うっきーと猿と狗 (くらうす)
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浦上と宇喜多

死ぬまでに書いてみたかった歴史小説に挑戦する


色々と連載してるが、全部ケリをつけるつもり



とりあえず、我が故郷岡山を題材にしてみる



ノンフィクション風味ですが、所々オリジナル入ってますので予めご了承下さい


皆様は戦国時代と言えば誰を想像されるだろうか?

 

 

 

天下布武を目指し、日の本に大勢力を築いた稀代の英雄織田信長?

 

その信長の跡を継ぎ、戦国時代において初めて天下を統一した豊臣秀吉?

 

信長や秀吉に我慢強く仕え続け、最終的に約三百年にも渡る長期政権を作るに至った徳川家康?

 

 

他にも綺羅星のごとき将星が存在したのが、戦国時代という時代であると思う

 

 

 

 

今回の話はとある人物に仕え、その数奇な人生を送った一人の男の話である

 

 

 

もし、興味が湧いたのであれば御覧頂けたなら幸いである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時は天文20年

 

 

尾張では織田信長の父、織田信秀が死去し、うつけとの評判のあった吉法師が織田信長と名を改めて家督を継いだ

 

周防では西国で屈指の影響力を誇っていた大内家当主、大内義隆が家臣である陶隆房(すえたかふさ)により攻められ、長門大寧寺(ながとたいねいじ)にて自害。これにより、豊後大友に居た大内家一門、大友晴英(おおともはるひで)を大内の新当主とした

 

 

 

 

その頃の天下の中心であった畿内においては、三好長慶(みよしちょうけい)は管領細川晴元と同族であり嘗て敵対していた細川氏綱を擁立していた

 

この時代における畿内の混迷は尋常でなく、例え将軍であろうと山城国はおろか、畿内から追われる事すらあり得た

 

 

前述の三好長慶とて元は細川晴元の家臣であったが、晴元家臣の三好政長との不和により、敵手であった細川氏綱方に付くことになっている程である

 

細川家は管領を務める程の大家であり、三好とて阿波、讃岐、淡路に所領を持つ四国では最大の勢力

 

それでも畿内では翻弄されるのだから、当時の混迷の程もうかがい知れるのではないだろうか?

 

 

 

播磨では播磨守護、赤松氏が別所、小寺等を従え旧家臣であり、備前、美作の国主である浦上氏と敵対していた

 

 

 

 

 

 

 

そんな状況の最中、此処備前に一人の若者がいた

 

 

彼の人の名は五郎

 

 

浦上家当主、浦上政宗に仕えている一人の足軽であった

 

 

 

 

浦上家は備前、美作、播磨の一部にも勢力を伸ばしている大名である

 

こう聞けばそれなりの勢力を誇っている様に聞こえなくもないが、実際には周辺勢力を考えるとそこまで安寧していられる状況にはなかった

 

 

目下敵対している旧主家筋の播磨赤松家は所領こそ播磨一国であるが、その播磨は畿内に近く、瀬戸内の海運もある

 

畿内での有事の際には兵を動員出来る為に中央への影響力も軽視出来ず、経済力も有るために動員力自体もある

 

 

現在こそ畿内の三好や丹波の波多野などが抑止力となり得ているが故に、浦上へ全力を出せない状況になっているが、浦上方としては決して安全とは言い難かった

 

 

西の備中三村家とは備前、美作を争う間柄であり、浦上家の頭を悩ませていた

 

しかも、更に西方の安芸の雄毛利の支援も多少とはいえ得ている。現状、毛利とて周防、長門の大内や出雲、石見の尼子と予断を許さない情勢であるから大規模な援助こそないが、将来的には危うくなる可能性を秘めていた

 

 

さりとて、出雲の尼子と結ぶには此方も美作を虎視眈々と狙っており、同盟関係の構築など現状では難しいと言わざるをえない

 

 

 

というよりも、浦上家の所領つまり備前、美作、播磨

 

この何れにも明確な敵がいるのだから、今の浦上家は非常に不安定な状態であるといえた

 

 

本城である天神山城は備前の東部に位置しており、播磨との国境にも近い

 

支城こそ幾らか存在するものの、大規模な兵を擁するのは此処のみであった

 

 

 

 

 

そんな浦上家に仕えているのが五郎であった

 

 

仕えている等と言っても、戦争の時に集められる農民兵であり、平時は畑を耕していた

 

別に彼に特別秀でた所は一つしかなく、少しばかり好奇心旺盛な若者である

 

 

 

そんな五郎であったが、彼は浦上家の中で異質な物があった

 

 

 

 

 

天神山城下、宇喜多直家の屋敷にて

 

 

「ふむ、種子島とな?」

 

上座に座る男の名は宇喜多直家

 

浦上家では重臣とは云えずとも、決して家中における影響力は無視出来ない人物であった

 

 

「どうも弓等とは勝手の違うものらしいですな」

 

直家と話をしているやや痩せ気味の男は戸川秀安(とがわひでやす)

 

直家が信を置いている家臣の一人であった

 

 

「して、その種子島とやらは役に立つのか?

立つとして直ぐに揃えれる物か?」

 

 

「殿、それは難しいかと思われまする」

 

直家の疑問に否定の意見を述べる長身の男は長船貞親(おさふねさだちか)

 

秀安と同じく直家に近侍している男である

 

 

 

「難しいか」

 

「そも種子島とやらは薩州の島津とやらが公方へと献上した物が全てとの事らしいのです

聞いた話によると、公方に献上されたのは二つのみとか」

 

「うぬ、それでは役に立たぬではないか、貞親殿」

 

秀安が不満そうな声をかける

 

 

「この備前国の鍛冶師に頼むにせよ、原型が無くば意味があるまいに」

 

 

「それくらい解っておるわ

今は堺に行ってもらっておる家利の帰りを待つ他あるまいて」

 

「うむむむ」

 

 

問題を挙げる秀安に貞親は家利の帰りを待つ事を提案した

 

 

 

利勝とは岡家利(おかいえとし)という人物であり、秀安と貞親と共に直家を支えている人物である

 

文武に優れ、且つ治水開墾にはかなりの才をもっているとされていた

 

 

事実、小さいながらも直家に所領が与えられていたが、この領内における治水事業の全てを統括しているのが岡家利という人物であった

 

 

 

 

 

「秀安殿も貞親殿も落ち着かれよ

斯様な物言いでは話し合いにもなるまいに

兄上、如何なさるおつもりか」

 

 

秀安と貞親が互いに険悪になりかかった時、直家の側にいた小男が二人に落ち着くよう諭した

 

 

 

「忠家殿」

 

 

険悪になりつつあった二人を諌めたのは宇喜多忠家、直家の別腹の弟であった

 

 

 

 

彼ら宇喜多兄弟は元々、砥石城主宇喜多能家(うきたよしいえ)の孫であり、能家の息子宇喜多興家(うきたおきいえ)の子息であった

 

 

直家たちの祖父である能家は赤松家の家臣であった浦上村宗(うらがみむらむね)の家臣だった。だが、紆余曲折の末、播磨にて当時敵対していた細川晴元等と後背をついた赤松家により、戦死した村宗の後を継いだ浦上政宗の時に浦上家臣の島村盛実等により祖父能家は暗殺されたとされる

 

そして居城であった砥石城を追われ、放浪の末父興家も死亡する

 

その後直家達は浦上家に帰参し、当主政宗の弟である浦上宗景に仕えていた

 

 

近年美作に兵を頻りに出してくる出雲の尼子への対応を巡り、当主政宗と直家の主君宗景は対立していた

 

政宗は旧主である赤松を見限り、出雲の尼子にじゅうぞくしようとしていた

 

だが、これに宗景は反発し、美作を巡って対立していた筈の三村、その後援である毛利との同盟を果たした

 

 

結果、浦上家中は二つに分裂することとなった

 

 

現在直家の屋敷のある天神山城は政宗側から奪取した拠点であり、速やかなる戦力化を進めているさなかであったりもする

 

 

 

 

直家が浦上宗景に仕えた理由は帰参のみに非ず、祖父の仇である島村一党を始末する為である

 

祖父を始末した島村盛実(しまむらもりざね)はあろうことかそのまま砥石城主に収まっており、直家たちの怒りは留まる所を知らなかった

 

 

だが、御家騒動の最中に私怨を果たせば主君宗景の不興を買うのは必然

 

故に直家は家臣の前でしかこの話をしたことが無かった

 

 

 

 

 

だが、直家は昨日呼び出された

 

 

 

 

「面をあげよ、直家」

 

「はっ」

 

奪取したばかりこ天神山城の城主の間にて直家は宗景と対峙していた

 

 

直家は今後の戦の事である。そう疑ってなかった

 

 

 

 

だが

 

 

「直家よ、盛実は許せぬか?」

 

 

 

直家はあの時呼吸を少しだけとはいえ、忘れた

 

 

 

 

 

 

目の前に居るのは誰だ?

 

自分達の本意が漏れぬよう細心の注意を払っていた

 

 

話すときには必ず信頼のおける人間に目を配らせていた

 

裏切り者がいるとは考えにくい

 

 

 

となれば、何時知ったのか?

 

直家の考えは千々に乱れた

 

 

 

 

「ふむ、混乱しておるか

案ずるな。儂以外で気付いている者がおる様子はない」

 

冷めた眼で直家に語る宗景

 

 

 

「・・・・・・・・はっ」

 

直家は解っていなかった。浦上家の人間を軽んじていた

 

 

 

 

だが、浦上家とて主家であった筈の赤松を追い詰めていた家である

 

大物(だいもつ)にて破れこそしたものの、畿内の大勢力たる細川に挑む事すら出来ていた家なのだ。無能が一門筆頭を務められる筈もない

 

 

理解した瞬間、直家の背中に冷や汗が伝う

 

確かに自分達宇喜多家は目の前にいる男の軍勢の中で重きをなしていた

 

 

何れは浦上を乗っ取ろうとも考えた事がないとは言えない

 

 

だが

 

 

 

「まぁよい

どうやら盛実を始末したいようだな」

 

直家の態度を見て宗景は確信した

 

だが、それすらどうでも良さそうにも見える

 

 

「と、殿」

 

 

「今はするでない。後に機会をやろう」

 

動揺する直家など眼中にないと言わんばかりに宗景は言い放った

 

 

 

 

 

 

「殿?」

 

「兄上?」

 

思考に耽っていた直家は呼び掛けられ、やっと思考の海から戻った

 

 

「すまぬな

しかし、だ。良くもまぁ、種子島とやらを知っていたものだな」

 

直家は話題を戻した

 

 

「聞くところによると、花房殿の部隊にてその様な話をしていたとか」

 

「ほぅ、又七郎の所でか」

 

忠家と直家の会話に出てきた人物は花房正幸(はなふさまさよし)。宇喜多家のみならず、浦上家中においても随一の弓の名手である

 

 

更に彼の率いる弓隊も精強無比であり、この部隊に対抗できるのは佐々木源氏の血を引く近江の六角家くらいといわれていた

 

 

その花房隊に五郎は属していた

 

だが、残念ながら彼の弓の腕は部隊において平均の水準であり、取り分け優秀とは言い難かった

 

 

 

が、この五郎という男はつくづく変わり者であり、農閑期の実家から飛び出して農繁期には戻るという事を繰り返していた

 

 

初めの頃こそ家族は止めていたものの、幾ら言っても無駄と判断した父親は何も言わなくなった

 

 

幸いにも彼は名前の通り五男であり、食い扶持を一時的にとはいえ減らす事に母親も渋々同意し、家の畑を継がない事を条件に兄達の同意も取り付けた

 

既にその頃には、浦上家にて足軽紛いの事をしていた為にそれなりの収入もあり、その一部を実家に入れる事を以て彼は自由に動ける事になった

 

 

勿論だが、他の家からの評判など最悪であり、『悪童』『不幸もの』等と散々な陰口を叩かれていたが、当人は気にしてもいなかった。何故か村長からはそれなりに信用されていたが

 

 

 

というのも、彼の村は兎に角誰も戦に行きたがらない

 

では落ち武者狩りはどうか?と言っても、これもしない

。この時代の農民にとって落ち武者狩りは臨時収入を手に入れる好機なのだが、それすら行わない

 

 

村長は嘗て戦に出て、足を斬られて足軽働きが出来なくなった。だから村長をしている。だが、それを知った村人は臆病風に吹かれてしまい、以後は五郎以外で戦に出なくなっている

 

 

 

五郎は新しいモノが好きだ

 

 

はっきりいえば、同じ作業の繰り返しである農作業に飽きるのは早かった

 

だからこそ、彼は天神山城下にて商人から堺の話を聞き、居ても立ってもいられなくなったのも当然である

 

そして少しばかりの冒険の末に堺へと辿り着いた

 

 

 

五郎は歓喜した。自分達の村では一生かけたとしても見れないだろうモノを多く見た

 

蔵に積まれた米、頻りに走る人々、髪や目の色の違うナンバンジンという人々に彼等が説くナンバンシンキョウとやら

 

その全てが五郎を魅了した

 

 

だが、五郎が最も衝撃を受けたのは天に響かんばかりの轟音だった

 

 

 

 

当然、五郎はそれに興味を覚え、探し回った

 

 

そしてとある鍛冶師の所で見つけたのだ、種子島を

 

 

 

 

 

興奮した五郎は鍛冶師に詰め寄り、あれは何だ?と質問攻めにした

 

五郎の剣幕に辟易した鍛冶師は早々に引き取って貰おうと、触りだけを話した

 

 

あれは弓よりも遠くから撃てる上に、威力もある。と

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、五郎は花房隊での調練の合間に知り合いに話した

 

それを偶々、正幸の直属の兵が聞き、正幸より貞親達に話が届いたのである

 

 

 

因みに五郎は種子島を求めたが、その頃やっと増産体制が整ったばかりであること、その増産した種子島の大半は紀州雑賀衆が抑えていたこと

 

残りの種子島も足利将軍家や細川家、三好家、六角家等が求めており、一介の農民である五郎に買える筈もなかったが

 

 

 

 

だが、今回は畿内に絶大な影響力を持つ細川家に一時的にとはいえ抵抗していた浦上家の使者であり、家利は交渉の末、一挺のみとはいえ手に入れる事が出来た

 

 

 

 

 

 

 

話を宇喜多屋敷に戻す

 

 

 

「ふむ、一介の足軽が種子島とやらを知っていたとはおかしな話よな」

 

直家は首を傾げた

 

「しかし、殿」

 

「兄上とて解っておるさ、秀安殿」

 

 

「して、種子島とやらは家利に任せになったのならばさておいて、今後は如何なさると?」

 

「ふむ、常山、岡山に兵を進めるとの事よ」

 

「「「おおっ!」」」

 

 

 

天神山は備前の東部に位置する城であり、今の瀬戸内市に位置している

 

岡山は現在の岡山市内にある岡山城であり、常山(つねやま)城は岡山城よりも南にある常山に位置する城である

 

現在こそ陸続きであるが、それは明治頃の干拓事業によるものであり、この頃は瀬戸内海に点在する城の一つのようである

 

 

 

「砥石については何と?」

 

「捨て置くとの事よ」

 

恐る恐る秀安は砥石について尋ねると、直家は憮然とした顔で答えた

 

「己!島村め

大殿につくつもりか!」

 

「でなくば、この天神山を取るのにもっと苦労したであろうな」

 

貞親の激昂を聞き流しながら、直家は思った

 

 

(私の真意を知っておる殿はこう言っていたな「『今は』するな」と

そう言うことか)

 

 

 

 

直家は他の三人にわからない様に口元に笑みを浮かべた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天文20年

 

 

浦上政宗は尼子に臣従を目論むも、浦上宗景はこれを咎め、三村、毛利との同盟により西方の安全を確保。政宗排除を敢行する

 

政宗方は赤松、尼子に支援を求めるも、逆に赤松は政宗領であり、旧領である西播磨へ侵攻。尼子は政宗方の支援に動こうとするも、周防大内における大寧寺の変により混乱した大内を放置。それを行った毛利による出雲攻勢の報により、出雲から出兵することを断念することになった

 

 

備中三村の支援を受けた宗景は年始めに天神山を攻略。常山、岡山や備前の有力国人衆である金光(こんこう)氏や松田氏を味方につけ、政宗方を圧倒した

 

 

此処に浦上内乱は終結し、新たに宗景が浦上当主となることになる

 

 

 

 

 

 

だが、これはこれから始まる動乱の序章に過ぎなかった

 

 






幾つか補足をば

戸川秀安と記載しましたが、富川との説もあります

が、今回は通りの良い戸川としております

宇喜多忠家は史実だと、興家が放浪中に生まれたとされていますが、それも変更しております


赤松や細川、毛利等についての補足は次回しますのでご了承下さい


鉄砲伝来について

色々な諸説があるためにオリジナル展開となります

公方に二挺献上とありますが、史実では薩摩の島津で製法を紀州の芝辻清右衛門が学んだという説があります

こちらもオリジナルですのでご了承下さい


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状況整理

当時の中国地方の情勢の説明会



毛利辺りはオリジナル解釈がございます


天文20年に何が起きたかは前話で多少触れた

 

 

今回は舞台である備前中心の情勢を語りたいと思う

 

 

非常に面倒だとは思うが、宜しければ御覧下さると有難い

 

 

 

 

 

先ずはメインの浦上家と旧主赤松家

 

 

浦上家は元は赤松家の家臣であり、宗景の父にあたる浦上村宗は播磨赤松の重臣であった

 

その頃の浦上家は播磨赤松の家臣でありながらも、備前、美作に勢力を持つ武家であり、播磨一国を事実上支配していた赤松宗家にこそ劣りはするが、筆頭重臣と言っても良い立場であった

 

 

村宗の主君赤松義村は赤松家の中興の祖ともいえる人物の一人であり、守護赤松家を戦国大名にするべく赤松家に権力を集中させるために手を尽くした

 

だが、この動きを嫌った浦上村宗は所領である備前へと戻った

 

これに激怒した義村は手勢を率いて、村宗の影響力の強い備前、美作を攻略せんとしたが、村宗とそれに同心する国人衆や村宗家臣であった宇喜多能家は猛反撃を行い、これを撃退する

 

のみならず、西播磨へと逆侵攻をかけ、西播磨の一部を制圧してしまう

 

 

この敗戦により、義村は隠居することとなり、僅か八歳の息子、政村に家督を譲らさせられる

 

 

以後も幾度となく反浦上の兵を挙げるも、遂にこれに打ち勝つ事叶わず、最後は村宗の手の者によって暗殺される事となった

 

 

が、浦上家の隆盛も長くは続かず、幼年であった政村を思いのままに操ろうとするも上手くいかず、最後は細川家の争いに荷担し、細川高国方として細川晴元、三好政長(三好長慶の父)と対峙中に赤松政佑(政村が改名)の裏切りを受けて尼崎大物にて敗北(大物崩れとも)。その後戦死する

 

 

浦上村宗を除いた政佑であったが、当然の如く村宗の跡をついだ浦上虎満丸(後の政宗)と幾度となく対立するも、出雲の尼子侵攻を機に和睦する

 

 

しかし、政佑が将軍より晴政の名を与えられ、虎満丸も政宗と改名して暫くすると、政宗は赤松家の中で筆頭家老としての地位を築く

 

赤松家内での立場も築き上げた政宗であったが、再度出雲の尼子が美作に侵攻してくる事により、弟の宗景と意見が対立

 

この頃には赤松晴政も政宗を疎ましく思っていたらしく、政宗は侵攻してくる尼子に臣従しようと試みる。

 

が、これは宗景側に露見し、宗景は三村、毛利との同盟を画策。更に政宗を疎んじていた晴政に対し、占拠していた西播磨の返還を条件に和睦を提案する

 

三村の後援をしていた毛利はこの時期拡大傾向にあったとはいえ、出雲の尼子は独力で相手するには危険と判断。三村に対し、浦上との同盟を要請し毛利もまた浦上と対尼子において協調することとなる

 

周防の大内において変事があったといっても、容易に兵力を山陽方面から引き抜けない毛利は手の者である忍び衆を用い、尼子を出雲に釘付けにすることに成功した

 

 

一方、晴政は浦上領であった西播磨を合法に取り戻す好機と判断。宗景の提案を是とし、西播磨へと侵攻した

 

 

政宗は頼りにしていた筈の尼子、赤松双方の協力を得られぬばかりか、政宗方であったはずの有力国人松田氏が宗景方に寝返ってしまう

 

更に天神山、常山、岡山が立て続けに落ちてしまい、政宗は已む無く嘗て落ち延びた淡路へと再び落ちる事となった

 

 

この後、浦上と赤松は相互不干渉とする事で合意する事になる

 

 

 

 

 

では毛利はどういう状況であったかというと、毛利のみではないが、後世に伝わる大名というものは言い方は悪いが成り上がりばかりである

 

織田しかり、松平もとい徳川、島津、毛利、長尾改め上杉。

 

毛利は元は安芸の一国人にすぎず、かの毛利元就公とて壮年に差し掛かってから所領を拡げる児とが出来た

 

 

これは毛利が弱かったのではなく、周辺勢力が強すぎたといえるだろう

 

 

出雲、石見に勢力を持つ尼子。周防、長門、豊前にまたがる勢力を誇る大内

 

どちらも当時の西国を代表する大勢力であった

 

 

 

 

だが、元就は只管に耐え抜いた

 

時に尼子につき、時には大内についた

 

元就の長男隆元の隆は大内当主義隆より与えられた物である事からも当時の毛利と大内の力関係は推察出来よう

 

 

 

先ず崩れたのは尼子であった

 

 

『謀聖』と呼ばれ、元就も畏怖していた尼子経久が没したのだ

 

その跡をついだ晴久とて決して暗君ではなかった

 

が、彼の人は若すぎた

 

 

そこで当時尼子主力だった『新宮党』を当主晴久の猜疑心を煽る事で誅殺させる事に成功させる

 

 

これにより、晴久への求心力は目に見えて減るばかりか、尼子国人の中には毛利に好(よしみ)を通じる者も出てくる事となった

 

 

だが、元就は足りないと感じた

 

 

そこで、以前失敗した美作攻略を好を通じてきた国人からそれとなく提案させた

 

 

 

 

毛利の持っている戦線は出雲の尼子と周防、長門の大内である。

 

だが、もう一つ存在する

 

 

毛利と同盟している三村と浦上の戦線だった

 

 

 

 

此処で元就は尼子を弱らせながらも、敵対関係になりつつある浦上との関係を修復しようと考えた

 

 

 

それが尼子による美作侵攻である

 

 

浦上の家中が割れているとはいえ、美作を護ろうとする。そうなれば方法は二つ

 

尼子に従属するか、戦うか

 

 

 

従属したとして、今の尼子に浦上を護る事が果たして期待できるか?

 

 

出来るかも知れぬ

 

が、そうはさせぬ

 

 

 

元就は三村に対して尼子の隙を伺う事を禁じ、静観に徹した

 

 

 

 

 

 

 

 

果たして元就の策は成った

 

 

浦上当主の弟が毛利と三村との同盟を望んできた

 

加えて丁寧にも赤松の動きを誘導する策も披露したのだ

 

 

 

元就は渋々といった表情こそしていたが、内心で安堵していた

 

 

 

これで尼子の戦力を削る事が出来ると

 

 

 

 

だが、浦上の使者宇喜多直家は言った

 

 

「殿は毛利元就様に一つお願いがある」と

 

 

元就は後に息子達に語った

 

 

「あそこは静観すべきであったわ

策を弄した結果、浦上に持っていかれたわ」

 

 

 

 

宗景は毛利に兵力を要請しなかった

 

 

ただ噂のみを流してほしい。そう願った

 

断れなかった。兵力を動かすならともかくとして、噂一つ流せぬとの風評は毛利にとって致命的とまではいかないが、今後の差し支えになると理解していたから

 

 

 

 

結果、浦上は三村との関係をある程度修復し、尼子侵攻を挫いたという武名を手に入れた

 

当主を武力で追放した宗景にとっては何よりの風評であろうと元就は理解した

 

 

 

 

 

 

大内は毛利が散々煽った事もあり、武断派と文治派の対立は激化の一途を辿っていた

 

 

折しも双方に顔を聞いていた冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)が突如亡くなっており、武断派の陶隆房(すえたかふさ)は文治派の相良武任(さがらたけとう)を誅殺。隆房は義隆に対して幾度も文治体制を改める様に迫った

 

 

しかし、義隆は養子であった大内晴持(おおうちはるもち)の死後、政治から遠ざかっておりこれをついに改める事はなかった

 

 

 

業を煮やした隆房は義隆に対して謀反をおこす

 

 

結果、周防大寧寺にて義隆は自害

 

 

 

大内一門でもある大友にいた大友晴英を周防に招き、大内義長として大内の当主とする

 

 

 

 

 

 

毛利にとって都合の良い事に毛利を圧迫していた尼子、大内が弱体化したのだ

 

しかも浦上は尼子に侵攻されかけた以上、尼子を放置出来ない事は明白

 

 

 

元就の次の手は決まった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この様に当時の戦国時代は奇々怪々のとんでもない時代であり、織田信長台頭後に比べると正に魔境いえる情勢であったことは御理解頂けたのではないだろうか?

 

 

 

 

 

次回は再び浦上と宇喜多のお話に戻りたいと思う

 

 

 

 

 

お付き合いありがとうございました

 

 






英雄と云われる人物がまだ歴史の舞台に上がっていない時にも、色々とあったという話





では駄文でしたが、御一読ありがとうございました


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