Fate/Grand Order -East in the lost order- (浜田猫@執筆中)
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第零の異変 永月輪転結界 永夜抄 ―籠の中の姫―
プロローグ


 そこは、列車の中だった。

 彼女が憶えているものとは違うが、向き合った長椅子と外観を望む大窓は見紛うものでもない。雰囲気は古めかしく、線路を走る音もまた騒がしさがあるものの、そこは大して気にかけるべき点ではない。

 少女には、自分がその列車に乗った記憶がなかった。どこへ向かうのかも定かではなく、また何を目的にして移動しているのかも、彼女にはわからない。いつから乗っているのかも、自分の意思で乗ったのかすらはっきりしない。

 いやそれ以前に、彼女は何も憶えていなかった。どんな生活をしていたのか、どんな人々が周りにいたのか、自分がどんな人間だったのか。

 ただ、名前だけを憶えている。

 それだけしか、少女には残されていなかった。

「いいえ、いいえ。わたくしは称えましょう、勇敢な人の子よ。よくぞ失わず、ここまで辿り着いてくれましたね」

 声が、聞いたことがあるような優しい声が、列車の中に反響した。

「博麗大結界を潜る際に記憶を剥がされたのです。抗おうにも今のわたくしでは力及ばず、無理やりにでもあなたをこちらへ通すことしか叶いませんでした」

「誰、ですか?」

「……嗚呼、申し訳ありません」

 短い沈黙の後に聞こえたのは、心から悔いている人が発する悲しい声だった。

「まったく正当なその質問に、もはや答えることは適いません。ですのでその代わり、信用に足る人物からの文を預かっています。あなたの席にあるはずですので、どうかそれをお読みください」

 言われてみれば、太ももの下に紙が一枚挟まっている。取り上げて開いてみると、中には確かに、誰かの文字が書かれていた。

「これは……?」

「わたくしはその文の内容を知りません。ですがそれは、いまのあなたでも唯一信じる事ができる人物からの伝言です。つまりは、記憶を失う前のあなたからの文」

 記憶を失う前の、自分からの手紙。

 確かにこの状況では、信じられるのは自分だけ。その考えは間違いではない。しかしこの手紙自体、自分が書いたものだという自覚がなければその効力はない。

 少女はそのとき、ひどく冷静にものを考えている自分に気がついた。驚くほど冷淡に、理性的に事態を把握しようとしている。

 眠っていた回路を回すように。

 冷え切った指先に血を巡らせるように。

 記憶の果てに霞む自分自身を手探るように。

 何もかも忘れてしまったが、不自然なくらい明瞭に、自分の名前だけは憶えている。

「――わたしは、藤丸立香」

 意識の内側へ語りかける。

 応える声はどこにもない。それは同時に、拒絶もないということ。

 わたしは、藤丸立香。

 海の水面を揺蕩うような、朧気な人型。

 最初から選択肢なんて、あってないようなものだ。

「わたしは今まで何をしていたの?」

「戦っていました。あなた自信の大切なものを守る為に」

「わたしは勝ったの?」

「あなたの戦での負けとは即ち死でした。失ったものも多くありましたが、明日を繋ぐことが勝利であるのならば、あなたは勝ち続けていました」

「明日を、繋ぐこと……」

 異邦じみたその言葉は、何故だか染み渡るように心を浸した。癒やすように暖かく、称えるように朗らかに、朝日の如く少女を包み込む。

「わたしはどうしてここにいるの?」

「あるものを救うと、わたくしに言ってくださったからです」

「あるものって?」

「あなたが救い続けてきたもの、世界の裏側に位置する異郷。わたくしたちのような、存在を許されぬ者たちの世界」

「大きな話だ、とても。どうしてわたしだったの?」

「あなたは救い続けてきました。それはつまり、見知らぬ誰かを信じ続けてきたということ。あなたならば、我々の存在を信じてくれると思ったからです」

「じゃああなたを信じなきゃ、助けられないってこと?」

「我らを形作るものは想念、人々の想いと夢。この世でもっとも儚い現象です。人間がこの世から姿を消せば、想いを繋ぐ者たちがいなくなれば、わたくしたちは滅びるしかない。

 魔術王の人理焼却、それによる滅びであれば受け入れましょう。ですが今ある脅威はそれではない。何故なら人理焼却の魔の手は、あなたによって払われたのだから」

 言葉に熱が入る。

 魔術王の人理焼却、その言葉には言い表しようのない寒気を感じる。あってはならないものなのだと、理解せずとも強く思える。

 記憶では憶えていないのだから、それは心に、この藤丸立花という名前に深く刻み込まれた意志なのだろう。

「我々の住まう異界の地、幻想郷。今、その世界が滅びようとしています。本来誰かも干渉されず、特別な手段をもってしても、敷かれた結界を越えることはない。ですが、我々は確かに存在しているのです。

 その曖昧な境界を信じてくれる方を探していました。あなたしかいないのです、藤丸立香。あなたしか信じてくれなかったのです、藤丸立香。勇気ある人、世界最後のマスター。何度でもお願い致します、何度でも頭を垂れ、地に額を擦りつけ、叶うならばこの命擲つことも厭いません。ですのでどうか、どうか幻想郷を――」

 正直なところ、話の内容は半分も理解できない。信じたといっても実感はない。世界最後のマスターというのにも心当たりがない。だから当然、希われる筋合いもない。

 だが、その想いは伝わった。

 何をするべきかではなく、何がしたいのかが定まった。

 手紙にあったその一文。

 ――信じたいと思ったものを信じる、わたしはそうして生きてきた。

 それが、藤丸立香の生き方ならば。

 その名前しか憶えていない少女は、これからもそう生きるより他にない。

 そも、簡単な話だった。

 記憶はなく、指針もない。何をすべきかも定まらない。迫られるのはただの二択。すなわち信じるか、拒絶するか。

 もっと書くべき事があったろうに、それでもこれだけしか書かなかったのは何か理由があるのか。冷静に思考を巡らせてみたが、やはり答えはひとつしかでない。

 これだけで、藤丸立香には十分だったのだ。

 二択の答えが、ここに書かれているのだから。

「わたしはどうすればいい?」

「わたくしの夢を、救ってくださいませ」

「わかった。必ず救うよ」

 自分の口から出てきた言葉が、自分という存在にとても馴染んでいるように思える。何度も何度も、繰り返し言い続けてきたのかもしれない。

 無責任なことを口にする傲慢さよりも、今目の前の人が喜んでくれることが嬉しかった。この言葉だけは、何があっても嘘にしてはいけないのだと強く誓う。救うと言ったからには、救わなければいけない。

 藤丸立香は、きっとそうして生きてきたのだ。



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永月輪転結界

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 空は暗く、星は消え、月は赤く充血している。この世の終わりとはかくも恐ろしく、鬼の形相をたたえるものだ。

 この幻想郷では、魑魅魍魎が跋扈するなど常日頃の事ではあるが、それにしても数が多く、またそのひとつひとつが強大であった。

 世界は今、終焉に向かっている。

 否、この一夜の後、世界は終わりを迎える。

 幻想郷も、その住人も、次の朝日を拝むことはない。

 その終末において、人影がひとつ現われる。

 虚空から出現したその影は、人ならざる怪異の中でもまた異質。身体は魔力で構成し、人格は術式から立ち上げられ、核となる魂でさえこの世のものではない。

 ――その昔、幻想郷の外からとある儀式が取り込まれた。当代の魔術師七人と、彼らによって召喚される七つの英雄の魂。彼らが一堂に競い合い、万能の願望器と呼ばれる聖杯をかけて戦うその儀式の名を、聖杯戦争と呼んだ。

 幻想郷の賢者たちはこのシステムを流用して、幻想郷の中で聖杯戦争を執り行うこととした。喚び出される英雄は、幻想郷の中で名を残した過去の異変の参加者たち。彼らに相応しいクラスを与え、現世に召喚し使役する。

 ……つまり。その人影は、終末を目前にして幻想郷に召喚されたサーヴァントである。

「グランドオーダー。……そう、マスターはいないのね」

 少女の姿をしたサーヴァントが現われたのは、闇の深い森の中。遠くの方では火の手が上がっており、風向きから考えればいずれここも飲まれるだろう。 見れば、妖怪の類いも辺りをうろついている。何匹かは彼女の姿を捉えているようだ。獲物を狙うようにじりじりと近づきながら、柔肌に牙を立てる隙を伺っている。

「見たことない妖怪ばかりだけど、世界の終わりって、あんなのがうようよ湧き出てくるのかしら」

 嫌ね、と目を伏せる。

 その瞬間を待ち受けていた様に、妖怪たちが一気呵成に襲いかかっていく。

 シン、と空気が変わった。

 放たれる一閃。

 闇を抜く閃きが一筋、切り裂くように妖魔たちを襲う。倒れた妖怪は十を超えたころ、危険を悟った他の者は姿を消した。

 少女は微睡みから目覚めるように瞼を開ける。

 今のは弓だった。この少女が放ったものではない。一匹漏らさず仕留めたのは、今少女の目の前に現われた別の人物。

「あら、思っていた人とは違ったわ」

「驚いた。よもや今になって、あなたが喚ばれるとは」

「? 会ったことがあるかしら、あなた」

「……いや、今はいいでしょう。私はアーチャー、あなたは?」

「名前? それとも、クラスというものを名乗ればいいの? だとすれば、私はオルターよ」

 アーチャーは意表を突かれたように瞠目する。

「革命者。過去の異変において、黒幕として名を残した英雄に与えられるクラス。こんな終末の大詰めに、世界を滅ぼす大災厄のサーヴァントとして召喚されるとは思わないが……。

 一応訊ねるが、あなたのマスターは?」

「さあ、皆目見当もつかないわ」

 はぐれサーヴァントか、と小さく呟かれた声をオルターは聞き取った。どうやらマスターのいないサーヴァントのことをそう呼ぶらしい。

「私は、ある人物からここに行くように言われて来た。幻想郷の終焉、それを食い止める一助となる英雄が、ここに現われると聞いたからだ」

「へぇ、すごい人なのね。会ってみたいわ」

「わかっていて言っているのか、それ」

 アーチャーが移動するというので、オルターはそれに付いていく。

 現状の理解すらままならないが、この状態ではどのみち誰に付いていっても変わりない。オルターはそう判断した。

 それにアーチャーの言っていた、とある人物というのも気になるところだ。もしもオルターが思い描いている通りの人物であれば、このままアーチャーに付いていけばまず間違いはない。たとえそうでなかったとしても、何を目的にオルターの召喚を待っていたのか。それを聞き出せれば重畳といえる。

 森を抜けて丘を通る。

 遠くに見えていた火災からは離れていっているようだ。だがそれでも、上から見下ろす景色は想像していたよりもひどい。

「幻想郷の終焉、ね。本当に終わるのね」

「ああ。多くの英雄たちが死力を尽くしたが、それでも及ばなかった。このままいけば、幻想郷がこの夜を越えることはない」

「意外ね、そんなことを平然と口に出せる性格じゃないと思ってたわ」

 次の瞬間、オルターはそれに気がついた。

 遙か上空に浮かぶ漆黒の球体。光の失せた夜空よりもなお暗い、赤く染まった月の輝きすらも吸い込まんとする黒点がある。

 幻想郷に漂う終末感、終わりが近いのだと肌に感じさせる脅威の正体があれだ。説明されずとも、何も解らず放り出された赤子のような状態でも、サーヴァントであればそれくらいは理解できた。

「なるほど、あれは駄目ね。ああなる前に消さなきゃならなかった」

 アーチャーは顔に悔しさを滲ませていた。

 言われずとも解っていたことだ。何人もの英雄たちを犠牲にして、この結末を回避しようと命を賭けて戦ってきた。

 だが及ばなかった。結果だけ見れば、なんとも呆気ないものだろう。

 一番口惜しいのはアーチャーだ。戦の中で死ぬことも出来ず、救いたかったものを救えず、ただ生き恥をさらしている。何が英雄だと、毎秒自らを責め続けているのだろう。

 だから言葉は返さない。いや、返す言葉がないのだ。

 そんな言葉があれば、とっくに自分に向けている。

「あなたが悔しがることではないわ。仕方のないことだもの。叶わなかったのなら、そこが限界だったんだわ」

「慰めのつもりか?」

「いいえ、ただの事実よ」

 乾いた風が吹き抜けた。

 莫迦な妖怪たちが、風上に隠れるものだから臭いで場所が解ってしまう。いまも二人が隙を見せぬものかと、その機会を伺っているようだ。

 襲ってこないのならばそれでよしと、アーチャーは彼らを気にもとめない。その視線はまっすぐに、オルターへと向けられていた。

「――なら何故、あなたは召喚に応えた?」

「きっと、理由があるんだわ」

 アーチャーは視線だけでその理由を問う。

「喚ばれただけの私にはわからない。ただ目的はある。それだけはきちんと果たすし、きっと、あなたの目的にも添うはずよ」

 誰に喚び出されたのか、それは今を以てわからない。だが何をすればいいのかはわかる。正確には、空に浮かび上がるあの黒球を見た瞬間に、理解した。

 今自分が何をするべきか。

 何を求められているのか。

 その目的を遂行するために存在する。

 ただそのためだけに考え、動き続けることだけを求められる。

 それがサーヴァントである自分の在り方。

 或いはそうあれかしと、誰かに定められた在り方。

「――誰か近づいてくるわね」

 オルターは周囲を眺める。

「あれはバーサーカーだ」

 アーチャーと言うだけあって、さすがに目がいい。アーチャーのクラスに収まる英雄は、遠くから敵を仕留めることに特化したスキルを持っている。オルターの目には米粒程度にしか見えなくても、彼女の目ははっきりと姿形を捉えているのだろう。

「あれはちょっと危険ね」

 アーチャーも同意する。

「今はあなたを連れ帰ることが最優先だ。適度に牽制を入れつつ、途中で撒いて――」

「――逃げるのかー?」

 それは突如、二人の間から発せられた第三者の声。幼くあるが、首筋を痺れさせるほどの狂気を孕んだ声だった。

「アサシン――ッ!」

 立ち所にその正体を察したアーチャーは反射的に振り返る。だがその時にはすでに、オルターの腹部は半円型に食いちぎられていた。

 力なく倒れていくオルターを、アーチャーは咄嗟に腕を出して抱え込んだ。

「ああ、サーヴァントの肉だ! 木っ端妖怪なんかとはわけが違う! ほんとに美味い!」

「ハイエナがッ」

 漆黒の靄を纏うサーヴァント、アサシン。暗殺に長じたこのクラスのサーヴァントは、気配を断ち敵の背後を取ることを得手とする。強大な気配に気を取られ、風下から近寄られては察知する術がない。

「■■■■■■■■!」

 怒号が空気を震わせる。まだ遠く離れているバーサーカーもまた、獲物を仕留めようと走り出した。

「次から次へと……順番を待てというのだ、たわけ」

 アーチャーの背後が揺らぐ。収束する魔力が形を取り、閃く刃を作り出す。光り輝く灼かなる宝剣、宝槍。その数、実に十四挺。

 黒い靄の中で息を呑む気配がある。

「虚仮威しにしちゃ、ちょっと背筋が寒いや」

「なら試してみるといい。もとより、首級は貰うつもりだ」

 アサシンは靄の範囲を広げ、それを押し潰すようにアーチャーの武器が疾走する。勝敗は見るまでもない。靄はたった三挺の攻撃であっという間に霧散し、中に潜んでいたアサシンの本体が転び出てくる。

「宵闇妖怪、正体見たり」

「おのれ、アーチャー。貴様――」

「■■■■■! ■■■■■■■■!」

「ッ、バーサーカー!」

 突如躍り出る人影。予想していたよりも到着が早かったのか、単にアサシンには見えていなかったのか、バーサーカーの登場には目を剥いて驚いている。

 この隙は願ってもないものだ。

 アーチャーは二体のサーヴァントを剣の雨で牽制し、本命の一撃を呼び覚ます文言を唱える。

「――宝具解放」

 現われたるは光り輝く硝子の円盤。太陽の化身であり、その光を一身に集めた三大神器のひとつ。アーチャーの頭上に顕現したその宝具は、光輝を放つ鏡面をアサシンとバーサーカーに向けている。

「な、なんだってのさ、この光は!」

 アサシンが断末魔の悲鳴を上げる。

「この光は文字通り命を焼く。貴様のような生粋の魔ではさぞ辛かろうよ、宵闇」

 夜の帳は払われた。

 この宝具の前に、決して魔は栄えない。

 その昔、兄弟の暴走に耐えかねた太陽の神が、天岩戸に閉じこもったことで世界から昼が消えた。困り果てた神々は偽りの太陽を作り出し、その光に己が神威を見て取った太陽神は、その正体を暴くべくついに岩戸から顔を出した。

 世界に光を取り戻し、それ自体もまた恒星としての力を持つこの宝具は、天照大御神が神威を再現する、この世にふたつとない神造兵装。

「――偽・八咫鏡(やたのかがみ)

 その極光は闇を抜く矛。地上を焦土に変える神威の光条は、問答無用で二体のサーヴァントを飲み込んでいく。

 対魔、対霊の装備としては破格の威力である。しかし見た目以上に魔力を消耗するらしく、光が収束し爆煙のみが残った戦場を前に、アーチャーは地面に両手を突いて荒い呼吸を繰り返していた。

 ――出力、が上がりすぎた……ッ。

 宝具の正しい担い手であれば、『発動に使う魔力』と『出力に使う魔力』の総量くらいは手足の感覚のように把握している。もちろんアーチャーも『偽・八咫鏡』のそれらについては十分理解しているが、今回の宝具使用については設定値を越える魔力を出力時に持って行かれた。

 それに伴って威力も普段より格段に上がっているが、意図せず魔力を搾り取られた結果、身体の自由が利かなくなるほどの欠乏状態となってしまったのだ。

「昼間の戦闘では、ここまで……」

「あの黒球の影響でしょうね」

 聞こえた声に息を飲む。だがそれがアサシンでもバーサーカーでもなく、オルターのものであることに気がつく。

 彼女はさび付いた機械のように、緩慢に身体を起こし始めていた。

「オルター、あなた意識が」

「八咫鏡とはね。おかげであなたの真名も察しが付いた……いえ、思い出したわ。人里の守護者が弓兵で喚ばれるなんて、心強いことね」

「――ッ、まずい!」

 立ちこめる土煙の中に魔力の発生を感知した。オルターを抱えてその場から離れると、突如地面が隆起し、凶暴な形をした植物が顔を出す。

「バーサーカーめ、これでも倒れないのか」

「丈夫なのね」

 振り払われた土煙。中から出てきたのは、まったく傷を負った様子のない五体満足のバーサーカーだった。

「手加減でもしたの?」

「こっちが倒れるくらい本気だったよ。あなたも見ただろう」

「なら逃げてみる?」

「それがいい」

 二人は一斉に駆けだした。アーチャーは先導する形でオルターの先を走る。

「■■■■■■!」

 当然、バーサーカーも猛然とそれを追いかける。

 アーチャーは森の地形を熟知しているらしく、木々に紛れながら進んでいった。おかげでいくらかの目くらましになり、バーサーカーとも一定の距離を開けることができている。

 だが何らかの感覚が働いているのか、向こうもおおよその位置は把握できるらしく、撒くまでには至らない。

「あんな英雄、幻想郷にいたかしら」

「あれはバーサーカー。地上最強の名を恣にした庭園の姫、風見幽香」

「嫌ね、地上最強なんて。恐ろしい」

「どういう理屈か、あれは戦闘で倒すことはできない。どんなにダメージを負わせても立ち上がってくる」

「八咫鏡の光を受けてあれだけ元気なら、そういうことなのでしょうね」

「あれではまるで不死だ。風見幽香が不死であったという伝承はないというのに」

 オルターはふうん、とつまらなそうに言って、その場で立ち止まった。いまもなお追いかけて来ているバーサーカーへ立ち向かうように、先を行くアーチャーに背を向けた

「オルター、何を――!」

「試してみようかと思って、本当に死なないのか」

 アーチャーも即座に立ち止まる。

「あなたならまだしも、私の足ではいずれ追いつかれるわ。だったら私が残るから、あなたは先に行って応援でも何でも呼んできて頂戴な」

「それでは本末転倒だ。殿なら私が」

「現実的じゃない、って自分で思わない? あなた籠城戦は得意だけど、ただの足止めって苦手でしょう。それに不死に対しては一家言あるのよ、ちょっと興味もあるし」

「何を莫迦な。あなたはサーヴァント、一度は死んでいる身だ。殺されたら死ぬんだぞ。生前のように、何度殺しても死なないなんてことはない」

 そうね、とオルターは他人事のように相づちを打つ。

「呆れるくらい、当たり前の事だわ」

 突如、躍り出てくる人影。それは棒立ちのオルターに向かって襲いかかる。不意を突かれたアーチャーは対応が遅れ、衝突による風に煽られる。

「■■■■■■■■!」

 バーサーカー。庭園の姫、風見幽香。

 狂化の影響か、肌や髪の色が鈍くくすんでいるが、彼女が本来持つ生命力の強さは溢れ出る魔力から見て取れる。

 冷たい汗がこめかみを落ちていく。

 陣営の半数はこのサーヴァントによって倒された。正面から打ち合うことだけは、避けなければいけなかったのに――。

「っ、オルター!」

 風によって巻き上げられた土埃が晴れる。

 バーサーカーの攻撃を受け止めたオルターは、逆にバーサーカーの両手を掴み取って動きを封じている。見た目にそぐわない恐ろしいパワーだった。

「いまこの幻想郷に、八意永琳はいるのかしら」

 アーチャーは我に返ったようにハッとなる。

「あ、ああ。私を使いに寄越した方がそうだ。先の戦闘で重傷を負い、今は動くことができない」

 オルターはそう、と言ってバーサーカーを解放する。

 枷から解き放たれた肉食獣のように、バーサーカーは咆号を上げて獲物を威嚇する。純粋な殺意は魔力を乗せ、物理的に痛覚を刺激してくる。また、それほどの質量を持った殺意によって、呼応した草花が変質し妖魔化していく。

 庭園の姫の名の通り、彼女のためだけに動く、物言わぬ兵である。

「上白沢慧音」

 その全てと対峙し、オルターは穏やかな声でアーチャーの真名を呼んだ。

「喜びなさい、あなたの献身はここに成就する。負け続けた甲斐があったわね」

「なにを言って」

 アーチャーがその言葉の真意を尋ねる間もなく、オルターは全身に魔力を充足させ、戦闘態勢に入った。

「永琳に伝えなさい。終末の幻想郷に永夜の帳を下ろす。蓬莱山輝夜の名において、永月輪転結界を発動すると」

「っ、駄目だオルター、輝夜殿――!」

 駆け寄ろうとするアーチャー。その行く手を、突如地面から突き上げるように生えた壁に阻まれた。

 天を突くほどの大障壁。彼の四天王が仏に賜わせたという、石の鉢の一欠片である。

「くそっ、おい、我儘も大概にしろ! 子どもの駄々じゃないんだぞ!」

 アーチャーは眉間に青筋を浮かべて抗議する。

 壁を形成している魔力を見れば、こ間違いなく宝具に違いない。いま出せる全力の攻撃でも、壊せるかどうかはまったくわからなかった。

「一体どれだけの希望が、あなたの背に乗っていると思っている! こんなところで、軽々に賭けていい命じゃないんだ!」

「勝って当たり前の勝負に挑むことを、賭けとは呼ばないわ」

 オルターのここに至ってなお穏やかであった。

 数々のサーヴァントを滅ぼしてきた死神のような強さを誇る狂戦士。一切の攻撃が通らず、逆に腕の一振りでさえ致命的な威力となる、およそ規格外の霊基。その怖ろしさは、いま正面から対峙しているオルターにも伝わっているはずだ。

 それでも、オルターは平静さを欠いていない。

 やれるのか、と。同朋を殺され続けてきたアーチャーにさえ、そう思わせるほどの自信が彼女の声には秘められている。

「信じろというのか。酷な言葉だ」

「違うわ、これは信頼よ。私もあなたを信じている。幻想郷の存亡を賭けたこの一手、しかと実現して見せなさい。上白沢慧音」

「その減らず口を後悔させてやるぞ。……絶対、後悔させてやるからな」

 アーチャーは壁に背を向け、走り出す。魔力の少ない身体に鞭を打って、全速力で八意永琳の元へ。破滅へ向かう世界に落とされたたったひとつの希望、その計略を成就させるため。

「だから頼む。頼むから生きていてくれ、輝夜殿――!」

 かつて幻想郷には明けない夜があった。

 その異変の首謀者の名こそ、蓬莱山輝夜。彼女がオルターとして召喚された経緯は、その異変にこそある。

 永夜の帳、永月輪転結界。それは明けない夜の再現。この結界が成就すれば、夜は明けず、世界は滅亡の半歩手前で踏み留まる。

「事ここに至り私が喚び出されるということは、ここが幻想郷の限界ということなのでしょう。ここまで状況が切迫してしまえば、私なんてただの延命装置にしかならない」

 つまるところ、そこで打ち止め。終末に喚び出された最後のサーヴァント、世界が用意できる最大の抑止力をもってしても、根本の解決には至らない。

「次の手があるのか、はたまた、ただ終わりを先延ばしにしたいだけなのか。答えは私にもわからない」

 だが、やることだけはわかっている。

 せめてその目的だけは達成させてもらおう。

 オルターは壁を背に立つ。植物兵を増産するバーサーカーを前に、少しの余裕も崩さない。

 相手が本当に不死であろうが関係はない。そんな些事に対する恐怖など、永劫の刻の前には塵芥も同然。この身はもとより、不変の干渉は受け付けない。

「行かせないし、殺されないわ。あの子が死んでも私が死んでも、幻想郷は滅びるのだから」

 

「――宝具。五大神宝・竹取飛翔」

 

 虚空を照らす宝珠。

 展開するは虹霓結界。

 やがてこの世界を永夜の帳が包む頃、草木の一本さえ、壁の中には残らなかった。



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妖々跋扈

時間かけたわりに助けて欲しいくらい全然進んでません。ごめんなさいぃ泣


 どうにも、世界が終わるというのは本当らしい。

 人理修復の記憶を奪われた立香にとって、世界の滅亡なんて言葉は比喩表現以上の意味を持たなかったし、たとえその言葉を口にした誰かを信じたとして、やはり本当の意味での現実味は感じていなかった。

 だがそれもまた人間の本質。後の祭りという言葉が生まれたように、人は直面して初めて、事実の重さを認識する生き物だ。藤丸立香はあくまでも普通の人間である。神話伝承に名を連ねる数多くの英雄たちに、異常時において霊長としての善性を保つという希有な人間性を認められながらも、生物そのものの本質を逸脱したりはしない。

 故に、世界の終わりという現実を甘く見た。十分に警戒したつもりでも、あまりに足りていなかったのだということを、瞬時に自覚するほどに。

「あれ、もう動かない?」

「もはや虫の息。つまり、まだまだ動く」

「可哀想に。目も見えない、耳も聞こえない。それでもまだ動くなんて」

「夜雀はそうやっていたぶるのが好き。我々()には理解できない。恵みに感謝して、粛々と食べるべき」

「わたしにとってはあなたも恵みなのだけど、虫の王様」

 いったいどれだけ逃げただろう。どれだけの傷を負ったのだろう。いまや視界は閉ざされ、聴覚も奪われた立香には、命を削り続ける身体の痛みでしか自分の生存を実感できない。

「ところでこの人間、さっきから何故意味もなく声を出している? 助けを呼ぶ声には聞こえない」

「うふふ、面白いでしょう。人間ってね、耳が聞こえなくなると声が漏れ出すのよ。無意味もそのはず、これは意思のない声なのだから」

 夜雀と呼ばれた少女の口元が鋭利に歪む。

「単調で色気のない音階だけど、まるで無垢な赤子のようでしょう。美しい、素敵な声色だわ」

「行動の意味が、我々()にはやはり理解できない」

 だが、と虫の王は静かに続ける。

「そうか、これが美しいというものか。理解した、おかげで腹の虫が治まらない」

 少女、否、人の形をした化生共。二人は咥内を濡らす涎を止め処なく滴らせながら、瑞々しい肉の味に思いを馳せる。

 その間も、立香は為す術無く倒れたままだ。五感の半分は失われ、血を失いすぎた身体はいうことを聞いてくれない。

 だが脅威に対する恐怖、本能の警笛とも呼べる直感は、特に理屈を飛び越えて奇跡を生むことがある。ふとした瞬間、立香は手足に熱が戻るのを感じ取った。指先にまでしっかりと力が入る。

 そこからの行動は、まさに打って響いたような反射的なものだった。

「あ、逃げた」

「さすがは人間。往生際の悪さだけは見上げたものよね」

 辺りは光の失せた夜の森。もとより人には前後を知ることすら難しく、夜雀の伝承通り目を封じられては、ただまっすぐ進むことすら不可能に近い。どこまで逃げられるか見物だと、夜雀は泳ぐように空を浮遊し、虫の王は音もなくその後を追う。

「さあ、生涯最後の追いかけっこだ。楽しいだろう、人間。楽しいなあ、人間」

 何者とも知れぬ不気味な声が夜の森に共鳴して行く。伝承の通り、夜雀の声は人を惑わし拐かす。絶世の美声に聞こえるというそれも、正体を知る者にはただの寒々しい笑い声にしか聞こえない。

 ――ヒョオヒョオヒョオ。

 性別も人数も、この世のものとさえも判別が付かない、腹の底を震わせる恐怖の音。恐怖故に人は錯覚し、吸い込まれるように引き寄せられる。

 幸いなことに立香は影響を受けないが、夜雀のその声は、遙か遠くにいる人妖を見境無く集め始めていた。

「世界の終わりがかくも愉快なものとは知らなかった。死んでみるものだ。これも二度目の生があってこそ。そうでしょう、虫の王」

我々()には理解できない。ただ粛々と、種の繁栄のために頂くのみ。たとえ死んだとてそれは変わらない」

「いいさ、それでも。私は咽喉から上を貰う。他はくれてやるわ」

「それは助かる。我々()の腹の虫を治めるには、まだまだ恵みが足りない」

 鬼が子を追いかけるように、二人は段々と立香との距離を詰めていく。これだけ入り組んでいる木々の間を、足下の枝草を避けながら、よくもまあ上手く逃げるものだと感心した。

 だがそれもいよいよ終わり。おぼつかない足取りで逃げ続けていた立香は、ここまで上手く避けてきた木の一本に衝突し、そのまま力なく倒れてしまった。それを見た夜雀は、逸る気持ちを抑えながらゆっくりと降りてくる。虫の王もわらわらと散けだしそうな身体を保ちながら歩み寄ってくる。

「よくやった、よくやったよ、人間。ここまで生き穢く、恐怖に染まりながらも足掻き抜いたその肢体、さぞ甘美な味を蓄えたに違いない」

我々()は理解できる。その精力、十分な糧となる。もたらされた恵みに感謝を」

 もはや精も根も尽き果てた。人間としての限界を迎えた立香は、意識も残らず刈り取られ、辛うじてか細い呼吸を繰り返すだけ。想像しうる限り、およそ生存は絶望的な状況である。

 だが現実はそうではない。

 真実は未だ、この場の誰も理解していない。

 この状況を見て誰が考えたであろう。

 次の瞬間にも死に絶えそうなこの少女が、実は想像を絶するほどの幸運によって生かされているということを。

「――上出来さ、小娘」

 それは夜雀でも、虫の王でもない誰何の声。それが二人の耳に届いた次の瞬間。

「な、!」

「ッ!」

 彼女たちの足場が崩落し、突如口を開けた大穴が二人の身体を飲み込もうとした。さらに追い打ちを仕掛けるように、その穴を目がけて巨大な丸太が落ちてくる。夜雀は咄嗟に翼を広げて落下を回避するも、虫の王は身動きすら取れず、丸太の槌に潰されるように穴の底へ落ちていった。

「これは狩猟の罠……、一体誰が――」

「――教えてやろうか」

 後頭部を打ちつける鈍重な衝撃。ただの一撃で夜雀は意識を刈り取られ、強かに地面へ打ちつけられる。

「罠を仕掛ける奴ってのは、古今東西、狩人って相場は決まってんのさ。小鳥ちゃん」

 振り抜かれたるは一本桧の兎杵。

 夜半に輝く紅玉の瞳と、穢れなき純白の大耳は、知る人ぞ知る伝説の妖怪の容姿そのもの。神話の時代に生を受け、幸運の象徴として幻想郷の歴史に刻まれた大妖怪。

「さすがは因幡の白兎。生身でこれだけ動けるなら、私たちも形無しね」

 神に最も近い兎。幻想郷において、因幡てゐを名乗るその少女は、大杵を軽々と担ぎ直して声のした方を見やる。

 森の影から現われたのは、美しいという概念を形にしたような絶世の美女。艶やかな黒髪を腰下まで流し、儚げな微笑を浮かべた彼女は、この地に招かれた最後のサーヴァント。

 革命者、蓬莱山輝夜である。

 てゐはフン、と鼻を鳴らす。

「夜雀一匹伸したくらいで感心されても嬉かないやい」

「ふふ、助かってるわ」

 輝夜は立香の下へ歩み寄ると、袖口から小さな貝殻を取り出した。縁を巻き込むように閉じられた口から、じわじわと水が漏れ滴っていく。やがて輝夜の手からも溢れた水は立香の身体に落ちていく。すると不思議なことに、立香の身体に受けた傷が次第に癒え始めていった。見る見る内に傷はなくなり、それに伴ってか細かく小刻みであった立香の呼吸も落ち着きを取り戻していった。

「生前じゃあ一度も見せてくれなかったのに、まさかこんなところで見られるなんてねえ」

「仕方ないじゃない。本当に持っていなかったんだもの。私だって一度は諦めた物よ、死んで手にするとは思わなかったわ」

 それは蓬莱山輝夜の持つ五大神宝がひとつ。伝承において、本来海にいるはずの子安貝だが、燕が卵と共に産み落とすそれは、命の泉を無限に生み出し続けるのだという。

 五大神宝・竹取飛翔、第四の難題『子安貝・永命泉』。触れれば立ち所に傷を癒やす生命の泉である。

「てゐ、頭を支えてあげて頂戴。この子、内側も酷いわ」

 立香の頭を抱えたてゐは、顎を掴んで口を開かせる。子安貝から湧き出る水を立香の咥内へ流し込んでいく。そこで輝夜が呟いた。

「信じられる? この子、自分で耳を潰してるわ」

「へえ、だから夜雀から逃げられたんだ。鈴仙みたいなことするね」

 輝夜はそうね、と言って、懐かしい光景を思い出すように、静かに目を閉じた。

「死中に活を見るのではなく、死が確実な道を潰していく足掻き方。生き方は違うのかもしれないけど、根本はあの子に似ているのかも知れないわね」

「しぶとくやってたんだけどね。ありゃ性格がよくないよ、自分を省みなさすぎだ。ついに死んでも治らなかったね」

「ホントよ。私と会うまでくらい、いてくれればよかったのに。寂しいわ」

 子安貝の水は止まっていた。輝夜は再び袖口にしまい込んで立ち上がる。

「さあ、運んでしまいましょう。生者を連れ帰れば、白澤にいい口実ができるわ」

「一言伝えて出てくればいいだけのことだろうに。姫様の散歩に付き合わされて、こっちも迷惑だよ」

 そう言っててゐが立香の身体を担ぎ上げた時、彼女の上着から何やら紙が落ちてきた。背負う体勢を調整しているあいだに、輝夜がその紙を拾う。

「姫様」

 中を覗こうとしたそのとき、てゐが声を上げる。視線を向けると、くいっと顎で立香の右手を示した。

「これ、お師匠様が言ってたアレじゃないの?」

「――まあこれはびっくりね。ええ、ええ、その通りよ」

 立香の右手に浮かび上がる三画の紋様。

 それを目にした途端、死体が血を取り戻したように、輝夜の表情が色めきだした。

 てゐはその顔に憶えがある。

 あれは初めて輝夜と出会ったとき。

 月から落ちてきた兎を輝夜の下へ連れ帰ったとき。

 偽りの月を浮かべ、幻想郷に明けぬ夜が訪れたとき。

 あれらのときも彼女は同じ顔をしていた。

「ようやく訪れてくれたのね。あの黒球を作り出した黒幕に叩き込む、会心の一撃が」

 

     …

 

 空には浮かぶ黒い球。

 その正体を知る者は誰もいない。

 その正体を気にする者も誰もいない。

 昼は瘴気を吐き、夜は妖気を蔓延させる。触れればたちまちに自我を失い、妖怪であれば力を増し凶暴化する。

 あれが今の形で現われた瞬間から、幻想郷は加速的に崩壊が進んでいった。諸悪の根源ではないものの、幻想郷の崩壊はあれの出現で決定したと言ってもいい。

 そんな禍々しい妖力を垂れ流す黒い孔を頭上に、少女はひとり森を彷徨い歩いていた。

 ――復讐、ただそのための生涯であった。

 彼女は探し続けている。それこそが存在理由であり、そのためになら死の淵すらも越えて来た。

 命を燃やす怨の一字。

 魂がすり切れるまで探し続け、報復を忘れることなく、恩讐の彼方まで駆け抜ける。

 たとえ道半ばに力尽きようとも、もはやその復讐心は永劫不滅にして、月まで届けとばかりに燃ゆる。やがて英霊の座に召し上げられて、サーヴァントとして再び現界してまで、少女の目は唯一人の姿を追っている。

 故に、まだ見ぬまでも、必ずどこかにいると確信していた。彼女は復讐者。七騎のクラスには当てはまらないエクストラクラス、アヴェンジャー。ならば復讐の対象なくして、この霊基が現界するなどあり得ない。

 どれほどの時間をかけようと必ず見つけ出す。そして復讐を成し遂げる。この身はただ、その一事を成すためだけに召喚されたのだから。

 そんなアヴェンジャーの進む先に、地面に深く突き刺さった丸太が現われた。その根元にわらわらと蠢く小さく無数の影がある。

我々()は怒る。傷つけられた尊厳のため、あの四足を貪り喰らおう」

「だが我々()の魔力は残り少ない。どこかで補填する必要がある」

「問題はない。新たな恵みが、我々()の前に現われた」

「喰らえ」

「喰らえ」

「喰らえ」

 幾重にも同じ声が聞こえる。

 個人ではなく、種そのものがひとつの霊基として現界している影響か、虫の王は複数の意識を統合して有している。その全てが虫の王の声であり、意思である。

我々()が霊基名はリグル。リグル・ナイトバク。名も知らぬ英霊よ、大人しく糧となれ」

 蠢く群衆は濁流の如く、漆黒の身体を弾幕のごとく積み上げながら、アヴェンジャーに襲いかかる。

 だが虫の王は知らない。

 復讐者は決して折れない。決して退かない。

 安息を知らず、痛みを顧みず、苦悶を捨て置き、ただ燃えるような意思のみで動き続ける。

 故に恐れはなく、慈悲もなく、憐憫もない。怨の一字において、邪魔する者には報復を。

 

 ――そうして、炎獄の門が開いた。

 

 アヴェンジャーを中心にして、周囲一帯を焦土へ変える灼熱の波紋が広がっていく。轟々という音と共に空気までも焼き尽くされ、瞬間的にその場のあらゆる生命が死滅する。

 もちろん虫の王、リグル・ナイトバクも例外ではない。一匹残らず業火に焼却され、無数にあったはずの霊基はすべてあっけなく消滅してしまった。

 そんな地獄の中で、アヴェンジャーは当然のように生きている。懐から取り出した紙煙草を咥えると、触れてもいない先端に火が点く。大きく吸い込み、細く吐き出した息に紫煙が帯びていた。

「ク、ククッ。嗚呼、臭いな。この匂い、忘れるものか」

 常人では嗅ぎ取れないほどの残り香。常軌を逸した復讐心故に、研ぎ澄まされた感覚があるからこそ察知した誰何の気配。

 アヴェンジャーは歓喜する。

 炭化した死体を踏みつけながら進むその足取りは、ただまっすぐに、彼女の見据えた場所へ向けられている。

「さあ、もう一度殺し合おう。何度でも殺し合おう。たとえこの星が砕けようとも、どちらかが滅び尽くすまで。或いはこの復讐心が、業火と共に貴様を地獄に引きずり込もう」

 復讐者は高らかに笑う。

 其が征くは恩讐の彼方。

 月まで届く、不死の煙。



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人里の守護者

閑話的な感じで、ちょこっと慧音の話


 慧音曰く、歴史を二元的に観測した場合、過去から現在まではひと繋がりの線で表すことができる。だがその線そのものに影響を与えかねない局地的改変が起きると、これが特異点として表出する。本来であればありえなかったはずの未来への可能性、つまり一本しかなかったはず道が枝分かれし、新たな選択肢が生まれるということだ。

 霧が晴れなければ。

 桜が枯れなければ。

 夜が明けなければ。

 歴史はそのもしもの可能性を切り落とし、ただひとつの選択肢のみを辿って現在を構築する。特異点とはその現在を根底から覆す、いわば歴史の転換期である。

「つまり幻想郷が今の状態に至った原因を探り当て、特異点と成ったその原因を取り除くか、もしくは別の選択肢を取ることさえできれば、あの黒球は消え去るということね」

「理解が早くて助かる」

 輝夜の言葉に慧音が答える。その言葉とは裏腹に、慧音の表情は浮かばなかった。

「特異点を見つけても、そこに行くことができなければ修正は不可能だ。永琳殿であれば、その手立てにも見当がつくかと思ったが」

「結界起動のために霊基を失っては、さすがの永琳でも思考はできないでしょうね」

 慧音はうつむき、下唇を噛む。

 英霊、八意永琳。地上よりも遙かに文明の発達した月において随一の知能を持つと評され、月の頭脳とまで呼ばれた永夜異変の英雄であり、蓬莱山輝夜と共に永すぎる生涯を生きた人物。

 サーヴァントとして召喚されてた彼女は、慧音を含めた多くのサーヴァントたちを纏め上げ、幻想郷の滅亡を攻略するために奮戦してた。

 だが徐々に状勢が傾きはじめ、どうやら旗色が悪くなってきたと誰もが感じ取っていたとき、慧音にだけは言い漏らしたことがある。

 ――輝夜が来るとすればこのあと。そうしたら幻想郷はまず滅びる。次の手を打たなければいけない。

 そのときは何を言われたのかよく理解ができなかった。その言葉の意味を知る間もなく、味方のサーヴァントが次々と消滅していく。後は永琳と慧音を残すのみとなったとき、いよいよもって永琳が輝夜の現界を感じ取った。

 そうして召喚された輝夜によって、永月輪転結界の発動を命じられた永琳は、自らの霊基と引き換えに見事、永夜の帳を下ろしてみせた。

 消滅していく永琳から、慧音に向けて最後に残した言葉が、

 ――この世界は駄目だった。これを救うためには、原因から取り除く必要がある。

 ――特異点を探して。もしも私が考えた通りの方法しかないのであれば、必ずまた誰かが現われる。

 そう言って、英霊八意永琳は消滅した。

「空論だ。輝夜殿のように、また次が現われるとは限らない。仮に現われたとして、どうやって特異点に干渉するというのだ」

 厳しく眉根を寄せる慧音に、輝夜は平坦な口調でさあ、と返した。

「永琳にわからないことは私にもわからないわ。でも永琳だって確信がなければ軽々にそんなことは言わないでしょう」

「言葉が矛盾しているように聞こえるが」

 終わりまであと半歩と迫った状態での抵抗。背水の陣と言うにはあまりに乱暴な、ただの時間稼ぎで終わりかねない無謀な策だ。

 自然、問い質そうとする口調は強くなる。

「何も矛盾してないわよ。永琳は次の一手があることを確信しているけど、その正体がいまはまだはっきりしない。そう言っているのでしょう」

「なぜ確信に至れる。それだけの根拠が、今の幻想郷の一体どこにあるというのだ」

 もうずっと、鉛に潰されるような感覚が、胸の辺りに重く沈み込んでいる。人里の守護者として歴史に刻まれた英雄は、無力な人民の盾になってこそ真価を発揮する。だがもはやその守るべき対象は幻想郷から消え去り、世界そのものなんて規格外のものを守ろうとしている。

 その現実が、鉄の意志をもっていた英雄の矜持を押し潰す。何もできず、何も導けず、何も守れない。本当に残るべき者たちが、自分の目の前で次々と消滅していく。気持ちばかりが摩耗し、やがて自分がここにいる意味さえ喪失していった。

 或いは、その内面を覗かれたのだろう。

 慧音はハッと息を呑む。

 輝夜の表情からあらゆる感情がこそげ落ちていたからだ。

 ひどくつまらないものを見せられている。嫌悪ですらない。一切の関心が失せた、そんな顔だ。

 慧音は蓬莱山輝夜の人となりを見誤った。彼女は人に近しい情など持たない。好奇を向ける対象でなければ、彼女の永遠は揺るがない。期待や失望、尊厳すらもないのであれば、かける言葉などあるはずもない。

「……特異点を探す」

「そう。精々気楽にね。なにせ、時間は無限に等しくある」

 そんな返答すら、慧音には独白のようにさえ聞こえた。

 あてがわれた私室に戻ると、慧音は震える身体を抱きながら、輝夜の表情を思い出した。あれが本当に、幻想郷を救う為に呼ばれた英雄なのだろうか。

 そもそも彼女は革命者。異変の黒幕として歴史に刻まれたオルターのサーヴァントだ。その本質は限りなくあの黒球に近い。

 今更になって信頼が揺らぐ。

 だが慧音はすでに、幻想郷のために身を挺して戦った輝夜の姿を見ている。何騎ものサーヴァントを屠り、どの戦場でも無傷で勝利した怪物じみたあのサーヴァントを相手に、サーヴァントオルターは単騎で正面から立ち向かったのだ。

 幻想郷の存亡を賭けた一手、今幻想郷を覆う永夜の帳、永月輪転結界を発動させるために。ならばこの行動こそ、幻想郷を救わんとする者の正しい姿勢ではないのか。

 慧音は自問する。

 だがその答えは、まだ出そうにない。

 否、出したくないのかもしれない。

 いつまで続くともわからない、破滅の半歩手前の一夜。輝夜の言うように、結界が維持され続けている限りその時間は限りなく永遠だ。

 もしもいま、彼女の姿こそが正しい英雄のそれだと認識してしまえば、それこそ無限の時間を使って、慧音はきっと自らを、贖罪の牢獄に投げ込んでしまうだろうから。

 英雄たり得ぬ、矮小なその霊基()を。



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