あまりにも唐突で、非常に申し訳が立たないところなのではあるが、どうやら絶体絶命のピンチというやつに陥ってしまったらしい。
季節は桜舞う春が過ぎ去り、太陽が派手に暴れ出す真夏の頃合いのことである。
もう少し詳しく記載するのであれば、七月の十四日である──いいや、先ほど昏睡から目覚めたばかりであることを加味すれば、もしかしたら一日くらいは経過してしまっているのかもしれない。
そうなれば、七月十五日である可能性もなくはないのであるが、流石に一日もここで眠りこけていたというのは信じがたい。
やはり数時間程度の気絶であったと考えるべきだろう。残念ながら、ここは陽光を満遍なく浴びることのできる野原ではなく、洞窟内であるのでその時間すら確認することはできないのだが。
だがまあ、腹が多少空いている程度の感覚で済んでいることから、ほとんど間違いは無いだろう、とそう考えをまとめながら身体を起こした。
首を回してバキバキと音を鳴らし、ついでに全身を解してから「はぁ」とため息をつく。
参ったものだなぁ、と他人事のように、俺はそう思った。
先程も言った通りここは洞窟内であるのだが、もう少し詳細に語ると、広大な洞窟──もしくは遺跡? の一画に閉じ込められた形なのである。
なので光の欠片すらもない、つまり真っ暗だ。
しかもその暗闇に慣れてきた目で見渡しても周りには瓦礫と岩壁しか見当たらない。
そして俺の手元に脱出するための道具になるようなものは無かった。
弓矢と根元から折れた剣くらいである。
まぁなんだ、いわゆる「詰み」というやつだった。
さて、これからどうしたものか。
気を失った原因になったのであろう頭から背中にかけての痛みを感じながら、やはり現実逃避するようにそう考えた。
いやね、焦っても仕方が無いんだわ、こういうのって。
目の前にある出入り口は、瓦礫で塞がれてしまっている道は流石に手持ちの道具でどうにかできるようなものではない。
ここまで来るのに使った道も同様に崩壊しているから使えない。
ていうか剣が折れてなくても無理である、剣はスコップじゃないんだわ。
他に持っているものと言えばお手製のマッチと、最近奮発して購入したポーションが二本だけである。
試しに瓦礫も押してはみたのだが当然というかなんというか、まあビクともしなかった。
「巷で話題の冒険者ってやつなら、あるいは魔法とかでこれを吹っ飛ばしたりできんのかねぇ」
暗い密室内でそれにこたえるような人間はいない。
まあ、魔法というやつも人によって効果が様々らしいから一概には言えないのだろうが、それでも便利ではあるのだろう。
魔法、人の身では決して成し得ることのできない奇跡の具現。
この場で求めるにしては、ちょっとないものねだりすぎるのだろうが。
「冒険者に神様、ね……」
神様ってのは、比喩でもなんでもなく、文字通りの意味で神様だ。
今時検索でもすれば──ここにパソコンやスマホなんて利器的なものはないのだけれど──人知を超えた存在、とか宗教的信仰の対象、とか。
まあその辺の類の言葉が出てくるような存在。
神話とかで良く語られるアレ。
それがもう随分と昔、空から降ってきたらしい。
「我々は天界からやってきた」とか何とか言いだすもんだから一時期は大騒ぎになったもんだが、何だかんだ今ではすっかりこの世界にいて当たり前、みたいな存在だ。
元よりこの──神様からすれば、下界とでも言うべき世界は神への信仰が厚い人が多かった、というのもその一因なのだろう。
結構というか、かなりすんなり受け入れられたと聞いている。
で、その神様達のせいか、お陰というべきか……まあお陰というべきなのだろうが、冒険者というやつが生まれたのである。
冒険者──昔にもそう呼ばれる人たちはいたから、正確には、新世代の冒険者と言った方が良いだろうか。
新世代と旧世代の違いはほとんど無い、というか違う点は一つだけである──即ち、神の恩恵を受けているか否か。
当然ながら、受けていないのが旧世代を指し、受けているのが新世代のことを指す。
まあ今では冒険者と言えば恩恵を受けている者のことを指すのだが。
だが、たったそれだけの違いとは言え、その差は歴然だった。
先ほどもぼやいた魔法ように、神の恩恵──呼び名は、ファルナと言ったか──は俺たち人間に超常の力を授ける。
超常の力──あるいは神々の力、その一端。
分かりやすく例を出せば、それこそ先ほどのような魔法であったり、身体能力の著しい向上とかがまあ結構あっさりと手に入るのである。
その代わり、力を与えてくれた神様の作る「ファミリア」というやつに加入しなければならないらしいのだが。
難しく考える必要もない、そういう団体のようなものだと考えれば早いだろう。
というのも、俺とて別にどこかのファミリアに所属しているという訳でも無ければ、新世代の冒険者という訳でもないのである。
言うなればただの狩人に過ぎないのだ、俺は。モンスターを狩りはするが、基本的に冒険はしない。
せめて炭鉱夫とかだったらこの状況でももうちょい強気にいけるんだけどなぁ。
まったく、やれやれ。
参っちまったぜ。
「んぅ……」
と。
その時である。
いい加減お手上げだなぁと、俺が思うのにピッタリタイミングを合わせたように、この暗い密室の中央から声が聞こえた。
それに少し遅れて、暗闇に慣れた目が、上半身を起こす人影を捉える。
片手で頭を抑え、未だはっきりしていないのだろう意識のまま、フラフラと視線を彷徨わせているその人は女性──いいや、いいや。
それは、
比喩でもなんでもなく、先ほども言った通り人とは隔絶した位置に存在する、女性の神。
いっそ現実とは思えないほど美しい青の髪を揺らしながら、覗けば吸い込まれそうなくらい深い緑の目が俺を捉えた。
「よぅ、おはようさん。よく眠れたか?
「
「さぁ? それは分からん──っていうか、どこまで覚えてる?」
「えぇっと……」
美しく青に染められた長髪を少しだけ揺らして、彼女は目を細めた。
その何でも見透かすような透明の瞳は、しかし正答を見つけられなかったように俺を見なおした。
「すまない、少々記憶が混乱しているようだ。確か、案内役のお前と、団員たちと共に秘境探索をしていた途中だったとは思うのだが……」
「ん、そうそう、そこまで覚えてんなら充分だ。早い話、俺とお前は縦穴に落ちた」
もうちょっと丁寧に説明すれば、秘境探索の最中に俺達はモンスターの群れと接触し、戦闘を開始した。
アレだ、竜もどきのトカゲ──サーマルリザード。
それとの戦闘中にアンタが自然に出来ていた縦穴に落ちて、それを引っ張ろうとした俺ごと落ちていったって形になる。
いやぁすまなかった、まさかあそこまで触られるのを過剰に拒絶されるとは思わなくってよ、とそこまで言えばアルテミスは若干ながら苦い顔をした。
「あ、あれは思わず……お前が、抱き寄せるかのように引っ張るからっ。それに私は貞潔の女神……異性と触れ合うなど、言語道断だっ」
「そこに命まで懸けるなって言ってるんだけど、ま、仕方ないか」
毅然とした態度でそう言い退けたアルテミスに、まあ今更か、と独り言ちた。
この女神──アルテミスは、かなり異性を嫌う……というより、近寄らせない神なのである。
曰く、貞潔の女神であるから、とのことで自分のファミリアの団員には「恋愛禁止」等というルールを徹底させているほどだ。
異性と指先がちょーっと触れ合う程のことにさえ眉を顰める、いわゆる恋愛アンチなのである。
今もこうやって密室に二人、という状況にすら不満を覚えていることだろう。結構鬼気迫った状況であるということとはまた別に。
で、そんな彼女が何故、秘境探索の案内に男──つまり俺を雇ったかと言えば、これまた理由としては単純明快で、俺しか適任がいなかったからだ。
俺は狩人であるが、もう少し詳しく言えば竜狩りの村で育てられた狩人である。
竜狩り、だなんて言えばカッコ良さげではあるが、その昔竜を狩ったという人間が興した村ってだけで、実際のところは秘境に住んでる変わり者どもでしかないのだが。
だがまあ、住んでるだけあってこの辺には詳しい、これがまずプラス1ポイント。
で、現在村で一番優秀な狩人が俺である、これもまたプラス1ポイント。
そして最後に、現在外からの依頼を受けられる女性の狩人がいなかった、これはマイナス0ポイント。
アルテミスファミリアは男子御禁制、とは言うものの団員たちはアルテミスほど異性を忌避しているわけでは無いし、あちらもあちらで悠長に女性の狩人を待っている暇もない、これでプラス1ポイント。
合計3ポイント、これによって俺が選ばれたという訳だ。
あっちとしても止む無し、こっちとしても止む無しって関係という訳だな──という展開を実のところ、もう数回は繰り返していた。
ちゃんと数えれば五回くらい。いやね、あっちのタイミングが悪いんだよ。
絶妙に俺くらいしか行けないときに依頼してくる──と言うと何だか俺が暇人のようなのだが、そういう訳でも無いので本当にタイミングが"悪い"のだ。
なのでまあ、多少はアルテミスのこの、扱いの難しい性格にも理解はあった。
「で、現状なんだが此処は穴の底になる。随分ぐねってる道を長いこと落ちてきたから大分深い場所だと思う。ついでに言えば脱出する手段は今のところ無いし、俺もこんなとこに来るのは初めてだ」
「地下に偶然出来ていた空洞に落ちてきてしまったということか?」
「答えとしては微妙にノーになるな。そっちの方に道があるんだが瓦礫に塞がれているから、洞窟の一画かなって考えてた。因みに結構穴だらけなんだが、押しても引いてもビクともしない」
「では、落ちてきた道を上るというのは……?」
「それも無理、試したけど途中で崩落して通れなくなっていた、天然の罠に引っかかった形だな」
「む、そうか……」
短い沈黙。
アルテミスは思考に耽ったが、それが意味を為すことは無いだろう。
いくら彼女が聡明な女神とは言え、物理的に道を塞がれているのだ。
俺より筋力の無いアルテミスが道を開けるとは思えないし、神様は魔法を使えないのである。
──いや、正確には「使わない」らしいのだが。
神々の本来持つ力を使わないことが、下界に降りる条件であり、下界で暮らす条件でもあるのだとか。
破ったら強制的にお空に戻されるらしい。
勿論、破りさえすればこの状況を打破することは可能だろうが、その場合彼女のファミリア──総勢二十名が一瞬で路頭に迷う羽目になってしまう。
アルテミスはそれを即断できるような非情な神ではないし、そもそも俺の為に力を使うようなことは無いだろう。
まぁ、ここで野垂れ死ぬよりは、力を使う可能性の方が高いだろうが。
「参ったな、解決策が見当たらない」
「だろうな、因みに俺の手持ちの武器は、滑落時に勢いを殺すために壁に突き立て続けた結果折れた剣に、万全の弓矢だけ。残念ながら瓦礫の掘削には使えないな」
「ああ、見て分かる。私も手持ちの短剣しかない……救助は、期待するだけ無駄だろうか」
「だと思う、俺達が落ちてきた道を降りてくるのは不可能に近いだろうし、かといって別ルートからここを見つけるのも容易いことじゃあない。十中八九こっちが先に飢え死ぬだろうな」
「くぅ、そう、か…………その、すまなかった」
意外にもアルテミスが、ペコリと俺に頭を下げた。
仲が良いか悪いか、と言われればぶっちゃけどっちか分からん、と答えざるを得ない関係だしな。
だから、自分で考えているよりはずっと驚いてしまった、というのが素直な感想になる。
「謝って済むことではないことは、承知ではあるが、それでもすまなかった。此度の責は、私にある……」
「ま、まあちゃんと助けきれなかった俺にも非はあるし、そう気にしなくても良いけれど……」
「いいや、こういうのは責任を明確にさせておかねばならないものだ! ……それに、落ちた時に庇ってくれたのだろう? それくらいは、分かる。ありがとう」
「お、おう……?」
何だかイマイチ調子が狂って上手く言葉が出てこない。
いつもなら軽い調子で言葉を返すところなのだが、何だろう、急に恥ずかしさのようなものがやってきて、パタパタと風を扇いだ。
ふー、やれやれ。
アルテミスのくせにドキドキさせるんじゃねぇよ」
「それはどういう意味だ!?」
「アレ、今口に出してた?」
「バッチリ言っていた!」
いやぁすまんすまん、と冷や汗をかきながら目を逸らす。
たまにうっかり心の声を口に出してしまうという、嫌な癖が俺にはあるのであった。
最近は意識してたんだけどなぁ、この状況で少なからず俺も動転してるということなのだろう。
取り繕ってはいるけど、ぶっちゃけ一人だったら滅茶苦茶喚いてるからね、この状況。
……でも、まあ二人で良かった。というか、アルテミスがいて良かった、とは思う。
何せ、
「つーわけでだ、アルテミス」
「うん?」
「俺をお前のファミリアに入れてくれ」
「……はぁ!? な、何を言っているんだお前は!?」
アルテミスの驚愕に彩られた声が響き渡る。
叫びにも近い声なのに、不思議にも不快感がないのが神様の面白いところだよな。
基本的に、人を不快にさせる要素というものが無い。
「だから、言葉通りだよ──俺にお前のその、恩恵ってのをくれって言ってるんだ」
「それは言われなくても分かっている……分かっては、いるが……」
くぅぅっと奥歯を噛みしめてアルテミスが頭を抱えた。
まあ、アルテミスのファミリアは散々言ってきたように乙女の花園、正しく女性専用ファミリアだからな。
それも他でもない、アルテミス本人の強い意志、要望、方針によって成り立っているものだ。
だが、それと同時に
しかも脱出できなかったらほぼ間違いなく待っているのは死。
これはもう、完全にアルテミスのプライドの問題だった。
長い、長い沈黙が訪れる。
……。
…………。
………………。
……………………。
…………………………。
………………………………。
……………………………………。
…………………………………………いやちょっと待って長すぎない?
「お前いつまで悩んでんだよぉ!?」
「い、いやだってこれは私にとって凄く凄く、ものすーーっごく重要なことなんだぞ!? お前みたいな野蛮男に分かるか! この繊細な悩みが!」
「繊細もクソもなくない!? 見て! この状況! 生死の境目に俺達は立っている訳!」
「うっ、うぅぅぅぅぅぅぅ……五分! 五分、待て。覚悟を、決める」
「これ、そんな死を覚悟した時にする目するところなんだ……」
確かに命の危機ではあるんだけどさ。
タイミング的にここでするのはちょっと違うじゃん、ねぇ……。
もうちょっとこう……それこそ竜と対峙した時とかにしろよな、そういう瞳は。
悶々とそんなことを考えることきっちり三百秒。
アルテミスは抱えていた頭を上げ、その透き通るような眼で俺を見た。
「よ、よし、背中を出して、そこにうつ伏せになれ」
「声震えてんぞ」
「うるさい!」
「ぐぇっ」
バッシーン。
アルテミスの流れるような蹴りが俺の腰へと炸裂し、よろめいた勢いのままドーンと倒れ込む。
「面倒だし背中は捲ってくれ」
「自分でやれっ」
「我儘だなぁ……」
どっちがだ! という言葉を聞き流しながらグッと捲る。
若干痛んだが、まあ問題は無いだろう。
血が出てる感じはしない……というかもう止まっているだろうし。
昔から傷の回復は早い方なのだ、どうしようもなかったらポーション使うしな。
「そら、これで良いか」
「うっ、あ、あぁ、動くなよ? 身動き一つでもした瞬間殴るからな、グーで」
「過剰防衛が過ぎる……まぁなるべく頑張るから、早くしてくれ」
ぺたーっと腕も伸ばして完全無防備状態になれば、アルテミスは本当に恐る恐るといったように背中に乗った。
そうすれば伝わってくるのは人ひとり──神一人が乗ったにしては、あまりにも控えめな重み。
見た目から想像するより、ずっと軽いんだな、と思いながら目を瞑る。
「な、なぁ……」
「まだ何か問題あったか?」
「その……流石に恩恵を刻むには見えなさ過ぎてな、灯りになるようなものを持ってたりしないか?」
「えー、あっ、マッチあるな。ちょっと待て」
確かポケットに入れていたはずだ。
えぇっと、この辺か?
プニッ。
「ひゃわっ!? お、おま……オリオン!」
「いや今のは事故! 事故だから!」
ちょっと指先触れちゃっただけだから……!
故意ではない、故意ではない! 弁解しながらマッチを取り出して渡す。
「付け方は分かるな?」
「ああ、大丈夫だ……よっと」
シュッと聞き慣れた摩擦音がして「よしっ」という控えめなアルテミスの声が耳朶を打つ。
どうやら上手くいったらしい、後は恩恵を刻んでもらうだけだ。
「少し、集中する。寝るなりなんなりしても良いから、本当にできるだけ動かないでくれ」
「はいよっと」
ポツン、と雫が背中に落ち、アルテミスの指が静かに背中を撫で始める──いや、これは刻んでいるのだろう。
神の血を以て、神々の扱う文字を背中に刻まれることで人間は超常の力を手に入れる。
お手軽だよなぁ……、一生消えないタトゥーみたいなもんなのに、こんなお手軽で良いのん?
いやでも、この世界にタトゥーありのお客様は温泉使用不可、みたいなのは無いしな……。
そもそもこれをタトゥーとか言ったら、アルテミスにそれこそグーで殴られそうだ。
てか、こんな優しくさわさわしてるだけで刻めるものなのか?
や、できてるんだろうけど……こう、何だか新鮮な気分だ。
前世……転生前にタトゥー刻んだこと無いんだよな、いや、だって怖いじゃん……。
流石に高校生の身で「タトゥー彫ってるぜ!」とかいうやつはちょっと近寄りたくないタイプの子だろう。
でもまぁ、どうせあっさり事故で死ぬんだったらもうちょい好き勝手してても良かったかもな、等とそんな昔のこと──転生前を、昔と言って良いのかは分からないけれど──を考えていた時だった。
アルテミスが「はぁ……?」と言葉を漏らした。
「魔法とスキルが、もう発現している……?」
「へぇ、マジで? どんなんどんなん」
身体を揺らして言えば「えぇい動くな!」と頭を小突かれる。
もう少しだから、我慢しろ! と付け足されて仕方がなく黙っていれば、ようやくアルテミスは俺から降りた。
ピッ、とメモ用紙を俺に押し付ける。
「……ナニコレ?」
「お前のステイタスだ。……といっても、書いたのは魔法とスキルだけだが。ちゃんとしたのは外に出たらまた、な」
なるほどね。
こいつ、いっつもメモとペン持ち歩いてるのかな……。
そう思いながらマッチをもう一本付けて、メモを睨んだ。
《 魔法 》
【月の一矢】
・代償魔法。捧げた代償に応じて相応の奇跡を起こす。
・詠唱式【我が主神、我が月女神への愛を以て、我が主神、我が月女神より奇跡を賜う】
《 スキル 》
【星の狩人】
・モンスターとの戦闘における、全能力の高補正。
「代償……? 奇跡……? つまり?」
「…………」
「おぉい! 黙るな黙るな!」
「わ、私にも分からないんだっ。魔法に関してはそれこそ、使ってみるしかないだろう」
「ふぅん……ま、じゃあ試してみっか──ねぇ、これ本当に詠唱しなきゃダメ?」
「ダメだ、そうしなきゃ発動しない……というか、それを真横で聞かされる私の身にもなれ!」
「これを言う俺の身にもなって???」
こほん、と咳ばらいを一つ。
恥ずかしくはあるが、やらざるを得ないところだろう、ここは。
仕方がない、と腹を決めて剣を足元へと置く。
代償は
で、まあ一矢ってあるくらいだから多分弓矢使わないとなんだろうなぁ、と矢を番えた。
狙いは当然、瓦礫の壁。
「【我が主神、我が月女神への愛を以て、我が主神、我が月女神より奇跡を賜う】」
──月の一矢。
いつもの調子で放った矢が、突如光を纏う。
白のような、金のような不思議な光が渦巻くように矢を纏い──そして。
瓦礫に突き立った瞬間
ドーン! ガラガラガラー! と瓦礫が崩れ落ちる。え、いやマジで?
足元を見れば俺の剣はボロボロと灰になるように朽ちていた。
「めっ、めっちゃつよ……いや、この剣もそれなりに高価だったし、そのお陰か?」
いや、だとしても威力がヤバすぎんだろ。
奇跡ってそういうこと?
「ふむ、恐らくは願っている方向性の奇跡が起こる、といったところか」
「ふぅん……なるほどね。何かめっちゃ疲れたけど……ま、先に行こうか」
自生する
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月陰探索
進んで、進んで、進んで。
戦って、戦って、戦って。
上って、上って、上る。
果たしてどれくらい進んだだろうか、果たして何体モンスターを打倒しただろうか、果たして、どれだけ上へと上がれたのだろうか。
あの日、この洞窟へと落ちてきて。
発現した魔法により瓦礫を吹っ飛ばしてから、十日──恐らくではあるが──が経過していた。
未だ地上への光は見えず、洞窟は長々とどこまでも続いてるようだった。
「な、なぁ、オリオン」
「うん? どうした、アルテミス」
「私たちは、どれくらい上って来れたと思う?」
「そうだなぁ……道なりに進むしかない以上、かなり遠回りしてるのが現状だ。それでも相当上っては来てるから、もう少しだとは思ってる」
「そう、か……」
洞窟の端、自然に出来上がっていた小さな空洞で休憩を取りながら、アルテミスは目を伏せた。
先程まで発してた声にいつもの気丈さはあまり見られず、ともすれば弱々しく震えていた。
──それも、仕方のないことだとは思うが。
ここに落ちてきてから空腹感や眠気等から推測するに十日が過ぎた。この間、口にしたのは迷い込んだ獣を狩って得た少量の肉と、湧いていた小さな泉の水のみ。
明かりと呼べるのはこの光苔くらいで、それだって言うほど明るくはない。
数歩先がほとんど見えないほどの暗闇が、ずっと広がり続けている。
その上、この洞窟にはモンスターが住み着いていた。
流石に想定していなかったということはない、むしろ地上よりも地下の方がモンスターは多いし、しかも強い。
それはこの世界においては常識の範疇だ。だが常識だからと言って、それが苦痛にならなくなるのかと言えば全くそんなことはない。
というかむしろ、常識だからこそ性質が悪い。
ここが何処なのかは分からず、出口がどこかも分からず、身体は洗えないのにずっと空腹で、ずっと暗闇で、十全に休むことはできず、しかもいつモンスターに襲われるか分からない。
人間は──恐らくは、神様もだろうが──これだけ条件が揃ってしまえば、あっさりと壊れてしまう。
俺の場合は秘境に態々居を構えているような変な村の一員だ、こういった事態にはもう慣れっこであるが、アルテミスはそうではない。
そう考えればむしろアルテミスはかなり耐えている方だ。
アルテミスファミリア自体が、狩猟と探索を主としたファミリアであり、主神であるアルテミスがその主導をしているのだから、そのお陰でもあるのだろう。
だとしても、良く我慢できているものだとは思うが。
「ま、そう焦るな。進んではいるよ、確実に」
「それは、分かってはいるんだが……いや、すまない、私としたことが、少々弱気になっているようだ」
「謝らなくても良い……弱気になるのが、駄目ってことは無いしな。つーかこんな状況に陥ったら誰でも不安になるし、臆病にもなるもんだ。むしろ口に出してくれてるだけ、助かる」
「そういう、ものなのか?」
「まぁな。溜め込んで溜め込んで、溜め込み続けた結果溢れて壊れるってのが一番最悪だ。不安や怖さに種類はあるけど、この状況によるものなら分かち合える。分かち合って、支え合った方が効率的だと思わないか?」
「……へぇ」
「何だよ、その驚いたような顔」
「いやなに、お前も意外と真面目なことが言えるんだな、と思って」
「俺はいっつも真面目なんだが???」
そう返せば、「それだけは無いな」とアルテミスはクスクス控えめに笑う。
その姿に、今度はこちらが「へぇ」という反応をさせられてしまった。
基本無感情のアルテミスがねぇ、と見ればアルテミスは睨むように目を細めた。
「何だ、私が笑ってると、何かおかしいか?」
「いや、そうじゃなくってさ、珍しいと思って」
「珍しい……?」
「自覚無かったのか? うちの村はお前のこと、鉄面皮のアルテミス様って呼んでるんだけど」
「なぁ……!? 失礼なっ、私とて面白い時や楽しい時があれば笑う!」
「や、それは分かってるんだけどな……こう、お前、あんまり表に感情出さないじゃん」
「む、そうか?」
「そうなんだよ、お前んとこの団員もそう思ってるのが多いんじゃないか? ほら、例えばランテとか、いっつもお前を笑かそうとして滑ってるし」
「あの子のあの道化にはそういった意図が……!?」
えぇ、気付いてなかったんだ……。
お労しやランテ……。
恥を忍んで俺にまで上手いコミュニケーション方法聞いてきたのにな。流石にそれについては間違いなく人選ミスだとは思ったが。
俺に聞くな、俺に。
しかも異性との接触、禁じられてるだろーが。
まぁ、アルテミスが見てなきゃオッケーみたいなところがあるのはそうなんだけれども。
「笑ったら可愛い──いや笑ってなくても見目は良いんだから、折角だしもっとオープンにいこうぜ」
「それは……私を口説いているつもりか?」
「それ、そうですって言ったら蹴りが飛んでくるやつじゃん……」
良く分かってるじゃないか、という返答が笑みと共に返ってくる。
それを見て、大分落ち着いてきたっぽいな、と思った。
休憩自体がそこまで多くとれるものではないし、こういうところで出来るだけリラックスしてもらわんとな。
ここから出れば、また過酷な洞窟探索スタートなのだ。
「さて、と。それじゃあそろそろ行くか」
「……そうだな、モンスターたちの気配も遠くなってきてる」
「ん、流石狩猟の女神様、分かるもんなんだな」
「むしろ只人のお前がわかっていたという方が私にとっては驚きなのだがな」
そう言って、アルテミスは少しだけフラつきながら立ち上がる。
コンディションは最悪の二、三歩手前と言ったところだろう。
俺はもうちょっとマシではあるが、まあ似たようなもんだ。
より気合を入れなきゃだな、とアルテミスから短剣を受け取った。
「やはり、私も前に出た方が良くないか?」
「何言ってんだ、俺よりアルテミスの方が弓矢が得意だから、俺が前衛、お前が後衛をやってるんだろ」
「確かに、そうではあるが……」
アルテミスが、少しだけ視線を泳がせる。
彼女は律儀な
実際のところ、後衛も大して変わらんとは思うんだけどな。
俺が魔法を使えるようになったとはいえ……なに? 精神力が無いとかでもう使えないんだよな。
後はまぁ、単純に代償にできるものがない、というのもある。
短剣を腰に差しながら、口角を上げる。
「大丈夫だって、俺は……まあ弱い方じゃない。お前の眷属になってから、多少は強くなった──だから、安心しろよ。俺が、お前を守るから」
「──ふふ、その言葉、信じたからな」
「ああ、任せとけ」
──等と、そんなやり取りをしてから空洞を出て、やはり今まで同じように上へと進み始めた。
暗闇の中を目を凝らし、神経を研ぎ澄ませながら歩くのと同時に、アルテミスを盗み見る。
一応、ある程度立て直したとは言え彼女はもう見た目的にもボロボロだ──と言っても、その美しさが劣化するということは無かったが。
いや、確かに髪も傷んできてるし、纏っている服だってぼろくなってきてるんだけどな。
それでも不思議と「美しい」と思わせるものが彼女にはあった。
これが神様だからなのか、それともアルテミスだからなのかは判断つかないが、多分後者ではあるのだろう。
……死なせるわけにはいかないよな。
今更思い返すようなことでもないこと、本当に今更思う。
決して、ここに落ちてきた直後はそう思っていなかった、という訳ではないが、まぁ、そうだな。
心の持ちよう、というやつだ。
俺とアルテミスファミリアは言うなればそこそこ信頼関係が作れてきたビジネスパートナー同士にすぎない。
だから、最初に俺にあったのは義務と責任感。
そこに今は、不確かな情があるのを、しかし俺は確かに認めていた。
ファミリアにも入っちゃったしな、不本意ながらだけれども。
親が子を守ろうとするように、子もまた親を守ろうとするもんだ。
──親子の関係とは、あまり言いたかないが。
短剣の柄を握りしめれば、不意に自然には発せられないような音が鼓膜を弱く叩く。
「──アルテミス」
「あぁ」
かける言葉はほとんどない、必要としない。
ただそれだけでアルテミスは矢を番え、俺は短剣を逆手に構えた。
守るように前に出ながら、集中を尖らせる。
全方位に回していた警戒を薄くして、音の発生地点にだけ意識を伸ばせば音──恐らく足音は、少しずつ近づいてきていた。
ここに来てから接敵してるモンスターはほとんどトカゲ系だったのに、どうにもリズムや歩行の重さが一致しない。
かといって二足歩行のモンスターといった感じでもない。
嫌な違和感だな、と小さく吐き捨ててタイミングを待った。
大きくなる足音、鼓膜に引っかかるようないびつな金属音。
ジリ、とひと際大きく音が鳴り、同時にアルテミスの矢──火矢が宙を駆けた。
「──蠍!?」
揺らめく炎が映し出したのは黒の蠍だった。
巨大な二つの前足に生えた鋭いハサミに、怪しげに揺れる黒の針が付いた尾。
見たことも無ければ聞いたことも無いモンスター、だが踏み込みに迷いは挟まない。
トン、トトトン、と音を奏でるように地を蹴りつける、火矢が左ハサミに突き立って炎が膨れ上がった。
瞬間、振るわれる右のハサミを紙一重で躱す。
風圧が髪を靡かせる、だが恐怖は無い。
冷静に、振り落とされていく足の関節へと短剣を叩きこんだ。
「っ!」
ガツン、と硬質な手応えが返ってくる。
アルテミスから渡されている短剣は、これでも相当な上物だ。
ここ十日間ちゃんとした手入れが出来ずにいるが、それでも言うほど切れ味が鈍っているということもない。
つまり、こいつが硬すぎるのだ。
「まぁ斬るけど」
伝わってくる硬度さを、力づくで斬りおとす。
緑のような、青のような血が吹き出て、それを横目に身体を少しだけ傾けた。
同時、真後ろから飛来した矢が振り抜かれる尾とぶつかり合った。
キィィン、という高音が響き、尾は僅かに逸れて、腕を少しだけ掠めて抜けた。
チャンス──そう思う間もなく跳ねた。
狙うは尾の付け根、最も細くなっている部分。
先程のような動揺はない、あの硬さか、それ以上を想定して静かに振り切った。
ギィィ! という小さな悲鳴のようなノイズが蠍から走って尾は落ちる、それに遅れて着地をしながら数回、連続でその甲殻へと短剣を叩きつけた。
ちょうど、最後の一回でガキン、という魔石を砕いた時特有の手ごたえを感じ、同時に蠍は崩れ落ちた。
「ふー、ちょっと焦ったが、それでもこんなもんか。ナイスサポート、アルテミス」
「あぁ、そっちこそ。日に日に動きが洗練されていくな、オリオンは」
「そう見えるんだとしたら、アルテミスからの恩恵さまさまってとこだ」
掠った腕に口をつけて血を吸い、ペッと吐き出す。
行儀が悪すぎてアルテミスに軽く睨まれたが、仕方ないじゃん……と無視しておいた。
蠍と言えば毒だし、掠っただけとは言え用心はしておくにこしたことはない。
この状況で毒は本当にダメだ、何せ解毒剤が無いのである。
ただまぁ、今はそれより──。
「思いのほか、地上は近いかもしれないな」
「ん、何故そう思う?」
「あー、まぁ、ほとんど勘ではあるんだけどな。リザード共の基本棲息地は地下だ。だってのにリザード以外のモンスターが出てきたってことはそういうことかもなって思っただけ」
「……ふむ、一理あるな。とはいえ──」
「希望的観測はなしって言うんだろ、分かってるっての。つーか今それ、自分に言い聞かせようとしただろ」
「むっ……」
押し黙ったアルテミスを無視して、蠍の死体を眺めた。
殺した以上、もうすぐ消え去るのだろうが何となく興味深かったのだ。
蠍──動物としてなら見てきたが、モンスターとしてもいるんだなぁ、と我ながら実に浅い感想を抱く。
同時に、複数で襲い掛かられたら厄介そうだ、とも。
斬れないことはないがやらしい硬度をしてる、それにあのハサミも尾も、一撃でも受けたら相当苦しそうだ。
ここまで来るのに一本使ったから、残りのポーションはあと一本。
なるべく外に出るまでは残しておきたいが、使う羽目になるかもな──なんて。
そう思った直後のことだった。
「オリオン!」
アルテミスの甲高い悲鳴が響く。
それに反応するのに数瞬、そして、アルテミスが叫んだ意味を理解するのに刹那かかった。
蠍の尾が、降りかかる。
「──!」
気付かなかった、抜かった、気を抜いた。
戦闘直後だったから、勝利したから、多少、興味深くて観察してしまったから。
そんな反省しても仕方がない要因を並べ立てながら、クソが、ふざけんな、と吐き捨て散らして身体を傾けた。
肩を尾の針が抉り飛ばす、だがその程度なら軽傷。
問題はない、そう断じて尾を断ち切った。
血飛沫が舞い、けれど同時に重い衝撃が胴へと走った。
「がっ──!?」
恐らく、殴り飛ばされた。
くそっ、馬鹿みたいに痛ぇ。
恩恵刻まれてなかったらワンチャン気絶してんぞ!
ゴロゴロと転がりながら思考を回す、両指を地面に食い込ませて勢いを殺して銃弾のように弾き飛んだ。
敵は目でちゃんと捉えられるほどの距離にはいない、だが気配で大体の場所は分かる。
それに、何よりも──。
「はぁっ!」
宙を裂く矢の音が、何よりもの道しるべだ。
カッ! と鋭く矢が突き立った音を頼りに接近、目の前で振りかぶられたハサミを切断して矢を引き抜く。
跳躍、回転しながら矢をアルテミスの方へと放り投げ、刺さっていた場所へと短剣をねじ込んだ。
その甲殻、剥ぎ取ってやる──!
「らぁぁ!」
バリバリと硬質な音と、蠍の悲鳴に似た音が響く。
それを塗りつぶすように短剣を振るった。ザクザクと、先ほどよりもずっと滑らかに短剣を叩きこみ、そうしてようやっと蠍は死んだ。
──だが、そこで意識は緩めない。
呼吸を整えながら、少しずつアルテミスへと近寄った。
「悪い、油断した、怪我はないか?」
「私よりも、お前だ!」
早くポーションを! と言うアルテミスに小さく首を横に振る。
流石に今使うのは勿体なさすぎる、気合入れれば全然動くし、もうちょっと重い怪我をした時に使う方が良いだろう。
無論、そんなことが起こらなければそれに越したことは無いのだが。
「まだ使う程でもない、そら、全然余裕」
「だ、だが……」
アルテミスは暫くそう粘ったが、やがてため息をついた。
「本当にきつくなったら言うんだぞ、誤魔化しは許さないからな」
「分かってるって、てか、そもそも嘘言ったところで分かるだろうが」
「お前はその上で上手く誤魔化してくるから、わざわざ言っているんだ」
「はいはい……」
せめて傷口を縛るくらいはしたかったが、残念ながら包帯どころか清潔な布すら存在しない。
暫くは素で放っておくしかないだろう、そう考えたらやっぱり治した方が良かったかも……いやでも、アルテミスが怪我したらアレだしな……。
傷物にして更に治さず連れ帰ったらレトゥーサ辺りに説教食らいそうだし。
団長ってだけあってアルテミスに心酔してるのは言わずもがな、男女の触れ合いについてもかなり厳しいからな、あの女。
そういうこともあって、なるべくポーションは節約したかったのだ。
なにせ一本目は普通にガブガブ飲んじゃったしな。いやね、傷ついてたのもあったけど、お腹減ってたねん……。
水分も足りてなかったしアルテミスと半分こにしたってわけ。
まあ、アルテミスはめちゃくちゃ嫌そうな顔してたけど。
間接キスくらいで顔真っ赤にしてたのは普通に眼福だったのでプラマイプラスってところだな。
「むっ、今何か不埒なことを考えていただろう」
「人の頭の中盗み見るのやめない? エスパー?」
「? 神だ」
「その返しは卑怯じゃん……」
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月陰生還
そんなやり取りをしてから、どれだけ経ったのだろうか。
最近は随分と戦闘ばかり続いていて、大雑把とは言え計算していた筈の日数すらも分からなくなってしまった。
と言っても、言うほど時間は経っていない……のだと、思う。
曖昧だ、けれどもそんな曖昧さにすら縋らないと、そろそろ限界が近かった。
初めて蠍型のモンスターと遭遇、撃退をしてから戦闘頻度というのは格段に、目に見えるレベルで跳ねあがった。
倒しても倒しても倒しても、蠍は湧いてくる。
湧いてくるたびに倒す、倒す度に湧いてくる。
いたちごっこさながらで、もうどれだけ倒したのか分からない──と、思わず弱音すら吐きそうになるくらい戦えば、ようやっと少々の休憩が取れるくらいだった。
そんなんだから、当然食料は無いし、水も無い。
ほとんど無傷であり続けていたアルテミスも細かい傷だらけで、俺も肩以外は同様の有様だった。
癒える暇がない、ポーションもう半口分くらいしかない、なんの気休めになるか分からんくらいだ。
魔力とか言うやつも、あの日から碌に休んでないせいで特に回復もしていない。
毒が無かったのが唯一のラッキーだな、あったら多分もう死んでる。
そんな状況が──体感的にはもう、一週間は経過していた。
お陰で気持ち的にはもう、二十日近くもこんなところにいる感じだ。
それは当然ながら俺だけでなく、アルテミスもだろう。
最近は軽口のたたき合いもなくなってきていた、どちらも体力的に喋ってる余裕が消え失せてきているのが良く分かるというものだ。
なるべく早く出なければ、というのは分かっているのだが、しかし現実は理想には追い付かないものだ。
どうやらこの洞窟というのは螺旋的構造をしているらしい。それも恐らく、上に行けば行くほど螺旋が狭くなっている。
自然的なものなのか、人工的なものなのか──まぁ、そのどちらもな気がするが、少なくともそういう仕組みだったから、進むべき道を迷うことは無かった。
だがその反面、どうしても通る難易度が高い場所が増えてきていた。
それがまぁ、今直面している蠍地獄って訳だ。
何度か強引に押し通ってきたが、それでも道は随分と続いているらしい。
構造的にどうにも、横にひたすら長く、時折上に上がるって感じなようだ。
後はまぁ、舗装されてないから普通に歩きづらい。
一周ごとの間隔がかなり短いから、出口がもう少しだろうな、という感覚だけがある。
ただ、あと少しが、尋常じゃないくらい長かった。
岩壁に出来た、狭い窪みに身を寄せ合うようにして隠れて身体を休める。
アルテミスの目の焦点が、微妙にブレているように見えた。
「アルテミス……おい、アルテミス、聞こえてるか、アルテミス!」
「んっ……あ、あぁ、大丈夫。少しばかり、意識が飛びかけていただけだ」
「そうか……此処はそれなりに安全っぽい。まだ奴らの気配もしないし、寝てても良いぞ」
「オリオンは……?」
「俺は眠くなったら寝る派なんだよ──つっても、納得しなさそうだから、そうだな、アルテミスが起きたら寝るよ、交代で見張ろう」
だから今は寝とけ、と手を重ねて言えば、しかしアルテミスはそれを払うことは無かった。
「オリオン……オリオンは、何処にも、いかないよな? 私を置いて、何処にも……」
「何だ、ビビっちまったか?」
「……ふ、そうだな、どうにも私も、もう随分と弱ってしまってるらしい。だから、オリオン」
──言葉にしてくれ、とアルテミスは小さく言った。
彼女の細い手を優しく握る。
「大丈夫だ、俺はどこにも行かない──俺達は一蓮托生だ」
「本当か……?」
「ああ、もちろん。お前が死ぬ時は、俺が死んだ後だよ。まあそんな時が来るのはもうずっと後になるだろうけれども」
そう言えば、アルテミスは僅かに頬を緩めてから、かくん、と意識を失い俺の肩に頭を預けた。
これを、珍しいというべきでは無いんだろうな、と思う。
生きるのに精一杯になればなるほど、他の余裕は消え失せる。
プライドを一つずつ捨てて、互いに縋り合って、俺達は生き延びている。
「ふー……」
長く、長く息を吸って、同じくらい長く息を吐く。
リセットだ、頭を切り替えろ。
アルテミスはもう正直言って戦力には数えられない。
彼女はもう歩くので精一杯な上に、そもそも弓矢がもうゴミと化した。
まあ、武器の話をしたらこの短剣も大分ガタが来ているのだが。
そこはそれ、蠍の死体から残った針で代用できる。
身体だってまだ全然動く、流石に初日程のキレは無いが、それに言及したって仕方が無いだろう。
まだ戦えるっていう事実が、今は何よりも重要だった。
「さて、と……アルテミス?」
ぺちぺちと頬を軽く叩いて完全に意識が落ちているのを確認する。
もうずっと浅く短い眠りが続いてたから、そろそろ深く意識が落ちるころかなと思ってたんだ。
こうなればそうそう目が覚めることもないだろう、何せ失神にも近い。
それを確認してから、よっこらせとアルテミスを背負った。
いや、その、なんだ。
多分こうやった方が進むのが早い──というよりは、もうこうするしかない。
アルテミスにもう、これ以上自力で進めるような体力はほとんど残っていない。
それに、ここにはもう、それほど長居できなさそうだしな。
さっきからちょいちょい気配自体は感じてるから、あっちも探ってきてる気がするんだよな。
だから、悟られる前にさっさと出る。
背負ってる代わりに攻撃はできないが、回避と防御に専念すれば問題は無いだろう。
いい加減、こんな生活はさせられないし、していたくない。
少しだけ焦っているな──という思考をかぶりを振って打ち消した。
そんな訳で残りのポーションもアルテミスに飲ませてから立ち上がる。
これでまあ、起きた時には体調が幾らかマシになっていることだろう。
うーん、うん、重みもほとんどない。マジで紙みたいな体重してんな、アルテミス。
まぁ、この生活が元より無い体重を更に削いでるってことなんだろうが。
「ん……」
窪みから少しだけ顔を出して周りを伺う。
視覚ではなく聴覚とそれから後は気配、勘だけで探る。
何だか、こうして字面にすれば人外じみている気がするが、こっちの人は結構当たり前にやってることだ。
特に冒険者とか、狩人とかは必須なところがある。
誰だって自分の命は大切なものだ。
「まさか、暗闇に不気味だと心底思う時が来るとはな」
どうにも俺も結構精神が参ってきているらしい。
や、慣れてるって言っても辛いものは辛いし……。
痛みに慣れているということが、痛みに平気ということとイコールでないのと一緒だ。
まだ壊れないけど、それは壊れてないだけなのである。
そんな言い訳を並べ立てながら、そっと地を蹴り飛ばす。
なるべく揺らすことは無いように、けれども速度は一定以上を保ち続ければ、直に──というか、思っていたよりも直ぐに蠍の群れにぶつかった。
けれども、それに動揺することは無い。
神経を、研ぎ澄まさせる。
意識を、限界まで尖らせる。
ここに来てから随分と隠密行動が上手くなったもんだなぁ、と自分に感心しながら隙間を縫うように駆けた。
──とは言え、それが完璧に上手くいくならばここまで来るのも苦労はしなかったのだが。
蠍の目が──アレが目にあたる器官なのかは知らないが──俺を見た。
冷や汗が流れ落ちて、尾がゆらりと揺れる。
「──っ」
瞬間、速度を急激に上げた。
地を踏みしめ砕くかの如く弾き飛んでそれを躱す。
ガッ! という尾が地面にぶつかる音を契機に、周りの蠍も気付き始めた。
それでも慌てるな、と自分に言い聞かせた。
真っ当にぶつかり合わず、全部すり抜ける。
出来るはず──いや、できる。問題はない。
「ふっ──」
足取りは軽く、力むことは無く、姿勢は低く、リズムは一定にしない。
その上で、蠍たちの呼吸を読む。
実際の時間はともあれ、感覚的にはもう随分と長い付き合いだ。
多少は読めてくる──これは多分、神の恩恵のお陰ってのもあるんだろうが。
俺は元々正面からの戦いとかあまり向いていない人間だ。
基本ジョブが戦士じゃなくて、狩人なのだ。何だかんだ、探索家と言っても良さげな気はするが。
ワイワイガヤガヤ、だなんて可愛らしい擬音で誤魔化すには無理過ぎる程の音が渦巻いている。
四方八方からは尾やらハサミやらが飛んでくるのを、全て紙一重で躱して尚進んだ。
右上から左下への振り落とし、直上からの尾、尾の薙ぎ払い、返す刀のように振るわれるハサミ──あぁくそ多い!
短剣で受け流す、軽く飛んでから屈む、地に片手だけつけて無理矢理胴を傾けた。
「──おっと」
落としかけたアルテミスを拾って抱え直す。
背負ってるより片手で抱えてた方が良いなこれ……と無駄な思考を挟みながら、それでも止まらない、止まらない、止まらない。
決して歩みは止めない、全部躱して、全部受け流して先へと足を付ける。
アルテミスを抱きしめるように抱き寄せて、決して離さない。
これはカッコつけた割には起こしちまうかもな、と思ったがアルテミスはこんな中でもすやすや寝息を立てていた。
まぁ、そうだろうと考えて連れ出したのだから、当たり前と言えばそうなのだが。
鋭く振るわれた尾を逸らして、ハサミの薙ぎ払いとぶつけ合わせる。
そうしてできた空間に踏み入れその度に躱し、弾き、ぶつけ合い、を嫌になるほど繰り返した。
音がする、音がする、音がする。
金属音、歪で高音で、気が狂う程連続してぶつかり合う金属音。
それに混じる不快な蠍の声、俺の荒い息遣い、確かに感じられる、アルテミスの小さな吐息。
全部かき消すような、地面が砕ける音がする、彼らの天然の武装が空を切る音がして──不意に。
気のせいだったかもしれない、あるいは、幻覚か。
つーかそもそも風の音ってなんだよ、という突っ込みが後から湧いてくるが、それでも、それが持つ意味が何なのかくらいは分かった。
前を向く、蠍ばっかりだ。
でももう少し目を凝らす、やたらでかい段差が見えた。
段差というか、階段?
一段一段が馬鹿みたいにでかいが、少なくとも五つ以上は連なっていて、見ようによっては階段だ。
随分厳かな感じである、あそこだけやたら人の手が入れられた、といったような見た目。
あそこまで辿り着けば、蠍共も登っては来れない──そう思うと同時に、洞窟内が随分と明るいことに気付いた。
いや、そうは言っても全然暗くはあるのだが、それでも今まで比べれば随分と明るい。
何故だ──? と思うのと、答えを見つけるのは同時だった。
階段の上に、小さな光が見える。
外だ、と直感した。
跳ね上がった心臓を、湧き上がった興奮を、しかし抑える。
やれるか? 一瞬だけそう思った。
「違うな、やるんだよ」
言葉に出して、自分を鼓舞する。
アルテミスを見て、少しだけ深呼吸。
落ち着いて、熱くなり過ぎず、かといって冷めすぎず。
常に最適を保って駆け抜ける。
俺は──俺の名はオリオン。
かつて、ここに生まれる前に生まれた地球という星の神話で語られた、最高の狩人と同じ名前を与えられた男。
オリオンって、幾ら何でも身にあまり過ぎる名前だろ、と思ったのが懐かしい。
まぁ、もうかつての自分の名前なんて忘れてしまったけれど。
結局後追いのように狩人になって、しかもアルテミスと親交を持つようになるなんて。
何だか運命じみたものを感じるな、と今まで目を背けてきたことを見つめて思う。
しかも蠍に追い詰められるとかどこまで因果関係があるんだよ、と一言だけ愚痴を吐き捨ててから前を見た。
オリオン──人と神の間に生まれた半神半人の男。
あらゆる獣を狩り、荒れ狂う獅子すらも容易く仕留めた超級の狩人。
俺は別にそんな大層な人間じゃあないけれど、そんな素晴らしい狩人じゃないけれど、それでもせめて、その名に恥じないくらいの活躍は、やはりしないとならないのだろう。
他でもない、俺がそう思うのだ。
尾が頭の上を通り抜けると同時に、ひと際強く踏み込んだ。
勝負はほとんど一瞬だ、限界を無視してあそこまで辿り着く。
筋肉と骨が悲鳴を上げる。どうでも良いから全部無視した。
「うっっざい!」
降ってきたハサミを短剣でいなす、同時に軽く跳躍して地を這うように振るわれた尾を避けた。
着地しながら姿勢を下げる、尾とハサミがぶつかり合って火花が散った。
弾き合って、空間ができる。迷わず飛び込んだ。
視界が歪んできた──いや、あるいはもうずっと歪んでいたのか。
分からないけれど、どうでも良い。
蠍の背中を踏み駆ける、あと少し。
ハサミを躱すついでに飛び降りる、スピードは緩めず滑るように駆ける、もう少し。
三方向から同時に振ってきた尾を一本だけ弾き──バキリ、と音が鳴った。
短剣が、砕けて散っていく。
即座に短剣を捨てて飛び込めば尾は背を掠るように地を抉り、目の前に来たハサミが勢いよく振りかぶられた。
「──っ」
反射的に右腕を盾にすれば、次の瞬間今度は腕が折れるような音が響いた。
衝撃、激痛、それでも上げそうになった悲鳴を殺す。
叫べば痛みから思考を遠ざけられるが、その分頭が回らなくなる。
回せ、思考を限界まで回せ。
視界に入る蠍、四体。
階段はもう目の前、左手にアルテミス、右手は大分痺れてる。
けど、足はまだ動く。
「ふぅ……」
息を小さく吐き出して、力を抜いた。
前向きに、よろめき倒れるようにして姿勢を倒してハサミを躱し──加速。
一歩、二歩と飛び出て蠍を踏んで、跳ぶ。
まずは軽く、そうして振り抜かれたハサミを足場にして更に跳んで──追ってきた尾の薙ぎ払いを足裏で受け止めた。
グッと膝を曲げて、衝撃をそのまま跳躍へと転換させて──そして。
想像以上にぶわっと吹き飛び、ドサッとあっけなく階段の上へ辿り着いた。
一段目どころか随分飛ばされて一番上まで来ちまったらしい。
一瞬だけ宙に浮かんでいたアルテミスが上から降ってくる。
「ぐぇっ……とぉ、あぶねぇ、落とすところだった」
まだ声を出せるだけの元気は残っているらしい、と自分を確認してから立ち上がる。
右腕は未だにダメそうだが、もう仕方ないと割り切った方が良いだろう。
そう考えながら、立ち上がる。
いやね、ほら、気になるじゃん。
ちょうど背を向けている、出口の部分。
そこが本当に出口なのか、気になってもう仕方がない──と振り向けばそこにあったのは
「は、はは……」
口から出たのは、乾いた笑い声。
──けれど、それは別に落胆したから
そこにあったのは、黒と言っても、別種の黒。
太陽が沈み、月が上るころにやってくる、夜空の黒だった。
「あー……外だぁ、脱出せいこー……」
何か、そんなことを言ったのか、言おうとしたのかは分からないが。
そこで一気に気が抜けて、俺の意識はストンと落ちた。
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月陽逢瀬
──目を覚ます。
夢を見ていた訳でもなく、微睡みを引きずっている訳でもなく、いつも通りスッと目が覚める。
開いた目が最初に捉えたのは、天井からぶら下がる魔石灯だった。
天井、と言っても正確に言えばそれはちゃんとした部屋のものではなく、テントのものだ。
つまり俺は、一つのテントを割り当てられて寝かされていた、ということになる。
どうやら助けられたらしい、右腕も既に完治済みだし、至れり尽くせりだな。
身体もいつになく快調だし、ぐっすりだったのが良く分かる。
久しぶりの布団で身体が勝手にリラックスしていた気もする。
誰に助けられたのか、という疑問には、入り口の布に描かれたエンブレムが答えてくれていた。
重ねられた弓矢と三日月──狩猟と月の象徴。それは、他でもないアルテミスが率いるアルテミスファミリアのエンブレム。
まぁ上手いこと見つけてくれたらしい、ありがたい話だな。いや実際探してたのはアルテミスなのだろうが。
洞窟での生活が長かった──体感的にではあるが──せいで、見えるところにアルテミスがいないことに違和感と不安を覚えたが、その感情は飲み干した。
俺が助けられていて、アルテミスが助けられていないということなぞあろうはずもない。
じゃあもう安心だ。
洞窟を抜けた、生還した、助けられた。
ならもう、俺とアルテミスの急造コンビは終わりである。
めっちゃ重い荷が下りた気分だ、同時に他にも色々下ろしちゃってる気はするが、まあ気にしても仕方がない。
切り替えだ、切り替え切り替え。
パシパシッと頬を叩いてから立ち上がる。
人間ってのは寝る時に滅茶苦茶汗をかく生物らしい、例によって例の如く、俺も人間故に汗まみれであった。
──恩恵を得た人間が、果たして本当に人間であると言えるのかどうかは、良く分からないが。
人の形をしていることと、人であることはイコールではない。
その逆もまた然りであるように、大切なのは本質だ。
だからと言って自分自身が人間ではない、等と言うつもりは無いが。
まあ何が言いたいのかと言えばちょっと汗を流したいって話である。
近くに泉の一つや二つくらいあるだろ……と適当な布を引っ掴みながらこっそりテントを出れば、出迎えてくれたのはまたしても夜の空だった。
時間的にはもうかなり遅い──ド深夜なのだろうな、と何となく思う。
どのテントからも光一つ漏れていない、全員寝静まっている。
「つってもあんまり騒げばレトゥーサ辺りは起きてきそうだけど」
そうなったらちょっと……いや、かなり面倒だな、と思う。
レベルが上がれば上がるほど、冒険者は人外じみていく。
誰にも気づかれないようさっと行ってさっと帰ってこよう。
幸い、ここはアルテミスファミリアが居を構えている拠点だ、ここなら何度か来たことがある。
近くにやたらでかい泉があるのはもうリサーチ済みである……というか一回使ったことがあった。
わざわざ音やら何やらで「水は……こっちかな……」とかやることにならなくてラッキーだ。
寝起きからあんまり疲れたくないしな……とガサガサゴソゴソと木々をかき分けていく。
本当ならちゃんとした道はあるのだが、まぁショートカットってやつだ。
どうせこの後洗うなら多少汚れても同じじゃん……。
Tシャツ短パンみたいな格好だからさっきから草葉がくすぐったいな、とズンズン突き進めばやっと泉に──。
「──────」
そこには神がいた。
狩猟と貞潔、月の女神が光と水を浴びていた。
当然ながら一糸まとわぬ姿で、その上で目を離せなかった。
断じて言っておくのだが、やらしい気持ちや目的ではない。
では何かと問われれば、それはもうただただ目を惹かれたのだと、そう言うしかないだろう。
それは、美貌によるものなのか、あるいは、神特有の神秘さゆえなのか。
分からないし、分かることも無い気がしたが、しかし目を逸らせない。
動くことすらも忘れて、縫い付けられるように見つめていれば不意に彼女はこちらへと振り返った。
美しい青の長髪が揺れて、翡翠の瞳が俺を捉える。
「あっ」
やべっ。
ここに来て、ようやく俺は事のヤバさに気付いて声を出したのだった。
ついでに「あーあ、終わりだよ終わり」と脳みそが言っていた。
普通に考えなくとも、異性の沐浴を盗み見かつガン見するのは犯罪過ぎる。
土下座で何とかなるかしら……。
「オリオン?」
が、降ってきたのは予想外に柔らかな声だった。
優し気で、こちらを慮るような、それでいてどこか信じられないとでも言いたげな雰囲気を纏った声音。
ザバザバと水をかき分けて、アルテミスは歩み寄ってきた。
「あぁ、やっぱりオリオンだ。目を覚ましたんだな、良かった……本当に、良かった」
「アルテミス?」
白磁のような色の手に、そっと頬を撫でられる。
ここに俺がいる、ということを確認するように。
アルテミスは、俺を抱きしめた。
……!?
「はぁ──? 何やって、おまっ」
「良いじゃないか、今更だろう? 私の意識が無い間に抱えて外まで運び出してくれたのは、何処の誰だ?」
「や、それは──申し訳ないとは思ってるけどさ」
仕方なかったってやつじゃん……とごにょごにょすれば、アルテミスは笑った。
分かっている、と言わんばかりにポンポン背中を叩く。
「謝ってほしいのではない、私は感謝しているんだ、ありがとう、オリオン」
「感謝……いやでも、それはアレだろお前、持ちつ持たれつだったって言うか、俺こそありがとうございました、というか」
「だからと言って感謝が無くなるということは無いだろう、オリオンがそう思うなら、私たちは互いに感謝し合っているというだけのことだろう」
「それはまぁ、そうかもしれないけどさ……」
でも何か随分と距離が近い──いや、そうでもないのか?
ダメだな、遭難とかいう異常事態に晒され続けた時間が長すぎて適切な距離というのが分からない。
あの時だったら多分この程度気にしなかったかもしれないが、今の俺はもうしっかり休んで思考もクリア、体調も万全なのである。
全部がもう元通りになったはずなのだ、今までと同じようにはいかない。
勘違いは、あまりするべきじゃない。
「何だ、随分と身体を引こうとするな、オリオン?」
「逆だ逆、お前が近いんだよ、貞潔の女神様なんじゃなかったのか?」
「ふふ、このくらいは普通だったじゃないか」
「異常事態における普通と、平常時における普通はかなり異なってくるだろうが……」
思考に余裕が出たらそりゃ色々考えさせられるに決まってんだろ。
何だ、貞操観念でも逆転しちゃった?
ドキドキしすぎちゃうからやめてほしい。
「そうかもしれないな──けれど、過ぎ去った時間は、得た経験は無くなったことにはならない」
「……?」
「むぅ、よりにもよって私の口から言わせる気か? 罪な男だな、オリオンは」
「いやなんの話?」
「私にこうされるのは嫌か? と聞いているんだ」
私に近寄られるのが。
私に触れられるのが。
私に抱きしめられるのが。
嫌なら、嫌と言ってくれ、とアルテミスは言った。
言ってから、アルテミスは一際強く俺を抱きしめた。
その言い草は卑怯過ぎない?
「──嫌だったら、さっさと突き放してる」
「直接的な言い回しを避けるのは、オリオンの悪いところだな。洞窟内だとあれだけ情熱的だったというのに」
「うっさいな、ちょっと恥ずかしいんだよ」
あといい加減服を着ろ。
処女神名乗るにはちょっとはっちゃけすぎだろ。
目を逸らしながら言えば、アルテミスはようやく、少しだけ顔を赤らめながら服を纏った。
服、と言ってもワンピースみたいなパジャマなのだが。
何となく、白はこの
あれだけ傷だらけだった肌も、全部元通りになっていて、少しだけ安心した。
「そう言えば、私たちが遭難していたのはちょうど十四日間だったらしいな」
「ま、マジ? 思いの外みじか……てっきり三週間はいたもんだと思ってたな」
「私なんて一か月はいるものだと思っていた、目を覚まして、ランテに教えられた時は驚いてしまったよ」
「だろうな……そういえば、実際のところ俺が気絶してからどうなったんだ?」
「入れ替わりのように私が目を覚ましたよ──オリオン、お前、私に残ったポーションを飲ませただろう」
「ぐぇ、ばれてーら……」
「体調が随分と良かった、バレるも何も無いだろう……血塗れで倒れているオリオンを見た時、私がどれだけ泣きそうだったか語ってやろうか?」
「や、それに関しては本当に悪かったって……あっ、ちょっ、背中をつねるな!」
「私からの些細な罰だ、甘んじて受け入れろっ」
えいえいっ、やめろやめろ、と言い合いながら振り回す。
その勢いのままバシャバシャ水の方に入っていけば、その内に楽しそうにアルテミスは楽し気に笑いだした。
ついでに言えば俺も何だか楽しくなって、声が出てしまう。
二人しかいない泉に、笑い声が響く。
暫くそうやって遊んでから、やっとのことでアルテミスを下ろした。
「ふふふ──えぇと、何だったか、そう、私が目を覚ました後のことだ……端的に言えば、動物たちに助けてもらった。モンスターと違って彼らは話を聞いてくれるからな、背に乗せてもらって移動して、その途中で子供たちと再会したという訳だ」
「うーん、情報量の洪水」
動物と話せるって何? 蛇語的なニュアンス?
そう聞けばどうにも言葉通りの意味らしい。女神、謎が多すぎんだろ。
まあ動物とすぐ仲良くなれる、みたいな捉え方で良いのだろう。野生児みたいだな。
……流石に神相手に野生児は暴言が過ぎるな。
野生神と言い換えておこう。
あんまり不遜さが抜けなかった。
「取り敢えず良いじゃないか、今くらいは。互いが無事であった喜びに浸る、そういうのも悪くはないだろう?」
「ま、それもそうだな」
難しい話も、ややこしい話も後で良い。
どうせ後からレトゥーサにでも根掘り葉掘り聞かれて詳細を語らねばならないのだし、その際に色々聞かせてくれるだろう。
そう考えると若干ながら気が重いが、それも取り敢えずは放っておこう。
今考えるのは、目の前の女神様のことだけで良い。
美しい、青の長髪に翡翠の瞳、恐ろしい程に整った容姿。
白磁のような肌、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ身体。
貞潔かつ純潔の女神、誰にも触れさせないどころか、見ることさえ許さなかった処女神。
それを今、独り占めしているのだと考えれば何だか酷く背徳的な気持ちになった。
意識すればするほど、身体の内側に熱が籠る。あるいはそれは、心の内なのか。
どっちもかもしれないな、と思ってアルテミスから身体を離した。
「なぁ、アルテミス」
「なんだ? オリオン」
「折角の月夜だ、踊ろうか」
「──えぇ、喜んで」
月が照らし、泉がそれを反射する中で、差し出した手を、アルテミスが優しく取る。
誘っておいて何だが、俺は踊りの作法を詳しく知っているという訳じゃない。
何せ元一般高校生、今は辺境の村の狩人だ。
でも、何となくそうすべきだと思ったから、そうした。
多分、アルテミスも良く知っているというわけでもないのだろう。
曲はない──強いて言うならば、風がそよぎ、木々が騒ぎ、水面が揺れる音だけ。
そんな中で俺達は手を繋いだまま、くっついたり離れたり、回ったり、身を預けたり。
波紋を生み出しながら、好き放題に踊っていた。
ここは俺達だけの空間。
三日月の下、鏡のような泉をステージに広がる舞踏会だった。
「以前──オリオンと出逢う、ずっと前に子供たちに熱弁されたことがある」
「へぇ、珍しいこともあるもんだな。なんて?」
基本的にアルテミスファミリアってのは仲良くはあるが、それ以上に規律が厳しいファミリアだ。
ついでに言えばアルテミス自体に惚れ込んでいる、心酔しているやつばかり。
だから、基本的に──これは飽くまで俺のイメージに過ぎないのだが──アルテミスが、団員たちに話を聞かせることが多いのだとばかり思っていた。
「曰く、"アルテミス様も恋をした方が良い"だとさ」
「それは何ともお前に喧嘩を売ってるようなことを言ったもんだな……それ、言い始めたのランテだろ」
「分かるのか?」
「それくらいはな」
アルテミスファミリア自体がもう、それなりの付き合いだ。
何に臆することも無く急に言い出すのはランテくらいしか思いつかない。
その勢いだけで、周りを巻き込めるのも、彼女くらいだろう。
「恋をする前と、後では私たちは変わる……レトゥーサにさえそう言われたよ。なぁ、オリオン、私は神だ。人であるお前たちと違う、不変たる存在。そんな私でさえ、変われるものなのだろうか?」
「んー、まぁ、そもそもアンタら神は、良く自分たちのことを変わらない存在だとは言うけどさ、そうでもないと思うんだよな」
手は繋ぎ合ったまま、クルリと回ったアルテミスと少しだけ近づき合う。
その細い腰に手を当てた。
「恋が云々ってのは分からないけれど、それでも人も神も、常に等しく変わり続けているだろうよ。人はそれが目に見えやすいってだけで」
「そう、なのだろうか?」
「ああ、間違いない。だってアルテミスだってほら、ちょっと前のお前なら、俺と踊るだなんて夢だとしても有り得なかっただろう?」
「むっ……」
「こうやって手を繋ぐことは無かっただろうし、抱き合うなんてもってのほかだ。でも今はそうしてる、一緒にいた時間が、経験がアルテミスをちょっとだけ変えた証拠だ」
そりゃ今回のはあまり良い変化の仕方じゃないとは俺も思うけど。
それでも、変わりはするものだ、何事も。
「私はこういう存在である、俺はこういう存在であるってのがハッキリしてるから自覚しづらいだけだと思うし、だからこそ神は他の神の変化に気付きづらい、それだけの話だと俺は思うよ」
「そう、か。そう見えるか、私は、変わったように見えるか」
「むしろ見えないやつの目は節穴だろうな」
「そこまでか?」
クスクスと、鈴の音を鳴らすようにアルテミスは笑う。
良く笑うようになったものだな、と思った。
感情が表に出やすくなった──というのとはまた違うか。
元より感情が薄いとかそういう
だから、正確に言うのならば笑顔を見せるのを許してくれるようになった、なのだろう。
「そう見えるのならば、やはりそれは、オリオンのお陰なのだろうな」
「お陰って言葉を使うのは、ちょっと語弊があり過ぎる気もするけどな。アレは流石に命懸け過ぎた」
「確かに、あんな経験は一度で良い……色々な意味で、な」
一瞬、『色々な意味』ってのが何なのか言及しようとして、しかしやめる。
何となく、今はまだ踏み込んではいけない部分だと、そう思った。
単純に日和ったとも言う、うっせーわ。
「もうすぐ、夜が明けるな」
「あー……朝か、朝が来るのか。何だか滅茶苦茶感慨深いな……」
「そういえばオリオンはさっき目覚めたばかりだったものな、ふふ、存分に光を浴びると良い」
「そうさせてもらう……つっても多分、朝になったらアルテミスの団員に事情聴取されるんだろうが」
「その時は私も一緒だ、安心しろ」
何が? って感じだがまあ良い感じにフォローとかしてくれるのだろう。
お互い、記憶が曖昧なところもあるし補完し合えばまあ、一応の説明にはなるか。
ただ、一番の問題は起きたことの説明ってより──
「今後の俺の扱い、だよなあ。実際、どうするつもりなんだ?」
「……経緯はどうあれ、私が恩恵を与えたのは事実だ、ファミリアに入れるべきだとは思っている。だが他でもない私自身が男女の接触を禁じてきたのも事実だ、もし嫌がる子が一人でもいるのなら、その時は──」
そこで言葉を切って、アルテミスが静かに目を伏せた。
それを見ながら、まあそうだろうな、と特に落胆することも無く思う。
単純な話のように見えて、結構デリケートな問題なのである。
そもそも女性しかいなかった場所に男一人ポンと投げ出されるのはそれはそれで抵抗あるしな……。
どっちに転んでもあまり得をしなさそうだ、とちょっと思った。
いや、できれば入れた方が良いのだろうけれども。
レベルアップ? ランクアップ? とかしてみたいし。
後はまあ……アルテミスの顔を見ていたい、というのは否定すると嘘になる。
「じゃ、そろそろ戻っておくか、二人でいるところを見られても面倒だしな」
「……そうだな、名残惜しいがひゃわぁ!? オ、オリオン!?」
言葉の途中で、アルテミスの身体を持ち上げる。
片手は背中に、片手は両膝を支えるように……まぁなんだ、いわゆるお姫様抱っこってやつである。
アルテミスは暫くの間顔を赤く染めて暴れていたが、やがて諦めたように俺の首へと腕を回した。
「オリオンは時折本当に突飛なことをする」
「そう睨むなよ、嫌なら下ろしても良いんだけど?」
「嫌とは言っていないっ──あっ、くぅ……反射で否定してしまった……」
「思いのほか素直な解答来たな……ま、拠点近くまでくらいなら良いだろ」
「ん、そうだな、落とすなよ?」
「誰に言ってんだか」
本当に落とすぞ、と揺らせばアルテミスの小さい悲鳴が控えめに響き渡った。
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月賜奇跡
端的に、結論だけ言うのであれば俺はアルテミスファミリアへと無事、正式に加入することとなった。
というか、別に小難しい話も言い合いもなく「ファミリアに加入? あー……まぁ良いんじゃね? もう恩恵あるんしょ?」くらいのスピード感だった。
それで良いのか、というところはあったがまぁ、他の誰でもないアルテミスが肯定側にいるのだから、そうなるのはある意味、自然であったようにも思える。
俺自身が彼女らとある程度の交流を持っていて、受け容れられやすかったというのもあるのだろう。
アルテミスを生きて帰したことから、多少以上の信用もある。
それに、彼女たち団員からすれば「これでやっと恋愛を許される……!」と言った心持ちなのだ。
まぁね、年頃の女の子だもんな。
興味が無いと言ったら嘘になる子たちばかりなのだ。
ランテとか大はしゃぎしてレトゥーサに滅茶苦茶睨まれてたし。
とは言え、いきなり乙女の花園のど真ん中に飛び込んで「はい! 共同生活スタート!」とするほど誰も考えなしということもなく、取り敢えず色々ルールが追加された。
色々と言えば色々なのである。
いやね、思いのほか項目多いねん……。
寝泊まりするテントとか、その位置とか、泉で身体を洗う時間帯だとか、食事の時間だとか。
それはもう事細かく決められた用紙を渡され、目下それに従って生活することになっていた。
今はまだ、多少の息苦しさはあるが、それでも新鮮味と面白みがある。
直に慣れていくんだろうなぁ、といったところだ。
あぁ、あとついでに、村へ宛てた手紙をサッと書く羽目になった。
ファミリアに加入する以上は村を抜けなければならない、かといって無断で「はい抜けた!」が出来るほど簡単な立場でもないのである、俺は。
いや、そんなこと言ったら手紙で済ませて良いものでもないのではあるのだが……。
ちょっとのっぴきならない事情がやってきたことと、俺が手間を惜しんだことによって手紙で済ませることと相成った。
アルテミスなんかは「一度くらいは足を運ぶべきだっ」とかなり粘ったんだけどな。
普通に却下された。
だって竜狩りの村……遠すぎだし……。
そんな辺境に住んでじゃねーよってレベルの場所にあるせいで、行くには時間がかかりすぎるのだ。
今のアルテミスファミリアにはそんなことより──そんなこと、等とと言ってしまえばそれこそアルテミスに「むっ」とした顔をされそうだが──重要なことが出来てしまったのである。
これまでも言ってきた通り、アルテミスファミリアは狩猟と探索を主としているファミリアであるが、重きを置いているのは狩猟の方だ。
狩猟──あるいは、駆除と言った方が的確なのかもしれない。
アルテミスは、自然を愛している。
ゆえに、それを荒らすモンスターを許さないし、また困っている人も見捨てておけない性質だ。
アルテミスファミリア自体が、一つの街に拠点を作らずこうして巨大な野営地を作り、暫く居座ったら移動……といったように場所を転々としているのはそこが理由である。
あちこちを旅し、行く先々で人々を救う流浪のファミリア。
そんな彼女らは、俺とアルテミスを捜索している間に一つの話を聞いたという。
曰く、『この辺りには月女神──つまるところ、かつてアルテミスを信仰していた古い神殿があり、そこがモンスターの巣窟となっているらしい』と。
アルテミスの眷属であるアルテミスファミリアがそんな緊急事態を見過ごせるわけがない、ということで休暇もそこそこに、早速出発することとなったのであった。
アルテミス自体は「後でも良いだろう」と言ったのだがそこはアルテミスファミリア。
アルテミスに心酔し、アルテミスを愛する冒険者が揃っているため、全員に「何よりも最優先されることです」と押し切られていた。
ま、善は急げって言うしな。
早くて悪いことは特にない、あらゆることにおいて、大体はそうだ。
それはそれとしてもうちょっと休みたかったところではあるが。
こればっかりは文句を言っても仕方ないだろう。
「はぁ……」
「どうしたオリオン、ため息なんて吐いて。もう疲れてしまったか?」
「アルテミス……んー、まあ、上手く言えないんだけど、嫌な予感がするなって思ってさ」
隣に並ぶアルテミスが、「嫌な予感?」その言葉に少しだけ首を傾ける。
そんな些細な仕草でさえ、絵になるのだから流石と言わざるを得ないだろう。
「ま、勘でしかないんだけどさ。その遺跡に出るモンスターって蠍型って話だろ? お互い、蠍にはいい思い出が無いからさ」
「──ふふ、何だオリオンは怖いのか?」
「は? 全然怖くなんてないが?」
十匹だろうが二十匹だろうが余裕ですけど? とかなりの早口で言ったが、若干手が震えていることに気付いた。
うーん、自覚はしてなかったが、どうやら結構俺はビビっていたらしい。
情けないもんだな、と思えばそっと頭を撫でられた。
「よしよし、大丈夫だ。オリオンのことは私が守ってあげるからな」
「いやそれ俺の台詞だから……」
恥ずかしいからやめろよな、と振りほどけば不意に前を歩いていた金髪猫目の女性──ランテと目が合った。
むむむ、と彼女の眉が顰められた。
う、うわー、面倒なことになるぞ。
「じぇ、ジェラァ……またオリオンさんがアルテミス様とイチャついてるぅー!」
「誤解を招く言い方やめない? いや誤解でもないかもしれないんだけど……声がでかいんだよ」
「うわーん、イチャついてるって暗に認められたー!」
「お前はもう何なんだ……」
別に良いじゃん……とぼやけば「良くないですけど!? アルテミス様は私のなんですから!」と捲し立てる。
仮にも神を所有物扱いするんじゃないよ……や、言いたいことは分かるんだけど。
「ふっ……」
「しかも鼻で笑われた!? 私が先輩だってこと分かってます!?」
「でもランテはレベル1じゃん、俺レベル2になったけど」
「はっ、はぁぁあああああ!? ランクアップ!? もう!?」
「お前は一々声がでかいな……」
キーン、と響く耳を片方塞ぎながら、ランテの額をパチンと弾く。
あぅっ、と額を抑えたランテを見ながら、結構力加減が難しいものだな、と思った。
そう、ランクアップ。
元々鍛えていたというのもあってステイタスはかなり高かったらしいのだが、先の遭難事件でどうやら一定以上の
お陰で今朝がたステイタスの更新したら目出度くランクアップした。
ただでさえ恩恵を受ける前と受けた後ではかなり違ったのに、ランクアップはその比ではないな、というのが素直な感想になるだろう。
異常なまでの万能感が全身に満ち満ちている。試してはいないが多分、全力でジャンプすればそれだけで一軒家の屋根くらいには届く。
恩恵を受けることにより、人の枠を外れたのだと考えるのならば、レベルが上がったというのは己の限界を拡張させられた、といった感覚だ。
明らかにこれまでと立っているステージが違う。
慣れるにはちょっと時間がかかりそうだな、と思うと同時に、俺よりランクが一つ上──つまり、レベル3である団長:レトゥーサは本当に強かったのだな、と再認識した。
アルテミスファミリアでは彼女が唯一のレベル3で、レベル2も俺を含めて五人しか存在しない。
他は全員レベル1という訳だ。
それだけ、ランクアップするのは難しいという話である。
アルテミス曰く、『冒険』をしなくてはならないのだとかなんとか。
あの遭難もどうやら冒険扱いだったらしい、判定ガバガバか? ……というのはまた違うか。
色々な意味を込められたうえでの『冒険』なのだろう。
「ま、ランテも精進することだな」
「ぐぬぬうぅぅぅぅぅぅぅ……!」
ほら前向け、前。
シッシッ、と手を振ればランテは暫く獣のように唸った後に「うわーん!」と他の団員たちに絡みに行った。
や、絡みにっていうか慰めてもらいにいった感じではあるが。
ランテは、アルテミスファミリア内でもムードメーカーの立ち位置だ。
あるいは、ただの賑やかしとも言うのだが。
こんくらいの扱いがちょうどいいのである、と考えながらアルテミスの手を取った。
ごく自然に、そうすることが当然であるようにその小さな手を握り──
「あれ?」
ミスったな、と思った。
暫くの間手を引いたり、背負ったり抱いたりして移動していたせいで思わず手を握ってしまった。
完全に癖になっている。
これはダメなやつだ。
反射で握った手を、そのまま振りほどこうとして──けれども離れない。
どころかスルリと腕に腕が絡まってきた。
「どうしたオリオン、何を逃げようとしている」
「俺はお前のその積極性に驚きを隠せないよもう……」
つーか腕まで絡まれると普通に歩きづらいんだわ。
恥ずかしさも尋常じゃないし離れてくれない?
ほら見てみろお前の団員を、キャーとかワーとか言ってこっち見てんぞ。
「私だって恥ずかしいに決まっている、甘んじて受け入れろ」
「めっちゃ強気に来るじゃん……受け入れろって何?」
受け入れるにしても場所とタイミングが最悪すぎるだろ。
そういうことは二人だけの時にしてくれ。
いや、先に手を取ったのは俺なのだから言えたことでもないのだが。
かなり抵抗するアルテミスの腕を振り払い──それから、もう一度その手を取った。
「せめて今くらいは、これで勘弁してくれ」
「ふむ……そうだな、今"は"これで良い」
「一々圧が強いんだよ……」
お前メールとかライン、滅茶苦茶長文で返すタイプだろ。
想いが強いのは良いが、重すぎると大体の場合は引かれるから気を付けような。
最悪生き遅れとかいう最悪の罵倒が飛んでくることになる。
悠久の時を生きる神にそんな言葉は無縁なのだろうが。
「これくらいがちょうど良いんだって、これ以上は守りづらくなる」
「今度は私が、オリオンを守ってあげると言ったはずだが?」
「前だって片方が片方を一方的に守ってた訳じゃないだろ。これまでも、これからも守り合う関係だったと思うけど」
「──これは、一本取られてしまったな。あぁ、私の命はお前に預けるよ、オリオン」
「俺の命もな」
精々大切に取り扱ってくれ──だなんて言っていたら、
それ──つまり、アルテミスを祀った古い神殿。
それは巨大な塔が幾つも寄せ集められたような形で──有体に言ってしまえば、城のようですらあった。
古い、と一言で言い表しては来たが、どれくらいかと言えばもう大分風化してしまっていると言っても良いだろう。
あちこちに罅が入り、穴が空いているところも多々見られる。が、それでも崩れる様子は見せない堅牢さを感じさせる。
それと同時に、うっすらとではあるがモンスターの気配も。
巣窟になっているというのは間違いではないらしい。
神殿の入り口に全員が到達し、レトゥーサが振り返り、一度俺達全員を見た。
「準備と覚悟はできているか」
静かな声だった。
けれどもよく通る声で、鼓膜を心地よく打つ。
誰も言葉を返すことは無く、全員がそっと頷いた。
「アルテミス様も、よろしかったでしょうか」
向けられた声に、アルテミスもまた前へと踏み出した。
レトゥーサに並び、俺達全員へと目を配る。
「言うまでもなく、この先には困難と苦難が待ち受けているだろう──だが、臆するな、怯えるな。しかして、油断はするな、侮るな。我々に必要なのは最終的な勝利のみだ、それまでには幾らでも敗北を重ねて良い」
だから、とアルテミスは言葉を紡ぐ。
その翡翠の眼で全員を見て。
美しい青の髪を揺らして。
「潔く戦って死ぬくらいならば、逃げろ。命だけは守れ、生きてさえいれば、次がある。次がある限り、私たちに敗北は無い。どうかそれを、肝に銘じてほしい」
うぉー! というランテの歓声を皮切りに、全員が声を上げる。
ある者は武器を掲げ、あるものは拳を掲げる。
まぁ言うまでもなくやる気満々というやつだ。
「では行くぞ、各々、警戒は必ず解くな」
レトゥーサが背を向けて全員がそれに続く。
当然ながら俺もそれの後を追ったのだった。
神殿内部は、当たり前と言えば当たり前なのだが、光の一つすらもない暗闇の空間だった。
時間的には真昼間であるはずなのだが、内部だけは異常なまでに暗く、それがある種の不気味さを醸し出している。
──それはもしかしたら、俺だけが勝手に感じているだけのものかもしれないが。
いやね、暗闇×蠍のコンボはもう滅茶苦茶味わってきてるんだわ。
普通に嫌に決まってんだろ。
何人かが松明で照らしているとは言え、苦手意識は刷り込まれたなら中々消えないものだ。
帰っても良い? と思っていたらそっと誰かが俺の手を握った。
……いや、誰かというか、そんなことをするようなのは一人しかない訳なのだが。
「これで少しは怖くなくなるか? オリオン」
「怖がってんのはそっちだろ……絶対傍から離れるなよ、アルテミス」
「ああ、決して離れるものか」
私の居場所は此処だからな──と恥ずかしがることも無くアルテミスが言う。
あるいは、顔くらいは赤く染めているのかもしれないが。
残念ながら俺も顔が赤くて目を背けていたため分からなかった。
この神、歯の浮くことばっかり口にするんだよな……等と、そんなことを考えてれば、ようやくというか何というか。
モンスターはやってきた。
あの洞窟で見たのと同じタイプのモンスター。
黒の甲殻に、怪しく光る赤のラインが入った蠍。
それが今、群れをなして大量の声──のような音を立て、同時にレトゥーサの号令が響いた。
──のは良かったのだが、何というか戦闘自体は本当にあっさりと全て終わってしまった。
いや本当に一言でこんなことを言ってしまって良いのか、という気持ちはあるのだが、しかし本当に苦労することも無く蠍はその姿を露と消していた。
考えてもみればそれも当然の出来事であった、ということなのだろうが。
なにせあの時とは状況が全然違う上に、俺より強いのが(飽くまでステイタス上の話ではあるが)少なくとも五人以上はいる訳だ。
しかも人数自体も二十人以上いるし、その連携がまた完成され尽くしているのだ。
何か俺が手を出す前に終わった、というか前衛の五人と真ん中に固まっていた魔法使い軍団の火力で一瞬だった。
魔法ってやっぱり滅茶苦茶凄いんだな……と実感した瞬間である。
アルテミスファミリアの場合はメインの魔法使いとして五人固まっているのだが、全員が炎系の魔法を使うようで合わせて放てばそれはもう物凄い火力である。
お陰でパッと光ったと思ったら後は炭と化した蠍が出来上がっていた。
つえーなおい、本当に。
俺の苦労とか不安とか何だったの? と思うと同時にアルテミスの余裕は此処からか、と思った。
そりゃ安心するという訳だ。
そういうことなら早く言えよ、見た方が早いだろう、だなんて段々と楽になってきた気持ちで軽口を言い合っていれば、不意に全体の進行が止まった。
最奥──という訳ではない。
そこにあったのは、一つの扉だった。
三日月と、それに向かって
ここが、アルテミス所縁の場所であるはっきりとした証拠。
「ここ、本当にお前の神殿だったんだな」
「逆に此処は何だと思っていたんだ、オリオンは」
「いやだってでかいけどめっちゃ廃墟じゃん……この先は、そうでも無さそうだけど」
「──分かるのか?」
「まぁ、流石にな。多分、モンスターの根城ってのが、この先なんだろ」
「恐らくは、な」
アルテミスが、言葉と共に首肯する。
同時に、腰に差していた短剣を静かに抜いた。
「魔法隊、詠唱を」
レトゥーサの声が響き、五人の魔法使いが前に出る。
同じ炎系の魔法と言っても、当然ながら詠唱は別々だ。
こんがらがったりしないのかなぁ、と何となく思った。
いや歌うたってる時に他の奴が違う歌うたい始めたら分かんなくなるじゃん。
そういうアレ。
「何を暢気なこと考えているんだ」
「いやだから脳内盗み見るのやめろって……」
「オリオンが分かりやすすぎるんだっ」
何て、そんなやり取りをすると同時に扉は開け放たれた。
他でもない、レトゥーサの手によって、静かに扉は開き──そして。
炎は放たれた。
炎──あるいは焔と称した方が良いのかもしれない。
一人分の魔法だとしても蠍くらい焼き尽くすには充分すぎる程の火力。それが今五つ重ねられて、扉の先の全てを蹂躙し尽くした。
赤、青、黄、緑、紫。
それぞれの色をした焔が混じり合って、あらゆるものを焼き、焦がし、嘗め尽くす。
拮抗するように飛び出してきた蠍の軍勢のその全てを、真正面から叩きのめ──焔が消えたころには、すっかり綺麗な道が出来上がっていた。
多少焦げ臭くはあるが、それほど焼き尽くしたということだろう。
「え? こんなあっさりなのか?」
「そうでなければ安易に踏み込むなどしない、お前は少々、私の子供たちを侮りすぎだ」
コーン、と頭をアルテミスに叩かれる。
それ自体は痛くなかったが、微妙に言葉が痛かった。
──侮る、か。
それは、確かにそうなのかもしれない。
そもそも恩恵なんて無くてもモンスターと充分やっていける、と思っていたから俺は今まで村で狩人をやっていたのだ。
そこらの冒険者となら十全に渡り合えると思っていた。
傲慢と言えば傲慢だったのかもしれないな、と思いながら、狭くなった道を全員で歩いていけば巨大な広間に出た。
ここが神殿だと言うのなら、まあここは祈りを捧げる場所だったりしたのだろうか。
これだけの規模の神殿だ、相当の人数がいたのだろうし、可能性としては無くはないのではなかろうか。
「ありゃ、道別れてますねぇ、どうするんですか? 団長」
ランテの言葉通り、円形になっているこの広間には俺達が通ってきた道以外にも通じている道があったようで、先の方に幾つも出入り口が設置されていた。
グルリと見回してみれば、俺達の通った道を覗いて七つ。つまり八本の道が存在するという訳だ。
何かいきなりRPGの面倒くさいダンジョンみたいになってきたな、と思う。
これ絶対それぞれの道の先に宝箱あるし、ボスのところに向かう道だけ奥に鍵付きの扉あるだろ。
め、めんどくせ~……。
そんなことを思ってたらレトゥーサと目が合ってめっちゃ睨まれた。
多分あの女も人の脳内読み取る機能持ってるんだよな。
子は親に似るってやつかもしれない。
「また変なことを考えているな?」
「いやそのやり取りもうさっきやったから──」
ドッ、と音が鳴った。
音と共に、目の前で血飛沫が上がった。
同じアルテミスファミリアの団員であるエルフの戦士が一人、頭から容赦なく砕き潰された。
原形が分からなくなるほどの質量で、押しつぶされている。
何に? と問う必要はなかった。
見覚えのある漆黒の尾、それでいて、見たことの無い程に巨大。
「──!」
「散開!」
アルテミスを引き寄せ地を蹴るのと、レトゥーサが指示を出したのはほとんど同時だった。
ワンテンポだけ遅れて他の団員が地を蹴り飛ばす。
それに追従するように、
既に地に突き刺さった尾を起点にするように、巨大な体躯の何か──いいや、蠍が。
さながら撃ち出されたかの如くの速さで天井から地面へと落ちてきた。
「っ、下がれ、アルテミス!」
「無茶だけはするなよ、オリオン──全員、戦闘態勢! 落ち着け、いつも通りにやればいい!」
伝播する動揺を、アルテミスの声が振り払う。
同時に各々の武装を手に持って、全員が
黒の甲殻に、怪しく光る赤のライン。そこまでは良い──というか、概ねの特徴は今までの蠍とは何一つ変わらない。
違うのは、その大きさと、溢れ出す禍々しさだけだ。
まだ、誰も戦意は折れていない、出鼻は挫かれたがアルテミスの声で全員立て直した。
「総員攻撃開始! 前衛は後衛から気を逸らすように積極的に前に出ろ! 後衛はいつでも放てるように詠唱を!」
レトゥーサが、その綺麗な赤髪を揺らしながら声を張り上げて、全員が自分の配置へと着いた。
その中で、ランテと俺が同時に飛び出す。
「私が合わせます、オリオンさんは好きに動いて!」
「良いのか!?」
「もっちろん、派手にかましちゃってください!」
数回の短いやり取り。
レベルが上ということは総合的に──ステイタス上の話ではあるが──俺の方が力が高い。
ついでに言えば、冒険者における集団戦闘の経験自体が俺よりランテの方がずっと上だ。
だからこその提案、拒む理由は無かった。
静かに息を抜き、トン、と小さく地を蹴って──そして。
「がっ、あ──?」
嵐のような一撃が放たれた。
一撃、そして一瞬。
豪速にして豪快、かつ効果的な蠍の尾。
超大な質量の尾が、広間をごっそり抉り抜くように放たれて。
滑り込ませた両手のガードごと、自分の壊れる音が鼓膜にこびりつくように響いて──一瞬、意識が飛んだ。
「ぎ、ぃ……ぁあ?」
痛みで飛んだ意識を取り戻す。
慢性的に生まれる全身の痛みを握りつぶして目を見開けば、広がっていたのは地獄絵図だった。
原形をとどめている団員が、ほんの数人しかいない。
それも全員がレベル2以上で、ランテに至っては──アレを、本当にランテだと断ずるのであれば、だが──上半身は消し飛び、痙攣した下半身だけ、無様に地に落ちていた。
詠唱していた筈の魔法使い組も、同じように飛び出していた筈の前衛たちもみな、一様に身体の半分以上を失っている。
死した人間は戻らない、一瞬で、十五人が死んだ。
どこまでもあっさりと。
恐ろしい程あっけなく。
ドラマ性も、何もなく。
ほとんどが一瞬にしてその命を落とした。
俺が助かったのは、ひとえにレベル2としての肉体があったからに過ぎない──そこまで考えて更に目を凝らした。
アルテミス、アルテミスはどこだ!?
「────ぁ」
声が出ない。
けれどもいた、他の団員に守られたのか、あるいは奇跡的に回避ができたのか。
それは分からないが、それでもアルテミスは地に伏すことでその五体を留めていた。
良かった、と思った。
思うと同時に、マズイと察した。
蠍が、アルテミスの方を向く。
──あぁ、私の命はお前に預けるよ、オリオン。
交わしたばかりの言葉が、脳裏をよぎる。
アルテミスの安心したような顔を、俺のことを本当に信用してくれている眼差しを思い出す。
まともに動かない腕を無理矢理動かして、持ってきたポーションを叩き割った。
血のように赤い液体が、腕と足を急速に癒し──それも待てずに地を駆けた。
蠍がアルテミスの方を完全に向く──間に合え。
蠍の尾が、余裕そうに宙で揺らぐ──間に合え。
アルテミスが逃げようと立ち上がる──間に合え。
間に合え、間に合え、間に合え! 間に合え!! 間に合え!!!
「ぁぁぁああああああ!」
叫びを上げた。
意図してものではなく、自然に声が出ていた。
威嚇するように、こっちを向けというように。
全身を以て、全霊を以て雄たけびを上げながら駆け抜け──尾は放たれた。
スローモーションのようだった。
鋭く研がれたかのような尾が、何よりも速く、何よりも強く。
情は無く、考慮は無く、躊躇いは無く。
全てを無視してアルテミスを狙い放たれ──
「こっちだ、アルテミス!」
「オリオン!」
彼女の腕を掴んで引き寄せる、引き寄せながら身体を無理矢理回す。
激しい摩擦が靴を通して感じられ、尾が肩を掠めるように通り過ぎて地を穿つ。
ただそれだけで、爆発のような衝撃が起こった。
激しい風圧に晒されて、それでもアルテミスを離さず二人纏めて吹き飛ばされる。
「ぐっ……づぅぅ!」
「オリオン! 怪我が!」
「もうポーションはない! それよりさっさと──」
逃げるぞ、という言葉は発せられなかった。
発することができなかった、息つく暇もなく地を蹴った。
突き刺さった尾を起点に、蠍は跳ねる。
「くっ、そ──」
レトゥーサ達に頼むしかない、と思って一瞬だけ目をやるが、しかし広間で動いているのは俺とアルテミス、それからあの蠍しかいなかった。
絶命、あるいは気絶している。
助けは、求められない。
状況は最悪だった、一瞬にして、最悪に陥った。
──どうする? 違う、問うまでもない、逃げる。
どうやって? どのように? アレをどう、かいくぐる?
自問自答は、答えが出ない。
ただ今だけは、全力で走るしかない、とだけ思った。
アルテミスを抱き抱える。
「だい、じょうぶだ、大丈夫。アルテミスだけは、俺が守るから」
「オリオン──オリオン、オリオン。ダメだ、私を置いてでも、逃げて……」
「お前がいなきゃ、この先を生きたって仕方ないだろっ!」
アルテミスがいるからこそ、意味がある。
それは、アルテミスがいなければ意味が無いのと同じだ。
「私だってそうだっ、だけど、それでも!」
「良いから捕まってろ!」
──走る。
ただただ、ひたすらに。
どこまでも地を駆ける、適当な道にさえ入れば、ある程度は逃げやすくなる。
そう信じて、前を見る、走る。
限界があるのならそれを超える、限界以上を無理にでも引き出す。
刹那、蠍のノイズのような奇声がひと際鋭く空間を劈いた。
耳に障る──どころではない。
全身が一瞬だけ固まった、気迫によるものなのか、それとも
何も分からないが、駄目だ、って思った。
この刹那の停止だけで、全てが終わったと直感した。
尾を、避けきれない。
アレをまともに喰らえば一撃で死ぬ、俺はまだしも、アルテミスだけは駄目だ。
覚悟を、決めろ。
「アルテミス」
「ふぇ……?」
「これが最後だ──最初で、最後になるんだけど」
「オリオン……? なにを──」
「愛している、できれば一生、忘れないでくれ」
アルテミスの返答を聞くことは無かった、聞く前にアルテミスを、全力で投げた。
できるだけ細い道の近くへ、なおかつ怪我はしないように。
尻餅をついたアルテミスが俺を見る、同時に、激しい衝撃が俺を襲った。
鳩尾をぶち抜くように、巨大な蠍の尾が顔を出して貫いていき──しかし、止まらない。
「──ざっけんなぁぁああ!」
もう力の抜けきっていた腕に力を入れなおす。
根性の見せどころ、気合の入れどころ。
俺の全てを以てでも止める。
手が削れ落ちていくのも構わず尾を握った、けれども尾は止まらない、止まらない、止まらない!
伸びて、伸びて、伸びて。
進んで、進んで、進んで。
尾は、アルテミスへ向かう。
駄目だ、やめろ。
声にならない叫びが響き──急激に、視界が傾いた。
グラリと落ちる。
何で? と思うと同時に理解する。
尾が、俺の身体を完全に両断したのだ。
ゴボリ、と血が吐き出され続けて、俺の身体はあっけなく落ちて。
そして、蠍の尾はアルテミスの胸を貫いた。
尖りきった尾の先端が、辛うじてアルテミスの胸を貫ききっていた。
間違いなく心臓。
俺が、もう少しだけ頑張っていれば、抵抗していれば。
あるいは、遠慮もせずに投げていれば、届かない距離だった。
その辛うじての差が、アルテミスの命を落とす結果へと繋げた。
守ると誓ったのに。誰よりも、自分自身に誓ったのに。
彼女に似合わない、真っ赤な血が吐き零されて、尾は彼女ごと軽々しく振られた。
ふわり、と高々とアルテミスの身体は宙を舞い、どうしてか、俺のちょうど真横へと受け身も取れずドシャリと落下した。
背負っていた、彼女の金の弓矢が転がり落ちる。
「ぁ、アルテ、ミス……」
声を、絞り出す。
それしか出来ないのが悔しくて。
涙を流すのも許されないほどの罪なのに、勝手に流れだす。
「オリ、オン……?」
アルテミスが、朧げな瞳で掠れた声を出す。
慈愛の眼差しを以て、俺を見る。
心臓に穴を開けられながら、それでも。
「ご、めん……俺の、せいで、守れなかっ、た……守るって、誓ったのに、ごめ、ん、アル、テミス……」
「ふ、ふ──泣くな、オリオン……」
「で、も──」
絞り出し続ける声を、しかし遮られる。
その華奢な腕で、震えながら、俺の涙をアルテミスは掬う。
「こんな話を、知っているか? オリオン。下界に降りた神々は、一万年分の恋を、楽しむそうだ」
「いち、まんねん……?」
「私たちは、無限を生きるが、子供たちは、そうではない。けれども子供たちは、生まれ変わる。生まれ変わった子供を見つけ、また、恋をする。一万というのは、比喩──言うなれば、悠久の恋だ」
「それ、が、なんだっ、て……」
「まだ、分からないのか? きっと、私も生まれ変わる。オリオンも、生まれ変わる。そうしたら、また会おう。何年後か、何十年後か、何万年後かは、分からないけれど。それでも、私は、オリオンのことを忘れない。また出逢って、また手を繋ごう。また、抱きしめ合おう。また、恋をしよう」
「そりゃ、また……ロマンチック、な話、だ。絶対、にみつける。アルテミス、のこと、忘れない。何度生まれ、変わっても、また、アルテミスのこと、好きになる」
「ふ、ふ、私も、だ……」
──愛しているよ。
言葉が重なり合う。
アルテミスが、儚げに笑って、俺にの手に、手を重ねた。
渾身の気力を以て、それを握れば、アルテミスは嬉しそうに笑って、そして。
その目を安らかに閉じた。
閉じると同時に、それはやってきた。
巨大な蠍が、口に当たる部分を震わせながら、静かに歩み寄ってきていた。
今更、何の用だよ、と思う。
思うと同時に、それは
──は? ちょっと待てよ、おい、待て、待てって。待ってくれ、駄目だろそれは、ふざけんな、おい!
「────!」
声がもう出ない。
蠍はその醜悪な口を以て、
骨が砕け、肉が潰れる音がする。
それにふざけるな、と叫ぶ声は、もう出なかった。
「────────ぇ」
しかし、次の瞬間、血を吐き出しながらでも声が出た。
いや、出さざるを得なかった。
何故なら、なぜならば────アルテミスが、結晶のようなものに閉じ込められて、現れたからだ。
蠍の甲殻の内側に、まるで一体化したように。
アルテミスの死体が、取り込まれていた。
──なんでだよ。
おかしいだろ、そんなのってないだろ。
アレでは、アルテミスは一生あのままだ。
生まれ変わることも無く、誰かに助けられることも無く、一生あのまま。
けれども、蠍はもう俺に目を向けることは無かった。
悠然と離れて行く、それを見ているしかない。
意識が遠退いていく、自分の情けなさに涙がまた出始めて、けれども次の光景は、俺の目を覚まさせるには充分だった。
ありえないほど発達したハサミが、レトゥーサ達を挟み潰す。
まだ死んではいなかったであろう団員たちが、ご丁寧に一人ずつ、潰されて死んでいく。
どうやらあの蠍は完璧主義らしい、くそったれが。
くそ、くそ、くそ……!
どうして俺は何も出来ない、どうして、何も為せない。
家族になった人たちを殺されて、愛する神は死体をなお取り込まれ。
俺はただ、ここで死んでいくのか?
恩恵が薄れていくのを感じながら、そう考える。
ふざけるな、と思った。
こんなのは認めない、と思った。
何か──何かまだ手はないのかと、そう思って。
そして、金の弓矢目に入った。
アルテミスの使っていた、アルテミス専用の武具。
それを見ると同時に、思考が急に回転し始めた。
弓矢──矢、魔法、月の一矢。
そうだ、俺には魔法がある。
神々からもたらされる、超常の奇跡。
腕はまだ動くか? いいや、動かなくとも動かす。
「ぁ……ぁぁぁああああ!」
もうボロボロで、指なんて原型もないのに金の弓と矢を手に取った。
身体を起こすことはできない、だとしても、矢を放つくらいはできる。
「【我が主神、我が月女神への愛を以て、我が主神、我が月女神より奇跡を賜う】」
詠唱を、吐き出すように紡いだ。
何度も何度も血が溢れてきたが、それでも。
掠れ切って、声になっていないところもあった気はしたが、それでも。
紡ぐ、言葉を。
愛した女への、愛を紡いで矢を引き絞った。
目なんてもうほとんど見えない、意識だってもう落ちそうだ。
だから、これに全てを懸ける。
代償──必要なのだというのなら、全部持っていけ!
この命、この肉体、この
俺の全部を懸ける、くれてやる!
だから、だから!
ここに、奇跡を────月の一矢!
そうして、矢は放たれた。
見たことの無いくらい、暖かくて、凄絶な蒼の光が視界を全て埋め尽くして───そして。
俺の意識が、身体は、精神は、魂は──存在は。
いとも容易く、崩れ落ちた。
──かくして、奇跡は起こる。
一人の青年、オリオンが放った矢は彼の魔法【月の一矢】によってコーティングされ。
彼の肉体を、彼の精神を、彼の魂を、彼の存在を代償に。
不可能を、可能に覆す。
オリオンという戦士が刻んできた歴史を帳消しにすることで、まだ死んでいない団員は神殿の外に放り出される。
オリオンという狩人が積み上げてきた功績を取り消すことで、死に、取り込まれたはずのアルテミスは、その意識の主導権を、一時的に握る。
『オリ、オン……?』
声にならない声を、アルテミスはあげる。
目の前でその肉体を塵と化す、愛した男を視界に収め、流せない涙を流す。
そして──その男のことを、段々と思い出せなくなっていくことに、アルテミスは気付いた。
月の一矢、代償によって奇跡を起こす魔法。
オリオンは、存在そのものを
それはつまり、彼の記憶も、記録もどこにも残らない。
オリオンという男が、歩んできた足跡をまっさらにすることで、アルテミスは、己の顕現を一部的に取り戻した。
『──ぁ、ぁぁ、ぁああああああ!』
音にならない慟哭を上げる。
アルテミスは敏い女神だった、オリオンという男が、何もかもを自分の為に捨てたのだと理解していた。
全てを捨てた上で、アルテミスが──後に、アンタレスと呼ばれるこの化け物から解放することは叶わなかったのだと、理解した。
理解した、理解してしまったからこそ、アルテミスは最適解を選んだ。
彼女の前に、一本の槍──否、矢が召喚される。
それは、神の手によって作られた武具。
神をも殺せる──つまり、神を取り込んだこの化け物すら殺せる【
アルテミスは、それに新たに名前を付けた。
『オリオン、私の愛する人──何千年、何万年経とうとも忘れない。その誓いの証拠に、私はこの矢に
オリオン──神々の言葉で、それは【射抜くもの】。
ちょうど良い、とアルテミスは思った。
いずれ、私を射抜いてくれ、と。
アルテミスは想う。
愛する男の名を持った矢で、私を貫き────そして、また出逢う。
悠久の約束を刻み、自分の魂の欠片を矢に埋めてから、処ではないどこかへと転移させた。
いずれ、誰かが見つけてくれる。
そうすれば、私の魂の残滓がそれを導き、そしてここに来るだろう。
この矢で射抜けば、この化け物も一撃だ。
重い荷を背負わせることになるが──神とは元来、我儘なものだ。
未来に、全てを託す。
そうすると同時に、またアルテミスの意識は薄れ始めた。
オリオンの起こした奇跡が、終わろうとしている。
奇跡は終わり、現実という名の地獄が戻る。
『その前に、もう一つ──!』
まだ終わらない、とアルテミスは自分の意識をつかみ取った。
そうして、本来自分のもつ、神々の権能を発動させる。
『此処は、この場所は、私を奉るために作られた神殿──であれば、私の力がまだ
神々の権能。
それを使うにはもう、オリオンの魔法によって辛うじて保っているだけにすぎないアルテミスには荷が重い。
それでも、アルテミスは諦めない。
最後に、これだけで良い、と。
アルテミスは全霊を以て、
あの矢を携えるものが来るまで、私の魂の残滓が此処に来るまで。
決して解かれぬように、と願いを込めて。
アルテミスは封印を成し遂げた。
彼女の髪色と同じ、そしてオリオンが最後に放った魔法と同じ、青の光が全てを埋め尽くし──そして。
アルテミスの意識も、また落ちた。
もう、顔も思い出せない。けれども、名前だけは刻み込んだ男の名を呼びながら、アルテミスはそっと目を閉じる。
────オリオン、また出逢ったら、今度は一万年分の恋をしよう。
そう、願いを込めて。
これは、一万年前に一人の男と、一人の女神を恋をした物語。
どこの記録にも残らず、誰の記憶にも残らない──消え去った、男の話。
愛した女神に、その愛を以て、名前を刻んだ男の、物語。
──あるいは、それでも名前を刻むことしかできなかった、男の物語。
──そして、一万年後。
月の女神は、オリオンではない少年を、オリオンと呼ぶ。
何故ならば、自分を助けてくれるのは。
自分を救ってくれるのは。
自分が愛するのは、オリオンという男だけだと、こころが覚えているから。
月の女神は、オリオンという愛した男と踊った踊りを、少年と踊る。
愛する人と過ごした記憶を、追うように。
愛する人と過ごした時間を、思い出すように。
最後にはオリオンではない少年と、恋をする────かもしれない、物語。
もしかしたら、そうならないかもしれない物語。
代償とした存在はそう易々とは覆らない。
けれども、その男にそれでも、絶えぬ愛があったのならば、もしかしたら覆るかもしれませんね。
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