早苗友人帳 (ウォールナッツ)
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緑髪の転入生

二作目の東方クロスオーバーですが、前作とは全く関係無い世界です。ご注意下さい。


――小さい頃から時々変なものを見た。他の人には見えないらしく、それらは恐らく妖怪と呼ばれるものの類い――

 

 

 

「お!夏目、おはよう!」

 

「ああ、北本。おはよう」

 

 朝。学校の正門前で声をかけられた少年、夏目(なつめ)貴志(たかし)は友人の北本の声に気付くと、振り向いて挨拶を返した。そんな夏目に北本は小走りで隣にやって来る。横に並んで夏目の肩をポンと親しげに叩くと、彼は早速お喋りを始めた。

 

「夏目、ちょっと聞いてくれよ。昨日、西村の奴が――」

 

「ハハハ、それは災難だったな」

 

 北本と共に歩きながら夏目は他愛の無い会話を楽しむ。何てことはない、いつもと変わらない日常。しかし、他人には見えない“非日常”が見えてしまうことで不幸な過去を送ってきた夏目にとって、その変わらぬ毎日は何物にも代えがたい大事な宝物だった。

 

「ん…?」

 

「どうかしたのか?」

 

 お喋りをしながら夏目たちがゆっくりと歩いていると、1人の女子がその横を早足で追い抜いていった。授業が始まる前に何か用事があって急いでいるのだろう。それは別にどうでも良かったが、夏目は遠ざかっていくその女子が気にかかり、首を傾げた。

 なぜなら、その女子の髪が目の覚めるほど明るい緑色で染められていたからだ。腰の辺りまで伸ばしたロングヘアが根元から毛先まで綺麗に染められている。いくら校則が緩く、茶髪に染めている生徒も多いこの高校といえども、流石に全部緑色に染め上げるのはマズいのではないだろうか。少なくとも、夏目は今まで見たことがなかった。

 そんな初めて見る髪色の女子に面食らい、夏目は思わず北本に尋ねた。

 

「この学校にあんな女子いたか?あんな髪が綺麗な緑…」

 

「確かに綺麗な黒髪(・・)だったな。う~ん、あの女子は俺も見覚えないかも」

 

「――え?」

 

 北本の返答に、ピタリと夏目の時が止まった。あれほど鮮やかな緑色だったというのに、彼には見えていない。いや、よくよく周りを見渡してみると誰もその髪色に反応していないのだ。生徒はおろか、校舎の前に立って朝の挨拶を返す体育会系の教師すらも、その髪色に一切口出ししていなかった。

 

「もしかしたら転入生かもな!」

 

 そう笑って言う北本だったが、夏目は愛想笑いすら浮かべることが出来ないままでいた。

 自分が見えているモノが他人には見えていない。夏目にとってそれは良くある事だった。物心ついた時から他人には見えぬ彼らは存在し、幼い頃から夏目は酷く苦しめられてきたのだ。

 夏目だけが見える彼らとは、“(あやかし)”。様々な災いを起こし、時には人間を害して喰らうこともある恐ろしい存在。夏目は生まれつき妖力が非常に高く、妖が見えるが為にその厄介さを良く知っていた。

 

(あの女子…妖かもしれない…)

 

 他人が本当に人間なのか分からないという不安。そんな恐怖を感じながらも午前の授業は終わり、夏目は友人の北本や西村と共に校舎の屋上で昼食をとっていた。この3人の中では夏目と西村が同クラスで北本だけが別クラスなのだが、西村と北本が親友であった縁から夏目も彼と仲が良い。今では、こうやって3人で行動することが多いくらい仲の良い友人になっていた。

 

「太陽がポカポカして気持ち良いな~」

 

「だなぁ!」

 

「……」

 

 風が吹くと少々肌寒いものの、日に当たっている所からじんわり温かくなってくる秋晴れの季節。心地の良い天気だが、一方で夏目の心は晴れていなかった。妖関係で苦労してきた夏目にとって、朝の出来事は楽観視出来ることでは無かったのだ。

 

「ここに居たか西村、北本!おい、もう聞いたか!?5組に転入生が来たらしいぞ!」

 

 突如、屋上のドアが開かれて1人の男子が声をかけてきた。彼は夏目や西村と同じクラスの友人、辻だ。クラス委員で面倒見が良い性格の男子で、夏目がこの学校に転入してきた際は当初から積極的に話しかけてくれた者の1人である。

 

「なに、本当か!?それで女子か!?女子なのか!?」

 

「女子だ!しかも、噂によるとかなり可愛い子らしい!」

 

「おお!」

 

 辻の返答に西村が顔を輝かせる。ミーハーな彼にとって転入生が来るのは一大イベントだ。ここ最近は2人の転入生が来たが両方とも男子であった為(夏目と、もう1人は田沼という男子)、美人な女子が転入してきたと聞いて彼の期待度も爆上げだった。

 

「あー、もしかして朝見た女子。やっぱり転入生だったのか」

 

「…みたいだな」

 

「北本と夏目はもう見たのか!辻、俺たちも見に行くぞ!あ、2人も付いて来いよ!」

 

「お、おい、ちょっと西村…」

 

 ご機嫌な様子で向かおうとする西村を止めようとした夏目だったが、彼はそんな制止の声など聞こえてない様子だった。

 

「ま、俺たちも横顔をチラッと見ただけだったし丁度良いか。夏目、行こうぜ」

 

「はぁ…分かったよ。行こう」

 

 北本にもそう言われ、『妖かもしれないから近寄るな』とも言えない夏目は仕方無く了承した。食べ終わった弁当の箱を片付け、西村たちの後を追う。そして5組の前の廊下まで来ると、窓からクラスの中を覗き込んだ。人目を気にせず身を乗り出して覗き込む西村たちの後ろで、夏目も軽く視線を向ける。

 

「見ろ西村。あの女子だ!」

 

「おお!美人だ!」

 

 辻が示す先には、やはり朝見た緑髪の転入生が居た。彼女を中心にクラスの女子たちが集まって色々と話しかけているようだ。しかし、やはり誰もが違和感なく彼女を見ていた。

 

(何度見ても不思議なくらい明るい緑色をした髪だ。でも他の人たちには全く見えていない…。やはりあれは妖なのか…?いや、もしくは妖に取り憑かれている人間かもしれない…)

 

 妖の中には人に変化出来る者もいる。そうやって変化した姿は、妖力の無い普通の人間でも見ることが出来るのだが、それ故に見分けるのが難しい。時には、(同類)にすら見分けがつかぬほど精巧に人に変化する妖もいたし、人の記憶や認識を改変してまで人々の中に溶け込もうとする妖もいた。そして、その目的も千差万別だった。

 また、ただの人間であっても妖に取り憑かれてしまったり、呪われてしまったりすると普通の人間には見えないナニカが浮かび上がってくる場合がある。それは文字であったり、模様であったり、その他の違和感であったりと様々だった。つまり、彼女の緑髪がそうである可能性も高いのだ。

 それらを探る為にも、夏目は彼女たちの会話に耳を澄ませた。今の所、怪しい様子も無いようだが、安心は出来ない。妖ならば、大人しく見えても急に豹変して人間に襲いかかってくるなんて良くある事だからだ。

 

「でも、今の時期に転校なんて珍しいよねー。東風谷(こちや)さんはお家の人の仕事か何かで引っ越してきたの?」

 

「ええ、そんな感じです。ただ、私自身の用事の為でもあるんですよ」

 

「東風谷さんの?」

 

 女子の1人が問いかけると、東風谷という変わった名前の転入生は微笑みながら頷いてみせる。朗らかな雰囲気を持った女子だ。怪しむ夏目自身でさえ『これで黒髪に見えていたら全く怪しまなかっただろうな』という印象を持つほどだった。

 

「私、実家が長野県の方で神社をやっておりまして。その分社がこの近くにあったのですが、本社も知らないうちに分社に仕えていた者たちが途絶えてしまっていたらしいのです。このままではいけないということで、その立て直しのために親戚と共に引っ越して参りました」

 

「えー、じゃあ東風谷さんは神社の巫女さんなんだ!すごーい!」

 

 周りの女子たちから褒めそやされて転入生は気恥ずかしげに照れていた。表情は人間のそれであるし、違和感は全く無い。しかし、もしも彼女が妖だとしたら、それが逆に恐ろしい。完璧に人に変化出来るということは、それだけ大きな力を持った妖であるということの証左だからだ。

 

「この近くに途絶えた神社?どこだろう、そんなの有ったかな?」

 

「知らないのも無理はないかと思います。かなり昔に廃神社になってしまったようで、森に呑まれてしまって石の鳥居以外は何もかもボロボロでした。その鳥居も草木や蔓で覆われているほどでしたから。今は、かな…あー、親戚の方たちと片付けや修理を進めているところです」

 

「大変だね。何かあれば言ってね。手伝えるようなことがあれば手伝うよ」

 

「あはは、ありがとうございます。でも、そのお気持ちだけで十分嬉しいですよ。今は参拝道すら草木が生い茂って足元が危ない状態ですから。実は私もほとんど親戚の方たちに任せているような状況なんです」

 

 女子たちが心配げに手伝いを申し出ると、彼女は笑みを浮かべて遠慮していた。周りの女子たちが、それなら…、と言った感じで言葉を続ける。

 

「そうなんだ。じゃあ、その神社に行けるようになったら教えてね。お参りに行くから」

 

「あ、私も!」

 

「本当ですか!?それはとっても嬉しいです!」

 

 女子たちの“お参り”という言葉に彼女はパァッと顔を明るくした。余程嬉しかったのだろう。身振り手振りを交えて、自分の神社のアピールをし始めた。

 

「うちは御利益ありますよ!厄除け、金運上昇、安全祈願に天候祈願!そして、特に必勝祈願は最強です!他校にカチコミをかける際などは是非とも我が守矢神社に御参拝を!」

 

「カチコミ!?」

 

「東風谷さん真面目系かと思ったら、まさかの武闘派系!?」

 

 ニコニコ顔で突拍子も無いことを言い出した彼女に、女子たちは驚きながらも笑っていた。どうやら冗談だと思われたらしい。実際、この辺りはド田舎なので高校も少なく、生徒数も少ない。そのせいか不良もほとんど居らず、他校に赴いてまで喧嘩を売りに行くという時代錯誤な生徒は居ないのだ。

 

「東風谷さんって、おもしろ~い。アハハ!」

 

「でも、冗談言えるくらい馴染めたのなら良かった~」

 

 とりあえず彼女は面白系の転入生としてクラスに馴染み始めているらしい。確かに、話を聞く限りは親しみやすい性格のようだ。誰とでも仲良くなれるタイプなのだろう。どうにも物憂げな雰囲気を出してしまう夏目からすれば、羨ましいとも思える性格だった。

 しかし、そんな彼女たちの会話を近くで聞いていたクラスの男子が口を挟んできた。

 

「えー?東風谷さんって神様とか信じてる系の人なの?」

 

「俺は子どもの頃、お化けが怖かったぜ~、なんてな。はははは!」

 

「ちょっと、男子!ごめんね、東風谷さん。うちのバカ男子たちが…」

 

 普段から軽口を叩く男子らしく、クラスの女子たちも手を焼いているらしい。だが、それでも緑髪の転入生は気にすることなく明るい笑みを浮かべていた。

 

「あはは、いえいえ大丈夫ですよ。というか、神社で働く人間が神様などを信じて無かったら、逆に問題ですからね。私はしっかり信じるようにしていますよ」

 

「あー、そりゃ確かに…」

 

「信じてない人がやってる神社なんて、行く気が無くなりそうだもんなぁ」

 

 その笑顔と言葉に男子たちも毒気を抜かれた。確かにそうなのだ。神社の家に生まれた者として神を信じるのは当然といえば当然。言ってしまえば、家の手伝いをしているだけだ。目立ちたがり屋の女子が『私、実は霊感有るんだ』とか『私、占い出来るんだ』とか急に言い始めるのとは訳が違うのである。

 軽口を言った男子たちが気まずげに頭をポリポリ掻いていると、周りの女子たちからお叱りの言葉があった。腰に手を当てて『怒っていますよ』アピールをしている。

 

「ちゃんと謝りなさいよ、男子!東風谷さんに謝るか、必勝祈願して隣町の高校に行くかのどちらかだからね!」

 

「マジで!?俺らカチコミに行かされるの!?」

 

「謝るから勘弁してくれ~!」

 

 これには流石の男子たちもお手上げだ。両手を合わせて拝むように謝る彼らを、彼女はやはりニコニコと微笑みながら許した。

 当然、女子たちも冗談で言っていたので、そんな男子たちの様子を見て彼女たちも笑っている。緑髪の転入生が持っている朗らかな雰囲気がクラス全体に行き渡っているような感じだった。

 

「聞いたか、夏目!あのコチヤって女子、神社の巫女さんだってよ!くぅ~、巫女姿を見てみたいぜ!」

 

「巫女…」

 

 ニヤケ面でバシバシと背中を叩いてくる西村を尻目に、夏目は彼女を見つめていた。悪意ある妖が持つ特有の嫌な感じは無い。しかし、言葉には表せない何か大きな力を夏目は感じ取っていた。

 

「おい、そろそろ休み時間終わっちゃうぞ。西村、辻。早く戻ろうぜ。ほら、夏目も」

 

「あ、ああ、悪い。今行く!」

 

 いつの間にか予鈴が鳴っていたらしく、北本が夏目たちを急かす。午後の授業まで後5分も無い。彼らは慌てて自分たちのクラスに戻るのであった。

 

 

 

 

「っていうことが学校であったんだ。ニャンコ先生はどう思う?」

 

 家に帰った夏目は、すぐさま今日の出来事を相談した。しかし、その相手は人間では無い。彼の名は(マダラ)。強大な妖力を持った獣型の妖である。

 元々、斑は招き猫型の呪具に長期間封印されていた。偶然ながらも夏目がその封印を解いてしまったことで2人は出会い、その縁から彼は『ニャンコ先生』という名で夏目を他の妖から守る用心棒となったのである。

 ただし、招き猫型の依代に身体が馴染んでしまった斑は、でっぷりと太った猫のような姿で普段を過ごしている。これは実体ある姿であり妖力の無い人間にも見えるので、夏目以外の家人の前では普通の飼い猫として日々を送っていた。

 

「己の霊力や妖力の強さによってはそういう事もあるかもしれん。害は無いはずだ。ほっとけほっとけ」

 

「ほっとけって、ニャンコ先生!」

 

 斑が座布団の上でノンビリとしながら答えると、夏目は彼に詰め寄る。自分だけならまだしも、学校で何かあれば大勢の人たちに害が及ぶかもしれないのだ。

 しかし、斑はその短めの前足をヒョコヒョコと振りながら夏目をあしらった。

 

「確かに緑色の髪とは私も聞いたことが無いが、分社を幾つか持つほどの大神の巫女なのだろう?強大な神格から祝福を与えられれば、そういうことがあってもおかしくない。もしかしたら、その小娘も妖が見える者なのかもしれんな」

 

「妖が見えるかも…」

 

「とはいえ、田沼の父親のように神格に気に入られて妖は見えなくとも力だけは持っている、というパターンも有るだろうから大きな期待はするなよ」

 

 夏目の友人に田沼(たぬま)(かなめ)という男子が居る。彼は常人よりも妖力は有るものの、強い妖力を持っている訳ではなかった。ただ、妖を見ることは出来ないまでも僅かに感じることが出来ることから夏目と仲が良くなり、今では彼の妖にまみれた非日常を知る友人でもあった。

 そして田沼の父は、近所の八つ原という地域にある寺の住職だ。彼に妖力は全く無く、妖が見えない者なのだが僧侶としての修行をしたことで法力を得た。更に、どこぞの神格に気に入られたことで強力な加護を受けたのだが、力を得ても本人は妖を見ることも感じることも出来ないままだったので、その自覚が全く無いという人でもあった。

 

「少なくとも、今日のお前からは妖の残り香は感じられん。気にするなってことだ」

 

 妖に詳しいどころか、妖そのものである彼にそこまで言われると流石の夏目も反論出来ない。心の端にシコリが残るものの、夏目は自分を納得させて夜を過ごすのであった。

 

 

 

 

 

 あの緑髪の女子が転入してきて一週間ほどが経った。

 あれから夏目は何度か彼女を学校で見かけたが、怪しい素振りは全く無い。『やはり先生の言う通り、俺の心配しすぎだったか』と夏目も安堵し、今度機会があれば彼女に話しかけてみようかとも思っていた頃だった。

 

「大変じゃ、大変じゃ。おい、あの話を聞いたか?」

 

「なんじゃ?何の話だ?」

 

(ん…?)

 

 学校からの帰り道。夏目は2人の妖が世間話をしている声を聞いた。

 一般の妖たちは人間を見下している者が多く、自分たちの姿を見られたり声を聞かれたりすると激怒する妖も少なくない。この2人もそういう妖であれば面倒臭いので、夏目は彼らに関わらず通り過ぎようかと思ったのだが、妖の片割れが何かに恐れているような雰囲気を出していたので、ついつい気になってしまった。

 夏目は靴紐を結び直す振りをしながら、耳の意識を妖たちに向ける。彼らは夏目がコッソリ聞いていることに気付くことなく語り出した。

 

「最近、余所の地から途轍もない力を持った大妖がやってきたらしいのじゃが、あの山を新たな住家にしたらしいぞ」

 

「なんと!大妖とな!?」

 

 妖が指差す先を盗み見て、夏目はゲンナリしてしまった。そこは夏目の家*1にも割と近い山なのだ。家から徒歩でも十分行ける距離にある。正直言って、妖関係の面倒事は勘弁して欲しかった。

 

「だが、あの山の森にも力を持った妖は居たはずだろう。下級の妖たちを率いていた白き翼の…。その者たちは一体どうなった?追い出されたのか、それとも…喰われてしもうたか?」

 

「それが、その大妖に屈服したらしい。あまりにも隔絶した力じゃった故に戦いにもならず、率いていた一派ごと大妖の傘下に降った、と聞いた」

 

「そ、それほどの力を持った者がこの地にやって来たのか…!」

 

 聞いていた方の妖が怯えたような声を出した。会話をしている彼らは、恐らく弱い妖だ。妖の世界は弱肉強食。弱者は強者に翻弄されるしかないのだ。

 同時に、彼らの話を聞いて夏目もある記憶を思い出していた。夏目はあの山の森に行ったことがある。そして、森の妖たちを統率していた白い翼の妖のことも知っていた。

 

「リオウ殿も可哀想に。人間に封印され、最近やっと解放されたかと思えば余所者に降らざるを得んとは…」

 

「恐ろしや、恐ろしや…」

 

 怯える妖たちはそのまま歩き去って行く。しかし、夏目はショックのあまりそこから動けなかった。『リオウ』と呼ばれた者こそ、夏目の知己の妖だったのだ。

 

「そんな…あのリオウが…?」

 

 立ち呆ける夏目の口からは、ただただそんな呟きしか出て来なかった。

 

 

 

 

 

「私には及ばぬが、それでもリオウは上級の妖だ。その小物たちの言っていたことが本当だとすると、噂の大妖とやらは相当な力の持ち主だな。止めとけ、夏目。お前が首を突っ込んで何とかなる話じゃない」

 

 その後、我に返った夏目はすぐさま家まで走って帰り、斑に事情を説明した。しかし、彼は首を横に振って夏目を止める。斑は妖だが、割と現実主義者だ。危険だと分かっている所に夏目が向かうことを良しとはしなかった。

 

「それでも、何とかしないといけないんだ。黒ニャンコは…リオウは人を愛していた。もしも、その大妖が人を襲うような奴だったら、配下にさせられたリオウは誰よりも辛い思いをしてしまう。俺はそんなことになって欲しくないんだ…!」

 

 リオウは人を愛した妖だった。昔、リオウが人の子どもに化けて家畜を襲いに行った際に、狐用のトラバサミに掛かってしまったことがあったという。しかし、そんな罠に掛かり動けなくなったリオウを助けたのは1人の猟師の男だった。恐らく、助けた彼はリオウのことを普通の子どもだと思ったのだろう。だが、助けられたリオウはその人間のことを忘れられなかった。

 その後、リオウは何度も人に化けて猟師の男に会いに行った。妖と人が友になったのである。もしかすると、その頃には男もリオウが人ではないと感づいていたのかもしれない。しかし、それでも男はリオウと友で在り続けた。夏には縁側で共にスイカを食べ、正月には男の家族に餅を貰って一緒に食べるほどの仲だった。

 だが、ある日。リオウは祓い屋に家畜を襲う悪しき妖として黒い招き猫の依代*2に封印されてしまう。長い封印だったがそれを夏目が偶然解いてしまうやいなや、リオウはすぐに友人の男に会いに行った。だが、男は既に天寿を全うしていた。妖にとって人間の一生は短すぎたのだ。

 結局、リオウは部下の妖たちを纏め直し、『私はもう人里には下りてこない。そして私が居る限りはこの森の妖に人を襲わせない』と夏目に約束して住家だった森へと帰っていった。それは未だに人を愛するが故の言葉だと、彼の記憶を見た夏目はすぐに分かった。分かってしまったのだ。

 

 そんな過去を持つリオウを、夏目は無視することなど出来なかった。

 

「ゴメン、ニャンコ先生。俺はリオウに会ってくる。あの山の森に行ってくる」

 

「この阿呆め!それがどれほど危険なことか分かっておるのか!」

 

 斑は何度も止めた。しかし、夏目は諦めない。夏目は他人とは一歩引いて接する性格だが、同時に情が厚く、人にも妖にも強く感情移入してしまうことがある一面も持っていた。優しい、優しすぎるくらい純粋な心を持っており、それが危うささえも感じさせてしまう少年だった。

 

「大妖に一呑みにされても知らんからな!お前が喰われれば友人帳は私の物だぞ!」

 

 斑がプイッとそっぽを向きながら言う。『友人帳』。それは夏目の祖母、夏目レイコが唯一遺した一冊の冊子だった。

 今は亡き夏目の祖母、レイコも妖を見ていたという。強力な妖力を持っていた彼女は多くの妖をイビリ負かして、自分の子分になった証として紙に名を書かせ集めた。持つ者に名を呼ばれれば決して逆らえない契約書の束、それが夏目レイコの『友人帳』。夏目は遺品としてそれを受け継いでいた。そして、亡くなったレイコの代わりに、彼女と同じくらいの妖力を持つ夏目が名前を奪われた無数の妖たちに名前を返しているところだった。

 しかし、この友人帳を欲する妖は多い。なにせ、これさえあれば名前が載っている妖たちを自由自在に使役できるからだ。その為、友人帳を欲して奪いにやってくる妖も多く、夏目はよく襲われる日々を送っていた。

 そして、それは夏目の用心棒をしている斑も同様だった。彼も、元は友人帳を奪おうとした妖の1人だったのである。だが、紆余曲折を経て夏目と斑は約束を交わした。『夏目が途中で命を落としたら、友人帳を譲る。それまでは斑が力を貸してやり見届ける』という約束を。

 故に、夏目がさっさと死ねば、斑にとってはありがたい話でもあるはずだ。しっかりと忠告もしているのだから約束にも反していない。しかし、彼の表情に嬉しさは無く、浮かんでいた感情は憤りだった。何故なら、この斑もまた情深き者の1人。彼はもう夏目に情が移ってしまっていたのだ。

 

「ああ、友人帳は置いて行くから、もしもの時は…よろしく頼むよ、ニャンコ先生」

 

「ぐぬぬ…レイコの傍若無人なワガママっぷりが、こういう変なところに遺伝しておる…!」

 

 斑の脅しにも意に介さず、むしろ夏目は彼に友人帳を託した。そして夏目は夕食を食べ終えると夜を待ち、藤原夫妻が寝静まったところを見計らうと外に出かけようとする。口先だけではなく、彼は本当に1人でリオウの元へ行こうとしていた。

 

「…はぁ、全く仕方あるまい。待て、夏目。私も一緒に行ってやる。念の為、友人帳は肌身離さず持っていろ。留守にしている間に、その大妖とやらに盗まれたら本末転倒だからな」

 

「先生…」

 

 そんな夏目の様子を見ては、流石の斑も最後は折れるしかなかった。彼は大きな溜息を吐きながら、預けられた友人帳を夏目に突き返す。だが、その呆れたような声色の裏には、夏目を心配する思いが確かに宿っていた。

 

「リオウとその一派を降したとすると、奴本人は大妖に警戒されて接触は難しいかもしれん。夏目、まずは紅峰(べにお)の奴を探すぞ。リオウの配下の中でも高等な妖であったアヤツならば、詳しい事情も知っていよう。リオウを探すのはそれからだ」

 

「ありがとう、ニャンコ先生!行こう!」

 

 やはり斑は頼もしい。闇雲にリオウを探そうとしていた夏目に、道を示してみせた。紅峰とは、右目に蝶の仮面を付けた人型の女妖だ。リオウの配下であり、斑の古い知り合い。そして、夏目とも顔見知りの妖だった。

 まずは彼女から探すべきだという斑の意見を夏目は受け入れて、2人は夜を駆けていくのであった。

 

*1
正確には、親と死別した夏目を引き取ってくれた遠縁の親戚、藤原夫妻の家である

*2
斑とは色違いの呪具である



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少女とミシャグジ様

「むぅ…。これはまた…凄まじい力だな」

 

「どうした先生?まさか祓い屋の結界か?」

 

 目的地の森に入ると、すぐに斑は眉を顰めながら辺りを見渡した。夏目も足を止め、周りを見るが特に変わりない夜の森だ。妖の天敵である祓い屋の結界でもあったのかと聞くと、斑は慎重に歩を進めながら答えた。

 

「いや、そうではない。恐らく、噂の大妖とやらはこの山のどこかに居るのだろう。そこから溢れ出た妖力だけで森の瘴気が祓われ、力で満ちている。悪意あるものではないからニブチンの夏目には気付きにくいのかもしれんが、妖にとっては好条件だから良く分かるのだ。私も今まで以上に力が湧いて、腹も満ちていくような感覚がある。いや、待て…これは妖力ではなく、まさか神格の――」

 

 斑の話を聞きながら歩いていると、不意に近くの茂みが音を立てた。そこから現われたのは見知らぬ妖が2人。夏目たちは隠れる暇もなく、彼らに見つかってしまった。

 

「ん?お主ら見ない顔だな…。何処から来なすった?」

 

「むむ!?おい、こやつ人間だぞ!」

 

「う、しまった!」

 

 慌てて腕で顔を隠そうとする夏目だが、それぐらいでは下級の妖といえども騙されない。人間だと、それも妖が見える人間だと分かるや否や、彼らはクワッと顔を豹変させた。

 

「むむ、しかも我らが見えておるのか!」

 

「人間のくせに生意気な!喰ろうてやろうか!…と言いたい所だが…」

 

 牙を剥いて夏目を脅していた妖たちだったが、顔を元に戻して口調も勢いがなくなった。これには夏目も、妖を追い払おうとしていた斑も首を傾げる。普通なら遠慮なく襲ってくるのが妖というものなのだ。

 彼らが不審に思っていると、妖たちがその理由を語ってくれた。

 

「この山は八坂様のお膝元。ここでの人食いは厳禁じゃ。運が良かったな人の子よ。そこの白豚も、ここで人を襲ってはならぬぞ。八坂様を怒らせたくはなかろう。人をちょっと脅かすくらいなら大目に見てもらえるがな」

 

「誰が白豚だ!どう見てもプリチーな猫ちゃんだろうが!全く、これだから下級の妖どもは…!」

 

「まぁまぁ、落ち着けよ先生」

 

 無礼な呼び名にプリプリと怒る斑を夏目は宥める。そうこうしていると、妖たちも歩き去ってしまった。

 

「さっきの妖たちは…あぁ、何処かに行ってしまったか。話が出来るなら紅峰さんの居場所を聞きたかったんだけど…。でも、彼らの言う『八坂様』が例の大妖なら、人を襲わないように下の妖たちに言いつけてあるんだな。安心したよ」

 

 彼らの言葉から察するに、八坂様と呼ばれる者がリオウたちを降して、この山を治めているのだろう。そして、人に危害を加えることは固く禁じられているらしい。

 夏目が一息ついて安堵して言うと、斑はそれに鼻を鳴らして答えた。どうも彼は新しい支配者を信用してないようだ。

 

「ふん、安心なものか。敷地内へ勝手に入った私にすら無条件に恩恵を与えているのだぞ。これ見よがしにそんなことをしていたら…」

 

『おおおオオオ!!!』

 

 斑の言葉途中で、突如として森の奥から禍々しい咆哮が轟いた。続いて悲鳴が聞こえる。咆哮の主に襲われている妖の悲鳴だった。

 

「ヒィィ!邪鬼が暴れておる!誰か助けてくれ!」

 

「しかも、デカいぞ!儂らにはどうしようも出来ん!誰ぞ早う八坂様にお伝えせよ!」

 

「ぎゃあ!た、助けてくれ!」

 

 ベキベキと木の枝をへし折る音と、助けを求める声が夜の森に響く。辺りは暗く、邪鬼がどこに居るか分からないが、聞こえてくる音や声が近づいて来ているのが分かる。暴れながらこちらの方へと向かっているに違いなかった。

 

「力を求めて、ああいった見境の無い輩も山に入ってくるってことだ。夏目、さっさとここから離れるぞ。おい、夏目?」

 

 騒ぎに背を向けてその場から移動しようとする斑だったが、肝心の夏目が動かない。斑の呼びかけに夏目は僅かに逡巡するも、彼はむしろ騒ぎの中心に走り出してしまった。襲われている妖を助ける為だった。

 

「夏目ッ!あのお人好しめ!」

 

 舌打ちしながらも斑がドロンと本来の姿へと身体を変えた。その姿は狐や狼にも似ているものの、体高*1は2メートルを優に越している。そして、白く輝く姿は威厳に溢れており、力強さを感じさせた。

 その姿で斑は夏目の後を追い、圧倒的なスピードで彼の横に並んだ。とはいえ、斑がいくら戻れと言っても夏目は妖たちを助けようとするだろう。それに加えて、暴れている黒い大きな塊、邪鬼はすぐ近くまで来ている。仕方無く夏目に代わって斑が邪鬼を追い払おうとした、その時であった。

 

「皆さん!ここは私に任せて、お下がりください!」

 

 そんな声が聞こえた瞬間、空から1人の少女が地に降り立った。特徴的な緑髪をたなびかせ、邪鬼と妖たちの間に割り込むと、手に持っていたお祓い棒*2を相手に向ける。

 その少女は間違い無く、夏目が学校で見たあの女子転入生だった。

 

「おお、早苗様じゃ!」

 

「皆の者!早苗様が来てくださったぞ!」

 

「早苗様!風祝(かぜはふり)様!」

 

 少女の登場に妖たちが歓声を上げた。彼らから余程信頼されているらしい。

 そんな彼女は青いスカートと、白地に青色の縁取りをした上着という一風変わった巫女装束を身に着けていた。特に、肩の部分は布地が取り外されていて、上着と袖が分離して脇が丸見えになっている謎の仕様である。

 それはともかく、荒れ狂う邪鬼の前に彼女は立っていた。夏目から見れば、それは自殺行為でしかない。

 

「あぶな―――」

 

 急いで逃げるよう彼女に声をかけようとしたところで、巨大な前足が夏目を近くの茂みへと引き摺り込んだ。斑の前足である。

 

(ニャンコ先生!何を!?)

 

(シッ…!)

 

 斑は夏目を黙らせ、彼自身も身を伏せて茂みの影に隠れた。既に邪鬼は緑髪の転入生に狙いを定めて突撃してきている。このままではあの女子が殺されてしまう。夏目がそう思った、次の瞬間であった。

 

「えい!」

 

(なッ!?)

 

 彼女は可愛らしい声と共に、お祓い棒を振り下ろす。たったそれだけ。棒が直撃した訳でもないのに、ただそれだけの動作で邪鬼は激しく地面に叩きつけられた。まるで見えない空気の塊に押し潰されているようだった。

 

「これでお話できますか?」

 

『おおオオ…!』

 

 緑髪の転入生は倒れ伏した邪鬼の顔を覗き込むながら語りかける。しかし、当の邪鬼は獣の様に唸りをあげながら彼女を睨んでいた。

 かつて、夏目も同じく邪鬼と呼ばれる妖に襲われたことがある。その邪鬼は大杉に封印されつつも、通りかかった人や妖に呪いを飛ばして喰らう凶悪な妖だった。知り合いのヒノエという妖の力を借りて夏目は何とか事なきを得たが、悪意と食欲に満ちており言葉を解せようとも意思疎通がとれる相手では無かったと今でも記憶していた。

 しかし、目の前の邪鬼はその時の奴よりも大きく、封印されている訳でも無い。もしも、夏目が1人で相手をすれば命に関わる事態になるだろう。そんな邪鬼を一方的に叩きのめした彼女は余程の実力者に違いなかった。

 

「待ってください。何とかして人を食べずにいられませんか?妖を食べずにいられませんか?妖であろうと邪鬼であろうと、私は出来る限り穏やかに日々を過ごしてもらいたいのです」

 

『おおおオオオ!!』

 

 緑髪の転入生は力尽くではなく、誠心誠意をもって邪鬼を説得しようとする。しかし、邪鬼の返答はやはり否であった。彼女を喰らわんと、口から様々な呪いを飛ばしながら吼える。大型の肉食獣を彷彿とさせる殺気と咆哮だった。

 だが、彼女はお祓い棒を素早く一振りすると、それだけで放たれた呪いを全て消し飛ばしてみせた。

 

「そうですか…残念です。ですが、仕方ありませんね…。お願いします、ミシャグジ様」

 

 彼女は哀しそうな表情で邪鬼を見る。それは憐れみの視線だ。その直後、夏目たちは視線の意味を知ることになった。

 彼女が何者かの名前を口に出した瞬間、地面から黒い塊が湧き出して来たのだ。それも1つや2つ程度の数ではない。数十のナニカが彼女の周囲に現われた。それらの見た目はいずれも大きな黒い蛇のようだ。表皮は濡れた岩のようにヌラついており、紅い瞳が怪しく光っていた。

 

「ひぃ!あ、あれがミシャグジ様!」

 

「な、なんとおぞまし…いや、なんと頼もしい…!」

 

 彼女に助けられた妖たちすらも怯え恐れてしまう程の存在。それが目の前の黒い大蛇たちだ。その恐ろしさは夏目にも十分に伝わった。とにかく酷く嫌な気配と殺気が漂っているのだ。全身が悪寒に襲われ、夏目はブルリと身体を震わせた。

 

(せ、先生…!)

 

(静かに…!今動けばこちらも襲われるやもしれん。奴等の隙を見て逃げるぞ…!)

 

 夏目が不安に駆られて小さく声を出すと、斑も緊張した面持ちで答えた。妖である斑は夏目以上に相手の気配に鋭い。故に、分かってしまうのだ。彼女が呼び出した大蛇たちがどれほど危険な者たちなのかを。

 斑は息を殺しながら夏目と共に茂みの影に潜む。万が一の際には、自らが囮になってでも彼を逃がすことも視野に含め、斑は四肢に力を込め続けていた。

 

 一方、斑たちの心中など知らない大蛇たちは、身体をくねらせながら宙を泳いでいた。その目はしっかりと邪鬼と緑髪の転入生を捉えている。邪鬼への視線は明らかに獲物として、そして彼女に対しては、忠犬のように飼い主の合図を待つ従順な視線であった。

 

「ミシャグジ様、どうぞ」

 

 彼女がそう言葉を発した瞬間、数十の大蛇たちが邪鬼に殺到した。大蛇たちは顎を大きく広げ、鋭い乱杭歯で次々に食らいつく。邪鬼も必死に抵抗しているようだが、何をしようとも無慈悲に喰われていくしかない。その光景は、正に殺戮の宴だった。

 

『おお!オオ!おおおオオオぉぉぉォォォ……―――』

 

「…ありがとうございました、ミシャグジ様」

 

 邪鬼の叫び声は次第に小さくなり、そして聞こえなくなった。邪鬼は滅されたのだ。それでもなお、大蛇たちは死体を喰らい続け、最終的には肉片も残さず腹に収めてしまった。

 その様子を見て、緑髪の転入生がペコリと頭を下げて彼らに礼を述べる。すると、大蛇たちは満足げに地面へと帰っていった。

 

「おお、助かった…!」

 

「良かった…!本当に良かった…!」

 

 助けられた妖たちは腰を抜かしながら胸を撫で下ろしていた。邪鬼に襲われずに済んで安心した…という訳ではなく、黒い大蛇たちに喰われずに済んだことに安心しているのだろう。斑すらも恐れる程の存在たちだ。下級の妖である彼らにとっては地獄のような一時だったに違いない。

 もちろん、それは夏目も同じ気分だった。先程まで溢れていた嫌な気配と殺気が消え、心の底からホッとして息をつく。しかし、それがいけなかった。

 

「あら?」

 

 夏目の気配に勘付いたのか、緑髪の転入生が振り返った。彼は慌てて息を潜めて茂みに隠れ直し、茂み越しに彼女の様子を窺う。

 だが、夏目はそんな自分の目が信じられなかった。彼女のすぐ隣に、小さな女の子が1人立っていたのだ。先程までは絶対に居なかった筈の少女。年の頃は10歳くらいだろうか。金髪のショートボブで、青と白を基調とした不思議な服を着ている。そして被っている帽子には、何故か2つの『目玉』が付いていた。

 疑問に思った夏目がその少女を凝視すると、彼女の周囲には金色と黒色のオーラのようなものが溢れ出していることに気付いた。こんな現象は普通では有り得ない。夏目が『この女の子は人間じゃない…!』と気付いた時――少女が夏目の方を見てニヤリと笑った。

 

「…ッ!?」

 

 その瞬間、夏目は身体を思いっきり引っ張られた。斑が夏目の胴を口に咥えて走り出したのである。速く、とにかく速く斑は走る。ジェットコースターもかくやというスピードで、彼は森を駆け抜けた。夏目が今まで見たことが無いほど、その時の斑の表情は必死だった。

 しかし、その勢いで振り回された夏目は堪ったものではない。もちろん、出来るだけ彼に負荷が掛からないように優しく咥えてくれているようだが、残念ながら貧弱体系(もやしっ子)の夏目にはそれでも辛かったのだ。

 そんな状況でも、彼らは森から数十秒足らずで家へと戻ってきた。出る際に開けっ放しにしておいた二階の窓から静かに夏目の部屋へ飛び込み、斑は咥えていた彼をペッと吐き出す。斑自身は変身した大きな姿のままで酷く息が荒れていた。

 

「ハァー!ハァー!」

 

「ゴホッ、ゴホッ!イテテ…。でも、ありがとう先生、助かったよ。上着はヨダレ塗れだけど…」

 

 口内の圧迫から解放された夏目が咳き込みながら身体の調子を確かめる。少し痛む部分もあったが、怪我と言えるようなものは無い。ただし、着ていた上着は斑のヨダレでドロドロだ。

 そんな軽口を言うと、いつもの斑なら『助けてやったというのに、その言い草はなんだ阿呆め!』と怒ってくるだろう。だが、今日の彼は違う。無言のまま荒い息を繰り返して、そこから動こうとしなかった。

 

「ハァ…!ハァ…!」

 

「ニャンコ先生?大丈夫か?」

 

 夏目が問いかけるが、やはり斑は動かない。依代(ねこ)の姿に戻ることもせず、目を見開き震えながら宙の一点を見据えていた。夏目も彼のそんな様子を見たこと無く、流石に心配になる。斑の毛並みを優しく撫でながら、夏目は立ち上がった。

 

「…水を持ってくるから、少し待っててくれ」

 

 上着を着替えた夏目は、寝ている藤原夫妻が起きないように家の中をゆっくり歩く。コップに水を注ぐと、部屋に戻って斑の前に置いた。しばらくした後、彼も変身を解いて普段のもっちりボディに戻る。そして小さな前足でコップを持つと、クピクピと水を飲んでようやく一息ついたようだった。

 

「ふぅ、助かったぞ夏目」

 

「いや…、ごめんよ先生。俺が首を突っ込んだばかりに」

 

「ふん、何を言うか。アレを放置する方が余程マズいことになっただろう。お前のお人好しも偶には役に立つと言ったところだな」

 

 結局、夏目たちはリオウにも紅峰にも会えず、いたずらに身を危険に晒しただけだった。そうなってしまったのは夏目の無茶が原因。彼がそれを謝ると、斑は首を横に振って答えた。

 あの者たちは妖の斑から見ても異常な存在だったのだ。そんな存在が近くの山に居ることを早い段階で気付けたのは、むしろ幸運だったかもしれないと斑は思っていた。

 

「それよりもだ。先ほどの緑髪の小娘が、以前お前が話していた学校の転入生という奴だな?」

 

「ああ、間違い無い…。あの凄く嫌な気配に、操っていた黒い蛇の様なバケモノたち…。やっぱりアイツは妖だったんだな」

 

 思い出すだけでゾクリと背筋が寒くなる。邪鬼ですら救おうと説得する彼女を見て、最初は心優しい人だと思った。しかし、それは間違いだったと夏目は思い直す。あのような邪悪なバケモノたちを操り、残酷に喰らわせる者が人間だとは思えなかったのだ。

 しかし、そんな夏目に対して、斑が出した見解は全く反対のものだった。

 

「違う」

 

「え…?」

 

 夏目が驚いて顔を向けると、斑と目が合った。彼も難しい顔をしている。しかし、嘘を吐いている表情ではなかった。

 

「夏目、アレは人だ。人と神が交じり合った様な、良く分からん匂いだったが、少なくともあの小娘から妖の気配は感じなかった」

 

「そんな…」

 

「そんなことよりも、問題はミシャグジだ!人間如きが使役するなど聞いたことも無いぞ!なんなのだ、あの小娘は!」

 

 ショックを受ける夏目を尻目に、斑は本題に入る。『ミシャグジ』。それがあの大蛇たちの正体なのだが、聞き覚えのない言葉に夏目は首を傾げた。

 

「そういえば…あの女子や妖たちも言っていたな、ミシャグジ様って。先生、ミシャグジって何だ?嫌な感じがしたから良くないものだとは思うけど…」

 

「すごく簡単に言ってしまえば…、祟り神の通称といったところだな」

 

「祟り神…?オババや不月神(ふづきがみ)みたいな神様か?」

 

 夏目たちがオババと呼ぶ妖が居る。正式な名は『アオクチナシ』という老婆の妖だったが、(やしろ)に祀られていた神格だった*3。自分のお願いを断れば祟る、と脅してくるほど強引な性格の持ち主だったが、実は心優しい神格であったことを夏目は覚えている。

 また、不月神は三隅という山で10年に一度行われる月分祭に現われる神格だった。不月神は豊月神(ほうづきがみ)という神格の対となる存在で、祭りで豊月神が勝てば三隅の山は今後10年が豊作に、不月神が勝てば今後10年は山が枯れるという勝負を行っていた。夏目はその祭りに巻き込まれ、何とか彼の働きによって豊月神が勝ったという形になったが、不月神が勝っていれば大変なことになっていただろう。

 

「あのオババは信仰が薄まり弱体化してしまっただけの神格だから違う。地枯らしの神である不月神の方は、正しく祟り神といえるだろうな。だが、あの小娘が使役していたミシャグジたちは格が段違いだった。一体一体がそれなりの神社に祀られていてもおかしくない神格だったぞ!」

 

 斑が怒りに任せて床をペシペシと叩いた。

 同じ神という括りの中でも“格”というのは存在する。上は天地を創造するような桁違いの神格から、下は弱い妖にも劣る神格まで、実に様々。この日本には、正に八百万(数え切れないほど)の神々が居るのだ。

 そして、彼女が操っていたミシャグジたちは間違いなく高位の神格であった。彼らを鎮めるのは道端の祠などでは到底不可能。それぞれキチンとした神社で手厚く祀らなければ祟りで殺されるレベルの神々たちなのである。だというのに、それらが1人の人間の言うことを聞いていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。それは絶対に有り得ないことなのだ。

 

「一体一体が…?ちょっと待ってくれ先生!あの沢山居た黒い蛇のような妖たち…。まさか、あの全てが…?」

 

「ああ、それぞれが別個体の祟り神たちだ。そして、最後あの小娘が振り向いた際に感じた神格は…それらすらも遙かに上回る気配だった。あれはヤバい。ヤバいぞ、夏目。小娘が使役していたミシャグジたちも当然恐ろしいが、それらを全て引っ括めても敵わぬほどの神格が小娘の隣に隠れていた…!」

 

 斑はそう語りながら無意識に毛を逆立てている。そんな彼を見て、夏目はゴクリと唾を呑み込みながら聞いていた。最後に見た小さな女の子。はっきり言って夏目は、あの少女がそんなに恐ろしいものには見えていなかった。得体の知れなさは有ったものの、恐ろしさという点では大蛇(ミシャグジ)たちの方が上だと感じていたのだ。

 だが、斑の様子からそれは違うと思い知らされた。そこで、夏目は気になることを斑に恐る恐る聞いた。

 

「…ソイツ、この家まで追ってこない…よな?」

 

「恐らくは問題無い。気付かれてはいたが、敵視はされていないはずだ。小娘の視線に合わせてコチラを見ただけだろう。貧弱なお前が失神もせずに無事でいるのが証拠だな。害そうと思われていたら、今頃お前は祟りで息を引き取っておる」

 

「先生、それ最悪の判別方法だぞ…」

 

 夏目の非難の声を聞きながら、斑は咄嗟に逃げたのは正解だったと心の中で思っていた。高位の神はプライドが高く、更に気まぐれな者が多いのである。あのまま覗き見していては不敬として殺されていた可能性があるし、こちらの姿を見せて投降しても、あの存在の気分次第でどうなるか分からない。

 故に、彼は逃走を選択した。あれほど強大な神格であれば、斑や夏目ですら羽虫の如き者でしかなく、興味なく見逃すのではないかと思ったからだ。今考えれば、夏目の家を特定されないように寄り道しながら帰るべきだったが、逃げている最中はそんな事を考えている余裕も無かった。

 それでも、今ここで自分たちが無事にいるということは、見逃されたという事なのだろうと斑は判断していた。

 

「でも、祟り神より凄い神格か…。もしかして、それが『八坂様』って神様なんじゃないか?分社を持つほどの神格なら力も強いって先生も言ってただろう?」

 

「いや、別の神だ。感じた気配が明らかに違った。しかし、だからこそ訳が分からんのだ!山に満ちていた気配からして、八坂様とやらは祟り神などではない純粋な神格、それも大神だろう。そして、緑髪の小娘からも確かにその気配を感じたから、奴は間違い無く八坂様と呼ばれる神格の巫女だ。だというのに、その巫女が多くのミシャグジを操り、あまつさえそれら以上のナニカを傍に置いているのだぞ。全く以て意味が分からんわ!」

 

「わ!?暴れるなよ、先生!下に響くだろ!」

 

 じたばたと手足(前足と後ろ足)を振るう斑を、夏目は慌てて抱きかかえた。一階では藤原夫妻が就寝中なのである。彼らに迷惑をかけられないし、心配にもさせたくない。親戚間をたらい回しにされて居場所の無かった夏目を引き取り、優しく気にかけてくれている人たちなのだ。夏目が妖の見えることや、友人帳や命を狙われていることは絶対に秘密だった。

 

「ともかく、あれはマズい。今は大人しくしているようだが、万が一あれほどの神格が本気で暴れ出したら…」

 

「この地で良くないことが起きてしまうかもしれないんだな…?」

 

 夏目は眉を顰めて問いかける。せめて、この家と藤原夫妻には厄介事が及ばないようにしなければならないのだ。しかし、斑の答えはそんな夏目の甘い考えを打ち壊すような言葉だった。

 

「その程度では済まん。この辺りは無論のこと、周囲数県に渡って未曾有の大災害が襲うだろうな」

 

「な…!?」

 

 力の有る妖でも小さな森くらいが精々。神格であっても山を一つ枯らす程度が過去に夏目が見てきた妖たちの限界だった。故に夏目にとって、その程度の被害が基準であり、今までの常識だったのだ。

 しかし、周囲数県ともなれば圧倒的にレベルが違う。ここにきて夏目はようやくその存在の危険性を真に理解した。

 

「放置する訳にはいかん。だが、刺激することも出来ん。今はとにかく情報を集めるしかないな。おい、夏目。あの小娘はどこの神社で巫女をしているとかは言っていなかったか?」

 

「言っていたような、言っていなかったような…」

 

「ええい、使えん奴め!そこが一番大事なところだろうが!」

 

「一週間も前のことだし、その時は髪の色に気を取られていたんだがら仕方無いだろ!」

 

 大きな声は出せない為、小さな声で言い争う夏目と斑。とはいえ、こんな状況で喧嘩していても意味が無いので、溜息を吐きながらもさっさと切り上げた。そもそもこれは本気の喧嘩ではなく、いつものじゃれ合いの延長線のようなものだ。

 

「はぁ、まぁいい。一応、名取の小僧にも伝えておけ。人間にどうこう出来るレベルでは無いが、手は多い方が良い。私の方でも知り合いの妖たちに話を聞いておこう」

 

「名取さんを巻き込むのは申し訳ないな。でも、名取さんなら何か知っているかもしれないし…。分かったよ、先生。明日の朝一番で連絡する」

 

 彼らの言う名取とは、夏目の年上の友人であり、夏目と同じように妖を見ることが出来る人物、名取(なとり)周一(しゅういち)のことだった。彼は人気イケメン俳優という表の顔を持っているが、裏では祓い屋稼業も営んでいる。夏目は名取を信頼しており、彼自身も確かな実力を持つ有能な祓い人だった。

 

「それに、田沼やタキたちにも注意するように言っておかないと。特にタキはあの女子と同じクラスだからな。心配だ…」

 

 夏目は寝る為の布団を敷きながら、友人たちを心配していた。タキという人物は夏目の友人の女子生徒で、本名は多軌(たき)(とおる)という。そして、彼女も田沼と同じく夏目が妖を見ることを知っている人間の1人だった。

 一週間前にクラスを覗いた時には見かけなかったが、タキも緑髪の転入生と同じ5組の生徒なのである。

 

「何事も起こらないことを祈るしかあるまい。それこそ神にでも、な」

 

「ああ、そうだな…」

 

 斑が呟くと、夏目も就寝の準備をしながら頷いて同意する。大きな不安を抱きつつも、夜は静かに更けていくのであった。

 

*1
四足動物の場合なら、地面から背までの高さを体高という

*2
正式名称は御幣(ごへい)という

*3
妖であっても信仰を受ければ神格となる




 謎の少女の金色オーラは夏目友人帳世界の神様オーラで、黒色は非想天則の立ち絵の暗黒オーラ。クロスオーバーなので混ざったイメージのオーラです。一体、この神格は何者なんだ…。



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東風谷早苗と洩矢諏訪子

早苗視点でのお話です。


 守矢(もりや)神社。

 長野県は諏訪地域に古くから鎮座し、日本最古の神社の一つにも数えられる由緒正しき神社である。かつては軍神を祀る神社として多くの人間から信仰され、戦国大名や有名武将たちも戦勝祈願に訪れるほど日本有数の神社であった。

 しかし、時の流れとは残酷なもので、時代が進むにつれ守矢神社を信仰する人々は減っていくことになる。科学と情報通信技術の発展によって、今まで神々の仕業だと思われていた自然現象や災害などが科学的かつ物理的に解明され、それらを人々が知ってしまうようになったからだ。

 無論、それは守矢神社に限ったことではなく、ほとんどの神社仏閣にも当てはまる。時代の流れ故に仕方無い…と思う者も多いかもしれないが、それで困ってしまったのが他ならぬ神々であった。神の力の源は人々の信仰。信仰が途絶えることは、神格にとっての死を意味していたのである。

 

 そんな現代で、東風谷(こちや)早苗(さなえ)は神々への信仰減少を憂う1人の少女だった。

 守矢神社の跡取り娘として生を受け、産まれながらにして凄まじい霊力と妖力を持っていた早苗は、物心ついた頃から守矢神社の神々の姿が見えていた。両親はそういうものが見えない人たちだったが、伝統ある神社の家であったことから理解は有ったという。

 しかし、そんな両親も早苗が幼い頃に事故で亡くなってしまった。ナニカに呪われた訳ではないし、祟られた訳でもない。ただ不運な事故で死んでしまったのだ。もちろん、神々も彼らを助けてやりたがったが、運命というのは非常に不確かなもので、どんな高位の神々でも操ることは不可能なのである。*1

 

 1人残されてしまった幼い早苗を不憫に思った守矢神社の神々は、親の代わりとなって彼女を育てることにした。母のように優しく、時には父のように厳しく*2早苗を育て上げ、深く愛したのである。

 故に、早苗にとっても守矢の神々である八坂(やさか)神奈子(かなこ)洩矢(もりや)諏訪子(すわこ)の二柱は、崇拝する神格でありながらも家族同然だった。彼女らの為ならば、どんなことでもやり遂げてみせるという気概を早苗は持っていたのである。

 

 

 

 

『――早苗』

 

 ある日の夜。早苗が就寝の準備を進めていると、守矢の主神である八坂神奈子の威厳に満ちた声が、静かに早苗の脳内に響いた。一般的には天啓や神託、天のお告げとも呼ばれる神聖なメッセージなのだが、守矢家の面々にとってはただの便利な連絡ツールでしかない。電話と同等の扱いだった。

 

「神奈子様。どうなさいましたか?」

 

『また山に邪鬼が入ってきた。祓ってきなさい』

 

 姿勢を正して話を聞く早苗に、神奈子はそう命じた。

 “また”というのは、この山は邪鬼やら悪霊やらがよく入ってくるからだ。守矢神社がこの山に引っ越して来てから、もう何体目だろうか。この地は彼女たちが思っていた以上に騒がしかった。

 

「分かりました。すぐに行きます!」

 

 早苗はお祓い棒を手に取り、すぐに準備を整えた。神社に居る際、彼女は基本的に巫女服を着ている。青と白が主体の色調と、肩と脇が露出した巫女装束は正しく守矢の象徴。古くからの伝統なので恥ずかしくないのである。

 また、早苗はカエルと蛇の髪飾りを身に着けていた。バッジのようなカエルのヘアブローチと、横髪の一房を纏める蛇の髪留めは、いずれも守矢の神々を象徴している。流石に寝ている時や学校に行っている間は外しているが、それ以外では常に身に着けているほどの愛用品だ。

 

「あ、早苗。待って待って」

 

 出発しようとしていた早苗の横から、ひょっこりと顔を覗かせたのは幼い少女だった。姿形は10歳くらいで、髪はショートボブの金髪。目玉のついた変わった帽子*3を被っている。そんな見た目も口調も年相応といった感じの女の子だった。

 しかし、その正体は守矢神社の片割れの神格、洩矢諏訪子である。幼い格好をしているが、日本神話の時代から齢を重ねている神格だ。神々の中でも、諏訪子よりも年上の存在はそう多くはないだろう、というレベルの大神格であった。

 

「暇だから私も一緒に行くよ。妖どもに見られないように姿は消して行くけどね~」

 

「はい、諏訪子様」

 

 この山に引っ越してきて以降、諏訪子は早苗が出かける際に同行することがよくあった。ただし問題は、諏訪子が強大過ぎる神格であることだろう。恐らく、下級の妖たちが彼女の正体を知れば、恐怖に怯えるどころか大パニックを起こすに違いない。かつての彼女はそれほど恐れられた存在だったのだ。

 それ故に、諏訪子は姿を隠して早苗を見守ることにしている。見た目は年下の幼い少女なのに、やっていることは心配性な母親そのものだった。

 

「それでは行きましょうか!」

 

 玄関から外に出た早苗は、全身の霊力を高めていく。すると、彼女の身体が宙に浮き始めた。まるで、緩やかな風が彼女を持ち上げているようにも見える。これぞ『守矢の奇跡』。神々に愛された早苗はこの力を自在に使うことが出来るのである。

 早苗は奇跡を操り、夜の空を飛んだ。山を上空から眺めると邪鬼の悪意はすぐに察知出来る。早苗は一直線にその場所へと向かった。

 

「あそこです!ああ、なんてことでしょう!うちの妖さんたちが虐められてます!」

 

 守矢神社はこの地に引っ越して来たその日に、神奈子の圧倒的な神力で山を掌握している。故に、守矢神社に降参した山の妖たちは、守矢所属の妖とも言っていい。つまり、早苗にとっても彼らは庇護対象だった。

 

「皆さん!ここは私に任せて、お下がりください!」

 

 彼らを助けるべく、早苗は邪鬼の目の前に降り立つ。着地した際に木の葉が多く舞ったが、彼女がお祓い棒を邪鬼に向けた瞬間、パシッという音と共に周囲の木の葉は弾け、視界が開いた。早苗の発した霊気が空間を叩いたのである。

 そんな彼女の登場に、襲われていた妖たちは沸き立った。

 

「おお、早苗様じゃ!」

 

「皆の者!早苗様が来てくださったぞ!」

 

「早苗様!風祝(かぜはふり)様!」

 

 妖の1人が彼女の役職名を呼んだ。『風祝』とは、風を鎮めるために神格を祭る行事を司る神職のことである。故に、風祝の役職に就いている早苗は、正確に言うと巫女ではない。

 だが、守矢神社に仕える人間は彼女1人しか居ないので、全ての神社仕事は早苗がやるしかなかった。結局のところ、彼女は守矢神社の宮司であり、巫女であり、そして風祝なのである。

 そして、もちろん。その実力は本物だった。

 

「えい!」

 

 早苗は邪鬼に向かって、お祓い棒を振り下ろす。すると邪鬼は地面に叩きつけられて、その動きを止めた。これは早苗が操る風の力だ。風を用いて相手を吹き飛ばしたり拘束したりするこの技を、早苗は『風起こし』と名付けていた。

 

「これでお話できますか?」

 

『早苗、これで何度目だと思ってるのさ。この類いの邪鬼には話なんて通じないよ。多少の言葉を発しようとも、頭に有るのは食欲と悪意だけ。人間も妖も等しく己の獲物にしか見えていないんだから』

 

 早苗の言葉に、姿を隠して付き添っていた諏訪子が呆れたように答えた。諏訪子は姿を隠しているが、彼女と繋がりの深い早苗にはハッキリ見えるし聞こえるのだ。

 また、上級妖怪レベルの妖力が有る者なら、目を凝らせば諏訪子の存在に気付くだろう。更に、妖力が高ければ高いほど、彼女の姿は見えやすくなる。

 つまり、これで早苗が勝てないほどの大妖怪が襲って来ても、すぐに諏訪子の存在に気付いて逃げ出すだろうし、逃げ出さないほどの猛者であれば久方ぶりの戦闘を楽しめるという訳だ。

 その為、諏訪子はあえてその程度の隠れ具合に留めていた。

 

『アンタがやらないのなら、私が消し飛ばしちゃうよ~』

 

「待ってください!何とかして人間を食べずにいられませんか?妖を食べずにいられませんか?妖であろうと邪鬼であろうと、私は出来る限り穏やかに日々を過ごしてもらいたいのです」

 

『無理だって。鳥に飛ぶな、魚に泳ぐなって諭すようなものなんだから。追っ払っても封印しても問題を先送りにするだけだし、さっさと祓ってやりなよ。邪鬼になってしまったコイツにとっても、それが救いさ』

 

 早苗は邪鬼や悪霊と戦う度に、彼らを助ける手段は無いか探している。それは恐らく、神々という人ならざる者たちを家族としているが故の情だろう。早苗は強いのだが、性格が優しすぎたのだ。

 因みに、そんな彼女を窘める諏訪子としては、妖退治なんて楽しんでやるくらいが丁度良いと思っていた。怯える妖どもを笑いながら祓い飛ばし、己の武勇を誇る。守矢神社の風祝ならば、そのくらいはやって欲しかった。

 しかし、未熟な部分があっても、早苗は可愛い可愛い祝子(はふりこ)。諏訪子は彼女の願いを最大限聞き届けるつもりでいた。

 

『そうだねぇ、それならミシャグジたちに喰わせてやればいいんじゃない?最期を神々の供物として迎えたのなら、普通に祓うよりも少しだけ、ほんのちょびっとだけ地獄での扱いもマシになるでしょ』

 

「そうですか…残念です。ですが、仕方ありませんね…。お願いします、ミシャグジ様」

 

『出て来な、お前たち』

 

 ミシャグジと呼ばれる神々が居る。祟り神の類いであり、そうそう他人の命令を聞く神格ではないのだが、諏訪子はそんな彼らのボスだった。即ち、彼女が『早苗を手伝え』と命じれば、ミシャグジたちは率先して動くのである。

 早苗は邪鬼が放つ呪いを軽く捌きながら、ミシャグジを願った。苦渋の決断である。同時に、これで邪鬼が少しでも救われるのであれば…、という慈悲の決断でもあった。

 

「ひぃ!あ、あれがミシャグジ様!?」

 

「な、なんとおぞまし…いや、なんと頼もしい…!」

 

 濡れた岩のような表皮の黒い大蛇が数十も現われると、早苗に助けられた妖たちはガタガタと震えて怯えた。そもそも高位のミシャグジは、単体でも一地域を治める程度の力を持っているのだ。これほどの数のミシャグジを前に、下級の妖が恐れないはずがなかった。

 

「ミシャグジ様、どうぞ」

 

『ほら、食べちゃって良いよ』

 

 ミシャグジたちは早苗の合図を、正確には彼女の隣に居る諏訪子の合図を待つ。そして、彼女の許可が出た瞬間、宙を泳いでいたミシャグジたちは一斉に邪鬼へと襲いかかった。

 肉を喰らい、骨を砕く音が早苗にも聞こえる。苦痛の悲鳴は、この世の理不尽を呪う声だ。しかし、早苗は決して目を背けたりしなかった。諏訪子が命令したといっても、それを頼んだのは早苗自身。彼女には見届ける義務があったのだ。

 

『おお!オオ!おおおオオオぉぉぉォォォ……―――』

 

「…ありがとうございました、ミシャグジ様」

 

 最後まで見届けて早苗はミシャグジたちに、そして供物となった邪鬼に対して、深々と頭を下げる。そして、小さく息をつくと、気持ちを切り替えた。早苗にとって妖祓いは日常茶飯事だ。思う所はあったが、このくらいで弱音など吐いていられないのである。

 それよりも襲われていた妖たちは無事だろうかと早苗が目をやると、大きな怪我を負った者は居ないものの、彼らは一様に腰を抜かして震えていた。『可哀想に。よほど邪鬼が怖かったのですね…』と早苗が彼らに同情していると、近くの茂みの中からも安堵の息が聞こえた。

 

「あら?」

 

『へぇ…』

 

 早苗が振り返ってそちらを見ると、確かに茂みの中に妖の気配がある。怪我でもして、そこから動けない妖が居るのではないかと心配した早苗が、茂みへと足を向けようとした瞬間、白く大きな獣が茂みから急に飛び出し、走り去ってしまった。

 

「今、白くて大きなわんちゃんが居ましたね。モフりたかったです!」

 

『確かに面白そうなのが居たねぇ。たぶん、すぐにまた会えるよ。そんな気がする』

 

 飛び出して行ったのが獣型の妖だと気付いた早苗が目をキラキラさせながら言うと、諏訪子が薄く笑みを浮かべながら同意した。

 早苗は気付かなかったようだが、諏訪子はもう一つの気配にも気付いていたのである。上級の妖と人間の少年という変わったコンビ。騒がしいだけの地かと思っていたが、中々どうして。少しは面白くなりそうじゃないか、と彼女は口角を上げていた。

 

『そんなことより、ほら。妖どもがアンタを待ってるよ。行ってやりな』

 

「あ、そうでした。皆さん、大丈夫でしたか?」

 

 諏訪子が顎をしゃくって妖たちを指し示すと、早苗はニッコリと笑いながら彼らに近づいた。すると、彼らはビクリと肩を震わせながら地に伏せる。頭を地面に擦りつけるほど綺麗な土下座だった。

 妖が人間に対してするには仰々しいほどの平身低頭なのだが、彼らの視点では早苗がミシャグジを操っているようにも見えただろうから仕方無いだろう。無礼を働けば自分も喰われるかもしれないのだ。

 しかし、彼らの腰の低さはそれだけが原因ではなく、早苗自身にもその理由があった。

 

「あ、ありがとうございます、早苗様!」

 

「か、感謝いたします。流石は守矢神社の『現人神』様じゃ…!」

 

「いやぁ、そんなに褒められると照れますね!えへへ」

 

 現人神(あらひとがみ)。人間のまま神格へと至った者への呼び名である。

 そもそも、早苗は守矢神社の風祝として良く神事を執り行ってきた。そして、神事の一部には神官が神々の代わりとなって振る舞うモノも多く有る。つまり、早苗は人々の前で雨乞いなどの奇跡を披露することが多々あったのである。

 その結果、人々の信仰が神々だけでなく早苗にも向けられ、彼女は人間でありながら神になってしまった。言うなれば彼女は『祀られる風の人間』。それが東風谷早苗という少女だった。

 

(まぁ、早苗が現人神に成ったからといって、それで何かが変わった訳でも無いんだけどねぇ…。普通の人間だった時も、私たちが神力を貸し与えていたから自由に守矢の奇跡を使えたし。それに、たとえ信仰が無くなっても元の人間に戻るだけだし)

 

 そんな早苗の後ろ姿を見ながら、諏訪子は近くの岩に腰掛けて独りごちる。

 確かに早苗は信仰を受けているのだが、正直言って人間だった頃と大きな変化は無い。人間嫌いの妖などから嫌われなくなったり、多少尊敬されるようになったりしたが、そのくらいだ。

 それに、早苗を神と思い込んで信仰している人々は、ほぼ全てが高齢者だった。このまま十年か二十年もすれば彼らは死に絶え、早苗は神格としての力を失うだろう。

 だが、そのあたりは別にどうでも良かった。早苗の場合、元の人間に戻るだけ。神力は消えるが、霊力や妖力は変わらず彼女の身体に残るのである。

 

(でも、私たちはそうはいかない。私たちのような純粋な神格は信仰が少なくなれば力を失っていき、最後は消える。まったく自分たちのことながら、神格ってのは難儀な存在だよ)

 

 一方で、純粋な神格である諏訪子と神奈子は、信仰を失えば消える。現時点ですら全盛期とは程遠い力しか持っていないのだから、恐らく彼女らはこれから数十年をかけてジワジワと力を失っていき、最終的には姿をも失うだろう。

 それが現代に生きる神々の運命だった。

 

(人も神も盛者必衰は世の常。それは私たちも分かってる。だから、私たちはある程度の弱さになってしまったら残り全ての力を振り絞り、早苗に守護の(まじな)いを掛けた後に消え去る予定だったんだけどなぁ)

 

 諏訪子も神奈子も早苗が生きている間くらいは一緒に居てやりたかったが、矮小な存在になってまで現世に留まるつもりは無かった。それは大神格だった者としてのプライドだ。情けない末期を迎えるより、早苗に守護の力を遺して消え去るつもりだったのだ。

 

(まさか、早苗にアレだけ泣かれるとはねぇ)

 

 しかし、それに納得できなかったのが他でもない、早苗だった。神々から話を聞いた彼女は泣いた、大号泣だった。早苗はそれだけ彼女たちを深く愛していたのだ。

 それからというもの、早苗は新たな信仰者を増やす為に必死で頑張った。しかし、当時の彼女はまだ中学生。孫の様に可愛がってくれる近所の高齢者以外からは信仰を獲得することは出来なかった。早苗も色々な作戦を考えたが、どれもダメだったのだ。

 たとえ、どんなに凄い奇跡を人前で見せても、若い人たちは『トリックだ』『目の錯覚だ』『手品で高齢者を騙すな』などという散々な反応しか返してくれなかったのである。

 

 信仰が得られないことに酷く落ち込む早苗を、神々は慰めた。『そういう時代なのだから仕方無い。むしろ、早苗には我々や守矢神社に囚われず自由に生きて欲しい』と。

 だが、早苗は諦めずに奔走し続けた。

 

(そんな時か、突然アイツが現われたのは。あ~、クソ。今思えばアイツ絶対に早苗や私たちが憔悴するの待ってたでしょ。滅茶苦茶タイミング良かったし!)

 

 諏訪子は当時を思い返して、苛立ちを露わにした。

 ある日、信仰獲得に明け暮れるもやはり結果は奮わず、いつも以上に落ち込んでいた早苗を諏訪子と神奈子が慰めていた時のことだった。彼女らの目の前の空間に突如として裂け目が現われ、そこから八雲(やくも)(ゆかり)と名乗る大妖怪の女が顔を覗かせた。そして彼女は自分が管理する秘境、『幻想郷』への移住を守矢の面々に提案してきたのだ。

 幻想郷とは、結界で隔離された山奥の里だ。住人は妖や神が多く、人間は人外たちと比べると数は少ないものの、人里が作れる程度の人数は居る。しかし、こちらの世界とは逆に人間的な科学は存在せず、妖術や魔法、神通力などの人外の力が占めているという驚きの秘境だった。

 

 無論、諏訪子も神奈子も最初は怪しんだ。そもそも、自分たちと同格以上の力を持った大妖怪による突然のお宅訪問だ。警戒しない訳がない。彼女の突拍子もない話を聞いて興奮しているのは早苗くらいだった。酷く憔悴した心を溶かすような甘い話…。早苗が惹かれたのも無理はないだろう。

 一方で、八雲紫は強く警戒する神々に対して証拠を見せた。つまり、彼女たちを実際に幻想郷へ連れて行き、里の様子を見せたのである。

 

(胡散臭い女だったけど、アイツの話は全部事実だった。人間と人外が共存して暮らす理想の世界、幻想郷。そこでなら信仰が途絶えることは無いし、早苗も頑張っていける。私たちも早苗と一緒に暮らすことが出来る…!)

 

 お試し観光した結果、諏訪子も神奈子も納得せざるを得なかった。幻想郷は確かに存在する。そして、幻想郷でなら守矢神社は存続出来るのだ。

 二柱は悩んだ結果…幻想郷への移住を決意した。そこからはトントン拍子で話は進んでいく。移住先の土地を決め、大まかな移住日を決め、その日に向けて準備を進めてきた。彼女らは守矢神社を丸ごと持っていくつもりだったので、転移の準備も年単位でかかったのだ。

 そして、その準備も最終段階へ入っていた。守矢神社がこの田舎町に引っ越して来たのは、幻想郷へ行く前のテスト転移だったのである。

 

(練習で適当な田舎に転移してみて正解だったなー。大規模な転移術って凄く難しいから、術式を何度チェックしても絶対何処かに見落とし有るし。とりあえずミスってた術式を直すのに1ヶ月以上はかかりそうだから、早苗には最後の思い出作りの為にも近くの高校に行かせてるけど)

 

 転移術に致命的な失敗は無かったものの細かなミスは多々有ったので、それらの修正に少々時間がかかるだろう。そして全ての準備が整えば、今度こそ幻想郷へと移住することになる。

 

(でも、幻想郷に行く前にミシャグジたちが別れの挨拶に来るとは思わなかったなぁ。わざわざ諏訪の地から離れて、こんな田舎にまで会いに来るなんて律儀というか何というか…)

 

 諏訪子は地面の中に控えているミシャグジたちの気配を感じ取りながら思う。

 かつて諏訪子は彼らの王だった。しかしその後、彼女は引退して表舞台から退くと、部下だったミシャグジたちとは疎遠になったのだ。

 その為、とっくの昔に愛想を尽かされたかと思っていた諏訪子だったが、思っている以上に自分が慕われていたことに彼女は驚いた。

 そして、ミシャグジたちは諏訪子たちが幻想郷へと旅立つその日まで、傍で控えるとのことだった。見送りが済めば、ミシャグジたちはそれぞれ諏訪の地に帰ったり、幻想郷ではない他の秘境に向かったりするだろう*4

 故に、ミシャグジたちにとってこれが諏訪子へ捧げる最後の奉公だった。

 

(私なんかさっさと見切りをつけてしまえば良かったのに、まったくコイツらは…。私には勿体ないくらいの部下だね、本当)

 

「――こ様?諏訪子様?どうかなさいましたか?」

 

『ん?』

 

 声をかけられた諏訪子が思考を戻すと、いつの間にか早苗が目の前に立っていた。彼女が助けた妖たちも立ち去っているようだ。

 諏訪子は随分と考え込んでいたらしい。そんな彼女は何事も無かったかのように腰掛けていた岩から立ち上がり、グッと背伸びをしながら早苗に応じた。

 

『ああ、何でもないよ。ちょっと考え事してただけ』

 

「そうですか。私は少し山をパトロールしてから神社に戻りますけど、諏訪子様はどうしますか?」

 

『夜の散歩ってワケね。良いじゃん、私も付き合うよ』

 

「えへへ。じゃあ、行きましょう!」

 

 そう言って諏訪子と早苗は手を繋ぐ。そして彼女たちは、母と子のような親しさで歩んで行くのであった。

 

*1
運命を操る吸血鬼が何処かに居るらしい、という噂はあるが実に眉唾ものだ

*2
と、いっても甘々であったことは言うまでもない

*3
早苗は『ケロちゃん帽子』と呼んでいる

*4
幻想郷は信仰獲得には適しているものの、同時に騒がしいので余生を静かに過ごしたいタイプの神格には好まれない。それに昔の上司と同じ地で隠居するのは流石に嫌だろうな、と思って諏訪子は無理に彼らを誘わなかった




 守矢神社は幻想郷に行く前のテスト転移で、ここに引っ越して来た。という感じです。
 元居た場所では『急に神社が消えた!?』とか騒がれそうですが、夏目世界特有の神様洗脳で誤魔化しているのでセーフです。逆に、騒がせてたままにしてた方が恐怖で信仰増えるかもしれませんが。

 そしてミシャグジ様たちは諏訪子様へ別れの挨拶に来ています。お見送りするまで居る予定ですが、一緒に幻想郷までついて来る者もいるかもしれません。
 諏訪子様もたまにミシャグジ様たちの頭をヨシヨシと撫でていることでしょう。


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人を愛した妖

『ここも随分変わったなぁ』

 

「諏訪子様は以前にもこの地へ来たことがあるんですか?」

 

『うん、何千年か前に一度だけね』

 

 手を繋いで歩くのも早々に飽きた諏訪子は、山道をピョンピョンと軽やかに進んでいく。早苗もそんな彼女の後ろを元気に歩いていた。

 話の内容は、この地域についてだ。彼女たちが引っ越して来た理由は幻想郷へのテスト転移だったが、この場所を選んだのは偶然ではない。昔はここに守矢の分社が有ったからだ。

 

『神奈子からも聞いたと思うけど、昔は守矢神社の分社や傘下の神社は沢山あったんだよ。諏訪地域だけじゃなく日本全国にね。この山にも分社を置いて、部下の神格を在籍させてた。とっくの昔に管理する人間も神格も居なくなったから、今はもう跡形も無くなっちゃったけどさ』

 

「諏訪子様…」

 

 なんてことは無さそうに話す諏訪子だったが、早苗はそんな彼女を労るように名を呼んだ。

 遠く離れた地にも建てられた無数の分社。それこそ守矢の栄華だった。しかし、今ではもう何も残っていないこの場所は、没落の象徴でもあったのだ。

 そんな場所を転移の練習へと選んだ理由は、守矢に関係する地でありながら何も残っておらず、転移に丁度良かったからである。なんとも皮肉な話だった。

 だが、諏訪子は湿っぽい空気を振り払うかのようにパタパタと手を振ると、何事も無かったかのように振る舞いながら話を続けた。

 

『そんなこんなで久しぶりに訪れたこの地なんだけどさ。力を持った妖どもが各地で好き勝手やってるわ、半端に封印された奴も沢山居るわ、おまけに妖の害から人を守る為に祓い屋たちも活発に活動してるわで、全然統率出来てないみたいなんだよねぇ…』

 

「確かに、この辺りの妖たちはアグレッシブですよね。元居た諏訪の地でも人を襲う妖は多少いましたが、この地域ほどではないですよ」

 

『そりゃあ、うちは神奈子がしっかり統治してたもん。守矢の縄張りで人を襲うような馬鹿も、ほとんどが外から入ってきた妖だったしね。ただ、諏訪以外と比べても、ここは騒がしいよ。やっぱり周囲を纏められるような強い奴が居ないせいかな?』

 

 諏訪子は首を傾げながらそう言った。確かにこの地は森一つ、山一つを縄張りにする妖や神格はいるものの、地域全体を支配している者が居ない。この騒がしさはそれが原因だろうと諏訪子は思っていた。

 その話を聞いて、早苗はポンと手を打つ。

 

「なるほど!では、そこで我らの出番という訳ですか!守矢神社の力でこの辺りを支配すれば皆が幸福になります!」

 

『いや、幻想郷に行く予定の私たちがここを統治してどうするのさ。いくら私たちでも、向こう行ったらここの面倒なんて見きれないでしょうが』

 

「あ、そうでした…。あはは」

 

 諏訪子が呆れた声で諭すと、早苗は照れくさそうに笑ってお茶を濁した。そんな彼女を尻目に、諏訪子は話を進めていく。

 

『まぁ、そうは言っても何とかしておきたいのは確かだよ。昔とはいえ、ここに分社を置いていた神格として責任感じている訳だし』

 

「流石は諏訪子様!下々の事まで案ずるとは、なんと慈悲深い…!」

 

(責任感じているのは神奈子だけで、私はこの地がどうなろうと別に構わないんだけど…。まぁいいや、黙っとこ)

 

 目をキラキラさせて感動している早苗に、諏訪子は『私は超やさしいからねー』と棒読みで答える。早苗は基本的に真面目な良い子ちゃんなので、誤魔化すのは簡単なのだ。

 

『ある程度こっちで治めてから、力ある大妖か神格にでも譲渡して安定させる。とりあえずの目標はそのくらいかな。時間はあまり無いけど、この辺の強い奴を適当に探しておくか~』

 

「ミシャグジ様では駄目なのですか?十分お強いですよね」

 

『流石に地元の連中から選んだ方が心証良いでしょ。昔は分社を置いていたとはいえ、今の私たちなんてほとんど部外者みたいなモンだし』

 

 無関心な諏訪子といえども、一応そのくらいの譲歩はするつもりだった。無論、そうは言っても面倒臭くなってきたら、ミシャグジでも何でも良いので代理を立ててしまうつもりではある。

 時間も無駄遣い出来るほど多くは残されていないので、神奈子も仕方無いなと納得するだろう。彼女たちにとっては、この地の問題などその程度の事でしかなかったのだ。

 

『だから、“関係無い奴が今更この地域のことに口出してんじゃねーよ!”って言われたら、私たち何も言い返せないね。完全な事実だし。アハハ』

 

「そんなことはありません!そのような愚かなことを言う者たちでも神奈子様や諏訪子様の御力を知れば、すぐにでも恭順する筈です!なにせ、守矢は最強で無敵なのですから!」

 

 諏訪子がケラケラ笑いながら言うと、早苗は頬を膨らませながら守矢の神々を讃えた。彼女にとって、諏訪子と神奈子は絶対の存在だ。如何に彼女らが部外者と言われようとも、地元の妖たちは二神に従うべきだと早苗は思っていた。そして、それは弱肉強食の妖の世界においても道理であるのだ。

 実際、こうやって軽く笑っている諏訪子も、反抗する生意気な妖がいれば死ぬ寸前まで殴りつけた後に『まだ反論ある?』と問い質すだろう*1。そこらの妖ごときに守矢神社が舐められる訳にはいかないのである。

 

『私たちを褒めてくれるのは嬉しいけど、はしゃいでいるとコケるよ、早苗』

 

「大丈夫ですよ!山の神の祝子である私が山道で転ぶはずがありませんから!」

 

 守矢を賞賛している内にテンションが上がってきたらしく、早苗は山道を歩きながら腕を大きく振り回していた。

 守矢の主神たる八坂神奈子は軍神であると同時に、山を司る神でもある。その祝子でもある自分が夜の山道程度で…と早苗が思っていた時、足元が泥でズルッと滑った。

 

「きゃあ!?」

 

『ああ、もう。言わんこっちゃない』

 

 諏訪子が助けようと思えば、いくらでも助けてやれる。だが、彼女はあえて手を出さなかった。早苗を助けようとしてくれている者が近くに居たからだ。

 

「あ、あれ?」

 

「風祝殿、お怪我はありませぬか?」

 

 地面に倒れる前に、早苗は何かにボフンと包まれた。そして、その上から涼しげな男性の声をかけられる。声の主の名はリオウ。人型の妖であり、守矢神社が転移してくる前はこの山の森を治めていた上級の妖であった。

 天使のように白く美しい翼を持つ彼は、それをもって早苗を救っていた。

 

「リオウさん!ありがとうございます!フカフカの翼のおかげで無傷です!」

 

「それは良かった。洩矢神(もりやしん)様もご機嫌麗しく存じます」

 

 リオウは早苗を背中の翼で背負いつつ、諏訪子に対しては片膝をついて丁寧に(かしず)いた。

 彼は山に転移してきた存在が守矢だと気付いた時、すぐに神社まで赴いて降伏を申し出ている。その際、リオウは諏訪子とも面会していたため、両者とも面識があった。

 

『やっほ、リオウ。早苗を助けてくれてありがとね。でも、やっぱりリオウくらいの妖になると、隠れてた私の姿も見えちゃうか~』

 

「ふふふ。実は、風祝殿が一人で誰かと会話しているように見えましたので目と耳を凝らしておりました。私程度の妖力では、それでようやく分かるくらいですよ。それに、洩矢神様が本気で姿を隠しておれば、私程度では看破など出来ぬでしょう?」

 

『まぁね。一応、私もソコソコの神格だし、そのくらいはね~』

 

 リオウに問われると、諏訪子はニヤリと笑ってそう答えた。しかし、リオウは恐れ多いとばかりに首を横に振る。彼は洩矢諏訪子という神格が持っている“伝説”を知っていた。見た目が幼いからといって、彼女は決して侮って良い存在ではないのだ。

 

「ご謙遜を。『土着神の頂点』とも呼ばれた御方がソコソコなどとは、とてもとても…。すみませぬが、風祝殿。そろそろ降りて頂いてよろしいか?」

 

「えへへ。まだ物足りませんが、堪能させてもらいました」

 

 早苗はリオウたちが会話している間、ずっと彼の翼を触っていた。女子高生らしくフワフワしたものやモフモフしたものが好きなようだが、カエルや蛇などの両生類・爬虫類系も好きなので単に動物や生物が好きなだけなのかもしれない。

 

「おや、主様。それに早苗様も」

 

 そうこうしていると、山道の先から着物を着た女が1人歩いてきた。こんな夜中に着物を着て山道を歩く女など普通の人間であるはずがない。事実、彼女はこの山に住む妖であった。

 

「あ、紅峰さん。どこか出かけていらしたのですか?」

 

 彼女の名は紅峰。リオウの配下の1人であり、彼を“主様”と呼び慕う女妖だ。リオウとは違い人間嫌いな彼女であるが、現人神である早苗には好感を抱いていた。また、早苗の方も紅峰が理性的で人型の女妖ということで、彼女とは話しやすいと感じていた。

 

「ええ。斑様の、知り合いの妖の所に行った帰りでして。ただ、留守だったらしく会えなかったんですけどね。早苗様と主様はここでどうなされました?」

 

「私は山に入ってきた邪鬼を祓い、神社に帰るついでに見回りをしていたところでリオウさんとバッタリ出会ったのです。そして、リオウさんの翼をモフらせてもらってました!」

 

「ぬ、主様の翼を!?何とも羨ま…ゴホンゴホン!主様、少々お待ち下さい!早苗様と女だけでの内密のお話が…!ささ、どうぞこちらへ、早苗様。そ、それで主様の翼は一体どの様な感触でしたか…?」

 

 道で滑って転びそうになっていた部分をちゃっかり省略しているところは、実に早苗らしい。

 しかし、紅峰にとって重要な点はそこではなく、己ですら堪能したことはない(リオウ)の翼についてだった。諏訪子の存在に気付かなかった彼女は、女だけと称して早苗を少し離れた所へ連れていく。

 その様子をリオウは何ともいえない表情で見送り、諏訪子はクスクス笑いながらそんな顔をする彼を眺めていた。

 

『そういえばさぁ、リオウは早苗に対して素っ気ないトコ有るよね~。なんで?』

 

 諏訪子は思い立ったかのようにリオウを見ながら問う。

 事実、リオウは早苗と距離を置いて接していた。先ほど早苗を助けた時ですら、彼は一度も視線を合わせていない。正面を向き合って早苗と会話する際も、リオウは目を伏せてやり取りしているほどだ。当の本人である早苗は全く気付いていなかったが、諏訪子は当初から勘付いていた。

 

『あ、別に“急に外からやって来て縄張り奪いやがったのはテメェらなのに、なんでもクソもあるかボケ!”って理由でも良いよ?さっき早苗を助けてくれたから、アンタは何言っても許してあげる』

 

「守矢の方々を憎んではおりませんよ。むしろ、森の瘴気を打ち払っていただいて感謝しているくらいです。風祝殿への態度については……、一度でも心を許してしまえば幻想郷へと行かれる際の別れが辛くなる。そう思った次第でございます」

 

 諏訪子の冗談を華麗に流し、リオウは静かに答えた。

 人との関わりの深さは、時間の長さではない。たった一度の出会いでさえ、心を強く惹きつけられてしまうこともある。最近では“夏目”という少年にも惹かれつつあったリオウは、だからこそ今以上の関わりを作るつもりはなかった。

 

『ふぅん。幻想郷に来る気は無いの?神奈子から誘われたと思うけど』

 

「確かに以前、八坂様へ謁見した際に幻想郷へのお誘いを受けました。“神格でも妖でも、共に幻想郷に行きたい者がいれば受け入れよう”と。我らのような卑しい妖にも声をかけて下さるとは、守矢の神々の恩情には感謝するばかりでございます」

 

 守矢はこの地の妖たちに幻想郷への渡航を誘っている。任意であり“幻想郷に行きたい奴が居るなら一緒に来れば?”程度の勧誘だが、妖の中には興味を持つ者も居た。

 リオウもその恩情はありがたく感じている。彼女たちのような高位の神格が、妖如きを(おもんばか)るなど滅多に無いことなのだ。

 しかし、彼はその話に乗るつもりは無かった。

 

「されども私は幻想郷には行かず、この地に残るつもりです。…それに、たとえ幻想郷へと共に移り住んだとしても人の一生は(わたしたち)には短すぎます。それは洩矢神様もお分かりでしょう?」

 

『そうだね。人間は私たちと生きる時間が違うからね』

 

 諏訪子はそう頷いた。早苗は現人神だが、だからといって寿命は普通の人間と変わらない。万を優に超える年数を生きてきた諏訪子にとって、その時間は一瞬で過ぎていくだろう。

 そして神格ほどではないが、リオウを始めとする妖も寿命は長い。彼自身、数百年を生きてきた妖であるし、もっと強い者は千年を超える者だっている。つまり、どう足掻こうとも人間と人外は長く一緒に居られない運命にあるのだ。

 

「大切な友人に先立たれる悲しみは想像を遙かに超えるものでした。呼びかけてくれた声が、差し伸べてくれた手の感触が…今でも全てが懐かしく、愛おしい」

 

 リオウの脳裏に今は亡き友の姿が浮かび上がる。何もかもが忘れられない記憶だ。手を伸ばせば、あの時の温もりが甦ってくるようだった。

 

「人は好きです。故に、私はこれ以上の別れを望みません。洩矢神様は恐ろしくありませんか?たとえ風祝殿が天寿を全うしたとしても、それは我々にとって僅かな時間でしかないという現実が…」

 

 愛するが故に近づかない。リオウは己でそう決めていた。

 だからこそ、彼は諏訪子に尋ねたかったのだ。かつては無数に人間たちと接し、そして別れてきたであろう彼女たち神々は、今は東風谷早苗という1人の少女を見守っている。その想いを聞いてみたかった。

 

『人の寿命は短い。それはもちろん私だって辛いし、怖いよ。私たちが幻想郷で生き永らえるってことは、いつの日にか早苗を看取る日が来るってことなんだから。きっとその時は、私も神奈子も泣き喚いて悲しむだろうねぇ。“こんな思いをするくらいなら、あのまま現世で朽ち果てていれば良かった!”って叫ぶかもしれない』

 

「……」

 

 妖でも、神格でも。たった一度だとしても、幾度となく経験していたとしても。愛する人間と別れを告げるのは辛い。諏訪子ですら、早苗との死別を考えると胸が張り裂けそうになるほどだった。

 しかし、それでも彼女はニコリと笑みを見せ、リオウに語りかけた。

 

『でもね、私たちにはそれと同じくらいの確信があるんだよ。“どんなに悲しくても、早苗と過ごした日々は絶対に後悔しない!”って。だから、幻想郷で共に過ごすことを早苗に乞われた時、私たちはそれを断らなかった。だってさ、あの子と一緒に居るの楽しいんだもん!』

 

 そう笑って言う諏訪子の姿を、リオウは眩しそうに見た。

 未来(さき)を悲観するのではなく、現在(いま)を楽しむ。それは彼には無い勇気だったのだ。

 

「お強いのですね、御二柱は…」

 

『強い?あはは、まさか!私たちは寂しがり屋でワガママなだけだよ。本当に強い奴だったら、そんなこと気にも留めないって!」

 

 リオウの褒め言葉を、諏訪子は一笑に付した。続く言葉は己の弱さを認める自虐的なものだったが、後悔の念は一切こもっていない。悲観することは無いのだ。諏訪子と神奈子は、早苗と共に前を向いて歩んでいくだけ。それが彼女たちの想いだった。

 

「…人から距離を置くという私の考え方は間違いなのでしょうか?」

 

 寂しそうに、そして羨ましそうにリオウは尋ねた。彼女の想いに触れて、リオウは自分の選択に迷いが生じてしまったのだ。

 しかし、諏訪子の答えは実に単純なものだった。

 

『別に何が正解とかじゃないでしょ。自分の思うように過ごせば良いじゃん。私たちも好きなようにやってるんだし、リオウはリオウで自由にしなよ』

 

「……」

 

 己の思うがままに。そう言われたリオウは、暫し無言になって考えた。視線は未だに紅峰との会話を楽しんでいる早苗に向けられている。しかし、彼女を通して別の誰かの幻影を見ているような表情でもあった。

 そうした後、彼はゆっくりと腰を折って、諏訪子に深々と頭を下げた。

 

「…幻想の(さと)へのお誘いは嬉しゅうございました。ですが、やはり私は大切な友人が眠るこの地に残りたいと思います」

 

『うん、そっかぁ』

 

 やはり、リオウはかつての友が忘れられなかった。死別した友を唯一無二の存在として心の中に残したままでありたかったのだ。しかし、それもまた勇気。諏訪子や神奈子とは、また違った勇気だと言えるだろう。

 だからこそ、彼はこの地に残ることに決めた。当初の選択と変わらないものであったが、その顔は明らかに晴れやかになっていた。

 

『良い顔するじゃん。私たちはアンタの選択を尊重するよ』

 

 断られた形となった諏訪子だが、彼女はむしろ上機嫌だった。

 人間(さなえ)を愛してしまった人外として、同じく人間を愛し続けるリオウに嫌悪感を抱けるはずもない。歩む方向が違ったからといって、咎める気など諏訪子には更々無かったのである。

 

「ありがとうございます。ですが、私の配下の中には移住を希望する妖もおるやもしれません。そのような者がおりましたら、どうかよろしくお願い致します。幻想郷がどのような地であろうとも、守矢の神々が新たな主となれば彼らも安心して過ごせるでしょう」

 

『うん、任された。とはいえ、リオウが残るなら配下の妖たちも殆ど残りそうだけどね。アンタかなり慕われているし。それに妖たちは神格と違ってそこまで切羽詰まってないってのも大きいかな』

 

 恐らくリオウ配下の妖たちも幻想郷には来ないだろう。弱小妖だった彼らにとって、リオウとはそれだけ恩の有る存在だったからだ。

 故に、呼びかけに応じる者たちが居たとするのならば、それはきっと現世に見切りをつけた神格くらいなものだと諏訪子は考えていた。

 

「神々の大変な御苦労、心中お察し致します。最近でも七つ森の露神(ツユカミ)様が御逝きになられたと聞きました。悲しいことです」

 

『まったく世知辛い時代だね…。ああ、そうだ。地元の神格って話で思い出したよ。リオウ、アンタこの地に残るんだったら、ついでにこの辺りの地域一帯も治めてみない?今探してるんだよ、ここらをしっかり統治出来そうな強い奴。力不足ってんなら、神奈子が持ってる八咫烏(ヤタガラス)の力をプレゼントするからさ』

 

「八咫烏と申しますと、神の火の力…!」

 

 リオウは目を見開いて驚いた。

 八咫烏は太陽神である天照大神(アマテラス)の使神である。風雨の神である八坂神奈子は天候を司る神でもあり、即ち太陽信仰を受ける神でもある為、彼女は八咫烏の力を扱うことが出来たのだ。

 

『そ。つまり太陽の力を得られるわけさ。割と馴染むと思うんだよね。ほらアンタ翼生えてるし、鳥仲間って感じで。それに太陽は核融合の力だから、すごいエネルギー出せると思うよ。扱いミスると一帯が放射能で汚染されるかもしれないけど』

 

 諏訪子が説明する通り、八咫烏の力は凄まじい。火力という一点においては上位の神々にも迫る戦闘力を得られるかもしれない。

 しかし、同時に扱いも非常に難しいというのも事実だ。この力を上手く扱える妖は、リオウのように賢く能力に優れた者か、本能で扱いを理解出来てしまうような格別の馬鹿者くらいに限られるだろうと諏訪子や神奈子は思っていた。

 

「も、申し訳ありませんが洩矢神様。それは私には過ぎた力です。それに、私は住家の森以外を治めようとも思いません。幻想郷の件といい、頂いたお話をこう何度も断るのは大変失礼だとは思いますが…」

 

 予想外の提案をリオウが狼狽えながら断ると、諏訪子は笑いながら頷いた。元々、彼女もリオウが力に靡くとは思っていなかったのだろう。そういう選択肢も有るのだと教えたかっただけだ。

 

『真面目だねぇ。力なんて貰うだけ貰っておいて、私たちが居なくなったら好きなように使えばいいのに。ま、いいや。無理言って悪かったね。気にしないでいいよ。…さてと、そろそろ早苗を戻さないと神奈子も心配するし、これでお暇しようかな』

 

 グイッと背伸びをしながら言う諏訪子に、リオウは再び深々と頭を下げる。それから彼は配下の妖である紅峰へと声をかけた。

 

「はっ、洩矢神様。私たちも失礼させて頂きます…。紅峰、風祝殿とのお話しは済んだかい?人の子には昼の生活がある。あまり夜遅くまで付き合わせていてはいけないよ」

 

「はい、主様!丁度全て聞き終えたところでございます!触感から匂いに至るまで、細部も完璧です!」

 

「…そうか」

 

 とても良い顔で紅峰が答えると、リオウは色々と諦めたような表情で小さく頷く。それを見て、やはり諏訪子はニヤニヤと笑っていた。それから気を取り直したリオウは、早苗に対しても深く頭を下げた。

 

「それでは早苗様。我らはこれにて失礼致します」

 

「失礼致しますわ」

 

「さようなら、リオウさん、紅峰さん。またお喋りしましょうね!」

 

『またね~』

 

 諏訪子はヒラヒラと、早苗はブンブンと手を振って別れを告げる。時刻は既に深夜近い。リオウたちの見送りが済んだ早苗も今から帰宅するつもりだった。

 

「もう見回る時間は無さそうですね。空を飛んで帰るとしましょう」

 

『いや…、お客さんがもう1人居るみたいだよ』

 

 諏訪子がそう言って近くの木へと目をやった。早苗も視線を辿ってそちらを見ると、1人の妖が恐る恐るという様子で木の陰から現われる。獣が混じったような様相をした妖だった。

 

「お、お待ち下さい、巫女様…!」

 

「おや、あなたは…見かけない方ですね。もしや、リオウさんの配下の妖ではなく、余所から来られた方でしょうか?」

 

 その妖からは大した妖力を感じられなかった。当然、その程度の弱い妖では諏訪子の姿は見えない。

 それに加えて、この妖はリオウたちが居なくなったのを見計らって早苗に話しかけてきている。つまりは、彼女に内密の話を持ちかけてきたということであった。

 

「ええ!隣山の下等な妖でございます。実は、人間との関わりがあるという現人神の巫女様にお願いがあるのです!」

 

「お願いですか?構いませんよ、出来る限りではありますが力になりましょう。それで、どうなさいましたか?」

 

 土下座をして頼み込んでくる妖の願いを、彼女は快く引き受けた。それを聞いた妖は涙を溢すほど喜んでみせた。

 

「ああ、巫女様!ありがとうございます。実は私、人間めに名を奪われたのでございます」

 

「名を奪われた…?大変じゃないですか!?」

 

 人外の者たちにとって『名』とは、ただの呼び名ではない。契約を持ってその者の名を縛れば、命を縛ることと同義になるのである。当然、そのくらいは早苗でも知っていた。

 たとえば、妖が紙に己の本名を書いたとする*2。そうすると、名の書かれた紙は己の命そのものになるのだ。紙を破けば身体が裂かれ、紙を燃やせば全身が燃える。更にその紙を他人が持って書かれた名を呼べば、その者のどんな命令にも逆らうことが出来なくなるのである。

 それ程の力を持つため、人外たちはそう簡単に自分の名を他人に渡したりしない。その『名』が人間に奪われたというのは、まさしく余程のことが起きたということである。

 

「しかも、被害は私一人ではございません!多くの妖たちや神々も被害を受けているのでございます。名を奪われて以来、私たちはどんな酷い扱いを受けるかと恐れ、怯える日々を過ごしておりました…」

 

「妖だけでは飽き足らず、神々からも名を!?な、なんという悪行を…!」

 

 早苗は敬虔な神官だ。信仰は守矢に捧げているが、だからといって他の神格を蔑んでいる訳ではなかった。少なくとも守矢と敵対でもしない限りは、どんな神格であろうともキッチリ敬うつもりでいる。

 故に、神格からも名を奪った人間が居ると聞いて、彼女は驚きと怒りを隠し切れなかった。妖も彼女の怒りに同意するように何度も頷いてみせる。

 

「ええ、ええ!極悪人ですとも!ですが、口惜しいことに我らではその人間に敵いませぬ。どうか巫女様。奴を懲らしめ、我らの名を取り返していただけないでしょうか?どうかどうか、伏してお願い申し上げます…!」

 

 妖は地に頭を擦りつけて懇願する。そんな彼の願いに応えるかのように、早苗はお祓い棒を堂々と構えてみせた。

 

「これは神に仕える者の1人として見過ごせません!良いでしょう!この守矢の風祝、東風谷早苗があなたの力になりましょう!それで、あなたや神々の名を奪ったという罰当たり者は、一体どのような人間なのですか?」

 

『……』

 

 早苗の顔は正義を成す為と言わんばかりに自信に満ちている。

 しかし一方で、諏訪子だけはその妖をつまらなさそうに見続けていた。害虫を見るかのような冷たい視線だったが、諏訪子の存在にすら気付いていない彼は当然その視線にも気付かず、そのままペラペラと語り出した。

 

「其奴めの名は『夏目レイコ』。人で在りながら有り余るほどの妖力を持った女で、その様相は恐ろしく、口は真っ赤で髪を振り乱しながら襲って来ます。そして暴力をもって名を無理矢理聞き出し、子分になるように誓わせるのです。恐ろしい女でございましょう?」

 

「怖ッ!?その女性ホントに人間なんですか?ほとんど化物じゃないですか…」

 

「それが本当に人間でして…」

 

 それはもう口裂け女とかの(たぐい)ではなかろうかと早苗は思うが、彼の話が正しければ本当に人間らしい。それはそれで妖以上に怖い気もするが、こちとら軍神の風祝であり現人神である。自分が負ける要素など無いという自信を早苗は強く持っていた。

 

「とはいえ、名前も分かっているのならば、幾らでも探しようがあると思いますよ。悪名高いようですし、妖たちに聞いて回れば所在もすぐに割れることでしょう」

 

「お待ちを!他の妖どもに感づかれるようなことはお止め下さいませ、巫女様。我が名を奪われていることを他の妖どもに知られれば、掠め取り利用しようとする輩も出て来るやもしれません。それを想像するだけで…おお、恐ろしゅうございます」

 

 早苗が捜索方法を提案すると、妖がブルブルと身を震わせて言った。たかが下級妖の名前であるが、本人からしてみれば一大事なのである。それを聞いた早苗は、彼の心配も尤もだと頷いてみせた。

 

「確かにそうですね…。分かりました。では、まず私の周囲の人々に夏目レイコを知っている人がいないか聞き込みをしようかと思います。話を聞く相手が人間だけなら安心でしょう?」

 

「ありがとうございます、巫女様。このご恩は忘れませぬ…!」

 

 妖はまたも土下座を繰り返す。だが、先程までと違い、その顔は満面の笑みに包まれていた。期待に満ちた表情である。

 

「ふふふ、良いのですよ。守矢の信者を守るのは風祝として当然ですから。では次は…明後日の(とり)の刻(午後5時から午後7時頃)にまたここで会いましょう。それでは失礼しますね」

 

「ははーっ!」

 

 早苗はそう言って、その妖と別れた。

 彼女にとって他人に頼られるということは悪いものでは無い。むしろ、嬉しくすらある。それが自分しか解決出来ないとなると尚更だ。少なくとも早苗は、人に頼られても“面倒臭い”や“なんで私が”などという負の感情を持たないくらいには善性の持ち主であった。

 機嫌良く神社へ帰ろうとする早苗だったが、その背に諏訪子が声をかけた。

 

『早苗。私はもう少し散歩して帰るから、先に帰ってな』

 

「は~い。でも、夜更かしはダメですよ、諏訪子様~」

 

『はいはい。アンタも風呂に入ったら早く寝なよ』

 

 家族らしい会話を交わした後、空を浮遊して帰る早苗を諏訪子は見送る。

 そして面倒臭そうに妖が去って行った方角を見ると、彼女はピョンと跳んだ。一瞬で先ほどの妖の近くまで移動すると、手頃な岩に座って軽く耳を澄ます。この妖が嗤いながらブツブツと独り言を呟いていたからだ。

 

「ヒヒッ、クヒヒヒ!馬鹿な巫女め。簡単に騙されおった。喰ろうてやる…喰ろうてやるぞ、夏目レイコめ!人間ごときが儂を殴りおって…!巫女に倒された暁には生きたままハラワタを喰ろうてやる!」

 

 この妖は早苗に嘘を吐いていた。元より、彼は夏目レイコに名など奪われていないのだ。

 ただ単に、人を喰らおうとしたところをレイコに殴られ、撃退されただけの下等な悪妖だった。名を奪う価値も無いどころか、レイコ自身ですら数分後には存在を忘れるほどの小者だったのである。

 しかし、彼本人だけは人間に負けたという屈辱が忘れられなかった。憎悪を抱き続けて幾年。レイコが既に亡くなっていることも知らないこの妖は、守矢がやって来たことで復讐のチャンスが訪れたと意気込み、持ち前のズル賢さで早苗を騙してみせたのであった。

 

「いや、待てよ。巫女とレイコが相打ちになれば…。ヒヒッ、クヒヒヒ、クヒヒヒヒヒッ!」

 

『……』

 

 人食いの妖にとって、霊力や妖力に満ちた人間という存在は御馳走である。ましてや神聖な神官や巫女といった存在は格別であり、喰らえば妖力も大いに増すだろう。彼はそれを想像してボタボタと涎を零していた。

 しかし、この言動は明らかに守矢への侮蔑であるし、そもそも悪意を持って早苗に接近してきたこと自体が許されざる行為である。ミシャグジたちはこの無礼者を殺戮せんと蠢いたが、当の諏訪子が手をやる気無く挙げてそれを止めさせた。

 

(こういう馬鹿が居るのは予想通り。普段なら速攻で殺しちゃうんだけど…今回は早苗に任せようかな。幻想郷に行ったら何が起こるか分かんないし、その前に少しでも悪意ってモンに慣れさせておかないとねぇ)

 

 元より、諏訪子はこの妖が嘘を吐いていることなど一瞬で看破している。

 名を奪われていれば、その分だけ妖力も封じられてしまうものだが、彼にはその様子がまるで無かったし、悲壮感も演技的であった。その程度で海千山千*3どころか万の時を経験してきた諏訪子に通じるはずがないのだ。

 そして簡単に騙されてしまった純真な早苗は、事態が収拾した後は多少なりとも他人を疑うことを学んでくれるだろう。諏訪子はそう願っていた。

 

『でも、“夏目レイコ”。そっちの話は本当みたいだったんだよねぇ。人外から名を奪うって、普通の祓い屋とかだと禁術のはずなんだけど…まぁ、どうでも良いけどね』

 

 誰に言う訳でもなく諏訪子はそう呟いた。

 彼女や神奈子ほどの大神格になれば、相手の名を奪う必要など無い。妖なんて簡単に消し飛ばせる力を持っているのだから、その武力を背景に命令すればそれで片付くのだ。だから、どうでも良いというのは本心だった。

 無論、妖の中には八雲紫のように常軌を逸した強さを持つ大妖怪級も居る。しかし、そのレベルまで行くと、今度はもう『名』如きでは縛られなくなる。妖力で、腕力で、技術で、そして固有の能力で常識という壁を打ち破っていく。最上位の妖という存在はそういうものなのだ。

 

『さ、私たちも帰ろ帰ろ』

 

 故に、先ほどの妖への興味は既に無かった。諏訪子はミシャグジたちを引き連れ、守矢神社へと帰って行くのだった。

 

*1
諏訪子に反抗するなど、その時点でミシャグジたちに問答無用で祟り殺されてもおかしくないのだから、これは非常に慈悲深い説得方法である

*2
平仮名やカタカナ、漢字などの文字ではなく、妖たち特有の文字である

*3
この諺は『海に千年、山に千年住み続けた蛇は竜になる』という古代中国の故事からきている




 早苗の寿命
 東方茨歌仙には神奈子と諏訪子に対して『お二人には無限の時間があるのかもしれないですけど…』という早苗の台詞があります。現人神になっても寿命があるみたいですね。
 もちろん現人神になったことで寿命が多少なりとも延びている可能性も有りますが、このSS内では一般人と同じ寿命ということで。

 紅峰
 夏目たちの家を訪れるが、行き違いになってしまった模様。会って事情を説明してさえいれば、誤解は生まれなかったのだが…。

 神奈子と諏訪子の歳
 モデルとなっている神様で計算すると、
 日本書紀によると天孫降臨(ニニギノミコトが神様の世界から地上にやって来た)が現代から約180万年前。その頃には神奈子のモデルとなった神様は居たみたいなので180万歳以上。諏訪子は神奈子よりも年上なのは間違い無いそうなので、それ以上。そりゃあ人間の一生なんて一瞬ですね。
 というか日本書紀くん年数盛りすぎィ!180万年前とか人類がまだ猿人とか原人とかの時代なんですけど…(困惑)。
 なので、このSSでは諏訪子が楽に1万歳超え、神奈子が一万前後かなって感じで書いています。


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八坂様と洩矢神様

 守矢神社のモチーフになっているとされる長野県の諏訪大社は、全国にある諏訪神社約25,000社の総本山です(wiki)。規模も歴史もハンパじゃありません。
 このSSは、基本的には東方原作の設定にある程度沿って書いていくつもりですが、原作には幻想入り前の守矢の情報はあまり多くないので、オリ設定を入れつつ諏訪大社の史実にも沿ったり沿わなかったりする予定です。



(名取さんに連絡が取れなかった。俳優の仕事が忙しいだけだと思うけど…)

 

 学校の授業が終わり、夏目は校内の廊下を歩きながら焦りを抱いていた。

 あの遭遇から一夜明け、朝を迎えると夏目はすぐに名取の自宅へと電話をかけた。しかし、電話は留守電に繋がるばかりで彼と連絡を取ることは叶わなかったのだ。一応、留守電に昨日の状況を伝え残したが、それでも出来ることなら直接話をして相談したい。家に帰ったら再び電話をかけるつもりだが、その前に夏目にはやることがあった。タキと田沼に会って、気をつけるように言わなければならないのだ。

 

「あっ、田沼!」

 

「やぁ、夏目。そんなに慌ててどうかしたのか?」

 

 廊下の曲がり角でバッタリという感じで田沼に出会った。急いで彼を呼び止めると、辺りを見渡す。他人が近くに居ないことを確認して、夏目はすぐさま話を始めた。

 

「田沼、タキがどこに居るか知っているか?」

 

「タキ?いや、今日はまだ見てないな。何か用事か?」

 

「ああ…。実は、先週タキのクラスに転校してきた女子についてなんだ」

 

 夏目がそう切り出すと、田沼は首を傾げる。その後、思い出したという感じで口を開いた。

 

「タキのクラスの?ああ、廊下で一度すれ違ったことがあるな。それがどうかしたのか?」

 

「…髪の色は覚えているか?」

 

「髪…?そういえば遠くから見た時は普通の黒髪かと思ってたんだが、すれ違った時に一瞬だけ緑色に見えたんだよ。振り返って見たらやっぱり黒色だったから、変だな?って感じたのを覚えているけど…」

 

 田沼は妖を見ることは出来ない。しかし、妖の気配を感じたり、怪しい影を見たりする程度の妖力は持っていた。一瞬だけ髪が緑色に見えたというのもその影響だろう。夏目はコクリと頷いてみせた。

 

「田沼。俺にはあの女子の髪が緑色に見えている。明るい緑色に。だけど、他の人にはそれが見えていないんだ」

 

「まさか妖か…?」

 

 問題事を察した田沼がそう聞いてくる。だが、夏目は神妙な面持ちのまま首を横に振った。

 

「分からない。だけど昨日の夜、あの女子がミシャグジ様と呼ばれる祟り神たちを操って妖を喰わせていたんだ」

 

「喰わせ…!?」

 

 夏目が言うと、田沼はドン引きした様子を見せる。“それ…ヤバくないか?”、“ああ、ヤバかった”。顔を見合わせながらそんな会話を小さな声で交わしていると、不意に後ろから声をかけられた。聞き覚えのある女子生徒の声だ。

 

「あ、夏目君に田沼君。そんな所でどうしたの?」

 

「タキ…!」

 

 夏目が探していた女子、タキが軽く手を振りながら歩いてくる。緑髪の転入生と同じクラスであるため心配していたが、別段いつもと変わった様子はない。夏目はホッと胸を撫で下ろしながら彼女と合流した。

 

「タキ。無事で良かった、実は――」

 

 そのまま3人で下校して、帰り道を歩きつつ夏目は昨夜の出来事を説明した。友人帳のことは内緒にしながらも昨夜の状況を伝えると、タキは絶句していた。詳しい話を聞いた田沼も眉を顰めている。

 特に、転入生がミシャグジを操り邪鬼を喰わせて殺したと聞くと、その残虐性にタキは口元を抑えて信じられないといった表情をしていた。

 

「そんな…あの東風谷さんが…!?」

 

「ああ…。だが、ニャンコ先生は妖の匂いはしなかったと言っていた。むしろ、人と神格が混じったような匂いがしたと…」

 

「神格…。まさかカイのように人に紛れて学校に…?」

 

 夏目とタキは、かつて『カイ』と名乗る妖に出会ったことがある。妖であり神格でもあった彼は、八白岳という山の頂きで水源を守っていた水神の類だった。

 しかし、誰も居ない山頂で長い間たった一人居た彼は、いつしか寂しさを覚えるようになってしまった。今の時代、人が供物を持ってくることもなく、周囲には妖すらいない。そうして彼は孤独に耐えかねて山を下り、人間の営みに混ざった。己の姿を小学生くらいの男の子へと変化させ、人々の認識を操り『石尾カイ』という名前で人の世に混ざったのである。そして、カイは小学校で友人を作り、目一杯遊んだ。誰かと一緒に居ることが堪らなく楽しかったのだ。

 夏目とタキが彼に出会ったのは、そんなある日のことだ。最初、誤解があったものの3人はすぐに打ち解け、大の仲良しになった。それは夏目が家族という存在を想ってしまうほど温かい日々だった。

 しかし、その後カイが妖であることを夏目は知ってしまい――結果、彼は夏目たちの前から姿を消した。自分という存在が夏目たちを困らせていると勘違いしてしまったカイは涙を流し、泣きじゃくりながら去っていったのだ。

 

「東風谷さんも、カイみたいな理由で学校に来たのかしら?でも、もしも東風谷さんが悪い妖だったら…」

 

 あの転入生がカイと同じ理由で学校に来ているのだとしたら何とかしてあげたい。彼を救ってやれなかったタキはそう思っていた。しかし、同時に恐怖も感じる。かつて彼女には悪意有る妖に祟られた過去があり、自分だけでなく夏目たちの命をも危険に晒してしまった経験を持っていたからだ。

 困惑するタキだったが、夏目もそれに対する答えは持ち合わせていない。ただ首を横に振るしかなかった。

 

「全く分からないんだ。人に危害を加えるかどうかも。ただ、ニャンコ先生は隣に控えていたヤバい神様が暴れ出したら酷い被害が出るだろうと言っていた。だから2人とも。念の為、あの女子には出来るだけ関わらないように気をつけてくれ」

 

「ああ、分かった。だが、タキは…」

 

「ええ、同じクラスだから不自然に成りすぎないよう気をつけないといけないわね」

 

 田沼もタキも頷いて応えた。転入生と同クラスのタキはより一層の警戒が必要であるが、それを悟られないようにもしなければならないという難しさもあった。しかし、要領の良い彼女ならば問題無くやり過ごせるだろう。

 

「ところで、タキ。あの女子に知ってることはないか?何でも良いんだ、情報が欲しい」

 

「私自身はあまり東風谷さんとは話してないけど、他の人と話しているのが聞こえたことなら少し。東風谷さんは守矢って名前の神社で巫女をやっているらしいの。そこで祀っている神様は軍神。(いくさ)の神様らしいわ」

 

「守矢神社…」

 

「戦の神様か。なんか怖そうな神様だな」

 

 タキの言葉に夏目と田沼はそう呟いた。

 守矢神社と軍神。残念な事にそれ以上の情報は彼女も知らないという。しかし、重要なキーワードであることは確かだ。家に帰って斑に会ったら早速このことを伝えようと夏目が思っていると、突如として近くの茂みが大きく揺れた。人による揺れ方ではない。3人が慌てて身構えると、茂みの中からデカい大福のようなものがニュッと現われた。

 

「む、夏目ではないか」

 

「あ、ニャンコ先生!」

 

 その正体は斑だった。どうやら茂みを突っ切るこの道は、斑たち妖の通り道になっているらしい。

 しかし、そんなこと今はどうでも良いとばかりに、夏目と斑は同時に口を開いた。

 

「先生、さっきタキからあの女子について教えてもらったんだ!」

 

「おい、昨日の神格について調べてきてやったぞ!」

 

「「守矢神社だ!…ん?」」

 

 夏目と斑の声が重なる。そして、同じように首を傾げた。

 夏目はタキから、斑は知り合いの妖から。結局、2人とも同じ結論に至っていたということだった。

 

「相変わらず仲が良いな」

 

『似た者同士であります』

 

「「く…!」」

 

 微笑ましい光景に田沼はクスクスと笑い、斑の後ろから現われた顔の大きなちょび髭の妖は呆れたような声を出した。彼らの反応に気付いた夏目と斑は顔を顰めて赤面している。

 そんな中、タキだけは目を煌めかせながらソロリソロリと斑の背後から近付くと、彼を一気に抱きかかえた。それからは頬ずりの嵐である。

 

「つるふか先生~!」

 

「ひぃ!?止めんか小娘!」

 

 タキは中々変わった感性の持ち主であり、斑のもっちりボディとつるつるフカフカの毛並みが堪らなく好きらしい。彼女曰く『可愛いものを目にすると心が乱れる』とのことであるが、斑からしてみれば良い迷惑であった。激しすぎるスキンシップはNGなのだ。

 

「ん…この感覚…。もしかして誰か居るのか?」

 

 それらも笑って見ていた田沼が、周囲の違和感に気付いて目をゴシゴシと擦った。彼やタキの目には見えていないが、斑と共に現われた妖は3人居る。

 1人は先ほど呆れ声を出していた顔の大きなちょび髭の妖、通称“ちょび”だ。彼は高貴な妖を自称しており、丁寧な口調ではあるものの実は割と毒舌気味な妖である。

 そして残りの2人は大きな一つ目の中級妖怪と牛顔の中級妖怪である。夏目は“つるつる”と“牛顔”と呼んでいるが、いつも2人一組で行動しているので、よく2人まとめて“中級”と呼んでいた。

 

『夏目様、聞きましたぞ!あの守矢神社に喧嘩を売るとか!』

 

『人の身でありながら軍神を相手取るとは!その勇姿、我らも拝見させて頂きますぞ!』

 

 自称『夏目組・犬の会』の発起人でもある中級たちは“喧嘩上等!”、“夏目組・犬の会 参上!”と書かれた扇子やら(のぼり)やらを掲げて調子の良いことを言っていた。無論、それが余程の無謀であることは間違い無いだろう。

 

「ちょびだけじゃなく、中級たちも。おい、言っておくが俺は戦わないからな!というか、何でそんな話になってるんだ、お前たち!」

 

 夏目が怒って中級たちを追いかけると、彼らはキャーキャー言いながら楽しそうに辺りを駆け回る。傍目から見るとテンションが上がった夏目が突然1人で走り出したようにしか見えないが、当然タキも田沼も事情は分かっていた。

 

「え、ちょびさんたちも居るの?先生、何て言っているか教えてくれないかしら」

 

「あ、俺にも教えてくれ」

 

「ええい、何故この私がお前たちの通訳などしなければならんのだ!陣を書けばよかろうが、あの陣を!それより早く離さんか、小娘!」

 

 斑が目を吊り上げて怒鳴ると、タキは名残惜しそうに彼を地面に降ろした。

 斑の言う通り、タキには不思議な陣を書く特技を持っている。陣の中に入った妖の姿を妖力の無い者にも見せることが出来る『姿写しの陣』と呼ばれるその術は、妖怪マニアだった彼女の亡き祖父がメモに残したものだった。祖父は全く扱えなかったが、タキは波長が合っていたのか見事に扱えるのである。

 

「はぁはぁ…。待ってくれ、ニャンコ先生。これ以上タキや田沼たちを巻き込む訳には…」

 

 息が切れてしまい中級たちとの追いかけっこを止めた夏目が、横から斑に待ったをかけた。無関係の彼らをこれ以上巻き込む訳にはいかないからだ。それに、タキのその陣は祓い人の間では禁術と呼ばれる類のものである。無闇矢鱈に書いて良いものではなかった。

 だが、斑は夏目の顔を見ながら、諭すように言葉を発した。

 

「言ったはずだぞ夏目。あの存在が暴れれば甚大な被害が出るだろうと。コイツらが知っていようと知ってなかろうと、事が起きてしまえば巻き込まれるかもしれんのだ。ならば原因を知り、危機に備えていた方が良かろう。無論、後はこの2人次第だがな」

 

 そう言って斑は田沼とタキを顎でしゃくる。彼は別に強制するつもりはない。話を聞くも聞かないも2人の自由だ。

 しかし、どうやらそれは余計なお世話だったらしい。斑が言うまでもなく、田沼とタキの答えは決まっていた。

 

「私、陣を書くわ」

 

「俺も聞くぞ」

 

「2人とも!」

 

 夏目が声を大にしてタキと田沼を止める。だが、彼らの決意は固かった。

 

「巻き込んでしまったなんて思わなくて良いんだ、夏目。俺たちは大した力にはなれないかもしれないけれど…、それでも友人として相談して欲しい。これは俺たちからのお願いだ」

 

「そうよ、夏目君!…うん、陣はここに書きましょう。人通りはほとんど無いし、周りを茂みに囲まれているから他の人に見られる心配は無いわ」

 

「田沼…!タキ…!」

 

 夏目が彼らの名を小さく呟くと、田沼は微笑みを浮かべながら頷いた。タキも夏目の返答を待たずして、既に陣を地面に書き始めている。夏目はただ彼らの友情に感謝するしかなかった。

 

「書けたわ。さぁ、陣の中に入って」

 

 そうしてタキはすぐに陣を書き上げてみせた。ちょびや中級たちが中に入ると、その姿が写し出される。一般人が見たら腰を抜かすような人外の面々だが、タキも田沼も今更動じることはない。むしろ、2人の目は別の所に向けられていた。

 

「喧嘩上等…。夏目組・犬の会 参上…?」

 

「え、夏目君…。これって…」

 

「わー!そこは気にしなくて良いんだ!中級たちも早く片付けてくれ、そんなもの!」

 

 中級たちの持っていた扇子や幟を見て困惑した様子を見せる2人に、夏目は顔を真っ赤にして慌てる。そんなこともあったが、皆で陣の中に入ると地面に直接座って話す体勢を整えた。タキだけは上品に地面にハンカチを敷いて、その上に座っている。

 そして、最初に口を開いたのはちょびだった。

 

「怒ったり青春したり騒いだり…。人の子というのは情緒不安定でありますな。そんなことはともかく、白狸や夏目殿が何を心配しているのか私には分からないであります。守矢の主神の偉業は数有れど、日ノ本の民に非道を働いたなどという話は一度も聞いた事もありませぬ故。心配のしすぎでは?」

 

「「そうですぞ~」」

 

 ちょびが溜息交じりで語ると、中級たちも楽観的に同意した。事実、その通りである。

 守矢神社は軍神を奉る神社だからこそ懐が深い。主神は威厳に溢れながらも気さくで慈悲深く、お祭り好きの酒好き。諏訪から遠く離れたこの地でも、昔からそういう噂が流れるくらい仁徳を持った神格だった。

 それらの話を知っているからこそ、中級たちも能天気でいられるのだ。もしも、本当に万が一、夏目が守矢神社に喧嘩をふっかけたとしても、かの大神格からすれば子犬がじゃれついてくるようなものでしかない。笑って相手をしてくれるだろうし、気に入られたならば秘蔵の酒でも奢ってもらえるかもしれないと思っていた*1

 

「確かに、守矢神社が突然やって来たのには驚きましたなぁ。そのせいで大妖が侵略にやって来たとか色々な噂も流れましたが、よくよく噂を確かめれば守矢の主神が大規模転移術で神社ごとこの地にお越しになられたというではありませんか」

 

「その御神徳にあやかろうと、貢ぎ物を持って守矢神社へ参詣する妖も多いみたいですぞ。我らも近々、柿や栗などを手にして参ろうかと思っていたところです。そうしていると斑様と道端で出会い、色々聞かれましてな。もしや、夏目様たちも参詣に行かれますか?守矢神社は人の足でも十分行ける距離にありますぞ~。ほら、あの山の頂上らしいです」

 

 斑はまだ彼らに昨日の出来事を話していないのだろう。夏目の両隣に座っている中級たちは上機嫌な様子で山を指し示していた。そこは間違い無く夏目たちが昨晩行った山だ。それを見た夏目は顔色悪く眉を顰めていた。

 

「おや、どうしました夏目様?顔色が悪いですぞ」

 

「やはりモヤシの足で山登りは厳しいですかな?」

 

 ナチュラルに夏目を煽る中級たちを横目に、斑は“ふぅー…”と深い溜息を吐いた。

 やって来た神社が守矢だと聞いた瞬間、斑はあの時出会った神格が何者だったのかを理解してしまっていたのだ。それを話さなければならないのである。

 

「…昨晩、その山で『洩矢神』と思われる御方の姿を見た。大勢のミシャグジたちと共にな」

 

「な、なんと…!」

 

 ちょびは正しく絶句という反応を見せた。信じられないといった表情だ。一方で、中級たちは笑顔のままその場でフリーズしている。そして数秒後、つるつると呼ばれている方の中級がポンと手を軽く打ち鳴らした。

 

「おっと、我々そういえば予定が入っているのでした」

 

「然り然り。失礼しますぞ夏目様」

 

 牛顔の方も真面目な顔でウンウンと頷きながら、2人とも立ち上がろうとする。しかし、着ていた着物を引っ張られて上手く立ち上がれなかった。何事かと思って引っ張られた方を見ると、夏目が手をこちらに伸ばしている。

 

「絶対に逃がさないからな、お前たち…!」

 

「「ひぇぇ…」」

 

 夏目が半ギレの笑顔で彼らの着物を掴んでいた。今度ばかりは逃がさなかったという訳だ。助ける者は誰も居ない。煽ったのは中級たちなので自業自得という話である。

 夏目は改めて彼らを座り直させると、斑に問いかけた。

 

「それで先生。昨日俺たちが見たあの小さな女の子はやっぱり神様だったのか?」

 

「ああ、それも飛びっきりのな。と言ったところで夏目たちには分からんか。少し守矢神社とその神々について教えてやろう」

 

 妖たちの間では常識らしいが、今の時代の人間はそういう情報に疎い。それを知っている斑は夏目たち3人に向けて守矢神社の解説を始めてくれた。

 

「人が神話と呼ぶ時代のことだ。諏訪地方、現在の長野県辺りを中心に『洩矢(もりや)』という国があった。その国王の名は『洩矢神』。今では考えられぬことかもしれんが、当時は神格が人々をまとめ、国を治めていたのだ。そんな神格の中でも洩矢神の力は飛び抜けて凄まじく、人も人ならざる者も皆が大いに畏れ、敬った。その強大な力から洩矢神は『土着神の頂点』とも呼ばれていたらしい」

 

「土着神?」

 

 夏目が首を傾げる。聞き覚えのない言葉だった。田沼やタキも良く分かっていないようである。

 そんな彼らの疑問に答えるかのように斑は一つ頷いた。

 

「土着神とは日本の古来よりその土地に住んでいる神格のことだ。ツユカミやオババ、豊月神、不月神、そしてカイなどが例だな。妖であっても信仰を得れば神格に至るが、物や自然現象、自然そのものに対して信仰が加わることで産まれる八百万の神々も居る。逆に信仰を失ってしまえば、弱体化してしまい穢れたり消えたりしてしまうがな」

 

「カイ…」

 

 カイの名前が出たことで、タキが切なそうにその名を呟いた。クッキーを食べたことが無いと言っていたカイ。タキは彼のためにクッキーを手作りで焼いたが、渡す前にカイは去ってしまった。夏目経由で元居た山に帰ったのではないかと聞いたが、恐らく今の彼はほとんど信仰を受けていない状態だろう。タキに出来る事といえば、カイが穢れたり消えたりしていないことを祈ることだけだった。

 そんな中、斑の解説は続く。

 

「そういった土着神というのは、一般的に祟り神としての一面も持っている。特に、諏訪地方の神々はその傾向が強く、彼ら諏訪の祟り神たちは『ミシャグジ』と呼ばれ恐れられた。そんなミシャグジたちを力で統べていたのが洩矢神だ。洩矢神自身もミシャグジと呼ばれることがあったようだが、混同すると訳が分からなくなるので、ここでは洩矢神以外の諏訪の祟り神たちをミシャグジと呼ぶことにするぞ」

 

「洩矢神とミシャグジか…」

 

 つまり、その神々こそが夏目が昨晩見た者たちの正体である。彼らの名を夏目が呟くと、それを聞いた中級たちがすぐさま警鐘を鳴らした。

 

「な、夏目様。人の子はキチンと洩矢神“様”、ミシャグジ“様”と敬称を付けて呼ばないとダメです」

 

「神々に聞かれたら酷く祟られるかもしれませんぞ」

 

「わ、分かった、気をつける…。洩矢神様とミシャグジ様だな」

 

 彼らの慌てた様子に、夏目もすぐに言い直す。中級たちが恐れている通り、彼ら祟り神は無礼者を許さない。斑くらいの力ある妖ならばともかく、人間や中級以下の妖はしっかりと敬意を持たなければならないのだ。

 

「つまり、洩矢神様は日本古来の神々の中で最も強い祟り神だったのであります。人々からも非常に恐れられ、逆らう者は誰一人として居なかったそうであります。いわゆる、恐怖政治というやつでありますな」

 

「うむ、そんな最強の祟り神であった洩矢神だったが、ある時それを見かねた大和(やまと)の神が洩矢王国に戦いを挑んだそうだ。その神の名は建御名方神(タケミナカタノカミ)。かの有名な素戔嗚(スサノオ)の子孫であり、戦の神だった。タケミナカタ様は大和の軍勢を率いて、洩矢神はミシャグジなど地方の土着神たちや妖・人等を束ねて、二つの勢力は対峙。そして戦争となった。土着神話 対 中央神話。後に諏訪大戦と呼ばれる戦いの始まりだった」

 

 斑が語る神々の戦争。正しく神話の物語そのものなのだが、妖が語るが故に生々しい。

 話を聞きながら夏目たちは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「諏訪大戦は筆舌に尽くしがたいほど凄まじいものだったらしい。地形が変わるほどの戦闘が何度も起き、大勢の神格や妖、人が死んでいき消えていったと聞いた。その戦いの末に、敗北を悟った洩矢神は降伏。タケミナカタ様が勝利を収め、洩矢の王国はタケミナカタ様の領地になったという」

 

「ニャンコ先生はその諏訪大戦を直接見ていないのか?」

 

 夏目がそう問いかける。しかし、斑はフンと鼻を鳴らして否と答えた。

 

「阿呆め。何千年と昔の話だぞ。私はまだ産まれておらんし、同じ時代に居たとしても神々の戦争に近付こうなどとは思わんわ」

 

「物見遊山気分で遙か遠くから戦を見物していた妖たちが、二神の戦闘の余波で消し飛んだという話を聞いたことがありますな。神々の御力を見誤ったのでしょう。因みに私ほどの高貴な妖ですら、まだ産まれていなかった時代でもあります」

 

「「無論、私たちもですぞ」」

 

 これら諏訪大戦の話は、彼らがそれぞれ伝え聞いた話だ。妖はこういった伝説を会話の中で話して後世に残す。人間とは違い、長寿でありながらも娯楽が少ない妖たちは、そういう話を好むのだろう。伝記や伝承など古い話に詳しい妖は多かった。

 

「戦争か…。恐ろしいな…」

 

「うん…」

 

 田沼とタキが静かにそう呟く。夏目も含め、彼らは戦争の無い時代に産まれた心優しい人間である。そういったものに恐怖を感じてしまうことは仕方無いことだった。

 

「話を戻すが、守矢神社の建立はその諏訪大戦の勝利を起源としたものと聞く。すなわち守矢神社とは、大和の軍神タケミナカタ様を祀った神社なのだ」

 

「ちょっと待ってくれ、先生。それなら昨晩の妖たちが言っていた八坂様って一体誰なんだ?」

 

「その八坂様がタケミナカタ様なのだろう。高貴な神々であれば、名を複数持つのは良くある事だからな」

 

 『八坂様』は『タケミナカタ様』である。昨晩感じた神気と守矢神社の知識から、それは間違いないと斑は断言する。しかし、彼にはそんなことよりも、もっと大きな懸念があった。

 

「むしろ、私が気になるのは洩矢神だ。諏訪大戦で降伏した洩矢神は守矢神社の奥底に封印されたと聞いたが、配下であったミシャグジたちと共に山中を出歩いているということは封印が破れたのだろうか?」

 

「ふむ?私が聞いた話では、降伏した洩矢神様はその後タケミナカタ様によって滅せられたという内容でした。故に、夏目殿たちが洩矢神様を見かけたと聞いて驚いたのでありますが」

 

「我々は、洩矢の王を引退した後に秘境へと隠居されたと聞きましたが…?」

 

「なに…?」

 

 どうにもおかしいと斑たちは顔を見合わせた。伝え聞いた内容が三者三様で違うのだ。

 確かに、それぞれ別々の者たちから話を聞いているのだから、内容に多少の差違があるのは普通のことだろう。しかし、洩矢神は最強の祟り神として一国をも支配したことある大物だ。それほどの大神格の末期がここまで大きく異なって伝わることはそう無いはずなのである。

 この謎に妖たちは揃って首を傾げるが、悩んでいても答えは出ない。仕方無いので斑は話を進めることにした。

 

「その真実はともかくとして…。昨晩、緑髪の小娘の隣に隠れていた神格が洩矢神であったことは間違いないだろう」

 

「人違い…じゃなくて神違いってことはないのか?」

 

 夏目がそう尋ねた。恐らく、可能性として聞いたのではなく、そうであって欲しいという願いから尋ねたのだろう。だが、無情にも斑は首を横に振って否定した。

 

「鈍感夏目は感じとれなかったかもしれんが、私はハッキリと力の大きさを感じたのだ。あんな力を持った神格がそう何柱もいて堪るか。それに加え、幼い少女の姿をしておったからな。間違いない」

 

「幼い少女の姿をしていたから洩矢神様?どういうことかしら?」

 

 今度はタキが尋ねる。それに応じたのはちょびだった。いつも無表情の彼にしては珍しく、眉を顰めながら彼女の質問に答えてくれた。

 

「かつて洩矢の国では、洩矢神様に幼い人間の少女を生贄として捧げていたらしいのであります。故に、その形を取り込んだ洩矢神様は幼い少女の御姿をしている、という言い伝えがあるのでありますよ」

 

「い、生贄…!?」

 

「なんか聞けば聞くほどヤバい神様だな…」

 

「のんきな奴らめ!実際にヤバい神様だから、私たちがこうやって焦っているのだろうが!」

 

 夏目たちの呟きに、斑は怒る。

 生贄の伝承があるということは、洩矢神の荒ぶりは幼い少女を犠牲にしなければ治まらぬということだ。無論、それを口にすると夏目たち人間組は『そんなことは絶対にさせない』などという面倒臭い反応をするだろう。そう思ったので、斑はそこまで打ち明けることはしなかった。

 一方で、事情を知っている妖組は戦々恐々である。中でも、そこまで大きな力を持たない中級たちは半ベソで夏目に縋っていた。

 

「夏目様ぁ。洩矢神様から見れば、中級の私たちなんて吹けば飛ぶような存在ですぞぉ…」

 

「私たち居ても役に立たないでしょうから、帰っても良いですか…?」

 

「う~ん…」

 

 両サイドから懇願されては夏目も迷う。そこに無情にも拒否を叩きつけたのは斑だった。

 

「帰すなよ、夏目。コイツらでも囮くらいにはなるだろう」

 

「横暴だー!」

 

「パワハラだー!」

 

 斑がジト目で言い捨てると、中級たちは酷い酷いと騒ぎ立てる。とはいえ、斑も夏目も分かっていた。口ではこう言っているが、結局は彼らもいつものように最後まで手伝ってくれる。夏目たちの間にはそういう信頼関係があったのだ。

 騒ぐ中級たちをフフンと鼻で笑い、斑は言葉を続けた。

 

「半分は冗談だ。なにせ私たちだって好き好んで近づくつもりは無いからな。それに守矢神社にはタケミナカタ様が…いや、八坂様が居られるのだ。昨晩、山に満ちていた気配も力強い見事なものだったし、洩矢神が非道を働こうとしても八坂様が止めてくれるだろう」

 

「と言うよりも『八坂様以外、誰も止められない』が正しいでありますな。我々が下手に首を突っ込むと洩矢神様を刺激しかねません。ここは八坂様に任せるしかないであります」

 

 そう、斑たちではどうすることも出来ない。いくら議論を尽くそうが結論はそこに行き着く。

 故に、斑たちがやるべき事はただ一つ。万が一に備えての警戒だけだった。

 

「うーん、そうか…。ん?それなら、ニャンコ先生。結局、あの緑髪の転入生は八坂様と洩矢神様の、どちらの味方なんだ?」

 

 ふと疑問を感じた夏目が斑に尋ねた。今までの話から、夏目の頭の中では八坂様が良い神様で、洩矢神が悪い神様というイメージが構築されてしまっている。ならば、その神社の巫女だというあの緑髪の女子は善か悪か。それが気になった。

 

「それは八坂様だろう。昨日も言ったが、あの緑髪の小娘は八坂様と思われる神格の加護を受けている気配があった。それは間違い無い。…いや、待てよ。だとすると、奴は主神である八坂様の代わりに、封印から出てしまった洩矢神の動向を見張っていたのかもしれん。使役していたミシャグジたちも、八坂様から借りていたのだとしたら納得がいく。諏訪大戦の敗北後、生き残ったミシャグジたちは八坂様に降伏しているはずだからな」

 

「洩矢神様の自由を八坂様が条件付きで御認めになられている、ということでありますか?…なるほど、それなら辻褄は合うであります」

 

「「そうですな」」

 

 斑とちょびの言葉に中級たちもウンウンと頷く。確かにそれならば有り得る。というよりも、そうでなければ八坂様が健在だというのに洩矢神が出歩いていることに説明がつかない。可能性は高いと斑たちは踏んでいた。

 

「じゃあ、とりあえずは安心ってことか?あの転入生の女子も悪い奴じゃ無かったんだな。…妖をミシャグジ様に喰わせていたのは怖かったけど」

 

「そうだな。妖がハッキリ見えるのなら、夏目とも話が合うんじゃないか?」

 

「私も明日、東風谷さんと少し話してみようかしら」

 

 夏目、田沼、タキの3人もホッと息を吐くと、思い思いに言葉を交わした。悪い妖でないのならば、妖の見える彼女は夏目たちの良い友人になれるだろう。

 しかし、あくまでもそれは“斑たちの話が真実であれば”という前提の話だ。斑はそれを窘めた。

 

「おい、今の話はあくまでも私たちの予想だ。安心するにはまだ早いぞ。そもそも、守矢神社の主神たちが何故この地にやって来たのか理由が分からんのだ。手は出せぬが、目的が分からねば安心も出来ん。一応、今ヒノエに探らせさせているところだが…」

 

「ヒノエが?そうか、ヒノエも手伝ってくれているんだな」

 

 夏目がしみじみと呟く。ヒノエとは呪術を得意とする人型の女妖である。夏目の祖母・レイコに心底惚れ込んでいた彼女は、レイコに瓜二つの夏目を非常に気に入っていた*2

 斑とは旧知の仲であり喧嘩友達のような関係であるヒノエだが、今回の件に対しては彼らと同様に危機感を覚えたのだろう。斑が昨晩の出来事を伝えるとすぐに調べに行ってくれたとのことだった。

 

「ふぅむ、それにしても守矢神社がやって来た目的ですか…。今は無くなってしまいましたが、昔はこの辺りにも守矢の分社があったと聞いたことがあるので、その関係で来られたのでは?」

 

「とはいえ、こんな田舎にまで主神が直々に来られたという話は聞いたことも無いですが」

 

 中級の2人が所見を述べた。そもそも守矢神社との関係など、この地にはその位しか無い。そして、その『分社』と言う単語に夏目が思い出したかのように頷いた。

 

「そういえば、あの転入生が初日に言っていたな。途絶えた分社を立て直すために引っ越して来たって…」

 

「分社を立て直しに来た?ふん、嘘だな。それだけの為に主神がわざわざ大規模転移術を使用して来るなど考えられん」

 

 しかし、それは違うと斑は言う。

 そもそも転移術というのは恐ろしく難易度の高い術である。小さな物質の転移ですら非常に手間と妖力が必要となるというのに、神社ごと持ってくるとは頭がおかしいレベルである。

 その手間をかけてまで分社を立て直しに来たなどとは到底ありえない。故に、その言い訳は嘘に違いなかった。

 

「う~ん、じゃあ他の理由か…」

 

「あ、そうだ!」

 

「タキ、なにか思い出したのか?」

 

 夏目が唸っていると、タキが声を出す。田沼がそれを彼女に尋ねると、タキはコクリと頷いて話し出した。

 

「うん。実は今日、学校で東風谷さんがクラスの人たちに聞いて回っていたの。『夏目レイコって女性を探しているのですが、名前に聞き覚えはありませんか?』って…。同じ名字だから夏目君に後で聞いてみようかなって思ってたんだけど、それどころじゃない話になっちゃったから忘れちゃってて…え?皆どうしたの?」

 

 タキが周りを見ると、皆がポカンと口を開けている。ただ、夏目だけが魂の抜けた表情で天を仰いでいた。

 一方で、先に気を取り直した妖たちは口々に騒ぎ出す。レイコのことはもちろん、彼女が作り出した『友人帳』のことも知っている彼らは揃って焦っていた。

 

「小娘!それをさっさと言わんか!マズいぞ、レイコ関係か!」

 

「守矢神社を相手に一体何をやったでありますか、あの人間は…」

 

「「やっぱり帰らせて下さい、夏目様~!」」

 

 斑は小さな前足で頭を抱えているし、ちょびは大きな溜息を吐いている。中級たちは放心している夏目を左右からガクガクと揺すっていた。

 

「確か、夏目レイコって…」

 

「え?え?皆は知ってるの?」

 

 田沼も夏目との今までの付き合いから少々知っている。無論、友人帳については知らないが、少なくとも『夏目レイコ』という名前くらいは知っていた。知らないのはタキだけだ。

 

 一難去ってまた一難。結局、悩みは解決せずに夏目たちの苦悩は続くのであった。

 

*1
もちろん未成年の夏目に酒を飲ませるわけにはいかないので、代わりに犬の会で飲み干そうという思惑である

*2
そんなヒノエも夏目組 犬の会のメンバーである




 八坂神奈子=タケミナカタ説
 東方原作では同一だと明言はされていません。そのため別の神様説も存在してますが、風神録の早苗も『準備「サモンタケミナカタ」』というスペルカードを使っていることですし、このSSでは同一説で行かせてもらいます。

 生贄を捧げられた諏訪子様
 生贄についても東方原作においては明記なし。しかし、史実における洩矢神は本当に生贄を捧げられていました。史実では女児ではなく男児を生贄に捧げていたらしいので、洩矢神は男児の姿をしていると言い伝えられているそうです。東方の諏訪子様がロリ体型なのは、その伝説からのイメージだと思われます。


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邂逅

 あの転入生が夏目レイコを探していると知ってから一日が経った。結局、それ以外の事は分からずじまいで、名取とも未だに連絡が取れていない。夏目としては正に手詰まりといった状態であった。

 

「はぁ…」

 

 授業が終わると、夏目は帰る準備を整えつつ溜息を吐いた。今日こそは名取と連絡が取りたい。というよりも、ここまで繋がらないとなると逆に彼のことが心配になってくる。名取が俳優業の裏でやっている妖祓い人という仕事は、それほど危険なものなのだ。

 そういう焦りもあって夏目が少し急いで下校しようとしていると、友人の西村が興奮したように肩を叩いてきた。

 

「おいおい、夏目!いつの間に知り合ったんだよ!」

 

「ん?何の話だ、西村?」

 

 そう聞き返す夏目に、西村はニヤニヤと笑いながら肘で夏目を突いてくる。彼がこんな感じになるのは、大抵女の子絡みの時だ。つまり、割といつもの事である。

 

「とぼけるなって!ほら、例の美人転入生が夏目を探しているぜ!」

 

「すみませ~ん。このクラスに夏目さんという方がいらっしゃるとお聞きしたのですが…」

 

「ゴホッ!?ゲホッ!?」

 

 西村が指差す先はあの緑髪の転入生。しかも、彼の言う通り夏目を探している。あまりの衝撃に、夏目は激しく咳き込んでしまった。

 

「夏目君なら、あそこに居るよ」

 

「わぁ、どうもご親切にありがとうございます!」

 

 たまたま転入生の近くに居たクラスの女子が夏目の場所を教える。彼女はニッコリと笑みを見せながら礼を言うと、こちらへと向かって来た。

 

(まずい!あの転入生が安全かどうかまだ分からないし、そうでなくても学校でレイコさんの話は出来ない!)

 

 どちらにしても、学校では人目が有りすぎる。夏目は自分のカバンを引っ掴むと、走って教室から飛び出した。

 

「あ、おい夏目?」

 

「ダッシュで逃げられた!?ちょっと待ってくださ~い!」

 

 転入生も慌てて夏目の後を追う。残された生徒たちはポカンと口を開けてそれを見ていた。

 

「今、走っていったの夏目と5組の転入生じゃないか。一体どうしたんだ?」

 

 夏目たちとは入れ違いで2組にやって来た北本が、クラスに残っていた西村や辻に尋ねる。しかし、彼らも全く分からないので適当に推測し始めた。

 

「はは~ん。夏目の奴め、さては美人の前で緊張しちゃったな~」

 

「夏目はシャイだからな」

 

「東風谷さん、この近所で夏目誰々っていう女性の人を探してるんだって」

 

「ああ、それで夏目に…」

 

 西村と辻は夏目がシャイボーイということで納得している。その横で北本は近くの女子から転入生が訪ねてきた理由を聞いていた。確かに、この辺りで夏目性といえば彼くらいしかいないが、そもそも夏目自身違う町から来た転入生である。恐らく人違いだろうと北本は頷いて見せた。

 

 

 

「やぁ西村、辻。夏目知らないか?ちょっと用事があるんだが…」

 

 夏目たちが出て行って数分もせずに田沼が2組を訪れた。タキも一緒である。昨日の斑たちの話もあり、用心の為に今日も3人で下校しようと思って夏目を探しに来ていたのだ。

 田沼は西村たちに声をかけながら夏目を探す。しかし、彼は見当たらない。もしかして先に帰ったのかなと思っていると、西村が衝撃的なことを口にした。

 

「よう、田沼。タキさんも。夏目なら帰ったんじゃないか?五組の転入生が夏目を探しに来た途端、顔色変えて教室から飛び出して行ったぞ」

 

「「え!?」」

 

「それで転入生も夏目を追いかけていったぜ」

 

「「え゛!?」」

 

 補足するように辻がそう付け加えると、田沼たちは顔を真っ青にして二度目の声を上げた。先手を打たれたことを知って動揺が隠せないようだ。しかし、2人はすぐに気を取り直し、夏目救出への行動を起こした。

 

「タキ!俺たちも追いかけるぞ!」

 

「ええ!」

 

 何をするにしても、とにかく夏目たちに追いつかねば話にならないだろう。田沼とタキは互いに頷くと走り出していった。

 

「何なんだ?」

 

「さぁ…?」

 

 しかし、残された者たちは何が何だか分からない。それでも、『まぁ、今度聞けば良いか…』という雰囲気になり、彼らも下校していくのであった。

 

 

 

「待ってくださ~い!」

 

「はぁはぁ…!」

 

 一方、夏目は未だ転入生に追われていた。

 夏目は自宅に向かう道ではなく、近くの林道を走っている。その理由として藤原夫妻を巻き込みたくなかったことが一つ。二つ目に、今の時間帯であれば斑がこの辺りをよく散歩しているからだ。この転入生が妖だった場合、夏目単独で撃退するのは難しいだろう。故に、どうしても斑の力が必要だった。

 

「もうちょっとで追いつきますよ!」

 

「はぁはぁ…。くっ…!」

 

 しかし、斑を見つける前に夏目は追いつかれそうになっていた。彼が貧弱なのは仕方無いとしても、転入生が意外と健脚なのである。夏目が息も絶え絶えでヘロヘロなのに対して、彼女はほとんど息も切れておらずスピードも落ちていなかった。

 2人の距離が徐々に近付いていく。このままでは背後から襲われてしまうと夏目が痛みを覚悟した瞬間――隣を転入生が抜き去っていった。

 

「やった、勝ちました!…はっ!?違った!」

 

 夏目を追い抜き、ドヤ顔で両手ガッツポーズを決める転入生。逆に、疲れ果てた夏目は走る足を止めて、膝から地面に崩れ落ちた。四つん這いの状態でゼェゼェと息を整えていると、転入生がゆっくりと近付いてきた。

 

「すみません、少々お聞きしたいことがあるのですが…あの、大丈夫ですか?」

 

「な、なんとか…」

 

 死にそうなくらいの顔色を見て、流石の転入生も心配になったらしい。彼女が気にかけて声をかけてきた。その様子を見る限り、少なくともいきなり襲いかかってくるということは無さそうだ。

 それからしばらく経つと、夏目も会話が出来る程度には呼吸が戻ってきた。フラフラと立ち上がり転入生と向かい合う。すると早速、彼女の方から話を切り出してきた。

 

「私、先週5組に転入してきた東風谷早苗と申します。貴方が夏目さんですね?」

 

「ああ…。2組の夏目貴志だ…」

 

「実は私、人を探しているのです。その方は夏目レイコさん。夏目さんと同じ名字ということでお声をかけたのですが、ご存知ないでしょうか?」

 

 タキから聞いた通り、転入生こと東風谷早苗はレイコを探しているようだ。強大な神格を有する守矢神社と祖母レイコ。どんな関係にあるのか夏目には想像もつかないが、レイコが恨まれているのであればマズいことになるだろう。

 故に、夏目は彼女の質問には答えず、恐る恐る問い返した。

 

「…なぜ、その人を探しているんだ?」

 

「ええっと、私の知り合いの方がレイコさんにとある物を預けていまして。それを返してほしいのです」

 

「知り合いのとある物…」

 

 夏目が呟くと、早苗は真剣な表情でコクリと頷いた。全く具体性の無い回答である。普通であれば、何のことか分からないだろう。しかし、夏目には心当たりがあった。レイコが唯一遺した冊子、『友人帳』。その友人帳の中にはレイコが集めた妖の名が眠っているのだ。

 

「恐らくレイコさん本人しか知らない物だと思います。ですから、どうにか会ってお話したいのです」

 

 “レイコしか知らない”ということは、やはりそうなのだろう。孫である夏目ですら斑から聞くまでは全く知らなかった程だ。それこそ、妖からその情報を聞かない限り、他に知っている人間は居ないはずである。

 

「夏目さん。ご存知であれば、お願いします!」

 

 そう言って早苗は頭を下げて頼んだ。妖の名を使って悪用しようとしている雰囲気には見えない。実際、悪意があれば力尽くで夏目から聞き出そうとしているだろう。あの夜に見た彼女はそれだけの力を振るっていたのだから、強いのは間違いないはずだ。

 だというのに、こうやって頭を下げているのだから、少なくとも悪い妖ではないと夏目は思った。

 

「…分かった、教えるよ。少しだけだがレイコさんのことは知っている。夏目レイコは…俺の祖母だ」

 

「本当ですか!?わぁ、良かった。これで返してもらえれば一件落着です!夏目さん、お婆様の所在を教えてもらえないでしょうか?」

 

 顔を上げた早苗は、パァっと顔を輝かせる。夏目レイコという人物を探し始めてまだ2日だというのに、早くも重要な手掛かりを入手した。後は、彼女の所に赴いて妖や神格たちの名を返してもらうだけだ。彼のような孫がいるほどのお婆さんなのだから、心配していたほど粗暴な女性ではないだろう。

 神格の名を奪った件については少々お説教が必要だが、これは簡単に解決出来そうだと早苗が安堵していると、反対に夏目は静かに首を横に振った。

 

「いや…、レイコさんはもう居ないんだ」

 

「え?」

 

「若い頃に亡くなったらしい。俺もレイコさんのことは他人から聞いた話しか知らないんだ」

 

「そんな…。すみません夏目さん。私、知らずとはいえ失礼なことを…」

 

 早苗が申し訳なそうに謝った。そう、妖は長命なのだ。思い返してみれば、あの妖は名をまるで最近奪われたかのような口調だったが、いつ奪われたなどは言っていなかった。恐らく、何十年も前の事であり、あの妖も既にレイコが故人であることを知らなかったに違いない。

 

「気にしないでくれ。それよりも返してほしいものって、もしかして…妖に関係することか?」

 

「そ、そうです!ということは夏目さんも“見える”のですね。妖力が高いように感じたので、もしかしたらとは思っていましたが」

 

 夏目が真意を探るように訪ねると、早苗は少し驚いた様子を見せながらも朗らかに肯定した。

 妖が見える人間はそう多くないが、皆無という訳でもない。早苗も諏訪の地では、他神社の神主や寺の住職など見える人物とは出会ったことがある。ただ、そのほとんどが高齢者であり、夏目のように同世代で見える人と出会ったのは早苗にとって初めてのことだった。

 

「ああ、見える。…キミの髪も明るい緑色に見えている。今も」

 

 夏目が早苗を見ながら言った。向かい合って見てみると、彼女は髪だけではなく瞳の色すらも薄く緑がかっていることが分かる。顔が非常に整っているだけに、かなり神秘的な雰囲気だ。しかし、笑みを浮かべると途端に素朴で陽気な雰囲気に変わるのだから不思議である。

 夏目がそう思いながら見ていると、早苗は感心したかのように頷いた。

 

「へぇ~。では、完全に妖が見えるタイプですね。私の髪は普通の人が見ると黒色なのですが、妖力が有る人には緑色に見えるんですよ。特に、夏目さんみたいに妖力が強い人には、明るい緑色に見えるみたいです」

 

「それって大丈夫なのか?身体に何か悪い影響があったりするんじゃないか?」

 

 早苗がその緑のロングヘアを手で梳いてみせながら教えると、夏目は単純に心配になってそう声をかけてしまった。彼の友人の名取にも全身を動き回るヤモリ型の痣という奇異がある。それと同じように彼女も悩んでいるのではないかと思ったのだ。

 だが、早苗はそんなことを悩むどころか気にしてすらもいなかった。

 

「あはは、大丈夫ですよ。私の髪が緑色なのは生まれつきなんです。妖力や霊力の強さが髪の色に出ちゃっているだけだと私の神社の神様は仰っていました」

 

「へぇ、そうなのか…」

 

 もしも、髪色が早苗の身体に悪影響を与えているのだとしたら、守矢の神々は必死に、それこそ形振り構わず解決策を探るだろう。しかし、彼女らにそんな様子は無いし、そもそも守矢の神々も金髪だったり紫っぽい青髪だったりする。言ってしまえば、髪の色なんてそういうものなのだ。

 

「それはともかく、夏目さんも妖について語れるのでしたら話は早いですね。私が探しているのは妖の名前。隣山の妖さんから『夏目レイコに名を奪われたので、それを取り返して欲しい』というお願いを受けたので叶えてあげたいのです」

 

「えっと…レイコさんが守矢神社にちょっかいを出したとかそういうのじゃなくて、普通に妖の名を探しているのか?本当に?」

 

 話を本題に戻して早苗は言うと、夏目は“それだけ?”といった様子で聞き返した。あのレイコならば、もっと派手にやらかしているかもと思っていたが、そんなことは無かったようだ。その証拠に、早苗は不思議そうに首を傾げていた。

 

「ええ、そうです。彼女のことを聞いたのも、その妖さんからですし。…え、というかレイコさんってウチのような神社にも手を出す方だったんですか?妖さんから、暴力で名を聞き出して子分になるように迫ってくるとか、神格からも名を奪っているとか聞いてはいたのですが…」

 

「……。大体間違ってはないな。暴力じゃなくて名を賭けて勝負した結果だけど」

 

 彼女の神社と敵対していないことには一安心だが、名を奪った件についてはどうにも悪い印象を与えてしまっているらしい。特に神格については、ツユカミやオババなど夏目が知っているだけでもレイコは2人の神格から名を奪っている。

 しかし、一応これらはレイコが『負けた場合は自分を食べても良い』と自分の命を賭けた上での勝負である。夏目がそれを早苗に伝えると、彼女は困ったように唸った。

 

「勝負ですか。う~ん、両人が納得した上での結果なら良い…のでしょうか?でも、一昨日の妖さんは全く納得していませんでしたし、尊ぶべき神々の名を奪うのは流石に不敬ですし…」

 

「いや…。レイコさんは妖たちを従わせるために名を奪った訳じゃないんだ。妖が見えることで、変人だとか心を病んでいるとか周りの人たちから言われて避けられて…。たぶん寂しかったんだと思う。だから、妖と関わった興味から名前を集めて…、それが偶然にも力を持って彼らを縛ってしまった。レイコさんはただ寂しかったんだ…」

 

 正しいか、正しくないか。早苗が悶々と悩んでいると、夏目は静かにそう語った。

 妖たちからレイコの話を聞くにつれ分かってくる彼女の想い。夏目も全てを知った訳ではないが、少なくともレイコは妖の名を悪用することは無かった。きっと、彼らの名は彼女にとって大切な宝物だったのだ。

 

「うう…」

 

「え?」

 

 彼女の経緯を聞いた途端、早苗が俯いて呻き声を上げた。一体どうしたのかと夏目が声をかけようとした瞬間、彼女がバッと顔を上げて大きく叫んだ。

 

「私、感動しました!!」

 

「うわっ!?」

 

 突然の大声に、夏目は思わず後ずさる。しかし、彼女はそんなことを気にせず、瞳を星々の様に煌めかせながら夏目に詰め寄ってきた。

 

「人ならざる者が見えることで生まれてしまう悲劇はあるかもしれません!ですが、見えるからこそ生まれる関係もあるのですね!」

 

「あ、いや、それでもレイコさんが横暴だったのは事実らしいし、恨んでいる妖は結構居るんだけど…」

 

「自分の命を賭けてまで友情を育むなんて…!正しく種の垣根を越えた関係です!本当に感動しましたよ!夏目さん!」

 

「聞いていないな…」

 

 早苗が鼻息荒く熱弁を振るう。グイグイと顔を近づけてくるので、気恥ずかしさもあり夏目は顔を背ける。しかし、ずっとそうしている訳にもいかないので、早苗が少し落ち着いてきたタイミングを見計らい夏目は彼女に語りかけた。

 

「まぁ、そうは言ってもレイコさんが亡くなっている以上は、俺も何とかして妖たちに名を返したいと思っているんだ。名を取られた妖たちも不安だろうし、奪い返しに襲って来られるのも困る」

 

「あ、そうですね!お願いしてきた妖さんみたいに、レイコさんのことを誤解している方もいるようなので、私も返してあげた方が良いと思います」

 

(その妖たぶん誤解じゃなくて、本当にレイコさんのことを恨んでいるんだろうなぁ…)

 

 夏目は複雑な表情をしながら心の中でそう呟いた。実際、レイコを好意的に見ている妖も居るが、同時にそれ以上の数の妖たちから恨みを買っていたのだ。これまでも、名を返した途端に襲って来た妖も居たので楽観視することは出来なかった。

 

「ですが、ちょっと困りましたね。恐らく妖さんの名前は紙や木札などに書かれていると思うのですが、レイコさんが亡くなっているのなら行方がしれません。仮に見つけたとしても、このタイプの解呪は本人でないとかなり厄介です」

 

「…!」

 

 口元に指を当てて首を傾げながら早苗は言う。その言葉に、夏目は僅かに冷汗を浮かべた。彼は流石に『友人帳』の存在までは喋るつもりは無い。しかし、彼女はそういう呪物に対する知識が豊富なのだろう。その予想はかなり近いところを突いていた。

 そこで、夏目は試しにと質問を投げかけてみた。

 

「…名を書かれた物を見つけたら妖を解放してやるのか?自分の物にする訳ではなく?」

 

「もちろんです!もしも、それを壊されたり燃やされたりでもされてしまったら、妖さんは成す術なく死んじゃうんですよ?この先ずっとそんな恐怖に怯えたまま過ごすだなんて…そんなの可哀想じゃないですか」

 

 そう断言する早苗の顔は憐れみに満ちている。少なくとも夏目にはそう見えた。

 しかし、だからこそ分からない。あの日の夜、こんな優しい少女がミシャグジたちを操り、邪鬼を殺し喰わせていたのだ。その相反する彼女の二面性が、夏目の中で酷く気にかかっていた。

 

「…なぁ、俺をその妖の所まで案内してくれないか?レイコさんの孫の俺なら、もしかしたら何とか出来るかもしれないんだ」

 

 故に、夏目は危険を承知でそう言った。どちらにしろ、彼女の神社から藤原夫妻の家までの距離はそこまで離れていないのだ。ならば、遅かれ早かれ見極める必要があった。

 その為に夏目が立てた作戦は、『早苗と共に行動して、雑談の中で守矢神社の目的をこっそり探る』。そして、『彼女の見ていない所で、妖の名を返す』の二つである。

 つまりところ、行き当たりばったりだ。

 

「え、本当ですか!?是非ともお願いします!解呪出来なくとも、レイコさんの血縁で妖力の強い夏目さんが居れば手掛かりになるかもしれませんし、いざという時は頑張って私が“奇跡”を起こしますので!」

 

「はは…。じゃあ、その時は頼むよ」

 

 諸手を挙げて喜ぶ彼女に、夏目は表面だけの笑みを浮かべて答えた。

 なお、早苗は軽く奇跡と口にしたが、もちろんこれは“運が良ければ”という意味合いでは無く、本物の“神の奇跡”のことである。神々の力を誰よりも信じている早苗は、その奇跡さえ起こせば解呪など楽勝だと考えていた。*1

 

「では、早速行きましょうか!丁度、その妖さんとは今日の夕方に会う約束をしていたんですよ。そろそろ時間になりそうですし、今から案内しますね!」

 

「い、今から…?」

 

「ええ、そうですとも!さぁ、夏目さん。こっちですよ!」

 

「ちょっ!?」

 

 早速、道案内にズンズン歩き出した早苗を夏目は慌てて追いかける。せめて、一度家に戻って斑と合流してから向かいたかった。しかし、どうやら彼女は人の話を聞かないタイプらしく、それも恐らく善意からきていることなので余計にタチが悪い。

 どうしようかと夏目が歩きながら悩んでいると、見覚えのある丸っこいボディが目に入った。そう、元々ここは斑の散歩コース。彼と出会う確率が高いからこそ、夏目はここに逃げてきていたのだ。

 

「あれは…!お~い、先生!ニャンコ先生~!」

 

「む、なんだ夏目か。私は情報収集で忙し…ぬお!?緑髪の小娘が居るではないか!?一体、どういうことだ!?」

 

 夏目の呼びかけに斑が面倒臭そうに振り返った瞬間、血相を変えて驚愕の声を上げた。せっかく慎重に事を進めようと顔の利く場所で情報を集めようとしていたのに、無謀にも彼女に接触しているのだ。あれほど守矢神社を刺激するなと言っておいたのに“一体お前は何をやっているんだ”という話である。

 無論、逃げる夏目を早苗が追いかけてきた訳なので、彼にも言い分は有るのだが。

 

「もしかして夏目さんのお友達の妖さんですか?へー、ずいぶんとボン()キュッ()ボン()ボン()ボン()!な猫ちゃんですね!」

 

 近くに寄ってきた斑を早苗は興味深そうに覗き込んだ。よほど妖に慣れているのだろう。相手が喋る猫だからといって驚く様子は全く無く、むしろ当然のように接していた。

 

「猫の妖といえば猫又などが有名ですが、この子の尻尾は…あら、短くて可愛らしいのが1本。猫又ちゃんではないのですね」

 

「コ、コラ!尻を覗くな!尻を!おい、夏目!説明しろ!」

 

 早苗が尻を重点的に観察(セクハラ)していると、斑が抗議の声を上げた。そして、夏目の身体を登ると肩に乗りつつ問い質す。彼は斑にだけ聞こえる小声でこれまでの経緯を話した。

 

(――という訳なんだ)

 

(妖に頼まれただと?う~む、いくら大神の巫女といえども、妖が名を奪われたことを人間に話すとは思えんが…)

 

 斑は訝しげに唸った。妖にも野生の獣のように危険を察知する本能というものがある。故に、名を奪われた妖が暴露するとは考えがたい。加えて、守矢神社はつい最近やって来た余所者の筈である。ますます名を奪われたことを話すとは思えなかった。

 

「猫ちゃん、おいでおいで」

 

「…む?」

 

 そんな斑の疑念も知らずに、早苗は手を差し出して呑気に彼を呼んでいる。しかし、完全に警戒している斑がそう簡単に身を許す筈もない。夏目の肩から下りた斑は、早苗の周りを歩きながら彼女を検分する。

 そして、そこまで近付いたことであることに気が付いた。彼女が持つ独特の気配。斑はそれを匂いとして感じていたのだ。

 

「むむむ!?こ、この匂い!まさか貴様はッ!」

 

「せ、先生?どうした?」

 

 斑がその場を飛び退き、早苗から距離をとった。そして夏目の前へと移動し、彼を守るかの如く立ちはだかる。その顔は焦りと緊張に満ちていた。

 彼のただならぬ様子に夏目が訪ねる。すると、斑は早苗から一切視線を外さず、強張った表情でその理由を話した。

 

「この神格と人が混じったような奇妙な匂い…!八坂様の巫女だからそれ故の匂いかと思っていたが、それだけではない!この娘自体からも明らかに神格の匂いがする!人間では有り得ぬ匂いだ!気をつけろ夏目!お前が懸念していた通り、此奴は人間ではなかった!」

 

「な!?そんな…!?」

 

 夏目は絶句した。間違い無く人間だと、自分と同じ境遇にある者だと思っていた。しかし、そうではない。人間ではなかったのだ。先程まで彼女が言っていたことが全て嘘だったと考えると、裏切られたようで酷く悲しくなった。

 しかし、そんな思いを胸にしまい込み、夏目は早苗と相対して構えた。正体がバレた以上、彼女は襲ってくるだろう。ミシャグジや洩矢神をけしかけてくる可能性だってある。夏目も斑もそう考えていると、早苗はニンマリと笑いながら歩をゆっくりと進めてきた。

 ――襲ってくる!夏目と斑は酷く緊張しながら身構えた。

 

「そうなんですよ~。今の私、半分人間で半分神様なんです。驚きました?」

 

「か、軽いな…」

 

 なんてことはない。ノンビリ歩きながら軽いノリで暴露した早苗に、身構えていた夏目と斑の身体からガクッと力が抜けた。軽すぎて逆にビックリする。そして当然、彼女が襲ってくる気配など微塵もなかった。

 

「…半分とは、混血ということか?」

 

 何ともいえない表情で斑が問う。神格と人間の混血というのは大変珍しいが、前例が無い訳ではない。神と人との間に生まれた存在は『半神』と呼ばれ、日本神話だけでなく世界各地の神話でも記されているのだ。*2

 彼女もそういった半神なのかと聞いたが、彼女はそうではないと首を横に振った。

 

「いえ。元々は人間だったのですが、ちょっと前に現人神になっちゃいまして。それで半分神格に」

 

「なっ…!?馬鹿な、この時代に現人神だと…!?」

 

 斑が目を見開いて驚く。フレーメン反応する猫のような顔である。つまり斑にとって、それだけ衝撃を受ける事実だったのだ。

 

「先生、あらひとがみって?」

 

「生きながらにして神格へと至った人間の呼び名だ…。死後に神格として奉られた偉人は数多く存在するが、存命中に神格へ至った人間というのはほとんど居ない。故に、非常に珍しい存在なのだ。少なくとも近年は噂すら聞いたことが無かったのだが、まさかこんな小娘が…」

 

「えへへ。凄いでしょう?」

 

 斑の説明に早苗が腰に手を当てて胸を張った。渾身のドヤ顔である。

 斑の言う通り、現人神という存在は半神に並んで珍しかった。ただ人々の信仰を集めるだけならカルト教団の教祖や有名人程度だって可能だが、無論その程度で現人神に成れるはずがないからである。

 人が神格に至る為には、まず大前提として強い霊力・妖力を持っていなければならなかった。その上で神格としての修行を積む必要がある。神とは何たるかを深く理解し、身も心も神へと近づけていくのだが、これがどんな苦行よりも難しい。聖人や名僧と呼ばれ歴史に名を残した者たちですら、この領域に至れた者は数えるほどしかおらず、至った者たちですら死の間際でようやく悟ったというレベルであった。

 

 しかし、早苗は年若くして神格へと至った。強い霊力・妖力を生まれながらに持っていたことはもちろん、最高位の神々と家族として過ごしてきたことで神格の領域が非常に身近であったからだ。つまり、彼女は始めから現人神に至る下地が完成されていたのである。

 後は、人々から少し信仰されるだけで簡単に現人神になれる。これが最年少の現人神・東風谷早苗の誕生秘話であった。

 

「ええっと…、じゃあキミは一応人間ってことなのか…?」

 

「そうですね。信仰が無くなったら現人神から元の人間に戻っちゃうみたいなので、基本(ベーシック)は人間で、今は神格の力が宿った特殊な状態って感じです」

 

 そう説明されて、ようやく夏目は安堵した。一方で、斑は一応の納得はしたものの、まだ彼女を疑っているらしい。早苗をジロジロと観察しながら疑問を口にした。

 

「ふぅむ、現人神ならばこの混じり合った気配にも理解出来る。理解は出来るが…守矢の主神は納得しておられるのか?信仰が御自身ではなく巫女に向かっているのだから、あまり良い顔はせんだろうに」

 

「そんなことはありませんよ?『早苗は凄いなぁ』って沢山褒めてもらいましたから!」

 

 早苗は嬉しそうに答えた。確かに、信仰は彼女に向かってしまっている。しかし、その早苗自身が守矢の主神たちを強く深く信仰しているのだから、信仰は彼女を経由して神々に届いていた。

 だが、そうでなかったとしても神々が早苗を叱責することは無いだろう。彼女たちならば、間違い無く己よりも早苗を優先する。早苗はそれほど愛されていたのだ。

 

「へぇ、優しい神様なんだな。えぇと、確か八坂様だったか?」

 

「ええ、そうです。とぉってもお優しい御方なんですよ!」

 

「お優しい…か。ならば洩矢神が出歩いているのは、八坂様のその優しさ故か?」

 

 鼻高々に自らの主神を自慢する早苗に、斑が鋭い視線で本題に切り込んだ。それを聞いて夏目にも緊張が走る。最強の祟り神と恐れられる洩矢神。行動次第では、どんな大災害が起こるかも分からない存在だ。

 しかし、そんな彼らの緊張とは裏腹に、早苗は自然体のままであった。

 

「諏訪子様?あの御方がどうかなさいましたか?あ、諏訪子様というのは洩矢神様の御名前です。もちろん諏訪子様もお優しいですよ!」

 

「え?」

 

「え?」

 

 早苗の返答に、斑は意味が分からないという声を出して首を傾げた。その反応を見て、答えた早苗も同じく疑問の声を上げる。早苗としては、別に変なことを言ったつもりはない。諏訪子様は優しい。それは彼女にとって当たり前のことだった。

 しかし、斑からしてみれば意味不明といっていい。なにせ相手はあの洩矢神なのだ。優しいなんて、そんな筈がない。

 

「ちょっと待て。守矢の主神は八坂様、つまりタケミナカタ様なのだろう?ならば洩矢神にとっては不倶戴天の宿敵ではないか。何故、八坂様に仕えるお主を可愛がるのだ?」

 

「んん?仰るとおり建御名方神(タケミナカタノカミ)様というのは私がお仕えしている御方の表向きの名称ですが、それで何故私たちが諏訪子様の敵になるんですか?御二方は偶にケンカをすることもありますが、普段はとても仲の良い方々ですよ」

 

「え?」

 

「え?」

 

 今度は顔を見合わせながら、またしても2人は疑問の声を上げる。斑の頭は疑問符だらけだが、逆に早苗は彼が何でそんなに困惑しているのか分からなかった。

 因みに、一緒に聞いていた夏目は話に着いていけず置いてけぼり状態である。

 

「仲が良い?八坂様と洩矢神だぞ?」

 

「そうですよ。だって家族ですもの」

 

「え?」

 

「え?」

 

 三度目の疑問の声。斑はもう訳が分からなくなってきた。諏訪大戦で互いに殺し合った者同士が今や家族になっているなど、誰が理解出来るというのか。意味が分からなすぎて知恵熱が出てしまいそうである。

 

「家族?馬鹿な、そんな筈は…。あの悪名高き洩矢神が…?」

 

 斑が両目をグルグルと回しながら独り言を呟く。

 しかし、混乱しているとはいえ、口に出した言葉が悪かった。早苗はそんな『悪名高い洩矢神』を親のように慕い敬愛しているのである。目の前で悪口を言われては温厚な彼女といえども流石にムッとする。早苗は片頬を膨らませて斑を咎めた。

 

「もう!一体何なんですか!確かに諏訪子様は周りから恐れられているかもしれませんが、本当はとてもお優しい御方なんです。神社の外に出るときは無闇に妖さんたちを怯えさせないよう、わざわざ姿を消して行動なさっているくらいなんですから。いくら可愛い猫ちゃんだからって、失礼な事は言わないでください!あと、諏訪子様にもちゃんと『様』をつけること!罰として肉球プニプニの刑です!えいえい!…うへへ」

 

 早苗は絶賛困惑中の斑をコロンと仰向けに転がすと、その短い前足を捕まえてピンク色の肉球を揉みしだいた。猫の肉球というのは神経が集まっている部分であるため、触ると嫌がる猫は多い。

 しかし、だからこそ重罰となるのだ。決して触りたくて触っている訳ではない…と早苗は自分に言い訳をしながら魅惑の肉球を堪能する。ついでと言わんばかりに、まん丸とした腹も撫で回すがモチモチとした柔らかさが堪らない。何なのだ、この妖は。もしかしたら猫の妖ではなく、大福餅の妖かもしれない。

 

「待て待て…。追いつかん、理解が追いつかんのだ…。夏目はどうだ…?」

 

「お、俺…!?ええっと…八坂様も洩矢神様も、とても優しくて凄い神様ってことか…?」

 

 早苗にされるがままの状態で斑は力無く夏目に尋ねた。しかし、そうは言われても彼だって理解は出来ていないのだ。当たり障りのないことを怖ず怖ずと答えて、早苗の反応を確かめてみると――彼女は満面の笑みだった。

 

「全く以てその通りです!流石は夏目さんですね!素晴らしいです!」

 

「もう、それで良いわ…」

 

 どうやら正解だったらしい。夏目を絶賛する早苗の声を聞きながら、斑は疲れ果てたように呟くのであった。

 

*1
なお、実際に解呪可能かどうかは不明である

*2
特にギリシア神話には半神が多く登場する




 タキ&田沼「夏目たちは何処にいったんだ…?」
 現在、2人で頑張って夏目君を捜索中です。でも、見つける可能性は低そう。


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真実

「猫ちゃんは『ニャンコ先生』って呼ばれているんですか?可愛いお名前ですね!私は東風谷早苗と申します。これでも守矢神社の風祝なんですよ」

 

 時刻は午後六時頃。2人と1匹は言葉を交わしながら山道を登っていた。

 元々、早苗は今日の夕刻に名を奪われたという妖と再会する約束をしている。そこに夏目を連れていって解呪する、もしくは解呪の手掛かりを探るつもりだった。

 

「かぜはふり?先生知っているか?」

 

「いや、山の妖たちにそう呼ばれていたのは覚えているが詳細は知らんな。そもそも私は守矢神社について詳しくないのだ。知っているのは伝え聞いた神々の伝説くらいなもの。そういう神職については私より名取の小僧の方が詳しいと思うぞ」

 

 斑は首を横に振ってそう言った。神格についてならまだしも、それに仕える人間の役職については流石の斑も把握していない。それならば祓い人である彼の方が詳しいだろうということであった。

 

「お二人ともご存知ありませんか?では、説明しましょう!風祝というのはですね、暴風を鎮める為に風の神様を祀る神職名なんです。守矢神社だけの特別な役職なので、知っている方は少ないですね。なので、普段は『巫女をしています』って言っちゃってます。そっちの方が分かりやすいですし、別に間違っているという訳でもないので」

 

「じゃあ、八坂様は風の神様なのか。戦の神様って聞いていたけど違うのか?」

 

「いえ、合っていますよ。軍神という戦の神様であり、風雨の神様でもあるんです」

 

「なるほど、兼任しているんだな…」

 

 夏目は静かに頷いた。『戦』と『風雨』。それらを司っている神格だと聞くと、とてもじゃないが優しい神様という感想は湧いてこない。むしろ、夏目の脳内では金剛力士像の如き屈強で厳つい大男が八坂様のイメージとして出来上がってしまっていた。

 

「それにしても、守矢神社は何故この地へとやって来たのだ?しかも大規模な転移術で来たと聞いたぞ。神社はおろか敷地ごと転移してくるなど、余程の大事でもなければ有り得んだろうに」

 

「え~と、簡単に言うと引っ越しの練習ですね。私たち守矢神社は諏訪の地を離れ、他の土地に移ることにしました。その地はちょっと遠いので、試しにここへと転移してみたのです」

 

「す、諏訪の支配者とも呼ばれた神格がその地を離れるだと!?一体何故…!?」

 

 斑が血相を変えて聞き返した。神格というのは基本的に地元から離れない。そこが己の縄張りだからだ。故に、その地から転居するということは縄張りを投げ捨てることと同義であった。

 そして、守矢といえば諏訪地域のほぼ全域を縄張りとする神社である。つまり、彼女たちは一国ともいえる領土を自ら手放したのだ。妖の常識からすれば絶対に有り得ないことであった。

 

「恥ずかしながら信仰の減少が原因でして…。神様たちはこのままだと恐らく数十年以内に力を失い消えていくだろうと仰っておりまして…。その前に信心深い土地へと引っ越し、新たな信仰を得なければならないのです」

 

「なんと、そんな理由が…。ううむ、私が気配を感じた際は八坂様も洩矢神様も凄まじい力だと思ったが、あの気配すらも弱体化した果てとは…。流石は最高位の神々と言うべきか」

 

 早苗が理由を説明すると、斑が唸りながらもそう呟く。信仰が薄れても決して色褪せぬ武威。それが守矢の神々だ。斑はそれを思い知らされた。

 

「俺には良く分からないけど、信仰って引っ越して集まるものなのか?信心深い地域だとしても、遠い所からやって来た神社より、昔から有る馴染みの神社の方が…その、なんていうか皆そっちにお参りに行くんじゃないか…?」

 

 夏目が遠慮がちに問いかける。だが、彼の言う通りだ。一般的な信心深い地域ならば、新たな神を受け入れない可能性は高い。排斥まではされないものの、深く信仰されることも無いだろう。

 しかし、夏目たちには言っていないが、彼女たちの引っ越し先は幻想郷である。その辺りの問題は無かった。

 

「それは大丈夫ですよ。神道がとても根深く残っている地域なのですが、元からある唯一の神社には全然信仰が集まって無いらしいのです。不思議でしょう?信心深い土地なのに神社に信仰が集まって無いなんて。なんでも、その神社に仕えている今代の巫女が全然やる気を出さないそうなんです。まったく!神に仕える者として恥ずかしいことですよ!」

 

「まぁ、そのおかげで守矢が信仰を得られそうなんだから良かったではないか。それより、妖との待ち合わせ場所はまだか?」

 

「あ、すみません。もうすぐです。妖さんはもう来てるかな~?」

 

 プリプリと怒っていた早苗を斑は宥めて、話題を逸らした。そうして、キョロキョロと辺りを見渡しながら歩いていると、すぐに獣顔の妖が近付いてきて彼女へと声をかけた。

 

「おお、巫女様…!お待ちしておりました」

 

巫女(・・)様?守矢に恭順を誓った妖なら、正式な職名や名前で呼ぶはず。…なるほど、こやつは名を取り返すために上辺だけへりくだっているのだけの妖だろうな)

 

 斑は首を傾げつつもそう見当をつけた。少なくとも山の妖たちは『風祝様』や『早苗様』と呼んでいた筈なので、彼女の存在は周知されていた筈だ。それを知らないということは、この妖は守矢に所属していないのだろう。

 それはつまり、この妖が万が一にでも夏目に襲いかかってきた場合は、斑は守矢に遠慮することなく撃退出来るということでもあった。

 

「あ、妖さんお待たせしました。連れてきましたよ、この方はレイコさんの――」

 

「おお!此奴めは正しく夏目レイコ!おのれレイコめ!」

 

「視力は大丈夫ですか?明らかに男の子ですよ?」

 

 早苗が夏目を紹介する前に、獣顔の妖は恨み言を叫んだ。まさかの初手ブチ切れである。

 これには流石の早苗も困惑気味で聞き返すが、妖の怒りは治まらない。今にも夏目に襲いかかりそうな様子だ。それを見て、斑が小さく溜息を吐いた。

 

「妖は見た目よりも妖力で相手を判断することが多い。夏目の妖力はレイコにそっくりだからよく間違えられるのだ。知能の低い妖は言っても聞かぬしな」

 

「うわぁ…。色々と大変なんですね、夏目さん」

 

「ああ…」

 

 早苗が同情しながら言うと、夏目は疲れたように頷いた。勘違いで襲われた経験は一度や二度ではない。時には、瓶詰めされて拉致された経験すら有る。最早、迷惑とかそういうレベルを超えている話だ。そして、それはこの妖も同じだった。

 

「さぁ、巫女様!あの忌々しきレイコを始末してくだされ!」

 

「ちょ、始末って…」

 

「レイコの奴め、相当恨まれておったようだな」

 

 妖は夏目を指差して早苗に縋る。聞き捨てならない内容に夏目は焦り、斑は眉を顰めた。他人に頼ってまで殺そうとしてくる相手は、流石にこの妖が初めてだ。夏目は粘つくような強い怨根を感じていた。

 

「話がブッ飛んでいませんか?名を返して欲しいのですから殺しちゃダメでしょう。というか、いくら私だって殺人はしませんよ。常識的に考えて下さい」

 

 一方で、頼られた早苗もこれには困り顔だった。

 彼女は殺人を犯すつもりは無いし、その手伝いをする気も無い。それどころか、早苗は人を襲おうとする妖が居たら退治する側の人間である。当初、夏目レイコの悪行を聞いた際ですら、説教というお仕置きをしてから名前を返却させたら、それで手打ちにしようと考えていたくらいだ。

 故に、人間を殺してくれと頼まれても早苗にはどうすることも出来ない。だというのに、この獣顔の妖は諦めず、更に強く訴えかけてきた。

 

「名など殺した後に回収すれば良いのです!そんなことより、奴は神格の名をも奪った大罪人!その罪は命を持って贖わせるべきです!」

 

「それは誤解だったそうですよ。貴方も夏目さんと話してみて、レイコさんのことを聞いてみたら如何でしょうか。きっと誤解が解消されると思います」

 

「そんなものは知りませぬ!とにかく夏目レイコは殺さねばならないのです!巫女様、早くレイコを殺して…いや、倒してくださいませ!巫女様が倒した後はこの儂が奴のハラワタを喰らい、息の根を止めて見せましょうぞ!」

 

「いやいや、だからですね…」

 

 早苗は説得しようするも、妖は強硬な主張を譲らず埒があかない。その様子を見ていた斑も、馬鹿馬鹿しいとばかりに首を横に振った。このままでは日も落ちてしまうだろう。全く以て時間の無駄である。

 さっさと解決するためにはコチラが動くしかないと、斑は夏目に声をかけた。

 

「おい、夏目。奴等が口論している隙に名を返してしまえ。今なら小娘もこちらを見ておらんし、妖の方も名を返せば怒りも多少は静まるだろうよ」

 

「ああ、分かったよ先生。『我を護りし者よ、その名を示せ』」

 

 夏目は夏目で、自分(レイコ)のせいで早苗に迷惑をかけてしまっていることを気にかけていたようだ。

 斑に言われたとおり友人帳を取り出すと、コッソリと呪文を唱えた。こうやって相手をイメージしつつ呪文を唱えると、友人帳が自動的に名の書かれた紙を割り出してくれるのである。

 

「…あれ?」

 

「夏目どうした?」

 

「『我を護りし者よ、その名を示せ』。…おかしいな、友人帳が反応しない」

 

 しかし、夏目は友人帳片手に首を傾げた。いつもは勝手に動く友人帳が全く反応しないのである。何か間違えたのかと思って夏目はもう一度呪文を唱えるが、やはり友人帳はピクリとも動かなかった。

 

「馬鹿な、そんなことは有り得ん。友人帳に名があれば自動的に割り出す筈だ。依代に封印されている妖の場合は名を探し出せないこともあるが、奴にそういった様子はないしな」

 

「やっぱり変だよな?う~ん、どうなっているんだろう…」

 

 斑にそう言われるも、現に反応してくれないのだから夏目にはどうしようも出来ない。パラパラと友人帳を捲ってみるが、普段との違いもないようだ。

 彼がそうやって悩んでいると、しばし考え込んでいた斑が静かに声をあげた。

 

「……。なるほど、そういうことか。夏目、友人帳を仕舞え」

 

「先生?」

 

 斑はそう言い残して、押し問答を続ける2人の間に立つ。そして、獣顔の妖に向かって言い放った。

 

「おい低級。お前、本当は名など奪われていないな?」

 

「き、貴様、何を言うか…!儂は…!」

 

 それまで斑のことなど眼中にも無かった妖が、ビクリと肩を震わせて口籠もった。一方で、早苗や夏目はまだ理解出来ておらず、頭の上に疑問符を浮かべたような表情をしている。

 そんな2人はさておき、斑は相手を小馬鹿にしたような顔で言い募っていく。すると、妖の表情が徐々に怒りへと変わっていった。

 

「大方、レイコを喰おうとしたものの、軽くあしらわれたことで逆恨みしているのだろう。レイコの眼中にもなかった小者の中の小者。それがお前という訳だ」

 

「黙れ黙れ、白豚め!儂は人間如きに名を奪われた間抜け共とは違う!儂をコケにしたレイコを殺してやるのだ!」

 

 プライドを酷く貶された妖が強く叫んだ。見下していた下等な人間(レイコ)に手も足も出ずに、鼻先で軽くあしらわれた己の過去。名を奪うわけでもなく路傍の石のように扱われた。それは事実だったからこそ、彼の中では絶対に容認出来ないことだった。

 しかしながら、妖のその反応こそが斑の求めていた答えだったのだ。

 

「ふふん、正解だったか。道理で名を奪われたことを守矢の巫女に言えた訳だ。本当は奪われていないのだから、知られたところで痛くも痒くもないのだからな。とはいえ、こんな簡単にボロを出すとは思わなかったぞ」

 

「かまをかけたのか。やるな先生」

 

「ぐッ…!?」

 

 斑が自慢気に鼻を鳴らして言うと、夏目も友人帳が動いてくれなかった理由を理解した。元より名が無いのだから反応しないのは当然だ。

 そして、分かりやすく『しまった…!』というリアクションを見せる妖に、早苗も眉を顰めていた。

 

「嘘だったんですか!?ちょっと、それはダメですよ本当に。守矢を何だと思っているんですか?」

 

 正直、早苗は自分自身が騙されたことに対してはそこまで怒っていない。しかし、獣顔の妖は早苗を巫女として頼っていた。結果的に、彼は『守矢』を騙してしまったのである。

 これはお説教案件だと早苗が咎めようとしたが、やはりというべきか妖は強く反発した。

 

「ぬぅぅ…!もう良い!こんな腑抜けた巫女など喰らい殺し、喰らって得た力で白豚も夏目レイコも始末してくれようぞ!」

 

 本性を現した妖は、手始めに早苗を襲おうとする。無論、低級程度の妖では彼女には傷一つ与えられる筈がない。しかし、早苗に何かあれば守矢の神々の怒りに触れてしまうのは間違いないだろう。

 そんな事態を防ぐためにも、斑は変身して早苗の前に立ち塞がった。

 

「低級風情が…。身の程知らずにも程があるぞ!去れ!あと私は白豚ではない!」

 

「ギャッ!?」

 

「わぁ、変身!カッコいいです!」

 

 白く美しい獣の姿となった斑が光を放つ。相手は弱い妖だったので、軽い一撃で簡単に撃退することが出来た。

 一方で、早苗も妖に一切の脅威を抱いていなかった為か、斑の姿を見て呑気に歓声を上げている。変身はロマンだ。彼女はそういうのが大好きなのである。

 

「先生、アイツ逃げてしまったけど良かったのか?」

 

「所詮、他人を利用することしか出来ない低級の妖だ。逃げた先でどうすることも出来まい。放っておけ」

 

 夏目が聞くと斑が答えた。

 己だけで夏目を襲えるのだったら最初からそうしていた筈だ。わざわざ早苗を頼ったということは、力を貸してくれる仲間の妖も居ないということに他ならない。その程度ならば夏目たちはもちろん、妖の見えない一般人すら襲えないのだ。

 夏目と早苗が出会う切っ掛けとなった騒動は、こうして一段落を迎えるのであった。

 

 

 

 

「おのれ、おのれ、おのれ!夏目レイコめ…!次に会った時は必ず喰ってやるぞ…!」

 

 斑の光から逃げた妖は山林の中を走っていた。心中はレイコへの憎しみが更に高まっているが、弱い己ではどうすることも出来ない。彼に出来ることといえば、ただ怨み言を吐くことしか残されていなかった。

 

「はぁはぁ…む?」

 

 妖が走っていると足元からシャクシャクという音がした。最初は枯葉を踏んだ音かと思っていたが、どうにも音が違う。奇妙に思い足を止めて地面を良く見ると、白く薄い皮のようなものが敷き詰められていた。

 

「これは…蛇の抜け殻?」

 

 白い皮は蛇の抜け殻だった。大小様々な大きさのそれらが辺り一面に落ちている。気持ち悪いほどの数だ。

 そして、『ケロケロ』というカエルの鳴声も周囲から聞こえてきた。それが徐々に大きくなっていき、いつの間にか『ゲロゲロ、ゲロゲロ』という大量の鳴声が彼を囲んでいる。今の季節は秋。季節外れのカエルが数匹程度ならばともかく、これほどの数は有り得なかった。

 

「な、何なのだ、これは…?」

 

 あまりの気味の悪さに妖は狼狽する。空は夕焼けに染まっており、森の中も赤く、そして薄暗い。本来ならばこのような暗闇を好むはずの妖ですら、恐怖を抱くような雰囲気だった。

 

「あ~あ、早苗にもうちょっと妖の悪意を教えたかったんだけど失敗したなぁ。低級の雑魚に期待した私が馬鹿だったよ。まっ、幻想郷に行ってから教えればいいか」

 

「だ、誰だ!?」

 

 背後から声が聞こえ、妖は慌てて振り返る。カエルの鳴声で満ちた中でも不思議とハッキリ聞こえる少女の声だった。

 しかし、振り返って周囲を見渡しても、その姿は見当たらない。

 

「さぁ、誰だろうねぇ?アンタはそんなこと気にしなくて良いよ。意味ないしね」

 

 返答が今度は別方向から聞こえ、妖がまたも振り返った。だが、やはりその姿はない。彼は恐怖と同時に怒りも湧き、その力を借りて声を荒げた。

 

「どこに居る!姿を現せ!」

 

「アンタが見えてないだけだっての。馬鹿だねぇ、アハハハハ」

 

 今度は明らかに己を小馬鹿にする声が聞こえてきた。からかうような笑い声も非常に煩わしい。妖はギリッと歯軋りがするほどの怒りを露わにすると、見当たらぬ相手に対して強く叫んだ。

 

「貴様!さては夏目レイコの子分だな!ええい、守矢の巫女を喰ったら貴様もレイコ共々始末してやるぞ!」

 

「……別にさぁ、アンタが嘘吐こうが夏目とかいう人の子(ガキ)を喰おうが、私にとってはどうでも良いんだよ」

 

「なにぃ?ならば、さっさと失せろ!貴様にかまっている暇など無い!」

 

 笑い声は静まり、こちらを馬鹿にするような声質も消えた。さては威嚇に恐れたかと考えて、妖はニタリと汚い笑みを溢す。『やはり己は強い。先ほど撃退されたのは何かの間違いだったに違いない。次は巫女もレイコも、その子分も全て喰ってやる』。そんな根拠の無い妄想が妖の頭を占め始めていた。

 しかし当然ながら、それは大きな大きな間違いだった。

 

「でもさぁ……早苗を狙ったことは許さない」

 

「ひぃッ!?」

 

 酷く無機質な声が聞こえた瞬間、空気が変わった。

 カエルの鳴声がビタリと止まる。風も止み、木々や葉のざわめきすらも消えた。まるで、この世界そのものが声の主に怯えているようだった。

 この妖も怯えながら声の主を探す。先ほどと同じように見つからないかと思っていたが…、その姿はあった。何者かが夕日を背にして坂の上に立っている。逆光で顔は真っ暗になっているが、そのシルエットは聞こえていた声の通り、ヒトガタの少女だった。

 

「未遂で終わったとか、早苗が気にしてないとか、そんなのは関係無いんだよ。私が許さないって言ってるんだからさ。しかも、守矢(ウチ)の祝子だって分かっていながら襲おうとしてたんだから、これはもう見過ごせないよねぇ」

 

「ウチの祝子…?ま、まさか!」

 

 ここにきて、この妖もようやく気が付いた。レイコへの憎しみのあまり、己が手を出していた相手が何だったのか忘れていた。守矢は軍神の神社。そして祟り神を統べる者の神社。低級の妖如きが喧嘩を売っていい相手ではないのだ。

 

「ケジメってのは大事なんだよ。じゃないと真似する馬鹿がどんどん出てくる。アンタもさぁ、早苗を襲おうとさえしなければ見逃してやったんだけどね。でも、アンタは欲を出して早苗を狙った。いやぁ駄目だよねぇ、これ。お前たちもそう思うでしょ?」

 

「ひぃッ…!」

 

 夕焼けで長く伸びる少女の影の中から黒い大蛇たちが次々と現われた。ミシャグジである。彼らからすれば主君の愛娘が襲われそうになったようなものだ。無論、そんなことは許せる筈もなく、少女の言葉に同意するように全てのミシャグジたちが殺意を持って妖を睨んでいた。

 こうなってしまった以上、低級の妖に過ぎない彼に為す術は無い。

 

「ぶっちゃけさ、アンタは丁度良かったの。分かる?今から始まるのは、守矢に手を出したらこうなるぞっていう…」

 

 故に、この妖がその身で果たせることは、ただ一つだけ――

 

「み・せ・し・め♡」

 

「お、お許しを!どうかお許し下さい!ヒィ…ァァアアア!」

 

 ミシャグジが動く。どんなに詫びたところで彼らは止まらない。

 恐怖の中、妖の視界に入ったのは夕日の逆光で見えないはずの少女の顔。しかし、弧を描く口元と瞳だけが妖しげに紅く煌めき、彼の意識を絶望へと染めていくのであった。

 

 

 

 

「む…!」

 

 ハッと斑が顔を上げ、ある方向を見た。視線の先には山林。その森からは、逃げるように飛び立っていく無数の鳥たちの姿がある。

 

(今のは洩矢神様の気配。何という禍々しさだ。感じた方角は先ほどの低級が逃げた先…。なるほど、この娘をずっと見守っておられたという訳か。…奴の身に何が起こったのか考えるだけでも恐ろしいな)

 

 斑はゴクリと唾を飲み込んだ。今の今までずっと見られていたのだ。上級の妖である斑にも気付かれずに淡々と。そして、獣顔の妖は洩矢神の逆鱗に触れて制裁を受けた。斑が怯えるほどの禍々しさだ。あの妖は楽には死ねないだろうと彼は思った。

 

「ニャンコ先生?」

 

「ふかふか!ふっかふかですよ、ニャンコ先生ちゃん!」

 

「いや、何でもない夏目。それより守矢の現人神よ。私の真の姿はこの通り優美な姿なのだ。『先生ちゃん』はよせ」

 

 先の妖のことは頭から振り払い、斑は答えた。そして、先程からずっとしがみついている早苗へと声をかける。

 確かに、今の斑の姿は白く美しい。白狼や妖狐を彷彿させる気高さがある。普段の猫ダルマの姿からは想像もつかない姿であり、その毛並みも美しかった。即ちモフモフである。変身ということもあり、早苗はもう堪らなかった。

 

「分かりました!じゃあ、私のことも現人神じゃなくて、名前で呼んで下さいね、ニャンコちゃん!」

 

「なぜ先生の方を残さんのだ…」

 

 呆れる斑に、早苗はにへら顔で笑う。打てば響くといった感じで斑が反応してくれるものだから楽しいのだ。

 

「えへへ、冗談ですよ。おお、顔を(うず)めるとシャンプーの匂いがする…。それにしても、ニャンコ先生のこの姿は見覚えがある気がするんですよねぇ。それもつい最近。私たち何処かで会いましたか?それともこれがデジャビュって現象なんですかね?」

 

「それは…」

 

 早苗が疑問を呈すと、夏目が言い淀んだ。あの夜、どうやら彼女は逃げる斑の姿をほんの少しだけ見ていたらしい。

 しかし、彼らは覗き見していた身の上である。それを何と言うべきか夏目が言葉に詰まっていると、斑が諦めたように語り出した。そもそも、あの時点で洩矢神にはバレていたのである。ならば、ここで下手に誤魔化す必要など無かった。

 

「一昨日の夜、私たちは見ていたのだ。山の妖たちを暴れる邪鬼から守るお前の姿をな」

 

「あ、思い出しました!あの時、茂みの中にいた白いわんちゃんですね!いやぁ、思い出してスッキリしましたよ!」

 

 ポンと早苗が手を打って頷いた。覗き見されたことに怒っていないし、そもそも覗かれたとも早苗は思っていない。むしろ『邪鬼に襲われなくて良かったですね!』と彼らの安否を気遣っていた。素直で心優しく、穏和ながらも非常にマイペース。きっと彼女はそういう人物なのだろう。

 だからこそ、夏目はあの夜のことを早苗に尋ねなければならなかった。

 

「東風谷さん、一つ聞かせてほしい。キミは何で邪鬼を殺したんだ?それもあんな残酷なやり方で…。話をしてみてキミは、進んであんなことをする人ではないと俺は思うんだ。だから、良ければ理由を聞かせて欲しい」

 

「う~ん、それも見られちゃっていましたか。やっぱり残酷に見えますよねぇ。私もどうにかしたいとは思っていたのですが、諏訪子様が言うにはあれが最善とのことでして…」

 

「いや、我々ですら生きた心地のしない光景だったのだが…。最善とはどういうことなのだ?」

 

 早苗が眉を寄せて唸りながら答えると、斑がポンという軽い音を立てて依代の姿に戻した。そして首を傾げながら尋ねる。夏目も真剣な表情で聞いていた。

 

「神の供物になることで、ただ祓うよりも地獄での処遇が軽くなるだろう、とのことです。あの手の邪鬼は先ほどの妖と違い、撃退したとしても逃げた先で人や妖を喰らおうとするでしょう。被害を未然に防ぐためには仕方のないことでした」

 

 近頃の人間は信じなくなってしまったが、死後の世界は地獄も閻魔も存在するのだ。死んだ人や妖はまず地獄に行き、そこで閻魔によって生前の罪を裁かれる。そして、罪人は地獄で罪を贖うという訳である。

 では、食欲と悪意の赴くままに人や妖を喰らってきた邪鬼へ下される裁きとは如何なるものか。少なくとも生易しい判決が下されることは無いだろう。

 

「ふむ、(にえ)か。確かに、古来より神への生贄に選ばれた者は周囲より尊ばれたと聞く。それならば、あの邪鬼も僅かなりとも罪を償えたかもしれんな」

 

「ええ、そうでしょうとも、そうでしょうとも。諏訪子様たちの仰ることに間違いはないのですから」

 

 斑が同意したこともあり、早苗はウンウンと自慢気に頷いた。守矢の神々の言うことは常に正しいのだ。問題は、神奈子と諏訪子で主張する意見が真っ向から対立することが多々あるということだが…。大丈夫だ、早苗はそんなこと気にしない。

 

「理由は…分かったけど、封印とかそういう方法ではダメなのか?」

 

「暴れる理由が感情などから来ているものならば封印は有効でしょう。短気な妖でも時間が経てばある程度は落ち着きますから。しかし、原因が空腹や欲望などであれば…ちょっと難しいですね」

 

 早苗は封印よりも攻撃的な術の方が得意だ。風を操り、水を絶ち、星を降らせる。しかし、それでも基本的な封印術は習得していた。それに加え奇跡をも併用すれば、高難易度の封印も軽くこなせるだろう。

 しかし、封印が根本的な解決に至らない場合は、どんな難しい封印だろうと意味など無いのである。

 

「うむ、時間が経てば経つほど腹が減り、我を忘れていくからな。万が一、封印が破られた際は手当たり次第に周囲を襲うだろう。所詮、封印など時間稼ぎでしかないのだ。時には、祓ってやることが妖にとっての救いとなることもある。覚えておけよ夏目」

 

「ああ…分かったよ、ニャンコ先生…」

 

 斑が諭すように夏目へ言った。その様子を見て早苗は斑が『先生』と呼ばれている理由が分かった気がした。きっと彼は優しいのだろう。そして、その教えを受ける夏目も細やかで温かい少年なのだろうと思った。

 そんな彼らの様子を見て、ホッコリと心にぬくもりを感じた早苗は一つ良い事を思いついた。

 

「そうだ!夏目さん、ニャンコ先生!私たちの神社にお詣りに来てみませんか?歓迎しますよ!」

 

「ほう、そうだな。いずれ八坂様にも挨拶せねばと思っておったし、丁度良いかもしれん。今日はもう夕刻なので帰るとして、明日辺り参拝に行くか」

 

 早苗が晴れやかに言うと、誤解の解けた斑も頷いた。守矢神社は余所者ではあるが、その強大な力は決して無視出来ない。そういった観点からも挨拶という名の面通しは必要だった。

 

「ああ、明日は土曜で学校も休みだしな。東風谷さん、友人たちも誘っていいかな?俺が妖を見えることや、ニャンコ先生が妖だって知っている人たちなんだけど…」

 

「もちろん!人間でも神格でも妖でも、参拝に来て頂けるのなら大歓迎ですよ!いつでもお待ちしています!」

 

 友人というのは無論、田沼とタキのことだ。そして、妖でも問題無いとのことなので中級たちも呼んでいいのだろう。ある種、夏目の早とちりで怖がらせてしまった状態なので誤解を解いておかねばならないのだ。

 そういった約束を取り付けて、夏目たちは早苗と別れるのであった。

 

 

 

 

「あら、おかえりなさい貴志君」

 

「あ、塔子さん。ただいま帰りました。すみません、遅くなってしまって…」

 

「ふふふ、いいのよ。でも、この辺は電灯が少ないから夜道は危ないわ。出来れば早く帰ってきてね」

 

 家に帰ってきた頃には、日が落ちきる寸前といった時間帯だった。

 藤原家の夫人、塔子も口では構わないと言っているが、やはり彼のことが心配だったのだろう。ホッと安堵した表情が見てとれて、夏目は申し訳ない気持ちになってしまった。

 

「あ、そういえば田沼君と名取さんから電話があったわよ?貴志君に何か用があるみたいで、帰ってきたら折り返しの電話をお願いされたわ。2人ともちょっと焦っていたような声だったけど…」

 

「あ…!すみません塔子さん。すぐに2人に連絡します!」

 

「うふふ、わんぱくね。でも、お友達にあんまり心配かけちゃ駄目よ?」

 

「は、はい!」

 

 夏目は返事をして、慌てて電話機へと向かった。

 田沼は今日の学校のことだろう。下校時の逃走劇をクラスの誰かに聞いたに違いない。名取については、昨日までの判明していた事を留守電に入れていたから間違いなくそれだ。

 とにかく夏目は、まず田沼へと電話をかけた。

 

 

 

『良かった。じゃあ、ただの誤解だったんだな』

 

「すまない、田沼。俺たちが無駄に騒いじゃったせいで色々心配をかけてしまって…」

 

 夏目が事情を話すと、田沼からは安心したといった感じの声が帰ってきた。彼の話も聞けば、田沼とタキは夏目を探してずっと走り回っており、日が落ちてきた為に仕方無く帰宅したのだという。つまり、彼らはついさっきまで夏目を探してくれていたのだ。とても大変な1日だっただろう。

 それでも夏目が電話口で謝ると、田沼は軽く笑って済ませてくれた。

 

『ハハハ。でも、夏目が相談してくれて俺は嬉しかったよ。たぶんタキも同じことを言うと思う。ああ、明日の参拝のことを含めて、タキには俺から電話しておくよ。夏目は名取さんにも連絡入れないといけないんだろう?』

 

「すまない、田沼。頼めるか?…ありがとう。それじゃあ、また明日な。…さて」

 

 参拝には田沼も行けるとのことだった。また、タキへの連絡も彼がしてくれるらしい。謝罪は改めて明日するとして、夏目は田沼の好意に甘えた。

 受話器を一度下ろし、今度は名取に電話をかけようとしたところで、二階から降りてきた斑が夏目の肩へと乗ってきた。

 

「次は名取の小僧に電話か?こっちは中級やちょびたちに伝えたぞ。3人とも明日の参拝に同行するそうだ。田沼やタキも来るかもと言ったら、ヒノエには断られたけどな」

 

 ヒノエは人間嫌いで男嫌いだ。惚れたレイコにそっくりな夏目だけは大層気に入られているが、他の人間の前にはほとんど出て来ない。今回もそれで同行を断ったのだろうと、斑はそう語った。

 

「そういえば、ヒノエには守矢神社を調べさせているって昨日先生が言っていたけど、大丈夫だったのか?」

 

「ああ、今は紅峰と一緒にお前の部屋で酒盛りをしている。聞けば、紅峰を含めリオウたちは東風谷早苗と仲が良いらしい。紅峰もお前の部屋には一昨日の夜に来ていたらしいぞ」

 

「一昨日の夜というと…うわぁ、俺たちがあの山に行っていた時にすれ違いになったのか。タイミングが悪かったな…」

 

 夏目が地味にショックを受けて頭を抱えた。あの時、夏目が慌てて行動していなければ、紅峰が全て説明してくれていたのだ。そうしていれば、こんな騒ぎになって周りに迷惑をかけることも無かっただろうにと考えて落ち込んでしまった。

 

「だが、紅峰も洩矢神様が奴の近くに居たことは知らなかったぞ。洩矢神様のことを知らなければ、結局は何かしらの混乱は起きていただろうよ。事前に全部解明出来て良かったと思うことにしろ。そうでなきゃやってられん。それより、ほれ。さっさと名取に電話してしまえ」

 

「ああ、分かったよ。……あ、もしもし、名取さん?」

 

 慰めか、それとも諦念か。疲れたような斑の声に従い、夏目も再び受話器を手に取る。そして電話をかけると相手はたった1コールで電話を取った。

 

『夏目、無事かい!?祟られたりしていないね!?』

 

「え、ええ…無事です。あの、名取さん…」

 

 夏目の声が聞こえた瞬間、名取は怒濤のように夏目の安否を念入りに確かめた。それもそのはずだ。名取が長期のドラマ撮影から帰って来ると、電話には夏目から何件もの着信履歴と留守電が入っていたのだ。明らかな非常事態。それだけでも冷汗ものなのに、とにかく留守電に残された内容がヤバかった。

 祟り神を操り、邪鬼を喰わせ殺した緑髪の少女のこと。上級妖怪である斑すらも怯える大神格がその少女の傍らに居たこと。次の日に入っていた留守電には、その少女が守矢の巫女であり、近くに居た大神格はあの洩矢神であると判明したということが残されていたのだ。

 もうこの時点で名取の顔面は蒼白である。彼の式である笹後(ささご)瓜姫(うりひめ)(ひいらぎ)たちも相手があの洩矢神と聞き、酷く緊張した様子だった。

 名取も震える手で藤原宅に電話をかけるが、既に学校は終わっている筈の時間だというのに塔子からは夏目はまだ帰宅していないと告げられる。これは本当にヤバいと感じた名取は、ずっと電話の前でウロウロしながら夏目からの返事を待った。そして、電話が鳴った瞬間、受話器を取ったという流れである。

 万が一、夜を過ぎても夏目からの返電がなければ、名取は藤原宅の近くまで赴いて人捜し用の紙人形を飛ばしまくっていただろう。彼はそのくらい危機感を持っていた。

 

『ああ、良かった!いいかい?洩矢神様は祟り神の王とも呼ばれた大神格だ!以前の不月神とは比べ物にならないほど危険な存在なんだよ!今回ばかりは絶対に、絶対に首を突っ込んだりしては…!』

 

 名取は心の底から安堵するが、すぐさま夏目に釘を刺した。危なっかしい彼が何をするか分からないからだ。だからこそ、この言葉に対する夏目の返答は予想外であり、そしてどうしようもなく予想通りだった。

 

「名取さん…あの、すみません。ついさっき解決しちゃいました…」

 

『………。』

 

「す、すみません、名取さん…」

 

 電話口から名取の声が消えた。言葉も出ないとは正にこの事か。だが、夏目にとってはその無言が中々に怖い。

 たっぷり10秒ほどの時間をおいた後に思考が回復したのか、名取はようやく言葉を取り戻した。

 

『…ニャンコ君は近くに居るかい?相手が守矢神社の関係者で、あの洩矢神様が出てくるかもしれないって分かっていたのに、キミの用心棒は何をしていたのかな?』

 

「うるさい!私が夏目たちを見つけた時には、既に話がついていたのだ!夏目、今日の出来事を一から説明してやれ!」

 

「名取さん、実は――」

 

 自称用心棒が全く機能していないことを名取が指摘すると、斑もムキになって言い返す。ただし、台所に居る塔子に声が聞こえないよう小声で、だ。

 そうこうあって夏目が事情を説明すると、聞き終わった名取は深く感じ入ったように息を吐いた。守矢は日本最古の神社の一つに数えられるほどの神社だ。名取もある程度だが守矢神社の知識を持っている。だからこそ、夏目から聞いた話は思いも寄らない内容だった。

 

『あの守矢神社が新たな信仰を得るため引っ越しをするとは…。いや、洩矢神様がタケミナカタ様と仲が良いというのも驚きだが…。そして、現人神となった風祝の東風谷早苗という女の子。なるほど、これは色々と興味深いな』

 

「女子高生に興味とは…。未成年相手は流石にアウトだぞ、名取」

 

 先ほどの仕返しだろう。斑が茶化すようなことを言った。しかし、名取は動じない。元々、斑と彼は軽口を言い合える仲なのだ。

 

『こらこら、変な疑いをかけないでくれるかな。廃業寸前まで落ちぶれてしまったが名取家は元々、神格と交渉する紙使いの一族。家族のように大神格と接しているというその子に興味が湧くのは当然だよ。それに守矢の風祝には一子相伝の秘術があると聞く。それを教えて欲しいとまでは言わないが、色々と話は聞いてみたいんだ』

 

「えっと、それなら明日お詣りに行く予定なんですけど、一緒に行きますか?」

 

『うーん、残念ながら明日はCM撮影の仕事が入っていてね…。明後日の日曜はどうかな。お昼辺りの時間で、近くの町で食事でもどうだろう?2人きりだと周囲から変な誤解を受けそうだから、夏目も一緒にね。もちろん、その子の保護者の許可も必要だ。食事代は私が出すから、何が食べたいか聞いてきてくれないかい?』

 

 夏目の提案に残念そうに答える名取だったが、その代わりとなる案を出してきた。なんとも“イケメン俳優”の彼らしい提案である。しかし、“祓い屋”としての本来の彼は、もっと繊細で警戒心が強い筈なのだ。少なくとも、こんな簡単に他人へ接近するタイプの人間ではない。

 それがどうにも気になったものの、名取たっての頼みだったので夏目はとりあえず頷くことにした。

 

「はぁ、分かりましたけど…」

 

「おい、やっぱりナンパではないか」

 

 返事をする夏目の隣で斑が呆れたように言う。しかし、名取はクスクスと笑ってそれに応えた。

 

『フフフ。誤解だね、ニャンコ君。女性を食事に誘うのは礼儀だよ』

 

「また痛々しいことを…」

 

 きっと電話口の向こうで名取は意味もなくキラめいていることだろう。面倒くさいこと極まりないといった様子で斑は眉間に皺を寄せていた。

 その後、軽く雑談を続けていると台所に居る塔子から声がかかった。彼女も夏目が未だに電話をかけているとは思っていなかったのだろう。声の大きさが2階の部屋へと呼びかけるそれだった。

 

「貴志く~ん。お夕飯出来たわよ~」

 

「あ、はい!それじゃあ名取さん。東風谷さんに聞いたらまた連絡します」

 

『うん、私も明日の夕方以降なら家に戻っているだろうから頼むよ。別に断られても気にしなくていいからね。それじゃあ夏目、電話ありがとう』

 

 最後は夏目を気にかけながら名取は電話を切った。夏目も受話器をゆっくりと下ろし、大きく深呼吸をする。女子を食事に誘うなんて初めてのことだ。請け負ってしまった後ながら、そう考えると夏目は緊張してきてしまった。

 

(う~ん…よし、この話はニャンコ先生に切り出してもらおう)

 

 彼は早苗から気に入られているし大丈夫だろう。塔子が用意した猫用の夕食を食べに台所へと向かう斑を追いながら、夏目は明日の作戦を練るのであった。

 




早苗「いくら私だって殺人はしませんよ。常識的に考えて下さい」
 幻想郷に行く前なので、早苗さんもまだ一応は常識的です。というか常識に囚われなくなった早苗さんも、弾幕勝負で妖怪をやっつけることはあっても殺害まではしてないのでセーフです。誓って殺しはやってません!

諏訪子「み・せ・し・め♡」
 前作含めて、始めて本編中の文で♡マークを使いました。普段の書き方では地の文で表現しているところですが、今回はお試しで。


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守矢神社

「でも、夏目君が何事も無くて本当に良かったわ。だって、私たちはただランニングしていただけだもの。むしろ、良い運動になったわ」

 

「な、言っただろう夏目。タキも気にしてないって」

 

「すまない…いや、ありがとう。2人とも」

 

 翌日の昼過ぎ。土曜日で学校が休みの夏目たちは、事前に決めておいた待ち合わせ場所に集まっていた。

 夏目は顔を合わせて早々、散々探し回らせてしまった昨日のことを謝罪すると、タキは“ちょっとランニングしただけ”とクスクスと笑い、それに倣って田沼も微笑んだ。昨晩、彼が電話口で言った通り、タキも迷惑などとは全く思っていなかったのだ。

 

『やはり夏目様は目を離すと何をしでかすか分かりませんなぁ』

 

『まさしく、まさしく』

 

 中級たちとも合流すると、彼らも会話に参加する。しかし、そんな軽口を言えるのも夏目が無事だったからだ。

 

『ふん、一体どれだけ心配したと思っているでありますか。昨日、洩矢神様のあの気配を感じた時は、夏目殿が殺されたかと思ったでありますよ』

 

 ちょびがジト目で見ながら夏目に文句を言った。

 昨日の夕方、彼ら妖たちは圧倒的に禍々しい気配を感じたのだ。ちょびや中級たちはすぐにそれが洩矢神の気配だと気付き、尽く“死”を覚悟した。それは夏目の死であり、己の死であり、この地に住まう全ての者の死だ。祟り神の王の怒りというのは、そういうものなのである。

 

「う…。ごめん、ちょび…」

 

『…まぁ、別に良いであります』

 

 故に、昨夜夏目たちが無事に帰ってきて彼らは心の底から安堵した。そして斑から早苗と守矢の神々の話を聞いて、ようやく納得がいったのだ。洩矢神の怒りは守矢神社の祝子を騙して喰おうとした下等な妖に向けられたものらしい。なんとまあ命知らずの馬鹿がいたものだと、ちょびは溜息を吐いた。全く以て良い迷惑である。

 

「そういえば、ちょびも中級たちも荷物があるな。守矢神社の神様への手土産か?」

 

 人間3人と妖4人が守矢神社への山道を行く。秋の山は紅葉が美しく、歩くだけでも気分が良い。

 そうして歩いていると、妖の面々が風呂敷を持っている事に気付いて夏目はそれを尋ねた。

 

『ええ、秋ですから山の幸が豊富なのです』

 

『とはいえ、縁起物とされる三つ実の栗を集めるのには苦労しましたぞ~』

 

『高貴な私は上品な切り花であります。高位の神格である八坂様ならば、間違い無くこの美しさを気に入って下さるでありますよ』

 

 3人とも自慢の品をお供え物として持って来ているようだ。中級たちは、この地で縁起物とされる三つ実の栗に加え、柿や自然薯などを風呂敷に包んで背負っている。ちょびも美しい切り花の束を大切そうに抱えていた。

 

「私も持参したぞ。名酒『猫ごろし』だ。八坂様は酒好きとの噂だからな」

 

 斑も首に風呂敷をかけている。中身が酒ということは一升瓶だろう。いつも斑が晩酌で飲んでいるあの酒に違いない。

 因みに、斑が酒盛りをする度に夏目の部屋を酒臭くしているものだから、藤原夫妻に変な誤解を受けないだろうかと夏目はいつも心配していたりする。今のところはバレていないようだ。

 

「えっと…、もしかして俺たちも何か必要だったか?必要なら今からでも何か買いに行くけど…」

 

「私、午前中に焼いたクッキーを持って来たんだけど、こんなのじゃダメかな?日本の神様に洋菓子をお供えするのは、やっぱり失礼かしら…」

 

 妖たちが手土産を持参していることを夏目経由で聞いて、田沼とタキが困ったように斑に尋ねた。夏目も手ぶらなので悩み所である。

 しかし、斑は特に気にすることなく答えた。

 

「いや、お前たち人間は別に気にするな。むしろ、守矢神社が最も欲しているものは人間の信仰心だ。心から御参りするといい。それが一番喜ばれるだろう。クッキーは…分からんな。八坂(タケミナカタ)様は異国の侵略から日本を守ったこともある御方である故、もしかすると不快に思われるかもしれん。お供えする前に東風谷早苗に聞いた方が良いかもしれんな」

 

「分かったわ、東風谷さんに聞いてみる。ところで…夏目君、大丈夫?」

 

「あ、ああ…。だが…結構遠いな…」

 

 とりあえずクッキーの件は早苗に聞くことにして、目的地へと向かう夏目一行。しかし、ずっと山道を登ってきたと思ったら、今度は長い階段が待っていた。夏目はゲンナリしながら登っていく。体力に自信のない彼にとっては、かなりキツい道のりだった。

 

「鳥居が見えてきたぞ。夏目、もう少しだ」

 

 夏目がフゥフゥ息を切らしながら登っていると、斑が声をかけてきた。顔を上げると確かに大きな鳥居が見える。そして、今まで夏目が見てきた神社以上に荘厳な雰囲気を感じた。

 

「ほう…流石は守矢神社。立派な佇まいだ」

 

『それにしても大きな池ですな~。いや、この規模だと湖ですかな?』

 

『はて?この山に湖など無かったはずですが…』

 

 ようやく階段を登り切り、鳥居を通る。山の頂上なので辺りが一望できた。正面は守矢神社の本殿がドンと構えられており、近くには湖が広がっている。

 だが、元々ここは普通の山だったはずであり、こんな湖に見覚えはなかった。中級たちも揃って首を傾げていた。

 

「湖も一緒に転移させて来たのか、それとも湖を新たに創ってみせたのか…。いずれにしても、とんでもない力だ。水脈とか一体どうなっているのだ?」

 

『なんとも凄まじい神通力でありますな…!』

 

 天変地異すらも越える神の奇跡、創造。妖の理解の範疇を遙かに超える力に、斑たちはただ感嘆するしかなかった。

 一方で、夏目たち人間勢はその凄さをいまいち理解出来ず、とりあえず境内を見渡している。早苗を探しているようだった。

 

「見た限りだと外には誰も居ないみたいだな」

 

「東風谷さんはどこの建物に居るのかしら?呼び鈴か何かあれば良いんだけど…」

 

 境内を歩きながらキョロキョロと辺りを見ていると、田沼が何かに気付いた。そしてタキへと声をかける。

 

「見てくれ、ほらあそこ。湖の側の岩に腰掛けている女の子がいるぞ」

 

「本当だ。小学生くらいだし、東風谷さんの妹さんかな?ちょっと聞いてみましょうか。すみませ~ん!」

 

『ん?誰に声をかけているでありますか、人の子たち……な!?ちょ、ちょっと待つであります!そ、その御方は…!夏目殿!白狸!早く2人を止めるであります!』

 

 見つけた女の子に話を聞くため、田沼とタキはその子へと声をかける。だが、ちょびはソレを見た瞬間、血の気が引いた。急いで2人を止めようとするも、彼らは陣が無ければ妖の姿は見えず、声も届かない。田沼たちはそのまま行ってしまった。

 顔面を蒼白にしたちょびは、夏目と斑を慌ててペチペチ叩きながら叫ぶ。神社の正面の方を見ていた夏目たちはようやくソチラを向いた。

 

「ちょび?そんなに慌ててどうしたんだ?……あッ!?」

 

「おい、ちょび。何度も言っているが、その呼び方は止めろ……ぬおっ!?」

 

 10歳くらいの女の子。金髪のショートボブ。目玉のついた帽子。夏目たちはその子に見覚えがあった。土着神の頂点と呼ばれた存在、洩矢神。そんな大神格が普通に湖の畔に居る。そして、タキと田沼がそんな相手に話しかけようとしている。それを見た夏目たちは心臓が口から飛び出そうだった。

 本来、ただの人間が神格に話しかけるなど、それだけで不敬なのである。

 

「ケロケロ~♪ケロちゃん風雨に負けないぞ~♪あれ?お姉さんたちどうしたの?」

 

「こんにちは。キミは東風谷早苗さんの妹さんかな?」

 

「ん~ん、妹じゃないよ。家族ではあるけどね」

 

 カエル座りで岩の上に佇み、ご機嫌な様子で歌っていた少女。彼女はタキから話しかけられると、和やかに返答した。ニコニコと笑いながら応えるその姿は普通の少女そのものだ。

 

「お姉さんたちは早苗のお客さんだね?今日は友達とその友達が来るって早苗が朝からはしゃいでたよ。私の名前は洩矢諏訪子。ようこそ守矢神社へ。歓迎するよ」

 

 諏訪子は立ち上がると、両手を広げて歓迎の意を露わにする。その時、ようやく夏目たちが2人に追いついた。

 

「た、田沼!タキ!」

 

「大変失礼致しました、洩矢神様。どうか平にご容赦を…」

 

「いや、そんなにビビらなくてもいいよ。このくらいで怒る訳ないじゃん。私ってそんなに怖いかなぁ?…いや、うん、怖いか。昨日やらかしちゃったし」

 

 夏目が2人を呼び止め、すかさず斑が間に滑り込んで諏訪子に平身低頭で土下座をかます(元々4本足なので伏せている様にしか見えないが)。ちょびや中級たちも後ろで冷汗を浮かべながら頭を下げていた。

 とはいえ、諏訪子は気分を害した様子はなく、むしろ必死で謝罪する斑たちを見て苦笑している。そして、それらの会話でタキたちもようやく彼女の正体を理解した。

 

「洩矢神様…?ま、まさか、この可愛い女の子が祟り神の王様!?」

 

「でも、俺にもタキにも姿が見えているぞ…!?」

 

 焦るタキと田沼。本来、彼らは陣無しで妖や神格を見ることは出来ない。だからこそ、普通に見えていたこの少女もただの人間だと思っていたのだ。そう狼狽していると諏訪子はクスリと笑ってみせた。

 

「そりゃあ、これでも神様だからね。実体化くらい楽勝さ。ほら、こういうことも出来るよ」

 

 諏訪子がペチンと指を軽く鳴らすと、静やかな風が2人に吹きかけられる。その変化は明らかだった。普段ならば見えないはずの中級たち妖の姿が見えるようになったのだ。

 

「凄い…!陣も使わずこんな簡単に妖が見えるようになるなんて…!」

 

「う~ん、いい反応。驚かしがいのある子たちだなぁ。とりあえず境内に居る間は見えるようにしといたよ。外に出れば勝手に元に戻るから」

 

「「あ、ありがとうございます…」」

 

 祓い屋の間においては禁術ともされる姿写しの陣。しかし、高位神格の力というのは凄まじいもので、息をするかの如くタキの陣以上のことをやってみせたのだ。目の前の少女は本当に神様なのだと呆気に取られて、タキと田沼はただ口をポカンと開けたまま礼を言っていた。

 

「あ、あの洩矢神様。東風谷さんは…」

 

「早苗ならそろそろ来ると思うよ。それよりも洩矢神様なんて呼び方が固いな~。諏訪ちゃんって呼んでよ。ほら、可愛く“諏訪ちゃん”って」

 

 諏訪子が両頬に指を当ててぶりっ子ポーズをとるが、夏目はどう答えれば良いのか分からない。視線で斑たちに助けを求めるも、彼らも非常に困惑していた。間違い無く夏目たち以上に戸惑っているだろう。当たり前だ、神格は総じてプライドが高い。低位の神格だって、こんなことは言わないのだ。

 

「いや、あの…すみません、無理です…」

 

「えー残念。ま、いいや。早苗も来たみたいだしねー」

 

「え?」

 

 口では残念と言いつつも、全く気にしていない様子で諏訪子は言った。そして、夏目たちの後ろを指差す。彼らが振り返ると、巫女姿の早苗が手を振りながらコチラに向かってきていた。

 

「夏目さーん!皆さーん!あら、諏訪子様。皆さんをお出迎えして下さったのですね!」

 

「そ、出迎え出迎え。じゃあ私は本殿に戻るから。ばいば~い」

 

「ははッ!」

 

 早苗が来ると、諏訪子はピョンと岩から飛び降りて去っていく。子どもの様に自由気ままな彼女だったが、伝え聞いていたような邪悪さは無い。ただの噂だったのかと斑たちは頭を下げながら思った。

 そうして、諏訪子と入れ替わりで早苗が皆の前にやって来る。

 

「ようこそ皆さん!私は守矢神社の風祝、東風谷早苗です!夏目さんとニャンコ先生以外は初めましてですね!…と、思ったら貴女は同じクラスのクールビューティー、タキさんではありませんか!」

 

「クールビューティー?このタキが?…そんな馬鹿な」

 

「信じられないでありますな」

 

 クラスメイトのタキに気付いて、早苗は驚きの声を上げた。

 学校でのタキは非常に物静かな女子だ。それは、かつて悪意有る妖に“他人の名前を口にすると、最後に名前を呼んだ人間から順に13人を喰い殺す”という呪いを受けてしまい、他人との関わりを出来るだけ避けていた経緯があるためだ。その名残で解決した今でもタキは静かな学校生活を送っていた。

 だが、それでもタキが優しい心の持ち主であることには違いない。無口ながらも困っている人を見かけたら助けてくれるタキは学校でも密かな人気があり、特に女子から大変モテていた。

 なお、タキの素の性格を知っている斑やちょびからすると、とてもじゃないが信じられない。人違いじゃないかとタキの顔をマジマジと見ていた。

 

「あはは…。よろしくね東風谷さん」

 

「俺は1組の田沼だ。普段は妖をちょっと感じるくらいの力しかないけど、今はさっきの神様のおかげで見えているよ。よろしく、東風谷さん」

 

「我々は近隣に住む妖で、夏目様とは懇意にさせて頂いております。守矢の風祝様、どうぞよしなに」

 

「ええ、よろしくお願いします皆様!では、まず御神前へ…おっと、その前に御手水(おちょうず)で手を清めましょうね!」

 

 田沼や妖たちも自己紹介を終えて、早苗は神社の案内を始める。神社とは神聖な場所であるため、参拝者は手水で清めなければならない。両手を洗うことで身体を清め、口をすすぐことで魂を清めるのだ。そういう作法を早苗は教えた。

 

「先生、妖って清めても大丈夫なのか?」

 

「グ…!流石に守矢神社の清めの水はキツいな…。私は何とか我慢出来るが中級たちでは無理だぞ、これは」

 

 夏目たちは清め終わったが、妖にとっては難題である。上級の妖である斑ですら厳しいようで、肉球が赤くなってしまっていた。水に触れただけでビリビリと痛むらしく、苦悶に顔を歪めている。

 そうしていると、後ろで見守っていた早苗が口を出した。

 

「いえ、妖の皆さんは無理して清めなくて大丈夫ですよ?手が消滅しちゃいますからね!」

 

「そういうことは先に言わんか!?」

 

「さぁさぁ、次こそは拝殿ですよ!」

 

「おい、聞いておるのか!?」

 

 少し赤くなってしまった前足をブンブンと振って斑が抗議するも、早苗は張り切って次の場所へ案内しようとしている。友達が来てくれたことで浮き足立っているのだろう。彼女に全く悪気の無いところが逆にタチが悪かった。

 

「凄いな、東風谷さん。あのニャンコ先生を振り回してるぞ…」

 

「でも東風谷さん、学校に居る時より生き生きしてるわ。ふふふ」

 

 元気すぎる早苗の姿に田沼とタキは苦笑いを浮かべる。彼女は半分神様だと聞いていてので身構えていたのだが、それを全く思わせない雰囲気が早苗にはあった。

 

「拝殿はこちらになります。思う存分お参りしていって下さいね!」

 

 拝殿とは、祭儀や拝礼を行うための(やしろ)である。賽銭箱が置いてあり参拝客が手を合わせている建物を思い浮かべると良い。一般的に神社といわれてイメージする建物が拝殿なのだ。そして、神社に祀られている神様は奥にある本殿から拝殿で拝む人間を見ているのだという。*1

 

「え~と、参拝作法は…」

 

「では、二礼二拍手一礼でお願いします」

 

 拝礼は神社や地域によって特色があるため、厳格に決められた作法がある訳では無い。しかし、それでは参拝客が混乱してしまうため、簡略化された作法が全国に広まった。それが二礼二拍手一礼だ。

 御賽銭を入れた後に、二回お辞儀する。そして二度手を叩き、最後にもう一回お辞儀する。そういった作法である。夏目たちはその通りに参拝した。

 

 

「現人神様、これは私どもの気持ちであります。お受け取りいただけましたら幸甚に存じるであります」

 

 一方で、妖たちは御賽銭の代わりに貢物を捧げていた。これは『守矢の傘下に入ります』という意味ではなく、『守矢と敵対する気はありません』ということである。

 無論、敵対する気がないだけならば参拝や貢物など必要無く、己の縄張りの中で大人しくしていれば良いだけだ。実際、そういう妖も多いだろう。そんな中で、わざわざ彼らが貢物を持ってまで足を運んだのは、守矢の大神格に畏敬の念を持っているからに他ならなかった。

 

「これはこれは、ご丁寧にありがとうございます。神様たちもお喜びになるでしょう。そうだ、皆さん。折角ですから上がっていってください。お茶でも……おや?」

 

「現人神様、如何なされましたか?」

 

「もしや貢物の中に、八坂様のお気に召さない物でもありましたでしょうか…?」

 

 ふと言葉途中で早苗が振り返った。その視線の先には神が御座す本殿である。しばらくその方向を見ていた早苗だったが、妖たちの心配する声に反応して慌てて視線を戻した。

 

「あ、いえいえ!そうではなく、むしろ逆ですね。今、神様から『献饌(けんせん)*2と信仰の礼を直接言いたいので、本殿まで来てくれ』と神託がありました。いやぁ、良かったですね皆さん!我が主神から拝謁を賜るだなんて滅多に無いことですよ!」

 

「なんと、妖である我らもか…?」

 

「ええ、もちろんですよ」

 

 驚く斑に早苗は当然のように頷く。神格からすれば、妖というのは人間以上に下賤な存在だ。この程度の献饌で謁見出来るとは思ってもいなかったのである。

 

「勿体ないお言葉ですなぁ」

 

「いやはや、苦労して栗を探した甲斐がありました」

 

「あの…東風谷さん。私、クッキーを焼いてきたんだけど、これ神様にお供えしても大丈夫かな?」

 

 大神格への謁見は名誉なことだ。妖たちがホクホク顔で喜んでいる中で、タキが不安げな表情で尋ねる。しかし、早苗は菓子を見て一層テンションをあげた。

 

「わぁ、クッキー!お菓子は御二方とも好物ですから、大変お喜びになるでしょう!」

 

「ほ、良かった…」

 

「ふむ、八坂様は外国がお嫌いかと思ったが、やはり懐が深いのだな」

 

 タキは安堵の息を吐く。大神格の器の大きさに斑が讃えるように感嘆すると、早苗は自慢気に頷いた。渾身のドヤ顔である。

 

「ええ。鎌倉時代の元寇の際には、元軍十数万人を海の底へと沈めた軍神ということで外国に厳しい神様だと思われる方も多いのですが、そんなことはありません。とても寛大な御方なのです。だから安心して良いですよ、皆さん!」

 

(もの凄い数の人間を()ってる!?)

 

(ぜ、全然安心出来ない…!)

 

 桁違いの殺害数に思わず白目を剥いて絶句する田沼と夏目。戦の神だとは聞いていたが、これはあまりにもヤバすぎである。もちろん、これにはタキも驚いていた。

 

「元寇…!まさかあの神風を起こした神様が八坂様!?」

 

「その通りです!護国の神格なんですよ。凄いでしょう?」

 

「え…ええ、そうね。凄い神様だわ…」

 

 13世紀、地球上の陸地の約25%を支配していたというモンゴルの大帝国、元。その国家による日本侵攻を元寇という。しかし、文永の役と弘安の役という二度にわたる元寇は大失敗に終わった。その理由は、鎌倉武士ら日本軍の激しい抵抗。そして、季節外れの暴風雨(台風)の存在にあった。

 暴風雨は文永・弘安の役の両方で発生しており、元軍の船舶を破壊。侵略者たちの命を片っ端から奪っていった。結果、大帝国である元軍は凄まじい被害を出してしまい撤退を余儀なくされたのである。

 当時の人々は、神様のおかげで日本を守れたのだと信じて、その季節外れの暴風雨を『神風』と名付けた。そして、その神風を起こした神様というのが他でもない。風雨を司る守矢神社の軍神、八坂様(タケミナカタ)だったのだ。

 

「そういえば、鎌倉時代以降の武士たちは熱心に守矢神社を信仰していたな。理由はそれか」

 

「守矢の分社が全国に広まったのも、確かその時期からでありますな。軍神故に乱世で特に好まれる神格であったのでしょう」

 

 斑やちょびが感慨深く頷きながら当時を語る。800年近く前のことだが、上級妖怪である彼らはその時代を生きてきたのだろう。闇に蠢く妖といえども異国の侵略は一大事。強く記憶に残っていたようだ。

 

「な、なぁ東風谷さん。そんな凄い神様に会うだなんて俺たちじゃ失礼だと思うんだけど…。礼儀作法とかも全然分からないし、やっぱり俺たちお暇した方が良いんじゃないかな…?」

 

「いやぁ、夏目君は謙虚ですね。ですが、そんなに遠慮せずとも良いのですよ?せっかくのお誘いなのですから」

 

 今更ながら尻込み始める夏目だったが、早苗の押しの強さには叶わなかったようだ。結局、彼女に連れられるがまま本殿へと案内された。古い建物で装飾は質素*3だが、とても綺麗に整えられている。そして、何処よりも荘厳な雰囲気を醸し出していた。

 

「さぁ、この御扉の先におわしますのでコチラへお座り下さい。あ、にゃんこ先生はその姿のままで構いませんよ」

 

 本殿の正面に備えられている厚みのある扉のことを御扉(みとびら)という。早苗はその扉の前まで彼らを案内すると、人数分の座布団を並べた。夏目たち人間3人が前列、斑たち妖4人が後列という並びだ。

 早苗に促され、彼らは座布団に座った。正座である。斑も依代の姿でポッテリ座っているが、本人的には正座なのだろう。因みに、夏目は前列の真ん中だった。早苗がグイグイと背中を押してきたため、夏目はそこに座る他なかったのである。

 最早、事ここに至っては覚悟を決めるしかない。御扉とは即ち結界。本殿においては神と人を隔絶するものだ。早苗はその御扉に手をかけ、今まさに開かんとしていた。

 

(お前たち、頭を下げろ!八坂様が良いと仰るまで、絶対に頭を上げるなよ!)

 

(わ、分かった…!)

 

 とにかく無礼がないようにと、斑は夏目たちにキツく言いつける。その酷く緊張している声に、夏目も冷汗の出る思いで、深々と頭を下げた。

 諏訪大戦では祟り神の王・洩矢諏訪子を打ち破り、元寇においては元軍を一蹴した名高き軍神・八坂様(タケミナカタ)

 張り詰めた空気の中、ついに夏目たちは守矢の主神に出会うのであった。

 

*1
なお、モデル元の諏訪大社には本殿が無く、守屋山そのものを御神体としている

*2
神前に物を供えること

*3
華美な寺院建築と異なり、神社建築は日本古来の建築様式が取り入れられているため装飾などは質素にされている。しかし、その無駄のない質素さこそが美しいのである。




「ケロちゃん風雨に負けないぞ~♪」
 風神録で諏訪子が使用するスペルカード『土着神「ケロちゃん風雨に負けず」』より引用。
 風雨が神奈子のことだとすれば「次に神奈子と戦う時は負けないからね!」という意味にも取れるスペルカードです。


元寇の神風
 風神録での早苗のスペルカード『奇跡「神の風」』・『大奇跡「八坂の神風」』とダブルスポイラーの『奇跡「弘安の神風」』より。
 実のところ、元寇の神風を起こしたのはウチの神社の神様だと、色々な神社が主張しています。モデル元の諏訪大社もその一つ。
 恐らく元寇の際には、沢山の神社で敵撃退の祈祷が行われていたのでしょう。そこに台風が現われたことで、風を司る神社が皆「おほー!うちの風の神様の御利益スゲー!」となり各地で信仰され続けたのだと思います。だから、どこの神様が正解というのはないのだと思います。
 ですが、東方においてはスペルカードを見る限り、明らかに神奈子が神風を起こしているので、このSSでもそれを採用しています。
 というか、神奈子様だったら当時の鎌倉武士の所行を見てドン引きしてそうですね…。


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八坂神奈子

 早苗が御扉を大きく開け広げた。

 一般的な神社の本殿は小さいものも多いが、守矢の本殿は居室の様に広々としている。その理由は主神の姿がヒトガタであるからだ。主神が過ごしやすい様に設計するのは当然であろう。加えて、謁見などの際には守矢の威を示す必要もあるため、本殿も御扉も大きく立派に作られていた。

 

「失礼致します、神奈子様。お客様をご案内しました」

 

「ああ、早苗。御苦労」

 

 凛とした声が聞こえた。女性の声だ。少なくとも夏目が予想していたような益荒男(ますらお)の声ではない。そのことに彼らは戸惑うが、そのまま深く頭を下げ続けていた。

 

「怖がらせてしまってすまないな、人の子たちよ。皆、そう強張らずに頭を上げてくれ。なにも取って食べたりはしない」

 

「ははっ!」

 

 皆を代表して斑が返事をする。後方でちょびや中級たちが姿勢を戻す気配を感じて、夏目たちも恐る恐る顔を上げた。

 目の前に座っていた『八坂様』は美しい女性だった。紫色に近いセミロングの青髪を持ち、赤と黒のコントラストをした和装を着ている。

 しかし、中でも一際目についたものは彼女が背負っている巨大な注連縄(しめなわ)だった。何枚もの紙垂(しで)を取り付けた太く大きな注連縄を輪にして腰に背負うように装着しているのだ。それも相まってか、彼女の姿は大きく見えていた。

 

「守矢神社へようこそ、客人。我こそが守矢の主神、八坂神奈子だ」

 

 神奈子は片膝を立てて座ったまま*1ニヤリと笑って言った。

 そんな彼女の見た目は20代ほどにも見える。しかし、神格の見た目に年齢が関係しないことは、諏訪子の例からしても明らかだ。ただ、流石に戦の神が女性だとは思わなかったのである。夏目はそこに驚いていており、つい口を滑らせてしまった。

 

「は、はい!お招きありがとうございます…!えっと、八坂様は女性…の神様なんですか?」

 

「こ、こら夏目!普通に失礼だろうが!」

 

「あ、すみません!」

 

 慌てた斑が夏目を窘めると、失言に気付いた彼もすぐに頭を下げた。だが、神奈子はクスクスと楽しそうに笑っている。どうやら全く気にしてない様子だった。

 

「フフフ、軍神が女神で驚いたかな。伝承などでは男神として扱われているし、驚かれるのは慣れている。そう謝る必要はないさ」

 

 神奈子は手を口元にあてがいながらそう言った。

 無論、口では夏目を窘めた斑だったが彼ら妖勢にも同様の驚きはあった。聞き及んでいた守矢の伝説は間違いなく男神としてもの。まさか女神だとは露にも思わなかったのだ。それでも礼儀として動揺を極力抑えて彼女と対面していた。

 

「まずは君たちの貢物と信仰に感謝する。良き山の幸、良き花、良き酒、そして良い菓子だ。今夜にでも食し、そして愛でよう」

 

「ははっ!」

 

「も、勿体ないお言葉。ありがたき幸せであります…!」

 

 神奈子が礼を述べると、それに驚いた斑やちょびたちは一段と畏まって深く頭を下げた。

 神格はそう簡単に礼など言わない。大神格ともなれば尚更だ。それは傲慢などという話ではなく、神とは奉ずられて然るべき存在であるからだ。そういう点では自由奔放な諏訪子の方が神格らしいともいえるだろう。

 

「うむ。それで、こうやって君たちをここに呼んだのは他でもない。信仰についてだ」

 

「信仰…さっきのお参りですか?」

 

「そうだ。我に対しても、諏訪子に対しても深い畏敬の念を感じた。3人だけとはいえ久々に得る良質な信仰だった」

 

 格式張った挨拶を早々に済ませて神奈子は本題に入った。先ほどの参拝に何か問題があっただろうかと夏目は心配したが、そういうことではないようだ。むしろ、良いものだったと彼女は語る。

 

「3人?私たちの信仰だけですか?」

 

 タキが疑問の声を上げた。妖たち含めて7人で参拝したのだが、神奈子は3人と言い切った。それは夏目、タキ、田沼という人間の数を表わしている。

 その疑問に対しては、早苗が訳知り顔で頷きながら答えてくれた。

 

「妖と人間では信仰の質が違いますからねぇ。そもそも神とは人々の信仰によって産まれた存在です。なので、人間からの信仰というのは神格にとって非常に重要だったりします。私も現人神になってから身を以てそれを痛感しましたよ」

 

 早苗は説明しながらも実感の篭もった溜息を吐いていた。

 その点に関しては夏目も理解出来る。彼もまた露神(ツユカミ)という神格の最期を見届けたことがあるからだ。信仰の重要性は痛いほど理解出来ていた。

 

「君たちの信仰が良質であったのは、この世に妖や神格が存在することを認識しているからであろう。人の子が参拝に来てくれたとしても、心の底から神々の存在を信じている者は現代においてほとんど居なかった。やはり“見える見えない”の違いは信仰心にも大きな差をもたらすようだ」

 

「諏訪の地で見える人は、大抵がお寺や他神社の関係者でしたので…。思えば、なんの(しがらみ)もない見える人が参拝に来てくれたのは、私が知る限り夏目さんたちが初めてですね」

 

 見える人間を守矢の信者に勧誘しようにもそういう人間は少ない。居たとしても大抵は神社仏閣や祓い屋関係に属しているから、そう簡単には勧誘できなかった。

 その為、夏目たちのような何処にも所属していない人間は極めて珍しかったのだ。

 

「近々、我ら守矢は新しき地へ移る。その地の名は幻想郷。人、妖、神格が共存する秘境だ。しかも、幻想郷は妖力に溢れる神秘深い土地であるため普通の人の子たちでも全員“見える”のだ」

 

「そ、そんな地が!?」

 

「全員…見える…?」

 

 神奈子の言葉に皆が驚く。守矢神社が引っ越すという話は聞いていたが、まさかそんな特異な土地だとは思っていなかったのだ。中でも衝撃が大きかったのは夏目である。妖が見えることで周囲から異常者扱いされてきた彼にとっては、“全ての人間が見える”というのは信じられないことだった。

 

「この先、我々は幻想郷でそんな人の子たちから信仰を集めることになるだろう。そこで幻想郷へ行く前に聞きたいのだ。見える君たちは我ら神格に何を求める?」

 

 神奈子は夏目たちに問いかける。その瞳は真剣そのものだ。彼女たちにとっては死活問題なのだから当然だろう。だからこそ神奈子はわざわざ本殿まで夏目たちを招いたのである。

 そしてその質問に、まずはタキが答えた。

 

「神様に求めるモノですか?え~と、御利益とかでしょうか?」

 

「うむ…。それでは見えない人の子たちと同じだな」

 

 神奈子は困ったような笑みを浮かべつつも頷いた。

 神様に御利益を求めるというのは実に一般的だ。守矢神社も厄除けに金運上昇、安全祈願、天候祈願、必勝祈願と様々な御利益を謳っている。

 しかし、そもそも神社とは信仰を捧げる場であり、御利益とは神格の功徳や威徳(御神徳)を僅かながら戴くことにある。つまり、神社の本質とは利益を求める場ではないのだ。見えない者はそれを勘違いしていることが多かった。

 

「あ、すみません!私、普段は全然見えないタイプなので、発想が普通の人と同じなのかもしれません!」

 

「えっと…、自分もそんな感じです」

 

 タキが慌てて謝ると、田沼も後に続くようにして答えた。タキが妖を見えるようになったのは『姿写しの陣』を書けるようになったここ数年のことであり、田沼は何となく程度でしか妖を感じられない。言ってしまえば、彼らは妖が見えない一般人に毛が生えた程度でしかなかったのだ。

 

「ほうほう。では、皆さんの中で常日頃から妖が見える人間といえば1人しかいませんね。さぁさぁ夏目さん!お願いします!」

 

「いや、ちょっと…俺は別に…」

 

 早苗は目をキラキラさせながら夏目に視線を向ける。そんな期待は荷が重いと彼は言い淀むが、神奈子は暖かくも静かに語りかけた。

 

「本心で良いのだ、人の子よ。思うがままを語ってくれないか」

 

「あの…、俺は……俺は悪い妖に何度も襲われたことがあるので、そういうのから助けて欲しいなと思っています。ニャンコ先生と出会う前のことですけど、タチの悪い妖に襲われた時は良く神社の境内とかに逃げ込んでいましたから…」

 

 夏目と斑との出会い。思い返せばその出会いからは未だ1年も経っておらず、それまで夏目は妖に襲われる日々を送っていた。当時は頼る相手も居らず、唯一の対策は逃げるだけ。しかし、ただ逃げるだけではいつまでも追いかけられるので神社の境内に逃げ込むことが多かったのだ。

 

「でも、同時に神様が怖いと思う時もあります。過去に神格から襲われそうになったり、祟られそうになったりしたことがありましたので…。今回も、八坂様が戦の神様だと聞いていたので実は結構怖かったです…」

 

「おい、夏目!」

 

「良い。続けてくれ」

 

 不敬だと斑が窘めようとするも、それを止めたのは他ならぬ神奈子だった。彼女はこの程度で怒るほど狭量ではない。むしろ、こうやって本心で語ってくれる夏目の話は、守矢にとって必要なものだと感じていた。

 

「えっと…なので、見える人たちが沢山居るのでしたら、何て言うかこう…“神様は怖くない”ってことをアピールした方が皆は安心出来るのではないでしょうか…。人間ではどうしようもない出来事でも頼ることが出来る存在が見守っていてくれているのは凄くありがたいと思います」

 

 夏目はそう言って斑を見た。かつて夏目は祓い屋集団の長、的場静司から『君にとってのにゃんこが皆に居るとは限らない』と言われたことがある。その通りだ。斑と出会えた夏目は本当に運が良かった。だが、“君にとってのにゃんこ”に出会えなかった者たちはそうではない。独学で妖を祓う力を得たり、祓い屋に所属したりすることで身を守る道しか彼らには残されていなかったのだ。

 ならば、そんな者たちをも庇護してくれる神様が居てくれたのならば。身を寄せて安堵できるくらい強くて優しい神様が常に見えて、そして温かく見守ってくれてもらえるのであれば。見える人間たちは安心して日々を暮らし、神様に感謝するのではないか。夏目はそう思ったのである。

 

「そうか…。今は威厳を見せつけるよりも友好的であることを示す時代か。うむ、参考になった。感謝する人の子よ」

 

「フランクで気軽な神様…。有りですね!参拝に来たら、神様とお話出来る神社なんて斬新じゃないですか。あ、そうだ!御神籤(おみくじ)で大吉を引いたら神様と握手出来たりとか、一緒に写真撮れたり出来るとかどうでしょうか!?御神籤の値段を10倍くらいにして、大吉が出る確率もガッツリ絞って射幸心を煽りましょう!」

 

 しみじみと頷いて理解を示す神奈子と、話を飛躍させて恐ろしい商売を始めようとしている早苗。完全な善意でこれを提案しているところが早苗のヤバいところである。これには妖たちもドン引きだった。

 

「どこぞのアイドルグループみたいだな…」

 

「発想が現代的といいますか、なんというか…」

 

「いやはや…であります」

 

 因みに『アイドル』とは元々ギリシア語で『偶像、崇拝される人や物』という信仰の対象を意味する言葉であったため、神格がアイドルをするというのは語源的には間違っていない。まぁ、信仰的には確実に間違っているだろうが。

 

「アイドル商法は流石にやらないけど、参拝者と話すくらいなら全然構わないかな。私は別にお喋り嫌いじゃないし、それで信仰が増えるなら言うことなしだ」

 

「そういえば神奈子様って素は結構フランクな性格ですもんねぇ。逆に諏訪子様はそういうの嫌がりそうですけど」

 

「アイツは気分屋なところがあるからな。まぁ、機嫌が良い時は幻想郷の参拝者とも仲良くやるだろうさ」

 

 アイドル商法は無しにしても神奈子は人間と友好的に接することに嫌悪感はない。そう語る彼女の口調も心なしか柔らかいものになっていた。早速、夏目の提案を取り入れているのだろう。大神格だというのに中々腰の軽い神様である。

 一方で、諏訪子は一般的な人間に対しては無関心であることが多かった。だが、逆にいうと気に入った者に対しては寛容なので、そういう相手には友好的に接するだろう。実は、夏目一行が湖の畔で諏訪子に出会ったのも偶然などではなく、彼女の“お気に入り”に認定されているからであった。

 

 しかし、そうとは知らない彼らからすれば不意に魔王が現われたようなものであり、非常に恐ろしかったのである。そのため諏訪子の話題が早苗たちの口から出た時、斑は複雑な表情で神奈子に伺いを立てた。

 

「八坂様。洩矢神様についてなのですが…」

 

「あ、にゃんこ先生!まだ諏訪子様のことを疑っているんですか!?ダメですよ、もう!」

 

「いや、疑っている訳ではないのだが…」

 

 早苗が頬を膨らませて諌めると、斑は言葉を濁らせる。

 確かに諏訪子からは伝え聞いていたほどの邪悪さなどは感じられなかったが、それでも彼女は伝説に残るほど悪辣で強大な祟り神なのだ。その恐ろしさに萎縮してしまうのは妖の性ともいえよう。故に、神奈子と謁見出来たこの機会を斑は逃さなかった。

 つまりところ、彼は諏訪子よりも強大な神格である神奈子から、安全の保証が欲しかったのである。

 

「ふむ、やはり何の説明無しでは諏訪子の存在に不安を感じてしまうか。昨日のことも有るのだろう。しかし、アレは仕方なかったのだ。守矢神社はあのような行為を許しはしない。諏訪子がやらなければ私がやっていただろう。それは分かるな?」

 

「はっ!」

 

「…?」

 

 神奈子の言葉に妖勢は畏まり、人間勢は首を傾げる。

 彼女のいう『アレ』とは早苗を襲おうとした低級妖を諏訪子が始末したことだ。それは守矢にとって許されざる行為であり、粛清も止む無しである。むしろ、連帯責任で周囲一帯の妖を殲滅されなかっただけ恩情があるといえた。

 

「しかし、そもそも諏訪子は伝承に残されているほどの悪神ではないのだ。祟り神としての力が凄まじい故に多くの者たちから畏怖されていたが、当時は洩矢の国を治める良き神格であったからな。人の子たち領民からは大いに敬われていたし、配下であったミシャグジたちは今でも慕っているほどだ」

 

「では何故、洩矢神様にそのような伝承が…?」

 

 古くから伝えられているからには何かしらの理由があるのではと中級の牛顔の方がそれを尋ねる。すると、神奈子は憂鬱そうに手を頭に添えながら答えた。

 

「我ら大和の神々のせいなのだ。私は大和の尖兵として軍を率い、洩矢の国に攻め込んだ。祟り神の悪しき支配から人々を解放するという名目でな。諏訪子は人情に厚く部下や領民には寛大であった反面、罪を犯した者や国外の敵対者には一切の容赦がなかったから、そういった悪評を我らは利用したのだ」

 

 俗に言うプロパガンダである。その情報が真実である必要はなく、世論を誘導して信じ込ませてしまえば嘘であってもそれが事実として世間に認識されるのだ。

 加えて諏訪子の場合、祟り神としての力を強く持ち合わせていたのでプロパガンダも信憑性を増していた。それこそ今の時代にまで語り継がれているほどだ。当時はどれほど周囲の国々から恐れられていたかが理解できるだろう。

 

「まぁ、当の諏訪子本人は全く気にしてなかった。大義名分が真実であろうと嘘であろうと弱い奴が悪い。昔はそういった弱肉強食の気風が今よりも更に顕著だったからな。そんなことより諏訪子は私との戦いを愉しんでいたし、私も戦を司る神格の一柱だ。諏訪子ほどの強者との戦いは心躍るものがあった」

 

「それがかの有名な諏訪大戦でありますか…!」

 

 ちょびが感嘆するように言うと、その通りだと神奈子は頷いた。

 諏訪大戦は互いに軍を率いての戦争であったが、結局のところ決着は両名の勝敗に委ねられていた。すなわち、彼女たちの個の力は軍に勝るほど突出していたのである。

 そうして二神の戦争は幾日も続いた。しかし、神奈子の操る『藤の蔓』が諏訪子の武器である神具『洩矢の鉄の輪』を錆び朽ちさせたことで形勢は神奈子に傾いた。いや、そうでなくとも元々の実力においては神奈子が上回っていたのである。武器を破壊されたことは諏訪子にとって決定打となった。

 

「そうして私との戦いに満足した諏訪子は降伏した。元々、周りに請われて国王をやっていただけで王の座には固執していなかったらしい。洩矢の国を私に任せると、さっさと山奥に引退してしまったよ。当時はこれで一段落ついたと思っていたのだが…、とある問題が起きた」

 

「問題ですか?」

 

 話を聞いていたタキが問いかけた。夏目や田沼などは歴史にあまり興味を持つタイプではないが、彼女は祖父の影響もあってか古書が読めるくらいには歴史が好きである。人間どころか長年を生きた妖たちですら知らない守矢神社の歴史を前に、タキは興味津々だった。

 

「人々が諏訪子に畏れを抱き続け、私に信仰が集まらなかったのだ。先も言ったように諏訪子は敵対する者に容赦がなかったから、その逆鱗に触れることを恐れて人々は諏訪子を信仰し続けたのだ。あれには参った。どんなに宥めすかしても人間たちは私を全く受け入れてくれなかったからな」

 

「い、一大事でございますな…。神格の方々は信仰が薄まれば弱体化してしまいますゆえ…」

 

「如何にして解決を?」

 

 中級のツルツルの方が額に汗を浮かべつつ呟いた。彼の言う通り、それは神格にとって一大事だ。その問題を一体どうやって打開したのかと斑が尋ねると、神奈子は事も無げに答えてみせた。

 

「ああ、引退した諏訪子の所まで赴いて頭を下げた」

 

「「「「…は?」」」」

 

 斑たち妖勢が揃ってポカンと口を開けた。勝者が敗者に頭を下げるという意味が理解できなかったのである。神奈子はそんな彼らの呆ける様子を眺めながら続きを語った。

 

「人々の信仰が私に向かないのであれば、諏訪子を経由して私に信仰をくれないかと頭を下げて頼んだのだ。そうすれば私も信仰が得られるからな」

 

「それは非常に危険なのでは?もしも、洩矢神様が信仰を()き止めてしまえば、それだけで八坂様への信仰は途絶えてしまいますぞ」

 

 そう、それでは諏訪子の匙加減一つで神奈子を弱体化させることが可能になってしまう。しかも、諏訪子にとって彼女は己の国を奪い取った侵略者であるのだから、ますます危険になるであろう。

 誰がどう考えても無茶な話なのだが、そんな斑の問いかけを前に神奈子は笑みを浮かべていた。

 

「フフフ、当時の諏訪子にも最初は『アンタ馬鹿じゃないの?』と本気で呆れられたな。だが、私には確信があった。諏訪大戦で殺し合った私たちだが、全力で戦ったが故にお互いのことを誰よりも深く理解し合ったのだよ。当時は私にも知古の神格が多く居たが、それでも諏訪子は私にとって既に特別な存在になっていたのさ」

 

「なんと…!」

 

「うんうん、何度聞いても素晴らしいお話です!」

 

 斑たちが驚愕の表情で呟く。そんな彼らを横目に早苗は腕を組みながら誇らしげに胸を張っていた。早苗にとっては両親ともいうべき二神の馴れ初め。いつ聞いても胸が高鳴る思いだった。

 

「まさに友情!不良たちが河川敷で殴り合いの喧嘩(タイマン)をした後に、2人揃って仰向けになって夕日を眺める男同士のアレですよ!いやぁ、憧れちゃいます!ですよね夏目さん、田沼さん!」

 

「「え…いや、別に…?」」

 

「がーん!男の子なら憧れませんか!?」

 

(す、少し分かるかも…)

 

 早苗は満面の笑みで夏目たちの同意を得ようとするも、草食系男子である彼らからの賛同は全く得られなかった。そもそも大神格同士の戦争が不良の喧嘩程度に例えられるはずもなく、何とも滅茶苦茶な比喩である。

 ただし、タキだけは早苗の憧れに共感するところが有るらしく、軽く苦笑いを浮かべていた。流石はクールで格好良いと学校の女子たち黄色い声を受けているだけはある。因みに、早苗はロボットアニメや特撮などが大好き系の女子だったりする。

 そんな彼女たちはさておき、神奈子は続きを語った。

 

「私の話に呆れていた諏訪子だったが、しばらく考えた末に受け入れてくれた。そうして我らは共に歩き出したのだ。無論、撃退したはずの祟り神が表立って信仰されていると他の大和の神格たちから批難を受けかねん故『洩矢神は秘境に引退した。追放された。八坂神の部下になった。封印された。処刑された』などという偽りの噂を流したりと色々な偽装工作をしたな」

 

「なるほど、道理で…」

 

 斑たちが聞き及んでいた伝承の中で諏訪子(洩矢神)の末期が異なっていたのはこれが理由だった。

 そしてこれだけの噂がある中で、一体誰が『戦争で負かした相手から信仰を受け取り、一緒に仲良く暮らしている』という真実に辿り着けようか。流石は軍神。先のプロパガンダといい、こういった偽情報も軍略の内という訳だ。

 

「その一方で、領民たちには我らを祀った神社を信仰させた。諏訪子を信仰させつつも、洩矢ではない新しき信仰の社。それがこの守矢神社なのだ」

 

「それで守矢という名に…。納得いたしましたであります。しかし、これほど大事なことを我らに話して良かったのでありますか?この真実が漏れてしまえば他の神格の方々から咎められるかもしれないでありますが…」

 

 八坂神社でも洩矢神社でもない、『守矢』という名の理由を聞いてちょびは深く頷く。しかし、それを自分たちに暴露しても良かったのかと彼は尋ねた。

 ちょびたちにしても無闇に吹聴する気は無いのだが、『諏訪子のことが他の神格に露見した!さてはお前たちが暴露したな!』と冤罪をかけられても困る。そんな心配も僅かに抱いていたが、それは彼の杞憂に終わった。

 

「いいのさ。今や、どこの大神格ですら己の信仰の維持で手一杯の時代だ。余所の神社を気にする状況ではない。それに我らは幻想郷に行く。忘れ去られた存在が最後に行き着く秘境、幻想郷。…私は最後に守矢の真実を誰かに伝えたかったのやもしれんな」

 

 神奈子は遠い目をしながら言った。

 真実が露見しようがしまいが最早どうでもいい。そんなことよりも、幻想郷に行ってしまえば現世の者たちは守矢のことを更に忘れていくだろう。幻想入りは熟考した上での決断だったとはいえ、そのことに対しては一抹の寂しさが残っていた。

 故に、せめて彼らの記憶の中だけにでも。神奈子は守矢神社を残しておきたかったのだ。

 

「ん、すまない。そういうわけで諏訪子については私が保証しよう。多少は安心してくれたかな?」

 

 神奈子はパシッと軽く膝辺りを叩いて湿っぽい空気を切り換えると、皆に笑いかけた。彼女なりの気配りだ。その配慮に斑たち妖勢は深く頭を下げた。

 

「ははっ。洩矢神様を疑いましたこと、どうかお許しくださいませ八坂様!」

 

「良いでしょう!許しますよ、にゃんこ先生!」

 

 なぜか早苗が鼻高々に許しを与えているが、神奈子も全く気にしていないようなので良しとしよう。

 そうしていると、夏目が小声で斑を呼んだ。

 

(にゃんこ先生、にゃんこ先生)

 

(む、なんだ夏目?)

 

 失礼にならないように自然な装いで2人は小声で会話をする。内容は名取から頼まれていた件についてだった。

 

(先生から切り出してくれないか?名取さんとの食事に誘う話)

 

(阿呆、なんで私が言わねばならんのだ!自分で言え、自分で!)

 

(頼むよ、先生)

 

 早苗の両親は不在であるようなので(夏目たちは早苗が両親と死別していることを知らない)、ある種の保護者ともいえる神奈子に許可を貰おうとしたのだ。だが、この空気感でそんな話は切り出しにくい。それは斑も同様で、2人でその役目を押し付け合っていた。

 そんな彼らに助け船を出したのは他ならぬ神奈子だった。

 

「ふむ。早苗に祓い屋の人の子から食事の招待、か」

 

「え!?な、なんで…!?」

 

 声が聞こえたのかと夏目は慌てて姿勢を正した。しかし、内容についてまで口に出していないはずである。そのことに夏目は困惑するが、斑は力ある神格ならばそれも当然かと納得していた。

 

「妙に言いにくそうにしていたから勝手に読み取らせてもらった。こういうのは(さとり)妖怪などの専売特許なのだが…、キミは人ではない者に心を許しすぎだな。簡単に読めてしまったよ」

 

「う…。すみません…」

 

 神奈子としては『どうしたのかな?』程度で軽く意識を向けてみただけだったのだが、予想以上に夏目の思考を読み取れてしまって驚いていた。余程に彼は妖力に溢れているのだろう。そして、それに対する自己防衛が全く出来ていないのだ。これは危険な状態だった。

 

「私の加護で守ってやっても良いが…キミの本心はそこまでのことを望んではいないようだ。少し心配だが、この地を去りゆく私が何かするのは余計なお世話になるな」

 

 今までの夏目は妖を恐れており、可能ならば妖との関係など絶ってしまいたかった。

 しかし、斑と出会ってからそれは少し変わってきた。妖の中にも優しい者は居る。恐ろしい外見であっても内心は温かな者も居た*2。簡単に心で妖と繋がってしまうからこそ、夏目は彼らの本心を知ることができた。時にそれは祖母レイコの想いを感じる切っ掛けにもなり、彼の大切な思い出となったのだ。

 神奈子はそこまで見抜いたからこそ、あえて夏目をそのままにした。自己防衛は皆無だが、彼には斑たちが近くに居る。ならば、見守るだけで良いだろう。それが夏目の為にもなると神奈子は確信していた。

 

「早苗、祓い屋の者から食事の誘いがあるそうだ。明日、何が食べたい?」

 

「お肉です!」

 

「だそうだ。では、明日は早苗を頼んだ」

 

 神奈子が問うと、早苗は高速のレスポンスで肉と答えた。“神職なのに肉が好物なのか…”という妖たちの心の声が聞こえてきそうだが、早苗は食べ盛りの高校生なのだ。お肉が好きなのは仕方ない。それに神奈子は狩猟神の一面も持っており、別に肉食は禁じていないのである。

 ジュルリと口の端からヨダレが垂れそうになっている早苗の横で、彼女を託した神奈子は注連縄の重さを感じさせない様子で優雅に立ち上がった。

 

「今日は参拝に来てくれて感謝する。改めて礼を言おう。早苗、来てくれた人の子たちにお茶でも出してあげなさい。妖たちは酒の方が良いかな?守矢の酒でも楽しんでいってくれ」

 

「はい、神奈子様!」

 

「おお、ありがたき幸せでございます!」

 

 酒好きたちが嬉しそうに頭を下げた。酒豪の伝説を持つ守矢の主神ならば、きっと良い酒を持っていることだろう。そう斑たちは目を輝かせていた。

 そして神奈子が姿を消して本殿から去ったことで謁見は終了となり、早苗は彼らを客間へと案内した。妖たちが美味そうに酒を呑んで騒ぐ隣で、早苗たちは学校や地域の話題などで会話を弾ませる。

 特に、早苗はタキと話が合うらしく、今度一緒にクッキーを作ろうという約束も交わしていた。試食役には田沼と夏目が抜擢されたので、“それなら結局、また4人で集まることになるな”と笑い合う。そうした穏やかな時間が流れていた。

 

 妖が見えるどころか半分神様の転校生、東風谷早苗。そんな新たな友人を夏目たちは快く迎え入れるのであった。

 

*1
古来において立て膝座りは高貴な女性の正式な座り方である

*2
逆に、優しげな見た目で騙そうとする邪悪な妖も居たが




 八坂神奈子
原作では口調が安定していないため台詞が難しいキャラ。神様モードの時は『我』、素の時は『私』。
風神録では霊夢に「随分とフランクな神様ね」と言われた際に「最近は厳かな雰囲気を見せるよりも友達感覚の方が信仰が集まりやすいのよ」と返答しています。
なので、このSSではそれを提案した人物を夏目くんにしてみた感じです。



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