チキチキ!しあわせ家族計画 (支部にいた鯨)
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息子君のしあわせ家族計画

元々pixivの方で書いた作品であるため、向こうのフォーマットやページ機能を利用して話の構成を考えた部分がかなりあります。そのため、一話一話の文字数が違ったり、見にくい文章構成になっているかもしれません。
修正を入れるつもりですが、御容赦ください。


 ぷつん、と。張り詰めた糸が切れたように。微睡みから引き上げられたように、私は目を覚ました。

 

 雨が降っているのか、真っ先に目に入った地面には絶え間なく天からの恵が降り続け、無機質なアスファルトに汚らしく溜まっている。

 

 零れ落ちる水滴は歪な水面を揺らし、ふと見上げた視界に銀糸が張り付く。

 

 

 なんだろう、これは。

 

 

 薄暗い曇天の元でもキラキラと輝く銀の糸を摘む。軽く引っ張ってみると不思議な事に自分の頭皮が連携したように引っ張られた感覚がする。

 

 おや? と思うも、どうにもこのキラキラとした美しい銀糸は私の髪であるらしい。

 

 身に覚えがないとはいえ、自分の髪。物珍しい色合いのソレを暫し眺め、引っ張ったり。緩めたりを繰り返す。

 

 

 大して面白味があるわけでもないが、霧がかった不明瞭な頭には関係ない。

 

 

 パタ、パタタ……と瞳の近くに落ちる雨粒が鬱陶しく、遮るように銀糸を弄っていた手を頭上へ翳す。

 

 

 薄い肉の付いた骨ばった大きな手だ。

 

 

 きっちりボタンの止められた袖口からは白く、いっそ頼りなく思える手首が覗き、しなやかに伸びた腕はどこか艶めかしく映る。

 

 

「………………は」

 

 

 おかしい。何がおかしいのかは分からないが、まるで私ではない誰か他の人の腕なのではないかと。明確な根拠も自信があるわけでもない。だけれど確かにどうしようもない違和感を感じる。

 

 

 得体の知れない気持ち悪さに、思わず一歩。バシャリと後ずさる。

 

 大きな水溜まりに足を突っ込んだのか、激しい飛沫音に振り返る。

 

 トン、トン、トントンと揺れる水面には、人間味の感じられない能面のような幼い美貌。長くけぶる髪と同色の睫毛に囲まれた、淡く美しい空色の瞳を持った少年の姿。

 

 

 なんだ……これは……。

 

 

 遥か昔の最古の叙事詩のように、神々が手ずから作りたもうた美の結晶。まさにそう表現するしかない幼い麗人。

 

 

 私であるはずなのに、私ではない。

 

 

 これは……、彼は一体……誰だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ばちん、と。反転する意識の中、耳の奥でブレーカーの落ちる音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───魂の侵食を確認───

 

 ───主人格の融合を開始───

 

 ───それに伴う矛盾点の消去を開始───

 

 ───判定 : 成功───

 

 ───補助システム【六眼】を起動───

 

 ───認識能力の齟齬を確認───

 

 ───判定 : 修正は不可能───

 

 ───術式【無下限】を補助システム【六眼】でのオート処理に変更───

 

 ───判定 : 成功───

 

 ───ギフト【歪曲】【千里眼】共に問題なし

 

 ───天与呪縛(てんよじゅばく)【言動選択】: 続行───

 

 ───領域展開■■■■ : 問題なし───

 

 ───特級呪具■■■ : 問題なし───

 

 ───特級■■怨霊■■■ : 正常───

 

 ───オールクリア───

 

 ───■■ (めぐる)の意識を再起動───

 

 

 

 

 

 

 ───────────

 

 

 

 

 

 

 きっとこれは乙女ゲーかなんかの世界だな、うん。

 

 

 目が覚めて1ヶ月。ちょっとしたアルバイトをしながらその日暮しを始め、出た結論がこれだ。

 

 

 自販機で買った割高なペットボトルを握り潰す。蓋を開ける前はお茶が並々と入っていた。価値は180円である。高い。

 

 

 不細工にひしゃげたペットボトル(もうボトルでもなんでもないが)を片手でプラプラと揺らし、新鮮な空気が売りだと言う森の中を進む。

 

 生い茂った緑の隙間からはチラチラと光が溢れ、森の中といっても観光地として舗装されたコンクリートに複雑な影を落としている。

 

 ひとたび風が吹けばその影は形を変え、生い茂る草木は楽しそうに体を揺らす。

 

 

 平和だ……、すごく穏やかな時間の満ちる場所だ。俺が最初に目覚めた場所はどこの世紀末かと思うくらいの荒廃っぷりであったし、気色の悪いクッッッサイ化け物が我が物顔でそこら辺を闊歩していた。

 

 

 うへぇ、と。げんなりした声が出るも、実際にはそんな声は出ていないし、表情も変わっていない。

 

 

 うん? 意味がわからない? 安心しろ、俺も意味がわからない。

 

 

 肩にかけた刀袋を背負い直し、丁度よく見つけたベンチへ足を向ける。

 

 観光地として開示した時にでも直したのか、それとも新しく設置したのか、比較的新しい感じのする木製のソレ。

 

 硬い背もたれに体重を預け、上着の内ポケットをゴソゴソと漁る。

 

 取り出したのはボロボロと言っても差し支えない状態の日記。すっぽりと手のひらに収まってしまう表紙を捲り、子供が書いたのであろう拙い文字を追う。

 

 表紙を捲った一番最初のページ。そこに書かれているのは

 

 

「かあさんを助ける。おれがかあさんを守る」

 

 

 

 という汚い字。

 

 

 血反吐でも吐く思いで書き殴ったのか、古ぼけた紙面に刻まれた字は刺々しい。

 

 

 なにも覚えていないはずなのに、つい時間があれば見てしまう。以前の俺がルーティンワークとしていたのか知らないが、変な奴だったんだろう。

 

 

 パラパラと分厚いページを捲り、裏へひっくり返せば小さな字で「巡」と。

 

 

 こちらは日記の主、 まあ以前の俺だが、それと違い綺麗な字だ。所々癖なのか、丸みを帯びているのが可愛らしい。

 

 

 もう摩耗して消えかけた「巡」の字を優しくなぞり、はあ……と深いため息を零す。だけど相変わらず乖離してる表情筋と口にもう一度ため息が溢れる。

 

 

 

 以前の俺ってなんだよ。そう疑問に思った方は大正解。俺も現在首を捻っている最中だから。

 

 

 名前は(めぐる)、年齢は不明。ベビーフェイスとふわふわしてる色彩で分かりずらいが、恐らく未成年。身長は測る機会なんて皆無だったから分からないが、多分180あるか無いか。

 ギンギラギンに趣味悪く主張する白銀のサラッサラヘアに、ぴゅあぴゅあな水色の伏し目がちな瞳が特徴的な(推定)日本人。表情筋と口が死滅したものっそいイケメンである。俺の趣味じゃないけど。

 父親は居らず……いや、人間の生殖条件的にはいるんだろうけど、日記に父親なんて言葉は出ていなかったので、多分母親ひとりの母子家庭。

 あとは普通の人間には見えない化け物……呪霊なるものが見えて、それを殺すための武器。術式、呪具などを片手に化け物を殺す仕事を請け負っている。

 恐らく最終的な目的は母親を見つける? 救出? 守る? こと。なにか特殊な事情があって離れ離れになったのか、それとも誰かに連れ去られたのか。どちらでもいいが(めぐる)にとって母親が生きる目的であり、とんでもないマザコンヤローであったのは間違いない。

 

 

 とまあ、俺が日記から知ることが出来た以前の俺についてはこんなところだ。唯一付け加えるならば、とんでもない阿呆か馬鹿のどっちかだったんじゃないかな。

 頭をどこかにクリティカルヒットさせたのか知らんが、今の俺が目を覚ました一か月前。それ以前の記憶が綺麗さっぱりアッパラパーなのである。

 

 

 お分かり頂けただろうか? 簡単に言うと、記憶喪失……というやつだ。

 

 

 記憶もねぇ、家族もいねぇ、金もねぇ、表情筋もねぇの無い無い尽くしのフルコンボ。

 

 最初に居た都会の面影を残した廃墟は化け物がウロウロと歩き回って人の子一人居なかったし、持ってたのは鞘に収められた業物っぽい日本刀と分厚いボロ日記だけ。

 

 こりゃあマズいと思って安全そうな廃墟に隠れ、唯一の手がかりらしき日記を読み解き、まさかの中身が激重感情ハッピーセット。

 前の俺こんな激重系男子だったのお……? と頭を抱えたが、しょうがないと割り切り、記憶が無くなる前に書いたのであろう最後のページに書いてあった事を実行。

 

 半信半疑でやったソレは見事に成功し、ポーッンとどこかの路地裏に投げ出されたのが二週間前。

 

 

 俺、爆誕☆ってやつだな。うん。

 

 

 他にも色々と事情があるっぽいが、ざっくり巻きで説明するとこんな経緯を経て今に至る。

 

 こっちに来てからは裏サイト? っぽい仕事斡旋サービスから呪霊に関する依頼を受けてマネーを貰って各地を転々。その日暮らしの生活だ。

 

 

 ……………………………………いや、濃くね? 

 

 

 最高級のビスクドールみたいに整った人間味の無い能面もそうだけど、生い立ちやら目的やら生き抜く力やら、あまりにも濃すぎるだろ。間違いなくどこかのバトル漫画の中ならばラスボスに近い立ち位置の強キャラか、闇を抱えた主人公のライバルポジに収まるキャラクターである。

 バトル漫画なんて死亡フラグの巣窟であり、少年の心がジャンプしちゃいそうな週刊誌に連載されてる作品に当たったもんならば冗談ではない。確実に死ぬ。特に最近はじゃがりこ感覚で重要人物が死んでいく作品が多いので死に物狂いで生存戦略を練らなければならない。

 …………まあ、それもバトル漫画であったならばの話なんだが。

 

 

 鴉の濡羽色の鱗粉を優雅に揺らした蝶がヒラヒラと顔周りをグルグルと飛び回る。

 虫が嫌い、というわけでもないが、ヒラヒラとこのまま飛び続けられるのも落ち着かない。

 

 日記から手を離しアゲハ蝶へ指を差し出せば、フワリと羽を畳んだ蝶が足をつける。やはり蝶もふわぴゅあ系のイケメンが好きか。

 

 

 軌道修正。

 

 

 断言しよう。ここはバトル漫画の世界ではなく、最近流行りのバトル要素の入った乙女ゲーの世界であると!! 

 

 

 本来ならば渾身のドヤ顔を披露したいところだが、生憎と表情筋は目が覚めてこの方、俺の言うことを聞いてくれた試しがないので代わり映えのしない能面なのは許して欲しい。

 

 

 その確固たる証拠がコチラ。クッと目に力を入れればあら不思議。

 

 

 ───補助システム【六眼】、起動します

 

 ───身体機能、精神機能 : 共に問題なし

 

 ───術式、呪具 : 共に問題なし───

 

 ───目標到達までの過程を算出、段階別に分けての可視化に成功───

 

 ───現段階 : 初期、進行度 : 中───

 

 ───フリークエストの消化を確認───

 

 ───新たな経過目標を設定───

 

 ───おはようございます、■■ (めぐる)───

 

 ───補助システム【六眼】の起動に成功しました───

 

 ───貴方の望む未来へ向けて、私は情報を取得します───

 

 

 無機質な男とも女ともつかない音声と共に、俺の世界が変わる。

 

 豊かな森林と中央に打ち込まれたコンクリート、生い茂る木の葉の隙間から覗く空だけだった風景に白色の文字が踊る。

 

 まるで現実の風景とゲームのステータス画面が合わさったかのような俺の視界。

 

 

 そう、これがここが乙女ゲーの世界であると確信した確固たる証拠。その名も、補助システムなるご都合主義、【六眼】先生でーす! 拍手! 

 

 

 いやもうこれ完全にアレでしょ? 最近流行りの「前世の記憶を思い出したら生前夢中になっていたゲームの世界にいて、俺にだけ自分のステータス情報が見えるんだが?」っていう感じのやつでしょ??? (めぐる)くん知ってる。深夜のアニメ番組こんなのばっかだから詳しいんだ。

 

【六眼】先生の出してくれた文字列は左から順に、メインクエスト、フリークエスト、ステータス、スキルの五つである。

 

 メインクエストはその名の通り、今or近々やらなければならない設定された目標のこと。最終到達目標から細かく分岐し、ゲームでいつ序章、一章、二章って感じに小さなゴールが設けられている。

 

 フリークエストは今受けてる裏サイトからのお仕事斡旋やらだ。主にお金稼ぎに使うしかない。お金大事。

 

 ステータス、スキルは言わずもがな。ただ条件を満たしていないのか、それともそういう仕様なのか定かではないが、文字が潰れて読めない物がいくつかあるのが玉に瑕だ。

 

 ■■ (めぐる)

 

 術式■■ ■

 

 領域展開■■■■■

 

 特級■■怨霊■■■

 

 今確認できるのはこの四つ。最後の四つめがあまりにも不穏すぎるんだが、気にしてはいけない。

 俺の身に危険が迫ればオートで【六眼】先生が色々とやってくれるし、反応が無いということは今のとこ無害判定が出されてるはずだから、うん。

 

 

 話を戻そう。

 

 

 俺が以前から肌身離さず持ってたっぽい刀袋の中身。太刀に似た日本刀、特級呪具【閻魔刀(やまと)】も最初は文字が潰れていたが、こっちに来るのに使った際に読めるようになっていた。

 

 

 スパッと切れば、くぱぁと次元の裂け目ができる優れものだ。どこの冥道残月波かな? キャ-セッショウマルサマア!!!! 交通費がかからない。

 

 

 開示条件は一度でも使用することなのか、それぞれに条件が課せられているのか。まあ、いつか見える日が来るだろう。

 

 推定苗字に該当する部分が潰れてるのはアレだ。多分父親か親戚と知り合えば開示されんじゃないのかなあ。

 

 

 じゃあお前それ、どっちかっていうとMMOの世界なんじゃん? って思ったそこのあなた。甘い。甘いぞ、あまりにも甘すぎる。

 

 

 なぜならば!!! なぜならばだ!!!!! 

 

 

 俺以上か俺と同等のイケメンを見たことがないので、自由にイケメン美女が作れるMMOではありません。おーけー? 

 

 

 …………いや、本当。自意識過剰でも自信過剰でもナルシストでもなく、マジで俺とどっこい以上のイケメンがいない。

 MMOなんてキャラクリが売りと言っても過言ではないのだから、作ろうと思えばNPCでも誰でもスーパー超絶イケメンが三分クッキングできる。

 

 

 対して乙女ゲームはどうだ? 乙女ゲームは基本的にモブの顔は共通のパターンが一種か二種。ひどいと鼻から上は影になってぼかされてたりもする。

 つまり、攻略対象は多種多様なイケメンが揃うが、それ以外のキャラクターは棒人間と大差ないわけだ。

 

 

 見てこのパーフェクトな一部の隙もない理論。天才すぎじゃない? 

 

 

 俺に盛られた属性から見て、多分隠しキャラ的ポジションに座ってるキャラクターが妥当。素晴らしいね。

 

 

 

 

 パンッ、と。アゲハ蝶が弾け、顔の横に汚らしい舌が通過する。

 

 茂みの奥深く、ギョロリとした三つ目。

 

 

 丁度良い。ゴミの処分をしてもらおう。

 

 

 うごうごと。伸び切った舌の側面が盛り上がり、気泡のように膨れた場所から肉の舌が増える。

 

 迷うことなく顔面を狙ってくるソレの前に潰したペットボトルを絡ませ、人差し指を三つ目の元へと向ける。

 

 

 ───補助システム【六眼】、オート起動───

 

 ───術式【無下限】: 起動───

 

 ───術式順転【蒼】───

 

 

 ぐい──んと、ただ一つの変わらない吸引器のごとく、ペットボトル付きの分裂舌が持ち主の顔まで戻り勢い余って突き破る。

 

 パァンと咲いた汚い花火に眉を寄せるも、やはり眉は寄ってくれない。悲しい。

 

 明るい朝には不釣り合いな黒い塵となって三つ目が消えるのを見届け、よっこらせとベンチから腰を上げる。勿論、立てかけた閻魔刀(やまと)も忘れずに。

 

 

 蝶々は残念だったなあ。折角綺麗だったのに。

 

 

 残念な気持ちのままポケットからスマッホを取り出し、発信ボタンを押す。

 

 

 選択肢

▷・依頼は完遂した。確認した後にいつもの方法で振込は頼む。踏み倒したら分かっているな

 

 ・金

 

 ・終わった。対価は払えよ。でなければ殺す

 

 

 ひっっどい選択肢しか出なくて草。知ってたけれども。

 

 

「依頼は完遂した。確認した後にいつもの方法で振込は頼む。踏み倒したら分かっているな」

 

 

 相手の返事も待たずに通話を切り、金属製のスマートな電話をコンクリートへ投げ出し、躊躇無く踏み壊す。

 

 ベキリと嫌な音が靴裏からするも、俺の意思ではどうする事もできないので勘弁して欲しい。

 

 中身からぶちまけられた金属品に別れを告げ、空を見上げる。

 

 

 いやあ〜〜、やっぱここ乙女ゲームだろう。選択肢とか普通出ないからね。

 

 

 今日のお昼は何を食べようかなあ。ふんふんと鼻歌を歌いながら(歌ってないけど)、出口目指して森を進む。

 

 

 俺も、以前の俺が設定した目標に向けて頑張らなければ。ちょっと物騒な目標だけどね。

 

 

 

 

 

 ■■ (めぐる)

 

 

【メインクエスト】: 最終到達目標

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【青き瞳を撃ち落とす刻】: 五条 悟(ごじょう さとる)の抹殺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【報告書】

 

 昨日早朝、〇〇市の運営する自然公園を見回っていた補助監督が特異な残穢(ざんえ)を発見。

 

 照合したところ特級呪術師 五条悟の残穢とほぼ一致。

 

 残穢(ざんえ)の痕跡から使用された五条家の無下限術式。さらに細かく解析した結果、五条 悟の使用する術式順転【蒼】そのものであるとの結果が判明。

 

 

 

 

 



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②・前

 

 最近、五条悟の機嫌が悪い。

 

 

 呪術師界隈では専らその噂で持ちきりだ。

 

 確証も定かではない噂だ、と。そう両断するのは容易いが、なんといっても相手はあの(・・)五条悟。遥か昔から連綿と続く呪術界に新しい風を吹かせ、根っこ部分からの変革を望む御三家の神童。

 日々上層部へ喧嘩を売るのは当たり前、加えて少し前には特級呪物 両面宿儺(りょうめんすくな)の指を取り込んだ爆弾をお偉いさん方の反対を丸め込み、戦力として取り込んだ男だ。

 

 その飛び抜けた能力ゆえか、本人に備わった性格ゆえか。何があろうとも常に底知れない笑みを浮かべ、飄々としている美しい人。それが自他共に認める最強の姿だ。

 

 特に最近は幼少の頃から目をかけていたという子どもが自身が教鞭を振るう東京校……東京都立呪術高等専門学校へ入学したらしく、例年に比べかなりのご機嫌であった。なんでもその子どもは呪術界御三家の一つ、禪院(ぜんいん)家の相伝術式を持った有望株でもあるらしく、一年ながら呪術師としての等級は2級。最強の育てた麒麟児と密かに広がりを見せている。

 

 しかもそれだけではない。同年代のもう一人もお眼鏡に叶ったのか満足気であり、特級の核爆弾となった両面宿儺(りょうめんすくな)の器を見つけてからは最高の変革日和だと言わんばかりの上機嫌が続いていたのだ。

 

 それが先日。そう、つい先日からだ。生徒の前ではいつもの最強(五条悟)ではあるが、一歩、教え導く立場から離れてしまえばピリピリとした苛立ち混じりの緊張を隠しもしない。

 

 あの最強がだ。あの五条悟がだ。天上天下唯我独尊。天に人は我一人、を地で行く常識破りの天才がだ。

 

 不完全とはいえ、呪いの王の受肉報告を受けてなお面白いと言わんばかりに美しい(かんばせ)を喜色に染めていた人物が常の姿を崩す程のことがあったのだろう。

 

 何故か生家である五条家にもかなりの圧力をかけているらしく、噂の出処は五条家から……といった話も出ているくらいだ。

 

 最早ここ最近の呪術界は息を殺しながら五条悟の様子を伺っている有様であり、最強をクソガキ扱いする上層のお偉い様方でさえ下手に手が出せないでいる。

 

 

 ……近々、何か途方もない大きな厄介事が来る。

 

 

 そんな予感を覚えて仕方のない呪術師たちは、密かに心の(たすき)を引き締めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────

 

 

 

 

 

 

「っくし」

 

 

 !?!?! 

 

 

 ハンカチなんてシャレたものは持ち合わせていないので、二の腕に顔を押し付けてクシャミをやり過ごす。

 

 目の前の店員さんが心配そうな顔をするので、平気ですの意味を込めて片手を上げておく。

 

 ありがとうございましたー! と、元気よく送り出してくれる店員さんに心の中で頭を下げ、コンビニの自動ドアを潜る。

 

 カサカサと揺れる小袋に入っているのは今日の晩ご飯だ。

 ラインナップはおにぎり三つに、ペットボトルのお茶、サンドイッチ二つ。

 気なる種類の方は定番のシャケにツナマヨ、可愛らしいポップでオススメされてあった牛すじ肉。

 サンドイッチはガッツリ系のハムカツサンドにしようとも思ったが、甘いものが欲しくなりそうなおにぎりの具材だったので、フルーツサンドなるものにしてみた。甘いサンドイッチって食べたこと無いから楽しみだ。

 

 

 街灯の少ない立地で光源となっていたコンビニから離れ、薄暗い道路を歩く。

 

 

 ……いやあ〜、それにしてもビッッックリした。この体ってくしゃみできたのね……? 

 

 

 咄嗟に腕で覆えたから良かったものの、あのまま発射していたらヤバかった。流石にこの顔でも許される事と許されない事がある。さっきのは後者だ。

 

 危なかった……、と少しドキドキする気持ちのまま、コンビニの袋に手を突っ込む。

 

 お行儀は悪いが大目に見てほしい。お腹が減ったのだ。この年頃の男の子の胃袋を舐めてはいけない。

 

 ぺりぺりと小さく感じる包装を剥がし、パリッとする海苔を破らぬよう慎重に両端を引っ張る。

 細かいカスのような海苔が歩道にばら撒かれるが、そこはご愛嬌。家でやってもゴミ箱の上でやっても落ちるもんは落ちる。ならば自然の摂理に従うまで。近くには大きな湖っぽい水溜まりもあるし、海苔のカスとて実家に帰れたような感じがして嬉しかろう。そうに違いない。

 

 ぱくりと海苔の巻かれた三角形を頬張る。

 

 

 ん〜〜、これはツナマヨ。

 

 

 ツナマヨは基本的に秋か冬といった涼しい時にしか買わないので、随分と久々に食べた気がした。

 

 

 ほら、ツナマヨってなんか暖かいとすぐに痛みそうじゃん? お腹を壊すかもしれないって思うと恐くて買えないんだよね、梅雨とか夏とか。

 

 

 もくもくと米と具材を咀嚼し、三回も口に含めばペロリとツナマヨは消えた。うまい。

 

 再度袋に手を突っ込み、今度はフルーツサンドを引っ張り出す。

 塩っけのあるものを食べたら甘いものが食べたくなってしまうのだ。仕方がない。

 

 シャッとご丁寧に切り口、と書いてあるビラビラ部分を縦に引き裂き、中身を取り出す。

 

 パンはふわふわとして軽く持っただけでも指が沈む。加えて中身がレタスやハム、カツなどといった固形物ではないためか、その柔らかさといったら……! 

 等間隔で並んでいるイチゴは丸々と大きく、持ち手を誤ればパン生地を突き破って赤い果物が顔を覗かせることだろう。

 

 

 買っておいてアレだが、サンドイッチをデザート風にするってどうなの? と少しばかり疑っていた。しかしこれは美味しい。絶対に美味しいに違いない。食べなくても分かる。

 

 

 いただきまーす、と今更ながら手を合わせ、甘い香りのするふわふわの物体へとかぶりつく。

 

 

 ………………………………うまあ!?!? 

 

 

 舌から伝わるこの味覚をなんと表現するべきか。生クリームのぽってりとした甘さに、イチゴのさっぱりとした甘酸っぱさ。そしてそれらを包み込み、全てをマイルドな甘さへ還元するカスタードの素晴らしさ……。

 

 

 うまい。すんごく美味しい。語彙力の無さが悔やまれる。

 

 

 もくもくと口を動かしつつ、全体の半分近くが掛けたフルーツサンドを見る。

 

 

 …………美味しい。すごく美味しい。美味しいんだが、どこか懐かしくも感じる味だ。

 

 

 不思議だ。以前の俺が好きだったりしたのだろうか。

 

 胸の内がぽかぽかとあったかくなるような心地に首を傾げつつも、まだ半分と一つあるのだから、全て食べ終わる頃には何か思い出しているかもしれない。

 

 そう前向きに捉え、フルーツサンドから目を離す。

 

 

 くしゃみで判明した人間らしさといい、ぽかぽかとする懐かしい味のフルーツサンドといい、なんだか今日は良い日だ。

 あと数時間もすれば日付が変わってしまうが、今日はこのまま帰ってのんびり過ごそう。帰り道にコンビニがあったら再度寄って、フルーツサンドを買い占めるのも良いかもしれない。

 

 久々の良い日だ。

 

 と、いうのもここ最近、呪術師界には謎の緊張が走っているらしく、近頃は裏サイトからの依頼を受けるのもひと苦労だった。

 

 ひっそりと……までは行かなくとも、正規の呪術師に見られなければオッケーというスタンスであったのに、この頃は言葉通りひっそりと仕事を(こな)さなければいけなく、少しずつストレスが溜まって仕方がなかったのだ。

 

 いっそのことフリーの呪術師として正式に登録し、大手を振って依頼を受けられるようにしようかとも思ったが、【六眼】先生が類を見ない拒絶反応と警告を告げてくるものだから止めた。

 五条悟というラスボスの情報も集まりやすくなるんじゃないか、とも思ったのだが、よくよく考えてみると人とのコミュニケーションが好きに取れない時点で無意味なのでは? という結論が出た。乙女ゲームって窮屈だ。

 

 

 まあ、そんなこんなでギュウギュウとした日々の連続で気分が下がっていたが、300円ちょっとのフルーツサンドのお陰で一気に回復した。

 

 

 甘いものは偉大だ。もうひと口食べてしまおう。

 

 うきうきとしながら残り半分の幸せを頬ばろうとしたその時、

 

 

 ───補助システム【六眼】、緊急起動します───

 

 聞き慣れた男と女、どっち付かずの声が聞こえた。

 

 ───対象を呪力による変化形の攻撃と判断 ───

 

 体が自分の意志と切り離され、パチリと主導権が【六眼】へと移る。

 

 ───最適解を算出 : 成功───

 

 潰さぬよう大切に持っていたフルーツサンドが手から零れ落ち、背負った刀袋へ手が伸びる。

 

 ───特級呪具【閻魔刀(やまと)】の使用を選択───

 

 

 おい、ちょっ……! 

 

 

 重力に従って暗い夜道に吸い込まれるふわふわのパンがやけに遅く見えた。

 

 シュルリと結び口を縛る紐を解き、軽く身を屈め中身を取り出す。

 

 姿を表したのは美しい日本刀。

 

 金色の鍔に純白の柄。艶めかしく光る黒漆の鞘。結ばれているのは淡い黄色の下緒。

 

 鋭く美しく、研ぎ澄まされた力の象徴。

 

 

 ───特級呪具【閻魔刀(やまと)】: 抜刀───

 

 

 咲き乱れる刃紋を刻む濡れ鋼。断ち切るは禍々しき灼熱の火炎。

 

 キンッ───と。鍔鳴りが先か。

 

 迫り来る灼熱は余韻も残さず掻き消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 べちょ、と。フルーツサンドが歩道へ落ちる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お、俺のフルーツサンドおおおおおおおおおうわああああああああああああ!?!?!? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………許さん。絶対に赦さんぞ。

 

 

 

 誰だこんな場所で火炎放射器ぶっぱなしたのぶっ殺してやる。

 

 

 



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②・後

 目の前でまんまとかっ拐われた特級呪霊の頭。救出にやってきたのは緑の匂いを纏った別の特級呪霊。

 

 どちらかと言えば直情的で扱いやすかった火山頭とは違い、不気味な気配と静けさを持った花畑マン。

 

 最強(じぶん)から逃げおおせた特級二匹の消えた方角を見ながら、五条悟は笑った。

 

 この前提出された報告書。特異な残穢(ざんえ)の件に進展が見られず、自分と同じモノであるならば家の者が関わっているのではないか。

 

 頂点である自分の目を盗み、ナイショであーんなことを画策していたのかと思えば思うほど腸が煮えくり返る心地であったが、家の者(現当主含む)全員に隅から隅まで吐かせても誰も何も知らないという。

 

僕と同じ術式反応(無下限)が出てきたんだからオメー等がどこぞやでこさえた子供じゃねーのか? おん?」といった感じに。父親には更に圧力をかけて問い詰めたのだが、本当に心当たりが無いらしかった。

 

 無下限を持ち、残穢(ざんえ)の反応から【蒼】が使えることは確定。無下限を使いこなせるならば、その目に六眼を宿していることも間違いない。

 無下限を使いこなすには六眼は必須の必需品であるからだからだ。

 

 五条自身も夜蛾からの緊急連絡を受けた後、すぐに現場へ急行した。

 

 そこで見たもの。この()で見たのは、それがどうしようもなく正しいという事実であったら。

 

 アレは確かに、自分ととても良く似た残穢(ざんえ)だった。

 

 だからこそ真っ先に直接の血の繋がりのある父親の不貞を疑い、屋敷の半分を吹っ飛ばして問い詰めたのだが……。

 ならば本家親戚一同か? とも考えるも、この可能性は極めて低い。本家ではなく分家に五条悟と条件を同じにする者が現れたのならば、それを祭り上げないわけがないからだ。

 革命を求める跳ねっ返りより、自分たちに従順な子どもの方が都合が良いに決まっている。

 

 案の定分家も青い顔をしながら心当たりが無いと首を振り、それ以来あの残穢(ざんえ)と一致する報告は上がっていない。

 時々上がってくるのは自分の残穢(ざんえ)と間違えた発見の報告がいくつかあった程度。ほぼ自分付きの補助監督扱いの伊地知(いじち)も、その中の一人に入っていた時はどうしてやろうかとも思ったが。

 

 五条が(六眼)を皿にしても見つからず、再度の手がかりも見つからない。

 

 釈然としない自分と同じ術式反応。大切な後進達の前ではいつも通り振舞ってはいたが、やはり心の隅には例えようのない苛立ちが募っていた。

 

 端的に言うと、少し。ほんのすこぉ──ーしだけ、ストレスが溜まっていたのだ。

 

 しかしそのストレスも煽り耐性/ZEROの火山頭をボコしたお陰で発散され、それなりの強さの特級呪霊が徒党を組んでいる事実に気分は久方ぶりの上向き。急上昇っぷりで言えば虎杖 悠二(いたどり ゆうじ)甦り事件の方が上だが。

 

 くるりと、自分の無罪を主張しながら土下座の体勢でいる虎杖(いたどり)に振り返り、にっこりと笑う。

 

「じゃあ悠二、僕は学長との約束があるから頑張って帰ってね」

「え、嘘でしょ。先生が連れてきたのに俺徒歩で帰んの? つかここ何処だよ」

 

 ギョッとする虎杖の姿に、それもそうか。と考え直す。

 

 流石に神奈川からこの時間、徒歩で東京の呪術高専まで帰らせるのも可哀想だ。学長との約束の時間はとうに過ぎているし、2・3時間程度ならば先に行かせた伊地知(いじち)がどうにかするだろう。いや、しろ。

 

「うそうそ、冗談。悠二のことはちゃーんと、このGT(グレートティーチャー)が送り届けて……」

 

 あげるから。

 

 その続きが出ることは無かった。

 

 目隠しの下からでも分かる。なぜなら五条悟には特別な眼があるから。

 

 だからこそ、目の前に現れた光景が信じられなかった。

 

 雲晴れた月夜に照らされ輝く白銀(しろがね)の髪、文字通り目と鼻の先にある淡くとも果ての無い輝きを宿す空色の瞳。

 整ったベビーフェイスを彩る色彩も、パーツも、自己を主張する呪力そのものまで、どうしようもなく自分(五条悟)そっくりなのだから。

 

 

「はじめまして、こんばんは。俺のために貴方を殺します」

 

 

 唯一の違いとも言える人間味の感じられない能面。綺麗な小さい口が物騒な言葉を吐く。

 

 瞬きする間もなく首に迫るのは銀閃。

 

 恐らく正体は刃物。振るう音と残像の形状から太刀に近い日本刀だ。

 

 高専に保管されている特級呪具【遊雲(ゆううん)】と似た気配。十中八九未登録の特級呪具。

 

 強襲の仕方は花丸百点。なぜこの至近距離まで接近されても気づかなかったのか、気づけなかったのかは不思議だが、呪具を扱う力量も高得点。

 まるっと間抜けに背中を晒している虎杖を狙ったり、人質として使わなかった点も花丸。プランターと茎を付け足してあげてもいいくらいだ。

 

 だがその程度で取れるほど、最強の首は安くない。

 

 高専で厳重に保管されている国産みの(ほこ)を除けば、どんな呪具でさえ術式でさえ、五条悟に触れることは…………。

 

 濡れた鋼に咲く乱れ刃が迫る。呪力を喰って。

 

 呪力で顕現した無限をも喰らって。

 

 そう認識するが早いか、五条は術式で己を引っ張りその凶刃を躱す。

 

 リィン───と澄んだ音を響かせた鋼が捉えたのは黒。五条の目隠し。

 

 白銀の凶手は振りかぶった勢いのまま素早く体を回転させ、増した速さそのままに五条の首を正確に()りに来る。

 

 チリ、と薄皮スレスレに過ぎる刃に目を走らせる。

 名称は分からずとも、呪力が込められたものであるならば五条悟の六眼はソレを満遍なく読み取る。

 

「(ッ、これはなんて……)」

 

 厄介な。

 

 言葉とは裏腹に口の端が吊り上がるのを抑え、術式を使用する。

 

 狙うは足。まずは機動力から削ぐ。あんな物騒な特性を持った刃をブンブン振り回されるのは少し困る。

 

 無限───収束……

 

 

  術式順転【蒼】

 

 刀はまだ引き戻っていない。再度勢いを乗せたために両足はまだ地面から遠い。もう一度あの刃を振るうより早く、五条の術式の方が到達する。確実に当てる。

 

 当たる……。そう、普通ならばリンゴが地へ落ちるよう、収束した無限は襲撃者の足を捩じ切る寸前にまで追い込む。

 

 普通ならば、の話だが。

 

 この時五条は少なからず動揺していたのだろう。自分と同じ色、自分と同じ顔、自分と同じ呪力。

 

 だからこそ、自分と同じ瞳(……)を持つ……という本当の意味を失念していた。

 

「マジか……ッ」

 

 収束した無限が打ち消される。いや、相殺された。同じく収束された無限(…………)によって。

 

「ごめん悠二! 受け身だけちゃんと取って! 後で(硝子が)治すから!!!」

「えっ」

 

 有無を言わさず虎杖の襟首を掴み、安全そうな方角を目掛けて全力で投げ飛ばす。

 

 そして間髪入れずその場を離脱。上空へ。

 

 空間が切り重ねられる重苦しい音と共に、先程までいた場所が歪む。

 

 遅れて聞こえたのは刀の鍔が鳴らす納刀の合図。

 

「……わあ、もしかして万国ビックリ人間ショーにでも出るの? どんな手品? それ」

 

 体勢を低くし、片足を下げる。腰に構えた刀と柄に添えられた手からして、今の斬撃は居合術。

 

「だんまり? ひどいなあ。こんなグッドルッキングガイと話せる機会、そうそう無いよ?」

 

 シン・陰流の使い手が似たような事をするが、冗談じゃない。

 

 アレの術式はシン・陰流ではない。アレがやったのは簡易領域などではない。アレがやったのはただただ純粋な、恐ろしく早い複数回の居合(…………)だ。

 

 ただの居合術で空間を切った。

 

 バケモノめ。

 

 五条悟の周囲に収束された複数の無限が編まれる。自分のものではない、眼下に佇む少年の術式だ。

 

 同時に少年の足元に術式反応。

 

 星の照らす夜に、ぼんやりと陰を帯びた六眼が五条を貫く。確固たる殺意を持って。

 

 跳ぶか? その刃を届かせるために。

 

 まだ細く未発達な牝鹿のような足。それが跳躍するために必要な要たる無限を潰す。

 

 あは、と。思わず溢れ出た歓喜の声を手で覆う。きっと今、自分の六眼は弓なりの孤月を描いて居るのだろう。

 

 人差し指を軽く立て、その矛先を同色の満月へ向ける。

 

 打ち消しはしない。そのまま押し潰す。

 

 無限───収束、発散。

 

 ほのかに赤く、染め上げるように紅く、全てを呑み込むように───赫い。

 

 ──────────術式反転【赫】

 

 周囲の被害には目を瞑る。ここでコイツを逃す方が五条悟にとっての損失になる。

 

「(さて、どう出る)」

 

 世界に遍く無限の発散による回避不可能の攻撃。

 

【蒼】の最大出力で巻き取るか。いいや、不可能だ。オマエの練度ではまだ足りない。

 

 その日本刀の特性で喰らうか? いいや、不可能だ。じっくり視て解った。その刀は刃に触れなければ呪力を喰らえない。広範囲に作用する攻撃には弱い、そうだろう? 

 

 対抗策は一つ。同じく【赫】をぶつけるのみ。

 

 オマエが纏っている無限では凌げないぞ、クソガキ。対抗策が無いのならばそれまで。四肢はもげるが頭と胴は残る。

 

 君の事を聞くのは、それからでも……

 

「じゅうぶん……♡」

 

【赫】の範囲外に少年の【蒼】が編まれる。

 

「逃がさないって」

 

 移動用の【蒼】をコチラの【蒼】で潰し、先程のお返しも兼ねて少年の体を起点とした360°に強火の【蒼】で潰しにかかる。

 

 逃亡は許さない。僕の【赫】を真っ向からどうにかする以外の道は残してあげない。

 

 そっと気づかれぬよう、無限を収束させる。

 

 でもまあ、結果は分かりきっている。

 

 自分と同じ瞳、自分と同じ術式……。ならばその身に備えた才能とて、

 

 

【赫】が弾ける。直撃したのではない。同じレベルの無限が発散し、相殺されたのだ。

 

「同じくらいじゃないと、愉しくないよねぇ?」

 

 見開かれた幼い万華鏡の瞳には、ニィとした悪い大人が映っていた。

 

 

 

 

 

 

 

────────────────

 

 

 

 

 

 

 梅雨明けの 月夜に迫る どデカ玉

 

 触れたら消し飛ぶ 無限かな

 

 (めぐる) 辞世の句

 

 

 死んだわこれ。【次元斬(じげんぎり)】を生身で避けるとかインチキだインチキ、人生解散。お疲れ様でした。

 

 ───対象の術式を解析 : 成功───

 

 ───術式【無下限】: 反転【赫】と判断

 

 ───■■ (めぐる)の周囲に術式【無下限】: 順転【蒼】を観測───

 

 ───【無下限】: 順転【蒼】の迎撃を開始─

 

 ───術式【無下限】: 順転【蒼】を展開──

 

 ───【無下限】: 反転【赫】の迎撃を開始─

 

 ───【無下限】: 順転【蒼】を選択、展開─

 

 ───エラー エラー エラー エラー ───

 

 ───順転【蒼】での迎撃は不可能と判断─

 

 ───再考します───

 

 ───クリア───

 

 ───術式【無下限】: 反転【赫】を解禁──

 

 ───脳部負担、演算機能、共に正常───

 

 ぼうっ……、と。迫る力の大瀑布の前にそっと人差し指を灯す。

 

 循環するは仄暗い赤。侵食を形得たかのような紅。全てを拒絶するような───赫色。

 

 ───迎撃を開始───

 

 無限───収束、発散……。

 

「術式反転────【赫】」

 

 同レベルの無限が弾け、同じく発散された無限を巻き込んで消滅する。

 

 …………お、おぉ? もしや助かった感じ? あの顔面宇宙な目と鼻と口があるはずの場所に性・格・ク・ズって白ペンで書いてあるスペースゴリラから??? まぁじぃ? 

 

 流石【六眼】先生ェ! さっきまで意味わかんない宇宙ゴリラに喧嘩売るとか馬鹿じゃないの? 六眼(ろくげん)であんなことやこんなこと見る前に現実を見ろよ妄眼(もうげん)野郎って思ったりしたけど、やっぱり頼りになるのは【六眼】せんせ……、

 

 フ、と。首に鉈を突きつけられたような悪寒が全身を突き抜ける。

 

【赫】を相殺した爆風ではなく、僅かに男物の香りが混じる風が前髪を撫ぜた。

 

「同じくらいじゃないと、愉しくないよねぇ?」

 

 遠く遠く、どこまでも遠く輝く美しい瞳に捉えられる。

 

(めぐる)、あなたの■はあの人そ■■りね……。晴れ渡った■■色。か■さんの大好きな、二人■色よ』

 

 ズキリ。頭が痛い。

 

 ───警告───

 

 ───敵対象の接近を確認、距離 : ゼロ──

 

 ギュンッと。引力そのものと見紛う曲げられた五指。

 

 狙いは首か。

 

 ───迎撃 :【閻魔刀(やまと)】───

 

 膝を曲げ体勢を低く。鞘は地面スレスレまで沈ませ、頭上目掛けて抜刀。

 

 ───【抜刀切り上げ】───

 

 ゼロから百へ。停止からの加速。逆方向の落雷を連想させる下から上への抜刀切り上げ。

 

 切り飛ばすのは手首から肘先……ッ! 

 

 ───術式感知 : 【無下限】、順転【蒼】─

 

 収束する無限はゴリラのすぐ後ろ。体を止めるつもりか。

 

 ───妨害開始 : 順転【蒼】───

 

 初対面の人の首を狙う物騒な腕はいりませーん! スパッといこう。

 

 特級呪具【閻魔刀(やまと)】は破魔の(つるぎ)

 その刃に触れたモノは術式であれ呪霊であれ、呪術を含んだものであればその力を貪り喰らう破邪の王だ。

 

 例え術式を周囲に巡らせ、無限の障壁を築いたところで【閻魔刀(やまと)】の刃はその無限さえも喰らい切り裂く……! 

 

閻魔刀(やまと)】が当たる寸前、視界から狙い澄ました腕が消える。

 

 いや、消えたのではない。これは……、

 

「鍛えておくもんだよねぇ? カラダって」

 

 踏み込んだ軸足を変えることによって直線から左回りに勢いを変え、【閻魔刀(やまと)】の射程からズレたのか! 

 

 ───術式感知 : 【無下限】、順転【蒼】─

 

 発生した無限の流れは俺への直撃コースを描く収束。

 

 ならば次の一手は踏み込みが充分ついた蹴撃だろう! 

 

 ───術式妨害 : 反転【赫】を選た……───

 

 間に合わない。あれと同等の出力を正確に、一部のズレなく、俺は咄嗟にまだ出せない。防御に回せ。

 

 一瞬だけ、俺ではない俺の声が脳裏に響く。

 

 ───受諾───

 

 いやもう鞭じゃん? と見紛う長い足がとんでもないしなりと威力を持って【閻魔刀(やまと)】 を振り上げた状態の手首を狙う。

 

 勘弁してください手首がすっ飛びます。

 

 ───術式【無下限】: 瞬間出力を最大に変更

 

 狙われた手首を含める右腕全体を覆う無限の層を最大にまで増やす。

 

 被弾覚悟で右腕を最大限保護し、鞘を持つ左の指をスペースゴリラへ。

 

「「術式反転【赫】」」

 

 声が……重なった。

 

 発散された無限と無限の衝突。

 

 生まれた衝撃波で地形が吹っ飛ぶと同時に、右腕を覆う層が全てぶち抜かれた。

 

「ッ……!」

 

 反射的に進行方向へ自ら飛びダメージの軽減を試みるも、右腕を起点として体の芯から痺れるような衝撃が走る。

 

 直撃した右手は一瞬でも神経が持っていかれたのか、手から【閻魔刀(やまと)】が離れる。

 

「それ物騒だからさ、悪いけど弾かせてもらうよ」

 

 僕の術式共々、スッパリやられちゃうんだもん。

 

 どこか楽しげに呟かれた言葉にゾッとする。

 

 うっっそじゃ〜〜ん??? コイツ【閻魔刀(やまと)】の特性知ってたの? 冗談キツい。もしや前の持ち主と知り合いだったり? 

 

 そこから始まるのは拳に体術、蹴撃に術式のガチンコ勝負。

 

 ギュンギュン空気の層を切り裂きながら飛んでくる拳を捌き、一種の舞踏のようにも見える長い足の蹴撃を打ち返す。

 

 目まぐるしい高速のステゴロと共に、いやらしいタイミングで差し込まれる【赫】。

 

 クソすぎる。顔の代わりに性格クズって文字が鎮座してる全身ジャージみたいな真っ黒くろすけのくせに、冗談みたいに強い。

 

 しかも腹の立つことにこのヤロー、本気になれば俺のこと潰せるくせにわざと長引かせている。いや……、どちらかと言うと楽しんでるのか。

 

 なんにしても悪趣味。俺から仕掛けたとは言え、これは酷い。さてはモテないな貴様。

 

 収束の【蒼】と停止の【無下限】。時々挟まれる発散の【赫】を相殺しながら、なんとか膠着状態へ持ち込む。

 

 シュッと、体に纏う無限をより強い無限で打ち消され、拳の掠った頬にピリリとした痛み。

 

 嘘吐きました。膠着状態(ジリ貧)の間違いです。誰か助けて。

 

 これがお前の断頭台だ♡と言わんばかりに落ちてきたかかと落としを絡めとり、お返しに【蒼】を乗せたハイキック。

 

 ───警告! ───

 

 黒ジャージの姿がブレる。

 

 ───対象の接近を確認───

 

 男物の香水が鼻腔を擽る。

 

 ───距離 : ゼロ───

 

「つーかまーえた♡」

 

 曲げられた五指が伸びてくる。

 

 視界の中ではひどく遅いのに、体は動かない。

 

 本能が警鐘を鳴らす。これに捕まればもう逃げられない。俺の夢はここで潰える。

 

 それは……、それだけは…………

 

 ダメだ。

 

 俺の悲願をこんなところで終わらせてなるものか。

 

 ───補助システム【六眼】の機能を停止します───

 

 淡い輝きを宿す空色の万華鏡を閉じる。

 

 砕けたアイスブルーから覗くは多彩に偏光する宝石の瞳。

 

 ルビーとエメラルドが入り交じる神域の魔眼。

 

 呪力でも、術式でも、天から課せられた呪縛でもなく。

 

 これなるは天より授けられた、正真正銘の異能だ。

 

 魔眼起動───【歪曲の魔眼】

 

(まが) れ 」

 

 右目と左目が捉えるのは王手(くび)へ掛かる白く大きな手。

 

 そっとその場を摘み、紙のように捩じ切るイメージを。

 

 赤と緑の螺旋が絡みつき、化け物の腕を捩じ切……

 

「ッ!?」

 

 ……………………冗談もよし子さん勘弁してくれ。

 

 そんな空間の捻れを認識してから手を引いて直撃をズラすとかアリ??? 無しに決まってんだろボケェ!!! 

 

 ダボダボと浅く表面を削られた男の腕に白目を剥きながら、離脱のために地上へと急降下。

 

 当然のように黒ジャージのスペースゴリラも付いてくる。知ってた。

 

 だけど残念、今回は俺の勝ちだ。いや勝つ。

 

 全力で押し潰しにくる無限の圧力を【無下限】で押し留めながら、地面を目指す。

 

 男の手が伸びる。背後へ、背中へ、すぐ後ろへ。

 

 だがその手が俺に触れることはない。

 

 キンッ───、と。男の手を半ばまで切り裂きながら夜を切る白刃。

 

【蒼】でひっそりと引き寄せた純白の柄をしっかり握り、男の怯んだ隙に地面へ振り下ろす。

 

「ッ! 領域展開、【無量空……】」

 

 うわこれヤバいやつ。

 

 ボッコボコになった更地同然の地面に半月状の裂け目が現れ、そこ目掛けて全力で飛び込む。

 

 プチリと。髪のちぎれる痛みを感じたのを最後に、俺の視界は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザッパン! と。全身を刺す冷たさに意識が覚まされる。

 

 どうやら次元の出口はどこかの川と繋がってたらしい。

 

 ズキズキどころではなく、ズッキンズッキンと痛む脳みそ。目は霞みとんでもない吐き気が体を襲う。

 

 正直言ってしんどい。【六眼】先生のサポート無しで術式を使ったせいだと分かっているが、今にも脳みそ爆発しそうなほどに痛い。

 

 綺麗さも美しさもない呪力任せに術式を使ったため、呪力もスッカラカンだ。

 

 ざぶざぶと下流へ流れる川を横断し、なんとか陸へと上がる。

 

 抜き身の【閻魔刀(やまと)】を鞘に収め、自身の呪力を喰わせることで鞘の呪力隠しの恩恵を受ける。

 

 これで肉眼で視認されない限り、正規の呪術師に見つかることは無い。

 

「ッハア……」

 

 全身びちゃびちゃで気持ち悪いことこの上ないが、もうダメだ。

 

 ゴロリと仰向けに寝転がり、街頭の少ない星空を見上げる。

 

 ………………………………生きてる。殴られたり蹴られた時にちょいちょい【無下限】をぶち抜かれ、生身で受けたから全身が痛い。だけど生きてる。息をしている。

 

 ドクドクと脈打つ鼓動を耳で感じ、大きく息を吸う。

 

 あ────────、認めたくないけど分かってしまった。ここ乙女ゲーの世界じゃないわ。ガッチガチのバトル漫画の世界ですね。あんなパワーインフレの塊が乙女ゲーにいるわけないじゃんいい加減にしろ。

 

 遠くなってくる意識に身を預け、起きた時の事はその時の自分に丸投げすることに決めて目を閉じる。

 

 

 

 

【メインクエスト】: 第一章【最強との邂逅】

 

 クリア条件 : 最強からの逃亡

 

 敗北条件 : 敗北、連行

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 傷ついている。泣いている。わたしの可愛い子が泣いている。

 

 可哀想に、痛かったでしょう。

 

 泣かないで、泣かないで。可愛いあなたを苛むものは消してしまいましょう。

 

 可愛い子、可愛いわたしの子。どうかその涙を拭って。

 

 わたしがあなたの涙を拭うから。どうかどうか、泣かないで。

 

 

 一人で寂しく泣かないで。 

 

 

 ズルリと影から真っ白い美しい手が一つ、二つ、三つ……。

 

 生気の感じない数多の手は少年の目元を優しく撫ぜ、まだ細く頼りないその体を覆う。

 

 

 ───特級呪縛怨霊【■■■ 】: 限定解禁─── 

 

 

 するりと音もなく影に溶けた後には、傷一つなく穏やかな寝息を立てる少年が一人。

 

 



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③・前

 燃え尽きたぜ……真っ白にな…………。

 

 独特の悪臭が満ちる薄暗い地下道。壁を挟んで聞こえる水音に、歩く度に跳ね返る靴音。

 

 あのパワーインフレの塊たるスペースゴリラから逃げ延びて七日。体は元気だけど中身()が元気じゃない。

 

 逃げ切って川に落ちたあたりから記憶がほとんど無いが、目が覚めたら衣服含めて傷がまるっと治っていたのは嬉しい誤算だった。

 

 多分寝こけている間に【六眼】先生がなんとかしてくれたのだろう。流石【六眼】先生ェ! 

 

 土壇場で解禁された術式反転【赫】は反転術式と呼ばれるものらしく、それを応用すればあの程度の怪我は治せて然るべきもの。

 

 なにがどうやって無限を扱う術式が反転すると治癒のオプションが付くのか謎だが、現にこうして傷ついた体も治っているわけであるし、考えるだけ無駄である。

 

 壁沿いを伝いながら歩き、刀袋へ手をかける。

 

 無駄……。無駄と言ったら思い出すのはあのスペースゴリラだ。

 

 袋の口を縛る紐に指を絡ませ、ゆっくりとその結び目を解く。

 

 なにあの強さ。なんであんなのが人間として生まれてきたんだ。一人だけ人間界の法則ガン無視しやがってあのジャージ野郎。

 

 しゅるしゅると肌を伝う縛り紐をそのままに、開いた口元から覗く純白の柄に触れ、分かれ道となっている曲がり角と共に一閃。

 

 ───キンッと、鍔と鯉口の重なる金属音。

 

「ア"……? アァ"……、ギレ……ィ…………?」

 

 曲がり角からこんにちわ。出てきたのは不細工な形をした、人型に近い呪霊だ。

 

 綺麗なものがある。だから壊したい。そんな欲を隠しもしない複数の眼差しを俺に注ぎ、熱に浮かされたように伸ばしてくるちぐはぐの手を払い除ける。

 

 障害物を避けること無く直進すれば、当然ながら出会った呪霊は目と鼻の先。

 

 そしてトン……と。うっすらと見える黒い直線を人差し指で叩き、

 

 選択肢

 ・邪魔

▷・どいて

 ・触らないでくれる? 

 

 自分から触れておいて「触らないでくれる?」は理不尽の権化すぎない? 

 

「どいて」

 

 ピシリと、呪霊の内側から裂ける音。

 

 そして次の瞬間、クパァと薄黒い切れ目に沿って呪霊の体が割れる。

 

 ゆっくりと引力に従い、左右へ開かれる呪霊だったものを一瞥(いちべつ)することもなく、目の前に拓けた道を堂々と通る。

 

 なんか汚い液体を出しながら同色の糸を引く発生源。まあ、パックリと綺麗に裂けたど真ん中なわけだが。そんなところを通れば俺の体にも汚い粘液の一つや二つ引っ付きそうなものだが、なんとも綺麗なものだ。

 

 反転術式を使えるようになったためか、今まで必要な場面でだけ使っていた【無下限】を四六時中使えるようになったらしい。

 

 そのお陰で俺の体には常に無限の層があり、汚い粘液も水も、攻撃だって当たらない。ただしあの化け物野郎は除く。

 

 四六時中呪力で生み出した無限を纏っていれば一発で正規の呪術師に感知されそうなものだが、そこは【閻魔刀(やまと)】の鞘がどうにかしてくれる。

 

 呪術師からは呪力を感知されず、仮に不意打ちの攻撃を受けたところで纏った【無下限】によって止められる。

 

 いやー! 反転術式様々だな!!!! これはもう勝ったも同然でしょ。天上天下唯我独尊! 天を(あく)するは我一人ィ! 

 

 ……………………なぁーんて、手放しで喜べたら良かったんだけどなあ。

 

 川辺でネギの似合わない美人さんに寝ているところを起こされ、さらには「息子の朝ご飯にって思って買ったんだけど、君の方がよっぽどお腹減ってそうな顔してるからあげる」という謎の理由により菓子パンを貰ってから七日。

 

 そう、七日だ。七日も経っているのに、どうしても一瞬、垣間見えた遠く輝く瞳が忘れられない。

 

 あの男、あの化け物、あのジャージ野郎。強かった。どうしようもなく、途方もなく、彼方(かなた)先までいると感じるほどに強かった。

 

 条件は不本意にも同じだったはず。俺自身記憶がスッカラカンなため、術式の種類だとか呪術の仕組みだとかは分からない。

 だけど戦っていて分かった。アレは俺と同じ術式、同じ無限、同じ程の才能。そして恐らく、同じ(六眼)を持っている。

 

 顔が見えなかったので実際の年齢までは不明だが、体のつくりから見てとっくに成人した大人。年齢の差はあれど、俺には【閻魔刀(やまと)】があった。

 

 呪力という存在が僅かにでも関係するモノであるならば問答無用で絶大なアドバンテージを取れる、当たれば勝ち確の【閻魔刀(やまと)】を持っていながらだ。

 

 ()された。抑え込まれた。押し切られた! 奥の手である【歪曲】さえ晒したのに! 

 

 年齢差分の場数と経験もあるのだろうが、それでも全てにおいて足りなかった! 

 

【無下限】の扱い方も、体術の練度も、瞬間的な判断力でさえだ。

 

 それがどうしようなく悔しい。この両眼を抉りとってなお、この憎悪にも似た屈辱は消えはしないだろう。

 

 胸の内からフツフツと湧き上がるのは、激情なんて言葉では言い表せないぐちゃぐちゃの感情だ。

 

 辺り一面、この地下道一帯を更地にでもしてしまおうか。と、そんな暴力的感情が頭を支配する直前、ふと脳みその奥底がスッと冷える。

 

 …………………………いや物騒すぎない??? 

 

 俺としては考えられない程の激情。暴力的な破壊衝動を抑え、ちょっと自分の情緒が信じられなくなる。

 

 確かにあのゴリラは強かった。後から【六眼】先生で確認した【メインクエスト】のタイトルは【最強との邂逅】。

 どこの誰さんかは一切分からなかったが、それでも【最強】の称号を冠される人物ではあったのだ。

 

 その称号を背負っているならばそれ相応の強さはデフォルト装備であるし、まだ二十にも満たない俺に打ち倒せる訳でもなし。

 

 こんなクソバイオレンスな感情を抱く程の事では無いはずんだが……。最終目標である五条悟だったわけでもあるまいし。

 

 ストレスでも溜まっているのだろう。そうに違いない。

 

 なんて言っても、光の射さない地下へ逃げて五日。風の感じられない地下に篭って五日。新鮮な空気と別れを告げて五日だ。

 

 そろそろ俺の人間としての本能が地上を求めてしまってもおかしくはない。

 

 だがそんな人間の本能に反して、どうしても外に出られない事情がある。いや、出来たと言う方が正しいかもしれない。

 

 なんかねぇ……、見られてるんですよ。見つかったら(・・・・・・)最後だと俺の頭が警鐘を鳴らすんですよ。

 

 

 

 ────────────(からす)に。

 

 

 

 

 

 

 

──────────────

 

 

 

 

 

 

 

 きっちり一分の乱れなく(こうべ)を下げるホテルマンに軽く手を上げ、手垢一つないエレベーターのボタンを押す。

 

 程なくして止まるエレベーターに乗り込み、スイートルームと呼ばれる最上階へ続くボタンを押し込む。

 

 ポケットから出した右手。二桁の数字が刻まれた場所へ触れる手は、半分が無機質な医療品で覆われている。

 

 これは別に五条悟がいい歳してあの病を発症した 、だとか再発したから、とかではない。

 

 僅かにズキリと痛む患部を額に当て、上昇するエレベーターの内部に寄りかかる。

 

 ぐんぐんと遠くなる地上をガラス張りの向こうから眺め、一週間前に出会った自分と同じ色彩の子を思い出す。

 

『はじめまして、こんばんは。俺のために貴方を殺します』

 

 静かな声、冷たい雰囲気、凍てついた殺意を乗せた瞳。歳は多く見積って十八あるかないか。あのベビーフェイスとピクリとも動かなかった表情のせいで分かりにくかったが、自分の勘を信じるならば、恐らく伏黒や虎杖たちと同じ十五か六。

 

 それにしては備わった強さも、術式の扱い方も突き抜けていて、あの厄介な刀型の呪具の扱いに至っては神の領域に踏み込んでいる。

 

 人を寄せつけない、冬の気配がする子どもだった。

 

 治りが悪い(・・・・・)右手をポケットへ突っ込み、すっかり温くなった金属製のカプセルを指で弄る。

 

 アレは……、あの子どもは間違いなく五条の子だ。本家分家、二親等三親身とか関係無く、五条悟に最も近しい場所から生まれた子どもだ。

 

 なんとなく。そう、なんとなくだが、そう思えて仕方がない。

 

 だけれど生憎、この年になっても五条は家庭を持っていないし、一時期柔らかな異性に慰めて貰っていた時期があったとはいえ、無責任にポンポコ新たな命をつくるほど落ちぶれもいない。

 

 浅く抉れた腕と、スッパリ斬られた手を抱えもう一度生家に突撃したが、やっぱり誰も知らないし心当たりなんて無いと言う。

 

「(……やっぱり、硝子からの報告を待つしかないか)」

 

 サングラスから覗く六眼で眼下の街を見下ろしても、やはり自分そっくりなあの子どもの痕跡は見つからない。

 

 はじめて会った時も呪力のじゅの字すら感じなかったし、なにかしらカラクリがあるのだろう。

 

 考えられるとすれば、あの特級呪具だが……。刃ではないとすると、もしかしたら鞘の方に何かあるのかもしれない。

 

 チンッ、と軽い音と共に重厚な造りの扉が口を開ける。

 

 この七日間、何度も味わったため息を押し殺し、五条は目的の部屋へ向かう。

 

 豪奢ながら品の良さを感じさせる扉を形式上ノックし、そのままドアノブを回し部屋へと踏み込む。ノックの返事? そんなもの生まれてこの方、待ったことはない。

 

 フローリングからカーテンのちょっとしたデザインまで、最上に近い贅を凝らした部屋に土足で上がり、景色を一望できる大きいガラス張りの窓。その正面を陣取るソファ。真ん中に優雅に腰掛けるのは、まるびを帯びた艶やかな女性ライン。

 

「おや……? レディの部屋へ入る時はノックを。そう習わなかったかい? 五条くん」

「したよ。したけど我慢出来ずに入っちゃった」

「ふふふ、他でもない君が我慢とは……。そんなに気になるかい? 最強たる君に手傷を負わせたその子が」

 

 面白そうに肩を震わせる女性に口を尖らせる。

 

「そりゃもう。僕の(六眼)を血眼にして探しちゃうくらいには、興味津々だよ」

 

 小さなガラステーブルに盛られたお菓子の籠。その中から一つを適当に掴み、ペリリと包装を破く。

 

「だからさ、早く見つけてよ

 

 ──────(めい)さん」

 

 その言葉と共にソファに身を沈めた女性─── 一級呪術師 冥冥(めいめい)はうっそりと笑った。

 

「私としても君がそこまで言うほどの子だ。君からの口だけでなく、生の本人を見てみたい気持ちもある」

 

 だけどねぇ……。と、冥冥(めいめい)は疲れた様に小さく息を吐き、綺麗に整えられた指で目頭を揉む。

 

 よくよく見れば彼女の顔には疲労が滲み、限界が近い事は察せられる……が、五条悟にそんなことは関係ない(・・・・)

 

 ポリポリとカラメルの焼かれたクッキーを頬張り、五条は自分の預金残高をザッと数える。

 

「なあに? もしかしてまだ足りない? もう二・三割増やせば確実に見つけられる?」

 

 自由に動かせる金が無くなるのは少しばかり困るが、日夜舞い込んでくる仕事量を考えると二・三ヶ月もすれば勝手に戻るだろう。

 

 金は勝手に戻ってくるし、必要になれば稼げばいい。

 

 だがあの子どもは違う。待っていれば顔を出してくれるわけでもないし、出て来てくれと思ったところで目の前に現れるわけでもない。

 

 だからこそ、かなりの代償を支払って彼女に頼んだのだが……。

 

「いいや、これ以上重ねられても私がもたない(・・・・・)。それに私とて仕事は金で引き受ける人間だが、呪術師としてのプライドくらいはある」

 

 あれだけのものを貰ったんだ。是が非でも見つけてみせるさ。

 

 冥冥(めいめい)はそう呟くとゆっくりと瞼を閉じ、深く息を吸う。

 

 一級呪術師 冥冥(めいめい)

 

 彼女の術式は烏を操る「黒鳥操術(こくちょうそうじゅつ)」。名前の通り、烏を操るだけの術式だ。

 

 冥冥(めいめい)を一級にまで押し上げた術式の真骨頂はまた違うのだが、今回五条が宛にしたのはフラットな「黒鳥操術(こくちょうそうじゅつ)」。

 

 烏を操るだけの術式であるが、同時に操っている烏との視覚共有を可能とする索敵にはもってこいの術式でもある。

 

 だからこそ、五条悟は彼女に仕事の依頼を出した。

 

 冥冥(めいめい)が金でしか動かないフリーランスの呪術師であることも関係するが、莫大な代償を簡単に用意でき、かつソレが絶大な"縛り"となって発見の可能性を高められるのが彼女だけであった……という話だ。

 

 あの子どもを見つけるため。冬の気配がする同じ色彩の子どもに会うため。宝石へと偏光する万華鏡の瞳を持つあの子を捕まえるため。

 

 五条悟と冥冥(めいめい)が交わした"縛り"は二つ。

 

 一つは、五条悟の探し人を冥冥(めいめい)が見つけること。

 

 一つは、五条悟の個人資産(・・・・・・・・)その半分(・・・・)冥冥(めいめい)へ譲ること。

 

 これらの"縛り"により冥冥(めいめい)は五条の探し人を見つけるまでの間、その身に宿す呪力、術式、全てにおいて絶大なブーストがかかる。

 

 常ならば数十匹の烏の操作が限界だとしても、この"縛り"が課せられている間は日本全土。それに近い数の烏を支配下に置き、それらとの視覚共有を可能とする。

 

 通常の呪術師ならば、この条件下での"縛り"はほとんど効力を発揮せず、無意味なものになり下がるだろう。

 

 だが冥冥(めいめい)、彼女は違う。金に換えられないものに価値は無い。なぜなら金に換られないから。と、この世の価値を金銭で計る彼女にとって、金の価値はなによりも重たい意味を持つ(・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 期待通り冥冥(めいめい)は地上の烏を支配下に置き、日本全土のほとんどを鳥の瞳を通して監視している状態だ。

 

 けれども大きな力には、それ相応の負担が課せられるもの。対象の身体的情報を元に取得情報を制限しているものの、莫大な情報を受け取る脳みそ。その疲労は徐々に限界に近づきつつある。

 

 冥冥(めいめい)が五条から依頼を受けてからい今日まで五日。時間に換算して凡そ百二十時間、冥冥(めいめい)は術式を解いていない。

 

 元々白い顔を更に青白く染め上げ、僅かに伝う冷や汗を拭うこともしないまま、冥冥(めいめい)は気まぐれに口を開いた。

 

「目立ちたがり屋の五条くんと違い、君の探す子はかくれんぼが上手なようだね。まるで正反対に慎ましい性格だ」

「ちょっと(めい)さんそれどういう意味?」

「そのままの意味さ、他意は無いよ」

 

 気晴らしにか揶揄(からか)われた事に気がつき、もう知らないと言わんばかりにソファの肘置きに腰掛ける。

 

 ついでにお菓子の入っていた籠をテーブルからむしり取り、膝の上を新たな定位置と決めて個袋の包装を摘む。

 

 チョコレートブラウニーだ。

 

 しっとりと染みたチョコレートと埋め込まれたチョコチップに舌鼓を打ち、初期位置から動かされていないリモコンを足で引き寄せる。

 

 天井付近に設置されている大型テレビに向かって電源を押し、丁度いい高さまで落ちてきたモニターを見つめる。

 

「…………五条くん」

「いいじゃん、この部屋だって元々は僕が用意したんだし」

「……、音量は控えめにしておくれよ?」

 

 はーい、と。適当に返事をし、チャンネルを回す。

 

 某ホテルの最上階。一番上等なスイートルーム。元々ここは五条が冥冥(めいめい)の為に用意した索敵部屋だ。

 余計な邪魔が入らぬよう。ソレだけに集中できるよう、貸し切った部屋。

 

 貸切にしたのは自分だし、金を払っているのも自分なのだから、そこに置かれた菓子類を食べ散らかしても、自由にテレビを見たって誰も文句は言うまい。

 

 しばらくお菓子をボリボリと齧り、適当に止めたチャンネルで番組を観ていると、ピクリと。ソファに身を沈める女性の指が動いた。

 

「見つかった!?」

 

 喜々として聞けば、違うと冷たく返される。

 

「君の最近のお気に入り……、宿儺(すくな)の器の彼」

「あぁ、悠二?」

「そう、丁度彼が見つかったよ。なんだか毛色の違う呪霊と一悶着してるみたいだね」

 

 毛色の違う呪霊……。しばらく考えてようやっと煽り耐性ゼロの火山頭と、不気味な花畑マンの二匹を思い出す。

 

 その後に起きた出来事が衝撃的すぎて完全に忘れていた。

 

 虎杖は何かと持っている子であるし、もしかしたらその二匹以外の変わり種を引き当てたのかもしれない。

 

 表向き彼は死んだことになっているし、単独で任務に行かせられるほど強くはない。

 

 まあ、この最強が付きっきりで鍛錬に付き合っているのだから、あとひと月もすればそこら辺の呪術師よりは強くなるが。

 

 同行者は確か呪術高専時代の後輩。脱サラ出戻り組の七海だったはず。

 

「同行者は確か七海だったはずだし、心配はいらな……」

 

 い、と。

 

 続く言葉は烏の女王に遮られた。

 

「五条くん」

「? なに?」

 

 するりと長く整った指が"いち"を形作る。

 

「君の探す子は、君と同じ天然物の銀髪である」

 

 に

 

「君の探す子は、刀型の呪具を持ち歩いている」

 

 さん

 

「君の探す子は、君とそっくりな顔をしていて、君と同じ眼を持っている」

 

 長いまつ毛が震え、アーモンド色の瞳がゆるりと孤月を描く。

 

 

「見つけたよ、君の探し人」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ありがとー!!! 

 

 そう言ってピュンと消えた己の担任の姿を白い目で見ながら、伏黒 恵(ふしぐろ めぐみ)は唯一の同級生と顔を見合わせる。

 

「…………お前、なんか五条先生に目ェつけられることでもしたのか?」

「心当たりすらねぇよ……」

 

 うげぇ……! という、年頃の女子がするものではない顔を披露するは釘崎 野薔薇(くぎざき のばら)

 

「…………なんか、様子おかしくなかったか?」

「ハァ!? あの先生いっつも変でしょ」

 

 いつも通りに見えるけれども、どこか狂気染みた雰囲気を纏っていたように感じたが気のせいだったようだ。

 

「それもそうか」

 

 伏黒はひとつ頷いて返事を返し、二年の先輩達が待つ校庭へ向かう。

 

 それにしても今回は何をやらかしたんだか。

 

 あんな小指くらいのカプセルを指して、「共鳴(ともな)り」をしてくれ……だなんて。

 

 

 

 



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③・後

 壁沿いに地下道を歩いていたけれど、どうにも上が騒がしい。

 

 ドッカンドッカンと遠慮の無い爆発音が聞こえる上に、時々人の叫び声らしき怒声も聞こえる。

 

 なんだなんだ、誰か天下一武道会でもやってんの??? 

 

 この勢いでは地面をぶち抜いて「天下一武道会参加者一同」が降りてきてもおかしくない。

 

 いきなり頭上に瓦礫が降ってくるのも困るし、落ちてきた人の踏み台にされるのも困る。

 

【六眼】先生も沈黙を保っているし、移動するくらいなら問題はないだろう。

 

 絶え間なく振動に震える天井から目を離し、視線を地面へ戻せば、おや? とあることに気がつく。

 

 基本的に地下道は暗く、必要最低限の古びた電球により視界が確保されているのが普通だ。

 

 しかし目の前。三歩も歩けば辿り着くところに、僅かな陽の光が汚れた地下の道を照らしている。

 

 軽く顔を上げれば格子状の網目が見え、そこから光が入っているらしかった。

 

 ウワア〜〜〜〜いやだな〜〜〜〜。あそこの下通りたくねぇ〜〜〜〜。

 

 外に出たいのに外が近いと分かった瞬間に尻込みしてしまう矛盾。

 

 しかしそこを通らなければ先に進めない。戻るのもアリだが、体がUターンの指示を聞いてくれるとも限らない。

 

 どうするかな、と。少しでも立ち止まってしまったのが運命の分かれ道であったのだろう。

 

「ばいばーい」

 

 気の抜けた、人を小馬鹿にしたような響きを含んだ声だった。

 

 ズルリと。格子状に浮かび上がった光が潰れ、白くドロリとしたナニカが落ちてくる。

 

 まるで泥のように格子をすり抜け、ぬるりとその身を地下道へ踊らせるナニカ。

 

 継ぎ接ぎだからけの、歪んだ目とかち合った。

 

「あれぇ……? きみ誰?」

 

 この時感じた嫌悪感をどう表現すれば良いのか。

 

 目が合った瞬間。その存在を知覚した瞬間、臓腑の底から溢れ出た嫌悪感の理由を、俺は最後まで分からないままだった。

 

 気が付けば抜いていた【閻魔刀(やまと)】の刀身。

 

 まるで捨て忘れた生ゴミが上から降ってきた時のような嫌悪と共に、淡々と機械的に鞘を走らせる。

 

 刃は上へ。刀身は体の後ろまで引き、飛び上がった勢いそのままに刃を振るう。

 

 大気を切り裂き振るわれた渾身のカチ上げは黒い残像を描き、アレの顔面付近へクリーンヒット。

 

 ……外した。何故か分からないがぼんやりと、中心を外したとだけ本能的に感じた。

 

 継ぎ接ぎだらけの呪霊は驚愕を顔に張り付かせ、ポーンッとロケットのように格子から一つズレた場所へぶち当たり地上へ打ち上がる。

 

 ほぼそれと同時に呪霊がデロデロと入ってきた格子が上からの圧力だか何かでぶち壊されたが、俺は何もしていない

 

 …………それにしてもアレだな。今のは刀の知識がない俺でも分かった。

 さてはそれ、絶対に日本刀でやる技じゃないな? 西洋剣とか、鈍器に近い肉厚な剣でやる力技だな??? 

 振りかぶった瞬間、綺麗な空気を切るヒュンって音じゃなくて、ぶち破るみたいなブォンッって音が聞こえたぞオイ。

 

 ばっちいものに触れてしまった気のする【閻魔刀(やまと)】を(本当は嫌だが)服で拭い、黒漆の美しい鞘へ。

 

 きっっったないモノを斬ってしまった……といつ謎の哀しみを抱えつつ、久方ぶりに感じる太陽の恵に目を細める。

 

 パラパラと破片の零れる、空が見える穴から降り注ぐ太陽の光を見た。見てしまった。

 

 あれほど気をつけて身を潜めていたというのに、見られてしまった(・・・・・・・・)

 

 晴れた空の下。濡れ羽色の翼を羽ばたかせ、ジッとこちらを見るものが一つ。

 

 鳥だ。黒色の鳥だ。ズームレンズのような黒い瞳を持つ……(からす)だ。

 

 ────────────見つかった……ッ(見つけた)

 

 

 ゾワリと、全身の産毛が逆立つ危機感。

 

 ───補助システム【六眼】緊急起動──

 

 納めたばかりの【閻魔刀(やまと)】に手をかける。

 

 ───対象の術式を解析 : 成功───

 

 なりふり構わず地面に向けて抜刀。

 

 ───術式【黒鳥操術(こくちょうそうじゅつ)】と判断───

 

【蒼】を使い自分の体を開いた次元の穴へ押し込める。

 

 

 

 数秒の暗転の後、投げ出されたのは人気のない古びた公園だった。

 

 空気も、遊具も土地も、死んだように錆ている捨てられた公園。

 

 常ならば気味が悪いと即離れようとするだろうが、今だけは違う。

 

 ドッドッドッと鳴り止まない心臓を手で抑え、冷や汗の止まらない額を拭う。

 

 ………………………………逃げ切ったか……? 

 

 大して動いてすらいないのに浅く切れる息を整え、周囲を確認する。

 

 人も動物も居らず、動くのは軋んだ泣き声を上げる遊具だけ。

 

 良かった……、と。そう胸をひと撫でした瞬間、

 

 ───術式感知───

 

 ───術式【無下限】による防御に成功──

 

 ───対象の術式を解析 : 成功───

 

 ───【芻霊(すうれい)呪法】: 【共鳴(ともな)り】と判断───

 

 頭に直接届く【六眼】先生の声に、思わず首を傾げる。

 

 いや、術式じゃなくて呪法ってところからして物騒だが、呪われるほど他者との接触なんてしてな……

 

 フワッ、と。風もないのに木々が揺れる。

 

 ただ白砂利の敷き詰められた安っぽい地面だったところに、黒光りする男物の靴が見える。

 

 耳からは人の呼吸音が聞こえ、そっ……と。耳元で囁くような、二人だけのナイショ話をするような熱く、掠れた声が耳を撫ぜた。

 

「つーかまーえた……♡」

 

 目の前にあったのは、俺と同じ(六眼)だ。

 

「馬鹿な……ッ!」

 

 ほとんど反射的に出た言葉であった。

 

 喉の奥から絞り出した声は呻き声にも似ていて、一瞬だけ。ほんの瞬きの間にすら満たない、刹那の間、頭が思考することを放棄する。

 

 その少しのブランクが命取りとなった。

 

 再稼働した脳が最初に知覚したのは、正確に顔面……鼻っ面を狙ってくる拳。

 

 ───防御 : 【閻魔刀(やまと)】───

 

 ごめんなさい!!!! と、誰に謝るわけでもないが渾身の謝罪を心の中で吐き出し、薄くも美しい曲線美を描く抜き身の刀身を滑り込ませる。

 

 ───術式【無下限】を展開──

 

 焼け石に水と分かっているものの刀身と拳の更に間に無限を作り出し、僅かでも【閻魔刀(やまと)】に届く衝撃の軽減を試みる。

 

 当然のように【無下限】を貫通する拳に白目を剥きながら、インパクとの瞬間に合わせて【無下限】で稼いだ隙間に【蒼】を展開。

 

 ───【無下限】: 順転【蒼】───

 

 力加減考えず体を引っ張り、真正面から受けた衝撃を分散する。

 

 凡そ人間の拳が出していい音と衝撃じゃないソレに紙のように吹っ飛ばされ、公園の敷地から隣接する森へ移動。

 

 ───術式感知 : 【無下限】、反転【赫】──

 

 追撃が完全に人を殺しにかかってて草。

 

 ───迎撃 : 反転【赫】───

 

 呑み込む【赫】に拒絶の【赫】を放ち、上半身は前のめりに低く。引いた足で土を掴む。

 

 ───追撃 : 【閻魔刀(やまと)】───

 

【赫】と【赫】がぶつかる。周囲の土と木々を根こそぎかき消す強烈な衝撃波の中に身を踊らせ、めちゃくちゃに散らばる髪を感じながらの疾走。

 

 キチリ───と、金色の鍔を押し上げる。

 

 ───【閻魔刀(やまと)】: 抜刀───

 

 首を狙う必要はない。まずは手数を減らす。

 

 ───術式【無下限】: 停止───

 

 同時に防御の要である【無下限】を解除。

 

 呪力の強化も恩恵も無く、己の身体能力のみで破壊の嵐を駆け抜ける。

 

 俺と同じ瞳があるならば、最も馴染み深いのは呪力だろう。

 呪力を用いたモノならばその視界から逃れる術はなく、体が最も早く反応するのも呪力であるはずだ。

 

 呪術師、呪霊、この瞳が必要とされる世界では、どいつもこいつも呪力が物を言う。

 

 

 だからこそ純粋な身体能力(・・・・・・・)を武器とする相手には……

 

 淡い黄色の下緒の影さえ見せず、黒ジャージの眼前へ。

 

 馴染みが薄いんじゃないかなあ!?!? 

 

 ───【疾走居合(しっそういあい)】───

 

 

 

 

 

 

 ────────────────

 

 

 

 

 

「いい年した男が気色悪いですね。子どものケツを追っかけまわすのが趣味なんですか」

 

 ぬらりと光る鋼をゆっくりと漆鞘へ納め、吐き捨てるよう子どもが口を開く。

 

「まさか! 僕は完全にノーマルだよ。これでも先生なんでね、稚児趣味なんて持ってたら一発で捕まっちゃう」

 

 自分の両手首をくっ付け、こんな感じにね、と揃えた両手をぴらぴら。

 

 反応速度、術式の精度、身体能力。全てにおいてこの前より上がっている。剣技に至っては天才、五条悟の目を持ってして冗談だろうと苦笑を零すしか無いためノーコメント。

 正直、学生時代に呪術師殺しのラブコールを経験していなければ、とっくに頭は首から飛んでいるレベルだ。

 

 少年と青年の間。短い青春を駆け抜ける若人たちはまさに可能性と進化の塊。

 

 昨日出来なかったことが今日には出来る。届かないと思った壁は、気づけば乗り越えている。

 

 五条自身も学生時代はピッカピカの超新星だったし、毎日が可能性と進化のバーゲンセールであった。

 

 だとしても、この子どものソレ……。進化の速度は同じ若人の中でも頭一つどころか、上半身飛び抜けている。

 

 本人の驚異的な才能か、それとも無下限を扱うための最適な見本(五条悟)を見たからか……。術式の扱い方は前回の比ではない。

 

 凍てついた湖面の静けさを称える淡色の瞳を見据え、サービスでも欲しいのかと思いウィンクを一つくれてやる。

 

 しかし残念かな。返ってきたのは黄色い悲鳴ではなく、殺意の乗った破邪の(つるぎ)だ。

 

【蒼】で行動を阻害しながら少年の思考リソースを削ぎつつ、近接戦を仕掛けるため懐へと潜り込む。

 

 良く切れる白刃を避けつつ、パサパサと切り落とされる自分の頭髪に少しばかり悲しみが募る。

 

 超絶余裕そうな顔で避けたいのは山々なのだが、冗談抜きで速いし見えないのだ。無下限で止めようにも触れた瞬間に呪力を喰われ消失し、同じく【蒼】で妨害を試みても気持ちのいいほどアッサリと斬り捨てられる。

 

 この前散々少年の無下限をぶち破ったのがいけなかったのか、初撃以降徹底的に触れさせてくれない。

 

 雪原に踊る雪のように、ひらひらと回避の上手いことうまいこと。

 

 一週間前よりも根本的な出力が上がっている無限もそうだが、なにより厄介なのはその身体能力。

 

 最後の最後で煮え湯を飲まされた刀型の呪具については、些か強引であっても対処法に見当はついた。

 

 だがあの身体能力。これが本当にもう厄介なことこの上ない。

 

 自分の無限よりも五条の扱う無限の方が上であると本能的に分かっているのか、瞬時に絶対の守りである無下限を捨てた。

 

 呪力を体に纏う訳でもなく、体内の呪力を循環させ強化させているわけでもない。纏っていた無下限を解いたから術式反応すら追えない。

 

 クソ野郎のフィジカルギフテッドを思い出すかのような身体能力。呪力を用いない純粋なソレに、六眼の感知能力は働かない。

 

 正真正銘、五条自身の動体視力と勘。これまで蓄積された戦闘経験と本能を総動員し、動きを予測・回避・修正しなければならないのだ。

 

 無限をも喰らう呪力殺しの破邪の王

 

 人間離れした身体能力

 

 六眼ですら追えない神速の居合術

 

 そして五条と同じ無限の担い手

 

 まるで五条悟という人物を殺すことを目的に調整された、戦闘マシーンのよう。

 

 うへぇ、と内心舌を出し、埒が明かないと大きめの【赫】を二発。

 

 今回はちゃんと"(とばり)"を下ろしているため、周囲の被害に関しては気にしなくていい。その分、少年へ撃ち込んだ【赫】の出力も高めに設定してある。

 

 トン、と空中で身をひねり、仕切り直しも兼ねて一度距離を取る。

 

 撃ち込んだ無限の発散から立ち込める煙と土埃を後目に軽く服の汚れを払い、超特急で反転術式を回して治した右手の調子を確かめる。

 

「君の方こそ、僕のことを意識的に避けちゃうんなんて、もしかして照れ屋さんな僕のファン?」

 

 リィン───と、澄み切った金属音と静寂。

 

 立ち込める不純物は跡形も無く消し飛び、ふうわりと揺れる柔らかな白銀の髪はやっぱり五条そっくりだ。

 

「……」

 

 テコでも動かないその表情の無さだけは違うけれど。

 

「うふふ……! ねっ、君の知りたいことを一つ、教えてあげようか?」

 

 腕、足、喉、頭、背中……。行儀悪く人間の要所を狙って編まれた【蒼】を打ち消し、のっそりと包帯の取れた指を立てる。

 

「なぜ、残穢(ざんえ)どころか呪力の一片すら感じられなかった君を、僕は見つけられたでしょーか」

 

 警戒を解かないまま、訝しげに眉を顰める幼い色彩にニンマリと口角を吊り上げる。

 

 そうだよねぇ? 気になるよねぇ? だって僕が君の耳元に唇を寄せた時だって、思わずびっくりした声が出ちゃったもんねぇ??? 

 

 くふ、くふふと口内で柔らかな笑いを噛み殺す。続きのタネが気になるのか、添えた柄から動かそうとしない白く細い手に尚のこと瞳が弓なりに反れる。

 

「答えはぁ…………」

 

 まだまだ青いなァ……。

 

 ゼロから百へ。停止から加速。前回あの子がやった事と同じことを、【蒼】を用いて再現する。

 

 これまでよりも無駄を省き、最低限の体捌きをもっての瞬間移動。

 

 追ってはきた。けれどコンマ数秒、遅れた万華鏡の瞳にうっそり笑いかけ、常よりもギュンギュンに呪力を回した掌底をまだまだ薄い腹へ押し付ける。

 

「ひ・み・つ ♡」

 

 シンプルに死んで欲しい。そんな声が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだ。

 

 

 五条悟が目の前から吹き飛んだ少年を捕まえる為にやったことは三つ。

 

 一つは知り合いの術士に少年を捕捉してもらうこと。

 

 一つは自身の受け持つ生徒、釘崎 野薔薇(くぎざき のばら)に前回意地で毟りとった自分と同じ色彩の髪。これの入ったカプセルに芻霊(すうれい)呪法・共鳴りを撃ってもらうこと。

 

 一つは無下限も反転術式も全て解き、ほんの刹那の時、六眼へ全神経を集中させること。

 

 たったこれだけのことだ。

 

 呪力を完全に隠す。言うのは易いが、可能か不可能かで言えば不可能に近い。

 

 呪力とは体から無意識の内に発せられるものであり、意識して抑えられるものではない。無論、呪力を一定に保つなどの訓練を積めば、出力の大小は自在に使い分けられるようになる。

 

 だが目の前の子はどんな原理か、そんな呪力を跡形もなくすっぽりと隠してしまう。自分の呪力だけを(・・・・・・・・)隠してしまうのだ。

 

 見つけたくとも対象の呪力は見つからない。ならばアプローチの仕方を変えればいい。

 

 相手の呪力ではなく、対象へ向かった別の術式、呪力、残穢(ざんえ)を追えば良いじゃないか……! と。

 

 神の気まぐれか運命か、丁度よく五条の手元にはピッタリな術式を扱うかわいい生徒がいた。

 

 しかしままならない事に、いくら最強で超カッコよくて頭もいいグッドルッキングガイだって、四六時中六眼をフル稼働させて日本全土上空陸上地下海外、どこにいるかも分からないたった一人の人物を追うことは無理だ。

 

 だから条件を限界まで絞った。

 

 冥冥(めいめい)の烏で見つかった、と認識させ、地上への逃走を促す。

 

 初めてあった星降る夜も、あの子は人気の無い場所で五条に襲いかかり、圧倒的弱者である虎杖に見向きもしなかった。

 

 だから逃げる先は絶対に人気の無い地上である。そんな一か八かの予感に確信を持ちながら、ピューンと向かったのは己の勤務先である呪術高専東京校。

 

 目当ての人物は来る交流戦に向けて特訓中だと知っていたし、捕まえるのは簡単だった。

 

 有無を言わさず頭髪の入ったカプセルに共鳴りを打ってもらい、全力の六眼で感知した釘崎の呪力を追ってピュンと跳ぶ。

 

 元々力量差のある釘崎の呪法が少年へ届くとは思っていなかったし、必要なのはあの子に向かって呪術がつかわれた(・・・・・・・・・・・・・・・・)という事実。

 

 その成果はご覧の通り。

 

 

 ピタリと。美しい真円を描く無数の斬撃が五条の周囲に現れる。

 

 無下限によって止められた斬撃だ。

 

「殺す」

 

 ペッと血液の滲んだ唾を吐き捨て、美しい獣は空色の万華鏡を細めた。

 

 

 

 

 

 

──────────────

 

 

 

 

 

 

 シンプルに死んで欲しい、マジで。

 

 ───反撃 :【閻魔刀(やまと)】───

 

 ───【次元斬(じげんざん)】───

 

 刃の届かないコレでは意味が無いとは分かっているものの、八つ当たりも兼ねて柄を引き抜く。

 

 案の定真円を描く高速の居合は黒ジャージを包むように停止し、破邪の特性は乗っていない。

 

 ペッ、と吐き捨てた唾には赤色が混じり、ズキズキと痛む腹部に眉が寄る。

 

 感覚からして折れてはいない……が、罅は入っているだろうなあ。迫り上がってくる鉄から、内蔵にもダメージが入ったかもしれない。

 

 ……やってくれたなァ、あの野郎。三択の選択肢が「殺す」 「ころす」「コロス」の実質一択だったのもしょうがない。

 

 冒険心と好奇心と少しの下心で出来ている少年の心をなんだと思ってんだ、このロクデナシ。これには流石の(めぐる)君もおこですよ。

 

 ───治療を開始───

 

 ───選択 : 【反転術式】───

 

 取り敢えず応急処置として内臓だけグリーンラインへ押し上げ、骨はそのままに【反転術式】を解く。

 

 治療に使うものであれ、【反転術式】は呪力を用いた術式だ。使っている間は黒ジャージの(六眼)に映る。

【無下限】の防御が間に合えばマシだったんだが、あの速さに合わせて展開するのは無理だった。咄嗟に後ろに飛んで和らげるのが限界。

 

 クッソ、意味わかんないレベルで急加速しやがって。【六眼】先生じゃなきゃ見失ってたぞ。

 

 余裕の表情で停止した【次元斬(じげんざん)】をぺしぺし叩き落としている姿に追加で苛立ちが募る。

 

 キチキチと鍔を二・三度押し上げ、感覚を確かめる。初撃を防いだ【閻魔刀(やまと)】の刀身も歪んでいる様子は無い。

 

 俺の無限は黒ジャージの無限より下である事も判明したが、同時に素の身体能力は恐らく俺の方が高いと分かったのは行幸。

 

 さっきの瞬間移動モドキはびっくりしたが、次は見落とさない。術式と呪力を用いているのならば、俺の【六眼】が捕捉する。

 

 保険としてかけられる【無下限】は無く、要所要所。直撃が確定する瞬間まで展開はできない。逆に言えば、黒ジャージの攻撃が当たるギリギリに無限の層をピンポイントで貼る必要がある。二・三発の被弾は覚悟して然るべきか。

 

 防御能力がだいぶ心許ないが、コイツ相手には出来るだけ攻めに転じたい。術式の力較べに持っていかれればまず勝てない。

 

閻魔刀(やまと)】と素の身体能力で粘り、【赫】や回避不可能なタイミングで展開された【蒼】のみを術式で対応する。

 

 すぅー、と。乾いた空気を吸い込み、目の前の黒ジャージ以外の全てを意識の外へ。

 

 大丈夫だ。やれる。この前みたいな無様は晒さない。

 

 動きは最小限に、体幹はズラさず、停止から加速を意識。無駄無く、鋭く、速く! 

 

 ───【閻魔刀(やまと)】: 抜刀───

 

 周囲に編まれた無限の収束を脚力だけで振り切り、肩、足、首を狙って【閻魔刀(やまと)】を抜く。

 

 ───【疾走居合(しっそういあい)】───

 

 空を切った孤月。散らばった真空の刃は地面を抉り、【六眼】が捉えた【無下限】は上。

 

 急ブレーキなぞ無粋。踏み込んでいる足をそのまま沈め、膝のバネを爆発させるイメージで跳び上がる。

 

 ───術式感知 : 順転【蒼】───

 

 ───迎撃 : 【閻魔刀(やまと)】───

 

 ───【 羅刹天翔(らせつてんしょう)】───

 

 空中で素早く身をひねり、螺旋状に走らせた白刃で黒ジャージの無限を喰らう。

 

 続けざまに二連撃を叩き込むも、相手が首と上体を軽く逸らしたことにより不発。

 

 納刀した刃と共に上半身を半ばまで逸らし、鞘のカタパルトを利用しての回転斬り。

 

 …………………………ここまでホイホイ避けられるとちょっと自信無くすんだけど。

 

 ───【無下限】: 順転【蒼】───

 

 ひん、と心で泣きつつ、右足に高出力の無限を収束させる。

 

 ───【流星脚(りゅうせいきゃく)】───

 

 目標は相変わらず目鼻口の代わりに性・格・ク・ズの文字が鎮座している頭部。

 

 流星を思わせる一直線の蹴撃。

 

【蒼】による防御でも妨害でもなく、黒ジャージが選択したのは回避。

 

 地へ落ちた流星は大地を割り、腹に響く衝撃と共にクレーターをぽっこりと作り出す。

 

 ───術式感知 : 順転【蒼】───

 

【六眼】が反応したのは後ろ。同時に足を潰すつもりの【蒼】の範囲から離脱し、逆に後ろを取る。

 

 黒ジャージは拳を引いたばかり、取ったッ! 

 

「……なーんて、思っちゃった?」

 

 ───ガチンッ! と。信じられない、音がした。

 

 鈍い衝撃音。無理やり逸らされた刀身が歪な軌跡を残し、長い足の回し蹴りが側頭部へ襲いかかる。

 

 ───防御 : 術式【無下限】───

 

 鞘を持つ手をガードへ回し、ギリギリ間に合った【無下限】と共に体が宙を舞う。この際当たり前のようにぶち抜かれた【無下限】は気にしない。もう威力が削げてればいいよ……。

 

 ぐるんと回る視界の中でも化け物から目は離さない。

 

 離れた距離を踏み潰し、超至近距離から飛んできた拳に【閻魔刀(やまと)】 を走らせる。

 

 普通ならば。いや、今までのパターンから鑑みれば、必ず【閻魔刀(やまと)】は呪力で編まれた無限を喰らい、白い手首ごと切り飛ばす。切り飛ばせるハズだ。

 

 なのに……ッ! 

 

 一瞬。本当に瞬きにも満たない僅かな時間だ。

 

閻魔刀(やまと)】の刃が止まった。

 

 ギリギリで止まった鋭い鋼に合わせ、黒ジャージの拳が【閻魔刀(やまと)】の刀身。その 側面(・・)を撃ち抜く。

 ギィン───と無理やり鋼を打ちつけた不快音が木霊し、またしても軌道が無理矢理逸らされる。

 

「君の剣技ってさ、綺麗なんだよね」

 

 唐突に呟かれた言葉に、思わず白い眼差しをプレゼント。なにを言っているんだこの化け物は。

 

「無駄を限界まで削いだ剣技。来ると知覚した瞬間には届いている刃。振り抜いた白刃は揺るがないし、下手をしたら僕の首にさえ手が届く」

 

 だけどさ……と。目の前の化け物が人差し指と親指を合わせ、ニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべた。

 

「綺麗だからこそ。無駄が無いからこそ、慣れればすごく、掴みやすい(・・・・・)

 

 ゆっくりと隙間を空けた長い指に【無下限】が集まる。

 

「君のソレは呪力を喰らう呪術師殺しの刃だ。でもさ、呪力を食べる……ということは呪力を消す事とイコールじゃあない。必ず刃が触れてから、対象の呪力を食べる時間(・・・・・)が必要だよねぇ?」

 

 興奮の見え隠れする声音のまま、集った【無下限】に重なるよう。無限の層が築かれる。

 

「刃が触れる瞬間に無下限を増やし、呪力を食べる時間を増やす……。そうするとあら不思議! 僕の呪力を食べ終わるまでの時間、僕に君の刃は届かないのでしたー!」

 

 まあ、そのタイミングを間違えちゃったら容赦なく持っていかれるから、僕も今の今まで合わせられなかったんだけどね。

 

 プチリと。満足気に【無下限】を潰した化け物はそう宣った。

 

 いやもう勘弁して欲しい。俺の頼みの綱たる【閻魔刀(やまと)】のアドバンテージが無くなったんだけど。ねぇ、本当にこの埒外の化け物を生み出したヤツは誰だ。手を挙げろ。今なら(めぐる)君のマジビンタ一発で許してあげるよクソヤロー。

 

 …………………………………………(スゥーーー)

 

 やってらんねぇわ、逃げよ。戦略的撤退。常識の違いにより今日は解散ですバカヤロー。

 

 振り上げる【閻魔刀(やまと)】は虚空へ。さっさと次元の穴を開いて、この化け物の視界から逃れる。

 

「逃がさないよ、今度こそ」

 

 シン……と。音が消えた。世界の秒針が止まったように、当たり前に享受していた音が消えた。

 

「領域展開」

 

 凛───と。風鈴が靡いたのはどこからか。

 

無量空処(むりょうくうしょ)

 

 世界が……変わる。

 

 体が動かない。脳の処理が終わらない。変わった世界に思考が追いつかない。

 

 宇宙(そら)の瞳に囚われる。

 

「驚いた? ここは無限の内側。僕の領域の中」

 

 コツ、と音のしない空間で化け物の足音が聞こえる。

 

 動け

 

「人間の"知覚"、"伝達"に干渉し、生きるという行為に無限回の作業を強制する」

 

 コツ、と。品の良い靴音が近づく。

 

 動け……

 

「人間は才能であれ地位であれ、あれもこれもと欲しがるけど」

 

 コツ、と。土埃も汗も感じない、男物の香りが鼻を擽る。

 

 動け…………

 

「全てを与えられれば何も出来ず緩やかに死ぬなんて……皮肉だよね」

 

 ぼんやりと浮かび上がる白く大きな手が、俺の方に伸びてくる。

 

 動けッ!!!! 

 

 ───補助システム【六眼】起動───

 

 パッと視界が、脳が、情報領域が開ける。

 

 ───対象の【領域展開】を確認───

 

 保って三秒。それ以上は俺が落ちる……! 

 

 ───【閻魔刀(やまと)】奥義を解禁───

 

 持ち得る呪力を全身へ。臍から血管を通し全身へ。体が壊れてもいい。だけどこの瞬間だけ、この空間だけは切り伏せる(・・・・・)ッ! 

 

 限界を……超えろ!!!! 

 

 ───【次元斬(じげんざん)(ぜつ)】───

 

 崩れた空間と共に見えたのは、驚愕に見開かれた万華鏡。

 

 全身の機能を停止している今、絶好の機会。

 

 今なら取れる。飛ばせる。コイツを殺せる。

 

 へたり込みそうな力の抜けた四肢を叱咤し、王手(閻魔刀)をかけるのはその首だ。

 

 研ぎ澄まされた鋼が人間の皮膚を裂く。ぬらりと光る液体の出処は首。切っ先が食い込んだ皮膚。切っ先しか(・・・・・)食い込まなかった皮膚だ。

 

 外した……ッ!!! 

 

「クッソ……」

 

 キンッ───と、遅れて何かを斬った手応えが柄から伝わる。

 

「……?」

 

 なんだ、俺は今、なにを切って……

 

 目に入ったのは石。真っ二つに割れた、呪符の巻かれた拳大の石だ。

 

 ───対象の解析に成功───

 

「ッ! ……あは、逃げた方が……いいんじゃない?」

 

 ───特級呪物 : 【殺生石(せっしょうせき)】───

 

 石が赤く輝き、ブワリと異質な空気が取り巻く。

 

 ガクンと。両足の力が抜ける。全身の力が抜ける。この身に宿る呪力(・・)が抜ける。

 

「しまっ───」

 

 嵌められた。そう気づいた瞬間、四肢の関節から灼熱の痛みが脊髄を刺す。

 

 両腕の関節、両足の関節を貫通し、鎖付きのクナイに似た道具が地面へ突き刺さる。

 

 捉えられた。早く壊して離脱を。

 

 術式は使えない。呪力が足りないから無限を編めない。関節を固定された四肢も動かず、意地で離さなかった【閻魔刀(やまと)】を動かす力もない。

 

 ───補助システム【六眼】、停止します─

 

 魔眼を……。【歪曲の魔眼】で目に映る全てを捻じ曲げ、なんとか離脱を……ッ! 

 

 偏光する赤と緑の渦巻く宝石の魔眼。

 

【歪曲の魔眼】は両目で捉えたものを、俺が曲げられると思えば、強度・規模・全てを無視して捻じ曲げる異能の瞳だ。

 

 こんなモノ、すぐにでも(まげ)られ……

 

 両目を見開き、己を阻む全てを映したところでフと。視界が途切れる。

 

 見えたのは骨ばった白く、長い大人の指。

 

「ねぇ……、二者面談は好き?」

 

 ぐちゅり。肉の潰れる音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【報告書】家入硝子から五条悟へ。

 

 

 七日前に預かった毛髪から遺伝子検査を決行

 

 検査の結果、毛髪の持ち主(以下甲と記載)甲と依頼者(以下乙と記載)乙の遺伝子情報が一致

 

 検査結果から甲と乙は親子関係であると断定する

 

 

 

 …………ここからはアタシの独り言。

 

 アンタが持ってきた毛髪。検査結果から入手した母親の情報を元に調べたけど、情報と一致する母親らしき人物は現在地方の大学三年生。

 

 妊娠したという過去もなく、家族や友人たちもその子が妊娠したという事実は過去を遡って無いと証言している。

 

 

 ねぇ、アンタどんな事に首を突っ込んでいるのか知らないけど、その子は本当に───

 

 

 ───────この時代に生まれた子なの? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2038年 〇月 ×日

 

 

 

 やっとだ、長かった。やっと全ての準備が整った。

 

 これでアイツを殺せる。アイツの生きている時代へ跳べる。

 

 チャンスは一度きり。片道切符の一本道だ。二度とここには戻って来れない。

 

 指定できたのは"アイツが生きている"という条件のみ。いつ、どこで、どの時代とタイミングに跳ばされるのかは完全にランダム。

 

 だけど届く。アイツの命に俺の手がかかるチャンスが降ってくる! 

 

 絶対に成功させる。必ず殺す。俺が完全に融ける前に、俺の生きる目的を達成する。

 

 

 それがきっと、かあさんを救う唯一の道だから。

 

 

 



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④・前

 

 

 ぶっすぅーーーー、っと。至る所に巻かれた包帯と呼ばれる医療器具を黒服から覗かせ、いかにも「僕、不機嫌です」との空気を隠しもしないのは東京呪術高専一年を担当する教師。またの名をGTG(グレートティーチャー五条)

 

 信じたくないが、2018年現在の呪術界最強その人である。

 

 どこから持ち込んだのか来客用のパイプ椅子にどっかりと腰掛け、教室の中央前方に置かれている教卓にスラリと伸びる足を乗せている。

 

 世の教師が見れば失神ものだ。誰もこのチンピラ崩れの教師が呪術界の重鎮。御三家の一角たる五条家のご子息だなんて思わないだろう。

 

 寄るな触るな話しかけるな。そんなオーラを垂れ流す比較的マトモなグラサン姿に、東京呪術高専二年、禪院真希(ぜんいんまき)は鬱陶しいと言わんばかりに舌を打った。

 

「なぁ、あの(バカ)なんであんなウゼー雰囲気出してんだ。チラチラ見える包帯もそうだし、もしかして大分遅れて発症した厨二病か?」

 

 気色ワリィーんだよ……、と呟けば

 

「わっかんない。けど悟に限って大怪我するヘマなんてしなさそうだし、むしろ想像すら出来な……」

 

 ポクポクと同級生のパンダが止まり、チーンッとどこからか聞こえてくる鐘の音。

 丸っこい黒ぶちの前足はワナワナと震える口元を抑え、

 

「もしかすると、もしかするかもしれない……」

「しゃけしゃけ」

 

 ピシャーンと。雷でも落ちたかな、と真希はメガネを拭う。

 

 パンダだと思っていた自分が実はパンダでは無かった。そんな事実を改めて知ってしまったかのような驚愕の表情を貼り付けるパンダ。

 

 そしてそれなー、わかるーとでも言うかの如く肯定を示すのは狗巻棘(いぬまきとげ)

 

 呪言師という特殊な立場上、周囲と自己防衛のために語彙をおにぎの具材に絞っているのは今に始まったことじゃない。

 

「ったく、めんどくせーな。こういうのは乙骨(おっこつ)担当だろ?」

「憂太今海外じゃん」

「しゃけ」

 

 乙骨(おっこつ)憂太。現在海外へ留学中の東京呪術高専二年。真希、狗巻、畜生のパンダと同じ四人だけの同級生。

 

 なんでこんな時にいねーんだよアイツ……、と真希は隠しもしない声で言う。

 

 チラリと無駄にデカい身長の白髪グラサンを見るも、反応はない。

 

「じゃあ恵だ恵。恵呼んでこい」

「おかか」

 

 自身より一つ下の後輩の名を出すも、首を振る狗巻によって却下される。

 

「なんでだよ」

「だってアレじゃないの? あの不機嫌さを見せたくないから、わざわざオレたちのところに来たんじゃないの?」

「めんどくせーカノジョかアイツは」

 

 珍しく黒い目隠しの不審者ルックではなく、グラサンをかけた最強は動かない。

 

 不機嫌だけどぼんやりと、心ここに在らずの見本のように沈黙を守っている。

 

 あ、ニュースの時間だ。そう呟きいそいそとスマホを開くパンダを横目に、やはり何もリアクションを起こさない五条を不審に思ったのか、訝しげな顔をしている狗巻と顔を見合わせる。

 

「……ほんとにどうしたんだ悟のヤツ。マジで何も言わねーじゃん」

「いくら」

 

 これみよがしに聞こえる声で喋っているのに、割り込みもしないしツッコミすらも入れてこない。

 

 はっきり言って異常だ。

 

「やっぱアレか? 再発しちゃった感じか? 中学の黒歴史が」

「おかか、ツナマヨ」

「いや、ねーだろ。だってあの悟だぞ? あの化け物にあそこまでの怪我を負わせる相手ってどんな怪物だよ」

「しゃけ」

 

 今日の五条悟の状態。

 

 いち、不審者ルック一直線の黒い目隠しではなく、比較的マトモに見えるグラサン着用。

 

 まあ、これは今日だけではなく、確か一週間くらい前からグラサン状態だった気がするのでイメチェンの範囲内だ。時々五条が敷地内をTシャツとグラサンで歩き回っていた、という目撃情報も出ている。

 

 に、頬にでっかいガーゼを貼り付け、洋服から覗く首、両手両手首には真っ白な包帯。

 

 さん、とてつもなく機嫌が悪い。まるで、お気に入りの何かを手に入れる直前に取り上げられたかのような苛立ちっぷりだ。

 

 以上この三つ。

 

「明太子」

「術師でも呪霊でも良いけどよ、そんな怪物がいたらとっくに上層部は大騒ぎしてるし、私たちの耳にも入ってきてるはずだろ」

「すじこ……」

 

 もし……、もし仮に五条悟が。呪術界最強たる無下限と六眼の抱き合わせたる神の子が、あそこまでの手傷を負う相手がいるとするならばだ。今頃真希たち呪術高専の人間は寮の部屋に缶詰状態だろうし、狭い呪術界隈だって蜂の巣を突っついた大騒ぎになっているはずだ。

 

 誰もが認める最強が倒れ(負け)れば、その怪物をどうにか出来る存在はいなくなるのだから。

 

「……ま、そんなことは有り得ねぇけどな」

「?」

 

 この性格クズ野郎から真っ当な神経を持った子供が生まれるくらいには有り得ない話だ。

 

「めんどくせーけどしょうがねえ」

 

 よっこらせっと昔ながらの木造イスを引き、駄弁っていた机から身を起こす。

 

 ここで完全スルーを決め込んでも良いのだが、もしも五条のコレが後々問題を呼び、真希たち高専の人間が巻き込まれるような事態になる事は避けたい。

 

 ただでさえ一年共……、伏黒恵(ふしぐろめぐみ)釘崎野薔薇(くぎざきのばら)は同級生一人を失っているのだから。これ以上いらない負担を背負って、訓練に支障が出たら困る。

 

 行儀悪く教卓に足を乗っけている不良教師を見据え、真希は少しの苛立ちを込めて言葉を……

 

「うっっわ!? なんだこれ……」

「あん?」

 

 突如教室内に響いたパンダのひっくり返った声に、思わず真希の注意が逸れる。

 

 釘付けになっているパンダのつぶらな瞳の先にはスマホの画面。

 

 とりあえず気になった真希は一旦五条を後回しにすることを決め、同じタイミングで寄ってきた狗巻と共にパンダのスマホを覗き込む。

 

 映っていたのは当然ながら一般者向けのニュース。パンダのくせに世論のチェックは欠かさないらしい。

 

 なんの変哲もない、ただのニュースだ。ニュースのはず、なのだが。

 

「…………なんだよ、これ」

 

 あんぐりと。呪術師と呼ばれる人外共が跋扈し、呪霊と名付けられた正真正銘の化け物と向き合う呪術界。

 幼い頃からその世界に身を置き、一年時の京都百鬼夜行を含め、真希自身もそれなりの場数は踏んできたつもりだ。

 

 そんな禪院真希(ぜんいんまき)をもってしても、空いた口が塞がらなかった。

 

 薄型の液晶に映っていたのは更地。古びた公園と隣接する森、そして建設途中のマンションがあったとされる場所。

 

 別に昨日まであった土地が今日見たら更地になってた、なんてことは呪術界に身を置いていれば遭遇するイベントだ。なんなら目の前にいるどこぞの最強が自主的にやる。

 

 異様なのは画面の向こう。薄い板の先にある光景で、元は建築物があったとされる跡地だ。

 

 伝承にある巨人信仰の産物、ダイダラボッチ。まるでかの巨人が両手でその土地を掴み、無遠慮に捻ったかのように捩じれた(・・・・)大地があった。

 

 

 ───本日早朝未明、〇県×市△△△にある公園、隣接する森部、建設途中の工事現場が一夜にして消失していたのが発見されました───

 

 ───警察は現在、国内におけるテロの存在を考え、周辺の住民に聞き込み調査を開始しているとのことです───

 

 

 ピクッ、と跳ねた五条の指はポケットに隠され、周りの人間が気づくことは無かった。

 

 

 

 

 

 

────────────────

 

 

 

 

 

「……っ"あ"…………ハッァ"……!」

 

 ツルリとした空色の万華鏡。想像よりもぷにぷにとした水晶体の中は生ぬるく、とろとろと指を濡らす液体は血なまぐさい。

 

「中々ガッツあるじゃん。もうちょっと大きな声出すかと思ってたよ」

「ッ……」

 

 ズルリと引き抜いた指は粘ついた赤が尾を引き、唇を噛み締め必死に声を押し殺す子どもの姿にえも言えぬ興奮が背筋をかける。

 

 捕まえたい、だけど手加減して捕えられるほど弱くはない。

 

 そんな葛藤の末に、こっそりと高専所有の呪具を借りることを決めた自分の考えは間違っていなかったらしい。

 等級としては二級程度の拘束用呪具だが、呪力の無くなった相手には十分すぎる威力を発揮する。

 

 四肢を無骨な鎖で貫かれ、地へ膝を就いた冬色の子どもは縫い止められた蝶のよう。

 

 ただし、そうするまでにかかった代償は大きかった。五条自身も手傷を負ったし、保険のつもりで持ち出したカード(特級呪物)さえ切ったのだ。

 

 地面へ落とされ、膝立ちの状態で拘束された少年に合わせるよう、五条もその長い足を折る。

 

 とくとくと少年の刃が届いた首の一部からは命の源が溢れ出し、やはりというかなんと言うか。反転術式を使用してもなお、治りが悪い(・・・・・)

 

 せっかく目的のものを捕まえたと言うのに、当の自分が出血多量により三途の川を跨いじゃいました。では本末転倒だ。

 切られて使い物にならなくなったままポケットに突っ込んでいた目隠しを取り出し、反転術式を回したまま切り口を抑える。

 

 キュッと伸縮性に優れた生地を傷口とは反対の位置に結び、荒い息を吐く目の前の子どもを見つめる。

 

「まずはそうだな……、おめでとう! とだけ言っておこうか。まさか僕自身、十年前ならいざ知らず、今の僕に手が届く人間がいるなんて思わなかったよ」

 

 実際五条自身も驚いた。

 

 脳へ過多の情報を流し込み、動きを止めることを目的として展開した五条の領域「無量空処(むりょうくうしょ)」。使えば勝ち確の反則技。

 

 自分の領域に呑まれた子どもは確かに止まった。延々と完結しない情報に脳が追いつかず、確かにその身を止めていたはずなのだ。

 

 けれども、五条の手が少年を捕まえようと触れる瀬戸際、あの子どもは動いた。

 絶え間なく流れる無限回の生きるという行為(・・・・・・・・・・・・)、ソレを自分の脳みそ一つで処理しきったのだ。

 

 この事実だけでも笑ってしまいそうなのに、あまつさえ自分と同じ色彩の子は五条の。この最強(五条悟)の領域を斬った(・・・)。斬り捨てた。

 

 何をしたのかは分からない。どうやってやったのかも分からない。

 ただ目の前の子どもを手に入れたと思った瞬間、膨大な呪力を肌に感じたのと同時に宇宙(そら)の外側へ放り出されていたのだから。

 

 その後、五条の首が繋がっていたのは殆ど奇跡に近い。

 

 あの時の五条は完全に止まっていた。止めるつもりが止められていた。迫り来る殺意を避ける頭も無かった。

 

 ソレが少しめり込む程度の傷に抑えられたのは、ひとえに久方ぶりに働いた五条自身の生存本能。人間の本能的恐怖が働いたからだ。

 

 命に触れられた痛みで覚醒した頭脳を回転させ、刃を振り抜く直前にポケットに忍ばせていた呪物をその軌道上へ。

 

 お見事と手を叩きたくなるレベルで真っ二つに割られた五条家所有の特級呪物、「殺生石(せっしょうせき)」はその力を遺憾無く発揮し、薄い身体に宿る呪力を根こそぎ奪った。

 

 後の展開はご存知の通り。ひっそりと仕掛けた拘束用の呪具を引き寄せ四肢を貫く。

 呪力が無いため術式は使えない。ならば次に少年が取るのは、あの摩訶不思議な偏光の瞳。ルビーとエメラルドの入り交じる、螺旋を宿した宝石の瞳だろう。

 

 ここは五条も自分の腕一本くらいは犠牲にする覚悟で美しい宝石を砕いたのだが、幸か不幸か五条の推測は当たっていたらしい。

 

 宝石のような偏光の瞳は、両目で対象を捕えなければ使えないのではないか……と。

 

 星の照らす晩、五条自身も一回。たった一回食らっただけの摩訶不思議な禍々しくも美しい瞳。たかが一回、されど一回だ。

 

 空色の万華鏡が反転し、開いた宝石の瞳はしっかりと。五条の伸ばす腕をじっと見ていたのだから。

 

 間違っていたら間違っていたで空間の捻れる音を頼りに腕を一本犠牲にし、両目とも潰す予定だったが、そうならなくて良かった。

 

 流石の最強とて、自身の無限ごと(・・・・)捩じ切られてしまってはどうしようもない。

 

 にっこりと。壊してしまった方とは逆の万華鏡に微笑み、グッと自分そっくりの幼い顔を掴みあげる。

 

「君も頑張ったけど、僕も君をこうして捕まえるのにかなり骨を折ったもんだよ。言いたいこと聞きたいこと、君が僕を見ていない(・・・・・・・・・)こと。その他にも諸々あるけど、そこら辺のお話は後でたぁっぷり……顔を突き合わせようじゃないか」

 

 苛まれる痛みに怯みながらも、深い憎しみと殺意の乗った視線。

 

 ぱちぱちと星の弾ける瞳を覗き込み、五条悟は少しだけ後悔する。ひと思いに壊すのは、やっぱり勿体なかったなあ……と。

 

 そんな本心を笑顔という幕で覆い、五条は務めて明るい口調で語りかけた。

 

「あっ、もしかして潰れちゃった目が心配? 大丈夫! 完全には抉り取って無いし、多分僕の知り合いが治してくれると思うよ!」

 

 君自身も反転術式使えるでしょう? 呪力が戻ったら自分で治すのも良いかもね。

 

 当たり前だが目の前の子から返答は無い。もしかしたら五条悟は嫌われているのかもしれない。

 

 欲しいものがやっと手に入った高揚感からか、そんなくだらいない事を考える。

 

 まずはどうしようか。やっぱり自己紹介からかな。君は五条悟を知っているけど、恐らく僕を知らない。僕は君の名前も知らないし、君がどんな子なのかも知らない。

 好きな食べ物はなんだろう。好きな景色はなんだろう。君の瞳に映っている景色は、僕のものと一緒なのかな。

 

 つらつらと降って湧いてくる少年への興味。

 

 そんな時ふと。どうしようもなく、縫い止められた少年の影が目に付いた。

 

 別に変わったところなどない、普通の影だ。五条の影と少し重なって、混じっているだけの影法師。

 

「…………かあ……ん」

 

 ポツリと呟くような泣きそうな。迷子の子どもが親を探すかのような、そんな声を拾った。

 

「─────かあさん」

 

 今度ははっきりと。母を指す震える音が言葉として耳に入った瞬間の恐怖を、なんと表現すれば良いのか。

 

 ずるり───と。

 

 小さく丸まった子どもの影から白いナニカが生まれる。

 

 ずるりと。 ソレは一つではなく、二つ三つ。四つ五つと数を増し。

 

ずるり。微睡む影法師から浮上したのは───

 

「ナ"カ"ナィ"……テ"」

 

「ッ!?」

 

 大急ぎで体を【蒼】で後方へ飛ばし、両の手のひらを合わせる。

 

 術者が術式を発動させるのに必要不可欠なもの、掌印(しょういん)。高専時代から試行錯誤を繰り返し、ある時期を境に掌印(しょういん)の省略を身につけた五条悟は術式の発動において、ソレを結ぶ必要は無い。

 

 順転の【蒼】も反転の【赫】もその例に漏れず必要なく、気が乗った際に手持ち部沙汰でポーズだけ取る程度のもの。

 

 そんな五条悟でもとある術式に関しては精密な呪力コントロールのため、掌印(しょういん)を省かずに使用するものがある。

 

 パシッと合わせた両の手。

 

 右手には【赫】を、左手には【蒼】を。

 

 収束と発散。無限と無限。

 

 目の前にいるのが苦労して捕まえた子どもだと分かっているけれど、それ以上に危ない。

 自らの生徒である乙骨(おっこつ)に憑いていた呪霊【里香】。彼女を見た時にも感じなかった、背筋を震わすような不気味さ。

 

 アレはこの世にあってはいけないものだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 発生させた【赫】と【蒼】を指先へ乗せ、伸ばした腕は対象へ。

 

 とにかくアレを消し飛ばすのが最優先。

 

 無限と無限の衝突。順転と反転の衝突。

 

 生成されるは仮想の質量。

 

 ヒュッと、指先を小さく押し出す。

 

 軽々と。この世の法則を嘲り、慈しみ、超えるのは紫色(ししょく)の夢幻。

 

 ─────────────虚式【茈】(きょしき むらさき)

 

「………冗談だろ」

 

 思わず出た呻き声は誰に向かってのものだったか。

 

 自分とあの子を繋ぐ直線上。草も根も土も根こそぎ消し去った仮想の質量。 (ことわり)の外から生まれた破壊の権化。

 

 それ(【茈】)が消えた。

 

 くるくると。母が我が子の髪を梳くように。

 

 くふくふと。まろい頬を撫でるように。

 

 くらくらと。愛しい体を抱き締めるように。

 

 ソレは少年を覆い隠し、触れた傍から【茈】(むらさき)を消す。

 

 手だった。白く細い、綺麗に整えられた五枚の爪がついた女の手。十や二十、百や二百では効かない女の手だ。

 

 自分と同じ色彩の子の影から出て来て、涙を流す我が子の雫を拭うよう、五条の潰した壊れた万華鏡をしきりに撫ぜる母親の手。

 

 唖然とする五条の瞳に、六眼が容赦のない現実を叩きつける。有り得ない呪力の流れを捉えたのだ。

 

 流れている。虚式【茈】(きょしき むらさき)に込めた五条の呪力が数多の腕を伝い、抱き締める子どもの元へと流れていく。

 

 ヒタリ。冷や汗が蟀谷から流れ落ちる。

 

「ねぇ君……なんてものを飼ってるの」

 

 五条の問いかけに少年は答えない。壊れた眼を抑えたまま、白く細い手に覆われている。

 

 不気味な手の集合体は動かない。冬景色の似合う子どもを囲ったまま、泣き叫ぶ我が子を慰めるよう、沈黙を保っている。

 

 動くか、動かないか。影から這い出てきた異形型の不気味さに判断が下せない中、引かれたのは聞き覚えのある言葉(トリガー)

 

「……(まが)れ」

 

 歪んだのは足元と肩口。回避。

 

(まが)れ」

 

 次は腕。回避。

 

(まが)れ」

 

 次は右半身。【蒼】で移動した足元の空間が歪む。

 

 回避。浅く抉られる。

 

(まが)れ」

 

 また。ぴったりと張り付く歪曲の螺旋。

 

 肩が、腕が、腹が、足が。少しづつ、少しづつ、捻れ狂う空間の渦が五条の体を掠め取っていく。

 

「(どういうことだ……、片目は僕がこの手で潰し……)」

 

 視線を蹲る少年へ。四肢を縛っていた呪具が抜け、不気味な手に護られた子どもへ向ける。

 

 無数の()に遮られた隙間からそっ……と。鉄錆に塗れた綿毛のようなまつ毛が震える。

 

 ふるり、ふるり。生暖かい赤色の涙跡。花開いた淡雪の額縁に収まっていたのは……、

 

「ふざけんなよもおおおおお!?!?」

 

 赤く、紅く、ルビーとエメラルドが入り交じる偏光の宝石だ。

 

「ま」

 

 無限ではなく、ただの呪力を拳へ。

 

「が」

 

 木っ端微塵にしないよう。大きな瓦礫と人間が一人入り込める大穴を空けるよう、最新の注意を払って呪力を乗せる。

 

「(間に合うか!?)」

 

 

「れぇぇええええええええッ!!!」

 

 拳は下へ。

 

 その叫びをトリガーに、ぐしゃりと五条が。空間が。大地が。この土地そのものをひっくるめた世界が、捻れた。

 

 

 



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④・後

 

「(あの後、なんとか瓦礫で姿を遮って地面へダイブ。ギリギリで視界から外れたから助かったけど)」

 

 結局あの子には逃げられ、更には一つの土地を更地にした事が学長にバレ、疲労困憊の体に重い拳骨を貰ったのだ。

 

 全身痛いし傷は中々治らないし怒られるし、昨日は散々だった。天国から地獄に落とされた気分。もしくは目の前で欲しかった玩具を掠め取られた気分だ。

 

 地下へ続く階段を下り、五条悟は深いため息をつく。

 

 結局分からないことだらけであった。あの同色の子の名前も聞けなかったし、六眼とは真逆の爛々と輝く宝石の名前も分からなかった。

 

 意識的に飼ってるのか、それとも乙骨と同じように憑かれているのか。あの薄気味悪い複腕お化けの能力もちんぷんかんぷん。

 

 呪力量は【里香】や火山頭。ましてや指一本分の両面宿儺(りょうめんすくな)には到底及ばず、見たところ二級……せいぜい多く見積って一級。

 

 だがあの雰囲気、能力。アレを構成する要素全てが、そんな呪力での物差しに待ったをかける。

 

「(虚式の呪力があの子へ流れてたってことは、能力的に呪力の吸収、または還元ってところかな?)」

 

 五条の呪力は実際、あの子へ流れていたし的を外してはいないだろう。まあ、虚式程の呪力量を吸収するってどんな吸収力だよ、と思わない訳でもないが。

 

「(だとしたらあの時、あの子の目が再生したのは吸収した僕の呪力を反転術式に使ったからか?)」

 

 それにしてはどうも違和感が残る。

 

 なぜなら溜まった呪力は減る様子を見せなかったからだ。治癒に使う反転術式であれ、術式である以上はプラスとマイナスの違いはあれど、必ず元となる呪力が必要。

 

 ただでさえ損傷の激しかった潰れた目の再生だ。それほどの重い傷に回される反転術式の呪力量を、五条の眼が見逃すはずがない。

 

 一番考えたくないのは……

 

「アレ自体に、吸収と再生の能力が付いてた場合……なんだよねぇ」

「なにが?」

 

 ぽつりと呟いた言葉に返ってきたのは不思議そうな若い声。

 エンディングロールの流れる液晶テレビ。その真ん前に置かれたソファに腰掛け、可愛いのか不細工なのか絶妙な領域を行き来する黒いクマの人形を抱えた短髪の少年。

 

「おつかれサンマー! 調子良さそう? 悠仁」

「いや、気分的に調子は良くねーけど、強くなりたい気持ちなら絶好調」

 

 虎杖悠仁(いたどりゆうじ)。特級呪物【両面宿儺(りょうめんすくな)の指】を呑み込んだ宿儺(すくな)の器。千年に一度の逸材。

 

 しっかりと前を見据える瞳の輝きに、知らず知らずホッと胸を撫で下ろす。

 

「(昨日の今日でどうかとおもったけど……。いいね、折れてない)」

 

 訓練だよな!? もう準備はできてるぜ! と言わんばかりに準備運動を始める虎杖に、五条は待ったをかける。

 

「え? 今日やらねーの?」

「いや、勿論やるよ。交流会まであと一ヶ月とちょっとだし、それまでにある程度仕上げなきゃいけないからね。じゃなくて、悠仁」

 

 呼びかければ「なに?」と言いながら素直に寄ってくる、あの子と同じくらいの年齢の男の子。

 

 ホロリと。殺し捕まえる関係でしかないのに、何故か涙が出てくる。会話が成立する事がこんなにも嬉しいことだとは知らなかった。

 

 クッとサングラスを外した目頭を押さえ、ぽんぽんと虎杖の頭を軽く撫でておく。

 

 ???? とハテナマークを飛ばす虎杖にほっこりしながら、サングラスをかけ直した五条は口を開いた。

 

「ちょっと聞きたいことがあるんだ」

「俺に?」

「いや、宿儺(すくな)に」

 

 その言葉を聞いた虎杖の顔が歪むのが早いか、それとも頬に開いた口が嗤うのが早いか。

 

 ケヒッ、と。部屋に響いたのは重苦しい男の笑い声。

 

「なんだ呪術師。いいぞ、俺は今機嫌が良い。話の内容次第では答えてやらんことも無い」

 

 相当機嫌が良いのか、ニタニタと下卑た口角を隠しもせずに呪いの王が言葉を紡ぐ。

 

「ただし、詰まらん話だと判断すれば小僧を殺す」

「いや俺!? いい加減にしろよお前!! つか俺と代われないでしょアンタ!?!?」

「おっけー、それじゃあ聞きたいことは二つね」

「そんな軽く!?!?」

 

 ギャンギャンと吠える虎杖をなだめすかし、五条は適当に転がっていたイスを引き寄せる。

 

「呪力を喰らう刀型の呪具。これに心当たりは?」

 

 虎杖の眼付近に開いた第二の目がギョロリと動く。

 

「鞘は黒色、下緒は黄色。柄は白で大体日本刀の中でも大太刀に近い長さの太刀。ついでに多分、空間と空間を行き来する扉みたいなのを開ける」

「ほう……?」

「あとめちゃくちゃ固い。僕のグーパンを真正面から受けて壊れない」

 

 えっ!? 先生のグーパンで? そう、僕のグーパンで。

 

「念の為、東京、京都を含めた高専。五条家の目録とかツテを使って色々調べたんだけど、やっぱり未登録の呪具でさ。僕の目で見た以上の事は分かんなかったんだよね」

 

 その果てに編み出した対処法が、呪力消費を増やして無理やり軌道をズラす力技だ。

 

 呪いの王って呼ばれるくらいだし、なんか知らない? 

 

 ベリベリと机の上にあった未開封の染みチョコを開け、ジンジンと鈍痛の走る指でつまむ。

 

 あれ? 先生それどうしたの? ちょっとガチャガチャでハズレ引いた。勝ち確だと思ったのになあ。……パチンコ? 違うよ。

 

 隣でボリボリとじゃがりこを食べ始める虎杖。赤く光る弓なりの目は些か伏せ目がちだ。

 

「なんだ。あやつめ、アレを人間風情に渡したのか」

 

 拍子抜けしたような、意外そうな声音の呪いの王。

 

 千年以上前に生きていた両面宿儺(りょうめんすくな)が知っている、そこそこどころか、かなり年季の入った呪具。

 

「アレの本質は呪具ではなく魔具(まぐ)だ。海向かいから流れてきたモノでな、内輪揉めだか兄弟喧嘩で持ち主から離れ、流れ着いたこの地で呪具に変質した」

「……なんでそんな詳しい経緯まで知ってるの?」

「流れ着いたアレを呪具へ変えたのが他でもない俺だからだ」

 

 シレッと呪いの王は嘯く。

 

「あの時代は移動手段が少なくてな。手軽に長距離の移動ができて便利だったのと、魔に属するものを斬る特性が呪術師相手には都合が良くて」

 

 面白がって使いまくっていたら、いつの間にか呪力を喰らうものになっていた。

 

 スゥーーーーーー(深呼吸)。

 

 五条はサングラスを外し、空っぽになった染みチョコをテーブルの上へ投げる。

 

「……つまり、なに? あの厄介極まる特性は、君が千年も前に年甲斐も無くテンション上げて振り回した結果、獲得したものなの?」

「おい、不愉快だ訂正しろ。てんしょんは上げていない」

 

 カタカナが使えない爺がなんか言ってる。

 

「…………とりあえず悠仁」

「なに?」

宿儺(すくな)と代われる? いや、代わって」

「なんで?」

「僕が今、猛烈にマジパンチ入れたいから」

 

 なお吹っ飛ぶのは虎杖の体である。

 

 やっていられない。音楽性の違いどころか、時代の解釈違いにより本日は解散したい。

 

 五条が散々苦労して避けたあの刃。あれの呪力を喰らう特性は目の前の少年に宿る古臭い爺。こいつが原因で"魔"という広範囲のものではなく、"呪力"だけに特化した物騒極まるものへ変質を遂げたと言うのだ。

 

 器が虎杖悠仁(いたどりゆうじ)でなければ本気でマジパンを入れてた。

 

「人間風情に渡したってことは、アレを君は途中で手放したってこと?」

「そんなわけないだろう馬鹿なのか貴様」

 

 馬鹿はオメーだよクソジジイ。厄介なもん造りやがって。

 

「握れなくなったのだ」

 

 若干、拗ねた声で宿儺(すくな)は言う。

 

「ある日突然、アレから蒼い魔人が出てきたと思ったら弾かれるようになった」

「魔人?」

「俺も詳しくは知らん。だが呪力でも術式でも殺せず、張合いが無かったゆえそのまま捨てた」

 

 それは捨てたと言うよりも捨てられたのでは? 

 

 頭に浮かんだ瞬間には喉元まで出かかった言葉を飲み込む五条。

 

 ここで宿儺(すくな)の機嫌を損ねるわけにはいかない。まだ聞きたいことがあるのだ。

 

 いや、お前それ……と無邪気にコメントを入れようとする虎杖の口をソッと塞ぐ。

 

「名前は? あるでしょ、あの呪具にも名前」

 

 暫しの沈黙の後、歪な呪いの口がニヤリと嗤う。

 

閻魔刀(やまと)。魔人は確かに、そう呼んでいたぞ」

 

 やまと……閻魔刀(やまと)……ねぇ? 

 

 やはり聞いた事のない名前だ。呪術界隈でも聞いた事は無いし、古い文献にも載っていなかった気がする。

 

 うーんと悩むよう、顎に手を添えた五条は、じゃあもう一つと呪いの王へ質問を投げかける。

 

「ルビーとエメラルドの……。あー、君の生きていた時代では翡翠と紅玉かな? それが混じり合ったような綺麗な宝石の瞳。両目に映したものを問答無用で捻じ曲げる能力、これに心当たりは……」

 

 ない? と。訪ねようとした五条を見つめる目のなんとおぞましいものか。

 

 頬に開いた口は裂け、限界まで見開かれた赤色は狂喜の色に染まっている。

 

 ケヒッ、ケヒッ。

 

 くふくふと始まった予兆。次の瞬間、二人の鼓膜を震わせたのは邪悪でたまらない呪いの笑い声だ。

 

 呪いの王は嗤う。感極まった声で大気を震わせる。

 

「そうかそうか! そうだったか! まだソレを持っている人間がいたのか!!! 行幸行悦、愉しみが一つ増えてしまったではないか!!」

 

 ケタケタと呪詛を振り撒くよく回る呪いの口。

 

 常人なら聞いただけで恐怖を駆り立てられ、気が狂ってしまいそうな濃厚な狂喜。

 

 ペシッと、虎杖が大口を開ける口を叩く。

 

「……知ってんの?」

「知っているとも、覚えているとも! 呪力も術式も持たないただの人間が、俺の四肢を捻じ切ったのはアレが最初で最後だったからな!」

 

 薄々勘づいてはいたが、あの瞳は想像以上にヤバいものであったらしい。呪いの王、その全盛期たる肉体すらも捻じ切る呪術とは異なる異能力。

 

 にょきりと現れた口が、頬を押さえつけた手の甲から語り始める。

 

「歪曲の魔眼。神に使える神事の家系、その一端の家に脈々と受け継がれる正真正銘の異能。発現するのは稀と聞いたが、開花した能力は折り紙付きだぞ?」

「具体的には?」

「歪曲……その名の通り、物体を捻じ曲げる事に特化した攻撃系の異能だ。発動条件は軽く、両目で見る事により成立する。その目の持ち主ができる(・・・)と思えば、俺の体すら捻じ曲げる優れものよ」

 

 合間合間にケヒケヒ聞こえるものの、興奮の最高潮は超えたのか、落ち着きのある声音に戻りつつある呪いの王。

 

 期待はしていなかったが、大当たりだった。

 

 呪術関連を探してうんともすんとも言わなかったはずだ。とっくに廃れた形だけの神道系。まさかそっち系統の血を引いてるとは。

 

「(でも僕、神道系に知り合いいないんだけどなあ)」

 

 自分と歳の近い女の子なんて特に。

 

「なるほどなあ、通りで丸々一つ分の土地を捻じ曲げられた訳だ」

 

 もー嫌になっちゃう! と肩を竦めた五条に、訝しげな声が落とされる。

 

「……一つ分の土地を曲げる? あの瞳は持ち主の視界に映る範囲を捻じ曲げるものだぞ。それ程の規模を捻じ曲げるのならば、それこそ上から見下ろさなければでき……」

 

 中途半端に切れた文章。五条の背筋に冷や汗が流れる。

 

 ケヒッ。

 

 分かった。分かってしまった。恐らく自分は、あの子の閉まっていた能力の扉を一つ、開けてしまったという事実に。

 

「そうかそうか! 千里の瞳すら宿すのか! 有り得ざる歪曲の持ち主は!! まさしくそれは神の子であろうよ!!!」

 

 上機嫌な呪いの王に比べ、五条悟のテンションはだだ下がりである。

 

 千里の瞳、千里先を見通す瞳。恐らくそれは千里眼と呼ばれる古来から伝わる異能の瞳。その力は単純明快。視野が広い、ただそれだけの力だ。

 中には未来を見通すだの、過去を見通すなどといった記述もいくつかあるが、ほとんどの千里眼保有者は今、自分がいる景色を広く見渡せたという。あの子も例に漏れず当てはまるのはこれ、現在視の千里眼だろう。

 

 自分の視界に映ったものならば、自身が可能と思う限り物体の強度や術式などを問答無用で捻じ曲げる歪曲の魔眼。

 

 自分のいる現在軸を見通す千里眼。

 

 控えめに言って最悪の組み合わせである。どんどん最強の看板を割りに来てる。

 

 唯一の良心は六眼との併用は出来ないとの点だろう。そんな一つの目にバカスカ異能を詰め込めば脳みそが爆発する。多分。

 

「なんでお前がそんなこと知ってんだよ」

 

 あまりにも詳しすぎる宿儺(すくな)の解説に疑問を抱いたのか、虎杖が自身の手に開いた口を見つめる。

 

「その家の者、一人一人に聞いて回った」

「なんで」

「皆殺しにするついでに」

 

 バッッシン! と額に青筋を浮かべた虎杖が真っ赤に腫れた甲を睨む。

 

「中々に愉快だったぞ。俺も四肢を捻じ曲げられながら鏖殺するのは初めの試みだったのでな、あまりにも気になった次第で聞いて回ったわけだ。しかし驚いた、まさか生き残りがいたとは」

 

 しかもその生き残りは子孫を残し、現在でもその血は受け継がれているときた。

 

 愉しみだなァ……と口元を喜びで歪める宿儺(すくな)に、五条も喜べるものなら僕も喜びたかった。と 内心でため息をつく。

 

「(本当にもう、その才能の多さは一体誰に似たんだか……。相性最悪にも程があるでしょ、僕の息子(・・)君は)」

 

 

 グシャリと、握りつぶした診断結果はポケットの中に。

 

 

 

 

 

 

 

─────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 2018年 7月✕日 午後22:00

 

 

 真っ白な、けれど光の加減によって空色にも見える小さな箱を月に照らす。

 

 今日は良い夜だ。雲もなく星が良く見え、柔らかな月光は湖面を輝かせる。

 

 まさに絶好の

 

「決戦日和……ってやつ?」

 

 箱を片手で回しながら振り返れば、光に当てられた銀髪がきらきらと輝く。

 

 片手には白柄の刀を。しっかりとある両目には果てのない輝きを宿した空色を。

 

「決着を着けようか」

 

 空へと放った箱が二人つの銀を覆い隠した。

 

 



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⑤・前

 今夜は月が綺麗だ。

 

 

 雲も無く星がキラキラと輝き、なんとなく月の光すら柔らかい。

 

 ───【メインクエスト】: 第三章───

 

 こんな時は窓辺にでも寄りかかって、ぼーっと静かに月見と洒落こみたいものだ。

 めんどくさいなあ、と思いながら外に出て、コンビニでフルーツサンドでも買えたらもっと良い。

 

 ───【瞳の先に見えるのは】: 最強との決戦─

 

 いやー、それにしても疲れたなー。もう今日は一歩も動けなさそうだなー。【閻魔刀(やまと)】すら振れそうにないくらい疲れちゃったなー。

 

 ───【瞳の先に見えるのは】: 最強との決戦─

 

 いやもう、本当に指の一本も動かせな……

 

 ───【瞳の先に見えるのは】: 最強との決戦─

 

 動かせ……

 

 ───【瞳の先に見えるのは】: 最強との決戦─

 

……………………

 

 ───【瞳の先に見えるのは】: 最強との決戦─

 

 微塵ともブレない男女どっち付かずの無機質な声に、プチリと心の血管が切れた。

 

 もおおおおおお!! 動かせないって言ってるじゃん!? 動きたくないって言ってるじゃん!? 四日前くらい前に第二章終わったばっかじゃん!?

 しかも最強ってアレでしょ!? あのまた顔面真っ黒の性格クズが鎮座するどクソチート野郎の真っ黒ジャージなんでしょ!? いい加減(めぐる)君も学習したぞオイ。なんたって右目抉られたからね!?!? 体の自由が効かなかったから叫ばなかっただけで、気が狂うかと思うくらい痛かったんだぞ!! 

 

 ───【瞳の先に見えるのは】: 最強との決戦─

 

 ───【開始時刻】: 本日午後十時───

 

 先生(ティッチャ)ァァアアアアアア!?!? 【六眼】先生(ティッチャ)ァ!?!? 嫌だよ、嫌だって言ってるじゃん!? 俺の目なんだから俺の目を笑顔で潰したサイコパスの笑顔見たでっしょ!? 二者面談だか意味わかんない事を(のたま)いながら人様のお目目に指突っ込んできたの見たはずだよねぇ!? 

 

 そんな俺の意思に反して足はとある場所を目指して進み、背負った刀袋の結び紐へ手をかける。

 

 あの精神ぶっ飛んでるサイコパス野郎から這う這うの体で身を隠したのが四日前。最初会った時もそうだったが、本当に今回ばかりは死んだかと思った。

 領域展開とか呼ばれていた空間は体どころか頭すら働かなくなったし、首の代わりに斬り捨てた【殺生石(せっしょうせき)】とかいう石ころのせいで呪力はスッカラカン。変な鎖付きのクナイで腕も足もぶっ刺され、起死回生のつもりで開いた魔眼はずっぷりである。

 

 あまりの痛さに意識が朦朧とする中、なにやらサイコパス野郎が一人で喋っていた気がするがなにも覚えてない。会話に飢えていたのだろうか。

 

 ただどうしてか、かあさん───と。情けなさと不甲斐なさ、唇を噛み切りたい程のみじめさをひっくるめて、母の名前を呼んだのは覚えている。

 

 自分でも何を言っているんだと正気を疑ったものだが、正気どころか神経を疑うような出来事がこの後に起こるなんて誰も思うまい。

 

 ───特級呪縛怨霊【■■■】解禁───

 

 その言葉と共に自らの影から出てきたのは、生気の感じられない生白い幾百の手。

 

 ヒョッと、ビビり散らしている間に【(むらさき)】とか呼ばれる超弩級の術式を死ねと言わんばかりに撃ち込んできたアイツはやっぱりサイコパスだ。まあ、這い出てきた白い手がどうにかしてくれたんだけれども、寿命が縮んだのは間違いない。

 めちゃくちゃ優しく撫でくり回された箇所から暖かいものが流れ、気がつけば形容し難い激痛が暴れ回っていた目ん玉の中には、新鮮なぴゅあぴゅあお目目がなんでもないような顔をして座っていたり。土壇場で広がった視界と高揚感のまま【歪曲の魔眼】で力任せに捻じ曲げたり。

 

 そんなこんなで(からだ)()もボッロボロのまま、根性で突き立てた【閻魔刀(やまと)】の次元の穴を通ってフィニッシュ。

 

 あのサイコパス野郎から生き延びた、という安心よりも、あの時に抱いた感情はこれだ。

 

 えっ、()のかあさんってコレ……? すんごく優しく頭を撫でてくれたり、頬を擽ったりしてくれたけどマジでこの人なの……? と。

 

 見た目がなんであれ命の恩人だろうが! とか思ってたあなた。ちょっと考えてもみてほしい。

 

 いやだって手だよ? 以前の俺が残してた日記にも高確率で書いてあった"かあさん"。助けるとか救うとか、守るとかとセットになってたんだから生き別れてラスボス五条悟に囚われてんのかなって思うじゃん? 

 

 バリバリ死んでるんですけど。

 

 人の形してないのは百歩譲って目を瞑ろう。目が覚めた世界で、今思えば呪霊だったのだろうが、「我らこそが真の人だ!」とかドヤ顔で言い張る奴等がいたからね? 

 

 血液の付着する片目を撫でられ、影へと戻る時に触れて分かった。

 

 生命を感じられないくらい、冷たい手だった。完全に死んだ人間の空虚な手だった。

 

 死んでるのに守るとはこれ如何に。影という超至近距離にいるのに助けるとはこれ如何に。

 

 ぐるぐると突然湧いて出た現実に耐えきれず、その時の俺が何をしたかって言うと。

 

 寝た。パタリ、と。電池が切れたように寝ました。

 

 覚悟無しで遭遇したサイコパスとの戦闘や、自身の体にかかった負荷とかもあるが、一番の理由は限界だったのだと思う。色々な意味で。

 

 その後のことは起きた時にでも考えればいい。

 

 結局、一晩経った頭で出した結論なんてありきたりなものだ。このまま進む……というもの。

 

 以前の俺は日記の中でしか知る術は無いが、多分全部知っていて母を助けることを生きる目標とした。とっくのとうに"かあさん"と呼び慕う庇護の存在が死んでいることも、その成れの果てである影に住まう白い手のことも、なにもかも。

 

 以前の俺が、(めぐる)という人間が何を考えていたのか。そんな事は分からない。だって俺はどうあっても俺なのだから、以前の俺()が何を思ってどう感じ、どれ程の覚悟を持ってその指標を立てたのか……なんて。

 

 だけれど進んだ先に、【六眼】先生が【メインクエスト】と称した道の果てに、()が目指した救いがあるはずだ。

 

 ガードレールから身を乗り出し、深い森へと飛び込む。

 

閻魔刀(やまと)】を隠していた刀袋は飛び込む前にレールの足に結びつけ、片手にあるのは月を受け仄かに光る黒塗りの鞘。

 

 木の根や枯葉、好き勝手に伸びた草を踏み分け、湖面の揺蕩う円形に佇んでいるのは背の高い男。

 

 長い手足と揃いの銀髪。映った月を足蹴にし、かつての場所で待っていた最強。

 

「決戦日和……ってやつ?」

 

 でもさ、確かにこのまま進むとは言ったけどさ? 

 

「決着を着けようか」

 

 もうちょっと時間くれても良くない? 

 

 ふわりと男の手から離れた空色の箱が宙を舞い、パタパタと四角箱が解ける。

 

 くるりと振り返った顔は、やっぱり見えない。

 

 幾つもの四角を量産し、俺と目の前の銀髪を呑み込んだ箱が形成したのは広々とした空間。

 

「ここはね、僕と君だけを閉じ込める特性の空箱。六眼と無下限術式を持つ者のみを招き入れる、君の瞳でもぜぇ〜ったいに(・・・・・・・)曲げられない不壊の空間」

 

 人差し指を天井付近に向けながら、サイコパス野郎は念を押す。

 

 いやそんな馬鹿な。【歪曲の魔眼】は単純な出力勝負で数えればぶっちぎりの一位だ。こんな薄そうな空間ならパッと壊せるに決まってる。

 

 なんて、鼻で笑い飛ばせれば良かったのだ。

 

 すぐさま魔眼を開き、それ見たことか。虚仮威(こけおど) しじゃないか、と。閉ざした空間を捻じ曲げ、捻じ切ってしまえば良かった。

 

 しかしふっ、と。そんな思いとは裏腹の考えが、頭の片隅から顔を出す。

 

 あんな、便宜上人間に分類されてるだけの化け物みたいなどチート野郎。悔しいけれど、最強を冠するに相応しい力を持つ目の前の男が、そうもはっきり言い切ったのだ。

 

 もしかしたら本当に、曲げられないのかも(・・・・・・・・・)───と。

 

 術式を使う素振りを見せず、また動く様子もない銀髪。

 

 使って確かめてみたいけれど、【六眼】から【歪曲】へ切り替えた途端、せこい感じの攻撃が来るんじゃないか。と、いまいち目の前の男が信じられず【六眼】を手放せない。

 

 なんて言ったって前科があるからなコイツ。「教えてあげよっか?」って期待させておいて、なんでなんで? と律儀に耳を傾けていたら、返ってきたのは「ひ・み・つ♡」の三文字と腹に思いっきり撃ち込まれた掌底だ。

 

 どう足掻いても信じられんわ。是非とも誠実さを目の前で見せて。出来れば今ここで死ぬとか。

 

「いいのー? 試してみなくて。やるだけ無駄だとは思うけど、もしかしたら壊せるかもよ?」

 

 腹の立つ声音。おちょくられている感じがする。いや、これはおちょくられているな完全に。絶対コイツ性格悪い。俺の方が絶対に人間としてモテるわ。

 

「………………(まが)れ」

 

 かなり迷ったけれど、確かめないことには始まらない。この前の死闘で解禁された【千里眼】を併用しながら、【六眼】を閉じる。

 

 青空から真っ赤な黄昏の瞳へ。

 

【歪曲の魔眼】を起動しながら見据えた空間の一角。トリガーを紡いだ先の閉所に絡まるは赤と緑の螺旋。

 

 絡み合う歪んだ糸は狙った空間を舐め上げ、

 

 バシンッ

 

「……」

 

 マジか。言葉には出なかったが、俺の頭の中を占める言葉はこの一言に尽きる。

 

 弾かれた。曲がらなかった。捻じ曲げられなかった。

 

「ほら、僕の言った通り壊せなかった(・・・・・・)でしょう?」

 

 本当にな。

 

 あはー、残念でしたー、と得意気に煽り散らす姿のなんとイラつくことか。体の自由が効いていれば今にも殴りかかっていた所だ。

 

【歪曲の魔眼】から【六眼】へ切り替え、閉じられた空間を軽く見渡す。

 

 閉じられた空間と言えども、この前踏み込んだ領域展開とは全くの別物のようだ。【六眼】で視てみてもかなりの広さがあり、他に呪術的特性は皆無。周囲への被害と、邪魔が入り込む不確定要素を排除する目的で使われただけなのかもしれない。

 

「相変わらず喋らないよねぇ、君。そんなに人と話すことが嫌い? それとも、相手が他でもない僕だから緊張しちゃって話せないのかな?」

 

 

 選択肢

  ・それはない

 ・自意識過剰

▷ ・死んでくれませんか

 

「死んでくれませんか」

 

 悩む必要なんて無かった。即決だ即決。

 一回このサイコパス野郎は死んで人間としての情緒と真っ当な性格を拾ってきた方がいい。ついでにその貰いすぎた才能は捨てて来て欲しい。

 

 ツれないなぁ、あんなことやこんなことをし合った仲じゃない。

 

 自販機よりも大きな成人男性が泣き崩れる。

 

 まあ確かに、あんなこと(目に指を突っ込む)や、こんなこと(首に刀をめり込ませる)をし合った仲だけれども。あまりにも俺の受けた被害の方が重いでしょう。出直せ。

 

「そう睨まないでよ……。それじゃあ仕方ない、ここからは真面目な話をしようか」

 

 稀なことに俺の心情と外側の表情が一致したらしい。

 

「一つ、約束事をしよう。誓約……と言い換えてもいい」

 

 ピタリと立てられた長い人差し指に、体というか主に復帰した片目が強ばる。おいやめろ俺の目の前で指を立てるなすごくこわい。

 

「君が勝ったら、僕の命をあげる。その代わり僕が勝ったら、命を含めた君の全部を頂戴」

 

 え、やだ。

 

 ───拒否───

 

 ほら、思わず出てきちゃった【六眼】先生も嫌だって言ってる。

 

「僕もね、いい加減分かったし身に染みたよ。君は手加減しながら捕まえられる相手じゃないって。だから」

 

 ブワリ。

 

 膨れ上がった存在感と、途方もない威圧感にほぼ反射の域で【閻魔刀(やまと)】を構える。びりびりとした重圧が鼓膜の奥から体を揺らす。

 

「殺す気でおいで。僕も君を、殺す気で相手するから」

 

 ───補助システム :【六眼】全力稼働───

 

 ───特級呪具【閻魔刀(やまと)】: 問題なし───

 

 ───術式【無下限】: 問題なし───

 

 ───同じく順転【蒼】、反転【赫】: 問題なし

 

 ───特級呪縛怨霊【■■■】: 正常───

 

 ───【歪曲の魔眼】: 問題なし───

 

 ───【千里眼】: 問題なし───

 

 ───領域展開【■■■■】: 可能と判断───

 

 垣間見えた青い瞳は、どうしようもなく俺の瞳と似ていた。

 

 

 

 

 

────────────────

 

 

 

 

 

 捉えた初撃は側面を狙った蹴撃。

 

 目の前を通過する黒靴。息をつかずに迫ってきたのは先程とは逆の足、回し蹴りの形を取った二段蹴りだ。

 

 草薙のような鎌をギリギリで屈むことで避け、降ってきた拳を空いている手で逸らす。

 

 ───術式感知 :【無下限】、順転【蒼】───

 

 感知したのは次を放つために踏み込んだ相手の軸足、そして逃がさないために囲まれた四方。

 

【無下限】は最初から纏っていない。当たればマズい。だから潰す。

 

 ───迎撃 : 順転【蒼】───

 

 四方を囲む収束を同じく【蒼】で潰し、とりあえずのバックスペースを確保。

 

 収束する無限の力を借りて加速した下から上えの上段蹴りを一歩体を引き、純白の柄を引き抜きながら回転。

 

 後頭部付近の髪が風圧で持ち上がるも、気にせず親指で鍔を押し抜く。

 

 ───【閻魔刀(やまと)】: 抜刀───

 

 まずは最速の一閃。

 

 ちょっとした個人的私情を含め、狙ったのは人間に備わる眼孔部分。

 

 ヒュッと銀閃を残した一刀は幾つかの銀糸を空箱の中に散らせるも、赤色の気配は無い。外した。

 

 だがまあ、これは想定内。刀身を弾かれなかっただけマシである。

 

 ───術式感知 : 反転【赫】───

 

 向けられたのは足。

 

 相殺ではいけない、完全にコチラの無限で上書きを。激突した【赫】の余波で視界が遮られるのは遠慮したい。

 

 ───迎撃 : 反転【赫】───

 

 より強い無限で押し流し、俺には害のない方向。けれどもアイツには無視できない位置へ【赫】を展開。

 

 カウンターとして放った【赫】はサイコパス野郎の足元に当たる間際、【蒼】によって無理やり軌道を変えられ明後日の方向へ。

 

 二倍近い出力差のある【赫】を【蒼】でズラすってなに。

 

 サラリと目の前で行われたとんでも技に乾いた声を上げながらも、体は目の前の目標を殺すための最善を打つ。

 

 納刀は後回し。くるりと指で持ち替えた柄を握り直し、肩口目指して【閻魔刀(やまと)】を走らせる。

 

 濡れ羽の鋼に白い手が合わさり、握った拳は破邪の側面を撃ち抜……

 

「ッ!」

 

 けないよな。

 

 体全体を捻ることで撃ち抜く軌道から刀身の上を滑るものへ修正した銀髪に張り付き、納刀からの抜刀。

 

 鞘の中で勢いづいた刃は編まれた無下限を喰らい、無防備な胸を浅く切り裂く。

 

 赤色く細い不規則な線が舞う。当たった。

 

 ───術式感知 : 順転【蒼】───

 

 ───同じく反転 : 【赫】───

 

 複数編まれた【蒼】は俺への足止めと離脱を兼ねているのか、【閻魔刀(やまと)】を握る手首と床。そしてアイツの背後。

 

 逃がすか。

 

 わざわざ術式や呪力を使って【六眼】に映ってやる必要もない。己の脚力のみで【蒼】を振り切り、ついでに壁のように浮かび上がる前面の【赫】の射程外へ。

 

 床へ触れていたつま先で加速し、特大の衝撃波と逆方向へ駆ける。

 

 鞘が床と触れ合うギリギリまで上体を倒しての疾走。

 

 腰に構えた閻魔刀(やまと)は動かさず、僅かな凹凸のある純白の柄へと手を添える。

 

 面倒なのは指。贅沢を言うならば腕。

 

 領域展開と虚式。この二つを発動させるためには確か掌印(しょういん)が必要だと【六眼】先生も言っていた。恐ろしい程の呪力コントロールがいるため、省略して使うのは難しいのだと。

 どちらの手で結ぶのかは分からず、両手で結んでくれれば片側だけで済むのだが、この化け物に限ってそれは無いだろう。

 

 だから両手とも落とす。

 

 ───【閻魔刀(やまと)】───

 

 まだ、鍔に指をかけるだけ。刀身は見せない。

 

 ───【疾走居合(しっそういあい)】【羅刹天翔(らせつてんしょう)】───

 

 懐へ入ってから確実に【無下限】ごと刈り取る。

 

 踏み込んだのは手を伸ばせば届く距離。ここまで近づけば向こうが対応するよりも早く、俺の【閻魔刀(やまと)】が届く。

 

 キチ───と指の触れた鍔はしかし、

 

 ───術式感知 : 虚式【(むらさき)】───

 

 突如目の前に現れた紫色の夢幻。【赫】と【蒼】の入り交じった仮想の質量、その蕾だ。

 

 なぜ。だってアイツの両手はフリーだ。掌印(しょういん)なんてどちらの手も結んでない。

 

「虚式【(むらさき)】」

 

 ───回避 : 順転【蒼】───

 

【六眼】先生の声が響くが早いか、銀髪の腕部を狙った【疾走居合(しっそういあい)】を自らの足元へ照準を合わせる。

 

 スパァンと平行に削げて低くなった床。

 

 耳元で本来生成されない質量の圧を感じながら【蒼】で体を引っ張り、銀髪の背面。無理やり低くした床へ滑り込む。

 

 ───ィィイイインと衝突した無限が質量を押し出し、コンマ遅れて空間そのものが抉り取られた。

 

 たらたら。滑り込むのが間に合わず、高低差によって掠った耳が痛い。外側辺りが焼け付くように痛いので、多分外縁がポッカリと持っていかれたんだろう。

 

 首元に落ちてくる生温い液体を乱雑に拭い、短く息を吐き出す。

 

 マズいなぁ……。想定以上にはっやいんだけど、アイツ。拳を逸らすためとは言え、【閻魔刀(やまと)】から手を離された。

 

『僕も君を、殺す気で相手するから』

 

 開戦の直前に告げられた言葉。その意味が今更ながらのしかかる。

 

 マジで俺の命、取りにきてるじゃん……。俺は最初からそのつもりで頑張ってたけれども。初っ端からここまで動きが違うと、これまでは手心を加えてもらってたんだな。と突き付けられた気がして、これはこれで腹が立つ。

 

 胸の内からフツフツと沸騰する怒りを鎮め、落ち着けと呟く。あ、口は動いてないよナチュラルに。

 

 掌印(しょういん)無しで虚式使ってる! 話が違うんだけど【六眼】先生ェ!? とは言わない。

 

 だって相手はサイコパス野郎だし。化け物だし。最強だし。これくらいやってのけたって驚かないぞ俺は。

 

 それに……、と。グーパーと拳を握ったり開いたり。調子を確かめるような動作をする銀髪を見る。

 

 当たった。浅くだけれど、【閻魔刀(やまと)】は届いた。

 

 不思議そうに血のにじむ傷口を触る男の姿に、にやにやと口角が上がる。

 

「なに、今の。なにしたの」

 

 いや、教えるわけないじゃん??? アンタもこの前教えてくれなかったから教えません。

 精々頑張って自分の目で確かめるか、大人しく勝者となった俺の口から冥土の土産にでも聞いてください。

 

 何時ぞやの仕打ちを思い出し、そんなことを考えている俺の耳にポツリと。まるで独り言のような呟きが入ってくた。

 

「合わせた僕の拳より、遅れて(・・・)きた……。まさか君、ズラしたの(・・・・・)? ソレを抜いてから振り抜くまでの隙間で、一度刀を止めて速度を?」

 

 …………………………教えるまでもなく分かってんじゃん。本当にもうやだコイツ。ふざけんな見えてたんじゃん、疑問形で聞くなよ。「聞きたい?」「ひ・み・つ」が出来るかと思って一瞬期待しちゃっただろ。

 

 返事は返さず、心の中で渋々ピンポーンと答えておく。

 

 その通りでーす。前回アンタが「君のソレって慣れれば掴みやすい。刀抜いた瞬間には刃が届いてるからァ!」とか言われたのが悔しくてなんとかした結果がコチラです。

 

 ご存知の通り、俺の攻撃の主体は破邪の王である【閻魔刀(やまと)】を用いた居合や刀技だ。

 破邪の特性が乗るのは刀身部分のみ、という理由上、どうしても相手に接近し刃部分を直接当てる必要がある。

 

 いくら特級呪具だとは言え、その形状は日本刀。鞘から刀身を引き抜き、相手へ振り抜く過程を省略することはできない。

 コイツ相手には相性が悪くて使う機会があまり無かったけれど、現状の手持ちで最速最大の射程距離を誇る【次元斬(じげんぎり)】だってこのルールからは逃れられない。

 

 いくら疾く振ったところで、相手が認識する・しないを除いても絶対に着弾までのラグが発生する。アイツが言った「慣れれば掴みやすい」という一言と共に弾かれた【閻魔刀(やまと)】が良い証拠だ。

 

 だけど裏を返せば、鞘から走らせた刀身が相手に触れるまでの時間があるということ。アイツでも追えない、自由に使える瞬間がある(・・・・・・・・・・・)ということに他ならない。

 

 あの時はまさかの出来事で頭が回らなかったが、「来ると知覚した瞬間には届いている刃」という台詞から、アイツは【閻魔刀(やまと)】を抜いた瞬間に【無下限】と拳のタイミングを合わせて対処していたはず。

 

 だからズラした(・・・・)

 

 抜刀の速さとタイミングは変えず、振り抜くまでの間に(・・)緩急をつける。

 

 鞘から離れた時、対象へ当たる一瞬前、その中間地点……。百から零、零から百。どこでズラすも、そのまま振り切るのも決めるのは俺だ。

 

 威力はそのまま据え置きで、鋭さもそのままに。ただほんの僅か、誤差とも言えない少しのズレに、アイツは術式を合わせられない。

 

 ぬるりと血液を吸った首元の不愉快感を頭から追い出し、ジッと俺を見つめる同色の男を見据える。

 

 兎にも角にも、これでアイツは容易に【閻魔刀(やまと)】を弾く事は出来なくなったはず。術式勝負に持ち込まれると厳しいので、限界まで張り付いて【閻魔刀(やまと)】でプレッシャーをかけていこう。

 

「化け物みたいだね、君。頭おかしいんじゃないの?」

 

 アンタにだけは言われたくねー。

 

 嫌そうにため息をつく姿に思わず白い眼差しを向ける。それはアンタじゃなくて俺の台詞だ。会敵する度にどれだけ化け物野郎と罵ったか覚えていないレベルである。

 

 虚式とか言う順転とも反転とも違うヤツは、恐らく今の俺では扱えない代物だ。いや、使える分には多分使えるのよ? アイツに出来て俺にできない道理が無いからね??? 

 

 使える事と使いこなせる事は違うってだけで。

 

(むらさき)】は【赫】と【蒼】をぶつけて仮想の質量を生成するらしいが、コイツ相手に【閻魔刀(やまと)】と併用しながらはキツい。呪力コントロールもそうだが、一発撃つ分の呪力量も中々に多い。

 

 虚式習得に呪力を回すくらいならば、その分は然るべき時まで温存しておく方が賢いだろう。

 

 とぷり、と影に波紋が広がる。

 

 ───特級呪縛怨霊【■■■】: 使用可能───

 

 ───虚式【(むらさき)】の対抗策として【■■■】の使用を提案します───

 

 脳へ直接語りかける無機質な音声。フル稼働中らしい【六眼】先生だ。

 

【六眼】先生は補助システム。俺の望む未来へ向けて情報を取得し、常に最善の選択を取り続ける俺の瞳。

 

 だからこそ現状唯一、対抗の難しい虚式に対する最善策を提示してきた。

 

 かあさん───特級呪縛怨霊【■■■】の本質は慈しみ(再生)抱擁(吸収)。呪力でも術式でも無く、たった一人(■■巡)にだけ向けられた万物に反応する母の腕。

 

 庇護する存在に触れさせない絶対の護り。

 

【六眼】先生の言う通り、常に俺の影で微睡んでいるかあさんを起こせば虚式も【蒼】も、【赫】だって恐くない。なんだったら多分、領域と呼ばれる閉鎖空間でさえなんとかなる。

 

 だけれど。それでも、と。俺は首を横に振る。

 

 絶対にかあさんは出さない。こんな殺伐とした命を取り合う場に、かあさんは出したくない。

 

 絶体絶命だったとは言え、一度かあさんに助けられた事実は覆らない。俺が弱かったから、俺が痛みに怯えたから、俺の不甲斐なさがかあさんを起こした。

 

 悔しくてやるせなくて仕方が無かった。母に頼ってしまった子どもの自分が、ひどく弱くて嫌だった。

 

 結局俺はかあさんに縋り付いてしまった。

 

 だけれど。だからこそ。もうかあさんに泣きつきたくは無い。

 

 変わり果ててしまったと言え、以前の俺()が愛し、己の生きる目的とした、死してなお恋しくて堪らない母だ。死んだって出さない。出したくない。

 

 何言ってんだ馬鹿野郎、相手を見ろ。と、勝ち筋だってろくに見えやしない最強なんだぞと。

 

 分かっているとも。そんなことは一番俺がよく分かっている。

 

 でもさ。息子なんて所詮、そんなものだ。大好きなかあさんを危ないところに連れて行きたくない、そんな子供心から来る意地。

 

 理由なんてそれで充分でしょう。

 

 ───…………………受諾───

 

 ───特級呪縛怨霊【■■■】を戦力から除外

 

 ───私は【六眼】、補助システム【六眼】─

 

 ───貴方の望む未来へ向けて、私は情報を取得します───

 

 仕方が無い、といったような【六眼】がかあさんという選択肢を消す。

 それが少し擽ったい。小さな頃からつるんでいた友人とのやり取りのよう。自分の瞳が友達ってどんだけ寂しい子供時代だったんだよ、という話だが。

 

 ……まあ【六眼】先生にそうは言ったが、三割くらいの理由はもっと別でくだらないものである。

 

 サラサラと揺れる白銀の髪。自分の体から二・三メートル離れた虚空に無数の【赫】を編む男を睨みつける。

 

 ただ、コイツ相手には二度と見せたくない(・・・・・・・・・・・・・・・・)。理由は分からないけれど、体の中というか心の底というか、魂の底からそんな思いが湧いて仕方がない。

 

 ぽぅ……と淡く強く輝いた赤い光。完全に殺る気満々な最強さん。

 

 今のところアイツ相手に勝ち星はゼロだが、それでも勝つのは────俺だ。

 

 

 



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⑤・後

 ひどく、やりづらい。

 

 仕切り直しを挟んでからの第二ラウンド。

 

 逃がさないと言わんばかりに張り付き、防ぐ手立ての潰された破邪の(つるぎ)を振るう己の息子に舌打ちが漏れる。

 

 これは別に、自分そっくりな顔をした血の繋がった息子が相手だから良心が痛む、とか。そんな夢物語のような理由ではない。

 

 性格クズ、人間としてゴミ、顔だけの人でなし等々、様々な人間的レッテルを貼られている五条悟がその程度で止まるわけが無い。

 そもそも五条がそんな人間味溢れる人物であったのならば、息子だと分かった少年相手に「僕も君を殺す気で相手するからね☆」なんて言わない。

 

 六眼を絶え間なく動かし、生身で瞬間移動かな? と疑うレベルの速さで動く白銀を追う。

 

閻魔刀(やまと)】と呼ばれる白柄の太刀。天敵である呪力喰らいの射程に入らぬよう、絶え間なく【蒼】で距離を取りながら時々飛んでくる無限を打ち消す。

 

 全く身に覚えのない子であるし、ばっちり肉眼で確認した遺伝子上の母親はバリッバリの現役女子大生。

 

 検査依頼を出した同期には道端に落ちたゲロを見るような目を向けられたが、息子の年齢から逆算しても今回ばかりは五条も白である。流石に十三・四で女を抱いた記憶はない。

 

 だけどまあ、息子だと書かれた診断書を見て、不思議とそっか。と受け入れられたのだから、この子は他でもない五条悟の息子だ。

 

 顔も瞳も術式も、その身に宿る天稟の多さとて、どこをどう見ても五条の子である。

 

 つまり、顔もスタイルも良くてめちゃくちゃ才能のある天才児。

 外見面での違いと言えば、五条の髪はピョコピョコと跳ねているが、息子の髪は綿毛のようなふわふわである、という程度。ほとんど誤差と言ってもいい。

 

 ただ内面だけはかなり違うのか、ひと言ふた言喋ってくれれば御の字な無口。そして何より、息子は思春期真っ只中の若人だ、ということ。

 

【蒼】で妨害を試みながら、周囲に展開・維持させていた【赫】を瞳孔ガン開きで迫る息子へ撃ち込む。

 

 その数は八。初撃の三発、一拍置いた後に撃ち込んだ四発。そして半拍後に向けた一発。勿論全て最大出力。

 

 前にも言った気もするが、五条悟は短い青春を駆け抜ける子ども達は無限大の伸び代と進化を秘めていると思っている。

 

 大気を震わせる轟音と衝撃。消費した【赫】を補充しながら、六眼の見つめる先。五条お手製の空箱の破片が混じる煙から影がひとつ飛び出す。

 

 実際後進の若人達は日々進化を重ねているし、その中にはマジ?と笑ってしまいたくなるような速さで強くなる子もいる。

 

 元気よく刀片手に駆ける薄い体は五体満足。見事に外した。ホントくそ。

 

 パパッと掌印(しょういん)を結び【(むらさき)】を三つ、己の周囲へストック。

 

 牽制目的の【赫】を四発、本命として作ったばかりの【(むらさき)】を一発。

 

「だけどさぁ……」

 

 常人には不可視の発散された無限。瞬きの間に解放された四筋の衝撃波が冬色の子どもへ殺到。

 

「この進化速度はおかしいだろ」

 

 扇状では無く、より威力の絞った直線上の衝撃波が霧散する。

 

 遅れて聞こえたのは空間が軋む重苦しい斬撃音。円柱状に暴れ狂う衝撃波に数多の真円が浮かび上がり、形の無い破壊の波が細切れにされる。

 

 それも一発だけじゃない。残りの三発も揃って微塵切りだ。

 

 有り得ざる仮想の質量、その真横ギリギリを通過して向かってくる同じ色彩の息子を捉える。

 

 斬ったのだから刀身は見えるはずなのに、一向に鞘から抜いたように見えない。本当にこの子は刀を振っているのか。

 

 無下限で体を覆いながら、床を蹴って後退。同時にストックした【赫】を今さっきまでいた場所を囲うように配置。

 

 五条の足が離れた瞬間、現れた白銀色とほぼ同じタイミングで無限を発散。

 

「ハァ〜〜〜??? ホンッット腹立つな誰に似たのそのスペック」

 

 ────不発。

 

 五条の維持していた【赫】がその役目を果たす直前。特大の衝撃波ではなく、まだ無限の留まる術式だった球体が斬られた。

 

 なにに? 決まっている、何処ぞの呪いの王が千年前にテンション上げてぶん回した【閻魔刀(やまと)】とかいう刀にだ。

 

 誰に? 目の前で鍔を鳴らす息子にだ。

 

 だぁ〜れが思うよ、発散させる前の無限。まだ呪力を含む術式である【赫】を切るなんて。

 

【蒼】で空中にある体を斜め下へ引っ張り、先程つくった【茈】を上下に装填。

 

 追いすがって来た息子を挟み込み、容赦なく仮想の質量を解き放つ。

 

 これで勝負が着いてくれれば楽なのだが、現実はそう上手くいかない。

 

 景色が歪んで見える程の大質量の柱、その中にいたハズの子どもを五条の六眼は観測しない。

 

 直前に感知した【蒼】から見るに、急いで離脱したのだろう。どんな反射神経と動体視力してんの? と、あの似て非なる万華鏡をじっくり舐め回してみたいが、それは後。

 

 ひと息分。または一歩分の距離。ようやっとクールタイムと呼べるべき隙間を作り出した五条は、真上から降ってくる息子に片手を見せる。

 

 フリーの片手。ひとつの印が結ばれた五本の指。

 

 呪術戦の真骨頂たる、領域展開の前触れだ。

 

 苦々し気に眉を顰める子どもへ向けてニヤァと笑ってやる。

 

 だってそうだろう。あの神速と言っても差支えの無い抜刀技。アレを威力も鋭さも、放つ予兆すらそのままで、振り抜く間に僅かな緩急を付けるという頭のおかしい絶技。

 

 これにまんまと嵌り、危うくこの年で隻腕になる所であった五条は綺麗サッパリ息子に殴り勝つ事を諦めた。

 あんな剣神の申し子みたいな化け物相手に、わざわざ近接戦を仕掛ける物好きはいない。最初はまだ殴り合える自信があったからドンパチしてただけで、対抗策が潰されたと分かった瞬間に距離を取るのは至極真っ当な判断だろう。

 

 加えて、【閻魔刀(やまと)】を一瞬でも留まらせるためには、刃が触れる寸前にその箇所を守る無下限(呪力)を増やさなければならない。

 

 馬鹿正直に刀身を追うのではなく、鞘から抜かれたと知覚した瞬間。該当箇所へピンポイントで呪力を追加で流し込む。

 

 アッ、て気づいてふんっと流し込む。そんなノリで消費される呪力は凡そ虚式一発分。

 

 普段ならケラケラ笑いながら誤差誤差と言う範囲だが、【蒼】と【赫】を毎秒毎秒バカスカ撃ち込む量も考えると、流石の五条と言えども呪力の消費は洒落にならない。

 

 いやもう本当に。呪術師最盛期と呼ばれた時代に嬉々としてコレ片手に暴れ回った王様のせいで、息子が五条目掛けて振るう【閻魔刀(やまと)】は大喰いにも程がある。瞬間瞬間に食べる呪力量がハンパじゃない。

 

 一瞬でも判断を誤れば致命傷を受ける物騒な刀。高いリスクに低いリターンで【閻魔刀(やまと)】を弾く危険を犯すくらいなら、潔く手を引いてその分の呪力を攻撃に回した方が良い。

 

 幸いなことに、どこぞの呪術師殺しを沸騰させる肉弾戦お化けの息子は、術式練度が五条ほどではない。

 

 間合いに入らず寄せ付けず、距離を離して得意分野(術式)で押し勝つ。

 

 そう思っていたが、息子の進化と成長速度の早いことはやいこと。いつの間にか術式状態の【赫】も斬っちゃうし、無限の発散によって生まれた衝撃波も斬っちゃう。

 

 距離を離せばすぐに詰めてくるし、どうあっても五条に掌印(しょういん)を結ばせる気は無いのか、そんな暇をを与えてくれなかった。

 

 けれどそんな呪術界一物騒で命懸けなハイスピード鬼ごっこも終わりだ。既に必要な掌印(しょういん)は結び終わり、その名を落とせば世界は変わる。

 

 五条悟の領域展開は発動してしまえば勝ち確の反則技。

 

 あの子がここまでの領域に踏み込めてないのならば、それでも良い。油断なく加減無く、今度は一瞬で処理落ちさせてあげる。

 

 踏み込めているとしたら、それはそれで問題無い。ぶつかった領域同士の優劣を決するのは、ほとんどの場合が術の練度。相性や呪力量にも左右される時もあるが、これは完全に除外して良い。

 

 同じ術式。同じ無限。同じ瞳。

 

 各々が持つ心を顕すのが領域だが、断言出来る。この子の心の奥底、根底にある本質は五条悟と同じものだと。

 

 で、あるならば。あるならばだ。

 

 その勝敗を決めるのはより洗練された方の領域であり、術式の練度においては五条を下回る息子が取れる方法はひとつ。

 

 より多くの呪力を持ってして拮抗状態を作ること。もしくは、多大な呪力消費と引き換えに主導権を奪うこと。

 

 それこそ、追撃と補助に使っている術式分のリソース全てを使っても、だ。

 

 

「「領域展開」」

 

 ────凛と。まあるい硝子と、古びた鈴の音が重鳴(かさな)る。

 

 紡ぎ出すは呪術戦の真骨頂。己の我儘を通す心のテリトリー。

 

 空箱の景色が変わる。世界が閉じる。宇宙(そら)の瞳が開き、空虚な万華鏡が花開く。

 

 広がる無限の内側。彼方まで広がる無限を閉じるは、無間に内在する組子障子。

 

無量空処(むりょうくうしょ)」 「三界滅法(さんかいめっぽう)

 

 さあ、我慢比べといこう。()の首が飛ぶのが早いか、()の呪力が尽きるのが先か。

 

 勝つのは勿論、僕だけど。

 

 

 

 

 

 

───────────────

 

 

 

 

 

 

 ───領域展開【三界滅法(さんかいめっぽう)】───

 

 ───領域同士の衝突を確認───

 

 ───術式練度 : 判定【不可】───

 

 ───リカバリー : 判定【可能】と判断───

 

 ───消費呪力の増大により領域の侵食をキープ───

 

 ───均衡状態へ持ち込みます───

 

 領域を展開したと同時に、温存していた呪力がとんでもない勢いで削れていく。さながらダムの一斉放流のよう。

 

 ───術式感知 :反転【赫】───

 

閻魔刀(やまと)】を構え、極至近距離に編まれた【赫】を斬り伏せる。

 

 ───術式感知 : 順転【蒼】───

 

 足と手首。ピンポイントで狙ってくる無限の収束。

 落下状態から見て上。己の上空目掛けて【閻魔刀(やまと)】を抜き放ち、反動で下へ加速。

 

 領域内の景色も相まって、ブラックホールかよ……とドン引きつつ着地。

 

 ───術式感知 : 順転【蒼】───

 

 待っていたのは収束の始まっている無限。泥沼のように方々に重なっている多量の引力。

 

 なんという性格の悪さ。この数では【閻魔刀(やまと)】で全て切る前に一つは当たる。

 

 必要なのは広範囲をカバーできる攻撃手段。

 

 ───補助システム【六眼】: 停止───

 

 逃げ回ることを止めた白銀と、停止する直前に【千里眼】で見た俯瞰風景を脳裏に刻む。

 

 開く瞳は偏光の宝石。【歪曲の魔眼】。

 

(まが)れ」

 

 曲がる、曲げられる(・・・・・)という自信を持たせトリガーを引き、【六眼】と【千里眼】で確認した位置へもう一度。

 

(まが)れ」

 

 (まじな)いとなった三音と共に、赤と緑の螺旋が無限の周りを渦巻く。

 

 チリと焼け付く脳みその奥底を無視し、【歪曲の魔眼】から果ての無い蒼穹の瞳へ。

 

 ───補助システム【六眼】: 起動───

 

 …………キッッツい。いくらなんでもこの呪力消費は重すぎる。迎撃や回避、補助に使っている【蒼】や【赫】に呪力を回す暇が無い。【蒼】を使った分だけ、【赫】を撃った分だけ、領域の均衡時間は減る。

 

 脳が爆発しそうな気もするが、どちらにしろ負ければ脳みそ爆発も死ぬこともイコールである。ガンガン使っていこう。

 

 術式で補っていた迎撃・回避・補助は【六眼】と【歪曲の魔眼】、【千里眼】、そして過労死枠の【閻魔刀(やまと)】でなんとか対応。呪力が尽きない内に勝負を決める。

 

 閉じて、開いて、閉じて、開いて、また閉じて……。空と宝石を入れ替えながら、握る【閻魔刀(やまと)】をひたすらに振るう。

 

 領域で押し負ける訳にはいかない。呑まれた瞬間に確定するのは、俺の負けだ。

 

 今はお互いの領域が術式の必中効果を中和してくれている。だからまだ、勝負の結末は不確定に入れ替わる。入れ替わってくれる。

 

(むらさき)】が体を掠める。肉が抉れる。

 

閻魔刀(やまと)】が体を掠める。肉が裂ける。

 

 術式が。魔眼が。拳が。脚が。肉を削ぎ血液を咲かせ、少しづつ命の外側を剥ぎ取っていく。

 

「しぶといなァ……ッ!」

 

 ふわりと淡く輝き、蛍のように周りを取り囲むのは生成された仮想の権化。

 

 その数七。

 

 ───【閻魔刀(やまと)】: 抜刀───

 

 避けられない。目まぐるしく【六眼】と【歪曲の魔眼】を入れ替えたせいで頭が痛い。

 

 一発でも直撃を食らえば終わりだ。領域の陣取り合戦に負けても終わりだ。

 

 悪手だと分かっていてもやるしかない。やらなければ十秒先にある敗北が目の前の敗北に変わってしまう。

 

 一瞬の停止。焦らず、正確に。体へ回す呪力も、必要な動作も、動かす筋肉も。

 最低限度に最速で。それでも過不足無く、確実に断ち切るように。

 

 ───【次元斬(じげんぎり)(ぜつ)】───

 

 軋り。

 

 喰った七つの無限。使われた俺の呪力。

 

 カチ、と。領域の持続時間が狭まる。

 

 限界が近い。何分経ったのか、どれだけ肉を削ぎ血液を流したのか分からない。

 

 呪力の底が見える。体が痛いし頭も痛い。瞳は熱を持ったようにグツグツとしていて、自分の眼孔に嵌っているのが【六眼】なのか【歪曲の魔眼】なのかすら分からない。

 

 限界だ。本当にもう、限界。だけどソレは、向こうだって同じはず。

 

 いくら術式の練度に差があるからと言って、せめぎ合う領域分の呪力消費からは逃れられない。

 

 俺が維持のために乗せた呪力の分だけ、アイツは侵食のために呪力を乗せる。

 増えた呪力の分だけ、俺は領域維持にそれ以上の呪力を注ぎ込む。

 

 イタチごっこのような我慢比べ。しんどいのはきっとアイツも同じはずだ。

 

 その証拠にあれだけ飛んできた【蒼】も【赫】もプツリと途切れ、鎧となっていた【無下限】をも外して虚式と領域に呪力を回している。

 

 底なし沼のように感じた馬鹿みたいな呪力量も、もう殆どアイツから感じない。

 

 俺の呪力も残りカスみたいな物だが、どっこいどっこいだ。

 

 領域はお互いに閉じられない。見た限り、虚式をあと五発も撃てば底をつく量。

 同じく俺も、もう一度【次元斬(じげんぎり)(ぜつ)】を使えば呪力はカラとなる。

 

 所々浅くない傷を負い、呪力も集中力も極限に近い俺とアイツ。違うのは一点、呪力と共に肉体のリミットが俺には付いているということ。

 

次元斬(じげんぎり)(ぜつ)】は言ってしまえば、呪力で強化した肉体でめちゃくちゃ速く頑張って斬っている感じの技だ。

 呪力消費もそこそこ。それ以上に肉体への負担が大きい。まだ完成しきっていない子どもの体である事も、きっと大いに影響しているのだろう。

 

閻魔刀(やまと)・奥義】だとか格好をつけているが、行き着く先は基礎の基礎。結局は丈夫な体が最後の基盤。

 

 ちょいちょい吹っ飛んだ肩やら脇腹付近から零れる鉄の塊。

 

 痛い。すんごく痛いけど、まだ生きてる。足は動くし手も動く。両眼だってちゃんとある。

 

 このまま続けば先に倒れるのは俺だ。向こうもバッサリ肩から骨が見えてたり、左腕が捻れちゃったりしているが、まだダメージは軽い。めちゃくちゃ悔しいけど、強いんだよコイツ。

 

 だから勝負に出る。仕掛けられるのは一度だけ。というか、次で俺の体は稼働限界だと思う。領域同士のマウント合戦がこんなにもしんどいとは思わなかった。もう二度としない。

 

 ハッと短く息を吐き、ついでに溢れてた血塊も吐き出しておく。

 

 死ぬ気で守った指で鞘を握り、柄に手を添える。

 

 チャンスは一回、出たとこ勝負のラスト大一番。

 

 十秒分の領域へ注ぐ呪力を残し、後は全て肉体の強化へ回す。

 

 もう【六眼】に映る映らないは気にしない。捉えられても反応できない速さで動くし、そのまま殺すから。

 

 無量の宇宙(そら)を足で掴み加速。迂回なんてしない。最短ルートの直線。

 

 軋り。

 

 まずは一つ、生成された虚式を斬る。

 

 軋り。

 

 懐へ踏み込むも、逃げた銀髪の体を追って二つ目を斬る。

 

 軋り。

 

 連弾のように連なった夢幻の質量を、【閻魔刀(やまと)】の負担を考えずに斬り伏せて進む。

 

 軋り。

 

 トラウマを植え付けられた骨ばった白く、長い人差し指に灯る蕾を斬る。

 

 軋り。

 

 呪力を割いて展開した【蒼】で体を引っ張り、【赫】と【蒼】をそれぞれ三つづつ編んだ男を追う。

 もうスッカラカンのくせして、よく使えたもんだよ全く。

 

 軋り。

 

 ああ、もう。そろそろ限界。体も呪力も、燃え尽きる。

 

 だけど終わらない、終わらせない。まだ燃料にできるモノは動いているだろう。

 

 命でも魂でも、ここで使い潰さなくてどこで使うんだよ。

 

 ドクリと心臓が大きく脈打ち、こぽりと鮮血がせり上がる。

 

 合わさって【(むらさき)】へと変わった【赫】と【蒼】の術式。

 

 軋り。もうすぐ、もうすぐ手が届く。

 

 装填された一発。惜しいけれど片手を放し、鞘を踏み台にして回避。

 

 軋り。嗚呼、ほら。アンタの瞳がよく見える。

 

 目前に出現した紫色を美しい乱れ刃で斬り捨てる。

 

 軋り。届くぞ、アンタに。やっとアンタの存在に、手が届く。

 

閻魔刀(やまと)】を持ち替え、投擲。真っ直ぐに飛んで行った破邪の刃は、仮想の蕾ごとアイツの手を貫く。

 

 目と鼻の先。お互いの瞳に自分を臨める距離。伸ばす片手を咄嗟に掴み、握力だけで潰そうとする姿を鼻で笑ってやる。

 

 軋り。

 

 俺がお前なんぞに手を伸ばすわけがないだろう。俺が掴むのは、アンタの髪色そっくりな純白の柄だ。

 

 引き抜いている暇は無い。引き裂いている暇も無い。

 

 だから折る。捻るように刀身へ圧力をかけ、数センチ程の根元を残して。

 

 パキリ、と。自分の意思で折った【閻魔刀(やまと)】に、ちょっと涙が出そうになる。

 

 軋り。

 

 呪力は無く、領域も解け始めた。片手は【閻魔刀(やまと)】に、もう片方は俺の腕にアンタは使っちゃったけど、俺の利き腕は自由。

 

 随分と軽くなったけれど、少しでも破邪の宿った鋼が、刃があるのなら充分。

 

「さようなら」

 

 振りかぶった数センチの折れ刃。吸い込まれるのは願って止まなかったコイツの首。

 

 終わった。勝った。俺の勝ち……

 

 バキン。耳の奥で何か、割れてはいけないモノが割れた。

 

 ガクン、と。唐突に予兆もなく視界が下がる。目標が遠くなる。

 

 全身の力が抜け、手から【閻魔刀(やまと)】が滑り落ちる。

 

 どうして、なんで。

 

 そんな疑問が起こる前に、本能的に分かった。肉体の限界が来たのだ。よりにもよって、このタイミングで。

 

 信じられなかった。コイツは天までも味方にするのかと。巫山戯るなと。

 

 変わりに迫ってくるのは刃だ。変な刃。

 

 平べったくて異質な、大小の長さの違う二つの刃先を持った変なやつ。

 

 不思議と世界がゆっくりだ。【六眼】先生だって何も言わない。

 

 なんとなく、本当になんとなく。終わるんだな……と思った。

 

 俺の願いも、努力も、年月も。培ってきた全てを持ってさえ、勝てなかった。負けた、負けたのだ。

 

 ───ほんとうに? ───

 

 (りん)と。古びた鈴の音。

 

 だって見てみろ。俺は体の糸が切れたけれど、アイツにはまだ繋がっている。少なくとも、アレを俺へ突き立てる元気はある。

 

 ───本当に諦めるのか───

 

 組子障子で囲われた部屋。腰を落ち着けている地には畳の変わりに虚ろな万華鏡が回っている。

 

 とくり。意識の奥底で何かが跳ねる。

 

 ───本当に負けるのか───

 

 寄りかかっていた繊細な模様の組子が消え、肩から人の温もりがじんわりと伝わる。

 

 とくり。心の深い場所で何かが育つ。

 

 ───本当に俺は、負けを認めるのか───

 

 身を寄せ合う誰かと、自分の手首に繋がれた鎖がカシャンと耳障りな音を立てた。

 

 そしてドクンと。意識の底、心の深い場所。魂と呼ばれるモノから激流のような想いが溢れ出る。

 

「いいわけが……、いいわけがないだろ……ッ!」

 

 俺と同じ声。鏡合わせのような体勢でいる誰かは、ひどく底意地が悪いらしい。あの銀髪野郎を沸騰させるかのようで苛立ちが募る。

 

「俺が負ければ、以前の俺()の願いも、記憶も、掴みたかった未来も、夢にまで見た母の笑顔はどうなる!?」

 

 ポロ、ぽろぽろと滑り落ちた涙は頬を通り、重ね合わされた二つの手を濡らす。

 

「こんなところで終われるか。終わりたくない。俺はまだ、何も出来てないんだ。何も掴めていないんだ」

 

 カタン。カタン。誰かが組子を開けている。誰かが障子を閉めている。

 

「でもさ、どうしようもないんだ。やれることは全部やった。そりゃあ、かあさんは出さなかったけど、以前の俺()が大切に思っていた人を道具みたいに使うのは嫌だろ」

 

 カタン。カタン。足元の虚ろがカラカラと回る。

 

「悔しい……、悔しい悔しい! 最後までもたなかった俺の体が、届かなかった刃が悔しくて堪らない」

 

 カタン。カタン。四方八方に鎮座していた組子が鳴る。

 

「出来るものなら勝ちたい。負けたくない。俺の呪力も、瞳も、才能も、あげられるものならなんだってやるよ」

 

 カタン。カタン。カラカラ。柔らかな髪が耳を擽った。

 

「だからどうか、あと一歩だけ頑張れる力を。俺に寄越せ」

 

 フッと、聞き覚えのある笑い方で、隣人()が笑った気がした。

 

 ───言うのがおっせぇよ。だが、確かに聞き届けたぞ───

 ───これは誓約だ。俺とお前との間に結ぶ約束───

 

 ───力の代償。その半分は俺がなんとかしてやる───

 

 ───だからどうか───

 

 これは自分自身との誓約。以前の俺(■■巡)と今の俺が交わした、一生涯の誓いだ。

 

 鈴の音は聞こえない。空回る瞳も、閉じ込めていた組子も底意地の悪い隣人も居ない

 

 見えるのは求めて止まなかった怨敵。()の勝たなければならない、約束の相手だ。

 

 パシッと。零れた【閻魔刀(やまと)】を握り直し、驚きに美しい空色を丸める自分と同じ顔の男(・・・・・・・・)へニヤァと笑ってやる。

 

───かあさんを助けて───

 

 

「死ね、クソ親父」

 

 

 パキリと罅の入った万華鏡に映ったのは、どちらの赤い花だっただろうか。

 

 

 

 



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とある子どもがうまれた日

 

 (めぐる)は幸せな子であった。

 

 あったかくてお日様の香りがして、青空の下が似合う大好きなかあさんと。

 強くて大きくて、いつだってかあさんと俺を守ってくれる、カッコよくて大好きな■■■■。

 

 ■■■■とお揃いの色は好きだったけれど、他の子たちが変な色だと言われるのが少し嫌だった。

 だけどかあさんが好きだと撫でてくれて、■■■■がお揃いだと言ってくれるから、俺はやっぱりこの色が好きだった。

 

 そんな幸せな日々が壊れた瞬間を、俺は今でも覚えている。

 

 最初は■■■■の仕事が忙しくなって、あまり家に帰って来れなくなった。

 優しい大きな手に頭を撫でられる事も減った。

 

 お揃いの色だよと嬉しそうに笑った■■■■のいないご飯をかあさんと食べて、いつも俺を挟んでかあさんごと抱きしめてくれた腕の無いベットでかあさんと寝る。

 

 そんな毎日を繰り返していたら、いつの間にか■■■■の温もりを忘れた。

 ぱったりと。帰ってこなくなったのだ。

 

 悲しそうな顔のかあさんがイヤで、俺は■■■■の言葉をマネるようになった。

 まだまだ拙くて声変わりもしていなかったけれど、■■■■と同じ色の俺がやれば、そっくりねと笑ってくれた。

 

 まだかな。まだかな、と指折りに■■■■の帰ってくる日を数えながら、子どもの頭でかあさんを喜ばせられる事を考えた。

 

 かあさんは■■■■が大好きだった。■■■■もかあさんが大好きだった。俺もそんな二人が、大好きで仕方なかった。

 

 その日は雨も風もなく、ただ空はとても曇っていた気がする。

 

 ピンポンと。玄関の呼び出し鈴が鳴った。

 

 ■■■■はカッコよかったけど変な人だったから、時々ピンポンを押してかあさんに出迎えて貰うのが好きだった。

 

 かあさんがかあさんになる前を、■■■■は思い出すらしかった。

 

 あの日もそうだと思った。俺の家の呼び鈴なんて■■■■以外鳴らす人なんていなかったから、やっとまた三人でご飯を食べて寝て、おはようを言えるのだと思ったのだ。

 

 少しそわそわとしたかあさんが玄関に向かったけれど、俺は行かなかった。

 

 ■■■■は寂しがり屋さんだから、俺がかあさんと一緒に出迎えてくれないと、(めぐる)ー! と叫んで抱き着いて来てくれた。

 

 ずっと帰って来なかった■■■■。かあさんは寂しそうにしてたし、俺も少し、寂しかった。

 

 だから意地悪をしてやろうと思って、こっそりと玄関の見える廊下から覗いていた。

 

 やってきたのは背の高い、黒くツンツンとした髪の男の人だった。

 ひどく悔しそうな顔で、黒色のツンツンが何事か呟き、大きく頭を下げた。

 

 ポタポタといつもかあさんが綺麗に掃除していた床に水を落としながら、黒色のツンツンは頭を上げなかった。

 

 数秒もしない内に、今度はかあさんが崩れ落ちた。へなへなと、そんな……うそよ……と繰り返しながら顔を手で覆ったかあさんの姿を、俺は忘れたことはない。

 

 幼心になんとなく、大好きだった■■■■の手が、俺の頭を撫でてくれてることは無いのだろうと思った。

 

 それが俺の、■■(めぐる)の地獄の始まりだった。

 

 黒色のツンツンが帰ってすぐ、また黒色の人が来た。

 

 そいつ等は無遠慮に泣き叫ぶかあさんを掴み、動けないでいた俺を見て驚いた顔をした後、口が裂けるほどにわらった。

 

 気持ちが悪かった。おぞましかった。恐ろしかった。

 

 抵抗するかあさんと一緒に連れていかれたのは大きくて立派な、日本屋敷だった。

 

 屋敷にいた人達はみんな俺を見て驚いた顔をした後、口が三日月に裂けるのだ。

 そして暴れるかあさんを見て、使えるぞと。【りくがん】と【むかげん】の抱き合わせを孕んだ女だ、と。男たちはかあさんを舐め回すように見た。

 

【りくがん】も【むかげん】も何一つ分からなかったけれど、かあさんが酷い目にあってしまうのではないかと。

 怖くなった俺は、どこの誰とも知らない人達に必死で懇願した。

 

 かあさんを虐めないで。かあさんに酷いことをしないで。俺に出来る事はなんでもするから、かあさんと一緒にいさせてくれ、と。

 

 ならば約束をしましょうと。あなたのお母様を虐めない。酷いことをしない。一緒にいさせてあげる代わりに、あなたは私たちの言うことを良く聞き、一生懸命頑張るのですよ。と。

 

 俺はそれに飛びついた。指切りをして、約束した。約束してしまった。

 

 

 

 かあさんと一緒に押し込められたのは、組子と呼ばれる綺麗な模様の嵌められた障子部屋だった。

 

 その一角には布団が敷かれ、かあさんはそこへ転がされた。

 疲れたからもう寝るのだと思い、俺も一緒に布団へ潜り込もうとした。

 

 だけれど、かあさんの置かれた布団へ入ったのは知らない男だった。

 

 俺は俺を連れてきた男に引っ張られ、かあさんの見える離れた所へ連れて行かれた。

 

 それからの日々を、俺は良く覚えていない。

 

 甲高い悲鳴と喘ぎ声。啜り泣くかあさんと、耳に濡れたぐちゅぐちゅとした汚い音。

 

 孕め。りくがん。むかげん。そうでんじゅつしき。神の子を。抱き合わせの子を。お前の息子のような、

 

 最強(五条悟)の子を。

 

 一日のほとんど。朝と夜の睡眠時間を除いた全ての時間を、俺はかあさんの悲鳴と下卑た大人の声を聞きながら、あの組子部屋で過ごした。

 

 お勉強・お稽古と称される拷問みたいな訓練。終わった後に駆け込んだかあさんはいつも、変な臭いと、気持ちの悪い液体に塗れていた。

 日に日に痩せ細っていき、あれだけ暖かった手もすっかりなりを潜めて。

 

 だけれど俺を抱きしめる優しい腕と、■■■■そっくりね、と微笑んでくれる心は変わらなかった。

 

 俺は知っている。かあさんは毎日、俺が眠った後ふわふわとした俺の髪を撫でながら、さとるさん……と呟いて泣くのだ。

 

 俺は少しだけ、自分の色が嫌いになった。かあさんが微笑んでくれる色だけれど、かあさんを泣かせる色だからだ。

 

 かあかんが泣いている、約束が違うと。俺と指切りをした人に詰め寄った事もある。

 

 そいつはこう言った。アレは虐めているのでは無いのです、愛を育んでいるのですよ、と。

 

 日に日に衰えていくかあさんの体。俺の前から消え入りそうなかあさんの存在。

 

 俺がかあさんを逃がそうと考えるのは、時間の問題であった。

 

 俺の身に備わっている■■■■譲りの【りくがん】と【むかげん】。その訓練中に、部屋を全壊させた。

 

 俺は良い子にすると約束してしまったから、この部屋からは出られない。

 だからかあさんだけでも、この部屋から外へ出すのだ。

 

 かあさん。行って。俺はここで頑張るから、かあさんは逃げて、と。

 

 かあさんは驚いた顔をした後、俺を抱きしめて逃げた。

 

 いや、逃げてくれれば良かった。

 

 あなたを置いて、かあさんだけ逃げられないわ。あなたは私と■■■■の、大切な大切な宝物だもの。

 

 かあさんと俺が捕まったのは、■■■■のせい。

 

 かあさんが逃げられないのは、俺のせい。

 

 俺という存在が、かあさんの足枷になっていたと知った瞬間だった。

 

 そんな日々が続いた、とある日の朝。

 

 かあさんが死んだ。

 

 本当に呆気なく。夜に抱きしめてくれた少しひんやりとした腕は、朝には冷たく。

 

 優しく紡いでくれた俺の名前は、朝には呼ばれることもなく。

 

 プツリと。糸が切れた人形のように、かあさんは死んだ。

 

 かあさんが死んだ。死んでしまった。こんなところに居たから。こんな場所に来てしまったから。この場所から逃げられなかったから。

 

 その事実が受け入れられなくて、みっともなく冷たくなったかあさんに縋りついた。

 

 まって。いかないで。俺をひとりにしないで。俺をのこしていかないで。俺をもう一度、

 

 抱きしめて。

 

 俺の尋常じゃない叫び声が聞こえたのか、息を切らせながら組子障子を開けたのはいつか見た黒いツンツンだった。

 

 俺を見て、事切れたかあさんを見て、黒いツンツンは顔をこれ以上ないほどに歪めた。

 

 その日を境に、俺はあの部屋を出た。

 

 自分の洋服でかあさんを包み、俺と一緒に抱き上げた黒いツンツンと一緒に、俺はあの地獄を出たのだ。

 

 ■■■■が帰ってこなくなってから、半年後のことだった。

 

 俺が次に身を寄せたのは、学校と呼ばれるお寺みたいな場所だった。

 そこで俺は人生の大半を過ごした。

 

 黒いツンツンが後見人となって、ジッと己の影ばかり見つめている俺に、色々な事を教えてくれた。

 

 ■■■■のこと。■■■■が居た世界のこと。■■■■が何故、帰ってこられなくなったのか。

 

 最後の別れだからと気を利かせ、冷たくなったかあさんと二人きりにされた部屋で、俺はひとり笑った。

 

 とてもシンプルで、簡単なことだった。

 

 かあさんが苦しんだのは、■■■■が死んだから。

 

 かあさんが死んだのは、■■■■と出会ったから。

 

 かあさんが汚されたのは、俺を産んだから。

 

 かあさんが逃げられなかったのは、俺がいたから。

 

 かあさんは■■■■と出会わなければ生きていた。俺がいなければ、生きていた。

 

 

 たったそれだけの、ことだった。

 

 

 



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[完]

 

 高専の保健室には、眠り姫がいるらしい。

 

 誰が言い始めたのかも分からず、噂の出処も定かではないコレが出回り始めたのは、丁度三日前くらいだっただろうか。

 

「失礼します」

 

 ノックした声掛けに返事が返されたのを聞き、呪術高専東京校の一年生。伏黒恵(ふしぐろめぐみ)は保健室のドアを開けた。

 

 中にいたのはお馴染みの女医である、家入(いえいり)先生。

 

 そしてその背後には、いつの間にか真っ白いカーテンの引かれていた怪我人用のベッドがある。

 

「なに? 今日はどうしたの」

「真希先輩との打ち合いで足が滑って、直撃を貰った腕が折れました」

 

 ぷら〜んと力なく動く片腕を指すと、家入は呆れたようにため息をついた。

 そして座って、と伏黒に空いていたイスを進めると、煙草に火を着けながら折れた腕を確かめる。

 

「あー、ほんとだ。折れてる。でも綺麗に折れてるね、これなら直ぐにくっつくよ。負担が少なくて良いね」

 

 そう嬉しさを微塵とも感じさせない声音で話す家入に相槌を返しながらも、伏黒の目は遮断された奥のカーテンに釘付けだ。

 

 あまり口数が多い方ではない伏黒だったが、人の話はちゃんと聞くし、合間合間に反応を見せる子だ。

 

 どこぞの最強を相手にするような相槌を不信に思ったのか、家入が治療の終わった腕から伏黒の視線の先。自分の背後にあるカーテンへ目を向ける。

 

「……気になる?」

「えぇ、まぁ」

「意外、貴方でも出回る噂は気になるんだね」

「そういうわけじゃないですけど、一週間前に来た時はカーテン。引かれてなかったよなって」

「東堂君にボコられた時?」

「ボコられてません」

 

 聞き捨てならない一言に伏黒が噛み付くも、当の本人はぷかぷかと煙をくゆらせ、気になる? とニコチンの燃える口火をカーテンの向こうへ向けた。

 

 コクリ、と伏黒の喉が鳴る。

 

 気になるか気にならないかで言えば、気になる。噂の存在もあるが、何故か伏黒の目を惹き付けてやまないのだ。

 

 言えば先生は、あの無粋にもベッドを遮るクロスを引いてくれるのだろうか。

 

「…………気に……」

「お疲れサンマー!!!」

 

 パァンッ! と。気配も予兆も無く、背後の扉が凄まじいテンションで開け放たれた。

 

 誰に? そんな事は決まっている。

 

「あれ? 恵どったの」

「……五条先生」

 

 呪術界最強と名高い男。恵の所属する呪術高専東京校一年生担任、五条悟にだ。

 

 不審者丸出しの黒い目隠しに、長袖長ズボンの全身の真っ黒スタイル。間違いなく伏黒の担任教師だ。

 

 だが何故ここに? と伏黒の頭に疑問が浮かぶ。

 

 ここは保健室だ。怪我を負った生徒や職員、体調の悪くなった者が訪れる治療の場。

 術式の関係上、基本的に無傷がデフォルトな五条が来るには、あまりにも不釣り合いに見える。

 

 五条先生、どうしてここに? と伏黒の口が動く直前。今気がついた! と言わんばかりにポンッと軽く手を打った五条が口を開く。

 

「そういえば今さっき、野薔薇が恵の事を探してたよ。頼んだジュースがうんぬんって怒ってたけど」

「あ」

 

 しまった、と伏黒が思った瞬間、折りよく遠くから釘崎の「伏黒ォ──!!」という雄叫びが聞こえた。

 

 伏黒が保健室に行く前、釘崎は先輩のパンダと狗巻にフライアウェイされており、目敏く訓練を抜ける伏黒を見つけた釘崎はついでに自販機に寄ってジュースをよろしく。と力の入った顔でメッセージを押し付け、景気よく空を舞っていた。

 

 ポケットからスマホを取り出して見れば、いつの間にか十分を経過している。

 

 パシッたまま帰ってこない伏黒に痺れを切らせ、本人が怒り心頭で徘徊し始めてもおかしくない時間だ。

 

 ヤバい。

 

「すいません、俺はここで失礼します。治療、ありがとうございました」

「え、恵怪我したの? ウケる」

 

 余計な一言を付け加える担任へ熟練したスルーを決め込み、伏黒は早足で開きっぱなしのドアを潜った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 じゃあ私は一服してくる。

 

 短くなった煙草を咥え、白衣のポケットに健康阻害商品の詰まった真新しいケースを突っ込みながら、十年来の同期はフラリと五条へ背を向けた。

 

 可愛い教え子を唆そうとした姿にイラッとするが、五条自身もそろそろ隠し通すのは限界だとも感じている事に違いはない。

 

 まだ治りきってないどころか、張り切って運動した瞬間にも開きそうな傷をそこかしこに抱え、五条は分厚く引かれたカーテンをそっと動かす。

 

 真っ白なヴェールが取り払われた先にいたのは、これまた真っ白な少年。

 

 透けるような白銀の髪に、けぶる淡雪のまつ毛。

 白い頬に色は無く、小さく上下している胸と小さな唇だけが、目の前の子どもの生命を示している。

 

 触れたのは唇。僅かだが息がかかる。

 

 次は胸元。かけられた毛布からトクリ、トクリと鼓動が手のひらを伝う。

 

「まだ起きないの、君。もう三日だよ」

 

 反応は無い。

 

「君の言うクソ親父……まあ、僕なんだけど。この通り仕留め損なってピンピンしてる。あれだけの大口叩いてコレって悔しくないの」

 

 やはり冬景色のような真っ白な子に、反応は無い。散々死ねだの殺すだのお行儀の悪いスラングを吐いていた口は呼吸を繰り返すだけで、五条と似ているようで異なる空色の万華鏡も閉じられたままだ。

 

 しばらくジッと見つめ、今日も目の前の子に変化が無い事を確認。

 

 収穫無しか、詰まんないの。と一人呟き、カーテンを戻そうとした五条だが、気まぐれに。本当にただの気まぐれに、長い手をある部位へ伸ばす。

 

 伸ばしたのは髪の毛。顔も瞳も色も、どこもかしこも五条そっくりな子が持つ、些細な違い。

 

 ふわふわとした、綿毛のような銀糸を指で梳き、小さな形の良い丸い頭をくしゃりと撫でる。

 

 だからなんだ、という話だ。大人しい子どもの姿が珍しくて。自分の同じ色彩の人間が珍しくて、興味本位に手を伸ばしただけ。

 

 なにが変わるわけでもない。変わるわけでは……

 

「……なぃわけが……ないだろ…………」

 

 掠れに掠れた、とても青い春を駆け抜ける若人とは思えないしわがれた声。

 

 ゆっくりと淡雪が解け、きらきらと輝く空色の瞳が顔を出す。

 

「……悔しくないわけが、ないだろ…………」

 

 ぼんやりと。けれど段々とはっきりとした光が美しい万華鏡に宿り、阿呆面晒した五条が映る。

 

 ハッ……と。無意識に零れた空気により、いつの間にか息を止めていたことに気がつく。

 

 ゆっくりと空色の瞳が動き、自分と同じ色彩

 の男を映したところでぴたりと止まった。

 

「俺は……、諦めませんよ。貴方を殺すことを、諦めません……」

「……僕に負けたのに?」

「負けても、です」

 

 乾いた唇が紡いだのは、五条悟へ向けた殺害予告。

 

 ぶれねぇなコイツ、かわいくない、と。洒落にならない怪我を現在抱えている最強は、自分の口が引き攣るのを感じた。

 

「貴方を殺します。いつか必ず、俺とかあさんの未来(・・)に繋がる貴方を」

 

 殺します。

 

「…………なにそれ、君には無理だよ」

 

 だって僕、最強だから。

 

 そう続く言葉は、あまりにも強く刺さる薄暗い万華鏡の眼光と、苦しげに吐き出された子どもの声によってしゅわりと消えた。

 

「最強だと、強いのだと。誰もが認める力を持っていたなら何故、帰ってきてくれなかったの……」

 

 パタリ。赤味の乗らない眦に一つ、透明な雫が湧き出る。

 

「どうして、かあさんを助けてくれなかったの」

 

 パタリ。すっかり目の前の子の体温を奪ってしまったシーツに、小さな染みが浮かび上がる。

 

「どうして、負けたんだよ…………とうさん」

 

 パタリ。震える小さな声。

 

 小さく、力なく投げかけられた子どもの言葉に、五条が返せるものは決まっている。

 

「知らないよ、そんなこと。だって僕、君の知ってるとうさんじゃないし」

 

 そう、知るわけが無い。この子があれだけ向けた憎しみも、激情も、求めた温もりも。それは全て、目の前にいる五条悟(自分)では無く、彼と過ごした五条悟(最強)へ向けたものだ。

 

 ここにいる五条悟が知ることではない。

 

 だけど、と。やはり自分そっくりな阿呆面を披露する息子へ、五条は意地悪く笑ってやる。

 

「理由が知りたいなら、直接君の目で確かめればいいんじゃない? ちょうど呪術界は万年人手不足だし、戦力になる呪術師を遊ばせておく余裕なんて無いわけ」

 

 片側に罅の入った万華鏡。もう片方には傷一つ無いお揃いの瞳。

 

 映っているのは勿論、目の前にいる五条悟。

 

「はじめまして、いつかの僕が辿る彼方先から来た君。僕の名前は五条悟。自他共に認める最強で、ひと月くらい前に物騒な息子が出来たグッドルッキングガイ」

 

 君の名前は、なんていうの? 

 

「おれ、の……おれの名前は────」

 

 

 

 

 

 

 

────────────────

 

 

 

 

 

 

 コツコツと。今朝押し付けられた慣れない服を見に纏い、軽くなった肩に少しの寂しさが……。うそ、嘘です。かなりの寂しが絶賛進行形で募ってます。

 

 開け放たれたステレオタイプの窓からは温い風が入り込み、周囲に自生している植物たちからは虫の声が飛んで来る。

 

 ぱたぱたと風に持っていかれる銀糸を耳へかけ、にわかに騒がしくなった教室へ向けて足を進める。

 

 じんわりと汗の滲む廊下の壁に背を預けしばらく待つと、入っていーよー、という軽い言葉。

 

 指示通りに木製の扉を引けば、刺さるのは三対六個の視線。

 

 俺の容姿を見て、底意地の悪いにやけ顔をしている担任との間を行ったり来たりする三者三様の顔。

 だけれど皆、貼り付けている感情は同じものなのだから笑ってしまう。

 

 

 まあ、そらそうだよなあ……と。内心苦笑いを零し、俺はそっと口を開いた。

 

 

 

 

「はじめまして。五条巡(ごじょうめぐる)と言います」

 

 

 

 

 

 

 チキチキ! 息子君の幸せ家族計画 ──完──




pixivの方に載せていた本編分を載せ終わって思いました。ハーメルン、使い方マジでわかんねぇな、と。これがチベットスナギツネ……oh......。


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チキチキ!五条悟のしあわせ家族計画


一年が明けてしまいました……。明けて……しまった……。

寒さが深まる季節となりましたが、皆様体調の方はいかがでしょうか。鯨です。

コメント、お気に入り登録、そして評価を下さった方々、ありがとうございました。コメントでも支部から追ってきて下さっていた方、また逆にハーメルンから支部の方に顔を出して下さった方もいたようで頭が下がるばかりでございます。
いくつか番外編も楽しみに待っています、と言って下さった方々がいらっしゃったので、番外編は折を見て入れたいと思います。

長々と失礼しました。それではチキチキ!しあわせ家族計画の二部、「五条悟のしあわせ家族計画」。少しでも楽しんでいただければ幸いです。



 ───言うのがおっせぇよ。だが、確かに聞き届けたぞ───

 

 耳の奥底に残る、瓜二つな若い声。

 

 ───これは誓約だ。俺とお前との間に結ぶ約束───

 

 カタカタと、どこからともなく響く組子。宇宙の瞳(五条悟)とは異なる、虚ろな万華鏡が回る足元。

 

 ───力の代償。その半分は俺がなんとかしてやる───

 

 繋がっていた腕の鎖。鏡合わせのように寄せあった温もり。もう一人を鮮明に感じた耳に落ちる吐息。

 

 ───だからどうか───

 

 かあさんを助けて、と。

 

 人の神経を逆撫でするような口調も底意地の悪さも、全てかなぐり捨てた幼い声。

 

 アレは。俺の領域に酷似した場所にいた鏡合わせの隣人は、やはり以前の俺(■■巡)だったのだろうか。

 

 目が覚めたら記憶が無かった。あったのは古ぼけた日記と【六眼】先生、そして【閻魔刀(やまと)】と影で眠っているかあさん。

 

 起きた場所が世紀末も真っ青な廃墟ど真ん中。呪霊が我が物顔で闊歩していたし、てっきり何かの事故や不測の事態があって記憶がすっ飛んだものだとばかり思っていた。

 

 ア”ア”────ッ! と。外から聞こえる女の子らしき絶叫。新緑の生い茂る季節に突入した空気はまだカラリと乾いており、窓から入り込むそよ風は好き勝手に銀糸を弄んでいく。

 

 触れる髪束の感触はあるものの見えない右側。はたはたと触れる感覚が鬱陶しくて、どうせすぐに解けると分かっているも、攫われた銀を耳にかけずにはいられない。

 

 記憶喪失。そう、記憶喪失であると思っていた。思っていたんだが。

 

 指を走らせればブラシのような睫毛と、中身の入った眼球の感触が返ってくる。

 

 色を失くした眼球。機能停止となった【六眼】。

 

 力の代償。その半分。

 

 繋がっていた鎖に、温かみを感じた人肌。

 

 狭まった世界で見る布団は白く、サラリとした白色は洗剤の匂いがする。

 

 もしかしたら、と。ぼんやりと頭の片隅にあった予感が、鎌首をもたげる。

 

 ずっとその考え自体が。いや、「記憶喪失」という前提条件から間違っていたのかもしれない。なぜなら領域は心のテリトリー。己の我儘を押し通す絶対の支配領域。閉じ込める目的で開かない限り、閉じた心の中にいるのは自分一人であるはずの場所。

 

 なら、そんな場所(心の中)に居たあの隣人は。代償と共に約束を結んだ、同じ色彩の彼が以前の俺(■■巡)だったとするなら。

 

 

 ひそりと病院着から覗く手首。とくとく鳴る心臓部のさらに奥まった秘密箱に手を置き、感じるはずもないもう一人の熱を探す。

 

 今の俺は、記憶の無い俺だ。この身を形作った時間を知らず、この身に猛り狂う父への憎悪も母への愛も、ひどく断片的な存在。

 

 以前の俺は、記憶を有した俺(■■巡)だ。巡という存在の原点を知り、狂おしいほどの父への憎悪と母の幸福を生きる目的とし、あらゆるものを捨てた(・・・)存在。

 

 体を苛む渇望は同じもの。命を使い潰す目的も同じもの。魂と呼ぶもの、心臓の奥深くから溢れる夢想も同じもの。けれど……。

 

 カタリカタリ。虚ろな万華鏡と組子障子。領域に似た心の部屋に居た、鏡合わせの彼が頭を離れない。

 

 今の俺と以前の俺(■■巡)。現実に足をついている表と、心に沈む裏。それらを根本を同じくした枝木と仮定し、別個の人間(・・・・・)として考えたならば。

 

 失った記憶の中にいる俺は。巡の原点である以前の俺(■■巡)はまだ、

 

「……生きている?」

「なに当たり前のこと言ってんの」

 

 無意識に零れた独り言。誰もいないと安心していた空間から入った呆れ声に、ドッ! と心臓が飛び出る。

 

 清潔さを表した真っ白いシーツから目を離し、ゆっくりと鈍くなった首を横へ。

 

 バクバクと鳴りやまない心臓のポンプ。秒間でものすごい拍動数を叩き出している生命機関など知ったことか、と言わんばかりに、今日も俺の表情筋はパーフェクトサボタージュである。

 

「やっ!」

 

 真っ白な銀色の癖毛に同色の長い睫毛。きらきらと光を取り込んで輝く空色の万華鏡。

 自分そっくりな幼いベビーフェイスだが、その(かんばせ)を彩る表情の豊かさは正反対。

 

 にんまりと口角を上げ、軽く片手を挙げたのは他でもない。

 

 呪術界最強を冠する男。【無下限】と【六眼】の抱き合わせである奇跡の天才。

 

 俺が殺したくてやまずも殺せず、膝を着いた規格外の怪物。

 

 五条悟。他でもない、巡の。俺のたった一人の───父親だ。

 

「なあに? 自分が生きてることが信じらんないの?」

 

 立てかけられていたパイプ椅子を無造作に掴み、ガタガタとベッド脇に置いたソレ。長い足を組み、腰かけた姿の様になること。似合いすぎて腹が立つ。

 

「……ノックくらいできないんですか」

「ノック? なにそれ。僕ノックとか生まれてこの方、やったことない」

 

 デリカシー皆無かよクソ。帰れ土に。

 

「それに此処、僕個人の休憩室だし。自分の部屋に入る時ノックとかしなくない?」

 

 ぐうの音も出ない正論。存在自体が理不尽の塊のくせして良く言う。

 

 優に三人は座れそうな大きなソファ。正面には最新の薄型テレビに、おざなりに置いてある収納ボックスには溢れそうなお菓子の山々。

 

 そんな中にポツンと。上階にある個室部屋に設置された見晴らしの良い窓辺。そこにピッタリと引っ付けるよう置かれた白色のベッドが、あれからお世話になっている場所だ。

 

 最初はコイツの務める学校、その保健室にあるベッドの上で目を覚ました。

 

 何やら夢現(ゆめうつつ)の中、子ども丸出しの癇癪っぽい事を口走った気もするが、何日も寝ていた人間からすると些細な事である。発掘した記憶の欠片の方が衝撃的すぎて気にする余裕なんざ無かった。

 

 死んだと思ったら生きているし、当たり前のように享受していた世界は半分になってるし。体は全身力が入らず動かない。呪力すらも底が見える程度の量しか回復していない。

 知らない天井に知らない場所。かあさんは変わらずいたけど、頼みの綱であった【閻魔刀(やまと)】も無い。

 

 極めつけはシャッと。なんの躊躇いも無く開けられたカーテン。

 

 出て来たのは白衣を着た知らない女性。しかも堂々と火の着いたニコチンを片手にくゆらせ、カーテンを下げた手にはチューブに繋がった細長い針。

 

 俺が目を覚ますと思っていなかったのだろう。驚きに目を見開く女性。やるなら今しかねえ! と訴える本能に従い、数秒見つめ合った後になけなしの呪力を集めて術式へ。

 

 白衣の人へは当てず、見慣れない部屋を壊すつもりで作った【蒼】。

 

 眠る前とは違う感覚。息をするように制御出来ていた呪力のコントロールが、意識しなければ無駄と表すほか無いブレが出るソレに違和感を覚えつつ、撃ち出した【蒼】は全く同じ。より高出力の収束する無限によって跡形もなく潰された。

 

 まあ、案の定というか。いたのは気を失う直前まで見ていた瓜二つの空色……ではなく、真っ黒な服に黒い目隠しバンド。感じる呪力も知覚した術式も間違いなくアイツそのものであるのに、肉眼が捉えたのはどこをどう見ても。上下左右三百六十度回転させてもなお、静かに110番をかけたくなる自販機越えの不審者。

 

 その時の気持ちは各々、推し量っていただきたい。更にこの後ひと悶着あったのだが、思い出すだけでもうんざりするので割愛する。

 

 最終的にどうなったのかだけ伝えるならば、再度呪力がスッカラカンとなり、何故か力の入らなかった全身のせいで一人で立つことすらもままならなかった俺。散々煽り散らした不審者におぶられて部屋を移動したとだけ言っておく。

 

 屈辱だった。

 

「調子は?」

 

 選択肢

 ・最悪

 ・見て分からないんですか

▷・……

 

 ぬおおおお! なんだこの三択ッ! 

 

 最近見ていなかった選択肢に思わず唸り声が出る。

 

 圧倒的に選びたいのは一番下の無言だ。目覚めた当初よりかは心の整理が着いたとは言え、そう簡単にハイそうですかと負けを認め、生殺与奪権の握られたこの状況を受け入れられるほど人間出来ていない。正直あと半年くらいはそっとして欲しいレベル。

 

 だがこれまた人間というのは複雑なもので、いくらムカつく人物であるとは言え、わざわざ時間を割いてまで様子を見にきてくれた人。……形式的に当て嵌めると、世間一般では父親と呼ばれる人物を無碍にするのも心が痛む気がしないでもない。

 

 悩んだ末、ここは俺が大人な対応をするに限ると見た。きっと微睡みの中にいるかあさんも褒めてくれるだろう。

 

 選択肢

 ・最悪

▷・見て分からないんですか

 ・……

 

「見て分からないんですか」

 

 最近死ねとか殺すばかり言っていた口でこんな事を言うのは、ちょっと言いようもない気恥しさがあるような気がしないでも……

 

「え? 分かってて聞いたけど? だって今の君、目を離したらすぐに死んじゃいそうじゃん」

 

 アレだよね。雪で作った兎みたいに! 

 

 あっけらかんと告げられた言葉に、ピクリと指が跳ねる。

 

 ………………ほぉん? 

 

 呪力を生成。形状は剣。厚みは薄く、速度重視の二本(・・)

 

「シネ」

 

 電子音に似た無機質な音。着弾先は「僕てんさ~い!」と自己陶酔に浸っている顔面ど真ん中。

 

 剃刀よりも薄い飛来する一つの剣はしかし。

 

 パシッと。おもむろに伸ばされた二本の指によって簡単に摘ままれ、込めた力そのままに砕かれる。

 

 砕けた傍から消えるソレを物珍しそうに眺めた後、作るのは人を小馬鹿にした様な顔だ。完全に人を煽るために象ったようなニヤケ顔である。何時まで続くのか見物だ。

 

「えぇ~、本当に具合悪いの~? 僕がぎゅってしてあげ……」

 

 サクッ、と。

 

 不自然に高い猫なで声が途切れ、真っ白な頭頂部にジャストミートしたのは先程砕けた剣よりも薄い、もう一本の呪力の剣。

 

 額からじわじわと流れる血液。小馬鹿にした様な顔とは一転し、目の前の最強は世にも珍しい真顔だ。

 変わらずセンスを疑う真っ黒ジャージを纏った腕が頭上へ伸ばされ、誰にも抜けない伝説の聖剣となっている呪力を引き抜く。

 

 プシュリと抜かれた幻影の聖剣。タラタラと伝う赤色。

 

 馬鹿が(大歓喜)。

 

 内心小躍りしてしまいそうな喜びを抑え、伏せた偏光の瞳を持ち上げる。

 

 見つめるのは勿論、表情の抜け落ちた五条悟(バカ)である。

 

「似合っていましたよ。聖剣(呪力)の突き刺さった()

 

 流れ出る血液も拭わないまま、無言で剣身の透ける呪力の塊を握り潰す父親。

 

 再度言おう。馬鹿が(大歓喜)。呪力がみそっかす状態でも【歪曲の魔眼】と【千里眼】は問題なく機能する。右目が死んだとは言え、それは【六眼】と肉眼の機能が欠けただけだ。視界内に映した対象を右回転と左回転の螺旋により捻じ曲げる【歪曲の魔眼】は、【千里眼】さえ失わなければその効力を発揮し放題である。

 

 頭上に展開されている【無下限】のみに焦点を絞り、上へ飛ばした呪力の落下に合わせて【歪曲の魔眼】でターゲットした無限の層を曲げる。瞳の色さえ隠してしまえば、嘗めっ腐った態度の油断と隙のバーゲンセール開催中なヤツに剣を刺すくらい朝飯前だ。

 

 ぶっちゃけ右目どころか、両目を失くしても問題ない。視界に映す。見えていること(・・・・・・・)が重要なのだから。

 

 これまで必要だった発動の為のトリガーは省略済み。言葉という(まじな)いにより脳負担を軽減させていただけで、なしでも問題なく処理できる脳みそさえあれば口に出す必要は無い。

 

 最終決戦では終盤、この言葉(トリガー)を紡ぐ口元に反応されて回避されてたようだし。半月も体と呪力の回復を待ちながらぐーたらしていたわけではないのだよ。

 

 暫しの沈黙。白い肌を赤黒くイメチェンした銀色が深く息を吐き出し、ゆらりと血液にまみれた睫毛を震わす。

 

「……君、友達少ないでしょ」

 

 アンタにだけは言われたかねーよ。

 

 



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①・前

 

かっっっっっっっわいくねええええええええええええ!!! 

 

 ジンジンどころか、ズッキンズッキンと痛む頭から息子作のへなちょこ呪力で生成された青色の。ステンドガラスのような薄い剣身を引き抜き、額を生暖かい液体で濡らしながら握り潰す。

 

 脳までは届いていなかった傷に反転術式を施し、窓脇のベッドから気だるげに身を起こした銀色。一瞬目を覚ましたり、眠ったりを繰り返し、やっと現実に帰ってきた冬景色の子。

 唯一無二の、同じ世界を映す息子を見て、五条悟が抱いた心からの叫びがコレである。

 

 恩着せがましく言うつもりはないが、あっちこっち痛い死にかけた体で。同じく死にかけた名も知らぬ息子を誰が高専に運び入れ、深夜の匂いを色濃く残した早朝の保健室に寝かせたと思っているのか。

 

 夜勤明けだったらしい十年来の同級を血みどろの五体で叩き起こし、バレないよう学長やらその他諸々の人間達への根回し、治りの悪い傷口やらバレたら鉄拳コース直送の爆弾(息子)にどれだけ冷や汗を流しながらここまで漕ぎつけたと思って。

 しかも虫の息だったはずの当人の体は目を離した隙に綺麗さっぱり消えており、五条が眠る子の影に潜むアレの存在を思い出した時は後の祭り。あのまま水面に転がしておいても、直接家に連れ帰って放置してても、何も問題は無かったということだ。すごく痛い体を引きずってアレソレした五条が無駄な苦労をしただけである。もう本当クソ。

 

 ハア~~~~~、このクッソガキぃ~~~~~! と現実では米神を。内心では苛立ちに口をひくつかせる五条とは反対の、流氷のような冷えついた声。永久凍土の方がまだ柔らかいのでは、と思えるカチコチに固まった顔。

 

 まだ本調子と言うにはほど遠いコンディションだし。などと油断しきっていたが、それでも五条悟は間違いなく最強。経緯は誰が見てもくだらないものであったとはいえ、その最強に一発入れたのだ。解凍不可な表情を動かせ、とは言わない。だが欠けた瞳の中に喜色の色を見せるだとか、せめて鼻で笑うくらいはできるだろう。

 

 こじんまりとした白いベッド。保健室にあったそれそのままに運び込んだソレ。

 

 伏せた淡雪の中に隠した宝石が顔を上げ、スコンと表情をどこかに落としてきたかのような血濡れのイケメンが映る。

 

 やだ、僕ってば血も滴る美男じゃん。

 

 これは全世界が放っておかないなあ、と一人頷く。しかしそれはそれ。これはこれである。

 

 五条悟。やられっぱなしは性に合わない男。

 

「……君、友達少ないでしょ」

 

 などと言いつつ、パリとした乾いた赤が付着する指を伸ばす。

 

 人差し指と親指で摘まんで引っ張るのは勿論、負けても変わらない憎まれ口を叩く引き結ばれた口。ではなく、大福かと思うほど白く柔らかいほっぺだ。

 

 邪魔されてなるものか、と体に纏う無下限を最大にし、みょいんみょいんと良く伸びる頬を弄る。

 

 病院着に袖を通した骨ばった白い両手がギリギリと五条の手を掴むが、全然痛くも痒くもない。露出した肌に怒りの血管が浮き上がっていようが、五条の知ったことでは無い。

 意識が戻ってから少しして分かったことだが、どうやら息子は術式が使いたくても使えないらしい。そりゃそうだ。こんな味噌っカス呪力で術式が起動できるわけがない。

 

「これだけ生意気な口が叩けるって事は、それなりに調子は戻って来たんでしょ、お前」

「……」

 

 確かに聞こえているが無視。無言。意地でも五条を見ない六眼はいつもの事である。息子はコミュニケーション能力をいつかの。どこかの未来に置いてきてしまったらしい。

 

「あのねぇ、僕ってば、ちょー忙しくて超有能な呪術界のスーパーグッドルッキングガイなワケ。つまり予定は毎日立て込んでるし、明日には海外出張も控えてるのよ」

 

 まあ、その毎日飽きもせずに舞い込んでくる予定をきっちり熟すとは限らないけれど。

 

 みょんみょん伸ばす形から、ぷすぷすと。ねえ、分かってる? 僕のすごさ分かってる? という気持ちをふんだんに込めて、白い頬をツンツン。

 

 抵抗も今の調子では無駄だと悟ったのか、息子は最早テコでも動かない美しい彫刻状態だ。

 

 せめてもの意地か、首のいっぺんすら揺らさない所が更にかわいくない。

 

「そろそろ巡、お前の事を学長サマに隠し通すのも限界に近いし、変な横槍が入る前に、こっちでの立場とか所属とかを明確にしておきたいの。僕的にはね」

 

 ねー、分かってる~? とぷすぷす、ではなく、グリグリと白い肌に大人の指を押し付ける五条。

 

 ねーねー。ねぇってばー。

 

 暫くそうしていればハアとため息がひとつ。長いまつ毛を伏せ、鬱陶しいと雄弁に物語る氷点下の空色が同じ銀色と空を映した。

 

 毛布の上に揃えられていた手が持ち上がり、衣擦れの音と共に半ば削岩機となっていた白く大きな手を上から下へ。五条からするとまだまだ細い、剣だこのある子どもの手がしつこいと、そう言わんばかりに五条の手を叩き落とす。

 

 無下限は働かない。五条が設置した、無限の防衛機能が反応するラインに満たなかったからだ。

 

「……嫌だと、そう言ったら?」

 

 息子の口から出た質問にきょとり。続いてニヤリと。大人の口が悪い形に歪んだ。

 

「『君が勝ったら、僕の命をあげる。その代わり僕が勝ったら、命を含めた君の全部を頂戴』」

 

 二人だけの秘密を掘り起こすような、そんな囁き声。あの月が輝く夜で伝えた言葉を、五条はくすくすと空気へ染み込ませる。

 

 途端、うんざりとした美しい空色と罅割れたガラス玉。答えが分かっている質問を相手に尋ねるとは、息子も随分と性格が悪い。

 

「約束、したでしょ? なら、僕が勝って君が負けた。その通りに巡、お前の全部。その全ての決定権は勝者である僕にあるのが道理だと思わない?」

「つまり?」

 

 あは、と。思わず零れた笑い声。一見、凍りついた湖面を思わせる淡い空色の中には、ふつふつと煮え立つ濁った感情。

 

 悔しい。憎い。屈辱。憎悪等々が真っ直ぐ。息子が振るっていた斬撃のように強く強く、衰える様子の無いソレが一心に専念するのはやはり。

 

「最初からお前に、選択肢なんてあげた覚えはないなぁ。だってこれは、僕からお前へ送る決定通告だもん」

 

 僅かに顰められた眉。堅固な鍵のついた口が開き、欠けてしまった揃いの瞳が瞬きの内に燃え盛る。

 

 けれどそれも一瞬のこと。燃焼した感情は冬に閉ざされ、次に目を開ければ広がるのはいつもの湖面。

 

 五条悟だけを映した、六眼だ。

 

「……約束、という言葉は嫌いです」

「へぇ? どうして?」

「どうしても」

「答えになってないんだけど」

「答えるつもりがありませんから」

「ふぅん……?」

 

 なんだろう。見覚えのある既視感に首を傾げるも、なんだかハッキリと出てこない。こんなテンポで交わされる会話を、自分は長年経験している気がするのだが。

 

 あ"ーーーッ! と釘崎の悲鳴が響く切り取った四角の空へ、ふわふわとした綿毛が凭れる。

 

 長い足を突っ張ることでイスを後ろへ引き、ガガガガと耳障りな不快音と断続的にかかる衝撃に顔を顰めつつ適当に置いてある収納ボックスを開ける。

 いくつかお菓子の袋を引っ掴みポイと投げてしまおうかと思った五条だが、万が一口を開けている窓から落下した時の事を考えると手が止まった。今、この子の存在が明るみに出るのは避けたい。

 

 行きとは逆に今度は前方へとパイプイスを乱雑に寄せ、持ってきた大袋を息子の住処となっているベッドへばら撒く。

 

 手持ち部沙汰ゆえの鼻歌を歌いつつ、どれにしようかなと指先でルーレット。

 

 ポピュラーなチョコとビスケットが合体したひと口サイズの大袋をベリベリと開け、出てきた小包を破り中身を口の中へ。

 

「他には?」

 

 また一つ個包装を破れば、何を言われたのか理解し難い雰囲気を醸し出す息子の銀糸が揺れる。

 

 ぱくとビスケットなのかチョコなのか分類に困る菓子を口へ放り込み、だからー、と五条の六眼が息子を映す。

 

「嫌いなもの。約束って言葉が嫌いなんでしょ〜? なら他にも何か、お前が嫌いだっていうやつないの」

 

 そう説明してやれば間髪入れず、

 

「あなたです」

「ビンタ入れるよ???」

 

 いっそ凛々しさの感じられる一言。思わず五条も本気の声が出た。

 

「あとは……」

 

 ポツリ。心ここにあらず、を体現したかのような朧げな声。

 

 てんで様子の異なるソレに、ビスケットの開封と運搬を繰り返していた五条の手が止まる。

 

 淡い輝きを宿していた片眼の空色がぼんやりと色を失くし、徐々に徐々に。どろ、どろ、どろりと、それこそ年季の入った呪いそのものと呼べるような黒く、濁った泥が美しい瞳に渦巻く。

 

 とぷんと、モノ言わぬ子どもの影が揺らめいた。

 

「人に。人間にたかる蛆虫は」

 

 大嫌いです。

 

 どこか遠く。目の前の五条すら意識の外へ飛ばし、より深き遠い彼方を見つめている瞳に少しの苛立ち。とぷりと影が震えたが関係無い。

 

 どこを見てるんだよ。お前が見るべきものは僕だろ。

 

 そんな心から。脳みそも脊髄すらも通さず噴出した感情に突き動かされるまま、五条の腰は浮き上がり、思いのほかがっしりとしている尖った肩を両手で掴み押し倒す。

 

 ばっふん! と浮き上がった菓子の大袋。軽い衝撃を背中付近に感じつつ、首を挟んで立てた両腕に顔を乗せる。

 

 至近距離にある幼い顔。罅割れたガラスは虚ろで光は無く、しっかり動く揃いの六眼は不愉快そうに、愉快な表情の五条悟を映し出す。

 

「……重い」

「それでさ、お前の所属とか立ち位置とかをどうするかっていう話なんだけどさ」

 

 何事も無かったかのようにぱたぱたと少女のように両足をばたつかせ、にこにこと五条は己の中で決めた事柄を喋り出した。

 

「まずは戸籍。これについてはもうクリアしたものと同然。遺伝子検査でお前と僕の親子関係は証明されてるし、年齢の齟齬については僕の書類を違和感無いレベルにまで弄っちゃえば解決」

「……遺伝子検査?」

「呪術師としての所属は高専。あ、高専って言ってもここだよ? 東京都立呪術高等専門学校ね。高専所属の呪術師で、僕直属って事は決定。無理でもなんでも、無理やり押し通すからそこら辺は安心」

「まて、遺伝子検査ってな……」

 

 拾った個別包装の中から取り出した菓子を、諦めず追求してくる小さな口に突っ込む。

 

「で、ここからがちょっとめんどくさい所。わざわざ僕がお前にこれからの予定を話したのは、こればっかりはお前が自分の足で顔を見せに行く必要があるから」

 

 よっこいしょと、五条はのしかけていた体を起こす。

 

 無理やり突っ込んだ食べ物は最悪、顔面目がけて吐き出される可能性も視野に入れていたのだが、食べ物とかは粗末にしないタチらしい。銀色の髪をシーツに散らばせた息子は黙々と、お菓子の入った口を動かしている。随分マトモな常識を持った人物に育てられたようだ。

 

 コクリと小さく喉が鳴り、押し込んだチョコレートは息子の胃の中へ。

 

「顔を見せに行く? ……どこへ」

 

 静かな、冷たい声音。美しい明けの空、その輪郭がブレる。

 

 ああ、これは息子の感情を揺らす類のものなのか、と。デキの良い頭の片隅にメモを残しつつ、体を通して呪力を術式へ。

 

 にっこりと口角を引き上げ、五条はそっと呟いた。呪術界において御三家に数えられる古き家、他でもない五条悟が生まれた場所の名を。

 

「……五条家へ」

 

 淡い万華鏡が閉じ、エメラルドを含んだルビーの。神から与えられた偏光の宝石が花開く。

 

 呪力を喰らい、現世にて顕現したのは数多の無限級数。ほの赤く光る無限が息子を取り囲み、今か今かと発散の時を待つ。

 

「なんの冗談だ、ソレは」

「冗談? 僕が? それこそ冗談みたいなものだよ」

 

 いつの間にか首にかかっていた手を無下限で防ぎ、飛び起きた宝石の瞳をじぃと見つめる。

 

 見えはしない。けれど肌で、本能で感じる空間の軋む声の中、五条はゆっくり。人差し指を立ててみせた。

 

「戸籍上、お前を僕の息子として”五条”の名前をくっつくけるのは簡単。だけど呪術界の中で僕の息子。五条巡(ごじょうめぐる)として存在を確立させるとなると、それ相応の証明がいる。脳みその腐ったミカンが大多数を占める老害どもの巣窟だとしても、現時点でこの世界を仕切っているのはこいつ等だからね。そいつらの首が動くような、覆せない程の決定的な証拠がいる」

 

 音もなく捻じれ狂う室内。気にする素振りすら見せず、五条は立てた指を眼前にいる息子に向けた。

 

「お前だよ、巡。お前が直接、御三家である五条の家に行き、その瞳を。その術式を。その力と血統を、五条に連なる家々の者にまず証明しなきゃいけない」

 

 バシュッ! と千切れた己の髪を尻目に、螺旋渦巻く魔の瞳を六眼で覗き込む。

 

 お前ならそれくらい、できるでしょ。

 

 声にせずとも投げかけた問い。答えは返ってこないが、出来ること前提で進めているのだから問題は無い。

 

「俺をアンタの血縁者として登録する必要は無いだろ」

「……それ本気で言ってる? 鏡見たことあるお前」

 

 そんなクローンと見紛うレベルでそっくりな容貌(かたち)をしていながら良く言う。一度大鏡を買って横に並んでやろうか。

 

「いやだ、いかない」

「いやだは認められない。これは決定事項だって言っただろ」

 

 ソファが曲がり、テレビが曲がり、嗜好品の入った収納ボックスが曲がる。見えない螺旋に壁が削り取られ、不出来な傷が量産されていく。

 

「いかない、いきたくない。アンタの息子にもなりたくない」

 

 狭まる歪曲の螺旋。自分諸共捻じ曲げる異能が近づく中、だってだって、と。幼い子が悪い夢を恐れるような、見えない恐怖に怯えるような弱弱しい声が、聞き分けのない我儘な口から零れた。

 

 

「俺が、俺があそこに戻ったら(・・・・)、かあさんはどうなるの……?」

 

 この部屋に留まらず、外にまで作用し始めた空間の曲がる予兆。

 

 力の発生源。つまり目の前の息子の気分次第で、次の瞬間には五条も。高専で生きている生物を含めたまるごとが捻じ曲がってしまうかもしれない危機の中、息子の地雷でコサックダンスをキメた五条はおや? と。明らかに様子のおかしい息子を特別な瞳に映しながら、小さく首を傾げた。

 

「(あれぇ~? コイツってこんなに頭弱かったっけ……???)」

 

 実は馬鹿なんじゃないか、この子、と。降ってきた頭悪い疑惑にンー、と唇を尖らせ、変形を始めた建築物の声を聞きながら思考。流石の五条とて、手塩にかけて育ててきた生徒たちの未来を閉ざすのは忍びない。

 

 ひとつ溜息の後。中身の開いた偏光の瞳に手を被せ、ギチギチと無限の層で足掻いていた腕を取る。

 

(めぐる)、聞きなさい」

「!」

 

 何か琴線に触れるものでもあったのか、被せた掌にけぶる睫毛の感触。五条と異なってしまった息子の、宝石とガラスの瞳が大きく見開かれた。

 

「僕は言ったね? その瞳、その術式、その力と血統を以て、証明しろって」

 

 解け始める歪曲の螺旋。馬鹿みたいに力の篭っていた腕から力が抜けていく。

 

「ああは言ったけど、実際五条の家。その決定権を握っているのは当主では無く僕だ。それは何故か分かる? シンプルで簡単、僕が誰よりも強い(・・)から。呪術界は千年も前から力と才能がモノを言う世界だ。お前が執心するかあさんとやらを守りたいなら、僕を殺すためだけに鍛え上げたソレで」

 

 ゆっくりと。(とばり)の役割を担っていた片手を下ろせば、嵐の過ぎ去った淡くとも輝く空の色。

 

 掴んでいた手を離し、そのまま持っていくのは薄い体。トクトクと脈打つ心臓に人差し指を乗せ、トン───と。軽く小突いてやればほら。

 

「邪魔なもの全て、ねじ伏せてみせろ」

「……言われずとも」

 

 可愛げのない息子が、そこに居る。

 

 

 

 



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①・後

 伊地知潔高は平凡な人間だ。

 

 呪力と呼ばれる人とは少し違う力があって、呪霊と呼ばれる、普通の人には見えない違った生物が見える。

 

 中学卒業からの四年間。門を叩いた高校でぶっ飛んだ先輩たちに揉まれ、顔と名前をどこぞの最強に覚えられたのが運の尽き。

 

 そこからズルズルと早十年。天上天下唯我独尊を地で行く青春時代の先輩。今となってはかなり長い付き合いになる上司に振り回され、必要不可欠な人間メンタルが鍛えられる日々。

 

 最強の肩書きを背負う人物のスケジュール管理から始まり、経費で落ちないお土産の処理。"(とばり)"を降ろしたものの、派手に壊れた建物や地形についての後処理。めんどくさがって後回しにする書類・報告書作成。気づけば専属ドライバーのようなポジションについてしまった車での送迎。遠方での任務に赴く際に必要な新幹線などのチケット手配。

 

 これでも唯一、あの人が隣に立つことを許した親友の一件から丸くなったものだが、中身と呼べる本質はほとんど変わっていない。少なくとも呪術師、という土俵ではなく、縁の下である補助監督に身を置いた伊地知はそう感じていた。

 

 世に言う持っている側の人間でもなく、特別な人間でもない。ただ少し、非凡な側につま先を置いているだけの一般人。

 

 そんな自分が、尋常ならざる天才のあの人についてこれだけ感じるものがある。

 

 なんだかんだと言ってハナクソ程度には気にかけられているだろうし、そこそこの信頼は得ているのだろう。

 

 時々整いすぎた造形から飛び出るマジビンタが恐ろしすぎる気持ちもあるが、それなりに堅い口と、一般的なソレよりも持ち合わせている情の類がお気に召したのだと思う。その程度にしか、伊地知に誇れるものは無いのだから。

 

 つまり何が言いたいのかというと、伊地知の上司。最強と名高い五条悟にとって伊地知潔高は口が堅い。情に厚い。マジビンタにビビる、使い勝手の良い青春時代の後輩であるということだ。

 

 だからこそ、余程本人の中で深刻な。秘匿せねばならない事でない限り、伊地知は真っ先に巻き込まれるのだ。五条悟(最強)の抱えた面倒ごとに。

 

「(私今日、もしかしたら死ぬかも)」

 

 ミシミシとどこからともなく聞こえる建物の悲鳴。繋げられた木材を無理やり曲げようとするかのような、そんな異様さを感じる廊下。

「ちょっと待ってて」と言われるがまま、飾り気のない扉。高専内に用意された五条の待機室の前で直立して十五分が経つ中、伊地知潔高は震えながら命の危機感じ取っていた。

 

 五条さん、アンタ一体部屋の中で何してるんですか。私、死んじゃう……。

 

 メキメキ。目の前で歪み、亀裂が生まれた壁を見て、伊地知は出てきそうな涙を耐える。

 

 いくら伊地知の胃にダイレクトアタックを仕掛ける張本人であるとしても、五条悟は最強だ。専属ドライバー一歩手前まで来ている伊地知の存在をハナクソ程度にしか思っていないとしても、ちゃんとその命を認識している。

 

 その一方で伊地知が死ななければどうにもならない事態に直面すれば、容赦無く「死んで」と口にする冷徹さも持っている。

 

 人間性は一切信用ならない人だが、こういう所は間違えない人物だ。五条悟がわざわざ伊地知を連れてきて「待ってて」と言ったのだから、多分伊地知は死なないし今起きている超常現象もどうにかなる、……はずである。

 

 大丈夫、大丈夫。そう唱えるもやっぱり小刻みに震える足に、私って本当そういうところなんですよバカ……と心の内で涙すること少々。

 

 フツリと消えた、そこら中を取り巻いていた異様な力。続いてシンプルな扉が開き、目隠しを取った状態の五条が顔を出す。

 

 いつ見てもここばかりは綺麗だと素直に賞賛できる水色の瞳が伊地知を捉え、「あ、いたいた」と笑顔を作った。

 

 白く大きな手が伊地知を招き、人間一人がギリギリ通れる分のスペースを残してドアが固定される。無言のココから通れである。

 

 いや、それなら扉全開にして広々と通らせて下さいよ……と思うも、露出した目が「はよ入れ」と語っていたので大人しく体を細いスペースへ。

 

 細いフレームレンズから見える景色。扉を潜って見えた室内は異常の一言に尽きた。

 

 壁や天井は至る所が抉れ、浅い深いの違いはあれど全て一様に、何か大きな力。その片鱗に触れたかのように抉り取られたような跡が刻まれている。

 

 しかもそれだけでは無い。凄惨な有様の床には鉄クズのような、プラスチックのような。本来あるべき姿から無理矢理曲げられ、捻じ切れたかのような欠片が、あちこちに打ち捨てられていた。

 

「なんッ……」

 

 ガチャリと閉まった後方のドア。反射的に漏れた声を慌てて抑え、頭一つ分以上高い場所にある五条に必死の形相で訴える。

 

 なんですかこれは!? と。横から突き刺さるソレを察知したのか、伊地知とは天と地も離れた白皙の美が動き、癖のある真っ白な髪がひょこりと揺れた。

 

「あー、これ? 子どもの癇癪」

「カッ、癇癪!?」

 

 目を剥いて驚くどころか、今すぐにでも白目を剥きそうな伊地知を他所に、五条はピッと長く白い指先を立てた。

 

「そう、癇癪だよ。あの子の」

 

 形の良い爪が向けられた先。真っ直ぐに伸ばされた指先が示すのは、四角い空の見える窓際の一角。

 

 最初に飛び込んできた部屋の様相に気を取られて気づかなかったが、前に伊地知がこの部屋を訪れた時には無かった物がポツンと。正方形の形に近い木造の空間の中、四方の隅のひとつに見覚えのあるベッドが増えている。

 

 真っ白なベッド。シーツも布団も枕も白い、伊地知の先輩である女医が駐屯する医務室にあるはずのもの。保健室のベッドだ。

 

 色彩ゆえか、空白のような一角を指す五条の指先を辿れば、行き着いたのはこれまた真っ白な子。

 

 ふわふわとした、柔らかそうな綿毛のごとき白い髪。豊かすぎるほどにビッシリと生え揃った淡雪の睫毛。口は小さく桜色がちょこんと。見慣れたようなそうでないような整いすぎたベビーフェイスに、無窮の空を切り取って嵌め込んだのではないかと思うほどの美しい瞳。風の悪戯により流れた銀糸から覗いたのは、空色の欠けた、どこか痛々しく感じる罅の入ったガラス玉。

 

 枕で作った背もたれに体を預け、じっと。感情の伺えない凍てついた静けさを纏った子どもが、そこにいた。

 

 五条悟と揃いの色彩。五条悟と瓜二つな顔。五条悟と同じ淡い瞳には、あんぐりと大口を開けて。虎杖悠仁が生き返った時よりも衝撃の大きそうな、人生に一度あるかないかというレベルの呆け顔を晒す自分が映っていた。

 

「ゴッ、ゴッ、ゴッ……!」

 

 言葉が張り付いて出ない伊地知に、「なに? 削岩機?」と素なのかおちょくっているのか分からないコメントが五条の口から出る。

 

「ごごごごご」

「午後ティー?」

「違います! 五条さん!!!」

 

 飛び出た伊地知の目を掴んで離さないベットの子ども。なんとか意識を引き剥がし、クワッと。特急列車ばりの勢いをつけて、伊地知の首が子どもとそっくりな色素と顔をした先輩の方へ回転。

 

 伊地知潔高・26歳、独身、男。苦労してそう、とよく言われるフツーの顔だ。そんなフッツーの顔であるが、……いや。そんな顔だからこそ、神の造りたもうた芸術品の如き圧倒的美を体現する顔面相手にも、言わねばならぬ時がある。

 なぜならばそれこそが大人。広く日本に浸透している一般常識を履修したマトモな大人として、ケジメをつけなければならぬ時が来たのだ。

 

 スーツの内ポケットからゆっくりスマホを取り出し、三桁の番号を浅い息で入力。

 

 大丈夫。自分の常識を信じろ私! 

 

 フゥーーー……と、震える空気を吐き出し、ひっそりと己を鼓舞しながら腹に力を込める。そして……、

 

「五条さん、今まで大変お世話になりました。ヒトクローン技術規制法違反です……ッ!」

「そうきたかー」

 

 手早く落とされた拳骨は、夜蛾学長に負けず劣らず痛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「と、いうわけで(めぐる)。僕が出張から帰るまでの四日間、お前のめんどうをみてくれる伊地知クンです! 拍手ッ!!」

 

 わー! ぱちぱち。

 

 一人分の拍手が正方形の室内に反響し、頬のコケた面長の眼鏡男性が目を白黒とさせている。その様は正しく、何が起こっているのか分からない、と言わんばかりのもので、事前情報や前フリすらゼロの状態で連れてこられたのだと確信できる。

 

 コイツ、頭おかしいんじゃないだろうか。

 

 一人楽しそうに手を叩く男。思わず半目になる俺の瞳。段々と潤んできたレンズの奥に見える細長い眼球。きっとイジチさんとやらは苦労人気質だ。間違いなく。

 

 ベッド上の枕に背を預けたまま、頭に見事なたんこぶを咲かせたイジチさんに涙が出そうになる。出ないけど。

 

 不自由な視界。じっとりとした眼差しを同じ色彩の男に向けていれば、拍手の言葉と共に紹介された伊地知さんとやらが前に一歩。

 終始ビクビクしてるし、落とされた拳骨が効いているせいかレンズの縁に光るモノがチラチラ。キッチリとしたスーツを着ているはずなのに、何故かくたびれて見える不思議。

 

 真ん中で別れた五分五分の前髪から額が覗き、おずおずと。そんな動作で、イジチさんは色々と散らかってしまった床に片膝を着いた。

 

 なんだろう。どうかしたのか。お腹痛いの? 

 

 そんな事を考えていれば、あの……と。視線を細身の彼へ移せば、「うわ、静かな五条さん……」と余計な一言が聞こえる。もしや喧嘩を売られているのだろうか。分類次第で対応が違うぞ俺は。

 

 浮かんだ思考と連動するかのごとく細まった両眼。色のある方と失せた方の直線上にいたコケた頬が引き攣り、「ヒッ、やっぱり五条さんそっくり」と小声の早口。いい度胸してる。デコピンかましてやろうか。

 

 またもや細身のスーツが震え、視線を合わせスタイルであった片膝立ちから、そろそろといつの間にか両膝を揃えた正座に。嬉嬉としてスマホを取り出した真っ黒ジャージ野郎は見なかったことにした。

 

「……えー、初めまして、ですね。私、呪術高専にて補助監督をしています。伊地知潔高(いじちきよたか)と申します。まずは君の名前を教えてくれますか」

「……(めぐる)です」

「巡くんですね。では巡くん、君とそっくりな顔をしているそこの人との関係性は……? アッ、いや、言いにくいのでしたら結構ですので!」

 

 チラチラと遠慮がちな目線が上と下を行ったり来たり。完全に気を遣われているとひと目で分かる対応の仕方。

 

 普通の感性を持った人間ならば、ここで横から口を挟むなんて無粋な真似は死んでもやらないだろう。非難の眼差しを向けられのは確実であるし、下手な箱を突っついてわざわざ出てきた流れ弾を喰らいたくないものだ。

 

 だが残念なことに、この部屋には一人。世間体というものを一切鑑みない最強がいた。

 

「息子だよー。僕の息子 」

 

 カシャカシャと煩い音を立てていた端末をようやっと下ろし、無造作にポケットへ突っ込んだ淡い空色が軽く。歌うように俺との関係性に名前をつける。

 

「言ってなかったけ? 半月くらい前に捕獲して、諸々のめんどうな手続き込みで書類やら地位やらを作るつもりだって」

 

 だから伊地知、僕と硝子以外の人間に巡の存在バラしちゃダメだよ? 

 

【歪曲の魔眼】で曲げに曲げた物体共を踏みつけ、一歩二歩と長い足が出口を目指し、ドアノブに大きな手がかかる。

 

 ぴょこぴょこ跳ねた銀糸が零れ、揃いだった二つの【六眼】が俺の欠けた瞳を貫いた。

 

「巡」

 

 静かな、逃げることは許さないと言外に訴える淡い色彩の声に、少しだけ体が強ばる。

 

「いくらお前が嫌だと耳を塞いでも、僕は五条の名以外を背負うお前を認めないよ。駄々こねて癇癪起こす元気があるなら、マイナスの体調をゼロに戻せ。本番での醜態は尾を引くからね」

「…………」

「返事は?」

 

 返す言葉も無く、肯定を紡げる程の整理もついていない。納得、なんてものは今の俺から一番遠いものだ。

 

『邪魔なもの全て、ねじ伏せてみせろ』

 

 荒ぶる感情の螺旋に入れらたメス(言葉)に異論は無い。

 

 実際俺は。以前の俺(■■巡)はかあさんを救うために。五条悟(父親)を殺すためこの生を費やし、強く鋭く。ただひたすらに己自身を鍛え、磨ぎ続けてきたのだ。

 

 いつか母を。かあさんがまた、なんでもない平凡な空の下で笑ってくれる姿を夢見て。

 

 だからその為の力が何であれ、かあさんの生きる未来に繋がるのならば、振るうことに一切の躊躇いはない。あの日に繋がる道を築いたのが父親だったから。かあさんが冷たくなったあの部屋に、かあさんを導いたのが俺だったから。手っ取り早く二つの道を潰すため、アイツを殺したかった。殺さねばならなかった。いや、殺さねばならない(・・・・・・・・)

 

 折れた(ちから)を打ち直して、再刃して、磨ぎ直して。また、かあさんの生きる空を夢見る。

 

 だからといって、俺が五条の名を。家名を。五条悟の息子として、再編した自身を受け容れられるかどうかは別の問題だろう。

 だってあの家は。組子障子に囲まれたあの部屋は。俺にとっても以前の俺(■■巡)にとっても、焼き付いて離れない三界の地獄そのものだ。

 

 今だってまだ思い出せる。欠落した一部分が戻ってきたからこそより鮮明に。

 

 虫が。かあさんに(たか)蛆虫(呪術師)が。キィキィと耳障りな音を立てかあさんを食い散らかし、耳を塞ぐことも。目を閉じることも。泣くことすらできなかった幼い、無力な自分の非力さを。

 

 そんな家に、俺はもう一度足を踏み入れなければならないと、この男は二つ揃った淡色の万華鏡で言うのだ。殺したく殺したくころしたくて仕方が無い、けれども殺せなかった最強が、俺にその名を背負えと言う。

 

 頭がどうにかなりそうだ。いっそ、どうにかなってしまった方が楽なのだろう。全部殺して、虫はちゃんと駆除して、全て(すべ)て、まっさらにすれば全部終わる。

 

 だけれど俺には、それを押し通すだけの力が足りない。押し留めるだけの力(五条悟)が生きてるから。

 

 あえて逸らした視線。狭まった視界からドアに手をかけた同じ色彩の男を消す。

 

 嫌だ。何度思考しようが、俺は五条の名前を隣に置きたくない。あそこに戻るのはどうしようもなく、いやだ。

 

「返事」

「…………」

 

 強制力の伴った単語。増した圧力に視線も意識も外し、口を閉ざしたまま沈黙を貫く。

 

 お互いの呼吸音すら耳につかんばかりの静けさ。不規則なグラフを描く感情の波と、ヒリヒリと肌を舐める圧力。

 

 手元のよれた毛布。折れたのは遠くにいた銀色だった。

 

「……カァーーー! 頑固者だねぇお前! まあ、いいや。嫌だイヤだって駄々こねても引き摺って連れて行くことは決定してるし。……伊地知ィー! この通りめんどくさい子だけど、僕が帰るまでよろしくね」

 

 薄い隙間の出来た扉に滑り込む黒色の衣服。パタリと閉まった音がやけに大きく聞こえ、僅かにドアノブが軋んだ。

 

 最後まで離さなかったシーツから目を動かし、斜め下に映ったのは気の毒なくらい顔色を無くした眼鏡の男性。

 

 そういえば居たなあ……と。目尻から光る成人男性の涙にスルーを決め込み、曲げてゴミ屑にしてしまったイスの代わりにベッドの余白を勧める。

 

 改めて部屋を軽く見回してみるとひどい有様である。ちょっとリフォームし過ぎた感がある。謝らないけど。だって悪いのアッチだし。

 

 伸ばした爪先が若干沈む感覚。白から青へ変化したイジチさんが、言葉通り残骸の床から足元側のベッドに居を移したのだろう。

 

 開けて、閉じて。口はハッキリしなくもごもごと。きょろきょろと細い目が落ち着きなく左右を行き来し、真ん中で分けられた額からは水滴がタラリ。

 

「……(めぐる)、と」

 

 ばね仕掛けのように飛び上がった細長の面。

 

「そう、呼んでもらえますか」

 

 生憎とほとんど動かない表情筋だが、どう話せば良いか葛藤していたイジチさんには充分だったようだ。

 

 パァ! と。これぞ天からの助け! 蜘蛛の糸! と言わんばかりに華やいだ顔面は見事な半泣きであった。

 

 



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②・前

 

 巡、という少年はひどく静かな子であった。

 

 

 ひっそりとした雪原のような。取り残された湖面のような、そんな白く冷たい静けさ。

 一年生にして二級呪術師、最強の育てた虎の子と密かに噂されている伏黒恵。彼も年のわりに静かな子であるが、あの子ども程ではないだろう。その静けさはどこか似通っているような気もするが、やはり違う。あの子は生物が静まり返る冬であるが、伏黒は生命の芽吹く春だ。

 

 ソワソワと落ち着かない心臓を宥めつつ、補助監督一年目の時に奮発して買った腕時計をチラリ。

 

 だからというか、なんというのか。牡丹も凍る閉じた雪の中に垣間見える、ポツンと独り遺されたような寂寥感。短い青春を駆ける若人には不釣り合いなソレを、あの物静かな子に感じられずにはいられない。

 

 率直に申し上げると、とても心配。すごく心配。実は目を離した隙に死んじゃうんです、と告白されたとて素直に信じられるくらいには心配なのである。

 

 大丈夫でしょうか、巡くん……。

 

 呪術高専東京校、その正面入口。長い石畳の階段が連なる真正面に、高専所属の補助監督。伊地知潔高は色んな意味でドッキンドッキン高鳴る血液ポンプを抱え、照りつける太陽にも負けず上段を見つめていた。

 

 数多の生徒を任務地に送り届け、それ以上に呪術界最強を乗せた愛車(便利なタクシー)を横につけてから十分。チックタックとガラス面の奥にある秒針は休み無く動き、待ち合わせの時刻が迫る。

 

 伊地知に息子を頼む、と任せて日本から五条が離れたのが二日前。

 家入硝子……、五条と同じく伊地知の学生時代の先輩に当たる現女医。彼女以外には学長にも、一つ上の先輩である一級呪術師にもバレてはいけない。上層部やその他呪術界関係者なんて言うに及ばず。もしも何かの手違いであの子の存在が明るみに出た場合、伊地知はこれまで逃れてきた五条のマジビンタを受けること間違いなし。

 

 二十六年間連れ添ってきた頬の危機である。

 

 もしもを想像するだけでも背筋が凍り、両頬が痛みを覚えそうな中。フと、傾斜を描く石畳の軍団に、一つの長い影が下りる。

 

 頭を占拠していたマジビンタを慌てて振り払い、ズレた眼鏡を押し上げ階段先へ。

 

 時計の長針が指すは午後二時。生徒たちが教室内に引っ込み、人影の無い高専敷地の頭上には太陽が輝くばかり。長い石畳を降りてくる高い背の、ふわふわとした白にも銀にも見える髪がキラキラと光を受ける。

 

 一歩一歩階段を降りる度に顔を覗かせる骨ばった(くるぶし)は眩しく、伊地知の心配に反してその足取りはしっかりとしていた。

 

 淡い色彩の水色と、色の失った痛々しいガラスの瞳。爪楊枝どころか、万年筆の乗りそうな長く豊かな淡雪の睫毛がゆっくり瞬き、ホッとした顔の伊地知が表面に映る。

 

 場所が場所なだけにのんびり立ち話をするのは危険だ。色んな意味で。加えて、ここ半月近くベッドの住人であった子どもを立ちっぱなしにしておくというのも、どうにも心臓に悪い。

 

 運転席側のバックドアを開け、五条のお下がりパーカーを着た薄い体がしっかり車に乗り込んだのを確認。自身も運転席へ乗り込み、素早くエンジンをかけアクセルを踏み込む。

 

 よ、良かった〜! 一人で歩けてた〜〜! 

 

 天井にぶら下がるミラーの角度を調整し、そんな小さなことに安堵の息が漏れる。

 

 だがそれも仕方の無いこと。伊地知がこまめに顔を出し始めてから一度も、この子が白いベッド以外の場所で活動している姿を見たことが無かったのだから。

 

 元々は健康体であったらしく、こうなった原因を知っていそうな呪術界最強曰く、

 

 

「え? 大丈夫大丈夫。ちょっと無理を押し通した負荷(代償)を支払っている最中なだけで、あと数日もすればピンピンするよソイツ。というか、その程度で僕の息子がくたばるわけないじゃん。ナイナイ」

 

 

 と。有名どころの水饅頭片手にそう言ってはいたが、やはり気になってしまうのは産まれ持った(さが)だろうか。

 

 滑らかに動き出した車体は速度を上げ、曇りガラスを挟んだ景色はビュンビュンと過ぎていく。

 

 伊地知にとっては見慣れすぎた高専からの道。過ぎ行く葉の生い茂る一本道。

 しばらく進めば人通りの多い、東京らしい交通網へ合流する平坦な道だ。

 

 ぱちりぱちり。真っ白なまつ毛が音を立てる。

 

 代わり映えのないガラス向こう。二色の瞳が物珍しげにジッと、新緑と人工的なコンクリートの車道を見つめている。

 

 その姿は初めて足を踏み入れた土地にはしゃぐ幼い子のようで、伊地知は自然と湧いてきた笑みを口の中で噛み殺す。

 

 山道特有の振動に揺れる銀糸。場違いだと分かっていてもなお、口元は緩むままに綻ぶ。

 

 

「とりあえず、コンビニにでも寄りましょうか。神奈川まではそこそ時間もかかりますし、昼食も必要ですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『なにか、やりたいことはありますか?』

『……やりたいこと?』

『はい。私個人で対応が可能な範囲でなら、

 と注意は付きますが』

『……』

『無理に、とは言いません。私も私で怪しまれない程度に仕事は熟さないといけませんし、息抜きや退屈しのぎ。そういった類だと思って下さい』

『…………ひとつだけ。一つだけ、やりたいことがあります』

『それはどんな?』

『取りに戻りたいんです。俺の力を。俺の剣を。水底に沈んでいる、俺の大切な、美しい鋼を』

 

 そんな小さな、淡々とした。けれどもどこか柔らかいものを含んだ呟き。伊地知が件の子を愛車に乗せ、大通りを走った理由なんて、そんなものである。

 

 

 

 ピロピロピロー。いらっしゃいませーと。もう反射の域で口を突くウェルカムの挨拶。配送された商品の包装を解く手は止めず、最早流れ作業のように軽く音の鳴った入り口へ顔を向ける。

 

 東京の人間は基本的に無関心スタイルだ。コンビニ店員が挨拶しようが何しようがイヤホンを耳に突っ込み、お目当ての商品を取ったら手早くお会計。店員が作業しながら声だけ飛ばしたところで誰も気にしない。

 だけれど極小数、虫の居所がとてつもなく悪かったり、ストレスが天井を突破していたり。そんな余裕の無い人ほど、そういう態度が目に付くらしい。

 

 つまり、絡まれる。

 

 文句を言われる程度ならマシ。酷い時には店長を呼べ! と迫られ、何十分も店員の教育がなってないと怒鳴り散らされることもある。

 だから殆ど意味が無いと分かっているものの、無駄なトラブル防止のために店員はお客様の顔を見ての挨拶を体に染み込ませるのだ。

 

 自動ドアを潜り、入ってきたのはスーツ姿の真ん中分けサラリーマンと、今時珍しいくらい背の高い細身のフードパーカー。

 

 こけた頬と神経質そうな眼鏡がそうさせているのか、なんだかくたびれた様子を受けるスーツ姿の男性だ。

 

 仕事人間ですと公言しているような見た目に反し、軽くコチラを見てペコリ。店内の電灯に反射する眼鏡と前髪は微塵たりとも動かない。

 

 あまりの物珍しさ故に固まっていれば、スーツの後に続いて来店したパーカーが同じくペコリ。顔が大きめのフードにすっぽりと隠れてしまっていて目視は叶わないが、確実に自分に向かって頭を下げた。

 

 ピロピロピロー。また、音が鳴る。センサーが出入り口の二人に反応していた。

 

 たくさん買い込むつもりなのだろう。入り口のすぐ脇に置いてあったカゴを眼鏡の人が一つ取ると、流れるような動作でポケットから手を出したフードの人がそれを奪い取った。

 

 にょっきりと生えたジーパンが眼前を横切り、サイズが大きいのかダボついたパーカーがやけに目につく。

 

 コンパスの長い足。小さな風と共に通過したパーカーからはフワリと。上品な、大人の男性がつけるような、そんな香りが鼻腔を擽った。

 

 なんだコレ。この二人スゲー良い人だ。しかもパーカーさんスゲーいい匂いする。足長。腕長。股下メジャーで測っても良いですか。

 

 いつの間にか止まっていた両手。「えっ」だとか、「ああ、いけません!」だとか。取ったはずのカゴが手元から消え、パーカーさんが荷物持ちのポジションに就いた事実にアワアワと慌て出すスーツさん。仕事一筋の冷徹サラリーマンというイメージが一瞬で覆る。

 

 わたわたと言葉を並べ、情けない感じでカゴを奪取しようと頑張る姿に遺憾ながらほっこり。会社勤めのパパと大学生くらいの息子さんだろうか。

 

 暖簾に腕押し。まさにそうとしか表現する他ないスーツとパーカーがアイスコーナーを曲がる。

 

 ぼけーっと二人が消えた角を見ていれば、仕事の手が止まっていることに気づいた同僚のアルバイト仲間にペシリと頭を叩かれた。

 

 

「ちょっと、手ぇ止まってんだけど。その品出しやっとかないと、私たちが休憩入る時に引き継ぐ子たちが大変だろ。真面目にやれ」

 

 

 軽く頭を小突かれ、ごめんごめんと謝れば「分かればよろしい」とお許しの言葉。

 

 届いた商品の開封作業に戻りつつ、そうだよなあと気持ちペースを上げる。

 

 あんまり目にしないレベルの良いお客様二人組だったから思わず魅入ってしまったが、この仕事を休憩までに終わらせなければ困るのはバトンタッチした後のアルバイト勢である。

 

 ただでさえ東京のコンビニは忙しい。基本的に利用客が途切れることはあまり無く、昼と夕方にラッシュが発生するものの暇と呼べる時間帯は皆無である。雑用から品出し接客、レジ打ちに至るまで、基本的にコンビニの店員さんは忙しいものだ。

 

 せっせと開封した中身を指定された運搬用のカゴへ移し、商品間違えが無いことを確認。ガラゴロとキャスターを転がしながら、該当の棚の元へ。

 

 特に最近は肩が重く、全身が気怠さに蝕まれ軽いミスを連発する毎日なのだ。シフト上コンビを組んでいる彼女にはかなりの負担をかけてしまっている。

 

 ほっこりする良いお客様にも出会えたのだし、いつも以上に頑張ろう。そう心の中で呟き、かけた襷をキュッと締める。

 

 単純とか言うことなかれ。こういう場所ではそれくらいの小さなほっこりをどれだけ見つけられ、どのように使うかで勤務年数に影響したりするのだ。小さなお子様連れは大歓迎です。

 

 引き締めた気持ちを携え、指定の棚に商品を補充していく。一段二段とカゴを減らしていき、次に向かったのは飲料水売り場の横にあるラーメンなどのインスタント商品が陳列する棚。

 横を見ればおにぎりやサンドイッチ、お弁当といった食品群が並ぶコーナー。昼や夕方といった時間帯は気持ち悪いレベルで人がごった返す場所だが、時間帯の関係上いるのはスーツを着た男性とフードを被っているパーカーの二人のみ。

 

 あ、さっきのスーツさんとパーカーさんだ。

 

 もうレジに並んでいる頃合だと思っていたのだが、どうやらまだ商品吟味の最中だったらしい。

 

 店のロゴが小さく押されたカゴの中身はそこそこ量があり、白い手が苦もなく持ち手部分を掴んでいる。結局、カゴ担当はあのままパーカーさんに落ち着いたようだ。

 

「あ、ここのコンビニ当たりですね」

 

 神経質そうな男の声。そろっと横目で伺えば、たまごサンドを手に取ったスーツ姿が見えた。

 

「当たり……ですか」

 

 まだまだ年若そうな声。しかしビックリするほど、感情の起伏が感じられない人形のような声だ。

 

 ギョッとして思わず首ごと動かしてガン見をしてしまう。

 

「ええ、お昼時のラッシュが終わったあとのこの時間、ほとんど商品が残ってない方が多いんです。立地的に客入りが悪いという事は無さそうですし、純粋に仕事能率が良いんですね。滅多に無いんですよ、こういうコンビニ」

「……なるほど」

 

 あ、どうせなのでハムカツサンドも買ってしまいましょう。

 

 気軽に伸ばしたスーツさんの袖口。シミひとつないシャツと腕時計が電灯の光を反射する。

 

 神経質そうな声はスーツさんだ。間違いない。ならば必然的に、あの人間味の薄い平坦な声は話し相手であるパーカーさんなのだろう。

 

「どれにしますか? 麺類は車的に厳しいものがありますが、どれでも好きな物を選んで下さい」

 

 スーツさんがパーカーさんを促し、塞がっていない方の手が迷うようにサンドイッチの棚をウロウロと彷徨う。

 

 うっそだろおい……と。驚愕に染まる頭。半ば自動的に商品の補充をしてくれる手が、この時ばかりは有り難かった。

 

 アニメやマンガじゃねーんだぞ。普通の若者はあんな声出さねーだろ。等々、つい脳内で早口に捲し立ててしまう。

 それでも最後には、「まあ、人間だもんね。色々あるわな」と。早々に切り替えスイッチを押し、ひっそりと立てた聞き耳を続行しているのだから笑える。

 

 ポツポツと続く会話のキャッチボール。

 

 互いに向ける言葉は敬語。残念なことに親子では無いらしい二人。どちらかというと、ベテラン社員と新入社員とかそこら辺だろうか。それにしてはパーカーさんの服装が謎であるが。もしや叔父さんと甥っ子。はたまた遠い親戚か。

 

 人間関係分かんねー、などと脳みそは盗み聞きした情報を元に、性懲りも無くそんな事を考える。

 

 少しの間を置き、パーカーさんが胃袋へ入れるものが決まったらしい。

 

 どれにしようか決めあぐねていた色の薄い爪が苺のフルーツサンドを摘み、ついでとばかりに隣にあったブルーベリーサンドも攫っていく。

 

 パーカーさんは甘党か。分かる、時々無性に食べたくなるよね、フルーツサンド。

 

 補充の終わった空のボックスを折り畳み、後ろ失礼しまーすとひと声かけ二人の背後を通過。

 

 キラキラと。積もった雪から覗く空のように、目に悪い蛍光灯が眩しく感じる。

 

 パーカーさんからはやっぱり良い匂いがした。

 

 レジと店内のお客様用通路の境界となっていた仕切りを上げ、軽くなったキャスターとコンパクトになったボックスをバックルームに押し込む。

 

 ぐるぐると両肩を回し、うんと背伸び。

 

 パーカーさん、ハーフの人だったのか。

 

 同じような体勢でいたため、固まってしまった体をほぐしながら、ちょっとした興奮が体内を巡る。

 

 横切った際に垣間見た色彩。顔の造形は変わらず目にすることはできなかったが、あれそれと商品を選んでいる内にズリ下がったのだろう。フードからは目を剥くような艶々の銀糸が覗き、安っぽい店内の光を受け輝いてい見えた。

 ブリーチを繰り返して人工的に染めたものではなく、柔らかそうで透き通った。それこそ、天然物のような雪色の糸束と呼べるものであった。

 

 サンドイッチを選ぶ手もかなりの色白であったし、ロシア系統の血でも流れていてもおかしくはない。身長だって日本人では数の少ない部類の高さだ。足も長い。胴長短足と自虐ネタの宝庫である東洋人ではない。絶対に。

 

 休憩前に済ませておかなければならない仕事は一通り片付き、備え付けの時計に目をやれば交代の時間にはまだ早い。

 

 他にやる事はないか、彼女に聞いてみようか。そう思いながら閉じた扉を潜る。

 

 控え場所であるそこから顔を出せば、構造的に仕方ないとはいえ、真っ先に鉢合わさるのはお会計に並ぶお客様の姿。

 

「あ」

 

 人影のあったレジ。零れた口に慌てて蓋をし、研修生の頃から使い込んでいるスマイルを披露。いつもなら義務として作る表情だが、気に入ったお客様を相手にするのならば別である。店員さんにだって、密かなお客様贔屓があるのだ。

 

「お待たせしました、お会計ですね」

 

 会計台に乗せられたカゴを引き寄せ、かつては無償であったビニール袋に手をかける。

 

 並んでいたのは先程の二人。神経質そうな眼鏡のスーツさんと、フードを目深に被り直したらしいパーカーさん。零れ落ちていた綺麗な銀色はしまい込まれ、レジ横のオススメ商品を吟味しているのか微動だにしない。

 

「レジ袋は有料となっておりますが、どうなされますか?」

「お願いします」

「かしこまりました」

 

 ポケットからお財布を取り出すスーツさん。

 

 レジ袋に入れる順番をどうしようかなと考えつつ、慣れた動作で商品のバーコードを捌く。

 

 一番大きいサイズのビニール袋。ピッと押して詰めてピッと押して詰めて、と繰り返すうちに埋まっていく袋の中身。バーコードの読み取り待ち物品は順調に数を減らし、いよいよ残すはあと一つ。

 

 最後のお買い上げ商品を読み上げ、ピッタリ満員となったレジ袋の中へ投下。表示された合計金額に目を通そうとした時、スッと。目の前に出されたのは棒付き飴。しかも二つ。

 

 手品のようにポンと視界に映ったソレ。球体状の飴部分に巻かれた包装紙と飛び出す細長い持ち手部分を辿ると、大半が黒い布地に隠れた真珠の指。ハッとして上方向を仰げば、物理的な影の中で光る、宝石のような瞳が二対。こちらを見ていた。

 

 睫毛の内にあるまあるい眼球の中。不思議な輝きを放つ、ルビーのような。けれども時折、砕けたエメラルドにも見えるような、そんな偏光を宿した綺麗な瞳。

 

 宝石のような、美しい目だった。

 

「……これもお願いできますか」

 

 静かな、落ち着いた声。カサリと擦りあった青色の包装紙が揺れ、平坦な調子で落とされた呟きが遅れて耳に通る。

 

「かっ、かしこまりました! それではお会計が変わりまして」

 

 ─────円になります、と。咄嗟に読み上げた液晶の数字は、上擦っていたかもしれない。

 

 設置してある金銭受け渡し用のトレーに野口さんが数枚乗り、しっかりと指でお札を弾きながらお預かり金額を入力。引き算によって提示された差額分を手早く集め、軽いチェックを入れてからレシートと共にお釣りを受け渡す。

 

 ありがとうございます。そんな一言と共にスーツさんの動かない前髪が下方向を向く。

 

 来店した時のような横槍を防ぐためか、上等そうな腕時計の嵌る手は素早く膨らんだレジ袋を掴み、すぐさま回れ右方向。

 

 よれてみえる背広の後ろ姿に、慌てて頭部を前方に倒す。

 

 ありがとうございましたー! またのご来店をお待ちしております! 

 

 何百回と口にした決まり文句。今日もその一言を舌に乗せようとした瞬間、ギュンと。馴染みのない変な音。例えばそう、まるで空間そのものが捻じ曲がったかのような、歪な音がした。

 

 ふわり。もみ上げが小さく、風に攫われたように宙を泳ぐ。

 

 え、なに? と。疑問が頭に住み着くよりも早く、被せるように向けられた言葉と視覚情報。

 

「おにいさん」

「ハァイ!?」

 

 顔近くに現れた一つ四十円前後の棒付きキャンディー。フードの奥にある綺麗な赤色に、虚をつかれたような顔をした自分がいる。

 

「どうぞ」

「エ……」

 

 何を言われているのか分からない。

 

 手、出してくださいと。そう言われるがまま利き手を差し出せば、ポトリと落ちたキャンディーが二つ。

 

「疲れた時は糖分が良く効くそうです。よければ休憩の時にでも、ご友人と一緒に食べて下さい」

 

 どうぞ、体調には気をつけて。

 

 要件は済んだとばかりに後腐れなく自動ドアを潜る長身の体。

 

 ピロピロピローと閉じたガラス。ポカンとその場で呆けていれば、今度は背中に軽い衝撃が走った。

 

「なにしてんの。ホラ、休憩時間。お疲れ様! ……ん? あんたソレ何持ってんの?」

 

 恐る恐る握った拳を開く。コロリと転がった のはコーラ味の棒付き飴二本。

 

「ちょっと何でレジ横の商品をあんたが持ってんの。店員が窃盗とか止めてよね。やるならそんなちまっこいモノじゃなくて、もっと大きなモノ盗んで人生台無しにしなさいよ」

「いや、違うから」

 

 相方のあんまりな言い様にちょっと目からラムネが出そうになる。

 

「じゃあそのアメなに。どうしたの?」

「……貰った?」

「貰ったぁ? 誰によ」

「お、お客様のから?」

「いつ、どのお客様から」

「今さっき自動ドアから出た、パーカー着てフード目深に被ったお客様から」

「なんでよ。知り合い?」

「分かんないし、全然知らない人」

 

 ……完全に変人じゃん。そう失礼なコメントを残し、不要のレシートボックスを漁る相方。

 

 スーツさんが捨てたお買い上げリストを引っ張り出し、ちゃんと該当商品が記載されていたのを確かめたのだろう。途端、固くなっていた表情がみるみる内に安堵を含んだ緩いものに変わっていった。

 

「あ、本当だ。よかったー」

「どんだけ信用ないの」

「口先だけならなんとでも言えるじゃん、人間って。もしもアレだったら店長の責任問題にもなっちゃうし、一応の確認だってば。証拠はあるに越したこと無いでしょ」

「ド正論」

「貰い物なら食べちゃえ食べちゃえ! 食べなきゃくれた方にも失礼ってもんよ」

 

 肩を回しながら控え室に消える背中。手の中には何度見ても、青色の包装紙が不安定にコロコロと転がっている。

 

「あ、そうだ」

 

 ヒョイとドアから明るく染まったショートカットが覗き、標準的な黒い目が茶目っ気たっぷりに弧を描く。

 

「ダルいの治った? 良い顔色してるじゃん」

 

 それだけ言って満足したのか、今度こそ相方 の五体は揃って内側に引っ込んでいった。

 

 手の中のキャンディーを見て、空いている方の手で顔周りをぺたぺた。

 肩を回し、その場で軽くジャンプを数回。五体の調子は良好。指摘されて気がついた。ここ最近苛まれていた肩の重さ、全身の気怠さがサッパリと消えていることに。

 

「これが糖分効果か……、まだ食ってないけど」

 

 久々に軽いと感じる五体に嬉しさを感じつつ、「糖分スゲー!」と嬉しさ余ってグルリと無意味に一回転。

 

 停止した先にあったのは、レジ横に並んだ商品タワー。

 

 パーカーさんがくれた商品と同じもので作られた簡単な塔には、店員イチオシ! と書かれた小さなポップがおざなりに貼られている。

 

「あ」

 

 自分の胸についている名札と、ポップに書かれた雑な文字。同じ苗字がアクリル越しにくっきりと見え、ぶわっと全身の血液が沸騰した。

 

「まじかー……まじかぁー……!」

 

 疲れた時は甘い物! 糖分が良く効く! 

 

 鮮やかなカラーリングに踊る文章には、自分と同じ苗字が書かれていた。

 

 



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②・後

 

 …………ちょっと変態ぽかったかもしれない。

 

 人と車が溢れる大都会から抜け出し、比較的落ち着いた景色を追いながら、頭の中を占めるのはこんなことである。

 

 なんだよ、「どうぞ、体調には気をつけて」って。むしろお前が不審者に気をつけろよ。俺だけどさ。

 

 肩にへばりついていた低級の雑魚。いくらそれを祓うための演出だったとはいえ、さっきの自分は間違いなく百パーセントの変態。または変質者であった。良い子は全く面識の無い赤の他人からもらったアメなんて食べない。しかもフードを目深に被ったパーカー野郎からの贈り物である。即ゴミ箱に叩きこむわな。

 

 でもさ~、と。誰に言うでもなく、自分自身への言い訳。もとい、精神の安定を図る目的で言葉を重ねる。

 

 だってさ、しょうがないじゃん? コンビニの店員さんは明らかに顔色悪かったし、耳で聞いた足取りも重かった。しんどいのが丸わかり。術式は万が一を考えて使いたくはなかったし、一般人の目の前で堂々と祓うわけにもいかない。呪力を使わず、痕跡さえ残らず、怪しまれず解決するには、【歪曲の魔眼】でひと息に捻じ曲げるのが最適解だったんです。ホントに。

 

 つらつらと出てくる弁明の文章。去り際に見たおにいさんのポカンとした顔がチラつき、ああああああ! と頭を抱えたくなる。

 

 中身はこんなにも冷や汗と後悔の念でいっぱいだというのに、外と中を隔てるガラス窓にはのっぺりとした。感情の起伏が見られない少年が、ただぼんやりと映るばかり。色彩が基本的にふわっふわの薄色なので、かすかに見えるような、という具合ではあるが。幽霊かよ。

 

 後悔後先に立たず。やってしまったことはデリート不可。大人しく心の隅へ沈めるのが吉であろう。そう思わなければもうコンビニ行けない。

 

 どんどん街中を離れ、周囲に緑が多くなる。車体が少しずつ斜めに傾き、人通りの無い山道へ突入。目的地が近い。

 

「峠道に面し、森に囲まれた湖」。それが、今、俺とイジチさんが目指している場所だ。

 

 言うまでもなく、俺にとって。巡にとって、苦い敗北の味を知った決戦の地であり、自らの意思で愛刀を手放した土地。

 

 五体に力が入らなかったベッドの上。朧な記憶と照らし合わせ、【千里眼】による俯瞰で目星をつけていたとはいえ、まさか出会って三日前後の人間と一緒に訪れることになろうとは。人生とは不思議に満ち溢れている。

 

「ここです、停めてください」

 

 静止をかけるとほぼ同時にかかるブレーキ。ぐんと前に引かれた体が揺れ、手入れのされた車体が完全に停止した。

 こう言ってはなんだが、すさまじく手慣れた急ブレーキの踏み方だ。もしかして日常茶飯事だったりするのか。

 

「ここ……ですか? 特に何かあるようにも思えませんが」

 

 助手席側に体を寄せ、小さな窓ガラスから周囲の様子を伺うイジチさん。

 

 そりゃそうだ。他になにかあった方が困る。あの日あの晩、俺とアイツは空箱(からばこ)の中に居たのだから。

 

 イジチさんの車に乗り込み、途中でコンビニに寄るという休憩を挟んで二時間半。道案内の都合上、長時間開きっぱなしであった【千里眼】を閉じた瞬間、じくじくとした熱が脳みそを炙り始める。

 

【六眼】、【魔眼】、【千里眼】、と。得物を振るいながら連続で切り替えた時と比べれば安いものだが、鈍く継続する鈍痛ほど鬱陶しいものはない。

 

 早い話、開きっぱにしていた分のフィードバックだ。処理しきれず積み重なった負荷、と言ってもいい。

 

 どちらにせよ、能力をまだ、モノに出来ていない証拠。使い慣れていない証拠に他ならない。

 

 くっそ……、と。どうせ現実には反映されないのをこれ幸いとばかりに、そう小さく毒づく。

 

【千里眼】とは言ってしまえば、ただただ広い視野を獲得するだけのもの。見渡そうと思えばどこまでも見渡せるが、それだけのものだ。【六眼】のように特別なオプションを秘めてるわけでもなく、【歪曲の魔眼】のような異能を宿しているわけでもない。

 

 ただ視えるだけ。それだけの。その程度の能力すら、俺はモノにできていない。生まれつきの【六眼】はともかくとして、【歪曲の魔眼】はもっと酷い。【六眼】との併用は現時点では不可能。【千里眼】との同時使用は可能だが、負担は相当に大きい。進んだ点を挙げるならば、言葉(トリガー)の省略に成功した程度。

 

【千里眼】、【歪曲の魔眼】。共に瞳に関係する異能であり、能力発動の媒体は【六眼】と大差ない。なのに、このザマだ。

 

 これら三つを使いこなせる日がくるのかどうか。現時点では先の見えない話。地道にコツコツと積み上げていくしかないのだろう。

 

 継続は力なり。便利な言葉だが、やる分には難しい。世の中そう、上手くいかないのが歯がゆい所。

 

 気晴らしのため息をつこうにも、残念ながら体はオートロック。世知辛い。

 

 それでも、愚痴愚痴と上手くいかないことを吐き出す分には自由だ。小さな文句を重ねながら、少しでも早く十全に扱えるようにならなければ。

 どうしたって俺には欠けた肉眼の代わりに。欠けた世界を補うため、この先【千里眼】に頼らざるおえないのだから。

 

 ロックのかかっているバックドアを手動で外し、他に道を走る車が無いかどうかをチェック。

 押し開けたドアから地面へ足をつけ、そのまま身体全体を車体の外へ押し出す。

 

 半月前とは違った空気。夏場自特有のジメっとした空気が蔓延り、佇んでいるだけでも汗が滲んできそうだ。

 

 いつの間にか、梅雨は明けていた。

 

 パタリ。軽い開閉音。続くようにしてフロントドアが開き、ずっとハンドルを握っていてくれたイジチさんが顔を出す。

 

「落とし物、ありそうですか」

 

 周囲を警戒しながらそう問いかけてくるイジチさんに、どうでしょう、と。おざなりにも聞こえる返事を返しつつ、ざっとガードレールに目をやる。

「えぇ……?」と。困惑の二文字をデカデカと表情に記した背広の横を通り抜け、二つ先をいった防止策の足元にしゃがみ込む。

 

 雨風に晒され、ずっと野ざらし状態であったソレ。ゆっくり慎重に、あの夜からずっと。置き去りにしたままだったモノへ手を伸ばす。

 

 白いガードレールの支柱部分に巻きつけられていたのは黒い布。触れた表面はザラリと荒く、ポロポロと固形化した汚れや泥が風に吹かれ飛んでいく。

 しっかりと固く。外れないように結ばれた結び口を解き、軽く手で叩きながら表面上の汚れを地面に。予想以上に積もる固形物にちょっとの苦笑い。

 

 すっかり元の色を失ってしまった縛り紐をなぞり、逆さにした口から転がり出たのは錆の目立つ小さな鈴。

 

 失くさぬよう、内側に組紐ごと縫いつけられているので落ちては来ない。中に入っているはずの玉は無く、音の鳴る器具としては終わった鉛だ。

 

「それは?」

「刀袋です」

「刀袋……」

「抜き身で持ち歩くわけにもいかなかったので」

「抜き身」

 

 中身の無いオウム返しをさっさと切り上げ、回収した刀袋片手に、本命である湖を見下ろす。

 

 クールダウンを挟んだ【千里眼】を再度起動させ、円形の湖を一望できる範囲にピントを調節。【六眼】と併用し、どこかに沈んでいるはずの呪力を探っていく。

 

 一つ、二つ、三つ……。細かく砕けてしまった欠片と思わしき反応を除き、捉えた大きな呪力は三つ。恐らく柄や鍔、はばきの一部が残った状態のものと、折れた刀身部分。そしてそれらが納まるべき場所の鞘だろう。

 

 ────【閻魔刀】。俺が俺の意思で折った、美しい破邪を宿した鋼の名残。

 

 良かった、ちゃんと全部ある。

 

 最悪、アイツに回収されてしまったのでは。とも思っていただけに、胸を撫でおろした安堵の息は大きい。後は湖の中に赴き、直接回収すればミッションコンプリート。

 

 微妙な顔で雑菌やら苔、泥がこびりついた刀袋を横目で見ているイジチさんに向き直り、感謝の意も込めて黒い車体を指さす。

 

「ありがとうございました。俺は回収に向かうので、貴方は先の方で待っていてください」

「え」

「このまま道なりに沿っていくと、幾分もしない内にコンビニが一軒あるはずです。長時間の運転での疲労もあるでしょうし、少し休んでいて」

 

 信じられないものを見た。または、信じられない言葉を聞いた。そんな、驚愕が張り付いた顔のイジチさん。何か変なことを言っただろうか。コンビニでの一軒が尾を引いているので、自信をもって常識人の顔が出来ないのが痛い。

 

 狼狽えながらも、俺を任されたという責任ゆえか。カチカチと眼鏡をしきりに押し上げ、隠された口元からはくぐもった否定の声が耳をつく。

 

 案外、食い下がってくるものだ。どうしよう。

 

 選択肢

▷・いてもいなくても同じなので

 ・エラ呼吸できますか

 ・二度、同じことを言わせないで下さい

 

 前々から気になってたんだけど、この選択肢のラインナップ作ってるの誰だ。あまりにも失礼すぎるだろオイ。

 

 提示された魔の三択に、心の端が引くつく。勘弁してほしい。どれを選んでも角が立つ気がしてならない。もっと穏便なのが何故無いのか。

 

 目の前のイジチさんは怯みながらも引き下がる気配は無く、委ねられた選択肢が消える様子もない。

 

 お互い黙っているだけ、というのも時間の無駄だ。仕方が無いので、とりあえず個人的に思ってはいるけれど、実際口にするのは憚れる正直な感想を選択。

 

 選択肢

▷・いてもいなくても同じなので

 ・エラ呼吸できますか

 ・二度、同じことを言わせないで下さい

 

「いてもいなくても同じなので」

 

 つまり邪魔です……と。自分がどんな顔で、選択した言葉を口にしたのかは分からない。けれどショックを受けたように凍った細長の顔から、そんな後付けが聞こえるくらいの表情と声音だったと察することはできる。

 自分で言っておいてなんだが、こちらまで胸が痛くなる。後でフォローができると良いのだが、行動の制限を鑑みるに望み薄か。優しくない世界だ。

 

 次の瞬間には剥がれ落ちてしまいそうな、亀裂の入った白色。心なしか、そんな風に見えないでもない煤けた眼鏡に、もう一押しかと期待が高まる。

 

 けれどもその期待は綺麗に外れた。人間は歳を重ねれば重ねるほど、強くもなるし図太くもなるらしい。もしかしたら関わった人種によって、成長度合いは異なるのかもしれないが。

 

「それでも……」

 

 弱弱しく響いた言葉。草臥れてみえるスーツは引く気を見せず、一種の自戒とも。自責とも感じ取れる執念で言い募ってくる。

 

「それでも、きみを置いて私だけ先に行くことは出来ません」

「どうしても、ですか」

「どうしても、です」

「見つかるようなヘマはしませんし、逃げたりもしません。それでもですか」

「それでも、です。きみに何かあってからじゃ遅いんです、巡くん」

 

 忘れた頃に髪をさらう、生温い風が妙に気に障る。標準的な日本人特有の色彩が僅かに靡き、キッチリ前髪からはぐれた一本が影を下ろす。

 

 細いレンズを挟んだ細長の瞳。黒と焦げ茶の混在する中には、何か大きな感情が入り交じっていた。例えるならそう、後悔だとか後ろめたさだとか。そんなもの。

 

 ……うーん、なんかワケありかなあ。

 

 見た感じ、イジチさんは頭の固い人種ではなく、時と場合によって柔軟的に対応出来る人種だ。

 

 そんな人がここまでの頑なさを表し、頑として意見を翻そうとしない。負い目であれ誇りであれ、この行動に見合うだけの想いがあると考えるのが妥当だろう。

 

 強引に押し通すだけの、確固たる理由(想い)があるわけでもなし。退くのが無難かな。

 

 加えて、いくら平日の昼下がり。元々人通りの少ない峠道とはいえ、何時までも車両を端に寄せただけというのも体裁が悪い。前後から別の車体が迫ってきたら事であるし、シンプルに危ない。通報されたらお巡りさんが飛んできそうだ。

 

「……わかりました。そこまで言うのなら、撤回しましょう」

「!」

 

 溜まった息を温い外へ吐き出し、軽く気持ちを切り替える。

 言葉を介した小さなことであっても、負けるのはそういい気分ではないのだ。心が狭いとか言うなよ。

 

「どちらにせよ、車は邪魔です。きちんとした駐車スペースが必要なことに変わりはありません。そこから先は、俺が連れていきます」

 

 片手で掴んでいた刀袋を丸め、パーカーのポケットへ突っ込む。取れやすい汚れは粗方落としたが、まあ汚いモンは汚い。戻ったら真っ先に手洗いせねば。

 

 膨らんだ大口のポケット。「の、のーすふぇいす……」と、聞き慣れない単語を呟くイジチさんの目線は小袋に釘付けである。

 

 なあに言ってんだろうなあ、と。首を傾げつつ、俺は物理的に薄いスーツを運転席へ急かした。

 

 

 

 

 

 

 

 バンジージャンプ、というものをご存知だろうか。何が楽しいのか頼りない命綱を人間の体に括りつけ、正気を疑うレベルの高さから進んで五体を擲つ気の狂った娯楽である。

 

 伊地知は見てくれの通り、危ないと感じる事柄に首を突っ込んだりはしないタイプの人間だ。知らず知らずのうちに片棒を担がされていたり、問答無用で投げ入れられる時もあるが、自分から近寄ったことは無いに等しい。

 

「巡くん」

「はい」

 

 恥も外聞も全て投げ捨て、伊地知は十も離れた年下の子に縋り付く。

 

「やっぱり止めませんか」

「止めません」

「下に降りられる道を探しましょう」

「ありません」

「諦めなければ見つかるかも……」

「イジチさん」

「ハイ」

 

 頭一つ分高い場所。凝視していた下方から無理矢理目線を引き剥がし、そろりと伺えば美しい。淡い色彩のキラキラと輝く空色の瞳が、呆れたように伊地知を映している。

 

「このやり取り何度目ですか」

「四度目、でしょうか」

「それだけやったのなら、もう充分だと思いませんか。はい、口を閉じてください。舌噛んだら痛いですよ」

 

 肩に置かれた白い手に力が籠り、革靴の隣にあった新品のスニーカーが一歩。前方へ踏み出そうとする。

 

 肩を抱かれている故、肩に乗った手の持ち主が進めば、伊地知の体は必然的に引っ張られる。

 

 奈落……とまではいかないが、二十六歳になった男の両足が、まるで産まれたての子鹿のように震えるくらいの高低差。

 

 どこにそんな力を隠していたのか、ビクともしない強さで発達途中の。パーカーの上からでも分かる、まだまだ薄い体の持ち主が伊地知を恐怖の底へと引きずりこもうとする。

 

「巡くん」

 

 有無を言わせないような力の発生源の名を呼び、腕を通った胴体丸ごと。両腕でしっかりと抱きつきながら、正に一所懸命、己の全体重をかけたブレーキを踏む。

 

 伊地知の震える呼びかけに、少しの間を置いて子どもの眼が降ってきた。

 

「……はい」

 

 フワフワとした綿毛のような、艶々の銀色。眼下の森が寄せて返す波のように棚引けば、その銀色は不規則に宙を舞う。

 

「やっぱり止めませんか」

「…………」

 

 本能的に分かってしまった。今絶対、伊地知の評価は地に落ちた。下手をしたら地面に埋まったかもしれない。

 

 その証拠にキャッチボールを求めた会話に返答はなく、人間味の薄い端正な顔は変わらずの無表情である。

 

 だがしょうがない。怖いモノは怖い。震えるものは震える。両足だろうが声だろうが、命に関わる警報を本能が鳴らしたからプルプル小刻みに揺れるのだ。

 

 逆らっても良いことは無い。バック推奨。

 

 いや、私間違ってないよね? と。そんな事を考えながら踏ん張っていると、一定の重さを感じていた肩が軽くなった感覚。問答無用、情け無用と言わんばかりの手が退かされたのだ。

 

 大人としての評価をドン底まで落とし、情けない姿を現在進行形で晒している伊地知の祈りが神に通じた瞬間であった。

 最強の先輩は「神サマなんてクソだクソ」なんだと言ってはいたが、そう捨てたものじゃないのかもしれない。

 

 滲んできた景色。辛うじて世間体を守っている顔のまま、冬色の子をふり仰ぐ。

 

「イジチさん」

「はいっ!」

 

 元気良い返事をすれば、背後から回ってきたのだろう。身長に見合った長さの腕が上着ごと、くびれも柔らかさも無いおっさんの腰を掴む。

 

 え? と思う暇も無く、引き寄せられた体は隣のパーカーへ密着。腰にあった腕が腹部へ回ったかと思えばフワリと。

 視界はカクンと前のめりに下がり、しっかりと地面を掴んでいた両足はぷらり。無念にも空中に浮いている。

 

「うるさいです」

「え」

 

 ぽんと気軽に。目の前の段差を飛び越えるような感覚で、伊地知を片腕に抱えた子どもはコンクリートを蹴った。

 

 一瞬の浮遊感。内臓が持ち上がる、あの独特ななんとも言えない感覚。

 

 上を見れば燦々と輝く太陽、青い空。下を見れば消失した道路と、変わりとばかりに広がる鬱蒼とした森。中心に口を開けた湖面が眩しく輝く。

 

「暴れないで下さいね。邪魔だと感じたら落とすので、貴方死にますよ」

「エッ」

 

 伊地知潔高。人生初のバンジージャンプは、人力の紐無しバンジーであった。

 

 落ちる落ちる、落ちていく。みっちり詰まった内臓が落下方向と反対の方向へギチギチに寄り、車の中で食べたサンドイッチがせり上がってくる。ついでに、体の外は元気に育った緑色が迫って来ている。

 

 あ、死んだ。私死んだ。死因は高所からの落下によるショック死です。最高にダサい。

 

 悲鳴なんて出ない。喉の奥で魂の叫びは潰れ、かけていた眼鏡は風圧で吹っ飛んだ。

 

 群生した樹木の表層がどんどん近づき、恐怖のあまり伊地知はカピカピになった両目をギュッと瞑る。

 

 視覚情報を閉ざして直ぐ、封じる術のない聴覚はガサガサと乱暴な。太い枝が連続して折れたような、そんな音を拾う。

 

 いっそのことさっさと手放したい意識を抱えながら手足を縮こませ、いつ来るか分からない衝撃に怯えること暫く。

 何時まで経っても来る気配のない重力の法則。怖々と強く閉じていた両目を開けば、なんと自分の視界は小さく左右へ揺れている。しかもぼやける視界の中、見間違いでなければすぐ下にあるのは緑の散った茶色だ。

 

「……私生きてる」

「なに当たり前のことを言っているんですか」

 

 呆然と。この世にある自身のライフ生命を呟けば、感情の抜け落ちた声が上から降ってきた。

 

 眼前に差し出された物体。両手で受け取り、まじまじと見てみれば、その正体は馴染み深い視力の補助装置。眼鏡だ。

 

 まごつきながらもツルを両耳へかけ、あるべき場所へ眼鏡を戻す。途端、クリアになった伊地知の世界。

 確認できる範囲で首を巡らせてみると、流れていく景色は見紛うこと無き森であった。上からの森ではなく、至って普通の、下からの森。または森の中。

 

 一定のリズムを保ちつつ、スニーカーが右、左と交互に柔らかそうな土の道を行く。コンパスが長いのか、歩数に対しての距離が長い。

 

 そろりそろり。木漏れ日の通る頭上。伊地知は勿論いるであろう、新緑の中を行く長い足の正体へ顔を向けた。

 

「……巡くん」

「はい」

 

 目線は合わない。天幕のように広がる葉っぱが斑に光を通し、幼さの残るベビーフェイスに明暗の凹凸を描く。

 

「どこですか、ここ」

「飛び降りた先の森です」

「飛び降りたんですか」

「飛び降りました」

「飛び降りちゃったんですか」

「面倒だったので」

「……一瞬、死ぬんじゃないかと思いました」

「そうですね。俺は死にませんが、普通の人なら死んじゃう高さだったと思います」

「…………眼鏡、ありがとうございました」

「いえ」

 

 季節柄、ミンミンと鳴き始めた虫の声。プツリと切れた会話に、今更ながら全身の穴という穴から冷や汗が溢れ出す。

 

 どこぞの最強に振り回され、ノミからミノムシ程度には進化した心臓。恐らく今、伊地知の心臓はミノムシからワンランク上の生物へ進化したはずである。

 

 息切れは無いが動悸が激しい。可能ならば飛び降りる前の心臓にBボタンキャンセルしたい。

 

 強制的に地面から離脱させられた革靴が右へ左へ。治まる様子のない冷や汗で背中にシャツが張り付き、上着を脱いだらどんな絵面になるかなんて考えたくもない。

 

「巡くん」

 

 チラ。眼球の小移動。豊かな睫毛が日傘を務め、水泡のように儚かった水色に濃い影を落としている。

 

「自分で歩きますので、放してもらえませんか」

 

 落ち葉を踏む乾いた音に、小枝を踏み折った甲高い音が重なった。

 

「あれだけお見苦しい姿を見せておいてなんですけど、私もいい年した大人です。自分の足で歩けますし、小脇に抱えられながらの移動はちょっと……」

 

 荷物のように。いや、二六歳の三十路間際の男を抱える子どもにとっては実際お荷物なのだろうが、言外に「この状態は恥ずかしいです」と。オブラートに包んだ台詞を口にした所で、伊地知は重大な事実に気が付く。

 

 抱えられている。荷物のように軽々と。成人男性の平均体重は確実にある体を、伊地知の要求ガン無視で足を動かす最強そっくりな子は苦も無く運んでいる。しかも片手でだ。

 朝、郵便ポストに入っていた新聞を脇に抱えるのと同じくらいのノリで、伊地知の体を片腕一本で運搬している。

 

 逞しいゴリゴリの筋肉達磨ではなく、儚げな。だぼだぼのパーカーを着ていても細身だと分かる、成長途中の体がだ。

 

 特別性の身体だと。それなりの年数を補助監督として呪術界に身を置いているからこそ、不可解に思った時には類似した解答に行き当たる。

 浮かんだのは高専に所属する呪具使いの二年生。彼女と同系列の、天から課せられた呪いと引き換えに、超人的な肉体を獲得した系列(タイプ)

 

 ───────天与呪縛(てんよじゅばく)のフィジカルギフテッド。

 

 意図せぬ所で発見してしまった、閉じた雪色の特異性。名前のついた先天性の特異体質に、また違った意味で息が浅くなる。

 

 それもそうだろう。迷いのない足取りで森の木々を通り抜ける子には、何度確認したって呪力があるのだ。ギリギリ呪霊が見える程度の、ではなく、五条悟と同じような。呪霊を直接祓えるような、呪術師として活動するのに謙遜無い呪力が体内を渦巻いている。

 

 つまり伊地知を片手間に運ぶこの子は、呪力と引き換えにその肉体を獲得したワケではない。そして初めて対面した際の五条の口ぶりからして、対価に術式を取り上げられたワケでもない。

 五体は満足。日常生活に支障は無い。

 

『五条の名以外を背負うお前を認めないよ』

 

 数日経ってもなお、耳に残る言葉。珍しくも執着の片鱗をみせた呪術界最強の声が蘇る。

 

 それはつまり、

 

「巡くん」

「……なんですか」

 

 当たり前だと。あの人以上の化け物なぞ、もう出てこないだろうと。

 

「上から飛び降りた時、私は落下の衝撃も、痛みも感じませんでした」

 

 打ち止めされていた化け物の認識が、覆される気配。

 

「どうして、でしょうか」

 

 歩み続けていた両足がピタと止まり、ずっと空中を行き来していた伊地知の足が地面へ下ろされる。

 

「俺たちに当たらなかった(・・・・・・・)から。いえ、貴方にはこう言った方が分かりやすいのか」

 

 当然のように信じていた。享受していた常識が、音を立てて崩れる予感。

 

「無下限呪術。今、この瞬間にでも世界に内在する無限を、俺と貴方を囲うよう、現実にもってきました。衝撃も、木の葉や枝も。そこにあった無限を越えられなかった、というだけの話です」

 

 息をするように。罅の入ったガラス玉が自身の術式を謳いあげる。生まれたと同時に握っていた、特別な術式を。

 

 伊地知に据えられていた水色の瞳が逸れ、柔らかそうな銀色が白い肌にかかる。

 

 ひと目見た時から痛々しいと。そう感じた欠けた瞳が、今ではひどく恐ろしい。本来であれば二つ揃った、五条悟そっくりであったという淡い色彩が恐ろしくてたまらない。

 

 無下限呪術。世界に遍く無限を、現実に構築する術式。五条悟だけが持ち得る。最強だけが持ち得ていた(・・・・・・)、呪術界御三家が一つ。五条家に伝わる相伝術式。

 そしてソレを使いこなすために必要不可欠な特別性の瞳、六眼。淡くも美しい、キラキラと輝く万華鏡のような泡沫の水色。

 

 ああ、ああ! こんなことが。こんなことが、あるものなのか。あっていいものなのか。

 

 相伝術式の無下限呪術。呪術界における神の瞳、六眼。天から与えられた呪縛と引き換えに獲得した、常人のはるか上をいく超人的な身体能力。

 

 この子どもは。最強の代名詞である五条悟の息子であるこの子は、本当に自分と同じヒトであるのか。そう、伊地知は思わずにはいられない。

 

 時折り吹く風に髪を遊ばせる、まだ年若い子は。どれだけのモノを授かってこの世に生まれ落ちたのか。

 

 そして────

 

「後は俺が直接下に潜ります。水の下まで着いてくる、というなら連れていきますが、あまりオススメはしません」

 

 どうしますか、と。問うてくる特別な瞳に、伊地知はゆっくりと首を振る。

 

 ────どれだけの重荷をこの先、背負うことになるのだろうか。

 

 所詮、伊地知潔高という人間は特別でも選ばれた存在でもない、日本中探せば三人に一人は転がってそうな平凡なヒトだ。

 そんな平々凡々な人間にだって、世界はちっとも優しくない。

 

 崇高な理念を掲げ、世界のため人のため、身を粉にして奉仕していた二個上の先輩。彼だって最後には背負った重荷と理想に押し潰され、世界そのものに殺された。

 

 世界は誰にでも平等だと。残酷だと、皆は口を揃えて言う。だけど伊地知は「いいえ」と。問われれば首を横に振るだろう。

 

 世界は平等なんかではない。誰にでも等しく悲しみは降りかかるけれど、味付けされた悲劇の濃度は不平等だ。

 

 特別を持つ人ほど背負った荷物は重く、世界はより、残酷な選択を迫るのだから。

 

 

「……いいえ、お気をつけて」

 

 開けた視界に見えた丸い湖にゆっくりと。ガラスの球体を水槽に押し込むように。父親のお下がりを着たパーカーが水底へと沈んでいき、たっぷりと溜った水は不自然な円を描きながら避けていく。

 

 そう遠くないうちに、何度も見送ることになるであろう背中。

 

 辛うじて捻り出せたのは、無事を祈る当たり障りの無い言葉。それ以外、かけられる言葉を伊地知は持ち合わせていなかった。きっとこれから先も、見つかることは無いのだろう。

 

 同じ土俵にすら立てない凡人の言葉など、かけた分だけ、いつかの重荷になるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ポタポタ。ぺっとりと肌に張り付く銀糸を伝って滴り落ちるのは、この季節には縁遠い水滴。

 雨に降られる紫陽花の葉のように、ぱたぱたと含んだ水が下へ下へと足を進める。

 

 毛先から滑り落ちた過分な雫は重力のままに落下し、何度も何度も。同じ軌跡を描く水分は足元に溜まり、定期的な波紋を鳴らす……わけではない。確かに落下の軌跡を描く雫は波紋を呼ぶが、それらが重って積もるのはシートの引かれた足元ではない。体とその他の接触を阻むよう構築した、無限の上だ。

 

 フッ、と。諦念にも似た溜め息が口から漏れる。

 

 …………知ってるか? 自分の術式を得意気に語り、「後は俺が直接下に潜ります」ってキメ顔かましながら潜った湖でびしょ濡れになった阿呆がいるらしいぜ。

 

 ひんやりとした、金属特有の冷たさで象られた金色の鍔。純白を表す柄はしっとりと濡れ、繊維の隅から隅まで水が染み込んでしまった柄巻が妙に落ち着かない。

 

 法定速度ギリギリを攻めた速度で車輪が回り、少しでも早く水気が飛ぶようにと全開にされた窓から風が生温い風が流れ込む。

 

 元気に輝いていたお天道様は傾き、空にはすっかりオレンジ色が広がりを見せている。

 

 日没だ。

 

 風の入る方向へ身を寄せればカタリと。抱えていた長物が軽い音を立て、黒漆の鞘が夕日を吸い取る。

 

 人にとってはたかが半月。俺にとっては長らく離れていた破邪の一刀が、今日ばかりは憎らかった。

 

「あと三十分もすれば高専に着きます。日が落ちてきましたが、寒くはありませんか?」

「……大丈夫です。夏なので」

「寒気を感じたら直ぐに言って下さい」

 

 打算無く純粋に。バックミラーから顔色を確認し、こちらを気遣ってくれる姿勢がひどく胸に刺さる。

 

「……すいません。本当なら近場の銭湯にでも寄るべきなんでしょうが」

 

 申し訳なさそうに眉が下がり、赤い針が右肩に振れ、速度メーターが上がった。

 

 選択肢

 ・お気になさらず

▷・自業自得なので

 ・大丈夫です

 

「自業自得なので」

 

 本当に気にしないでください俺の羞恥心がそろそろタオルぶん回しそう。

 

 済ました声音に聞こえるが、()()も恥ずかしいの大乱舞である。その証拠に抱えた柄に隠れた耳朶はジワジワと熱を帯び、真っ赤に色づいていることが鏡無しでも容易に想像出来る。

 

 ええ、そうです。何を隠そう穴を掘ろう、自分の術式を得意気に語ってキメ顔を披露した挙句、びしょ濡れで湖から這い上がってイジチさんを絶叫させた間抜けは俺です。

 いっそ笑ってくれ。最高にダサいし恥ずかしい。顔が上げられんわ。

 

 僅かに視線を落とし、バックミラーに映る自分から目を逸らす。

 代わりに入ってきたのは重厚感のある金色の鍔と、それを縫い止めている淡い黄色。

 

 鍔の上を通り、何重にも巻き付けられたそれは下緒だ。鮮やかな黄色は色褪せた様子は無く、鍔と鯉口が離れぬよう、柄と鞘をしっかりと結んでくれている。

 本来ならば下緒とは装飾品の一種なのだが、事情が事情なため、今ばかりはその役目もお休み中。

 

 一見、何の変哲もない日本刀に見えるが、中身がアレなのだ。

 

 鞘の内側は刀身とはばき含める柄部分に中身が分かれ、軽い衝撃を与えただけで中身がポーンッと飛び出てしまう。言うなれば刀剣危機一発。

 そのため、鞘の(こしらえ)である下緒を巻き付け、鞘走りしないように固定しなければ危険極まりない。飛び出た中身が俺に向かうならともかく、イジチさんに向かったらジ・エンド。(イジチさんの)人生が終わる。

 

 なんと言ったって、艶やかな黒漆の鞘に納められている白刃の鋼は破邪の王。刃紋乱れ咲く美しい刀身に宿るは、あらゆる呪力を喰らう力の象徴、そのものに他ならない。

 

 ────────【閻魔刀(やまと)】。光の遠い底のそこから引き揚げた、一振りの刀。

 

 俺の大切な、力の(しるべ)と言えるもの。刀身が折れていようがなんだろうが、人間の首程度ならばスッパリ綺麗にスライスできる。現に一度、イジチさんの首がスライスパンになりかけた。危ない。

 

 まあ、全身ずぶ濡れ、パンツまでびっしょびしょになった原因もコイツなのだが。

 

 ジトリ。心にある正直な双眼を半目にするも、腕の中に胡座をかく特級呪具は涼しいものだ。

 

 俺も俺で、水底に佇んでいた【閻魔刀(やまと)】を発見し、久しぶりの再会にテンションがぶち上がったことは認めよう。

 最初に拾ったのははばきを含む柄部分。次に見つけたのは下緒の靡いていた鞘。そして最後、手に取ったのは刀身部分。……もう一度言おう、刀身部分だ。呪力を喰らう特性を宿した、かの最強を守る無限すらも平らげる大食いの鋼。

 水中を進む必要があったゆえ、纏っていた【無下限】は俺を中心としたシャボン玉型。 つまり俺が破邪の刀身に触れるよりも先に、外壁の役割をこなしていた無限の層が【閻魔刀(やまと)】に当たるということ。

 

 ハアアア!! 【閻魔刀(やまと)】! 【閻魔刀】! いやほんとマジごめん、あの時はアイツの命とお前を天秤にかけてお前を折ったことは後悔していないけどそれはそれとして寂しかったし落ち着かなかったしもしも知らない奴に回収されたりしてたらどうしようとかもう色々と気が気じゃなかったんだからもおおおお!! 

 

 なーんて。何も考えず頭空っぽにして走り寄った場合、どんな事が起きるでしょうか。はい、答えは簡単。刃部分に接触した瞬間、水圧やら水そのものやらを押し止めていた【無下限】が消えました。

 

 気づいた時には手遅れ。見事に頭のてっぺんから爪先、パンツや靴下まで水浸しである。

 

 くっそー、と。最後に振るったあの月夜の晩から何一つ変わらず、美しいままの【閻魔刀】が何とも腹立たしい。

 

 大型のトラックを追い越したのか、風の出入口が妙にガス臭い。

 

 八つ当たりを兼ねたソレに【閻魔刀】は当然ながらうんともすんとも言わないし、道路を走る車は法定速度ギリギリのままだ。

 

 コンビニの件もそうだし、【閻魔刀】を回収した時のやつもそうなのだが、なんだか今日は調子が出ない。

 いつもの調子ってなんだよ。そう突っ込まれても返答に困るのだが、「なんだかなあ……」という気分なのだ。分かってくれ。

 

 だけれど、良いこともあったと言えばあった。

 

 手元の【閻魔刀】から前方へ。眼球のフォーカスを変えれば、熟練の職人を連想させる手つきでハンドルを切る運転手が飛び込んでくる。

 

 イジチ。イジチさん。名前は忘れた。丁寧な自己紹介をしてくれた気もするが、どっち側なのか分からなかったので覚えてない。

 

 散々あの人(五条悟)に、俺の存在を隠し通せ。誰にもバレるな、と。半ば脅しの入った口調で言い付けられていたというのに、警戒しながらも俺を外に出してくれたお人好し。

 いや、お人好し、とまでは言えずとも、根本的に善性の比率が多い成人男性。

 

 ただし呪力を持った、という注意書きが付くが。

 

 だからどっちなのか。人であるのか、はたまた呪術師(蛆虫)であるのか。今日まで判断を保留にしていたが、ようやく分類がついた。

 

 車道をコントロールする信号機は折り良く赤色。停止のサインだ。

 

 チラチラ、チラチラ。レンズを挟んだ細長い目を小刻みに動かし、バレないよう逐一。こちらの様子を確認しては前、確認しては前、と。繰り返す黒色の目にタイミングを合わせ、バックミラー越しにイジチさんの意識を捕まえる。

 

 ヤベェ、バレた。そうありありと分かるギョッとした表情だった。

 

「イジチさん」

「は、はい……」

 

 後ろめたいことでもあるのか、返された返事はやけに小さい。

 

「貴方はとても、弱いですね」

「え」

「感じる呪力は出涸らしよりも薄いですし、身体能力もほぼ一般の人と変わらない。精々が、同年代の中ではちょっと運動が出来る程度でしょう」

 

 で、出涸らし……と、ショックを受けたような呟きが聞こえるが無視を決め込む。

 

「俺なら今すぐにでも、素手で貴方を殺せます。手を伸ばして頭部を掴めば、苺のように簡単に潰せる自信があります。そこら辺にいる呪霊でも、貴方を殺すのにそこまでの労力はかかりません」

 

 次から次に届く情報。行きと帰りを通し、あまり口を開かなかった俺の行動に、細いフレームの眼鏡は白黒と大忙しだ。

 

 この人は弱い。弱くて脆くて、この世界で生きるにはあまりに力不足だ。それこそ、何故、この呪い呪われる世界に身を置くことを決めたのか分からないほどの圧倒的弱者。

 公的機関であれ個人であれ、何かしらの庇護が無ければすぐ死んでしまいそうな、搾取される側の人間。

 

 (たか)る虫を駆除する事もままならい、弱くて脆い、そんな存在。

 

「ねえ、イジチさん」

 

 返事は無い。ミラーに映る細長の瞳はちょっと水分が多かった。

 

「名前。もう一度、教えてもらえますか」

「なまえ」

「はい、貴方の名前」

 

 赤く灯っていた三色の丸が黄色へと変わる。

 

伊地知潔高(いじちきよたか)、です」

 

 混乱の残る声で示された名前を、頭の中で転がす。

 

「漢字ではどう書くんですか」

「伊豆の"伊"に地面の"地"、知識の"知"で伊地知です。潔高は(いさぎよ)い高台と書きます」

 

 イジチ キヨタカ。伊地知、潔高。

 

「伊地知さん」

「なんでしょう」

 

 黄色に赤色。そしてまた、黄色。信号機の中では中途半端な、気をつけてのサインが光る。

 

 戸惑った様子の男性。俺の見つめる彼は呪力を持ちながら呪術師になれず、平凡から逸脱出来なかった凡人に他ならない。

 

「貴方はどうしようもなく、人ですね」

 

 かあさんと同じ、ただの人間。俺が守らなければならない、小さくともあたたかな。幸せを享受するべき、一個の人だ。

 

 三つ目の信号機の中。次に発光したのは青色。安全を示す進めのサインに、車輪が動いたのはすぐのことだった。

 

 

 



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③・前

 

 気紛れに手にした雪が溶けるよう、気がつけばそこに佇んでいる。

 

 カタリ、カタリ。カラカラと。

 

 乾いた木々を叩くような。誰かが障子を引いたような。はたまた、開いたものを閉じたような、そんな音が四方を囲む。

 

 カタリ、カタリ。カラ、カラ。

 

 ゆっくりゆっくり、大きな瞬きを繰り返し、まだ宙に浮いたかのようにはっきりとしない意識を手繰り寄せる。

 

 カタリ、カラカラ。カタン、カタン。

 

 手のひらに収まった自己意識。もう一度ゆっくり眼を開けば、幾つもの木片が組み合った繊細な模様。

 それは薄く伸ばした純白の和紙を背景に、綿密な計算式の元、成り立つ組子が刻々と高らかに鳴り響く。

 

 ────────カタン! 

 

 上、下、右、左。四方八方から絶え間なく降り注ぐ()み音の中、ひときわ強く、耳を打つ高音が一つ。

 

 背中を押されたようにフと。竜胆から籠目へ。その成りを変えた細工から、己の立つ足元へ視線が下げる。

 

 ……カラカラ。カラカラ。カラ、カラ。

 

 骨ばった、白い素足。足蹴にした床に畳は無く、ただただ。紡ぐ繊維を取り上げられた糸車のように、空虚な瞳が回っていた。

 

 カラカラ。カラ、カラ。カラカラ、カラリ。

 

 何を。誰を映すまでもなく、咲いた万華鏡は虚ろに空回る。

 カラカラ、空々(からから)と。冷え冷えとした濁った瞳は、ひどい停滞の匂いがした。進まず、戻らず。蹲って耳を塞ぎ、訪れることの無い誰かの温もりを待っているような。そんなようなもの。

 

 鳴り響く組子を背に一歩、籠目模様のまま静止した障子に手をかける。

 

 貼り付けられた障子紙の向こうには、組子障子にもたれかかった人間のシルエット。

 きっと隔てられた先にいるのは、あの日に一瞬。触れ合っただけの隣人の彼。

 

 丹念にやすりをかけられた、滑らかな木材。父親譲りの白々(しろじろ)とした指に力を込め、薄色の爪が桜に染まる。

 

 カタリ。カタリ。カラカラ、カラ。

 

 開くはずの障子は動かず、仁王立ちした組子細工は無愛想なことこの上ない。

 

 もう一度。そう思った途端、まるでその試みを拒絶するかのように、急激に意識が遠のいてくる。

 底へ底へ。深い部分にまで潜った体を無理やり引っ張りあげられるような。そんな感覚。

 

 煩わしい程に聞こえていた組子の音が遠のき、霞んだ景色と共に五体の力が抜け落ちる。

 

 ああ、まただ。また、今日もあえなかった。

 

 ぼやけた人影はやはり、静寂(しじま)のように口を噤んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 東京都立呪術高等専門学校。その名の通り、そこら辺を跳梁跋扈する呪い。呪霊と呼ばれる存在に対抗する術を学ぶため、設立された教育機関。または、育成機関。

 全国含めて僅か二校しか無い、呪術界の後進を育てるための起点。それがここ、高専なのだそうだ。

 

 呪術高等専門学校と名打っているように、高専のカリキュラムは呪力の扱い方や基礎知識、最低限の体術訓練。そして実践の場に当たる任務等々、まさに呪術師育成に力を入れた方針のもの。世にいう、十六〜十八歳あたりの子どもが学ぶとされている一般教科も呪術関連とは別個に組み込まれているようだが、そこら辺は良いだろう。

 

 基本的に在校する生徒数は少なく、呪術系と一般系の両方を学ばなくてはいけないため、高専の最終学年は四年。その四年間の内に生徒は自分がどちらの道に進むかを考え、卒業までの日々を謳歌する。

 

 人とは違う力を持ち得て高専に入ったものの、この世界に嫌気が差して一般系に。単純に渡り合える才能、身体能力、センスが無かったがため、補助監督や窓といったサポート役に。

 このように呪術師となる道から逸れた。あるは断念した者もいる一方、当然ながら本命の呪術師になる者もいる。

 

 呪術師志望の生徒の分類は凡そ四つ。

 

 いち、五条や禅院、加茂など、いわゆる呪術界御三家に名を連ねるもの。

 

 に、上記の三家ほどではないにせよ、古くから呪術師を排出している家系の出であるもの。

 

 さん、一般家系の生まれでありながらも、こちら側に足を踏み入れる資格を有してしまったもの。

 

 よん、呪術界的にヤベェやつを始末しようとしたが、よりヤベェやつが上層部を丸め込み、そのヤベェやつを生徒として迎え入れたもの。

 

 四番目は正直、例外中の例外だと思うので除外。というか、仮にあったとしても何の参考にもならないだろう。

 

 そもそも呪術界とは術式、血統、そして才能を何よりも重んじるカビの生えた骨董サークルだ。

 そんな古臭い界隈において、圧倒的不利であるのが三番に該当する者たち。

 

 一、二番目はそもそも生家や血縁といった後ろ盾が半ば自動的に付属し、その価値によって業界内でのポジションを確立してくれる。だが何も後ろ盾が無く、更に特出した力を持たなかった場合は悲惨の一言。

 良くて木っ端の任務。悪くて捨て石。才能と力がものを言うピラミッド社会において、その命は藁よりも軽いものとなる。

 

 このような事態を防ぐため。高専は人材育成の他にも、卒業後の生徒がここを拠点に活動できるよう、仕事の斡旋やサポート。更には「高専」という後ろ盾を提供しているそうだ。

 

 まさに大小関係なく、現代における呪術界の要と言えるべきもの。

 

 この要石の配置場所は二つ。一つは東京。主に東日本で起きた呪術関連のゴタゴタを担当し、解決する役目を担っている。略称は東京校。

 一つは京都。五条を始めとする御三家が集中していることや鑑みた歴史から、別名「呪術の聖地」の異名を取る主要地点。担当範囲は主に西日本であり、名称は京都府立呪術高等専門学校。略称は京都校。

 

 東京校と京都校。全国に二つしか無いのだから当然と言えば当然だが、両校は姉妹関係に当たる。

 

 姉妹校であれば必然、交流会が開かれる。それは一般の高等学校でも、呪術高専でも変わらないらしい。

 

 ただ、その中身は全くの別物であるが。

 

 呪術高専。(のろ)(すべ)を手にした人間が集まる異界の集落。そんな所に身を置いている生命体が、お行儀良くお互いの自己紹介から仲を深めるだろうか。いや、有り得ない。

 

 行うのは生徒同士の楽しいレクリエーションではなく、大怪我が隣合わせの呪い呪いあう呪術合戦。

 

 東京、京都の面子(メンツ)。当人たちのプライド。階級制度のある呪術界で昇級のチャンスを狙って。または、己の正当な評価を求めて。

 

 理由は個人によって様々だが、一年に一度行われる交流会。縦の繋がりが薄い呪術関係者の耳にも入る京都姉妹校交流会とは、そんなものなのだそうだ。

 

 

 パタン、と。最後まで目を通した冊子を閉じ、目頭を軽く揉む。ちなみに揉むのは現実の目頭ではない。心の目頭である。

 

 本日は晴天も晴天。雲ひとつ無い……とまではいかないが、本格的に鳴き出した蝉の合唱が良く通るお日柄だ。

 

 朝っぱらから気味の悪い人形と、今さっき読み終わったばかりの冊子を手に不審者。もとい、五条悟がドアを潜ってやってきたのがお昼前。

 

 出張先からのお土産だよー、と。とある部族の御守りらしいセンスを疑うピンクマペット。そして「クソガキでも分かる呪術高専入学書」と印字された冊子を押し付けられ、挙句の果てには

 

「京都校との交流会の初日は今日だから、お前絶ッッッ対に外出ちゃダメだからね! 耄碌したジジイとか牛みたいなピアス付けたジジイとか、ケツの穴臭そうなジジイとかが来てるから。暇だったらその伊地知作のパンフレット読んで大人しくしてて」

 

 などと早口で捲し立て、嵐のように去っていった。その間、時間にしてわずか三分少々。

 

 起きる直前まで見ていた夢が未練たらたらのものであったゆえ、意識はまだうつらうつらとした寝惚け頭。

 そんな中バァン! と出てきてバァン! と出て行った人間の言葉なんて、正直半分も覚えていない。

 

 京都にある姉妹校とのイベント初日が今日で、おじいちゃんが三人。

 

 重い頭を引きずりながら洗面所で顔を洗い、いつの間にか用意されていた朝食を黙々と口に運んでようやっと覚醒した脳みそ。

 順調に回り出した頭でアイツの言っていた言葉を思い出すも、結局なにも分からなかった。

 

 おじいちゃんが三人ってなんだよ。三人もおじいちゃん来てどうすんだよ。

 

 そんな疑問から寄越された冊子に目を通してはみたものの、おじいちゃんは分からないままだった。幻聴を疑った方が良いのかもしれない。

 

「クソガキでも分かる呪術高専入学書」と書かれた表紙部分だけを破り取り、ゴミ箱にボッシュート。表紙と腹立つネーミングはどこぞの最強作なのだろうが、作りこまれた中身は伊地知さん作であろう。

 

 丸めた紙屑は完璧な曲線を描き、ショッキングピンクがはみ出しているゴミ箱にぽすり。狙ったように入ったそれに満足しつつ、腰掛けたベッドに映る影をコツコツと。優しくノック。

 

「おはよう、かあさん」

 

 とぷり。触れた影に、小さな波紋が広がる。五枚の爪がついた、白い手は出てこない。

 

 高専に張り巡らされている結界の都合上仕方がないとは言え、揺れるだけの影が少し寂しい。

 氷のように冷たく、生命の感じられないものであったとしても、それは間違いなくかあさんの手だ。俺を抱きしめてくれる、かあさんの手。

 

 シーツから手を退かせばたちまち波紋は静まり、なんの変哲もない薄墨色に戻る。

 

 まあ俺の主張がどうであろうが、分類的にかあさんは呪霊。その一片でも外に出てしまえば忽ちどデカいアラートが鳴り響き、かあさんどころか俺の存在もバレてしまう。

 アイツ(五条悟)の言いつけを守るようで癪ではあるが、下手なことをして此方(こちら)のかあさんに何かあったら困る。すごく困る。タイミングが来るまでは大人しくしておいて損は無い。

 

 腰掛けていたベッドから立ち上がり、ぐーっと大きく背伸び。ゆっくりと体の具合を確認するよう、四肢を順々に伸ばしていく。

 

 よしよし。身体機能は完全に戻ってきた。いかんせん半月近くもベッドの住人だったため実践での動きには不安が残るが、基礎能力は良好。

 

 全身の筋肉がほぐれた事を確認し、立て掛けておいた刀剣を手に取る。

 

 黒色の鞘に純白の柄。そして金色の鍔。すっかり元の装飾品。(こしらえ)の役目に戻った黄色の下緒が光を浴び、吸い付くように馴染む柄をそっと引き抜く。

 

 キチ────と。

 

 鋭い鋼が鞘に音を残し、残響のような。その身に触れた空気を切り捨てたような、そんな余韻が正方形の室内に波打つ。

 

 抜かれた刃。抜いた刀身。本来であれば冷え冷えとした、刃紋乱れる美しい鋼が怪しい輝きを放つのだが……。

 

 すっかり軽くなってしまった【閻魔刀(やまと)】を見つめ、小さく息をつく。

 

 何度見ても、何度繰り返しても。【閻魔刀】の刀身は無い。俺が最後に見た時のまま、はばきと共に僅かな鋼が残る程度。

 

『死ね、クソ親父』

 

 その一言と共に振りかぶったこれは、ついぞ届くことは無かったけれど。

 

 自分で言っておきながら急転直下で落ちていくテンション。

 

 軽くなった刀身とも呼べない欠片を戻し、丁度、窓から差し込む光を遮断してくれる位置にある棚に立て掛ける。

 ちなみに柄とは別に、鋼の大部分を占める折れた刀身。呪力を喰らうそれは綺麗な布で何重にも保護し、執念で汚れを落とした刀袋の中だ。

 

 上げた腰を再び元の位置へ下ろし、軽く目を閉じる。

 

【閻魔刀】、【閻魔刀】。俺が俺の意思で折った、力の象徴。これが無ければ、かの最強の首を取るのはひどく難しい。

 いや、それ以上になによりも。この美しい破邪の王を。使い手の力量不足により損失した刃をこのままにしておくなど、出来るわけもない。

 

 早く。一刻も早く、元に戻さねば。

 

…………って、剣士の真似事してる人間ならそう思うじゃん? 俺もね、伊地知さんと一緒に【閻魔刀】回収した時から思ってるんだけど、一向に動かねぇんだわ体が。いや、もう、ね? 積もった意志に反してこの部屋から出ようとしないのよ。

【六眼】先生も沈黙を守ったままだし、すっかりなりを潜めてしまった【メインクエスト】も空欄。八方塞がり。何をしていいのかも分からないし、何が出来るのかも分からない。豚になりそう。

 

 最近ようやく潜れるようになったあの場所(・・・・)においては足踏みを繰り返し、もう一度チャレンジしようと思った所で毎回目が覚める。カタカタ鳴る組子障子もうるさいし、足元で回るひとつ目の万華鏡も不気味で恐い。

 

 本当にやる事がない。日記はかあさんに預けたまま影の中だし、【閻魔刀】も破損中。

 

 かと言ってこのまま無為に時間を浪費するのもイヤだ。人間に流れる時間は有限であり、いつ。どこで。俺の目標を達成出来るチャンスが巡ってくるとも分からないのだから。

 

 吐き出した空気と共に、閉じていた瞼をあげる。

 

 これはもう、なんだかんだと理由をつけていたあの問題をどうにかしろというお達しなのか。お達しなんだろうなあ! 

 

 臍あたりを起点に負のエネルギーを循環させ、最初はゆっくり。染み込ませるように。巡らせた呪力が一巡したのを確認次第、次は最初のものよりも早く。その次はもっと早く、と呪力の循環速度を徐々に上げていく。

 

 緩く両手を広げ、四肢に流していた呪力を今度は術式へ。体にある回路は流し込まれた動力を感知し、予め書き込まれた能力とは反対の。反転した力を現実に吐き出す。

 

 広げた空間に灯ったのは仄暗い赤色。一つ、二つ。三つ、四つとそれは順調に数を増やしていくも、七を超えた辺りでその輪郭が揺れ始める。

 

 ふらふらと不安定に靡く【赫】。コントロールという手綱から抜け出そうとするソレに奥歯を噛みつつ、慎重に。一つ一つ、丁寧に込めた呪力を解いていく。

 

 ミンミンと騒ぐ虫の声が、空調の効いた部屋を満たす。

 

 最後の無限が空気に溶け消えたのを確認し、スッと。心では頭を抱え、現実では参ったように。緩く開いていた手は米神に移ろう。

 

 この感情を言葉に表すとしたらそう、まさに恥ずかしい。恥ずかしいの極みである。

 

 なんだこの体たらくは。全人類が【六眼】持ってたら指さされて笑われるレベル。【無下限呪術】なんか嫌いだ。特別な付属品が無ければ十全に機能しない術式とか欠陥品も欠陥品でしょう。

 

【無下限】を扱うには【六眼】は必要不可欠。そう伝え聞いた意味を、今更ながら痛感する。

 

 嵌っているのが一つか二つかで、まさかこうまで違うとは。

 当たり前のように持って生まれ、当たり前のようにその恩恵を享受していたから気が付かなかった。

 

【六眼】。神の瞳と称される淡い輝きの目。踏み込む一歩と引き換えに差し出した片方。

 

 俺と同じ瞳を嵌め込んだ、表情豊かなベビーフェイスが脳裏を過る。

 

【六眼】が二つ。あるかないかで、呪力の御しやすさが天と地ほどに違う。あんなにも容易く。それこそ息をするように出来ていた無限の制御が、覚束ない。

 

 ニュートラルな【無下限】、本来の性質を強化した順転の【蒼】、発散を司る反転の【赫】。恐らくこの三つは問題なく使える。だけれどそれは、単体での運用に限り(・・・・・・・・・)、という条件下でだ。

 先程の【赫】から見て分かるように、同質のもであっても複数の同時展開は七……。安定性を求めるならば、五が限界。【無下限】を纏いながら【赫】で攻撃、などの異なる性質をもった無限同士の同士運用は現時点では相当に困難。順転と反転を用いた虚式なんて以ての外。

 

 幸い、残った【六眼】のお陰で術式自体が使えなくなるといった最悪は避けられたが、目を覆いたくなる現実は変わらない。

 

 断言できる。術式を。いや、呪力を用いた戦闘において、五条悟に勝つのは不可能であると。むしろ、同じ領域にまで登れるかも怪しい。

 

 ……だからまあ、アレだ。目覚めてからずっと見ないようにしていた問題というのが、この【六眼】欠損による劣化した呪力コントロールなわけだ。

 進歩ではなく、復元。上を目指すのではなく、下がった数値をアベレージまで上げる。

 つまり欠けた分の【六眼】。それと遜色ないレベルまで、大幅に下がった呪力操作を引き上げなければならない。

 

 二つ揃った【六眼】先生の上で胡座(あぐら)をかいていた過去が懐かしい。返却はいつでも受け付けるよ本当マジで。

 

 そんなわけで、何事も小さなことからコツコツと。一気飛びは出来なくとも、一段一段。コントロールの階段を素早く、確実に登っていくのが一番早い。

 

 そう半ば無理やり頭を切り替え、回していた呪力を術式を通さず出力。純粋なマイナスのエネルギーを、形を持った現実として生成する。

 

 蒼い呪いの尾を引き、現れたのは薄く鋭い一本の剣。

 

 ベッド生活の中、手持ち部沙汰に作った剣型の呪力。名前はまだ決まっていないが、油断のバーゲンセールを開催していた最強の頭に刺さる程度には有能な代物だ。

 

 作り方は簡単。外界に放出した呪力を固定するだけ。込めた呪力の濃度によって色彩の濃淡は変わるが、お手軽に作れる。量産出来る。訓練次第ではなんか出来そうな感じのする、の三拍子が揃った低コストのサブウェポン。

 唯一の難点は耐久性の低さだが、そこはそれ。

 

 グーの中から選んだ人差し指をくるくると指揮棒のように振り、形を成した剣型の呪力を同様に動かしてみる。

 

 ひとまず、呪力操作のブラッシュアップはこれを使っていこう。

 形成した呪力の維持や、外観を崩さないためのコントロール。仮に数を増やしすぎて制御が外れたとしても、込めた呪力次第で被害は出ない等々、中々の優良品だ。術式の場合、暴発したら洒落にならないからね、うん。

 

 少し前の。といっても一週間かそこらなのだが。記憶にある当時の自分に褒め言葉を送りつつ、まずは現時点での限界を知ろう、と。そんな予定を立て、いざ着手しようとした瞬間、

 

 ────────っがあ────ーうッ!!! がーう! がーう……! がーう…………! 

 

 エアコンから吹き出る冷たい空気を逃がさないよう、ピッチリ閉めていた窓ガラスが震えた。

 

 それと同時にシンクロするかのごとく響いたのは、獣の雄叫びのような。我慢ならない事柄にキレたような、凄まじい音波の揺れ。

 

 ……びっくりした。なんだなんだ、何事だ。高専には突然変異したゴリラでも住んでんの? 

 

 鼓膜を殴り去っていった絶叫に殺意が芽生える。全身を通して聞こえる鼓動の早さが尋常じゃない。俺の心臓をなんだと思っているのか。トレンドじゃねーんだぞ。

 

 維持していた剣型の呪力を一旦解き、聞こえた叫び声の発生源らしき方向に目を向ける。

 

 開くのは千里を見通す古き瞳、【千里眼】。

 

 一種の懐かしさを覚える神社仏閣。それに近い建築物の並ぶ高専を越え、スクロールしていった目が辿り着いたのは森。季節柄、最も青葉生い茂る頃合いというのもあるのだろうが、本当に森なのだ。

 

 学校の中に、森がある。これは野生のゴリラいますわ高専やべえな。

 

 眼下の木々。所々建築物も混じってはいるが、それら全体を一望できる高さに視点を固定し、興味本位で【千里眼】の上から【六眼】を被せる。

 

 途端、映ったのは各地でぶつかり、弾け、その力を遺憾なく発揮する数多の呪力。それらは基本的に森林地帯を中心に散らばっており、ソロ活動のやつもいるが大体が二人。または三人くらいで一塊になっている。

 

 なんだこれ、と。なんとも不思議な光景に首を傾げたとき、ポッと蘇ったのは起き抜けに聞いた情報。

 

 京都校。交流会。

 

 ……なるほどなあ。三匹のおじいちゃんのインパクトが強すぎて忘れかけていたが、伊地知さん作のパンフレットに書いてあった「京都姉妹校交流会」ってコレのことか。

 なら、今この瞬間にもぶつかり合ってる呪力、術式の類は京都と東京に在籍している高専生徒のもの。そして盗撮は犯罪です。【千里眼】による観戦も一種の盗撮です。解散。

 

 俺以外このことを知る人間がいるはずもないのだが、なんとなく。他人の私生活を意図せず覗いてしまった。そんな後ろめたさに襲われ、もごもごと心の中で謝罪の言葉を流す。

 

 通りすがりに俺の鼓膜を殴ってきた極悪人を見つけることは叶わなかったが、これ以上、眼下に広がる森をウォッチングするのは気が引ける。鼓膜通り魔は正体が判明次第絞めるが、今回は撤退である。回れ右。

 

 行きとは逆に、今度は森から校舎方面へ景色をスクロール。多数の呪力反応が点在する校舎まで戻り、【千里眼】を解こうとした所でふと。まるで引き寄せられるかのように、ある一か所がどうにも気になって仕方がない。

 

 どうしようか。気にはなるけれども、今さっき興味本位で覗いてごめんなさいしたばかりだ。ズームして詳しく見るか、無視を決め込むか。

 

 迷っている間にも俯瞰景色はどんどん縮小していき、ミニチュアサイズであった件の場所が鮮明に現れる。

 

 そして唐突に。なんの前触れもなく脳裏に響いたのは、男とも。女ともつかないどっちつかずの声。

 

 ───補助システム【六眼】:起動───

 

 ───【千里眼】との同期を開始───

 

 ───脳部負担、演算機能、共に正常───

 

 ───クリアー ───

 

 バツン! と。久方ぶりに出て来た【六眼】先生の宣言と共に、ただただ。在るものだけを映していた視界がガラリと移ろい、特別性の瞳からもたらされた情報が流れ込む。

 

 何がどうなっているのか。先生(ティーチャー)ご乱心か。久しぶりに出て来て一発目がこれっておかしくない? 等々、言葉と感情の整理がつかない俺を置いて、【千里眼】を手中に収めた【六眼】先生は止まらない。

 

 拡大を続けていた視界が捉えたのは、みょいーんと。頭部が不細工な感じに伸ばされた死体と、鼻歌を歌いながら敷地内を歩く継ぎ接ぎの皮。

 

 いつかどこかで。地上から身を隠していた地下道で。臓腑の底から溢れる嫌悪の感情と共に、【閻魔刀】で打ち上げたはずのモノ。

 

「……は?」

 

 知らず知らずのうちに漏れ出た声。

 

 上機嫌に地面を歩く特徴的な縫い目。呪力。術式。そしてなによりも、知覚した瞬間に溢れ出す正体不明の嫌悪感。全身が訴えて止まない汚物のごとき反応を、一体誰が忘れられようか。

 



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③・後

 真人は呪霊だ。仲間である花御(はなみ)漏瑚(じょうご)。そして陀艮(だごん)たちとは異なり、自然によって齎される天災や災害。長年人間が持ち続けていた「大いなる存在」への畏怖から生まれた呪霊ではない。

 もっと身近で、最もおぞましい。そんな存在から産み落とされた。

 

 それ即ち人。人が互いを。同類である人を憎み、恐れた腹から産まれた呪い。それこそ、真人という呪霊に他ならない。

 

 だから、そう。真人は人々の恐れであり、人々の憎しみそのもでなければならない。人にとっての「死」。「人」が忌むべき「死」が真人なのだから、「死」である真人が「人」に恐れることなど、あっていいはずがないのだ。

 

 ヴン———と。どこまでも蒼い、あの呪力が形を成す音がする。

 

 この呪力は。この、混じりっ気の無い、純粋な呪いそのもののような蒼色。これはひどく危ないと。ひどく痛く、恐ろしいものだと。十分にも満たない時間の中、真人は物理的に伴う痛みをもって学んでいた。

 

 どこからともなく。少なくとも真人には知覚できない距離から呪力が走り、形成されたのはステンドガラスを連想させる華奢な剣。

 

 燐光のような尾を引いた剣は十六。首と胴体。正確には心臓の収まっている場所を狙うかのごとく、八つ一組の剣がくるくると。少女が奏でられたワルツを味わうよう、楽し気に回る。

 

 ひと呼吸分にすら満たない時間。八つ一組からなる十六の切っ先がピタリとターゲットをロック。確実に仕留めるためか、人体の急所部分を囲んだ蒼色が一瞬後方へと引かれる。

 

 これをマトモに喰らえば後が無い。

 

 カスカスの。比喩ではなく、正真正銘。中身のすっからかんな足を動かし、真人は地面を蹴り上げる。

 

 目論見通り上空へ逃がした急所は呪いの切っ先から逃れたが、最後まで地面と接触していた足が割を食った。

 

 逃げ遅れた真人の足首を貫いたのは、一拍前まで首級を狙っていた八つの剣。

 

 ガワだけ取り繕った足に激痛が走り、真人の魂が欠ける(・・・・)。真人にしか認識出来ないはずの魂が、何度目かの悲鳴を上げた。

 

 無遠慮に容赦無く。魂という名の心臓を切り分けるメスへの痛みを喉奥で殺し、真人は姿の見えない追跡者を振り払うかのように疾走する。

 

 こんなはずでは。こんなはずでは無かった。

 

 飛ぶように流れる地面がほの蒼く発光し、真人がほんの少し。大地に足を下ろした瞬間を狙って、負の感情をエネルギーとした巨剣が形を成す。

 

 なんで、どうして。努めて封じ込めなければ溢れだすそれらの感情に頭をふり、術式を用いて己の魂。その形を弄る。

 

 最初は簡単な。それこそ、人間のラベリングで最上位の特級を冠する真人には欠伸が出てしまう程、簡単で退屈なものであったのだ。

 人の成りをした両腕から、風を掴むことのできる翼へ。惨たらしい程に削がれ、呪力での保護も補完も間に合わない傷だらけの魂がその姿を変える。

 

 真人が協力者である呪詛師。夏油傑に頼まれた仕事は二つ。

 

 一つは、人間側の協力者が特別性の‘帳‘を下ろしている間。中で暴れまわる予定の花御を囮に、高専からとある物品を回収すること。

 もう一つが高専内にいる呪術師、および補助監督を出来るだけ多く、‘帳‘が下りる前に間引くこと。

 

 地面の代わりに空を走ることのできる翼を手に、真人は四方から襲い掛かる剣という針の穴を通っていく。

 

 だから真人は言われた通り、高専関係者が揃って夢中になっている交流会とやらの裏で、ぷらぷらと自由気ままに。肉体が在る以上、当然のように存在する魂を探しながら、出会った呪術師をきっちり殺し歩いていた。ある時は玩具のように。ある時は優しく。また、ある時は遊び心を持たせて。

 

 事が起こったのは四人ほど。呪力のある人間を殺したあとだった。

 

 何の変哲も無かった地面から、蒼い燐光を散らす剣型の呪いが真人をすっぱり。切っ先の向く上から下へ、真人の体を二枚に下ろしたのだ。

 呪霊とはいえ、仮にも真人の肉体は人体を模している。それに躊躇いもせず、「死ね」と言わんばかり剣を突き立てた呪力の持ち主に、真人が感心したのも束の間。

 

 スパン、と。そんな小気味良い効果音がつきそうな軽さで、真人の魂が半分に裂かれた。

 

 え……? そんな風に真人が自分の身に起こった、本来ならば有り得ない。有るはずのない現実に戸惑いの声を上げる間も無く、一歩遅れて伝達されたのは驚くほどに鋭い痛み。真人の天敵たる人間に与えられた痛みよりも大きな、魂に直接刃を入れられたかのような痛みであった。

 

 そこからはまさに、真人にとっての苦境そのもの。塞き止めていた水が激流となって押し出されたかのごとく、真人の魂は斬り飛ばされていった。

 

 魂。人間たちがそう呼ぶモノを真人は唯一、そこに在るモノとして知覚することが出来る。

 それは真人という呪霊が人の腹から産まれたものであったからだ。

 

 人が互いを憎み、畏れるのは当然の道理であり、一種の自然の摂理と言い換えても良い。なぜなら人間という生物は、魂を見ることが出来ない。魂を知覚できない。つまり魂の代謝行為である感情が分からないから、自分以外の他者が抱える感情を想像する。

 

 そんな人から産まれた真人が、人間の根源である魂の知覚を許されたのは必然だったのかもしれないし、皮肉だったのかもしれない。

 

 真人にとって、魂とは肉体と同じ様なもの。特別でも無い、ただそこに。当たり前のように在るものだ。けれども真人の産みの親である人間にその魂は見えないし、まして知覚することも叶わない。

 

 形而下のものを形而上の存在として捉えている人が、それに触れられるわけがないのだ。

 

 例外として真人の天敵。呪いの王と呼称される別個の魂と共存し、その器として機能している少年、虎杖悠仁。彼のように自分以外の魂をその身に宿した結果、無意識にその輪郭を知覚。魂の形ごと、叩いてくる存在もいるにはいる。

 

 けれどそれは例外中の例外。虎杖悠仁はまるで示し合わせたかのように宿儺の器として機能しているが、本来一つの肉体に二つの魂が共生するなど不可能だ。自分という存在。簡単な言葉にすると、自我と呼ばれるものものを保てるわけがない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)から。

 

 で、あるというのに。この蒼い呪力の持ち主は真人の魂を。例外中の例外である虎杖悠仁でさえ、輪郭を叩くことに留まっていたといういうのに。

 

「なんで……」

 

 スパンッ……と。ピンポイントで降った五月雨のように。頭上から降り注ぐ蒼い剣が、またもや真人の肉体と魂に刃を通していく。

 

「直接、俺の魂に干渉できるッ!?」

 

 直接。真人と同じように。人が見えないと認識する魂に、ダイレクトにダメージを入れられるのか。

 

 開幕に喰らった一発目の経験を踏まえ、呪力によっての魂の保護は勿論やっている。それでも、魂に届く燐光の剣は焼け石に水とせせら笑うかのごとく、いとも容易くなぶるように。真人の魂をじわじわと殺していく。

 

 一向に止む気配の無い剣の雨。夏油作の特別性の‘帳‘はつい数分前に下り、中では五条悟の注意を引くため、仲間である花御が単身で踏ん張っているはずだ。

 

 けれど当の真人はこの呪力を振り切ることも出来ず、源である呪術師の魂すら見つけられていない。

 

 掠った呪力は魂にやすりをかけ、肉体を裂いた呪力は魂を斬り飛ばしていく。

 

 じわじわと。滴ったインクが落ちない染みを広げるよう、天敵と認めた人間と命の取り合いを演じた時にも感じなかった感情が、真人を蝕んでいく。

 

「(───い)」

 

 真人は呪霊だ。人が人を憎み、恐れた腹から産まれたもの。

 

「(こ──い)」

 

 虎杖悠仁。彼は確かに、真人の天敵だ。

 だけれどそこに、天敵ゆえの恐怖や苦手意識といった類のものはない。むしろ殺したい。今すぐにでも殺したい。

 真人たち呪霊のプランにおいて、虎杖悠仁が重要な要であると理解していながら、湧き上がるのはもどかしい程の殺意。

 何度でも何度だって、その魂を殺したいと真人は思っている。

 

 けれどもそれは、「真人と虎杖悠仁の力が拮抗し、お互いがお互いを殺せる立場にある」といった前提があるからだ。

 

 ただ一方的に、嬲られるように。幼い子が真っ白な興味から、昆虫の足を一本一本抜くように。手も足も出ないまま蹂躙されるのとは、違うのだ。

 

 真人は呪霊だ。人の腹から産まれた、人にとっての鏡だ。「人」が忌むべき「死」が真人なのだから、「人」が「死」である真人を恐れるのは良い。だからこそ、「人」の「死」である真人が、人を恐れることなどあってはならない。

 

 あっては、いけないのだ。

 

 ────こわい。

 

「夏油ッ!!!」

 

 真人の口がその名を叫んだと同時に、地面から大きな唇が突き出す。

 

 生き物特有の生暖かさが真人の全身に張り付き、パクリと。視界が闇に覆われる。

 

 この時の屈辱(恐怖)を。それを齎した呪力を。真人が忘れることは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界は一体、俺の心臓をなんだと思っているのか。

 

 ドッドッドッと。やかましい程に血液をプッシュする心臓を抑え、篭った爆音と共に振動する棚を睨む。

 

 新作の剣型呪力。もとい、【六眼】先生命名の【幻影剣(げんえいけん)】の試運転を兼ね、かつて処分し損なったゴミ(呪霊)で色々と感覚やらを掴んでいたのだが、突如鳴り響いた大音量メロディーとガタガタ震える引き出しに全て持っていかれた。

 

 全くもう! ぷんすこだぞ! いや、正確にはぷんすこではなく心臓がドドスコなわけだが、びっくりしたものはびっくりした。

 

 内心では恐る恐る。外では手早く、音と振動の震源地である引き出しに手をかける。

 

 ガッと勢いをつけて木製のそれを開けば、空っぽの空間に寂しく身を震わせる電子機器が一人。

 確実に音量設定は最大。小さなスピーカーからは爆音メロディーが流れ、暴れ回っているスマートフォンはきかん坊のようだった。

 

 ……えぇ? なにこれ。こんな文明の利器が引き出しの中に突っ込まれてたこと、俺知らないんだけど。というかそもそも、この白いスマホ誰のよ。

 

 誰の物か分からない白色。スマートフォンなんてロック機能はあるにせよ、個人情報の塊みたいなものだ。

 不用意に触って後から問題になるのは嫌だし、どんな用途でスタンバっていたのかも分からない物品とか触りたくもない。

 

 そんなことを思っている間にも言語化し難いメロディーは止まず、小刻みに移動する長方形が停止する気配もない。

 

 個人的にはこのまま、引いた棚をそっと戻し、耳を塞いでも全然構わないのだが……。

 

 どうしたものか、と。俺がそう決めあぐねている内に痺れを切らしたのか。それとも、元々規定されていた時間を過ぎたのか。あんなにも一人で暴れていた白色がピタリと。電池が切れたかのように黙り込む。

 

 喧しく部屋を満たしていた音がプツリと途切れ、数分越しの静寂が下りる。

 

 静かな空間。先程までのギャップからか、やけに耳の奥が痛い。

 

 静まり返った部屋の中、うーんと悩んでそろり。心做しかじめっとした空気に手を入れ、生ぬるくなった電子機器を摘む。

 

 メタリック特有の光沢が全面に出ている裏側と、液晶のある表側。何の変哲もない、ありふれたスマートフォン。

 

 取り敢えず、電源だけ手早く切ってしまおう。また急に鳴り出しても俺の心臓が困るし、シンプルにうるさい。白いスマートフォンについては伊地知さんが来た時に聞けば良だろう。

 

 不在着信のお知らせが表示されている液晶を眺め、どこかにあるはずの電源ボタンを探す。

 

 チカチカと光る液晶。手当たり次第に機種から生えているボタンを押し込んでいれば、またもや鳴り響く爆音メロディー。

 自己主張の激しい液晶に目を向けると、見覚えのない十一桁の数字。そして数字の上部に表示された、「僕」という漢字一文字。

 

 いや、誰だよ。どこの僕だよ。

 

 見覚えのない番号に、意味のわからない発信者。イメージアイコンに収まっているパンケーキの画像も相まって更に意味がわかない。

 分かったのは、これを設定した奴は突き抜けた馬鹿であることぐらいだ。

 

 瞬く間に静寂を殴り飛ばしていった爆音はうるさい。はよ電話出ろと言わんばかり手の中で振動するスマホはうざい。

 

 さっさと電源を切って密閉空間に戻そうとしたが、止めだ。諦め悪く長々とコール音を聞いてるであろう馬鹿の声。その一つや二つを聞いてから電源をブッチしたとて遅くはあるまい。

 

 そんな思いで、機体に比べると冷たく感じる液晶をスライド。持ち上げた機器を耳に当てる。

 

 形の無い音に乗ってきたのは、若い男の声だった。

 

「ねぇ、なんで一発目から出ないの信じらんないんだけど。同じ番号にかけ直したのとか、僕の人生通してお初だよお初」

 

 ブツッ。

 

 窓から射し込む日差しが静かな空間を照らし、ガラス越しの蝉の声がやけに響く。

 

 …………おかしい。いつの間にか通話が切れている。きっとスマートフォンの調子が悪いんだな。

 

 ツーツーと無意味な音を垂れ流す電子機器を耳から離し、ロックのロの字すらされていなかったスマホをベッドの上に投げ捨てる。

 

 軽いバウンドを繰り返す長方形。丁度反発力皆無な毛布に乗り上げたのか、ぽすりと柔らかな生地の中に金属が埋まる。

 

 なんとなしに耳をかき、口が空いたままの引き出しを押し込む。

 

 木面の擦れ合ったような音に安心したのも束の間。

 今度の震源地はベッド。大音量の呼び出しメロディーがまたもや、主張を始めた。

 

 ぺたぺた。靴下もスリッパも装着していない足で床を叩き、のそのそと毛布に埋まっていたスマートフォンを拾い上げる。

 

 つい数秒程前に行ったような気もする動作。親指を液晶に走らせ、耳元に運ぶ。

 

「……はい」

「なんで切ったの馬鹿じゃないの」

「馬鹿はアンタだよふざけんな」

「は?」

「あ?」

 

 初っ端から繰り出されたのは、喧嘩上等と言わんばかりの文句。苛立ち混じりの低い声に、自ずとこちらも低いものが出る。

 

「ちゃんと分かりやすく"僕"って書いてあったでしょ。頭大丈夫?」

「それで一から十まで伝わると思ったアンタの頭が大丈夫か」

「僕以外に僕がいると思ってるの? いないだろ?」

「世界の中心はアンタじゃねーんだよ現実見ろ」

 

 なんだこれ。なんだこれ。頭痛がしてくる。

 

「で、オマエこれ壊せる?」

「どれですか」

「これ」

「どれ」

「これだよ」

 

 いや、だからどれだよ。【六眼】にシンクロ機能とか無いから。そんなあたかも、「自分が今見てるものが相手にも見えてるのが常識」みたいな声出さないでもらえるかな。マイルールが過ぎるだろ自重しろ。

 

「あんまり時間かけたくないんだよ僕。ふざけるのは後ね、あと」

 

 はい、じゃー下りている"帳"をご覧くださーい、と。マイペースに理不尽なマイルールを押し付けてくる電話口の男に、そろそろ活発化した血管が切れそう。

 

 早くー。ほらほらー、はやくはやくー。

 

 急かす目的二割、煽り目的八割で構成されたフレーズの腹立たしさよ。俺の頭に煙突があったら一瞬で噴火するレベルである。

 

「ねー、はやくー。ちょっとその部屋からは遠いかもしれないけど、オマエなら問題ない距離なんでしょ? パパッとやっちゃてよ」

 

 オマエなら問題ない距離。サラッと出された一言に一瞬、思考が止まった。

 

 なんでコイツが。五条悟が俺の(異能)を知っているのか。【歪曲の魔眼】は分かる。あれだけ目の前で乱発したのだし、【六眼】とは違った瞳に関する能力なのだと。そう推測するのは容易だろう。

 だけれどコレ。見通す目、【千里眼】については、一言も情報を漏らした覚えはない。 【歪曲】や【六眼】と異なり、【千里眼】は発動の有無に関わらず、分かりやすく見える形で瞳に変化が起こることは無いのに。

 

 一体どこで【千里眼】を知られたのか。【六眼】にシンクロ機能とか、同じ目を持っている人間限定で頭の中が覗けるとか、そんな機能無いよな? と。有り得ないと分かっていても、そんな心配が頭を過ぎってしまう。

 

 想定もしていなかった情報にフリーズする俺を置き去りに、電話向こうの最強は絶好調。口ばかりではなく、快活とした手拍子も聞こえてくる。

 

 どう答えるべきか。シラを通すべきか、沈黙のまま流すべきか。開示した覚えのない能力が知られていたという事態は、やられた側からするとわりと深刻だったりするのだ。

 

「あ、わかった!」

 

 思考の海に沈む中、まるで閃いた! と言わんばかりの声が弾ける。

 

「オマエ、壊せないんでしょ。出来ないんでしょ。自分の力に自信(・・・・・・・)ないんでしょ(・・・・・・)

「…………は?」

 

 ガツン、と。頭の奥底。心臓の奥底。人々がプライドと呼ぶ部分を力いっぱい、殴られたような気がした。

 

 脳みそが沸騰したように熱い。

 

 無意識の内に開いていたのか。肉眼の映した狭まった世界とは別に、もう一つの。高専の有する敷地全てを収めた千里の世界が、頭のどこかに映し出される。

 

 広がったのは遥か頭上からの景色。一番に目立っているのが、半円のような。球体のような丸いヴェールに覆われた黒色の結界。

 ズームしていけば結界の上部付近に、銀髪の目隠し男。五条悟がジャージスタイルで片手をポケットに突っ込み、耳にスマートフォンを当てている。

 

 多分、これだ。馬鹿の一つ覚えのようにこれこれ言っていたモノは、この黒い結界のことだろう。

 

 そして同時に、ふざけるなよと。そんな憤りがふつふつと感情を揺らしていく。

 

 こんな、こんな薄っぺらい暗幕すら。俺には壊せないと。俺の力では壊すことは叶わないと。そう、本気で言っているのかこの男は。

 

 ふわふわとした。空のような万華鏡が熱を持ち、色の溢れていた視界が白と黒の。モノクロで描かれた紙面へと変わる。

 

 アンタの瞳に映った俺は。

 

 そっと。白黒で描かれた線画に指を寄せる。

 

 一度はその首に手をかけた俺は。

 

 美しい蝶の羽を摘むよう、墨色で塗りつぶされた半円を引っ張る。

 

 アンタにとってはその程度の認識なのか。

 

(まが)れ」

 

 くしゃり。摘み上げた平面が、捻れた。

 

 赤と緑の螺旋が帳のように垂れ下がる結界を舐め回し、この世の常識。ルール(法則)といった設定を捻じ曲げ、もたらすのは瞳の所有者による可否決定。

 

 ああ、壊せるとも。曲げられるとも。(まが)るとも。なぜならそれは、俺が出来ると思ったのだから(・・・・・・・・・・・・・)

 

 ────────バシュンッ。

 

 森の一部を占拠していた黒。一つの(ほつ)れすら無かった宵闇が捻じ曲がる。

 

「……なんだ、できるじゃん」

 

 電話口を通ってきた声は、どこか機嫌が良さそうだった。

 

「……用件はこれだけですか。さっさと切りたいんですけど」

 

 立ちっぱなしであった足を折り、随分と見慣れたものとなってしまったベッドに腰掛ける。

 

「ん? あー、だめだめ。必要になったらまた声かけるから、僕が良いよって言うまで繋げといて」

 

 そう言ったきり、通信状態を示す画面は静かなものだ。ポケットにでも突っ込んだのか、基本的にBGMが遠く鈍い。

 

 耳から白いスマートフォンを離し、スピーカーマークをぽちり。ざわざわとしたはっきりしない雑音がポロポロと零れるも、泣き出した着信音の方が遥かにうるさい。

 

 ゴソゴソ。そう大して間も置かず、何かを漁るような音がする。

 

「あ、もしもしー? 見えてる?」

 

 何がだ。頭の痛くなるようなアンタのマイペースっぷりがか。

 なんだよ「もしもし、見えてる?」って。「もしもし、聞こえてる?」が一般的な口上なんじゃないの? それともなにか? 俺の常識が間違ってるのか? アンタの常識がおかしいのか? 絶対に後者だろ後者だよな、後者だと言ってくれ。

 

「目から枝の生えたブスいるじゃん?」

 

 目から枝の生えたブス。そんなブスいるの現実に。

 

 恐らく主語は「さっき壊した結界の中に」であると思うのだが、目から枝の生えたブスを見つけられる気がしない。

 

「あ、雑草でも良いんだけど」

 

 雑草……? え、ブスなんじゃないの。雑草なの? 植物? アンタ本当に俺と同じ世界を見てる? もしかして俺の【六眼】とアンタの【六眼】ではカメラワークが違かったりするわけ? 

 

「で、その枝の生えたブスはここで祓っときたいから、死ぬまで押さえてて」

 

 あ、カウントは三秒ね。

 

 自由気ままに自分勝手に。唐突に始まったカウントダウン。

 

 さーん! とスマホから聞こえる無慈悲な残り秒数。片っ端から【六眼】で感知した呪力の持ち主を【千里眼】で確認していく。

 

 ツンツン、ポニテ、茶髪にフード。裸族に三節棍、そして目から枝の巨人……。

 

 本当にいたわ目から枝の生えたブス。しかも呪霊じゃん、ゴミだゴミ。さっさと片付けよう。

 

「にぃー!」

 

 とりあえず逃走防止のため【無下限】で枝の生えた呪霊を押さえつけ、変な横槍を入れられても困るので、近くにいた裸族とフードも【無下限】で縫い止める。

 

 押さえた呪霊と大きな呪力反応。恐らく虚式の予兆である場所から経路を逆算し、【無下限】でレールを引く。

 

「いーち!」

 

 構築した無限は全部で三層。放たれた【(むらさき)】に接触した瞬間に弾け飛ぶであろう、内側の第一層。そしてメインのレールである第二層。一番外側の第三層は保険だ。

 

 よっしゃこい! 

 

 準備が整ったのとほぼ同時に【六眼】が映したのは綺麗な、美しい呪力の流れ。紫色の火花が舞い散り、周囲の空気がまるで線香花火のようにパチパチと爆ぜゆく。

 

 仮想の蕾が花開き、解き放たれたのは理論上の大質量。

 

 見惚れたのは一瞬。放たれた仮想の質量はニュートラルな第一層を触れた傍から破りつつ加速。

 最大出力でつくった第二層は暴れ狂う紫色の嵐を目的地へと運び、対象を飲み込んだと同じタイミングで弾けた。

 

 深い傷跡の刻まれた大地の痛々しさよ。綺麗さっぱりえぐり取られたその光景に、思わず口端が引き攣る。

 

 うわあ、エッッグ……。

 

 イェーイ! 一件落着! なんていう弾んだものが電話口からも聞こえるが、少なくとも森へ深刻なダメージを叩き出したのは今である。

 

 役目の終わった【無下限】を解き、拘束していた裸族とフードも同じく解除。

 後は電話相手からオーケーが出れば、晴れて俺もスマートフォンから手が離せるわけだが……。

 

 五分、十分、十五分と。忙しない感じの音は聞こえるが、待っても待っても五条悟からの連絡は無い。

 

 もういいかなあ、切っちゃっていいかなあ。スピーカーのままベッドに転がっているスマホを定期的に確認しつつ、【幻影剣】をテンポ良く作っていく。

 

 それさら更に二十分後。長らく放置されていた電話から部屋に響いたのは、

 

「あれ? まだ切ってなかったの。何か用?」

 

 そんなきょとりとした、阿呆の声だった。

 

 …………コロスぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう今日はお布団から出ない。本当にお布団から出ないからな。ふて寝? なんとでも言うが良い。ただし俺が包まるのは現実の毛布ではなく、心の毛布なんだがな! 

 

 溢れ出る殺意のままにスマートフォンをベッドに叩きつけ、それから黙々と。布団の中に籠る()とは異なり、体はただひたすらと【幻影剣(げんえいけん)】をつくり続ける。

 

 ヴン、なんていう電子音に似た効果音を重ねていき、なんだかんだともうすぐ蒼い剣で部屋が埋まりそうだ。

 案外、術式以外に用いる呪力操作においては、【六眼】が欠けていたとしても大して影響は無いのかもしれない。

 

 強度、規模、長さ、形……。敢えてそれらの要素をバラバラにしてつくった蒼色の群れを消し、元の色彩を取り戻した正方形をぼんやりと見上げる。

 

 そう言えば結局、片付けたあの呪霊はなんだったのだろう。姉妹校交流会とやらのバトルゾーンに現れたのなら、高専側が事前に放った標的とかじゃないのか。

 自然に近い、どこか不思議な感じのする呪力で出来た呪霊ではあったが、見た感じそこまで強いモノでも無さそうだった。俺が目を覚ました一面の廃墟には、アレと同じくらいの存在はわんさかいた気がする。

 

 まあ、意味わからん状況と意味わからん自分というコンボに見事なパニック状態だったけど。それでも多分、俺のいた方ではあまり珍しくも無いモノだったのだろう。

 

 座っていた体勢から後方へ上半身を倒し、手持ち部沙汰から意味も無く窓枠のカギを開ける。

 

 パチッという解除音がかすかに聞こえ、ちょいちょいとズラしたガラスからは蝉の声。

 

 ミンミン、ミーンミン。数を減らすどころか、日数の経過によりどんどん勢いを増してきているような大合唱。

 

 冷たい空気に浸された部屋の中に生温い風が入り込む。

 

 元気だなあ、と。やんやと騒ぐそれに耳を傾け、暫くの間、白いシーツの波に身を預ける。

 

 すると小さく。大半が夏特有の大合唱によって掻き消されているが、蝉では無い誰かの話し声が聞こえてきた。

 しかも一人ではない。複数人が言い合っているような、そんな人の声。

 

 高専関係者だとは思うが、偶然見つけた呪霊(ゴミ)の件もある。一応の確認のため、と最もらしい理由をつけ、仰向けのまま【千里眼】を開く。

 

 視点位置は丁度、俺のいる部屋付近の外側。

 

 数は全部で四。男が三人、女の人が一人。その内、男の方は五条悟、伊地知さん。残るご老公、おじいちゃんと女性の方は見たことがない顔だ。いや、顔見知りとかいるのお前って言われたら「いないです」って答えるしかないのだけれども。

 

 各々から感じ取れる馴染み深い力に思わず、天井を映していた両眼が細まる。

 

 いやぁ、汚いよ? 散らかってるよ? 性格の悪さがそのままソックリ、滲み出てるだけなんじゃないの。でもさ、ほら! あんな本やこんな本が出しっぱかもしれないし! 夜蛾学長に見つかった時が楽しみね。おじいちゃんには刺激が強いかもしれないし! うるさいからそろそろ黙ってくれる? 

 

【千里眼】は見ること専門の能力だ。だから当然、見ている人物達の会話や音なんかを聞き取ることは出来ない。

 今回はあべこべにしか見えない四人が俺の方。つまり建物の方に近づいてきたから、外で繰り広げられている会話の一部を拾うことができただけだ。

 

 身振り手振り。時折オーバーにも感じるリアクションを交えながら銀髪があれこれと言葉を重ね、それを鬱陶しそうに返す女性。前を行く伊地知さんなんかは真っ青な顔で、後ろから着いてくるおじいちゃんは完全無視の無言である。

 

 伊地知さん大丈夫かよ。呪術師に虐められたの? 適当に埋めてあげようか? と。呪術師であろう二人と、あわよくばの気持ちを込めて五条悟ごと吹き飛ばしてやろうか。そう思った時、統一性の無い四人が扉の中に姿を消す。

 どこの扉? 決まっている。伊地知さん曰く、生徒たちは立ち入り禁止である教員専用の棟。俺が今いる部屋が収まっている、この建物に、だ。

 

 …………あれ、もしかしてヤバいのでは。

 

 仰向けに寝っ転がっていた体を起こし、極力音を立てないようベッドに乗り上げる。

 

 石のように固まったまま耳と神経を澄ませていれば、コツコツと。複数人らしき足音と、窓の隙間から零れ聞いた二種類の声が段々と近づいてくる。

 

 念の為。念の為だから。内心でそんな言葉を呟き、そろりと。気紛れに開けた時とは違い、開けられる範囲まで窓を押す。

 

 ムワッとした不愉快感。距離を詰めてくる足音。

 

 そしてとうとう、漫才じみた男女の会話が薄いドアを隔てた位置までやってきた。

 

 ダメですねこれは。

 

 ガラスの可動レールである枠に手を付き、体を翻す。ドアノブが回る音ともに、目いっぱい開けた窓から五体を踊らせる。

 

 着地の際に大きな音を立てるのはNGだ。【無下限】で体を覆い、地面との距離が数ミリ。落下の勢いが完全に止まったことを確認し、クッションの代わりとして出した無限を解く。

 

 一歩、二歩、三歩。四階付近に相当する飛び降り口を見つつ後退。

 

 どこかに身を隠せる場所はないか、と周囲に目を走らせつつ部屋から距離を取っていく。

 

 じわじわと伸びていく距離。誰も顔を出す気配のない窓枠に、ホッとした息が零れる。

 とりあえず、さっき盗み見た森の方に行こうと簡単な方針を立てたと同時に、どんと。背を向けていた方向から硬い。けれどコンクリートなどの冷たい硬さではない、反発力のある硬いもの。例えばそう、ミチミチに詰まった筋肉そのものにぶつかったような、鈍い衝撃。

 

「すいませ……」

 

 反射的に口を突く言葉。慌てて振り返れば、夏の太陽光を反射するグラサンが一つ。

 

 黒い服の上からでも分かるミッチミチの筋肉に、手入れのされた厳つい顎髭。かけられたグラサンは眩しく、ツルの真上にある眉間には深い渓谷が刻まれている。

 

「…………」

「…………」

 

 前方から発せられる圧の強い沈黙の帳。太ましい丸太のような腕が太陽を背に持ち上がり、動けないでいる俺の肩へ。

 

 グッと重くなった肩と、粉砕が目的なんじゃないかと疑ってしまうレベルの力が篭った指に冷や汗が流れる。

 

 外の暑さによるものか。それてもこの状況によるものか。急速に口が乾いていく中、俺に言えたのはこんな一言。

 

「…………ひ、人違いです」

「不合格だ」

 

 仰ぎ見た空は遠く、沸き立つ入道雲は白かった。

 

 



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