ヨタ話 (うすうす)
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逃げるより死んだ方がよさそう
人の首から上の部位が重力に伴って地面へと引かれていく。
固く踏みしめられた土の地面から響いたやけに大きな音を、人の頭ってわりかし重いよな、と要らぬ納得で呑み込んだ。
唐突に1つの命が失われる。定命の者にはいささか刺激的すぎるそのシーンに、周囲の人々は大きく動揺を示す。叫び声と共に此方へと流れ行く人波の奥で、村一番の力持ちの首が転がっている。
はて、僕は何故この場に居合わせているのだろうか。というのも、直近の記憶と現状に連続性が無い。しかも僕の持つこの記憶が正しいのなら、自分は既に死んでいる筈のようであった。
自身の内情の問題に気を払っているうちに、地に転がる首の数は増えている。内一つは「逃げろ」と、真っ先に声を挙げた者の首だ。他の者を逃す為か果敢に立ち向かった者達の亡骸を背に、この凄惨たる状況をつくり出したそれが迫ってきた。
通り良く平坦な、少女の声が発せられる。
「逃げないの」
発声は平坦であるが、意図する所としては疑問符が付くらしいと察せられた。彼女から逃げ惑う人々の波は既に、僕の背の遠く離れた方へと過ぎ去ろうとしている。あれに準じないのか、という問いかけか。
さて、なんと答えるべきだろうか。
眼前では既に幾人か殺されており、それを成した彼女は逃げる人波を追う方向に向かうようだが、追いつけば殺すのだろうか。
今から逃げ出せたとして、いつ追いつかれどう死ぬとも知れない状況はどれだけ続くのだろうか。
瞬く間に人命を狩る相手と向かい合うこの状態から、そう上手く逃げられるものだろうか。
逡巡と呼ぶにはほんの少し長い思考の後、自身に残る死の記憶がそう苦しみを伴うもので無かったことに思い当たり、いっそここで死んでしまうのが楽そうだとの結論に至る。
足元に転がっていた棒切れを徐に拾い上げる。気の抜けた阿保みたいな声を出しながら、もはや人体よりも殺傷力の低いようなそれを振るった。
「やーー」
一応、自身が出せるだけの運動量をしっかりと伴った棒切れは、まっすぐに少女の目へと突きの形で向かおうとした。その切っ先が本来の目的地へと辿り着く様を見届けられぬまま、視界がズレる。
視界は一面空を映す。首を飛ばされても認識は続くんだなぁとなんともなしに思いつつ、記憶にあったものよりも更に安らかな死の感触に安心した。
意識が終わる。
———
むくりと上体を起こす。見渡せば、身体と頭の分離した骸が十数、転がっているのが見えた。
自身もああいった目に合ったはずなのだが……。
ちょっとした眠りから醒めたような感覚を引き摺る。何故生きているのか。この疑問に答えてくれる宛を求めて少女の姿を探すが、見当たらない。
ふぅ、と息をつく。空気を吸い込み吐き出す肺の動き、頭蓋や空気なんかを伝わり耳に届く風切り音、息が口元を抜ける感覚。開けたままの口内が、外気にさらされて若干の乾きを得る。
あぁ、どうやら生きているらしい。血の匂いが身に付けている衣服と、赤黒く染まった地面から香る。死体の転がる向こう側から。それと、自身の元から。
恐らく自身の血によるものであろう血溜まり跡地を眺めつつ、どうにもよくわからない現状を捉え直そうとする。
まず、ついさっき死んだ。死因は首と胴体が分たれたこと。僕を殺したのは、……見目麗しい少女であった。僕の目の前にころがっている死体らは僕より以前に、僕と同じように殺された人達だ。死体が増えていく様を見て、生存を求めるには逃げ出すべき状況だったが、後々変な殺され方をされる可能性を想定してしまい、それよりは今さくっと殺られた方が苦しまないで済むだろうと少女へ命を投げ渡した。さくっと殺られた。……しかし生きている。
その前には……。そう、その前には、今と同じような事を考えていた。今と同じように、死んだはずなのに生きている、という状況を認識して、死んだ際の状況を思い起こしていたと記憶している。…妙だ。過去を思い起こしていたことは確かだし、思い起こした内容も記憶している。しかし、"思い起こした以外の過去" が思い出せない。少女に殺されたのが前世とすれば、その前の生存の記憶、ある筈の前々世の記憶が、前世で思い起こした分しか残っていない。
ずるる、ずるる…… と引き摺る音が聞こえて、意識を表層に戻す。音の方を見れば、死体らとは逆方向から件の少女が歩いてきていた。手荷物を引き摺っている。あれは…人だ。まだ幼気の強い男の子が、気を失って引き摺られている。
少女が人でないという認識はしていた。素手で人の首を転がすところを見ていたので、人よりも生態系的に上位の存在らしいと感じていた。そして今、人を拐っているようなのを見てしまったので、いよいよこの少女に対して人間は被食者なのではという認識が強まった。嗚呼、あの少年はこれから、碌な目に合わないだろう。南無……。
碌でもないことを考えているうちに、少年を引き摺る少女は僕からあと3歩程の距離にまで迫って、立ち止まっていた。
じっ、と見られている。少女の形をしたこの絶対的な脅威からは、死ぬことで逃れた筈だった。しかし何故か生き返り、そして再度同じ脅威と
そのまま30秒は経ったかというところで、少女はこてり、と首を横に倒して、口を開いた。鈴を転がすような声である。
「生きてる。なぜ」
いや、知らないが。
「あぁと、……僕にもわからない。死んだと思ったのに、気付けばなぜか生きていた」
どさり、と音がした。少女が手荷物を手放して、1歩、2歩とこちらへ歩み寄ったのだ。少女はすぐそこまで来ると、地面に座り込む僕と目線を合わせるようにしゃがんだ。続けて徐に伸ばされた華奢な手の片方に、頬を包まれた。……暖かい。
少女の、胸元まで垂れる長髪が揺れ、銀に照る。
透き通るように白く、ほんの少し青み掛かった肌色。伏せ気味の瞼。瞳に銀色の長い睫毛が映える。縦に長い猫のような瞳孔は、周囲の薄暗さに呼応するかのように幅を広げている。緩やかに廻り動いて見える赤い虹彩は、見詰めれば意識を取り込まれてしまいそうに思えた。ほんのりとあどけなさを残すような頬の膨らみからは、陶磁器のような滑らかさと同時に、人肌の柔らかさが感じさせられる。
端的に言えばめっちゃ綺麗である。可愛い。そしてミステリアス。理想的な容姿に最早感動してしまって、息苦しさすら感じる。
……なんか息苦しい。というか、あれ、呼吸できていない?少女の容姿に見惚れている内に、なにか決定的な違和感を見過ごしてしまった気がする。呼吸ができないし、首元に強い違和感がある。しかも何か、触れるのを、正体を知るのを憚られるような種類の違和感だ。恐る恐ると、この違和感の正体を探るべく首元へと手を伸ばす。
気付く。手が動かない。手、どころか顔以外の全身が動かない。気付かぬ内に、致命的な事態が進行しているらしいことを認識した。少女が僕の頬に触れたその時に何かしたのだろうか。何をしたのかと問うために口を開くが。
「まって」
少女が僕の発声を遮った。見れば、僕の首元をじっと観察している。この得体の知れない少女が関心を払うような何かが、そこにあるのだろうか。首元からの違和感が益々気になる。しかし少女に問いを遮られては後はどうにもならないので、事態の収束をじっと待った。
暫くして呼吸が再開すると、少女が手を離した。人肌の離れゆく感触に少し名残惜しさを覚えつつ、手を動かして身体が動くようになったことを確認する。首元に手をやると、なんの変哲もなくただ自身の首がそこにあるようだった。違和感はすでに消えている。先程まで何が起きていたのか、その目で観察していた少女へ問おうとした。
「なぁ、一体———」
「気付いて、無いんだ」
気付いて、無い……?
「……手」
言われて、少女の差し向けた左手へと右腕を差し出す。少女は僕の右手を受け取ると、鋭く伸びた爪先で僕の手首をなぞった。すると血の線が浮かび上がり、傷口がぱっくりと割れる。……どころか、手首がすっぱり切り離された。
…あらあらあらら何してるんですか
うじゅる、うじゅると繊毛のような触手が蠢いた。噴き出す血に競るように僕の右腕の断面から幾つも出てきたそれは、絡み合いながら数センチの距離までにゅるりと伸びて、切り離された右手の断面へと接合する。
「……、」
そして引いた。触手は切り離されたばかりの断面と断面をゆっくりと引き寄せる。少女に支えられる右手が、触手に引っ張られて右腕へと戻っていった。
「………」
手はくっついた。恐る恐る持ち上げる。どんな角度から見ても傷跡は残っていない。指も1本1本正確に動かすことができる。
衝撃的なシーンが僕の納得に掛かる時間なぞお構いなしに過ぎ去っていった。何か冒涜的にすら思えるような視覚情報の記憶から
「「…………」」
目が合う。そういえば、この事態はこの少女に示されたものであった。
「つまり———、僕の飛んだ首も、こうしてくっ付いたってこと?」
「そう、らしい」
さっき確認した。と少女に言われ、納得する。ああ、先程呼吸が出来なかったのは、頭と身体が分かたれていたからか、と。
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人外美少女と2人暮らしってそれなんて
『貴方は主人に当たる者を、"御主人様" 或いは "御嬢様"と呼称してもいいし、そう呼ばなくてもいい』
そういった文を読み流しつつ、
タイトルも目次も記載が無いこれを取り敢えず読み進めているが、中身はなんというかちょっと変わった『召使入門』である。
これを真っ先に渡してきたということは、自分にはこういった役割が求められているのだろうか。見ず知らずの———或いは知り合ったばかりの———不死っぽい化け物を従者にするなぞ、一体何を考えているのか。……いや、便利か。死なないので補充と再教育を考えなくて済む所とか…。
——
少女に手招きされるまま、歩き着いたのは洞穴であった。中に入ると案外広く、不自然かつ無駄に豪奢な家具ばかり置かれていた。赤いものが殆どだが、様々な赤が揃っていて一辺倒な印象が案外薄い。や、でもまあ赤ばっかりだ。
手荷物の少年を奥の扉の向こうに放り込むと、少女はユーケミニ・ヨタと名乗った。今は彼女は、ドレスを真っ黒なものから真っ白なものに着替え、歴史と気品を感じさせる金縁で真っ赤なソファの中央に腰掛けている。
気になるのは、さっきからずっと斜め上方の中空を見つめて呆けているユーケミニ女史である。
真顔でぴくりとも動かずに居る様を見てもその胸中を覗けるわけではなしに、忙しいのか暇なのか判断できない。ので、読書のついでに会話は後回しにしていたのだが、それにも一区切りつき顔を上げると、目に映るのは少し前に見たのと寸分違わぬ景色であった。……少し不気味なので生存確認も兼ねた会話を切り出す。
「えぇと、ユーケミニ、……さん」
言ってから思った。"お嬢様" とか言った方が良かったかな。……いや、そんな必要があるのかもよく分からないが。
するとユーケミニは此方に、ひどく緩慢に、ゆっくりと目線を寄越した。相変わらず無感情の
「村を襲ってた理由が、知りたい……です」
自分の立ち位置が分からなくて言葉選びがわからん……。
正確には人を襲っていた理由が知りたい。僕は人間なので。ここ迄に見た現象を鑑みるに今の僕は人外らしいのだけれど、元は人間なので。
暫し固まったままのユーケミニに、答える気どころか聞く耳も今は無いようだと判断しかけたが、俯く動きに追従し眼前へと戻った視線と共に、彼女の言葉が発されたので考えを改めた。
「アレは」
少しの間の後、こちらに顔を向けつつ、言葉が続く。「趣味」
………趣味?
予想外の返答に、脳が咀嚼のための時間を必要とした。が、まあ、なるほど。趣味、ね……。
途端、僕の認識は
この回答は僕にとって、人間が主食だからとか、縄張りを荒らされたからとかよりも怖いのだ。人を殺めるという行いの
そんな僕の慄き度合いを知ってか知らずか、ユーケミニは少し肩身を縮こめて、微妙に上目遣いになって言葉を続けた。なにその
「人間を斬り刻むことに、ちょっとした愉しさを見出している」
だから "ただの趣味" だ、と。
いやまて、如何にもワタシスコシハンセイシテマス的な様相を呈して何を言っているんだこの
いや……。飽くまで彼女が表現したい感情は見た
「……まあ人の趣味にとやかく言う事はしたくないんだけど、直接的に言えばつまり僕は自分が切り刻まれる事になるんじゃないかっていうのが心配で、……というのも僕はまだ人間を他種生物としては見れて———」
若干あせりつつ紡ぐ言葉が、何か弁解のような予防線張りまくりの形で口から溢れる。なんだろう、もしかして不信感以上に、焦りを抱いてるのかな。目の前で
と、
「———ただの趣味って、必須では無いから、……我慢できる?みたいな?……っていう、弁明?もしかして」
表現へたくそか。
するとユーケミニが若干、目を丸くしたように見えた。……彼女も意図している所が伝わらなさそうな気がしていたのだろうか。
「そう。ただの趣味だから、私の性質とか生態では、ない」
「———つまり、生存には必要で……」
「ない」
「抗えない衝動とか発作とかがあるわけでも」
「ない」
おぉ、おぉ。こくりこくりと仕切りに頷きながら同意を示すユーケミニに、抱いていた不信感や恐怖が解消されていく。……そして焦りは好感に変わっていく。何故って、頷く様子が見た目年齢相応に幼く見えて、愛らしいのだ。うーん可愛いは正義。
「じゃあ、切っても死なない僕を斬り刻んで遊ぶ、なんてつもりも———」
「…………」
…………。え、あっはい。
「最初はちょっと」
はい。
「……そのつもりだった」
………
「嫌なら、我慢する。でも、」
「できれば、ちょっとだけ付き合ってほしい……」
……チョットダケ?
「ちょっとだけ……」
…………
「…………」
……チョットダケナラ、……イイヨ
「……ありがと」
——
「部屋は自由に使ってよい」と言われたので、勝手にインクとペンと紙を消耗している。ここは触らないでと示された一角を除けば、小物類まで含めて自由にしていいとのことだった。
書いているのはちょっとした備忘録だ。僕は自身の記憶力に対してできれば信頼を寄せたくないと思っているので、得た知識をこうして個人的にまとめるのが趣味であった。……とはいえ羊皮紙に書き連ねた所で、これをわざわざ持ち運ぶような気は起きないのだが。それでも書き纏める行為だけでも意味はある。はず。
さてそれより、このような行動を自然と選択していたことで気が付いた事がある。先程僕は自身の趣味を語ったが。覚えているのだ。こういった趣味を持つことも、この趣味の本来の形では、用いる道具は羊皮紙ではなかったということも。
正確には "知っている"と言うべきか。紙ではなく、電子的な手段を用いていたこれが趣味であったことは確実だと脳が言っている。しかし、実際にあの時何を綴っただとか、そういった実体験的記憶が1つも無い。
……電子的な手段、という語彙にもまた引っかかる。この語から連想するものはどれも、見た覚えのないものばかりだ。そもそも僕の持つ記憶は短い。数刻程前には今同室しているユーケミニに殺されて、生き返っている。覚えているのは前世までで、前々世のことに関しては思い出すことができない。
しかしまあ、一切覚えていないというわけでもない。前世の最初の記憶は惨劇と混乱であったが、この混乱に関して思い起こすとその源は "記憶の非連続性"。そしてこの時思い出していた多分前々世のものであろう記憶に関しては、振り返ることができる。
ペンを走らせそういったことを記していく。用いている言語はこれも、見たことはないが知っているものだ。ユーケミニに渡された黒い本に載っていた言語とは異なる。あの言語に関して知る限りでは "電子的" なんて語彙は無いし、なので此方の方が都合が良かった。
……いや、何かおかしい。今書いている言語はまあ、前々世に知ったものとして。黒本に載った言語を読めていたのは一体———。
突然、大きな物音が響いて思考が中断する。
大きな音、といっても元々この部屋は静かであったから、相対的に大きいというだけである。だけではあるが、あー、めっちゃびっくりした集中してたから……。何……?
もう一度鳴った。発源はどうやら、部屋の奥側にある扉。内側から叩かれているらしい。
一体何が——、あぁ、ユーケミニが持っていた
思い当たってユーケミニに目を向ければ、彼女は読んでいたらしい本を閉じ、扉の方へと席を立っていた。何をするのか気になる。ので、これに追従することにした。
ユーケミニがドアノブを回すと、ガチャリと音が鳴る。ロックでも解いたのだろうか。
開け放たれた扉、それとユーケミニの肩越しに覗くのは、恐怖に顔を引き攣らせた少年であった。
うーむ、"碌な目に合わないだろう" とか勝手に想像してたシーンを、これから目にする羽目になるのか。等と内心独り言つ内に、……目が合った。
「ト、トム
少年が声を挙げる。僕に向けてだ。思いもよらなかった展開に面食らうが、これについて何か考えを纏める間もなく、一つの名前を、ふと脳が囁いた。
「……君、エリックか?」
トム兄。トーマスのことをよくそう呼ぶのは、エリック少年だ。
「トム兄、トム兄……!助、に、逃げよう!皆んな、殺さ———」
この少年の名前。そして何故か読めた黒本の言語。それらは、
成る程、
「あ……」ユーケミニが
気を失った
「いや、問題無いよ」
身体は知り合いでも、中身はもう別物だ。僕からして、少年は既に他人であった。
それよりもユーケミニの目的の方が気になった。彼女は扉を開けてから、僕と少年が話す暫くの間は固まっていた。何か考え込んでいたらしいのだ。
「ユーケミニは、何を考えていたの?」
「ん。空腹なわけでも無いから、どうしようかなって……」
……やっぱり食料なんですね、人間。
「でも、まぁ」
折角だし飲んでおこう。そう言って、ユーケミニは少年に手を掛けた。
壁に寄りかかって気を失っている少年の片肩を掴み、顎を持ち上げて首筋に迫る。それを見て
あ、はーん。この
成る程確かに、青白い肌に赤い瞳、そして整った容姿というのは正にイメージ通り。良かった。もっとグロい絵面になるかと身構えてた。
見ればどうやら、牙で噛み付くわけでも無いらしい。少年の首元につけられた小さな傷から、血液がひとりでに浮かび上がり、ユーケミニの口元へと運ばれている。どういった原理なのだろうか。
しかしこの吸血の様というのは、どこか魅惑的というか、扇情的な風がある。眼福というか、なんというか———。
などと考えつつ観察していると、ふと、視界に入る違和感があった。
黒い液体。少年の口元から つぅ と溢れている。漆黒とも言えるほどの色合いは、血、にしては黒過ぎる。ユーケミニの吸血の様子も気になりつつ、しかしこの奇妙な黒色が不気味に思えて、目が離せない。
そして、異常は直ぐだった。目前で。黒液中にいつの間にか白く浮かんだ模様が、
———?
逡巡し、まず目を疑った。それは今現れた立体が、口元から流れる黒液中を、出現地点まで通過できる大きさであったとは到底思えなかったからだ。
落ちた立体を徐に拾い上げれば、それは恐らく歯であった。人間のもののように見える。
………。
「ユーケミニ」
彼女の注意をこれに向けようと声をかけて、……途中でちょっと自信を無くしたのが言い回しに反映された。
「……ここの人間は、身体から真っ黒な液体が出るのが普通だったりする?」
少しの間の後、ユーケミニは少年から顔を離した。口を開けたまま流し目気味に此方を見る様子から、彼女も疑問に思う程度の事象らしいと認識して良いのだろうか。口元から、紅い一筋が垂れている。少年の血は赤いようだ。
ゆっくりとした動きで、口元の血を拭い、再度少年を眺め、そして黒液を目にしてから彼女は答えた。
「そんなことは、ない」
言って、手を伸ばす。躊躇無く指で触れた。それが結構な不用心さに思えて、内心焦りつつ得体の知れなさを共有する。
「その黒いのから、何か沸いて出てきたんだ。人間の歯みたいな……」
上へと持ち上げられたユーケミニの指が、黒液の糸を引く。かなり長く伸びる。粘性が高い?いや、重力に引かれて淀みなく流れているようにも見える。
そのままユーケミニの指先を目で追っていると、指先は徐に少年の頭髪を鷲掴み、上に引いた。
ユーケミニが下から覗き込むようにしているのを見て、少年の首が断ち切られていることに気付く。いつの間に。
「それ、みせて」
言われて、"歯" を渡す。ユーケミニはそれを手の中で転がして暫く観察すると、徐に立ち上がって部屋を後にした。
彼女に続いて退室する。振り返って眺めた少年の顔には、死体らしく、別に何も浮かんではいなかった。
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正直ピンチなのかもよく分かってない
「何か心当たりがあるって感じ…?」
謎の黒液と遭遇してから少しの時間が経った。頁をぱらぱらと
「いつか読んだ。似たのが書いてあった」
「なるほど」
ともあれ、彼女が心当たりを元に探しているのなら、下手に協力しても貢献するのは難しいだろう。そう判断して、こちらは
あの時、腕の断面から生え出た触手が脳裏に浮かぶ。手首を丸々切り離されても痛みに呻くことすら無かった。ただ、代替足り得る様な感覚はあって、違和感というか喪失感の様なこれによって視認せずに負傷を感じ取ることはできそうだ。
触手も身体の一部なのだろうか。これが何か共生関係の生物とかだったらちょっと受け入れられるか心配だなぁ。……いや、身体の記憶が別にある現状を鑑みるに、僕がこの身体に寄生した触手の人格であるみたいな可能性もあるというか、考えてみると大変尤もらしくないかこれ。え、うーん……。
この辺りでもっと差し迫った問題を挙げるなら、記憶のことだろう。死んでも生き返るにしても、何か条件を満たせば思い出が消失する。胴体と首を切り離されたのは2度あるが、派手に離された方のみで記憶が消えている。脳の失血や破損、機能停止に由来するのだろうか。最悪、知識が残っているのは運が良かっただけで、脳を全損すれば綺麗さっぱり何もかも忘れるのかも……。それ不死じゃなくない?
「トム
ふとユーケミニの声が耳に入って、意識が表層に戻った。認識に暫く時間がかかったが、この呼称は少し前に聞いたものだ。つまり彼女は僕に呼びかけている。
……いや、失念していた。そういえば自己紹介なんてものを全くしていない。彼女が名乗った時にでもしておけば。
「あ、あぁ、僕か。いやごめん、そういえば———」
しておけば……?
名前。……何だ?
……うーん、身体とは別な名前が欲しい気が———。
その時だ。考え込みつつ目にした床と、
…………!
床上の状況を目にして、反射的に椅子から飛び上がる。黒に浮く瞳が此方を見ていた。
見れば奥の扉から、床を黒い液体が足元まで達している。既に囚われていた片足を引けば、履いていた靴だけが取り残され、黒液中に飲み込まれていった。これは
「ユ———」
ユーケミニに目を移そうとして、視線が空を切る。そこに彼女の姿は既に無く、彼女が座していた座面には代わりに黒液が這い、液中に浮かんだ "口" が鳴いた。
———
ぎぃ と軋む様な音の連なりが、言語じみたイントネーションを孕んで響く。
…………これ、
唐突な孤立。そして目前に迫る未知の、多分脅威。
———
何某かを発声する "口" に次いでともう片足分の靴も投げ入れてみれば、やはり呑まれて消える。椅子の座面に薄く広がっているだけなはずの黒液が靴一つをするりと呑み込んでしまうのは、明らかに尋常ではない。体積は一体何処へいったというのか。
自身がああなった先に何があるのかは全くの未知数である。そんな博打みたいなことをやりたくは決して無い己の元にゆっくりと這い寄り来るこれは、やはり一種の脅威なのだろう。
はて、ユーケミニ氏はやはり、これに呑まれてしまったのだろうか。それとも別な場所に?
逡巡の内に引っかかったのは、彼女が消える直前、僕に呼びかけていたことだった。あの状況、あの時の文脈で捉えるなら、黒液に関する心当たりの正体を発見し、共有する為に声を掛けたのではなかろうか。
彼女の積んだ本の山に目を向ければ、机上の本の内一冊だけが投げ出された様に転がっていた。黒い装丁のそれが何かの手がかりになるかもしれない。そう思った時には足を動かしていた。
既に黒液が間近に迫っていたのだ。
「っ!」
机の脚元を黒液が這う。すると
「ま、間に合った」
危ない危ない。手の内に収まった本をしっかりと掴みつつ、駆けた慣性を手を突いて殺す。
猶予はきっと余り無い。黒液がこの場所を埋め尽くしてしまう前にどうにかするか、離脱しなくては。考えつつ動こうとして———
突いた手がびくともしない。
目を向ければ、その手に黒液が這い出していた。
———
「ぅ———」
それを認識し、咄嗟に
瞬間、肘から先は引かれ行き、黒液に呑み込まれた。
肘の断面からは既に血が止まっている。代わりに幾本の触手が飛び出し、元あったような腕を形作ろうとしていた。
「………」
………、意図的に切り離せてしまった。あの瞬間、腕から幾つも触手が飛び出すのを目にしたが。つまりはこの触手を操ったのだろうか。
と、兎も角。今は現状の方が重要だ。黒液に捕らえられた手が全くもって動かせなかったのだ。捕まったら抜け出せないと考えた方が良いだろう。
見ればもう、出口への道は占拠されていた。案外広いとはいえここは屋内。洞穴の床面を埋め尽くされるのも時間の問題か……。
周りに多少気を払いつつ、出来るだけの安全地帯に身を寄せて本を開く。腕を成形中の触手君は
手元に取って確信したが、これは前に読んだ『召使入門』と同じ本だ。同じ本であるはずなのに内容は全く以って異なるものになっていた。
紙面には
幾つか
この世界の文字だ。
———『不死の人。そこに居る?』
これは。これは———、
「……ユーケミニ?」
問われたなら、返事がしたい。指先を崩して血を流し、これをインクとして書き込む。
———"居る"
返事は直ぐだった。
———『来て』
何処へ? その疑問も解消される。どうやらこれは、思念の様なものがこの本から伝わって来ているらしい。言語化も難しい独特な情報だが、信じて受け入れられるほどには確かなものとして伝わっている。
だから僕は足を向けた。もう直ぐ其処へと迫っていた黒液に、自ら踏み入るために。どうやらユーケミニはこの先に居るらしいのだ。
黒液へと身を投げ出せば、まるで自由落下の如く身体が沈む。
と。
———
がしり と手首を掴まれた。
顔を上に向ければ黒液中から沸き出た腕が僕を掴んで、この身が沈むのを留めている。
なんだ、都合が悪いのか? さっきまでさんざ這い寄り回して来たくせに。
黒液に胸まで浸かるこの身をその手で引き摺り出せるものなのか、少し気になりはしたが。又もや内からの触手で腕を切り離し、再度
視界が黒で染まった。
暗い。
暗い。
目は開いている。
暗い。落ちる。
落ちている?本当に……?
暗い。
何も感じない。
気付けば、其処に立っていた。
赤い空間だ。
広い。左右には壁が見えるが、奥、そして手前の方角に関しては、どこまで続いているのか視認することができない。
幅に比して低く思える天井も相まって、部屋というよりは通路じみて見える。
そんな空間にポツン、と。小洒落たテーブルセットが在った。
2つの椅子は、片方に先客が腰掛けている。見知った顔に少し安堵を覚えながら、その傍までと歩み進んだ。
「ここに来るまでに、何か見えた?」
「……
視界には暗闇しか映らなかった。そう記憶している。
「そう」
座って。そう言ってユーケミニはティーカップを口元へと運ぶ。
はて。"この先は敵の腹の中" とばかり思っていたし、ここは敵地であるはずなのだが。お茶まで淹れて優雅に寛ぐユーケミニ女史は、一体如何なる心持ちでお過ごしか。
状況への混乱と、雰囲気に引かれた落ち着きを精神に同居させたまま、もう一方へと着席して
口元まで持って来たティーカップが香るのを愉しんでいると、ユーケミニが口を開いた。
「
んー、紅茶だ、比較的シンプルなやつ。美味しい。
「呑み、
「それが、
ユーケミニは頷いて返した。
「そう称していい、はず」
曰く、魔のモノの由来にして終点。特異たる普遍。
混沌とは全てを呑み込み
「けれど貴方は、どうやら違う」
ユーケミニは
この空間は
この場所は混沌の内にあって、混ざらずに "在る" 異物。その中にカルキを泳ぎ来た僕が居るなら、僕に混ざったカルキに引かれて今頃此処は闇の中になっているのが道理だと。
けれど壁の向こうは、ただ静か。
「……なっていないということは」
「混沌に嫌われているということ」
だから多分。
「貴方の持つ不死性は完成度が高い」
「完成度、ね」
「混沌と完全性は水と油」
成る程。侵入を拒否されたのは、相手に嫌われていたからか。
……これ、僕は別に何の危機でも無かったんだな。しかしユーケミニ的にはどうだったのだろう。
二人共に口を閉ざせば、認識が周囲の音を捉え始める。微かに耳に入る環境音は、恐らく壁の向こうのカルキの発する、体内を流れる血の様な音。ティータイムの音。衣摺れの音。それと、分からない音。
こつ、こつ、こつ と鳴っている。秒針よりはゆっくりで重い音が、聞こえている。
「この音は……」
問いに、ユーケミニは自身の喉元を指差してみせた。見れば音に合わせて、喉が動いている。
音はそこから鳴っているらしい。
「私が
言って、ゆったりと立ち上がる。
つまり、飲んだ血に
「混沌は遍くを呑む。混ざりものの液体は、内から徐々に嵩を減らされてしまった」
それでも沢山あったけれど。
ユーケミニは此方へ、静かに、確かに歩み寄る。テーブルに指を
気圧されたか、見惚れたか。自身の在り
その顔の、身の近さに胸騒ぐ。重心が後ろに移り上体は背もたれを外れるが、何時しかそこに在った
これで終わり。ユーケミニが薄く笑んだ。
「除く為に使い切った。この空間と、……渇きは、その結果」
広い空間に、身が二つ。
言葉を交わすに、もう囁きで充分な
乾いた喉に、言葉が詰まる。
「ぁ———、名前、新しく……考えることにしたよ」
そう、それなら。囁きが耳朶を撫ぜる。
「私から、"ヨタ" をあげる」
手が触れ、指が首筋をなぞった。
冷たい。
「不死者の血は、どんな味がするのかしら」
「あぁ、不味くないと、いいけどなぁ」
僕はそれに、照れた様な苦笑いを返した。
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吸血には快楽を伴うという俗説に内心ちょっと期待してた
ざく、と牙が通る感触。
切り裂かれた肩、首元の方から沸き出る血液を、ユーケミニがその舌に得ている様だった。
想定と全く異なった直接的な接種手法。自身の肉の裂ける感覚、それに肌に触れる舌の触覚に面食らう内に、耳元から特徴的な音が聞こえて来る。
ひらけた口から吐き出される息の様な音。
長く、永く延びる吐息の音。
しかしそこに風を感じることはなかった。
ユーケミニの口元から動きを感じることはなく、どころか寧ろ何か持って行かれる感覚を強く受ける。
気付けば、肩肌に直接触れる感覚は途切れていた。なのに唯、肩の傷口から血を持っていかれている。
感覚から状態を察して気付く。前に見た吸血行為と同じく、血液がひとりでに彼女の口元へと運ばれているのだろう。
吐息の様な音は、続いている。
この身が感じているのは、血を飲まれ行く感覚というよりは、単純に血が減っていく感覚だろう。少しずつ、遅々としつつも怠さのようなものが回ってくる。
これに身を委ねて、じっと時を過ごす。
腕を掴む彼女の手からは、もう冷たさは無くなっていた。
互いの体温が馴染んだのだろうと考えていたそれに、しかし徐々に温度を感じる様になって行く。
思えば最初に触れられた時にも暖かさを感じたのだった。吸血によって体温が高まるのだろうか。
吐息が続いている。
薄く延びる音を意識に入れながら、ぼうっと虚空を俯瞰する。
何処か手持ち無沙汰だ。
じっとしているしかないのだから、何処かと言わずとも唯そうであるのだけれど…。
何だか落ち着いた、ぼんやりとした風で居られるのが心地良くて、けれど不思議に感じる。
心地良さと違和感の同居した感覚は、未知と既知の何方にも共に身を浸している様で。やはり果ては心地の良さとして解釈された。
時間はゆっくりと、流れていく。
吐息が続いて———。
長、くない?
そう思って我に帰った。
ぼんやりと心地良い、ではない。これは気を失いかけているのだ。大方、出血多量で。
落ち行く意識と薄れる体感覚に、気付いて思わず身じろぎする。不味い。思ったより身体が重い。少しでも動くことで気付いたのは、想定より当の先に行ってしまっている状態だということ。
逡巡して、呼び掛けを試みた。
「—————」
確かに口を開いた。しかし喉は鳴らなかった。
成す術を失くした口があわあわと開閉している。それも酷く緩慢に、だ。
……嗚呼、上げようとする腕もやけに重い。これに尽力していれば、座した身の上体。そのバランスすらをも崩してしまう。
気付けば寒気も知覚していた。体温が低下している?
揺れる身体は、飲みづらく感じたのだろう。
ユーケミニによって抱き寄せられる。
う、暖、柔らか——— ではなく。
身体を包む優しい衝撃に比して、少々重過ぎるめまいが頭蓋を襲う。
これは、不味いのではないか。
大分、危ういのではないか。
吐息は続いている。
ようやっと挙がった手が、彼女を二度、弱々しく叩く。
しかし意には介されていない様だった。困った。最早押して身を剥がそうと込める力も、在って無い様な程にしか入らない。
ここで
「ぅ———、ぁ゛」
掠れ切った声。二度、弱々しいながらも彼女の肩を叩く。
……この様な降参の意思表示など、彼女は知らないだろうけれど。
「ュ゛……ヶ…」
不十分な呼び掛けは、しかし彼女の意識に漸く届いた。
ぴくりと、此方を抱き竦める身体の、跳ねるのを感じた。
肩口から喪失を続けていた血の様子は、強く曖昧となった今の識覚ではもう感じ取ることができないが。首元から顔を離した所を察するに、終わったのだろう。
吐息はもう、聞こえなくなっていた。
「…………ぁ、」
ユーケミニが小さく、声を溢す。
そうして彼女は僕の力の入らない身体を、優しく抱き抱えてこう言った。
「吸い、過ぎた」
ごめん、なさい。
そんな彼女の台詞が、微睡の如く曖昧な意識の向こうで、けれど確かに耳に届く。
余りにも美味しくて。とは、後で彼女から聴いたこの理由であった。
……まあ、良かった。不味いよりはよっぽど良かっただろう、きっと…。
——
まず耳に入ったのは、何処か遠くで風の唸る様な音だった。
重力を感じて自身の横たわった体制を把握する。どうやら気を失っていた様だ。
目覚めて直ぐ。まだ何処か曖昧な意識が、肌が捉えたのは、何か大きなエネルギーが漂う感覚。
これは、……。
身体を起こせば、横には腰掛けるユーケミニ。彼女の見据える先では、赤い液体が地を這い動いていた。
きっとユーケミニが操っているのだろうそれは床面に広がり、どうやら何かを描いている途中らしい。
円を基礎とした複雑な記述。これは。魔法陣というやつではないだろうか。
途端、不意に沸いた高揚感の理由を探す。魔法というワードを囁く脳は成る程、
這う血液が描いた陣に、ユーケミニが言葉を添える。
「"混沌" は遍くを含むもの。一が在れば其処に全の在り得るもの」
「体積。或いは距離その点において、特にそれの短く在る因果を招き寄せる」
力の奔流が肌を撫ぜ、鼓膜を揺すぶる。
重く短い、金属を擦り合わせた様な低音。
物質の理を塗り替えて、魔の
陣を形成する血液が再び這い回り、形を変える。
これに力場も、多少なりとも引かれて変じているようだった。
「"混沌" は完成を嫌うもの。一として、宿す可能性の多くに向くもの」
「不死の血から成る陣。示すは完全。混沌は此れをこそ嫌う」
力の奔流が肌を圧し、鼓膜を揺すぶる。
重く短い、金属を擦り合わせた様な高音。
血液が地を這い回る。
「"混沌" は凡ゆるもの。一故に所在の敵わぬもの」
透き通った音が響いた。
立ち込めていた力場の肌触りは消え行き、陣を描いていた血液とともに中心へと収束していく。
残るは、浮かぶ血球。
ユーケミニはこれに寄ると、此方へと視線を向けて、こう言うのだった。
「仕上げ」
《
直後、僕はユーケミニの傍らへと足を向けていた。
困惑と、理解。先の呪文によって、僕は今身体の操作権を彼女へと明け渡しているらしかった。
彼女の側へと達すれば何かそのまま腰へと回りかけた手に面食らう。咄嗟に諫め、代替として肩を抱いてから、はてその必要はあったのかと逡巡する。
しかしまあ、そんな思考の間延びする暇もなく、ユーケミニが事態を展開した。
「此処は何処。【汝は其処に】」
上に向いたユーケミニの視線に倣えば、浮かぶ血球が飛び出すように上昇し、流動して形を変え、赤い天井を穿つ。数瞬の後には、そこに大穴が開いていた。
その先は黒液で満ちている筈だった。しかし何を予期する間も、身構える間も無く差し込んで来た光に目が眩む内。気付けば———
「【我らは此処に】」
僕らは空の下、地の上に浮いているのであった。
潰された視覚を咄嗟に、目の状態を光に慣れたものへと変えることで
……その
突如、強烈な重圧。
「ゔ———」
肺から押し出された空気が呻きとなって空気に溶ける。これは———、ユーケミニの力だ。
つんのめった身体を力場とユーケミニに支えられ、揺れる視界で目にしたのは彼女の目前へと迫った
そして言葉を続けた。
———yta■■■■■
「【汝は
瞬間、失せる圧、そして黒。
周囲に広がっていた全ての
残ったのは、ビー玉サイズの透き通る赤球。宝石じみた鈍い輝きを帯びて、ユーケミニの掌に転がった。
「捕獲。」
言って此方に向いたユーケミニ。
彼女の目の奥に
……垣間見て?
おかしい。ユーケミニは相変わらず無表情だ。"目の奥に" とは確かに直感そうであったが、彼女の内心をやけに確信してしまった自身の感覚に、違和感と戸惑いが湧き出す。目は口ほどに物を言うとは
同時に、耳障りな肉々しい音が耳に入った。そして気付く。僕の身体から謎の触手が、ユーケミニの元へと伸びていた。
なにこれ。
疑問は両者の総意だった。恐る恐る意識を伸ばせば、触手は意思の通りに持ち上がってユーケミニの肌を離れる。それに伴ってユーケミニに関しての "理解" が止まった。
ふむ。
……触れると感情を読み取る触手? 何その、何……?
再生とは系統が別に思える自身の謎機能を解釈し切れず固まる僕を、ユーケミニは不思議そうに眺めた後、その身の近くで控えめに右往左往する触手を指でつついた。
その肌が触れる瞬間、僕は彼女が今好奇心100%なのを理解し——— あ゛っ、
まって、なんか凄い強烈な感覚が、何、衝撃に弱、ちょっとまって掴まな ゔ
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閑話: 道中
揺れ動く馬車の中、ユーケミニ・ヨタは道中の
視線の先には1人。外の景色をぼうっと見遣る彼はウロヴォール・ヨタ。この馬車旅仲間は拾いもので、珍しき人外仲間で、従者であり、私の食料である。"ヨタ" をあげたのだから眷属とも言えるだろうか。
混沌が沸いているのだ、聖者共は既に動き出しているのだろう。であるなら、足がついて面倒な事態に陥る前になるべく遠くへと離れたかった。
馬車旅となったのは3度の日の出を迎えた後になる。街道に出た所で充分距離を取ったと判断し格好を変えた後、通り掛かった荷馬車の空きスペースに交渉の
思考のうちに私のウロヴォールを見遣る視線は、自然と首元に向いていた。自身の内から頭蓋を揺らす軽い響きで、思わず喉を鳴らしていることに気付き、内心苦笑する。渇いているわけでは無いのに。
なにせ、美味なのだ。滑らかな口あたりに、しつこさの無い通り。程よく存在感を持ちつつ飽きの来ない風味。今まで口にしたどの血よりもお気に入りだ。
そんな血が不死の身から無尽蔵に湧いて出る。これほど理想的なことはそうないだろう。だからそう、いいじゃないか、連日頂いてしまっていても。最初の時はちょっと、
不意の大きな揺れ。車輪が石でも踏んだのだろう。事のほか大きく体制を崩し後頭部をぶつけ、鈍い音が響いた。痛い。
そんな私の様を不思議そうに見るウロヴォールが目に入る。ふむ。
私が気の向くままに彼の元へと寄ると、彼から手が差し出される。これに支えられながら彼の足の間に潜り込んで腰掛けた。馬車がまたもや揺れるが、今度はウロヴォールの支えにより体制は崩さない。
ウロヴォールには馬車に乗り込む前、街道に出た所で彼の望んだ通りに "
揺れで顎の当たらないようにだろう、私の頭に置かれたウロヴォールの手の感触に、少し不思議な心地がする。もう永い間独りで過ごしていたから、この5日目にもなる関わりが随分と新鮮で、しかし何処か懐かしくもあった。
(しかし何だ、そうか今は、彼の血
それはなんとも、何処となく気恥ずかしさの湧くことである。いつか読み耽った書き物を想起するのだ。どうせならあのカルキの内で、ヒロインの「貴方の血で私を満たして」なんて台詞を、私も口にしてみれば良かっただろうか。
何ともなしに対比を取るが、不器用で律儀なこいつは当然、そして私も当然、それの登場人物らとは似つかない。
不器用な奴だ。歯に絹着せぬ、とは何か違うが……。独特な言葉選びは、時折の長考を挟んでも変わりない。言葉の後には迷いを見せて、しかし直ぐに気にするのを止めるようだ。
律儀なのは、意図せずとも触手で感情を読み取ってしまったと、言葉に詰まりつつも
それにあの時も。手が置かれたのは肩で、腰を抱いてはくれなかったし。
………。
飛躍していた思考に気付き、額を揉む。手放したくない存在なのは確かであった。ちょっとした趣味も、漠然とした人恋しさも、果ては血の工面でさえ彼が居れば満たされるのだから。
しかし彼はその身に備えた特性を、あまり理解していないらしかった。心許ない事である。世の地平は広く、人型一つなぞ容易に見失う。
ぼそりと呟く。
「
告げて、身の魔力と共に沈む意識を手放した。身体は彼に委ねつつ、ふわりとした先行きの想定は直近にて収束する。目覚める頃には、ヒトの生息域、だろうか。
「距離感、近……」
腕の中で無防備に意識を落とすユーケミニに、ウロヴォールはぽつり、困惑を溢した。
乙女……
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