地上の六等星 (皆夢の月虹)
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地上の六等星

 深夜、星空は雲に隠れていた。

 外に出ても気にならない程度だが、チラチラと雪も降っている。この様子では天体観測など不可能だが、彼女がそれでもやってくる気がして、僕はコートを着込んで玄関へ向かった。まだ起きていた親は僕を見ても何も言わない。当然行ってきますも言わなかった。

 家を出て、約束の公園へ足を向ける。都内でも天体観測ができるとインターネットで書かれている公園で、毎週土曜日の零時にそこで集まるのが僕達の決め事だった。暗闇に包まれたそこで、充電式ランプの光だけを頼りに天体望遠鏡を設置していた彼女と出会ったのはもう三ヶ月も前のことだ。

 今思うと、見も知らぬ女性によく声をかけたな、と我ながら恐ろしかった。相手によっては不審者に見られてもおかしくないというのに、あの時は何故か、彼女に声をかけるか否かで人生そのものが変わるような直感があった。それから彼女の幼げな横顔に声をかける選択をして、あれは間違いではなかったと確信している。彼女もまた、僕と同じ側の人間だったのだ。

 僕が弟、彼女が妹、それぞれが出来のいい兄弟姉妹を持ってしまったために、僕達は家で無いもの扱いされていた。衣食住くらいは提供されるが、彼らの関心事に僕達はもういなかった。深夜に家を出ても何も言われないくらいには。

 だからこそ僕達は出会えたし、お互いを深く理解し合えた。始めて声をかけた時に、彼女は僕に好きな星は何か聞いてきた。僕の答えを待たずに続けた彼女の言葉が、色褪せることなく記憶に残っていた。

「私は六等星が好きです。私自身が六等星みたいなものだから」

 冬に吹く風のように、冷たくも澄んだ綺麗な声だった。それを聞いた僕の返答が、彼女の望んでいたものであったのは間違いないだろう。

 公園に到着し、いつもの集合場所まで行くと、暗闇の中ですっかり見慣れた充電式ランプが光っていた。その近くで彼女はいつものように俯いていた。雪の日に似合った白いコートを着込み、長い艶やかな黒髪には所々に雪の粒が付いていて、とても愛くるしかった。

 お待たせ、と声をかけると彼女は僕の方を向いて顔を上げた。そこで僕は気がついた。出会った頃から感情が読みづらい彼女の表情が、涙こそ流していないが強い悲哀を表していることに。

「どうしたの?」

 聞くと、氷点下にまで冷え込んだような声で彼女は答えた。

「明日、引っ越すことになったの」

 なぜだ、どうしてだ、こんな仕打ちがあっていいのか!

 心にそんな燃え上がった感情が一瞬だけ生まれる。しかしそれはすぐに消火されて消え失せた。怒りとか悲しみとか、そういう分かりやすい感情を表現するような人間性は、とうの昔に捨ててしまっていた。彼女のように。

 代わりに、そっか。と落ち着いた声で返したあと、僕は近くのベンチを指差した。

「とりあえず、座って話さない?」

 僕の提案に彼女はこくりと頷くだけだった。

 ランプを真ん中に挟んで彼女とベンチに座る。僕の左手と彼女の右手が触れそうで触れない程度の距離。

「どこに引っ越すの?」

 彼女の顔は見なかった。けれど、俯いたままの彼女が容易に想像できた。

「分からない。引っ越すとだけ言われた」

 また、そっか。とだけ返した。僕達は理解し合っていたが、お互いの事を何も知らなかった。知っているのは同い年だということだけ。名前も学校も住所も何も知らなかった。無いものである僕達に、携帯電話なんて大層な物もなかった。お互いにこれ以上を求めなかったのだ。今のままで十分だったから。

「向こうで星が見れる場所があるといいね」

 別れを受け入れたみたいに言う。すると彼女の雰囲気が少しだけ明るくなるのを感じた。

「うん。無かったら探す。あったら遠くても行く。引っ越したらその数だけ、色んな所で星を見るよ」

 声が少しだけ温まって、いつもの冷たい声に戻った。星が好きなんだなと改めて思い、とても嬉しくなる。僕もそうだから。

 きっとそのせいだ。そのせいで、僕は核心をぽつりと呟いてしまったのだ。

「会えなく、なるんだね」

 すると彼女も同じ風に答える。

「うん、会えなくなるんだよ」

 チョンと彼女の右手の指が左手に触れる。僕は自然と彼女の手を取り優しく握っていた。とても小さく滑らかで冷たい手だったが、冬だというのに心地の良い冷たさだった。少し遅れて、彼女も優しく僕の手を握り返してきた。

「何時間か経ったら、離さなきゃいけなくなるよ?」

 彼女の問いは、まるで自身に言い聞かせているみたいだった。

「分かってるよ」

 つい頷きながら答える。

「離せる?」

「離すよ」

 嘘は言っていない。このまま君を離さず、手を引いてどこかへ逃げてしまえたらいいのに、と流れ星が現れてから消えるまでの時間くらいは考えた。でもそれは悪いことだと、理性で押さえ込める程度には僕は大人だった。同時にそうしなければならない程度に僕は子供だった。

 少しだけ沈黙が流れたあと、僕は白くなった息を一つ吐いて口を開いた。

「もし僕達に不幸があるとすれば、出会うのが早すぎたことだろうね」

 すると、視界の外で彼女が微笑んだのが何となく分かった。

「うん、そうだね。あと六、七年も遅ければ、このまま君に手を引かれて消えてしまいたいなんて、そんな妄想がもう少しは現実的だったかな」

「そこまで言うなんて、君はずるいな」

 彼女の手を握る力をほんの少しだけ強める。それだけで伝わったらしく、ごめんね、と彼女は消え入るような声で謝った。

 またしばらく沈黙が流れる。空を見上げると、まだ雲が空を覆っていて、星は何も見えなかった。僕達が出会った日も、こんな天気だったらよかったのかもしれない。出会わずに済んだかもしれないから。そうであったなら今頃……。

 うん、僕は楽になっていたかもしれない。勇気があれば、この世に別れを告げていたかもしれない。それくらいの所まで来ていた自覚はあった。そんな僕を彼女は引き止めた、いや、もしかしたらお互いに鎖を結び付け合って、それ以上行かないように引き止め合っていたのかもしれない。そんな想像ができるくらいには彼女と僕は似ていた。

 そこまで考えたくらいで、彼女の声がまた聞こえてきた。

「私ね、多分君と出会わなかったら、死んでたと思う」

 嗚呼、まったく。どうして君はそうやって、言うべきでないことを言葉にしてしまうんだ。自分と同じ事を考えてくれていたら嬉しいという望みが満たされた身にもなってほしい。

 仕返しのつもりで僕は彼女に頷いた。

「それは今僕も考えてた。いざとなったら勇気が無いから躊躇するだろうとも思った」

「私もそう思う。でも可能性はあった。そして君と別れたら、また生まれる確信もある」

 そこで彼女は僕の肩に頭を乗せてきた。頭は重いものだと認識していたが、彼女のそれは想像以上に軽くて、落ち葉みたいに飛んで行ってしまうのではないかとすら思えた。

「君との永遠は叶わない。だけど思い出は残る。……朝になるまでは、私は君の物だよ」

 肩に触れた彼女の頬がほんのり温かかった。何を望んでいるのかは流石に分かった。

 彼女の言葉を聞いた瞬間、呑まれてしまえと囁く僕が心の内に現れて、まだそんな自分が残っていたのかと驚く。獣となった僕に肉体の主導権を渡した場合の未来を想像するのは容易かった。野外とか雪が降っているとか、そんな事はもはや思案の外で、彼女の全てに僕というものを永遠に刻み付ける。それができたなら、どれほどの悦楽を得られるだろうか。彼女がどれほど救われるだろうか。いっそ二人でそのまま凍え死んでしまうのも悪くないとさえ思う。

 さぁ、代われ、と獣が僕に問いかけた。

 答えは、否だ。

 僕は肩に乗った彼女の顔を見た。うん、やっぱり綺麗だ。人ではないんじゃないかとさえ思ってしまう。自身を六等星みたいなものだと彼女は言った。それは間違いないだろう。けれど僕からしたら、彼女はどんな一等星よりも美しかった。

 そんな彼女を、今日の残り数時間だけ享受するなんて、これほど愚かなことがあるだろうか。

「じゃあ、約束をして欲しいな」

「約束?」

 彼女が目だけ動かして僕の顔を見上げてくる。望みは叶わないとおそらく悟っただろうに、彼女は不満そうにも悲しそうにもせず、いつも通りの様子でいてくれた。

「君がこれから色んな所で星を見ていくように、僕もこれから色んな所へ行くよ。そして、またどこかで出会えて、そのとき僕達がもう大人になっていて、まだ六等星のままだったら……ずっと一緒にいよう。今日選べなかった永遠を、その時に選ぼう」

「また出会えた時、まだ私達が子供だったら?」

「その時は……」

 思考する中、彼女の輝く瞳が僕を見つめてくる。こんな綺麗な瞳だったのかとそこで知った。これ以上を求めなかったから知らなかったのだ。

 思いついた。

「名前を教えて欲しい。君の名前をその時に」

 すると彼女はふわりと笑った。雪のように柔らかで溶けていくような笑顔だった。

「君の名前も教えてくれる?」

 僕が頷くと、彼女は僕の肩から頭を持ち上げた。

「ごめんね。刹那主義はよくなかった」

「気にしてないよ。流れ星も悪くない。でも僕たちには永遠の方が合うだろうと思っただけだよ。お互い六等星なんだから」

「そうだね。違いないや」

 彼女は空を見上げた。いつのまにか雪が止んでいて、僕も彼女に倣って顔を上に向ける。雲に隠れていた星々は変わらずそこで美しく輝いていた。

 自然と僕は星を繋げて、冬のダイヤモンドを目に映す。彼女もそうだったらいいと心から思う。

 彼女の声が聞こえた。

「おかげで、可能性は消えたよ」

 何度も聞いた冷たい声は、今までで一番光に満ちていた。だからそれに答えた僕の声も、今まで聞いたことがないくらいに明るいものだった。

「僕もだよ。ありがとう」

「こちらこそ」

 それから僕達は別れるまで、手を握ったまま星空を見上げていた。

 

 

 

 あれから今日も、星の数ほどいる人間の中から、最も愛した地上の六等星を僕は探している。

 



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