過去からの客 (紫 李鳥)
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 新庄に住む松田羽留子(まつだはるこ)の許に、鬼怒川で温泉宿を営む芦川行弘(あしかわゆきひろ)からの同窓会の返事が届いたのは、山吹が咲き乱れる頃だった。

 

 

 

拝啓

 春浅き山には雪を見

春深き里には菜の花を見

早春と晩春の間で

せせらぐ川が一本の帯を成しています

 ご無沙汰しています

その後お変わりありませんか

私は相も変わらず安宿の主として

貧乏暇なしと言った具合です

折角の同窓会のお誘いですが

残念ながら出席できそうにありません

皆に宜しくお伝えください

取り急ぎご返事まで

 お風邪など召しませぬよう

ご自愛ください

       敬具

 

 

 

「残念だわ……」

 

 読み終えた羽留子がぽつりと言った。

 

「……何、同窓会の返事か?」

 

 炬燵(こたつ)蜜柑(みかん)を剥いていた高志(たかし)一瞥(いちべつ)した。

 

「うん。……今は旅館経営すてるんだげど、彼高校卒業すて東京さ行ってがら一回すか会ってねの。それも偶然さ。あなたと出会う前だがら、……二十年になるわ。彼が結婚の報告で実家さ来でだ時さ。結婚すたごど誰にも教えねんだがら……」

 

 羽留子は丸顔を更に膨らました。

 

「友達付き合いじゃなかったのか?」

 

「そのづもりだったわ。彼、友達も多いっけす、私もその一人だど思ってだ。……彼、無口だったんだげんと、どごどなぐ惹がれるものがあったわ……」

 

 羽留子は当時を回顧(かいこ)するかのように天井を仰ぐとにやりとした。

 

「……ふうん。ま、旅館を()ってれば仕方ないさ。大きな旅館なら誰かに後のことを頼めるだろうが、小さな旅館なら難しいさ」

 

「そりゃそうだべげど……」

 

 羽留子は残念そうに口を尖らせた。

 

「……誰書いだのがすら」

 

 便箋(びんせん)を片手に独り言のように呟いた。

 

「ん?」

 

「女の人の字よね」

 

「奥さんにでも代筆してもらったんだろ」

 

「だって、新庄さ来だ人どは別れでるもの。三年前の手紙さ書いであったわ」

 

「再婚したかもしれないさ」

 

「……そうね。だったら知らしぇでぐれればいいげんど。冷でえんだがら」

 

 河豚(ふぐ)のように膨れっ面をした。

 

「やけにご執心(しゅうしん)だな」

 

「だって、手紙ぐらいぐれでもいいでねど思って。同級生だったんだがら」

 

 後ろめたさを隠すかのように早口で言うと、高志を瞥見(べっけん)した。

 

「……んだげんと、綺麗な字よね。私もこのぐらい書げだらな」

 

 便箋を持ったまま(つくづく)と言った。

 

「どれ、見せてみろ」

 

 最後の一個を口に放ると、羽留子から便箋を受け取った。

 

 

 

 その筆跡を見た途端、高志の中に稲妻が走った。当時の光景が連写のように、パチパチパチパチとシャッター音と共に現れた。それは決して美しい映像ばかりではなかった。(むし)ろ汚泥にまみれた記憶だった。どろどろしたコールタールの底なし沼でもがくがごとく。――

 

 

「……あなた?」

 

 羽留子の声でハッとした。

 

「どうすたの?」

 

「……どうもしないさ。ま、無理だな。右下がりのお前の癖字は直らないだろ。この字をお手本に写経のように練習すれば、多少は(うま)くなるかも」

 

「もう、嫌味なんだがら。んだげんと、いい考えがも」

 

 楽天家の羽留子は、すぐに気を取り直すと、炬燵の真ん中に置いたフルーツバスケットから蜜柑を一つ取った。

 

 高志は、三つ折りにした便箋を入れながら、封筒の筆跡も確認した。

 

 ……間違いない。あいつの字だ。やはり、あいつにも癖があった。せっかちの性分同様に、楷書より行書が巧かった。自作の脚本を代筆してもらった時に、何度も目に焼き付けた筆跡だ。間違いない。高志は、当時を回顧した。――

 

 

 

 大学を卒業して、取り敢えず就職した。だが、好きな芝居を諦めきれず、一年足らずで会社を辞め、新劇の役者になった。バイトをしながら、友人、知人にノルマのチケットを無理矢理押し付け、それでも役者を続けていた。

 

 だが、五年経っても日の目を見ることはなく、取るに足りない脇役止まりだった。素質のなさを自覚しながらも、「好きな芝居をやれてるだけで幸せじゃないか」そんな激励で、自分を慰めていた。

 

 

 あれは、六本木のスナックでキッチンのバイトをしている時だった。そこは新劇の演出家が営っている店で、役者仲間の口利きで働けた。たまに顔を見せる演出家の妻は、有名な連ドラにも出演していた中堅の俳優だった。

 

 他にバイト感覚の若いホステスを二人置いていた。一人は十七、八のソース顔の沖縄の子。もう一人は、どこの出身かは知らないが、いつもツンと澄まして、俺とはろくに口も利かない気の強そうな十八、九の子だった。名前を順子(じゅんこ)と言った。

 

 だがよりによって、その順子と関係ができたのだ。閉店時間が過ぎても帰らない客を相手にして、最終に乗り遅れたのがきっかけだった。沖縄の子が休みで、二人だけだった俺達は、始発まで近くの〈アマンド〉で時間を潰した。

 

 ハキハキと物を言う、小生意気そうな第一印象とは違って、俺の前で寡黙(かもく)にミルクティーを飲む順子の、ふと見せる寂しげな表情に惹かれたのかもしれない。

 

 初めて順子を抱いたのは、友人の家でだった。当時の俺は、食うのに精一杯でラブホテルに行く金もなかった。二十八にもなりながら、恋愛経験の少なかった俺は、若い順子の肉体に溺れた。

 

 間もなくして、一緒に暮らすことになった。友人宅にでも居候していたのか、それとも男の部屋から逃げてきたのか、紙袋を両手に提げた身軽な格好の、まるで野良猫みたいな順子と、洗足池の風呂もない安アパートで同棲を始めた。――



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 あいつとはその順子のことだ。二十年以上も忘れていたこの感情は何だ。急に会いたくなった。あの、鼻っ柱が強い順子に会いたくなった。仮にこれを書いたのが順子じゃなくてもいい。順子と似た筆跡の持ち主に会ってみたかった。

 

 運送会社で長距離トラックのドライバーをしている高志には、家を空ける口実はいくらでもあった。

 

「――東京までだ。ついでに友達にも会うから、二、三日行ってくる」

 

「気付げでね。おみやげ楽すみにすてっから」

 

 生成色(きなりいろ)のセーターに花柄のちゃんちゃんこを着た羽留子が、八重歯を(のぞ)かせた。

 

 

 いつものように、会社まで使う自家用車に乗ると、見送る羽留子に手を挙げた。――駅前の駐車場に車を置くと、新幹線に乗った。――新宿で野暮用(やぼよう)を済ませると、東武鉄道で鬼怒川に向かった。

 

 封筒にあった〈郁清荘(いくせいそう)〉までの足はタクシーか、一時間待ちのバスしかなかった。メモ用紙に書いた宿の名を観光案内で言って、行き方を教えてもらうと、景色を堪能しながら歩いた。

 

 予約なしだ。突然行って、順子の(はげ)しい感情を(あじ)わいたい。高志はそんな考えだった。

 

 春の山路は爽快だった。崖下の川辺には色鮮やかな山吹が咲き乱れ、黄色い帯のように続いていた。小さな橋を渡った正面にある〈郁清荘〉は、深山に身を隠すようにひっそりと佇み、茜色の空に染められていた。

 

 高志は胸の鼓動を抑えながら、人の声すらしない閑散とした宿から聞こえる包丁の音に耳をそばだてると、戸を開けた。

 

「ごめんくださーい!」

 

「はーい!」

 

 女の声が返ってきた。だが、その、はーいだけでは、順子かどうか判断できなかった。やがて、板張りの廊下をやって来るスリッパの音が近付いてきた。

 

 目の前に現れたのは、高志が描いたシナリオどおりの顔だった。高志を見るなり、順子は笑顔から一変すると、鳩が豆鉄砲を食ったように、瞬きのない丸い目を据えていた。

 

「……高志?」

 

 予期せぬ客に驚きながらも、当時の面影を手繰(たぐ)り寄せてみた。(びん)に白いものがあったが、少ししゃくれた(あご)も、柔和な面持ちも当時のままだと、順子は思った。

 

「ああ。久し振り。やっぱり君だったか」

 

「……やっぱりって?」

 

「山形に手紙書いたろ?松田羽留子は、俺の女房だ」

 

「え?嘘。ホントに?……すごい偶然。で、何しに来たの?」

 

「何しにって言い方はないだろ?君に会いたくてさ」

 

「泊まっていくの?」

 

 高志が提げた鳶色(とびいろ)のボストンバッグを視た。

 

「ああ。二、三日の予定だ」

 

「それはいいけど、名前とか住所とかどうする?山形の松田じゃ、あなただとバレちゃうし」

 

「そうだな。……じゃ、大田区の増田にでもしとくか」

 

「じゃ、ここに書いて」

 

 宿帳とボールペンを帳場から取ると、廊下の隅にあるテーブルに置いた。

 

「元気だったのか?」

 

 適当な住所と名前を書きながら、順子を見た。

 

「ええ。あなたは?」

 

「……あれから色々あったさ」

 

「こっち」

 

 高志の手からボストンバッグを受け取ると、階段を上がった。目の前にあるタイトスカートの腰回りは少しふっくらしていたが、整った容姿も、せっかちな性格も、当時のままだと高志は思った。

 

 

 高志の部屋を廊下の突き当たりにすると、窓際にボストンバッグを置いた。順子は窓を開けると、橋の下に浮かぶ山吹に目をやった。

 

「……順子」

 

「ん?」

 

 振り返ると、高志の顔が目の前にあった。

 

「……今、幸せなのか」

 

「ええ、幸せよ。あなたは?」

 

「……分からん」

 

「あっ、夕飯の支度しないと」

 

 思い出したように言うと、部屋を出た。

 

 

 高志との邂逅(かいこう)は、何故かしら順子を不安にさせた。二年間の高志との同棲生活は、紆余曲折(うよきょくせつ)として、すっきりしないものが介在していた。順子にとって高志は、恋人と言うより、(むし)ろ肉親に近い存在だった。だが、それも二十年前に終わっている。行弘と結婚して二年になる。子供はなかったが、順子は幸せだった。

 

「ただいまー」

 

 行弘が買い出しから帰ってきた。

 

「あ、お帰り。お客さん、一人増えたから」

 

 (ねぎ)を刻みながら言った。

 

「誰?」

 

「知らない。初めてだって。ぶらっと旅してて、ここ見付けたんだって」

 

 順子は早口で適当なことを言った。

 

「……ふうん。男?」

 

「うん、中年男。二、三日泊まるんだって」

 

「すげえ、上客じゃん。まとめ買いしてきて良かった」

 

「手、洗った?」

 

「これから。今帰ってきたばっかじゃん」

 

 行弘は、ぶつぶつ言いながら洗面所に行った。順子は肩の力を抜くと、葱を刻んだ。

 

 

 食堂のテーブルに料理を並べていると、

 

「皆さん、下で食べるんだろ?」

 

 と、厨房のテーブルで新聞を広げている行弘が訊いた。

 

「……ううん。一人のお客さんは部屋で食べるって」

 

「さっきの初めてって言う人?」

 

「ええ」

 

 運び盆に岩魚(いわな)の塩焼きや山菜の天ぷらを載せた。

 

「どんな人だ?」

 

「どんなって、普通の人よ」

 

 盆を手にすると、階段を上がった。

 

 

 行弘は、宿帳を開いてみた。

 

〈東京都大田区――

 増田武

 03――〉

 

 行弘は考える顔をすると、もう一度、宿帳に記された名前を視た。

 

 ノックすると、ドアを開けた高志が笑顔を向けていた。

 

「部屋じゃなくても良かったのに」

 

「駄目よ。主人にバレないようにして」

 

「何をそんなに心配してるんだ?」

 

「そういう言い方やめてよ。勝手に来といて」

 

 睨み付けた。無神経な高志に腹が立った。

 

「いい?分かった?ここに来た以上、私のやり方にして。じゃなきゃ、今すぐ帰って」

 

 他の客が食堂に下りて、二階には誰も居ないのを良いことに、順子は声を荒らげた。

 

「……分かった」

 

「すぐ食べるの?呑むの?」

 

「じゃ、ビールでも呑むかな」

 

 途端、高志が表情を緩めた。

 

「その代わり、一本だけね。酔うとボロが出るから」

 

「ああ。君の言うとおりにするよ」

 

 口角を上げた。

 

「にやけないで」

 

 順子は素っ気なくドアを閉めた。



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 食堂の三組の客に笑顔で一礼すると、厨房に戻った。テーブルに自分達のおかずを並べている行弘を横目に、ビール瓶とグラスを盆に載せた。

 

 

()いでほしい?」

 

「ああ」

 

 高志が嬉しそうにグラスを持った。

 

「最初の一杯だけよ」

 

 瓶を手にした。

 

「ああ」

 

 順子の顔を見詰めた。

 

「ゴクッゴクッ……。ふぁ~、(うま)い。一杯、どうだ」

 

 高志が返杯のグラスを差し出した。

 

「駄目よ、仕事中。それに、呑むと癖悪いもん」

 

「そうだっけ?」

 

 高志は手酌をした。

 

「覚えてないの?」

 

「いいことしか覚えてない」

 

「例えば?」

 

「ん?そうだな。……蓼科(たてしな)の友人の別荘に泊まったこととか、隠岐(おき)の島の民宿に泊まったこととか――」

 

「ああ、覚えてる。素潜(すもぐ)りでサザエ採って食べたね」

 

「ハハハ……。そうだよ。お前、泳ぎ得意だったもんな」

 

「ほら、お前って言ったよ。気が緩むとすぐボロが出るんだから、気を付けてよ」

 

 忠告すると、腰を上げた。

 

 

 厨房に戻ると、行弘が先に食べていた。

 

「何、やってんだ。遅いから先に食べてるよ」

 

「ビール勧められたから断ってたのよ」

 

 ご飯をよそうと、行弘の前に座った。

 

「どこから来たって?」

 

 味噌汁を(すす)りながら、行弘が上目で視た。

 

「……東京みたいよ。宿帳見なかったの?」

 

「二、三日泊まるなら、後で挨拶に行くか」

 

「行かないほうがいい」

 

「なんで?」

 

 ()に落ちない顔で、胡瓜(きゅうり)の漬け物を口に入れた。

 

「なんか、酒癖悪そうだから」

 

 だし巻きを頬張った。

 

「……お前、なんか変だな」

 

 行弘が疑う目を向けた。

 

「どうも、ごちそうさまでした!」

 

 食堂から声がした。順子は腰を上げると、物が入った口を手で隠しながら食堂に行った。

 

「どうも。お粗末さまでした」

 

「ほんに、美味(おい)しゅうございました。山菜あり、川魚ありで、久し振りに自然の幸を満喫しましたよ。温泉もいい湯でしたし」

 

 老夫婦の片割れが、朱色(しゅいろ)丹前(たんぜん)の衿元を整えながらそう言って階段の前で会釈をした。

 

「ありがとうございます。そう(おっしゃ)っていただけて、とても光栄です。どうぞ、お部屋でおくつろぎくださいませ」

 

「そうさせていただきます。お休みなさい」

 

「お休みなさいませ」

 

 頭を下げた。厨房に戻ると、食事の続きをした。

 

「な?お前、なんか変て」

 

 食後の煙草を()んでいた行弘が、煙たそうに目を細めた。

 

「何よ、さっきから変、変て。挨拶に行きたきゃ行けばいいじゃない。あなたこそ変よ」

 

「じゃ、行ってこ」

 

 煙草を揉み消すと、いそいそと腰を上げた。

 

 高志がボロを出さなきゃいいけど……。順子は危惧(きぐ)した。

 

 

 ドアをノックすると、

 

「はーい」

 

 高志が返事をした。

 

「あ、いらっしゃいませ、(あるじ)の芦川です」

 

 ドアを開けた高志が無表情の顔を向けた。

 

「これはこれは。初めてのお客様と言うことで、ご挨拶に伺いました」

 

「はい。あ、どうぞ」

 

 中に入れた。

 

「春の香りに誘われて、ぶらっと旅をしていたら、この宿があったものですから」

 

「当宿にお越しいただき、誠にありがとうございます。あれ?ビール空ですね。お持ちしましょうか」

 

「いえ。一本だけにしとかないと、後が怖いもんで。アハハハ」

 

「え?アハハハ」

 

 目が合った行弘は、意味が分からぬままにつられ笑いをした。

 

「どうですか、一緒に呑みませんか」

 

「えっ?」

 

 突然の誘いに、高志が驚いた顔をした。

 

「お一人でいらっしゃるお客様が少なくて、一緒に呑める人がなかなか居ないんですよ」

 

「……はぁ」

 

越乃寒梅(こしのかんばい)という、新潟の旨いのがあるんですが、日本酒は大丈夫ですか?」

 

「ええ、まぁ」

 

「じゃ、用意してきますね。冷やと(かん)、どっちが」

 

「……じゃあ、燗で」

 

「承知しました。すぐ用意しますので」

 

 行弘は自分のペースで事を進めると、出ていった。

 

 

 鼻歌交じりで下りると燗の用意を始めた。

 

「何やってるの?」

 

 皿を洗いながら訊いた。

 

「増田さんだっけ?一緒に呑むの」

 

「えっ?」

 

 唐突な返答に、順子は狼狽(うろた)えた。

 

 ……高志は酒が弱い。酔った勢いでボロを出す可能性がある。……どうしよう。

 

 順子の不安をよそに、行弘は小鉢とぐい呑み、二本の徳利を載せた盆を運んでいった。

 

 順子は洗い物を途中にして、水を止めるのも忘れていた。――二階の二人を気にしながら後片付けをすると、不貞腐(ふてくさ)れて布団に潜った。面白くなかった。一人だけ仲間外れにされたみたいで。あれほど呑まないと約束したのに。行弘の言いなりになっている優柔不断の高志に腹が立った。収まらない興奮のまま、何度も寝返りを打った。

 

 間もなくして、厨房から物音がした。行弘が追加の燗の支度をしているようだった。足音と共にドアが静かに開いた。

 

「……もう寝たのか」

 

 行弘の声だった。寝た振りをして返事をしないでいると、静かにドアが閉まった。(やが)て、階段を上がる足音が聞こえた。寝付かれぬままに、高志との思い出を手繰り寄せた。――

 

 

 

「シェークスピアをアレンジしてみようと思うんだ」

 

「例えば何?」

 

「うむ……、『ハムレット』とか」

 

「『ハムレット』って、デンマークの王子の話でしょ?“生きるべきか死ぬべきか”の」

 

「ああ。正確には“生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ”だけどな」

 

「それをどうするの?」

 

「喜劇にしてみるんだよ」

 

「例えば?」

 

「例えば……オフィーリアをブスにして、“尼寺へ行け”を“山寺へ行け”とかにしてさ」

 

「アハハハ……面白そう」

 

「な?台本書いてみようぜ。代筆、ヨロシク」

 

 

 

 

 ――そんな楽しい時期もあった。



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 二人はいい気分になっていた。

 

「ご結婚は?」

 

「……いや、独身です。若い頃に別れて、それ以来一人です。今流行(はや)りのバツイチってヤツです」

 

 高志は適当に脚色をした。

 

「じゃ、よほど忘れられない人だったんですね」

 

「ま、いいじゃないですか。旅先では別人になりたいものですよ」

 

 ボロが出るのを恐れた高志は、その話題にピリオドを打った。

 

「……なるほど。なかなかのロマンチストですね」

 

「いやぁ、ただの物好きですよ」

 

「お仕事は?」

 

「……脚本を書いてます」

 

 呑んだ勢いで、若い頃の夢の一つを口にしていた。

 

「脚本家ですか?だから、ロマンチストなんですね」

 

「そんなことはないでしょうが……。小さな劇団の脚本を書いています」

 

「いいなぁ、夢があって」

 

「それだけじゃ食べていけないから、小説にも挑戦して、出版社に持って行ったら、自費出版をお勧めしますって、(てい)よく断られまして。自費出版できるくらいなら、わざわざ出版社に持って行かないですよ。ハハハ……」

 

 高志は調子に乗っていた。

 

「ハハハ……。そうですよね。直接、印刷会社に持って行きますよね」

 

「その前に校正をしないと。ハハハ……」

 

「ハハハ……。あ、校正か。そうですよね、誤字脱字があると読みづらいですもんね」

 

「印刷する前に見付けると思いますけどね。ハハハ……」

 

「ハハハ……。ですよね。誤字脱字に気付かないで印刷したら読者からクレームが来ますもんね」

 

「その前に、本屋が店に置かないですよ。ハハハ……」

 

「あ、そうか。そりゃそうですよね。ハハハ……」

 

 酒で気分を良くした二人は、ボケとツッコミのように息を合わせていた。

 

 

 ――睡魔に襲われて間もなく、ドアの開く音がした。行弘だと思い、目を閉じたままでいると、アルコールの匂いと共にべとついた唇が重なってきた。

 

「う……」

 

 拒むように胸を押すと、顔を背けた。短い沈黙の後にドアを閉める音がした。相手の正体を明らかにしたくなかった順子は、目を閉じたままでいた。

 

 ……もしかして、高志かもしれない。そう思わせたのは、指先に触れた着衣の感触だった。行弘はカーディガンを着ていた。だが、指先に触れたのは、丹前のような生地だった。当時の高志のキスがどんなだったかは覚えていない。ましてや二人とも同じ酒を呑んでいる。順子には明確な判断ができなかった。

 

 

 翌朝、目を覚ますと行弘の姿がなかった。布団も昨夜敷いたままの状態だった。高志の部屋で寝ているのだろうと思い、客の食事の支度をした。

 

 

 重そうに頭を抱えた行弘が二階から下りてきたのは、客が帰った後だった。

 

「誰んちに泊まったの?」

 

 味噌汁を温め直しながら顔を向けた。

 

「増田さんち。いやぁ、呑んだな。最後は一升瓶抱えてコップ酒だよ。あ~、頭(いて)え」

 

「大声出したりして、お客さんに迷惑かけなかった?」

 

「大丈夫だよ、部屋離れてるから」

 

「ご飯食べる?」

 

「要らねぇ。味噌汁だけでいいよ」

 

 行弘は不味(まず)そうに吸っていた煙草を揉み消すと、順子が手にしたトマトジュースを飲み干した。

 

「お早うございます」

 

 がらがら声で高志が下りてきた。順子は高志から目を逸らすと、冷蔵庫から麦茶を出した。

 

「お早うございます。いや、(おそ)ようございますかな」

 

「アハハハ……」

 

 行弘のジョークに高志が笑った。

 

昨夜(ゆうべ)の続きですか?」

 

「いや、昨夜はすいませんでした。遅くまでお付き合いさせて」

 

 味噌汁を啜りながら行弘が頭を下げた。

 

「いえ。楽しかったですよ」

 

「……どうぞ」

 

「あ、恐れ入ります」

 

 高志は、順子が盆に載せた麦茶を手にした。

 

「お食事は?」

 

「あ、じゃ、いただきます」

 

 コップに口を当てた高志が見た。順子は目を逸らすと、

 

「では、食堂のほうでお待ちください」

 

 そう言って流しに立った。

 

「俺も食堂行こ」

 

 椀を持ったままの行弘が、腰巾着(こしぎんちゃく)のように高志の後をついて行った。意気投合した二人の笑い声を聞きながら、順子は複雑な気持ちだった。

 

 

 味噌汁を食べ終えた行弘は湯浴(ゆあ)みに行った。

 

「ったく。呑まないって約束したじゃない」

 

 行弘が居ないのをいいことに、順子が愚痴(ぐち)った。

 

「仕方ないだろ、勧められたんだから」

 

「ったく、意志が弱いんだから」

 

「……」

 

「余計なこと言わなかった?」

 

「……たぶん。な?俺と別れてからどうした?付き合ってた男とはうまくいったのか?」

 

 茶碗を持ったままの高志が上目で見た。

 

「何よ、そんな遠い昔の話。すぐに別れたわ」

 

「……お前は浮気っぽかったからな」

 

「ほら、またお前って言ったわよ、もう。おかわりは?」

 

「もう、いい」

 

「じゃ、お茶()れるわね」

 

 茶葉の入った急須にポットを傾けた。

 

「……順子」

 

「ん?」

 

「……話があって来た」

 

 深刻な顔を向けた。

 

「何?話って」

 

「覚悟をして来たんだ。女房と別れる。だから――」

 

 その瞬間(とき)、咳払いと共にスリッパの音がした。順子は咄嗟(とっさ)に腰を上げると、茶碗を重ねた。

 

「あ~、いい湯だった」

 

 行弘がわざとらしい声を出した。

 

「増田さんもどうですか?ひとっ風呂浴びては」

 

「じゃ、そうしますか」

 

 高志は湯呑みを置くと腰を上げた。短い静寂(せいじゃく)の中に、遠ざかる高志のスリッパの音が消えた。途端、行弘が順子の腕を掴んだ。

 

「痛っ」

 

 行弘は無言で順子の腕を引っ張ると、部屋に連れ込み、敷きっぱなしの布団に押し倒した。

 

「何よ、どうしたの?」

 

 目を丸くした。行弘は返事もせずに服を脱ぐと、順子に重なった。そして、唇で順子の口を塞ぐと、スカートの中を(まさぐ)った。――



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 行弘は俯せで煙草を()みながら、

 

「……お前とは別れないからな」

 

 そう、ぽつりと言った。

 

「……」

 

 感付いている……。順子は思った。

 

 

 高志が文庫本を片手に散歩に出たのを見計らって、散らかった座卓の片付けと掃除をした。

 

 ――献立の下拵(したごしら)えをしていると、二組の予約客がやって来た。

 

「増田さんと一緒に食べるから」

 

 行弘はそう言って、酒盗(しゅとう)と適当な(さかな)を盆に載せると、一升瓶をぶら下げて二階に行った。

 

 順子にはどうすることもできなかった。行弘のやりたいようにさせるほか、(すべ)がなかった。

 

 

 温泉から上がった客は、旬の料理を平らげると満足げに部屋に戻った。その夜も、行弘は高志の部屋に泊まった。まるで、高志を軟禁するかのように……。

 

 

 行弘が下りてきたのは、朝食を済ませた客が帰った後だった。

 

「また、増田さんち?」

 

 不良息子を(とが)めるような物言いで、トマトジュースを手渡した。

 

「……まぁね。なかなか話が面白くてさ。気が付くと朝」

 

 行弘も小学生並みの返事をすると、悪ガキみたいな目を向けた。

 

「……お客さんに迷惑かけないようにね」

 

 同い年なのに、順子は母親みたいな物の言い方をした。

 

「は~い」

 

 浮かれた返事をすると、空にしたグラスを流しに置いた。見計らうように高志が下りてきた。

 

「お早うございます」

 

 挨拶しながら高志が順子を見た。

 

「あ、お早うございます」

 

 高志を一瞥(いちべつ)すると、冷蔵庫を開けた。

 

「増田さん。すいませんね、昨夜も付き合わせちゃって」

 

 順子が用意した食事を()りながら、行弘が無遠慮(ぶえんりょ)な口を利いた。

 

「何だか、ご主人と呑むのが癖になりそうですよ。ハハハ……」

 

 人の()い高志が、配慮のある言葉で返した。

 

 

 行弘が買い出しに出掛けて間もなく、高志の布団を畳んでいる時だった。湯から戻った高志が、背後から不意に抱き付いた。

 

「……順子」

 

 耳元で囁きながら、その手で乳房を掴んだ。

 

「……駄目」

 

 言葉とは裏腹に、順子の体はその指先に応じていた。高志は順子を正面に向けると、唇を奪った。

 

「うっ」

 

 順子は力を振り絞って高志の腕から(のが)れた。

 

「やっぱり、あなただったのね。私には夫が居るのよ」

 

 あのキスをした相手が誰だか分かった順子は、高志を睨み付けた。

 

「俺にだって女房が居る。だが、いつでも別れられる。お前ともう一度やり直したい」

 

「何言ってるの?もう私達終わったじゃない。二十年も前に」

 

「俺の中では終わってない。お前が勝手に出て行ったんじゃないか。書き置きをして――」

 

 その瞬間だった。クラクションが鳴った。急いで下りると、行弘が玄関に立っていた。

 

「何だよ、さっきから呼んでんのに」

 

 (しか)めっ面をした。

 

「客室を掃除してたのよ。どうしたの?」

 

「財布忘れた」

 

「もう、おっちょこちょいなんだから」

 

 

 

 厨房に財布を取りに行くと、小走りで戻った。

 

「はい。行ってらっしゃい」

 

「おい、ブラウスの(ぼたん)外れてるぞ」

 

 行弘が鋭い目を向けた。順子は慌ててカーディガンの下に着たブラウスの胸元に手をやると、俯いた。(やま)しいことに心当たりがある順子は、行弘の顔をまともに見ることができなかった。

 

「……行ってくる」

 

「……行ってらっしゃい」

 

 

 順子は部屋に入ると、鍵をした。

 

 ……このままだと、私とのことを行弘に喋る可能性がある。……どうしよう。

 

 順子は卓袱台(ちゃぶだい)に腕枕をしながら悶々とした。――

 

 

 部屋を出たのは、行弘が帰ってきた後だった。昼食を作ると、

 

「俺が持っていく」

 

 行弘は無愛想にそう言って順子を横目で視た。運び盆に載せると、階段を上がった。――すぐに戻ってくると、順子の前に座った。口数(すく)なく食事をする行弘を瞥見(べっけん)すると、何やら考え事でもしているのか、沈んだ顔をしていた。言い知れぬ不安が、(もや)のように順子の体を覆っていた。

 

 食事を済ませた行弘は、煙草をポケットに入れると、何も言わずに二階に上がった。

 

 ……高志とのことに感付いて、その確認をするために行ったのだろうか。根拠のない思い込みは、孤立無援(こりつむえん)のような心細さにさせ、順子の気持ちを暗くしていた。

 

 

「読書ですか?」

 

 文庫本を手にして壁に(もた)れていた高志に、開いていたドアから声をかけた。

 

「……ええ」

 

 高志が顔を上げた。

 

「何を読んでるんですか」

 

 座卓の傍らに胡座(あぐら)をかくと、灰皿を手前に寄せた。

 

「太宰です。昔のを読み返してるんですが、年齢と共に読後感も変わるもんですね。違った視点が発見できますよ」

 

「私も、太宰や志賀直哉を読み(ふけ)ったものです。好みが似てますね」

 

「ほんとに」

 

「……どうですか、散歩でも」

 

 行弘は煙草を消すと、腰を上げた。

 

「……そうですね。天気もいいですし」

 

 高志は(しおり)を挟むと、立ち上がった。

 

 

 

「……散歩に行ってくる」

 

 食堂の拭き掃除をしていた順子に声をかけた。

 

「ちょっと行ってきます」

 

 行弘の後ろを行く高志が、“心配するな、俺達のことは喋らないから”と言うような目を向けた。

 

「……行ってらっしゃいませ」

 

 順子の中にまた不安が(よぎ)った。……どうか、何事も起きませんように。そう祈りながら、よろよろと椅子に腰を下ろすと、頭を抱えた。



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 道端の山吹を()でながら(しばら)く行くと、月山(がっさん)を眺望できる格好の場所まで来た。行弘は足を止めると、

 

「ここからの眺めが好きなんですよ」

 

 そう言って雑草の上に腰を下ろした。

 

「いやぁ、いい眺めですね」

 

 高志も納得すると、行弘の(かたわ)らに腰を下ろした。

 

「でしょう?買い出しの帰りに、運転席からよく眺めるんですよ。……いい所に来て良かったなぁって」

 

「どこからいらしたんですか」

 

「出身は山形ですが、宿を()るまではずっと東京です。いわゆる脱サラっていう奴です。前の女房と別れたのがきっかけで。独り身の気楽さもあって、脱サラという冒険ができたんだと思います」

 

 行弘は(うま)そうに煙草を()んでいた。

 

「……じゃ、今の奥様とはこちらでお知り合いに?」

 

 高志は、胸に納めていた順子との経緯(いきさつ)を無意識のうちに訊いていた。

 

「ええ。……あいつは自殺未遂の女です」

 

「えっ!」

 

 思いもしなかった言葉にびっくりすると、行弘の横顔を視た。

 

「……二年前です。山菜を採りに裏山に行くと、杉の木陰に倒れていました。コートが緑色だったら、たぶん気付かなかったでしょう。黒いコートだったのを感謝しました。

 

 傍らには睡眠薬の空き瓶がありましたが、幸いにも致死量ではなかったようです。体温を残したあいつの口に急いで指を突っ込むと、吐かせました。その日は泊まり客が居なかったので、おぶって宿に連れて帰ると、大量の水を飲ませて胃の洗浄をしました。……眠りから覚めたのか、客室からあいつの泣き声が一晩中してました」

 

 行弘は、短くなった煙草を砂利の中で揉み消した。

 

「……」

 

 高志は俯いていた。

 

「……増田さん」

 

「え?」

 

「あなた、順子のことを知ってますよね?」

 

 不意に顔を向けた行弘は、刺すような視線を放った。――

 

 

 

 順子は、帰りの遅い二人のことが気になっていた。……何事もなければいいが。はて、散歩に誘ったのはどっちだろう?……アッ!不吉な予感がした順子は、急いで腰を上げると、サンダルをつっかけた。――

 

 

 高志は山並みに顔を向けたままでいた。

 

「……やっぱり、そうか。あいつをどうしたいんですか」

 

「……もう一度やり直したい」

 

「冗談じゃない。私の妻ですよ」

 

「私にも妻が居る。そいつと別れる覚悟でここに来た」

 

「……あいつは俺の生き甲斐(がい)なんだ。別れるつもりは毛頭(もうとう)ない。サラリーマンを辞め、人生を()けてここに来たんです。思うように客が来てくれなくて、閉めようと思った時期もあった。

 

 そんな時、あいつが明かりを(とも)してくれたんだ。あいつと出会えて、俺は生きる喜びを知った。すべて、あいつのお陰なんですよ。あいつを手放す気はない」

 

 行弘が突然立ち上がった。殺気を感じた高志は慌てて腰を上げると、崖から遠ざかった。行弘は、山並みに顔を向けたままで、尻の(ほこり)(はた)いた。

 

「あなたーっ!」

 

 順子の声に、二人は振り向いた。

 

「……この続きは今夜と言うことで」

 

 高志が提案した。

 

「……そうですね」

 

 行弘は仕方なく同意した。

 

「もう、遅いんだから。心配したじゃない」

 

 二人が無事だった安心感からか、順子はホッとすると、わざとらしく膨れっ面をしてみせた。

 

「何だよ、宿、空けちゃ駄目じゃないか」

 

 行弘が注意した。

 

「だって、遅いんだもの……」

 

 順子は子供のように口を尖らせた。

 

 俯き加減で後から来る高志の様子で、何かあったことが順子にも察知できた。

 

 

 宿に戻ると、高志は無言で二階に上がった。行弘も黙って部屋に入った。順子はすることもなく、厨房の隅に置いた編み物の続きをした。――暫くしてドアを開けると、行弘は布団に俯せになって読書をしていた。

 

「コーヒーでも飲む?」

 

「要らねぇ」

 

 無愛想な返事だったので、部屋を出ようとした。

 

「増田さん、お前とのこと喋ったから」

 

 抑揚のない言い方だった。

 

「……え?」

 

 予感は当たっていた。

 

「そのことで、今夜話し合うから」

 

「……どうしたらいいの?私」

 

 行弘の枕元に正座をした。

 

「何もしなくていい、下に居ろ」

 

 行弘が一瞥(いちべつ)した。

 

「何を話すの?」

 

「何をって、お前のことに決まってるだろ。互いに譲らないんだから仕方ないさ」

 

「……」

 

「奥さんと別れる覚悟でお前に会いに来たらしいよ。……どういう付き合いだったんだ」

 

 行弘は栞を挟むと、文庫本を閉じた。

 

「……十九歳の時、二年ぐらい同棲してたの。彼、自由劇場の役者で、私と同じ店でバイトしてたの。それで付き合うようになって――」

 

「何で別れたんだ」

 

「……他に好きな人ができて、書き置きをして彼のアパートから出ていったの」

 

「……はー」

 

 行弘はため息を()いた。

 

「……とにかく、今夜話し合うから」

 

 行弘は体の向きを変えると、天井に顔を向けた。

 

 

 その日は客の予約はなかった。夕飯ができると、部屋から出てきた行弘が二階に持っていった。

 

「最初はビールにしますか」

 

 座卓に料理を並べながら行弘が訊いた。

 

「そうですね。ビールにしましょう」

 

「今、持ってきますので」

 

 恋敵であることを認識した二人によそよそしさがあった。

 

「あ、奥さんも一緒にどうですか。彼女の気持ちも知りたいし」

 

 高志が不敵な笑みを浮かべた。

 

「……ですね。じゃ、呼んできますので」

 

 行弘は承諾するほかなかった。

 

 

 ビールを取りに下りた行弘は、

 

「お前も来るように言われた」

 

 そう言って深刻な顔をした。

 

 順子はぐちゃぐちゃに絡まった毛糸が胸に生じた思いだった。……修羅場(しゅらば)に関わりたくない。自分が原因の話し合いだというのに、そんな無責任な考えを浮かべた。



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 静かに廊下を歩くと、ドアの前で立ち止まった。部屋からは話し声すらなかった。重苦しい空気の中、ノックをすると、

 

「入れ」

 

 短い返事があった。その、冷ややかな行弘の言い方は、親に叱られる時の子供の気持ちにさせた。

 

 ドアを開けると、横顔を向けた行弘の背中と、ビールを飲み干す高志の仕草が同時に見えた。座る場所に迷っていると、“ここに座れ”と言わんばかりに、行弘が腕を引っ張った。行弘の横に正座したものの、適当な言葉が見付からなかった順子は黙って、どっちかが口を開くのを待っていた。

 

「……ご主人に君とのことを話したから」

 

 口火を切ったのは高志のほうだった。

 

「……ええ、聞きました」

 

 順子は俯いたままで小さく返事をした。

 

「で、君の気持ちはどうなんだ」

 

 自分のグラスに注ぎながら、高志が直球を投げた。煙草を(くゆ)らしている行弘の顔が(わず)かに順子のほうに動いた。

 

「……この人について行きます」

 

 順子は高志を見ずに、行弘の横顔を見詰めていた。

 

「……そうか。……そう言えばこんなシーンが昔もあったな?俺がお前の男のとこに話し合いに行った時だ。あの時、お前は今のように、“この人と一緒に暮らします”そう言った。俺は諦めて、“……そうか、幸せにな”そう言って別れたよな?なのに何だと?その男とはすぐに別れただと?あの時、俺の気持ちがどんなだったか分かるか?あー?お前はそうやって俺の気持ちをずたずたにしてきたんだ」

 

「だから、そんな私のことは忘れてって言ってるじゃない」

 

 高志を睨んだ。

 

「俺の子を()ろした女を忘れろと言うのか」

 

 途端、煙草を口にしようとした行弘の手が止まった。

 

「やめてーっ!」

 

 順子は耳を塞いだ。

 

「病院のベッドで、“堕ろしたくない”って、泣きながら譫言(うわごと)を言ってたお前を忘れろと言うのか?」

 

「そうよ。お陰で二度と子供が産めない体になったわ」

 

「えっ?」

 

 高志が目を丸くした。

 

「私だってできれば産みたかった。でも、定職に就いてないあなたと結婚して子供を育てる自信はなかった。不安だった。……結婚を諦め、人生を諦め、死のうとした私をこの人が助けてくれて、生きる喜びを与えてくれた。少しぐらい幸せになっちゃいけないの?」

 

 気持ちが高ぶった順子は、嗚咽(おえつ)を漏らした。

 

「……すまなかった。……すいません、一人にしてくれませんか」

 

 懸命に笑い顔を作った高志が行弘を見た。

 

「……ええ」

 

 行弘は煙草を消すと、涙を拭っている順子の腕を掴んだ。高志を見ると、神妙な面持ちで目を伏せていた。

 

「……たか――」

 

 高志に声をかけようとした順子の腕を行弘が引っ張った。――

 

 

 

「……ごめんなさい。……子供が産めないこと言わないで」

 

 ポットの湯を急須に注ぎながら、行弘に謝った。

 

「そんなことは気にしなくていいさ。子がなくても十分幸せなんだから」

 

「……あなた」

 

 行弘のその言葉に、順子は救われた思いだった。

 

「それより、増田さんのことが心配だな」

 

「……ええ」

 

 順子も同感だった。高志は喜怒哀楽を表に出すタイプではない。その高志が、見ているのが辛くなるほどに落ち込んでいた。

 

(……高志、ごめんなさい。こんな薄情な女は忘れて、今の奥さんとの生活を守って。お願い)

 

 順子は心の中で祈った。

 

 

 翌朝、食事に下りてきた高志は、昨夜のことが嘘のように、いつもの穏やかな表情をしていた。

 

「お早うございます。あ、奥さん。昨夜は失礼しました」

 

 何かを払拭したかのように、高志は明朗闊達(めいろうかったつ)だった。

 

「あ、いいえ」

 

 急いで、冷蔵庫から麦茶を出した。

 

「ご主人、申し訳ないですね、悪酔いしてしまって」

 

「気にしないでください。呑めば誰だってそうです。私なんかしょっちゅうですよ。ハハハ……」

 

 行弘が言葉を選んでいた。

 

「朝食を済ませたら帰りますので」

 

 その言葉に行弘と順子は目を合わせた。

 

 

 食堂のテレビを観ながら食事を済ませた高志は、慌ただしく腰を上げた。

 

「どうも、ごちそうさまです」

 

 そう言って二階に上がった。

 

 行弘と順子に会話はなかった。互いの気持ちは、その表情で察知できた。

 

『お前のこと諦めて帰るみたいだな』

 

『ええ、そうみたいね』

 

『このまま帰していいのか?後悔しないか?』

 

『ええ。私はあなたの妻ですもの、あなたについて行くわ』

 

 そんな無言劇の台詞(せりふ)を交わしていた。

 

 

 ボストンバッグを提げて下りてきた高志は、車で送ると言う行弘に、

 

「ぶらぶら歩きたいので」

 

 そう言って断ると、順子が揃えた靴を履いた。

 

「……幸せにな」

 

 高志が瞬きのない目を向けた。

 

「……ええ。あなたも」

 

 順子も目を合わせた。高志は行弘に頭を下げると、背を向けた。

 

「そこまで送ってくる」

 

 行弘は、厨房のテーブルに置いた煙草を取ってくると急いで後を追った。先を行く高志の背中が寂しそうだった。

 

 ……ごめんね、高志。順子は心で詫びながら、橋を渡って(なら)(こずえ)に二人の姿が消えるまで、食堂の窓から見送っていた。――

 

 

 コーヒーを飲みながら、食堂で編み物の続きをしていた。ふと、掛け時計に目をやると、一時間が過ぎていた。窓を覗いたが、若葉がそよ風に揺れているだけだった。

 

 ……どこまで送ってるの?急に不安が過った順子は、急いで腰を上げた。

 

 

 

 行弘がお気に入りの、山並みが眺望できる崖の所まで行ったが、二人の姿はなかった。



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 諦めて帰ると、行弘はすでに帰っていた。行き違いになったようだ。

 

「何やってんだ、鍵もしないで」

 

 飲みかけの順子のコーヒーカップに口をつけると、上目で見た。

 

「遅いから心配になって」

 

「バス停まで送ってきた」

 

「……何、話してたの?」

 

「別に。世間話」

 

「……彼、松田羽留子さんの旦那さん」

 

「ぷっ!」

 

 飲もうとしたコーヒーを吹き出した。

 

「えー?」

 

 目を丸くしていた。

 

「同窓会の返事、私が代筆したでしょ?それでやって来たのよ。筆跡で私だと思って」

 

「あの羽留ちゃんの旦那さんとはな。思いもしなかったよ」

 

「と言うわけ。ジャンジャン」

 

「しかし、偶然だよな。俺の同級生の旦那が、お前の昔の男だったなんて。確率的にはどのぐらいだ?」

 

「ほんとに。偶然てあるんだね」

 

「けど、お前と彼が関係があるのは分かってたよ」

 

 煙草を吸った。

 

「えー?いつから」

 

「最初から変だと思ったけど、確信したのは麦茶だ」

 

「……麦茶?」

 

「夏ならまだしも、この時期に麦茶なんか出さないだろ?二日酔いの翌日、彼に麦茶を出した。二日酔いに彼が麦茶を飲むことを知っていたからだ。無意識のうちにボロを出してたってわけ」

 

「……なんだ、バレバレだったのね」

 

「どうだ、名探偵だろ?」

 

「ええ。迷惑の迷の迷探偵」

 

「好きか?」

 

「何を?」

 

「ガクッ。何をって、俺をだよ」

 

「ううん」

 

「えっ!好きじゃないの?」

 

「うん、好きじゃない」

 

「……なんでー?」

 

 小学生並みに口を尖らせた。

 

「だって、好きじゃなくて、だ~い好きだもん」

 

「……こいつ」

 

 煙草を消すと、順子の横に座った。

 

「ちょっと、何よ」

 

「キス」

 

 行弘が目を閉じて、唇を突き出した。

 

「もう、バッカじゃないの?いい歳こいて」

 

 行弘から逃れると、厨房に立った。

 

「チェッ」

 

「今日は二組の予約よ。そろそろ買い出しに行ったら?」

 

「まだ、早いもんねー」

 

 小学生並みは続いていた。

 

「キスしてくれたら行く」

 

「もう、ガキなんだから。ほら、チュー」

 

 早足で行弘の元に行くと、唇を突き出した。行弘は順子の顔を押さえると、優しく接吻(せっぷん)をした。(やが)て、力をなくした順子の体は、腰を上げた行弘に支えられていた。――

 

 

 それから一年近くが過ぎた。〈郁清荘〉は大して忙しくもなかったが、家庭的な雰囲気が好まれ、安定した売上が見込める固定客がついていた。

 

「あれから、もう一年近くなるな」

 

 朝食を終えた行弘がぽつりと言った。

 

「ん?」

 

 皿を洗いながら、順子が流しから顔を向けた。

 

「松田さん……」

 

「ええ。年賀状出しても返事来なかったね」

 

「ああ。もう、俺達と関わりたくないのかもな」

 

「そんなふうに決めつけることもないでしょ?忙しいのよ、きっと」

 

「羽留ちゃんと上手(うま)くやってくれてるといいがな」

 

「そうね。……あっ、そうだ。ね?二人をうちの宿に招待したら?同窓会も兼ねて」

 

 エプロンで手を拭いながら、行弘に正面を向けた。

 

「……だな。いい考えかも」

 

 煙草の煙に、行弘が目を細めた。

 

「ね?じゃ、早速、手紙書こう」

 

 

拝啓

 春雨も名残(なごり)なく晴れて 下萌(したも)えの雑草も青々となり 馥郁(ふくいく)たる梅の香や ひねもす雲雀(ひばり)の歌声が爽やかな今日この頃です

 如何お過ごしでいらっしゃいますか

 お元気の事と存じます

 昨年は同窓会に出席できず申し訳ございませんでした そのお詫びと申しては何ですが 如何でしょう 当宿にご夫婦で遊びにいらっしゃいませんか

  一泊で申し訳ございませんが ご招待させて頂きます

  是非 ご主人といらしてください お会い出来るのを楽しみにしています

       敬具

 

 

 

 

 だが、数日後に届いた羽留子からの手紙には、想像すらしなかったことが綴られていた。

 

 

前略

 お手紙ありがとうございます

 折角のお誘いですが 辞退させていただきます

 詳しいお話はできませんが 実は 主人が一年ほど前から行方知れずで 一年経った今でも不安ばかりが募り 立ち直ることができません

 警察に捜索願を出しているのですが いまだに消息が分かりません

 折角のお誘いですが どうかお察しくださいませ

      かしこ

 

 

 

「……あなた、どうしたの?」

 

 目を見開いたまま凝然(ぎょうぜん)としている行弘の手から便箋を取り上げた。

 

「えっ!どう言うこと?」

 

 文字を追いながら、順子も驚愕(きょうがく)した。

 

「……行方不明って」

 

 順子は独り言の呟くと、わけの分からない顔を行弘に向けた。

 

「……」

 

 行弘は心配そうな顔で腕組みをしていた。

 

「一年前って、ここを出た後よ。家に帰らずどこに行ったのかしら……」

 

「……まさか」

 

 行弘は不意に腰を上げた。

 

「何よ?」

 

「……自殺」

 

「嘘よ!そんなこと……」

 

 順子の中に、魑魅魍魎(ちみもうりょう)という得体の知れない物が居座った。

 

「まさかと思うが、とにかく、その辺を捜してみる。もしそうなら、雪も解けたし、容易に見付かるはずだ」

 

 行弘は思い立つと、慌ただしく腰を上げた。順子は不安の中で、もう一度手紙を読み返した。

 

 ……一年前、行弘が送ると言って、一緒に出ていった。あの時、バス停まで送ったと言った。……まさか。

 

 順子の中に突如、行弘への疑惑が芽生えた。居ても立っても居られず、急いで腰を上げた。

 

 

 例の崖まで来た時だった。崖下を覗く行弘の背中があった。順子は咄嗟に杉の木に身を隠すと、行弘の様子を窺った。この時、何かしら、見てはいけない物を見てしまったような罪悪感が生じた。



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 行弘は確認を終えると、バス停のほうに行った。行弘の背中が針葉樹の葉先に消えると、行弘がチェック済みの崖下を覗いてみた。芽吹いた木々の隙間には、それらしき物(・・・・・・)は無かった。順子はホッとすると、(きびす)を返した。

 

 

 ……どこまで行ったのだろう。掛け時計を見ると、すでに一時間が過ぎていた。順子は食堂の窓に顔を据えると、コーヒーを飲みながら、レース編みの続きをした。――(やが)て、走ってくる行弘の姿が橋の向こうに見えた。順子は安心すると、行弘のコーヒーカップを出した。

 

「はぁはぁはぁ……、ただいま」

 

 息を切らしていた。

 

「お帰り。どこまで行ってたの?」

 

 淹れ立てのコーヒーを行弘の前に置いた。

 

「バス停まで行ってみた。崖のとこも見てみた。水、一杯ちょー」

 

「はーい」

 

 順子の気持ちは晴れ晴れとしていた。なぜなら、行弘の潔白が明らかになった瞬間だったからだ。仮に行弘が高志を殺したなら、そこ(・・)だけを確認すればいい。だが、行弘が最初に捜したのは崖下だった。順子も崖下をチェックしたが、それらしき物は無かった。

 

 つまり、行弘が高志を殺害したとしたら、殺った場所が分かっているのだから、わざわざそこ以外を捜す必要はない。順子は、行弘に疑念を抱いた自分を恥じた。

 

「ゴクッゴクッ。あ~、ふ~。車で行けば良かった」

 

 美味しそうに水を飲み干した。

 

「ご苦労様」

 

「……松田さん、どうしちゃったのかな」

 

 行弘は深刻な顔で煙草を吸った。

 

「ええ。……仮に行方不明だとして、どこに居るのかしら」

 

 どうしても自殺だとしたくない順子は、そんな言葉を選択していた。

 

「ほんと。……どこに居るんだろう」

 

 行弘は心配そうな顔でコーヒーを口に含んだ。

 

 自殺にしたくない思いの一方で、順子には焦りもあった。

 

「……ね、もしそうなら、栃木の警察にも捜してもらいましょうよ」

 

「そうだな。うちから帰った後、消息が分からないんだから、栃木に居る可能性もあるもんな」

 

 行弘も言葉を選んでいた。“栃木に遺体があるかもしれない”を婉曲(えんきょく)に言っていた。

 

「奥さんに電話で訊いてみたら?栃木の警察にも依頼してみてはって」

 

 順子の中の焦りが即答を求めた。

 

「直接、電話で訊くのか?どんな言葉をかけたらいいか分からないよ、状況が状況だけに。手紙で尋ねたほうが無難だろ」

 

 万が一にも口を滑らせて、“自殺したかもしれない”そんな言葉を避けたかったようだ。

 

「……そうね」

 

「……けど、松田さんがここに来たことは羽留ちゃんは知らないだろうから、何て書くよ」

 

「そうか。……ね、この際、来たことを正直に書こう」

 

「何て?」

 

 行弘は上目を(つか)うと、温くなったコーヒーを口に含んだ。

 

「あの人、シナリオも書いてたの。その時、私が代筆をしてたから、私も役者をやっていたことにして、筆跡を見て、懐かしく思って来てくれたことにすれば?」

 

「何でもいいよ。とにかく、怪しまれない書き方をしろ」

 

 面倒を避けるかのように、順子に一任した。

 

 

 

前略

 お手紙拝見しました

 ご主人が行方不明との事 私共も心配しております

 申し遅れましたが 私は芦川の家内で順子と申します

 ご主人とは役者仲間でした

 同窓会の返事の代筆も私です

 実は昨年の四月にご主人がいらしてくれました

 私の筆跡を見て懐かしく思って会いに来てくれたそうです

 と言うのも 当時 ご主人の脚本の代筆もしていましたので それで分かったのだと思います

 いかがでしょう 栃木の警察にも捜索を依頼してみては

 お返事をお待ちしています

 

 

 

 

 果たして、羽留子からの返事は速達だった。

 

 

〈余計なことはしないでください

 私たち夫婦のことは放っておいてください〉

 

 

 それは意表外の内容だった。愕然(がくぜん)とする行弘と目を合わせた。

 

「……どういうこと?まるで、警察に届けられたら困るみたいな書き方よね」

 

「……何か変だな。俺の知ってる羽留ちゃんはこういうタイプじゃなかった」

 

「どんなふうに?」

 

「感情を表に出すタイプじゃなかった。それに、この筆跡、羽留ちゃんの字じゃない」

 

「えっ!……じゃ、誰?これを書いたのは」

 

「分からんが、そもそもおかしいよ。迷惑なら電話一本で済むことなのに、何でわざわざ手紙にした?」

 

「……ん。変だね」

 

「よしっ。明日も予約入ってないし、臨時休業にするか」

 

「えっ、何で?」

 

「この手紙の(ぬし)を探るためだよ」

 

「で、どうするの?」

 

「山形に行くんだよ」

 

「キャー、カッコい~」

 

 予期せぬ行弘の行動力に感激して、順子は絡めた自分の手を胸元に置いた。

 

「ばか。遊びに行くわけじゃないんだぞ」

 

「だって、旅行なんて初めてだもん」

 

「だから、旅行じゃないって言ってんの」

 

「はいはい、そうでした。ゲヘッ」

 

「こいつ、やっぱ旅行だと思ってるよ」

 

「思ってないって。さて、旅支度しよう」

 

 順子はいそいそと腰を上げた。

 

「やっぱ、思ってるじゃん」

 

 

 

 ――新庄に着くと、駅前のビジネスホテルにチェックインした。本来なら実家に泊まるのが普通なのだろうが、すでに両親が他界している行弘には、帰る家がなかった。それは、順子もまた同じだった。似たような境遇の二人は、出会うべくして出会ったのかもしれない。

 

 部屋に入ると、手紙の返事を寄越した女の正体を掴むため、行弘は早速、高志の自宅に電話をした。



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10

 

 

「……はい」

 

 女の声だった。

 

「あ、松田さんのご自宅でしょうか」

 

「……そうんだげんと」

 

「高志さんはいらっしゃいますか」

 

「んねず、おらねがどなださまだが」

 

「あ、失礼しました。渡辺と申します。昔の役者仲間でして」

 

 行弘は偽名を名乗ると、当意即妙(とういそくみょう)の台本を書いた。

 

「んだが。どだなご用件だべ?」

 

「元気でいるかと思って。失礼ですが、奥様でいらっしゃいますか」

 

「えっ?……ああ、んだげど」

 

「何時頃お帰りですか?」

 

「さあ、聞いでおらねが」

 

「!……ですか?ではまた電話しますので」

 

「あ、はい」

 

 女の返事と共に、行弘は受話器を置いた。

 

「どうだった?」

 

 順子が間髪を()れずに訊いた。

 

「松田さんは生きてる」

 

「ほんとに?良かった」

 

 順子は胸を撫で下ろした。

 

「それと、妻だと言う女は羽留ちゃんじゃなかった」

 

「えっ、どういうこと?」

 

「分からん。羽留ちゃんと離婚して、再婚したのかな?若い声だった」

 

「なるほど。で、筆跡が違ってたんだ。……でも、何で行方不明なんて嘘を?」

 

「分からんよ。それと、俺が奥さんですかって訊いたら、狼狽(うろた)えてた。何か釈然としないんだよ。探る価値ありだ。それに、折角新庄に来たんだから、松田さんに会っていきたいし」

 

 煙草を(くゆ)らせた。

 

「そうだね。それよりお腹空いた」

 

「俺も。ぶらっと出てみるか」

 

 行弘は煙草を消すと、コートを手にした。

 

 あけぼの町の飲食店街に行くと、中華料理店に入った。

 

「ここを出たら、また電話してみるか」

 

 ラーメンを啜りながら、行弘が見た。

 

「ん。帰ってるかもしれないしね」

 

 中華丼を頬張りながら、散蓮華(ちりれんげ)でスープを掬った。

 

 

 

 店を出てから高志の自宅まで行くと、〈松田〉の表札を確認した。木造一戸建ての一階の窓からは明かりが漏れていたが、話し声はなかった。行弘は街路灯の下にある電話ボックスに入った。

 

「……はい」

 

「あ、先程の渡辺です。ご主人はお帰りでしょうか」

 

「いえ。今夜は会社さ泊まるどの電話があった」

 

「……そうですか。残念だな。……あ、会社の電話番号を教えていただけますか」

 

「えっ?……あ、ちょっと待ってください」

 

 狼狽(うろた)えている様子が窺えた。暫く待たされると、

 

「あ、われ。電話番号ど住所書いであるのが見付がらねぐで」

 

 早口でそう言った。

 

「……そうですか。では、いずれまた電話をしますので。失礼します」

 

 ホテルの電話番号を教えようとも思ったが、〈渡辺〉と偽名を使った以上、そうも行かなかった。あれこれと素性を探られる前に、行弘は急いで受話器を置いた。

 

「今夜は泊まりで帰らないとさ。電話番号を訊いたら、書いたものが見付からないってさ。何か胡散臭(うさんくさ)いな。松田さんに会わせたくないような感じなんだよ」

 

 ……やはり、高志は死んでいるのでは。それを知られないために、生きているように見せかけているのでは。何のために。順子の中に、そんな考えが不意に襲った。

 

 仮に高志と一緒に暮らしているとして、ではどうして、手紙には行方不明とあったのだろう。返事を寄越した時は行方不明だったが、その後に戻ってきたのだろうか。だったら、そのことを手紙に書くはずだ。だが、手紙には、“私達のことは放っておいてくれ”とあった。あまりにも矛盾している。どっちが事実なのだろうか。順子の頭は混乱していた。

 

 シャッターが下りているガレージからは、高志の帰宅の有無は確認できない。

 

「明日また出直すか?」

 

「……そうね」

 

 順子は、薄暗い明かりが漏れる一階の窓を瞥見すると、行弘の後についた。

 

 ……もし生きているなら、あなたの顔が見たい。もし死んでいるなら、自殺なの?それとも他殺なの?どっちなの?……高志。順子は言い知れぬ不安と恐怖を感じながら、行弘の手を握った。

 

 ホテルに戻ったものの、濃霧に目隠しされているみたいで、気持ちがすっきりしなかった。

 

「ね、明日、私が直接会ってみるわ」

 

 雲散霧消(うんさんむしょう)を図るが如く、順子は思い切って言ってみた。どうしても自分の目で高志の生存の有無を確かめたかった。

 

「バカ、駄目だ。相手は人殺しかもしれないんだぞ。危ないよ」

 

 行弘が咎める言い方をした。

 

「だって、どんな女か見たいし、何で行方不明なんて嘘ついたのかも知りたいもの。勧誘のおばさんになって潜り込もうかな」

 

「バカ、探偵ごっこじゃないんだぞ。危険だ」

 

「じゃ、どうするの?明日、帰っちゃうの?」

 

「いや。……二人で挨拶に行こう」

 

「なんてって?」

 

「帰るんで、挨拶をと思って、とかさ」

 

「ナイフとか持ってく?」

 

「バカ。……だが、万が一ってこともあるな。ペーパーナイフでも買っていくか」

 

「果物ナイフのほうが安いわよ」

 

「ふん。バカだな俺達。大の大人がさ――」

 

「だって、怖いもん」

 

「……やっぱ、持ってったほうがいいな」

 

 決断するかのように、煙草を揉み消した。

 

「ね。……何だか怖い」

 

「大丈夫だよ、俺がついてるから」

 

 そう言って向けた、愛嬌がある行弘の人懐こい目を、順子は心強く感じた。

 

「うん」

 

 

 

 翌日、失礼にならない時間を見計らって高志の家に行った。呼び鈴を押すと、

 

「はーい」

 

 若い女の声が返ってきた。順子が不安げな目を行弘に向けると、“大丈夫だから、心配するな”そんな返事の目をした。

 

「どなだ?」

 

 突っ慳貪(つっけんどん)な物の言い方だった。

 

「あ、昨夜電話した渡辺ですが、帰る前にご挨拶をと思って」

 

 行弘が早口で言った。

 

「……」

 

 中から躊躇(ちゅうちょ)するような沈黙があった。そして、徐に開けられたドアの向こうに現れた女の顔を見て、順子と行弘は目を丸くした。



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11

 

 

 そこにあったのは、若い頃の順子を彷彿(ほうふつ)とさせる女の顔だった。二十四、五だろうか、年齢と髪型こそ違え、背格好もよく似ていた。行弘を()ると、瞬きのない目を女に据えていた。だが、順子と目を合わせた女からは、微塵の驚きも窺えなかった。寧ろ、予期していたかのように落ち着いた視線だった。

 

「あ、渡辺ですけど、ご主人は」

 

 用件を思い出した行弘が口を開いた。

 

「会社さ泊まるど言ってますたが、夜遅ぐに帰ってぎで、もう出がげだが」

 

 用意していたような台詞(せりふ)を吐き、落ち着き払っていた。

 

「そうですか。じゃ、出直すか」

 

 順子を見た。

 

「ご主人、今日は何時頃にお帰りですか」

 

 仮に高志が生きているなら、本人に会うまで帰りたくないと順子は思った。

 

「さあ……。七時ぐらいには帰るど思いますが」

 

 そう言いながら、順子の足元に置いた視線を上げた女の双眸(そうぼう)は、氷の破片のように冷たく尖っていた。反射的に目を逸らした順子は、咄嗟に行弘に向いて、判断を仰いだ。

 

「ですか。じゃ、夜、また来ます」

 

 そう言って、行弘が会釈をした瞬間、

 

「折角だがら、お茶でもどうぞ」

 

 女は一変して愛想を良くすると、下駄箱の横にあるラックからスリッパを抜いた。順子と目を合わせた行弘が、

 

「では、お邪魔します」

 

 と、作り笑いを浮かべた。順子も同様に笑い顔を作った。

 

 

 通されたフローリングの部屋は台所も兼ねていた。窓を覆っているチューリップ柄のレースのカーテンが、古い家の造りに不釣り合いだった。台所で茶を淹れている女の好みで、最近になって模様替えしたのが推測できた。ヒント探しのように、八畳ほどの部屋を見回してみたが、それらしきモノはなかった。

 

 最近結婚したのなら、挙式の写真とか高志とのツーショットの写真があって(しか)るべきだ。だが、壁にもサイドボードの上にもそれらしきモノはなかった。クリムトの絵と、薄紅のガーベラを挿した白い花瓶があるだけだった。

 

 ふと、テーブルの真ん中に置かれた陶器の灰皿を視て、順子はギクッとした。高志が吸っていた煙草と同じ銘柄の吸い殻が、他の吸い殻に紛れて一本だけあったのだ。順子は急いで、横に座って部屋を見回している行弘に肘鉄で知らせると、目配せした。灰皿を視た行弘は、その意味を把握すると、

 

(松田さんは生きてる!)

 

 そんな驚きの目を向けた。

 

(うん!良かった~)

 

 順子はホッとした顔で口角を上げると、目で返事をした。その瞬間、すたすたとやって来た女が、(さら)うかのように灰皿を掴むと台所に持っていった。順子と行弘は驚いた目を合わせた。

 

「どうぞ」

 

 戻ってきた女は何食わぬ顔で、硝子(がらす)の灰皿を置いた。

 

「……あ、どうも」

 

 勧められた格好で、行弘が横に置いたコートのポケットから煙草を出した。順子が再び部屋を見回していると、お茶を運んできた女が湯呑みを置きながら、

 

「奥さん、ほだえチェックすねぐでも。高志どはまだ結婚すてましぇんよ」

 

 と、胸中を見透かした。順子がギョッとした目を向けると、

 

「渡辺じゃなぐで、芦川さんだべ?お名前」

 

 そう言って、今度は行弘を睥睨(へいげい)した。行弘が黙っていると、

 

「最初がら分がってますた。高志がら話聞いでだす」

 

 女はそう言いながら悠然とテーブルを挟むと、コーヒーの香りをさせたマイカップをテーブルに置いた。膝上丈のスカートから露出した脚を組むと、カーディガンのポケットから煙草と使い捨てライターを出した。

 

「おら、益美(ますみ)って言います。若葉町のスナックで働いでいますた。そごで高志ど知り合って。あの人、おらの顔初めで見だ時、びっくりすてだ。その時思ったんだ、おらに似だそのへなのごどが好ぎだったんだど。それがらはぢょぐぢょぐ店さ来でくれるようになって。関係がでぎだ時、彼、寝言でおらのこど“ジュンコ”って呼んだわ。その時、おらに似でるへなの名前ジュンコだど知ったのよ。……悔すいっけ。高志抱いでだのはおらじゃなぐで、そのへなだど思うど。んだがら、今回の復讐劇企んだのよ。おめだづば困らしぇだぐで」

 

 益美と名乗る女はそう言って、順子を睨んでいた。

 

「じゃ、高志は元気なんですね?」

 

 思わず順子の口から出た。

 

「ええ。今朝もおらが作ったご飯食って会社さ行ったわ」

 

 益美は短くなった煙草を揉み消しながら、順子を一瞥した。

 

「良かった……」

 

 肩の力を抜くと、順子は安堵の微笑を漏らした。

 

「で、羽留ちゃんは?」

 

 行弘が口を開いた。

 

「さあ……。どごがでアパートでも借りでるんでねの」

 

 冷たい言い方だった。

 

「松田さんと正式に離婚したんですか?羽留ちゃんは」

 

 行弘が続けた。

 

「ええ、すたわ。……ちょっと待ってけろ、おらが追い出すたどでも?冗談でねわよ、離婚言い出すたのは高志のほうよ」

 

 益美の口から意想外の言葉が吐き出された。順子は信じられない顔をすると、行弘と目を合わせた。

 

「それに、一緒さ暮らさねがって言ったのも高志よ。よほど、ジュンコでいうへなに惚れでだのね。長年連れ添った奥さんと別れでまで、そのジュンコって人さ似だおらば選んだんだがら」

 

 益美の刺すような視線を想像した順子は、目を合わせることができなかった。

 

「それも、栃木がら帰ってすぐよ、その話すたのは。誰だってピンどぐるわ。あの人、正直さ言ってくれだのよ。ジュンコって人さ会いに栃木さ行ったって。そすて、最後にごう言ったわ。その人のごどは諦めるって」

 

 その言葉で、今度は行弘を見ることができなかった。順子は身動(みじろ)ぎ一つせず、俯いていた。



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12

 

 

 すると、突然、

 

「奥さん。……われ」

 

 益美が謝った。

 

「えっ?」

 

 咄嗟に顔を上げた。

 

「今回のごど。ご主人もわれですた。おら、奥さんに妬いでだんだ。んだがら……」

 

 益美は反省するかのように俯いた。

 

「もういいですよ。高志が無事だと分かって、それだけで」

 

 順子は偽りのない気持ちを言った。

 

「よいっけら、あの人さ会っていってください」

 

「えっ?」

 

 予期せぬ展開に順子は驚いた。

 

「長距離の仕事入ってなげれば、七時頃には帰るど思いますから」

 

 益美は穏やかな口調でそう言うと、笑みを浮かべた。順子はホッとすると、安堵の表情をしている行弘と目を合わせた。

 

 益美は本来、恬淡(てんたん)な性格なのか、それとも、言いたいことを言って気が済んだのか、何事もなかったかのようにあっけらかんとしていた。帰り際、益美は、

 

「今回のごど、あの人には内緒で」

 

 拝むように手を合わせると、梅干しを()めたような表情をした。順子はクスッと笑うと、行弘と目を合わせた。

 

「ええ。言わないわ、心配しなくても」

 

 口外しないことを約束すると、笑顔で見送る益美に振り向いた。――それが、生きている益美の最後の姿だった。

 

 

 

 高志の家を後にすると、あけぼの町の蕎麦屋で少し早い昼食を摂った。

 

「羽留ちゃんの実家に寄って、現在の住まいを訊いてみるか……」

 

 と口にした行弘だが、結局、そうはしなかった。

 

「高志さんと離婚したことを親が知らない可能性がある」

 

 それが、取り止めた理由だった。――十九時過ぎ、近くの酒屋で一升瓶を買うと、それを手土産にして高志の家に行った。だが、門灯にも窓にも明かりがなかった。

 

「出掛けたのかしら……」

 

 そう言いながら、順子が呼び鈴を押した。だが、応答がなかった。順子が不可解な顔を向けると、行弘が腕時計に目をやった。

 

「おかしいな、七時過ぎって言ったのに。うむ……、電話してから来れば良かったな」

 

「急用でも出来たのかしら」

 

「ちょっと待ってろ、電話してみる」

 

 順子に一升瓶を押し付けると、街路灯の電話ボックスに向かった。――間もなくして、家の中から電話が鳴った。反射的に電話ボックスを見ると、行弘も順子を見ていた。十回ぐらい鳴ると切れた。同時に、行弘が電話ボックスから出てきた。

 

「やっぱり留守みたいよ、誰も電話に出ないもの」

 

 戻ってきた行弘に伝えた。

 

「どうする、諦めて帰るか」

 

 行弘は結論を出すと、順子が抱えていた一升瓶を掴んだ。

 

「……そうね、仕方ないわね。寒いし」

 

 順子も諦めると、コートの襟を立てた。時間が止まったように動きがない高志の家に何度も振り返ると、行弘の後をついた。――

 

 

 翌朝、チェックアウトすると駅に向かった。挨拶の電話をしようとも思ったが、気紛れな益美にこれ以上振り回されたくなかった順子は、“高志は無事だった”それを旅の土産(みやげ)にして新幹線に乗った。

 

 

 留守にしていた間に、予約の電話やファクスが数件あった。

 

「井上さん、明日、奥さんと二人で来るって。良かったな、今日帰ってきといて。まずはファクスで返事するか、“お待ちしてま~す”って」

 

 浮かれ調子でそう言いながら、行弘がコートを脱いでいた。

 

「なんか疲れたね」

 

 湯を沸かしながら、新幹線で買った駅弁を出した。

 

「ああ。空振りが多すぎて、体力だけが消耗した感じだ」

 

 椅子に座ると、煙草を出した。

 

「お詫びの電話を寄越すかしら、益美さん」

 

 急須に茶葉を入れた。

 

「ま、あの性格じゃ期待しないほうがいい。こっちから訊いても、“あら、ごめんなさい。そんな約束してたかしら”ってとぼけられるのが関の山だ」

 

「……そうね。あ~、くつろぐ。やっぱり我が家が一番ね」

 

 順子が思いきり伸びをした。

 

「There's no place like home.(我が家に勝る所なし)か?」

 

「ううん。like じゃなくて、love。うふふ」

 

 高志が生きていたという安堵感が、順子にそんなジョークを口にさせた。

 

 お茶を淹れるとテレビを点けた。ニュースを聴きながら、米沢牛すき焼き弁当を食べている時だった。

 

〔新庄市の万場町の住宅で今朝5時ごろ、遺体で発見された蒲田益美さんの死亡推定時刻が判明しました――〕

 

 ……ますみ?

 

 順子は反射的にテレビの画面に顔を向けた。そこには、あの益美の顔があった。

 

〔昨日の夜の7時前後と見られ、連絡が取れないこの家の持ち主の男性を捜しています〕

 

「あなたっ!」

 

 順子が見開いた目を行弘に向けた。

 

「……あの益美さんが死んだ?……松田さんの行方が分からない?」

 

 行弘が独り言のように呟いた。

 

「昨日の七時って言ったら、私達が訪ねた時間よ」

 

「俺達が帰った直後に殺されたということか?」

 

 行弘は急いで食堂に行くと、溜まった新聞を広げた。

 

 

【――第一発見者は、新聞配達員で、少し開いていたドアを不審に思い、中をのぞくと、倒れたソファに被害者があおむけで死んでいたとのこと。死因は首を絞められたことによる窒息死。現在、行方が分からないこの家の持ち主を捜している】

 

 順子も他社の新聞を広げた。

 

【――被害者は元ホステスで、この家に住む男性と同居していた蒲田益美さん、26歳。警察は、連絡が取れないこの家の持ち主の男性を捜している】

 

 えっ!高志が犯人だと言うの?絶対違う!高志は人を殺したりしない。

 

 順子は心で叫んだ。突然、視界を遮る霧の山中に放置されたみたいな不安な気持ちになり、俄に食欲をなくした。

 

「心配するな。松田さんは犯人じゃないから」

 

 順子の気持ちを察したのか、行弘がベテラン刑事のように明言した、その言葉に順子の不安は僅かばかり薄れた。



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13

 

 

 厨房に戻ると、食事の続きをした。

 

「……でもどうして、行方が分からないの?益美さんは言ったわ。“朝食を食べて会社に行った”って。そして、“七時頃に帰るから、その時間に来て”って。高志は普段どおり会社に行っていたわけでしょう?だったら会社に問い合わせれば、出勤時間や退社時間がはっきりするじゃない」

 

「会社から帰ってから益美さんを発見して――」

 

「だったらどうして、警察に通報しなかったの?第一発見者は新聞配達員てあったわ」

 

「自分が疑われると思ったか……」

 

 行弘はそこで口ごもった。

 

 ……たぶん、“松田さんが殺したか”と続くのだろう。順子の中にまた霧が立ち込めた。

 

「高志は犯人じゃないわよっ!」

 

 高志に疑惑を抱いている行弘の心中が窺えた順子は、無性に腹が立って声を荒らげた。

 

「誰もそんなこと言ってないだろ」

 

「言わなくたって分かるわよ。私はあの人を信じてるから」

 

 箸を置くと、席を立った。

 

 ……何よ、“松田さんは犯人じゃないさ”なんて言っときながら、実際は疑ってるんじゃない。口ばっかりなんだから。……嘘つき。

 

 そんなふうに思った順子は布団に潜ると、(へそ)を曲げた子供のようにふて寝を決め込んだ。

 

 暫くすると、食事の片付けでもしているのか、皿がぶつかる音と蛇口を捻る音が聞こえた。

 

 ……声を掛けてきても無視しよう。意固地(いこじ)になっていた順子は、そんな子供のような考えを企んでいた。だが、厨房が静かになってもドアは開かなかった。予想に反して、階段を上がる足音がしていた。いさかいを避けるために客室で寝るようだ。言い過ぎたことを順子は悔やんだ。

 

 砂を噛むような味気ない中で、漠然とした疑惑だけが膨張し、寝付けぬままに時間ばかりが過ぎていた。つまり、腹を立てていたのは行弘にではなく、高志への疑惑を払拭できずにいる自分自身にだった。行弘に八つ当たりした自分の器の小ささを順子は恥じた。その根拠のない疑惑が、胸中にこびりついた汚泥のようで不快だった。

 

 仮に高志が殺したとして、動機は何?私が原因の口論?それとも全く違うこと?もし、高志が犯人だとしたら懲役何年?死刑になんかならないよね?……

 

 眠れぬままに、順子は悪い結果ばかりを考えていた。

 

 ……高志、今どこに居るの?ねっ、高志ーっ!

 

 

 結局、一睡もできず、ニュースの時間に合わせてテレビを点けた。

 

〔――家の前をうろついていた男女を見たという目撃情報から、この二人が事件に関わっていると見て、警察は捜査をしています〕

 

 えっ!……まさか私達のこと?

 

 あらぬ疑いをかけられて吃驚(びっくり)した順子は、慌てて布団から出ると、階段の下から、

 

「あなたーっ!」

 

 行弘を呼んだ。

 

「早く来てっ!大変!」

 

 大声を出した。すると、襖を開ける音と廊下を急ぎ足で来る音がした。

 

「どうした?」

 

 セーターを手にした行弘が早口で訊いた。

 

「ニュースで!早く下りてきて」

 

 順子はそこまで言うと、厨房に行った。

 

「どうしたんだ」

 

 カーディガンを着ると、椅子に座った。

 

「私達が疑われてるの」

 

 やかんを火にかけた。

 

「えっ!どう言うことだ?」

 

「死亡推定時刻に家の前をうろついていた男女が目撃され、その二人が事件に関わっていると警察は見ているってニュースで言ってたわ」

 

 急須に茶葉を入れた。

 

「マジかよ。……松田さんちに入ってるから、俺達の指紋がついてる可能性があるし、容疑者にされる条件が揃ってる。……まいったな」

 

 行弘がボサボサの頭を抱えた。

 

「私達が犯人にされちゃうのかしら……。ね、どうする?」

 

「どうもこうも、犯人じゃないんだから正々堂々としてればいいさ」

 

「警察が来るかな……」

 

 順子は臆病風に吹かれた。

 

「来たら、ありのままを話すさ」

 

「……そうだね」

 

 濡れ衣を着せられるかもしれないと、寒心(かんしん)を覚えた順子だったが、泰然自若(たいぜんじじゃく)と構えた頼もしい行弘に、すべてを委ねようと思った。

 

 

 

 そして、その日が来た。翌朝、食事の支度をしていると玄関のブザーが鳴った。瞬時に頭に浮かんだ訪問者は警察官だった。

 

 ……目撃情報だけでこんなに早く私達に漕ぎ着くなんて、さすが、日本の警察は優秀だわ。それにしてもこんな時間に来なくても、朝食を済ませた頃を見計らってよ。順子はそんなことを考えながら玄関に急いだ。

 

 だが、硝子戸越しに見えたのは制帽ではなく、黒いニット帽の後頭部だった。

 

 ……客の予約時間は午後だ。……誰だろう。

 

 突然、不安が募り、順子は暗い気持ちになった。

 

「……どなたですか?」

 

 恐る恐る出したその声がどれ程の音量だったかは定かではない。その声に顔を向けたのは、眼鏡の奥に暗い(ひとみ)を据えた高志だった。

 

「高志……」

 

 驚きのあまり、一瞬、気が動転したが、すぐに平静を取り戻すと急いで戸を開けた。ダウンジャケットの高志に安心すると、俯いている高志の顔を見詰め、思わず手を握った。もう一方には真新しい黒いボストンバッグを提げていた。

 

「さあ、入って」

 

 先刻まで手袋をしていたと思われる高志の温かい手を握った。

 

「……すまん」

 

 詫びる高志の幽かな声が、順子の胸を熱くした。私達を頼ってくれたことが順子は嬉しかった。

 

「あなたっ!早く来て」

 

 軽いボストンバッグを高志から受け取ると、行弘を呼んだ。

 

「ご飯食べたら、温泉に入ってゆっくりするといいわ」

 

「ああ。……順子」

 

「ん?」

 

「……松田さん」

 

 高志が何かを言おうとした瞬間、行弘の声がした。カーディガンに腕を通しながらやって来た行弘が目を丸くしていた。高志は行弘を一瞥すると頭を下げた。

 

「ね、上がって」

 

 順子はサンダルを脱ぐと、スリッパを揃えた。行弘は順子からボストンバッグを受け取ると食堂に入った。

 

「……お邪魔します」

 

 高志は遠慮がちに言うと、靴を脱いだ。

 

「どうぞ、暖まってください」

 

 石油ストーブを点けながら、行弘が高志を迎えた。

 

「まずはお茶を淹れるわね」

 

 順子は高志に笑顔を向けると、厨房に急いだ。



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14

 

 

「……事件のことは?」

 

 確認するかのように行弘を視た。

 

「……えぇ、ニュースで」

 

「……そうですか。この度は迷惑をかけて、申し訳ない」

 

 頭を下げた。

 

「迷惑なんて思ってませんよ。昨夜もどこに居るんだろって、心配してたんです」

 

「そこの林に居ました」

 

 そう呟くと、橋が見える窓に目をやった。

 

「えっ!野宿したんですか?この寒空に」

 

 テーブルを挟んだ行弘が目を丸くした。

 

「……えぇ」

 

「うちに泊まってくれりゃ良かったのに」

 

「……なんか、来づらくて」

 

「遠慮なんかしないでください。こうやって松田さんが来てくれて、私達は嬉しいんですから」

 

「ありがとうございます――」

 

「はい、どうぞ。食事、今、持ってきますので」

 

 話が弾んでいる二人に安心した順子は、湯呑みを置くと、急いで厨房に戻った。

 

「食べたら温泉に入って、温まってください」

 

 行弘が気を利かせた。

 

「ありがとうございます」

 

「さあ、どうぞ」

 

 順子が、運んできた焼き魚や卵焼きを高志の前に置いた。

 

「食事したら温泉に入ってね」

 

「ああ」

 

 順子に笑顔を向けた。

 

「私達も食事しましょ」

 

 ご飯と味噌汁を置くと、行弘に声を掛けた。

 

「そうするか。では、ごゆっくり」

 

 腰を上げた。

 

「ええ。では、いただきます」

 

 行弘に返事をすると、箸を持った。

 

 

 

 厨房のテーブルに食事を用意している順子に、

 

「松田さん来てくれて良かったな」

 

 そう言って箸を持った。

 

「ほんとに。元気だったから安心した」

 

 笑顔を向けた。

 

 

 ――温泉から戻ってきた高志は、順子が淹れたコーヒーを飲みながら、話を始めた。

 

「七時過ぎに会社から帰ると、益美が死んでいて。気が動転した私は、車を走らせると、駅に向かっていた。駐車場に車を置くと、夜行列車に乗っていた。そして、気が付くとここに向かっていた。……なぜ、逃げたのか自分でも分からない。たぶん、自分が犯人にされるのではないかという恐怖感があったのかもしれない。逃げれば尚更疑われるのに、あの時はそんな判断もつかないほどに、頭が真っ白になっていて。最後にお二人に会ってからと思い、やって来ました。これから出頭します」

 

「駄目よ。犯人にされるわ」

 

 順子の口から突拍子もない言葉が飛び出していた。

 

「えっ?」

 

 高志が驚いた顔を向けた。

 

「死亡推定時刻に帰ってるんだから、疑われるわ」

 

「だが……」

 

 高志が俯いた。

 

「私が犯人を見付けるわ」

 

「見付けるって……」

 

 行弘は、順子の唐突な発言に面食らった。

 

「それまで、ここに隠れてて」

 

「けど……」

 

 高志が不安な目を向けた。

 

「ね、益美さんはホステスをしてたんでしょ?」

 

「ああ」

 

「じゃ、お客さんの可能性もあるわ」

 

「……あ」

 

 高志は言おうとした言葉を呑み込んだ。さすがだと言わんばかりの、“そうだな!”を期待した順子は拍子抜けした。

 

「高志の無実を明かしてみせるわ」

 

「しかし……」

 

 高志が呟くように漏らした。

 

「明かすって、……危険だよ。万が一にも真犯人に嗅ぎ付けられたらどうするんだよ。危ないぞ」

 

 行弘が反対した。

 

「じゃ、このまま高志を容疑者にしとくの?警察は高志を疑ってるのよ。高志が出頭して、万が一にも冤罪(えんざい)で刑務所に入れられたらどうするのよ」

 

 早口で捲し立てた。自分の中にこんな情熱がまだ残っていたことに、順子は自分でも驚いていた。高志を助けたい。その一心だった。

 

「確かにそうだけど。……ったく。お前は一度決めたら後に引かないからな。昔からこうでした?」

 

 行弘はすっとぼけて、高志に質問した。

 

「えぇ、でした」

 

 高志が即答すると、行弘が笑った。高志も釣られて笑った。

 

「ちょっと、何笑ってるの?私がこんなに真剣になってるのに、まるで他人事みたいに。自分のことでしょ?」

 

 高志を睨み付けた。

 

「あ、ごめん。ただ、君に頼むのはお門違いかと」

 

 高志が弱々しく言った。

 

「私が勝手にしてることよ。何か行動を起こさなければ、何も始まらない。よしっ、決めた。ね、宿のほうお願いね。今日は二組の予約があるけど、愛想よく接客してよ。分かった?」

 

 行弘に念を押した。

 

「了解!もう余計なことは言わない。お前が決めたことだ、お前に任せる。言うまでもないが、十分気を付けろよ」

 

 行弘は決心した。

 

「ええ、気を付けるわ」

 

「……すまない。お願いします」

 

 高志が頭を下げた。

 

「どこまでやれるか、やるだけやってみるわ」

 

 順子も決心がついた。

 

「益美さんについて、あなたの知ってることを全部教えて」

 

 順子は高志に真剣な目を向けた。――

 

 

 新庄に着くと、だて眼鏡とかつらを買った。駅前の公衆便所で身に付けると、その足で益美が勤めていたスナックに行った。

 

「――まぁね。歯に衣着せない目立つ子だったから、憎まれることもあったでしょうね。客に限らず……」

 

 ママだという四十半ばの女は、田舎の飲み屋に似合わないしゃれたツーピース姿で、どことなく垢抜けしていた。

 

「……ホステスさんとか?」

 

「ええ。私も銀座に居た若い頃は、同僚のホステスに憎まれた口ですから。“出る杭は打たれる”どこの世界でも同じですよ」

 

 そう言って苦笑いすると、煙草を揉み消した。

 

 ……道理で、おしゃれで、(なま)りがないわけだ。

 

「今回の事件、どう思いました?」

 

「ピーンときた人が一人いたけど、でも、その人、今は海外だし。事件のあった時間は、偶然にも私と電話で話してたし」

 

「お客さん?ホステスさん?」

 

「お客さん」

 

「どうして、その人だと?」

 

「益美ちゃんに夢中だったのよ。けど、呆気なくフラれて。プライドの高いお客さんだったから、もしかしてと思って」

 

「警察はそのお客さんを取り調べたんですか?」

 

「たぶん。事情聴取の時に私が話したから。……お客さん、どちらかでお会いしてません?」

 

「えっ?」

 

 ギクッとした順子は、反射的に顔を伏せた。

 

 ……もしかして、目撃情報による私のモンタージュ写真がテレビに流れたのかしら?



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15

 

 

「……あぁ、分かった。メガネしてるから気付かなかったけど、益美ちゃんに似てるんだ」

 

 ……あぁ、良かった。そっちのほうで。順子は胸を撫で下ろした。

 

「益美ちゃんの叔母(おば)さんだもの似てて当然よね」

 

 ママは納得した。

 

 ……益美の叔母にして正解だった。順子は自分が書いたシナリオに満足した。

 

 その時、ドアが開いた。反射的に振り向いたママは、

 

「あらぁ、いらっしゃ~い」

 

 愛想を振り撒いた。

 

「今、仲が良かった子を呼びますので」

 

 そう言って、急いで席を立った。

 

「すいません」

 

 順子は軽く頭を下げた。

 

 馴染みらしき高齢の客は、出迎えたママに、

 

「なんだ、おらが口開げが?」

 

 と嫌味を言った。すると、間髪()れず、

 

「何言ってんの、別嬪(べっぴん)さんが先客よ。美人に目がねがらメガネねど見えねんでねの?」

 

 と、ダジャレまじりの方言で返して、順子を見た。

 

 ……ママは山形の出身なのだろうか。商売上手だ。そんなことを思っていると、

 

「いらっしゃいませ~」

 

 と、明るい声がして、見上げると、二十二、三だろうか、ふっくらとした愛嬌のある子が笑顔を向けていた。

 

「まどがど言います。よろすくお願いすます」

 

 そう言って、(まどか)と書かれた名刺を差し出すと席に座った。

 

「よろしく。益美のお友達?」

 

「ええ。でも若えホステスは益美さんだげだったがら、仲良ぐなるのは必然的だ」

 

 円の訛りと、“必然的”の三字熟語がミスマッチで可笑(おか)しかった。

 

「益美のことですが」

 

「お客さん、益美さんのお姉さん?」

 

 円がジロッと視た。

 

「えっ?あぁ、叔母です」

 

「やっぱりだ。似でるど思った」

 

「益美の事件ですが、何か知ってますか」

 

「警察には言ってねんだげんと、益美さんの叔母さんなら、しゃべってもいいがな」

 

 勿体ぶったその言い方に興味を持った順子は、好奇心いっぱいの子供のように目を輝かせた。

 

「益美さんはたぶん――」

 

 円がそこまで言った瞬間(とき)だった。

 

「円ちゃーん!お客さんよーっ」

 

 ママが呼んだ。

 

「あ、われ。アパートの電話番号書ぐがら」

 

 セカンドバッグからボールペンを出すと、先刻の名刺に電話番号を書いた。

 

「電話すて。ほんじゃ」

 

 円は慌ただしく席を離れた。

 

「ありがとう」

 

 名刺に書かれた電話番号を確認しながら、犯人に心当たりがあるような円の口吻(こうふん)に興奮した。順子がコートを着ていると、

 

「あら、お帰りですか?お構いもせず」

 

 そう言いながら、ママが駆け寄ってきた。

 

「お邪魔しました」

 

「お役に立てなくてごめんなさいね」

 

 頭を下げた。

 

「いいえ、こちらこそお忙しいとこ申し訳ありません。あ、コーラ代、おいくらですか」

 

 ショルダーバッグから財布を出した。

 

「私のサービスです」

 

「でも」

 

「うちは美人にはサービスするんです。いいからいいから」

 

「……ありがとうございます」

 

 礼を言って店内を見回すと、奥の席から円が手を振っていた。順子も小さく手を振ると店を出た。

 

 

 店の近くで遅い夕食を摂ると、鬼怒川から予約の電話を入れておいた駅前のビジネスホテルにチェックインした。

 

 シャワーを浴びると、満腹感と長旅の疲れもあってか眠ってしまった。店が終わる時間を見計らって円に電話をする予定だったが、目が覚めたのは朝方だった。

 

 ……この時間じゃ、円はまだ寝てるわね。……でも、早く帰りたいし、公衆電話からかけるのも面倒だから、帰り支度ができたら電話しよう。

 

 順子は身支度を終えると電話をした。だが、呼び出し音だけが(むな)しく響いていた。

 

 ……まだ、寝てるかな。

 

 そう思って、電話を切ろうとした時だった。

 

「……はい」

 

 寝起きの声が出た。

 

「円さん?」

 

「はい」

 

「益美の叔母です」

 

「あ、はい」

 

「朝早くにごめんなさい」

 

「あ、んねず。昨夜遅いっけもんだがら」

 

「早速ですが、犯人に心当たりがあると言うのは?」

 

「……ママ」

 

「えっ!」

 

 想像すらしなかった人物を告げられた。

 

「どうして、ママだと」

 

「こごだげの話だんだげんと、ママの大事なお客さんば益美さんに盗られだごどがあったの。それで、益美さんば恨んでだに違いね」

 

「それだけで犯人だと?」

 

「だって、そのお客さん、ママの恋人だったんだもの」

 

「……」

 

「んだげんと、益美さんが殺されだ時間のアリバイがあっから、共犯者にやらしぇだんだど思うわ」

 

「共犯者って?」

 

「益美さんに盗られだママの恋人」

 

「はあ?」

 

 順子の頭はこんがらがっていた。

 

「だって、益美はママからその人を奪ったんでしょ?つまり、益美の恋人だったんでしょ?」

 

「そうよ。んだげんと……」

 

「何?」

 

「叔母さんに言うのは酷だもの」

 

「そこまで話してくれたんだもの、最後まで聞かせて」

 

「んだが?だったら話すますが、ママの彼氏ば奪っておぎながら、他のお客さんとも付ぎ合ってだんだ」

 

(……他の客とは、高志のことだろうか)

 

「なんてお客さん?」

 

「松田さんていう人で、益美さんが殺されだうずの持つぬす」

 

(!やっぱりだ……)

 

「それで、益美さんのごど恨んでだに違いねわ」

 

 円からの情報のお陰で、事件の核心に触れた気がした。

 

「最後に、ママの共犯者の名前は?」

 

「吉沢さんていう会社員。んだげんと、今は日本さ居ねの」

 

(日本に居ないって、まさか、ママが言ってたあの客のことかしら……)

 

「その吉沢さんて、もしかして、ママのアリバイを証言した人?」

 

「そう。なんだ、知ってだんだが」

 

(やっぱりだ。これで全ての辻褄が合う)

 

「んだがら、警察が松田さんば逮捕すたら冤罪になるなって、ひとりほぐそえんでだの」

 

「ぷっ」

 

 “北叟笑(ほくそえ)む”の使い方が可笑しくて思わず吹いた。

 

「警察は松田さんば追ってるみだいだんだげんと、松田さんも、なにも逃げるごどねげんど。逃げだらがえって疑われるのに」

 

「……円さんはどうして、ママと吉沢さんのことを警察に言わなかったの?」

 

「ほだなこど言ったら、店ずまいになるでねが。そうじゃなぐでもママ逮捕されだら店暇になって、給料もらえねぐなる。ほだなこどになったら生活でぎねぐなるもの」

 

(……なるほど)

 

「円さん、ありがとう。また何かあったら電話するね」

 

「うん、わがった」



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16

 

 

 ――新幹線に乗ると、ママと吉沢が企んだトリックを推理してみた。ママと吉沢のアリバイは、“電話”だが、電話をしたからと言って、何も話をしていたとは限らない。互いが受話器を外したままにすれば、話をしなくても話し中になる。そして、通話明細書には履歴が残る。その話し中を利用して、益美を殺した。殺したのは吉沢だ。なぜなら、ママには出勤時間が控えている。人を殺めた後に平然と接客をするのは、普通の神経では無理だ。ママが出勤した時刻に、吉沢が益美を殺した。

 

 順子は吉沢を犯人にすると、帰りを待つ二人に思いを馳せた。――

 

 

 

 だが、

 

「吉沢さんなら知ってるが、益美を殺すなんて有り得ない」

 

 土産(みやげ)のつもりだった吉報(きっぽう)は、高志のその一言で呆気(あっけ)なく手ぶら同然にされた。

 

「どうしてよ?」

 

 頭ごなしに否定された順子は、子供のようにムキになった。

 

「どうしてって、勘だよ。一緒に呑んだこともあるし、麻雀もしたことがある。ギャンブルをすると本性が出るもんだ。あの人は穏やかで思慮深い人だ」

 

「ママの恋人だったんでしょう?」

 

 益美との関係を教えるのは気が引けた順子は、ママを例に挙げた。

 

「さあ、その辺は分からん」

 

「円ちゃんて知ってるでしょう?」

 

「ああ」

 

「その子が教えてくれたの」

 

「ふん。あの子の言うことは鵜呑みにしないほうがいいな。それだったら、吉沢さんの言うことのほうがまだ信じられる」

 

 と、鼻で笑われて、順子は腹が立った。

 

「何よ。あなたへの疑いを晴らすためにわざわざ山形まで行ったのに、すべて否定されて。……バカみたい」

 

 何だか悲しくなった。

 

「あ、ごめん。実態を知らない君が鵜呑みにするのも無理はないさ」

 

「……実態って、誰の?」

 

「円さ」

 

「えっ?」

 

 予想だにしなかった名前だった。

 

「彼女は道化を演じてるが、なかなか(したた)かな女で」

 

「どんなふうに?」

 

「例えば、ママの客を寝取ったり――」

 

 それは、円から聞いた話と同じだった。一つ違うのは、相手が益美ではなく、円だと言うことだ。つまり、“死人に口なし”を利用して、円は自分がしたことを益美に(なす)り付けたのか……。円の口車に乗ったことが、順子は悔しかった。

 

「さて、(めし)の支度でもするか」

 

 煙草を吹かしながら話を聞いていた行弘が、上首尾(じょうしゅび)でなかったことを察知して腰を上げた。

 

 結局、山形行きは徒労(とろう)に終わった。順子は、自分の早とちりな性格を恨めしく思った。

 

 ママと吉沢がシロだとすると、真犯人は誰だ?……まさか、円ではあるまい。「道化を演じてるが、なかなか強かな女だ」高志の言葉が頭から離れなかった。だが、いくら強かでも、人を殺した人間があんなに平然と接客できるはずがない。円はシロだ。順子は自分の直感を信じた。

 

 それにしても手抜かりが多かった。円のアリバイにも着目すべきだった。山形行きを無駄にしてしまった自分の思慮の浅さに、順子は再び苛立った。仮に円が真犯人なら、一杯食わされたことになる。だが、すでに事情聴取は済んでいるだろうから、完璧なアリバイがあったに違いない。円の道化に騙されるほど、そこまで警察も馬鹿ではあるまい。……やはり、円はシロだ。

 

 自分の手落ちを相殺(そうさい)しながらも、白い服にカレーのシミを付けたような不快感で、折角作ってくれた行弘の料理さえ有り難く感じられなかった。

 

「……明日、警察に行きます」

 

 食事を終えた高志がぽつりと言った。

 

「なんで?」

 

 驚いた順子は、慌てて湯呑みを口から離した。

 

「これ以上、迷惑は掛けられない」

 

「迷惑だなんて思ってないって」

 

「松田さん、私も順子と同じです。迷惑だなんて思ってないです。警察が真犯人を挙げるまでここに居てください」

 

 行弘が助け船を出した。

 

「いや、警察は私を追ってます。仮に他に容疑者が居たとしても、逃げた私を一番にするでしょう。そうなると、ここに漕ぎ着くのは時間の問題だ――」

 

「警察が来たって平気よ。そんなこと恐れてないわ」

 

「いや。客商売をしてるんだ、警察沙汰は得にならない」

 

 高志の言葉には配慮があった。

 

「……高志」

 

 順子は、高志の優しさを感じ、胸が詰まった。

 

 ……これ以上引き留めても無駄だろう。順子は不安という闇の中に佇みながらも、高志が無事に無罪放免で釈放されるのを祈るしか(すべ)がないことを(さと)った。――

 

 

 翌朝、食事を終えた高志は一服すると腰を上げた。順子と行弘は、高志の一挙一動を黙って見守っていた。

 

「お世話になりました。このご恩は一生忘れません」

 

 玄関でそう言って、高志は深々と頭を下げた。

 

「……気を付けてね」

 

 順子が蚊の鳴くような声で呟いた。

 

「順子。俺のために動いてくれてありがとう。……ご主人といつまでも幸せにな」

 

 高志はそう言って、眼鏡の奥から暗い目を向けた。順子は唇を強く結ぶと、ゆっくり頷いた。

 

「順子をよろしくお願いします」

 

 行弘に言うと、背を向けた。

 

 哀愁を帯びた高志の後ろ姿が、靄が立ち込める橋の向こうに消えた。思わず涙が溢れた順子は、行弘の胸に顔を埋めた。

 

「……松田さんの濡れ衣が晴れたら、一緒に迎えに行こうな」

 

 行弘はそう言って、順子の頭を撫でた。

 

「うん」

 

 順子は力強く頷いた。しかし、灰色の分厚いベールに覆われたままの順子の心は、モノトーンの絵の中にある底なし沼に沈んでいく想いだった。高志の胸中を察すると、我が事のように暗い気持ちになっていた。

 

 唯一救われたのは、行弘の優しい言葉だった。高志のことを友達のように思い、親身になってくれている。優しい二人の男に出逢えたことに順子は感謝した。



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17

 

 

 ところが、次の朝を迎えても、高志が出頭したという報道はテレビにも新聞にもなかった。ここを出たのは昨日の朝だ。出頭したなら、朝刊なり、朝のトップニュースなりで報道するはずだ。順子の中に再び、暗雲が立ち込めた。

 

「……迷っているのかしら」

 

 先刻帰って行った客の器を洗いながら、ぽつりと溢した。

 

「……いざとなったら躊躇(ちゅうちょ)するさ。まかり間違えれば犯人にされかねないんだから」

 

 新聞を捲りながら、行弘が瞥見(べっけん)した。

 

「そうね。……今、どこに居るのかしら」

 

「はぁ……。もう一度戻ってきてくれないかな」

 

 行弘は大きくため息を()くと、新聞を畳んで客室の片付けに行った。

 

 順子も行弘と同じ気持ちだった。だが、高志は二度とここには来ない。そんな漠然とした決まり事のようなものを感じた。すると突然、虚無感に襲われ、洗い物を途中にして蛇口を閉めた。部屋に入ると、卓袱台(ちゃぶだい)に頬杖をついて窓から覗くコブシを眺めた。コブシが風に揺れた時だった。ふと、高志との想い出が甦った。

 

 

 

「……結婚しないか」

 

「私、まだ若いもん、結婚なんかしたくないわ」

 

「……おふくろにお前のこと言ったら、会いたいって」

 

「イヤよ。結婚しないのに会う必要ないじゃない」

 

「分かったから。結婚しなくてもいいからおふくろに会ってくれ」

 

「なんでよ」

 

「俺達付き合ってんだから、紹介するぐらいいいだろ」

 

「……分かった」

 

 

 

 高志は七人兄弟の末っ子で、長男とは親子ほどの歳の差があるそうだ。父子家庭で育った一人っ子の順子には、大家族というだけで違和感があった。結婚する気がない上に思慮がなかった順子は、老体でありながらわざわざ東京までやって来た高志の母親に、素っ気ない態度を取った。悪印象を与えたのが手に取るように分かるほど、母親は終始寡黙(かもく)だった。

 

 ホームから見送った時、窓から顔を向けた母親の目は、

 

「残念だけど、あなたを高志の嫁にはできません」

 

 と言わんばかりの(かたく)ななものを感じさせた。間もなく、新しい恋人ができた順子は、短い書き置きをして、高志のアパートから出て行った。

 

 後に、高志は役者を諦めて故郷(いなか)に帰ったことを風の便りに聞いた。

 

 

 

 ね、どこに居るの?電話でいいから、せめて無事で居ることを知らせて。ね、高志っ!

 

 心の叫びが高志に届くことを願いながら、順子は普段の生活に戻ることにした。

 

 

 だが、普段の生活に戻ることはできなかった。翌朝、食事を終えて間もなく、予期せぬ来客があった。

 

「ごめんくださーい!」

 

 女の声だった。

 

「はーい!」

 

 急いで厨房から駆け付けると、玄関に居たのは、同年代のぽっちゃりした女だった。女は初対面とは思えない人懐こい笑顔を向けて、

 

「芦川さんの奥さんだが?」

 

 山形訛りで訊いた。

 

「えぇ、そうですが」

 

「松田です。松田羽留子です」

 

「えっ!」

 

 驚きのあまり言葉を失った順子は、瞬きのない目を羽留子に据えた。

 

 ……この人が、高志の奥さんだった羽留子さん。

 

「突然さ申す訳ね。ご主人いらっしゃいますか」

 

「あ、はい。どうぞお上がりください」

 

 震える手でスリッパを出した。後ろめたさのようなものが順子を動揺させた。

 

「あなたーっ!」

 

 行弘を呼ぶと、食堂に案内した。

 

「今、お茶を淹れますので」

 

 そう言って、ストーブを点けた。

 

「は、羽留ちゃん!」

 

 食堂に来た行弘が、羽留子を視て吃驚(びっくり)していた。

 

「久すぶりね」

 

「よく、来てくれたね。元気だった?」

 

「ん?まぁ。……知ってんべ?事件のごど」

 

 羽留子が俯いた。

 

「え?……あぁ」

 

 羽留子がどこまで知っているのか?それによっては言葉を選ばなくてはならない。行弘は隔靴掻痒(かっかそうよう)としていた。

 

「いいのよ、みんな知ってっから」

 

 羽留子はそう言って、笑顔を向けた。

 

「えっ?」

 

「こごがら帰ってすぐ打ぢ明げでくれだがら、みんな知ってるわ。奥さんとのごども」

 

「……そうか」

 

「羽留子さん、すみません」

 

 順子は湯呑みを置くと頭を下げた。

 

「奥さん、謝んねでください。昔のごどじゃねか。……それに、もう松田どは離婚すてるす」

 

「……」

 

 順子は行弘と目を合わせると、返す言葉を探した。

 

「ゆっくりできるんだろ?」

 

 行弘が気を利かせた。

 

「ん?」

 

「今日はお客さんの予約もないし、良かったら泊まってってくれ。同窓会に出席できなかったお詫びだ」

 

「そうだわ。ぜひ、泊まってってください」

 

 順子も、ゆっくり話がしたかった。

 

「どうも。んだげんと、遠慮すます。これがら野暮用もあるす」

 

「そんな。せめて、温泉だけでも入ってってください」

 

 順子が引き留めた。

 

「折角んだげんと」

 

 羽留子は一変して無表情になると、急いで腰を上げ、椅子の上に置いていたボストンバッグを開いた。

 

「これ、後で読んで」

 

 そう言ってテーブルに置いたのは、厚みのある白い封筒だった。

 

「お二人さ会えでよいっけ」

 

 羽留子はそう言って、笑顔にある悲しい目を向けた。

 

「……羽留ちゃん」

 

「……お気を付けて」

 

 順子は他に言葉が見付からなかった。

 

 

 

 小走りで橋を渡る羽留子の姿は、あっという間に小さくなり、(なら)の梢に消えた。

 

 振り返った行弘は目を合わせると、食堂に戻り、白い封筒に手を伸ばした。――



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18

 

 

〔何から話せばいいのか。まず、この度は松田の件でご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありません。離婚していますので、夫ではなく松田と書きます。

 最初に、一年前の出来事からお話しします。仕事で東京に行くという松田の話を信じていた私は、ゴミ箱にあった丸めたメモ用紙を広げて驚きました。そこにあったのは、書き損じた郁清荘の住所でした。どうして、住所を知る必要があるのか分かりませんでしたが、もしかしたら、私に内緒で温泉にでも行くつもりだったのかしらと、その時は思いました。

 ところが翌日、駅前のスーパーに行った時です。駐車場に松田の車があったんです。会社には車で行くのに、どうしてこんな所にあるのか不思議でした。その時、ふと思ったんです。もしかして、郁清荘に行ったのではないかと。自分だけ温泉に行ったことに腹を立てた私は、気がつくと旅支度をしてました。

 どうして、私に内緒で、私の同級生の宿に行く必要があるのか、どう考えても分かりませんでした。真相が知りたい。そんな気持ちで新幹線に乗りました。

 郁清荘に着いたものの、いざとなると中に入る勇気がなくて、橋の手前の林から宿をのぞいていました。丁度、夕食の時間で、食堂には客が集まっていました。しかし、松田の姿はありませんでした。私の勘違いかと思い、帰ろうとした時です。

 奥さんらしき人が、盆を持って二階に上がる姿がガラス戸から見えたんです。部屋で食べる松田に運んだのかもしれないと思いました。松田の姿を確認するまでは帰りたくなかったのですが、空腹を覚え、寒いのもあって駅に戻りました。

 駅前の食堂で食べたあと、素泊まりできる宿が空いていたので一泊しました。郁清荘に電話をして松田が宿泊しているか問い合わせることもできますが、それをしたら、松田に疑われます。だから、電話はしませんでした。翌朝、もう一度郁清荘を見張って、松田を確認しようとも思いましたが、松田が泊まっているとは限りません。諦めて、列車に乗りました。

 

 そして、帰ってきた松田からいきなり、別れ話を告げられたんです。その理由を事細かに教えてくれました。順子さんとのことを。私には松田を引き止める魅力などありません。だから、離婚に応じました。私と別れたあと、益美を家に入れたんです。

 

 あの日。芦川くんが松田の家を訪ねてきた日、私は松田の家にいました。〕

 

「えっ!」

 

 行弘が目を見開いた。

 

〔そして、私の足元には益美の遺体がありました。殺したのは私です。〕

 

「嘘だろーっ!」

 

 行弘が大声を上げた。

 

「……あなた、どうしたの?」

 

 順子が目を丸くした。

 

〔あの日。置き忘れた本を取りに松田の家に行きました。益美は私の顔を見るなり、

 

「なんだ、おめか。なんの用?」

 

 と嫌な顔をしました。

 

「……忘れ物取りに」

 

「もう、おめんちでねんだがら気安ぐ来ねでね。取ったらさっさど帰ってけろ」

 

 そう言って、横目でにらんでました。部屋に入ると、模様替えされ、当時の面影はありませんでした。悲しくなりながら、本棚から愛読書を探していると、ソファに座った益美が言ったんです。

 

「高志もなんで、おめみだいなへなと結婚すたんだべ?高志は優すいがら同情すたんだべが」

 

「……」

 

 私が黙っていると、最後に言ったんです。

 

「離婚すて正解だわ。さっさど帰れ、デブ」

 

 その言葉にカッとなった私は、巻いていた自分のスカーフで益美の首を絞めました。もがく益美は、ソファと一緒に倒れ、やがて静かになりました。

 ハッとして我に返ると、急いで電気を消しました。家を出ようと玄関に行った時です。玄関の呼び鈴が鳴ったんです。ビクッとして息を殺していると、男女の話し声が聞こえました。

 ドアのレンズからのぞくと芦川くんでした。びっくりした私は、反射的にドアから離れました。よりによって、こんな時に芦川くんが来るなんて、運が悪い。そんなふうに思っていると、突然電話が鳴り、ギクッとしました。やがて静かになると、芦川くんがあきらめて帰るのを、私は息をひそめて待ちました。ほどなくして、二人は立ち去りました。ホッとすると、表に誰もいないのを確認して急いで帰りました。

 

 松田を奪った益美の若さと美貌(びぼう)が憎かった。私は美人でもなければ、スタイルもよくありません。何一つ取り柄のないこんな女でも、それでも女です。私を馬鹿にした益美が許せなかった。

 

 松田の無実を一刻も早く証明するためにも、これから出頭します。

 

 最後に、芦川くん。宿題を忘れた時、ノートを貸してくれてありがとう。優しい芦川くんのことが大好きでした。さようなら〕

 

「羽留ちゃーん!」

 

 行弘は声を上げると、泣き崩れた。

 

「……あなた」

 

 一度として見たことのない行弘のただならぬ様子に驚き、行弘の手から便箋を奪った。

 

 順子は文字を追いながら、徐々に目を丸くすると、

 

「……嘘」

 

 短い言葉を漏らした。

 

「……羽留子さんが、……そんな」

 

 便箋を持つ順子の指先は小刻みに震えていた。

 

「まさか、羽留ちゃんが……」

 

 行弘はどうしても信じられなかった。

 

「いつも笑ってた。笑顔がチャーミングだった。一緒に居て楽しかった。君はクラスで一番魅力的だったよ。……羽留ちゃん」

 

 行弘は(むせ)び泣いた。そんな行弘の背中を見詰めながら、順子も嗚咽(おえつ)を漏らした。……もしかして高志は、羽留子の犯行だと気付いていたのではないだろうか。順子はふと、そんなふうに思った。

 

 

 その日の夕方、羽留子が出頭したというニュースが流れた。そして、それと同時に、羽留子が出頭する前に自ら警察に赴いた高志は、事情聴取の(のち)に釈放された。――その後、高志からの連絡はなかった。

 

 

 

「私が代筆さえしなければ、今回の事件は起きなかった。……私のせいね」

 

「君のせいじゃないさ。代筆を頼んだのは俺だ。俺のせいだ」

 

「……あなた」

 

 順子は、神妙な表情で俯いている行弘の胸に顔を埋めた。

 

 

 

 

 

 予約の電話があった三組の客の献立を考えながら、ふと、厨房の窓に目をやった順子は、そよ風に揺れる紅色の花水木に、高志の幸せを願った。――

 

 

 

 

 

 

 完



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