三介殿のなさる事よ (神山甚六)
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佐久間不干斎は顧みる
寛永八年(一六三一)九月。重陽の節句を祝う諸大名の祝儀登城がひと段落した江戸城の本丸御殿には、肩の荷が降りたとでも言いたげな
御坊主衆は、城内における「よろずや」である。室町において芸能所式を取り仕切る
名前こそ坊主であるが、彼らはれっきとした士分であり、城内のあらゆる場所に出入りが許されている。役目に応じて「奥坊主」「表坊主」と呼び方は変わるが、共通するのは剃髪した僧体姿であり、帯刀をしていないということだ。
御坊主衆にとって、祝儀登城は月三回の登城日とあわせた「稼ぎ時」である。
大名家や大身旗本の当主は、領国や江戸屋敷においては、多くの家臣団に傅かれる立場だが、本丸御殿や西ノ丸御殿では立場が逆転する。将軍家に傅く立場として、己の判断で行動しなければならない。
だが、魑魅魍魎が跋扈する宮廷政治の舞台として、毎年のように行われる体制と人員の拡充に合わせて、増築と拡大を繰り返す御殿内部を迷わず行動することは、熟練の
そこで御坊主衆の出番となる。
彼らは城内に不案内な諸大名を滞りなく案内、補佐する。その見返りとして、各家から「心付け」を受け取ることで、実収入以上の生計を立てていた。
各家の江戸屋敷の老臣達は、一度でも関係を築いた御坊主衆に対する謝礼を欠かさない。
もしも彼らの不興をこうむることがあれば、主君は不案内な御殿の中で、たちまち立ち往生してしまう。
それを公儀から「不行跡」と判断されれば、御家の取り潰しもあり得るのだ。
かくして多大な恩恵に与る御坊主衆だが、彼らは自分達の職務が有する重要性と危険性についても理解している。
大坂の陣から十六年。実際に合戦を経験した世代は第一線を退きつつあるが、だからこそ必要以上に片意地を張り、無意味に武張る輩が増えた。将軍臨席の公式行事において、案内の順番や席次を間違えようものなら、案内役が腹を切るぐらいでは済まされない。
こうした重圧の下、大きな支障もなく重陽の祝儀登城を終わらせた御坊主衆達は、その胸をなでおろす暇もなく、次の月例登城の用意に取り掛かっていた。
御坊主衆の足袋が木目張りの廊下と畳を刷る音だけが響く中、若い将軍家の姿は、本丸御殿の
太陽は南中高くにあり、小堀遠州の手による入母屋造の天井部分に設けられた天窓からは、白亜の天守閣が見下ろすように影を差している。
日中でも仄かに薄暗い茶室を、将軍家はことのほか好んでいる。数年前に罹患した
小柄で小太りな将軍家の面立ちには、三河松平から受け継いだであろう癇癖の強さと、幾度となく生死にかかわる大病を繰り返したが故の神経質さが、奇妙に同居していた。
伺候するのは、柿色の小袖と袴を身に付けた法体姿の老人である。
次席の
老人の肩書きは、西ノ丸付の
御伽衆は、主君の無聊を各人の知識や体験談を語ることで慰めることを目的としている。将軍家に近侍することから、選ばれること自体が名誉の職である。
西ノ丸付きということは、大御所付であることを意味する。
やはり三河松平から続く家風なのか、好悪の情がはっきりとした大御所の御伽衆の顔ぶれは、目のくらむような権門出身の当主、武士であれば誰もが知る目覚ましい武功を挙げた古豪、あるいは高名な儒学者や学僧という、実に錚々たるものだ。
ところが、この老人は何れにも該当しない。
とりたてて名門でもなく、目立った武功もなく、優れた学徒というわけでもない。
少しばかりは茶道に対する知識と心得、そして意欲は有していたが、柳営茶道の祖である古織*1や、独自の武家茶道を開拓した織田有楽*2が、自らの茶席を通じて体現したような、己が臓腑をさらけ出したような業の深さや、相手の価値観を揺さぶり、あるいは抉るような鋭さは微塵もない。
半世紀以上も茶道に親しみながら、あくまで一介の数寄人として楽しむ。自らのあり方を、この天下に名高い「不肖の息子」は是としていた。
「
*
大和宇陀の所領を相続された織田出雲守様が施主となり、松山の徳源寺において三回忌が執り行われたそうです。私も招待をうけましたが、何分、私のこの足では大和まで赴くことは難しく、止む無く一族から名代を派遣しました。
……いや、失礼しました。悪戯に年を重ねると、これだから困ります。ついつい、話が本筋から外れてしまう。
……いや、上様。御戯れを。それは、いや、それは御容赦を。
確かに幾度となく大病を患われた上様からすれば、七十五までさしたる大きな病を経験したことのない私は、神仏の御加護があったといえるかもしれませんが、私にあやかりたいなどど。とんだ御戯れを。
年寄をからかうことは、御容赦くだされ。
ええ。何をおたずねでしたが。そうそう、徳源院様でしたな。
当時の織田内府様が、尾張清洲と北伊勢から、関東に移られた
この対応に激怒した
徳源院様は官位を剥奪され、下野烏山にわずかな堪忍領を与えられましたが、それすらも剥奪。最初は出羽、次いで伊予へと流罪。
大権現様のとりなしにより、天正二十年、いや文禄元年(一五九二)に、大和の小領主として、復活されたというわけです。
はい、確かに。大権現様は、驚くほどに義理堅いお方でした。
小牧合戦の単独講和により、織田内府様には煮え湯を飲まされたにもかかわらず、権現様は復帰に尽力されました。関ヶ原では再び敵対する関係となってしまいましたが、それでも権現様は
改易の理由は、転封の拒否だけではないでしょう。
豊太閤は独自に官位を得て関白に就任するまで、織田の連枝を担ぐことを、自らが率いる公儀の正統性としていました。豊太閤の公儀を形成したものたちは、一族や子飼いの家臣を除けば、その多くが織田右府様をともに仰いだ同輩ばかりでしたので。
最初は三法師様、次いで徳源院様。形式的とはいえ、織田右府様の御子を擁立し、自ら抱え込むことは重要だったのです。
つまり織田内府家を改易することで、豊太閤の公儀なるものは、織田右府様の亡霊から独り立ちすることが出来たのです。
仮定の話になりますが、天正十八年に織田内府家が移封を受け入れていたとしても、何らかの理由で所領を削減されていた可能性はあるでしょう。
豊臣の公儀が必要以上に強権的な姿勢を維持したのも、そうしなければ公儀の威信が保てなかったからです。
非常に畏れ多いことではありますが、そこが豊太閤と大権現様との最大の違いでしょうな。
……織田内府家には、三・駿・遠のほかに、信州と甲州も加増の対象ではなかったか?
確かに当時、そうした風説を聞いたことはありますが、実際にはどうだったのか、私にはわかりません。当時の書状や記録は、内府家の改易により多くが散財してしまいましたし。
当時の織田内府家の所領は、尾張一国と長島周辺の北伊勢のみ。それが東海五ヵ国となりますと、あまりにも所領が大きくなりすぎます。
当初は五ヵ国を与えられる予定だったのが、三ヶ国に削減されていたことに常真様が気分を害されたという風説を聞いたこともありますが、それも事実であったのかどうか。
何せ、噂の真偽を確かめる前に、有無を言わさずにお取り潰しになってしまいましたので。はい。
経緯は承知しておられる?これは失礼しました。では何を……
はあ、はあ。はい。成程。
ようやく理解いたしました。つまり、織田右府様の後継者として増長していたために断ったという、世間一般で語られる理由では納得出来ないと。
確か上様は、江戸城における茶会に徳源院様を……そうですか。直接、茶会の席で御下問になられたのに、言葉を左右にして、肝心のことははぐらかされたと。ははは、これは、これは……
いや、これは失礼いたしました。
いや、いかにも私が知る徳源院様らしい御振る舞いだと思いましてな。
つまり、徳源院様が豊太閤の加増移封を固辞された訳、それについて私の考える理由を、申し上げればよろしいのですな?
それはなかなかに……難しい御下問ですな。
徳源院様というお人は、非常にこう……なんと申しますか。晩年こそは丸くなられましたが、ああ見えて単純に見えて難渋といいますか、非常に狷介な性格なのですよ。直接お話になられた上様ならば、お分かりになられたことでしょう。
何せ、あの織田右府様の御子ですので。はい。
月日というものは誰にも万遍なく、かつ残酷なものです。
織田右府様が好まれた幸若舞の一節にもありますな。「
来年は、本能寺から数えて五十年となります。あれだけ目まぐるしく世が動いた豊太閤の時代も遠くなり、大権現様を直接知る者も減りました。徳源院様のことも、何れはそうなることでしょう。
最後まで残ったのが私のような人間だとは……まったく、この世は実に奇妙なものです。
人はいつか死にますが、墓石と軍記に刻まれた悪評は、月日を経ても残ります。
おそらく徳源院様も、御自身の評価については否定なさらないでしょう。単に否定するのが面倒というものぐさな理由からでしょうが。
今年が三回忌というのも、神仏の御導きかもしれませんな。
捻くれた徳源院様のことですから「単なる偶然だ」と否定されるでしょうが、こればかりは長生きした者の特権と、諦めていただきましょう。
それ位の役得は、私にも許されるでしょうから。
それでは、お話しいたしましょう。
北畠侍従でも、織田内府でも、織田常真でもない。ただの三介殿がなされた事を。
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