無惨との最終決戦にうっかり紛れ込んでしまったヘタレモブ隊士の話 (Amisuru)
しおりを挟む

無惨との最終決戦にうっかり紛れ込んでしまったヘタレモブ隊士の話

 

 

 戦う意思を欠片も持っていなかった訳じゃない。

 俺は鬼殺隊士だ。鬼によって身内を殺され、その恨みを晴らすために刀を取った者だ。

 身体を鍛え、呼吸を覚え、最終選別にだってきっちりと通った。

 階級は下から数えた方が早くとも、鬼の首だってそれなりに落とした経験がある。

 だから今、俺はこの場所に立っている。

 その筈、だったんだ。

 

 

 鬼舞辻無惨。鬼を統べる者。我らが恩讐の向かう先。

 そいつが今まさに、我ら鬼殺隊の手によって討たれようとしている。

 お館様の屋敷が襲撃されたと鴉に伝え聞かされた時は、流石に耳を疑った。

 緊急招集を受け屋敷へと駆けつけてみれば、跡地は既に火の手の中。

 屋敷に代わってその地に在るは、血鬼術で創られたと思しき、地下へと続く謎の建物。

 聞けば、柱を始めとする一部の隊士たちは、既にこの建物へと飛び込み、鬼たちと交戦を始めているという。

 お館様は我が身を犠牲に無惨をこの建物へと追いつめ、今は幼き跡継ぎ殿が、お館様に代わって指揮を執っているとも。

 俺は他の(ひら)隊士たちと共に、先に突入した第一陣に続く、第二陣としての参戦となった。

 招集を受けた他の隊士たちが集まり、陣としての数が揃うまでの間にも、鴉の口から立て続けに最前線の模様が伝わってくる。蟲柱/胡蝶しのぶ死亡。上弦の参と弐を撃破。霞柱/時透無一郎、並びに階級・丁/不死川玄弥、死亡。上弦の壱を撃破――

 柱と月が互いに欠けていく。絶望が殴りつけてきたかと思えば希望の光が差し込んでくる、その繰り返し。それでも確かに、鬼殺隊(こちら)の方が前に進んでいると思った。

 そして、俺たち第二陣も建物の中へと突入し、奥へ奥へと進んでいく最中――ついにその一報が舞い込んできたのだ。

 

 

「カアアアァ――ッ!! 発見! 第一陣、鬼舞辻無惨ヲ発見! 無惨ハ繭ノヨウナ物ニ包マレテ動ケズ!!」

 

 

 見つけた。無惨を見つけた。身動きの取れない無惨を。鬼殺隊が!

 共に道往く隊士たちが、一斉に歓喜の声を上げる。当然、俺だって叫んだ。

 届いた。鬼を滅ぼさんとする我らの刃が、ついに無惨の喉元へと届いたのだと、そう思った。

 ようやく世界の夜が明ける。宵闇に潜む悪鬼どもに怯えることなく、皆が安心して眠れる夜がやってくる――早くも幸福な未来予想図を描き始めていた俺の視界に、ひらひらと舞い落ちる何かが映った。

 

 

「……紙?」

 

 

 伝令の鴉が身に付けていたものだろうか? 飛び回っている最中に落としていったらしい。目のような模様が刻まれていて、何らかの(まじな)いが籠められているようにも感じられる。

 他の隊士たちが脇目も振らずに駆けていく中、俺は反射的に立ち止まり、その紙を拾い上げてしまった。特に深い理由はない。強いて言えば、俺は昔から()()()()()()()()人間だった。『育手』の男にもよく叱られたものだ。判断が遅い、と。

 やるべきことをやるべきときにやれない人間というのは、いつだって肝心なときに乗り遅れる。今回もそうだった。

 

 

 ここで立ち止まらずに進んでいれば、何も為せずとも、鬼殺隊士の一人として死ねただろうに。

 

 

「復活ッ! 無惨復活ッ!! 柱ノ到着ヲ待テ! 回復ノ為ノ食料ニサレル! 聞コエテイル者! 皆一旦退キナサイ!!」

「え……」

 

 

 復活――繭から出てきたというのか? 無惨が? 第一陣はどうなった? いや、それよりもまずは指示のとおりに――そう考えて、踵を返しかけた瞬間。

 道の先から相次いで、隊士たちの悲鳴が響いてきた。

 

 

「ギャアァァァアアアァ!!」

「無惨だ! 逃げっ」

「ヒイィィイィィィィ!! ひっ――」

 

 

 それは狩人の声ではなかった。狩られる側の、食われんと藻掻く餌たちの断末魔であった。

 先に進んでいった筈の隊士たちが、這う這うの体で逃げ帰ってくる。その背後から、嵐のように腕を振り回して、屍の山を築き上げながら迫ってくる、そいつこそが――

 

 

「もういい」

 

 

 ――鬼舞辻、無惨。

 美しい男だった。怨敵に抱くような第一印象ではなかったが、顔だけは紛れもなく美しかった。引き締まった身体に白い長髪、この世の全てを見下したように酷く醒め切ったその眼光は、王たる者に相応しい威圧感を備えていた。

 

 

「誰も彼も役には立たなかった。鬼狩りは今夜潰す。私がこれから皆殺しにする」

 

 

 両親の仇。同胞の仇。命に代えても討つべき、我ら鬼殺隊全ての仇。

 それが目の前にいるというのに、俺は身動き一つ取れなかった。息をすることすら忘れていた。我ら鬼殺隊士にとって、呼吸とは戦意そのものだ。それを忘れてしまっては、戦うことなど出来やしない。

 この瞬間に、俺は鬼殺隊士である資格を失ってしまったのだ。

 無惨は俺の脇をすり抜けて、その場を歩き去っていく。俺に興味がない――違う。存在自体が、認識されていないらしい。理由はまったく理解らないが、俺はひたすらに、鴉の落とした紙を握り締めながら祈っていた。どうかこのまま立ち去ってくれ。最後まで俺に気付かないでくれ――

 祈りは届いた。届いてしまった。無惨の気配が消え去ったのを感じた瞬間に、止めていた息をどっと吐き出し、尻餅をついた。その呼吸は乱れに乱れ、全集中のそれとはあまりにもかけ離れていた。鬼殺隊士の呼吸ではなかった。

 どうする。これからどうするんだ。第一陣はおそらく全滅、そして第二陣も。俺一人だけが生き残って、これから一体何を為せるというんだ。

 いや――そもそも俺は、再び無惨と対峙したとき、奴に刃を向けることが出来るのだろうか?

 

 

 (ごみ)のように食い散らかされた、同胞たちの亡骸が目に入る。

 憤らなければならなかった。仲間の仇を討つのだと、奮い立たなければならなかった。

 にも拘らず、立ち上がれない。それどころか、俺は――

 

 

 安堵していた。

 ()()()()()()()()()()()と、心の底から、ほっとしていたのだ。

 

 

 

 死ぬのが怖いというのは、人として当然の感覚だと思っている。

 けれど、その死に怯える人々を守り抜くために、命を賭して戦う者こそが鬼殺隊士の筈だった。

 我らに怯え、立ち止まることは許されない。お館様も、戦いの中で散っていった数多の隊士たちも、誰もが我が身を投げ打ってきた。全ては鬼を、鬼舞辻無惨を討ち果たすために。なればこそ、俺も彼らに続かなければならなかったというのに――

 生き延びた。

 ただただ、生き延びて、しまった。

 これを生き恥と呼ばずして、果たして何と呼べばいいのか――

 

 

 

 

 

 べん。

 

 

 べべん。

 

 

 

べん

べん

べん

べん

 

 

 

べべん。

 

 

 

 

 

 琵琶の音が鳴り響き、瞬く間に景色が入れ替わる。何が起きているのか、まるで理解できない。

 ただ、気付いたときには広間の一角にいた。狭い通路のど真ん中でへたり込んでいた筈なのに。

 

 

「炭治郎。落ち着け。――落ち着け」

 

 

 広間の中央から、男の声がする。冨岡義勇――水柱だ。隣にいるのは確か、竈門炭治郎。隊士になったのは俺よりも後の筈だが、既に俺よりも階級は高く、そして強い。今も殺意に満ちた目つきで、相対する鬼舞辻無惨を睨み付けている。

 信じられない。そう思った。あの化け物を前にして、何故そのような目が出来るのか。

 恐ろしくないのか? 奴の前に敵として立つことが、どういう意味だか理解っているのか?

 お前のその意志の強さは、一体どこから生み出されているものなんだ?

 

 

「しつこい」

 

 

 鬼舞辻無惨は吐き捨てる。己を見据える竈門炭治郎の殺意を、何の価値もないと言わんばかりに切って捨てる。

 

 

「お前たちは本当にしつこい、飽き飽きする。心底うんざりした。口を開けば親の仇、子の仇、兄弟の仇と馬鹿の一つ覚え――」

 

 

 ――そこから先の無惨と炭治郎のやり取りを、俺は決して聞くべきではなかった。

 俺が決定的に鬼殺隊士でいられなくなってしまったのは、きっとこの時に違いなかったからだ。

 

 

 

「――お前たちは生き残ったのだから、それで充分だろう」

 

 

 

 そうだ。

 その通りだ。

 

 

 

 心の底から同調して、その後すぐに、吐き気がした。

 ……今、俺は、何を思った? 無惨の主張に賛同したのか? 鬼殺隊士の、この俺が?

 あり得ない。そんなことは、あってはならない。

 父を殺された恨みを思い出せ。母の亡骸に寄り縋り、泣き叫んだ日のことを思い出せ。

 俺の全ては、あの日から始まったのだ。あの時確かに、俺の腹の底には途方もない悲しみと怒りがあった筈なのだ。その感情を息吹に乗せて、()()()()()()()()の鬼殺隊士だ。その原点に、立ち返らなければならない。

 だと、いうのに。

 

 

「身内が殺されたから何だと言うのか。自分は幸運だったと思い、元の生活を続ければ済むこと」

 

 

 その言葉に。

 救われようとしている自分がいた。

 惨めに生き残ってしまった自分を赦してくれるような、そんな錯覚に、囚われてしまったのだ。

 

 

 

「お前何を言ってるんだ?」

 

 

 

 そのせいだろうか。

 目を見開き、信じ難い者を見るように、冷たい声で言い放つ竈門炭治郎が。

 そのときの俺には、酷く恐ろしいものに見えてしまった。

 本当なら俺も、彼と同じ目で、彼と同じ側に立たなければいけない身の筈だったのに。

 彼の言葉が刃となって、そのまま俺の胸にも突き刺さってくるような――そんな感じがした。

 

 

「私に殺されることは、大災に遭ったのと同じだと思え。何も難しく考える必要はない」

 

 

 ――ああ。

 それに比べて、この男の語る言葉の、なんと心地が良いことか。

 

 

「雨が風が、山の噴火が、大地の揺れがどれだけ人を殺そうとも、天変地異に復讐しようという者はいない。死んだ人間が生き返ることはないのだ。いつまでもそんなことに拘っていないで、日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう。殆どの人間がそうしている。何故お前たちはそうしない?」

 

 

 その言葉は紛れもなく、俺の原点を否定するもの。

 この言葉を受け入れてしまったとき、俺という存在は終わってしまう。

 無惨の言葉はただの詭弁だ。たとえお前が災害に等しき力を持っていようとも、その力を持って悪事を為すのは、お前自身の意志によるものだろう。俺たちが赦せないのは、滅ぼさんとしているものの正体は()()なのだ。そいつをこの世から消し去らない限り、いつまで経っても悲しみの連鎖は終わらない。

 他者の尊厳を踏み躙り、悪びれず、意に介さない者。

 それこそが鬼だ。我らが刃を以て、滅ぼさなければならない者たちの名だ。力の有る無しは関係ないのだ。そのどす黒い邪悪こそを、俺たちは斬らなければならないのだ。

 

 

「理由はひとつ」

 

 

 わかっている。

 わかっていると、いうのに。

 

 

 

「鬼狩りは異常者の集まりだからだ」

 

 

 

 その言葉に。

 否定を返せない、自分がいた。

 

 

 無惨の主張に、一から十まで同調するわけではない。

 この男を赦せないと思う。この男は死んで然るべきだと、心の底から思っている。

 ただ、その意志を刃に変えて、立ち向かおうとする闘志だけが、どうしても湧いてこないのだ。

 無惨の言っている()()とは、そういうことだ。鬼殺隊の教義が異常だと言っているのではない。その教義に殉じて、刀を振るい続けられる者たちのことこそを異常だと言っているのだ。

 両親の命を奪った鬼は、その元凶となった無惨は、確かに赦せない。

 赦せないが――それ以上に、自分自身の命が惜しい。

 正常な反応の筈だ。人間として、当然の考え方の筈だ。誰だって自分自身が最も大切なものだ。

 だが、鬼殺隊士というものは、そう(正常)ではない。

 そういう意味では、間違いなく、鬼殺隊とは異常者の集団に他ならなかった。

 

 

「異常者の相手は疲れた。いい加減終わりにしたいのは私の方だ」

「……無惨。お前は」

 

 

 心の芯が傾いていく。鬼舞辻無惨に、自分自身を重ねてしまう。

 竈門炭治郎がその言葉を放ったのは、計らずも、その最中のことであった。

 

 

 

「存在してはいけない生き物だ」

 

 

 

 その瞬間に。

 俺の中で、何かが折れる音がした。

 

 

 

 

 

 気が付いた時には、三日月の下にいた。

 夜空――月が見える。地上だ。地上に出たのだ。いつの間に? 何があった? 一体俺はどれだけの間、呆然としていたのか――

 酷い吐き気がする。体内のあらゆる器官が揺さぶられて、平衡感覚を保てない。仰向けに倒れたまま月を眺めていたところに、今日一日ですっかり聞き慣れてしまった、鴉の声が響き渡る。

 

 

「カアアアッ! 一時間半! 夜明ケマデ一時間半!!」

 

 

 朝になっていないことを伝える――即ち、朝を待たなければならない理由があるということだ。

 まだ何も終わっていない。無惨は生きている。戦いは続いている。ならば、往かなくては。

 往って――無惨の下へと赴いて、何を為せるというのだろう? 戦う意志を無くしたこの俺が、死ぬべき時に死ねなかった俺が、今更。

 

 

「――やれるものなら、やってみろ!!」

 

 

 答えを出せぬまま、ふらふらと声のする方へと歩いていく。

 空気が震え、地が揺れている。遠くに見える十字路のど真ん中で、無惨と柱たちが戦っている。荒れ狂う無惨の無数の腕を掻い潜り、柱の技が無惨の身体を斬りつけていく。

 にも、拘らず。

 

 

「えっ!? えっ!? あれっ? 斬ったのに斬れてない!?」

 

 

 通じない。意味を成さない。柱でさえも、まるで無力。

 終わりだ。技を出し切ったことによる硬直と、手傷を与えられなかったことへの動揺。無惨を前にして、それは余りにも致命的な隙だった。水柱、蛇柱、恋柱。次の瞬間にも、三つの柱が纏めて折れる。無惨が軽く腕を振るうだけで、彼らの胴はいとも容易く千切れ飛ぶのだ。

 

 

 俺は()()()()を、ただただ遠巻きに眺めていた。阿呆のように。白痴のように。

 そう。

 俺はまたしても、為すべきことを為せなかったのだ。

 

 

 

「行け――!! 進め――!! 前に出ろ!!」

 

 

 

 結論から言うと、柱は折れなかった。

 彼らの前に飛び出した、無数の平隊士たちが盾となり、無惨の攻撃を防いだのだ。

 俺と同じ、柱に比べればその他大勢(モブ)に過ぎない者たちが、己が命を微塵も顧みることなく。

 

 

「柱を守る肉の壁になれ! 少しでも無惨と渡り合える剣士を守れ!!」

「――ひっ」

 

 

 戦う者の喉からは決して出る筈のない、か細い呻き声だった。

 俺の声だった。

 

 

「今までどれだけ柱に救われた! 柱がいなけりゃとっくの昔に死んでたんだ!! 臆するな戦え――っ!!」

 

 

 

 

 

 やめろ。

 やめろ。

 やめてくれ。

 

 

 

 誰も彼もが死んでいく。我が身を投げ打ち、無惨という絶対的暴威に立ち向かって散っていく。

 ()()()()()()()()()()()()()と、この光景が、隊士たちの絶叫が、突きつけてくる。

 わかっている。

 わかっているんだ。

 声を上げた隊士は、俺たちに死ねと言っていたわけじゃない。最善を尽くせと、そう訴えただけなのだ。その声に追いつめられているのは、俺に覚悟がないからだ。折れてしまっているからだ。

 隊士の主張は正しい。どこまでも、正しい。俺が命を惜しんだばかりに、柱たちの命が失われることなど、あってはならない。断じてあってはならない。

 その正しさに今、俺の心が、圧し潰されそうになっている。

 

 

 

『存在してはいけない生き物だ』

 

 

 

「あ……ああ、ああああぁ……」

 

 

 そうだ。

 俺のような者が、鬼殺隊に属していてはいけない。

 ()()()()()()だなどと、謳っては、いけない。

 俺という存在のせいで、俺がここにいるだけで、彼らの戦いが、()()()()()が、汚れてしまう。

 

 

 

 心を燃やせぬ者に、鬼殺隊士を名乗る資格はない。

 

 

 

 『滅』と刻まれた隊服を脱ぎ捨て、半裸になった格好のまま、ふらふらとその場を歩き去る。

 獣のように。鬼のように。人ならざる、者のように。

 或いは、鬼殺隊の刃は、無惨の命をも断ち切るのかもしれない。彼らの心の炎は、邪悪をも焼き尽くしてしまえるのかも、しれない。

 それでも――嗚呼、それでも。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ――ほら、今まさに一匹、野に放たれようとしているだろう?

 生き汚く、見るに堪えない、惨めな小鬼が、ふらふらと。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

或いは蛇足、或いは救済、或いは尚も終わらない心折



あけましておめでとうございます。
並びに評価、感想、お気に入り、そしてアンケートへのご協力ありがとうございました。

今回のお話は前回の投稿から2~3日くらい経って書き始めたものです。
ええ、その頃は救済エンドが最多票だったのです。かなり僅差だったのですが。
アンケートは閉め切らせていただいたのですが、最終結果については御覧の通りです。

というわけで、闇落ち派&続き不要派の皆様、申し訳ございません。
続いてしまいました。てへぺろ。




 

 

 俺は。

 俺が一番、自分のこと好きじゃない。

 ちゃんとやらなきゃっていつも思うのに、怯えるし、逃げるし、泣きますし。

 

 

 変わりたい。

 ちゃんとした、人間になりたい。

 

 

――我妻善逸

 

 

 

 

 

 

 

 ――周囲に満ちた暗闇が、建物の中ではないことを伝えていた。城を地上へと引き上げることに成功したのだ。

 愈史郎は地に伏せた身体を起こそうとして、それからすぐに、立ち上がれないことを悟った。腰から下が瓦礫に埋もれてしまっている。いっそのこと潰れていてくれれば上半身だけで這い出せたものを――などと思いつつ、周囲を見渡す。

 自分が操っていた、琵琶を弾く鬼の姿はない。無惨に細胞を完全に破壊されたようだ。

 2丈(約6m)ほど先に、一人の男が倒れている。無惨と綱引きをしている最中に声を掛けてきた鬼殺隊士だ。

 

 

「……おい、起きろ。『俺を食え!』などと威勢の良いことを言っておいて寝るんじゃない」

 

 

 返事はない。地上に出た時の衝撃で気を失ったのか、或いは最悪、死んでいるのか。顔が向こうに向いているので判別が付かない。軽く舌打ちをして、城のあちこちにバラ撒いた『眼』へと意識を向ける。

 愈史郎の血鬼術によって生み出された『眼』と呼ばれる紙には、身に付けていると他者の視界に映らなくなるという効果の他、他の『眼』と視界を共有できる効果も備わっている。城のあちこちにバラ撒いた『眼』の保有者を見つけ出し、そいつに瓦礫から身体を引き摺り出させるのだ。

 高速で上空を素早く飛び回っている視界――駄目だ。こいつは鴉だ。役に立たない。

 暗転したまま動かない視界――持ち主不在で裏返しになってどこかに落ちている。次。

 傷だらけの女と金髪の男が映っている視界――我妻だ。ということは持ち主は村田か? それにしては随分と視界の動き方が忙しない――とにかく、どうもこの三人は市街地からやや離れた場所に出てきてしまったらしい。こちらへと辿り着くには時間が掛かりそうだ。

 ならばこいつはどうだ。やけにゆったりとした歩みだが、周囲に映る建物が愈史郎の視界に映るそれと殆ど変わりない。今通り過ぎようとしている建物など、そこの角に建っているのと全く同じでは――愈史郎がそのことに気付いた直後、角から『眼』の持ち主がふらりと姿を現した。

 半裸の男であった。刀を下げているので鬼殺隊士の一人であることは間違いないのだが、何故か隊服を着ていなかった。それに眼差しもどこか虚ろで、生気をまるで感じられない。そんな顔つきでゆらゆらと千鳥足になってうろつく様は、さながら幽鬼の如し。顔立ちも特筆すべき点はなく、愈史郎の美的感覚に照らし合わせてみれば、醜男(モブ)であった。だがそんなことは関係がない。

 

 

 たとえこいつが醜男(モブ)だろうと、鬼殺隊士であるのなら、果たすべき責務というものがある筈だ。

 

 

「おい! そこのお前! 俺をここから引っ張り出せ!」

 

 

 声を掛けると、醜男は緩慢に視線をこちらへと向けた。その遅々とした動作に苛立ちを覚える。

 こいつは一体、戦いもせずに何をやっているんだ。既に無惨と隊士たちの戦いは始まっている。一刻も早く自分もそこへと駆けつけて、隊士たちの助けにならなければならないというのに。

 そう――珠世様の命を奪った、鬼舞辻無惨を何としてでも滅ぼすために。

 視界が滲みそうになる。食い縛った歯がぎりりと音を立てている。ありったけの悲しみと怒りが綯交ぜになって、頭がどうにかなりそうだった。

 珠世様が死んだ。珠世様が死んだ。奴が殺した。鬼舞辻無惨。奴が。奴が!!

 赦せない。赦せるわけがない。珠世様の存在しない世界で、奴がのうのうと生き続けることなどあってはならない。殺してやる。絶対に、殺してやる。

 借り物の隊服が今になって、初めて自身のものになったような気がした。俺は鬼だが、だったら何だ。今の俺は間違いなく、この隊服を着ている誰よりも、鬼舞辻無惨を殺したいと思っている。ならば俺は鬼殺隊士だ。そんな肩書きに価値があるとも思わないが、奴を殺すために死力を尽くす者の一人だ。

 お前はどうなんだ、醜男。何故未だにぼうっと突っ立っているんだ醜男。お前の顔は何故そんなにも醜いんだ醜男。ああクソ、眺めれば眺めるほどに醜く見えてくる。醜い上に愚図で鈍間とは、救いようのない生き物だ。こんな奴が未だに生き永らえているというのに、珠世様が既にこの世のものではないという事実が信じられない。腸が煮えくり返るような思いがする。

 

 

「……駄目だ」

「何が駄目だ。試しもしないうちから諦めるな馬鹿が。何ならそこに寝ている奴を叩き起こしてもいいんだぞ」

「そうじゃない……俺はもう……駄目なんだよ」

 

 

 ただでさえ形の悪い醜男の顔が、更にくしゃりと歪む。もはや正視に堪えない。更に言うなら、口にしている言葉の意味も理解できない。鬼との戦いで深手を負っているのならまだしも、こいつの身体に傷らしい傷など欠片も付いていないというのに、一体何が駄目だと言うのか。

 

 

「鬼殺隊士になんて、なるべきじゃなかった。俺には資格がなかったんだ。無惨に対する恨みも、命を投げ出す覚悟も、まるで足りなかった……仮に無惨を滅ぼすことが出来たとしても、その時に皆と喜びを分かち合う資格が、俺にはもうないんだ……」

 

 

 そう言って愈史郎から視線を切り、ふらふらと歩き去ろうとする醜男。

 待て。

 まさか、こいつは。

 

 

 ――逃げ出そうとしているのか? 誰もが命を懸けているこの戦場から、たった一人で?

 馬鹿な。あり得ない。信じられない。無惨がすぐそこにいるんだぞ。珠世様を殺したあの男を、この世から葬り去れるかどうかの瀬戸際なんだぞ。

 赦せないとは思わないのか、鬼舞辻無惨を。そして何より――

 

 

 大切な人の仇から逃げ出す自分自身を、赦せないとは思わないのか。

 

 

「ふざけるな!!」

 

 

 怒鳴り付けられた醜男がびくりと身体を震わせ、怯えたような視線をこちらに向けてくる。その弱者を気取った態度にもまた腹が立ってくる。こういう態度を取っていれば、叱りつけている相手を悪者に出来るとでも思っているのだろうか? お前を憐れんでやるとでも思うのか? そんな筈がないだろう。甘ったれるのも大概にしろ。

 

 

「逃げるな! 務めを果たせ! それでも鬼殺隊士かお前は!!」

「……だから言ったじゃないか、資格がないって。俺はもう、鬼殺隊士じゃない。俺は、()()()()には、なれない。自分を捨てて戦える者になんて、なれないんだ……」

 

 

 

 

 

 鬼だ。

 ()()()()()()

 こいつの吐き出す言葉の全てに殺意が湧く。こんな感覚を味わうのは、生まれて初めてだ。自己弁護と言い訳の塊が肉を纏って蠢いている。何故こいつの顔がこうも醜く見えるのか、その理由がよく理解(わか)った。魂が歪んでいるからだ。心の歪みが外見にも表れているから、こいつはこんなにも醜いのだ。この世で最も高潔な心の持ち主だった珠世様が、この世の誰よりも美しい存在であったように。

 赦せない。無惨以上にとは言わないが、この男もまた赦せない。地に手を突いて、腕の力だけでどうにか這い出そうとしながら、愈史郎は去り行く醜男の背中に呪詛の言葉を投げかけた。

 

 

「お前――このまま逃げ出して、幸福な生涯を歩めるとでも思っているのか」

 

 

 口にしながら、愈史郎の中に思い浮かぶ、二人の男の顔があった。

 金と黒。雷の刃。同じ呼吸の技を身に着けながら、袂を分かつことになった剣士たちの顔だ。

 

 

「城の中で俺は、元鬼殺隊の男が鬼になっているのを見た。そいつは上弦の座を与えられ、力に酔いしれて奢っていた。だが結局は首を斬られて呆気なく死んだ。平時であればお前よりも臆病者にしか見えない、弱音と泣き言だらけの隊士がそいつを討ったんだ」

「……お前、一体何の話を……」

「わからないか? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。恥知らずで生き汚く、保身のためならいくらでも誤った道へと進んでいける人間、それがお前だ。その先に待つのは地獄だぞ。仲間を見捨てて逃げ出すようなお前を愛してくれるような者なんて、この先一生現れる筈がない。そうしてお前も、独りで惨めに死んでいくんだ。あの時何故逃げ出してしまったのか、何のために生き永らえたのかと後悔しながら、惨めにな」

 

 

 醜男が足を止めて、ゆっくりと振り返る。そして、あろうことか――こちらを睨み付けてきた。

 おぞましい。仲間の命を奪われても憤ることすら出来なかった癖に、自分のこととなると一丁前に怒りを露にするだなんて、恥知らずにも程がある。いよいよもって見るに堪えなくなってきた。

 

 

「……そんなことはない。生きてさえいれば、幸せになれる機会は必ず訪れる筈だ。そう、生きてさえいれば――」

「本当にそう思うか? 仮にお前がささやかな幸福を手にすることが出来たとしても、絶対に頭を過る筈だ。何故お前だけが生き残るんだ、何故自分たちは失ったのにお前だけが――という、命を落とした者たちの憎しみの声がな」

「そんな奴はいない! 鬼殺隊にそんな奴は一人もいないんだ、仮にいるとしたら――」

「そうだ。()()()()()

 

 

 真正面から見据えてそう言うと、たちまち醜男の目から覇気が失われて、怯える者のそれへと早変わりする。

 一度折れた意志というのは、容易く元には戻らないものだ。

 

 

「お前自身の弱い心が、有りもしない恨みの声を生み出し、お前を責め立て続けるんだ。為すべきことを為さない限り、その声からはいつまで経っても逃れられないぞ。聞こえない振りを続けるのはお前の勝手だが、そうすればいよいよ、お前の歩む道は畜生道だ。人間らしい末路を迎えられるとは思うなよ」

「う……うう……」

 

 

 醜男が呻き声を上げる。人に留まるか、鬼に堕ちるかの瀬戸際でもがき苦しんでいる。

 醜男の懊悩を愈史郎は理解できない。愛する者を失った世界で生き永らえることに、何の意味があるのかと愈史郎は思っている。己の命と引き換えに無惨を討ち果たすことが叶うのなら、喜んでそうする。鬼殺隊士というものも、そういう連中の集まりだと思っていた。

 だがこの醜男は違うのだという。自分自身の命が何よりも大事なのだという。そんな輝きのない(まなこ)で、活力も何もかもを失ったような風体で、ただ生き続けることに何の意味があるのかと思いかけたところで――

 

 

 

 

 

『――生きたいと思いますか? 本当に、人でなくなっても生きたいと――』

 

 

 

 

 

 不意に。

 そんな言葉を、思い出した。

 

 

 

 

 

 何も最初から、あの方に生涯を捧げるつもりで鬼になった訳ではなかった。珠世様への愛に目覚めたのは、あの方のためなら死んでもいいと思うようになったのは、共に生き、あの方の優しさに触れ続けてからのことだ。

 初めはただ、ひたすらに、願望だけがあった。

 

 

 死にたくない。

 その一心に縋り付いて、愈史郎は人であることをやめた。

 

 

 誰もが最初から、信念を――折れない心を持っているという訳ではない。

 そもそも、()()()()()()()()()()()()()。『餓鬼』という名の甘ったれた生き物だ。それが誰かに育てられ、愛されて、初めて餓鬼は人間になれる。逆に言えば、その餓えが満たされない限り、いつまで経っても餓鬼は餓鬼のままでいることしか出来ないのだ。

 こいつもきっと、()()()()()()()()()()()()。だから生へと縋り付くのだ。仮にも鬼殺隊士になった以上、鬼に恨みを抱ける程度の愛は授かっていたはずだが――それだけでは足りなかった、ということなんだろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とでも言えばいいのか――

 

 

「――さっきの話の続きをしてやる」

 

 

 再び脳裏に、二人の剣士の顔が過る。

 我妻善逸と上弦の陸。臆病ながらも人のままで在り続けた者と、他者を顧みず鬼へと堕ちた者。

 

 

「上弦の陸の首を落とした奴の話だ。奴は戦っているときこそ勇ましかったが、治療を終えてからはそれはもう見苦しかった。口を開けば痛い辛い死ぬもう駄目無理の繰り返しで、とても上弦の首を斬った剣士とは思えない無様さだった。鼻水と涙を撒き散らし、みっともなく、見るに堪えない――まるでお前の顔のようだった」

「――な」

「だが、()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ――そう、珠世様を人間として扱ってくれた、竈門禰豆子を醜女だと思えなくなったように。

 愈史郎の目は、自身が鬼だと感じた者を醜く映すように出来ている。血鬼術の性質によるものなのか、或いはこの眼が血鬼術を生み出したのかまでは理解らない。だが、とにかく。

 竈門禰豆子の肉体は鬼だ。だが心は、魂までは、そうではなかった。

 我妻善逸も、ひたすらに、人間だった。亡き師のために刀を振るう、自分ではない誰かのために命を懸けられる者だった。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「散々喚き散らしながらも、奴は今尚この地に留まって戦っている。他の隊士たちもそうだ。奴を――鬼舞辻無惨を赦せないという一心で、怯える心に喝を入れながら踏み止まっている。――()()()()()()()、醜男。踏み止まるのか、それとも転げ落ちるのか」

 

 

 

 我妻善逸(にんげん)と、獪岳(おに)

 お前が本当になりたいものは、どっちなんだ。醜男(モブ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 畜生。

 畜生。畜生。畜生。

 この無駄に顔の良い隊士は一体何なんだ。どうして俺の姿が見えるんだ。無惨にさえも気付かれなかったというのに。どうして俺はこんなところで、こんな男に捕まって、説教染みたことを聞かされる羽目になっているのか――

 

 

「……転げ落ちたく、なんかない」

 

 

 わかってる。

 理由なんて、わかりきっているんだ。

 

 

「それでも、俺は、死にたくない……死にたくないんだよ……」

 

 

 俺が、鬼だからだ。

 どうしようもなく、甘ったれた、餓鬼だからだ。

 わかっているんだ。一度逃げ出すことを覚えたら、きっと俺はこの先も、弱い方へ、弱い方へと流れていく人間になってしまうんだって。そうしてやがては、真の意味での鬼に成り果ててしまうんだろう。この隊士の話に出てきた、上弦の陸の男のように。

 どうして俺はこうなんだ。そうするべきだと思ったことから、平気で逃げ出してしまえるような弱い人間になってしまったんだ。身寄りを無くして他に選択肢がなかったからとはいえ、己の意思で鬼殺隊士になることを選んだんじゃないか。だったら務めを全うしろよ。他の誰もが出来ていることを、どうしてお前は満足にこなせないんだ。

 両親の――育ての恩に報いるべく、我が身に代えても鬼舞辻無惨を討ち果たす。

 ()()()()()()()()()()を、どうして俺は持つことが出来ないんだ。

 

 

 両親に愛されていなかった訳じゃない。ただ、何かが足りなかったのだと思う。言葉か時間か、或いはその両方か。とにかく、()()()()()()()()()()()()()

 齢九にして両親を失い、育手に三年修行を付けられ、隊士になったのが十二の時。才覚は無く、階級も碌に上がらないまま、気付けば四年もの月日が過ぎていた。特別仲の良い隊士がいる訳でもないし、女も知らない。ただ我武者羅に、刀を振るうだけの毎日。

 その果てに待っているのが、無惨に薙ぎ払われるだけのその他大勢(モブ)に成り果てることだなんて、俺には耐えられない。

 俺の命を糧にして、柱が無惨を滅ぼしてくれるのならそれで満足だ――なんて気持ちには、到底なれない。

 屑だ。

 屑以外の何物でもない、俺の本心だ。

 

 

 

『存在してはいけない生き物だ』

 

 

 

 

 

 畜生。

 だから俺は、鬼殺隊士なんかになるべきじゃなかったんだ。

 ()()()()()()たちの住む世界になんて、足を踏み入れるべきではなかったんだ。

 彼らの傍にいると、俺みたいな人間は、存在していること自体が罪のように思えてくる。彼らが鬼へと向ける言葉が、そのまま自分自身へと突き刺さってくるような錯覚に囚われてしまう。

 ともすれば、俺の本来いるべき場所は、鬼殺隊ではなかったのかもしれない。それこそ上弦の陸のように、身も心も鬼へと成り果ててしまえば、こんな苦しみを味わうこともなかったのかもしれない。

 けれど。

 ああ、けれど。

 

 

 それでも俺は、人間のままで在りたいんだ。

 鬼になんか、外道になんか、堕ちたくはないんだ。

 

 

「死にたくない……だからって、人であることも止めたくない……畜生、俺はどうすればいいんだ、なあ、どうすればいいんだよ……?」

「……とりあえず、今のお前が何よりも先にやるべきことを言ってやろうか」

 

 

 そう言って、顔の良い隊士は(ゴミ)を見るような目で俺を見上げながら。

 

 

 

 

 

「俺を、ここから、引っ張り出せ」

 

 

 瓦礫に半身埋まったままの格好で、ふてぶてしく、命じてくるのだった。

 

 






話の都合で竹内くんには眠ってもらいました。ごめんね竹内。死なせた訳ではないぞ竹内。
ピクシブ百科事典じゃ「行け――!! 進め――!! 前に出ろ!!」の子と同一人物扱いされてたけど、多分別人だよね竹内。そうだと言ってくれ。

多分次で終わると思いたいのですが、モブ君と絡ませたい人物が愈史郎以外にもいるので果たして終わるかどうか……とりあえず無惨戦はキンクリして次回は終戦後から。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蝉人間~しがみつく者たち~



小さい頃に横浜で見かけたリアルセミ人間さんは今も元気で生きているのかとふと思い出した回

本当に木にしがみ付いてみ~んみ~んと鳴いていました。成人男性でした。どうか善逸のようにしぶとく逞しく生きていてほしいものだと思います。




 

 

 結局、俺一人では隊士――愈史郎を瓦礫から引っ張り出せなかったので、近くで気を失っていたもう一人の隊士を起こして、手伝ってもらって。

 無惨との戦いで重傷を負った(正直見つけた時には手遅れだとしか思えなかったが)竈門炭治郎を、新たに合流した隊士――村田と共に救助して。

 その後、何やかんやあって――本当に何やかんやあった末に、無惨は滅び、戦いは終わった。

 俺はただ、金魚の糞のように愈史郎の後ろをついて回るばかりで、殆ど何も出来なかった。

 愈史郎の指示に従って、怪我を負った隊員の手当てに走り回ったりはしたけれど、最後まで刀を振るうことはなくて。

 誰もが傷付いた戦場の中、隠を除けば、俺一人だけが血を流していなかった。

 竈門炭治郎が鬼へと変えられ、隊士たちに牙を剥いたときも、俺は身動き一つ取れなかった。

 

 

 とうとう最後の最後まで、俺は『戦う者』には、戻れなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ――で、そんな俺が今いったい何をやっているのかというと。

 

 

ギャアァァァアアアァァ!! 痛い痛い腕も足も胸も背中も痛くないところがないと思えるくらいに痛ぁぁぁぁぁぁい!! 何なの!? 戦ってる最中は無視出来たのに一日寝て起きてよーし身体動かすぞって思ったら即あちこちから悲鳴上がるの何なの!? 俺の身体に猿でも住み着いてるんじゃない!? ウッキィィィ今年は申年ィィィィィ!!

「ああもう、うるっせえなこいつ……! おい、頼むからじっとしててくれ! 包帯が巻けない!」

 

 

 蝶屋敷。今は亡き蟲柱・胡蝶しのぶの持ち家にて、ぎゃあぎゃあ喚き散らすズタボロの金髪隊士こと我妻善逸を相手に、四苦八苦しながら包帯の巻き直しを行っている最中で――ああもう暴れんなよ! 暴れんな! 手元が狂うだろうが!

 

 

「嫌だあああ何が悲しくて野郎に包帯巻き巻きされなきゃなんないの!? アオイちゃんどこ!? なほちゃんきよちゃんすみちゃんは!? 俺の可愛い蝶屋敷の女の子たちはどこ行ったのよ!?」

「他の部屋にも重傷の隊士たちがわんさか詰めてんだよこの屋敷には! あの子たちは今そっちの相手で手一杯なん――うわ、急に起き上がるんじゃない!」

「うおおお離せぇぇぇ!! 俺もそっちで女の子たちに優しく看病してもらうんだぁぁぁぁぁ!! ていうかね!? さっきから思ってたんだけどアンタ一体誰なのよ!? 蝶屋敷に()以外の生き物が住んでたらそれもう蝶屋敷じゃないでしょうが! 蝶屋敷は――……」

 

 

 と、そこまで捲し立てておきながら急に萎んで大人しくなる我妻。

 何だこいつ……まあいい、今のうちにさっさと済ませてしまおう。

 

 

「……死んじゃったんだよな、しのぶさん」

 

 

 ――済ませてしまおうと、思ったのだけれど。

 その呟きに釣られて、動かす手が止まってしまった。

 

 

「甘露寺さん……岩のオッサン……柱稽古が滅茶苦茶しんどかった蛇のヤツ……風のオッサンから助けてやったのに俺のこと殴りやがった同期のアイツ……甘露寺さん……霞柱の子まで……みんな俺より強かったのに、なんで俺なんかが生き残って柱の皆が死んじゃったんだろ……いや俺のこと殴ったやつは強かったのかわかんないけど」

 

 

 どさくさに紛れて恋柱だけ二回呼んでやがるこいつ。しかも名前で。

 胸の包帯を取り換える。白が剥がれて、ぐちゃぐちゃの赤が露になる。痛い痛いと泣き喚くのも無理はない。こいつもまた、鬼と戦い傷付いた者の一人なのだ。鬼殺隊士の務めを果たし、決して逃げ出すことのなかった者。

 

 

「……俺なんかとか、言うなよ」

「へ」

 

 

 だから。

 頼むから、そんなことは、言わないでほしい。

 

 

「愈史郎から聞いたよ。おまえ、上弦の鬼を斬ったんだろ。しかもそのまま、無惨とも戦って――立派で勇敢な鬼殺隊士だ。だから、俺なんかなんて言わないでくれ。おまえみたいなすごい奴に、そんなことを言われると――」

 

 

 ――自分が惨めで、堪らなくなる。

 そうだ。

 どうして自分が生き残ったのかだなんて、それこそ俺が口にするべき言葉なんだ。為すべきことを為さず、命を懸けるべきときに懸けられなかった者、それが俺だ。

 そんな俺がのうのうと生き残って、死力を尽くした柱の面々がこの世の者ではない。そのことについて考える度、吐き気と自己嫌悪で死にたくなる。

 

 

 死にたくなる()()、だけれども。

 

 

「……なんか知らないけど、じめっとしてるね。()()()()()

 

 

 無言で包帯を巻き直していると、不意に我妻がそんなことを言った。傷口から視線を上げ、正面から向き合う。訳の分からない台詞に反して、こいつの表情は笑っていなかった。

 

 

「……音?」

「そう。生き物の中からはさ、それはもう色んな音がするわけよ。それを注意深く聞いてみると、目の前の奴が何考えてるのかとかなんとなくわかんの。……今のアンタからは、どんよりとした音がする。何かを引き摺ってて、吹っ切れてない――そんな感じ。鬼は皆いなくなったってのにさ、なんだってそんなに暗いわけ? いや、野郎の悩みとか正直どうだっていいんだけど」

 

 

 だったら聞くなよ、と言い返すことは出来なかった。

 あまりにもみっともない打算だが――こいつであれば、俺の抱えている後悔に、多少なりとも理解を示してくれるような気がしたからだ。

 我妻善逸。向こうは俺のことを知らなかったようだが、俺はこいつのことを知っている。というより、こいつは鬼殺隊の中ではそれなりに有名人だった。何と言っても金髪だ。隊服も黒、髪の色も黒が殆どの鬼殺隊にあって、こいつの外見は集団の中にあっても一際目立つ色合いをしていた。髪色の話をするなら、最も人目を惹いていたのは恋柱の桃色の髪であったが――それももう過去の話だ。

 で、その目立つ見た目でこいつはやたらと騒ぐ。喚く。泣きじゃくる。柱稽古では音柱のところで一緒になったのだが、宇随天元の竹刀で背中をはたかれる度に悲鳴を上げては彼の妻たちに泣きついていたのを覚えている。……まあ、何やかんや言いながらも、次の稽古に移る許可を得たのは俺よりも遥かに早かったのだけれど。

 そう――駄目だ無理だと口にしながら、こいつは決して立ち止まらない。根性無し(ヘタレ)のようで芯がある。()()()()()()()()()()。俺と似ているようで、そこの部分が決定的に異なっている。

 その違いは、何処から生まれたのか。俺はそれを知りたいと思った。今更の話かもしれないが、その正体を掴まない限り、俺はこのまま何者にもなれないような気がした。

 人間にも鬼にもなれない、中途半端な何かのままでは、いたくなかったのだ。

 

 

「……俺、逃げようとしたんだ。無惨との決戦の最中に」

 

 

 故に俺は、口を開いた。

 話した。全てを話した。敵の本拠地で無惨に仲間たちが殺される中、ただ一人生き残ってしまったこと。その後、とある隊士と無惨の会話を盗み聞きしたこと。地上に出て、柱たちを庇うために飛び出すべき場面で飛び出せなかったこと。戦場を離れようとしたところで愈史郎に見つかって、なし崩し的に踏み止まる結果になったこと――

 

 

「――それで今は、愈史郎(アイツ)の助手みたいな立ち位置に納まったってわけ?」

「助手なんて聞こえの良いもんじゃない。小間使いみたいなもんだよ。あいつの指示に従って、あっちこっちの部屋を行き来して怪我人の面倒を見てる。……あいつ、日中はあんまり自由に動けないからな。この部屋もそこの窓から日が差してるし」

「そう、それだよそれ! ユシローってアレでしょ、獪岳とやり合って死ぬとこだった俺を助けてくれたあの無表情ヤローのことでしょ!? 実は鬼だったとか初耳なんだけど!!」

「俺も聞いたときは驚いたよ。あいつとその飼い猫って、無惨以外の奴に鬼にされたって話でさ。無惨が死んだ今でも唯一生き残ってる、世界に一人と一匹だけの鬼だ」

「マジで? 滅んでないじゃん鬼。鬼殺隊まだ仕事残ってんじゃん」

「……おまえ、愈史郎に助けてもらったんじゃなかったのか? 命の恩人を滅ぼそうとするなよ」

「だってアイツめちゃくちゃ顔整ってるじゃんよぉぉぉぉぉ!! アレでしょ!? どうせアイツも嫁とか三人こさえてるような奴なんでしょ!? あの顔だったら選びたい放題だもんなあよりどりみどりだもんなあ!? ねえ!? アンタもこの気持ちわかりますよねえ!? 同じ冴えない見た目に生まれた者同士さァ!!」

 

 

 傷口に指突っ込んで掻き回してやろうかなこいつ……。

 

 

「……俺の顔の話はともかく、愈史郎に対するおまえの妄想は的外れだと思うよ」

「いーや当たってるね! あんだけ顔の良いヤローが女と無縁の人生送るなんてあり得ないね! 男色家(ホモ)だっていうならわかるけど、そんな感じでもなかったし――」

「――その()はもう、切れたんだよ。我妻」

「……は?」

「無惨を滅ぼすために、鬼殺隊に協力してくれた鬼――珠世って名前だったそうだが、その女性(ひと)が愈史郎の想い人だった……らしい。だけど、その人もあの戦いで命を落としてしまった。あいつは――愈史郎はもう、独りなんだ」

 

 

 戦いの後――俺が愈史郎の使いっ走りを務めることになった過程で、ふとした流れから打ち明けられたことだ。

 無惨は死に、愛する人もいなくなった。最早この世に未練もないが、医者の真似事程度は務めてから去ってやる――というのが、愈史郎の言い分であった。胡蝶しのぶが命を落とした今、蝶屋敷を半ば乗っ取るような形で、あいつは傷を負った隊士たちの治療に尽力している。

 あいつはこの先、どうするのだろうか。このまま役目を終えたら、黙ってふらっとこの屋敷からいなくなるつもりなんだろうか? ()()()()()()()()()()()()()と、あいつは口にしたけれど――このまま放っておいたら、あいつ自身がそんな末路を迎えてしまいそうで、心配になってしまう。

 愈史郎の手伝いを名乗り出たのは、多分、それも動機の一つだった。鬼殺隊士として役に立てなかったことの罪滅ぼしだとか、そんな立派な理由じゃない。第一、こんなことで逃げ出そうとした罪を償えるとも思っていない。ただ――

 

 

 

『逃げるな! 務めを果たせ!』

 

 

 

 その言葉が今も、耳にこびり付いて離れないから。

 俺は未だに、一度脱いだ筈の隊服に袖を通して、鬼殺隊に身を置き続けている。

 利己的で弱く薄汚い、悪鬼(じぶん)の滅ぼし方を、知るために。

 

 

「……そっか」

 

 

 我妻はぽつりと、それだけを言った。やはりこいつも鬼殺隊士である以上、大切な人を失ったという話には共感するところがあるのだろう。

 包帯の巻き替えはもう済んでいる。鍛えているだけあって傷の治りが早い。この調子でいけば、二、三ヶ月もすれば普通に動けるようになるだろう。素人見立てだが。

 

 

「……なあ、聞いてもいいか」

「うん? 何?」

「おまえ――無惨や上弦の鬼と戦うとき、怖くなかったのか? 死にたくないとか、逃げ出したいとか、そういうことは思わなかったのか? どうして最後の最後まで、おまえは戦い続けることが出来たんだ?」

 

 

 意を決してそう訊ねると、我妻はどこか遠い目をして黙り込んでしまった。珠世さんの話をした時から、どことなくこいつの纏う雰囲気に変化が生じたような気がする。或いは、死んだ柱たちの話をしていた時の空気に戻ってしまったというか――故人を偲ぶ者特有の重苦しさというか、そういったものを感じる。

 

 

「……無惨と戦ってるときは、怖かったよ。悲鳴も上げたし、半べそも掻いてたような気がする。だけど――獪岳と戦うときは、平気だった」

「……獪岳? 上弦の陸か?」

「そうだよ。元鬼殺隊士で――俺の兄弟子だった」

 

 

 ――ああ。

 そういえばこの二人は、そういう関係だったような気がする。

 獪岳。あまり絡んだことはないが、如何なる時でも不機嫌そうな雰囲気を纏った奴だった。睨み付ける以外の視線の向け方を知らないような眼光と、吐き捨てるようにぶっきらぼうなその口調が他者を遠ざけていた。鬼殺隊士の誰にも心を開いていないような、そんな印象のある男だった。

 けれど、そうか。弟子がいたのか。いや違う、弟弟子か。どうでもいいけど、弟弟子って弟と弟が二つくっついてて何だか変な言い回しだよな。いや、本当にどうでもいいんだけど。

 

 

「……ってことは、同門対決だったのか。やり辛かっただろ」

「いいや――逆だったよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()って、ずっとそう思いながら戦ってた。……今まで生きてきた中で、一番集中して戦えた相手だったと思ってる」

「それは……なんていうか、責任感からか? 同門の剣士が鬼になってしまったことに、けじめをつけるっていうか……」

「……それも勿論あったけど、責任感とか、その前に――許せなかったんだ。獪岳(アイツ)のことも、()()()()()()

 

 

 許せない。その強い言葉に反して、我妻の語りに怒りの感情は乗っていなかった。或いは、その感情は既に燃やし尽くしてしまったのか――今はただ、やり切れない無念だけを抱えているように俺の目には映った。

 そして我妻は、ぼそりとその事実を口にした。

 

 

「――獪岳が鬼になった責任を取って、じいちゃん――俺たちの師匠は、腹を切って死んだ」

 

 

 

 それは。

 我妻もまた、大切な人を失った者の一人なのだという、告白であった。

 

 

「……おまえらの師匠って、確か、元鳴柱の――」

「そう。桑島慈悟郎じいちゃん。本人も獪岳もじいちゃんなんて呼ぶな、師範とか先生って呼べって言ってたけど、俺にとってはじいちゃんだったんだ。いっつも厳しくて、頭叩かれてばっかりだったけど――俺はじいちゃんが好きだった。でも……死んじゃったんだ。死んじゃったんだよ」

 

 

 ずびり、と鼻を啜る音がする。

 我妻が自分のことではなく、他人のことで泣きそうになっている姿を、俺は初めて見たような気がした。

 

 

「――その、悪い。辛いことを思い出させてしまったな」

「……いや、いいよ。アンタに聞かれなくったって、これから何度も、ふとした拍子に俺はきっと考えるんだ。どうやったら、じいちゃんは死なずに済んだんだろう。どうやったら、獪岳を鬼にしないで済んだんだろう――ってさ」

「……気持ちはわかるけど、我妻が背負う責任じゃないと思うよ、それは」

 

 

 獪岳のことはよく知らない。奴が鬼になった理由もわからない。けれど、弱い人間の考えることなら、よく知っている。

 苦しい希望の道と甘美な絶望の道が目の前に示された時、一も二もなく後者の道へと進んでいくのが弱い人間だ。そんな人間に、他者の差し伸べる手は届かない。俺が愈史郎の言葉に従って踏み止まることが出来たのも、()()()()()()()()()()()()()()と突きつけられたからだ。そうして何処へも行けなくなったまま、鬼殺隊士(にんげん)のフリをして生にしがみ付いているのが今の俺だ。

 命を賭して戦うべき相手(おに)は、もういなくなってしまったというのに。

 

 

「諦めるな、頑張れってどれだけ言われてもさ、どうにもならない時ってあるんだよ。そんな自分を惨めに思って、悔やんで、どうしようもない奴だって思うんだけど――結局、()()()()()でさ」

「……俺が……いる……?」

「いねえよ。見るな。そんなまじまじと俺を見るな。あと鼻水拭け」

「いやでもね? わかる。アンタの言ってることメチャクチャわかるよ俺。ホントね? 頑張れって言われて頑張れるんだったら人間苦労しないですよねえ!? というか俺もう頑張ってるよ! 頑張ってるつもりなんだけどさあ、周りはそう見てくれないっていうか、もっとやれるだろって俺のこと絞ってきてさあ、もうカラッカラだよ何も出ないよって思っててもまだ締め上げられるの! それがホントにしんどくってさあ、辛い辞めたい逃げたいって何遍も何遍も思ったよマジで!!」

「……それ、桑島さんにしごかれてた頃の話か?」

「そうなんだよじいちゃんってば酷かったんだよホントに! 俺がいつまで経っても一の型しか出来ないからってごんごん頭ぶっ叩くし、木にしがみ付いてみんみん泣いてた俺の首に縄引っ掛けて引き摺り下ろすし! 鬼なんかよりもじいちゃんの方がよっぽど鬼だったね! 怖かったね!」

 

 

 蝉か、おまえは。

 何なんだろうなコイツは。実の師のことをボロクソ言って、鬼だ何だと言いたい放題で、そんな人のために命を懸けて、兄と戦い、討ち果たして。

 頑張れたり、頑張れなかったりで。

 

 

「……そんなおっかないお師匠様でも、好きだったんだよな。おまえ」

 

 

 そう言うと、我妻はまたも躁から鬱へと急転換するように、それまでの勢いを一気に失って。

 

 

「……うん」

 

 

 短く、されどはっきりと、頷いてみせた。

 

 

「――アンタさ、逃げようとしたって言ってたよね」

「……ああ」

「俺もそうだったよ。じいちゃんのしごきに耐えらんなくて、キツくて、もう無理だって思って――その度に木の上によじ登ってぎゃーぎゃー言ってたんだけど、じいちゃんは絶対に、俺のことを諦めたりしなかった。()()()()()()()()()のは、俺の方じゃない。じいちゃんの方だったんだ」

「……そりゃ、しごいてる方に折れるも何もないだろ」

「そうかな? いつだったか、俺は獪岳にこう言われたよ。先生がお前に稽古をつけてる時間は完全に無駄だ。なぜお前はここにいるんだ、なぜお前はここにしがみつく――ってさ。……同じ気持ちを、じいちゃんが俺に抱いても不思議じゃなかったって、そうは思わない?」

 

 

 その罵倒は。

 今の俺にも、酷く突き刺さる、言葉だった。

 無駄なのかもしれない。今更他人に答えを求めたところで、手遅れなのかもしれない。一度鬼へと堕ちかけた俺が、真っ当な人間の道へと舞い戻る手段など、存在しないのかもしれない。

 自分自身を諦めてしまったら、何もかもが終わってしまうのに。

 やめろという言葉は、続けろという言葉以上に、受け入れてはならないものなのに。

 どうして人はいとも簡単に、続けることを止めてしまえるのだろうか。

 

 

「……俺、思うんだけどさ。アンタと俺と獪岳に、アンタが考えてるほどの差なんてないんだよ、きっと」

 

 

 不意に我妻が、そんなことを言った。やけに真剣な表情で、こちらを見据えながら、続ける。

 

 

「俺にはじいちゃんのしつけ方が合ってた。獪岳には合ってなかった。俺は運良く人のままでいられた。獪岳は運悪く、人のままではいられない何かに遭ってしまった――アイツのことを斬った時には、そんなことまで考えられなかったけど……()()()()()()()()()()()アンタのことを見てたらさ、なんか、そんな風に思った」

「……そうかな。獪岳はともかく、俺は多分、おまえのようにはなれないよ」

 

 

 そうだ。

 俺はきっと、我妻のように感謝の念は抱けない。弱い自分を棚に上げ、厳しく当たる桑島慈悟郎を逆恨みして、けれども逃げ出すことも育ち切ることも出来ないまま、彼の下で無為の時間を送り続ける――そんなどうしようもない自分の姿が、いとも容易く頭に浮かんでしまうのだ。

 

 

「おまえ、自分で言ってただろ。鬼になった獪岳と、それを止められなかった自分が許せなかったって。自分が鬼になったら、師の桑島さんが腹を切る羽目になるっていうのがわかってて、それでも鬼になった獪岳のことが許せなかったんだろ。だからやっぱり、おまえは自力で踏ん張れる奴なんだと思う。獪岳と同じ立場になっても、鬼にならない道を選べる――それがおまえだ、我妻」

「……アンタ、やけに俺のこと持ち上げるよね? アンタの目に俺ってどんな風に映ってんの?」

「さっきも言ったろ。すごい奴だって、そう思ってる。冗談だと思うなら、自慢の耳で感じ取ってみろ」

「いや、信じるけど――でも、何ていうかさ。何でもかんでも自分一人で出来るようになる必要なんて、ないのかもしれないって思って」

「……? どういうことだ?」

「アンタさ、愈史郎のおかげで逃げるの止めて、今こうやって俺のこと手当してるわけじゃない? それと同じでさ、獪岳が鬼になるってとき、俺がアイツの近くにいたら――ぶん殴ってでも止めたのになって、そう思ったんだよ」

 

 

 それは。

 今となっては叶いようもない、子供の夢のような話だった。

 

 

「……ぶん殴って、それから、どうするんだ?」

「それはわかんないよ。結局、アイツが鬼になったはっきりとした理由も聞けなかったんだ。鬼になった獪岳は、じいちゃんのことボロクソに言ってたけど――人間だった頃は、先生なんて呼んで俺以上にじいちゃんのことを尊敬してたんだ。『正しく俺を評価する者につく』だとか、『爺が苦しんで死んだなら清々する』だとか――そんなこと、アイツが言う筈がないんだ。アイツが……」

 

 

 『わからない』と我妻は口にした。けれど、その後に続く言葉が、雄弁にこいつの本心を物語っていた。

 こいつはきっと、獪岳のことを、斬りたくなんかなかったんだろう。許せるものならば、許してやりたかったんだろう。けれど獪岳は、決して踏み越えてはならない一歩を踏み越えてしまった。鬼へと成り果てることで、実の師を死に追いやってしまった。

 どうなんだろうか。仮に我妻がその場にいたら、鬼へと堕ちる獪岳のことを、止められたんだろうか。

 わからない。

 今となってはもう、誰にも、答えの出せないことだ。

 

 

「――だからさ。アンタもあんまり、自分のことを責めないでよ」

「……え」

 

 

 唐突に。

 獪岳の話から、俺の話へと議題がすり替わった。

 

 

「確かに、アンタの心は弱かったのかもしれない。一度は折れたのかもしれない。でも、何だかんだでアンタは今もここにいるじゃんか。自分一人の意思じゃなくっても、誰かに無理矢理引っ張られた結果でも、弱い自分を何とかしたいって、そう思えてるじゃんか。だから――上手く言えないんだけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。きっと」

「……そうなのかな。きっと俺は、次に同じようなことがあっても一人じゃ決断できないぞ」

「うん。だからさ――俺たちみたいなのは、誰かに無理矢理ぶっ叩いてもらって、それでようやく一人前になれるんだと思う」

 

 

 それは、人によってはあまりに惰弱だと、斬り捨てられてしまいそうな言葉だったけれど。

 俺が俺で在り続けるための、答えになり得る、言葉だった。

 

 

「獪岳のときと違って、無惨とやり合うのは本当に怖かったよ。元を辿ればこいつが全部悪いっていうのは、わかってたんだけど――やっぱりそれは、ただの理屈なんだよ。だから、アンタが無惨にビビッて動けなかったっていうのは、わかるよ。ホントによくわかる」

「……でも、おまえは最後まで戦えた。なんでだ?」

「だからさ。()()()()()()()()()()()()()、じいちゃんに」

 

 

 ――自分一人で、戦う意志を保てないというのなら。

 誰かに無理矢理、背中を蹴り飛ばしてもらえばいい。

 

 

「……蹴っ飛ばされても、動けない奴は、どうなるんだ?」

「そりゃもう、動けるようになるまで蹴っ飛ばしてもらうしかないんじゃない?」

「……蹴りの痛みに耐えられなくて死ぬかも」

「うん。それは本当に俺もそう思った」

「……キッツいな」

「キッツいよ。一人で踏ん張れない奴の人生っていうのはきっと、どんな時だってしんどいんだ。だけど――それ以外の道なんて、どこにもないからさ」

 

 

 頑張れない人間にとって、頑張れという言葉は、辛い。

 辛いのだけれど。苦しいのだけれど。しんどいのだけれど。

 それでも――結局は、頑張るしか、ない。

 散々回り道をした末に、至極当然の結論に辿り着いてしまった。都合の良い答えを夢見ていた訳ではないけれど、もう少しこう何というか、手心をというか――それも所詮は、どうしようもない泣き言だ。口にしたところでどうにもならない、何の意味も持たない弱音だ。

 俺はこの弱さを、切り捨てられるようになるんだろうか。一度折れた心から、決して折れない心を打ち直すことなんて、出来るのだろうか?

 

 

 我妻善逸。俺の主張に理解を示し、共感し、重なる部分があると頷いてくれた男。彼自身の師と同じように、()()()()()()()()()()と、励ましてくれた男。

 こいつのことを尊敬する。こいつのようになりたいと思う。こいつのように()()()()と、心の中で俺は夢想する。

 

 

 

 夢想するけれども――()()()()()()()という諦めの言葉だけは、我妻と別れて部屋を出た後になっても、頭から離れることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 さて。

 次の部屋主は難敵だ。何と言っても、鬼殺隊屈指の何考えてるのかわからない男だ。何度か言葉を交わしたことはあるのだが、どうにも噛み合わないというか、ズレた答えが返ってくるというか――とにかく、個人的には苦手な男なのだが、彼もまた無惨との戦いで重傷を負った者だ。手当をしないという訳にはいかない。

 

 

「失礼します」

「――ああ。入ってくれ」

 

 

 許可が下りたので、扉を開けて部屋へと踏み込む。寝台の上に、半身を持ち上げ窓の外を眺めている一人の男の姿があった。男には右腕がない。無惨との戦いによって失われたものだ。

 ああ――俺が彼らの身代わりになって死ぬ覚悟を持っていたなら、この右腕が失われることも、なかったのだろうか?

 

 

「傷の具合の確認と、包帯の巻き替えに参りました。水柱殿」

 

 

 そう言って俺が頭を下げると、その男――冨岡義勇は、何故だか妙に改まった様子で。

 

 

 

「そうだ。俺は水柱だ」

 

 

 

 鬼殺隊の誰もが知っている事実を、確かめ直すように、断言した。

 

 






畳もうとした風呂敷の中身がどんどん膨らんでいくこの感覚
長編化だけはあり得ない筈なんですが…あと2話、いや人数的に3話くらいかかりそうな…おかしい…企画用の一発ネタだった筈…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断髪式



俺の知っている冨岡義勇と違う案件かもしれない




 

 

 冨岡義勇は、生き残った隊士の中で最も傷の深い者であった。

 裂傷のみならず、全身に多数の打撃痕も残っている。徒手空拳で戦うという、上弦の参との戦いで負った傷だろう。『凪』と呼ばれる水の呼吸・拾壱の型――あらゆる攻撃を無に帰す冨岡の絶技をもってしても、これほどの深手を負わされるほどの激戦。俺如きでは到底、想像もつかない領域の争いだ。

 尤も愈史郎曰く、これらの傷も数ヶ月ほどすれば概ね癒える見通しなのだという。尋常ならざる回復力と言わざるを得ないのだが、その理由と代償についても聞かされているので手放しに喜ぶ気にはなれない。何より――

 『痣』の力を借りたところで、失われた右腕は二度と、戻っては来ない。

 

 

「…………」

 

 

 ()()に巻かれた包帯を剥がしながら、考える。

 この腕の代わりに千切れたものが、自分の胴であったなら。

 冨岡義勇の右腕と、俺の命。その価値は、どちらが上か。

 心在る者は、後者であると言ってくれるだろう。けれど今の俺には、とてもじゃないが――

 

 

「考え事か」

 

 

 その声でふっと我に返る。相変わらずの感情が読めない目で、冨岡が俺の顔を見据えていた。

 いかん。手が止まってしまっていた。しっかりしろ、怪我人に気遣われていてどうするんだ。

 

 

「……申し訳ありません」

「責めている訳じゃない。ただの確認だ」

「その――昨日の戦いのことを、思い返しておりまして」

 

 

 無傷で生き残った自分。取り返しのつかない傷を負った冨岡。

 その対比について考える度、あの名も知らぬ隊士の絶叫が、頭の中に蘇ってくる。

 

 

 

『柱を守る肉の壁になれ! 少しでも無惨と渡り合える剣士を守れ!!』

『今までどれだけ柱に救われた! 柱がいなけりゃとっくの昔に死んでたんだ!! 臆するな戦え――っ!!』

 

 

 

 臆した。

 俺は、臆してしまった。

 柱に救われた恩を返すことが出来ないまま、のうのうと生き残って、しまった。

 

 

「申し訳ありません」

「それはもう聞いたぞ」

「いえ、そうではなく――自分は、務めを果たすことが、出来ませんでした」

 

 

 気付いた時には、詫びの言葉が口を衝いて出ていた。無心で看病の真似事に興じることは、もう出来なかった。

 

 

「柱の面々が鬼舞辻無惨と相まみえていたとき、自分もその場に居合わせておりました。ですが、自分は柱の盾となることも叶わず、あまつさえその場を逃げ出そうとさえして――竈門炭治郎が鬼と成ったときも、水柱殿の呼びかけに応じることが出来ぬまま、ただただ立ち尽くすばかりで……鬼殺隊士の面汚しです。命を落とした者達に、合わせる顔がありません……」

 

 

 首を垂れて、固く瞼を閉じる。

 そう、柱の身代わりになれなかっただけではない。無惨が灰と化した後、汚名を注ぐ最後の機会でさえも、俺は身動き一つ取れなかったのだ。陽光が差し、鬼の脅威が取り払われた筈の世界で、冨岡の放った叫びが思い起こされる。

 

 

 

『動ける者――っ!! 武器を取って集まれ――っ!!』

『炭治郎が鬼にされた! 太陽の下に固定して焼き殺す!』

『人を殺す前に炭治郎を殺せ!!』

 

 

 

 冨岡の判断は迅速であった。結果的に竈門炭治郎は人の身へと戻ったとはいえ、取るべき対処としては間違いなく冨岡の行動が最適解であった。そして俺は、あの場にいた隊士の誰よりも、()()()()()()()()()()()の筈だった。にも拘らず、進行していく事態を怯えて眺めていることしか出来なかったのが俺だ。『穴があったら入りたい』という言い回しは、きっとこういう時に使うものなんだろう。己の不甲斐なさを痛感し、深く恥じ入る気持ちになった時の――

 

 

 

()()()()

 

 

 

 ――え。

 瞼を開き頭を上げると、相変わらずの無表情を浮かべた冨岡の顔がそこにはあった。機嫌が良いのか悪いのか、微塵も読み取れない氷の(まなこ)。けれど今確かに、冨岡は共感の意を俺に示した。わかるよ、と。

 信じられない。このような惰弱な意思表示は、容赦なく切って捨てる男だと思っていた。戸惑いを隠せない俺をよそに、冨岡は言葉を紡いでいく。

 

 

「鬼殺隊に俺の居場所はない――そう思っていた時期が俺にもあった」

「何を、馬鹿なことを……」

「正確に言えば、つい先日までそう思い続けていた」

 

 

 何を馬鹿なことを。脳内で思わず繰り返してしまった。というか、冨岡も冨岡で律儀に言い直すこともなかろうに。

 冨岡義勇の居場所が鬼殺隊にない。そんな馬鹿な話があるものか。いや、確かにこの男は周囲の人間と噛み合わないところがあるというか、一匹狼的な印象がなくはなかったが、腕前については誰もが認めるところであった。平隊士の誰もが憧れる、柱の一角に相応しい実力の持ち主だった。そんな男が、己の存在意義について思い悩むなどと――

 

 

「俺は最終選別を突破していない」

「え……」

 

 

 思いがけない告白に、顔をまじまじと眺めてしまう。しかし冨岡の表情は変わらない。冗談を口にするような男でもない。ただひたすらに淡々と、現実のみを突きつけてくるのが冨岡義勇という男だ。

 そうして冨岡は、自身の過去を露にする。最終選別の時、錆兎という名の少年に救われたこと。一匹の鬼も殺すことなく、ただ生き残っただけの人間だということ。そのこともあって、自分が柱を名乗ることに躊躇の念を抱き続けていたこと――どれもこれも、冨岡義勇という人間を傍目から眺めていただけの俺には想像もつかない新事実であった。

 

 

「――今回もそうだ。俺はまたしても、守られてしまった。おまえは自分が柱の盾になれなかったことを悔やんでいるようだが……悔いがあるのは俺も同じだ」

「……」

「柱とはその名の通り、鬼殺隊の()()となるべく襲名するもの――にも拘らず、あの時の俺たちは隊士たちに()()()()()()になってしまった。俺たちの未熟と油断ゆえにだ」

 

 

 そうだ。

 いかなる時も、柱は鬼殺隊の支えとなる存在であった。だからこそ、あの時の隊士たちも思ったのだ。()()()()()()()()()()()()()と。柱が鬼殺隊を支え続けてきたから、隊士たちも柱を支えなければならないと思った。想い想われての顛末だ。誰が責められるべき事態でもない、そう思う。

 誰のことも想えなかった、一匹の(おれ)を除いては。

 

 

「……水柱殿、それは」

「わかっている。彼らの代わりに、俺が死んでいれば良かったなどと口にするつもりはない。命を賭して俺を庇ってくれた、彼らの遺志を冒涜することになる――今はそのことに気付けている」

 

 

 冨岡の表情は変わらない。その感情を窺い知ることは出来ない。その上で、思った。

 ()()()()()()()()()。以前に比べて、自分自身を肯定する意志が強くなったように感じられる。『俺は水柱だ』という発言にしてもそうだが、かつてはそんなことを言葉にする男ではなかった。誰かに剣の腕前を持ち上げられても『俺は凄くない』『柱の名が与えられたのは何かの間違いだ』『失礼する』などと述べて、一方的に話を切り上げてしまうような男だった。

 それが今はどうだ。俺のような平隊士を気にかけ、理解を示し、自身の考えを淀みなく口にしている。良い悪いでいえば、間違いなく良い方向に変わったのだろうが――いったい何が、この男に変化を齎したのだろう。出来事か? 或いは人か? 人であるならば、それは果たして何者なのか?

 

 

 ――その何者かと言葉を交わせば、俺も()()()()に変わることが、出来るのだろうか?

 

 

 

「――だからおまえも、自分は死ぬべき人間だなどと考えるのはよせ」

 

 

 

 そう語る冨岡の姿が、我妻善逸と重なって見える。『自分のことを責めないでよ』と口にした、あの勇敢なる臆病者と同じことを、彼とは似ても似つかないこの男が述べている。

 何故だろうか。

 そんな二人の背に、()()()()()が重なって見えるのは。

 

 

「時を巻いて戻す術はない。為すべきことを為せなかったという後悔は、おまえに一生ついて回るものになるだろう。それでも――折れるな。自分の命に価値を見出せ。死ぬべきだったと考えるのではなく、生き残ったことに意味があるのだと考えろ。……おまえが本当に、自分のことを不甲斐ないと思っているのならな」

 

 

 命の価値。

 俺という人間が生き残った、意味。

 そんなものは、本当に、あるんだろうか。

 自分のことを信じてみたい。他人に誇れる自分になりたい。俺はいつでもそう思っている。()()()()()()()()()()()()()。そこで行動に移せる者と、移せない者。その違いは一体、何処から来るのか。その答えだけが、未だに見えてこない。

 鬼狩りは異常者の集まりであると、鬼舞辻無惨は語っていた。その言葉を否定し切れない自分がいたのも確かだ。けれど同時に、俺はこうも思っていたのだ。

 

 

 

 誰かのために命を懸けられることが異常であるなら、俺はむしろ、()()()()()()()()()()

 

 

 

 命の価値を軽んじている訳じゃない。死を美化しているつもりもない。ただ、彼らの誰もが立派だった。己の務めを全うしていた。為すべきことを為した者達だった。そんな彼らと自身を比べる度に、どうしても思ってしまうのだ。彼らのようになりたかった。()()()()()()()()()()()()に、なりたかった――と。

 憧れが膨らめば膨らむほどに、理解することから遠ざかっていくのを感じる。なりたいと願えば願うほどに、なれないことを痛感する。思考に行動が伴わない。口先ばかりで、何も成し遂げられない。一体何なのだろうか、この生き物(おれ)は。

 本当に、()()()()()()()()()()()()()()? 鬼舞辻無惨。俺が正常で鬼殺隊士の方が異常だと、本当にそう思うか? 俺のような生き物で世の中が溢れ返っていたら、この世はきっと、どんどん()()()()()()になってしまう。我が身可愛さに他人を救えない者。己の務めを果たせない者。心を燃やせない者。そんな人間の闊歩する世界に、一体何の未来が在るというのか。

 

 

 変わりたい。

 本当に、変わりたいと思っているんだ。

 

 

 その願望はどうやったら、願望ではないものに、変わってくれるのだろう。

 

 

 

「……俺の言葉では、届かないか」

 

 

 

 え。

 えらく悲壮感の漂うぼやきが聞こえてきたのではっとして視線を向けると、相変わらずの無表情を湛えた冨岡の顔が――

 ……いや、待て。本当にこれは無表情だろうか? 心なしか目に光がないというか、頭の上に『ずーん……』という擬音(オノマトペ)が浮かんで見えるというか……沈んでいる? 落ち込んでいるのか? あの冨岡義勇が?

 そんな繊細な生き物だったのか、この男。確かに変わったと言いはしたが、こういう方向に変容しているとは……いや、今まで俺が気付かなかっただけで、割と前から傷付きやすい性格だったのかもしれない。

 今更になって思う。俺はもっと、鬼殺隊士の面々と触れ合っておくべきだった。()()()()()()の群れと、もっと深く関わっていればよかった。覚悟もなく、矜持もなく、鬼殺隊という組織に属しているだけで、彼らと志を共に出来ていると勘違いをして――実際のところ、てんで理解が足りていなかったことに、全てが終わった後で気付かされる。

 

 

 

『時を巻いて戻す術はない』

 

 

 

 先に放たれた冨岡の言葉が、重く、ひたすらに重く、胸に圧し掛かってくる。

 ()()()()()()という願望は、どれだけ抱いても叶うことはない。鬼殺隊士としての務めを果たす機会は、最早俺には訪れない。その上で冨岡は折れるなと言う。自分の命に価値を見出せと言う。生き残った意味を考えろと言う。

 堂々巡りだ。さっきから俺は、一歩も前に進めていない。冨岡が沈むのも無理は――

 

 

「……あっ」

 

 

 ――いかん。そういえば冨岡に返事をしていなかった。ただでさえ自身の励ましが通じなかったことに傷付いている(多分)というのに、無視したとあってはいよいよどん底まで沈みかねない。

 違うんだ、冨岡義勇。あなたを嫌っているわけではないんだ冨岡義勇。もっと自分を強く保ってくれ冨岡義勇。言え。言うんだ。『俺は嫌われていない』と言える冨岡義勇であってくれ。

 

 

「も……申し訳ありません。大丈夫です水柱殿、あなたの言葉は、しっかりと耳に届いて――」

茂生(もぶ)

 

 

 唐突に固有名詞で呼ばれた。そう――実に今更の話になるが、俺の姓は茂生という。名についてはどうでもいいだろう。どうせ誰も興味があるまい。姓についても、正直覚えておく価値はない。

 

 

「は、はい。如何なさいましたか」

「俺は人に頼みごとをするのが得意ではない」

「はあ……」

 

 

 自分で言ってしまうのか、それを。

 ……いや、その事実を自ら口にすることも、冨岡に生じた変化の一つなのかもしれないが。

 

 

「だが――俺の利き腕は既にない。左手一本で行うには、困難な作業であると判断した。だから、おまえに頼む」

「……?」

 

 

 そうして冨岡は、肘から先の失われた右腕を持ち上げかけ――軽く首を振ってから、左手で自身の頭を指差して、言った。

 

 

 

「髪を切ってくれないか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 本当は自身の師に頼もうと思っていたと、首から肩にかけて布で覆った際に冨岡は語った。

 冨岡の師――元・水柱こと鱗滝左近次。顔立ちが余りにも柔和だったがために鬼に侮られたことから、如何なる時も天狗の面を外さないようになったと噂される男。彼は自身の髪を切る時、面を被ったままにしているのか、それとも流石に外して行うのか――そんな、下らないことを考えた。

 もっとこういう下らない話を、隊の皆々と交わしておけば良かった――などというのは、余計に下らない考えだっただろうか。

 

 

「…………」

 

 

 ……なんともまあ、奇妙な話だ。

 長年同じ隊に所属していながら、今日の今日までそれらしい交流のなかった冨岡義勇の髪に鋏を入れている。鬼も満足に斬れなかった身で、仲間の髪を切っている。理髪の刃だ。何を考えているんだ俺は。

 

 

「生殺与奪の権を他人に握られている……」

 

 

 そしてこの人はこの人で一体何を言っているんだろうか。

 

 

「……俺が鋏で首を斬るとでも思っているんですか、あなたは」

「そうじゃない。ただ、今更ながらに実感しただけだ」

「と言いますと」

「俺の右腕はもうないのだ、ということを」

 

 

 しゃきり、と。

 切り落とされた黒髪が、床に落ちて、散らばる。

 髪は切ってもまた生えてくる。しかし腕は、そうはいかない。

 冨岡義勇は、人間であるが故に。決して鬼ではあり得ない、定命の者であるが故に。

 

 

「傲慢な物言いに聞こえるかもしれないが――他人に頼らなければ出来ないこともあるのだということを、改めて思い知らされた」

「……そりゃあ、人は一人では生きられないですからね」

「そうだ。故に人間は、()()()()

 

 

 水柱として鬼殺隊を支え続けてきた男が、平の隊士に頭を預けたまま、そんなことを口にする。

 『誰も彼も役には立たなかった』と、鬼舞辻無惨は口にしていた。あの言葉がきっと、鬼という生き物の本質なのだろう。他人を当てにしない。敬わない。感謝をしない。自分だけが良ければ、それでいい。そんな自意識(エゴ)をただひたすらに煮詰めて出来上がったのが、あの生き汚さの塊だ。

 それを強さだと錯覚しかけた時もあった。けれど奴の最期は、赤子の姿に形を変え、陽光の中で泣き叫びながら塵となった無惨の散り様は、そんな錯覚を打ち砕くには充分過ぎた。

 少なくとも俺は、あんな風には、死にたくない。

 あの時、愈史郎に止められなければ――そう遠くない将来、似たような末路を迎えていただろうとも思うけれど。

 

 

「――この部屋に入ってきた時からずっと、おまえは()()()()()()()()()()()()()、俺の目には映っていた」

 

 

 冨岡がどんな表情で語っているのか、今の俺には窺い知ることが出来ない。彼の後頭部に視点を合わせたまま、無言で鋏を進めていく。

 そうだ。俺はずっと探していた。折れた心を立ち直らせる術を。冨岡の言を借りれば、俺という人間の価値を。生き残った意味を、俺は探し続けていた。

 

 

「だが――本当はもう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――え」

「おまえが今、自分で口にしたことだ」

 

 

 

『アンタが自分で思ってるよりも、アンタは大丈夫なんだよ、きっと』

 

 

 

 再び。

 水の柱を取り巻くように迸る、金色の輝きが、見えたような気がした。

 

 

 

人は一人では生きられない――そのことを忘れない限り、おまえが道を踏み外すことはないと。――少なくとも、俺はそう思っている」

 

 

 我妻善逸が、師に背中を蹴り飛ばしてもらうことで奮い立てたように。

 冨岡義勇が、自分一人では切れない髪を俺の手に委ねたように。

 人間という生き物は、誰かに支えてもらうことで、生き永らえている。

 漠然と日々を過ごしているだけでは、ふとした拍子に忘れてしまいそうになる、当然のこと。

 そのことを、如何なる時であっても、頭に留めておく。

 

 

 ……なるほど。

 確かにそれが、答えなのかもしれない。

 わかっていた。

 俺は何度も何度も、()()()()()()という言葉を、頭の中で唱え続けてきた人間だから。

 目的地を知りながら道に迷い続けているということは、辿り着くための道のりを知らないということだ。

 即ち――俺はどうやったら、その簡単な答えを忘れることなく、生きていくことが出来るのか。

 他人を敬い、感謝し、誠意を尽くす。たったそれだけのことを忘れないために、俺は何をすればいいのか。

 本当に知りたいのは答えではなく、その過程なのかもしれない。そんなことを、思った。

 

 

「……終わりましたよ」

 

 

 細かい毛をさっと払って、そう告げる。もちろん床は後で掃除する。

 素人目には悪くない仕上がりだと思う。しかし何分、他人の髪に鋏を入れるなど初めての経験だ。自分の評価と他人の評価というのは、得てして釣り合わないもの。緊張しながら、そっと手鏡を差し出す。

 

 

「ああ――悪くない」

 

 

 釣り合った。ほっと一息を吐く。

 こんな行いが、務めを果たさずに逃げ出そうとしたことの償いになるとは思っていないけれど。

 それでも、柱の要望に応えることが出来たのであれば、幸い――

 

 

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 

 

 その時。

 重たくなった髪を切り落とし、どこか涼やかな印象になった冨岡義勇が。

 こちらを振り向いて、ごく自然に――本当に自然な笑顔を浮かべて、そう言った。

 

 

「……あれ」

 

 

 何故だろうか。

 その言葉を耳にした途端、急に視界がぼやけて、俺は――

 

 

 

 

 

 ――誰かのために命を投げ出す覚悟はあるかと問われても、即座に頷ける気は、未だにしないのだけれど。

 

 

 今。本当に今、この瞬間だけは。

 

 

 誰かに尽くし、感謝されることの大切さに、気付けたような――

 

 

 

 

 

 そんな気が、した。

 

 






アオイちゃんとか派手柱なんかとも絡ませてみたかったなあとか思いつつ多分あと1、2回で終わると思います



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

煉獄に焦がれて



先に言っておきましょう。

完全に後付けです。




 

 

 ――その男の刃は、炎を纏っていた。

 『悪鬼滅殺』の四字が刻まれた、燃えるように赫い刀身。繰り出される技は迅く鋭く、ひたすらに磨き上げられている。

 どこまでも真っ直ぐで、曇りのない剣捌き。刀が振るわれる度に、雲が晴れて陽光が差し込んでくるような、鮮烈で、目を奪われる太刀筋。

 男は戦っていた。男は護っていた。理不尽で容赦のない暴力を相手に、たった一人で、傷付き、打たれながらも、決して膝を突くことなく。

 

 

『俺は俺の責務を全うする! ここにいる者は誰も死なせない!!』

 

 

 片目を失い、脇腹を血に染めて尚、男は吼えた。滾っていた。闘志を失ってはいなかった。

 俺は震えて動けないまま、その背中を眺めることしか出来ない。彼の戦いに割って入ることなど出来ない。そんな力もなければ、勇気もない。

 それでもただ、ただひたすらに、祈っていた。

 

 

 死なないで。

 死なないで、下さい。

 俺は貴方のこと、苦手でしたけど。どこまでも清らかで淀みのない貴方の近くにいると、薄汚い自分の性根が露になるようで、嫌でしたけど。

 それでも本当に、貴方のようになりたいと、俺は思っていたんだ。

 

 

 

 煉獄さん。

 ――煉獄さん。

 

 

 

 師匠。

 

 

 

 

 

 

 

 

 馬鹿みたいに眩しい、黎明の日差しで目が覚めた。

 

 

「…………」

 

 

 夢だ。

 クソみたいな夢だった。

 何が師匠だ。俺は結局、あの人の継子になんかならなかったじゃないか。『玖ノ型は煉獄家相伝の奥義! 俺の下でなければ学べないぞ!』などと言ってよく絡まれたものだが、いや俺そもそも伍ノ型までしか使えませんし。陸から捌ノ型すらよく知りませんし――そんな建前を並べ立てて、逃げ回って。

 それで結局、永遠に教えを乞う機会を失ってしまった。

 別に俺が特別、あの人に目を掛けられていた訳じゃない。自分と同じ炎の呼吸を使う隊士には、分け隔てなく声を掛けるのが煉獄杏寿郎という男だった。俺のような木っ端隊士であっても。

 誘いを受けなかったのは、単に自信が無かったからだ。柱稽古で改めて痛感したことだが、柱の鍛え方は育手のものとは比較にならないほど辛く、厳しい。実際に俺の他に誘いを受けていた隊士たちも、あの人の鍛錬についていけず逃げ出すのが常であった。唯一の例外といえば、彼の継子から柱の地位まで上り詰めた甘露寺蜜璃くらいのものであったが――逆に言えば、柱になれるほどの素質がなければ、あの人の継子は務まらなかったという意味でもある。

 いずれにせよ、全てはもう、終わったことだ。

 煉獄杏寿郎は既にこの世の者でなく、彼が生涯を賭して戦い続けてきた鬼も、たった一人と一匹を除いてその全てが滅びた。

 

 

 もう二度と、彼のように心を燃やして戦う機会など、訪れないのだ。

 俺には。

 

 

 

 

 

 

 

 ――そう理解していながらも未練がましく刀を握ってしまうのだから、身体に染み付いた習慣というものは恐ろしい。

 

 

「九百三十一、九百三十二、九百三十三、九百三十四……!」

 

 

 冨岡義勇の前で思わぬ醜態を晒してしまってから、更に一夜が明けて。蝶屋敷の庭で一人、朝の素振りに励む。

 こんなことを続ける意味などもうないというのに、それでも刀を手放せずにいるのは、後悔ゆえのことだろうか? 斬るべき者を斬れなかったこと、為すべきことを為せなかったことへの惨めな妄執が、俺の身体を突き動かしているのだろうか?

 

 

「九百九十七、九百九十八、九百九十九――千っ!」

 

 

 雑念を頭から拭えぬまま、義務のように数だけをこなす。

 息が上がっている。たった千本の素振りでこの様だ。優れた剣士であればこの程度、鼻歌混じりに終わらせてしまうことだろうに。日輪刀を振るう者として、呼吸の乱れは剣の乱れだ。全集中の呼吸が途絶えてしまっている。柱への第一歩と言われる、全集中の呼吸・常中。俺は未だに、一歩目すらも踏めていない。

 踏み出すことすら出来ないまま、全てが終わってしまった。

 

 

「……畜生」

 

 

 馬鹿じゃないのか? 今更強くなって何になるんだ? この刃で一体誰を斬ろうっていうんだ?

 傍から見たら誰もがそう思うんだろう。安心してくれ、世界の誰よりも俺が一番そう思ってる。

 思っているが――それでも尚、夢の中で視たあの炎が、俺の心を焦がして止まないのだ。

 

 

 

"――炎の呼吸・壱ノ型"

 

 

 

 単調な素振りを終え、続けて型の稽古に入る。肺に空気を取り込み、身体に熱を巡らせていく。

 秀でた呼吸の使い手が振るう刃は、見る者に炎や水を幻視させる。実際に刀が燃えたり濡れたりしている訳ではないのだが、何故だか知らないがそう視えるのだ。日輪刀が持つ特性の一つなのかもしれない。

 それ故に一部の隊士の間では、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が、一流と二流の境目になるのだという説も唱えられていたりした。根拠と呼べるものは何もないただの珍説だが、あながち的外れでもないんじゃないかと俺は思っている。何せ――

 

 

 

"不知火"

 

 

 

 ――七年余りを費やして尚、俺の刃に炎は宿らない。

 力強く踏み込んだ一足で相手との距離を詰め、横薙ぎに斬り払う。足と腕に満遍なく呼吸を行き渡らせるのがこの技の神髄なのだと育手には教わった。逆に足のみに意識を集中させ、弓矢の如く極限まで引き絞ってから放つのが『霹靂一閃』と呼ばれる雷の呼吸・壱ノ型であるとか。風の噂によれば、壱ノ型でありながら雷の呼吸において最も習得難度が高い技であるとも――閑話休題。

 刃は虚しく空を切る。当然だ。そこには鬼も蛇も潜んではいない。この世の何処にも、もうそんなものは残っちゃいない。愈史郎と猫のことは置いておくとして。そもそも、あいつは鬼であって鬼ではないというか、単に陽の下を歩けないだけの人間も同然というか――とにかく。

 踏み込んで、斬る。踏み込んで、斬る。見えない敵に挑みかかるような滑稽な鍛錬を繰り返し、胸中で自問する。

 

 

 ……俺は一体、何を斬るために刃を振るっているのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 ――屋敷の廊下を歩いていたら、不意に()()()()()()()()()

 

 

「火事か!?」

うわあ!! び、びっくりした……急に大声出さないでよお兄ちゃん」

 

 

 左目のみをくわっ! と見開き叫び出した竈門炭治郎を、隣を歩く妹の禰豆子が窘める。炭治郎は長男であった。長男は声も反応(リアクション)も大きかった。長男とはそういうものだった。

 炭治郎の右目は眼帯によって覆われている。無惨との戦いの最中に潰れて、鬼となった際に眼球こそ再生はしたものの、人間に戻って一夜明けたら再び見えなくなってしまっていた。左腕も似たようなもので、一度完全な状態で生え変わった筈のそれは、今や枯れ木の如く皴々になっている。尤も、どちらも一度は丸ごと失ったものなのだからと、炭治郎はあまり気にしていなかったが。

 それよりも火事だ。せっかく禰豆子が人間に戻ったのだから二人で屋敷を散歩でもしようと思い立ったはいいが、その屋敷が焼け落ちては散歩どころの話ではない。火の出所を探るべく、炭治郎は鼻をすんすんと鳴らして――そしてすぐに、自身の早合点に気が付いた。

 ()()()()()()()()

 必死になって、何かを燃やそうとしている人がいる。けれども、上手く火が点かずに燻り続けている――そんな感じの匂いがする。善逸の匂いにやや似ているが、彼と違っていつまで経っても火が点きそうな予感がしない。点け方が間違っているのか、そもそも肝心の()()が足りないのか――とにかく、嗅いでいるとどうにも落ち着かなくなる類の匂いだ。

 

 

「ていうか、えっ? えっ? 火事? うそ、大変じゃないお兄ちゃん! すぐに消さないと!」

「いや――ごめん禰豆子、勘違いだった。……あと、出来ることなら消すんじゃなくて、点けるのを手伝ってあげたいな」

「お兄ちゃん放火魔になったの!?」

違うぞ!? そうじゃなくって、なんていうか――そう、焚火だ! 焚火をしようとしてる人がいるんだよ禰豆子!」

「あ、そうなんだ? それなら力になってあげないとだよね、炭焼き小屋の息子と娘として!」

「ああ、炭焼き小屋の息子と娘としてだ! 行こう禰豆子!」

「うん!」

 

 

 竈門兄妹はお人好しであった。数年ぶりに取り戻した人間としての憩いの時間を、見知らぬ他人の手助けに費やしてしまえるのがこの二人であった。

 すんすん。すんすん。嗅覚という名の第六感を頼りに、匂いの大元へと歩を進めていく炭治郎。禰豆子は炭治郎の左手を取り、兄の隣を並んで歩きながら、言った。

 

 

「右、気を付けてね」

「うん。ありがとうな」

 

 

 声にしてから、炭治郎はもう一度内心で同じ言葉を唱えた。ありがとうな、禰豆子。

 禰豆子は今、俺を支えてくれている。不自由になった左手では何かあったとき咄嗟に動かせないから、左に立つことで俺を守ってくれているんだ。それでいて、見えなくなった右目の心配もしてくれる。俺は鼻が利くから見えないことへの不安は小さいけれど、本当は右の方にも並んで歩きたいんじゃないだろうか。

 苦労かけてごめんな、禰豆子。そうやって謝るとおまえは怒るから、決して口にはしないけど。

 

 

『両手に禰豆子ちゃん……両手に禰豆子ちゃん!? なんだそれどこの天国だ!? ねえ炭治郎代わって! ちょっとでいいから俺にその立ち位置を味合わせてぇぇぇぇぇぇぇぇ!!』

 

 

 はいちょっと静かにしてください。

 どうやらこの火を起こしている者は、屋敷の外にいるらしい。門――いや、庭の方だろうか? すんすん。すんすん。

 徐々に匂いが濃くなっていく。相も変わらず火とも炎とも呼べない煙たさを感じるのだが、その中にほんの少し、ほんの少しだけ――嗅いだことのある匂いが混ざっている。

 暖かく、優しく、それでいて力強い。そんな匂いのささやかな名残が、漂ってくる。

 これは、まさか――

 

 

「……あ」

 

 

 そうして、庭先に出た炭治郎と禰豆子の視線が捉えたものは。

 庭の真ん中、虚空に向けて一心不乱に斬りかかり続ける、独りの鬼殺隊士の姿であった。

 地を蹴って、薙ぐ。地を蹴って、薙ぐ。反復縦跳びとでも言えばいいのか、ひとたび刀を振ってはその場を振り向き、同じ動作を繰り返している。技の稽古の最中であるようだが、見覚えのある動きだなと炭治郎は思った。目で追えないと感じた()の踏み込みに比べれば、遥かに緩慢な速度であれど――炎を巻き上げるようなその力強い踏み込みを、炭治郎は知っていた。

 炎の呼吸・壱ノ型、不知火。

 

 

「はあ――」

 

 

 幾度かの反復をこなした後、男は次の動作に移った。

 足元から弧を描くように、赫色の刃が突き上がる。その軌道はさながら日輪の如し。炎の呼吸・弐ノ型、昇り炎天――これは不知火よりも間近で見たからよく覚えている。情けなくあの人の足元に寝転がり、見上げることしか叶わなかったけれど――鮮明に、鮮烈に。

 ただ、彼の刃と目の前の男が振るう刃、その決定的な違いと言えば――

 

 

「……()()()()()()()()()()?」

 

 

 庭をきょろきょろと見回しながら、禰豆子がそう口にする。

 そう――男の刃に、煉獄杏寿郎のような焔は感じ取れない。日輪刀の色はうっすらとはいえ赤く染まっているから、炎の呼吸に適した体質の持ち主であることは間違いないのだが……流石に握力で染めている訳ではないだろう。万力の赫刀使いがこんなところに潜んでいたら、驚天動地どころの話ではない。

 それでも思わず、懐かしさを感じてしまう太刀筋だ。炭治郎は暫しの間、男の繰り出す技を眺め続けた。禰豆子もそれに倣い、兄妹の視線が男に集中する。それ故か――

 不意に男がこちらを振り返り、その視線が炭治郎とかち合った。

 

 

「「あ」」

 

 

 互いに間の抜けた一声を発した後、先に新たな反応を見せたのは男の方だった。責め立てられているかのように表情を歪め、逃げるように目を伏せて、振るっていた刀を鞘に納めてしまう。

 炭治郎の眼差しに対する、あからさまな拒絶の姿勢であった。

 

 

(えっ? ……ええ!?

 

 

 炭治郎は困惑した。避けられている。理由はさっぱり理解らないが、自分はこの人に避けられている。何故だ? 照れ屋か? 照れ屋なのか? それとも自分は、それほどまでに不躾な視線をこの人に投げかけていたのだろうか? だとしたら申し訳ないぞ。鍛錬の邪魔をしてしまった。

 

 

「あの、すみません! どうか俺たちにお構いなく! 続けて下さい!」

 

 

 その場をそそくさと立ち去ろうとする背中に声を投げかけると、男はびくりと肩を震わせ、あからさまに嫌そうな顔で炭治郎へと振り返った。お願いだから話しかけないでくれと言わんばかりの表情だったが、今の炭治郎は『自分が邪魔してしまった鍛錬を再開させてあげなければならない』という使命感に囚われ、それ以外のことを考えられなくなっていた。炭治郎は頭の固い男だった。

 

 

「……いや、もういいんだよ。続ける意味もないのに、馬鹿なことに励んでいた。終わりにする」

 

 

 何よりも炭治郎は、己の嗅覚に絶対の信を置いていた。その鼻がこう告げてくるのだ。

 ()()()()()()()()()()()、と。

 もういいだなんて、そんなこと微塵も思ってはいない。本当は成し遂げたくて仕方がない何かがあるのに、そこに辿り着くための方法を知らないまま、我武者羅にもがいている――そういう匂いがするのだ。本当に、心の底からもう止めたいと思っているのなら、流石の炭治郎も大人しく引き下がるだけの分別は持っている。

 不死川兄弟然り、謝花兄妹然り――自身の感情と正面から向き合えない者とは、得てして諍いを起こしてしまうのが、竈門炭治郎という人間の短所であり、ある意味では長所でもあった。

 故に今回も、こういう感じになった。

 

 

「いえ、意味がないなんてことはない筈です。続けましょう」

「……だからもういいんだって。鬼もいなくなったっていうのに、鍛錬なんか続けて何になるっていうんだ。止めだ止め」

「それでも続けましょう」

「あのな、おまえ人の話を――」

「俺も一緒に刀を振りますから続けましょう!!」

「意味わかんねえよ頭固い野郎だなてめえは!?」

 

 

 こういう感じになった。

 ぎゃーぎゃーと不毛な押し問答に興じる少年二人。こういう時に炭治郎の調停役(ストッパー)を務められる者が長らく不在だったのだが、今はもう、そうではない。

 

 

「もー、嫌がってる人に無理強いしたら駄目だよお兄ちゃん? ――すみません隊士さん、うちの兄が騒がしくしてしまって」

「え……あ、ああ……」

 

 

 ぺこりと頭を下げる禰豆子に、男が曖昧な相槌を返す。続けて禰豆子は炭治郎へと向き直って、

 

 

「それにお兄ちゃん、一緒に刀を振るだなんて言ったけど――本当に、この左手で刀を握ったり振ったり出来る? 刀って重たいんでしょう? 右手一本でやるなんて言ったら止めるからね、私」

「うぐっ……」

 

 

 眉を逆さのへの字に曲げてそう言いつけてくる禰豆子に、二の句を告げなくなる炭治郎。

 そういえばそうだった。勢いで口にしてしまったが、自分はもう剣士としては再起不能の身であったのだ。左腕の肘から下は既に感覚がなく、今も禰豆子に握られていながら、これっぽっちも熱や感触が伝わってきていない。

 ……参ったな。こんな身体で、ヒノカミ神楽を舞い続けることは出来るだろうか? 無惨はもう滅びたとはいえ、縁壱さんがこの世に生きていたことの証であるあの舞は、出来る限り後世に伝えていきたいと思っていたのだけれど――

 

 

 ――いや、それは単なる俺の自己満足だろうか? ヒノカミ神楽が縁壱さんを祀るためのものだというのなら、この神楽を終わらせることで初めて、縁壱さんは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 鬼舞辻無惨を討ち果たすために天から遣わされたヒノカミ様から、何のしがらみもなく幸福な人生を歩む、ただの継国縁壱(にんげん)へと。

 輪廻転生。そんなものが本当にあるのかはわからないけれど、俺は信じてみたい。

 何十年、何百年掛かるかはわからないけれど――平和のために鬼と戦い命を落とした人たちが、生まれ変わって幸せに生きている。そんな未来が来ることを。

 

 

 ……なんだか思考が逸れてしまった。とにかく、今は目の前の隊士の話だ。彼が何に思い悩んでいるのかは知らないが、自分に出来ることがあるのなら力になってあげたい。そう思って男の方に向き直ると、彼もまた炭治郎へと視線を向けていた。どこか恐る恐るというか、怖がられているような匂いがするのは何故だろうかと思いつつ。

 

 

「……わかりました、続けましょうとはもう言いません。ですが一つ、お伺いしてもいいですか」

「……なんだよ」

 

 

 男の眉根が露骨に寄って、こちらを訝しむような表情に変化する。けれども、その程度の反応で踏み止まる竈門炭治郎ではなかった。

 如何なる時も真正面から、馬鹿正直にぶつかっていくのが、この少年の精神性なのだった。

 

 

 

「――あなたは一体、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――叶うことなら二度と、顔を合わせたくない相手だと思っていた。

 この少年の顔を見ていると、どうしても思い出してしまうから。俺の心が決定的にへし折れた、あの夜のことを。

 あの言葉の、ことを。

 

 

 

『存在してはいけない生き物だ』

 

 

 

 わかっている。

 あの言葉は直接、俺に向けて放たれたものではない。鬼舞辻無惨の主張に同調しかけていたところで耳にしたものだから、なんというか、流れ弾を食らっただけだ。竈門炭治郎は今のところ、俺に向けて何の悪感情も抱いてはいない筈なのだ。多分。

 ……けれどもし、あの冷え切った眼差しが、俺に向けられる時が来たとしたら?

 無惨の主張は利己的で、見苦しく、浅ましい。そのことを今の俺は理解している。けれど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()も、俺は知っている。

 もしも竈門炭治郎が、そんな俺の内面を察してしまったら――そう思うとどうしても、この少年と言葉を交わすことが恐ろしくて堪らなかった。

 

 

「――あなたは一体、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 けれど、竈門炭治郎は俺を逃がしてはくれない。うんざりするほど真っ直ぐに、朗らかに俺を追い詰めてくる。

 その嫌気が差すほどの眩しさが、()()に重なって見えた。あの人の傍にいる時も俺は、こういう居心地の悪さを感じていたことを、思い出した。

 

 

 

「……()()()()()、か」

 

 

 

 かつてあの人に投げかけられた、そんな言葉を思い出す。

 

 

 

『心を燃やせよ、諸角少年!!』

 

 

 

 諸角って誰ですか。俺は茂生(モブ)です。そこらの茂みに生えてる、雑草のような名前の生き物です。当時の俺はそんな突っ込みを入れるのが精一杯で、その言葉に籠められた力をまるで理解していなかったけれど。

 城の中で一人生き残った時、或いは無惨の腕が柱たちへと襲い掛かった時、俺の心にその言葉が残っていれば――俺も皆のように、鬼殺隊士としての務めを全うすることが出来たのだろうか?

 ……無理だろうな。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 太陽のようなあの人の眩しさに憧れて、焦がれて、手を伸ばして。

 それでも結局は、自分自身の腹の底に潜むどす黒いものに飲まれて、独りで勝手に沈んでいく。

 そういう、生き物(おに)なのだ。

 

 

「……やっぱりまだ、()()()()()()()()?」

 

 

 だというのに。

 この少年は今も尚、()()()()()()()()()()()()と言う。

 どうして。

 どうしておまえ達は、誰も彼も皆、そうなんだ。

 

 

 

『――おまえはどっちだ、醜男。踏み止まるのか、それとも転げ落ちるのか』

『アンタが自分で思ってるよりも、アンタは大丈夫なんだよ。きっと』

『死ぬべきだったと考えるのではなく、生き残ったことに意味があるのだと考えろ』

 

 

 

 おまえ達は、どうして。

 俺が俺を諦めることを、諦めてはくれないんだ。

 

 

 

「……竈門炭治郎」

!? は、はい! 竈門家長男、竈門炭治郎です!」

「長女の竈門禰豆子です」

 

 

 名前を呼んだら無駄に丁寧な自己紹介が返ってきた。ついでに妹までついてきた。今更ながら、この天真爛漫を絵に描いたような少女が鬼と化していたとは信じられない。鬼だった頃の彼女を目にしたことがないので、想像することすら出来ないが――今となってはもう、どうでもいい話だ。

 

 

「俺からも一つ、おまえに訊ねたいことがある」

 

 

 あの人が最期に何を為したのかは、上からの伝達によって聞き及んでいる。無限列車――二百人余りの乗客を誰一人として死なせることなく守り切ったという、鬼殺隊士の鑑と言うべき散り様。

 けれど、俺は更にその先を知ってみたいと思った。もう一度だけ、あの輝きに手を伸ばしてみたいと思った。

 どす黒いもののそのまた奥に、消えることなく燃え続けている炎があるのだと、信じてみたかったのだ。

 

 

 

「あの人の――煉獄杏寿郎の最期は、どんなものだった?」

 

 

 

 

 

 ――あなたを想うとき、燃えるような力が体の奥から湧いてくるのです。

 

 

 そんな言葉を言えるような生き物(にんげん)に、なってみたいんだ。俺も。

 

 

 






ワクワクを思い出すんだ!!

過去最高に勢いで書いた話なので今回だけでかなり嘘吐いてます


>『玖ノ型は煉獄家相伝の奥義! 俺の下でなければ学べないぞ!』

煉獄さん外伝にて『自身の名を冠した』というナレーションが入っているので凪や火雷神のような煉獄杏寿郎オリジナル奥義である可能性が高い
でもパパ獄さんが玖ノ型ぶっ放してるところも見たい…見たくない?


>自分と同じ炎の呼吸を使う隊士には、分け隔てなく声を掛けるのが煉獄杏寿郎という男だった。俺のような木っ端隊士であっても。

出会って間もない炭治郎にいきなり『俺の継子になれ面倒を見てやろう!』とか言い放つような御人なのでこういうこともあるかなあとか思った結果
でも多分柱合裁判でお館様に切った啖呵を見て『うむ! この子は鍛えがいがありそうだな!』とか思い立った結果だと思うのでモブ君のような人材が彼の目に留まるかどうかは怪しい


>秀でた呼吸の使い手が振るう刃は、見る者に炎や水を幻視させる。実際に刀が燃えたり濡れたりしている訳ではないのだが、何故だか知らないがそう視えるのだ。日輪刀が持つ特性の一つなのかもしれない。

あの解説はただのメタであって作中人物にも適応される話ではないだろ


>それ故に一部の隊士の間では、日輪刀に呼吸を纏わせることが出来るかどうかが、一流と二流の境目になるのだという説も唱えられていたりした。

村田さんが二流扱いになっちゃうだろ! いい加減にしろ!!


>――屋敷の廊下を歩いていたら、不意に焦げ臭い匂いがした。

炭治郎くんの嗅覚をニュータイプ的な直観か何かと勘違いしてない?



なんか割とモブ君が立ち直り気味になってしまったのでもうこれで終わりでもいいかなとか思ったのですが
改めて読み返したら流石にこれで終わりはぶつ切り過ぎるような気がしたのでやっぱりもう少しだけ続くかもしれません。
未来は無限に広がっている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

無惨との最終決戦にうっかり紛れ込んでしまった茂生大志郎の話



心折杯参加作品でした。




 

 

「――煉獄というのは、天国にも地獄にも辿り着けなかった死人の魂を清める場所なのだそうだ」

 

 

 いつだったか、あの人の屋敷にお邪魔する機会があった時のことだ。客間で雑談に興じている最中、そんなことを言われた。

 聖人でもない限り、一生のうちに誰もが多少は罪を犯してしまうもの。地獄に落ちるほどの大罪でもない、ささやかな穢れを抱えて命を落とした者は、煉獄の炎に焼かれることで魂を浄化され、その後に天国へと至ることになるのだという。

 

 

「誰から聞いたんですか、そんな話」

「俺の母だ! 母上からは、俺が俺として生きていく上で大切なことを幾つも教わった!」

「そりゃまあ、羨ましい限りですね」

 

 

 皮肉めいた言葉を返してから、すぐにしまったと思った。煉獄杏寿郎の母親は既にこの世の者ではないと俺は知っていたのに、ついつい僻むような返答になってしまった。尤も親を亡くしているのは俺も同じなのだが、それにしたって羨ましいという言い方は違うだろう。気を悪くされても仕方がない。

 

 

「ああ! 自慢の母上だ!」

 

 

 逆だった。本当、言われたことを素直に受け取るよなこの人は……まあ、こちらの捻くれ具合が伝わらなかったようで安心したけれども。

 両親に愛されていなかった訳ではない、と思う。虐げられた記憶はないし、飯も充分に食わせてもらった。早く自分も大人になって、育ての恩を返さなければならないと思える程度には、大切にしてもらっていた――筈だ。

 しかし改めて思い返してみると、煉獄さんのように『俺が俺として生きていく上で大切なこと』なんてものを授かった憶えは、何もない。そういう人生論めいた話を両親から聞かされたことは、一度としてなかった。

 もう少し俺が成長するまで生きていたのなら、或いはそういう話もしてくれたのかもしれない。けれど、九歳だ。九歳で俺は両親を亡くした。頭も心も育ち切っていない餓鬼に小難しい話はまだ早いと、両親はそう思っていたのかもしれない。

 かもしれない、だ。全部。

 二人纏めて鬼に喰われた今となっては、もう。

 

 

「……『幾つも』って言いましたけど、他にはどんなこと言ってたんですか、お母様は」

「ふむ? そうだな――」

 

 

 そのせいか、つい気になってしまった。柱きっての人格者として隊士の皆に慕われ、憧れの存在として扱われている男、煉獄杏寿郎。その人間性の礎となったであろう母親の教えとは一体、どういうものなのかと。

 煉獄さんは顎に手を当てて、記憶を辿るように虚空へと視線を巡らせ――

 

 

 

「『――なぜ自分が人よりも強く生まれたのか、わかりますか』」

 

 

 

 普段の騒々しい口調が嘘のような、粛々とした声色で語り出した。

 

 

 

「『弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません』」

 

 

 

 恵まれた才能を自分のためではなく、世のため人のために。

 煉獄杏寿郎はある意味、鬼殺隊士の中でも異端者だ。鬼に身内を奪われた者、人生を狂わされた者が大半の鬼殺隊にあって、彼にはそういう陰惨な背景が存在していない。先祖代々炎柱を務めてきた煉獄家の嫡男であるからという、一種の義務感によって彼は戦っている。

 ()()()()()のために命を懸けられるものなのかと、俺はずっと疑問に思っていたものだ。現に彼の父親である煉獄槇寿郎も、妻を亡くしてからは酒に溺れ、柱としての務めを投げ出し、半ば息子に全てを押しつけるような形で引退してしまった。実の父親の()()()()()様を誰よりも間近で見てしまった筈のこの人が、如何なる時であっても気力に満ち溢れ、決して折れず、挫けないのは何故なのか――

 

 

 

「『弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように――』と! このように言われたな!」

「……一字一句丸々覚えたんですか?」

「『決して忘れることなきように』だからな!」

「そういう意味で言った訳じゃないと思うんですけど……」

 

 

 その答えがきっと、この言葉なのだろう。責務。責任を持って果たさなければならない使命、か。

 正直な話――俺にはまるで、理解が出来ない考え方だ。自分の才能を自分のために利用して何が悪いのだろうか? 自分の人生なのに、自分に与えられたものなのに、何故それを他人に施すことを強いられなければならないのか? そんな利己的な考えが、次から次へと浮かんできてしまう。

 ……それに。

 こんなことを口にするのは、故人に対しても煉獄さんに対しても失礼だとは思うのだが――

 

 

 

「……なんていうか、()()()()()()()()? その教え」

 

 

 

 煉獄瑠火の教えはまるで、煉獄杏寿郎に科せられた()()のようだ。責務だの使命だのと聞こえはいいが、結局のところは彼にとっての枷ではないのか。世のため人のため、自分以外の何かのために生きるのが彼の定めだというのなら、彼自身の幸福は一体どこにあるのか――そんなことを、思ってしまったのだった。

 ところが。

 この人の母も母なら、息子も息子であった。

 

 

 

「重いな! ()()()()()()()()()()()()()!」

「……なんですか、それは。普通は逆でしょう、重たいものなんて放り出してしまえばいいって、そう思ったことはないんですか?」

 

 

 今にして思えば、つくづく性根の腐り切った台詞だ。こんな台詞を柱相手に口にしてしまう人間だから、肝心な時に務めを果たせず、惨めに逃げ出す羽目になったのだろうと、今では思う。

 そんな俺を軽く戒めるかの如く、あの人はいつもの調子でこう切り返してきた。

 

 

「それもそうだな! では少年、君が俺の代わりに炎柱を務めるというのはどうだろうか!」

はァ!? いやいや、無理! 無理ですって! 俺の階級知ってますか? 辛ですよ辛、下から三番目! 鬼だって五十どころかその半分すら倒せてないし、十二鬼月を斬るなんて夢のまた夢――」

「だろうな! ――だからこそ、俺が背負うのだ。少年」

 

 

 今度こそ俺は、二の句が継げなくなってしまった。

 そう――誰かが背負わなければならない。この世に鬼が生きている限り、人を喰らう化け物共が蔓延っている限り、誰かがそれを祓わなければならない。別にいいじゃないか、自分には何の関係もない、放っておけばいい――そんなことを言える奴はただの幸せ者だ。大切なものを誰かに奪われたことのない、恵まれた人生を過ごしてきた奴だ。心底羨ましいよ、本当に。

 ……そうだ。俺は鬼を赦せない。両親を俺から奪っていった、畜生共のことを赦せない。だから俺は鬼殺隊士になった。刀を取り、育手に鍛えられ、鬼と戦う日々へと身を投じたのだ。

 

 

「……もう一つ、訊いてもいいですかね」

「ああ構わんぞ! どんと来い、少年!」

 

 

 なればこそ。

 なればこそ俺は、『自分に代わって柱を務められるか』というこの人の問いかけに、『はい! やります!』と頷ける自分でなければ、いけなかったんじゃないだろうか。

 

 

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 俺には才能がなかった。正確に言えば、中途半端な才能を持って生まれてきてしまった。

 皆無という訳ではなかった筈だ。日輪刀の色が変わったということは、最低限の剣才はあったという証明にはなる。けれども、それ止まりだった。全集中の常中は未だに身に付いていないし、刀に呼吸を纏わせることも出来ていない。華々しい活躍を続ける柱たちに比べれば遥かに劣る、雑草(モブ)も同然の鬼殺隊士。それが俺だ。

 いっそのこと、色なんて変わらなければ良かったのだ。あの初めて手にした日輪刀の鮮やかな赫色が、俺に夢を見せてしまったのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と。燃えるような赫色を、眩いほどの日輪を、この身に宿すことが出来るんじゃないかと、思ってしまったのだ。

 その勘違いを捨てきれないまま、未だに俺は、惨めったらしく鬼殺隊士を続けているけれど。

 両親の仇は討ちたい。強くもなりたい。けれども一向に強くなれる気配もない、半端者の俺は。

 一体、どういう心構えで、生きていけばいいのだろうか。

 

 

「難しい問いだな!」

 

 

 本当にそう思っているのか怪しい普段通りの大声で、煉獄さんは応えた。

 

 

「……難しいですか、やっぱり」

「実はかつて、千寿郎――俺の弟にも似たような問いかけをされたことがある! どれだけ稽古をつけても日輪刀の色が変わらないことに悩んでいてな、このまま剣士になることが叶わなければ、自分は一体どうすればいいのか――そんな悩みを打ち明けられたことがあるのだ」

「弟さんには、なんて?」

「どんな道を歩んでもお前は立派な人間になる! 兄は弟を信じている! ――そう言って励ましたものだが、君に同じ答えを返すのは説得力がないと判断した! 故に悩んでいる!」

「……それはまあ、確かに」

 

 

 アンタが俺の何を知っているんだとばかりに、糞みたいな反発をする自分の姿が容易に浮かんでくる。第一、俺には自分が立派な人間になれる未来など、これっぽっちも想像がつかない。

 というか煉獄さん、悩んでいるのか。悩んでくれるのか、こんな甘ったれた問いかけに。四の五の言ってる暇があったら血反吐を吐くくらい鍛え直せ、くらいのことは言われてもおかしくないと思っていたのだが。いや、結構そういうとこあるだろ、鬼殺隊って。

 

 

 

「――それでもやはり、俺はこう言おう! いいか少年、()()()()()()()!」

 

 

 

 明後日の方向に視線を向けながら思考に耽っていた煉獄さんが、不意にこちらを真っ直ぐに見据えて、語り始めた。

 

 

「弱いということは無力という意味ではない! 人に比べて身体の弱かった母が俺に人生の指針を示してくれたように、心持ち次第で成し得ることというのは幾らでもある筈だ! 少年、君が己を弱き者だと思っているのなら、()()()()()()()()()()()()()()()()! 誰かと己を比較する前に、まずはそこからだろうな!」

「……自分なりの、精一杯……」

 

 

 それは――なんていうか、どうなのだろうか。

 俺の精一杯なんて、煉獄さんや柱たちのそれと比べたら、塵屑も同然のようなしょうもないものだと思うのだけれど。

 ……いや、そんな風にして誰かと比べるのを止めろと、この人は言っているのか。

 確かに、俺の心が沈んでいく時というのは、常に誰かと自分を比べている時のことだったように思う。周りにはこんなにも出来る奴らがいるというのに、どうして俺は――そんな風に自分を責め立てて、腐って、否定して。

 誰も俺のことを追い詰めてなどいないのに、独りで勝手に沈んでいって、這い上がれなくなる。そんな思考に蓋をして、俺は俺なりに頑張ろうと、そう言い聞かせながら生きていけば――確かに今よりも多少、心は軽くなるだろうと思う。

 ()()()()()()()()()()()()()()()、それがきっと、一番の正解なのだろう。

 なのだろう、が。

 

 

「納得がいかない、という顔だな!」

「……いえ。正しいことを言われているのだと思うんですけど、なんていうか……胸のこの辺が、もやもやします」

 

 

 脈打つ心臓を抑えるように手を添える。煉獄さんはそんな俺の動作をじっと眺めてから、一言。

 

 

「――やはり君も、()()()()()()()()()

 

 

 心なしか満足そうに、そんなことを、口にした。

 

 

「……は?」

「その靄というのは、君の中にある炎が燻っていることの顕れだろう! 君は自分を弱き者だと思っているようだが、その一方で自分の弱さを認めたくないとも思っているのだろう! 二律背反というやつだな!」

「そう……なんですかね?」

 

 

 燻っている。てんで実感が湧かない。俺の中にそんな、火を点けられる何かが眠っているとは、とても思えない。そんなものがあるなら、俺はもっと自分を変えることに必死になれている筈だ。

 口先ばかりで、願望ばかりで、てんで中身が伴っていない――

 ……そんなものを、炎と呼んでもいいのだろうか?

 

 

 

「――本当に今の自分を変えたいと思っているのなら、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 静かな語り口だった。母親の言葉を借りていた時と同じような、教えを説く者の声をしていた。

 

 

 

「君の中にあるその炎は、吹けば飛ぶような(ともしび)に過ぎないのかもしれない。ほんの一瞬、気を抜いただけで消えてしまうような、ちっぽけなものなのかもしれない。それでも――()()()()()()()()()()()()()()()()。それだけでいい。それだけで君は、どこまでだって強くなれる」

「……いつもの『心を燃やせ』ってやつですか? そんなしょっぱい炎、燃やしたところでたかが知れてると思いますけどね」

「君は不始末で大火を起こしてしまう類の男だな!」

「はい?」

 

 

 意味がわからん。そう思って彼の顔をジト目で眺めてみると、煉獄杏寿郎は普段の呵々大笑たるそれとは違う、悪戯じみた含み笑いをうっすらと浮かべて。

 

 

 

「――初めは小火(ぼや)でも、何かの拍子に大きく燃え広がることもある。……炎というのは、そういうものだぞ? 少年」

 

 

 

 

 

 いつだったか。本当に、いつだったか。

 あの人は、そんなことを、言っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――…………」

 

 

 蝶屋敷のとある一室。竈門炭治郎が療養に使っている部屋へと招かれた俺は、寝台に腰掛けた彼の口から、あの人の最期の戦いがどんなものだったのかを、伝え聞いた。

 下弦の壱を葬った直後、突如として姿を現した上弦の参。煉獄杏寿郎はそれに単身立ち向かい、夜明けが来るまで戦い抜いた。致命傷を負った身で尚、鬼の身体を掴んで離さず、朝焼けの下に滅しようとした。壮絶なる、散り様だったと。

 

 

「猗窩座――上弦の参は、煉獄さんに何度も言っていました。死んでしまうぞ杏寿郎、言え、鬼になると言え――それでも、煉獄さんは猗窩座の誘いを跳ね除けたんです。君と俺とでは物事の価値基準が違う、俺は如何なる理由があっても鬼にはならない……って」

「……そうだろうな」

 

 

 鬼になる。罪無き人の命を喰らう、畜生道へと堕ちていく。奴らの生き方は、煉獄瑠火の教えに真っ向から反しているものだ。そんな存在に、あの人が成り果てる筈もない。

 煉獄さんは守り抜いた。竈門炭治郎を、無限列車の乗客たちを、誰一人として死なせなかった。あの人は本当に、責務を果たしたのだ。強く生まれた者として、己の心を燃やし尽くして。

 

 

「――()()()()()()()、か。……つくづくその通りだったよ、煉獄さん」

「……?」

 

 

 母親の教えに恥じない、強き者としてこの世を去った煉獄杏寿郎と。

 あの人の教えを忘れて、弱き者として生き永らえてしまったこの俺。

 違っていた。

 本当に、何もかもが、違い過ぎた。

 

 

 

『――本当に今の自分を変えたいと思っているのなら、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 煉獄さん。

 俺、駄目だったんですよ。

 折れてしまったんです。絶やしてしまったんです、心の炎を。

 他人と自分を比べるなって、弱い自分なりの精一杯をやれって、あなたは言ってましたけど。

 どうしたって、比べてしまうに、決まっているんだ。

 

 

 

 ――そんなにも立派に、鮮烈に、輝いておいて。

 憧れない訳が、ないじゃないか。畜生。

 

 

 

「――()()()()()()?」

 

 

 

 そんな俺の胸中を、見透かしたように。

 竈門炭治郎がまじまじと、俺の顔を覗き込んでいた。

 

 

「……そう見えるか?」

「いえ、その――なんていうか、そういう匂いがして」

「お兄ちゃんは鼻が利くんですよ」

 

 

 そう言って話に入ってくるのは竈門禰豆子だ。彼女も煉獄さんの話に興味があったようで、俺の隣に椅子を並べて炭治郎の語りに耳を傾けていたのだ。

 

 

「人の匂いを嗅ぐと、その人が何を考えているのか、どういう人なのかが何となくわかるんです。犬みたいでかわいいでしょう?」

「俺は可愛くないぞ! むん!」

「この流れで鼻息荒くされると余計に犬っぽく見えてくるなおまえ……」

 

 

 男らしさを主張したかったのかもしれないが、完全に逆効果であった。

 それにしても――匂い、か。我妻の『音』と似たような感覚なのだろうか。どっちも五感だし。確か竈門兄と我妻は同期で仲が良かったと記憶しているが、似たような異能を持つ者同士の共感というか、そういうものもあったんだろうか。特に興味はないけれども。

 

 

 ……怒っている。

 確かに俺は、怒っているのかもしれない。

 煉獄さんに対してじゃない。あの人の教えを忘れてしまった、不甲斐ない自分自身に腹が立つ。己のことを情けない、惨めだと思う負の感情に加えて、()()()という気持ちが芽生えつつある。

 あの時の俺には――鬼殺隊の制服を脱ぎ捨て、責務を全うすることなく逃げ出そうとした時の俺には、欠片も存在していなかった感情だ。

 けれど。

 愈史郎に捕まって、我妻善逸に共感を抱いて、冨岡義勇の髪を切って。

 あの時よりも、少しだけ――自分以外の誰かのことを、考えられるようになって。

 そうしたら、気付いたら、()()()()()()()()()()()()

 折れてしまった自分のことを、燃やせなかった心のことを、悔めるようになっていたのだ。

 

 

 

『――煉獄というのは、天国にも地獄にも辿り着けなかった死人の魂を清める場所なのだそうだ』

 

 

 

 煉獄。

 俺がこれまで触れ合ってきた者達はまるで、()()()()()()()()()()

 鬼殺隊士としての務めを全うする訳でもなければ、鬼へと堕ちきる訳でもなかった半端者(ヘタレ)の俺を焼き尽くして、真っ新にする清めの焔。そんなものに焼かれ続けたおかげで、()()()()()()()()()()()。彼らの持っていた心の炎が、こっちにまで飛び火してきてしまった。

 今度こそ。

 今度こそ、この炎を、俺は消さずに守り抜いていきたい。

 鬼達との命の奪い合いに比べたら、遥かにささやかで、ちっぽけな戦いかもしれないけれど。

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()と――今の俺は、そう思っている。

 そう、信じている。

 

 

 

「……なあ、竈門炭治郎」

「どうしてあなたは俺を姓名で呼ぶんですか? あなたの姓名も教えてもらっていいですか?」

「名字で呼んだら妹の方と区別がつかないだろ。かといって下の名前で呼ぶほど親しい仲でもない――茂生だよ。茂生大志郎」

「俺は別に気にしませんよ大志郎さん!」

「ちょっとお兄ちゃんと名前が似てますね大志郎さん」

「これ見よがしに名前で呼ぶな。……嫌いなんだよ、自分の名前」

 

 

 大志郎。『大きな志』だなんて言えば聞こえはいいが、気持ちばかりで中身が伴っていなければ何の意味もないと、そんな風に思っていた。ともすれば、俺の捻くれた性根は、この名前への反発から生まれたものなのかもしれない――というのは流石に、こじつけが過ぎるだろうけども。

 ――ああ、でも。良い名前じゃないかって、あの人はそう言っていたっけな。『大志か! かの札幌農学校初代教頭、クラーク氏の残したとされる言葉だな! Boys,(少年よ、) be ambitious(大志を抱け)――本当にそう言ったのかは知らないが、気持ちの籠もった良い名前だ!』なんて、いつもの大声で。

 

 

 

『……なんていうか、()()()()()()()()?』

 

 

 

 ……そうか。

 きっと俺は、この名前のことも、そう思っていたんだろうな。

 

 

 

「……本当に、今でもまだ、嫌いですか?」

「そこまで行くと最早怖えよ、おまえの鼻」

「!?」

 

 

 がーん……と衝撃を受けたように固まる竈門炭治郎。そんな兄の様子を見てくすくす笑っている竈門禰豆子。何てことのない兄妹同士のほんの一幕が、何故だか無性に微笑ましく見えて。

 今更ながら――俺にも妹がいたら、()()()()()()、もう少し逞しい人間になれたのかなあとか、そんなことを思ってしまった。

 ……そうだな。俺も手に入れよう、自分以外の大切なものを。護るべきものを。妹は無理でも、妻とか子供とか、そういうものを。

 こんな願望、今までほんの一度だって、抱いたことがなかったけれど。

 大志を、抱いてみよう。

 

 

「……そんなおまえの自慢の鼻で、確かめてほしいことがある」

 

 

 そのためにも。

 俺はこの男に、竈門炭治郎に、白状しなければならない。

 俺が犯した、煉獄に至るきっかけとなった罪を、告白しなければならないのだ。

 

 

 

「――最後の戦いがあったあの日、俺はおまえと鬼舞辻無惨の会話を聞いていた」

「……?」

「無惨はおまえにこう言ったよな。鬼殺隊はしつこい、うんざりする、身内が殺されたから何だというのか――おまえ達は生き残ったのだから、それで充分だろう、と」

 

 

 その言葉を口にした瞬間。

 竈門炭治郎の目に、あの夜と同じ強い怒りが宿ったのを、俺は見逃さなかった。

 ああ――やはり。

 こいつが誰よりも、あの人に近い。()()()()()()()()()宿()()()()()。穢れを赦さず、払い、焼き尽くす――そういう(こころ)を持っている。

 その炎が恐ろしかった。こいつの目に見据えられて焼き尽くされることが、あの日の俺は怖くて仕方がなかった。だから折れた。鬼舞辻無惨の力ではなく、こいつの高潔なる精神こそが、俺の心をへし折ったものの正体だった。

 その炎と、もう一度、真正面から向き合うのだ。

 そうしない限り、俺は一生、大志を抱くことなんて出来やしない。

 

 

 

「――俺はあの日、無惨の言うことに、()()()()()()調()()()()

 

 

 

 だから。

 あの日の穢れを、折れた心を、逃げてしまった俺の魂を。

 焼き尽くしてくれ、竈門炭治郎。

 

 

 

「自分一人が生き残れたら、それでいいと思った。両親を鬼に殺されたのに、鬼の生みの親である無惨を前にしても、仇を討つことが出来なかった。柱が無惨に殺されそうになった時、身代わりに飛び出すことも出来なかった。そうして、そのまま、逃げ出そうとさえしたんだ。何もかもを放り投げて、命を懸けて戦っている皆のことさえも、知ったことじゃないと思って――」

「…………」

「――あの日のおまえの言葉がずっと、耳に残って離れないんだ。存在してはいけない生き物――おまえがそう称した無惨の主張に、俺はあの時、同調したんだ。なら――俺もまた、そういうものになってしまうんじゃないか? なあ、どう思う?」

「大志郎さん……」

 

 

 竈門禰豆子が俺の名を呼ぶ。何を思って口にしたのかはわからない。軽蔑されたのか、或いは憐れまれたのか、それとも――わからない。俺には竈門炭治郎のような鼻も、我妻善逸のような耳もない。他人が自分のことをどう思っているのかなんて、読み取る力は俺にはない。

 きっと、そういう力のない者が、鬼へと堕ちてしまうんだろう。他人がどう思っているかなんて気にも留めない、自分のことしか考えられない生き物。

 存在しては、いけない、生き物。

 

 

 

「竈門炭治郎――おまえは俺のことを、存在してはいけない生き物だと、そう思うか?」

 

 

 

 ――果たして、今の俺は。

 竈門炭治郎の目に、()()()()()()()()として、映っているのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 ――最初に匂いを嗅いだときは、()()()()()()()と思っていた。

 火というよりも、煙のような焦げ臭さ。弱々しく、濛々としていて、今にも消えてしまいそうな灰色の男。そんな印象を、竈門炭治郎は茂生大志郎に抱いていた。

 

 

 

「竈門炭治郎――おまえは俺のことを、存在してはいけない生き物だと、そう思うか?」

 

 

 

 けれど、今。

 この人の心は、燃えている。

 今の自分は人間だと、全力で主張するように、力強い眼差しで炭治郎を見据えている。

 刃を突きつけられているようだと、思った。この問いかけはきっと、大志郎なりの戦いなのだ。全てを投げ出し、逃げ出そうとしたかつての自分に、けじめをつけるための。

 それならば――炭治郎もまた、この問いかけから逃げることなど赦されない。

 

 

 

「――思いません」

 

 

 

 だから、応えよう。

 この人の心に住み着いた、後悔という名の鬼を今、斬り捨てよう。

 これが竈門炭治郎の、生涯最後の、鬼狩りだ。

 

 

 

「大丈夫ですよ。わざわざ確かめたりしなくたって、大志郎さんは人間です。だから――どうか、正しいと思う道を進んでください。大志郎さんを悪く言う人がいたら、俺が頭突きします」

「それは止めた方がいいよお兄ちゃん」

「なんでそこでおまえが水を差すんだ禰豆子!?」

「知らないの? お兄ちゃんの頭ってすっごく固いんだよ? 普通の人が頭突きなんてされたら頭が割れちゃうよ。鬼だった頃の私も危うくそうなるところだったんだから」

「お兄ちゃん禰豆子に頭突きした覚えなんかないぞ!?」

「……ははっ」

 

 

 その時。

 炭治郎と禰豆子のやり取りを眺めていた茂生大志郎が、堪え切れないと言わんばかりに、笑い声を漏らした。

 そんな彼の、何の屈託もない笑顔を見て、炭治郎は思った。

 ――うん。

 やっぱりもう、この人は、大丈夫だ。

 

 

 心の炎が消えてしまいそうになる瞬間。そんな場面は、炭治郎にも幾らだってあった。鬼に家族を殺されたとき。どうか妹を殺さないでくださいと、冨岡義勇に頭を下げたとき。半年経っても岩が斬れずに、錆兎に打ちのめされたとき。折れた肋が痛くて痛くて堪らなかったとき。そして――

 

 

 

『――悔しいなぁ。何か一つできるようになっても、またすぐ目の前に分厚い壁があるんだ』

『凄い人はもっとずっと先のところで戦っているのに、俺はまだそこに行けない』

『こんな所でつまずいてるような、俺は――俺は……煉獄さんみたいになれるのかなぁ……』

 

 

 

 ――自分の弱さを、無力さを、思い知ったとき。

 だから。

 竈門炭治郎は、茂生大志郎のことを、自分と同じ存在(にんげん)だと思ったのだ。

 

 

 

「兄妹水入らずの邪魔して、悪かったな。――ありがとう、もう行くよ」

「――大志郎さん!」

 

 

 

 そんな人に。

 何かを繋ぎたいと、思った。

 ひょっとしたら、余計なお世話なのかもしれない。自分がわざわざ後押ししなくても、この人は既に煉獄さんから自分と同じものを貰っている。心を燃やせという、己を鼓舞するための言葉を、知っている。

 だから――これ以上は、()()になってしまうのかも、しれない。

 

 

 

「……もしもまた挫けそうになった時は、俺が今から叫ぶ言葉を、思い出してみて下さい」

「……叫ぶのか?」

「はい。叫びます」

 

 

 

 それでも。

 一度は逃げ出してしまったと、心が折れてしまったと、後悔を口にしたあなただからこそ。

 ()()()()()()()()()()()()と、そう言えるようになるための力を、授けてあげたかった。

 

 

 

 すう――と息を吸い込んで、肺に空気を流し込む。瓢箪を割った時のように、丹田に意識を集中させる。

 そして。

 竈門炭治郎は、その言葉を、唱えた。

 

 

 

「頑張れ大志郎頑張れ! あなたの心に火は点いた! 貴方はできる人だ!!」

「――――」

「そして今日も! これからも! ――()()()()()()!!」

 

 

 

 一度は折れた心でも。消えてしまった炎でも。

 俺達(にんげん)は、何度だって、燃え上がれる筈だから。

 

 

 

「あなたが挫けることは絶対にない!!」

 

 

 

 だから。

 あなたはきっと、大丈夫です。茂生大志郎さん。

 

 

 

「……折れてはいても挫けないって、言葉遊びも甚だしいな」

「うぐっ……!?」

 

 

 想像以上に素の突っ込みが返ってきて、それこそ心が折れそうになる炭治郎。

 や……やはり無理があったか……そりゃそうだよな、元は心じゃなくて骨の話だもんな、折れていてもって……だけどこう、何ていうか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()っていうか、そういう心意気的なものを伝えたかったというか……

 ――などと、しどろもどろになっていた炭治郎の額を、大志郎の人差し指がバチンと弾いた。

 

 

「痛え!!」

 

 

 悲鳴を上げたのは大志郎の方であった。

 

 

「大丈夫ですか!? どうして俺はいま額を弾かれたんですか!?」

「クソ、本当にめちゃくちゃ固え――大丈夫ですかじゃねえよ、人を励まそうとした傍からこんな突っ込みでしょげてんじゃねえよって、そういう意味で一発入れたんだよ……あー痛え、これ本当に折れたかもしれん」

「大丈夫ですか!?」

()()()()()

 

 

 身を乗り出しかけた炭治郎を制止するように、茂生大志郎はひらひらと手を振り、踵を返した。今までの彼とはどこか異なる、飄々とした仕草だった。

 

 

「折れたくらいじゃ挫けないって、言ってくれたもんな。おまえが」

「……!」

 

 

 ――通じていた。

 竈門炭治郎の言葉を、茂生大志郎はしっかりと、背負い込んでくれたのだ。

 

 

「……頑張るよ、俺。自分に何が出来るのか、何がしたいのかも、よくわかってないけど――」

 

 

 部屋の扉に手を掛ける直前、大志郎は一度、こちらを振り返って。

 

 

 

「――何度だって、心を燃やして、頑張ってみる」

 

 

 

 最後は少し、照れ臭そうにはにかんで。

 茂生大志郎は、竈門炭治郎の前から、去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――さてと。

 これから先、どうしようか。『正しいと思う道を進んでください』と、炭治郎は言っていたが――今までずっと剣を振ることしかしてこなかった人間が、急にそれ以外の道を歩むとなると中々難しい。他の隊士たちは一体、どのような未来予想図を描いているのだろう? その辺りも炭治郎に相談しておけば――

 ……いや、そうか。

 余りにも色濃く浮き出ていたから逆に忘れてしまっていたが、竈門炭治郎もまた、短命の痣を持つ者なのだ。

 それなのに、あいつときたら、よくもまあ――

 

 

 

『あなたが挫けることは絶対にない!!』

 

 

 

 ……そんな暗さを微塵も見せずに、人の背中を押してみせやがって。

 本当に、凄いやつだよ、おまえは。

 

 

「……頑張ろう」

 

 

 そうだ。

 そんなやつが、『貴方はできる人だ』なんて、言ってくれたんだから。

 辛くったって、悲しくったって、落ち込んでなんかいられない。

 あいつの言葉に恥じない自分に、ならなくっちゃいけないんだ、俺も。

 

 

 

『重いな! ()()()()()()()()()()()()()!』

 

 

 

 ……なるほどね。

 少しだけ、あなたの気持ちが理解出来たような気がするよ。煉獄さん。

 人に何かを託される、繋いでいくっていうのは――こういうことなんだな、きっと。

 

 

 

「……随分とまあ、吹っ切れた顔になったものだな」

「あ」

 

 

 竈門兄妹の持ち部屋を出て少し歩いた途端、見知った顔に出会った。と言っても、ほんの二日前に顔を合わせたばかりの相手なのだが。

 愈史郎だ。足元に飼い猫を侍らせて、廊下の壁に背中を預けて腕を組んでいた。こいつが日中に出歩いているのは珍しい。いや、珍しいと言ってもほんの二日前に以下略。

 ……というか、そうだ。先のことを考えるよりも前に、今の俺はこいつの小間使いを務めているのだった。怪我人だってまだ大勢この屋敷に詰めているというのに、浮足立って自分のことばかりを考えて、全然成長していないじゃないか茂生大志郎。反省しろ反省。後悔は程々にするにしても反省だけはきちっとしろ。

 

 

「悪い。ちょっと野暮用を済ませてた」

()()()()()()()()()――おまえがそんな名前だったとは知らなかったな」

「……聞いてたのか?」

「『聞こえてきた』だ、馬鹿が。誰がおまえらの会話なんぞに聞き耳を立てるものか」

 

 

 それもそうだ。というか確かに、あの時の炭治郎の声は馬鹿みたいに大きかったな。今頃、神崎アオイあたりが部屋へと押し入って『静かになさってください!!』と炭治郎を叱りつけていてもおかしくはない。それとも今は猪の世話で忙しいかな。確か今、彼女の主な受け持ちは嘴平伊之助だった筈だから。

 

 

「――で、おまえはこんな廊下の端っこで何やってんだ? ここら辺は窓が無いから平気だけど、まだおまえが出歩くには早い時間だろ」

「……今日にでも屋敷を発とうと思ってな。あの兄妹にはそれなりに縁があるから、最後に顔だけでも見ておこうかと思ったんだが――どこぞの先客のせいで気勢を削がれた。大人しく夜に時間を改める」

「あれ、もう出て行くのか? まだ全然治り切ってない奴が殆どだぞ」

「誰が完治するまで面倒を見るなんて言った。……処置を施さなければ助からなそうな奴には全員手を付けた。後は屋敷の娘たちだけでも何とかなるだろう」

「ふーん……?」

 

 

 ……なんだろう。本当にそれだけだろうか? 何処か投げやりな感じに見えるのは俺の気のせいなんだろうか。

 炭治郎とか我妻だったら、こいつが何を考えてるのか理解(わか)るのかな。俺には見ただけで、こいつの考えを察することなんて出来ない。今までずっと、本気で他人と向き合ってこなかったから。

 

 

 ――だからこれは、てんで的外れな直観なのかもしれないけれど。

 何となく、今のこいつを一人にしては、いけないような気がした。

 

 

「――なあ。おまえはこれから先、どうするんだ?」

「……馬鹿か? 屋敷を発つと言ったばかりだろう、歩きもせずに記憶を飛ばすな、鳥以下頭め」

「本当に口わっるいなこいつ……! そうじゃねえよ、屋敷を出た後のことだよ! 何かやりたいこととかないのかよ?」

「……知るか」

「いや、知るかっておまえ」

「どうでもいい。……俺が生き続ける理由など、最早この世には何もないんだ。茶々丸に住処でも用意してやったら、その後は――」

 

 

 ……その後は? 続く言葉を待っていたのだが、愈史郎はそれっきり口を噤んでしまった。何も考えていないのか、或いはもう、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 生きろよ、と俺は言おうとした。けれどその後に、こうも思った。

 ()()()()()

 愈史郎は一体、()()()()()()()()()()()()

 愈史郎は鬼だ。たとえ心は人間であっても、体質は限りなく不老に近い不死だ。太陽の光を浴びない限り、こいつが命を落とすことなどあり得ない。それは即ち、愈史郎は自身が望む限り、永遠に生き続けることが可能だということを意味している。

 逆に言えば――こいつが自分の人生を終わらせるには、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そんな相手に、ただ理由もなく生き永らえろとだけ口にするのは、無責任なのではないだろうか。終わりにするという選択肢も、こいつには残しておくべきなのではないだろうか――

 

 

 

『――いえ、意味がないなんてことはない筈です。続けましょう』

 

 

 

 ……そうだな。

 それは流石に、早急に過ぎる結論か。

 生きる理由がないというなら、用意してやればいいだけの話だ。終わりにするかどうかを決めるのは、それからだって遅くはないだろう。

 あいつなら――炭治郎ならもっと、違う理由を思いつけるのかもしれないが。

 せっかくだから俺は、もう少しだけ、我儘な理由でこいつを引き留めさせてもらう。

 

 

 

『俺を、ここから、引っ張り出せ』

 

 

 

 ――ふてぶてしくもそんなことを言って、俺を人間に繋ぎ止めやがった野郎に。

 それと同じくらいの図々しさで、言ってやるのだ。

 

 

 

「――やることないんだったらさ、一つ頼まれてくんないかな」

「……何?」

「俺、もっと本格的に、人の手当ての仕方とかを学んでみたいと思うんだよ」

「……医者でも目指すつもりなのか? 俺は野巫(やぶ)だぞ、本職じゃない。第一、なんでおまえ如きのために俺がそんな面倒を引き受けなければならないんだ」

「まあそう言わずにさ、ちょっとした暇潰しだと思って」

「その程度の期間でまともな腕が身に付くとでも思っているのか? 素人が一から学ぼうと思ったら数年、或いは十数年――」

「それでも、()()()()()()()()()()()。おまえにとってはさ」

 

 

 あっけらかんと言い放つと、流石の愈史郎も絶句した。そりゃそうだよな、自分で言ってて厚かましいにも程があるって思うし。

 でもな、愈史郎。これだけは覚えておけよ。

 人をこの世に繋ぎ止めたからには、()()()()()()()()()()()()()()ってことだ。

 

 

「な? いいだろ? ちょっとした寄り道だと思ってさ、付き合ってくれよ。数年か十数年くらい」

「ふざけるな。冗談じゃない、誰がおまえのような醜――」

 

 

 心底嫌そうに顔を顰めていた愈史郎が、不意に目をぱちくりとさせて、何かを見定めるように俺の顔をじろじろと眺めてくる。

 

 

「……何だよ。また人のこと、醜男とか何とか言うつもりか?」

「――いや」

 

 

 愈史郎は深々と溜息を吐き、徐に足元の猫を抱き上げて。

 明後日の方向を向きながら、一言。

 

 

 

「――今のおまえの顔は、人間(平凡)だよ」

「……なんだ、そりゃ?」

 

 

 

 ……まあ、別にいいか。平凡だろうが、何だろうが。

 醜男(おに)だなんて呼ばれるよりかは、多少はマシなものになれたみたいだから。

 

 

 

 

 

惨めな小鬼(ヘタレモブ)の物語は、これにてお開きです。

ちゃんちゃん。

 

 

 






約一ヶ月お付き合いいただき、大変ありがとうございました。
ひょっとしたら活動報告なりに後書き的なものを上げるかもしれませんが、本編についてはこれにて完結とさせていただきます。
来週からは普通のワートリ書きに戻ります。本作がお気に召しましたら、宜しければそちらの方もご覧いただければ幸いに存じます。


お疲れ様でした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。