プレイボールVSドカベン (コングK)
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プレイボールVS.ドカベン 前編
第一話 「引退試合の誘い」
ドカベン、大甲子園、キャプテン、プレイボールを読んでいる人でないと意味がわからないと思います。一話ずつは漫画を意識して短めです。
大甲子園の設定でどうしても明訓と墨谷を戦わせたかったため、墨谷は甲子園にいけなかったことにしましたが、そのままプレイボールが続けば谷口キャプテンなら三年の夏に甲子園に行けただろうと思っています。
完全に趣味で書いていますので、ご都合設定満載な上、更新頻度はばらばらです。
キィコキィコとやたら軋む音を鳴らしながら、丸井は自転車をこいでいた。
「谷口さんは今何をしているんだろう・・・」
これから向かう家には、丸井にとって神様のような人物が待っている。
谷口タカオ。
全国大会を制覇し、今や名門の風格が出てきた墨谷二中。その墨二が飛躍するきっかけを作り、それまで万年一回戦負けだった墨谷高校を率い、夏の予選ではベスト4まで進ませた名キャプテン。
どんな窮地においても諦めず、ひたむきに努力しナインを引っ張るその姿は、丸井からすれば理想のキャプテンで、常にその後ろ姿を追いかけてきた。
その谷口が引退したのは一月前に墨谷の甲子園行きが断たれて後のこと。下馬評では墨谷の決勝進出は確実で、東東京の強豪を同じく打ち破った巨人学園との準決勝が期待されていた。だが、実際には準々決勝での谷原戦で勝利しながらも、ナイン全員が力尽きた墨谷は決勝を辞退せざるを得なかった。
これまで猛特訓によって相手との力の差を埋めてきた谷口にとってこの事実は大きなショックであり、丸井をキャプテン、イガラシを副キャプテンとすると、その後は卒業後の進路のためにほとんど部活には顔を出さなくなってしまった。
己も谷口と同じように、中学時代過酷な練習の末に選手層が薄くなり、青葉との死闘の末にケガ人が続出したため全国大会を棄権せざるを得なかった丸井は、谷口に対して酷く同情的だった。
(いや、オレだけじゃない)
イガラシや、あの問題児の井口さえ、谷口を心配している。誰よりも努力し、誰よりも頑張った谷口を嫌う人間が墨高野球部にはいようはずもなかった。
女房役だったキャッチャーの倉橋によれば、谷口は今父親の跡を継いで大工になろうと放課後はつきっきりで修業をしているとのことだ。
「あっ、キャプテン」
角を曲がると、すぐ見えた谷口の姿に、丸井は思わず呟いた。
彼にとっては谷口=キャプテンで、キャプテン=谷口だった。
「ああ、丸井か」
鉋を削る練習をしていた谷口は、いったん手を止めて、家の中へと丸井を誘った。
「今オレ以外誰もいないんだ。まあ、上がれよ」
「お、おじゃまします・・」
居間に通されるや、出された麦茶に丸井は恐縮して頭を下げた。
「えー。本日はお日柄もよく・・・」
「まあ、とりあえず足を崩してくれ」
「は、はい・・。あのう、これ。お茶うけにと持ってきたので・・」
丸井が出したたい焼きに谷口はくすりと微笑み、
「懐かしいな。以前、丸井が持ってきてくれた時にはオレが一人で食べちゃったんだっけ」
今度は気を付けようと、二つずつ分ける。
「ええ。確か墨高が専修館を破って、ベスト8になった時ですね」
「思えばあれから一年よくやったもんだ。みんなは元気かい?」
「ええ。みんな谷口さんに会いたがってますよ。偶に練習に顔を出していただけると・・」
谷口は飲みかけのコップをちゃぶ台に置いた。
「もうお前がキャプテンじゃないか。それにイガラシもいる。オレの出る幕じゃないさ」
「いえ。谷口さんがいてくださらないと、あの井口の野郎が暴走しますからね」
忌々しそうにたい焼きの入った袋をくしゃりとつぶした丸井に、谷口は苦笑する。
「どうも丸井は井口とは相性がよくないな。でも、イガラシとも最初はそうだったから、そのうち何とかなるさ」
「あいつに比べたら、まだイガラシの方がマシですよ!昔に比べれば可愛げがありますからね」
丸井の言葉がきっかけで、二人の間で墨二時代のこと、墨高での試合のことなど思い出話に花が咲いた。
互いにたい焼きを食べ終え、頃合いだと丸井は、今日来た目的について話を始めた。
「それで、谷口さん。引退試合のことなんですが」
「ああ、イガラシが言っていた奴か」
谷口達3年生が引退を宣言し、新体制を発表した時の事。
「ノックで終わりは味気ない。試合はどうでしょう」
副キャプテンに選ばれたイガラシがそう提案したのだ。
イガラシからすると、自分が墨谷二中のキャプテンだった時に、丸井と組んで谷口の墨高と戦ったのが忘れられなかったのだろう。
「ほう。いっちょ揉んでやるか」
嬉しそうにする倉橋や横井とは別に谷口はそうだなあと乗り気でない返事をしていたのだ。
「それで、いかがでしょう。谷口さんも引退試合に参加していただけませんか」
「ああ。都合があえば出させてもらうよ」
「そんな事を言わずに、是非ともお願いします」
「オレたちの引退試合をするよりも秋の大会に向けて練習をした方がいいさ」
「そんなことを言わずに・・・」
「俺も卒業後のことを考えて、今度はこっちの方を頑張らなきゃならないからな」
谷口は鉋を見せると、ぽりぽりと頭を掻いた。
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第二話 「試合相手を見つけろ!」
翌日の放課後。
丸井が練習のために登校すると、イガラシがすぐさま近寄ってきた。
二人で並んで歩きながら、部室へと急ぐ。
「どうだったんです、キャプテン。谷口さんは」
「ああ。残念ながら、いい返事はもらえなかった」
丸井の返事にイガラシは呆れる。
「そんな!オレに任せろ、何としてもOKしてもらう!と言うから任せたのに・・・」
「谷口さん自身が乗り気じゃないみたいなんだ。中学の時もそうだったじゃないか。谷口さんは引退したら、現役と関わることを嫌うんだよ」
「それはそうですけど・・・」
墨谷二中の後輩だった丸井とイガラシにはそれが痛いほどよく分かる。中学3年の時の青葉戦。痛む指を隠し、投球を続けた谷口は指が曲がり戻らなくなった。その事実を知った時、誰もが谷口に声を掛けるのが憚られた。本当は来てほしかったし、アドバイスももらいたかったのに、それができなかった。
谷口の方でも、引退した3年生が現場に口出しするのはよくないことだと思っているらしく、同級生の松川がいくら誘っても来る様子がないとぼやいていたのを、二人はよく知っている。
「今はもう大工の仕事のために色々覚えるのに忙しいみたいだ。そんな谷口さんに無理を言う事なんてオレには・・・」
「オレたち程度じゃ、谷口さんを引っ張ることはできない、ってことなんでしょうか」
シャツを着ようとしていたイガラシの手が止まった。
顔は見えないが、悔しそうな表情をしているだろうということは長年の付き合いの丸井にはよく分かった。
イガラシは今でこそ墨谷二中を全国大会で優勝させた男であり、墨高期待のルーキーとして名を馳せているが、谷口にレギュラーに抜擢されるまでは、年功序列を第一とするチームで燻っていたのだ。己の才能を見出し、素直に使ってくれた谷口に対する感謝と、その飽くなき努力に対する尊敬の念の強さは、多くの名門高から特待生としての勧誘がありながらもそれを全て蹴り、都立の墨高に進学した事からも分かる。
「丸井さんは悔しくないんですか」
「悔しいに決まってるだろう!」
谷口を崇拝しているとまで言われる丸井は、例え谷口が野球をやっていなくてもその近くにいたいと墨高を受験した男だ。結局受験では滑り、朝日高校に入学したが、谷口が野球部に入ったと聞いて、わざわざ墨谷に編入試験までしてやってきた。同い年の加藤や島田に比べて谷口と野球をした時間が少ないのが彼の不満だった。
「だが、仕方がないじゃないか。谷口さんはこうと決めたらてこでも動かないんだよ。それこそあの人をカッカさせられるものが無ければ!!」
丸井の一言に、イガラシが大きく目を見開いた。
「それですよ、丸井さん!何もオレたちが戦うってだけじゃなくていいんだ。秋季大会まで3年生が引退しない学校だってあります。3年生を含めたチームでそこと練習試合する。それを引退試合ってのはどうですか?」
「谷原に勝ったっていうんで、秋季大会への牽制でいくつか練習試合の申し込みはあったが。佐野のいる東実とか、倉橋さんのつてで川北とかはどうだ?」
「そんな連中じゃ、谷口さんは動きませんよ。もっと強いところ、少なくとも谷原以上じゃないと!」
「谷原以上って、オメ。それは・・・」
「あるじゃないですか、ほら・・・」
イガラシは部室にあった甲子園ガイドブックを指差した。
「あのー、キャプテン。練習はどうしますか?」
入ってきたのは、墨谷二中からやってきたもう一人の後輩、久保だ。
「ああ、悪い。ちょっとオレとイガラシは忙しい。先に始めててくれ」
「は、はあ・・・」
どうしたんだと怪訝な表情をした久保だが、さすがに墨二以来の付き合いで、二人が忙しいというからには何か訳があるんだろうと察し、部室を出て行った。
「おい、イガラシ。甲子園の出場校なんて言ったら、猶更無理だろ。この時期はどこも新しいチームを作るので手いっぱいの筈だぞ」
「そんなの聞いてみないと分からないじゃないですか。とりあえず片っ端から当たってみましょう!」
そう言いながらも、千葉県代表の青田高校に×をつけたイガラシに丸井は文句をつける。
「おい。片っ端から当たるんじゃないのかよ」
「青田のエースはあの中西球道ですよ。明訓だって雑魚だの何のと言っていたのに、オレたち程度じゃ鼻もかけませんよ。電話するだけ無駄です」
幾つかの高校をリストアップすると、職員室へ行く。
「ふん。引退試合を他の高校とねえ」
「お願いです。許可してもらえませんか」
「そりゃ、許可するのは構わんが、先方がOKしてくれるかは分からんぞ」
部長である小室は、一言注意をすると職員室の電話を使ってよいと許可をすると席に座る。
「引退試合ということは谷口が出てくるという事ですか。楽しみですなあ」
「わしはそれよりも引退したんだったらもう少し成績を上げろと言いたいんですがね」
「またまた」
「どうだ?」
職員室の二つの電話を独占した丸井達は、リストの高校へと片っ端から電話した。
だが、どこからも色よい返事はもらえない。
それはそうだろう。甲子園に行くほどの名門高校なら次の大会に向けて新しいチームの土台作りに時間を割きたい筈であり、縁もゆかりもない墨高の引退試合に付き合う義理などない。
「巨人学園は?」
自分達の代わりに東東京代表として甲子園へと行った強豪校は、忍者の子孫という主将の真田一球が風変わりな人物で、丸井が一番期待していた高校だった。
「ダメです。捕手の九郎と共に山籠もりに出てるらしくて、連絡がつかないとか」
「関東近県の高校は全滅か。近藤の親父さんにお願いしてみるとして、静岡とかその辺りの高校にも声を掛けてみるか?」
「いや、まだ。一校残っていますよ」
イガラシが差し示した高校の名前を見て、丸井は呆然とした。
「お、おい。ここは・・」
神奈川県代表明訓高校。甲子園出場5回。うち優勝4回。今年の夏の大会も優勝し、春夏連覇を成し遂げた、押しも押されぬ高校野球の頂点に君臨する王者。
「ここが引き受けてくれるなら、きっと谷口さんは引退試合に出てくれますよ」
イガラシはごくりと唾を飲み込んだ。
明訓が、甲子園に出場したチームで出てきてくれるなら。
そこにはあの、高校野球史上最強の打者と言われるドカベン、山田太郎がいる。
「よ、よし!」
丸井は意を決してダイヤルを回した。
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第三話 「運命のプレイボール」
「ああ、それならうちのキャプテン、いや元キャプテンに聞いてくれがや」
清水の舞台から飛び降りるほどの勇気を出して連絡をしたというのに、電話に出た顧問の大平という教師はのんびりとした受け答えだった。
「うちはそういうのは岩鬼に全て一任しとるからな。ああ。どうしてもというなら直接来た方がいい」
「分かりました。明日、伺います」
「ほいほい。それでは気を付けていらっしゃい」
がちゃりと電話を切った大平を同僚の教師が声を掛ける。
「また練習試合の申し込みですか。山田達が引退するからとあちこちから申し込みがひっきりなしですな」
「甲子園が終わったのだから、次の世代にバトンタッチという訳にはいかんもんかと」
「なかなか難しいでしょう。プロになったら5人が揃うなんてことは、それこそオールスターぐらいしか考えられませんから」
まだ、プロにもなっていないのにオールスターの話をするとは随分と気が早いものだと大平は内心呆れた。
「どうしたんだ、あいつ。腕組みなんかして」
先ほどからベンチでじっと動かない岩鬼を尻目に里中はのんびりと体操を始める。
「昼の放送をそろそろやらせて欲しいと放送委員会に泣きつかれたからじゃないか」
とこれは微笑。
「一度受けたからと何度もやりすぎづら」
岩鬼が放送室をジャックし、甲子園の名場面を振り返るという暴挙はこれまで何度となく繰り返されてきた。ここ最近はそれを楽しみにしているという者が増えてきていたのだが、さすがにあのシーンをもう一度シーズン4となった時点で周囲がストップをかけた。
「いいじゃないか。あれで校長先生も楽しみにしていたみたいだし」
山田が言うと、殿馬は無言で肩をすくめた。
(全く雑魚どもが。わいのようなスターがそないなちんけなことで悩むかいな。)
周囲の予想とは違い、岩鬼の考えているのは別のことだった。
(高校野球で頂点に立った常勝軍団明訓のキャプテン・・。それだけでプロのスカウトどもは涎を垂らすこと間違いなしや。その上、わいは不世出の天才。取らない筈がない。スカウトに目をつけてもらうために、せこせこ練習せなあかん連中とは訳が違う。)
甲子園に優勝した後も、明訓5人衆と呼ばれる山田、岩鬼、殿馬、里中、微笑の5人は練習に欠かさず顔を出していた。後輩の面倒を見るだけでなく、甲子園優勝校出身の彼らには多くの球団が注目しており、この冬のドラフトの目玉となるのは確実であり、プロを見据えてのトレーニングの意味もあった。
だが、岩鬼は内心複雑だった。いつも通り練習に来てはいるが、秋季大会前に3年が引退すると決まった以上、部活に顔を出すのはいかがなものか。プロへ向けての練習は必要だが、現役の邪魔になったり、彼らが逆にスターである自分に頼りきりになったりするのはよろしくない。
新キャプテンとなった高代は岩鬼の信奉者であるため、彼を邪険にすることなど考えられないが、高校野球で頂点を極めてしまった男にとって、プロと高校の間なような今の期間にどこどなくもやもやするものがあった。
「空しい・・・」
ついつい口に出た一言に周りは互いに顔を見合わせた。
「ついに、己のバカさ加減に気付いたづらか?」
「山ほど来ていたファンやスカウトが姿を見せなくなったからだろ」
と、微笑。
「いや、手持ち無沙汰なんだろう。秋季大会に出ないと決めたから」
バットを磨きながら山田が言うと、里中がおいおいと岩鬼を見た。
「それは話し合いの末だから仕方ないだろう」
明訓5人衆が秋季大会に出ると言えば、他の高校のエースクラスも高校生活最後の勝負と目の色を変えてくるのが分かっている。今夏の大会でも里中に山田が怪我をしたとあって、プロ入りを考えて、早めに引継ぎをした経緯があった。
「うちが秋季大会に出ないと分かると、どこもみんな一斉に代替わりしたらしいからな」
微笑がキャッチャーミットを付けながら、渚に声を掛ける。
「プロではコンバートなんて当たり前だ。俺も久々に練習しとかにゃ」
(あかん。冬が近いのか、頂点に立ってしまった男の悲哀か。燃えるようなものがあらへん。)
岩鬼はピッチング練習をしていた渚に声を掛ける。
「わいが相手をしてやるさかい。いい球を放れよ」
「えっ!?狙ってボールを投げるのって難しいんですが・・」
「じゃかあしい!何をごちゃごちゃ言うとるんや。もうすぐプロ入りするわいが相手してやるんやでえ。こないにありがたいことがあるかい!!」
「人はそれをありがた迷惑というづら」
渚が投げた球が投げそこなってストライクに入り、岩鬼の全力スイングに驚いた目黒が思わず球を後逸する。
「サナギ~~~!!!」
激昂する岩鬼。悪球うちの岩鬼とってストライクはとんでもないボールだった。
「渚は悪くないづら。普通はそれを絶好球と呼ぶづらよ」
「ワイに気持ちよく打たせるピッチャーはおらんのか!!」
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第四話 「意外な申し出」
ころころと転がるボールを側にいた山田がとりに向かう。
と、校門の方からやってきた二人組のうち、猿顔をした少年がそれをキャッチし、投げてよこした。
「ああ、すまない」
「あの・・・」
ぺこりと頭を下げて行こうとする山田を、もう一人の団子鼻の少年が呼び止めた。
「何か?」
目の前にいる人物を見て、丸井はぐっと胃袋を掴まれたような気になった。
山田太郎。通称ドカベン。
高校野球屈指の強豪明訓高校の四番として君臨し、数多のライバル達を退けてこの夏の甲子園を優勝した立役者。
今後誰にも破られぬであろう通算打率7割5分は、甲子園を目指した丸井達からすれば別次元の人間の記録と言えた。
「丸井さん!」
隣からイガラシが肘で丸井をつつく。
「そ、そうだ。岩鬼さんにお願いがあるんですが、案内をしてもらえませんか」
「岩鬼に?今ちょうどイライラしている所だからどうかなあ」
中学時代からの付き合いである山田は岩鬼のその日の機嫌が手に取るように分かる。今話しかけるのはあまり得策ではない。
だが。
「そこを何とかお願いします」
切羽詰まった表情を見せる二人にそれ以上は何も言えず、山田はとりあえずベンチへと二人を案内した。
「あれ。岩鬼。打つのは止めたのか」
散々打席に立ち好き勝手打っていた岩鬼の姿はなく、今は殿馬が軽快な音を響かせている。
「ふん。わいのようなスーパースターがいつまでもサナギのように調子が狂う奴の相手をしていられるかい。プロでのスタートに響くわい」
「あれ、山田。その二人はどうしたんだ?」
里中が山田の後ろにいる丸井とイガラシに目を向けた。
「ああ。岩鬼に用があるらしいんだ。聞いてやってくれないか」
「なんや、ファンかい。学校にまで押しかけてくるとは困ったもんやな。まあ、わいのファンならそれぐらいの熱はあって当然やが」
「よく言うぜ。いつも里中のファンが押しかける度に追い払っているじゃないか」
微笑の突っ込みにも岩鬼は動じない。
「
「どう考えてもお前が一番うるさいんだがな・・・」
「じゃかあしゃい!三流はだまっとれ。それで、その見る目があるファンがわいに何の用事や?」
丸井が引退する3年生のための引退試合の相手をして欲しいと告げると、途端に岩鬼の表情が曇った。
「なんやて?引退する3年のためにわいらに相手して欲しいやと?そんなの無理に決まっとるやろうが」
「ど、どうして!」
丸井が食い下がるが、岩鬼は取り付く島もない。
「日本中にわいらとやりたい学校がどれだけあると思っとるんや。大平のおっさんから聞いた話じゃあちこちから電話がかかってきてパンク状態という話やぞ。お前らばっかり贔屓する訳にはいかんちゅう話じゃ」
「そこを何とかお願いします」
イガラシが夏の大会の事情を話す。夏の予選、谷原に勝ったにもかかわらず決勝に進めなかったこと。そのキャプテンである谷口が誰よりも無念を感じているであろうこと。
「東東京代表と言うと、一球さんのいる巨人学園と当たっていたってことか」
「関係ないわい。真田の一の字なら、甲子園でわいらが倒してやっとる。それですかっとしたやろ」
「そういうことじゃないづら。飽くまでも戦えなかったのが悔いだと、そういう話づらよ」
打ち終わった殿馬が話に合流する。
「それじゃ、ちょっと投げてくるか」
肩をぐるぐると回し、里中がマウンドへと向かう。
「じゃあ、俺も」
「いや、山田はいいよ。目黒、頼めるか」
「はい」
全国有数の強豪校である明訓は岩鬼が一年の時に起こした暴力事件のせいで大量の退部者を出しており、部員数が極端に少ない事で有名だった。
その上、レギュラーがほぼ固定されており、山田の他に控えの捕手として微笑がいる以上、一年生の出番はなく少しでも次年度へ向けて鍛えてやりたいというのが里中の本音である。
「なあ、岩鬼。どうせ引退試合をしたいと言っていたんだから、別に受けてもいいじゃないか。スーパースターならファンに夢をあげることも大事だろう」
二人の話を聞いた山田はひどく同情的だった。
「わかっとらんな。ファンというのは依怙贔屓を嫌うんや。わいぐらいのスターになると、どんな相手にでも真剣に平等に接するちゅうんが当たり前のこっちゃ」
「そこを何とか」
「お願いします」
頭を下げる丸井はそれでも足りないのかと思ったか、遂には土下座までして頼み込み、イガラシもそれに続いた。
「おいおい、よせよ。たかが試合だろう。そんなみっともないことをする必要はないじゃないか」
微笑が場の雰囲気を変えようというが、二人は動じない。
岩鬼はじっと口に咥えた葉っぱを揺らし、二人の様子を見つめるばかりだ。
「谷口さんはオレの恩人なんだ。野球が大好きで、指が曲がってたってマウンドに立つような人なんだ。そんなあの人が人一倍練習して、努力して、なのに甲子園に出られなかった。オレはそれが悔しくて悔しくてならないんだ」
「気持ちは分かるが、それは全国どこでも起きてることだぜ、お二人さん」
「黙っとれ、にやけ!」
現実を突きつける微笑に岩鬼の怒声が響く。
「谷口さんのことだ。きっと少しすれば、また野球をしてくれるとは思う。でも、オレは、オレたちは谷口さんと一日でも多く野球がしたくて墨谷に入ったんだ。あの人と一緒に甲子園で戦いたくて入ったんだ。その夢は叶わなかったけど、明訓と戦うと言えば!」
「お前らのキャプテンの、その谷口ゆう男が乗ってくる可能性があるちゅうことかい。わいらを出汁に使うとはいい度胸や」
ぎろりと睨む岩鬼の眼光に一瞬怯むも、ぐっと拳を握り、丸井とイガラシはそれを見返す。
「岩鬼。引き受けてやってもいいんじゃないか。こうまでして頼んでるんだ」
「やかましいわい、やーまだ。どうするかはわいが決める。
「いつまでこの高校に居座るつもりづら」
「やかましいわい、とんま!明訓野球部が無くなるまでや!!」
なかなか頷こうとしない岩鬼にイガラシが痺れを切らす。
「何が男岩鬼だよ・・・」
「なんやて!?」
「お、おい。イガラシ、止めろ」
「男だったらここまで聞いたんだ。一肌ぬいでくれたっていいじゃないか!!それを、それを!!」
激高し、なおもいい募ろうとするイガラシを丸井が必死に止める。
「・・・・・」
しばし考え込んだ岩鬼はバットを持つと、マウンドの里中にどくように言った。
「おい、
「なんだ、おい。ようやく肩が温まってきたとこなんだが」
「お前らどっちでもええ。そんなに言うんならチャンスをやるわい。一本勝負や。わいを打ち取ったら試合をしたるわい」
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第五話 「岩鬼を打ち取れ!」
意外な岩鬼の申し出にいつも冷静なイガラシもさすがに聞き返す。
「しょ、勝負?」
「そうや。お前らが勝ったら試合をしたる。負けたら試合はなしや」
「なあんだ、簡単なことづら。ど真ん中だけに放っておけば勝手に三振するづら」
「黙れ、とんま。一打席勝負や。それ以上はさすがにサービスはできん」
「じゃあ、俺が受けよう」
キャッチャーミットを持つ山田が、イガラシに向かって頷く。
「わ、分かりました。山田さん、お願いします」
「山田のサイン通りに投げればまず間違いないづら」
緊張した表情を見せるイガラシの肩をぽんと殿馬が叩く。
「なんや、とんま。グラブなんぞ持って」
「打ち取るのが条件なら守備が必要づら」
「あ、あのセカンドの守備なら俺が」
「へえ。お前さんセカンドなのかい?でも、勝負に勝ちたいなら殿馬に任せた方がよくないか。
日本一のセカンドだぜ」
微笑の言う通りだということは丸井も痛いほど分かる。数々のライバルを葬って来た秘打だけではなく、殿馬はその華麗な守備も秘守として有名だった。
「それでも、後輩が勝負しようってのに、俺だけ見ている訳にも」
「そんじゃあ、お前がセカンドで俺がショートに入るづら」
とうの殿馬は気にせず、予備のグラブを丸井に貸すと、ショートの守備位置に歩いていく。その他明訓のレギュラーが守備に着き、サードには岩鬼の代わりに本来はショートの高代がついた。
「頑張れよ」
「あ、ありがとうございます」
里中からボールとグラブを受け取ったイガラシは、大きく息を吐くと投球練習の時間が欲しいと告げた。
「かまへん。わいみたいなスターと当たることは滅多にないことやさかいな。好きにするとええ」
「変化球は何を持っているんだ?」
「カーブとシュートです」
「よし、それならストレート、カーブ、シュートでグー,チョキ,パーでいこう」
「分かりました」
山田が構えたミットにすいすいと球を決めていくイガラシにひゅうと微笑は口笛を吹く。
「へえ、こいつは随分とコントロールがいいじゃないか。こりゃあ、岩鬼の負けかな」
「やかましい!こっちはとうに準備万端じゃい!」
「よし、いけるか?」
「はい」
カツ―ンカツーン。
バットとバットが合わさる音が明訓高校のグランドに響く。5.6本のバットをまとめて持って素振りをし、放り投げたバットがバットケースに見事に収まる。岩鬼一流のパフォーマンスだ。
「うっ・・・」
バッターボックスに入った岩鬼を見たイガラシはその圧倒的なオーラに鳥肌が立った。
(これが、岩鬼。これが、明訓か・・・)
男岩鬼。岩鬼火山。悪球打ち。
甲子園常連という谷原のバッター達と比べても、明らかに数段上であろうその存在感に、思わずイガラシは大きく息を吐いた。
「さあ、花は桜木、男は岩鬼。一発勝負の始まりじゃい!!」
「プレイ!」
審判に立った里中が大声で始まりを告げた。
(面白いこと言うてくれるやんけ。)
岩鬼はバッターボックスに入りながら、イガラシをじっと見た。神奈川県のライバル、全国で闘った強豪たちに比べれば、感じるプレッシャーは何ということはない。
だが、ぎりぎりとこちらを見つめるその気迫は恐ろしいものがあった。
(そないに思われとるキャプテンも果報者やな。)
情に篤い岩鬼にとって、丸井達の話はほろりとさせるものがなかった訳ではない。だが、それは勝負の世界ではよくあることだ。明訓にしても大黒柱の山田や、エースの里中が怪我に悩まされている。
「来やがれ、猿顔!!」
ブン!
「うっ」
スタンドまで届くかというような豪快なスイングに思わず丸井の腰が引ける。
「ストラーイク!」
ブン!!
「ストラーイクツー!!」
ど真ん中へ続けて二球。さすがに岩鬼を誰よりも知っている山田は小細工なしのストレートを要求し、イガラシもその期待に応えて見事に空振りに切ってとった。
「ドアホが。わいのファンならこそこそせんと勝負してこんかい!」
「ほ、本当に悪球打ちなんだ・・・」
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第六話 「勝負の行方」
「ほ、本当に悪球打ちなんだ・・・・・・」
新聞やテレビで散々話題になっているが、実際に対戦してみるまで岩鬼が悪球打ちというのはどこか誇張された情報だと思っていたイガラシは、驚きのあまり思わず呟いた。
「いけそうじゃねえか。その意気だ、イガラシ!」
「いや、気を付けないと。あのハッパ、何を考えているかわからないづら」
2ストライクをとり、いけそうだと興奮する丸井を、殿馬がたしなめる。
「ただのよ、悪球打ちってだけじゃないのがよ、あのハッパの厄介なとこづら」
「そっちがそうくるなら、わいにも考えがあるで!」
岩鬼がポケットからぐりぐり眼鏡を取り出し、装着したのを見て、審判の里中が抗議の声を上げる。
「おい、岩鬼。スターなんだ。ファンサービスをしたらどうなんだ」
「じゃかましいわ。ええか、
(困ったな。)
当初の目論見が外れた山田はふうとため息をついた。
岩鬼の性格上、気軽に引き受けられず、仕方なしに勝負という形にすることによって、練習試合を引き受ける口実としようということかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
(勝負にこだわった時の岩鬼は強い。ど真ん中に投げても打たれるかもしれない。)
名だたる速球投手、剛球投手達が岩鬼の悪球打ちを攻略しようとしたが無理だった。唯一岩鬼に悪球で勝負することができたのは、あの青田の怪童中西球道だけだ。
(だが、ど真ん中だ。)
山田のサインにイガラシが頷き、三度ど真ん中へのストレート。
キィーン。
打球が真後ろに上がり、ネットにぶつかり地面に落ちる。
「ファール。・・・タイミングが合ってるな」
里中の呟きに山田が頷いた。
「岩鬼がど真ん中を打てるとなるとお手上げだ」
「なんや、やーまだ。随分素直やないか。お前が万が一プロに引っかかるようなら毎回わいと対戦するときは頭を捻らせなあかんで」
「本当にそうだ。今のうちから気を付けておかないと」
山田の賞賛に気をよくした岩鬼は眼鏡をしまうや、マウンドのイガラシに吠える。
「もうサービスはおしまいや。よくよく考えたらこのスーパースターのわいがお前らみたいな三下にここまでファンサービスしてやる必要はないさかいな。さあ、悔いのないようにかかってきやがれ!!」
「おい、山田。どういうことなんだ、あいつ。打とうとしたり、そうでなかったり」
里中がこっそりと耳打ちするも、山田も首を振る。
「さあ。俺にもよく分からない」
「ドアホ!お前らがいくら考えようと、わいの考えを理解することはできん!!」
「墨谷のピッチャーよ、ここはチャンスづら。あのハッパ。山田に褒められていい気分になっているづら」
「ここで打ち取らないといけないってことか」
「イガラシ、落ち着いていけ」
丸井の檄が飛ぶが、イガラシはそれに反論する。
「これが落ち着けるもんですか」
たった3球投げただけなのに、この高揚感はなんだろう。
「お前なあ」
それ以上何も言わず、イガラシは無言で振りかぶる。
投げたのはストレート。だが、汗がボールにかかり、やや変化した。
「しまった!!」
ど真ん中からややボール気味の球。それは岩鬼にとっては打てる球だ。
「残念やったな。いい手土産に持って帰るとええ。爆打岩鬼の一発を!!」
「え!?」
丸井が驚いたのは、打つ前にショートの殿馬がすっと動いたことだった。
グワキィン!!
半分だけストライクに入っていたためか、ネットを超えることはなく打球は勢いよくセンター方向に上がる。
深めに守っていた微笑がダッシュする。
なぜか、ショートから追ってきていた殿馬と、その動きに気づき、同じく動いた丸井もボールを追いかける。
「これは俺がとらなくちゃならないんだ!!」
わき目もふらずに凄まじい勢いで走っていく丸井に、殿馬は追うのを止め、指示を出した。
「前、前、前、前。そこづら、振り返れ!!」
殿馬の指示に従い、振り返った時。
ずどんと、グラブにボールがおさまったかと思うと、そのまま打球の勢いに押されたかのようにごろごろと丸井は転がった。
「おっと、落とすんじゃないぞ」
カバーに入った微笑が笑みを浮かべる。
「万が一落としでもしたら、もうひと勝負と面倒くさいことを言いそうだからな」
「誰が言うかい!わいは一度言った言葉はひっこめん。
「はいはい、了解しました!」
新キャプテンとなった高代を小間使いのように扱う岩鬼の態度に山田は苦笑を浮かべた。
「それじゃあ、追って日時を連絡します」
「ああ。楽しみにしているよ」
と嬉しそうに言うのは山田。一方の岩鬼は背を向けている有様だ。
「ふん。わいらの高校生活最後の試合を独占できるなんて、とんでもない栄誉や。感涙にむせぶとええ」
「おい、岩鬼。もうちょっとマシな言い方がないのかよ」
「
言葉とは裏腹に先ほどまでとはうってかわってやる気を出した岩鬼に周囲は呆れ顔を見せる。
「ハッパが投げるようならよ、ボールばかりで別の意味での記念試合になるづら」
「とんま~。おんどりゃ、青田戦で好投したわいを舐めとんのか!」
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第七話 「遅かった訪問者」
明訓高校の校門を出てすぐ。
「いや、それにしてもよくやった、イガラシ。よく岩鬼を抑えた!」
丸井が嬉しそうに肩を叩こうとするも、立ち止まったイガラシは息を荒くし、深呼吸を繰り返した。
「お、おい。どうした。そんなに疲れたのか?」
「まあ、見てくださいよ・・・」
「オメ、それは・・・」
手汗でびっしょりとなった両手の平を見せられ、丸井は絶句する。
「ど真ん中は打たれない。山田さんのリードだから大丈夫と言い聞かせていてこれですからね」
丸井が知る限り、イガラシはその野球センスにおいては他の追随を許さない選手だ。本来であれば都立の墨高にいるような存在ではない。事実、西東京代表を目指す一番星学園から、特待生でこないかと誘われたほどだ。
(そのイガラシが・・・。)
中学時代、自分を抑えて四番に抜擢したくらいイガラシの才能にほれ込んでいる丸井にとってそれはとてつもない衝撃だった。
「やっぱり、さすがに甲子園優勝校。明訓は明訓だった、ということか」
「ええ。まだ震えが止まりません。すげえや、あいつら」
全国屈指の激戦区と言われる神奈川県大会を制し、甲子園に足を運ぶこと5度。
うち四回優勝の王者と比べれば、甲子園常連とされる谷原ですら霞んで見えた。
とにかく、一刻も早く明訓と引退試合ができると谷口に伝えよう、墨谷高校の二名が喜びながら明訓高校から去って少し後。
大きなリュックを背負った二人の少年が残念そうに明訓高校から出てきていた。
「一足遅かっただーよ。一球さん。まさか、同じ日に練習試合を申し込む連中がいるなんて」
「ああ。こればかりは運が悪かったと思うしかないよ」
金太郎のような恰好をした呉九郎と真田一球。二人の組み合わせを見れば、高校野球ファンなら東東京代表の巨人学園のバッテリーだとすぐ気づくことだろう。
「これも一球さんが、打倒明訓にこだわって山籠もりを延長したのがいけないだーよ」
「それは言いっこなしだって、九郎」
一球としても、予想外だ。高校生活最後に自分達と同じように明訓に挑もうとしている者がいるなんて。
「よう、お二人さん」
愚痴を言い合う二人に、横合いから声をかけた者があった。
「あれ。球道だ~よ。何しにきたの?」
そこにいたのは、千葉の誇る怪童。今夏の甲子園で明訓と準決勝で引き分け再試合という史上まれに見る熱戦を演じ、惜しくも敗れた剛球一直線、青田の中西球道。
九郎の問いに球道はおいおいと呆れる。
「俺が明訓に来るなんて、用事は一つじゃないか。甲子園で山田に負けたのは認めるが、高校生活最後にもうひと勝負して、気兼ねなくプロに入りたいと思ってね」
「それは偶然だな。ぼくたちもその用事で来たんだが、すでに先約があると断られたばかりさ」
「そいつはまた・・・・・・。とんだ偶然があったもんだな」
「秋季大会には出ないが、部活には出ている。そう聞いてこれはいけると思って来たんだけどね」
「先を越されちゃっただ~よ」
「同じ考えをする奴がいると・・・・・・。これは仕方ないか」
「毎日練習はしているみたいだから、その時に勝負を挑めば?」
「試合の中じゃなきゃつまらない」
「練習じゃダメってこと?」
九郎の問いに球道は頷くと、大きく伸びをする。
「お前たちと同じで、高校野球は終わり。続きはプロでということらしいな」
「ぼくたちの高校野球は終わってないよ?」
「何だと?」
何を言っているんだという一球の表情に球道は思わず聞き返す。
「明訓と戦うのが幻の甲子園での試合なら、幻の東東京大会の準決勝が先だろう?」
「明訓と戦うのは東東京のチームってことか?」
一球は嬉しそうに頷いた。
「ぼくたちの準決勝の相手は本来の相手じゃなかった。戦いたかった相手とぼくたちは戦えていない」
「一球さんが、強いって言ってたとこだーね」
「九郎、早速墨谷に果たし状を書いて持っていくぞ」
「決勝のやり直しだーね、一球さん」
「おいおい、本気かよ。甲子園に出たこともない連中を相手にするだって?」
「そんなの人の好き好きだ~よ」
「天の時と地の利と人の和。墨谷は天の時に恵まれなかっただけだ。決して油断していい相手じゃない」
やる気を漲らせながら、帰っていく巨人学園の二人の姿を球道は静かに見送った。
「東東京の墨谷高校か・・・・・・」
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第八話 「燃え上がる思い」
「やあ。改まってどうした」
受話器越しに興奮しながら是非会いたいという丸井の勢いに負け、近くの公園にやってきた谷口を待っていたのは丸井とイガラシの二人だった。
「すいません、夜分に。どうしても今日中に直接伝えてくて」
イガラシが頭を下げる。
「谷口さん、引退試合の相手が決まりました」
そう嬉しそうに叫ぶ丸井に、谷口は首を傾げた。
「相手って、現役と3年生でやるんじゃないのか?」
「はい。3年生を含めて他校と練習試合を行おうと思いまして・・・・・・」
「それこそ秋季大会に向けて現役が行くべきだろう」
「それは・・・・・・」
谷口の正論に下を向く丸井に替わり、イガラシが口を挟む。
「谷口さん、相手は神奈川県代表明訓高校です」
「なっ・・・・・」
全身を突き抜ける衝撃に、谷口はしばし言葉を忘れた。
およそ高校野球を目指すものにとってそのビッグネームは何よりも価値のあるものだった。
思わず丸井を見るや、イガラシの発言を肯定するように力強く頷いている。
「まさか・・・・・・」
「事実です。今日交渉してきました」
「ほ、本当に受けてくれたのか?」
「はい。それも、山田を含め3年生も出ます」
「・・・・・・」
ごくりと唾を呑みこむ音が、谷口にはやけに大きく感じられた。
明訓。この夏の甲子園の覇者であり、甲子園四度の優勝を誇る、神奈川が全国に誇る絶対的な王者。
およそ高校球児であるならば、彼らの強さに憧れ、一度は手合わせしたいと願った者がどれほどいることだろう。その強さはもはや伝説と言っても過言ではなく、彼らに唯一の土をつけた弁慶高校との試合では、各地で号外が配られたほどだ。
日本一の捕手山田
小さな巨人里中。
悪球打ちの岩鬼。
秘打男殿馬。
快打強肩の微笑。
明訓五人衆と謳われる彼らを倒そうと、いかに全国の猛者が腕を磨き、知恵を絞り、汗を流してきたことか。
その輝かしい戦歴を誇る栄光に彩られた彼らの。
高校生活最後の相手に自分達が選ばれるなんて。
「わ、分かった」
ぶるぶると震える手をじっと見つめていた谷口は、絞り出すようにそう答えるのが精いっぱいだった。
結局、引退試合に出るかどうかの答えを言わぬまま去った谷口の背中を見つめながら、丸井とイガラシは満足げに頷き合った。
じっと手を見つめていた時の谷口の表情・・・・・・。
それは、かつて墨谷二中の時に、青葉との引き分け再試合が決まった時と同じ顔ではなかったか。それが意味することが何なのか。付き合いの長い二人には十分すぎるほどよく分かった。
一方の谷口は。
帰り道、丸井達の引退試合の話を思い出しながら、頭から一つのことが離れなかった。
胸の中に溜まったマグマが噴き出しそうで、どうにかなりそうだった。
あの明訓と戦える!
あの明訓と戦える!!
「嘘じゃないよな・・・・・・」
夏の大会以来すっぱりと断ち切ろうと思った野球への思い。
だが、心の奥底では燻り続けていたのかもしれない。
怪我でもう駄目だとサッカー部に入った時も、キャプテンには野球への思いを見透かされ、結局は野球部へと入ることとなった。
この胸の高鳴りはいつ以来だろう。
あの因縁の青葉との引き分け再試合が決定した時以来か。
自分達が夢見、果たせなかった夢を果たした相手と、例え練習試合とはいえ戦える!!!
相手は高校野球の頂点に立つ存在。全高校球児が憧れる紫紺の優勝旗を手にした者達。
谷原や専修館、東実といったこれまで自分達が相手をしてきた強豪とは訳が違う。
全国の猛者が集う灼熱の大甲子園で、数多のライバル達と覇を競い、それを退けてきた王者だ。
「お帰り」
帰ってきた谷口は興奮のあまり、母の玉子の声掛けにも反応せず、夕食を食べようとしていた熊吉の前に正座し、事と次第を語った。
「何い、修行を一か月先延ばしにして欲しいだあ?」
熊吉の声が大きかったためか、玉子もやってきて話に加わる。
「何を言っているんだい、この子は。自分で夏の大会で野球は終りと言っていたじゃないか」
「それはそのう・・・・・」
「そりゃあ、タカのやりたい気持ちは分かるけど、あなたは引退したんだからもう家のことを考えればいいんじゃないかい?」
「お前は黙ってろい。なあ、タカ。最初に話をしたはずだぜ。この道は生半可な覚悟じゃ務まらねえ。中学出てそのまま修行に入る奴もいるくらいだ。おめえの年から目指すんなら、それ相応の努力が必要だって」
「分かってるよ、父ちゃん」
谷口としても自ら言い出したことを、自ら破ることに対し、引け目を感じ、それきりぐっと黙ってしまう。
「そんな事言ったってお前。勉強だってしなきゃならないんだし、そんな無茶な」
玉子はしきりに反対する。
熊吉は煙草を吸いながら、黙ったままの谷口の様子を見ていたが、やがて、ため息をついて言った。
「ふうーっ。分かったよ。そんな目で見るんじゃないやな。やりてえんだろ。どうしても」
「ああ」
「だったら、やったらいいやな」
「あんた!なんで止めないんだい!」
「止めるかよ。なあ、母ちゃん。分かってやれ。タカの野郎は高校野球にし残しがあるんだよ。そいつを片付けちまわないと修行にも身が入らねえだろうよ」
「それじゃ!」
「精々悔いのねえようにやるこった。その代わり、そいつが終わったらお前がひいひい言うぐらいしごいてやるから覚悟しろよ!」
「父ちゃん!」
「それによ、俺も正直見てみてえ。相手があのドカベン山田って言うじゃねえか。プロで一位指名間違いなしの奴だぞ!」
それきり上機嫌になり酒瓶片手に野球談議を始めた父と子を放って、呆れ果てた玉子は一人部屋の隅で寝ることにした。
その夜。明訓高校野球部がランニングに使う河川敷で、一人酒盛りをしている男があった。
「いや、まさかのまさかよ。卒業祝いの前渡しと久しぶりにあいつらをノックしてやろうと思うとったが、まさかな」
「なんだい、じいさん。随分と今日は嬉しそうじゃねえか。数日前までしょぼくれてたのによお」
最近仲間になった若い男が声を掛けてくる。
「なに、生き甲斐が無くなってな。どうしようかと思っていた時に、思いがけないことを聞いちまったのよ」
「なんだ、儲け話か?」
「ふえへっへっへっへ。金の話じゃあない。わしのやる気の問題じゃよ」
「やる気ってじいさん、今まで何をしてきたんだよ。どう考えてもろくなことをしてなさそうだが」
「勝負の世界ばかりで暮らしてきたからのう。余生はのんびりと過ごしたいなと思っておったが。三つ子の魂百までというやつよ。わしはどうしても、あいつらがまだ高校生でいるうちに勝負をかけたいらしい」
じいさんと呼ばれた男は、上機嫌に手にした瓢箪から酒をぐいっとあおった。
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第九話 「3年生、大いに悩む」
翌日。
3年生の引退試合の相手が明訓高校に決まったとの報に、墨高の現役部員たちはいきり立ったが、引退した3年生の反応はそうではなかった。
「め、明訓だと?」
いつも冷静な倉橋が思わず叫ぶほどで、その表情は嬉しいと言うよりも戸惑いの方が強かった
「よ、喜んでもらえると思ったのですが・・・」
丸井の言葉に、横井はぽりぽりと頬を掻いた。
「引退試合ってのは、校内でやるもんだと思っていたぜ」
「うむ。それならちょっと体を慣らせばいい。だが、相手が明訓となると話は別だ」
倉橋は腕を組みながら、難しい顔をする。
「ちょ、ちょっと待てよ。お前ら、まさか明訓に本気で挑むつもりじゃないだろうな」
「もちろん、そのつもりですが・・・」
イガラシの返答に横井は動揺する。墨谷が明訓と試合をする以上、それがただの練習試合になることはあり得ない。確実に勝つつもりで挑む筈だ。甲子園優勝校の明訓に挑むとなったらどれだけの練習を積めばいいのか。見当もつかない。
「無理だよ、オレ受験組だし」
戸室は厳しいと首を振った。
「夏の大会以上の練習か。しかも、ただ一試合のために・・・」
倉橋でさえどうしたものかと頭を抱える始末だ。
「まさか、この年になって田所さん達の気持ちがよく分かるようになるとは思わなかったぜ」
谷口達の2年先輩である田所は、谷口の才能を見出した人物であるが、その彼でさえも夏の大会にしゃかりきになって挑む谷口の姿に、当初は苦言を呈していたという。高校3年生はそれほど暇ではない。進学に就職に忙しい時期なのだと。そしてむきになる谷口に、田所は甲子園を狙う強豪東実の練習を見せ、意気消沈させるつもりだったそうだ。結果的には見事にそれは逆効果となったのだが。
その時に比べて、今は秋だ。少しすれば冬に入り、3か月もしないうちに大学受験が始まってしまう。
「オレは卒業したら親戚の工場を手伝うことになっていてな。今の時期、放課後にあれこれと教えてもらっているのさ」
倉橋に続いて、横井も厳しいと付け足す。
「オレは製菓工場に就職が決まったから手助けはできるけどよ。勉強の方が心配でな。下手をすると去年の二の舞になっちまう」
丸井の脳裏に部長との勉強特訓が思い出された。
谷口キャプテンの元、甲子園出場を目標にしていたものの、どこか遠くに感じるものだった。夏の予選で当たった谷原でさえ、ぎりぎりの所で勝てた相手なのだ。それよりも数段上にいる明訓との勝負はどうなるのか、予想もつかない。
「まあ、谷口は参加だろうから、後はオレたちそれぞれで考えればいいじゃないか。別に出なくても応援すりゃいいだけなんだし」
「む。それはそうだが」
「出る出ないは自由。出たい人間は、明日の放課後に部室に集合ということにしよう」
「出るってことはあれ以上の特訓をするってことだからな」
戸室は夏の猛特訓を思い出し、身を竦ませた。
(明訓が相手・・・ね)
授業を受けながらも、倉橋はどこかうわの空で、内容がまるで頭に入ってこなかった。
一体どうやって丸井達はあの明訓と話をつけたのだろう。
高校野球史上最強のスラッガーと言われるドカベン山田は倉橋とポジションがかぶる。
そのインサイドワーク、バッティング、ぜひとも生で見たいのは山々だった。
あの明訓と戦えたなど、末代までの自慢となるだろう。
(でも、たった一試合。それも引退試合だぜ?)
公式戦ではない、ただの記念試合。
そのたった一試合のために、貴重な一か月を棒に振ってよいのだろか。高校生活でし残したことはないのか。今後の人生のためにしておくことはないのか。
(まさか、明訓とはなあ)
横井は飲んでいた牛乳のパックをくしゃりとつぶした。
てっきり引退試合というから1、2年生との試合かと思っていた彼にとって、丸井達の申し出は完全に予想外だった。
就職が決まっている自分は参加できる。だが、勉強の方が心もとない。卒業できなければ、全てが水の泡だ。
(でもよ)
横井は4月当初に新入部員に自らが掛けた言葉を思い出す。
「くじけそうな自分に打ち勝った時の気持ちが忘れられない」
あの時の自分はそう言ってはいなかったか。
もし、あの時の自分が今の自分に声を掛けるとしたらなんて言うのだろう。
横井はストローを咥えたままじっと宙を見つめた。
(オレが出た所で、たいして役に立たない。)
延々と続く英語教師のへたくそな発音を聞き流しながら、戸室は窓の外を見つめた。
夏の大会で終わると親には約束している。たまの息抜きで練習に出るのは許されているが、明訓を相手にするとなると息抜きでは到底すまない。谷口という男は一見穏やかに見えるが、本質はサドなんじゃないかと誰かが言っていた。戸室もその通りだと思う。
(ベスト4になれたんだから、それで満足できないもんかねえ。)
谷口が来るまでの墨高は万年一回戦負け。練習試合を申し込もうにも、あまりの弱さに練習にならないと断られることもあったくらいだ。
気楽な部活だと思い入部したはずなのに、いつの間にか谷口の勢いに押され、その色に染まってしまった。自分でも信じられないような特訓を積むことになった。
(でも、不思議と途中で辞めようとは思わなかったんだよなあ。)
黒板を見ながら、戸室はぼんやりと考えた。
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第十話 「勉強特訓再び」
高校野球漫画に出てくる高校でどこが強いのか、昔なんとなく頭の中で考えていました。タッチの明青学園、MAJORの夢島。ただ、作者が明訓びいきのせいか、いつも妄想の中で勝つのは明訓。
ならば、その明訓を苦しめる高校はいないのか。そう考えた時に出てきたのが墨谷です。墨谷ならば、キャプテン谷口ならば。あの明訓を苦しめるのではないだろうか。
その思いが、この小説の原点となっています。
放課後。野球部の部室はかつてないほどの熱気に包まれていた。
丸井とイガラシの直訴によって実現することになった対明訓との引退試合の話は、夏の大会が無念の終わり方をした墨高野球部員たちの気持ちを盛り上げるのに十分だった。
あまりのうるささに丸井が怒鳴って静かにさせるが、すぐその時の話を聞こうと誰かが寄ってくる。
「あまり気にしても仕方ありませんよ。こうなることは予想できたじゃないですか」
「ああ、まあな。それも承知で行ったんだしよ。それより・・・」
「ええ。谷口さん、もうグラウンドにいましたよ」
嬉しそうに言うイガラシに、近くで着替えていた井口が本当かと顔を綻ばせる。
「あれ?お前、思ったよりも谷口さんに対して態度よかったんだな」
「と、当然じゃないすか。おんぼろ都立でベスト4に行った人っすよ」
「何だ、オメ。分かってるじゃないか!」
どことなく中学時代の後輩を思わせる井口に虫の好かなかった丸井は、嬉しそうに井口の肩をばしばしと叩いた。
「そんなことより丸井さん、小室先生に報告に行かないと」
「おう、そうだった。そうだった」
昨日明訓高校から帰ってきた時には夜だったため、二人は谷口への報告を優先し、部長の小室先生には朝に伝えるつもりだった。ところが、通勤時間の長い小室を待っている間に予鈴が鳴ってしまい、その後、他の3年生へ報告をしに行っていたため、結果的には伝えるのが一番遅れることになってしまった。
「OKをもらってますから、駄目だということはないでしょう」
イガラシからすれば、野球に興味のない部長は後回しで大丈夫だろうという思いがあったが、部長を知る丸井としてはすんなりそれには頷けない。
「あほ。あの部長、前例があるからな。油断できないんだよ」
以前野球部全体の学力が低くなっていると行われた勉強特訓はその当時所属していた部員全員にとってトラウマだった。
丸井の言葉通り、小室は10月に入っての練習試合ということで難色を示した。
「あのなあ、丸井。以前谷口にも言ったが、お前たち学生の本分は学業だぞ。野球にのめり込むのはいいが、はき違えちゃいかん」
「い、いや。そのことは分かってます」
「それに、部長はいいよと言っていたじゃないですか」
「そりゃあ、9月すぐだと思ったからな。10月の始めじゃと?二週間もしたら中間試験だぞ。分かってるのか」
「はい。ちょうど、その時期に秋季大会も始まるので」
「イガラシ!お前は成績優秀だが、他の者もそうとは限らんのだぞ。ましてや、3年は就職や進学もある」
「3年生には希望を聞いてます。無理強いはしません」
「何とかお願いします。以前みたいに勉強の特訓もみっちりやりますから!」
勉強特訓経験者の丸井としては正直思い出したくもない過去だったが、それでも試合の方が大事だ。
「オレが計画を立てて、両立できるようにします。それでいいでしょ」
素っ気なく言ってのけるイガラシに小室は目を丸くした。
「できるのか、イガラシ」
「やるだけですよ。やらないといけないのなら」
しばし見つめ合った後、小室が折れた。
墨谷二中で全国大会優勝を果たしながらも、トップの成績を誇ったイガラシの言葉には重みがあった。
「分かった‥。まあ、お前たちは前回しっかり頑張ったからな。だが、繰り返して言
うが3年には無理強いはするなよ!」
「それはもう重々承知しております・・・」
丸井がぺこりと頭を下げ、明訓高校の連絡先を手渡した。
職員室で何気なく電話をしている小室に対し、他の教職員は一斉に耳をそばだてていた。昨日野球部の二人がやってきて、明訓高校に出かけていったのは皆が知っている。だが、その結果試合を行うかどうかについては誰も聞いていなかった。
「ええ。そちらも中間試験が近いですよね。お互い大変ですな。えっ?明訓さんでは補習なんかはしないのですか」
小室の声のトーンが変わったのが分かった。
「成程。さすがは強豪校。勉強の方も一流ということですな。うらやましいことです」
受話器を掴む力が強くなる。
「はい。それでは、10月の第一週でお願いいたします。はい。それでは」
電話が終わった小室を職員室の皆がわっと囲んだ。
「小室先生、本当ですか?あの明訓との練習試合って」
「ええまあ。」
野球にさして興味のない小室はそっけない。
「嘘だろ、おい。あのドカベンとうちがやるのを見られるってこと?」
野球好きの体育教師が咥えていたタバコをぽとりと落とした。
「こ、校長先生!これはすごいことですよ!!すぐさま全校に伝えないと!」
「新聞委員会に頼み、臨時で号外を発行してもらいましょう!すごい、すごすぎる!!」
興奮のるつぼと化した職員室で、一人小室はわなわなと拳を震わせていた。
「どうしました、小室先生。いくら野球音痴の先生でも明訓が相手なら興奮するでしょう」
「とんでもない!向こうの大平という顧問に言われたんですよ。うちは勉強の特訓をする必要はありません。普段それだけやってますからな、と。これは私に対する挑戦、ひいては公立高教員に対する挑戦ですよ!!」
「そうですかねえ」
「そうに決まってます。私立がなんぼのものか知りませんが、向こうがそう来るならこっちだって考えがある!!」
めらめらと闘志を燃やす小室に声を掛けた体育教師は唖然とするしかなかった。
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第十一話 「意外な決断」
コーン。
コーン。
夜。
工場の手伝いを済ませた倉橋が、御岳神社の側を通ると、何やら耳慣れた音が聞こえてきた。
「ん!?」
もしやと思い、音のする方へ行くと、果たしてそこにいたのは彼にとって馴染みのある人物。
「谷口・・・・・・」
「やあ、倉橋」
倉橋の姿に気付いた谷口が手を挙げる。汗びっしょりのその姿に、倉橋は呆れた表情を見せた。
「何しているんだ、お前・・・・・・」
「何って、練習だよ」
汗をぬぐうその姿に、倉橋はつい皮肉の一つも口にしたくなる。
「一月前に引退した人間が練習ねえ・・・・・・」
「す、すまん。オレとしてもどうかとは思ったが・・・・・・」
「まあ、そうだよな」
これまでの慣習に従って、夏の大会後に引退とした3年生たちだが、夏の大会が無念の結果に終わったとあって、その胸中は複雑だった。昨年のように専修館に死闘の末競り勝ち、事前情報のない明善に力の差で屈したというのならまだ分かる。だが、今回は違う。谷原を研究し、倒したのにも関わらず、怪我人が相次ぎ、辞退したのだ。
「謝ることじゃないさ。むしろよくやるなって感心してるんだ。相手が明訓と言ったって、ただの練習試合だろう?」
「ああ」
谷口は練習を再開する。谷原戦後、めっきりボールを握ることは少なくなったが、体はあの夏の猛練習を覚えているらしい。
シュッ。 コーン。
シュッ。 コーン。
シュッ。 コーン。
「・・・・・・」
谷口の投球練習を無言で見つめる倉橋。
(ムキになっちゃってまあ・・・・・・)
卒業まであと半年。進学や就職とそれぞれ目標を見据えて取り組んでいくために、3年生は夏の大会後引退という形になっていたというのに。
下手をすれば、自分達の今後に響くではないか。
(でもまあ、お前はそういう奴だったよな・・・・・・)
中学時代を思い出し、倉橋は一人頷いた。
隅田中のキャプテンとして出場した地区大会。松川とバッテリーを組んで、谷口の墨谷二中と当たったとき。一人やっきになる谷口に、大いにあきれたものだ。
「どうだ、倉橋。見た感じ」
「ああ、受けてみなけりゃ分からんが、一月前と変わらないんじゃないか」
「そうか。それじゃあ、まだまだだな」
「まだまだって、お前・・・・・」
「ん!? 何か言ったか?」
くるりとこちらを向く谷口に、倉橋は口から出かけた言葉を飲み込む。
「い、いやなんでもない」
「そうか・・・・・・」
再び、投球練習を再開した谷口に、倉橋はやれやれと首を振る。
(明訓に勝つつもりか?って、聞こうとしたが・・・・・・)
響き渡るボールの音を背に、倉橋は神社を後にした。
(どう考えても、勝つつもりなんだよなあ)
翌日。
新聞委員会が急遽作成した対明訓戦決まるの報に、墨谷高校に激震が走った。
夏の大会が不幸な終わり方をし、悔しい思いをしたのは野球部部員だけではなかった。
毎日の汗まみれの練習を知っている多くの生徒は野球部に同情し、彼らの高校野球が理不尽な終わり方をしたことに残念な思いを抱いていたのである。
名門墨谷二中出身であり、一年生では3回戦進出、二年生ではベスト8にシード権獲得。3年生では、ベスト4にまで墨谷を進ませた谷口が出ることが判明すると、その興奮は頂点に達した。
「な、なあ。谷口。お前、今度の練習試合出るって本当なのか?」
「ああ。一応引退試合ということだからな」
「てえことは、他の3年も?」
「その辺は当人たち次第さ。進路のこともあるし」
「まあ、そうだよなあ。一生に関わることだもんな。さすがにムリに出ろとは言えないか」
「・・・・・・」
「何だ?・・・・・・」
倉橋が登校すると、昇降口の所で、戸室が立ち尽くしていた。
壁に貼られた新聞には、でかでかと『対明訓戦決まる!』との見出しが躍っていた。
昨日聞いた話がもう広まっているとは。明訓がいかにビックネームとは言え、情報が早すぎる。
「期待されちゃってまあ・・・・・・」
そっと隣から倉橋が呆れた声を出すと、ようやく気付いた戸室は振り向く。
「く、倉橋・・・・・・」
そこへ困り果てたと言う顔で、やってきたのは横井だ。
「ったく、朝からひっきりなしに出るの出ないの聞かれて参ったぜ」
「そりゃあ、こんなのが貼られてちゃな」
「期待する方は気楽でいいぜ」
3人はため息をつきながら、新聞を見つめた。
放課後。
ぽりぽりと頬を掻きながらやってきた横井が、部室の扉を開けると、そこにいたのは倉橋だった。
「へへ。オレ一人じゃなかったか」
「ん。まあな。我ながらどうかとは思うが」
ユニフォームに着替えながら、倉橋は答える。
昨日の谷口の夜間練習を見なければ、どうだったか分からない。
だが、一人投球練習をする谷口の姿に、自分はこれでいいのかと心が突き動かされた。
相手が明訓とはいえただの練習試合だ。応援に行くだけでも構わない。
自分の今後と天秤にかける方がおかしいだろう。
けれど、一度はバッテリーを組んだ人間が、挑もうとしているのだ。
全国の並みいる猛者たちを倒し、この夏甲子園優勝を果たした王者明訓に。
それも、本気で勝つつもりで。
「しかたないさ、谷口に関わったのが運のツキってやつだ」
「言えてる」
苦笑する横井も、同じく着替えだす。一月前まで、繰り返し着ていたユニフォームはところどころ擦り切れが目立ち、猛練習の後を伺わせる。苦しくて苦しくてたまらなかった練習からようやく解放されたのに、自らまたその場に飛び込もうとしているなんて。一年生の時の自分が聞いたらなんて言うだろう。全てはあの谷口が墨高野球部に来てから始まったのだ。
「戸室はさすがにムリか。進学組だもんな」
「いや、そうでもなさそうだぜ」
倉橋が部室の入り口を見ながら、笑う。扉の陰から戸室が恥ずかしそうに顔を見せた。
「おいおい。勉強は大丈夫なのかよ」
横井の一言に、戸室は言い返す。
「それを言うなら、お前だって!」
「いや、オレの場合は何とかならあな。就職が決まってるもの」
「卒業できなきゃ同じだぜ?」
「まあまあ」
揉める二人の間に倉橋が割って入る。
「どう考えてもおかしなことをやろうとしてるんだ。どうせならみんな一緒でいいじゃねえか」
「む。それもそうだな」
「今更ってやつか」
倉橋の言葉に、横井と戸室は顏を見合わせ、頷きあった。
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第十二話 「墨谷対明訓戦広まる」
野球狂の詩、おすすめです。特に私が好きなのは、長島茂雄を目指して長島茂雄になろうとした男長島太郎の話『俺は長島だ!』と、御年53歳。引退を飾るべく控えなしで登板。9回688球、53失点の球聖岩田鉄五郎の『ズタズタ18番』です
明訓の寮から久々に長屋に戻って来た山田を、祖父は笑顔で出迎えた。
「そうか、引退試合をな」
調子のよさそうな祖父の様子に山田はホッとする。
「うん。どうも引退した3年生のために一肌脱いだみたいだよ」
「そいつはまた・・・・・・。何とか都合をつけて行くとするか」
祖父の笑顔に山田もつられて笑う。
「しかし、その墨谷という高校は聞いたことがないが」
「なんでも一球さんたちと当たる予定だったそうだよ。部員の怪我が元で辞退したとか」
「成程のう。太郎、その墨谷とやら。ひょっとするとただの記念試合のつもりじゃないかもしれんぞ」
「えっ!?」
「お前達と戦っていい思い出を作りたいなんて気持ちじゃったら、わざわざ一月も間を空ける筈あるまい」
「・・・・・・」
「あっ、また来た」
友達と長屋の前で遊んでいたサチ子は、歩いてくる二人組の男を見て、呟いた。
以前会ったのは、神奈川県予選決勝の白新戦。スタンドで応援する自分達に声を掛けてきたのを覚えている。
「また来たて。お嬢ちゃん、そんな野良猫やあるまいし」
小太りの男、東京メッツ監督の五利はやれやれと苦笑する。
「あほ。猫なんて可愛いガラかい。サッちゃん。おじいちゃんは家かい?」
べちんと五利にツッコミを入れる長身の男は東京メッツが誇る野球界の至宝。よれよれ18番こと岩田鉄五郎その人だ。
「うん。おにいちゃんと話している」
「ほお。山田がいるんかい。 こいつは好都合やな、五利よ」
上機嫌になる鉄五郎とは対称的に、微妙な表情をする五利。
「なあ、鉄っつあん。やっぱり考え直さん? どうしてもピッチャーは必要やで」
「その話は夏の大会で結論が出ているやないか。山田を入れての6点打線。こいつで少しぐらいピッチャーが打たれても平気よ」
「点を取るのも大事やが、相手に取られにゃ負けることはあらへんやないか」
「べらんめえ! 負けないことを意識して何が野球よ。攻撃こそ最大の防御じゃ。10点取られても11点返しゃいいのよ」
「とても50点近く打たれたお人の言葉とは思えんわ」
「何やて?」
口論を繰り返す二人の脇を、サチ子が猛スピードで駆け抜けていく。
「おじいちゃん、おにいちゃん。お客さん! 東京メッツ!」
「東京メッツじゃと?」
「ま、まさか・・・・・・」
外に出てきた山田は、予想通りの二人組を見付けて、驚いた。
「い、岩田さん・・・・・・」
「おお、山田。甲子園以来じゃな、元気にしとったか?」
「五利監督まで・・・・・・」
無言でぺこりと五利は頭を下げる。
「と、とにかく、太郎。上がっていただけ」
「うん。座布団座布団」
てきぱきと掃き掃除をし、座布団を山田が用意し、サチ子ははたきをもってあちこち叩く。
大きなくしゃみをする五利の横で、鉄五郎は気遣いはいらないと手を振った。
「いや、おかいまいなく。それより、今後の話がしたい。山田、ロッテ以外じゃと大学進学という話じゃが、うちの一位指名は変わらんのでそのつもりでいてくれ」
「て、鉄っつあん!」
「岩田さん、すでに報道されている通りです。いくらおっしゃられても・・・・・・。貴重なドラフトの枠を潰すことはありますまい」
固い表情で、山田の祖父は言い、五利もそれに賛同する。
「ほら、鉄っつあん。言った通りやないか。山田はもうロッテ一本と決めてるんやさかい、無理強いは返って迷惑やで。他の選手を取りに行こうや。中西とか、不知火とか」
「じゃかあしゃい! 山田さん。無駄かどうかは我々の方が決めることです」
鉄五郎は山田の方を向くと、ずばりと気になったことを尋ねる。
「なあ、山田。ちょうどええ機会だから聞くんやが、ほんまにお前は昔からのロッテファンなんか?」
40年近い現役生活を送る岩田鉄五郎の老いてますます盛んなその眼光は、さすがに山田をも圧倒するものだったが、山田は顔色一つ変えずに頷く。
「ええ」
「そうか・・・・・・」
ちらりと室内を見渡した鉄五郎は、手入れ途中のミットを見付けて笑顔になる。
「随分と手入れされとるやないか。プロを見据えて練習しとるんか」
「それもありますが、今度引退試合をやることになりまして」
「な、何やて引退試合?」
聞いたこともない言葉に五利が反応する。プロならいざ知らず高校生で引退試合とはどういう訳か。
山田が経緯を話すと、鉄五郎は頑張れよとだけ伝えて立ち上がった。
「それじゃ、失礼」
「お構いもせず・・・・・・」
「いやいや。また伺います」
長屋を出てから、さっさと歩き出す鉄五郎に後から来た五利が慌てて追い付く。
「どないしたんや、鉄っつあん。そないに急いで」
「五利よ。記者連中の言っとったことは本当やな。山田のロッテ逆指名。臭うで」
「どういうこっちゃ。ロッテファンやと本人も言うとったやろ」
「ファンなのに、部屋にあるのは早稲田のペナントだけやぞ? 怪しいやないか」
「そらそういうこともあるんやないか」
「それだけやない。わしがロッテファンかどうか確認した時、珍しく動揺してたで。いくら平静を装ってもこの道40年のわしの目は誤魔化せん」
「ほ、ホンマかい、その話」
「ああ。確か山田のスクープを飛ばしたのは東京日日やったな。山井辺りを突いてみるのもええかもしれんで」
東京日日スポーツの山井なら交流がある。何かの折にそれとなく話が聞けそうだ。
「確かに何か裏がありそうやな」
頷いた五利はタクシーを呼びながら、そう言えばと思い出す。
「山田達が引退試合なんて知られたらことやな。甲子園にあんだけ人を集めた連中やさかい」
「相手の墨谷ちゅうところは確か猛練習が祟って準決勝に出られなかったとこやで」
「よく知ってるな、鉄っつあん」
「新聞の地方欄にでかでかと載っとったからな。それにしても、この時期に、しかも明訓相手に引退試合を挑むとはな」
皮肉っぽく笑う鉄五郎に対し、五利はまあまあとそれを諫める。
「記念試合のつもりやろ。高校時代のよい思い出やないか」
「あほ。猛練習が原因で出られんかったところが、王者明訓相手に秋季大会前のこの時期にわざわざ勝負を挑むかいな。単なる引退試合な訳ないやろうが」
「ど、どういうこっちゃ・・・・・・」
「倒すつもりよ、明訓を・・・・・・」
「そなあほな! 地区大会も勝ち上がってないところがかいな。無謀や! 相手はあの土佐丸や青田を倒した最強明訓やで?」
驚きに目を丸くする五利に対し、愉快そうに鉄五郎は笑い声を上げた。
「べらんめえ! だから面白いんじゃねえか。墨谷高校との引退試合、こいつは見に行く価値があるぜ。ええ、五利よ」
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第十三話 「明訓を知れ!!」
両者を合わせていく過程でどうしてもそうした面は出てくるかなと。ただ、ドカベンは劇画調なだけで魔球などが存在しない点はプレイボールと親和性が高いと思っております。
※作中の東実の監督やキャッチャー等はアニメ版から名付けています。
半ば引退状態にあった3年生の現役復帰。だが、心配された現役部員の動揺はなく、むしろ歓迎する向きさえあった。
誰もが夏の大会の3年生の無念を理解しており、明訓という格好の相手が出来た以上、応援したい気持ちが強かったためである。
打倒明訓に向けて特訓することは、とりもなおさず秋季大会に向けてのレベルアップにつながるとのイガラシの意見の元組まれた特訓メニューは、さすがに墨谷二中を全国に導いた彼が考案しただけあって厳しいものだった。
「痛てててて。もっとゆっくり貼れって!」
手が回りきらぬ背中への絆創膏を半田に貼ってもらいながら、鈴木は悲鳴を上げる。
「やれやれ。谷口の後輩はさすが容赦がねえぜ」
自分も久方ぶりの特訓に泥まみれになった顔をタオルでふきながら、横井は室内を見渡す。
どの部員も一月前の夏の大会に向けた特訓を潜り抜けてきた者たちだが、その連中がひいひい言っているとは。副キャプテンのイガラシは、谷口以上にサディストのケがあるのかもしれない。
「こうでもしないと明訓にはとても叶いませんよ」
素っ気なく言うイガラシに対し、丸井は頷いた。
「ああ。さすがは明訓って感じだったもんなあ。どいつもこいつも」
「そういや、お前達、明訓に行ったんだっけな」
倉橋が着替えながら尋ねると、イガラシは対戦した岩鬼の印象を語った。
「悪球打ちって言われてますが、工夫次第でストライクも打てるみたいです。少しでもボールに外すとパワーがあるだけに厄介ですね、あれは」
「岩鬼にはコントロールが重要だな。他には?」
「いえ、対戦したのは岩鬼だけなので」
イガラシの返答に谷口は黙って腕組みをする。
「どうしたんだい、難しい顔しちゃって」
倉橋の言葉に、谷口は打倒明訓を目指すにはこれでは足りないと答えた。
「た、足りない?」
あんぐりと口を開ける部員を尻目に、倉橋は冷静に問いかける。
「と言うと?」
「まず情報さ。夏の大会中ならば明訓の試合を偵察して向こうの事を知ることもできた。だが、生憎と今は秋だ。新聞に出ているくらいの情報ではどうにもならない」
これまで対戦相手を徹底的に研究し、その差を埋めてきた墨高にとって痛すぎるアドバンテージだった。以前やった川北や谷原相手の時のように自分達の実力を推し量るためならそれもいいだろう。だが、今回はそうではない。明訓に勝つために試合をするのだ。
「ま、まだあるのか?」
戸室が不安そうに尋ねる。この猛練習でもまだ足りないというのか。
「ああ。次に試合経験だ。オレ達は確かに甲子園常連の谷原に勝った。だが、相手は明訓だ。彼らと戦うには圧倒的に経験が足りない」
甲子園常連の谷原を倒すため猛特訓を重ね、遂には勝つことができたがその谷原も霞むほどの相手が明訓だ。何と言っても彼らは全国屈指の激戦区と言われる神奈川を制し、全国の並みいる猛者たちを相手に四度頂点に立った存在である。
「谷口さんの言う通りですね。オレも一度経験がありますが、地区の予選と全国で戦うのはまた違う。各地区を上がってきた連中は一癖も二癖もある。甲子園に出られるようなところと練習試合ができればいいんですがね」
「オメ、そう言ってもよ」
イガラシの言葉に丸井は顔を曇らせた。すでに引退試合の件であちこち電話をし、散々断られたばかりだ。
「もう一回電話してみるしかないスね」
他人事のように言う井口に丸井はぎろりと目を光らせる。
「すまんな、丸井」
「い、いえ。いいんス。そ、それより谷口さん。明訓の情報の方なんですが、あちこち聞いてまわってはどうでしょう」
「聞いて回る?」
「ええ。東実とか、川北とか。知り合いがいるところがたくさんあるじゃないスか。うちと違ってああいう所は、明訓の試合なんかも撮ったりしてるんじゃないですかね」
「成程。だが、貸してくれるかな」
「む。向こうさんにすると、敵であるオレ達に手を貸す義理もねえしな」
谷口の言葉に横井が頷く。知り合いがいると言ってもライバル関係にある自分達に手を差し伸べてくれることなどあり得ない。
「まあ、いいじゃねえか。聞くだけなら損はないしよ。川北の連中に聞いてみるよ」
倉橋が片手を挙げて任せろと応じると、谷口もそれに続いた。
「それなら、東実はオレが電話しよう。丸井達には試合相手を探してもらうからな」
「いや、ついでなんでオレ達で一緒に聞いてみますよ。あまり職員室の電話を占拠するなとこの間部長に怒られちまって」
イガラシの言葉に横井が慌てる。
「おいおい。あんまし部長を刺激するなよ。ただでさえ勉強のことを言ってくるんじゃねえかとヒヤヒヤしてるのによ」
「あ、そっちの方も俺が特訓メニューに追加してますんで」
さらりと言ってのけたイガラシに、部員全員がずっこける。
「お、おい。井口。オメーあいつの昔馴染みなんじゃねえのかよ。ほどほどにしとけって言っておけよ」
井口を小突きながら丸井が言うと、井口はムリムリと首を振った。
「昔からああなると手が付けられねえんスよ、丸井さんの方がよく知ってるじゃないスか」
「まあな。あんにゃろうがああ言うときは何を言っても無駄だかんな」
中学時代から変わらぬ後輩の様子に、ぽりぽりと丸井は頭を掻いた。
丸井を中心に行われた対明訓戦のための情報収集への協力依頼に、かつて地区予選を戦ったライバル達は一様に驚きを隠さなかった。
「また、あの野郎、やりやがったな」
川北の小野田が知らせを聞いて苦笑すれば、
「あいつらは何を考えているか分からん」
谷原のエース村井も呆れる有様だった。
そんな中。ある意味もっとも驚かず、墨谷だったらあり得るだろうと電話を受けていたのが、東実の佐野である。
(墨谷が明訓と試合・・・・・・)
堂々たる東実のエースとして夏の地区大会で活躍した佐野だが、墨谷とは因縁浅からぬ仲であった。青葉学院の時には墨谷二中として。東実に上がってからは、墨高として。中学時代から常に自分の前に立ちふさがってきた好敵手達には、共に高め合うライバルとして並々ならぬ関心を抱いている。
そんな佐野が墨谷の中で特に気にかけていたのが谷口の存在だ。
青葉学院出身である谷口は、佐野の一年先輩にあたるものの、青葉の時には谷口は二軍の補欠であり、一軍の佐野とそこまで面識はなかった。だが、谷口がその持ち前の努力で墨谷二中を率いて青葉の前に立ちふさがり、飽くなき勝利への執念を見せて遂に青葉を破った時、敵味方を超えて尊敬の念を強く抱くに至った。今夏の大会では接戦の末競り負けたが、墨谷なら、谷口なら谷原を破り、甲子園に出場するだろうと思っていたのだ。
(まさか、谷口さんも出るとはな・・・・・・)
夏の大会が不本意な形に終わり、とうに引退したかと思っていた。冗談だろうと思う反面、あの人ならやりかねないと思うのはそれなりに付き合いが長くなったからだろう。
やるからには記念試合などにするつもりは毛頭なく、そのために明訓の映像が必要に違いない。
名門である東実は、関東近県で有名な高校の試合には偵察組を送っている。
当然、明訓の試合の映像もあるが、監督室に保管されており迂闊に見ることはできない。
(監督に相談してみるか)
監督室にやってきた佐野は、そこに前キャプテンの仁科の姿を見、わずかに顔を顰める。引退しても部活に顔を出す仁科は佐野にとってはやりづらい相手だった。
「なんだ、佐野。どうした」
監督の岡本が尋ねると、佐野は墨谷からの依頼について話した。
「何だって。図々しい奴らだな」
開口一番、仁科は墨谷の態度を非難した。
「どこの世界に秋季大会のライバルになる連中を助ける奴がいると思ってるんだ。うちが去年奴らに負けたことを忘れちゃいまい」
「は、はあ・・・・・・」
佐野は口ごもる。忘れていないどころか、その試合で自分も投げていたのだから忘れようがない。
岡本はじっと二人のやりとりを見ていたが、おもむろに口を開く。
「佐野、どうして墨谷に映像を渡したいんだ」
「そ、そのう。奴らが明訓と戦うにはそれくらいのハンデがないといけないと」
「このままじゃ墨谷は明訓には勝てない。まあ、誰が見てもそう思うだろうよ。ましてや今は秋に向けての準備で忙しい時だ。何を考えているんだろうな、あの連中は」
「か、監督!」
「おい、佐野。失礼だぞ!」
ムッとしながら監督を睨む佐野に対し、仁科が突っかかる。
「よせ、仁科。ははは。わしとしたことが言葉が悪かった。お前と連中は長い付き合いというのを忘れていた。映像さえあれば明訓相手に連中が戦えるとお前は思っているんだろう?」
「あの連中を明訓が軽く見ていたら痛い目を見ると思います」
「佐野、止せ!」
岡本は大きな声で笑い声を上げると、窓の外を見つめながら言った。
「わしもそう思う」
「監督!?」
「あの坊や、谷口が一年の時からそう思っとったよ。やつがいる限り、墨谷は必ず強くなるとな。その予想は残念ながら当たった訳だが」
岡本にとっては苦い思い出だった。谷口の一年次。墨谷の練習を見て油断せず、レギュラーメンバーで固めたにもかかわらず、エースの中尾が打ち込まれあわやと言う所まで追い詰められた。一時点差が開き安堵したのもつかの間、執拗に追いすがる墨谷に酷く動揺したのを覚えている。
くるりと振り返り、岡本は佐野の肩を叩く。
続いて出てきたのは二人にとっては予想外の言葉だった。
「よく言った、佐野。それでこそ名門東実のキャプテンだ」
「え・・・・・・」
「か、監督!!」
「仁科よ。去年の夏の大会を忘れたのか。優勝候補の専修館と戦う墨谷に当時のキャプテンの大野はどうした。奴らを助ける攻略メモを渡し、その健闘を祈ったではないか」
「そ、それは・・・・・・」
仁科は思い出す。敗北し、涙ながらに去る中でとっさに大野が墨谷のキャプテンに専修館のエース百瀬を打ち砕くヒントを書いたメモを手渡していたことを。
「それこそがこの名門東都実業の格だ。墨谷が明訓と戦って強くなる? 大いに結構。我々がそれに負けぬよう練習すればいいだけだ、むしろ強くなった奴らにやり返す機会ができたと考えればいい」
「し、しかし監督・・・・・・」
「仁科、お前は見たくないか。散々我々を苦しめたあの墨谷が明訓相手にどこまでやるか」
岡本の一言に仁科の脳裏に昨年の秋季大会の思い出がよみがえる。
佐野の投入で火のつきかけた墨谷打線を消し止めたものの、エース谷口の前に東実はうまく抑えられ敗れ去った。最初から佐野が投げていれば結果はどうだったか分からない。だが、あの時の谷口の出来からして相当な激戦となったことだろう。
「は、はい」
「そうだろう。わしも見たい」
どんと映像のテープを取り出した岡本に佐野は笑顔を見せる。
「か、監督! ありがとうございます」
「構わん。佐野、当日は練習を休みにして見に行くぞ。秋季大会に向けて墨谷の良い偵察になるからな」
夕方。
墨谷高校のグラウンドに現れた佐野は、映像テープの入った紙袋を谷口に手渡した。
「わ、わざわざすまん」
「いえ」
礼を言う谷口に、佐野はぺこりと頭を下げると、くるりと元来た方へと向き直った。
東実から墨谷には大分距離がある。わざわざ届けに来たのはそれだけ大切なものだからだろう。
「佐野、ありがとうな!」
丸井の声にも、振り返らず、佐野はぷらぷらと手を振ってそれに応えた。
「けっ。なんだい、あいつ。水臭えな」
「まあまあ。これで情報の方はめどがたった。後は試合だな」
「そこはオレッちにお任せください」
丸井はどんと胸を叩き、じゃんじゃん電話をかけますよとはりきった。
佐野が墨谷に明訓の映像テープを渡した翌日。
墨谷高校のグラウンドに二人の少年が姿を見せた。
一人は巨人学園の帽子をかぶり、もう一人は金太郎の恰好をしている。
彼らの姿を見つけた墨高の生徒はぎょっとなった。
「なんで、あの二人がウチにいるんだ?」
東東京代表として大甲子園に出場し、明訓と激戦を繰り広げた二人の名前は多くの者が知っている。ましてや、出場辞退がなければ墨谷は彼らと戦っていたかもしれないのだ。
「一球さん、急がないの?」
「そんなに焦らなくても大丈夫だよ、九郎」
真田一球と呉九郎。巨人学園のバッテリーは初めて見る墨谷に興味津々といった様子で、のんびりと歩いてくるのだった。
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第十四話 「対巨人学園戦決まる」
ドカベンファンからすると、何かやりそうなのが墨谷。
プレイボールファンからしても、何かやりそうなのが巨人学園。
明訓戦に行くために、なんとか頑張って書いていければと思います。
丸井とイガラシが部長に呼ばれ、職員室に行っている頃。
墨谷高校のグラウンドに見慣れぬ二人組の姿があった。
金太郎の恰好をした九郎と巨人学園の帽子を被った真田一球である。
異彩を放つ二人は、先ほどからじっと墨谷の様子を見ているが、声を掛けようとしない。
「随分と狭いグラウンドで練習してるね、一球さん」
「都立と私立は違うよ」
私立であり、各地から優秀な選手を呼び寄せるほどの資金力がある巨人学園とは異なり、墨谷は公立である。施設には雲泥の差があり、それは事実だ。
だが、一球の言葉にかちんときたのが、側で投球練習をしていた井口だった。
「都立だからどうしたって言うんスか?」
眉をしかめて、二人の方へ歩み寄り、一触即発の雰囲気となる。
墨高に入って揉まれ、最近はめっきり次期エースとしての自覚が芽生えてきた井口だが、もって生まれたけんかっ早さは治らぬらしい。
「お、おい・・・・・・」
側にいた久保がなだめようとすると、すっと間に入ったのが谷口だった。
「よせ、井口。本当のことだ」
「いや、でも・・・・・・」
谷口の姿を見て、途端に井口が大人しくなる。
谷原に惨敗した後、しゃかりきになって打倒谷原を目指すキャプテンの姿に、疑問を持った井口は、旧知のイガラシに尋ねたものだ。
「本当に谷原に勝つ気があんのかね」
それに対するイガラシの返答を井口は今でも覚えている。
「あの人は本気だぜ。いい試合をできれば、なんてハナから思っちゃいないんだ」
その時は半信半疑だったが、イガラシの言葉通りの言語を絶する特訓と、夏の大会での谷口の奮闘は、井口をして尊敬の念を抱かせるに十分なものだった。
その様子を見ていた一球は、探し人を見つけたように、満足そうにうんうんと頷くと、谷口へと歩み寄った。
「その帽子、巨人学園の・・・・・・」
「うん。真田一球に呉九郎だ。練習中すまないね。とりあえず、これを受け取って欲しい」
そう言って一球が手渡したのは、毛根鮮やかに書かれた巻紙の果たし状だった。
「これは?」
意味が分からないと首を傾げる谷口の脇で、井口がふざけるなと拳を震わせる。
「そっちがその気なら遠慮なく喧嘩を買うっスよ」
「むむっ!?」
九郎も拳を突き出し、井口と睨み合う。
「おいおい、九郎。よさないか」
「井口もだ」
間に入った一球は、谷口に事情を説明する。
明訓と練習試合をすると聞き、急遽思い立ったことがあった。
墨谷が明訓と闘うなら、その前に東東京大会準決勝のやり直しが先だろう、と。
「やり直し?」
「ああ。無念の臍を嚙んだのは君たちだけじゃないってことさ」
「がっかりしただ~よ。一球さんと二人で楽しみにしていたのに」
「す、すまん。俺がもっとしっかり部員の体調管理をしていれば・・・・・・」
「そんな。谷口さんだけのせいじゃないスよ」
井口の言葉に一球が頷く。
敗戦の責任はリーダーに帰すべきだが、全てをリーダーが背負う必要はない。
「勝ち敗けは兵家の常。終わったことは終わったことだ。だが、正直ぼくたちは納得していない」
一球の言葉は東京の高校野球ファンたちの声を代弁するものだった。
西東京代表、智将ダントツ率いる光高校が、日本全国の星を集めたスター軍団一番星学園を粉砕した後、次に彼らが期待していたのは、忍者の子孫と噂される真田一球率いる巨人学園と都立の星墨谷の一騎打ちだった。
『都立の星墨谷、続く快進撃』
『巨人学園準決勝進出。墨谷と谷原の勝者と対決』
新聞に踊った見出しは、高校野球ファンの期待の証でもあった。
それも当然だろう。
万年一回戦負けだった都立の弱小チームが昨夏には優勝候補専修館を、昨秋には東実をくだし、シード校となった。今大会では彼らは台風の目として一躍注目される存在だったのだ。
強敵相手に食らいつき、追いすがり、ついには勝利をもぎ取るという墨谷ナインの全力プレイと、超高校級のプレイヤーである真田一球率いる巨人学園が当たれば一体どちらが強いのか。高校野球ファンが居酒屋でビール片手に口角泡を飛ばして語る場面が多く見られた。
ところが。
墨谷が準々決勝で勝利するも、部員の怪我のために準決勝を辞退するとなった時、多くのファンは墨谷の健闘を称えつつも、その悲劇的な結末に割り切れない思いを抱かざるを得なかった。
野球の神様は何と酷なことをするのだと、文句の一つも言ってやりたい気分だった。
それは、準決勝で谷原を下し、その勢いのまま東東京代表に昇りつめて大甲子園に出場し、明訓相手に堂々と戦い抜いた巨人学園バッテリーからしてもまたしかり。対墨谷戦を心待ちにし、胸を躍らせていた彼らからすれば、肩透かしを喰ったようでいたたまれず、そのわだかまりは胸の中にずっと残っていたのだ。
「是非この勝負受けてもらいたい」
「どっちが本当の東東京代表か、決めたいだーよ」
九郎は無邪気に谷口の肩をポンポンと叩く。
「弱ったな。今の俺は一度引退した身だし」
谷口の言葉に一球はきょとんとした顔をした後、笑みを浮かべ、谷口を指差した。
「引退した身?」
明訓との練習試合に向けて気持ちが高まり、授業が終わるとすぐさま練習を始めた谷口は見るからに汗だくになっている。
「あ・・・・・・」
己の様子に改めて気が付いたのか、谷口が恥ずかしそうにすると、一球は豪快な笑い声を上げた。
「そ、その二人は・・・・・・」
職員室から戻ってきた丸井とイガラシはグラウンドにいる巨人学園バッテリーの姿に目を丸くした。
「ああ、丸井。この二人は・・・・・・」
「きょ、巨人学園の真田一球と呉九郎・・・・・・」
イガラシの呟きにあっと大きな声を上げる丸井。
「な、なんでそんな二人がうちのグラウンドに!?」
谷口の説明に目を白黒させながら、丸井とイガラシはぼんやりと一球を見つめた。
練習試合を申し込む時に巨人学園の真田一球なら引き受けてくれるかもと当たりをつけてはいたが、まさか向こうからやってくるとは思わなかった。
ただでさえ、対明訓戦に向けて、強敵相手の試合経験を積んでおきたい時だ。
甲子園に出場し、明訓と互角の勝負を繰り広げた巨人学園との練習試合は是が非でもやっておきたい。
しかも、彼ら曰く幻の東東京大会準決勝のやり直しをしたいという。
怪我人が続出し、無念の涙を流した墨高ナインにとってこんなにも美味しい話はない。
「な、なんでこんな・・・・・・」
イガラシは戸惑いながらも、一球に問わずはいられなかった。
どう考えても、一球達には得がない。
どうしてこんなことをするのだろうと。
一球はにっこりと微笑むと、
「お互い高校野球に悔いがあるのはよくない。そうだろう?」
そう答え、じっと谷口の方を見つめた。
「で、どうする? 墨谷のキャプテン」
谷口は何も言わず丸井の方を向いた。
「丸井さん・・・・・・」
脇からイガラシが丸井を小突くと、谷口の方をちらりと見た後に、丸井は大きく頷いた。
「よ、よろしくお願いします」
「よろしく!」
望む答えが得られ上機嫌になった一球は九郎と共に、
「よし、それじゃあ早速こっちも帰って打倒墨谷の練習を始めるぞ!」
「負けないだ~よ!」
声を掛け合いながら墨谷を後にした。
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第十五話 「幻の準決勝始まる」
また、金属バットの問題についてはプレイボールが続いていれば池田高校の躍進からヒントを得て自然に取り入れただろうということと、ドカベンでは山田が木製を使う場面はあるものの金属についてはそこまで言及がないため普通に金属を使っています。
※改題しました。
四日後の土曜日。
「れ。今日は休みだったか」
墨高グラウンドに顔を見せたOBの田所は、部員の姿がどこにもないことに疑問をもち、部室へと向かう。
「鍵がかかってやんな。河川敷に行ってんのか? でも今日は使う日じゃねえはずだしよ」
近くにいるサッカー部員に聞こうにも、彼らの姿も見えない。
どうしたのだろうと、うろうろしていると校舎から出てくる小室に出会う。
「おお、田所。どうしたんだ?」
「どうしたって、部長。野球部の連中はどうしたんです? 今日は休みですか?」
「いや。急遽巨人学園との練習試合が決まってな」
何気なく言った小室の一言に田所は唖然とする。
「きょ、巨人学園と練習試合!? なんでまたそんなことに」
驚くのも無理はない。谷口との付き合いが長い田所にとって、今夏の墨谷の無念は忸怩たるものがあった。
「何でも明訓と引退試合するためには必要なことなんだと。まあ、勉強特訓の方も続いているようじゃからわしも文句は言わんが」
「め、明訓? 明訓ってあの神奈川の明訓?」
一体どういうことか。巨人学園でさえ十分驚きなのに、甲子園の覇者明訓とは。
「ああ。丸井達が交渉に行ってな。中間試験前だと言うのにご苦労なこった」
「で、みんなって。まさか他の部の連中も?」
「ああ。みんな応援に行っとるよ」
「行っとるって、部長はどうして行かないんです」
「留守番が必要じゃろうが」
「そ、そういうことじゃなくて・・・・・・。い、いや、こうしちゃいられねえ」
どたどたと乗ってきた軽トラへと急ぐ田所を尻目に、小室は職員室へと戻る。
「そりゃ野球も大事だろうが、勉強の方も誰かが気にしとかんといかんしな」
一方、巨人学園へと足を運んだ墨谷の面々はどうだったかというと、東実並みに充実したグラウンドに面食らっていた。
大きなグラウンドに、ナイター用の照明。公立の自分達とは段違いの施設だ。
「ちぇっ。見せつけてくれるぜ」
倉橋の言葉に谷口が頷く。
「それにしても大きなグラウンドだな」
普段自分達が使っている高校のグラウンドだけでなく、河川敷のグラウンドと比べてもその広さは驚くほどだ。
「やあやあ、待っていたよ。墨谷の諸君」
声を掛けてきたのは真田一球。すでに準備万端らしく、グラウンドには巨人学園のメンバーが勢ぞろいしていた。
「墨谷高校の皆さん、よくいらっしゃいました」
巨人学園のベンチから姿を見せた少女は芦田麗子と名乗り、勝手ながら準備をさせていただきましたと語った。
「準備?」
「はい。放送委員会の方にお願いしまして」
見ると、練習試合であるのに、即席の放送席が作られている。
「全く。金のあるところは違いますね」
「ありがとうございます」
イガラシの皮肉が通じず、笑顔で礼を言う麗子は、巨人学園との練習試合があることを聞き、後をついてきた墨谷の応援団を誘導する。
「調子が狂うな、全く」
そんな墨高をさらに驚かせたのは、甲子園でも有名になった呉九郎の拳骨ノックだ。
「ライト文六!!」
ガシィ
「センター花田!!」
ガシィ
拳骨で打ち出されたタマは驚くべき球威で内野に外野に飛んでいく。
「な、なんだありゃ」
唖然とする横井に、知るかと戸室は返す。
「ありゃ随分と頑丈そうスね」
さすがの井口も喧嘩にならなくてよかったと呆れるばかりだ。
互いに練習が終わり、挨拶が交わされる。
じっと自分を見つめてくる真田一球に谷口は戸惑いを隠せない。
どうしてそんなに楽しそうなのだろうか。
交換したメンバー表を見て、墨谷ナインが驚きに目を丸くする。
「一番が真田だと!?」
「おいおい、あいつ。ピッチャーじゃねえのかよ」
横井がぽりぽりと頬をかく。体力の消耗が激しいピッチャーが一番など聞いたことがない。
「いや、夏の大会の時の谷原戦がそうだった」
冷静に分析するのは倉橋。
「一番なら打順が多くまわってくるからな。考えてねえようで考えてやがるぜ」
「な、成程」
ごくりと戸室は、相手側のベンチで笑顔で話している一球を見る。
「谷口さん、お願いします」
一塁側のベンチ前に集まった墨谷ナインに、丸井に促された谷口が檄を飛ばす。
「いいか、みんな。巨人学園を予選の時のままだと思うな。甲子園に行き、明訓と戦って相手は成長している。油断するなよ」
「へへ。こっちだって夏の予選のまんまじゃねえぜ」
横井の言葉に皆が頷く。
「さあ、それじゃあしまっていこうよ!」
「オウ!!」
さっと散り、守備位置につく墨谷ナイン。
墨谷の先発は井口。
先攻巨人学園の攻撃。井口の前にはやくも試練が訪れる。
『さあ、一回表巨人学園の攻撃、墨谷いきなり強敵を迎えます』
巨人学園の放送委員会の声がグラウンドに響く、
「一番、ピッチャー真田くん。一番ピッチャー真田くん」
きゃあああ!と巨人学園の女子生徒たちから黄色い歓声が上がる。
一球を迎えて、倉橋は夏の大会の対巨人学園戦の攻略メモについて思い出す。
(とにかくこいつは塁に出しちゃ駄目だ。クサいところをついて抑えるしかない)
強肩・好打と持ち合わせている真田一球だが、そのもっとも恐るべき能力は常人離れした足の速さだ。甲子園の対明訓戦では、強肩に定評がある岩鬼の好スローイングでも刺せず、出塁を許している。
「さすがに、明訓を苦しめた連中は違う」
ふうと、井口はプレートを外し、ロージンを使う。
一見爽やかに見える一球から感じる何とも言えぬ迫力に、さすがに肝の据わった彼でも緊張をぬぐいきれない。
「よろしく」
「こちらこそ」
にっこり笑顔で打席に入る一球に倉橋は内心やれやれとため息をつく。
(ピッチャーで一番とはね。それにしたっていきなりこいつか。)
倉橋の脳裏に自分達の代わりに準決勝で巨人学園と対戦した谷原の試合がよぎる。
地力では完全に巨人学園を圧倒していた谷原だが、初回一番に座った一球にホームランを決められ、次打席では敬遠を選択した。ところが、その超人的な足で二盗三盗と決められるうちに冷静な谷原ナインが動揺し、ついにはスクイズを決められて二点目を失った。それならばと試合巧者の谷原は一球の前にわざとランナーを出し、その足を封じる作戦に出たが、突如全員左で打つという奇策を用いた巨人学園にまさかの2点を失い、終わってみれば4対0という有様だった。
(おれたちが苦戦した谷原がああも好き勝手やられるとはよ。)
準々決勝からの疲れもあったろう。だが、谷原は甲子園常連校として決して相手を侮ってはいなかった。ごくりと唾を飲み込み、倉橋は一球を観察する。
準決勝、谷原はただ一人。この男真田一球に敗れたと言っても過言ではない。
(ある意味ドカベン山田以上のバッターだぜ)
高校球界NO.1スラッガーは明訓の山田で衆目の一致するところだろう。だが、その山田の唯一の欠点が鈍足だ。それゆえ、江川学院が徹底して行った山田への敬遠は効果がある。
しかし、一球の場合はそうはいかない。塁に出すとこれ以上うるさいランナーはおらず、隙あらば本盗すらも狙ってくる。
(こいつでどうだい)
倉橋のサインに井口が頷く。
ビシュッ。
一球目。外からインコースへのストレート。
「ボール!」
「結構速いな」
タイミングを測っているのか。振りもせず呑気に話す一球に渋い顔をする倉橋。
「あれでもうちじゃあ速球派なんだがね」
「これは失礼」
(そりゃあ甲子園で中西なんかの球なぞ見てりゃあな)
井口がいかに速球派で鳴らしていようとも、全国では同じレベルはごろごろしている。特に、青田の怪童中西球道が山田に投じた150㎞越えのストレートは同じ高校生のものかと思わせた。
二球目。今度はぎりぎり外角低めへのストレート。
「ボール!」
ぴくりともせずボールを見送る一球の涼しい顔に倉橋は小首を傾げる。
(どういうこった)
(全くバットを動かさねえ。打つ気なし?)
井口もまた首をひねる。
(だが、攻めるしかない。いっちょこいつでどうだ)
倉橋のサインに井口が頷く。
振りかぶって投げるは真ん中から直角に曲がるシュート。
(どうだ!)
ククッ。鋭い曲がりのシュートに対し、一球は慌てず体を沈ませ、バントの体勢になる。
「なんだと!?」
コン。
墨谷ナインが気付いたときにはすでに遅し。
「うっ!」
絶妙に左投手である井口の右を狙ってのゴロに、思わず井口が反応。
「井口!」
すかさずフォローに入った谷口に気付かず、ボールを捕った井口が一塁に投げる。
「セーフセーフ!!」
審判のコールに観客たちにどよめきが走る。
『なんとセーフだ! これは驚きの快足だ真田くん!!』
「おいおい、冗談だろ」
ゆうゆうとバントヒットを成功させ塁上でにこりと笑顔をみせる一球に、倉橋はたらりと冷や汗を流した。
巨人学園
一番 真田 ピッチャー 二番 法市 セカンド
三番 九郎 キャッチャー 四番 花田 センター
五番 手塚 ショート 六番 三原 レフト
七番 郷 サード 八番 二宮 ファースト
九番 文六 ライト
墨谷高校
一番 丸井 セカンド 二番 島田 センター
三番 イガラシ ショート 四番 谷口 サード
五番 倉橋 キャッチャー 六番 井口 ピッチャー
七番 横井 ファースト 八番 戸室 レフト
九番 松本 ライト
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第十六話 「出るか、真田忍者野球!」
墨谷高校、谷口タカオの奮闘か。
幻に終わった東東京大会準決勝、ここに開幕!!
※大甲子園風に書いてみました。
書き溜め分が無くなりましたので、次回まで少し時間がかかります。
タイムをとってマウンド上に集まる墨高内野陣。
「いや参ったぜ。シュート狙いとはよ」
「む。まさか、いきなりバントで仕掛けてくるとはな」
谷口は驚きながらも、これは強敵だと気を引き締める。
これまで墨谷が相手をしてきた高校はどこも自分達より遥かに強い高校で、彼らはいわば横綱相撲をすることが多かった。初回は様子見や自信からくる大振りなどが目立ち、格下と侮る墨谷相手に初回にバントヒットをしてくる高校など見たことはない。
甲子園出場校としての驕りは巨人学園にはなく、むしろその姿勢は挑戦者そのものだ。
「とにかくだ。真田が塁に出たからには確実に走ってくる。頼むぞ、倉橋」
「ああ」
頷いて戻る倉橋だが、内心やれやれと困る。
(オレへの信頼は分かるんだが、あの一球は厄介だぜ)
続く二番の法市に対し、倉橋の要求は初球高めのストレート。
ビシュッ!
「ボール!!」
キャッチと同時に二塁を伺うが、一球は一塁から動かない。
(リードからもまるで分らねえな。)
穴の開くように一球の顔を伺うが、涼しい顔で何を考えているか分からない。
(とにかく、用心よ。)
(はい。)
間に井口の牽制を挟み、二球三球と同じく盗塁を警戒するが、一塁の一球は全く動こうとしない。
(どういうこった。普通にバントで送るつもりか。ま、ノースリーだしな。)
「内野!」
倉橋が内野守備陣に指示を送る。
フォアボールはまずいとストライクをとりにいったところをバントというのはよくある話だ。
警戒しながら真ん中に放り様子を見る墨谷バッテリー。
ビシュッ。
ブン!!
「ストラーイク!!」
勢いよく振られる法市のバットが倉橋の判断を狂わせる。
(バントはなし? ここは自由に打たせて次の九郎で勝負ってことか)
普段なら4番を任されている九郎は巨人学園では一球に次いで期待のできる打者だ。
「いいぞ、井口!」
丸井の激励に合わせるかのように一塁から一球が法市に声を掛ける。
「いいぞ、法市!」
「へん。てんでタイミングが合ってないじゃねえか」
セカンドの丸井の皮肉にも、一球は動じない。
「気にするな。法市! バットを持ってるんだぜ。振れば当たる!」
振れば当たるの言葉に井口がカチンとくる。
(よく言うぜ。真田と呉以外はみんな野球ド素人じゃねえか。)
過去巨人学園はレギュラーメンバーと当時の監督が対立し、一斉に退部するという事態に陥った。結果できた新チームは野球未経験者の集まりで、お世辞にも野球がうまいとは言えない。
(こちとらずっと野球をやってるんだぜ)
ビシュッ。
ブン!!
よしと気合いを入れた井口がど真ん中に投じた球を勢いよく法市が振る。
「ストラーイク!」
(どうだ!)
井口がちらりと一塁を見るが、そこに一球の姿は無い。
「え?」
「セカンド!!」
ファーストの横井が叫ぶのと、倉橋の送球は同時。
だが、井口がバッターに意識を集中させた隙をつき、まんまと一球は盗塁に成功する。
「おいおい、なんてえ足だい」
事前に調査をしていたが、まさかここまでとは思っていなかった倉橋は舌を巻く。
甲子園であの明訓バッテリーですら間一髪で刺せたぐらいなのだ。今の様子では自分では厳しいだろう。
井口、二塁へ牽制。余裕の表情で戻る一球に内心の動揺を隠せない。
(てんで読めないな。)
「井口、バッターに集中しろ!」
谷口からの檄に気持ちを切り替えようとした井口だが。
「大丈夫だ、法市! ストレートだけ狙ってけ!」
再びの二塁の一球からの一言にかちんとくる。まるでストレートなら簡単に打てると言っているようなものではないか。
さらに井口の怒りに輪をかけたのが、法市が左打席に入ったことだ。
(おい、おい。さっきの振りからしてそれはないだろう。)
倉橋が呆れる。一球と九郎以外は野球素人ということだが、これはどういうことだろう。
東東京大会の谷原戦では、確かに効果的に働いたが。
(ナメやがって。こいつでどうだ!)
ストレートでねじ伏せる。意地になった井口の六球目は指にかかり、ワンバンドとなる。
ザッ!
ブン!!
思い切り振った法市はそのまま振り逃げで一塁へ。
後逸せぬよう体で抑えた倉橋は慌てる。
『法市くん、振り逃げで一塁へ!!』
「やろう、このための左か!」
してやられたと状況を見る倉橋。すでに一球は三塁に到達しようとしている。
『倉橋くん、三塁を伺いますが、間に合いません! すでに真田くん、スタートを切っている!』
「横井!」
倉橋、一塁へ送球。
自分を虚仮にした法市がアウトになるとやったと笑みを浮かべる井口だが、そこへ谷口の声が飛ぶ。
「バックホームだ、横井!」
「え!?」
『真田くん、止まらない。三塁を蹴ってそのまま一気にホームを狙う!!』
三塁に止まらず、一気に本塁を突く一球。
横井からの返球を受けてタッチを試みる倉橋。
砂煙舞う本塁上の激突に両軍ナインも観客も固唾をのんで結果を見守る。
『手がはやいか。それともタッチか。さあ、判定はどうだ~』
「セーフ!!」
主審が高らかにコールする。
『なんと、セーフ、セーフだ~。 巨人学園、この回なんとバントと振り逃げで先制~』
「どうだい、墨谷! これが巨人学園の野球だぜ!!」
湧き上がる巨人学園ベンチとは対照的に井口はショックを隠せず呆然とする。
『とりもとったり。これぞ、真田巨人学園の真骨頂~。墨谷高校井口くん、呆然自失~』
(オ、オレはバントと振り逃げしかされてないんだぜ。そ、それでどうして一点入っているんだよ・・・・・・)
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第十七話 「一回裏の攻防」
「ストラーイク。バッターアウト!」
主審の声が響く。
(さすがにやるな。)
四番の花田を三振に打ち取られ、一球は内心呟く。
一回表、一球にヒットに盗塁といいようにやられ、意気消沈した井口だったが、再三のキャプテン谷口の声掛けが功を奏し、見事立ち直ることに成功。後続を打ち取ってなんとかこの回を一点で切り抜けていた。
巨人学園としては本来ならばここで動揺した井口を畳みかける予定だったが、それができなかった。
一球はベンチに戻る墨谷ナインの中に谷口の姿を見付け、頷く。
「さあ、先制したぜ。このままいっちょ完封といこうかい」
ぐるぐると肩を回しながら守備につく巨人学園ナイン。
一方の墨谷は、ベンチ内でお互いに顔を見合わせる。
「まさか、おれたち相手に初回からバントとはよ」
横井が心底驚いたという感じで口を開く。
「すまんな。谷口。せっかく気付いていたってのに」
とこれは倉橋だ。
「仕方ないさ。向こうが一枚上手だった」
今思えばしきりに一球が声を掛けていたのは井口を挑発するためだろう。
一球が何か仕掛けてくると思ってはいたが、まさか自分達相手に初回からバントや盗塁を絡めて仕掛けてくるとは思わず、隙を突かれた格好だ。
「向こうもこっちを研究してるってことでしょう」
イガラシの言葉に谷口はうむと口元に手をやりながら同意する。
「ああ。巨人学園の戦い方はこれまでの相手と違う。連中には甲子園に出たという驕りが全くない」
「清々しいまでに一点もぎ取っていきやがったからな」
倉橋が渋い顔を作る。これまで相手を徹底的にマーク、研究し、その隙をついて勝ってきた墨谷にとって、相手の意表をつくプレーを連発する巨人学園はやりづらい相手だった。
「丸井、とにかく初球から様子を見ていけ」
「了解です」
「お願いします」
バッターボックスに入った丸井は一球の方をぎろりと見る。
初回、まんまと自分ものせられてしまったが、このままでなるものかという気持ちを込めて。
(どっちでくる? 上か下か?)
東東京大会の時の一球はオーバースローだったが、甲子園の対明訓戦では里中の影武者としてアンダースローに変えている。普通投球方法を変えるなど長い時間をかけていくものだが、一球はもって生まれた天性の野球センスであっという間にそれを物にしてしまった。
「プレイ!」
主審から声が掛かっての一球目。
ビシュッ!!
ズバン!!
下手投げからの勢いのあるストレートがど真ん中に突き刺さる。
(思ったよりもタマが伸びてきやがるな。)
墨谷は里中対策として、東実から提供された映像テープからアンダースローの特徴をつかむと共に、器用なイガラシや片瀬が下手から投げ、その球筋を確認して打撃練習をしていたが実戦で戦うとなるとまた勝手が違う。
「おおっ!!」
甲子園、対明訓戦での影武者里中を彷彿とさせるその球の勢いに観客から声が上がる。
「丸井!」
ベンチからの谷口の指示。とにかく当てていけとのジェスチャーに丸井はこくりと頷き何とか食らいつこうとするも、二球目三球目と掠らず無念の三振となる。
「どうだ、真田は?」
倉橋の問いに苛立ちを隠せない丸井。
「オーバースローより球がきてますね。浮き上がってくる感じで」
バッティングセンターに頼み込み、対専修館戦以上の速さの直球対策をしてきた墨谷だが、丸井は体感ではそれ以上の速さに感じると言う。
「見ている以上にバッターボックスに入ると打ちづらいっスね」
「下手投げの効果って訳か。まったく、明訓のせいで余計な面倒が増えたもんだぜ」
甲子園の対明訓戦の影武者作戦から一球の下手投げが始まった。倉橋としては文句の一つも言いたくなるだろう。
二番島田、同じく三振。
「イガラシ、頼んだぞ!」
ベンチからの声援を受け、バッターボックスに入るのは一年にして三番を任されたイガラシ。
その天性のバッティングセンスは墨谷随一と言ってもいいだろう。
『三番、ショートイガラシくん』
(ストレート一本槍とは舐めやがって)
二度三度とスイングをし、バッターボックスに入るイガラシ。
『さあ、墨谷は一年生ながら三番に入ったイガラシくんです。このイガラシくんは墨谷二中時代に全国大会制覇を成し遂げた期待のバッターです』
(三番のイガラシか。)
じっとその様子を観察する一球。
「しまっていこ~!」
「オウ!」
一球の声に反応する巨人学園ナイン。
(器用なバッターと聞いているがさて。)
初球、インコースへのストレート。積極的に振っていくも、振り遅れる。
「ストラーイク!」
(大分、球がホップしてやがんな。これでもボールの下か。)
こんなものかとバットを短く持ち、タイミングを測る。
二球目。同じくインコースへのストレート。
ちっ。
バットに掠り、ファールとなり、おおと声上がる墨谷ベンチ。
(いかん。大分差し込まれている)
予想以上に球威のある球に、驚くイガラシ。再度バットを振り、先ほどよりバッターボックスの前に立つ。
「こんなものか」
(さっそく、色々とやってきたな。)
マウンドの一球はじっとイガラシを見る。
(この男も全国を知っている男だ。決して侮れない。)
三球目。アウトコースへのストレート。イガラシ、当てるも一塁線へのファールとなる。
「さっきよりはよさそうだな」
うんと頷きつつ、タイムをとってふうと息を吐くイガラシ。
(さて、この男をどう打ち取るか、だが。)
その落ち着きを払った様子に一年生なのにすごいものだと素直に賛辞を贈る一球。
ぐっとグラブの中で握りを決めて、投じた一球の四球目。
「何っ!」
ククッ!
ブン!!
ストレート狙いだったイガラシは、まさかのカーブにタイミングがずれる。
「くそっ!」
何とかさきっぽに掠らせたボールはそのまま九郎のミットに収まる。
捕手の九郎がキャッチしそびれ前にタマを落としたのに気づき、振り逃げを狙うが、すかさず拾った九郎にタッチされ地面を叩いて悔しがるイガラシ。
「あ、あいつ。カーブも投げられるのか?」
自分達が得ていた夏の大会のデータとは大きく異なる一球の様子に墨谷ナインはただただ呆然とするしかなかった。
現在のスコア
巨人学園 1ー0 墨谷
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第十八話 「打者谷口対真田一球」
17話の一球とイガラシの対決ですが、一部変更いたしました。
作者はプレイボールファンであり、ドカベンファンでもあるため、常に作者内部でその両者がせめぎ合っており、イガラシが三振するかなとなったためです。
今後もストーリーの結果に関わらないところでは都度修正するかもしれません。
「いいぞ、井口!!」
居並ぶ墨谷の応援団から歓声が飛ぶ。
一回の裏、墨谷攻撃陣が三者凡退に倒れた時には静まり返ったものだったが、立ち直った井口が巨人学園の五番手塚からを三者凡退に切って捨てると、最小失点差もあり俄然盛り上がりを見せた。
「来るぞ、出るぞ、谷口が」
ざわつく観客席をさらに興奮させるかのように、巨人学園の放送委員が名前を告げる。
『四番、サード谷口くん』
ワーワーという歓声が上がる中、
「よし、おれからか」
打席に向かう谷口に、イガラシが駆け寄る。
「谷口さん、バッターボックスの前めに立つといいですよ」
「そうか」
二度三度と素振りをし、打席に入る谷口。
『ついにこの時がやってきました。夏の予選では幻に終わった巨人学園と墨谷の試合。この両者の対決を皆が待ち望んでいた筈です。これまで万年一回戦負けだった墨谷が頭角を現し始めたのはまさにこの谷口くんが入学してから。昨年夏の大会では優勝候補の専修館を倒し、秋季大会では東実を下してシード権を獲得する程の快挙を成し遂げました。墨谷を攻守に渡り引っ張ってきたキャプテン谷口くん、真田くんを打ち崩せるか!!』
(ず、ずいぶんな高評価だな。)
若干どうしたものかと困り顔を見せる谷口は、打席に入りながら一球の様子を伺う。
(おれに対しては何で来るかな。さっきイガラシに使ったカーブか)
ぐるぐると肩を回した一球は、その様子を見て、ふうと小さく息を吐いた。
(ついに来たな、この時が。)
流行る気持ちを押え、じっと谷口を凝視する。
その存在を意識したのはいつからか。きっと昨年の専修館との激戦からだろう。
優勝候補筆頭と言われていた専修館を無名の墨谷が倒した時、一球の中にとてつもない興味が湧いてきた。
どんなチームなのか。三ツ縞監督が率い、貧乏ながらも様々な工夫を凝らして巨人学園を苦しめた友西高校のような連中なのか。
わくわくしながら彼らの試合を観た時に、こんな連中がいたのかと武者震いをしたことを覚えている。
(弱小と呼ばれた墨谷がここまでになったのは、この谷口がいたからだ。)
専修館との激戦の際、疲れ果てた中での味方のエラーにも谷口は怒らなかった。
腐りもせずに淡々と投げ続けた。
(あれこそが真のキャプテンの姿だ。)
周りを奮起させ、士気を上げ、この男を勝たせてやりたいと皆が思う。
(だからこそ、墨谷は強い)
一回表、奇襲で一点をとったとはいえ、墨谷相手に安心ができる点差ではない。
「しまっていこー!」
「オウッ!」
ナインに声を掛けて、気合を入れての一球の初球。
ビシュッ!!
インコース低めへのストレート。
「と」
ズバン!!
「ボール!!」
谷口、反応するも、バットを出さない。
「ナイスセン!! ナイスセン!!」
墨谷ベンチから声が飛ぶ。
(インコース、よく見えているみたいだな)
一球、続けて二球目。
(文六の話じゃ、外角に強いって話だが。)
ビシュッ!!
外角高めのタマを谷口が捉える。
カキ!!
三塁線、僅かにファール。
(確かにすごい伸びだ。これはもう少し、ためて打たないとダメだな。)
打席の中でイメージを固める谷口。
続けて三球目は外角低め。
ビシュッ!!
「む」
ククッ!
鋭い曲がりを見せるカーブにぴくり、と谷口はバットを止める。
ストライクか、ボールか。微妙な所の判定は、
「ボール!!」
(助かった。それにしても、すごい曲がりのカーブだな。)
安堵の息を吐く、谷口。
元々の地肩の強さに、強靭な下半身を加えた一球のタマは、アンダースロー対策をしてきた墨谷にとっても容易に打ち崩せるものではない。伸びのあるストレートでさえ厄介なのに、あのカーブは脅威だ。
「タイム!」
打席を外し、素振りを繰り返す谷口に、戻り際イガラシが声を掛ける。
「谷口さん!」
前へ、というジェスチャーに頷く谷口。
(ああ、前めね。)
頷いて、先ほどよりもバッターボックスの前に立つ谷口を、一球はなんだろうとじっとその様子を観察する。
「どうしたんだ、イガラシ、前ってよ」
墨谷ベンチでは丸井が、隣に座るイガラシに尋ねる。
「いえ、おれの打席の時に前に立った方が打ちやすかったもんで」
「前?」
「ええ」
「本当かよ、おい」
目標を明訓の里中に設定し、下手投げの練習に勤しんできた墨谷ナインだったが、下手投げ対策が十分かというとそうでもない。元々が下手で投げる投手がおらず、苦肉の策としてイガラシや片瀬といった器用な投手達が下手で投げていたが、無理をして投球フォームを崩す訳にもいかず、その特訓は困難を極めていた。
「まあ、見ててごらんなさい」
「ボール!!」
主審のコールを聞きながら、イガラシはやはりと口元に手をやる。
カキィ!!
「ファール!!」
カキィ!!
『谷口くん、フルカウントからまたもファール、粘ります!』
「おいおい、イガラシ、おめ!」
「ええ。やはり効果がありますね。投げづらそうだ」
「そうだな。顔には出さないが、間をとって投げてやがる」
イガラシの隣に座る井口も一球の様子を見て頷く。
「タイム!」
次打者の倉橋に半田が駆け寄ったのを見て、一球は何事かと思案を巡らせ、九郎を呼んだ。
「どういうことだ?」
「よく分からないけど、ひそひそぼそぼそ嫌な感じだーよ」
「何か仕掛けてくるかもしれないがとにかく打者に集中しよう」
「ど~も」
「プレイ!」
『さあ、プレイ再開です。フルカウントから粘る谷口くん。真田くん、抑えることができるのか!』
(ここまでカーブは一球だけか。)
イガラシ相手に見せたカーブをどこで投げてくるのだろうと用心していた谷口だが、一球外角へ放っただけで、後はストレートばかりだ。
(しかしすごいストレートだ。夏の時とは違う。)
機械相手に速球を打つ練習をしてきたが、生きたタマ、それも下手からホップしてくる一球のタマを打つのは容易ではない、
ぐっとバットを握り、
「さあ、こい」
谷口は身構えた。
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第十九話 「落ち着け、井口!」
マウンド上、ふうと息を吐く一球。
カウントはフルカウント。元より敬遠などするつもりは毛頭ない。
ピンチだと言うのに嬉々とした表情を見せ、振りかぶる。
『さあ、真田くん。大きくふりかぶって、投げた!!』
ビシュ!!
先ほどまでのストレートとは別物とばかりに伸び、ごうと唸りを上げる快速球。
「くっ!」
カキィ!!
『谷口くん、かろうじてファール!』
「お、おい。墨谷の四番いやに粘るじゃねえか」
巨人学園の応援団から感嘆の声が漏れる。
これまでの巨人学園の試合と言えば規格外の能力を持つ真田一球が一人で打って抑えての勝利がほとんどだった。
快調に三振をとる一球の姿に見慣れており、ここまで粘られる姿は滅多に見たことがない。
甲子園であの明訓でさえ、奇策だったとはいえ一球の前に凡打の山を築いたというのに。
一方先ほどまでの投球と一変した一球の様子に、墨谷ベンチも驚きを隠せない。
「な、あいつ。今までのは何だったんだ」
戸室の呟きに丸井が悔しそうに呻く。
「力を隠してやがったのか。舐めやがって」
「いや。谷口さんを相当意識してますよ。やっぱりすげえ」
自らを見出し、チャンスをくれた谷口に対し、イガラシは尊敬の念を抱いている。
その彼に対し、甲子園に行った真田一球が本気になっていることに何やら誇らしさを感じる。
(い、いかんな。差し込まれている。)
ギアを上げてきた一球の速球は手もとで驚くほどホップし、容易にミートができない。
(だが、ここはオレいかんでナインの士気にかかわる。何としても・・・・・・。)
(打ち気だな。この谷口を抑えるかどうかでこの後が変わってくる。)
じっとバッターボックスの谷口と墨谷ベンチを交互に見つめる一球。
谷口が出れば、一気に士気が上がり、勢いづくことだろう。
(隠しダマとしてとっておきたかったが、ここは出し惜しみすべき場面じゃない。イチかバチかいくしかないな。)
「九郎!」
胸元で拳をぎゅっと握る一球からの合図に、九郎は同じく拳を握って応える。
(どういうことだ? カーブでしとめるということか?)
『ここは力が入っています、真田くん。この谷口くんを出すと墨谷は勢いづくぞ。何としても抑えたいところです!』
ガバァァ。
しんと静まり返る中で土を蹴る音が響く。
ビシュッ。
『インコースだ、真田くん、ここは変化球で勝負だ!』
(やはり、カーブか!)
カーブにヤマをはっていた谷口はしかし、その変化の違いに気付く。
(いや、これは!!)
ククッ!!
ストンと斜めに変化するタマにタイミングが崩れる。
『落ちた落ちた落ちた! これはカーブではない! これはカーブではない! 思わぬ変化球に谷口くんのバットが回る!』
ブン!
(な、ま、まさか・・・・・・。)
空振りしながらも捕手の九郎がキャッチングし損ねたのに気づき、一塁を目指す谷口だが、瞬く間にタッチされる。
「アウト~!」
ああっと墨谷ベンチからため息が漏れる。
『谷口くん、呆然! 粘りを見せましたが、真田くんのまさかの隠しダマ、シンカーの前に成す術なし!』
「じょ、冗談だろ。あいつ、甲子園の時よりも強くなっているじゃねえか」
ネクストバッターズサークルから打席に向かう倉橋が谷口に声を掛ける。
「ああ。すごいピッチャーだ。まさかシンカーがあるとはな」
地区大会どころではない、甲子園での情報も役に立たない一球の驚くべき成長だ。
「そういう割には何かお前、楽しそうじゃねえか?」
空振りを喫したと言うのに気負った様子もない谷口に、倉橋は苦笑する。
「そ、そうかな」
打席に入りながら、倉橋は一球の方を見る。
(まあ、戦えなかった相手とやれてるんだ。気持ちは分かるがね。)
この回、墨谷高校、下手投げの特徴に気付き、五番の倉橋6球投げさせ食らいつくもピッチャーフライ。六番の井口は打ち気にはやり三振。浮かび上がるストレートにカーブを自在に駆使した一球の前に塁に出ることさえできない。
三回の表。
八番二宮、九番文六を三振に切って落とした井口に再度の試練が訪れる。
『さあ、一回表、バントヒットからあれよあれよと一点をもぎとった真田くん。二回の裏の好投をバッティングの方にもつなげることができるか。井口くん、ここは試練です』
(全く涼しい顔しやがって。散々走って一人で投げてるんだぜ? 化け物かよ、こいつ。)
歩いてくる一球を観察しながら、倉橋はどうしたものかと頭を悩ませる。
(一回とは違ってツーアウトだからな。一発を狙ってくるかもな。)
そんな倉橋の思惑とは裏腹に、打席に入るや一球はバントの構えをとる。
『なんと、真田くん、またもバントの姿勢。ツーアウトからこれはどういうことでしょう』
(オレの前に転がせばバントが成功するってことか? 舐めやがって!)
井口、一球目。
ビシュッ!
ストレートを高めに外し、バントを処理しようと前へ出るも、一球はバットを引く。
「ボール!」
(振って来ねえ? どういうこった。なら、お次はこいつでいくか。)
再度バントの姿勢をとる一球に、倉橋が目で三塁の谷口とファーストの加藤に合図を送る。
ビシュッ。
ど真ん中から落ちるシュート。一打席目と同じタマだ。
(どうだ!)
何としてもアウトにしようとダッシュする井口。
しかし。
『ああっと、真田くん、再度バットを引いた! カウントはツーボール!』
(意味が分からねえ。どうして打ってこねえ。)
(何を狙ってやがるんだ、こいつ。)
一回表にしてやられているだけに慎重になる墨谷バッテリー。
『さあ、二球。バントの姿勢で様子を見た真田くん、ここは一転して打ちの姿勢です!』
「さあ、来い!」
大きく吠えながら素振りをする一球に定位置より後ろに下がる墨谷ナイン。
『さあ、井口くん、大きく振りかぶって、投げた! インコースへのストレート! ああっと、これは真田くん、バントだ!』
「くおっ!」
強打と思い意表を突かれた井口は、慌ててマウンドからダッシュする。
『いや、しないしない! 真田くん、バントしない! コールはボール! なんとノースリー!これで3球連続ボールだ』
(こ、これは・・・・・・。)
ショートからイガラシがまずい雰囲気を感じ取ったのと同時に、谷口がタイムをとり、マウンド上に集まる。
「す、すんません・・・・・・」
はあはあと息を荒くする井口。いかに次期エースといえども相手は甲子園に出場し、明訓と戦った存在だ。一球ごとの緊張は並みのものではない。
「どうも井口をバテさせようという腹らしい」
谷口はきっぱりと断言する。
「井口を? だがうちは三人もピッチャーがいるんだぜ?」
「早めに井口をマウンドから下せば、次のピッチャーの登板が早まります。球威的にはうちでは井口が一番だ。奴らからすれば打ちやすくなるということじゃないですかね」
イガラシの言葉に谷口が頷く。
「俺もそう思う。谷原との試合でも真田はファールで粘り村井を疲れさせ、後続を打たせやすくしていた」
あっと皆が地区大会準決勝を思い出す。自分達の代わりに出た谷原は一球だけにしてやられたのではない。巨人学園が何かに憑かれたのように打ち、好投手村井から4点をもぎとったのだ。
「だから、ここは井口、続投だ。真田が何をやってきても気にせず投げろ。ホームランを打たれても構わない」
「た、谷口さん・・・・・・」
「おいおい、谷口!」
呆れたように声を出す倉橋だが、諦めたように首を振り、
「とりあえず、井口。一回のことを気にしてか腕が縮こまってきてるからな」
そう言うや、本塁へと戻っていく。
「そうそう。いつものふてぶてしさはどうしたってんだ」
丸井がぽんと井口の背中を叩く。
「ま、丸井さん」
「前に転がしゃオレ達で何とか処理するぜ」
と、これは小学校以来の付き合いのイガラシ。
「イガラシ・・・・・・」
「プレイ!」
『マウンド上井口くん、両手で頬を張って気合十分。このまま四つボールで塁に出してしまうのか。』
(オレとしたことが慎重になり過ぎてたかもな。)
(く、倉橋さん。)
倉橋のサインに驚く井口。
(臆するな。ホームランを打たれたっていいって話じゃねえか!)
ドンと胸元を叩く倉橋。
じっとボールを見ていた井口は、意を決して振りかぶる。
『さあ、井口くん。第四球目、振りかぶって、投げた! これはど真ん中へのストレート! 好打者真田くんへの一球にしては大胆不敵!』
(打てるものなら打ってみろ!)
ピクリ。バントの構えに動き出すも、途中止まる一球。
「ストラーイク!」
審判のコールがこだまする。
『これはどうしたことでしょう。真田くん、ど真ん中の絶好球を見送りました!』
いつの間にかネット裏に来ていた野球帽をかぶった老人は愉快そうに笑い声を上げた。
「ほお。あのピッチャー。やるやないか。思った以上のタマが来たもんだからあの一球がびっくりしよった」
(この回で崩そうと思っていたが。)
一球はヒッティングの姿勢をとりながら、予想以上の出来事に驚きを隠せない。
狙い通りであれば、この回バントとファールで井口を潰し、後続をやりやすくさせる手筈だった。
ところが。
『五球目、これもど真ん中にストレート! 真田くんファール!』
(あのピッチャー。調子が上がってきている。バントの構えは通じそうもないな。それなら。)
『さあ、フルカウントです。気合いが乗ってきた井口くん、抑えるか。真田くん、打ち崩すか!
第六球、投げた!』
ビシュッ!
カキィ!!
『打ったー! 引っ張ったーーーー!! 三塁線へ弾丸ライナー!!』
「くわっ!!」
バシィ!!
「何ィ!!」
『捕った、捕った、捕った! サード谷口くん、矢のような打球を横っ飛びのダイビングキャッチ~~~』
「見たかい、巨人学園! これが墨谷の野球だぜ!!」
先ほどのお返しとばかりに盛り上がる墨谷ベンチに応援団。
(これだ、これがオレが戦いたかった墨谷なんだ。)
こんこんと肩をバットで叩きながら、一球は満足そうに頷いた。
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第二十話 「巨人学園動く」
真田一球の発案で唐突に行われることになった墨谷対巨人学園の一戦。
集まった両校の観客は、当初幻に終わった東東京大会準決勝の再現に熱狂し、盛んに声援を浴びせていたが、それはどこかお祭り騒ぎの感があるものだった。
心の内ではしょせんはただの練習試合だと高を括り、この突然の好カードをのんびりと楽しもうとさえしていた。
ところが。
そんな周囲の空気などどこ吹く風と。
初回の真田一球のプレイを皮切りに、淡々と、だがまるでここが甲子園かと思わせる両軍のあまりの気迫に。
練習試合であることなど関係ないと、己の意地をかけて目の前で繰り広げられる熱戦に。
巨人学園のグラウンドに集った観客たちの目は次第に熱を帯び、声を枯らし、その勝負の行方を固唾を呑んで見守った。
「なんでこの試合が神宮で行われていないんだよ・・・・・」
悔しそうにつぶやいた墨高応援団員の言葉は皆の気持ちを代弁するものだったろう。
序盤の盛り上がりもどこへやら。
5回を終えて、巨人学園、鬼気迫る井口の前にヒットなく、フォアボールの出塁のみ。
一方の墨谷も下手投げの特徴をようやく掴み始めた上位陣がヒットを放つも、好投手真田一球の前にどうしても得点することができない。
淡々と進んだ中盤戦を終え、終盤戦へと進む6回表。巨人学園は9番の文六から、墨谷のピッチャーは二番手のイガラシである。
「どうにか間に合ったか。」
ふうふうと滝のような汗をかきながらやってきた田所が、馴染みの墨谷高応援団に声を掛けると、団長は大きく息を吐きながら手のひらを見せた。
「見てくださいよ、この汗」
「それほどの熱戦ってことかよ。にしても一点差か」
「ええ。あの真田一球のとんでもないタマに食らいついてはいるんですが」
「あいつらだって相当やるんだがな、それほどの投手ってことかよ」
「ストラーイク、バッターアウト!!」
「投手としてもそうなんすが」
応援団長はちょうど文六が打ち取られ、打席に向かうところの一球を指差した。
「一球さん、がんばってぇ!!」
グラウンドのあちこちから聞こえる歓声に、田所は目を白黒させる。
「アイドルじゃあるめえし、何てえ人気だい」
「甲子園に出場してますしね、打つのも走るのもすごいんすよ。もう嫌になるくらい」
「けっ。可愛げのねえ野郎だな。だが、相手がイガラシじゃそううまくはいかねえぞ」
(嫌な奴が来やがった。)
イガラシは内心、顔を顰めながら歩いてくる一球を注視する。
井口ほどの球威はないイガラシは、変化球やタマのキレ、配球を工夫して東東京大会では投手兼内野手として活躍した。相手の心理をついて頭脳的なピッチングをするイガラシにとって、常に相手の意表をとる真田一球はやりづらく、相性的には最悪に近いと言える。
「俺よりも井口を続投させた方がいいですよ!」
投手交代を告げられたイガラシはそう、谷口に進言したが、それは叶わなかった。
「そりゃあこの試合だけを考えればそうだろう」
穏やかに言う元キャプテンだったが、有無を言わせぬその口調に、付き合いの長いイガラシは頷くしかなかった。
(巨人学園との因縁の対決に勝つだけがおれ達の目標じゃないってことか。)
力強くボールを握りしめ、一球を睨みつけた。
一方の一球はというと。戻ってくる途中の文六と何やら話し込んでいた。
「どうだい、文六」
「うん。こうも毛色の違う投手が揃っているとうちの打線じゃ追加点は厳しいかもね」
「そうか。うちの打線じゃ厳しいか」
一球はポケットの中に手を入れると何かを取り出した。
「一球さん、何しているだ~よ」
「そろそろこいつの出番かと思ってね」
掌に載せた葉っぱを楽しそうに揺らす一球に、九郎が首を捻る。
「葉っぱ!? どういうこと?」
「一球さん、いよいよ使うのか?」
それとなく察した文六に、一球は満足そうに頷くと、自軍ベンチへ向けて号令をかけた。
「影武者!!」
「おおっ!!」
その一言で巨人学園のベンチの雰囲気ががらりと変わる。
「な、なんだ?」
ぎょっとしながらその様子を見つめていた倉橋の前で、葉っぱを口にした一球が豪快に笑い声を上げながら打席に入った。
「さあ、猿顔~!! わいに臆せずさっさと投げてこんかい!」
「はあっ!?」
突然の一球の変貌にぽかんとする墨谷高校の観衆の中にあって野球帽の老人はからからと愉快そうに声を上げた。
「かっかっかっ。あのハッパの物真似にしちゃあ、いい男過ぎねえか」
「おい、おっさん。どういうこった?」
老人の言葉の意味が分からぬ田所が詰め寄る。
「見てりゃあ、分かる。今あそこにいるのは真田一球じゃないわい」
「真田一球じゃない!?」
「甲子園ではうまくいったが、さて、どうなることやら」
(まさか、これは・・・・・・。)
一度その本人と対峙したことのあるイガラシはすぐさまその違和感を感じ取った。
ハッパを咥えた関西弁。
その自由奔放、豪快な野球スタイル。
かの絶対王者が誇る、偉大なる核弾頭。
「岩鬼か!」
「か、影武者戦法だと!?」
一球の様子の変化に冷静な倉橋が混乱する。
影武者明訓作戦。
甲子園で力に差がある明訓を倒そうと、真田一球が考えついた策である。明訓の個々の選手を徹底的に癖まで研究し、その本人に成りきることによって本来持っている以上の力を出し、明訓を追い詰めた。
ただ、それは、明訓相手のとっておきだったはずだ。
(まさか、おれ達相手に使ってくるとはよ。)
ごくりと唾を飲み込み、倉橋はさあどうしたものかと思案する。
(あくまで振りってだけで本人じゃねえのが本当に厄介だぜ、)
これが里中や山田の真似ならまだ問題はない。岩鬼の真似というのが頭の悩ませどころだった。
悪球打ちである岩鬼に対してのリードは簡単だ。
変に小細工をせずストライクを投げればいい。
だが、相手は好打者真田一球だ。
影武者岩鬼と振舞っているように見せて、不用意にストライクを投げれば、簡単に打たれる可能性がある。
(谷口さん。)
嫌な雰囲気を感じ取った丸井が谷口を見るが、谷口はここはバッテリーに任せようと頷くのみだ。
(お前ならどう攻める。)
倉橋は一度岩鬼と対戦経験のあるイガラシに合図を送る。
(任されてもね。なら、こいつでどうです。)
(よし。)
ボスンと倉橋がミットを叩き、イガラシが投球モーションに入る。
『好投手イガラシくん、真田くんに対してどう攻めるか。注目の初球です!』
ビシュッ!!
一球目。
ククッ。
ストライクからボールになるシュート。
キィン!!
『打ったーーー! 真田くん、三塁線にファール!!』
(打った!?)
(ボールに手を出しやがった。これまでだったら見送ってるぜ。)
(もう一球、様子を見ましょう。)
(む。そうだな。)
続いて二球目。
ビシュッ!!
ククッ。
ブン!!
『真田くん、豪快なスイングも空を切る!!』
ボールからストライクになるカーブにタイミングが合わず空振りを喫する一球。
(おいおい、本当に成りきってやがるのかよ。)
じっと一球を観察しながら、確証を掴めない倉橋はボールを拭いながら考える。
(だとすると、こいつ一択なんだが。)
倉橋はど真ん中のサインを出すが、イガラシは首を振る。
(誘いかもしれません。ここはボール半分外しましょう。)
『さあ、墨谷バッテリー。サインは決まったか。ここまで追い込んでいます。第三球、投げた!!』
ビシュッ!!
ど真ん中からボール半分外したストレート。
「ぬおおおおおお!!」
雄叫びを上げた一球が打つも、バックネットを超えるファールになる。
『真田くん、豪快なバッティングもファール!! 打ちあぐねています!!』
(い、いや違う。これは・・・・・・。)
(ああ、間違いねえ。岩鬼だな。完全に成りきってやがる。)
これまでの一球ならば確実に打ち返していたタマ。
それを打ちあぐねているということは、目の前のバッターは真田一球ではない。
明訓の誇る悪球打ち、岩鬼だと考えるべきだろう。
(だったら話は早い。)
倉橋の出すサインにイガラシが頷き、四球目。
ビシュッ!!
ど真ん中へストレート。悪球打ちの岩鬼にとっては打てないタマだ。
「こいつでどうだ!」
自信満々で投げるイガラシ。
「ぬおおおおおお!!」
パッと一球が咥えた葉っぱが花開く。
グワキィン!!
『真田くん、打ったーーーー』
「なんだと!?」
『打球はレフト線へ!! 一塁を廻って、二塁へと滑り込む!! レフト戸室くん、懸命にセカンドへ!!』
「セーフ!!」
『真田くん、レフト前ヒット~!! 6回にして巨人学園、追加点のチャンスです!!』
「そ、そんな。岩鬼なら、岩鬼ならなんでストライクを打てるんだ・・・・・・」
ぼう然とセカンドの一球を見るイガラシに、一球はかっかっかと大声で笑い声を上げる。
「悪球打ちの岩鬼にとってストライクもまた悪球だよ」
「そんなバカなことがあるか!」
イガラシが癇癪を起しそうになるのを谷口がマウンドに駆け寄りなだめる。
その様子を眺めながら、野球帽の老人は楽しそうにニヤリと笑った。
「バカなことがあり得るからこその岩鬼じゃからのう。はてさて、墨谷よ。影武者明訓相手にどう闘うのか楽しみじゃて」
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第二十一話 「影武者の落とし穴」
秘策影武者明訓作戦の前に、墨谷はいかに戦うのか。
『さあ、巨人学園、願ってもないランナーが出ました。この真田くんを塁に出すと厄介です。一回表の再現なるか。一方の墨谷高校は何としても追加点は阻止したいところ。どうする、墨谷バッテリー!』
「けっ。気楽に言ってくれるぜ」
やたらと熱を帯びた実況に呆れながら、倉橋はじっとやってきた二番の法市を見つめた。
一回表。この法市の振り逃げが引き金となってものの見事に先取点を奪われた身としては、用心したくもなるだろう。
おまけに今目の前にいるのは法市ではない。
ゆったりとした歩き方、何ともいえぬ気だるそうな仕草。
曲者、業師。数々の油断ならないという形容詞で語られるその男の絶対的な呼び名。
「秘打男」。
高校野球史上最高の二番打者と言われ、明訓四天王の中でいち早くレギュラーをとった男。
(殿馬、ね。)
佐野から受け取った明訓の試合ビデオ。
そこに映っていた明訓の試合は、どれもこれも激闘と呼ぶに相応しいものだった。
王者を追い詰めようとする全国の強豪たち。
その夢を砕いてきた明訓の五人衆の中で、一際異彩を放っていたのが殿馬だ。
「づら」
法市殿馬がちくたくと足で小刻みにリズムを刻む。
(これが噂のリズム打法かよ。)
白鳥の湖、花のワルツ、皇帝円舞曲・・・・・・。多くがクラシックの名曲から名付けられたその華麗なる秘打の前に、数多の好投手が敗れ去ってきた。神奈川が全国に誇る好投手不知火。甲子園ではあの青田の怪童中西球道すらも。
殿馬を唯一完全に近い形で封じ込めたのは室戸学習塾の犬飼知三郎だけだ。
(どうします?)
(とりあえずこの辺で様子を見るしかねえな。)
倉橋の要求はインコース高めのストレート。
ビシュッ!
ズバン!!
「ボール!!」
(む。)
(ぴくりとも動かねえな。リズムが合ってねえってことか?)
それならと、二球目。外角へ逃げるカーブ。
「ボール!!」
(こいつものってこねえ。どういうこった・・・・・・。)
『さあ、ノーツ―となりました。墨谷バッテリー。攻めあぐねています。一方の法市くん、バットの上で何やら奏でています。甲子園でも見せた華麗なる秘打をこの試合でも出すか、法市殿馬!』
「おいおい、嫌に慎重じゃねえか。相手は二番だぜ?」
滴り落ちる汗を拭いながら田所が呟く。
「ふえへっへっへ。初回に同じような場面でしてやられたってのもあるが、相手が殿馬じゃな。慎重にもなるさ」
「おっさんが言ってた影武者明訓って奴か。た、たしかにそれなら頷けるが・・・・・・」
「じゃが、まあわしならどうとでもするがな」
「はあ!? 相手は影武者と言ったって明訓だろ?」
「そう、それよ。明訓と言っていても、しょせんは影武者じゃ。本物じゃない。わしは本物を知っとるからのう」
「本物を知ってるって、おっさん、あんた・・・・・・」
あっと気付き、田所はぽかんと口を開ける。
どうして今の今まで気づかなかったのか。
野球帽をかぶり、徳利を提げた老人。
明訓を誰よりも知っているその男。
彼こそは。
「と、徳川監督・・・・・・」
明訓高校を初の甲子園優勝に導いた名伯楽、徳川家康。
「な、なんであんたがここに・・・・・・」
目の前にいる意外な人物に、思わず話しかける田所に、
「しっ! 黙っとらんかい! タイムをかけよったで!」
邪魔だとばかりにその口をふさぐ徳川。
一方のマウンド上。
法市殿馬にボールを二つ与えた段階でバッテリーの迷いを感じた谷口は、すかさずタイムをとると、マウンドに駆け寄った。
「どうした、イガラシ。慎重になり過ぎているぞ」
「す、すいません。相手が殿馬だと思うとつい」
手の汗を拭いながらイガラシは答える。
「初回のこともあるしな。ここはくさいところを突いていこうと思ってよ」
倉橋の言葉に黙る谷口に対し、口を開いたのは丸井だった。
「おい、イガラシ。あんな物まね野郎なんざ気にすることはねえぞ。オレたちが会った明訓の連中はあんなもんじゃなかっただろ!」
「え!?」
丸井の言葉にハッと何やら考えるイガラシ。
(た、確かに、丸井さんの言う通りだ。)
「とにかく、ここはきっちり締めていこう。イガラシ、いけるな」
「はい」
手を挙げて答えたイガラシに、大丈夫そうだと定位置に戻る墨谷ナイン。
その中で、セカンドの丸井をイガラシは呼び止める。
「何だ、どうしたってんだ」
「いえ。丸井さんって案外色々見てるんスね」
「どういう意味だよ」
「いや、お礼のつもりなんですが」
「どこがだ!」
ぶつくさ言いながらセカンドの守備に戻る丸井に対し、中学時代から変わらないなとイガラシはくすりと笑みを浮かべる。
(そうだ。オレ達は明訓と、あの連中と会っているんだ。)
呼吸を落ち着かせ、イガラシはじっと法市を見据える。
(真田の岩鬼は上手くいっていた。けれど、あの岩鬼の何ともいえねえ迫力はなかった。)
(どうしたものかね。)
悩む倉橋に対して、イガラシがサインを出す。
(おいおい、大丈夫かよ。)
サインを出す倉橋に対し、
(試させてください。)
首を振り、再度同じサインを出すイガラシ。
(おいおい。随分と強情だな。谷口の後輩だからか。)
ちらりと三塁を見ながら、倉橋は根負けし、ついに頷く。
『さあ、作戦会議は十分に済んだか。墨谷高校イガラシくん、二塁ランナーの真田くんを気にしながらも、三球目!』
(こいつはどうだ?)
ビシュツ!!
インコース低めのストレート。
「ストラーイク!!」
切れ味鋭い直球が決まるも、法市はのんびりとイガラシを見たままだ。
そのいかにも殿馬らしい仕草は余裕を感じさせる。
だが。
何か手ごたえを感じたか、ニヤリとイガラシが笑う。
(騙されねえぞ、オレは。)
実際に会っていなければ。雰囲気で誤魔化されたかもしれない。
目の前の男は殿馬だと、実像以上に相手を大きく見て、ひとり相撲をとっていたことだろう。それこそが真田一球の思惑通りだとも知らずに。
けれど。
自分と丸井は会っている。
明訓五人衆に。あの秘打男に。
目の前の男から感じられる迫力はそれに比べれば微々たるものだ。
(お前は殿馬じゃない。)
ストレートなら白鳥の湖。変化球なら花のワルツ。
佐野が持ってきたビデオで何度も確認した、そのプレイ。
相手投手のリズムを見抜き、的確に隙をついてくる嫌らしさ。
「お前にはそれがねえ!」
ズバン!!
「ストラーイク!!」
『イガラシくん、ここは強気で攻める! 二球続けてのストレートだ!』
「ほお。分かっとるやないか。あのピッチャー。影武者の倒し方をのう」
「影武者の倒し方?」
「影武者は影武者や。そっくりであっても本人じゃあない」
徳川は楽しそうに呟いた。
(三球目はさすがに変化球づらか。)
ちくたくとリズムを刻む法市。
それを無視するかのように。
ビシュッ!!
うなりを上げる快速球に、思わずバットが出る。
ブン!!
「ストラーイク!! バッターアウト!!」
「うっ!」
『ああっと、三球目もストレート! 切れ味鋭いストレートに思わず法市くん、バットが回った!』
(ほれ見ろ! 真似はしょせん真似なんだよ!)
ククッ。
「くそ~」
ブン!!
「ストラーイク、バッターアウト!!」
「よしっ!!」
『マウンド上、吠えたイガラシくん! 呉くんのバットが空を切る!三球連続変化球で強打者呉くんを三振に切って取り、見事ピンチを切り抜けました!』
「オレたちが相手にしようとしているのは本物の明訓なんだ! 偽物はお呼びじゃないんだよ!」
ようやく一矢報いた形となり、小さく拳を握り、二塁から戻る一球をイガラシが睨む。
「その意気やよし。だが、まだ勝っているのは僕たちだ」
平然とそう言いながら戻る一球だが、ぐっと唇を噛みしめる。
(一点は取れると思っていたが・・・・・・。)
「くひひひひ。一点は欲しかったところじゃろうな。だが、取れなかった。こいつはでかいぜ。この裏、面白くなりそうじゃて」
徳川の言葉に、側にいた田所はごくりと唾を飲み込んだ。
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第二十二話 「半田の目」
「ほお。これはこれは」
マウンドに向かう前に、円陣を組む巨人学園の面々を前に、徳川は顎をなでる。
「さすがにちと不味いと思ったか。そりゃ、虎の子のつもりで出した作戦が不発じゃあな」
「不発? 影武者明訓作戦が?」
田所の合いの手に気をよくしたか、ぐいっと徳利を一口あおるや、徳川は大きく息を吐いた。
「おうとも。ええか。影武者ってのは確かに有効な作戦じゃ。本物そっくりに軍を動かし、相手を動揺させる。じゃがな、こいつが決まるためには一つどうしても避けて通れないことがある」
「そ、それは・・・・・・」
「偽物だとばれてはいかんちゅうこっちゃ。本人らしく見せるよう成りきるからこそ、影武者はその威力を発揮するんじゃ」
「で、でも甲子園で明訓は影武者に苦戦して・・・・・・」
田所の当然の疑問を、徳川は一笑に付す。
「そりゃあ、明訓は明訓と戦かったことなぞないからな」
「・・・・・・」
「それに、見てみい。甲子園の影武者明訓に比べてなんぞ足りなくはないか?」
「足りない?」
じっと巨人学園の選手を確認し、田所はあっと気づく。
「そ、そういや甲子園の時に出ていた三球士だとかって3人組がいねえじゃねえか」
「そうよ。堀田に司に一角。あの連中を含めての影武者明訓よ。じゃがどういう訳か、今この場にはおらん。これじゃあ片手落ちもいいところよ。いかに一球が一人二役で頑張っても役者が足りんわい」
「な、成程・・・・・・」
「明訓の名に墨谷が負け、独り相撲をとっているうちに追加点という腹づもりだったんじゃろう。だが、残念ながら本物を知っている連中がいた。あのピッチャーにセカンド、明訓に来ていた筈じゃからな」
「なんでそんなことを知って・・・・・・」
「わしも通りかかったんでな。面白そうなことをやっとるとこっそり覗いておったのよ。本物を知っている二人からすりゃいくら似せても偽物は偽物。元々無理しての策じゃからな。一球は別にして、他の連中はそりゃ化けの皮も剥がれる」
再度徳利をあおるや、徳川は面白そうに笑い出した。
「ふえへっへっへ。それに、本物そっくりに演じる影武者にはもう一つ大きな落とし穴がある」
「え?」
「いいことばかりじゃないってことよ。墨谷がそれに気づくかだぜ、この回は」
円陣を組む巨人学園の面々を見る墨谷ナイン。
イガラシの連続三振で士気は上がっているものの、依然として好投手真田一球を打ち崩せていない彼らの表情は硬い。
もちろん、これまで一球を打ち崩さんと谷口なりに様々な方法を試みてきた。
立つ位置をベースよりに変えたり、ストレートに的を絞ったりした。
だが、単打が続いても要所要所で打ち取られ、どうしても得点に結びつかず、初回に取られた一点が重くのしかかっていたのである。
(何としてもこの回、得点したいものだが。)
流れが来ているのを感じるも策が思いつかず腕組みをしながらマウンドを見つめる谷口に、後ろから半田が声を掛ける。
「あのー、キャプテン」
「何だ?」
次打者でバットを振っていた丸井が振り返る。
「い、いや。谷口さん」
「うん、どうした半田」
「初回からここまでの投球を見て気づいたんですが、真田の投球の癖が見抜けたかもしれません」
「どういうことだ?」
昨年夏の専修館戦を思い出し、谷口以下皆が半田を見つめる。
あの時も東実の渡してくれた専修館のエース百瀬を打ち砕くヒントを、墨谷で唯一読み解けたのは半田だった。
その目の確かさを生かして、今夏はマネージャー的な立ち位置となり、準々決勝の谷原戦でも大いに半田の情報が役に立った。
「真田の投球のクセが里中のと一緒だと!?」
倉橋の言葉に半田は頷いた。
明訓の大エース小さな巨人里中は甲子園通算20勝を挙げた好投手だが、その彼の癖が明るみに出たのは今夏の甲子園大会決勝、対紫義塾戦でのことである。
紫義塾のキャプテン近藤の冷徹な観察眼によって暴かれたそれは、ストレートとカーブを投げる際に軸足をプレートに置くか置かないかといったもので、結果里中を打ち崩し、明訓を大いに苦しめた。
佐野から預かったビデオでもその癖は確認されており、今度の対明訓戦では使えるのかと墨谷ナインの間でも話題になっていたのだ。
「けどしょせん真似だろ? そんなことあるのかよ」
横井が疑問を口にする。
「あり得ますね」
とはイガラシだ。
「巨人学園の連中は対明訓戦の前に明訓のビデオを何度も見てそのクセを徹底的に体に覚え込ませたとか。長所だけでなく短所も一緒に真似しちまっているんじゃ」
「うむ。確かにそう考えられなくはないが」
谷口が悩んでいると、審判より早く打席につくように告げられる。
「とにかく谷口さん。様子を見てはどうでしょう」
「そ、そうだな。松本、とにかくよく見ていけ」
「は、はい・・・・・・」
9番に入った松本は釈然としないながらも、気合を入れて打席に入る。
投げる一球の軸足の様子をじっとみつめる墨谷ナイン。
一球目。軸足はプレートの前。
「プレートの前。ストレートか」
シュッ。
谷口の言葉通り、投げたのはストレート。
ズバン!!
「ストラーイク!!」
二球目。軸足はプレートの前。
「これもストレートか?」
半信半疑の横井。
シュッ。
投げたのはストレート。
ズバン!!
「ストラーイクツー!!」
「おいおい。どうやら本当みたいだぜ」
目の前で松本がカーブで三振を喫するのを見て、倉橋が呟いた。
三球目に投じたカーブでは軸足はプレートの上、ビデオで観た里中の癖そのままだ。
『一番、セカンド丸井くん。一番、セカンド丸井くん』
「よしっ!」
俄然盛り上がる墨谷ナインの中、意気揚々と打席に入ろうとする丸井。
「タイム!」
「れ?」
唐突にタイムをとったのは半田だ。やる気満々でいた丸井は思わずずっこける。
「あんだよ」
「決め球でシンカーが来たら振り逃げで」
「ああん? オメ。おれが打てないって決めつけてねえか」
「い、いや。そういう訳じゃ・・・・・・」
かりかりしながら打席に戻る丸井。
どういうことかと尋ねる谷口に半田はスコアブックを見せる。
「キャッチャーの呉の後逸が多いんです」
「そういや、初回の時、おれも谷口さんも振り逃げを狙いましたね」
「あ、ああ。カーブとシンカー。決め球に使ってきたが後ろに逸らしてたな」
「そうだとどうだってんだ?」
横井が隣にいた戸室に尋ねるが、戸室もさあと首を捻るばかりだ。
「呉が変化球を捕るのを苦手にしてるってこった」
同じ捕手である倉橋がズバリと指摘する。
「変化球を捕るのが苦手? 甲子園まで行った捕手だぜ?」
「甲子園でも真田は直球一本槍だったからな。影武者明訓で里中を真似して変化球を覚えたんだろうが、捕手の九郎の技術が追いついてねえのさ」
「その割には変化球を投げてねえか」
スコアブックを見ながらの横井の指摘に、半田が口を挟む。
「真ん中より高め、それもカーブばかりです。低めはほとんど投げてません。投げても後逸しています」
「というとどういうこった?」
横井が再度隣にいる戸室の方を向く。
「おれに聞くなよ」
「変化球は捨て、ストレートを狙う。特に低めの変化球が来たのならば状況に応じて振り逃げを狙っていくぞ」
「お、おうっ!」
谷口の言葉に皆が力強く頷いた。
『さあ、作戦タイムは済んだか。墨谷高校丸井くん、気合十分です。一方の巨人学園真田くん、前の回の三者凡退を引きずらず、先頭の松本くんを打ち取りましたが、一番からの好打順を抑え、悪い流れを断ち切ることができるか!』
(トップからか。)
墨谷ベンチに目をやる一球。この丸井を出すと、ダブルプレーをとらぬ限り、確実に三番のイガラシに廻る。ピッチングで勢いに乗らせてしまった以上、その前で流れを何としても切っておきたい。
一方の丸井。半田の言葉から一発放り込み、目にもの見せてくれんとかっかしている。
じっと一球を見つめる丸井。
一球目。
(プレートの前。ストレート。)
ビシュッ。
ブン!!
勢いのあるストレートを思い切りふり、丸井は尻もちをついた。
「ストラーイク!!」
「丸井さん!!」
ベンチのイガラシから当てにいってのジェスチャーだ。
(ったく、どっちがキャプテンかわかりゃしねえ。いけすかねえ後輩だぜ。)
二度三度と素振りをしながら、打席に入った丸井は大きく息を吐いた。
二球目。
(プレートの前。ストレート!!)
ぎゅっとバットを握り、力を籠める。
ビシュッ!!
キィン!!
「くっ!!」
『丸井くん、打った~~。ストレートをどんぴしゃり!! ライト前ヒット~~~~』
「ナイスバッチン!!」
「へん。これでいいんだろ、これで!」
打って当然とばかりに一塁で口をへの字に結ぶ丸井にイガラシはくすりと笑みを浮かべた。
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第二十三話 「反撃!墨高打線」
立ちはだかる巨人学園真田一球を打ち崩すことができるのか!
『二番、センター島田くん。二番、センター島田くん』
(いい感じで決めて打たれたな。)
出塁した丸井を警戒しながら、次打者の島田に一球は意識を集中する。
カウントは1アウト。連続三振をとり、勢いに乗る三番のイガラシに廻す前にダブルプレーで流れを断ち切っておきたい。
「内野!」
送りバントを警戒し、前進守備をとる巨人学園に対し、打席の島田はバットを長く持ったままだ。
(強打か?)
ビシュッ。
一球目、ストレート。
キィン!!
一塁方向へのファール。
「島田!!」
墨谷ベンチから谷口が何やらサインを出すと、島田が頷き、バットを短く持ち直すが、依然その姿勢は打ちのままだ。
(一点を追うゲーム。セオリー通りならここはバントだが)
打ちの姿勢から一転してのバントもあり得るだけに、一球は頭を働かせる。
一方の墨谷ベンチ。谷口のサインに倉橋が異議を唱える。
「おい、谷口。一点差だぜ。送らなくていいのかよ」
「ああ。おそらく真田は読んでくる」
谷口はじっとマウンド上の真田を見つめ、呟いた。
恐るべきは忍者の子孫と言われる真田一球の深い洞察力である。
打者の気配からか、相手の心理を読むのか。
既にこの回までに二度。墨谷はバントを仕掛けるも一球にそれを悟られ、いずれも失敗に終わっている。
「なら好きに打たせようってのはまあ分からなくもねえが」
昨夏の対専修館戦。東実メモの小さな違和感に気づき、逆転のきっかけをつくったのは半田だが、あやふやな指示に対し、自ら考え、攻略の糸口を見つけ出したのは島田だった。
「ここは島田に任せよう」
墨谷二中以来の付き合いになる後輩に、谷口は任せることに決めた。
(一つ試してみるか。)
島田の様子に探りを入れようという一球の二球目。
インコース高めいっぱいのストレート。
「くっ!」
キィン!!
『ファール!!』
またも一塁線へのファール。
ストライクを二球続けたと言うのに、島田は全くバントの姿勢を見せない。
(ここは打ちじゃないのか?)
(もう少し後ろに下がった方が・・・・・・。)
巨人学園内野陣の迷いを読み取った一球が大丈夫と声をかける。
(そう皆が思う時はバントだ。)
打席の島田。一塁の丸井の方を見ながらこくりと頷く。
(やはりバントだ。)
『真田くん、振りかぶって投げ、おおっと、一塁ランナー丸井くん、走った!!』
「なに!!」
(一球さん!)
(捕ってから投げれば間に合う! 頼んだぞ、九郎!!)
シュッ!!
ククッ!!
ブン!!!
『カーブに島田くんのバットが回る!! 呉くん、急いで二塁へ!!』
「あっ!」
『あっと、なんと呉くん慌てた! これをお手玉だ!! 二塁へは投げられない!! 墨谷高校、ツーアウトながら、ランナーが二塁に進みました!!』
(いいぞ、島田。)
(やったな、丸井。)
二塁上の丸井ぐっと拳を握ってみせると、島田も同じポーズでそれに答えた。
「いいぞ、丸井!!」
やんややんやと声援の挙がる墨高応援団。
「ランナーもよかったが、打者のアシストも褒めてやらにゃあな」
徳川は島田の方にくいと顎を向ける。
「端からこうするつもりだったんじゃろう。バントしようにも一球はやたら鼻が利く。かといって打てばゲッツーになる危険があるからのう」
「ストレートならやばかったぜ。無茶すんなあ、谷口の野郎」
「ふえへっへっへっへ。無茶なもんかい。この回、一番からバッティングが変わったのがわからんのか」
「丸井から? 何か変わったか?」
近くにいる応援団長に声をかける田所。
「さ、さあ」
「ふん。どいつもこいつも見る目がない。お前さんの後輩、どうやら気づいたようじゃぞ、影武者の弱点に」
「え・・・・・・」
(じゃが、問題はいくら弱点に気づこうと一球は間違いなく超高校級。畳みかけることができるかじゃが。)
「ごめんだ~よ、一球さん・・・・・・」
タイムをとり、マウンドに集まった巨人学園の内野陣に文六。
しょげる九郎の肩をぽんと一球が叩く。
「気にするな。よくあることだ。大事なのはこの後どうするかさ」
「にしてもよ、さすがは墨谷づら」
法市殿馬が感嘆の声を上げる。幻の準決勝の相手。甲子園で明訓に対し善戦してきた自分達なら多少のブランクは関係なくいけると思っていた。
「堀田に司に一角と三球士がいりゃあな」
郷の言葉に、文六が噛みつく。
「それは言わない約束だろ!」
「文六の言う通りだ。いないものは仕方ない。まだ、こちらが一点勝っているんだ。みんな、気を引き締めていくぞ!」
「おうっ!」
『巨人学園ナイン、好打者イガラシくんを迎えて気合十分。一方のイガラシくん。初回に打ち取られて後はヒットを一本放っていますが、未だ得点には結びついていません。この好機をものにすることができるか!』
(三番のイガラシか。)
イガラシを迎えながら、一球の頭に去来するのは墨谷との練習試合を決めて後のことだ。
一球の頼みに応じ、再集結した巨人学園ナインだが、その彼らを驚かせたのが、甲子園でも活躍した三球士の不在である。
「三球士が来られない? お、おい。どういうこった」
不満を口にする郷に、マネージャー兼プレイヤーの文六が答える。
「司と一角はどうしても外せない用事が入っているみたいなんだよ。堀田も用事があるみたいなんだが、明訓相手ならキャンセルもするが、墨谷じゃわざわざ地方から来る価値はないとさ」
「あの野郎、予選にいなかったから墨谷のことを知らないんだ」
「どうする、一球さん。三球士がいないとなると影武者作戦はきついぜ」
「仕方ないさ。いる者で何とかするしかない。予選がそうだったんだ。条件的にはそう変わらない筈だ」
「一球さんの言う通りだ~よ」
「それはそうかもしれないが・・・・・・」
「すまない。ここはやらせてくれないか」
頭を下げる一球に、文六始め、巨人学園ナインは仕方がないなとためいきをついた。
「甲子園まで一球さんに連れてってもらったしな」
「いっちょやるか」
(皆に我がままを言い、おれは墨谷との試合にこだわった。明訓との再戦ならず、それでも快く応じてくれたナインのためにも、ここで打たれる訳にはいかない。)
一球目。
ビシュッ!!
『真田くん、ここは踏ん張るか。注目の第一球。投げた!!』
球種はストレート。ここは打ちだとイガラシはバットを振ろうとするが、
「うっ」
『イガラシくん、バットを止める止める!!』
ズバン!!
「ストラーイク!!」
『狙いと違ったか、イガラシくん! 慌ててバットを止めましたが、間に合いません』
「す、すげえ」
ぽつりとつぶやく田所に、徳川が答える。
「よく止めたな。打ちにいってたら、凡打だぜ」
(こいつは、おっそろしい気迫だぜ。)
思った以上の球威に、打席でごくりとイガラシは息を呑んだ。
(これが、甲子園で明訓を苦しめた連中の本気かよ。)
遥か彼方のものだと思っていた甲子園。甲子園常連と呼ばれる谷原を倒し、明訓のグラウンドで岩鬼と対戦し感じていたことだが、改めてその頂の高さを思い知る。
(だが、負けるかよ。)
二度三度とバットを振り、気持ちを落ち着ける。
二球目。同じくストレート。
キィン!!
『ファール!』
バックネットを超すファールに観客からためいきが漏れる。
(ミートしているんだが、押し込まれているな。)
再度バットを振りながら、巨人学園の守備隊形を確認する。
(前進守備のままか。真田の球威におれが負けると思ってやんな。それなら。)
『さあ、ツーストライクと追い込んだ真田くん。ここは好打者イガラシくんを打ちとり、墨谷の勢いを止めることができるか。墨谷高校イガラシくん、追い込まれていますが、ここからが正念場。見事、二塁ランナー丸井くんを返すことができるか!』
ぎゅっとバットを握るイガラシに、一球は目を凝らす。
(妙な雰囲気を感じるな。何か仕掛けてくる気か。)
ここは様子を見ようと一球高めに外すが、イガラシも走者の丸井も動きを見せない。
(どうにも気になる。ここは打ち一択の筈だ。)
(変化球で様子を見てみるだ~よ。)
(ああ。頼むぞ、九郎。)
四球目、ストライクからボールになるカーブ。だが、イガラシのバットはぴくりともしない。
(どうする、一球さん。)
(考えすぎてもいかん。虎穴に入らずんば虎子を得ずさ。)
『真田くん、セットに入りました。あっとイガラシくん、バントの構え!』
「何?」
五球目。真ん中よりやや高めのストレート。
バントの姿勢を見せるイガラシに対して、ファースト二宮、サードの郷が前進する。
しかし。
キン!!
『あ~。プッシュバントだ~~!』
「しまった!」
『前進守備の内野の頭上を越えた~。レフト三原くん、懸命に追いつくも間に合わない!墨谷高校イガラシくん、技ありのバントヒット!!』
一塁を駆け抜けたイガラシに墨谷応援団から歓声が飛ぶ。
「いいぞ、イガラシ!!」
(ふん。丸井さんを返せなかった。そんな褒められたものじゃないさ。けど。)
イガラシは打席に入る谷口を見る。
(頼みますよ、谷口さん。)
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第二十四話 「谷口の底力」
秋口とは思えぬ暑い日差しがマウンドに降り注ぐ。
『四番、サード谷口くん、四番、サード谷口くん』
「よし」
谷口の名前がコールされるや、墨高側から割れんばかりの声援が飛ぶ。
「頼むぞ、谷口!!」
「一発放り込んでやれ!」
一方の巨人学園側からもそれに負けじと声を枯らして応援の声が響く。
「一球さん、頼むぞ!」
「ここは抑えてけ!!」
興奮の坩堝と化した両軍の観客たち。
それを煽るかのように、場内に熱の籠ったアナウンスが響いた。
『さあ、大変なことになりました。試合も中盤、6回の裏にきてこの試合の山場が訪れました。墨谷高校、ツーアウトながら、ランナー、一三塁。一打勝ち越しのチャンスに打席には四番の谷口くん。巨人学園真田くん、ここを抑えて墨谷の流れを断ち切ることができるか!』
盛り上げようとする放送を聞き、徳川はくひひと皮肉な笑みを浮かべる。
「そりゃ外野は勝負を期待するじゃろうが、塁が空いてるでな」
「敬遠!? いや、さすがにそれは」
あり得ないと言おうとして、田所は言葉を呑みこんだ。
甲子園での対明訓戦でも勝つためには躊躇なく一球は敬遠の策を選んだ。そこには武士の誇りのためならば何を犠牲にしても構わないという考えは存在しない。武士の誇りでさえも勘定に入れ、勝利を狙いに行くと言う冷徹な現実主義者の姿がある。
一球目、インコース高めにストレート。
「む」
谷口、バットを動かさず。
「ボール!!」
「ほれ」
と徳川。
「いやいや、まだ初球だし」
二球目、インコ―ス低め、ぎりぎりのところへストレート。
これもボールとなり、場内がざわつく。
「ま、まさか天下の巨人学園が敬遠なんざ・・・・・・」
「勝ちだけを考えたら当然のことじゃ。勝負に卑怯もくそもあるかい」
徳川の迫力に田所は黙る。
さすがに異なる高校で甲子園に出ること三度の名将が言う事は重みが違う。
「じゃが、一球はよくてもナインはどうかな」
『二球、際どい所にボールが続きます。谷口くん、ボールを見極めてバットを振りません』
「タイム、タイム!!」
初球から二球続けてボールが先行した段階でキャッチャーの九郎がタイムを要求し、内野陣と文六が集まる。
「どうした、九郎」
「どうしたもこうしたもないだ~よ、一球さん。ボールばっかり」
影武者山田になるために口調に気を付けている九郎だが、ところどころ素で口癖が出てしまう。
「谷口よりもこの後の倉橋の方が打ち取りやすい。当然の策だろ」
納得できない、とう~と唸り声を上げる、九郎。
「おいおい、九郎。どうした。墨谷に勝つためにはそれが最善じゃないか」
「つまらん!」
「何?」
「つまらんだ~よ、一球さん!」
「九郎・・・・・・」
どうやって説得しようかと頭を悩ませる一球。
間に入ったのは長い付き合いになる文六だ。
「一球さん、これは練習試合だぜ? 甲子園の明訓戦じゃないんだ」
「文六・・・・・・」
「俺たちのことだったら気にしないでくれ。甲子園に行って明訓と戦えたんだしな」
郷の言葉に文六が頷く。
「そうさ。だから、ここは一球さんの好きなようにしてくれ」
「ああ。逃げて何が東東京代表だよ」
「みんな・・・・・」
目を瞑り、ぺこりと頭を下げる一球の肩をぽんと叩くと、九郎は守備位置に戻っていく。
ぐっと拳を握るや、一球は顔を上げた。
「よし、勝負だ、谷口!!」
びりびりと辺りを震わす声で宣言する一球に、会場にどよめきが起きる。
『なんと、二球ボールを続けた後、真田くんいきなりの勝負宣言。何としてもここで打ち取ると言う意思の表れか! 谷口くん、ここは大きく息を吐き、打席に入ります』
三球目。
(プレートの前、ストレート!)
キィン!!
「ファール!」
続いて四球目、五球目。同じくストレートをファール。
『三球続けてストレートをファール! 谷口くん、ここは粘ります』
六球目。
(プレートの上、変化球!)
ビシュッ!!
ククッ!!
低めに落ちるシンカー。
(丸井!!)
(よし、呉は変化球が苦手だ!)
三塁の丸井が後逸を期待し、動きかけるが、
「こうするだ~よ!」
ビシィッ!!
『なんと、呉くん、敢えてミットを使わず体に当てて捕球!! 切れ味するどいシンカーを後ろに逸らすまいと気迫のプレーだ!!』
「くっ!」
九郎の気合に、慌てて塁に戻る丸井。
「ファール!!」
『これまたファール!! これで10球連続ファールです! 打たせない真田くん、打ち取らせない谷口くん。何という意地と意地のぶつかり合いだ。これが練習試合などとは信じられません!』
(しかしとんでもねえ野郎だ。)
一塁からじっと一球を見ながら、イガラシは舌を巻く。
(あれだけ投げてて全く疲れが見えねえ。)
マウンド上、ふうと大きく息を吐き、ぱたぱたと仰ぐ一球。
打席では、二度三度と素振りを繰り返す谷口。
(さすがだ。失投がない。)
谷口は土壇場にきての一球の強さに舌を巻く。
ストレート主体の組み立てだというのに、そのストレートが打てない。
(来るのが分かっていて打てないとは。)
さすがに甲子園で明訓を苦しめただけのことはある。
滴り落ちる汗をユニフォームの袖で拭いながら、谷口は一球を見据える。
(ここまでやるとは。)
一方の一球も内心驚きを隠せない。
甲子園まで含めてここまで粘られたことはない。
気力を振り絞り投げているにも関わらず、打ち取れない。
どこまでも食らいつき、何としてもヒットにしようという執念をも感じる。
(この執拗な粘り。まさしく墨谷というチームそのものだ。)
巨人学園と同じく弱者の立場であった墨谷。
彼らは常に自分達よりも強い相手と戦ってきた。
東実、専修館、谷原。並みいる都下の強豪たちを苦しめてきたのが、この粘りだ。
(だが、それは俺たちも同じだ。)
三球士を欠いた状態での甲子園出場。
いかに超高校級の一球がいるとはいえ、その道は平坦では無かった。
素人同然の仲間たちと共に諦めず励まし合って戦ったのだ。
静かに振りかぶって、11球目。高めから真ん中へと入るカーブ。
ビシュッ!!
ククッ!!
カキィ!!
「ファール!!」
(これもファール・・・・・・。俺のモーションに何かあるのか。)
球種に合わせたかのような谷口のバッティングに、じっとタマを見つめながら、一球は考える。
(試してみるしかないな。)
(気づいたか?)
谷口は打席を外し、じっと一球の様子を見る。
(次で何とか打たないと。)
ぎゅっとバットを谷口は強く握る。
せっかく半田が見つけた攻略への糸口だが、一球は勘が鋭い。この回急に当たり出した墨高に対し、違和感を感じていることだろう。
(とにかく、ストレートで様子を見る。)
『12球目、真田くん、振りかぶって』
(プレートの前!! ストレート!!)
ビシュッ!!
『投げた!!』
「くおっ!!」
谷口、気迫の籠ったストレートに負けまいと渾身の力を込めてバットを振り切る。
カキィ!!
「うっ!」
『打った~~~!! 外角高めに来た球を谷口くん、ライトにもっていった~~~~。ライト文六くん、バックするも間に合わない!! 丸井くん、生還! 一対一の同点でさらにイガラシくん、二塁から三塁へ廻る!! 』
「文六!!」
『あっと、ピッチャーの真田くん、何とライト付近まで快足を飛ばしてやってきているぞ。イガラシくん、三塁でストップ、しない、しないぞ! これは暴走か!!』
「ここで止まっているようじゃ明訓にはとても勝てない!!」
はあはあと息を切らせて本塁へと向かうイガラシに対し、文六からのタマを受ける一球。
「九郎!! ミットを下に構えろ!!」
大きな声で言い、弓のように腕をしならせる。
「ぬおおおおおお!!」
『真田くん、吠えて外野から矢のようなバックホーム!!』
バシィ!!
『九郎くん、タッチだ!! イガラシくん、下から入る!!』
ザザーーッ!!
ドシィ!!
ミットに寸分の狂いもなく収まる一球からの送球。果敢に頭から本塁へと突入するイガラシ。
『イガラシくんの手がベースにふれたか、それとも呉くんの足がブロックしているのか!!』
砂煙が止んだ本塁上。
タッチをかいくぐりイガラシの右手がふれているのを確認し、主審が大きくコールする。
「セーフセーフ!!」
『なんと、セーフ、セーフだ~~!! 真田くんの弾丸のような送球も、イガラシくんの手が入っていました!! 墨谷高校、この回なんと一気に逆転!! 谷口くん、二点タイムリーヒット!!』
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第二十五話 「球けがれなく道けわし」
※打順を間違え一部修正しました。
割れんばかりの歓声がグラウンドへと響く。
6回裏。9番松本から始まった墨谷の攻撃は4番の谷口に二点タイムリーが飛び出し、尚もランナー二塁で5番倉橋を迎えていた。
マウンド上でぱたぱたと仰ぎ、ふうと息を吐く一球。
「紙一重の勝負じゃったな。様子を見にいった一球と、勝負を掛けた谷口。その違いじゃ」
「よし、倉橋。ここは畳みかけていけ!!」
大声で叫ぶ田所を尻目に、
「そう上手くいけばいいがな」
一球の様子を見、徳川はぽつりと呟いた。
(やはり、何かあるな。どう考えてもおかしい。)
タイムをとり、軽く伸びをする一球。この回まで打たれはしたものの散発で抑えてきただけに、まるで来る球種を読んだかのようなバッティングが気になる。
(クセか、サインか。とにかくよく分からなければ元から変えてみればいい。)
『5番倉橋くん。ここまで真田くんに抑え込まれていますが、ここは谷口くんを返し、一矢報いることができるか。巨人学園真田くん、ここは踏ん張りどころ。最少失点で切り抜けることができるか。注目の第一球!!』
ガバァッ!!
『あっと、これは上手だ!!』
ビシュッ!!
「な・・・・・・」
ズバン!!
「ストラーイク!!」
主審が高々とコールするのを横目で見ながら、倉橋は戸惑いを隠せない。
(上手だと!?)
続いて二球目も上手からのストレートに空振りを喫する倉橋。
(おいおい。まさか、こいつ。)
打席の倉橋の様子を観察しながら、一球は九郎へ頷いてみせる。
(効果あり。)
(この調子だ~よ。)
(ここからは上でいくぞ。)
(了解だ~よ。)
ボスンとミットを叩き、気合を入れる九郎。
一方打席の倉橋はバットを短めに持ち、ストレートに備えるが。
ビシュッ!!
ブン!!
「スト―ラーイク!!」
「ぐ・・・・・」
上手からの気合が籠ったストレートにタイミングが合わず、空振りを喫する。
『お見事真田くん、倉橋くんを三振に切ってとり、この回何とか最少失点差で切り抜けました。ですが、墨谷高校。この回勝ち越しに成功。巨人学園は追いつき、追い越すことができるか!!』
「す、すまん」
二塁から戻って来た谷口に倉橋が声を掛ける。
「まさかいきなり上手に変えてくるとはな」
「ああ。クセに気づいたって訳じゃなさそうだが」
クセに気づいたのであれば、それを逆手にとり、墨高ナインを混乱させるだろう。それこそ、紫義塾戦の里中のように。だが、それをしないという事はクセに気づいたとは思えない。動物的な嗅覚で下手は不味いと勘づき、上手に変えたと考えるのが自然だろう。
「やはり、とんでもない男だな」
改めて真田一球という男の恐ろしさに目を見張る墨谷バッテリー。
一方の巨人学園ベンチ。勝ち越しされ、気落ちするナインに対し、一球が檄を飛ばす。
「まだ一点差。3回もある。十分逆転できる!」
「で、でも、一球さん」
弱音を吐く花田に、九郎が噛みついた。
「でももかかしもないだ~よ」
「そうだ。影武者作戦は失敗に終わったが、まだうちは負けてない」
ナインをぐるりと見渡すと、一球は言葉を続けた。
「ここから巨人学園の野球を見せようじゃないか。そうして俺たちは甲子園に行ったんだろう?」
「甲子園・・・・・・」
「ああ。そして、俺たちはあの明訓と戦った」
皆が一様に口をつむぐ。
思い浮かべるのはこの夏の思い出、灼熱の大甲子園での明訓との一戦だ。
神奈川が誇る最強の王者。高校野球の頂点に君臨する存在、明訓高校。
ドカベン山田太郎。
小さな巨人里中。
秘打男殿馬。
そして、決勝点をもぎ取る闘志あふれる激走を見せた、悪球打ち、男岩鬼。
「そんな連中と俺たちは渡り合ってきたんだぜ?」
土の匂いが、太陽の日差しが。
スタンドからこだまする絶叫が。
巨人学園ナインの脳裏に蘇る。
「そうだな・・・・・・」
ぐっと心の奥底からせり上がる何かに皆が拳を握った。
「このまますんなり負けるようじゃ明訓に申し訳が立たないってもんだ」
「ああ、その通りだ。巨人学園はまだまだこんなもんじゃない!」
「その意気だ! 『球けがれなく道けわし』。この程度の険しさは人生の中じゃよくあることだぜ!」
豪快に笑い飛ばす一球に釣られ、笑みを浮かべるナイン。
「バッター!!」
練習試合とはいえ、さすがに準備が長いと主審が苦言を呈した。
「あ、次は俺だった」
4番の花田が慌ててバットを手にし、打席に入る。
(おいおい、こいつら。逆転されてショックはないのかよ。)
その様子を見ながら、倉橋が呆れる。
(とにかく、だ。この回は短めに切っておかないとな。)
マウンドのイガラシの様子を見ながら、倉橋は構える。
先ほど間一髪で生還したイガラシは激走がたたり、はあはあと息が荒い。
何とか間合いをとりながら打ち気をそらし、この回を乗り切るしかない。
だが、さすがに巨人学園もさるものである。
イガラシの様子をみてとるや、バントを絡めた徹底的な待球作戦を一球が指示し、4番花田、5番手塚、6番三原と打ち取られるものの、この回計30球をイガラシに投げさせた。
このナインの意地に真田一球という男が奮い立たぬ訳がない。
「ぬおおおおお!!」
上手投げからのストレートは打者を迎えるごとに勢いを増し、唸りを上げて九郎のミットにおさまった。
『戸室くんバットを出すも、掠らない!! 真田くん、上手に変えてエンジン全開!! 墨谷高校6番からを三振に切って取り、この回を三者三振で切り抜けました!!』
「すごい・・・・・・」
残り二回に望みを繋ぎ、まるで腐らぬ巨人学園の姿勢に、思わず谷口は感嘆の声を洩らした。
これまで自分達が戦ってきた相手は皆どこかで慌てふためいたり、エースがふてくされたりしたものだ。
特に緊迫した一点差を争うゲームではよくある光景だ。打てない、守れないと否定的な言葉がベンチで飛び交い、しばしばいさかいも起こる。
ところがこの巨人学園はどうだ。真田一球という大黒柱の元、一回から乱れるということがない。一球や九郎を除けば明らかに彼らの方が野球は下手くそだ。そんなチームが自分達や谷原を抑え、東東京代表としてあの明訓と互角に戦った。
「おい、谷口。どうする」
倉橋がミットを片手に言った。
「オレはまだいけますよ」
はあはあと肩で息をするイガラシ。普通に考えれば交代だが、イガラシという男の根性を考えれば、続投ということも視野に入る。
しかし。
「いや、当初の予定通り、この回からオレが投げる」
谷口は巨人学園ベンチの一球を見、きっぱりと言いきった。
「この回一人出れば真田に廻る。それに・・・・・・」
「それに?」
「い、いや何でもない」
聞き返してきた丸井に応えず帽子で表情を隠し、谷口はマウンドへ向かった。
どういうことだろうと顔を見合わすイガラシと丸井。
倉橋相手に投球練習をしながら、谷口はかっかする自らを抑えようと深呼吸を繰り返した。
(あの真田と勝負したい。)
谷口自身意外だった。チームではなく、一個人に思い入れるなんて。
(だが、それほどあの真田一球は大きい。)
青田の中西球道の座右の銘。それを今、谷口は痛いほど実感していた。
(球けがれなく道けわし、か。)
明訓という頂へ至るためにも。
目の前にそびえ立つ大きな壁は越えなければならない。
(明訓と戦うためには、このけわしさは必要だ!)
ビシュッ!!
ズバン!!
ビシュッ!!
ズバン!!
(お、おいおい。ちょいとムキになりすぎじゃねえか。)
谷口の様子に、倉橋は唖然としながらしきりに落ち着くよう指示を出す。
(谷口をここまでしゃかりきにさせちまうなんて。)
ベンチから大きな声援を送る一球をちらりと見、倉橋は内心呟いた。
(やっぱりとんでもねえ奴だぜ、真田一球。)
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第二十六話 「巨人学園の意地」
※試合内容が変更になりました。
(おいおい。)
投球練習での谷口の様子を見、
「谷口!!」
倉橋はもっと肩の力を抜けとジェスチャーで指示を出す。
(楽に、楽によ。)
(そ、そんなに力んでいるかな。)
意外そうにしながら、肩をほぐす谷口の表情を見て、倉橋は内心呆れる。
(やれやれ。知らぬは本人ばかりだぜ。)
冷静そうに見える谷口だが、意外にもムキになることがある。相棒を務めてきた倉橋からすると長年頭を悩ませた所だった。
(ま、分からなくもねえが。)
真田一球という超高校級の存在を目の前にし、自分がどれだけやれるのか。
対明訓を抜きにしてもその高揚感は格別だろう。
(だが、捕手はそんなことは言ってはいられねえからな。)
冷静に巨人学園ベンチを確認し、倉橋はどうしたものかと考えを巡らせる。
「どうする、一球さん。この回も待球作戦でいくか?」
文六の問いに、一球は首を振った。
「いや、あれは飽くまでもイガラシが続投する場合に備えてだ。谷口に代わった以上、意味がない。それに」
「それに?」
「郷、ちょっと」
打席に向かう郷を呼び止め、一球は策を授ける。
「えっ!? いいのか、それで」
「ああ。頼むよ」
『回は終盤8回。巨人学園、一点ビハインドで打順は下位。7番郷くんからです。一打出れば、1番の真田くんに廻るだけに、ここは大事にしていきたい。墨谷高校、投手は3番手の谷口くん。今夏谷原相手に見せた力投が再び冴えわたるか。注目しましょう!!』
「何だと!?」
打席に入った郷がすーっと一塁に入った井口の方へバットを向ける。
そちらの方へ打つぞという意思表示に井口が眉をしかめ、来るなら来いとグラブを叩く。
『郷くん、一塁に入った井口くんを狙うと予告! これはどういうことなんでしょう。注目の第一球です!』
(井口をかっかさせるつもりか?)
(とにかく下位とはいえ用心よ。)
(ああ。)
一方の郷。
一球目。高めにボール球、反応せず。
二球目。ストライクを果敢に振っていくが、空振りを喫する。
三球目。低めに来た球を一塁線へバントにいくとみせかけ、バットを引きボール。
(どういうことだ?)
(さあな。狙いがよく分からねえ。)
悩む墨高バッテリーをよそに、打席の郷に打ちにいけというジェスチャーを見せる一球。
「おいおい。どういうことだい、一球さん」
郷が何を狙っているのか分からず、思わず文六が一球に尋ねる。
「一塁を狙って何の意味があるんだ?」
「あれでいいのさ。あれで」
(残り二回だろうに。何を考えてやがるんだか。とりあえず悩む時にはここでどうだ。)
(うむ。)
倉橋のサインに、谷口が頷く。
「戦において重要なのは如何に相手を油断させるかさ」
と一球。
「油断させる?」
「ああ。人間一度解けた緊張は、どんな人間でも一瞬では戻らない。そして、この場合、一番狙うべきは・・・・・・」
『さあ~谷口くん、四球目だ。振りかぶって、投げました!! インコースへストレート!!
あっと、何と郷くん、三塁線へバントだ!!』
「何だと!?」
「くそっ!」
予想外のバントに、サードに代わったばかりのイガラシが反応するが、疲れからか足がついていかず、つんのめる。
「そう。ピッチャーを代わり緊張の解けたイガラシだ。投げなくていい。自分の所には飛んでこない。意識するつもりはなくても体がそう思ってしまう」
パシィ。
『谷口くんが慌ててフォロー!! 一塁へ投げるも間に合いません!! 巨人学園郷くん、バントヒットで出塁~~』
(あいつ! これをやるつもりで、一塁へ注意を向けさせたのか。)
やり返されたと呆然とするイガラシに、一球は笑みを見せる。
「い、一球さん!」
「そろそろ出番だろ、文六。用意しないと」
『さあ、大変なことになってきました。8番二宮くんがバントで送り、ワンアウト二塁。9番文六くんに一打出れば、同点という場面です。墨谷バッテリー、ここは最低でもアウト一つとって次の真田くんと相対したいところです』
(やれやれ。一打出ればって。期待するかね、このフヌケの六に。)
文六は内心大きなため息をついた。
真田一球が来てから本当に色々なことがあった。
当時二軍監督でありながら、勝負に勝って一軍監督になったのはあの剛球一直線藤村甲子園の恋女房であった岩風五郎。だが、その采配に反発したレギュラー陣が離反し、後を引き継いだ一球は一度部から離れた彼らの復部を認めず、素人ばかりをかき集め、チームを作り甲子園へと出場したのだ。
二度三度とバットを振り、文六は打席に入る。
(おそらく高校野球最後の打席か。よーし、思いっきりいくぞ。)
ぺっぺと両手に唾を吐き気合を入れる文六に対し、倉橋は勝負を選択する。
一球目、ストレートを空振り。
二球目、カーブにタイミングが合わず、勢い余って尻もちをつき、眼鏡を飛ばす文六。
「お、おい。大丈夫か」
「ああ、すまない・・・・・・」
眼鏡を渡しながら、苦笑いを浮かべる倉橋。
(やれやれ。気合は買うが、空回りじゃねえか。)
「いいぞ、文六!! 一度しかない高校野球なんだ!! 思いっきりやれ!!」
ネクストバッターズサークルから一球が叫ぶ。
「おうともさ!」
再度ぺっぺと気合を入れて構える文六。
続けての三球目ストレート。
「くっ!」
キーン!!
「ファール!!」
『一塁線へのファール。文六くん、何とかくらいついています』
(運動センスゼロと馬鹿にされていたってのに。)
ふうと息を吐き、文六はバットを握りしめる。大友以下レギュラー陣にバカにされても野球はやめなかった。そんな自分がまさか甲子園に出場し、ライトを守ってあの明訓と戦うこととなるとは誰が予想できただろう。
(ここまでやってこられたのは間違いなく一球さんのお蔭だ。)
当初はその常識外れの行動に苛立ったものだった。
だが、一人になっても野球を続けようとするその姿勢に打たれ、共に戦ってきた。
(野球を続けてきてよかった。本当によかった。)
鼻をすすりながら、文六は闘志を燃やし、谷口を見る。
『さすがにここは送ってはこないか。文六くん、強打の構えです。二塁ランナーを返せるか』
(甲子園の里中を思い出せ。行ったんだぜ、おれたちは。あの大甲子園に!!)
『谷口くん、四球目、投げた!! ど真ん中だ!! 文六くんこれを打ちにいく!!』
カキィ!!
「いけ~~~」
『これは谷口くんの勝ちだ。ふらふら~っと上がったボールがセンターへ!! センター島田くん、悠々落下点へと入る!! 墨谷これでツーアウト!!』
「え・・・」
ポトン。
『・・・・・にならないならない!! 何と名手島田くん、この何でもないフライをバンザイ!! 太陽か、汗が目に入ったか!!』
「ああっ!!」
「わあああああ!!」
墨谷側からは悲鳴が、巨人学園側からは歓声が上がる。
『島田くん、慌ててボールを拾い一塁へ投げる!! 文六くん、ヘッドスライディング!!』
ザザーーーーーッ!!
「セーフ、セーフ!!」
『あーっと一塁は間一髪セーフ!! 郷くんその間に三塁から本塁を伺うも、墨谷高校井口くん、ファーストからのものすごい返球でそれを許さない!!』
「舐めたらいかんぜ! おれは巨人学園の文六だぜ!!」
一塁上、ガッツポーズを見せる文六に、否が応でも盛り上がる巨人学園応援団。
「ナイス文六!!」
「打ちとったってのにツイてねえ。だが、ワンアウトだぞ、谷口!! 切り替えていけ!!」
マウンド上の谷口に向かって大声で声援を送る田所。
その横では、徳川が楽しそうにぐびりと徳利に口をつける。
(今の文六の執念は次の一球の力になるで。こいつが正真正銘この試合の大一番になりそうじゃ。)
『一番ピッチャー真田くん、一番ピッチャー真田くん』
どわあああというまるでここが甲子園かと思わせるような歓声がグラウンドに響き渡る。
『谷口君、完全に打ち取った当たりでしたが何という不運! ランナー一三塁の状況で、迎えるは一番の真田くんです。墨谷高校、さすがにここはタイムをとり、内外野の選手を集めます!!』
「す、すいません」
顔面蒼白になりながら申し訳ないと謝る島田に対し、
「次はよろしく頼むぞ」
谷口はそう言うと、口元を隠した。
「ワンアウトでランナー一・三塁だ。スクイズに長打にと色々頭を捻らにゃならんが、ここは打ちしか考えられない」
倉橋の言葉にイガラシも頷く。
「ええ。後続が期待できませんからね。ですが、意表をついてプッシュもあるってことを頭に入れといた方が」
「そこはイガラシと井口に任せる」
谷口の言葉に頷く二人。
「敬遠で満塁策じゃダメなのかよ」
横井が口を挟むと、しれーっとした空気が流れた。
「あのなあ、お前。6回の裏、同じ場面で巨人学園の連中は勝負したろ」
ぽりぽりと頭を掻きながら、倉橋が呆れた声を出した。
「そ、そりゃ確かにそうだが」
「因縁の試合だ何だと煽っちゃいるが、練習試合なんだぜ。それに、お前。最初から谷口が打たれると決めてやしねえか?」
「い、いやそういう訳じゃねえけどよ」
じーっと己を見てくる丸井達の視線に耐えられず、横井は下を向く。
「巨人学園の連中は真田を信頼して任せたんだぜ。おれたちもここは谷口に任せにゃ話にならんだろうよ」
倉橋の言葉に皆が一様に頷き、横井はぽりぽりと頬を掻いた。
「わ、分かった。分かった。悪かったな、谷口、ここは頼んだぜ!」
「ああ」
谷口の返事を聞くや、一斉に守備位置に戻る墨高ナイン。
(ったくあいつも。付き合いが長いんだから、いい加減谷口って男を理解しろよ。)
本塁へと戻りながら、倉橋は心の中でぼやく。
(こうと決めたらてこでも動かねえのが谷口じゃねえか。)
「勝負とはありがたい」
構える倉橋に向かって、一球が声を掛ける。
「はて、何のことやら」
わざとらしくとぼける倉橋は再度肩の力を抜くように、谷口に指示をする。
大きく深呼吸をし、一球の呼吸の様子を見て、気持ちを落ち着けようとする谷口。
(来るなら来い。セカンドでさばいてやるぜ。)
腰を落とし、身構える丸井。
(やられっぱなしは性に合わないんでね。)
グラブを叩き、己を鼓舞するイガラシ。
内外野陣、共に互いの位置を確認し、大きく息を吐いた。
「プレイ!」
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第二十七話 「執念対精神力!」
※前話若干加筆修正いたしました。(話の本筋には変化はありません。)
午後一時から始まった巨人学園と墨谷の練習試合。
先ほどまで頭上に輝いていた太陽は西に移動し、容赦なくグラウンドに照り付けていた。
両校の応援団が天に届けと声を張り上げ、巨人学園の吹奏楽部員たちはここが聞かせどころだと割れんばかりの爆音を響かせる。
集まった両校の観客もまた然り。時折汗を拭いながらも、共にここが甲子園かと見紛うばかりの懸命な声援を送った。
「いけ~真田!! 一発かまして勝ち越しだ!!」
「一球さん、打ってええ!!」
「谷口、ここは一発抑えてけ!!」
「負けるな、墨高!! ここが踏ん張りどころだぞ!!」
『倉橋くん、立ちません。何と強打者真田くんを迎えて、ここは勝負です、墨谷バッテリー。これは6回裏の巨人学園と攻守逆の立場となりました。勝ちを考える上では頷けませんが、高校野球です。正々堂々にこだわるのもまた一つの姿です!』
「おいおい、大丈夫かよ」
不安そうにグラウンドを見つめる田所に、徳川がこれみよがしに徳利をぐいとやってみせた。
「べらんめえ! お前よりよっぽど後輩共の方が現実をご存知だぜ! ええか。小利口な連中ならここは敬遠じゃ。だがのう、こいつは練習試合。例え負けたとて痛くも痒くもないわい」
「し、しかし・・・・・・・」
「一球クラスの打者と闘えることなど滅多にない。ましてや打倒明訓を目指しとるんじゃろう、願ってもない相手やないか」
「たしかにそうだが・・・・・・」
「それとも、お前さん」
ぐびりと喉をうるおし、徳川は田所を睨んだ。
「ここでこの一球を敬遠するような連中が、打倒明訓を本当にできるなどと、このわしを前にして言うつもりかね」
「うっ・・・・・・」
クリーンハイスクール、信濃川、東郷学園、室戸学習塾。異なる高校を指揮し、打倒明訓を誓った勝負の鬼。名将徳川家康の眼光のあまりの鋭さに、田所は黙るしかなかった。
「よーし、ここは一発狙うとするかい」
軽口を叩きながら打席に入ってきた一球に思わず倉橋が顔をしかめる。
それに対しにこりと笑った一球は、一転してマウンドの谷口に向かい、強い眼差しを向け,
言った。
「聞けば、明訓との戦を控えておられるとのこと。巨人学園、真田一球。その道の先達として、一手御指南仕る。この一球を抑えられずして、明訓に挑む資格があるとは思うな!」
(な・・・・・。)
まるで時代劇を思わせる芝居がかった台詞。だが、その言葉通り、一騎討ちを挑む武士を思わせる迫力を漂わせる一球に、さすがの倉橋もごくりと唾を呑みこんだ。
(も、物が違う。)
これが素の真田一球なのか。
東実や専修館、谷原。東東京の並みいる強豪校のスラッガーたちを相手にしてきた彼をして、別格だと思わせる、その圧倒的なまでの存在感。
既に3回対戦し、二安打。打ち取った一回にしても谷口のファインプレーに阻まれただけであり、実質墨谷の投手陣は一球を抑え切れていない。
(こいつをどうにかする前にまず釘を刺しとかねえと。)
倉橋は再び谷口に落ち着くようジェスチャアで指示を出す。
今の一球の一言は確実に谷口をいつも以上にかっかさせることだろう。
「お、おう」
肩をぐるぐると回す谷口。本人に緊張しているという意識はないらしい。
(どうにも真田を意識してんのか、この回タマが若干上ずっているんだよな。)
だが、調子が悪いという訳ではない。事実、不運なエラーがあったにせよ、文六に投じた球は十分に勢いがあった。
「いざ、尋常に、勝負!!」
びりびりと空気を震わせる一球の大喝に、背中に滴ったのは冷や汗か。
小刻みに息を吐きながら、倉橋がサインを出す。
(とりあえず、ここでどうよ。)
(うむ。)
『さあ、強打者真田くんに対して、谷口くん、どう攻めていくか。注目の一球目、投げた!!』
ビシュッ!!
『インコース高めだ!!』
(おいおい、こいつは!)
先ほどまでと打って変わったそのストレートの伸びに思わず倉橋が目を見張る。
だが。
キィン!!
『振っていったーーー。ボールはレフトへ高々と上がったーー。いや、ラインを超えた! ファールファール! 惜しくもファールです!!』
(谷口、お前ってやつは・・・・・・。)
これまでの3人の打者への投球は何だったのか。
目の覚めるような勢いの谷口のストレートに倉橋は驚きを禁じ得ない。
そして。
(あれをあそこまで運ぶかよ。)
それをあっさりと打ち返す一球の打撃センスにも倉橋は舌を巻く。
二球目。またもインコース。今度は真ん中から落ちるシュート。
(このシュートもいつもより切れがいいぜ!)
しかし。
キィン!!
『打った――――。今度は三塁線!! 火の出るような当たりーーーー。ですが、これもファール、ファールです!! 徹底してインコースを攻めてきます、墨谷バッテリー』
(こ、これも当てて来るのかよ。)
さらに三球目四球目と打者の苦手とされる懐を狙ってストレートを投げるも、いずれもファールにされ、困ったと肩をすくめる倉橋に谷口がサインを出す。
(頼むぞ、倉橋。)
(OKよ。)
五球目。内に構えた倉橋だが、投球モーションに入ったと同時にすっと外角に移動。そこへ谷口がストレートを投げ込むも、
「ボール!!」
一球に簡単に見透かされ、タマを見送られる。
(けっ。甲子園での対真田の山田のリードを真似してみたが。そうは問屋が卸さねえか)
「ふう」
軽く息を吐きながら、こんこんとバットで肩を叩く一球。
(確かに練習試合だがよ。ここでその面はどうなんだ。)
そのあまりの涼し気な表情に、ボールの土を拭いながら倉橋は焦る。
(度胸があるなんてもんじゃねえぞ、全く。)
一点差を追う緊迫したゲームだ。
野球は九回ツーアウトから、は確かに野球の格言だが、実際に試合の勝敗がかかるような場面で打者にかかる重圧は普段の打席の比ではない。
(こいつのこの精神力はなんなんだ。)
倉橋が戸惑うのも無理からぬことであった。
かつて巨人学園にライバルとして立ちはだかった『剛球戦闘機』こと神宮大付属の五味連次郎が今この場にいれば、甲子園と同じようなことを呟いたことだろう。
「真田の精神力は、山田をはるかに上回る」「墨谷の少年たちでは及びもつかぬ強力なものだぜ」と。
『さあ~~大変なことになりました。ここまで谷口くんが投じた球数、実に十一球!! カウントツーツーから真田くん、ファールでの驚異的な粘り!! これは六回裏のお返しか。たまらず捕手の倉橋くんがマウンドへ向かいます』
「全くここまでやるとは予想外だぜ。」
「ああ。いいところを突いているとは思うんだが」
はあはあと息を荒げる谷口の肩を倉橋が叩く。
「お前の調子は悪くない。相手がすごいだけさ」
いや。悪くないどころか、今の谷口は倉橋が知る限り、過去最高の出来と言ってもいい。
事実ここまでの谷口は一球相手に一度たりとも投げ損なっていない。全身全霊、全球全力で投げ込んでいるにも関わらず、ファールにされ打ち取れないのだ。
「どうも敵さん、本当に一発を狙っているようだぜ」
これまでの打撃から倉橋が推測する。
谷口の調子から、容易に打てないと言うのもあるだろうが、それと同じく一発を狙うために失投を待っている節がある。
「ここはぎりぎりを攻めて、結果歩かせても誰も文句は言わないぜ」
「そうか。なら、厳しい所を攻めて打ち取るしかないな」
「おい、谷口」
「頼むぞ、倉橋」
「・・・・・・」
『作戦会議は済んだか。倉橋くんが戻ります。それにしても、甲子園でも活躍した好打者真田くんに対し、墨谷高校谷口くん、一歩も引けを取りません。これぞ、幻の東東京大会準決勝にふさわしい名勝負です!』
「ふん。外野は気楽でいいわい。明訓に挑むためにこの一球は避けて通れん相手というだけのことよ」
「で、でも。ここまできたらさすがに歩かせてもいいんじゃ?」
田所の言葉に、徳川はぴくりと反応する。
「お前さん、捕手だったじゃろう」
「え!? ど、どうして分かるんすか」
「そりゃあ分かるわい。捕手はグラウンドの中では監督よ。全体を見て冷静に判断するのが仕事じゃからな。その判断は間違ってはおらんぜ。」
「だ、だったら」
「なぜ勝負をするのか、か? 仕方あるめえ。投手とはそういうもんよ。わしも何度痛い目に遭わされたか分からん」
徳川は言葉を切り、マウンドの谷口を見つめた。
「この勝負、どちらに軍配が上がるかは、お前さんの後輩がどこまで粘るかにかかっておるわい」
「谷口がどこまで粘るか?」
田所ははてなと頭を捻る。
(あいつが粘り負けたと言えるのは明善くらいか? でもそれだってな。)
優勝候補の専修館を激戦の末くだし、策なく挑んだシード校明善との試合。
予想外に目的を達成し、どこかチームの空気が弛緩する中、一方的に墨谷は敗れ去った。
(だが、ただ負けてはいない筈だぜ。)
小兵ながら屈せず、最後の最後まで諦めず持ち前の粘りで食い下がった墨谷ナイン。その経験があるからこそ、秋季大会でのシード権獲得。今夏の谷原との激戦につながったと言えるだろう。
田所は自分も選手として参加した東実との激戦を思い出す。プロ注目のエース中尾を擁する東実は名門校として遺憾ない実力を発揮していた。墨谷の練習の様子から最初から一軍を投入した監督の判断は的確で、当時の墨谷との戦力差は考えられぬほどであった。
(それを覆したのが、そこにいる男さ。)
強豪東実との試合に初めは戦う前から勝負を投げていた墨高野球部員。田所さえも進路を理由にしゃかりきになる谷口を諫めたものだ。だが、東実の練習を見せようともその飽くなき勝負への執念は消えず、遂には部員全員を巻き込んで東実との激戦を繰り広げることとなった。
「ことこうだと決めた時の谷口はしつっこいぜ、真田一球さんよ」
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第二十八話 「その一球に賭けろ!」
巨人学園対墨谷戦はいよいよ終盤へ!!
※試合内容が変更になっています。
「ファール、ファール!!」
審判の声がひと際大きくグラウンドに響く。
先ほどまで声を上げていた観客たちはグラウンドの異様な光景に静まり返り、黙ってその様子を見守っていた。
『何とこれで球数は20球!! 苦投谷口くん、大きく息を吐きます。ここまでコントロールミスなく投げ続けられるその精神力は大したものです。ですが、その前に立ちはだかる真田くんをどうしても打ち取れません。甲子園に出場した者の意地か、はたまた宣言通り自らを大きな壁たらんとしているのか。どちらにせよ、容易に超えられるものではありません。いかにこの真田くんを攻略するのか、墨谷バッテリー!!』
(そう言われてもよ。)
間をとるように谷口に伝えた後、倉橋はこれまでの配球について頭を巡らせた。
下段中段上段と様々な構えを見せる一球はまさに変幻自在、一分の隙も見出せない。
すでに持ち球の多くを使い、それを高低、内外、タイミングに気を配って投げ込んでいる。
(だが、当てられる。)
十九球目には意表をついて、力を抜いたストレートをスローボール気味に投げたが、それすらも見抜かれ、あわやという特大のファールを打たれた。
(明訓とは、山田とはこれ以上の壁だというのか。)
目指す頂のあまりの高さに倉橋は身震いした。
ゆったりとバットを構え直すと、一球は小さく息を吐いた。
(何という男だ。)
ここまでの二十球。三塁に走者があり、コントロールミスが許されない場面にも拘わらずその姿勢は飽くまでも攻め。
並みの投手なら一球ほどの打者にここまで粘られているのだ。一打あることを警戒して、それを理由に逆に歩かせた方がいいと自分を納得させることだろう。
(だが、この谷口は違う。)
自分を抑えなければ、明訓に挑む資格がない。一球が言ったその言葉を一途に信じ、愚直に抑えることを目指し、淡々と投げ込んでくる。
二十一球目。外角へのストレート。
未だ衰えぬ球威に負けじと一球はバットを振っていくが、
キィン!!
「ファール!!」
高々とボールが上がり、バックネットを超える。
(これもだ。)
これで幾度目か。確実にジャストミートさせたつもりのバッティングが、ことごとく芯を外される。
(尋常ならざる努力の跡。見れば分かる。)
打席を外し、改めて一球はじっと谷口を観察する。
一見すれば、体のあちこちが傷つき、ボールを握る手のひらはボロボロ。息荒いその姿に哀れみすら覚えることだろう。
(だが、それは大きな間違いだ。)
そこに刻まれているのは積み重ねた修練の日々。必死な表情の奥に揺らめくのは、確かな勝利への執念だ。
(人とはここまで一つのことを貫けるものなのか。)
高校に入るまで野球を知らず日々過ごして来た一球だから分かる。
淡々と。黙々と。勝つためにはチームに自分に何が足りないのか。日々それを自問自答し、愚直に己の野球道を突き進んできたに違いない。
(ならばこちらも全身全霊でそれに応えるのみ。)
一球は口元を結び、ぎゅっとバットを握りしめた。
球数が増えるにつれて、ぴりぴりと張りつめていく緊張感。
まるで甲子園の決勝を思わせるようなその雰囲気に、守る墨谷ナインの額からは滝のような汗が流れていた。
(た、谷口さん・・・・・・。)
自分の尊敬する谷口の苦闘する姿に、思わず丸井はごくりと唾を呑みこんだ。
中学時代から谷口を知っている彼だが、ここまで一人の打者に追い込まれた姿を見たことがない。
丸井からして谷口の出来は昨年の秋季大会の東実戦をも上回る絶好調。
だというのに、打席に立つ一球はその球をなんなくファールにし、20球も粘っている。
ふと内野を見渡せば、あのふてぶてしい井口やイガラシでさえ、二人の勝負に魅入られ、その表情は硬い。
(おれたちがこんなんじゃだめだ!)
緊張するチームの雰囲気を感じ取り、丸井はパンパンと己の頬を張ると、ひと際大きな声で叫んだ。
「ツーアウト、ツーアウト。ピッチャー、打たせていこうよ!!」
その一言ではっと我に返ったイガラシが、井口がグラブを叩き、それに合わせる。
「谷口さん、こっちは任せてください!」
「こっちもっす!」
他のナインも、次々に谷口へと声を掛け、勢いづける。
「谷口さん!」
「打たせていきましょう!!」
「守備はまかせとけ!!」
『力投を続ける谷口くんを奮い立たせるように墨谷ナインから檄が飛びます! 素晴らしいチームワークです』
振り返りこくりとナインに頷いてみせた谷口は、倉橋へとサインを送る。
(フォ、フォークだと!? 確かにまだ投げちゃいねえが。)
(それしかない。)
谷口の決めダマであるフォークは、後逸する危険性も考慮し、ここまでは投げずにきた。
だが、それ以外の球がことごとく打たれている以上、もはや投げぬ訳にはいかない。
(よし。ここはどうだ。)
サインはインコース、懐。だが、あえて倉橋はミットを外に構える。
(こぼしはしねえから思い切って投げてこい!)
どんどんと胸元を叩き、鼓舞する相棒の姿に谷口はこくりと頷いた。
『さあ~谷口くん、ここは踏ん張ることができるか。二十二球目!!』
スポッ!!
ククク!!
『あっと、これはサインミスか。ミットとは逆方向だぞ! 落ちた落ちた!! ここで決め球のフォークを出して来た谷口くん!! 真田くん、打ちにいく~~~』
(こいつはどうだ!)
完全に逆をついたフォークに自信を見せる倉橋。
だが。
キン。
『いったかーーーー。いや。三塁線をわずかにライナーでかすめました。ファール、ファールです!! 完全に意表を突かれたフォークでしたが、さすがは真田くん。容易に打ち取らせない!!』
(おいおい。完全に裏をかいただろうによ。)
決めにいった球を打たれ、さすがに下を向いた倉橋に対し、
「倉橋!」
グラブをかかげて返球を促す谷口の顔には悲壮感というものが感じられない。
「あ、あいつ」
思わず独り言を口走った倉橋に釣られ、
「すごいな」
一球の口を突いて出てきたのは賞賛の言葉だ。
「てやんでえ。てめえで火をつけておいてよく言うぜ。」
呆れた顔をし、倉橋はミットを構える。
(お前がその気なら俺は付き合うだけだ。だが、正直手がないぜ。)
(まさか、あれを合わされるとはな。)
谷口は再度フォークのサインを出す。
(おいおい、大丈夫なんかよ。)
(頼む、倉橋。)
肝心要のフォークを打たれ、破れかぶれかと倉橋はストレートを投げるようにサインを出すが、谷口は頷かない。
(ったく。強情な奴だ。打たれても知らねえからな。)
両手を挙げて、やれやれと首を振る倉橋。
(一か八か。あれを使ってみるしかない。)
神社でのフォークの特訓中、疲れで朦朧とする意識で偶然投げられたその球はまだ練習段階。
普段の自分なら自在に使いこなせるようになって初めて投げることだろう。
公式戦ならばこのような冒険はしていなかったかもしれない。
だが、出会ってしまったのだ。対策をし、己の全力を振り絞っているにも関わらず、打ち取れないほどの強敵に。
(ならば、少しでも可能性がある方に賭ける)
(確か縫い目が・・・・・・。)
緊迫した中だというのになぜか冷静な頭でその時のことを思い出す。縫い目を避けて握る通常のフォークとは違い、縫い目に指をかけて握り投げたその球は、最悪の場合投げ損なう恐れもある。
「倉橋、頼むぞ!」
相棒のフィールディングを信頼し、谷口は覚悟を決める。
(後で倉橋にドヤされるだろうが、やってみるしかない。)
普段の自分では考えられぬ大胆さに、谷口自身驚き、ボールを握った。
『長いサインの交換でした。この一球で決めにいきたいところです、谷口くん。伝家の宝刀フォークをファールにされましたが、まだ勝負は終わっていません。対して真田くん、いい当たりはするものの、どうしても決めにいけません。谷口くんの勢いに押されているのか。ここで一発欲しい所です!! プレートに足を掛けて、さあ~~~~二十三球目!!』
(縫い目に親指をかけて・・・。)
握りはフォーク。
「こいつで」
だが、抜くときに、左の縫い目を意識する。
「どうだ!!」
スポッ!!
『投げた! これはまたもフォークかーーーー!!』
「よし!!」
『真田くん、打ちにいくーーーーー。』
狙い通りとフォークを打ちにいく一球。
だが。
ググググ!!
「何っ!!」
「な!?」
先ほどのと違い、スクリュー気味に落ちてくるフォークに倉橋も驚く中、バットを振り切る一球。
「勝!!」
キィン!!
『打った――――――――。センターへの大きな打球だ!! これは文句なしの飛距離だ!!』
「くっ」
『センター島田くん、快足を飛ばす!! フェンスにへばりついて、ジャンプ~~~!! これはとったか、とったか、どうだーーーーーーー?』
「とってろーーー!!」
「入ってろーーー!!」
両校ベンチ、観客から声が乱れ飛ぶ。
『島田くん、高々とグラブを掲げる!! 捕った、捕っています!! これが先ほどエラーをした同じ人間か!! 墨谷高校センター島田くん、何と真田くんのホームラン性の当たりをスーパーキャッチ――――!!』
「よし!!」
三塁の郷が狙いすましたように本塁を狙う。
島田もセンターから強肩を見せるが間に合わない。
『これは郷くん。悠々とタッチアップ! 巨人学園同点に追いつきました! さすが東東京代表の貫禄だ!』
ああ! と墨谷応援団からため息が漏れた。
「ドンマイドンマイ! まだ同点じゃねえか!」
ミットを叩き、ナインを鼓舞する倉橋。
「バック、頼むぞ!」
谷口が声を掛け、ナインがそれに元気よく応じる。
「おいおい。打たれたショックはないづらか」
果たして法市の懸念通り。
微塵も動揺を見せない谷口の球威にキャッチャーフライに倒れ、八回を終わって二対二の同点で最終回を迎える。
(内側にやや落ちた分、伸びなかったか。)
悲鳴と歓声が乱れ飛ぶ中、冷静に先ほどの打席を分析する一球。
(隠していたのか? 土壇場であのタマをよく投げたものだ。いや、それよりも。)
「ナイスキャッチ!!」
ベンチへと戻る墨谷ナインから手荒い祝福を受ける島田の様子を見ながら、一球は昨年の専修館戦を思い出していた。あの時も今日と同じように試合が緊迫する中で味方がエラーするも、谷口はそれを責めることをせず、腐らず淡々と投げ続けた。決してあきらめないその姿勢はナインを奮起させ、期待に応えようといつも以上の力を引き出させていた。
(だからこそのあの島田のプレイだ。専修館戦で感じたことは間違いではなかった。素晴らしいキャプテンだ。まさに人の上に立つべき男だ。)
「よし、この回を0で抑えて、その裏。いっちょ目に物見せてやろうかい」
グラブを持ちながら、守備につく巨人学園ナインを見ながら、ああ、そうだなと一球は嬉しそうに呟いた。
今回出てきた球は大魔神佐々木さんのフォークの握りを参考にしています。
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第二十九話 「新たなる出発」
※試合結果そのものが変わっています。
日が西に傾き、先ほどまでの暑さが幾分か和らいだ。
巨人学園と墨谷高校の試合は最終回、巨人学園の攻撃を迎えていた。
『さあ、ついにここまで来ました。墨谷高校谷口くん、アウトカウント二つをとり、最後の攻撃に望みを託すことができるか。この回、3番の呉くんがレフト前への2塁打を放ち、4番の花田くんが送ってワンアウト。5番の手塚くんはカウント2-1からベースぎりぎりに立ち、袖にボールを掠らせ、デッドボールで出塁。ランナー1,3塁となり、巨人学園は6番の三原くんに番が回ります。夏の都予選の時と同じように奇跡を起こせるか三原くん!』
(ったく。敵ながらさすがとしか言えないぜ。)
サインを出しながら、倉橋は改めて巨人学園の凄さについて驚かざるを得ない。
8回の表同点とするも、一球を打ち取られ、反撃の芽が摘まれた巨人学園。
さすがに意気消沈すると思いきや、全くその士気は衰えず、その裏9番松本から始まる墨谷打線を一球がぴしゃりと抑え、最後の攻撃に臨んでいた。
「行け~三原~」
盛んにベンチから飛ぶ歓声は最終回という緊張感を微塵も感じさせない。
(そういや、こいつら、夏の都予選決勝もちんたら延長をやってたもんな)
(うむ。)
高めに構えたミットに向けて、谷口は渾身のストレートを投げ込む。
ビシュッ!!
「くっ!!」
『高めのストレート、三原くん、果敢に打っていった~~~』
キィン!!
乾いた音が響き、ふらふらとボールが上がる。いち早く落下点に入った丸井からカバーに入った横井へ。横井からファーストの井口へとボールが繋がる。
「アウト!!]
」
静まり返るグラウンドに主審の声が響くやどよめきが戻って来た。
『三原くん、高めの球を積極的に打っていきましたが、惜しくもゲッツー! 最終回谷口くんを追い込んだ巨人学園でしたが、あと一本が足りませんでした!!』
悔しそうに顔を歪ませ、しゃがみこむ三原に駆け寄ると、一球はその手をとった。
「お疲れさん」
「ご、ごめん。一球さん」
「何も謝るようなことじゃない。勝敗は兵家の常さ。それよりもまだ勝負は終わっていない」
ぐいと引っ張り、三原を立ち上がらせると、一球はベンチに向かって声を掛けた。
「さあ、みんな仕舞っていこうぜ!」
『倉橋君のバットが空を切る!! 真田くん、この回意地の力投で何と墨谷のクリーンナップを連続三振! 甲子園出場校としての貫禄をみせつけました!』
「く、くそ!」
一矢報いることができず、悔しそうに顔を歪める倉橋とは対照的に8回表の一球との対決にムキになり過ぎた反動か、どこか呆然としながら谷口は列に並んだ。
「巨人学園対墨谷高校の練習試合は、2-2の引き分け!」
「「ありがとうございました」」
主審の宣言と共に、礼を交わす両校。
「お、おい谷口」
倉橋から小突かれ、はっと気づいた谷口は目の前で右手を差し出す一球に気づいた。
「あ、すまない・・・・・・」
ごしごしとユニフォームで手を拭き、その手を握り返した谷口は目を大きく見開いた。
「こ、この手は・・・・・」
自分と同じようにボロボロの手。一体どれほど投げ込めばここまでになるのだろう。
「明訓と戦うつもりで張り切り過ぎてね。おやじの薬は打ち身にはよく効くんだが、切り傷・擦り傷には効き目がイマイチなんだ」
にっこりと微笑みながら言う一球に、谷口は胸の奥が熱くなった。
「ど、どうしてここまでしたのに・・・・・」
明訓と戦わないのか。そう聞こうとして、谷口は口を噤んだ。自分達が申し込まなければ、彼らが明訓と戦えていたのだ。必死になって打倒明訓を誓っていたその心中を慮れば、うかつなことを言うべきではなかった。
「明訓との再戦は叶わなかった。だから君たちに託す」
一球の思いを受け止めるように谷口は力強くその手を握った。
「明訓戦での健闘を祈る」
谷口は無言で頷くと、一球の手を強く握り返した。
『今、両校のエースががっちりと握手を交わしました。それに続き、巨人学園と墨谷高校のナインがお互いの健闘を称え、固い握手を交わします。何という感動的な場面でしょうか。東東京大会準決勝の再現などと散々煽って来た私ですが、恥ずかしい限りです。この試合はそんなものでは言い表せない感動を私達にくれました』
巨人学園放送委委員の声が震える。
芦田麗子に今回の練習試合のアナウンスを頼まれた時には完全な興味本位だった。
高校野球好きの自分にとっては渡りに船。いずれ大学に進みアナウンサーを目指すための練習にちょうどいい。そんな程度の気軽さで引き受けたことなのに。
たかが練習試合。されど練習試合。
甲子園大会の決勝もかくやとばかりの熱戦を繰り広げた両校の奮闘に、アナウンサー役の学生の胸にこみ上げてくるものがあった。
『拙い、まことに拙い放送で申し訳ありませんでした。私の実況では、この試合の魅力をあますところなくお伝え出来たかどうか自信がありません。・・・・・・聞き及んだところ墨谷高校は10月上旬には明訓との練習試合を控えているとのこと。是非ともその際には私も東東京の一野球ファンとして、応援に駆け付けようと思います。最後になりますが、・・・・・・アナウンサーとして、失格なのはわかっていますが、言ってもどうしようもないことだとも理解してもいますが、
でも、巨人学園の生徒としてどうしてもどうしても言わずにはおられません!!』
一度マイクから離れ、大きく息を吸うと彼は一息で言った。
『・・・・・・どうして、どうしてこの試合が神宮で行われなかったんだ!! 野球の神様の大馬鹿野郎!!』
キーンと甲高い音が響き、続いて深い嗚咽が漏れた。
集まった巨人学園と墨谷の観客は互いに示し合わせたように静かに、だが熱烈な拍手をグラウンドに送った。
「さあ、片付けだ。終わり良ければ総て良しってね」
「勝ちたかっただ~よ、一球さん」
グラウンドから去る巨人学園ナインには悔しさは微塵も見えない。全てを終えた清々しさがその顔には溢れていた。
甲子園で明訓と戦った時にいた三球士がいれば、明らかに巨人学園の優位は動かず、引き分けに持ち込むことは難しかったかもしれない。
万全の状態ではなかったのにも関わらず、一言もそのことに触れず去って行った真田一球に、谷口は敵ながら敬意を抱かざるを得なかった。
「勝てなかったな」
「ああ。さすがとしか言いようがないぜ」
倉橋が相槌をうつ。
「あの真田に三球士が揃った巨人学園相手に明訓は1―0だもんよ」
横井がやれやれと呆れたように頭を振り、戸室が頷く。
「全くだとんでもないな。どうなることやら」
「真田を打ち崩せないようじゃ難しいですね」
ずけずけと言うイガラシに井口と丸井が渋い顔を見せる。
「あ、そういや忘れてた」
倉橋が何かを思い出したように、谷口を小突いた。
「練習試合だからっていきなり無茶しやがって」
「あ、ああすまん。つい・・・・・・」
谷口の言葉に戸室が首を傾げる。
「つい?」
「いつもだろ」
横井のツッコミに谷口は恥ずかしそうに頭をかいた。
和気藹々と戻っていく墨谷ナインを一球は満足そうに見つめていた。
高校時代最後の勝負に勝てなかったのは残念だが、それ以上に大きな収穫のあった一戦だった。
「終わったなあ、一球さん。明日から俺は受験生。入試という戦が待ってる」
ボールを磨きながら文六が声を掛ける。
「そうか。文六の根性なら大丈夫さ」
「一球さんは卒業後の進路はどうするんだい? やっぱりプロへ行くのか?」
「それでもいいかと思っていたんだが」
一球は墨谷ナインの方をちらりと見ると大きく頷いた。
「この巨人学園の監督をやるっていうのもどうかと思ってね」
「え!? 本当ですか?」
側にやってきていた芦田麗子が嬉しそうに声を上げた。
「うん。彼らが、墨谷が今後どう成長していくのか。そしてそれに負けないような新生巨人学園を作る。退屈しそうにないじゃないか」
「そうかい。だとしたらもうちっとばかしきれいに拭かないとな」
横合いからひょっこりと顔を出した郷が文六の手からボールを奪った。
「そうづら。何たって後輩たちには墨谷にやり返してもらわなけりゃならんづら」
法市も後に続く。
「おいおい。法市。いつまで殿馬の真似してんだよ」
「どうにもクセになって抜けんづら」
次から次へと集まり、ボールやグラブを磨き始める巨人学園ナイン。
巨人学園の明日を担う者達のために。
日が沈み始めても、その手は休まることがなかった。
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第三十話 「田所の助言」
物語の本筋に関わる変更ですが、プレイボールファンの作者は不承不承頷いた感じです。
どうしても、ドカベンファンの作者が納得しませんでした。
「おっ。やってるやってる」
軽トラで河川敷のグラウンドにやってきた田所は、墨高ナインが練習しているのを見つけると、きょろきょろと辺りを見回し、車を停めた。
「あっ。田所さん。この間はどうも」
声を掛けてきたのは丸井。続いて、イガラシも姿を見せる。
「おう、丸井。どうもじゃねえぞ。この間のありゃ何だ。どうしてまた巨人学園と試合をする羽目になったんだ」
「ええまあ、いろいろありまして」
イガラシが事情を説明すると、田所は大きくぽかんと口を開けた。
「や、やっぱり明訓と練習試合するってのは本当なのかよ!」
「はい」
「じょ、冗談だろ。オメ、あの明訓だぞ? ドカベンの」
キャッチャー経験者の田所も当然ドカベン山田についてはよく知っている。
その打棒、キャッチングセンス。高校野球NO1キャッチャーと言っても過言はあるまい。
「オレたちで交渉に行きまして・・・・・・」
「だからって明訓とはなあ。俺っちはまた、部長が相手校を聞き間違えたのか思ったぜ」
無言で黙る二人をちらりと見ながら、そう言えばと田所は気がかりなことについて尋ねた。
「大丈夫なのか、谷口が復帰しちまって」
「どういうことです?」
「やっぱり、お前ら自分たちのことはわかっちゃいないんだな」
田所はあきれたように首を振ると、グラウンドを見ながら、その理由を説明した。
「見ろい。この墨谷に谷口を慕って入って来た連中の多いこと。その連中からすりゃ奴がいるってだけで、頼りたくもなるんじゃねえか」
2年生の丸井・加藤・島田、1年生のイガラシに久保。
決して人数は多くはないが、全国制覇した名門墨谷二中でいずれもレギュラーを張っていた逸材だ。そんな彼らが墨谷に入学した理由は一つしかない。
誰よりも努力する男谷口の存在。
相手が誰だろうと諦めず、ムキになって挑むその姿勢は多くの者を惹きつけ、魅了する。事実、夏の大会時の墨高では、田所が思わず止めるほどの猛練習が行われたにも関わらず、誰一人脱落者が出なかった。谷口のキャプテンとしてのカリスマとしか言いようがない。
そんなカリスマのある人物が戻ってきたのだ。丸井達の思いも分からなくはないが、他の部員たちが谷口を頼り、丸井達をないがしろにしはしないか。秋季大会を前に、チームとしてもめ事が起こるのはよくないし、また明訓に労力を割いて平気なのか。
田所が、丸井とイガラシに真意を正す。
「そ、そんな。谷口さんがいるからと頼ろうなんて誰も考えていやしませんよ」
丸井は開口一番田所の考えを否定した。
「丸井さんの言う通りです。それに明訓を目標に据えるのは、秋季大会に向けても効果があると思いますね」
イガラシは冷静に自分の考えを話す。
「と言うと?」
「山田のいる明訓以上のチームはないでしょう。うちのレベルアップにつながるのは確かですよ」
「そ、そりゃまあそうだが」
「むしろ願ったり、叶ったりです。キャッチャーを急いで育成しなきゃいけないときに倉橋さんが近くにいてくれるんですからね」
「あ、オメ。本音が出やがったな」
突っ込む丸井を田所はまあまあと諭す。
「お前らがいいってんなら、オレは別に構わねえんだがよ。だが、明訓とはなあ」
しきりに明訓との対戦について呟く田所。
万年一回戦負けと言われた時代を知っている彼だけに、明訓という雲の上の相手と戦うことが未だ信じられぬらしい。
「巨人学園とは引き分けに終わっただろう。あの真田から二点取ったとは言え、相手は明訓だぜ。大丈夫なんかよ」
「まあ、確かにあの試合、勝ちきれませんでしたからね。色々と課題はあると思います」
「でも任せてください。谷口さんを中心として皆で特訓メニューを考えましたから!」
力強く丸井が言い、胸を叩いた時だった。
「うえへへへへ。これで明訓を倒すねえ」
茂みの奥でのっそりと立ち上がった男がいた。
「何だ、おっさん。何がおかしいんだ!」
「よ、よしなさいよ」
つっかかろうとする丸井をイガラシが止める。
野球帽をかぶり、徳利を引っさげた男は、ふらふらとした足取りで、練習を行っている墨高ナインの方へと向かっていく。
その何とも言えない異様な迫力に、丸井とイガラシはその場に立ち竦む。
「あの顔、どこかで・・・・・・」
「ふん。いけ好かないオヤジだぜ!」
どこかで見た顔だと首を傾げるイガラシの横で、腹を立てる丸井。
「お、おい。あれは!」
そんな二人をしり目に、大きく目を見開き、田所はわなわなと指先を震わせた。
「知っているんですか、田所さん」
イガラシの問いに、田所はあり得ないと首を振る。
つい先日巨人学園のグラウンドで偶然出会ったその男。
高校野球を目指していた者ならば、その名前を一度は耳にしたことがある筈だ。
今夏の高知県代表、室戸学習塾監督。
そして、ドカベン山田擁する明訓を率いて、夏の甲子園で初優勝を果たした名伯楽。
「徳川監督・・・・・・」
田所の呟きに、丸井とイガラシはあんぐりと口を開けて、徳川を見送るしかなかった。
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第三十一話 「酔いどれノックVS谷口」
「きひひひひ。面白い事をぬかしてくれるぜ。明訓を倒すなんてよ」
突如現れた徳川に、ノック練習をしていた墨高ナインは唖然とする。
徳川は、バットを持つ松川にどくように言うと、自らバッターボックスに立った。
「え? な、なんです」
「ノックをしてやろうと思うてのう」
動揺する松川。それはそうだろう。
いきなり現れた人間が、バット片手にノックを始めると言うのだから、戸惑って当然だ。
ところが、徳川は一切意に介さない。
「べらんめえ! 明訓を相手にしようって大言をほざいている連中がこの程度でおたつくない! どんなものか、この徳川家康が見てやろうってんじゃねえか!」
その言葉を聞き、ナインがあっと驚き、彼の正体に気づく。
徳川家康と言えば、高校野球界では知らぬ者のいないビッグネームだ。
今や高校野球の代名詞とも言える常勝明訓の基礎を作り上げた名伯楽であり、クリーンハイスクール、信濃川、室戸学習塾。異なる高校を率いて、己の鍛え上げた最強明訓に土をつけるべく、三度その前に立ちはだかった打倒明訓の鬼。
そんな彼が、墨谷の前に突然姿を現そうとは。
「どうしたい。打倒明訓を謳うんなら、わしのノックくらいはお茶の子サイサイで受けてくれにゃあ困るぜ!」
とんとんとバットで肩を叩きながら、墨高ナインをまるで品定めでもするかのように徳川は見回す。
「お、おい」
「どうなってんだ・・・・・・」
皆が顔を見合わせる中。
「お願いします」
いち早く声を掛けたのは、マウンドに立った谷口。その顔を見た瞬間、徳川はにやりと笑い、ぶっとバットに酒を吹きかけた。
「へえ、こいつは。ちいとはやりそうな面構えじゃねえか。うれしうれし」
カキィ!!
上がった打球はセカンド方向。ショートにいた横井がとると、徳川から叱責が飛んだ。
「ドアホが!! ピッチャーへのボールじゃ!!」
「い、今のが?」
「で、でたらめだ」
口々に文句を言う墨高ナインだが、徳川は動じない。
「当たり前のノックなんぞ捕れてなんぼのもんじゃい! そんなもんをのんびり受けていて、明訓を倒せると思ってるんか!!」
「な、成程・・・・・。も、もういっちょ!!」
「言われんでもいくわい!!」
カキィ!!
今度はサード方向。
追いかけようとした谷口のグローブがわずかに届かない。
「このど下手くそ! もっと早く動かんかい!!」
「ぐっ!」
目の前にある籠に入ったボールを指差し、不敵に笑う徳川。
「ウフフフ、まだまだタマはぎょうさんあるで。慌てるな」
カキィ!!
「くっ!!」
ファースト方向。グローブの先をかすめるが捕れない。
「こののろま野郎! そんな有様で打倒明訓だと!? 出直しやがれ!!」
鋭い打球と共に浴びせられる罵倒。
だが、
「まだまだ!」
ミットを叩く谷口の姿に満足そうに頷くと、徳川はノックのスピードを加速していく。
カキィ!!
「べらんめえ! ボテボテのゴロやぜ! 滑り込んで捕りやがれ!」
カキィ!!
「動き出しが遅い!! そんなんで山田の打球に追いつけると思ってやがるのか!」
カキィ!!
「ド下手くそ! そんな程度のフライも捕れんのか!」
河川敷にノックの音が響く。
「す、すげえ・・・・・・」
明訓高校を鍛え上げた徳川のノックは、さすがに猛練習で鳴る墨高ナインをも唖然とさせる激しさだった。
(なんちゅう奴じゃ)
ノックを続けながら、徳川は内心舌を巻いていた。
酔いどれノックの名の通り、どこに行くかわからぬ徳川のノックは、またノックされる側を右に左にふらふらとふり、酔っぱらいのように潰すというものだった。初めて受けた相手はその多くがその場に倒れ伏し、みっともなくもどす。あまりの苛烈さに15人いた明訓の新入部員は山田と岩鬼、里中の3名になってしまったほどだ。
それなのに。
目の前でノックを受けている男はどうだろう。初めの方こそ、従来のノックとは大きく異なる徳川のノックに驚いていたようだが、懸命にボールを追い、段々とコツを掴んできている。
元から余程鍛え上げていなければこうはいかない。
(50は超えているってえのに、全く闘志が衰えちゃいねえ)
むしろ、もっともっととこちらへ要求する有様だ。
「キヒヒヒ。そうこなくちゃ面白くねえ」
むしろ嬉しそうに徳川はぺっぺっと手に唾を吐くと、さらに強烈なノックを谷口にお見舞いする。
カキィ!!
バシッ!
見事に追いつきキャッチした谷口に、周囲から歓声が上がる。
続けて二球、三球。泥だらけになりながらも、球をキャッチする谷口の姿に、墨高ナインは目が離せない。
「やるやないか。墨谷の! 名前は何て言うんじゃ!」
「谷口です! 谷口タカオ!」
「よ~し、谷口。こいつで終いや!!」
カキィ!!
ふらふらと上がった打球はキャッチャー前。
谷口はつんのめりそうになりながらも、ボールめがけて一目散にダッシュする。
「くわっ!!」
ズザーッ!!
飛び込んでのダイビングキャッチ。
見事に掴んでみせた谷口に、徳川は破顔一笑。谷口の肩を叩く。
「よし、お前は抜けろ!」
「は、はい・・・・・・」
ボロボロになりながら、マウンドを降りる。
「さあ、次は誰が来るんじゃ? 谷口で終いか?」
「な、何なんだありゃ・・・・・・」
徳川のあまりの猛ノックに呆然とする田所。
その横で、丸井とイガラシはグローブを手に気合を入れる。
「よーし。次は俺が」
「いや、丸井さん。俺が先に・・・・・・」
「お、お前ら・・・・・・」
目を覆いたくなるような凄まじさを前に、それでも闘志を燃やす二人に田所は開いた口が塞がらなかった。
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第三十二話 「丸井の苦悩と松川の決意」
朝練後。
部室でため息をつきながら丸井は一人考えていた。
ドアを開けて入って来たイガラシはそんな彼の姿を見ると、やれやれとため息をついた。
「そんなに迷うことじゃないと思いますがね」
丸井はむすりと、イガラシを睨み返した。
悩みの種は昨日徳川から掛けられた一言が原因だ。
「どうじゃ、一つわしを臨時コーチとして雇ってみんか」
突如河川敷のグラウンドに現れ、墨谷ナインに尋常でない猛ノックを浴びせた元明訓監督徳川家康は、そう言うとにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「臨時コーチ?」
「そうじゃ。代理監督。特別コーチ。名目なんざあどうでもいい。お前さん達がやろうとしている明訓相手の
にんまりとグラウンドに倒れ伏す墨谷ナインを見回す徳川に猛ノックの疲れは微塵も見えない。
「巨人学園との練習試合を見たがよ。今のまんまの練習じゃあ、明訓に勝つには足りねえぜ。この夏を経てあいつらはそれほど強くなりやがった」
自らが鍛え上げた常勝明訓に挑むこと四度。
指導した全ての高校を徹底的に鍛え上げ、明訓と戦うレベルまで成長させてきた徳川の言葉は重く、その場での返答がためらわれた。
「まあ、すぐにという訳にはいかんじゃろう。が、試合まで日が無い。明後日の放課後答えを聞きにくるわい」
そう言って飄々と去って行った徳川とは逆に、その提案は丸井を大いに悩ませることになる。
「あれぐらいの特訓じゃなきゃ明訓には勝てないってのは納得ですよ」
事も無げにイガラシは言い放つが、昨日の猛ノックは猛練習が代名詞である筈の墨谷の面々からしても恐ろしい物だった。勇んで参加した部員が次々にグラウンドに倒れ、最後まで立っていたのは谷口に丸井にイガラシの三人という有様。あれを続けていけば確かに明訓にも勝てるだろう。
だが、簡単によし受けよう、とはならない事情が墨谷にはあった。
「おめーはそう言うがよ」
丸井は口ごもり、腕を組んだ。ケガという言葉は丸井やイガラシといった墨谷二中出身者にとってはなぜかついて回る厄介な代物だった。
青葉戦で指を骨折し、その後の野球人生を左右された谷口に始まり、丸井の代では地区大会決勝で青葉に勝利するも怪我が続出し、全国大会には進めなかった。一つ年下の後輩であるイガラシとてまた然り。自分を差し置いてレギュラーに抜擢された程の野球センスを持つ男だが、ことこうと決めた時の容赦のなさが祟り、ナインの怪我から春の選抜大会辞退という結果を招いている。
「おいそれと、さあ、やろうかとはならねえ訳よ」
今夏の東京都予選でも、ナインの負傷により結果的に試合に負けた谷原が準決勝に進むという事態を引き起こしている。
(秋季大会前に怪我人を作ってみろ。どうなることか。)
秋季大会の辞退。最悪の場合には対外試合の禁止といった措置がとられるやもしれない。
中学時代、全国大会出場辞退という不名誉な記録を作ってしまった丸井からすれば、慎重にならざるを得ないのは当然だった。
「俺としてはみすみすこのチャンスを逃す手はないと思います。そのために昨日、希望を聞いたんでしょう?」
イガラシが長机の上にある特訓参加の希望用紙を指差した。
互いに部員の負傷から出場辞退の経験がある丸井とイガラシは、事前に徳川の特訓に参加するかどうか部員の希望を聞いていた。
3年生は除外とし、1,2年はレギュラークラスと墨二の後輩である久保が希望。これでいけるだろうとふんでいたイガラシにとって、丸井が未だ思い悩んでいるのが不思議だった。
「分かってらあな、そんなこと」
「だったらすぐにでも返事をした方が・・・・・・」
「残った一年生の指導は誰がやんだよ」
「そりゃ・・・・・・」
ぽりぽりと頭を掻きながら、見つめてくる丸井に、イガラシは目を伏せた。
墨谷OBである田所が集めてきた一年生は数が少ないながらも地区のエースで、言わば墨谷の明日を担う金の卵達だ。そんな彼らを放っておいて、自分達だけ特訓に勤しむのはどうなのか。
これまで選手層の薄さに頭を悩ませることが多かっただけに、丸井はそのことが大いに気がかりだった。
「しゃあねえ。他の連中にも聞いてみっか」
昼休み、部室に集まったのは墨谷の二年生。
丸井、半田、鈴木、加藤、島田、それに松川。
「で、どうするんだよ、丸井」
口火を切ったのは墨谷二中以来の付き合いの加藤。
「明訓との練習試合が終わったらすぐ秋季大会だからよ」
特訓参加組は言わずもがな。居残り組でもしっかり練習をできるような体制をとりたい。
「正直あれ以上なんて無理だぜ」
昨日の猛特訓を思い出しながら肩を竦めて見せたのは特訓不参加を決めた鈴木。
丸井達よりも前に入部しているが、高校から本格的に野球を始めた彼にとっては今がぎりぎりのラインだった。
「おいおい」
じとっとした目で鈴木を見る島田を丸井がとりなす。
「そりゃあ、あんなノックを見せられればな」
「まあな」
加藤の呟きに部室に集まった皆が腕を組み考え込む。
三年生にとっては一生の誇りとなる試合。
二年生以下の者にとってもそれは同じだ。
が、卒業まで何もない三年とは違い、彼らには今後の高校野球生活がある。
「居残り組はおのおの自主練という形にしてみては?」
頭を悩ませる中、しばらくして口を開いたのは半田だった。
「む。それならそこまで問題にはならねえかもな」
「確かに」
加藤が同意し、島田も頷き、それでいこうとなった矢先。
「でもよ、それじゃあ特訓参加組とあまりにも差ができねえか」
鈴木が口を挟む。
「それなんだよ。そいつが問題なんだ。指導する奴がいなきゃ自主練って言ったってな」
頭を抱えながら、丸井が皆を見回す。
この場で特訓に不参加なのは鈴木だけだ。
半田は墨谷にとって貴重な分析班であり、対明訓戦の分析だけでなく、秋季大会に向けて各校のデータ収集に暇がない。
「とすると」
「お、俺?」
鈴木が素っ頓狂な声を上げる。その反応に、丸井は大きなため息をついた。
「って柄じゃねえしなあ」
「・・・・・・」
松川は黙りながら下を向いた。
「おい。」
放課後の練習終わり。倉橋はトンボをかけながら、隣の谷口に見えるようにとぼとぼと部室へと向かう丸井の姿を指差す。
「ああ」
「いいのかよ」
「俺が口を出すべきじゃない」
「そりゃそうかもしれねえがよ」
手を止め、再度ちらりと丸井の後ろ姿を見る倉橋に対し、
「丸井なら大丈夫だ」
谷口は手を止めず丁寧にマウンドをならしていった。
部室に戻った丸井は一人考えていた。
何と言っても名伯楽との誉れの高い徳川の指導が受けられるのだ。全国の高校球児が羨望の眼差しを送ることは間違いなく、チーム全体の強化としてこれ以上のものはない。
(明日になっちまったな)
レギュラーでない者たち、とくにイガラシや井口等を除いた一年生の扱いをどうするかが決まっていない。特訓を受ければ確かに彼らもレベルアップするだろうが、昨日以上の猛特訓に耐えていけるかは微妙なところだ。その意味では希望制というのは彼らにとっても救いだっただろう。
だが、残り2週間余りをどうすごすのかが問題だった。
(半田の言った自主練ってのはいいが問題は誰が指導するかなんだよな。)
地区の生え抜きである彼らを指導者無しのまま放っておくのは、余りにももったいなさすぎる。
徳川の猛ノックを受け、無理そうだと判断した鈴木を指導者として据えるのが順当だが、気分にムラがあり不安がある。OBの田所に頼るという手も考えたが、社会人の彼は忙しい。そう毎日来てもらえはしないだろう。
(中山さん達にお願いするか?)
卒業した谷口の一つ上の先輩たちは大学生だ。頼み込めば来てもらえるかもしれないが、何しろ急な話過ぎる。
どうしたものかと眉間にしわを寄せていると、部室のドアがノックされた。
誰だろうとドアを開けた丸井を待っていたのは松川だ。
「どうした。練習は終わったってえのに」
「・・・・・・」
松川の目が机の上に置かれた希望用紙に注がれるのに気づき、丸井はふうとため息をついた。
「どうにもおれっちも無い頭で考えているんだが、さっぱりでな」
こうなりゃ鈴木に頼むしかないなとくるりと踵を返した丸井の背に、松川が告げた。
「俺、特訓を辞退しようと思っている」
「え・・・・・・」
ゆっくりと振り返った丸井に対し、項垂れながら松川は続けた。
「春先からどうもな。イガラシや井口が入ってきて焦れば焦るほど調子が上がらなくてさ」
鈴木とは違い、松川は入学当初から墨谷第二の投手としてレギュラーを張ってきた男だ。
春先から調子を落とし、井口やイガラシなどの一年生の台頭もあってベンチを温めているが、その能力はかつて地区予選の準決勝で戦っただけあって丸井は高く買っている。
その彼がまさか特訓の辞退を申し出ようとは。
「だったら尚のこと参加したいんじゃねえのかよ」
「・・・・・・」
「なら、いいじゃねえか、鈴木に頼むってことで」
「いや、これは俺自身のためなんだ」
松川はぽつりと呟いた。
野球素人の部長にさえ、目が離れていると言われるほど春先の松川は調子が悪かった。
そこから持ち直しては来ているものの、期待の一年生たちとの差にどうしたものかと頭を悩ませてきたのだと言う。
「特訓に参加するとなると俺はピッチャーとサードの練習ばかりになっちまう」
それでは、井口やイガラシとポジションを競うには余りにも不利だ。
それならば、今墨谷でもっとも必要なポジションを練習すればいい。
「お、お前まさか・・・・・・」
「ちょうど倉橋さんが顔を出してくれてるんだ。色々と聞けるだろうしな」
「本当にそれでいいのかよ・・・・・」
「ああ」
力強く頷いた松川の両手を丸井は思わずがっしりと握りしめた。
「おいおい」
照れたように松川が頬を掻く。
「別にピッチャーを辞めるって訳じゃないんだがな」
おどけてみせる松川に対し、丸井は涙が止まらなかった。
きっと松川はチームのことをよくよく考えて決断したのだろう。
隅田中で倉橋とバッテリーを組み活躍していた松川なら、一年生の指導者としてはうってつけだ。
「すまん、松川。一年を頼む」
「ああ」
丸井の言葉に頷き返す松川。その目には決意の灯がともっていた。
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第三十三話 「突然の訪問者」
秋晴れのする午後。
「たのもーう」
明訓高校の合宿寮の玄関から響く大きな声に、貴重な睡眠を邪魔された岩鬼は怒りの声を上げた。
「なんや、なんや。出入りかい。今は夜や。三度の飯より喧嘩好きなわいやがな。時と場所を考えてから来んかい!」
「お、よぉおめえよぉ。食うだけ食って昼寝したことも忘れるなんておめでたいにもほどがあるづらぜ」
「なんやと、とんま!」
「お情けでここに置いてもらっているのによぉ。いい気なもんづら」
「やかましい! それはお前も同じことやんけ!!」
本来ならば夏の大会終了と共に彼ら3年生は退寮となり、各々の自宅へと帰っていくのが通例だ。それが異なるのは、今秋のドラフトの目玉となる彼らを手元に置いておいた方が管理しやすいとの理事長自らの判断だったが、実際には学校の功労者とも言うべき彼らの複雑な家庭環境に少しでも配慮しようという温情もそこには含まれていた。
揉める二人の側を通り抜けていくのは新キャプテンとなった高代だ。
「わっ!?」
「なんや、タカ。どうしたんや・・・・・・って、なんやて!?」
あくびをしながら部屋から出てきた岩鬼は、やってきた来訪者に思わずぽかんとした。
「おい、どうした岩鬼」
岩鬼の声に釣られ、食堂からやってきた里中と山田もその異様な光景に愕然とする。
「さ、真田一球・・・・・・」
玄関先にいたのは巨人学園の真田一球と呉九郎。
「やあやあ、明訓の諸君。その節はどうも」
笑顔で挨拶をする一球だが、一同の目は隣の九郎から目を離せない。
「何や、それは」
九郎が抱えているのは彼の倍近くはあろうかという大きな猪だ。
「これ? お土産だ~よ」
そう言うと、どすんと九郎は抱えていた猪を下ろした。
「と、とにかく食堂へ」
山田は二人を食堂へと案内する。
座った瞬間、開口一番岩鬼は怒りを爆発させた。
「あんなもん持ってきおって。一体何の嫌がらせや!」
「とんでもない。いい猪がとれたんでね。おすそ分けに来たんだ」
「二人で食べるには量が多いだ~よ」
「とれたて、あんなもんが町中でほいほいとれてたまるかい」
「もちろん山の中でさ。実家に戻るついでにね」
三人の会話を聞きながら、食堂の寮母はぞ~っと冷や汗を流す。
(ちょっと待って。あれ、私が解体するの?)
「第一どうやって食べろっていうんや。ここで解体する気かい! 少しは人様の迷惑っちゅうもんを考えんかい!」
(そうよ、岩鬼くんの言う通りよ。持って帰って!!)
「庭先を貸してもらえればそこでちょちょいとするんだけどね」
「一球さんは手際がいいからあっという間だ~よ」
「そういうことを言っとるんやないわい、あほんだら。もういい、お前らそれを持って帰れ!!」
(いいわ、岩鬼くん!! 今度秋刀魚を大盛りにしちゃう!)
「仕方がない。それじゃあ後で肉だけ持ってくるよ」
残念そうにする一球に、岩鬼はさらにイラつく。
「最初からそうせえ! 常識ってもんがないんか」
「へえ~。ハッパに常識を説かれる日が来るなんて思わなかったづら」
「何やて!」
「それで、一球さん。今日はまたどうして」
山田の問いに、一球は頷くと、本題を切り出した。
「今度引退試合をするという墨谷だけれど、臨時で指導者を迎えたらしくてね」
「秋季大会前にか。まあ、よくある話だな」
里中が呟く。
夏の大会の責任をとり、監督が交代するのは彼ら自身が味わったことだ。
「それが何か?」
「ああ。その人物のことを君たちはよく知っている」
「俺たちがよく知っているだって?」
「ま、まさか・・・・・・」
一球の言う人物に思い当たり、山田はごくりと唾を呑み込んだ。
明訓5人衆の引退試合。高校最後の試合。
この価値ある試合にあの男が顔を出さない訳が無い。
今夏の甲子園、室戸学習塾との戦いでケリはついたと言っていた。
だが、明訓に土をつけることを願ってやまないあの人ならば前言撤回も十分あり得ることだ。
明訓を初の甲子園優勝に導いた名伯楽にしながら、打倒明訓に挑み続けた勝負の鬼。
元明訓高校監督。徳川家康。
「徳じいが墨谷に肩入れしとるやと!? あの老いぼれ。どれだけわいらのことが好きやねん」
「だが、まあ納得だな。徳川さんの性格ならやりそうだ」
素直に納得した里中とは異なり、岩鬼は憤慨する。
「甲子園の室戸戦の後に打倒明訓の旅は終わった、そう言うてたやないか。仏の顔も三度までやで、ほんま。ええ加減にせんかい」
「お、よぉ、おめえ。難しい言葉を使ったつもりでいると数も数えられねえのかととんだ恥をかくづらぜ」
「どういうことや、とんま」
「徳川がよ、打倒明訓を掲げるのは五回目づら」
「何やと!?」
「クリーンハイスクール、信濃川、室戸学習塾、ああ、そうか。東郷学園もか」
指を折りながら微笑が確認し、ぐぎぎぎと悔しがる岩鬼に殿馬が駄目押しする。
「もうすでに三度はとっくに超えているづらよ! バカめ!」
「でもまさか徳川さんが出て来るとはなあ。俺たちとの練習試合のためだけの監督か? よく墨谷もそれでよしとしたもんだ。なあ、山田」
墨谷との練習試合を記念試合と捉えていた里中だったが、固い表情を浮かべる山田に思わず口をつぐんだ。
「それほどの男がいたんだよ。徳川さんの目に叶う男が」
「何だと」
「その通り。今日僕たちが来たのは忠告のためさ」
「忠告だって?」
眉をしかめる里中を山田がまあまあととりなす。
「墨谷と先日練習試合をしたんだがね。二対二の同点で勝ちきれなかった」
「一球さんが二点も取られただって?」
山田の驚きに周囲も同調する。甲子園、明訓は巨人学園に勝つことはできたが、好投手である一球の前に凡打を築き一点しかとることができなかった。山田が本調子ならば結果は違っていたかもしれないが他の明訓4人衆がことごとく打ち取られたのは確かである。
「そのチームに徳川さんが合流するというのか」
先ほどまでとは打って変わり、里中は表情を引き締める。
クリーンハイスクールや東郷学園では影丸や小林を中心の野球を。
目立ったエースのいない信濃川では相手の隙をつく野球を。
そして室戸学習塾では犬飼を中心とした守りの野球を。
異なる高校で異なる野球を展開してきた徳川だけに、どんな野球をしてくるか予想もできない。
「油断をしていると足元をすくわれるよ。墨谷は強い」
淡々と語る一球だが、それゆえその言葉には重みがあった。
「相手が誰やろうと男岩鬼には関係ないわい! 正々堂々受けて立つまでよ!」
「さすがに闘う男は違うな、岩鬼」
「何や、分かっているやないか、球の字。夕飯でも食ってくか?」
ぽんと上機嫌に一球の肩を叩く岩鬼の後ろで勢いよく首を振る寮母。
(止めて! 猪をさばかなきゃいけなくなるじゃない! 秋刀魚大盛りなし!)
寮母の方を見ながら一球はにっこり微笑み、首を振る。
「いや、止しておこう。持って帰って猪をさばかないと」
「せっかく持ってきたのに残念だ~よ」
「わざわざありがとう、一球さん」
玄関先まで見送りに来た山田に一球は頷いた。
「高校野球最後の試合、どうか悔いのないようにして欲しい」
「ああ、期待に沿うよう頑張るよ」
「それじゃあ健闘を祈る」
去っていく一球たちの背を見ながら、山田は祖父の言ったことを思い出していた。
(ただの記念の練習試合のつもりじゃない。じっちゃんの言っていた通りだった。)
まさしく明訓に高校生活最後の試合で土をつけるために。
墨谷は巨人学園と練習試合をし、徳川を臨時の指導者に迎えたに違いない。
(東東京代表墨谷高校。一体どんな相手なんだ・・・・・。)
自分達の甘さを噛み締めながら、山田は墨谷の情報をどうやったら得られるかと頭を巡らせた。
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第三十四話 「特訓、また特訓」
ですが、一月の水島新司先生の訃報を聞き、その気持ちが粉々に砕け散り、書く気が全く無くなってしまいました。そんな時にドカベンを再び読み直し、昔の興奮が蘇ってきました。細々と書き続けていければと思います。前話を加筆修正し、これまでの話も若干修正する予定です。
水島新司先生のご冥福をお祈りいたします。楽しい野球漫画をありがとうございました。野球の面白さを教えていただきありがとうございました。ドカベンのプロ野球編が始まると聞いた時の興奮と感激は忘れられません。
各野球部間、秋季大会に向けて練習に励む中噂が広がるのは早い。
「元明訓高校監督名将徳川家康、墨谷の臨時コーチに就任す」の報は偵察に訪れていた各校部員の口から口へと伝えられ、瞬く間に広がった。
「と、徳川監督がどうしてうちに・・・・・・」
高校野球好きの体育教師は甲子園の時期でもないのになぜと首を捻り、ああと一人納得した。
徳川にとっては打倒明訓こそが全てなのだ。
地方大会だろうが、甲子園だろうが関係ない。
彼にとっては山田達のいる明訓と戦えるということこそが全てであり、そうであるならば練習試合だろうが構わないのだろう。
「噂の名伯楽のお手並みを拝見するかな」
呑気に同僚と連れだって、河川敷に行った彼は、特訓の余りの激しさに吸いかけのタバコをポトリと落とし、興味本位で覗いたことを後悔した。
「どうしたい、そんな程度の努力と根性で明訓に勝とうなんて片腹痛いぜ!!」
かっかっかと愉快そうに笑いこともなげに言い放つ徳川。
その前には、息も絶え絶えになりながらうずくまる丸井の姿があった。
「さあ、お次で300じゃ!!」
「さ、300? ひ、一人に?」
墨谷の様子を偵察に来ていた他校部員からため息が漏れる。
あの凄まじいノックを200も受けるというのか。
「ウソだろ・・・・・・」
自分達との大きな隔たりに愕然とする彼らの脇を通り、ボロボロになった墨谷高校ナインが運ばれていく。
ふらふらになった丸井を見てぐいと徳利をあおると、徳川は大きく息を吐いた。
「おいおい。どうしたい。そんなこっちゃ打倒明訓なんぞ夢のまた夢やぜ。岩鬼や山田は二年の時点でわしのノックを500近くはさばいたぜ?」
「ご、500だと!? ば、化け物だ!」
ギャラリーの声ににやりと笑った徳川はとんとんと肩をバットで叩く。
「そうとも化け物さ。そんな化け物連中と闘うんじゃ。普通にやってて勝てる訳あるめえ!!」
「も、もういっちょ!」
バスンとグローブを鳴らした丸井の様子に徳川は満足そうに頷くと、
「それでこそキャプテンよ。その意気じゃ!」
容赦のないノックの嵐を浴びせた。
夜。思い足を引きずり戻って来た河川敷組を学校組が迎える。
「な・・・。今日はまた一段とすごいな・・・」
猛練習で鳴る彼らも絶句するほどの河川敷組の様子に、松川はすぐさま一年生に指示を出す。
「怪我の手当と、荷物の片づけを!」
ぱっと散った一年生達がきびきびと動くのとは対照的に河川敷組の面々はその場に倒れ伏した。
「さてと、わしはひと風呂浴びて一杯やりに行くかな」
張本人である徳川はけろりとした様子で、疲れを微塵も見せない。
「あ、あの・・・・・・」
去ろうとする徳川に松川は声を掛けた。
「なんじゃ。何か用か」
振り向きもせずにそれに応える徳川。
「その・・・・・・」
「特にないならわしは行くぞ。汗をかきすぎたんでな。水分を補給しないとのう」
下を向いたまま松川はじっと動かない。
ちらりと松川に目を向けた徳川はやれやれと呟いた。
「悩みがあるなら言うとええ。わしは弱いものの味方じゃからのう」
連日の猛練習の凄まじさにめっきりとギャラリーが少なくなった河川敷。
「これぐらいがちょうどええ」
徳川は頷くと、今日は特別練習があると告げた。
「特別練習?」
「い、今までのは何だったんだ」
「あんなもんは基礎練習じゃ」
戸室と横井が顔を見合わせる。既に彼らの考える以上の猛練習であるだけにそれより上など想像もつかない。
「ええか。今の明訓はわしが3年間戦ってきた中で一番強い。そんな連中と戦うにはお前たちには足らんものがある」
「それは?」
「強敵との戦いの経験よ。毛色の違う相手と戦い、それに勝ってきたのが明訓じゃ。巨人学園とやったのはいい考えじゃが、あれだけでは足りん」
「た、確かに。でも、今から練習試合を組むのは無理なのでは?」
イガラシの問いに、徳川は不敵な笑みを浮かべた。
「わしを誰だと思ってるんじゃ。高校野球界にその人ありと言われた徳川家康やぜ。わしのつてで特別ゲストを呼んでやったわい」
「特別ゲスト!?」
「おうとも。おい、姿を現さんか!」
徳川の呼びかけに応じ、土手の向こうから姿を現した人物を見、墨谷ナインは驚きの声を上げた。
「お、おい!!」
「ああ。な、何であの二人がここにいるんだ」
そこにいたのはかつて明訓と関東大会を戦い、今夏千葉県大会決勝ではあの中西球道率いる青田と激戦を繰り広げた男たち。
千葉県代表クリーンハイスクール。
背負い投法の影丸と黒い弾丸ハリーフォアマン。
歩いてくる二人にあっけにとられる墨谷ナインの反応を愉快そうに見つめながら、徳川はかっかっかと笑い声を上げる。
「それだけやないぜ!」
徳川が指差したのは橋の下。そこには先ほどから声を掛けるのを待っていたのであろう二人組の姿があった。
「なんだって!!」
「あれは!!」
二人組のうちの一人。やってきた長身の男。
片手でゴムまりを握りしめながらやって来るその男から発せられるあまりの迫力に思わず墨谷ナインはごくりと唾を呑み込んだ。
横浜学院が誇る大エースにして、大怪我を乗り越え神奈川県予選で明訓を苦しめること二度。
超剛球の使い手にしてもう一人のドカベン。
「ど、土門剛介・・・」
そして、
「どーも」
ぺこりと律儀に頭を下げてやって来るその恋女房である谷津吾朗。
思わぬ来訪者にあんぐりと口を開けた墨谷ナインに徳川は喝を入れた。
「さあさあ。時間は少ないんじゃ。早速特別練習といこうやないか!」
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第三十五話 「鉈とカミソリ(前)」
4/19 若干内容変更加筆。
普段は盛んに練習の声が響く河川敷のグラウンドが、静まり返っていた。
「まさかな」
「ああ・・・・・・」
ぐいと汗を拭う墨谷ナインは、未だに目の前に彼らがいることが信じられない。
影丸隼人にジョージフォアマン。土門剛介に谷津吾朗。
全国の高校野球ファンならば知らぬ者はいない高校野球界のビッグネームだ。
影丸率いる千葉県代表クリーンハイスクールは創設一年目にして関東大会であの明訓を大いに苦しめ、今夏の千葉県予選でも甲子園で明訓と引き分け再試合という激闘を演じた怪童中西率いる青田相手に後一歩と迫った。
今や押しも押されぬ強豪となったクリーンハイスクールだが、そんな彼らが一躍有名なったのは、山田や岩鬼と中学時代から因縁が続く影丸の存在もあるが、何と言っても前明訓監督である徳川が指揮をとっていたことが大きい。社会人野球秋田製紙監督の誘いを断り、あくまでも打倒明訓を目指した徳川の姿はマスコミにとって格好のネタであり、当時は大いに紙面を騒がせた。
「えらく苦労させられたんでな。プロに入って打倒山田を目指す気があるんなら借りを返すつもりで来いと言ってやったのさ」
かっかっかと楽しそうに笑い声を上げる徳川に対し、影丸はやれやれと肩を竦める。
「けっ。打倒紫がならず燻っていたこっちの気持ちを見透かしやがって。相変わらず食えねえ爺さんだぜ」
「デモ、ウォーミングアップニハチョウドイイ」
「くひひひ。そう上手くいくかのう。おい、一番から準備せえ。とりあえず一回り投げてもらおうじゃねえか」
「は、はい!」
突然の来訪者に戸惑うも、素振りをしながら打席に入る丸井。
「やれやれ」
慌ててプロテクターを着けようとした倉橋を、
「あ、僕がキャッチャーをやります」
谷津がミットを掲げて制した。
「え・・・・・・」
「明訓を苦しめた影丸さんのタマを受けられるまたとないチャンスですから」
「すまないがそうさせてやってくれないか」
横合いから土門が口を挟むが、影丸の球を打ってみたい倉橋としては渡に船だ。
「そ、それじゃ」
「ええ」
谷津がプロテクターを受け取ったのを見ると、影丸は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「どっちがキャッチャーでも構わんぜ。俺のタマを土門のと一緒にするな」
「それはそうですよ。土門さんの方が上ですから」
「ぬかせ。捕り損なって怪我をしても知らんぜ」
「それこそいらぬ心配だ。吾朗の身体の強さは筋金入りだ。お前程度のタマではびくともしない」
「ウフフフ。そいつは楽しみだ」
一番丸井。
(明訓を苦しめた影丸か。)
ぺっぺっと気合を入れる丸井に対し、影丸は冷めた目を向ける。
(甲子園にも行っていない連中が打倒明訓だと。)
大きく振りかぶってのストレート。
(速い!!)
打ちにいった丸井はぴくりバットを止める。
ズバン!!
「ストラーイク!」
「さすがに速いな」
「ああ」
周囲の声に気をよくした影丸の二球目。
「うっ!」
キィン!!
3塁線へのファール。
てっきり空振りかと思っていた影丸は内心舌打ちする。
(へえ。生意気にも当ててきやがった。だが、お次はどうかな。)
三球連続ストレート。だが、丸井にファールにされ、影丸は眉を潜める。
(おいおい。どういうこった。)
「ウフフフ。おい、影丸よ。チャンバラごっこなんぞにうつつを抜かしとるうちに野球が下手くそになったんじゃねえか」
「元監督だってのによく言うもんだぜ」
徳川の煽りを受けながらも、影丸は動じない。
ビシュッ!!
バシィ!!
渾身のストレートに丸井のバットが空を切る。
「ストラーイク!! バッターアウト!!」
(さすがは徳川がコーチを引き受けただけあるぜ。粘りやがる。)
続いて二番島田、4球目に手を出し、ピッチャーゴロ。
「べらんめえ! 影丸程度のストレートを打てねえで何が打倒明訓じゃ!!」
(言ってくれるね、全く・・・・・。)
苦笑しながらも、そのプライドからかストレート勝負を続ける影丸に対し、三番イガラシはファールで粘る。
(ちっ。小器用に当てて来るじゃねえか。)
(速い。さすがに甲子園出場は伊達じゃないな。)
ぐっとバットを構えるイガラシに対し、影丸は余裕の笑みを崩さない。
だが。
キィン!!
「何!?」
打ち取ると思ったストレートを上手くイガラシに合わされ、途端に影丸は顔を引き締める。
(こ、こいつら。俺の速球についてきているだと!?)
「へい、ピッチャー。変化球を使ってもいいんだぜ?」
「はい。頑張って捕りますよ」
吾朗の言葉に、笑みを浮かべた影丸は、
「ふん。それには及ばねえぜ」
じっと次打者の谷口を観察する。
「よし」
二度三度と素振りを繰り返すと、谷口は打席に入った。
一球目高めのストレート、ボール。
ぴくりともバットを動かさなかった谷口に、影丸は笑みを消す。
(少しはやりそうじゃねえか。)
二球目一塁線にファール。
三球目三塁線にファール。
四球目にはファールが真後ろに飛んだ。
徐々にタイミングを合わせてくる谷口にさすがに影丸の内心に苛立ちが募る。
(こつこつと当ててきやがって。気に入らねえ。)
一方の谷口。
(真田もそうだが、こんな連中に明訓は勝ってきたというのか。)
影丸の球威に驚き、彼に打ち勝ったまだ見ぬ明訓の強さに思いを馳せていた。
五球目、さらにもう一度真後ろへのファール。
(しつこい野郎だ。)
自慢のストレートに食らいついてくる谷口に影丸は低く舌打ちすると。
(それじゃあこいつは・・・・・・。)
ガバアアア
大きく振りかぶり、どりゃあああとまるで柔道のような掛け声をあげながら。
(どうだ!!)
くるりと体を回転させた。
ビシュッ!!!
ギュルルルル!!!
「う、これは!!」
「くっ!!!」
ドシィ!!
捕球し損ない、体に当てた谷津は驚きに言葉を詰まらせる。
「せ、背負い投法・・・・・・・」
土門の速球が鉈なら、影丸のそれはまるでカミソリのような切れ味だ。
(ふん。どうだ。)
格の違いを見せつけ笑みを浮かべる影丸は、しかしバットを持ったまま打席を離れない谷口の姿に目を見開いた。
「お、おい」
「お願いします」
「お願いしますって、お前。今のは」
「くひひひひ、影丸よ。今のはボールじゃ。まだ谷口は打ち取られておらん」
「確かに際どいコースでしたね」
「何だと?」
谷津の投げ返したタマを捕りながら、不服そうに顔を顰める影丸。
そんな彼をさらに不快にさせたのは、谷口が何やら呟きながら二度三度とバットを振る様子だ。
(あ、あいつ。俺の背負い投法にまるで物怖じしてやがらねえ。)
初見の相手はまず間違いなく己の背負い投法を見るなり度肝を抜かれる。
対山田を目指して磨き上げてきた秘投だ。当然のことだろう。
それだというのに目の前の男はどうか。
まるで打つのが楽しみとばかりにバットを振っているではないか。
(そんなに投げて欲しいならお望み通りにしてやろうじゃねえか。)
ニヤリと笑った影丸。二度目の背負い投法。
ガバアアア
ビシュッ!!!
ギュルルルル!!!
チッ!
ドシィ!!
「おおっ!!」
再び谷津のプロテクターへと突き刺さったストレート。
だが、周囲から上がった驚きの声は影丸へのものではない。
「俺の背負い投法を掠っただと?」
あの山田を三球三振にきってとった背負い投法。
そのストレートに谷口がついてきたという事実。
「す、すごい伸びだ」
感嘆の声を上げる谷口に対し、思わず苦笑する谷津。
「こいつはいい肩慣らしになりそうだぜ。」
パンパンとグラブを叩くと、影丸は先ほどまでとうって変わって目をぎらつかせた。
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第三十六話 「鉈とカミソリ(後)」
対巨人学園戦の際に行いましたが、ちょこちょこ作者は読みつつ手直ししてます。
参考までに書くと、土門はあの山田と5打席以上対戦しながら打たれたホームランはランニングホームランのみというとてつもない投手です。
徳川の発案により急遽始められた実戦形式の特訓。
千葉県代表クリーンハイスクールのエースである影丸と墨谷ナインの対戦は結局被安打1、三振5という結果に終わった。
「ドウダッタ?」
土門にボールを渡し、ベンチに退いた影丸にフォアマンが尋ねる。
「思ったよりもやる。とくにあの四番、谷口と言ったか・・・・・・」
視界の片隅でバットを振るう谷口を影丸はじっと見据えた。
背負い投法を当てられ、ムキになった影丸のタマに谷口が食らいつくこと二度。
ついに打ち取ったとはいえ、その粘りは影丸のプライドを大いに刺激し、その後の全力投球へとつながった。
「よもやこの俺が汗をかくことになるとはな」
その言葉とは裏腹に、どことなく嬉しそうにする影丸にフォアマンは首を捻る。
一方マウンドに上がった土門は、二度三度と投球練習を繰り返しながら先日の谷津との会話を思い出していた。
「えっ。山田さんたちと引退試合をですか?」
「ああ。東東京の墨谷がな」
「明訓に土をつける最後の機会。確かに徳川監督なら首を突っ込むでしょうね」
「それどころか俺たちにも手伝って欲しいそうだ。明訓を苦しめた実績を買ってということらしいが・・・・・・」
「何か問題が?」
「いや・・・・・・」
何も知らない谷津を前に土門は口ごもる。
「山田を追ってプロ入りするつもりならいい肩慣らしになるじゃろうよ」
そうこちらの心の内を見透かすように電話で告げてきた徳川。
打倒山田を掲げる土門にとって、山田がプロ入りする以上その後を追っていくのは必然だ。
横浜学院の監督としてトレーニングを積んできた土門だが、実戦の場から離れて久しい。
今回の徳川の申し出に興味をそそられるものはあった。
だが、土門無き後の横浜学院監督を誰に託せばいいのかがまだ決まっていない。学校側は早急に代わりを探すと言ってくれてはいるものの、人材探しに難航している。そんな中で自分だけ徳川の申し出を受け、プロ入りに向けて一人動き出すことなど責任感の強い土門にはできようもなかった。
「あのー、土門さん。もし監督をどうしようかで悩んでいるのなら、僕がやりますのでご安心ください」
谷津の提案に土門は言葉を失う。
「吾朗、お前・・・・・・」
「土門さんはプロ入りすべきです。そして、山田さんとの決着をつけてください」
「知っていたのか」
学校長含め何人かしか知らない情報をなぜ谷津が知っているのか。
「バッテリーですから」
「ウフフフ。そうだったな」
谷津の言葉に土門は笑みを見せる。
あの捕球すら満足にできなかった谷津がこうも言うようになるとは思わなかった。
「土門さんに育てていただいた僕です。それぐらい御恩返しをさせてください」
「何を言っているんだ、吾朗。お前を無理やり野球に戻したのは俺じゃないか」
「とんでもない! フライも捕れないライトとして首になった僕に好きな野球をさせてくれたのは土門さんです」
「吾朗・・・・・」
「もし、気が済まないということでしたら、最後にもう一度土門さんのタマを受けさせてください」
「お前はそれでいいのか」
「もちろん。それが僕の望みです」
ニッコリと笑う谷津に対し、土門は一瞬躊躇するも、こくりと頷いた。
「よし、やろう。やろうぜ、吾朗」
「ええ。打倒明訓を目指す墨谷に見せてやりましょう。神奈川に土門ありということを」
「よ~し。トップからや。丸井、準備せえ!」
「お、おう!」
(随分と鍛え上げられている。相手にとって不足はない。)
歩いてくる丸井の様子を見てとり、土門は気持ちを新たにする。
(都予選を怪我で敗退したチーム。どことなく感じるものがあったが、そんな思いは捨てた方がよさそうだ。)
打席に丸井が入ったのを確認するや、谷津がミットを掲げる。
「しまっていこ~!」
「おいおい」
「どういうこった」
それを見た墨谷ナインから戸惑いの声が上がるが、徳川は口の端に笑みを浮かべると、
「夏の甲子園大会決勝じゃ! 神奈川県代表横浜学院と、東東京代表墨谷ののう!」
マウンドにいる土門に呼びかけた。
(甲子園・・・・・・。)
全国屈指の激戦区と言われる神奈川県予選。
不知火のいる白新、雲竜のいる東海、小林のいる東郷学園。
多くの強豪校が打倒明訓を目指す中、もっとも明訓を苦しめたのは土門のいた時代の横浜学院だろう。
土門が投手として明訓と相対したのは二度。いずれも鉄人土門の前に明訓は苦しめられた。特に夏の大会に至っては、6試合連続ノーヒットノーランを達成した土門の剛腕の前に凡打と三振の山を築き、あと一人というところまで追い詰められた。谷津の落球によって九死に一生を得、辛くも甲子園に出場することができたが、あわや明訓の初黒星なるかとお茶の間が色めきだったのは記憶に新しい。
(土門の不幸は同じ神奈川に山田がいたことよ。そうでなければ甲子園の土を何度も踏んでいたことじゃろうて。)
自らも監督時代に苦しめられた徳川にとって、土門の存在は忘れられるものではなかった。
『さあ、あの明訓を破り、甲子園出場を果たした鉄人土門。ここまで一人でマウンドを支えてきました。残すは後一つ。対するは東東京代表墨谷。満身創痍ながら、土門を打ち崩すことができるのか!』
風に乗って聞こえてくる実況や、観客のざわめきを感じながら、土門は谷津に向けて大きく頷いた。
(なんだ、こいつのこの迫力は・・・・・。)
不敵な笑みを浮かべ、初めは様子見をしていた影丸と違い、最初から気合十分の土門の迫力に、丸井は圧倒される。
ガバアアア!!
ビシュッ!!
ドシィ!!
谷津のミットに収まった土門の剛球に丸井は唖然とし、墨谷ナインは言葉も出ない。
二球目インコース高め、ストレート。
及び腰になりながら空振りを喫した己に苛立ち、丸井はぱんぱんと頬を張った。
(くそっ。びびってどうする。相手が強いのは分かり切っていたことじゃねえか!)
あの明訓を追い詰めた連中なのだ。只者である筈がない。
(影丸も速かったが、それ以上だ。)
影丸のストレートがカミソリとするなら、土門は鉈だ。
上手から振り下ろされるその一球は重く、力強い。
(これならどうだ!)
(む・・・・・・)
バントの構えを見せた丸井に対し、谷津の要求はど真ん中のストレート。
ガバアアア!!
ビシュッ!!
キィン!
「う・・・・・・」
当てに行った丸井だが、土門の球威に押され、バットを弾かれる。
「そんな・・・・・・」
「バントすることもできないなんて」
呆然とするナインの中、顔面蒼白の島田が打席へと向かう。
「おい、下手くそども! 青びょうたんみたいな面をしてねえで、打てねえなら工夫をせんか!」
「そ、そうだ」
「うむ」
徳川の檄に応えばらばらとベンチの前に並んだ墨谷ナインは土門の投球タイミングを計るため、バットを振るう。
島田三振。
「く、くそ!」
イガラシ、バットを短く持ちファールするも同じく三振。
(ミートの上手いイガラシが捉えられないなんて。)
打席に入った谷口に、マウンド上、土門はふうと息を吐く。
(この男は要注意だ。)
影丸の背負い投法を当てた谷口に対し、土門の第一球。
ストレートど真ん中。
ドシィ!!
ミットに向けて唸りを上げる土門の剛球に、谷口は冷や汗を流す。
(もっとバットを短く・・・・・・。)
「おい、谷口!」
次打者の倉橋がバットを寝かせてみせる。
「あ、あれは!」
その構えに谷口の古い記憶が呼び覚まされる。
昨夏の都予選。大会屈指の速球投手、専修館の百瀬を打ち砕くべく行った猛練習の最中に編み出した速球に合わせるバッティング。チョコン打法などと揶揄されもしたが、百瀬対策には効果を上げた。
「成程」
「確かにあれなら」
当時を知る島田や加藤が頷き合うが、横井や戸室は厳しい表情を崩さない。
「確かにあれなら当てられるがよ」
「専修館の投手より土門の方が速いぜ」
(速いだけじゃない。おまけに重い。)
アドバイスを送ったものの、通じるかどうか倉橋は半信半疑だ。
ガバアアア!!
ビシュッ!!
ゴオオオオ!!
チッ!!
掠ったボールがそのまま谷津のプロテクターに当たる。
「当たった! あの剛速球に!」
「だが、それだけだ。もっと腰を入れないと飛ばせない」
三球目、同じくインコースのストレート。
わずかに掠ったボールがころころと三塁線に切れ、ファールとなる。
(な、なんて重いタマだ。合わせるだけでも一苦労なのに。)
四球目、インコース高め。誘いにのらずボール。
(よく見たな。)
(ええ。あそこは振りたくなるはずなんですが。)
(俺に対しても粘って来るか?)
(それならこれでどうです。)
谷津の出したサインに、土門は口の端を持ち上げる。
(よし。)
ガバアアア!!
グク!!
鋭く落ちるシンカーに意表を突かれた谷口のバットが回る。
「くそっ!」
ブン!
「ああっ!!」
周囲からはため息が漏れた。
「谷口さんまで・・・・・・」
「こ、こんな奴にどうやって明訓は勝ったんだ・・・・・・」
「おいおい。その明訓に勝つつもりなんじゃないか、俺たちは」
倉橋の言葉にはっと我に返り、墨谷ナインは素振りを再開させる。
(さてと。皆にああ言った手前、せめて掠るぐらいはしねえとな。)
谷口と同じく打席に入るなりバットを寝かせる倉橋。
その様子に横浜学院バッテリーは頷き合う。
(さすがに明訓と戦おうとする連中ということか。)
(ええ。一筋縄ではいかないようです。)
(それならとことん付き合うまでだ。行くぞ、吾朗。)
(はい。)
土門は大きく振りかぶると、谷津のミット目掛けて力強く投げ込んだ。
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プレイボールVS.ドカベン 後編
第三十七話 「仮想明訓に挑め!(」
集英社での特別展示だけでなく、どこかで特別展を開いて欲しいです。
河川敷グラウンドに吹き荒れた土門剛球旋風。
まるで神奈川県大会決勝の明訓戦を思い起こさせるかのような土門の力投に、墨谷打線は圧倒され、一巡しての結果は丸井のバント失敗と倉橋のキャッチャーフライを除く全てが三振という有様だった。
「少々ムキになりすぎたか」
マウンドへと歩み寄って来た谷津に土門が苦笑してみせる。
徳川の煽りを受け、思う存分投げ込んだものの、本来の役目は対明訓の助っ人だ。
これでは相手をただ意気消沈させるだけになりはしないか。
「いえ、そういう訳でもなさそうですよ」
谷津はちらりと墨谷ベンチの方を向く。
影丸と同じく一回りでマウンドを降りるつもりだった土門だが、墨谷の面々はバットを片手にひそひそと話し込み、次打者の丸井に至ってはそんなことは関係ないと続ける気満々で素振りを始めている。
「成程。こいつは侮れないな」
神奈川県下土門の剛球のすごさは鳴り響いている。明訓を追い詰めたことだけでなく、その剛球を捕れるキャッチャーがおらず全力投球ができなかったという話は、今や各野球部間でまるで伝説のようにまことしやかに語られている。そんな己のタマに臆することなく敢然と立ち向かってくる者達があの明訓以外にいようとは。
(この時期に明訓に挑もうとするだけのことはある。)
秋季大会も近いこの時期。代替わりが起こり、新たなチームのための土台作りに忙しい筈だ。
王者明訓へと挑むことは無駄ではない。だが、今必ずしもすべきことではないだろう。
3年生もまた然り。卒業に向けて進路のために忙しい時間を削り、ただ一試合のために地獄のような特訓をする意味はあるのか。普通に考えたらありはしない。
(まさに野球狂。)
余人からすれば愚かとしか言えぬ選択。
だが、打倒山田を目指す土門にとって、彼らの熱い思いは理解できるものだった。
その思いに応えようと再びマウンドに向かおうとする土門を、
「おっと待ちな、土門さんよ。一回ずつ交代といこうじゃねえか」
横合いから影丸が呼び止めた。
「カゲマル・・・・・・」
先刻までとは打って変わった元チームメイトの態度に、傍で見ていたフォアマンは驚く。
「かっかっかっか。影丸よ。居ても立っても居られなくなりおったか。結構結構。お前さんが振るのは棒切れじゃねえ、バットよ」
「それじゃあ・・・・・・」
土門からボールを受け取り、マウンドへ上がろうとした影丸を徳川は制す。
「おいおい。まだお前さん達の攻撃が終わってないぜ」
「どういうことだ?」
「何のためにわしがフォアマンも呼んだと思ってるんじゃ。打つだけじゃねえ。投げる方も鍛えるためよ。仮想明訓を相手にしてな!」
「か、仮想明訓!?」
徳川の言葉に墨谷ナインが反応する。
巨人学園との練習試合で真田一球が秘策として繰り出した影武者明訓作戦。
本物の明訓ナインそっくりの仕草を見せる彼らの前に墨谷ナインは翻弄された。
「巨人学園の連中がやったのはあくまでもただの物真似よ。ま、あそこまで突き詰めて真似れば本物に近い動きはできようが、本家明訓と比べりゃあ格落ちもいいとこじゃ。だが、このわしの仮想明訓はそんなものとは訳が違う。少なくとも本家明訓に劣ることはなかろうぜ」
「まさか、そんな・・・・・・」
自らの発言にどよめく墨谷ナインを愉快そうに見渡すと、徳川は大きな声で告げた。
「一番、土門!」
「む」
「三番、影丸!」
「何だと?」
「四番フォアマン!」
「!」
「五番谷津!」
「え・・・・・・」
「な!!!」
余りの衝撃に、墨谷ナインは一声発したまま、言葉を失った。
クリーンハイスクールに横浜学院。関東きっての強豪であり、明訓を大いに苦しめた異なる二チームでクリーンナップを務めた4人。その彼らが、まさか同じ打線を組むことになろうとは。
「じょ、冗談だろ・・・・・」
戸室の呟きに、徳川が首を振る。
「だが、それほどや。明訓の上位打線の破壊力は」
誰よりも明訓を知る男の反論に対し、皆言葉を返すことができない。
「確かにそうですね」
イガラシは丸井と共に明訓を訪れた際のことを思い出し頷いた。
世間では大言壮語の色見本という者もいる岩鬼だが、実際に対戦して肌で感じたその迫力はこれまで感じたことのないものだった。あの岩鬼の後に、五番に座る微笑まで一切気を抜くことができないのが王者明訓打線の特徴だ。おまけに何と言っても、四番には日本一の打者である山田が控えている。
「あれ、でも二番がいなくねえか」
横井の一言に、皆があっと気が付く。
「そういや呼んでなかったな」
「呼び間違いか? いや、でも五番と言っていたぜ」
どういうことかと見つめてくる墨谷ナインに対し、徳川はポリポリと頬をかいた。
「ああ。実はもう一人呼んでいるんじゃ。二番に座る奴をな」
「成程。そいつを合わせて仮想明訓ってことか」
「じゃが、飛行機が遅れておるらしい。仕方ない。待っている時間がもったいねえ。おっぱじめるとするか」
「飛行機? そんなに遠くから来るのか?」
谷口がそう隣にいる倉橋と顔を見合わせた時だった。
キキ――――ッ!!
河川敷の土手に派手な音を鳴らしながら、一台のタクシーが止まったかと思うと、中から一人の少年が姿を見せた。
その姿に気が付いた徳川が嬉しそうに徳利を掲げて見せる。
「遅いじゃねえかよぉ、知三郎! 待ちくたびれたぞ!」
「知三郎って、ま、まさか・・・・・・」
いち早くその正体に勘づいた谷津は目を大きく見開いた。
よれよれの学生帽から眼鏡をかけた片目だけを覗かせた少年は、一見野球でもするのかと思われる程色が白い。だが、彼こそが今夏の甲子園においてあの山田を不調に陥らせ、全国の名だたるエースを打ち砕いてきた秘打男殿馬のリズムを狂わせた張本人なのだ。
「これでも朝一番に高知を出てきたんですがね」
飄々とした表情ながらも、油断のならぬ雰囲気を漂わせグラウンドへと歩み寄る少年に、墨谷ナインはお互いの顔を見合わせる。
「おい、あれって!」
「ああ、間違いない」
どうして彼がここにいるのか。
素人同然の仲間たちと共に、明訓と死闘を繰り広げた南国土佐の雄あの土佐丸を撃破し、甲子園で明訓を相手にゼロの神話を見せつけた男。
高知県代表室戸学習塾のエース。
そして、あの犬飼三兄弟の末弟。
「い、犬飼知三郎・・・・・・」
仮想明訓打線
一番 土門
二番 犬飼知
三番 影丸
四番 フォアマン
五番 谷津
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墨谷高校激闘の軌跡序「This is 高校野球」
プレイボールの世界にあのスポーツ雑誌があったら? というノリで書いています。
表紙は某N○mberっぽい出来で、結構お褒めいただきました。
冬コミに出れたらまた刷ろうかと考えてます。
本編は近々更新出来たら。
「高校野球の魅力とは何か」そう訊かれる度に、ぼくは悩み、答えないようにしていた。プロは魅せてなんぼ、勝ってがっぽりの世界。観客を沸かせるようなパフォーマンスや、勝ち続け、成果を出さなければ首を切られるのが当たり前だ。それに対し、高校野球では勝ちに拘るのはいけないことだという風潮が確かに存在する。記憶に新しい、明訓高校の誇るドカベン山田太郎に対する、江川学院中二美夫の五打席連続敬遠。正々堂々を旨とする高校球児らしからぬと大批判を浴びた。明日があるプロよりも明日のない高校野球の方が厳しい勝負の世界に生きている。勝つために最善の策をとるのは当然だと答えたら、友人と大いに揉めた。勝利至上主義はプロ野球の中だけで腹いっぱいなのだそうだ。そんなことを言っては昨今名門と称される高校で始まった中学野球の名選手の青田買いはどうなるのだろう。プロ野球の縮図と見るのはうがった見方なのだろうか。各地から集められたスター候補が揃う名門校が甲子園へと歩を進める。弱小の公立校にはお呼びもかからない。そんな構図に待ったをかけたのが彼らだった。
高校野球を彩る球児達には様々な異名が付けられる。怪童、怪物、豪打、剛腕。その中でも「小兵」という言葉の何と頼りがいのないことか。「小兵ながらも」という後に続くのは概して負けたという事実ばかりだ。
その通りに墨谷は負けた。シード校明善の前に八対0という結果を残して。専修館戦の再現を期待し、詰めかけた人々の期待を裏切り、終盤の粘りも空しく、結局は得点することすらできなかった。あわやコールド負けかと思われるような得点差。にも関わらず必死に食らいつき、決して勝負を諦めない墨谷ナインの姿に、ぼくは感動を禁じ得なかった。これまで相手チームを徹底的に研究し、非力を
補ってきた彼らにとって、専修館戦の勝利は予想外のものだったに違いない。備えのない明善相手にさぞ苦しい試合を強いられたことだろう。だが、彼らはそれを決して表に出さなかった。一方的にやられてはいても、試合を放棄することはしなかった。
回が進むにつれて点差は広がった。だが、それに反して観客の声援はどんどんと熱を増した。球場のあちこちから掛けられた拍手は同情からのものではなかった。感動への感謝が含まれていた。信じられるだろうか。自分達がこうあって欲しいと願う高校野球のお手本が現実に存在していたなどと。
強敵相手に粘り、食い下がり、例え大差をつけられていても諦めることをしない。どうして、そこまで頑張る必要があるのか。ひたむきに一途に挑めるのか。振り返り、自分はあそこまで何かに打ち込んだことがあるのか。様々な思いが巡る中、「高校野球の魅力とは何か」という問いの答えがようやく見つかった気がした。これが高校野球。これこそが高校野球なのではないか。この一途さこそがぼくたちを永遠に惹きつけてやまないのではないか。
草野球に毛が生えた程度とも揶揄された墨谷高校野球部。彼らが頭角を現してきたのはここ二年のことにすぎない。自分達が楽しむだけの野球から人々を感動させるまで野球にどうやって成りえたのか。墨谷高校野球部の二年間の激闘の記録を追った。
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墨谷高校激闘の軌跡①「二人のキャプテン」
高校野球に、最初彼はいなかった。
その試合を観ることができたのは本当にたまたまだった。徹夜上がりのぼんやりした頭でいたぼくを懇意にしていた毎朝新聞の青木が誘ってきたのだ。東実があの墨谷と対決する。無名校対強豪。その組み合わせに些か興味を惹かれながらも、溜まった仕事を理由に初め彼の誘いを断ったぼくへ、彼は畳みかけるように言った。
「墨谷にはあの墨谷二中出身の谷口がいるんだよ!」
受話器の向こうの彼の興奮が手に取るようにわかった。 およそ中学野球を知る者ならば、全国大会で四年連続優勝をした青葉学院の名を知らぬ者はいまい。そして、その青葉学院の牙城を崩し、今や名門と呼ばれる墨谷二中の基礎を築いた男の名前を。青葉との激闘が祟り曲がった指が原因で谷口の選手生命が断たれたとき、ぼく達は自分のことのように嘆き悲しんだものだ。その谷口が選手として復活し、墨谷にいるという。
「青葉学院対墨谷二中の再現か」
密かに心躍らせていたのはぼく達だけではあるまい。ずらりとスター候補生を揃えた名門に挑む無名校。その上、そこにはかつて中学野球で伝説のキャプテンと言われた男がいる。期待するなと言う方が無理だろう。
だが、当時の墨谷のキャプテンであった田所は違った。万年一回戦負けでも気にしない。高校野球の雰囲気を楽しめればそれでいい。そんなどこかのんびりとしたチームに、青葉との激戦を制した谷口が突然入ってきたのだ。最初は他の部員との軋轢に苦労したと言う。
「何せ、あの男はすぐムキになりますからね」
社会人となり、高校時代よりも随分と恰幅のよくなった体をゆすりながら、田所は何度もムキという言葉を口にし、東実戦へと至るまでのチームの雰囲気を語り始めた。
一、二回戦を勝ち上がった墨谷だったが、誰の目にもそれはまぐれに映った。田所曰く、当の本人たちですら、
「谷口にあれこれ言われているうちに気づいたら勝っていた」
と思っていたというのだから相当なものだろう。特に二回戦の城東のキャプテンとは懇意であり、互いのチームの力をよく知っている。よもや鴨にしていた墨谷如きに負けるとは城東も思っていなかった筈だ。
そんな破竹の勢いを見せる墨谷の前に、遂にシード校が姿を見せることになった。いい気になっていた彼らは一瞬で現実に引き戻されることになったという。
「どうせ一方的にやられるんだろうなって。応援に来ようとする連中にも断っていたくらいですからね」
これまで万年一回戦負けだったチームが二勝し、多くの部員が満足していた。東実相手にしゃかりきになって挑んでも跳ね返された時には惨めさが際立つだけだ。また、三年生には進路の問題もあった。夏の大会後には引退し、進学に就職にと将来に向けて邁進していかなければならない。東実と真っ向勝負をするつもりならば、それこそあらゆるものを犠牲にしなければならないだろう。
「そこまでムキになってもしょうがない。おれ達とはそもそも住む世界が違うんだし。そう思ってました。あの野郎は違いましたけど」
ぽりぽりと頬をかく田所に、ぼくは思わず苦笑した。田所の言うあの野郎、谷口ならば十分にあり得ることだった。墨谷二中時代の後輩で後にキャプテンとして全国制覇を成し遂げたあのイガラシが言っていたことを思い出した。王者青葉学院との初めての試合、チームの中ではいい勝負ができれば御の字だという雰囲気が蔓延していた。
「青葉相手ですからね。まあ、普通はそうでしょうよ。でも、谷口さんだけは違った。あの人は最初から勝つつもりでいたんです。あれにはすっきりしたな、本当に」
勝負するからには勝つことを目指す。善戦できればなどとは考えない。高校生になり、相手が甲子園を目指す強豪だろうと気にしない。
「正直何やってるんだ、こいつはって思っていましたよ。どうしてこんなにムキになるのかって」
それまで楽しむために部活をしていた田所達にとっては理解できなかった。チーム力に勝る城東に勝ち、谷口の凄さが墨谷ナインに浸透してはいたが、相手はあの東実だ。何をムキになると言うのか。
「東実の練習を見せれば頭が冷えるだろうかと思って連れて行きもしましたがね。思いきり逆効果でした」
東実と聞き、諦めムードの墨谷ナインと、一人ムキになる谷口。そのままであればチームは瓦解したことだろう。だがここで思わぬ事態が起こる。谷口のムキが周りに伝染したのだ。きっかけは投手の中山。ひたむきにボールを追う谷口の姿を見て。思わず東実の打者を打ち取る秘訣を教えろと言い出した。
「投手の中山がやろうって言うのに、捕手のおれが協力しないのもおかしいなって」
田所もそう考えて後に続いた。対東実にムキになるなと谷口を諭した人物とは思えない。随分ところころと気分が変わるキャプテンではある。だが、彼の参加こそが墨谷が変わる潮目だった。田所の要請で人のいい山口が特訓に加わると、傍で見ていた他の部員たちも雪崩を打ったように参加を表明した。万年一回戦負けだったチームはもうどこにもいなかった。打倒東実に向けてひたむきに練習する者達の姿がそこにはあった。
迎えて試合当日。楽勝ムードの東実側スタンドに対し、墨谷側スタンドは初めて間近に観る東実の迫力にどよめき、試合前から勝負が決まったような雰囲気さえあった。それを一変させたのが東実の監督岡本の決断だ。万年一回戦負けのチーム。普通ならば二軍や控えの選手を出し、様子を見ることだろう。事実あの青葉ですら、墨谷二中と初めて対戦した時に同じようなことをしたのだ。二番手投手、もしくは一年生を使ってくると、観客の誰しもが思っていた。
「墨谷の練習を見ていて、これは一筋縄ではいかないと思いましてね」
試合後のインタビューで淡々と岡本は語ったが、結果的にそれは正解だった。
二回表。外角をつき、三塁に引っ張らせるという墨谷の作戦に対し、ミート主体に切り替えた東実打線が火を噴く。四番の中尾から始まる六連続安打五得点の猛攻で、墨谷先発の中山をマウンドから引きずり下ろした。
「おいおい。いくらなんでも、実力が違い過ぎないか」
東実打線のあまりの破壊力に思わず零したぼくに、青木は震えながらマウンドを指差した。
「ウソだろ……」
視線の先では谷口がマウンドに上がろうとしていた。指が曲がり、高校野球を諦めていた人間が? 再び野球をやっているのもおかしいのに、さらにピッチャーだと? 頭の中でぐるぐると目まぐるしく様々な思いが交錯した。端的に言えば理解できなかったのだ、目の前の光景が。
スタンドに押しかけた多くの者が戸惑いの声を上げた。ここまで一度もマウンドに上がっていない谷口だ。高校野球で初めて見た者達にとってはその能力は未知数だったろう。中学時代を知るぼくたちとて、久々のマウンドに不安がつきなかった。それを黙らせたのは谷口の力投だ。八回まで無失点。高校になって覚えたフォークを多投し、東実打線をきりきり舞いさせた。回が進むにつれ、東実バッテリーのタイムは増え、監督である岡本の落ち着かぬ姿が目立つようになった。
八回表、東実は疲れの見えてきた谷口を待機策で攻め立てる。球数を投げさせ、谷口の体力を奪い、落差の無くなって来たフォークを狙う。強豪らしい堅実な作戦だったが、谷口は奮闘。バックの好守備にも助けられ、この回を0点に抑える。
その裏、墨谷の攻撃。二番の太田からの好打順で、この試合初めて墨谷にチャンスが訪れる。太田山口の連打に、打者は谷口。疲労困憊のその様子に、岡本は最初勝負するようバッテリーに伝えたと言う。
「墨谷に他に投手がいない以上、後のことを考えれば、あそこは勝負でしょう」
だが、流れは岡本の思惑通りには進まなかった。勝負を選択するも、ホームラン性の当たりを連発する谷口の前に、東実ベンチは当初とは異なる敬遠を指示した。
「結果的にあの敬遠は良かった。あそこで勝負していたら打たれていたかもしれせん」
ムキになって挑んでくる谷口に、東実は確実に呑まれていた。この回走者として出た谷口がバテを見せ、ホーム前で膝をつき、アウトになってもぼくたちは無責任にもこれは青葉との戦いの再現だと思っていた。
しかし、墨谷二中と墨谷は違った。頼りになる後輩である丸井や谷口がマウンドを託せるイガラシもここにはいなかった。
逆転の機運が高まっていた九回表。ここを抑えれば、この裏に何か起こると勝手に思い込んでいたぼくたちを待っていたのは、残酷な現実だった。
後二人まで追い込んだ谷口に対し、東実が行ったのはベンチを総動員しての徹底的なまでのバント作戦。
「えげつないな、全く」
隣の席で青木が零した。三回戦に初出場の高校、しかも一年生投手に対して、あまりに非情な策。これが見事にハマり、谷口は二失点。五番の大野に四球を与えたところで、マウンドに墨谷ナインが集まった。
「おいおい、まさか棄権するつもりか?」
スタンドがいささかざわついた。先発の中山では到底荷が重すぎる。かといって谷口のこれ以上の続投はできない。他に投手のいない墨谷がとることができる選択肢は無かった。
「棄権でいいと思ったんですよ。東実相手にいい勝負ができたんだし。おれたちにとってはいい思い出ができたし、何より谷口は限界だったから」
田所の決断は分からなくもない。だが、それに真っ向から反対する人物がいた。
谷口だ。
「少しでも可能性があるのに諦めるのは嫌だってね。こっちがいくら言っても聞きやしないんですよ」
ムキになっている谷口を諦めさせるにはどうするか。田所がとったのは大してピッチャー経験のない自分が代わるというものだった。球威の無い彼のタマを面白いようにスタンドへと運ぶ東実打線。突然の投手交代からのつるべ打ち。これまでの流れが嘘のような一方的な展開に、何も知らないスタンドからは心ない誹謗中傷の言葉が投げかけられた。それをどこか他人事のようにして見ながら、田所はしきりに谷口の様子を伺っていたと言う。
「周りからしてみりゃ何でおれかとそりゃ思いますよ。しきりにライトから谷口にも恨めしそうに見られましたし。本人とすればあのまま続けて投げたかったに違いないんですから」
田所の言葉に間違いはない。谷口がキャプテンであればそうしていたことだろう。谷口という男は常に自分の限界と闘っている男だ。時に必要以上に己を追い込んでしまう。だが、この時彼は一年で、キャプテンでは無かった。
九回裏の攻撃。十点という差をまるで物ともしない墨谷打線が火を噴く。リリーフが打ち砕かれた東実は再びエース中尾を投入するもその勢いは止められない。一点一点追いつかれる度に焦りの度合いを深める東実ベンチとは対照的に大いに盛り上がる墨谷側スタンド。
「これはひょっとしたらひょっとするかもな」
あの墨二と青葉の激戦を彷彿とさせる試合展開に、思わず青木と顔を見合わせる。あの時の青葉の投手陣のように中尾も打ち砕かれるのか。ツーアウトながら守備のミスも重なりその差二点。続くバッターは一発のある山口。逆転劇を期待する観客に対し、岡本はベンチに中尾を呼んだ。
「嫌な流れが来ていたんでね。目をつむって少しは落ち着け、お前は東実のエースなんだからと」
どう考えても地区予選の三回戦目でかける言葉ではない。まるで、甲子園で優勝みたいな騒ぎだったと、試合後に中尾は語ったが、あの場面での緊張は甲子園大会決勝並みの重圧であったろう。
結果的には岡本の声掛けが功を奏した。センターの好守備にも阻まれて山口はセンターフライに倒れ、東実対墨谷は十二対十で幕を閉じた。
墨二対青葉の再現はならなかった。堂々と名門として持てる全てを使い、東実は墨谷に勝った。
だが、もしもが許されるのならば。あの九回表。谷口が続投していれば、墨谷は勝てていたのではないだろうか。根性の男谷口のことだ。きっと東実打線を畏怖させ、その裏に逆転することも可能だったかもしれない。意地悪な質問だと分かっていながらも、ぼくはその疑問を田所にぶつけた。万年一回戦負けのチームが東実に勝った。その名誉は欲しくはなかったのかと。
「そりゃ無責任な観客はそう期待するかもしれませんがね」
田所の返事は手厳しかった。
「あそこで谷口を使い物にならないようにしてまでおれは勝ちたくは無かったんですよ」
谷口に無茶をさせれば東実に勝てたかもしれない。谷口本人もそれを望んでいたかもしれない。だが、その後の彼の野球人生を再び奪う可能性があった。そのために田所は自ら泥をかぶり、スタンドからの罵声を浴びながら、対戦相手から嘲笑されながらもマウンドで投げ続けた。
「結局あの野郎を諦めさせることはできませんでしたけどね」
ため息をつき、苦笑する田所の顔に後悔の色は微塵もなかった。むしろ為すべきことを為したという誇りさえ見えた。そのことを素直に告げると、照れ笑いを浮かべながら、彼は言った。
「くじ引きで決まったキャプテンですけれど、一応キャプテンですから」
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墨谷高校激闘の軌跡②「九回ツーアウト」
高校野球で強いチームの条件は何だろうか。あるとき、ぼくと毎朝新聞の青木はその話題で盛り上がった。
「絶対的なエースだろ」
青木によれば、点を取られなければ負けることはない。エースは必要だということだった。いかにも中西球道びいきの彼が言いそうなことだ。ぼくの答えは、打線だった。点が入らなければ引き分けにしかならない。少なくとも勝つためには相手を上回る点数を入れる必要がある。その他、守備力、走力、監督の作戦などいろいろな項目を挙げていったぼくたちはふと疑問に思った。
「どうして墨谷は専修館に勝てたのだろう」
絶対的なエースと、爆発的な攻撃力。そして守備。その年の専修館は強いとされるチームが持つべきものをほとんど全て備えていた。ぼくの手元に並んでいたのは、その年の専修館の記録だ。五回戦まで全てコールド勝ち。四回戦ではシード校の三山に対して豪打が爆発し、何と驚異の三回コールド。誰が見ても、この年の専修館は強く、そして優勝候補の筆頭だった。
対して墨谷はどうか。二年生になった谷口がエースとなるも一年生の松川と交代での登板。打線の方も一・二回戦とコールド勝ちで来てはいるが、三回戦以降大島・聖陵のように好投手が投げると途端に湿りがちになる。
下馬評では完全に専修館の優位は動かず、墨谷びいきのぼくでさえそう思っていた。前日までは。
前日の晩、対専修館に向けての墨谷の様子を取材に行くと、待っていたのはもぬけの殻の部室だった。
「金井町のバッティングセンターに行くとか言っとったよ」
さして興味無さそうに教えてくれたのは、誰あろう墨谷高校野球部の部長だ。野球より勉学第一の彼は、明日の試合の行く末よりも、部員の成績の心配をしていた。
室内に響くのは、備え付けのクッションにボールの当たる鈍い音。
「随分と速いな」
傍らでのんびりと見学していた野次馬の一人に尋ねると、調整できる最高の速さに設定しているとのこと。
専修館の百瀬対策。大会屈指の好投手百瀬を打ち砕くための特訓だろう。だが、何も前日のこんなに遅くまでやらなくたって。
積み上げられたコインが減るのに比例し、段々とバットに掠る音が増えていった。ケージの中の部員は物言わず黙々とバットを振っている。外で見物していた者達は始めのうち、ケージ内を見ては歓声を上げていたが、しばらくすると皆同じように黙ってタイミングを計り始めた。まるで禅か何かの修業のようだ。黙々と淡々と。バットを振る音、クッションに当たる音、バットに掠る音、時折響く快音。一言でも何か聞ければと思っていたぼくはそっと帰るしかなかった。声を掛けるのも憚られるような緊張感がそこにはあった。
これは明日の試合、分からないかもしれない。その時、そう実感したのを覚えている。優勝候補筆頭。誰が考えても強いのが今年の専修館だ。負けるつもりはなくとも、そのあまりの強さに戦う前から気持ちが萎えるのは当たり前で、いい試合ができればとコメントするのが精々だろう。だが、墨谷は違った。彼らはいつも通りだった。
明けて翌日。朝早くから球場入りすると、墨谷の応援団は異様なまでの盛り上がりを見せていた。それはそうだろう。創設以来初の五回戦進出。これはひょっとするとひょっとするかもしれない。淡い期待を胸に抱いても仕方のないことだろう。だが、専修館が守備練習を始めると途端にそのざわめきは嘘のように静まった。豪打でなる専修館のパワー、その素早い連携、そして絶対的エースである百瀬の速球。あらゆる要素が墨谷の不利を伝えていた。
墨谷の先発は谷口。気合が入り過ぎているのか、初回ややタマが上ずっているように見えたが、ランナーを出すも無失点に抑える。対する専修館百瀬。危なげないピッチングでランナーを一人出すも四番の谷口を打ち取り、難なく終える。スコア的にはドロー。だが、明らかに実力が違うことは両者の攻め方の違いに現れていた。圧倒的打力を誇る専修館に対し、墨谷はクリーンアップまで徹底してのミート戦法。とにかく専修館のエース百瀬のストレートを攻略しようという意図がありありと見えた。
そして二回表。専修館の打線が火を噴く。七番の宮内がヒットで出塁すると、続く八番山路はバントの構えから一転の強打。これがライトへのヒットとなり、九番の百瀬も続き、ノーアウト満塁。一番の君島がライトフライを放ち、一点。あっさりと均衡は破れた。尚もワンアウトで一三塁。打順は二番からだ。
二点はとられるだろうと思っていたぼくの目に飛び込んできたのは、サードを守る中山の見事なファインプレー。前の回で眼鏡を飛ばしておろおろしていた男と同一人物とは思えぬ動きの冴えを見せ、ライナーをキャッチしダブルプレイ。この回を最少失点で切り抜けた。
「どう見る?」
隣の席から声が掛かった。青木だ。谷口を追いかけている彼は、どの試合も欠かさずに見ているという事だった。
「厳しいだろうな。地力は完全に専修館の方が上だ」
ぼくの答えに彼は不満そうだった。そんな程度の戦力分析は誰でもできる。聞きたいのはもっと別の答えだったのだろう。
「勝てるかどうかは分からない」
「分からない? 昨日墨谷の特訓を取材したらしいじゃないか。百瀬を打ち砕けるのか、感触ぐらいつかめなかったんか?」
青木の言う事は正論だ。だが、こと墨谷という高校には当てはまらない。前日どころか試合中にもがらりと変わってしまうのが墨谷だ。事実、この前の聖陵戦では、序盤リードされながらも、終盤に大量得点を挙げ、逆転した。接戦の末競り負けた一年前の東実戦とてそうだ。型にはまった時の墨谷の見せる爆発力はとてつもない。
「だからわからない。ただ、それがあの百瀬に通用するのかどうか」
速球に加え、多彩な変化球を操る百瀬はここまで無失点。その上、専修館には彼を支える強力打線がいる。
回が進むにつれ、周囲の期待は無責任に高まっていた。昨年三回戦止まりの墨谷が優勝候補の専修館に食らいついている。毎回のようにランナーを出すものの、ファインプレーで得点を許さず、スコアボードには0が並んでいた。
だが八回表。疲れと緊張からかそれまで懸命なピッチングを続けてきた谷口の投球が突如として乱れる。死球などでノーアウト満塁とし、迎えるは四番原田。高めに浮いたタマを打たれ、あわやホームランかと言う当たり。ライトの島田がフェンス上でキャッチするファインプレーを見せ、後続のスクイズ失敗からダブルプレイでこの回を終えるもその差は二点に広がった。
「おいおい。八回まできちゃっているぞ」
青木が堪らずタバコを吸ってくると席を立った。この回までの墨谷は単発でヒットが出るものの完全に百瀬に抑えられていた。前日に猛練習した甲斐があり威力のあるストレートを捉えられるようにはなっていたが、要所要所で落差のあるカーブで仕留められ、どうしても得点ができなかった。打者の立つ位置を変えたり、狙い球を絞ったり、百瀬をどうにかこうにか打ち砕こうと様々に試みるも、それが実ることなく八回裏まで得点することができなかったのである。
意気消沈する墨谷が逆転の糸口を見つけるのは、この回の島田の打席から。それも、予想外のところからの助け舟からだった。
「試合直前に東実の大野さんから対専修館の攻略メモをもらっていたんです」
そう答えたのは選手兼マネージャーの立場でベンチ入りをしていた半田。相手チームの情報を分析し、非力を補う墨谷にとってなくてはならない人物だった。
「東実が専修館のメモを? だって君たちライバルだろう」
理解ができなかった。社会に出れば、ライバルは蹴落とすものだ。ましてや東実はその日明善に敗れたばかり。そんな中でどうしてこれから戦う墨谷に塩を送ることができるというのだろう。
「どうしてかはわかりません。ただ健闘を祈ると」
その言葉を聞いた時、高校野球の魅力の一端を感じ取った気がした。勝負の世界は過酷だ。プロになれば騙し騙される化かし合いの世界。お互いの足を引っ張り合う事もある。けれど、彼ら東実はそうではなかった。
回が進み、中々得点が取れない中、焦った彼は穴が開くほど東実メモを見つめ、それを発見した。
「打者の立ち位置が描いてあったんですが、消しゴムで消した跡があったんです。そしてホームベース寄りに修正されていたのがどうにも気になって」
藁にも縋るとはこのことだろう。何のことを示しているか分からないメモを参考にし、それを忠実に守って様子を見る。八回の裏、ツーアウトから打って出たばくち。だが、見事墨谷はそれに成功した。
落差のあるスローカーブ。百瀬にとって強力な武器はその実曲がり過ぎ、ベース寄りに立たれた相手には死球を与えかねない。必然的に右打者にはシュートを多投することになる。
島田が打ち取られるも、この事実に気づいた墨谷ベンチは活気づき、九回表の守備につく足取りは軽く見えた。
しかし、勝負の天秤は容易に墨谷に傾こうとはしない。疲労困憊の谷口を豊富な選手層を誇る専修館の代打攻勢が襲う。ワンアウト1塁から金本に死球を与えると、九番にいながら打力に定評のある百瀬を迎える。カウント一―一からの三球目。打ち取ったかと思われた打球の処理をファーストの山本が焦り、悪送球。満塁となり、予選でこれまで二本塁打の一番君島に回る最悪の展開となった。
「これは……」
言葉が続かず、青木を見た。中学以来谷口を追いかけている青木はぐっと拳を握っていた。
マウンド上の谷口は痛々しいほど淡々としていた。腐りもせずエラーをした山本を責めるでもない。満塁であることを気負うこともない。投げることに全てを集中し、自分にはこれしかないと言っているようだった。いつだか前キャプテンの田所が言っていたことを思い出す。
「あそこまでひたむきにやられると、こちらもそれに応えてやらなきゃって気になるんですよ」
その言葉通り、手痛いエラーをした山本の好守備でゲッツーに切って取った墨谷は危機を脱し、最終回に望みを繋いだ。
「野球は九回ツーアウトから」
油断するなという意味を込めて使い古されたこの言葉。しかし、墨谷の試合を知る者にとっては、これは墨谷のために考えられたものだと言えるだろう。
四回戦の聖陵戦。九回裏四点差がついた状況から一挙七点の猛攻。誰もが敗北を覚悟した状態からの逆転サヨナラ。
今日の専修館戦はどうか。スタンドが固唾を呑んで見守る中での九回裏。九番戸室はサードゴロ。一番山本はレフトのファインプレイに阻まれアウト。それぞれ粘るも、ツーアウトをとられ後がない状況に追い込まれる。ここでピンチに強い二番の太田。三球目のストレートを三塁線へ運び、出塁。ツーアウトながらクリーンアップに繋ぐ。慌てた専修館は二年生ピッチャーの加藤をリリーフに投入するも、三番倉橋にヒットを許し、谷口を迎えてコントロールが定まらず交代。絶対的立場だった専修館に綻びが見え始めた瞬間だった。再度エースの百瀬がマウンドに立つも、谷口にセンター前に運ばれ一点を返され、さらに五番山口を死球で歩かせる。
この時点で勝負は決まった。ツーアウト満塁。こうなった時の墨谷は格段に勝負強い。六番中山が何度となく緊張をほぐそうとタイムをとり、四球目。百瀬の渾身のストレートはセンターオーバーのヒットとなり、二者が返り、墨谷が逆転し、勝利を収めた。
「冗談だろ……」
青木が思わず呟いたのは仕方のないことだろう。二試合続いての九回裏ツーアウトからの驚異的な粘り。絶対的なエースがいる訳でもない。毎試合ホームランを打つような強打者がいる訳でもない。そんな墨谷がよもや優勝候補筆頭の専修館を下すなどと。
マウンド上で整列をする専修館のナインも呆然とし、事態を受け入れられていないようだった。それはそうだろう。どう見ても専修館が押していた。誰の目にもそれは明らかで、墨谷がいかに善戦するかとしか皆思っていなかった。勝利するのが当然だと思っていた彼らからすれば、突然の敗戦にさぞ気持ちの置き場が無かったに違いない。動揺するナインに声を掛けたのはキャッチャーの原田だった。この試合徹底的にマークされ、思うように打てない鬱憤もあったろう。だが、彼は勝者である墨谷にエールを送ろうと言い出し、百瀬もそれがよいと頷いた。
心地よいエールがグラウンドに響いた。手に汗握った熱戦の素晴らしい幕切れだった。墨谷ナインがそれに対し頭を下げた時、両スタンドから割れるような拍手が響いた。絶対的なエース、強力な打線、堅い守備。多くのものをもっていながら敗れた専修館は、それでも強豪校としての矜持を保って、大会を去った。
その年の秋季大会。引退し観戦に来ていた東実の大野に、素朴な疑問をぶつけた。ライバルである墨谷にどうして専修館攻略のメモを渡したのか。
「それぐらい実力に差があると思って……。後は単純に見てみたかったのかもしれないですね。専修館相手に墨谷がどこまで粘れるのかを」
ライバルすら認める最後まで諦めぬ心。それこそ墨谷の強さの元なのかもしれない。
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第三十八話 「対決! 犬飼知三郎」
(こいつが、あの犬飼三兄弟の末弟か)
徳川と親しげに会話を交わす知三郎の姿にイガラシは今夏の甲子園での明訓対室戸学習塾の試合を思い出す。
野球素人を寄せ集めたがり勉軍団室戸学習塾。その中心として活躍していたのが目の前にいる男だ。
(とても甲子園で明訓を苦しめた男には見えないな)
「おい、知三郎。ジャージぐらいねえのかよ」
ユニフォームを着た土門や影丸たちと違い、帽子と上着を脱いだきり、そのままの恰好で柔軟を始める知三郎に、徳川が呆れた声を上げる。
「そもそも今回の主な目的は別ですからね」
「東大見学のついでってか?」
「ええ。ついでもついで。いい迷惑ですよ」
「つれねえことを言うじゃねえか。あれほどのめり込んだ野球なのにもう興味が無いってか? フヒヒヒヒ。そう上手くいくかねえ」
愉快そうに笑うと、徳川はいつの間にかやってきていた河川敷の上の集団に声を掛けた。
「おい、お前等。そんな所でこそこそ見ているんじゃねえ。もそっとこっちに来んかい!」
「あれ!? 松川たちか」
丸井の呼び掛けに、松川が恥ずかしそうに頭をかいた。
「ああ。今日ゲストが来て特訓をするから見ておけって昨日……」
「いくら別メニューと言ったって、せっかくの機会じゃ。みすみす棒に振ることはなかろうて」
ぐいっと徳利をあおりながら言う徳川は勝負師とは異なる顔をのぞかせた。
「よし、松川。審判をせえ」
「は、はあ……」
狐につままれたように後ろに立つ後輩に、倉橋はよく見ろよと声を掛ける。
「それでは仮想明訓との戦いじゃ。準備はいいか、ひよっこども!」
徳川の号令一下、墨谷ナインに緊張が走った。
一番の岩鬼から五番の微笑まで好打者強打者が切れ目なく並び、高校野球史上最強と謳われるのが明訓の上位打線だ。その上、四番に座るのは高校通算七割五分のドカベン山田太郎。その破壊力は凄まじいの一語に尽きる。
そんな彼らを理解することこれ以上ないと言われる徳川が、対明訓のためにと自らの伝手を最大限に利用して招集したのが仮想明訓打線である。各校の強打者がこれでもかとばかりに並ぶその様は、墨谷のこれまでの相手と比べても段違いだ。
誰が先発でいくのか。緊張と高揚感を抱き、お互いに顔を見合わせる中、谷口はイガラシを指名した。
「なあに、腕試しだと思えばいいさ」
谷口は気を落ち着けさせようとイガラシにそう告げたが、丸井はその意図に勘づき、内心さすが谷口だと大いに頷いた。
墨谷二中時代に全国制覇を成し遂げたイガラシは、試合経験が豊富であり、その頭脳的なピッチングで東東京大会予選でも墨谷の危機を何度も救ってきた。一打席だけとは言え、明訓の岩鬼との対戦経験もあり、相手の力量を測るにはうってつけの人物だ。
「あの、おれは?」
イガラシとは旧知の仲である井口の不服そうな態度に丸井はぎろりと彼を睨む。
「ああ、順番にいこう。イガラシの次に投げてくれ。おれは最後でいい」
「そういうことなら」
一塁へと向かう井口に対し、丸井は眉を顰める。
(何がそういうことならだ。お前たちのために谷口さんが譲ってくれたんじゃねえか!)
相手は各校のクリーナップばかりを集めた強力打線だ。そんな彼らと腕試しをする機会など普通では到底あり得ない。きっと谷口も投げたくて投げたくてうずうずしていることだろう。
だが、明訓と戦うだけの三年生たちとは違い、後輩たちには秋季大会がある。自分のことよりも今後のことを考え、谷口は順番を譲ったに違いない。
「まずは一番土門じゃ!」
「よろしく」
徳川のコールと共に打席に入った土門は、イガラシの方を向くと、ぴたりと静かにバットを構えた。
(おいおい。一番からこれか)
巨人学園の真田一球に勝るとも劣らぬ土門の迫力に倉橋は思わずたじろいだ。
横浜学院時代にその余りの打力に恐れをなす敵チームからの敬遠封じのため考えられた一番土門だが、相手チームからすればこれまた初回からいきなり土門と勝負をすることは多大なプレッシャーとなる。
(どうします?)
(とにかく、相手の実力が分からねえ。様子見よ)
一球目。外角へストレート。
「ボール!」
「なかなかいいタマを放るな」
倉橋に向け、笑みを浮かべる土門。
(余裕がありやがんな)
悠然と打席に立つ土門の迫力に、イガラシはどう攻めたものかと思案を巡らせる。
(仮想明訓だってんだから、いっちょ岩鬼のつもりで攻めてみるか)
(おいおい。大丈夫かよ)
不安を抱きながらも、こくりと頷く倉橋。
ビシュッ!!
土門に対してイガラシの二球目はど真ん中のストレート。
岩鬼相手なら有効なタマだ。だが。
カキ――ン!!
「何っ!?」
豪打一閃。
土門のバットが振るわれるや、ボールは高々と舞い上がったかと思うと、弧を描き、川面へと吸い込まれていく。
「化け物か……」
レフトの戸室がその打力に驚き、目を丸くする。
文句なしのホームラン。ボールがまるでピンポン玉のようだ。
「岩鬼の代わりなら手を出さない方が良かったか?」
事も無げに平然と聞いてくる土門に、倉橋は動揺を隠せない。
「え、いや……」
「それと、ボールを一つすまなかったな」
申し訳なさそうに頭を下げ、ベンチに戻る土門に墨谷ナインは動揺を隠せない。
山田達より一学年上の土門は、今夏は監督として神奈川県大会に姿を見せていた。
いかにトレーニングを積もうと、現役の自分達の方に分があるとそう思っていたのに。
「参ったな。いくらなんでもあそこまで飛ばされるなんて」
やれやれとイガラシはボールの行方を見つめた。相手の力量を見極めようと投げたタマだ。ショックはない。だが、ど真ん中だからと言ってあそこまで飛ばされるほど自分の球質は軽くもない筈だ。夏の大会を経て、一段成長したと感じていただけに、上には上がいるのだと改めて思い知らされる。
そんなイガラシの神経を逆撫でするかのように、
「対して球威もないのにど真ん中を攻めるのは無謀ですよ」
そう憎まれ口を叩きながら打席に入る彼は一見すればただの優男にしか見えない。
(この野郎……)
丁寧過ぎるほど足場を慣らすその仕草の一つ一つに人を喰ったような態度が見え隠れし、イガラシはかちんとする。
だが、彼、犬飼知三郎こそが高知県代表室戸学習塾のキャプテンとして、素人ばかりの部員を率い、あの南国土佐の雄土佐丸を撃破し、甲子園優勝四度の王者明訓を苦しめた張本人なのだ。
墨高野球部でも文武両道でなるイガラシとしては、小柄な体格といい、頭脳的なピッチングといい、自分と同じ一年生という立場も手伝って大いにそのプレイには注目していた。
(まさかこいつと勝負できるなんて。徳川さんに感謝だな。だがよ……)
Yシャツ姿で袖をたくし上げて打席に入る知三郎にイガラシは顔を顰める。
(よりにもよって、その格好は何だよ)
(一応助っ人で来てんだろ、こいつ。やる気あるのかよ)
不満そうな顔をする倉橋に、知三郎は笑みを零す。
「ご不満ですか?」
「ああ。一応こちとら練習なもんでね」
「ユニフォームを着ていたら野球が上手いって訳でもないでしょう」
(この野郎!)
こちらの内心の苛立ちを見透かしたかのような知三郎の態度に眉を寄せるイガラシ。
(いかんな。大分、犬飼を意識している)
そう感じた谷口は声を掛ける。
「とにかく落ち着いて様子を見ていけ」
「はい」
(とりあえず外角で様子見よ)
倉橋のサインを確認し。一球目。
アウトコースのストレート。知三郎、手を出さずストライク。
(どういうことだ?)
(こちらを混乱させようって腹じゃないですかね)
「別に混乱させようとかっていうつもりじゃないですよ。打ち頃じゃないから打たないだけです」
不敵な笑みを浮かべながら、またもこちらの内心を見透かすような知三郎に、倉橋は眉を顰める。
(こっちの考えはお見通しってか。随分とやり辛い奴だな。こいつは山田もさぞ苦労したろうぜ)
イガラシのサインはストレート。だが、倉橋はこれに首を振る。
(明訓戦を見る限り、こいつはストレートに滅法強そうだからな)
二球目。バットを長めに持った知三郎に対しアウトコースに逃げるシュートを投げるも、ぴくりともバットを動かさない。
「ボール!!」
審判に入った松川がコールする。
(外角狙いじゃない? いや、それにしたって)
反応を見せぬ知三郎に、バッテリーは悩む。
(逆にインコースを待っているってこともありますよ)
巨人学園の真田一球同様、人を喰ったプレイが犬飼知三郎の真骨頂だ。
その頭脳で敵の裏をかき、あの明訓をあと一歩のところまで追い詰めた。
三球目。ぴたりとバントの姿勢に構える知三郎に、倉橋は前進守備の指示を出す。
(明訓戦で見せたあのバントヒット狙いか?)
インコースへのカーブ。
ブン!!
まるでタイミングが合わずに強振する知三郎。
「ストラーイク!」
ツーストライクと追い込みながらも余裕を崩さない知三郎に、丸井は眉を吊り上げる。
「何だ、あの野郎。練習だからってふざけてんのかよ!」
「いや。騙されるなよ、イガラシ」
谷口の言葉にイガラシは頷く。
TVで観た明訓戦。高知県代表の室戸学習塾があの明訓を0に抑え、あわやというところまで追い詰めていた。その原動力となったのが目の前の男だ。一見優男にしか見えぬその瞳の奥には土佐犬を飼いならした犬飼小次郎・武蔵、二人に勝るとも劣らぬ闘志を秘めている。
(人を喰った態度もこいつの戦い方の一つに過ぎない)
相手を虚仮にし、冷静さを失わせるその手口に短気な明訓の岩鬼や渚はまんまと引っかかっていた。
(だが、おれはそうはいかない)
慎重に。冷静に。相手の呼吸をよく見て。
バットを長めに持った知三郎に対し、イガラシは一塁井口と三塁谷口に目線を送り、二人はやや浅めに守備位置を変える。
(長打と見せてバントだろ)
人の裏をかく知三郎ならやりそうなことだ。
「ふう」
目を瞑り、息を吐いた知三郎は、ぎらりと目を光らせる。
(こ、こいつ……)
まるで唸りを上げ、身構える土佐犬の如き迫力を見せる知三郎に、イガラシはボールを強く握り締めた。
(勝負にきている?)
(狙ってやがるな)
一点を見つめて、じっと動かない知三郎の様子に、倉橋は守備位置を定位置より深めへと指示する。
四球目。果たして投げようとしたイガラシの目に飛び込んできたのは、長めにバットを持ったまま勢いよく打ちに行く知三郎の姿。
それを見てぐっと腰を落とす谷口と井口。
だが。
「なんてね」
するりとバットを短く持つと、知三郎は思い切りそれを振りぬいた。
「うっ!!」
キン!!
強打かと身構えた墨谷ナインが目にしたのは、振った勢いに反し、なぜかころころと一塁前に転がるボール。
「なに!?」
一瞬何が起きたのか分からず反応が遅れた倉橋に対し、イガラシがすかさずフォロー。
一塁へと送球するも知三郎の俊足が勝る。
「セーフ!」
一塁塁審を務める片瀬がコールする。
(こ、こいつ……)
呆然とする井口の脇で笑みを浮かべる知三郎。
「これぞ『秘打回転木馬』!」
「秘打だって!?」
「知りませんか。仮想明訓ってことだったんで」
「そんな、だからって……」
信じられないと言った表情で、イガラシは知三郎を睨む。
数々の名投手達を打ち崩して来た明訓不動の二番打者。
あの秘打男殿馬の秘打をまさか真似ることができる男がいようとは。
「甲子園でも真似たんですがね。さすがにご本家に比べると記憶に残らないのかな」
事も無げに言い放った知三郎は、
「やれやれ。この恰好だと暑苦しいな」
パタパタとYシャツの前をはだけ、汗を拭うとベンチに戻った。
(おいおい。どこの曲芸師だよ)
知三郎のバッティングを間近で見た倉橋は顔を青ざめさせる。
(あいつ、グリップに当てて打ちやがった……)
始めからこれが狙いだったのだろう。長めに持ったバットに鋭い眼光。打席での様子で強打と勘違いさせる。
(畜生。してやられた)
警戒していたというのに、さらにその上をいかれてしまった。
(さすがに仮想明訓だぜ)
高校野球史上最強の二番打者とも言われる殿馬を彷彿とさせる知三郎のプレイに、イガラシは舌を巻く。
「バットを長めに持ったのも、このための布石か。嫌らしい野球をしやがるな」
「ふえへっへ。わしの見立てに間違いはねえ。あれでこそ仮想明訓の二番よ」
影丸の言葉に、徳川は嬉しそうに手を叩く。
「自分は騙されないと思わない方がいいですよ。そういう人間ほど騙しやすいから」
ベンチから汗を拭いながら言う知三郎。
「そいつはどーも」
内心苛立ちつつも、言葉には出さずイガラシは憮然とした表情で返した。
(お次はこいつかい。やれやれ、全く気が抜けえねえじゃねえか)
打席に入る影丸に、倉橋は思わず愚痴をこぼした。
ほっとする間もなく、一打ある打者がやってくる。
だが、それこそが明訓打線の特徴。
挑戦者たる自分達はとにかく今あるもの全てを出して立ち向かうしかない。
(とにかくやるだけやってみるさ)
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第三十九話 「猛攻! 強力打線!」
元明訓高校監督徳川の肝煎りで唐突に始まった、各校のクリーンナップを集めた仮想明訓打線との対決。墨谷の三投手は明訓打線を模した強打者五人を相手に投げ切ることを目標とし、打者は一回ごとに変わる各校のエースピッチャーを相手にするというものだったが、さすがにかつて明訓を苦しめたライバル校の主力級だけあり、その勝負は苛烈を極めていた。
土門・影丸に犬飼知三郎を投手に加えての二巡目。
一巡目の様子を見ていた徳川から出されたのは全打席バントの指示。
どういう意味だと疑問を抱きながらも、渋々従う墨谷ナインだったが、その結果はお世辞にも上出来とはいえなかった。各々が一流の投手であり、バント処理もお手の物の彼等にとって、あらかじめ来ると分かっているバントほど楽なものはない。影丸にはフライに打ち取られ、土門にはタマの球威に押され、知三郎には上手く躱された。
「べらんめえ! なんてザマじゃい。バントのひとつも満足にできねえで、ヒットなんざできる訳ねえだろうがよ!」
「た、確かに」
徳川の怒声に、谷口は納得する。
徳川が墨高に特訓をつけるようになって二週間。練習の中心に置いたのは基礎であるバント、守備練習である。いかに相手が各校のエースといえども、決める所は決め、強打者の打球といえども捕るべき所は捕る。基本を疎かにしていては、勝ちは転がってこない、というのがその理屈だった。
ましてや、相手はあの明訓なのだ。絶対に負けると思われた試合をひっくり返し、幾度も逆転劇を収めてきた彼ら相手に小さな綻びも見せられよう筈がない。
「ふん。そう簡単に決められてたまるかよ」
不敵な笑みを浮かべていた影丸だが、回が進むにつれ、その表情は段々と険しくなっていくこととなる。
対明訓を念頭にこれまで特訓を重ねてきた墨谷は徐々に影丸・土門・犬飼知三郎のタマを捉え初めていたが、一方の墨谷投手陣は明訓を模した強力打線の前に終始押され続けていた。
打席に入ったフォアマンに対し、井口は吹き出る汗を袖口で拭った。
秋になり涼しい日が続く中、今日はまるで夏日のような陽気だ。
(だが、それだけじゃない)
目の前に立つ長身の外国人打者を井口は睨みつける。
「黒い弾丸」ハリー・フォアマン。
クリーンハイスクールの主砲として活躍した彼は、関東大会ではあの山田と本塁打数を競い、里中相手に一試合三本塁打を放った程の強打者である。それほどの大砲を迎えることこれで三度。一打席目は強烈なライナーを放たれ、谷口がキャッチ。二打席目は甘く入ったインシュートをホームラン。過去二打席の強烈な打撃の印象に、いつも強気な井口もさすがに慎重にならざるを得なかった。
(まずここよ)
一球目、インコース高めへのストレート。
「ボール!」
(さすがに乗ってはこねえか)
「ズイブントオツカレダナ」
他人事のように言うフォアマンに、倉橋はむっつりとした表情を返す。
(何言ってんだか)
入れ替わり立ち代わりピッチャーが交代し、既に三巡目。フォアマンは八度目の打席になる。
それだというのに、まるで平気な顔をしているのはどういうことだ。
(お前等化け物と一緒にするんじゃねえ)
相手は各チームの強打者を集めた打線だ。
いかにして抑えるかとバッテリーは神経を使い、その疲労感は並大抵のものではない。
二球目、真ん中高めに釣り玉のストレートを投げるも、フォアマンは手を出さない。
「ボール!」
(タマが走ってないからかどうも見られちまうな)
試合ならばいっそのこと敬遠はどうかと提案する場面ではあるが、これは練習だ。
胸を貸してくれる相手がいる以上、挑み続けなければ意味がない。
(お次はこいつでどうだ)
倉橋のサインに井口は首を振った。
自慢のシュートは影丸に上手く合わされたばかりだ。
(だが、ストレートは見切られているぞ)
一塁に走者がいる想定で、セットポジションで投げる井口だが、打ち込まれている焦りからか判断が鈍る。
(ここはアウトコースにストレートで)
(外はいいが、シュートじゃねえのかよ)
不安がよぎる倉橋だが、これも一つの経験かとそのまま投げさせる。
「くっ!」
ビシュッ!!
「まずい!」
カキーン!!
山田を凌駕すると言われるフォアマンの怪力に打球は高々と空に上がり、文句なしのホームランとなる。
「うっ……」
渾身のストレートを打ち込まれた井口は肩で息をしながら、己の掌を見た。
びっしりとかいた汗が緊張感を物語る。普段の練習でもこの程度は投げ込んでいる。だが、密度が段違いだ。いまだかつて経験したことのないプレッシャーに、井口は思わず身震いした。
(ここまでなんか、明訓は)
決して手を抜いている訳ではない。夏の東東京大会でも、先日の巨人学園戦でも自分なりに投げられたという手ごたえはあった。それなのにここまで打たれるなんて。
「このドアホが! もう少し頭を使わんかい。フォアマンのリーチなら十分にそこは届く。多少のボール球だって振って来るわい! ストレートばっかり投げおって! 相手を見てもっと攻め方を考えんか!」
「は、はい」
「上手さではフォアマンより山田が上じゃぞ!」
「ザンネンダガ、ソノトオリダ」
徳川の発言を否定しないフォアマンの態度に、墨谷ナインは愕然とした。
「オレハ、ナカニシヲウテテナイ」
今夏の千葉県予選大会。浦安の怪童中西球道擁する青田の前に、フォアマン・影丸の二人は凡打の山を築いた。超高校級と称されるその右腕から繰り出される剛速球はクリーン・ハイスクールナインの心胆寒からしめたが、山田はその中西からホームランを二本も打っているのだ。
(そもそもこの仮想明訓。本物に劣らずとも勝らずという設定じゃからな)
各校の選り抜きを集めた夢のような打線といえども、決して本家明訓に勝るとは言えない。
(それほど、それほどあの山田は大きい)
高校野球史上最強の打者と謳われるドカベン山田太郎。いかに多くの名投手たちが彼に挑み、敗れ去ってきたことか。一年生時よりその成長を見続けてきた徳川にとって、その攻略が如何に難しいか言うまでもなかった。
「しっかし、よく打つぜ、まったくよ」
外野を守りながら、戸室は思わず独り言を口にする。
各校の主砲が揃っているとはいえ、自チームのエースがこうもポンポンと川の中に放り込まれるとは思ってもみなかった。
「戸室さん!」
島田の声掛けにはっと戸室は我に帰る。またも外野へと飛んできたボールは己の頭上を越えていく。
(やれやれ。とんでもねえな)
慌ててそれを追いかけながら、目指す明訓という頂の高さに戸室は身震いした。
五番谷津に対し、投手谷口。
(さすがに捕手だけあってよく見やがるぜ)
そのずんぐりむっくりとした体形に似合わぬ器用なバッティングに倉橋はどうしたものかと頭を悩ませる。コースを丹念につく投球でツーストライクと追い込むも、きわどいタマをファールで粘られ、中々打ち取れない。
(こいつも一つミスると一発があるからな)
(ああ)
フライも満足に捕れないと揶揄されていた谷津だが、土門との出会いと山田達との交流を経て大いに成長している。甲子園まで明訓に付きまとい、徹底的に山田を研究し、対明訓戦では意識して山田のリードに読み勝つまでになった。
(山田さんなら初顔合わせであっても早々にバッテリーの特徴を掴み、相手の配球を読む)
仮想明訓との言葉に、谷津もまた意識して山田ならどうするかと考え、ここまでの打席に臨み、二つのホームランを放っていた。
既にツーストライク。
(自分ならここは真ん中もしくはアウトコース高めに投げて空振りをとる)
土門の球威ならタマの速さに打者は思わず手が出ることだろう。
倉橋の構えは外角低め。
一球様子見ということも考えられるだろう。
(でも落としてくるんじゃないかな)
先程からの谷口の攻め方を見ていると、決めダマはフォークボールだ。
(ストライクからボールになるフォーク。そんな所じゃないかな)
(よし、こいつでどうだ)
(む、よかろう)
倉橋の要求は巨人学園の対真田一球戦で見せたスクリュー気味のフォーク。
だが。
スポッ!!
クッ!!
カキーン!!
握りが弱くなり変化が甘くなったところを谷津に痛打される。
「く!」
「落差の無いフォークは格好の餌食ですよ」
落ちないフォークはただのゆるいストレート。打者からすればこれ以上打ちやすいタマはない。
(た、確かに)
たった一つの失投が試合を左右することになる。
慎重に一球一球を投げていくべきだろう。
ボールの縫い目に指を合わせながら、谷口は二度三度と握りを確かめた。
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第四十話 「頂を目指す者」
「さあて、連中はどうしてっかな」
日が陰り、涼しさが増した頃。
最近仕事が忙しく、顔を見せていなかった田所は練習場所である河川敷に急いでいた。あの明訓と試合をすると意気込んでいるのだ。さぞかし谷口が無茶をしているに違いない。買い込んできたアイスやジュースでせめて慰労してやろうと彼なりの思いやりをもってグラウンドに着くや。
「こ、こいつは一体どういうこった……」
その異様な光景に絶句した。
墨谷のベンチにいるのは事もあろうに元明訓監督の徳川。相手側ベンチに並ぶのはいずれもあの明訓としのぎを削ったライバルたち。
ボロボロになりながらもマウンドに上がる谷口を前に打席に立つのは、背負い投法で有名なクリーンハイスクールの影丸だ。
「徳川監督が臨時でコーチだと? 何の冗談だよ、おい」
ベンチでスコアブックをつけていた半田に事情を尋ねるや、これまでの経緯をざっと説明される。
「仮想明訓打線だとかで、今六巡目です」
「あの連中相手に六回投げているだと?」
「ええ。間にこちらの攻撃も挟んで」
半田の答えにあんぐりと田所は口を開けた。
通常強豪と呼ばれるどのような高校でも打線にある程度の穴はあるものだ。一番から九番まで気が抜けないという打線の方が珍しく、あの強力打線を誇った専修館ですらそうだった。だが、仮想明訓打線はそうではない。並ぶのはいずれ劣らぬ強打者好打者で、一つの失投も許されぬ。相手をするのにどれほど神経を擦り減らすことになるか。想像もつかない。
「だが、付き合う方も付き合う方だぜ」
普通の試合で六度も打席に立つことなど、ごくまれにある大差がついた試合以外には延長戦ぐらいしかありえない。それに加えて土門や影丸は投手まで務めているのだ。規格外の体力と言っていいだろう。
谷口の投げたストレートをファールにする影丸に、横井は呆れたようにため息をついた。
(ったくどいつもこいつも化け物かよ)
真田一球という個が強かった巨人学園に対し、仮想明訓打線は五人それぞれが強打者だ。必然的に守備陣も常に気を張っていなければならず、そのプレッシャーは相当なものだった。
(にしてもよ)
横井は呆れた眼差しを谷口に向ける。守備につくナインのほとんどが疲労困憊の表情を見せているというのに、マウンド上の谷口は息が荒いものの疲れをおくびにも見せない。
(とんでもねえのはあいつも一緒だな)
自らとは異なり、一年次からレギュラーを張る同期に、横井は改めて畏敬の念を向ける。
(この忙しい時期によ。よくやるもんだぜ)
そう呆れながらも、横井は鼻の頭をこすった。
(まあ、それはおれも同じことか。へへ、随分と谷口に毒されたもんだぜ)
(ちっ。また差し込まれてやがる)
忌々し気に影丸は己のバットを見た。完璧にタイミングを合わせた筈なのに、なぜかファールにされる。回を重ねるごとに段々とその球威が増していくように感じるのはなぜだろう。
始めのうちはポンポンと力の差を見せつけるように川面へ放り込んでいたが、四巡目辺りから打球が詰まるようになった。
(気圧されているというのか、このおれが!)
タイムをとり軽く素振りをしながら、マウンド上に立つ谷口、そして息を荒げながらも守備につく墨谷ナインを見回して影丸はふと疑問を抱いた。
(なぜ、こいつらはここまでやる。いくらやってもあの山田が相手。叶う訳がないとは思わないのか)
影丸の脳裏に浮かぶのはこれまで己が歩んできた道。
柔道で敗れ、野球でも敗れた。山田がいる限りは一番になれないと打倒紫義塾を掲げ、剣道へとのめり込んだが、小物と断じた先斗三十郎の前に苦も無くひねられてその面目は丸つぶれとなった。
(だが、その紫義塾の連中すら山田は倒した)
今夏の甲子園大会決勝。剣術と野球の二刀流を極めた紫義塾は確かに明訓を追い詰めた。
だが、結局はドカベン山田太郎の前に敗れた。ただ一度の敗戦を残して明訓は甲子園から去っていった。
これから何を目標としていけばよいのか。思い悩む影丸の下に徳川から連絡があったのはつい先日のことだ。
「何だと、明訓との引退試合?」
その話を聞いた時、面白そうなことを考える奴がいるなと影丸は思ったものだ。
「おうとも。そのためにぜひお前さんの力を借りたい。棒振りなんぞにうつつを抜かしておってもその腕はさび付いた訳ではあるまい」
「ふん。このおれをバッティングピッチャーにしようなどと、いい度胸じゃねえか」
「投げるだけじゃねえ。けちょんけちょんに打ってもらいてえのよ。まあ今のお前さんが打てるかどうかは別やがな」
「上等じゃねえか。ほえ面をかいても知らねえぜ」
徳川の挑発に敢えて乗り、わざわざここへやってきたのは何のためだったか。
(見てみたかったのかもしれねえな。この期に及んでまだ明訓に挑もうっていう馬鹿どもを)
キン!
「ファール!」
「どうしたい、影丸! その腕、すっかり錆びついちまったんじゃねえか?」
かっかと笑い声を上げる徳川に、影丸はふんと鼻息を荒くする。
(ふざけるな。おれは真面目にやっている。やってはいるんだ……)
三球目四球目と尚も捉えられぬ己のバッティングに影丸は苛立ちを募らせる。
谷口のコントロールはいいが、球威からすれば大したことはない。普段の自分なら容易に捉えられる筈だ。
(確かにブランクはある。だが、たった数か月だ。それなのにこのザマはなんだ)
これまでの蓄積で何とかなると踏んでいた影丸だが、予想外に谷口に背負い投法を打たれ、さらにバッティングでも追い込まれて不機嫌を露わにする。
谷口達とて一度は引退した身。野球から離れていたということに関しては、自分とそう変わらない筈だ。それなのにどうしてここまで差が出るのか。
(なぜだ。何が違う。奴と、おれと!)
「カゲマル……」
焦る影丸の姿をネクストバッターズサークルで見ながら、フォアマンは影丸が剣道を始めると言い出した頃のことを思い出していた。
千葉県大会で中西球道率いる青田に敗れ、山田という高い山と闘えぬ無念さから、失意の中影丸は新たな強敵を求め、打倒紫義塾へと鞍替えした。
(ダガ、ホントウニヨカッタノカ、ソレデ)
固い表情で野球部を離れることを伝えに来た影丸。
それに対しナインが口々に引き留めるも、彼は考えを変えなかった。
まるで何かを思い詰めたように部を去って行った。
「ボール!!」
左右に散らす作戦に切り替えたバッテリーに対し、影丸はよくタマを見極め、フルカウントとなる。
再びタイムをとった影丸は、何気なく倉橋に問いかけた。
「ここまでして明訓と闘って何の意味がある? 相手はあの明訓、ドカベン山田だぞ。勝てると思っているのか」
「まあ、正直そこはおれも同意なんだがね」
倉橋な苦笑しながら、谷口へとタマを投げ返した。
「マウンドにいるあいつは全くそう思ってないみたいなんで」
その言葉に影丸はじっと谷口を睨む。
はあはあと息を荒げ、滝のように汗をかきながらも。
その目つきは鋭く、闘志は衰えを感じさせない。
(これほどの打線を相手にしているってのに。こいつのこの根性はなんなんだ)
たった一試合。しかも公式の記録には残らない、ただの練習試合ではないか。
(こんなことをしている場合じゃなかろうに)
就職に進学。高校三年生として忙しい時期の筈だ。
自分のように親が経営する会社があるのなら構わない。
プロ野球志望ならそれも納得だ。
(だが、そうでもない奴らがどうしてここまでやる)
明らかに理に合わない。狂っているとすら感じられる。
低めに来たカーブを一塁線へファール。
(秋季大会前の貴重な時期。それに付き合おうとする連中の気持ちも分からねえ)
真っ黒になったユニフォームから、普段余程練習を積んでいることは分かる。
今は新チームの体制を盤石にしていかなければいけない時期だ。こんな無茶をして部員が潰れたらどうしようというのか。
(山田に、明訓に勝てるつもりだと?)
幾度となく敗れた自分だから言える。
そう思うこと自体は勝手だ。だが、結果がそれについてくるとは限らない。
山田とはそれ程の壁だ。勝てるための算段をし、日々努力をしても超えられなかった。
ならば、最初から諦めればいい。
無駄に惨めさを感じる必要はない。
そこまで考えて、影丸ははたと気づく。
(無駄? 惨め? 山田に挑んだことがか?)
タイムをかけ、グリップの汗を拭きとる。
脳裏に浮かぶのは、かつて打倒山田、打倒明訓を誓い、日々汗を流してきた己の姿と関東大会での激闘の記憶。
山田の記憶喪失に雨での中断。
徳川の指示を無視しての山田との真剣勝負。
(あれが全て無駄だった? 本当にそう言い切れるのか?)
パタパタと手に滑り止めをつける。
(いや、それは違う)
かつての己もそうだったでないか。
己の全てをぶつけ、尚も高みを目指そうとするその気持ち。
明訓に、山田に、勝つためには全てを投げうっても構わぬというその姿勢。
高き頂を目指そうとひたむきにがむしゃらに挑んだ日々。
(忘れていた。おれは忘れちまっていた)
バットを強く握り締め、影丸はマウンド上の谷口をぐっと見据えた。
(山田がいる限りは野球では一番になれない。そうおれは考えていた)
ストレートを三塁線へ。大きく切れてファールとなり、川の中へと飛び込む。
(だが、こいつはどうだ。甲子園でのあの中西との激戦を見ても全く気持ちが萎えることなく挑もうとしている)
「正直驚いたぜ」
バットを構え相対する谷口から発せられる得も言われぬ迫力に圧倒されながら、影丸は呟いた。
「この時期に明訓に挑もうとはな。そこまで欲しいか。明訓に、山田に勝ったという証が」
影丸からすれば賞賛のつもりだったが、何のことだか分からないと倉橋は肩を竦めてみせた。
「いや。ただ単に明訓と試合をしたいってだけなんで」
「何だと?」
驚きの余り、影丸はバッターボックスを外す。正規の試合ならばタイムがかかっていないため無効だが、練習であるため松川も厳しく言う事はない。
「それだけでここまでやるだと? 明訓を倒して一番になりたいとかそういうのじゃないのか」
「ああ」
打倒山田・打倒明訓に明け暮れた影丸にとって倉橋の言葉は理解できないものだった。
「そんなバカな話があるか! 相手はあの明訓だぞ?」
「無論やるからには勝つつもりでやるがね」
「甲子園に出てもいないお前らが? 無謀だとは思わねえのか」
「挑むのは勝手だろうさ。それに……」
非難めいたい影丸の言葉に、倉橋は困ったように頭を掻いて見せた。
「うちの大将は一度ムキになると手がつけられないんで……」
「なんだと!?」
予想外の答えに唖然とする影丸。
そこへ十二球目。
谷口渾身のストレートが投げ込まれた。
「ちっ!」
キィン!!
高々と上がった打球を捕ろうとする倉橋を見ながら、影丸は腹の底から湧き出る笑いを抑えられないでいた。
「くっくっく。そうか。成程な」
気づいてみれば単純なことだ。
相手が如何に高い山で越えられないかもしれないと思っていても。
挑み続けようとする気持ちがなければ一生勝つことはできない。
山田がいるから一番になれぬと野球から離れた自分と、山田の強さを知りながらもただ勝負がしたいとがむしゃらに突き進み、諦めない谷口。どちらが野球に真摯に取り組んでいるのかと言われれば一目瞭然だろう。
中学時代柔道で敗れたにも関わらず、なぜ野球の世界へと入ったのか。
山田に勝つためだ。あの男を倒すために諦め悪く、自分はその後を追ったのではないか。
勝ちを目指しながらも、頂の高さに興奮し、挑みつづけたのではないか。
(そんな簡単なことを忘れちまうなんてな)
楽しそうに笑う影丸の姿に呆気にとられる一同に対し、徳川はその様子を満足げに見つめていた。
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第四十一話 「託された思い」
何とかこの物語は書き終えたいと思っていますが。
同人版を手に入れた方でハーメルン版をお読みの方は気づかれたかもしれませんが、同人版はハーメルン版を加除訂正しているため、細かい部分で内容が違うところもあります。もちろん、巨人学園との試合のように直した方がいいと思った所は文章丸々変えていきます。
河川敷の仮想明訓との勝負から二日が過ぎた。
休みなくハードな練習を積んだことにより、さすがに疲れを見せる部員たちであったが、そんな中でもいつも通りの日常を過ごす者もいた。
受験や就職が近いためかどことなく緊張感のある教室内。
谷口はいつも通りに授業を受けながらも、その手にはなぜかゴムまりが握られていた。
「よければ使ってくれないか」
河川敷の練習後土門より託されたそれは、事故に遭い再起不能と言われた土門が再び剛球を投げられるようになるためにと繰り返し使用したものであると言う。
「繰り返し使えば握力がつくことだろう」
「あ、ありがとうございます」
恐縮しながら受け取る谷口に、
「明訓との試合、ぜひ見に行かせてもらうよ」
そう言って土門は爽やかに去って行った。
(どうしても、疲れが出ると握りが弱くなるな)
人差し指と中指の間に挟み込む通常のフォークと比べて、谷口のフォークは親指と人差し指を使う。そのため通常のフォークよりも疲労による影響が激しく、事実仮想明訓との勝負では、予想以上に変化の甘くなったフォークを捉えられ痛打された。
(これを使って、少しでも鍛えないと)
にぎにぎとゴムまりを握りながら、フォーク自体にも工夫が必要だと思いを馳せる。
(縫い目の左。挟んだ親指を意識して投げればスクリュー気味にフォークは落ちた。ならば、人差し指を意識してなげたら……)
対明訓を相手にし、武器は多い方がいい。色々と試してみるべきだろう。あれやこれやと考え込んでいると、目の前にぬっと誰かが立った。
「おい、谷口。野球もいいが、今は勉強のことを考えんか」
「は、はい……」
教師の言葉に顔を赤くしながら、机の中にゴムまりを隠して尚も握って放さぬ谷口に、後ろの席にいた者は呆れたと言う風に肩をすぼめてみせた。
こくりこくりと舟を漕ぎ始めた井口に対し、イガラシはノートを丸めて後ろから投げるも、びくともしない。
くるりと振り返った小室が目を細め、じっとその様子を見つめるも井口は気づかない。
(ば、馬鹿が!)
どうしたものかと悩むイガラシをよそに、つかつかと小室は井口の前に立つ。
「おい、井口!」
耳元で大きな声で呼びかけられ、はっと井口は目を醒ます。
「す、すんません。つい」
「いい加減にせんか。これで三度目じゃぞ。また眠る様なら今日の練習はなしじゃ!」
「そ、そんな横暴な」
「横暴なもんか。初めからわしゃ言っておったじゃろう。勉強もしっかりやれと」
各校の強打者を相手にするという緊張感漂う勝負の後に休みなしに練習だ。疲労は溜まっている。だが、課題が見えてきたのも確かだ。今はとにかく練習がしたい。眠らぬように指で目を大きく見開く井口に、小室はぷっと吹き出した。
「そこまでの気合を勉強でも見せて欲しいもんじゃ」
二人の様子にほっと安堵のため息をつくイガラシは、井口の隣の者にジェスチャーで指示を出した。
(次寝ていたら叩け? おいおい。さすがに容赦ねえな)
やれやれと肩を竦める同級生に、イガラシは頬をかく。
(そうでもしねえと部長に試合出場禁止だのなんのと言われそうだかんな)
対明訓に向けて墨谷に欠けていた異なる強敵との戦いの経験。仮想明訓との練習はその穴を埋めて余りあるものだった。かつて明訓を苦しめたライバルたちの実力に嘘偽りはなく、彼らと勝負できたことはイガラシの野球人生においても得難い経験となった。
(それに、あの犬飼知三郎……)
イガラシの脳裏に一昨日のことが思い出される。
「どうじゃ。野球が恋しくなったじゃろう」
練習後、汗でドロドロになったシャツを着替えていた知三郎に徳川は言った。
「まあ、いい気分転換にはなりましたよ」
知三郎は素っ気ない。既に室戸学習塾野球部は解散している。元々が対明訓。それもドカベン山田と闘うことを目指して作られたチームだ。甲子園での対明訓での敗戦後、今は全員が東大合格を目指して勉学に励んでいる。
「ふん。相変わらず素直じゃない奴じゃ。野球に未練がなければいかに東大見学に誘おうと無駄なことだと切って捨てているのがお前だろうに」
「言うほど二足の草鞋は簡単じゃありませんよ。この大事な時期に球遊びにかまけている連中と一緒にされてもね」
「なんだと!」
「よしなさいよ」
ぷりぷりと怒り出す丸井を止めたのはイガラシだ。
「お前なあ。あそこまで言われて腹が立たないのかよ」
「もちろん立ちますよ」
そう言うや、イガラシはきっと知三郎を睨んだ。
「お前が無理だと思っている勉強と野球の両立。やってやろうじゃないか」
「君が? へえ、そいつはまた」
挑むように己に向けられる視線に、知三郎は委縮するどころか興味深げに目を光らせる。
六打席勝負し、二安打四球一。結果からすればイガラシと知三郎の勝負は互角だったと言ってもいいだろう。
「随分と酔狂なことを考えますね。そのためにはまず地区大会を勝ち上がらないといけませんがね」
「くそっ」
丸井は悔しそうに唸った。今夏の墨谷は怪我で出場を辞退したとはいえ、準決勝に進むことなく戦いを終えた。甲子園で名を馳せた強豪、あの土佐丸を破り高知県代表となった知三郎の言葉には何とも言えぬ重みがある。
「まあ、とりあえず期待せず楽しみにしておきますよ」
そう言って、ぷらぷらと手を振りながら飄々と犬飼知三郎は高知に帰って行った。
昼休み。中庭にいる倉橋を見つけ、松川は声を掛けた。
「よお。そっちの練習はどうだ」
「まあ何とか形にはなってきました」
痛そうに松川は肘をさすって見せる。
「にしても、この間の連中はとんでもなかったな」
「本当に……」
審判として参加していた松川だが、土門達の好意で最後一打席勝負することができた。疲れているとはいえ、その球威は衰えを知らず、明訓はこれ以上の存在なのかと空恐ろしくなったものだ。
「それは?」
松川が気になったのは倉橋がぺらぺらとめくっていたメモだ。
使い古されたメモ帳にびっしりと何やら書かれている。
「ああ。この間の谷津がな。別れ際にくれたんだ」
「よかったら、これをどうぞ」
そう言って谷津から渡されたメモを見て、倉橋は目を丸くした。
そこに書かれていたのは明訓の打者の特徴や好物に個人的な好みまで細かく分類されたメモ。横浜学院を勝利に導くために明訓の強さの秘訣を解き明かそうと甲子園までつきまとい、彼らの様子を克明にまとめたそれは、谷津にとって汗と努力の結晶とも言える物だ。
「どうしてこんな大事なものを」
「なに、とんだ気紛れですよ。せっかく土門さんと一緒に特訓に協力したのに簡単に明訓に負けて欲しくはないんです」
「いや、でもよ……」
手渡されたメモに残る染みの数々。あの半田と同じように足を棒にしながら、情報を集めたことだろう。自らの高校野球の思い出とも言える品をどうしてそう簡単に渡すことができるのか。
「単純に見てみたくなりましてね。墨谷の皆さんが明訓とどんな試合をするのかを」
「だからって、こいつは」
尚も戸惑う倉橋に対し、
「明訓との勝負、楽しみにしています」
そう言って微笑むと、谷津は土門の後を追って行った。
「そんなことが……」
「はは。以前にも似たようなことがあったっけな」
倉橋たちの二年次のこと。優勝候補筆頭と言われたあの専修館との戦いを前にして、東実の大野から預かったメモ。結果的にそれは専修館のエース百瀬を打ち砕くきっかけとなり、大金星をあげることとなった。
「どいつもこいつもおせっかいで困る」
「ありがたいことですね」
そう言いながら、どことなく話辛そうにする松川に、倉橋は助け船を出した。
「そんなことより、おれに用があるんじゃねえの?」
「はは。分かりましたか」
「中学時代誰がバッテリーを組んできたと思ってやがんだ」
「確かに」
「いつ来るのかと思っていたが案外早かったな。ほれ」
そう言い、倉橋は松川にノートを渡す。
「こ、これは」
中身を見て驚く松川。
「墨二出身の連中に目にもの見せてやろうじゃねえか」
「……」
無言でノートを受け取り、涙ぐむ松川の肩をポンと倉橋は叩いた。
部室で東実から渡された明訓のビデオを見ながら、半田の脳裏に浮かんだのは一昨日の仮想明訓との勝負だった。
(とんでもない人たちだった……)
ビデオに映る明訓のライバルたち。その彼らと実際に接し、改めて半田は明訓の強さに思い至り身震いした。
土門の超剛球。
影丸の背負い投法。
犬飼知三郎の知恵を使ったプレイ。
フォアマンや谷津の強打。
それら全てを明訓は打ち破ってきたのだ。
(強い)
そう言わざるを得ない。
悪球打ち男岩鬼。
秘打男殿馬。
小さな巨人里中
ニッコリ笑って人を斬る微笑。
そして、ドカベン山田太郎。
絶対的王者とも言われる明訓だが、決してその地位に安穏としていた訳ではない。
彼らの前には常にその地位を脅かそうとするライバルたちが立ちはだかり、時には窮地に追い込まれた。だが、絶体絶命の場面になっても決して彼らは諦めず、勝利することには慣れているとばかりに相手を逆に圧倒する。
(強すぎる……)
ビデオを観れば観るほどその結論に行き当たる。
(でも、諦める訳にはいかない)
半田が思い出すのは河川敷での特訓が終了した後のこと。
「すいません、少しいいですか」
明訓の各バッターの特徴を尋ねて廻った半田に、彼らは嫌な顔一つせず付き合ってくれた。
「バッターだけでいいのか?」
そう申し出たのは影丸とフォアマンである。
「おれはともかくこのフォアマンは里中を打ち込んでいる。色々身になる話が聞けると思うぜ」
やって来た時とはまるで雰囲気が異なり柔らかく話す影丸に半田は驚いた。
「それは助かります。でも影丸さんにも話が聞きたいのですが」
「おいおい。おれは山田に二度も負けた男だぜ」
関係ないとばかりにノートを出す半田に、影丸は呆れたようにため息をつくと知っている限りのことを話した。
「それじゃあな。お前たちが明訓相手に一泡吹かせることを楽しみにしているぜ」
「グッドラック」
そうして、影丸とフォアマンは徳川に一礼すると河川敷グラウンドから立ち去った。
(二人の思いを無駄にはできない)
そう心に決め、半田は再び明訓のビデオと向き合った。
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第四十二話 「記者二人」
冬コミ受かりました。進行的にはぎりぎりですが、何とか間に合わせたいと思っています。
秋晴れの空の下、月明かりの差す夜。
ガード下にある屋台のおでん屋に一人の男の姿があった。
「随分と涼しくなったもんじゃ。熱燗をもう一本と、がんもに牛すじをくれ」
「へえ」
出されたおでんに舌鼓をうつ男の顔からは、とても今日早々に打ち込まれたというショックは見てとれない。
『それにしても、頷けません。東京メッツ。エース火浦を如何に怪我で欠いているとは言え、よもや岩田鉄五郎を先発にもってこようとは』
『先発の岩田が大誤算でしたね。初回にいきなり三失点では国立を怪我で欠く今のメッツには苦しいですよ』
ラジオから聞こえてくるニュースに男は顔を顰めると、杯を置いた。
「ふん。勝手なことを抜かしおる。評論家風情は気楽でええわい」
その様子を横目でちらりと見た店主は、無言でラジオを消した。
よれよれ十八番こと岩田鉄五郎。言わずと知れた日本球界の至宝であり長老。
御年五十六才でありながら、未だに現役を続けている生きる伝説。
そんな彼が時折顔を出すようになってからもうどれくらいになるだろう。
「遅いやないか」
鉄五郎の言葉に、店主がふと目を向けると若い男がやって来ていた。
「何を飲む? ビールもあるで」
「まだ仕事が残っているんでね。おでんだけで結構です。適当に見繕ってくれ」
「へえ」
どかりと鉄五郎の隣に腰を下ろすと、男は眼鏡を拭き始めた。
「それで、山井よ。どうやったんや、例の件は」
出された牛すじに鉄五郎は勢いよくかぶりついた。
「岩田さんの予想通りでしたよ」
山井は店主の出したおしぼりで顔を拭いた。
東京メッツの誇る主砲国立玉一郎とは同級生にあたる山井は、東京日日スポーツの記者として活躍していた。国立がいるがために背番号のない「白虎隊」として、一軍に立つことなく高校で野球人生を終えた山井だが、その後は敏腕スポーツ記者として活躍し、メッツとは関りが深かった。日本初の女性投手である水原勇気を巡ってのスクープ合戦の際には執拗に五利と鉄五郎を追い回し、水原勇気の秘密を暴こうと執念を見せたこともある。
そんな因縁浅からぬ山井に鉄五郎が接触を試みたのは、山田宅を訪問して後のことである。
今年のドラフトは史上まれにみる豊作と言われているが、その中でも打率七割五分を誇るドカベン山田太郎と球けがれなく道けわしの怪童中西球道は別格とも言える存在で、多くの球団が一位指名をすることが確実だった。山田にするか中西にするか、どの球団も究極の選択を迫られる中で球界を揺るがす大事件が勃発する。
『山田、ロッテ以外なら大学進学』の記事である。夏の甲子園大会中のことであり、高校生にあるまじきロッテ以外なら大学進学というアドバルーンを上げた山田に対し、プロ野球の各球団は騒然となり、最終的には高野連が軽々しい発言は慎めと口頭で注意することとなった。
神奈川県大会時に山田の祖父と直接出会っていた鉄五郎は、一月と経たぬ間の出来事に違和感を覚えその真意を問うために山田宅を訪問。長い年月で培った洞察力でどうにも今回の話には何か裏があると感じ取り、スクープを飛ばした日日スポーツの記者である山井に事情を聞こうと電話を掛けていた。
「どうや何か匂わんか」
気軽に話を持ってきた鉄五郎に、当初山井はいい顔をしなかった。
「そうは言ってもね。こういうのはうちじゃなくて週刊誌なんかに持ち込んだ方がいい」
「山田ロッテ逆指名の話、最初に載せ取ったのはお前さんの所じゃろう? あれに裏があったらどうする」
「まるで裏があるような口ぶりですが、何か証拠でも?」
「ない。この道五十年のわしの勘じゃ」
「話にならない。御免被ります」
「まあそう言うな。わしの長い現役生活。多くの打者を見てきたが、あの山田は日本球界の宝になる存在じゃ」
「……」
「だからこそ、わしらは互いに駆け引きをしながらも正々堂々ドラフトでくじを引いて決めようとした訳じゃ」
「そんな不文律誰が守るんです。札束攻勢は昔からの伝統で、ドラフト前の青田買いだなんて今に始まったことじゃないでしょうに」
プロ志望の大学生に出身大学の先輩が栄養をつけろと言って奢ったり小遣いを渡したり、果ては親の仕事の融通をしたり。金の卵を得ようとするための囲い込みには凄まじいものがある。
「ああ。そうしたことがあるのを否定はせん。事実うちもそうしたことはある。だがな、山井よ。あの山田にそれが通用すると思うか?」
山井は首を振る。あの山田ならば、どの球団に選ばれようと喜んで入団するだろう。
逆にそうした駆け引きをもっとも嫌いそうだ。
「だからよ。そんな山田がどうしていきなりロッテを逆指名するんや。おかしいと思わんか?」
「それは……、確かに」
自社の特大スクープ。だが、記事を読むや違和感があったのは確かである。
何度か見かけた山田の祖父はしっかりした人物だった。その祖父がよりにもよって自分の孫の迷惑になることを簡単にしゃべるだろうか。
「元高校球児のお前さんなら分かると思ってな」
山井にとっては痛い口説き文句だ。
絶対的なレギュラーである国立がいるがために、白新高校で一度もレギュラーになれなかった高校時代。だが、その時に培った反骨精神が今の自分を形作っている。
高校球児たちが大人の都合で振り回されているのなら、確かに由々しき事態ではある。
「分かりました。調べてみましょう。その代わりに、うち以外にはこのことは洩らさないでください」
淡々とそれだけ告げて、山井は電話を切った。
「なあ、野村。ロッテの逆指名の件。どこからの情報なんだ?」
通りがかった高校野球担当記者に尋ねると、彼はきょろきょろと辺りを伺い、山井の袖を引きトイレへと連れ込んだ。
「お前知らないのか? あれ、上から下りてきたんだよ」
「上から?」
「ああ。上の連中も半信半疑だったんでな。あちこちに確認をとったらしいんだが、ちんたらしていると他にとられるとスクープを飛ばしたらしい」
「見切り発車ってことか? 不味くないか」
「いや、それがさ。上は確かな筋からの情報だと言うんだよ。誰からかは教えてくれないんだけど」
(ロッテの関係者? それとも山田の祖父の知り合いか?)
「とにかく余計なことは聞かない方がいいぜ。おれもデスクに大目玉食らっちまってさ」
(余計なことに首を突っ込むなってか。そうはいくか)
一念発起した山井はさらに探りを入れたが、狭い社内での行動は目立つこととなり、上司から直接注意される羽目になった。
(既にスクープを出したから後は知らないってか? それは怠慢じゃないのか)
納得ができない山井は、このままでは埒が明かないと知り合いの記者に声を掛け、協力を依頼することにした。
「あ~、とりあえずサンドウィッチとスパゲティ。それにハンバーグ。ついでにライスもつけてくれ」
やって来た男は席に着くなり、挨拶もそこそこに運ばれたアイスコーヒーを一息で飲んだ。
ボロボロのコートにもじゃもじゃ頭。TVに出て来る刑事のようなその面構え。
記憶の中の男との変わり様に、山井は思わず絶句する。
「悪いな、わざわざ」
「いいさ。それより、追加しても?」
(こいつ、人の奢りだと思いやがって)
運ばれてきた食事にがっつく男を見て、山井は今回の人選は失敗だったかと不安になった。
山井が知る限り、平源造は腕利きの記者だった。かつてトップ屋源造と呼ばれ、数々のスクープをものにして、記者仲間でも評判の高い男だった。だが、数年前からその名を聞くことがとんとなくなった。持ち込む記事の多くが疑惑のネタに事欠かぬ与太記事で、どこの社も彼の情報を買わなくなったのだ。つい先日も光高校の荒木と明訓の里中が生き別れの兄弟であるなどという疑惑の記事を持ち込み、各社をたらい廻しにされた挙句に没となっていた。
「カレーもくれ。ライスもお代わりで。後このチョコレートパフェも」
さらに無断で注文を連発する源造の姿から生活の困窮ぶりが伺え、山井は一瞬躊躇する。
(どうにも、落ちぶれたもんだな)
がつがつとサンドイッチやパフェ平らげる姿はとても各新聞社週刊誌から重宝されていた敏腕記者だったとは思えない。
(だが、腕は確かだ)
荒木と里中の疑惑の記事を取材した際も、これまで誰も知りえなかった里中の家庭の事情について聞き出すことに源造は成功している。
「で、どうだ」
ぐいと口を拭い、アイスコーヒーを一息で飲むと、源造は答えた。
「受けよう。明訓の子どもたちには縁がある」
「なら、早速明日から……」
「いや、今すぐだ」
注文したものを一気に平らげると、ぽかんとする山井を尻目に源造は出て行った。
果たして源造はその日のうちに山田の住む長屋に出かけ、住民と交わり始めた。結束の固い長屋の住民は外から来た記者連中には冷たい。相手が記者と分かると門前払いが常だった。
だが、さすがはトップ屋として鳴らした源造である。長屋の主婦連の立ち話に耳をそばだて、二度三度と足を運ぶうちに話しかけ安そうな者を見つけると、酒やつまみを差し入れし、交流を深めた。やがて、気心が知れてその者の家で飲もうとなるや、ぽつりぽつりと今回のロッテ逆指名の件の真相が聞こえ始めたのである。
「なに、長屋の立ち退きやと?」
「大家である飯田社長がスーパーを作りたいらしくてね。あの貧乏長屋の住人たちに早く出ていけと一年も前からせっついていたらしいんです。引っ越し代も出すからと」
「そいつは随分と太っ腹じゃな。もっとも長屋の連中からすれば青天の霹靂じゃろうが」
「おかしいとは思いませんか?」
「何がよ。よくある立ち退き話じゃろうが」
「岩田さん達が行った時に、長屋の連中は引っ越してなかったんですよね」
「そらあ、期限を決めて出ていく算段なんじゃろう。もしくは話そのものが無くなったとかな。まあ、一年も前から言っておるもんを翻す筈がないか」
「ところがそうだとしたらどうします?」
「何やて? そないなことあるかい。理屈が通らんわい」
「長屋の連中が立ち退くよりももっと利益になることが大家にあったとしたら?」
「おい、山井よ」
だんと鉄五郎が杯を置いた。
「ええ。山田のロッテ逆指名のアドバルーンが、その立ち退き撤回の条件だったらしいんです。大家に迫られて山田の祖父がそれを了承したと」
「よりにもよって家族と言う山田の弱点を突いたやと?」
わなわなと拳を震わせ、鉄五郎は怒りを露わにした。
幼い時の事故で両親を失った山田にとって、家族は何よりも大切だ。
そしてそんな山田の一家を支えてきてくれた長屋の仲間達も。
その彼らの危機ともなれば、山田は喜んでロッテに入団するだろう。
「随分とえげつないことを考えつくやないか」
「同感です」
常に冷静に取材を心掛けてきた山井だったが、源造から話を聞いた時には怒りのあまり思わず叫びそうになった。高校球児相手のドラフトでも今や札束が乱れ飛ぶと言う世の中だ。札束の量を競うのはよく分かる。けれど、このやり方はどうだ。
「話を聞かせてくれた長屋の住人も余程気に病んでいたようです。どうにもいたたまれなくなったと」
長屋の住人からすれば、ドカベン山田太郎も皆の一員。自分達の息子と言ってもいい。その彼を犠牲にして自分達が助かることについて良心の呵責があったのだろう。
「成程のう。とすると、情報の出所はその大家かな」
「恐らくは」
山井は大根を二つに割り、口に放り込む。
源造から得た情報を元に、上層部をせっついたが、長屋住民の証言だけで確証がなく、下手をするとロッテ球団や飯田社長に訴えられるかもしれぬと記事の掲載には及び腰だ。
「上手くいかんもんじゃな」
「ただ、その代わりに明日発売の週刊ラッキーに記事が出る筈です」
つい一月前に世間を騒がせたドカベン山田太郎のロッテ逆指名。未だ球界関係者の気をやきもきさせている一件だ。間違いなく世間の耳目を集めるだろう。
「そいつはまた。すまんな」
「いえ、別に。貴方達のためにやったことではないんでね」
山井は勘定を済ませると、席を立った。
「なんじゃ、詰まらん。少しは付き合わんかい」
「必要以上に馴れ合うつもりはないんで」
「さよか」
そう言いつつ、鉄五郎は杯を掲げてみせた。
次の日。
『山田ロッテ逆指名発言に裏あり!?』
そう題された週刊ラッキーが売り出されるや、山田の実家のある長屋、明訓高校に記者が殺到することとなった。これまでの山田の態度からは遠くかけ離れていたロッテ逆指名の発言に多くの者が違和感を抱いていた。どういうことかと世間の注目は高く、全ての元凶である大家である飯田社長の下にも多くの報道陣が詰めかけたが、飯田は事実無根を繰り返し、返って疑惑を深めることとなった。
「おい、山井。やりやがったな!」
同僚にそう声を掛けられた山井は、涼しい顔で何のことかと返した。
出社後直ちに上司に呼ばれ、ラッキーの記事との因果関係について問われたが、知らぬ存ぜぬを突き通した。
源造からは半年ぶりに温かい布団で寝られると電話があった。
(なんにしても、これで前途ある若者の将来が開けたわけだ)
鉄五郎の言う通り、あのドカベンは日本球界の宝だ。
満足そうに頷き、山井は取材へと出掛けた。
だが、この週刊ラッキーの記事が発端となり、よもや明訓と墨谷の引退試合に暗雲が立ち込めることになろうとは、この時一体誰が想像できただろう。
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第四十三話 「対明訓戦異常あり」
週刊ラッキーに山田のロッテ逆指名についての疑惑の記事が流れてから数日が経った。
墨谷対明訓の引退試合まで残り一週間。思い起こすことがないようにとナインそれぞれが更なる特訓に励む中、それは起きた。
墨谷高校の教師である小室は埼玉からの通勤組で、住まいの所沢から墨谷高校までの通勤は片道二時間を超える。その長い電車の中での彼の快適な過ごし方と言えば、駅売の新聞を隅々まで読むことだった。
その日もいつも通り新聞を買おうとした彼は、駅売りのスポーツ新聞の一面に明訓と書かれているのに目を留めた。
(はて。明訓といえば、今度試合をするところじゃないか)
何かあったのかと気に留めた小室は、早速いつもは買わないスポーツ新聞を購入し、その内容に仰天することとなる。
「あ、小室先生。大変です!」
時間ギリギリに出勤した小室を待っていたのは、鳴りやまぬ電話に悩まされる同僚の姿だった。
「朝からひっきりなしに電話がかかってくるんです。明訓と試合をするのは本当なのかと」
「それじゃあ、やっぱりこの記事が」
小室が広げたスポーツ新聞にはでかでかとこう書かれていた。
『王者明訓引退試合!? あの甲子園の雄姿が再び観られるのか?』
「そりゃ確かに明訓と試合はしますが。だからってこんな……」
事態がまるで呑み込めていない小室の傍らで、未だに電話が鳴り続けていた。
「何でこんな大々的に……」
校長室で新聞を見ながら、教頭はぼやいた。
甲子園への道が断たれた野球部の面々があの明訓と試合をする。これは皆で応援せねばと軽い気持ちで新聞委員会に号外を出させたが、まさかここまで取材依頼が殺到することになるとは思いもしなかった。
「同感です。明訓の人気がすごいとは思っていましたが、まさかこれほどまでとは」
山のような取材依頼に観覧希望。中にはどうにかしてチケットが手に入らないかなどとお門違いの連絡をしてくる者まであった。
「何を今さら!」
そう呆れたように言ったのは高校野球ファンの体育教師だ。甲子園に何万と人を呼んだ明訓の引退試合だ。自分なら何を置いても見に行くだろうと彼は断言した。
「それほどですか……」
「無論です。校長先生はご存知ないのですか? 明訓の逸話を!」
土佐丸との春の甲子園決勝。殺到する観客の前にさしもの大甲子園もその許容数を超え、困った大会運営はラッキーゾーンを開放することで事なきを得た。
「そんな彼らが来るのです。当然、どこかのグラウンドは抑えてあるんでしょう?」
「いえ。そんな話は聞いていませんな」
小室の言葉にあり得ないと体育教師は首を振る。
「小室先生はご存知なくとも、野球部の生徒は知っている筈です。副キャプテンのイガラシは頭も回る。当然この程度のことは分かっているでしょう」
「とにかく当人たちを呼んで事情を聴いてみましょう」
校長の一言で衆議は一決し、昼休みに丸井とイガラシは校長室へと呼びだされることとなった。
「どうしたんです?」
校長室の前ですうはあと深呼吸を繰り返す丸井の姿にイガラシは呆れた声を出した。
「どうしたって、おめ。校長から呼び出しなんてよ」
「今度の試合についてじゃないすか。新聞に載っていたって聞きましたし」
「ま、まさか試合を止めろとか言うんじゃないだろうな」
「部長との約束通り勉強特訓だって頑張っているんだしさすがにそれはないでしょうよ」
「おめえは大丈夫かもしれねえがな。あの部長、こと勉強のことになると人が変わるからな」
「悩んでいても仕方ないですよ、入りましょう」
涼しい顔で校長室の扉を叩くイガラシの肝の太さに、丸井は改めて驚くしかなかった。
校長室に入ったイガラシたちを待っていたのは、校長・教頭・小室の三人である。
「キャプテンの丸井です」
「副キャプテンのイガラシです」
「ああ、二人とも。試合に向けての練習が忙しい中すまないな」
校長の言葉に丸井は苦笑し、イガラシは顔を顰める。
対照的な二人の様子に、小室はやれやれと頭が痛い。
「来てもらったのはほかでもない。今度の土曜日。明訓との練習試合だそうだが、場所は決まっているのかね?」
「場所?」
「ああ。相手の明訓は高校野球ナンバーワンとして有名だ。当然、大きめのところでやるんだろう?」
「いえ。やるのは学校でのつもりでしたが」
「はあ!?」
教頭が突然出した大声に、丸井がびくりとする。
「な、何か問題でも……」
「いや、問題というか。ほ、他に場所はなかったのかね」
「OBが借りてくれた河川敷のグラウンドがありますが、引退試合ってことなんで皆が見られるようにと、学校にしたんです」
「成程。イガラシくんの説明で事情は分かった。だが、どうしてもっと大きなところでやらないのだね。大きな公園に併設された球場など一杯あるだろう」
「これまで練習試合はお互いの学校でやっていたんで」
「そうした大きい所は借りるのにお金がかかる上、大きな大会の前は東実なんかの私立が練習試合用グラウンドとして借り切っちまうんです。それもあって仕方なく」
「ふむ、そうか。それは分かった。だが、実は今困ったことになっていてな。どこか大きな場所を借りることはできないか?」
校長の縋るような言い方に若干違和感を覚えつつ、イガラシは答える。
「無理ですね。ただでさえ秋季大会の前です。どこもかしこも借りられていますよ」
「何とか空きはないのかね」
「それは「それは無理ってもんです」」
自分が言いかけた言葉を先に口にしたイガラシに、丸井は腹を立てた。
「これ、イガラシ。言葉を慎まんか」
小室が注意すると、イガラシはぽりぽりと頬を掻いた。
「事実を言ったまでで。今はどこもかしこも新チームの土台作りと新戦力を見定めるために、練習試合を行いますから。予約が一杯で探すだけ無駄ですよ」
「おい」
丸井が肘で突き注意するも、イガラシは止まらない。
「譲ってくれってのも無理です。強豪校ほどスケジュールは満杯で何としても使いたいと思っていますから」
「う~む、そうか」
「校長。いかがいたしましょう」
「とにかく、試合の実施の可否や運営等我々でももっと詰めて話をする必要があります。職員を集めて本日臨時の打ち合わせを開きましょう」
校長室を出るなり丸井は大きなため息をついた。
「ったく、冗談じゃねえぜ。どうしていきなり試合をやるかどうかって話になってんだよ」
「今朝の新聞記事が原因でしょう。明訓が試合をするってんで、話題になってしまったんじゃないですかね」
「そりゃあいつらは有名だけどよ。でもなあ」
「こればっかりは校長達に任せる他ないでしょう。河川敷でもいいかと思っていたんですが、今の話ぶりからすると止めておいた方が賢明ですね」
放課後。部室に集合した部員に丸井達が今回のことを報告すると、倉橋は参ったなと頭を抱えた。
「そういや気づかなかったがあいつら有名人だもんな」
「普通に学校のグラウンドでやるものと思っていたぜ」
横井も同意する。
「でも谷口よ。こればっかりはどうしようもないぜ。確かにどれだけの人が来るかわからない」
「ああ。校長先生達に任せるしかないだろう。おれたちは練習に集中しよう」
谷口の言葉に皆が頷き、部室から出ていくの横目に見ながら。
(果たして本当に大丈夫なんだろうか)
イガラシは厳しい顔をしながら着替えを急いだ。
沈黙が会議室の中を支配していた。
居並ぶ教員たちの顔には疲労感がありありと浮かぶ。
いや、それ以上に憤懣やるかたないといった表情が見て取れた。
「それでは、まことに遺憾ながら今回の練習試合は中止ということに……」
重苦しい雰囲気の中、教頭がそう言うと、小室は勢いよく立ち上がった。
「お待ちください!」
「小室先生!」
教頭の叱責にも小室は怯まない。
「委員会にも掛け合いました。その上での決断です」
「決断が早過ぎます! もう少し打つ手を考えることは……」
「できたらやっています!」
目を瞑り、校長は叫んだ。
「だが、時期が悪すぎる。この時期にしかも一週間も前になって空いているグラウンドなどありません!」
「まさか、野球部の連中が学校で明訓とやろうと思っていたとは……。あの子たちも妙な所で世間知らずですな」
他人事のように体育教師がため息をついた。
「甲子園に何万と観衆を集めた明訓の高校生活最後の試合ですよ? 高校野球だけでなく、野球ファンなら是が非でも観たいに決まっています。そんなことも分かっていなかったなんて……」
「彼らからすれば明訓相手のただの引退試合ですからな」
「だとすると、これは小室先生の責任では?」
「いかに野球音痴といえども、これは酷すぎる」
明訓との練習試合が決まった時には手放しで喜んでいた者たちからの非難に、小室は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ、言った。
「その野球音痴はここまで大々的にして欲しいなどと言った覚えはありませんぞ。責任を問うなら新聞委員会にでかでかと記事を載せるように言った校長、教頭も同罪でしょう!」
「小室先生!」
「とにかく。彼らはわたしとの約束を守り、この一月の間勉強の方にも手を抜いてはいません。それなのに、人が集まり過ぎる、学校では手狭だから練習試合をするのを止めろ、と言うのは納得できません!」
「本校と明訓の生徒の間でだけで広まるなら問題はなかったでしょう。ですが、新聞にまで大々的に出てしまったため、警察や委員会からも安全面での懸念があると言われているのです。本校で試合をすることは無理です」
「だったら、後三日。せめて、二日ください。何とか代わりのグラウンドを見つけます!」
「いや、だがしかし……」
「お願いします。あそこまで頑張っている子どもたちに、大人の事情をただ押し付ける。そんなことは教育者としてすべきじゃない!」
「小室先生……。彼らに試合をさせてあげたい気持ちはわたしも同じです。ですが、こればかりは……」
再び静かになる会議室の中、体育教師が控えめに手を挙げた。
「小室先生が言うように、もう二日頑張ってみませんか?」
「な……」
「子どもらがあそこまで頑張っているのに、大人のわたしらがすぐ音を上げるのも情けない」
「……」
「どうでしょう、先生方」
固い表情ながらも、頷く同僚たちに小室は目頭が熱くなった。
翌日から墨校職員の奮闘が始まった。
「そちらは?」
「いや、こちらもダメ。相手があるからと」
そろりそろりと足を忍ばせ、様子を見に来た丸井は、職員室の喧騒に冷や汗を流した。
「どうでした?」
戻ってきた丸井に、イガラシが食い気味に声を掛ける。自らの右腕で勝ち取った明訓戦だけに、彼にとっても大いにその可否は気になるところだった。
「どうにも芳しくねえな。先生達であっちこっちに掛けてくれているんだが、どこも一杯みたいで」
「まあ当然でしょうね」
「まさか中止ってことはねえよな。冗談じゃねえぞ」
「こればっかりはおれたちではどうにもなりませんよ」
「まさかここまで反響があるたあな」
ガシガシと頭を掻きむしる丸井。
自らが尊敬する谷口と再び野球をしたいと転入試験までしてその後を追ってきた彼にとって、谷口の引退試合は何よりも大切なものであった。
「こんなことなら明訓との試合が決まった段階であちこちにあたりをつけておくんだったぜ」
「今更過ぎたことを言ってもしょうがないでしょう。それよりもおれたちでできることを考えないと」
「と言ったってな。精々他の高校に連絡するくらいしかできねえだろ」
「いや、もっといい連絡先がありますよ」
そう言うと、イガラシはロッカーから何やら紙きれを取り出した。
「ここに聞いてみたらどうでしょう」
「何だよ」
丸井は紙切れを受け取り、そこに書かれた名前を見てハッとイガラシを見る。
そこに書かれていた名前を見るのは酷く久しぶりだ。
墨谷二中時代。初めての青葉戦からずっと取材に来ていた毎朝新聞の記者。
確かに彼ならばあちこちに伝手があるかもしれない。
「何かのためにと取っておいたんすよ」
鼻の頭をこする後輩に、丸井は面白くもなさそうに答えた。
「ったく。こんなもんがあるなら早く出せよ。相変わらず可愛げのねえ野郎だな」
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第四十四話 「球場いらんかね」
「全く。どう言えというんじゃ」
墨谷高校野球部の顧問である小室は、部室の前で一人立ち尽くしていた。
練習前に話すことがあると部員たちを集合させたのがつい三十分も前のこと。刻々と過ぎる時間の中、肝心の自分がその部室へ入って行く勇気がつかなかった。
それは今から一時間前のこと。
「残念ですが、小室先生……」
力なく項垂れる校長の顔には疲労感が漂っていた。
明訓との練習試合中止を何とか避けようと校長以下教員たちは一丸となって、空きグラウンド探しに奔走した。
通常の授業を行いながら、空きの時間にひたすら都内にあるグラウンドに電話を掛け続ける。予約を確認し、相手の連絡先を尋ね、予約を譲ってもらえないかと交渉した。だが、どこからも色よい返事はもらえない。秋季大会前、野球ができる大きなグラウンドのスケジュールはびっしりと埋まっている。どこの学校も練習試合があるために、自分の所だけでなく相手があることだからとけんもほろろな対応ばかりだった。
「どうして……」
小室を応援していた体育教師は無念そうに下を向いた。
いや、彼だけではない。
多くの教師が自分達の力の無さを痛感していた。
夏の大会が無念の結果に終わり、悲嘆に暮れていた教員や児童。彼らにとって、墨谷高校野球部があの明訓と戦うということは何よりの朗報だった。甲子園優勝四度の王者。それも、あのドカベン山田太郎以下明訓五人衆が出場するというのだ。心は沸き立ち、寄ると触るとその話題一色になった。何より残念な思いをした野球部の子ども達の願いを叶えたい。そう思い、勤務時間などどこ吹く風と奔走したというのに。
「残念です……」
小室に対し批判的な言葉を口にしていた教頭でさえ、目頭を押さえ肩を震わせていた。
「とにかく、子ども達にこのことを」
目を合わせずそう言う校長に対し、小室は頭を下げると、職員の控室でタバコを吸って気を落ち着け、ようやく部室へと行く気になった。
それから三十分。
息を吸っては吐きを繰り返し、扉の前で固まったまま彼は中へ入れずにいた。
ちらりと中を覗き見るや、全員が机に座り、何かしている。
(どういうことだ?)
はてなと気づかれぬようにゆっくりと扉を開ける小室の肩をポンと誰かが叩いた。
「うわっ!」
思わず飛び退く小室に、びっくりした表情で立っていたのは半田。
「は、半田か。どうしたんじゃ」
「いえ、その。部長を待つ時間がもったいないという話になりまして。先に勉強特訓を済ませちまおうと」
「ほう。それは感心じゃな。それでお前は何をしとるんだ」
「はい。部長を呼びに行くついでに麦茶を」
半田は手にした薬缶を掲げて見せると、扉を開いた。
「おう。遅いじゃねえか、半田。部長は何だって」
「いや、それがそこに」
「あっ、部長。待ってましたよ」
中から出てきたのはユニフォーム姿の丸井。
「勉強をしておるのはいいが、その姿はどうした」
「いえ、終わり次第すぐ特訓できるようにと」
「明訓戦に向けて時間がないですからね」
そう淡々と話すのはイガラシだ。
「とりあえず、部長との約束通り、後一時間やるつもりですんで、話はその後でも?」
「あ、ああ、構わん。頑張れよ」
「はい」
席に戻り、再び参考書を開く丸井とイガラシに小室は呆気にとられる。
黙々と参考書を開き、勉強に励む野球部員達。
その姿に涙腺が緩み、小室は思わず眼鏡をとった。
(野球ばっかりだった連中が、まあ)
「あの、どうかしました?」
小室の様子がおかしいことに気づき、谷口は声を掛ける。
「いや、目にゴミが入ったみたいでな」
「はあ……」
そして、一時間後。
勉強が終わった野球部の面々は、整列し、小室の言葉を待った。
(ええと、この度は……。いや、違うな。実はな、残念ながら……。いや、こうでもない)
どう言ったらいいのかと頭を悩ませている小室に対し、早く練習がしたいと焦れだす墨谷ナイン。
「どうしたんだ、部長」
「さあ? 何やら話にくそうだが」
横井と戸室は顔を見合わせる。
「ま、まさか勉強時間をもっと増やすとかか……」
「じょ、冗談じゃないスよ」
二人の話に井口も割って入る。勉強が苦手な井口にとっては勉強特訓は地獄のような時間だった。
「それなら最初からそう言っているだろう」
「今に始まったことじゃないしな」
谷口と倉橋の意見に皆はそれもそうかと頷く。
「だったら、何の用なんすかね」
丸井の耳打ちに、谷口は首を振る。
「それはおれにもわからない」
「とにかく、さっさと言ってもらわないと練習になりませんよ」
焦れたようにイガラシが言うと、小室は意を決したのかようやく口を開いた。
「あ~、諸君。これまでよく、勉強に部活にと頑張った。夏の大会が残念な結果になっただけに、わしも嬉しい限りじゃ」
「へへ。まさかお褒めの言葉をいただけるとは思ってなかったぜ」
鼻をこすりながら得意げにする横井を、倉橋が肘で突っつく。
「ここまで本当によくやった。その頑張りがきっと無駄になることはないじゃろう」
「明訓相手に一泡吹かせてやりますよ」
自信満々に言ってのけるイガラシ。
「じゃがな、そのー。ええと」
汗を流しながらしどろもどろになる小室に、部員たちはきょとんとする。
「まことに言いにくいことなんじゃが、そのな」
一息に言ってしまうしかない。そう思い、小室が息を吸った時だった。
「小室先生、奇跡です! 見つかりました! できます! 明訓との練習試合が!」
そう言って興奮しながら体育教師が入ってきた。
「な、なんですって!」
「貸してもいいと連絡がきたんです。わざわざ向こうから!」
「い、一体どこが……」
話についていけぬ野球部員達を前に、小室と体育教師は肩を抱き合うのだった。
話は数時間前に遡る。
東京メッツのよれよれ十八番。球界の至宝と謳われる老雄岩田鉄五郎の下に、その報がもたらされたのは東京日日スポーツの山井を介してだった。
取材に訪れた山井は、開口一番不味いことになったと告げ、墨高が陥っている窮地について話した。
「練習試合が中止になるかもしれないじゃと?」
「ええ。例の山田の記事の影響でね」
実際には山田の記事が出る際に、ラッキーの記者が源造からの情報を元にただ一行書いただけなのだ。
『今月墨谷との一戦で高校野球から旅立つ山田は球界の宝だけに、今後大きな波紋を呼びそうだ』
だが、この記事が出るや目敏いスポーツ新聞の記者がそれに飛びつき、さらに熱心な野球ファンまでが食いつき、混乱が加速してしまった。
当初学校内で引退試合を開くつもりであった墨谷側には熱狂するファンを迎え入れる余裕がなく、代替のグラウンドも見つからずこのままでは開催そのものが危ぶまれているという。
「ま、まさか……」
「いえ、事実だそうです。懇意にしている毎朝新聞の奴から苦情が来ましたよ」
山井が源造に連絡したとは露とも知らぬ彼は、当初山井に空いているグラウンドに心当たりはないかと連絡してきた。ところが、今回の騒動の大本が山井と知ると、烈火のごとく怒り出した。
「『お前に彼らの高校野球の花道を奪う権利があるのか』とまで言われましたよ。さすがに堪えました」
元高校球児であった山井にとってその言葉はグサリと痛かった。源造との電話連絡の際に不用意に明訓と墨谷の練習試合について話してしまった自分の迂闊さを呪いながらも、こうまで広がってしまっては取り返しがつかない。
「元はと言えば、岩田さんから持ち込まれた話です。貴方にも責任をとっていただきたい」
「記事にするかしないかはお前達の判断じゃ。わしゃ、関係ない……」
くるりと踵を返す鉄五郎。
「岩田さん!」
それに追いすがる山井に、ぴたりと鉄五郎は足を止める。
「と、そう言う訳にもいかんか。かと言って、グラウンドか。この時期に借りられるところなぞある訳が……」
そう言いかけて、ポンと鉄五郎は手を打つ。
「あるやないか、一つ。連中が使えるグラウンドが!」
「本当ですか!」
「おうとも。ちょいと待っとれ! 今話をつけてきてやるわい!」
「何だと、鉄。もう一度言ってみろ」
目を白黒させる東京メッツオーナー。その脇では監督の五利が冷や汗を流している。
「せやからさっきから言うとるやないけ。その日の昼間、練習のためにとっとる国分寺球場の時間を譲って欲しいと」
「聞いたこともあらへんがな。プロが高校生の練習のために場所を譲るやなんて!」
「ただの練習試合やない。明訓の、あの山田の高校野球最後の試合やがな」
「んな、アホな。鉄っつぁん、いくらその日がナイターやからって無茶やで。うちらの練習はどないすんねん」
「そんなもん多摩川でやればいいやろが!」
「なんで、一軍が試合当日に多摩川の二軍グラウンドで練習せなあかんのや。追い出された二軍はどうするつもりや」
「その日くらいは休養にしてもええやろ! なあ、オーナー。青少年の健全なる成長のためや」
「プロが高校生にグラウンドを貸してやるなぞ聞いたこともないわい」
「元々国分寺球場とて間借りしている身やないけ。それを譲ってやるくらいなんてことないことやんけ」
「そやかて、鉄っつぁん」
「あのなあ、鉄。いくら青少年のためと言ったって、わしらは慈善事業をしとるんじゃないぞ」
「分かってますがな、オーナー。何もただであげろと言うてる訳やない。料金はきっちりととったらええ」
「しかし、色々と問題があるやろ」
「じゃかあしゃい! グラウンドが無くて困っている連中のためにわざわざ譲ってやるんやで! どこに問題があるんや!」
「そない言うたかて……」
腕組みをするオーナーに鉄五郎はなおも畳みかける。
「なあ、オーナー。その日は阪神との最終戦や。ドンケツとブービーの最下位争いなんぞ観る奴なんぞおるかい。だが、この練習試合があればまた違うで」
「なんじゃと?」
「甲子園に何万と人を呼んだ明訓。相手は部員の怪我で涙を飲んだ悲運の墨谷や。きっと人を集めることに違いない。その連中が半分でも残ったらどうや?」
きらりとオーナーの目が光る。
「た、確かにこれ以上ない観客増員の案や」
「そない上手くいくかい」
呆れ顔の五利をよそに、鉄五郎とオーナーは笑い合う。
「どや、オーナー。一つ人助けといかんか。世間様からの評判もよくなるで。ただでさえ、うちのオーナーはがめついともっぱらの噂やさかい」
「そら、金を払ってくれるなら譲ってやらんでもないが……」
「満更でもあらへんがな。どの口が言うとるんや……」
バンっと力強く鉄五郎が机を叩く。
「四の五の言わんと決めなはれや、オーナー! こいつをうちが受ければ間違いなく山田からの心証はよくなるに違いないで」
「どういうことや、鉄っつぁん」
「あの山田のことや。自分のことで練習試合が無くなるかもしれんとなったら、気にするに違いない。ここでメッツが良い所を見せてやって一歩リードよ」
「どの道ドラフトで引き当てんと意味ないやんけ」
「そこはわしの黄金の左腕に任せておけ!」
「う~む」
顎を撫ぜながら、窓の外を眺めていたオーナーはくるりと振り返ると、大きく頷いた。
「それでこそ、我が東京メッツのオーナーや! さすがやで!」
喜び握手を強要する鉄五郎に、オーナーはたじろいだ。
「なあ、鉄っつぁん。本気なんか」
オーナー室を出た途端、五利は鉄五郎に話しかけた。
「もちろんや。こんなこと冗談で言うかい」
「そやけど、ほんまにただの高校生の、しかも練習試合やで?」
「ただのやない。あの明訓の高校生活最後の試合や」
「そない言うたかて……」
「そやからお前はアホや言うとるんじゃ。観たくないんかい。一足早く国分寺デビューする山田の雄姿を!」
「!」
「わしは観たい。あやつがあの国分寺球場でどれだけ飛ばすのかを。願ってもないチャンスやないか」
「それは……」
「想像してみるとええ。国分寺の空に掛かるあの山田の大アーチを! 胸が高鳴らんか」
「た、確かに……」
己の脳裏にはっきりと浮かぶ山田のホームランに、五利は思わずうっとりとする。
「それは魅力的な話や」
「そやろう。さすがは五利や。よう分かっとる」
ばしばしと肩を叩くと鉄五郎は一人記者席へと戻って行った。
「にしても鉄っつぁん、ドラフト一位を変えるつもりはないようやな。ああ~さらば、中西、不知火」
無念の涙を光らせながら、五利は鉄五郎の後を追った。
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第四十五話 「球道大いに悩む」
先生ご本人は短編読み切りが得意だとのことだったので、その時その時で面白いものを描かれていたのだろうと思ってます。
墨谷が仮想明訓打線と練習をする一週間前に話は遡る。
青田高校野球部監督である大下茂蔵ことシゲ監督は、本職は船宿の主人であり、実の妹の梅と二人で釣り客の相手をするのを生業としていた。
甲子園で明訓との準決勝で敗れて以来、青田高校野球部は開店休業状態で、シゲもすることがなく、本来の仕事に戻っていた。
(そりゃまあ、球道がいるからこその青田だしな。あいつがいなけりゃやる気がなくなるのはわからんでもないがよ)
新聞を読みながら、その脇でせっせと働く二人に目を向ける。
(だからと言って、放課後すぐ帰ってくるたあな)
中西球道の恋女房であるえーじこと大池英治は、進路にプロ志望とは出していない。北海道時代からの球道の親友であるえーじだが、その後の大池一家を襲った激動の中ですっかり心は荒み、警察の厄介になることもしばしばだった。
(そんなおれがプロにいっても通用する訳ないじゃん)
えーじはあっさりと野球に見切りをつけ、船宿の仕事を手伝うと言い出した。
(だが、それだけじゃあるまい)
シゲの見立ては違った。
シゲが青田の監督をするようになってから、家にはえーじと才蔵が転がり込んだ。二人が姐さんと慕う梅にとっては男三人の面倒を見ねばならず苦労の連続で、疲労から一度ならず倒れている。現在は普通に生活できているが、義理難いえーじにとってそれを放ってプロ希望を出す気にはなれなかった。
それは青田のクリーナップを務めた才蔵も同じ。渡世の義理が大事だと話す彼にとって、恩人たる梅への恩返しが第一で、それ以外は些末なことなのだという。
「野球も一区切りついたんで、後は御恩返しをさせてくだせえ」
そう言うと、えーじと二人で黙々と船宿の仕事を手伝っていた。
「ところで、球道はどうした? 最近見かけんが」
これまで用がなくても顔は見せていただけに、シゲは不安になってえーじに聞いた。
「ああ、球道なら今は福岡じゃん」
「福岡!? なんで福岡なんぞに」
「福岡はあいつの故郷じゃんよ」
「た、確かにそうだが、何もこんな時期に……。一体何しに行ったんだ」
「そりゃあねえ……」
「なんででしょうねえ……」
事情を知りながらも、くっくっくと顔を見合わせて笑うだけのえーじと才蔵。
「おいおい、大丈夫なのか?」
思わせぶりな二人の態度に不安になるシゲであった。
中西球道。
言わずと知れた千葉が誇る浦安の星。
怪童と称される彼の右腕から繰り出される球は甲子園でも三振の山を築き、なんとあの王者明訓から高校生新記録となる二十六連続三振を奪った程の大投手である。
そんな彼は今福岡市内にある病院に来ていた。
福岡玄海小以来の付き合いである立川結花。球道とはお互いに福岡・千葉と距離が離れているために中学・高校を通じて数えるほどしか会っていなかったが、月に一度は手紙を交わし、徐々にその距離を縮めてきた。それだけに、この夏いきなり結花が原因不明の眼病にかかったという報せに球道はひとかたならぬショックを受けた。千葉県大会決勝前に尋ねてきた福岡時代の友人たちにそのことを聞いた球道は一も二もなく結花に会いに行こうとしたが、「どうせ行くなら、甲子園の優勝旗を手土産にしてやろう」と思い直し、その見舞いは伸ばし伸ばしになっていたのだ。
病院の前でうろうろとする球道に対し、福岡時代からの仲である悪童とサッシーはうんざりした顔をして声を掛けた。
「一体いつになったら行くんバイ。結花はそんなこと気にせんと」
「そうは言うがよ。準優勝どころかベスト4程度じゃ恰好もつかんだろうが」
「準決勝で明訓に当たったんだから仕方がなかバイ」
「四の五の抜かさんと早く行くタイ。締め切りと入院患者は待ってくれんタイ」
ずるずると悪童とサッシーに引きずられるように中に入ると、球道も諦めがついたのか分かった分かったとその手を振りほどいた。
「俺も男だ、覚悟を決めようじゃないか、ええ」
そして、球道が入って行ったのは結花のいる病室。ベッドの上で寝ている結花に対し、球道は咳ばらいをする。
「コホンコホン」
「誰? 誰かいるの?」
むくりと起き上がった結花の両目に巻かれた包帯に、球道は目を伏せる。
「コホンコホンコホン」
「お父さんじゃないし、悪童くんでも大和田くんでもないわね。まさか、的場くん?」
「ゴホン!!」
憎き恋敵と密かに自認している相手の名前が結花から出たことに、球道は苛立つ。
(なんで、ここで的場の名前が出て来るんだ。まさか付き合っているんじゃないだろうな)
「なぜ、あんな面倒臭いことしとるとよ」
小声で悪童は隣にいたサッシ―に耳打ちする。
「自分だと気づいて欲しい男心とよ」
尚も、剣だの何のと違う名前を口にする結花に腹を立てた球道はようやく声を上げた。
「おれだよ、おれ」
「え? おれって……、ま、まさか……」
そう言ったきり、結花は口を噤んでしまう。小学校時代から球道を追いかけ続けてきた彼女にとって、その声は忘れようとしても忘れられない。
「な、なんで、どうして……」
「いくら送っても手紙が返って来ないんでね。直接文句を言いに来たのさ」
「そのためにわざわざ?」
「どうして素直に心配だったから見舞いに来たと言えないと?」
サッシ―の質問に、悪童はさあと肩を竦めてみせる。
「ご、ごめんなさい。急にこんな風になってしまって……、それで……」
「それで? 目が見えないから迷惑をかけるからおれとの縁を切ろうってか?」
「ごめんなさい」
すすり泣く結花に、球道はかっと目を見開いて叫んだ。
「見くびるない!男中西球道、例え目が見えてなくたって、一度惚れた女は大事にするもんだ。お前が惚れた相手ってのはそんなちんけな男なのかよ!」
「え!」
そう言ったきり、結花は黙ってしまう。
自分が球道に惚れていることは誰にも秘密だった筈。それをなぜ球道が知っているのか。いや、それよりも惚れた女とは自分のことを言っているのか。手紙ではそんな素振りは微塵もなかったというのに。混乱する結花をよそに悪童たちは盛大にため息をついた。
(あ~んな露骨な態度をとっておいて何を今更)
(知らぬは当人たちばかりってやつバイ)
「でも、わたし、球道くんに迷惑をかけたくない……」
「治せばいいじゃねえか。原因不明で病気になったって言うんなら、原因不明で治ることもあらあな!」
球道はそう言うと、持ってきたカバンからボールを取り出し、結花に握らせた。
「こ、これは?」
「おれのお守りさ」
「ボール? それも野球の……」
マネージャーとして毎日磨き続けてきたその感触は結花にとって懐かしさを感じさせる。
「ああ。そいつがあればお前の目もきっと見えるようになるぜ」
球道が結花に手渡したボールを見て仰天し、悪童とサッシ―は体を震わせた。
球けがれなく道けわし。
今や中西球道の代名詞とも言えるその言葉。
実の母の手によってそれが書かれた古びたボールこそ、今は亡き球道の実の父が彼に遺したたった一つの形見の品である。
球道にとって、いや、中西一家にとってかけがいのない何よりの宝。
「それを、結花になあ……」
「あいついいとこあるとよ」
球道からボールの由来を聞き、結花は両手で大事そうにそれを押し包んだ。
「そ、そんな大切なものを私に? いいの?」
「いいも悪いもあるもんか。おれがいいって言うんだからいいのさ」
包帯の下。結花の見えない目から涙が零れる。
「あ、ありがとう。ありがとう、球道くん。本当に……」
目が見えなくなる前までは結花は博多どんたく高校のマネージャーとして、その明るさで大いにチームを盛り上げる存在だった。そんな彼女が眼病にかかり目が見えなくなったことで、動揺したナインは本来の力を出せずじまいで地区大会で最後の夏を終えた。自らが応援してきたチームの最後の試合、何より球道の最後の夏が観られなかったため、心中結花は酷く落ち込んでいた。
そんな自分に球道から手渡された大切なボール。
握っているだけで、温かな気持ちになれるのは気のせいではないだろう。
「大切に持っていてくれよ。目が無事に治ったら返してくれりゃいい」
「治らなかったら?」
「その時はその時さ。ボールごとおれが面倒みてやるぜ」
ボールを持つ自らの両手をそっと包み込むように握る球道の手から暖かさを感じ、結花は再び涙を落とす。
「本当に、わたしでいいの? 球道くんなら他にもっといい人がいるのに……」
「皆まで言うない。男球道、これと決めたら一直線よ。相手の目が見えないだの何のと大したことじゃない」
力強くそう宣言する球道に、結花はありがとうありがとうと何度も繰り返した。
そして、一週間後。
「何をしかめっ面をしているじゃんよ」
「馬鹿。これは考え事をしているんだ」
えーじの突っ込みもどこ吹く風と腕組みをしながら登校する球道に、才蔵はにやにや笑ってみせた。
「恋煩いってか? 柄にもない」
「それは言えてる」
「へん。恋も出来なさそうなご面相の連中に言われたくはないぜ」
そう言い返しながらも、心ここにあらずと言った様子の球道にえーじは首を捻る。
放課後。船宿の仕事へ行こうとしたえーじを引き留めた球道は、投げ込みをしたいと言い出した。
「いきなりどうしたじゃんよ」
「いいから付き合ってくれ」
(何があったじゃんよ)
北海道時代からの長い付き合いであり、球道のこうした状態を何度も目の当たりにしているえーじは仕方がないとミットを持った。
(一体どうすればいい)
球道の頭の中にあるのは、結花が別れ際に放った台詞だった。
ラジオで球道の試合を全部聞いていたという結花は、最後にこう言ったのだ。
「それにしても残念だったなあ。目がこんなことになってなければ球道くんと明訓の試合を必死になって応援できたのに」
「そいつはプロになる時までとっておいてくれ」
そのときはそう返した球道だったが、帰りの電車内でふとあることに気が付いた。
(ひょっとして結花は山田との勝負じゃない、明訓との試合が観たかったのか?)
今夏の甲子園大会でも数々の熱戦が繰り広げられたが、特に明訓と青田が激突した準決勝は双方譲らずの引き分け再試合となり、球史に刻まれる一戦となった。
ずっと球道を応援してきた結花としては、是が非でも観たい試合だっただろう。
(だが、おれの、おれたちの高校野球は終わっちまった)
山田は言わずもがな、他の明訓五人衆もプロに進む可能性はある。けれども、プロはセ・パ両リーグに分かれている。彼らが一堂に会することはオールスターでもありえないだろう。
(甲子園に出た時の連中と闘うなら今しかない。だが、すでに奴らは高校生活最後の試合を引き受けてしまっている)
悔やんでも悔やみきれぬことであった。山田との高校生活最後の勝負とばかりに練習試合を申し込もうと思った矢先、タッチの差でそれを無名の墨谷に奪われてしまった。
(さすがにドラフトも秋季大会も近い中で、もう一試合なぞ受けてはくれないだろうな)
たたでさえ、青田と明訓の試合では里中が負傷するなどアクシデントがあった。プロ入り前の怪我などご法度だ。例え本人たちが了解しても、周囲が止めるに違いない。
(とすると、どうしたものか)
事情を話して頼み込み、墨谷に明訓との練習試合の権利を譲ってもらおうか。
そう、球道が思いたったとき、えーじが声を上げた。
「球道、球道!」
「何だよ、えーじ」
「何だじゃないじゃん。さっきから校長が呼んでいるじゃん!」
「校長が? 何の用だ」
「知るか。やたらめったら投げ込みやがって」
えーじは痛そうに手をひらひらとさせる。
「す、すまん」
青田高校の職員室へとやってきた球道が見たのは、電話に向かって怒鳴り声を上げるシゲの姿。
「何度言われても変わらんぜ。うちの球道の腕はそんな安っぽいもんじゃない!」
「どうしたんです?」
事情が分からず傍にいた教頭に校長は尋ねる。
「徳川さんから電話? 徳川って、あの元明訓の監督の?」
「ああ。どうもお前に用事みたいでな」
「おれに?」
「シゲが代わって出たんじゃが、このザマよ」
「しつこいぜ。いい加減切るぜ、じいさん!」
激昂するシゲの側によると球道は耳打ちする。
「いったいどうしたって言うんです?」
「どうしたもこうしたもあるかい。徳川のじいさん、耄碌したらしくとんでもねえことを言ってやがるのさ」
受話器の向こうで徳川が人を耄碌老人扱いするなと喚くのを無視し、シゲは続ける。
「自分が今指導している墨谷が今度明訓と戦うからお前に一度投げて欲しいんだとよ」
「墨谷? 墨谷って、あの東東京の……」
予想外の言葉に球道は一瞬言葉を失う。
今夏の甲子園大会。高知県代表室戸学習塾の監督だった徳川が、どうして今墨谷の監督をしているのか。いや、それよりもまさか会いに行こうと思っていた相手からまさか連絡がこようとは。
「おれに投げて欲しいとはどういうこった」
球道の声が聞こえたのだろう。徳川が大きな声で笑い声を上げた。
「墨谷の連中に体験させてやりたいのよ。超一流をな」
「あんたが最後の最後まで打倒明訓を目指そうと、そんなのはわしの知ったこっちゃない。だが、うちの球道をバッティングピッチャーにしようというのが気に入らねえ。後二月もすればとんでもない額でプロに入る男なんだぜ!」
そう叫んで、電話を切ろうとするシゲの手から球道は素早く受話器を奪った。
「お、おい球道!」
「徳川さんよ。今の話、条件付きでなら受けてもいいぜ」
「な! ば、馬鹿。 何を言っているんだ!」
シゲが慌てて電話を切ろうとするのを、球道は電話機ごと抱えて躱す。
「どうだい。その条件が吞めるんなら引き受けてやってもいいぜ」
「さすがは球けがれなく道けわしの中西球道だぜ。その条件乗った!」
豪快に笑う徳川の声と共に、シゲの悲鳴が響く。
「馬鹿あ! 妙な約束をするんじゃない! お前の黄金の腕を無駄遣いじゃ!」
「な、中西……」
完全に蚊帳の外の校長と教頭は二人のやりとりをぼんやりと見つめることしかできない。
「分かった。その日に行くと伝えてくれ」
それだけ話すと、抗議するシゲをよそに球道はグラウンドに残るえーじの元へと急いだ。
「待っていろ、墨谷よ。お前らに格の違いってのを教えてやるぜ」
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第四十六話 「学校組ふんばる」
一球さんだけでは我慢ができず出してしまう。
「あれ、こっちは二軍か」
そう言いながら、また記者が残念そうに出ていくのを横目で見ながら松川は苦笑した。
明訓との引退試合が世間に認知されるや、急にやって来るようになってきたマスコミだが、特訓組は河川敷にいると伝えると皆同じような反応をするのがおかしくてならない。
元々ぎりぎりのメンバーしかいなかった墨谷高校野球部は、各地区の金の卵たちが入部した後も一軍二軍などと区別することなく練習してきた。現在別れて練習しているのは、対明訓のための徳川の猛特訓とそれによる部員の怪我による秋季大会への影響を考えての措置に過ぎないのだが、事情を知らぬ記者達にはそれが分からぬらしい。
「二軍か、とはとんだ言い草だな」
文句を言う鈴木だが、とても半月前に自分では一年生達の面倒を見切れないと言ったのと同じ人物とは思えない。松川と共に一年生を引っ張る立場となり、まがりなりにも上級生としての自覚が芽生え始めたということだろう。
「気にするな。それより打撃練習だ!」
そうレガースを着けながら松川が声を掛けると、片瀬がマウンドに上がる。
丸井やイガラシの不在で指示をする者がいないのではと心配されていた学校組だったが、隅田中で倉橋卒業後キャプテンを務めていた松川の指導力はさすがで、今や下級生の信頼を十分に勝ち得ていた。
「よし、まずは高橋からだ」
「はい」
言いながら高橋はバントの構えを見せる。それを見ながら、次打者の鈴木は首を傾げる。
(打撃の練習と言いながらバントばかり。本当に大丈夫なんかね)
河川敷組もバントや基礎的な守備練習を中心に行っていたが、学校組はそれをさらに徹底し、この一月近く行っていたのは走り込み、守備練習、バント練習に素振りと地味な練習ばかりだった。
(もっとがんがん打ち込んだ方がいいんじゃないか)
確かに鈴木と松川以外は一年生ばかり。基礎的な練習は必要だろう。けれども、そればかりするのはどうか。高校から野球部に入った鈴木だが、これまでの墨谷の猛特訓と比べるとどことなく物足りなさを感じていた。
「なあ、松川。もっと違う練習をした方がいいんじゃないのか」
打席に入った鈴木は松川に話しかける。
「違う練習って?」
「専修館戦の前みたいに金谷町のバッティングセンターに行くとかさ」
ビシュッ!
キン
「あっ……」
ころころとボールは三塁線に切れ、ファールとなる。
「少なくとも百パーセント狙ったところにバントが転がせないうちは駄目だろ」
松川の言葉に鈴木は頭を掻いた。
「それにこれは徳川さんからのアドバイスでもある」
「あのじいさんの?」
「基礎を徹底的に体に叩き込め、だってさ」
徳川曰く。少しでも野球を齧った者はすぐに特別な練習をしたがる。素振りをせずマシンを使った打撃練習で満足してしまう。
「それは悪手じゃ」
マシンを使った打撃練習の場合、速いタマに慣れることはできる。
だが、それが良い事ばかりとは限らない。
マシンは一定のタイミングで投げて来る。人間は知らず知らずのうちにタイミングを計り、それに合わせたバッティングを覚えてしまう。
「現実に同じタイミングで投手が投げて来ると思うか?」
徳川の問いに、松川は否と答えた。
いかに敵打者のタイミングを外すか、読みを外すか。極論を言えば、投手の仕事はそれに尽きる。どんなに速い剛速球を投げようと、鋭い変化の変化球を投げようと、タイミングを合わされたら打たれてしまう。
逆に打者の側からすれば、投手心理、投手の投げるタイミングが分かればその攻略は容易となるだろう。
「だからこそのバント練習なんだってさ」
投手がどのタイミングで投げようと、どんなタマを投げようと。
狙って転がせる技術を身に付ければ、これに勝るものはない。
「バントもヒットも一打は一打。ようは点に繋がるかどうかじゃ」
信濃川高校監督として甲子園に出場し、明訓相手にバントヒットを多用すると金作戦をとった徳川の言葉には重みがあった。
「なるほど……」
納得した鈴木は再度バントの構えを見せる。
コン!
今度は見事に転がした鈴木だが、松川の送球の前になんなく一塁フォースアウトとなる。
「くそっ!」
(さすが松川さん)
球をキャッチしながら、片瀬は改めて松川の凄さについて思い知らされる。
特訓組と袂を分かった松川だが、ただ一年生のため、チームのためだけにそうした訳ではない。
夏の地区大会予選。イガラシや井口といった一年生投手の台頭の陰で、松川は控えに回らざるを得なかった。ちょうど春先から調子を落としていたことも手伝い、ベンチを温める機会が多くなった松川が、何とかレギュラーに残るためにと考えついたのが倉橋無きあと一年生に頼らざるを得なくなる捕手へのコンバートである。
春先から密かに練習を始め、夏の予選の間に倉橋にそれとなくアドバイスをもらい、秋季大会前にチームの皆に相談しようと思っていた矢先に降って湧いたように対明訓戦の話が舞い込んだ。徳川の特訓の厳しさは格別で、違うポジションの練習をする余地はない。
(このままだと、おれは投手と内野の練習ばかりになっちまう)
対明訓に意識が向いている丸井やイガラシは気づいていないが、秋季大会に向けていち早く決めなければならないのはチームの要、第二の監督とも言われる捕手だ。
(一年生二人には荷が重い)
旗野と平山はともに中学では名を馳せた捕手だが、今夏墨谷の試合のマスクは全て倉橋がかぶっており、実戦経験に乏しい。
(やるしかない)
松川なりに覚悟を決めての学校組への参加だった。
「よし、それじゃあ守備練習を始めてくれ」
松川の指示で、学校組ナインはそれぞれの守備へと散らばる。
ノッカーとなった鈴木の傍らで、松川は片瀬を相手に自らの守備練習を行う。
「それじゃあ、ワンバウンドからいきます」
「ああ頼む」
片瀬が投げたワンバウンドのタマを松川は胸に当てる。
「もういっちょ」
低めにきたタマをかがみながら、松川は受ける。
「す、すげえ」
今年始めたばかりとは思えない松川の様子に、旗野と平山も闘志を刺激される。
「おれたちだって負けていられるか!」
バシッとミットを叩くと、ナインを鼓舞する。
「おうっ!」
元気のいい声が墨谷高校のグラウンドに響いた。
学校組が自分達なりに練習に励んでいる頃。
徳川の酔いどれノックを受けきった特訓組は、突如現れた訪問者の前に驚きを隠せなかった。
「何だと?」
「ど、どうしてあいつが……」
さしも冷静なイガラシも言葉を失う。
仮想明訓として呼ばれた土門たちの登場も衝撃的だったが、それ以上だ。
「随分な態度だな。呼ばれてわざわざ来てやったんだ。礼の一つでもあるべきだろうに」
そう不敵な態度を見せてやってきた男の名を知らぬ高校球児などいはしない。
甲子園での明訓との引き分け再試合。
都合二十七回に及ぶ激闘を一人で投げぬいた剛腕。
その座右の銘である球けがれなく道けわしとの言葉と共に、今後語り継がれていくであろう甲子園で山田相手に出した百六十三キロの豪速球。
千葉が全国に誇る浦安の星。
生みの親も育ての親もプロであり、その投げるタマも既にプロ顔負け。
そんな彼を、人は同姓であるかの西鉄ライオンズの大打者と同じ異名でこう呼んだ。
怪童。
「中西球道……」
全身が泡立つような興奮を覚えながら、その名を谷口は口にしたのだった。
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第四十七話 「超一流」
文庫本もあります。
水島新司先生の作品を読むと、よく出て来るのが親子愛。
水島新司先生ご自身が、幼い頃御兄妹を亡くされているので、家族に対しての愛情が深い方なんだと思います。
ユニフォーム姿でやってきた球道に、墨谷ナインは一様に驚きを隠せなかった。
一体何のために来たのか。互いに口を開こうとするも、上手く言葉が出てこない。
ただ一人、徳川だけが楽し気に、
「よう来てくれたな。まさか来るとは思わなかったぜ」
球道の肩を叩こうとし、
「へっ。あてもないのに電話してきたのかい?」
するりとそれを躱されていた。
「電話? な、なんの?」
意味が分からないと問いかける丸井に、徳川はお前達と勝負するためじゃと返す。
「しょ、勝負って? 中西と?」
ぽかんと口を開けたまま、横井は隣にいた戸室と顔を合わせると、戸室も同じ表情で固まっている。
「何をしたんです……」
イガラシは言葉にならず、徳川を睨んだ。
青田の中西球道といえば、そのプライドも人一倍だ。山田以外の明訓打線を雑魚と切って捨て、事実甲子園では明訓相手に十一連続三振の大記録を打ち立てた。そんな男が自分達との勝負など気軽に引き受ける訳がない。
「何、簡単なことじゃ。お前たちの明訓との試合の権利。そいつを賭けた」
「何を「何を勝手なことを!」」
事も無げに言い放つ徳川に対し、井口が掴みかかろうとするや、それよりも早く丸井が詰め寄った。
「どうして何の相談もなく!」
ぐいと襟首をねじり上げられながらも、徳川は平然としたものだ。
「それぐらいしなきゃあ、こいつは動かんわい」
「だからってこの試合をするためにどれだけ!!」
わざわざ明訓にまで足を運び交渉してきたのは何のためか。全て、野球自体から足を洗おうとする谷口を引き留めるためではないか。もし、明訓との試合が無くなってしまえば、そのやる気は萎み、一気に野球から離れてしまうだろう。
「よせ、丸井!」
慌てて谷口が間に入り、丸井を徳川から引き剝がす。
「徳川さんは徳川さんなりに考えてのことなんだろう」
「で、でも! だからって!」
尊敬する谷口に言われるも、丸井は気持ちのおさまりがつかない。一度は開催が危ぶまれながらも、ようやく試合ができる運びとなったのだ。それなのにどうしてこの酔っぱらいは余計なことをするのか。
「何じゃ、最初から負けるつもりなんかい」
納得できないと怒りに体を震わせる丸井に向けて、徳川は呆れた声を出した。
「だったら、明訓との試合は諦めるとええ。前にも言ったじゃろう。この夏を経てあやつらは強くなった。今の明訓に勝つには並大抵の努力じゃ足らんわい」
「そのための中西との対決なんですか?」
低い声で尋ねるイガラシ。
「ああ。先日の仮想明訓での勝負でお前たちは一流の凄さを身を持って理解したじゃろ。じゃがな、世の中には一流を超える超一流が存在する。それが、あの山田と……」
「このおれって訳かい? 名監督様にそう言ってもらえて光栄だぜ」
球道はそう言いながら、墨谷ナインを見渡した。
「それで、どうするんだい。おれとしては色々と事情があってね。是非引き受けてもらいたいんだがね」
「ちょっとだけ時間をください」
イガラシが提案し、現役組で話し合うこととなり円陣を組んだ。
「で、どうします、丸井さん」
「どうって、そりゃお前。断るに決まってんだろ」
大事な明訓との試合をまるでおもちゃか何かのように賭けの対象にしたことが相当癇に障ったらしい丸井は吐き捨てるように言った。
「でも、またとない機会ですよ」
「おめーはそう言うがよ。あいつのタマ、知っているだろ。百六十キロだぞ、百六十キロ」
「そんなのは山田相手の時だけでしょうよ」
「だからって、せっかく決めてきた試合だぞ。しかも三日後なんだぞ」
揉める丸井達を横目に見ながら、三年生達は球道の様子を見るのに余念がない。
「全身これバネって感じだな」
戸室が言えば、
「ああ。まさか間近で見られるとは思わなかったぜ」
横井がそれに頷いた。
「さて、どうするんだ。新キャプテンは」
お手並み拝見とばかりに丸井とイガラシのやりとりを見守る倉橋に対し、
「現役が決めたことに従うだけさ」
谷口は一度引退した自分達があれこれ言うべきではないと口を噤んだ。
「で、どうするんだい」
円陣を解き、戻って来た墨谷ナインに向かって球道の問いかけに、
「受けます」
憮然とした表情をしながらも、丸井はそう答えた。
思い通りの展開に歓喜しながらも、念のためにと球道は確認する。
「そいつは願ったり叶ったりだが、本当にいいのかい。後で泣きついてきてもおれは知らないぜ」
「構いません。勝つつもりですから」
そう冷静に言い放ったイガラシに対し、
「へえ、こいつは。ちょっとは歯ごたえがありそうじゃねえか」
球道は嬉しそうに大きく頷いた。
「それで、勝負の内容とは?」
谷口の質問に対し、口を開いたのは徳川。
「球道から一点が取れたらお前らの勝ち。九回分、二十七個アウトを取られたら球道の勝ちじゃ。守備はいらん。わしがヒットの判断をする」
「一点って、守備もないのにそんなのどうやって」
「単打が四つ、二塁打が二つ。ホームランなら一つ。それでどうじゃ」
「成程」
「おいおい。それじゃあ、あんまりにもおれに有利過ぎるぜ。九回じゃなくて、延長も含めて十八回でいいぜ」
「十八回でいい、だと!?」
「舐めやがって!」
怒りを露わにする井口に丸井。
だが、イガラシは固く口を引き結ぶ。
「いや、自信からでしょ。そう言えるだけの実績がありますからね」
今夏の甲子園大会準決勝は球史に刻まれる程の熱戦となったが、明訓の里中が岩鬼に先発を譲ったのに対し、球道は一人で引き分け再試合も含めた二十七回を投げ切った。
「よかろう。それじゃあ、十八回五十四個のアウトで構わんな」
「それで、捕手は? それに守備も必要では?」
「そんなもん必要ないだろ。全部三振に切ってとるつもりなんだから」
「このー!」
球道の言葉にさらに腹を立てる丸井に井口。
二人をなだめながら、谷口は倉橋へ視線を送る。
「そういう訳にもいかないだろう。倉橋、頼めるか」
「おれは構わんが……」
百五十キロを超えるという球道の速球を捕れるかどうか。冷や汗を流す倉橋に、横合いから声が掛かった。
「止めておいた方がいいじゃん。球道のタマは捕り損なうと半端でなく痛いから」
大きな団子鼻に糸目。青田高校の正捕手であるえーじこと大池英治である。
「あれ、えーじじゃないか。どうしてここに!」
「えーじだけじゃないぜ」
「才蔵! なんでお前まで……」
えーじの横から巨漢の才蔵が手を挙げる。
誰にも言わずにやってきたのにどうしてえーじと才蔵がここにいるのか。訳が分かないと言った表情の球道にえーじは事情を話す。
「球道ママとシゲ監督に頼まれたじゃん。球道はきっと暴走するだろうから止めてくれって」
「そうそう。あまりお痛が過ぎるようなら引っ張って連れてくるようにってな」
「おいおい。おれはトラックか何かかよ」
「ある意味で間違ってないじゃん」
「だが、助かったぜ、えーじ。これでおれは本気で投げられる」
「おいおい、おれはどうするんだよ」
「才蔵は一塁に入ってくれ。徳川さんよ、守備はそれで構わんぜ」
「後ろには飛ばしはしないってか。へっ。大した自信じゃな」
水を得た魚のように嬉々としてマウンドに上がった球道は、すぐさま用意を終えたえーじと共に投球練習を始める。
ビシュッ!
バシィ!!
ビシュッ!
バシィ!!
唸りを上げてえーじのミットに収まる球道の豪速球のあまりの迫力に、墨谷ナインはあんぐりと口を開け、ただ呆然とするしかない。
「おいおい。テレビで見るのと段違いじゃねえか」
「あ、あんなタマどうやって打つんだ」
「とにかく、島田。何とか球数を投げさせてくれ」
「は、はあ……」
一番を任された島田は気のない返事をする。
対専修館戦でも逆転のきっかけを作る粘りを見せた彼にトップを任せ、とりあえず球道のタマを見ようとした谷口だが、当の島田は困惑するしかない。
(何とかって、あんなのどうすればいいんだ)
「プレイ!」
徳川の掛け声と共に、
ガバアアア!
ビシュッ!
球道の手から第一球が放たれるや。
「な……」
墨谷ナインはその目を大きく見開くこととなった。
ドシイ!!
「嘘だろ、おい」
打席の島田も目を丸くする。
投げたのはど真ん中のストレート。
だが、速さがこれまでの投手達とは段違いだ。
東実の佐野、専修館の百瀬、真田一球や影丸に土門。
今まで対戦してきた並みいる速球投手達を過去の物にしてしまうほどの衝撃。
そして、捕手のえーじの身体を浮き上がらせんばかりのその球威。
(これを打てってのか……)
島田は顔を青ざめさせる。
(冗談だろ……)
タラリと流れる冷や汗を拭いながらも、何とか抵抗しなければと頭を巡らせた島田はとりあえずめいっぱいバットを短く持ってミートを心掛けるが、球道の速球には通用しない。
「ストラーイク、バッターアウト!」
審判に入った徳川は高々と手を挙げる。
三球で仕留められ、意気消沈しながらベンチにとぼとぼと戻る島田の姿に意気消沈する墨谷ベンチ。
「とんでもねえな、全く」
「あんなの反則だろ……」
「打てる訳ないだろ、ムリだ」
諦めの声が上がる墨谷ベンチの中、一人立ち上がったのは谷口。バットを持ったかと思うと、何やらぶつぶつと言いながら素振りを始めた。
「お、おい。谷口、どうしたんだ」
驚いた倉橋が声を制止しようとするが、谷口はきょとんとしながらもそれをふりきる。
「どうしたって、打たなきゃいけないだろ」
墨谷ナインはまるで、がつんとハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
(目の前であれほどのものを見せられているのに?)
(う、嘘だろ。あれを打とうってのか)
ごくりと唾を呑み込むナインの中、丸井は一人うんうんと頷きながら打席に入った。
(さすが谷口さんだ)
言葉でなく行動で皆を導く谷口の姿に次打者の丸井は墨谷二中時代を思い出す。
絶対に勝てないと思っていた青葉学院との勝負。諦めムードが漂う中行われたのは、谷口による常軌を逸した特訓。多くの怪我人が出る余りの凄惨さにナインの多くが反発。谷口に抗議しようと押しかけたときのこと。皆にスパルタ特訓を課す一方で、深夜の神社でそれ以上の特訓を一人続けていた谷口。影の努力を口にすることなく淡々とこなすその姿にナインは感動し、対青葉学院に向けてチームは一丸となった。
「よし、おれも一つやってやろうじゃないか」
気合を入れて打席に入る丸井に対し、球道はにやりと笑みを浮かべた。
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第四十八話 「策なし墨高!」
コミケのために執筆を続けていますが、本当に締め切りぎりぎりなためいけるかどうか分かりません。
ぱんぱんと手を叩き、気合を入れながら打席に入った丸井はいきなりバントの構えを見せる。
「おいおい。後アウトは五十三だぜ。バント失敗で無駄にすることはなかろうに」
「球道の言う通りじゃん。まだ振り回した方が当たる確率があるぜ」
「うるせえ」
えーじの挑発を受けながらも、丸井はバントの構えを解かない。
「いいのか? そんなら球道。サインは一つじゃん」
「ほいよ」
(ミットの位置は……、真ん中だと? どこまで舐めてやがるんだ!)
かっかする丸井だが、すぐにそれは間違いだったと気づく。
ビシュッ!
ドシィ!
一球目、ど真ん中へのストレート。
バントを狙いにいった丸井だったが、バットに掠りもせず焦る。
(な、なんなんだ、あのタマは)
丸井は徳川発案のバント特訓を思い出す。
墨谷二中時代の谷口キャプテン時代にやった対青葉戦に向けてのホームベースまでの距離三分の一の特訓。イガラシが対江田川の井口対策にした十五メートルの距離からの近藤の速球を打つ特訓。それらを上回るかのように徳川が言いつけたのは、六分の一の距離からのバント特訓だ。その上速球だけでなく、立ち位置を変え、あらゆるタイミング、球種に対応できるようにと連日墨谷の三人の投手を相手に練習を続けた。
「ええか。プロでもバッティングが悪くなったらひたすらバント練習じゃ。なぜかって? 当てることもできずに打つことができるかよ。当てることをただひたすら体に染みこませろ!」
そうして特訓した結果、墨谷ナインは速球に目が慣れ、バッティングそのものも向上した。
河川敷での特訓でも影丸、土門、犬飼知三郎の三人に対し、当てることができたのはその成果と言える。
だが、目の前の球道の速球はそんな次元の物とは違う。
ストレートの伸びが今まで出会ってきた投手とは桁違いだ。
(ボールが浮き上がってくるぜ。これが、青田の怪童、中西球道か)
何とか食らいつこうとする丸井だが、伸びる速球の前にバントをすることすらできず三振。
「当てることさえもできないのかよ」
「だが、次はミートの上手いイガラシだぜ」
(期待されている所悪いが、どうしたものかな)
二度三度と素振りをすると、イガラシは打席に入り、キャッチャーミット寄りに構える。
「へえ。そいつで当てようってか」
速球を狙うのなら投手から一番遠いバッターボックスの奥に立つのは効果的だ。
だが。
(その程度で打てるほどおれのタマは甘くないぜ!)
ビシュッ!
ブン!
ドシィ!!
「くっ!!」
バットを短く持ち、当てようとしているにも関わらず、ボールはその上を通っていく。
(なんて、タマの伸びだ。丸井さんがバントに失敗する訳だ)
自らも投手であるイガラシにとって、球道のストレートの伸びは信じがたいものだ。
(普通の投手の速球とは次元が違う)
いくら直球と言っても、重力がある限り、ボールは緩やかに弧を描いて落ちている。だが、中にはその落ち方が極端に少なく、本当に真っすぐに見えるタマが存在する。所謂伸びがあるタマというのがそれだが、球道のはそれに加えて速さと切れも加わっている。
(同じ投手として嫉妬するのもバカらしくなるほどだな、こいつは)
徳川が超一流と言うのも分かる。これほどの投手はプロでもなかなかお目にかかることはないだろう。
(あれをしてみるか)
このままではじり貧だとイガラシはバッターボックスの右端いっぱいに構える。
「最初から降参か?」
えーじが言葉をかけるが、イガラシは構わないと気にする素振りはない。
「一打席分ただでもらったぜ」
果たしてど真ん中に構えるえーじに対し、イガラシはまるで打つ気を見せない。
(大事な打席だろうによ)
戸惑いながら投げる球道だったが、インコースに外れてボール。
続く三球目もボールとなり、えーじはタイムをかけた。
「なんだよ、みっともない。あれくらいでタイムをかけるなよ」
「みっともないのはどっちじゃん。甲子園と同じ見え見えの策に引っかかって」
「甲子園?」
はてなと考えた球道の脳裏に明訓との試合での里中の姿が思い浮かぶ。頭部の負傷を隠しながらプレイを続けていた里中が、何としても塁に出ようと考えたのが打つ気なしと見せかけての四球狙いの策だ。ストライクをいつでもとれる状況になった球道は思わず力み、ボールを連発して結局里中を塁に出すことになった。
「随分とセコイ手を真似るじゃないか」
「それだけ相手も必死ってことじゃん。用心してかかった方がいい」
「へいへい。えーじ様の言う通りにしますよっと」
四球目。剛速球がくると思ったイガラシが目の当たりにしたのはキャッチボール投法でストライクをとる球道の姿。
「なっ!」
「プロに向けてのいい肩慣らしになるぜ」
ぷらぷらと手を振って見せる球道に、イガラシはちっと舌打ちする。
(さすがに二番煎じは通用しないか。中西がかっかしてくれればもうけものだったんだが)
仕方がないとバットを短く持って、打席で構えるも。
ビシュッ!
ドシィ!!
ブン!
その黄金の右腕から放たれる閃光のような剛速球の前に振り遅れ、無念の三振となる。
「くそっ!」
思わずバットを叩きつけそうになるのをぐっとこらえ、イガラシは次の谷口に駆け寄った。
「大分タマがホップしてきます。予想以上です」
「分かった」
片手を上げてそれに応じた谷口は、ゆっくりと息を吐くとマウンドの球道から視線を動かさない。
(こいつが、一球の言っていた男かい)
対墨谷との勝負が決まるや、球道は一球に連絡をとった。明訓に赴いた際に一球が言っていた巨人学園対墨谷の練習試合の結果を聞き、己の気を引き締めるためである。
「墨谷は強いよ」
そう、一球は断言した。結果的に二対二の同点であったが、勝ちきれなかったという。奇策を繰り出すも不発に終わり、虎の子として習得した変化球も合わされた。対明訓に向けて相当研究していると言うのが一球の見立てだった。
「中でも、キャプテンの谷口には気を付けた方がいい」
「谷口? どんな奴なんだ」
聞いたことが無い名だと聞き返す。
「中学から野球をやっていた球道くんなら聞いたことがあるんじゃないかい。墨谷二中で、あの青葉学院を倒した男さ」
「なんだと!」
その話は球道も覚えている。当時全国中学野球選手権大会を四連覇していた王者青葉学院。その青葉を無名の墨谷二中が激戦の末破ったというニュースは、球道の胸を沸き立たせた。当初はただ絶対的な横綱を小兵が倒したことによる判官びいきのような感情だったが、再戦をするきっかけとなった地区大会での青葉学院監督の非道を知るに及び、よくやったと快哉を叫んだものである。その墨谷二中のキャプテンが谷口だと言う。
「どうしてそんな連中が無名のままでいる?」
「さあ。噂によると怪我をして再起不能と言われていたらしい」
聞かなければよかったと後悔する球道に、一球は続けて言った。
「とにかくあの山田とは別な意味で大きい男だ。侮ると痛い目をみるよ」
(へっ。上等じゃねえか。相手にとって不足なしだぜ)
球道は打席の谷口を一瞥すると、右手を上げてボールの握りを見せた。
「なんだと……」
球道の予告投球に墨谷ベンチは絶句し、えーじと才蔵の青田組も驚く。
甲子園での明訓戦。あの山田との初対決がそうだった。
(でも、それは山田だからじゃん)
一度来れば十分と言っていた甲子園に再び出ることになったのは、ドカベン山田の存在があったからだ。その山田と同じ扱いをする相手がいようとは。
(あの墨谷の四番。そこまでの打者なのかよ)
「まさか、予告とはよ」
ネクストバッターズサークルで、倉橋は信じられないといった顔をした。
予告投球など、投手の自己満足以外の何物でもない。
自らのタマに絶対的な自信を持っていなければできず、捕手としてはその投手の思い上がりを上手くコントロールするべきだ。だが、えーじにはそうした態度が見られない。
(とりあえずバットに当てるのが先決だ)
球道からの予告投球宣言にも、谷口は動じない。ストレートが来ると分かっているのなら、それ
に合わせてこちらも工夫するだけだ。
イガラシと同じようにバッターボックスの奥に立った谷口は、さらにバットを寝かせた上に、短く持つ。
「おいおい。仮にも四番だろうがよ」
横井が口を挟むも、
「そんな事よりヒットすることの方が大事でしょうが」
イガラシに制され、それもそうかと目をそらす。
「短く持っていれば当てられるかもってか?」
ガバアアア!
見せつけるように、球道は大きく振りかぶると、
「おれのタマを見くびるなよ!」
雄叫びを上げながら、烈火のごとく投げ込んだ。
ビシュッ!!
ブン!
ドシィ!!
捕球したえーじの身体が一瞬ふわりと浮き上がったかのように見えた球道のストレートの威力に、谷口はタイムをかけて深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせる。
(な、なんてタマだ)
額を拭い、呼吸を整える。早いタイミングでバットを振ったつもりだが捉えられない。
そして、何より驚くのがそのタマの伸びだ。イガラシとの対決を見て、高めにバットを振っていったのにも関わらず、球道のタマはその上を通り過ぎた。
(ネクストで見るのとは大違いだ)
これまで球道は一貫してストレートしか投げていない。
球種が分かっているのに捉えられないのだ。
(これが、超一流……)
この中西球道からあの山田はホームランを打ち、明訓は勝った。
挑む頂の高さに谷口は身震いしながらも、興奮するのを止められない。
第二球。球道、再びのストレート。
(は、速い……)
ホップしてくる速球にまたもバットが回る。タイミングをとろうにも、気づいた時にはミットにボールが収まっている。
三球目。
ど真ん中のストレート。
ブン!
「くそっ!」
墨谷ベンチからはああとため息が漏れ、球道はよっしゃと気合を入れる。
強振し、飛んだヘルメットを谷口は倉橋から受け取った。
「ああ、すまん」
「どうだ、打てそうか」
「分からない」
(打てないじゃなくて、分からないねえ……)
谷口の返答に、倉橋は苦笑する。
(こんなとんでもねえのを間近で見せられているってのに)
どうして無理だの打てないだのと口にしないのか。
(それが、あいつの強さかもしれねえな)
改めて谷口の凄さに気づき、自らもそれに見習うべく倉橋は打席に入った。
(こんなものか)
ベンチに去る谷口の後ろ姿を見ながら球道は余裕の笑みを浮かべていた
いくら中学の時に有名であったとしても、高校に入ればまた話は別だ。甲子園に出場できていない時点でその程度ということだろう。
自分のタマに驚き、さぞベンチで青い顔をしているだろう。横目でちらりと見た球道は予想外の光景に呆気にとられた。
(何だと……)
ベンチに戻ったかと思われた谷口はバットを持ったまま、ベンチ脇に陣取るや、やおら素振りを始めたのだ。
あの明訓ですら球道の豪速球を見た後は、声を失いその速さにどよめいていた。それなのに目の前の男はどうだろう。口々に喚く者達を尻目に一人黙々とバットを振り続けているではないか。
(三球三振だってのに、まるで動じていやがらねえ)
淡々と素振りを繰り返す谷口の姿に、球道は一種異様なものを感じる。
これまで己に打ち取られた者の多くはその速球に恐れおののき下を向いていた。打ち取られてすぐに素振りを始める者など見たことがない。
(な、なんなんだ。あいつは)
「球道!」
魅入られたように谷口の方をじっと見て動かない球道に対し、えーじが慌てて声を掛けた。
「まず目の前の相手に集中するじゃんよ」
「あ、ああ。そうだな」
頭を振り、次打者の倉橋に視線を合わせると、球道は大きく振りかぶった。
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第四十九話 「タイミングを掴め!」
冬コミ目前で熱出ながら書いてます。
水島新司先生の一周忌に間に合わせたいので。
誤字報告本当に助かります。ありがとうございます。
甲子園を彩った数々の名投手たち。山田と同世代の者だけでも、高校野球ファンならば指折り数えながらその名をそらんじることができる。
殺人野球土佐丸の犬飼兄弟、犬神。
超高校左腕通天閣の坂田。
砲丸投法甲府の賀間。
左右両投げ赤城山の木下。
背負い投法クリーンハイスクールの影丸。
だが、球史の中に目を向け、甲子園で活躍した甲子園の申し子は誰かと問われれば、多くの者が藤村甲子園と答えることだろう。阪神で活躍し、百六十五キロを記録した速球と共にその短く雄々しい野球人生を終えた藤村甲子園の雄姿は多くの野球ファンの心に生き続けている。
その藤村甲子園の再来として「まっすぐしか投げないドアホウが再び甲子園に帰ってきた」と謳われ、甲子園を沸かせた男こそ青田の怪童中西球道その人である。
明訓との練習試合の権利を賭けての勝負は、一巡目はさすがに球道がその異名に恥じぬ圧巻の投球を見せた。
その後も墨谷の九人の打者に対し、九回を投げ終え完全試合。そのうち唯一三球以上投げさせたのが、イガラシと谷口と倉橋という有様で、
「一人一球。二十七球のつもりがついムキになっちまったぜ」
と話す球道の台詞も、墨谷ナインからすればあながち大言壮語と思われなかった。
まず当てるのが先決とばかりに、二廻り目以降はバントも混ぜて打席に臨んだが、それでも掠ることすら満足にできず、返って球数を少なくし、球道を投げやすくするという悪循環だった。
(どうすればいいんだ)
既に回数的には各打者は四度球道と対戦している。だが、突破口が見いだせない。
しきりに皆でタイミングを掴もうとしているが、とにかく速く振り遅れる。
ボールは見えているというのに、その想像以上のタマの伸びに頭の中のイメージと打つタイミングを合わせることができない。
(何かないか)
ベンチで穴が開くほど球道の投球フォームを確認していた半田だが、隙が見当たらずスコアブックとにらめっこをする。
(球種はストレート。コースはど真ん中がほとんど。球種もコースも分かっているのに……)
半田の思いは墨谷ナイン共通の認識だった。
「来ると分かっているのに掠りもしねえとはよ」
「もっとバットの始動を早くするしかないな」
谷口の言葉にイガラシが手を挙げる。
「それに加えて、次打者が横からバットの高さを見てアドバイスをしてはどうでしょう」
「うむ。どうも速さに目を奪われて、ボールの下を振っているからな」
「そう上手い事いくかね」
「打つことを考えずに、見ることだけに意識を集中すればいい。そのために散々練習したじゃないか」
ひそひそぼそぼそとベンチ前で行われる墨谷の作戦会議。
腕組みをしながらその様子を伺っていた球道は、墨谷に対し警戒感を抱く。
(こいつらは思ったよりやる。要注意だ)
自分の速球に躊躇せず踏み込んでくるのがその証拠。
余程普段から猛練習を積んでいなければこうはならない。
(だが、おれにも負けられない理由があるんでな)
「プレイ!」
徳川のコールに、これまでとは意識を切り替え、球道は都合五度目になるマウンドへと上がった。
「ストラーイク!!」
「島田! まだ下を振っているぞ!」
次打者の丸井からのアドバイスに島田はこんなものかとバットを振ってみる。
「よし、来い」
「それで打てるのか」
球道が呆れたように言えば、
「好き好きじゃん」
えーじも合わせておちょくるように言ってのける。
(くそっ!)
苛立つ島田だが、二球目三球目とバットに掠らず三振となる。
続く丸井。イガラシからのアドバイスも実らずあえなく三振となり、戻り際大いに文句をつけた。
「おめーのアドバイスは分かりにくいんだよ」
「もっと上を叩けってのがそんなに分かりづらいですかねえ」
二人の会話を聞き、半田はふと思いつき谷口に進言する。
「あのー谷口さん。もっと分かりやすいアドバイスにしたらどうでしょう」
「というと?」
「もっと上とか下とか言われてもその人の感覚じゃないですか。ボール一個分とか二個分とかいうのは?」
「確かに。その方が分かりやすいかもな」
捕手としてサインで要求する際もボールを基準として考えると倉橋が納得するも、戸室が横から口を挟む。
「でもよ。それだって個人個人の感覚じゃねえか?」
「それでももっと上という指示よりはずっと具体的なんじゃないすか。おれはその方が分かりやすいですけど」
「井口が分かるんならそれに越したことはねえな」
「ちょ、ちょっと倉橋さん」
抗議する井口を無視し、ネクストに入った谷口はイガラシの打席をじっと観察する。
(さてと。丸井さんにはもっと上を叩けと言った手前何とかしないとな)
先ほどの打席よりも気持ち高めにバットを振るイガラシ。
だが。
「ストラーイク!」
(こ、これでもまだボールの下なんか)
「イガラシ、ボール二個分だ」
谷口からのアドバイスに、イガラシはこんこんと額を叩く。
(おいおい。そんなにホップしているってことか)
自らのバット感覚と実際のずれにイガラシは驚く。
どれほどのタマの伸びがあるというのか。
(こんなもんか)
二度三度と繰り返し、打席に入る。
二球目。
ガバアアア!
ビシュッ!
「くっ!」
チッ!
「ファール!」
「何っ!」
「あ、当たった!」
微かに掠り、イガラシがファールとなったことが分かるや墨谷ベンチがどよめく。
「おい、当たったぜ」
「さすがはイガラシ」
その言葉を聞きながら、イガラシはしかめっ面をする。
(掠っただけで、さすがと言われてもねえ)
「へえ、当てるとはな。やるじゃないか」
言いながらも球道は余裕を崩さない。
だが、二球三球とイガラシが再度ファールで粘ると、内心舌打ちする。
(こいつ、なかなか器用だな)
(嫌らしい打者じゃん。変化球も使っては?)
(バカか。こいつら相手に使える訳ないだろ)
怪我や特別な事情でもない限り、球道はその自慢の速球でこれまで多くの打者を切って捨ててきた。墨谷相手に変化球を使うなどそのプライドが許さない。
(そんじゃあ、これは)
えーじの要求はストレートを半分のスピードで、というもの。
(ったくまたそれかよ)
甲子園でのやりとりを思い出し、球道は頭を掻く。甲子園での対明訓戦でもストレート一本に拘る球道に対し、えーじは変化球や抜いたストレートを要求し二人はぶつかった。結果、要求通りに投げないなら捕手を止めると言い出したえーじに球道が折れた形になったのだが。
(今回は事情が違う。えーじがいないと困るしな)
自分の方が折れてばかりなことに若干の不満を感じつつも、球道は言われた通りにストレートをハーフスピードで投げる。
(何っ!)
剛速球にタイミングを合わせていたイガラシは、体を崩しながらもなんとかバットの先っぽに当てる。
捕手前に転がるゴロとなり、いつもの癖でイガラシは慌てて走ろうとするも、徳川は一塁フォースアウトを宣告した。
「くそっ!」
ヘルメットを叩きつけそうになるも、それをぐっと堪え、イガラシはベンチに下がらず、島田や丸井の横に並んだ。
「おうおうずらずらとすごいじゃん」
からかうように言うえーじ。墨谷ナインは一巡目からトップの島田から打ち取られるやベンチに戻らず、ベンチ横で素振りを始めている。
「球道、油断するなよ」
一塁から才蔵が声をかける。
「そこまでしてもらえるとは投手冥利に尽きるって奴だな」
球道も悪い気はしない。
だが、それと勝負は別問題だ。いかに相手が必死になろうとも、こちらにも負けられない理由がある。
(悪いが、明訓との試合の権利いただいていくぜ)
谷口、五打席目。
(とにかくタイミングを読むことだ)
球道が振りかぶり、肘が下にくる。
ビシュッ!
ブン!
ドシィ!
「ストラーイク!」
徳川のコールが響く。
「谷口、ボール一個分だ」
倉橋からのアドバイスに、谷口は頷きながらバットの構えを確認する。
(まだタマの下だったか。それに、タイミングも遅い)
そんな谷口の様子に、才蔵とえーじは感心する。
(まるで動じてないな)
(すげえじゃん。普通球道のタマを見たらその後は皆焦るばかりじゃん)
その余りの剛球を目にした者の多くは冷や汗を流し、翻弄され、どうしたら打てるか、など考えることもなく圧倒的な球威にねじ伏せられるのが常だ。
(真面目そうな顔をしているが、こいつの迫力。これは相当な野球バカに違いないぜ)
才蔵は一人納得した。球道が入学するまで古びた校舎とその余りの弱さにどぐされ青田と言われたのが青田高校野球部だ。そんな恵まれぬ環境の中でも球道を中心に皆が一丸となり甲子園に出場し、あの明訓と激戦を繰り広げるまでになれたのはなぜか。シゲ監督の願いを叶えたいと言う思いと共に、一人一人が途方もない野球バカだったからに他ならない。
(同じ臭いがするぜ、おれたちとよ)
(こういう奴が一番怖いじゃん)
えーじの要求は先ほどイガラシに対して行ったものと同様のハーフスピード。
今度は球道も首を振らず、その要求をあっさり呑む。
(えーじの感覚は間違いじゃない)
二球目。直球にタイミングを合わせていた谷口はハーフスピードの前にバットを振ろうとするも、何とか押しとどめる。
「ボール!」
スイングしているじゃないかと見て来るえーじに対し、徳川は自信をもってコールする。
(おれにもハーフでくるのか。そのうち変化球を使ってくるか?)
球道がハーフストレートや変化球を使ったのは対明訓戦。それも対山田に対しストレート勝負を挑みたいゆえであった。自分達にはそんな必要は感じないだろうと思ってストレートに狙いを定めていたが、どうもそうではないらしい。
(どうしても明訓と勝負をしたいということか)
球道から感じる明訓戦への執念。
(だが、おれたちもそこは譲れない)
三球目。インコース高めのストレートにバットが掠る。
自慢の速球を当てられた球道の口から舌打ちが漏れる。
「随分と当てるのは上手いじゃねえか」
(特訓の成果だな)
仮想明訓と名付けられた各校のエースピッチャーとの対決。剛球土門、背負い投法影丸、超対角線投法の犬飼知三郎。強敵たちとの対決は確実に墨谷ナインの血となり肉となっている。
(だが、中西の方が上だ)
甲子園での山田との互角の戦いばかりが注目されるが、球道が真に恐ろしいのはパワーなら山田以上とも称されるあの悪球打ちの天才岩鬼に対し真っ向勝負を挑んだことだ。明訓と対戦した多くの投手が山田を警戒するのと同様に、岩鬼に対しては絶対に悪球を投げぬよう用心してきた。その岩鬼に自ら悪球を投げるなどしたのは後にも先にも怪童中西球道ただ一人なのである。
(四球目。中西の性格的にはストレートか)
三球目のストレートを掠られたのだ。恐らく直球勝負にくるだろう。
(もっと早く。グラブから手が離れた瞬間にタイミングをとったらどうだろう)
「いくぜ、えーじ」
ガバアアア!
ビシュッ!
「うっ!」
キィン!
「何っ!」
ボールは真後ろへと飛び、それをえーじが慌てて捕球する。
「アウト!」
「くそっ!」
悔しがる谷口だが、球道の顔にも笑みはない。
「成程、グラブから手が離れた瞬間ねえ……」
すれ違いざまの谷口からのアドバイスに頷きながら、倉橋は打席に立った。
(速い、速いとは思っていたがそんな早くタイミングをとらないといけないのかよ)
倉橋の様子を見ながら、えーじは初球ハーフスピードのサインを出すも、球道は首を振る。
(ふざけるな。そんなみっともないことできるかよ)
(ならせめて、コースは外角に投げるじゃんよ)
球道とえーじのやりとりをじっと伺っていた倉橋は二人のやりとりを分析する。
(ストレートを打たれた後で変化球やハーフは中西の性格上あり得ない。おれだったらコースを突いて落ち着かせる)
えーじのミットはど真ん中。
(だったらわざわざ中西が首を振る必要はない。球種はストレート。そして、コースは……)
球道の手がグラブから離れた瞬間、倉橋はタイミングをとり始める。
(よし、外角一本だ!)
ガバアアア!
ビシュッ!
す~っとえーじのミットが外角に動く。
「よしっ!」
「何っ!」
キィン!
狙い通り外角高めの配球を見事に読んだ倉橋の打球は一塁線を抜ける。
「よし、ヒット一本!」
初ヒットにやんややんやと盛り上がる墨谷ベンチを尻目に、
「くそっ!」
悔しさに帽子を叩きつけそうになる球道。その手をえーじが素早く近づき抑える。
「よすじゃん。今のは向こうの読み勝ちじゃん。お前のタマのせいじゃない。打った相手が上手かったじゃんよ」
「この勝負おれは負けられないんだ!」
ポカリと球道の頭をえーじは叩く。
「何すんだ、こいつ!」
「偉そうなことぬかすならもっと投球を工夫するじゃん。連中は本気でお前を打ちにきているじゃん」
えーじの言葉に球道ははっと我に返り、墨谷ベンチを一瞥した。
初ヒットに浮かれることなく打席に立つ井口と次打者の横井以外は皆がバットを振っている。
「いつまでも桜ヶ丘の舐めた一年連中と同じで真っすぐ一本が通じると思っていると痛い目を見るぜ」
恋女房のえーじの言葉がぐさりと球道に突き刺さる。
(確かにこいつらは今までおれが出会った連中とは一味違う)
ぐっと、ボールを握ると球道はえーじに戻るよう促した。
精悍な顔つきに、傷だらけのユニフォーム。
明訓との勝負に向けて、相当な練習を積んできたことが分かる。
(お前らの頑張りを奪うようで悪いが、おれにも事情があるんでな)
原因不明の眼病に侵された結花を元気づけるためにも必要なこと。
そう思っていても、どこか割り切れぬ思いを抱きながらも。
球道は渾身の一球を投げ込んだ。
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第五十話 「勝負は六巡目から」
冬コミの原稿は大変なことになっております。
作者報告に上げる予定ですが、全540ページと頭がおかしい内容です。
校正作業中修羅場です。
突破口を掴んだかのように思われた球道との対決だったが、倉橋以降はファールにするのが精一杯で、誰一人ヒットにすることができず、墨谷ナインは一様に焦りの表情を浮かべていた。
「おいおい。冗談じゃねえぜ」
「このままだと明訓との試合が」
「何のために練習してきたのか分からなくなるぞ」
弱気の虫が首をもたげてくるのも無理からぬこと。
中西球道は甲子園であの明訓を相手どり三十奪三振を記録した男だ。
その剛腕に偽りはなく、如何にタイミングの取り方が分かったと言っても、容易に前に飛ばすことができない。
「一点取れたらなんて厳しいルールに頷かなきゃよかったぜ。ヒットが四本続くなんてあり得るか、あいつから」
「あり得るかどうかじゃなくて、やらなきゃならないだけですよ」
横井の泣き言に、イガラシは反応する。例え相手が二学年上の上級生であっても、言うべきところは言うところは中学時代よりまるで変わらない。
「半田、どうだ、見てて」
スコアブック片手に頭を悩ませていた半田に、丸井は尋ねた。
「今の所の投球の内訳はストレートが九割にハーフが一割です。コースは内外低め高めと使ってますが」
「いっそのことハーフは見逃すってのはありかもな。さすがに中西・大池のバッテリーは駆け引きが上手い。タイミングを絶妙にずらされているかんな」
「打つタイミングについては分かっているな」
谷口の話に皆が耳を傾ける。
「グラブから手を離した時だろ。本当なんかよ、それ」
自らが凡退したために半信半疑の横井だが、倉橋は太鼓判を押した。
「間違いないと思うぜ。これまでなら当たりもしなかった」
「れ」
ズッコケる横井に、皆が笑顔を見せ、緊張がほぐれる。
「いいか、ニー三のタイミングだ。一を入れると遅くなって間に合わないぞ」
「相手は三人です。バントも絡めていくべきでは?」
イガラシは隙あらばバントヒットを狙うべきだと提案する。
「よし。イガラシの言う通り、出られれば何でもいい。一球一球しつこく食い下がっていこう。墨谷のお得意の粘りを見せていこうじゃねえか!」
丸井の檄に部員は力強く応と答えた。
一方の青田バッテリーは、気合を入れる墨谷の面々をよそに、淡々と投球練習を行っていた。
「随分と長いな。待ちくたびれちまうぜ」
文句をいうえーじだが、通常の試合と異なり、攻撃の際に休むことができぬため、球数が増えてきた球道からすればむしろありがたい。
相手からすればこれまで準備してきた明訓との練習試合の権利を横から取られそうになっているのだ。必死になって当然だろう。球道としても、結花の件が無ければこのような勝負に同意してはいない。
(あの時もう少し早めに明訓に行っていればな)
ボールを投げながら思い出すのは、巨人学園の一球と出会った明訓への訪問。
後一日、いや半日早く出向いて入ればこのように面倒くさいことにはなっていなかったかもしれない。
(弱ったことにおれは連中が嫌いになれない)
相手が自身のことを鼻に賭けたり、こちらのことを侮辱したりするような連中ならいくらでも闘志が沸き立つし、そうした連中から試合の権利を奪っても、やってやったと思うだけだ。
だが、墨谷は違う。球道に対し、悪態をつく訳でもなく、己の実力を過信している訳でもない。
純粋に努力し、明訓に挑もうと健気に特訓に励んできたのが球道には手に取るように分かる。
二巡目、ユニフォームをだぶつかせて死球を狙ったり、逆打席に入ったりと墨谷ナインは様々な手で球道を攻略しようとした。その真面目さ必死さは結花のためにと一心不乱に投げる球道の心に迷いを生じさせていた。
北海道、福岡、千葉と日本各地で野球をしてきた球道は各地で多くの野球仲間を作ってきた。
彼等の多くが純粋に野球を楽しみ、ひたむきに練習に取り組んでいた。どぐされ青田と呼ばれてバカにされながらも、ただひたすら特訓に励んだ今のチームメイトとてまた同じ。
だからこそ、悩む。このまま彼等から試合の権利を奪っていいものかと。
世間からどう思われようと構わないと腹をくくってここまでやって来たつもりだった。
だが、懸命にバットを振る墨谷ナインの姿にその覚悟がぐらつくのを自覚していた。
対明訓のために彼らがここまでしてきた努力。
それを自分勝手な希望でふいにしてよいものなのか。
(おやじ。どうりゃいいんだ、おれは)
野球を心から愛する球道だからこそ出た迷い。
その迷いは、彼の投球ペースを崩すこととなる。
「いいか、島田。この回何としてもストレートを当ててくれ」
「任せてください」
そう言いながらも過去五打席、全く歯が立たなかった記憶が脳裏によぎる。
(中西のタマは普通の速球のつもりじゃダメだ)
快速球の上をいく、剛速球。通常のタイミングの取り方では、バットの振りが間に合わない。
「球道、締めていけよ」
才蔵の一言に軽く頷き、振りかぶる球道。
ガバアアア!
(グラブから手が離れてから……)
ビシュッ!
(ニー三!)
バットを振らず、タイミングを測ることだけに集中する。
ドシィ!
「ストライク!」
徳川のコールに動じずベンチを見ながら頷く島田。
それを見て、何事かとえーじは首を傾げた。
(た、確かにタイミングはピッタリだ)
二球目。
ど真ん中のストレートを空振り。
「島田、ボール二個分だぞ!」
丸井からの助言に、そんなに下だったかと島田はバットを振って軌道を修正する。
(まだ、下を叩いているのか)
タイミングは合っていても、当たらないのは頭の中で思い描いているバットの軌道と実際にずれがあるからだ。回転数が多く伸びるタマはそのずれを起こしやすい。
(よし、こんなものか)
静かに構える島田に対しての三球目。
ビシュッ!
「うっ!」
チッ!
掠った打球はえーじのキャッチャーマスクを掠め、ネットに突き刺さる。
「あ、当たった……」
周囲のどよめき以上に当てた島田自身が驚いている。
あの剛速球をまさか当てることができるなんて。
「おっ。生意気に当てやがった」
(当たるということはいけるかもしれない)
ちらりと島田はマウンドの球道、一塁の才蔵を確認する。
(才蔵は本来の守備位置じゃない。一か八かだ)
続く四球目。
コースはど真ん中のストレート。
これに対し、島田。腰を低く落としバントを敢行。
コン。
「何っ!」
三塁線に見事に転がるゴロとなり、意表を突かれた球道は慌てて一塁の才蔵に投げるも、俊足の島田が勝る。
「セーフ!」
「バントとはせこい」
「へ。まぐれとは怖いもんだな」
強気の態度を崩さぬ球道だったが、えーじは訝し気に墨谷ベンチを見る。
(タイミングが合ってきているのか)
五巡目までの墨谷は主軸を打つイガラシ・谷口・倉橋以外ストレートに全くタイミングが合っておらず、バントすらミスする有様だった。それがこの回はどうだ。
(こいつは締めてかからないと痛い目みるじゃん)
「ナイスバント!」
迎える墨谷ナインにヘルメットをとると、島田は谷口の方に向いた。
「もう少し球数を投げさせられればよかったんですが」
「いや、あれしかないだろう。少しでもおかしな態度を見せると大池は勘づく」
「だが、これで用心させちまったな。バントがやりづらくなったぜ」
と横井。
「悪い事ばかりでもあるまい。自慢の速球を当てられたんだ。これ以降は配球が読みやすくなるだろうぜ」
倉橋が口を挟む。
「そうだ。上手くタイミングを合わせれば当てられる筈だ。よく見ていこうぜ」
谷口の号令一下、気合を入れて丸井・イガラシを除く全員がベンチから立ち上がり再び素振りを始めた。
「おいおい、またかい。健気よのう」
才蔵は苦笑する。
その台詞に、球道は何を言っているんだばかりに眉を顰めた。
(健気? どこがだ。後一巡。追い詰められている連中とは思えねえ)
丸井への第一球を投げた後、えーじも顔を青くする。
(素振りのタイミングが合ってきているじゃん!)
たかが五打席。明訓を大いに苦しませた球道のタマを見ただけなのにどうしてこうもタイミングを合わせられるのか。
これは不味いと球道にその事実を伝えるが、当の本人は一向にそのことを気にしない。
「そうは言ってもストレートばかりじゃ打たれるじゃん。変化球も混ぜないと」
「おれにとってはぬく外すも変化球だと言っただろうが」
「奴ら直球にタイミングを合わせてきている。ここはおれの言う事を聞くじゃん」
「合わせたきゃ合わせてやりゃいい。前に飛ばしゃしない」
強情な球道に、えーじは頭を掻きむしりながら、守備位置に戻る。
(丸井、ストレートだ)
ストレートを打ての合図に丸井はうなずく。
(島田にストレートを当てられたかんな)
かの大捕手野村克也氏は著書の中でピッチャーとは別な人種だと語っている。ストレートを打たれたら、敢えてストレートを投げたがる。他のタマであれば打ち取れるのにそれをしない。捕手なかせの理解できない者達。その意味では球道は生粋のピッチャー人と言える。
丸井に対する二球目は読み通りストレート。
「どんぴしゃ!」
キィン!
「うっ!」
ふらふらと上がったタマは球道の頭上を越えて、二塁方向へと転がり、丸井は慌てて一塁へと走る。
「ヒット!」
「いいぞ、丸井!」
やんややんやと盛り上がる墨谷ベンチをよそに、えーじはマウンドへ向かう。
「どうした球道。何を悩んでいるじゃん」
「おれが悩む? 何をだよ」
「連中がこれまで必死になって練習してきた明訓との試合を横からかっさらおうとしていることについてじゃん」
図星を指されながらも、球道は必死に平静を装う。
「向こうから持ち掛けてきた話に乗っただけだぜ、おれは」
「それならいいが、中途半端に投げるのは覚悟をもって挑んできている奴らに失礼じゃんよ」
「けっ。好き勝手ぬかしやがって」
小声で戻っていくえーじの後ろ姿に球道は毒づくが、
(分かっているさ、それくらい)
迷いを振り切るかのように、バンとグラブに勢いよくボールを叩きつけ、己を鼓舞する。
だが。
続くイガラシへの三球目。
高めにきたストレートを上手く合わされ三塁線に運ぶヒットを放たれる。
「ナイス、イガラシ!」
「イケるイケる!」
三連打と盛り上がる墨谷ベンチをよそに、
「くそっ!」
連打にイラついた球道はがっがとプレート付近を足で踏み鳴らした。
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第五十一話 「決着」
前回無料だからと全部はけたので今回は調子に乗って増刷してしまいました。
こちらをお読みの方はお来しいただけると大変助かります。
もちろん、流行り病のあれこれがありますのでこちらにもアップしていきます。
迷いから連打を浴び、苛立つ球道とは対照的に、静かに打席に入った谷口は、
「よし」
そう一声呟くと、バットを構えた。その様子をじっと目を離さず見ていた球道は思わずボールを強く握り締める。
(ここでこいつか)
打たれたらそこで挑戦は終了だ。降って湧いたようなチャンスも全て無駄となる。
(正直お前たちには申し訳ねえと思っている。だが、わざと打たれることなんざおれにはできない)
再びストレートの握りを敢えて見せる。
(だからこそ、おれの持つ全力でお前を抑える。ぐうの音も出ねえように。お前たちに後悔が残らねえようにな)
「ま、まさか……」
他人事のように言う谷口の顔をじっと見つめながら、えーじは座る。
直球だけに拘る勝負など、あの山田との対戦以来ではないか。
(こいつは二打席目から合わせて来ていた。用心しないと)
ハーフストレートのサインを出すえーじだが、球道は首を振る。
(ったく、意地っ張りめ。ここで打たれたら終わりだろうが)
球道の態度に痺れを切らしたえーじはタイムをとり、わざとらしく肩をゆっくりと回す。
「さっきの一球が肩に当たったみたいじゃん」
「何がだよ。当たったのはマスクじゃねえか」
見え見えのえーじの行為に球道は口をへの字に結ぶ。
「言うことをきかないとキャッチャーを降りるってか。だがな、ここは逃げちゃいけない場面だ」
打席に立つ谷口の方に球道は顎をしゃくる。
「あの野郎を見ろ。おれのストレートを打つ気満々じゃねえか」
「だから、他のタマにしろと言っているじゃん」
「狙っていたタマを打てなかったっていうんなら諦めはつくだろうよ」
球道の言葉に、付き合いの長いえーじはそういうことかと理解を示し、守備に戻る。
(球道らしいぜ。負けても納得できるようにということか)
ぴたりとど真ん中に構えたえーじ。
だが、サインを出している形跡がなく、谷口は首を捻る。
(ノーサイン?)
イガラシに投げたハーフストレートが一瞬頭によぎるが・
(いや、中西の性格ならここはストレート一本だ)
そう決めて挑んだ谷口に対する球道の第一球目
ガバアアア!
それに合わせて、谷口はタイミングを測る。
(二―)
ビシュッ!
「何っ!」
チッ!
「ファール!」
わずかに掠ったボールはキャッチャー後方のネットに当たる。
(な、何だ、今のタマは……)
ゾッと背筋に感じた寒気に谷口は身震いする。
拭っても拭っても流れ落ちる汗が止まらず、谷口はタイムを要求して大きく深呼吸を繰り返した。
「お、おい。何なんだ、今の」
押せ押せムードとなっていた墨谷ナインもまた然り。
投げた瞬間に分かるこれまでよりも明らかに一段階上の速球に、互いに顔を見合わせ戸惑うばかりだ。
「あんなの、打てる訳ないだろ……」
戸室の絞り出すような声に、皆は一様に表情を固くする。
「冗談じゃねえ……」
ぎりっと唇を噛み締め、イガラシが悔しそうに呟いた。
これまでの百五十キロ前後の速球なら今までのタイミングの取り方で当てられるだろう。
だが、今の球道のそれは訳が違う。
「何であんなタマ投げられるんだ……」
「スピードガンが無きゃ正確な数字は分からんが、山田相手に投げた百六十ってのがあれくらいじゃないのか」
「ひゃ、百六十!」
未知の数字に丸井が思わず声を上げる。
「格の違いを見せつけてくれるぜ」
いつも面の皮が厚い井口と言われている井口も、その異次元の速さに賞賛を送るしかない。
「だが、これが打てないとおれたちは……」
イガラシの言葉に一気にお通夜ムードとなるベンチ。
そんな対戦相手を見て、才蔵は同情する。
(意気消沈しちまって……。無理もねえ。だが、男と男の勝負だ。恨むのなら勝手な約束をした徳川のおっさんを恨むといいぜ)
二球目。
えーじはあえてインコースに構える。
(にい、さんでは遅かった。に、さん。これくらいのタイミングならどうだ)
ビシュッ!
ドシィ!
インコースの高めを谷口振らず。
(手が出なかった? それとも見たのか)
悩むえーじは再び、インコース、今度は真ん中へとサインを出す。
ビシュッ!
ギィン!
ガチャッ!
勢いよくネットに当たるファールボール。
(こいつ、怖くはないのかよ)
球道の全力のストレートが当てられたということよりも、別なことにえーじは驚いた。
これまで対戦した多くの打者は球道のタマのあまりの速さに腰が引け、スイングは波打っていた。
(それなのにこいつは踏み込んできたじゃん)
自分以上に球道の速球について知る者はいない。その速球は有象無象の自称速球派の紛い物とは比べ物にならぬ本格派だ。万が一でもその身に受ければ打撲だけでは済まず、下手をすれば骨折で、例えこの勝負に勝てたとしても明訓との試合には出られぬだろう。
(それを分かっているのか? 分かってやっているとしたらとんだ命知らずだぜ)
三球目。再びインコースにきたストレートに対し、躊躇なく谷口は打ちにいくもファール。
掠ったボールがプロテクター越しに腹に当たり、徳川はうげっと口元を抑える。
「と、徳川さん」
「平気か?」
谷口とえーじの呼び掛けに、徳川はぷらぷらと手を振って応える。
「べ、べらんめえ! 酒がちょいと口から零れたただけや。後で飲み直せばいい」
「え?」
どう反応してよいか分からず困った顔をする谷口に対し、
「さすがは常勝明訓を率いてきた監督だぜ」
そう軽口を叩きながらも、球道は内心穏やかではない。
(まただ。またインコースを踏み込んできやがった)
大人しそうな外見をしながらも時折顔を覗かせる気の強い一面。そして、何が何でも打とうとするその姿勢。
(まるであの山田のようじゃねえか)
人は見かけによらないという言葉を体現するかのようなライバルの姿が、どことなく谷口と重なって見える。
(おれには分かる。お前が相当な野球狂ってことがな)
その身にできた傷。ユニフォームの汚れ。その顔つき。何もかもが野球に全てを注ぎ込んできた者の証だ。
(だからこそ、おれは全力でお前から三振を奪う。そうしてこそ、お前たちを押し退けて明訓と戦うことができるってもんだ)
球道の覚悟を感じ取り、えーじはミットをど真ん中にぴたりと固定した。
「ど真ん中勝負だと!」
「谷口さんを舐めているのか!」
「いや、違う」
口々にナインが非難するのを、イガラシは否定する。
「谷口さんを認めているからこそだ。だからこそ……」
ごくりと誰かが唾を呑み込む音が聞こえる。
耳が痛くなるほどの静けさの中。
ガバアアア。
土を蹴り、大きく振りかぶり。
「ぬおおおおおおおお!」
ビシュッ!
雄叫びを上げながら、ど真ん中へのストレートを球道は投げ込んだ。
「ぐっ!」
負けじと力強く振る谷口のバットが速球を捉える。
キィン!
「なんだと!」
まさかと球道は振り返り。
「やった!」
墨谷ベンチからは歓声が上がる。
澄んだ音と共に、打球は一塁線へ飛び。
バシィ!
長身の才蔵のファインプレイによって、その行く手を阻まれた
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第五十二話 「勝者と敗者」
お小遣い貯めての出版なので、どうかはけるとよいのだが。
相方がぎっくり腰とか体調悪いとか言い出し心配。コミケ出れんのか。
完全に打たれたと思ったら味方のファインプレイに救われる。
野球をしていればそんなことはよくあることだ。
だから、今日も同じように喜べばいい。
無理やりそう思おうとして、納得できていない自分に球道は気づく。
「……」
腕組みをしながらちらりと才蔵の方を見る球道。その表情は、勝者と言うにはほど遠いものだった。
「きゅ、球道……」
当の才蔵もまた然り。思わず捕ってしまったとばかりに、その顔は気まずそうに墨谷ベンチを見つめていた。
「才蔵、ナイスファインプレイじゃん!」
空気を変えようと、えーじがわざと大声を張り上げるが、球道は下唇を噛み締めたまま、じっと谷口の方を見つめていた。
「惜しかったな」
さぞや意気消沈していることだろう。戻って来る谷口に声を掛けた倉橋は、その予想外の様子に驚いた。
「ああ。あれは向こうが上手いのさ。仕方がない。それよりも、倉橋。さっきよりもタイミングを早くしないと振り遅れるぞ」
「お、おい。お前……」
「?」
「おい、倉橋よ。はよせんかい」
「は、はいはい。只今」
急かす徳川に、倉橋は慌てて打席に入るが、戸惑いは消えない。
(唯一のチャンスが潰れたんだぜ? 三連打。あそこが抜けてりゃ勝ってたんだ。うちはこれから下位。中西から四つ続けてなんてとても無理だと決めつけて当然だ)
一球目。球道のストレートに手が出ずストライク。
バットを素振りしながら、ベンチの谷口の様子を倉橋が伺うと、次打者を集めてタイミングの取り方を教えているようだ。
(なのに、あいつときたら……)
二球目。ハーフストレートに合わせて三塁線へのバント。切れると判断した球道だったが、これが線上で止まり、見事なバントヒットとなる。
(そこまでされちゃあ、期待に応えにゃなるめえ)
倉橋は一塁上で手を挙げ、暗い雰囲気のベンチに向けてアピールする。
「ピッチャー疲れてきているよ! 狙い目よ!」
「けっ。おれも舐められたもんだ」
どことなく冴えない表情の球道。そんな彼に対し、墨谷下位打線は必死になって食らいついていくのだった。
「ストラーイク、バッターアウト!」
九番の久保はキャッチャーフライに倒れると、その場にしゃがみ込み涙を流した。
何とか一本放ち、意地を見せたかったが、本気になった球道の前に屈するしかなかった。
「た、谷口さん……」
大粒の涙を流しながら、丸井が土下座をする。
「すいません。お、おれがこんな勝負を引き受けるなんて言ったから……」
「丸井さんだけのせいじゃないですよ」
固い表情でイガラシは首を振った。
「おれも、いやおれたちもイケると思っていたんです。思い上がりでした……」
「強くなったと思ってたのにな」
いつも強気の井口でさえ、袖口で顔を覆っていた。
「みんな、終わったことは仕方がないじゃないか。この悔しさをバネに秋季大会を頑張ってくれ」
何事もないように言ってのける谷口。
その姿に、墨谷ナインの胸が詰まる。
(これで、谷口さんと野球するのが終わりになるなんて)
どうしてもっと頑張れなかったのか。
どうしてもっと粘れなかったのか。
頭の中で己の非を慣らしても、厳しい現実の前には無意味だ。
「さてと、終わったな」
淡々とした表情でやってきた徳川に対し、球道はああと頷いた。
勝負は終わった。終わってしまった。
納得するしないに関わらず、後はその結果が告げられるだけだ。
約束通りであるならば、自分は試合に勝った。だが、勝負に勝ったとは言えない。この借りは必ず返さねばならない。
「あれだけの粘りがあるんだ。あの谷口。プロでもやっていけるだろうぜ」
再戦を期待する球道に、徳川はきょとんとした顔で告げる。
「何を言っとるんじゃ? あやつはプロ志望ではないぞ」
「バ、バカな」
「本当じゃよ。実家が大工らしくてな。明訓との引退試合が終わったら野球をすっぱり諦めて、大工の道に進むと言っておった」
「そんな……」
徳川の言葉に球道は絶句した。
明訓との引退試合が終われば、野球そのものを止める?
ここまでの野球狂が、野球を捨てると言うのか?
(その野球人生最後の試合を、おれは……)
こみ上げてくるものに耐えられず、球道は目を瞑った。
『球けがれなく道けわし』。亡き父の教えでもあるその言葉が、今彼の心を苛んでいた。
結花を元気づけるために明訓との試合の権利を貰う。だが、それは墨谷の者達の熱い思いを蔑ろにしてはいないか。
己の全力で谷口を抑えられたのならまだ気持ちを誤魔化すこともできただろう。
けれども、彼は打たれたのだ。迷いある一球は迷いなき一振りによって打ち砕かれた。
(それなのに、おれが勝者だと⁉)
「おい、球道」
心配そうにするえーじに才蔵。
両腕を組み俯きながら何かを考えていた球道は、くるりと墨谷ベンチの方を向くと言った。
「約束は約束だ」
「わ、分かってる……」
痛いほど拳を握りしめながら、丸井は頷く。
「明訓との練習試合の権利は……」
俯きながら、その言葉を告げようとする。
だが。
「お前たちにあるってことだな」
悔しそうにそう球道が呟くと、墨谷ナインだけでなく、えーじと才蔵も驚いて球道の方を見た。
「え⁉」
「い、一体、どういう……」
「まさか一試合に五本もヒットを打たれちまうなんてよ。これじゃあいくら何でも文句は言えねえ」
「だ、確かにヒット四本とは言っていたが、一点取ったらという話だ。四連続ヒットが無かった時点でこちらの負けだろう」
生真面目にそう返す谷口に、球道はにやりと笑ってみせる。
「五本もヒットを打たれておいて勝者なんて言えるかい」
さも面白くもないといった表情で、球道は徳川を見た。
「お前はいいのか、それで」
それ以上何も言わず徳川は微笑む。
「ああ」
球道は一言そう口にすると、
「わざわざこんな東京くんだりまで来てバッティングピッチャーをさせられてよ。損ばかりだぜ。さっさと退散しちまわないと」
「ちょ、ちょっと!」
谷口の制止を振り切り、球道はえーじと才蔵を連れて、風のように去っていった。
「ど、どうして……」
後に残って戸惑いを隠せぬ墨谷ナインの中で、丸井とイガラシはぺこりと球道に向かって頭を下げていた。
浦安に戻って来た三人は川べりを歩きながら、今日のことを思い出していた。
「全く、突然出て行ったと思ったら、今度はいきなり帰ると言い出して。とんだ迷惑じゃん」
えーじが不満そうに零すのを才蔵がまあまあととりなす。
「それよりも良かったのかい? あんな勝ちを譲る真似をしちまって」
「らしいと言えばらしいが意外だったじゃん」
事情を知っている才蔵とえーじにとって、球道の決断は予想外のものだった。
「……」
先頭を歩いていた球道がぴたりと足を止める。
墨谷高校からの帰り道では一切口をきかず外を眺めていた球道だが、おもむろに口を開くと、
「勝ちを譲るも何も、一球入魂のタマをああも打たれちまったらな」
そう呟いた。
「おれ独りで大丈夫。キャッチャーなんぞいらないと粋がっておいてこのザマさ。恰好つかないことこの上ないぜ」
「そりゃ、あそこまで墨谷がやるなんて誰も思わないじゃん」
「ああ。おれもそうだ。だから負けた」
「球道……、すまねえ」
才蔵が頭を下げる。ファインプレイを見せた彼だが、心の中では二人の真剣勝負に水を差したという気持ちで一杯だった。
「気にするな。元々三人で相手することになっていたんだからな。ようはおれの気持ちの問題なんだよ。あいつに、谷口に打たれたってのに、偉そうに勝利者面するのが嫌だったんだ」
「でも、ルール上は勝ちじゃんよ」
「ルール上はな。だが、男同士の勝負はおれの負けだ。打たせないつもりで投げたタマを打たれたんだ。どちらが勝ちか火を見るよりも明らかだろ」
「じゃん」
「そりゃ打つことしか考えてない奴が相手なんだ。余計なことを考えていたら打たれるに決まっている。投げる時には投げることだけ考えろという親父殿の喝に違いないのさ」
ポイと足元の石を川面に球道は投げる。
「それにあの墨谷の連中を見ただろ。どいつもこいつも打倒明訓に向けての特訓の傷が生々しい。秋季大会前にだぜ?」
続けて、球道は石を投げる。
「そして、あの谷口。駄目なんだよ、おれは。ああいうのが」
残った一個を投げつけ、ぽんぽんと球道は手をはたく。
「そう。嫌いになれないんだよ、おれは。ああいう野球狂が。卒業後の進路が決まっているとはいえ、することは山ほどある。他にいくらでも楽しいことだってな。それなのに、ただ明訓と戦うためだけに自分の進路をも天秤にかける。他人からすればただの物好きとしか言えないってのに。野球に憑りつかれ、野球に狂っちまった奴しかあそこまですることはできねえさ。そんな男たちの野球に対する純粋な思いを踏みにじってまで我を通す? そんなこと、このおれができる訳ないだろう……」
「球道……」
「おれも山田もプロで対決できる。だが、あいつには、谷口には今しかない。この機会が無ければ明訓と山田と対決できない。そんなことを知っちまったら、どうするかなんて決まっているじゃないか」
「お前……」
球道なりに悩みながらの投球だったのはタマを受けていたえーじが一番よく分かっている。
球けがれなく道けわし。己の野球道に照らし合わせての苦渋の決断だったに違いない。
「結花にはお守りのボールを持たせてある。きっと良くなって、プロでのおれと山田の初対決を見に来るに違いないぜ」
「親父の形見か……」
「確かにあのボールの効果はバッチリじゃん」
北海道以来の付き合いになるえーじは、球道のお守りが見せた多くの奇跡をよく知っている。
「きっと今回も上手くいくじゃんよ」
「そうだな。良い事をしたから、親父殿も褒めてくれるだろうよ」
「へっ。だったらいいがな」
どことなく照れくさそうにし小走りに歩く球道の後を、えーじと才蔵は慌てて付いて行った。
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第五十三話 「決戦前夜」
もうひとつのタイトルは野球狂の宴です。
締め切りが今日の九時。ぎりぎり入稿を済ませましたので、こちらも少しずつアップしたいと思います。
墨谷高校野球部OB田所はその日も配達帰りに母校に立ち寄った。
軽トラを駐車場に停め、夕暮れの校舎を見上げると、屋上からは応援団が割れんばかりの声援を響かせていた。
「やってる、やってる」
気持ちの高ぶりを抑えきれず、田所は顔がにやけるのを止められない。
相手は全国の猛者たちを破り、四度頂点に立った絶対王者明訓。
そんな高校野球の金看板とも言える存在と、まさか自分の母校が戦うことになるとは夢にも思わなかった。
さぞ、明日に向けて猛特訓をしていることだろうとグラウンドに行ってみると、意外や意外。そこにいたのは徳川だけで、部員たちはとうに引き上げたという。
「まさか、そんな……」
予想外の出来事に、田所は面食らい慌てて部室へ向かう。
自分が現役の時も地区の名門であり、プロ注目のエース中尾を擁する東実と対戦している。だが日が暮れても練習を終わらぬ野球部の様子に、通りがかったサッカー部の連中からやりすぎだと呆れられる始末で、どうせ今日もそうだろうとやって来たというのに。
「あ、田所さん」
部室から出てきたのは学生服姿の丸井にイガラシ。
「よ、よお。練習はもう終わったんか?」
「ええ。明日もあるので早めに終わろうとイガラシと相談しまして」
「はい」
(成程。おれたちの時とは違うってことか)
後輩たちの成長に、田所は深く頷いた。
谷口一年次。弱小校だった自分達はただ一戦一戦をがむしゃらに闘っていた。それが今では地区の優秀な人材が集まる程になっている。夏の都予選ではあの谷原を倒し、甲子園まであと一歩と迫る程だ。秋季大会も近い。無理はしてもし過ぎないということだろう。
「そういや明日の移動は大丈夫なんか?」
国分寺球場まで電車で行こうとした墨谷ナインだったが、連日のマスコミの多さに事故を危惧した学校側から止められ、どうしたものかと頭を悩ませていた。田所を中心とした墨谷野球部OBが分散して乗せていこうかという話になっていたのだ。
「ああ、それは……」
「中学の時の後輩のお父さんが乗せていってくれることになりまして……」
あちこちの伝手を頼った墨谷ナインに自分で良ければと名乗り出たのは墨谷二中の後輩である近藤の父である。「息子がえらいお世話になりましたしな」そう話す彼は、今をときめく墨谷ナインを乗せられることは光栄だと快く引き受けてくれた。
「そいつはよかった。明日明訓に勝つことができたらうな丼を奢るからよ」
「うな丼か。そいつは楽しみですね」
上手く話を合わせるイガラシに対し、浮かぬ顔の丸井に田所がどうかしたのかと尋ねる。
「明日の投手起用を一任されたんです」
代わって答えたイガラシが説明する。
「秋季大会も近いんで現役が指示を出す方がよいと」
「そいつは思い切ったな」
てっきり三年生の引退試合だから、思い残すことのないように谷口たちでがちがちに決めると思っていた田所だが、そもそも彼自身が谷口の影響を丸井達に危惧した立場である。
「それで先発は誰にすんだよ。谷口か?」
「いえ。それが、まだ……」
イガラシは横目で丸井の方をちらりと見た。
「いざ決めると迷っちまって」
「おれも井口も谷口さんもどこでも丸井さんが決めた通りで良いと言ったんですが」
「まあ、悩むわな。それでいいんじゃないか。かっかして寝られなくなってもことだしよ」
田所の言葉にすぐかっかする人物に心当たりがあるイガラシは何とも言えない表情を作るが、
「?」
一方の丸井は誰のことかときょとんとしている。
青葉学院だろうが、東実だろうが、谷原だろうが、あの明訓だろうが。最初から勝負を諦めることをせず、ムキになる人物。
(そんなの一人しかいねえじゃねか)
自分が慕う先輩のことになると途端に盲目になる丸井に、田所は呆れ顔を見せた。
静けさを増したグラウンドを見ながら、徳川は独りベンチに佇んでいた。
(それにしてもようやったもんや)
自らの猛特訓に音を上げずついてきた墨谷ナインに内心感嘆を禁じ得ない。
(それに、あの提案……。つくづくと面白い連中よ)
にんまりとしながらも先ほど部室に呼ばれ、谷口達と話したことが思い出される。
「このわしに対してあんな提案をするとはな。くひひひひ。初めてやぜ、全くよ」
思わず口に出た独り言に応える者は誰もいない。
連日の特訓に耐えた墨谷ナイン達は、まさしく今明日の決戦に向けて英気を養っていることだろう。
(よもや、明訓相手に最後の勝負を挑めるとは思わんかった)
徳川にとって明訓での、そして打倒明訓に燃えた日々は青春そのものだ。
ドカベン山田を筆頭とした明訓五人衆をいかにして倒すか。全国を行脚し人材を求め、知恵を絞って戦いを挑んだ。
それもこれも彼らという存在を認めていたからに他ならない。
(お前らは強い。だからこそ、全国の猛者が皆目の色を変えた。このわしとてそうじゃ)
圧倒的な強さは周囲を惹きつけるに十分で、甲子園での連勝記録がそれに拍車をかけた。
(初めて明訓に土をつける。あの弁慶高校の義経と武蔵坊は見事じゃった)
武蔵坊の仁王立ち。義経の八艘飛び。明訓初の敗戦と言えば、世間が口にするのはそればかり。だが、徳川から言わせれば、マスコミを使い一番に山田を据えた作戦こそが全てというべきだろう。
(あれには度肝を抜かれたぜ。相手の必勝パターンを崩す。実に見事じゃった)
鈍足の山田が一番、悪球打ちの岩鬼が四番に座った明訓は打っても走れぬ山田と、チャンスで凡退する岩鬼という普段とは違う顔を見せ、別なチームかと思うほど脆かった。
(確かに良い策よ。明訓にただ勝つことだけを考えるのであればな。だが、わしは違う。わしはベストな状態のあやつらを倒したいのよ)
一番岩鬼、四番山田。返る男と返す男。その黄金パターンの明訓を破ってこそ、本当の意味で明訓に勝ったと言えるのではないか。
そっと誰かがベンチに座る気配がし、徳川が帽子のつばを上げると、そこに立っていたのは意外な人物だ。
「なんじゃ、部長さんか。明日の準備は終わったのかい?」
「こちらの方ですることは」
「にしても、あんたも根性が座っとるな。三年生だけではなく、他の連中まで勉強特訓をさせるなんてのう」
「学生は勉強が本分です。進路のことを考えたら当り前でしょう」
「いや、そうやない。そのために、あんた学校に泊ることもあったじゃろう。夜に何回か見かけたわい」
小室の家は埼玉の所沢にある。野球練習の後の勉強特訓に付き合うとなると、時には帰宅に間に合わず、学校に泊まりこむこともあった。
「臨時のご指導はありがたいですが、学校を寝床にするのは止めていただきたかったですな」
「私立じゃとやかく言われんかったのにのォ。公立は杓子定規じゃて」
やれやれと立ち上がる徳川に、小室は渋い顔を見せた。
「私立でも公立でもベンチでの寝泊まりはいかんでしょうが」
「やれやれ。退散するとしようかの」
大きなあくびをしながら、徳川は伸びをする。
「明日は勝てますかな」
「さあな。勝負は水物や。こればっかりはわしにも分からん」
「そこは勝つと断言して欲しかったですがね」
「ひっひっひ。あんたが大好きな試験と一緒や。満点取るつもりでおっても取り零すことはあるじゃろう」
「それは確かに」
「とにかくや」
徳川は徳利を掲げる。
「あいつらが明日明訓に勝つことを祈念して一杯飲むとするわい」
(物は言い様だな)
何かにつけて飲みたがる酒飲みの性分に小室は呆れ顔を見せるも、
「それではわしもご相伴に預かりますかな」
そう言い、徳川を驚かせる。
「あ、あんた……」
「野球に勉強。お互いの特訓責任者として慰労会は必要でしょうよ」
小室の申し出に、徳川はにんまりと笑みを浮かべた。
「あんた、頭が固いだけかと思っておったが、意外に話せる奴やったんやな」
「大きなお世話ですよ」
肩を組みながら歩いていく二人は、途中やって来ていた田所を見つけると強引に誘う。
「い、いやおれは……」
躊躇する田所を無理に引っ張って河川敷にある屋台のおでん屋へと連れて行く二人。
「どうしたい。いかつい顔をしてやがるくせにこっちはさっぱりか?」
「田所。社会人になったんなら付き合いで酒ぐらい飲めないといかんぞ!」
どんどんと杯を重ねる二人にさして酒の強くない田所は戸惑うばかりだ。
(おいおい。車を置いてきちまったぞ。どうするんだよ、親父にドヤされんぞ。いや、それより明日の試合はどうすんだ)
夜が更けるも、一向に止まることを知らない二人の勢いに、田所はどうやって帰ったものかと頭を悩ませた。
東京メッツの本拠地である国分寺球場。
メッツファンはその勝ち負けに厳しく、毎年順位によってその入場者数が大きく変わる。特にここ数年は最下位争いが多く、風が冷たくなる秋口は閑古鳥が鳴くのが常だった。
そんな秋の風物詩が様変わりしたのは二日前から。
どこからともなく集まり出した人々は球場前に列をなし、近隣にある公園内にまで列をなすという有様で、
「まるで優勝決定戦の時のようやないか」
そう嬉しそうにする鉄五郎の横で、監督である五利は胸中複雑だった。
明訓と墨谷の練習試合見たさに徹夜で並ぶ者達を尻目に、球場内は空席が目立つ。
空振りに倒れた甚九寿に対し、ついつい怒声が飛んだ。
「わしらはプロやんけ! 少しは意地を見せんかい!」
檄も空しく、その日の敗戦が決まると、居並ぶ者達を尻目に東京メッツの選手たちはぞろぞろと球場を後にする。
「ひっく。おいおい。これみんな、ドカベン目当てかよ」
酔いどれ投手日ノ本盛が言えば、
「さすがにびっくりだぜ、発表したのは一昨日だってのに」
ショーマン千藤光も目を丸くした。
「やっぱり、ここからの眺めは格別や」
スコアボード裏から、球場全体を眺めながら、東京メッツ職員である大空孫市は独り満足感に浸った。
「すまんが、この老いぼれからの頼み、引き受けてくれんか」
そうよれよれ十八番こと岩田鉄五郎に頭を下げられたのはつい昨日のこと。
紆余曲折の末国分寺球場を貸し出すことに決まったが、試合の運営をどうするかが問題となっていた。本来自分達の学校で試合をしようとしていた墨谷ナインの頭には大会運営などという考えがなく、墨谷高校校長以下職員・OBが分担してことに当たろうかという話になっていた。通常地方大会の場合にはもぎりやチケット販売等大半を高校生が担当する。だが、今回の試合の名目はあくまでも練習試合だ。球場を借り受ければ後は大人でが分担すれば何とかなるだろうとの彼らの甘い目論見はする仕事を洗い出した段階で脆くも崩れることとなる。
人出が足りず、人の配置もままならない。そもそも人がどの仕事にどの程度必要かも分からない。運動会や競技会レベルの運営しか経験がない彼らには文字通りの未知の世界。
「どうにかしたいが、どうしていいか分からない」
弱り切った墨高教職員に天の助けとばかりに声を掛けたのが岩田鉄五郎である。
自分達のしたことから一時は引退試合が無くなりかけたという事への罪滅ぼしと、山田の国分寺球場デビューを見たいという気持ちが重なった鉄五郎は自分達に任せれば悪いようにはしないと請け合い、オーナーへ話を通した。明訓と墨谷の試合を全面バックアップしてはどうかと。
だが、しまり屋のオーナーのからの返答はNO。
これ以上余計な経費をかけたくないとのことで、どうしても首を縦に振らず、それならばと鉄五郎は急遽仲の良い球団職員に片端から声をかけることとした。
その一人が孫市である。
かつてエルビス・プレスリーの恰好をして、八時半になるや現れる謎のメッツ応援団として大いに国分寺球場を沸かせた彼は、生粋のメッツフリークであり、そんな彼にとって鉄五郎からの頼みに対し引き受ける以外の選択肢はあり得なかった。
明日に控えた決戦を前に球場内をぴかぴかに磨き、球児達を迎えようと張り切る孫市は夜遅くにもかかわらずメッツの応援歌を口ずさみながらモップをかけた。
彼だけではない。
売店からチケット売り場からもぎり。
場内清掃に、警備まで。多くのメッツ職員が鉄五郎からの頼みを当然のこととして二つ返事で引き受けてくれた。しかも彼らはいずれも口を揃えて、
「高校生相手にお金を取ろうとは思いませんよ」
と僅かでも金を渡そうとする鉄五郎に対し首を振った。
「おおきに。おおきに。ほんま、うちの球団はオーナー以外最高やで」
男意気に感じた鉄五郎は思わず涙を流したものである。
そして、ある意味で最も大事な場内アナウンスを行うウグイス嬢もまた。
「静ちゃん、すまんが頼まれてくれんか」
山中静子はこの年五十八歳。岩田鉄五郎よりも二年上の先輩であり、誰あろう彼の初登板のアナウンスを担当したのが彼女だった。
そんな彼女もまた孫市に負けず劣らずのメッツファンであり、そして高校野球のファンだった。
「当日はどこが中継するのよ? NHKだけ⁉ どうして!」
「そりゃ明訓が出るっちゅうんで盛り上がっとるが、中身はただの練習試合やからな。本当はNHKですら断るつもりやったんじゃ」
甲子園に何万と人を呼び、彼らの敗戦には号外まで出された明訓。その引退試合にマスコミが飛びつかぬ訳がない。事実メッツの広報には各マスコミが列を為し、何とか中継できないかと食い下がってきた。これまでメッツのTV放送と言えば、優勝決定戦間近にNHKが放送するか、できて間もない東京十二チャンネルが番組に困って流すのみで、在京キー局からはそっぽを向かれてきた。降って湧いたマスコミの手のひら返しに対し困惑したメッツ側は、これは練習試合だと断ったが、国民の関心があることを伝えるのが義務、これは明訓の記録映像を作るためだと食い下がるNHKに仕方なく放送を許可した経緯がある。
「まさかこんなチャンスが来るなんて!」
静子は顔を紅潮させる。メッツのウグイス嬢として勤めること三十年以上。その彼女をして、あの明訓のスターティングメンバーを読めるという興奮は格別なものがあった。しかも、相手の高校はと言えば、今夏あの谷原と激戦を繰り広げて勝利するも、部員のケガから出場辞退をすることとなったあの墨谷と言うではないか。
「一体どこのどいつが考えたのよ、こんなカード。あり得ない、あり得ないわ」
その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる静子に鉄五郎は面食らう。
「お静よ、興奮しすぎやないか。血圧が上がるで」
「じゃかあしゃい! いい、私以外の人間に頼むんじゃないわよ、鉄。頼んだら今度からあんたの名前の前に老いぼれとつけてしゃべってやる!」
「老いぼれはお互い様やんけ!」
「レディに対して失礼な!」
「臆面もなく図々しいことをいう女や。何がレディや。あ、それとお静。悪いが無賃やで」
「どっちが図々しいんだか! 高校生相手にお金をもらうつもりはないわよ!」
「すまんな。いずれ借りは返すさかい」
「そうと決まったら、準備準備!」
鉄五郎の反論などどこ吹く風と大忙しにあちこち電話を始めた彼女に、何をしているか尋ねても秘密とばかりに応えてもらえない。
「何が秘密や。ええ歳して」
ぶつくさ言いながら鉄五郎がアナウンス室を出ようとする背中に向かって。
「ええ歳して未だに現役を続けている奴が何を偉そうに!」
静子の怒声が飛び、鉄五郎は肩をすくめて早々に退散した。
豪勢な夕食が並ぶ谷口家。
せっせとグラブを磨く息子に、玉子は声を掛ける。
「ほらほら。明日は早いんだろう。さっさと食べちゃいな」
「もう少し」
その手は止まらない。
「おい、タカ。早くしねえとおみおつけが冷めちまうぞ」
熊吉の言葉にも生返事だ。
「おれは後でいいよ。先に食べていてよ」
「あのねえ、あんた……」
何か言いかけた玉子の肩を熊吉はそっと掴んで首を振る。
夫婦二人。黙りながら、息子の様子をじっと伺う。
「なあ、タカ」
「うん……」
「そんなに未練があるんなら辞めなくてもいいんだぞ」
父親の言葉に目をぱちくりとさせる谷口。
しばし目を伏せたかと思うと、
「いや、明日で最後にするよ」
そう言った。
「おれみたいな不器用な人間が二足の草鞋なんて無理だ。それは父ちゃんもよく知っているだろ」
「でもよ、お前……」
「丸井たちのお蔭で明訓と戦えることになったんだ。最後にいい思い出になるよ」
息子の様子に、顔をくしゃくしゃにする。
「だからって、お前。あんなに頑張ったものを……」
「父ちゃんだって、この道は生半可な努力じゃ無理だと言っていたじゃないか」
「そりゃ言った。言ったさ、でもな……」
高校より大工の道に入ろうとする息子を脅かすつもりだった一言。だが、生真面目な彼はそれを真剣に受け取り、野球を辞めると言い出した。指を怪我して再起不能と言われ、サッカー部に入った。それでも、結局最後は戻って行ったほど野球が好きだったのに。
(ったく、融通がきかねえったらありゃしねえ)
確かに職人仕事を二足の草鞋は難しい。だが、野球との関りをすっぱり断つ必要はない。後輩の指導や草野球など楽しむ道はたくさんある。それなのに、
「よそに気を回すとおれみたいな奴は中途半端になりそうだから」
と、息子は首を縦に振ろうとしない。
「おれは、明日ちょいと忙しくてな。応援には行けねえ」
父親からの意外な一言に、谷口は手を止める。
「そ、そう」
「すまねえな」
「いや、仕事なら仕方ないよ」
背を見せる息子に、熊吉は心の中で詫びた。
(すまねえな、タカ。お前の最後の試合、観に行きたいのはやまやまなんだがよ。お前があんだけのめり込んだものを捨てるとこなんざ見たくねえんだよ)
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第五十四話 「その日」
ご注意:作者はドカベン、プレイボール両方のファンでお互いになるべくおもねらないようにしていますが、中には明訓が○○はおかしいや、墨谷が○○はおかしいと感じる人もいると思います。その場合は読むのを止めることを勧めます。素人が書いているしな~ぐらいな方はどうぞ気軽にお楽しみください。
コミケに行く前に力尽きそう。
相方も具合悪いというし、二人してやばいかも。
そして、その日。
雲一つない秋晴れの中、柔らかい日の光がスタジアムを包んでいた。
東京メッツのオーナーに鉄五郎と五利は、球場前の長蛇の列を横目に見ながら、いち早く球場入りする。
「全く。鉄の口車に乗って、うちでやっていいと言ったが、ここまでとは思わんかったぞ」
渋面を作るオーナー。
「諦めなはれ、オーナー。むしろ山田人気のええ証拠やないか。これだけ人を集める男が来たらどうなるかが分かっただけでも儲けものやで」
「あのなあ鉄つぁん。当たったつもりでおるけど、ドラフトはくじやで? 外れることもあるやろうが」
「どアホが! 外すことなんざあるかい。わしの黄金の左腕で引き当てたる」
「いい気なもんじゃ。あの連中のためにいらん手間が増えたと言うのに」
忌々しそうにオーナーは扉の方を振り返る。
二日前に国分寺球場で行うとなってからの高校野球ファン・明訓ファンの動きは早く、新聞やゴザを敷いて徹夜に備える者が後を絶たず、急遽球場に隣接する公園内にまで列を誘導する羽目になった。それに伴う警備員等の手配はメッツの善意で行われたが、予想外の人出にオーナーにとっては余計な出費が嵩むこととなった。
「ええやないか。青少年の健全な育成のためや」
「こんなことならNHK以外の中継も認めるべきやったな」
身も蓋もない事を言うオーナーに、鉄五郎と五利はうんざりした顔を見せる。
「何を言うとるんや。高校生を食い物にしたとえらい叩かれまっせ」
「鉄つぁんの言う通りや。なんぼなんでもそれはあかん」
「叩かれても腹が膨れればそれでええんやが」
「全く。秀吉たちの爪の垢を煎じて飲ませたいくらいやで」
「そやそや。アナウンスのお静はんも売り子の子らも快く引き受けてくれたんに」
明訓と墨谷の練習試合が正式に決まった後、少なからず揉めたのが審判についてだった。
当初墨谷の面々は大学生となった谷口の一つ上の先輩たちに頼ろうと考えていたが、
「ば、バカ。明訓相手の審判なんか無理に決まっているだろ」
とすげなく断られ、OBにまでその範囲を広げて何とか引き受けてもらえないかと返事を待っている状態だった。
そこへ、天の助けとなったのが、鉄五郎からの電話である。国分寺球場の使用権を譲る話のついでに、鉄五郎は審判そのついても自分に任せるよう告げた。曰く。
「あの明訓の最後の試合や。どう考えても大学生やその辺の素人には荷が重いやろ。わしに任せるとええ」
とのことで、渡りに船とばかりに鉄五郎の提案に乗った墨高に、審判を引き受けてくれる人物が見つかったと連絡が入ったのは前日の夕方のことである。
「おっ。噂をすれば」
サングラスをかけ、白杖を手にやってきた男を見、鉄五郎はにやりとした。
「おい、秀。今回はわざわざすまんかったな」
「ふん、鉄。わしは借りを返しただけじゃ」
素っ気なく返す男こそ、『わしがルールブックじゃ!』の決め台詞で名審判と謳われた秀吉三郎である。鉄五郎のプロ初登板の際に初主審をした秀吉は、以来三十年以上の長きに渡り審判を務め、目の病で数年前惜しまれつつも職を辞した。
そんな秀吉に鉄五郎が連絡をとったのは、プロ野球の審判仲間の間で顔の広い彼に明訓と墨谷の練習試合を裁ける人材を探してもらうために他ならない。
「にしてもよ。昨日の今日でようも集めてくれたもんや。さすがは秀吉三郎」
通常プロの審判の場合、一試合ごとに試合出場手当が支払われる。
だが、今回彼らにはそれは支払われない。飽くまでもボランティアだ。
「明訓の引退試合ときたからな。どいつもこいつも手弁当で集まってくれたわい」
あくまでも自分の手柄ではないと主張する秀吉だが、審判生活三十年を超える彼の人望あってこそだという事は鉄五郎も五利も百も承知だ。
「とにかくや、秀吉はん。席を用意してま、そこで楽しんでくれや。目は見えんでも、山田のホームランの音は格別やさかいな」
微笑む五利を、鉄五郎は肘で突く。
秀吉と入れ違いに間が悪く入って来たのは墨谷ナイン。
「こ、この度はどうも……」
先頭を歩く谷口がぺこりと頭を下げると、部員たちもそれに続く。
「い、いや。こりゃその……」
気まずそうに口元を抑える五利を鉄五郎は後ろに隠す。
「何、青少年の健全な育成のためや。どうや、今日の首尾は」
「無論、勝ちますよ」
脇からそう宣言したイガラシに、五利は思わず心の中でツッコミを入れる。
(あの明訓に勝つやと……。青春は向こう見ずっちゅうやっちゃな)
夏の甲子園大会。あの青田の怪童中西球道との激戦を制した明訓を前にして、地区大会止まりの墨谷が何を言っているのか。
だが、墨谷ナインの様子を注意深くじっと見ていた鉄五郎は、小さく頷くと頑張れよとだけ返し、歩いて行った。慌てて五利とオーナーはその後を追う。
「ちょいと鉄つぁん。何や、もう少し声を掛けてやらんのか」
「何をよ。戦う前の連中に失礼やで。見て分からんのか」
「どういうことや」
「あやつら明訓に勝つつもりや。少なくともそれだけの特訓を積んで来とる」
「ま、まさかそんな……」
「勝負に絶対はない。明訓が油断したらどうなるか分からへんで」
鉄五郎たちと別れ、控室にやって来た墨谷ナイン。
荷物を置くや、丸井は不満を洩らす。
「けっ。何だい。山田のホームランを楽しみにだなんて」
「まあまあ。大抵の人間はそう思うのが普通だ」
「うちと明訓じゃそりゃそうだよな」
谷口と倉橋は別段気にした様子もない。
「よお、お前ら。とんでもない人出だな。ここに来るまでびっくらこいたぜ」
そう言いつつやって来たのは、田所だ。
後ろには谷口の一年先輩である中山達を引き連れている。
「すまんな、谷口。力になってやれなくて」
山口が頭を下げる。
「さすがにおれらじゃ明訓相手の審判は役不足だかんな」
とこれは太田。
最初、練習試合の審判を引き受けて欲しいとの谷口からの依頼を気軽に引き受けた中山たちだったが、相手が明訓と聞き、恐れをなしていた。甲子園にあれだけの人を集めた明訓との練習試合などどれだけの注目を浴びることになるだろう。自分たちでは荷が重すぎる。
「いえいえ。応援に来て頂いただけでもありがたいです」
「応援ならまかせとけ。ばっちり決めてやるからよ」
中山がどんと胸を叩くと、
「お前はそれしか能がないかんな」
と山本が茶化す。
「この~!」
以前と変わらぬ先輩たちのやりとりに、緊張気味だった墨谷ナインの顔が綻んだ。
(こいつらもやるじゃねえか)
先輩なりの気遣いをみせる後輩たちに、田所は満足そうに頷いた。
「で、どうなんだ、谷口」
山本が気になることをずばりと口にする。
「明訓相手にいい試合ができそうなのか?」
「ええ。負けない練習はしてきました」
谷口の返答に、中山たちは唖然とする。
「負けないって、お前。あの明訓に勝つつもりなのかよ」
全国の頂点に立つこと四度の絶対王者。
ドカベン山田を筆頭にした強力打線に、甲子園通算二十勝を誇る小さな巨人里中。
その絶対王者を前にして。
「当然ですよ」
谷口に代わって丸井が答えれば、
「試合ができたから満足なんて気は毛頭ありません」
不敵にイガラシが言ってのける。
「ほ、本気なんか……」
谷口と共に二年間を過ごし、あの専修館との激闘を闘い抜いた中山たちをして、信じられない。まさか、谷口たちが本気で明訓を倒そうとしているなど。
「それじゃあ応援よろしくお願いします」
そう言って、笑顔を見せて出ていく後輩たちの背中の何と大きくなったことか。
「あ、あいつら本気で……」
二の句が継げず、顔を見合う中山たち。
「しゃっきりしろい! 連中のあの堂々とした態度を見習えってんだ。精々明訓の大応援団に負けないようにおれたちもがんばろうぜ!」
「お、おう!」
現役時代さながらに声を張り上げ、田所たちは応援席へと向かった。
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第五十五話 「明訓ナイン登場」
540ページでコミケ史上最強の無料本を目指してます。
色々足は出てますが、水島新司先生の追悼本なので無料にしました。
彼らの登場を書くとなった時、震えが止まりませんでした。
相手側ベンチに座ると想像しただけで興奮しました。
彼らの到着を認めるや、国分寺球場がまるであの大甲子園に生まれ変わったように思われた。
常日頃は静かな公園内からは盛んに歓声が上がり、国分寺球場を十重二十重と取り囲む群衆からは口々にその引退を惜しむ声が聞かれた。
「堪忍や。わいもここまで己の人気がすごいとは思わなんだ。ミスターの引退やあるまいし、ちと騒ぎすぎやな。まあ、ミスター高校野球の引退ともなれば騒ぎたくなる気持ちは分からんでもないが」
沿道を埋め尽くさんばかりの人だかりを見て、すまなそうに頭を下げる岩鬼に、殿馬は指で拍子をとりながら歌う。
「し~らけ~ど~り~飛~んでゆけ~」
「何やと、とんま!」
激昂する岩鬼をよそに、山田と里中はすごいもんだなと球場周辺の騒ぎを見つめた。
墨谷との練習試合を引き受けた時にはまさかここまで人が集まるとは思わなかった。
「甲子園じゃあるまいし。まさかただの練習試合がここまでになるとは」
「知らぬは本人ばかりなりぞな」
監督である大平は呆れた顔をする。
「甲子園に何万と人を呼んだ明訓が引退となれば、人を呼ぶこと間違いなしだや。あちらさんはその辺あんまり分かっておらんかったが」
電話口で話した限り、墨谷の顧問である小室は明訓のことを知らなかったらしい。かつての己と同じような反応を示した小室に、大平は一方的に親近感を感じていた。
人ごみの中を縫うようにしてやっとこさ到着した明訓のバスだったが、群がるファンに警備員が怒声を上げて体を張る。
「ちょっと明訓さん、急いでください」
「どうもお疲れさまです」
先頭でやってきた大平以下山田、里中、殿馬と姿を現すたびに聴衆からは期待の歓声が沸く。
混乱を避けようとそそくさと小走りに球場入りする他のナインと異なり、
「すんまへん。すんまへん。全てわいの人気が悪いんや」
居合わせたファンへのサービスと一人のんびりと歩く岩鬼だが、
「な~んだ、里中くんじゃないのか」
「山田を出せ、山田を!」
ヤジが飛ぶと、途端に怒号を響かせた。
「じゃかあしゃい! この期に及んで、サトやや~まだの応援をする見る目がない奴らは球場に入らんでええ。わいがどでかいのを一発かますさかい。そのボールでも拾ってろ!」
「へえ~。ハッパに打たれるんやったら、墨谷の投手も余程コントロールが悪いんやな」
返ってきた合いの手に苦虫を噛みつぶすように岩鬼はハッパを振るえさせ、球場入りした。
明訓ナインが姿を見せるや、超満員に膨れ上がったスタンドからは割れんばかりの拍手喝采が巻き起こる。
あの明訓がやってきたのだ。
甲子園四度制覇。甲子園史上最強と謳われる王者が。
ドカベン山田。
悪球打ち岩鬼。
小さな巨人里中。
秘打男殿馬。
快打強肩微笑。
あの大甲子園を満員の観客で埋め尽くし、数々の伝説を築いた男たちの登場に、国分寺球場は揺れ、その歓声は国分寺の森の隅々へと響いていく。
「やい、ハッパ! 遅いぞ!」
鉢巻を締めて、明訓側応援席の先頭に陣取っているのは山田の妹サチ子だ。隣では山田の祖父が笑っている。
「やかましいわい、ドブスチビ! 千両役者は登場が最後と決まっているんや!」
「お兄ちゃんや里中ちゃんの足を引っ張るなよ!」
「ドアホ。いつも足を引っ張られているのはわいの方やないけ!」
グラウンドで練習を始めている墨谷に、岩鬼は近づいていく。
ノックを行っているのは、誰あろう元明訓監督の徳川だ。
「やい、徳じい。室戸戦の後監督稼業はもう終りじゃと抜かしとったのは嘘だったんかい! 最後の最後までわいらに付きまといおって。いい加減にせんと仕舞には怒るで」
いつもと変わらぬ岩鬼の態度に、徳川はかっかっかと大笑いで応じる。
「お前等と関わっておらんと手持ち無沙汰での!」
「何やて! わいらを体のいいボケ防止に使いよってからに。目にもの見せたるで、覚悟せえよ、ほんま」
「ふえへっへっへっへ。そいつは楽しみにしておこうかの」
言うや、ノックを再開した徳川。その様子に、微笑は目を細める。
「よく鍛えられているな」
きびきびとした墨谷の動きは、とても地区予選で敗退したチームとは思えない。徳川が指導していることを差し引いても、普段から余程練習していると見るべきだろう。
「いや、こいつは舐めてかかれないな。何たって、向こうにはおれたちのことをよく知る徳川さんがいるんだから」
「里中の言う通りだ。徳川さんのことだ。どんな野球を仕掛けてくるか見当もつかない。気を引き締めていこう」
山田の言葉に岩鬼はふんと鼻を鳴らす。
「何を徳じい如きを恐れることがあるかい。甲子園でわいにお株を奪われたのを忘れたんか。耄碌しとるに違いないわい」
「べらんめえ! 人を年寄り扱いするない。わしはまだまだ現役やぜ!」
「年寄りの冷や水って言葉を知らんのかい。試合で目にもの見せたるわい」
墨谷に続いて明訓の練習時間となり、グラウンドに明訓ナインが姿を見せるや、ひと際大きな歓声が上がった。
「おい、本物だぞ!」
「今日はどんな秘打を打つんだ、殿馬!」
「山田~、一発頼むぞ!」
「里中くん、頑張ってえ!」
あちこちから飛ぶ歓声を物ともせず、マウンドに上がった里中だが、目に飛び込んできた光景に唖然とする。何とベンチにいる墨谷ナイン全員がいきなり素振りを始めたのだ。
「どういうことだ?」
戸惑いながらも投球練習を続ける里中。
「気にせずこちらはこちらでいこう」
ノックの間もひたすらバットを振る墨谷に、違和感を覚えつつもいつも通り里中の調子を山田は確かめる。
(うん。タマの走りはいい。だが、一体あれはどういうことだ……)
再度墨谷ベンチの方に目線を送る。
甲子園で徳川が指揮した信濃川と同じように、何らかの意図があるのかと勘繰る山田に対し、ベンチに退くや殿馬から予想外の言葉が投げかけられた。
「合っているづらよ、リズムが」
「え……」
「里中の投球によ。合わせて見ていたらすぐ分かるづら」
「ば、バカな」
信じられないと墨谷ベンチを見る里中の頭を、
「ふん。徳じいならそれくらいやるやろ。恐れることはあらへん」
にやりと笑みを浮かべた岩鬼がグラブをはめながら叩く。
「それよりもや。スターティングメンバ―が発表されたら、どよめきが起きること請け合いやで」
「どよめきというよりため息づら」
「何やて!」
岩鬼の拳骨を玉乗りのようにボールに乗りながら、器用に躱す殿馬。
やがて、審判団が現れると、丸井と高代の間でオーダー表が交換される。
「えっ……」
それを見て驚く丸井。
何かあったのかと覗いた谷口と倉橋までもが絶句する。
「ま、まさか……」
「どういうこった」
信じられないと自身の方に目を向ける墨谷ナインに、内心高笑いが止まらない岩鬼。さぞや徳川も驚いていることだろうとその姿を探すとベンチには見当たらない。
「お~い、徳じい。わいにぶるったんかい。それとも年をとってしょんべんが近くなりおったか。はよ、出てこんかい!」
「べらんめえ! どこに目を付けてやがる。わしはここやぜ!」
声がする方向を見た明訓ナインは自分達の目を疑う。試合開始までもう間がないというのに、何と徳川はスタンドにいるではないか。
「何をしとるんや、徳じい。知り合いと話しなんぞしとらんとはよ戻らんかい!」
「うるせえ、ハッパ。皆まで言わんと分からんのかい。わしゃ今回は監督をやらねえのよ!」
「何やて!」
徳川の口から出た衝撃の一言に、岩鬼だけでなく山田や里中すらも絶句する。打倒明訓にこだわってきた徳川のことだ。今回もまた監督として自分たちの前に立ちはだかる筈。そう確信していたのに。まさか、墨谷にコーチだけして監督を引き受けないとは。
「ど、どうして……」
思わず里中の口から零れた疑問の声に、徳川はしてやったりと笑みを浮かべた。
「甲子園でハッパ如きに裏をかかれたわしが監督じゃあ、ポカをやりかねんからな」
「だ、だからって徳川さんが監督をしないなんて……」
「それで平気ということづらよ。徳川を必要としてないということづら」
「ほォ。さすがじゃな、殿馬よ」
「ま、まさか……」
百戦錬磨の徳川を監督から外す。そして、それを徳川自身が受け入れる。
(そんな事、あり得るのか……)
明訓に対する徳川の執着を知っているがために、信じられないと言う目で墨谷を見る明訓ナイン。
その様子を見ながら、徳川はスタンドで試合前日に話した谷口との会話を思い出した。
「何、自分たちだけで闘いたいじゃと?」
突然の申し出にもさして徳川は驚かなかった。
これまでも高校生たち自身が監督を務めた高校はいくつもあった。不知火の白新、真田一球の巨人学園などその多くが球児達自身で知恵を絞り、戦ってきた。
墨谷高校もまた然り。彼等自身で自らを鍛え上げ、あの巨人学園と引き分けるほどにまでなりその実力は折り紙付きだ。だが、徳川とてあの常勝明訓を作り上げ、名伯楽として名を馳せてきた男だ。明訓を最も知る自分を外すなど考えられない。
「訳を聞いても?」
「ぼくたち自身で明訓と戦いたくて」
「その結果敗れたとしてもか? 明訓に勝ちたきゃわしの力は必要じゃろうよ」
「それはそうかも知れません。ですが、後輩達のためには必要なことかと」
これまで自分達で監督を行ってきたと言うのに、その座に徳川が着いては、後輩達はきっと頼ってしまうに違いない。明訓との試合限定で力を貸してもらっている手前もある。あくまでも、普段の墨谷として明訓と相対したい。
「成程のう。それで、わしはお役御免か」
「す、すいません。図々しいお願いを……」
「構わん。元々臨時コーチと言うてたからな。そう言う事なら、特等席でお前等の活躍を拝ませてもらうとするかね」
申し訳なさそうに頭を下げる谷口に対し、徳川は鷹揚に頷いてみせた。
(このわし自身、室戸の時に大ポカをやっとる。連中の足を引っ張るかもしれん。それに何よりよ)
徳川の視界にスタンドから緊張気味のナインに声を掛ける谷口の姿が入る。
自分達の力であの明訓と戦いたい。そう谷口ははっきりと言い切った。彼らにとって明訓との試合は特別ではあるが、普段通りの自分達がどこまで通用するのか確かめてみたいのだろう。
(それならばわしは連中の思いを尊重したい。わしゃ青少年の味方じゃからのう)
勝負師として名を馳せた自分らしくない選択。
だが、不思議と徳川の胸中にはわだかまりは無かった。
むしろ面白そうに、自分がいないことで動揺する明訓ナインに向けて大声で言い放った。
「やい、枯れハッパ。わしがいない如きでおたおたしてやがると、墨谷に痛い目見るぜ!」
「なんやて、耄碌じじいめ!」
岩鬼からの反撃に愉快そうに徳川はからからと笑いながら、やおら徳利をぐびりとあおった。
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第五十六話 「さあ試合開始」
NHKで長年高校野球を担当してきた戸門和夫は、あの東京オリンピックで東洋の魔女達の活躍を始め、数々の名場面を実況してきたベテランである。そんな彼でも、その日の国分寺球場の異様な雰囲気には思わず身震いせずにはいられなかった。
『見渡す限り人人人。まるで東京メッツの優勝決定戦の時のような人の波が押し寄せています。立錐の余地なし、国分寺球場。これも全て明訓の引退試合を観るためにやって来ているのです。全国の頂点に立つこと春夏通算四度。高校野球にその名を燦然と刻んだ神奈川県は明訓高校。過去幾度のライバル達がその牙城を崩さんと挑み、敗れてきたことでしょう。あのドカベン山田の、明訓五人衆の高校最後の試合です。しかと目に焼き付けましょう』
「すごい人だね、おじいちゃん」
サチ子の言葉に山田の祖父はラジオを片手に生返事をしながら、自分の孫の成長ぶりに顔が綻ぶ。
(にしても、今日で最後か。太郎、悔いなくな)
ざわめくスタンドに朗々と静子のアナウンスが響く。
『大変長らくお待たせいたしました。明訓高校対墨谷高校のラインナップ。並びにアンパイアをお知らせいたします。先攻、明訓高校。一番ピッチャー岩鬼くん、ピッチャー岩鬼くん』
ドワアアアアア!
ウワアアアア!
ザワアアア!
どよめきがさざ波のように国分寺球場全体へと広がっていった。
徳川監督時代はよく使われた岩鬼だが、ここ最近は甲子園の青田戦での登板くらいだ。
「まさか、岩鬼が先発とはな」
やって来ていた土門は谷津と顔を見合わせる。
「里中さんが故障ということでしょうか」
「いや、それは無いだろう。次があるトーナメントならともかく、一発勝負だ。故障ならまず練習でも投げてはいない」
「それは確かに」
「吾朗、お前が渡した物が役立つといいな」
「えっ⁉」
自分が墨谷に対明訓のメモを手渡したことをどうして土門は知っているのか。
「そりゃ、バッテリーだからな」
愉快そうに笑う土門の横で谷津は顔を赤くする。
「ぼくはただメモを渡しただけです。それをどう使うかは墨谷の皆さん次第ですよ」
「成程。世話になった明訓への義理もあるということか」
明訓と横浜学院は同じ神奈川県内のライバルだ。そんなライバルのしかも捕手である自分が、春の選抜の間中纏わりついても、明訓ナインはいぶかりながらも避けるということはしなかった。
(ぼくがここまで活躍できたのも山田さんたちのお蔭でもある)
神奈川県の生んだ偉大な捕手山田をとことん真似し、谷津は成長。里中からホームランを打ち、三年生になってからは四番を任されるまでになった。
「どちらにせよいい試合になって欲しいもんだ」
「ええ」
両者を知る土門と谷津にとっては、お互いのベストを尽くした戦いを願うばかりである。
次々にオーダーが発表されていく中颯爽とマウンドに立った岩鬼はハッパを揺らし、スタンドに向けて手を挙げる。
「よう来てくれたな。超満員の観衆よ。男岩鬼の高校生活最後の舞台や。じっくりと目に焼き付けていくといいで!」
「こらあ! ハッパが投げたら後で里中ちゃんが大変になるじゃんか!」
サチ子を筆頭に球場のあちこちから投げかけられるブーイングを物ともせず、岩鬼はうんうんと頷く。
「わかっとる。わいの剛球が見納めで悲しいのはわかっとる。そやけど、留年する訳にはあかんねん。プロが待ってくれへんからな!」
ちらりと鉄五郎や五利の姿を見つけ、岩鬼はうしししと上機嫌になる。高校二年生次父の会社が倒産しかけた時に大阪ガメッツの社長から指名確約を条件に、融資を申し込まれたことがあった。結局は父が断ったが、それは熱烈なメッツファンの岩鬼を縛りたくないという親心からだった。
両ベンチにナインが一列に並ぶ。
その重々しい雰囲気に、満員のスタンドが一瞬しんと静まり返った。
「よし、行くぞ!」
「おう!」
墨谷が勢いよく走れば、
「野郎ども、遅れるな!」
「おう!」
明訓もまた一目散に駆けていく。
『ハッパが揺れます、男・岩鬼! 小さな巨人里中くんに秘打男殿馬くんに強打の微笑くん。そして何と言っても、この男ドカベン山田太郎! 威風堂々、王者明訓です!』
主審の合図で墨谷ベンチ、明訓ベンチからそれぞれ集まったナイン達は一列に並ぶや、互いに目線を交わす。
『対するは今夏の東東京大会で涙を呑んだ墨谷高校。あの名門墨谷二中の基礎を築いた谷口くんを筆頭に、丸井くん、イガラシくんと歴代のキャプテンが並びます。明訓相手にどこまで食い下がることができるか、小兵墨谷!』
「明訓高校と墨谷高校の練習試合を開催する。回は九回までで、延長はなし。先攻は明訓高校」
淀みない主審の言葉を耳にしながらも、いざ明訓ナインを前にし、墨谷ナインの興奮は収まらなかった。
(これが明訓か……)
彼らに勝つことを目標に鍛え上げてきた一月。
何度映像の中でその姿を目にしたことだろう。
夢にまで見た相手が、今、息をかければ届く近さにいる。
(すげえ)
夏までの自分達では、恐らく何もすることができず、彼らの前に敗れ去っていたことだろう。徳川の特訓に耐え、数々の強敵との戦いの経験を経たからこそ、分かる。彼らの凄みが。
岩鬼を先頭に一列に並ぶ彼らの姿の何と勇ましく堂々としていることか。
全国の強豪を向こうに回し、頂点に立つこと春夏通算四度。
絶対的な王者と謳われながらも、彼らの目には微塵も墨谷に対する侮りの色は見られない。
ゆえに最強。それだからこその明訓。
(山田……)
ちょうど目の前に立つことになった山田に対し、谷口は気おくれせず胸を張る。
高校野球史上最強の打者。打率七割五分。甲子園で築かれた数々の記録はもはや伝説と言っても過言ではない。
そのゆったりとした佇まい。穏やかそうな表情からも自信が溢れ、風格すら感じさせる。
(この男が一球さんの言っていた男か)
自分への視線に築き、山田もまた谷口を見つめ返した。
その優しげな風貌からは想像もつかない、苛烈な特訓を思わせるすり切れたユニフォームと精悍な顔つき。じっと自分を見るその瞳の奥には、紛れもなく野球への情熱の炎が静かに揺らめいている。
(さすがに雰囲気がありやがるな)
(練習の時とは違うって訳か)
一度明訓に訪れている丸井とイガラシだが、以前とは段違いの迫力を見せる明訓ナインにぐっと気を引き締める。
ごくりと唾を呑み込んだのは誰だったか。
主審はふっと息を吐き、告げた。
「始めます、礼」
「「お願いします!」」
主審の合図と共に互いに礼をし、墨谷ナインは守備位置へ、明訓ナインはベンチへと向かう。
『さあ、今両チームのあいさつも終わり、墨谷高校ナインが守りにつきました。今夏の東東京大会ではあの谷原と延長十三回にも渡る熱戦を繰り広げるも、怪我もあり準決勝に進むことは叶いませんでした。今日明訓を相手に戦い抜き、意地を見せるか、墨谷高校。先発は一年生左腕の井口くんです。明訓相手にこの決断は吉と出るか注目しましょう』
前日悩み抜いた丸井が出した結論は普段通りの墨谷でいく、だった。
先発の井口からイガラシと繋ぎ、最後は谷口に託す。巨人学園戦から続くローテーションに、岩鬼を知っているイガラシの方が適任ではないかとの異論も出たが、丸井は競った局面でこそ、冷静なイガラシの出番であると周囲を納得させた。
「何、普段通りやればいいんだ。明訓と言ったって同じ高校生なんだからな」
「は、はい」
いつもふてぶてしい井口も、さすがに明訓相手の先発の大役を任されたとあって緊張気味だ。
一番岩鬼から始まる上位打線の破壊力に多くの好投手がことごとく敗れ去った。
(まずはこいつからか)
倉橋が守備位置に着くや。
出番とばかり豪快に振っていた四本のバットを放り投げ、ハッパを揺らしやってきたのは誰あろう、明訓が、神奈川が誇る名物男。
岩鬼火山。
悪球打ち、男岩鬼。
まるでプロレスラーのようなその体躯から繰り出される規格外の豪打は甲子園の空に何度虹をかけたことか。
『一番、ピッチャー岩鬼くん。一番、ピッチャー岩鬼くん』
「ウ~~~~~~~~」
途端に鳴り響くサイレンの音に岩鬼のハッパがぴんと反応する。
「こ、甲子園のサイレンやないけ!」
「え⁉ ま、まさか」
「似ているだけだろ」
山田と里中も驚くが、ここは国分寺球場だ。甲子園とはサイレンの音が微妙に違う筈だ。
だが、
「いやハッパの言う通り、甲子園のやつづら」
ピアニストとして天才的な腕を持つ殿馬が断言すると、一体なぜと放送席の方に目をやる。
「お静め。やりおったな」
スタンドにいる鉄五郎は会心の笑みを浮かべた。高校野球ファンである静子からの明訓と墨谷への粋な計らいだ。
『これは驚きました。紛れもなく甲子園球場のサイレンであります。去り行く夏からの惜別のサイレンか。甲子園がこの国分寺の地へとやってきました!』
やんややんやと盛り上がるスタンドを前に、打席では岩鬼が早く投げないかと井口をせっつく。
「はよ、投げんかい。サイレンが終わらんうちにホームラン。男岩鬼、明日への一発という明日の見出しがのうなるやんけ!」
マウンドをならし、投球モーションに入った井口は口をへの字に結びながら、サイレンが鳴るのを待つ。
ガキガキと歯噛みする岩鬼に対し、井口は一つ呼吸すると大きく振りかぶった。
豪快なスイングにハッパが揺れる。
明訓の誇る核弾頭である岩鬼のパワーは、あの怪童中西球道も認める所だ。不用意に投げていい打者ではない。
用心しながらの井口の第一球。
ビシュッ!
ブン!
バシィ!
『ど真ん中だ。空振りだ! 注目の初球はど真ん中へのストレート!』
(ほ、本当にど真ん中が打てないのかよ)
イガラシから話を聞いていた井口だが、実際に目にしてみると信じられない。
(ここまで徹底した悪球打ちとはな)
ホームランボールをいとも簡単に空振りする岩鬼に、倉橋も驚く。
(だが、さすがは岩鬼だ。すごい迫力だぜ)
くるくるとストライクを三振することから『扇風機』などと野次られたこともある岩鬼だが、いざ対戦してみるとそのスイングの力強さに圧倒される。河川敷で挑んだ仮想明訓との勝負が無ければ、今の空振りだけで委縮していたことだろう。まかり間違ってボールでも投げようものなら、スタンドへピンポン玉のように運ぶに違いない。
「クソボールを投げおって。スタンドのファンはわいのホームランを楽しみにしとるんや。いい所に投げんかい!」
むっとした表情を見せる井口に、倉橋は落ち着くよう指示を出す。
(むしろ舐めてくれていた方がありがたいじゃねえか)
岩鬼が悪球以外を打てるとなれば、山田以上の打者となる。
本人をいい気にさせておいた方が傷も深くはならない。
倉橋、続けて二球ど真ん中を要求。
これに井口は応え、難なく岩鬼を三振に切ってとる。
「へぼ~、ハッパ、引っ込め~!」
サチ子を筆頭にスタンドからのブーイングに、岩鬼はじゃかあしゃいと一喝する。
「わいが一人で目立ったら、他の連中が霞んでドラフトに引っかかることもできなくなるやんけ。そないなことも分からんのか、ドアホが!」
『二番、セカンド殿馬くん』
『さあ、一番岩鬼くん倒れましたが、墨谷高校井口くんこれまた厄介なバッターを迎えました。甲子園の大観衆をその華麗なる秘打で魅了した殿馬くんの登場です。世界的ピアニストであるあのアルベルト・ギュンター氏から卒業後熱心に誘われていると聞きます。数多の秘打も今日で見納めか』
「づら」
(殿馬か……)
のんびりと打席に入った殿馬を見て、明訓訪問時のことを丸井は思い出す。
岩鬼を打ち取る際に出した殿馬の指示は的確で、その抜群の野球センスの一端を感じさせた。
(来やがった)
イガラシもまた然り。巨人学園の法市が行った影武者殿馬とは明らかに格の違う本家の登場に、グラブを叩き己を鼓舞する。
(こいつの真似をした犬飼には散々やられているからな、ムリもねえ)
固い表情の味方に、倉橋は首を振りながらも、内外野へと指示を出した。
『おっと、これはどういうことだ。キャッチャー倉橋くんの指示で内外野共に前進守備をとります。一体何を考えているのでしょうか』
ちらりと自分に目線を向けて来る倉橋に半田は大きく丸を作り、答える。
「なんだ、墨谷の連中のあの守備は。あれじゃあ、外野の頭を越すぜ」
微笑が言えば、
「舐めやがって。殿馬の力じゃ飛ばないってことか」
ヘルメットをかぶりながら、里中が顔を顰める。
だが、山田は頷かない。墨谷守備陣の表情からはとても相手を侮るような雰囲気は感じられない。むしろ細心の注意を払い、少しの隙も見せぬようにという思いが見てとれる。
(何か狙いがある筈だ)
山田が己の予想が当たったと確信するのはすぐのことだった。
明訓 墨谷
一番 岩鬼 投 一番 島田 中
二番 殿馬 二 二番 丸井 二
三番 里中 三 三番 イガラシ 遊
四番 山田 捕 四番 谷口 三
五番 微笑 左 五番 倉橋 捕
六番 上下 一 六番 井口 投
七番 蛸田 右 七番 横井 一
八番 高代 遊 八番 戸室 左
九番 渚 中 九番 久保 右
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第五十七話 「明訓打線を封じろ!」
明訓打線相手にどう戦うかは10年以上悩み続けたと思います。
それもこれもあの弁慶高校武蔵坊一馬をして、山田以上に警戒すると言われた男がいるから。
お蔭様で水島新司先生の一周忌前に本が出せました。余りが出ましたが、またサークル参加するかは微妙です。1年で出すことにこだわったのは野球狂の詩の「俺は長島だ!」が大好きだから。憧れの長嶋茂雄の引退に合わせプロになり、たった一本のホームランで去った彼のように頑張りたかったのです。
『さあ、秘打男殿馬をどう抑えるのか、墨谷高校井口くん。ゆったりとしたモーションから、第一球、投げた!』
初球、インコースへのストレート。
『殿馬くん、見送った。まるでバットを振る気がありません』
(打つ気なしってか。食わせ者め)
倉橋はじろりと殿馬を睨む。
殿馬程の打者がただ見逃す筈がない。
とんとんと殿馬の左足が小刻みに動く。
(リズムをとってやがる……)
天才児殿馬の真骨頂であるリズム打法。
頭の中に浮かんだ楽曲と、相手投手のリズムを読み、数々の秘打を完成させてきた。
どうにか殿馬の意図を読もうとする倉橋だが、その表情は読めず、打ち気かどうかの判断すらできない。
(とりあえず、ここよ)
(はい)
二球目。外角高めへのストレート。
タイミングを合わせようとした殿馬に、一塁の横井と谷口がダッシュをして眼前まで迫る。
「ボール!」
『あっと、殿馬くん、振りません。これはどうしたことだ。見逃しました』
「ランナーもいないのにどういうことだ?」
「さあ? バントを警戒しているのか」
渚と高代は互いに顔を見合わせる。ワンアウトで、しかも走者なし。無駄に体力を消耗するだけではないか。
「それ以上に狙っているものがあるのかもしれんだや」
(それ以上? バントヒットでの出塁を阻止する以外に?)
大平の言葉に、山田は頭を悩ませる。もし自分が墨谷の立場だったら、殿馬の存在は厄介だ。足も速く、走塁も巧みであるため、塁に出すとこれ以上うるさい存在は明訓にいない。だが、それ以上に何を墨谷は狙っていると言うのか。
(効果はあるようだ)
殿馬の様子を見て、谷口と倉橋は目線を交わし頷き合った。
明訓不動の二番打者殿馬。
その類まれなる音楽の才能を存分に活かした秘打の数々に多くの好投手が餌食となってきた。
いかにしてその秘打を封じるか。半田を中心に考えた策がこの秘打シフトである。
非力な殿馬はそのヒットの多くが内野安打やポテンヒットであり、滅多に外野に飛ばすことはない。G線上のアリアや回転木馬などがそのいい例だ。ならば、初めから長打を捨て前進守備をとればいい。
(どこに転がそうととってやるぜ)
意気込む墨谷内野陣だが、倉橋はどうしたものかと思案する。
二球目。インコース高めの釣り玉にタイミングを合わせてきた殿馬は、何と谷口と横井の動きを見るや、瞬時にその意図を察し、バットを振らずに見逃した。
(さすがご本家。偽物とは格が違うぜ)
振れば、凡打となることが分かったのだろう。影武者明訓として対峙した法市とは訳が違う。本物が放つ圧倒的なオーラに倉橋は苦笑するしかない。
(それなら次に行くだけだ)
「づら?」
倉橋がサインを出すや、突然投手の井口、一塁の横井、二塁の丸井、三塁の谷口が歌い始める。
「荒川にのぞみー、さーんぜんと~」
「ほーたーるのひーかーりー、まーどーのゆーき~」
「とさのーこうちーのはりまやーばしに~」
「よいやさ、よいやさ、よいさっさ、よいやさよいやさ、よいさっさ~」
「チッチッチッ」
目を瞑りながら拍子をとる殿馬は目当てのリズムを探すと他の音を消そうとするが、それを邪魔するかのように、ショートのイガラシまでもが足でリズムを踏み、歌い出す。
「これづら」
意識を集中し、一塁の横井に我が意を得たりとリズムを合わせる殿馬。
(これでも足りねえのかよ)
さらに倉橋は井口に向かってサインを出す。
心得たとばかりに振りかぶった井口は。
『井口くん、やたら早いモーションからの第三球目!』
ランナーがいないというのにクイックモーション。それに対ししきりにリズムを合わせる殿馬。
『だが、殿馬くん、これは役者が一枚上か。タイミングは合っているぞ! ああっ! ここで何と井口くん、クイックモーションからスローカーブ!』
「何だと!」
井口の投球に見覚えがあった里中がネクストから叫ぶ。
ゆっくりな投球動作からの速球。そして、早いタイミングからの緩いタマ。
それは今夏の甲子園での第一回戦。明訓にとっても因縁深いあの男がとった戦法ではないか。
打ちにいった殿馬は前につんのめりながらも、これを何とかバットに当て、三塁線に転がす。
だが。
「くっ!」
『これはヒットか。いや、ならないならない。あらかじめ前に守っていた谷口くん、猛チャージ! 殿馬くん快足を飛ばすも間に合わない!』
「アウト!」
「鈍足が! もっと早く走らんかい!」
罵声を浴びせる岩鬼に対し、平然としながらも戻り際殿馬は山田に囁く。
「室戸の三男坊の二番煎じかと思ったがよ。中々どうして手がこんでいるづら」
「じゃ、じゃあやっぱり……」
室戸。三男坊。
そのキーワードから思い出されるのは、甲子園初出場だというのに、明訓相手に怯むこともなく自然体で挑んできた強敵の姿。
南海ホークスの長兄小次郎。
土佐丸の次兄武蔵。
そして、その武蔵と犬神の二人を破り、甲子園へと出場した末弟。
室戸学習塾、犬飼知三郎。
甲子園初戦で対決することとなった犬飼知三郎。
その頭脳的なプレイとゼロの神話の前に明訓は中々得点することができず、後一歩の所まで追い詰められた。特に知三郎と相性が悪かったのは殿馬だ。そのリズム打法を狂わされ、果ては『秘投真夏の世の夢』で打ちとられるという屈辱まで味わった。
(まさか、墨谷があの犬飼知三郎の策を使ってこようとは)
これまで明訓の前に立ちはだかったライバル達からは想像がつかない。
彼らは皆、それぞれのやり方を貫き、明訓を倒そうとしてきた。剛速球投手である白新の不知火然り、変則両投げ赤城山の木下然り。そこに本格派だとか、変化球投手という違いはない。それぞれがそれぞれの信念のもとに、他人が使った方法など知らぬ、自分達は自分達のやり方で明訓を倒すとばかりに勝負を挑んできた。
(だが、この墨谷は違う)
使えるものは何でも使う。
殿馬の秘打が脅威と思えば、その殿馬を抑えた知三郎のやり方を真似る。
そこにあるのは自分達のやり方に対するこだわりではなく。
どんなことをしても相手を倒すという強い意志。
(これは恐ろしい相手だ)
綺麗ごとを言っていては、勝利の女神を決して捕まえることはできない。
勝つためには、その後ろ髪を掴むにはどんなことが必要か。腹の内で必死に考え、考え抜いてのことに違いない。
これまで明訓の前に立ち塞がった多くの強敵達。
その全てがいかに明訓打線を封じるためにか、多くの知恵を絞ってきた。それを事細かに分析してきているのだろう。
(もしそうだとするとこれは厄介だな)
思い悩む山田とは逆に、打席に入る里中は闘志をむき出しにしていた。
「犬飼のやり方を真似たってか。だが、それで抑えられるほど明訓は甘くはないぜ!」
(確かにそうだ。ここは一つ慎重に)
倉橋が落ち着くように指示し、井口も慎重に外角低めへのストレートを投げる。
が。
「舐めるな、一年坊!」
キィン!
「何っ!」
里中、ライト線への見事な流し打ち。
(ちっ。狙われたか)
小さな巨人と呼ばれる里中は甲子園通算二十勝を挙げた名投手だが、打者としても今夏の甲子園、室戸戦でホームランを放つなど非凡なセンスを持っている。用心したつもりだが、上手く合わされてしまった。
(息もつけねえのかよ)
まるで酸欠状態の魚のように井口は口をぱくぱくとさせた。
「いいぞ、里中ちゃん!」
『曲者殿馬くんを打ちとってほっとした井口くんに、里中くんが見事な初球攻撃! そしてこの人を迎えます』
ドワアアアアアア‼
国分寺球場を揺るがす大声援。
腕に背中に。いや、全身に。
鳥肌が立つのを感じる。
打席に立つ男はあくまでも泰然自若。
自然体を崩さず、その仕草にも余裕が見てとれる。
マウンドの井口はごくりと唾を呑み込んだ。
目の前のこの男こそが、全国の高校球児が目指す頂だ。
過去数多の投手達が挑み、時に半ば攻略に成功するも、最終的には敗れてきた。
あの剛腕も。知恵者も。尽くがその豪打の前に。
『四番、キャッチャー山田くん。四番、キャッチャー山田くん』
仮想明訓との戦いの際に、あの豪打ハリー・フォアマンは言った。
自分より、山田の方が上だと。
全身から強打者という雰囲気を醸し出していたフォアマンと違い、山田は一見優しそうに見える。だが、仮想明訓と戦い、あの中西球道と出会ったからこそ分かる。その規格外の迫力に。
(くっ)
動悸が激しくなった井口は、気持ちを落ち着かせるためにわざと一塁に牽制する。
『名は体を表すとはこのことか。すくっと立った姿はまるであの日本一の名峰富士山のようです。過去幾多の好投手がその頂を攻略しようと躍起になり、叶わなかったことか。神奈川県大会での白新高校不知火くんとの勝負、甲子園での怪童中西くんとの歴史に残る対決。高校野球の歴史に数多の名勝負を刻んできたドカベン、山田太郎くんの登場です!』
興奮気味に話すアナウンサーとは対照的に、打席に入る山田は静かに構えたままだ。
その一分の隙もない様に、
(かなわんな、全く)
(あれで同じ高校生だと!? 冗談も大概にしろよ)
墨谷ナインからはため息が漏れる。
「あ、あれがドカベンか……」
墨谷の応援席で盛んに歓声を上げていた田所ですら、その額には玉の汗が滴っていた。
かつて闘った東実の打者達を霞ませるほどの威圧感。マウンド上の井口にかかるプレッシャーは自分たちの比ではないだろう。
「中山、お前だったらどうするよ」
山本からの問いに、中山は首を振る。
「どうやっても打ちとることなぞできねえ。敬遠だろ」
「随分と潔いことで。だが、この雰囲気でできるかな」
後輩思いの山口はスタンドを見回した。
「まあな。勝負するのが当たり前って感じだもんな」
太田も同意した。
(こいつが、頂点か……)
仮想明訓との勝負の際に対峙した打者達と比べても、群を抜くその存在感に井口は委縮する。
高校通算打率は驚異の七割五分。その豪打の前に、全国の並みいる好投手が敗れ去って来た。あの青田の怪童中西球道でさえも。
(勝負してみてえな)
高校生ナンバーワン打者に今の自分の力がどこまで通用するか。
投手としての自負が山田との勝負を望む。
しかし。
「おい、井口。分かっているな!」
井口の考えを見透かしたのか、付き合いの長いイガラシが釘をさした。
(分かっているよ)
頷いた井口に対し、様子を見ていた倉橋はゆっくりと立ち上がった。
(やはり、そうきたか)
山田自身、もしやと思っていたが、墨谷バッテリーに躊躇する様子は見られない。
「なっ!」
明訓ベンチから、そしてスタンドから戸惑いの声が乱れ飛ぶ。
『墨谷高校倉橋くん、立ちました。これは敬遠だ。何ということでしょう。墨谷、山田くん相手に一球も投げることなく、敬遠を選択します!』
「勝負しろ、勝負を!」
「逃げてんじゃねえ!」
口々に罵る観客に、井口はこめかみをひくつかせるが、そのまま敬遠策を押し通し、山田四球で一塁へ。
「ボールフォー!」
『あっとフォアボールです。井口くん、走者一塁の場面で山田くんを迎え、まさかの敬遠を選択しました! 場内ざわめきが収まりません。引退試合。明訓と戦う事を楽しみにしてきた筈です。よもや初回から敬遠とは驚きです!』
「江川学院じゃあるまいし、まさかこの後も敬遠じゃないだろうな!」
観客からの野次に山田は思い出す。
(江川学院の中か……)
山田二年次の春の選抜。
大会屈指の左腕として評判の江川学院の中と山田の対決は高校野球ファンの前評判も高く、注目を浴びていた。だが、蓋を開けてみれば、中は五打席連続山田を敬遠と徹底的に勝負を避け、高校球児にあるまじき作戦であると物議を醸し、江川学院監督に非難が集中することとなった。
「へっ。監督としては当然の策じゃよ。投げれば打たれるんじゃ。逃げて何が悪い」
明訓に挑むこと四度。対山田に対しては躊躇うことなく敬遠策を選んだ徳川は、非難轟轟の観客に対し、悪態をつく。
「お前等が勝負している訳でもないだろうに。観ているだけの連中は気楽でええわい」
「三太郎! 目にもの見せてやれ!」
二塁ベース上より、里中が叫ぶ。
「やれやれ、おれも舐められたもんだぜ」
(これで怒っているのか?)
打席に立つ微笑のニヤケ顔に、倉橋は面食らう。
(とにかくここを凌ぐんだ)
微笑に対し、井口は徹底的にインコースを攻める。
『インコース低め! これもボール。カウントワンツーです。一発のある微笑くんを迎えて固くなっているのか、井口くん。ボールを受け取り、肩を回します』
(ここまでとは)
谷口は顎にかかった汗を拭った。
まだ初回だと言うのに、まるで気が抜けない。いずれ劣らぬ好打者強打者を前に、井口の神経は磨り減るばかりだろう。
「井口、思い出せ。河川敷の特訓を!」
仮想明訓として、墨谷投手陣の前に立ちはだかったのは、かつて明訓を苦しめた強敵たち。その豪打は墨谷の心胆を寒からしめ、未知の明訓に対する脅威を知るに十分だった。
(困った時は外角低めが鉄則。だが、相手も当然それを予測している)
倉橋はサインに悩む。微笑は捕手出身だ。こちらのバッテリー心理を見透かしているに違いない。
(徹底的にインコースを攻めれば、勝負はアウトコースかと思うだろう)
井口が投げる瞬間、すーっとアウトコースへと移動する倉橋。
(やはりな、決めダマを外角へか)
外に山を張る微笑。
『井口くん、四球目投げた! あっと、これはサインミスか! インコースへストレート!』
「何っ!」
裏をかかれた微笑、何とか当てるがショートゴロとなり、イガラシはすかさず二塁へ送球。
「アウト!」
『あっとアウトです! 明訓高校。この回ランナーを出しながらも、五番微笑くんがショートゴロで得点ならず! 墨谷高校井口くん、何とか初回は0に抑えました!』
「まさか、三太郎がしてやられるとは」
二塁から戻り際、里中の言葉に、山田は頷いた。
「こちらのことを余程研究してきているようだ」
「ああ。だからこそ岩鬼の先発は効果的か……」
岩鬼のハッパが風に気持ちよく揺れる。
「まあ任せておけやサト。わいが完投しても問題はあらへんやろ」
「ああ。いつでもリリーフは任せておけ」
「じゃあかぁしゃい! 墨谷如きにわいのタマが打たれてたまるかい!」
「やれやれリードが大変だ」
「やーまだ。どういうこっちゃ! お前はただわいの剛球を捕るだけでええんや。気楽なもんやんけ」
漫才のようないつものやりとりをする山田と岩鬼の脇を通りながら、渚と高代は守備位置へと急ぐ。
「それにしたって、最後の試合に岩鬼さんが先発とはな」
「ああ。里中さんにお前までいるのにな」
「うちの監督は何を考えているか分からんぜ」
「『やりたい奴にやらせればいい』なんて言ってたからな。向こうさんもも面食らうに違いないぜ」
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第五十八話 「特訓の成果をみせろ」
余部をどうしようと思っていますが、夏に出すかは悩み中です。
一回表を0点に抑えた墨谷だが、ベンチに引き上げるや井口・倉橋のバッテリーは大きく息を吐き突っ伏した。
「……」
「全く。洒落になってねえぞ、あいつら」
短いながらも深い疲労を感じさせる倉橋の台詞は、墨谷ナインの気持ちを代弁するものだった。
高校野球史上屈指の攻撃力を誇る明訓の上位打線。あの専修館や谷原ですら霞ませるその圧力は、紛れもなく墨谷がこれまで戦ってきた相手の中で群を抜いている。
一か月余り対明訓の特訓に費やしていなければ、恐らく何もできずに無残に敗れ去っていたことだろう。
あの明訓に勝てるのか。
少なくとも後三回はドカベン山田と対戦するというのに。
思わず、無言になった墨谷ナインに空気を察した谷口が声を掛ける。
「よし、次はこちらの番だ」
目を瞬かせながら、皆が谷口の方を向く。
「次って……」
明訓五人衆の凄さを実感したというのに。
ドカベン山田の迫力を目の当たりにしたというのに。
「何言っているんだ。うちの攻撃だろ」
「は、はあ……」
「岩鬼の情報は少ない。島田、頼んだぞ」
「お、おうっ!」
バッターボックスに向かう島田は口の端を上げた。
(谷口さんらしいや)
墨谷二中の後輩である島田にとって、見慣れた光景だ。
ナインがどんなに相手の強さに怯もうと。
闘うからには全力で、諦めず。その姿勢は、見る者を惹きつけ、共に戦う者達を勇気づける。
「そ、そうだ。明訓に先制パンチを食らわせてやろうぜ!」
「お、おう!」
丸井の檄にナインが応える様子を見て、倉橋は頭を掻いた。
(やれやれ。相変わらず楽をさせてはくれねえ男だぜ)
明訓相手にムキになる谷口。
傍目から見れば、呆れるしかないだろう。
(だが、それも三年間付き合っていりゃ慣れるさ)
その男の登場はまさに千両役者そのもの。
明訓側の応援席からはどよめきが。
墨谷側の応援席からは驚きの声が。
マウンドに向かう岩鬼に向けて注がれた。
「六万の大観衆よ。お待っとうはん! 男岩鬼、高校生活最後のマウンドや! 打者としてだけではない。ピッチャーとしてのわいの魅力を存分にお届けするでえ!」
ぐるりと周囲を見渡すと、岩鬼は右手を上げて、ファンに応える。
(どや、この歓声。分かっとるんや、ファンも。わいが青田戦で好投したことをな)
実際にはどよめきや罵声も含まれるのだが、岩鬼の耳には都合の悪いものは聞こえぬらしい。
存分に観客にアピールした岩鬼はマウンドに立つと、右手を高々と掲げた。
「いくでえ、やーまだ!」
ガバァ!
ビシュッ!
ドシィ!
山田のミットを揺らす剛速球に、スタンドからはため息が漏れる。
「は、速い!」
「それに球威もあるぜ」
丸井の呟きに横井が同調する。右に左にと決まらぬ荒れダマではあるが、その球威はあの超剛球、横浜学院の土門を彷彿とさせる。
『さあ、投球練習は終わり、余裕十分です。マウンド上に仁王立ち、男・岩鬼。神奈川県大会、そして甲子園でも登板経験がある岩鬼くん。その球威には定評がありますが、ことコントロールとなると疑問符がつきます。どのようなリードを見せるか、山田くん。注目です』
「悪球打ちが投手をやっているんじゃ。コントロールなんざお察しに決まっとろうが。リードもくそもないわい」
と、徳川。
「でも、まさか岩鬼が先発だなんて」
隣に座った松川や、墨高の一年生からも疑問の声が出る。
「こちらが里中対策をとっていることを考えてのことか。まあ、十中八九出たがりのあのハッパが志願したんやろうな」
ぐびりと徳利を口にし、徳川は明訓ベンチを睨む。
(だがよ、目先を変えた奇策のつもりやったら甘いぜ、大平のおっさんよ。元々ハッパの豪速球に目を付けたのは誰やと思うとるんや)
「ほな、幕開けといこうやないか。岩鬼大熱球劇場のな!」
「プレー!」
ガバアアア!
ビシュッ!
「うっ!」
ドシィ!
一球目、インコース高めのボールに島田、思わずバットが回る。
「ストラーイク!」
「島田! よくボールを見ていくんだ!」
(そうは言ってもよ)
甲子園での岩鬼のピッチングを見、荒れダマのイメージが強い島田は委縮する。
土佐丸戦で登板した岩鬼だが殺人野球を標榜する土佐丸を相手にケンカ投球を展開。
何と打者四人に死球を与え、押し出しまで献上していた。
二球目、何とか抵抗を試みようとする島田はバントの構えを見せるが、インコース寄りに構えた山田に思わず眉を顰める。
(おいおい、本気かよ)
「よっしゃ。まかせえ!」
雄叫びを上げ投げる岩鬼の二球目は何と外角低めに決まる。
「す、ストラーイク!」
「な……」
続けて三球目も山田はインコースに構えるが、投げたタマは真ん中高め。
「くそっ!」
『島田くん、高めに思わず手が出た! 岩鬼くん、まずは快調にワンアウトをとりました!』
「ば、バカな。あれでは何のリードだ」
倉橋が呆れたと声を上げる。
山田が構えた所とはまるで違う所にボールが来ているということは、捕手のミットから来るコースを予測することができないということだ。
「意図して逆ダマを投げさせることはあるがよ。あれじゃ打つに打てないじゃねえか」
「いや。そうでもないぞ」
そう言ったのは谷口。
「荒れダマだと言うのならよくボールを見極めればいい」
「見極めるって、お前。あの速さだぜ」
「丸井を見てみろ」
打席に入りバントの構えを見せた丸井に、岩鬼はうんうんと頷いてみせた。
「可愛げのあるやっちゃ。バントでもええから出塁とは泣かせるやんけ」
丸井は口元を結び、黙ったままだ。
「だが、わいの剛球をそう簡単にバントできると思うなよ!」
そう吠えて岩鬼が投げたのはインコース高め。
丸井は悠然とバットを引き、それを見送る。
「ボール!」
審判のコールを聞くや。
「ぬなっ⁉」
丸井は左打席に移動する。
『あっと、これはどういうことでしょう。手元の資料では丸井くんは右打者となっていますが、左打席に入りました。これは何らかの意図があってのことでしょうか』
(どういうことだ)
バントヒットを警戒していた山田だが、左に打席を変えようと動きを見せない丸井に対し首を捻る。
二球目三球目も同じくボールを振らず、スリーボールからの四球目。
真ん中高めにきたタマに対しても、当てずに見送る丸井。
『フォアボールです。二番丸井くん、よく見ました。クリーンナップを前にランナーが塁に出ました、墨谷高校』
一塁へ向かう丸井を尻目に、やってられないとグラブで顔面を覆う岩鬼。
「あれのどこがボールやねん。そないなこと言われたら、わい投げるボールがのうなるやんけ」
口の減らない岩鬼を審判が窘めようとするのを察知し、山田が立ち上がろうとすると、それより早く二塁から殿馬が声を掛けた。
「おいよォ、おめえ。中学時代からの付き合いだから教えてやるがよォ。世間様で言うストライクゾーンはおまはんの思ってるのとは違うづらぜ。それを判断するために審判がいるづら」
「やかましいわい、とんま。そないなことは分かってるわい」
続く三番イガラシ。
「なんや。いつぞやの猿顔が三番なんかいな」
一度打ちとられたこともどこ吹く風と余裕たっぷりに挨拶をする岩鬼に、イガラシは口をへの字に結び、どうもと一応頭を下げる。
「あの時は花を持たせてやったが、今日はそうはいかんで!」
吠える岩鬼に対し、イガラシは丸井と同じく左打席に入り、バントの構えを見せる。
『おっと、これはどういうことでしょう。丸井くんに続いて、イガラシくんも左打席に入ります。これは何かの作戦か』
(バント狙いか、攪乱か。どちらにせよ用心するに越したことはない)
山田の指示で一塁の上下と里中が前進守備をとる。
一球目ど真ん中へのストレート。
すっと構えたイガラシだが、バントをせずに一球見送る。
「ストラーイク!」
(どういうつもりだ)
山田はイガラシの表情を観察するが、あくまでも真剣そのもの。
相手の動揺を誘おうというような思惑は見てとれない。
「岩鬼、いいぞ、今の感じだ」
ミットを叩く、山田に岩鬼はよせと手を振る。
「何を分かり切ったことを。わいの剛球がすごいのは今に始まったことではないやんけ! って、おいおい」
目の前で再びバントの構えを見せるイガラシに、岩鬼はずっこける。
いくら自分のタマがすごいからと、こうバントばかりでは不完全燃焼だ。
(いや、これはまさか)
山田の古い記憶が呼び覚まされる。
山田達が二年生次の春の選抜準決勝。
対するはあの徳川率いる信濃川。
その信濃川が仕掛けてきた作戦こそ、全員が左打席に立ち、バントを絡めてのと金作戦だ。
ホームランやヒットに比べて派手さのないバントを多用した作戦は、徳川の巧みな駆け引きとも相まって明訓を大いに苦しめた。
(だが、あれは対里中、対アンダースローの作戦の筈だ)
タマが見やすい左打席が弱点と言われるアンダースローの里中相手ならともかく、バントが最も成功しづらい岩鬼相手にと金作戦をするのは無謀だ。球威でタマが上ずりファールとなるだろう。
(それなのに、続けているのは何か意味があるのか)
相手の意図を測りかねる山田に対し、
「やーまだ。いちいちどうでもええことに無い頭をつかうんやないわ! わいの剛球がそうそうバントされてたまるかい!」
岩鬼は気にした素振りすらも見せない。
『あっと、またボールです。岩鬼くん、ここまで七連続ボール。ストライクが入りません。ワンアウトをとるまでは快調に見えましたが、これはどうしたことでしょう』
「どうしたもこうしたもあれが岩鬼にとっての平常運転よ」
くひひひと皮肉な笑みを浮かべる徳川。
「じゃが、イガラシめ。わざわざ左に入ってわしの作戦らしく見せるとは嫌らしいやつや」
「左に入るのが作戦? どういうことなんです」
「左に入ってのバント。山田の頭の中にあるのはわしがあやつらに見せたと金作戦よ。殿馬の秘打封じに山田への敬遠。自分たちがこれまで戦った相手の作戦をこうもとられればそう思うのは仕方がないことじゃろうな」
「本当は違うと言うんですか」
「見ているとええ。きっと振らんぜ、あいつは」
続けて三球ボールを出すも、バントをしないイガラシに山田は定位置へ戻るように里中達に指示する。
(バントに見せて強打。プッシュの可能性もある)
五球目、ど真ん中高めにきたボールに、イガラシ、食らいつく素振りを見せるも結局見送りフォアボールを選ぶ。
(よし)
内心してやったりと一塁へ進むイガラシの姿に、
「何やってんだ、岩鬼! ストライクを入れろ!」
「そうだ、そうだ。里中ちゃんを出せ!」
明訓側スタンドからはブーイングが巻き起こる。
『四番、サード谷口くん。四番、サード谷口くん』
よしと呼吸を整えてから打席に入る谷口を、山田はちらりと横目で観察する。
真田一球より聞いた、油断のならぬ男。
人を介して手に入れた彼らの東東京大会予選の映像では甲子園常連校の谷原を相手に終始粘りを見せ、最終回に勝ち越し打を放っていたのが谷口だ。
どのようなバッティングをするのか。興味深げにする山田と同様に、マウンド上の岩鬼もまた、谷口の方をじっと見つめていた。
(こいつが例の男かい。どことなくガタの野郎を思い起こさせるような面構えやんけ)
明訓が初の甲子園制覇をした時の相手、いわき東高校緒方をどことなく彷彿とさせる谷口の風貌に、岩鬼はこの男のどこにわざわざ他校のグラウンドまで来て後輩たちを土下座させるほどの魅力があるのかと理解に苦しむが、打席に入った谷口の顔つきにすぐに認識を改める。
(その目つき。余程の修羅場をくぐり抜けてきたようやな、わいにはわかるで)
ぎらりと目を光らせる岩鬼。
(ん⁉ 左じゃないのか?)
丸井、イガラシとは異なり右打席に入る谷口に頭を悩ませる山田。
徳川がかつて行なったと金作戦では、クリーナップも関係なく左打席に立ち、バントをしていた筈だ。
無言で構える谷口。その真っすぐな瞳に、岩鬼は闘志を掻き立てられる。
「さあ、いくでえ! 第一球は近鉄バファローズ、鈴木啓示!」
草魂と呼ばれる近鉄のエースの名と共に投げられたのはど真ん中のストレート。
「くっ!」
百五十キロを超える速球に谷口食らいつくもファール。
(す、すごい球威だ)
痺れる手を振りながら、再度バットを構える。
続けて、二球目三球目となぜかストライクコースに投げられるストレートを谷口は尚もファールにし、粘る。
「やるやないけ、谷の字!」
嬉しそうにする岩鬼とは対照的に、山田は眉を顰める。
投手岩鬼の実力について皆が疑問符をつけるが、山田からすればそのタマの速さと重さは明訓にとって大きな武器と言えた。リードに苦心させられはするが、地方大会だけでなく甲子園本大会でも投手としての活躍がある時点でその実力は折り紙付きと言えるだろう。
(その岩鬼のタマについていっているだと……)
映像の中で谷原相手に闘っている墨谷は粘り強くはあったが、そこまでの脅威は感じなかった。一体どれだけの特訓をすれば、夏の大会後ここまでレベルアップすることができるのか。
「お次はこいつや」
ガバアアア!
足を高々と上げた豪快なフォームを見せる岩鬼。
「ロッテからマサカリ投法! 村田兆治!」
ビシュッ!
唸りを上げる剛速球に、タイミングを合わせる谷口。
「くっ!」
キィン!
『打った―! 谷口くん、力負けせずライトへ運んだ! ライトの蛸田くんは強肩です。丸井くん、ここは無理せず三塁で止まります。墨谷高校、一回の裏にいきなり満塁で先制のチャンスだ!』
「いいぞ、谷口!」
やんややんやと盛り上がる墨谷ベンチに応援席。
一方の山田は感心しきりだ。
(短く持ち、力負けしなかったとはいえ、よくライトまで運んだな)
「土門さんとの特訓のお蔭ですね」
岩鬼の重いタマに逆らわず見事に打った谷口の活躍は河川敷での特訓あってのことだろうと、谷津。それに対し、
「いや、谷口の努力の賜物だ」
と土門は素っ気なく返す。だが、隣に座った影丸はまさかと墨谷の選手達と共に座る徳川の方を睨んだ。
「まさか、こうなることを読んでいたってのか? 岩鬼の先発を」
「そんな馬鹿な。誰が考えても里中さんが先発ですよ」
「いや、分からんぜ。そもそも岩鬼を投手として起用したのはあの爺さんだ」
「あっ!」
「じゃ、じゃあ。こうなることも考えての特訓だったと?」
満塁になり、一気に活発となる墨谷の大応援団の中で、松川は徳川に尋ねた。
「もちろん。明訓のエースは里中。それは間違いない。じゃが、意外とあのハッパの速球は無視できん。大平のじいさんはわしよりも岩鬼を買っとる。きっと登板させるじゃろうという腹はあった」
「だ、だから」
河川敷での土門との特訓で重いタマへ慣れ、中西球道との勝負ではより速いタマへの対処の仕方を身に着ける。
「このわしが何の考えもなしに特訓をすると思うか?」
思い通りの展開に徳川は愉快そうに声を上げる。
『さあ、大変なことになってきました。墨谷、明訓に対し四球二つにヒット一つで何と満塁。先取点を奪う絶好のチャンス。これをものにすることができるか。打席には一発のある五番の倉橋くんが入ります』
外野陣に対し、前目に守るよう指示する山田。
岩鬼のタマの球威ならば外野の頭を越される心配は少ない。
(それよりも警戒するべきはスクイズだ)
丸井、イガラシと左打席に入っての徹底したバント作戦。
信濃川のと金作戦を彷彿とさせるが、四番の谷口は打ちに出た。
山田としては、頭を悩ませるところだが、果たして、左打席に立った倉橋はバントの構えを見せる。
(問題は何球目にしてくるか、だが)
思い切り外角に立ち位置を変え、山田は高めにミットを構える。
「さあ、舞台は整った。いくとしようかい!」
ピンチになり生き生きとし出した岩鬼の第一球。
ビシュッ!
ドシィ!
「ストラーイク!」
なぜかど真ん中にきたタマに、倉橋も面食らう。
(ああも荒れダマじゃ山田も相当苦労するな)
同じ捕手だけあって同情を禁じ得ない。
どこに構えていようとその通りにボールが来ないというのは捕手としては最もやり辛い。如何に相手を打ちとるための戦略を立てようとそれが実行できないのだから。
(だが、こっちとしても厄介なのは確かだ。これじゃあ上手く転がすこともできねえ)
ちらりと内外野の守備隊形を確かめながら、再度バントの構えをとる。
「岩鬼、気をつけていけよ。バスターがあるぞ!」
「誰にものを言うてるんや。相手が誰だろうと球道無限。わいの野球道は剛球一直線じゃい!」
岩鬼、第二球目。うなりをあげるボールが何と背中を通過し、さしもの倉橋も肝を冷やす。
(お、おいおい。いくら何でも酷すぎねえか)
コントロールのコの字もない岩鬼の投球に、さぞ明訓ナインは頭を抱えているだろうと様子を伺っても、皆慣れた顔つきで平然としている。
(いつもの光景ってことか。ったく、それにしたって)
倉橋、ヘルメットをくるくると回すと、三塁走者の丸井に合図を送る。
(仕掛けてくるな)
そうは思っても、ウエストなどという器用なことは岩鬼にはできない。
「よし、岩鬼。思い切りいけ」
せめて力んでストライクが来るようにとの山田の声掛けに、岩鬼は気分をよくする。
「ようやくわいの凄さが分かってきたようやな。ええ傾向や!」
ぬおおおおおと振りかぶりながらの第三球。
「阪急ブレーブス、今井雄太郎!」
勢いあまってグラウンドに叩きつけられたタマは、ホームベース手前でワンバウンド。
ストライクゾーンにきた所を、倉橋上手く合わせて、三塁線へ流し打ち。
『打った―――! 五番倉橋くん、ワンバウンドのタマを強引に振り切った! 里中くんの頭上を越え、ボールはレフト微笑くんの前に落ちる!』
「行かせるか!」
『レフト微笑くん、懸命のバックホーム。捕手出身だ。肩は強いぞ! だが、墨谷高校丸井くん、いいタイミングでスタートを切っていた。間一髪セーフ!』
「よしっ!」
両手を上げて、生還を喜ぶ丸井を、次打者の井口が助け起こす。
『これは予想外の展開です。初回、山田くんまで回りながら0点の明訓に対して、その裏墨谷高校が何と先制パンチ! 王者明訓。高校生活最後の試合に早くも暗雲が立ち込めてきました!』
タイムをとり、マウンドに集まる明訓内野陣に岩鬼は憤慨する。
「まだ一点しかとられとらんのに。なんや、大げさな。わいの一発でいくらでもとりかえしたるわい」
「まさか、あれを強打するとはな」
里中の言葉に山田も頷く。
「信濃川の使ってきたと金作戦だと思ったんだが」
「山田よ。おめえらしくもねえづらぜ」
ぼそりと殿馬は呟く。
「墨谷のよ、二番と三番はバントする気なんてなかったづら。徳川がやったと金作戦に見せかけての四球狙いが奴らの考えづらよ」
「まさか、そんな。確かに効果的ではあるが」
コントロールの定まらない岩鬼が投げる試合では四球押し出しが当たり前だ。だが、青田戦では曲がりなりにも通用した岩鬼がこうもいいようにされるとは。
「青田の連中はよ、ハッパが明後日の方向に投げても打ってくれたづら。墨谷は違うづらぜ」
殿馬の忠告に、山田ははっと気づく。確かに、墨谷の各バッターはここまで無駄ダマを打ってはいない。むしろ球筋をよく見極め、バントに強打と使い分けている。
(とすると、これは難しい相手だ。岩鬼の先発は失敗だったかもしれない)
岩鬼の持ち味はその豪快なピッチングだ。百五十キロを超す速球と、自ら大熱球崖上突如落岩球と名付けた重いタマはあの青田打線を見事に封じ込めた。だが、その一方、押し出しで点も献上していたことは確かである。打者の目が慣れ、際どいタマを見逃すようになると途端にピンチに陥る。
(徳川さんだ。徳川さんなら岩鬼の性格と大平監督の岩鬼への信頼を考慮し、岩鬼を先発にするのではと考える)
山田がちらりとスタンドにいる徳川に目をやると、そこには愉快そうに笑う徳川の姿があった。
「気づいたか、山田よ。借り物の作戦ばかりに目が行き、墨谷がどんなチームか気づかんかったようやな。最初からと金作戦なんぞ使う必要はないんや」
(ならば正攻法だ。いかに合わされると言っても、岩鬼の球威なら負けない)
山田、次打者の井口を見、
(都合よく、岩鬼と相性の良さそうな相手だ)
と、去り際に岩鬼に耳打ちする。
「岩鬼、ぶつけるつもりでいけ」
「なんやて⁉ どういうことや」
「あの一年坊が許せんのだよ。明訓のエースピッチャーに対してへぼとか四球王とか叫んでいるのを聞いたんだ」
「わりゃ、それは本当かい!」
ぐぎぎぎぎと岩鬼のハッパが怒りに震える。
「もちろんだ。尊敬する岩鬼への罵倒が許せんのだよ」
山田の台詞に、岩鬼はポンポンと肩を叩く。
「ようやくわいの薫陶が実り、お前も一人前になったな。それでこそ日本一のわいのタマを受けるにふさわしいキャーや」
「よし、来い!」
気合を入れる井口はにやりと笑う。
本人はその気はないのだが、それは今の岩鬼とっては挑発以外の何物でもない。
「上等やんけ。墨谷如きの一年坊が、わいを怒らせるとどうなるか思い知らせたるで!」
『明訓高校、一点を先取されて、さらにピンチが続きます。ワンアウト満塁で六番井口くん。ここは最悪でも外野フライを放ち、追加点を得ることができるか』
「そないなこと、わいがさせる訳ないやろが!」
ガバアアア!
ビシュッ!
怒りと力みでど真ん中にきた渾身のストレート。
「うっ!」
ガキィ!
井口、短く持って振り抜くも、岩鬼の全力投球に押され、打球はセカンドへ。
殿馬、これを上手くさばき、六―四―三のダブルプレーに切って取る。
『殿馬くん、やや難しいゴロでしたが、難なく捕球。ダブルプレー完成で、明訓再三の満塁のピンチを迎えるも、最少失点で切り抜けました!』
「くそっ!」
井口はヘルメットを地面に叩きつけて悔しがるが、倉橋がそれをなだめた。
「向こうさんだってだてに甲子園を優勝してねえんだ。むしろ一点とれて気が楽になったじゃねえか」
「倉橋の言う通りだ。その怒りをピッチングに生かせばいい」
淡々と語る谷口は、明訓ベンチに戻る山田の方を見る。
(もう少し点がとれると思っていたが……。そう簡単にはいかないか)
強豪校ほど自分達の方が格上だという意識が強く、先制点を取られると、途端にリズムを崩す。その隙に付け込み、これまでの墨谷は格上の相手を倒してきた。
明訓は違う。満塁の危機を迎えようと、格下の墨谷に先制点を取られようとまるで気にする素振りを見せない。その程度の修羅場など慣れっこだと言わんばかりだ。
(慢心も油断も一切ない)
打倒明訓を旗印にして、三年間挑み続けた全国の強豪達。ある者は知恵を絞り、ある者はその力を誇示し、ある者は機動力で対抗しようとした。けれども、明訓には通用しなかった。如何に序盤翻弄されようと動じず、終盤で逆転すると鮮やかに勝ちを収めてしまう。
(さすがは明訓)
高い頂の山だからこそ。
登ってみたいと人は思うものだ。
ましてや、自分達は今その山を登り始めたばかり。
(どれほどのものだろう)
一回表の明訓の姿が全てであるとはとても思えない。
(手強い相手だ。でも、だからこそ挑み甲斐がある)
谷口はグラブをバスンと叩くと、守備位置へと急いだ。
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第五十九話 「明訓の底力」
明訓打線相手に作者も神経をすり減らしました。
こりゃ同じ水島漫画の中でしかコラボをやらん訳だ。相手が強すぎる……。
※コミケで余ってしまった本をもらっていただける方いましたら、お送りします。作者TwitterにDMいただけたらと思います。夏コミに再度出そうか悩んでいるものでして。ハチベエC101で検索ください。
一回の攻防を終えて、スタジアムは異様な熱気に包まれていた。
甲子園を四度制覇した明訓と甲子園大会常連の谷原を下したとはいえ、地区大会止まりの墨谷。
観客の多くは墨谷がいかに持ち前の粘りで明訓に食い下がるかという青写真を描いており、よもや明訓の方が一点を追いかける展開になるなどとは思いもしなかった。
二回の表、明訓の攻撃は高代がヒットで出塁するも、上下以降後続が続かず。一方の墨谷も横井、戸室が凡退した後、久保が四球で出塁したが、島田がセカンドゴロに倒れ、同じく無得点で終える。
そして、回は進み、三回。
明訓上位陣と井口の二度目の対決である。
一回表は上手く抑えることができたが、それが再び上手くいくとは限らない。
全高校球児の頂点に立つ猛打線を前に、井口、顔を張り気合を入れる。
『さあ、千両役者。男・岩鬼の登場です。自らの一発で初回の失点を帳消しにできるか。墨谷高校井口くん、明訓相手にここまで無失点の力投。この回もぴしゃりと抑えることができるのか』
「いくでえ、一年坊!」
吠えて登場する岩鬼にやれやれとため息が漏れる倉橋。
(どうにも減らず口の多い男だな、岩鬼ってのは)
『岩鬼くん、やる気十分。今左打席に入ります。って、これはどういうことだ。墨谷の作戦を真似しているんでしょうか。いや、甲子園をご覧の皆さんはこの光景に覚えがある筈です。今夏の甲子園大会、光高校荒木くん、青田高校の中西くんに対して見せた岩鬼くんの左打ちです』
「で、でたらめ過ぎる」
作戦も何もあったものではない岩鬼の真骨頂であるでたらめ打法を目の当たりにし、冷静なイガラシが思わず零す。
(意図が分からねえならとりあえずここだ)
(はい)
井口、第一球はど真ん中のストレート。
悪球打ちの岩鬼ならこれを振るか見逃す筈だ。
しかし。
「ぬがああああ!」
ギン!
雄叫びを上げながらかろうじてバットに当て、ファールとなる。
二球目。同じくど真ん中に投げるも、岩鬼再びのファールに墨谷バッテリーは頭を抱える。
(ど真ん中が打てるんじゃ)
(いや、それはない。もしそうならスタンド入りさせている)
倉橋、三度ど真ん中を要求。
井口、その通りにストレートを投げるも、これもファール。
(さしてストレートの切れが悪い訳じゃない。なのにどうして)
(気にするな。こいつのリズムに合わせる必要はない)
倉橋のリードは一貫してど真ん中。
井口もそれに応えて、コントロール良く投げ込むも三球続けてファールにされ、動揺する。
「井口、腕の振りが縮こまっているぞ!」
谷口から声が掛かる。
ぷらぷらと手を振る井口の前で、何と岩鬼は再び右打席へと入った。
「ど、どういうことだ?」
丸井はイガラシに尋ねるが、イガラシもこんなことは初めてだ。
「来やがれ、雑魚!」
『やはりこれは甲子園での再現を狙っているようです、岩鬼くん。確かにあの時も両手投げの荒木くんが左で投げている時に同じような手を使いました。今回も同じ作戦が功を奏すか!』
(なまじパワーがあるだけにストレートは危険だ。とすると選択肢は二つしかねえが)
倉橋のサインは初回に殿馬を打ち取ったスローカーブ。
一方それに首を振った井口は己の最も得意とするシュートを要求する。
(よし、分かった。だが、コースはこちらに任せろ)
『サインの交換は終わったか、墨谷バッテリー。ツーストライクと追い込んでいます、井口くん、第七球! あっとこれは外角へ落ちるシュートだ!』
ストライクからボールになるシュートに岩鬼はタイミングを合わせる。
「わいを誰やと思うてけつかる。天才児岩鬼やで!」
グワキゴオン‼
『打った―――! ライト前へと運ぶヒット~~! 明訓この回先頭の岩鬼がヒットで出塁! 反撃の狼煙を上げる~!』
「いきなりホームランじゃ面白くないやろ。徐々に見せ場を作るのが男・岩鬼やねん」
悠々と一塁に到達した岩鬼は呆れる横井を尻目に、スタンドへ向けて手を挙げる。
(くそ!……)
がつがつとピッチャープレートを井口は蹴る。ここまで完璧に近い形で抑えていただけに、苛立ちが収まらない。
「おい、井口。変わってもいいんだぞ」
そんな井口を小学校以来の付き合いであるイガラシは敢えて突き放す。
「おれも谷口さんも投げたくてうずうずしているんだ。一回ぐらい増えても構わないぜ」
その一言に、かっか来ていた井口はやや落ち着きを取り戻す。
「へっ。お前にばかりいい所取られてたまるかよ」
(まったく。どうしてこう、どいつもこいつも素直じゃないんかね)
二人のやりとりに丸井は呆れる。
今の井口に対し、気遣う言葉は逆効果だ。むしろ、イガラシが言ったように発奮させた方がいい結果を生む。
『二番セカンド、殿馬くん。二番セカンド、殿馬くん』
『さあやってきました、明訓の誇る秘打男殿馬くん。一回表は上手く打ち取られましたが、もちろんそのまま引き下がる男ではありません。数多の投手達を相手に見せた秘打をいつ繰り出すのか。墨谷、一回表と同じように秘打を警戒してか前進守備をとります』
「バントがあるぞ!」
殿馬のプレイを散々見てきた谷口はそう言って、ナインに注意を促す。
こと当てることに関しては、殿馬の右に出る者はいない。
相手が誰であろうとバントを決める必要がある場面では、ことごとくバントを決めてきた。
一球目。インコース高めへのストレート。
「づら」
「ボール!」
殿馬はただ耳を傾けるだけで何もしない。
まるで指揮者がオーケストラを見渡すように、墨谷ナインの動きをじっと観察する。
(こっちの隙を探そうってのか)
「こら、とんま。スピードアップが叫ばれる時代やで。恰好つけてんと、さっさとバントせんかい!」
一塁から味方の野次が飛ぶも、殿馬、二球目も動かず。カウントはワンエンドワン。
(この回はリズムを合わせようってのか)
まるで打つ気のない殿馬に、倉橋がそのまま押し切ろうと決めた時。
突然、殿馬が左打席へと移動した。
「何っ!?」
『あっと、これはどういうことだ。一番岩鬼くんと同様に殿馬くんも左打席に入りました。一回裏の墨谷の作戦に対する意趣返しでしょうか。墨谷バッテリー、さすがにこれは意図が掴めず動揺しています!』
(何を仕掛けてこようと関係ねえ。こっちは平常運転よ)
(はい)
倉橋がどんとミットを叩き鼓舞すると、井口もそれにこくりと頷く。
「チッチッチ」
右足でリズムをとる殿馬。その動きに合わせて、微妙に守備位置を変える墨谷内野陣。
三球目、インコース肩口から入るスローカーブ。
「ストラーイク!」
手を出すかと思いきや、まるで動かない殿馬に倉橋は頭を掻く。
(何を考えているんだ、こいつ)
リズム打法を得意とする殿馬はそのリズムを掴むために一打席まるまる費やすということも平気でしてのける。ただでさえ、逆打席。しかも左投げの井口のスローカーブは見えづらい。
(きっとここもそうなのかもしれねえ)
思い直した倉橋は再度同じタマを要求。
『さあ、ここまで打つ気なしの殿馬くん。何のための左打席か。井口くん、第四球投げた!』
すっと体を沈ませる殿馬。
(まさか)
すかさずダッシュする谷口。
コン。
『あっと、これは左でのバントだ。三塁線に転がる絶妙なバント!』
「捕るな、谷口。ファールだ!」
ファールゾーンに行くと、倉橋は声を張り上げるが。
(違う。ファールにはならない)
映像で何度観たことか。塁線上にぴたりと止まるその光景を。
まるで魔術か何かのように減速するボールを急ぎ掴むと、ファーストへと送球する谷口。
『サード谷口くん、迷わず送球! 殿馬くんの足が早いか早いか。実に際どいところです。さあ、判定はどうだ~!』
「セーフ!」
「秘打G線上のアリア!」
「そ、そんな……」
信じられないと言った表情を見せる井口に、殿馬は事も無げに言い放つ。
「テンポがころころ変わることについてはお犬様に教えてもらったづらぜ」
『なんと、殿馬くんの俊足が勝りました! サード谷口くん絶妙の判断でしたが、殿馬くんにその上をいかれました。さすがは明訓が誇る秘打男! 墨谷の秘打封じをものともしません!』
ドワアアアと湧き上がる明訓側の大歓声に押される墨谷側スタンド。
「ま、まさかこのために左打席に入ったんじゃ……」
松川の疑問を徳川は肯定する。
「さすがは殿馬と言ったところか。谷口が気づいたのも凄いが、さらに上をいきおった」
谷口の守備位置と判断力から、右打席でのG線上のアリアでは間に合わないと判断し、左打席に入ったのだろう。
そうとは知らず、タイミングをとるためだけではないかと判断した倉橋は自らのポカを反省するも、息つく暇も与えられない。
ノーアウト一・二塁で迎えるは明訓のクリーンナップ。
(やれやれ。誰かに代わってもらいたいもんだな)
『一回二回と好投を見せた井口くん。ですが、この回早くもつかまりました。一番岩鬼くん、二番殿馬くんが連続で出塁。三番の好打者里中くんを迎えます。井口くん、二塁牽制。岩鬼くんはこうした場面で単独盗塁をしてきます。注意が必要です』
「ただのバントでええのに。とんまの奴の目立ち屋ぶりときたら呆れるで、ほんま!」
一塁の殿馬を見ながら悪態をつく岩鬼。
そんな岩鬼にするすると近寄ったイガラシは無言でタッチする。
「アウト~!」
「ぬなっ⁉」
『あっと、これは隠しダマだ。ショートイガラシくん、二塁ランナー岩鬼くんの足が離れたところを狙ってタッチ!』
「汚ねえぞ、猿顔! それが高校生のすることかいな!」
顔を真っ赤にして怒る岩鬼に、スタンドから徳川が火に油を注ぐ。
「怒るより先にてめえの集中力のなさを嘆きやがれ。高校生離れしたお前らを相手にしているんじゃ。ちったあ大目に見んかい!」
あちゃあと頭を抱えるのは明訓ベンチ。
「全くあのお人は……」
高代が目を覆うと、微笑もそれに合わせて苦笑する。
「自分のポカで自分の活躍を帳消しにするからなあ」
ワンアウト一塁と変わって里中の打席。
「井口、代わるか?」
三塁からの谷口の言葉に、井口はぐっと拳を握ると首を振った。
(ここで代わることはできねえ)
中学時代、能力の高さゆえに浮ついた所があった井口はその隙を突かれ、墨谷二中に敗れた。墨谷高校に進学してからも時折その甘さは顔を見せていたが、夏の大会を前にしての特訓を経て大いに成長している。
里中相手に踏ん張り、ライトフライに打ち取る力投。
そして、再びの山田との対決を迎えた。
「どや、五利。この歓声。この歓声が来年うちに来る訳や」
上機嫌に話す鉄五郎に、五利は鼻白んだ。
「まだドラフトでくじも引けてへんのに……。そやけど、ここは敬遠やろな」
「ああ。可哀そうだが、墨谷の連中と山田じゃ格が違う。当然の選択や」
鉄五郎の言葉通り、立ち上がる倉橋。
一球二球とボールが続く度にボルテージが上がる明訓スタンド。
「おい、こら。腕試しでの引退試合じゃねえのかよ!」
「練習試合なんだから正々堂々と打たれたらどうなんだ!」
轟轟たる非難の中、五利は井口を思いやる。
「やれやれ相手せん連中は気楽やな。墨谷のピッチャーはしんどいで」
山田に対する敬遠で最も有名なものは甲子園でのもの。江川学院の中による五打席連続敬遠だろう。多くの投手が山田に直接対決を挑み敗れていることもあってそのやり方は当時大変な批判を浴びた。そのことをよく知っている高校野球ファンたちからすれば、墨谷のとる戦略には納得がいかないのだろう。
「明日があるプロでもやるこっちゃ。明日のない球児に正々堂々を強いるのはいかがなもんかと思わへんでもないが」
「好き好きよ。敬遠も立派な作戦やが、せめて高校生らしく正々堂々であって欲しいちゅうことやろ」
「自分は勝負しますがね」
後ろから掛かった声に誰かと振り返れば、そこにいたのは青田の怪童中西球道。
「中西やないか。どないしたんや。山田たちの最後の試合を観にきたんか」
「いや、五利。そうやない。こいつが観にきたのは墨谷やろ」
鉄五郎の指摘に中西は微笑む。
「さすがは岩田さん。その通りですよ」
「墨谷をやて? また何で」
「ちょいと縁がありましてね。っと、何だ?」
『あっと、タイムです。四番山田くんを敬遠かと思われた墨谷ですが、サード谷口くんがタイムを取りました。ここは一回同様に敬遠かと思われましたが、どういうことでしょう』
マウンド上に集まる墨谷内野陣。
「どうしたってんだ、谷口」
「いや、井口の様子がな」
「おい、井口。おめー、試合前の打ち合わせを忘れたのかよ」
ははあと勘づいた丸井が口火を切り、イガラシもそれに続く。
「山田相手に勝負がしたいなら走者がいないのが条件だぞ。分かっているのか?」
「わ、分かってる。分かってるんスが……」
そこで井口は口ごもってしまう。
「お前が野次を気にする必要はないんだぜ」
「そうだ。おれたちが選んだ作戦なんだからな」
横井と倉橋の三年生二人は気遣いを見せるが、井口は下を向いたままだ。
「どうしても勝負したいのか」
谷口がそう言うと、井口ははっと顔を上げた。
「山田相手に投げられるのはこれが最後のチャンスだからな」
早めの継投策で明訓を相手にする戦略を立てている墨谷。井口の責任回数は三回までで、この後はイガラシが引き継ぐことになっている。
「おめ、我がまま言ってるんじゃねえよ! ランナーありで山田と勝負なんてあり得ねえだろう!」
「で、でも……」
食い下がる井口に対し、谷口は小さくため息をつき、言った。
「勝負しろ、井口」
「「えっ!?」」
皆が一様に驚く。この勝負に一番こだわっていたのは谷口ではないか。
「投げたいと言うんだから投げさせてやればいいじゃないか。それに井口だって成長している。打たれると決めつけるのは早計だろう」
(谷口さん……)
「し、しかし」
谷口相手に珍しく食い下がる丸井だが、周囲の反応は別だ。
「いいじゃねえか。その分取り返せばいいんだろ」
陽気な横井が賛成し、いつも冷静な筈のイガラシも
「こっちの負担を増やすんじゃねえぞ」
と賛成する。
「ま、仕方がねえか」
井口の表情と皆の様子を見比べ見ながら、渋々丸井は頷いた。
『今日でこの山田くんを見納めかと思うと、その一打席一打席に注目してしまいます。一年生の夏の大会でその姿を見せてから今日まで幾多の強豪達と鎬を削って参りました。白新高校の不知火くん、土佐丸の犬飼くん、青田の中西くん。全国の球児にとっての大きな山。超えるべき壁です、ドカベン山田太郎!』
すうはあと山田の呼吸を見ながら、息を整える井口。
『あっと。ここは立ちません。何と、一塁に殿馬くんがいるこの状況で勝負を選択します、墨谷バッテリー。これはどういうことか』
「あかん。ピッチャー病や」
五利の台詞に、鉄五郎と球道は面白くもなさそうな顔をする。
「お山の大将のピッチャーはそうしたいやろ。けど、それはあかん。何のために一回敬遠したんや。どうせするならきちんと最後まで貫かんかい」
「五利さん、練習試合ですから」
「そやそや。それにこの場面で山田を相手にする選択をとるなんて墨谷もやるやんけ」
真剣勝負が大好きなピッチャー人二人を前に、五利は憮然と黙りこんだ。
拭おうと拭おうと吹き出る汗が止まらない。
回はまだ三回。球数も大して投げてはいない。
だが、その密度が段違いだ。
全力で投げ込みながらも、苦も無くそれを打ち返される。
井口自身、高校に入り、その鼻っ柱を折られることは何度もあった。
それはよき糧となり、今の彼を形作っている。
しかし、目の前に聳える山はそんな彼の努力すら嘲笑うかのようだ。
(勝負してもいいと言ってくれた谷口さんのためにも負けられねえ)
井口、覚悟を決めての初球。
ビシュッ!
ククッ!
外角低めへのカーブ。
「ストラーイク!」
微動だにせず見送る山田に、肝を冷やす倉橋。
(しょ、初球のカーブは案外見逃すとは言うが、さすがに胃が痛くなるぜ)
打者の中にある偏見ゆえか。初球の変化球を見逃すことが多いのはよく知られた話だ。
だが、それを山田相手にやるのには相当な胆力が必要と言える。
二球目。
ビシュッ!
内角やや低めの位置からボールになるシュート。
キィン!
『ファール、ファールです。追い込んでいます、井口くん。この場面、山田くんを迎えてストライクが先行します!』
(フォアマンとの勝負を思い出せ)
河川敷で対決したハリー・フォアマン。クリーンハイスクールの主砲であり、関東大会で山田とホームラン数を競った強打者。そんな彼との対決で打ち込まれたからこそ、新たに練習していたスローカーブを急ピッチで仕上げ、試合で使えるようにしたのだ。
(ストレートは危ない。それなら……)
握りを確かめ、大きく振りかぶる井口。
『勝負か、それとも一球様子を見るか。第三球、井口くん投げた!』
ククッ!
外角へ流れて落ちるスローカーブ。
山田がストレート狙いと踏んでの一球。
左打者の肩口から曲がるスローカーブは打ちにくい。
これが普通の打者ならば空振り、もしくはフライに打ち取れたことだろう。
そう、普通の打者ならば。
カキィ―ン‼
「うっ!」
豪打一閃。高々と上がったボールはセンター方向へ向けて弧を描きスタンドへと吸い込まれていく。
『打った――――‼ 山田くん、タイミングバッチリ! スローカーブを読んでいた! センター島田くん、一歩も動けず、勝ち越しのツーランホームラン‼』
やんややんやと湧き上がる明訓側応援団。
対照的に墨谷側観客席は静まり返るばかりだ。
「そんなバカな……」
スタンドからの歓声が倉橋にはどこか遠くに聞こえる。
甲子園での室戸学習塾戦でも同じ左の犬飼知三郎のスローカーブにてこずっていたのに。
打たれることもあるだろうとは思っていたが、まさかホームランにされるなんて。
山田に同じ攻め方は通用しないのか。
(ば、化け物だ)
改めてその化け物を相手に、残りのイニングを戦っていかなければいけないことに眩暈がしながらも、倉橋はマウンドで沈み込む井口をじっと見つめる。
(おれのせいだ……)
心の内から湧き上がる後悔の念に井口は押しつぶされそうだった。
勝負したい。自分の実力を試したい。
山田という高みを見せられ、有頂天になってしまった。
仮想明訓相手に腕を磨き、一回を無難に抑えたことで通用できると勘違いをしてしまった。
「どうした、井口。変わりたくないっててめえで言ったんだろ」
両手を膝につき項垂れる井口に、丸井は容赦ない。
「おれは交代を告げねえぞ」
厳しげな物言いの裏に隠れる丸井の優しさに井口の目頭が熱くなった。
「どうすんだよ」
「いきます」
ごんと自らの頭を殴ると、井口は微笑を睨みつけた。
まだ、墨谷の先発としての仕事は残っているのだ。
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第六十話 「思わぬ誤算」
三回の表。主砲山田に一発を浴びた井口はその後微笑にフルカウントの末四球を与えるも、六番の上下を三振に打ち取り、二失点で投球を終えた。
「いいぞ、井口!」
山田相手に勝負した時には唖然とした田所達だったが、点差はまだ一点。諦めるには早過ぎる。
「にしても、山田相手に勝負とはな」
中山は自分も投手だっただけに信じられない。
「お前の球威なら全球スタンド入りだもんな」
「言えてる」
茶化すように言う山本に太田も同調する。
「おいおい。後輩達が頑張っているってのに、ふざけてるんじゃねえよ」
山口が諭すと、山本と太田はバツが悪そうに下を向いた。
三回の裏、墨谷の攻撃は二番の丸井からという好打順である。
信濃川のオール左作戦を真似した一回だが、この回からは丸井は本来の右打席に入り、隙あらばヒットをと狙うが、
『あっと、これもボールです。岩鬼くん、二番丸井くんに対していきなりのフォアボール。コントロールが定まりません』
山田のホームランが飛び出しておせおせムードである筈なのに、それをぶち壊すように繰り広げられる岩鬼のノーコン劇場に、一球も振らずに一塁に歩く羽目になる。
一回の裏とまるで変わらぬ光景に、いい加減にしろと明訓側応援団からもブーイングが出る。
「どうして、里中を出さないんだ!」
「故障なのか? さっさと出てお願い!」
三塁を守る里中の困り顔もどこ吹く風と観客はヒートアップする。
(里中、辛抱だ)
山田は大平の方をちらりと伺う。
「三回までは岩鬼でいく」
一回裏の攻撃が終わった際に、大平はそう告げた。
「ば、バカな。そんなでたらめな!」
里中が抗議するも覆らない。返って岩鬼に、
「何や、サト。わいが見せ場を作るのがそないに嫌なんか。心配せんでもお前の出番は後からくる。首を長くして待っとれ」
と、窘めらえる始末だ。
(大平さんは墨谷を警戒しているんだ)
試合前の練習の際に殿馬が言った台詞が頭から離れない。
「合っているづらよ、リズムが」
里中の投球にタイミングが合っている。そう、殿馬は言っていた。
打撃の基礎はいかにタイミングをとるかだ。どんな豪速球でもタイミングをとられてしまえば、打たれてしまう。
(岩鬼の先発が長引けば、それだけうちにとっては有利になる)
荒れダマの岩鬼の投球は里中とはまるで質が違う。
その体に染みこませたタイミングは大いに狂うことになるだろう。
(そこまで考えているのだとしたら、やはり大平さんはすごい)
続く三番イガラシ。
(取られたら取り返すまでだ)
丸井と同じく本来の右打席に入り、気合十分。
「いくでえ、猿顔!」
バシバシと脇を叩き気合を入れる岩鬼。クリーンナップを迎えたと言うのに、その表情は歓喜に満ちている。
「岩鬼、落ち着いていけ!」
「誰に言うとるんや、やーまだ。投げる精密機械、あの阪神の小山とためを張ると言われたわいのコントロールを知らんのかい!」
(よく言うづら。とっくに壊れてろくすっぽ計算もできねえようなポンコツのくせしてよォ)
内心殿馬は呆れかえる。
「ボール!」
(やはり中々振らないな)
既にツーボール。
超高校生級の岩鬼の速球にも、墨谷の各バッターは目がついていっている。
高めのストレートなど普通は振りそうなタマにも一切バットを振ってこない。
(しかも、岩鬼のタマの重さにも負けていない)
墨谷がこの日のために土門等かつてのライバル達と特訓をしてきたことを知らぬ山田は、やはり油断ならない相手だと再度気を引き締める。
(見てきた映像とはまるで別なチームだ。徳川さんは一体どんな特訓をしたんだ)
明訓を初の甲子園優勝に導いた徳川家康。
優勝請負人と呼ばれる彼の特訓の過酷さは未だに明訓野球部でも語り草になっている。
その彼が特訓をつけながら、自らは指揮をとろうとしないとは。余程墨谷への信頼感があるに違いない。
「ボール!」
またまた告げられるコールにイガラシはうんざりした。
(しかし、ストライクが来ないものだな)
同じ投手として信じられない。右に左に上にと投げる度に大きくコースを外れ、既にノースリ―。一度もバットを振ることもなく、四球になりそうな雰囲気だ。
(だが、それじゃあ困る)
小学生以来の付き合いの井口の借りを返すにはそれでは不十分だ。
(できればヒット。欲を言えば長打だ)
しかし、肝心の岩鬼がストライクゾーンに投げてこない。
どうしたものかと考えたイガラシは、敢えてバットを長く持ち岩鬼を挑発する。
「なんやて!」
めらめらと怒りを沸き立たせ、岩鬼はイガラシを睨みつける。
「手加減して、今回の練習試合を開くのに貢献した影の立役者であるわいになんて無礼な! その態度後悔させたる!」
豪快なフォームで投げ込む、岩鬼の第四球目。
「今こそ、わいの怒りを思い知れ! 東京メッツは北の狼、火浦健!」
東京メッツの誇るエースの名前を叫びながらの投球は、ど真ん中のストレートになる。
「うっ!」
キン!
イガラシ、打つ瞬間バットを短く持ち、球威に押されながらもバットを振り切る。
『イガラシくん、上手く合わせた! ピッチャーの右を抜いてセンター前ヒット~!』
バシィ!
『じゃないじゃない! セカンド殿馬くん、何とこれをジャンピングキャッチ!』
「づら」
『そしてすかさず二塁転送! ダブルプレーだ!』
「くそっ!」
ノーアウト一塁が一瞬にしてツーアウトランナー無しとなる。悔しさで一杯の丸井とイガラシをさらに苛立たせたのは、殿馬の平然とした態度だ。
(こいつにとっては普通のプレイだってのかよ)
「さすがは名手殿馬くん。まさに蝶が舞い、蜂が刺すとはこのことか。墨谷高校一瞬にしてチャンスが潰えました」
(さすがは明訓だ)
鉄壁を誇る明訓の守りの中で、最も固い所と言えば、センターラインと言えるだろう。
センター渚の強肩もさることながら、セカンド殿馬の守備は秘守として有名だ。
「くそっ。上手くとりやがった!」
「谷口、遠慮せずに打っていけ!」
田所を中心に、墨谷OBは声も枯れよとばかりに叫ぶ。
「そうは行くかい! わいを誰やと思うてけつかる。ミスター高校野球、男・岩鬼やで!」
四番谷口を迎えた所で、再び目を輝かせる岩鬼。
「お次は酔いどれ投手日ノ本盛!」
ガバアアアア!
ビシュッ!
戦闘本能を刺激された岩鬼の投球はど真ん中へのストレートとなる。
チッ!
「ファール!」
「ううっ」
痺れる手を交互に動かしながら、再度バットを構える谷口。
「やるやないか、谷の字。あれをファールするとは。なら、わいの奥の手でいくしかないようやな」
「奥の手⁉」
「おうとも。驚くなかれ、男・岩鬼怪投乱麻の七変化。ここ一番はやはりこれや」
ガバアアアア!
「東京メッツの黄金の左腕、岩田鉄五郎‼」
にょほほほほと、その雄叫びまで真似て投げた岩鬼のタマは再びど真ん中。
これを谷口逆らわずに打ち返す。
『谷口くん、強打! 打球はライト前方にポトンと落ちてヒットになる!』
「この~。わしの名前を使うならせめてきちんと抑えんかい!」
観客席から文句を言う鉄五郎。
「いや。あれでこそ鉄つぁんの真似や。迂闊に打たれるところもそっくりやで」
その横で五利はにやにやと笑う。
『五番倉橋くん。ここは岩鬼くんを打って試合を振り出しに戻すことができるか。一方の明訓、ツーアウトを取っていますが、不安の残る岩鬼くんのピッチングが続く中、未だ出番がありません、里中くん』
(ここでも交代じゃないのか)
不満を募らせる里中の様子に、山田はちらりとベンチの大平を見るが、大平は眼鏡を拭くだけで何も言わない。
(墨谷の里中対策が万全ならこの場面での登板は危険ということか)
一球の話が本当ならば、墨谷は仮想里中である一球から二点も取ったことになる。
彼らからすれば岩鬼の先発は誤算であり、むしろ一点で済んでいるだけ運がいいと言えるだろう。
(ここは何とか長打を狙いたいもんだが)
打席をならしながら倉橋は思案をまとめる。
(ストレートだけだっていうのに、コースが絞れないのはきついな)
墨谷の各打者からすれば大きな誤算だった。
岩鬼の速球、タマの重さにはついていけているというのに、荒れダマだけに狙いが絞れない。四球を待って押し出しでもいいのだが、なまじ打てるかもと感じてしまっているだけに、たまにくるストライクに手を出しては、明訓の堅い守備に阻まれるという悪循環が続いている。
(三塁の里中は幾分前めか……)
明訓の守備位置を確認し、倉橋はバットを短く持つ。
(強打? いや、ここはバントもあり得るか)
倉橋に対する一球目。
インコースに来た球を打とうと踏み込むと、やってきたのは胸元への死球すれすれのボール。
思わずのけぞり慌てて手をつく倉橋。
「うっ」
「すまん、大丈夫か」
そのまま尻もちをついた倉橋を山田は助け起こす。
「あ、ああ。平気だ」
再度倉橋がバットを短く持ったのを見て、一塁上下、三塁里中は中間守備をとる。
「ぬがああああ!」
吠える岩鬼の投球と共に、一塁の谷口が走る。
『ランナー走った! あっと倉橋くん、バットを引いてバントの構え!』
(苦し紛れにバントだと⁉)
そうはさせじと突っ込む里中と上下。
それに対し、倉橋は後ろ脚に力を入れて、前にバットを押し出す。
キン!
『あ~~、倉橋くん、プッシュバントだ! 前進守備の里中くんの頭を越える~!』
「そうはさせるか!」
里中、のけぞりながらも背面キャッチし、スリーアウト。
ああと、悲鳴が上がる墨谷応援団。
『墨谷、この回果敢に攻めましたが得点なりませんでした。一方の明訓はピッチャーの岩鬼くんが再三ランナーを背負いながらも味方の好守に助けられました。両校の明暗分かれた三回。試合は四回表へと続きます』
「どうにも得点できなかったな」
二塁から戻ってきた谷口の肩を倉橋は叩く。
「なあに、まだ三回が終わったばかりじゃねえか」
「うむ。イガラシ、次の回から頼んだぞ」
「はい」
短く答えるイガラシの眼には断固たる決意が宿っていた。
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第六十一話 「イガラシ好投す」
前話で愚痴みたいに書いてしまいましたが、プレイボールもドカベンも名作なので思い入れのある方がいるのは仕方ないことだと思っています。いい勝負になるかならないかの判断は人によって違いますから。ただ、作者は両方のファンで吟味した結果特定の条件を取り入れればイケるんじゃないかと思っている口なのです。
「あっ。出て来よったで、イガラシはんが!」
隣にいる父親から小突かれた現墨谷二中キャプテンである近藤は声を弾ませた。
「あ、ほんまや。イガラシはん! 頑張ってえな!」
周囲にいる墨谷二中の後輩達からの声援の中、ひと際目立つその存在にイガラシはくすりと笑みを浮かべる。
「やれやれ。相変わらずうるさい男だぜ」
そのイガラシの横をそれとなくため息をつきながら通り過ぎた丸井だが、近藤は気づかず、
「井口はん、谷口はん。応援してまっせ! 後輩達の大応援団を連れてきたさかい!」
などと応援し出す始末だ。
「バ、バーロィ! てめえの目は節穴なのかよ!」
「あ、丸井はんもいたんでっか」
「何がいたんでっか、だ。栄光ある墨二のキャプテンを継いだというのに先輩への礼を欠くなど相変わらずとんでもねえ野郎だ!」
「いや、そやかて。ただ、気づかへんかっただけやし」
「てめーのそういうところが腹立たしいって言ってんだ、バーロィ!」
「丸井、早く守備に着け」
「は、はいはい。ただ今」
谷口に促され、慌てる丸井にぷっと吹き出す近藤。
それをセカンドの守備位置からじっと眺める丸井は拳に息を吹きかけてみせた。
(あ、あかん。試合が終わったらさっさと姿を隠さんと)
丸井に苦手意識がある近藤は顔を青くして、頭を抱えた。
『墨谷高校、投手の交代と守備位置の変更をお知らせします。ショートイガラシくんが投手へ。投手の井口くんがファーストへ。ファーストの横井くんがショートに入ります』
「よし」
予想外の岩鬼の好投の前に、点が取れず、その差一点。これ以上点を与える訳にはいかない。
(この体が潰れてもいい。全力でいってやる)
かつて弟の信二をして、勝つためには平気で何もかもを犠牲にすると言わしめた男、イガラシ。谷口から続く墨谷二中の黄金時代の中で、一貫してレギュラーを取り続けた彼は、想像を絶する特訓を部員に課し、遂にはその手腕で全国大会優勝を成し遂げた。
四回の表、明訓の攻撃は七番の蛸田からである。
「蛸田、どんな投手か分からない。とりあえず、よくタマを見ていけ」
里中の指示の下、打席に立った蛸田は同じ一年生とは思えぬ落ち着きを払ったイガラシに面食らう。
(随分と冷静だな)
全国中学野球選手権大会を制したイガラシからすれば、こうした大舞台は慣れている。選手権大会決勝で当たった和合中学との激戦は、後輩達の間では語り草になっているほどだ。
ポンポンとロージンを使い、手をはたく。
(まさか、明訓相手に投げられるとは思わなかった)
谷口をいかに野球に引き込むかに端を発し、遂に実現する運びとなった明訓との練習試合。
野球だけの特訓に限らず、小室との約束による勉強特訓ではイガラシが持ち前の頭脳を生かし、ナインそれぞれの苦手科目を重点的に引き上げることを目指した。
(何もせずおれたちはここに立っちゃいないんだ)
巨人学園との練習試合、徳川との特訓、仮想明訓、そして中西球道との勝負。
その全てを糧とし、墨谷は今日までやってきた。
(いい勝負をするためにそうしてきた訳じゃない!)
イガラシ、初球は外角低めにストレート。
「ストラーイク!」
思った以上のタマの切れに上下は驚き、バットを短めに持つ。
二球目。ストライクからボールになるシュート。
蛸田、これに手を出し、キャッチャーフライ。
続く八番高代は徹底したインコース攻め。最後には外角からのカーブで、簡単にツーアウトをとる。
「観たか! これがイガラシさんの実力だ!」
墨谷二中の後輩が声高に叫ぶ。当のイガラシは涼しい顔だ。
「こら~。簡単にツーアウト取られてからに。王者岩鬼明訓がそんな体たらくでいいんか!」
「任せてください!」
そう意気込んでバットを持って出たのは二年生の渚。今夏の神奈川県大会では準決勝の横浜学院戦までを里中なしで一人投げ抜いた。
「ナギ~。わりゃデカい口叩くのは打ってからにせんかい!」
「一本と0本じゃ、たいして違いはないづら」
「あほ。0と一じゃあ、大きな違いやんけ!」
殿馬と岩鬼のやりとりを背に、渚は打席に入る。
「さあ、かかってきやがれ!」
大言壮語の色見本、岩鬼の小型と言われる渚だが、打者としても投手としても確かな実力者だ。
(ツーアウトをとられてかっかしてやがんな)
相手の様子を見て、そう判断したイガラシは初球インコース高めに投げ込む。
「何っ!」
渚、これをファール。
続けてイガラシ、テンポよく外角低めにシュート。
渚、これを見送るも、
「ストラーイク!」
との主審のコールに食って掛かる。
「入ってない入ってない」
「いや、入ってる」
「でも!」
尚も食い下がろうとする渚に、岩鬼が雷を落とす。
「こら~ナギ~。何を四の五の抜かしとるんや。審判は神様やで! 岩鬼明訓の一員やったらがたがた抜かさんと行動で示せや!」
「は、はい」
岩鬼に叱られて、気を取り直す渚だが微妙な所を攻めるイガラシにイラつく。
「渚の性格を承知のようだな」
微笑が隣の山田の方を向く。
「渚だけじゃない。相当うちを研究している」
「ええ傾向やないか。わいらの最後を飾る相手となれて嬉しいんやろ」
「いや、そうじゃなくてだな」
岩鬼のずれた発言を里中が訂正しようとした時、大きな歓声が上がる。
ビシュッ!
ブン!
ズバン!
「く、くそ!」
『外角高めのストレート! 渚くんのバットが空を切った! この回代わった墨谷高校イガラシくん、気迫の投球で渚くんを三振に仕留め、この回明訓の攻撃を三人でぴしゃりと抑える力投! 勝負の行方は混沌として参りました』
(とんでもねえ気合の入れようだ。大丈夫なんかよ)
元々手を抜くということを知らないイガラシは、試合の度に全力投球をし、くたくたになってもその根性でマウンドに上り続けてしまう。全国大会時も、キャプテンとして突っ走るイガラシに、丸井は先輩の立場から無茶をするなと助言をしたこともあった。
(とにかく、この回何とか岩鬼を捕まえねえと)
丸井の思惑とは裏腹に、その裏明訓のマウンドに上がったのは岩鬼ではなかった。
『四回裏、明訓高校ピッチャーの交代をお知らせします。ピッチャー岩鬼くんに代わりまして、里中くん。ピッチャー岩鬼くんに代わりまして里中くん。代わった岩鬼くんはそのままサードに入ります』
静子の場内アナウンスにわっと大歓声が上がる。
『さあ、ここで満を持しての里中くんの登場です。明訓のエースとして、甲子園で勝ち星を上げること二十回。多くの強豪をその七色の変化球と美しいサブマリン投法で打ち取ってきました。ここまで二対一。一点のリードを守り切ることができるか!』
「ようやく出てきたな」
「ああ。さすがに小さな巨人なんて呼ばれるだけある。雰囲気あるぜ」
マウンドに立つ里中の姿は威風堂々。バシッとグラブを叩き、その気合は十分だ。
「よし。行くぞ、山田!」
高々と左足を胸元まで掲げるフォームからの、流れるようなフォロースルー。
次々と投げ込み、軽快な音を響かせる里中の姿に、墨谷ナインは警戒感を強める。
「とにかく井口、球数を投げさせるんだ」
「はい」
打席に向かう井口と次打者の横井以外、残った者達に谷口は待球の意図を説明する。
「例の里中のクセさ。使えるかどうか試してみないとな」
「ああ、あれか」
戸室は思い出す。
今夏の甲子園大会決勝。紫義塾の近藤によって初めて暴かれた里中の投球のクセ。ストレートとカーブを投げる際に置く軸足の位置で、投げる球種が分かってしまうというものであり、これにより明訓はあわや敗北という所まで追い詰められた。
「一度染みついたクセは一朝一夕で治るもんじゃない。甲子園の決勝から大分間が空いている。無意識に出てしまうということもあり得る」
『さあ、甲子園を沸かせた小さな巨人がここ国分寺球場へとやってきました! 今日の登板でこの里中くんの姿は見収めです、十分に目に焼き付けるとしましょう! 注目の第一球。果たして何を投げるのか!』
一球目。里中の軸足はプレートの上。
「プレートの上。カーブか」
ビシュッ。
ナインの読みとは逆にインコースに決まるストレート。
ズバン!!
「ストラーイク!」
二球目。軸足はプレートの上。
「またカーブか」
今度は横井の予言通り、投げたのは外角低めのカーブ。
「おいおい。使えなくねえか」
どちらもプレートの上に置かれた軸足だが、投げる球種は違う。
「これじゃあ、打てねえじゃねえか」
結局、井口。五球投げさせるも、セカンドフライに倒れ、ワンアウト。
「思ったよりもタマが来ているな」
打席に入った横井はゲーム前の練習時と比べ、勢いの増した里中のタマに驚く。
せっかく、投げる球種に山が張れると思っていたのにできず、その上この球威は計算外だ。
岩鬼に先発をとられ、持ち前の勝気な性格から里中が発奮した結果だが、墨谷側はそれを知る由もない。
(今日の里中のタマには勢いがある。ここは強気でいくべきだ)
山田のサインはインコースへのストレート。
(さすがは山田だな)
自分の性格を熟知した山田のリードに里中は気をよくする。試合前の練習で墨谷が自分の対策をしているということが分かり、先発を下ろされたことにも半ば理解を示したが、完全に納得した訳ではない。
ビシュッ!
インコースへ切れのあるストレート。しかし。
キィン!
横井、これをファールにし、さらに二球目のストレートにも食らいつく。
(アンダースロー対策を相当してきた感じだな)
通常オーバースローは上から下への球筋だが、これに対しアンダースローは下から上となり、全く異なる。タマが浮き上がってくるため、慣れない打者からはボールが向かってくるように感じられ、戸惑う打者も多い。
(どうもストレートに合わせてきているようだ)
井口にしろ、この横井にしろ、確実にストレートをミートしている。
それがファールになっているのは、墨谷の打者が思うよりも里中のタマに勢いがあるからだ。
(まさか岩鬼の先発がこんな効果を生むとは。狙ってやっているのだとしたら大平さんはすごい)
墨谷の狙いを読み取った山田は、ストレートを見せ球に変化球主体のリードを展開。
シュートで横井をサードライナーに打ち取ると、八番の戸室もファーストライナーに切って取る。
「よし」
この回三人でぴしゃりと抑え、意気上がる里中。
「どや、サト。わいが投げてやったお陰で虚弱体質のお前でも後は何とかいけるやろ」
意気揚々と引き上げる岩鬼の横で苦笑する里中。
だが、山田の顔は晴れない。
(どういうことだ)
四回までは一度のヒットもなく当たっていなかった墨谷打線だが、里中に対してはライナー性の鋭い当たりを見せている。
(里中をマークし、余程特訓してきたに違いない)
変化球主体で抑えたとはいえ、このままで終わるとは思えない。
(底の知れない相手だ)
山田は警戒感を強めた。
一方の墨谷。
里中に変わり、よい当たりが出るようになったものの、それはあくまでも決め打ちゆえのまぐれ当たり。頼みの綱であった里中のクセが見抜けなくなり、皆に焦燥感が募る。
「現実はそうは甘くはないって分かってはいたがよ」
「上手く抜けたと思ったんだがな」
横井と戸室は互いの顔を見合わせる。
二対一。明訓との差はたった一点。
だが、墨谷ナインの肩にはその一点が重くのしかかっていた。
五回の表。一番の岩鬼からの好打順に対し、イガラシの闘志は燃え上がる。
(この間の借りを返してやる)
明訓訪問の際にあわやホームランという打球を打たれた岩鬼に対してはど真ん中一本で三球三振。
二番殿馬に対してはリズムを掴まれぬようクイックモーションも交えてテンポを毎回変える投球を披露。
『出た~。秘打白鳥の湖だ!』
ストレートに合わせて、墨谷の秘打シフトの頭上を越そうと秘打白鳥の湖を狙った殿馬だったが、イガラシが投げたのはストレートと同じスピードのシュート。手元で変化するタマに僅かに打点がぶれ、センターフライに倒れる。
トップから始まった好打順にも関わらず、あっという間にツーアウトをとられ、次打者の里中はイガラシをぐっと睨みつけた。
(墨谷の一年坊如きに負けてたまるか)
甲子園優勝四度の明訓がもし墨谷敗れるようなことがあれば、甲子園優勝そのものの価値が大きく下がることになるだろう。
(そうなったら全国の球児達に申し訳が立たんぜ)
里中、イガラシの一球目を外角と決めて的を絞る。
果たして、好打者である里中への初球はインコースを嫌って外角の高め。
「外だ!」
カキーン!
これを里中強引にライトへ流し打ち。ライト久保が処理にもたつく間に二塁へ向かい、ツーベースヒットとなる。
『四番キャッチャー山田くん、四番キャッチャー山田くん』
ドワアアアアアアと再びの大歓声が巻き起こる。
『ここで再び打席が回ってきました、ドカベン山田太郎。初回は敬遠。三回は勝負に出ました墨谷ですが、ここはどのような選択をとるのか。一打追加回点の場面。これ以上点差を広げたくはありません』
(どうするよ)
三回の表に井口が山田と勝負をしたために、倉橋は初めから立たず、イガラシに敬遠するかとサインを送る。勝負を選択するだろうなという倉橋の予想に反し、イガラシの答えは意外にも様子見。
(山田相手に様子を見るって言ってもよ)
ついぶつくさと文句を言いたくなるのをこらえて、倉橋はミットを叩く。
『あっと、これは勝負のようです、墨谷バッテリー。倉橋くん、今回も立ちません』
(調子がいいからと山田を舐め過ぎだぜ)
二塁ベース上から、里中は険しい表情を作る。
一方、山田は相も変わらず涼しい顔だ。
『ここまで見事に明訓打線を封じてきたイガラシくんですが、岩鬼・殿馬の両名を打ち取りホッとしたのか、里中くんにライト前へのヒットを許しました。この山田くんに対してはどう攻めるか、注目しましょう』
(山田の好きなコースはインコースとどまん中、高さはベルト。だが、得意な場所の近くにこそ苦手もまたある筈)
イガラシ、山田に対する第一球。
ビシュッ!
ククッ!
ど真ん中からインコースへのカーブ。
山田、これを平然と見送りボール。
二球目。外角高めのストレートでファールを誘うも、これまた山田のバットが振られることはない。
(左右の揺さぶりがまるで通用しねえ。さすがは高校ナンバーワン)
悔しがるよりも先にイガラシの口をついて出たのは、賞賛の言葉。
思い描いた高さよりも上にある頂に身震いする思いだ。
(ツーボール。少しでも打ち気の打者ならこいつに引っかかる筈だ)
三球目。真ん中から外へ逃げるシュート。バットの先っぽに当て、ゴロを狙うも。
「ボール!」
山田は依然としてぴくりとも動かない。
(普通は振って来るもんだろ)
打者有利のツーボール。しかもランナーがいる状況だ。ストレートと同じスピードを持つイガラシのシュートを絶好球と狙って打ちにくる筈だ。
(そ、それをしないなんて。とんでもねえ野郎だ)
吹き出る汗を拭ったイガラシは独り
(仕方ねえな)
そう頷くと、倉橋に敬遠のサインを出した。
(おいおい。別にこのまま四球にしちまっていいじゃねえか。野次がうるさいぜ)
立ち上がらぬ倉橋に、イガラシは再度敬遠のサインを出す。
(野次なんぞ別に気にしませんよ。ハッキリさせた方がいい)
イガラシは勝つために全てを犠牲にすることができると、実の弟に言われた男である。そんな彼からすれば明訓に勝つために野次られることなど大したことではない。むしろ無謀な勝負を挑み、勝てる勝負を落とす方が悔しい。
『あっと、これは立ちました、倉橋くん。ノースリ―とボールが続き、ここは堪らず敬遠です。それとも最初からその手筈だったのでしょうか。いずれにしても山田くん、ここまで一度しかバットを振らせてもらえません』
「おいおい、勝負するんじゃねえのかよ!」
「打たれた奴だって同じ一年生だろうが!」
口々に好き勝手なことを言う外野の声をイガラシは平然と聞き流す。
(ま、おれと井口は違うってこった)
その淡々とした様子に、倉橋も感心せざるをえない。
(さすがは墨二を全国大会優勝に導いた男だぜ)
イガラシ、この後五番微笑のピッチャー返しを見事にキャッチ。明訓のトップからを見事に抑え、この裏の攻撃に向けてチームに弾みをつけた。
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第六十二話 「活路を見出せ!」
誤字報告等ありがとうございます。校正も一応お願いしたんですが、いやはや。人の目ってあてにならないですね。
イガラシの好投に沸く墨谷ベンチ。
五回裏攻撃の番となるや、どうやって里中を打ち崩すかと額を寄せる。
「さすがに甲子園で二十勝しただけあるぜ。あの変化球はちょっとやそっとじゃ打てねえよ」
泣き言を言う横井。
「あの多彩な変化球に山田のリードが加わる訳ですからね。確かに早々簡単に打ち込める相手じゃないでしょう」
イガラシも難しい顔をする。
「せっかく使えるクセだったのにな。まさか、対策されているなんてよ」
戸室が思わず愚痴るが、皆も気持ちは同じだ。
里中のクセが明るみに出たのは、甲子園決勝の紫義塾戦でのことだ。ストレートならプレートの前、変化球ならプレートの上と投げる球種によって軸足の位置が決まっているというそれは、紫義塾の打線を勢いづけ、あわや明訓に二度目の敗戦を許す原因となるところだった。
(あれから二か月は経っているってのに)
体に染みこんだクセを意識しようと、長い間の習慣を早々簡単に直すことはできまい。そうふんでいた墨谷だったが、その期待は淡くも裏切られた。
速球対策が十分な墨谷は、里中のストレートに照準を合わせてヒットを狙うが、これを察知した山田に変化球中心のリードをとられ、未だに同点に追いつくことができていない。
「とにかく、久保。ボールを見ていけ!」
「は、はあ……」
とりあえずといった丸井の指示に、墨二の後輩である久保も釈然としないながらも頷くしかない。
「しかし、あの変化球をどう打つよ」
倉橋の問いに、皆が無言になる。
ホップするストレートだけでなく、里中には多彩な変化球がある。
変化球対策をしてきたつもりだったが、想像以上の変化にバットは空を切るばかりだ。
何かないのかと思い悩むナインの中で、半田が小さく手を挙げる。
「何か気づいたのか、半田」
今夏の東京都予選。その冷静な観察力でチームを支えてきた半田に、皆の注目が集まる中、彼が出したのは黒いノート。
「これは……」
「横浜学院の谷津さんから受け取った対明訓用のメモなんですが……」
「ああ。あれか」
河川敷のグラウンドの練習後谷津のより手渡された谷津メモは、甲子園まで明訓を追いかけ、その秘密を探ろうとした彼の大切なメモだ。
そこに書かれてある各明訓の選手の性格や得意なコースを参考に、墨谷バッテリーは投球を組み立てている。
「それがどうかしたのか」
「里中さんのページが妙なんです。走り書きの図が描いてあるんですが」
半田が見せた谷津メモにはバッターボックスとキャッチャーミットが描かれており、インコース、真ん中、外側と三つのコースに区切られている。その外側のコースにはバツ印が描かれ、インコースと真ん中のマスの境目が濃く描かれている。
「里中相手に外は要注意ってことだろ。その矢印の意味がよく分からなかったが」
倉橋の言葉に半田は黙る。
「なんだ、違うってのか?」
久保が六球粘るも三振。続いて島田が打席に立ち、ネクストに急ぐ丸井が焦れる。
「他の打者にはインコースだのアウトコースだのと言葉で書いているのに、どうして里中のところだけこんな図を描いたのか気になりまして」
「その時の気分じゃねえの」
横井からすれば別段不思議でも何でもない。
「い、いやでもその隣に好きなコースとしてインコースとど真ん中と書かれているんです。わざわざ二つ書く必要ありますか」
半田の指摘に谷口ははっとメモを見、気づく。
「ひょっとして、里中の投球で外のボールは捨てろということか?」
「だとすると、この外側の×は説明がつくな」
「確かに外のボールを追いかけてバットが泳いでいるが……」
{試してみる価値はある」
カウントツーワンと苦戦している島田。タイムを使って呼び出すと、外は捨てろと谷口は指示する。
「捨てろって、打つなってことですか」
「そうだ」
「そりゃまたどうして」
「おれにもよく分からん」
(まるで専修館戦の時みたいだな)
島田は昨年度の激戦を思い出し、呆れた笑みを浮かべた。
あの時も東実から手渡されたメモを元に立つ位置を指示されただけで、理由は分からないと言われ、どうしたのだと大いに訝しがったものだ。
(まあ、谷口さんが言うんだから何かあるのだろう)
墨谷二中時代、一時は谷口に反発した島田だが、青葉学院との激戦を経て芽生えた谷口への尊敬の念故、墨谷に進学した。丸井程ではないにしても、谷口に対する信頼感は厚い。
「さてと、どうなることやら」
注目する墨谷ベンチをよそに、外外と攻めるもバットを振らない島田。
フルカウントとなった里中はインコースにストレートを投げ、島田これを強打。三塁線へライナー性の当たりとなるが、サードの岩鬼が見事な横っ飛びを見せてツーアウト。
「成程。効果はあるな。面倒な外を捨て、イン打ちに徹しよう」
「お、おうっ!」
谷口の指示に皆が勢いよく頷く中、半田だけはまだじっと谷津のメモとにらめっこしていた。
(確かに外の×はそれで説明がつく。けど、それじゃあこの線と矢印は何なんだろう)
二番丸井。外のタマを捨て、ボールが先行するも変化球にタイミングが合わない。
「ちくしょう!」
(随分とかっかしているな)
(短気な男らしい。それならそれでやりやすい)
真ん中高めにきた打ち頃のストレートに丸井、思わず手が出る。
ブン!
キン!
『カウントワンツーから積極的に打っていった丸井くんですが、ボール球を振らされ、キャッチャーフライ。さすがは明訓バッテリー、貫禄の違いを見せつけます』
「くそっ!」
里中と山田のバッテリーの前に、上手く躱され、苛立ちながら丸井は打席を後にする。
「と、徳川さん」
三者凡退を喫する自チームの様子に、松川が堪らず何か言いたげに徳川を見るが、当の本人は知らん顔だ。
「てめえ達の力でやりたいって言うたんやないか。わしゃ知らんぜ。務めは果たしとる」
「そ、そんな……」
「けっ。里中の小器用なピッチングにいいようにやられおって。何のためのバント練習だったと思ってるんじゃ、ええ」
ぐびりと徳利に口をつけ、徳川は厳しい眼差しを苦闘する墨谷ナインに向けた。
六回表。
先頭の上下がヒットで出塁。これを蛸田がバントで送り、高代が四球でチャンスを広げたが、渚がライトフライに倒れ、岩鬼がど真ん中を例の如く三振。点差を広げられぬまま、その裏の墨谷の攻撃へと移る。
『さあ、回は終盤へと差し掛かりました。ここまであの明訓とがっぷり四つで組み合っているといってもいいでしょう、墨谷高校。正直甲子園未出場の彼らがここまで明訓と渡り合うとは思っていませんでした。この回は打順よく三番のイガラシくんからです。墨谷二中を全国制覇させた際のキャプテンでもあるイガラシくん。好調なピッチングの方の勢いをバッティングに繋げることができるか』
(外は捨てる、か……)
イガラシは打席に入りながらも先ほどのベンチでの会話を思い出す。
一球目。アウトコースのストレート。コースぎりぎりに決まり、ストライク。
二球目。同じくアウトコースにきたシュートをイガラシ、
「おっと」
振りそうになるもぎりぎりで見逃し、ボール。
(こ、こいつ。よく見たな)
(外はよく見えているようだ)
明訓バッテリーの内心をよそに、イガラシは別のことを考える。
これまでなら今のシュートは間違いなく振っていただろう。
ただでさえ先発の岩鬼の荒れタマの影響で、墨谷打線はタマを目で追うようになっている。そこへアンダースローの里中の多彩な変化球だ。アウトコースにきたタマを打とうとそちらに意識が向き、思わず手が出てしまっていた。
(外を捨てればいいってだけでこうも違うとはな)
誘いダマを見逃すことができていることを自覚しながら、イガラシはどう里中を打とうかと考えを巡らせる。
一方の墨谷ベンチではメモを前にうんうんと唸る半田の姿があった。
谷津から受け取ったメモは投手里中攻略の鍵に違いない。ただでさえ、谷津は里中から二本のホームランを打っている。明訓を研究し続けた彼なりの何か独自の攻略法があったに違いない。
(外のタマを避けろ。これは間違いない。でもそれだけじゃない。インコースに引かれたこの線。そして、そこへ向けての矢印。これはもしかして……)
「あの、谷口さん」
ネクストバッターズサークルで待機する谷口を半田は呼ぶ。
「どうした、半田。何か見つかったのか」
「もしやと思うのは」
半田の説明に耳を傾けた谷口は、
「成程。試してみる価値はあるな」
そう納得すると、六球粘るも、セカンドフライに倒れたイガラシに続いて打席に入った。
「おい、谷口さんに何を言ってきたんだよ」
むすりとした丸井が半田に尋ねた。
「この図は里中攻略法じゃないかって……」
「外を捨てろだろ。確かにそれでボールの見極めは前よりもつくようになった。だが所詮四球を稼ぐためのものだろ」
「いや、多分違う」
「多分? オメ―そんなあやふやなことを谷口さんに言ったのかよ」
谷口のことになるとすぐかっとなる丸井をイガラシが抑える。
「まあまあ。実際藁にも縋る状況なんだし仕方ないでしょう。谷口さんなら気にしませんよ」
「まあ、そりゃそうだが……」
(この男か)
やってきた谷口に対し、山田は警戒感を抱いた。初回から二安打している谷口は、岩鬼の剛球に対してもまるで怯みもせず踏み込んでくる上に、一球から借りた谷原戦の映像を見る限りやたら粘り強く厄介な相手だった。
(外は強かった。インコースはどうだ)
初球、山田のリードはインコース内側へ曲がるシュート。だが、谷口は手を出さない。
「ボール!」
ちらりと山田は谷口の方を見上げた。
(インコース甘めがポイントか……)
谷口は半田の言葉を脳内で反芻する。
谷津から受け取ったメモはキャッチャーミットの前が三つのコースに区切られ、外のコースには×印がしてあった。そして、インコースと真ん中の境目に濃く線が引かれており、その線に向けて弧を描くように矢印が描かれていた。
「おそらく、里中の変化球の球筋を描いたのではないかと」
「どういうことだ?」
よく分からないと首を捻る横井。それに対し、投手であるイガラシは成程と手を叩いた。
「この矢印の軌道。カーブじゃないすかね。この線より手前で変化するのは打つなってことで×がついてるんじゃ」
「じゃ、じゃあ、この〇は……」
「この線より外、右打者のインコース寄りから変化するのは打っても大丈夫ということかと」
「まさか……」
「いや、おれも半田さんの読みに賛成っス」
手を挙げたのは井口。
「アンダースローの生命線はコントロールといかに外の変化球を振らせるかだと思います。外に変化してくるタマは捨てて、ストライクゾーンに決めにくるタマを狙えってことじゃないかと」
投手二人のお墨付きをもらった半田の背中を、
「半田、オメ! すごい発見じゃねえか!」
丸井がバシバシと手荒に叩く。
「も、問題はその線をどう意識するかですよ」
「そこは谷口さんのやり方を見て考えようじゃねえか」
どかりとベンチに腰を掛けると、墨谷ナインは谷口の方を向き、目を皿のようにしてその一挙手一投足を見守った。
「ボール!」
『おおっと、これはどうしたことでしょう。この谷口くんに対してもボール先行。この回、里中君に対して待球作戦に出たか、墨谷。各打者がボールをよく見ています』
(いや、この回からじゃない。五回からだ)
山田はホームベース上をならしながら考えをまとめる。
カウントはノースリー。内外外と攻めるも、谷口はぴくりともバットを動かさない。
(明らかに外へのボール球を振らなくなってきている。どういうことだ)
(インコース甘めを線として意識する……)
半田からのアドバイス通りに谷口は脳内でイメージを組み立てている。
その線からインコース寄りに曲がって来ればストライクゾーンに、一塁側から曲がればボールに。変化球の曲がり幅自体が変わらぬ以上、どこから曲がる変化球を見逃すのかが重要だ。
四球目。インコース高めへのストレート。谷口、これを打つもファール。
(どういうことだ。おれのクセでも見切られているのか)
カウント稼ぎの一球を谷口が振り、ふうと息をつく里中。
五球目、真ん中高めのストレート。これも真後ろへと飛ぶファールとなり、ネットにぶつかる。
(想定よりも速い)
アンダースロー投手でありながらその身体全体を活かした投げ方で、里中のストレートは百四十キロある。ストレートの質自体は以前闘った真田一球の方が上だろうが、アンダースロー対策として投げた墨高の投手達では比べるべくもない。
(外にも強く際どいタマは見逃す……。厄介だな)
『さあ、フルカウントで勝負に出ます。里中山田の明訓バッテリー。ここは何を投げるか!』
(里中。インコース低めだ)
山田のサインに里中がゆっくりと頷く。
勝負の六球目。
ガバアアア!
ピシュッ!
(シュート!? いや、違う!)
『落ちた落ちた。さとるボールだ! 谷口くん、懸命にバットを止める~! 判定はどうだ。セーフかアウトか!』
「セーフ!」
「な!」
渾身の一球をセーフと判定され、憤る里中だが、
「里中、今のは止まっている!」
山田の言葉に不承不承といった感じで頷く。
『セーフの判定に思わず審判の方へ歩み寄ろうとした里中くんですが、ここは山田くんが制します。この辺りは実にそつなくこなします。さすがは日本一の高校生捕手です。しかし、ここはよくバットを止めました。墨谷高校谷口くん。この四球で流れが変わるか!』
(まさか、あれを見られるとは)
これまで一度も投げていないさとるボールを意表をついて低めに落としたというのに。
(やはり侮れないな)
小走りに一塁に向かう谷口の背を山田はじっと見つめた。
プレイボールVS.ドカベンこぼれ話①
〇改めて読むドカベンの恐ろしさ
水島新司先生はご自身で年間100試合近く野球をやってきたために、その時の選手の心理状態を描くのが巧みで、また、あのノムさんこと野村克也監督の知遇を得ていたために、捕手の心理状態も詳しく、やたらリードも細かく描いているのです。これは他の漫画と比べてみると顕著でしょう。なにせ、捕手が主人公の野球漫画が極端に少ないことからもよく分かります。メジャーの2、俺はキャプテン。後はバツ&テリーくらいしか筆者は思いつきません。これに配球のことまで入れて描かれているドカベンはやはり捕手の野球漫画としては唯一無二と言っても過言ではないと思います。ドカベンが劇画調で、ともすれば背負い投法、砲丸投法、秘打と言った現実離れしたものがありながら、現実に寄せているように感じるのは、全てこれらのリードや戦術と言ったものが実際に即しているからだと思います。
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第六十三話 「三年生の意地」
『五番キャッチャー倉橋くん。五番キャッチャー倉橋くん』
場内アナウンスが流れると、墨谷側応援団から期待の声援がかかる。
「倉橋~、頼むぞ! ここは一発かましてやれ!」
「明訓に目にもの見せてやれ!」
田所を先頭に声を張り上げる墨谷野球部の先輩達の姿に、倉橋は参ったなと頬をかく。入部当初はあまりのやる気の無さに一度は退部した墨高野球部。再び戻ることにしたのは谷口の存在があったからだ。
中学時代、谷口率いる墨谷二中に負けた身からすれば、「この男と野球をやってみたらどうなるか」そう思わせるだけの魅力が谷口にはあった。
(まだ、ちょいと痛むな)
先ほどの打席。死球すれすれのタマを避けたときについた右手がまだ痛むが、気になどしていられない。ここは何としても谷口を進塁させなければならない。
(平然としてやがる。さすがはドカベン山田太郎)
およそ高校野球で捕手たる者はその名を知らぬ者など存在しない。打率七割五分、常勝明訓の守備の要。今度のドラフトでも複数球団からの一位指名は確実と言われている。
(それに比べちゃおれっちなんぞ取るに足らない身だがよ)
一塁にいる谷口をちらりと見るや、倉橋は口をぎゅっと引き結ぶ。
(相棒が諦めずにやってるんだ。少しは手伝ってやりたいと思う訳よ)
サインの交換が終わり、里中が振りかぶる。
(山田は一発のある相手には初球変化球で入ることが多い。ましてや、里中のストレートが狙われている今なら猶更だ。そして、四球を出した投手に対して捕手がするリードは……)
ピシュッ!
(初球、インコースからのカーブ!)
ククッ!
インコースからど真ん中に曲がって来るカーブ。
「どんぴしゃ!」
カキーン!
『打った――! 倉橋くん、センターを越す大飛球! クッションボールを渚くんが処理する隙に谷口くんは三塁、打った倉橋くんは二塁へ到達~! この回墨谷一挙勝ち越しのチャンス到来!』
「いいぞ、倉橋! こりゃひょっとするとひょっとするぞ!」
自慢げに胸を張る田所の声が耳に入ったのかその後ろに数段上の席に座っていた高校野球ファンらしい中年男性二人組が無理無理とそれを否定する。
「相手は明訓だぞ。都大会で負けた墨谷如きに間違いは起きないだろ」
「ああ。里中は甲子園でこの程度の修羅場は散々くぐり抜けてきているからな」
かっとなった田所よりも先に、谷口達の一年先輩である中山達が席を立ちあがった。
「墨谷如きになんだって⁉」
「ここをどこの応援席だと思ってやがんだ!」
中山達から睨まれ、周囲の観客からも冷ややかな目で見られ、男性二人はごほんと咳ばらいをすると小さくなってそっぽを向く。
『一死から谷口くんが四球。倉橋くんのツーベースでランナー二、三塁。続くバッターはパワーのある井口くんです。外野フライでも一打同点の場面ですが、スクイズはあるのか! するとすれば何球目にしてくるのか!』
ベンチの丸井からのサインをじっと見る井口と山田。
(ここは十中八九スクイズだ)
山田の外すという指示に、里中は強打ではないのかと反論するが、山田は首を振る。
(一回のと金作戦もどきで分かったが、徳川さんは相当墨谷にバント練習を積ませている。こうした場面も何度も想定している筈だ)
一球目、里中、外に大きく外すも井口はスクイズの素振りも見せない。
(強打か?)
(いや、まだ決めつけるのは早い)
二球目、インコースへのストレート。井口、これを空振り。
『積極的に振っていきました井口くん。墨谷、ここは強攻策か! 井口くんスクイズする気はないようです!』
二球見送った井口だが、まるでスクイズの構えを見せていない。力があるだけに外野フライ狙いということもあるだろう。
(だが、まるで動きを見せないと言うのが逆に怪しい)
『さあ、三球目。里中くん、振りかぶって……、ああっとここで、谷口くん走った! スクイズだ~!』
「よし!」
インコースへ向かってくるボールにスクイズバントの構えを取る井口だが。
ククッ!
「え⁉」
キン。
「まずい!」
『明訓バッテリーここでシュートを投げてきた! 外側に逃げるボールに当たったのはバットの先っぽだ! 上がったボールを山田くん、キャッチ! 三塁に転送!』
「くっ!」
谷口、頭から戻り岩鬼のタッチを何とかかいくぐり間一髪のセーフ。
ああっと声の上がる墨谷ベンチ。
スクイズを失敗し、バットを持ったまま井口は項垂れる。
「く、くそっ!」
「まだ分かりませんよ」
悔しがる丸井に、イガラシはこれからだと告げる。
「横井! こうなったら一発かましてやれ!」
緊迫する場面でまさかの出番が回って来た横井は、緊張感から吹き出る汗が止まらない。
谷口と同学年の横井は、二年生次からレギュラーに抜擢された。九回ツーアウトまで追い込まれた聖陵戦や、優勝候補専修館との激闘をくぐり抜けてきた彼をしても、このような場面はお目にかかったことがない。
(右打者のインコースってことは、左打者ならアウトってことだろ)
横井は半田の言っていたアンダースロー攻略法を思い出し、自分の脳内で線を引く。
初球。アウトコース低めにストレート。
「ストラーイク!」
(ちぇっ。ぎりぎり入ってたか)
高まる声援に、気持ちが落ち着かない。
二球目。今度はインコース肩口へのストレート。
横井、これを振っていくもファールとなる。
「お、おい。横井さん、こちこちじゃねえか」
「横井!」
三塁上から谷口が打席を外すよう指示。
「た、タイム」
横井、それに従いタイムをとって軽く体をほぐす。
(やれやれ。中山さんもこんな気持ちだったんかな)
専修館戦で殊勲の勝ち越し打を放った先輩の姿を思い出し、オイッチニと続ける横井に、主審がそろそろいいかと声を掛ける。
「あ、どうも」
ぺこりと頭を下げながら、横井は入部当時のことを思い出す。入って来たばかりの頃はいい加減な練習をしてばかりの気楽な部だった。それが谷口の入部で変わり、遂にはあの谷原を倒すまでとなった。
(全く、すげえ奴だぜ。谷口ってやつはよ)
共に戦ったからこそ、分かる。その野球に対する真摯な姿勢。
(お前程努力した奴はいないだろうぜ。それこそ、山田と比べてもな)
皆に努力を強制し、自分は蚊帳の外。
そんな恥知らずな人間も世の中にはいることだろう。
だが、谷口は違う。
誰よりも努力し、その姿を見せ続けてきたからこそ。
どんな相手にも諦めず挑み続けてきたからこそ。
皆が彼の背中に憧れ、その後に続いたのだ。
三球目。ストライクが先行した明訓バッテリーは一球様子見で外角高めに放る。
ここまで墨谷の各バッターが外角を打っていないからゆえの判断だ。
しかし。
カキーン!
『外角高めを横井くん、強引に打っていった! ボールはライト前へ! ライトの蛸田くんの肩は強いぞ!』
ライトからノーバウンドで送球が返るも、スタートが早かった谷口が一歩勝る。
『谷口くん、好走塁。いいボールが返ってきていたが、これは間に合わない!』
「セーフ!」
ドワアアアと国分寺球場が揺れる。
『セーフ、セーフだ! 七番横井くんのライト前ヒットで墨谷高校、遂に同点に追いつきました! 明訓高校里中くん、この回まで無失点に抑えてきましたが遂に失点。尚もツーアウト一、三塁とピンチは続きます!』
「いいぞ、横井!」
「よくやった!」
口々に歓声を送る先輩達に、横井は照れながら手を挙げると、次打者の戸室と視線を交わす。
(踏ん張れよ、戸室!)
連打を浴び、かっかする里中と反対に、打席に入る戸室は顔面蒼白だ。
(何で、おれがこんな場面で)
ワーワーと投げかけられる声援は都大会の時の比ではない。王者明訓相手に勝ち越せるチャンス。皆が自分に期待をかけていることだろう。
(随分と緊張しているな、それなら)
初球、ど真ん中のストレート。
「わっ!」
戸室、これに手を出しワンストライク。
「戸室、何やってんだ。よく見ていけ!」
三塁から倉橋の檄が飛ぶが、当の本人はそれどころではない。
(おれをお前達と一緒にすんなよ……)
元々戸室は気軽に野球が楽しめる部活だとして、墨高野球部に入った。谷口が入部し、部の雰囲気が変わっても辞めずにいたのは三年が辞めてレギュラーになれるからで、どちらかと言えば流されて野球をやってきたと言える。
そんな彼は受験組として当初この引退試合に不参加の予定だった。それが急遽変わったのは、同じ立場だった横井が参加すると聞いたからに他ならない。
「お前大丈夫なんかよ、受験組だろ」
横井に言われた時は、正直に大丈夫な訳ないだろと返したかった。だが、そうしなかったのは見栄もあるが、自分だけ取り残されるのが寂しかったからに他ならない。
東実、専修館、谷原。東東京の強豪達と戦った思い出は、戸室にとってかけがえのないものだ。そんな激戦を共にした仲間達と離れ、自分独りだけ受験の道を進むことはできない。
(母ちゃんにどやされるだろうな。まさかマスコミが来るなんてよ)
戸室は母親には夜遅くなるのは受験勉強のためであり、合間に一時間程度運動をしていると語っていた。実際のかける時間配分を母親が聞けば、話が違うと怒り出すことだろう。
二球目、三球目とストライクを取りに来たタマに何とか食らいつきファールにする。
(畜生。タイミングを合わせているってのに)
下手からホップする里中のタマは投げ方の特性上シュート回転している。
ミートしたつもりでも微妙にポイントがずれているのだろう。
(ここで決めなきゃ何のための一か月だったってんだ!)
震える膝を叩くと戸室はよしっと声を出し、続いてパンパンと己の頬を張った。
(確かにおれは、おれたちはお前らと違って下手さ)
下唇を噛み締めながら、ぐっと里中を睨みつける。
(だが、下手は下手なりにやることはやってきたんだよ!)
ビシュッ!
四球目。里中が投げた瞬間戸室がとったのはバントの構え。
これに対し、来たのは真ん中やや高めのストレート。
ざざっとスパイクの音が響き、一塁の上下、三塁の岩鬼が前進するや、戸室、これに合わせて跳ねるようにバントを強行。
『あ~~。ここでプッシュバントだ! 八番戸室くん、意表をついてプッシュバント! 前進守備の上下くんの頭上を越えていく! 三塁ランナー倉橋くんホームへ! セカンド殿馬くんは一塁を無視してバックホームだ! 倉橋くん、頭から滑る~!』
殿馬からの返球と、ランナー倉橋の本塁突入は同時。
倉橋と山田が同時に見つめる中、主審の両手が真一文字を描く。
「セーフ、セーフ!」
ドワアアアアア‼
球場全体を再びどよめきが包む。
『ほぼ同時に見えましたが、何と判定はセーフ! 墨谷高校、その粘りで遂に王者明訓の牙城を崩した! この回一挙三連打で逆転に成功です!』
「ナイス戸室!」
「倉橋もよく走ったぞ!」
喜びに沸く墨谷ベンチだったが、肝心の倉橋が中々立ち上がって来ない。
異変に気づいた山田が突っ伏したままの倉橋に近寄る。
「大丈夫か?」
山田の呼び掛けに、倉橋は真っ青な顔をしながら、
「ああ何とか。ちょっと頭を打ってな」
ムリに笑顔を作り、左手で体を起こした。
「どうした、倉橋」
戻るや倉橋はさっとベンチの陰に体を隠した。
何事かと谷口が見るや、倉橋の右手は赤く腫れあがっている。
「な、お、おい!」
「こ、氷、氷!」
慌てる丸井に、急いで洗面器に氷を入れて持ってくる半田。
「今の突入の時か」
「それもあるが、三回の裏からだな、正確には」
聞けば三回の裏。岩鬼の死球すれすれの投球に尻もちをついた際に右手をしたたかに打ったという。
「騙し騙しイケると思ったんだがな」
九番久保が三振。戻って来た横井と戸室は、倉橋の怪我の話を聞き、さっと表情を変える。
「倉橋が怪我!?」
「ど、どうすんだよ。いきなり、そんな……」
「幸い向こうさんにはまだ気づかれてない。キャッチする左は大丈夫だからな。行ける所まで行くさ」
平然と言ってのける倉橋に反し、周囲の雰囲気は暗い。
「行ける所までって……」
「とにかくそうと決まれば倉橋の負担を減らすしかない。頼んだぞ、内野」
「お、おう!」
墨谷、この回待望の勝ち越しをするも、それと引き換えに守りの要である倉橋が負傷。
終盤戦に入る七回を迎え、勝負の行方に暗雲が立ち込めていた。
プレイボールVS.ドカベンこぼれ話②
〇思い付きは突然に
キャプテン・プレイボールの谷口くんとドカベン山田太郎。二人の対決を思いついたのはもう何十年も前のことです。たまたまプレイボールを読み終わった後に、ドカベンを読み返していたら、山田たちの一年生の甲子園大会決勝、いわき東戦であれ!? と思いました。いわき東のエース緒方はイガグリ頭にフォークの使い手。おまけに曲者足利は猿顔。さらに最後はホーム突入憤死による決着。なんだかキャプテンみたいじゃないか? ひょっとしてこれ、意識的に水島先生描いたんじゃと疑ったのです。というのも、あの試合。岩鬼の偶然でのホームランが出るまで屈指の好ゲームで山田も抑えられていました。ドカベン柔道編であきらかにイガグリくんのキャラを出してきた水島新司先生のこと、またこれはとやったのかなと思い、どんどんと妄想が膨らみました。いわき東が善戦したのなら墨谷はいけないか? 高校三年生時の明訓は隙が無い。どうにかして、その隙を見出そう。そのためにはどんな特訓が必要なのか。こうしてプレイボールVS.ドカベンの原点ができました。
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第六十四話 「代わりは誰だ!?」
締め切りぎりぎりまで直していたので、直し間違いがあるという本末転倒。
刷り直そうかとも思いましたが、コミケで無料頒布などしたので当分無理だろうなあ。
三年生の引退試合の名目で行われている明訓と墨谷による非公式試合。
戦前の予想では、山田擁する明訓が圧倒的にリードするだろうという予想が大勢を占めていた。甲子園四連覇の実力もさることながら、岩鬼・殿馬といった明訓五人衆の存在。そして、何より甲子園通算二十勝を挙げている里中を墨谷が攻略するのは難しいと思われていたからである。
ところが。
蓋を開けてみるや、里中だけでなく先発の岩鬼からも得点。六回に墨谷が遂に追いつきさらに逆転するに及び、国分寺球場の雰囲気が明らかに変わり始めた。
「墨谷がまさかここまでやるとは……」
楽勝と信じて疑わなかった明訓応援団長はそう思わず呟き、
「こら~! おんどれ、どこの応援団長じゃい!」
傍にいた山田の妹サチ子にドヤされ、小さくなった。
「まあまあ」
山田の祖父はとりなしながら、明訓ベンチをじっと見つめる。
(やはり思った通りじゃったな、太郎。ここまでしてくる相手。要注意じゃぞ)
オーナールームからの鑑賞を断り、バックネット裏に陣取った鉄五郎と五利もまた、予想外の激戦に驚きを隠せなかった。
「明訓も足元を掬われた感じやな。墨谷がまさかここまでやるとは思わんかったやろ」
五利の言葉に、鉄五郎は得意げに胸をそらす、
「そやさかい、わしは言うたやんけ。明訓に勝つつもりやとな」
山田宅訪問の際に引退試合のことを知った鉄五郎は、それは記念試合などではないと断言したが、まさかここまで本気でいるとは思わなかった。
「じゃが、正直ここまでやるとはわしも予想外じゃ。秋季大会も近く、三年には進路の問題もあるというのに。一体どれだけのものを犠牲にしてきたんや」
「それができるのがあの連中の強みですね」
鉄五郎の隣に座る球道もまたそれに頷く。
「何や、墨谷の連中を知っとるんかいな」
「あいつらのバッティングピッチャーをやらされてボロ負けしたんですよ」
「何やて!」
愉快そうに笑う球道に対し、五利と鉄五郎は驚きを隠せない。
中西球道と言えば、ドカベン山田と並ぶ高校野球の金看板だ。まさか、その球道が墨谷に打ち込まれるとは。
「く、狂っとる。練習試合やぞ。公式の記録にも残らん試合になんでそこまで!」
冷静にツッコむ五利の横で、鉄五郎はからからからと愉快そうに体を揺すった。
「ドアホ! 公式も非公式もあるかい。当人達がやりたいからに決まっとるじゃろう! ええやないか、墨谷。それでこそ明訓最後の相手にふさわしいで!」
明訓七回の表の攻撃は二番の殿馬から。
墨谷の投手はこの回イガラシから谷口に代わっている。
づらづらとのんびりと歩いみてくる殿馬の姿からはリードされている焦りは微塵も見えない。
「色々と大変づらな。お互いによォ」
殿馬は倉橋を一瞥すると、ポツリとそんな言葉を零す。
(こ、こいつ。気づいていやがるのか)
青い顔をしながら落ち着くよう指示する倉橋だが、墨谷ナインからすれば気が気ではない。
ましてや、この回は明訓のクリーンナップが相手だ。
(打たせて取る。そうすれば倉橋の右手のことは隠し通せる筈だ)
谷口の思惑は曲者殿馬の前に脆くも崩れ去る。
初球。カウントをとりにいったシュートに対し、殿馬はバットを叩きつける。
「秘打花のワルツ!」
まるで花を描くようにぐるぐると回転するボールを倉橋、何とか捕ろうとするも。
「うっ」
右手が痛み、ボールをに触ることができない。
殿馬、それを確認もせず、二塁へ。ツーベースヒットとなる。
『代わって出た谷口くんの初球に出ました、殿馬くんの秘打花のワルツ! いや、それよりも先ほどのクロスプレイの影響か。倉橋くん、右手を痛めているようです。墨谷に代わりのキャッチャーはいるのでしょうか』
タイムをとり、マウンドに集まる墨谷ナイン。
「何とか誤魔化そうと思ったが相手が悪かったな」
相手の弱点を知るやそこを的確に攻める嫌らしさこそ曲者殿馬の真骨頂だ。この場合は素早く気づいた相手を褒めるべきだろう。
「ベンチ入りでないなら旗野と平山がいますが、この場面であいつらは荷が重すぎますよ」
冷静なイガラシの指摘に、谷口は腕組みをする。
「このまま続けてもいいが、ただで済ませちゃくれないだろうな」
油汗を流しながら倉橋は呟いた。ランナーに出た殿馬は足も速く走塁も上手い。今の自分では到底刺すことなどできぬだろう。
「しゃあねえか。できれば最後まで行きたかったが」
ふうと小さくため息をつくと、倉橋は丸井を見、次いでスタンドの方を向く。
「倉橋さん……」
「丸井、頼む」
「は、はい」
ぐっと拳を握りながら、丸井は主審に選手の交代を告げる。
一体誰が捕手をするのか。明訓側だけではなく、何も知らされていない墨谷側応援団も固唾を呑む中、その名前が告げられる。
『墨谷高校、選手の交代をお知らせします。キャッチャー倉橋くんに代わりまして、松川くん。キャッチャー倉橋くんに代わりまして、松川くん。背番号十一』
「「えっ!?」」
墨谷ナインだけでなく、松川自身もあっと驚く。
「な、なんでおれが」
「事前に丸井と相談しておったのよ。何かあった時用にな。きちんとメンバー表にもお前の名前は入っとる」
「で、でもこの場面で……」
「どの場面だろうと必要とされているなら後は出るだけや。四の五の言わんと、さっさとグラウンドに行かんかい!」
「は、はい!」
徳川に一喝され、グラウンドに向かって走る松川。
一方予想外の名前に味方である墨谷ナインも動揺が隠せない。
「なんで松川さんがわざわざキャッチャーに」
イガラシの呟きに、井口がさあと応える。
「お前等にピッチャーの座を奪われてからあいつなりに考えたらしいぜ」
「それにしたって急すぎますよ。今この場で通用するとは思えない」
辛辣なイガラシの反論に対し、倉橋はじっと彼を見つめるとニヤリと笑う。
「少なくともあいつは春先から練習を積んでいたぜ。こっそり隠れてな」
「まさか……」
「とにかく、後はあいつに任せた。おれはベンチで休ませてもらうとするぜ」
ぷらぷらと手を振りながらマウンドを後にした倉橋は、ベンチに現れた松川を見つけると、言った。
「墨二出身の連中に見せてやるがいいさ。努力と根性がお前らの専売特許じゃないってことをな」
「はい……」
隅田中学の先輩から後輩へ。
今、キャッチャーミットが手渡された。
『前代未聞の交代劇です。何と墨谷高校、三年生の倉橋くんに代わり、スタンドにいた松川くんをキャッチャーに立ててきました。メンバー表によれば、投手と三塁手での登録になりますが、これはどういうことでしょう!』
「松川がキャッチャーなんて聞いたこともねえぞ」
慌てる田所に、山本が突っ込む。
「まあ、田所さんのピッチャーよりはマシでしょうよ」
「あ、オメ。過ぎたことを蒸し返しやがって」
強豪東実相手に谷口の代わりに登板した田所だが、強力打線に好き放題打たれたのは苦い思い出だ。
「あの時は負けるために敢えてしたんだがよ。この交代はどういうこった」
「そんなの勝つために決まっとろうが」
いつの間にかやって来ていた徳川が、空いていた田所の隣にどかりと座る。
「あの松川に頼まれてな。このわしもちょいと手を貸してやったのよ」
深夜工場の明かりで照らされた広場。
徳川との一対一の特訓は密かに続けられた。
「何しろ、わしは弱い者の味方じゃからのう」
そうほくそ笑む徳川に、田所たちは唖然とする。
河川敷組の特訓後に、松川の特訓を手伝う? 一体どれだけの体力があると言うのか。
「松川! 特訓分くらいは活躍せえよ!」
徳川の檄に、墨谷ナインは事情を察する。
人知れずチームのことを考えて、松川は自ら特訓を続けていたのだ。河川敷組にも負けぬほどの。
「松川、頼んだぞ」
ポンと肩を叩いた丸井に、松川は力強く頷いた。
『思わぬ交代となりました、松川くん。捕手としての能力は未知数です。どのようなリードを見せるのか!』
「ちらづら」
二塁上の殿馬に対し、岩鬼から盗塁のサインが出される。
「代わったばかりで気の毒やが、勝負の世界の厳しさを知ってもらわんとな」
『谷口くん、牽制。殿馬くんの足を警戒しています。ここはどのタイミングで走って来るのか』
谷口が振りかぶると同時に、動く殿馬。
『あっと、初球から行った! 投球は外へのストレート! 里中くんこれを振る!』
バットとかぶさり、視界が遮られるが
「ここだ!」
松川の三塁への好送球に、
「づら⁉」
殿馬は慌てて二塁へ戻る。
『これは驚いた! 見事な肩を見せました、松川くん。さすがは投手出身です』
(走るだろうと決めて動いて助かった。まさか本当に走って来るなんて)
明訓のえげつなさに、松川は冷や汗を流す。
結局殿馬を里中がバントで送り、ワンアウト三塁。
一打同点の場面で迎えるバッターは山田。
この試合、初めて対峙する両雄。
(これがドカベン山田太郎……)
今目の前にしたから分かる。冷静なイガラシでさえも最初から敬遠せず投げてみたくなってしまったのはなぜか。この男の持つ不思議な魅力のせいだ。その一分の隙もない佇まい。落ち着いた振る舞い。一度でも投手をしたことがある者ならば思ってしまうだろう。この男に自分のタマが通用するか試してみたい、と。
それほど、山田との勝負には抗いがたい魅力がある。
(だが、ここはその場面じゃない)
ランナーがいる時に勝負はしないというのが試合前の約束だ。
それを三年生である自分から破ることはできない。
谷口、淡々と敬遠を選択。
「またかよ! 一回だけじゃねえか、まともに勝負したのは!」
「あの一年と代われ! そっちの方がよっぽど楽しいぜ!」
好き勝手に騒ぐ外野に対しても、身じろぎもしない。
元から格が違う相手と戦っているのだ。自分達にできることをするだけだ。
(五番の微笑は一発がある。三塁に殿馬がいるがここはスクイズの可能性は薄い)
外野フライで一点という場面。三振をとるのが一番だが、捕手が松川であることに一抹の不安を感じる。
(ここであのフォークを出して捕れるだろうか)
松川には何度も自分のタマを受けてもらったことはあるが、巨人学園戦で出したスクリューフォークはいまだに投げていない。ここ一番で出して、後逸でもすれば三塁ランナーの殿馬の足からして楽々セーフだろう。
(とりあえず、フォークなしで組み立てるしかないか)
そう決めて、微笑と対峙した谷口だが、さすがに好打者の微笑を前にツーストライクを取りながらも粘られる。
(まだまだリードが甘いな。ま、試合経験が無けりゃ仕方がないか)
敵ながら、急造捕手に選ばれた松川に同じ捕手出身の微笑は同情の視線を向ける。
『五番微笑くん、粘っています。谷口くん、コーナーを丁寧に突くピッチングで微笑くんを追い込んでいますが、決めきれません。フルカウント、次は何を投げるか。新生墨谷バッテリー。ここは試練です』
(ここはアウトコース低めへストレートでどうだ)
谷口のサインに、松川は首を振る。微笑は長距離打者だ。低めを狙い打たれて一塁線に流されては、如何に鈍足の山田でも楽々二塁に到達するだろう。
すっと松川が出したサインに、谷口はびっくりする。巨人学園戦で使ったスクリューフォークのサインは倉橋しか知らないはずだ。
繰り返しサインを確認するが、松川はこくりと頷くのみだ。
(大丈夫なのか? だが、ここは松川を信頼して投げるしかない)
谷口、振りかぶっての六球目。
スポッ!
(フォーク⁉)
この試合初めて見せた谷口のフォークに、
『決めダマはフォークか!? 微笑くん、ニッコリ笑ってこれを打つ~~!』
それでもタイミングを合わせにいく微笑。
しかし。
「何⁉」
グググッ!
スクリュー気味に落ちてくるフォークにバットのミートポイントがずれる。
カキィ!
『あっと、これはピッチャー前へのゴロになった。谷口くん、これを拾ってすかさず二塁へ転送。二塁から一塁へ! 微笑くん、懸命に滑り込むも一塁も間に合わない!』
「アウト~!」
「くそっ!」
グラウンドを叩いて悔しがる微笑。
『明訓、この回ノーアウト一塁の絶好のチャンスにクリーンナップを迎えましたが、伏兵松川くんの前にダブルプレーを喫し無得点。その差一点は縮まらず!』
「わいとしたことがとんまややーまだに期待したのが間違いやった。やはり王者岩鬼明訓はわいが打ってこそや!」
ベンチに戻って来た微笑の顔にぐしゃぐしゃと岩鬼のハッパが押し付けられる。
「三太郎、おんどれもじゃい。あんな絶好球を転がしおって! わいならバックスクリーンに放り込んどるで!」
「面目ない」
申し訳なさそうにする微笑と岩鬼の間に入り、里中がとりなす。
「ただのフォークを三太郎が打ち損なうものか。あのいわき東の緒方のフォーク程とも思えないが……」
明訓初の夏の甲子園大会決勝の相手、いわき東高校の緒方は超高校級のフォークの使い手だった。その緒方のフォークに比べれば落差はそこまでないように思える。
「特殊な変化をしたとか?」
山田の問いに、微笑は打席での印象を語った。
普通のフォークと異なり、揺れながら落ちてきたと。
「揺れて落ちる。まるでドリームボールじゃないか」
東京メッツの誇る日本初の女性投手であり守護神水原勇気。
その彼女は自らの代名詞であるドリームボールでセ・パの名立たる強打者を三振に切って取った。
「そこまでの変化ではないが。単なるフォークだと思っているとおれみたいに打ち損なうぜ」
(まさか……)
微笑の言葉に山田の中に戦慄が走った。
巨人学園の一球から手渡された映像で、今夏の墨谷の様子は把握している。
谷口はフォークを投げていたが、微笑の言うような特別な変化は無かった。
とすれば、夏の大会後に身につけたに違いない。
(おれ達を倒すためにどうしてそこまで……)
公式戦なら分かる。明訓に勝てたということは記録に残る。
だが、たかが練習試合。記憶に残っても記録には残らない。
(それなのに)
秋季大会も、今後の進路も。全てを投げだして、ただひたすら明訓に勝つことだけを目指す執念にも似たその純粋さ。
(一体、何があの男をそうさせているんだ)
涼しい顔でマウンドを降りる谷口を、山田は信じられぬといった表情で見送った。
プレイボールVS.ドカベンこぼれ話③
〇水島新司先生これはどうしました問題
球道くん→大甲子園と読むと疑問をもつのが球道のガールフレンドと目される結花の扱い。大甲子園の千葉県大会決勝で結花が目が見えなくなったというエピソードがあるのに、その後なしのつぶてで全く出てこないんですよ。あれほど結花が球道に力を与えたんだとか言っといて? 球道、お前甲子園に来とる場合じゃないだろと、本作にはそのエピソードをわざわざ入れました。後は山田ロッテ逆指名問題も後味が悪かったので、追加で入れてます。総じて球道は割をくったキャラだというのが個人的な感想。球道くんを読む限り嫌いになれないキャラなんですがね。
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第六十五話 「危うし明訓!」
七回裏、墨谷の攻撃。
『一点差でリードする墨谷、なおも王者明訓を攻め立てます。この回先頭の島田くんがヒット。二番丸井くんが送ってワンアウト二塁。三番イガラシくんにもヒットが出て、ランナー一三塁。ここで明訓バッテリーは谷口くんを敬遠し、五番に入った松川くんとの勝負を選択しました。松川くん、既にスクイズの構えを見せています。問題は何球目に仕掛けてくるのかです』
見え見えのスクイズの構えを見せる松川に、里中は強打を疑うが山田は首を振る。
(代わった松川はまだ里中のタマには慣れていない上、三塁ランナーの島田は俊足だ。ここは十中八九スクイズに違いない)
足場をならしながら、山田は考えをまとめる。
(代わったばかり。球筋を見るために、普通は仕掛けてこない。だが……)
ちらりと松川を見た山田はサインを出す。
『里中くん、セットに入りました。明訓守備陣の準備は万端です。三塁ランナー、島田くん動きを見せません。里中くん、ゆっくりと投球モーションへ。あっ。走った、走った!』
(やはり!)
『投球はカーブだ! これは当てるのが難しいぞ! 当てたーー! 転がしました松川くん、バウンドするボールを里中くんが叩き落とした!』
(山田、頼んだぞ!)
「くっ!」
『山田くん、懸命に体をのばすのばす! 島田くんの手は届かない! 届かない! 墨谷初球からスクイズ敢行も不発!』
「くそっ!」
「ああっ!」
『呆然とする島田くん。それはそうでしょう。代わったばかりの初球スクイズをまさか読まれているとは! 松川くん、懸命に走り、一塁はセーフとなりましたが、さすがにここはこれまでの経験の違いを見せつけました、王者明訓!』
この回、絶好の追加点のチャンスを逃し、意気消沈したか、続く井口は簡単にライトフライに倒れ、攻守交替。
八回表。明訓は下位打線ながら上下が死球で出塁するも、蛸田が併殺打となり、続く高代が打ち取られる。
一方の墨谷もその裏。意地を見せる里中の力投の前に、横井、戸室と打ち取られ、久保が里中のシンカーの前に敢え無く三振。
明訓と墨谷の激闘は二対三。一点差で最終九回の両者の攻撃を残すまでとなった。
『高校野球の歴史に燦然とその名を刻む春夏四度優勝、神奈川県代表明訓高校。その強さに全国の数多の猛者たちが戦いを挑み、敗れ去ってきました。この試合をもって、明訓五人衆は永遠に高校野球より去ります。その雄姿を今この目に刻みつけることのできる幸福をまずは喜びましょう。しかし、しかしです。盤石を誇った王者がまさかの大苦戦。九回を残し、一点差をつけられているのです。このような事態を一体誰が予想したことでしょう』
秋口とは思えぬ暑さに、スタンドにいる観客は袖口をまくる。
朝十時に始まった試合は既に二時間近くが経過。太陽は真上に来ており、グラウンドを照らしている。
「最終回だってのに、なんなんだこいつらの落ち着きは。リードされているんだろうがよ」
平然と最終回を迎え、まるで緊張の色を見せない明訓ナインに田所は呆然とする。
これまで墨谷が戦ってきた相手は皆弱小と侮っていた墨谷に逆転されるや途端に動揺し、回が進むにつれて平静さを失っていった。東実然り、専修館然り、谷原然り。それは墨谷に付け込む隙を作り、接戦をものにするきっかけともなった。それなのに。
「あやつらは勝つことに慣れておる」
横に座った徳川がぽつりと呟いた。
「こんな危機は今まで幾度もあった。それを跳ね除けて王座につくこと四度。それが明訓の強さよ」
これまで墨谷が戦ったたどの相手とも違う。最後の最後まで諦めない相手。
「望むところじゃねえか。敵さんに負けるな、野郎ども。行くぞ!」
「オウッ!」
田所自ら陣頭指揮をとるや、中山達も後に続き、わっせわっせと応援を盛り上げた。
「まさか、あの明訓がリードされる展開になるとはな。吾郎のメモのお蔭か?」
「いや。墨谷の皆さんの努力があったからですよ」
土門からの誉め言葉に谷津は恐縮する。
「だが、明訓相手に一点などリードしているうちに入らない。墨谷がそのことを分かっていればいいが」
「はい」
明訓の脅威はその上位打線にある。山田との勝負を避けたとしても、一番の岩鬼から五番の微笑まで皆が一発を打つ可能性を秘めている。
「おれならまあ勝負にいくがな」
ニヤリと笑う影丸に、土門も苦笑してみせる。
「おれもだ。そうしておれたちは敗れてきた」
「後はマウンドのあいつがどうするかだな」
投球練習をする谷口を影丸は見た。
『あのいわき東を破った夏の大会から二年。岩手の弁慶高校に敗れるも、それ以外は無敗を貫いてきた王者明訓。その牙城はあの青田の怪童と呼ばれた中西くんをもってしても崩すことはできませんでした。高校生活最後の勝負、まさかの黒星を刻むことになるのか。この回九番の渚くんからですが、その後には全国一の破壊力を秘めた上位打線が控えています。墨谷高校谷口くん、ここは慎重に投げて、見事大金星を手繰り寄せることができるのか!』
『九回の表明訓高校の攻撃は九番、センター渚くん。九番、センター渚くん』
「ナギ―! ここは一発食らいついていかんかい! 同点ホームランを打つチャンスやで! お前が同点、わいで勝ち越しや!」
「おう!」
『今気合を入れて打席に入りました渚くん。くしくもこの打順は今夏の甲子園大会決勝を思い起こさせます。あの時も京都代表紫義塾を相手に明訓は二点差をつけられ、負けていたのです。この渚くんの出塁から試合の流れが変わりました。今日もまた奇跡を起こすことができるのか!』
この回を抑えれば明訓に勝てる。そのためには一つのミスも許されない。
これまで無我夢中で闘ってきた墨谷ナインだが、訪れた極度の緊張に足は震え、その表情は固い。
(だ、駄目だ、あれじゃ)
ベンチで見ている半田から見てもガチガチなナイン。
「何か声を掛けないと……」
どうしたものかと半田が倉橋の方を見るが、倉橋は大丈夫だろと気にしない。
「で、でも!」
「こういう場面を何度も乗り越えてきた奴がいるからな」
「最終回だ、しまっていくぞ!」
普段と変わらぬ様子の谷口の声が墨谷ナインの耳に届く。
「そ、そうだ。この回で終わりだ」
「もうひと踏ん張りといこうぜ」
はっと冷静さを取り戻したナインはそれに応えるように、口々に気合を入れる。
(な、なんて人だ。自分が一番緊張する立場だってのに)
改めて谷口の凄さを目の当たりにし、松川はゆっくりと構えた。
(渚はインコースが得意だったな)
初球、渚得意のインコースへのストレート。
「甘いっ!」
渚、初球から振っていくもファール。
「上手いな」
谷口のピッチングに対する里中の一言に、山田は頷いた。
「ああ。初球渚は得意なインコースに来ると思っていない。そこへくればボール球でも振る」
「例のフォークといい厄介な相手だな」
二球目三球目とボールとなり、カウントはワンツー。
『打者有利のカウントです。打ち気満々当然渚くんはヒットを狙っています。四球目、谷口くん、投げた! コースはど真ん中! 渚くん、これを振っていく! あっと、落ちた、フォークだ! フォークだ! 渚くんこれを当てにいくのに精一杯! セカンド丸井くん捕って一塁送球! 墨谷、大金星まで後アウトカウント二つ!』
「くそっ!」
悔しさのあまり、ヘルメットを叩きつける渚。
大いに盛り上がる墨谷側応援団。
『一番、サード岩鬼くん。一番サード岩鬼くん』
「あれは誰や。スーパースターや。千両役者や。男・岩鬼や! お待たせしました。岩鬼火山が高校野球最後の大噴火をお見せするでえ! 男の花道をじっくりとその眼に焼き付けておくんなはれ!」
バット五本をまとめて素振りすると、パッと放り投げる。宙を飛んできたバットを殿馬はその両手両足を使い上手く受け止めた。
(岩鬼か。さすがにすごい迫力だ)
初対決になる谷口はさすがにその圧力に息を呑む。
(眼鏡はつけていない。後はコンタクトの可能性だが)
岩鬼と言えばストライクが打てないことで有名だが、その彼も様々な工夫をしてストライクを打っている。ぐりぐり眼鏡をかけたり、目から火花を出したり。
ど真ん中を投げるも、突如そうしたことを思いつき実行することがあり、意外性の男として大いに注意が必要だ。
(どうします。様子を見ますか?)
(いや、ここはど真ん中一択だ)
『谷口くん、第一球投げた。ど真ん中だ! 岩鬼くん、これを豪快に空振り!』
「こら~~! ハッパ~! おんどれどこを見ているんじゃい! 目ん玉ついとるんかい!」
我慢ならじと詰襟を着て、ハッパを咥えたサチ子が岩鬼に向かって野次を飛ばす。
「こ、こらサチ子!」
「じゃかぁあしゃいドブスチビが! スーパースターには場を盛り上げる義務があるんや!」
打席を外し、ロージンをつけると岩鬼は再びギヌロと谷口を睨みつける。
谷口、二球目もど真ん中。
ブン‼
セカンドの丸井にまで届かんばかりのバットの風圧だが、結果は空振り。
『岩鬼くん、ツーストライクと追い込まれました。東東京大会でもあの谷原相手に好投した谷口くん、さすがにコントロールミスはしません。さあ、最後の勝負となるか!』
球場全体が盛り上がりを見せる中。
「岩鬼くん!」
突如聞こえる声に、岩鬼はタイムをとる。
(い、今の声は! た、確かに夏子はんや。わいの高校野球最後の雄姿を観に駆け付けてくれたんか!)
夏子の姿をきょろきょろと探した岩鬼は、その隣にいる二人を見て、驚愕の余り体を振るわせた。
「な、なんやて!」
夏子に付き添われてやって来ていたのは今この場に絶対にいる筈のない二人。
「そ、そんな……」
言葉を詰まらせ、目を大きく見開く岩鬼。
瞳に映ったのは誰あろう己の父と母の姿だ。
(ま、まさか。お父さまとお母さまが! わ、わいの応援にやと!)
正美というその名前からは似ても似つかぬ喧嘩っ早い子に育った幼少期。父は仕事で忙しく、母は兄たちにかかり切り。誰も自分を見てくれない中で、唯一味方だったのがお手伝いさんとしてきていたおつるだ。関西弁をしゃべるおつるの影響で、岩鬼は家族の中でただ一人関西弁をしゃべるようになった。
「へえとか、ほなとかいりません。普通の言葉をしゃべりなさい!」
おつるが去り、母から何度叱責されたことだろう。兄達には出来損ないと蔑まれ、喧嘩に明け暮れる毎日だった。中学時代に野球と出会い高校に進んでからも、両親は何かと理由をつけて自分の試合を観に来ることは無かった。
それなのに。
「わ、わいの試合をわざわざ観に来てくれたんか! わざわざ!」
感涙にむせぶ岩鬼。どれほど、どれほどそれを願ったことだろう。授業参観も保護者会さえも。いつも来てくれたのはおつるばかりだった。陰でがり勉ママと蔑まなければやっていられなかった。
(お父さまだけならいざ知らず、お母さまもやなんて。慣れぬ貧乏暮らしで体が弱っているというのに)
昨年度の夏の大会前に岩鬼の母親は一度倒れている。父親の倒産と、慣れぬ長屋暮らしに疲労が溜まったためだ。弁慶高校の武蔵坊一馬によって奇跡的に回復したが、未だに体調は本調子とは言い難い。
(そんな中やと言うのに……。このわいを応援するために)
滂沱の如く出る涙のまま、岩鬼は打席に入る。
「いざ、尋常に勝負や、谷の字!」
涙を流す岩鬼に何事かと思いながらも、谷口はコンタクトの心配はないと振りかぶる。
『谷口くん、三球目もここは慌てずど真ん中に投げた!』
その時、誰もが三振すると思っていた。
悪球打ちの岩鬼に対し、ど真ん中は安全圏。
だが、涙で視界がぼやけていた岩鬼の眼に映るは絶好球。
パッと岩鬼の咥えたハッパに大輪の花が咲く。
「喝!」
グワァラゴワガキーーーーーン‼
瞬間。誰もが何が起こったのか理解が出来なかった。
「え⁉」
打たれた谷口でさえも。
『打った~~~~~! 燃えて飛ぶ爆打球はセンター上段に突き刺さる! 名手島田くん、一歩も動けず、文句なしの大ホームランです! 男・岩鬼、試合を振り出しに戻す値千金の一打をここで放ちました! さすがは岩鬼、千両役者!』
「ど、ど真ん中をなぜ!」
ダイヤモンドを一周する岩鬼に、丸井が思わず声をかける。
「スーパースターには活躍の番が廻って来るってこっちゃ。わいに打たれたことを誇るがええ!」
「嘘だろ……」
サードのイガラシもまた、信じられないと言った目つきで岩鬼を迎える。
(堪忍や。お前らの先輩の引退を勝利で飾りたいと言う気持ちは分からんでもない。だが、わいも手加減できへんのや。わいの一番のファンが怒るさかいな)
岩鬼、三塁側スタンドで快哉を叫ぶ夏子と両親を見つけると、高々と手を挙げる。
(見ていてくんなはれ。プロに入ってわいが今みたいにホームランを打ってあの豪邸を買い戻すさかい)
悠々と一周してきた岩鬼を、ナインが総出で出迎える。
「ドアホが! まだ同点や! 気を引き締めんかい!」
岩鬼の一喝に、
「それもそうだ」
とすぐさま散るナイン。その撤収の早さに岩鬼は歯噛みする。
「とんま~。せめて、三振だけはするなよ! 士気に響くさかいな!」
(一本打つとうるさくて仕方ないづら)
最終回だと言うのに、まるで関係ないとばかりに打席に立つ殿馬に対し、警戒感を強める墨谷バッテリー。
ここまで四打数二安打。そのリズム打法を狂わせる作戦は一定の効果を見せているものの、さすがに数々の好投手を沈めてきた殿馬を完全に抑えきることはできない。
(ある意味山田よりやりづらいな)
ドカベン山田には鈍足という最大の欠点がある。
その欠点を最大限に突き、かの弁慶高校は明訓相手に唯一の勝利をもぎとった。
だが、殿馬にはそれがない。
明訓を倒した男、武蔵坊一馬が油断ならないと言った男。それこそが殿馬だ。
「甲子園でよ、おれの野球は区切りがついたはずだったづらによ」
誰に聞くとはなしに、殿馬は独り言を呟いた。
世界的ピアニストアルベルト・ギュンターにその才を見込まれている殿馬には海外留学の話も出ている。当然学校側は乗り気だが、殿馬本人が答えを保留しているのだ。
(たくよォ。山田に岩鬼。随分と長い付き合いになったもんづらぜ)
鷹丘中学時代。野球部員が足りないと山田と共に部員集めをしていたサチ子の誘いに乗る形で、野球との出会いが始まったが、まさかここまで続くことになるとは思わなかった。
「殿馬くん、どうしてウンと言ってくれないのだね。あのアルベルト・ギュンター氏の肝煎りの音楽院に留学できるチャンスなんだよ!」
卒業後の進路に音楽と野球と両方を書いた殿馬に対し、音楽教師はしきりに勧めてきたものだ。こんな機会はない。逃したら次はないと。
(だがよ、こいつらと野球をやるのがこれで終わりかと思うとよ、それはそれで悔いがあるづらぜ)
(クイックを使って緩いタマ、スローモーションで投げて速いタマ。そのタイミングは当につかまれている。ここは小細工なしだ)
前の打席では、シュートを秘打花のワルツで打たれている。半田のまとめたデータでも、意外にストレートで打ち取られることも多い殿馬に、谷口はストレート中心の勝負を選択する。
『これがおそらくは高校生活最後の秘打となるでしょう、秘打男殿馬。最後の選曲はやはり旅立ちに相応しい勇壮な曲か。それとも別れを惜しむ落ち着いた旋律か』
効果は薄い事を自覚しながらも、墨谷内野陣は少しでも殿馬のリズムを狂わそうとそれぞれのリズムで歌う。
墨谷守備陣、再びの秘打シフトを敷き、いつでもバントやゴロに対応できるよう身構える。
一球目。クイックモーションから外角低めにストレート。
ビシュッ!
『あっと、出た~! 秘打白鳥の湖だ!』
くるくると回転した殿馬に、墨谷の外野陣はぐっと身構えるが、殿馬はバットを振らず途中で回転を止める。
「ストラーイク!」
『これはどういうことでしょう。白鳥の湖のリズムが合わなかったのでしょうか』
(秘打を止めた。リズムが合わなかったのか。それなら)
松川のサインはストレート。
谷口、これに頷き、二球目。
ビシュッ!
真ん中高めに誘いダマのストレート。
それに合わせ、くるくるとゆっくりと回転を始める殿馬。
『これは再び白鳥の湖か! いや、違う! 回転し、そのまま飛び上がって打った! バレリーナだ! 秘打男殿馬、国分寺の空を舞う~‼』
「秘打眠れる森の美女~ワルツ~!」
カキ―ン‼
打球はシフトを敷いた内野陣の間を掠めてライトフェンスへ当たり、ぽとりと落ちるヒットになる。
「くそっ!」
ライト久保、これを懸命に追い二塁へ送球するも、間に合わない。
『シフトを敷いた墨谷守備陣の上をあざ笑うかのように飛んでいきました! 殿馬くん、秘打眠れる森の美女~ワルツ~! 白鳥の湖、くるみ割り人形~花のワルツ~に続き、チャイコフスキーのバレエ音楽最後の一つをここで出してきました! さすがは曲者殿馬くん! 恐れ入った!』
岩鬼のホームランに続き、殿馬が出塁。逆転の走者になるだけに大事にするかと思いきや、里中はバットを長く持ち、長打狙いの姿勢を見せる。
『三番里中くん、送るつもりはないようです。この里中くんも投手でありながら、チームきっての好打者。甲子園でもホームランを打っています。墨谷高校谷口くん、後アウト二つと迫りながら、岩鬼、殿馬と連打を浴び苦しい展開。何とかしのげるか!』
墨谷バッテリー、初球の選択はインコースのシュート。
里中、これを見送りボール。
(ストレートを打たれて苦しい場面。山田なら逆にストレートで押すが)
二球目、同じところに今度はストレート。これには里中もつい手が出、ファール。
(内内と二球内角か。次も内角か?)
三球目。
スポッ!
グググッ!
(これが三太郎の言っていたタマか!)
キィン!
谷口の投げたスクリューフォークを何とかバットに当て、ファールにする里中。
(今ので打ち取りたかったが)
予想以上にバットに当てるのが上手い里中に、松川はどうしたものかと思案を巡らせる。
カーブやシュートは合わせられている。ここはストレートか今のフォークに頼るしかない。松川がスクリューフォークのサインを出すと、谷口は首を振った。
(それじゃ、ストレート)
これも首を振る。まさか、シュートやカーブではないだろうとお手上げのポーズをすると、返ってきたのは見知らぬサイン。
(カーブにフォーク⁉ どういうことだ?)
二人のやり取りを見ながら、倉橋は苦虫を嚙み潰したように呟いた。
「あの野郎、また一人で突っ走りやがったな!」
(とにかく、どんな変化でも捕るだけだ。お任せで)
松川からの返答に満足そうに谷口は頷き、振りかぶる。
(ここはあれを使ってみるしかない)
明訓相手にスクリューフォークだけでは心許ないと実感することになった河川敷での仮想明訓との勝負。その日以来、密かに練習してきたタマをここ一番で試してみるしかない。
(フォークの握りのまま、親指を意識し投げたらスクリュー気味に落ちた)
握りはフォーク。だが、スクリューとは違い、今度は人差し指側の縫い目を意識する。
スポッ!
「やはりフォークで来たか!」
落としてくると読んでいた里中、これを振りに行くが。
クククッ!
「何っ⁉」
先ほどのフォークと違い、外側に逃げていくフォークに、バットの先っぽに当てるのが精一杯だ。
キィン!
『ボールは谷口くんの前に転がる! これを一塁送球! 里中くん、懸命に走るが審判の手が高々と上がる!』
「アウト!」
審判のコールに国分寺球場全体に衝撃が走る。
『ああ~、アウトだ! アウトになってしまった! 墨谷高校後アウトカウント一つで負けは無くなります。明訓、高校生活最後に黒星を喫してしまうのか! 里中くん、一塁ベース上駆け抜けた先で立ち上がりません。それほど悔しかった、今の一打!』
プレイボールVS.ドカベンこぼれ話④
〇なぜ松川をキャッチャーにしたか。
プレイボールの最後の方で松川が目が離れていると言われ、大分バッティングの調子を落としていたエピソードがありました。そのことからひょっとすると、ちばあきお先生は松川で何かエピソードを考えようとしていたのではないかと思いました。ただでさえ、イガラシに井口と入ってきて影が薄くなる松川。聖陵相手にぼこすか打たれた印象しかありません。どこかで活躍させたいとキャッチャーコンバートを考えました。倉橋がつぶしがきくと言っていたので、器用だろうという予想と、後は単純に見た目です。プレイボールファンの方は松川がキャッチャーの様子を想像してみてください。結構似合おうと思うんですよね。ただでさえ、彼は肩慣らしの際に散々谷口のタマを受けているのでどうかなと思った次第です。
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第六十六話 「勝負か敬遠か」
ようやく見たかったシーンが観れた。そんな感じで。
前話に出てきたカーブフォークも大魔神佐々木さんのフォークの握りからで、スクリューフォークと共に投げられるタマです。魔球ではありません。
『九回表ツーアウト。ついにここまできました、墨谷高校。夏の東東京大会予選では甲子園常連の谷原を相手に延長戦の末激戦を制するも、怪我人続出のため敢え無く準決勝を辞退。巨人学園との勝負は夢物語と消えました。ですが、よもやその墨谷が今夏の甲子園を制覇したあの明訓をここまで追い詰めるとは一体誰が予想したことでしょう。後がありません、明訓。ですが、次の打者はこうした場面で日本一期待のもてる男です。そうです、ドカベン山田太郎です!』
ドワアアアアアアアアアアアア‼
国分寺の森に、つんざくような歓声がこだました。
木々が揺れ、鳥が驚き大空へと飛び立つ。
『ツーアウト、二塁。逆転の舞台は整っています。ですが、一塁が空いています。この試合、三回の井口くんを除き、ランナーがいる際には徹底的に山田くんとの勝負を避けてきた墨谷投手陣です。個人的な見解を言えば、ここは勝負して欲しい! ですが、明訓相手に引き分け以上にできるチャンスの方がより魅力的であるのも理解できるところ。一体どちらを選択するのか、マウンド上谷口くん!』
「ここは勝負しかないだろ!」
「まさかの敬遠はないだろうな!」
明訓側応援団からの野次はまるで懇願に近かった。江川学院の中のようにどこまでも敬遠を貫いた者もいる。観る側からすれば勝負はして欲しいが、選ぶのはあくまでも墨谷に権利があるのだ。
「ツーアウトランナーありで山田やで。そら普通なら敬遠や。外野は気楽なもんやで」
五利の意見に、鉄五郎も頷く。
「悩ましいところじゃな。勝ってなんぼのプロとは違う」
学生野球のモットーは正々堂々。卑怯な振る舞いを嫌う。甲子園で山田を中が五打席連続敬遠した時には高校野球はこれでよいのかと非難の嵐が吹き荒れた。
「勝つために銭を使って強い奴を集めるのはOKで、頭を使って危険を避けるのはあかん。何が正々堂々や。矛盾だらけやないかい」
珍しく五利は語気を強める。監督としての苛立ちも含まれているのだろう。
「この場面、普通なら敬遠じゃ。余程の野球狂じゃない限り勝負などせんわい」
己を見ながら笑う鉄五郎に、球道は異を唱える。
「勝負しますよ。あの谷口は」
「なんやて⁉」
「あいつは根っからの野球狂ですから」
「んな、アホな。七回は敬遠したやないかい」
五利の指摘に球道はクスリと微笑む。
「そうでなければ、自分達の進路を天秤にかけてまで明訓に勝負を挑もうと思いますか?」
「た、確かに!」
「アホな。考えられへんわい。どう考えても、あの谷口に山田を抑えるのはムリや」
「いや、そうとは限りませんよ」
後ろからの声に振り返ってみれば、そこにいたのは真田一球。
「ぼくもまんまと抑えられましたからね」
「!」
「あの男は山田とは別な意味で大きい。勝負しますよ、必ず」
確信を込め、一球はマウンド上の谷口を見た。
過去逆転がかかる場面で山田を迎えた者達の御多分に漏れず、谷口の興奮はかつてないほどで、せわしなくロージンを握ったかと思うと、深呼吸を繰り返した。
(ここは敬遠一択だろう)
事前の約束ではそうだ。ランナーありで山田を迎えた場合敬遠する。勝負すれば打たれるが、ソロホームランならまだ被害は最小限との考えでこの九回までやってきたのだ。点差なしの同点。ここを凌げば勝ちも見えてくる。
自分の中にある別な感情を無視し、谷口は敬遠を指示。松川に立つよう促すが、松川は首を振り立とうとしない。
(勝負はしない。いいから立つんだ)
再度谷口が立つようにジェスチャアするも、松川は座ったままだ。
『あっと、これはどうしたことでしょうか。何かサインの食い違いか。キャプテン丸井くん、タイムをとります』
マウンド上に集まった墨谷内野陣。
開口一番、松川が口を開く。
「どうして、勝負をしないんです」
「そういう約束だったじゃないか。ランナーありの場合は山田との勝負は無しだろ」
「ここはわがままを言ってもいい場面ですよ。誰も責めやしません」
「いや、別に何か言われることを気にしている訳じゃないんだが……」
ぽりぽりと頬をかく谷口に、丸井ははあとため息をつく。
「谷口さん、井口の野郎は結局勝負して打たれちまいましたし、イガラシは逃げたっきりなんです。このままじゃ墨谷投手陣はあの山田の野郎に負けっぱなしなんですよ」
「……」
「おれたちの仇をうっちゃもらえませんかね」
イガラシがにやりと笑いながら口添えをする。
「し、しかし!」
「後ろに飛ばせば何とかキャッチしてやらあな」
横井がポンと谷口の肩を叩く。
「頼んます、谷口さん」
らしくなくしおらしい顔を見せたのは井口だ。
皆の言葉を黙って聞いていた谷口は、そっと目を瞑ったかと思うと。
力強く目を見開き、言った。
「よし、やろう!」
「おうっ!」
墨谷ナインの力強い声がグラウンドに響いた。
『気合と共にそれぞれの持ち場に戻ります、墨谷内野陣。ここはいくらでも時間を使いたかったことでしょう。打席に入るのは通算打率七割五分。甲子園の申し子山田太郎です。明訓敗れるも、山田は未だ敗れず。この大きな大きな壁を前に、一体どういう選択をとるのか!』
守備位置についた松川がそのまま座ると、わっと球場全体から歓声が上がる。
「んな、アホな!」
五利の絶叫が響き渡る。
こうなることを予期していた球道と一球は愉快そうにその様子を眺めた。
「この場面、山田を敬遠、微笑も歩かせれば、後は安牌やんけ。ただでさえ、ランナーに出た山田は並以下の選手や。わざわざ勝負する必要がどこにあるんや!」
「そりゃ男と男の勝負なんでしょうよ」
球道の言葉に五利は大きく首を振る。
「そりゃお前らピッチャーはそうや。お山の大将おれ一人で勝負すれば負けても満足やろ。だが、わしらキャッチャーは違う。全体のことを考えんとあかんのや! あの谷口も所詮はピッチャー人やったか……」
勝敗など二の次と己のプライドのために勝負をしたがる救いようのないピッチャー人。 山田を淡々と敬遠したその様子に密かにこれはとんだ拾い物を見つけたかと喜んでいただけに、五利の落胆は深かった。
「五利よ、そいつは違うで」
「何がや、鉄つぁん。山田相手に腕試ししたいと投げるんやろが」
「だから、それが違うと言うのよ。谷口本人は敬遠のサインを出しとった。周りが納得しなかっただけや。勝負を望んだのはナインの方よ」
「な、なんやて!」
「自分達の大将なら山田に勝てる。そう信じているからこそやで。ナインにそこまで慕われとるなぞえらい果報者やないか」
「そやかて」
まだ納得しない五利に対し、鉄五郎はばんばんとその肩を叩く。
「じゃかぁしゃい! わいら野球狂にとっては楽しみな勝負やんけ。九回ツーアウト。一打逆転の場面であの山田と勝負するなどまともな頭ではできんわい!」
(まさか、この時が本当に来るとはな)
マウンド上、谷口は山田の呼吸をじっと見つめ、己の呼吸を合わせる。
(違う、三塁で見るのと)
投手として相対して初めて分かる、その大きさ。岩鬼のように全身から打ちそうという気配も、殿馬のように何か仕掛けてくる雰囲気もない。あくまでも自然体。一見普通に見えながら、その構えには一分の隙も見当たらない。
(土壇場九回だというのに……)
一打勝ち越し。プレッシャーのかかる場面だ。普通の打者なら緊張に負けまいと気合を入れたり、いたって平静を装ったりするものだ。だが、山田は違う。力みなく、立つ姿はまるでその道の達人。この程度の修羅場は日常茶飯事だと言わんばかりのその落ち着きようは同じ高校生とはとても思えない。
ぎゅっと谷口はボールを固く握りしめる。
中学時代からずっとこのボールと共に過ごしてきた。
学校に神社、河川敷に自宅と色々なところで。
この試合が終われば、このボールを置かねばならない。
それが父との約束だ。
高校野球に、これまでの野球道に悔いを残さないためにも。
(今あるおれの全てを山田にぶつける)
球場全体が静まり返り、固唾を呑む中。
(初球はここだ)
サイン交換を終えて松川が驚くのをよそに、呼吸を整えた谷口はかつてない強敵に己の全力を投げ込まんと大きく振りかぶった。
(初球は様子見でカーブ、もしくは先ほどのフォークをボールに落として印象づけるか?)
変化球で入って来ると思っていた山田に対して谷口の第一球。
シュッ!!
ズバン!!
「ストラーイク!」
主審のコールに球場全体にどよめきが広がる。初球、あの山田に対して谷口が投げたのは。
『何と何と。まさか、まさかです。あの高校通算七割五分を誇る山田くんを相手に、谷口くんが投げた初球は信じられません、ど真ん中のストレートです! 一打勝ち越しの場面でまさかの好球に山田くんも思わず手が出なかったか。それにしてもまさに大胆不敵。墨谷高校谷口くん、この大一番に強気で攻めていきます!』
「やりおる!」
かっと目を見開き、鉄五郎は快哉を叫ぶ。
「あの山田相手に初球ストレート。それもど真ん中やと。震えてくるで!」
これが球道や不知火なら分かる。彼らのストレートはただのストレートではない。そのタマで充分山田と勝負できる。
だが、谷口は違う。コントロールはいいが、その球威は球道達とは比べるまでもない。
「魂のこもったタマはど真ん中ゆえに相手を威圧する……でしたね」
「その通りや、中西。そこにタマの遅い速いなど関係ないわい。こないなことが信じられるか? あの山田が威圧されよったで!」
やって来た絶好球に手が出なかったのは狙いと違っていたというだけではない。山田程の打者なら、例え変化球を待っていたとしても、ストレートを打つことはできる。それができなかったということは、想定よりもずっとタマが走っていたということだ。
(まさか、ど真ん中とは。完全に裏をかかれたな)
二度三度と素振りを繰り返し、打席に入る山田。その無敵を支えてきた剛腕に鳥肌が立つ。
恐ろしいのではない。純粋に感動しているのだ。人とはここまで野球に対し、真摯になれるのかと。
中学時代。小林の眼に失明寸前の怪我をさせたと自ら断った野球への道。それが岩鬼と出会い、殿馬と出会い、再びこの道を歩むことができるようになった。
二球目。
(得意なコースの近くに弱点あり、だ)
シュッ!
クククッ!
山田の得意なインコースベルト辺りから落ちるカーブフォーク。
「むっ!」
山田、選球眼良くこれを振らず。カウントはワンエンドワン。
(普通打つだろ、あそこは……)
ぴたりとバットを止めた山田に対し、イガラシは改めて格の違いを感じさせられる。
山田をツーストライクまで追い込むのが大変だとは徳川の弁だが、その通りだとしか思えない。
(フォークの落差はあのいわき東の緒方の方が上だ。だが、谷口のフォークには今のカーブ気味に落ちるのに加え、通常のもの、スクリュー気味に落ちる三つの軌道が存在する。油断はできない)
通常のフォーク以外にスクリュー気味に落ちるものとカーブ気味に落ちるもの。落差を補うその工夫に山田は感心するしかない。どれほどの練習を積んだのだろう。明訓に来たときの丸井達の話からすれば、東東京大会に敗れてからは野球の道を離れていたという。それが、対明訓が決まり、この日のためだけに新しい変化球まで身につけた。
(おれたちに勝つことが目標なのではない。やるからには勝ちたいだけなのだ。違う! 今まで出会ってきたどんなライバルとも)
その野球に対する強烈なまでの純粋な思いに、山田は頭が下がる思いがした。
プレイボールVS.ドカベン こぼればなし⑤
〇巨人学園戦を挟んだのは
単純に一球さんが好きで、大甲子園での一球さんって割を喰ってたなあと思ったからです。一球さん本編だと大谷並みのスーパースターなのになぜか明訓戦ではあんまりという感じ。
これは完全に前の室戸学習塾の知三郎の影響だと思ってます。室戸戦がやたら熱戦なのに、巨人学園戦はあっさりしたもの。知三郎の頭脳派ピッチングなんかがやたら一球さんのしようとする野球に被っていたんじゃないかと思ってます。巨人学園戦の結果を勝利から引き分けにしたのは課題が見えないと墨谷の特訓の理由づけにならないからです。
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第六十七話 「ただ、その一球を」
超満員札止め、六万人に膨れ上がった国分寺球場の観客達の視線は今や、グラウンド上にいる二人にのみ注がれていた。
「ファール!」
主審の声が響くや、ふうと皆が計ったようにそろって息をつく。
グラウンドで繰り広げられる異様な光景に、先ほどまで国分寺の森を揺るがせていた大声援もすっかりと鳴りを潜めていた。
『あっと、これまたファールです、山田くん。墨谷高校谷口くんを全く打ちあぐねています。先程から再三再四ファールにしていますが、前に飛ばすことができません。一方の墨谷高校谷口くん、四隅を巧みにつくピッチングで何とかこの山田くんを打ち取ろうと悪戦苦闘していますが、尽くファールにされています。さすがは王者明訓が誇る四番、球史にその名を刻む豪打ドカベン山田太郎です!』
「どうしてそんなに涼しい顔ができるんだ……」
田所にとって、山田の表情はこれまで墨谷が対戦したどの相手とも異なるものだ。
相手を見下している訳でもない、自らを過大評価している訳でもない。
勝つために何でもしようという訳でもない。
ただひたすらに打つことのみに神経を集中させたその姿。
「似ている……。まるで、谷口じゃねえか」
日々己を高め、野球道を突き進む。
雨の日も風の日も。自らこうと決めたことはてこでも変えようとしない。
その優し気な風貌に似合わぬ頑固さに何度手を焼いたことか。
「ははっ。まさか、噂のドカベンがあの野郎と同じように頑固な奴だったとはな」
(ロージンを)
谷口に間をとるように指示を出し、松川はここまでの配球を思い出す。
高低、左右の揺さぶり。どちらもこれと言って効果はない。
際どいタマでもストライクと判断されそうなものはファールに。ボールとなりそうなものは振らず、その選球眼の高さはさすがと言うしかない。
(一体どうやって打ち取れば……)
ちらりと山田の様子を伺った松川は、その意外な表情に驚いた。
九回ツーアウトフルカウントの場面にありながら、山田は楽しそうに微笑んでいた。
「すごい。あの山田さん相手に真っ向勝負を挑むなんて」
「この粘り。墨谷というチームそのものだな」
谷津と土門は河川敷で挑んできた墨谷の姿を思い出した。各校のエース・主砲がずらりと並んだ打線に対して驚きこそすれ、文句の一つも言わず彼らは挑んできた。高みを目指すのだから、とんでもない苦労は当たり前だと言っているようだった。それは、あの谷口自身がそういう性格だからだろう。
「だが、信じられん」
「アノヤマダアイテニ」
自分たちも敗れ去った影丸とフォアマンは己の目を疑う。
まさか、あの谷口が山田相手にここまでやろうとは。
「どうやらおれの目は曇り切っていたようだぜ」
ぎゅっと拳を握り、影丸は二人の対決を見守った。
『後一つ。後一つ、ストライクをとればいいのです。ですが、それが叶いません。墨谷高校谷口くん、苦投を続けています。今の投球で既に球数は十六球を超えました。山田くん相手にコントロールミスなく淡々と投げるその精神力は大したものです。ですが、こちらも精神力なら高校生ナンバーワンと言っても過言ではないでしょう、ドカベン山田太郎! 容易には打ち取らせてくれません。一体この勝負、どこまで続くのか。この二人に限界はあるのか!』
(すごいな、これがドカベンか)
ふうはあと荒い息の中、口の端に笑みを浮かべる谷口。
それに気づき、丸井とイガラシは目を丸くする。
高校生ナンバーワン、あのドカベン山田太郎を打席に迎えているのに。
どうしてそう、楽しそうなのかと。
谷口自身、不思議な気がしてならなかった。
これまで自分が培ってきた全てを駆使しても、山田はまるで微動だにしない。
これならどうだ、あれならいけるか。悩み覚え、考え学んできた己の野球の全てをぶつけても、それを柔らかく受け止められる。
十七球目。左打者からすれば外角低めに逃げるスクリューフォーク。変化も切れも申し分ないその一球。だが、山田はカットし、凄まじいスピンがかかったボールがファールとなる。
「くそっ!」
どう考えても捕れなさそうなそのタマを捕れず、松川が申し訳なさそうにする。
「谷口さんの最後の投球になる筈だったのに。おれとしたことが……」
偶然耳にした言葉に、山田は強く反応した。
(世間と言うのは狭いようで広い。こんな男がいるとは)
ここまで十七球。投げるタマの一つ一つに、谷口と言う男がこれまで歩んできた野球人生そのものが凝縮されていた。
こうと決めたらてこでも動かぬ頑固さ。
誰よりも努力し、それゆえ周囲を巻き込むその魅力。
どんな相手でも決してあきらめない強い意志。
一球一球にこめられた野球への真摯な、そして溢れんばかりの思い。
その全てを受け止め、谷口の野球への燃える心とたゆまぬ努力を感じ取ったからこそ、山田は残念に思う。
(なぜ、これほどの男が野球を辞めようとするのか)、と。
「野球を辞めるつもりなのか? あの、谷口は」
突然山田からかけられた言葉に、松川は驚きながらもこくりと頷く。
「この試合を最後に。大工になるからにはすっぱり野球を諦めると」
「……そうか……」
そう返事した山田の背中が、松川にはこれまでよりも一段と大きく見えた。
(もうスクリューフォークもカーブフォークもダメか)
土門から譲りうけたゴムまりを使っての握力強化で、フォークの落差も以前より上がっているにも関わらず、山田には通用しない。このまま投げ続けても球筋を見切られているだけにじり貧になるだけだ。
(だが、どうする)
谷口は手の中で再度ロージンを手にしながら、次は何を投げるかと思案を巡らせ、決断する。
ナインの疲労は深い。次の一球で決めなければ、この裏の攻撃に思わぬ影響があるかもしれない。
じっとボールを見つめながら、谷口はこれまでの野球人生を思い出していた。
中学時代、全国優勝常連校青葉学院の二軍の補欠にいた谷口。
そんな彼の人生を変えたのは墨谷二中への転校である。
『この学校だったら何とかやっていけそう』
青葉学院の過酷な練習についていけず、もっとのびのびと野球をしたいという考えからの墨二への転校。
だが、うっかり青葉のユニフォームを着て野球部の練習に参加したことから、青葉のレギュラーとして勘違いされ、谷口の苦労の日々が始まった。
自分にかけられた期待に応えるために、青葉学院のレギュラーに負けないほどの実力を身につける。父熊吉との二人三脚の特訓は、深夜の神社で毎日続いた。
その陰の努力が認められ、前キャプテンより後を託されたのだ。
『今度はキャプテンとして、みんなの期待に応えてくれんか』と。
(あの時から随分と長い時間が経ったものだ)
丸井に島田、イガラシに久保。墨谷二中の後輩だけでなく、倉橋に松川、井口と地区のライバルだった者達まで今は共に野球をする仲間になっている。
(この一球で終わり、か)
これまでの野球人生が走馬灯のように思い出される。
野球への思いを確かめ、そして、野球への未練を断ち切らせるかのように。
(ならば悔いなく、最後まで全力で!)
ビシュッ‼
谷口はもてる全ての力をこめて最後の一球を投げ込んだ。
向かってくるボールが、まるで谷口そのものに山田には思える。
来る日も来る日も野球に向き合った日々。きっとチームメイトだったなら朝まで野球談議に花を咲かせたことだろう。
ずっと続けたくなるような勝負だった。
これまで山田が闘ってきた男と男の真剣勝負とはまた違う。
二人の野球人生について、互いを知るための勝負だった。
こんなにも野球に憑りつかれているのに。
こんなにも野球が好きなのに。
全てを投げうってでも野球をやりたいはずなのに。
それを自ら投げ出そうとする谷口に、山田は無念の思いがしてならなかった。
だからこそ、向かってくるタマに対して応えた。
君はそれでいいのか、と。
ドカベン山田の全力でもって。
バキィーーーーン‼
『山田くんのバットが折れた‼ だが、高々と上がったボールはセンターへ飛ぶ! センター島田くんこれは楽々定位置です。苦しみましたが、谷口くん。あの山田くんをセンターフライに打ち取りました』
墨谷側スタンドからは歓声が、明訓側スタンドからは絶叫が響く。
『これで、墨谷にもう負けはなくなり……、いや、どういうことだ。センター島田くん、どんどんと後ろに下がっているぞ。壁に張り付いた。だが、打球はその上を超えてゆく! まさか、まさか、まさか、これは~~~!?』
気分次第でころころとその表情を変える国分寺球場上空の風に乗り、ドカベン山田の打球はセンターバックスクリーンの上に吸い込まれていく。
「そ、そんな……」
「嘘だろ……」
それは、墨谷ナインの心を折るに十分な一撃。
『打った~~~~。山田太郎、高校生活最後の一打は、国分寺球場のスコアボードを越えていく超特大のホームラ~~~~~ン‼ 苦投谷口くん、遂に打たれました。やはりこの男は役者が違った‼ さすがの打率七割五分‼ さすがのドカベン山田太郎‼』
徳利に口をつけたまま、徳川はぽかんと口を開けたきり身じろぎすることもできない。
センターに上がった打球に、これで明訓に一矢報いたと祝杯を挙げていたというのに。
まさか、バットを折られながらも場外に運ぶなどと。
ダイヤモンドを一周する山田がちらりと谷口の方を見ていることに気づき、徳川は合点がいった。
「そうか、今のは谷口のための一打か」
実に山田らしい。他人を思いやることによって力を発揮する彼からの。
この試合で野球人生を終えようとする谷口への無言の檄だ。
味方だけではなく、敵への思いまでも己の力とする。
「お前はそこまで大きくなったんか」
自らの教え子の成長を喜ぶように徳川は満足そうに何度も頷いた。
「まさか、ここで出るとはな、鉄つぁん。この打撃が来年うちに来るとしたら、国立の四番も危ういかもしれんで」
「何を言っとるんじゃ、五利よ」
ぷるぷると体を震わせる鉄五郎に、五利はしまったと言った顔をする。
「え⁉ あ、いや。そやったな。メッツ不動の四番は国立やった。なんせ鉄つぁん自らが口説き落としたんやさかい」
「べらんめえ! そう言う事やないわい!」
鉄五郎は隣にいた球道の方を向く。
「中西よ。あの山田、抑えられるか?」
「もちろん。高校時代の借りは返しますよ」
「よっしゃ!」
ガシッとその肩をつかむと、鉄五郎は宣言する。
「東京メッツ、一位指名は中西球道や!」
「え⁉」
「な、なんやて⁉」
これまで頑なに山田の一位指名を言い続けてきた鉄五郎の突然の心変わりに五利は目を白黒させる。
「甲子園で決着がついた言うとったやないかい! どういう心境の変化や!」
「じゃかぁしゃい‼ あの山田こそ、わしの野球人生の最後を飾るにふさわしい打者よ。同じチームにおったら戦えんじゃろうが!」
「ピ、ピッチャー人の考えが出よった! 打てないと勝てない、そう言ったのはあんさんでっしゃろ!」
「四の五の抜かすない。もう決めた。山田よ、首を洗って待っとれよ。この道ウン十年のわしがプロとは何たるかを教えてやるさかいな!」
「岩田さん、その前に自分が山田を倒しますよ」
「言うてくれるやないけ。ほな競争や。どちらが先に山田を打ち取るかな!」
「はい!」
嬉しそうに頷き合う鉄五郎と球道に、これはあかんと五利は頭を抱えた。
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第六十八話 「墨谷魂を見せろ!」
絶体絶命の墨谷ナインは奇跡を起こすことができるのか。
微笑にヒットを許すも、後続の上下を打ち取った墨谷だが、ベンチに戻るナインの表情は暗い。
九回表が始まった時には一点差で勝っていたというのに、今や二点差をつけられ、負けている状況だ。勝つためには三点必要で、それは明訓相手に絶望的な差だと思われた。
ぐっと真一文字に唇を引き結んだ谷口に対し、声を掛ける者はいない。
後輩として彼を一番に慕う丸井も、高校時代を通しての恋女房であった倉橋も。
今の谷口に対し、何と言っていいかわからなかった。
ベンチ全体がお通夜状態になる中、悔しさのあまり歯噛みする丸井の耳に届いたのは、何とも呑気な関西弁。
「いけ~~~墨谷! まだ二点差や! この回で逆転やで!」
自分が最も嫌う男の空気を読まない歓声に、丸井は苛立ち声を荒げる。
「このバカが! ちったあ空気が読めないのか! おれたちは同点どころか勝ち越されちまったんだぞ。勝つためには三点必要なんだぞ!」
「そないなことはさすがのワイでも分かっとるがな」
何を今さらという近藤のしたり顔が丸井の怒りをさらに加速させる。
「いいか。相手はあの明訓なんだぞ! これまでの八回でようやく三点だ。厳しい闘いなのはてめえのその足りないおつむでも分かるだろ!」
噛んで含めて言って聞かせる丸井へ、近藤から返ってきたのは意外な一言。
「でも、まだ負けた訳やあらへんがな」
はっと、その言葉を聞き、ベンチの墨谷ナインは思わず顔を上げる。
じっと前を向いていた谷口も、近藤の方を向いた。
「そ、そりゃ……」
「後アウト三つもある。いや、最後の打者がアウトになるまで勝負は終わらへん。そういう野球をしてきたと、ワイは全国中学選手権の時に丸井はんに教わった筈やが」
近藤の言葉を耳にし、ぐっとイガラシは拳を握り、谷口はどんと膝を叩いた。
「近藤、お、オメ……」
全国中学選手権大会準決勝南海戦。試合中のアクシデントで爪をはがした近藤は、九回表その負傷をおしてマウンドへと上がった。爪ぐらいなんだ、骨を折ってまで投げ抜いた人がいるんだぞ。その丸井の言葉に奮起し、闘志を燃やして。
「そうだったな……」
ぐっと恥ずかしそうに近藤を見た丸井は一転大きなため息をついてみせた。
「ったく、近藤如きに諭されるとはおれも落ちたもんだぜ!」
「あれだ……」
ぶつくさ言いながら、円陣を組もうと指示を出す丸井を指差しながら近藤は愚痴る。
「いいじゃねえか。あれはあの人なりの照れ隠しだろうよ」
隣に座る牧野はそう言い、
「ほれ、先輩達を応援しようじゃねえか!」
曽根と共に近藤を両脇から抱えて立ち上がった。
「さ、谷口さん」
息を荒げる谷口の周りで墨谷ナインが円陣を組む。
谷口はふうと息を吐くと告げる。
「半田が見つけたアンダースロー対策を忘れるな。右打者はインコース、左打者はアウトコースの甘めに意識を集中して、そこから内側から曲がって来るカーブはボールになる誘いダマだ。落とすタマも、今言ったラインの内側に来たときに反応すればいい」
「山田もこちらの外を捨てる作戦に気づいているようです。恐らく打たせて取る戦法でくるでしょう。いかに誘いダマに乗らないかです」
半田の助言に、皆が大きく頷く。
「最終回、二点差だ。きっちりいこうよ‼」
「オウ‼」
谷口の気合一下、墨谷ナインが叫ぶ。
「最終回。勝ち越してからの明訓は鉄壁の守備を誇る。今夏この壁をどの高校も越えられなかった」
淡々と語る土門。
「はい。室戸学習塾、光、青田に紫義塾。みんな最終回まで明訓を追い詰めています。ですが、勝ち越されたその裏は皆意気消沈し、凡打に倒れるのが常です」
「墨谷はどうだと思う?」
「先ほどまでは正直危ないと思っていましたが、今は違います」
「と言うと?」
「危ないのは明訓の方です」
谷津はそう、確信をもって答えた。
『いつまでもどこまでも観ていたい、明訓対墨谷の引退試合。ですが、会場使用の都合上、延長はありません。この回が最後です。九回表明訓の猛打爆発! 岩鬼、山田にそれぞれホームランが飛び出し、一気に二点差をつけられました、墨谷。この回打順よくトップの島田くんからですが、好投手里中くんを相手に逆転することができるのか!』
『一番センター島田くん。一番センター島田くん』
「よーし」
すべり止めをパタパタとつけた島田は勇んで打席に立った。
一球目、山田のリードは外角低めのストレート。
島田、これを果敢に振っていき、ファール。
(く、くそ。最終回だってのにタマに力があんな)
岩鬼に虚弱体質と言われる里中だが、その言葉に反し、途中でマウンドを譲ったことなど数えるほどしかない。バテバテになりながらもその闘志で投げ抜き、遂には勝利を手にしてしまう。小さな巨人と謳われるゆえんである。ましてや、この試合里中の登板は四回からだ。十分に余力を残している。
二球目。外角に逃げるシュートを島田、見送る。
(やはり、外への変化球が見切られているな)
ならば、と山田は方針を切り替えストレート中心の配球を組み立てる。
三球目、インコース高めにストレート。これを島田ファールにし、カウントツーワン。
(そうだ、里中。いくらストレートにタイミングが合っていると言っても、お前のストレートが早々打たれる訳がないんだ)
四球目、真ん中高めにストレート。島田、これを何とかこらえる。
「スイング!」
「セーフ!」
ハーフスイングではないかとアピールする山田がだが、判定はセーフ。
(危なかった……)
冷や汗を流した島田、ちらりと三塁の岩鬼の守備位置を確認。
(通常よりやや深め。しかもツーストライク。ここはノーマークだろう)
『里中くん、第五球投げた! インコース低めにストレート! あっ、これを島田くんバント! 三塁線に絶妙に転がした!』
「岩鬼!」
「わいの肩に挑むとはいい度胸や!」
サード岩鬼、一塁へ送球。島田、ヘッドスライディングで滑り込む。
『これは際どいタイミングだったぞ。さあ、どちらだ。アウトか、セーフか!』
「ア、アウト!」
塁審の右手が高々と上がり、墨谷側スタンドからは悲鳴が上がる。
「く、くそ。もうちょいだったのによ」
悔しがる田所に対し、中山達四人は応援団に景気づけを頼む。
「お、おい、お前ら……」
「田所さんらしくもない。野球は九回ツーアウトからって言うじゃないスか」
中山が言えば、山本もそれに続く。
「そうそう。実際、その通りだったしな」
「ホント、九回ピンチで廻ってきた時の緊張ときたら無かったぜ」
太田がぼやき、山口もうんうんと頷く。
応援団長も、これまでの激闘を思い出し、団員に喝を入れた。
『二番セカンド丸井くん。二番セカンド丸井くん』
出塁ならず、すまんと頭を下げる島田の肩をポンと叩くと、丸井はぺっぺと唾を吐き、打席に向かう。
(近藤の野郎に気づかされるなんてよ。おれってやつは……)
その脳裏にあるのは先ほどのやりとり。
山田に尊敬する谷口が打たれ、ショックのあまり明訓には勝てないかもと思ってしまった。
(死ぬほど恰好悪いぜ、まったく。あの時みてえだ)
青葉学院との試合の前。ノックをするだけの谷口にナインの気持ちは離れ、抗議をしようという話になった。夜遅くにも関わらず、皆で押しかけたのは深夜の神社。
そこで、丸井は見た。
父親と共に、皆に隠れて特訓する谷口の姿を。
そこで、丸井は聞いた。
「おれ達みたいに素質も才能もないものはこうやるしか方法はないんだ」との谷口の言葉を。
イガラシにレギュラーを奪われ腐っていた丸井は、その場で持っていた退部届を破り捨てた。
目の前で見た人物の凄さを少しでも真似たくて隠れて特訓に励んだ。
(そうだぜ。山田に打たれてからも、一度たりとも谷口さんは諦めを口にしていないじゃねえか)
その姿勢こそ、自分が憧れたもの。そして、後輩達に受け継いで欲しかったもの。
(おれは何の能もないキャプテンだったが、唯一それを後輩達に伝えられたのが自慢なんだ)
『明訓の勝利まで後アウトカウント二つ。ここは意地を見せるか、二番丸井くん!』
一球目、ど真ん中のストレート。予想外の配球に、丸井手が出ず、悔しがる。
(ま、まさかいきなりど真ん中とはな)
中盤あれほど打たれたというのに、余程バッテリーの信頼が厚いのだろう。
二球目。インコース、低めに曲がるカーブ。
ぎりぎりストライクになるかならないかのタマに、丸井反応。ファールとなり、たちまちツーストライクと追い詰められる。
(なんてリードだ。さっぱり読めねえ)
最終回山田のリードは冴え、躍動する里中の前に中々突破口が見えない丸井。
だが、そんな中彼はふとあることに気づく。
「ちょ、ちょっとタイム」
すべり止めをつけながら、里中の足元を確認する。
(クセが戻っている⁉)
何気なく観察した一球目のストレートはプレートの前。二球目のカーブはプレートの上。
この土壇場にいつも通りでいようとするからこそ、そのクセがまた出てきたのかも知れない。
三球目。里中の軸足はプレートの前。
(山田はおれ達がインコース狙いだと思っている。ツーストライク。一球外角に外して様子を見る筈だ!)
果たして、やってきたのは外角高め。
「これだ!」
丸井、これに飛びつきヒット。ファースト上下の横を抜け、ライト蛸田の前に落ちるヒットとなる。
『出たぞ、丸井くん。九回裏ワンアウトで二番丸井くん、ライト前ヒット!! この勢いを繋げることができるか、イガラシくん!』
一塁ベース上で打てのポーズをする丸井に、イガラシはやれやれと首を振る。
「相も変わらず厳しい先輩だぜ。何としても打たなきゃならないじゃねえか」
中盤全力で投げた影響で疲労が色濃いイガラシだが、その心はカッカと燃えている。
彼もまた、近藤の檄で古い記憶を呼び覚ましていた。
中学時代、青葉学院との引き分け再試合に向けて。
独り谷口は投手の練習を始めた。
素人同然の投球はナインの嫌味の対象になり、口さがない生徒の嘲笑の的となった。
(けれど諦めなかったな、あの人は)
黙々と雨の日も風の日も練習を続け、遂には青葉学院相手に投げるまでになった。
(近藤の言う通りだ。墨谷魂、見せてやろうじゃねえか)
相手が誰だろうと諦めない。逃げない。それこそが、谷口から学んだ最も大切なものなのだから。
(この男は要注意だ)
三番のイガラシを迎え、山田は中間守備をとるよう指示を出す。
打撃好調のイガラシだが、小技もある。バントには注意しなければならない。
(何だ⁉)
イガラシが気になったのが、一塁丸井からの妙なジェスチャアだ。
里中の方を見たかと思ったら一塁ベースの上に上がったり、下りたりと何かを伝えたいように思える。
よく分からないと小首を傾げるが、丸井は顔を顰めるばかりだ・
(んなこと言ったってな。タイムはもう使えないし……)
そう言いつつも、
「あ、ちょっと」
そう言いながらすべり止めをつけるふりをしながら、考えをまとめるイガラシ。
(里中がベースの上とか下。あ、まさか。ひょっとして里中のクセのことを言ってんのか?)
あり得ないと眉を顰めるイガラシだったが、丸井がヒットで出塁している以上、その可能性は高い。
じっと里中の足元を見るや、軸足はプレートの上。
(来るのはカーブ。しかも、初球なら低めだ)
データ上、打者の多くは初球ストレート狙いで、低めのカーブを見逃すことが多い。
山田なら、そうした打者の心理などお見通しだろう。
ガバアアア!
ピシュッ!
ククッ!
「よし!」
『イガラシくん、初球から果敢に振っていった~~~‼』
「何ィ!」
カキーン!
『引っ張った~~~‼ 痛烈な当たりにショート高代くん、グラブを差し出すも届かず! レフト微笑くん、前進! これを二塁へ投げるも間に合わない‼』
ドワアアアアアア‼
『何と、墨谷高校。この九回の土壇場、しかもワンアウトから二番丸井三番イガラシと立て続けにヒット! 小兵墨谷、大横綱明訓に後一歩まで追い詰められながらも、決して勝負を諦めてはいません! この試合、どんな結末が待っているんでしょうか!』
プレイボールVS.ドカベンこぼれ話⑥
〇一年間で出すことにこだわった訳
プレイボールVS.ドカベン、本来ならば今年の夏コミに後編でも大丈夫でした。もっとよいものも出来たかもしれませんし、まず誤字が減っていたと思います。半年で書いたのが10万字で3か月で書いたのが18万字。明らかにおかしいのになぜそうしたのかは、水島新司先生の一周忌が1月10日だから。それと、野球狂の詩の中に出て来る「おれは長島だ」の話が死ぬほど好きだからです。長嶋茂雄を目指してプロテストを受け、死に物狂いに特訓する長島太郎。真似から生まれた彼のプレイはやがてミスターを彷彿とさせるようになります。そして迎えた最終戦。一軍のマウンドでの初にして最後のホームラン。長嶋茂雄の天覧試合でのホームランを打ちたかった彼は、その一打で一年間のプロ生活を終えるのです。そんな彼が挑んだ死に物狂いの一年間を真似したい。水島新司先生の真似をし、野球の小説に取り組みたいと一年を区切りとしました。
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第六十九話 「激闘の果てに」
1月10日、水島新司先生の一周忌を前に投稿したいと思いますので。
「タイム願います」
『山田くん、たまらずタイムを要求しました。最終回、明訓が逆転した後でのこの場面は誠に珍しい。それほど、明訓の反撃は相手の心を折るものなのです。つけられた点差と、抑えきれなかった無念さで意気消沈し、そのまま敗れた者の何と多いことか。だが、しかし。墨谷はそうはなりません。そうです。昨年度の夏の予選では、二度に渡り九回裏に逆転し、野球は九回ツーアウトからを体現して見せたのがこのチームなのです。その予想外の粘りには、さしもの明訓もさぞ戸惑っていることでしょう』
「まさか連打を浴びるとはな」
「ああ。タマもコースも悪くなかったが」
「墨谷の粘り勝ちってことか……」
「そうとしか思えない」
里中と山田のやりとりに、そっと近づいた殿馬がグラブで口元を隠しながら囁く。
「戻っているづらよ、サトのクセが」
「え⁉」
表情を悟られぬよう、里中も同じく口元を隠す。
「試しに逆に投げてみればいいづら」
「成程」
「ええか。後アウト二つや! ダブルプレイなら一回で終いや。甲子園を四度も制したわいらがここで負けてみい。どの面下げて明日から生きていくんや。全国の高校球児に申し訳がたたんと思わないんか! 甲子園はそれほど安いもんではない筈やで‼」
岩鬼の檄に明訓ナインはオウっと気勢を上げる。
「へ~え。はっぱが珍しくいいこと言っているづら」
「何やと! わいの名言金言を聞いとらんのかい!」
「お前の言葉は右から左に一方通行づらによォ」
「とんま~!」
とぼける殿馬と怒る岩鬼。いつも通りのやりとりに、険しい表情だった里中と山田の頬が緩む。
「とにかく、次のあいつはやべ~づら。心していかないと負けるづらぜ」
「ああ。内野陣はよろしく頼むぞ!」
「オウッ!」
『四番ピッチャー谷口くん、四番ピッチャー谷口くん』
ドワアアアアアア‼
わっせわっせわせ‼
国分寺の森にどよめきと歓声がこだまする。
それと同時に、あちこちから聞こえる見知った声。
「まさか、こいつらがここまでやるなんてな」
「練習試合をした時にはそうは思わなかったが」
「どうだ、佐野。勝てそうか」
「分かりません。ですが、秋季大会、厳しい闘いになりそうです」
「それはそうだ。だが、うちも相当なレベルアップをしている。やってみなければ分からんさ」
「明訓相手にここまで粘る相手だったとはな。お前の言った通りだったな、百瀬」
「へっ。連中と一度でも戦ったことがある奴なら、その力はご存知の筈だぜ。何を今さら」
打席に立った谷口の様子を、山田は静かに伺った。
先ほど打たれた時はショックの表情を浮かべていたが、今は微塵も感じられない。
この短い間で気持ちを切り替えたのだとすればとんでもない精神力の持ち主だ。
(里中、用心していくぞ)
(ああ。こいつは要注意だ)
すっと自然にバットを構える谷口から感じる気迫に、常勝明訓を支えてきた里中も目を見張る。
(まさか、あの一球を打たれたと言うのにか)
見ていた里中自身、魂をこめた一球だった。あれを打たれては、自分のこれまでの頑張りを全て否定されたと思っても仕方ないほどのタマだった。それを、あそこまで完璧に打たれたというのに。
初球。里中の軸足はプレートの上。
(カーブか)
だが来たのはインコース高めのストレート。谷口堪らずこれをファール。
二球目。里中の軸足はプレートの前。来たのは外角低めへのカーブ。谷口、これをよく見てワンエンドワン。
(クセが出ていることに気づいたか)
明訓バッテリーの思惑に勘づいた谷口は、里中のクセについて頭から消し去る。
(こうなったら来たタマに食らいついていくだけだ)
三球目。外角低めへのストレートを一塁線にファール。
四球目。真ん中高めへのストレートを後ろに飛ばす。山田、これに懸命に飛びつくも届かず。
(ダボハゼみたいになんでも振ってきていやがる)
(そう見せて何か狙っているかもしれん)
慎重に谷口を打ち取ろうとする明訓バッテリーは、やがて谷口という男の真の恐ろしさを知ることとなる。
キィン!
『これまた、ファール! カウントは変わらず、ツーツー。粘ります、谷口くん。里中くん相手になんと十一球投げさせています。タマは前には飛ばぬものの、確実に里中くんの体力を奪っていることでしょう。里中―山田の黄金バッテリー、内外高低と使い何とか打ち取ろうとしていますが、上手くいきません。最終回、勝利を目前にしてピンチです!』
「ぬふう~震えてくるで」
たまらないといった表情で、五利が吹き出た汗を拭う。
「これが練習試合かよ。プロが情けなくなってくるで」
「里中はバテとらん。山田のリードも別段おかしくはない。あの谷口がおかしいんや」
「一球入魂のタマをああも打たれた後やで。普通は気負ったり、闘争心をむき出しにしたりするもんやろ」
ちらりと球道を見ながら鉄五郎が言うと、球道は肩をすくめてみせた。
「それやというのに、あの谷口ときたら淡々と来たタマをファールにしよる。相手投手としたらやり辛いことこの上ないで。何を考えているか分からへんからな」
「いや、ただ必死なだけでしょう」
球道が言うと、一球もそれに同意する。
「だからこそ、怖いんです、あの谷口は」
どこか夢の中にでもいるように谷口には感じられていた。
(どうしても打ちきれない)
なぜだろう。そう思った谷口の耳に、聞き慣れた声が届く。
「何してやがんだ、タカ! 男がいつまでもぐだぐだ迷っているんじゃねえ!」
「タ、タイム!」
打席を外し、バックネット裏を見る。
(父ちゃん⁉)
父熊吉と母玉子の姿がそこにはあった。
(来ていたのか……)
靴ひもを結ぶふりをしてちらりとそちらを伺えば、熊吉は興奮に体を震わせている。
(おれが迷っている⁉ 何に……)
自問自答し、ぺこりと頭を下げて谷口は打席に入る。
山田に届かなかったあの一球。野球への思いは十分に籠めることはできた。だが、自らの野球をずっと見続けてきた父親は迷っているという。
あの明訓の里中と山田のバッテリーを相手にして、青葉学院の二軍の補欠だった自分が粘っている。あの時代の自分が聞いたら卒倒することだろう。
気楽に始めた野球は、いつしか人の期待に応えるためのものになり、そして、自らがその道を深く望んで首を突っ込むようになっていった。
淡々と黙々と、日々どれだけのバットを振ったことだろう。自問自答しながら、打ち込むことによってどんどんと打てるタマが増えた。今の自分があるのは日々の積み重ねの成果だ。
インコースの打ち方も。
外角低めの打ち方も。
カーブやシンカーの打ち方も。
何度も何度も何度も繰り返し、身につけた。
(全てを出し切り、負けるのなら悔いはない)
最後の最後まで諦めず食い下がり、それでも叶わなかったのなら、また一から出直せばよいのだ。あの明善戦や谷原戦の敗北後のように。
そう考えた時、谷口はふと気づいた。
(今日で最後なんじゃないのか?)
(な、なんなんだ、こいつは)
球数は十五球を越えた。
これまで多くの打者と対戦してきた里中は思わずそう零さずにはいられなかった。
己の持つ球種はほぼ全て投げた。カーブ、シュート、シンカー、さとるボール。だというのに、打ち取ることができない。
右に左に際どいファールを打たれ、肝を冷やすことも一度や二度ではない。
(どうしてここまで粘ることができるんだ)
これまで明訓の前に現れたライバル達は、打倒明訓を旗印に強い敵愾心をむき出しにする者が多かった。勝利へのあくなき執念は、確かに大きな原動力と言えるだろう。
だが、谷口の態度からは明訓に対するそうした敵愾心を感じることはない。
(だとしたらこいつの原動力は何なんだ)
里中は悩みながら、山田のサインを待った。
(へっ。戸惑ってやがる)
戸惑うバッテリーの様子に、丸井はほくそ笑む。
里中がここまで粘られることは滅多にない。
逆転した後の裏、変化球で打ち取って、ゴロ。もしくは三振でゲームセットというのがいつもの風景だ。
明訓の勝ちバターンを崩され、少なからず動揺しているのだろう。
(ざまあねえぜ)
一塁のイガラシも、また谷口の奮闘に驚く里中・山田の様子に溜飲を下げる。
(その人はな、自分では才能がないなんて言っているが、とんでもない。たったひとつとんでもない才能を持っているんだ。おれはそれを間近で見てきたんだからな)
天才肌と呼ばれ、有名私立から引く手数多だったイガラシが墨谷に進学したのは谷口がいたからだ。中学時代、一年生にして丸井からレギュラーを奪った彼でも青葉学院の壁は高く、弱音が口をついた。それに対し、独り黙々と努力する谷口を見て、どれほど勇気をもらったか。
(最後の最後まであきらめず、努力し続ける。口で言うのは簡単だが、それが本当にできる人間は滅多にいない)
その姿を見、憧れたからこそ、皆が彼の後を追ったのだ。ああいう風になりたいと願って。
『あっと、これで二十球です。こんな場面を一体誰が想像したことでしょう。明訓が逆転した後の九回裏。誰もが予想していたのは、明訓の勝利でした。ですが、ワンアウト一・二塁で、迎えた四番谷口くんを里中くん、打ち取ることができません。フルカウントです。見送れば四球にも関わらず、谷口くんそれをいたしません。投手として、自分の責任で取られた点は自分の手で取り返したいということなんでしょうか。いずれにしても、四回からの登板の里中くんも、さすがに疲労をにじませています』
(何という男だ)
山田は里中に間を取れとサインを送る。
(いかに特訓し、隙を見つけたと言っても、伊達に里中は小さな巨人と呼ばれてはいない。そのタマに尽く食らいついてくるとは)
ぜえぜえと息を荒くしているものの、その眼光は鋭く、獲物を狙う鷹のようにマウンドを見据えている。
(ここまでなるにはどれくらい練習を積んできたのだろう。きっと気が遠くなるくらいだろう)
ボロボロのユニフォームに山田はどこか親近感を感じざるをえない。
(だが、それはおれたちも同じだ。全てを使って、君たちに勝つ)
山田から送られたサインに、里中は一瞬躊躇する表情を見せるも、大きく頷く。
(今日で野球は最後……。そう決めたのはおれだ)
二兎を追う者は一兎をも得ず。不器用な自分に大工と野球の両立は無理だと、そう頭で考えてすっぱりと野球を諦めるつもりだった。
だが、この試合で気づいてしまった。自分には野球しかないのだと。山田に出会い、上には上がいることを知り、ちりちりと心が痛んだ。野球への気持ちに無理やり蓋をし、目を背けて生きて行こうと思っていた自分に、山田のあの強烈な一撃は風穴を開けた。あれほど打ち込み、全てを費やし、それでも叶わなかった。けれど、不思議と無力感は無く、また挑んでみたいと思わせるものだった。この試合が終われば、もう自分はその頂を目指すことができなくなる……。
(それでいいのか、本当に)
指を怪我したため、サッカー部に入っても離れられなかった野球。
のんびりやりたいと思っていたそれは、いつしか自分の一部となっていた。
皆の期待に応えたい。より上手くなりたい。そうした思いよりももっと自分の根底にあるもの。
なぜ諦めを知らぬ男と言われ、猛特訓にもへこたれなかったのか。
それは。
(野球が好きだからじゃないか……)
どんなに苦しくても、どんなに諦めそうになっても勝負を投げはしない。好きなことからは逃げたくはないから。好きなことだから手を抜きたくないから。
(そうか、そうだったんだ……)
大工の道のために野球を諦める? そんなことができよう筈がない。
再起不能と言われた怪我の時でさえ、野球を諦められなかったほど、野球にのめり込んでいるのだから。
最後の最後まで自分と野球がしたいと言ってきてくれた丸井たち。青葉戦での指の怪我をおしてのピッチングに奮起したと言っていた近藤。自分の我儘に付き合ってくれた倉橋たち。皆が教えてくれていたのだ。
自分にとって何が大切かを。
(それでも気づかなかった。今、この時まで)
そんな己に送られた強烈な檄。野球を諦めようとした者への、野球を諦めない者からの真摯な問いかけ。
(ああ、そうだ。おれは野球を……)
そんな彼らの期待に応えずして、何のためのこれまでの努力か。
明訓バッテリーから勝負の気配を感じ、谷口はぐっとバットを握る手に力を籠める。
(よし、勝負だ)
(ああ)
こくりと頷き合った、里中-山田のバッテリーの二十一球目。
ガバアアアアア‼
『なんと里中くん。ここで、オーバースローで投げてきた! これはチェンジアップか!?』
ストン!
『落ちた落ちた! 何とフォークボールだ! この大一番で滅多に出さないフォークを出してきた!』
「タカ、さっさと打っちまいな! おめえのやりたいことはとうに決まっているだろうが!」
熊吉の絶叫に、谷口は無心にバットを振って応える。
「ぐわっ!」
カキ―――ン‼
『センター渚くん、バックバック! 果敢に飛びつくも届かず打球はクッションボールとなって点々とする! この間、丸井くん、ホームイン。今、ようやくライト蛸田くんが追いついた! ああっ! イガラシくん何とサードを廻った‼ ライト蛸田くんバックホームするも間に合いません‼ 打った谷口くんはこの間三塁へ! 墨谷高校、この回谷口くんの二点タイムリーが飛び出し、その上逆転の大チャンスです!』
「やりゃあできるじゃねえか、やりゃあ!」
玉子と共に大喜びする熊吉の姿に、谷口は照れくさそうに頬を掻く。
「じょ、冗談だろ」
目の前で起きた光景に、田所は絶句した。
確かに自分の後輩は諦めを知らない男だ。けれど、あの里中と山田の黄金バッテリー相手にまさかここまでやるなんて。
「いいぞ、谷口!」
「松川! 一気に逆転だ!」
中山たちは大騒ぎだ。
盛り上がるスタンドの声援を受けて打席に立つ松川。
『五番キャッチャー松川くん。五番キャッチャー松川くん』
『さあ、大変なことになってきました。五番の松川くんを迎え、墨谷、ここはスクイズでも一打サヨナラの場面です。どのタイミングで仕掛けてくるか、途中出場の松川くん!』
松川の脳裏に七回裏のスクイズ失敗の場面がよぎる。意表をついた初球スクイズも里中-山田のバッテリーは読んできた。百戦錬磨の山田を相手ににわか捕手の自分が読み合いで挑んでも再び返り討ちになるのは目に見えている。
(それなら強打だ。一発外野に飛ばしてやる)
「松川、気張っていけよ!」
倉橋の声援にこくりと頷いた、松川。その初球。
『ワンアウト三塁。第一球、投げた! インコースへのシュートだ』
「よし!」
カキーン‼
『いったーーーー! これは文句なし! レフトに高々と上がりました! これは文句なし! だが、風に戻されている‼ レフトは強肩の微笑くん、タッチアップだ、谷口くん! バックホームはどうだ‼』
微笑の動きを見ながら動いた谷口。その頭上をレフトからの矢のような返球が掠める。
すっと目の前の山田が身構えるのを察知した谷口。
その谷口の動きを見逃さなかった山田。
『谷口くん、右へ避ける‼ 山田くん、逆をつかれた! だがまだホームには届いていない‼』
「くわっ!」
「うっ!」
左右から伸びた手がホームへ。
途端に舞い上がる土煙。
『これはほぼ同時だ。どっちだ、どっちだ、主審の判定はどっちだ‼』
高々と上がったのは主審の右手。
「アウト~~~~~‼ ゲームセット‼」
『アウト! アウトだ、明訓。何とダブルプレーだ、やった!』
歓声と悲鳴が上がる。
ヘッドスライディングのまま、顔を伏せていた谷口の手をとり立たせると、山田は微笑んだ。
『何と劇的な幕切れでしょう。九回表、明訓が五対三と突き放せば、その裏には墨谷が追いつき、一打サヨナラの場面。レフトフライでサヨナラかと思われましたが、微笑くんの好返球と、キャッチャー山田くんの鉄壁の守備の前に惜しくもタッチアウト』
明訓と墨谷両方の選手が並ぶ
『大いに王者明訓を苦しめました、墨谷高校。一歩及ばすといえども、明訓相手の引き分けはあの剛腕中西球道率いる青田に次ぐ快挙です。そのことは大いに誇ってよいことでしょう。王者明訓、墨谷相手にまさかの大苦戦でしたが、さすがは全国の頂に四度立った王者です。同点に追いつかれるも、サヨナラは許しませんでした。都合六十八度の勝利と一度の敗北に二度の引き分けをもって、高校野球より去ります、山田明訓。ありがとう、明訓五人衆。ありがとう墨谷。感動をありがとう』
「明訓対墨谷の試合結果は五対五の引き分け!」
「「ありがとうございました!」」
互いに礼を交わし、健闘を称え合う。
超満員のスタンドからは万雷の拍手だ。
そんな中、谷口に近づいたのはドカベン山田。
「楽しい試合だった。本当に」
「ああ……」
差し出された手をぎこちなく谷口は握り返す。
「だから、野球を辞めるなよ。もったいない」
微笑みながら告げる山田に、谷口はしどろもどろになる。
「な、なんでそれを……」
「なんや、谷の字。ここで野球は終いなんか? 止めとけ、止めとけ。お前みたいな奴は高校野球がお似合いや。間違えてもプロに来たらあかんで」
「好き好きづらよ。ハッパみたいな奴でも目指すだけはできるづらからな」
笑顔でポンと谷口の肩を叩いてきたのは殿馬だ。
「お互い体格的に恵まれない同士がんばろうぜ」
里中はぐっと拳を握って見せた。
ふるふると体を震わせる谷口。
その後ろで、丸井達は唇を噛み締め、前を向いていた。
「明訓に勝つことはできなかったな……」
「おれが勝負をしなければ。すんません」
「井口だけのせいじゃない。おれだって打つに打てなかった」
「イガラシの言う通りだ。おれ達一人ひとりがもう少し頑張れば、きっと勝てていた筈だ。おれは悔しくてならねえ」
丸井の言葉に、皆が無言で頷く。
「秋季大会に向けて、早速明日から練習だ。春の選抜に出場し、この雪辱は絶対に晴らしてやるからな。見ていろ、明訓!」
谷口から受け継いだ熱い思いを滾らせ、丸井以下新生墨谷ナインの目は既に秋季大会に向いていた。
『本日は明訓高校と墨谷高校の練習試合にご来場いただき誠にありがとうございました。お忘れ物のないようご注意ください。なお、この後に行われます、東京メッツ対阪神タイガースの最終戦をご覧になりたいお客様は入場券の半券を持って窓口までお越しください。特別料金でご覧いただけます』
「ぐわっはっはっはっは! わしの老いぼれ鉄殺しを見たいメッツファンは来るといいで!」
「ああ~、その名も高~き力道玄馬! 今日も見せるかせり上がり! よれよれメッツは地獄行き~♪」
「くそ阪神ファンが! じゃかあしゃい! 秘打鬼殺しで返り討ちにしたるわい!」
「黄金の左~腕! 岩田の鉄っつぁん、にょほほほほほ~♪」
「あ、あかん。ぼさっとしとったが多摩川の一軍連中が誰も来てへんやんけ!」
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最終話 「それぞれの出発」
水島新司先生に見せたい一心で書いてきた作品が、先生が亡くなられた後も何とか続けられてきたのは読者の方々の支えあってこそだと思っています。度重なる誤字報告等感謝いたします。
プレイボールファンの方、ドカベンファンの方と楽しさを共有できたとすれば感無量です。
ドカベン、大甲子園基準のためプロ野球編とは違う球団に入りもしますが、そこはコラボ作品という事で。
墨谷と明訓の引退試合から時は流れ。
新聞各紙にはドラフトの記事が掲載される時期となった。
「ドラフト速報①六球団競合の明訓山田は、西武ライオンズへ。ノムさん、後継者が見つかってよかったかとの質問に、『商売敵が現れて何が嬉しいんや』とボヤキ節。渦中の山田は野村道場に一刻も早く入りたいと意欲を見せる」
『ドラフト速報②山田同様六球団競合の青田の中西球道は東京メッツの岩田鉄五郎が黄金の左腕で一本釣り! 『相思相愛じゃからのォ。こればかりは仕方なかろう』後継者が見つかり、老雄安堵。後進に任せて引退かの質問には『若い奴らにばかり任せていられるか。今年もわしは投げるで』と飄々とうそぶく』
「ドラフト速報③岩鬼、南海ホークスへ。『酔っぱらいはおるし、あのやーまだのそっくりさんはおるし、退屈せえへん球団やで』入団会見でいきなりの発言。一方の盟友殿馬は『盗塁王へのアシストに秘打でも考えるづらか』と、阪急福本の盗塁数増への貢献を口にする。」
「ドラフト速報④小さな巨人里中、その異名通り巨人入り。盟友微笑とのバッテリーにチョーさん、日本シリーズでの山田との対決に期待膨らむ」
明訓五人衆はその進路も決まり、プロという荒波へと漕ぎ出して行く。
「どうしました、丸井さん。新聞なんか持ってきて」
部室で新聞を広げる丸井に、イガラシが尋ねた。
「ああ。なんか谷口さんのことが書いてねえかと思ってよ」
「ったく、そんなことより、選抜の反省をすべきでしょうよ」
「ああん、オメ。そんなこととはどういうこった!」
腹を立てる丸井をイガラシはなだめる。
「おれ達があの人の心配をする必要なんかありませんよ。そうでしょう?」
「ああ、まあそうだな」
自分達が心配しなくても。
ことこうと決めた谷口ならどんなことでも成し遂げるだろう。
「それよりも、近藤のやつだ。まさかあんにゃろうがうちに来るとは思っていなかったぜ。てっきり滑ると思ったから激励してやったのによ」
「またそんなこと言って」
呆れ顔のイガラシは、かりかりする丸井の後についていく。
そして。
東京メッツ国分寺寮から程近い合宿所に朝から怒声が響く。
「ったくだらしねえ。何がショーマンだ! 頭を丸めやがれってんだ!」
スポーツ新聞を読むその男こそ、東京メッツの二軍監督小仏善兵衛が、是非にと頼みコーチとして雇った人物だ。
「ちょっと、武藤さん。戻ってきて早々、相変わらずあんたの声は朝からでかいね」
「おばちゃんも朝から元気なのは変わらねえな!」
寮母に言われ、豪快に笑うのは武藤兵吉。かつて東京メッツに所属していた彼は、ファーム暮らしが十年続き、空威張りの鬼軍曹と揶揄されていた。そんな彼が覚醒することになったのは日本プロ野球史上初の女性投手水原勇気の入団がきっかけである。水原のタマを受けることにより、彼女独自の変化球ドリームボールの開発を思いついた彼は、水原にその実現に向けての特訓を課し、その成功を見届けることなくメッツを去って行った。広島カープに拾われた武藤は、今度は打倒ドリームボールの鬼として、水原の前に立ちはだかり、セ・パの強打者を打ち取ったドリームボールを、文字通り身を粉にし骨を砕いてホームランにし、引退していった。
そんな武藤に声が掛けられたのは三か月前。鉄五郎と五利からの連絡にはいい返事を寄こさなかった彼だが、十年と付き合いの長い小仏に水原勇気以来の逸材が入った、任せられるのはお前しかいないと頼まれ、ようやく重い腰を上げた経緯がある。
「よし。そろそろ、あの野郎を起こしに行くかな」
時刻は六時。そろそろ起きだす頃合いだろう。武藤が立ち上がると、寮母は呆れたようにため息をつく。
「何を言っているんだい、あの子だったら当の昔に出て行ったよ」
「な、なんだって!」
「あんたの早朝練習の記録もこの間破っていたしね」
「あの野郎! 先輩を立てるってことを知らねえのか!」
かりかりしながら、武藤はグラウンドへ向かう。
まだ暗い中だというのに、素振りをする音が聞こえ、武藤はふんと鼻を鳴らした。
「おい、谷口。テスト生入団だからと張り切るのは分かるが、手を抜くことも考えろ。プロにとって怪我は大敵だぞ!」
「は、はあ……」
「まあ怪我を恐れるようなプレイをする奴はろくな選手にはならんがな」
(どっちなんだろう……)
疑問に思いながらも、谷口は素振りを続ける。
「へん。同期の山田と中西が気になんのか。あいつらは別格だ。気にしても仕方がねえぞ」
中西と山田はプロ入り後オープン戦で対決し、大いに球界を盛り上げた。
「とにかく、この武藤兵吉が来たからにはお前にはたっぷりとグラウンドの土を舐めてもらうからな。そのつもりでいやがれ!」
「は、はい!」
素直に返事をする谷口に、武藤は調子が狂うと、ボヤキながらもキャッチャーミットを持ってくる。
「ほれ、打つほうばかりじゃなくてこっちもしやがれ。三塁の方はあの国立がいるから厳しいが、投手なら万年投手不足の我がメッツだ。岩田のじいさんと水原の馬鹿が揃いも揃って開幕から調子を崩しているせいで、火の車よ。下手くそなお前でも十分チャンスはあるぜ」
「お、お願いします!」
ズバン‼
心地よいミットの音に、武藤は笑みを浮かべる。
「よし、その調子でどんどん投げてこい! そして、オールスター明けには一軍合流を目指そうじゃねえか!」
(一軍か……)
じっと右手を見ながら、谷口は思う。
自分の実力が一軍に、プロに見合うか分からない。
だが、一度自分でやると決めたからには、最後まで諦めずにやり通すだけだ。
「どうした、谷口! もっと投げてこんかい!」
「は、はい!」
ビシュッ!
ズバン!
谷口と武藤の様子を離れた所からじっと見つめるのは岩田鉄五郎と水原勇気。
「朝もはよから武藤もようやるな」
「武藤さんがと言うよりは、あの谷口くんがでしょう」
二人の練習の様子に、勇気は相好を崩す。
「こうしちゃいられない。私もランニングランニング」
再び野球の道を歩み出してくれた武藤の姿に勇気は笑みが止まらない、そして、そのきっかけとなった谷口の野球への真摯な思いにも。
「谷口くん、野球は好き?」
我慢できずに声を掛けた勇気に返ってきたのは、
「はい」
迷いのない一言。
「そう。でも、私も野球の好きさでは君に負けないわよ!」
走り去っていく勇気の後を、鉄五郎は苦笑し追いかけていく。
「今年入ったばかりの新人に宣戦布告たあ、水原の野郎。いい度胸じゃねえか」
言いながらも、武藤は大声で笑う。
「女狐とじいさんには負けられねえ。そうだろう、谷口!」
武藤の檄に、谷口は力強く頷く。
ここにもまた、期待してくれる人がいる。
そのためにも。
(よし、がんばらなくっちゃ!)
国分寺の空は吹き抜けるような青空だった。
完
あとがき
構想二十年以上、執筆一年以上をかけたプレイボールⅤS.ドカベンはいかがだったでしょうか。最後の最後まで試合結果には悩みました。墨谷が勝つというシナリオも考えましたが、水島新司先生とちばあきお先生が共著をしたらどうなるか、が本書のテーマでしたので、熟考の結果、引き分けといたしました。作者の思いが互角だったのもありますが、お二人の先生で書かれていたのなら、きっとそうしたのではと思うのです。最強チーム明訓の前に立ちはだかるライバル達を倒していくドカベンと、負けて強くなる墨谷のプレイボール。墨谷が勝っては嘘になるかなと思いました。(プレイボールファンの方、すいません。あくまでプレイボールという話の続きとしたらどちらが面白いかという視点で考えました)無論、途中まではどちらが勝つのか作者自身も分からず、どちらが勝ってもいいように無茶な特訓を墨谷に積ませました。徳川監督、巨人学園、土門達仮想明訓、中西球道。ここまで特訓をして、ようやく互角の勝負になるかもなと対明訓戦にいった次第です。作中の多くに原作の名シーンをオマージュしたものを入れています。拙い文章から伝わるか分かりませんが、是非どこのシーンかなと思って原作を見直してみていただけたらと思います。未読の方は両作品とも一読をお勧めします。
よくあるコラボ漫画のようにキャラを絞り、分かりやすくするつもりは毛頭ありませんでした。両方の漫画の延長線上として考えています。ラストでドカベンプロ野球編とは違う球団に入り、あれ⁉ と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、わざとです。大甲子園時点、ドカベン時点で考えたらどこに水島新司先生は彼らを入団させるかなと考えました。山田が西武に入っているのはもちろんあの球界を代表する大捕手がいるからで、岩鬼が南海に入っているのは水島新司先生が南海が好きなのと、酒しぶきと物干し竿バットのあの人と組ませたかったからに他なりません。里中が巨人なのは大甲子園の里中の夢からです。そして、谷口の進路についてはもうここしかないと作者の我儘を通しました。キャプテン、プレイボールと読めば読むほど彼の異常なまでの純粋さに気づきます。作中、何度も登場人物たちが語るように、どうしてそこまで一つのことを突き詰めることができるのか。何もそこまでしなくてもと言いたくなるほどです。そんな彼を別な言い方で表すとするのなら紛れもなくこう言えるでしょう。野球狂谷口。そう考えた時、最後の場面がすんなりと浮かびました。そして、彼を導いて欲しい人間もまたお気にいりの人物としました。
熱の中書きましたし、書きすぎて頭がパンクしました。読むのが嫌になりそうになった時もあります。そんな時はキャプテン谷口の台詞を糧に頑張りました。才能も素質もない人間はこうするしかない。とにかくがむしゃらにやるしかない、と。そして、やり通してみて残った感情は楽しさです。本当に楽しい一年でした。ドカベンとプレイボールの新たな魅力に気づき、両先生の凄さに改めて震える思いがしました。そして、何より野球というものの奥深さ、楽しさに触れることができました。水島新司先生のように年間何十試合と野球をしている訳でなく、観る専門の身ですが、単行本の参考文献にも書きました野村監督の書籍を読むにつけ、バッテリーがこの場面ではどのように考えているのかということに思いを馳せることができ、より野球が楽しくなりました。
最後に、このような楽しい作品を世に遺していただき、私たち読者に野球というものの魅力を伝えてくださった水島新司先生、ちばあきお先生に深く御礼を申し上げます。素晴らしい野球漫画を本当にありがとうございました。これからも一読者として大切に読み続けていきます。
野球マンガ好きの皆さんへ感謝を込めて。野球狂に乾杯!
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おまけWBC応援 「いつかのその時」
ドワアアアアアアアアア!!
東京ドームの興奮は最高潮に達していた。WBC日本代表の壮行試合の最後。栗山監督が白羽の矢を立てたのはセ・パを代表する黄金世代と呼ばれる者たち。
「彼らとがっぷり四つで戦えてこそ、世界の強豪と渡り合え、世界一を目指せると思います」
その言葉に球界の垣根を越えて集まったのは黄金世代、俗にドカベン世代と呼ばれる者たちだ。
『さあ、大変なことになってきました。ここで、これまでの試合の流れを振り返りましょう。侍ジャパンの先発ダルビッシュのタマを初回に一番岩鬼がホームラン。この流れにのって一気に三得点。好調ダルビッシュを三回で引きずりおろしました、徳川ジャパン。一方的な展開になると思われましたが、五回一番ヌ―トバー、二番近藤と二連続ヒットの後に、三番大谷の一発がライトスタンド上段に突き刺さり、試合を振り出しに戻しました。令和の三冠王村上を意地で三振に打ち取るも、ここで先発の不知火は無念の交代。リリーフとして登板した里中が多彩な変化球で火のついた侍打線を抑えるも、一進一退の攻防の中、六回からはなんとあの球けがれなく道けわしの剛腕中西球道が登板。山田―中西の黄金バッテリーの誕生に東京ドームの超満員の観客が大いに沸きました。ですが、中西。九回表に三番大谷に直球勝負を挑み、ものの見事にそれをセンターに弾き返され一失点。その裏、マウンドに栗山監督は何とこの男をもってきたのです! 百マイルを打ち、百マイルを投げる男。ミスター二刀流大谷翔平! 海を渡り、世界に飛び立ったスーパーヒーロー。今日もショータイムを見せるのか!』
「何が、ショータイムや! 冗談は顔だけにせいや、ほんま」
己の悪態にも笑顔を崩さない大谷に、岩鬼は調子が狂う。
『侍ジャパン、ここが最後の試練だ! 大谷の前に立ちはだかるのは、甲子園四度制覇のあの明訓とそのライバル達です』
しかし、大谷。
一番岩鬼。
「ぬなっ!」
二番殿馬。
「づら⁉」
『ああっと、曲者殿馬、秘打白鳥の湖もリズムが合わず、三振! 大谷翔平。遂に勝利まであと一人と迫りました! ここで迎えるのは大谷と同じく二刀流プレイヤーの真田一球!』
「よろしく!」
楽しそうに打席に入って来る一球はそのままバットを長く持ってみせる。
(ここは勝負か?)
力と力の勝負の世界で生きてきた大谷はそう直感。ストレートを投げるも、するりとバットを短く持った一球はこれをバント。キャッチャー甲斐の送球も実らず、バントヒットで出塁する。
『これは大変なことになってきました、東京ドーム。世界の二刀流大谷翔平。勝利を目前に迎えるは日本球界をこれまでけん引してきたドカベン山田太郎です。数々の記録を打ち立てたこの大打者を打ち取ることができるのか! 注目の勝負です』
(この場面の山田さんは要注意だ)
甲斐からのサインに頷き、大谷、振りかぶって第一球。
外角高めのストレート。
キィン‼
百六十三キロの速球を合わせて来る山田。
(さすがに、ドカベンは伊達じゃないか)
ふうと大きく息を吐き、次は何を投げようかと思いを巡らせる。
(噂通りのタマの速さだな)
二度三度と素振りをし、山田はバットの感触を確かめる。
固唾を呑んで二人の対決に見とれる観衆。
しんと静まり返った東京ドーム。
二球目。
高めから真ん中へ鋭く曲がるスライダー。
キィン!
(なんて角度だ。さすがは大谷)
山田のバットを握る手に力が入る。
三球目。
インコース高めのストレート。
『インコース際どいところ! これを山田見逃しました』
(さすがに簡単には釣られてくれないか)
『大谷―甲斐のバッテリー、ここは何を投げて来るのか。注目の四球目!』
「山田を前にしてなんじゃ、あいつのあの楽しそうな顔は」
徳川が呆れたようにボヤく。
大谷の表情はまるで野球小僧そのものだ。
四球目、外角低めへツーシーム。
山田、これも見逃す。
『さすがの大谷もここは慎重です。そうです、高校時代より数々の記録を打ち立ててきたドカベン山田太郎。後輩達の前に大きな大きな壁として立ち塞がります』
「へっ。その壁を越えようって面じゃねえか。あいつのあの顔は」
球道の言葉に、隣に座った影丸や土門は苦笑してみせる。
カウントツーツー。
『さあ、ここは一球様子を見るか、ここで勝負か。注目の五球目』
「勝負だな」
大谷の表情から、勝負の気配を察する里中。
『大谷、振りかぶっての五球目!』
観客の耳に聞こえてきたのは、
力強く大谷が振りかぶる音。
山田がバットを振るう音。
そして……。
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おまけ 「北の大地へエールを込めて」日本ハム応援本
新庄日本ハムを応援したいと出した本です。
新庄監督就任を聞いて、おいおいトライアウトはどうしたんだと思いながらも、ああやりそうだなと納得せざるを得ませんでした。トライアウトにチャレンジする時の話や、日本ハム時代の話を聞いて、
(この人って、もの凄く野球を好きだよな)
と感じていたからです。努力を表に見せないスタイルも本当にかっこいいなと思っていました。
そんな新庄剛志を可愛がっていたのが故野村監督です。なにせ新庄に言われて、名物のミーティングの時間を短くしたくらいですから。ただの文句ならば野村監督も聞かなかったでしょう。新庄の野球に見せる姿勢と、その人柄ゆえに評価していたのではないかと思います。そして、その野村監督と懇意にし、あぶさんを預けた水島新司先生。先生が存命だったら、きっと新庄監督の誕生を手放しに喜んでいたのではないかと思います。
敵も味方もどんな野球をしてくるか分からない、わくわくする野球。昨年度の監督就任以来、日本ハムの試合を欠かさず観ている身としては、スーパースターズとファイターズの試合は是非とも見たい。ならば書いてしまおうということで、今回のコミケにおまけ本として作成することにいたしました。
勢いで書いていますので、色々とツッコミどころはあると思いますが、温かい目で読んでいただければ幸いです。
日本中を騒然とさせた元メジャーリーガー新庄剛志のトライアウトへの参加。引退し、野球から遠ざかっていた人間に何をできるのか。恩師の野村監督も呆れたその挑戦は、しかし半年後日本ハムファイターズ監督としてその才能を花開かせることとなる。
指導者経験0の新庄BIGBOSS率いる新生日本ハムファイターズはキャンプから話題を独占。ガラガラでの打順決め、車の屋根に乗っての打撃指導、様々な外部講師を招いた際にはあのオリンピックで活躍した室伏広治までいたというのだから驚きだ。
そんな新庄ハム元年は札幌ドームの最終年だったが、『優勝は目指さない』の監督の宣言通りのダントツの最下位。二年目の巻き返しが期待されていた。
一年間のトライアウトを経て成長した新庄チルドレンたち。だが、勝ちきれない試合が続く。大差負けは無くなったものの、一点差ゲームをここぞという時落とし、気づけば定位置の最下位に。エスコンフィールド元年もまたも最下位かと思われた。
ところがどっこい、もっている男新庄はやはりもっていた。
夏場になって各チームの主力に疲れが見え始めると、昨年度の一年間のトライアウトが功を奏し徐々に力をつけた若手が台頭。今や若き主砲として風格を見せ始めてきた万波を中心に順位を上げ、五位。一方の上位陣はスーパースターズが前年度パリーグ覇者のオリックス、ロッテ、ソフトバンクとの激しい首位攻防戦の最中にあり、今や二ゲーム差の間に四チームがひしめく大混戦。この熾烈な争いにさらに拍車をかけたのが、誰あろう日本ハムの躍進である。オリックス、ロッテとの二連戦を二勝一敗で勝ち越すと、その勢いのままソフトバンクに三連勝。ソフトバンクをクライマックスシリーズ争いから引きずり下ろした。
ペナントレースでの首位通過の後に日本一を目指している東京スーパースターズ率いる闘将土井垣監督はこの日本ハムの勢いを警戒。三連戦の初日は何としても落とせないとナインに檄を飛ばしていた。
「それにしても相変わらずここはすごいな。確かにメジャーの球場みたいだ」
マウンドで投球練習を終えた里中が汗を拭いながら、そう呟く。
「ここの球場はよ、人工芝の球場と違って微妙に弾むから厄介づらぜ」
「キキッ」
殿馬とサルの二遊間コンビのぼやきを、横合いから岩鬼が鼻で笑う。
「そら、とんまみたいな下手くそならどこでもトンネルするやろ。サト、今日はサードに打たせえ。不甲斐ない味方の分、わいが働いてやるわい」
バッティング練習を始めたスーパースターズ。その練習をじっと見つめる男が一人。誰あろう、日本ハムファイターズ監督、新庄剛志その人だ。
「さすがに山田君は飛ばすね~」
快音を響かせる山田の背後に立つと、嬉しそうに話し掛ける。
「なんや、新庄はん。今はうちの練習時間の筈でっせ」
「いいからいいから」
「よくあらへんがな! 何で相手チームの監督がわざわざ観に来とるんや!」
「うん、やっぱり振りが違うな。ボールの見極めもいい。なあ、山田君。そのボールの見極めの秘訣をうちの若手に教えてやってよ」
「え⁉」
驚く山田は一球見逃し、新庄の方を見るもにやにやとして微笑んでいるばかりだ。
「ドあほ! どこの世界にライバル球団の連中にアドバイスする奴がおるねん! そんなもんはハムのコーチがいるでっしゃろ! 代打の神様八木はんがコーチやんけ!」
「いいじゃないか、減るもんじゃないんだし。駄目?」
「わいの話を聞かんかい!」
「時間があれば構いませんよ」
「ホント⁉ いや、助かるわ~。今度メールするからさ。後でうちのマネージャーからアドレス伝えさせるね~」
「何や、携帯なのに携帯しとらんのかい!」
岩鬼のツッコミにも動じず、ぷらぷらと手を振る新庄。
「いや、ここグラウンドよ。持って来ちゃダメでしょ」
「正論づら」
「ぐぎぎぎぎぎ」
飄々とした表情で戻っていく新庄監督を前に、ドカベン山田は不思議と笑みが零れた。
(不思議な人だ、新庄さんは。自然と惹き込まれてしまった)
『さあ、いよいよ始まります。運命の三連戦。現在首位オリックスとは一ゲーム差東京のスーパースターズ。本日試合のないオリックスに対し、日本ハム相手に勝利して少しでも差を縮めたいところ。一方の北海道日本ハムファイターズですが、怪我人続出から長い連敗ロードを抜けて、夏場に復調。上位三チーム相手に三連勝。クライマックスシリーズを狙う各チームにとって油断のできない相手です。既にクライマックスシリーズは絶望と言えども、スーパースターズ相手にも勝ち越し、来季へと繋げることができるか。注目の一戦です』
日本ハムの先発は抜群のコントロールを誇る加藤貴之。
「北海道のわいのファンに初回からどでかい花火を見せていくでえ!」
吠える岩鬼への第一球はど真ん中へのストレート。
「何やて!」
テンポよくど真ん中に投げ込む加藤の前に、三振を喫する岩鬼。
「昨シーズン通して四球が十一。加藤のコントロールは折り紙付きだ。悪球はまず望めない」
土井垣の言葉に北が宣言する。
「それでも殿馬なら何とかしますよ」
その言葉通り。
コン。
『曲者殿馬、三塁線へ絶妙なバント! ころころと転がるボールはライン上へ!』
(切れる……)
『これを見送ったサード清宮! だが、ボールは切れない切れない! ライン上にぴたりと止まる~!』
「そ、そんなバカな!」
「秘打G線上のアリア、づら」
湧き上がるスターズファン。続いてのバッターは三番微笑三太郎。
『さあ、続きますスーパースターズ。この微笑を出すと、後に控えるは山田です。ファイターズ、ここで流れを断ち切りたいところです』
微笑への初球。
『あっと、何と強打者の微笑がバントだ! これは完全に意表を突かれたサード清宮! 間一髪一塁はアウトとしましたが、ツーアウトながらランナー二塁で山田を迎えます!』
ドワアアアアア
歓声に沸くエスコンフィールド。だが、土井垣は腕組みをし、唇を引き結ぶ。
「申告敬遠、あり得るな」
里中と加藤の投げ合いだ。一点勝負になるだろうと、微笑へバントの指示を出したが、こうした場面での申告敬遠はあり得る。
だが。
『あっと、ここは四番山田に対して申告敬遠を使いません、新庄監督。あくまでもバッテリーを信頼しているということか』
ざわめくスタンドをよそに、
「まだ一点も取られてないのに、敬遠なんかしたら面白くないでしょ」
そう笑顔でバッテリーに勝負のサインを出す新庄。
『さあ、加藤―伏見のバッテリーはこの新庄監督の期待に応えたいところ。いかにして山田を抑えるか』
初球、インコース高めのストレート。二球目、インコース真ん中へのストレートを山田はファール。
(思ったより内側に食い込んできているな)
三球目、インコース低めへと落ちるフォークボールも、山田、これを振らずカウントはツーワン。
『加藤、山田に対しての四球目、投げた!』
キーン!
『打ったーーーー。アウトコース低めのスライダーを山田、ライト方向へ思い切り引っ張った! ライト万波ダッシュ! これをキャッチして、一塁へ送球!』
「アウト!」
ドワアアア!
『これは驚きだ。ライト万波のレーザービーム! まさかの好送球に山田は間に合わず無得点です。唖然ぼう然スーパースターズ!』
「やーまだ! このドあほ! おんどれでなければ楽々セーフや! 今から球場の周りを走って来てその身体を絞らんかい!」
岩鬼の野次に苦笑する山田に、
「まさか、あれが間に合うとはな」
と里中はミットを手渡す。
「ああ。いい肩をしている」
一回の裏、日本ハムの攻撃。一番加藤豪。
(コンパクトに振りながらも、当たれば飛んでいく。要注意だ)
里中の初球、アウトコースのストレートを加藤豪、バットを振るも、三塁側スタンドに入るファール。
(やはりストレートには強いな。今日の里中のストレートも走りはいいんだが)
山田、ストレートを見せ球に変化球を駆使して、加藤豪を打ち取り、ワンアウト。続いて打席に入るのは二番、松本剛。
(昨年の首位打者が二番。普通ではあり得ない。そのあり得ない野球をやってしまうのが新庄さんの野球だ)
キィン!
『打ったーーー! 里中の初球! 松本剛どんぴしゃりでレフト前! ワンアウト一塁でクリーンナップに続きます!』
ドワアアア!
『エスコンフィールドが沸きます! 三番清宮。悩める大器が新庄監督の下で大ブレーク。キャリアハイの成績を残した昨年度に引き続き、今期は得点圏での打率は三割と好調を維持しています』
「面白いやないか。サト、ど真ん中に投げえな。コータローに花を持たせたれ!」
『あっと、清宮。にっこり笑いながら、レフトスタンドにバットを向けます。これは予告ホームランだ!』
「何やて! 青二才がふざけおって! おい、サト。調子に乗っ取るニヤケ顔に打たれようもんなら一生もんの恥やで!」
(ったく、どっちだよ)
かっかする岩鬼に里中は呆れながらも山田のサインを待つ。
(どうも臭うんだよな)
ちらりと日本ハムベンチの新庄の様子を伺う山田。
(どう考えても予告ホームランはしそうにないんだが)
ホームランと見せかけてのバントを警戒したバッテリーは際どい所を突くも、清宮は手を出さず、ツーボール。
(くさいところには手を出さないか。清宮は選球眼がいい。ここは変化球でストライクを)
里中の三球目はど真ん中からインコースへのカーブ。
「よし」
コツン。
『あっと、清宮バントだ! 松本剛はいいスタートを切っている』
岩鬼は一塁に送球。まんまと松本剛を二塁に進め、歓声の上がるファイターズベンチ。
「ナイスメジャーリーグ作戦!」
「メジャーリーグ作戦⁉」
「映画の話づらよ」
呟く殿馬にああと頷く里中。その脇で、腹を立て、ファイターズベンチを睨む岩鬼。
「せこいことをしおって! クリーンナップなら打たせんかい!」
「おあいこおあいこ」
笑みを見せる新庄監督に対し、ぐぎぎぎぎと岩鬼は歯ぎしりをする。
『してやったりの清宮幸太郎。岩鬼に向かって笑顔を見せます。それにしても、新庄監督。得点圏打率の高い清宮にまさかのバント!』
(仕掛けてくるとは思ったが、まさかツーボールからバントとは)
『そして、先ほど凄まじい肩を見せた万波が打席に入ります。ファイターズ。ここはツーアウトながら一打得点のチャンスです』
ぱっぱと何やらベンチからのサインを出す新庄に、意外な顔をしながら頷く万波。
(何のサインだ……)
(とにかく、ここは初球から全力でいくぞ)
ガバアアア!
ビシュッ‼
『里中、初球から落とした! だが万波これにタイミングを合わせている!』
カキィ‼
『打球はライトへ。ライト山岡下がる下がる、いや、入った入った!』
「何っ!」
『ファイターズ二点先制! 主砲万波に一発が出ました!』
「すげえな、まじで」
ホームインした万波がベンチに向かってそう呟くと、Ⅴサインを見せる新庄。
「ま、まさか初球シンカーを読んでいたのか?」
「という表情だよ、あの新庄さんの表情は」
「バカな、どうやって! サインを盗まれたのか」
「新庄さんに限ってはそんなことはないだろう。恐らく勘なんじゃないかな」
「勘⁉」
「なんとなく来そうとかっていうのが分かるらしい」
「おいおい」
呆れるスーパースターズバッテリー。だが、さすがに常勝明訓を支えてきた小さな巨人は強い。五番マルティネスを打ち取ると、最少失点でこの回を切り抜けた。
二回三回と両チーム無得点に終わった四回。スーパースターズがついに牙をむく。
先頭の殿馬に対し、四球を出した加藤を交代。続けてマウンドに立ったのは何と伊藤大海。
『驚きました。この試合、どうしても勝ちたいということでしょうか。第二戦先発と思われていた伊藤をここで登板させてきました、新庄監督』
伊藤、コースを巧みにつく投球で微笑を追い込むと、アウトコースにスローカーブ。これを微笑が打つも、サードゴロ。殿馬の好走塁で二塁はセーフ。ワンアウト二塁で再び山田を迎える。
『山田を迎えて、伏見、マウンドに向かいます。得点圏打率は五割を超える山田です。ここは慎重に攻めたいところ』
ベンチを見る、日本ハムバッテリー。新庄は頭を掻き、傍で建山コーチが苦笑いを浮かべる。
(くさい所をついて四球……。いや、違うな)
素振りをしながら、山田は考えをまとめる。
(建山コーチは投手出身。投手の気持ちを第一に考える。新庄さんと意見が食い違ったということだろう。だとすれば、この場面は勝負だ。そして、投げるのは……)
『伊藤振りかぶって投げた! あっと初球から山なりのスローカーブ!』
キィー―ン!
「え⁉」
『打った―――。レフトスタンドへ一直線! 山田、初球のスローカーブを読んでいた! スーパースターズ試合を振り出しに戻す山田のツーランホームラン!』
ダイヤモンドを一周する山田を驚愕の表情で見る伏見。
「初球にスローカーブ。意表を突いたと思ったのに……」
四回裏日本ハムの攻撃。この山田の一発に衝撃を受けたのか裏の攻撃はマルティネスにヒットが出る者の野村が凡退し、四人で終わる。
明けて五回。前の回の勢いをそのまま繋げていきたいスーパースターズは七番山岡が凡退するも、八番足利がバントヒットで出塁。すかさず、二盗を決める。これに対し、日本ハムバッテリーは落ち着いてバッターとの勝負に集中。九番サル、一番岩鬼を三振に打ち取り、ワンアウト二塁の危機を脱する。
その裏。七番奈良間、八番伏見と凡退した後の九番五十畑、三塁前に上手く転がすバントヒットを決め、出塁。
『さあ、スーパースターズに足利がいるのならファイターズにはこの男、五十畑がいます。中学時代、東京オリンピック陸上代表のサニブラウンに勝った男です。その俊足は折り紙付き! スーパースターズバッテリーここは十分に警戒しています』
(問題はどこで走ってくるかだ)
里中は牽制球を投げながら、横目でじっと一塁の五十畑のリードを観察する。
(リードは普通だが……)
(里中、ここはストレートで)
(えっ。いいのかよ)
バッターはストレートに滅法強い加藤豪だ。里中は変化球の方がいいのではないかと再度サインを出すが、山田は頷かない。
(それこそ思う壺だ。五十畑も加藤がストレートに強いのは分かっている)
『さあ、サインの交換は終わったか。加藤に対して、里中の第一球……。あっと、五十畑、走った走った。初球から盗塁!』
バシィ!
山田、キャッチするや否や矢のような送球をセカンドの殿馬のグラブ目掛けて投げる。
「アウト!」
『山田、五十畑の盗塁を読んでいました。セカンド殿馬のグラブへストライク送球! これではいかに俊足の五十畑でも間に合いません!』
(それにしても何て足の速さだ。変化球で入っていたら決められていたかもな)
六回、七回と両軍走者を出すものの、追加点をとることができず、回は進み終盤八回。
『微笑、マルティネスとそれぞれ単打は出るも、バックの守備に助けられ、ここまで同点。一点を争う好ゲームを展開しています、両チーム。八回の表、スーパースターズは一番の岩鬼からの好打順。しかし、ファイターズ新庄監督、ここで宮西を交代させ、今シーズンストッパーとして定着した守護神田中正義をもってきました。この采配が吉と出るか凶と出るか』
「何が、正義執行じゃい。そのにやけ面に逆にわいが一発かましてやるわい!」
カツーンカツーン。
(笑えと言われたから笑っているのに)
緊張をほぐすためにかけられた新庄監督からの言葉を忠実に守っているだけの田中正義は内心もやもやしながら初球ストレートを投げるも、タマが高めに浮き、岩鬼にとっては絶好の悪球となってしまう。
「しまった!」
気づいた時には既に遅し。
グワラゴワラガキ――――ン‼
打球は快音を響かせながらレフトスタンド上段へと突き刺さる。
『田中正義痛恨の失投! 何と岩鬼に対しての初球ストレートが浮いてしまいました。浮いたそのタマは岩鬼にとっては絶好球! 岩鬼、勝ち越しのソロホームラン!』
やんややんやと盛り上がるスーパースターズのファンに向かって、ぷらぷらと手を振る岩鬼。
「可愛いファン共や。主役が主役の力を出しただけやというのに」
岩鬼にまさかの被弾を喫した田中正義だったが、殿馬をファーストゴロ、微笑を三振に打ち取ると、四番山田を警戒し過ぎて四球で歩かせるも、続く土井垣を打ち取ってチェンジ。最少失点で何とか切り抜ける。
八回裏、ファイターズは五十畑に代わって江越が打席へ。これを見た、岩鬼は野次を飛ばす。
「江越はん、バットに当たるんでっか!」
「おい、岩鬼止めろよ」
里中に諭されても、岩鬼は悪びれもしない。
「本当のことや。ロマン砲なんて言われたかて当たらんと意味ないで」
「少なくともあいつには言われたくないんだがな……」
打席で苦笑する江越に、かちんとする岩鬼だが、二塁からため息が聞こえる。
「ストライクにまるで掠らない誰かさんよりは少なくとも当たっているづら」
「何やと! いくらバットに当たったかて、ホームランにならな、意味ないやんけ」
(やれやれ……)
二人の言い争いをよそに、平常心で投げた里中だったが。
カキ―――ン!
「ぬなっ⁉」
「!」
『高々と上がった打球はそのままスタンドへ! 出た、出ました。九番江越、左中間へのホームラン! 里中、まさかの被弾! 新庄采配ズバリ的中! 代わったばかりの江越がいきなりの同点打です! 監督自ら出迎えています!』
江越の活躍は止まらない。同点としたその次九回の表、六番星王のセンター越えの一打を何とダイビングキャッチする好守備を見せ、裏の攻撃に望みを繋ぐ。
しかし、スーパースターズ、里中が踏ん張り九回裏無失点。白熱の勝負は延長戦へと突入する。
『三対三。がっぷり四つで組み合っています、スーパースターズとファイターズ。今シーズン怪我人が続出し、優勝を目指しますとのその言葉を実現することができなかった新庄監督。ですが、その目は来季を向いています。消化試合にするつもりはありません。オリックス、ロッテ、ソフトバンクを相手に見せた粘りをスーパースターズ相手にも見せることができるか。一方のスーパースターズ。混沌とする優勝争いに向けて、ここは落としたくはないところです。ここまで里中を引っ張って来た土井垣監督、この後はどうするつもりでしょう』
「何、投げ切りたいだと?」
里中の言葉に土井垣は眉を顰める。
「はい。日本ハムとの三連戦。是が非でも負けられません」
「馬鹿野郎。高校野球気分は止めろ。後がない連中と違って俺たちはこの後のクライマックス、日本シリーズと考えにゃならん」
「そ、それは……」
「とにかく、緒方に交代だ。北、頼む」
「は、はい」
ベンチからブルペンへと北が連絡をとる横で、里中は無念の表情を浮かべる。
(新庄野球の勢いに里中の闘争心に火がついているんだ)
十回表。ファイターズの投手は田中正義から代わって玉井。その玉井、先頭打者の岩鬼を三振に打ち取ると、二番殿馬を迎え、怪訝な表情を浮かべる。
『おっと、これは何だ、二番殿馬。いきなりのバントの構えです』
(バントヒット狙いか……。確かに殿馬は足が速い)
前進守備をとろうとするサード清宮に、飯山コーチが声を掛ける。
「幸太郎!」
(あっとっと。強打も気をつけろってことか)
慌てて中間守備をとる清宮。これに対し、バントの構えをしたままの殿馬へ玉井の第一球は外角へのカットボール。これを殿馬は振らず、ボールとなり、清宮は混乱する。
(まるで振る素振りを見せない。何なんだ?)
続けて、二球目。ど真ん中へのストレート。これまた、見送った殿馬に玉井―伏見のバッテリーも頭を悩ませる。
(まるで打つ気なし。四球狙いって訳でもあるまいし)
(あるぞ、セーフティー)
(了解)
伏見のアイコンタクトに、頷きで清宮は返す。
『さあ、カウント1ボール1ストライク。ここまで全く動きを見せない殿馬ですが、何が狙いか。玉井、第三球投げた!』
途端にバントの構えを見せる殿馬に、清宮は猛ダッシュを見せるも、
「づら」
プッシュバントに切り替えた殿馬の打球はその頭上を越えていく。
「くそっ!」
清宮、慌ててボールに追いつき、一塁へ送球するもセーフ。
「秘打ソーラン節づら」
打った殿馬は飄々とするが、スーパースターズファンの歓声は収まらない。
三番微笑。セカンド後方へ抜けるかという当たりを放つも、これを加藤豪に代わって守備についた上川畑が好捕。流れがファイターズに傾いたかと思われたが。
キィー―ン‼
『打ったーーーーー。この男にはプレッシャーというものがないのか。延長十回の表、山田、勝ち越しのツーランホームラン。今日二ホーマー。それにしても頷けません。この場面での山田勝負。どうして申告敬遠をしないのか』
「監督……」
渋い顔を見せる建山コーチに、新庄は淡々とその肩を叩く。
「分かるよ、言いたいことは。そりゃ、敬遠すれば勝てる。でも成長しないでしょ。こんな美味しい場面、そうそうないやん。こういった場面で抑えられる投手がいなけりゃ、来年優勝できんでしょ」
十回裏。ファイターズは五番マルティネスが出塁すると、これを六番の野村が緒方のストレートに上手く合わせて、一点差にまで詰め寄るも。
『落としてきたーーー。伏見のバットが空を斬る。山田、ここは強気のリード。三塁ランナーいるにも関わらず、逆にフォーク攻め! 伏見、意表を突かれました。ファイターズ後一歩及ばす。五対四で試合終了!東京スーパースターズの勝利です』
「くそっ!」
悔しそうにベンチに戻る伏見。そして、それを温かく迎えるファイターズナイン。そして、敗者はさっさと引き上げるとばかりに姿を消す新庄。その選手たちの奮闘に拍手を送るファイターズファン。
(新庄さんはすごいチームを作ろうとしている。負けたというのに、暗さが全くない)
思えば、十三連敗の中でも選手たちは試合を投げず頑張っていた。昨年度一年行ってきたBIGBOSS野球の成果だろう。
(あの野村監督も新庄さんには一目置いていたと聞く。野球が大好きだったあの人が認めるくらいだ。新庄さんも何を置いても野球が好きなんだろう)
見た目の派手さや突飛な言動に惑わされがちだが、その奥底にある野球への真摯な情熱は確かだ。
(選手もそれを分かっている。素晴らしいチームを新庄さんは作り上げようとしている。来季は要注意だな)
ぐるりと、山田はエスコンフィールドを見渡し、うんうんと頷く。
(日本一の球場で日本一になる。新庄さんならあり得るかもしれない)
いや、楽しかった。楽しかったです、東京スーパースターズ対北海道日本ハムファイターズ。想像するのがまず楽しいのと、勝手に選手、監督が動くこと動くこと。これもずっとファイターズを観てきたからかもしれません。一点差で負けるのが多いとか球団ワーストに近い十三連敗とかどうでもよかったです。選手がのびのびと楽しくプレイをし、いい試合の時には本当に手に汗握る。昨年のヤクルトとの交流戦は私の中では日本シリーズかと思うくらい楽しかったです。そうした試合を作れる選手、その選手たちに溢れんばかりの愛情を注ぎ、育てようとしている新庄監督の野球愛には本当に感心するばかり。これからも応援していきます。
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夢の対決その壱 白新高校対横浜学院~神奈川最強の投手はどちらか~
あくまでもおまけとして出したため短いです。
ドカベン山田の明訓と当たる前に両者が当たったらどうなるか考えました。
神奈川県が全国に誇る好投手不知火と土門。作中では叶う事の無かった二人の投げ合いが高校時代に実現していたらどうだったのか考えてみた。
舞台は山田二年次夏の神奈川県予選。東海を破り決勝進出を決めた明訓。その前にどちらが立つのか。試合開始の整列の段階から無言でお互いを見つめ、心中闘志を燃やす不知火と土門。
一回表、不知火が横浜学院打線を三者三振に抑えれば、その裏土門もお返しとばかりに白新打線を三者三振に切って取る。
壮絶な投手戦の幕開けを予感させる一回の攻防。互いの実力を認め、内心さらに気合を入れる両者。
二回表、
「くっ。なんて重さをしてやがる」
土門の超剛球に不知火が舌を巻けば、
「何というタマのノビだ」
土門もまた、不知火のタマのノビに表情を曇らせる。
力対力。不知火対土門。好投手同士の投げ合いは九回まで続き、九回表白新の攻撃。二番中村がユニフォームをだぶつかせて死球で出塁。これを三番村雨がバントで送り、ワンアウト二塁。
「この場面、不知火さんならストレート狙いなんじゃないかな」
その谷津メモで不知火の狙い球を分析した谷津は敢えて変化球勝負を挑み、ツーストライク。
(それでも最後はストレートだろうよ)
そう確信する不知火の裏をかくように土門が投げたのはシンカー。これを谷津が捕れず後逸。不知火は振り逃げで一塁、中村は三塁へ。一、三塁の場面で五番川又が意地でセンターフライを放ち、タッチアップから一点先制。
白新の勝利かと思われた九回の裏。これまで安牌と見下していた三番谷津が山田ばりに 不知火の配球を読み、何とホームラン。次の土門でサヨナラかと思われたが、不知火、ここは意地を見せ土門を打ち取り、両者の意地とプライドを賭けた争いは延長戦へ突入する。
闘将不知火対鉄人土門。両者の投げ合いは延々と続き、観客でさえ
「両方決勝進出でええやないか。明訓に二試合やってもらおうや」
と言うような始末。結局十八回を終えて、再試合でも決着はつかず、前代未聞のくじ引きで上位進出校を決めることになる。
迎えた運命のその日。静かにくじを引く土門に対し、不知火はまるでその内心を露わにするかのように、乱暴にくじをつかみとり、役員の制止も聞かずに封を開いた。
「当たった! 俺だ。俺達白新が明訓と戦うんだ!」
その黄金の右腕を高々と上げて、叫ぶ不知火。一方土門はその不知火の様子に嘆息する。
(打倒明訓への執念。俺よりも不知火の方が上だったということか)
闘将不知火。打倒明訓に心血を削り、執念を燃やした男は自らの手で明訓との勝負への権利を手繰り寄せた。
明訓との再戦叶わなかった土門は、しかしこの結果に納得し、静かに会場を去って行った。
総評:地力で言うのならば長打力のある谷津がいる分、横浜学院の方がリードしているように思えるが、こと不知火の対明訓、対山田に賭ける執念は全国の高校球児の中でも群を抜く。土門や谷津相手でも底知れぬその力を存分に発揮するに違いない。一方、白新が土門を打てるかと言えば、こちらも全く打てるイメージが浮かばない。二人の投手戦は延長に入る可能性が高く、味方のエラー等の決着がない限り、恐らく引き分け再試合となるのではないか。
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夢の対決その弐 甲府学院対クリーンハイスクール
山田を追って野球の世界へと入った両雄が激突する。
~砲丸投法対背負い投法~
関東大会で共に明訓と当たり敗れた甲府学院とクリーンハイスクール。両者がもし明訓と戦う前に激突していたらどのような結果になっていたのか。
その日、銚子球場はただならぬ雰囲気に包まれていた。くしくも共に山田を追って柔道を捨て野球の世界へと入った二人、旧知の仲でもある賀間と影丸。二人のうちのどちらかは山田率いる明訓と相まみえることなく姿を消すことになる。
「まさか、お前もとはな」
苦笑する賀間に、
「ふん。考えることは同じか」
不敵に笑って影丸は返す。
賀間がそのコートを脱ぎ捨て、ダンベルを持った姿を露わにし、クリーンハイスクールベンチにどよめきが走る。
「あの、重いダンベルをずっと持っていたのか」
「化け物かよ」
だが、浮足立つ味方に対し、中学時代から賀間を知っている影丸は動じない。
「賀間ならあれくらいはやる。驚くようなことじゃない」
「へっ。プロレスラーになろうってんじゃあるめえし」
そう軽口を叩いた監督の徳川だったが、一回表。出し惜しみせずに砲丸投法を見せる賀間に対し、稲月、田尾が連続で凡退。
「何、鉛ダマに見えるじゃと? そんなバカなことがあるかい!」
戻って来た稲月達の言葉を徳川は否定するも、影丸もまたバットを弾かれ、嫌な記憶を呼び覚ます。
「まるで、あの土門じゃねえか」
神奈川きっての剛球投手土門。その重いタマの前に明訓打線はバントすら満足にできずに苦戦を強いられた。今、また影丸もタイミングを合わせるも、そのタマの重さにピッチャーゴロになる始末。
二回表。今度は豪打フォアマンが打席に立つ。山田以上と称される怪力を誇るフォアマンを前にし、ぐっとボールを握り込む賀間。フォアマン、緩めの鉛ダマをジャストミートするも、
ガキィ‼
バットをへし折られ、打球はセンターへのフライ。その裏、影丸もまた迎えた打者賀間に対し、必殺の背負い投法で勝負を挑む。
「そんな構えで俺の背負い投法を当てられるか!」
バントの構えを見せる賀間は影丸の背負い投法を二球見逃し、その球のノビに驚きながらも三球目はきっちりと当てるが、これが投手影丸の正面を突くピッチャーライナーとなる。
どちらが山田明訓と戦うのか。緊迫した投手戦が続く中、クリーンハイスクール監督徳川が策を弄す。
「鉛ダマなぞと言っても、しょせん握力が無くなれば、同じことよ」
そう嘯きながら、待球作戦やバント作戦を駆使して、賀間の鉛ダマを封じるためにとにかく球数を投げさせようとする。この徳川の策に対し、賀間は同じ握りで速球を投げ分け、終盤ヒットが出てきたクリーンハイスクールに対抗。 甲府学院もまた、賀間が疲れの見えた影丸の背負い投法を強引に打って出塁するが、後が続かず得点はならず。両者0対0のまま最終回の攻防へ。
力投を続けてきた賀間だったが、ここで鉛ダマの弱点が露わになる。回を重ねるにつれて、その自慢の握力に陰りが出てきたのだ。九回表。影丸が力負けせずヒットを打ち、出塁。さらに、打席に入るは、クリーンハイスクールの四番、黒い弾丸ハリー・フォアマン。
「山田と闘わずして去れるものか」
己が意地と気迫を込めた賀間の一投。これを金属バットに持ち変えたフォアマンはバットを押されながらも強引にライト方向へ弾き返す。ライト長谷川からの返球を受け、捕手佐藤が影丸をタッチしようとするが、影丸、これをひらりと躱してホームイン。その裏の甲府学院の攻撃は三者凡退で終わり、一対〇で試合終了。明訓の相手はクリーンハイスクールとなるのだった。
解説: 明訓と当たる前に甲府学院の賀間とクリーンハイスクールの影丸が対決した場合、共に中学時代に面識があり、打倒山田を目指しているという点で賀間対影丸の勝負は一点差を争う好ゲームとなると思う。だが、いかんせん賀間以外貧打の甲府学院と豪打フォアマンと徳川という名監督二人がいるクリーンハイスクールではチーム力に差があり過ぎる。通天閣戦同様甲府学院は賀間が孤軍奮闘し善戦するとはいえ、クリーンハイスクールの勝利は動かないだろう。
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夢の対決その参 土佐丸対室戸学習塾~兄弟対決~
土佐丸対室戸学習塾は実は夢の対決でも何でもない。実際に山田三年次夏の高知県大会決勝で両校は対戦し、室戸学習塾が勝者となって、高知県代表として甲子園に出場した。
だが、その試合内容そのものは伝わっておらず、一体どういった試合展開だったのか不明である。犬神と武蔵を擁し、高知代表の定席にいた土佐丸を、どのようにして新生室戸学習塾は破ったのか。考えてみた。
エース犬神と豪打犬飼武蔵を擁する土佐丸は予選から一方的な試合運びで対戦相手を圧倒。一方の室戸学習塾はこれまで全て一点差で勝ち上がってきており、下馬評では完全に土佐丸が有利であった。
「おいおい、弟しゃん。呑気にじゃんけんなんかしてるぜ」
打順決めのじゃんけんをしている室戸の面々を犬神が指差し、武蔵はため息をつく。
「知三郎の奴が野球をやるのも驚きだったが、まさか俺達と当たることになるとはな」
「にしても、あいつらあれで本当に野球ができるのかよ」
「よっぽどラッキーに恵まれていたんだろうぜ」
猛練習につぐ猛練習を重ねる土佐丸ナインにとってがり勉集団の室戸学習塾が決勝に上がってきたのが不思議でならない。普段の土佐丸ナインならもっと悪口雑言を飛ばしそうなものだが、武蔵の手前それ以上言う事はしない。
「とにかく試合が始まったら俺の弟だということは忘れろ。あいつもそれぐらいの覚悟はできている」
「へいへい」
武蔵の言葉に犬神は頷きながらも、
(あんな連中のどこに覚悟があるんだか)
心底馬鹿にした表情でマウンドに上がり、打席に入る犬飼知三郎を見ながら、キヒヒヒと笑い声を上げる。
(はてさて。噂の弟しゃんの実力はいかに)
犬神、インコースへストレート。知三郎、打つ気も見せずこれを見送る。続いてアウトコースへの変化球。これまた見送り、ツーストライク。ただ突っ立ったままの知三郎に、思わず武蔵が声を上げる。
「おい、サブ。ただ立っているだけじゃなくて振ったらどうなんだ」
「別に、狙いダマを待っているだけさ」
そう嘯く、弟を驚かしてやろうと、武蔵のサインはフォーク。
(やれやれ、実の弟に対して厳しいこって)
対明訓のために鉄アレイで鍛えた己のフォークに絶対の自信をもつ犬神はため息をつく。初回からフォークを見せて、格の違いを室戸の連中に教えようというのだろう。
犬神、振りかぶっての一球。ストンと鋭く落ちるフォーク。だが、これを読んでいたの如く知三郎のバットが一閃。
レフトスタンドへと飛び込むホームランとなる。
「やった! いいぞ、知三郎!」
試合に勝ったかのように喜ぶ室戸学習塾ベンチ。対照的に土佐丸バッテリーは表情を曇らせる。
(まさか、サブの奴がな……)
(やるじゃんよ、弟しゃんよ)
決勝まできたご褒美の一点。そう思っていた土佐丸ナインの表情が、試合が進むにつれて段々と焦りの色を帯び出す。三番武蔵、四番犬神を擁する土佐丸はこの決勝までほぼ毎試合二桁近い得点をあげている。そんな彼らが室戸学習塾相手にゼロ行進。知三郎の精密なコントロールとその大きく曲がるカーブの前に凡打の嵐。武蔵、犬神も上手く狙い球を外される。
だが、六回。意地を見せた武蔵が三塁打を放ち、続く犬神が初球スクイズ。勢いのついたダンプカーと化した武蔵が捕手棟方を弾き飛ばそうとする瞬間、知三郎は棟方に避けるよう指示。何と、捕手がホームインを見送るという珍事が発生する。
「ば、バカな! どういうつもりだ!」
信じられないと己を見る武蔵に、知三郎は内心舌打ちする。
(ただでさえぎりぎりのうちで貴重な捕手なんだ。殺人野球なんて馬鹿なことでケガをさせる訳にはいかないだろ)
かくして一対一。同点のまま迎えた九回の表。
一番犬飼知三郎。ここまで三打数一安打。初回以降は抑えている土佐丸バッテリーだが、武蔵のリードが読まれ、打ち取った二打席もいい当たりをされている。
(どうも、相性が悪いらしい)
と武蔵は犬神にサインを任せる。その犬神、スタンドに来ていた小次郎を見つけ、武蔵に顎をしゃくって見せる。
(あ、兄貴)
じっと兄小次郎を見る武蔵。一方、知三郎はちらりと小次郎の方を確認しただけで、犬神の方を向く。
(やれやれ。元監督しゃんのお出ましとはな)
無様な姿は見せられない。殺人野球の申し子犬神は、何と知三郎相手に死神ボールを投げる。
「犬神!」
サインとは異なり、知三郎の手元を狙ったボールに武蔵は思わず叫ぶ。だが、打席の知三郎、これを読んでいたのか、ぎらりと目を光らせると犬神の足元を狙って、強烈なバントヒット。
「何っ⁉」
ボールが左足に当たり、犬神はその場に倒れる。その間に知三郎は俊足を飛ばして二塁へ。
「まさか……」
二番朝永のツーストライク目。知三郎が三盗。捕手武蔵、これを読み、三塁へ送球するも、サード神大の足を刈る強烈なスライディングでセーフ。
「サブ、あいつめ……」
自分達の専売特許である殺人野球すら使いこなす知三郎に、冷や汗を流す武蔵。
さらには朝永への三球目。早めのスタートを切った知三郎に対し、犬神は投球途中でウエスト。このウエストに食らいつこうとする朝永との影になり、本塁突入する知三郎が見えず、土佐丸は二失点目。その裏、犬神を知三郎が三振に切ってとり、ゲームセット。
「まさか、サブの奴にこのおれがな」
「キヒヒヒヒヒ。精々明訓を苦しめてもらおうじゃねえか」
甲子園初出場に喜びの声を上げる室戸学習塾を尻目に、敗者はすぐ去るのみと、さっさとグラウンドを後にする武蔵と犬神。
野球王国高知の兄弟対決は弟知三郎が制することとなった
総評:がり勉集団の室戸学習塾と明訓と死闘を繰り広げた土佐丸では明らかに土佐丸の方が有利なことは誰が見ても分かる。ただ、名伯楽徳川家康が監督でいることから、今回想像した以外にも武蔵、犬神に対し、様々な策を弄して勝った可能性は大いにある。また、知三郎が相手の心理を読むのが上手いということから、兄弟である武蔵はほぼ完ぺきに抑えられたであろうことは間違いない。いずれにしても、チーム打率が二割台と言う貧打の室戸学習塾である。決勝でも、知三郎以外はまともにヒットを打つことはできなかったと考えてしかるべきだろう。
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