生きるのに向いていない葵ちゃんの話。 (計量器)
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生きるのに向いていない葵ちゃんの話。

 

 この世界で最も「価値」や「意味」のあるモノとは何だろう。

 

 それは当然、「定義」や「基準」だ。価値や意味が人それぞれ異なるモノである以上、万人に共通の見解はあり得ない。

 しかし、その価値や意味を見出すにあたって、万人が必ず踏むステップがある。それが定義や基準である。人は物事の価値や意味を考える際、必ず何か判断の定義や基準を創り出す。意識されていなくとも、「何となく」であろうとも、そこには何らかの物差しが存在するのだ。

 でなければ、人は物事の価値も意味も認識できない。人は「差」や「区別」によって世界を認識するからだ。創り出した定義や基準、それと照らし合わせる事で、人は初めて価値や意味を認識できる。

 つまり、世界で最も価値あるモノとは、それを定義する「物差し」なのだ。

 

 

 

 そして僕の「物差し」には

 どうやら目盛りが無いらしい。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 一文字も出ない。

 

 驚くべき事にもうひと月経つが、やはり一文字も出ない。さっきから僕の指先はずっと、タップをするかしまいか迷ったままだ。震えた手でスマホを握りしめたって文字が浮かんだりはしないのに、手のひらにばかり力が入る。「あ」でも「ん」でもいいはずなのに、何故か指はそこへと伸びない。何故かはとうに分かっている。どうせそれを押したら負けとか何とか、そんな下らない思考のせいだ。そんなちっぽけなプライドが何になる? そんなものは今すぐ捨てて、がむしゃらに文字を打つべきはずだ。どうしてお前はそんなにもノロマでグズなんだ? 

 ああ、ダメだ。そういう考えに至り始めると袋小路だ。もっと周囲を見るべきなのに、また自分の事ばかり考えている。ナルシシストもいいところだ。考え方を変えなくては。

 

 毎日毎日変わらないスマホの画面を睨みつけると、今日も昨日と同じように、諦めとともに床に入る。いや、嘘はよそう。昨日はスマホのメモを開いていない。昨日どころか一昨日、いやここ一週間は開いていない。スマホを持って、「まずは気分転換」「動画でも見ようかな」。いつもそれで終わり。ホーム画面に戻ってメモを開くというだけの事すら、ここ一週間はできていない。いつもスマホを持つまではいいが、メモを開くのが難しいのだ。メモを開いたら書かなきゃならない。どうせ一文字も書きはしないが、「書かなきゃならない」というのが嫌なんだ。

 ネタを考えてない訳じゃない。ただ、それが面白いとは思えないのだ。面白いネタさえ思いつけばすぐにでも仕事にかかれるだろうが、そうも言ってはいられない。そろそろ続きを書き出さないと、いい加減腕が鈍る頃だ。何でもいいから筆を取り、ただの一文字でも書きつけるべきだろう。他の皆はきっともう、何かしらを書き上げているに違いない。今一文字も書けていない僕がここで休んだら、ますます距離が広がるだけだ。それはまずい。早急に何か書かなければ。しかし焦れば焦る程、頭はどんどん錆び付いていく。昔はもう少しアイデアが出て、「アレはダメ」「コレはダメ」とか言えたのだけど、今はそれすらも覚束ない。ちくしょう、今は休むしかない。下手な考えも浮かばないなら、せめて休んで誤魔化すしかない。

 『なーに、きっと大丈夫。明日にはきっと何か浮かぶさ』僕は枕元のスマホに背を向けながら、いつものように、無意味で無価値な呪詛を唱えた。

 時計はもう4時を回る所だった。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 ◯年△月×日 はれ

 

 今日は良い事があったので、記念に日記をつけ始める。

 なんと葵ちゃんが、「趣味を見つけた」と言ってきたのだ。

 

 突然の事だったけど、ウチはとっても嬉しかった。

 進学してからの葵ちゃんは学校が楽しくないらしく、暗い表情ばかりだった。

 でもその趣味のお話をする時は、前の葵ちゃんみたいに、無邪気な顔でいてくれる。

 お姉ちゃんとしても、安心だ。

 

 どんな趣味かは詳しく教えてくれなかったので、想像を書いておこうと思う。

 

 やっぱり書き物とかかなあ。

 葵ちゃん、国語はずっと得意だったし。

 昔書いてくれた作文、未だにとってあるって言ったら、少し引かれちゃうかなあ。

 

 それとも実は、文具集め? 

 一緒にノートを買った時、ちょっと嬉しそうにしていたし。

 因みにこのノートは、その時のお揃いなのだ。

 使い切るのはいつになるかなあ。

 葵ちゃんなら色々書く事多そうだし、使い切るのも早そうだ。

 一緒に買い替えられるように、ウチも日記をたくさん書くのだー。

 

 

 

 ちょっとノートをめくってみたら、予想よりだいぶ、いやかなりページが多かった。

 本当にウチ、これ使い切れるんかなあ……? 

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 朝は憂鬱だ。「また刑期が始まる」、そんな気分になるからだ。眠っているのは気分が良い。眠っている間は何も考えないで済む、つまり死人と同じになれる。死ぬ度胸なんてカケラもない、本当に死ぬ気なんて微塵もない僕にうってつけの逃避術だ。でも僕は今日も布団から出て、したくもない身支度をする。それが僕の権利であり、義務だからだ。

 重い頭を抱えながら自室を出て、廊下を挟んで向かい側の戸を眺める。やはり既に起きているようだ。ああ、今日も姉より遅かった。昔はやたら目覚めが良くて、6時には自然に起きていた筈なのに。今じゃ8時半に起きるのがやっと、下手すれば9時を過ぎる事もある。今のところ遅刻はほぼない、姉が起こしてくれているから。でもそんな日は一日中最悪だ。だから僕は自力で起きたい。姉に起こされたくはない。

 

「お姉ちゃん、おはよう!」

「……ん。おはよ、葵」

 

 廊下を抜けてリビングに出ると、ボーッと椅子に座す少女が目に入る。琴葉茜。僕の姉。肉親として大好きな人。大嫌いな人。朝の姉は特に嫌いだ。姉はいつも温和で人懐こく、他人と話すのが好きな人だ。思いやりがあって明るく、何より有能だ。自分では僕よりも賢くないなんて言うけれど、実際は多分僕より賢い。じゃなきゃあんな人付き合いができる訳がない。つまり彼女は、何故僕の姉なのか分からないくらいの「いい人」だ。でも姉は低血圧だから、朝はいつも不機嫌に見える。実際に不機嫌な訳でないのは知っている。単に朝に弱いだけだ。僕はそんな「いい人」の不機嫌な姿を、毎朝見てから学校に行く。学校では他の誰にも見せない、「いい人」の不機嫌な顔を見て、僕は毎朝学校に行く。まるで僕だけが、姉から特別嫌われているかのような思いを背負って、僕は毎朝学校に行く。

 

「ちゃんと朝ごはん食べた?」

「ん……まだ……」

「じゃ、ちゃちゃっと用意しちゃうね! パンでいいよね?」

 

 努めて明るく振る舞いながら、朝のトーストとコーヒーを出す。パンを切って、焼いて、ジャムを塗って、湯を沸かして。人間の身体は不便だ。食事という極めて非効率な手段でなければ、エネルギーを補給できない。光合成をしたい訳じゃないし、光合成では動くエネルギーが足りない事も分かっている。しかし食事も睡眠も、できる限りはしたくない。時間の無駄にしか思えない。もし人生に苦痛が無ければ、一睡だってしたくない。他にやるべき事が山ほどあるって言うのに、何故そんな時間をとらなくっちゃならないんだ。

 

「できたよ! ホラ、早く食べて!」

「ん……」

「食べ終わったら先にシャワー浴びちゃってね!」

「んー……ありがとー……」

 

 もそもそとパンを咥える姉の背を押し、洗面所の奥へと追いやる。早く目の前から消えて欲しい。でないと朝食が食べられない。いや、最早それは食事とすら呼べないモノかも知れないが。ただでさえ朝は慌ただしいのに、なぜ僕は()()()()()なんだろう。姉が風呂場へ行ったのを見届け、洗面所の戸を閉めきったら、ようやく僕の朝食が始まる。ジャムとバター塗れのパンを決意と共に口に飲み込み、牛乳で流し込む。これはスピードが勝負なんだ。味わっている暇はないし、そもそも何の味もしない。飲み込めた事を確認したら、深呼吸をして押し黙る。数瞬ばかりの沈黙の後、キッチンシンクの前に立ち───口にしたモノを、全て吐き出す。

 

 これがいつもの僕の朝食。いつからだったか忘れたが、どうにも僕は、食事というのが下手らしいのだ。何を食べても味がしない。食べるとすぐに吐き気を催す。朝も昼も夜も同じだ。食べる量が多ければ全てを戻さずに済むのだが、朝はそういう訳にもいかない。何しろ全く時間が無いのだ。こんな現場をもし姉が見れば、何と言われるか分からない。姉に心配はかけたくない。姉に心配されるのは苦痛だ。だから「朝食を抜く葵の姿」も「朝食を吐く葵の姿」も見せられない。姉の瞳に写るのは「健康に過ごす葵の姿」でなければ駄目なんだ。それが例え本当は、ただ一人分の食材を無駄にするだけの事だとしても。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 ◯年●月△日 はれ

 

 葵ちゃんは最近少しねぼすけさんだ。

 とは言っても、ウチとほとんど変わらんけどね。

 昔のウチは葵ちゃんに起こしてもらってばっかりだったから、葵ちゃんを起こしてあげられるのは、恩返しみたいでちょっと嬉しい。

 それになんだか、「お姉ちゃん」になれた気がする。

 いや、元々、お姉ちゃんだけど。

 

 夜更かしが多くなったのは、やっぱり趣味の為なのかな。

 あんまり睡眠時間が減りすぎると心配だけど、でも笑い声も聞こえるから、きっと楽しくやってるんだね。

 

 頑張っているみたいだし、今度のお休みは一緒に買い物行って、葵ちゃんの好きなご馳走を作ってあげよう。

 小さい頃は少食でみんなから心配されてたけど、最近は晩御飯、たくさん食べてくれてるしね。

 葵ちゃんも食の楽しみに目覚めたみたいで、お姉ちゃんは嬉しい限りです。

 

 ウチはウチで、もう少し朝をテキパキ食べんと……また葵ちゃんに怒られちゃうなあ。

 もっともっと早起きをして、朝ごはんの用意もしてあげて、二人でゆっくり食べれるようにしたいなあ。

 その為にも今日は、早く寝るのだ。

 

 葵ちゃんも、あまり根を詰めすぎずに、なるべく早く寝るのだぞー。

 

 

 

 よいお返事が聞こえたので、今日も安心して眠れそう。

 明日もきっと、葵ちゃんを起こしてあげるのだー。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 学校生活について言うべき事は何もない。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 放課後のベルは解放の合図であり、試練の始まりを告げる鐘でもある。それが耳に入ると同時に、僕は一目散に駆けていく。誰の姿も見ずに、誰の声も聞かずに済むように。けれどそんな努力も虚しく、必ず追いついてくるモノもある。それが電波だ。

 

『今どこですか?』

 

 飛び乗ったバスの中、吐き気を堪えながらスマホを見ると、必ずと言っていい程、この文字列が浮かんでいる。結月のやつだ。僕はそれを忌々しく思いながら、コピペ染みた返事を打ち込む。

 

『ごめんね、バス来てたから先に乗っちゃった!』

『そうでしたか……また今度、一緒に帰りましょうね』

 

 正直、いい加減に諦めて欲しいと思う。僕たちは確かに、多分、友人と言うべき関係なのだろう。趣味を同じくする仲間でもある。付き合いが短い訳でもない。でも、だからこそ、こんな状態で顔を合わせたくはない。今の僕には、彼女の作品評を聞いたり、彼女の作品創りを手伝ったりする元気はない。きっと今の僕と話しても、彼女が気分を害すだけだ。僕には彼女のように作品を創り続けられる根気も、他人の作品を見て回れるような積極性もない。僕はただ、「何かをやらなきゃならない」からコレを選んだというだけなんだ。小説なんて書くのは勿論、読むのだって好きじゃない。文章表現の妙なんて、これっぽっちも分かりはしない。彼女の文章だって、読みたくて読んでいる訳じゃない。見せられたから読んでみて、一言二言捻り出して。「アドバイスが欲しい」なんて、何の為の嘘なんだ? 僕より熱意も技術も経験もある人間が、わざわざ僕から何を聞くんだ? 彼女と話すのは試されているようでイヤなんだ。彼女と話していると、まるで僕には決意も、学も、積み重ねも、何も無いような───

 

 頭が痛い。

 結月はきっと、単に最近僕の顔を見ないから、心配して声をかけてくれているだけ。僕はただひたすらに自分勝手な理由でそれを拒み続け、彼女に余計な心労を与えている。僕はどこまで非道でクズなんだろう。彼女は僕のこの趣味を後押ししてくれた恩人なのに、施されるばかりで何一つ返せていやしない。そもそも僕が何をすれば返せるんだ? 何か彼女にとって素晴らしい作品を書けばいいのか? 彼女の作品創りに寄与すればいいのか? だとしたら僕はまず彼女に向き合わなきゃならないだろう。少なくともこうして人目を避けて、バスの隅っこで縮こまるのが正解でないのは確かだ。

 

 けれど現実問題、僕は彼女に何も言えない。彼女の作品を見ずとも分かる。今の僕は、「作品」というモノに怯えているからだ。小説の活字だけじゃない。テレビ画面の光も音も、ラジオやCDの音源でさえ、今の僕には苦痛でしかない。単に気分が悪くなるというだけじゃない。それらの音は頭の中でやたらに響き、ただの騒音と化してしまう。文字や画面を睨んでみれば、目が眩み焦点は合わず、頭痛や吐き気を引き起こす。冗談のように聞こえるだろう。冗談であって欲しかった。今の僕にできる精一杯は、昔好きだった短い動画を、光量も音量も最低にして、見るでもなく垂れ流す事だけ。昔はそれで大笑いしていた筈なのに、今では何が面白いのか全くもって分からない。それが分かれば作品創りに何か活かせるかも知れないのに、もうどう足掻いても、その動画を面白いとは思えない。

 こんな状態の僕が彼女に会って、はたして何の役に立つだろう。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 △年◯月□日 くもり

 

 近頃はちょっと寂しいのだー。

 葵ちゃんのお付き合いが悪いのだー。

 きっと葵ちゃんの、お友達のせいなのだー。

 

 なら別にいっかー。

 

 葵ちゃんのオキニのアニメ、一緒に見たかったんだけどなー。

 「また今度」って断られちゃうしなー。

 最近は部屋に篭りっきりで、ずっと何かしてるみたいだしなー。

 よく笑い声が聞こえるから、きっと通話とかしながら仲良くやってるんだろーなー。

 

 そう言えば件の結月さん、まだ一度も会った事ないな。

 葵ちゃんのお話聞く限り、すっごく頭良い子みたいだしな。

 「結月さんはすごい、すごい」って、いっつも笑顔で言ってるしな。

 

 いいなあいいなあ、羨ましいな。

 葵ちゃんも頭良いのに、葵ちゃんから見て頭良いって、一体どんな子なんだろうか。

 きっと二人のお話は、成績万年下位争いのウチには全然分からんだろう。

 通う学校からして違うし、優秀な人なのは間違いないな。

 悔しくなんてないんだぞう。

 ウチには部活があるもんねー。

 料理研があるもんねー。

 

 ……少しは、お料理以外の勉強も頑張ってみた方が良いかなあ。

 葵ちゃんのお友達は、邪険にしたくないしなあ。

 

 よし、思いたったが吉日だ。

 とりあえずまず、成績中位を目指すぞー。

 そして結月さんを紹介して貰って、三人仲良くお茶をするのだー。

 お腹に血が行くとIQ下がるってよく聞くから、食後ならきっと、ウチともお話が噛み合うのだー。

 

 ……自分で書いてて悲しくなんてないのだー。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 自宅に帰って、まずする事とは何だろう。

 多くの人は「手洗い・うがい」と答えるだろう。僕もそうだ。

 服を脱ぎ風呂の戸を開けて、シャワーを浴びながら全身を洗う。手だけに限らず、頭も顔も胴も足も、隅から隅まで洗いつくす。何度も何度も垢が出なくなるまで洗い、洗い終えた後に消毒をする。それを終えたら、玄関から風呂場まで、風呂に入る前に歩いた箇所を全て拭く。それを終えたらまた手を洗って消毒をし、今度は持ち物を拭き始める。カバンの類はまだいいが、洗えないモノは厄介だ。特に気になるのはスマホだろう。手垢にまみれベタつく画面は最低最悪のストレス源だ。カバーを外してウェットティッシュで何度も何度も画面を拭く。それを終えたらまた手を洗って消毒をし、今度は教科書類を一つずつ───

 

 帰宅後のこのルーティンに、特に意味は無い。ただ、しておかないと気分が悪いというだけだ。しても気分は良くならないし、むしろ疲れて気が滅入る。こんな事をした所で無菌化なんてできやしないし、そもそも多分、僕が思う程汚れてなんていないだろう。分かりきった事だとしても、僕はコレを止められない。この奇行を理由にとやかく言われ、かなり傷ついた事もある。だけどコレを止められない。多分、僕に結月の他に碌に友人が居ないのは、コレが原因の一つだろう。だけどコレを、止められない。止められたらとっくに止めている。実際、外でするのは控えているし、控える事が可能になった。今思えば、こんな事を人目のある中でしている方が可笑しいのだ。こんな奴が■■■の標的にならない訳がないだろう。

 

 そもそも控えているとは言っても、完治は全くしていない。相変わらず外のモノには触れられないし、触れれば気にせずに居られない。仮に触れずにいられたとしても、気になる事は別にある。人間の身体というのは本当に最悪だ。どうしてただ生きているだけなのに、手垢なんてモノが出てくるんだ。排泄の類も全て苦痛だ。どうしてしなきゃ生きられないんだ。口内を満たす唾液なんかも、気色悪い事この上無い。僕が食事をできない理由の一つは、間違いなくこの唾液のせいだ。頬をつたう涙でさえも、僕には汚水と変わらない。その事実に気づいて以来、僕は悲しくても泣かなくなった。代わりに何故か笑いが出るのだ。

 多分これは、泣けなくなったと言うのが正しい。

 

 僕は本当に僕が嫌いだ。やたらに人目を気にするクセに、「異常」が分からない自分が嫌いだ。「異常」な部分が分かっても尚、それを治せない自分が嫌いだ。「異常」を許容してくれる友を得たのに、それを蔑ろにする自分が嫌いだ。「異常」な僕が居るせいで、姉に迷惑がかかるかも知れない。僕が気づいていないだけで、姉は既に、こんな僕を見つけてしまっているかも知れない。

 だとしたら、それに気づけない無能も嫌いだ。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 △年□月●日 くもり

 

 今日、気づいてしまった事がある。

 葵ちゃん、お手洗いに行く度に、必ずシャワーを浴びている。

 多分最近、ずっとそうだったんだろうけど、今日になってようやく気づいた。

 葵ちゃん滅多にお手洗い行かないから、全然気づけてなかったけど、でも恐らく、間違いない。

 

 もしかして、昔ついちゃってたあのクセ、まだ治ってなかったのかな。

 でも最近になってからだしな、床が濡れてる、なんて事が増えたの。

 ちゃんと拭き取れてないんだろうけど、もしかして疲れが出てきてるのかな? 

 趣味を頑張ってるのは良いけど、健康に悪い影響出るなら、ちょっと控えて欲しいかも……。

 

 葵ちゃん、大丈夫かな。

 昔みたいに、学校でイジメられたりしてないかな。

 最近はよく笑ってるから、きっと学校も上手くやれてると思ってたけど。

 やっぱりもう少し頑張って、同じ学校入れてたらなあ。

 でも葵ちゃん、きっとそういうの嫌がるよなあ。

 今はもう昔と違って、立派に一人でやってるだろうし。

 あんまりウチから干渉し過ぎてしまうのも、きっとストレスになるよなあ。

 

 

 

 うん、お姉ちゃんは待つのも大事。

 葵ちゃんは出来る子だから、自分じゃ抱え切れないモノは、ちゃんとお姉ちゃんに吐き出してくれる。

 今は信じて待つのみなのだ。

 お姉ちゃんの方からくっつき過ぎたら、葵ちゃんも苦しくなってしまうよね。

 そしてもし、葵ちゃんが悲しみに暮れる、そんな時が来てしまったら、思い切り慰めてあげるのだ。

 

 多分、きっと大丈夫。

 お姉ちゃんはずっとずっと、葵ちゃんの味方だからね。

 葵ちゃんを苦しめる奴は、お姉ちゃんがとっちめたるぞ! 

 ……なんちゃって。

 

 葵ちゃん、もし辛い事があったりしたら、絶対お姉ちゃんに相談してな。

 

 

 

 よしよし、今日もよいお返事。

 心配し過ぎただけみたいやね。

 今週末は一緒にお出かけの予定やし、今のうちからぐっすり寝とこー。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 姉が部活から帰るまでは、我が家は僕だけの城になる。

 だからと言って、特に何をするでもないが。

 帰宅のルーティンを手早く済ませ、スマホを片手に、布団へと潜り込む。そして眠るでも書くでもなく、ただ天井を見る。何か文字が浮かんで欲しい。いや、浮かべなければならない。今の僕にとって、唯一の生きる理由がコレなんだ。人生に何の楽しみも無くても、コレだけは続ける必要がある。『僕は将来何かしらの、創作に携わる仕事がしたい』。かつて抱いたその想いを無かった事にしない為にも、不断の努力をもって、挑戦を続けなくては。今の僕にはそれ以外に、生きている理由が何もない。

 

 でも何を書けばいいんだろう。僕には書きたいモノも、書くべきモノも何もない。ただ「何かを書かなければならない」という強迫観念があるだけだ。これでは浮かばなくて当然だ。そもそもこの行いは趣味なのだから、楽しむ事が第一義の筈だ。今の僕は楽しいだろうか? 正直な所、否である。苦痛で苦痛で仕方がない。今すぐ投げ出してしまいたい。文字が出ない事だけじゃない。文字を見る事自体が苦しい。今まで書いたモノだって全て、良いものとは全然思えない。

 

 そもそも良いものって何だよ。自分が満足できるものか? 他人の心が動くものか? 長く愛され続けるものか? 絶対全部違うだろう。

 満足なんて一時のモノで、すぐ不満が出るに決まってる。実際、今の僕がそうなんだから。今までの作品全部、創り終えたその瞬間だけは、自分にとっての最高傑作。それが今では全部ゴミだ。その一文字にも価値はない。

 他人の心を動かせたって、それは一部の人に過ぎない。全人類を感動させる、そんな事は不可能だ。趣味も趣向も違うんだから。ならその「感動してくれる一部」を大切にしていけばいいのか? 他の人達はどうなるんだ? ただ趣味や趣向が違う、たったそれ一つだけの理由で、その人達を無視するのか? そんな気持ちで書くんだとしたら、それはただの自己満足だ。

 長く愛されるものを書く、確かにそれは凄い事だ。限られた人にしかできない事だ。記録に残り語り継がれたものは、それはそれは長く愛される事だろう。人が生きている限りは、だが。人は皆いつか死ぬ。人だけじゃなく星も死ぬ。宇宙も死ぬ。そしてそこで全て終わる。どこまで長く残ろうと、最後には全て消えてなくなる。作者も、読者も、作品も。長くって何だ? 長い事が良い事なのか? なあどこからが長いってのに当てはまるのか教えてくれよ誰か───

 

 やめよう。

 僕が考えるべきなのはこんな下らない事じゃない。作品について考えなくては。本当に僕は、ナルシシストの化身みたいな人間だ。自分の事しか考えられない。自分の苦しみしか見えていない。違うだろう。僕は作品を書き上げて、他人を楽しませなくちゃならない。他人をよく見て、何なら喜んでもらえるか考えて、それを書く為の訓練をして……。そしてついでに、自分も楽しむ。楽しませる事を楽しんで、書く事自体を楽しんで。そんな生き方がしたいんじゃなかったのか? 今は何の為の時間なんだ? 

 

 ああちくしょう、スマホが手垢まみれじゃないか。少し握りしめるといつもこうだ。人間の身体は嫌いだ。とりあえず、まずは拭かなければ。ちょっと時間をおいてしまえば、きっと気分も変わるだろう。なんせ僕は、自分の最高傑作をゴミクズと断じてしまうくらい、アテにならない気分屋だからな。

 

 そして洗面所に向かい、部屋へと帰るその時の事。

 僕はその戸の少しの隙間に、なぜか気が付いてしまっていた。覗いて見えた机の上に、本があるのを知ってしまった。読書嫌いの姉が読む、その本の中身を気にしてしまった。特に愚か極まる事に、それを大事そうに覆うカバーを、外すという行為をしなかった。そこが最後の砦だった。そこで正体に気づけていれば、立ち止まる事もできただろうに。

 

 

 

 日記だった。

 数年前に始めたらしい、姉がつけている日記だった。

 そこには僕が書かれていた。楽しそうに過ごす僕が書かれていた。弱っちい僕が書かれていた。姉に知られてはいけない筈の、僕の姿が書かれていた。

 そこには姉が書かれていた。楽しそうに過ごす姉が書かれていた。日々を明るく受け止めて、向上心を絶やさない姉が書かれていた。僕を優しく見守っている、姉の姿が書かれていた。

 

 日記は初めて書かれて以降、一日も欠かさず続いていた。僕が作品を書けずにいた数ヶ月間の事でさえも、克明に記録されていた。心底楽しそうに書かれていた。読む者の心を明るくさせる、ユーモアのようなモノすらあった。それは立派な作品だった。活字嫌いの姉が自分の弱点と向き合って書いた、真摯極まる作品だった。姉という作者が、姉という読者の為に書いた、姉の人生の中で愛され続けるだろう、作品だった。

 

 僕は姉がそれを書いているという事を、今日の今日まで知らなかった。

 僕が苦しんで一字を書く間に、姉が楽しんで一冊を書いていた事を、知らなかった。

 

 

 

 僕は笑った。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 □年△月×日 あめ

 

 昨日は初めて日記を書けなかったので、今日二日分を書く事にする。

 正直、どう書いたらいいか、あんまり分かってないけど。

 

 昨日家から帰ると、葵ちゃんが笑っているのが耳に入った。

 バカなウチでも、流石にそれが楽しくて笑ってる訳じゃないのが分かった。

 部屋に入るとそこには、ウチの日記を抱き抱えて、声を枯らして泣き笑う葵ちゃんがいた。

 顔は体液でぐちゃぐちゃで、なのに口角は上がっていた。

 目は死んでたし、息は荒かった。

 

 辛い事があったんだ。

 ウチはそう思って、すぐに葵ちゃんを抱きしめた。

 落ち着かせる為に撫でようとして、手がおでこに触れた時、熱があるのに気づいた。

 すごく、動揺した。

 でも、まずは葵ちゃんを落ち着かせてあげなきゃいけない、ここでお姉ちゃんが慌てたら、葵ちゃんはますます泣いてしまうかも知れない。

 ウチはそう考えて、葵ちゃんが泣き止むまで頭を撫で続け、「大丈夫、お姉ちゃんは味方やで」そう繰り返した。

 それがウチにできる最善だと思った。

 

 

 

 でもウチはやっぱりバカだった。

 葵ちゃんの敵はお姉ちゃんだった。

 葵ちゃんのあのクセはお姉ちゃんのせいだった。

 昔、ウチが焼いたクッキーを、葵ちゃんが手を洗う前に摘もうとした。

 ウチはそれを怒った。

 葵ちゃんがお腹壊したらいけないと思ったからだけど、きっと怒りすぎたんだ。

 葵ちゃんはそれ以来、手を洗わずにいられなくなった。

 そして時間とともに手だけじゃなく、顔も髪も足も身体も……。

 やがて葵ちゃんは、物を触るのが苦手になり、自分の事も嫌いになっていってしまった。

 葵ちゃんはその事を、ポツリポツリと話してくれた。

 ウチがごめんね、と呟くと、葵ちゃんは、とても言いづらそうにしながら、こう返した。

 

「呪いだった」

 

 

 

 その後に葵ちゃんが話してくれた事は、日記には書かない秘密。

 ウチが死ぬまで忘れちゃいけない、秘密。

 

 

 

 葵ちゃんが話してくれた後、ウチは葵ちゃんに、これからどうしたい? と聞いた。

 

「このままじゃいけないと思う。

 心のお医者さんに診て貰って、元気になれるように頑張る」

 

 葵ちゃんは真面目で強いな、ウチはそう言った。

 葵ちゃんはそれには何も反応せずに、今日はもう寝るね、と、部屋に戻っていった。

 

 

 

 そして今日、ウチと葵ちゃんは、葵ちゃんの希望通り精神科に行った。

 葵ちゃんが一人で診察を受けたがったので、ウチは先生が何を言ったのか分からんけれど、葵ちゃんはきちんと薬を受け取っていた。

 葵ちゃんは今日早くも、それを飲んで自室で寝ている。

 

 ウチがこんな事を思っていいのか分からないけど、やっぱり葵ちゃんには、早く元気になって欲しい。

 それに昨日触った時の、おでこの熱についても気になる。

 葵ちゃんが抱えているのは、本当に心の病だけ? 

 他のお医者さん達にも、診て貰った方が良いんじゃないの? 

 ウチはどうしても心配だ。

 もし葵ちゃんにとって、ウチが呪いなのだとしても、でも葵ちゃんを気にかけないなんてできない。

 例え葵ちゃんに嫌われてでも、ウチは葵ちゃんを、守らないと。

 

 葵ちゃんが眠った後、ウチはすぐに買い物に出た。

 葵ちゃんが患っていそうな病気について書かれた本を、片っ端から買い集めた。

 そしてこの日記帳も、ちょうど最後のページなので、それも新しく買い替えた。

 もちろん、葵ちゃんの分も一緒だ。

 葵ちゃんはそれを欲しがらないかも知れないけど、でももし葵ちゃんが元気になって、欲しがってくれるようならば、すぐにウチの手で渡してあげたい。

 葵ちゃんは強い子だから、きっと元気になった後、何かを書こうとし始める。

 ウチはそれを、葵ちゃんが苦しまずに済む程度に、応援してあげたい。

 

 

 

 本当の所は、どうなのかな。

 葵ちゃん、本当は書き物なんてこれっぽっちも楽しくなくて、無理矢理書いてただけなのかな。

 もしそうなら、ウチの想いも、この日記帳も、ただ邪魔になるだけなのかな。

 

 今のウチには、分からないや。

 

 

 

 ダメだ、もっとしっかりしなくっちゃ。

 ポジティブ、明るく、元気良く! 

 それがウチのモットーなのだ! 

 ウチがこんな暗いんじゃ、葵ちゃんももっと悲しくなってしまう。

 明日何が起きるかなんて、ウチには一つも分かりゃせん! 

 ならできる限り、明るくいるのだ! 

 今のウチには分からなくても、なーに、きっと大丈夫! 

 明日にはきっと何か浮かぶさ! 

 

 明日からは忙しくなる。

 葵ちゃんを元気にする為、お勉強だって始めちゃうのだ。

 明日からの日記帳は、勉強ノートにするのもいいかも。

 今まではスキマだらけだったけど、次からのウチは一味違う。

 ノートの端から端までを、むつかしい言葉で埋め尽くすのだ! 

 葵ちゃん、きっとびっくりするなあ。

 いや、多分もう、見せんけど。

 

 

 

 葵ちゃん、早く元気になってね。

 それが今のウチの、心の底からの願いです。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

 それから。

 

 琴葉茜が二冊目のノートを開く事は、一度も無かった。

 結月ゆかりが彼女とお茶を飲む事も、一度も無かった。

 

 他の、多くの人達の人生は、特に何も変わらなかった。

 

 

 

 

 

 世界は今日も続いている。



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