呪霊の天敵、もしくは頭グルメスパイザー (泣き虫くん)
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呪霊の天敵、もしくは頭グルメスパイザー

 ポン! クラッシュ! クラッシュ!

 ポンッポンッポンッ!

 

 魂は巡る。

 現世に生まれ、現世に生まれたものがあの世に帰還し、再び現世へと舞い戻る。

 魂の円環。

 

 そんな円環の中に一つの異物が現れた。

 それはとある漫画の権化。

 全てのものをグルメだの、ノッキンだの、釘パンチだの、に脳内で変換するとある漫画の厄介オタクだった。

 

 常識をグルメスパイザーでクラッシュしたそいつは、その術式や行動すらもが厄介極まりない爆弾であった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 秘匿死刑が決定した虎杖悠仁。

 彼は現存する特級呪物『宿儺の指』をすべて取り込むことを決意していた。

 延命のためではない。

 呪いに殺される人間を少しでも減らすために、祖父の「人を助けろ」という呪いを全うするために、だった。

 

 向かう先は、東京都立呪術高等専門学校。

 東京郊外の山奥に存在する高専は日本に2校しか存在しない呪術師の教育機関である。

 呪術師として活動するために、少年はそこにやってきたのである。

 

 そこで自身が取り込んでしまった呪い『両面宿儺』の説明を受けているのであるが。

 

「それじゃ、半分だ。『呪いの王』は両面宿儺の一側面に過ぎない」

 

「え、あんた誰?」

 

「トリコ。俺もこの高専(IGO)に所属することになっている」

 

 そこに現れたのは冒頭に語られた人物。

 過去に連載されていたグルメファンタジー漫画『トリコ』にぞっこんな上に、全く無関係な事象をもトリコに紐付けする男。

 本名が謎の、トリコを自称するだけの男である。

 IGOという単語にクエスチョンマークを浮かべる虎杖の隣で、黒い目隠しをした五条悟が反応した。

 

「やあ、トリコ。君は相変わらずだね」

 

「五条先生……。俺からもスクナの説明をしたいんだが、問題ないかい?」

 

「別に構わないけど、ホラは吹かないでくれよな」

 

 虎杖から見ても、その男は筋骨隆々だった。

 単純な身体能力で負けているとは思わないが、それだけでは測れない力を漂わせる男、話を信じるなら同年代の少年の話に、耳を傾ける。

 

「……そのもう一つの側面ってのは一体なに?」

 

「『食材の王』としての側面だ」

 

「はあっ!?」

 

「そもそも、両面宿儺が女子供を狙う目的とはなんだ?」

 

「え? 趣味?」

 

「旨味を集めるためさ。女子供だけじゃない。

 あらゆる生物を食い尽くして地上に散らばった旨味を集めるために両面宿儺は虐殺を行うのさ」

 

「でもよぉ。旨味を集めて一体なんの得があるのさ。美味いから喰ってるだけじゃねぇの?」

 

「よく考えてみろ。牛や豚を育てるときに牧草や餌にもこだわるだろ?

 あれは美味い生き物を育てようとするときには、その生育環境もさることながら、食わせる餌が味を左右する大きな要因になるからだ。

 両面宿儺は旨味を取り込み味を増す、つまり、奴には『食材の王』としての側面がある。

 俺はそいつを『GOD』と名付けた」

 

 GODとは数百年に一度起こるグルメ日食時に活動する化け物で、地球上のあらゆる生物を喰らい旨味を確保する『食材の王』にして『捕食者の王』。

 両面宿儺とは千年以上もの昔に実在した最強の呪術師であり、呪術全盛時代の呪術師が総力を挙げて挑んでも勝てなかった『呪いの王』。

 

 !?

 

 似ている。

 GODと両面宿儺はそっくりだ!

 トリコは少なくともそう考えていた。

 

「相変わらずイカれてるね~~トリコは。

 悠仁、気をつけなよ。コイツ狂ってるから」

 

「おいおい。この世界の食を守る呪術師(グルメポリス)とは思えない台詞だな」

 

「なんども言ってるけど、僕は美食屋でも調理師でもグルメなんちゃらでもないからな。

 お前の世界観に他人を巻き込むのはやめてくれよ」

 

 そんなこんなで話をしている、と目的地に到着。

 そこには東京高トップである夜蛾が待ち受けていた。

 

「何をしに来た?」

 

 そこで虎杖は向き合うことになる。

 自らの決意と。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

「虎杖の方は合格だ、と……さて今度はお前に問おう。お前は何しにここに来た?」

 

 虎杖は言った。

 宿儺を取り込みなんとかできるのが自分だけなのなら、この使命から逃げたら後悔する。

 生き様で後悔はしたくないから。

 

 それで合格した。

 虎杖の方はだ。

 

 トリコをスカウトしたのは五条だ。

 当然、夜蛾も五条を通じてトリコのことを耳にしてはいる。

 だが、それだけで合格にはしてやれない。

 何故なら、呪術師に悔いのない死はないから。

 モチベーション、ある程度のイカれ具合は必須。

 それが夜蛾の自論だった。

 

「決まってるだろ! 未知の味を探究するためさ!」

 

「は?」

 

「始まったよ」

 

 だが、この男のイカれ具合はある程度じゃ済まない。

 なにせこの世のあらゆる事象をトリコの世界観に落とし込まなければ気が済まない、真正のイカれ野郎がこのトリコである。

 男は自身のイカれ具合を発揮していく。

 

「世界にはまだまだ美味いもんが溢れている。

 今この瞬間にも新たな呪霊(グルメ)が誕生し、決してどれひとつとして同じ味などない。

 俺はその未知なる味に魅せられた男。

 美食屋、料理人、再生屋、既存にあるどんな呼び方をするのかは任せるが、俺が知って欲しいことはただ一つ。

 俺が呪霊()の探求者だということだ」

 

「……」

 

「そして、いつか作るんだ! 俺だけのメニュー、人生のフルコースを!」

 

 それはもはやトリコのみにしかわからない話。

 だが、語りかけてくるだけで熱さを感じるほどの熱意はまさしく本物。

 夜蛾は胸を打たれたようにサングラスの裏で目を閉じてから、ため息混じりでいった。

 

「ぶっちぎりでイカれてやがる」

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 そんなわけでめでたく入学となったトリコと虎杖が、五条に連れられてやってきたのは廃墟。

 生徒の適性を見るために、適当な呪霊を祓わせよう。

 そういう意図の催しであったのだが――。

 

「どうだい、トリコ」

 

「ああ、俺の好みの匂いがする……トラブルの匂いがな!」

 

 実は当初予定していた場所ではない。

 最初に用意していた廃ビルがあったのだ。

 しかし、そこにいた呪霊はせいぜい4級か3級。

 一年のイカれ具合を見ることはできたが、トリコという大型新人を測るには少し物足りない。

 だから、五条が隠し球として用意していた大型レジャー施設の廃墟。

 そこに来ていたのだ。

 

「よし! じゃ、行ってくる!

 お土産を楽しみにしておけ!」

 

 意気揚々と廃墟の中へと進んでいくトリコ。

 中に入ればこもっている呪いのプレッシャーは相当なもの。

 入り口の時点でビリビリと肌を突き刺す空気だ。

 

「お前らもついて来るのか……」

 

「おう、お前に何かあったら困るし、これは俺たちのテストでもあるからな」

 

「別に~~。私は仕方なくだけど」

 

 虎杖と本日最初に合流した紅一点、釘崎野薔薇も同行している。

 釘崎の呪術は釘から呪力を流し込む、釘を利用した術式。

 トリコの必殺技は数発のパンチを同時に叩き込み、釘をトンカチで叩くように何度も衝撃を叩きつける『釘パンチ』。

 

 !?

 

 似ている。

 釘崎の術式と釘パンチはそっくりだ!

 

 釘崎の術式≒釘パンチ。

 つまり、釘パンチの使い手でもある釘崎はトリコなのでは?

 そんな思考回路で『お前もトリコ?』と絡んできたトリコを釘崎は露骨なまでに遠ざけている。

 それだけじゃない。

 

「やはり、この廃墟はプールだったな。

 呪詛カブリに、怨サケ。

 やはり、こういう水を連想させるところには海鮮系の呪霊(生き物)が湧いてきているな」

 

 湧いて出てきた魚をイメージさせる呪霊を手当たり次第に捕まえては食っているのである。

 バリバリ、ボリボリという咀嚼音は釘崎にとっても不快なもので一刻も早くこの任務を片付けたいという気持ちを強くさせる。

 

「あんた、やめなさいよ! 気色悪い!」

 

「あ。そうか悪い悪い。お前も食いたかったのか! ほらよ」

 

「私がいつそんな発言した!? 脳まで呪いに侵されてるのか、この変態マッチョマンは!」

 

「ははは! いいから食ってみろよ、スーパーで買う魚よりかはよっぽど美味いぞ」

 

「誰があんたみたいな狂人から食い物を受け取るもんですか!

 それにそんなお腹壊すようなもの食うわけないでしょ!」

 

「うおっ! 待てっ! こら!」

 

 目の前に差し出された呪霊を前に叫ぶ釘崎。

 釘崎の怒りが理解できずに困惑するトリコ。

 そんな2人を横目に虎杖は騒いでいる。

 その先にいるのは件の呪霊、トリコが言うところの呪詛カブリ。

 虎杖は手早くソレを捕まえると、口に運んだ。

 

「……げぇー、まっず。お前よくこんなもん食えるな」

 

「ちょ、やめなさいよ! 呪いなんて負の感情でできたもんが美味いわけないでしょうが!」

 

 あまりにも美味しそうに食べるトリコに触発されたらしいが、味はまずいの一言。

 宿儺の指ほどひどい味じゃないものの、トリコの手の中にある呪霊がなんとなく美味しそうに見えていたこともあり、落胆は大きい。

 

「ああ、虎杖、それじゃダメだ。ちょっと手の中にあるもん貸せ」

 

「おう」

 

「ん~~よいしょと」

 

 トリコは虎杖から、マダラ模様の入った呪いの魚、マダラサバを受け取ると呪力を流し込む。

 変化は劇的だった。

 くすんだ色がうっすらと明るくなり、光の粉を振りかけたかのような輝きを放つ。

 

「食ってみろ」

 

「おう……んっまーーい!」

 

「嘘でしょ!?」

 

 その味をなんと言えば良いか。

 プリプリに引き締まった身に、噛むたびに出てくる旨味。

 虎杖は自分が味の良し悪しをわかる人間だとは思えないが、一つだけ言えることがあった。

 

「うわー、米が欲しかった! できれば醤油もッ!」

 

 醤油をつけてご飯と一緒に口に運べば絶対に美味しい。

 

「安心しろ。そのリクエストには後から答えてやるよ」

 

「トリコッ!?」

 

「グルメボックスを持ってきている。この中に入れればどんな呪霊(食材)でも鮮度を保ったままもち運びできるのだ」

 

「まさか……」

 

「ああ、後で食おうぜ」

 

「ありがとうトリコ! 後で伏黒と五条先生にも食わせてやろうぜ」

 

「おう、腕を振るってご馳走してやる!」

 

「なに作ってもらおうかな……刺身だろ、煮魚だろ、いっそのこと鍋にするのもいいかもしれないし。

 迷うなぁ!」

 

「この悪食どもめ……」

 

 はしゃぐ虎杖とトリコから居心地悪そうに距離を取った釘崎だった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

「五条先生……大丈夫なんですか?」

 

「なにがだい」

 

 一方、廃墟の外で待機している五条悟と伏黒恵。

 伏黒は懸念があるようだった。

 

「……こんな報告を聞いたことがあります。

 無数の呪霊が生態系を織りなす、呪霊の巣窟があるとか……」

 

「ここがそうだと言いたいのかい?」

 

「なんで、3人だけに任したんですか?

 どう考えても、荷が重い」

 

 低級の呪霊でも徒党を組めば脅威となりうる。

 そこに少数でも1級、いや、2級程度でもいい。

 万一でもそんな呪霊が混じっていれば、それはもはや1級術師が出張る案件だ。

 

「あ、やっぱり恵もそう思う?」

 

「は? ふざけてるんですか?

 なんの考えもないなら、今からでも3人を連れ戻してきますよ?」

 

 伏黒の苛立った声に五条は答えた。

 

「恵の意見はもっともだけど、こうでもしないと、見れないんだよ。

 アイツの、トリコの実力をね」

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 元々、この廃墟はプールと温泉、そして、宿泊施設が併設してあるレジャー施設だった。

 規模はデカく、棲みついている呪霊は半端な数ではない。

 

 そんな呪霊達は生態系を作っている。

 無数の下級呪霊はより強い呪霊に食われ、ソレもまたさらに強い呪霊に食われる。

 呪いの受け皿たる廃墟はその禍々しさを増し、更なる呪いを引き寄せる。

 呪いは確かに生きていた。

 

 小規模な呪いの楽園には小さな王がいた。

 水棲生物を模したその呪霊は騙し騙されの日々を生き抜き、他の呪いを食い散らかして強くなっていった。

 

「妙だな。呪霊(生き物)の数が圧倒的に少ない」

 

 トリコたちはこの施設の最奥に向かう道すがらひとりごちた。

 この施設は呪霊にとっては楽園だ。

 淀んだ空気、埃と垢の溜まった床に錆びた壁。

 全ての要素が呪霊を育む最適の条件。

 だと言うのに、トリコが担ぐグルメボックスはようやく満杯になったと言うところ。

 これほどの立地ならボックスの口から呪霊が山のようにはみ出してもおかしくはない。

 

「いいじゃない……。そっちの方が仕事が早く済んで」

 

 釘崎はかなづちを投げやりに回した。

 勝手に盛り上がる2人を尻目にテンションは低い。

 

「聞いてた話ほどじゃないわね。あんまり強い呪力も感じないし、これなら楽勝ね」

 

「じゃあ、トリコ、終わったら早速飯でも食おうぜ。釘崎もどうだ」

 

「嫌よぉ。気持ち悪い」

 

「……」

 

 じゃれる虎杖と釘崎に混ざることなく思案げにトリコは歩を進める。

 そうなのだ。

 呪力は小さい。

 廃墟の規模から想定されるものよりも遥かに小さい。

 だが、だからこそ解せないのだ。

 それならこの呪いの楽園により多くの呪いが集まっていなければ理屈が合わない。

 

「虎杖、釘崎、下がれ」

 

 そして、最奥に広がる巨大なプール。

 ウォータースライダーもある。

 もっとも、水が通っているわけがないが。

 

 そんなプールの底から登って来るものがあった。

 

「おかしいと思ってたんだ。

 普通、これほどの施設の中には強大な生き物がいるはずだ」

 

 そいつは8本足で大きな口を持った呪霊だった。

 既存のいかなる生き物とは異なった形態をしているが、あえていうのなら現実に存在したワニをさらに巨大で凶悪にしたような形。

 全長20メートル、推定される体重12トン。

 仮に通常兵器が有効だと仮定して、最新式のグルメ戦車ですら仕留めきれないだろう、なんてことをトリコは考えた。

 

「わざと呪力を抑えて誘い込んでいたんだな。

 呪いを、そして、俺たちを……ッ!」

 

「な……なによコイツ……」

 

「の……呪いじゃない、恐竜だ」

 

 でかい顎、太い胴体と尻尾、鋭い牙。

 釘崎と虎杖は自然色濃いその威容に圧倒された。

 それはもはや呪いというよりかは現代に蘇った恐竜と呼ぶほうが相応しく――。

 

「どけぇ!」

 

 ワニがその巨体からは想像もつかないほどの俊敏さで飛びかかる。

 トリコは2人を突き飛ばして前に出るとワニに突っかかる。

 顎を開いていたワニの噛みつきを横へと回避する。

 呪力をまとったパンチ。

 それを叩き込む。

 廃墟の澱んだ空気をシェイクする衝撃。

 だが、ワニは耐えた。

 頭部を揺らす勢いそのまま、尻尾での攻撃に移行。

 トリコの胴体に叩き込む。

 

「むぅ!」

 

 推定12トンの重さが乗った尻尾攻撃にさしものトリコも呻き声を上げた。

 だが、ここで堪えられないようではトリコの名を名乗れない!

 すぐさま尻尾を掴むとトリコはワニを振り回して、床へと叩きつけた。

 

「な、なによこれ……」

 

「恐竜が2頭かよ……」

 

 もはや、恐竜同士の闘いにどう手を出せばいいのかわからない。

 釘崎の術式では、ワニの表皮を突破できないだろうし、虎杖の武器『トザマ』でも同じだろう。

 万一他の呪霊が乱入してきてもいいように警戒はしているが……。

 呪霊が近寄ってくる様子はない。

 

「素晴らしい!」

 

 トリコはコンクリートの凹みから即座に立ち上がるワニを見て思う。

 コイツはかの有名な『ガララワニ』で間違いない、と。

 

「なぜ、バロン諸島に存在するはずの貴様がここにいるのか、敢えて問うまい!

 そんなことより、よくぞ成長したな。それほどのデカさに!」

 

 しかも、その姿が原作に登場した規格外の個体と姿のみならず能力まで似通っているのだから、トリコが好きという理由だけでトリコを名乗るこの男の感動は一層深い。

 何故なら、このガララワニを食いたいと何度も何度も願ったことがあるくらいなのだから――。

 

「お前に敬意を表して俺も人間の武器を見せよう! フォークとナイフを!」

 

 この日初めてトリコは臨戦体制に入る。

 瞬間――廃墟に残っていた数少ない呪霊は逃走。

 通常、生まれた場所に固執するはずの呪霊があっさり、故郷を捨てた。

 

 ガララワニの逃走を止めたものは王者としてのプライドではなく、命の危機を味わったことのない無知さ。

 両手を構えたその瞬間、トリコが背負うオーラ。

 その威容はまさしく鬼!

 これこそが細胞が宿し、呪霊を食うことによって育ててきた、グルメ細胞の悪魔!

 

「この世のすべての呪霊に感謝を込めて……いただきます」

 

 手を合わせた合掌。

 そんな姿勢のトリコをガララワニは襲う。

 体格差は一目瞭然で自然体のトリコは為すすべないかに見える。

 だが――。

 

「フォークッ!」

 

 左手で作ったフォークがガララワニに突き刺さり、フォークを突き刺したままガララワニを持ち上げた。

 身動きの取れないガララワニに対してさらに――。

 

「ナイフッ!」

 

 ナイフを象った右手がガララワニの首に吸い込まれた。

 ガララワニの頭は胴体から切り離された。

 

「ごちそうさまでした」

 

 トリコは肉片として降り注ぐ光景を背に再びの合掌。

 遺憾なくその実力を見せつけるのだった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 ガララワニの肉を堪能するトリコ。

 しかし、それはフルコースを埋めるメニューとなるには至らず、世界にはまだまだ旨いものがあふれている。

 

 漏瑚の溶岩(味の濃いコンソメスープ)

 

 花御(歯ごたえのある野菜)

 

 真人(噛めば噛むほどおいしいお肉)

 

 陀艮の吐き出す大量の水(喉越しさわやかなドリンク)

 

 無数の呪霊を収集した夏油(グルメショーウィンドウ)

 

 彼にとって呪霊とは探求すべき未知なる味。

 その最終目標は――。 

 

「俺は両面宿儺(GOD)をフルコースに加える」

 

 両面宿儺(GOD)をメインにしたフルコースの完成。

 その前途は多難。

 しかし、それでもトリコはあきらめることはない。

 未知なる味がこの世に尽きない限りは。

 

 世はグルメ時代。

 未知なる味を探求する時代!




2021/4/17 冒頭を修正


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トリコ死す! デュエルスタンバイ!

直哉=ブランチ説。

直哉の投射呪法は、事前に動きを決めてから秒間20で再現する最速の術式(五条悟除く)。
ブランチの雷撃は、先駆放電「ステップトリーダ」で電気の通り道を作ってから帰還電撃「リターンストローク」でマッハ30000のスピードを発揮する。
直哉は呪術界の御三家が一つ、禅院家の次期当主(未定)。
ブランチは妖食界を代表する三戦士の一人、妖食三獣士のメンバー。
直哉とブランチの口調は似ている……似てない?

トリコを名乗る転生者「お前、天狗のブランチだろ!」

直哉「こっわ~~。誰やねん」


 補助監督官、伊地知。

 メガネをかけたいかにも几帳面な男は口を開いた。

 

「経緯はこうです」

 

 場所は西東京市、英集少年院。

 突如、受胎した呪霊を在院者が目視で確認。

 緊急事態により高専関係者が施設および周囲5キロ圏内の住民を避難誘導した。

 今も封鎖中である。

 

 高専1年4人組に下された任務は取り残された在院者の生存の確認と救出。

 任務を下された1年の空気は重い。

 それは伊地知の口から、院内部の呪霊が変態するタイプの場合、特級呪霊へとなる可能性が示唆されたからだ。

 

 分類の上では最高位に位置する呪霊。

 それが特級だ。

 その力は強力で並の術師では歯が立たない存在。

 学生である彼らが勝てるわけがない。

 

 そんな勝てるはずのない呪霊と接敵し、最悪命を失うかもしれないのだ。

 在院者の生存が危ぶまれる状況でもある。

 目に見えない不安のようなものが辺りに漂っていた。

 

 それこそが呪術師にとっての普通だった。

 人の負の感情が凝り固まり生まれるのが呪霊であり、それを祓うことこそ呪術師の存在意義。

 不快な仕事だ。

 呪霊の目撃あるいはそれらによる被害があって初めて呪術師が動く以上、人死には避けられない。

 身体の一部でも見つかれば御の字という凄惨な現場。

 そんなものを好むものがいるはずもない。

 多かれ少なかれイカれが多い呪術師であっても、大抵は任務の前には気が重くなる。

 

 彼らにとってもそれは変わりない。

 自分や仲間の死を意識している。

 そんな風に任務の準備を整えていく1年4人組。

 

 しかし、その中にはぶっちぎりでイカれた男がいた!

 

「今日も絶好の狩り日和だぁ!」

 

 男はトリコ。

 本名不明、トリコを自称する転生者だ。

 前世では誰もがご存知、グルメファンタジー漫画『トリコ』を愛読していた男である。

 イカれ具合が全身に刻まれたかのような術式により、呪霊を美味しくいただくことも他者に振る舞うこともできるこの男。

 彼にとって任務とは呪霊(未知なる味)との出会いに過ぎないのだ。

 

「よく分からないけど、あれが呪術師の普通なのか?」

 

「んなわけねえだろ」

 

「あれが普通だと思われるのは、全呪術師にとっての侮辱よ」

 

 この様子に残りの3人は苦笑。

 他の高専関係者も彼から露骨に距離を取っている。

 

「しかし、いいのかい、伊地知さん。

 いきなり高専(IGO)の秘部に案内しちゃって」

 

「え? 何のことです?」

 

「とぼけても無駄ですよ。

 だってここは高専(IGO)の超重要施設の一つ、ビオトープガーデンなんだからな」

 

「何だよそのビオトープガーデンってのは?」

 

「通称『庭』。

 高専(IGO)呪霊(動植物)の生態研究や繁殖とかの目的で建設したビオトープさ。

 グルメ時代の発展を大義に掲げちゃいるが、その研究内容は表に出すのをためらうようなものも多い。

 ここは他の施設より随分と小さいしな。

 扱っている呪霊(動植物)が大したことないのか、外部からの注目を避けるためにあえて目立たないように偽装したのか、だとしたらどれだけ後ろ暗いことをしてきたのか。

 どっちかだろうな」

 

「へ~~。高専(IGO)もあながち真っ白とは言えねぇわけか」

 

「ちょっと!? 虎杖くんにでたらめ吹き込まないでくださいよ!

 そんな事実存在しません!」

 

 人目も憚らずに、口を開けば脳内設定のオンパレード。

 そんなトリコとのコミュニケーションが捗るはずもなく、かといって放置するわけにもいかない。

 用語を解読するだけでも大変なのに、円滑に任務を行うための手配をしなければいけないのだ。

 こんなんで任務を全うできるだろうか?

 そもそも、任務を理解しているのだろうか?

 伊地知は胃が痛かった。

 

「あの……ッ! 息子の正は大丈夫なんでしょうかッ!?」

 

 そんな混沌とした空気の中で、女の声がした。

 視線が施設の正門へと集まる。

 中年の女性。

 それは取り残された在院者の保護者、つまりは母親らしい。

 かなり切羽詰まっているのか、院の正門で高専関係者に制止されている。

 

 伊地知が対応した。

 その口から出るのは院に毒物が撒かれたという、カバーストーリー。

 息子の生存が不明、あるいは絶望的であることを悟り、母親は崩れ落ちて、泣き出した。

 

「……ッ!」

 

 その光景を遠巻きに見ていた虎杖の瞳が揺れる。

 自らの両肩に人の命が掛かっているのだという実感。

 プレッシャーは大きい。

 けれども、虎杖とて、人の命を救いたいと願う、1人の人間。

 未熟なれども自らの決意に嘘偽りなどあるはずもない。

 虎杖は勢いよく拳を組んだ。

 

「お前ら、助けるぞ」

 

「……」

 

「当然!」

 

 虎杖の呼びかけに、伏黒は無言を貫き、釘崎は意気揚々と応えた。

 ただ、1人返事をしなかったトリコも思案げに施設を見つめている。

 

「トリコも分かってるよな?」

 

「ああ、分かっているさ――」

 

 流石に状況を理解しているのだろうか。

 先ほどまでのウキウキわくわく具合が嘘であったかのように、トリコは静かに虎杖と言葉を交わそうとしている。

 なんとなくまとまりが出てきた4人の様子。

 最初のギクシャクしていた空気をハラハラしながら見ていた伊地知は、それで一安心して。

 

「喰うぜ」

 

「真面目にやってくんねぇかな」

 

「こいつだけ置いてく?」

 

「……」

 

「あ、そうだ。伊地知さん。呪霊(獲物)はその場で仕留めていいのか? それとも生け捕りの方が良い?」

 

「……自身の生存優先でお願いします」

 

 謎の太々しさを見せるトリコにやっぱり不安になった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 入り組んだ道に、薄暗い雰囲気、複雑に絡み合った配管。

 異界と化した少年院。

 そのおどろおどろしい雰囲気に一同は驚愕した。

 

 建物の外観から考えてもあり得ない規模の空間が施設内部に広がっているのだ。

 虎杖と釘崎が混乱する中、伏黒はこの現象に心当たりがあった。

 生得領域。

 呪霊が呪力により作り出したある種の結界である。

 それだけならなんの問題もない。

 ただ、伏黒たちが踏み込んだ領域は複雑で、先が見えない。

 これほどまでの規模の領域は初めてであり、それがそのまま呪霊の実力だと考えれば生きた心地がしなかった。

 

 混乱する虎杖と釘崎を横目に見ながら、伏黒はひと知れず冷や汗を流した。

 しかし、伏黒の目を引いたのはある1人の男の反応だった。

 

「こ……この雰囲気は……まるでッ!」

 

 一歩後退り、瞳を揺らす、トリコ。

 狼狽や驚愕。

 あらゆる負の感情を一挙動で表現している、ように見える。

 領域を広げるにまで至った特級呪霊。

 そんな存在の前ではトリコもまた単なる学生の域を出ないのだろうか。

 俯いた顔から表情は見えないが、身体の震えは明らかだった。

 トリコの今更な反応に伏黒は首を傾げた。

 

「テーマパークに来たみたいだぜ。テンション上がるな~~」

 

「「「こんなテーマパークがあってたまるか!!」」」

 

 伏黒は虎杖たちと息の合ったタイミングでツッコんだ。

 震えたかと思えば、涼しい顔でこの台詞。

 伏黒も突っ込まざるをえなかった。

 

「このいつ食われてもおかしくない雰囲気。グルメ界を思い出すな」

 

「紛らわしいって。

 ていうか、なんだよその魔境。日本にそんな場所はねぇよ。

 海外か?」

 

「人間界の外側に広がる世界。そこが俺の故郷さ」

 

「外国どころか、地球ですらねぇ……」

 

「あほくさ。そんなわけないでしょ」

 

 伏黒は無視した。

 何故ならトリコの言った言葉だから。

 頭グルメスパイザーの名に恥じない逸材っぷりに翻弄されている虎杖を見れば、それがどれだけ愚かなことか言うまでもない。

 伏黒は両手を組んで、術式を発動させた。

 

「玉犬!」

 

 犬を象った影絵が立体的なシルエットになると、それはたちまち白い狼となった。

 これこそが伏黒の式神の一つ。

 玉犬・白だ。

 トリコが息を呑む。

 白い毛並みは美しく、手触りはタオルのようにふわふわのようだった。

 トリコは玉犬・白をマジマジと見つめた。

 

「あの誇り高い絶滅種、バトルウルフを手懐けるとは……。

 新進気鋭の美食屋の名に恥じない天才っぷりだな」

 

「ちげぇよ」

 

「流石、伏黒。お前はできる美食屋だと思ってたぜ。ところで美食屋ってなに?」

 

「海原雄山みたいなもんじゃないの?」

 

「釘崎さぁそれは美食倶楽部じゃないっけ?」

 

「この新品のタオルみたいにふわふわな手触り……そうだ、お前はテリー、テリークロスだ!」

 

「いつまでやってんだ。置いてくぞ」

 

 伏黒が呼び出した式神は白い狼。

 バトルウルフもまた白い狼。

 玉犬・白=バトルウルフという図式ではしゃぐトリコと賞賛する(ボケる)虎杖。

 投げやりな釘崎。

 伏黒の術式が本当に賞賛されて然るべき相伝であることは若干の皮肉か。

 感動の再会といった様子で玉犬を撫で回すトリコを無言で引き剥がすと、伏黒は歩を進めた。

 

「道案内は俺と伏黒の式神(バトルウルフ)の嗅覚に任せろ」

 

「犬なみの嗅覚かよ?」

 

「俺の鼻はダムにたらした一滴の薬品すら嗅ぎ分ける」

 

「警察犬じゃん。呪力って嗅覚も強化できるもんなのか?」

 

「いや、こいつが化けもんなだけだ」

 

「ワォーン」

 

 本格的に始まった探索は思いの外、順調に進んだ。

 玉犬に加えて、嗅覚が優れたトリコが先導したおかげだ。

 最初は半信半疑だったものの、実際、トリコのルート選択は玉犬・白の意見と一致している。

 式神と簡単な意思疎通が取れる伏黒にはそれが理解できた。

 

「しかし、生得領域(裏のチャンネル)を作り出すとは。

 流石は特級(捕獲レベル30オーバー)。腕がなるぜ」

 

「なあなあ、さっきから何言ってるのか全く分かんないんだけど」

 

「一から十まで説明する時間はないから、基本的なこと、捕獲レベルだけ押さえておこう。

 捕獲レベルとは獲物の手強さを示す一つの指標。

 レベル1の獲物を仕留めるためには、猟銃を持った腕っこきのハンター10人いる、と言われている」

 

「何だそれ!? 捕獲レベル30ってハンター300人分ってこと!?」

 

「捕獲レベル30じゃ戦車も通用しないだろうぜ。

 伊地知さんがクラスター爆撃でトントンって言っていたが、俺の見解も概ね同じだな」

 

 先頭を行くトリコとその後ろを歩く虎杖の会話。

 その様は虎杖(呪術初心者)に有る事無い事吹き込むトリコ(狂人)という悪夢のような光景。

 虎杖が染まってしまう前に横槍を入れるべきだが、イカれた会話にも巻き込まれたくない。

 迷った結果、伏黒は放置した。

 

「このアホどもめ……」

 

 釘崎は基本、トリコと積極的に関わる気はないらしい。

 2人に聞こえないように愚痴ってる。

 特級呪物を呑み込んだ虎杖にさえ若干引いていたのだ。

 呪霊を常食している上に他人にも薦めてくるトリコに生理的嫌悪感を覚えるのは、女子として当たり前の感覚であったかもしれない。

 が、これから任務を一緒にこなす仲間としては少々不穏である。

 

「ま、だから、伊地知さんが遭遇したら撤退あるのみ、と言ってたのもあながち間違っちゃあいない。

 厳しいだろうしな」

 

「……やっぱり仕留めるのは難しいのか?」

 

「まさか。

 難しいってのは捕獲するのは骨が折れるってだけさ。

 仕留める程度わけないだろうが!」

 

「スッゲェ! やっぱりお前頼もしいな!」

 

 トリコと虎杖。

 2人の相性はいいのだろう……か?

 会話を弾ませている。

 が、その内容には一つどうしても看過できない部分があった。

 

「ちょっと、虎杖? あんたは良いかもしれないけど、私たちを巻き込んでんじゃないわよ」

 

「え? でも、特級の呪霊だぞ? 祓えるのなら祓うに越したことはないだろ?」

 

「そいつの言うことを真に受けるなよ。伊地知さんから聞いた通り、特級からは逃げるのがセオリーだ」

 

 特級からは逃げるのが基本。

 伏黒はトリコを信用していない以上、このセオリーを破るつもりはない。

 釘崎が釘を刺すのと同時に、伏黒も指摘した。

 こんな任務で無駄に命を落とす必要などない。

 

「おいおい。何言ってるんだ? 美味そうな獲物がいるんだ。

 みすみす、見逃すわけないだろう」

 

「てめぇの趣味に付き合う気はないぞ」

 

「心配するな。

 俺たちはチームを組んじゃいるが、各々が獲物を狙うライバルでもある。

 獲物を先に仕留めるのも、獲物を横取りするのも、そして、撤退するのも自由さ。

 もっとも、お前ほどの呪術師(美食屋)が獲物を見逃すだなんて信じられないがな」

 

「俺にはもうお前の言動が信じられねぇ」

 

 トリコの呪術師(美食屋)としてのスタンスが浮き彫りになったところで、開けた場所に出た。

 打って変わって広くなった空間には死体が転がっている。

 2つの死体だと辛うじて分かる丸い物体と上半身だけ残った死体。

 合わせて3人分だ。

 虎杖は上半身だけの死体に駆け寄って、死体が着ているジャージの名札を見た。

 そこには『岡崎 正』……あの母親の息子の名前がある。

 

「この遺体を持って帰る」

 

「え?」

 

「何もなしに、息子が死にましたじゃ、母親としては納得できないだろ」

 

 虎杖は少し考える素振りを見せてから、死体を運ぼうと言い出す。

 けれど、今いるのは特級呪霊の生得領域の中。

 人という大きな荷物を運ぶ余裕はない。

 伏黒は虎杖のパーカーを掴んで引っ張りあげて、そう主張した。

 母親の心情に寄り添う虎杖はそれでも譲らない。

 

「自分が助けた人間が将来人を殺したらどうするッ!」

 

「だったらなんで俺を助けたんだよッ!」

 

 助ける人間を選ばない虎杖と善人だけを救いたい伏黒。

 主張が異なるゆえに、遅かれ早かれ両者はぶつかり合っていただろう。

 それは仕方がない。

 だが、今は時と場合が悪すぎた。

 

「ちょっと、時と場合を――」

 

「ダメだ。遺体を運ぶ余裕は俺たちにはない。

 大勢の人を助けたいのなら、なおさら、捜索を優先するべきだぜ」

 

「「「は?」」」

 

 トリコが2人に割って入ろうとした釘崎もろとも口論を断ち切った。

 先ほどまでのイカれた言動は何処へやら。

 そのまともすぎる内容に、一同唖然。

 興奮状態にあった虎杖も伏黒も冷や水を浴びせられたように冷静になった。

 

「それに、もはや、そんなことを論じている暇は俺たちにはねぇ」

 

「トリコ、お前一体何を言って――」

 

「ウゥゥワオオオォォンッ!」

 

 玉犬・白が吠えた。

 玉犬の役割は呪霊の気配を察知して、知らせること。

 それは、すなわち――。

 

「来るぜ。呪霊(獲物)が……ってあれ?」

 

 特級呪霊の接近を意味する!

 玉犬の唸るような吠え方からして、もはや、逃亡は不可能な距離まで近寄っていると判断。

 虎杖たちは思い思いの構えを取ったりはーーしなかった!

 特級呪霊と遭遇した場合、逃げるか、死ぬかのどちらかである。

 伊地知の助言に忠実に、玉犬の先導に従い、逃げる虎杖、伏黒、釘崎。

 取り残されたトリコ!

 

「えええ!? なんで逃げねぇのあいつ?」

 

「えええ!? なんで逃げるのお前ら?」

 

 流石にトリコが突っ立ってるとは思っていなかった一同。

 虎杖とトリコが互い違いのツッこみを披露する刹那。

 特級呪霊は先頭を走る玉犬の行く手を遮るように現れた。

 その実力は圧倒的。

 虎杖たちが反応する間もなく、特級は玉犬に拳を打ち据えて、その頭部を広い空間の壁へとめり込ませた。

 インパクトの衝撃により震える空気。

 爆音。

 耳鳴り。

 その衝撃たるや余波だけで1年たちの動きを止めるに十分すぎた。

 1年たちは蛇に睨まれたカエルのように身動きできない。

 特級の特級たる所以を前にして死の予感に襲われた。

 特級はそんな3人の反応を楽しみながら、手を伸ばして――。

 

「させるかッ!」

 

 3人を庇うように右頬で打撃を受けるトリコ。

 打撃により軽く上半身をのけ反らせるものの、ダメージ自体は大したことないのか。

 しかし、どこか焦っているのか。

 声を張り上げた。

 

「ここは俺に任せて早く行け!」

 

「トリコ!? なんで!?」

 

「今はこいつを仕留められん!

 生得領域(裏のチャンネル)が閉じたら残りの生存者の生死を確認できんだろうが!」

 

「虎杖、釘崎! 行くぞ!」

 

「で、でも……ッ!」

 

「今の俺たちじゃ足手まといだ。

 残り2人の生死を確認し次第、合図をする!

 トリコ、死ぬなよ!」

 

 特級はトリコを警戒しているのか、一旦、距離を取って様子を窺っている。

 その様子から伏黒はトリコの実力は特級と互角だと見た。

 だとしても、今はまだ祓えない以上、トリコの方が不利。

 脱出するのも手だが、イカれ扱いしたトリコが任務を全うしようとしている。

 それをほったらかして逃げるのは仲間が絶対に許さないだろうし、何よりも矜持に関わる。

 今できる最善は、取り残された人間の一早い生死確認と救出。

 その判断の意外なまともさに、伏黒はトリコを見直した。

 

「早くしろーー!

 お前らが任務を完了する前に俺がこいつを喰っちまっても知らんぞーー!」

 

「……やっぱり、お前はイカれてる」

 

 見直したことを後悔させる台詞だった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

「うっひょーー! 流石は特級!

 このプリプリとした食感と凝縮された旨味は堪らんなぁーー!」

 

 トリコと別れてから、虎杖たちは迅速に生得領域を探索。

 残りの生死を確認してから脱出したのであった。

 伏黒は玉犬・黒の吠え声で合図を送る。

 すると、どうだろう。

 瞬時に生得領域は閉じて、院の内部は元の姿を取り戻している。

 上記の台詞はトリコが特級の亡骸と共に帰還した瞬間に発したものである。

 

「なあ、一つ聞いてもいいかトリコ?」

 

「うん? どうした虎杖?」

 

「お前はどうしてそんな顔ができるんだ?」

 

 在院者の死体とそれを見るたびにチラつく息子を心配する母親の顔。

 虎杖は締め付けられる思いとともに無力感を感じていたらしい。

 現に、伏黒もそうだった。

 やったことと言えば、式神を頼りにした領域内の探索と特級からの逃亡であり、呪術師としての使命を果たしたとはとても思えなかった。

 それに引き換えトリコの呪霊(食事)を前にした時の喜びようといったらどうだろう?

 人死になんてなかったと言わんばかりのトリコの態度に疑問を抱いたのは、伏黒も一緒だった。

 

「そうだな。虎杖、お前は腹が減るのを止められると思うか?」

 

「はぁ?」

 

「例えば、胸が張り裂けるほどの悲しいことがあった時、人から食欲は失せるものなのか?」

 

 トリコは佇んでいる。

 虚を突かれて戸惑う虎杖へとトリコは言った。

 

「答えは消えない。

 どんなに悲しいことがあっても、例え、それで一時食う気がしなくなっても、いずれ腹の音とともに人は食欲に屈する。

 生きてる以上、腹が減るのを止めることはできないんだよ」

 

「……」

 

「だったら、俺たちにできることはただ一つ。

 食材に感謝して、最大限美味しくいただくことだけ。

 俺はそう思っている」

 

「トリコ……、お前……」

 

 生前。

 トリコが読んでいた原作『トリコ』の誰を思い出しているのだろうか。

 それは三虎か、アカシアか、あるいは他の誰かか。

 そんなことはトリコ以外の誰にも分からない。

 ただ、普段のイカれた態度からは想像もつかない態度に、この男の葛藤を、垣間見たような気がした。

 

「それに見てみろ! この呪霊(食材)に溢れる旨味を!

 今日、期待して腹すかせてきた甲斐があったもんだぜーー!」

 

「あーー、やっぱりこいつイカれてた。

 少し見直して損したわ」

 

「ハハッ! まあまあ釘崎。これでこそトリコなんだろうな!」

 

「はぁーーッ」

 

 伏黒はガシガシと頭をかいた。

 同期の印象がジェットコースターのように乱高下した挙句、低めに軟着陸したのだ。

 その挙動に感じたそこはかとない疲労。

 それをため息として吐き出しながら、伏黒はひとまず安堵することにした。

 特級相手に誰1人欠けなかったという幸運に変わりはないのだから。

 

「それよか、お前らも食わないか?

 特級料理?」

 

「お、いいねぇ。伏黒と釘崎はどうする?」

 

「パスだパス」

 

「私もパスよ。悪食同士、どうぞご勝手に」

 

 いつの間にかできていた料理のうまそうな匂いが辺りに漂った。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 任務報告書。

 2018年7月。

 西東京市、英集少年院の複数の在院者が運動場上空に特級仮想呪霊を目視。

 緊急事態のため高専1年生4人が派遣され――。

 

 1名死亡。



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WoW! WOW! 釘パンチッ! WoW! WOW! 釘パンチッ!

 トリコを名乗る、トリコと瓜二つなだけの転生者。

 略してトリコ。

 彼は高専の1年生のメンバーとして、任務をこなしながら、呪霊を仕留めては食べるという日々を送っていた。

 おおむね、高専の生徒となる前と変わらない日常を送るトリコだった。

 そんな彼を不幸が襲っていた。

 

「……そうか……死ぬんだな……俺は……」

 

 トリコの胸に穴が空いていた。

 向こう側が見えるほどにぽっかりとした穴だ。

 当然、人体にそんな穴が空いていればタダでは済まない。

 血がどくどくと溢れ出して、足元には血の水溜りができている。

 その命は残りあとわずか。

 しかし、トリコの顔は澄んでいた。

 己の死を確信しているはずなのに、そこには本来あるべき恐怖や後悔といった負の感情は一切ない。

 自嘲気味な笑みこそ浮かべてはいるものの、その顔は晴れやかだった。

 

呪霊(美味いもん)……いっぱい喰ったなぁ……」

 

 トリコは呟いた。

 己の人生に満足しているかのようであった。

 現に、トリコは走馬灯として自身の人生を振り返っていた。

 記憶を巡るたびに想起する、食の記憶。

 呪霊(食材)の調達は苦労の連続だ。

 危険地帯の探索、もちろん、事前の情報収集は欠かせない。

 それだけに呪霊(食材)をゲットしたときの感動は大きかった。

 全ての狩猟が特別。

 そして、全ての呪霊が美味かった。

 

「この世に存在する全ての呪霊(食材)に感謝を込めて……」

 

 そんな思い出を前にしてトリコが取るべき姿勢はただひとつ。

 合掌だ。

 死の間際。

 トリコは怯えるでも、恐怖するでもなく、ただただ静かに手を合わせていた。

 

「ごちそう……さま……でした……」

 

 そこに込めるのはありとあらゆる感謝。

 自身を育んでくれた呪霊(食材)への感謝。

 呪霊(食材)に関わってくれたものへの感謝。

 こんな自分と食を分かち合ってくれた仲間への感謝。

 惜しみない感謝の念を込めたごちそうさまのあいさつ。

 それによってトリコの死は完成する。

 もはや、その魂に揺らぎひとつない。

 完成された死がそこにはあった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

「トリコが死んだって……マジ?」

 

「……マジです」

 

「嘘だろ……?」

 

 五条悟。

 トリコを見出して高専へとスカウトした男である。

 最強の呪術師としても名高い。

 そんな男も生徒の前では、悩める教師の1人に過ぎないのか。

 伊地知の報告を聞いて、五条が天を仰いだ。

 

 死。

 それは呪術師をやっていれば避けられないものである。

 死は呪術師の周りに溢れている。

 呪いの被害者の死はもっともありふれているものだろう。

 そして、当然、その中には呪術師の死も含まれている。

 呪霊への対処法を持っている呪術師は、通常、呪霊に負けることはない。

 同じ等級の呪霊に勝って当たり前、という等級制度に基けば呪術師が任務に失敗して死ぬということはない。

 しかし、それでも呪術師は死ぬ。

 呪霊が想定以上に強かったり、術師の実力以上に高難易度な任務が割り振られたり──。

 ともかく、死ぬ。

 それは決して珍しいものではない。

 

 呪術師を長く続けていれば必ず遭遇するもの。

 それが仲間の死だ。

 当然、それは痛ましいものだった。

 何度繰り返しても慣れることのできないものだった。

 自身が受け持つ生徒の死。

 それは辛くて悲しいものだった。

 

「──どういうことだよッ!?」

 

 しかし、ここにそんな痛ましさを吹き飛ばす例外が存在した!

 冒頭で流れたトリコの死!

 やたらいい感じにトリコは逝った。

 しかし、その真相は実に下らないものだった。

 そこには感動的な要素なぞ微塵も存在しなかった。

 

「なんで、宿儺の指なんて喰ったんだよ!?」

 

 五条は呆れていた。

 困惑していた。

 

 もとより、この任務自体がおかしかった。

 特級相手、しかも、生死不明の被害者の救助に1年生が派遣されることなどありえない。

 1年生が特級と遭遇すれば、待っているのは確実な死だ。

 行方不明者が生きている可能性も低いくせに、難易度だけは不相応に高い。

 この任務の割り振り自体に悪意があった。

 

 虎杖悠仁は呪いの王・両面宿儺をその身に宿している。

 呪術規定に基づけば、秘匿死刑の対象だ。

 虎杖が死刑になっていないのは、宿儺の指を20本すべて取り込ませてから、死刑にすればいいと、五条が提案したから。

 実質、無期限の死刑延期。

 それを面白くない上層部が虎杖を始末するために、今回の件を仕組んだ。

 

 仮にこの任務が上層部の陰謀だったとして、宿儺の指と関係しているのかどうか?

 あるいは別の第三者が指を仕込んだのではないか?

 その第三者は上層部とつながりを持っているのではないか?

 考えるべきことは多い。

 だが、そんなまじめな思考を始めようとするたびにトリコの死因(まさかの食中毒)がちらつくせいで集中できない。

 

 うっとおしい死に方したなアイツ、などという不謹慎な感想さえ浮かんでくる始末。

 これならまだ虎杖をかばって命を落とした、と言われたほうがまだ納得できる。

 

 任務に仕掛けられた罠をいったん切り抜けておいて、予想とは違う形で自爆。

 その死にざまはある意味では芸術点が高かった。 

 否、高すぎた。

 

「うおおおおッ!」

 

「……ッ!? くそ!」

 

「どうしたぁ! 一年坊主どもぉ!」

 

「私は坊主じゃないんですけど!」

 

 釘崎と伏黒。

 彼らは高専所有のグラウンドで特訓をしていた。

 同じ高専の2年生の先輩からしごきを受けていた。

 2年生から京都姉妹校交流戦なる対抗戦への参加をお願いされた、というだけではない。

 トリコの死に様が、いや、トリコと赴いた任務は、彼らが特訓をする大きな動機になっていた。

 当然、強くなる動機を抱いたのは彼らだけではない。

 

「珍しいこともあるもんだな。君が感情的になるなんて」

 

「しょうがないだろ?

 教え子が呪殺される覚悟はできても、食中毒で死ぬ覚悟なんてできるわけないだろ?」

 

「なるほどね。でも、君には取り乱している暇なんてなさそうだぞ」

 

「どういう意味だよ? それ?」

 

「こういう意味さ……入っておいで」

 

 高専専属の医師、家入硝子。

 トリコの解剖のために解剖室へとやってきた彼女は、扉を開けたまま呼びかけた。

 すると1人の少年が入ってきた。

 

「五条先生!」

 

「……悠仁か」

 

 虎杖悠仁。

 上層部の抹殺対象である。

 

「ごめん! 俺、トリコを止めることができなくて」

 

 虎杖は部屋に入るなり、平謝りする。

 自分が先に宿儺の指を食っていればこんなことにはならなかった、という意味の謝罪だった。

 あるいは解剖室の陰気な雰囲気に呑まれて、弱気になったのかもしれなかった。

 

「悠仁は何も悪くないよ。君をここに呼んだのはすぐに安全を確保するためさ」

 

「安全?」

 

「ああ、君の存在を危惧する上の連中のなかに、君の抹殺を企てている輩がいる」

 

「もしかして……」

 

「ああ、今回の一件は君の命を狙った連中が仕組んだものだ」

 

「じゃあ、まさか、トリコも──」

 

「それはただの自業自得」

 

 五条は包み隠さず虎杖に事情を説明する。

 本当なら生徒に話すことではないが、虎杖悠仁は宿儺の器。

 生徒だからといって今回の一件をひた隠しにしたところで、本人のためにはならない。

 なにせこれから虎杖は自分の身を自分で守れるようになれなければいけないのだから。

 

「じゃ、行こうか。とりあえずは高専の地下室に君を匿うから、付いてきて。

 硝子。あとは頼んだよ──」

 

「ちょっと待って、五条先生。

 せっかくだからさトリコの死に顔でも見物していきたいな」

 

「見物!?」

 

 しんみりとした空気に虎杖が投じた一石はでかかった。

 唖然とする五条を尻目に、家入から承諾を得て、トリコにかけられていた青いシートをひっぺがす。

 そこには死人とは思えないほどに綺麗なトリコの顔があった。

 

「やっぱり綺麗な顔してんなー」

 

「あれ? 悠仁、なんかノリ軽くない?」

 

「五条先生。それがさぁ、なんか、あんまり悲しくならねえんだよな」

 

「なんで?」

 

「いやぁ、あいつ死ぬ直前だってのに、合掌なんかしてさ。

 こう言うんだ、ごちそうさまでしたって、さぁ……いや、食後ではあったけども!

 だからさ、なんかあんまりしんみりはしないっていうか……」

 

 虎杖が語るトリコの最期に、五条は報告書の内容を思い出した。

 報告書には、トリコが両手を合わせて大往生した様子がまとめられていた。

 簡潔な文章からは、細かい情景だとかが抜け落ちている。

 しかし、トリコが誰も呪わず、感謝の言葉だけを告げて逝ったことは虎杖の様子からも想像できた。

 

「……でも、先生。俺、悔しいんだ。

 俺はこの任務で何にもできなかった。

 誰かを助けることも、誰かの役に立つことも、自分の命を守ることも……」

 

「……」

 

「自分のことを強いって思ってた。死に方が選べるくらいには強いって思ってたんだ。

 でも、違った。俺は……弱い!」

 

 トリコは笑って逝った。

 だから、悲しみはあまりない。

 代わりに悔しさが虎杖の中に残った。

 それは強烈なものだ。

 トリコの死は間違っている。

 愚かと言ってもいい。

 しかし、トリコは間違いなく自分の意思で選択した上で、死んだ。

 その結果が不本意なものであったとしても、自らの死に方も死に場所を選んだことに変わりはない。

 

「俺は強くなりたい。

 せめて自分の死に方を選ぶくらいには強くなりたい……!

 伏黒も、釘崎も、強くなるために先輩たちと訓練してるんだ!

 俺だけ何もしないで匿われているだけじゃ、あいつらに合わせる顔がねぇ!」

 

 せめて、死に方を自分自身で選べるように。

 我を通せず命を奪われるのではなく、たとえ死んだとしても我を通せるようになりたかった。

 そんな他の2人にも通じる動機を虎杖は語り終えた。

 

「よく分かったよ、悠仁。この僕にまっかせなさい!」

 

 五条のほほが緩む。

 呪術師として多くの死を見てきた。

 悲惨なものも多い。

 そうであるが故に、その死に様がいかに幸せなものであるのかを深く実感していた。

 虎杖があまり悲しくない、と言っていたのを聞いて五条は気が付いた。

 五条もまたトリコの死を知ってもあまり悲しくはなかったことに。

 虎杖から話を聞く前から、きっとトリコは悔いを残さないで死んだんだろうな、という確信を持っていたのだ。

 

 トリコの死は悪いものを残さない。

 呪いや後悔さえも。

 ある種、清涼的な死に方だった。

 まあ、それはそれとして。

 落胆もでかいし、腹が立つことに変わりはないのであるが……。

 

「おい、君ら。死体鑑賞とはいい趣味してるじゃないか?

 どうだ。このまま、解剖するとこまで見ていくか」

 

 死体を前に熱い展開を繰り広げる虎杖と五条へと言外に苦言を呈する家入硝子。

 その含みに気づかないほど鈍感でもない虎杖と五条は解剖室から出ようとする。

 

「俺ってずっと高専の地下室にいなくちゃいけないの?」

 

「そうだねー。

 上層部の連中も直接手は出してこないとは思うんだけど、やっぱり、あんまり居場所は知られたくないからね。

 今、いくつか候補を探している段階。

 ずっと地下においておくつもりはないから、安心しなさい」

 

「うっす」

 

 2人の話題は、今後の潜伏場所へと移った。

 虎杖としても、薄暗い地下室にとどまり続けるのは、遠慮したい。

 五条も上層部の手が及ばない場所を用意するとなると、場所はだいぶ絞られる。

 そう五条が頭を捻っていると、背中の後ろから声が響いた。

 

「だったら、俺と山籠りしないか?」

 

「山籠りって、ベタだねぇ──え?」

 

 男が会話に割り込んできた。

 筋骨隆々で全裸の男。

 そいつは股間を隠すことなく堂々と五条の前にやってきていた。

 一同は唖然とする。

 

「山籠りはいいぞ。

 豊かな自然の中で食べる飯ほどうまいもんはない!

 呪霊も狩り放題だしな!」

 

 宿儺と縛りを設けて復活したのか、あるいは、元々、別の呪いを宿していたのか。

 トリコはある意味で宿儺の器以上に未知の存在だ。

 五条の六眼でも分かりようがない。

 

「ねえ、トリコ? それよりもまず謝らなくちゃいけないことがあるんじゃないの?」

 

「ああ、ごめんな!

 宿儺の指(GOD)を独り占めしてしまって──」

 

「そうじゃないだろぉ!」

 

「あ゛き゛ゃー!」

 

 見当違いの謝罪に五条はキレた。

 最強の術師による本気のマジビンタが炸裂した。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 トリコが生き返ったのを目撃してから、()()と世話を焼いた五条悟。

 そんな彼が地下室から外に出たときには、もう日が傾いていた。

 それから打ち合わせの料亭まで車で移動している間にすっかり夜になっていた。

 コンクリートで舗装された夜の山道。

 何かの気配に気がついた五条が車を降りて先に行かせれば、上空から降ってきたのは、未登録の呪霊だった。

 

「キミ、なにもの?」

 

「ヒャア!」

 

 そいつは返答の代わりに追撃をかましてくる。

 その名は漏瑚。

 その力量は特級、それも特級の中でも上位に位置するものである。

 そんな漏瑚には目標があった。

 人類の時代を終わらせて、呪霊が大地を闊歩する時代を築きあげることだった。

 前哨戦として漏瑚は最強の術師である五条へと襲撃を仕掛けたのだ。

 だが──。

 

「弱いねキミ」

 

「小童め!」

 

 自慢の炎も五条には届かない。

 五条のあやつる無限の防壁が突破できないのだ。

 対抗手段はある。

 自らの領域に引きずりこめば、無限を中和できるはずだった。

 だが、そんな漏瑚の前に、五条は、自身の生徒を2人引き連れてきた。

 

「紹介します! 見学の虎杖悠仁くんです!」

 

「え、なに? ここどこ!?」

 

(なに? 宿儺の器だと!?)

 

 宿儺の器の情報を協力者から得ていた漏瑚は、虎杖悠仁が宿儺の器であることをすぐさま看破した。

 宿儺を自身の陣営にひきこむつもりの漏瑚は、計画がバレているのではと内心で動揺する。

 だが、本番はここからだった。

 異常な存在感を示すもう1人の存在。

 彼こそが問題だった。

 

「で、本日、実践を担当します、トリコくんです!」

 

「なに──ッ!?」

 

「これから彼には君と戦ってもらいます!」

 

(トリコ? トリコだと!? 馬鹿な! 話によれば奴は死んだはずでは!)

 

 五条はトリコの肩を叩く。

 協力者からは、トリコについては少年院の騒動で亡くなった、と軽く触れられている程度だった。

 それが生きて目の前にいる。

 仮にそれが宿儺の器だったのなら、呪いの王が何かやったのだろう、と軽く流せていただろう。

 だが、トリコにはそんな目に見える背景はない。

 ただの狂人である。

 そんな狂人が生き返るなどという、あり得ない事態に漏瑚は混乱した。

 そして──。

 

「おいおい……戦闘中に余所見とは、感心しないぜ、 漏瑚(コンソメマグマ)よ」

 

「ッ!?」

 

 それは油断だった。

 五条の言葉には言葉以上の理由などなく、自称トリコの転生者はいきなりの展開にも関わらず、言葉を言葉のまま受け入れている。

 いや、トリコは漏瑚を視界に収めた瞬間から戦いの算段を立てている。

 である以上、漏瑚の邪推は致命的な隙であった。

 トリコは漏瑚が反応する間もなく、間合いを詰めていた。

 

「オラァッ!」

 

「ガハッ!?」

 

 トリコの右拳が腹を打ち、漏瑚の口から紫の血液が飛び散った。

 

(コンソメマグマとは何だ? 儂のことか!? そもそもなんなんだこいつ!?

 分からん! 分からねばッ!)

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 そうして、始まった戦い。

 先手を取られた漏瑚であったが、有利に戦いを運んで行った。

 岩と炎と蟲。

 多彩な手段の遠距離攻撃。

 これにより漏瑚は優位に立ったのだ。

 

「その程度で儂を喰おうなどと……百年早いわ!」

 

「グワァッ」

 

 漏瑚の炎がトリコを吞み込んだ。

 炎のかたまりとなって吹き飛ばされたトリコは、数百メートル先の大地へと着弾して、派手な音と振動を響かせた。

 

「すぐに教え子と同じ場所へと送ってやる……五条悟!」

 

 トリコの死を確信すると、漏瑚は五条へと向き直る。

 けれど、教え子が死んだはずの五条は平然としていた。

 

「……ふっふっふ……はっはっは……はははははは!」

 

「何がおかしい!」

 

「いやはや、2度も敵の生死を誤るなんて、君の立派なお目々はお飾りかな?」

 

「なんだと~~~、馬鹿にしおって」

 

「僕に構っている場合じゃないだろ……あの馬鹿を、僕でも読みきれないあの大馬鹿を……お前程度が舐めるなよ」

 

「騙されるものか──ッ!?」

 

 漏瑚の背筋がぞくりとした。

 凄まじい呪力の奔流を背後に感じたのだ。

 五条から目を離し振り向いた先には、男が立っていた。

 

「なッ! 生きているだと! ど、どうやって?」

 

 それはトリコ。

 彼は全身に軽度の火傷を負っていたが、確かに生きていた。

 

「フォークシールド……これがなければやばかったぜ……」

 

 フォークシールド。

 鋼鉄と同等の硬さと耐熱性を兼ね備えた大型のフォークを展開し炎をガードしたのだ。

 それで炎の全てをガードし切れたわけではないものの、トリコを騙るだけのことはある。

 威力の減衰した炎の火力ではトリコの屈強な肉体を焼け切れはしない。

 

漏瑚(コンソメマグマ)

 流石は捕獲レベルが測定不能なだけはある。

 甘い相手じゃない……、こちらも人類の武器をお見せしよう」

 

 そして、その身に漏瑚の本気の一撃を叩き込まれたトリコは、本領を発揮するべく呪力をたぎらせる。

 解禁する武装はナイフとフォーク……そして、釘パンチ!

 漏瑚は本気になったトリコの背後にとある怪物の姿を幻視した。

 

(な、なんだ……? これは……鬼……!?)

 

 視界に浮かび上がる、巨大な鬼。

 その光景を目の当たりにした漏瑚はトリコの力量を認め、切り札を切ることを決意する。

 

「ならば……貴様ら全員焼き尽くしてやる!」

 

 漏瑚は自身を中心に領域を展開した。

 それは五条と虎杖も含めて呑み込んでいった。

 

「領域展開、蓋棺鉄囲山(がいかんてっちせん)!」

 

 周囲はマグマが満ちた灼熱地獄へと変貌していた。

 

「な、なんだよ!? これ!?」

 

 巻き込まれた虎杖には何が何だか分からない。

 先ほどまで山奥にいたはずが、いきなり、周囲が別の地形へと変化していたのである。

 静かな山中が火山の火口のような場所へと変貌するというあり得ない光景。

 虎杖には想像も付く筈がなかった。

 まさか、これが呪術であるなど、と。

 

「これぞ、現代呪術における最終奥義、領域展開だね」

 

「領域展開!? これが呪術だっていうのかよ!」

 

「そう。術式を付与した呪力で空間を構築する一種の結界術さ。

 これはすんごい疲れるんだけど、それだけに戦闘におけるアドバンテージもめちゃくちゃでかいんだよね!

 有利な地形によるバフの効果。

 そして、なにより、領域内で発動した呪術は絶対当たる」

 

「絶対!?」

 

「絶~~~~対ッ!」

 

 そう。

 『必殺』の呪術を、『必殺必中』へと昇華することこそが領域の真髄。

 一応、領域への対抗手段も存在する。

 

 敵の呪術に呪術をぶつける。

 領域からの脱出。

 そして、領域の展開。

 より洗練された領域で敵の領域を塗り替えれば良いのだ。

 ただ、これには1つ問題がある。

 

「ま、困ったことにトリコは領域展開を習得していないんだけどさ」

 

「え? やべえじゃん!」

 

 トリコは領域展開に至っていない。

 それを聞いて虎杖は大丈夫か、とトリコを見る。

 さっさと五条が加勢した方が早いんじゃ?

 そう思う虎杖であったが、五条が動く気配はなかった。

 

「よく見てなよ、悠仁。

 呪術師として強くなりたいのならトリコの戦いを見ておいて損はない」

 

 虎杖は五条の言葉に頷き、戦いへと意識を集中させた。

 

「はッ! 大した信頼だな……だが、領域展開もなしにわが領域に対抗できると思ってるのか?」

 

 漏瑚はトリコに嘲笑を投げかける。

 もはや、勝負は決した。

 領域内に引きずり込んだ以上、こちらの負けはない。

 

「やってみなければ分からないだろう? それに俺は今ワクワクしてるぜ」

 

「ワクワクじゃと?」

 

「この空間に満ちるコンソメの香りのなんと芳醇なことか!

 流石は 漏瑚(コンソメマグマ)! 

 さぞや濃厚な味なんだろうな……喰ってみてぇ!」

 

 だというのに笑みを深めるトリコに漏瑚は警戒心を強めた。

 領域に引きずり込まれても、なお美味そうだからなどとほざく姿が不敵に映ったからだ。

 トリコは漏瑚に向けて手を合わせて、合掌した。

 

「この世の食材の全てに感謝を込めて……いただきます!」

 

 この状況に至ってもなお、トリコを騙る異常者にとっての最優先事項は変わらない。

 目の前にある漏瑚(美食)を喰らうこと、ただそれだけだった。

 

「この異常者め……!」

 

 漏瑚は感謝を向けてくるトリコを見てようやく気がついた。

 ああ、こいつはとんでもなくイカれてやがると。

 同時に──。

 

(この男は今この場で抹殺しておかねばならん! 儂の勘がそう言っておる!)

 

 そう思った。

 自身を食材と見做す、男への嫌悪感だけではない。

 本来なら毒でしかない呪霊を美味と感じる感性。

 領域内でも自らのペースを崩さない図太さ。

 この2つを兼ね備えているトリコは呪霊にとっては相性の悪い相手であるに違いない。

 漏瑚はそう推測した。

 しかも、まだその戦闘能力は発展途上。

 トリコに感じた鬼の気配のことを思えば、その伸び代は計り知れない。

 

「そうか、ならば儂の炎を味わうがいい……! 骨の髄までなッ!」

 

 殺すのなら今をおいて他にない。

 漏瑚は術式を発動。

 必中の効果が付与された炎がトリコへと迫った。

 

「おっとぉ!」

 

「あちぃッ!」

 

 ついでに五条と虎杖へも炎が迫るが、五条は片手で逸らし至近距離を通過する炎の熱は虎杖にも容赦がない。

 炎はトリコへも迫る。

 しかし、トリコは無事だった。

 炎がトリコを避けるように左右に割れたのである。

 

「フライングナイフッ!」

 

「なに!?」

 

 この技こそフライングナイフ。

 トリコが右手に纏った呪力の刃を飛ばす、遠距離技。

 宙を飛ぶ刃が炎を切り裂き、ついには漏瑚に1文字の切り傷をつけた。

 漏瑚は驚愕した。

 ナイフで切られたことにではない。

 必中の効果を与えていたはずの炎が、トリコに当たらなかったことにだ。

 

(馬鹿なッ!

 いくら奴の飛ぶ斬撃が呪術だったとしても、ここは領域の中だ。

 切り裂かれたとして、炎は奴へと向かうのが道理のはず!)

 

 さらに飛んできた斬撃を避けながら、漏瑚は反撃。

 領域内のマグマを煮立たせてトリコと五条へと攻撃を行う。

 が──。

 

「フライングナイフ! フライングフォークッ! フライングナァアイフッ!」

 

 トリコの呪力の刃がその全てを迎撃し、炎をかき分けていく。

 呪術であれば呪術を受ける事は可能。

 だが、しかし、必中の攻撃が一つも当たらないのは一体どういうことだろうか?

 漏瑚は斬撃が岩盤に傷をつけたのを見て、ついに気がついた。

 

(奴の斬撃が儂の領域そのものを切り裂いておるのか!?)

 

 フライングナイフに、フライングフォーク。

 それらは単に炎を切り裂いていたのではない。

 術式が付与された領域ごと切り裂いていたのだ。

 

 これは尋常なことではない。

 呪力の刃を振り回したところで領域そのものに干渉できるわけがない。

 何かカラクリがあるはず。

 だが、考えている暇などなかった。

 何故なら──。

 

(五条悟も無傷だと!? まずい!)

 

 五条もまた無傷。

 呪術で呪術を受けることで攻撃を弾いている。

 トリコに加えて、いまだに実力未知数の五条が無傷であることの精神的ショックは大きく。

 そして、そんな隙を見逃すトリコではなかった。

 

「次はこっちの番だ……5連!」

 

「し……しまった!」

 

 腰だめに拳を構えたトリコがもうすぐそこにいた。

 漏瑚は戦慄する。

 トリコが纏う呪力。

 それはこちらを一撃で倒すには足りない。

 受け止めることも十分に可能。

 だが、そこに不吉な予感を抱いたのだ。

 その予感は現実のものとなる。

 それはトリコの持つ大技の一つ。

 ナイフとフォークときて何故これが来るのか分からない、とファンの間でも語られることがある技だ。

 その名は──。

 

「釘パンチッ!」

 

「甘いわッ!」

 

 拳は漏瑚へと命中する。

 しかし、漏瑚もまた特級呪霊。

 咄嗟に腹に呪力を集中して防御。

 トリコの一撃を耐えきったかに見えた。

 しかし──。

 

「ガハッ!?」

 

 被弾箇所で炸裂した2つ目の衝撃に漏瑚は口を広げた。

 その威力は初撃の倍。

 しかも、まだ終わらない。

 

「アギィッ! ウゲェッ!」

 

 連続して炸裂する衝撃は漏瑚に踏ん張ることすら許さず、漏瑚の吹き飛ばされる勢いは加速されていく。

 5度目の衝撃に漏瑚は断末魔の叫びを上げた。

 

「アギャァァァアアアッ!」

 

 身体は内側から捲れるように破裂し、頭部だけが首の根本から吹き飛んでいった。

 トリコの勝利。

 それを示すかのように、領域は崩れ落ちる。

 4人は再び元の山中へと帰還した。

 

「今のを見たかい?」

 

「ああ、スッゲェ……!」

 

 五条は虎杖へと向き直った。

 釘パンチ。

 これこそが今日ここに虎杖を連れてきた目的だった。

 

「打撃ってのは一度きりで終わり。

 それは呪術であっても基本的に変わりはない。

 けど、何事にも例外ってものはある……。

 悠仁、トリコは技を当てた瞬間なにをした?」

 

「呪力が瞬いてた……?

 何回もトリコの呪力が膨れ上がった気がした」

 

「ピンポンピンポ~~ン! 大正解!

 トリコは最大値の呪力を瞬間的に何度も練れるんだ!

 特異体質って奴だね!」

 

 全力で呪力を放った場合、当然ながら、インターバルを置く必要がある。

 並の術師ならば一呼吸程度か。

 それは術師の練度が上がるにつれて短くなっていく傾向にある。

 そして、トリコのそれは打撃のインパクトの瞬間に何度も呪力を叩きつけられる程に短縮されていた。

 

「もちろん、1度に込められる呪力の量は据え置き。

 それ単体だけなら大して意味のある特技には見えないかもしれないけど、そうじゃないことは悠仁にも分かるだろう」

 

「ああ……釘パンチ、恐ろしい技だぜ!」

 

「一応言っておくと、釘パンチはトリコだけしか使えない。

 だけど、呪力操作のいろんな可能性は理解できたと思う。

 あれも参考の一つとして覚えておいてね!」

 

「押忍ッ!」

 

 その特技が恐ろしい必殺技へと昇華されたのは、今、見た通り。

 無論、その技を虎杖が習得するのは不可能だとしても、その原理は勉強になる。

 術式を使えない虎杖に呪力操作の可能性を教えるのに最適だったのがトリコであった。

 

「さてと、お楽しみの時間だ」

 

 トリコがよだれをじゅるりと垂らした。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 胴体から頭部を切り離された漏瑚。

 しかし、彼はまだ生きていた。

 頭部が潰されない限り死なない不死性はさすがの特級。

 そんな漏瑚はこんなはずではと憤っていた。

 領域を乱されはしたものの、炎とマグマの遠距離攻撃に徹していれば、あそこまでの接近を許すことはなかったはずだった。

 

「さて。誰に言われてここに来た?」

 

「ぐ……。五条悟……! 貴様さえいなければ──」

 

「勝っていたのは自分の方だったとでも言うつもりかい?」

 

 だが、戦場には五条がいた。

 五条は静観の構えを見せてたとはいえ、生徒が危険に陥れば乱入してくるかもしれない。

 漏瑚は五条への警戒を完全には解くことができなかった。

 そんな状態で勝てるほどトリコは甘くはない。

 

「ま、それは否定しないさ。

 それよりも五条先生、俺は早くその漏瑚(コンソメグルメ)のコアを捕獲したいんだが?」

 

「ああ、ごめんごめん。今はこいつに色々と聞かなきゃいけないからさ。

 安心しなよ。用が済んだら、君にプレゼントしてあげるから」

 

「ふざけるな!」

 

「仕方ない。一足先に、ボディの方を味見するか」

 

「聞け!」

 

 漏瑚の首から下が完全に揃っている。

 トリコは手早く漏瑚の身体を処理し、持参のグルメボックスへと保存。

 味見用の肉を1切れ手に取った。

 

「この世の食材の全てに感謝を込めて……いただきますッ~~~~!? おぼぼぼぼッ!?」

 

「えッ!?」

 

「えええぇぇぇえええ……? なんで、食べた量以上の肉汁が出てるわけ?」

 

 噛みちぎられた肉から肉汁が溢れてきた。

 その量たるや尋常なものではなく、口に溢れる肉汁で溺れそうになる教え子、という光景には流石の五条も興味津々だった。

 

「ぅんま~~~いッ!」

 

「おい! 俺にも分けてくれよ……おぼぼぼぼ!」

 

 肉汁のキラキラとした輝きとあまりにうまそうに食べる姿、そして、コンソメの香りに虎杖は我慢できない。

 口の中を満たす肉汁という名の暴力に虎杖は舌鼓を打った。

 

「すげえぜ! トリコ! こんな濃厚なコンソメスープは初めて飲んだ!」

 

 噛めば噛むほど溢れる肉汁はまさにコンソメスープ。

 トリコは味の分析を進めていく。

 

「なるほど、な。

 漏瑚(グルメマウンテン)という天然の大火力で、複数の呪力(食材)が煮込まれ続けた結果が、 漏瑚(コンソメマグマ)というわけだ」

 

「え、そうなんか?」

 

「ああ。これほど濃厚な味はそうじゃなきゃ出ない。

 これを人間が再現しようとするのなら、よほど良い食材を使っても、食材を継ぎ足しながら煮込むほかないだろう。

 もっとも、どんだけ煮詰めなくちゃいけないのかは、俺にも想像がつかんが」

 

 漏瑚のマグマと炎によって熱せられた食材。

 悠久の時を生きる漏瑚だけにその旨味は極限まで熟成している。

 その旨味を含んでいるスープこそが漏瑚(コンソメマグマ)だった。

 しかも、それだけではない。

 

「これだけ濃い汁なら少しくらいエグみがあってもおかしくないよな?

 なんで、こんなに澄んでる味をしてるんだ?」

 

「灰汁だとかそういうのは漏瑚(グルメマウンテン)の体外に排出してたんだろうな……」

 

 濃厚な上に、濁りが全くない、漏瑚(コンソメマグマ)

 それを味わい、その秘密を解き明かしたトリコは上機嫌だ。

 それだけではなかった。

 トリコの身体が光り輝いていた。

 

「おい! トリコ、お前光ってるぞ!」

 

「お前もな」

 

「え? こわっ……」

 

 トリコに指摘されて虎杖が自分の身体を見ると、なんか光っている。

 嫌な感じは全くないが、自身に未知の現象が起きている事実はちょっと怖い。

 

「心配するな。

 この光は俺たちの細胞が進化している証だ。

 何も怖がることはないんだぜ」

 

「なら、いいんだけど」

 

 虎杖はトリコの言葉にひとまず安心。

 正直、言っている言葉の意味は分からないが、まあ、それは今さらなので、追究するのはやめた。

 それよりも残りの漏瑚(コンソメマグマ)を味わう方が先だった。

 手に残った肉を口に運ぼうとする。

 その肉が突如消えた。

 虎杖の手に現れた宿儺の口が肉を飲み込んだのだ。

 咀嚼する音とともに声が響く。

 

「なかなかの美味だったぞ♪ 約束に違わぬ、働きご苦労」

 

宿儺(GOD)に褒められるとは、光栄だな」

 

「あーー! 横取りすんなよ!」

 

「哀れだなぁ。小僧!」

 

「はっはっは! まだまだ、漏瑚(コンソメマグマ)は残ってるぜ!」

 

「もー!」

 

「え、ちょっと待って? 約束ってどう言うこと、トリコ?」

 

 虎杖が持っていた肉を横取りする宿儺と笑うトリコ。

 なんとなく、流れる良さげな雰囲気。

 その中で完全に沈黙している呪霊がいた。

 

(儂を喰ってる……ッ!?)

 

 自身の胴体にすっかり夢中なトリコを見て、漏瑚は己の末路を悟った。

 自分はあのトリコという男に食われてしまうのだろう。

 きっと、肉も、骨も、血の一滴さえも無駄にされることなくあの男に取り込まれてしまうのだ。

 

(いっそ殺せッ!)

 

 あまりの屈辱に漏瑚は声も出ない。

 これなら、まだ、祓われた方がマシだった。

 しかし、漏瑚の命運はまだ尽きてはいない。

 トリコと虎杖は喰うことに夢中で、五条も宿儺の『約束』という台詞に気を取られている。

 息をひそめ、漏瑚の奪還を狙っている呪霊。

 彼にとって絶好のチャンスだった。

 突如飛来した、巨大な棘が漏瑚の近くへと刺さり、花が咲き誇る。

 

(花御かッ!?)

 

 それは同志、花御による救出。

 花御は自らの術式で敵を翻弄するとともに、自ら漏瑚の首を抱えて逃走。

 森に姿を眩まして気配を隠したのである。

 無論、いくら油断していたとはいえ、五条悟も、トリコも、花御の乱入には気がついた。

 しかし、それでも反応は万全時のそれと比べれば幾分か遅い。

 花畑の精神を強制的に落ち着かせる効果と見惚れるような美しさも相まって、隙はさらに大きくなる。

 それらの要因もあり、花御は漏瑚の奪取に成功した。

 

「え? 嘘!? 早ッ!」

 

「あちゃ~~、逃げられちゃったね」

 

 あまりの早業に驚く虎杖と呑気に感心する五条。

 

漏瑚(コンソメマグマ)! そして、まだ見ぬ呪霊(美食)たちよ!」

 

 そして、なぜか上機嫌なトリコは目をギラギラと光らせてこう言った。

 

「次こそが本当(野生)の勝負だ!

 タイマンで決着をつけようぜ!」

 

「……ッ!?」

 

 花御に抱えられた漏瑚は、その言葉に自らの心情を思い出す。

 人間は裏も表もある生き物。

 嘘もつくし、隠し事もする。

 であるのなら、負の感情から生まれた我ら呪霊こそが本当の人間だ。

 ならば、トリコは──。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 漏瑚が思考の海から現実へと戻るとそこは砂浜だった。

 部屋の一室だというのに壁も天井もなく、海と空がどこまでも広がる砂浜がそこにはあった。

 

「やぁ、漏瑚。無事で済んでなによりだよ」

 

 根城への帰還を果たした、漏瑚を待ち受けるのは、袈裟の男の皮肉の言葉。

 夏油と名乗る協力者だった。

 そんな彼の皮肉の言葉も漏瑚の耳には印象に残らなかった。

 トリコが最後に放った言葉が全てを上書きしていくのだ。

 

「おい、夏油! あのトリコとかいう異常者は、何者だ?」

 

「さあね。呪霊をどっかの市場で売りさばいていた奴がいるっていう話は聞いたことはあったけど、根も葉もない噂だとばかり思ってたよ」

 

「えぇ……?」

 

 野生。

 トリコから出てきたその単語を漏瑚は反芻する。

 人間の悪意が野に放たれて誕生した生き物。

 それこそが呪霊。

 だとするのなら、()()という単語にもっとも相応しい生き物こそが呪霊のはずだった。

 

(認められぬ……ッ! あのような異常者が我らよりも真に人間らしいとほんの少しでも思ってしまったなど……!)

 

 漏瑚は歯を噛み締めた。

 

 人間は嘘をつく。

 しかし、人間から生まれた負の感情に嘘偽りはない。

 そんな嘘偽りのない感情から生まれた呪霊こそが真の人間。

 漏瑚はそう思っている。

 だから、だろうか。

 漏瑚は思ってしまった。

 感謝も、欲望も、全てが嘘偽りのないトリコ。

 彼がなんと人間らしい生き物なのだろうか、と。

 

 あのような男が地上を闊歩し、呪霊を相手に食欲の限りを尽くしている。

 真の人間たる呪霊を差し置いてだ。

 それを思っただけで、漏瑚は屈辱に支配される。

 

「五条悟は殺す! その前に、あの異常者を滅してくれよう……!」

 

「漏瑚。その話だが、トリコには手を出さないでくれよ」

 

「な……!? 何故だ……!?」

 

「彼は宿儺の器ではないにも関わらず、宿儺の指を喰い生還した男だ。

 ……ひょっとしたら宿儺にとっての地雷が彼かもしれない……」

 

「だからと言って、我慢しろというのか!?」

 

「キミだっていやだろう?

 宿儺の不興を買って全滅するのはさ」

 

「ぬぅうううッ!」

 

 漏瑚は真っ当な言葉に反論などできない。

 夏油はその様子に満足したのか、彼らが頭に据えた呪霊の意見を確認した。

 

「五条悟は然るべき時、然るべき場所で封印を行う。

 計画の詳細は後ほど説明するよ。それでいいね? 真人」

 

 全身つぎはぎだらけの優男。

 呪霊にしてはあまりにも人間に近しい形をした呪霊は答えた。

 

「異論ないよ。

 狡猾にいこう。呪いらしく、人間らしく……」

 

 爽やかで、邪悪な笑顔だった。




釘パンチ。

1度のパンチで何発ものパンチを打ち込むという、原作トリコの必殺技を再現した技。
インパクトの瞬間に何度も呪力の流れを叩きつけることにより、その回数分の衝撃を敵に与えることが可能。
単純な威力では黒閃に劣るものの、敵の内部にダメージが浸透する、複数の衝撃により敵が硬直する、安定的に出せる、といった利点がある。
また、衝撃の度に威力が倍になっていくため、その回数によっては黒閃をも超える威力を叩き出す可能性もある。
ただし、一瞬で呪力を複数回練るというトリコの特技により成立しているため、伝授することは現状不可能。


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いざ、真人の寝ぐらへ!

 某日某所。

 映画館キネマシネマにて、高校生3人が殺害されるという事件が発生した。

 特筆すべきはその死体。

 死体の全ての頭部が倍以上に膨らみ変形し、それは破裂寸前であったという。

 明らかに呪術が関わっている。

 そう判断した高専により派遣された呪術師、七海建人は、現場に着くなり、疲労感を感じた。

 

 犯行現場が陰惨であるというのは大きな理由の一つであろう。

 血で真っ赤に染まったシート。

 ツンと鼻をつく死体のものと思われる匂い。

 どこか澱んだように感じられる空気。

 死体が取り除かれていようとも、ここで人が死んだという痕跡はあまりにも濃く、それが負の気配をばら撒いている。

 それは呪術師として経験が豊富な七海からしてみても、気が滅入るほどだった。

 

 しかし、七海が感じている疲労のほとんどは、そう言った事件の悲惨さから来るものではなかった。

 視線の先には、疲労の元がいた。

 

「うっひょー! 溜まらないぜ、この匂い!

 今日は一体、どんな呪霊(食材)と出会えるんだろうな!」

 

 そこにいたのは、トリコを名乗る男。

 グルメファンタジー漫画『トリコ』をこよなく愛し、トリコとは無関係のくせにトリコを名乗る、トリコと瓜二つの転生者である。

 呪霊さえも捕食対象と見定めているこの男にとっては、任務もまた未知なる美味との出会いにすぎず。

 だから、こうしてはしゃいでいるわけである。

 

 困ったのは七海だ。

 そもそも、トリコが同行しているのには訳があった。

 七海の脳内では五条と交わした言葉が蘇った。

 

「……トリコくんは亡くなったと聞いているのですが」

 

「あいつは頭グルメスパイザーなんだ。今日のインチキ呪詛師なんぞとはイカれっぷりが違う」

 

 時は遡り、札幌。

 そこに七海はいた。

 『死者を蘇らせる人形』を売り捌いていたインチキ呪詛師を任務で祓呪(・・)した帰り。

 バーカウンターで五条から受け持っている生徒を引率して欲しいと頼まれたところまでは良かった。

 が、五条の口からはトリコという名前が出てきた。

 彼は任務中に宿儺の指(特級呪物)を呑んで死んだはず。

 七海は眉を顰めたが、さすがに生徒の話で意味のない冗談は言わないだろう、と口を挟むのをぐっと我慢した。

 

「分からないって顔してるね。

 トリコを蘇生したのは宿儺だ」

 

「しかし、トリコくんは器では──」

 

「トリコは器じゃない。

 指がトリコのそばに転がっていたことからもそれは明らかだ。

 だけど、トリコは即死はしなかった。

 今際の際に言葉を残す程度の猶予は合ったんだ。

 宿儺とトリコの間に特殊なリンクが発生したとしても不思議じゃない。

 たった一度きりの奇跡みたいなもんだよ」

 

 人が死んで生き返るのならそれは奇跡と呼んで差し支えないものだろう。

 呪いの王が起こした事象をその名で呼ぶことはかなりの皮肉だったし、五条の説には矛盾がある。

 トリコが死んだのは指を呑んだからだ。

 その死因は呪いの毒に身体が耐えられなかった毒死と考えられるが、それは呪いに止めを刺されているのと同義。

 呪術師が死後呪いに転じるのを防ぐためには呪術で止めを刺さなければならない。

 五条の説はこの法則に則っていないのだ。

 呪術に精通しているはずの五条がそんな初歩的なことに気づいていないわけがない。

 七海は妙だと思った。

 そして、気づいた。

 トリコが呪死したのであれば生き返るはずがない。

 逆に言えば、トリコの死因が呪死以外の何かであれば──。

 

「気づいたようだね。そう、僕が分からないのは蘇生した方の理由じゃない、トリコの死因だ」

 

 死因が呪死以外の何かだとしたら、トリコの身体は宿儺の毒には耐えたことになる。

 ならば、一体全体どうしてトリコは死んだのか?

 宿儺の器がすでに虎杖悠仁という形で存在していたからトリコが弾かれたか。

 あるいは、トリコの術式と宿儺の指という組み合わせがバグを起こしたのか。

 

「ま、ともかくどんな理由があれトリコは生きていたんだ。

 実力はめちゃくちゃあるけどイカれてるから気をつけてね!」

 

 閑話休題。

 

 そうやってトリコを押し付けられた。

 トリコがイカれていることなど知っているつもりだった。

 しかし、まさか、これほどとは──。

 熟練の呪術師だって眉を顰めるような陰惨な事件。

 だというのにトリコは全く気に病んだそぶりすらなく、はしゃいでいるのだ。

 七海はトリコのイカれ具合に戦慄した。

 

「今日ここに来たのは事件を解決するためです。

 あなたは呪霊を喰べるようですが、そもそも、犯人が呪詛師の可能性もゼロではありません。

 趣味を優先するようならこの任務から降りてもらいますから、そのつもりで」

 

「分かってるさ。

 呪霊(獲物)を独り占めする気はないし、仮にもこの仕事を引き受けたんだ。

 犯人が人間でも逮捕にゃ協力するさ。

 もっとも、俺の推測がただしけりゃあこれは呪霊(猛獣)の手による犯行だろうけどな!」

 

 果たしてその言葉がどれほど信用できるのか。

 事件解決に協力的な姿勢を見せていることは僥倖。

 それにしたってトリコがイカレていることに変わりはない。

 

「ごめんな。七海先生。トリコって飯のことになると制御が効かなくなるからさぁ。

 別に人が死んでも平気ってわけじゃないとは思うんだけど──」

 

「虎杖くん。あなた常識人ぶっていますけど、普通は呪霊を食べるなんてあり得ませんからね。だいぶ毒されていますよ」

 

「……ッ! うっわ本当だ! 俺もいつの間にか呪霊は喰うもんだって刷り込まれてた! いや、でもあれすっげぇ旨いんだって!」

 

「ははは! お前ら何言っているんだ? 呪霊(獲物)は喰うもんだろ?」

 

 宿儺の器、虎杖悠仁。

 トリコと共に七海が引き受けている訳だが、比較的には常識人っぽい立ち位置の彼ですらこの始末。

 つまりまともな人間は自分以外には存在しないということだ。

 七海は不安を募らせた。

 

「虎杖くん。見えますか? これが呪力の残穢です」

 

「見えないけど……お前は? トリコ」

 

「俺なんてこの建物の外にいる段階で、匂いをとらえていたぜ」

 

「虎杖くん。それは見ようとしないからです。呪力の残穢は呪霊や呪術などと比べて薄く見えづらいため、注意してみる必要があります。

 もう一度、目を凝らしてよぅく見て下さい」

 

 嗅覚で呪力を、しかも、ただでさえ薄いとされる残穢を認識するなどありえないことだが、事前情報では嗅覚が優れていると聞いている。

 あるいは呪霊の体臭を嗅いでいるかもしれないし、呪力を匂いとして感知できるのかもしれない。

 が、今は犯人を追わねばならず虎杖の指導もしなければならない、と少々立て込んでいる。

 トリコは狂人だ。

 そんな狂人に構う暇などないため、七海は黙殺し本格的に犯人探しを開始することにした。

 前述の残穢をたどることで、犯人を追跡するのだ。

 

「……この匂いからして、犯人(獲物)は……」

 

「何か気づいたんですか? トリコくん?」

 

「極上の肉を持っているな……匂いから中々のポテンシャルを感じる」

 

「は?」

 

 トリコの意味深な呟きに反応するも、その意味深さはただ喰うべき呪霊(獲物)を吟味した結果生まれたものなのか。

 返ってきた予想外の答え。

 激しくどうでも良かった。

 

「へぇ。肉か……美味しく喰うんなら焼肉とかか?」

 

「ステーキも捨て難い……ハンバーガーにするという手もある」

 

「悪くないな……絞りきれねぇ……ッ!」

 

「まあ、こういう手合いは量も十分あるってのが通説だから、あまり気にすんな。

 まずは捕獲してからだ」

 

「……締まらない会話ですね」

 

 追跡は現場となった劇場から始めて、階段を上り、屋上へと向かう。

 その途中の会話ときたら、昼食の品定めをしている高校生の会話である。

 一応、ある程度の緊張感を保ってはいるが、会話の内容には面食らった。

 陰惨極まりない事件。

 にも関わらず、その会話のせいで、場に流れる空気にはどこか日常の延長線上のような雰囲気があった。

 これをどう評価するかは迷うところだ。

 呪いを扱う事件だ。

 呪術師は人の負の感情と向き合っているうちに自然と己の内に呪いを溜めることとなる。

 己に溜まった呪いをどう処理するか?

 それは呪術師の人生を大きく左右する問題であろう。

 

 その点、トリコはずば抜けている。

 なにせこれほど陰惨な事件だというのに、その顔に暗い影が落ちていなかったのだから。

 ひょっとしたらこのままのテンションでトリコは事件を解決してきたのかもしれない。

 だが、しかし、残念ながら今回の事件は、今までのように済むような事件ではなかった。

 

 きっかけは屋上へとたどり着いた彼らの前にふって湧いてきた呪霊と思しき、3体の異形。

 そいつらは一行と対峙する。

 敵の呪霊が差し向けてきたのか、それとも、呪いの気配に誘われてきたのか。

 いずれにせよ、祓うしかあるまいと臨戦体勢を取る七海と虎杖に対して、トリコは表情を険しくする。

 任務にやって来てから呪霊の味を想像してご機嫌だった、あの(・・)トリコがである。

 付き合いがまあまあ長い虎杖は、その異常事態に感づいた。

 

「どうしたんだよ? 呪霊が出てきたんだぞ? なんでそんな不機嫌そうなんだ?」

 

「不機嫌ってわけじゃねぇ……ただ、こいつらから腐臭がしたからな」

 

「腐臭?」

 

 そのただならぬ様子に不吉なものを感じたからか。

 トリコ以外の面々は、その理由を話すまでのわずかな間を、長く感じた。

 

「死体の臭いだ。それも人間のな──」

 

「……ッ!?」

 

 それは想像以上に胸糞な事実だった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

「ああ人間だよ」

 

 現場付近の雑居ビル。

 高専が用意した仮の拠点にて、一同は報告を受け取っていた。

 内容は、屋上で襲いかかってきた呪霊と思われる存在の正体について。

 捕獲した異形の解剖を高専の医師、家入に頼んでいた。

 結果、判明したのは、彼らが元は人間であったこと。

 事件で被害にあった3人と同じく無理やり形を変えられていたらしい。

 

「しかし、彼らには呪力が漲っていた。

 一般人を作り替えて呪力で漲らせるだなんて、そんなことが可能なんですか?」

 

「そればっかりは犯人に聞いてみないと分からない。

 ただ、解剖した3人の脳幹に弄られた形跡があった。

 犯人は脳をいじることで呪力を扱えるようにできるのかもしれないな」

 

 七海の疑問に家入は答える。

 事実、呪力と脳の関係はいまだに解き明かされていないブラックボックス。

 いまだに犯人との接触はないため、そこから先は想像でしかないが、否定できる材料もなく、七海は沈黙した。

 

「それと、虎杖……あと一応、トリコも聞いているか?」

 

「……うっす」

 

「ああ」

 

「こいつらの死因は身体を無理やり変えられたことによる、ショック死だ。

 君らが殺したんじゃない。その辺りを履き違えるなよ」

 

「はい」

 

「……」

 

 家入の報告が終わった。

 スマフォから目を離した七海が虎杖に視線を向けた。

 告げられた残酷な事実に虎杖は瞳を揺らしていた。

 打ちのめされてはいるものの、それでも、怒りの方が大きいらしい。

 虎杖は拳を震わせている。

 

「これは趣味が悪すぎだろ……ッ!」

 

 見ず知らずの他人のために本気で怒ることができる。

 それはきっと好ましい性根だろう。

 しかし、七海はそんな虎杖の善性にどちらかといえば危うさを感じた。

 呪術師として呪いを扱う以上、悲惨な死と無縁ではいられない。

 そういった死を間近で見るたびに呪術師の心は傷つき、いつの日にか限界を迎えてしまうものなのだ。

 特に虎杖はまだ子供だ。

 心に傷を負いやすい。

 七海はフォローすべく、声をかけようとし──。

 

「とりあえずこれでも喰ってな」

 

「%&$#&¥*……ッ!」

 

 ここでトリコの奇行が炸裂。

 口の中に何かを突っ込まれた虎杖は形容し難い奇声を上げた。

 

「もぐもぐ……いきなり何すんだよぉ!」

 

「おう! この俺特製、トリコバーガーだ。美味しいだろ?」

 

「だからって人の口に突っ込んだらいかんでしょッ!」

 

 トリコバーガー、つまりはハンバーガーを咀嚼して口を開けてから、虎杖は抗議する。

 部屋を見回せば机の上に、トマト、レタス、玉ねぎといった各種具材とホットプレートの上で焼かれているパティがある。

 普通、こんなものが部屋にあったらすぐに気づくだろうに、トリコがどんな手段で持ち込んでさらには調理したのか。

 はたから見ていた七海にとっても謎だ。

 

「さっきよりはマシな顔になったな。お前、ひどい顔してたぜ。ネオに食われる直前の獲物みたいだった」

 

「……え?」

 

「忘れるなよ、俺たちが任務にきたのは生まれてしまった犠牲に心を痛めるためじゃない。

 美味い呪霊(獲物)を食するためだ。

 だから、さっさと捕まえて喰っちまおうぜ! もう、俺腹ぺこぺこでさぁ!」

 

 トリコが自分の分を頬張りながら満面の笑みでいった。

 どれだけ、悲しかろうと、怒りに震えようと、生きている限り腹は減る。

 少年院でのトリコの言葉が思い出される。

 

「トリコ……お前ってさぁ……本当に何考えて生きてんだ……」

 

「ん、どうした? 食わねぇのか?」

 

「いや、食べるけどさぁ……」

 

 これがトリコなりの気遣いなのかも分からない。

 雰囲気を良くするだなんて真っ当な配慮があったと断言するには、トリコはイカれ過ぎている。

 ただ、場を包み込んでいた陰鬱な気配は消え去っていて。

 七海はそこに呪術師としての適性を見た気がした。

 

「じゃ、行こうぜ」

 

「待ってください。行くってどこに?」

 

「そりゃ当然、呪霊(獲物)の住処にさ」

 

「なんですって?」

 

 が、やはり狂人は狂人。

 そうそう制御できるはずもなく。

 あの(・・)五条が苦労している理由を、七海が本当の意味で知ることになるのはこれからだった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 映画館で高校生3人が怪死したこの事件には目撃者がいた。

 吉野順平。

 事件の被害者からはいじめを受けていた。

 当然、関係は険悪で、殺されてもざまぁみろと思うほどには彼らを嫌っていた。

 そんなクラスのいじめっ子が殺される光景を目の当たりにした吉野順平。

 彼はその異常な手口に惹かれ、その下手人である呪霊に接近することになる。

 真人と名乗った全身ツギハギだらけのフードを被った優男。

 彼は自らを人が人を憎み畏れる胎から生まれた人間の呪霊だと語ってみせた。

 順平はたちまち真人に魅了された。

 真人は世間や一般常識などを歯牙にもかけていなかった。

 勝手気ままに行動し、一般人を蹂躙するその様は、ある種の自由を体現していた。

 学校でいじめられて不登校になってしまった順平はあこがれを抱かずにはいられない。

 

「僕は順平のすべてを肯定するよ」

 

 そんなあこがれの存在が自分を肯定してくれている。

 そのことに順平は舞い上がった。

 真人のアジトから自宅へと帰る途中、順平は奇妙な満足感を感じていた。

 そして──。

 

「今度の呪霊(獲物)どんな味がするのかなぁ……楽しみだぜッ!」

 

 再び真人のアジトへとトンボ帰りするはめになっていた!

 原因は言わずもがな。

 トリコを名乗る狂人である。

 

「だいぶ、匂いが濃くなってきたかな……お! おい、お前美食屋(同業者)だろ!」

 

「……へ? 僕のこと? 同業者って? いや、そもそもあなたは誰なんです?」

 

「俺か! 俺の名はトリコ! 呪術師(美食屋)さ!」

 

「美……食……屋……? 美食……何……? 同業者って僕のこと?」

 

「ははは! 照れるなよ! お前の身体に染み付いた呪霊(食材)の香り! 俺が追っている呪霊(食材)とおんなじ匂いだぜ!」

 

「……はぁ……匂い……?」

 

「よし! 着いてきな! えーっと、お前名前は?」

 

「よ……吉野順平」

 

「同じ呪霊(食材)を狙っているもののよしみだ。ご馳走してやるぜ!」

 

「えぇ!? 待ってください! 何のことですか!?」

 

「おーっし。手がかりも見つけたし、あいつらに連絡してやらなきゃぁ……っと。ああ、こちらトリコ。呪霊(獲物)の手がかりが──」

 

 そうして、何故だかトリコと一狩り行くことになってしまった。

 それもこれも順平がわざわざ真人に興味を持ってしまったが故。

 自業自得と言えばそれまででもあるが、それでも、このタイミングでトリコという特級の爆弾に出会ってしまったのは同情すべきポイントだろう。

 おかげで順平はトリコから真人を狙う美食屋(同業者)という、理解し難い勘違いをされてしまう羽目になったのだから。

 

「ふーん。ここが呪霊(獲物)のハウスか」

 

「ハウスって……」

 

「ここに住んでんだからハウスで間違いじゃないだろ……。位置情報の送信ヨシ……っと!」

 

 ともかく、そんなこんなで巻き込まれてしまった順平は、再び真人のアジトである地下水道へと戻ってきたのであった。

 そこで待っていたのは異形、すなわち、改造人間の襲来。

 いくら見知った顔があるからと言っても、それがトリコと一緒なら警戒もするだろう。

 あるいはこの地を訪れたものを基本的には無差別に襲っているのかもしれなかった。

 拠点にしているということもあり、改造人間の数はまあまあ多い。

 しかし、その実力は高くとも2級が精々。

 特級(漏瑚)ともやりあえるトリコが相手ではちょっとした時間稼ぎにもなりはしない。

 無造作に振るうトリコの拳で退けられる改造人間たち。

 が、ここで異変が起こる。

 

「う……うぅ。なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ?」

 

 順平が口元を押さえて、うずくまったのだ。

 順平は美食屋などではない。

 荒事の経験などもなく、ましてや、人の死に様を見るなどというショッキングな出来事への耐性などあるはずもない。

 以前に、真人から改造人間を見せられても感じなかった恐怖を、順平は今更ながらに感じていた。

 

「ふむ……新人(ビギナー)にはちょっと刺激的な光景だったか。

 まあこれ喰って元気でも出せよ」

 

「何それぇ。もごぉ……ッ!?」

 

 そんな順平を不憫に思ったようで、トリコは蝿頭を取り出すと、それを口へと突っ込んだ。

 順平は突然、気味の悪い生物を口に放り込まれ大混乱。

 抵抗することも出来ず、かつて、バッタを無理やり食わされたときの記憶がフラッシュバックする。

 いじめのトラウマに襲われるかに思えた。

 しかし──。

 

「うっま! なにこれ!?」

 

 口に広がる、強烈な旨味。

 まるで、豚肉のコッテリ感、牛肉の旨み、鳥の淡白さ。

 それらが矛盾なく融合した味に順平は恐怖を忘れた。

 

「だろぉ! 捕獲レベル1にも満たない低級の呪霊(グルメ食材)だけどよぉ、案外悪くないんだぁ!」

 

「そ、そうなんですか?」

 

「ああ、俺たちが今追っている呪霊(獲物)の捕獲レベルは特級(30オーバー)

 味のポテンシャルは捕獲レベルに見合ったものだろうぜ」

 

「は、はあ……え、あの、トリコさん……今更なんですが、追っているものをどうするつもりなんです?」

 

「何って、喰うに決まっているだろ?」

 

「へ……喰うって……ひょっとして、それって食べるってことですかぁ!?」

 

「ははは! おかしなやつだな! 他に何があるって言うんだ?」

 

 そして、順平は、ようやくトリコの言葉の真意に気がついた。

 トリコにとって呪霊とは、祓うものではなく喰うものなのだ。

 トリコが頻繁に口にする獲物や食材といった単語が真人を指していることにはもはや疑いようはなく、真人を食すつもりなのである。

 順平は驚愕した。

 真人は優男といった外見である。

 それを食するということは、明らかに一線を超えた行為であるように思えた。

 順平は忌避感を覚える。

 

「腹拵えも済んだことだし、じゃあ、行くぞ!」

 

「は……はい」

 

 しかし、順平の口から意に反した言葉が出てくる。

 トリコに阿ったのか、あるいは、先ほどの蝿頭の味が忘れられなかったからなのか。

 それは順平にもわからなかった。

 散発的に起こる襲撃を切り抜けながら2人は奥へ奥へと進んでいき──。

 

「へぇ、まさかこんなに早く辿り着くとはね。

 色々と実験をやりたかったからちょうど良かったかな」

 

「……なかなか、美味そうじゃないか」

 

 トリコは真人と出会った。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 アジト深奥の開けた空間にて、始まったトリコと真人の激突。

 真人は変形や改造人間を駆使して戦い、時折、手のひらで触れることにより発動する無為転変による決着を狙った。

 

「オラァ!」

 

「効かないよ」

 

 対するトリコは正面からそれらを切り抜けパンチをお見舞い。

 空間がシェイクされるほどの一撃。

 真人の胴体を大きく凹んだ。

 が、その傷は瞬時に癒えた。

 

「なるほど、ならば……」

 

 それを見てトリコはさらなる技を繰り出す。

 生半可な、それこそ、腕一本切り飛ばした程度じゃ効かないであろうことを、真人の回復から予見したらこその決断。

 消費呪力(カロリー)は多いものの大抵の相手なら決定打になる必殺技。

 その名も──。

 

「釘パンチ! ひとまず、3連!」

 

「ッ!?」

 

 一度のパンチで解き放たれた、呪力は3つ。

 喰らってから発生した3回の炸裂は、真人の身体を容赦なくバウンドさせ、さらには真人の五体を破裂させた。

 胴体を中心に四肢が吹き飛んだ。

 が、あり得ないことが起きた。

 無くなった四肢の各断面がウネウネと蠢き、肌色が埋め尽くしたかと思うと、そのまま、肌色のウネウネが膨れ上がった。

 ウネウネは不定形だったが、それらは手や足の形を取り戻した。

 さらには、胴体を貫通した穴も、同じ要領で肌色のウネウネが覆い尽くし、完治。

 真人は完全に元通りの姿になっていた。

 

「いつだって魂は先にあるからね。

 肉体の形は所詮、魂の形に引っ張られるものに過ぎない。

 だったら、己の魂さえ無事なら、肉体が滅びないのは道理だよね。

 それが俺の術式、無為転変だよ」

 

「合点がいったぜ」

 

「へぇ。理解が早い」

 

(食欲)は宇宙が始まる前にそこにあった。お前はそれを体現していると言うわけか」

 

「……ほんとにわかってる?」

 

 真人は得意げになって自身の術式を語った。

 魂さえ無事なら肉体は不滅という術式(俺ルール)ゆえの不死性。

 堪えた様子は全くない。

 攻撃が通らないのは明確なピンチだろうに、トリコは真人の発言をグルメ漫画『トリコ』の世界観へと落とし込んでみせる呑気ぷりだ。

 そんなトリコに真人は苦笑しつつ、早くも関心を失いつつあった。

 最強格の漏瑚を五体不満足に追い込む戦闘能力。

 どれほどのものかと思って相手をしてみれば、相手はこちらにダメージを与えることすらできないのだ。

 魂ごとぶん殴られる事態をも想定していた真人からすれば拍子抜けでしかない。

 だから、真人はその矛先を変えることにした。

 

「ま、いいや。ところで順平、君はどうするつもり?

 俺とそこの狂人のどっちの味方なわけ?」

 

「へ!?」

 

 後方で待機していた順平は話を振られてしどろもどろになった。

 真人は親身になった話を聞いてくれた人という印象はある。

 一方、改造人間が死ぬところを目の当たりにしてその所業の残酷さを思い知ってもいる。

 端的に言えば、順平は真人に対していくらか幻滅していた。

 では、トリコにつくのかと問われれば、順平は素直に頷けなかった。

 トリコは自分のような素人を捕まえて鉄火場へと連れ出すような男である。

 最初はちんぷんかんぷんだった動機も今ならわかる。

 ようするに、『同じ真人(獲物)を狙っているもののよしみで真人()をご馳走してやるよ』である。

 イカれてる。

 真人のアジトに長居していたことは勘違いの原因なのだろう。

 実際、真人のような呪霊の住処へとお邪魔して、ただ話をして帰るなど想像しづらい。

 それなら侵入して命からがら逃げた、というシナリオの方がまだ想像はしやすいかもしれない。

 だからと言って、自分に呪術師としての技量は微塵もないし、そんな素人を呪術師、いや、美食屋とやらと勘違いして同行させるなど、多分呪術師としては論外だろうに。

 考えれば考えるほど、順平は真人の方がまだマシとすら思えてきた。

 

「変なことを聞くんだな? 真人(チューインミート)?」

 

「……それって俺のこと!?」

 

呪術師(美食屋)が一度狙った獲物を諦めるなんてことはありえない」

 

「ちょっと待ってくださいよ! 美食屋ってなんですか!? 僕のこと!?」

 

「未知の味を追求する探求者。お前もご存じの通りだ」

 

「存じてないんですけど!」

 

 勝手に話が進んでいく。

 このままではトリコ主導で自分が本格的に美食屋の仲間にされかねない。

 それだけは断じて阻止しなくてはならなかった。

 

「あははは! なんだ、そういうことか。妙に乗り気じゃないと思ったら、そこの狂人に勝手に連れてこられたってわけか」

 

「そうなんです。なんか、僕に真人さんの匂いが付いていたらしくて……」

 

「……まさか、素人を無理やり連れてくるとは。ひょっとして、トリコって呪霊より頭おかしいんじゃない?」

 

 そんな必死の弁解のおかげか、真人は朧げながらに事情を察知した。

 なるほど、道理で順平がおろおろしているわけだ。

 だったら、順平を誘き寄せるのは容易なはず。

 目の前で無辜の人間が、それも自分が一方的に巻き込んだ人間が死んだら、嘲笑(わら)えるリアクションの一つでも見れるかもしれない。

 邪悪な考えをめぐらす。

 

「当たり前だぜ! この世に、呪術師(美食屋)以上に食欲に取り憑かれた馬鹿は存在しないんだからな!」

 

「は?」

 

「順平だってそうだろ。真人(チューインミート)を見た瞬間にこう思ったはずだ。

 こいつを喰いてぇ……って。

 だから、わざわざこの寝ぐらまで侵入したんだろ!」

 

「えぇ!? そんなわけないよ!」

 

 トリコは胸を張ってそう主張した。

 順平=美食屋の図式は未だ健在。

 自身の世界観を完全に信じているそのイカれ具合には、順平だけでなく真人も困惑せざるをえない。

 誰しもが妄言と切り捨てるだろうトリコの言葉。

 だが、果たしてそれは本当に一切根拠のないものなのだろうか?

 トリコはイカれている。

 しかし、トリコにもトリコなりの根拠というものがあった。

 それも目に見える形で現れていたのである。

 

「だったら、順平よ。その口から垂れているよだれは一体何なんだ?」

 

「え?」

 

 口をとっさに抑えた順平の手に付着していたのは透明で粘性のある液体。

 すなわち、よだれだ。

 美食屋、いや、人間やその他の幅広い生物の口内にはよだれが溜まっている。

 それが溢れるシチュエーションの中で一番メジャーなものは、好物を目の前に食欲が限界を迎えたとき、とは言うまでもない。

 

「そんな……嘘でしょ……? そんなわけが……」

 

 順平はその意味を理解し愕然とする。

 トリコに無理やり喰わされた蝿頭(グルメ食材)の味。

 あれは鮮烈な味だった。

 食べた瞬間に感動で胸が満たされ、恐怖が消え去っていくほどだった。

 そして、真人(チューインミート)は蝿頭よりも捕獲レベルが高いのだと、トリコは言う。

 真人(チューインミート)の味はレベルに見合ったものだろう、とも。

 真人(チューインミート)のレベルは30オーバー。

 蝿頭(レベル1)であれなら真人(レベル30超え)の味はどれだけ凄いのだろう?

 期待するなと言う方が無理な話だった。

 蝿頭(グルメ食材)により眠っていた感覚が覚醒したのだろうか。

 順平の身体は真人(チューインミート)という特級呪霊(極上の食材)に否応なく反応していた。

 

「……違うよ真人(チューインミート)さん……ジュル。僕はあなたを食べたいだなんて……ジュル、微塵も──」

 

「チューインミートって言ってるじゃん……よだれを拭きながら話すのやめなよ。

 トリコ、お前の仕業ってわけか……こうなったら、潮時かな」

 

 真人にとって順平はまあまあ、遊べるおもちゃだった。

 こちらの一挙一動に面白い反応をし、ひょっとしたら、虎杖悠仁(宿儺の器)に縛りを結ばせる可能性さえあった。

 そんな、暇つぶしにも計画にも都合のいい傀儡みたいなものであった。

 だが、そんな順平はもういない。

 いるのはおもちゃの分際でこちらを食い物(・・・)として見る、身の程知らずだけである。

 

「いつの間にか狂人に染まってる君ってさぁ……君が馬鹿にしていた奴よりもずっと馬鹿だったんだね!」

 

 呪霊としての本能が舐められることを忌避しているのだろうか。

 およそ矜持とは無縁の真人でさえあっても食い物として見られることに抵抗がない訳がない。

 真人は10センチほどの干からびた物体を順平の側へと投擲。

 それらは、いわば小型化していた改造人間だ。

 携帯もでき、命令を与えてやれば、形を変えて命令を実行する使い捨て(・・・・)の手駒。

 投げる直前に時間差で動き出すように命令を出していたのだろう。

 着地と同時にウネウネと蠢き、先ほどまでの小ささが嘘のように大きくなり、どこか人間の姿を彷彿とさせる醜い異形へと姿を変えた。

 

「ひっ!」

 

 呪力をたぎらせて順平へと襲いかかる異形。

 その爪が順平へと迫った。

 

「へぇ! 順平が死んでも構わない……ってこと?」

 

 真人は驚いた。

 自分の都合で連れ出した非戦闘要員が危機に陥れば、普通は守るはずだ。

 しかし、トリコには順平を守る気配など全くなく、むしろ、そのまま戦闘続行の構えである。

 あの口ぶりからしてトリコは順平に目を掛けているように見えたが、まさか、こうもあっさり順平を見捨てるとは。

 そういう意味の驚きもあった。 

 

「別にあの程度、俺が何かする必要はないってだけのことさ」

 

 で、この返答。

 順平が無事に助かるという確信に満ち溢れているが、順平は咄嗟に逃げようとするも反撃する様子はない。

 どこに助かる要素があるのか分からなかった。

 順平は逃げ道を塞がれて追い詰められた。

 改造人間が爪を振り下ろす。

 

「させるかよ」

 

 爪が届く寸前。

 順平と改造人間の間に割り込んだのは、虎杖悠仁だった。

 虎杖が腕を掴み、改造人間をその場に釘付けにする。

 

 ──ドシュバッ!

 

 さらに、横から割り混んできたサラリーマン風の男がマダラ模様の呪符で巻いてある鉈を振り下ろせば、改造人間の腕の肘から先がなくなった。

 綺麗な切断面が、その武器の切れ味を物語っていた。

 

「後で説教ですね……」

 

 改造人間にトドメを刺しつつそのサラリーマン風の男、七海建人は言った。



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順平、気張る・真人サイアクの一日・七海の特に孤独ではないグルメ

 時はトリコを名乗る転生者、略してトリコが高専の拠点を出発する前。

 呪霊の寝ぐらへと踏み込む、というトリコの宣言に対して七海は懐疑的だった。

 まだ、捜査は始まったばかりなので、手がかりはない状態。

 行き当たりばったりでどうにかなるほど、甘い事件ではない。

 

「俺の嗅覚は警察犬のそれを大きく上回る。呪霊(獲物)の匂いは映画館で覚えたから、楽勝さ」

 

 トリコに意見を曲げる様子はない。

 かと言って、全員がトリコに付いて行って空振りになってしまえば、大きな時間の無駄だ。

 だから、七海は情報収集に専念し、その間、トリコに手掛かりを集めながらの追跡を許可した。

 トリコがアジトを見つければ良し。

 そうじゃなくとも、トリコの嗅覚でしか発見できない情報が加われば、精度も上がり損はない。

 

 だが、トリコはそんな予想を飛び越えてきた。

 調査を始めてから1時間もしないうちに連絡があった。

 トリコから送られた印の位置。

 それは、七海が現時点で割り出していた場所と、ほとんど差はなかった。

 七海は犯人の潜伏場所をすぐに特定したトリコの能力には舌を撒く。

 これなら、思っていたよりも早く、犯人を追い詰められるかもしれない。

 そう思っていた矢先に、トリコから思いもよらぬ言葉が出てきた。

 

「あと、吉野順平っつう同じ呪霊(獲物)を追ってる美食屋(同業者)に会ったんでな。

 一緒に連れてくことにした」

 

「!? 今、吉野順平って言いましたか?」

 

「じゃあな、報告はそれだけだ」

 

「ちょっと話はまだ終わって──」

 

 そのふざけた内容に問い詰めようとするも、一方的に電話を切られてしまう。

 こちらから折り返しても、出る気配がなかった。

 

 吉野順平。

 彼は被害者と偶然同じ映画館の館内に居合わせた少年だ。

 映画館の監視カメラには少年の映像が残っていた。

 七海の見立てでは、呪詛師でもなければ荒事への耐性もなさそうだった。

 そんな彼がなぜトリコに目をつけられたのか、七海には見当もつかない。

 あるいは、今回の事件でかなり核心に近い位置に吉野順平がいたのかもしれない。

 いずれにせよ、このまま放置するわけにはいかない。

 本来なら子供を現場に連れて行くつもりなどなかったが、素人が巻き込まれたのだ。

 そんなことを言っている場合ではない。

 七海は虎杖を伴って現場へと急行したのだった。

 

「……後で説教ですね」

 

 改造人間から間一髪のところで順平を救った七海はつぶやいた。

 その静けさは嵐のまえを思わせるほど、怒りに満ちている。

 事実、七海の顔面には青筋が立っていた。

 

「だってよ、順平」

 

「僕ッ!?」

 

 しかし、トリコは罪悪感を微塵も見せない。

 しれっと罪をなすりつけられた順平は抗議の声を上げるも、トリコはそれを黙殺し七海の横へと並び立った。

 

「……気をつけろよ、お前ら。敵はなかなか手強いぜ」

 

 そう言って、トリコは注意を促した。

 程よい距離で相対するのは、今回の犯人。

 ツギハギの縫い目が顔面にある優男という風情だが、歴とした呪霊である。

 七海が油断なく構えながら、トリコに言った。

 

「状況を簡潔に説明してください」

 

「敵の攻撃手段は2つ。

 変形を用いた体術と身体に仕込んだ改造人間を使った不意打ちだ。

 こちらの攻撃は基本通用しないと考えた方がいい。

 一回釘パンチでバラバラにしてやったが、奴は瞬時に復元した。

 これを突破するにはこちらも魂を観測する必要があるらしい」

 

 トリコは七海と1歩後ろに控える虎杖たちにしか聞こえないように、声量を抑えて答えた。

 魂はいつだって肉体の先にある。

 魂には決められた形があり、肉体は魂に追随するのである。

 それこそが真人の術式、無為転変の真髄。

 魂を観測しなければ、攻撃はいたずらに肉体を傷つけるだけであり、魂に攻撃を加えることはできない。

 そして、魂がある限り、真人が消滅することなどあり得ないのである。

 

「魂……奴の術式ですか?」

 

「ああ、それに触れて形を変えるのが術式(能力)らしい」

 

「術式による修復……ならば、術式が発動できなくなるまで消耗させるほかありませんね」

 

「……ああ、だが、それは相当分の悪い賭けだぜ」

 

 確かに、真人の無敵が術式由来のものであるのなら、呪術の源である呪力を無くせばいい。

 七海の提案は理にかなっている。

 しかし、トリコは静かに首を振った。

 

「俺は長期戦が苦手だからな……奴の呪力(カロリー)が枯渇するよりも俺が力尽きる方が先かもしれんぞ」

 

 問題は消費カロリーだ。

 原作『トリコ』の主人公トリコが莫大なカロリーを日常的に消費していたように、今作のオリ主の方のトリコも燃費は悪い。

 特に釘パンチにおいてそれは顕著で、一瞬で何度も呪力を練り一気に叩き込むという、体力的にも技術的にもかなり無茶のある仕組みゆえに、呪力の消費量はあまりにも大きい。

 現在のトリコが1日に放てる回数は最大連数ならば5回。

 そして、トリコは5回の内の1回を使っている。

 大袈裟な言い方をするなら、七海が到着するまでの短い時間で、すでに体力の5分の1以上を消費してしまっているのだ。

 果たして、そんな有り様で真人を抑え続けられるのだろうか?

 トリコが懸念を口にするのは妥当なところであった。

 

「魂を観測できないから奴にダメージを与えることができない。

 なら、単純に魂を観測できるやつがこっちにいれば問題ないってわけだ」

 

 魂を観測できる呪術師など存在しない。

 真人はそう言っていた。

 しかし、何事にも例外はある。

 トリコには心当たりがあった。

 

宿儺(GOD)という別の魂を宿し、会話ができるまでに目覚めさせている悠仁なら、攻撃も通るだろう」

 

 虎杖はその身に宿した宿儺(GOD)をそれと認識して、会話もできるのだ。

 自身に存在する別の魂を観測している状態。

 ならば、攻撃は可能。

 そういう考えであった。

 そして、トリコのこの推察に間違いはない。

 虎杖こそが真人の天敵であった。

 

「ダメです」

 

 七海はそれを却下した。

 ここには順平という非戦闘員がいて、ここは呪霊のアジトの最奥だ。

 ならば、誰かが順平を安全な場所に送り届けなければならない。

 その役目を虎杖にやってもらうつもりだった。

 

「なんでだよ! 俺は戦えるぜ!?」

 

「ダメです。虎杖くん。誰かが吉野くんを避難させなければいけない。

 それに、あいつと戦うのはあなたにはまだ早すぎる」

 

 虎杖は七海に抗議するも、七海は跳ね除けた。

 真人が改造した人間は、もう元には戻れないが、死んではいない。

 つまり生きてはいるのだ。

 それに止めを刺すことが殺人に含まれるかは否かは意見が分かれるところではあるだろう。

 改造された時点で死んだも同然なのだから介錯をしているだけだと割り切ることも可能。

 しかし、疑いようもない善人である虎杖が。

 他人のために怒ることのできる善性を持った虎杖が。

 改造人間に止めを刺して平気でいられるのだろうか?

 

 呪術師を続けていればいつかは人を殺さなければいけなくなる。

 しかし、それは今ではない。

 

「おいおい! そんな堂々と内輪揉めされたらちょっかいかけたくなるだろぉ!」

 

「虎杖くん! 吉野くんをッ!」

 

「お、おう!」

 

「うわぁあああッ!」

 

 そんな葛藤が許されるほど甘い戦場などない。

 距離を保っていたはずが、真人はその場所にいながらにして攻撃を仕掛けてきた。

 真人が前方に突き出した腕が、不定形の肉の塊として伸びたのだ。

 爆発的な勢いで質量を増し一行を押し潰さんと肉塊が迫る。

 虎杖は順平を抱え、七海は咄嗟に2人を庇うように一歩前へと出た。

 そして──。

 

「やるじゃねぇか。真人(チューインミート)

 

 トリコがさらにその前で、肉塊を止めた。

 先ほどの勢いが嘘のように肉塊はぴくりと止まる。

 

「……悠仁。順平をつれて逃げな。もっとも、お前ら2人が戻って来なかったら、俺たちだけで真人(チューインミート)を独占するかもしれんがなぁ」

 

「私は遠慮します」

 

 トリコはそう言った。

 言葉に持たせている含みは嘘ではなさそうだが、だからと言って、適当なわけではなさそうだ。

 2人の判断をいくらかは尊重する構えだった。

 虎杖はいくらかの逡巡ののちに──。

 

「……ごめん!」

 

 後ろ髪を引かれるように、順平を抱き抱えたまま引き返していった。

 2人が去っていく。

 トリコは獰猛に笑った。

 

「さてと……じゃあ、喰うか!」

 

「祓うの間違いでは……そもそも、攻撃が効かないという話ですから。

 私たちでは敵を一時的に行動不能にするのが関の山でしょう」

 

「一応、手はあるんだよ。ちょいと時間がかかるがね」

 

 そして、トリコは自らの考えを七海に話した。

 その策とすらも呼べぬ稚拙なプランに七海は呆れずにはいられない。

 本当なら断りたいくらいだった。

 しかし──。

 

「どうせ、何を言っても聞かないんでしょう。

 こちらの戦力が多いうちに相手の手の内をできるだけ明かすのも悪くはないでしょうし……」

 

「そうこなくちゃ」

 

 トリコは肉塊を放り投げた。

 その顔面には獣のような笑みが張り付いており、発する言葉には有無を言わせぬ迫力がある。

 立ち上る呪力も、消耗しているとは思えないほどに、濃厚。

 タイプは違えど、立ち振る舞いの節々に五条悟を感じさせる。

 この男を、コントロールしようという気はもはや失せている。

 七海は鉈を握る手に力を込めた。

 

「宿儺の器と順平は……逃げたか。まあ、いいや。

 ここで君らを殺せば、ちょうど良い因縁になるでしょ!」

 

 真人が飛びかかってきた。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 一方、トリコたちと別れた順平は虎杖と共に外を目指していた。

 もっとも、目指すといっても自らの足で走っているわけではない。

 順平は虎杖に抱き抱えられていた。

 下ろして欲しいと頼んだが、この方が速いのだと断られたのだ。

 現に、人一人抱えていることが嘘だと思えるほどの速度で虎杖は走っている。

 息一つ切らさずにだ。

 順平も従うほかなかった。

 

「……ごめんね」

 

「なんで、順平が謝るんだよ?」

 

「いや……なんか僕がみんなの邪魔をしちゃったみたいで……」

 

 順平は見ていた。

 出口へと引き返す直前、虎杖がまるで未練でもあるかのように顔を歪めるのを。

 きっと、あそこでみんなと戦っていたかったんだろう。

 順平が虎杖の想いを察するには十分だった。

 

「順平は悪くないって。こっちこそごめんな、うちのトリコが迷惑かけちゃって」

 

「それでも、僕は──」

 

「?」

 

「いや、なんでもない」

 

 危うく口を滑らせかけた。

 そもそも、順平は自分の意思で、このアジトにへと足を踏み入れている。

 映画館でクラスのいじめっ子が殺されるのを目撃して、真人が操る摩訶不思議な術に興味を持ったのだ。

 

 自分も同じことができないか、と。

 

 実際、順平には通常は見ることのできない呪霊を視認できるほどの才能があり、それは真人が術式を授けることができるほど大きなもの。

 順平は眠っていた才能を目覚めさせていた。

 

 ともかく、そういう事情がある以上、トリコだけが悪いとは言いづらい。

 少なくとも、自分がトリコに連れて行かれるきっかけを作ったという罪悪感はある。

 だからといって、そんな事情が知られたいわけでもない。

 もはや真人が思っていたような良い人(・・・)ではないと思い知らされている。

 真人は所詮、人間を替えの効くおもちゃくらいにしか見ていないのだ。

 今となってはあの男に自分が心酔していたことがひどく滑稽で、恥ずかしかった。

 

 いや、それだけじゃない。

 順平は真人のことを旨そうだと思った。

 いまだに真人に心酔している段階であったにも関わらず、だ。

 

 よくよく考えれば怖いことだ。

 真人へと向けていた感情が、その強さはそのままに食欲へと変化していたのだ。

 その価値観の移り変わりは指摘されるまでは順平自身でも気づかないほど。

 もしや、自分は最初から真人のことを食物として見ていたのでは、思うほどに自然だった。

 

 真人との出会いは本来ならば自分を破滅に導いていただろう。

 その確信はある。

 ならば、トリコとの出会いは一体、自分をどこへ連れて行くのだろうか?

 分かっていることは理解を超えた変化が自身に起こったこと。

 そして、食欲が熾火のように燻っていることである。

 現に別れ際の『俺たちだけで真人(チューインミート)独占するかもしれんぞ』という台詞がフラッシュバックしている。

 

「まあ、そんな心配すんなよ。絶対安全な場所まで送り届けるからよ」

 

 虎杖の声が響く。

 状況が状況だけに極端に明るいというわけではないが、聞くものを安心させる柔らかさがあった。

 それだけで順平の不安がやわらぐ、そんな声だった。

 

「すごいね、虎杖くんは」

 

「そうか?」

 

「うん。怯えてばっかりいる僕とは大違いだ」

 

 順平は言った。

 本音だった。

 こんな状況でも他人を思いやれる虎杖を見て、感心していた。

 しかし、虎杖は順平のそんな称賛を受け取れないのか。

 首を振る。

 

「いや、俺だって怖いよ。順平と何にも変わらないって」

 

「そうは見えないけど」

 

「隠してるだけだよ。こう見えて、俺だってほっとしているんだ」

 

「ほっとしている?」

 

「ああ……これで人を殺さなくても済むって」

 

 初めて改造人間を見せられたとき、順平には何の感慨もなかった。

 それが一体どういうものであるか知りつつも、順平は無関心をつらぬいた。

 トリコによって思い知らされるまでは、それが正しいと信じていた。

 しかし、虎杖は改造された人間の重みをちゃんと分かっている。

 自分とは違う。

 順平の内部でふつふつと疑問が湧き上がった。

 

「虎杖くんって人を殺したことがないんだよね? 悪い呪術師と戦う時が来たら、それでも、殺したくないの?」

 

 かなり、際どい質問だ。

 呪術界隈の知識は真人から聞いたものだけだ。

 トリコからはまともなことを聞いていない。

 そして、そんなトリコの人となりを虎杖は知っているはず。

 トリコ以外の人物から吹き込まれたのではないか。

 そう疑うには十分かもしれない。

 

 順平がそれでも質問をしたのは、知りたかったからだ。

 聞いた限り、呪術の世界では人を殺すことと殺されることが、日常の延長にある。

 人を殺さなくてはならない場面に遭遇することはあるかもしれない。

 それでも、人を殺したくない、と思うのか?

 あるいは、仕方ない、と思うのか?

 もし、そうだとしたら、何故、そう思うのか?

 順平は知りたくてたまらなかった。

 

 本来なら、長々と話をするシチュエーションではない。

 が、無機質に伸びる通路を延々と駆けていくだけという状況には、それなりに会話をする余裕もある。

 虎杖は一瞬考えてからつぶやいた。

 

「……どんだけ悪い奴でも殺したくはないかな。

 なんつーか、上手く言えないけど、一度でも人を殺すと、『殺す』って選択肢が日常に入ってきそうでさ。

 命の価値が曖昧になって、大切な人の価値まで分からなるかもしれないって思うとさ……俺は怖い」

 

 虎杖はそこまで言い切ってから、しかし、深刻に顔を歪めた。

 人を殺すのが怖い。

 話はそこで終わらない。

 

「でも、いつかは人を殺さなくちゃいけないんだ」

 

 順平は唾を呑み込んだ。

 いつかという言葉が、まるで今日であるかのような響きを持っている。

 人を殺すことになるのは、きっと今日になる。

 虎杖はそう確信しているようだった。

 それを順平は察して、唾を呑み込んだのだ。

 

 覚悟を決めている段階であるにも関わらず相当な悲壮感がある。

 もし、虎杖が自分の手で改造された人間に止めを刺すようなことになったら、どうなってしまうのか?

 

 虎杖の足が止まった。

 

 ──グルゥルル。

 

「クッソ」

 

 改造人間がいた。

 それも数体の改造人間が道を塞ぐようにして、歩いている。

 その後方からも改造人間がウジャウジャと出てきている。

 

 そこを通らなければ外には出られない。

 通るためには改造人間たちを退けなければ。

 

 その光景を見て順平の息は止まった。

 虎杖を見る。

 顔面は蒼白で、しかし、それでも前へと出ようとする決意は鈍ってはいないらしい。

 

「順平、ここで待っててくれ、すぐに片付けるから」

 

「虎杖くん……」

 

 虎杖が順平を下ろした。

 下ろして、前へと行く。

 その背中を順平は見た。

 決意が背中を漲っている。

 しかし、その決意は悲壮的で、背中は今に泣き出しそうなくらいに震えている。

 それでも決意だけは揺るがないのか、虎杖は前へ前へと出ていく。

 

 人を殺したくない。

 順平の中で虎杖のその台詞がフラッシュバックした。

 本当に殺してしまっても良いのか?

 そんな疑問が点る。

 いや、正確には違った。

 もっと正確に言うのならこうだった。

 

 このまま、虎杖に人を殺させてしまっても良いのか?

 

 順平がそう自問自答している間も虎杖はグングンと改造人間たちに近づいていく。

 改造人間たちも虎杖に気付き臨戦体勢に入った。

 戦いはもう避けられない。

 虎杖が拳に呪力を込めて、先頭の改造人間に殴り掛からんとする。

 そのとき──。

 

 虎杖の後ろから伸びた、半透明の触手が伸びてきて、その先端の針で改造人間を刺した。

 刺された改造人間はその場で倒れ悶絶し、動かなくなった。

 

 虎杖が振り返ると、そこには順平が巨大なクラゲの式神、澱月を背後に侍らせていた。

 

「ダメだよ、虎杖くんみたいな善人が人を殺しちゃ」

 

「順平、お前──」

 

「どうせ、僕を送り届けたら彼らの元に戻るつもりだったんでしょ?

 僕は大丈夫だからトリコさんたちの所に行って」

 

 澱月を操作しながら、順平は言った。

 澱月は最初、目覚めさせたときはほんの小さなクラゲに過ぎなかった。

 しかし、今はそれよりもはるかに大きく、そして、強かった。

 

 その半透明の身体の中に隠れれば、改造人間ごときの攻撃では破れない要塞となってくれるだろう。

 触手の手数は多く、しかも、伸ばせば遠距離攻撃も可能という優れもの。

 雑魚ちらしにはもってこいだ。

 

 本人が気づかないうちに遂げていた力の成長。

 果たしてそれが、精神的な高揚によるものなのか、トリコによって喰わされた呪霊によるものなのか。

 順平には分からない。

 ただ、改造人間たちに遅れをとることはなさそうだった。

 

「大丈夫なんだな?」

 

「この程度なら問題ないよ。あのツギハギ呪霊を仕留めたら一緒に食べよう」

 

「へ?

 ……お前、やっぱりトリコに何かされただろ?

 って、まあいいや。

 そいつら仕留めたら俺たちのことは気にするな……逃げてくれよ」

 

 どこまでも他人の心配ばかりしている虎杖の様子に順平は微笑んだ。

 

 虎杖が再び、彼らのもとへと戻っていく。

 真人と戦えば、虎杖は今度こそ人を殺さなくてはいけなくなるかも知れない。

 それでも虎杖が人を殺すことを先延ばしにできた。

 それだけのことなのに、順平は満足感を抱いていた。

 とはいえ、ここで順平が死んでしまったら虎杖はどうしようもなく己を責めるだろう。

 決して死なないように、遅れを取らないように気を引き締めた。

 改造人間はまだウジャウジャといた。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 トリコと七海、そして、真人。

 2対1の戦い。

 序盤はやはりトリコと七海が戦いを優勢に進めていた。

 七海は一級呪術師で、それと組んでいるのはトリコなのだ。

 一級ですら基本的に相手にならないほどの戦力が、一級と組んでいるのだ。

 いくら真人が特級でも、戦力比で考えるならトリコと七海の方がよほど有利だった。

 しかし、それは単純な数値上の話。

 ご存知の通り、真人の術式は魂に触れその形を変えるというもの。

 その極意は、魂の形へと肉体を追随させる法則だ。

 魂が形を保ってさえいれば、肉体は欠損しても魂の形に戻るのだ。

 真人を倒すためには、なんとかして、真人が魂の形を保てない状態に追い込む必要があった。

 

「いやー、さすがは一級呪術師。勉強になったよ」

 

 真人が憎たらしい顔で言った。

 その正面にはトリコと七海が立っていた。

 

 最初はめった打ちだった。

 七海の呪符でぐるぐる巻になった鉈が穿ち、トリコの一撃が粉砕する。

 そのコンビネーションは様になっていて、交互に攻撃が打ち鳴らされるたびに、真人はそれっぽく(・・・・・)苦悶の声を上げる。

 魂を操るのが術式によるものならば、呪力を枯渇させて、魂を維持できなくすればいい。

 呪力の枯渇。

 真人は2人の狙いをそう読んだ。

 

 現に、繰り返される攻撃で、肉体が欠損するたびに真人は魂の形を保つために、強く念じている。

 呪力を込めて、魂が崩壊しないように強度を保っているのである。

 呪力の消費は避けられない。

 しかし、言ってしまえば、それだけだ。

 自身の魂を保つために消費する呪力の量など高が知れている。

 さすがにこのまま棒立ちで攻撃を受け続ければ話は別だった。

 しかし──。

 

「おいおい、いくら効かないからって俺が反撃しないと思ったかい!」

 

「気をつけろ! 改造人間だ!」

 

「な!?」

 

 いくら効かない(・・・・)攻撃だからと言って、いつまでも棒立ちでいるほど真人はお人よしじゃなかった。

 袖やポケット、あるいは体内など、体中のあらゆる部位に仕込んである改造人間のうち一体に呪力を込めた。

 解放された改造人間は小規模な肉の巨大槍となって2人を襲う。

 2人は距離を取り、肉の槍が壁や床を抉った。

 発生する土ぼこり。

 それに乗じて真人は内1人に接近を試みる。

 ターゲットは一級術師、七海。

 狙いは無為転変による改造。

 一瞬で背後に回り、手のひらで触れようと──。

 

「5連! 釘パンチッ!」

 

「〜〜〜ッ!?」

 

 寸前でトリコが割り込んだ。

 釘パンチはダメージにはならない。

 しかし、複数回炸裂する技の性質上、どうしたって動けなくなる。

 5度の衝撃を受けて、真人は吹っ飛ぶ。

 

「奴は今、わざわざ手のひらで触れようとした」

 

「原型の手のひらで触れる。それが発動条件で間違いないでしょうね」

 

 トリコたちは無為転変の発動条件を見切る。

 身体をすぐさま修復しながら、真人もそれを察した。

 しかし、それでもなお、真人は余裕だった。

 

「やるじゃん。ひょっとして、今ので無為転変の発動条件、分かっちゃったんじゃないの?

 その調子で、俺を倒す方法も見つけてみろよぉ!」

 

 真人は復活。

 さすがに全身粉々ともなれば呪力の消費量は馬鹿にはならないものの、呪力を枯渇させるには程遠い。

 むしろ、トリコの方が釘パンチを放つたびに消耗しているようにも見える。

 真人は調子づいた。

 そして、その結果、トリコと七海はじわじわと追い詰められていた。

 

「こんなもんか。案外、大したことないね。

 一級術師とそこのイカれやろうの2人がかりだったから、少しはやるかと思ったけど……。

 期待はずれだね」

 

 少しは勉強になった。

 しかし、それだけだ。

 コンビネーションも悪くはない。

 そこらの特級程度じゃあ瞬殺だろう。

 それでも突破できないのが、無為転変の厄介さだった。

 

「良いのかよ? そんな呑気にしていて」

 

「はぁ?」

 

「俺の食欲を見くびるなよ」

 

「……意味がわからないね」

 

 にも、関わらずだ。

 攻撃が通用しない、そんな絶望的な状況にあって、トリコは笑った。

 あまりにも太々しい笑みだ。

 真人はその笑みの意味がわからず、本気で戸惑う。

 トリコの笑いはハッタリにしては真に迫っている。

 

 本当に現状を打開する手段を残しているのか。

 あるいは、トリコがそう思っているだけで、それは見当違いの方法に過ぎないのか。

 トリコのイカれ具合がノイズになっていた。

 

 いずれにせよ、トリコたちに何かを仕掛けてきている様子はない。

 ならば、と気を取り直そうとした真人に対して、トリコは畳み掛けるように言った。

 

「それにだ……お前の天敵がもうすぐそこまで来ているぜ」

 

「なんのこと……ッ!?」

 

 そこで、真人は気づいた。

 何かが近づいてくる気配に。

 その正体は──。

 

「宿儺の器!」

 

「オラァッ!」

 

 順平を連れて外へと脱出したかに思えた、虎杖がそこにはいた。

 トリコの異様な気配に呑まれて反応が遅れたために、真人はその顔面にドロップキックを貰ってしまう。

 順平を連れて脱出しているはずの虎杖が、何故、ここにいるのか。

 理解の追いつかない真人に対し、トリコだけがすべてを理解している風情で言った。

 

「ふっ! おせぇぞ! 悠仁!」

 

「誰のせいでこんなことになったと思ってるんだよ……」

 

「その様子だとどうやらお前らも食欲を抑えきれなかったようだな。

 順平も……なるほど、その様子だと呪術師(美食屋)の端くれだったというわけか」

 

「それっぽいこと言ってごまかすなよな……」

 

 計算どうりと言わんばかりにトリコ。

 虎杖は呆れつつも、そんなトリコを強くは否定しきれないでいた。

 振り返ってみればトリコは順平を完全に呪術師(こちら)側として扱っている。

 それ自体はある意味では合っていたわけで、七海ですらもスルーしてしまった、順平の秘めていた力にトリコだけは気づいていたことになる。

 そういう洞察力の片鱗のようなものを見せつけてくるたびに、イカれた言動の裏に、実はまともな考えがあるのではないか、と勘繰ってしまうのだ。

 無論、本当に意味もなくイカれた台詞を話すことが圧倒的に多いため、扱いにくさに拍車がかかっているようなものであったが。

 

「……聞きたいことは色々とありますが、ひとまず、集中しましょう」

 

 七海は真人に視線を移した。

 真人は身体を変形し壁を蹴ることで、空中にいながらにして器用にトリコたちから程よく離れた場所に着地したのだ。

 トリコは合流した直後こう言っていた。

 『虎杖ならば、真人にダメージを与えられる』と。

 その理屈はとんちんかんそのものであるが、もし、本当ならば真人にも何らかの変化があるはず。

 それを見逃すまい、と注意深く観察した。

 

「面白い打撃だ。でも、無駄だよ。魂に触れられない君たちじゃ……ッ!?」

 

 余裕の表情で肉体を修復する真人。

 しかし、様子は一変。

 真人は片手で頭を抑えると足がガクガクと痙攣させた。

 脂汗が額に浮き上がり、顔面を流れ落ちる。

 明らかに虎杖の攻撃が効いて(・・・)いた。

 

「たたみかけますよ」

 

「押ッ忍!」

 

 なんにせよ、千載一遇のチャンス。

 これを逃す手はない。

 虎杖と七海の攻撃が交互に炸裂する。

 

 真人もこれには参った。

 なにせ、七海はともかく虎杖の攻撃は効く(・・)

 虎杖に頭部を殴られるたびに呪霊には脳が存在しないはずなのに、文字通り脳が揺れるように全身の感覚が途切れるのだ。

 攻撃力も、トリコの次くらいには高い。

 コンビネーションにも穴はなく、抜け出すための隙など皆無。

 このままでは、殴り殺される。

 明確な死が、すぐそこまで迫っていた。

 

「くっくっく……ありがとう……最高のインスピレーションを!」

 

「なッ!?」

 

「離れてください! 虎杖くん!」

 

「領域展開、自閉円頓裹!」

 

 だからこそ、真人は目覚める。

 死に際とは、呪力の核心にもっとも近い時間。

 それは非術師が呪霊を認識可能にするほどのもの。

 ならば、ただでさえ呪力を感知し、魂の世界を見ることのできる真人ならば、死の間際に次のステージに進むことも可能だろう。

 領域展開という、呪術の極地へと!

 

 真人の口の中で結ばれた印により、空間が構築されていく。

 呪力で満ちた空間が暗黒を広げていく。

 2人は急いで離れようとするも、空間は容赦なく彼らを飲み込みかけた。

 

「今はただ君に感謝──」

 

「フライングナイフ!」

 

 その発生しかけた空間を呪力の刃が切り裂いた。

 刃が飛んできた先にはトリコがあの太々しい笑みを浮かべて、腕を振り切っている。

 

「俺の呪力(食欲のエネルギー)は完成した漏瑚(コンソメマグマ)領域(裏のチャンネル)にも傷をつけたんだぜ。

 展開途中のものを切り裂くなんてわけないことさ、真人(チューインミート)よ」

 

「本当になんなんだよお前はッ!」

 

 畳み掛けるようにイカれた単語を並べ立ててくるトリコ。

 その様に、真人、激昂。

 さんざんコケにしてきやがったこいつだけは何があってもぶっ殺す!

 溢れんばかりに負の感情をたぎらせて呪力へと変換する。

 不幸中の幸いともいうべきか、領域展開が途中で終わったことにより、呪力の消費は本来よりも少なくて済んでいる。

 負の感情も相まって、真人のコンディションは最高。

 そのステータスは生まれ変わったと言っても過言ではないほどに向上していた。

 誰にも追いつけない速度で駆け、真人はあっという間にトリコの元へと辿り着く。

 狙うは無為転変による確殺。

 腕を伸ばして、トリコに触れようとする。

 

「いいのかよ。そんなあっさりと俺の間合いに近づいてしまって。

 今の俺はさっきよりもずうっと腹がぺこぺこ(・・・・・・)なんだよ!」

 

 その寸前、真人は見た。

 両の手を合わせて、合掌するトリコの姿を!

 

「この世の全ての呪霊(食材)に感謝を込めていただきます……10連!」

 

 トリコはそこからシームレスに釘パンチへと移行。

 呪力が一瞬で倍以上に膨れ上がる。

 

「釘パンチ!!!」

 

「ぐお!」

 

 真人の胸に拳が吸い込まれた。

 その威力たるや特級すらも容易く粉砕するほどだ。

 が、今の真人は最高のコンディション。

 怒りによって引き出された潜在能力と溢れる呪力のある真人ならばその場に踏ん張ることも可能。

 流石にのけぞりはしたが、それでも、トリコは間合い。

 打ち込まれた打撃が弾けるのにも構わず、手を伸ばした。

 

「なッ!?」

 

 真人の顔色が変わる。

 胴体で炸裂した打撃。

 それが魂まで響く(・・)のである。

 虎杖の打撃同様、本物の痛みがある。

 さらに、その威力は先ほどまでの釘パンチよりもさらに上。

 本当の本当に出し惜しみなく放たれたのであろう。

 しかし、だとしても何故、今まで受けても平気だった攻撃が、いきなり魂にまで届くようになったのか?

 そんな疑問に答えるようにトリコは言った。

 

「俺の攻撃がお前に届かないのならば、高めればいいだけの話だ。

 俺の(食欲)がお前の魂に届くレベルにまでなッ!」

 

 意味不明な理屈。

 空腹による食欲の活性化が術式の効力を高めたのではないか、という考えがよぎるが、もはや、そんなことを考えているときではない。

 一撃。

 二撃。

 三撃。

 炸裂するごとに威力を増しながら、内側に叩き込まれていく衝撃に、真人は血反吐を吐き、撒き散らしていく。

 

「うぎぃッ! うぎゃあッ! がはぁッ!」

 

 壁面に叩きつけられて、穴を開け、なおもその中にめり込んでいく。

 炸裂した衝撃が通路を揺らした。

 もはや、この巨大な力を前にどうしようもない。

 それは分かった。

 だからこそ、真人は決断した。

 自身を切り離す選択を──。

 

「ぬわあああッ!」

 

 魂ごと分離し、真人は奥へ奥へと逃げていく。

 壁面を突き破ることにより発生した土ぼこりと地震のような振動に紛れて真人は地面を滑るように移動した。

 目指すは壁面にある穴の一つ。

 そこへと手を伸ばして、滑り込んだ。

 

「追いますよ!」

 

 七海の鉈が真人の足をかすめた。

 ここは真人のテリトリーだ。

 その構造を熟知しているはず。

 逃げに徹した真人に果たして追いつけるだろうか?

 指示を飛ばしながら、しかし、七海にはそれが途方もないことのように感じられた。

 

「この匂いは、まさか!?」

 

「どうしたんですか、トリコくん」

 

「驚いたぜ、こいつを見てくれよ」

 

「それは……宿儺の指?」

 

 七海の懸念通り、必死の捜索にも関わらず真人を発見することは、終ぞできなかった。

 アジトで発見できたのは、封印状態の宿儺の指だけだった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 死人は異形に変えられ、生きたまま使役された人間が大勢いるであろうことが判明した胸糞悪い事件。

 犯人を取り逃してしまった一行の間には暗い空気が蔓延して──。

 

「うっひょぉおおお! うめぇえ! 真人拉麺(チューインミートラーメン)!」

 

 いなかった!

 秘密裏に高専へと戻ったトリコが行ったのは、何よりもまず飯だった。

 信じられない量のものを喰ってから、ようやく、トリコは本日のメインとして、真人が残していった肉体を喰っているのである。

 舌鼓を打つトリコは、任務の失敗など無かったかのように明るく振る舞っている。

 それは、もはや、飯を食ってその喜びに身を震わせなければ正気じゃない、とまで思えるほど周囲を自分の空気で染め上げている。

 狂気の世界は正気のものが普通ではないのと同じことだ。

 トリコの狂気はもはやそれ単一でひとつの世界とでも言えるほど大きかった。

 

「うわ! 真人さんってこんな味だったんだ!」

 

「肉なのに小麦でできた麺みてぇな、いや、それ以上の弾力だ!」

 

 最初は事件の後味の悪さに暗い顔をしていた順平と虎杖も、トリコの狂気に当てられてこのザマ。

 真人拉麺(チューインミートラーメン)を味わっている。

 

 真人の肉を麺にするという、聞いただけならば狂気しか感じないこの料理。

 意外にイケた。

 細長く切り出された真人の肉は、喉越しと弾力を併せ持っている。

 さらにはその旨みも絶品そのもの。

 麺は噛み切られるたびに旨みを含んだ透明の液が口内を満たすのだ。

 それを幸せそうに食べる彼らの姿は、任務を達成できなかったものがするものとは程遠いものだった。

 

「ゲラゲラゲラ! いいぞぉ! 流石に手つきも手慣れてきたなぁ! もっと寄越せ! 小僧!」

 

「まだいっぱいあるんだからそんなに焦るなよ。ほら」

 

「あ、これとか気にいるんじゃないかな」

 

「ああ、いいなそれ。トリコ、分けてくれるか?」

 

「いいぞ、もってけ」

 

 宿儺は虎杖にそれらを分けてもらい、ご満悦。

 トリコは自身の料理を分け与え、虎杖は頬に生えた宿儺の口と自分の口に交互に箸を運んでいる。

 呪いの王と呪術師が一緒のテーブルを囲んで、食物を分けあっている。

 本来ならばあり得ない光景に七海はめまいがした。

 

「七海さん。あんたも喰うだろ!」

 

「いえ、私はいいです」

 

「遠慮するな。あんたの分もしっかりと用意してあるんだからな!」

 

「……」

 

 事情聴取により、順平の事情はだいたい把握している。

 トリコのイカれた台詞もそれらの事情と照らし合わせれば、辛うじて理解できる部分も少なくなかった。

 が、それでも、問題行動は問題行動。

 結果的に1人の人間を救っていたのだとしても、言っておきたいことは山ほどあった。

 

「トリコくんそういえば、まだ、あなたには説教をしていませんでしたね」

 

「あ……」

 

 七海がそう言うと、トリコの箸が止まった。

 トリコは説教の件を忘れていたかのようだった。

 

「何故、呪いの現場に吉野くんを連れて行ったんですか」

 

「あ、七海さん、悪いのは僕なんです」

 

「まあまあ、順平ここは様子を見ようぜ。トリコはちゃんと叱られるべきなんだよ」

 

「虎杖くん。吉野くんを放置した件で話があるので、虎杖くんもひと事じゃないですよ」

 

「あ……」

 

 罪悪感を感じる順平、流れ弾を喰らう虎杖。

 そんな2人をよそにトリコは考える素振りを見せてから言った。

 

「だって、順平はよぉ、俺と会う前に真人(チューインミート)の巣に自ら侵入してたんだぜ?

 放っておいたところでまた侵入することは目に見えていた。

 ひょっとしたら、俺に獲物を横取りされまいと余計なことをしてきたかもしれない」

 

「だから、目に届く範囲内に吉野くんを置いておきたかった、と?」

 

「見ただろ、あの澱月(クラゲ)を。

 高専(IGO)職員に任せても良かったが、手に余る可能性もあった。

 あいつをどこかに預けるにしても、真人(チューインミート)は時間をかければかけるほど、被害が拡大する。

 俺が連れて行けば、順平の監視と観察を兼ねることができる。

 その上、獲物を捕まえるまでの時間を短縮できるんだから、連れて行かない選択肢なんてないだろ?」

 

 予想以上に理性的な物言いに七海は眉を抑えた。

 イカれているくせにある種の合理性を兼ね備えているが故に、厄介な男だと思った。

 この男を矯正することは、あの五条ですら不可能だろう。

 

「今となってはあなたの考えにもある程度、理解が及びます。

 だからと言って、素人を呪いの現場に連れていくというのはあまりにも非常識です。

 いくら、事態が急を要するとはいえ、もう少し丁寧に相談するくらいのことはできたでしょう」

 

「……むぅ」

 

「もう無茶をするなとは言いませんが、せめて、味方に伝わるように話してください。

 まあ、それこそ無茶な話なんでしょうけど……」

 

 七海は言いたいことを言って、そして、思い出した。

 そう言えば、昼食を摂ってから、まだ何も食べていないということに。

 思い出したら急に腹が減ってきた。

 

「ひとまず、食事にしましょうか。今日は本当に疲れました」

 

「ああ、喰いな」

 

「遠慮しま──いえ、ここはいただいておきましょうか」

 

 呪霊の肉が発する旨そうな匂いと空腹の波状攻撃に、流石の七海も耐えきれなかった。

 トリコの術式に晒された呪霊を喰った人間は何人かいるらしいが、それで死んだという話は、トリコが宿儺の指を喰って死んだ事例以外では聞いていない。

 それに食の歴史は探究の歴史だ。

 普段食べているもので、昔は食べることなんて考えられなかったものなど無数にある。

 それに真人拉麺(チューインミートラーメン)は麺がほのかな光を放っており、その見た目は元が呪霊とは思えないほどに旨そうだ。

 そんなことを考えながら、七海は席についたのだった。

 

「……意外にイケますね、この真人拉麺(チューインミートラーメン)とやら」

 

 事件は終わった。

 

 そして、時は9月。

 京都姉妹校交流会(グルメフェスティバル)のときが近づいていた。



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姉妹校交流会、すなわち、グルメフェスティバル開幕!

「いやー。またまた特級を退けて、しかも新しい呪術師の卵を発掘するなんてねぇ。

 先生の指導がいいのかな? うちのトリコは一味も二味も違うねぇー」

 

 交流会直前。

 高専にあるモダンな一室で五条は鼻高々だった。

 理由は先の任務でのトリコを名乗る異常者の活躍にある。

 とある映画館で起きた、不良高校生3人の怪死事件。

 トリコはその任務で特級に分類される、おおよそ、最高位の呪霊を撃退したのである。

 呪術師としての力を示したトリコに対して五条はウキウキとした気分だった。

 

 もっとも、その過程において、現場ではしゃいだり、目撃者の少年を連れ回して呪霊の寝ぐらに踏み込んだり、色々な暴挙があったが、五条はそこから目を逸らした。

 現場ではしゃぐのは今さら。

 さらに、これは呪霊の撃退後に少年の口から語られたことだが、少年は呪霊と良好な関係を築いていたと思い込んでいたらしい。

 これがどれほど危険なことかは言うまでもない。

 荒療治になってしまったが、トリコの介入により呪霊との関係を断てたのはプラスだった。

 かつ、その少年は呪術師としての才能を目覚めさせており、高専への転入も決定したとなれば、五条として言うことなしだった。

 

 そんなふうに上機嫌の五条の正面には、1人の男が座っていた。

 スーツを着こなした男は、1級呪術師の七海。

 彼はため息をついた。

 

「そんなに自慢の生徒だったらご自分で引率したらどうですか?

 あなたでもスリリングな体験ができますよ」

 

 何を隠そう、この七海という男、トリコの引率を担当した呪術師である。

 社会人として働いていた経験があるだけのことはあり、七海は常識と良識を持ち合わせている優秀な呪術師であるが、相手はあのイカれだ。

 トリコを完全に制御することはできず、トリコのやらかしをフォローする役回りに徹することになる。

 

 そして、それは五条でもあまり変わりないのだろう。

 むしろ、最強の呪術師である五条にとっては他の全術師は足手纏いでしかないので、トリコと組むメリットは薄い。

 七海の少し意地悪な提案に、五条はゆっくりと首を振った。

 

「いやだよ。だってあいつ制御するのすんごくしんどいんだもん。

 普段、どんだけあいつに振り回されてると思ってんだよ……」

 

 軽薄に笑いながらも、どこか哀愁を漂わせるその姿は、最強とは程遠く。

 いかに五条であろうと教え子の前では、1人の悩める教師にすぎないことを容易に想像させた。

 思えば、五条も相当な問題児であったはずだ。

 教師にも反抗的で、先輩が相手だろうと煽り倒すし、誰彼構わず無遠慮な言葉を投げかける。

 それがかつての五条だった。

 そんな五条がトリコという本物のイカれに振り回される(を指導する)側に回るのを見ると、因果というものを感じずにはいられない。

 

「まあ、しかし、彼についてはある程度分かりましたが、イカれた言動とそれによる暴挙を除けば、優秀とすら思えました。

 それに彼は彼で、案外、物事をちゃんと考えているようにも見えます。

 吉野くんとツギハギの呪霊、トリコくんが言うところのチューインミート、との関係にいち早く気づいたのも彼ですし、ただイカれているというわけではなさそうですよ」

 

「……そっか。なんか、お前にそう言われると少し安心するよ。

 呪術師やってると誰かと組むことも珍しくないけど、あいつイカれてるからさ……」

 

 今回の任務は、その難度もさることながら、トリコのような狂人が、他人と組んで任務を遂行できるのかを確かめるための資金石でもあった。

 それがどうにか、仮に問題行動のオンパレードだろうと、結果的には被害者を最小限に抑えることができたので上々と言えるだろう。

 五条は満足げに、そして、安堵したように呟いたのだった。

 

「おう! 五条先生、早く京都姉妹校交流会(グルメフェスティバル)に行こうぜ! もう、お腹ぺこぺこでさぁ!」

 

「……いやぁ、もう、本当に何をどう解釈したら交流会がグルメフェスティバルになるのかね?」

 

「さあ、団体戦の内容に反応しているんじゃないですか?

 あれは呪霊が出てくる競技ですし」

 

「どっから情報が漏れるんだよ。お前はトリコに毒されてくれるなよ」

 

「その言い方は心外ですね。ただ、環境に順応しただけですよ。そのほうが効率的なだけのことです」

 

 トリコは部屋にやってくるとウキウキとした様子でしゃべり出した。

 その内容は異常の一言。

 任務を共にしたおかげか慣れた様子で語る七海に対して、五条はドン引きする。

 

 しかし、ここでドン引きしてもいられない。

 なにせ、死んだと思っていた仲間が生きていた、なんてことは呪術師でもそうはない。

 しかも、トリコは土手っ腹に文字通り穴が空いて、そこから血が噴き出すのを見られた上で、大往生したのである。

 絶対に驚くはずだった。

 というか驚かないわけがない。

 ならば、やるしかない。

 サプライズを。

 五条は気を取り直して、場の主導権を奪うかのようにして、笑った。

 

「やるでしょ、サプライズ」

 

「ああ、いっぱいの呪霊(食材)みんなに持ってってやる──」

 

「大丈夫だ! 僕に任せてくれ。トリコは何もしないでいい……というか、何もしないでくれ! 頼むからッ!」

 

「ええー?」

 

 トリコ相手にどこか空回りする五条。

 それを見て、七海は苦笑するのであった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 トリコが死んでいる間。

 伏黒と釘崎はどうしていたのかというと──。

 

「パンダホォオオール!」

 

「うぎゃぁあああ! ちくしょぉおおお!」

 

「……ッ!」

 

 2年生たちから直々にしごきを受けていた。

 理由は近々行われる、京都姉妹校交流会にある。

 交流会とは京都にある姉妹校との間で行われる呪術合戦のことである。

 交流会という名前の割には物騒な内容であるが、やはり、あくまで交流会。

 呪術を競い合うという研鑽の意味合いが強かった。

 

 そんな交流会に伏黒と釘崎に参加することになっていた。

 本来、交流会に1年が出ることはないが、今年は3年生が停学を喰らっている。

 その穴埋めとして1年生が駆り出されているのである。

 

 交流会に向けて行われている2年生からのしごき。

 これに伏黒と釘崎は喰らいついた。

 その原動力は無力感と悔しさである。

 というのも、1年生は任務で特級に遭遇している。

 少年院に出現した呪霊から取り残された在院生を救出するという任務だった。

 そこで遭遇した特級相手に1年生たちは何もできず、トリコだけが特級の相手をして捜索する時間を稼いだのであった。

 

 ちなみに、その後、トリコは宿儺の指を取り込んだ呪霊を喰い、死亡するという間抜けをさらしてしまう。

 さらに、謎の蘇生を果たしてからは秘密裏に囲われているため、その生存は五条や虎杖ほか数名以外には知らないのであるが……。

 

 閑話休題。

 ともかく、このときに味わった無力感、そして、よりにもよってトリコに助けられてしまったという悔しさ。

 これらは2人に強くならねばという意識を植え付けていた。

 もうあのときの思いを味わいたくない。

 そう思えばより一層、2年生との組み手にも力が入った。

 

 訓練期間にあった出来事といえば、京都校からの来訪者の件を忘れてはいけない。

 京都校から男女2人の生徒がやってきたのだ。

 いかにもスレンダーな美女という風情の女子は嫌がらせにでもやってきたのか。

 『呪霊を好んで喰う常識をわきまえない奴が呪術師づらしていただなんて、本当、呪術師の面汚しよね』とトリコを揶揄する発言をする。

 しかし、それはただの正論だった。

 伏黒と釘崎は激しく同意した。

 

「分かってるじゃない」

 

「へ?」

 

「最悪なのよあいつ。人に呪霊を勧めてくるは、任務のことを新しい呪霊(食材)との出会いとしか思っていないからテンション高いし、呪術師のこと美食なんたらとかいうし……あいつはクソ!」

 

「……ダ、ダメじゃない……いくらなんでも同僚のことをそんなに悪く言っちゃあ」

 

「良いのよ。あの特級クラスのアホは例外よ。あー、あいつの死に方思い出したらなんか腹立ってきた!

 何よ、今際の際がごちそうさまでしたって……あんたもアホだと思わない!?」

 

「……まともじゃないわね……」

 

「まあ、だから……なんていうか……全く悲しくないんだけどね。

 あいつ、死ぬ瞬間まで微塵も後悔してなかったわよ。特級呪物喰っておいて」

 

 釘崎にいたっては女子の両手を握り、むしろ、賞賛する勢いだった。

 そんな反応がくると思ってもみなかったのか、女子はタジタジとなり、自分のペースに持ち込めなかった。

 

「おいおい、愚痴に付き合わされるとは……仲良くやってるみたいじゃないか?」

 

「ちょっと!? 冗談じゃないんですけど!?」

 

「私、真依さんのこと好きになれそうですよ!」

 

「嘘でしょ!? 私はあなたのことが嫌いになりそうなのに!?」

 

「まあ、そんなことよりもだ、そこの1年! お前の好みの女のタイプはなんだ?

 ちなみに俺の好きなタイプはケツとタッパがでかい女です」

 

「はあ?」

 

 かと思えば、もう片方の筋骨隆々の男子は訳のわからない因縁をつけてくる始末。

 伏黒が考えに考えて答えを捻り出すも、お気に召さなかったのか、その意見を退屈だと切り捨てて体術のみで一方的にボコってきた。

 2年生が間に入ることで中断になったが、こちらの方は、誰かが止めなければ血なまぐさい結果になっていたろう。

 

 他にも色々あった。

 トリコの遺品を整理したり、トリコが溜め込んでいた呪霊(食料)があまりにも多くて運搬に苦労したり、そこで伏黒と一緒に作業をしていた虎杖の中の宿儺が影の使い方のヒントを授けてきたり──。

 そんなこんなあった。

 そして、交流会当日。

 来訪してきた京都校の面々とそれを出迎える東京校の面々。

 その間には微妙な緊張感があった。

 

 五条は、そんな場面に遅れてやってきた。

 毎度ながら遅刻気味のこの男はそれを気にしている様子もなく、飛び入り参加のメンバー紹介を始めたのだった。

 

「じゃあ、今日は2人ばかし紹介するね。

 まず、1人目! 吉野順平くん! 素人のくせにぶっつけ本番で呪術を使ったから根性はあるよ! はい拍手ぅ!」

 

「よ、よろしくお願いします」

 

「おー、順平こっちだ」

 

 まずは、編入が決まった順平から。

 いきなり同じ学年のみならず、先輩はおろか姉妹校のメンバーが勢揃いという中で紹介された順平は恐縮。

 挨拶が終わると、この中で唯一の知り合い、虎杖の近くにそそくさと移動した。

 そして、五条は台車で運んできた箱に向き直る。

 

 そうトリコを押し込んだ箱である。

 中からトリコが出てきて全員びっくり仰天。

 

 まさか、死んでいたはずのトリコが出てくるとは誰も思うまい。

 そうほくそ笑んで勢いよく箱を開けた。

 そこには──。

 

「……何これ?」

 

「いや、悟が持って来たんだろ」

 

「段取りぐらいしっかりしとけよな」

 

 肉、魚、野菜、果物。

 それらが新鮮な状態で入っており、淡く輝いていた。

 しかし、よくよく見ればそれらはどこかグロテスクで、この世に存在する既存のどの食材とも合致しないものばかり。

 それらはトリコによって仕留められた呪霊の死体なのである。

 トリコによって食用に変換された呪霊たちであった。

 

 トリコはどこへ何をしに行ったのか?

 嫌な予感がした、そのときだった。

 東京校学長、夜蛾正道が声を張り上げたのは。

 

「ガッデム! 忌庫に侵入者だと!?」

 

 騒然となる。

 高専は貴重な呪具や呪物の宝庫。

 特に忌庫と呼ばれる収集箇所には、より貴重なものが集められているのである。

 高専敷地内に何百と存在するダミーの神社仏閣の内一個だけが忌庫に繋がっている秘匿性の高さからも、集められたもののレベルもうかがいしれるというもの。

 その忌庫に侵入者が来たとなれば、それは一大事であった。

 

「いや、それは無いでしょ。外部から無関係の人間が入ってきたら、その時点で未登録の呪力に反応するはずだからね。

 もっとも、例外はあるけど」

 

 五条が補足するようにつぶやいた。

 通常、未登録の呪力があれば結界が反応する。

 結界で覆われた高専に一歩でも足を踏み入れたら、その時点でアラートがなるのだ。

 なので、本当に侵入者がいるのであれば、警報が鳴り響いているはずだが、山奥特有の静寂さは依然そのままだ。

 結界をすり抜けるなんらかの方法を有していないのであれば、夜蛾の言葉には矛盾が生じていることになる。

 

「その侵入者がどのような手段を使ったのかは不明です。しかし、それ以上に、どうも妙なのです」

 

「妙だと?」

 

 報告にやってきた男はどうにも歯切れの悪い様子だった。

 夜蛾は先を促した。

 

「どうもその男、侵入者なのですが、忌庫の見張りと口論になっているそうでして……」

 

「口論だと!? 戦闘ではなく!?」

 

「ええ、なんでも、忌庫のとある呪物たちの所有権を主張しているようで……頑として譲らないのです」

 

「何を呑気に侵入者と問答をしているんだ? 何故捕縛しない!?」

 

 忌庫の扉を見つけたこともそうだが、侵入者を捕らえるべき見張りが問答に答えるなど、状況があまりにも妙すぎる。

 徐々に語気を強めていく夜蛾に対して、報告の男は怯えた様子を見せながらも答えた。

 

「捕縛は試みております! しかし、恥ずかしながら相手との実力差はあまりにも大きく、こちら側がいなされるばかり!

 反撃を覚悟したのですが、男は預けていたものを引き取りにきただけだと言うばかりで戦闘を行う様子はなく、結果問答という形に──」

 

「貴様では話にならん。その男の特徴だけ教えろ」

 

 要領の得ない報告を夜蛾は中断させた。

 敵意があろうが、無かろうが、侵入者は侵入者。

 呪物を流出させるわけにはいかない。

 報告にやってきた男はできるだけ簡潔に答えた。

 

「身長220センチ、髪は青、筋肉モリモリマッチョマンの変態です」

 

「!?」

 

 今までひょうひょうと聞いていた五条が反応した。

 反応しない結界。

 覚えのある……というよりも覚えがありすぎる侵入者の特徴。

 いつの間にか、箱から消えていたトリコ。

 それら符号の組み合わせが意味する答えは1つ。

 五条は先ほどとは打って変わって、静かに冷や汗を流した。

 生徒たちの中でも、先ほど合流した順平、そして、虎杖といった、あのイカれ(・・・)の生存を知っているものも恐る恐るといった表情である。

 

「へぇー、どっかで聞いたことあるような格好ね。まるで、あいつみたいじゃない」

 

「あんな奴が他にもいたんだな」

 

「実はこっそり生きてたりとか?」

 

「それは流石にないだろうけどな」

 

「そりゃそうよね。生きてたらぶん殴ろうと思ってたけど」

 

 その生存こそ知らないがトリコのことは知っている1年生メンバー。

 彼らもその特徴があまりにもトリコと一致していることに気がついていた。                                     

 流石に生き返ったとは思ってもみないようだったが、実はそれは正解で、真相を知るものはぎくりとなっていた。

 そして──。

 

「よぉ! 伏黒! 釘崎! 元気してたかお前ら!」

 

「!?」

 

 トリコは空気を読まずに現れた。

 その様に一同驚愕。

 伏黒と釘崎は目の前で血を吹き出して大往生したトリコが生きていたことに衝撃を覚え、京都校の者も伝聞だけとはいえ死んだ人間が目の前にいるという異常事態に困惑した。

 さらに言うのなら、その格好もまた怪しさ満点だった。

 なにせ、その背には背丈の倍以上はある風呂敷を背負っていたのだから。

 その中に入っているのは呪物かはたまた呪具か。

 外からは判断できないが、どちらにせよとんでもない量である。

 トリコの生存をあらかじめ知っていたメンバーも、予想以上の奇行には驚きを隠せない。

 

「トリコー!? お前本当に何やってくれてんの!?」

 

「どういうことだ馬鹿目隠し!? トリコって言えば任務中に死んだって話じゃないのか!?」

 

「そうだぞ、悟! ちゃんと説明しろ!」

 

「しゃけ!」

 

 東京校の大部分のメンバーが説明を求め、五条に詰め寄った。

 場は混迷を極めつつあった。

 そして──。

 

「え、え、こっちに来ますよ!?」

 

「な、なんなのよあいつ……茶髪の1年から聞いてるより数倍はイカれてるんですけど!」

 

「あれが1年……? 嘘でしょ……? 怖ッ! 筋肉スゴッ!」

 

「西宮、真依、三輪……後ろに下がってろ」

 

 トリコは京都校の方へと歩み寄る。

 その無遠慮な歩みに女子は恐怖した。

 そんな不審者まるだしのトリコを警戒してか、和装の男と人型の傀儡が立ち塞がった。

 

「……ッ」

 

「でかいナ」

 

 トリコは2メートルを超えた巨漢だ。

 自然見上げる形になった彼らは、トリコの肉体に圧倒された。

 もし、この男が狼藉を働いたとしてどこまで対抗できるか、分からない。

 緊張が走った。

 トリコが口を開く。

 

「お前、GTロボか? 結構、カスタムしてんじゃないか!」

 

「……は?」 

 

 朗らかに放たれた台詞の意味が誰も分からなかった。

 かろうじて敵意がないであろうことは察せられたが、それでも、理解を超えた言動に誰しもが言葉を失った。

 唯一、話しかけられた張本人だけがかろうじて言葉を返す。

 

「なんの話ダ?」

 

「それGTロボだろ?」

 

「え、メカ丸ってハイテク(そういう奴)だったんですか? 量産機?」

 

「ちょっと、黙ってなさいよ、三輪! こっちに関心が向いたらどうするのよ?」

 

 メカ丸の意外な名称に反応する三輪を、真依がさえぎった。

 メカ丸はただの傀儡である。

 

「なんだ、それハ?」

 

「おいおい、自分で使ってるものの名前もしらねぇのか?

 そいつの名前は、グルメテレイグジスタンスロボット、略してGTロボだ。

 遠隔で操作が可能な高性能ロボットで火山や深海みたいな人間が足を踏み入れない場所の探査にも重宝されている代物さ。

 その高性能っぷりは操縦者本人の気迫や雰囲気も伝わってくるほど……。

 現にビンビンに感じてるぜ……お前の不健康っぷりもな」

 

「ナニ!?」

 

 突然の核心に迫った台詞にGTロボの操縦者は、遠隔操作する地で眉をひそめた。

 

呪力(食欲のエネルギー)がでかい……ってことは先天的にグルメ細胞の悪魔を宿した副作用と考えるのが妥当か」

 

「ならばなんダというんダ! 文句でもあるのカ?」

 

 深く心に突き刺さったのだろう。

 メカ丸はスピーカーから、刺々しい言葉を発した。

 

「ま、そう怒るな。もし、お前がその病気(・・)を治したいってなら呪霊(こいつ)を試してみるんだな。

 捧げるものが少しはマシになれば、グルメ細胞の悪魔も機嫌を直してくれるかもしれないだろ?」

 

「は?」

 

 トリコは、怒りを受け流して、背負っている呪霊(食材)の一部をメカ丸へと突きつけた。

 メカ丸の拒否を許さない、ありがた迷惑な行いである。

 なんにせよ、どこか間抜けにも見える、しかし、歪でありながらどこか真っ当にも見えないこともない気遣いを見せつけられた一同の肩から力が抜けていった。

 ただ1人、ドレッドヘアーの男が頷きながら一歩前へと出てきた。

 

「どうやら、かなり骨のある奴が出てきたようだな」

 

「東堂、あまり、こちらから絡むな……相手は一応は生徒だとは思うが、不審者だぞ」

 

「そう言うな……虎穴に入らんずば虎子を得ず、高田ちゃんもそう言っている」

 

「それは故事成語だろ」

 

 ここで伏黒を一度ボコボコにした男、東堂が参戦。

 加茂が止めるのも聞かないでトリコに恒例の質問をぶつけた。

 

「そんなことよりもだ……お前、どんな女がタイプだ?」

 

 トリコは即答する。

 

「食事を残さない女」

 

「その即答ぶりには好感が持てるな……だが、いささか残念だ。なんの捻りも性癖も感じられ──」

 

「そんなことより、お前これ食えよ! なんか知らんが、訳分からんこと言うほどに腹減ってるんだろう!」

 

「なに!? この味は!?」

 

 トリコは東堂の様子を空腹による錯乱とでも解釈したようだ。

 善意でその手に握る呪霊(食材)を東堂の口にへと放り込む。 

 東堂も東堂で、拒めばいいものを、その舌に流れ込む味に抗いがたいものを感じ、そのまま飲み込んだ。

 その味に深い感銘を受けたのだろうか。

 東堂は呆然と虚空を見上げ、その目からは一筋の涙が流れ落ちた。

 

「……そうだ、そうだったよな。兄さんは、あのときも、いつだって、今のように俺に飯を恵んでくれた……!」

 

「!?」

 

「あのとき……? 今の間違いじゃなくてか?」

 

 感涙に咽び泣く東堂の様子にめんどくさそうな顔をする京都勢。

 隠しもしないで、渋い顔をする彼らの態度から、東堂の普段の扱いがうかがい知れるというものである。

 

 そんな風に、トリコが京都勢と絡んでいる間にあらかたの説明は終わったのだろう。

 釘崎が背後から肩に手を乗せてくる。

 

「お、どうした、そんな怖い顔して?」

 

「……私らに言うべきことがあるだろ?」

 

 釘崎の声にはただならぬ迫力があった。

 今までにないほどに辛辣な声色である。

 トリコは答えた。

 

「おう、お前らの分もちゃんとあるから、一緒に喰おうぜ──」

 

「謝れ! この特級クラスのアホ!」

 

「うげぇ!」

 

 釘崎がその手に握っていた金槌をトリコの側頭部へと叩きつけた。

 そして──。

 

「なぜ、あの男が生きておるんだ? 本当に……いや、本当に、どういうことだ?」

 

 そんなカオスの裏で、京都からやってきた京都校の学長、楽巌寺が冷や汗を垂らして真面目に動揺していた。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

「ったく本当に何やってんのよ、アンタは!」

 

「俺が何やったってんだよ?」

 

「忌庫に侵入しといて何言ってんのよ!?」

 

「おいおい、それは誤解だ。

 俺はただ忌庫(グルメバンク)の外から職員を丸め込んで、俺の資産(食材)を返してもらっただけだぜ。

 一歩たりとも侵入しちゃいないし、反撃もしていないんだ。

 俺は何一つ悪いことはしてないんだ……そうだな、あえて言うなら、俺の生存を隠していた五条先生が悪い。

 そのせいで話がしづらくて敵わんかった」

 

「こ……こいつ……ッ! 言……言わせておけば……ッ!」

 

 死んだ人間が生きていた。

 それだけでもサプライズだというのに、忌庫への侵入などという騒動も加えてくれやがった、トリコに対して、釘崎はどこまでも刺々しい。

 しかし、トリコには気にした素振りなどない。

 出てくる理屈も屁理屈ではあるが、ヤバい処分を受けないギリギリのラインを見極める狡猾さはあるらしい。

 現にトリコへの制裁は五条からの本気ビンタ1発で済んでいる。

 そして──。

 

「えぇぇぇえええ! なんでぇ!」

 

「お前が……! しっかり見張らないからこうなった!

 見ろ、悟が目を離した隙にこんなことになった!」

 

「痛ててて! トリコ、覚えてろよぉ!」

 

 五条は五条で監督不行き届けとして、夜蛾から制裁を喰らっていた。

 

 ともかく、釘崎が納得できるはずがない。

 顔を真っ赤にして、釘崎はいまだに怒りが収まるところを知らなかった。

 

「まあまあ、釘崎が怒るのも分かるが、今はひとまず我慢しようや。

 一応、トリコが生きてたことを隠してたのは悟主導だしな」

 

 しかし、今はチームミーティング。

 その貴重な時間を潰すわけにもいかない。

 東京校の2年生であるパンダが、釘崎をなだめた。

 トリコはパンダを一瞥すると目の色を変えた。

 

「ウッヒョおおお! 般若パンダじゃん! うまそぉおおお!」

 

「ヒィッ!?」

 

「は?」

 

「おかか?」

 

 突如、よだれを垂らしたトリコの発言に空気が凍った。

 パンダ以外の2年生、呪具使いの禪院真希と呪言師・狗巻棘も予想を超えたトリコの反応に呆然としている。

 全員が『本気かこいつ!?』と戸惑い、パンダは当然怯えた。

 トリコはそんな空気も応えていないようで、ケロリとした顔で言った。

 

「ははは! 冗談だよ! いくら俺でも先輩を喰うほど見境がないわけじゃない。

 それより、チキチキ呪霊討伐猛レース(チキチキグルメレース)の作戦はどうする?

 俺と順平が加わったせいで、プランがめちゃくちゃだと思うが」

 

「話の腰を折ってるのはテメェだろうが!」

 

「いたぁ!」

 

 釘崎が金槌を本気でトリコに叩きつけた。

 どうやら、ツッコミという状況限定で、釘崎はトリコにダメージを与えられるようになっている模様。

 それは後を引かないが確かな痛みはあるようで、トリコも痛そうに呻いた。

 初対面の2年生は『やべぇ……こいつ本物のイカれだ』とドン引きするも、時間は限られている。

 気を取り直して、作戦会議を再開した。

 今度は絶対に話の腰は折らせないとばかりに、釘崎はいつでもツッコミを入れられる体勢だ。

 

「ひとまず、新規で入ってきた2人の能力を知らんことには作戦も練り直せない。

 順平は何ができるんだ?」

 

「……ク、クラゲの式神を操れます。こんなやつです」

 

「ほぉ、式神使いか……結構、でかいな」

 

 ようやく話す機会を得た順平は澱月を披露。

 触手を打ち込むことによる遠距離攻撃や毒の生成、そして、術者の身を守ることができることなどを説明した。

 

「お、じゃあ次は俺の番か」

 

 そうして、トリコは説明を始めた。

 その戦闘能力はさることながら、探査能力は驚きを持って受けとめられた。

 曰く、猟犬以上の嗅覚。

 さらに獲物を見つけることは得意なので、2級呪霊を見つけるのは造作もないとのこと。

 流石に盛っているのではないかと2年生たちは疑うが、1年生は全員がトリコの嗅覚を知っている。

 特に、虎杖と順平は先の事件でその凄まじさをこれでもかと見せつけられたため、疑いはなかった。

 

「なら、基本的には作戦に変更はないな。トリコ、お前は2級呪霊を祓え。

 東堂は突っかかってくるだろうが無視しろ……いいな?」

 

「任せときな、呪霊(獲物)を追跡することにかけちゃあ、俺は五条先生にも負けんから。あー美味!」

 

 もとより、トリコの興味の比重は戦いよりも食によっている。

 呪具使い・真希の念押しに、トリコはやけにすんなりと頷いた。

 持ち出してきた呪物もとい呪霊(食材)を取り出してそれにむしゃぶりつく。

 

「いやー、それにしても、先輩らも面白いメンバーだよな」

 

「お! 俺らの凄さわかっちゃう?」

 

「ああ、新種の呪骸(チェインアニマル)に、声で銀河を支配していた術式(グルメ細胞の悪魔)をその身に宿した呪言師(美食屋)

 呪力(食欲のエネルギー)を代償に(グルメ細胞の悪魔)から腕力を授かった呪具使い(グルメ騎士)

 どいつもこいつも曲者揃いだ」

 

「……それって本当に俺らのことで合ってる? 別人じゃなくて?」

 

「……しゃけ? おかか?」

 

「いや、曲者のお前に曲者って言われたくねーんだよ。て言うかそれよりもトリコぉ? それが噂の食べられる呪霊ってやつか?」

 

「ああ、呪霊(グルメ食材)の一種、スーパーマンゴーだ」

 

「やけに、旨そうな見た目と匂いだな……」

 

 意味不明な単語の羅列を叩き込まれてパンダと狗巻は混乱。

 一方、真希の興味はトリコの喰うものへと移っている。

 マンゴーのようなそれ、曰く、スーパーマンゴーは芳醇な香りと輝きを放つ。

 高級フルーツとして通用しそうな、呪霊であることが嘘としか思えない果実に一同は思わず生唾を飲んだ。

 

「おう、トリコ。俺にも一つくれよ」

 

「僕も少し貰おっかな」

 

「小僧! 俺を忘れるな!」

 

「はいはい」

 

 虎杖と順平はマンゴーを受け取り、ついでに、宿儺は虎杖の身体から口を生やして、そのままかぶりついた。

 その幸せそうな顔ときたら、まるで天にも昇るかのようだ。

 しかし、いくら美味そうでも呪霊は呪霊。

 腹が減っていたら釣られていたかもしれないが、今はあいにくそこまで空きっ腹でもない。

 それにこの展開は異常である。

 

 何故、こうも呪霊が美味そうになっているのか?

 いくら呪霊が美味そうで、喰うことに興味があったとしても、宿儺(呪いの王)はノリが良すぎないか?

 そもそも、編入して早々にこの展開に順応している順平って何者?

 

 特に2年生は初対面である。

 受けた衝撃は大きく、唖然とした。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 一方、京都校。

 彼らもまた東京校から充てがわれた部屋にてミーティングを行なっていたのであるが、澱んだ空気が滞留しているかように息苦しい雰囲気であった。

 邪な、あるいは、薄暗い謀でも企んでいる空気感である。

 きっかけは開始早々、楽巌寺学長の一言だった。

 

「宿儺の器……虎杖悠仁を殺せ」

 

 宿儺の器暗殺指令。

 宿儺が身体の主導権を握れば、大惨事は避けられない。

 楽巌寺は、いや、呪術界の上層部は等しく、虎杖を危険視していた。

 そして──。

 

「ターゲットはもう1人おる。トリコじゃ」

 

 京都校の生徒たちに動揺が走った。

 虎杖を殺せという指令はまだわかる。

 彼には宿儺の器という背景がある。

 感覚が非術師に近い三輪も、殺しは嫌で嫌で仕方がないが、その点は説明するまでもなく理解していた。

 しかし、トリコにはそのようなものは一切ない。

 呪霊を喰うというが、それは術式によるもの。

 忌避感が拭えなくとも、それだけでは殺す理由たりえない。

 そんな生徒たちの内心を察してか、楽巌寺は続けた。

 

「確かにトリコが呪霊を喰うのは術式によるもの。それ自体は問題のない行為だ。

 しかし、奴は一度死に生き返っておる、それもおそらく宿儺の手によって」

 

「宿儺となんらかの契約を交わしたかもしれない……と?」

 

「それは懸念の1つでもある……じゃが、問題はそんなことではない。

 加茂よ、敵対術師にとどめを刺すときに気をつけることはなんだ?」

 

「死後、呪いに転じるのを防ぐため、呪力でとどめを刺します」

 

「その通りじゃ……では、もう1つ質問する。

 呪物を喰い、それを取り込めずに死亡した場合、その死因はなんだ?」

 

「それは……呪物による呪いで死んだということになるので、呪力でとどめを刺されたのと同義になるかと……あ」

 

 和装の糸目男子、加茂。

 彼は楽巌寺と問答している間に気がついた。

 呪いでとどめを刺されれば、生き返ることはあり得ない。

 ならば、呪術的にはどう考えても(・・・・・・・・・・・)、トリコが生きてここにいることはありえないことなのだ。

 なぜなら、トリコの死因は──。

 

「気付いたようだな加茂よ。

 一応、聞いていないものもおるかもしれんから話しておくが、トリコの死因は宿儺の指を喰ったこと。

 それが、生きて、ここにいることの異常性はもはや語る必要はなかろう」

 

 そこでようやく一同は楽巌寺の言わんとすることを理解した。

 呪術で殺されたものは蘇生できない、という呪術の法則。

 それを何の背景もない、一介の狂人が覆したのだ。

 呪術に長く携わり熟知している楽巌寺が、そして、上層部が危機感を抱かないわけがない。

 強さはともかくとして、呪いの王である宿儺や、現代最強の五条さえも、異常性という一点のみにおいてはトリコには及ばない。

 それは逆に言えば、彼ら以上の脅威と見做されるには十分すぎる下地でもあった。

 

「どうします? 虎杖くんのほうはまだしもトリコさんは絶対に強いですよね。

 正直、私の刀で傷をひとつでもつけられる気がしないんですが……」

 

 指令を受けたからにはやるしかない。

 だが、三輪は弱気な台詞を吐いた。

 トリコは身長2メートル超えの大男だ。

 筋肉も発達している。

 そんな大男が呪力を纏って殴ってきたらそれだけでひとたまりもなさそうだ。

 それに──。

 

「東堂先輩の力を借りるのは無理そうというか、それだけじゃすまなさそうですし。

 学長もどっか行っちゃったし」

 

 京都校にもトリコと対抗できるかもしれない男がいた。

 ドレッドヘアー丁髷のようにまとめた筋骨隆々の男。

 東堂である。

 しかし、ミーティングの途中だというのに、東堂はこの部屋にはいない。

 学長の指令を聞いた直後に、襖を蹴破り出ていったのだ。

 問題はそのときの東堂の様子だ。

 そのときの台詞がこれである。

 

「一体、兄さんがどれだけ人間界の食の発展に貢献してきたと思っている?

 一体、どれほど大勢の人間が彼の施しによって救われたと思っている?

 それをグルメ細胞の悪魔が暴走するかも知れないからってだけで切り捨てるのか!?

 高専(IGO)の掲げる理想、崇高な理念は一体どこへ行ってしまったというんだ!?

 やるなら貴様らだけで勝手にやれ!?

 俺は絶対に手を貸さんからな!!」

 

 異常だった。

 完全にトリコの側に立ってものを言っている。

 これでは協力を得られないどころの話ではない。

 

「……確かにあの様子じゃ最悪、東堂が俺たちの敵に回る可能性もあるナ」

 

 メカ丸の口から出た最悪の想像に一同が顔を歪める。

 ただでさえ、標的は未知数なのに、本来味方であるはずの東堂が敵に回ってしまえば指令を果たすなどできるはずもない。

 暗礁に乗り上げた計画。

 蔓延し始めた脱力感を断ち切るように加茂が言った。

 

「高専に所属する呪術師の中に、トリコのような狂人がいること自体が由々しき事態。

 加茂家嫡流として呪術師の品格が貶められてしまうことは許せない。

 一刻も早く始末しなければ。

 全員でトリコに襲撃をかける……状況を見て判断するしかないが、虎杖はそのあとだ」

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 そして、チキチキ呪霊討伐猛レースが始まる直前。

 準備を整えていざ戦場に赴かんとする東京校の生徒たち。

 その中で一際目立つものがいた。

 

「今日はいったいどんな味に出会えるんだろうなー。楽しみだぜ」

 

 そいつの名はトリコ。

 呪術師と美食屋を同一視し、あらゆる呪霊を食の対象とみなす男である。

 そんな彼にとっては、この交流会はビュッフェの形態を変えたものにしか過ぎないのであった。

 

「相変わらずね……このイカれっぷりは」

 

 他のものが苦笑するか、ドン引きするかしている。

 そんな中、釘崎だけが舌打ちした。

 不機嫌である。

 

「釘崎、どうした? これからチキチキ呪霊討伐猛レース(チキチキグルメレース)だってのに浮かない顔してよぉ」

 

 トリコは純朴な表情で疑問を口にしてきた。

 釘崎はそんなトリコを見ていると、なんだか怒っていることさえも馬鹿らしくなってきた。

 しかし、それでも言い返さないことには気が済まない。

 力の抜けた声で、釘崎は答えたのであった。

 

「……うっさいわね。普通、交流会でそんなウキウキしないっての」

 

「まあ、理由はなんとなく想像つくぜ」

 

「は?」

 

「お前、呪霊(グルメ食材)を毛嫌いしてるもんな。

 流石に気づいてきたぜ」

 

「そう……もっと早く察して欲しかったわ」

 

 あまりにも今さらすぎるトリコの言葉である。

 それを初対面のときに気づいてくれればどれだけ良かったことか。

 トリコはさらに続けた。

 

呪霊(グルメ食材)は歴史の比較的に浅い部類だ。

 新しいものを受け入れられないってのは、まあ、理解できるぜ」

 

「ひょっとして、遺伝子組み換え食品が嫌とか、食品衛生がどうのこうのって次元の話してる?」

 

 前言撤回。

 トリコはやはりトリコだ。

 呪霊が食の選択肢の一つとして世間一般に浸透していると確信していなければ、到底出てこない台詞である。

 

「だからさ、今日は楽しみにしていてくれよ。

 まだ、誰も見たこと無いようなうまい呪霊(もん)を猟るからさ……一緒に食べようぜ?」

 

「はぁ……」

 

 この上なく不快な台詞だった。

 イカれている自覚すらないくせに、ぶっちぎりでイカれている。

 この男には何を言っても無駄だと思った。

 

「あー、はいはい。どうせ、無駄だろうけど」

 

「ははは、そう言っていられるのも今のうちさ。思わずよだれを垂らすほどの呪霊(もん)を持ってきてやるからな」

 

 もう、時間が迫っている。

 そろそろ、出発しなければならないのであった。

 戦いの舞台へと通じる道の門に一同は歩を進める。

 気合を入れるために、釘崎が口火を切った。

 

「真依さんには悪いけど圧勝よ! 真希さんのためにも!」

 

「そういうのやめろ……っていうか、真依のどこにそんな気に入る要素があった?」

 

「明太子!」

 

「勝とう……真希のためにも!」

 

 家の都合で過小評価されている真希。

 そんな真希のために勝つぞ、と釘崎、狗巻、パンダが意気込み、そのたびに真希がいやそうな顔をする。

 順平はそれを微笑ましそうに眺めている。

 良い雰囲気だ。

 今なら、誰が相手でも負ける気がしなかった。

 

「そんじゃあ、まあ、勝つぞ──」

 

「野郎どもッ! 腹いっぱい食おうぜッ!」

 

「だから! バイキングじゃねえのよ!」

 

「……お前、さっきまであんだけ食ってたろ……まだ足りないとかイカれすぎんだろ」

 

「本当に今年はとんでもないやつが入ってきたな。憂太以来か?」

 

「それ去年だろ。毎年、とんでもねぇやつ入ってくるじゃん」

 

「しゃけ、おかか」

 

「あはは……」

 

「……」

 

 釘崎がツッコミ、2年勢が真顔でドン引き、順平がそれらを眺めて控えめに笑った。

 その裏で、せっかくの音頭をイカれた台詞で遮られた虎杖はしょんぼりとした。

 伏黒はそれらの流れをドライに受け流した。



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グルメレース終了! メインステージ開始!

 京都姉妹校交流会。

 その第1種目。

 チキチキ呪霊討伐猛レース(チキチキグルメレース)はついに始まり、そして──。

 

「ひゃあ、美味い!」

 

 終わった!

 競技を終わらせたのはこの男。

 呪霊を食材とみなし、他人に振る舞うことも可能な術式を持っている。

 トリコを名乗っているくせにトリコとは無関係の転生者。

 略してトリコである。

 

 トリコは競技が終わった後のフィールドで、気持ちよく飯を食っていたのだった!

 さらに、その周囲にはトリコを挟むようにして、東京校と京都校のメンバーがいる。

 欠けているメンバーは虎杖と東堂だけというほぼフルメンバーである。

 

 何故、トリコは彼らの中央で悠々と飯を食っているのか?

 そもそも、どうして、トリコは競技が終わった後のフィールドでわざわざ飯を食っているのか?

 それを説明するためには、少し時間をさかのぼる必要があった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 そもそもの発端となったのは、京都校の楽巌寺学長の放った指令であった。

 宿儺の器である虎杖悠仁。

 そして、呪術の枠さえも超え始めた狂人トリコ。

 交流会に乗じてこの2人を殺せとのことだった。

 で、京都校はどうしたのかといえば──。

 

苅祓(かりばらい)ッ!」

 

付喪操術(つくもそうじゅつ)……鎌異断(かまいたち)!」

 

「死になさい! 異常者!」

 

 初っ端からトリコに集中砲火を仕掛けることにしたのだ。

 いくら、トリコが格上だろうと、初っ端から全開で技をぶつければ殺せる。

 そう踏んだのだった。

 

 加茂からは血液で作り出した切れ味の鋭い輪刃が。

 西宮からはまたがる箒を器用に扱って生み出された鎌鼬が。

 真依からは拳銃から放たれた銃弾が。

 トリコへと殺到した。

 

三重大祓砲(アルティメットキャノン)!」

 

 トドメとばかりにメカ丸から放たれた眩い光が帯状に拡がり、軌道上に存在する木々を大地ごと抉り取りながら薙ぎ倒しながら、トリコを呑み込んだ。

 そして、爆発。

 渦を巻きながら勢いよく巻き上がる炎は、着弾地点を大きく吹き飛ばした。

 その威力はまさに圧巻の一言で。

 直撃すれば、生存は不可能であるかのような一撃。

 遠距離へと攻撃手段がなく、集団から1人ポツンと離れて成り行きを見ていた三輪は、その光景に冷や汗をかく。

 いくら相手が格上とはいえなりふり構わず殺しに行く一同を見て、えげつねぇな、と女子らしからぬ感想を呟く。

 

「意外にあっけなかったナ」

 

「そうだな。どうやら、東堂の買い被りだったようだ」

 

 大技の余韻に浸るように、メカ丸は勢いよく放熱した。

 眼前に広がるのは自然災害もかくやという破壊の跡。

 大地が帯状にえぐられている光景を目にすれば、もはや、トリコが生きているとは思えない。

 過去に百鬼夜行で遭遇した特級ですら屠れるかもしれない威力だった。

 加茂は一仕事終えたような風情でメカ丸に応じる。

 

「最優先で狙うべき標的を真っ先に暗殺できたのは幸先がいい」

 

 京都校のリーダー格たる加茂。

 彼は暗殺指令のターゲットの2人、トリコと虎杖を天秤にかけて、トリコを最優先で仕留めに来たのである。

 トリコが呪術師として活動すればするほど、呪術師の品格が損なわれる。

 ぐうの音も出ない正論で、虎杖よりも優先してトリコを狙ったのであった。

 

「フライングナイフッ!」

 

 しかし、トリコは死んではいなかった。

 突如飛んできた呪力の刃は、京都校の弛緩した空気をいとも容易く切り裂いた。

 誰にも当たらず大地に直撃したそれは、およそ3メートルはあるかに見える、深い亀裂を地面に刻み込む。

 

「今はまだ、薄皮一枚、切り刻む威力しかない……だが、その内、お前らの命にも届くようになるぜ!」

 

「もう十分命まで届いているんですけど!?」

 

 土煙が開けて露わになった爆心地にはトリコが立っていた。

 全くの無傷である。

 そして、先ほどの空を飛ぶ呪力の刃。

 油断していたとはいえ誰も反応することのできなかったその速度と、何より、大地を割る威力に一同は戦慄を覚えた。

 見せつけられた戦闘能力の一端は、何気ない一挙動が死に直結するかのような緊張感を与えた。

 

 勝てるはずがない。

 暗殺は不可能であることを察した一同は撤退を選択。

 ひとまず、ゲームに専念することにしたのであったが、そうは問屋が卸さない。

 東京勢が立ち塞がったのである。

 トリコを攻める際に大技を連発したのが仇となった。

 特に三重大祓砲(アルティメットキャノン)が生み出した音と振動は会場に大きく響き渡り、京都校の狙いを東京校に知られる原因になっていたのだった。

 仲間が暗殺されるのを防ぐためにやってきたのか。

 そう身構える京都勢に、伏黒たちは言った。

 

「あんたら……トリコに殺されるつもりですか?」

 

「誰も殺されていないわよね?」

 

「普通逆じゃないッ!?」

 

 どうやら、トリコが殺されることではなく、トリコが殺して(・・・)しまうことを心配していた模様。

 普通逆だろ、と京都勢はズッコケそうになるも、トリコの戦闘能力を思い返せば納得するほかなかった。

 事実、東京校はトリコが暴れ回った場合に備えて、虎杖を除いた全員がこの場に集結していた。

 

 東京と京都の間で一触即発の空気が流れる。

 相手に対しての嫌悪感などは別にない。

 

「ちょうど良かったわ。あんたは私が仕留めたいと思っていたところなのよ。真希!」

 

「遊んでくださいお姉ちゃん、だろ? 真依!」

 

「いや、真希さん、姉妹なんですから仲良くしましょうよ」

 

「出たわね、茶髪!」

 

 いや、一部、真希と真依という組み合わせで因縁めいたものが生じ、釘崎がそれを宥めてはいる。

 しかし、総じて、特定の誰かへの嫌悪感は、なくはないが展開を変えるほどではない。

 特に東京側はトリコのことなどこれっぽっちも心配してはいないのだから。

 しかし、ゲームである以上、敵プレイヤーと遭遇して何もしませんなどということもありえない。

 何人かを妨害として残しておいて、呪霊狩りへと行くのか?

 ここで全力で潰しておいて、後で悠々と呪霊狩りを行うのか?

 どちらにせよ戦闘は必須。

 緊張感がチームの間にはしった。

 そして、いくらか時間が経った、そのとき。

 

「ピンポンパンポ〜〜ン。呪霊討伐猛レース、只今、2級呪霊の討伐……いや、捕獲を確認ッ!

 やったのは東京校のトリコということで……見事! 東京校の勝利!」

 

 やけに浮ついた五条によってアナウンスされた、東京校の勝利。

 その内容に生徒たちは耳を疑った。

 あのトリコである。

 誰からもイカれ扱いされ、風評被害をばら撒く呪術師の面汚しとして嫌悪される向きもある、あのトリコである。

 そんな著しく呪術師として不適格な男が、呪術師としての評価に繋がる交流会で成果を上げたことになる。

 信じられなくても、というよりも、信じたくなくても仕方はなかった。

 

「お! 大体、揃ってるな! 今のうちに腹ごしらえしとこうぜ!」

 

「!?」

 

 脱力した状態で向かい合う一同の間に、トリコが悠々と割り込んできた。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 トリコは風呂敷を広げると、その上に今日獲ったであろう獲物を並べ始めた。

 それらは蜘蛛のような呪霊であったが、トリコの術式が働いているのだろうか。

 その表面には光沢があった。

 滑らかで、見た目だけなら蜘蛛を模った飴細工のようだ。

 

「く〜〜。七色蜘蛛(レインボースパイダー)……七色コンプリートすると壮観だな〜〜」

 

 それぞれ異なる色の蜘蛛。

 七色揃ったそれらを前にトリコは舌なめずりした。

 早速、一個つかんで、それを両手で割る。

 すると、中からはわたあめがふわりと広がった。

 トリコはそれを手で掬うように取ると、口に運んだ。

 

「このさっぱりとした、味わいたまんねぇ〜〜。

 口の中で消えるのと同時に、余計な余韻を残さない甘味は、まるで雲のようにさっぱりしてるぜ!」

 

 突然の食レポである。

 トリコはうっとりと食を堪能している。

 陽光に照らされ、地べたで食を楽しむその姿は、まるで田舎でスローライフを満喫するドロップアウトした中年。

 一人青空食堂だ。

 

「……こんな奴のおかげで勝ったとか……嘘でしょ……?」

 

「……本当にそうだな」

 

 釘崎が不満をこぼし伏黒は同意した。

 京都陣営とにらみ合いを行い、ついには戦いが始まると言うところで、競技終了である。

 肩透かしもいいところだった。

 ゲームに専念する暇もなく、活躍は全てあの狂人に掻っ攫われた。

 トリコがフィールドで飯を食うという異様な光景に呆然としていた他のメンバーも、釘崎のこの言葉で我に帰ったようだ。

 口々に不満を口にし始めた。

 

「トリコの食ってるものから想像するに、他の呪霊も全部こいつが仕留めたってことか?」

 

「ああ、成績だけ見るなら、文句なしのMVP……なんだがなぁ……」

 

「……納豆」

 

 まず、口火を切ったのは真希。

 パンダが同意するも、その口ぶりは歯切れの良いものではなかった。

 狗巻も肯定も、否定もしかねるような抑揚で、おにぎりの具を呟く他ないようだった。

 それに京都校の真依が続いた。

 

「そっちはまだいいでしょ。勝ったんだから……。私たちなんて負けたのよ、よりにもよってそっちの狂人にね!」

 

「そもそも、なぜ、こうまで手早く呪霊を見つけることができたんだ……?」

 

「ああ、憲紀たちは知らないだろうが、こいつ嗅覚が異常発達してるんだよ。

 犬並みらしいぜ」

 

「なるほど……呪霊の匂いを下品に嗅ぎ回る犬のような男にはうってつけの能力だな」

 

「おいおい、悔しいのか? そんなに煽んなよ?」

 

「悔しいか……だと。それはそちらもあまり変わらないんじゃないのか?」

 

「……そりゃまあそうだが」

 

 加茂と真希が煽り合いになりかけるが、すぐに鎮火した。

 トリコがすぐそばで飯を食っているところで喧嘩をする気にもなれない。

 結局のところ、勝者も敗者も、今回に限れば、狂人に活躍を奪われた側であった。

 

「はあ、アホらし」

 

「釘崎、どこへ行くんだ?」

 

「どこって校舎に戻るのよ。

 もう、レースも終わってやることも無いんでしょ。

 じゃあ、ここにいる意味なんて無いわよ……というかみんないつまでこいつが飯食ってるところ見てるのよ?」

 

 釘崎がそう嘆息する。

 現に、もはやここですることなど何もなく、ここにいる意味などない。

 釘崎がくるりと背を向けてこの場を去ろうとする。

 

「まだ、終わってないさ」

 

 だが、トリコは平然と言い放った。

 その台詞に全員が疑問符を抱いた。

 すでに競技は終わった。

 東京校の勝利が校内放送で告げられたばかりである。

 それなのに、まだ終わってない。

 トリコはそう言うのである。

 狂人の戯言と切り捨てればそれまでの話であるが、それにしてはトリコ醸し出す雰囲気は、常とはどこか違う。

 あまりにも意味深なトリコの様子に、真希と加茂が問うた。

 

「……あん? どういうことだ?」

 

「すでに呪霊は貴様が全て仕留めている。まだ、何かすることが残っているとでも?」

 

「残っているさ、メインディッシュがな」

 

 返ってくるのはまたしても意味深な答え。

 しかし、先ほどよりかは具体的で、妙に危機感を煽ってくる。

 釘崎は懐疑的に呟いた。

 

「意味が分からないわ。あんたもそう思わない、伏黒?」

 

「ああ……だが、メインディッシュって言い方が少し気になる」

 

「もし、トリコの言ってることに意味があるのだとしたら、この競技が前座になるほどの異変が起こってるってことだからな」

 

「ちょっと、伏黒もパンダ先輩もあんな奴の言うこと真面目に考えるんですか!?」

 

 そんな釘崎に対して、伏黒とパンダは真面目に考えを巡らせている。

 それがショックだったようだ。

 釘崎は噛み付くように、伏黒とパンダに絡んだ。

 

「可能性の話だよ。ちなみに順平はこん中じゃトリコに一番詳しいよな? どう思う?」

 

 パンダはこれでも2年生。

 貫禄のある様子で、順平にパスを回す。

 実際、この中で一番トリコのことを知っているのは順平だ。

 

「……トリコさんは嗅覚が鋭いから何かしらの異変を察知しているのかもしれないけど」

 

 しかし、そんな順平でもトリコのことは読めないようで、あいまいに答えるのみだった。

 トリコに付き合う理由もない。

 誰からでもなく、この場から離れようという雰囲気になりかけている、その最中のこと。

 何かが起こる前兆を目で捉えたかのように、トリコは空を見上げた。

 

「お前らも、今のうちに腹ごしらえはしとけよ。

 そろそろ、始まるぜ……本番が」

 

 トリコの視線の先には、それ(・・)が起こっていた。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 変化は突然だった。

 上空に黄土色のドロドロしたものが発生すると、透明なドームに延々と注がれて垂れていく塗料のように。

 それ(・・)は空を覆っていく。

 全員がその現象の名を知っていた。

 何故ならそれは、呪術に関わるものならば、何度も目にしてきたものだったからだ。

 

 その名は帳。

 外界と内界を区切る結界のこと。

 呪術師が、任務を秘匿するさいに用いられるものでもあった。

 

 それが今下りようとしている。

 どこの誰が、なんの目的で、下ろそうとしているのかは不明。

 分かることは、なんらかの企みが水面下で動いていることのみ。

 

 この異常事態を高専は直ちに把握。

 夜蛾学長の指示により、五条、歌姫、楽巌寺学長が現場へと急行するも。

 五条が伸ばした手が弾かれて、反対に、歌姫の手が帳の中に抵抗もなく入っていく。

 歌姫が戸惑った。

 

「……なんであんたが弾かれて私が入れるのよ?」

 

 推察された帳の効果は、五条悟の拒絶。

 五条以外の全ての人間を出入り自由にする代わりに、五条の侵入は絶対に許さない、というものである。

 

 結界を特定の個人にのみ作用させるのは、かなり難しい。

 今回のことを仕掛けてきた呪詛師、あるいは呪霊は相当の手だれであることが予想された。

 一人でも生徒が死ねば、こちらの負け。

 歌姫と楽巌寺は気を引き締めて、帷の中に入っていった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

「来るぜ!」

 

 トリコは唐突に叫んだ。

 他のメンバーもその叫びに呼応して身構えた。

 今までに感じたことがないくらいの、濃い呪いの気配。

 その気配が凄まじい速さでこちらに接近してくるのが、彼らにも分かった。

 

「ひゃあ!」

 

 天高くから降ってきたのは、頭部が火山のようになっている1つ目の呪霊。

 そいつは着地と同時に、半径5メートルに渡って大地を粉砕した。

 大地が粉ごなになってできた土の塊が、その呪霊の周囲に散乱し、積もっている。

 その所作だけで分かる、強さ。

 そいつは大きな目でギョロリと見回してきた。

 

「クックック……。揃っておるな、小童どもが」

 

 誰しもが動けなかった。

 その呪霊、漏瑚が醸し出す呪力。

 その迫力は、着地の余波だけで身震いしてしまうほど。

 

 生徒たちは考える。

 一体どれほどの戦力がいればこの化け物を祓えるのか、と。

 

 準一級以下じゃ絶対に無理だ。

 瞬殺される。

 だとするなら、一級術師は?

 一級は特級を除けば、最高位の称号。

 目の前の呪霊は特級だろうが、一級の中には特級を祓える術師もいないことはない。

 とするのならば、一級がここにいればなら祓うことは可能かもしれない。

 しかし、目の前の呪霊は明らかに化け物。

 特級の発生自体稀であるが、仮に発生したとしてここまでじゃない。

 一級が束にかかったところで勝てないかもしれなかった。

 

 そこで生徒たちは気がついた。

 あれ?

 これ、自分たちでは太刀打ちできないのでは、と。 

 自分たちはここで死ぬのでは、と。

 構えはとっている。

 かろうじて。

 それは金縛りにあった姿勢が、たまたま、構えの形をしていただけだったという以上の意味などなく。

 全員が動けなかった。

 死の恐怖が全員を支配していた。

 

「ウッヒョ〜〜。まさか高専(IGO)がこんな上玉用意していたとはなぁ〜〜」

 

「おいおい、言葉の意味がよく分からんが、それは違うぞ。儂はな、自ら出向いたのだ。貴様にあのときの借りを返すためにな!」

 

 しかし、やはりと言うべきか、トリコに怯えは一切ない。

 目をギンギンに見開いて、喜びを見せている。

 無邪気で、まるで、予想外のサプライズに喜ぶ子供である。

 どうやらトリコは、漏瑚をここに手配したのは高専であり、かつ漏瑚の登場は交流会の範疇である、と思い込んでいる模様。

 ありえない想像であった。

 それを漏瑚が否定するも、そんな、言葉一つでトリコの思い込みを覆せるはずもない。

 トリコは勝手に想像の翼を広げ続けた。

 

「しかし、高専(IGO)の連中め……漏瑚(コンソメマグマ)の新種のクローンを作っていたとはな。

 さすが手が早いというか……見境がないというか……」

 

「……儂がクローンだと……?」

 

「くぅ〜〜。しかし、この匂い、これは火山で作られる濃厚なシロップ……漏瑚(マグマシロップ)じゃないか!

 今日はスイーツ系だなと思ってたからな、まさか漏瑚(コンソメマグマ)かと思わせておいてからの、漏瑚(マグマシロップ)とは……!?

 高専(IGO)の徹底した仕事ぶりには好感が持てるなぁ」

 

「……儂は……アイジー……オー?……とやらにつくられた複製で……貴様らの催しもののメインディッシュだと……。

 そう言っておるのか?」

 

「うん」

 

「……なるほど、なるほど……食材扱いされることよりも屈辱的なことはないと思っていたが、今度はそうくるか……。

 まさか、儂を安価に複製された食材で景品の1つ呼ばわりするとは……ここまで独創的な罵倒を受けたのは初めてだ……」

 

「? 俺は褒めてるんだがな? 交流会(フェスティバル)のメインを張れる呪霊(食材)は多くないぞ。

 誇れ、お前は美味い!」

 

「そうだった、貴様はそういうやつだった。

 ……ククク……クックック……アハハハハハハッ!」

 

 漏瑚は唐突に笑った。

 その1つ目を真っ赤に血走らせて、異常に口角を持ち上げ、歯軋りが聞こえんばかりに歯を噛み締める様からは、怒っていることがまざまざと感じられた。

 実際、漏瑚周辺の気温が数度上昇している。

 立ち上る熱は、漏瑚の怒りを表しているかのようである。

 

「んなわけあるかぁッ!!! このたわけがぁッ!!!」

 

 露わになった怒りはやはり大きい。

 ただでさえ強い威圧感が、さらに暴力的で刺々しいものとなっていた。

 そんな暴風雨のような威圧にさらされれば、死への恐怖を通り越して、諦めの境地にまで達するものも出てきてもおかしくはなかった。

 しかし、それは先ほどまでの話だった。

 

 トリコと漏瑚の話を聞いていた一同もまた混乱の極みにあった。

 漏瑚は高専(IGO)に複製されたクローンであり……?

 交流会のメインとして用意された景品だった……?

 そんな馬鹿なことがあるわけない。

 しかし、それにしてはトリコの語り口は迫真そのものであり、作り話をしている風ではない。

 けれども、そんな話が本当のはずなく、その証拠に漏瑚はそれを否定する様子を見せており、本気で怒っているのだろうが、内容のバカっぽさはもはや漫才で……。

 漏瑚がトリコの茶番に付き合っている形になっているせいで、恐怖もクソもないのである。

 気づけば苦虫を潰したようにも、乾いた笑みを受かべているようにも見えるなんとも言えない表情で、全員がトリコを見た。

 

 トリコはいつもそうだった。

 どんな任務でもはしゃぎ、どんな任務でも暴挙を繰り返し、どんな呪霊が相手でも舌鼓を打った。

 だから、トリコと一緒にいると全てのことが馬鹿らしくなってくるのだ。

 呪術師はどんなに軽そうな任務であっても、その直前には言い表しようがない不安を感じる。

 人間の天敵となりうる存在が、呪霊だからだ。

 そんな呪霊をトリコは喰い、なんなら、笑顔満点でこちらにも振る舞ってくるのである。

 その光景を目の当たりにすれば、もはや、全てが茶番にしか思えなくなってくる。

 今もそうだ。

 あの恐ろしい漏瑚を追い払うでも、祓うでもなく、仕留めて喰うことにトリコは主眼を置いている。

 決して呪霊を憎んではいない。

 むしろ、感謝さえしているのである。

 そのあまりのぶっ飛び具合のせいで、さっきまであった死ぬかもしれないという怯えが消えて、トリコへの呆れと妙な安心感がこの場を支配している。

 きっと、それは凡百の呪術師ではできない芸当なのだろう。

 

「で、どうする、恵? 相手はとんでもない化け物だぜ?」

 

「俺たちじゃ流れ弾で死にます。相手の動きを止めて一気にたたみかけましょう」

 

「だろうな。つまり俺たちがやるべきは……」

 

「……ええ、そうなります。加茂さん、時間を一瞬だけ稼ぎます。だから──」

 

「みなまで言わずとも分かっている。みんなも準備を整えておけ」

 

「了解」

 

「いや、お前らは逃げな」

 

「!?」

 

 どうにか戦意を取り戻した一同であったが、トリコがそれを遮った。

 トリコは言った。

 

「まだ、他にどんな奴が潜んでいるかもわからないからな」

 

「……だったら、尚更、こいつを全力で祓うべきじゃないか?」

 

「ダメだ。俺とあいつが本気を出したら、この辺り一面火の海になるぞ。お前らは逃げろ。

 俺の心配は無用さ……こいつとは一度戦ったことはあるし、そんときよりも俺は強くなっている!

 それに──」

 

「それに?」

 

「他にもまだ見ぬ呪霊(食材)が出現してるかもしれないからなぁ!

 無理はしなくてもいいが、可能なら、お前らはそいつらを捕まえてくれッ!

 せめて、足止めだけでもッ!!!」

 

「あっきれた! この期におよんでまだ食うことしか考えていないなんて!」

 

 トリコが食欲(呪力)を解放。

 その迫力は体内に鬼を宿しているかのよう。

 一同はトリコの言葉に呆れつつも、逃げることを選択した。

 

「動くなッ!」

 

「な──ッ!? 体が……動かん!」

 

 狗巻の呪言。

 その強制力は、通常のものと比しても強力無比。

 それは何気ない一言で何が起こるか分からないために、狗巻が普段から語彙をおにぎりの具に絞るなど、日常生活にまで影響を与えるほど。

 実力差によっては反動があり自分に言葉が返ってくるなど、決して万能ではない。

 それは逆に言えば、強くない言葉なら最小限の反動で済むということを意味してもいる。

 効果もほんの数秒止める程度の軽微もの。

 祓うにしても、逃げるにしても、漏瑚を相手に数秒は物足りない。

 

 だが、この場にはトリコがいる。

 数秒という時間は拮抗した戦いにあっては、あまりにも大きすぎる隙。

 トリコは一瞬で懐に潜り込み、全身に呪力を漲らせた。

 

「15連ッ! 釘パンチッ!」

 

 さらに成長した釘パンチ。

 それが漏瑚に放たれる。

 漏瑚は5連で死にかけた。

 当然即死のはずだった。

 

「……ッ!? 舐めるなぁー!」

 

 しかし、漏瑚は特級。

 それも特級の中でも突出した力を持つ怪物である。

 一度喰らった技を、そう簡単に喰らうだろうか?

 そんなことはあり得ないのである。

 身体が動かせないなら、動かせないなりにできることはある。

 釘パンチが当たる直前。

 漏瑚は身体の表皮に火口のような噴射口を生成。

 そこから粘性のある炎を放ち、釘パンチを真正面から迎撃した。

 その結果──。

 

「あの状態から反撃してくるとはな」

 

「ぬかせ」

 

 トリコも無傷では済まない。

 予想外の反撃により、軽度の火傷を負った上に、漏瑚を仕留めそこねた。

 最初の一合は痛み分けという結果に終わり、緊迫感のあるにらみ合いが続くのであった。

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

「帳!? なんで!?」

 

「……呪詛師かあるいは呪霊か……どちらにせよ、碌でもないことが起こっているのは確かなようだな」

 

 一方の虎杖と東堂。

 彼らは2人だけで戦っていた。

 東堂は初っ端から東京校にカチコミをかけて、虎杖が東堂を1人で引き受けたのだった。

 

 で、戦いが始まったのであったが、妙な流れになった。

 『どんな女がタイプだ?』

 東堂のそんな質問に虎杖が『尻とタッパのでかい女の子かな?』と答えると様子は一変。

 東堂は一筋の涙を流し、虎杖のことを親友と言い始めたのだ。

 

 いや、それだけならまだしも──。

 

「ああ、今でも思い出せるよな。兄さんに施してもらった飯の味は……なぁ?」

 

「兄さんってトリコのことか? おい待て! 記憶を捏造するにしても精々俺とお前の間のことで済ませてくれよ!

 ただでさえ知らんこと言われてんのに、トリコのことまでおり混ぜてこられたら本格的にわけ分からなくなるぞ!

 なんで、初対面の俺とお前がトリコの飯を一緒に食ってることになってるんだよ!?」

 

 何故か、存在しない記憶にはトリコが存在する始末。

 おそらく、交流会で初顔合わせのときに、トリコから渡された呪霊(食材)を喰ったせいで、記憶の混濁は激しくなっているようだ。

 端的に言えばトリコのせいである。

 

 戦いは、東堂の親友特有の教えたがり気質も相まって、虎杖の未熟な呪力操作を東堂が指導するという妙な展開になっていた。

 虎杖は虎杖で、強くなりたいという思いもあるがゆえに、素直に東堂と向き合うもそれが災いした。

 東堂の親友発言を受け入れてしまったのだ。

 よくよく考えてみれば、虎杖は普段からトリコという馬鹿の世界チャンピオンと付き合えてしまっている。

 そのせいでさらに強化されていた細かいことを気にしない性質が、東堂の親友発言を容易に受け入れる要因だったのかもしれない。

 

 そんな妙な世界観を展開させている2人に言葉は届かない。

 ゲームが決着した際も、そんなこと知ったことかと言わんばかりに戦い続けていた。

 

 が、不審な帳が降りてきたとなれば流石に反応もする。

 ゲームの進行に関わらず、ただひたすらに戦っていた彼らも戦いを一旦中断した。

 

「……!? この呪いの気配は?」

 

「敵が現れたようだ……それもこの気配……特級か! それも相当上位の!?」

 

「この感じって……まさか、あの頭富士山!?」

 

 虎杖が取り乱した。

 しかし、そんな虎杖の肩を東堂が掴んだ。

 

「落ち着いてもっと気配をよく探れ。

 そいつの近くに一際でかい気配が1つあるだろう?」

 

「……トリコか!?」

 

「ああ、兄さんがいるんだ……心配はいらないさ」

 

 よくよく探れば、一際大きな存在感を放つものがあった。

 呪霊と思しき禍々しい呪力にも、決して引けを取らない、この存在感。

 トリコ以外にはあり得なかった。

 きっと、トリコは呪霊にも負けないように勇気を振り絞っているのだろう。

 それどころか──。

 

「ああ、トリコのやつ、派手に涎を垂らしてるんだろうなぁ」

 

「ふふ……。違いない。兄さんはこういう新鮮な(イキのいい)呪霊(食材)が大好物だからなぁ」

 

 全身に食欲を漲らせているに違いない。

 その様を見れば、誰しもが怯えていることが馬鹿らしくなるだろう。

 そう思った。

 だから、微塵も心配はなかった。

 そんなことよりもだ。

 

『あなたたち2人が私の相手ですか』

 

 人の心配をしている場合ではない。

 何故なら、漏瑚と同格と思われる存在が出てきたからだ。

 そいつは木の陰から出てきた。

 樹木が人型を模っているかのようで、その口から放たれる言語はわからないし、そもそも、聞き取れない。

 しかし、音で分からなくとも意味だけ(・・)は理解できるという謎の仕様だった。

 それは脳内に直接響くテレパシーのようであった。

 

「なるほどな……人の心配をしている場合じゃないってか」

 

「そういうことだ。虎杖、分かっているな?」

 

「ああ。決めればいいんだろ、黒閃を……ッ!」

 

 相手は文句なしの特級。

 呪力の総量だけでいえば絶対にこちらよりも強い相手だ。

 そんな相手に立ち向かう。

 その姿は、まごうことなき呪術師のものであり──。

 

「そういえば……虎杖、お前はそいつがどういう食材か見当ついてるか?」

 

 しかし、トリコによる汚染はあまりにもひどく。

 東堂から出た質問の謎っぷりは、今後の混沌を暗示していた。



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