「人生の墓場」 (臓物暗刻)
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「人生の墓場」

オリジナルキャラクターが登場します。


『描いていたキャンパスを崩して、今持っている画材の限りで全てを汚して人生の墓場にしたい。

人生なんて泥で汚したキャンパスのようなもので、グシャグシャに丸められたゴミ箱の底にひっそりと死ぬ原稿用紙ほかならないのです。人生をいくら讃美しようとも、レオナルドダヴィンチや、パオロヴェロネーゼの絵みたいな人生を想像しようとも、そんなものは他人が勝手に人生の価値をつけているだけです。

だが人は他人の人生をやたら美化したがる。そしてそれを理想と教えるし、また崇拝するものもいるでしょう。

己の人生はそんな大層で大袈裟なものじゃあないのです。道端に潰れる犬の糞か、あるいは烏に啄まれる腐肉です。

人は綺麗なまま死ぬことなんてないんです。

醜い。酷い。脆い。

それで良いじゃあありませんか。

人生は醜くなるためにあるのです。一歩進めば足が腐り、背骨が溶けて、目は乾く。その過程を人は「生きる」と言いますが、私は「腐る」と呼んでいます。』

 

 

 

「…って素敵ですよねぇ〜。達観っていうんですか?そんな考え方持ったことありませんよぉ」

「君みたいな若造の考えじゃあ無理だろうなぁ。どうせInstagramでブランド物のバッグを眺めるだけで休日を終わらせる、それ以上の努力はしない量産型ってやつだろ?」

「世間でそんな女の子たくさんいますよ。誰も彼も露伴先生じゃあないんですから」

「僕にならずとも僕を目指すことは誰にでもできる」

「はぁー。天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずをまんま無視してますよね」

「それを呈した福沢諭吉自体が一万円という数字の価値が最も上の紙幣になってるんだぞ?」

「もういいです。屁理屈の塊を解すのは得意じゃあないですから」

 

M県S市杜王町の中心から少し逸れた、人気が少しある駅から、さらに少し歩いた、老咲町という町。老咲町にある爺さん婆さんが多くいる喫茶店で岸辺露伴が若い女性と口論を繰り広げていた。

喫茶店の主人は普段よりもいくらか若い男女の声が有線ラジオとともに店内へ流れるのが心地よいようで、二人を宥めるどころか、食器やティーカップを洗う音を最小限に留めている。この喫茶店や店主自身の若かりし頃を思い出しているのかもしれない。

その口論の元が、女性の発言から始まっていたことから、その男女の会話へ僕は興味を引き立てられた。

なぜならその発言の元ネタは僕だから。

絶田滅男。なんとも縁起の悪い名前をつけられたものだ。岸辺露伴や福沢諭吉という名前とてんで違う。

名前の通り僕は根暗で、作品自体もそういうものだ。人の生き方を讃える書き方、いわゆる人間讃歌よりも、人生を卑屈に捉えた作品が多いし、さらには性悪説を支持している。

僕のテーマとはいわゆる死生観だ。いつか死ぬことへ、どう向かっていくか。どう死への過程を作るのか。死ぬことはとても醜くてグロテスクで、晴れ晴れとした英雄的栄光なんて生き方はない。しかしそれは、イコール生きることだ。

これらは僕の考えとして筆を取っている。どのように世間が思っているのかはさして僕にとって関係ないと思っている。

それら(世間の声)は対して興味がないし、それに左右されることはない。僕にとっての作品は遺書だから、遺書に文句を言うやつはいないだろう。

でも世間には人の人生にゴチャゴチャとよく値踏みをつけて文句を言ってくる輩もいるようで。他人からの意見と皮を被った単なる文句を、生きている人間社会の中でよりよい人間でいようとする人々は真面目に受け止める。そして余計に悩む羽目になっているらしい。

社会の中で良い人間でいようとするのは、己にとってではなく他人にとって良い人間でいようとすることなのだろうか。どうもそれは若者や現代人という言葉一つ括りにして良いものではなさそうだ。もっと問題は根底にあって、それは過去からの、個人の人生の積み重ねによる文化や歴史と銘打っている何かなのかもしれない。

現代人はストレスを溜めやすいと言われているが、それはそうだろうと思う。

 

「絶田滅男さんですよね!」

「うん…?」

「すみません!向こうで話していたらまさか本人がいらっしゃるとは思わなくて…!あの、サイン貰ってもいいですか!?新作の「人生の墓場」読みました!すごく素敵です、歳変わらないのにこんな考え方できる人って…」

「あぁ…それは…」

「露伴先生、絶田さんですよ!さっき話してた!」

「僕はこの店に入る前から彼がそこに座ってるのは知ってたよ。見るからに陰気臭い男で、僕にその陰気臭さがうつっちゃ困る。影と一体化しているようだったから背を向けて座ったんだよ。幽霊みたいなヤツだな…だから君も今、彼がそこにいるのに気づいたんだろ?」

「それは…そうですけど」

「ほら見ろ」

 

目がキラキラした女性と、その脇で嫌味や屁理屈をこれでもかと舌に乗せる男性が僕の前で和気あいあいとしている。

会話の内容はどうであれ(大分失礼なことを言われてる気がもしたけれど)、生きていると会話ですら脈動がある。茶化したり、呆れがあったり。言葉が生き生きとしている。

女性のサインが欲しいという声を受けて、僕は女性が差し出してきたペンを手に取り適当に名前を書く。どうぞ、と渡すとありがとうございますと嬉しそうに受け取っていた。

喜ぶのも生きるために大事な感情だろう。

喜びが多ければ多いほど、人生の楽しみが増えるし、それを糧や希望にしてさらに生きる活力へ繋げることができるだろう。果たしてそうできる人間がいまの社会でどれだけいるのかは分からないが。

 

「絶田滅男って言ったか?君」

「はい。何でしょうか」

「名前を聞いたことはある。本屋に君の本が並べば、僕のファン並に、君のファンが飛びつくとな」

「それが本当ならばありがたいことです」

「そして君の作品は「人生の墓場」。捻りのないタイトルに中身はタイトルそのまま、死に対する君の考えが表現された絵と小説が入り混じった本」

「岸辺露伴先生にご承知戴けて光栄です」

「君はいつ出した作品も全て「人生の墓場」という同タイトルだからね、いやでも覚えるさ。表紙のデザインも陰気臭くて僕の趣味じゃあない。僕にとっては悪い印象がよ〜くついてるよ」

「デザインやタイトルを捻るのは得意じゃあないんですよ」

「そうか。作家なら少しは捻る努力や知識をつけるのも大事だと思うがね!これはアドバイスだぜ。

そして…そいつを買った連中が行方不明になった事件が数件あったらしいな。プチ社会現象だって取り上げられていたぞ。君の本を読んだやつが、行方不明になるらしいじゃあないか。そこそこ不気味だっていうのにメディアは君をいつも持ち上げている。ちょっとした村上春樹みたいだなオイ?茶の間が食いつくネタならなんでもいいってヤツか」

「へぇ、そうなんですか。それは知りませんでした。世間様にそう言われているとは…世論を調べる必要がありますかね」

「オイオイ、「人生の墓場」を買った連中が行方不明になる事件があったことすら知らないのか?

作者が読者に対してなんらかの影響がある作品を作ることは素晴らしいが、この不気味な作品や一連の事件に対して世間はおろか、君ですら何も疑問に思わないのか?…やはり死について語るなんて薄気味悪いヤツだと思ったよ!カルトじみちゃあないか?」

「…はぁ、すみません。社会の評判にはかなり疎いもので…帰ったらよく調べておきます。まさか僕の作品からそのような事件が起きてるとは知りませんでした」

「社会情勢を知らないのはどうかと思うけど、評判を気にしない点は同感するぞ、ウン」

 

「……」

「………」

 

「ところで…「人生の墓場」は「ピンクダークの少年」の単行本よりも売上は低い。あまり売れていません。海外進出もしてません。日本で幾らかばかり、彼女のように手に取ってもらっていますが、出版した時の売上はほぼ赤字です。リアルで実に、自分で言っていて悲しくなりますね。

それはさておき、その数字の中で行方不明になったと取り上げられて僕との作品の関連性があるかもしれないと疑われたのは数件と言われていましたよね。仮に僕の売上を1000として、事件が4件程とします。僕の作品が、起因となったかどうか断定して言うには少々…説得力に欠ける。

えぇ、もちろん一件でもある時点で良くはないことですが、この数字はインパクトこそあれど、因果関係を示す充分な意味にはなり得ません。

その程度の数字で僕が何かを示唆しているというのなら宗教はどうなるでしょうか。宗教の元となる聖書は何万人もの人々を扇動し、迫害したことでしょうか。

僕の作品がまるでそうだと言われるなら、岸辺露伴先生にとって聖書と並ぶことは光栄ではありますが、行方不明となった読者が本当に僕の作品から「示唆」されて「扇動」されたと仰られるのであれば、どうぞ岸辺露伴先生。拙作ですが読んでいただきたいものです。僕は作品の中で死に直結して、それを煽るようなことは書いたつもりはありません。カルトのつもりはないのでそこはご承知いただきたいのです。

 

そして、僕達のように自分の考えを世に、世間に出す者は何かしら善なり悪なりの影響を及ぼすものです。例えば「ピンクダークの少年」を読んで、影響された少年が、女性の密室空間での他殺死体を見つけて探偵ごっこを始めたとしましょう。でも現実は非情ですから、超能力があるわけじゃあないし、咄嗟の馬鹿力がそう窮地に陥る度に出るわけでもない。そもそも絶望的な状況に瀕した時、生へ向かって何かを為せるような図太い精神を持った人間は現実的じゃあないですね。近いといえばアスリートの精神でしょうか?

すみません、冗談が過ぎました。

しかし、もしそれで何か行動を為せたとしても、漫画のように成功する確率は低いでしょう。それで事故に巻き込まれる、あるいは取り戻せない悲劇を起こしたら?

それ以前に面白がって動けば警察からあらぬ疑いをかけられるかもしれない。そういった時、咎されるのは作者です。丁度今の貴方のように、僕の作品から何かしら影響されてそうなっちまったんじゃあないのか、と。

…現時点そういう少年は実際にいません。でもその少年が「ピンクダークの少年」を真似たと一言言えば、それだけで社会現象の一つになり得る。

…つまり僕が言いたいことは、僕の作品が実際に行方不明となった読者本人達の口から、「感化されて行方をくらました」と言われない限り、不気味な一連の事件にこじつけるのは無茶だってことですよ…」

 

人生とは墓場を求めて生きる過程の連続だ。くだらない会話も、喋りながら過ぎ去る時間も、冷えていく珈琲も墓場を構築する材料他ならない。僕はその材料はとっくの昔に、己の死生観という形でできている。

墓地と墓石は出来上がっている。だから後は遺書だけ。

僕が自作品を遺書と称するのはそういうことだ。

示唆されたというのなら、読者の墓場を構築しただけのこと。僕の作品はその墓場の墓石かもしれないし、土かもしれない。ハッキリ死ねと書いたわけでも、死は救済ですと嘆いたわけでもない。希死念慮が己にあるわけではないし、それを植え付けるように書いたつもりなど毛頭ない。

だから一度読んでもらいたいものだ。感想も聞いてみたい。

岸辺露伴、貴方は描くために生きているし、彼自身の生きる活力、生きる道標となるものは「描く」ことだろうか?死ぬ経験すら漫画のネタになると思っていそうだと勝手に思っている。

そんな人は、つまり生きることへ並外れて無意識に執着に近い意識がある人は、墓場を構築しようにも、僕の言葉一つは大した材料にならない。墓石どころか土にすらない。

そばに立つ彼女だって、結婚するという幸せを手にしているから(喫茶店に入る前に婚約者の話をしていた)、まだ死ぬなんて考えてすらないだろう。

だから僕の本を読んだって死に急ぐことはない。ただ文字だけを読み、作者の人生観と書かれているものに対して感銘を受けたと繕って言っているだけに過ぎない。モデルがたくさん載ったファッション誌を見てモデルを飾るアクセサリーだけを褒めるように。僕の本が原因で死ぬなんてことは考えられない。それでも僕の本が厄だというのなら、今ここで燃やせば良いだけだ。

 

「…この岸辺露伴が読めと言われて読むとでも?漫画のネタに人の死生観とやらが必要になる時があれば…それで題材が他になくてどうしようもない時がくれば!…仕方なしに手に取るかもしれないな。だが、ないッ!言い切ったぞ。死ネタ系列は書く予定がこれっぽっちもないんでね」

「うん、そのぐらいでいいです。人の遺書なんて進んで読まれちゃあ、恥ずかしいですし」

 

やはり面白くて素敵な人だ。僕そのものをそうやって、嘘偽りなく「読まない」と言ってくれる。そういう人がいるのは僕にとって大きな収穫だ。赤字が出ようが、売上の為に読んで欲しいと思っていない。僕はただ遺書を書いているのだから。読んだ人は僕の遺書を読んで共感するかもしれないし、くだらないと嘲るかもしれない。

そういう様々な考えがあって、僕の死や人生に意味が持たれるのだ。どんな奴にも十色の人生があって、墓場までの過程の背景がある。その背景をあらゆる人が見ることで、その心へ何かを訴えることができる。その訴えが実を結んでくれたのなら、僕ははじめて己の人生は鮮やかな絵具で彩られたキャンバスだと呼べる。

それまでは人生なんて意味も価値もない物だと思っている。合理的な選択と消費を繰り返して、後に残るのは途方もない残骸のみ。これに価値があるとは僕は到底思えない。

どんなに生きている今を世間で讃えられようとも僕は強く思う。あくまで絶田滅男の考え。地位や名誉こそ、今大事だと考える人も中にはいるだろう。今の人生で讃えられてこそ価値があると。

今、僕の作品を真っ向から不気味だとか陰気だとか、読めと言われて読むかと、はっきりそのまま彼の本心のままに言う岸辺露伴という男は、すごく清々としてて、僕の目には新鮮過ぎた。世辞も何もないのが余計に。僕の理想とする訴えなど、ハナから聞く気もないこの態度!凄く面白い人じゃあないか。

彼は僕が死んでしまったとしても僕に対して「不気味」という評価は変えないだろう。そういう考え方や意見って、凄く面白い。生きてる間の評価と、死んでからの評価が変わらない人は僕の考えにはなかった。

逆に彼は、きっと、憶測だけれど、今褒められても死んで褒められてもそれを何も思うこともないんだろうなぁ。彼のこの高圧的な態度や、他が口を挟むことなど許されない、彼自身の生きる意思というのは、最も「己への信頼」だ。絶対に自分の実力を信じているし、信じている己を裏切るような真似はしない。他人からの評価で自分の人生の価値を決めることなど彼のような人は最も嫌う行為だろうか。

僕とは真反対の向きで生きている人だ。というか、別の世界からポンと飛んできたかのような。眩しい人だ、色んな意味で。

 

この街は殆どが高齢で、人生もほぼ終わりに差し掛かった人が多く、彼らから聞ける話は人生に対する感想であることがほとんどだからか、僕の作品のテーマとほぼ似ていて、ここは住みやすい街だ。それは作る上でも住む上でも。

皆が死へと向かう道だけを見つめていて、かくいう僕もその道の先を見つめている。だから死生観が暗くて、死への道程をぐだぐだと僕は認めているのかもしれない。もっと今を生きることは価値があって、彼のように己の人生の価値は己が決めるという意思が、僕には必要なのかもしれないな。

 

若い男女の賑やかな喧騒が去った後、まだティーカップの中に冷めた珈琲は佇んだままであった。喫茶店は少し寂しくなる。男女の居たテーブルを片付けている主人の背からも寂しさの色が滲んでいた。

ついたため息に揺らされて、ティーカップの中の珈琲の水面が揺れる。それを僕はじっくりと見た。闇を絞ったような液体に、ニヤリと笑った顔が映る。岸辺露伴と話せたことがそんなに楽しかったのだろうか?

熱かろうが冷たかろうが、ティーカップの中に入っているのは珈琲でしかない。そして珈琲ということには変わらない。

生きてる間に価値があろうが死んだ後に価値が生まれようが、人が生きている「人生」に変わりないということか。

 

 

 

 

 

[newpage]

 

後日、岸辺露伴の元へ一通のメールが届いた。

差出人は「絶田滅男」。件名は「こんにちは」。

 

『 岸辺露伴先生

 

先日 老咲町でお会いしました、絶田滅男でございます。

突然の連絡でご迷惑でしょうが、先日の露伴先生のご意見を聞き、僕の考えを構成し直す良い機会となりました。

そのことを感謝したく、こうしてメールを送っている次第です。

 

僕は死んでから、人の人生そのものに価値ができると思っていました。拙作にもそう認めているわけですし、それをずっと考えてきたのです。

僕の考えは正しくはありません。しかし間違いでもないでしょう。いち、そういう考えがあるのだとお思いください。

ですが露伴先生と邂逅し、僕が感じたのは人生の価値など馬鹿馬鹿しい他ないということです。

他人や己に値踏みされるべきものでない、それ以前の問題で人生を価値づける事こそ、無意味で無価値な行為なのだと。

これは僕のテーマを大きく揺らがせるものですし、「人生の墓場」をかれこれ何年か執筆してきましたが、その全てを否定するような考えです。

作家としてあるまじきことでしょうけれど、これが、凄く、僕の短い生涯の中でとてもとても、嬉しい発見でありました。

ありがとうございます。本当に。

 

後、僕の著書が原因で行方不明となった読者について、僕の方で探偵を雇い、調べていただきましたところ、彼らの行方が見つかりました。

皆、老咲町に訪れていらっしゃいました。

老咲健康ランドという温泉施設でごゆるりとされていました。どうやら僕の知らないところで、「人生の墓場オフ会」なるものの催しをされようとしていたらしいのです。

結果として良かったのかもしれませんが、僕の作品に影響されてもっと悪い方向へ進んでいたのなら、後悔や懺悔しようもしきれません。

今後のことを考え、これ以上の創作活動はもしやすると最悪の結果を招きかねないと考え、出版も停止致しました。

つまり、本屋で並んでる分が最後というわけですね。増版もナシとしました。潔いでしょう?

僕はこれを持って作家人生を終えようと思います。

 

では、岸辺露伴先生の更なるご活躍を祈っております。

 

     絶田滅男』

 

 

岸辺露伴は送られてきたメールを読み終えて、パソコンの電源を落とした。黒く塗りつぶした液晶に己の顔が映り込む。

死生観、とは。

何をもって生きる、死ぬとするのか。具体的な定義はないと露伴は考えていた。

誰かを生涯愛するか、何かに没頭するか、夢の残骸に埋もれて野垂れ死ぬのか。

人がどう己の命の容量を使い果たすかはそれぞれだ。絶田の死生観とは「人生の墓場を築き上げる過程の連続」だということ。間違いじゃあないが、きっと定義されるものじゃない。

それを露伴と会話をしたことで自身の定義の構成をし直すきっかけとなったと彼は文面で露伴へ感謝を述べていた。露伴自身それに関しては、「そうかぁ」という感想しかなかったが。

 

人生は腐っていく、それを生きると呼ぶ。

 

絶田の一文は露伴の頭に残っていた。あの喫茶店で付き合いの女性が生き生きと語った「人生の墓場」の一文。

不気味な題名と作者の風貌に反して、説得力のある一文は露伴なりに少し気に入っていた。

誰しも「生きること」を勇気あること、と捉えることがあるだろう。苦しい環境下でも耐えて生き抜くことの素晴らしさなどドキュメンタリーで訴えると、それに影響される人は少なからずいるわけだ。力強く生き抜くという姿勢や考えを人々は良しと考えがちなのかもしれない。

人の生命力を美化することは、確かに情に訴えかけられるうえに、同調を得るのに容易い。奇跡という言葉がおまけにつけば、もっと人々は「生きること」の強さを噛み締める。

絶田の考えはそうではなかった。

人の生命力とは破壊の連続。人生とは腐敗の過程。

昨今の美化されがちな人の生き方を真っ向から批判するような考えだ、と露伴は気づいてニヤリと鼻で笑う。

精神力や生命力に頼る人間の話ではなく、薄汚く醜く、腐りながら今日を生きる人間を絶田はそれこそ「生きる」こと、そして死んだ後で、その人生を振り返る人間がいて、彼らに与える何かこそ生きてきた価値、その価値を作り上げる為に「死ぬ」。

絶田のくどい死生観を読み取った露伴は、これは資料として彼を「読んで」みたいと思った。ネタになるかは置いておいて、逸れたことを題材にした絶田の頭の中は、露伴の個人的な好奇心をくすぐった。

 

さて、岸辺露伴氏自身の「死生観」とはなんだろうか。

岸辺露伴氏は何をもってして「生きる」「死ぬ」とするのか。

 

「くだらない質問だな。何を生きる死ぬとするのか?つまり、死生観を踏まえて「生死」を迎えていくには、予想のつかない寿命の期限を見積りながら自分の生き方と死に方をある程度決めなきゃならないってことだよな?

そんなものは生命力の緊張性と生々しいリアリティに欠ける。

想像もつかない事態に陥った時、「死ぬときは運命を受け入れる」と死生観を定めてしまったらそこで諦めてしまうってことになるよな?人間っていうのはそこで諦めないとヒーロー漫画以上の展開を見せる可能性を秘めているんだぜ。

その時の感情や、筋肉の動きっていうのは普通じゃ見れない。つまり、生死の在り方を固定するのは僕の趣味じゃあない。…それでも僕の死生観とやらをいう必要があるのか?

…それなら、僕の死生観とは、リアリティだ。

一個しかない命を腐らせることが「生きて」、「死ぬ」ことの最大の醍醐味だ」

 

 




読んでいただきありがとうございました。


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