穏やかな風が吹いていた。
洛陽を
呂布は、楽しそうだった。李岳も同じだ。自由。呂布と二人、どこへでも行ける。心が軽やかだった。
いまも国に仕え、それぞれの闘いを続けている仲間たちに対し、うしろ髪を引かれるような思いがないわけではない。それでも、みんなが李岳のことを想って送り出してくれたのだ。それに引け目を感じるのは、かえってみんなの気持ちを蔑ろにすることだと、思い遣りを受けたことを逃げるなどと表するなと、そう説教された。もっともなことだと、李岳も受け止めることができた。
ゆえに、李岳がするべきは、彼女たちを信じて、羽ばたくこと。呂布と一緒に、大切な片翼とともに心赴くままに
いまの中華は、限りなく泰平に近づいた。李岳たちに敗れた曹操は、李岳と交わした誓いを守り、漢の臣となった。逃げた孫権は、外交で追い詰めながら、様子見となる。少なくとも、すぐに戦になることはないだろう。
確かに火種はあるが、ともに闘った仲間たちならば、きっと大丈夫だ。李岳はそう信じることができた。
「冬至」
呂布が、李岳の真名を呼んだ。自らの真の名。心を許した者だけが呼ぶことを許される、命を預けることにも等しい、大切な名前。乱世に躍り出て、多くの友や仲間が出来た。真名を交わした者も、大勢いる。
肉親以外ではじめて真名を交わしたのは、目の前の娘が最初だった。なにが変わったとしても、彼女が自分にとって大切な存在であることは、ずっと変わらない。
「なんだい、恋?」
「次は、沙羅のところ?」
こちらも呂布を真名で呼ぶと、彼女はそう首を傾げて言った。姓は赫、名を昭、字は伯道、真名は沙羅。李岳たちの仲間であり、『盾』の異名を持つ、もと李岳軍の武将の中で最も守りの才に秀でた名将である。彼女は現在、洛陽の西にある長安に赴任している。
「ああ。長安に向かう。といっても、特に急ぐ旅じゃないし、のんびり行こう」
「ん」
いつもの無表情に、かすかにそうだとわかる程度の微笑みを浮かべ、呂布が頷いた。李岳も微笑んだ。
呂布は、前より笑うようになった。親しい人にしかわからない程度の変化であろうが、確かに前よりも笑うようになった。
二人、なにに追われるでもなく、こうやって一緒に穏やかに旅をできることがなによりも嬉しいのだと、李岳にはわかった。李岳も同じ思いだったからだ。
ここに至るまで、さまざまな出来事があった。
失われたものは多く、数え切れない。心折れそうになった時もあった。諦めそうになった時もあった。自分が救われることなど許されないと、己を追い詰めた時もあった。それでも、闘い続けた。
心の拠りどころとなっていたのは、父であり、母であり、仲間と友であり、志であり、なによりも大切な傍らの女性だった。
はじまりはきっと、彼女との出会いからだった。
匈奴と漢人の混血の血筋として生まれた李岳が、数えで十五になった年のことだった。山で、迫ってくる凄まじい殺気に虎と勘違いし、矢を放ったところ、あっさりと掴み取られた。李岳が虎と勘違いしたのは、李岳とそう歳の変わらないだろう少女だった。大事なく終わったのは安堵するところであったが、勘違いで人に向けて矢を放ったことに李岳は、自らに怒りを覚え、慌てて少女に謝った。
少女は、李岳の弓の腕を褒める以外は特に気にすることなく、李岳が連れていた山羊に構いはじめ、その後、食べ物をねだってきた。
呆れながらも不思議と彼女を邪険にすることができず、昼食として持っていた食べ物を渡した。事情を訊くと、匈奴の牧場から乳を盗んだことによる追手を警戒していたのだと説明された。友だちだという幼い仔犬、セキトに与えるための乳を盗んだとのことだった。事情を話しても分けて貰えず、盗むしかなかったのだと。
少女は漢人だった。匈奴の人間で、漢人に隔意を持つ者は少なくない。お金もなかったため盗むしかなかったという少女には、同情するしかなかった。
お金が欲しいなら仕官すればどうかと提案してみると、少女は早々に仕官すると決めてしまった。言っておいてなんだが、そんなんでいいのかと疑問を抱いてしまうほどにあっさりと決めてしまった。
別れを切り出そうとしたところで彼女から、呂布奉先という名と、恋という真名を告げられた。
姓は呂、名は布、字は奉先。前世の記憶の中にある、『三国志』における最強の武人と名高いその名に、李岳は驚愕するしかなかった。なぜ女の子なのか、呂布と知り合っていいことはあるのか、などとさまざまなことを考えたが、そんないろいろな思いを脇に置いて、李岳も李岳信達という名と、冬至という真名を返した。呂布は、とても綺麗な微笑みを返した。
それから、呂布との付き合いがはじまった。
仕官はやはり一旦思い留まるようにと告げ、李岳ができるだけ世話をすることにした。そこまで暮らしに余裕があるわけでなく、大食らいの呂布と、彼女が拾ってくる、自力で獲物を取れないほどに幼くか弱い動物たちを養うのはたやすいことではなかったが、彼女を史実の『呂布』のようにしたくなかった。状況に流され、裏切りを重ねた末に、最期には逆に部下から裏切られて凄絶な死を迎えた『呂布』のように、したくなかったのだ。
彼女の強さはまさしく天下無双。しかし、闘争に向いている性格とは思えなかった。口数は少なく無愛想だが、野に生きる動物たちが懐くほどに心優しく純粋無垢で、穏やかな日々を暮らすのが彼女には似合う。李岳はそう思った。自分もまた、そんな彼女と一緒に穏やかな日々を過ごしていきたい、とも。
そんなささやかな願いは、乱世を望む連中によって踏み
李岳の故郷である匈奴の地も含む謀略。放っておけば匈奴の地は荒れ、漢の地も、戦火に焼けることになるだろう。そのあとに来るのは、血で血を洗う戦乱の時代。父の言葉に覚悟を決めた李岳は、見て見ぬ振りをするわけにはいかぬと呂布を置き去りに、乱世に身を投じた。投じるしか、なかった。
并州刺史であった母の桂、丁原建陽の協力もあって匈奴による漢への侵攻を食い止めることはできたものの、これもまた陰謀の一環によって、母は獄に落とされた。
獄に落とされた母を救い、さらに国を守るためには、権力を手に入れる必要があった。ただ戦が強いだけでは、いいように使われるだけだ。国の中枢には、間違いなく例の謀略を
その世界で上に行くためには、反吐が出るような真似もしなければならない。壊れなければ無理だと、心のどこかで思ってしまった。壊れるために、彼女は邪魔だと、無意識の内にそう思ってしまったのだ。
汚い世界を生き抜くために同じように汚くなっていく自分を、見せたくなかった。
呂布を闘いに巻きこみたくなかった。李岳が汚い世界でもがくのを見せたくなかった。
闘わせたくない。闘ってほしくない。傷ついてほしくない。心配させたくない。嫌われたくない。失望されたくない。悲しませたくない。死んでほしくない。さまざまな意味で、彼女は李岳の行動原理のひとつになっていた。そのくせ、彼女を傷つけ、遠ざけた。置き去りにした。それが彼女を悲しませることだとわかっていながら、そうしてしまったのだ。
そんな李岳の苦悩を吹き飛ばすように、彼女は再び李岳の前に現れた。李岳を、救ってくれた。
反董卓連合との初戦。彼女が現れなければ、李岳は自滅同然の行動をとっていただろう。将来台頭するであろう、しかし当時はまだ小物でしかなかった曹操と劉備を殺すためだけに、犠牲を厭わず追撃を続けようとした。初戦の戦果は勝利といっていいほどで、そこで退くのがその場での最善だったはずなのだ。それが、いまなら殺せる、と思ってしまった。
それほどまでに、心が病んでいた。間違いなく荒んでいたし、躁鬱の気すらあったのではないかと思うほどだ。その直前で、母を亡くしたと思うしかない事態になったのも、それに拍車をかけた。
そんな状態で戦場の狂気に呑まれかけ、この二人を殺せるなら仲間の命すら惜しくないと、追撃を続行しようとした。間違いなくあとで後悔するであろう行動をしようとしていた。それをせずに済んだのは、そこに現れた呂布の姿を見たからだった。呂布が、李岳を止めてくれたのだ。
そして、祀水関の闘いに、彼女は現れた。李岳との一騎討ちのあと彼女は、うんざりさせに来た、恋は冬至とともに翔ぶと、李岳の頬に口づけた。彼女は、自らの意思で李岳とともに在ることを選んだのだ。
それに、救われた気がした。身勝手極まりない話だが、彼女の存在に李岳の心は救われた。最強と呼ばれる武力以上に、李岳を真っ直ぐに見て、寄り添ってくれる彼女の存在自体が、李岳を救ってくれた。
もう放さないと、その時、誓った。
その後も闘いは続き、多くのものを失い、大切な友を亡くしながらも闘い続け、ついに宿敵に勝利し、乱世はひとまずの終息を迎えた。
それでも、今後も暗闘は続く。武器を執っての闘いではなく、暗い政治の世界での闘いだ。呂布の武力も、そこではほとんど役に立たない。それでも、まだここで降りるわけにはいかないのだと覚悟し、片腕と呼べる軍師にそれらを奪われた。
皇帝や仲間たちも認めた、李岳の追放処分。すべての実権を奪い、漢という国にいた痕跡をすべて消し、もうこれ以上闘うことはないと、呂布とともにどこへなりとも行けという、みんなからの思い遣りだった。
李岳は、終わらない闘いから解放されたのだ。
「今日の野営だけど」
「ん」
「ちょっとした思い出の場所があるから、そこにしよう」
「思い出?」
「うん」
「ん、わかった」
深く訊いてくることもなく、呂布は頷いた。
途中、昼食も含めて何度か小休止を入れ、何事もなくそこにたどり着いた。洛陽からそう遠く離れていない野山である。近くに川がある程度で、ほかには特にこれといったものはないが、ここからちょっと移動すると廃屋がある。
「ここ?」
「うん」
「思い出って?」
「ここで、ねねに会った」
「ねねに?」
呂布が辺りを見回した。
「お腹が減って死にそうなところを、冬至に助けられたって聞いた」
「うん。ここで、ひとりで野営している時にね」
「ひとり?」
「いろいろと、まいってた時期だったからね」
黒狐から下馬し、苦笑しながら言った。
疲れ果てていた時期だった。仲間や友はいたが、自分の弱さを打ち明けることができず、先の見えない暗闘に心が摩耗していた。独りになりたかったのだ。
得意の天竺鍋を作っていたところ、ひとりの幼い少女と一匹の犬がフラフラと近寄ってきた。それが、ねねこと陳宮と、彼女の友であり愛犬である犬の張々である。
匂いに釣られてきたひとりと一匹に李岳は、作った天竺鍋を勧めた。両者とも、貪るようにして食べた。その後、陳宮という姓名に、公台という字、真名である
陳宮という名は、前世の記憶にある『三国志』の知識の中に、憶えがあった。在野に下った呂布に仕え、そこから最期まで運命をともにした軍師の名だった。
洛陽に戻り、起きた彼女から再び名乗りと口上を受けた。少し記憶が混乱していたようだった。
その後、力になりたいという彼女からの仕官の申し出を固辞し、日々を健やかに過ごして欲しいとだけ願った。しかし日に日に増えていく書類仕事に忙殺された李岳を見かねた陳宮の再度の申し出に、李岳は我が身の不明を恥じ、ついにそれを受け入れた。
彼女が居なければ、李岳軍が闘い続けることはできなかっただろう。軍の兵糧や武具の手配など、彼女のすさまじい手腕がなければ、戦が満足にできたかどうかすら怪しい。いや間違いなくどこかで破綻していた。適正の問題ではあるが、これに関しては
幼い少女が自らの食べる食事の量を削り、寝る間も惜しむほどに働かなければならないという状況に、そうさせてしまった自身の不甲斐なさに憤りを覚えることもあったが、彼女は泣き言こそ言えど後悔の言葉を吐くことはなかった。自らが選んだ道だと、誇りを持って李岳を助けてくれたのだ。
下馬した呂布が、懐に抱えていた愛犬のセキトを地に下ろし、李岳に寄り添った。袖をギュッと握られる。闘う時の剛力からは想像もできない、どこか弱々しい、儚げな力だった。
ああ、と李岳は笑い、呂布の頭を優しく撫でた。
「大丈夫。それに、ねねに会えたんだ。いまはもう、いい思い出だよ」
「ん」
その言葉に安心したのか、呂布がかすかに微笑んだ。
呂布はまだ、李岳が彼女を置き去りにした時、自分は闘えると、ついていくと言えなかったことを後悔しているようだった。李岳もまた、あそこで彼女を傷つける選択を採ったことに後悔がないとは言えないため、なにも言えない。お互いに、残り続ける傷だろう。
それでも、得たものは確かにあったはずなのだ。ただ傷つくだけではなかったと、そう信じたかった。
優しく撫でていた手を勢いよく動かし、呂布の頭をグシャグシャにかき混ぜる。彼女の頭から触覚のように飛び出る二本のくせっ毛がビョンビョンと跳ねた。呂布が、ムッとして李岳の腕を殴った。全力にはほど遠いだろうが、それでもなかなかの痛さだった。グワーッ、とわざとらしく声を上げ、呂布から離れた。
ムッとしていた呂布が、いつもの優しい無表情に戻った。李岳も苦笑し、二人でまず、それぞれの愛馬の世話にかかった。
匈奴の人間にとって、馬は友。駆けたあとは、労いもこめてまずは手入れ。呂布もまた、馬をはじめとする動物たちと心を通わせることができるほど動物好きであり、よほどのことがなければ李岳同様に馬の世話が最優先である。
愛馬の手入れをひと通り終えると、野営の準備にとりかかった。
まず二人で手早く天幕を張ると、呂布に火を熾して貰うことにして、李岳は獲物を狩りにいく。料理も含めて、当番は日替わりで変えることに決めていた。呂布の希望である。
空が赤くなってきたあたりで、狩りを終える。成果は、雉と兎が二羽ずつ。
戻ると、呂布はすでに火を熾し終わっており、セキトと戯れていた。川で釣ったのか獲ったのか、木の枝に刺した魚が数尾、焚火のそばに突き立てられていた。
「おかえり」
「ただいま。天竺鍋でいいかい?」
「ん」
呂布が頷いた。いつもの無表情ながら、期待に眼を輝かせている。尻尾があったらパタパタと激しく振っていただろう。
天竺鍋。李岳の前世の記憶の中にある料理、カレーを、この時代、場所で調達できるもので再現しようとしたものである。天竺鍋という名前は昔、烏桓族の長である単于、丘力居の娘の
自生している香草類を香辛料として使い、ココナッツミルクの代わりに山羊の乳を用いたりといった試行錯誤の結果、目の前の呂布をはじめとして、食べた人の大半からは好評価を受けるぐらいには旨いものができた。
特に呂布は、昔からこれが大好物である。匈奴で生活していた時は、貧しさゆえにそこはかとなく遠慮していたようだが、洛陽で李岳と一緒に生活するようになってからはそれを隠す気もなくなったようで、作ってあげるとたくさん食べる。
昔から、呂布が口いっぱいに食べ物を頬張るのが好きだった。李岳が作った料理を、幸せそうに食べてくれるのだ。
呂布の隣に座り、慣れた手順で料理を作る。時々話しかけてくる呂布に相槌を打ちながらも、料理の手が休むことはない。
ほどなくして、天竺鍋が出来上がった。まずは呂布の器に装い、渡した。夢中で食べはじめた。李岳も自分の器に装い、食べはじめる。うむ、旨い、と自画自賛する。呂布がおかわりした。たくさん作ってあるので、気兼ねなく食べてくれると嬉しい。李岳も何度かおかわりしたが、呂布には敵わない。時々、焼き魚にも手を出す。いい焼き加減だった。
大した時間もかからず、作った料理をみんな平らげた。
「ごちそうさま」
「おそまつさま」
呂布の声に応える。呂布は満足そうだった。呂布が満足そうで李岳も満足である。
呂布と手分けして食事の後片付けをすると、近くの草むらに寝転んだ。呂布も隣に寝転ぶ。かまって、とばかりにセキトが、李岳と呂布の間に挟まるようにして寝転んだ。苦笑しながら二人で撫でる。
夕焼け空が少しずつ暗くなり、瞬く星の光が増えてくる。月が出てきた。雲ひとつない半月の夜。祀水関で、彼女が李岳のもとに来た日の夜も、同じ空だった。忘れられるはずがない。
緩やかに時間が流れていた。月明かりが、傍らの呂布の顔を照らしている。
「沙羅のところに行ったあとは、西?」
呂布が、思い出したように言った。
「うん。敦煌に行って、それから人を集めて、
「人?」
「さすがに二人で行ける
「ん。わかった」
「嫌?」
「嫌じゃない。でも、ちょっと残念」
「うん」
気持ちはわかる。多くの人と一緒に、共通の目標に向かって進む旅も楽しいものだろうが、二人だけの旅路もまた心惹かれるものがある。だが、
身を起こす。呂布もそれに倣った。二人で焚火に近寄ると、そばにあった大岩に背中を預けて座りこんだ。セキトは空気を読んだのか、黒狐と赤兎馬のそばに行った。
呂布が、李岳の肩に頭を預けた。彼女のぬくもりが伝わってくる。
「これから」
「ん?」
「これから、この国、どうなる?」
呂布の言葉にちょっと驚いた。
「珍しい」
「なにが?」
「恋が、国のことに興味を持つとは」
「やっぱり駄目だったなんてやったら、如月を殴りに行く」
ハッハッハ、と軽く笑う。
「如月なら心配ないさ。華琳もいる。桃香殿もね」
司馬懿、字は仲達、真名は如月。
曹操、字は孟徳。真名は華琳。
劉備、字は玄徳。真名は桃香。
司馬懿は李岳が最も信を置いた軍師であり、最後に李岳を裏切ってくれた乙女だ。李岳を自由にするために、最後の最後で李岳を出し抜いてくれた。心の内ではほとんど諦めかけていた自由と平穏を、かなり強引な手段で押しつけてきた。言いたいことはいろいろあるが、それでもあるのは感謝の気持ちだけだった。
李岳の宿敵であった曹操も、李岳よりもずっと優れた頭脳と才覚を持っている。李岳が勝てたのは、天運がこちらにあったのだとしか言いようがなかった。謙遜や卑下の意図はない。どちらが勝っても不思議ではなかったのだ。互いに全知全能をぶつけ合わせた結果、李岳たちがわずかに上回った。それだけの話なのだろう。
劉備はその二人に比べれば凡庸だろうが、彼女の真価はそこにあらず、人を惹きつける魅力にある。それに、彼女の幕僚には稀代の軍師、『臥龍』、『鳳雛』の号を持つ諸葛亮孔明と鳳統士元の二人がついている。きっと民の平和のために尽力してくれるだろう。
彼女たちに加え、陳宮や丞相の賈駆文和、義妹にして、諸葛亮、鳳統に並ぶ『睡虎』の号を持つ徐庶元直、『堕天聖黒猫』という誰も呼ばない異名と謀略家として一流の資質を持つ李儒、口は悪いが徐庶たちにも並び得る軍略を誇る法正孝直に、曹操配下からも荀彧をはじめとした名軍師たちなどなど、李岳がいなくなった穴を埋めて余りありすぎる知恵者揃いである。
しかし、史実において対立していた三国の内の、二つの頭だった人物と、その二人を出し抜くかたちで国を興した血族の傑物。その三人が手を取り合っていると考えると、なかなかに興味深いものがあった。
「いや、これ、ほんと俺いらないな」
「バカ」
複雑そうに、呂布が言った。李岳は苦笑した。
「自分を卑下してるわけじゃないさ。ただ、俺が心配するのは、かえってみんなに失礼だなって」
これだけの人材が揃っているのだ。内政に関しては、心配することすら失礼だろう。もともと李岳は、方針や案などは打ち出せても、実際の政務となると司馬懿や陳宮をはじめとする文官に頼ることの方が多かった。発想力などは他者に比べて抜きん出ているだろうが、それも前世の知識あってのことだ。その知識も、いまの時代で行なっても問題ないであろうこと、可能であろうことはすべて書にして残してある。そこには、これもまた宿敵といえた田疇の思想に則った献策もある。いまはまだ、時代に即さぬものもあるだろうが、彼の志をただ李岳の中で留めておくのも偲びなかった。
いまだ対立する立場にある孫権に関しては、そこまで恐れることはないと思っている。外交で追い詰め、弱体化させて取り込めればそれでよし、血気に逸って戦を仕掛けてきたら、その時こそ叩き潰せるだろう。
孫呉に対して極めて相性のいい、李岳軍で『槍』と謳われた神速の猛将、張遼文遠、公孫賛の遺志を継ぐ趙雲子龍をはじめとした歴戦の武将たちと鍛え上げた兵士たちに、我が蘇武と呼べる心友、
暗部も、黒山賊の頭領、張燕と副頭領の廖化が作った組織、『永家』の諜報力は、もはやこの国では並ぶものがないと言っても過言ではないほどであり、それに対抗できた曹操配下の『触』もこちら側。情報戦も圧倒していると言っていい。
呉を侮るわけではないが、あらゆる面で、いまの漢に正面から太刀打ちできるものではないだろう。
だが、やらざるを得ない軍縮に伴う戦力低下を狙って、異民族が攻め込んでくる可能性は捨てきれなかった。それに乗じるか、あるいは火付け役として呉が動く可能性は充分にある。そういう意味では、油断していい相手ではない。
史実において、『司馬懿』の血族が建てた普という王朝の寿命は短い。さらにその後、異民族の台頭により国は散り散りに分化し、五胡十六国時代という混乱の時代が長く続くこととなった。
この世界、この時代に普が出来ることはないと確信している。みんな、漢の臣として、漢を守っていってくれるだろう。だが、異民族の侵攻は想定しておくべきだ。漢と友好関係にある匈奴が侵略してくることはないだろう。烏桓族と鮮卑族に関しては、それぞれ楼班と劉備軍の
「また、考えすぎてる」
呂布の言葉に束の間キョトンとし、苦笑した。
「まったくだ。もう骨の髄まで染みついてるな」
彼女の肩を抱くようにして、心配そうな呂布の頭を撫でた。
いま李岳が心配してもどうにもならない。いずれにせよ、すぐに起こる問題ではない。十年、二十年、ひょっとしたらもっとあとに起こるかもしれない、というものだ。そもそも、みんなを信じると決めたのだ。漢の臣でなくなったいま、ただの李岳として考えなければならないことは、ほかにある。
いまの李岳が一番考えなくてはならないのは、自分の幸せ、ひいては傍らにいる、誰よりも大切な伴侶の幸せ。ずっと李岳を支え、心配させ続けた彼女に報いなければならない。いや、報いたいのだ、と思う。
彼女が李岳のもとに来た時から、ずっと一緒に傷つき、苦しんできた。彼女が戦場で死ぬかもしれないと考えるだけで、李岳は叫び出したくなるような衝動に襲われた。呂布も、終わらない闘いに李岳が苦悩し続けてきたのを、ずっとそばで見てきた。
一度だけ彼女は、やめよう、もう充分だと、一緒に逃げるからと言った。曹操との最後の戦の時、華雄を失い、
ほんとうはずっと、そう言いたかっただろうに、彼女は耐え続けた。友であった公孫賛を失った直後、いまさら救われようなどと思わないと李岳が言った時、彼女はどんな顔をしていたのだろうか。きっとあの時も彼女は、李岳を止めたかったに違いない。それでも彼女はなにも言わず、ただ李岳に寄り添い、支え続けてくれた。心の拠りどころでいてくれた。
なにも告げることなく単身で出奔し、敵陣の奥で負傷し、追い詰められ、もはやこれまでかと孤独に死んでいくことを受け入れそうになった時、そこに駆けつけてくれた呂布に助けられ、何度でも迎えに来るからと言われ、どれだけ嬉しかったことか。どれだけ救われたことか。
匈奴の地で、李岳の名誉を守るために無謀としか言いようのない条件の決闘を受けたと聞いた時、どれだけ怒りを覚え、どれだけ彼女が愛しくなったことか。
すべてを捧げんばかりの献身に、その想いに応えずして、なにが男か、と思う。
血の
漢を、皇帝劉弁を守りきったのだと、そう思った。
劉弁からの好意に、気づかぬふりをした。誘いのままに李岳が彼女の後宮に入れば、間違いなく火種となる。そうとわかっていて、入ることなどできようはずがない。
彼女への忠誠に嘘偽りはない。不敬ではあろうが、兄のような気持ちがあった。兄が、妹の幸せを願うのは当然のことだ。自らの幸せを度外視してしまっていたこともあり、臣として闘い続けるのだという覚悟だけがあった。
ただ、幸せになることなど考えられないと言いながらも、すべてを果たした時にそばにいてほしい
そのたったひとりの
「恋は、なにかやりたいこととか、あるかい?」
「いま、してる」
「なんだい?」
「冬至と一緒に旅」
自然と、顔がほころんでいた。見ると、呂布もだった。はじめて会った時に見た、花のような微笑みだった。この笑顔に、自分は見惚れたのだ。
きっとあの笑顔を見た時から、彼女に心奪われていたのだ。
「ほかには?」
「冬至の作ったごはん、もっと食べたい。恋が作ったごはん、冬至に食べてほしい。一緒にごはんを食べていきたい」
「うん」
「一緒に馬で駆けたり、お昼寝したり。ずっと一緒にいたい。あとは」
呂布がちょっと考えこむ仕草を見せた。
「ちょっと思いつかない」
「そっか」
「冬至は?」
「俺も同じだよ。恋と一緒に旅。俺の作った料理を食べてほしい。恋の作った料理を食べたい。一緒にごはんを食べたい。一緒に馬で駆けて、一緒に昼寝して、ずっと一緒にいたい」
「ん」
呂布が顔を赤らめた気がした。焚火の灯りかな、と気づかないふりをした。可愛らしかった。
「それで、旅を終えたら、匈奴に戻って、静かに暮らそう」
「いまは、いいの?」
「ちょっと心惹かれてるけど、老後の楽しみにとっておこうってね」
「ん」
「楽しみだなあ」
まだ若いのだ。二人ともまだ二十を少し過ぎた程度で、僻地に隠居するには気が早すぎる。可能な限り世界を見てみたい。
あ、と呂布が声を洩らした。
「もうひとつ、ふたつ、やりたいことがある」
「なんだい?」
「子作りと子育て」
不意打ちに、躰が固まった。少しして、呂布が顔を赤くして俯いた。こちらも顔が熱くなった。
関係自体はすでに持って久しいというのに、こう改まって言葉にすると無性に恥ずかしく感じるのはなんなんだろうか、などと思う。
二人が関係を持ったのは、およそ四年前。
公孫賛を救うこと叶わず、洛陽に帰還して少ししたあと、呂布が夜に部屋を訪ねてきた。彼女にしては珍しいことに、酒を持ってである。
二人で静かに呑んだ。会話はほとんどなかった。ともに真名を交わした共通の友である公孫賛を、そしてこれまでに失われた命を悼むように、ただ静かに呑んだ。
ほろ酔い気分の中、ひとつの衝動が湧き上がった。目の前の乙女が欲しい。彼女の存在を確かめたい。彼女のすべてを知りたい。抗いがたい衝動だったが、理性が制止をかけた。欲望のままに彼女を穢すのか、救われようなどと思っていないと言っておきながら、浅ましい肉欲を満たすつもりか。
懊悩する李岳を、呂布は優しく抱き締めた。彼女は顔を紅潮させ、潤ませた瞳で李岳の眼を見つめた。感情が理性を吹き飛ばした。気がつくと、口づけていた。本能のままにまぐわった。
互いの存在を確かめ合うような、激しくもどこか優しい交合に、李岳は気分が少し上向いたのを感じた。俺も恋も、生きているのだと、そう思うことができた。
その後も、頻繁ではないが肌を重ねた。寄り添う呂布の存在は、ともすれば死者に引っ張られそうになる李岳の心を繋ぎ留めてくれた。
二人の関係を公表することはしなかった。気恥ずかしさもあったが、関係を持ったこと以外、お互いに特になにかが変わった気もしなかったからだ。恋人になった、という気もしない。ほんとうに、お互いに向ける感情が、これまでと特に変わった感じがしなかった。そもそも肉体関係を持ったなどという話を他人に言うのも憚られる。なら、わざわざ言わなくてもいいのではないだろうかということで、呂布も同意した。
ただ、李岳の屋敷に同居する者たち、陳宮や徐庶、母の丁原あらため高順は、それとなく勘づいていたのかもしれない。赤ちゃんが出来たとの呂布の発言に、母は拳を握って喜びを顕にし、陳宮と徐庶は李岳を簀巻きにした。そのあと母は、妊娠したのは呂布ではなく黒狐だと聞き、がっかりしていた。李岳もまた、安堵と残念な気持ちが入り混じる複雑な気持ちになった。
それはともあれ、曹操との決着をつけ、ただの李岳となり、住んでいた屋敷を手放し、あずま屋に呂布と二人で移り住んだ。それまでに比べてまぐわうことは増えたが、国を出ていく前にやらなければならないことも多かったため、やはりそこまで頻繁ではなかった。
「うん。そうだな。母さんたちにもいつか、孫の顔を見せてあげたいしな」
なんとなく気恥ずかしさを感じ、視線を逸らしながら言った。母は一線を退き、しばらくの間は剣術師範の真似事でもして人を鍛えるとのことだが、折を見て夫、つまりは李岳の父でもある李弁のもとに身を寄せるつもりらしい。剣に生きた母が、ついに鞘にそれを収め、置くのだと思うと、李岳も安心することができた。願わくば、父と一緒に穏やかな余生を過ごして欲しい、というのは余計な気遣いだろうか。
ふっと、以前、徐庶から言われた言葉を思い出した。
気遣われる方が悪い、気づかないふりをするのは、その百倍も悪い。
その時は、なんのことやらとわかってないふりをした。もっとも、彼女はそれに気づいていただろう。
思えば、呂布との関係については、多くの人から気遣われていたのだ。救われることなど考えていないと、幸せなど求めていないと嘯いても、呂布だけは放したくなかった。周りからもそれを見抜かれていたのだろう。彼女と二人きりでいる時など、ほとんど邪魔された憶えがない。そう考えると、我ながら滑稽だった。ほんとうに、みんなから気遣われていたのだな、と思うとやはり感謝しかない。いまさらだが、二人が関係を持ったことを周りに教えておくべきだったのだろうか。趙雲あたりに滅茶苦茶からかわれそうな気もするが。
あの、筋肉の化身とでも形容するしかない貂蝉から聞いた予言、凄絶な苦痛というのがなんだったのかは、もはやわからない。ただ、仲間や友、そしてこの大切な伴侶が傷つき、命を落とすような事態になっていたのかもしれない。
結果としてそれを未然に防いでくれた司馬懿には、やはり感謝しかなかった。
「痛たっ!?」
脇腹をつねられた。結構、力が入っていた。見ると呂布は、拗ねたように頬を軽く膨らませていた。
「ほかの女のこと考えてた」
やはり、拗ねたような声音だった。
果たして貂蝉は女性の範疇に入れていいのだろうか、と思ったあと、いや司馬懿の方か、と思い直す。
「やましいことは考えてないって。こうして二人で旅ができるのも、如月のおかげなんだよなって思っただけだよ」
「んぅぅ」
複雑そうに呂布が呻いた。苦笑する。言ってはみたが、確かにこの雰囲気でほかの女性のことを考えられるのは面白くないよな、と思った。
拗ねたようにこちらを見つめる呂布に顔を近づける。呂布がわずかに眼を瞠り、瞳を閉じた。そっと口づける。少しして、唇を離した。
「するの?」
「したい。恋は?」
「ばか」
わざわざ訊くな、ということなのだろう。顔を赤くしたまま、呂布は離れようとしない。期待に顔を上気させている。李岳も躰が熱くなっていた。
二人、寄り添い合いながら天幕に向かう。片時も離れることはない。もう放さない。お互いに、在り方でそれを示し続ける。
ふっと、空を見上げた。呂布もそれに倣う。
煌く星が見えた。その隣には、紅く輝く星も見えた。
***
光が眼に入り、呂布の意識が覚醒する。瞳を開くと、誰よりも大切な人の顔が間近にあった。寝息を立てている。
お互いに生まれたままの姿で抱き合い、毛布だけが躰に掛かっている。
今朝の李岳の表情は、とても安らかだった。昔、匈奴の地で一緒に昼寝した時によく見た、呂布の好きな寝顔だった。それに安堵する。
洛陽では、つい最近までほとんど見た憶えがなかった。
司馬懿のおかげと考えるとちょっと癪だが、感謝するしかなかった。ただ、彼女に対する敗北感のようなものはあった。
結局、呂布は闘うことしかできなかったのだ。李岳の矛として闘うことはできた。だが、それしかできなかった、とも思う。あと、できたのは、そばに居ることだけ。それが間違っていたとは思わないが、もっとなにかできたのではないか、という思いは強かった。呂布にできないことで、司馬懿は李岳を救ってくれたのだ。自分も、政治のことなども勉強するべきだったのだろうか。
そこまで考えて、小さく
後悔はいくらでもある。それでも、彼の心を一番支えたのは自分だ、と思う。それだけは誰にも否定させない。これからも支え続ける。そばに居続ける。必要とあれば武を振るう。いままでと変わらない。違うのは、もう彼を縛るものはなにもない、ということだ。誰かのためにと、やりたくもない闘いをする必要はなくなった。彼が、自分を押し殺す必要はなくなったのだ。
ある意味では、お互いが枷になっていた。
最後の一戦以外、李岳は呂布を死地に飛びこませるのを
だが同時に、それでよかったのだ、とも思う。だからこそ、あの決戦でいままでにない力が出せたのだ。あれは、二人で生きて帰る大きな力になったという確信がある。
ただ、怒りと殺意に身を任せて獣のように闘い、李岳を悲しませてしまったことだけは後悔している。感情のままに動いてしまう悪癖に関しては、ほんとうにどうにかしたい。李岳は気にしないし、友である趙雲はそれがいいところでもあると言ってくれたが、それでも李岳に心配をかけてしまうことであれば直したいと思う。少なくとも、李岳が心配せずに済む程度にはなりたい。
みんなに、祝福された。李岳を憎からず想う者は少なくなかったが、みんな祝福してくれたのだ。李岳は任せた、李岳を幸せにしてくれ、李岳と幸せになってくれと、送り出された。
しかし、それはある意味では、どうでもいいことだった。李岳と一緒にいるのは、誰かに頼まれたからではない。義務でもなんでもない。彼とともに在るのは、呂布の意思だ。
彼と一緒に居たいから、彼を幸せにしたいから、彼と一緒に幸せになりたいから、彼とともに在ることを望んだ。だから、みんなの分まで、などと言う気はない。ただ、呂布の気持ちに、みんなの気持ちを少しだけ足す。それだけだ。それだけでいいのだ、と思う。
みんなからの祝福を、呪いにしてはいけないのだ。だから、呂布は自分の意志だけで、李岳のそばに居るのだ。
李岳の瞼が少し動いた。起きる、と予想する。
予想通り、少しして李岳が瞳を開いた。
「おはよう、冬至」
「ああ、おはよう、恋」
「今日は恋の勝ち」
言うと、李岳が楽しそうに笑った。別に大したことではない。あずま屋に移ってからはじめたことだが、一緒に寝た朝は、どちらが先に起きたかという些細なことを競っているだけだ。いまのところ、六対四で呂布が優勢である。
勝者の権利として口づけを所望する。瞳を閉じて唇を突き出すと、温かく柔らかいものが唇に軽く触れ、離れた。朝なのでこれくらいでいい、と物足りなさを振り切る。セキトたちの世話もしなくてはならない。
みんな、家族だ。いずれ家族は増やしたい。李岳と呂布の子であったり、赤兎馬と黒狐の仔であったり、セキトにも相手を見つけてあげたいところだ。きっと大変だろうが、それを上回るぐらい楽しくなるだろう。
手早く身支度を整え、自分たちの朝食も含めて、するべきことを終える。
朝食後の小休止で、昨日と同じように二人で草むらに寝転がる。やはり寄ってきたセキトと二人で戯れる。
空は、いい天気だった。荒れる様子はない。風も昨日同様、穏やかなものだった。
「さて、今日はどうしようか?」
「二号と黒狐が走りたがってる」
犬のセキトが一号で、赤兎馬がセキト二号である。なんとなく響きが好きで、二頭とも同じ名前だ。会った順につけただけで、優劣はない。
呂布の言葉に、李岳が頷いた。
「じゃあ、今日は黒狐と赤兎馬が満足するまで走るか」
「ん」
小休止を終え、日課に入る。李岳との立ち合い稽古。全力でやれば呂布が負けることはほとんどないが、それでも油断はできない。しない。なにも考えずに闘うと、思いも寄らぬ攻撃が飛んでくるのだ。
俺を見ろ。そう言われているような気がして、どこか
私を見て。そんな気持ちで、こちらも攻撃する。
互いだけを見て、感じ合う。これもまた、呂布と李岳の交感だった。
やがて立ち合いを終えると、再度の小休止のあと、天幕を片づけ、荷物を纏めた。荷をそれぞれの愛馬に分担して積む。
セキトを懐に抱え、赤兎馬に跨った。李岳も黒狐に跨る。二騎で同時に駆け出した。風を受ける。穏やかな風もいいが、自分も風になったかのようなこの峻烈な風もまた心地よい。
二騎、張り合うようにして駆ける。並の馬ではまず追いつけない速さで駆ける。世界は自分たちだけのものだという錯覚すら覚える。
しばらく駆けるとやがて満足したのか、赤兎馬と黒狐がどちらともなく足を緩めた。早足で並走する。まだちょっと走りたがっているようだ。少し休んだら、もう一度駆けさせよう、と李岳と話す。
遠くに、空を往く鳥が見えた。二羽。寄り添うように飛んでいる。
ぽー殿の書かれる『李岳伝』は甘さ控えめ。ゆえに尊き。ゆえによき。
しかし、直球で甘いのもまた、よき。需要があるかどうかではない。供給がないなら己で書くのみ。書いた。
呂布隊の者たちが、『李岳と呂布の仲を見守り隊』とか、ありであろうか。
『李岳伝』を読み返すと、冬至殿は恋殿のこと好き過ぎではないだろうかというか、この男、呼廚泉との決闘のところでもうすでに恋殿に完全攻略されてませんかね、ってなる。いや男の名誉のために無謀な条件の決闘受ける女とか惚れん方がおかしいが。
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盾が守るもの、槍が貫くもの、剣が収まるところ
パチッと瞳を開く。
目が醒めた瞬間から、赫昭の意識は
今朝の目醒めは、いつにも増してよかった。躰が、なにかを感じとっている気がする。どこか待ち遠しいという気持ちがあった。
身支度を整え、部屋を出る。毎日というわけではないが、見回れるところは可能な限り見回るように決めていた。まだ早朝ということもあって、当直の兵士以外の人影は少ない。
城壁の上に出た。空を見上げる。いい天気だ。遠乗りにはもってこいの日だろう。赫昭自身はそれほど趣味というわけではないが、いま現在、この長安を目指しているだろう二人は、二人の時間が合えばなにかとそれを行なっているほどに好んでいた。
李岳と呂布が洛陽を発ったという報せはしばらく前に届いている。真っ直ぐ来るのであれば、もうすでに着いているころであるが、のんびり旅をしているようで、まだ二人は姿を見せない。
そろそろ梅雨時になる。さすがにその前には来るとは思うが、ちょっと心配になってきた。
「っと、いけない、いけない」
自分が心配することではない。いや友であり仲間である二人を心配するのはなにも間違っていないだろうが、逆に言えばそこまでの関係なのだ。二人には二人の歩調がある。李岳も呂布も、二人で穏やかに過ごすことをずっと待ち望んでいたようだし、二人で平穏を噛み締めているのだろう。
胸が、ちょっとだけ痛くなった。赫昭にとって李岳は、敬愛する主君であり、仲間であり、友であり、同志であり、想いを寄せる男性であった。愛していたのだ、と思う。それを伝えることはしなかった。
想いを伝え、李岳が赫昭の身を慮るようになったら、赫昭を死地に追い遣ることができなくなったら、自分はそれこそ後悔するだろうと思った。赫昭にとっては、李岳を守ることこそが本懐だった。
『盾』として、この人を守り続けるという栄誉だけは、決して手放してなるものか。そう思った。そのことを後悔したことはない。近くに居れずとも、この方を守ることはできる。己の責務を全うするのだ。その決意のままに闘い続けた。
曹操との最後の決戦の時、赫昭は遠く長安より、李岳に呼び戻された。李岳の指揮の下で再び闘う。待ち望んでいたことだった。
そこで、李岳と呂布を見て、赫昭は己の役割を再び思い定めた。李岳の身と心を守る。彼のそばでそれを行なうのは、呂布に任せた。赫昭は遠くで、陰でそれを行なう。自然と、そう思った。
李岳の心を守る。失えば、彼が壊れるであろうものを、守る。
敬愛するかつての上司であり、李岳の母である高順。恋敵であるとともに信頼する友である呂布。
この二人だけは、なにがあっても絶対に死なせない。そう思い定めた。
二人への個人的な感情ももちろんあるが、それ以上に李岳の心を守りたいという想いがあった。この二人を戦で
かつて、『丁原』が死んだと思うしかない事態になった時、李岳の精神は明らかに壊れかけた。なんとかギリギリで持ち直したと言えたが、無理をしていることは明白だった。どこか荒んでいると感じていた言動の荒み方が、加速していった。
呂布が陣営に来てから、それはなくなった。正確には、反董卓連合との初戦、騙し討ちを受けたあと、李岳が昏睡状態になって目醒めてからであるが、その騙し討ちを受ける直前に呂布と対面したというのがなにかきっかけになったのではないか、と思っている。それに、呂布が来てから李岳がどこか明るくなったのは間違いなかった。
李岳と呂布が互いを大切に想っていることも、呂布が李岳にとって特別な存在であることも、すぐにわかった。赫昭だけでなく、陣営の全員がそうだろう。なにせ、彼女が来た日の夜、二人だけで外に天幕を張って寝泊まりする、などということをやったのだ。初日だけであったが、李岳には大変珍しいわがままで、李儒などは妄想逞しくしていたほどだ。
それに対し、目くじらを立てる者はいなかった。少なくとも、そのことに対する不満が赫昭の耳に入った記憶はない。李岳が普段から自分を押し殺して職務を遂行していることは、ある程度の立場以上の者はみんな知っている。そんな彼のちょっとしたわがままは、その内容もあってむしろ微笑ましいと見られるものだった。
それから呂布は、常に李岳の隣にいた。職務内容を考えると実際にはそこまでではなかったのかもしれないが、あの二人の心は常に寄り添い合っていたのではないか、と思う。それを羨ましく感じたことは一度や二度では利かないが、では自分に呂布の代わりができるかというと、間違いなく無理だったろう。武はもちろん、在り方も。
曹操軍との決戦の時に見た呂布の力は、怖気すら感じるものだった。李岳を苦しませる曹操軍に対して怒りと殺意のままに武を振るい、たったひとりで敵の戦線の一点を破壊した。人にかなう技ではなかった。さらには、曹操軍と孫権軍の武将、合わせて三人を同時に相手して圧倒し、なおも戦線を破壊していたのだ。怒りと殺意に呑み込まれた呂布は、後退の指示すら無視し、さらに殺そうとしていた。
獣のように闘う呂布を赫昭が止められたのは、ひとえに李岳への想いあってこそだった。李岳の心を守る。その一心からだった。
そして呂布もまた、その凄まじい力が李岳への想いゆえなら、止まったのも李岳への想いゆえだった。おまえまで死んだら冬至様がどうなると思う、という赫昭の叫びに呂布は理性を取り戻し、獣のように闘っていたことを悔いていた。
果たして戦は終わり、司馬懿の企てによって李岳は終わらない闘いから開放された。当然ながら赫昭もまた、その企てに賛同した。李岳の指揮の下に闘うことが叶わなくなるのは寂しいが、彼の心を守るのが赫昭にとっての最優先事項。司馬懿の目的を考えれば、拒否することなどあり得ないことだった。
ひと通り見回りを終えると、朝食のあと、書類仕事に移った。
書類仕事は、昔に比べれば多少はよくなった。一枚の書面を読み解くのに半日かかっていたころが嘘のようだ、と思える程度にはなっている。それでも、やはり書類仕事は苦手だった。兵の調練や、躰を動かす方が性に合う。それでもやはり、仕事は仕事だった。苦手だからといって全部文官に丸投げするわけにはいかない。
思えば、李岳が執金吾だった時は、それらを全部李岳に任せてしまっていた。非常に申し訳なく思う。穴があったら入りたくなるが、ほんとうに穴に入ると職務放棄になるので勘弁して貰うしかない。
特にこれといったこともなく昼を回り、書類仕事がひと段落したため再び見回っていると、そろそろ夕刻になるというあたりで、副官が呼び掛けてきた。
「お二人が、参りました」
その言葉に眼を見開き、頷いた。先導に従い、歩き出す。
しばらく歩くと、見慣れた二人の姿が見えた。李岳と呂布。赫昭に気づいたのか、二人が軽く手を挙げてきた。思わず手を振って返していた。
近づく。胸の鼓動が激しくなっていた。
久しぶりに見る二人の顔は、特に李岳の顔は、いままでに見たことがないほど穏やかな顔をしているように思えた。
これが、本来のこの人の顔なのだと、赫昭は感じた。傍らに寄り添う呂布とともに、穏やかに在る。これが、本来の二人なのだと、赫昭は感じた。
かすかな胸の痛みと、それを打ち消すほどに大きな安堵を覚えた。
これから二人は、長い旅を往く。困難は数多くあるだろうが、それでもこの二人ならきっと大丈夫だと、赫昭は思う。
***
硬いもの同士がぶつかり合う澄んだ音が響き、片方が持っていた得物が宙に舞った。剣。陽の光を照り返し、クルクルと回りながら落ちてくる。張遼も含めて、二人の試合を見守っていた者たちは眼を瞠り、それを視線で追いかけた。交差した二人の間で、剣が大地に突き立つ。
二人に視線が集まった。互いに背を向けるような恰好で、得物を振り抜いた姿勢で立つ二人、高順と馬超。高順の手に剣はなく、馬超の手に槍は残ったままだった。
かつて潼関の戦いで、高順と馬超は一騎討ちを行なった。その時の決着を彷彿とさせた。
違うのは、今回の勝者は、その時と異なるということ。
「勝った」
二度、三度と呼吸する間を置いて、馬超が呟いたのが聞こえた。
馬超は槍を持ったまま、ぐうっと拳を握り締め、溜めたかと思うと、思いっきり天に拳を突き上げた。
「勝ったぞおおおおおおおおーーーーーーーーーっ!!」
馬超が吼えた。将も兵も関係なく、歓声が響き渡った。
「やれやれ、最後の最後にこうも見事に一本取られるとはな」
言ったのは、高順だった。悔しさよりも、嬉しさの方が勝っているように見えた。
「まあ、これで私も安心して引退できる」
「おい、桂。まさか、最後に花を持たせようとか考えて、手を抜いたりとかしてないだろうな!?」
「馬鹿を言うな。全力でやったさ」
「ちゅーか、そういうのは立場が逆やろ。引退する方が手を抜くとかはやらんやろ」
曹操との決戦で重症を負った高順であるが、傷はすでに癒えた。傷の深さと年齢もあって、以前ほど長く闘い続けることは難しいとのことだが、短時間ならばそれまでと変わらない動きが可能だそうだ。実際、今回の立ち合いも、張遼の目にはこれまでと変わらない動きだった。
馬超が、高順を超えたのだ。高順を師と仰ぐ張遼としては、なんとも言い難い悔しさのような感情もなくはないが、嬉しそうな高順の顔を見るに、それを言うのは野暮というものだろう。
張遼もまた、高順を超えて久しい。軍略においては、『陥陣営』と異名されるほどにすさまじい高順にはまだまだ及ばないと感じているが、個の武においては張遼が大きく超えた。馬超と張遼の実力は、そう大きく変わらない。自分で言うのもなんだが、総合的には張遼の方が馬超を上回っているだろう。馬超が高順に一度も勝ててなかったわけでもないし、戦績としては馬超が勝ち越していると言っていい。
しかし、高順に対してこれほど見事に一本とったのは、張遼も馬超も一度あったかどうか。それを、ここで魅せてくるとは。
そう思うと、血が滾ってしょうがなかった。馬超に負けてなるものか。
師匠を超えることこそ弟子の務め。
自分は、あなたのおかげでこんなに強くなれました、という感謝の気持ち。
それを実際に魅せることこそ、弟子としての、師への恩返し。
「よっしゃ、桂様、次はウチと勝負!」
「おいおい、霞。私は翠とひと勝負終えたばかりなんだぞ。少しは老体を労れ」
「そうです。次は私です。母上に、娘として成長を見ていただきます!」
「珠悠。おまえもか」
「ふむ。では、その前に私がお願いしようか。引退前に、この『常山の趙子龍』の槍さばき、とくと目に焼きつけて貰わねば」
「ちょ、待てや、星っ、どさくさに紛れて順番抜かそうとすんなや!?」
「えーっと、一応、私も一本、お願いしようかなー。お姉様に負けてらんないし?」
「私も手合わせ願いたい。あのようなものを魅せられて、動かずにはいられん」
「す、すみません、私もお願いします。華雄さんから受け継いだ大斧を、見て欲しいです。すみません!」
「たんぽぽ、凪殿、藍苺まで。まったく。おまえらときたら。引退前に私を過労死させるつもりか?」
言いながらも、高順は楽しそうだった。
李岳の追放処分の話が出たあと少しして、とある医者が洛陽を訪れた。
かつて死の淵にあった高順を救ったという、李岳が探していた名医、華陀。彼が洛陽に現れ、漢軍の主だった者や、体調がいささか気になる者たちに対して健康診断とやらを実施した。名医の名に恥じない腕前に、多くの者が助けられた。今後も定期的に健康診断は実施するとのことである。
健康診断のあと、高順は引退することを表明した。
火種はあっても、天下泰平と呼んでも差し支えないほどに情勢は安定した。これ以上、高順が闘いに身を置く必要はない。旅立つ李岳たちを安心させるためにも、高順は引退することを決めたようだ。
李岳と呂布が旅立つまで、時々ではあったが高順は、李岳たちと家族水入らずで過ごす時があった。李岳と徐庶はもちろん、呂布もである。呂布は高順を、お母さんと呼んで慕っていた。呼んでいたのは、はじめて会った時からであるが、とにかくみんな心安らかに過ごしていたようで、翌日などはほんとうに高順かと思うほどに優しい表情を見せていた。
ともあれ、李岳と呂布は旅立ち、高順もそろそろ引退を、と考えたようだった。
張遼と曹操に高順がそれを伝え、せっかくだからという曹操の提案で、高順の送別会、兼、高順による最後の立ち合い稽古が開催された。高順は呆れながらもそれを受けた。場所は洛陽近くの野営地である。軍務もあるため希望者全員参加というわけにはいかなかったが、それでも高順に世話になった者の多くが、なんとかそれに参加できるよう調整していた。
一番手は、馬超が強く希望した。傍目にわかるほどに闘志を漲らせていた。
短くも永い対峙。
場に充溢する闘気。
勝負は、一瞬だった。
馳せ違い、高順の剣が飛んだ。
見事な、一戦だった。
あの立ち合いを見て、心沸き立たない武人がいるものか。二番手は譲らん。
そんな勢いで将兵問わず次々に立ち合いを希望し、途中から高順相手だけでなく希望する者同士での立ち合いも野営地のあちらこちらではじまり、気づけば夕刻。そのまま宴となった。李岳の送別会、というのもなんであるが、あれほどに盛大にはしない。高順が断ったし、財政を管理する陳宮も、さすがに年内でこれ以上派手にやるのは無理、と悲鳴を上げた。
それでも、可能な限り食事と酒は振る舞われた。
あちらこちらで笑い声が響く。
張遼も、高順をはじめとする主だった者たちとともに食事と酒を楽しんでいた。
「しっかし、西かあ。いまさらですけど、ほんまに大丈夫なんでしょうか」
「なに、あの二人なら心配ないだろうさ。立場があった時とは違って、恋がいれば冬至は無理せんだろうし、恋もよほどのことがなければ冬至を心配させるようなことはせんだろう」
「とかなんとか言っちゃって、ほんとは心配なんでっしゃろ?」
む、と高順が押し黙った。
「ええやないですか、母親なんですから。息子とその嫁さんの心配したって、誰もなんも言いませんて」
「母親だからさ。子どもが誇れるような、恰好いい親でいたいっていう見栄ぐらいある」
「それ、母親の見栄とちゃう気がするんですけど」
どっちかっていうと父親の見栄やないですかね、それ、と張遼は呆れて言った。
フッ、と高順が苦笑した。
「まあ、母親らしい真似なんぞ、ほとんどした憶えがないしな。私が教えたことといったら、剣ぐらいのものだ」
少し自嘲しているようにも見えたが、誇らしいと言ったふうでもあった。
「おまえは、よかったのか?」
高順が、静かに訊いてきた。
穏やかになったなあ、と張遼は思った。昔はもっと苛烈だった、と思う。思い遣りはもともと強い人であったが、それを表に出さない人だった。
ただ、失望したなどということは決してない。昔も恰好よかったが、いまはそれに親しみが増した。そう思う。
高順の言葉に張遼は、愉快なものを聞いたと声高く笑った。
「心配だからって、あの二人についてくとかはさすがにできませんし。あの甘々な空気。苦ーいものが欲しくなってかないませんわ」
「そうか。そうだな」
高順が優しく笑った。心の内を見透かされた気がして、それを誤魔化すように、張遼は注がれた酒をひと息に呑んだ。
李岳についていく。それを考えたことがないわけではないが、それは駄目だろうと思った。
李岳の隣には、呂布がいた。二人の間に割って入れる気はしなかったし、二人の邪魔をしたくもなかった。張遼は、李岳も呂布も大好きなのだ。
李岳の心には、ずっと呂布がいた。
匈奴の侵攻を止め、洛陽で暗闘を続けていた時から、李岳はある一定の線から人を踏みこませないようにしていると感じていた。
信用も信頼もされていただろうが、心の奥底に張遼や赫昭を踏み込ませることはなかった。仲間や友としての線引きから踏みこませることはなかった。
そこには、すでに誰かがいた。それは侵させないとばかりに、線引きが為されていたという気がした。そんな間合いのとり方だと感じた。李岳が『丁原』の死を受け入れ、この国を守ると張遼たちと誓い合ってからも、その一点だけは変わらなかった。
呂布が陣営に加わった時、こいつがそうか、と思った。思うところがまったくなかったわけではないが、最初に真名を告げられたことで、それはひと欠片も残さず霧散した。張遼だけでなく、主だった将全員に告げられたのだ。
会ったばかりの者に真名を預ける。すなわち無条件の信頼。それを受けて、隔意を持てる者などいるはずがない。口下手で無愛想だが、心優しい少女だとすぐにわかった。李岳が大切に想うのもわかる。武人としての対抗心はあったが、嫌うことなどできない、できるわけがない、と思うほどにいいやつだった。
李岳は、呂布を特別大切にしていた。戦場でも常に呂布を気遣っていた。露骨なものはない。呂布の強さならもうちょっと無理ができるだろうなと感じさせる程度のもので、充分危険なところに投入する。それゆえに不満を覚えたことはない。
むしろ、あの強さは、李岳の隣で彼を守るために振るって貰った方が安心する。なにかと無茶をしたがる李岳の身を守るのも含めて、ともに本陣にいて貰った方がいい、と思うこともあった。敵を叩き潰すのは自分たちの仕事だと、二人はそこで黙って見てくれていても構わないと、そんな気概で闘った。
二人は、血を好まない。二人、方向性は異なれど誰よりも強いくせに、血に酔う趣味がない。そんな二人が無理に闘う必要があるのか。李岳の指揮下で闘うのは大歓迎であるし、呂布とともに闘うのもやはり頼もしくて大歓迎だ。だが、どうしても二人に闘って欲しいかと問われれば、悩み抜いた末に首を横に振るだろう。
張遼は、血が好きだ。仲間の血は嫌だ。だが敵の血は大歓迎だ。敵が血を流すのはすなわち、仲間が流す血が少しでも減ることと同義だからだ。自分が血を流すのも厭わない。仲間を守るためならいくらでも殺し、自分が血を流す。
そんな血なまぐさい自分が、安寧を望む李岳と呂布の旅についていっていいわけがない。
きっと二人は、そんなことと気にしないだろう。張遼が気にするのだ。それに、張遼自身、そんな安穏とした旅に我慢できなくなるだろう。戦がしたくなる。闘いたくなる。きっと、穏やかな旅に
張遼は戦人だ。闘うのが仕事であり、生きがいだ。乱世を望みはしない。無辜の民が死んでいくことなど求めない。仲間が死ぬのは嫌だ。だが闘わなくてはならないのなら、張遼は自ら望んで戦場に立つだろう。
張遼は、老いさらばえ、躰の自由が利かなくなるまで戦場に立ち続けると決めていた。
天下泰平に近づいたと言っても、火種はある。戦は起こり得る。その時は、神速の『槍』と謳われた自分がいの一番に駆け、敵を貫く。李岳と呂布、友たちとともに守り抜いた国を守るために闘う。
いつか二人が戻ってきた時に、おかえりと言うために。
二人と守った国は健在だぞと、胸を張って言うために。
宴もたけなわ、曹操も途中から宴に参加し、歓談は続いていた。陳宮も一緒に来て歓談していたのだが、疲れていたのだろう、張られた天幕でひと足先に眠りに就いた。
「空想を楽しんでみましょうか」
ふと思いついたように、曹操が言った。
「空想?」
高順が訊くと、曹操が頷いた。
「麗羽との戦の前、冬至と恋が私の陣営内に来た時、そんな愚にもつかない話をしたのよ。ここであなたを殺せばいろいろと楽になるかしら、ってね。それに対する返答がそれ」
「自分も同じことを考えていた、とでも言ったかな、冬至は?」
「当たりよ。まあ、お互いにそのあと自分たちが滅亡するだけって結論だったけど」
ともかく、と曹操は咳払いした。
「もしも冬至がいなかったら、天下はどうなっていたのかしらね」
張遼が、いささか気分を損ねたように鼻を鳴らした。
「例え話にしても、あまり愉快な話題やあらへんな」
「他意はないわ。ただ、間違いなく天下の趨勢は変わったでしょう」
「ま、そらな。とりあえず、匈奴の侵攻でえらいことになってたやろうな」
「それに乗じて涼州も侵攻して来たりね」
「おい華琳、だからなんでうちをすぐに侵略させたがるんだよ!?」
「いや、常習犯だし」
「だから、言うなっ、たんぽぽ!」
従妹の馬岱の言葉に馬超が叫ぶ。みんなで笑い出し、歓談とも議論ともつかぬものがはじまる。
董卓はどうなっただろうか、反董卓連合が結局結成されていたら洛陽は保っただろうか、曹操は、袁紹は、孫呉は、公孫賛は、ひょっとしたら劉備あたりが台頭していたかも、などなど、歴史のもしもを語るという、さほど意味のない、しかしそれゆえにいろいろと考察しがいのある話でそれぞれの持論が展開されていった。
李岳がいなかったらどうなっていたか。母親としては考えたくないことだが、ふっと思い浮かぶことがあった。
「巡り合わせ次第だが、恋のやつを娘として引き取るなどしていたかもな」
高順がそう言うと、みんな眼を瞬かせた。
「娘、ですか?」
「以前、冬至と恋に聞いたのだが、恋は暮らしていた村を賊に襲われ、家族が散り散りになり、周りから疎まれ村を出て、流浪の末に匈奴にある野山に流れ着いたらしい。セキトも含めて、家族だという動物たちを養うために、冬至は結構無理していたと聞いている」
「それが、なにがどうして娘に?」
「冬至がいなかったら、匈奴で暮らしていくのは無理だったろう。あの当時の匈奴は、ごく一部を除いて漢人に隔意を持っていた。恋の性格では交流もおそらく難しかった。食料の調達、生活することすら、ままならなくなったろう。となれば、彼女が行く先は」
「晋陽の方、かしらね」
「ふむ。禄を得るために仕官してくる、と」
曹操と趙雲の言葉に頷く。
「ああ。実際、冬至も最初、恋にそう提案したらしい。もっとも、冬至はすぐにそれを撤回し、冬至本人が世話するようになったそうだが」
ふむ、と趙雲がなにか考える仕草を見せた。
「恋が仕官してきたら、どうしてましたかな?」
「間違いなく受けたな。そして、娘にしていたという話に戻る」
もっとも、と軽く息をつく。
「私は冬至と違って、恋を闘わせることをためらわなかっただろう」
「あの武を見れば、誰だって同じことをするでしょう。僻地で逼塞していい才ではないわ」
「
趙雲がボソッと言った。視線が彼女に集まる。
「匈奴で恋と会った直後、私も同じことを冬至に言っておりましてな。だが、彼は恋を闘わせることを決して肯んじなかった。駆け引きができない、闘争に向いてないとね。いまでもはっきりと思い出せる。人質でも取られれば、彼女はやりたくもない殺しをさせられるだろうと。錐を錐として扱える者がどれだけいるのか、辺り構わず振り回して傷つくのは錐ばかり、血を浴びるのも最後に折れるのも、ととにかく心配で堪らなかった様子」
「ベタ惚れやなあ」
「うむ。まったくだ」
「でも、もったいないわね。当時から凄まじい強さだったのでしょう?」
「ええ。その時に彼女が持っていたのはツルハシでしたが、それですら勝てるかどうかわからない、死を覚悟する必要がある、と思うぐらいには」
「ツルハシで、それほどまでに」
「む、昔からほんとうにすごかったんですね、恋さん」
「常山の趙子龍がそこまで言う腕前。華琳殿の言う通り、もったいないな」
楽進、徐晃、高順が続けて言うと、趙雲がわずかに眉をひそめた気がした。
「思うのですよ、李岳という将軍は、呂布という武人を使いこなせていなかった、と」
唐突に、趙雲はそう言った。
「ほう?」
「その心は?」
「言葉通りですよ。彼が彼女を死地に向かわせたのは、知る限りでは華琳殿との決戦のみ。それ以外は、激戦区ではあっても、彼女の力量ならまだ余裕があるところばかりでした」
「そうね。それ以外の戦場で冬至は、生きるか死ぬかという場面に恋を投入することはなかった。いえ、できなかった」
「然様。華琳殿や桂殿が呂奉先を配下にしていたならば、間違いなく李岳よりも使いこなしていたでしょう。李岳は、彼女を大切に想うあまり、彼女を死地に向かわせることができなかった。呂布を武器として遣うことができなかった。これは間違いなく、李岳という将軍の限界であり、弱点でした」
「ちょ、ちょい待ちや、星。そんな言い方」
「華琳殿や桂殿の下で闘う呂布は、あらゆる兵を斬り、将を殺し、陣を踏み潰したでしょう。『人中の呂布』の名に恥じぬ戦果を中華に轟かせたことでしょう。そして」
趙雲が、皮肉げな笑みを作った。どこか冷たい笑みにも見え、それが自分たちに向けられているような気がした。
「そして、凄絶な死を迎えたことでしょう」
外界と切り離されたように、この一角だけ音がなくなった気がした。高順も含め、ともに歓談していた者たちが息を呑んだ。背筋がヒヤリとした。その冷たい声音のせいか、言葉の内容のせいか、自分でも判然としなかった。
「いまは、冬至が懸念していた理由がよくわかる。華琳殿や桂殿だけでなく私もそうであったし、白蓮ですら恋の武力をもったいないと評した。呂布の強さはまさしく、振り回してみたくなるほどに良い錐だったのでしょう。ゆえに、思うのです。呂布はきっと、どこかの戦場で死ぬこととなっただろうと。言われるがまま、命じられるままに武を振るうことしか知らず、あるいは状況に流されて闘うことしかできず、望んでもいない殺戮をくり返し、いつしか心が
考えすぎだ、と喉まで出かかって、しかしなにも言えなかった。周りの者たちも同じだった。趙雲と呂布は匈奴から出奔した時からの付き合いであり、付き合いの長さと深さはここにいる誰よりも上と言っていい。その言葉は、否定し難い説得力を持っていた。
「しかし」
趙雲が、綺麗な笑みを浮かべた。慈しみに満ちた笑みに感じた。この乙女がこのような笑顔を浮かべることができるなど、高順は思ってもみなかった。
「しかし、そうはならなかった。恋は死ぬことなく、冬至とともに帰ってきた」
ふふふ、と含み笑いを洩らす趙雲はやはり、楽しそうだった。
「恋という乙女を真に最強にしたのは、できたのは、彼女を大切に想う冬至という男だったからこそだと、最強の武人ではなく、ただひとりの女として大切に想う冬至という男だったからこそだと、私は思うのですよ。事実、あの決戦で冬至を守るために恋が振るった力は、まさしく人の敵うものではなかった。人の姿をした鬼や獣だと言う者もいましたが、私は彼女を龍と称します。人に化身した龍、とね。不敬かもしれませんが」
『常山の昇り龍』と異名をとる乙女が、楽しそうに笑った。
「人に化身した龍は、しかし己が龍であることを忘れ、人の身には不相応な力のみが残った。されど
だが、そうはならなかった、と趙雲は言う。
「彼女のそばにいたのは、闘わせることなど考えず、ともに穏やかな日々を過ごすことだけを願った男。彼女を守るために自らが傷つくことを選んだ男。だからこそ彼女は、彼を守るために自らの意思で闘うことを選び、強くなることを望み、誰よりも強くなった。彼女を武器として振り回すのではなく、花のように大切に愛おしみ続けてくれた人のためだからこそ、龍はその真の力を発揮することができた。そして龍は人として、愛する男と添い遂げる。そう思うと、なんとも美しい物語ではありませんか」
趙雲は、優しい顔をしていた。
李岳、呂布、趙雲の三人は、公孫賛という共通の友を失う場に居合わせたという繋がりがあった。飄々としていて、おくびにも出さないが、趙雲は李岳と呂布の二人に対して、並々ならぬ想いを抱いているのだろう。
不意に高順は、自分が言いようのない恥ずかしさのようなものを感じていることに気づいた。なにに対するものか、自分でもよくわからなかった。小さく
「意外ね。あなたがそんなふうに恋のことを語るなんて」
「泣き方も知らず、膝を抱えることしかできない。そんな姿を見ていますのでね」
曹操の言葉に、趙雲がそう言って肩を竦めた。
「妹みたいなもの。私はそう思ってますよ。きっと、白蓮もそうだった」
「妹。姉さんがですか、星様?」
徐庶が言った。徐庶は、李岳と呂布があずま屋に二人で移り住んだあたりから、呂布を姉上と呼ぶようになり、ともに冀州を回ってからは姉さんと呼ぶようになっていた。
趙雲が、徐庶に頷いた。
「うむ。珠悠も、私を姉さんと呼んでくれて構わぬぞ?」
「それは謹んで遠慮しておきます」
「それは残念だ。それはともかくとして、皆も知っての通り、私と恋は匈奴の地より出奔した時からの付き合いなわけだ。彼女が弱かったころのことも、知っている」
「弱かったころ?」
「さっきと言っていることが矛盾してないか?」
「力はあった。だが、どこか儚く、脆かった。芯がなかった。本人もそれを自覚していて、私と白蓮を前に、劣等感を抱えていたよ」
もっとも、と趙雲は笑った。
「彼女にはちゃんと芯があった。ただ単に、それを言葉にできていなかっただけだった。匈奴での闘いを終え、冬至の下にすぐに帰ることはできない、変わりたい、強くなりたいとはっきり言った。あの時の彼女の瞳は、忘れられない。それまで儚い光で茫洋としていた瞳が、はっきりとした力強さを灯したあの瞬間はな。蛹が蝶に羽化した、いや龍が目醒めたと、そう感じた」
趙雲が遠くを見た。どこか寂しそうな、切なそうな、しかし嬉しそうな瞳だと、感じた。
趙雲が腕組みし、生足が覗くことも気にせず翻すようにして足を組むと、不敵な笑みを浮かべた。いや、どちらかというと、李岳がたまに浮かべていた得意げな表情、ドヤ顔とやらの方が近いかもしれない。
「ま、なんだな。恋は私と白蓮が育てた、と言っても過言ではないだろう」
「ぷっ」
本気か冗談か定かではない口調で趙雲が言うと、空気が弛緩した。誰ともなく笑い出す。
「確かに、過言じゃあらへんかもな。やっぱり、恋の世話は大変だったん?」
「おう。それはそれは。なんせ、冬至に捨てられた、と放っておいたらずっとそこで蹲っていたのではないかというぐらいでな。それほどまでに傷心中の恋をどうにか引っ張り、幽州まで連れて行ったわけだが、卒羅宇殿、冬至が世話になっていた部族の族長だが、彼から赤兎馬を渡されていなければどうなっていたことか」
「いい馬を見てちょっと気分が上向いた、とかかしら?」
「御明察です、華琳殿」
「単純なやつだなあ」
「お姉様が言えることじゃないと思う」
「確かに。翠様も絶対同じ反応しますね」
「たんぽぽっ、あと珠悠もっ、言うなっての!」
顔を赤くした馬超が馬岱と徐庶に叫ぶと、また笑い声が上がった。
そのあともしばらく歓談は続いたが、やがて曹操のひと声で宴はお開きとなった。
月明かりのもと、高順は夜風に当たりたくなった。野営地を適当に歩き回る。
周りに人影がないところで立ち止まり、なんとはなしに北の方を見た。
匈奴の夫のところに身を寄せる。李岳たちにはそう話したが、不安が胸にあった。
母親らしいことをなにもしてこなかった。妻らしいことも、してこなかった。いまさら、夫のところに身を寄せるのは、ひどく迷惑なことなのではないか。そんな気持ちが、ふとした時に胸を支配する。
「桂殿」
声をかけられ、ふり向く。趙雲の姿があった。
「どうした、星」
「いやなに、なにやら思い詰めた様子だったので」
いつも通り、趙雲は飄々としていた。
思わず苦笑する。食えないやつ。しかし心の奥底には熱いものを持っている乙女。それでいて何気に人の機微に敏い。それが、高順の知る趙雲子龍である。
「星」
「なんです、桂殿」
「いまさらな気もするが、冬至と恋のこと、感謝する」
「さてさて、どれのことやら」
「それこそ、さまざまだな。おまえがいなければ、匈奴の侵攻を止めるための公孫賛殿の救援は望めなかっただろうし、恋も立ち上がることはできなかっただろう。ほかにも、戦場では私も含めて、おまえには何度も助けられた」
「なに、お互い様です。仲間ですからな。それに、もう二度と友は殺させない。そう誓いました。もっとも、その誓いも結局破ることになってしまいましたが」
公孫賛、そして華雄のことを言っているのだと、わかった。
大きく息をつく。夜空を見上げた。星が瞬いている。
「大きな戦は終わった。剣を置くと決めた。だが、心のどこかで迷っている」
「ほう?」
趙雲は、興味深そうに相槌を打ちながらも、急かすことなく耳を傾かせていた。
自分の半分ほどしか生きていない娘に語ることか、と思いながらも、ほかに語れそうな相手も思いつかなかった。張遼や徐庶、馬超といった者たちに対しては、年長者としての見栄のようなものが先に立ってしまう。腐れ縁の張燕にこういった悩み事を相談するのは、なにか負けた気分になるので抵抗がある。
その点、趙雲は立ち位置が独特なのもあって、こういったことが話しやすく感じた。武芸者として対等の、自立してここにいる女性だからだろうか。
「私は、武芸一辺倒で来た女だ。冬至を産んでからも軍務から離れることができず、夫に任せっきり。たまに顔を見に行くことはあっても、それも頻繁にはできず、ある程度成長した息子に対してしてやれたのは、剣を仕込むことだけ。我が子が悲しむとわかっていて暗殺に向かい、相討ちで消息不明。生還しながらも、軍から離れることはやはりできず、なおも戦場で人を斬り続けた。こんな女がいまさら身を寄せて、なんとするのだろうな」
言葉を紡げば紡ぐほどに、なんて勝手な女なのだ、と自嘲するしかなかった。
「剣は、いつか鞘に収め、置くべき物だと思います」
趙雲が言った。
見ると、やはりいつもの飄々とした笑みを浮かべていた。
「そして置いたからといって、ずっと置きっ放しにする必要もない。たまには手入れをするために鞘から抜く時もあるでしょうし、振ってみてもいい。ただ、抜きっ放しはよろしくない。きっと錆びてしまうし、場合によっては周りを傷つける」
趙雲が、笑った。
「いいではありませんか。迷うということは、行きたいからでありましょう」
「それは」
「恋人がいたこともない私が言っても説得力はないでしょうが、帰るべき場所、帰りたい場所があるのなら、帰ればよろしい。帰りたくないのなら帰る必要はないとは思いますが、そうではないのでしょう?」
天を仰ぎ、再び北に眼をやった。
「ああ、そうだな。私は、帰りたい」
夫のもとに。そして話したい。私たちの息子は、為すべきことを為したぞと、気高きに
これまでできなかった分、夫婦としてともに過ごしたい。身勝手であっても、その気持ちは抑えようがなかった。
「感謝する、趙子龍。おかげで、決心がついた」
「どうしたしまして。御礼は、メンマと酒で構いませぬぞ?」
「うむ。明日にでも贈らせて貰おう」
「おっと、まさか素直に返されるとは」
「感謝の気持ちだ」
「では、遠慮なくいただきましょうか」
言い合いながら、それぞれの寝床に向かっていく。今夜は、ぐっすりと眠れるだろう。
***
匈奴の地を進む。高順に同行するのは、李岳の友である香留靼と、匈奴兵の何割か。香留靼は一旦里帰りで、ほかは任期を終えて交代と、香留靼と同じく里帰りの者が混在している。軍縮に伴い、漢に常駐する匈奴兵も少しずつ減らしていくかたちである。
息子の友人だからといって、香留靼と特別多く話したことはない。いい機会だと話してみると、会話の内容は剣や馬術、騎射をはじめとする武芸のことと、やはり共通の知り合いである李岳と呂布が中心となった。
「そういえば、香留靼。何度か如月、司馬仲達のところに面会に行ったと聞いたが?」
「ええ。どうしても認めて貰わなくちゃならないことがありましてね。認めて貰えないのなら、友好関係の破棄も視野に入れると半ば脅しもかけました」
「ずいぶん、思い切ったな」
「それだけの価値があることですからね」
香留靼は肩を竦めた。
「外部の者には決して洩らさないって約束で、語り継ぐのを認めて貰いましたよ。あの二人を語り継がずに、誰を語り継ぐってね」
「冬至と恋か?」
ええ、と香留靼は頷いた。
「冬至はわかるが、恋はなぜだ?」
「幼い
「恋を語るとなると、相手方の男も話さなくては、か」
「そういうことです。李岳の連れ合いってことでも語られてますから」
李岳の話は多く、呂布の話は少なかった。呂布との付き合いはそこまで長いわけではないそうなので、それも当然といえば当然である。
ただ高順は、なぜか呂布の話の方が聞きたくなった。
「ある日突然、女を連れてきたわけですからね。びっくりしましたよ。漢人ってこともあって、最初は身構えるやつも多かったですけど、すぐに馴染みましたね。とんでもない強さだけど、気性が荒いわけでもないし。あとは、特に塩山の件ですね」
「塩山があるのは聞いているが、なにかあったのか?」
「ただでさえ働きっぷりがすごかったってのもあるんですが、崩落が起きたんですよ。俺や李岳は注意して作業の指示をしてたんですが、焦って掘り進めた男がいて、岩盤にそいつが押し潰されそうになった。そこに、ツルハシ二本を手に飛び出したのが姐さんです。降ってくる岩をそれで砕いて、男を肩に担いで助け出した。誰に言われるでもなく危険に飛びこんで、見事助け出したってこともあって、一躍人気者です。本人はだいぶ戸惑ってたみたいですが」
「なるほどな」
「特に女勢から気に入られてましたね。針繕いや酪作りとか、手つきは怪しいけど一生懸命で、無愛想で口下手だけど話しかけられればちゃんと応答するし、山羊や馬なんかの動物の世話は率先してやるし、子どもに対しても優しいしで、女勢からはほんとうに可愛がられてました。歌や踊りを教えられたりもしてましたね」
「おまえもよく見てたんだな。好いていたか?」
「勘弁してくださいよ。ちょっといいかな、と思わなくはなかったですけど、そんな気持ちにはなれませんて。あいつ、すげえ睨んでくるし」
「冬至か?」
「ええ。本人は自覚してなかったんでしょうけど。自分の息子の嫁に、と勧めてくる女勢に対しては眼が笑ってない笑顔を向けてました。まあ、それも多いものではなかったし、疲れたようにそこから逃げ出してくる姐さんは結局、李岳の野郎の方に行くんで、なにがあったわけじゃありませんがね。ふとした時に、やきもち妬いてんなあと思わせるようなそぶりは見せてましたが」
ハッハッハ、となにか愉快な気持ちになって笑った。
「やきもちか。あの冬至が」
「洛陽では、なかったので?」
「それどころではなかった、というのもあるだろうが、基本的に恋は冬至にベッタリだったからな。女同士で親睦を深める時はあったが。見ていると、自覚していたかはわからないが、恋がやきもちを妬く方が多かったな。なにせ、周りに女が多かった。好意を持っている者も少なくなかった」
「そりゃ羨ましい。男の夢ですね」
「奥方に言いつけるぞ?」
「そいつは勘弁。だけど、選ばれたのは呂布の姐さんか」
「冬至からすれば、選んだという意識もないだろうがな。恋以外には、ほんとうに仲間や友人としか思っていなかったという気がする。間合いというか距離のとり方が違った。踏みこもうとする相手には、牽制してるのかと感じる対応すらしていた時もあったな」
高順が知る限りでは、多少踏みこめたと感じたのは董卓ぐらいだろうか。
共犯者という意識がそうさせたのか、それとも静かに寄り添うという呂布に似た気質がそうさせたのかは定かではないが、とにかく彼女だけは多少なりとも踏みこむことができたのではないか、という気がする。ただそれも、呂布を特別に大切にしている李岳の気持ちを翻すほどには至らなかった。
「牽制っていいますと?」
「なんとなくそう感じただけだ。それとは別に、冬至が単身出奔して戻って来てから、冬至と恋の間の空気が変わった気はしたな。あのあたりから周りも、二人に気を遣う空気が強くなった気もする」
徐庶などは、だいぶそれが顕著になった気がした。呼び方が変わったのはつい最近だが、それこそ義姉に対するような対応になっていった。高順も似たようなものだ。呂布からお母さんと呼ばれるのは、どこかこそばゆく感じた。両親のことはほとんど憶えていないらしく、冬至との仲がなかったとしても、やはり母と呼ばせていたかもしれない。
呂布が、子どもが出来たと言った時、高順はほんとうに嬉しかった。息子と、娘同然に想っている二人の子どもである。嬉しくないわけがない。それとは別に、李岳が己の幸せや我が身の無茶を省みてくれるようになるのではないか、という期待もあった。自分は子どもが出来ても変われなかったが、それは棚上げした。
ぬか喜びさせられた。高順たちが存命の内に二人が戻り、せめて成長した孫の顔を見せてくれることは、ちょっと期待してなくもない。
「そういえば、司馬懿殿はどうだったので?」
「さて。正直なところ、仕事はともかく、性格的な部分ではあの二人は噛み合っていない気がしたがな」
香留靼が、あー、と納得するような声を洩らした。
「まあ、確かにあの性格は李岳とは合わねえでしょうね。あいつ、大人しい割には頑固だし。司馬懿殿もかなり頑固だなと感じました。ぶつかり合って、どちらも退きそうにない」
「そういうことだ。我が息子はあれでなかなかわがままだしな」
「ですねえ。なんせ、何度言っても、死ぬな、絶対に生きて帰れ、って言葉を撤回しませんでしたからね。死ぬ時は死ぬんだから、死ぬべき時に誇り高く死ねと言え、って俺が何回言っても、あいつはそれを拒否した。そのくせ、自分は危ない橋を渡るのをためらわねえから、周りは気が気じゃねえってもんだ。もっと自分を大切にしろってんだ、この石頭め、って何度思ったことか」
「総大将が危険な場所に飛びこむなという司馬仲達の言い分も、総大将が危険を冒さずしてどうするという冬至の言い分も、どちらも間違ってはいないのだがな」
「まったくですねえ。っていっても、匈奴の人間としちゃあ、李岳の言い分に賛同したくなるところですが」
「戦人としては私もそちらに同意したくなるが、母親としては司馬仲達に賛同したくなるのが困りものだ」
だからこそ、呂布の存在はありがたいものだった。李岳が李岳である限り、どこまでも呂布はついていくだろう。どちらの意見をではなく、李岳を肯定する。
盲信とは違う。彼女は、李岳が間違った道を選んだら、殴ってでも止めてくれるだろう。表に出すことのない、本人ですら気づけない心の奥底にある悲しみと苦しみすら見抜き、寄り添い、支えるだろう。それができる乙女だ。きっと、そんな彼女がそばに居てくれたからこそ、李岳は李岳であれたのだ。
ふっと、頭に浮かぶことがあった。先日にも話題にした、もしもの話。
李岳は、追放処分を受けたおかげで終わらない闘いから解放され、救われた。もし司馬懿が動かなかったら、李岳は暗闘を続けるしかなかっただろう。そうなったら、呂布はどうしていただろうか。黙って李岳を支え続けただろうか。それとも、李岳の幸せはここにはないと国を見限り、彼を攫ってどこかへ一緒に逃げただろうか。
どちらもあり得る気がした。いや、むしろ後者の方があり得るのではないか、と思った。
誰を敵に回しても、呂布は李岳を守るだろう。身分や立場などのしがらみは、彼女には関係ない。感情のままに動くのが呂布奉先だ。李岳が心の奥底で助けを求めれば、李岳を苦しめる元凶と判断すれば、彼女は国や皇帝とも闘うだろう。
その場合、呂布は、国の重鎮を攫った裏切り者として、討たれていたかもしれない。そうなったら李岳は、この上ない絶望を味わうことになったのではないか。
「なにを馬鹿なことを」
頭に浮かんだ想像を、高順は一笑に付した。
「どうしました、高順殿?」
「いや、馬鹿げたことが頭に浮かんだだけだ。冬至が追放されなかったら、苦しむ冬至を見かねた恋が、あいつを攫って逃げるなどという真似をしたんじゃないか、とな」
「笑えねえ!?」
「やりかねないよなあ」
「いや本気で姐さんはやるんじゃないですかね。まあ、そうなったら匈奴は姐さんにつきますが」
「恐ろしいことを言うなあ。その場合、また戦が起こりかねんな」
「やりたくはありませんが、姐さんがそんなふうに動くなら、本気で岳の野郎がやばくなっている時でしょうから、ためらいはしませんね。友のため、兄弟のためならどこへでも闘いに赴く。それが我らの誇りです」
「司馬仲達、ほんとうにいい仕事をしたな」
本気の眼をしている香留靼の言葉に、高順は少し冷や汗をかいた。
呂布が実際にそう動いていたかは想像でしかないが、説得力がありすぎて困る。
それに呂布と匈奴に加え、かつての李岳軍の何割かも彼女たちにつくだろう。張遼と赫昭と陳宮と『永家』はまず間違いなく、ほかの者たちも場合によっては、そもそも高順も呂布につくことを選ぶだろう。
自分たちが守り抜いた国と、矛を構える。想像し得る最悪の光景だ。
「まあ、あくまでも想像だ。実際には、司馬仲達のおかげで冬至は解放され、恋とのんびり二人旅だ。起こるはずがないことで気を揉んでも仕方ない」
「ま、それもそうですね。にしても、新婚旅行で遥か西へ、ってまたずいぶんと思い切ったもんだ」
「まったくもって同感だ」
笑い声が重なった。
とりとめのない話は続き、同行していた匈奴兵はそれぞれの集落に帰っていく。
やがて夫、李弁と旧友である卒羅宇がいる集落にたどり着いた。夫と一緒に暮らすために来たと説明すると、彼は嬉しそうに笑った。
卒羅宇は、香留靼を家に帰し、自身が案内を買って出た。家への道程はわかっているが、夫の様子について多少なりとも聞いておきたい気持ちはあったので、高順もそれをありがたく受けた。
「まあ、なんですかね。余計なお世話かもしれませんが、普通にしてりゃあ、何事もなく過ごせますよ。特に高順殿は武芸も並外れてますし、匈奴の連中も大歓迎です」
香留靼はそう言って、家に帰っていった。
卒羅宇と連れ立って進む。
「夫は、どうでしょうか」
「眼はもうほとんど見えなくなっているようなのだが、住み込んでまでの世話は本人に強く断られているので、食事の世話などはやらせて貰っているが基本的にはひとりで生活している。家の中のものは扱いやすいように整えてあるのでそれほど不便はないだろうが、鍛冶仕事だけはやめようとせん。作れる数は少しずつ減っているが、出来に関してはいまだ衰えず、いや、むしろ良くなっているのではないかと思わせるほどだ」
夫らしい、と高順は思わず笑ってしまった。
卒羅宇も笑い声を上げた。
「まったく、あいつらしい。いつまでも頑固で困る。さすがに、奥方が世話するとなれば断りはすまい。俺が言うことではないでしょうが、よろしく頼みますぞ」
「無論です。妻としても、夫の意思を尊重していただいた上でそこまで気にかけていただいていること、御礼を申し上げます」
「なあに、腐れ縁の偏屈者の世話などなにほどのこともない。それに、我らが誇り、我らが夢である李岳の頼みだ。断ることなど、匈奴の誇りにかけてあり得ぬことよ」
照れ隠しのように、卒羅宇が豪快に笑った。言葉の裏に、李弁への友情がにじみ出ていた。指摘するような野暮な真似はしない。夫が匈奴の者として生きたのはきっと、この男との友情もあったからなのだろう、と高順は思った。
卒羅宇は、かつて匈奴と幾度となく闘った丁原であると気づいていたようだったが、それについてなにも言うことはなかった。匈奴は、強き者、堂々と闘う者に対する敬意を持つ。そこに匈奴も漢人も関係ない。高順も、そこに負い目を感じることはない。感じるのは、彼らを侮辱するのと変わらないのだ。
これからは、匈奴の一員として、夫婦で生きる。以前は心のどこかで、自分は漢人で、夫は匈奴の人間だということに、引け目に似た気持ちがあった気がした。自分の立場ゆえの悩みもあった。いまは、ない。この北の大地で生きるのに、漢人も匈奴も関係ないのだ、という気持ちになっていた。呂布がそうだったのだ。娘にできて、母にできぬはずがない。
呂布について聞きたくなったのは、きっとそれを確かめたかったからなのだろう。
やがて、夫の住む小屋がある山の麓が見えた。ここからはひとりで行くと言うと、卒羅宇は微笑んでゆっくり頷き、ためらうことなく帰っていった。
山道を行く。岩肌険しい山の中腹に、夫の住む小屋がある。
遠くにそれを望んだあたりで、高順は馬を止めた。止めてしまっていた。
ほんとうに、いいのか。そんな弱気がまた、鎌首をもたげていた。ここまで来て、なにを弱気になっているのだと己を叱りつけるも、馬を進めることができない。
「まあた、考え過ぎてるねえ」
どこからともなく、聞き憶えのある声がした。声の聞こえた方に顔を向ける。高順よりも高いところにある岩場に、その姿はあった。
「ホント、アンタたちは親子だねえ。どうしてこう、アンタも坊やも、他人のこととなると果断なくせに、自分のこととなると思い詰めるっていうか、悪い方に考えこむんだか。もうちょっと自分本位に考えても
「紅梅」
艶やかな衣装を身に纏った女。黒山賊の頭目にして、諜報組織『永家』の首領、張燕。
高順にとっては、昔馴染みの腐れ縁である。
「なにしに来た?」
「アンタを笑いに」
オホホホ、と張燕が高笑いを上げた。
「坊やにはかっこいいこと言っておいて、自分は踏ん切りがつかなくてこんなところで立ち往生。これが笑わずにいられるかってものだねえ」
「ぐぬ」
オホホホホホ、と張燕がさらに楽しげに笑い、唐突にそれを止めた。
フン、と張燕が鼻で笑った。
「人前ではかっこつけるくせに、自分だけになるとこれだものねえ。ホント、さっきも言ったけど、アンタら親子はそっくりだよ。だから、こうなるだろうと思って、背中を押しに来てやったのさ」
ニヤリ、と張燕は笑みを浮かべた。
「好きなことをし、好きに生きる。それこそ人の生きる道さ。気高きに順えって、結局はそれと大して変わりゃしないだろ。自分がしたいことをしな」
「私がしたいことだと」
そんなこと、決まっている。
答えずとも張燕は察したのだろう、彼女は低く笑った。
「いくつになってもメンドくさい女だねえ、桂」
「おまえに言われたくないな、紅梅」
張燕から視線をはずし、馬を進める。
「礼は言っておく」
言うと、高笑いとともに気配は去っていった。
いっそ雁になれたら、いつでも羽ばたき、会いに行けるというのに。
そう思ったのは、いつのことだったか。
雁になることはできなかったが、こうして会いに来れた。
粗末な小屋が見えた。頻繁には来れなかったが、それでも何度もここに来た。男に、夫に会いに。息子に会いに。
長い道程を往った。後悔は多いが、そればかりではなかった。息子たちの力になれたことは、戦人であったからこそだ。その果てに来たのがここであれば、その道程に恥などない。
小屋の前で馬を下り、静かに扉を開けた。
男の背中が見えた。何年ぶりになるだろうか。愛しい背中だった。
男が、なにかに気づいたような仕草を見せた。
「おかえり、桂」
わずかの間を置いて男、李弁は言った。
「ああ、ただいま、枝鶴」
声の震えをなんとか抑えようと努める。効果はあっただろうか。目頭が熱くなっていたが、熱い雫がこぼれ落ちるのはなんとか堪えた。
李弁が、座っていた場所からわずかに横にどけた。近づき、彼が作った空間に腰を下ろす。
男の肩に身を預けた。男は揺らがない。ぬくもりが伝わってくる。
さあ、なにから話そうか。
自分たちの息子が立派に闘い抜いたことから話そうか。
息子に寄り添い、支え続けた伴侶のことから話そうか。
息子が絆を紡いだ仲間たちと、その仲間たちとともに守り、作ったかけがえのないものから話そうか。
きっと彼は、言葉少なに相槌を打つだけだろう。彼は静かに寄り添うだけだろう。
それでいい。それがいい。それが、桂の愛した男の在り方なのだ。
冬至と恋のイチャコラを書きたくてはじめたはずなのに、なぜこのようなものになったのか自分でもわからない。いろいろな意味で、ぽーさんや李岳伝ファンの皆様方に怒られやせんかと恐々としながらも、男は度胸と投稿させていただく。これはこれで、程度にでも思っていただければ幸いです。
赫昭はかっこいい人。
張遼はかっこいい人。
高順はかっこいい人であり、かっこよくありたい人。
個人的にはこういう解釈です。
趙雲殿はちょっとキャラが便利すぎると思う。
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リュウと七つ星
草原を駆ける騎馬の群れ。壮観としか言いようがない光景だった。
漢人と匈奴だけでなく、烏桓や鮮卑といった異民族も集い、戦をするのではなく、馬術自慢が揃って競走する。夢のような出来事だった。
騎馬の群れから、一騎、二騎と少しずつ抜け出していく。赤兎馬に乗った呂布。白馬、白龍に乗った趙雲。黒狐に乗った李岳もだ。そして、もう一騎。白馬に乗った、呂布とはまた違った色合いの赤髪の女性。
ハッと、李岳は瞳を開いた。
見慣れてきた天井が見えた。逗留している、長安にある宿の一室である。
雨音が聞こえてくる。今日も雨のようだ。
長安に逗留して、ひと月近く経つ。李岳たちが長安に着いてからほとんど間を置かず、雨が降りはじめたのだ。それから長雨が続いている。幸いにも、いまのところ大きな水害は起こっていないのだが、この中を無理に進むのは危険だと思う程度には降っていた。
追放処分を受けているといっても、即刻国外退去を強制されているわけでもなし、天気が落ち着くまで滞在してください。赫昭にそう言われた。
お言葉に甘えながらも、漫然と過ごしているのもどこか落ち着かないため、滞在中は呂布とともに名を変えて、宿の一階にある飯店で働くようにした。李岳は厨房、見目麗しい女性である呂布は給仕である。間違いなく美女と言える容姿に、無口で無愛想ながらも真面目に働く呂布の評判は悪いものではなく、店への客の入りも増加しているようだ。李岳も料理の腕を買われたようで、二人でこのまま正式に働かないかと誘いを受けたりもしたが、それは丁重に辞退させてもらった。
「起きた?」
囁くような声が耳元で聞こえた。顔を向ける。一緒に
「おはよう、恋」
「ん。おはよ、冬至」
「うん。どうかした?」
「なにか、変な夢、見た?」
心配そうな声音に、目を瞬かせた。さっきまで見ていた夢を思い出し、苦笑しながら首を小さく横に振った。
「いい夢だったよ。起きちゃったのがちょっともったいないな、って思うような」
「どんな夢?」
「草原で、匈奴と漢人だけじゃなく、いろんな民族のひとたちが馬に乗って競走する夢」
「楽しそう」
「うん。それで、馬群から抜けたのが、俺と恋と星と、あと、白蓮殿」
言うと、呂布は一瞬だけ眼を見開いたあと、残念そうに微笑んだ。
「一緒に同じ夢、見れたらいいのに」
「そうだね。ああ、いやでも、そうなったら逆に困るかも」
「どうして?」
「たぶん、起きたくなくなる」
李岳の言葉に呂布はキョトンとしたあと、納得したように小さく頷いた。
「そうかも」
寂しそうな声音に聞こえた。公孫賛を思い出しているのだと、李岳は思った。李岳がそうだったからだ。
縋りつくように、彼女を抱き締めていた。ちょっと驚いたようだったが、彼女も抱き返してきた。いつかにも感じた、かすかで優しい力強さに、涙がこぼれそうになった。
ぬくもりがあった。愛しいぬくもりだった。
俺はきっと、このぬくもりを失いたくないがために、あのどこか頼りなくも心優しい姉のような人を犠牲にしてしまったのだ。
そんな自責の念が襲ってくるが、その痛みに甘えてはいけないのだ、と思う。
公孫賛は、ほんとうに普通の人だった。いつだって普通に人を思い遣れる人だった。そんな普通の、だからこそ、きっと誰よりもすごい人だった。
己を責める李岳を公孫賛が見たら、きっと困ったように笑うだろう。自分が死んだのはまいったけど、おまえたちが無事でよかったよと、やらなきゃならないことをやったんだから、おまえが自分を責めることなんてないよと、そう言ってくれるだろう。そう確信できる。それを疑うことは、かえって公孫賛を冒涜することになるのだと、そう言い切れる人だった。
それでも、感じる罪の重さは消えない。一生を懸けて償うものなのだ、と思う。一生懸命に生ききってこそ公孫賛の、そして失われていった命に報いることになるのだと、そう信じた。
どちらからともなく、抱き締め合っていた力を緩めた。離れることはしない。同じ布団に入ったまま、互いの吐息、ぬくもりを感じる。互いを交感する。この国で李岳が作ってきたさまざまなものは、この手から失われた。それでも、すべてが失われたわけではない。友や仲間たちとの絆がそうであり、この傍らに寄り添う伴侶もそうだ。すべてを失ったわけではないのだ。
それが、ひどく罪深いことに思えてしまう時がある。罰は充分に受けたと言っていいはずなのに、まだ足りないのではないかと己を苛んでしまう時がある。
呂布が、李岳の頭を抱くようにして引き寄せた。彼女の豊かな胸に顔が埋まる恰好になる。李岳の頭を、呂布が慈しむように撫でた。
「いいこ、いいこ」
優しい声だった。子ども扱いしないでくれと反撥する気は、起きなかった。
安らぎを感じた。心を蝕む黒い澱のようなものが李岳の中から消えていき、代わりに力が湧き上がってくるような気がした。
しばらくして、李岳は呂布の胸から顔を離した。
「元気出た?」
「うん」
「ん」
李岳の返事に、彼女は満足そうに頷いた。安心したように見えた。
俺は弱いなと、李岳は思った。同時に、以前にも思ったことであるが、自分がこんなにも極端な性格だということには呆れるしかない。
自分を責め過ぎるな。いずれ、他人のことも許せなくなる。
そう言ってくれたのは、ほかならぬ公孫賛だった。それを思い出せるようになったのは、受け入れられるようになったのは、つい最近のことだ。
李岳は罪人だ。だが、罰は充分に受けたと言っていい。司馬懿が、李岳からあらゆるものを奪ったのは、つまりはそういうことなのだ。
もし、自分と同じ立場で同じ罰を受けた者がなおも罰を求めているのを見たら、もう充分だと言うだろう。これ以上の罰が欲しいなどと甘えてはいけないのだ。それは、みんなの思い遣りを無碍にすることと同じだ。そんなもの、ただ周りの人を悲しませるだけの、意味のない自己満足でしかないのだ。
誰よりも大切なこの
「大丈夫、冬至?」
「うん。心配かけてごめん」
「白蓮のこと、思い出した?」
「うん。恋は、寂しくなったりしないかい?」
「なる。でも、恋は、大丈夫。あの時、いっぱい泣いたから」
呂布が微笑んだ。寂しさを含んだ、それでもなお輝きを感じさせる、力強い笑みだった。
「恋は、強いね」
「冬至がいるから。恋だけだと、きっと弱い。闘えば、恋は大抵の人に勝てる。でも、それだけ。冬至も同じ。ひとりじゃ、弱い。二人だから、強くなれる。それでいいと思う」
甘えていいのだと、そう言ってくれている気がした。
俺は弱いなあ、と今度は苦笑しながら思った。その弱さを、恥ずかしいものとは思わなかった。
自分ひとりでは、きっと生きていけない。二人でなければ生きていけない。それでいい。ひとりでは弱くても、二人ならどこまでも強くなれる。それでいいのだと思う。
李岳がほんとうに恥じなければならなかった弱さとはきっと、己を許すことができなかったこと。自分が幸せになることを受け入れられなかったこと。周りの人たちを、そしてこの伴侶を悲しませ続けたその弱さこそ、李岳が省みなければならないものだったのだろう。
二人で身を起こすと、話は終わりましたかとばかりにセキトが近づいてきた。実に空気の読める犬になったものだ、と苦笑しつつ二人で愛犬を撫で回す。
ひと頻り戯れると、二人で身支度を整えた。
「よし、今日も頑張るか」
「がんばれー」
呂布がいつもの優しい無表情で、気のない応援をした。なんだかおかしくなって、李岳は笑ってしまった。
「そこは、一緒に頑張ろうじゃないの?」
「恋は、なにかと頑張ってる。考えすぎて別に背負わなくていいことまで勝手に背負って結局押し潰されそうになってる旦那の世話」
「返す言葉もございません」
彼女らしからぬ長台詞に、苦笑しながら頭を下げた。そう言われると、なにも言えない。まったくもってその通りである。公孫賛のことだけでなく、ふとした瞬間に気持ちが沈みこむことがあるのだ。彼女がいなかったら、ろくなことになっていないだろうことは想像に難くない。
「嘘」
「ん?」
呂布が李岳の両頬に手を添え、こちらが反応する前に顔を近づけてきた。温かく柔らかいものが李岳の口を塞ぐ。
少しして、顔が離れた。不意打ちであった。呂布の顔が赤い。李岳の顔も熱い。
「一緒に頑張ろ」
優しく微笑む呂布に、返事代わりに口づけを返していた。意識してのものではなかった。可愛らしすぎて、躰が勝手に動いてしまったのだ。すさまじい破壊力であった。仕事がなければ、このまままぐわいをはじめていただろう。
朝食を終え、愛犬と愛馬の世話を済ませると、頃合いを見て仕事に入った。
店は繁盛している。給仕をする呂布に手を出そうという輩はほとんどいない。働きはじめてすぐのころはいたが、彼女自ら軽く捻っているうちにいなくなった。怪我をさせるわけではないが、ほんとうに軽く捻るため、これは敵わんとみんな諦めるのだ。酔った客が手を出そうとすることは、いまでもある。変な趣味に目醒めた者が捻ってもらおうと来ることもある。そういうのは叩き出される。
昼の忙しい盛りを終え、ちょっと遅めの昼食を終えると、夕飯時になるまで一旦休みとなる。雨がやんでいれば愛馬を駆けさせるところだが、あいにくの天気だ。軍務に就いていたころは雨中訓練として駆けた時もあったが、すでに李岳も呂布も軍属ではない。雨の日に無理に駆けるのもどうかといった具合である。
いずれにせよ愛馬、愛犬の世話をしたあとは、二人でまったり過ごす。雨が弱ければ日課の立ち合い稽古といくところだが、やはりそういう気になれない程度には降っていた。
特になにをするわけでもなく、二人寄り添い合っていれば、それだけで時間は過ぎていく。それだけでも、不思議と満ち足りた気持ちになる。
時間になると、再び仕事だ。忙しくはあるが、だいたい要領は掴んできているので特に大きな問題が起こることはないし、これといった事件が起きることもない。せいぜいが、酔っ払いが暴れたら呂布が速やかに鎮圧する程度だ。
忙しい時間を越えると、李岳と呂布は仕事上がりとなる。それから夕食だ。そのあたりで、見慣れた人物がやってきた。
「冬至さ、ん。これから夕食ですか?」
やってきた人物、赫昭が言った。様づけはやめてくれと頼んでいるのだが、いまだに慣れない様子だった。敬語もこの際だからやめてもらおうと思ったのだが、私なりのケジメですので、それだけは絶対に聞けませんと固辞された。
赫昭の問いに、ああ、と頷く。
「ご一緒しても?」
「もちろん」
「ん」
隣の呂布も頷いていた。
「今日は、鍾繇殿たちは?」
「今日は二人で食事されるそうです」
「そっか」
夕食は赫昭のほかに、長安に赴任している鍾繇、張既と一緒に摂ったりする時もある。もっとも、赫昭も毎日ともにするわけではなく、五、六日に一度といったところだ。ほかに長安に赴任している李確と郭祀の涼州組とは、李岳たちが長安に来てすぐ、赫昭が一席設けた場でともにしただけである。
李確からは、旅先で不幸に遭ったみたいな、董卓様を悲しませるようなことはしないでくださいよ、と言われた。それに頷き、月を助けてやってくれと返した。当然っす、と力強く頷いて返された。
郭祀からは、特にこれといったことは言われなかった。李岳も殊更になにかを言うことはなかった。お互いに、元気でな、相方を大切にな、といった程度のことだ。大切な仲間ではあるが、お互い、特に嫌ってはいないが親しくもない間柄であると考えれば、こんなものだろう。
厳顔や魏延、法正などの益州組もこちらに赴任しているのだが、この面子は現在、益州の方に行っているため会っていない。無理に呼び寄せることはしていない。雨が続いているというのもあるし、新年直後の李岳の送別会で話すことは話したつもりだからというのもある。縁があれば出立前に会うこともあるだろうと、そう思う程度である。
長安に赴任していた李儒は、長安でやることの大部分が終わっているため、洛陽に戻っている。今後は、暗闘における司馬懿の片腕として身を尽くすことになるだろう。当人の意思はともかく。とはいえ、口ではなんのかんのと言っても、仲間や家族のために闘える乙女である。心配することはないだろう。
鍾繇と張既は、涼州の馬騰と交渉を締結したあと、しばらくしてから婚姻を結んだ。鍾繇からは、求婚しようと決意し、場を整えたものの、いざ本人を前にして頭が真っ白になってしまい、その場で張既から逆に求婚されるという顛末になってしまったと無念そうに言われた。それは無念だろうと、李岳も同情した。そんな会話がきっかけで、真名こそ交わしていないが相当に仲良くなった。
呂布と張既もだいぶ打ち解けたようで、ともに食事を摂る時は男性陣、女性陣という組み合わせで会話することもあった。呂布の口数は相変わらず少ないが、張既はさほど気にしていないようで、一緒に女子なりの話で盛り上がっているようだった。
ただ時々、赫昭が気まずそうに黙りこんで視線を泳がせる。最初に食事をともにした時は、李岳にもの問いたげな視線を向けてきた。なんなのかと呂布と張既の会話に耳を澄ませてみると、
冬至様も、ちゃんと男の方だったのですね。
さまざまな気持ちが入り混じったような、なんとも言いがたい複雑そうな笑みとともに言ってきた赫昭のそんな言葉に、李岳は視線を逸らすことしかできなかった。
ともあれ、今日は李岳と呂布、赫昭の三人だけである。
「長雨だけど、水害は大丈夫かい、沙羅?」
「ええ。いまのところ大きな被害は出ていません。そろそろやむ時期のはずですし、このまま大禍なく終わってくれればいいのですが」
「そうだな。助けがいる場合は言ってくれ。軍は関係なく、友人として力になるよ」
「ええ。ありがとうございます、冬至さ、ん」
ちょっと複雑そうではあったが、それでも嬉しそうに赫昭は笑った。
長安での滞在については最初、軍の宿舎を使ってくださいと赫昭の方から申し出があったのだが、断らせてもらっていた。ただの旅人として滞在したかったのだ。そう言うと、赫昭は納得してくれたようだった。
夕食を終えると赫昭と別れ、雨具を着て二人でセキトの散歩に行く。雨空で星は見えない。そのことにちょっと残念な気持ちになりながらも散歩を終えるとセキトの躰を拭き、部屋に向かった。
支払いはちょっと多めにしてあり、セキトを部屋に入れる許可も得ている。李岳が用意したセキト用の寝床と用足しの場を部屋に置いてあることもあって、セキトが粗相をしたことはない。最近は店の看板犬のようになっているようで、李岳と呂布ともども売上に貢献しているかたちらしく、犬が泊まることに最初は警戒していた宿の主人もいまではご満悦である。
そういった事情もあって、李岳と呂布は宿の主人に相当気に入られたようで、よほどひどく汚さなければ、部屋は好きに使って構わないと言われていた。
部屋に入り、扉を閉めると、呂布が抱きついてきた。躰が熱くなる。口づけを交わした。互いの熱を交感する。
雨音のほかに聞こえるのは、お互いの吐息だけ。
見えるのは、愛しい伴侶だけ。
***
槍の穂先が迫る。趙雲が繰り出すその鋭い突きを、関羽は弾くようにしていなした。趙雲は驚くことなく態勢を立て直し、間合いをとった。関羽も反撃することなく、相手を見据える。
やはり、強い。笑みを浮かべる。趙雲もまた楽しそうな、獰猛なものさえ感じさせる不敵な笑みを浮かべていた。
元号が『泰平』となって、半年が経った。そろそろ夏が来るなというあたりで、洛陽で軍務についていたはずの趙雲が、ふらっと冀州に現れた。暇を貰って幽州に里帰りだという。どうせだからとこちらにも顔を出そうと思ったらしい。相変わらず自由なやつだと関羽は苦笑した。
ならばと、手合わせを願った。趙雲もまたそれを予想していたのか快諾した。
強者との手合わせは、張飛以外とでは久しぶりだった。劉備配下の者で、これはと思う者はそれなりにいるが、それでも関羽と互角に打ち合えるほどの猛者は義妹である張飛しかいない。ずっと同じ相手と手合わせするというのも少し飽いてくる。やはり時には別の相手と仕合いたいという気持ちはあった。
大きな戦は終わった。関羽が武を振るう機会もめっきり少なくなった。平和なのはいいことだが、たまには思いっきり躰を動かしたくなるのも武人の
勝ったり、負けたり、引き分けたり、時に張飛も交えて立ち合ったりと、久しぶりに武人として充実した時を過ごすことができた。
ひと頻り仕合い、満足すると、劉備も交えて歓談に入った。
「久しぶりに仕合ったが、さすが、腕は衰えておらんな、星」
「そちらこそ、鈍ってはいないようだな、愛紗。鈴々も」
「当然なのだ!」
「ところで星ちゃん。暇を貰ったって、大丈夫なの?」
「許可はちゃんと貰っておりますよ、桃香殿。ちょっとばかり、やっておきたいことがありましてな」
「里帰りと言っていたが」
「一応、それも目的ではある。ま、なんだな、ちょっと報告しておきたくてな」
趙雲が遠くを見た。どこに行く気なのか、なんとなくわかった、という気がした。
「桃香殿」
遠くを見たまま、趙雲が呼び掛けた。
「うん。なに、星ちゃん?」
「もし私が、北斗七星を掲げるのをやめていただきたいと言ったら、どうされますか?」
趙雲が、劉備を見た。常に浮かべている飄々とした笑みは鳴りをひそめ、神妙な顔つきになっていた。
劉備は一瞬、眼を見開くと、趙雲の眼を真っ直ぐに見つめ返した。
「ごめんなさい、ってお断りします。白蓮ちゃんを追い詰める一因になった私が背負っていいものじゃないかもしれない。それでも、私はこれを掲げたい。掲げるのをやめたら私は、白蓮ちゃんの友だちだって、胸を張って言えなくなる気がするから」
言って、劉備が微笑んだ。寂しそうな笑みだった。しかし同時に、確固たる意志を感じる強い光が、その眼に宿っている気がした。
趙雲はしばし劉備を見つめていたが、やがてフッと笑い、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「言ってみただけです。そもそも、私にそんな権限はありませんからな」
「権限はなくても、資格はあるよ。星ちゃんだけが、それを言う資格があると思う。白蓮ちゃんの一番の親友だもん」
趙雲がちょっと眼を見開き、少ししてはにかむように笑った。照れくさそうだった。
「一番の親友ですか。まいりましたな、白蓮の一番の親友である桃香殿にそう言われるとは」
「違うよ。一番は星ちゃんだよ」
「いや、桃香殿でしょう」
「星ちゃんだよっ!」
「桃香殿ですよ」
「二人とも、張り合う方向が逆ではないか?」
呆れながら関羽が言ったが、劉備と趙雲はどちらも一歩も退かないと言わんばかりだった。飄々とした趙雲がこんなふうに退かないのも珍しい、と関羽はちょっと愉快な気分になった。
「相手の方を一番だって言うなら、どっちも一番ってことにすればいいと思うのだ」
饅頭を囓っていた張飛が、呑気にそう言った。
劉備と趙雲の動きが止まった。義妹の言葉に、関羽はちょっと呆れた。
「一番が二人とは、またおかしなことを」
「でも愛紗。世の中には、天下無双って呼ばれるやつが何人もいるのだ。だったら、一番の親友が二人いたっておかしくないと思うのだ」
「言い得て妙なことを」
愛紗が苦笑すると、劉備と趙雲が笑い声を上げた。
「確かに。そう言われれば、一番の親友が何人いたって構いませんな」
「うん。星ちゃんも私も、白蓮ちゃんの一番の親友だね」
「ええ。しかし、さっきのやり取りを白蓮が見たら、そんなに私の一番の親友になるのが嫌か、あ、うん、嫌だよな、ハハハ、って勝手に早合点して落ちこむでしょうなあ」
「アハハ、白蓮ちゃんならほんとに言いそう」
関羽と張飛も揃って笑い声を上げた。みんな、どこか寂寥を含んだ笑い声だった。それでも、それだけではなかった。悲しみに暮れていたら、公孫賛はきっと困ってしまうだろうから、それを乗り越えるために笑うのだ。
公孫賛を失って、四年以上の月日が経つ。悲しみや寂しさは少しずつ癒えても、いまだに心のどこかに忘れがたいという思いがある。関羽以上に、劉備や趙雲が、そしてきっと呂布や李岳がそう思っているだろう。
この悲しみが癒える日が来るのかと、そう思ったこともあった。そう思えるようなことでも時は癒す。癒してしまう。優しく、残酷である。それが生きていくということなのだと、そう思い定めるしかないのだろう。
「皆さん、そろそろお食事ができるそうです」
「話の続きは、食事しながらでいかがでしょうか」
呼びに来たのは、諸葛亮と鳳統だった。張飛が眼を瞬かせた。
「ごはんなのだ!」
「おう。では、ご相伴に
「あわわ、星さんがいらっしゃったということで、もちろんご用意させていただきました」
「はわわ、お口に合うかはちょっとわかりませんが」
「なあに。突然押しかけてきた身だ。文句はそれほど言わんよ」
「はわわっ。た、多少は言うんですね」
「あわあわ、お、お手柔らかにお願いします」
張飛が真っ先に向かい、趙雲、諸葛亮、鳳統が連れ立っていくようにして続く。
「愛紗ちゃん、行こ」
その場に留まったままだった関羽を待つようにして、劉備が呼び掛けてきた。
「はい。あの、姉上」
「なあに、愛紗ちゃん?」
「星は、北斗七星を下ろしてほしかったのでしょうか」
関羽の言葉に、劉備はゆっくりと首を横に振った。
「違うと思うよ。重かったら下ろしても構わないのですよ、って言ってくれたんだと思う」
関羽は天を見上げた。星が瞬きはじめた。北斗七星も、すぐに見えてくるだろう。
「そうですね。あの旗は、とても重い。最初にあれを掲げた時、旗とはこんなにも重いものだったのかと、私は思いました」
「私もだよ。すごく重く感じた。私ひとりじゃ、きっと掲げられなかった。でも、ひとりじゃないから大丈夫だって、みんなが居るから頑張れるって、そう思った。だから、これからも頼りにさせてね、愛紗ちゃん」
劉備が、優しく笑った。関羽の胸に、温かなものが宿った気がした。
何度も宿ったものだ。この人の笑顔を見るたびに、それは確かな力となって関羽を動かしてきた。心の拠りどころであり続けた。
道を間違えたこともある。過ちを犯したこともある。誓い合った理想すら
それでも、劉備の『夢物語』を現実にしたいという想いだけは、ずっと胸にあった。その『綺麗言』を信じ、関羽と張飛は彼女の妹となり、多くの人がついてきた。
そしていま、ここにいる。彼女の目指した理想にはきっとまだ遠いけれど、少しずつ進んでいく。
人は間違える。時に道を見失う。過ちを犯すこともある。人は、どこまでいっても、人でしかない。それでも、歩みを止めることだけは、してはならないのだと思う。そうすればきっと、死しても誰かにその理想は受け継がれていく。人は忘れられても、掲げた志はかたちを変えながらでも、どこかで受け継がれていく。
それがきっと、生きていくということなのだ。
劉備の言葉に、関羽は頷いた。
「ええ。もちろんです。しかし、それはそうとして、姉上もちょっとは鍛えた方がよろしいのではないでしょうか?」
「えっ」
劉備が顔を引きつらせた。
「な、なんで?」
「
笑顔でそう言うと、劉備の顔の引きつり方がすごいことになった。いまにも逃げ出したい、と全身で訴えているようだった。
「無理っ、勘弁してっ、二人の特訓なんて受けたら、髀肉より先に命を落としちゃうよ!?」
「なあに、人間、死ぬ気になれば大抵のことは乗り越えられます。ぜひとも死域に踏みこんでみましょう」
「死ぬ気にならなきゃ乗り越えられないようなことさせるの!?」
「どうしたのだー?」
やいのやいのと騒いでいると、張飛が戻ってきた。
劉備が必死な様子で張飛に説明すると、彼女はため息をついて
「愛紗。姉ちゃんに無理なことはさせるものじゃないのだ。時間の無駄なのだ」
「うんうん、そうだよね、鈴々ちゃん。なんだかすごく失礼なこと言われてる気がするけど」
「どうせちょっと肉が落ちたって、その反動で食っちゃ寝するに決まっているのだ。姉ちゃんは結局、豚さんになる運命なのだ」
「だから人をすぐ豚さん扱いするのやめて!?」
「豚さんは豚さんなのだー!」
今度は張飛と騒ぎ出す。笑いがこみ上げてきた。堪えきれず笑い出した。二人がキョトンとし、少しして二人も笑い出した。
我ら三人。
姓は違えども、姉妹の契りを結びしからには。
心を同じくして助け合い、みんなで力なき人々を救う。
同年、同月、同日に生まれることを得ずとも。
願わくば同年、同月、同日に死せんことを。
三人でそう誓い合ったのは、何年も前のこと。
劉備の夢を聞き、姉妹となることを決めた。
喧嘩してお互いの本音をさらけ出し合い、ほんとうの姉妹のようになった。
死にたくない、敵も味方もなく、みんなに死んでほしくない、みんなで幸せに笑い合いたいという子どもじみた願いを、夢を、彼女は泣きながら叫んだ。欺瞞と誹られても否定できない身勝手な、しかし誰もが願うわがままだった。
それをみんなと一緒に分かち合いたいのだというこの乙女の言葉を、願いを、夢を、わがままを、誰が誹れるというのか。理不尽に人が死ぬことのない世の中を願って、なにが悪いというのか。矛盾していると言われることであろうとも、悲しみ傷つきながらも戦をなくすために闘うことを選んだこの乙女の選択の、なにがおかしいというのか。
ならば、それをほんとうのものとしてやると、改めて誓った。これからも、その夢のために、その願いを叶えるために闘うと誓った。道の終着点はいまだ遠くとも、光が見えているのならばそれを目指して進むのみ。劉備は、その光を掲げてくれたのだ。
彼女が掲げてくれた光を守るためなら、関羽と張飛は、諸葛亮と鳳統は、劉備と同じ夢を見て生きる者たちは、どこまでも強く在るだろう。何度でも立ち上がるだろう。
無敵の龍にも最強の虎にもなろう。天地に轟けとばかりに咆哮しよう。
我ラニ敵ナシ、と。
***
趙雲も交えて食事しながら歓談している最中、劉備の頭にふと気になることが浮かんだ。
「あ、そうだ。天下無双といえば、恋ちゃんと冬至さんは旅立ったんだよね?」
「ええ。だいぶのんびりと旅しているようで、ちょっと前に長安に着いたと、沙羅の方から洛陽に連絡が来ました。知らされたのは一部の者だけですが」
「そっか。うん。無事でなによりだね!」
「はわわ。でも、そこから先が大変なところです。西涼はまだともかく、じきに砂漠となります。見渡すばかりに砂だらけの過酷な土地が続くと」
諸葛亮の言葉に、劉備だけでなく関羽、張飛も目を瞬かせた。
「す、砂だらけ?」
「はい。作物もろくに育たず、水場も乏しいところだと聞いています」
「そ、そんなところ、行けるの?」
「行き来はできます。ただ、たやすく行ける道ではないと思います」
「あわわ、ですが、冬至さんたちなら大丈夫でしょう。砂漠の過酷さを侮る気はないと、入念に準備していくつもりだそうです」
鳳統が言うと、劉備たちは軽く息をついた。
「うん、そっか。うん。冬至さんたちなら大丈夫だよね。恋ちゃんもいるし。でも」
腕組みし、うーん、と声を洩らす。
みんなが顔を見合わせ、劉備に眼をやった。
「まだなにか心配なことでもあるのですか、姉上?」
「そういうのじゃなくって、最後に会った時にも思ったけど、あの二人って、まだ友だちって関係なのかなあって」
「ああ、なるほど」
関羽が頷いた。
「そうですね。わざわざ報告にということで、二人の仲が進展して、式にでも御呼ばれするものかと思っていたのですが」
「そうだよね。期待してたのに」
李岳と呂布が一緒にいるのを見ると、不思議と心が温かくなったものだった。それは同時に、なぜか切ない胸の痛みを覚えるものでもあったが、それ以上に二人が一緒にいるのを見るのが好きだった。
呂布が、どれだけ李岳を愛しているのかを知っている。李岳もまた、そんな呂布を大切に想っていると、見ただけでわかる。二人の間に立ち入ることは誰にもできないだろうと思えるほどだった。
戦は終わったのだから、もう結婚してもいいのではないか、と最後に会った時も思ったものだった。
「あの二人、関係が発展したりしないのかなあ」
「さて。案外、もうすでに関係自体はいくところまでいっているやも」
「へ?」
趙雲を見ると、彼女はニンマリと笑っていた。
「いえね。すべての実権を奪われたあと、冬至はそれまで住んでいた屋敷から、あずま屋に移り住んでいるのですよ。恋と一緒に」
「それって、同棲!?」
「あわわっ、お二人はすでに、大人の階段を!?」
「うむ。それはもうきっと、自由になった二人は毎晩のように想いのまま、情欲のままに互いを求め合い、まぐわい、好きだの愛してるだの、言うだろうか、いや、さすがに言っているだろう、うむ」
前半は謳うようにして言っていたのが、後半は自信なさげに、自分に言い聞かせるようにして趙雲が言った。
「それはそうと、聞いておりませんでしたかな?」
「はわわわ、李岳さんと恋さん、珠悠ちゃんからもなにも聞いてませんっ。愛紗さんと鈴々さんは!?」」
「鈴々も聞いてないのだ!」
「私もだ。まったく。それぐらいは教えてくれてもいいだろうに」
キャーキャーと騒ぐ劉備、鳳統、諸葛亮に、ただただ朗らかに笑う張飛、ちょっと拗ねたように言う関羽と反応はさまざまだが、みんな、言いたいことはたぶん一緒だろう。
水臭い。関係はともかく、同棲していることぐらい言ってくれてもいいだろうに。
「もー、ほんと、関係が発展したように見えなかったから気を揉んでたのに、裏切られた気分だよっ!」
プンプン、と劉備が言うとみんな、うんうんと一斉に頷いた。張飛はなんだかよくわかってないように見えたが、気のせいだろう。
劉備も含めてみんな、心配していたのだ。いつか再会したら、文句を言ってやらなければ。そう思いながら劉備は笑った。よかった、と思った。
劉備が笑うと、みんなも笑い出した。心配が払拭された、安堵の混じった笑い声だった。
「まあまあ。あくまでも私の憶測ですから」
「でも、同棲していたのは事実なんだよね?」
「ええ」
「それぐらいは教えてほしかったなあ。ああ、冬至さんは大丈夫なんだ、って思えたし」
劉備が言うと、ちょっとだけ空気が神妙なものとなった。
「冬至さん、自分が許せないんだろうな、って感じてたから。私以上に、白蓮ちゃんの死に責任を感じてる気がした。白蓮ちゃん以外にも、戦で犠牲になった人たちみんなの分も、って感じた。だから、恋ちゃんとの結婚とか考えられないのかなって、心配してたんだ」
「そうですね。実のところ、式を挙げる話は、出ませんでした。まだ冬至は、自分を許せていない。祝福されることを、彼はまだ受け入れられないだろうと、私たちは思いました。冬至も、言い出すことはなかった」
「でも、そうやって恋ちゃんと一緒にいることを受け入れてる。だから、大丈夫だって、そう思った」
「はい。少しずつでも、冬至は自分を許していけるでしょう。恋を、もう放しませんと、あやつは言いました。ねねからも、恋を泣かせるようなことはしないと冬至が約束してくれたと聞いています」
「なら、大丈夫だね。でも、やっぱり、二人のこと、ちゃんとお祝いしたかったなあ」
「ええ。それで、我々もひとつ決めたことがありましてね」
「なにを?」
「二人が帰ってきた時、盛大に二人の式を挙げてやろうと」
趙雲が、いたずらっぽく笑った。
「何年後になるかはわかりませんが、皆でそう決めました。李岳の名前は出せませんが、皆で祝ってやろうとね。そのころにはきっと冬至も、恋と一緒に幸せを享受できるようになっていることでしょう」
みんなでポカンとしたあと、誰ともなく笑い出した。
「うん。いいね、それ。その時は、私たちも一緒に祝わせて貰うね」
「ええ。一緒に盛り上げてやりましょう」
「うむ」
「派手にやるのだー!」
「あわわ。その時までに、みんなで守ったこの国を、作り上げた泰平を盤石のものとしなければなりませんね」
「はわわ、まだまだやらなければならないことは多いですけど、一歩一歩確実にこなしていけば、きっと大丈夫です」
「うん。でも、きっとじゃなくって、絶対に大丈夫、だよ。みんなと一緒なんだから、絶対に大丈夫!」
簡単に言い切れることではない。火種と言えるものはまだまだある。諸葛亮と鳳統にも言われたことだ。それはわかっている。
それでも、それがどうしたと
李岳と呂布がいつか帰ってきた時、おかえりなさいと言ってやるのだから、おめでとうと祝福してあげるのだから、弱気なことなど言っていられないのだ。背負った北斗七星に懸けて、公孫賛をはじめとした乱世で失われた命に報いるためにも、この国を、平和を守り抜く。それが、劉備の為すべきことだ。
「うん。頑張る理由がまた増えたね」
「重いですか?」
「うん。重いと思う。でも、なんていうか、気持ちのいい重さだと思う。やらなきゃならないことをやるんだっていう使命感、かな?」
趙雲の、軽口のような、どこか推し測るような言葉に劉備は、笑顔で返した。
趙雲が、満足そうに微笑んだ。
ふっと目が醒める。暗い。月明かりが射しこんでいる。まだ夜更けのようだ、と劉備は思った。身を起こすと、かかっていた毛布がずれ落ちた。誰がかけてくれたのだろうか。
周りを見ると、ともに呑んで食べていたみんなが思い思いに寝転がっていた。みんなにも毛布がかかっている。関羽、張飛、諸葛亮、鳳統。
「あれ?」
趙雲がいない。
どこに行ったのだろうか、と辺りを見回し、立ち上がる。
夜の散歩がてらに探してみよう、という気持ちで歩き出した。
探していた人の姿はすぐに見つかった。夜空を、瞬く星を見て呑んでいた。
北の空。北斗七星。
寂しそうな背中に、見えた。
「星ちゃん?」
「おや。どうかされましたか、桃香殿?」
ふり向いた趙雲は、いつもの笑みを浮かべていた。とても強い、しかしどこか寂しさを感じさせる、そんな飄々とした笑みだった。
「起きたら星ちゃんがいなかったから、ちょっと散歩がてらに探してみようかなって出てきたの。すぐに見つけちゃったけど」
「そうでしたか。一杯いかがです?」
「うん。いただくね」
「はい」
趙雲に近づき、隣に腰を下ろすと、盃を手渡された。ひと息に呑む。趙雲はやはりメンマを口にしていた。
「北斗七星って、なんていうか、わかりやすいよね」
なんとなく言ってみると、趙雲はちょっと首を傾げた。
「こう、なんていうのかな、ちゃんと並んでるっていうか、ああ、あれが北斗七星かって、名前を聞いて空を見ただけで、なんとなくわかるっていうか」
「ああ、なるほど」
言って、趙雲が頷いた。
「白蓮も、わかりやすい人でしたな」
「うん。そう考えると、いろんな意味で『幽州の北斗七星』って異名がピッタリだよね」
「まさしく」
二人で含み笑いを洩らす。大声で笑うのはさすがに迷惑だろう。
「そういえば、張角たちは冀州と幽州のあちらこちらへ鎮魂と慰撫に回っているのでしたか」
「うん。どこか一箇所にいるより、こちらから向かうって。変な人たちが接触しないよう、護衛もちゃんとつけてるよ。あと、ほかの州にも行くべきなんじゃないかって悩んでるみたい。星ちゃんは、あの人たちのこと、怒ってる?」
いえ、と趙雲が首を横に振った。
「なにも思うところなどないと言えば嘘になりますが、彼女たちも償うために闘い続けています。ならば、なにも言うことはありません」
「うん。そうだね」
劉備も、同じだ。だが、それでも、ふっと思ってしまうことがある。彼女たちが太平要術の書を田疇に渡さなければ、公孫賛は死なずに済んだのではないか、と。
唾棄すべき考えである。そんなことを思ってしまう自分の弱さが嫌になる。書に弄ばれたというのは確かにあるが、それは劉備に隙があったせいだ。感情に振り回されるままに行動した劉備の落ち度であり、弱さのせいだった。
「私がもっと強かったら、白蓮ちゃんは」
「桃香殿は、強いですよ」
思わず洩らしてしまった言葉を遮るように、趙雲が言った。
そんなことない、と思わず声を上げてしまいそうになったところで趙雲が、いや違うか、と言葉を続けた。
「大きい、だな。強くて、弱くて、大きい方ですな、桃香殿は」
弱いけど、大きい。
劉備が抱いていた孤独や情けなさといったものを飛び越えて、劉備の心にうさぎの足あとのような刻印を残した呂布が、言った言葉だ。公孫賛にも話した憶えがある。
「恋ちゃんや白蓮ちゃんから、なにか聞いた?」
「なにをです?」
不思議そうに趙雲が言った。誤魔化している感じはしない。趙雲が、心から言ってくれた言葉なのだと思った。
ふっと、さっき見た趙雲の寂しそうな背中が、頭をよぎった。
「ねえ、星ちゃん。お願いが、ううん、わがまま言っていいかな?」
「なんでしょう?」
「敬語、やめてほしいんだ。星ちゃんにそんな気がないのはわかってるけど、なんだか遠慮されている気がして、
白蓮の一番の親友同士として、もっと仲良くしたい。なりたい。そんな想いが湧き上がっていた。
趙雲がキョトンとした。途端に劉備は恥ずかしくなり、俯いた。
共通の親友を持つからといって、自分たちが仲良くなる理由にはならない。これはただ、甘えているだけだ。もたれかかっているだけだ。公孫賛の前で、やめると誓ったことだ。
再び、趙雲の寂しそうな背中が頭をよぎった。この人があんな寂しそうな背中をするようになったのは、自分のせいでもあるのだ。
公孫賛を追い詰める一因となった劉備に、そんな資格はない。
「ごめん、やっぱり」
「確かに、白蓮の一番の親友同士なのだし、我々が親友でも問題ないな。となれば、遠慮は抜きであるな、桃香?」
ハッと趙雲に顔を向けると、彼女はいたずら好きな猫のような笑みを浮かべていた。
劉備はなぜか、泣きそうになった。
「いいの?」
「いまさらそれはなかろう。いや正直なところ、違和感はあるのですがな。なんというか、桃香殿の雰囲気は敬語で話したくなってしまうもので」
「敬語に戻ってるよう!」
「ほら、嫌なのだろう。桃香の方こそ、遠慮はいらぬぞ?」
「う、うん。っていっても、私の方は、特に変わるわけじゃないけど。えーっと、なにを話そう?」
「ぎこちないなあ。まあ、いきなり白蓮に対するようにとはいかぬだろうが。うむ、そうだな、では、白蓮のことで思い出話といこう」
「私たち、そればっかり話してない?」
「私と桃香の共通の話題としてパッと出てくるとしたらこれであるしなあ。まあ、手探りでいこう。そうこうしているうちに、親友っぽくなっているであろう」
「適当だなあ」
思わず笑ってしまっていた。
「でも、そうだね。じゃあ、私塾に通っていたころの話をしていい?」
「なら、私の方は、客将になったころや、反董卓連合から抜けて幽州で力を蓄えていたころの話にしようか」
「考えてみると、星ちゃんの方が話せること多い気がする」
「とはいっても、必ずしも白蓮のことを話すこともないだろうさ。きっかけでいいのだ。そうしているうちに、いろいろ話も弾んでくるだろう。それに、無理に会話する必要もない。冬至と恋など、特になにを話すでもなく、隣り合って座っているだけで幸せそうな雰囲気を出していたからな。気がつくと、肩を寄せ合って眠っていることもあったな」
「あの二人はいろいろと特殊な例なんじゃないかなあ。っていうか、式を挙げてないだけで、もうとっくに夫婦だったんじゃ?」
「うむ。ゆえに我らの間では、二人の旅は婚前旅行と呼ぶべきか、新婚旅行と呼ぶべきか、真っ二つに分かれての議論となった」
「議論すること!?」
いつの間にか、李岳と呂布の話になっていた。それを皮切りにいろいろと話も弾み、気がつくとぎこちなさもなくなって、二人で笑い合っていた。
目が醒めたらしい関羽も現れ、三人で空に輝く星を見ながら歓談を続ける。
趙雲が劉備に敬語を使わなくなっていることに関羽はちょっと驚いたようだったが、特になにか言ってくることはなかった。
「愛紗ちゃんも、敬語やめない?」
「いえ、私はこのままで。口うるさい、頑固な妹がいる。そう思ってもらった方が、姉上も気が引き締まるでしょう」
「つまり、敬語をやめると甘やかしてしまいそうだから、やめるわけにはいかないと」
「おい、星」
「愛紗ちゃん、いつでも敬語やめていいからね。変な遠慮は抜きだよ!」
「いえ、ですから」
そこで、関羽がなにか思いついたような仕草を見せ、どこか意地悪そうな笑顔を浮かべた。
「ふむ。わかった」
「ほんと!?」
「うむ。変な遠慮はしないことにしよう。では姉上。明日から髀肉を落とすための特訓といこう。反論は受けつけないぞ?」
「遠慮だけじゃなくて容赦もなくなった!?」
ふにゅーっ、と劉備が頭を抱えると、二人が笑った。からかわれたようだ。
もうっ、と頬を膨らませるが、二人は微笑ましいものを見るような眼を向けてくるだけだった。劉備も自然と笑っていた。
笑っていた趙雲が、不意に盃を掲げた。
「天下泰平に」
関羽がふむ、と呟き、趙雲に続いた。
「北斗七星に」
そのまま二人が、じっと待つように動きを止めた。
唐突な二人の行動に目を瞬かせていると、二人ともため息をついて
「そこはこう、なにか続けるところであろう、桃香」
「え、え?」
「なんというか、すごく残念な気持ちになりましたよ、姉上」
「いきなり無茶振りされてがっかりされた!?」
「しかし、ここは察して続いてもらわないと」
「ほんとうになあ。いつぞやの白蓮を思い出してしまったぞ、この残念っぷりは」
「ふむ。心当たりはありすぎるが、どの件だ?」
「二人は知らぬ件だと思うぞ。反董卓連合から抜け、彼女が幽州に戻る時に私もついていったわけだが、白蓮は私が桃香に臣従するものと思っていたようでなあ。どこまでついてくるつもりなんだという旨のことを訊かれた」
「それは、残念すぎるな」
「結局、心中で思っていたことを自分で説明することになったぞ」
「残念極まりないな」
「白蓮のやつ、感極まって泣いてしまってな」
「それはよかろう」
「うむ」
二人の間で、なにか感じ入るものがあったらしい。なにやら頷き合っていた。
二人が再び、劉備に視線を向けた。
「では姉上。なにかいい感じの言葉をお願いします」
「また無茶振りされた!?」
「ちなみに、残念な感じの言葉だった場合、私の言葉遣いが敬語に戻るぞ」
「私も、姉上ではなく、桃香様に呼び方が戻ります」
「なんか地味に嫌な感じの罰則!?」
なにかいい感じの言葉といきなり振られても、パッと思い浮かぶほど劉備は賢くないという自覚がある。というかこの二人、実は酔っ払っているのではないだろうかと思わなくもない。
頭を回転させる。なにかいい感じの言葉。
天下泰平、北斗七星に続く、いい感じの言葉。
天下泰平といえば、その立役者である李岳だろう。その伴侶である呂布のことも頭に浮かんでくる。北斗七星といえば、やはり公孫賛だ。
ふっと頭に浮かぶ言葉があった。
「えーと、じゃあ、旅立った友だちに、ってどうかな?」
おっ、と二人がわずかに目を見開き、破顔した。
「うむ。悪くないな。桃香らしからぬいい言葉だ」
「姉上もやればできるではありませんか」
「エヘヘ、ってなんか馬鹿にされてる気がする!?」
「気のせいですよ、桃香殿」
「ええ、気のせいですよ、桃香様」
「なんで呼び方とか前のに戻ってるの!?」
ハッハッハッハッハ、と趙雲と関羽が声量を抑えながらも笑い声を上げた。
「いやいや、すまぬな、桃香。どうにも愉快な気分でな。つい、からかいたくなってしまった」
「すみません、姉上」
「もうっ」
怒るが、やはり二人は笑ったままだ。それに釣られるように、劉備も笑っていた。不思議と劉備も、愉快な気分だった。
趙雲が、咳払いした。
「では、改めて」
趙雲が言い、盃を掲げた。関羽と劉備も倣う。
「天下泰平と」
「北斗七星と」
「旅立った友だちに」
『乾杯』
声が重なった。盃を突き合わせる。
北斗七星が瞬いていた。不思議と、優しい光に見えた。
はわわはわはわ書いてると、ハワァーっと裁きの技を放ちそうになって困る。天秤で罪を測って審判断罪する諸葛亮孔明か。
公孫賛を偲ぶ李岳、呂布、趙雲の話を書こう、というのは前話の段階でぼんやりと考えていたのですが、関羽と劉備のところが気がつくと長くなり、というかそりゃ長くなるよなと書いていたら全体がやたら長くなってしまったので、ここで一旦切ります。なげえわ、って自分でもなりましたので。というわけで次の話も趙雲殿です。すぐには投稿できそうにないけど!
髀肉というのは腿の肉のことです、念のため。『髀肉の嘆』で調べてみるか、もしくは「フトモモむっちり美少女(たぶんもう少女という歳ではない)は最高でおじゃるな!」程度に思ってもらえればよろしいかと思います。
長安に赴任している面子と李儒については、ぽーさんから教えてもらった設定を参考に書いた部分だったりします。なんでもかんでも訊いてしまいそうになるから、あまり訊くべきではないと思うのですが、鍾繇、張既、利確、郭祀の四人が途中から出番なかったからか、いまいち思い浮かばなかったもんで。鍾繇殿はまだヘタれて求婚できてないのか、それとも張既に逆レ気味に押し倒されたか、みたいな。
なお、ぽーさん曰く『まごまごする鍾繇に対し、張既からカウンター気味の逆プロポーズが鮮やかに決まりました。』とのこと。
李岳伝で書かれた描写と合わせて考えるだに、鍾繇殿は李岳伝でも屈指の萌えキャラと言っても過言ではないのではないだろうか?
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