃダメなんです!エヴァの所に連れてって下さい!ボクが行かなくちゃダメなんだ!!」

 

一瞬、マヤは呆気に取られたように、シンジを見詰め返した。だが、次の瞬間には、シンジをその胸に抱きしめていた。

 

「えええええ……ウソ!?」

 

信じられないとばかりに声を上げるマヤ。そして、抱きしめたまま確認する。

 

「シンジ君……今の言葉、本当?」

 

胸にうずもれるシンジに、返事を吐き出せる訳がない。だが、マヤはそれに構わず、申し訳なさそうにささやいた。

 

「ごめんなさいねシンジ君……。私、あんまりシンジ君の事、好きじゃなかったんだ……。てっきり、何も考えずにエヴァに乗ってるだけで、周りの事なんて、どうでもいい子なんだとばっかり……」

 

シンジを胸から解放し、マヤは感心したようにニッコリと微笑(ほほえ)んだ。

 

「でも、シンジ君は、ちゃんと自分の意志を持ってたのね」

「伊吹さん、ボクを連れてって下さい!綾波が危ないんです!!」

 

胸から解放され、詰まった息を吐き出すなり、嘆願するように叫ぶシンジ。

やはり、その瞳にウソはなかった。マヤは大きくうなずく。

 

「分かったわ、行きましょう。近道があるの、来て!」

 

二人は手を取り合い、瓦礫の山から降り立った。そして、マヤに先導されて走り出す。

 

「こっちよ」

 

シンジは、マヤに案内され、少しばかり走った所にあったトンネルへと駆け込んだ。

トンネルは、人工的に造られた丘の(たもと)を通す、短くて小さなものだった。

薄暗いトンネルの中でマヤは立ち止まると、ポケットから携帯電話を取り出した。そのライトでトンネルの一角を照らす。

ライトに照らし出されたものは、金網でおおわれた通風孔だった。

 

「これよ」

「これは……」

 

マヤは、金網を取り外しながら説明する。

 

「まだネルフに入る前の事なんだけど、ちょっとネルフのスーパーコンピューターにアクセスした事があるの……あ、別に不正アクセスとかじゃないのよ」

 

少し咳払(せきばら)いする。

 

「その時、たまたま第三新東京とジオフロントの内部構造に関する図面を大量に入手したの……たまたまね」

 

通風孔を塞いでいた金網が外れる。

 

「そしたら……きっと何かの設計ミスだと思うんだけど……どういう訳か地下施設と地上の通風孔が直通している箇所があったのよ。しかも何箇所もね」

 

マヤは金網を下ろし、シンジを振り返った。

 

「ここの通風孔は、ジオフロントの第三・予備ゲートの13番中継地点に直通してるの。既に、出口側の通風孔の網も外してきたわ」

 

マヤはシンジの手を取った。

 

「さあ、シンジ君。ここの通風孔を滑って行けば、一分程度で着くはずよ」

 

だが、シンジは困惑した表情を見せた。背を伸ばし、真っ暗な通風孔の中を覗き込んだ。

 

「だ、大丈夫なんですか?その中継地点まで、何メートルくらいあるんですか?」

「ざっと、300メートルくらいかしら?」

「300メートル……」

 

シンジの表情が引きつる。

 

「あ、大丈夫よシンジ君。なだらかな傾斜になってるから、滑っても時速20キロ以上は加速しないはずよ」

 

シンジはためらったが、一刻も早くネルフに行かねばならないのだ。シンジは引きつった笑顔を作ると、片手で通風孔を指し示し

「じゃあ、伊吹さんから先に滑ってもらえますか」

と先導を頼んだ。

マヤの顔色が変わった。

 

「え……いや、私はほら……後でエレベーターを使ってユックリ降りるから……」

「でも、ボクは予備ゲートの所に行った事がないんです。着いた後は、案内してもらえないと……」

「だから、シンジ君は降りた所で待っててくれればいいのよ。私が後から駆けつけて案内するから……ね、別に急ぐ用事でもないし……いや、急ぐんだけど」

「伊吹さん……」

「マ、マヤでいいわよ」

「マヤさん……もしかして、怖いんですか?」

 

しばしの沈黙。

マヤは少し考え込むと、意を決したように告げた。

 

「一緒に、滑ろっか……」

 

狭い通風孔の中に、二人は並んで入り込んだ。

 

「シ、シンジ君……危ないから、しっかり私にしがみ付いてるのよ」

「いや、しがみ付いてるのはマヤさんの方じゃ……」

「い、いいから……いくわよ。それ!」

 

小さな掛け声と共に、マヤの絶叫が響く。

 

「きゃああああああああああああああーーーーー!」

「って、まだ滑ってませんけど……」

 

シンジの冷静な突っ込みが入る。

 

「い、今のは予行練習よ……」

 

マヤは大きく深呼吸をした。震える腕に力を込め、シンジにヒシとしがみ付く。

 

「一、ニの、三で行くわよ」

「はい」

 

二人は声を合わせて、カウントする。

 

「一、ニのさ……きゃああああああああああーーーーーー!」

 

シンジは固く目を閉じた。

通風孔の中は意外と(なめ)らかで、滑っても摩擦で体を痛める事はなかった。

ただ、狭い真っ暗な空間の中を加速する事に、言い知れぬ恐怖を感じる。

だが、その恐怖感以上に、シンジに強く強くしがみ付くマヤの柔らかい感触が、シンジの神経をとらえて離さなかった。

ドサクサに紛れ、自分の頭をマヤの体に添える。途端に、恐怖に震えるマヤの両腕がシンジの頭を抱きかかえ、そのまま自分の胸へと埋めてしまった。

 

(い、息が……)

 

「シンジ君、大丈夫!?も、もう直ぐだから……って、どうやって停止したらいいのかしら!?きゃあああああ!」

 

停止する方法を考えていなかった二人は、そのまま勢い良く通風孔の出口から飛び出してしまった。人気のない廊下に、二人の体が落下する。

ドシンという派手な音が響いた。

幸いにも床はむき出しの金属ではなく、柔らかい絨毯(じゅうたん)のようなものでおおわれていた。少し息が詰まっただけで、二人は大した打ち身もしなかった。

 

「し、シンジ君……生きてる?」

「な、何とか……」

 

安堵の溜め息をこぼす二人。

 

「し、シンジ君……私の事はいいから、先に行きなさい。あ、あっちの方にエレベーターがあるから……」

「いや、でも……」

「わ、私は後で追いかけるから……」

「そうじゃなくて、離してくれないと……」

「へ……?」

 

ようやくマヤは、シンジを抱きしめたままである事に気づいた。

 

「あ、ご、ごめんなさい……」

 

シンジは、マヤの腕から解放されると、マヤの手を取って起き上がらせた。

 

「大丈夫ですか。伊吹……じゃなくて、マヤさん。顔が真っ青ですよ」

「そういうシンジ君こそ、大丈夫?顔が真っ赤よ」

「こ、これはその……と、とにかく行きましょう!」

 



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エヴァ出撃

駆け出そうとするシンジ。

 

「あ、ちょっと待って!」

 

だが、マヤはシンジの肩をつかんで押し留めた。

そして、シンジの手を取り、甲の傷に目をやる。

瓦礫の中で己の卑怯さを恥じたシンジが、拳を地面に打ち付けた時にできた傷だ。

 

「怪我してるじゃない、シンジ君!」

 

マヤは、「絆創膏(ばんそうこう)」とつぶやきながら、制服のポケットをまさぐった。だが、出てきたのはハンカチーフ一枚だけだった。

 

「ダメね、いつもは持ち歩いてるんだけど……。仕方ないわ、シンジ君、ちょっと我慢してね」

 

マヤは屈むと、シンジの拳に顔を近づけた。そして、まだ血が固まりきらない傷口に唇を付け、含む。

シンジの体が硬直した。シンジの火照っていた顔が、さらに朱に染まる。

マヤの大胆な処置に驚き、言葉がでなかった。

 

「はい。これで一応消毒ね」

 

マヤは傷口から舌を離すと、ハンカチーフを包帯代わりに、シンジの手の甲にしっかりと巻き付けた。

しかし、応急処置を終えた後で、マヤは顔をしかめた。

 

「あ、こんなの巻いてたら、プラグスーツ着れないかしら?」

 

うっかりしていたと後頭部に手を当てる。

 

 

「まあいいわ。取り合えず今だけでも付けておいて」

「は、はい……」

 

少し取り乱した様子で、シンジは何度もうなずいた。

 

「じゃあ、シンジ君、付いてきて!」

 

顔を伏せながら、マヤの後に続いて駆け出すシンジ。

二人は、エレベーターと長い長いエスカレーターを経て、わずか数分後にはエヴァの格納庫へとたどり着いていた。

マヤがシンジを迎えに行ってから、30分も経っていない。そして、まだ綾波は使徒を相手に(ねば)っていた。

何とか間に合いそうだ。

 

「シンジ君、ここでお別れよ!私は本部司令室に戻るわ。シンジ君は、プラグスーツに着替えてエヴァに乗って。整備士のお兄さんが待機しているはずよ!」

 

シンジはうなずくと、エヴァのパイロットの控え室の扉を開いた。そして、マヤを振り返り

 

「あの、マヤさん……!」

「何!?」

「名前、今まで覚えてなくてすいません……ボク、あんまりネルフの人と話した事がないから……その、マヤさんが優しい人だって事も今まで知らなくて」

 

申し訳なさそうに告げる。

マヤはニッコリと微笑んだ。

 

「今度時間があったら、ユックリお話しましょうね、シンジ君」

「はい!」

 

 

二人は別れると、シンジは控え室へと入った。

控え室には、まるでダイビングスーツを思わせるパイロットスーツが、既に用意されていた。

パイロットの生命維持と共にエヴァと神経接続する為のプラグスーツと呼ばれるものだ。

以前の戦いの時は、何の説明もないまま搭乗という急な事態であった為、学生服のままエヴァに乗り込んだ。

だが、今回は学生服を脱ぎ捨て、これを着替える必要があった。

 

(急がなくちゃ!)

 

学生服を無造作に脱ぎ捨てたシンジは、プラグスーツを手に取った。ダイビングスーツと同じく、先に両足を通してから胸元まで引き上げ、左腕を通す。

最後に右腕を通す為、シンジは、手の甲に巻き付いた邪魔なハンカチーフを外そうとした。だが、シンジはハンカチーフをつかんだまま、少し躊躇(ちゅうちょ)した。

そして、何を思ったのか、彼はハンカチーフを外すのを止め、そのままプラグスーツに腕を通してしまった。

スーツのエア抜きを行い、体に密着させる。案の定、ハンカチーフを挟み込んだグローブに、少し違和感があった。でも、掌を何度か開閉してみれば、指の動きには支障がない事が分かった。

 

シンジは、「よし!」とつぶやくと、控え室を後に、エヴァのコクピットであるエントリープラグへの搭乗口に向った。

 

「碇シンジ、到着しました!エントリープラグへのゲートを開いて下さい!」

 

シンジは、搭乗口のコンソールの所にいた整備士に声を掛けた。

だが、振り返った整備士は日本人ではなかった。

 

「オウ、スミマセン。ワタシ、アマリ日本語ワカリマセ~ン」

 

サングラスを掛けた白人の整備士。困った事に日本語が良く分からないらしい。

シンジは、慌てて学校で習いたての英語を話した。

 

「え、エクスキューズミー。キャン、ユー、オープン……」

「オウ、スミマセン。ワタシ、イングリッシュ、スゴク苦手ネ。イタリア語デ、オネガイシマ~ス」

 

仕方がないので、今度はイタリア語を駆使する。

 

「えと……ボ、ボンジュール……」

「それはフランス語だろうが、バーロ!」

 

急に白人は、流暢の日本語でシンジをののしった。どうやら、ふざけていただけらしい。

白人……ミハイルは、片手でコンソールを操作すると、ゲートを開いた。

 

「エヴァのパイロットさんよ。おれっちが整備したエヴァ……前回みたいに、無茶な使い方はしねーでくれよ」

 

ミハイルは、サングラス越しに少し険悪な視線を送ると、「早く行きな」と(あご)でうながした。

一礼し、シンジはゲートに駆け込んだ。

 

「エントリープラグ搭乗口にて、サードチルドレン到着の報あり!」

 

ネルフの作戦本部司令室に、青葉の声が響いた。辺りからどよめきが起きる。

 

「どうやら間に合ったようね」

リツコのつぶやきに、ミサトはうなずいた。

 

「こちら、碇シンジ!スタンバイ完了です!遅れてすみません」

 

エントリープラグ……円柱型のコクピットの中にスタンバイした少年パイロットの声が、司令室に届いた。

 

「エントリープラグ挿入準備!」

少年の声に応じ、日向がコクピットをエヴァに接続する事を告げた。

……が

 

「それ!私の仕事です!」

 

司令室に飛び込んできた少女が叫んだ。急いで自分のオペレーター席に駆け寄るが、途中で、ズデンと派手に転ぶ。

 

「マヤちゃん大丈夫!?」

青葉の声。

 

「伊吹ニ尉、司令室内では走らないの!」

ミサトがたしなめる。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

マヤは、片足を引きずるようにしながら、何とか自分の席にたどり着いた。そして、椅子に掛けもせずに、ヘッドギアを取って少年に言葉を送る。

 

「シンジ君、私よ!これから操縦席をエヴァにドッキングさせるわよ」

 

「はい、お願いします!」

 

エントリープラグがエヴァンゲリオンに挿入された。直ぐに、コクピットの中がLCLの液に満たされる。

シンジは少し躊躇(ちゅうちょ)したが、液体に頭まで没した所で、思い切ってLCLを吸い込んだ。

吸い込まれたLCLが胃と肺の狭間でぶつかり合い、わずかな不快感を与えてから肺へと入り込む。少年の肺が、LCLを通して酸素に満たされる。

シンジが、ゲホゲホと気泡を吐いた時、彼の肺はLCLと共に落ち着いていた。

だが、胸は落ち着いても、シンジの心は落ち着かず、闘志に燃えていた。左右の片手握りのハンドルをつかむ手に、力が入る。

 

(待ってろよ、綾波!)

 

「シンクロ率98%!絶好調です!」

 

マヤが叫ぶ。だが、直ぐに画面を見直し、眉を寄せる。

 

「あれ?わずかにバグあり……シンジ君、腕時計とかしてない?」

 

シンジは、パイロットスーツの右グローブに眼をやった。異物とは、その下に巻かれたハンカチーフの事だろう。

 

「……何か問題がありますか?」

「いえ、操縦に問題は無いわ」

「じゃあ、大丈夫です。別に余計なものは付けていません」

 

マヤはうなずくと、実況を続けた。

エヴァを束縛する全てのロックが外され、全ての準備が整う。

エヴァが射出口に移動された。

 

「進路クリア、オールグリーン!エヴァンゲリオン、発進準備完了!」

 

マヤは、作戦本部長を振り返った。

ミサトがうなずき、発進を許可する。

 

(シンジ君頑張って……)

 

マヤは、心の中で祈った。

 

 

「エヴァンゲリオン、発進します!」

 

エヴァンゲリオンが、壁に設置されたカタパルトで地上へと射出される。

黙って成り行きを見守っていた副指令・冬月が、一歩前へと出た。そして、モニターを眺めながら、一段下のフロアに立つミサトに問い掛ける。

 

「さて、作戦本部長。二体のエヴァンゲリオンで、どう戦うつもりかね」

 

ミサトは振り返らず、応える。

 

「ご承知の通り、使徒を倒すにはコアを破壊するしかありません」

 

機転を利かせた青葉が、メインモニターの一部に、使徒の3D像を表示させた。

 

「今回の使徒は頚部(けいぶ)にコアを持っています。それをパレットライフルで狙撃しようにも、使徒の頭部がおおいかぶさる形で障壁となっています。日向君、状況を」

「はい」

 

日向が、零号機の戦果を報告する。

 

「パレットライフルから発射された弾丸数は、現時点で127発。その内、使徒に命中した数は93発。さらに軌道から計算して、コアを正確にとらえたものは60発前後ですが……使徒の頭部に邪魔をされ、ことごとくコアへの到達を防がれています」

「ふむ。ATフィールドはエヴァ自身の攻撃で中和できるとはいえ、肝心のコアを攻撃できねばラチがあかんか……」

うなずく冬月。

 

「使徒のコアを破壊するには、使徒に接近し、プログレッシブ・ナイフ等の白兵戦用の武器でコアを直接攻撃するしかありません。しかし、あの使徒に接近するには、一つ大きな問題があります」

 

再び青葉が察しよく使徒の触手のデータを表示させた。そして、解説を加える。

 

「触手は、しなる事によって先端に行くほど速度を増し、先端部分は軽く音速を超えています。エヴァの装甲でも、まともに食らえばヤバイっすね」

 

「でも、有効範囲は限られているはずよね」

 

「はい。触手が最も威力を発揮できるのは、先端からおよそ20メートルの部分までです。ほとんどのタワーや自動砲塔は、この部分で切断されてます。そして、この触手を最も奮える範囲は、使徒の周囲200メートル強から触手を伸ばしきった400メートル弱の間です」

 

使徒の3D像の周囲に、ドーナツ型の環が表示される。ドーナツの輪は、使徒の周囲200メートルから400メートルの間の空間を示していた。

 

「なるほど。そのドーナツの部分が、もっとも危険な範囲か。……で、どうやって、その環を突破して使徒に接触するのかね、作戦本部長?」

 

 

エヴァが地上に出た。

 

「エヴァ、出ました。使徒から南南西520メートルの位置です」

 

マヤの報告が響く。

 

作戦本部長は、副指令に作戦の全容を伝える。

 

「使徒の注意をエヴァ零号機に向けつつ、エヴァ初号機を使徒の背後へ。ギリギリの所まで接近した所で、零号機と自動砲塔らによる一斉射撃を行い、一時的に使徒のドーナツ圏を無効化します。その瞬間を狙って初号機を突撃させ、ドーナツ圏を突破させます」

「そして、使徒相手に肉弾戦を挑ませ、ナイフ一本でコアを破壊するというのかね?」

冬月は眉を寄せた。

「初号機のパイロットは、たった一週間の訓練で、ナイフファイティングまで習得しとるのかね?」

 

まだまだ訓練が足りていないシンジに、ナイフ・ファイティングなど余りにも無謀な話だ。だが、それはミサトも承知していた。

 

「もちろん、格闘をさせるつもりはありません。接近と共に組み付かせ、密着状態からコアを刺し貫かせるつもりです。また、その過程で使徒の頭部が動き、コアが零号機の照準に入った場合は、パレットライフルで決着を付けさせます」

「なるほど、ブリッツクリーク(電撃戦)に、近距離からの刺突と対抗狙撃による二段構えか……」

冬月は肩をすくめた。

「よろしい。君のお手並みを拝見と行こう」

 

冬月が一応納得した様子を見せると、作戦本部長は部下たちに指示を出した。

 

「青葉二尉、使徒周辺のミサイルポッドタワー及び自動砲塔を手動操作に切り替えて。トリガーはアナタに任せるわ」

「了解!」

「日向二尉、使徒・零号機・初号機の三体の位置の確認及び、零号機への指示を」

「分かりました!」

「伊吹二尉。初号機に戦略の伝達とナビゲーションをお願い」

「はい!」

 

 

「分かりました。慎重に近づいてみます」

 

マヤから作戦を聞かされたシンジは、ビル群の陰に隠れるようにしながら、ユックリと使徒の背後へ移動し始めた。

 

「いい、シンジ君。使徒に気づかれないように、エヴァの姿勢を低くして。いっそ匍匐(ホフク)前進で。……え?匍匐前進っていうのは、あの、毛虫みたいな感じの……」

 

使徒の位置を目視すらせずに、シンジは、ただマヤのナビゲーションに従った。

レイの方も、日向の指示に従いながら、使徒の触手が届く400メートル手前ギリギリの位置に移動し始める。

 

「零号機、使徒に接近中。使徒、零号機に注目し、こちらも前進。使徒の触手の最伸長距離まで、残り、200メートル……180メートル。レイ、もう少し速度を落として!」

 

次第に近づく、使徒と零号機の距離。

二体の距離が80メートルの位置に迫った瞬間が、一斉攻撃の時だった。

 

「150メートル……140……130……」

 

日向のカウントが司令室に響く。

 

ふと、ミサトの胸中に嫌な予感が走った。

「ちょっと待って……」

 

ミサトは急に制止を掛けた。

慌てて、マヤと日向がパイロットに一時停止を告げる。

 

「青葉二尉……触手の最伸長距離が400メートルというのは、それは正確な数字かしら?」

 

キーに手を添え、自動砲塔の一斉発射に備える部下に、ミサトは確認する。

 

「はい、マギの測定では、両方の触手ともに400……正確には389メートルと出てるっす」

「でも、それ以上伸びる可能性は……」

 

ミサトが言いかけた時、突如、司令室にレイの絶叫が轟いた。

 

「レイ!?」

 

ミサトの予感は的中していた。

メインモニターに、触手の一撃を受け、火花を散らす零号機の姿が映っていた。使徒の触手が、最伸長距離を越え、零号機を襲ったのだ。

間髪いれず、二撃目、三撃目が、うねりを上げて零号機を襲う。

 

「触手、最伸長距離480メートルに拡大!新たな触手も二本出現!」

いいながら青葉は舌打ちした。

「すいません。オレの確認ミスです!」

 

零号機の足が触手に絡められた。転倒し、そのまま使徒の下へ引きずられてゆく。

 

「畜生!」

 

青葉が、キーを打ち、自動砲塔を一斉射撃させた。立ち上る煙に、モニターがおおわれる。

「バカ!着弾の煙で見えないわ。なんで、こんな時に撃つの!」

 

日向が、煙で見えなくなった零号機の状況を報告する。

 

「零号機、装甲の26%を破損。パイロットの脳波に異常あり。心拍数、激しく乱れています!」

「レイからの応答は?」

「反応ありません!」

 

だが、日向が報告した直後、メインモニターにエヴァらしき影が映し出された。煙が晴れるに従い、それが立ち上がった零号機だと分かる。

なぜか、零号機は触手から解放されていた。

 

「零号機……無事です……」

 

呼吸を乱しながら報告するレイ。

煙が晴れ、モニターの視界がクリアになった時、使徒が零号機を解放した理由が分かった。

使徒の背に、まるでタックルを浴びせたかのような姿勢で、初号機がしっかりとしがみ付いていたのだ。

 



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右手の暖かみ

「初号機、使徒を捕らえました!」

 

自動砲塔が火を噴いた瞬間、シンジは独自の判断で、突撃していたらしい。司令室のオペレーターたちから、安堵の息が漏れた。

 

「良くやったわ、シンジ君。そのまま、プログレッシブ・ナイフを出して」

 

ミサトの指示に従い、シンジは肩の装甲からナイフを取り出そうと、片手を上げた。だが、その腕が触手に絡められてしまう。

零号機を解放した使徒の四本の触手が、初号機の手足に絡みつく。

 

 

「レイ!シンジ君の援護を!」

 

ミサトの命令に、零号機が動こうとするが、よろめき直ぐに片膝を付いてしまった。

 

「ダメです。さっきのショックで、動ける状態じゃありません」

 

日向の報告に、ミサトは舌打ちすると、

 

「シンジ君、そのまま使徒を押し倒して!」

 

直ぐにシンジに指示を送った。使徒をガッチリと捕らえたシンジが、それに従い、使徒を強引にビルに押し付けた。

轟音が響き、ビルが崩れる。だが、使徒は触手を周辺のビルに絡め、転倒を逃れる。

 

「うおおおおおーーーーー!!!」

 

シンジが絶叫を上げた。

同時に、使徒の背後のビルが連続でなぎ倒され、使徒の触手が絡みついていたビルが崩壊する。

もう一度シンジが絶叫を上げた時、遂に使徒の体は、ビル群を抜け、小高い丘の麓に背中から倒れこんでいた。

司令室に歓声が上がった。

プログレッシブ・ナイフを取り出し、そのまま使徒に馬乗りになろうとする初号機。だが、その寸前で動きが途切れた。

背中のアンビリカルケーブルの長さが足りず、それ以上進めなくなったのだ。

 

 

「アンビリカルケーブルを解除!体内電源に切り替えて!」

「でも、それじゃ五分しか持ちません」

「五分あれば十分よ!」

 

間髪入れぬミサトの指示に、日向がアンビリカルケーブルを解除した。

邪魔なケーブルから解放された初号機が、使徒にのし掛かる。後は、プログレッシブ・ナイフの一撃をコアに振り下ろすだけだ。

 

(これで終わりだ!)

 

シンジが、まさに振り下ろそうとしたその時……彼の視界の隅に小さな光の(またた)きが入った。

 

(……え?)

 

光に反応し、シンジは咄嗟に視線を向けた。使徒を押し倒した丘の中腹部。そこからまた、キラリと小さな反射光がちらつく。

 

(人がいる!?)

 

シンジが視線を向けたそこには、避難し遅れた二人の民間人がいた。一人は手にカメラを持っており、そのレンズが陽光を反射していた。

 

(逃げ遅れたのか!?)

 

シンジは、慌ててモニターをズームさせた。その途端、彼の表情は強張った。

忘れていたはずの頬の痛みがよみがえる。心臓が、大きく鼓動した。

ズームしたモニターに映し出された二人の民間人……。それはシンジを殴ったあの二人だった……。

 

(トウジ……ケンスケ……?)

 

頬の傷が(うず)いた。

 

(どうして……あの二人がいるんだ……?)

 

ハンドルを握る手が震えた。

 

(なんで、カメラなんか持って、撮影してるんだ……?後で皆に見せて、笑うつもりなのか……?)

 

シンジは、ナイフを振り下ろす事も忘れ、呆然と二人を見詰めた。

心臓が激しく鼓動し、シンジの聴覚をおおった。

ナイフを握る感触も、使徒の触手に締め付けられた痛みも消え失せ、ただ小刻みな震えだけが手足に残った。

クリアだったはずの視覚が、二人の姿だけを捕らえたまま収縮する。

エヴァとシンクロし、エヴァと共にあったはずの五感が……、エヴァの視覚が……、エヴァの聴覚が……、エヴァの触感が……、シンジの体から離れ始める。

 

(どうして……?)

 

狭いコクピットの中で、全てのものがストップモーションのように、途切れ途切れに流れ出した。シンジの鼓動に合わせて……。

闘志に満ちていたはずのパイロットは、気付けば、ただコクピットに座るだけの無力な少年に戻っていた。

 

──また、ボクを殴りに来たのか……?

 

 

「ええ……なに、これ!?」

司令室で、マヤが素っ頓狂な声を上げた。

 

「どうしたの、伊吹二尉?」

「シ、シンジ君の心拍数・脳波ともに、突然、乱れ出しました。シンクロ率が急速に低下しています!」

マヤは蒼白な顔を上司に向けた。

 

「シンクロ率……20%を切ってます!」

「なんですって!?」

 

 

シンジの異変に司令室はどよめいた。

マヤは、ヘッドマイクを抑えながら、懸命にシンジに呼びかけた。

 

「シンジ君!シンジ君!どうしちゃったの!!」

 

だが、応答はおろか、シンジの脳波すらも反応を示そうとはしなかった。

 

「まさか……」

 

リツコが顔色を変えて立ち上がった。そして、副司令を振り返る。

 

「あの時と同じじゃ……」

 

だが冬月は、応えず、眉間にシワを寄せたままエヴァの様子を見詰めていた。

親友の態度に、ミサトは怪訝な視線を向けた。

 

「リツコ……いいえ、赤木博士。どういう事なの?」

 

マヤの呼びかけが、司令室に響いた。

 

「シンジ君!」

 

シンジ君……!シンジ……!シン……

 

エントリープラグを満たす溶液の中に、(かす)かな波長を残して、マヤの声がかすれては霧散(むさん)していた。

照明の明かりで満ちているはずのコクピットの中が、とても薄暗く感じられた。

透けているはずのLCLが、少し(かす)んで見える。

人肌の温度に保たれているはずの水温が、冷たいような気がした。

 

いつしかシンジは、自分の意識の中へと沈んでいた。

 

 

シンジ……シン……。

 

そういえば、ネルフに来る前も、自分の事を「碇」じゃなくて「シンジ君」と呼ぶ人たちがいた。

保護者になってくれていた伯父さんと、その家族と……そして、大人たちだ。

 

『シンジ君、ずい分とチェロが上手くなったもんだね』

『シンジ君、その歳で、そこまで弾けるのは大したもんだ』

 

第三新東京に来る前、父さんの伯父……先生の所で暮らしていた時は、何かと大人たちと接する機会が多かった。

学校が終われば友達と遊ぶ暇もなく、直ぐに帰宅してチェロのレッスン。時たま、先生に(ともな)われて、大人たちの前で腕前を披露する。

 

大人たちが「上手くなった」「大したもんだ」と()めてくれれば、いつも返す台詞は決まっていた。

 

『いえ、全部、先生のお陰ですよ……』

『そんな、大した事ありませんよ……』

 

 

こういうのって、社交辞令っていうだっけ?それとも決まり文句?

もし、こういう台詞を決まり文句って言うんなら、ボクが(つむ)ぐ最も多い言葉が、その決まり文句だった。

 

前の学校では、イジメとかそういうのは無かった。けれど、友達と過ごす時間よりもレッスンの時間の方が長くて、余り親しい子はできなかった。

同級生よりも、大人と話す機会の方が多かった気がする。でも、その大人相手に交わされる言葉で一番多かったのは、

 

『いえ、全部、先生のお陰ですよ……』

『そんな、大した事ありませんよ……』

 

そんな言葉ばかりだった。

先生の家に(あず)けられ、ふと気が付けば、チェロを片手に弦を弾く習慣が身についていた。

いつ習い始めたのか、ボク自身は良く(おぼ)えていない。先生の話では、ボクが五歳の頃かららしい。

五歳なら、少なくともボクの方から懇願(こんがん)して習い始めた訳じゃなさそうだ。

 

チェロで奏でる古典音楽は、最後まで、それほど好きにはなれなかった。でも、チェロを弾くこと自体は嫌いじゃなかった。

だって、大人たち相手の社交場で、それが唯一できるボクの表現方法だったんだから。

人とは余り言葉を交わさなかったけれど、チェロを奏でれば、それが言葉代わりになるんだと思ってた。

挨拶をして、腕前を披露する。そして、いつもの決まり文句。

それが、大人を相手にした時の、ボクの言葉の大半だった。

 

ひととき、チェロに熱中した事もあった。

一生懸命練習して、将来はプロの奏者になるんだ……そう夢を描いた事だってあった。

いつか、どこかの会場で演奏し、観客から拍手を浴びる。

演奏会が終わった後、観客が一人二人と去ってゆく。でも、最後まで客席に残り続ける男の人がいるんだ。

一番、大きな拍手をしてくれた人だ。

ボクは、不思議に思って、その人を見詰める。すると、どことなく懐かしさを感じるんだ。

ボクは、その人に近づき、思い切って尋ねてみる。

「もしかして、父さんですか?」って……。

そしたら、その人は立ち上がって、大きく頷きながら言うんだ。

「シンジ、しばらく見ない間に立派になったな」って……。

「これからは一緒に暮らそう」って……。

 

そんなふうに夢を見ていた時期があった。

でも、ある演奏会で、ボクよりずっと年下の子が、ボクよりずっと上手にチェロを弾いている姿を見た時、何だかバカバカしくなった。

 

(ボクの腕前なんかで、プロになれる訳ないじゃないか……)

 

その時以来、ボクがチェロを弾く目的は、ただ先生に弾くように言われたから弾いてるだけ……そんなふうに変わってた。

 

 

学校で同級生たちと談笑。先生の(しつけ)で、TVとか余り見れなかったボクは、友達の話題についていけなかった。

談笑しているつもりが、いつの間にかただ相槌(あいづち)を打ってるだけって事が多かった。

 

学校でそこそこの成績を取って、同級生と少しだけ談笑して、帰ったら先生に言われるままにただチェロを弾くだけ。

いつの間にか、そんな日常の繰り返しになってた……。

 

中学校に入る時、少しドキドキした。漫画の世界みたいに、きっと色んな出会いや出来事が待ってるんだと思ってた。

平凡な日常の繰り返しが、変わるんだと思ってた。

でも、セカンドインパクトで人口が減少したせいか、中学校に入っても同級生の顔ぶれは同じだった。

だた変わったのは制服だけだった。また、同じ日常の繰り返し。

 

 

14歳になった時、急に父さんから手紙が届いた。

手紙には、ただ、「第三新東京に来い」って書かれてるだけだった。

電話一つも掛けずに、手紙一枚だけで、今更ボクを呼び出そうとする父さんの態度に少し腹が立った。

でも、少し腹が立った後、ふと思ったんだ。

あ、違う日常が始まるんだ……って。

同じことの繰り返しだった日常が、これで変わるんだって思えたんだ。

 

気づいた時、ボクは荷物をまとめてた。先生も、初めから承知してたらしく、反対せずにボクを送り出してくれた。

 

ネルフに来て……第三新東京に引っ越して……ミサトさんに面倒を見てもらって……新しい学校に通い出した。

学校で見る顔ぶれは、みんな違った。

周りが変わると、何だか少し自分も変わったような気がした。

でも、トウジとケンスケ……あの二人に呼び出されて、殴られた時にそれが勘違いだって事が分かったんだ。

その時は、ショックだった……。

 

え?そんなに痛かったのかって?いや、そうじゃないんだ……。

理不尽な理由で殴られた事が辛かったのかって?いや、そうじゃないんだ……。

ボクは、今まで人と殴り合った事がなかった。友達と過ごす時間が少なすぎて、喧嘩の仕方すら知らずにいたんだ。

第三新東京に来て、周りの顔ぶれも生活も変わった。だから、ボク自身も少し変わったような気でいた。

でも、殴られた時に気づいたんだ。ボクは、拳を固めて殴り返すって単純な事すらできない奴なんだって……。

(なんだ、ボクは前のまんまじゃないか……)

 

変わったのは周りだけで、ボク自身は先生の所にいた時のまんまで、何にも変わってなかったんだ。

それがショックだったんだ。

以前は、学校が終わったら、直ぐに帰宅してチェロのレッスン。

今は、学校が終わったら、直ぐに出勤してエヴァの訓練。

全然違う事のはずなのに、結局は、命じられるままに同じことを繰り返すだけじゃないか。

ただ、こっちに来てからは、そこに“痛み”と“恐怖心”がプラスされただけじゃないか。

 

(一体、ボクは何の為に新東京に来たんだっけ……?)

 

 

「エヴァは、適合者とシンクロする事によって動くわ」

司令室では、リツコがミサトに(うれ)うべき自体を語り始めていた。

 

「人造人間エヴァとシンクロする事によって、パイロットがエヴァの筋肉と神経と五感を自分と一体化させる……これはいわば、パイロットがエヴァを乗っ取るようなものね」

 

リツコは、司令を一瞥(いちべつ)した。そして、

「でも、その逆もありえるの……」

少しためらってから続ける。

「パイロットが何らかのストレスによって、精神状態を乱し、自らエヴァとのシンクロを放棄してしまった場合、エヴァの方がパイロットの肉体と心を取り込んでしまう可能性が……」

 

「そんな!それは理論上の話でしょ!」

リツコが言い終わる前に、ミサトは遮った。

「前回の戦闘でレイが昏倒した時、シンクロ率はゼロにまで落ち込んだわ。でも、あの時だって……」

だが、そのミサトの言葉も、段上から降り注ぐ

「前例はある」

という一言で遮られてしまった。

 

言葉を発したのは、司令席で手を組んだまま、今まで沈黙を続けていた碇司令だった。

「前例って……以前に取り込まれた人がいるんですか?」

驚く作戦本部長に、碇司令は応えた。

「私の妻が、そうだった……」

 

シンジ……シン……シン……。

 

また、誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえる。

だが、それも直ぐに消え、静寂(せいじゃく)だけが残った。

 

(もう、どうでもいいや……)

 

水温がさらに冷たく感じられた。

肌寒さに、少年は目と閉じ、自分の体を抱きしめた。

自分のか細い体を掌に感じる。だが、その感触が次第に曖昧(あいまい)なものへと変わって行く。

なんだか、LCLと肉体の境界が良く分からなくなっていた。まるで、自分の肉体が溶液の中に溶け始めたみたいに。

 

(寒い……寒いな……)

 

抱きしめる腕に力を込める。その度に、自分の体の感触が薄れて行った。やがて寒気も薄れ始め、段々と何も感じなくなる。

だが、薄れ行く感覚の中で、少年はあるものに気づいた。

 

(え……暖かい?)

 

感覚が失われつつある肉体……しかし、その一部に不思議な暖かさが生じていた。

 

(手……ボクの手?)

 

右手の甲に生じた暖かみ。それがユックリと広がり、失われかけていた……自分の体を抱きしめる腕の感覚が……よみがえる。

 

(ボクの手……右手に何か付いてる……?)

 

右手を包む暖かいもの……それは一枚のハンカチーフだった。

 

(ハンカチーフ?……誰の?)

 

ハンカチーフの存在に気付いた時、少年の手に、柔らかく優しいものが()れた時の記憶がよみがえった。

その優しさと暖かさが、腕から全身へ、肉体から心へと広がってゆく。

 

(…………マヤさん?)

 

LCLが揺らぎ始めた。あの声が、沈み行くシンジの意識に届いた。

 

「シンジ君!」

 

突如、シンジの体に痛みが走った。

ビルが爆発炎上する騒音が聴覚を突く。

視界に、異形の化け物の姿が映し出される。

シンジは、我にかえった。

 



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決着

「パイロット、脳波、反応を示しました!シンジ君、大丈夫!?」

 

マヤの報告が響く。直ぐに、シンジから応答の声が届いた。

 

「すいません、一瞬、気を失ってました。もう大丈夫です」

 

シンジの声を聞くと、ミサトは安堵の溜め息を漏らした。どうやら、リツコらは考えすぎだったようだ。

司令の言葉が気に掛かったが、今は詮索(せんさく)している場合ではなかった。

 

「シンジ君、もう時間が無いわ!早く使徒にトドメを!」

 

「はい!」

 

シンジは返事をするものの、慌てて、

 

「あ、そうじゃなくて……大変です!避難し遅れた人がいるんです!」

 

言い直した。

 

「なんですって?」

 

「丘の、鳥居が立っている近くです!」

 

素早く青葉がキーを打った。自分のPCのモニターに丘に、設置されたカメラの画像を全て表示し、直ぐに該当者を見つける。

モニターに、二人の少年の姿が映し出された。

 

「作戦本部長!」

 

青葉は顔色を変えて、上司に振り返った。

 

「ヤバイっすよ!前回みたいにコアが大爆発すれば、完璧巻き込まれます!」

「近くにシェルターはないの!?」

「一番近い所でも、麓に下りて300メートル。避難を待ってたら、先にエヴァが停止します」

日向が応える。

 

ミサトはマヤに視線を送ったが、マヤはクビを振った。この辺りに近道はないらしい。

 

「仕方ないわ。シンジ君、何とか民間人の位置まで移動して!一度、エントリープラグを解放して、中に民間人を回収するわ」

ミサトの言葉に、オペレーターたちは驚いた。

「それって、コクピットの中に入れちゃうって事ですか?」

確認するマヤ。

 

「エヴァの中以外に、安全な場所があるかしら?」

「でも、そんな事をしたら、ノイズが交じってエヴァが上手く操縦できなくなってしまいます!」

「エヴァの体内電源が切れるまで、3分弱です。今、ここでコアを破壊するなら十分ですが、民間人を回収してたら時間が……」

マヤに続き、日向もミサトの命令に異議を唱える。しかし、

 

「じゃあ、民間人を見捨てろっていうの!?」

ミサトの一喝(いっかつ)に黙ってしまった。

 

「司令!一時撤退し、作戦を練り直します!よろしいですね」

ミサトは、司令に許可を求めた。

「再出動して、使徒を倒せる自信は?」

 

司令の問い掛けに、ミサトは胸を張ってみせる。

「あります!」

「ならば好きにしろ」

「待て!」

 

司令は許可しても、副司令は承知しなかった。

 

「作戦本部長!既に莫大な損害が出とるんだ!今、ここで使徒を仕留めねば、さらに被害が広がる可能性だってある。いや、下手をすればジオフロントに侵入され、大勢の犠牲者が出るかも知れん!」

 

厳しい視線をミサトに向ける。

 

「君は、この第三新東京全体の運命と二人の民間人、どちらが大切かね!?」

 

副司令の視線に、ミサトも真剣な眼差しを返した。そして、問う。

 

「副司令……もし、目の前の河で、愛する人と赤の他人が溺れているのを見たら、あなたはどちらから先に助けますか?」

「当然、愛する者からだ」

 

「では、赤の他人が川岸の直ぐ近くで溺れている場合は?そして、愛する人にはまだ溺れないだけの体力が残っている場合は?」

 

ミサトの言葉に、副司令は少し考え込んでから応える。

 

「その時は、先に川岸に近い方から救助するかも知れんな」

 

副司令の回答に、ミサトはうなずいた。

 

「私も同じです。私も、真っ先に救助できる方から助けます」

 

作戦本部長・葛城ミサトは、モニターに向き直ると、オペレーターたちに宣告した。

 

「目の前にいる民間人の救助を優先します。青葉二尉、使徒の注意をそらす為の弾幕を。伊吹二尉、エントリープラグ解放の用意を」

 

 

エヴァ初号機が、使徒の体から離れた。直ぐに自動砲塔が使徒を攻撃し始め、使徒が起き上がるまでの時間を稼ぐ。

シンジは、エヴァをケンスケとトウジの近くまで移動させた。直ぐに、エントリープラグが放出される。

 

『そこの二人、乗りなさい!早く!』

 

エヴァを介した無線を通して、ミサトは二人に乗り込むように告げた。

エントリープラグから下ろされた縄梯子(なわばしご)のようなものに、二人は慌ててつかまる。

 

「ケンスケ、アホんだら!お前が使徒撮影したとかいうから、こないな目にあうんや!」

「お前だって、反対しなかっただろ!」

 

二人の少年は言い争いながらよじ登ると、ハッチが開かれたエントリープラグの中に入った。ドボンという音が二つ鳴り、直ぐにハッチが閉じる。

溶液の中に落ちた二人は慌てだした。

 

「ガボ……ガ……なんやこれ……水……?」

「息が、息ができ……」

 

LCLを飲み込み、呼吸を確保する。

 

「え?おお?」

「あれ、息できちゃうね?」

二人は驚き顔を見合わせた。

 

「神経系統に異常発生!」

司令室で、マヤが告げる。

「エヴァ活動限界まで、後一分」

日向がカウントを始めた。

 

 

二人の少年は、直ぐに操縦席のシンジに気付いた。

 

「あ、転校生や……」

「よ、よう碇……元気?」

「鈴原トウジと相田ケンスケだよな?」

シンジは振り返りもせずに、二人の名前を確認する。

 

「お、おう……名前、覚えててくれたんやな、転校生」

トウジの方は、覚えていなかった。

 

「そりゃ、あんな事したんだもん、嫌でも覚えちゃうさ」

隣からケンスケがささやく。

 

「あれが、使徒だよ。ボクは、あんなのと戦わされてるんだ」

モニターに、弾幕を受けながら立ち上がってこちらに迫る使徒の姿が見えた。

「お、おお。そ、それは大変やな……」

 

 

「シンジ君、二人の回収は終わったわね。撤退しなさい。3時の方向に回収ゲートを開いたわ。山の東側に回って」

 

ミサトから無線が届く。だが、シンジは応答しない。

 

「あ、あの……撤退しろって言われてるみたいだよ、碇君?」

ケンスケがおそるおそる声を掛けるが、シンジは、振り返りもせずに意外な事を言い出した。

 

「今、撤退したら……被害が広がって、また妹さんや誰かが怪我するかも知れないよな?」

ケンスケとトウジは顔を見合わせた。

「あ、ああ……まだあの時のこと根に持っとるんか?」

 

困った様子でトウジは頭をかくと、申し訳なさそうに手を合わせる。

「いや、あの時はスマンかった!使徒が、こんな恐ろしいもんやとは知らん……」

「ここで決着付けるから!!」

突然、シンジは絶叫するように叫んだ。

 

「シンジ君、何してるの!?撤退しなさい!」

 

エヴァ初号機はナイフを構えた。

 

「だから……もう、ボクを殴るなよな……」

 

右のハンドルを押し、エヴァを突撃させる。

 

「撤退しろっつってんでしょうがーーー!!!」

「うおぉおおおおおおおーーーー!!!」

 

 

「16時38分、第一種警戒体制発令……。16時55分、F地区より順次、第二種戦闘準備発令……。17時01分、自動砲塔、ミサイルポッドタワー、対空砲始動……」

 

既にどっぷりと日が暮れ落ちた新東京。自動砲塔やミサイルポッドタワーは地下に収納され、街は元の都市の光景に戻っていた。あちらこちらに、痛々しい傷跡を残しながらも。

 

「18時01分、エヴァンゲリオン初号機、民間人をエントリープラグ内に確保……。同時刻、初号機・碇シンジパイロット、本部の命令を無視し、使徒に突撃……」

 

耳障りなサイレンの音も、本部長の怒声も消え、静寂を取り戻したネルフの司令室には、対使徒迎撃戦の報告書を読み上げるマヤの声だけが響いていた。

既に青葉と日向は、終わったとばかりに気を抜き、椅子にだらしなくもたれかかっている。その姿をミサトに(にら)まれ、慌てて背筋を正す。

 

「18時03分……12秒、目標、完全に沈黙。その1秒後、エヴァンゲリオン初号機、内部電源の枯渇により活動を停止……以上です」

 

どこからか溜め息が漏れた。

マヤは慌てて付け足した。

 

「なお、使徒が沈黙したのは、碇シンジ氏が使徒の核をプログ・ナイフの一撃で貫いたお陰です。今回は、核が爆発する事も無く、原型を留めたまま回収できそうです」

 

さらに、マヤは作り笑顔を見せながら

「民間人も救出できたし、使徒も倒したし、核も回収できるし……お、大手柄ですよね……?」

とシンジをホローしたが、誰も感心した様子を見せなかった。

 

副司令・冬月は深いため息を付くと、白髪をかき上げた。

 

「さて、“良くやった”と褒めてやるべきか……それとも、命令無視と危険なギャンブルをやった事を叱るべきかな?」

 

冬月はミサトに視線を送ったが、ミサトはそれをかわすと

 

「では、事後処理は後ほど。対使徒作戦本部はこれにて解散します」

落ち着いた声音で解散を宣言した。

 

だが、壁の時計にチラリと視線を送り、時計の針が7時に近付いている事に気づくと、

「いえ……切りがいいので、解散は7時で。それまでは皆さん、気を抜かないように……では、これにて各々の作業に戻って下さい」

何を思ったのか、解散を7時に変更した。

 

 

「今日も残業ね……」

司令と副司令が奥に消えると、リツコが煙草に火を点けた。

「まあ、いいデータが取れそうだから、別にいいけど」

 

リツコが、溜め息と共に煙を吐き出した時、ミサトがツカツカと近づいてきた。

「リツコ。私は、パイロットのケアもあるので、7時で帰らせてもらうわよ」

悪びれた様子も無く、リツコに告げる。

それに対し、不満も見せずに「ええ」と肩をすくめて了解するリツコ。

「アナタには、初号機のパイロットへの指導も残ってるものね」

 

下段のフロアのデスクで、マヤが立ち上がった。

「私、ちょっとシンジ君の様子みてきます」

 

 

エントリープラグに乗せられた二人の民間人は、シンジが神経回路を解除している内に、救護班によってどこかに連れられて行った。

LCLが放出された後、ようやくエヴァから解放されたシンジは、疲れた様子でゲートから出てきた。

 

「……!」

 

ゲートから出た途端、何か小さな塊が飛んでくる事に気づき、慌ててキャッチする。が、手から滑り落ちてしまう。

床に落ちたのは、一粒の飴玉だった。

 

「ガキは、大人しく家で飴でもしゃぶってりゃいいんだよ」

 

飴を投げ付けたのは、あのイタリア人らしき整備士だった。腕組みしながら、忌々(いまいま)しげにシンジを(にら)んでいる。

 

「エヴァの装甲の80%が破損だ。そりゃ、自動砲塔の弾幕が終わらねえ内に突っ込みゃ、そうなっちまうわな?電力がほとんど残ってねえ状態で、無茶な操縦したもんだから体内電源もオーバーヒートしてやがる」

 

イタリア人?のミハイルは歩み寄ると、シンジの頭の上から怒鳴りつけた。

 

「オレッチが、整備したエヴァを無茶な使い方しやがって!バカ野郎!」

 

長身の白人に怒鳴られ、シンジは思わず首をすくめた。だが、怯えながらも、彼の方もぽつりと言い返す。

 

「ボクだって、好きで戦ってる訳じゃないんだ……」

 

ミハイルは大袈裟な動作で耳に手をかざしてみせた。

 

「ああ?聞こえねえーよ!」

 

「いい加減にしとけよ、ミハイル!」

 

長身の白人男を止めてくれたのは、別の整備士の男だった。こちらも同じく白人だが、身長はそれほど高くなく、代わりに恰幅(かっぷく)が良かった。

彼はミハイルを一喝すると、二人の間に割って入った。

 

「なんだよハンゾル!オレっちは、14にもなって、まだオシメも取れねえクソ餓鬼を教育してやってる所なんだよ!」

「お前、子供相手にムキになってんじゃねえよ!」

 

ハンゾルと呼ばれた小太りの男は、シンジの肩に腕を回すと、(かば)うようにしてミハイルの前から引き離した。

そして、小声でささやく。

 

「すまねえな、エヴァのパイロットさん。あいつ……オレの相棒でミハイルってんだけど……」

 

チラリと、一度、相棒の方を確認する。

「このSSを公開した12年前(2008年)当時は、アニメ『ふしぎの海のナディア』からゲスト出演したサンソンって設定だったんだけどさ……それが今回の公開で、普通の外人の整備士って設定に変えられちまったもんだから、機嫌が悪いんだよ……」

 

途端に、ミハイルの怒声が飛んだ。

「余計な事、言ってんじゃねえよ!ハンゾル!」

 

ハンゾルは「まあ、悪い奴じゃないんだよ」と付け足すと、シンジを手早く逃がしてやった。シンジは、軽く一礼してから、駆け出して行った。

 

シンジの姿が消えた途端、ハンゾルのケツに激痛が走った。

「痛って!後ろから蹴る事はないだろ、ミハイル!」

 

ハンゾルが振り返ると、ミハイルはすかさず襟首(えりくび)をつかんできた。そして、(ふところ)から台本帳を取り出す。

 

「おい、てめー!何だよ今の説明!」

 

 

ミハイルは台本を開くと、自分のプロフィール欄を指し示した。

 

「オレッチの設定は、元戦略自衛隊出身の敏腕パイロットだろうが!んで、ネルフに志願したものの、エヴァへの搭乗資格がなかったもんだから、実力も無しにパイロットになれた餓鬼に嫉妬してるって話になってるはずだろうが!」

自分のサングラスを摘み上げる。

 

「それをオメー。余計なメタ発言しやがって……なんで、勝手にアドリブで設定変更してんだよ!」

 

だが、ハンゾルは台本を取り上げると、こちらも怒った様子で自分のプロフィール欄を指差してみせた。彼のプロフィール欄には、ただ、“ミハイルの相棒。戦略自衛隊出身の整備士”とだけ書かれていた。

 

 

「オレが、戦自出身の只の整備士って事になってんのに、何でお前だけそんな格好いい設定なんだよ!オレは納得いってねえんだよ!」

 

「なんだと、この野郎!」

 

「なんだよ!」

 

しばらくの間、格納庫に二人の殴りあう音が響いた。



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少年の保護者

プラグスーツから元の学生服に着替え終わったシンジは、オペレーターの誘導に従い、医務室に向った。

今後、戦闘を終える度に、必ず検査を受けるようにとの事だった。

さすが、最新の医療機器が集められたネルフだけあって、診察はほとんど時間が掛からなかった。

 

肉眼で外傷の有無をチェックした後は、ほんの数秒全身スキャンを受けるだけだ。

脳波正常、脈拍正常。ただ、ストレスホルモンの分泌がやや過剰。これは戦闘後の一時的な症状だろうとの事だった。

外傷は右手の甲のみ。医療局の人が手当てをしようとしたが、シンジは断った。

これは自分への戒めですから、と説明して。本当の所は、自分でも良く分からなかったけれど。

 

ほんの十数分程度の検査を終えて医務室を出ると、外ではシンジの様子を見に来たマヤが待っていた。

 

「あ、マヤさん」

「シンジ君、大丈夫だった?」

 

いいながら、マヤはシンジの右手に巻かれたままのハンカチーフに気づく。

 

「あ、それ……。まだ付けてくれてたんだ……」

「はい、有難うございました。洗って明日にでも返します……」

シンジはそれだけ言うと、そのままマヤの前を通り過ぎようとした。

 

「え、あの……シンジ君!」

慌てて呼び止めるマヤ。

「シンジ君。ほら、救助した民間人……あれって、シンジ君のお友達……」

 

「友達じゃありません!」

突然、語気を荒くして、シンジはキッパリと否定した。

「……ただの同級生です」

 

「そ、そうなの?簡単な診察しただけで、先に帰らしちゃったけど、じゃあ、待たせなくて良かったわね」

 

シンジの様子がおかしい事に気づいたマヤは、

 

「それとシンジ君……使徒を押し倒した時、ちょっと通信が途絶えちゃったけど、どうしちゃったの?……大丈夫?」

シンジを気遣う言葉も掛けてみたが、

「いえ……ちょっと嫌な事を思い出しただけですから……」

当のシンジはマヤの心配もよそに、素っ気無く応えるだけだった。

 

「あ、そうそう。本来は、この後、作戦局に言って報告とかしなくちゃいけないんだけど……。せ……赤木博士は、今日はもう帰って休んでいいって言ってたわよ。疲れたでしょうから。葛城さんもシンジ君と帰るって」

「そうですか……。じゃあ、ボクはこれで……」

 

マヤはまだ何か言いたげだったが、シンジはそれ以上話を続けようとしなかった。短い別れの言葉と会釈だけを残して、そのまま行ってしまう。

マヤは、何と言えば良いのか分からず、その後ろ姿を見送るしかなかった。自分の手を握り締め、嘆息する。

 

(出撃前は、あんなに元気だったのに……本当に、どうしちゃったのかしら?)

 

 

「新しいの買って返さなくちゃな……」

ネルフの作戦局のロビー。

一緒に帰る為にミサトを待っていたシンジは、ハンカチーフを見詰めながらつぶやいた。

彼の右手を包むハンカチは、エヴァを操縦していた時にハンドルを強く握りすぎた為か、少し破れていた。

 

「……碇シンジ君」

 

自分の名前を呼ばれ、シンジはかぶりを上げた。

「あ、ミサトさん……」

見れば、腰に手を当てた少し威圧的な姿勢で、葛城ミサトが立っていた。

 

「待ってました。帰りましょう」

 

シンジはロビーのソファーから立ち上がったが、ミサトは人差し指を立てて告げた。

「作戦本部の解散時刻まで、あと少し……。今はまだ、作戦本部長・葛城と部下の碇シンジよ」

 

ミサトは、シンジに詰め寄ると、

「ずいぶんと無茶な事をやってくれたものね」

少し責めるような口調で言った。

「整備士の人にも、同じ事を言われました」

シンジは他人事のように応えた。

 

「私は撤退を命じたのよ?聞こえなかったのかしら?」

「聞こえてました」

 

ミサトは溜め息をついた。

 

「じゃあ、なぜ従わなかったのかしら?私は作戦本部長で、アンタは私の命令を聞く義務があるのよ。分かってるわよね?エヴァ初号機パイロット・碇シンジ君?」

「はい」

 

「もし、今後も同じ事を繰り返せば、罰則を与えます」

「はい」

 

「あら、いいの?独房みたいな真っ暗で狭い部屋に閉じ込められるかも知れないのよ?」

「はい」

「はいってアンタ……」

 

ミサトが呆れた様子で腰に手を当てた時、シンジはソッポを向いて吐き捨てるように口走った。

「もう、勝ったんだから……どうだっていいでしょ」

瞬間、ミサトの表情が引きつった。平手を上げ、シンジの頬に放つ。

シンジは固く目を閉じた。だが、いつまで経っても頬に痛みは走らなかった。

 

おそるおそる(まぶた)を開くと、ミサトは険しい表情のまま、シンジの頬を打つ寸前の所で、ピタリと平手を止めていた。

ロビーのアンティークな時計が、七時を告げる鐘の音を鳴らした。ミサトは表情を(ゆる)めた。

「解散時刻ね……」

 

シンジの肩に、打つはずだった平手を乗せ、笑顔を向ける。

「さあ、帰りましょうか、シンちゃん?」

「は、はい……」

「お腹空いたでしょ。たまには外食して帰りましょうね」

 

ネルフを後にすると、ミサトは、お勧めの店があると言って、郊外に向って車を走らせた。

しばらくの間、二人は何も話さなかった。だが、ミサトが「シンちゃん、学校の方は慣れた?」と会話の切っ掛けを作りかけた時、シンジは言った。

 

「ミサトさん……」

「なあに、シンちゃん?」

「心配しなくたって、ボクはエヴァに乗りますよ」

「……どういう事かしら?」

 

「だって、さっきボクをぶたなかったのは……ボクがエヴァに乗るのが嫌になって逃げ出すかも知れないって、心配したからでしょ?」

「……」

「大丈夫ですよ。綾波を見捨てて、ボク独り逃げたりしませんよ……ボク以外に、乗れる人はいないんですから」

赤信号に引っかかる。ミサトはブレーキを踏んだ。

 

「……そう。そんなふうに思ったんだ?」

「……そうなんでしょ?」

信号が青に変わり、アクセルを踏む。少しずつ加速しながらミサトは言った。

「私は望んでネルフに入ったわ。でも、アナタは望まなかった……全てこちらから強制したものだわ」

 

ギアを二速に入れる。

 

「こっちの都合で強制的にパイロットにして、強制的に命懸けで戦わせてるのに……あそこでブツのは、あんまりだと思えたのよ……」

「そうなんですか……」

 

「ねえ、シンちゃん」

「はい」

「強制している以上、こっちも無理は言いたくないの。でも、アナタも人類の運命を背負っているってるんだから、少しくらい使命感みたいなものを持ってくれてもいいんじゃないかしら?」

 

「そんな、無理ですよ……。ボク、まだ子供だし……」

「レイも同い年よ。でも、あの子は使命感を持ってエヴァに乗ってくれているわ」

「それは……女の子は、男よりも少し大人だから……」

突然、ミサトは急ブレーキを踏んだ。

 

 

シンジは驚くが、ミサトは皮肉を込めた声音で、聞き返してきた。

 

「へえ、そうなんだあ?……女の子の方が少し大人なんだ?」

「いえ、その……女の子の方が男の子よりも成長が早いとかいうでしょ……」

 

「ふ~ん。じゃあ、シンジ君も、大人に近付けば使命感を持ってくれるのかしら?」

 

いいながら、ミサトはシートベルトを外し、シンジに近付いてきた。

 

「え……ミ、ミサトさん?」

 

次の瞬間、シンジは何が起きたのか分からなかった。ミサトの顔が近付いてきたかと思うと、視界がおおわれ、唇に柔らかい感触だけが感じられた。

数秒後、ミサトが離れ、こちらを見詰めながら運転席に座りなおした時、シンジは初めて何が起きたのか理解した。

 

(……キス……された?)

 

呆然とするシンジに、ミサトは告げる。

 

「これで、少なくともレイよりも大人になったはずよね?なんなら今ここで、完全に大人に変えて上げましょうか?」

 

ミサトの手がシンジの頬に伸びる。だが、シンジはミサトを突き放した。

 

「よ、よして下さい!」

 

 

手の甲で、荒々しく唇をぬぐう。その態度に、ミサトは肩をすくめた。

 

「まあ、そうよね?こんなオバさんに、初めての相手になんかなってもらいたくないわよね~」

 

ミサトの表情が険しくなる。

「でも、憶えておきなさい!今度、アンタがそんな甘ったれたこと言ったら、本当に犯すわよ!!」

アクセルを踏み、車を急発進させた。

 

ミサトは胸ポケットからサングラスを取り出すと、掛け、もうシンジの方を振り向こうともしなかった。

シンジも、うつむき、黙っている。

再び、二人の間を沈黙が支配した。

しかし、交差点を一つ、また一つと越え、遠くに目的のレストランの灯が見えた時、ミサトはつぶやいた。

 

「……ごめんなさい」

「……え?」

一瞬聞き取れず、シンジは視線を上げた。

 

「ごめんなさい。さっきのは、ちょっとやり過ぎたわ……リツコに、子供になんか手を出さないって言ったばっかりなのに……」

運転しながら、片手で自分の長い髪をかき分ける。

 

「私は、保護者として失格ね」

「そ、そんな……ボクの方こそ……」

ミサトは微笑んだ。

「でも、シンちゃん。こんな綺麗なお姉さんにキスされたんだから、少しは嬉しそうな顔しなさいよ……それとも、そんなに嫌だった?」

「いえ、その……」

シンジはようやく頬を赤らめた。

 

 



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番外編 ファーストコンタクト
日向と青葉の場合(1)


「明日から、さっそく模擬戦か……」

 

作戦司令室のデスクで、青葉がモニターを見詰めながら、つぶやいていた。

両手を後頭部に回し、背もたれに体をあずける。

 

「まあ、使徒がいつ来るか分からないんだから、仕方ないっちゃ仕方ないけどさ」

 

今日、シンジは初めてエヴァのシンクロテストを受けていた。

シンクロ率80%。

先日、無理やりエヴァに乗せられ、使徒と戦わされたばかりだというのに、搭乗への抵抗感(ストレス)はなく、上出来だ。

 

(でも、本人が納得してないのに、一方的に訓練を押し付けて行くってのもなあ……)

 

14歳といえば、自分が独学でギターを始めたばかりの頃だ。

あの頃は、その日その日が楽しくて、自分の将来に対しては漠然(ばくぜん)とした思いしかなかった。でも、漠然としているって事は、好き勝手に将来を思い描ける年頃だったって事だ。

 

もし、あの頃の自分が、突然、“使徒を倒す”なんて運命を勝手に課されてしまったら?多分、悪友と一緒にギターを担いで、ジョン・レノンの巡礼の旅に出ていた事だろう。

 

(シンジ君よ、何で君は逃げ出さないのかねえ……?)

 

「ねえ、青葉さん」

青葉が少年の胸中を察しかねている時、隣から同僚の女の子が声を掛けた。

 

「なんだいマヤちゃん」

「私って……似てるんでしょうか?」

「はい?」

 

意味が分からず、眉根を寄せる青葉。

 

「いえ、シンジ君と私がです。先輩……赤木博士が、私とサードチルドレンが似てるっていうんです」

 

マヤの言葉に、青葉を少し首をかしげた。

目を閉じ、本部オペレーターになったばかりの頃のマヤの様子を思い出す。

 

「う~ん……そういえば、マヤちゃんがここに来たばかりの頃は、雰囲気っていうか、なんだか(さび)しそうな感じが……確かに、似てるっていえば……」

 

言いかけて青葉は、急に背もたれに(まか)せていた身体を起した。しかし、席から立ち上がらずに。

 

「そういえばマヤちゃんて、初めは潔癖症(けっぺきしょう)だったよね」

「え、そうでしたっけ?」

(おぼ)えてないかな?ほら、マヤちゃんて推薦で入ってきたから、同期の友達っていなかったじゃん。だからオレが親しくなっておこうと思ってさ、軽く肩に触れて声を掛けた事があるんだけど」

 

肩に手を触れただけで、青葉の手を振り払い、(おび)えた様子を見せるマヤの姿を思い出す。だが、マヤは言いかける青葉の言葉を(さえぎ)って否定した。

 

「いえ、あれは青葉さんが急にセクハラしてきたからでしょ。別に潔癖症って訳じゃ……」

「おいおい、肩に触れただけでセクハラかよ。きついなマヤちゃん」

 

あの時のマヤの態度は、セクハラに対する拒絶反応などではなかった。何かに(おび)えているような……まるで異性との接触に恐怖を抱いているような、そんな雰囲気だった。

 

(内心で何かに怯えている……確かに、シンジ君にも、そういう所あるのかもなあ……)

 

青葉はかぶりを振ると、それ以上マヤに潔癖症の話を振ろうとはしなかった。代わりに話題を変える。

 

「所でマヤちゃんは、俺たちと違って推薦で入ったんだよな」

「はい」

「それって、やっぱりどっかから引き抜かれた訳?それとも何か実績があったとか?」

 

青葉の何気ない質問に、マヤの顔色が変わった。

 

「そ、それはですね……」

「元戦自の制服組とか?」

 

「いえ、その……原宿を歩いてたらですね……」

「うんうん」

「山賀とかいう変なオジサンに、「彼女、お茶しない」って声を掛けられたんですよ」

 

マヤの適当な説明が続く。

 

「それで喫茶店でお話を聞いたら「今度、うちのガイナックスで新作アニメ作るから、良かったら出演してみない」って言われて。それが切っ掛けです」

「マジで!?」

 

驚く青葉にマヤはうなずいたが、誤解を招きそうだったので慌てて付け足した。

 

「あ、でも、枕営業とかじゃなくて、ちゃんとオーデションは受けたんですよ。その、候補者が百万人くらいいて……」

 

少しばかり調子に乗り出す。

 

「それで最終選考に残ったのが、私と当時は人気女優だった藤原紀香さんだったんです」

「最後の水着審査が自信なくって……ほら、私って可愛いけどプロポーションが普通のモデルなみだから」

「で、もうダメだって時に、庵野秀明監督が「伊吹君、キミは一見スレンダーに見えるけど、脱いだら凄そうだね」って言ってくれて、それが決め手でしたね」

 

そこまで言って、さすがに無理があったかと思ったが、

 

 

「へえ、そりゃ凄いね……」

 

バカな青葉は信じてくれたらしく、感嘆の声をもらしていた。

 

「つーか、そんなんで本部オペレーターになれるんだね。知らなかったよ」

「ええ、まあ……ガイナックスは、基本的に女性キャラは美人で可愛ければOKですから」

 

マヤは、それ以上詮索(せんさく)されない内に、今度は青葉に質問を返した。

 

「所で、青葉さんは、ネルフの一期生なんですよね」

「そうだよ」

「やっぱり、ネルフの採用試験って厳しかったんじゃないんですか」

「ま、まあね……」

「どんな試験があったんですか?」

「え……そ、それは……」

 

今度は、青葉の顔色が変わる番だった。

言葉に詰まりながら、青葉は、初めてネルフ本部に足を踏み入れた2010年の出来事を思い返した……。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

セカンドインパクトによる地軸の歪みさえなければ、白と桃色の花びらで街頭が彩られていたであろう季節。

真新しいネルフ本部施設のゲートを前に、二人の男がたたずんでいた。

長髪の優男とメガネの好青年の風貌(ふうぼう)。二人とも、ネルフの制服姿からして、今春ネルフに配属された一期生だろう。

 

「いくぞ……」

 

長髪とメガネの男は互いに(うなづ)き合うと、ポケットからIDカードを取り出した。

震える手で、ゲートのID認証口に差し込む。

ピピという小さな電子音が鳴り、ゲートが左右に開いた。

 

(よっしゃー!)

 

二人は心の中でガッツポーズを決めた。

辺りを見回してから、何食わぬ顔でゲートを潜り抜ける。

 

「いよぅ!潜入成功!」

 

長髪の男が思わず小声で叫んだ。慌てて、隣のメガネが、唇に人差し指を立てて見せる。

 

「日向。こっからどう進めばいいんだ?」

 

しばらく進んだ所で、長髪の方がメガネに問いかけた。

 

「さあなぁ……でも、やっぱり一番えらい人は、一番上の階に居るもんじゃないか?」

「ネルフの例のロボット。あれの写真撮りたいんだけど、それも上かな?」

「いや、そういう物は、格納庫にあるもんだろ」

「格納庫ってどの辺だよ」

「そりゃ、一番下だろ」

 

二人の会話からして、メガネの方は日向、長髪の方は青葉というらしい。

二人は、物めずらしげに辺りを見渡しながら廊下を進み続けた。

 

時おり、他の職員とすれ違う度に、不自然なまでに姿勢を正して挨拶(あいさつ)をして行く。

 

「ども!お早うございまッス!」

 

白髪の職員とすれ違った時も、必要以上に明るい声で挨拶(あいさつ)を交わす。

だが、そのまますれ違いかけた所で、二人は呼び止められた。

 

「ん……君たちは?」

 

ドキリとする二人。

呼び止めた白髪の職員は、長身に少し痩せ気味の体躯(たいく)をした初老の男だった。

 

「見かけん顔だが、どこの所属の子かね?」

 

背を向けたまま、一瞬、凍りつく二人。青葉が、苦笑いを浮かべながら振り返って答えた。

 

「情報局第ニ課・一期生・青葉シゲル……であります」

 

続いて日向も、後頭部に手を当てて振り返り、少し不自然に会釈をする。

 

「作戦局第一課・一期生・日向マコト……です」

 

二人が所属を名乗ると、白髪の男は怪訝(けげん)な表情を見せて腕を組んだ。

 

「一期生?それは妙な話だな。一期生は私が全員面接したが、君らのような子は見かけなかったが?」

 

再びドキリとする二人。

 

「ははは、それは人数が多いから、お忘れなんですよ。ほら……」

 

引きつった笑顔を見せながら、青葉は、白髪の男の名札を覗き込む。

名札には、副指令・冬月コウゾウと記されていた。

 

(げ、この爺さん、副指令かよ……)

 

「ほら、その……副指令はお歳ですし……」

「あ、ボクは、面接の時はコンタクトでしたから、別人に見えるんですよ」

 

隣の日向は、メガネをずらしてチラリと裸眼を見せた。

 

「いいや、そんなはずはない」

 

二人の言い訳に、冬月は、腰に手を当てて不信感を(あらわ)にした。

 

「君たち、IDカードを見せてくれるかね」

 

冬月は二人からIDカードを受け取ると、近くにあった扉の認証口に差し込んでみた。

電子音が鳴り、問題なく扉は開かれる。

 

「ね、本物でしょ。青葉のカードも試してみて下さい」

 

青葉のカードも、同じ結果となる。

 

「なるほど、確かに本物だな」

 

だが冬月は、納得しなかった。

 

「情報局と作戦局といったな。ならば採用試験の時、青葉君はプログラミングで、そちらの……」

「日向です」

「日向君は実技の射撃試験で……二人とも、合格ラインの成績を修めているはずだな」

「もちろんです!」

二人の声が重なった。

 

「よろしい、では、その腕前を見せてくれたまえ」

 

 



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日向と青葉の場合(2)

 三十分後、溜め息を付きながら(カブリ)を振る冬月の姿があった。

 

「どうも、私は歳らしいな……こんな優秀な職員の顔を忘れてしまうとは……いやはや」

 

通常ならば、三十分以上かかる作業を五分でやってのけた青葉。

ハンドガンで、30メートル先の標的相手に、平均点の80ポイントを大きく上回る140ポイントを出して見せた日向。

驚くべき腕前と才能だった。

 

「いや、すまんね」

 

冬月は謝ると、IDカードを返した。

 

「この開局まもない特務機関の事を知りたくて、マスコミ関係者が潜入取材なんてのをしてくる事が良くあってね……だが、君たちの実力は、ただのマスコミ関係者に出来る代物じゃないな」

 

「誤解が()けて(さいわ)いッス。副指令」

安堵した様子で、青葉が改めて姿勢を正し敬礼した。

 

「あの、副指令……」

「なんだね日向君」

「ボクたち、格納庫に行くようにいわれたんですが、ちょっと迷ってしまいまして。教えて頂ければ有り難いんですが……」

「ふむ、確かに、ここの作りは複雑だからな」

 

冬月は、射撃訓練場から出ると、通路の一つを指差した。

 

「そこの第十三通路を行けば、長いオートウォークに出る。それの中央エリア方面の方に乗りたまえ。しばらく行けば、地下に繋がるこれもまた長いエスカレーターに出会うはずだ。そこから一番下まで降りたら、格納庫がある技術局の第一課だ。そこには技術科の職員が幾らでもいるので改めて聞くといい」

 

「ありがとうございます!」

二人はお礼をいうと、小走りに立ち去った。

 

「ヤバかったな日向!」

「お前も、あの爺さんが副指令だって、良く気付いたな?」

「名札見りゃ一発だよ。メガネ越しじゃ見えにくいか?」

二人は、ささやき合いながら、地下の格納庫にへと向かったのだった。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「見ろよ日向!ネルフのロボだぜ……ええと」

「エヴァンゲリオンだよ。ロボじゃなくて人造人間みたいなもんらしいけど……すげーな!」

 

エヴァの格納庫にたどり着いた二人は、少し興奮していた。

巨大プールを(よう)する格納庫。その満たされた液体の中に、巨大な人型兵器が、首の付け根まで浸した状態で安置されている。

 

「写真撮るぞ」

 

鞄からデジカメを取り出し、エヴァの撮影を始める青葉。

 

「これ、全身像見れないかな。何でプールに浸かってんだろ?」

興味深げに身を乗り出す日向。

 

「写真を撮って、どうするつもりなのかね?」

「そりゃもちろん、せっかくネルフに“潜入”したんだから……」

 

言いかけて青葉の顔色が変わった。かたわらの日向も気付き、うめく。

 

「爺さん……じゃなくて副指令!?」

「潜入だと?やはり付けてきて正解だったな。貴様ら、何者だ!?」

 

二人は慌てて逃げよとしたが、しかし、日向の鞄が冬月に捕まれてしまう。

 

「ちょ、離して下さい!青葉助けてくれ!」

「爺さん、やめろよ!」

「黙れ!逃がさんぞ!」

 

もみ合う内に、日向の鞄が床へと転がった。鞄から中の荷物が散乱する。

デジタルカメラに、漫画らしき本。そして、ガイナックス新作アニメ発表と表紙に書かれたアニメージュと、なぜか色紙とマジックペンが。

 

「なんだ、これは……?」

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

冬月に連行された二人は、ネルフの取調室のソファーに座らされていた。

目の前に怒った様子の冬月が立っている。

 

「では、お前たちはスパイではなく、庵野秀明監督のファンだというのかね?」

 

冬月の言葉に、二人はうなずいた。

 

「はい、『ふしぎの海のナディア』が終わってから4年ぶりの新作だって聞いたものですから、いてもたってもいられなくて友人の青葉と」

「ここにくれば、監督にサインもらえるんじゃないかって思って、この日向と来たんス」

 

「それだけの理由で、潜入したと言うのか!?」

「もちろん、それだけじゃありません!」

 

日向は鞄から一冊の漫画を取り出した。冬月ともみ合った時に散乱した漫画だ。

 

「この漫画は……」

「ボクが描いたナディアの同人誌です。コミケに出す前に、どうしても貞本義行先生に見てもらいたくて」

冬月は、怪訝(けげん)な表情で同人誌をパラパラとめくった。確かに、ナディアやジャンの絵が描かれている。

 

「では、長髪。君も同人作家か?」

「いえ、オレは」

 

青葉は、胸ポケットから一本のカセットテープを取り出した。

 

「これ、オレがギターで作詞作曲した曲ッス。新作アニメのOPかEDで使ってもらえないかと思って」

「いまどき、カセットテープか……」

 

冬月は、テープを受け取ると溜め息を付いた。

スパイにしては、小細工が効き過ぎている。どうやら、本当に只のファンらしい。

 

「しかし、IDカードはあれは本物だったぞ。どこで手に入れた?」

二人は顔を見合わせると、声をそろえて答える。

「ガイナックスサイトの通販ページ」

青葉が「一応、特注です」と付け加えた。

「……」

 

冬月は咳払いをして、さらに詰問を続けた。

 

「あの射撃の腕前は?」

「ボク、ミリタリーゴッコが好きなものですから。あ、でも、本物を撃ったのは今回が初めてです」

「あのプログラミングの技量は?」

「自分たち、同人サークルで、ソフト製作もやってるもんすから」

 

隣の日向が、一枚の名刺を冬月に差し出した。名刺には、『同人サークル ブルー&サン』とサークル名が記され、連絡先とWebアドレスが記載されていた。

 

「ボクたち、ナディアの同人ソフトも作って売ってるんですよ。ちなみに『ブルー&サン』というのは、青葉の『青』とボクの日向の『日』……」

「バカもんが!」

冬月の激しい一喝が響いた。

「お前たちは、本当に、そんな下らん目的の為に潜入した訳か!?」

 

 

冬月は拳を震わせながら、怒りで引きつった激しい形相を二人の前に突き出した。

「下らん目的で潜入する度胸!同人作家とアマチュアギタリストという個性!そして、エアガンと同人ソフトで(つちか)った射撃とプログラミングの才能!」

 

ヒっと、思わず二人が首を縮めた時、しかし、冬月は

「全く、大したもんじゃないか!」

急に感心した様な声音で、二人の肩を叩いていた。

「え?」

唖然(あぜん)とする二人。なぜか、冬月の表情が一変していた。

 

「いや、実はな。今回の新作アニメ……ちょっとした手違いで、声優が二人余っとたんだよ」

 

先ほどとは打って変わって、冬月は笑顔を(たた)えいてた。

 

「そんな時に、君たちのような個性と才能を持った人材が二人登場。まさに天恵(てんけい)じゃないか。二人とも、良かったら出演してみんかね?」

「マジですか!?」

「ああ、君たちのような個性あるキャラは、大歓迎だ!」

 

驚いた様子で顔を見合わせる二人。憧れの監督の作品に参加できるというのだ。

日向は目を輝かせて、直ぐに承諾した。

 

「ぜ、ぜひとも出演させて下さい!あ、ちなみにボクの声優は、古谷徹でお願いします!」

「じゃあ、オレは、池田秀一で!」

「そんな高い声優、今のガイナックスが雇えるか!!」

再び冬月の一喝が響いた。

 

ビクリと首を縮める二人に、冬月は声を(やわ)らげて、(さと)すように説明する。

 

「ガイナックスは、劇場版ナディアで失敗した時の借金が残っとるんだよ。今回も、余り予算が残っとらんのだ。そこの所を理解してくれたまえ」

 

その言葉に、日向は何度もうなずいた。

「あ、はい……俺もナディアの劇場版はみました。確かに、あれは酷かったですね」

「劇場版だけじゃない。文庫版の方も失敗しとるんだ。小林弘利の『ナディアストーリーズ』は読んだかね?読んでみたまえ、後悔するぞ」

冬月は溜め息を付くと、声を落とした。

 

「実をいうとね、今回のエヴァが失敗したら、みんなで死のうかって所まで言っとるんだよ」

「そこまで切羽詰ってるんスか?」

「いやまあ……その前に何人かは京アニ辺りに引き抜かれるとは思うが」

 

「そうだったんですか……我がまま言ってすみません」

「分かってくれればいいんだよ、日向君」

 

「はい、もう声優は、神谷明で構いません」

「じゃあ、オレは内海賢二で」

「だから今更、声優変更する予算残ってねえつってんだろうが!」

一喝と共に、冬月は二人の襟首(えりくび)をつかみ上げた。年齢に似合わぬ力で、そのまま二人を引き上げる。

あがく二人に、冬月はニッコリと微笑んだ。

 

「余っている声優は、スナフキンをやっていた一流声優の子安武人と、覇王大系リューナイトの主役を演じた結城比呂だ」

「そ、それでお願いします……」

襟首をつかまれた状態で、二人はうなずいた。

 

冬月が満足げに手を離すと、日向が咳き込みながらも

「と、所で……」

と、大切な質問をした。

「ギャラの方は、いかほどもらえるんでしょうか?」

「ふむ、予算がないんで初めは現物支給という事で……四年前のナディアのカレンダーが余っとるから、それでどうだね?」

「帰っていいですか?」

「不法侵入の件で、通報していいですか?」

「う……」

冬月はニコニコ顔で、二人の肩に手を回した。

 

「君たちの選択肢は、警察にパクられて紙面を飾るか、ノーギャラでエヴァに出演するか、二つに一つなのだよ」

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「あの……青葉さん、どうしたんですか?」

「え……ああ」

 

ボンヤリと、ネルフに入る経緯を回顧していた青葉は、マヤの声に我に返った。

 

「一期生の採用試験って、どんなんだったんですか?」

「その……一次、二次とあってだね……。一次試験の内容は、カ、カラオケだったかな?」

「カラオケですか!?」

 

目を丸くするマヤ。

 

「ほら、何しろアニメに出演するからには、OP曲とか歌う機会もある訳だからさ」

「なるほど。それじゃ、二次試験は?」

「……い、一発芸だったかな?ほ、ほら、ネルフは個性を大切にするから。ちなみに、オレの芸は、アニメ三銃士のフランソワの物真似だったね」

「フランソワの物真似がお得意なんですか?」

「いや、得意って訳じゃないけど、声優が同じだからね」

 

照れたような素振りを見せて、青葉は乾いた笑い声を上げた。

 

「しかし、マヤちゃんは凄いね。オーディションで藤原紀香に勝つなんて」

「そんな。単に私の水着姿が紀香さんよりも凄かっただけですよ。あはは」

互いに引きつった笑顔を見せ合う青葉とマヤ。

 

二人は、本能的に余り触れてはならない話題だと感じると、納得した振りをして、二度と、この手の話題を口にすまいと誓ったのだった。

 

マヤは、自身のディスプレイに向き直ると、そっと冷や汗をぬぐった。

(まあ、どっちにしろ。青葉さんや日向さんは、私よりも、まともなはずよね……)



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伊吹マヤの場合(1)

ゲルヒンが解体し、特務機関ネルフが発足して一年目の事・・・。

そう、今から四年前のお話。

 

 

「ちょっと、ちょっとリツコ!あんた凄いじゃない!」

 

ネルフ本部司令室。

司令室のフロアは、スタッフの地位に応じて、三段階に分かれた独特の構造をしていた。最上段が司令と副指令のディスク、最下段が上級オペレーターのディスク、そして、その中間が幹部クラスの為のディスクだ。

 

まだ一年目の初々しいスタッフたちが詰める中、白衣の女性がくつろいでいた。ディスクの位置から察して、幹部クラスらしい。

机の上には、世界的な権威を持つ科学誌・ネイチャーを広げ、その横には、かたわらのコーヒーメーカーから出されたブラックを一つ置いている。

 

目の前に()えられたディスプレイのスピーカーからは、画面に映る長い髪の女性の感嘆の声が聞こえた。

 

「ネイチャーに掲載されるのって、これで何度目よ?あれって、たった一回載っただけでも凄いんでしょ!?」

 

彼女の言うとおり、机上に広げられたネイチャーの紙面には、この白衣の女性の論文と共に写真が掲載されていた。

 

「もう“赤木リツコ”ってだけで、世界に通用しちゃうわね」

 

誉めそやす親友に、白衣の女性・赤木リツコも微笑を浮かべて言葉を返した。

 

「ミサト、そういうアナタだって。聞いたわよ。この間、そっちの射撃大会で優勝したんでしょ?新記録出したって話じゃない」

「そうそう。お陰で、昇進しちゃったのよね~」

 

ディスプレイの向こうで身を乗り出したのか、かざされた握り拳と共に、美しい女性の顔が画面一杯に広がった。

 

「オットコどもに、負けてらんないもの!こっちでどんどん出世して、日本に帰る頃にはリツコに追いついて見せるわよ!見てなさ・・・て、そっちの子は誰?」

 

親友の問い掛けに、リツコは、いつの間にか椅子を寄せてきていた職員の存在に気付いた。

片手でメガネの端を持ちながら、リツコのディスプレイを横から覗き込んでいる。

 

「ああ、新人の日向君よ。本部オペレーターをしてくれているの」

「どうも」

 

日向は、ディスプレイのカメラに向かって会釈を返すと、リツコにささやいた。

 

「この人・・・博士の友達ですか?」

「葛城ミサトよ。学生時代からの腐れ縁って奴ね。今は、ドイツ支部で勤務してるの。綺麗でしょ」

「はい・・・!」

 

ミサトの顔を食い入るように見つめながら、日向は感歎したように返事を返した。

 

「でも、ミサトは、ただの綺麗な薔薇(バラ)じゃないわよ。こうみえても射撃、体術、戦術の分野では、いつもトップの成績なの。綺麗だと思って下手に触れば・・・」

 

親友の紹介を始めるリツコ。だが、言い終わらない内に、急にディスプレイが暗転した。同時に、スピーカーも沈黙する。

 

「あら」

 

リツコは、手元のキーを叩き、マシンの状態を確認した。そして、直ぐに溜め息を吐く。

 

「まったく・・・また、あの子が来たのね」

「どうしたんですか?」

「PCに不法侵入よ。勝手にミサトとの回線も切られちゃったみたいだわ」

「へえ、不法侵入ですか・・・て、え!?」

1テンポ遅れて、日向の顔が引きつった。

 

「不法侵入!?うちのセキュリティー突破するなんて有り得ないでしょ!」

「それが有り得るのよ」

 

驚いた表情を向ける日向に、リツコを肩をすくめてみせる。

 

「ネルフのセキュリティーに検知も遮断もされず、何度マシン名を替えてもピンポイントで私のPCを割り出して、直接、私にちょっかい出す・・・・そういう事が出来ちゃう子なのよ。しかも簡単に」

 

「まさか・・・」

「『ブラッディ・エンジェル』・・・・この中二病みたいな名前、アナタだって聞いた事あるでしょ」

 

『ブラッディ・エンジェル』といわれ、日向は一瞬視線を()らして記憶をたどった。そして、目を閉じて記憶の倉庫の中を探索するまでも無く、直ぐに思い当たった。

 

「この前、アメリカのペンタゴンに侵入したっていう・・・あのクラッカーですか!?」

「そう。ペンタゴンに4000万ドルの被害損額を与えた凶悪犯よ。そんな子に付け狙われるなんて、私も買いかぶられたものね」

 

驚愕する部下を尻目に、リツコはキーを打つと、チャットを立ち上げた。

 

「さあ、堕天使ちゃん。いらっしゃい」

 

ディスプレイに映し出されたチャットに、侵入者がログインする。ログイン名は、やはりBloody angelだ。

 

-----------------------------------------------------------

 

Bloody angel:よう、赤木博士。久しぶりだな

 

Ritsuko:昨日も、同じ時間に来なかったかしら?

 

Bloody angel:そう、24時間ぶりだ。寂しかったかい、マイハニー?

 

Ritsuko:今日は何の用かしら?

 

-----------------------------------------------------------

 

二人の会話が、チャット上で交差する。日向は、世界的なクラッカーとのコンタクトが信じられないのか、ただ呆然とやり取りを見守っていた。

 

-----------------------------------------------------------

 

Bloody angel:赤木博士。今日は、大先輩である博士に、ぜひとも聞きたい事があってきたんだ。

 

Ritsuko:いいわよ。私ごときで良ければ、何でも聞いて。

 

Bloody angel:今日のパンツの色は何色だい?

 

-----------------------------------------------------------

 

リツコは眉根を寄せた。かたわらの日向に、「いつもこんな調子なのよ」とささやき、肩をすくめて見せる。

 

-----------------------------------------------------------

 

Bloody angel:へへへ、赤木博士。照れてるのかい?

 

Bloody angel:恥ずかしくて言えないのなら、画像で送ってくれてもいいんだぜ :D

 

Ritsuko:さて、何色だったかしらね?

 

Bloody angel:おいおい、マイハニー。恥ずかしがるなよ(>_<)

 

Ritsuko:アナタ歳いくつ?

 

Bloody angel:10でちゅ。

 

Ritsuko:職業は?

 

Bloody angel:さあて、総理大臣でもしようかね。

 

Ritsuko:あら、無職の引きこもりさんかしら?

 

Bloody angel:What?

 

Ritsuko:可愛そうに。さびしくて、構って欲しくてたまらないのね。

 

Bloody angel:hahahahaha……面白い冗談だ。

-------------------------------------------

 

急に、司令室の職員たちが騒ぎ出した。

 

「なんだ!?保安部のコンピューターが・・・・」

 

司令室の下段のディスクから、リツコに報告が上がる。

 

「赤木博士!ネルフ各部署のシステムが、一斉に攻撃を受けています!」

 

犯人はいうまでもなかった。

 

-------------------------------------------

Bloody angel:構っておくれよ。子猫ちゃん~。あらあら、世界中から怖い怖いゾンビがノックしてるよ~。

 

Bloody angel:あれ~、勝手に扉が開いちゃたねえ~。

 

Bloody angel:マイハニー、謝るなら今の内かもよ~?

 

-------------------------------------------

 

リツコは、渋い顔をした。

数万台ものゾンビPCによるDDOS攻撃だ。いつの間にかバックドアも仕組まれていたらしい。

 

「なめられたものね‥‥」

 

リツコはつぶやくと、キーを弾き始めた。

 

「あ、赤木博士!オレにも手伝える事ありますか!?」

 

世界的なクラッカーとの対決とあって、日向が興奮気味に身を乗り出してきた。

 

「ええ、ぜひとも日向君の協力が必要だわ」

「了解です!なんても言ってください!」

「じゃあ、コーヒーいれてもらえるかしら?」

 

 

・・・・・・数十分後。

 

「はい、ゲームセットでいいかしら?」

 

日向が注いだ二杯目のコーヒーを飲み終わった時、リツコの口からゲームの終了が宣言された。

既に、全てのシステムは何事も無かったかのように回復し、仕掛けられたウィルスは全て検出され、DDOS攻撃も完全に遮断されていた。

 

-------------------------------------------

Bloody angel:さすが、マイハニー。この程度じゃビクともしないか。

Ritsuko:あなたの発信元も突き止めたわよ。

Bloody angel:Gブロック991の住所なら、残念ながら違うぜ。

Ritsuko:やっぱり偽造なのね。

-------------------------------------------

 

リツコはため息をついた。

 

-------------------------------------------

Ritsuko:あなたと違って、社会人の私は暇じゃないのよ?一体、何が目的なの?

Bloody angel:オレが三月(みつき)前に仕込んだプレゼントに、マイハニーが気付いてくれないからさ。

Ritsuko:プレゼント?

Bloody angel:そっちのスーパーコンピューター……マギだっけ?自分の子供と勘違いして、おかしなファイルを取り込んでないかい?

-------------------------------------------

 

「何ですって!?」

 

リツコの顔色が変わった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

ネルフ本部に、定時を告げる音が鳴り響いていた。

しかし、職員たちは誰一人として帰り支度をしようとはしなかった。

みな、一応に蒼白な顔でPCに向き合っている。

 

既にクラッカーが立ち去ったディスプレイの前で、リツコは頭を抱えていた。

 

「なんて、とんでもないものを仕込んでくれてたのよ……」

 

クラッカーの指摘通り、本当にマギの内部にそれはあった。

クラッカーは、マギを破壊できるウィルスだと告げたが、リツコ、いや、ネルフのエンジニアたちが総力を挙げても、それを取り除くことはできなかった。

バッチファイルに偽装……いや、既にマギのOSの一部と入れ替わっており、下手に取り除けば、関連システムにどんな影響を与えてしまうか分からなかった。

しかも、排除したくとも、マギ自身がそれを拒絶している。

 

オペレーション室の巨大なモニターには、カウンターが表示されていた。

ウィルスが暴走を始めるまでの時間だ。まだ2時間程度の猶予(ゆうよ)があったが、リツコたちに取っては、それは余りにも短すぎた。

 

「どうします。赤木博士?」

 

焦燥(しょうそう)しきった様子で、日向がリツコに声を掛けた。眼鏡がずれ落ちかけている。

だが、リツコは頭を抱えたまま、返事をしようともしなかった。もう、そんな気力すら残されていないのだ。

 

日向は、ずれ落ちそうになった眼鏡を掛けなおすと、

「いっそ、外部の……世界的なエンジニアに打診……」

「バカな事いうんじゃないわよ!」

言いかけた所で、リツコの怒声に(さえぎ)られた。

 

「ネルフの機密を外部の人間に見せるなんて……」

 

「でも、僕たちだけじゃ無理ですよ。外部……せめて、口止めが聞きそうな優秀な知り合いでもいれば……」

 

「そんな人材が都合よくいる訳……」

 

そこまで言って、リツコは、突然席を蹴って立ち上がった。

 

「ど、どうしたんですか……」

 

日向が見上げると、リツコは何かを思い出したかの様な表情をしていた。焦点が定まらない顔を日向に向ける。

 

「いたわ……私の後輩に……」

 

リツコは携帯電話を取り出すと、誰かに掛けだした。

携帯を耳に当てながら、呼び出し音をもどかしそうに聞く。が、呼び鈴が五回も鳴らない内に、携帯を切り、また別人に掛けなおした。よほど焦っているのだろう。

三人目に掛けなおした時、今度は直ぐに応答があった。

 

「あ、私よ!赤木よ!うちの大学に、すごい子が在籍してるって話があったわよね!?……そう、二年飛び級してる伊吹なんとかいう子よ!今すぐ会いたいの、いつもの喫茶店でいいわ!ノートパソコン持参で……は?先輩命令よ!あんたはいいから、その子だけ呼び出して頂戴(ちょうだい)!」

 

リツコは一気にまくしたてると、携帯を切るなり、乱暴にバックにしまった。

そのままバックを肩にかけ、唖然(あぜん)と見守るオペレーターたちに告げた。

 

「後輩に、とんでもないエンジニアがいる事を思い出したわ!まだ学生だけど、役に立つかも知れないわ!」

 

そして、そのまま司令室から駆け出して行こうとする。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。赤木博士!」

「何よ、眼鏡!」

「日向です!いくら後輩だからって、面識もない相手に……」

「機密を()らしそうなら、ぶっ殺すまでよ!うちの大学じゃ、OBは後輩殺してもいいのよ!」

 

無茶苦茶な事をいいながら、リツコは司令室を飛び出して行ったのだった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

喫茶店のドアが開閉する度に、備え付けられたお洒落な鈴の音が響く。

 

「いらっしゃいませ~」

 

鈴の音が鳴る度に、店員の愛想の良い声が聞こえた。

その声を幾度も聞きながら、リツコは、喫茶店の奥の席で入り口を凝視していた。

来店したのは、仕事帰りとおぼしき中年男性だった。

 

リツコから溜め息が漏れる。腕時計に視線を落とす。既にタイムリミットは一時間を切っていた。

それなのに、いまだ後輩が現れる様子はなかった。

リツコは、苛立(いらだ)たし()にテーブルを指先で叩いた。直ぐ隣の席でも、ノートパソコンを広げた少女が、さきほどからカタカタとキーを打ち続けている。

職場では気にならない騒音が、今は余計にリツコを苛立たせた。

 

「もう!いつになったら来るのよ、伊吹マヤ!」

 

リツコは、まだ会えぬ後輩の名前を思わず口に出して叫んだ。

 

「は、はい!」

 

なぜか、隣のテーブルの方から返事が返ってきた。

思わず、リツコと隣席の少女の視線が交差した。

 

「今、私の名前呼びました?」

 

しばしの沈黙後……

 

「もしかして、OBの人ですか……?」

「あ、あなた……」

 

リツコは、一瞬、怒りが沸き上がった。ずっと隣にいたのなら、なぜ、声を掛けなかったのか?

が、よく考えてみれば互いに顔を知らなかったのだ。自分の方にも非があった事を思い返すと、リツコは、余計な怒りを振り払って少女の手を取った。

 

「あなただったのね!OBの赤木リツコよ!」

 

リツコの剣幕に気をされながらも、少女は改めて名乗った。

 

「新東京大学・情報処理科……伊吹マヤです」

 



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伊吹マヤの場合(2)

喫茶店のアンティークな柱時計から、小さなハトが顔を出した。無言で左右を向いた後、再び巣穴へと戻る。後、30分経てば、再びハトが顔を出し、今度は真鍮(しんちゅう)製のオルゴールが鳴き声を(かな)でだろう。

それがこの店の九時の合図であり、同時に、マギに仕掛けられたウィルスのリミットだった。

 

「なるほど……さすがブラッディ・エンジェルといった所ですね……」

 

リツコから、まくし立てられるように事情を聞かされた後、自身のノートパソコンでマギにアクセスしたマヤは、既に、事の重大さを十分に理解していた。

 

「あと30分後に、メインコンピューター……そしてネルフの関連システム全てが破壊されますね」

「そう30分でね……」

 

リツコは頭を抱えていた。

(わら)にもすがる思いで、凄腕と噂に聞く後輩を呼び出してはみた。だが、残り30分。今更、何ができようか?

焦るあまり、冷静な判断力も失ってしまっていたらしい。

 

「では、30分以内に取り除きますので、先輩はサポートをお願いしますね」

「……そう、わざわざ来てもらって申し訳ないんだけど、やっぱり30分じゃ無理よね……って、は?」

 

リツコが思わず聞き返そうとした時、既にリツコのノートパソコンには、マヤのリモートでコンソールが開かれていた。

 

「取り合えず、必要な認証は先輩が解除してください。それさえしていただければ……」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

マヤの軽快なタッチを聞き流しながら、リツコは唖然(あぜん)とした表情で自身のノートパソコンを見入っていた。

 

(あり得ないわ……)

 

信じられない速度でウィルスが解析されて行き、正規の認証コードを求められる度に、リツコが解除するよりも先に、マヤの方が勝手に解除して行く。

リツコは、ほとんど指を動かす間がなかった。

 

後輩たちから、大学にとんでもないスキルを持つ子がいるという話は聞いていた。OSを一か月で独自開発できるだの、大学のコンピューターに侵入してきたブラッディ・エンジェルを撃退しだの……眉唾だったが、大げさではなかったらしい。

 

「しかし、ブラッディ・エンジェルとかいうバカな名前に(ひと)しく、バカな事をやってくれたものだわ」

 

仕方がないので、リツコは指の代わりに口を動かした。

 

「こんな悪戯(いたずら)して喜んでるなんて、私生活では誰からも相手にされないような、よほど根暗な男なんでしょうね」

「いえ、男じゃないですね」

 

マヤは、コンソールから視線を放さずに、意外な事をいった。

 

「ブラッディ・エンジェルは、女だっていうの?」

「女性です。私は、彼女の顔も見たことがあります」

「本当に!?」

「ええ、思わず溜め息がでるくらい、可愛い子でした」

 

リツコは信じられないという風に、怪訝な表情を浮かべた。

確かに、大学に侵入したブラッディ・エンジェルを撃退したという話が事実なら、それを切っ掛けに、二人が交信する事も在り得るだろう。だが、そう簡単に相手に素顔をさらすものだろうか?

 

「可愛い女の子……そんな子が、どうして、こんなひどい悪戯をするのかしら?」

 

マヤは、キーを打つ手を止めた。

「解析は終わりました」

 

リツコのノートパソコンに、認証を求めるブラウザが表示された。だが、それは見覚えのないものだった。

 

「彼女は、ちゃんと、ウィルスを自壊させる為のパスワードが入力できる設定を仕掛けていたんです。きっと、本気で破壊するつもりはなかったんでしょうね」

 

マヤは、コンソールに落としていた視線を上げると、リツコを見つめた。

 

「彼女は、毎日、先輩のPCにアクセスしてきてたんですよね?」

「ええ、三月ほど前から、毎日、毎日ね」

「それは、ウィルスを仕掛けてしまった事に対する罪悪感からだと思います。きっと、何かの手違いで仕出かしてしまった事を伝えたくて……」

「そんな感じには見えなかったけど?どうして、そう思うのかしら?」

 

リミットまで15分の猶予(ゆうよ)があった。マヤの実力なら、多少の雑談時間は問題にならないだろう。

 

「私の専攻は、「情報処理・心理学」というものです。私は、プログラミングの書き方をみるだけで、その時のプログラマーの心理状態が分かるんです」

「……まさか」

「本当です」

 

マヤは、解析したウィルスのデータを表示させながら説明を続けた。

 

「この書き方を見る限り、彼女は酔った勢いでやってしまっていますね。その証拠に、コードの並び順が千鳥足に似ています。しかも、かなりのヤケ酒……自暴自棄に陥って、たまたま目に付いたネルフに不正アクセスして、そのまま酔った勢いで仕掛けてしまったようです」

 

「本当に?そんな事が分かるの?」

「はい、分かるんです。間違いありません」

「じゃあ、どうしてヤケ酒なんてしてたのかしら?」

 

マヤは、さらにデータに目を通し、推測する。

 

「どうやら当日、初めて合コンに誘われたようですね。でも、コミ障なものだから、男の人と一言も話せなくて……最後は独りだけ余っちゃった事が悔しかったんでしょう」

 

リツコの表情がひきつった。

 

「そんな下らない理由で、こんな、とんでもない事を仕出(しで)かすものかしらね……」

 

「下らない理由じゃありません!」

突然、マヤは声を上げて否定した。

 

「だって、ブスのくせに、押しの強い子たちが男の子たちと盛り上がってて……自分は隅っこでウーロン茶飲んでみてるだけなんて……可哀(かわい)そうすぎるじゃありませんか!」

 

マヤは、ブラッディ・エンジェルを(あわ)れむ余り、目に涙まで溜めていた。

 

「しかも、独りぼっちで帰った後、メールが来るんです。『マヤちゃん、今日は楽しかったね。また集まろうね~』とか、お持ち帰りしてくれた男の子とツーショットの画像付きで……そりゃ、ふざけんなって、なりますよ!」

 

「……それでヤケ酒した訳?」

 

「あ、でも、私、日ごろはそんなに飲まないんですよ。あの時は、本当にムカついて……ぐえ」

 

リツコの両手がマヤの首を()めあげていた。

 

「あんたが、ブラッディ・エンジェルだったんかい!」

 

首を絞められながら、マヤは驚愕の表情を浮かべた。

 

「ど、どうしてそれを……先輩、もしかしてエスパー?」

「あんたが今、自白したんでしょうが!」

「ま、待って下さい……お、落ち着いて……」

 

マヤは、リツコの手から解放されると、咳込みながら弁明を始めた。

 

「ほ、本当にあの時は……日頃、飲まないお酒を飲んだものですから……ほとんど無意識にやっちゃったんです」

「だったら何で、直ぐにネルフに報告しなかったのよ!」

「も、もちろん、報告しようと思いましたよ……だから毎日、毎日、先輩のPCに訪問してたんじゃないですか……」

「毎日、私のパンツの色、聞きに来てただけでしょうが!」

「それはその……私、コミ障なものですから、話題の切っ掛け作りが苦手で……グエ」

また首を絞められた。

 

「大体、さっきの顔を見た事あるとか、溜め息がでるくらい可愛かったとかいう(くだ)りは何なのよ?」

「み、見たことあるのは本当です……今朝も洗面台の鏡の前で見ました。本当にため息がでるくらい可愛くて」

「ナルシストか!」

 

 

「あの、お客様……店内でもめ事は……」

二人のやり取りに、心配になった店員が声を掛けた。

 

「ああ、ごめんなさい。大学の後輩を注意してただけだから……」

 

リツコは声を落とすと、マヤの首から手を放して席に座りなおした。

 

マヤは、コンパクトを取り出して、うっ血して赤くなった自身の顔を確認した。

「やだわ、顔が真っ赤。これじゃ紅顔の美少年ならぬ、紅顔の美少……痛っ!」

テーブルの下で、リツコがマヤの足を踏んだ。

 

「さっさと、パスワード入力してウィルスを自壊させなさい……あと、五分しかないわよ!」

 

マヤも小声で返す。

 

「その前に先輩に質問が」

「何よ?」

「やっぱり、赤木っていうくらいだから、パンツの色は……痛っ!」

 

また足を踏まれた。

 

「さっさと、解除しなさい!」

 

しかし、リツコに急かされても、マヤはパスワードを入力しようとしなかった。

「それが、その……一つ問題が……」

「何よ?」

 

リツコは、マヤの足を踏む準備をしつつ聞き返す。

 

「このSSの作者、キーを打つ時は、ブラインドタッチどころか、ディスプレイすら見ないで打てるそうです。ややこしい文字変換の時だけ見るとか……」

「それが何?」

「でも、私ほどのレベルになると、ディスプレイを見ない所か、酔っぱらって寝ながら足の指でキーが打てちゃうんです」

「だから何?」

「無茶苦茶にキーを打ってたはずなのに、さすが天才のサガと申しますか……朝、気付いてたら、このウィルスを作成から仕込みまでやっちゃってた訳ですよ」

「だから?」

「そんな状態で作ったんですから、パスワードなんか覚えてるわけ……痛っ!」

 

今度は思いっきり蹴っ飛ばされた。

 

「ふざけんじゃないわよ!あと、二分よ。どうにかしなさい!」

「と、取り合えず、私に関するキーワードを一通り入力してみます」

マヤは慌てて、パスワードを打ち込み始めた。

 

『MAYACHAN KAWAII』(マヤちゃん 可愛い)

『MAYACHAN BIJIN』(マヤちゃん 美人)

『MAYACHAN  LOVELOEVE』(マヤちゃん ラブラブ)

『MAYACHAN DYNAMITE』(マヤちゃん ダイナマイト)

 

 

目にも止まらない速さで数十通りのパスワードを打ち込んだが、どれも認証しなかった。

 

「そんな、おかしいわ」

「さっさとしなさい!」

 

『MAYACHAN DAISUKI』(マヤちゃん 大好き)

『MAYACHAN BEAUTIFUL』(マヤちゃん 美しい)

『MAYACHAN SEXY』(マヤちゃん セクシー)

 

さらに、数十通り打ち込むが、どれも認証しない。

 

「さっさとしなさい!っていうか、なんぼどナルシストなのよ!」

 

喫茶店の柱時計から、ハトが顔を出した。

 

「もう30秒切ったわよ!」

「だって、これ以外思いつかないんです!」

 

マヤは、さらに何通りか打ち込んだが認証しない。

「あと、10秒よ!」

「先輩も何か打ち込んで下さい!」

 

リツコは舌打ちすると、やけくそになってキーを叩いた。

 

「もう、バカバカバカバカバカ!」

 

『BAKABAKABAKABAKABAKA』

『認証しました』

 

「へ……」

やけくそになって打ち込んだリツコのパスワードは、あっさりと認証された。

どうやらマヤは、合コンでの悔しさをそのままパスワードに設定していたらしい。

 

「せ、先輩、すごい!」

マヤは感歎の声を上げて席から立ち上がった。

「私ですら解けないパスを、一発で解いちゃうなんて!」

咳ばらいをするリツコ。

「ま、まあ……私に掛かれば、こんなものよ」

 

かくして、犯人の協力とリツコの気転により、ネルフの危機は救われたのだった……。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

マヤは、テーブルに両手をついて頭を下げると、自らの過ちを謝罪した。

 

「本当に、本当に……申し訳ありませんでした」

「私の顔も知ってたんでしょ?なんで、喫茶店に私が来た時点で声を掛けなかったの?」

「だからコミ障ですから……どう声を掛けてよいか分からなくて……」

「あの時、私があなたの名前を呼ばなかったら、そのままリミットまで黙ってるつもりだったの?」

「いえ、こっそり解除するつもりでした……でも」

「でも、最後は私がいなきゃ、解除出来てなかったわよね」

「……はい」

 

リツコは深々と嘆息した。

「どう、落とし前を付けてくれるつもりかしら?」

 

マヤは恐る恐る(おもて)を上げた。意外にもリツコの表情に怒りはなかった。怒りよりも呆れの方が大きいのだろう。

 

「私を……ネルフで働かせて下さい!きっとお役に立って見せます!」

「あら、お()びにネルフでタダ働きしてくれるのかしら?」

 

「いえ、出来れば……各種保険込み、初任給は手取りで二十万台からで、初年度からボーナスは半年分……あと、毎年一か月くらいのバカンスを取れる待遇で……」

「はあ……?」

 

マヤは照れ臭そうに、続けた。

「私、ピチピチの二十歳なんですけど、飛び級してるから今、四年生なんです。でも、就活さぼってたせいで、まだ内定なくて……ちょっとヤバいんですよね。テヘ」

 

今度はリツコの細指ではなく、両腕でガッチリとヘッドロックをかまされていた。

 

「ど・こ・ま・で、ふ・ざ・け・て・の・よ……」

「せ、先輩……こ、今度はマジで死にます……」

 

リツコは腕の力をゆるめると、もう一度深々と嘆息(たんそく)した。

「でも、確かに実力がある事は間違いないわね……」

「はい、だからVIP待遇で……ぐえ」

 

また腕に力がこもる。

 

「研修期間三か月!以降は各種保険ありで手取り15万から!ボーナスは初年度は無し!勤務はシフト制で、バカンスはないけど、月に10回保証するわ!もちろん、残業手当もしっかり」

「ね、年末年始とお盆休みは……」

「今は平穏だから交代で取れるようにするけど、異変が起きたら無しだと思いなさい!」

 

そこまでいうと、リツコはマヤを解放した。

「本日()った今、赤木リツコの権限をもって、伊吹マヤを内定します。卒業したら、ネルフに来なさい!後で書類も送っとくわ」

 

「あ、ありがとうございます!あ、でも、授業もさぼってて単位がヤバイので、卒業できなかった時は……」

「とっとと中退してきなさい!」

 

かくして、伊吹マヤは無事に……厳密には、大学のコンピューターに不正アクセスして単位を改ざんし……大学を卒業すると、ネルフに入社したのだった。

赤木リツコ自らに推薦を受けた優秀なエンジニアとして……。



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第二章 似た者同士
知ってしまった未来


懐かしいアニメの主題歌が聞こえる。

アニメ・セーラームーンのムーンライトの曲だ。

 

(葛城さんも、何を着信曲にしてんだか……)

 

日向は、携帯に耳を当てながら、苦笑した。

セーラームーンの主人公・月野ウサギとエヴァの葛城ミサト……声優が同じだからって、もう少し歳を考えるべきだろう。

 

曲が終わり、また初めから再生される。これで5ループ目だが、ミサトはまだ出ない。

 

(やっぱり、まだ寝てんのかねえ……?)

 

日向は、自室の時計を見やった。時計の針は七時を指していたが、今日は日曜日だ。ズボラなミサトなら、午後まで寝ていてもおかしくはない。

 

(しゃーない、後で掛けなおすか……)

 

と、急に曲が途切れた。

 

『はい、もしもし……』

 

「あ、葛城さんですか……って違うか?」

 

『はい……シンジです』

 

まだ意識がハッキリとしていない、寝起きの声。

 

「ああ、シンジ君か。日向だけど……ごめん、寝てた?そっちに葛城さんいるかな」

 

ミサトのことを(たず)ねながら、日向は少し眉を寄せた。

 

(なんで、葛城さんの携帯にシンジ君が出てるんだ?)

 

『ミサトさん……日向さんとかいう人から電話です……』

 

(おいおい、シンジ君。まだボクの名前覚えてないのかよ……?)

 

シンジの呼びかけに、直ぐに「はいよ」とミサトの声が聞こえた。

 

『は~い……なに、眼鏡君……』

 

こちらも寝起きの声……って、ええ!?

 

「って、ちょっと……二人とも寝起きの声って……」

 

『あによ……眼鏡……』

 

「いや、まさか……一緒に寝てたんじゃないですよね……?」

 

驚いた様子の日向の言葉に、受話器の向こうはしばし沈黙した。

 

『そういえば、シンちゃん……なんで、あたしたち、一緒の布団で寝てんのかしら?』

 

やはり一緒に寝ていたらしい!

 

『それは……昨日、酔って帰って来たミサトさんが、部屋を間違えて飛び込んできたんじゃないですか……』

 

『そうなの?』

『そうですよ。ボクが逃げようとしても、ボクの腕をつかんだまま寝ちゃって……』

 

再びわずかな沈黙を挟んでから、受話器を少し遠ざけたのか、ミサトの小さな声がポツリと聞こえた。

 

『シンちゃん、もしかして私たち……やっちゃった?』

『やってません!』

 

(おいおい……)

 

『じゃあ、私が泥酔してる内に、エッチなことしちゃった?』

『してません!』

 

『いや、思春期の男の子なんだからあ……おっぱいくらい触ったんでしょ?』

『さ、触ってません!』

 

「もしもし、葛城さん~!」

 

『あ、日向君』

 

日向の(とが)めるような呼びかけに、ミサトがやっと受話器を取りなおした。

 

「葛城さん。なにやってんですか……」

 

『ごめんなさい。昨日、酔って帰ったら……私が抵抗できないのをいい事に、シンちゃんが「僕を子供だとバカにし過ぎですよ」とかなんとか言って、私を無理やりベットに……』

『ちょっと、なに言ってるんですか!』

『いや、ベットに寝かせてくれたんでしょ~?』

『そ、それはそうですけど……』

 

日向は溜め息を吐いた。

 

「いいですね。そっちは朝っぱらから楽しそうで……」

 

『で、何の用?』

 

「昨日、うちの近所のブックオフで、葛城さんが欲しがってた例のCD見つけたんですよ。昨日、慌てて電話したんですけど繋がらなくて……良かったら買っておきましょうか?」

 

『マジで?うん、じゃあお願いするわ……』

 

「はい、じゃあ、明日職場でお渡ししますね」

 

日向は携帯を切ると、眉間にシワを寄せて舌打ちした。

CDをネタに、葛城さんとユックリと話したかったのだが……あちらはまだ脳味噌が目覚め切っていないらしい。

それに事情はどうあれ、同じベットに……未成年とはいえ、他の男が隣にいる中で話すのは、余り愉快なものではなかった。

 

「まあ、あの葛城さんとシンジ君だから、余計な心配はいらないだろうけどさ……」

 

日向は、もう一度嘆息(たんそく)すと、自室のベットに仰向(あおむ)けに夜転んだ。

携帯を放り出し、つぶやく。

 

「シンジ君……いいなキミは」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「いらっしゃいませ~」

 

昼間近くになってから、日向はブックオフにやってきていた。

 

(CDは買ったし……あと、ボクも何か面白そうな漫画でも探そうかな……)

 

日向は店内をうろつくと、中古DVDのコーナーで歩を止めた。

 

「お、エヴァのDVDは一通りそれってるな……さすが地元」

 

腰をかがめ、DVDを眺めていた日向の眼鏡のレンズに、ふと、学生服姿のシンジがエヴァに搭乗しているパッケージが映った。

 

(劇場版「Air / まごころを君に」か……)

 

日向は、旧劇場版のDVDを手に取ると、マジマジとパッケージを見詰めた。

脳裏に、赤木リツコの言葉がよみがえる。

 

『日向君、劇場版は見ないほうがいいらしいわよ。かなり(うつ)になるか、混乱するかのどっちからしいから……』

 

以前、青葉、マヤの三人で新劇場版の話で盛り上がっていた時、途中から口を(はさ)んできた副司令の言葉も思い出す。

 

『あっちの世界はあっち、こっちの世界はこっちと、ちゃんと割り切れているなら結構だが……見るなら「序」と「破」くらいに留めておいた方が良いかも知れんぞ。旧劇場版のような結末になったら最悪だから……ん、ああ、そうか……キミらの間では旧劇場版の方はタブーだったな。……こっちの世界(SS)の者で、みたのは私とゲンドウくらいか』

 

(これ……みんな見るのはずっと()けてるんだよな……)

 

眼鏡を掛けなおし、パッケージの解説を読み上げるが、やはり詳しい内容は分からない。

 

(ボクと葛城さん、どうなっちゃうのかな……気になるなあ……)

 

しばしパッケージを見詰めていた日向は、辺りをキョロキョロとうかがうと、さり気なくDVDを小脇に挟んだ。

そして、決意した様子で、レジに足を向けたのだった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「はあ、疲れた……」

休日だというのに、ネルフの自分のデスクで仕事をこなしていたリツコは、軽く伸びをした。

肩をほぐそうと、首を少し回す。

 

「あら、誰かいるのかしら?」

 

首を後ろに回した所で、リツコは誰かが入り口にたたずんでいる事に気づいた。

視線をディスプレイに戻し、時間を確認するが、既に夕刻だ。

 

「今日、当直だったかしら?」

 

いぶかしむリツコをよそに、日向は、入り口で突っ立ったまま、沈うつな表情で黙っている。

 

「どうしたの日向君?ずいぶんと、深刻そうな顔をして……」

 

リツコの呼びかけに、日向は黙って近付いてきた。そして、一枚のDVDを差し出した。

今朝、ブックオフで購入した旧劇場版・エヴァンゲリオンだ。

 

リツコは眉根を寄せた。

 

「あら、見ちゃったの……。()した方がいいって……」

「そうじゃないんです!」

突然、日向は怒鳴った。

 

「結末が憂鬱(ゆううつ)になるとか混乱するとか……そんなのはどうだっていいんです!原作の結末なんて、ボクたちには関係ありませんから……」

 

日向は深々と溜め息をつくと、カブリを振った。

 

「とにかく見てください!」

 

DVDを突きつけられたリツコは、しばしためらったが、

 

「しかたないわね……」

 

強引に差し出してくる日向の態度に押し負けるようにDVDを受け取った。そして、自身のPCに挿入する。

 

「初めから見なくてもいいんです……重要なのは」

 

ディスプレイに動画が表示されると、日向は、身を乗り出してマウスをつかんだ。そして、動画の特定の時間にポインターを合わせクリックする。

 

『同情はしないわよ。自分が傷つくのがいやだったら何もせず、ここで死になさい!』

 

画面に、エレベーターのドアにシンジを押し付けて怒鳴るミサトの姿が映し出された。

どういう状況なのかは分からないが、どうやらミサトは負傷しているようだった。気力を失い、涙をこぼすシンジに、ミサトは何事か説教している。

 

『他人だから何だって言うのよ!アンタここで何もしなかったら、あたし許さないからね!一生許さないからね!』

 

日向は動画を一時停止させると、しばし躊躇(ためら)ってから

 

「こっからです……赤木さん、よおく、見ててください……」

 

と再生ボタンをクリックした。

再び動き出した画面の中で、ミサトが、ペンダントをシンジに手渡した。そして……

 

「ここです!」

 

日向が叫んだ。

ひそめていたリツコの細い眉が、大きく見開かれる。

 

「これって……」

 

画面に映ったそれは、30近い大人の女が未成年と唇を交わす瞬間だった。

 

『大人のキスよ。帰ってきたら続きをしましょう』

 

見間違いではない事は、ミサト自身が画面の向こうから宣告してくれていた。

 

「ミサト……あなた……」

 

リツコは思わず絶句した。

 

「キスだけなら、まだギリセーフかも知れません。でも……」

 

いいながら、日向はカブリを振った。

 

「『帰ったら続きをしましょう』ってなんですか?……続きって、あれの事ですよね!?ダメでしょ、未成年相手に!」

 

「ちょっと、貸しなさい」

 

リツコは、日向の手からマウスを取り戻すと、巻き戻し、同じ場面を繰り返し再生させた。見間違いの可能性を信じたかったが、何度見ても何度聞いても、児童福祉法違反に触れかねないミサトの言動は変わらなかった。

 

リツコは、動画を停止させると、(ひたい)(おさ)えてうつむいた。そして、絞り出すようにうめいた。

 

「でも、これはあくまで原作の話であって……」

 

「こっちの話が、原作通りに進まないという保障はありますか?」

 

「……進むという保障もないでしょう?」

 

「もし、このSSの作者がオネショタ好きだったら?」

 

「……」

 

日向は真剣な面持ちで、リツコに詰め寄った。

「そもそも、このSSのタイトルだって『マヤとシンジの愛の劇場』だなんて……もろオネショタじゃありませんか!」

 

「でも、ミサトとの愛の劇場じゃないでしょ」

 

「作者が書いている内に、路線を踏み外す可能性だってありえます!」

 

日向の指摘は正しかった。第一章目の最後も、書いている内に、なんでか、あんな内容になってしまったのだから。

 

「そんな人に、葛城さんと未成年の同居生活を書かせ続けていいんですか!」

 

「……」

 

しばしの沈黙後、リツコはPCからDVDを取り出して、日向に返した。

 

「日向君、これはアナタが責任持って保管しておきなさい。くれぐれも、他の人には見せては……今、見た事を言ってもダメよ」

「どうするつもりなんですか?」

「いいから、今日の所は帰りなさい。私の方で善処するわ」

「はい……お願いします!」

 

休日出勤してまで事務処理をこなしていたリツコだったが、日向が帰った後、仕事の続きをする気にはなれなかった。

事務処理などよりも、もっと大きな事案が発生してしまったのだ。

リツコは、ディスプレイの前で、キーを打つべき両拳を握りしめたまま、真剣な眼差しで考え込み続けた。

 

(一章目の結末で、もうシンジ君とミサトがキスしちゃってんのよね……ミサトの冗談かと思ったけど……原作の方もこれじゃあ……)

 

リツコは意を決したように、口に出してつぶやいた。

 

「問題が起きる前に……タイトル詐欺と言われる前に……シンジ君とミサトは引き離しておく必要があるわね……」



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毎夜の悪夢

ズ、ズ、ズ……。

 

南極は、一日中太陽が沈まない白夜の季節のはずだった。

だが、白く(かす)んだ空も、その下に広がる無色の雪原も、今はどこにも無かった。

空は、まるで焼け焦げたかのように、赤茶(あかちゃ)けていた。

延々と続く雪の大地は(にご)り、辺りに、雪原には不似合いな金属の残骸が無数に散らばっている。

 

ズ、ズ、ズ……。

 

濁った雪の上に足跡を残しながら、一人の男が歩いていた。

肩で大きく息をしながら、一歩、一歩、弱々しげな足取りで、氷雪を踏みしめ、足跡と血痕を残してゆく。

周囲には、(ひょう)や雪粒ではなく、土砂をはらんだ吹雪が吹き荒れていた。

 

男の身体は、今にも膝から崩れ落ちそうだった。だが、彼は膝を雪の上に屈して、身体を休めようとはしなかった。両腕に小さな命を抱え、ただ、ただ、取り付かれたかのように歩き続けている。

 

男の腕には、小さな少女が抱かれていた。

少女の防寒着は真っ赤に染まり、グッタリとした様子で気を失っている。少女の吐く不規則な吐息(といき)が、その容態の深刻さを物語っていた。

 

やがて男は、まるで残骸のようになったキャンプ基地へとたどり着いた。壁の大部分が砕け散り、むき出しになった鉄骨が曲がり、引き千切れている。

男は、少女を傷つけないように、慎重に瓦礫(がれき)をどけると、目当ての物を見つけた。

 

カプセル型の救命ボート……それが四台ばかり、瓦礫の下に並んでいた。

男は、瓦礫を退()けながら、順番にカプセルを起動させていった。一つ目は作動せず、二つ目は少し振動しただけで停止した。三つ目は、鉄骨が突き刺さり(つぶ)れていた。

そして、四つ目は……。

 

無事、カプセルが作動し、ハッチが開いた。その中に、抱いていた少女を横たえさせる。

男は、目を閉じ、少女に対して十字を切ると、震える手でカプセルの外側のキーを操作した。その手は、酷い凍傷におかされ、幾つかの指は既に壊死(えし)していた。

 

カプセルの中に横たわる少女の頬に、ポタリと一滴の血の(しずく)が落ちた。

わずかに残る血の暖かさに、少女は目を覚ました。

 

「……」

 

衰弱した少女の視界はぼやけ、焦点がうまく合わなかった。辺りは薄暗く、目の前で何かのシルエットが動いていた。

だが、

 

「お父さん……?」

 

なぜか少女には、それが父である事が分かった。

 

かすんだ瞳に、暗いカプセルの中。見えないハズの父の表情。だが、少女には、父が笑顔を見せ、(うなず)いたように思えた。

指が欠けた父の手が、少女の小さな手に伸びる。少女は、自分の(てのひら)に何かを(にぎ)らされた感触をおぼえた。

 

「お父さ……」

 

少女がつぶやきながら、父へと手を伸ばそうとした途端、カプセルのハッチは閉じられてしまった。

 

数秒後、激しい爆音がカプセルの中に響いた。激しく振動し、何度も何度も身体が回転する。少女は恐怖感から、身を縮め、両耳をおおった。

 

今から思うと、それはほんの一瞬の出来事だったのかも知れない。だが、恐怖心が、その一瞬を長く長く感じさせていた。

 

 

どれほど経っただろうか……固く目を閉じ、両耳を強くおおっていた少女は、気付けば静寂の中にいた。そっと両耳から手を放す。何も響かず、何も聞こえない。

 

固く閉じていた(まぶた)を開け、暗いカプセルの中で、少女は手探りで解除キーに触れてハッチを開いた。

おそるおそる、少女は外の世界に顔を出した。

 

海上にポツリと浮かぶ一艘の救命カプセル……そこから見えたものは、二本の光の柱がそそり立つ……ほとんどの大地を消失した南極大陸だった。

少女は、震える手を強く握り締めた。手に固形物の感触を覚え、確かめる。

父から手渡された十字架のペンダント。今や父の形見となったそれが、少女の手の中にあった。

 

少女の瞳から、大粒の涙がこぼれた。

口を開き、叫ぼうとする。

 

「……!」

 

だが、手と共に震える彼女の喉からは、もはや言葉が発せられる事はなかった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

一体、あれからどうやって救助されたのか、(おぼ)えていないわ……。いいえ、その(あと)の病院生活の事も、ほとんど記憶にないの……。

あの頃は、まだショックが大きくて、周りの事が余り認識出来なかったのかも知れない。

でも、一つだけ鮮明に憶えている場面があるの。

 

どこかの病院の真っ白な個室。手元には、誰かがくれた少し大きめの熊さんのヌイグルミ。

それを抱きしめている時、扉の向こうからお医者さんたちが(ささや)く声が聞こえたの。

 

「脳にも声帯にも異常はなかった……失語症ではなく、心因性失声症のようだ……しかも、重度のな」

「可哀そうに……よほどのショックだったんでしょうね……」

「ここに来てから、まだ一度も笑顔も見せてくれていませんよ」

「治るでしょうか……」

「家族の協力を得ながら、長い長い月日が必要になるだろう。いつか彼女の笑い声が聞こえる時が来る事を信じて、治療を続けていくしかない……」

 

お医者さんがいった“失声症”……まだ14歳だった私は、それが何なのか知らなかった。

でも、言葉と笑顔を失ってしまった私の事を指してるんだろうって事は、何となく分かっていたわ。

 

あの時の私は、喉の奥から響くはずの音も、口元と目尻を緩ませる表情も……そして、この身体と命を守ってくれた父をも失っていた。

 

 

父さんは、家族よりも研究の方が大事な人だったわ。家にいない事の方が多くて、私は余り話した事はなかったし、抱きしめてもらった記憶もなかった。

一番良く(おぼ)えている父さんの顔は、眉間に深いシワを刻み込んで、何かを考えこんでいる顔だったわ。その眉を(ゆる)めて、私に微笑(ほほえ)んでくれた事なんて無かったと思う。

 

 

そんな父さんが、急に、私を南極行きの調査隊に同行させるって言いだした。

私の事なんて気にかけてこなかった父さんが、どうして、そんな事を言い出したのか分からない。でも、父さんの事を良く知る為の初めての機会だったから、私は付いてゆく事にした。

 

南極で過ごして数日後に起きた事故……いいえ、『あれ』が現れて、みんな燃やされて……、みんな吹き飛ばされて……、私も大怪我を負った時、私は父さんに抱きしめられた。熱風と土砂から私を守る為に。そして、父さんも怪我を負っていたはずなのに、私を抱きしめたまま、私を救命ボートまで運んでくれた。

 

今から思えば、父さんの暖かみを知ったのは、あの時が初めてだったのね。

カプセルに入れられた時、かすれる視界の中で、私を安心させる為に見せた父さんの笑顔……あれも初めてだった。

少し嬉しかった。でも、それっきり、私たちは引き離された。

氷山が溶けてできた海上に現れた……大きくて、白く輝く、あの化け物の手によって……。

 

 

母さんは、私の変わり果てた様子にショックだったみたい。何とか、私を元に戻そうと、ずい分と気遣ってくれたわ……。

 

「ミサトちゃん……ほら、お友達よ」

 

声も感情も失って、人付き合いが出来なくなっていた私の為に、沢山、ぬいぐるみを買ってきては、根気よく、私と遊ぼうとしてくれた。

 

でも、だんだん(うと)ましくなってたんじゃないかしら?

だって、いくら自分の娘だからって……話しかけても何も返さず、何をして上げても無表情の子供なんて、誰だって嫌になるじゃない。私だって……。

 

「何か切っ掛けがあれば、この子が笑えるような切っ掛けがあれば……」

 

母さんは独りになると、お医者さんに聞かされた言葉を反芻(はんすう)しながら、独りでつぶやき続け……そして、独りで泣く事が多かった。

 

 

でも、心因性の病気なんて、何が切っ掛けで治るか分からないものね。

あれだけ、お医者さんと母さんが手を尽くしてくれても、治せなかったのに……私の声は、ある日、たった一枚の写真を見ただけで取り戻せてしまったの……。

 

「なんでもいいんだ。彼の遺品の中に、書類らしきものやフロッピー……」

 

あの日の夜中……。寝れなくて、喉も乾いてて……キッチンに向った私は、応接間から聞こえる男の人の声に気づいた。

 

「いや、物じゃなくてもいい、何か言っていたか思い出して欲しいんだ」

 

応接間を覗くと、母さんと白髪の男の人がいて、母さんは困った顔をしていた。

 

「あの人は、研究所にこもりきりで、ろくに家にも帰って来なかったんです。研究については何も話そうとしなかったし……私たちだって興味は」

 

白髪で痩せてて、背の高い男の人……見覚えがあった。

父さんの調査船が出航する前に、基地で会ったことのある人。

調査隊では、皆から“冬月博士”って呼ばれてた人。

 

「おや……もしかして君は……」

 

入り口でたたずんでいる私に気づいた冬月博士は、

 

「おお、やっぱり、ミサトちゃんか!?君の父さんの研究について、聞きたい事があるんだ!」

 

ファイルを手に取って、私に近づいてきた。

 

「ミサトちゃん……大きくなったね。君の父さんについて……」

 

言いかけて、博士は思い出したように母さんの方を振り返った。首を横に振る母さんの様子に、冬月博士は、私が“失声症”だって事を思い出した。

 

「ああ、そうか……まだダメなのか……」

 

冬月博士が残念そうにうなだれた時、博士が持っていたファイルが滑り落ちて床に散乱した。博士は慌ててファイルを拾い、私もそれを手伝った。

 

拾ったファイルの中にあった一枚の写真……それが私の目に留まった。

真っ白な光を放つ巨人の写真……海の上に浮かぶカプセルから見たあの光景……。

 

気づいた時、私は失ったはずの声を取り戻していた。でも、お医者さんや母さんが期待していた『笑い声と共に』じゃなく、悲痛な叫び声として……。

 

あの時の記憶が鮮明に(よみがえ)った私は、恐怖から叫んだ。そして、写真の上に、ポタポタと、目尻からあふれた(しずく)を落とした時、

 

「お父さん……」

 

私の凍り付いていた声は、暖かい心によって解きほぐされるのではなく、それ以上に冷たい過去の記憶に叩き壊される形で解放されていた……。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「まだPTSDのケアが必要ですが、もう失声症の心配はないでしょう」

 

病院のお医師から告げられた後、冬月博士は何度か私の元に訪れたわ。

でも、私が父の研究について何も知らない事が分かると、少し残念そうな様子で

「ミサトちゃん、せっかく取り戻せたんだ。二度と失わないように、前だけ向いて生きなさい。振り返れば、また何かを落としていってしまうかも知れない」

そういって別れて行った。

 

冬月博士とは、それっきり二度と会う事はないと思ってた。でも、それから一年も経たない内に、博士は再び現れたの。

今度は、何も知らなかった私に、父さんの研究を教える側として……。

 

「ミサト君……私はようやく、彼の研究の一端について知る事がでたんだ。私は、いや、私たちは、ゲルヒンという組織で、その研究を引き継いでいるんだ。もし、君が父さんが何をしようとし、何を研究しようとしていたのか知りたければ、我々の元に来たまえ。私たちは君を歓迎するだろう」

 

過去を振り返るなっていった張本人が、一緒に過去を掘り起こす作業をしようというの。

その時は、ただ首を横に振ることしか出来なかった。前を向いて進みたかったの。思い出したくない過去を振り返ってまで、父さんの研究を調べたいとは思わなかった。

 

 

でも、おかしなものね……。

気づけば私は、大学で冬月博士と同じ形而上生物学を専攻してて、四年生の時には就職活動もせずに、ゲルヒンから届いた招待状を握りしめていた。

 

 

ゲルヒンに入ってから、私は色んな事を知ったわ。

南極の消失、地軸の変動、世界規模の天変地異の発生……いわゆるセカンドインパクトの原因は、隕石の衝突によるものだといわれていた話が、実は、情報操作によって造り上げられたウソである事を。

使徒……父さんと私の言葉を奪ったあの化け物が、セカンドインパクトを引き起こした張本人だという事を。

そして、人類に災厄をもたらす為に、あの化け物が再び現れるという事も。

 

あの化け物を倒せる唯一の兵器は、ネルフが開発した人造人間・エヴァンゲリオンだけ。そして、そのエヴァを操縦できる適合者はたった一人だけ。

 

エヴァンゲリオン零号機・パイロット・綾波レイ……私は彼女と親しくなりたかったけど、ちょっと気が合わなかったみたい。レイの方は、同性の私よりも司令にベッタリだったし。

私や他の人の前では微笑まないのに、レイは、司令の前ではまるで本当の親子みたいに振舞ってたわ。

ちょっと、羨ましかった……。

 

司令の息子……シンジ君がエヴァの適合者だと分かり、この第三新東京に召還された時、私が彼を迎えに行くと申し出たの。

もう一人のエヴァのパイロットと、少しでも早く会いたかった。

そして、シンジ君を迎えに行ったその日……私は、15年ぶりに、かつての悪夢をみた。

いつか現れる事は覚悟していた。正直、過去のトラウマに、震え上がるんじゃないかと思ってた。

でも、使徒を見た時に湧き上がったものは、恐怖心なんかじゃなかった。

私の胸中から湧きあがった、たった一つの感情……それは怒りだった。

 

 

父さんを奪った使徒……。

父さんの温もりと笑顔を、最初で最後のものに変えてしまった使徒……。

許せない……。

絶対に許せない……。

 

「絶対に……!!」

 

夢の中にいたミサトは、思わず声を上げて目を覚ました。



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保護者失格?

ミサトは、ベットから上半身を起こすと、部屋の時計を振り返った。まだ真夜中である事を確認する。

 

両手が固く掛け布団を握り締め、全身からは汗が(にじ)んでいた。夢から覚めても、使徒の姿が脳裏に浮かぶ度に、五体が痺れ、筋肉が強張った。

 

目を閉じると、時計の針の音がやけに大きく感じられた。深く何度も息を吐き、胸の動悸(どうき)が少しずつ収まるのを待つ。火照(ほて)った身体が徐々(じょじょ)に熱を霧散(むさん)して行くまで。

 

(ダメだわ……)

 

使徒・サキエルを見て以来、こんな夜が増えた。

夢の中で過去の出来事が一度によみがえり、それらが使徒に対する憎悪へと繋がり、湧きあがる怒りが安眠を妨げる。

 

ミサトは額を抑えると、深呼吸の代わりに溜息(ためいき)()いた。気を取り直し、横になろうとする……が

ふと、ミサトは(フスマ)の向こうに気配を感じた。

 

「シンちゃん……夜這(よば)いかしら?」

 

「え……いえ、その……」

 

案の定、(フスマ)の向こうからシンジのうろたえた声が聞こえた。

 

「すいません……トイレに起きたら、ミサトさんが、うなされてたから、ちょっと心配になっちゃって……」

 

ミサトは苦笑いをもらした。

 

「大丈夫よ。ちょっと寝ぼけただけだから」

「そ、そうなんですか……それなら良かった……部屋に戻りますね」

 

(フスマ)の向こうで、シンジが「お休みなさい」と付け足し、自室に戻ろうとした時、

 

「あ、ちょっと待ってシンちゃん」

 

ミサトは、大事な事を思い出して、少年を呼び止めた。

 

「私……シンちゃんに謝っておきたい事があるの……」

 

夜中に女性の寝室に入る事を遠慮し、シンジは閉じた(フスマ)越しに耳を(かたむ)けた。

 

「なんですか?」

「この前、使徒が来襲した時……ほら、迎えの車が事故にあって、シンジ君が車載電話で掛けてきた時……」

 

ミサトはしばしの沈黙を挟んだ。

 

「私、携帯電話を忘れてきたシンジ君にいったわよね?『こういう時の為に、携帯を持たせたんでしょうが』って……」

 

ミサトはかぶりを上げ、

 

「私……」

 

訴えかけるように続ける。

 

「私、あんなこと言っちゃったけど、本当は、そういうつもりで携帯を持たせた訳じゃないの。年頃のシンジ君には、その……お友達と連絡を取り合うのに必要だろうと思って……」

 

ミサトは、大きく溜め息を付き、うつむいた。

 

「興奮してあんなこと言っちゃったけど……仕事の為とか、監視する為とかじゃなくて……。私は、まだこっちの生活に慣れていないシンちゃんが、友達を作るのに必要だろうと思って……」

 

自分は何をいおうとしているのだろうか?

何だか、気持ちが落ち着かず、上手く伝えられなかった。

ただ、自分が放った言葉に対する後悔の念、そして、上司として少年を管理する為ではなく、少年を思いやる保護者として携帯をプレゼントした事を分かって欲しいという気持ちが、彼女の胸中に強くあった。

 

「分かってます、ミサトさん。ボクは、全然気にしてません。っていうか、すっかり忘れてました」

 

上手く言葉を(つむ)げないでいるミサトに、シンジはその心情を察して応えた。

 

「本当に気にしてないし……それよりも、ミサトさんから携帯電話をもらった事に対する喜びの方が……そんな言葉よりもずっと大きいんです」

 

シンジの声音(こわね)に、本当に嬉しそうな色彩が加わる。

 

「ボク、伯父さんのお世話になっている時、教材だとか、習っていた音楽関係の物しかプレゼントしてもらった事がなかったんです。だから、同居を始めた次の日に、ミサトさんがピカピカの携帯電話を手渡してくれた時、すっごく嬉しかったんです」

 

「……」

 

「ミサトさん、本当に有難うございます……」

 

ミサトは微笑(ほほえ)み、目を閉じて(うなづ)いた。

 

シンジがもう一度「お休みなさい」を告げると、ミサトは(フスマ)の向こうから遠ざかって行くシンジの足音を聞きながら布団に潜り込んだ。

少年の感謝の言葉に、わだかまっていた後悔の念が少し(やわ)らいだ。気付けば、夢の中から湧きあがっていた怒りも、どこかに消えていた。

 

(そうよ。私は保護者として……シンちゃんの為を思って)

 

自分と同じく、父親の愛情をろくに知らない少年。

失声症に苦しんだ過去の自分のように、他人とのコミュニケーションを苦手とするシンジの姿を見た時、ミサトはほうっておけないと思った。

 

この子は、私と同じ……私が守ってあげなくちゃいけない……。

 

そう思えたからこそ、自分が保護者になる事を望んだはずだった。

だが、あのセリフを言ってしまった時、ミサトは、後悔と共に自分の心に一つ疑いを持つようになっていた。

 

(でも、私が本当にシンちゃんの事を思っているのなら……転校祝いに友達を招待するとか、学校に行ってクラスメイトたちに挨拶するとか、それくらい過保護な気持ちがあってもいいはずじゃない……)

 

だが、シンジの為に、そこまではして来なかった。

だからこそ、本当は別の目的があって、シンジを手元においたんじゃないのかと思えてしまう。

何度も胸の底から湧きあがり、その度に否定する感情……。

それは……。

 

────父の仇である使徒を倒す為の唯一の手段、エヴァンゲリオン。……そのパイロットを復讐の道具として育てたくて──

 

ミサトは激しくかぶりを振って否定した。

 

(そんなはずはないわ……そんなはずわ……)

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

休み明けのNERV技術開発部技術局。その幹部職員たちのプライベートオフィスが並ぶフロアの一室。

 

「……よって、○○月○○日を以って、サードチルドレンは葛城ミサトの保護下より解放する。サードチルドレンの新たな住居は、赤木博士の判断の下、ネルフ本部の施設内か、もしくはその周辺に住居を持つ職員の保護下におくものとする」

 

リツコは、一枚の書面を読み終えると、眼鏡を外した。

リツコのオフィス。向かいの席で、ミサトが詰まらなそうに髪をいじっている。

 

「ご了解頂けたかしら?葛城三尉」

 

ミサトをシンジの保護者から解任するという話は、ほんの数時間前、ネルフの会議室で決定した事だった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

数時間前、ミサト以外のネルフのメンバーが揃った会議の卓上で、一つの問題が提起されていた。

それは『前回の使徒襲撃における、サードチルドレンの出撃の遅れ』に就いてだった。

 

「当初の予定通り、ネルフ本部内に住んでいれば、パイロット・シンジ氏の出撃はもっと速やかに行われ、損害も軽微で済んだと思われます」

 

会議を招集し、司令を初めとする本部職員たちを前に、その問題点を取り上げたのは、赤木リツコだった。

 

モニターになっているテーブルには、前回の戦闘で破壊された第三新東京の航空写真と、詳細な被害額が表示されている。

 

「事実、サードチルドレンとファーストチルドレンが共同作戦に突入するまでの間に生じた損害は、全体の60%近くに及んでいます」

「ちょっと待って下さいよ、赤木博士」

 

横から口を出したのは、青葉だった。

 

「理由は知らないっすけど……シンジ君て、綾波同様、学校に通ってんでしょ?」

肩をすくめて見せる。

「だったらネルフ本部に居住させても、授業中に使徒が来れば一緒じゃないっすか?」

 

青葉の疑問は、もっともな事だった。

シンジは、14歳の中学生としての日常を送る事も許されている。

学校に通っている以上、授業中に使徒が来襲すれば、どこに住もうが同じではないか。

 

青葉の言葉に、リツコはテーブルのタッチパネルに触れ、第三新東京の絵地図を表示させた。

地図が拡大し、学校とミサトのマンションと、ネルフのゲートの位置を示す記号が浮かび上がる。

 

地図上では、学校よりも、明らかにミサトのマンションの方が、ネルフのゲートから遠い位置にあった。

 

「学校から非常用ルートを使えばジオフロントまで十分程度。でも、葛城三尉のマンションに帰ってしまうと、三十分弱は掛かってしまうのよ」

 

青葉は、なるほどと黙って(うなず)いた。

 

「でも、前回は迎えの車が事故にあった訳ですから……学校から送迎しても事故にあってしまえば、同じ結果になるのでは?」

「マヤちゃん、大事なのは効率だよ!」

 

青葉に続いてマヤが疑問を投げ掛けたが、間髪いれず鋭い反論の声を上げたのは日向だった。

 

「事故に合う確率なんて、学校からでもマンションからでも五分五分。大事なのは、少しでも早くジオフロントに駆けつけられる事じゃないか!」

 

例のDVDを見てしまった日向は、とにもかくにも、ミサトとシンジを引き離す事しか頭になかった。

自然と語気が荒れ、思わずマヤをすくませてしまう。マヤは「そ、そうですよね」と小さな声で同意を示した。

 

「そう、効率だよ!効率!」

 

なおも、皆に向って、この問題点を強調する日向の隣から、

「全く以ってその通りだ。それに……」

副司令の冬月も(うなず)きながら顔を出した。

 

冬月は、テーブルのタッチパネルを操作し、学校の地下を表示させた。学校の地下施設が立体映像となって浮かび上がり、その地下施設からネルフに向って伸びる一本の線が赤く点滅する。

冬月は、その赤い線を掌で指し示した。

 

「非常用通路だ……実は、学校からジオフロントに直通するルートを密かに作ってあるのだよ。もし、授業中に警報が鳴れば、校長がシンジ君を案内してくれる手はずになっとるんだ」

 

授業中に使徒が襲撃してきても、学校ならば直ぐにジオフロントに駆けつける事ができる。やはり問題なのは、ジオフロントまで三十分弱も掛かってしまうミサトのマンションで、シンジが暮しているという点だろう。

 

リツコは(うなず)くと、改めて言った。

「では、効率を(はか)る為にも、サードチルドレンを葛城三尉の保護下から外し、私の方で改めてサードチルドレンの居住先を検討させて頂きます」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

という訳で、ミサトの知らない間にシンジの移転が決定し、リツコは、冬月が書面化してくれた指令書を、ミサトの前で読み上げて見せたのだ。

 

「ふ~ん、私の知らない間に、私だけ除け者にして、そういう事を勝手に決めちゃった訳だ~」

 

ミサトは、リツコに視線を向けずに自分の髪をいじりながら、他人事のように言った。

 

「良くいうわね。遅刻してきた癖に」

「あら、『今朝は下らない会議があるから、ミサトは少し遅れてきても構わないわよ』って言ったのは、どこの誰だったかしらねえ?」

「それは……」

 

リツコは少し言葉を濁したが

 

「ま、いいわ……」

 

ミサトは、(もてあそ)んでいた髪を離すと、生真面目な顔になって、席から立ち上がり、

 

「わたくし葛城三尉は、指令に従い、今を以て、碇シンジ君の保護者の任から離れる事を承知いたします」

 

と敬礼までして受諾した。

 

「あら、承諾してくれるの?」

 

ミサトの態度に、リツコは驚いたようだった。

 

「いいも、何も……願ったり叶ったりよ」

 

ミサトは元の不真面目な顔に戻ると、

 

「実はさあ……シンジ君が来て以来、部屋に男連れ込めなくて困ってたのよ。シンジ君がいない間にコッソリって手もあったんだけど、それじゃ保護者として、ちょっち不味いかな~とか思って、色々遠慮してたのよね~」

 

わざと、ふざけた様な態度を取って、リツコの手から指令書を受け取った。

 

「いやあ、リツコのお陰で助かったわ。やっぱり持つべきものは友達よね~」

そして、さっさとリツコのオフィスから出て行こうとした。

 

「え、あの……ミサト?」

 

オフィスの自動ドアが開かれる。

 

「じゃあ、リツコ。確かに指令は受け取ったから。私は仕事に戻るわね」

 

まだ、リツコは何か言おうとしていたが、ミサトは気にせずに出て行ってしまった。

静かに、オフィスの自動ドアが閉じ、リツコだけがポツリと取り残された。

 

「ミサト……」

 

不自然な作り笑顔を見せた親友の態度に、リツコは少し後悔した。

ミサトがシンジの保護者になることを望んだのは、過去の自分とシンジを重ね見たからである事は、リツコも気づいていた。

そのミサトに対して、一方的な保護者からの解任は、少し酷だったかも知れない。

 

(でも……)

 

リツコは、DVDのあのワンシーンを思い出し、かぶりを振った。

 

(ミサト……親友としてアナタを児童福祉法違反で、ブタ箱行きにする訳にはいかないのよ……)

 

背後でドアが閉まる音を聞くと、ミサトは、その場で溜め息を就いた。

胸元の十字のペンダントを取り出し、握り締める。

 

ここしばらくの間、本当にシンジを守りたくて保護者になったのか……それとも復讐の道具を手元に置きたかっただけなのか……自問自答していた。

だが、その答えが分からない内に、自分は解任を命じられたのだ。

 

(この方が良かったのかも知れない……たとえ、私が本当に彼の事を守りたいと思っていたとしても……)

 

使徒を撃退した前回……不貞腐(ふてくさ)れるシンジをどう(あつか)えば良いか分からず、激励のつもりでキスをしてしまった。でも、その後で、やり方が悪かったかも知れないと後悔していた。

保護者になろうと努めても、その保護の仕方も分からずに、扱いかねている自分がいる。

 

(結局、私はあの子の事を傷つけてしまうだけかも知れない……)

 

無理に保護者を気取り、『少年を守ってあげたい』という気持ちと『少年を使って使徒を倒したい』という意思の狭間で葛藤(かっとう)するよりも、初めから上司として割り切って接した方がいい。

それが一番いい……。

ミサトは自分自身に対して(うなず)くと、リツコのオフィスを後にした。



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保護者に立候補させていただきます

シンジと一緒に過ごしたマンション。

 

「じゃあ、荷物は後で送っておくから……」

 

シンジを玄関まで送り出したミサトは、そう告げた。

 

「はい、ミサトさん。今までお世話になりました」

 

シンジはペコリと一礼した。

少年の表情は少し(さび)しげで、その眼はかすかに(うる)んでいた。

突然の別居。シンジは驚いたが、それが本部からの命令であり、前回の出撃の遅れが原因である事を知ると

 

「そうですね……」

 

納得したように(うなず)いた。

遅れるどころか、自分は綾波を見殺しにし、逃げようとしていたのだ。

自分は、もっとネルフの身近で保護……いや、監視される生活を送った方がいい。

顔を上げる。途端に、瞳をおおっていた湿り気が、小さな(かたまり)となって目尻から(こぼ)れ落ち掛ける。

シンジは慌てて顔を()せた。

 

「じゃ、じゃあ、失礼します」

 

「あ、それとシンちゃん……ちょっと待って」

 

靴を()こうとすると、急にミサトはシンジの手を取った。

そして、

 

「最後に……」

 

両手でシンジの頬に触れるミサト。指先に、冷たい(しずく)の跡を感じる。

 

涙を(さと)られたと思ったシンジは、少し顔を赤らめた。だが、次のミサトの言葉に、さらに赤面する。

 

「また、キスしちゃおっか……?」

 

ニッコリと微笑んで、ミサトは唇を近づけた。

 

「ちょ、ちょっと……ミサトさん!」

 

慌ててシンジはミサトの手を振り払った。真っ赤になった顔を()らす。

 

「あら、シンちゃん恥ずかしいんだ~?」

 

「もう、知りません!」

 

シンジは逃げるように玄関を出たのだった。扉を閉じる寸前に、隙間(すきま)から「そ、それじゃ、ミサトさん。またネルフで……」とだけ言葉を残して。

 

扉が閉まると、ミサトは微笑んだ。

 

「さようなら……シンちゃん」

 

これでいい。辛気臭(しんきくさ)い別れなんて、よけい(さび)しくなるだけ。

明日、またネルフであった時も、少しからかって上げよう。

うん……。私が、シンちゃんを「ちゃん」付けで呼ぶのを止め、上官と部下として割り切れるようになる前に、もう少しだけ、からかって上げよう……。

 

ミサトはリビングに戻った。

リビングには、大小の段ボール箱が並んでいた。全てシンジの荷物だ。

 

「それにしても……シンちゃんの荷物、気づかない内に結構増えたものね」

 

シンジの洋服に、学校の教材、ノートパソコン、雑誌……。詰めてゆく内に、段ボール箱が六つも出来ていた。

 

「シンちゃんが始めて来た時は、三つだけだったわよね……」

 

シンジがミサトのマンションに来た時、届いていた荷物は、たった二箱の段ボール箱と、包装紙に包まれたチェロだけだった。

 

一つ目の段ボールの中は、シンジの衣服と学生服。

二つ目の段ボールの中は、教科書と参考書。そして、今どき珍しいカセット式のウォークマンと、わずかな小物だけだった。

 

漫画やゲームといった子供らしい物は何もなく、少年の趣味をうかがい知れるような物は何も無かった。

前の保護者は何も買い与えてくれなかったのかと、ミサトは思った。だが、その事を食事の席で(たず)ねた時、少年はいった。

 

「余計な物は、全部置いてきました。新しい日常に、以前の物は、あんまり持ち込みたくなかったんです」

 

それがどういう意味なのか、ミサトにはよく分からなかった。

 

家電製品と書かれた段ボールの一つに触れる。

中には、ミサトが買って上げた小型のオーディオが入っている。

以前、シンジをショッピングに連れて行った時、荷物持ちのお礼として買って上げた物だ。いや、荷物持ちのお礼と称して、プレゼントした物だ。

 

「よく考えたら、携帯も、オーディオも、服も……増えた荷物のほとんどは私が買っちゃったのよね」

 

ミサトは苦笑した。

 

「まだ一ヶ月も経たないのに、こんなに男の子に(みつ)いじゃうなんて、私もダメな女ね」

 

使徒・サキエルを撃退した日から三週間、使徒・シャムシエルを倒してから二週間強。

二人の同居生活は、たったそれだけの期間に過ぎなかった。だが、ミサトとシンジに取っては、忘れ難い長い長い日々だった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「ここにシンジ君が住むんですか……」

 

「いや、取り合えずって事らしいよ、マヤちゃん。新しい保護者が見付からないようなら、学生向きのもう少し増しな部屋を用意するって、赤木博士が言ってたよ」

 

当直の職員が寝泊りする仮眠室。

そこを覗き込むマヤに、日向は説明した。

 

「良い保護者が見付かるといいですね。あの年で、独りぼっちで暮らすなんて、ちょっと可愛そうです」

 

「そ、だねえ……」

 

シンジがミサトの元を離れる原因を作った張本人だけあって、日向は少しバツの悪そうな顔をした。

 

マヤは、日向と分かれると、トコトコと技術局の方に向った。

 

「さてと、資料の整理でもしようかしら」

 

テラスに面した廊下に差し掛かる。ジオフロントの内部を照らす青い明かりが、廊下に淡く差し込んでいる。

 

ふと、マヤは足を止めた。

テラスで、ジオフロントの風景を眺める、学生服姿の一人の少年。

マヤは黙ってテラスに出ると、少年の横に並んだ。

 

「シンジ君?」

 

テラスの(ふち)に寄り掛かり、何気なく風景を眺めていたシンジは、名を呼ばれ、隣を振り返った。

 

「あ、マヤさん……」

 

「何しているの?」

 

「いえ、何となくテラスに出たら、そよ風が感じられたものですから……地下空間なのに、風が吹くなんて不思議だなって思って」

 

「あら、ほんとうね。今まで気づかなかったわ」

 

シンジと同じように縁に寄り掛かって風を感じる。

 

「シンジ君、私のフルネーム覚えてくれた?」

 

「伊吹マヤ……さんですよね」

 

「そう、碇シンジ君。技術局一課所属、二尉、伊吹マヤよ」

 

マヤは、ニッコリと微笑んだ。

 

「ねえ、シンジ君。ここに来てから一ヶ月近く経つけど、まだ名前覚えてない人だとか、まだ分からない事とか、結構あるんじゃない?」

 

マヤの言葉に、シンジは少しためらってから(うなず)く。

 

「それに……訓練中の時だって、葛城さんや先輩がいう専門用語が良く分からないまま、結構、返事しちゃってない?」

 

見透かされ、シンジは再び(うなず)いた。

 

「やっぱりね、私もそうだったんだ……。初めてここに来た時、先輩以外の名前を覚えるのがすごく苦手で……ろくに他の人とお(おしゃべ)りしなかったせいだけど……同僚全員の名前を覚えるだけでも何ヶ月も掛かっちゃったの」

 

意外と心地よいそよ風に、マヤは少し伸びをした。

 

「いつも分かったような顔して、今更(いまさら)聞けないような事も沢山あって……ちょっと苦労したわ」

 

「そうなんですか」

 

「シンジ君も、ウカウカしてたら、分からないまま月日を送っちゃうわよ。分からない事だとか、今更聞けない事とか、遠慮なく私に聞いてくれるといいわ」

 

「ありがとうございます……じゃあ、時間がある時にお願いします。本当に分からない事が多くて……」

 

「シンジ君は、今、忙しい?」

 

「いえ、今日は何も……」

 

マヤは、テラスの胸元の高さまである柵に寄り掛かった。柵の上に肘を乗せ、頬杖をつくと、心地よい風が、マヤの柔らかい髪をなでて行く。

 

「本当に気持ちいいわね。ほら、シンジ君も」

 

シンジも、マヤの隣に寄り掛かる。

 

「ちょうど、手持ち無沙汰(ぶさた)だったの……今からでもいいから、何でも聞いて。ゆっくりお話ししましょう」

 

「はい」

 

シンジは恥ずかしそうな様子で、今まで分からないままにしていた事を、一つ一つ、マヤに尋ね始めた。

いつも皆が口にする『シンクロ率』について。

訓練中に投げ掛けられる、軍事用語の意味について。

階級の違いが理解できず、誰がどの程度の地位の人なのか、良く分かっていない事も。

 

一つ一つの疑問に、丁寧に答えてくれるマヤの言葉を聞きながら、シンジはふと思った。

 

(そういえば、ミサトさんと一緒に暮らしてたのに……ミサトさんから聞こうとした事なんて、一度もなかったな……)

 

なぜか、同居中はほとんど仕事の話をしなかった。ミサトさんの方が、わざと()けていたように思える。

保護者として、少年との生活の中に、仕事を持ち込むまいと決めていたのかも知れない。

 

「でも、階級と役職は違うものなのよ。役職はあくまで命令系統上の……つまり隊長とか本部長とか、そういう地位の事ね。

対して階級は……少なくともネルフでは、その能力と功績に応じて与えられる『印』みたいなものかしら。お給料の額も役職じゃなくて、階級に応じるの。

役職に空席が出来た時なんかは、その役職に相応しい階級の人から選ばれるのよ。ああ、でも例外もあるわね。葛城さんなんかは、一尉に過ぎないのに、作戦本部長を勤めちゃってるから」

 

そこまで話した時、マヤは言葉を止めた。

すぐ隣で、熱心にマヤの説明を聞く少年。あどけない、まだ14歳の少年の顔。だが、そこには確かに司令の血をうかがわせるものがあった。

雰囲気こそ違うが、確かに似ている。

 

「ねえ、シンジ君……こんな事を聞くのも変だけど」

 

少し躊躇(ちゅうちょ)してから続ける。

 

「シンジ君って、お父さんの事が余り好きじゃなかったわよね……でも、どうして、ネルフに来たのかしら?」

 

シンジは、マヤからジオフロントの風景に視線を()らすと、どこを見つめる訳でもなく、柵の上に腕を組んで、深々ともたれかかった。

 

目を閉じ、ポツリとつぶやく様に応える。

 

「……変わりたかったんです」

 

「変わりたかった……?」

 

シンジは(うなず)いた。

 

「ボク、向こうにいた時は、自分の夢だとか、そういうものが何も無くて……ただ、先生に与えられた事を繰り返すだけの毎日を送ってたんです。あ、先生っていうのはお世話になっていた伯父さんの事です」

 

シンジは、伯父が音楽家である事と、その伯父からチェロを習っていた事を話した。そして、一時期はチェロの奏者を夢見、途中で諦めた事も。

 

「学校が終わったら、家でチェロのレッスン。毎日毎日その繰り返し。お陰で、気づけば趣味だとか親しい友達だとか、自分には何も無くて……ずっと、このまま同じ日常を送って、目標も無しに何となく大学に進んで、何となく就職するのかと思うと……何だか(むな)しかったんです」

 

人生に(むな)しさを感じる……まるで退屈な日常を送る大人が言いそうなセリフ。でも、こんな小さな子供でも、そんなふうな感情を抱いていた。

 

「中学に入ったら、少しは変われるかと思ってました。ほら、漫画だとかTVに出てる中学校って、不良だとか恋愛だとかいろいろあるじゃないですか……。そういうのを期待してたんです。でも、実際に入ってみたら、子供の人口が少ないせいで同級生はみんな同じ顔ぶれで……」

 

シンジは、寄り掛かっていた柵から起き上がると、自分の学生服に視線を落とした。

 

「変わったのは、制服くらいでした」

「そんな時に、お父さんから呼び出しの手紙が届いた」

 

マヤの言葉にシンジはうなずく。

 

「ボクをほったらかしにしていた父さんの事は、好きじゃありませんでした。別に、父さんの事を怨んでたってワケじゃないんです。でも、ずっと連絡もくれなかった父さんが、突然、ボクを呼び出した時は「今更」って思えて、すっごく腹が立って……。だけど、同時に思ったんです。あ、明日から違う日常が始まるんだって……だから、ここに来る気になったんです」

 

シンジは、ジオフロントの風景に視線を戻した。

 

「平凡な日常が、少しは変わると思ってたんです……でも」

「でも、ただの子供からエヴァのパイロットなんて、変わり過ぎよね」

 

シンジは「自分の心は何も変わらなかった」というつもりだったが、後を取ったマヤの言葉に、少し苦笑した。

 

確かに、ただの中学生が、急に世界の運命を(にな)う機関に所属し、ただチェロを弾く事しか能がなかった少年が、エヴァのパイロットに変わったのだ。

マヤの言う通り、変わりすぎだろう。

シンジは素直に(うなず)いた。

 

「ふ~ん、そっか……そういう事だったんだ。じゃあ、私と一緒ね」

 

「マヤさんも?」

 

「うん、ここに来る前は、私も毎日、同じことの繰り返しだったわ……」

 

マヤは、(なつ)かしそうに自分の過去を話し出した。

 

この時代は、セカンドインパクトで親を失ってしまった人は珍しくは無かった。葛城ミサトも、そして、マヤも同じだった。

父親の手で育ててもらったマヤは、高校に入学すると、それを契機(けいき)に独り暮らしを始めた。別に、親元を離れて自由になりたかったワケじゃない。

意中の人がいながら娘に遠慮して、父が再婚を()けている事が分かったからだ。

 

父には、学費も生活費も、自分の特技……プログラミングのバイトで稼ぐから、仕送りはいらないといった。そして、大学に進学してからは、そのまま実家には戻らずに、第三新東京で仕事を見つけて就職するつもりだと告げておいた。

 

独り暮らしを始めてからは、大した趣味も気の合う友達もできず、学校以外では、2DKのマンションの一室で、PCに向き合って過ごす日々を送っていた。

 

「大学に進学しても、別に目的とか無くって……そのうち学校にも余り通わなくなって、毎日、ディスプレイの前に座ってばかりいたわ。毎日、どこかのサイトに侵入したりとか、ちょっと悪戯もしちゃって……それで名が知られてくると、少し調子に乗っちゃって」

 

余計な部分は曖昧(あいまい)(にご)しながら、マヤは続ける。

 

「自分の悪戯がちょっとした騒動を起こしたり、名前が有名になったりすれば、その時は嬉しかったけど……別にそこから何か得られるって訳じゃなくて……。ほら、名前が知られるって言っても、WEB上に存在するハンドルネームが、『架空の私』が、有名になるだけだし」

 

マヤは当時の事を思い返し、溜め息を付いた。

 

「PCから離れて現実に戻った時、そこにいるのは、ただの可愛い女子大生。将来の目標もなく、何となく生きているだけの、ごく有り触れた……まあ、そこらの子よりは可愛い……女子大生。今から思うと、その現実を否定したくて、あれほどWEBの世界にどっぷりと浸かってたのかも知れないわ」

 

マヤは自嘲(じちょう)した。

 

「でも、おかしな話よね。そんな現実逃避に走るからこそ、同じ日常の繰り返しになって、余計に(むな)しくなるだけなのに……」

 

そのマヤの言葉に、シンジも自分を振り返った。

 

(そういえば……なんでチェロを続けてたんだろう……?)

 

チェロのレッスンを(おこた)らなかったのは、先生の命令だったから?今まで、そう思っていた。

けれども良く考えれば、周囲の大人たちから投げ掛けられるわずかな()め言葉が欲しくて、続けていたといえるかも知れない。

 

それにチェロの音色に(ひた)っている時は、余計な感情にとらわれる事はなかった。少なくとも、(むな)しさを忘れる事ができた。

web上で騒動を起し、名前が知られる事が嬉しかったというマヤ。虚しい現実を忘れる為に、PCを続けていたというマヤ。

同じじゃないか……。

 

マヤがさっき言った言葉

『でも、おかしな話よね。そんな現実逃避に走るからこそ、同じ日常の繰り返しになって、余計に虚しくなるだけなのにね……』

 

ボクだってそうだ。

変わりたいと思いながら、平凡な日常を忘れる為にチェロを弾き続け、自ら同じ事を繰り返していた。

 

 

「でも、そんなときに偶然、先輩と出会ったの……先輩と初めて会った時、先輩は私にネルフへの推薦状を書いてくれたわ。その時、私もシンジ君みたいに思ったの、『明日から違う日々が始まるんだ』って……」

 

「そうだったんですか……それでマヤさんも変われたんですね」

 

だが、マヤは首を振った。

 

「変わったかも知れないけど、良く分からないわ。

初めてネルフに来た時、私は、シンジ君と同じで他人と話すのが苦手で……。今でこそ、同僚の前では堂々と話せるようになったけど……司令の前だとか他の部署の人の前では、以前のままなの。

昔よりも友達だって増えたし、趣味だって出来たけど、自分自身はそんなに変われたとは思えないわ。時たま、形が違うだけで、また同じ日常を繰り返しているだけじゃないかって思える事も」

 

「それはボクも同じです。ボクは、普通の中学生からエヴァのパイロットになったけど、それは環境が変わっただけだって思えるんです。

その中で生きる自分は、本当に以前とは違う自分になれたのか……ただ命令されるままチェロを弾いていた日々が、今度は、ただ命令されるままにエヴァを操縦する日々に変わっただけじゃないかって……そう思えるんです」

 

「あら、チェロを弾く日々と世界の為に使徒と戦う日々じゃ、ずい分と違うと思うけど」

 

「でも、マヤさんだって、PCに向き合う日々から世界の為に活躍する日々に変わったのに、自分は変われたって実感が湧かないんですよね」

 

マヤは苦笑した。

 

「そうね、確かにそうだわ……私とシンジ君は同じね」

 

ふと、マヤは先輩の言葉を思い出した。

 

『それにしても良く似ているわね』

 

オートウォールで、シンジらとすれ違った時に、先輩が言った台詞。

 

(そっか……先輩の言ったことって、そういう事だったんだ……)

 

マヤは、何か思いついたらしく、ポンと手を叩いた。

 

「よおし、決めた!」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「という訳で先輩。不詳・伊吹マヤ。保護者に立候補させていただきます!」

 

何かの書類に目を通すリツコ。

突然やってきたマヤが、自分のマンションがネルフに近い事や、ネルフでは自分が最も少年と親しい事などを言い立てても、彼女は、終始黙って聞いているだけだった。

だが、シンジの保護者に立候補すると宣言した所で、彼女はチラリとマヤを一瞥(いちべつ)した。

そして、

 

「そう、じゃあ、お願いするわ」

 

アッサリと許可してしまった。

 

「え……あの、いいんですか?」

 

余りにも簡単に許可が下りた為、マヤは拍子(ひょうし)抜けた。

 

「シンジ君の荷物の送り先は、既にアナタのマンションに指定してあるのよ。アナタをどう説得しようかと思ってたんだけど、ちょうど良かったわ」

 

何と、リツコは、初めからマヤに頼むつもりだったらしい。

リツコは、目を通していた書類をデスクにおいた。そして、(さと)すような顔で、マヤの肩に手をおく。

 

「だって、アナタたち二人は……」

 

「似た者同士ですものね」

 

かつては不服そうな表情で否定したマヤが、笑顔で認めるのを見ると、リツコは満足げに(うなず)いたのだった。




■後書き■

また番外入れます。



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番外編  ネルフのヲタクたち
眼鏡と長髪の直談判(1)


上座の司令席だけが、ほのかな灯を残す真夜中の作戦本部室。

既に職員たちは退勤し、代わって、静寂がコンソールとディスクを占領していた。

その中で唯一あわい灯に包まれた司令席で、碇ゲンドウは何か考え込むようにして、ポツンと鎮座していた。

 

ピクリと、ゲンドウの眉が動く。

背後の床が静かにスライドし、一メートル四方の空間が口を開いた。

そこは床自体を昇降させるタイプのエレベーターになっていた。真下に位置する司令室から作戦本部室に直接移動する為のものだ。

空洞の底から、上昇してきた床と共に、一人の初老の男の姿があった。

 

「待たせたね、碇」

 

副司令・冬月だ。

だが、その表情はいつもの冬月とは少し違っていた。いつもは厳格な表情を崩さない白髪の老人が、表情を緩め、頬を紅潮させている。

 

「ここでするのかね……」

 

恥ずかしそうに辺りを気にする冬月に、碇はうなずくと立ち上がった。

そして、冬月の(えり)に手を伸ばし、ホックを外してやった。

 

「だ、誰かくるかも知れんのだぞ……」

「いいんだ。その方が興奮する……」

 

二人は服を脱ぐと、こらえ切れずに、抱き合った。

 

「碇……」

「冬月……」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「あれ、またファンメール貯まってら……」

 

原稿の中でゲンドウと冬月の濡れ場を描いていた作者は、ペンを置き、ノートパソコンに手を伸ばした。

ノートパソコンは、小さなランプを点滅させ、メールの着信を知らせていた。

 

「メールって、どうせ『萌えウサ』ちゃんだろ……」

 

かたわらで原稿にトーンを貼っていた男が、迷惑そうにぼやいた。

 

「うん、『萌えウサ』ちゃんから。120通来てるよ」

 

「一か月分くらい貯まってたのか?」

 

「いや、今日一日で」

 

「相変わらずヤベーな……」

 

トーンを貼っていた手を止め、深いため息をもらす。

 

「いい加減、着信拒否しちまえよ……」

「ダメだよ、『萌えウサ』ちゃんは、俺たちのサークルの創設期以来の常連さんなんだから」

 

そういうと、男はマウスをクリックして、適当にメールを読み上げた。

 

「『拝見、サークル エヴァ・レボリューション様へ。前回の碇司令と副司令の絡みは最高でした!シリーズ化するんですね、新作、楽しみにしてます。あと、赤木先生と伊吹マヤちゃん編では、とにかくマヤちゃんが可愛くて、素敵で、もうたまりません。今のシリーズが終わったら、ぜひとも、青葉さんと新ショタをメインにお願いします』……だってさ」

 

メールを閉じると、男は相棒に振り返る。

 

「どうする青葉?今度、お前メインで描いてみるか?」

「おいおい、よしてくれよ……前々回、司令との絡み描いたばっかだろ。もう勘弁してくれよ……」

 

ここは、日向マコトのマンションの一室。

同時に、彼らの新同人サークル『エヴァ・レボリューション』の仕事場でもあった。

以前の『ブルー&サン』は既に解散していた。今どき、ナディアの同人では食っていけない為だ。

新サークルを立ち上げた今では、もっぱらエヴァを題材に腐女子向きの同人を書き続けていた。

 

「ところで青葉。この新ショタって……シンジ君の事だよな。未成年出しちゃっていいのかな?」

「同人の中の話だから全然OKだろ。っていうか、そのジャンルの同人の方が多いくらいだし。でも、シンジ君のキャラはまだ良く分かんないからな……描くのはまだ早いだろ」

 

青葉は、机の上のトーンくずを払うと、また溜め息をついた。

 

「しかし、なんでまた、俺たちがこんな同人描かなきゃならないのかねえ……生活の為とはいえ……」

「仕方ないだろ。俺たち、ノーギャラでネルフのオペレーターやってんだから」

 

お忘れかも知れないが、彼らがアニメ・エヴァンゲリオンに出演する切っ掛けになったのは、冬月の提案によるものだ。

脅迫同然の形で、ノーギャラで出演させられて以来、既にかなりの月日が流れていた。だが、相変わらず彼らは一銭ももらっていなかった。

 

「でも、おかしいよな、日向?エヴァは劇場版で大成功して、アミューズメント産業にも進出して、かなり利益だしてるはずだろ?」

「ああ、特にパチンコでの収益がデカイはずだよな」

「だのに、何でオレたち、まだギャラもらえないんだよ?」

 

青葉の言葉に、日向は腕組みして考え込み始めた。

「ふ~ん。副司令に、上手い具合に使われすぎだよな、俺たち……」

 

そして、思い切って相棒に告げる。

 

「いっそ、副司令に直談判してみるか?」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

まだ、出勤する職員たちの姿がまばらな早朝のネルフ。

夜勤を終えた職員たちに(ねぎら)いの言葉を掛けながら、冬月が廊下を歩いていた。

別に用事がある訳ではない。近頃、めっきり朝が早くなった彼の単なる暇潰(ひまつぶ)しだ。

 

(血圧が上がると、どうも朝が早くていかんな。やはり歳か……)

 

ツカツカと廊下を歩く冬月は、

 

「ふむ、今日は早いな。おはよう」

 

二人の見知った部下に声を掛けた。

そして、部下が思い詰めた顔をしている事に気づかない振りをして、その二人の間を通り抜けようとする。

 

「副司令!ちょっと、待ってください!」

二人の声が同時に背中に浴びせられる。

 

一拍おいてから、冬月は振り返った。

「なんだね、朝から随分(ずいぶん)と元気がいいじゃないか」

 

「お話があるんです!」

「なんだね、(やぶ)から棒に」

 

日向が詰め寄った。

「副司令……そろそろギャラ……考えてくれてもいいんじゃないですか?」

 

日向の言葉に、冬月はヤレヤレとカブリを振った。

「朝から難しい顔をしとるんで、何かと思えば……前にもいったが、まだガイナックスには借金が残っとるんだよ。とてもギャラなんて……」

 

(とぼ)けた顔で応える冬月に、

 

「じゃあ、これはなんすか?」

 

青葉が鞄から赤い単行本を取り出して見せた。

 

「武田康広先生が書かれた『のーてんき通信―エヴァンゲリオンを創った男たち』に、既に借金は完済したって、バッチリ書かれてますが?」

「そんな訳の分からん男が書いた本など……」

「武田康広先生は、ガイナックスの取締役統括本部長ですが!」

 

間髪いれずにたたみ掛ける青葉に、冬月は困った様子で肩をすくめた。

 

「君ら……ほら、この間、声優の三石琴乃の『握手券』あげたじゃないか。日向君も、ずい分と喜んで……」

「現物支給じゃなくて、ちゃんとしたギャラが欲しいんです!なあ、青葉!」

「そうっすよ。ちゃんと手当てを出して欲しいんす!」

 

いつに無く真剣な眼差しを向ける二人。

冬月は、まだ何か言いかけたが、それを嘆息に変えて吐き出した。

 

「分かった……仕方が無い」

 

そういうと、冬月は、しぶしぶ(ふところ)から財布を取り出した。

 

取り合えず、一時金を支給してくれるのか、それとも何か契約書を取り出すのか?

そう期待し、二人は安堵した様子で顔を見合わせた。

だが、冬月が取り出したのは、一枚の写真だった。

 

「私のブロマイドを進呈しよう……ん?どうしたのかね、不機嫌な顔をして。ああ、私のサインも付けるべきだったか?」

「だから、現金でお願いします!!」

二人の声が廊下に響く。

 

 

冬月は舌打ちすると、財布を懐に戻した。腕組みし、二人を(にら)み返す。

「メガネと長髪……お前ら、ええ加減にしとけよ!」

 

冬月が地を出し始めたが、二人は(ひる)まない。

 

「睨んだって退きませんよ!こっちは生活が掛かってるんです!」

 

日向は、自分のネルフの制服を指し示して続けた。

 

「ボクたちは、ネルフの職員として毎日働いているんですよ!他の職員だって、働いた分、ちゃんともらってるんでしょ?何でボクたちだけ、例外なんです!?」

「そうだ、日向!もっと言ってやれ!」

横から青葉がはやしたてる。

「ずっと、ノーギャラのままで、どうやって食べて行けばいいんですか!?」

日向の主張は正論だったが、

 

「はっ、何を抜かす若造が!」

冬月は取り合わなかった。

 

「知っとるぞ。お前ら『エヴァ・レボリューション』とかいう新サークル作って、この間の即売会で儲けとるだろうが!?」

冬月は、懐から小冊子を取り出して、二人の前に突き付けて見せた。

 

厚みの薄い小冊子……『冬月の夜に』とタイトルが打たれたそれは、今、腐女子の間で一番人気の作品であり、昨日、日向が描いていたシリーズだ。

 

「な、なんでそれを……」

日向は隣の青葉の顔をみたが、青葉もカブリを振るばかりだった。

新サークルを立ち上げた事や即売会の事は、ネルフの誰にも言っていないはずだ。

 

「ふん。ワシの情報網を()めとったらいかんぞ!」

 

冬月は忌々(いまいま)し気に、薄い本の表紙を見返した。

 

「お前ら、ワシらで勝手に同人描きやがって……肖像権って知っとるか?」

「に、日本の法律では肖像権は保障されてないっス」

「それは刑事の話だ!民事では不法行為だ。特に、本人に無断で利益を得ている場合な。もっと勉強しろ、長髪」

 

冬月は、薄い本の表紙をめくった。

「しかも、なんだ、この描写は!?」

冬月がめくったページには、司令が副司令をベットに押し倒すシーンが描かれていた。

 

「なんで、ワシの方が『受け』なんだ!?年上のワシの方が『攻め』になるべきだろうが!」

 

さらに、薄いモザイクが掛かった副司令の股間部分を指さす。

 

「想像だけで描きやがって!ワシのは、もっと凶悪だぞ!なんなら今、見せてやろうか!?」

「え、遠慮しときます」

 

日向はすっかり(ひる)んでいたが、

「日向!」

すかさず青葉が代わった。

 

「副司令、そもそも俺たちがそんな事をやって稼いでるのも、給料を支給してもらえないからですよ!BLだって、描きたくて描いてる訳じゃないんス!それに、これは俺たちがネルフに入る前から続けてた趣味であって、こっちの収益はまた別問題っす!」

 

「何が趣味だ!」

青葉の主張に、冬月は忌々(いまいま)しげに吐き捨てた。三白眼(さんぱくがん)で二人を(にら)みながら、グッと顔を近付ける。

 

「お・ま・え・ら、ガイナックスに著作料払っとらんだろうが!」

「そ、それは……」

「大体、お前らが前に作っとった『ナディア』のゲームや漫画も、著作料払っとらんかっただろうが!」

「いや、その……同人はもともと、イコール著作権侵害みたいなもんすから……」

「違法である事には変わりあるまい!」

冬月は声のトーンを落とした。

「なんなら、山賀博之社長に報告して、訴えてもいいんだが?」

「……」

 

二人が押し黙ると、

「公務員二名、完全に沈黙……だな」

冬月は勝ち誇った様子で、三白眼を緩ませた。

 

「では、日向君、青葉君。今日も仕事を頑張ってくれたまえ」

 

表情を和らげ、何事もなかったかのように立ち去ろうとする。だが、二体は完全には沈黙していなかった。



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眼鏡と長髪の直談判(2)

「待って下さい……」

「まだ、何か用があるのかね、日向君?」

 

日向と青葉は思い詰めた表情で、懐に手を入れた。そして、互いに一枚の封筒を取り出した。封筒には『退職届』と書かれていた。

 

「以前、ネルフに不法侵入した件……既に時効のはずですよね?」

「この手だけは使いたくなかったんすけど……」

 

冬月は片眉を上げて、二人の退職届を受け取った。

「ネルフを辞めるという事は、ガイナックスを辞めるという事だが……それでもいいのかね?」

「覚悟は出来てます!」

二人の声が揃った。

 

嘆息する冬月。

「そうか……そこまで決意してたのかね……」

目を閉じ、うめくようにつぶやく。

「もっと企画がハッキリしてから言うつもりだったんだが……これでは、今、言ったほうが良いかも知れんな」

「何の話ですか?」

 

「日向君、そして青葉君……。実をいうとだね、今度の新作アニメで、君たちを主人公に抜擢しようという企画が進んどるんだよ」

「マジっすか?」

「だまされるな青葉!」

 

青葉は反応したが、すかさず日向が小声でたしなめた。

 

「副司令……いえ、冬月さん!もう、ボクたちには関係のない話です!勝手にやって下さい」

「そうっすよ。オレたちは明日からはコンビ組んで、本格的に漫画家としてデビューするんですから。大場つぐみ と 小畑健のコンビを越える為に!」

 

冬月は何度もうなずいた。

「分かった。元気でやってくれたまえ」

 

そして、携帯を取り出し、どこかに連絡を入れる。

「ああ、監督ですか……はい、冬月です。この間の新劇場版『エヴァ』ではお世話になりました」

 

どうやら相手は、庵野秀明監督らしい。

「この間の、こっちで眼鏡が似合う青年と、長髪が似合う青年……用意できると言ってましたが、残念ながら……」

 

日向は「馬鹿馬鹿しい……猿芝居だよ」と顔をしかめて青葉にささやいた。

(庵野秀明監督は、今はガイナックスじゃなくて、カラーの取締役やってるはずじゃないか……)

 

だが、その(いぶか)しげな日向の眼差しは、次の瞬間には驚愕の眼差しに変わっていた。

 

「はい、では、例の『セカンド・ナディア』の件は、無かったとい事で……」

「ちょっと待ってください!」

思わず、二人は同時に叫んでいた。

 

「い、今、何ていいました……?」

「なんだね日向君、もう君には関係のない事だ」

「いや、でも、今……『セカンド・ナディア』っていいましたよね!?」

「そんなこと言ったかね?」

「言いました!」

また、二人の声が重なった。

 

冬月は、少し困った表情を見せると、

「まあ、仕方がない。教えて上げよう」

他聞をはばかるようにして、小声で説明し始めた。

 

「実をいうとだね……ガイナックス社とカラー社の共同で、ナディアの続編を作ろうって企画が進んどるんだよ」

 

「本当ですか!?」

「マジっすか!?」

 

「本当だとも。で、主人公の大人版ジャンとその親友役を務める人を探していてね。ジャン役に眼鏡が似合う青年を、新キャラの親友役に長髪が似合う青年をと言うんで、それならうちの職員に良いのがいますと監督に言ってたんだが……」

 

冬月はカブリを振って、溜め息を付いた。

 

「だが、君たちが辞めてしまうのであれば仕方がない……代わりを探さんと」

 

急に青葉が姿勢を正した。

「あの、副司令!日向の奴は、一身上の都合で辞めるとか言ってますが、自分はもちろん、辞める気なんてさらさら」

「卑怯だぞ青葉!あ、副司令……ボ、ボクも辞めるなんてそんな。あ、退職届返してもらえます?」

 

「でも、君たちはエヴァにノーギャラで出るのが不満だったのでは?」

 

「そ、そんなあ、冗談に決まってるじゃないですか。なあ、青葉?」

「そうっすよ。エヴァへの出演は、修行みたいなもんですから。こっちの方が授業料払いたいくらいっすよ」

 

「そうかねそうかね、では、退職届は返すとしよう」

二人は、その場で退職届を破り捨てた。

 

「と、ところで……そっちの方の出演料は?」

「ふむ、全世界に配給するんでな、一千万は固いはずだ」

「せ、声優は誰になるんすか?」

「今回は予算があるんでな。たしか、ハリウッドスターのニコラス・ケイジとハリソン・ホードだったかな?」

 

「オレ(ボク)、一生付いていきます!」

二人は冬月と固く握手したのだった。

 

冬月が立ち去って行くと、二人は堪え切れず、その場でガッツポーズを決めた。

 

「やったな!日向!」

「もう、最高だ!」

 

二人が感動に震えている時、突然、背後からドサリと荷物を落とす音が聞こえた。

振り返ると、一人の女性職員が立ち尽くしていた。まだ出勤したばかりだったと見え、私服姿だ。落としたのは、彼女のハンドバックだったらしい。

 

「や、やあ、マヤちゃんお早う」

 

青葉の挨拶に応えず、マヤは

「今の話……本当ですか?」

奮える声で尋ねてきた。

 

「今の話って?」

ズレた眼鏡を直しながら、日向は問い返した。どうやらマヤに聞かれてしまったらしい。

 

「お二人が同人サークルをやっているって話です……」

しかも、一番知られたくない所から聞かれていたらしい。

 

「いや、それはその……」

小声で、青葉に何とか説明しろとささやくが、青葉も困った様子でカブリを振った。

 

「そんな、日向さんと青葉さんが……同人作家で……『エヴァ・レボリューション』っていうサークルまで持ってて……」

 

マヤは信じられないという顔で日向に駆け寄ると、その手を取り、うつむいた。

 

「そんな、ネルフの職員なのに……、そんな……お二人が……」

マヤの肩がワナワナと震え出した。

 

「マヤちゃん……?」

マヤの肩が震える度に、床にポタポタと(しずく)がこぼれ落ちる。

 

(マヤちゃん……泣いてる?)

 

世界を守る使命を帯びたネルフの職員が、副業で同人作家を、しかもBLを描いていた事がよほどショックだったのだろう。

日向と青葉は申し訳なさそうに顔を見合わせた。

 

「マヤちゃんごめんよ。たしかに副業でそんな事してちゃ、ネルフの職員として失格だよね……」

「まあ、どっちかっつーと、同人の方が本職なんだけどね」

余計な事をいう青葉。

 

「ひ……日向さん……あ、青葉さん……。お二人が……『エヴァ・レボリューション』っていうサークルの作家だって……本当なんですか……」

日向は悲しげにうなずいた。

 

「ごめんよ、今まで隠してて……」

「マヤちゃん、説明するよ……さあ、顔を上げて」

青葉がハンカチを取り出した。

 

そのハンカチを受け取り、マヤは涙をぬぐうと、顔を上げた。

マヤの白い頬に、大粒の涙が伝った(あと)がハッキリと残っていた。彼女の小さな唇は、よほどのショックだったのか小刻みに震えている。

そして、その頬は満面の笑みを浮かべ、うるんだ瞳はキラキラと輝き、なぜか感動に打ち震えていた……?

 

「ま、まさか、こんな所で『先生』にあえるなんて……!!」

 

マヤは、二人の手を握りしめた。

 

「わたし、大ファンです!」

「はあ?」

 

一瞬、日向と青葉は耳を疑った。

マヤは、明後日の方を向きながら、信じられないとばかりにつぶやく。

 

「そんな……お二人が、あの『エヴァ・レボリューション』の作者だっただなんて!」

顔を赤らめ、頬に手を当てる。

「やだわ、私、こんな格好してきちゃって……でも、そんな、まさか……」

 

「あのー、マヤちゃん……ボクたちのこと知ってるの?」

 

マヤは激しくうなずいた。

 

「はい、『サークル ブルー&サン』の時から知ってます。その頃から大ファンです!」

「マジで!?」

 

何たる偶然だろうか!?かなりコアな同人サークルだったというのに、そのファンが同じ職場にいようとは!

 

「あっ、そういえばファンメール見てくれてます?」

「ファンメール?」

青葉と日向は顔を見合わせた。

「いや、マヤちゃんのメールは見た事ないけど?」

「ああ、ごめんなさい。ハンドルネームばっかで、本名は名乗って無かったですね、青葉さん」

 

マヤは恥ずかしそうに、ハンドルネームを名乗った。

「……『萌えウサ』です」

 

「げっ……」

「……あれ、マヤちゃんだったの?」

「はい、日向さん。忙しくって、いつも一日100通くらいしか送れなくて、すみません」

「いやいや、もう十分だけど!」

 

興奮するマヤは、思い出したように、慌てて落としたバックを拾った。そして、中から同人誌……まさに『エヴァ・レボリューション』の新刊を取り出すと、

「サ、サインをお願いします!」

二人に差し出した。

呆気に取られながらも、二人は取り合えずサインを書き込んだ。

まさか、あの危ないファンが、目の前の可愛い少女だったとは、誰が想像できただろうか。

 

「あ、じゃあ……。この前のコミケの即売会の時、ブースで『ナディア』と『ジャン』のコスプレしてたお二人……あれって日向さんと青葉さんだったんですね?」

「あ、ああ……そうだよ。ボクがジャンで、青葉がナディアやってたんだよ。気づかなかった?」

「はい。いい歳したオッサン二人が、痛いコスプレしてるって印象の方が強かったものですから……」

興奮のあまり、つい本音を口走ってしまう。

 

「え、それじゃ……マヤちゃんもコミケに来てたの?」

「はい、青葉さん。ジャン姿の日向さんから、新刊買いましたよ」

「ええ!?ボク、マヤちゃんの姿なんか見なかったけどな?」

「そ……それは……」

 

急にマヤは言葉を(にご)した。聞き取れない声で「わたしも普通の格好じゃなかったから……」とつぶやく。

 

「あ、でも、マヤちゃんのソックリさんならいたよな、日向」

「ああ、いたいた。ソウルキャリバーのアイヴィーの露出しまくりのキワドイ格好した子……マヤちゃんと良く似てたよな」

「そうそう、署名してもらったら、名前まで一緒だったんだよな」

「あははは、顔と名前が一緒なのに、ネルフのマヤちゃんとは随分違うって……」

 

そこまで言って二人は顔を見合わせた。

「って、あれ本人だったのかよ!!」

マヤは顔を真っ赤にして、小さくなっていた。

 

「は、ははは……お互い色んな趣味を持ってるもんだな、青葉」

「あ、ああ……マヤちゃんにも意外な一面があったんだな、日向」

「あ、ははは……お二人も、まさか大先生だったなんて……」

 

三人は乾いた笑い声を上げると、しばし沈黙して、顔を寄せ合った。

互いに人差し指を立て、暗黙の了解を交わす。

 

「マヤちゃん。今回の事は互いに忘れるって事で……」

 

小声で念を押す青葉に、マヤはニッコリと微笑んだ。

「その代わり、次回の新刊では、青葉さんと新ショタの絡みをお願いしますね(^^」

 

 

特務機関『ネルフ』……「優れた能力」と「強い個性」を持つ人材によって、今日も人類の平和は守られているのであった。



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第二章 続き
シンジ君が来るまでに


■前書き■
つまんない話だけどね(´・ω・`)


「うん、こっちは部屋を用意してる所だから……うん、荷物はとっくに届いてるわよ。必要なものがあったら言ってね」

 

早い(あかつき)のお陰で、まだ六時を過ぎたばかりだというのに、部屋の中は明るかった。

ガラス戸……いわゆる「掃き出し窓」は開放され、秋の温もりを(はら)んだ風が、心地良かった。

 

セカンドインパクトによる地軸の歪みの為に、日本の季節は、夏の気候が15年間も居座り続けている。夜よりも昼の方が長く、夏至や冬至なんて言葉は使われなくなって久しい。

 

だが、それでも、人類の習慣は、完全には地軸の歪みに合わせる事ができずにいた。今年も、「暖かい秋」なんて、以前にはなかった形容詞が付いた季節が、カレンダーをめくる内に訪れていた。

 

開け放たれた窓の向こう側、ベランダには、既に布団や枕、クッションの類が干してあった。

 

いつもより早起きしたマヤは、マンションの隣人の迷惑にならないようにと、低出力モードで掃除機を掛けていた。

右手で、小さな騒音のする機械を操作しながら、左手では、携帯から聞こえる少年の小さな声に耳を傾けている。

 

もちろん、携帯の相手は、明日から同居人となる碇シンジだ。

 

「え、手伝いにくるって?……あらあらダメよ、シンジ君。お掃除前の女の子の部屋に来たがるなんて」

 

 

自宅でノートパソコンを操作する時、手でカップ麺を食べながら、足の指で打つ事もあるズボラなマヤだったが、掃除だけは欠かさなかった。

 

同じズボラ人間の葛城ミサトとは違い、食べ終わった飲食物を放置したりはしない。週に三度は掃除機を掛けている3LDKの部屋は、初めから何も散らかってはいなかった。

 

それでも、これから一緒に暮らす少年の為に、マヤは一番(ほこり)がたまりやすいリビングの絨毯(じゅうたん)に入念に掃除機を掛けていた。

 

「じゃあ、シンジ君。明日にはお料理作って歓迎するから、楽しみにしててね」

 

シンジの方は、今、例のネルフの個室に滞在している。マヤがシンジの部屋を用意するまで、一日だけの辛抱だ。

 

窮屈(きゅうくつ)な所で待たせてごめんね、シンジ君)

 

マヤが保護者に立候補し、あっさりと承認された日。

 

リツコは、「定時になったら、マヤと一緒に帰りなさい」とシンジに告げたが、マヤは慌てて「まだ準備が……その、シンジ君の部屋を用意してないので……」と一日の猶予(ゆうよ)を願った。

 

「先輩も、何の準備もしていないレディーの部屋に帰りなさいなんて……もうちょっと、気を使って欲しいわね」

 

散らかっている物などない。部屋を用意するまで、取り合えずリビングを使ってもらえば済む事だ。本当は、そのまま迎え入れても差し支えはないはずだった。

 

だが、彼女が猶予を願った本当の理由は別の所にあった。

シンジが来る前に、どうしても処分しておかねばならないものが大量にあったからだ。

 

電話を切ると、マヤは、リビングの掃除を済ませた。

 

「よし、お掃除終わり!」

しかし、

「さあてと……これからが本番なのよね」

 

リビングの隣……個室の一つを見詰める。父が訪れた時ですら、決して開けさせなかった秘密の部屋。

 

「ここを空けるしか、ないのよねえ……」

 

マヤは溜息を吐いた。

 

(それに……シンジ君が来る前に処分しなきゃなんないし……)

 

マヤは、いつになく真剣な面持(おもも)ちになると、秘密の部屋のノブをひねった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

東南側に面した大きな窓。雨戸が閉じられたままになっているが、開放すれば日当たりは申し分ないはずだ。

部屋の広さも八畳分のスペース。ベットにタンスに机、そしてオーディオ機器をおいても、十分な広さだ。

 

シンジに与えるには、文句なしの良い部屋だった。ただし、足元一杯にひしめく段ボール箱と、壁一面に掛けられた衣装の存在を配慮しなければの話だが……。

 

段ボールにギッシリと詰め込まれたものは、マヤが数年掛けて集めた小冊子(しょうさっし)だった。同人サークル『ブルー&サン』『エヴァ・レボリューション』の全作品はもちろん、年頃で独り身の女性ならば、多少は収集しても仕方がない分野の本だ。

 

壁の衣装は……小冊子の即売会の時に必要となる……ドレスコードのようなものだった。素材と露出の具合が、一般の正装とは多少は異なっていた。

通販で買った物もあれば、マヤが手作りした物もあった。

 

マヤは腕組みすると、どうしたものか(うな)った。

処分といったが、今までかなりの額を投資してきた代物だ。無下に捨てる訳にはいかない。

 

「……取り合えず、お宝を厳選して……どっかに隠した後は、他はDVDに焼いて処分しちゃうしかないわね。衣装は……段ボールに入れて、私のベットの下に隠しとけば……」

 

マヤは腕まくりをした。

 

「よおし、今日中にやっつけるわよ!」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

朝から延々と(うな)り続けたスキャナーの音が静まった時、既に陽は西の山々の尾根に近付いていた。

 

「終わった……」

 

マヤは汗をぬぐうと、フラフラと立ち上がった。

 

「後は、衣装を圧縮パックにして、ベットの下に……」

 

だが、かぶりを左右に振る。

 

「いや、そうじゃないわ。その前に焼いたDVDに偽のラベルを貼って……」

 

(ひたい)を抑える。疲れて、どうも思考が上手く回らない。

 

「いや、違うわ。先に、この同……小冊子をまとめて廃棄しないと……でも、マンションのゴミ捨て場はダメね。どっか遠くに持って行って、捨ててこないと……」

 

とにかくマヤは、小冊子を運び出す事にした。

風呂敷を広げ、紐で縛った小冊子を積み上げる。薄い小冊子で、小高い山が出来た。

マヤは、ネットで風呂敷の包み方を調べると、それをリュック型に結び留めた。

 

(背負えるかしら……)

 

取り合えず、屈んで首を通してみる。そして、風呂敷を(かつ)いで立ち上がる……が、立てなかった。

 

マヤは風呂敷を首に掛けたまま、部屋の柱まで()いずると、それにつかまった。

 

「ふ……ん、ぬ……」

 

柱にもたれかかるようにしながら、両足をふんばり、立ち上がろうとする。

 

「よいしょ!」

 

掛け声とともに、何とか立ち上がる事ができた。が、重みでフラフラと後ろに(あと)ずさった。今にも後ろに倒れそうだ。

 

(こ、こういう時は、重みの分だけ前傾姿勢に……!)

 

とっさに身体を前に傾ける。そして、そのまま重みでズデンと(つぶ)れた。

 

享年24歳……伊吹マヤ、死亡。

 

(してたまるか!)

 

潰れたままマヤは這いずると、もう一度、柱の所につかまった。

 

「う、う……」

 

渾身(こんしん)の力を込めて膝を立て、風呂敷を(かつ)いだまま、もう一度、ヨロヨロと起き上がる。

 

「ま、負けるもんですか……!」

 

大股になって踏ん張ると、マヤは足取りおぼつかないまま、何とか玄関まで歩いて行った。

荷物を落とさないように慎重に片手で扉を開き、そのまま外に出ようとする。だが、今度は背中の風呂敷が出口で詰まった。

 

 

「ふ、ぬぬぬぬぬ……」

 

玄関に引っかかったまま、必死にあがく。

 

「と、お……りゃ~!!」

 

ズボン!

 

勢い良く風呂敷が抜け出る音が鳴る。マヤは勢い余って、マンションの通路の(へり)に激突した。そして、そのままマンションの三階から落下しそうになる。

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

必死になって通路の縁に両手を掛け、そのまま縁を乗り越えてゆこうとする身体を支える。

 

(これから同居生活の話が始まるってのに……その前にヒロインが同人誌と一所に転落死なんて……洒落(しゃれ)になんないわよ……!)

 

「う、う、う……きゃあ!」

 

今度は風呂敷の重みで身体が後ろに沈み、マヤは通路に尻餅(しりもち)を着いた。尾骶骨(びていこつ)を少し打ったが、何とか投身自殺せずに済んだようだ。

 

「い、たたた……は、早く捨てに行かないと」

 

お尻をさすりながら、マヤは壁伝いに立ち上がると、何とかマンションを抜け出して行ったのだった。途中、エレベータでも詰まったが……。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「おや、マヤちゃん。こんばんわ」

 

マンションを出ると、中年男性が、気さくに挨拶(あいさつ)をしてきた。足元には犬のシェパードを従えている。

 

「あ、鈴木さん。お早うございます」

「ははは、もう夕方だよ、マヤちゃん」

 

DVDに焼くことに夢中になり、さらにマンションから脱出する事に手間取っている内に、いつの間にか日は朱に染まり始めていた。

 

「ん、その風呂敷はどうしたの?」

 

「あ……こ、これは……その……」

 

マヤの汗だくの身体から、冷や汗まで噴き出してきた。

 

(え、ええと……ここは、何て説明すればいいのしから?行商のオバサンのコスプレ?サンタの予行練習?それとも怪盗の見習い?)

 

マヤは焦ったが、鈴木さんが気にしたのは荷物の中身ではなく、その大荷物自体だった。

 

「女の子がそんな大荷物抱えてちゃ大変だろう。おじさんが手伝ってあげるよ。犬繋いでくるから、ちょっと待ってなさい」

 

「い、いえ、結構です。大丈夫ですから、気にしないで下さい。あはは、そ、そりゃじゃあ!」

 

マヤは笑顔を振りまくと、慌てて鈴木さんの元を離れて行った。

 

大風呂敷を(かつ)ぎながら、トボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボ……。

トボトボトボト、ドテッ…………ト、トボトボトボトボトボ……。

 

ひたすら歩き続けたマヤは、冷たい夜風が吹き始めた頃に、ようやく郊外のゴミ捨て場にたどり着いた。

 

「どっこいしょ……と」

 

やれやれとばかりに、マヤは風呂敷を下ろした。そして、ゴミ袋の山の上に乗せる。

途中、転んだり、通行人に変な目で見られたが、これでようやく解放された。

 

「それじゃ、みんな……元気でね!」

 

マヤは、長年慣れ親しんだ紙の友人たちに手を振ると、背を向け、ゴミ捨て場を後にした。

 

……が、どうした事だろうか?

 

マヤは、背を向けたまま、動こうとしなかった。

早く部屋に戻って、シンジを歓迎する為の料理の下ごしらえだってしなくちゃならない。でも、なぜか、マヤの足は家路に向おうとしなかった。

 

見れば、マヤはうつむき、かすかに肩を震わせていた。

 

マヤの拳が固く固く握り締められた。何度も小さくかぶりを振り、湧き上げてくる感情に()えようとしている。

 

マヤの頬に、一筋の熱い感覚が走った。それが頬から首元へと伝った時、マヤの目元から、感情があふれ落ちた。

 

アスファルトの上に、一つ、一つ、また一つと、(しずく)が跳ねて散って行く。やがてそれが小さな水溜まりとなった時、マヤは()え切れずに振り返った。

 

「……できない」

 

そして、風呂敷の(かたまり)に顔を沈めて、慟哭(どうこく)した。

 

「……私にはできない……あなたたちを捨てるなんて……!」

 

ぎゅっと風呂敷を抱きしめる。

 

「……私にできるはずがないわ!!」

 

高校時代、ネットで偶然知ったコミックマーケットの存在。

会場が直ぐ近くだった事と、かすかな興味から出かけたイベント。

何も考えずに、ただ、表紙の絵柄に()かれて買った小冊子……。

それがどんなジャンルの本かなんて、少しも知らなかった。

 

(初めてあなたたちと出会って……部屋に帰って、あなたたちを開いた時、私ったら顔を真っ赤にして、思わずページを閉じちゃったけ……。

胸がドキドキして、独り暮らしなのに、わざわざ辺りを見回しちゃって……。

それから部屋のカーテンを閉じて、ベットにもぐりこんで……初めて出会った薄いあなたたちを、朝まで読みふけったっけ……)

 

あの日から、あの時から、あの瞬間から……マヤは道を踏み外した。

 

(……え?PCに向き合って過ごすだけの日常を送ってたはずじゃないのかって?

そりゃまあ……少しはシンジ君に話合わせてた部分もあるけど……嘘じゃないわよ。

割合でいうと、PCに向き合う日々が4で、この子たちを買いに行ったり観賞していた日々が6くらいだったかしら……)

 

コミケが開かれる度に買いあさり続けた同人誌。

ネルフのお給料で、最初に買ったのは『サークル・ブルー&サン(現・エヴァ・レボリューション)』の特別版だった。

 

一冊一冊の薄い小冊子に、一つ一つの思い出があった……。中身の絵をDVDに焼き写した所で、その思い出まで焼き写す事はできやしなかった。

 

(この子たちを捨てるなんて……自分の一部を捨てるようなものだわ……。私から同人誌を取ったら、私はただの美人で可愛いヒロインじゃない……いや、それも悪くないけど……)

 

マヤはカブリを振った。

 

(いいえ、そうなっちゃったら……他のアニメにもヒロインとしてスカウトされかねないわ。これからショタとの同居生活を楽しみたい所なのに、他の作品にまで掛け持ちで出演するなんて……!)

 

マヤは涙をぬぐうと、一度は捨てた風呂敷を、再び担《かつ》ぎ上げた。

 

この子たちを捨てる訳にはいかない。しかし、もう部屋に居場所はなかった。

きっとシンジは、自分の事を真面目で、潔癖(けっぺき)で、美人で、清楚(せいそ)で、可憐(かれん)なお姉さんだと思っているはずだ。

 

もし、そのシンジが、美人な婦女子だと思っていたマヤの「婦」の字が、実は違う字だったと知った時、どれほどショックを受けてしまう事だろうか?

あと、サークル『エヴァ・レボリューション』に「青葉と新ショタ」の絡みをお願いし、既に、それを即売会でゲットして所持している事を知ってしまったら……。

 

 

「こうなったら、あの人たちに頼むしか……!」

 

マヤは、ある人たちのマンションに向って、いそいそと歩き出した。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

ピンポーン

 

『は~い……え、マヤちゃん?あ、玄関開いてるから入って入って』

 

インターホンで応じたのは、日向の声だった。

玄関の標札には、日向と青葉の名前が掛かっている。

マヤは玄関を開くと、入りかけた所で、案の定、大風呂敷が入り口に詰まってしまった。

 

顔を真っ赤にしながら必死で引っ張り、自分のマンションを出た時と同じように勢い余って飛び出す。

 

ズデン!

 

玄関の床に、マヤは風呂敷もろとも突っ伏した。

 

「おいおい、マヤちゃん、大丈夫かよ」

 

出迎えた青葉が、慌ててマヤの手をつかんで引き起こした。日向も、マヤに()し掛かる大風呂敷を外してやる。

 

「マヤちゃん、今日はシンジ君の部屋の準備をするとかで休んでたけど、急にどうったの?」

 

青葉に助け起されたマヤは、しかし、

 

「そ、その……あの日向さん、青葉さん……」

 

言葉を(にご)した。

祈るように両手を握り締め、躊躇(ちゅうちょ)した様子で視線を伏せる。

 

「じ、実は、その……」

 

風呂敷を一瞥(いちべつ)してから、ためらいがちに二人を見上げる。

 

「その……」

 

だが、そこから先の言葉を上手くつぐめなかった。

 

日向は不可解に、眼鏡に手を掛けてマヤの表情を覗き込んだ。

 

……と、どうした事か?

突然、風呂敷が音を立てて炸裂した。

度重なる衝突で、破れかかっていたのだろう。

中から大量の小冊子があふれ出ると、マヤは慌ててそれを身体で隠そうとした。

 

「こ、これは、その……!?」

 

破れた風呂敷の布をつかみ、何とか包みなおそうとする。

 

……だが、その手は、ピタリと止まってしまった。

 

慌てるマヤの背後から、それを押し留めるように、優しく肩に乗せられた日向の手。

振り返ると、そこには日向と青葉の優しげな表情があった。二人は、「もう、それ以上は何もいうなと」と、かぶりを振っていた。

 

三人の間に、もう言葉は不要だった。マヤの荷物を見た瞬間、二人の漢は全てを察したのだ。

 

日向はうなずいた。

 

「任せておいて、マヤちゃん……ボクが責任を持って預かっておくよ」

「え、で、でも……こんなに沢山、ご迷惑じゃ」

 

青葉が小さく胸を叩いた。

 

「『サークル・ブルー&サン』以来の常連、『萌えウサ』ちゃんが困ってるのに、見捨てる訳にはいかないっしょ!」

 

マヤは、もう一度、祈るように両手を握り締めた。だが、その視線はもはや伏せられてはおらず、しっかりと二人の漢を見上げていた。感動の余り(うる)んだ瞳をキラキラと輝せながら……。

 

「先生……」

 

今日二度目の熱い(しずく)が、マヤの頬に流れたのだった。



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いらっしゃいませシンジ君

メガネのヲタと長髪のヲタに荷物を預けたマヤは、マンションに帰ると、残りの衣装を片付けた。掃除機を使って真空パックに圧縮し、それを平たい段ボールに詰め、自分のベットの下に押し込める。

 

 

「さあ、後はお料理の準備をしておくだけね!」

 

 

DVDに焼く作業も、同人誌の処分も、衣装の始末も終わった。残りは、明日の歓迎会に備えて、料理を用意するだけだった。

 

明日は土曜日。

シンジが、ネルフの食堂で朝食を取った後、八時にはマヤのマンションに来る予定だ。

 

その後は、マヤが周辺を案内しつつ、必需品を買いがてらのデート。昼までにはマンションに戻り、歓迎会をする手はずになっている。

慌てて準備をせずとも済むように、今夜中に料理の下準備をしておきたかった。

 

エプロンを着けると、マヤは張り切った様子で腕まくりをする。食材をキッチン台の上に並べ、自信満々に包丁を手に取った。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

ぷるるるるるる……ぷるるるるるるる

 

携帯電話の音に、眠っていたリツコは目を覚ました。

わずらわしげに、枕元の時計に視線を向ける。既に夜中の二時を回っている。

 

(こんな夜中に……)

 

もし、ネルフからの緊急の呼び出しならば、携帯ではなく部屋のブザーが作動するはずだ。

 

(どうせ、ミサトが酔っ払って掛けてきたんでしょ)

 

リツコは寝返りを打つと、無視を決め込んだ。だが、携帯が静まると、今度は部屋の固定電話が鳴りだした。

 

(ミサト……うるさいわよ)

 

これも無視する。

着信音が静まると、自動的に留守録に変わった。電話のスピーカーから、留守録にメッセージを残そうとする相手の声が聞こえた。

 

『先輩!先輩!お願いです!電話に出てください!助けて下さい!』

 

(マヤ……?)

 

リツコは電話の相手が後輩だと分かると、起き上がった。電話を手に取り、応答する。

 

「どうしたの、マヤ?」

 

『先輩、それが……明日、シンジ君を歓迎しなくちゃいけないから……お料理の準備してたんですけど……』

 

「それで?」

 

『良く考えたら……私……私、お料理できません!』

 

受話器の向こうから、マヤのすすり泣く声が聞こえた。

 

リツコは溜め息を吐くと、もう一度、時刻を確認した。

 

(ミサトが相手だったら「出前でも頼んだら」で済ますんだけれど……)

 

しばしの沈黙後、リツコは言った。

 

「……今から、そっちに行くわ」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

時計の短い針が真横に(かたむ)きかけた頃、マヤの部屋のインターホンが鳴った。

 

『マヤ!』

 

「先輩~!」

 

涙目のマヤが慌ててリツコを迎え入れる。

リツコは、この真夜中にどこで買い込んできたのか、食材を詰め込んだビニール袋を両手に持っていた。そのままズカズカと台所に向う。

 

台所には、デタラメに切られた野菜と、肉が焦げ付いたフライパン、封を切られたレトルト食品、そして、料理の本がおいてあった。

呆れた様子で、リツコは肩をすくめた。

 

「あなたが料理できないなんて、意外だったわね……」

 

「家事は普通にできるんです。でも、お料理はいつも簡単なものしか作ってないものですから……」

 

「その割には、野菜すらまともに切れてないみたいだけど?」

 

明日の朝……おそらく、あと四、五時間もすれば、シンジがマヤのマンションに移ってくるはずだ。

可愛い後輩に恥をかかせない為にも、それまでに何とかせねばならない。

 

「とりあえず、今日の所は私が手伝うから……夜は外食するなりして誤魔化しなさい。明日からは……ネルフの技術局に空いてる食堂があったでしょ?昼の休憩時間を利用して、そこに来なさい。しばらくの間、私が色々仕込んで上げるわ」

「先輩、有難うございます!」

 

涙目のまま、マヤは、コクコクと(うなず)いて感謝した。

 

「で、その前に確認するけど、マヤはどの程度までなら出来るのかしら?」

「ええと……」

「『サシスセソ』は?」

「も、もちろん、心得てます!あ、あれですよね……」

 

リツコは、いぶかしげな目を向けた。

 

「じゃあ、聞くけどサシスセソの『サ』は?」

「サ、サラダ!」

 

「……じゃあ、『シ』は?」

「……シーチキン?」

 

「……『ス』は?」

「ス……?」

 

マヤは小首を(かし)げた。スの付くもので、マヤが良く知っているものといえば……。

 

「ス……鈴木さん?」

「鈴木さんって誰かしら?」

「シェパード飼ってる近所のおじさんです」

 

「……『セ』」

「セロリ!!」

なぜか、これだけは自信満々に答える。

 

「……“ソ”は?」

「ソ……ソフトクリーム?」

 

リツコは額を抑えた。

 

「じゃあ、マヤ……。煮物をする時は、鍋に、サラダ、シーチキン、鈴木さん、セロリ、ソフトクリームの順番に、ぶち込めばいいのかしら?」

「えっと、その……。サラダやシーチキンは用意できますけど、鈴木さんの方はお願いしてみない事には……」

「……」

 

なぜ黙り込むのは分からず、マヤは心配げにリツコの顔を覗き込んだ。

 

「あの、先輩……。鈴木さんに電話してみましょうか?鈴木さんは優しいので、お願いすれば案外……」

 

リツコから溜息がこぼれた。真夜中に来てみれば、手伝い所のレベルではなかったらしい。

 

「先輩……。もしかして……セロリ以外、間違ってました?」

 

さらに深い溜め息を付いたリツコは、かぶりを上げると、

 

「まあ、サシスセソなんて、ほとんどの料理じゃ関係ないし……」

 

(はげ)ますようにマヤの両肩を叩いた。

 

「取り合えず、出来る事から!その内、あなたでも作れる料理を教えてあげるわ!」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

リビングの床に陽の帯が広がり、辺りが白みだした頃には、リツコは自分の車のキーを回していた。

後輩と共にシンジを出迎えようかとも思ったが、自分が手伝った事がバレるかも知れない為、止めておいた。

 

リツコが車に戻った時、それとすれ違う形でシンジはマンションに到着していた。予想よりも来るのが速かったのは、ミサトがシンジを送ってくれたからだ。

リツコはエンジンの始動を感じながら、マンションを見上げた。シンジが鳴らすインターホンに応え、直ぐに扉が開く。

マヤはエプロン姿のまま、シンジを出迎えていた。

 

(マヤ、今日からアナタが保護者なんだから、しっかりするのよ……)

 

心の中で声援を送り、リツコはアクセルを踏み掛けたが、親友がサイドガラスをノックする音に気づいた。

 

「リツコ、お早う~。どうしたのよ、マヤちゃんの手伝い?ご苦労な事ね~」

「アナタの方こそ……最後の保護者の勤め、ご苦労さま」

 

ミサトは、マンションを見上げた。

 

「あの二人、上手く行くといいわね……。マヤちゃん、ちょっと頼りないけど大丈夫かしら?」

「大丈夫な訳ないわよ。いろいろ苦労する事になるでしょうね」

 

「あら、それなのに任せちゃったの?」

「私は、シンジ君の面倒を見る事で、マヤも成長してくれる事を願っているのよ」

 

エンジニアとしては稀有(けう)の才能を持つ伊吹マヤ。

だが、少女は、その才能を自分の為には活かそうとしなかった。その能力を上司であるリツコの為に使い、自己解決できる能力を持ちながら「先輩」とリツコを頼る事を好んでいた。

 

(マヤ……これからアナタは、頼る側ではなく頼られる側になるのよ。どうか、シンジ君を守ってあげる事で、自分の能力が他人を救う事もできるって事に気づいてちょうだい……)

 

「ミサト、良かったら、これから飲みにでもいかない?」

「ええ、マジで?朝っぱらからリツコに、そんなこと言われるなんて意外だわ」

 

「行くの行かないの?」

「行くに決まってっしょ!」

 

ミサトが嬉々として自分の車に戻ると、リツコは再びマンションを見詰め、今度はシンジに心中で告げた。

 

(シンジ君……歳は離れていても、マヤもアナタと同じ弱さを持った子なの。あの子は、私の後輩として働く事を生き甲斐にしているわ。でも、それ以外には、あの子にはまだ目的も何もないの。時たま、何をすべきなのか分からなくなって気鬱(きうつ)に沈む事もあるわ……アナタのようにね。

シンジ君、よくマヤの姿を見るのよ。これから先、マヤは自分の弱さに(あらが)いながらアナタを守ろうとするはずよ。その時、あなたは、恐怖に抗いながら使徒と戦った自分の姿とマヤの姿を重ね見る事になるでしょう。

あなたは、マヤという自分自身を見詰めながら、自分には何が出来るのか、自分は何をすべきなのか……一つ一つ探し、切り開いて行かねばならないわ。どうか頑張って……)

 

ミサトが催促(さいそく)のクラクションを鳴らした。リツコはアクセルを踏んだ。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

シンジを迎え入れたマヤは、昨日、紙の友人たちを退去させた部屋に少年を案内した。

 

「うわ、広い部屋ですね……」

「ミサトさんの所より?」

 

「はい、ミサトさんの所は、部屋の数は多かったけど、一つ一つのスペースは小さくて」

「良かった。遠慮なく自由に使ってね」

 

さっそく、届いていたシンジの荷物……段ボール箱を開けると、マヤは収納を手伝った。

昨日まで、シンジには絶対に見られる訳にはいかない衣装が入っていたクローゼットと小ダンスに、シンジの衣類をしまう。

 

思ったほど時間は掛からず、一通り荷物の収納と配置は完了した。

 

「お布団は、予備のものがあるけど……シンジ君は、床とベットどっちで寝るタイプ」

「どっちでも別に……」

「遠慮せずに!」

「ミサトさんの所で、初めて畳の上で寝ましたけど……ベットよりも良く寝れました」

「じゃあ、せめてフローリングの床に敷ける物くらい、私が買って上げないとね」

「あ、お給料なら出てます。自分で……」

 

断りかけた所で、シンジは言葉を切った。急に、マヤが顔を目の前に突き出してきたからだ。

 

「だ~め!それはシンジ君の学費と将来の為にね。敷物くらい私が買ってあげる」

 

マヤの可愛い顔を間近に見たシンジは、少し顔を赤らめて視線をそらした。

 

「あ、じゃあ……」

 

シンジは、赤面した顔を(さと)られないように、少しうつむいたまま自分の鞄を手に取ると、中から通帳を取り出した。

 

「ミサンさんの所じゃ、お金の管理は任せてたんです。僕はお小遣い制で……」

 

マヤは通帳を受け取ると、中を確認した。

 

「私が管理すればいいのね。お小遣いは幾らだったの?」

「五千円です」

 

通帳には、そこそこの額が振り込まれていたが、お小遣いらしき額が一度引き出された切りだった。

 

「ミサトさんに色々買ってもらった?」

 

シンジは、うつむいたまま(うなず)いた。

 

「ミサトさんの所に来た時、僕の荷物は段ボール箱二つだけでした」

 

それ以外は、全てミサトが負担したという事だ。

 

(ミサトさんも、案外太っ腹ね……)

 

「分かったわ。こっちでも私が管理します。でも、私、ミサトさんよりは、お給料少ないと思うから、あんまり(みつ)げないかもね~」

 

マヤは、からかうように言いながら、またシンジに顔を近づけた。

 

「も、もちろんです。僕の物を買う時は、そこから引き出して下さい。あ、家賃だって、幾らか負担させて下さい」

 

年上のお姉さんに顔を近づけられただけで赤面する少年。どこまでも初々(ういうい)しく、そして健気だった。

 

「うん、その内、お願いするかも」

 

(本当は、ITの特許幾つか持ってる私の方が、ミサトさんよりもはるかに貢げるんだけどね)

 

マヤの保護者としての最初の項目に『シンジ君の為の貯蓄』が加わった。

 

マヤが、受け取った通帳と印鑑をしまいに部屋を出て行くと、シンジはその場に座り込んだ。

 

「ミサトさんは大人っぽい美人だったけど……」

 

間近に見たマヤの顔。

 

「マヤさんって……可愛いな」

 

先日の使徒襲撃の際、瓦礫の中から助け出してくれた時のマヤの手と、そして、傷口をなめてくれた時の感触が一度によみがえった。

シンジは、熱くなった顔をパタパタと手で仰いで冷ました。

 

シンジの通帳を自分のタンスにしまったマヤは、ふうと溜め息を吐くと、胸を抑えた。なぜか、こっちも顔を赤らめていた。

 

学生時代は、合コンに誘われても男性とは一言もしゃべれなかった。でも、今では、同僚の日向や青葉と親しく話せる間柄だ。男に対する免疫はあるつもりだった。ましてや相手は少年だ。

 

(……でも)

 

心臓がドキドキする。

 

(……貞本義行先生が、「シンジ君の顔は、ナディアからまつ毛を取っただけ」って言ってたけど)

 

『サークル ブルー&サン』は、元はナディアの同人サークルだ。マヤは、その頃からのサークルのファンだ。

 

(マジで、ナディアそっくりじゃない……)

 

憧れのアニメの美少女・ナディア……それが男の子になって自分のマンションで同居……。

 

(やばい、やばい……)

 

少女と少年は、落ち着くまでしばしの時間を有した。



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男の子

「そうだシンジ君。この辺、ちょっと案内して上げようか?」

「あ、助かります。出来ればCDをおいてるお店なんか教えて頂けますか?」

 

二人は落ち着くと、お昼まで時間があった為、予定通りマンション周辺を散策する事にした。

 

(この子は「ナディア」じゃなくて「シンジ君」、「ナディア」じゃなくて「シンジ君」……)

 

マヤは、心の中でブツブツとつぶやきながら、少年を案内した。

 

 

一番近くのコンビニ。

CDも売っている少し大きめの書店。

行き付けのPCショップ。

近所の子供たちがはしゃいでいる公園。

そして、ご近所の鈴木さん。

 

マンションのエレベーターに戻った頃には、正午を少し過ぎていた。

 

「そうそう、少し離れた所に洋服屋さんもあるの。午後から、ちょっと行って見ましょうか?」

「洋服ですか?」

 

「ええ、だってシンジ君って、学生服で過ごしてる事が多いでしょ。シンジ君に似合いそうなの、買ってあげるわよ」

「あ、じゃあ、僕の通帳から……」

 

マヤはそれには答えず、ニコニコしながらショルダーバッグからIDカードを取り出した。

ナディアと思わなければ、何という事はなかった。まだ顔を直視するには、もう少し慣れが必要だったが、それを除けば、可愛い弟ができたようで楽しかった。

 

マヤは、部屋の扉にIDカードを差し込んだ。ぴぴと音がなり、ロックが自動で外れる。

 

「……?」

「……!?」

 

扉を開けた途端、二人は顔を見合わせた。()げ臭い匂いが漂ってきたのだ。

 

「あ!」

 

マヤは、大切な事を思い出した。

 

深夜に食材まで持ってきてくれた先輩。

 

『豪勢にと思ったけど……さすがに、お昼から鶏一匹は胃に重いかも知れないわね……』

 

その食材の中には、若鶏が丸々一匹入っていた。

 

『野菜と一緒に弱火で二時間煮込んだら、お昼は野菜スープにして、鶏肉の方は晩御飯の時に出してもいいんじゃないかしら?』

 

(そういえば、火、消してない!)

 

慌ててマヤは台所に駆け込んだ。途端に煙に包まれたが、マヤは構わずコンロに取りついた。弱火にしていても、煮込み過ぎだ。鍋は真っ黒な煙を上げていた。

 

「やだ……!」

 

マヤは火を止めると、直ぐに換気扇を回した。

煙が晴れたそこにあったのは、黒焦げた一羽の若鶏だった。

 

「そんな……」

 

マヤは、落胆の声をもらすと、その場にへたり込んでしまった。

リツコが、一人でピラフ、サラダ、若鶏の丸煮を作ろうとした時、

 

『先輩、シンジ君の歓迎会ですからメインの方は……指導だけして下さい』

 

マヤは、自分から若鶏の煮物を作ると言い出した。

リツコに指導されながら、脂肪を取り除き、粗塩をすり込んだ。包丁の持ち方から矯正されながら、自分自身でスープの野菜も刻んだ。出汁(だし)も、市販品ではなく、わざわざ圧力鍋を使って昆布から取ったものだ。

 

初めての本格的な料理。それで、初めての同居人を持て成すんだと張り切っていた。それが今、全て台無しになってしまっていた。

 

先輩には申し訳なかったが、それ以上に

「シ、シンジ君……」

 

同じくキッチンにやってきたシンジに申し訳なかった。

 

「マヤさん……大丈夫ですか?」

「……ごめんなさい」

「え?」

「シンジ君を持て成す料理だったのに……」

「そんな……気にしないでください。それより……」

 

シンジは鍋を覗き込んだ。

「焦げ付いてますね。とりあえず、洗いますね」

 

だが、マヤはプルプルと首を横に振った。

 

「そんなのはいいわ……それよりも、お昼にしなくちゃ」

 

マヤは、気を取り直して立ち上がった。リツコが用意したピラフとサラダは無事だ。

 

「取り合えず、残っているもので済ませて……。シンジ君、夜は外食しましょう。出来るだけ良いレストランで……」

 

自分の手料理がダメになったのなら、せめて、お金をかけて持て成したかった。

しかし、その思惑も、マヤの鞄から鳴り出した携帯に潰されてしまった。

 

「はい、伊吹です」

 

『おお、マヤ君かね!私だ、冬月だ!今、マギに重大なバグが見付かったようなんだ。直ぐに来てくれんかね!?』

 

「え、え……でも、私……」

 

『なぜか、赤木博士と連絡が取れんのだ!いいね、直ぐ来てくれたまえ!!』

 

マヤが何か言おうとする前に、冬月は一方的に電話を切ってしまった。

 

「そ、そんな私……」

 

マヤは、シンジの方を見た。だが、シンジは直ぐに事態を察すると

 

「マヤさん、緊急の仕事なんですね!?ボクの事は構わないから、行って下さい!」

 

その迷いを断ち切るようにうながした。

 

「でも、もし、時間までに帰れなかったら……」

「ボクなら、適当に済ませておきます。大丈夫です!」

 

マヤはうなずくと、部屋に戻り、仕事用の鞄を手に取った。そして、財布から万札一枚を取り出し、シンジに手渡す。

 

「私が、六時を過ぎても帰って来なかったら、これで夕食を済ませて!」

 

マヤはアタフタと、マンションから駆け出して行ったのだった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

街頭の灯が(とも)りだした頃、マヤはようやくネルフから解放された。

バグを取り除くのに、それほど時間は掛からなかった。でも、ついでに一通りシステムの検査をさせられた為、時間が掛かってしまった。

いや、本当は、十数分もあれば全て完了したのだが……ネルフに推薦で入った経緯を隠している以上、わざと人並みの速度で作業をするしかなかったのだ。

 

「シンジ君……ちゃんとご飯食べたかな……」

 

既に、時刻は七時を過ぎていた。渡したお金でご飯を済ませてくれていればよかったが、ひょっとすると、マヤの事を気遣って待ってくれているかも知れない。

自分が逆の立場なら、そうしている。似た者同士なら、それは十分に在り得た。

 

マヤは、溜め息を吐いた。

 

「シンジ君が来てくれた記念すべき第一日目なのに……」

 

憂鬱(ゆううつ)なまま、マヤは、マンションの扉を開いた。

 

「ただいま~。シンジ君、ご飯食べた?」

 

声を掛けながら、マヤは玄関から上がらずに鞄だけおいた。もし、まだ済ませていないなら、直ぐに外食に連れ出してやるつもりだった。

 

「もし、まだなら……」

 

「マヤさんお帰りなさい!」

 

しかし、マヤを出迎えたのは、夕食を済ませてくつろいでいた様子のシンジでも、お腹を空かせて待ち続けていたシンジでも無かった。

 

「え、シンジ君、その恰好……?」

「あ、エプロン借りました。お腹空いたでしょ、ご飯できてますよ」

「へ……」

 

一瞬、意味が分からず、マヤは呆気にとられた。

その彼女の鼻腔(びこう)を、キッチンの方から(ただよ)う、美味しそうな匂いがくすぐった。

 

「さっきネルフの本部の方に電話したんですけど……」

 

シンジは左手で、マヤの鞄を持つと、

 

「仕事中に直接電話を掛けちゃいけないと思って本部に掛けたんですけど……ちょうど、退社した所だって聞いたものですから」

 

空いている方の手で、マヤの手を取った。そして、彼女をうながしてダイニングへといざなう。

 

「今、温めなおした所なんです」

 

ダイニングのテーブルには、二人分の食事が用意してあった。

リツコが作ってくれたピラフとサラダ。そして、なぜか失敗したはずの若鶏のスープまで!

 

「え、どうして……?」

 

エプロン姿のシンジを見返して気付く。

 

「シンジ君が……?」

「はい、冷蔵庫にレシピのメモが貼ってあったので作ってみました」

「レシピみただけで、出来ちゃったの……?」

 

シンジは笑顔でうなずいた。

 

「ミサトさんの所にいた頃は、ボクがしょっちゅうご飯を作ってたんですよ。ミサトさんって炊事とか家事が全然ダメだから」

 

シンジは、マヤの為にテーブルの椅子を引いた。

 

「マヤさん、座って下さい。マヤさん見たいには上手く作れなかったと思いますけど、頑張って……え、ど、どうして泣いてるんですか?」

 

マヤは、テーブルを眺めたまま、大粒の涙をこぼしていた。

 

「あの……勝手なことしていけなかったでしょうか?」

 

カブリを振る。

 

「ううん、違いの……。シンジ君をガッカリさせちゃったと思ってたのに……こんな……嬉しくて……」

 

「マヤさん……」

 

シンジはポケットからハンカチーフを取り出した。少し躊躇(ためら)ってから、背を伸ばし、マヤの涙をぬぐってやる。

 

「そういえば、このハンカチ……マヤさんから借りたまんまでしたね。すいません、勝手に使っちゃって」

「ううん、そんなこと気にしないで……」

 

少年に涙をぬぐわれたマヤは、恥ずかしくなって顔を赤らめた。

 

「あの、マヤさん……」

「なあに?」

「このハンカチ……前に、使徒に襲われて意識が遠のいた時、手に巻かれてたこれがボクを覚ましてくれた気がするんです。良かったら、お守りとしてもらってもいいですか?」

 

マヤは目尻に残っていた(しずく)を手でぬぐうと、笑顔でうなずいた。

 

今朝、シンジの顔を間近で見た時、ナディアに似た風貌(ふうぼう)にドキドキしてしまった。でも、ナディアだと思いさえしなければ、単なる少年。弟みたいなものだと思っていた。

しかし、大きな勘違いをしていたらしい。シンジは、例えナディアに似ていなくとも、マヤを赤面させてくれる男の子だった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

その夜、マヤは就寝前に自室でノートパソコンをいじっていた。画面には、『エヴァ・レボリューション ファン倶楽部』と表示されたSNSサイトが映っている。

仲間が集う掲示板に、マヤはメッセージを書き込んだ。

 

『みんな、今日からワタクシ「ウサ萌え」は、可愛いショタっ子と同棲を始めちゃいます。(*^ー゚)d イェ~イ 』

 




10年以上前に書いたSSの手直し版は、ここまでです。

後は、
10年以上前に書いた一話完結ネタを数倍に広げた話や、
書く予定のまま書かなかった「ヤシマ作戦(シリアス)」の話や、
新規の書き下ろし話になる為、
更新頻度は落ちますので、悪しからず。(´・ω・`)


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番外編 葛城ミサトの実力
奇跡の女(1)


■ 前書き ■

三章目の話でしたが、シンジ君が登場しない為、番外編として独立させました。(´・ω・`)


ふん、ふん、ふん~

 

鼻歌交じりに、キーを打つ音が聞こえる。

 

ネルフのオペレーター室。

本日は、スーパーコンピューター『マギ』の定期検診の日だ。

職員たちのタイピング音に交じって、隣席の青葉の耳にも鼻歌が届いていた。

 

「マヤちゃん。ずい分、上機嫌だね」

 

鼻歌の主に声を掛ける。

 

「いえ、別に上機嫌ってワケじゃ……」

 

マヤは否定したが、明らかにキーを操作する指が、鼻歌のリズムに合わせて踊っていた。

 

「あ、でも、確かに上機嫌かも……」

「何かいいこと……ああ、そうか、シンジ君と仲良くやれてるんだね」

 

マヤは笑顔でうなずいた。

「ええ、可愛いし、親切だし……思ったより、ずっと素直だし……」

 

確かに、シンジと暮らし始めてから、毎日が明るくなった気がする。

今までは、朝の出勤は、尊敬する先輩やエヴァ・レボルーションの先生たちに会えるのが楽しみだった。だが、帰宅時間が近付けば、疲れと共に、少し(さび)しさを感じていた。

 

でも、今は違う。

夕方になれば学校を終えたシンジが来てくれる。彼のオペレーターを務めるという楽しみが出来ていた。そして何よりも、仕事を終えた後、彼と共に帰れるのが嬉しかった。

 

一人で家路につき、一人で食事を済ませ、ノートパソコンにかじりついた後は眠るだけなんて、日々はすっかり消え失せていた。

途中で寄り道して一緒にお買い物。マンションに着けば、一緒にキッチンに立ってお料理し、一緒にお食事。

父と離れて以来、こんな生活はいつぶりだろうか?

 

 

しかし、マヤが鼻歌を歌っていたのは、別にそんな理由からではなかった。

 

リツコが、そっとマヤに席を寄せた。

「マヤ、なかなか遅く打てるようになれたじゃない」

「はい、そりゃもう先輩の直伝……」

少し小声になる。

「言われた通り、鼻歌のリズムに合わせたら、人並みの速度まで落とせるようになりました」

 

リツコも、青葉に聞かれないように声を落とす。

 

「でも、気を抜いちゃダメよ。この間なんて、右手だけで仕事しながら、左手でOSの独自開発してたじゃない」

「あの時は、ちょっと考え事してたもんですから、うっかり……」

「気を付けなさい。window並みのOSを一時間で作るとか……皆にバレたら大変よ」

 

マヤが、かつてネルフのスーパーコンピューター・『マギ』にウィルスを仕掛けた犯人『ブラッディ・エンジェル』だという事は、二人だけの秘密だった。

 

かつて、世界を騒がせたクラッカーは、その活動を止めた今も、各国の機関から懸賞金を掛けられたままだ。正体を隠し続ける為にも、マヤは自分の能力を人並みにセーブしなければならなかったのだ。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「第127次定期健診、無事終了しました」

 

マヤが、ソフトの定期健診が完了した事をアナウンスした。

 

「はい、皆さん。ご苦労様」

リツコのアナウンスが続く。

「今回は、テスト運転はないから……」

 

事務仕事という物は、忙しい時は忙しいが、手持無沙汰(てもちぶさた)になりやすいものだ。こういった時、有能な上司は、各職員の能力を把握し、えこひいきせずに、各自で無駄な時間が発生しないように仕事を振り分けてやらねばならない。

 

それでも手持無沙汰(てにちぶさた)な者が出そうなら、また適当な仕事を新たに用意するか、あるいは、忙しい部署のサポートに向かわせる。

それでもなお、暇になりそうならば、自分がしたい仕事……個人的に使う仕事用のプログラム作りなどを黙認してやるのが普通だ。

 

リツコは、各職員のPCをモニタリングした。全員、定時まで何かと仕事を抱えていた。一人を除いて。

 

「15分の休憩後……各自の仕事に戻っていいわ」

 

そして、唯一、手空きの職員に振り返って告げた。

 

「……もう直ぐ、ハードの方の定期健診があるから、行ってもらえるかしら」

「……」

 

リツコは怒ったように机を叩いた。

 

「あなたに言ってるのよ!」

 

隣で、呑気にコーヒーをすすっていたミサトは、思わず、こぼしかけた。

 

「へ、あたし?」

「唯一、暇なのはあなただけよ」

「もっと偉い人たちも暇でしょ~」

 

そういうと、ミサトは司令席の方を仰いだ。

 

「あの人たちは、これからお茶飲んだり、将棋指したりして、忙しいのよ……って、司令を使おうとするんじゃないわよ!」

「え~、あたしだって……」

 

なおも、ミサトが拒否の言葉を述べようとした時、リツコのディスプレイに映像が表示された。

画面に映ったのは、サングラスをかけた白人の男だ。

 

『もしもし、こちら司令室の下部施設……ええと、何ていうんだっけ……まあいいや、『マギ』の下の方です。ハードの検査を始めたいので、誰か佐官以上の方の立ち合いをお願いしや~す』

 

「ほら、呼んでるわよ」

「あれ。あたし尉官から佐官に昇進してたっけ?」

「階級は一尉でも、S級職員で、本部長の肩書なら十分よ!さっさと行きなさい」

 

リツコにうながされ、ミサトは面倒くさそうに、直ぐ近くの昇降式の床の上に移動した。そのまま、床と共に下部施設へと降りて行く。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

ネルフの全システムの中枢を担う『マギ』……。

赤木リツコの母親によって作られたそれは、『メルキオール』『バルタザール』『カスパー』という三台のスーパーコンピューターの総称だ。

 

ミサトは、飲みかけのコーヒーを持ったまま、『マギ』の地下に広がる施設を見上げていた。

冷却装置、変圧器、色んなものが広いスペースに詰め込まれ、それらが上の階の『マギ』本体に繋がっている。

『マギ』を樹木に例えるなら、ここは、その樹木を支える為の根っこというべき場所だ。

 

(リツコは、合議制システムだとか、人格移植OSだとか良く分かんない事いってたわよねえ……)

 

専門外のミサトには、「何かすごい機械」という事以外、良く分からなかった。

 

内部点検の為に、外郭パネルが三か所外されている。その一つから、サングラスをした男が顔を出した。

 

「ミサトの(あね)さん!『メルキオール』、配線、基盤、その他、問題なしっす」

 

ミハイルとかいう整備士は、()()れしく(あね)さん呼ばわりしていたが、ミサトは気にしなかった。

 

「はい、ご苦労様~。で、そっちの方は~?」

 

ミサトは、もう一か所の方に声を掛けた。

今度は小太りの男が顔を出した。ハンゾルだ。

 

「へい、(あね)さん!『バルタザール』も、錆、劣化、亀裂、歪み一切ございません」

「ちょっと、馴れ馴れしく(あね)さん呼ばわりするんじゃないわよ!上官殿って呼びなさい!」

なぜか、今度は怒る。

 

「え、でも、ミハイルには」

「あっちは、イケメンだからいいのよ!」

「へえぃ」

 

「じゃあ、ミサトの(あね)さん。後は、『カスパー』……」

 

ミハイルが、最後の一台の点検をしようとしたが、ミサトは面倒くさそうに手を振った。

 

「あんたたちの仕事の丁寧さは分ったから、もういいわ」

「いや、点検しねえと……」

「また、たっぷり一時間以上掛けるんでしょ?」

「そりゃ、まあ」

「あんたたちが点検してる間に、私が何回コーヒーのお代わりに戻ったと思ってんのよ」

 

いや、立ち会わんかい。

 

「問題なんてないから、もうあがんなさい」

「いや、姉……上官殿、それはいかんでしょ」

 

いい加減なミサトの態度にハンゾルも抗議したが、ミサトはまた手を振った。

 

「後は、このS級職員にして、作戦本部長・葛城一尉が……」

 

ミサトは、自分の目を指し示した。

 

「この洞察力と観察力を以て、目視で確認いたします!」

 

ミサトは、強引に二人に点検を止めさせると、コーヒーを持ったまま、自身で『カスパー』の中に入って行ったのだった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「たく……たかがハードの点検に、どんだけ時間掛けてんのよ……」

 

ぶつぶついいながら、機械の中の狭い通路を進んで行く。

 

「はいはい、異常なし。こっちも異常なし。あっちも多分、異常なし」

 

各所の電気機器のパネルを開いては、何なのか良く分からないまま目視確認し

 

「はい、爆発してないからOK」

 

一瞥(いちべつ)しただけで、適当に診断を下す。

 

「点検なんてオリンピックの年だけでいいのよ……毎月する事かしら?」

 

いいながら、ミサトは持っていたコーヒーが冷めかけている事に気づき、口を付けようとしたが、

 

「……て、きゃあ!」

 

足元を確認していなかった為、床のケーブルカバーに爪先(つまさき)を引っかけ、盛大にすっころんだ。

 

「痛、たあ……」

 

(さいわ)い怪我はなかった。

 

「もう誰よ。こんな所にケーブル設置したバカは……」

 

ミサトは立ち上がると、服の(ほこり)を払った。

 

「あれ?あたしのコーヒーは……」

 

手に持っていたハズのコーヒーがない。見れば、空っぽになったカップが床に転がっていた。そして、その中身は……。

 

正面の精密機械らしきものが、バチバチと異音を立てていた。焦げ臭い匂いに交じってコーヒーの良い香りがする。

転んだ時に、コーヒーをぶっかけてしまったらしい。

 

「やだ……もったいない事しちゃったわね」

 

機械の異音は高まり、火花まで立ち始めた。明らかに、どこかショートしている。

 

「うそ……コーヒーぶっかけたくらいで?」

 

取り合えずハンカチでコーヒーをぬぐうが、内部まで浸透してしまっているようだった。異音がさらに高まった。

 

「こういう時はリセットボタンを……」

 

ゲーム機のハード感覚でリセットボタンを探したが、残念ながら今時のハードにリセットボタンは付いていない。

異音は収まらず、火花に続いて煙が出始めた。

 

「ちょっと、ちょっと待ってよ……これヤバイんじゃない」

 

ミサトの脳裏に『弁償』の二文字がよぎった。

 

(弁償って……まさか、これってプレステより高いのかしら?)

 

弁償だけの問題ではない。『マギ』は、親友であるリツコの母親の遺作だ。

リツコは、母の人格を移植した為、『マギ』は母親そのものだとか良く分からない事を言っていたが……要するにその母親をぶっ壊してしまった事になる。

ミサトは頭を抱えた。

 

(親友の母親を壊しちゃうなんて……ああ、お父さん、お母さん、あたしはどうしたら……)

 

ミサトの脳裏に、亡き父の姿、そして、今も元気な母の姿が浮かんだ時……ふと、幼い頃の記憶がよみがえった。

 

まだミサトが小学校低学年くらいだった頃の思い出……。

その日、テレビでアニメ・セーラームーンを見ていたミサトは、急に泣き出した。

 

『ママ!ママ!』

 

娘の泣き声に呼ばれ、キッチンの方から優しい母が現れる。

 

『どうしたのミサトちゃん』

 

ミサトは泣きながら、テレビを指さした。古いブラウン管テレビは、画像が乱れていた。

 

『あら、またテレビの調子が悪くなったのね……大丈夫よ、ママに任せなさい』

 

母親はミサトの頭を()でて(なぐさ)めると、ブラウン管テレビの前に立った。そして、平手の一撃で、軽くテレビの側面を叩いた。

乱れたテレビの画像は、とたんに正常に戻り、何事もなかったかのようにセーラームーンを映し出した。

 

『ミサトちゃん……ブラウン管テレビは叩けば治るのよ』

 

幼心に残った母の言葉……。

幼い瞳に映った叩くだけで治ってしまうというミラクル……。

 

それを思い出したミサトは

 

「そうよ!『ブラウン管テレビ』は叩けば治ったのよ!なら、『マギ』は……」

 

ミサトは、必死になって『ブラウン管テレビ』と『マギ』の共通点を探した。

 

「ええと、ええと……」

 

直ぐに共通点を見つけた。

 

(どっちも電気で動いてる!)

 

「つまり、これは……『テレビ』も『マギ』も一緒って事よ!」

 

言うや否や、ミサトは一片の躊躇(ちゅうちょ)もなく、

 

「どりゃああああー!」

 

精密機器に蹴りを入れていた。

電子部品同士が衝突し、何かが割れる音が響く。

 

「もういっちょう!」

 

さすが、体術でトップクラスの成績を持つミサトである。二度目の後ろ回し蹴りが精密機器にめり込んだ時、異音は完全に沈黙していた。

その代わり、黙々と煙が上がっていたが。

 

「よっしゃ、治った!」

 

ボンっと炸裂音が鳴り、天井から何かが落ちてきた。床で跳ね、真っ二つに割れる。

 

「何これ?」

 

球体の金属で(おお)われていたそれは、人の脳みそに似た形をしていた。

球体の表面には『CASPER』と記され、日本語で「カスパーのOS」と書かれた付箋(ふせん)もくっ付いていた。

 

「……」

 

ミサトは、無言でそれを隅っこの方に蹴り飛ばした。

気を取り直し、改めて煙を上げる精密機器に、指さし確認を行う。

 

「異常なし……と」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「ミサトの(あね)さん、すげえ音してたけど……」

 

ミサトが『カスパー』の中から出てくると、二人の整備士が心配そうに声を掛けたが

 

「ちょっち、転んだだけよ。無事、点検は終わったわ。ご苦労様」

 

笑顔を振りまきながら、二人の整備士を現場から蹴りだした。

 

「ちょ、何すんすか上官殿」

「痛てえよ、姉さん」

「いいから、いいから早く出てって」

 

二人が出ていくと、ミサトは何事も無かったかのように、外郭パネルをはめ直したのだった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「リツコ、ハードの方も点検終わったわよ~」

 

昇降式の床から出てくるなり、ミサトは、すました顔でリツコに報告した。

 

「ご苦労様」

 

「あ、それと申し訳ないんだけど、今、入院中のお母さんから連絡来ちゃって……今日は早退させてもらうわ」

 

既にミサトは、仕事鞄を小脇に抱えていた。

 

「え、あなたのお母さん、入院してたの?」

「うんうん、今日が峠だって、さっき連絡が……」

「何の病気?」

「え、あの……その……出産?」

「あなたのお母さん、再婚してないでしょ!?」

「再婚してなくても、出産くらいできるっしょ」

 

リツコは呆れた顔で眉をひそめたが、ミサトは、それ以上詮索(せんさく)される前にオペレーター室を出て行ってしまった。そして、出るなり、ジオフロントのゲート目指して猛ダッシュする。

 

「あ、ミサトさん。ご苦労様です」

 

途中で、放課後に出勤してきたシンジと出会ったが、構ってる暇などなかった。

 

「あ、シンちゃん、ご苦労様~!」

 

そのまま横を駆け抜けて行く。

 

「もう帰るんですか?」

「え、ええ急用でね」

 

ミサトは、一度だけ振り返って付け足した。

 

「ちなみに、明日から一週間ほど有休取るから、よろしく!」

 

かくして、『カスパー』を破壊したミサトは、そのままバックレたのであった。

 



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奇跡の女(2)

……一週間後。

 

「み、みんな……元気してた?」

 

有休明けのミサトは、一時間ほど遅刻してオペレーター室に顔を出した。

リツコが振り返る。

 

「あら、お母さんは無事に出産したの?」

 

「へ、そんな事いってたっけ?」

 

ミサトは引きつった笑顔を振りまきながら、

 

「副司令……一週間済みませんでした。これ、司令と召し上がって下さい」

 

ヘコヘコしながら、副司令に菓子折りを渡した。

 

「ふむ、遅刻だが、まあこれに(めん)じてやろう」

 

副司令も司令も、普段通りの様子だった。

オペレーター室の雰囲気も、一週間前と変わっていない。ミサトは首を(かし)げた。

 

「あの~リツコ……」

 

「なによ」

 

「私がいない間、何か変わった事なかった……?」

 

「別に何もないわよ?」

 

「え、そうなの……?」

 

ミサトは、オペレーター室の各モニターを見渡したが、なぜか、『マギ』は正常に稼働していた。

 

(なんで、何ともないの?……もしかして、あたし酔ってた?)

 

しかし、定期検査の時に飲んでいたのも、『カスパー』にぶっかけたのも、ただのコーヒーだったはずだ。

 

ミサトは、ポンと手を打った。

 

(じゃあ、やっぱり、『マギ』も、ブラウン管テレビも似たようなものだったんだ)

 

あの処置で良かったんだと安堵したミサトは、

 

「いやぁ、あたしの取り越し苦労だったみたいね……てっきり『カスパー』を壊しちゃったのかと……」

 

うっかり口走ってしまった。途端に、リツコの顔色が変わった。

 

「今、なんて言った?」

 

「……いや、その……」

 

「壊したって言ったわよね?」

 

リツコに詰問され、ミサトは、ボソボソと真相を話した。

 

「コーヒーぶっかけて壊したって……!?じゃあ、やっぱりあなたが犯人だったのね!」

 

急に怒り出したリツコに、ミサトはたじろいだが、背後にいた もう一人の人物も、その発言を聞き逃さなかった。

 

「今の話は本当かね!?」

 

白髪の好々爺(こうこうや)のような冬月も、珍しく険しい表情を向けた。

 

「……はい」

 

「あれが何百億したと思っとるんだ!それで一週間もバックレとった訳か……」

 

三白眼で詰め寄った所で、しかし、冬月は眉を寄せた。

 

「……?『カスパー』が一週間前に壊れとるんなら、なぜ、ネルフのシステムは正常に動いとるんだ!?」

 

確かに、『マギ』は何の問題もなく稼働していた。これは『カスパー』が動ている証拠ではないか。

 

「どういう事かね、赤木博士?」

 

今度は、リツコの方がたじろぐ番だった。

 

「そ、それは……」

 

リツコが言葉に詰まった時、突然、警報が鳴りだした。

 

『シグマユニットAフロアに汚染警報発令!』

 

リツコは話をそらす為に、慌ててマヤを振り返った。

 

「マヤ、なにごと!?」

 

「はい、シグマユニットAフロアで、何だかよく分からないものが増殖してるみたいです。しかも爆発的スピードで!」

 

冬月に詰め寄られて困っていたミサトも、どさくさに紛れて自分の持ち場に戻る。

 

「きっと使徒ね。間違いないわ!」

 

ミサトの言葉に青葉が応じた。

 

「いえ、タンパク壁の劣化で……」

 

「うっさいわね!使徒って言ったら使徒なの!」

 

リツコを振り返る。

 

「リツコ、さっさとパターン青っていいなさいよ!」

 

「パターン青、使徒……あら、本当に第十一使徒・イロウルだわ」

 

「え、マジで?」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

シグマユニットAフロアを侵食していた何だか良く分からないものは、本当に使徒だった。急速に増殖を初め、次々にフロアを汚染し始めた。

 

職員たちは、ミサトとリツコの指示のもと、使徒の封じ込めに掛かったが、進化を続けるイロウルは、彼女らの作戦をことごとく突破し、その侵攻を阻む事はできなかった。

どんどん汚染区域が拡大して行く。

 

新たな警報が鳴った。

 

「こんどは何!?」

「サブコンピューターがハッキングを受けています!侵入者不明!」

青葉がミサトに報告する。

「こんな時に!くそっ!Cモードで対応!」

直ぐに日向が対応する。

 

青葉と日向、そして複数のオペレーターたちが、ハッキングを防ごうとしたが、ことごとく突破された。

 

職員たちが騒然とする中、唯一、マヤだけは冷静にイロウルとクラッカーの行動を観察していた。そして、

 

(これって……)

 

ある事に気づく。

 

「先輩!これ、見て下さい」

 

マヤは、リツコのディスプレイに、イロウルの画像を表示させた。

 

「このイロウルの光学模様!」

「電子回路そのものね……まさか!」

「おそらく、ハッキングしているのは、イロウルです!」

 

マヤの推測は正しかった。

電子回路にまで進化したイロウルは、物理的な浸食を止め、電子情報となって保安部のメインバンクに侵入したのだ。

 

「先輩、使徒の目的は、『マギ』を乗っ取る事だと思われます!」

 

リツコよりも先に、ミサトの方が過剰に反応した。

 

「なんですって!じゃ、じゃあ……」

 

わなわなと震える。

 

「『カスパー』をぶっ壊したのも使徒だったのね!?」

「いや、お前だろうが!」

 

どさくさに紛れて、使徒に責任転換しようとするミサト。その頭を副司令がはたいた。

 

「『メルキオール』、使徒にリプログラムされました!」

 

『マギ』を構成するスーパーコンピューターの一つが乗っ取られた事を、マヤが報告した。

見れば、メインモニターに映し出された三台のスーパーコンピューターの疑似グラフィックの一つが真っ赤に染まっていた。

赤い色は、使徒の浸食範囲を表していた。

 

「ダメです。人間技では対応しきれません」

 

乗っ取られた『メルキオール』が自律自爆を提訴した。しかし、他の『バルタザール』と『カスパー?』が否決する。三台のスーパーコンピューターによる合議制を取る『マギ』は、一台のコンピューターの訴えは、残り二台のコンピューターの多数決によって決定されるのだ。

 

メインモニターでは、赤く浸食された部分がさらに広がり、今度はもう一台のスーパーコンピューターの疑似グラフィックを同じ色に染め始めた。

 

「今度は、『バルタザール』にハッキングしてやがる」

青葉が舌打ちした。

「くそぉ、早い」

対応しきれずに日向が悲痛な声を上げた。

 

「ダメだわ。人間技じゃ……あ、ダメ、『バルタザール』が乗っ取られました!」

マヤの顔色が蒼白になった。

「先輩ダメです。このままじゃ、『カスパー』が乗っ取られるのも時間の問題です」

 

「……」

 

「先輩、三台とも乗っ取られて、本部の自爆コマンドを実行されたら、もう私たちはおしまいです!」

 

「……」

 

マヤは涙目を浮かべていたが……リツコは深々と嘆息した。

 

「マヤ……」

「先輩、何か対処法を!」

 

リツコは、もう一度嘆息すると

 

「『カスパー』が、壊れてる事はもうバレてるから……」

 

明後日の方を向いて、ポツリとつぶやくようにいう。

 

「もう、そういうのはいいから……」

 

リツコは、遂に許可を出す。

 

「本気出してもいいわよ」

 

「え……?」

 

蒼白だったはずのマヤの顔色が元に戻った。

 

「『人間技』じゃ対処無理なら……あなたの『神業(かみわざ)』見せてあげなさい……」

 

「……いいんですか?」

 

リツコは黙ってうなずいた。

 

「それじゃあ……」

 

次の瞬間、オペレーター室の全ての職員たちが、神の降臨を目撃した。

信じられない速度で、巻き返しが始まったのだ。

メインモニターに映っていた赤い色が、どんどん消失して行き、瞬く間に『バルタザール』が正常に戻った。

思わず、喝采が起きる。

 

「え、何?どういう事?」

「これがマヤの本当の実力なのよ」

 

驚くミサトに、リツコは説明した。

マヤの正体が、世界的クラッカー『ブラッディ・エンジェル』である事や、ペンタゴンを初め、世界中の組織に軽々と侵入していた事まで。

過去に、『マギ』にウィルスを仕掛けた話は、ぼやかしたが。

 

「そういえば、『カスパー』が壊れているのに、システムが動ているのは、どういう訳なのかね?」

副司令が、思い出したように口をはさんだ。

 

「はい……一週間前に、確かにカスパーは、そこの無能なアホに壊されていました。で、仕方がないので」

 

マヤの方を視線で示す。

 

「マヤが代わりに、『カスパー』のシステムを手動で動かしてくれてたんです」

「そんなバカな!」

 

「赤木博士……なぜ、報告しなかった?」

ずっと沈黙を保っていた司令が、司令席から初めて声を発した。

 

「それが……マヤの演算速度の方が『マギ』を超えていたので……」

 

リツコは、困った顔で本音をこぼした。

 

「これ言っちゃうと、マヤ一人いれば十分って事で……母が作った『マギ』が単なる粗大ごみになってしまいますので……」

 

 

メインモニターでは、急速な逆転劇が起きていたが、『メルキオール』が50%ほど正常になった所で、急に反撃の勢いが止まってしまった。

 

「ああ、いくら何でもマヤちゃん一人じゃ限界だ!日向、俺たちも手伝うぞ!」

 

だが、青葉の言葉に日向はかぶりを振った。

 

「いや、大丈夫だよ」

「どうして、現に回復速度が……」

 

日向は黙って、マヤの手元を指し示した。

 

「マヤちゃん、まだ左手しか使ってないから……」

 

マヤは、左手一つで高速でキーを打ちながら、右手には携帯電話を持っていた。

 

「あ、シンジ君。もう学校から帰ったの?え、お料理しておくって?

いやだ。非番の日なのに働いちゃうの~。

え、私の仕事?大丈夫大丈夫、あと5分で終わるから。

美味しいクリームコロッケのお店見つけたから、お土産に持って帰るわね」

 

マヤは、少年と惚気(のろけ)た会話を交わすと、携帯をしまった。

キーの上に、右手をも添える。

 

「さあ、本気だすわよ!」

 

再び歓声が上がった。

 

 

ずっと成り行きを見守っていた司令は、初めて席から立ち上がった。

「今回の功績……伊吹二尉を三階級は昇進させねばならんな」

 

「では、この無能な娘の方は三階級降格という事で」

「げ、副司令、それはないっしょ!」

「『カスパー』の修繕費、数百億払えるかね?」

「……降格でいいです」

 

リツコも付け足す。

「新劇場版Qでは、この女がシンジ君に余計な事を言ったから、サードインパクトが起きたらしいので……今の内に、作戦本部から外しておいてもいいのでは?」

「何言いだしてんのよ、リツコ!?」

 

「他に、相応しい役職はあるかね?」

「ちょうど、D棟のトイレ掃除係が不足しているそうです」

「なるほど。では、ミサト君は降格の上、役職は便所係に……」

 

「え、え?ちょ、ちょっち待ってよ!」

二人が取り合ってくれない事が分かると、

「ええと、ええと……」

大活躍中のマヤを視界に認め、慌てて駆け寄った。

 

「マ、マヤちゃん……そんなに仕事頑張り過ぎなくてもいいんじゃないかしら……」

「……」

「ほら、ちょっち休憩したら。三時間くらい?」

「……」

「マ、マヤちゃん?」

 

無視し続けていたマヤは、ようやくミサトの方に視線を向けた。

 

「は?……”マヤちゃん”?」

マヤは、眉根を寄せた。

「葛城”准尉”。それが”上官”に対していう台詞かしら?」

「へ……」

「”伊吹さん”だろ?葛城」

 

既に、マヤの中では立場が逆転していた。

「もしくは、上官殿と呼びなさい。明日から、便所掃除よろしくな」

 

ミサトは青ざめた。

(ええ!?ちょ、ちょっち待ってよ!このままヒロインの座どころか……あたしヒロインよね?……地位も立場も失っちゃうワケ!?)

 

ミサトはあたふたと、リツコの元に駆け戻った。

「どうしたのミサト。D棟のトイレなら……」

「リ、リツコ……要するに使徒は、今、メルキオールの中にいる訳よね!」

「そうだけど」

 

リツコの返事を聞くやいなや、ミサトは、今度はスーパーコンピューター『マギ』に駆け寄った。そして、勝手に床下に鎮座していた『マギ』をオペレーター室に浮上させる。

 

「ちょっと、何やってんのよ、ミサト!」

「おりゃあああああ!」

ミサトは、『メルキオール』と書かれたフレーム目掛けて、気合もろとも蹴りを入れた。一撃でフレームが歪むと、ミサトは隙間に手を突っ込み、力任せにカバーを引っぺがした。

『メルキオール』がむき出しの状態になる。

 

「ミサト!遂に狂いだしたの!?」

「ミサト君、何を暴れとるんだ!」

 

「決まってんでしょ!この中に侵入してる使徒をぶん殴るのよ!」

 

「そんな事、出来る訳ないでしょ!相手は電子情報化してるのよ!」

「アホか、お前は!」

リツコも副司令も仰天したが、ミサトは構わなかった。

 

「そんなの、やってみなきゃ!」

拳を振り上げる。

「わっかんないわよ!!」

ミサトの鉄拳が電子機器の一つに振り下ろされた。バキっという音と一緒に火花が上がる。

 

「何やってんですか、ミ……」

日向が抗議の声を上げようとした時、メインモニターの赤色が一瞬で消滅した。

「え……?」

 

使徒をずっとモニタリングしていた青葉が、マイクに顔を寄せた。

「使徒……消滅しました」

 

「はあ?」

リツコは、直ぐにマヤを見返した。

「マヤ、あなたがやったのよね!?」

だが、マヤはプルプルと首を横に振った。

「まだ途中です……」

 

全職員の視線が、一斉にミサトに集まった。

皆が沈黙し、オペレーター室が静まり返る。誰もが唖然(あぜん)とし、キーを打つ音すら聞こえない。

 

その静寂(せいじゃく)の中、パチパチと小さな拍手の音が、ニ、三度鳴った。

拍手を打ったのは、碇司令だった。

無表情のままミサトを見下ろして告げる。

 

「見事だ、葛城一尉。電子情報と化した使徒を”素手”で仕留めるとは……」

「んなアホなあ!!!!」

オペレーター室に、職員たちの仰天の声が響いたのだった。

 

 

素手のパンチで電子情報を倒す。おそらく、人類史上、初の快挙だった。

 

「へへ~ん、私の手に掛かれば、こんなもんよ」

 

ミサトは自慢げに胸を張りながら、心の中で母に感謝した。

 

(お母さんありがとう。叩けば治る……お母さんの教えのお陰で、私の地位は……ついでに人類の危機は救われました……)

 

声に出して感謝する。

「ありがとう、お母さん!」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

かくして、ネルフの『マギ』を乗っ取ろうとした使徒イロウルは、マヤの神業と、それをも上回るミサトの奇跡の技によって、退治されたのであった。

 

粗大ごみになりかけた『マギ』は、リツコの嘆願により、マヤが非番の日のみ稼働を続ける事が決定し、『カスパー』の修復も行われた。

 

功労者である葛城ミサトは、降格と司令部追放を免れ……ただし、『カスパー』の弁償代を一生給料から天引きされる事となり、ついでに、やっぱりD棟の便所掃除係を兼任させられたのであった……。




はい、またタイトル詐欺ですね。
今度こそ、マヤとシンジが、いちゃつける話を考えておきます。(´・ω・`)


ちなみに、lineスタンプが全く売れず、苦悩している今日この頃でございます。
気が向いたら、誰か買ってね。(・ω・`)
≪グレートペンギン≫
https://line.me/S/sticker/14242307
≪何がでるかなヒヨコ≫
https://line.me/S/sticker/14059895


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第三章 マヤとシンジの日常
グダグダな日々 前編


□ 前書き □

2月にうつ病が悪化して寝込んで以来、執筆できる状態では無くなっていたのですが、
「お気に入り」に登録される方が増えてきた為、頑張って書き上げました。

前編・中編・後編で、数時間置きに順次投稿致します。

グダグダな内容でございますが(´・ω・`)






「プ…ライミング……ですか?」

 

人類を脅かす使徒の調査・研究・殲滅を担う特務機関ネルフ。

その中枢たる司令所は、使徒が出現せず、パイロットのテストもない日は、暇である。

 

(職員に仕事を振り分けようにも、そのストックも切らしてた所だし)

 

ほとんど(ひま)つぶしのデータチェックを行いながら、リツコはフロアの一角を一瞥(いちべつ)した。

 

(良い先生がいてくれて、ありがたいわ)

 

見れば、その一角に小さな人だかりができていた。

伊吹マヤのデスクを囲むようにして、他のオペレーターたちが集まっている。

眼鏡と長髪の二人は、自分のデスクで何か熱心に別の仕事をしていたが。

 

「そう、あなたのタイプミスの多さは、プライミング記憶力が原因ね」

 

さきほど聞き返したのは、マヤたちより一段下のデスクに務めている女性職員だった。

タブレットを片手に、マヤのデスクに寄り掛かるような姿勢を取っていたが、かたわらのプリンターが動き出した事に驚き、少し身を離した。

 

マヤは、プリントアウトした書類を広げると、赤いペンを手に取り、手早くマーカーを走らせる。

 

「はい、これが打ち間違いの箇所ね」

 

女性職員は、渋い顔をした。

 

「その書類、青葉さんにOKもらったんですけど……やだ、本当に打ち間違えてる……」

「全体の0.3%……かなり多いわね」

 

マヤは、長髪にも見えるように、書類をぴらぴらと(かか)げてみせた。

 

「でも、この通り、青葉さんの捺印(なついん)付きで、通ちゃってま~す」

 

自分の名前を出された長髪は、一瞬振り返ったが「マジ?」と一言言っただけで、気にする様子もなく、また手元の作業を続けた。眼鏡と長髪の二人は、紙に何か一生懸命描き込んでいるようだが、何をしているのだろうか?

 

「青葉さんも気付かなかったのは、まさにプライミング記憶のせいね」

 

マヤは説明しながらキーを操作した。

 

「プライミング記憶は、過去の経験を(もと)に「不明瞭な部分」を補ってくれるの。誤字・脱字がある文章でも読めちゃうのは、そのお陰ね」

 

女性職員が抱かえるタブレットに、着信を知らせるランプが点滅した。

 

「特に、あなたはプライミング記憶が強い方だから……どんなに頑張っても、書類からタイプミスを無くすことはできないわ」

 

「ええ、そうなんですか……」

 

女性職員は、肩を落としたが、

 

「でも、だいじょ~ぶ!とっておきのツールをあなたのタブレットに入れておいたから」

 

マヤはウィンクすると、自身のディスプレイに映るアイコンを指し示した。

ハートマークの中に、猫のような目玉が描かれている。

 

「名付けて『マヤちゃん、愛(eye)ラブ・フェリア』……。これさえ起動させておけば、数十ヶ国語の文章、あらゆるプログラミング言語、さらには親ファイルから子ファイルにリンクする為の任意文字列に至るまで、全てチェックできるわ。

誤字脱字があれば、アイコンが警告と訂正。打ち終わった後は、打ち間違いの多い文字列やパターンを学習し、矯正訓練もしてくれるわよ」

 

女性職員は、自分のタブレットを確認した。

確かに、『マヤちゃん愛ラブ・フェリア』という痛い名前のアプリを受信していた。

 

「あ、ありがとうございます!マヤさん!」

 

「どういたしまして~。はい、お次はどなた~?」

 

少女を囲っていた職員たちが、我先にと手を上げた。

 

 

 

「へ~え~~~マヤちゃん、大・人・気ねぇ~」

 

リツコの隣で、その様子を眺めていた女性が、嫌味を込めた口調でつぶやいた。

白いエプロンを羽織(はお)り、頭には白い頭巾。典型的な掃除婦の出で立ちで、かたわらにバケツを置き、手にはモップを握っている。

 

「しかも、この前まで『ちゃん』付で呼んでた子たちまで『マヤさん』って……。今のプラ何とかの子も、マヤちゃんより年上よねえ?」

 

掃除婦は、リツコの耳に口を寄せてささやく。

「リツコ……うかうかしていると、あんたまで『さん』付で呼ぶ羽目(はめ)になるわよ」

 

親友に名を呼ばれたリツコは、キーを打つ手を止めた。彼女を一瞥(いちべつ)し、冷たく言い放つ。

 

「そんな格好で、ここに来ないでくれるかしら、掃除のおばさん」

 

「あら、ヤダわ……私がおばさんなら、年上のあんたは大おば様かしら?」

 

リツコは、デスクを叩いた。

 

「つまんない事言ってないで、早く着替えてきなさい!」

 

前回、D棟の便所掃除係を命じられたミサトは、単なる冗談だと思っていたのだが、出勤するなり冬月にモップとバケツを渡され、本当に便所掃除をやらされたのである。

ご丁寧な事に、D棟のトイレの壁のボードには、掃除係として葛城ミサトの名札まであった。

 

「掃除婦の仕事が終わったら、作戦本部長の仕事を!」

「いや、あたし、着替えたら帰るから……」

「は?早退?またお母さんが出産するの?」

 

ミサトは深々と嘆息すると、リツコに顔を寄せた。午前中、慣れない仕事をしたせいで、たいぶん疲れた顔をしている。

 

「使徒が出ず、シンジ君も非番……」

 

ミサトは、リツコのデスクに叩きつけるように手を付き、さらに顔を寄せた。

リツコの方はのけぞる。

 

「そして、マヤちゃんがアドバイザーをやってくれるなら……あたしなんてする事ないっしょ!」

「作戦本部長なんだから……定時までいなさいよ」

「今は、掃除のお姉さんです……」

「使徒が出たら、どうするの?」

「そんときゃ、スポーツカーぶっ飛ばして出勤します」

「副司令、またアホがこんな事いってますけど……」

 

さきほどから日向と青葉の後ろに立って腕組みしていた冬月は、かぶりを向けた。

 

「ええんじゃないか。また何かぶっ壊されるよりは増しだろう」

「……」

「ほら、副司令もああ言ってるじゃない」

 

ミサトは不敵に笑うと、バケツをつかんだ。

「んじゃ、また明日~」

 

そのまま本当に帰ろうとした所で、ミサトは急に動きを止めた。胸ポケットの辺りが振動している。

 

「あん、くすぐったいわね。なに、誰から?」

 

胸ポケットから携帯を出した。メールが届いたらしい。

 

「……え?」

 

送信主の名前を見ると、ミサトは、いぶかしげに眉を寄せた。マヤの方を一度振り返ってから、メールの内容を確認する。

 

『ミサトさん、離席できないので、メールでごめんさい。

午後からお時間ありますか?

相談したい事があります』

 

送り主は、今、職員たちのアドバイザーをやっている最中(さなか)のマヤからだった。離席できない為、こっそりメールを送ってきたのだ。

 

(マヤちゃんが、あたしに相談したい事?)

 

ミサトはもう一度マヤの方を振り返ると、ほくそ笑んだ。

 

(あらら、何だかんだ言っても、まだまだあたしに頼らなきゃダメなのね~)

 

「ミサト、なに携帯見ながらニヤついてるの、気持ち悪いわよ」

 

リツコを無視して、ミサトは含み笑いをしながら返信を送ると、携帯をポケットにしまった。

 

「まったく、しょうがないわねえ~。リツコ、やっぱ、あたし定時までいるわ」

「当然よ」

 

更衣の為、ミサトがニヤつきながら司令所を出て行く中、青葉と日向の後ろに立っていた冬月は、二人の手元を覗き込んで眉を寄せた。

眼を三角にして、二人の頭をはたく。

 

「お前ら、なんで仕事中に同人描いとるんだ!」

 

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||の上映に合わせて、サークル『エヴァ・レボリューション』も、新刊の完成を急がねばならなかった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

全長6キロ、高さ0.9キロの巨大な(うつ)ろ……ジオフロント。

その広大な地下空間には、ネルフ本部施設を中心に、森林、丘陵、地底湖が広がり、さらにその間を()うようにして、様々な施設が増設されていた。

 

二輪、四輪車の操縦訓練を兼ねたサーキット。

サウナや入浴所を備えたアミューズメント施設。

地底湖から引いた水を利用した田園や釣り堀。

日本庭園や西洋庭園の洋式を持つ憩いの場。

税金の無駄遣いだと怒られそうだが、人類の明日を(にな)う職員たちの心身のケアの為には、必要な投資だ。

 

「いや~、マヤちゃんが車に興味持つなんて意外ね~」

 

サーキットの車庫で、ミサトは、テスト用車両の助手席に座っていた。ハンドルを握っているのは、マヤだ。

 

「ふ~ん、一応、ミッションの免許は持ってるのね」

 

マヤの免許証をかざし、しげしげと(なが)める。「AT車に限る」の文字が入っていないのは意外だった。

 

「あら、こんなウインクした顔写真でもOKなんだ。私も、次の更新の時に決め顔しようかしらね」

 

免許証の写真から、隣の実物の方に視線を向ける。

 

「で、急にスポーツカーが欲しいって、どういう風の吹き回しよ」

 

ミサトの言葉に、マヤは照れ笑いを浮かべながら答えた。

 

「実は、この前、日向さんたちとシン・エヴァを見てきたんです。私が冒頭から大活躍するんですけど……いつもの可憐な私と違って、劇場版の私って、スッゴク恰好いいんです!」

 

マヤは両手を組むと、キラキラと目を輝かせた。

 

「ええ!?14年後の私って、こんなに素敵なのって、もうビックリしちゃって!」

「ちょっと、ちょっと、ネタバレは無しにしてよ」

 

「ああ、大丈夫ですよ。ミサトさんはちゃんと死にますから。それで、今からでも、劇場版の自分に近付きたくて……なにから始めたらいいだろうと思ったら、やっぱりTV版一話で颯爽(さっそう)と登場したミサトさん見たく、スポーツカーくらい乗り回せた方がいいと思って……」

「なるほど、それで私に車選んで欲しいって相談……って、あんた今、さりげなくトンデモナイこと口にしなかった!?」

 

「気のせいです。それよりミサトさん、こんなテスト車じゃなくてスポーツカーを」

「わーてるわよ。でも、ペーパードライバーにいきなりハードな奴はキツイっしょ。まずは、腕前のほど見せてちょうだい」

 

「はい。じゃあ、まずはエンジンのボタンを……」

「残念、プッシュ式じゃないわよ。キーを回して」

 

不慣れな手つきでキーを回す。エンジンが始動した。

 

「その次は、ええと……この一番左のを踏んで」

「ブレーキも一緒に踏まなきゃダメよ……そう、そしてギアを一速に」

 

「この棒を……」

「棒じゃなくてギアね。サイドブレーキ外す」

 

「ええと……それから」

「半クラッチにして、軽くアクセルを……あ!」

 

案の定、半クラッチにできず、車が急発進した。

 

「まあいいわ……マヤちゃん、次にギアを二速に、ってそれ三速!アクセルも踏み過ぎよ」

 

サーキットの中を不自然な動きで、テスト車が加速して行く。

 

「すいませんミサトさん、運転の仕方はyoutubeで勉強したつもりだったんですけど……」

 

「いや、教習所で習ってるんでしょ?免許取った日も、まだ去年じゃない」

 

ハンドルを握りながら、マヤは笑った。

 

「それ、昨日PCで自作したんです。さすがに、無免許じゃ車買えないと思って」

「は!?」

 

ミサトは、マヤの免許証を見直した。

斜め横の決め顔で、ウィンクまでした顔写真……良く考えたら、そんな写真が通るはずがない。webで拾った免許証をそのままコピーしたらしく、良く見たらど真ん中に『見本』の文字まで入っていた。

 

「ちょ、ちょっとマヤちゃん……あんた教習は受けたんでしょ?」

「はい、今、初めて受けてる所です」

「はい!?」

 

マヤは適当にギアを動かした。運の悪いことに、適当に踏んだクラッチとタイミングが合い、エンストにならず、5速に入った。

 

さらに車は加速し、サーキットのカーブを曲がらずに直進して行く。

 

「マヤちゃん、フェンスにぶつかるわよ!ブレーキ、ブレーキ!って何でハンドル離してるの!?」

 

ミサトが慌てる中、マヤはハンドルから離し、代わりに膝にノートパソコンを広げていた。

 

「マヤちゃん、ぶつかるわよ!」

「大丈夫です。あの壁のスプライトの配列変えますから」

「はいいいい!?」

 

 



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グダグダな日々 中編

全長6キロ、高さ0.9キロの巨大な(うつ)ろ……ジオフロント。

その広大な地下空間には、ネルフ本部施設を中心に、森林、丘陵、地底湖が広がり、さらにその間を()うようにして、様々な施設が増設されていた。

 

その施設の一つ……憩いの場として設けられた洋式庭園。

 

青白い灯りに満たされたジオフロントの中で、そこでは陽光に近いライトが灯され、人工芝と石畳を組み合わせた床を照らしていた。

中央には噴水があり、それを遠巻きに囲むような形で、瀟洒(しょうしゃ)な丸テーブルやベンチが並んでいた。作業服姿、あるいは制服組姿の職員たちがまばらにあり、思い思いにくつろいでいる。

 

隅の一角では、丸テーブルに将棋盤を置き、二人の職員が将棋を指し合っていた。

 

「仕事中に、同人を描くのはどうかと思うぞ、日向君」

冬月は、パチンと良い音を立てて駒を進めた。

 

「すいません」

さすがに反省した日向は、昼の休憩時間は作画ではなく、冬月の相手をしていた。

 

「締め切りが近いのかね?」

「いえ、そういう訳じゃないんですけど……」

 

日向は駒を手に持ったまま、うつむき、深々と嘆息した。

 

「この間、青葉たちとシン・エヴァ見てきたんです」

「おお、どうだったかね?」

 

日向は両手を組み合わせた。心なしか、その手は震えている。

 

「……とにかく、ショックでしたよ」

「ほう、フォースインパクトでも起きてたのかね?」

「いいえ」

 

日向はカブリを振ると、虚空を見上げた。眼を閉じ

「Qを見た時から薄々分かってたんですが、シン・エヴァの世界じゃ……」

 

組み合わせた両手に力を込めて、(なげ)くようにいう。

 

「ボクたち、まだデビュー出来てなかったんです」

 

デビューとは、もちろん本業(同人作家)で商業雑誌にデビューする事である。

日向と青葉の人生計画では、2,3年の内にデビューをはたし、5年以内にヒットを生み出し、10年後には、鳥山明や高橋留美子ら巨匠たちと肩を並べているはずだった。

所が、どうだろうか?

劇場版では、どう見ても二人は唯のオペレーターのままだったのだ。

 

「そんな、まさかと思いましたよ……でも、エンドロールを見てみたら、ボクたちの名前の横に声優名が乗ってるだけで、『本職・漫画家』って記述もなかったんです……」

 

日向は、閉じていた手を開くと、自分の身体を抱きしめるようにしてワナワナと震えだした。

 

「14年後も、モブ役でオペレーターのまま……下手すりゃ、相変わらずノーギャラで出演しながら、生活の為に同人描いてる可能性だって……」

 

蒼白な顔になってカブリを振る。

「それ考えたら、もう、恐ろしくって……」

「……」

「このまま原作通りになったらヤバイんで、とにかく作品を描きまくろうって思って……」

 

日向は気を取り直すと、手に持っていた駒を指した。

「つい、仕事中も描いちゃってたんです……」

「なるほど……」

 

冬月は相槌(あいずち)を打ったが、心底どうでも良い話だった。

 

「でも、まあ、なんだ……シン・エヴァのヒット次第では、君に新作アニメの出演オファーがこんとも……」

 

そこまでいった時、遠方から何やら轟音(ごうおん)が響いてきた。

その音に気を取られ、二人は公園の東ゲートの方にかぶりを向けた。

 

リラクゼーションを目的に作られた公園は、車両ルートや工場ラボからは離れた位置にある。本来ならば、遠くの騒音よりも、木陰に隠されたスピーカーから流される「鳥のさえずり」の方が良く聞こえるはずだ。

だが、その場違いな騒音は、鳥のさえずりをかき消し、どんどん二人の方に近づいてきているようだった。

 

「なんの音だ?」

 

日向は、音の主を確認しようと、席から立ち上がった。

 

「あ、そういえば副司令。例のセカンド・ナディアの件は……」

 

ついでに余計な事を思い出した日向だったが、その言葉を途中で詰まらせてしまった。

騒音が近付く方向……公園の東ゲートの向こう側を凝視しながら、日向は呆気に取られた。指で眼鏡のピントを合わせて見直す。

人間二人がすれ違うほどの幅しかない遊歩道。その左右に広がる人工芝とレンガを蹴散らしながら、在り得ないハズのものが、公園目掛けって一直線に向ってきていた。

 

「マヤちゃん、ストップ!ストップ!」

「え?アップデータスプライトをfalseにすればいいんですか?」

「足元のブレーキ踏めっていってるのよ!……いや、だから、それはアクセルだって言ってるいっしょ!」

 

日向は、何度も眼鏡と裸眼で確認したが、こちらに向って爆走してくるそれは、どう見ても自動車だった。

 

「ちょ、なんで!?」

 

冬月も気づいた様だったが、こちらは驚いた表情を見せる代わりに、テーブルの上に片頬をついて嘆息した。

 

「また司令所のアホか……」

 

公園が騒然となった。遊歩道にいた職員たちが悲鳴を上げながら逃げ込んでくる。

 

「マヤちゃん、公園に突っ込むわよ!人がいるわよ!」

「あはは、大丈夫ですよミサトさん。まだ当たり判定設定してませんから……ぐぇ」

 

呑気に遊歩道を爆走する運転手は、助手席の女性に首を絞められた。

 

「だから、プログラミングじゃないっつってんでしょうが!!」

 

暴走車は、花の(つた)を模したゲートを吹っ飛ばし、勢いよく公園に突っ込んできた。

 

「うわ、ちょ!」

 

日向は頭を抱えて、その場にしゃがみこんだ。直ぐ前に、吹っ飛ばされたゲートが落ちて跳ねた。

自動車は、減速せずに倒れたゲートを前輪で踏み越えると、そのまま日向と冬月の頭上を飛び越えた。

 

唖然とする職員たちの視線が車の後を追って上を向き、そして、下へと落ちた。

公園の垣根に斜め上から突っ込んだ自動車は、灌木(かんぼく)がへし折れる鈍い衝突音とエアクッションが膨らむ音を残して、ようやく静かになった。

 

 

『ジオフロント東側、休憩所A-2洋式公園。何らかの事故が発生した模様です。付近の方は、速やかに避難して下さい』

 

鳥のさえずりを流していたスピーカーが一転、警報を鳴らし、自動アナウンスが避難誘導を告げる。

 

余りの出来事に、日向は立ちすくんでいたが、

 

「お、『飛車』取れるな」

 

冬月は、気にせずに将棋を続けていた。

 

「ふ、副司令……呑気に将棋打ってる場合じゃ……」

「どうせ、また司令所のアホどもの仕業だろ。ミサト君か、それとも他のオペレーターか……」

 

「あ、あの助手席の赤い服、ミサトさん?」

「ほれ、みい。一々、リアクションを取っとったら切りがないぞ。私は、この前の件で慣れた」

「て、適応早いっすね……」

 

芝生のスプリンクラーが作動し、水しぶきが立ち上がった。

 

「おっと、こりゃいかんな。他に移動するか」

冬月が将棋盤を抱えだすと、

「ボ、ボクが運びます」

慌てて日向が受け取った。

 

「A-1の和式公園の方に行ってみるか」

「いや、もう屋外は止めときましょう」

 

「では、司令所の休憩室……いや、戻ってる間に休憩時間が終わるな……」

「続きは、また今度で」

「ふむ」

 

「……所で、セカンドナディアの件は」

「それが、庵野監督に聞いた見たが……シン・ウルトラマンやシン・仮面ライダー作るとか言っとってな、まだ先になるらしい」

「ええ、マジですか……」

 

二人は、事故車の方を振り返りもせずに公園を後にしたのだった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

垣根に突っ込んだ自動車は、フロントガラスが大破していたが、それ以外の損傷は見受けられなかった。出火や爆発の恐れはないだろう。幸い、事故に巻き込まれた職員もいなかった。

 

公園にたむろしていた職員たちは、突然の出来事に驚き、事故車の周りに集まっていた。心配した様子で、エアバックに埋もれた車両の中の様子をうかがっている。

 

エアバックの下で、もぞもぞと人が動く様子が見えた。……と、助手席の扉が、内側から蹴り開けられた。

 

「だから、リアル世界にプログラミングの発想を持ち込むんじゃないっつーの!」

 

エアクッションを押しのけて出てきたミサトは、怒鳴りながら、マヤの首をつかんだまま引きずり出した。

 

「車は、ハンドルとギアと、そしてペダルの操作で動くのよ!なんでハンドル離してノートパソコンいじる必要があんの!」

 

「だ、だから……壁にぶつかるから、壁のスプライトの配列を変えようと……」

「リアル世界だっつってんでしょうが!」

 

ミサトはひとしきり怒鳴ると、周囲の人だかりに気づき

 

「見世物じゃないわよ!ただの衝突実験よ!」

 

これも怒鳴って追い散らした。そして、携帯を取り出してレッカーを手配する。

 

「サーキットから、良くこんな所まで……あ、あたしよ。ジオフロント東側、休憩所A-2洋式公園にレッカー回してちょうだい……え、なんでそんな所にって?こっちが聞きたいわよ!」

 

乱暴に電話を切ると、ミサトは芝生の上で正座しているマヤに視線を落とした。

 

「腕前以前の問題ね!免許証も偽造って、ふざけてんの!」

「……」

 

ミサトは腰に手を当てた姿勢で、正座しているマヤに三白眼を近づけた。

 

「そりゃ、あたし見たいにカッコよくなりたいってのは、分かるわよ。でも、それで命失ってたら、元も子もないでしょ!」

 

そこまで一気にまくし立ててから、声を落とす。

「スポーツカー……いえ、マイカーは諦めなさい」

 

ミサトの言い分は至極(しごく)もっともな事だったが、

 

「でも……」

「でも、なによ?カッコいいキャラ作りなんて、14年後でいいっしょ!」

 

マヤは目を(うる)ませながら、かぶりを上げてミサトを見つめた。

 

「……確かに、カッコいいからって動機もありました。でも、それだけが理由じゃないんです!」

 

マヤの態度に、ミサトは眉根を寄せた……が、真っすぐにミサトを見返すマヤの瞳の中に、ある少年の姿を思い出した。

 

「もしかして……シンちゃん関係?」

 

ミサトに見透かされたマヤは、少し顔を赤らめてうつむいた。

 

「シンちゃんが、車に乗せて欲しいって言ってるの?」

 

マヤはカブリを振った。

 

「そうよね、シンちゃんがそんな我儘(わがまま)いう訳……」

「ミサトさん!」

「なに?」

 

「ミサトさんが保護者だった時って、ネルフの出勤日は、いつも放課後にシンジ君を迎えに行ってましたよね」

「いつもって訳じゃないけど、大抵はね」

 

正座するマヤの横に、ミサトは腰を下ろして胡坐(あぐら)をかいた。

 

「シンちゃん、今は、モノレールで通勤だっけ?」

「はい。学校帰りで疲れてるのに、モノレールと徒歩でネルフを往復してるんです」

「だから、あたし見たいに、送り迎いして上げたいと?」

 

ミサトは、男の子なんだから歩かせなさいよと言いたかったが、マヤが先に言葉を続けた。

 

「それもあります。でも、それ以上に……前みたいな事があった時、シンジ君の助けになると思うんです!」

 

”前みたいな”とは、使徒シャムシエルが現れた時の事だった。

 

「あの時は、たまたま近くに抜け道があったから間に合ったんです。でも、もし、同じ事が別の場所で起きたら……」

 

ミサトはうなずいた。

 

「確かに、直ぐに駆け付けられる足があった方がいいに決まってるわ」

そして、マヤの肩に手を置き

「試運転して正解だったわね……」

 

かたわらで大破しているテスト車に視線を向けた。

 

「気持ちは分かるけど……エヴァに乗る前に、パイロットに大怪我させてたら、元も子もないわよ」

 

マヤも、大破したテスト車を見つめた。

確かに、自分は運転には向いていないらしい。いや、IT以外、何の特技も才能もない事は分かっていたはずだ。しかも無免許で、スクーターすら運転した事がない自分には無謀だった。

 

「……」

 

マヤは肩を落とすと、無言でうつむいた。

芝生の上に、スプリンクラーから噴き出した冷たい(しずく)が落ちる。その中に、暖かいマヤの雫もポツリポツリと加わった。

隣でミサトは嘆息した。そして、視線を明後日の方にめぐらし、しばし考えると、

 

「マヤちゃん」

ミサトは土ぼこりを払いながら立ち上がった。

「自動車を買うには、まだ練習が必要だけど……」

マヤの手を取り、立たせてやる。

「シンジ君の引っ越し祝いに……あなたに良い物買ってあげるわ」



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グダグダな日々 後編

時計の短針は真下に向いつつあったが、西の山々の尾根が、陽を(いただ)くには、まだ早かった。

地軸の歪みにより、日本の四季は夏の天下だ。陽は登るのは早いが、降りるのは遅い。

山が陽の冠をかぶり、茜色のマントをひるがえして辺りを朱に染めるには、まだ小一時間ほどかかるだろう。

 

少し早めに退社を許されたマヤは、ミサトからもらったプレゼントを懸命(けんめい)に運んでいた。

幸い、モノレールに乗せる事ができた為、駅までは楽だった。だが、”それ”を使った事がなかったマヤは、駅からは延々と押して行かねばならなかった。

 

 

(そろそろ……シンジ君の学校辺りかしら……)

 

交差点の所で立ち止まり、一度汗をぬぐう。信号が青に変わった所で、再び押し始める。

信号を渡り切った所で、マヤは二人乗りの自転車とすれ違った。

 

学生服を来た男の子が自転車をこぎ、同じく制服を着た女の子を後ろに乗せている。

横座りする女の子は、男の子の腰に手を回して寄り添い、うっとりとした様子で、男の子の背中に頬を(あず)けていた。

 

マヤは、その後ろ姿をしばし見送ると、軽い溜息を付き、ポツリとつぶやく。

 

「いいはね若い子は……」

 

自転車のキャリアに横座りし、男の子の背につかまりながら通学……十代の頃に一度は夢見た光景だ。しかし、男性と縁のないまま社会人になってしまったマヤに取って、かつて憧れた世界は、もう(うらや)む事しかできない物へと変わっていた。

 

(まあ、24の女が(うらや)む事じゃないか‥…)

 

マヤは気を取り直すと、再び荷物を押して進みだした。

間もなくシンジの学校に差し掛かり、道路から校庭を見降ろす。

 

(シンジ君、もう帰っちゃってるかしら……)

 

手首を返し、腕時計を見る。時刻は、五時過ぎ。

六時間目まで授業があったとしても、四時には終わっているはずだ。残っているのは部活動に(いそ)しむ子たちくらいだろう。

 

(帰っちゃってるわよね……)

 

進む内に、道路は(ゆる)やかな下りとなり、校庭の高さに近付いた。マヤの視界の端に、校舎の隅で男の子たちがたむろしている姿が映った。

気にも留めずに進もうとするが、ふと、マヤの耳に聞きなれた名前が飛び込んできた。

 

「碇、トウジがお前と話があるんだってよ」

 

(碇?)

 

視界の隅に移っていた男の子たち。焦点を当ててみると、一人の少年の前に、二人の男子が立ちはだかっていた。

二人は見覚えのある顔だった。もう一人の少年は後ろ姿しか見えなかったが、マヤにはそれが誰であるか分かった。

 

 

(シンジ君……?)

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

放課後、シンジは、二人のクラスメイトに呼び出されていた。

以前、シンジに暴力を奮ったクラスメイトであり、使徒シャムシエルと対決した時には、エントリープラグの中に取り込んで保護してあげた二人だ。

 

眼鏡を掛けた方は、相田ケンスケ。

そして、以前はシンジを殴り、今はそのシンジの前で何か言いにくそうに突っ立ているジャージ姿の方は、鈴原トウジだ。

 

クラスメイトの名前をまだ覚えきれていないシンジも、この二人だけは、嫌な思い出と共にしっかりとフルネームを覚えていた。

 

「な、何の用だよ……」

 

頬の痛みを思い出し、シンジは少し後ずさった。

その様子に、ケンスケがトウジの背中を軽く叩く。

 

「ほら、碇が誤解してるよ。トウジ、何かしゃべれよ」

 

トウジは、怯えた様子を見せるシンジを見つめると、

 

「碇!」

 

突然、握りしめていた両こぶしを動かした。

パンっと何かを叩く音が鳴る。

 

「しっ……」

 

校庭の外、フェンスの向こう側で様子を見守っていたマヤは、とっさにシンジの名を叫びそうになったが、直ぐに言葉を飲み込んだ。

パンっという音は、シンジを傷つけるものではなく、ジャージ姿の少年の掌が打ち合った音だった。

 

勢いよく合掌したトウジは、シンジに頭を下げていた。

 

「碇、この前は、二つもどついたりして、すまんかった!」

すかさず、ケンスケも後を取る。

「碇、俺からも謝るよ。俺たち、碇がどんな大変な思いしてるか何にも知らなくて……ごめんな」

 

予想外の展開に、シンジは戸惑った。どう反応してよいのか、分からなかった。

 

「え、え~と……」

 

別に気にしてないからと、月並みな言葉を返すべきか……いや、頬の痛みは忘れていなかった。気にしてないなんて嘘になってしまう。

じゃあ、それはもう水に流して、これからは仲良く……いや、そう簡単に割り切れる自信はなかった。

じゃあ、怒るべきか?……いや、謝っている相手に怒るのも違うだろう。

 

返す言葉に迷うシンジの思いを断ち切るかのように、トウジは、最も単純な解決策を叫んだ。

 

「碇、ワシの事もどついてくれ!」

「え?」

「頼む、せやないとワシの気がすまんのや!」

「そ、そんな事できないよ」

 

躊躇(ちゅうちょ)するシンジに、

「碇。トウジは、こういう恥ずかしい奴なんだ」

ケンスケもいう。

「一発でいいから、殴ってやってくれ。それで、余計なもの引きずらずに、お互いスッキリできるんだから」

 

「でも……」

「はよう、殴ってくれ!覚悟決めとる男を待たせんなや!」

 

そういうと、トウジは少し震えながら目をつむった。本当に、殴られる覚悟らしい。

 

「じゃ、じゃあ……そこまでいうなら……」

 

戸惑いながらも、シンジはトウジの解決策を受け入れる事にした。

足元に落ちていたものを拾い、それで拳を固め、スイングのポーズを取る。

 

両眼をつむっていたトウジは、チラリと片眼を開けた。そして、捨て置けぬものを目撃した。

 

「おいおい、ちょっと待てや、碇!」

「なに?」

「なにやあるか!なに、さりげなく石握っとんねん!」

 

「いや、ボク非力だから、致命傷与えるには、これくらい……」

「なんで、殺しにかかっとんねん!」

 

横で腕組みしながら眺めていたケンスケも、見兼ねてシンジに注意する。

 

「碇、今やらなくったって、どうせ漫画版の方でトウジに留め刺しちゃうんだからさ……あ、じゃあ、今やっても一緒か」

「お前は、黙っとれ!」

 

トウジは、ケンスケに怒鳴ると、

 

「碇、男やったら素手で来い!素手で!」

 

シンジには凶器を捨てるようにうながした。

 

「冗談だよ。冗談」

 

シンジは笑うと、石を後ろに投げ捨てた。背後から「痛っ」という女性の声が聞こえた気がするが、気のせいだろう。

 

「で、本当に……殴っていいの?」

「もちろんじゃ、はよせえ!」

 

(そっか……)

 

シンジは、今度は素手で拳を固めると、眼を閉じた。

これからクラスメイトを殴る……人を殴るなんて初めての経験だ。今までは殴るどころか、喧嘩ができる相手すらいなかった。

 

(今日、この拳で、またボクは一つ変わるんだ……)

 

シンジは意を決すると両眼を開き、トウジを見つめた。

今日、初めて人を殴る。そして、今日、初めて友達ができる。

 

「よっしゃ、こんかい!」

 

友達ってのは、共通の趣味とかを切っ掛けに出来るものだと思っていた。でも、こんな形で始まる友達もいいかもしれない。

気まずい思いをしたまま、時間を掛けて、互いに掛ける言葉を探しながら、相手の顔色をうかがって仲直り……そんな慣れな事をするよりも、“一瞬で済む”、もっと不慣れな事をする方が、ずっといい。

 

少し笑顔になりかけた表情を引き締めると、シンジは、拳を振りかぶった。

 

「やっ!」

 

小さな掛け声とともに、まさに繰り出そうとした時、

 

「待った!」

 

突然、トウジはシンジを静止させた。

 

「え?」

「ケンスケ!例のもんを」

「了解!」

 

トウジの声に、ケンスケは鞄の中からポータブルDVDを取り出した。同時に『新世紀エヴァンゲリオン4巻』のDVDも取り出し、セットする。

 

早送りし、途中で一時停止させると、

「碇、良く見てろよ」

 

ケンスケは、シンジにポータブルDVDの画面が良く見えるようにかざしてみせた。そして、再生ボタンを押す。

 

画面に映し出されたのは、新箱根湯本駅の前でたたずむ、シンジ、トウジ、ケンスケの三人の姿だった。

 

『碇、二発もどついたりして悪かった』

『ワシの事もどついてくれ』

『そんなことできないよ』

『頼む、せやないとワシの気が済まん』

『こういう恥ずかしい奴なんだよ』

『ま、それで丸く収まるなら、殴ったら』

『でも……』

 

画面の中で、ほぼ同じやり取りが行われていた。

 

『じゃあ、一発だけ』

『よし、こんかい』

『待った!手加減なしや』

 

シンジが思いっきりトウジを殴った所で、ケンスケはDVDを停止させた。

 

「さすがワシや。原作でも堂々としとるの」

 

なぜか、トウジは誇らしげにはにかむと、シンジに向き直った。

 

「どや、碇。満足したか?」

「は?」

「なんやお前、今の場面見てへんかったんか!」

 

トウジは呆れた様子で肩をすくめると「しゃないの。ケンスケ、もう一回見せたれ」ともう一度、同じ場面を再生させた。

 

「どや」

「いや、どやって……こっちのボクは、まだ殴ってないだろ」

 

「原作の方では、既に殴っとるやろうが!」

「こっちのボクが殴らなきゃ、意味ないだろ!」

 

シンジの言葉に、二人は驚いた様子で顔を見合わせた。

「え……碇君って、そんな子だったの?」

 

トウジも信じられないという顔で、シンジを見返した。

 

「い、碇……お前、何でも暴力で解決させな気が済まんタチか?」

「いや、ふざけんなよ」

 

初めての経験と共に初めての友達ができると思っていたのに、この二人は何をふざけているんだろうか。

 

(せめて軽く一発!)

 

納得いかず、シンジは、再び拳を振り上げた。

が、その拳を支える手首は、何者かに掴み止められてしまった。

 

「だ、誰だよ……!?」

 

シンジの拳を制したのは、同じクラスメイトの少女だった。

 

「さっすが委員長……やないな」

 

一瞬、委員長が止めに入ったのかと思ったが、彼女ではなかった。

ギブスをはめた右手をつかわずに、左手一本だけでシンジの拳を掴みとめた少女は、エヴァのパイロットで、かつヒロインの一人でありながら、このSSにはほとんど出番が無かった少女……。

 

「あ、綾波……」

 

綾波レイだった。

レイは、無表情でシンジを見つめたまま、

 

「鈴原君……ちょっと、碇君を借りてもいいかしら?」

 

トウジの方を振り返りもせずに言った。

 

「ああ、はいはい。どーぞ、どーぞお好きに」

 

「ちょ、ちょっと綾波!今、取り込み中だから」

 

シンジは抗議の声を上げたが、レイは気にせずにシンジの手を掴んだまま、引きずるように引っ張って行った。

 

 

シンジは、強引に校舎の方へと連れていかれながら、レイに耳打ちする。

 

「綾波……設定間違えてるよ。僕のこと『碇君』って呼ぶようになるのはヤシマ作戦以降……」

「いいから黙って付いてくる!」

「は、はい……」

 

レイは、ドスの効いた声で黙らせると、シンジを校舎の中へと引っ立てて行った。そして、廊下まできた所で、シンジを乱暴に壁に押し付けた。

 

「綾波……さん。もしかして、怒ってます?」

「怒ってるわよ」

 

TV版や劇場版では感情表現をほとんどしなかったレイが、なぜか怒気をはらんでいた。

レイは、シンジを睨みつけたまま息を吸い込むと、

 

「碇君」

 

いわゆる壁ドンの姿勢を取って、顔を近付けた。

いつものシンジなら、間近に迫る女の子の顔に赤面する所だろう。しかし、目の前の剣幕に圧倒されたシンジは、赤面の代わりに蒼白の色を浮かべていた。

 

「な、なんでしょう……綾波…さん?」

「この前、どうして遅れてきたの」

「この前って?」

 

レイは、シンジを押し付けた壁を蹴った。

 

「シャムシエルが現れた時に決まってるでしょ!」

「あ、あの時は迎えの車が大破したから……」

 

「本当に、それだけが遅刻の理由?」

「う……」

 

「逃げようとしたんじゃ、ないでしょうね?」

「……」

「あともう少し遅れてたら、私は死んでたかも知れないのよ?」

 

レイは、本当に怒っている様子だった。

 

「ヒロインが死んだら、どうするつもりだったの?」

 

血走った眼で凝視され、シンジは戦慄を覚えた。

 

「で、でも、綾波はクローン見たいなものだから ……」

 

何とか恐怖感を紛らわそうと、シンジは無理に笑顔を作った。引きつった笑顔のまま続ける。

 

「最悪、死んじゃっても代わりが……ぐへ」

 

シンジの鳩尾(みぞおち)に、レイのギブスをはめた右手がめり込んでいた。

 

「それ、ヒロインに対していう台詞!?」

「ご、ごめんなさい……」

 

レイは溜め息を吐くと、カブリを振った。

 

「確かに、原作の私には代わりはいるわ。水槽の中に、わんさかとね」

 

(ふところ)に手を入れ、何か取り出そうとする。

 

「でも、このSSじゃあ、オーデションに受かったのは私一人だけなの」

 

レイは懐から、三冊の小冊子を取り出した。

 

「お陰で、私一人で、三役やらされてるのよ」

 

『台本』と書かれた小冊子には、それぞれ「ナオコにぶち殺される綾波」「自爆前の綾波」「自爆後の綾波」とタイトルが振られていた。

 

「こっちの私は、代わりはいないの。私一人死ぬだけで、綾波が全滅しちゃうのよ」

「そ、そうなんだ……」

 

レイは、シンジの肩をつかんだ。その手に痛いほどの力が込められる。

 

「前回は、間に合ったし、使徒を倒せたから見逃して上げるわ。でも、こんど遅刻したら……」

 

廊下の向こうから、他の生徒の足音が近づいてきた。

レイは、声を落とすと、シンジの耳元にささやいた。

 

「……」

 

足音の主が、廊下の角から姿を現した。

 

「あら、碇君に綾波さん、なにしてるの?」

 

委員長・洞木ヒカリだった。

 

「碇君と鈴原君が揉めてたから、碇君だけこっちに連れてきたんです」

レイは、原作通りのキャラに戻っていた。

 

「ああ、やっぱり。鈴原君や相原君に呼び出されてる所みたって聞いたから、探してたのよ」

 

委員長は腰に手を当てると、校舎の外にかぶりを向けた。直ぐに、ケンスケとトウジを見つける。

「もう、とっちめてやるんだから!」

 

委員長がトウジ達を注意しに去って行くと、レイは無表情のままシンジにポツリと告げた。

 

「碇君、さっきの台詞ちゃんと聞いた?」

 

シンジの耳元で、ささやいたレイの台詞。

シンジはガタガタと震えながら、何度もうなずいていた。

 

「そう……じゃあ、それを忘れないでね」

 

でも、こんど遅刻したら……の後に、小声でささやいたレイの台詞。

 

『あなたは死ぬは……私が殺すもの』

 

しっかりとシンジの耳に残っていた。

こっちの綾波は、武闘派だった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

結局、委員長の立ち合いの元、トウジ、ケンスケ、シンジの三人は和解した。

拳を奮う事なく、無理やり握手させられ、

 

「はい、過去の事は水に流して!今日から三人…いえ、私も含めて四人とも友達ね。分かった?」

 

スッキリとはしなかったが、気まずい思いをすることなく、彼らは友人になる事ができたのだった。

 

「じゃあ碇!また明日な」

「先生、パイロットやからって無理すんなや!」

 

二人と分かれたシンジは、うつむいたまま、トボトボと校庭を後にした。

 

(疲れた……)

 

別に何もしていないが、あの二人とのやり取りだけで疲れてしまった。

追い打ちをかけるように、その疲れた脳裏にレイの台詞がよぎる。

シンジは身震いした。

 

これから先も、レイは皆の前では原作準拠のキャラを通しつつ、シンジに対しては陰で地を出してくるのだろうか?

 

(武闘派の綾波って……じゃあ、アスカが登場するようになったら、地獄じゃないか……)

 

レイに突き込まれた鳩尾(みぞおち)辺りがキリキリと痛んだ。

 

校門で、うつむいたまま溜め息を吐くと、シンジはマンションに向って歩き出す。

 

「シンジ君」

 

突然、背後から名前を呼ばれ、シンジはビクリとした。

一瞬、またクラスメイトが声を掛けてきたのかと思った。だが、考えてみれば、自分の事を下の名前で呼ぶ人なんて、ネルフにしかいない。

シンジは、ゆっくりと後ろにカブリを向けた。

 

「マヤさん?」

 

その名前を口にし、そして、その顔を見た時、シンジは心から安堵した。

 

(そうだ。ボクには、マヤさんがいるんだ)

 

「マヤさん……もうお仕事終わったんですね」

 

「ええ、シンジ君たちがネルフに来ない日は、早出、早定時だから」

 

そういうと、マヤは、ネルフからここまで延々と押してきた物を前に出した。

 

「シンジ君、これミサトさんからのプレゼントよ」

 

マヤが運んできたそれは、アシスト自転車だった。

 

「シンジ君。良かったら乗って帰って」

 

マヤは微笑むと、シンジに自転車を進めた。

 

「え、マヤさんは?」

 

「わ、私はいいのよ。歩くの好きだから……」

 

ミサトから自転車をプレゼントされた時、マヤは引きつった笑顔でお礼をいう事しかできなかった。まさか、自転車にすら乗れないとはいえなかった。

 

二台買ってくれようとしたミサトに、一台で十分ですと告げ、マヤは、シンジに直接渡そうとここまで押してきたのだ。

 

「私の事は気にせずに、乗ってって」

「いえ、それなら……」

 

シンジは、鞄の中から体操着を取り出すと、自転車のキャリアの上に折り畳み、紐で固定する。

「これくらいじゃ、痛いかも知れませんけど」

 

そして、シンジは前かごに鞄を入れると、自転車にまたがった。

「直接座るよりは増しだと思います」

 

シンジの言葉の意味が分からず、一瞬、マヤはきょとんとしていたが、

 

「マヤさん」

 

振り返りながら、親指でキャリアを指し示すシンジの仕草に、

 

「え……」

 

マヤは、ようやく理解した。

キャリアに結び留められたシンジの体操着に触れ、少し戸惑いながら尋ねる。

 

「わたし……乗って大丈夫?」

「まかせて下さい。これでも男ですから!」

 

シンジの返答に、マヤは少しムッとなる。

 

「体操着をお尻に敷いても大丈夫かって話よ。私は、ほら」

 

キャリアの上に横座りする。

 

「この通り、軽いから!」

 

シンジはペダルをこぎだした。

 

「本当だ。マヤさん、軽いですね……あ、危ないから、つかまって下さい」

「うん」

 

マヤは、そっとシンジの腰に両手を伸ばした。

マヤがつかまると、シンジは少し加速する。

 

郊外の西。山は、その頂きに陽の冠をかぶり始めていた。茜色のマントを第三新東京一杯に広げ、いつしか、二人の帰路を(いろど)っていた。

(あけ)に染まる中、自転車の加速と共に心地よい微風(びふう)()でて行く。

 

「いい風……」

 

マヤは、シンジにもたれかかると、その背に頬を預けた。シンジの鼓動が少し高鳴るのを感じる。

 

「ちょっと、マヤさん……くっ付きすぎですよ」

「ごめんなさい。疲れてるの……もう少し、このままでいさせて」

 

男の子がこぐ自転車のキャリーに乗せられながらの通学……かつて憧れた光景の中に、今、自分がいる。

 

24歳の女が憧れる光景じゃないと思っていた。青春だとかいう歳じゃない。

 

でも、自転車をこぐ彼は14歳だ。14歳の少年が見る青春の景色の中に、年上のお姉さんがいたって、少しもおかしくはない。

 

マヤはウットリとした様子で、シンジの背にもたれ続けた。

 

(でも、体操着敷いたくらいじゃ、お尻は痛いわね……)

 



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綾波さん不潔です(15禁)

■ 前書き ■

綾波の出番が少なすぎる為、書いてみました。(´・ω・`)


「乾杯~」

 

声とグラスが打ち合う音が揃った。

シンジ、リツコ、マヤの三人が晩餐(ばんさん)を囲っていた。

スパイスの効いた良い香りがテーブルから立ち上る。

今夜はカレーだ。

 

「手作りね。どっちが作ったの?」

 

マヤとシンジが揃って手を上げた。

 

「ボクは、野菜の皮むきと味付けをしました」

「私は、包丁でお肉と野菜を」

 

リツコは笑った。

 

「あら、仲がいいのね」

 

シンジがマヤのマンションに越してから、ちょうど一月(ひとつき)が経とうとしていた。その短い間に、二人は予想以上に打ち解けているようだった。

 

「そりゃもちろん、仲良しさんですけど……」

 

マヤは少し不満げに頬を膨らませる。

 

「年上のお姉さんと暮してるんだから、もうちょっと、緊張してくれても良さげなんですけどね~」

 

マヤの言葉に、シンジは照れ笑いを浮かべた。

 

「ボクは、ミサトさんで、もう慣れちゃってますから」

 

本当は、ガサツなミサトと違い、女の子らしいマヤと過ごすことに、まだ気恥ずかしさがあった。だが、シンジは、それを(おもて)に出すことはなく、平気な振りをしていた。

 

 

「ミサトと暮したお陰で、女子に対する幻想なんて吹っ飛んだんじゃない?」

「それは……まあ……」

 

ミサトと暮していた時は、一週間も経たない内に、彼女の下着を洗う事にすら慣れてしまっていた。正直、オッサンと暮しているような気分だった。

 

「そういえば、転居するのに手続き大変でしたね。IDカードを書き換えるだけで一か月も掛かるなんて」

 

「あなたが、偽造で済ませてたからでしょ。まったく……この前は免許証まで偽造してたらしいじゃないの」

 

そういうと、リツコはグラスをおき、ショートバッグからIDカードを取り出した。今日は、これを届けに来たところで晩餐にあずかったのだ。

 

「はい、シンジ君。大切なものだから、無くしちゃダメよ」

「ありがとうございます」

 

シンジが受け取ると、リツコは急に顔をしかめた。

 

「あ、しまった……」

「どうしたんですか先輩?」

 

リツコは、鞄からもう一枚IDカードを取り出していた。

 

「レイのカードも更新してたのよ。渡すの忘れてたわ」

 

リツコはそういうと、

 

「シンジ君、明日、ネルフに出勤よね。悪いけど途中でレイの所に寄ってもらえないかしら?」

 

レイのカードもシンジに渡した。

 

「え……ボ、ボクが、綾波”さん”の家にですか?」

 

リツコとマヤは顔を見合わせた。

 

「シンジ君ってば、レイのこと『さん』付で呼んでるの?」

 

マヤの言葉に、シンジは動揺する。

 

「あ、その……綾波さんとはまだ親しくないから……」

 

再び二人は顔を見合わせると、クスリと笑った。

 

「年上のお姉さんは平気なのに、同い年の子は苦手なのかしら?」

「うわ、シンジ君。年上キラーの素質あるんじゃない?」

 

二人にからかわれても、シンジは笑えなかった。

 

「マ、マヤさんも……一緒に」

 

「あら、マヤに頼ってちゃダメよシンジ君。レイと仲良くなれる良い機会じゃない」

 

「もう先輩。シンジ君に浮気すすめちゃダメですよ」

 

女たちは笑いあっていたが、シンジは引きつった()みを受けべる事しかできなかった。レイのIDカードを持った手が小刻みに震えている。

 

綾波の家に行け……シンジに取って、冬眠中の熊の洞穴(ほらあな)に入って来いと言われたような気分だった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

翌朝、レイの部屋の前に、シンジの姿があった。

一度、深呼吸してから、シンジはインターホンを押した。そして、おずおずとマイクに声を掛ける。

 

「あ、あの、綾波さん……碇です。リツコさんのお使いに……」

 

少し沈黙する。インターホンから返答はなかった。

 

「あ、お留守ですか」

 

(良かった留守なんだ)

 

早々に留守だと決めつけたシンジは、そのまま(きびす)を返そうとした。

 

『居るわよ。入って』

 

が、その背にレイの声を聞き、立ち止まった。

 

「あ、はい……」

 

 

おそるおそる扉を開ける。

 

「ご、ごめんください……」

 

玄関にはダイレクトメールが無造作に散らかっていた。それを踏まないように気を付けながら、部屋に上がる。

 

(ここが熊の巣……)

 

レイの部屋は、ミサトともマヤとも全然違っていた。

ミサトの部屋がゴミ屋敷なら、マヤの部屋は少しミニマリストに近かったが、レイの部屋はそれ以上に殺風景だった。

ベットに、少しばかりの調度品。そして、部屋の隅には、ウェイトトレーニングの道具一式が並んでいた。

 

「綾波さん……っ痛」

 

足元のダンベルに爪先(つまさき)を打ってしまった。

 

「……綾波のかな」

 

シンジは何げなく、それをつかんでみた。そして、持ち上げようとする。

 

「うわ、重っ……何キロあるんだ?」

 

シンジの腕力では持ち上がらなかった。何キロなのか確かめようと屈んだ時、バスルームの扉が開く音がした。

 

シンジが振り返ると、レイがお風呂から上がってきたところだった。一枚のタオルを肩に掛けているだけで、何も身にまとっていない。

 

突然、さらけ出されたレイの裸体にシンジは慌てた。

 

「い、いやあのっ!」

「なに、勝手に触っているの!?」

 

シンジの動揺を他所に、レイはダンベルを触っている事を咎めると、ズカズカとシンジに詰め寄った。

 

「素人が触ったら危ないわよ!」

「いや、ボクはIDカードを」

 

咄嗟(とっさ)に立ち上がり、鞄の中からIDカードを取り出そうとする。慌てていたせいで、鞄の帯が壁のダンベル掛けに引っ掛かってしまう。

 

「僕は、別にっ、うわあっ、ったった、わあぁっ!」

 

引っ掛かった拍子に足を滑らせ、前から詰め寄ってきたレイの方に倒れ込む。

殺風景な部屋に、フローリングの床を打つ大きな音が鳴り、ダンベルが転がる低音が後に続いた。

 

思わず閉じていた目を開けた時、シンジは自分が裸のレイの上に(おお)いかぶさっている事に気づいた。さらに、左手に柔らかい感触を覚え、真っ青になる。

 

……殺される……!

 

不可抗力(ふかこうりょく)とはいえ、綾波の裸を見、綾波を押し倒し、胸を触ってしまった。

次の瞬間、シンジは脱兎(だっと)のごとく、玄関に向かって飛び出していた。そして、そのまま駆け出……せず、盛大に転倒した。

 

「い、痛てて……」

 

顔をまともに打ってしまった。今度は滑った訳じゃない。

シンジは倒れたまま、おそるおそる自分の足元を見た。自分の足首を、レイの手がガッチリとつかんでいた。

 

「碇君……なに、ナチュラルに逃げようとしているのかしら?」

 

レイは、ユックリと立ち上がった。

 

「あ、綾波さん。わざとじゃないんです」

「正座しなさい」

「ボクはリツコさんのお使い……」

「正座!」

「はい」

 

レイが着替えるまで、シンジは冷たい床に正座して待ち続けた。

着替え終わったレイが、その前に仁王立ちになって、シンジを見下ろす。

 

「女の子の裸を見た上に、押し倒して、卑猥(ひわい)な事までして逃げる……ふざけているのかしら?」

「そ、そんなつもりは……」

 

「うつむいてないで、顔上げなさい!」

「は、はい……」

 

シンジはカブリを上げたが、直ぐに慌てて視線をそらした。

 

「え、綾波さん……なんで?」

「なに?」

「な、なんで下着しか付けてないんですか……」

 

着替えたと思ったはずのレイは、肌着しか付けていなかった。しかも、なぜか就寝用のキャミソールだ。

 

「あら、裸の方が良かったのかしら?」

「いえ、そういう訳じゃ……」

 

シンジは、視線をそらしたまま、話題を変えようとした。

「そ、そういえば、怪我の方はもういいんですか……」

「怪我なんかしてないわよ?」

「え、でも、この前まで包帯とか……」

 

そういえば、手のギブスが無くなっていた。

 

「あれは小道具よ」

「でも、初めて会った時は、立てないくらいだったじゃないですか?」

「台本に書いてあったから、そうしただけよ」

「……」

 

「そんな事より、どう落とし前付けてくれるのかしら?」

「……」

 

レイは、タンスの上にあった自分の携帯を一瞥(いちべつ)した。

「今から、リツコさんたちに報告していい?」

「そ、それは困ります」

「じゃあ、どうするの?」

 

気まずい空気の中で、レイの威圧感が、頭上からヒシヒシと迫る。

 

(いっそ殴られていいから……)

 

シンジは、意を決すると立ち上がった。そして、殴られるのを覚悟で、

 

「じゃあ、お詫びにボクも脱ぎます」

「ふざけないで!」

 

レイのビンタが飛んだ……が。

 

「……?」

 

その手は、シンジの頬の手前でピタリと止まっていた。

 

「……て、私が怒ってブツと思った?」

レイは、怒気を押し殺してポーカーフェイスを保つと、

「殴られて、丸く収まると思った?」

シンジの思惑を見透かしてしまっていた。

 

もちろん、そんな悪ふざけをして殴られた所で、丸く収まるものではない。だが、コミュ力の無いシンジが不器用なりに考えた事だった。

 

「ごめんなさい、綾波さん」

 

頭を下げるシンジに、綾波は肩をすくめた。

「でも、確かに不公平ね」とつぶやき、続ける。

「いいわ、脱ぎなさい」

「へ……こ、これは冗談のつもり……」

「いいから脱ぎなさい!」

 

予想外の言葉にシンジは後ずさった。それを追うようにレイは迫る。

 

「あ、綾波さん、落ち着いて……」

「落ち着いてるから脱ぎなさい」

 

背中が壁にぶつかる。壁際まで追い詰められてしまった。

レイは手を伸ばすと、身構えるシンジの両腕をつかんだ。

 

「あ、綾波さん、不味いよ。ヒロインがそんな……」

「不味い?」

 

レイは怪訝(けげん)に眉を寄せると、シンジの首筋に顔を近付けた。そして

 

「ひぃぃぃ!」

 

シンジは悲鳴を上げた。

 

(な、()められた!?首と頬を!?)

 

「別に、不味くはないわよ?」

 

そういうと、レイはポーカーフェイスを崩し、妖艶な笑みを浮かべた。

 

「碇君、初めてあった時の事、覚えてるかしら?」

 

初めてあった時……それはシンジが初めてネルフに足を踏み入れ、エヴァに乗る事を強要されたあの時だ。

 

「碇君、私の事を心配して、碇司令に抗議してくれてたわよね」

 

シンジの腕を握るレイの手に力がこもる。

 

「細い華奢(きゃしゃ)な身体で、私を必死で支えながらね」

 

固まるシンジの耳に唇を近づけて、ささやく。

 

「あの時、私、ゾクゾクしたの。碇君の細い身体を無茶苦茶に抱きしめ返したいって思ったわ……」

 

レイが身体を密着させてきた。

 

「あの時以来、シンジ君と一緒にいると子宮の奥がポカポカするの……碇君にもポカポカして欲しい」

 

シンジの全身に電気のような悪寒が走った。必死になってレイの手から逃れようとする。

 

「無駄よ。ベンチプレス80キロいける私の拘束から、非力な碇君が逃れられるはずがないわ」

 

レイの太ももが、シンジの足に絡む……と、どこからか携帯の着信音が聞こえた。

床に落ちたシンジの鞄からだ。

 

「出たら殺すわよ」

 

二人は密着したまま、着信音が鳴り止むまで沈黙した。

音が鳴り止み、レイの手がシンジのズボンに伸びようとした時、今度は、タンスの上に置かれていたレイの携帯が鳴りだした。

 

レイは舌打ちすると、逃げないように左手でシンジを抱え込んだまま、右手を携帯に伸ばした。

シンジに「声出したら殺すわよ」と釘を刺してから、『応答』の文字をタップする。

 

「はい、レイです」

『あ、私よ、リツコ。シンジ君はそこにいる?』

「さっき帰りました」

『IDもらった?』

「はい」

 

『ごめんなさい。そのID古い方だったのよ。今から新しいの届けに行くから』

「いえ、ネルフに着いてからで結構です」

『ちょうど、近くまで来てるのよ。ついでよ』

「あと、どれくらいで着きますか?」

『10分くらいかしら?』

「……分かりました」

 

携帯を切ると、レイはシンジを解放した。

 

「残念だったわね碇君」

 

(た、助かった……)

 

シンジは、ぐったりと壁に寄り掛かった。

 

「でも、碇君、忘れちゃダメよ。今日の事は全部あなたが悪いのよ。私の裸を見て、私を押し倒して、胸まで触って」

「わ、分かってます……」

 

「でも、いいわ。お相子(あいこ)だから許して上げる」

「お相子って?」

 

レイは、バツが悪そうに頭をかいた。

 

「碇君が、初めて使徒と戦った時、ショックを受けて病室で寝てたわよね」

目が覚めた時に見た、あの白い見知らぬ天井だ。

 

「あの時、私はお見舞いに行ったの……でも、碇君は目を覚まさなかった……だから」

 

レイは沈黙をはさんでから、続ける。

 

「寝てる碇君の横で、酷いことをしちゃったわ」

「ど、どんな事……?」

「あなたが旧劇場版の冒頭でやったのと同じ事よ」

 

そこまでいうと、レイは嘆息し、自分の髪をかきあげた。

 

「最低ね、私って……」

 

レイは、床に落ちていた鞄を拾うと、唖然(あぜん)とするシンジに渡した。

そして、玄関まで連れて行き、扉を開けてやる。

 

「行きなさい」

 

シンジは靴を()くと、放心した様子で何度もうなずいた。

出て行こうとするシンジに、レイは告げる。

 

「でも、碇君、憶えておきなさい。今後二人きりになる事があったら……」

 

最後の言葉を耳元でささやく。

 

「今日の続きを望んでるんだって、私は判断するから」

 

 

 

気が付いた時、シンジはレイのマンションから駆け出していた。

どれくらい無我夢中で走り続けただろうか?

遂に息を切らし、レイのマンションが見えない所まで来ると、シンジは、歩道のポールに寄り掛かった。

胸の動悸が激しかった。小休止し、息を整えても、その動悸は収まらなかった。

 

前回、遅刻したら殺すとレイに脅された。

今回は、二人きりになったら犯すと宣言された。

今後、武闘派で肉食系の綾波に、シンジは狙われ続ける事になるのだ。

 

『マヤとシンジの愛の劇場』……なのに、マヤとの関係はさほど進展せず、その前に貞操を失いかねなかった……一体、どこまでタイトル詐欺は続くのだろうか……?

 

シンジは息を整えると、苦し気につぶやいた。

 

「綾波さん、不潔です……」



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マヤさん不潔です(1)

第一話目の位置に、「登場人物紹介」をぶち込んだ為、皆様のブックマークの位置がずれてしまいました。ごめんなさい。(´・ω・`)


「はい、あなたのログは削除削除~」

 

リビングのテーブルに、マヤは二台のノートパソコンを並べていた。

削除削除とつぶやきながら、右手で右のノートパソコンを操作し、

 

 

-----------------------------------------------------------

萌えウサ:お腹空いた~。(´・ω・`)

 

トリトン:最近、ご飯前に、おかしばっか食べてる~

 

ミンメイ:太るわよ~

 

-----------------------------------------------------------

 

左手では、左のノートパソコンを使って『エヴァ・レボリューション ファン倶楽部』のチャットに興じていた。

 

「あら、追跡受けてるじゃない。遮断遮断~」

 

右手でまた何か操作する。

マヤが右のノートパソコンで行っているのは、torrentで違法ダウンロードしているユーザーたちの救済活動だった。

キモオタたちが、torrentでエロゲーを幾ら落としてもパクられないのは、日夜繰り返されるマヤの慈善活動のお陰である。

 

-----------------------------------------------------------

トリトン:萌えウサさん、これからご飯作るの?

 

萌えウサ:ううん、今日はシン・ショタが作ってくれてる~(*´ω`*)

 

ミンメイ:チャットしてる間に、ショタがお夕食作ってくれるって、どこのラノベよ

 

萌えウサ:ふふふ、うらやましいかあ~(´▽`)

 

-----------------------------------------------------------

 

マヤはキーを打ちながら、キッチンで夕食の準備をしているシンジに視線を移した。水色のエプロンを羽織(はお)った少年の後ろ姿が見える。

マヤが仕事をしていると思い込んでいるシンジは、今日はボク一人でやりますと張り切ってくれていた。手ごねハンバーグに火を通しつつ、焦げ付かないようクリームシチューの鍋をかき混ぜている。

 

マヤは、ジッと、その後ろ姿を眺めた。

視線をディスプレイから()らそうが、会話しながらであろうが、常に両手の指でキーを打ちながら作業ができるマヤだったが、なぜか彼女の左右の手が止まってしまった。

 

左のノートパソコンの画面では、常連たちがチャットを続けていたが、右のノートパソコンの画面にはアラームがポップアップされた。しかし、マヤは対処せずに、シンジの方をボンヤリと見つめていた。

 

無言で立ち上がる。

 

クリームシチューをかき混ぜる手を止めると、シンジはハンバーグの焼き加減を確認した。串を指し、もれでる煮汁の色を見る。

 

(いい感じ。最後にもう一度裏返して……念の為、蓋をして少し蒸すかな)

 

シンジがフライパンに蓋をした時、ふと、誰かの手が肩に触れた。

ビクリと身体が反応し、驚いたが、同居人は一人だけなのだ。その白い手を見るまでもなくマヤだと分かった。

 

「マヤさん?」

 

シンジが振り返ると、マヤは慌てて顔をそむけた。

 

「どうしたんです。マヤさん?」

 

マヤはそむけた顔を見せようとしなかった。気付けば、シンジの肩に触れる手が小刻みに震えていた。

 

(マヤさん、もしかして泣いてる……!?)

 

「マヤさ……」

「ごめんなさい」

 

シンジがもう一度声を掛けようとした時、マヤは顔をそむけたまま言った。

 

「つい、シンジ君の後ろ姿を見てたら……死んだ弟の事を思い出しちゃって……」

「弟ですか……」

 

死別したマヤの弟……初耳だった。だが、15年前のセカンドインパクトで大勢の人々が不幸に見舞われたのだ。兄弟を失った人も決して珍しくはなかった。

 

(そうか……マヤさんも)

 

「ご、ごめんなさいね。急に感傷に(ひた)っちゃって……あ、ハンバーグ()げないように気を付けて」

 

マヤは一瞬だけかぶりを向けると、逃げるようにリビングへと戻ってしまった。

シンジは慌ててフライパンの蓋を外したが、マヤが見せた一瞬の表情を見逃さなかった。

 

(……やっぱり)

 

震える手。そして、一瞬見せた赤く染まった顔色。涙を必死にこらえている顔だった。

マヤに悲しい過去を思い出させない為にも、シンジは余計な事は言わない事にした。取り合えず、ご飯でお腹を満たせてあげよう。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

マヤは、紅潮した顔のままリビングに戻った。

 

(ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ)

 

ノートパソコンの前に座ると、胸の鼓動が静まらぬまま、チャットを続けた。

 

-----------------------------------------------------------

萌えウサ:ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、マジやばかった。

 

トリトン:どったの?

 

萌えウサ:例のシン・ショタが、キッチンでお料理してくれてるのよ。

 

ミンメイ:何か事故った?

 

萌えウサ:私のハートが事故った。

 

ミンメイ:ホワイ?

 

萌えウサ:シン・ショタが、エプロン姿でお料理してるのよ。

 

トリトン:そりゃ、エプロンくらいするでしょ。

 

萌えウサ:その後ろ姿が可愛くて可愛くて、もう辛抱たまらんようになっちゃって……。

 

トリトン:萌え死んだ?

 

萌えウサ:気付いたら背後に歩み寄ってて、思わず抱きしめる所だった。

 

トリトン:コラコラ。

 

ミンメイ:通報した方がよろしいでしょうか?

 

トリトン:ってか未遂?

 

萌えウサ:肩に触れた瞬間気付かれたから、慌てて顔()せた。真っ赤かになってたと思う。

 

ミンメイ:変に思われなかった?

 

萌えウサ:死んだ弟の姿とダブったとか適当に言って誤魔化して逃げて参りました。

 

ミンメイ:萌えウサさん、弟いたの?

 

萌えウサ:うるわよ。脳内に百人くらい。

 

-----------------------------------------------------------

 

まだ少し火照(ほて)っていた為、マヤはパタパタと手で顔を仰いだ。心を静めようと、息を吐きだす。

 

(大事な任務をはたさなきゃならないのに……こんな事くらいで興奮してちゃダメね)

 

マヤは、かたわらのミラーレスカメラに視線を落とした。

今日、碇司令から受けた任務の事を思い出す。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「本部技術開発部・技術局一課所属・伊吹マヤ二尉、参りました」

 

大きな扉の前で、敬礼して控える。

所属を名乗ったマヤは、緊張の面持ちで息を吐きだした。

扉の前を通り過ぎる事はあっても、くぐる機会は一度もなかった総司令室の入り口。それが今、その大口を左右に開き、自分を招き入れようとしている。

 

窓が閉じられているのか、それとも元々そんなものはない構造なのか。開け放たれた空間の中は、暗く、わずかなライトの灯りしかなかった。

 

「入りたまえ、伊吹二尉」

 

薄暗い空間の奥。デスクに鎮座する碇司令が告げると、マヤはゆっくりと足を踏み入れた。

背後で、音もなく扉が閉じる。

 

「し、失礼いたします……」

 

マヤは、奥のデスクに向って進んだ。しかし、数歩進んだ所で

 

「そこでいい」

 

碇司令に制された。

戸惑(とまど)うマヤの前に、デスクとチェアが、床からスライドして浮上する。

 

「掛けたまえ」

「は、はい……。失礼いたします」

 

二人の席が、三メートルほどの距離を挟んで向かい合う。手を組んだままマヤを見据える碇司令と、緊張の面持ちで視線をちらちらと()らすマヤの間で、しばし静寂が支配した。

 

(な、なんの用事で呼ばれたのかしら?)

 

たった一人で総司令室に来るようにと言われたマヤは、心当たりを探った。

過去に、マギにウィルスを仕込んだ件がバレたのか、それともブラディーエンジェルである事がバレたのか、それとも……。

 

(逆に、能力が認められて昇進という可能性も)

 

朗報への期待も浮かんだが、碇司令の気難しそうな表情を見ただけで霧散した。

 

「伊吹二尉」

「は、はい」

 

碇司令は自分のデスクに触れた。何かがデスク上にスライドして現れる。

コーヒーカップだった。

 

「机の右のパネルに触れたまえ。好きな飲み物が出せる」

 

デスクを確認すると、確かにカップのアイコンが並んだパネルがあった。マヤは取り合えずココアを出した。

 

「緊張せずに一服して落ち着きたまえ」

「は、はい」

 

碇司令がコーヒーを口に付けると、マヤも習ってココアを少しすすった。

二人の間に、しばしの沈黙がただよう。

緊張から、マヤが再び口を付けようとした時、

 

「実は君に、重要な任務がある」

 

碇司令の言葉に、マヤは慌ててコップから手を離した。

 

「じゅ、重要な任務ですか?」

「極秘事項だ。これからいう事は、他言無用だ」

「は、はい……」

 

極秘任務と聞いて、マヤは、かつてブラッディーエンジェルとして世界中の政府機関を荒らし回っていた時の事を思い出した。碇司令は、一体、どこに潜入させようというのだろうか。

 

「君は、サードチルドレンの保護者を務めているな」

「はい」

「サードチルドレンのデータ取集が任務だ」

「はい?」

 

碇司令の言葉は、予想外のものだった。

 

「シン……いえ、サードチルドレンのデータなら、毎日、司令所のテストで収集していますが?」

「司令所で得られるデータだけでは不足だ」

 

碇司令はマヤの言葉を否定すると、デスクのパネルを操作し、碇シンジのホログラムを二人の前に映し出した。

 

「電極につなぎ、脳波を測定し、各種のシュミレーションに掛け、定期的な臨床検査を行った所で、得られる情報には限界がある」

 

碇シンジのホログラムがゆっくりと回転する。

 

「もっと身近で、その言動、思考、表情を観察できる者にしか分からぬ情報というものがある……私は、その情報こそが、エヴァとチルドレンたちを繋ぐ重要なキーワードになり得ると考えている」

 

碇司令はホログラムを消すと、またパネルを操作した。マヤのデスクの中央がスライドし、内部から何かがせり出してきた。

 

「……カメラ?」

「ネルフで開発したコンパクト・ミラーレスカメラだ」

 

碇司令は椅子の背もたれに身体を(あず)けると、椅子を真横に回転させ、明後日(あさって)の方を向きながら極秘指令を告げた。

 

「そのカメラを君に与えよう。まずは、サードチルドレンの日常生活と喜怒哀楽の表情を被写体に納めたまえ」

 

コーヒーを手に取り、口を付ける。

 

「その他、サードチルドレンの学校生活、交友関係、日常の出来事、何某(なにがし)かのイベント……それらを毎週報告したまえ」

 

すました顔で任務を与える碇司令に、マヤは小首をかしげた。

 

「あのう、要するに……」

 

少し躊躇(ためら)ってから言ってしまう。

 

「息子が元気にしてるか、定期的に報告しろって事でよろしいでしょうか?」

 

碇ゲンドウは、盛大にむせた。

 

「あくまでパイロットのデータ収集だ!」

 

さらに咳込み、吹き出したコーヒーをハンカチで拭きながら念を押す。

 

「極秘任務ゆえ他言無用……あと、写真はなるべくクローズアップでな……」

 

 

 



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マヤさん不潔です(2)

(とは言われたものの……)

 

いきなり写真を撮らせてくれというのも不自然な気がする。

感傷に浸った振りをしたばかりなのだ。それが急に「はい、チーズ」ってのもどうだろうか?

簡単な任務のはずが、いざやろうとすると、なぜか色々と考えてしまい、なかなか自然な切っ掛けが作れそうになかった。

 

マヤはしばらく考え込むと

 

「シンジ君。私、ちょっとコンビニで飲み物買ってくるわ」

「あ、はい。その間に盛り付けしときますから、早めに戻って下さいね」

 

何を思ったのか飲み物を買いに出かけてしまった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

テーブルの上に、湯気立つ夕食が陣容を広げていた。

右翼には、大きめのお皿に、こぶし大のハンバーグが大将よろしく座している。数本のウィンナーを旗本として脇に従え、その周囲をコンソメと粉チーズで味付けをした人参とブロッコリーの温野菜が固めていた。

左翼には、少し深めのお皿に、クリームシチューが白濁の陣幕を張り、鶏肉と野菜の伏兵を中に伏せている。

両翼の後詰めを務めるのは、白米だ。

 

両軍同じ陣容で向かい合い、その対峙する中央には、戦勝祈願の為か、大量の酒類が並んでいた。

 

「マヤさん、そんなに飲むんですか?」

 

食卓に並べられた10本近い発泡酒の数に、シンジは目を丸くしていた。

 

「ミサトさんだけじゃなかったんですね」

 

ミサトだけでなく、女性は定期的に大量に酒を摂取するものなんだと勘違いする。

 

「今日はちょっと飲みたい気分なの。いつもは飲まないんだけど」

 

マヤがコンビニで買ってきたのは、酒ばかりではない。普通のジュース缶も混ざっていた。

 

「シンジ君用のジュースもあるから、好きなの飲んでね」

「は、はあ……」

 

マヤの作戦は、ずばり「酔った勢いに任せる」というものだった。

 

ほろ酔い加減になった所で、最近、カメラを購入した事を話題に出し、せっかくだからと撮らせてもらう……。

 

(うん、これなら自然な流れで行けるわよね)

 

碇司令は定期的に撮影し、提出しろと言っているのに、マヤは取り合えず最初の撮影を成功させる事しか頭になかった。

 

(シンジ君~。せっかくだから、お姉さんと一緒に撮ろっか)

(練習したいから、ちょっと撮らせて。あ、そのままでいいから。シンジ君のお食事姿を)

 

発泡酒をチビチビと飲みながら、シンジを見つめ、脳内でシュミレーションをくり返す。

 

普通の少年ならば、飲みながらこちらを凝視するお姉さんの様子に居心地の悪さを覚える所だろう。しかし、シンジはミサトで慣れていた為、気にしなかった。

ミサトのように、飲みながらゲップをしたり屁をこいたりしない分、はるかにましだ。

 

「ボクも一本もらいますね」

 

シュミレーションに没頭していた為、マヤは、シンジが手に取った缶の種類にまで気が回らなかった。「どうぞどうぞ」と適当に勧める。

 

「これ、変わった味のジュースですね」

「そうね」

 

うわの空で返事を返す。

 

(そろそろ頃合いかしら……)

 

ハンバーグの皿を半分以上たいらげ、二本目の発泡酒を飲み終えたマヤは、ようやく脳内のシュミレーションが整っていた。

脇に隠していたカメラに手を伸ばし

 

「そういえばシンジ君~」

 

出来るだけ酔っている雰囲気を出しながら、シンジの方に意識を向けた。

 

「え……」

 

考え事をしながらボンヤリ眺めていた時は気づかなかったが、シンジの顔がやけに火照っていた。

 

「な、なんだか暑くなってきましたね」

 

缶を片手に、手でパタパタと煽っている。

 

「シ、シンジ君それ、発泡酒!」

 

せっかく酔いかけていたマヤはシラフに戻ってしまった。

 

「へ?このジュースですか?」

 

発泡酒と缶ジュースを無造作に並べたのがいけなかった。シンジは間違えてお酒の方を飲んでしまっていたのだ。

 

「ダ、ダメよ、シンジ君!」

 

マヤは慌ててシンジから発泡酒を取り上げたが、よく見れば空になった発泡酒の缶が、既にシンジの手元に二本並んでいた。

 

「マ、マヤさん……な、なんだか身体が……」

 

たかが発泡酒二本……しかし、14歳の身体に初めての酒である。しかも体質的に酔いやすかったのか、席から立ち上がりかけたシンジは、膝を崩し、テーブルに突っ伏しかけた。

 

「だ、大丈夫?」

 

マヤは、慌ててシンジに肩を貸して支えた。ドサクサに紛れて、シンジの腰(しかも臀部近く)に手を回しているところを見ると、マヤも少し酔っているのだろう。

 

「吐きそう?」

「いえ……でも、何だか眠くなっちゃって……」

 

シンジは、そういうと「ちょっと横になってきます」と、フラフラとした足取りで自室へと入ってしまった。

シンジが、自力でベットに横たわるのを見ると、マヤは心の内で反省した。

 

「バカね私って……」

 

故意では無いにしろ、未成年に飲酒させてしまった。そもそも、酔った勢いに任せるなんてプランが間違っていたのだ。

 

マヤはため息をつくと、シンジの残した夕食にラップを掛け、自身の食事と洗い物を済ませた。

一仕事終え、そっとシンジの部屋を覗く。

 

「シンジ君~大丈夫?」

 

返事がない。マヤは、シンジの部屋に入ると、ベッドに横たわる少年の様子を見た。

マヤはもう一度声を掛けたが、シンジはスヤスヤと眠っていた。

 

「大丈夫……ぽいわね」

 

安堵の吐息をもらす。

苦し気な様子はなかったが、アルコールの為に簡単には起きそうになかった。

 

「これって……」

 

シンジの寝顔を見ながら息をのむ。

 

「シャッターチャンス?」

 

(可愛い息子の寝顔みて、喜ばない親はいないわよね)

 

そこまで考えたマヤは、ふと、重大な事実に気づいた。

一瞬、身体を硬直させ、辺りを見回す。

 

(っていうか……私、シンジ君の部屋に入ってる!?)

 

途端にマヤの顔色が襟足まで真っ赤になった。

同居生活を始めた時に決めたいくつかのルールの一つ。

 

……互いの寝室には入らない……。

 

建前は、同居人とはいえ異性である事、そして、互いのプライバシーを守る為。

本音は、マヤのベットの下に隠した例の衣装や同人誌を死守する為。

 

シンジを自分の部屋に入れない為のルールのつもりだったが、マヤは今、もう一つ大切な意味がある事に気づいてしまった。

それは

 

(私……男の子の部屋に入ってる……!?)

 

自分の理性を保つ為だった。

十代の男の子の生活臭。ハンガーラックに並ぶシンジの私服。机の上に無造作に置かれた読みかけの本。洗濯に出し忘れたシャツが一枚、床に落ちている。

 

かつて例のグッズ置き場だった部屋は、すっかり男の子の部屋に変わっていた。

胸の鼓動が早鐘を打ち、無意識に深呼吸して酸素とシンジの香りを吸い込んでしまう。

 

(やばい、やばい……!)

 

マヤは、胸を抑えながらシンジの部屋を出た。音を立てないように気を付けて扉を閉め、その扉にもたれかかって息を吐きだす。

 

(今からカメラ片手に……寝てる男の子の部屋に入って……寝姿を撮影?)

 

チャンスだったはずが、急にハードルが高くなってしまった。

 

(いや、でも、これは大事な任務だから……)

 

テーブルを振り返る。発泡酒は後一缶しか残っていなかった。

マヤは、追加の発泡酒を買うべく、コンビニに走ったのだった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

興奮の勢いに任せて、本日、六本目の発泡酒を空にしたマヤは、すっかり出来上がってしまっていた。少し吐きそうになるが、何とかこらえ、ノートパソコンの方に()いずって行く。

何を思ったのか、また『エヴァ・レボリューション』のファンサイトにアクセスしていた。

 

-----------------------------------------------------------

萌えウサ:やっほー、みんなヴぁんっきねkk

 

トリトン:萌えウサさん、壊れちゃった?

 

萌えウサ:ただいま、酔っております

 

カイテン姫:おひさ。指のろれつが回ってませんことよ

 

ミンメイ:また来たの萌えウサさん。

 

萌えウサ:萌えウサ、これより、シン・ショタの寝室に突撃するであります!(`・ω・´)ゞ

 

トリトン:はいはい、処女の度胸見せてごらんなさいな。

 

-----------------------------------------------------------

酔ったマヤは、わざわざチャット仲間に犯罪予告をすると、シンジの部屋に突撃を開始した。

 

そっと扉を開く。隙間からベッドのシンジの顔をうかがう。

シンジは変わらず眠っているようだった。

 

マヤは抜き足差し足……ではなく匍匐前進(ほふくぜんしん)しながら、シンジのベットに近づいた。

 

「へへへ、シンジ君、こんばんわ~」

 

かなり酔っていた。

マヤは、床から起き上がると、シンジの太ももの内側に手を伸ばした。そして、軽くつねり上げる。

シンジの眉間に(かす)かにしわが寄った。だが、目を覚まさない。

太ももの内側をつねる……これは麻酔の効果を確認する時に用いられる方法だ。つねっても目を覚まさなければ、何をしても起きる心配はない。

 

「シンジ君、ぐっすりね~。ああ、いいお顔~」

 

マヤは、カメラにシンジの寝顔をとらえると、シャッターを切った。

 

「はい、今度は横顔」

 

マヤは、よいしょとシンジのベットに登った。

 

「はい、次はロングショットで全体をば」

 

今度は屈み、またクローズアップ……というか、限りなくゼロ距離で、パシャパシャと撮影する。

 

「へへ、シンジ君。今度はお姉さんとツーショット撮ろうか」

 

全くシンジが起きない為、だんだん、撮影が大胆になってきた。

シンジに添い寝し、片手でカメラを掲げ、二人の顔を並べて撮影する。

顔をピッタリとくっ付けると、マヤの頬に何かが当たった。

 

「あれ?シンジ君。お顔の横に餃子ついてるよ。お姉さんが食べたげるね……はむはむ、あ、ごめんなさい。シンちゃんの耳でした~」

 

どんどん調子に乗り出し、撮影以外の事までし始める。

 

「う……う~ん」

 

シンジが微かに声を出した。

 

「やだ、シンジ君。苦しいの、大変、大変」

 

酒臭い息を吐きながら、マヤは上体を起こした。

 

「あら、シンジ君。お洋服着たままじゃない。それじゃ寝苦しいのも当然よ」

 

マヤはベットから降りると、フラフラとした足取りでシンジのタンスを物色した。直ぐにパジャマを見つけて持ってくる。

 

「シンジ君、良かったわね~。着替えまでしてくれる優しいお姉さんがいて~」

 

マヤは、またベットに登ると、シンジのお腹辺りに腰を下ろして、馬乗りになった。そして、苦し気に声をもらす少年の胸元に手を伸ばす。

酔っているせいだろう。胸元のボタンを外す手がやけに震えていた。

 

「は、はい……お、お着替えしましょうね~」

 

上衣を脱がし、シャツにも手を掛ける。シンジのシャツをまくり上げた時、

 

「あれ?シンジ君、お胸にジュースこぼしちゃってたの?」

 

なぜか、シンジの胸元が濡れていた。マヤは脱がしたシャツをタオル代わりにして、親切に拭ってやったが、不思議なことに、拭いても拭いても、シンジの胸元には、生暖かい(しずく)が落ち続けていた。

 

「あ~、ごめんなさい、シンジ君。こっから(こぼ)れてました~」

 

マヤは、シンジの胸ではなく自分の口元をぬぐった。雫の源泉はマヤの(よだれ)だった。

酔ったおぼつかない手つきで、何とかシンジにパジャマを着せてやる。

 

「じゃ、じゃあ……今度は下も着替えましょうね~」

 

遂にマヤは、シンジのズボンにまで手を掛けた。

酔っているせいか、さきほどよりも手が激しく震えている。中々、手元が定まらず、酒臭いの息の乱れた呼吸音がわずらわしかった。

 

「こ、このベルトを……」

「あの……なにしてるんですか、マヤさん?」

「ん~、シンジ君のお着替えを……」

 

『一瞬で酔いが()める』という表現は本などで見聞きした事はあったが、まさに、自分がそれを経験するとは思わなかった。

 

マヤの顔色は、一瞬で赤から青に変わっていた。

 

「マヤさん……?」

 

おそるおそるシンジの方を見る。二人の目が合った。シンジは目を覚めしていた。

 

「こ、これはその……」

 

人間とは、絶対に在り得ないものを目撃した際、どういう反応を示すのか?

驚愕か?狼狽か?

否、思考停止である。

 

著者は子供の頃、中庭で奇妙な蝶々を見た事がある。

不自然なまでに大きく上下にウェーブしながら、著者の方に向かってくる蝶々は、黒くて巨大で、大型と中型のカラスアゲハが(つがい)になって飛んでいるように見えた。

しかし、その黒蝶が著者の目の前を曲がった瞬間、著者の思考は停止し、声を上げる事も動く事もできなくなってしまった。

 

黒蝶は(つがい)ではなく、一匹の巨大蝶々だった。後ろにくっ付いて飛んでいるように見えた中型の黒蝶は、巨大蝶々の下半身であり、その身には、黒い鳳凰(ほうおう)の尾っぽのようなものが広がっていたのである。

鳳凰のような巨大黒蝶は、風呂場の軒をS字を描いて飛び越えると、そのまま彼方(かなた)に消えてしまった。

 

絶対にありえない物を見た著者は、脳内にしっかりと鳳凰のごときビジョンが焼き付いていたにも関わらず、次の瞬間には「鳥と見間違えたのでは」と考えた。しかし、余りにも形状が違い過ぎる。脳内で様々な生物の候補を上げた挙句、最終的に、著者は「幻を見た」という結論を無理やり導き出し、自身を納得させた。

 

人間は、『在り得ないもの』を目撃すると、それを受け入れる事が出来ず、そのような思考を行ってしまうのである。

 

シンジに取って、マヤは純情な優しいお姉さんだ。似た者同士だと言って自分を受け入れ、保護者になってくれた。日頃の言動から、潔癖で、性欲なんてものを持ち合わせているとは思えなかった。

そのお姉さんが今、寝ている自分の上にまたがって、ズボンを脱がそうとしている。それは絶対に『在り得ない光景』だ。

だからシンジの脳は、その『在り得ない光景』を受け入れることなく、『納得できるもの』へと変換した。

 

「なんだ夢か……」

 

シンジは、目の前の光景を夢だと解釈すると、安堵した様子で再び目を閉じた。

マヤはしばらく息を殺して固まっていたが、シンジが夢だと解釈してくれたのを見ると、何度もうなずいた。

 

「そ、そう……これは夢よ、夢なのよ」

 

そろりそろりとベットから離脱し、再び匍匐前進しながら寝室から脱出して行く。

扉をくぐった所で、

「こ、これは夢なのよ~」

マヤは念の為につぶやくと、額の汗をぬぐった。

 

(ちょ、調子に乗り過ぎた……)

 

酔っていたとはいえ……途中で興奮しすぎて、本当に酔っていたのかどか分からなくなっていたが……マヤは深く反省した。

部屋から完全に()い出た所で、念を押すようにつぶやく。

 

「今の出来事は、全部、シンジ君の夢でした~」

 

(そう、夢なのよ夢。現実の事じゃなかったのよ)

 

しつこく自分にいい聞かす。

 

「全部、夢……」

 

そこまで念入りにつぶやいた所で、マヤは、ハタと何か思いついた。

 

(夢なら……夢と思ってくれてるなら……)

 

閉じかけたシンジの部屋の扉を寸前で止める。

 

(もうちょっとくらい、いいわよね)

 

何を考えているのか、マヤは再びシンジの部屋に舞い戻ってしまった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「頭痛~い……」

 

翌朝、二日酔いに悩まされたマヤは、キッチンで水を(あお)っていた。

 

(なんか昨日、とんでもない事をし出かした気がするけど……なんだったかしら?)

 

昨晩の事が良く思い出せない。マヤはフラフラとリビングに戻ると、足元にあったカメラにけつまずいた。

 

(そうそう。司令にデータ渡さなきゃ)

 

中身を確認せずにフラッシュメモリを取り出し、ノートパソコンからレポートを入れたUSBメモリも取り外す。

 

「マヤさん、おはようございま~す」

 

シンジの方は二日酔いの様子はなかった。初めての酒とはいえ、二缶程度では、どうという事はなかったらしい。

 

「シンジ君、おはよ~」

 

洗面台の方に向かうシンジを眺める。何だか大事な事を忘れている気がするが思い出せない。

 

「あれ?なんだこれ?」

「どうったの?」

 

シンジはリビングに戻ると、自分の首元をマヤに見せた。

 

「首の周りに、変なアザが幾つもできてるんです」

 

マヤの目が、これ以上ないほど丸くなっていた。一気に、昨夜の記憶が蘇っていた。

 

「そ、それは……床ずれって奴ね」

 

あたふたと説明する。

 

「これが、そうなんですか。でも、急になんでだろう?」

「ほ、ほら……昨日間違えて、ちょっとお酒飲んじゃったでしょ。そのせいで寝相が悪くなったとかじゃない?」

「あ、そうでしたっけ」

 

飲酒してしまった事を思い出し、シンジはバツの悪そうな顔をすると、再び洗面台に戻った。そして、また何かを発見する。

 

「マ、マヤさん……反対側の首元になんだか変な型が」

 

直ぐにマヤも洗面台に行き、シンジの首元を確認した。いや、するまでもなく分かっていたが。

 

「そ、それも床ずれの一種ね……。いやね、シンジ君~寝相悪すぎよ」

 

マヤは、「見っともないから隠すように」と、シンジにシップを渡すと、心の内で頭を抱えた。

 

(ちょ、調子に乗り過ぎた……ほんと、本当に私ってば最低……)

 

洗面台の鏡を見ながら、首筋にシップを貼るシンジ。

14歳の彼には、そのアザがキスマークである事も、首筋に付いた変な型がマヤの歯形である事も、知る由もなかったのだった……。

 

 




■ 後書き ■

一話目に人物紹介欄を挿入した為、各話数が一段ずつズレました。
他に、何かおかしくなっている所があれば、ご報告お願いいたします。


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