無明の獣に孔穿つ (はたけのなすび)
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1話

こんばんは、こんにちは、おはようございます。

10話くらいで終わります。

では。


 

 別に、あなたのためではない。

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 『未来予知』は、はっきり言って外れな術式である。

 何でどうして便利じゃん、と無邪気に言い返されるたび、わたしはこう答える。

 あれは、毎回毎回戦うたびに、超高難易度のリズムゲームをやらされるようなものだと。

 

 リズムゲームではどこに次が来るのかわかっても、プレイヤーが動けなければどうしようもない。あれと同じだ。

 上からぽんぽん降って来るアイコンは見えているのに、体が思うように動かずGAME OVERなんてこと、音ゲーを嗜めば人生に一度はあるだろう。

 わたしの場合、そのGAME OVERテロップで生命がオーバーになる。

 

 秘匿死刑寸前で五条悟に拾われ、呪術高専の在学中に準一級術師となれても、わたしにとって未来予知というのは、リズムゲームの如き面妖な術式だ。

 何せただ『視える』だけ。

 術式を発動した途端、世界が二重に重なり現在と未来にぶれて動き出す。ただそれだけだ。

 たとえば目の前に、大口を開け突進しこちらを丸呑みしようとしている呪霊がいたとする。

 術式を発動した瞬間に、現実の呪霊と重なった呪霊の未来像が幻影として現れ、背後から尾を伸ばしてこちらの背中を刺そうとするのが視えるのだ。

 だからまず横に跳んで突進と刺突の双方を躱し、地面から伸ばされた尻尾に弾丸を叩きこんで消し飛ばす。

 本命の尾での攻撃を潰されたことに呪霊が動揺したその隙に、倒すのだ。

 先を視て得られた最適解通りに体を動かすのは、わたしである。

 

 対応を誤れば、未来視の視界と現実の中で二度己の死を体験する羽目になるのみ。

 垣間見た未来の情報に即応できる身体能力と反射神経、状況判断能力がなければ、『未来予知』の術者など、ただの呪霊の餌だ。

 

 それも当然。

 未来予知という術式の本命は、たかが数秒数瞬先の未来を視ることではない。

 人の世に災いを齎す戦争、天災、疫病、呪霊の大量発生などなど、多くの人間が死ぬはるか先の未来を視通し、人の世の安寧を守るのが、本来意図されていた使い方であった。

 そのために用意されたのが特級呪物『くだんの木乃伊』と、特級呪物を飲むように『調整』された人間一人。

 極めて精度の高い未来視を行う妖怪、仮想怨霊の体から作った呪物を人に食わせ、人に『くだん』の術式を使わせようとしたのだ。

 

 結果、試みは諸々でしくじり、呪物の器の子どもは死にはしなかったものの、人を人たらしめる何かを失い、魂が砕けて呪霊と混ざり、得た術式も型落ち劣化品となった。

 それがわたしだ。

 呪物を飲む前のこの体とわたしは、完全に別人な自覚がある。

 いつかに読んだ物語で、転生した主人公があとから記憶を取り戻し、それまでの人格を塗り潰してしまう話があったが、あれに近い。転生系主人公の業だろう。生まれさせろと、強請り集った覚えはなくとも。

 

 娘が呪物に適合できるように、孕む前からも孕んでからも調整し、生まれてからは彼らなりに愛情を込めて育てた両親は、別人のように心が変わり果て、額に鬼の如き角まで生やした娘を見て、発狂一歩手前まで行った。

 めりめりと、額の肉を突き破って生えた二本の黒い角は、彼らにとって娘が人でなくなった呪印となった。

 その角は今でもわたしに生えていて、わかりやすい異形の証として、とても目立っている。

 

 彼らは己らの娘が呪物に耐えられぬ可能性も、考えておくべきだったと思う。

 この子ならば大丈夫という根拠のない思い込みが、人としての娘を破滅させた。

 

 自らの手で娘が生贄の祭壇へ歩む道を整えておいて、呪力を高めるために言葉まで奪っておいて、いざ娘が似ても似つかぬ異形の角と心を持つ者と成り果てれば、前後不覚に陥るほど苦しむというのは、愚か極まりない。

 道具であるならば徹底的に道具として扱えばよいのに、半端に愛などを注ぐから、無様を晒す。

 

 かくて生まれたわたしの名前は、犖だ。犖と書いて、『らく』と読ませる。画数が多くて面倒な名前だ。

 名前の意味は、まだらの牛。ぴったりだと思うから、呪物を食べる前と後でも、名前を変えはしなかった。

 わたしは今でも八咫の当主とその妻を徹底的に軽蔑しているし、嘲笑っている。親の愛とやらから、どうしようもない呪いを生んで自らを呪った夫婦を。

 

 今でも彼らは、わたしの死を望んでいる。

 彼らは、呪いに食われた娘を解放してやりたいと願っているらしい。

 彼らの娘の体にわたしという別の人格が宿り、動かしているのも真実で、娘の姿をした違う何かを消したいと思うのも無理からぬことだろう。

 そうすればせめて、弔いはできるのだ。

 その親の願いを、聞き届けてやる気などない。

 

 親の愛という呪いで娘を縛り、呪いを食べさせたのは誰であったか、その糞の役にも立たぬ後悔を抱いて生きながら考えろと嗤ってやる。

 わたしが生きているだけで彼らは苦しむから、だから、殺されてやらない。

  

 わたしは、人が嫌いなのだ。

 

 人と呪霊の魂で心が斑になっているからか、基本的に人嫌いである。

 人の群れが動くのを見るのは物珍しくて好きでも、個体と深く関わり合いたいと思えない。

 人の形をしている己も嫌いな、偏屈者である。

 

 しかし、失敗したとはいえ呪物の器となった時点でわたしには人を守る呪術師になるか、死刑になるかしか道がなかった。

 偏屈で人嫌いであっても死にたがりではないし、己が生きる時間の分だけ、八咫の当主とその妻が後悔を抱いて苦しむことも、知っていたから、死なない道を選んで呪術師となった。

 我ながら捩じれた性根だが、呪物に宿って人間と混ざったのは呪霊の意識なのだから、捻じれもする。

 

 とにかく、わたしを『拾った』五条悟という呪術師はわたしのどこかを見て、人側だと決めたらしかった。

 彼の力のお陰で特級呪物の器であるわたしに八咫家の凶刃は届かず、呪術高専の生徒として扱われている。

 

 わたしが生徒として、呪術師として扱われ三年生となり、そうして出会ったのが、虎杖悠仁という少年だ。

 

 虎杖悠仁は、非術師の少年である。

 尤もそれは、虎杖が特級呪物を飲み込み、両面宿儺の器となるまでの話。

 宿儺の器となった彼は秘匿死刑に処せられるところを、五条悟の介入によってすべての宿儺の指を取り込んだ後に死刑とする、というふうに執行猶予を与えられ、呪術高専に入学して来たのだ。

 同じ特級呪物であっても、わたしが身に収めたくだんの木乃伊(ミイラ)と宿儺の指では、知名度も宿す呪いも段違いだ。

 無論、段違いに宿儺の指のほうがえげつなく、恐ろしい。魑魅魍魎が跋扈した呪術全盛期の千年前に呪術師たちを破り、人々を鏖殺した呪いの王なのだから。

 

 虎杖悠仁は、人を助けるために宿儺の指のうち一本を呑み、それでも尚宿儺を抑え込んで己を保っている、天与の器だった。

 本当にそんな天与が現れたのかと疑いもしたけれど、六眼で虎杖悠仁を観察した五条悟が天与というから、天与なのであろう。偶然と現実は、かくも残酷だった。

 器ひとりを造るのに五百年もかけ、しかも失敗した八咫家の人間が聞けば憤死ものである。

  

「憤死ものどころか、実際にラクん家の人間から、悠仁のこと解剖させろって要請来てたよ?とーぜん蹴ったけど」

「……」

  

 五条悟からそう聞かされたときは、呆れ果てた。五百年かけて駄目ならば、いい加減別の道を模索すべきだ。

 最早、八咫家のほうがひとつの呪いに成り果てたのだろう。

 何のために呪物の器を造ろうとしたのかが抜け落ち、目的と手段を完全に取り違えている。

 

 しかし、そうした因習は呪術界隈では珍しいことではない。

 天与の器として宿儺を取り込んだ虎杖悠仁も、ほどなくして執行猶予を快く思わない呪術界上層部の老人たちによって、謀殺された。

 到底生き残れるはずがない、特級呪霊との任務に同級生共々放り込まれて。

 

 わたしが初めて虎杖悠仁と邂逅したのは、仲間を逃がすために残って死んだ彼の遺体が運び込まれた、解剖室である。

 

 呪物の器としても学年としても先輩なんだし会っておきなよと五条悟に言われてはいたものの、ごく単純に気が乗らなかったから、虎杖悠仁を見てすらいなかった。

 

 姿を見たのは、死体になってからだ。

 

 その虎杖悠仁が解剖台からむくりと起き上がったのは、解剖室を訪れたわたしが、こうなる前に会っておけばよかったのだろうかと、珍しくまともな後悔の念らしきものを覚えたところである。

 検体として運び込まれていたのだから、当然のように全裸だった虎杖悠仁に、とりあえず着ていたコートをぶん投げた。これでまともな年頃の少女だったら、絹を裂くような悲鳴でも上げていたかもしれない。

 虎杖は虎杖で、目覚めたとき隣に見知らぬ少女がただ一人突っ立っていたことに、驚いていた。

 

 割と、どうしようもない感じの出会い方であった。

 

 後でわかったことだが、虎杖悠仁の蘇生は彼の中にいる両面宿儺の力によるものであったらしい。

 それならそれで、直前に呪力を高めるとか何とか前振りをしてほしい。前振りを。ホラーかよと。

 

 呪術師という職務上死体も見慣れているが、死体が蘇ったのは見たことがない。悪いことに術式も切っていて、未来予知も何もなかった。

 やっぱり、肝心なところで役に立たない術式だ。

 

「俺は虎杖悠仁。あんたの名前は?」

「ん」

 

 かくて蘇った虎杖相手に、ろくな言葉の発音を行えないわたしは、いつものように携帯に文字を書いて見せた。

 わたしは、言葉が話せない。

 発話機能は体に備わっているが、言葉を発そうとすると舌がもつれる程の激痛が頭に走るから、「ん」という鼻にかかったような音しか出さない。

 それは八咫の家の施した、いくつかの調整のうちのひとつだ。言葉を封じることで呪力を高める、乱暴だが効果的な方法だ。術式開示による効果の底上げというメリットを、捨ててもいるけれど。

 機械を介さなければ話せない煩わしさは何をしていてもつき纏うし、人嫌いに拍車もかかっているのだが、虎杖悠仁は存外に普通に接してきて、こちらはそのままなし崩し的に彼の鍛錬まで見ることになった。

 

「悠仁はしばらく死んだことにして、その間に呪力のコントロールとか諸々の修行してもらうつもりなんだよ。復帰は京都との交流会ね」

 

 それは、妥当だろう。

 虎杖の蘇りは隠し通せるものではないし、京都校学長の保守派筆頭には交流会での虎杖の活躍は頃合いの牽制になるだろう。

 ただ、予想外なことはあった。

 

「てことでラク、手伝って」

「ん?」

「だって君、休学中だからって交流会を後輩に押し付けたでしょ。それくらいの面倒は見て青春しなさーい」

 

 解剖室で後輩の死体見るところから始まる青春があってたまるか、と言い返したかった。できなかったけれど。

 ただ確かに、わたしは虎杖悠仁にそう易々と死んでほしくないとは思っていた。 

 

 八咫の家がなりたいと願い、なれなかった人間だ。

 見ていて、単純に興味が尽きない。 

 とはいえ呪術師はとかく、死にやすい。

 人の負の感情から生まれて人を襲い、殺す呪霊と日々戦い、しかも人を呪殺する呪詛師も相手にせねばならない。

 水泡や朝露のような、儚さのある生き物だ。

 両面宿儺の力によって蘇った虎杖悠仁がどうなるかも、本人と、それに人の手には届かぬ運次第。

 わたしも、明日死ぬかもしれない。

 人よりも多少先が視えたところで、世にはびこる呪いと比べれば特級呪物からこぼれた劣化術式など、蟷螂の斧である。

 

 やたらと生徒に青春させたがる五条悟に言われたからにしても、教えるとなったら出来うる限りまともにやる。虎杖悠仁にも、伝えるべきことを伝える。

 呪力のコントロールや体術は五条が教えるだろうから、わたしに言えるのはそれ以外の、細かい知識や呪術界の立ち位置や魔窟ぶりである。 

 些細な術式の知識や解釈が、生死を分けるのを身を以て知っているし、伊達に齢五つで最初の特級呪物を飲んでから、高専三年生になるまで生きていない。

 

「ラク先輩さ、最近よく顔出してくれっけど任務とかは大丈夫なのか?あ、俺は来てくれて嬉しいんだけど、ほら先輩は仕事あるんだし?」

『任務なら行っている。今は人心が少し落ち着いて、年末の繁忙期よりはややマシだ』

「呪いに繁忙期ってあるんだ」

『ある。それに五条悟に、都外へ行くなと止められた。お前の殺害で上層部が勢いづくかもしれないから、だそうだ』

「あー……それは何かゴメン?」

『お前のせいではない』

 

 そんな調子で、スマートフォンを通して会話をこなしていった。

 頭に角が生えていてかつ無表情な先輩に、最初虎杖は少し遠慮していたようだったが、元々人懐っこい性格なのかすぐに打ち解けた。

 今現在問題を起こして停学処分になってしまった同級生とも、これだけ打ち解けられれば五条悟はああも煩くならなかったのだろうかとふと思い返すほど、虎杖の順応は速かった。

 

「先輩の術式って、未来予知なんだよね?」

「ん」

「それってなんかさ、ポケモンみてぇ」

 

 初めて聞いた感想だった。

 

「ん」

「あー、説明ムズいんだよなぁ。なんつーか、そういう……文化?」

「……ん?」

「元々はゲームなんだけど、アニメにも映画にもなってっからオススメだよ。すっげぇ泣ける話もあるし」

「ん」

「ラク先輩に似たキャラもいるんだぜ。ネイティオとか、ニャオニクスとかさ」

『そいつら無表情な鳥と猫だろう』

「いや知ってんじゃん!」

「ん」

 

 知らんとは言ってない。

 首を左右に傾げていたら、虎杖が間違えただけである。

 わたしは、鳥でも猫でもない。

 敢えて言うなら牛だ。『件』なのだから。焼肉も食べるけど。

 兎にも角にもそのようにして虎杖に色々と教えているうちに、彼は五条悟の指示で実地任務に赴いて行った。

 訓練を積んだからこその、実戦実習なのだろう。

 何につけても血生臭い業界だとわたしが目を細めていれば、したり顔の五条悟はこちらにも話の矛先を向けて来た。

 

「それでラク、悠仁とは仲良くなれた?」

「ん」

「わからんってのはないでしょー。結局ラクって、任務やら怪我やらで秤とも仲良くできなかったんだし。青春しときなよ、若人」

「……」

 

 生徒の青春にこうも拘る辺り、物好きである。

 人は嫌い己も嫌い、ただし呪霊はもっと嫌いだし死にたくもないから生きるため殺す、という偏屈角付き呪術師など、放っておいてよかろうに。もう担任でもないのだし。今の担任には、確かに放置され気味だけど。

 五条悟は、いつまで経ってもよくわからなくて、わたしはかぶりを振る。

 

『私も任務に行って来る。京都を、あまり刺激するな』

「それは相手の出方次第~」

 

 ならば無理だ。これは煽る、間違いなく煽る。

 元々教え子を殺されているのだから、五条悟に憤る理由はある。だから、徹底的に煽るだろう。

 

 あっさり諦めたわたしが高専を出て、向かったのは東京の街である。

 渋谷新宿青山通りと、人が集まる地区には呪いも発生しやすい。

 呪霊は人の心から生まれる。

 嫉妬、傲慢、憤怒、悲哀などなど、いわゆる負の感情を糧に肥太り人を襲い、大概の場合は食らう。

 負の感情がなければ人は生きていけないが、そこからこうも化け物が生まれていてはどうしようもないと思いながら、わたしは銃を握る。

 四種の銃器に変形可能な、人具融合型の呪具がわたしの武器だ。

 『銃』という武器へ人が抱く負の感情を集め、銃を投影するという呪霊もかくやなけったいな呪具である。

 その難物呪具の性能と術式による徹底的な先読みと、元々八咫犖の体が持っていた射撃の才能があったからこそ、この戦闘方法は成り立っている。

 

 青山通りの裏路地に蔓延るガマガエルとナンヨウハギが合体したかのような呪いの額にモーゼル拳銃の弾を叩き込み、数百メートル離れた廃ビルの窓に姿を現した、異常に手足が薄っぺらい人の輪郭をした呪霊を、トカレフM1940型狙撃銃で撃ち抜いて祓う。

 

 東京の街を補助監督の指示を受けつつ練り歩いて、目に付いた呪霊を撃って撃って、撃った。

 

 最大火力の対戦車ライフルを振り回す事態にはならなかったが、狙撃銃と拳銃に短機関銃は、何度も火を吹いた。

 呪霊に返り血がないのが幸いだなと、独りごちたのは高専を出てから数日後、目黒の外れに辿り着いたときだ。

 影が長くのびる黄昏時の路地を歩いていれば、五条悟が電話がかかる。珍しくふざけた声音ではない当代最強呪術師からの指示は、端的だった。

 

「ラク、一回高専に戻って。君に見てもらいたい死体が出た」

「?」

「人間が、呪霊みたいな形に変えられて死んだ。それの外見が、()()()()()()()()()()()()()とそっくりなんだよ」

「……ん」

 

 今すぐ戻る、というと電話を切った。

 補助監督に車を回してもらい向かったのは、高専の霊安室。

 以前虎杖悠仁と遭遇した部屋とはまた違う場所だったが、死の気配が蟠る場であるのは変わらない。

 

 そこに、またも虎杖悠仁はいた。

 

 今度は死体ではなく、生者として。

 黒の袋に収められた台の上に乗せられた遺体の側に、佇んでいたのだ。

 彼はわたしの気配を感じるや、片手を上げた。

 

「あ、先輩、どったの?」

 

 お前こそどうした、と聞き返しそうになった。

 最後に会った虎杖悠仁は、快活であった。だが今の虎杖は、己の一部が切り取られ奪われたような、痛みを堪える顔をしていた。

 己が死んだときも明るさを損なわず、二度と宿儺の力を暴走させて仲間を殺させない、と言っていただろうに。

 

『ここに運ばれた遺体を見に来た』

「そっか」

 

 一歩下がった虎杖と場所を変わり、一瞬手を合わせてから遺体が収められていた袋の口を開けた。

 

 そこにあったのは、人の体ではなかった。

 

 布越しでもわかるほどの異形に成り果てた、何かの体だ。

 辛うじて毛髪とわかるものが頭部にあり、四肢のつき方からして二足歩行は可能だろう。

 だが、顔はまるで鰐のように平たく長くのび、眼球は膨れ上がっている。手足も象のように太く短く、到底人とは思えない。

 それでも、その体に僅かに残っているのは、人の気配だった。

 呪物を飲み魂が一度砕け壊れた影響か、わたしには魂らしい何かの気配を感じ取れる。生きているものは大体、体の中に何か光るものが入っているのだ。

 人には人の、呪霊には呪霊の魂の気配が体の中に収められていて、わたしはそれでヒトか呪霊かを測る。

 

 到底、人と呼べぬような化物から微かに感じ取れるのは、紛れもない人の魂の気配だったのだ。

 人の首を切って、別人と縫い付け挿げ替えたよりも、さらに不気味な気配があった。

 人間の子どもが虫をこねくり回して遊ぶように、人の死体を徒に損壊し戯れる呪霊はいるが、あれよりもやり口が余程高度だ。

 

「……」

 

 袋を閉じ、他の台を順に見て行く。寝かされているすべての異形から人の魂の気配が感じ取れ、気づいたら口元を押さえていた。

 呪術師になってから、惨い死体は腐るほど見、呪霊の残虐さにも人の冷酷さにも、幾度も触れた。

 それでも、今感じているのはこれまでにない嫌悪感だった。

 この遺体はすべて、魂を犯された。

 粘土をこねるように魂の形を変えられ、その結果として異形の姿となって、死んだのだ。

 わたしは、壊れた人の魂と砕けた呪物の魂の、その欠片同士からつくられた。だから、それがわかった。わかってしまった。

 生きたまま、己の魂が別のものとなる苦痛も恐怖も絶望も、ありありと思い出せてしまう。

 亡骸の最後の一つを見聞し、袋をしっかりと閉め直してつい天井を仰ぎ見た。

 

「先輩、大丈夫か?」

 

 かけられた言葉に、ようやくまだ虎杖が部屋にいたことを思い出した。

 ひとつひとつの遺体を見、そこに僅かに残る術式と魂の気配を感じ取ろうと集中している間に、部屋に己以外の誰かがいることを、すっかり忘れていたのだ。

 

「ん」

「大丈夫……ってことでいいんだよな?すっげぇクマできてるけど」

 

 はは、と何かが乾ききったような笑顔を浮かべた虎杖が急にもどかしく思えた。

 スマートフォンを抜いて、言葉を打ち込む。

 

『私よりお前だ。顔色と血色が悪い。血を失ったか?』

「俺は平気だよ。確かに体に穴開いてたけど、治してもらったし」

 

 普通の人間は、言うまでもないが体に穴が開いたら死ぬ。

 だがこの少年に限って言えば、穴が穿たれたのは体でなく心に見えた。

 わたしには人間の心など見えないし、わからない。

 それでも虎杖の視線を辿れば、彼がひとつの遺体を特に気にかけているのは察せられた。

 最初に見た、扁平頭の異形に変えられた人間だ。

  

『あの人間お前の知り合いか?』

「……ひょっとして、心読めんの?」

『お前の視線を辿った』

「……」

 

 虎杖は、頷いた。

 任務先で出会った、同年代の少年だったそうだ。

 映画が好きで、よく笑う母親と暮らしていた、普通の少年。名は吉野順平。

 彼は母親を呪いに殺され、その犯人が学校にいると唆されて呪術を用いて学校を襲った。

 虎杖はそれを止めに入り、吉野順平をあと少しで説得できるところまで持ち込めたそうだ。

 けれど、乱入して来た人型の特級呪霊によって、吉野順平は異形に姿を変えられ、絶命。

 虎杖は合流できた一級呪術師の七海建人と共に、そのまま人型でツギハギの皮膚を持つ特級呪霊と交戦。辛うじて退けたのだという。

 吉野順平の母を殺したのも、彼を唆したのも、そのツギハギの呪霊である公算が大きかった。

 

「俺は、あの呪霊を殺せなかった。殺さなきゃいけなかったんだ。絶対に。あいつは、これからもたくさんの人を殺す。なのに、俺が……」

「ん」 

 

 それ以上はやめるべきだ。

 呪術戦の頂点、領域展開まで会得した特級呪霊と呪術に触れて一年未満の人間が会敵して、生きているだけでマシなほうだろう。

 だがそんな正論を述べたところで、呪霊を取り逃がしてしまった悔いが、こいつの心から取り除かれることはない。

 ここに並べられた片手の指で足りない数の異形は、すべて元は人間であったのだ。これを成したツギハギの特級を殺さぬ限り、無残な死体が増えていくのは事実なのだから。

 

『お前が呪術師を続けていれば、また現れるだろう。そのとき祓え』

「……ありがと。俺、もう負けない」

『負けないより、死なないことを考えろ、後輩』

「……」

 

 と言ってもどうせ、虎杖悠仁は聞かないのだろうな、とため息を吐いた。

 

『私は出る。お前、外の自販機で私にコーヒー買え』

「え、なんで」

『三日くらい寝るのを忘れた。超眠い』

「それ絶対忘れたら駄目なやつだろ。ラク先輩何やってんの」

『呪物の器はそう簡単に壊れない』

「いやいやいや、壊れんでも体に悪いからな。ンな体調でコーヒーとかますます駄目だわ。ココアにしなさい」

吝嗇(ケチ)め』

「あんま値段変わんねーよ!」

 

 ついさっき、体に穴が開いたけど大丈夫と抜かしたのはどこのどいつだろうか。ブーメランが頭に刺さっている。

 そこまで言えば、虎杖のほうが解剖室から地上へ、さらに自販機の方へわたしを引っ張るようにして向かう。こいつの性格からして、他人を放っておけないのだ。

 虎杖はぶつぶつと言いながらもココアのボタンを押し、その隣の自販機で、わたしはコーラを買って虎杖へ投げた。

 飲み物の好みは知らないが、この前虎杖は映画を見ながらコーラを飲んでいたので、外れではないだろう。

 

「これ結局交換じゃん」

「ん」

「……ご馳走になりマス」

 

 買えと言ったのであって、奢れとは言っていない。

 大体呪術師同士で奢り合いなんぞ、縛りに引っかかりそうでやりたくない。

 肌寒い夜気を感じながら、プシッとココアの缶を開ける。

 呪霊退治に熱心になり過ぎて、三日ほど睡眠を放っていたのは事実だった。

 それにしても自販機のココアはやはり温かった。空も遠いし、暗い。

 

 呪霊をいくら撃ったところで、また今晩にはこの空の下、町のどこかで新たな呪霊が産声を上げる。倒しても倒しても底に届かぬその無益さを、今更どうこう言う気はない。

 非術師から生まれ出て、非術師も術師も見境なく殺す呪霊を、祓って祓って、祓い続ける。わたしが、使いものにならなくなるまで。

 呪霊を祓って殺し続けること以外に、特級呪物の器に生きる道などないし、わたしは、自分が生きるため他者から奪い、殺すことに、躊躇いを感じない。

 だからまあ、別に悪くない生き方だと思っているのだ。仮にどこぞの裏路地で呪霊に殺され死ぬとしても、そこまでの生命だったと諦めもつく。

 

 しかし隣のこの少年は、同じ呪物の器と言っても大分違うのだ。

 ココアの缶を両手で包むようにして傾けながら、深く息を吐いた。

 

「先輩はさ、何のために呪術師やってんの?」

「ん?」

 

 俯きがちにコーラを飲んでいた虎杖が、ぽつりと言ったのはそのときだ。

 缶をポケットに押し込み、携帯に文字を入れて画面を見せる。

 

『他人の領域へ踏み込む問いを投げるなら、先にお前が喋れ』

「うっ。……それはごめん」

『聞かれても、私の理由は自分が生きるためだ。処刑か、呪術師かと聞かれて、私は後者を取った。生存以外に理由はない』

 

 自分が生きるために他者を殺す。

 そこに恨みや怒りがなくとも、必要だから殺害する。

 極めて単純な動機で、他に裏も表もない。

 

「それ、ひょっとして五条先生に言われた?」

『正解。あいつは、秘匿死刑差し止め常習犯』

「どんな常習犯だよそれ。って、そのお陰で俺生きてんのか」

 

 缶を片手で握り潰して、虎杖はスマートフォンを取り出した。

 

「あのさ、ラク先輩と同じ速さで喋りたくてさ……トークアプリ使いたいんだけど、いい?なんか俺ばっか喋って、急かしてるみたいっつーか」

『おkまる』

 

 わたしが打ち込んだ文字に、虎杖悠仁は噴き出した。

 

「先輩!真顔でボケんのはナシだろ!」

『何がなしだ?連絡先の交換だろう。どうやるんだ?』

「いややり方知らねえのかよ。いつもピコピコ弄ってんのに」

 

 思えば数週間稽古を見ていたのに、何故か連絡先を交換するという頭がなかったのだ。

 IDとやらを交換してアプリを開き、並んだまま画面を見つめた。

 

『それで、お前が呪術師になったのには、死刑を免れる以外の理由があったのか?』

『ある。ってか、爺ちゃんの遺言なんだわ。お前は強いから人を助けろ、大勢に囲まれて死ね、ってな』

 

 互いに無言のまま、ただ文字だけが連なる画面を、ココアの残りを啜りながら眺めた。

 

『だから、宿儺の指は全部食うよ。それは俺にしかできんことだし』

『だろうな。また千年宿儺の指が放っておかれたら、呪いを蓄積しすぎてどうしようもなくなるだろう。ではお前の動機は、広義の意味で人助けか?』

『あともう一個、できるだけ人には正しい死に方をしてほしいんだ』

 

 はたと指を止めて、虎杖の顔を見た。

 視線が合い、虎杖の瞳の中が見える。

 むつかしいことを言うやつだった。

 

『畳の上の大往生ということか?』

『そう……だと思う。だけどちょっと、わかんなくなった。正しい死ってさ、何なんだろう』

 

 それが任務であの異形化した人間の死を目の当たりにしたせいなのか、彼らにとどめを刺してやったせいなのか、それは尋ねられなかった。

 おそらくは、両方だろうから。

 そしてその問いを、高々少し訓練を見ただけのわたしに向ける辺り、虎杖悠仁は相当参っているのだろう。

 

『私は、人間は畳の上で死ぬべきものだと聞いた。畳の上で誰かに看取られて死ぬのは、寂しくはないだろう』

 

 人間の幸せの形は大体同じでも、不幸せの形は皆違う。それでもきっと、寂しくないことは幸せなはずだ。

 心に混ざった子どもの魂の名残が、そう言っている。言っているけれど、呪術師でその終わりを迎えられた者をわたしは知らない。

 在り方からして人の盾とならざるを得ない呪術師は、削られ錆付き、倒れて行くものだからだ。

 

『寂しくないことが、先輩の正しい終わり方、ってこと?』

『多分な。私なぞに聞くより、五条悟にでも聞いて来い。お前の担任だろう』

『そりゃそうなんだけど、ラク先輩にも色々世話んなったから、つい聞いちまうんだ。困らせてごめん』

『困ってはいない』

 

 五条悟に言われなければ、あの日解剖室に立ち入らなければ、こんなことはしていなかった。

 それでも、結局わたしはこうして虎杖悠仁の横でこいつの言葉を聞いている。

 ココアの缶は、もう空になっていた。

 

『話はこれでいいか?ココアがもうないから、帰る』

『ん、聞いてくれてありがと。ただしマジで帰ったら寝てくれよ』

『お前もな。無理やりにでも寝ろ』

『わかった。おやすみ』

 

 バイバイと手を振る丸っこいフォルムの虎のスタンプが送られて来る。

 プツンとスマートフォンの電源を切って、ひらりと手を振って別れる。

 そういえばあいつ、片手で缶を握り潰していたっけと、ふと手に持った缶を握る。

 ぐしゃり、と案外簡単に缶は潰れた。

 

 

 




黒髪黒目、無表情角っ娘銃使い。


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2話

2話です。加筆修正中。

では。


 

 

 

 わたしが、次に虎杖悠仁とまともに顔を合わせたのは、東京と京都の交流戦当日であった。

 

 去年任務で負った怪我の影響で、休学中のわたしは交流会には参加しない。

 本来なら、呪術高専の姉妹校同士の交流会は二年と三年がメインのイベントなのだが、わたしが休学中、片方の三年は停学中であり、開いた穴を一年と二年で埋めることになったのだ。

 後輩に交流会を丸投げしたんだから、悠仁の応援くらいはしに来なさいと五条に呼び出されたから、わたしは会場を訪れる羽目になった。お前折角の休みにマジでふざけるなという話だ。

 死んでたと思ってた悠仁が出てきたら、きっとみんな驚くよ!との五条の言葉を虎杖は疑っていなかったが、横で聞いていたわたしと、居合わせた七海建人一級術師の目は死んだ。

 嘘だろなんでコイツ、この馬鹿目隠しの言を疑わない。素直すぎて引く。

 

「ラク先輩、先輩の武器、全部銃なんだよね?」

「ん」

「そん中で、一番でかい銃って何?」

 

 打ち合わせのため五条が、それから単に用事の終わった七海術師が去って、わたしも寮へ帰ろうとしたときに呼び止めてきたのは、虎杖であった。

 すげなく首を振る。あまり手の内を晒すつもりはない。

 だが、虎杖はなおも話しかけて来た。

 

「じゃあさ、先輩は京都校の人に会ったことある?どんなやつがいる?」

 

 それならば答える。戦う相手を知っていて損はないからだ。

 虎杖も察したのか、互いにスマホを見た。

  

『あそこにはゴリラがいる』

『待ってそれ、マジのゴリラ?』

『名前は東堂葵』

『それ人間じゃね?』

『当たり前だ』

『……。』

 

 虎杖から返事が返るまで、ちょっと間があった。

 

『京都と東京って、そんなに違うん?』

『学長のタイプがまず違う。それに五条悟は、去年も秘匿死刑予定だった人間を自分の生徒にした。私、そいつ、お前に、他にも色々止めている。何度も処分の邪魔をされたから、保守派は五条悟が邪魔。五条悟も保守派が邪魔。今日来る京都校の学長は保守派の大物。特級呪物の器がちゃらけた登場すれば、キレる。五条悟はそれをわかってる。わかっていて、やる』

 

 怒濤の長文に、虎杖は固まったらしい。

 気にせず、最後の一言を入れた。

 

『だからお前は、交流会で暗殺に気をつける必要がある』

『話のオチそこなの!?超物騒じゃん!』

『今更』

 

 いいツッコミだった。だが、物騒と呪術が切り離された試しなど、人世開闢以来なかろうに。

 

『でもさ、その理屈だとラク先輩は大丈夫なのか?交流会、参加しないんでしょ?』

『私の術式なら、大体の不意討ちは効かない』

『いや、先輩割と驚いてるときあるでしょ』

『最近驚いたことは、お前が解剖台から起き上がったときくらいだ。全裸』

『だからあれはゴメンってば!全裸って呼ぶのは勘弁して!』

『なら、もう呼ばない。ちゃんと交流会から生きて帰ってきたら、コーラなら奢る』

『押忍!』

 

 またも、デフォルメされた虎のスタンプが送られる。喉の奥だけで笑って、あとは頑張れと締めくくり別れる。

 生きて帰ったらなんて、フラグになるようなことを言わなければよかったと後悔するのは、この少し後のことだ。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 そもそも京都校の人間のほとんどと、わたしは相性が悪い。

 あちらからすれば、わたしは呪霊と大して変わらぬ呪物の器で、かつ、わたしは虎杖のように人間ができていないから交流関係をなかなかまともに築けない。

 喋らない、表情変わらない、頭から角、呪物の器、と四拍子揃っていたら、大抵の人間は引く。術者非術者問わずだ。

 東堂とかいう例外も京都校にいるが、あいつは人の話を聞いていないため、わたしが何を話していても気にせず、わたしも東堂にどう思われようが気にしないからこそ、そこそこな仲になっていると言える。

 

 けれど結局、わたしは、わたしのことを知らない人間にどう思われようが、どうでもいい。

   

 わたしはどう思われようが、殴られる前に殴り返すだけ。

 殴られてから殴るのでなく、殴られるより先に殴るのだ。

 未来予知などという化体な術式があるのだから、こんなときにこそ活用せねばならない。

 

 だから今日も、仮に京都校の誰かが殴ってこようとすれば殴り返す所存だった。

 今頃、後輩全員で京都校とドンパチやっているのだろうかと、高専内をぶらつきながら思う。

 京都校の学長様が来ているならば、あちらは虎杖を殺そうとするだろうし、ついでにこちらにも何か差し向けてくるかもしれない。

 東京校は一年と三年に特級呪物の器が一人ずつ、二年に特級呪術師と突然変異呪骸がいる、なかなかな闇鍋校だ。

 一方の京都校は、家出していないほうの禪院の宗家がいたり、加茂家の嫡男がいたりと、呪術界的には”正統派”寄りである。学長からして保守派なのだから、さもありなん。

 だからあそこの生徒は多分、虎杖を殺そうとしてくるだろう。

 でも多分、虎杖は殺されない。当人が強くなったし、一年には伏黒恵がいる。

 

 頑張れ後輩と頭の中で呟きつつ、ひょい、と屋根の上に飛び上がる。五条悟からは観戦においでよと言われたものの、誰が京都の皺首の隣に行きたいのだろうか。

 

 屋根の上に胡坐をかいて、手元に召喚したのは使い慣れてしまった、狙撃銃。

 わたしの武器は銃型の呪具で、人具融合型という珍しい形をしている。

 普段は体の中にしまうか、最も呪力をくわない二丁拳銃の形にして、腰に吊っている。わたしが呪詛師にでも落ちれば、暗殺し放題となる極めて隠密性の高い便利な武器だ。

 だけれども、時折こうして呼び出して、わたしの呪力と手に『馴染ませる』工程が必要なのだ。

 元々、人間の呪力と呪物の呪力が混ざって成ったわたしの呪力は、気持ち悪いというか斑模様と言うか、とにかくクセが強い、らしい。

 宿主のわたしにはその自覚はカケラもなくて、六眼持ちのどこぞの最強の見立てだ。

 そのせいで、人間よりも反転術式の利きが悪いという最悪なデメリットを抱えているし、呪具にも普段から呪力を馴染ませる必要がある。肝心なときにジャムられては、堪ったものではない。

 別に屋根に上る必要はないのだが、見晴らしがいい高いところは好きなのだ。

 手の中の銃にだけ意識を集中させていれば、種々を頭から追い払える。

 

 そういえば、虎杖悠仁が私の手持ちの武器の中で、最大火力のを見たいと言っていたが、誰が虎杖に対戦車ライフルのことを教えたのだろう。

 伏黒や真希にも、ほとんど見せたことはないのに。

 

 五条悟であろうなと、わたしはまた息を吐いた。

 あの野郎は、わたしに情操教育を施そうとしている。

 人並みの心とか感情とかが、魂がツギハギのわたしには、足りてないらしいから、あいつは青春を通してそれをわたしに会得してほしいのだ。常識のないやつに言われたくない。

 だけど、同級生の秤とわたしは結局そりが合わなかった。わたしが大怪我して寝込んだり、秤が停学になったり、色々運もなかったにせよ。

 そのためわたしの情緒は雑魚のままらしくて、だから五条悟は今度は虎杖で試しているのだ。

 同じ特級呪物の器が、それなりに元気にしぶとく呪術師をやれている様子を虎杖に見せて、遠回しに元気づけようとしている企みもあるのだろうけれど。

 

 だけど交流会が終わったら、わたしは虎杖に関わるつもりはなかった。

 性根捻じくれ屋なわたしと、人としての正しさを規範にしている虎杖とは、根っこが違う。

 己の核にある、信念とか想いとかそういうものをぶつけ合ったら、多分、わたしとあいつは殺し合いになる気がした。

 虎杖は死んでほしい相手ではないし、わたしもくだらないことで生命を賭けたくないから、そんなのは願い下げだ。

 あいつも同級生と再会したら、偏屈で仏頂面で、頭から角を生やした変な先輩のことなぞ、すぐ忘れるだろう。

 

 人死にを出さずに交流会よさっさと終われ、と願いを込めて、高専内を見下ろしたときだった。

 

 ぐギィ、と微かな、かそけき断末魔が聞こえた。聞こえてしまった。

 

 即座に銃を消し、屋根を蹴る。地面に飛び降りる。

 死の気配がした方へ、地を蹴り走った。

 二、三棟建物を走り越して、その先でわたしは見つけた。

 

 地面に倒れる頭が肥大化した異形の骸。その隣に伏している黒いスーツの人間。

 そしてその頭に今しも手を置こうとしている、人型の何かを。

 

 召喚したのは狙撃銃。スコープのないそれを構えて、引き金を引いた。

 弾が、人型呪霊の手首を吹き飛ばす。

 既にわたしは、術式を発動していた。

 

 数瞬後、呪霊がこちらを見る。

 見ると同時に腕を変形。横殴りの一撃で、胴を薙ぎに来る。当たればわたしは、胴体上下で泣き別れ。

 発砲する余裕、無し。

 

 よって選択したのは、前転しての横薙ぎの回避。

 それでも躱しきれずに、刃が服を掠めてぱくりと裂けた。それも、そこに入れてあった携帯ごと。ただし、肉は斬られていない。

 回避したその勢いで、狙撃銃を二丁拳銃へ変更。両方、撃った。

 弾丸二発は呪霊の額に当たる。相手は倒れない。ボコリと皮膚が動いて、めりこんだ弾が吐き出された。

 にんまり。呪霊の口が裂けるように伸びて、嗤った。

 

「そんなもの、俺には効かないんだよ」

 

 知っている。もう視た。

 拳銃を消すや、羽織っていたコートを投げる。視界を覆う呪力を纏った黒衣に呪霊の動きが寸の間止まる。

 その一瞬で、やつの足元に倒れていた黒いスーツの人間に跳びつき、その体を担いで跳ぶ。

 この人間、つまり補助監督に戦闘能力はない。よって邪魔者。

 毬のように補助監督を放り投げ、手元へ呼んだのは短機関銃。

 早くもコートをずたずたに裂いた呪霊に、ありったけの弾丸を浴びせた。

 灰色がかった縫い跡だらけの皮膚に、次々穴が開く。

 グラグラと体が揺れて、不気味な踊りを踊るよう。それでも、こいつは殺せない。───そう視えた。

 果たして弾幕から、呪霊は何事もなかったように歩み出る。

 

「だから効かないんだって。じゃ、今度は俺の番ね」

 

 ぞわりと膨れ上がるのは、禍々しく莫大な呪力。

 

 わたしに声があったなら、五条悟あの野郎と、喉も裂けよと吠えていた。

 それに天元。天元の結界はどうした。高専結界の要は何やってる。特級呪霊が、結界を抜けているではないか。

 

 気づけば、人型呪霊の体が目の前にあった。

 二重にずれた視界の中、未来の幻の呪霊の腕が伸びる。伸びてわたしの頭に触れる。

 

 だけどわたしは、それでは死なない。死なない未来が視えた。

 守るべきは表ではなく、内側だ。呪力を回し覆うのは体でなく、魂。

 

 魂を呪力で覆い切った瞬間、現実の時間が未来に追いつく。呪霊の手のひらが、私の頭に触れた。

 

 ばちん、と心臓のあたりで何かが弾ける。

 ごふ、と赤黒い液体を吐いて、それだけで()()()

 

「あれ?」

 

 果たして、わたしに触れた呪霊は一瞬だけ硬直した。顔に、素直な戸惑いが浮かんでいる。

 当然だろう。異形になるはずだった術師の体が、変形していないのだから。

 

 頭を握り潰される前に、渾身の力で呪霊の腹を蹴り飛ばす。

 筋力に呪力を上乗せした一撃で呪霊の体がたたらを踏んで下がり、互いの体の間に空間が広がる。

 その隙間に、わたしは最後の銃を召喚した。口の端から、血が細く流れる。

 

 現れたのは全長二メートル、重量ニ十キロの鉄塊。

 人が生身で戦車と戦うため造られた黒塗りの銃、PTRS1941。

 本来伏せ撃ちで撃つべき、身の丈より長大な銃を立って構え、蹴り飛ばされ両脚が地から離れた呪霊の腹目がけて、発射した。

 

 だがどうせ、これも効かない。殺せない未来が、視えた。

 並みの呪詛師ならば粉微塵、人語を介さないレベルの特級ならば致命傷にはなる実弾と呪力の上乗せの一撃でも、こいつは何故か殺せない。それでも、吹き飛ばして距離は取れる。

 腹、胴、頭、腹、腰と五発撃ち切るまで引き金を引き銃を放り捨て、わたしは走った。

 放り投げた補助監督を引きずり出して担ぎ、即座に反転。選択したのは、逃走だった。

 

 あんな化物と、荷物を庇って戦えない。

 

 肺が痛くなる速度で一キロほど走って、ようやく足を止められた。

 成人男性一人担いでここまで走ればさすがに息が上がって、膝をつく。

 まずいことに、あの呪霊の初撃で、わたしは携帯を壊されていた。あそこで刃が携帯を切ったら、わたしの体は斬られないと踏んで、あえて盾にした。

 だが端末がないと、五条悟にも誰にも連絡を取れない。昏倒したまま目覚める気配のない補助監督の端末は、当然ながらロックがかかっていた。

 

 あの特級呪霊の侵入には、まだ誰も気づいていなかろう。

 気持ちの悪いあの術式を防げるのは、きっと、私か虎杖か、パンダか五条悟だけ。私以外全員、交流会にかかりきりだ。

 

 わたしに声があったなら、くそったれふざけるなと罵倒の一つ二つでも叫んでいるところだった。 

 とにかく五条悟に、一刻も早くことを知らせねばならないと、そう膝を叩いて立ち上がって、空を見上げたその瞬間だ。

 

 空から呪霊が襲い来る、幻が視えた。

 

 来るのは上、投下されるのは改造された人間どもと、呪霊本体。

 わたしが咄嗟にできたことは、狙撃銃を上空に向けて構え撃つことだけ。

 鳥のような形となった呪霊が吐き出し投げ落とそうとしていた改造人間の何体かが、その弾丸で貫かれる。

 この世に生まれ落ちたとき人間であった者どもは、断末魔も上げられずに熟しすぎた柿のように落ちて、潰れた。

 

「おかしいなぁ。完璧に見えてないと思ったのに」

「……」

 

 だか、呪霊本体に弾は掠りもしない。

 ツギハギの皮膚を持つ青年姿の呪霊は、軽々と降り立って小首を傾げた。

 解剖室に並んだ異形と、死体袋から香る残穢の記憶が蘇る。

 あれをやったのは、虎杖悠仁の友を殺したのは、こいつだ。

 

「君、さっきから眼が変だよね。俺を見てるようで見てない。視線がずれてるんだ。それが術式?」

「……」

「お喋りするタイプじゃないのか。ざーんねん。んー、だけど自分の魂きちんと呪力で守ったあたり、一級術師ぐらいかな?」

 

 準一級だ馬鹿野郎と内心呟いて、ライフルを短機関銃へ変更し、構える。

 こちらが武器を変えても、子どもが棒切れを持ち替えた程度にしか、認識していないのだろう。呪霊は、ひどく口数が多かった。

 

「魂も面白い。俺の肌みたいにツギハギだし、頭のその角は本物だろ?……そっか、だから俺の術式の効きも悪かったんだ。もう歪んでるんだね、君」

「……」

「その格好、高専の学生だろ?虎杖悠仁とは親しいかい?」

 

 無造作に短機関銃の引き金を引いて、すべての質問への返答とした。それを浴びても、呪霊はケタケタと嗤うのみ。

 嗚呼畜生、と目を細める。

 

 死んでなかったらコーラ奢ってやると、わたしは虎杖に言った。冗談半分で。だけどこれでは、わたしが先に、死にそうだ。

 嗚呼困ったな。まだあんまり死にたくはないのにな。だけど生き残る道が視えないなと、ため息を吐く。

 されど死ぬときに死ぬのが、呪術師である。

 だからわたしは、いっそう強く銃を握りしめた。

 

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 

 枕元を誰かの気配が行ったり来たりするから、起きることにした。

 瞼と頭がかなり重い。珍しく夢を見ないまま深いところで眠れていたのにと、ちょっと残念になる。

 残念残念、と心の中で呟いているともう心地よい眠気はどこかに行っていた。

 重い頭を押さえ身を起こしてみて、あれ、と呟きそうになる。

 わたしは、寮の部屋で眠って起き上がったはずだ。なのにここは、高専の医務室。

 首を捻っていると、ベッドの周りにかけられていたカーテンが勢いよく開かれた。

 

「起きたか、八咫。お前は昨日、呪詛師の射殺体から約五十メートル離れた場で気絶し、倒れているところを発見された。記憶はあるか?」

 

 目元のほくろと隈が特徴的な校医、家入硝子に見下ろされながらわたしは固まった。

 誰が、何の死体の側にいたと?

 

「ちなみにお前のスマートフォンは、ぱっくり二つに割れてお陀仏だ。よかったな、お前自身がお陀仏にならずに済んで」

「……ん」

「その顔を見るに、覚えてないな。まあ、予想出来ていたことだ。あとは後輩にでも説明してもらえ。すまないが怪我人が続出していてね。私も仮眠に入るところなんだ」

 

 お休み、と高専の生命線である女医は、ふらっと去って行った。

 よくわからないが、わたしは呪詛師をひとり殺したらしかった。けれど呪詛師だから、咎めもないと思う。多分。

 

 何か、どこか、違和感があった。

 

 誰かに話を聞くに行くべきなのかと、枕元に畳まれて置かれていた制服をふと広げた瞬間、わたしは固まった。

 

「……?」

 

 それはもう、ものの見事にずたずただったのだ。

 上着の左袖は引きちぎられたようになく、背中はシャツまでもがぱっくりどころかざっくり切られている。

 黒一色の生地だから目立たぬが、血が染みて布が固まり、生臭かった。スラックスも、右太腿の生地がざくざく切り裂かれてただの襤褸布と化していた。

 これはもう、着られない。

 

「……」

 

 この時点で、嫌な予感は最高峰である。

 致命に達する出血でごわごわになった制服など、何かあったに決まっている。

 着せてもらえていた白いトレーナーに黒のスラックスのまま、廊下へ出る。

 出た、まさにそのところで。

 

「ラク先輩!!」

 

 頭に響く大声をあげて走ってくる虎杖悠仁と普通の速度で歩く伏黒恵、それに見知らぬ少女と、二年の三人がいる。

 

 何なのだろうあいつら、とわたしはその場で足を止めた。

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

「だから、高専は交流会の最中に襲撃されたんですよ。特級呪霊と呪詛師の集団に。交流会のほうに出た特級は虎杖と東堂が退けたんですが、高専の忌庫を狙ってもう一体が侵入してた。ラク先輩は運悪く、マジで運悪く、そいつと鉢合わせて戦いになったんです」

「元々その呪霊の狙いは、忌庫の呪物の強奪だったらしいぜ。で、ラク先輩がねばったからとどめ刺すのはやめて、忌庫に向かった。あんたは弱ってたところを呪霊と組んだ呪詛師に襲われたんだろうってのが、あの馬鹿目隠しの見立てだ」

「敷地のあちこちにラクの残穢があったし、弾痕が残りまくってたからなぁ。相当めちゃくちゃに立ち回ったんだろ。それでも呪詛師は返り討ちにしたみたいだけどな」

「高菜」

 

 上から順に、伏黒恵、禪院真希、パンダ、狗巻棘が教えてくれたことである。情報が、とんでもなく多かった。

 東京校生に捕まって話をすり合わせてみれば、わたしは、昨日まる一日の記憶をすっぱり失っていた。

 日付が一日、ずれていたのである。

 その欠けた一日に随分派手なことが起きて、今高専内は後始末と交流会に追われているらしい。

 わたしは運悪く、高専内で特級呪霊と交戦して呪詛師に背中から刺され、しかし呪詛師は返り討ちにして生き延びたという。

 己がしぶと過ぎて、笑えた。記憶にないけれど。

 ちなみにここは、寮のわたしの部屋だ。七人も入った上にガタイのいいのやらパンダやらが混ざっているせいで、狭い。

 

「伏黒、この人めっちゃポカンとしてるんだけど、大丈夫なの?」

「……術式の副作用だ。この人の頭ん中には、条件満たしたときだけ発動する、反転術式のトリガーが入ってる。一日分の記憶を対価に、致命傷でも何でも治すんだ」

「しゃけ」

「要はラク先輩は、自分で自爆スイッチ押して自爆ったら、HPが全回復すんだよ。ま、MPの呪力もカラになるから、タイミング外すとヤバいみたいだけどな」

「状況的に、死んだふりして呪詛師を一端やり過ごして後ろから狙撃したんだろって話だ。まあお前かなりやられてたみたいだから、捕縛する余裕もなく撃ち殺したって話だぜ」

 

 おやおや、そうなんだ。物騒だなぁ。

 自爆して死んだように見せかけておいて後ろから撃つなんて、強かなやつもいたもんだなぁ、とわたしは遠い眼になった。

 自分の行いを聞いているのに、全く知らぬ物語を聞いているようだった。

 だが事実、昨日一日の記憶は消えていて、わたしはその空白の間に人を殺した。

 だから昨日のわたしは、ある意味本当に一度死んだのだろう。そのわたしは忘却され、今のわたしには残らず消えた。

 

『何人死んだ?』

 

 壊れたスマホの代わりに、スケッチブックにペンで書けば、全員顔が僅かに曇る。

 特級呪霊に襲撃され、犠牲者が出ないのはあり得なかった。

 

「二級術師二人と、補助監督が二人。それに忌庫番が二人って話です」

「おかか」

 

 伏黒と狗巻の答えに目を丸くする。それで済んだのが、意外だった。

 しかも、交流会は明日再開するらしい。野球勝負で。

 

『やきゅう?』

「そ、野球よ。野球。東北のマーくんと言われた私の腕が鳴るわ」

『個人戦いずこ』

「悟の気まぐれ」

『あいわかった』

 

 五条悟により、一日目団体戦、二日目個人戦という交流会のセオリーはぶち壊されたらしい。

 一年生の中で初見の釘崎野薔薇という女子は、それでも楽しげだった。

 

『お前には自己紹介してないか。三年、八咫犖。ラクでいい』

「ども、私は釘崎野薔薇。一年の紅一点です。先輩はあれでしょ?虎杖が死んでる間に世話になったっていう三年」

 

 うむと頷いてから、事ここに至るまで、静かな野郎が一人いることに、いい加減わたしも気づかされた。

 

『お前、いつの間に無口キャラになった?』

「そーよ。虎杖、あんた、この人がツギハギの特級と戦って派手に怪我したって聞いて、血相変えてたじゃない」

「……いや先輩が、思ってたより元気そうだから、ちょっと力抜けたっつーか」

 

 この部屋に入って来てから、静かだった虎杖悠仁はそう言って眉を少し下げた。こっちもこっちで、京都の東堂と組んで特級呪霊を正面から退けたらしい。

 腕力ゴリラ同士、気が合ったのだろう。

 

「ホント、ラク先輩は命があってよかったな。特級だろ?しかも触られるだけで魂に干渉されてアウトっつーバケモン」

「しゃけしゃけ」

『魂を知覚して呪力で護ればいけると思う』

「いけません。魂の知覚ってのがまず何なんですか。ラク先輩や虎杖は、自分の体の中に別の魂抱えてるからできんでしょうけど」

 

 しかめっ面の伏黒の言葉に、虎杖が虚を突かれたような顔になった。

 

「ラク先輩が無事だったのって、俺と同じで呪物の器だったから?」

『だろうな。でないと特級相手に私が生き残れるわけがない。準一だぞ。多分、勝つのは早々諦めて逃げ回りに徹したんだろ』

「しゃけしゃけ」

 

 わたしと同級術師の狗巻が、同意するように頷いた。

 

『ようは相性ゲーだ。覚えてないが』

 

 それでも、一日分のわたしは死んだことを、記憶の欠落が証明していた。

 虎杖が、小さく手を上げる。

 

「……本当に、先輩は昨日の記憶飛んじゃってんの?」

『飛んだ。カラだ』

「そ、っか。うん、先輩が無事なら、それでよかったよ」

 

 と言いつつも、含みがありげな虎杖である。

 昨日の記憶はなくなっていても、それまでの記憶は消えていない。

 だから昨日のわたしは、こいつに何かしたのだろう。

 

『私は、お前に何か約束でもしたか?交流会で勝てば何か奢るとか、そういうのを』

「……ラク先輩、やっぱ読心術できんじゃね?」

『だから、わたしの術式は未来予知だ。角でつくぞ』

 

 呪物を食べてから、わたしの額には黒い角が二本肉を突き破って生えている。刺さると結構痛いはず。

 虎杖は、頬をかいて言った。

 

「頭突きは勘弁してよ。先輩さ、今日の交流会で俺が暗殺されなかったら、コーラ奢ってくれるって言ってたんだ」

「あんたの命の値段安っ。てか、京都のこと、ラク先輩見破ってたの?」

「ラクは去年交流会で京都行ったときに手痛い目に遭ったって話だからな。見破ってたというか、知ってたんだろ」

『暗殺と不意討ちは京都あるある』

「なんですかその嫌なあるあるは」

「高菜ァ……」

 

 全員が全員、ばらばらなことを言う。

 わたし、野薔薇、真希の女子三人がベッドに座り、男子は床やら椅子に適当に座っている状態だ。

 ふと思いついて、ベッドの横の棚を開け、出した財布をぽんと真希に投げる。

 

 

「ん?」 

『おごる。外の自販機で、全員好きな飲み物買って来い。交流会一日目おつかれだ』

「いやこの中で一番お疲れなの先輩じゃないんですか。飲み物は貰いますけど」

『私は何も覚えてない。何もなかったのと同じだ。制服一式とスマホのおしゃかは腹立つが』

「確かに先輩の場合スマホは特に困るよなぁ。データのバックアップ大丈夫?」

『バックアップ?』

「あこれ駄目なやつだ。じゃ、また連絡先交換しようぜ」

『おkまる』

「またそれかよ!」

 

 ぶはっ、と虎杖がようやく声を上げて笑った。

 伏黒恵が驚いたように目を開き、すぐに安心したように口の端をちょっと持ち上げる。釘崎野薔薇も、同じように小さく笑った。

 その隣で、よくわからんOKサインを出しているパンダはさらっと無視する。

 財布を持った真希を先頭にどやどやと六人を部屋から出して、わたしはひとりでベッドの上に寝転がった。

 喉は乾いていないし、人が大勢いるのは苦手だ。

 

 それに、一度反転術式を使ったせいだろう。やけに頭が重かった。

 

 わたしの頭の中の反転術式は、伏黒恵の言う通り一日分の記憶を対価に、体の損傷を治すのだ。

 ちなみに発動の条件は、自分で自分に致命傷を与えること。そうまで追い込まれなければ反転術式を使えないのだから、わたしには多分才能がない。

 

 死んでから蘇る様は、見ていた者によれば巻き戻しに近いらしい。

 五条悟によって禁術認定もされた、八咫の相伝、人体改造術式のひとつだ。

 特級呪物を取り込む苦しみに錯乱して、器が自害することないよう、呪具を作るように子どもの頭に刻んだのは八咫の家で、そのおかげでわたしは生き延びられたようだった。

 

 殺そうとしてきた人間をわたしはあべこべに殺め、そいつの顔も名前も何もかも忘れた。

 

 ────寂しくないことが、先輩の正しい終わり方、ってこと?

 

 ベッドのシーツに頬をくっつけていると、虎杖のそんな言葉を思い出す。

 

 わたしが思う正しい死が、虎杖悠仁が言ったように『寂しくない死』だとしたら、わたしは殺した呪詛師に、正しくない死を与えたことになる。

 

 だって、わたしが何も覚えてないからだ。

 顔も声も、形も、殺意も、引き金を引いた感触も、殺害の感覚すらもわたしにはなくて、周りの人間たちから聞いた『昨日のわたし』の行いをなぞるだけ。それは、記録であって記憶ではない。

 

 自分を殺した相手に死に様を覚えてもらえないのは、とても寂しいことだろう。

 誰かの記憶に人として残ることができず、記号としてのみ残った人間は、とても哀れだ。

 でもわたしには、己の殺人行為を悔いたり嘆いたりする気は欠片も起きない。仮に殺したことを覚えていたとしても、今と同じように微睡めるだろう。

 

 虎杖悠仁と言葉を交わして、『正しい死』という言葉を記憶に刻んでいなければ、こんなふうに思うことさえもなかった。

 

 仰向けになって、天井に手を伸ばした。

 わたしが生きているのを見たら力が抜けたと、安心したように笑った少年。

 何も覚えていなければ、何もなかったのと同じだと言ったわたしを見て、僅かに顔を曇らせた少年。

 そして己の手の届く人に、『正しい死』を迎えてほしいと願う少年。

 

 ぱたりと、伸ばしていた手が落ちた。

 

 うん、やっぱり、わたしはあいつが。

 

 ─────嫌いだな。

 

 確信すると同時に、ぱたりと伸ばしていた手が落ちて、わたしは、そのまま眠気に負ける。

 次に目覚めたとき外はもう暗くて、枕元には六本のココア缶とわたしの財布が置かれていた。それに『おやすみなさい』と書かれたメモが一枚。

 メモを引き出しに、財布を棚に、ココアを冷蔵庫にしまって、それで、もう一度眠ろうとベッドの上で目を閉じる。

 

 交流会からしばらくして、わたしは凄まじき夢を見た。

 虎杖悠仁の姿をした、虎杖悠仁でない誰かが、人間を嗤いながら塵を払うように殺める、そんな夢だった。

 

 

 



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3話

感想、評価、ありがとうございました。

では。


 わたしが体に収めた呪物は、『くだん』の木乃伊(ミイラ)である。

 『くだん』とは、女、或いは牝牛の腹から生まれた、牛頭人身か人頭牛身の化物。誕生してすぐに災いの予言を齎して死ぬ。それだけの不気味な妖怪だ。

 現代の呪術界的には、特級仮想怨霊に分類されるこの呪霊の最大の特徴は、受肉して生誕することだろう。

 つまり『くだん』は、生まれたときからその不気味な姿を、非術師の前にも晒す呪霊だ。生まれて予言をし、すぐさま死を迎えたその亡骸を木乃伊にしたのが、特級呪物『予言獣・くだん』である。

 木乃伊を人に飲ませ『くだん』の術式を扱う者が生まれれば、自在に予言を齎すことができるのではないかと、とある呪術師一族は考えた。

 考えたのか唆されたのかも定かでないが、とにかく彼らは苦心惨憺五百年を積んで、器をひとつ造った。

 

 だから器であるそのわたしには、『くだん』の術式が継がれている。完全な形にならなかったから、失敗扱いであるにせよ。

 

 わたしは術式によって人が大勢死ぬ光景を夢に視る。

 それがわたしの術式の使い方だ。

 普段扱う術式よりも遥かに遠い未来を視通すことができるが、わたしの意識がない時にしか発動できないために普段は使えないのだ。

 『くだん』と違って予知夢をしても死ぬことはないが、いつどこでどのように起こるかまでは視通せない。『くだん』ならば正確に言葉で予言できたらしいが、わたしにはできない。

 ただただ、大量の人間が死ぬ場面だけが夢に出るから、夢の内容をよくよく描き出して、分析するしかないのだ。

 数か月先の未来を視たこともあれば、七十年ほど前のひどい戦争の過去を視たこともある。

 時空が安定しない、面倒な夢だ。

 怨嗟の声は子守り唄にはならず、ただただ耳の奥のやわらかいところを引っ掻いて行くばかりなのだから。

 

 過去視にせよ未来視にせよ、共通しているのは、大量の人が死ぬ光景ということだ。

 

 その光景が過去か未来かは辛うじて感覚でわかるが、とにかくわたしの夢はいつもぐちゃぐちゃとしていて、赤くて黒い。

 人が、死への恐れという凄まじい負の感情を抱く場面をわたしの術式は勝手に掬い取って、わたしに見せつけるのだ。負の感情を糧にする呪力を用いているからこそ、そういう場面しか視られないのだろうが、本当因果な呪法である。

 未来に対し一切の希望を捨てよと囁かれているような気がするし、如何にして未来を視通しているのか、その仕組みもわたしには掴めていない。

 

 その当てずっぽうでいい加減な予知夢が、つい先だって紡ぎ出したのは、この東京で起きる地獄もかくやの光景だ。

 

 渋谷の街で、複数の呪霊が大勢人を殺している夢を視た。

 その中にはあの改造された人間たちも多く混ざっていたし、それらに呪術師たちが抗っている光景も視た。

 けれどそこには、五条悟だけがいなかった。特級呪霊と戦うならばいて当然の、最強の呪術師が。

 五条悟がもしいなくなれば、この国は最悪呪いに沈む。国の形が保てなくなる。

 

 わたしは無論、その夢のことを五条悟にも伝えた。それは、虎杖悠仁が発見されてしばらくしてからのことだ。

 だけれど、わたしが視るのは、実現がほぼ確定された災厄。覆す鍵を知っているわけではない。

 

 人間たちが語り継いだ神の物語に、故国の滅亡を予言し続けても信じてもらえず、結末を覆すこともできなかった女がいたが、予言能力というのは非力なものなのだと、遥か昔から教えられているような逸話だ。

 

 その夢の続きを、またも視た。

 しかも今度は、こともあろうに虎杖悠仁が人を殺す夢だ。

 あいつが、十人や二十人で効かない大量の人間たちを、呪霊との戦いに巻き込んで、吹き飛ばして殺すのを、視た。

 炎を操る単眼の呪霊、剣を持つ巨大な呪霊らしい何かと宿儺が二度戦い、二度に渡って街を焦土に変えるのだ。

 尤も、虎杖悠仁が意思を持って人を殺すのでない。

 呪霊と戦うため術式を振るった結果、無造作に人が消し飛ぶのだ。が、いずれにせよ大量に人が死ぬのに変わりはない。

 

「それ、悠仁じゃなくて宿儺だと思うよ」

 

 夢を視た日の朝に報告すれば、五条悟は椅子に座ったまま珍しく真面目な口調で答え、わたしも頷いた。

 あのお人好しがやったとは、わたしとて思わない。

 第一、生得術式が無く身体能力と呪力のみで戦う虎杖には、大量虐殺の術がない。

 やるとすれば、虎杖の中の呪いの王、両面宿儺のほうだ。

 あんなに人を殺して、一体何が楽しいのやらわたしにはわからぬが、ともかく宿儺は屍の玉座に座する王であり、それが降臨したということは、宿儺の制御を虎杖が失ったということに他ならない。

 

「悠仁は確かに、肉体の制御権を宿儺には渡してない。だけど……うん、一度に大量の指を食べさせられたら、その制御は効かなくなるだろう。一時的だけど、主導権が宿儺に奪われる」

「……」

「そしてこの前の襲撃で、高専が保有していた宿儺の指は全て奪われた。もしあいつらが既に宿儺の指を何本か手に入れているとしたら、十本以上を手中にしてるのかもしれないね」

 

 しれないねじゃおへんわと、思わず口汚くなりかけた。

 

 だが、わかったことがある。

 高専が襲撃され指が奪われた後、わたしは虎杖の体を使った宿儺が人を殺す夢を視た。

 それはきっと、あの夢が現実となる確率が極めて高くなったからだ。

 宿儺の指を奪われたことが、虐殺の未来をほぼ確定したのだろう。

 

「ラクは引き続いて、夢を視たら僕に教えて。大丈夫、何とかするさ」

「……」

 

 それはどうだろうな、とわたしは首を傾げた。

 五条悟は最強であっても、万能ではない。人間だから、仕方のないことだ。

 人間は、死ぬときは死ぬ。

 わたしの視た未来の夢がこれまで外れたことはなく、死者の数を減らし結末を逸らすことはできても、大まかな流れを覆せたことはない。ないことには、できないのだ。

 去年の百鬼夜行も、そうだった。

 

「そんな顔しない。とにかく、ラクはまた夢を視たら僕に教えることと、遠いところばっかり視ないこと。わかった?」

「ん」

 

 頷いてみても、『くだん』の予知夢式にわたしの意志は介在しない。だからこその劣化品だ。

 五条悟の眼の色は、相も変わらず黒の目隠しによって覆い隠され、伺い知ることができなかった。

 あらゆる術式を暴く蒼穹の瞳ならば、わたしの持つ術式のことも読み解けるのだろうが、五条悟は何も言わない。言うべきことがないのか、言うべきでないと口をつぐんでいるのかは、定かではないが。

 何にしてもこいつは、わたしに対して人間染みた青春を求めるばかりだ。

 要らぬ気の回し方だと思うのだが、言ったところでこの天上天下に一人だけの最強が気分を変えるわけもない。

 諦めてわたしは肩をすくめ、代わりに五条の前にスマートフォンの画面を突き出した。

 

『そちらの要望はわかった。それなら、東堂葵の連絡先を教えろ』

「葵の?なんでまた」

『この前携帯を特級呪霊に壊されて、連絡先が根こそぎおじゃんだ。東京校の分は復元したが、東堂葵の分がない』

 

 交流会の後半、わたしは呪力の枯渇と術式酷使の反動で眠りっぱなしだった。

 眠りから覚醒すれば京都校の面々は帰っていて、交流会も終わっていたのだ。

 わたしと携帯の画面の間で視線を往復させながら、五条悟は首を大きく横に倒した。

 

「……データのバックアップ、取ってなかったの?」

『虎杖悠仁と同じことを言うな。取っていなかったから聞いている』

「ちょっと、じゃあ何で僕に連絡先教えてって言わないのさ。聞かれてないよ」

『もう担任ではない人間のが必要か?』

「担任じゃなくても先生ですー!」

 

 かくて口を尖らせた五条悟に携帯はあっという間に奪い取られ、連絡先は増やされた。

 禪院真希や伏黒恵、虎杖悠仁や釘崎野薔薇の名前が並んだわたしの連絡一覧を見て口元を緩めている姿は、本当に何とも言えない。これが、呪詛師たちに死神のように恐れられている呪術師最強だと誰が思うのだろうか。

 

「いやぁ、トモダチ登録が増えていいじゃんいいじゃん。あ、ついでに秤とか憂太とかの連絡先も入れとくね。同期と後輩なんだからさ、仲良くしなよ~。ラクって何だかんだ後輩にはウケいいんだからさぁ」

「ん」

 

 それはいいから、いい加減東堂葵の話をしろと言うつもりで、五条悟が座っている椅子の足を蹴っ飛ばした。本体を蹴っても効かないのだから仕方ない。

 

「ラク、歌姫に似て来てんじゃないの。物に当たるヒスはモテないぞ?」

「……」

「ちょっとちょっと、わかったよ。わかったからそのチベスナ顔はやめときなって。葵の連絡先だよね。ゴメン、僕は知らないから歌姫に頼んどいてあげる。でもさ、何で葵?そんなに親しかったっけ。ぶっちゃけラクって京都と仲悪いでしょ。去年色々あったんだし」

 

 結局連絡先を知らないのか、とわたしは携帯を返してもらいながら目を細めた。

 適当に誤魔化してもいいが、下手なことを言えば根掘り葉掘りされるだろう。先に真実を言ったほうが、被害は少なく済みそうだった。

 

『高田ちゃん関連』

「は?」

『長身アイドル高田ちゃん関連でのみ連絡を取り合っている』

「……は?」

 

 スマートフォンの画面に打ち込んだ文字と、無表情のわたしの顔を三回見比べた後、五条悟はけたたましいワライカワセミとなった。

 そのまま椅子ごと引っ繰り返って、床に後頭部を打ち付けてしまえばいいのに。

 しかし呪術師最強がそんな間抜けを晒すわけもなく、五条悟は普通に腹を押さえて復活した。

 

「はー、ウケたウケた。そっか、好きなアイドルができてたなんて、ラクもなかなか人間謳歌してんじゃない?」

『お前の望んだことだろう』

「いやいやいや、君が望まなきゃ全部意味がないんだって話」

 

 とりあえず葵の連絡先は何とかしてあげるよ、と五条悟は楽し気に言った。

 特級呪物の器、特級被呪者、そしてまたもや特級呪物の器と、三年連続で常識外れの生徒を抱え込んでおきながら、どこまでも底を感じさせない人間だ。

 その瞳のように、果ての無い空と繋がっていそうな気がして来る。

 けれどもこいつは、人間だ。

 現に、交流会では五条ひとりを抑え込むための結界、帳が下ろされて特級呪霊による被害が出た。まったく覚えていないが、その侵入した特級呪霊によってわたしは死ぬような目に遭ったらしい。

 相性がよかったから生き延びられたが、まかり間違えば死んでいたという。

 加えてわたしが倒れていた近辺には、呪詛師の射殺体の他に、補助監督だったと思しい異形の改造人間が心臓を撃ち抜かれて事切れていた。

 その補助監督を殺したのは、わたしだろう。

 わたしならば、助けられないと判断すれば速攻で引き金を引いて殺したろうし、そこに大して葛藤しなかったと思う。

 ただ、守ると決めて動いたのに失敗したことを苦く思っただけで、殺すべきものと化した人間への哀悼は持たなかったはずだ。

 

 それでも五条悟には、間に合わなかったことを謝罪された。

 生徒が護られているべき高専の中で、子どもに介錯をさせてしまったことを、人間の教師らしく悔いていたのだ。

 わたしは確かに未成年でかつ手弱女だが、それは外見(そとみ)の器の話であって、中身には当てはまらないのに、そういうところを人間は気にする。五条悟も、気にかける。

 もしあそこで生徒であるわたしが特級呪霊に殺されていたならば、五条悟は出し抜かれたことになる。

 結局事件の幕引きは五条悟の大技でもあったが、とにかく結論として、こいつは万能ではない人間であり、敵も馬鹿ではない。

 そこまでを考えて、予知夢の中に五条悟の姿を認められなかったことに、思っていたより己が衝撃を受けていることに気づいて、鼻を鳴らした。

 

『話はここまでにする。任務に行く』

「おっす。気を付けていってら~。悠仁たちによろしくしたげてね」

 

 からから笑う五条にそのまま軽く会釈をして、部屋を出る。

 この後にも、任務は入っているのだ。非術者から漏出する呪力が途切れることはなく、呪霊も底無しに生まれ来る。

 そこまでの力を生み出し続けることのできる人間とは、本当に興味が尽きないものだ。人間の想像力に、果てというものはないのかもしれない。

 

 何にしても、考え事に耽るのはここまでだ。

 

 スラックスのポケットに押し込んでいた帽子を目深に被り、高専の出口目指して走り出す。校内がだだっ広いため、ちんたら歩いていると下手すれば日が暮れるのだ。

 今回の任務は、補助監督がつかない単独である。

 前回の呪霊の襲撃で補助監督数名に被害が出たから、色々と穴埋めで大変らしい。一年ならともかく、三年なら単独任務へ行ってどうぞ、となっている。

 高専結界の外へ飛び出してバスと電車に乗れば、東京の街にはすぐに辿り着く。

 慣れた喧騒に身を任せて歩いて、裏路地へするりと入り込む。エアコンの室外機と、くすんだネオンで囲まれた看板を足場にして跳び上がり、屋上に辿り着く。

 

 今日の任務はごく単純。

 この屋上から見えるビルに存在が確認された、呪霊の討伐だ。

 体の中へ収めた呪具へ呼びかければ、わたしの手の中には狙撃銃が一瞬で顕現する。

 視線に敏感な呪霊に悟られることを避けるため、スコープをつけていない銃には、トカレフの名が与えられている。

 

 そういえば、京都校にいる家出してないほうの禪院のやつに、狙撃云々で絡まれたことがあったなと思いながら、屋上から十数メートル離れた隣のビルを銃身越しに覗く。

 そこには予想の通り、きゃらきゃらと遊び戯れ跳ね回る、三から二級の呪霊が複数体いた。

 蚯蚓のような色をした、蛙に似た呪霊が五体ほどいて、なんとも騒がしい。発生したばかりのようだが、放置しておけば人を喰らうだろう。

 生まれたての無邪気さのまま、人の手足を引きちぎって遊ぶのが呪いなのだから。

 寮内の掃除機の電源を入れるのと同じ感覚で、わたしは銃の引き金を引いた。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 五条悟は、意外と早く京都校と渡りをつけてくれたらしい。

 ビルでの呪霊討伐が終わる頃に、わたしの携帯電話には東堂葵からの連絡が来ていた。

 東堂葵は、一言で言えば京都校のクレバーなゴリラだ。

 筋骨隆々な見た目に違わず、凄まじい膂力と耐久力の持ち主で、術式無しで一級呪霊を祓い、非術師の家系でありながら一級術師になっている。

 術式もこれまた汎用性の高いもので、とにかく優秀な術師である。性格に難ありなため京都校面子からは嫌われているが、それでもその強さを認めざるを得ないらしい。

 高専へ帰る電車の中でトークアプリを開いてみれば、そんな東堂からのメッセージが来ていた。

 

『ブラザーと親しかったのか?』

 

 前置きもクソもない一言である。

 毎度変わらんやつだが、まず以てブラザーとは誰だか教えろ言う話だった。

 

『ブラザーとは誰だ』

 

 たまたまあちらもアプリを開いていたのか、すぐに既読マークがついて返信が来る。

 

『そっちの後輩にいるだろう。虎杖悠仁が』

 

 いやあいつかよ。

 親しくなったのは何となく聞いたが、あの長春色頭とこいつが兄弟(ブラザー)になっていたとは思いつかなかった。

 

『二ヶ月ほど、五条悟に言われて訓練を見た。呪術及び呪術界の基礎知識、呪力を用いた体術のさわり程度だ』

『合点が行った。オマエ、ブラザーに黒閃を教えただろう』

『言いはした。できたところは見ていない』

 

 0.000001内の誤差で打撃と呪力が衝突した際に、爆発的な力が発生する空間の歪みの名前が、黒閃である。名前の由来はそのまま、衝突した呪力が漆黒に染まるからだ。

 狙って出せるものではないが、一度経験すれば格段に呪力の核心に近づける妙技であり、その威力は通常の2.5乗。

 殴る蹴るが主体の東堂や、ほとんどそれしかできない虎杖にとって、黒閃はまさに必殺技であろう。

 銃器主体とはいえ、わたしも以前に五条悟が『黒閃出すまで帰れま10(テン)』という頭のおかしいことを言い出したために、経験はしていた。

 

 だが、それにしても。

 

『何故虎杖がお前のブラザーだ?生き別れの兄弟か?』

『いや違う。違うが虎杖と俺は謂わば魂の兄弟だ。だからこそのブラザーだ』

『女の好みでも一致したか?』

『よくわかったな!!さすがは同士だ!!!』

『エクスクラメーションマークを増やすな』

 

 東堂とわたしは、以前同じ任務に就いた。そのとき上手く援護が嵌ったことに加え、わたしが高田ちゃんの新曲を欠かさず聞くために、東堂はわたしに普通に話しかけて来る。

 呪物の器と後ろ指指されないだけ対応が楽なのだが、同士扱いはやめてくれないだろうか。真剣に。

 だが、虎杖を捕まえてブラザーと宣う東堂の絵面はおかしすぎて、携帯を弄りながら肩を震わせて笑ってしまう。

 無表情で、痙攣するように無言で笑うわたしを見て、両隣に立つ女子学生とリーマンが引いたが、構っていられなかった。

 

『ちなみにブラザーの女の好みは、タッパとケツのでかい女だ。……残念だったな』

『知っている。ジェニファー何某がどうと言っていた』

 

 虎杖と好みが同じということは、東堂の好みも同じく身の丈と尻のでかい女ということになるのだろう。

 こいつの性癖はどうでもいいのだが、ものの見事に性癖が熱を上げているアイドルに当てはまっているのだから、わかりやすくて笑えた。

 

 そもそも、わたしに高田ちゃんを教えたのもこいつなのだが。

 

『次の東京の個握には行くのか?』

『基本、行かん。新曲が聞けてCDを入手できればいい』

 

 主に、頭の角をどうこう言われるのが面倒なのだ。

 イベントで角を見た警備員やスタッフは、大概先の尖ったアクセサリーは外して下さいと言うが、生憎わたしの角は頭骨の一部である。

 角が生える病だと誤魔化すこともできるが、口を利けないわたしには、その誤魔化しも面倒になる。

 最初に東堂に引きずられるようにして行った握手会では、『カッコいい角だね!』という高田ちゃんの一言でどうにかなったし、その対応が好きになったからわたしは今でも彼女の曲を聞いているのだが、毎回そうはならない。

 だからいつもCDを買うだけでいいのだが、頭パイナップルはそれを忘れていたらしい。

 友達が極端に少ないところに、虎杖(ブラザー)ができたせいで、浮かれているのかもしれなかった。

 高田ちゃんのリアタイがどうの録画がどうのこうのという長文メッセージを丸ごと飛ばして、わたしの言葉を書いた。

 

『お前、もし虎杖が死にそうな程困れば、京都にいても駆けつけるか?』

 

 濁流に小石を投げ入れるようなものかと思ったのだが、意外や東堂の高田ちゃん怪文書は一度止まる。

 

『どういう意味だ?』

『そのままだ。兄弟呼ばわりするからには、それくらいの義理人情はあるんだろう?』

 

 正直、女の好みは一致しただけで東堂が虎杖に入れ込むのは驚天動地だ。

 が、元々人間の心の転じ方はわたしには実感が伴わない場所にある。

 東堂葵が一度入れ込んだ相手には真摯に向き合う反面、それ以外の人間に対しては横暴横柄であることがわかっていれば、それで十分だった。

 一分、二分、と東堂は沈黙する。どう応えるのかと目を細めたところで、ポンッ、とメッセージがスクリーンにポップアップされた。

 

『オマエがブラザーを、いや人間を案じるとは、頭でも打ったのか?』

『よしわかったお前はあてにせんこの筋肉達磨』

 

 携帯を閉じて、腰のポーチに押し込む。

 久しぶりに大爆笑したせいで、頬の筋肉が攣りそうだった。

 頬を片手で揉みながら顔を上げれば、横に流れて行く車窓に映る風景は、既に茜色を通り越して群青色に沈んでいる。その群青に、人口の明かりがクラゲのようにぽつぽつと浮いていた。

 その明かり一つ一つには人が生きていて、そう遠くない未来に、この東京という騒がしい街には屍が積み上がり、闇が降りる。

 

 呪術師としては、それを食い止めなければならないのだろう。己の生命と、引き換えにしても。

 その行いにそこまでの意義を感じていなくとも、仕事とはそういうものだから、割り切ってやる。

 呪術師になった以上、泣き言を言うつもりはないのだ。生きられるまでは生きて、手放すときに手放すのが、わたしの生命だ。

 その、人間にしては突き抜けた虚しさは常にわたしの内側にあって、それは多分人間と呪霊が混ざった生き物であるがゆえだろう。

 

 呪霊のように本能のまま人を殺して楽しもうとする衝動は壊れ、人間のように他人と繋がりを求める心は持ち合わせていない。

 混ざり合うはずがない二つを抱えた魂は代わりのように虚無を生んで、わたしはそれを抱えて生きている。

 

 肉を突き破って生えている額の角は、実にわかりやすい異形の証だと思う。

 いっそパンダのように呪骸として生まれ、完璧に人間でないと割り切れば楽な生き方ができると思うのだが、八咫犖の欠片がわたしに割り切ることを許さない。

 第一そこで割り切ってしまうとわたしは恐らく呪霊側に心が傾いて、非術師を大量に殺すことに何らの躊躇いも感じなくなるだろう。

 それはそれで、極端に過ぎる。人の死にざまなど、眠る度に夢の中で見せつけられているのだ。現実の世界において同じ光景を自力で展開するなど、面倒でやってられない。

 

 わたしにも、わたしが何であるかはわかっていないのだ。

 この体を生んだ人間は化け物と呼び、五条悟は生徒と呼び、虎杖たちは先輩と呼び、東堂は同士と呼ぶ。

 別に己の正体に確たる答えが欲しいとは思わないし、他人に定義される必要もない。

 そのようなものがなくとも生きていけるし、他人に用意された答えで満足できるわけもない。

 

 ポーン、と唐突に鳴り響いた電子音で顔を上げる。見れば、電車はわたしが降りるべき駅に止まっていた。

 人をかきわけてホームに降り立てば、秋の気配のする風が吹きつけて来て、首を縮めた。

 高専の方角へ向かうバスに乗り換えて座席に座り、また外を見る。少し遠くなった東京の明かりは、まだ見えていた。

 

 ガラス細工のようなあれを壊さないために最も手っ取り早い最適の方法は、虎杖悠仁を殺すことなのだろう。

 不意にその考えが浮かんで、は、と息を吐いた。ガラスが吐いた息で白く濁る。

 そうすれば少なくとも、宿儺によって死ぬ人間は出ない。というか、わたしが見た予知の夢を五条悟が素直に上へ提出すれば、上はどうでもこうでも虎杖を殺せと騒ぐだろう。

 『くだん』の予言術式は、彼らにとっても本物なのだ。

 完全に特級呪物『くだん』の木乃伊を身に取り込んだわたしの死刑が差し止めにされた理由には、予言を利用したい人間の思惑も多分に絡んでいる。

 

 だから五条悟は、きっと、予知夢を握り潰す。

 無論ある程度は上へ見せるのだろうが、少なくとも宿儺の部分は省く気がした。

 わたしもそれを予想していて、敢えて五条悟にだけすべて渡しているから、仮にこれで予知夢通りに宿儺によって大量に人が死んだ場合、わたしは五条と同罪になるだろう。

 

 正しい人間であればあるほど、子ども一人の生命と数多の生命を天秤にかけた場合、後者を選んで前者を消すはずだ。

 それが、人間たちの崇め奉る正しさだと思う。犠牲を少なくし、多数を守るのだから間違いはない。

 

 しかし、かつてそうやって正しさに押し潰された子どもを、わたしは知っていて同じ正しさで以て虎杖を殺せば、心底軽蔑している八咫の家の者たちと同列になる。

 詰まる所はやりたくなかった。正しくても、やりたくないのだからやらないのだ。

 は、とまた吐いた息で窓ガラスが息で曇る。ふと思いついて、指でぐるぐると渦巻きを描いてみた。

 こんなふうな何かを、夢の中で視た気がしたのだ。

 が、既に輪郭は掴みそこなっていて思い出せなくなっていた。

 産毛が逆立つような禍々しいものだった気がするのだが、わたしの予知夢はすべての未来を網羅しているわけではないし、望むものを望むまま視るような術式ではない。

 これが完全な『くだん』であったならば、もう少し融通が利いたかもしれないのだが、真正の『くだん』は予言してすぐ死ぬ呪霊だから、どの道無理な相談だ。

 

 バスの揺れに身を任せていると、瞼が次第に重くなって来る。

 だがこれで眠れば、またわたしは何がしかの予知夢を視るのだろう。人間が負の感情を爆発させるような、そんな凄惨なものを。

 眠って堪るかと、わたしは自分のこめかみを指で弾いて舌をきつめに噛んだ。

 じんわりと舌の上に辛い血の味が広がって、眠気は霧散する。

 

 閉じた瞼の裏に、何も映らなければいい。

 人の死や悲鳴が映らない、安らかな闇だけをいつか視たい。

 揺蕩うように微睡みながら、意識が無へと還って行くような眠りを味わってみたい。

 

 その願いが叶うことはきっとないのだと、誰よりわたし自身がよくわかっていた。

 

 




pixivのと比べて、大幅な加筆修正をかけています。主に主人公の心情などに関して。

人間に近いけれど、人間じゃない何者かの心を書いてみたかったんです。能う限り丁寧に。


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4話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

「五条君から聞いたんだけど、八咫(やたの)君、最近後輩の面倒を熱心に見ているんだって?」

 

 今日も今日とて任務の日、仕事先に向かう車の中で話しかけて来た冥冥一級呪術師の言葉に、わたしは首を傾げた。

 

「一年に、特級呪物の器が入学したじゃないか。どうやら、君とは大分タイプが違う天然もののようだが」

「ん」

 

 長い髪を三つ編みにして顔の前に垂らす独特な髪型の女術師に、わたしは文字を打ち込んだ携帯を見せた。

 

『虎杖悠仁?』

「そうだよ、その虎杖君だ。で、君から見て彼はどうなんだい?」

『人間をやっている』

 

 わたしの答えに、冥冥は顎に手を添えて考える仕草をした。

 

「それは確かに君とは違うね。実は五条君に、虎杖君や禪院の子たちを一級呪術師に推薦してほしいと話を聞いてね。君から見て、彼らはどうなのかと思ったんだよ」

『……いくら積まれた?』

「さあ、何のことだい?君が他人に興味を持つのが珍しくて、聞いているだけなんだが」

 

 会話の気配が不穏なことを悟ってから、車を運転する補助監督の伊地知潔高の肩が少しはねた。

 呪術師の昇級は、推薦制だ。

 一級呪術師に上がるためには、一級呪術師二名からの推薦が必要となる。

 推薦されたあとは現役一級か一級並みの術師と共に任務に赴いて、そこで適性有りと判断されれば準一級へ昇格。

 そこから一級相当の任務を単独でこなせれば、一級となれる。

 呪術師の階級は、実質的に一級が最高位のようなものだ。

 最上位は特級だが、あそこは次元が違い過ぎて努力や自力で至れる段階を超越している。

 その一級術師に、五条悟が虎杖悠仁たちを至らせようとしているのは、特に驚くことではなかった。

 というか禪院の真希のほうなど、明らかに四級以上の実力があるのに実家に阻まれ昇級できていないのだ。それが交流会では特級相手に時間稼ぎに成功したのだから、禪院もいよいよ邪魔をする(すべ)を失ったのだろう。

 呪術師上層部にとって、五条悟の生徒たちが昇級することはこれ以上ないほどの牽制だ。面白そうな話だな、とわたしはひとつ頷いた。

 己より下にいる者たちの運命を、いくらでも操作できると思い込んでいるような人間がひっくり返され翻弄されるのは、視ていて愉快になる。

 

 首を傾けていると、冥冥はうっそりと微笑んだ。

 

「ちなみに、君も昇級査定対象だよ。交流会で特級呪霊を単独で相手にし、呪詛師を一人討伐したんだから、まず妥当なところだね」

『それは、わたしに話していいことか?』

「八咫君は誰かに漏らすタイプじゃないだろう。五条君は私の他に、東堂君を考えているようだったが彼も君とは知り合いだろう」

 

 またあの頭パイナップルが出てくるのかと、先日会話したばかりの一級術師のツラを思い出した。

 東堂はともかくとして、口の堅さにかけてわたしほど硬い者はそういないだろう。

 言葉が話せないのだから、雑談の中でうっかり漏らすこともまずないし、基本的に己から話も始めない。

 目の前にいるこの食えない冥冥とあの東堂に推薦されて一級になったとしたら、任務の難易度が上がるのだろうな、と思う。

 死の淵に立てば術式への理解は格段に上がるというから、或いはそういうことも起きるのかもしれないと少し窓の外の空を見上げる。

 冥冥のほうは、少し機嫌が良さそうに続けた。

 

「君が君の術式の理解を深めていけば、まだまだ面白いことができるようになりそうだからね。頑張ってくれ」

「……ん」

 

 そんなことを宣う冥冥の術式は、カラスを操ることだ。

 それだけの弱い術式にも思えるが、カラスと彼女は視界を共有でき、わたしが狙撃手をする際にとても便利な観測手となってくれる。索敵にかけては随一だ。

 本人の身体能力も高く、術式無しでも問題なく戦えるほどに冥冥は強い。身の丈ほどもある斧を軽々振り回すのだから、膂力は推して知るべしだ。

 冥冥にしても、わたしは無駄口を叩かずひたすら目標を殲滅していく楽な仕事相手らしく、時々合同任務を持ってくる。

 わたしが金に関心が薄く道理にも頓着しないために、多少冥冥が多く報酬を持って行こうと何も言わないというのも、大いにあるだろう。

 冥冥一級呪術師は、とんでもなく金が好きなのだ。

 使うのが好きというより、金という概念が好きだとしか思えないほどに。

 初対面のときなど、わたしの未来予知術式で株価を予知できないかと真顔で尋ねてきたほどだ。そんな使い道を期待する人間がいると考えたこともなかったわたしには、冥冥の問いはかなりの衝撃だった。

 人が死なないからそんなものは予知できないと返せば、金でヒトは生きるし死ぬよ、と真っ直ぐな瞳でこともなげに言うような人間である。

 隣にいた弟の憂憂は、そんな姉に拍手を送っていたものだ。

 

 この口ぶりからして、この人間はわたしの術式を金儲けに使うのをまだ諦めていなかったと見える。

 確かに、向こう数ヶ月の株価を予知できれば儲けられるのかもしれないが、特級呪物の器を捕まえてそのようなこと頼む輩がいるとは。

 

 冥冥を見ていると、そのうち人が金へ向けた感情から厄介な呪霊が生まれてきそうだと思える。或いは既に生まれているのか。

 

「ともかく、後輩共々君はこれから忙しくなるだろうね。早く一級に上がっておいで」

「……ん」

 

 冥冥のその一言を待っていたかのように、補助監督の運転する車は止まる。

 今回呪霊の発生が確認されたのは、地下の下水処理場施設。こんなところに、一体どのような負の感情が向けられて形を取ったのだろうかと、そう思いながらわたしは車から降りるのだった。

 

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 その日も、いつもと変わり映えしない一日になるはずだった。

 

 普段と少し違っていたのは、その日のわたしが私服のセーターと細身のパンツに着替え、頭の角を隠すベージュのキャスケット帽を被っていたことくらい。

 そんなふうに変装したわたしが高専の制服を脱いで単独で向かったのは、渋谷の街だった。

 

 よりにもよってそこか、と思ったのは否めない。

 わたしが視たあの大騒動の舞台は、渋谷の街であったからだ。尤も、夢は五条悟にしか提出していないのだから、ただの偶然だろう。

 

 夢の中で、遠からず大量の人間が死ぬ渋谷は、今日も騒がしかった。

 幸福そうに前を向いて、或いは不幸せそうに俯いて、たくさんの人間は歩いて行くし、その群れの中に低級の呪いが黒い染みのように混ざっている。

 歩きながら、さり気なく呪力を纏わせた靴で踏みつけ手の甲で叩けば、ギ、と小さな悲鳴を残して蠅のような呪いは消えて行く。

 こんな木っ端、消したところで何かが変わるわけもないのだが、視界でちらちらされるのは鬱陶しかった。

 狙撃銃を構えたとき目の前に出て来られて仕損じたら、笑い話にもならないし。

 

 何たらアベニューの側で適当に見つけた適当なベンチに座り、ぼうっと自販機で買ったココアを飲む。

 温いし甘ったるいのに、一度飲むと何故か癖になった。バンホーテンのが特にいい。2月になったらバンホーテンのチョコでも買おうか。自分用に。

 そうやってぷらぷら足を振りつつ、人の群れを見ていれば、ふと視界に、見知った長春色の頭が映る。雑踏の中を目立つ頭はひょこひょこと動いていた。

 

 ……何をやっているのだろう、虎杖悠仁。

 

 左から右へ歩いて行く虎杖は、わたしの前をまったく気づかず通り過ぎようとして、通り過ぎる寸前で、冗談のようにこっちを向いた。

 

 いやお前、何故そこで探しものを見つけたように笑う?

 とたた、と群れの中から器用に抜けた虎杖は、当然のようにわたしの前に立った。

 

「ラク先輩、こんちゃーっす!何してんの?」

「ん」

 

 何もかにも、任務だった。

 その旨書いてみせれば、虎杖はちょっと間考えたふうだった。

 

「……あのさ、迷惑じゃなかったら、その任務俺もついてっていい?」

「……」

 

 好きにせえと、わたしはベンチの端に移って場所を開け、虎杖は開いた場所にすとんと座った。

 こいつのみならず他人の思考回路が読めなくなるのは、結構よくある。予知能力があったところで、何もかもわかるわけじゃない。

 にしても最近会話した東堂も冥冥もこいつ絡みのことを尋ねて来ていたところに、本人が登場したのだから、そういう巡り合わせのような気がして、帽子のつばを少し引っ張り下ろす。

 

 未来予知式を持っておきながら、偶然に振り回されるなんてお笑い草だ。

 どっちみち今日の虎杖は私服のズボンにパーカーで、頃合いが良いと自分を納得させる。だがこいつ思い返せば制服もパーカー付きに改造していたし、パーカー好きなのだろうか。

 

『呪詛師を探している。渋谷駅周辺で目撃情報が上がったから、見ていた』

『オッケー。どんな見た目?』

『身長百八十前後、年齢五十絡みの中肉中背の男。説明しづらい外見だから、わたしが見つける』

『そいつ見つけたら、どうすんの?』

『追う』

『わかった』

 

 渋谷を抜けるバスを見ながら、スマホで話す。

 傍から見れば、バス停近くのベンチに隣り合わせで座りながらスマホを弄る、今時の若者だろう。

 交流会に現れたような、ひとごろしを生業(なりわい)にする呪術師が、渋谷駅の周りに出没しているという情報が上がったから、ここに来た。

 術式がわたしにそうさせているのか、直感に頼るような人探しをわたしがやれば、九分九厘で正解に行き当たる。だからこういう任務は、よく回される。

 

 銀色の鰯の群れのように流れて行く人の群れを、座ったまま見やる。時計の針が二周、三周していく。

 老いも若きも子どもも誰も彼もが、波に乗った木の葉のように流れて行って、その中に唐突にぽつんと、墨汁を垂らしたような染みが見えた。

 

『いた。1番バス停の看板左側』

 

 虎杖は、軽く頷いた。

 呪詛師は一見、普通の男だ。上背はあるが特徴はそれくらいで、毒気の無い顔をしている。

 白い開襟シャツにジャケットと黒のズボンを合わせた身なりは、整えられて品がある。手首には金時計が光っており、まるきり普通か、やや裕福そうな中年男に見える。 

 それでも、あれが呪詛師だ。 

 呪詛師が視界の端に行ったところで、わたしは虎杖の腕を引いて立ち上がった。

 目立たないよう気づかれぬよう、数メートル間を開けて歩く。人の波が切れ始める方向へ歩いてゆく姿を見失わないよう、術式を回し続けて辿り着いたのは、人の気配が薄れた裏路地。

 路地に入る手前で、わたしは虎杖の手を離して指で合図した。裏に回れ、と。

 虎杖は頷いて姿を消し、わたしは路地に足を踏み入れる。敢えて足音を立て、高めた呪力の気配を纏ったわたしに、さすがに気づいたのだろう。

 路地を歩いていた男は、弾かれたように振り返った。

 

「呪術高専か!」

 

 答える代わりに帽子を取って角を見せれば、相手が顔を引きつらせた。

 

「ッ、角付きか!くそが!」

 

 半身をずらし構える現実の相手に被さって、術式を行使する未来の幻が見える。わたしの影に向かって、針を飛ばす姿だ。影を攻撃して、本体の動きを止める類の術式だろう。

 帽子を相手の顔面目掛けて投げつつ、右斜め後ろに一歩跳び退り間合いを外す。と同時、わたしの手に召喚されたのは、二丁の拳銃。

 呪力のみの弾が四発、男の額に命中した。

 そのまま後方に気絶した男が倒れるが、同時にわたしの頭上のビルの窓が開き、ナイフを構えたもう一人の男がわたしの脳天を串刺しにせんと、跳び下りて来る。

 

「あっぶねぇ!」

 

 だが、横合いから文字通り跳んで来た虎杖の膝蹴りが、ナイフの男の頬に空中で突き刺さって吹き飛ばした。錐揉み回転してアスファルトに叩きつけられた男は、白目を剥いて完璧に気絶。

 男のナイフを拾い上げてから、よし、とわたしは頷いた。

 

「先輩!怪我ないか?」

 

 くるっと宙で回転し、猫のように着地を決めた虎杖はすぐ駆け寄って来て、わたしが親指を立てればほっと頬を緩めた。

 

「二人目がいるって、わかってた?」

「ん」

 

 わたしに、視えていないはずがない。

 だからこそ上で待ち伏せる男の速度が、わたしでは反応がぎりぎりなのもわかっていた。多分、加速系の術式持ちなのだろう。

 だが同時に、路地の反対に回らせた虎杖の跳び蹴りが間に合うことも測れていたから、何もしなかった。

 

「呪詛師って、この二人だけで終わり?」

「ん」

 

 わたしの任務は、この二人組の呪詛師の捕縛または討伐だったからこれだけだ。

 あとは高専に連絡して、回収班が来るのを待つだけ。真昼間の取り物としては、すんなり終われたほうだった。

 呪詛の道具らしい針やナイフを剥ぎ取り、腰のポーチに入れていた呪力封じの手錠でとっとと拘束し、路地裏のゴミ箱の影に気絶した男二人を転がす。

 拘束を終えて辺りを見渡せば、目くらましで投げた帽子は、残念ながらつばを切られていた。布がたっぷりしていて、結構気に入ってたのに。

 拾い上げて手で払い頭に被り直したところで、虎杖と目が合う。

 

「ん?」

「や、手慣れてんなって。俺、邪魔になっとらん?」

「……ん」

 

 こちとらお前の蹴りをアテにして未来図を描いたのだが、とわたしは腕を組んだ。

 虎杖が来なければ、多分距離を取って狙撃していただろうし、その場合こいつらは死んでいた。

 呪詛師は殺してもいいのだ。捕縛のほうが推奨されるが、あくまで推奨程度。無理なら殺しても咎められない。

 呪術師に非ずんば人に非ずが呪術界上層部の総意のようなものだし、わたしも特に気にならない。

 何にしても、後輩の介入のお陰で呼ぶのが死体回収班から、護送班になったのは確かだった。

 

『そっちは今日休みだろう。ここはもう大丈夫だから、遊んできたらどうだ?腹減ったろう』

『先輩はどうすんの?』

『回収班が来るまで待機。五分そこらすれば来る』

『じゃ俺も待ってる。その後、どっか遊びに行ける?』

 

 は、と息を吐いていた。

 誰と誰がだ。誰と誰が。

 思わず、スマホの画面から顔を上げてしまう。割合真面目な顔の、虎杖と視線が合う。

 

『お前とわたしでか?』

『うん』

『報告書があるから今日は無理だ』

 

 たちまち、ショボンヌと文字の入った犬のスタンプが来る。送った当人も、あからさまに眉が下がっていた。

 気づけば、わたしの指は言葉を送っていた。

 

『明日なら空いている』

「マジで?」

『帽子を買いに行く必要がある。街には出る。お前、任務は?』

「ない!」

 

 さっきの針持ち呪詛師の攻撃で、キャスケット帽はつばがぱっくり割れていた。まともな帽子がないと、わたしは角が目立って街に行けないのだ。

 思わず声を出してしまったらしい虎杖は、またぽちぽちとメッセージを送って来た。

 

『ラク先輩って、普段どんなことして遊んでんの?東京長いんだよね。ザギンでシースーとかもうやった?』

『不忍池の洋食屋なら行った』

『しっぶっ』

『あんだと』

 

 何故わたしは、すんなり他人と会う約束を結んだんだと我に返ったのは、補助監督の運転する護送車が来てからのことだった。

 

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 

 結局、キャスケット帽子は浅草雷門周辺の店で買い求めた。

 用事が済んだのは昼下がりで、腹が減る。わたしはあんまんを買い、虎杖はメンチカツと肉まんを齧っていた。

 

「これうんまいね!マジうまい!」

「ん」

 

 伏黒や釘崎へのお土産にするのだと人形焼きを買い込む虎杖の背中を、あんまん齧りながら眺める。

 屋台から出てきた虎杖は、こちらを見下ろしてにっかり笑った。

 

「この辺、今度伏黒たちとも来たいなぁ。教えてくれてあんがと!」

「……ん」

「つーか先輩もよく食うね。たい焼き三個目にあんまん四個目だろ。あ、もしかして、五条先生みたく術式で頭回すから甘いもん食ってんの?」

「ん」

「そっかー」

 

 虎杖はよく食い、よく喋った。

 交流会の後、こいつ含めた一年三人は任務に赴き、伏黒や釘崎たちと特級相当の呪霊を祓ったという。着実に強くなっているのだ。

 中身も多分、変わっている。砥がれ鋭くなり、呪術師らしくなったと言うべきなのだ。

 

『お前の用事はなんだ?』

 

 わたしが尋ねたのは、雷門から御徒町の方へ抜け、不忍池へ辿り着いたときだ。

 とうに花を落とした蓮池に浮かぶ弁天堂に目を輝かせていた虎杖は、わたしが見せたスマートフォンの画面に少し表情を凍らせた。

 池を眺めるベンチに並んで座り、互いのスマートフォンを見る。

 

『聞きたいことがあるなら、聞けばどうだ?』

 

 ぐ、と虎杖は喉が詰まったような音を出した。今更肉まんの皮が詰まったのだろうか。

 

『先輩が、呪物を飲んだときのことが聞きたいんだ。だけど聞いていい話かな、それって』

『人に吹聴しないなら』

『しない』

『わかった。何が知りたい?』

『あ、先に俺が言ったほうがいい?ラク先輩のその、領域に踏み込む話だろ』

『お前の事情は、頼んでもないのに勝手にしゃべくった五条から聞いてる。伏黒恵と、前の学校の先輩を助けようとして指を食ったんだろう』

 

 人助けで呪物を飲んだ阿呆、と聞いたときには思ったものだ。

 一拍置いてから、わたしは文字で話し始めた。

 

八咫犖(やたのらく)が呪物を食ったのは、それが生まれた理由だったからだ。予言の術式を持つ術師をつくりたい親の言うことを聞いて、予言獣のミイラを食べた。五つの歳から年にひとつ食べ、すべて取り込んだのは十一のときだ』

 

 人の頭に牛の体の異形の干物は、七つに切り分けられていた。一度にすべて食えば人格を壊すかもしれないと、七年もかけたのだ。

 結局、食い終えたその瞬間に八咫犖は決定的に崩壊したのだが、兆しは五歳の時点で出ていた。

 恐ろしいならば、やめればよかったのだ。けれど、八咫犖という娘にとっては呪物を飲む恐怖よりも、親に見捨てられる恐怖が勝った。

 彼女は呪物を体に収めて壊れ、その残骸からわたしが生まれた。

 

『八咫犖の魂や心は、十一歳の時点で壊れている。この私は、八咫犖と呪霊のくだんが混ざった魂だ。だから、人でも呪いでもない。私にも、私のことはよくわからない』

『魂が混ざるなんてこと、あんの?』

『あったから私が生まれた。何故生きていられるかはわからない。普通なら、私のような状態は死んでいるらしい』

 

 わたしにとって八咫犖の記憶は、別人の物語だ。中身を知っていても、実感がない。

 個人的には、愚かな子どもだと思う。

 呪霊を見る能力すらろくになかったくせに、親に愛してほしくて、褒めてほしくて、呪物を飲むことで人を助けられると言う親を信じて、己の魂の輪郭を失った。

 あれとわたしは、同じ体を使う地続きの他人だ。

 あれの『死』を以て、わたしが生まれたのだから。

 

『お前と宿儺は根が別れているから、同じことにはならないだろう。一度に、大量の指を食べるようなことをしない限り、お前は体の主導権も握っているようだし』

「……そんなことしねぇよ」

『お前がせずとも、ツギハギの呪霊が宿儺の指を高専から奪った。集めた指を、お前に無理やり食わせる可能性はある』

  

 高専から呪物が奪われた話は伏せられているのだが、勝手に話すことにした。話の成り行き上とはいえ、わたしに話した五条が悪い。

 

『私がくだんを食い終えたのに処刑されていないのは、くだんは宿儺ほど凶暴ではないし、私に無差別な攻撃性はないと判断されたからだ』

 

 それでも呪物の器を消したい人間は八咫の当主夫妻筆頭に幾らかいるが、少なくとも秘匿死刑は免れている。

 言葉の途切れ目に無遠慮に現れたのは、虎杖の頬に開いた口だった。

 

「畜生風情がほざくではないか。貴様の生誕は、即ち世に災いが降りかかる予兆だろう」

 

 話を見ていたのかと、宿儺に目をやる。つまらぬ話だと、だんまりを決め込んでいると思っていたのに。案外暇なのか。

 

「戦に病、飢饉に天災と、どれだけの凶事を招いた?禍つ事を招く牛の眼が。小僧と同じく、その生き様を以て人間を殺────」

「黙れ」

 

 気がついたら、手が出ていた。

 乾いた音が虎杖の頬に炸裂し、わたしは平手を振り抜いたまま固まる。やってしまった。

 瞬間、凄まじい痛みがこめかみから後頭部にかけて走り、思わず頭を押さえて膝の上に半身を折って伏せた。

 

「ラク先輩!?」

「ん」

 

 虎杖が慌てたようにわたしの肩を揺するが、これは言葉を発したことによる頭痛で、宿儺に何かされたわけではない。

 一言話した程度で、小さなマサカリに、脳味噌をザクザク切り刻まれるような痛みを味わうだけだ。

 言葉を封じ呪力を高めるためとはいえ、こんなものを頭に仕込む八咫の宗家は永劫に苦しめよと、呪詛を思う。

 

『すまん。ビンタした』

「いや俺は平気。ラク先輩今、宿儺殴ろうとした?」

『だってうるさいから』

 

 宿儺の口を叩こうとして、当然のように虎杖の頬を張ってしまったのだ。

 わたしだって、逆鱗に触れられたら言葉も出る。話せるならば、話したいのだ。

 

『お前、前の任務で何かあったんだろう。そこにいた特級が、宿儺の指を持っていたと聞いたぞ』

『何かあって、私と話をしたくなったなら、それを話せ』

 

 沈黙した後、訥々と、虎杖の指が文字を記していった。

 指を虎杖が食い、両面宿儺が受肉を果たして以来、他の指が目覚めていたこと。

 指として切り分けられた宿儺の魂が目覚め、共振し、呪霊を呼び、呪いを放ち、人が死ぬ原因となっているだろうこと。

 それを、以前の任務で宿儺から知らされたこと。

 そして、すべて伏黒恵と釘崎野薔薇には告げていないこと。

 

 だから、同じように特級呪物を飲んだわたしの話を、ふと聞きたくなったのだろう。

 虎杖が話し終える頃には、風が冷たくなっていた。

 確かに宿儺が嘲笑ったように虎杖が生きている限り宿儺の残りの指は共振し、より強力になる。

 その過程で、人は死ぬ。それは確かだ。

 正しい死を人に与えるために呪術師になったという虎杖が生きる限り、宿儺の呪いで誰かが死ぬ。

 己に体を明け渡さない虎杖を忌々しく思う呪いの王が、嗤うわけだ。お陰で身の程知らずにもビンタしてしまった。

 次に会ったら、殺されそうな蛮行だった。久しぶりにやらかした。

 

『それでも俺は呪術師だから、呪いは祓う。宿儺の指も全部食う。だけどごめん、気づいたら先輩に話しかけちまってた』

『誰かに話をするくらいは、構わないだろう。私は、お前に何かをしてはやれないが』

『や、聞いてくれただけで十分ってか。十分すぎるよ』

 

 真昼間、太陽の下で見せていた快活な笑顔ではない、薄暮のような笑みを虎杖は溢した。

 人が死ぬこと、生きること、殺すこと、殺されることに、わたしは答えなど求めていないし、正しさがあると考えたこともない。

 わたしは生きるために殺すし、いつか誰かに殺される。生死で単純に割り切った生命に虚しさはあれど、それでいいと思っている。

 己が生きるために呪霊を祓って、呪詛師を殺すのみであり、顔も覚えない誰かに幸福な生や正しい死を施すためではない。

 結果としてそうなっていても、それはただの副産物であり、逐一目など向けない。

 わたしが生きているだけで苦しむであろう、八咫夫婦の顔がちらと過る。

 彼らには当然の報いだが、宿儺の指の呪いで死ぬる人間は違うだろう。

 だから宿儺が嗤い、虎杖は瞳に虚空を映す。

 呪術師に悔いのない死はないという、誰かの言葉を思い出した。

  

『お前も私も、呪術師だ。そして、他の何者にもなれない。今更だがな』

 

 呪物の器がこの道から降りるときは、死ぬときのみだ。

 呪いを宿した人間がそれでも人間に留まりたいのであれば、走り続けるしかない。前へ、前へと。

 わたしは、自分を人間と思ったことはないけれど、虎杖は違うのだろう。

  

『血肉となったものは吐き出せないし、背負った荷も下ろせない。できるのは、分かち合ってくれる人間を増やすことだけだろう』

『それは』

『他人のも少し背負って、お互いに持って、歩けばいい。預けず、足を止めずに。お前、腕力あるんだからそれくらいできる』

 

 こいつは己の一番の重荷を決して人には明け渡さないだろうし、行くとなれば地獄へはひとりで行くだろう。道連れにするならば、両面宿儺だけだ。

 それでも誰かがいれば、伏黒や野薔薇や、ぎりぎりで五条がいれば、その旅路が明るくはなろう。

 行きつく先が地獄でも、そこへ至る道中を明かりで照らしてはならない決まりは、存在しないから。

 虎杖悠仁が本当に一人になって地獄に行くそのときにも、誰かと共にいられた記憶は灯火にはなる。

 人間は、他人の中に見つける己と、生きていくものだから。

 

 しかしわたしがあれこれと言ったところで、決めるのも、歩くのも虎杖だ。

 わたしにはわたしの、虎杖には虎杖の道があって、多分それは交わっていないし寄り添ってもいない。

 虎杖の指が動いたのは、だいぶ後になってからだった。

 

『腕力の問題なんかな、それ』

『さあな』

『意外と適当じゃん』

『今更気づいたか』

『だけど、ありがと』

 

 指が一度、止まった。

 

『ありがとな、ラク先輩。いっつも、俺にさ、色んな事教えてくれて』

 

 それを書いた虎杖の顔を、わたしは見なかった。

 見ないまま、喋る。

 

『言われるほど何か教えた覚えがない』

『いやいやいや、いやいやいやいやいやいや、呪術のこととか細かいこととか、あと何か他にも色々教えてくれてっしめっちゃ感謝してるからね俺!?』

『((^0_0^))』

『どういう気持ちの顔それ!?』

『適当に選んだ』

『雑い!先輩ちょくちょく雑いよ!』

『そしてお前はうるさいな。文字だけでうるさいとはどういうことだ?』

『(; ・`д・´)』

『お前も顔文字使ってるじゃないか。なんだそれは』

『今の俺の気持ち』

『読めん』

『読んでよ!?』

 

 プツン、とスマートフォンの画面を切ってベンチから立ち上がる。日が落ちれば、池を渡る風はたちまち冷たくなる。

 ここに居続けては、風邪をひく。互いに人より多少頑丈な呪物の器だとしても、寒いのは嫌だろう。

 

「ん」

「わかった。帰ろっか」

 

 高専の方角へ顎をしゃくれば、虎杖はぴょんとベンチから弾みをつけて飛び降りた。

 既に十月半ば。鶴瓶落としの秋の空には薄紫の闇が忍び寄って行った。

 

「結構遅くなっちまったなー。先輩、飯食って帰らね?話聞いてくれたし、奢るよ」

「んー」

「高専の食堂がいいって?あ、それなら、コンビニ寄っていい?ちょっと買い足したいもんあるから」

 

 寄り道でも何でも構わないと頷いて、わたしは帰路へ足を向けたのだった。

 

 

 




心が人間でない主人公のズレを感じ取って頂ければ、幸いです。

また、交流会で主人公が殺害した呪詛師は重面春太です。『幸運を放出する』術者は、未来視によって可能性を潰せる主人公には相性のよい敵だったと思います…。

ちなみに主人公の身長は、角を抜いた状態で165センチあるかなしです。


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5話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 ハロウィーンは、唯一わたしが煩わされない人間の祭りだ。

 どういうことかと言えば、彼の日にこの国の人間たちは揃って孔雀のように派手な仮装に身を包むからだ。

 最近は、雌の鴨のように地味な装いを敢えて行う仮装もあるらしいが、それでもまだほとんどの人間は常と違う派手な服装で身を飾って街に繰り出す。

 

 要するに、その仮装集団の中に紛れていたらわたしの角も目立たないという、ただそれだけのことなのだ。

 帽子を被って身を隠さずとも、そのまま歩いておれば何も言われずに済むし、何なら銃を出していてもよくできた玩具として見逃されてしまう。

 場合によっては呪霊すら、ただのおかしなバケモノの仮装だと流されるのかもしれない。勿論、人に襲いかからねばの話だが。

 この国の人間は、ハロウィーンの祭りの原型が何であったかなどさほど気にせず、ただ仮装して遊び戯ることができればそれで満足なのだ。祭りという理由がなければ己を解放できない辺りが、日の本の人間らしいと言うか、何と言うか。

 

 だがその仮装祭りのお陰で、わたしの視た予知夢の日付は特定できたのだ。

 

「先だって、八咫犖準一級呪術師の『予知夢式』が10月31日の渋谷にて呪霊による大規模テロの発生を予知しました。よって当日の渋谷において、渋谷近辺の閉鎖を要請します」

 

 鶴の一声ならぬ、五条の一声だ。

 彼言うところの『腐ったミカン』、つまり現呪術界のお偉方との会合で彼が言い放った一言は、たちまち喧々囂々と議論を呼んだ。

 今は準一級呪術師だが、わたしも元をただせば秘匿死刑が停止されているだけの特級呪物の器。

 そのような輩の言うことを信じて良いのか、そもそも信じられるのか、否『くだん(じゅう)』に攻撃性がないことは確認されているのだから云々と、五条の半歩後ろに控えて会議を傍観しているわたしの前で、とんでもなく喧しい議論が展開された。夏場、死体に集った蝿の音よりうるさい声だ。

 重大な予知夢だからと術者のわたしを無理やり召喚したというのに、彼らにわたしの言葉を聞く気はないのだ。

 

「失礼ながら、こと予知夢式に関して八咫が虚偽を述べることはあり得ません。その縛りに関しては、皆様承知と思いますが」

 

 五条の擁護が入っても、なかなか場は静まらない。

 結局のところ、渋谷近辺の完全封鎖ではなく仮装の祭り(ハロウィーン)の中止しか認められん、という顔の見えないご老人たちの見解を聞いたときは、わたしは完全に彼らを白い眼で見ていた。

 今日はいつもと異なり黒いスーツを着ているが、首に巻いたネクタイを急にきつく感じる。

 たかが街一つを閉ざせば人が死ぬのを減らせるというのに、やはりこいつらは信じない。

 年齢的に青二才である五条が気に食わない、呪物の器であるわたしへの嫌悪感が拭えない、そもそも予知夢式を信じていない、などなど理由は選り取り見取りでいくらでも思いつけたが、とにかく五条が望んでいたように、神無月の夜に渋谷から一般人を排することはできなくなってしまった。

 五条が忍耐力を総動員して粘っても駄目だった上、もしこれで何事も起きなければ『くだん獣』の死刑停止の処遇を改めるとまで条件を出してくる始末だ。

 何事かが起きれば五条悟の責任にして、何事も起きずとも『くだんの器』のせいにできる、ということらしい。

 

 お偉方との集まりの場を抜けた途端に、五条悟は盛大な舌打ちをかました。

 今日はいつもの目隠しではなく、丸窓のようなサングラスによって視線を遮っているため、澄み切った碧眼が常よりはよく見える。

 それなりに格調高く苔生した寺院の中を通り抜けながら、五条は空を仰いだ。

 

「ごめんね、ラク、疲れたろ。……そんで予想はしてたけど、やっぱムカつくねあいつら。ま、ハロウィーンの客を追い出せるだけでもマシだけど」

「……」

「しかもさ、あいつらの中に呪霊たちと通じてるやつがいるかもしれないんだよね。あーもうホント、歳食っても僕は絶対ああはなりたくないね」

「ん」

「昔話とかでさ、なーんでこいつら予言されてんのに間違ったことばっかりやって破滅するんだろうって思ってたけど、アイツら見てると本当にそう思う。それとも、人類史始まりしころからそういうもんなのかな」

 

 確かに、紀元の最初にまで遡れば、わたしのような未来予知や予言能力を持つ者は人間の中にもいただろう。呪霊の『くだん』とて一匹ではないのだ。

 だがきっと、彼らの忠告が正しく活かされたことはなかったと思う。若しくは、予知能力そのものに欠陥があったか。

 

『人間は、悲惨な未来を信じたくなかろう。人は未来に望みがあると信じて生きるものだから』

 

 先を歩く五条悟の前に携帯を出して画面を見せれば、長身を折るようにして覗き込んで来た。蒼い瞳を細めて、五条は軽くかぶりを振る。

 

「ラク、それは諦めだよ。信じたくなくても、僕たちは未来から目を逸らしちゃ駄目なんだからさ」

「……」

 

 呪術界の未来を変えるために教職を選び、仲間を育てようとしている男らしい返答だった。

 しかしこの男は、あの虐殺の夢の中で姿を視せていない。

 つまり、十月三十一日までに殺されているか、或いは行動不能になっていると考えられる。

 それは、五条悟本人にも予想できていることだ。

 

 こいつが戦闘不能になる未来はどうにも想像できないけれど、もしそうなれば、悲惨なことになる人間は多いだろう。

 日本の呪術界の未来が、完全にあの『腐ったミカン』たちの手に委ねられるのだから。

 なれば完全に呪術師高専の生徒たちの未来が閉ざされてしまうな、と首を傾けた。

 

 ざっと雑に予想しても、先日謀殺されて蘇ったばかりの虎杖はまず間違いなく死刑だろう。

 わたしは死刑か、または予言能力だけを吐き出す道具になる。伏黒恵は禪院家に引きずり込まれて、今は『若人から青春を奪ってはならない』という五条の信念で護られている学生たちも、任務に次々と就かされる。恐らく、危険度を鑑みない任務に。

 五条悟の息のかかった生徒だからという、それだけの理由で不必要な死の危険に晒される。

 呪術高専東京校の学長の夜蛾だとて、責任を取らされるだろう。

 

 それのみならず、五条悟がいるからこそ潜んでいる呪術師や呪霊たちも、続々と湧き出すはずだ。

 人間にとってつらい時代になることは、簡単に予想できた。

 あのご老人たちも、死にたくないならばさっさと五条に権力を渡して引き籠ればいいのに。

 どうせ二十年も経てばほとんどは墓の下だし、あいつらが束になってかかっても、単純な戦闘能力では五条に敵わないのだから。

 強いものに従うという野生の獣のルールを、霊長の頂点にも適応すればよいのではないか。生存のための最適解を選べば生きられるのに、どうしてそうしないのだか。

 それをわからないと思うのは、わたしが人間でないからか、それとも経験が浅いからなのか、どちらなのだろう。

 歩きながら、尚も五条は話しかけてきた。

 

「ていうかさ、ラクは未来、信じてないの?」

『私が何から生まれた呪霊か忘れたのか』

「ラクこそ、自分が呪霊じゃないってこと忘れてるでしょう」

『私は別に人間でもない』

 

 人間と呪霊が、混ざっている。

 呪霊の本能は壊れ、人間の心も壊れているから、わたしはどちらにもつかない。むしろ、つけない。

 つかないけれど、割合そこのところはどうでもいいのだ。

 とりあえず今は、意味もないのにやたらと人を殺して耳障りな悲鳴を奏でて屍を積み上げる、()()()の味方はしたくないというだけだ。人を殺しても、楽しくもなんともない。必要であればする、というだけだ。

 うるさい視線を感じて見上げれば、五条悟は黒いガラスの奥でにんまり目を細めていた。

 

「うんうん、思春期だよね」

『こんなけったいな思春期がいて堪るか。そういうのは虎杖に言え』

「何でそこで悠仁?やっぱりかわいい後輩になった?」

『オマエ、うざいぞ』

「まさに思春期の女子高生みたいな返事だよね~、それ」

 

 けらけらと一頻り笑ってから、五条はサングラスを外していつもの黒の目隠しを嵌めた。

 

「あー、頭使ったから疲れたぁ。ラク、パフェ奢るから食べて帰ろ」

『いえ、お構いなく』

「急に丁寧になるのウケるんだけど。まあ、若いのは遠慮せずに奢られなさい。大丈夫だから、さ」

『いやほんとうにおかまいなく』 

 

 遠慮しているのではなく、甘党の五条悟の食べっぷりを見ているだけで腹一杯になるから本気で要らないのだ。漢字変換が追いつかないくらいには。

 だが、人を待たずにさっさと先を歩く現代最強は既に話を聞いちゃおらず、わたしはため息をひとつ落としてその後を追いかけた。

 

 交流会が行われるより前の話である。

 あのときのことを思い出せば、いつも思う。大丈夫というその言葉を、わたし自身が心の底から信じられるならまだよかったのだが、と。

 

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 

 崩壊の夢に現実が追いつくのは、あっという間だった。 

 十月最後の夜、渋谷駅を中心に突如帳が下り、非術師たちが閉じ込められた。

 ハロウィーンを閉ざしたから常より人は少ないはずだが、それでもこの国の首都である。相当な人間が、帳内に幽閉されてしまった。

 

 外れたほうが良かったかもしれないわたしの夢は、こうして現実のものとして始まったのだ。

 

 渋谷駅周辺に閉じ込められた彼らは口々に帳を叩いて「五条悟を連れてこい」と喚き、その要求を飲む形で五条悟が単独で渋谷駅に入った。

 その渋谷の周辺に、呪術高専の生徒のみならず、七海や冥冥、日下部たちの一級術師、特別一級術師たる禪院家当主までもが展開された。ある意味での総力戦だ。

 尤も、五条以外の戦力は待機の命令が出た。

 上の決定により、被害を抑えるためだからとまずは五条悟単騎での渋谷の平定を目指すらしい。五条がしくじったと判断されれば、わたしたちも投入される運びとなるのだ。

 

「五条先生のバックアップってことなんだよね、俺たちは」

「そうだね。だが、これだけの帳を下ろせるということは、相手には相当結界術に長けた者がいる。だからこそ、私たちまで招集されたんだろう」

 

 虎杖とわたしの前で淡々と述べるのは、先日も任務を共にした冥冥である。今回は弟の憂憂も伴っての参戦であり、本気の度合いが伺えた。

 

「私と憂憂、虎杖君で一班を組むことになっている。八咫君はここでのブリーフィングを終えた後、渋谷駅周辺へ単独で移動して狙撃手に徹するようにとのことだが、大丈夫かい?」

「ん」

「あれ、ラク先輩は入らんの?」

「彼女の能力なら、狙撃手に徹させたほうがいいんだよ。今回は私の鳥たちは回せないし補助監督も方々で立ち回っているから、一人での狙撃になるだろうけど。階級的に問題はないだろう」

「ん」

 

 無論特に問題はない、と親指を立てて冥冥に答える。

 一方の虎杖は、目を丸くしていた。

 

「へー……先輩ってホントにガチで狙撃手だったんだ」

「そうですよ。知らなかったのですか?」

 

 憂憂の一言に、虎杖は頭をかいた。

 

「や、俺前まで訓練でラク先輩によく投げられてたから、狙撃してるイメージあんまなかったんだわ。この前呪詛師と戦ったときも、普通に近づいて拳銃使ってたし」

「ほう」

「ん」

 

 興味深げに冥冥が頷いたが、それは、交流会前までの話だ。

 あのころならともかく、東堂と戦い、特級と戦って経験を積んだ虎杖に、殴る蹴る投げるで勝てる自信はさすがにない。術式の関係上、ひたすら逃げ回ることはできるにしても。

 

「先輩、気をつけてね」

「ん」

 

 お前もな、と手を軽く振る。

 そうやって中途で虎杖や冥冥と別れて、わたしが配置されたのは渋谷駅を見下ろせるビルの屋上だ。狙撃銃を手元へ召喚し、いつでも始められるように構えて、待つ。

 

 だが一向に帳は上がらず、状況は動かなかった。

 どうしたのかと周辺に待機したわたしたち呪術師が訝しみ始めたところで、渋谷駅の周りに突如として改造人間が溢れ、一般人を襲い始めたのだ。

 

 奇妙に落ちついたまま、わたしは彼らの脳天に銃弾を撃ち込む。

 スーツを着た女を食おうとしている薄紫の六つ足の化物、金髪男の腕に噛みつく寸前の餓鬼のように腹の膨れた異形のもの。そんな彼らを、次々殺していく。

 改造人間たちに対し、非術者たちは羊の群れのように逃げ回るばかりだ。

 あれらは元々人間だから、視る力のない非術師たちの眼にも映ってしまう。想像を絶するような化物を前にして、悲鳴を上げて動ける人間はまだマシだ。

 腰が抜けたように動けなくなっている者、立って固まって何もできない者。皆、良い餌である。

 わたしにできることは、ひたすらに予知して撃つだけだ。それでもどうしても、すべての人間は助けられない。他の術師も立ち回っているが、如何せん数が多すぎた。

 

 だから、だからこの街ごと人の流れを絶てばよかったのだ。

 次々と、塵が払われるように人が死んでいくこの街に訪れてすらいない呪術界の上層部たち。その御簾越しの、ぼんやりした影の姿を思い出した。彼らはこの後どうするのだろう、とも。

 

 わたしたち呪術師側にとって、最悪の知らせが齎されたのは交戦を始めてどれだけ経った頃だろうか。

 

「五条先生がぁ、封印されたんだけどーーーー!」 

 

 夜の闇を突き抜けて響き渡ったのは、虎杖悠仁の声である。

 狙撃銃につけていた頬を思わず離し、声のした方を見る。どこかの屋上から声を張り上げて叫んだらしい虎杖本人の姿は、ビルに隠れて見えなかった。

 

 あいつが知らせたのは、五条悟の封印。

 殺害でなく封印ならばまだマシだと、咄嗟に思った。

 絶望的であっても、死んでないならばまだ何とかなる。あの人間最強をどう封印したのかは見当もつかなかったが、全能でない以上何かで付け入られたのだろう。

 あれだけ言っていたくせに、よくもやられやがったなあの大馬鹿野郎と思う反面、やはりという思いもあった。

 

 予知が、大きくずれたことはない。

 

 どれだけ惨くとも、どれだけ酷くとも、嘘だと思いたくとも、わたしの視たものは現実になって来た。

 『くだん』の術式が視せるのは起こるべくして起こる未来だからと、ある意味でわたしはやけに落ち着いていて、諦めてもいた。

 不気味なくらいに。

 

 スコープをつけていない狙撃銃を構え、機械のように改造人間を殺して殺して、殺して殺す。

 五条悟を救おうとする呪術師たちが渋谷駅へ入れるように、ただ殺す。

 そうやって、何体も何体も何人も何人も屍を重ねて行って、ふ、と手を止めた。

 わたしが殺した改造人間の死体の山と、夢の映像が重なる。

 虎杖の体を使った宿儺が、もう程なくこの街で人々を殺す夢。経緯はわからずまだ起きてもいないけれど、このままでは起きるだろう未来だ。

 建物ごと人間が消し飛ばされた更地の縁に立つ、あの後輩の姿を思い浮かべた。

 

 ぐるり、と頭の中で何かが回る。

 走馬灯のようにぐるりぐるりと、記憶の蓋が緩んで過去が飛び出す。

 ほんの数カ月を過ごした少年の笑った顔が、くっきりと見えていた。

 

 未来は、変えられない。

 わたしはずっとそう思って生きて来た。

 だからこの先に待つのは、何の輝きもない未来だ。

 

 ─────本当に、そうなのだろうか。

 

 ざり、と胸の奥が削れる音がした。

 

 強張った指を引き金から一度離して、わたしは空を見上げた。

 帳に包まれた空は闇一色で、何も見えない。

 わたしの見たいものはいつも見えなくて、見たくないものばかりがよく視える。

 それが嫌ならば、己で見たいものを掴みに行くしかない。

 銃把をきつく握りしめてから、わたしは闇から目を逸らした。狙撃銃を消して、屋上のコンクリートを蹴って柵を飛び越えて宙に身を投げ出す。看板を次々足場にして衝撃を殺し、地面に降り立った。

 呪術師の誰かに声をかけられたが、誰かと確かめることもせずに走り出した。

 向かう先は渋谷駅。虎杖が向かったであろう方角だった。

 行く手を阻む改造人間を撃ち殺しながら、走る。

 

 走りながら、考えた。

 どうしてわたしは走っているのだろう。虎杖悠仁を、探そうとしているのだろう。

 あいつに、人殺しをさせたくないからだろうか。

 もう何人も殺めているわたしが、大して痛痒を感じず引き金を引けるわたしが、そんなことで走るのだろうか。

 

 わからないままに、ただ走る。

 死の気配と血の臭いに満ちた、駅の中を。焦燥感に駆られながら、せきたてられるようにして。

 こんなに必死になったことは、生まれて来てから初めてだった。

 人探しは、得意だから。己でも理解しないまま縁を探すことが、わたしにはできるから。

 

 そうやって見つけたとき、わたしは叫んでいた。

 頭を抉る痛みを、忘れるほどに絶叫していた。

 

「虎杖!」

 

 今しも、額づく黒髪の少女へ術式を向け放とうとしていた虎杖がこちらを見る。

 その顔には、腕には、あいつにまったく似合わない入れ墨のような刻印が、黒々と刻まれていた。

 にんまりと、虎杖がおよそ浮かべない笑みをそいつが浮かべる。

 知っているはずの体から放たれる恐怖と呪力の圧に、潰されそうになった。呼吸が浅く、荒くなり。全身の肌が粟立つ。

 今すぐ逃げろと、目の前のこの人の形をした暴威から隠れろと、本能が吠えている。

 

 それでもわたしは、ここから動きたくなかった。

 

「貴様か、予言の獣。小僧を探しに来たのか?」

 

 今しも殺そうとしていた少女から視線を外し、宿儺が、虎杖の体を使った両面宿儺が嗤っていた。

 恐怖で狭まる視界を気力をかき集めて広げ辺りを伺えば、ここには見知らぬ少女が二人に、数ヶ月前五条を襲ったというひとつ目の呪霊が一体いた。頭の上が、火山のような形になっている。

 その三名ともが、膝をついていた。宿儺に許しでも請うように。

 宿儺が、片手を微かに持ち上げる。

 

「獣畜生となれば、礼儀もわからぬのか」

「ッ!!」

 

 咄嗟に召喚し盾にした黒銃が、賽子切りにされ一瞬にして砕けた。

 重量二十キロの鉄塊を盾として呼ばなければ、わたしは一寸刻みにされていただろう。

 宿儺の足元に這いつくばる少女二人は、完全に気を呑まれたのか、動けずに震えているばかりだった。

 単眼の特級呪霊もまた、身動きできていない。こちらを見て、寸の間忌々し気に顔を歪めてはいたものの。

 この呪霊は、容易にわたしを殺せるだろう。それだけの呪力を感じた。その特級呪霊ですら、両面宿儺の前では膝を折るしかないのだ。

 そんな暴威の王を前に、わたしは既に飛び出てしまった。

 後悔する暇もない。賽子を投げたのはわたしだ。

 ただ、宿儺から目を逸らして気をやってしまうのを堪えるだけで精一杯であった。

 

「ほう、今のを避けるか。未来視とは小癪な技を用いるな。本来の術式はどうした、くだん獣」

「……ない」

「何?」

「使えない。わたしは、獣ではない」

 

 再びの不可視の斬撃を、半身をずらして躱した。それでも血が飛ぶ。

 殺意が乗っていないことは視えていた。それでも下手に動けばみじん切りにされていただろう。

 肩の肉と右耳を削がれたが、生命と比べれば安い代償だ。

 

「言いよるな。所詮贄となる以外能の無い、災いの獣風情が。……そうか、だからこそ小僧を探して自らやって来たわけか。笑わせるな」

 

 愉快そうに宿儺は嗤う。虎杖の体を使って。

 似合わない、とそう思った。

 人の血が、虎杖悠仁には似合わない。人を蹂躙し愉しむその顔も、似合わない。

 罪人の刺青のように全身を這い回る呪印も、すべて似合わない。わたしの頭に生えた、牛の黒角と同じだ。 

 気持ち悪いのだ。たとえようもなく。

 ケヒッ、と宿儺がひび割れるように声を上げた。

  

「人の身を得て歪んだな、貴様。これは愉快だ!それほど小僧を気に留めるとはな!」

 

 違う、とかぶりを振った。そのような優しい、人間じみた想いだけで、このような場まで来られるものか。

 わたしにも、自らを動かす衝動は理解できない。

 ただ、腹が立っていた。

 体を取られて、良いようにされて、負けて、お前は一体何をしているのだと無性に腹が立った。誰かと言えば、虎杖悠仁に対して。

 虎杖悠仁への怒りが、両面宿儺への恐怖をほんの僅かに上回っていて、だから、ここで立っていられた。

 

「その体、虎杖悠仁へ返せ。両面宿儺」

「貴様っ……!」

 

 ひとつ目呪霊がこちらへ何かの術を飛ばそうとしてか、半身を動かす。

 だが刹那の後、その体は吹き飛んでいた。

 天井に穴が開き、呪霊の体が飛ばされる。宿儺によって無造作に、外へと蹴り飛ばされたのだ。真横にいた存在が単なる身体能力で物理的にこの場から叩き出されたことに、少女二人がヒッと怯えた声を漏らす。

 今更だがこいつら、一体全体どうしてここにいるのだろう。気配からして呪力は持っているようだが、高専関係者で見ていない。となると、呪詛師か。

 けれどその疑問を考えるゆとりもなく、次の瞬間には、わたしは宿儺に首を掴まれていた。

 正確に言えば、首元へ手を添えられていた。爪までが虎杖と違って長く伸び、黒い。両面宿儺は、全身が禍々しいのだ。

 この手でいつでも、縊られるだろう。

 

「聞こえんなぁ、貴様、今何と世迷言をほざいた?」

「体を、虎杖へ返せと言った」

 

 頭を走る激痛を、ねじ伏せる。呪力を高めるために言葉封じをかけたならば、今こそ縛った呪力を使うべきだった。

 虎杖のためにわたしが生命を張る理由など、ひとつも思いつかなかったのだが。

 宿儺は愉快そうに、事もあろうに頷いた。

 

「そうか。ならばこうしよう。これから俺が成す二つのことに貴様が声一つ上げず、膝もつかなければ、その場で小僧に体を返してやるし、俺は今宵表に出ぬ」

「本当か?」

「縛りを設ける。ただし、貴様が術式を使い、防ぐことを禁ずる」

「……何故お前が、虎杖へ体を返す? そいつが邪魔、だろう」

「くだらんことを囀るな。貴様が選ぶべきは二つに一つだ。尤も、頷かねばこの首を引き千切るだけだがな」

 

 目線よりわずか上にある、両面宿儺の顔を見上げた。

 虎杖悠仁の瞳でない血のような赤が、そこにある。

 おい聞こえるか、と瞳の奥にいるだろう虎杖に呼びかけた。

 多分、わたしは死ぬぞ、と。

 それが嫌ならば、とっとと戻って来い、と。

 一度軽く目を瞑って、頷いたその瞬間だ。

 

 ばつん、と右腕が付け根から落ちて。

 どすん、と鈍い音を聞く。

 気づけば、宿儺の腕がわたしの胸の中心を貫いていた。

 ぐちゅりという音と共に一気に引き抜かれた手の中には、どくどくと脈打つ赤いものが握られていた。

 わたしの心臓が、熟した柿のように潰される。顔に、体に、肉と血管の残骸が飛び散った。

 

 あ、という空気が口から洩れた。音は、聞こえなかった。

 

 折れそうになる脚に力を入れる。せり上がって来た血をすべて飲んで、呪力でずたずたになった血管を覆う。

 たちまちのうちに掠れ始めた視界の中で、禍つ星のように光る赤い瞳だけが見えた。

 

 それだけしか見えなくて、それだけでも、見えている。

 

 まだわたしは、生きていた。

 腕を千切られ心臓を貫かれて、それでも即死に至らないのが、呪物に適合した器である。頑丈に造り上げてくれた八咫の家に、初めて感謝する。

 渾身の力を込めて、こうべを持ち上げた。

 踏みつけられ首うなだれた、花の茎のようになるのは、真っ平だった。死ぬとしても、こいつを睨みつけて死んでやる。

 口からはごぽごぽと血が垂れて、肺に血が入るごろごろという音が体の中から聞こえた。

 痛みという感覚すら消し飛んだ死に体を、宿儺はとびきりの凶悪な笑みで見下ろしていた。その手には、黒い袖に包まれた腕を持ち、弄んでいる。

 粘土の人形のように千切られた、わたしの腕だった。

 

「ほう、耐えたか。俺と同じ、特級に分類されるだけのことはあったと見える」

「……しばり、を守、れ。すく、な」

「煩い獣だ。そのまま、真価を発揮せず藻掻き死ぬがよい」

 

 宿儺が眠りにつくように眼を閉じる。すぅ、とその体から刻印が消えて行く。まるで、嘘のように。

 ふらりと後ろへぐらついた虎杖の制服の襟を、咄嗟に掴む。ずしりと重い。年下のくせに。

 宿儺が弄んでいたわたしの腕が、互いの足元に広がる血溜まりに落ちる。ぱしゃん、という軽い水音が、地下の空間に響いた。

 赤色が消えた瞳に、焦点が戻る。

 ようやっと返ってきたと、目を細めた。

 

「あ、……え?」

 

 虎杖悠仁の茶色の瞳に、わたしの姿が映っていた。

 胸の真ん中に風穴を開けられ右腕がまるごと落とされた、どう見ても死体寸前の、角の生えた少女だ。

 我ながらひどい有り様過ぎて、笑える。口角を吊り上げたら、端から鉄臭いものが垂れた。間抜けな面だ。

 徒らに己の生命を賭けるなんて、ああ、ほんとうに救いようのない馬鹿。

 この散々な状態でまだわたしが死なぬのは、体が頑丈であり、元が呪霊に近く、さらに言霊縛りで溜められていた呪力を開放したからだろう。

 まだ夢の中にいるような瞳をしている虎杖の襟首を引き寄せ、顔を正面から見た。

 まどろみたくとも、わたしたちに夢を見ている時間は、ないのだ。

 

 難しいことは、言えない。体に力がない。

 何故、生命を賭けてしまったかもわからない。

 必死で走って、飛び込んで、わたしは何をしたかったのだろう。

 宿儺にも、嘲笑われるわけだ。殺されなかったのは最大の謎だったが、謎を解く時間も残っていないだろう。

 だから、言えることはひとつだけだった。

 虎杖の耳元に、口を近づけて声を出す。囁くような音しか、もう言えなかった。

 

「おかえ、り。いたどり、ゆ、じ」

 

 言い終えた途端に、ぷつんと電源を切るように辺りが暗く、遠くなる。虎杖の襟を掴んでいた手が、力を失くしずるりと血で滑る。

 くずおれるように床へ膝をつく寸前、誰かに胴を支えられる。しかし、それが誰かを確かめる術もないまま、意識は闇に消えた。

 

 

 

 

 




主人公は、肝心要の偽夏油の姿は予知できていません。

人間としてのイメージモデルは、『イーリアス』のカッサンドラがメタメタにやさぐれた姿です。
カッサンドラ・オルタみたいな感じで。

次話は22:30に投稿されます。


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6話

これは本日2話目の投稿です。

では。


 

 

 この学校にも先輩がいるというのは、思っていたよりも嬉しいことだなぁと、虎杖悠仁は思っていた。

 

 呪いに触れる前通っていた杉沢第三高校にも先輩はいたし、彼らと過ごしていたオカルト研究会の空気も気に入っていた。

 オカ研の活動として心霊スポットに赴くとき、虎杖がいなければたどり着けないような、怖がりな人たちでもあったが、虎杖は彼らを先輩と呼んだし、彼らも虎杖を後輩として扱ってくれていた。 

 特級呪物たる宿儺の指を食べてから、虎杖悠仁が別れを告げたものは多くあるが、彼らもそのうちのひとつだ。

 そうして飛び込んだ呪術高専にも、『先輩』はいた。

 

 ただし、初めて会ったのはちょっと、いやかなり変わった先輩ではあった。

 短く切られた黒い髪に、アーモンド形の黒い瞳をした、整った綺麗な顔の女子の先輩である。虎杖が最初に出会った呪術高専の先輩が、彼女だったのだ。

 だがこの先輩、なんと頭から黒い角が生えていた。

 アクセサリーでもおもちゃでもない、漫画の鬼のような真っ黒い二本の角が、本当に頭から生えていたのだ。

 

 加えて、この先輩は喋らない。もとい、喋れない。

 生まれた家の呪術によってそうなったらしく、出すのは「ん」の一音だけ。

 相槌は打つし、高低や長短で肯定否定はわかるのだが、細かい会話は当然できないし、表情がウサギ並みに『無』なので、とっつきにくさはある。大爆笑すら無表情で肩を震わせるバイブレーションなのだから、通常の喜怒哀楽は推して知るべし。

 どうしても細かな会話をするときは、スマートフォンのトークアプリを使っている先輩の名前は、八咫犖(やたのらく)。五条先生曰く『ラク』。尚、初見では読めなかった名前である。

 『未来予知』という術式を持つ準一級術師で、虎杖と同じく特級呪物を食べて生きている器だった。

   

 だが会話のテンポにさえ慣れてしまえば、犖は案外に面倒見が良かった。少なくとも、虎杖に対しては。

 人によっちゃ、あの頭に生えた角並みにツンツンツンツンのドラだよ、とは虎杖の担任、五条悟の言である。

 五条悟は、そのツンドラ対応をくらっている一人らしい。

 が、当然そのようなこと彼は歯牙にもかけず、虎杖の訓練見てあげてねと犖に言いつけてもいる。

 犖は、たまたま解剖室で虎杖が蘇るところに遭遇し、なし崩しで秘密の共有者になった。しかも、丁度いいから後輩の面倒も見ておいてねと五条に言われたのだ。

 

 経緯が経緯なので、正直虎杖は、犖に塩対応されることも予想していたのだが、案外に犖は真面目に訓練を見てくれた。

 東京校と京都校の交流会のこととか、呪術界上層部がどんなものかとか、そういう薄暗くも呪術師として生きるために必要な知識と一緒くたにして、東京のおすすめB級グルメとか長身アイドル高田ちゃんの魅力とかの話をすべてまとめてぶっ込んでくる辺り、ノリが掴みづらくはあったが。

 

 ちなみに、組手の相手もしてくれた。

 

 犖の動き自体は軽業のようで、飛んだり跳ねたりとよく動いた。そこが付け入る隙にも見えるのに、鍛えられた体幹で猫のようにするりと抜けられ、気配が掴みづらい。

 戦う際の空気というか、気の流れのようなものが捉えられないのだ。歩き方からして喧嘩が強いとは思っていたが、予想以上だった。

 一撃は重くないのに、狙いが正確で的確に急所を取りに来る。肝臓とか、人中とか、そういうところを抉りに来るのだ。拳銃を抜く速度も速いから、気を抜けば背後を取られ、後頭部に銃口である。

 組み手を始めた最初のころは、十センチ近く背の低い女子の先輩とステゴロすることに躊躇いがないでもなかったのだが、この先輩、虎杖より上手だった。

 悔しさに頭を抱えて唸れば、その前にスマートフォンが差し出される。

 

『お前の身体能力は、私より上だ』

「え、そうなん?」

『私は術式も使っている。それでようやくお前の動きに間に合う。お前は基礎が強靭』

 

 この先輩が、世辞や気休めを言う性格でないことは短い交流の間でわかっていた。だから、本当のことなのだ。

 そうやって、虎杖を徒手格闘でいなす犖の術式は、本人曰く『未来予知』。

 要するに、虎杖は攻撃のすべてを先読みされているのだ。

 予知していて尚避けられない速さや手数、面で攻めれば崩せるのだろうが、これがなかなかに難しく、拳も蹴りもひらひら避けられ、わずかでも体勢が崩れたら銃口を突きつけられ、なかなか一本が取れない。

 未来が視えていても、犖の術式そのものに攻撃力はない。

 視たものを組み立て攻撃するのはあくまで術者本人であって、犖は銃器と体術でそこを補っている呪術師だった。

 戦闘で物を言うのが結局本人の身体能力だというのは、虎杖と同じだ。五条先生が犖を呼んだのには、そういう事情もありそうだった。

 

 地下室での訓練が終わって、外の任務に虎杖が行っていいと言われたあたりで、犖と虎杖は一度別れた。

 犖は虎杖の同級生の伏黒よりも階級が高い準一級だから単独任務にも赴け、普通に仕事へ行ったのだ。

 ちなみに、同じ準一級は二年生にもいて、こっちはおにぎりの具でしか会話しないらしい。

 他の二年の面子は、犖曰くパンダと呪具使いと特級の女たらし、犖以外の三年は停学をくらったバカらしいから、どうやらこっちの学校の先輩は、全員クセがありそうだなと虎杖は思ったものだ。

 虎杖が、クセのある先輩筆頭の犖ともう一度顔を合わせたのは、霊安室だった。

 

 ばたんと霊安室の扉を開けて入って来た犖は、目の下に隈をつくっていた。

 犖が来たのは、呪霊によって異形に姿を変えられ殺された順平や、他の人々の亡骸を見るためだった。

 額から黒い角の生えた先輩が、遺体が収められた袋を開けるたびに手を合わせて、ひとつひとつの遺体を確かめて行くのを虎杖は見ていた。

 所作に音はなく、凍りついたような横顔には、底冷えするような嫌悪があった。

 それが、人の魂を変形させて異形をつくりだした術式への嫌悪だとわかったのは、それから後のことだ。

 

「ラクが生まれた家の相伝の術式は、人体改造なんだよね。ラクは生まれる前も生まれてからも、その相伝術式で色々と呪物の器に適合するように調整されてるから、肉体の改造には色々思うところがあるんだよ。まして魂が絡むとなるとね」

 

 ラク先輩の家ってどんななの、という虎杖の質問への五条悟の回答が、これだった。犖本人に聞かなかったのは、確実にまともに答えてくれないだろうという確信があったからだ。

 とはいえ、まさかそんな真っ黒な答えが返って来るとは思わなかったのだが。

 

「調整って……そんな機械みたいなことすんの?自分の子どもに?」

「するよ。むしろ、実子や宗家に近い血筋の子のほうが適合値が高くなるからってんで、盛んにやってたらしい。さすがにやりすぎってことで相伝のいくつかを禁術にできたけど、それ、ラクを高専に連れて来れてからだし、ラクに掛けられてる術は下手に解いたらバランスが崩れて大変なことになるしで、放置安定しかないんだよね」

 

 口ぶり的に、八咫家の相伝を禁術にしたのは五条悟だったのだろう。口調は軽かったが、雰囲気が尖るのを感じた。

 

「悠仁のこと話したときも、ラクってまず疑ってたからね。本当にただ偶然に生まれた器なのかって。まあそこまで気にしといて、悠仁に会いに来なかった辺り、気まぐれが天元突破してるけど。牛というより猫だよね、ロシアンブルーとかそういう洋猫」

 

 そのたとえは、わからないでもなかった。とりあえず、女子を牛に例えるのは駄目な気がしたが。

 

「いやいやいや、たとえじゃないよ。ラクが食べたのが牛系の呪物なんだって。頭に角があっただろ?ま、呪物に関しては、ラクに聞きなさい。クソみたいな家のことはともかく、呪物のことはラクの心の領域に踏み込む質問だから。僕からは言えないな」

 

 信頼度上げたらちゃんと答えてくれるよ、というのが、五条の言葉だった。

 そんなシュミレーションゲームみたいな話、と思っている間に交流会になって、虎杖は伏黒や釘崎に再会したし、これまで話しか聞いていなかった先輩たちにも会った。

 結局その交流会は、特級呪霊と呪詛師に襲撃され、とんでもないことになったのだが。

 

 高専内で、交流会に不参加の犖が順平を殺したツギハギの特級呪霊と会敵し、続けて呪詛師に襲撃され大怪我を負ったと聞いたときは、虎杖は一時周りの音が聞こえなくなった。

 医師の下へ運び込まれた当の本人が、ケロリとした顔でぽてぽて廊下を歩いているのを見たときは、思わず声を上げて駆け寄ってしまったほどだ。

 犖は、うるさそうに両耳を押さえていたが。

 

「あの人は、死に癖があるからな」

 

 ぽつりと漏らした伏黒は、入学前から犖と面識があったそうだ。

 奢ってやるから飲み物でも買って来いと犖に財布を預けられ、二年生の先輩共々自販機コーナーへ行ったときのことだ。

 

「普通なら、反転術式で大概の怪我は治る。だけどラク先輩は、食べた呪物の影響で他人の反転術式が効かないし、自力では自殺した時しか使えない。だから、致命傷を負った場合敢えて自殺して治すってことは、何回かやってんだよ。今回みたいに、死んだふりをしてからの不意討ちも初めてじゃない」

 

 正確には完全に死を迎えているのではなく、死の縁まで行くことで強制的に反転術式を発動させる方法らしい。

 術式の細かなことは虎杖にはよくわからないが、かなり無茶苦茶なことをしているのはわかった。

 発動の度怪我は治るにしても、まる一日分の記憶が消えるのだから、目覚めたら覚えのない場所にいて昨日の記憶がすっかりない、というようなことを何回か犖は経験しているらしい。記憶喪失慣れ、とでも言えるのだろうか。

 嫌な話だな、と虎杖は思った。

 自分で自分を殺す決断をしなければ傷が治らないなんて、とんだ呪いだ。

 けれどその術がなければ、昨日確実に犖は死んでいたという。

 出血痕と戦闘痕、残穢から見て、犖が反転術式を必要とするだけの重傷を負っていたのは間違いなかった。

 犖は、何も覚えてないなら何もなかったのと同じだと言っていたが、そんな簡単に消えてしまうのだろうか。

 殺されかけた記憶も、殺した記憶も、見えなくなって、気づけなくなっただけのような気がした。

 二年生の禪院真希は、それを聞いて肩をすくめていた。

 

「ラク先輩はしっかり強え人だが、しっかりイカレてんだ。ま、あの人の射撃訓練は私は好きだけどな」

「射撃訓練?何スかそれ?」

「ひたすらラクに銃で狙い撃ちされる訓練さ。あいつ、棘の呪言が届かない距離からでもバンバン撃っていいとこに当てて来るから、動きも止めづらいしな」

「しゃけぇ……」

「この前恵とやったときは傑作だったんだぜ。こいつ、先輩の狙撃対策にってわざわざ大量の兎の式神調伏したんだけどよ。結局、兎の群れ抜けて来たゴム弾額にくらって、見事に気絶したからな」

 

 マジかと、虎杖が釘崎と一緒に伏黒の方を見れば、式神使いの同級生は苦虫を噛み潰したような顔になっていた。

 

「その話はやめてください。どうやったのか聞いたら、『行ける気がして撃った。できた』って言う人ですよ?五百メートルは離れてたくせに。絶対前世ゴルゴかなんかです」

「……あんたに冗談言わせてる辺り、ホントみたいね。てか私もその訓練参加したいんだけど」

「悟に言えば引っ張って来てくれるぞー。俺らじゃ、ラクを捕まえんのちっと厳しいからな。間合い詰めたら行けそうなんだが、まず近寄る前に術式使って逃げられるし」

「そのときは私も呼べよ。あの先輩の狙撃避けて距離詰めんのは、いい鍛錬になるからな」

「明太子!」

 

 ゴルゴほど厳つくないにしても、少なくとも、あの無表情は確かにゴルゴ並みだと、虎杖は思わず頷いていた。

 それにさらりと五条先生に売り飛ばされているが、二年生の先輩たちにとっても、犖は良い先輩らしい。

 

「ラクは呪具メインだし、真希とは結構話合うんだよ。ま、野薔薇と悠仁もちょっと見てやってくれ。あいつ、結構見境いなく任務詰め込んでるときあるからな」

「そーなんすか?」

「そ。術式の副作用とかで夢見が悪いんだとさ。だから、限界ぎりぎりまで頭使って寝たら夢見ずに安眠できるからって、よく無茶してんだよ」

「だけど、たまーに寮の部屋まで辿り着けずに、校内にバッタリ落ちてるときがあってな。見つけたら起こしてやれ」

「しゃけしゃけ」

 

 ぶっきらぼうで無表情で、それでも面倒見がいいと思っていた先輩は、存外にポンコツな面があったらしい。

 だが思い返せば、犖は目の下にべったり隈をつくっていたときがあった。

 三日寝るのを忘れたと聞いたときは無茶な人だと思ったが、あれはわざとやっていたのだろうか。

 

「ラク先輩も、色々あんだな」

「まぁな。物心ついたときにゃもう器だったらしいし。だけど、ラクは悪いやつじゃねぇよ。それだけは保証する」

「あ、それは知ってる」

 

 そんな会話をしながら部屋に戻ってみれば、犖はなんとベッドの上で手足を縮め丸まって、すうすうと爆睡していた。

 普通、他人に自分の財布を預けたままにして寝たりしないだろう。疲れていたのか、財布を預けた真希を信頼していたのか、単なる無頓着か、理由は定かでないにせよ。

 いずれにしても、ああ、先輩のポンコツってのはこういうところかと、犖に毛布をかけてやりながら、虎杖は妙に納得したものだ。

 

 それからも、犖は虎杖の先輩であった。

 

 死んでいた二ヶ月の間ほど頻繁に顔を合わせたりはしないのだが、学内では時々見かけた。

 任務帰りに、犖が射撃場で立ったままニメートルはあるゴツい銃を撃っているのを見たときは、伏黒や釘崎と顔を見合わせてしまったものだ。

 人を腕力ゴリラ呼ばわりしてくるが、対戦車ライフルを立って撃てる先輩も、大概じゃねぇのかと。あれは、普通なら地面に伏せて撃つ代物である。映画ではそうしていたから。

 というか、的に当てるのでなく的が立っている地面ごと吹き飛ばしている辺り、射撃訓練に入るのかあれは。

 無表情のまま、対戦車ライフル、狙撃銃、拳銃、短機関銃、と一瞬で銃器を変えて的を無言でドッカンバッコンドガガガガガと次々壊していく犖の背中には、妙な迫力があった。術式もはや関係ないし。呪術師というより一人砲台である。トリガーハッピーかあの人。

 ふぅ、と帽子のつばを持ち上げ額の汗を拭った犖は、一年生三人を振り返って首を傾げた。

 

「ん?」

「こんちは、ラクさん。それがラクさんの呪具なんですか?四つ?」

「……ん」

「あ、違うんですね。じゃ、四つで一つ?」

「ん」

「で、これが伏黒を仕留めた狙撃銃よね」

「仕留められてはねぇよ」

「何言ってんの。実戦だったらあんた死んでるわよ。デコに弾くらって気絶したんでしょーが」

「……」

「んー」

 

 釘崎と伏黒の前で、犖はカシャカシャと銃を切り替えて見せている。

 やっぱり案外、先輩はノリが良かったんだと、それを見て虎杖は思った。あれこれ話しかけている釘崎や仏頂面の伏黒と逆に、犖は「ん」しか言ってないし、表情は『無』であったにしても。

 

 犖は、虎杖よりもずっと幼いときに呪物を飲み込んだ人間だ。

 パンダ先輩が言うには、物心つくかつかないかのころにそうなったらい。

 理由までは知らないが、もしも自分のように呪物を取り込むことを選べもしなかったのならば、ひどく残酷なことがあったのではないかと思う。

 それでも、犖はちゃんと人間で、呪術師をやっていた。少なくとも、虎杖にとっては犖はいい人間で、先輩だった。

 

 だから、あのときも尋ねることができたのだ。

 八十八橋の任務のあとのことだ。

 八十八橋を基点に人を呪殺していた特級呪霊は、宿儺の指を取り込んでいた。その呪霊が活発化し、人間を殺したのは宿儺の受肉がきっかけだ。

 虎杖が宿儺の指を飲み込んだから、眠っていた特級呪霊が目覚め、人が死んだ。

 宿儺は無論、嘲笑ってきた。お前が生きているだけで、人が死ぬのだと。

 伏黒に言うなと言い返したが、もしかしたら気づかれているのではないかとも思った。

 確かに虎杖が宿儺の指を飲んだのは、呪霊に殺されかけていた伏黒や先輩たちを、助けるためだった。

 が、飲むことを選んだのは虎杖だったし、そもそも宿儺の指を拾って封印が解かれるきっかけを作ったのも、虎杖だ。伏黒に背負ってほしくはなかった。

 だがその理由理屈も、宿儺の指に共振して目覚めた呪霊に殺される人々にとって、何の関係があるのだろうか。呪霊に殺される人たちが、正しい死を迎えられるわけがない。

 宿儺諸共死刑にされることに完全に納得がいっておらずとも、宿儺の呪いを消すため指を飲むのをやめるつもりはない。

 だけど、人が死ぬのだ。

 自分が生きている限り、目覚める呪霊がいて、殺される人がいる。

 

 だからだろう。休みの日にふと赴いた街で見知った“先輩”の姿を見つけたとき、虎杖はつい声をかけてしまっていた。

 だってあまりにいつも通りに、珍しい私服の犖がココア缶を片手に足を振って、ベンチに座っていたから。

 この人、しょっちゅうココア飲んでんのなと思ったら、もう声をかけていた。

 しかし初めて見た私服の犖は、呪詛師の討伐任務中だった。それに虎杖が割り込む形で一緒に任務をこなして、終わってから誘ってみたのだ。ただ、話を聞いてほしかったから。

 先生や同級生ではなくて、同じ呪物を抱えて生きている先輩に。

 

 意外や、犖はすんなり頷いてくれた。

 休日に五条先生によって交流会へ引っ張り出されたときは、目つきがヤバいことになっていたから、断られることも予想していたのに。

 多分犖にとっては、呪詛師に壊された帽子の代わりを買う、ついでだったと思うけど。

 

 翌日に虎杖は、犖と浅草雷門にいた。

 もっきゅもっきゅと、あんまんやたい焼きやメンチカツを吸い込むように食べている先輩は、見ていて面白くもあった。そういうからくり人形みたいだったからだ。もしくは某ピンクの悪魔。

 ちなみに話を持ち掛けたのはこっちなので奢ると言ったのだが、先輩的に後輩に奢られたくないと全然頷いてくれなかった。

 このままでも、普通に楽しいなと思ったときだ。

 

『聞きたいことがあるなら、聞けばどうだ?』

 

 角も鋭ければ視線が鋭い先輩は、質問も鋭かった。

 呪物を飲んだときにどうだったのかと、誤魔化すように尋ねれば、淡々と答えてくれた。

 

『呪物を食ったのは、それが生まれた理由だったからだ。予言の術式を持つ術師をつくりたい親の言うことを聞いた』

『八咫犖の魂や心は、十一歳の時点で壊れている。この私は、八咫犖と呪霊のくだんが混ざった魂だ。だから、人でも呪いでもない。私にも、私のことはよくわからない』

 

 驚かなかったと言ったら、嘘になる。

 宿儺と虎杖は同じ体を共有する、完全に別の魂だ。

 だからこそ体の主導権を虎杖が握っていることが肝心になる。だが犖の場合は、主導権の奪い合いという概念がそもそもなかった。

 人と呪物が共に砕けて、混ざって、出来上がったのが『ラク』なのだ。人と呪いが、不可分になって、その状態で生まれてきてしまった。

 『ラク』が生まれたのは、八咫犖が呪物を飲んだ時点。だからこの先輩が人間でない呪いなのかと言えば、とてもそうは見えなかった。

 これまで虎杖が見てきた犖は、確かに人間であったから。

 動揺を隠しながら、魂が呪物を飲んだことで壊れることがあるのかと聞けば、犖は変わらずに返して来た。

 

『あったから私が生まれた。何故生きていられるのはわからない。普通なら、私のような状態は死んでいるらしい』

 

 お前と宿儺は根が分かれているから同じことにはならない、という言葉を綴る犖の横顔は、静謐と言ってもいいくらいに凪いでいた。

 尤も、虎杖の顔に表れた宿儺に、凶事を招く獣と煽られたときは何かが逆鱗に触れたらしい。黙れと言うや否や速攻で手を出し、虎杖の頬に出た宿儺の口を張り飛ばして来た。

 当然虎杖も宿儺ごと頬にビンタを浴びたのだが、それよりも犖が言葉を発した途端、頭を押さえて苦しんだことに驚いて、それどころではなかった。

 それもまた、犖が呪物の器となるために受けた、調整の一つだった。

 驚く虎杖に対して、犖は頭痛をやり過ごしまたいつも通りの顔をして、この前の任務で何かあったんだろうと正解を遠慮なく言い当てて来た。

 言われるがままに話せば、犖は頷いて聞いてくれた。

 

 言葉を封じて呪力を高める縛りも、与えられた呪物も、その結果生まれた自分のことも、犖の中では、もう、飲み下したことなのだ。

 

 『くだん』なる仮想怨霊の受肉体から作られた、七つに切り分けられた木乃伊を、犖は十一歳の時点ですべて飲み込んでいる。

 術式で縛られても、生きる道を選べなくとも、己が誰なのか、何者なのかという解を得られないままでも、立って歩いて生きて来た呪術師が一人、そこにいた。人を呪わず、呪いを宿して呪いを祓う人間がいたのだ。

 虎杖より小さな体には、痛々しさではない力強さがあって、それが眩しかった。

 

『お前も私も、呪術師だ。そして、他の何者にもなれない。今更だがな』

『食ったものは吐き出せないし、背負った荷も下ろせない。できるのは、分かち合ってくれる人間を増やすことだけだろう』

『他人のも少し背負って、お互いに持って、歩けばいい。預けず、足を止めずに。お前、腕力あるんだからそれくらいできる』

 

 言葉は厳しくも突き放してはいなくて、だから、素直に嬉しかった。嬉しいと思えた。

 だから、ありがとうとお礼も言ったのに、ちょっとポンコツが入った先輩は、こんなときでもやっぱりポンコツであった。

 

『言われるほど何か教えた覚えがない』

 

 マジでこの人何言ってんだ、と思った。

 確かに犖はつっけんどんだしぶっきらぼうだし、表情には愛想の欠片もないし笑顔だって見たことがないし、何なら声すら今初めて聞いたが、そんな些細なことを補って余りある人だ。虎杖に、たくさんのことをくれた先輩だ。 

 呪術高専の先輩と言われたとき、一番に顔が出る人なのだ。

 戦い方も、生き残り方も、東京の楽しみ方も、五条先生やナナミンとはまた違う色々なことを虎杖に伝えてくれたのに、何かが、どこかが、ずれたまんまのこの人は、自分が人に与えたものに気づいていないらしい。

 少し目を伏せて、しかし強い光がある瞳をして、犖はただ立ち上がって、帰ろうと高専の方を示すだけだ。

 

 いつかこの人に、気づいてほしいと思っていた。

 変に頑固な先輩が、人に与えているものに目を向けて、気づいてほしかった。

 優しくはなくとも、正しく在れる人だから。

 

 だから、だから───いつか、正しく死ねる人だと思っていた、のに。

 

─────おかえ、り。いたどり、ゆ、じ。

 

 届いたのは、初めて呼ばれた自分の名前。虎杖悠仁と呼びかける声だった。

 おかえりと言って、名前を、呼んでくれた。その声を聞いた。

 なのに、それなのに。

 

 どうして、自分の手がアカく染まっていて。

 どうして、この人は動かない?

 

「せん、ぱ、い?」

 

 ずるり、と虎杖に寄りかかるようにして立っていた犖の体が滑った。

 床に叩きつけられる寸前で、その壊れた人形のような体を、支えられた。

 力の抜けた腕が弾みで揺れて、床の上に赤い線が引かれる。

 犖の腕は、片方しかなかった。左、左腕しかない。右の耳もざくりと切れ、ぽたぽた血が垂れている。

 右腕は引き千切られたような無残な傷跡を晒して床の上、血だまりの中に落ちていて。

 銃を握り続けて胼胝ができた白い指が、爪が、血の赤にみるみる侵される。引き換え顔色は、紙のように白く薄くなっていく。

 

 違う。違う違う違う。そうじゃない。

 腕よりも、耳よりも、もっと大事なあるべきものがない。

 

 犖には、心臓が、なかった。

 抉られて、潰されたから。

 それを、それをしたの、は。

 腕を捻じ切り、胸を貫いて、心臓を抉り出し握り潰したのは。

 

 ──────誰だ?

 

 今、虎杖悠仁の手を赤く染める血は、手のひらにこびりつく血管は、爪の間に詰まった肉のかけらは。

 

 ─────誰のものだ?

 

 一瞬で、喉が締めつけられた。叫びすら出ない。息の仕方を忘れる。

 犖の黒い制服の背中には丁度拳が突き抜けたような孔が穿たれていて、支えた体は重かった。まるで、死体のように。

 二つの眼が、薄く開かれたままだ。

 鋭く力強かった黒い瞳は曇ったガラス玉のように凍り付いて、光がない。腕がない。心臓がない。

 

 鼓動が、聞こえない。

 

 抱えた体の重みに引きずられるようにして、虎杖は床の血だまりに膝をついた。

 そのとき、側で呪力の高まりを感じなければ、我を失っていたかもしれない。

 考えるより先に体が動いて、身構えた。まだそれだけの気力と体力が、残っていたから。

 犖の体を両手で抱えて飛び退り、呪力を感じた方を向けば、見知らぬ少女が二人いた。

 一人は黒髪にセーラー服、手にはぬいぐるみ。もう一人は金髪、セーラー服の上にはカーディガン。

 普通の身なりの、一般人の少女たちに見えた。

 それでも薄れていた記憶が、形になる。宿儺の指を虎杖に飲ませたのは、火山頭の呪霊と、この二人だ。

 何本飲まされたかまでは、わからない。だが、一本や二本ではないはずだ。完全に、体の主導権を宿儺に奪われていた。

 犖の声が聞こえるまで、虎杖悠仁は己の体の中で完全に動けないでいたのだ。

 

「そいつ、渡して」

「は?」

「私たちは宿儺様に願いがあるの!そいつを殺したら、宿儺様はまた出て来てくれるでしょ!」

 

 何を言っているのか、わからなかった。

 犖の体を抱えた腕に、力が篭もる。

 

「ッ、宿儺がお前らの言うことなんか聞くか!見てわかんなかったのかよ!」

「うるさい!夏油様を取り戻すためよ!そいつとの縛りを、宿儺様は受けたじゃない!」

 

 金髪の少女が銃口のように構えたスマホから、虎杖は咄嗟に横に跳んで逃れた。呪力からして、あれが恐らく少女の術式の道具。

 今は駄目だ。

 自分一人ならともかく、犖を抱えたままは駄目だ。巻き添えにしてしまう。踵を返して地下道を走り抜けながら、必死に考えた。

 宿儺と犖は縛りを結んだと、呪詛師の少女は言った。それは虎杖にもわかる。

 干渉できないままに目の当たりにしていた記憶が、次第に蘇って来たからだ。

 宿儺によって見させられているのかもしれないが、今はどうでもいい。

 

 考えろ、思い出せ。あのとき、宿儺は何と言った。先輩は何と応えた。

 

 宿儺は犖に耐えきれと言い、犖は頷いた。

 宿儺はその瞬間犖の腕を千切り、心臓を抉り取ったはずだ。それを犖が耐えたから、宿儺は虎杖に体を再び明け渡した。

 それが、犖と宿儺の縛りだったのだ。

 五条先生や犖に聞いた呪術の知識を、頭を必死に回して思い出す。

 縛りは通常己が己に課すもの、他者との間や強制的な縛りは複雑になり、破れば何の罰が下るかも定かでない。

 

 なら、二人で縛りを結び、片方が死んだ場合、縛りはどうなる。

 犖の死によって縛りが破棄されたならば、虎杖の意識は、再び封じられているのではないか。それなのに、まだ虎杖に意識があるということは。

 

 走りながら、虎杖は犖の首の脈を探った。

 

 とくん、とほんの微かな感触を、指先に感じた。

 とく、とく、と途切れそうになりながら、ふたつ、三つと脈が続いている。

 

「─────ッ」

 

 生きて、いる。

 まだ、生きているのだ。

 

「虎杖!?」

「伏黒!」

 

 駅の構内から外に出た瞬間、鉢合わせした同級生は、虎杖を見るなり目を丸くした。

 

「今宿儺の指の気配が……!?」

 

 虎杖が抱えた犖を見て伏黒は止まり、一瞬、悲痛に顔を歪ませた。

 

「ラク先輩は───」

「生きてる!生きてるからな!」

「……」

「いや俺はおかしくなってねぇから!先輩マジでまだ脈あんの!」

「虎杖、落ち着け。……心臓がもうねぇだろ、その人」

「だから生きてんだって!脈!脈あるから!」

 

 がっ、と伏黒の腕を掴んで犖の首に指先を当てれば、伏黒にも伝わったらしい。目が、大きく見開かれた。

 

「……マジか」

「ほらな!」

 

 死を、認められないわけじゃない。錯乱もしていない。

 本当にまだ、犖には脈がある。

 心臓と腕を欠いて、胸に孔が開いて、大量に血を失っていても生きている。生きていてくれている。

 それは多分犖が、呪物の器であるから。

 少年院での宿儺は、心臓を欠いたままでも、伏黒を殺しかけるだけの力を振るったのだ。

 だからきっと、同じ特級呪物の器である犖も生命を繋いでいる。犖は、虎杖と宿儺のように魂が別たれていないから、呪物の力を虎杖よりも使えるはず。

 だけど、ああ、本当は何もわからないのだ。

 ただ今このとき、まだ犖が生きていることだけがすべてで、それすらいつまで保つことか。一瞬先には、脈も途切れているかもしれない。

 こぼれていく生命を繋ぎ留めることが、虎杖にはできない。

 僅かでも、この場から遠いところに送り届けるしかなかった。

 

「ごめん伏黒、俺、先輩を家入さんのとこに連れてく」

 

 犖に反転術式は効かないが、ここにいるよりマシだ。

 今は地下5階の五条先生を取り戻すべきだろうし、犖であったら死に体は放っておいてとっとと下へ戻れと脛を蹴飛ばしてきそうだったが、それでも、置いて行けるわけがなかった。

 

「ああ。だけどお前、宿儺は?」

「今は、大丈夫だ。俺は、大丈夫になったから」

 

 宿儺の気配は、今は限りなく薄い。犖と結んだ縛りで、表に出ては来られないのだ。縛りは確かに有効だった。

 伏黒の視線がちらりと血だらけの虎杖の右腕を見て、それだけで彼は立ち上がった。

 

「わかった。届けたら戻って来い。死ぬなよ」

 

 そっちも、と言いかけた瞬間だった。

 背筋が粟立った。

 犖を抱えたまま転がるように横に跳ぶ。飛び退いたその空間に振り下ろされたのは、巨大な槌の形に変形した、腕。

 次の瞬間視界に広がったのは、歪に縦に長く伸びた人の顔。

 咄嗟に虎杖は、犖の体を放り投げた。空中に浮いたその体の胴に長い舌が巻き付き、引っ張り下ろす。

 開いた両手で以て、虎杖はその改造人間を殴り飛ばした。吹き飛んだ改造人間を陰に迫るのは、ツギハギの皮膚の呪霊。

 

「真人!」

「せぇかぁい!」

 

 体を捩じれば、脇腹すれすれを棘が掠めて行った。

 勢いに乗って放った虎杖の蹴りを軽々跳んで避けて地面に降り立った特級呪霊、真人は、唇を三日月形に歪めて嗤う。

 

「虎杖、そいつは!」

「ここは俺が何とかする!伏黒は先輩頼んだ!」

 

 犖を絡めとったのは、伏黒の式神、蝦蟇の舌だ。人ひとり飲み込めるほどの巨大な蛙を従えて、伏黒が唇を噛むのが見えた。

 

「死んだら、後で殺すからな!」

 

 二度目か三度目になる物騒な台詞を叫んだ伏黒が、犖を体内に収めた蝦蟇と共に走り去る。

 

「いや、そう簡単に逃げられたら困るんだ、よっとぉ!」

 

 真人が投げた干物のような小さな物体、限界まで圧縮された人間の成れの果てを、虎杖は空中に跳んで蹴り飛ばした。膨れ上がり巨大化したその体の上を走り、真人へ殴りかかる。

 拳は頬を掠めて、真人は後ろへ跳んだ。

 

「テメェ……!」

「いちいち吠えんなよ、虎杖悠仁。ていうか、結構宿儺の指食ったんだろ。なのに、何で変わってねぇんだよ?主導権、そんなに速く取り戻せんの?」

 

 一度に何本も食えば、体は宿儺が使えるはずだろ、と問う呪霊に、虎杖はただ拳を握りしめた。

 首を捻る真人は、思いついたように指を鳴らす。

 

「さっきの角付きが、オマエに何かしたわけ?つーかあの角呪術師、この前背中からめった刺しになったはずなんだけどなぁ」

 

 交流会で犖と真人が交戦したことは、虎杖も知っていた。

 知っていたが、改めて言葉にされれば腹の底にどろりと炎が走った。あのとき、犖は一日分死ぬことになったのだ。

 真人は、一層嗤いを深くした。

 

「角付きはオマエと違って、甘ちゃんなガキじゃあなかったぜ。俺が改造した人間を、すぐ撃ち殺したからなぁ!それまで大事に庇ってたヤツを、顔色も変えずにさぁ!」

「ッ……!」

「オマエら呪術師だろ、あのぐちゃぐちゃな斑の魂つくって、人間の体に入れたのは!俺の術式とあの女をつくった人間の、一体どこが違うんだろうなぁ!」

 

 巨大な鎌に変えられた改造人間を、喜悦に顔を歪ませた真人が振り回す、前転して地面を転がり避ければ、背後でアスファルトの地面が抉れていた。

 鎌を手放した真人は、尚も続ける。

 

「アレをオマエが殺しかけたってことはさ……あのくたばり損ないを殺れば、宿儺は出てくるワケ?」

「黙れ!」

「は、図星かよ!」

 

 真人の手の動きに合わせ飛ばされたのは、改造人間である。膨れ上がり、視界を覆うその股下を虎杖は滑り込むようにして潜った。

 低い姿勢から放った回し蹴りで足を払われた真人が、体勢を崩す。

 崩れた真人のその顔面に渾身の力で拳を叩きつければ、呪霊の体は跳ね飛び、たった今出てきたばかりだった駅の入り口に落ちる。

 それを追って、虎杖も駅へ飛び込む。

 真人は、犖と伏黒を間違いなく殺そうとする。

 

 絶対に、この場でこいつを祓わなければならないと虎杖は拳を握りしめた。

 




重面春太が交流会時点で射殺されたため、伏黒はふるべらずに現れました。
真人も『変な魂』のほうへ興味の天秤が動いたため、七海と出会っていません。
とはいえこの時点で漏瑚が生きています。

当初より分量が膨れていますが、支部に上げていた部分はここまでになります。

渋谷事変までで、この物語は終わりです。


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7話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 人が死ぬところを、何度も視て来た。

 知らぬ人間が山と息絶える場面を、屍山血河となるほどの骸を。

 視たくないと、目を背けたことはなかった。元より『くだん(わたし)』は人から生まれたものだが、人ではない。己と違う生き物であるならば、その死に様には慣れてしまえるのだ。

 人間が、蟻の巣が潰れる映像を見ても平気であるように。

 そういう術式を持って生まれたのだ。善悪良し悪し関係なく、『くだん』は未来を視る。

 生まれ、視て、予言して、死ぬ。その円環を繰り返すだけの、獣の形をした呪いだ。

 

 何のためにと問うのも馬鹿らしい、獣の生の巡りに、端から意味などない。

 日が東から上って西に沈む天地の摂理と同じくして、『くだん』はその円環の中に生まれ落ち、他のあらゆる呪いと同じく、『くだん』もまた人の負の感情を母胎とした。

 未来を告げる術式を持つ『くだん』の正体はごく単純。その本質は、()()()()()だ。

 

 人間は、未来をさも輝かしいもののように語る。光り輝く未来を夢見て、今日を生きている。

 だが、未来とは輝くだけのものではない。光があれば、必ず影がある。

 人は、未来を恐れている。見えないものを恐れるのと同じように。

 寄る辺の無い明日が来るのを恐れ絶望し、他人の未来を羨み妬み、こんなはずではなかったと己の未来に簡単に呪詛を吐く。大切な誰かを失っても、当たり前のように訪れる未来を嘆き膝を屈して蹲る。

 己を誤魔化して嘘をつき、未来はよいものだと夢見て足を引きずりながら明日へと向かう。

 人間は、未来には希望が見出されて然るべきものなのだと、己に嘘をつかなければ生きてはゆけぬ生き物だ。

 その恐れが、負の感情が、澱のように降り積もり『くだん』を生み出した。

 さりとて、そこより生まれたわたしは、人が欺瞞に満ちているとは思わない。

 そうせねば生きられないから、嘘を吐くだけなのだ。彼らは欺瞞で塗り固めても生きるという道を選んだだけ。嘘つきであることを、醜悪とは感じない。

 

 兎にも角にも『くだん』とは、人が未来を想う感情から生まれた。

 未来への恐れ、不安、恐怖、妬み、恨み、(そね)み、ありとあらゆる負の感情から、くだん獣は力と形と、生命を与えられた。

 

 だから、それを継いだわたしが未来へ希望など抱けないのは、ごく当たり前のことなのだ。

 呪霊であっても何某かの理想とか、未来への展望とかを抱くだろう。むしろ、人間が生きるため獲得した理性という鎖がない分、彼らは素直かつ愚直に未来への欲望と夢を解放することができる。

 だが、核に未来への負の感情を据えて発生する『くだん』は、とことん未来を見限っている。

 わたしも、そうだ。

 生まれ方が尋常でなかったから、つらい痛みを受けたから、愛を注がれなかったから、などという理由はない。

 ただ生まれついての性が、そうであるのだ。

 人の形をしていても、その内実はただの異形。

 半端に呪いが人と混ざり、成立してしまったのがわたし。

 

 未来に希望を見いだせないどころか、生きるための希望を必要としない。

 伽藍とした心であっても、ただ何となくで呪詛師を殺し、呪霊を殺し、生きていける。熱意なく他者を踏みにじり、己の生きる場所を奪い取れる。

 その精神性こそ、わたしが人間から乖離している証であり、最大の欠落なのだろう。

 人の未来も己の未来も、わたしの中では等しく無価値で、ただ木から離れ川に落ちた木の葉のように流れ去って行くものだ。

 明日がたとえ嘆きが詰め込まれたものであっても、ああそうか、と見過ごしてしまうことができる。

 

 それなのに。

 それなのに、このわたしがあろうことか誰かの前に飛び出て己の生命を張ってしまった。

 虎杖悠仁の体を使う宿儺に、己の体を奪われた虎杖に、怒りを覚えたから。

 

 『わたし(ラク)』には、己の体というものがない。

 黒い髪に黒い瞳の角の生えた少女の体は、『八咫犖』という人間のものであって、『わたし』のものではない

 故にわたしはずっと、わたしという生き物が気持ち悪かった。他人の服を纏い過ごしているような落ち着かなさが、背中に被さって常にあった。

 

 この少女のやわらかい体を使うべきは、混じりけの無い八咫犖の魂であるはずだったのだ。

 後付けで生まれたわたしという混ざり物に、本来体は与えられていない。わたしは人間の体に宿らなければ、寄生しなければ、日の光を浴びを感じ、己の頭で物を考えることすらできなかった水子の如き何者かだ。

 その埋めようのない齟齬と隔たりが、濡れた布のようにわたしには貼り付いていた。己にはどうしようもないことと諦めてしまうことも、できなかった。

 

 だから、呪物を体内に取り入れても己の魂を見失っていない虎杖は、わたしにはどうしても無視ができなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()という少女の夢の残滓と、己の体を求めるわたしの心は混ざり合い共鳴し合い、気づかぬうちにわたしの中で降り積もって形を成し、強い想いとなっていた。

 虎杖悠仁は、わたしたちにとってそういう人間だった。

 

 その虎杖が、宿儺に体を奪われた。

 虎杖の体と顔を他人の体に宿った亡霊が使い、嗤うことが、たとえようもなく気持ち悪くて、飲み下せなかった。わたしたちと同じところに、堕ちて来るものがあるかこの馬鹿が、と。

 飲み下せなかったからこそ、怒りとして弾けたのだ。

 

 己の胸に宿儺の腕が生えて心臓を握り潰される瞬間に後悔もしたが、やってしまったことは取り返せない。

 変えられるのは未来のみで、そのためには死なないことに全力を注がなければならなかった。

 心臓があった肉体の孔に呪力を回して、千切れた血管を繋ぐ。腕の血管は絞って出血を止める。

 『くだん』は宿儺と比ぶれば、各段に戦闘力という面で劣る。

 劣るが、虎杖悠仁よりはわたしのほうが呪物との融合率は高い。

 尤も、あいつは宿儺と魂を分けていなければならないだろうから、融合率は一定値でとどめておく必要がある。だがわたしに、その枷はない。

 

 完全に、魂に至るまで呪物と融合したならば、それは最早()()()()()()()()()()()だ。

 丁度、こんなふうに。

 

 カチリ、と何かが入れ替わる音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 暗い場所に蹲っていたところを蹴飛ばされ落ちるようにして、わたしは目覚めた。

 次の瞬間襲い掛かって来たのは、ひどい吐き気。

 横たわったまま身を捩って吐けば、口から出たのは訳のわからぬ黒い血である。そのまま空咳をすれば血の塊がぽろぽろと吐き出され、喉ががらがらと喘鳴した。

 不自然な体勢が崩れ視界がぐるんと逆さに回って、受け身も取れずに落っこちる。

 どうやら、寝台らしいところに寝かされていたのだと気づいたのは、飛び込んで来た見慣れた女医の顔を見たときだ。

 

「八咫ッ!」

 

 呪術高専の医師、家入硝子は、仰向けに倒れ手足を投げ出したままのわたしを見て、僅かに痛みを堪えるように顔を歪めた。

 

「起きたのか?」

「……ん」

 

 家入の差し出した手を取り立ち上がると、体がふらついた。

 それも当然だ。腕を千切られ心臓を抉られたのだ。見てくれだけでも五体満足で意識が戻っただけ、僥倖だろう。

 千切られたはずの右腕に、左手で触れてみる。

 指先を摘まんでいるのに、右の人差し指には何の感覚もなかった。握力はあっても、何も感じ取れない。孔が開いていた胸に手を当ててみれば、一応の鼓動が聞えて来る。

 ただし、ひどく弱々しかった。

 は、と息を吐くと家入の手が肩に添えられる。

 

「お前はもう動くな。その心臓、いつ止まってもおかしくないぞ。……状況説明は必要か?」

「ん」

 

 要らない、と首を振った。

 わたしの体に刻まれた、自死する際にのみ反転術式を発動する術。対価は一日分の記憶。それの発動は確かに行われて、わたしの体には心臓と腕が戻っていた。

 ただし心臓は激しく動けば破裂してしまうそうなほど脆いし、腕は感覚が死んでいる。呪力の限界というやつだろう。宿儺のやつ、よくもやってくれたものだ。

 だけれど、わたしは己が何をしたせいで()()なったのかを、把握できていた。

 

 死に際に至ってこそ触れられる、呪力の核心がある。

 いつだったか、何かの折に五条悟が語ってくれた話。

 あのときは、そんな都合のいいことがあるものかと白い眼をしたが、()はもう、それを笑えなくなっていた。

 

「どうした?」

 

 寝台に戻そうとする家入の手を押し戻して、ふらりと歩み出した。

 ここは、急ごしらえの診療所のようなところだ。わたしが寝かされていた場所の隣にも、幾つか寝台が置かれていて、その上に数名が横たわっている。家入の反転術式によって、治療された人間だ。

 渋谷の生き残り、と言えるだろう。

 彼らの顔を見ることなく、外へ出る。

 未だ帳の夜は開けておらず、其処ここに夜蛾学長のものと思われる呪骸が救護所を護るように配置されていた。彼も来ていたのだな、と改めて渋谷に集まった術師の数を思い出す。

 一歩、二歩、と空を見上げたまま歩いて、立ち止まった。

 

 黒い空に蓋をされたこの世界で、呪力と呪力がぶつかり合い弾けている。

 呪力が衝突して爆ぜる火花を、わたしは感じ取れていた。

 それは星の光のようだが、同時にひたひたと満ち満ちる闇と比べればあまりに儚い。

 深く、深く息を吸って、吐いた。

 『くだん』の術式は、自由自在な未来予知。わたしが継いだのは、その劣化。 

 ずっとそうだと信じていた。

 だけど、何かが今、切り替わっていた。

 カチリ、カチリ、とわたしが切り替わる。視えなかったものが像を結び、届かなかったものに手が届く。

 死に縁深い『くだん獣』が、命数をこそげ落とされ死に歩み寄ったからこそ起きたことだ。

 

 いつかの折りにあの蒼穹の瞳の教師が語ってくれた、死に際にこそ掴める呪力の核心。  

 己の術式の、さらに深淵に触れる行為。

 五条悟はかつてその状態に入り、無下限の呪術の深奥に至ったという。

 

 今のわたしが、まさにそれだった。

 『未来予知』の深淵に踏み込んで素直に術式反転を行えば、起こるのは『過去視』。ありとあらゆる過去の事象の俯瞰だ。

 記憶がなくとも過去を視ることができれば、何があったのかを知ることはできる。

 誰に教えられずとも、未来と過去を一人で知ることができるのだ。

 

 ここへわたしを運んだのは伏黒恵で、虎杖悠仁は虎杖悠仁のままにあの特級呪霊と交戦しているはずだ。名は、真人と言ったか。

 心臓と右腕を縛りのために支払ったのだ。これで虎杖が宿儺に取って代わられていたら怒髪天になっているところであった。そうならずに済んでよかったと、思う。

  

「八咫、何をしているんだ!」

 

 頭を上げ茫洋と突っ立って俯瞰していれば、夜蛾学長が走って来た。

 再生させたとはいえ心臓と片腕を失った生徒が、寝台から抜け出し戦場の方角を向いて佇んでいれば、駆けつけても来るだろう。

 

「……お前はもう休め。その体で戻れば、心臓が今度こそ破れる」

 

 羆のような夜蛾正道は、身を屈めてわたしに告げた。

 黒い色眼鏡に遮られ視線を伺い知ることができなかったが、教職に就いている人間だ。

 致命傷を負った生徒が一人、誘蛾灯に誘われる翅虫のようによろぼい現れれば、止めずにはおられまい。

 それでもその心を、わたしは今から無にする。

 夜蛾正道に頭を下げて、駆け出すことにした。

 

「待て!八咫!」

 

 夜蛾の呪骸によって強制的に阻まれる前に、そこらに乗り捨ててあったバイクに跨った。

 見よう見まねで鍵を捻り、エンジンに火を灯す。たちまちに息を吹き返した単車で以て、わたしは走り出した。

 

 最後に一言、こちらの名前を呼ぶ夜蛾の声が聞えたが、完全に無視する。

 

 渋谷には既に、人の気配が絶えていた。狗巻か誰かが、できる限り避難させたのだろう。

 道路から下へと跳び下り、さらに車を走らせる。目指す場所は、たった一つだった。

 

 今のわたしにならどこに向かうべきなのか、わかる。

 呪力を巡らせて、術式を発動する。未来を視る(まなこ)を開いて、まだ起きていない景色を現実のテクスチャに重ね合わせる。

 再生したばかりだろう心臓が、どくりと嫌な音を立てた。

 呪力と術式で取り繕えたのは見てくれだけ。

 この体はそれほど長くはもたない。

 心臓と腕を、宿儺によって奪われたのだから当たり前だ。あいつが奪ったのはただの体の一部ではなく、命数そのものに等しかった。

 明日の朝日をこの体が見ることは、きっと敵わないだろう。家入や夜蛾が、青ざめた顔で止めるのも道理だ。

 それでも、よかった。

 

 夜風を顔に感じながら走るのは、閉ざされていた瞼を開き、縛られていた力を解き放つのはたとえようもなく、()()()()()。喉が勝手に震えて、抑えきれない笑いがこぼれて泡のように夜空に弾ける。

 ぼろぼろの心臓とずたずたの腕を抱え、夜の街をバイクで疾走しながら笑う少女は、最早それだけで何かの都市伝説だ。

 言うまでもないがまともではない。頭がおかしい。狂っている。螺子が外れて、いずこかへ転がって行った気狂いだ。

 わたしがまともな人間であったことなど、ただの一度もなかったにせよ、今のわたしは明確に気が違っていた。

 それでも、楽しくて楽しくて、堪らなかった。

 数時間のうちに幕を引く生命だからこそ、終わりの時まで存分に使い切る。自分の生命を端から端まで把握し、手にしているこの感触が、快くて堪らない。

 やるべきことではなく、やりたいことをやり切って───死ぬ。

 

 思い出したのだ。

 『くだん(わたし)』は、元よりそういう生き物であったことを。

 

 行く手に、黒い服の少年を一人見つけて、わたしは口の端を吊り上げた。

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 虎杖悠仁は、九相図の長兄に敗れた。

 虎杖悠仁は、己の手で八咫犖の心臓を握り潰した。

 虎杖悠仁の目の前で、釘崎野薔薇の顔が弾け飛んだ。

 

 それでも、虎杖悠仁は呪術師だ。

 

 ───お前も私も、呪術師だ。そして、他の何者にもなれない。

 

 そんな言葉をくれた人の心臓を、己の手は抉り取り、潰してしまった。

 自分が負けたから、失敗したから、仲間が傷つき、斃れた。もう、取り返しがつかない。

 

 だからこそ、絶対に目の前のこの呪いを、真人を祓う。祓わなければならない。

 虎杖悠仁は失敗した。仲間をまたしてもこの手で殺しかけ、仲間が倒れるのを防げなかった。

 それでも、自分たちは呪術師以外の何者にもなれないのだという言葉が、錨のように戦いに括りつける。

 おかえりと、この世に引き戻してくれた人の言葉が灯した炎が、心の奥から消えない。

 だから拳を固めて、倒れた釘崎を庇いながらも虎杖悠仁は真人に殴りかかった。

 

 途中で、京都からの加勢の東堂が現れた。

 彼と共にいた見知らぬ術師に、倒れた釘崎を預けることができた。

 殴って、蹴って、東堂と連携して、戦って、戦って戦い抜く。

 戦いの中で互いに覚醒しながら、力を引き出しながら、さらに強く、目の前のこの呪いを祓える力を求めて、虎杖悠仁は止まらない。地下から地上へと場を移しながら、より速く激しく真人を打ち据えようと足掻く。

 鑢で削られ研がれていくように、鋭く、ただ呪いを殺すために成長を続ける。

 だがそれは、敵も変わらない。

 人間を殺すために、そのためだけに、より強靭に、より逞しく、真人という呪いは進化していく。

 

 しかし、東堂と、虎杖と、真人と、三人きりの戦場に、それは唐突に飛び込んで来た。

 

 真人が東堂と虎杖から距離を開ける。呪力が高まる。

 口腔内に一瞬、印が結ばれるのが見えた。領域展開の言葉が束の間頭を掠め、だが虎杖にはそれを防げない。

 

 真人の口腔の中に、弾丸が飛び込みでもしない限り。

 

 領域が広がるのを阻んだのは、完全に三者の知覚外の距離から放たれ飛来した、銃弾だった。

 領域を展開するための手印を、真人は変形させた口腔内で結んでいた。開いた口のまさにその中に、一発の弾丸が着弾し弾ける。続けて、一つ二つと弾が飛び込み、爆発する。

 口の中で呪弾が弾け、真人の体が仰け反る。その僅かな硬直に滑り込んだのは、巨大な黒犬だった。

 鋭い爪を振り上げ、巨大な顎を開いたその式神が、真人の肩に噛みついて動きを止めた。

 

「虎杖ッ!」

 

 建物の陰から現れた伏黒恵の声。それを認識するより先に、虎杖は前へ跳び出していた。

 伏黒の式神、玉犬の渾が、真人に殴り飛ばされる。だがその刹那に、虎杖は真人の懐へ飛び込んでいた。深く、低く、完全に間合いに入り込む。

 継ぎはぎの皮膚の、歪んだ顔が見える。弾丸で頭の半分を吹き飛ばされていたが、既に真人は再生しつつあった。 

 だが、それでいい。

 見えない射手と伏黒が、十分な時間をくれた。この距離に弾を叩き込んで来たのが誰なのかも、虎杖にはとうにわかった。

 固めた拳が、漆黒に光る。呪力が黒く染まり、高まる。

 かくして虎杖の渾身の黒閃が、特級呪霊に突き刺さった。

 呪霊の体が毬のように跳ね周囲の建物に突き刺さり、げえと呻く。祓い切ろうと、そちらへ虎杖が歩み出したときだ。

 

虎杖(ブラザー)!」

 

 東堂の声と共に、思い切り襟首が引かれた。のみならず、虎杖は後ろに放り投げられた。

 空中で身を捻って着地し、四肢に力を込め立ち上がる。顔を上げれば、たった今まで虎杖がいた地面は大きく抉れていた。投げられなければ、どうなっていたことか。

 

「助けてあげようか、真人」

 

 突如として現れた袈裟の男はそう、罅割れたような笑みを浮かべた。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 伏黒恵の式神、渾が真人を押さえ、虎杖の黒閃が突き刺さったのを見届けた瞬間、犖はその場から跳び下りていた。

 地上二十階の雑居ビル、その屋上と彼らの戦いの場までは、凡そ一・五キロ少々。

 真人なる呪霊の知覚範囲の外からの狙撃を狙ったからこその、距離だった。

 犖にとって、狙撃とは狙って当てるものではない。当たるとわかっているところに、弾を配置するものだ。

 一キロ以上先にいる呪霊の口腔内という、極小の的であっても例外はない。

 だからこそ、弾丸は誰にも気づかれることなく呪霊の頭を抉った。大した攻撃とならずともよかった。

 頭を吹き飛ばして領域を展開するのを防げば、あとは伏黒と虎杖と東堂がやってくれると、視えていたからだ。

 

 真人を弾き飛ばした次の瞬間に現れるその男のことも、視えていた。

 その人間が、自分の上に大量の呪霊を降らせることも。

 

「ッ!」

 

 視えていても、防ぎきれるものではない。

 頭上から雨あられと落ちる大小の呪霊の隙間を犖は走り跳びすり抜けて、屋上の柵を踏み越えた。

 髪が風を切り、胸の奥で心臓が引き絞られたように痛む。

 顎を開いて腕を食い千切ろうとする、龍に似た呪霊の頭に飛び乗り、犖は尾まで走り抜けた。耳と鼻から、生暖かいものが垂れる。血だと知りながら、犖は足を止めない。

 呪霊の背、腕を足場に、ときに滑り落ちるようにして何とか地上へ戻り、乗り捨てるようにして止めてあったバイクへ跨る。

 大量の呪霊に追われながら、犖は走り出した。

 

 この呪霊はすべて、敵の呪詛師の手駒だ。

 こんなことができた人間を、犖は一人しか知らない。

 

 ───夏油、傑。

 

 五条悟の親友だった、呪詛師。呪霊を手駒とする呪霊操術を使う、元特級呪術師だ。

 袈裟を纏った涼し気で胡散臭い風貌の優男で、恐ろしいほどに強かった。

 その人間は、既に死んでいる。去年五条悟が殺したのだから、間違いはない。

 だがその術式がこうして、牙を剥いて呪術師たちを襲っている。

 犖が舌打ちすると同時、バイクの前輪すれすれを、鳥型の呪霊の嘴が掠めていった。

 

「っ───!」

 

 咄嗟に前輪を持ち上げて防ぎ、呪霊の首を引き潰し速度を上げる。渋谷の夜にバイクで大量の呪霊とチェイスなぞ、生まれて初めてだった。それを言うならば、犖は免許を持っていない。見様見真似と勘で操っているだけだ。

 無免許上等な乱暴な運転で、犖は疾走する。だがいきなり、がくんと動きが止まって犖は宙に投げ出された。

 虫のような呪霊、蠅頭が車輪の隙間に食い込んでいた。

 背中からコンクリートに落ち勢い余って転がり身を起こした犖の視界に映ったのは、爪を振り上げた三つ目の猩々のような呪霊。

 

「伏せろ、ラク!」

 

 だがその横っ面を、巨大な拳が殴り飛ばした。

 煙を上げて地面を擦りながら現れたのは、白黒の毛並みの大熊猫────もとい、二年生のパンダ。

 続けて刀の一閃が、犖の頭上で口を開けていた芋虫型の呪霊の頭を切り落とす。

 刀を鞘に収めて着地した男は、犖を見下ろすや目を剥いた。

 

「八咫!?お前こんなとこで何やってんだ!」

「……」

 

 喧しいなこの男、と犖は眉をひそめた。

 刀を携えたスーツの男、日下部(くさかべ)は憤懣やるかたないとばかりに頭をかいた。

 その背後からひょっこりと現れたのは、パンダである。

 

「犖、お前免許持ってたっけ?」

「……」

 

 かぶりを振ってから、犖は口を開いた。

 

「持っていないわ」

 

 パンダと日下部が、ぎょっとばかりに眉をはね上げた。

 頭を締め付ける枷、思考力を維持させないほどの痛みは、もう爪を肉で食い破って耐える。叫び出したいほどに痛く、針を刺されるようだがここで言葉を惜しめば死ぬだろうから。

 

「オマエ、言葉……」

「時間がないの。驚くのはあと。わたし、あそこに行くから」

 

 戦場、虎杖たちの気配のほうを指さす。日下部の顔が微かに引きつる。

 

「本気か?」

「ええ」

「お前、その体ぼろぼろだろ。悪いことは言わねえから、家入先生のとこ戻れって、な?そこまで頑張ったんなら、誰もお前を責めやしねえよ」

 

 黒い角を生やしたまま、犖は日下部を見据えた。

 一級呪術師にして居合いの達人、日下部篤也(くさかべあつや)は二年生のとき犖の担任だった男だ。面識はあるし、人となりも大体は知っていた。

 彼は、逃げて良いと言える人間だ。だから、犖は明日の天気を告げるように告げた。

 

「わたし、もうすぐ死ぬの」 

 

 今度こそ、日下部が驚きを露わにした。

 絶句した彼を放置し、犖はただ軽やかな声で告げた。

 

「だからわたし、あそこに行くわ」

「……本気か?」

「ええ」

 

 吹き飛ばされたバイクを起こして、犖は舌打ちをした。思った通り、タイヤが弾けている。これでは走れない。

 他のバイクを拾おうと辺りを見回したとき、ふわりと持ち上げられた。

 犖の襟首を掴み持ち上げたパンダは、軽々犖を肩に担ぐ。

 

「よし、そういうことなら送ってやる。あっちに悠仁たちがいるんだな?」

「そう。虎杖と東堂と、黒幕も」

「黒幕ぅ?そんなやついるのかよ」

「いるわ。殺せばこの夜は開ける」

「そりゃすっげぇけど、黒幕って誰だ?」

「名前は不要よ。なくても殺せるわ」

 

 そしてその者が、五条悟を連れている。それは、予言でなく確信だった。

 術式が瞳に宿り、廻る。未来と過去を視る呪いの瞳が、ぐるぐると渦を巻く。

 絡み合う螺旋が宿る瞳を見て軽くため息を履いてから犖を軽々片手で担ぎ、パンダは軽く手を上げた。

 

「んじゃ、俺らはちょっくら行って来るな」

「おい、こらオマエら!」

 

 日下部にひらりと手を振って、犖はパンダの毛皮にしがみついた。

 並みのパンダにはあり得ぬ俊敏さで走りながら、パンダが口を開く。

 

「オマエ、どっか変わった?人間ついにやめちまったのか?」

「そんなところよ、パンダ」

 

 突然変異呪骸ゆえの直感か、パンダの言葉は核心をついていた。

 毛皮に覆われた表情の読めない巨体で疾駆しながら、パンダはなおも問うてくる。

 

「口、利けるようになったのか?頭痛むんだろ」

「今も痛いわ、泣いてしまいそう」

「嘘つけ」

 

 その通り、と犖は薄く笑った。

 泣くなど勿体ない。生を実感できるのだから、今は痛みすら愛おしい。

 諦めたように、パンダは太い息を吐く。

 

「お前たちはどうやってここに?」

「日下部と駅の周辺回ってたら、夏油の意志を継ぐ呪詛師ってのに襲われたんだわ。で、戦ってたらオマエがバイクで爆走しながら大量の呪霊に追っかけられてんのが見えたってわけ」

「そいつらは?」

「倒して来たに決まってんだろ!オマエのせいだぞ!」

 

 置いて来た日下部がパンダの隣を並走しながら叫び、犖は目を少し見開く。

 特級呪霊の気配が集まる首魁の目の前になど、この男の性格からして参戦したく無かろうに、やはり生徒が二人も駆け出してしまえば追わざるを得なかったらしい。

 日下部から疑うような視線を感じて、犖はパンダに抱えられたまま首を傾げた。

 

「八咫、オマエどっちだ?」

「見たものを信じなさい」

 

 ぱしりと言い返す。一級ともなれば、やはり感じ取れてしまうものらしい。

 黒目の中に渦巻きを飼ったまま、犖は呪術師に応えた。

 

「あなたたちの味方で、あいつらの敵。それでいいでしょう」

「ラク、オマエまともに答える気ないだろ」

 

 無い、と言う代わりに犖はにっこりと微笑んだ。固まった顔の筋肉が引きつって、多少奇妙な笑みになったことは否めない。

 そのまま、犖はパンダの毛皮に包まれた耳を引っ張った。

 

「パンダ、合図した場所でわたしを下ろして、あなたたちは先に行って」

「ん?」

「言う通りにして。上手くすれば、これ以上死人が出ずに済むの」

「……マジで?」

「上手くやればよ。失敗すれば全員駄目ね」

「最ッ悪な賭け持ち掛けんじゃねぇよ!つーか八咫!オマエそういう性格だったのかよ!口ろくに利かねえから知らなかったじゃねえか!」

 

 うるさい元担任だと、犖は耳を塞いだ。賭け事など、元より一か零だろうに。

 そろそろ頭の痛みに耐えるのも限界であった。それっきり、犖は誰が何を言おうが黙る。

 そうして、空にちかりと光が瞬いたのを見たその瞬間に、犖はパンダの耳を再び強く引いた。

 

「イテッ!……ここで下ろせってか?」

「ん」

「はいはい、わかったよ」

 

 パンダの肩を滑るようにして、犖は地上に降りた。

 

「……何する気かは知らねえけどさ、死ぬなよ。できるだけな」

「ん」

 

 にこり、と再び引きつり気味の笑みを浮かべて、犖はパンダの腕を軽く叩いた。

 たちまち、屈強なゴリラの如き姿へと体を変更したパンダはひとつ頷き走り出す。

 その後を追って、日下部も走り出した。最後にちらりと、犖に疑わし気な、気遣わしげな視線をくれて。

 

 無人のアスファルトの道の上に立ち、犖は彼らの背中を見送る。

 また一人になった。一人きりになった。だから、やりやすい。

 周囲の人間の気配がないのは、呪術師たちが逃がしたからだろう。狗巻の呪言ならば、それが可能だ。

 左手に拳銃を一丁召喚し、眼を閉じてそのときを待つ。

 

 十秒を数えた瞬間、犖は目をかっと見開いた。

 同時に一瞬で足元の地面が消え去り、犖の体は宙に投げ出される。

 開けた視界の中、真下に見えるのは数個の人影。そのうちの幾つかが、唐突に空中に現れた犖の姿を見て、驚いたように目と口を開ける。

  

 そうもなるだろう。入れ替え転移で、犖は空の上に直接飛んだのだから。

 

 だが、それら一切を無視してのけた犖の、渦巻きの瞳が視下ろすのは、たった一人だった。

 袈裟を纏う黒髪の男ただ一人だけを、犖は視ていた。

 そのとき男も、犖を見上げていた。

 空中と地上で視線が交錯し、男はそのまま腕を振り下ろす。その動きに合わせ空中に現れたのは、大蛇の呪霊。

 呪力で以て避けることはしない。時間がないから。

 蛇の白い牙が横腹を食い破って貫くのをそのままに、犖は手で印を結んだ。

 漆黒の瞳の中で渦巻きが激しく巡り廻り、二筋の螺旋を描いて絡み合う。

 手のひらを合わせ、唇の端を吊り上げ嗤って、犖は呪力を体から振り絞り引き摺りだした。

 魂が思い描く形を、己の心を、この場へ具現させるそのために。

 

「領域、展開」

 

 宿儺の嘲笑う顔を、ちらりと思い出した。本来の術式はどうしたというあの言葉。

 確かにそうだ。これを封じられ忘れ果てていた姿は、さぞ滑稽だっただろう。

 蛇の牙が胴を喰い裂き両断していくのを感じつつ、犖は言葉を紡ぐ。己の心で世界を塗り替える呪術の深奥を、この世へ招く。

 

「四諦曼荼羅」

 

 血と共に吐き出された呪いの言葉が、かくて無明の闇をこの世に顕現させた。

 

 

 

 




頭パーンした主人公。
ちなみに普段の口調は入力時間を減らすためのものであり、本来は女性言葉です。

特殊タグ初めて使ってみました。
領域の読みは、「したいまんだら」です。

多分次で終わりです。


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8話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 闇天(あんてん)が墜ちて来た。

 その領域の内側に飲まれたとき、虎杖はそう思った。

 自分の手の造作さえも見えない暗闇。上下左右の判断もつかないほどの、無明の中に引きずり込まれた。

 咄嗟に思ったのは、仲間のことだった。

 九相図の長兄が飛び現れてきた一瞬の隙に拳銃をやおら空に向けて撃った伏黒に、それに合わせるように手を叩いた東堂。駆けつけてきた東堂以外の京都校の生徒と、パンダ先輩と刀を携えた見知らぬ呪術師。

 次に敵のこと。

 つい先ほど真人を取り込んだ袈裟の男。五条先生を攫った敵。尚、九相図の兄を名乗り袈裟の男に憤怒形相で食って掛かったやつはどちらか不明。

 その全員が、空から風呂敷のように広がり墜ちて来た闇に、飲まれたのだ。

 

 そして闇が広がる直前、前触れもなく空に現れた誰か。見間違いでないのなら、あれは犖だった。その胴に、唐突に出現した大蛇の牙が食いつき貫くのも見えた。

 

 誰かの名を呼ぼうと虎杖が口を開けたそのときに、光が地上に現れた。

 星のような白い光がぽつりと地の上に灯り、たちまちのうちに縦横無尽に広がる。足元に、空に、白銀の光の道が現れて闇を白く照らし出す。

 

 その中央、すべての光の道を起点となる場に、一人佇む姿があった。

 俯きがちに立つその人影の髪は、色がすべて抜け落ちたような白。長く長く伸び、膝裏にまで届いている。

 肌も白い。白の顔料を幾重にも塗り重ねた面のように一切混じりけ無い純白で、蝋人形かと思うほど硬質な肌。血の気というものが凡そなかった。

 纏っている着物のような袖の長い服と、額から生えている二本の湾曲した長い角だけが黒い。

 

 白と黒で統一された人物がゆらりとこうべを上げ、一歩を踏み出す。足音もないその歩みは、絹連れの音も立てていなかった。

 

 ────人間じゃ、ない。

 

 頭を掠めたのは、単なる直感。それでもその横顔の線には、否が応でも見覚えがあった。

 

「ラク……先輩?」

 

 犖の顔形をした、しかし決して人間でない何者か。

 この領域を束ねていると思しい異形は、虎杖の呟きにかくり、と首を傾げた。糸を斬られた操り人形のように、真横に首が傾いでいる。

 虎杖を見るその眼は、白と黒が反転していた。瞳孔と虹彩が白く染まり、漆黒の角膜の中にぽつんと浮いている。

 顔にも佇まいにも犖の面影がありながら、気配が人のそれではなかった。

 確かに視線が交わっているはずなのに、黒と白の反転した瞳が見ているのは、もっと違う、遥か隔たったところにある何かだ。

 喉の奥で言葉が潰れて、ひゅうと笛のような音が鳴る。

 角持つ異形は、何も言わない虎杖に不思議そうに目を細め、視線を逸らす。

 次に真白な瞳孔が捉えたのは、ただ一人だった。

 五条悟を封印したと思しい袈裟を纏った男、ついさっき場に飛び込んで来た九相図によれば、その名は加茂憲倫。

 百年以上を生きるという、虎杖からすればわけのわからない男だ。

 黒白(こくびゃく)の異形は、彼しか最早見ていなかった。

 

「こんばんは、骸の中の誰かさん」

 

 鈴を振るような、軽やかな声だった。唄うように楽し気に、有角の少女は一歩、二歩と僧衣の男へ近づく。

 男は手を広げ、迎え入れるような仕草をする。

 

「これは驚いた。その姿、魂の本質を掴んだのか?くだん獣ともあろうものが」

「そうね、そうよ、そうかもしれないわ。わたし、白痴の獣でなくなってしまったの」

 

 少女の形の黒白は嗤い、笑った。

 数メートルはあった距離を、一度軽く地面を踏みしめただけで詰め、袈裟の男の前に現れる。白い手のひらを蜘蛛のように広げ、無造作にその顔を掴んだ。

 

「だから、あなたは死んで」

 

 瞬間、二つの人影の間で凄まじい炎が迸る。

 少女がたたらを踏んで軽く後ろに仰け反り、男は息を荒げて後ろへ跳ぶ。

 じゅうじゅうと黒い煙の上がる自身の手を見下ろして、少女は目を瞬いた。

 

「あなた、やはり厄介ね。半分しか削れなかったなんて」

 

 ぶわり、と無言のままの男の足元から影が伸びる。泡が浮かび弾けるように何十体もの呪霊が影から膨れ上がり、鎌首を擡げて少女目掛けて放たれる。

 虎杖は、駆け出そうとした。

 人でなくとも、人と思えなくとも、犖の面影がある。呪霊に潰されるのを、黙って見るわけには行かない。

 けれど。

 

「無駄」

  

 袖を絡げて硬質な皮膚の腕を持ち上げた少女が、軽く手刀を上から下へ振り下ろす。ただそれだけの動作で、呪霊が一体残らず内側から弾ける。

 にこり、と少女が微笑んだ。男は苦虫を噛み潰したように眉をひそめる。

 

「……化け物め。幾年も、ただの呪術師に擬態していたのか?」

「いいえ、まさか。宿儺のおかげよ」

 

 宿儺のせい、とも言えるかしら、と少女は反対側にことりと首を傾げる。

 

「あなた、わたしの眼を弾いていたでしょう。彼処でわたしがしくじっていなければ、五条悟が封印されることもなかったのにと、これでも後悔しているのよ」

 

 黒い着物の胸元に手を当て、少女は続けた。

 

「あり得ないはずだ。八咫家の器が、完全な呪霊になることなど」

「その通り。器のままなら手が届かなかった。だから、皮を一枚と生命をひとつ支払ったのよ」

 

 感情を伺い知れない蝋作りの人形のような相貌がふと曇る。相対する男は、剃刀のように瞳を細めていた。

 

「器の体を呪胎に……お前は呪霊として孵化した、というのか」

 

 少女の口元が吊り上がり、歪む。

 肯定の笑みを浮かべ胸に手を当て、少女は言った。

 

「わたしは呪いだけれど、夢でもある。獣が見た夢のカタチが、わたし。だからわたしはね、胎の中からようやくこの世へ生まれて来られた気分なの。だから少し、()()()()()

 

 蝋人形のような少女の手が、印を結ぶ。ぶわりと、その足元に広がる光の網が呪力を迸らせた。

 

「全員、構えろォッ!」

 

 東堂の声に虎杖は身構え────しかし、爆風も衝撃も何も訪れないことに我に返った。

 顔を上げれば、じとりとした視線を東堂に向ける角の少女がいた。その目の奥にある光を見て、虎杖は呼吸がす、と通るのを感じた。

 白に染まった瞳の奥に、犖の面影が透けていた。不服そうに角の少女が言い募る。

 

「東堂葵。あなたいきなり、何を吠えているの。あなたたちも何なのかしら、その全力の防御姿勢は」

「いや、オマエ今なんかヤベェ技出しかけてただろ!?」

「失礼ね、パンダ。間違っていないけれど」

 

 少女は指をほどき、印を解く。

 解いたその指が示すのは、相対していた男。彼は胸元をきつく掴んでいた。

 

「人には、いえ、呪霊を含めたありとあらゆる生き物には、運命というものがある。わたしは世界に、それを視ている。今こうして、あなたたちにも視えるようにしているけれどね」

 

 軽やかに、言葉が紡がれる。闇天と星を宿した術式が、開かれていく。

 半球の空に無数の光の道が刻まれ、蔓草のように絡まり合い、捻じり合って縺れては解ける。刻一刻と変化し、目で追うこともできない大河のような複雑怪奇な光を束ね手繰るのは、この領域の持ち主だった。

 光網に白い細面を照らされながら、少女が唄う。術式を己の言葉によって開示し、世界をさらに深く速く、侵食していく。

 眩しいはずなのに、少女の足元には光を呑む底無しの闇が口を開けているようだった。

 

「くだんの術式は、未来予知ではない。未来を選び、定める力、『未来決定術式』。未来視も過去視も、所詮はその影法師。本質ではない」

「……それを私に使ったのか」

「ええ。言ったでしょう。少し乱暴する、と。それとも、うずまきでも放ってみるかしら?」

 

 その未来はお前には届かないけれど、と少女が両手を広げる。

 花束を抱くように、少女は鮮やかな微笑みを浮かべた。

 

「お前自身と、お前の描くこれからは、すべて掴み潰した。この意味が、わかるかしら?」

「そんなことができると、本気で言っているのか?」

「できるわ。わたしの生命ひとつで、国一つに禍つを下ろすのと同じだもの」

 

 袈裟の男の姿が動く。少女の細首目掛けて、猛禽の爪のように五指を伸ばす。

 それを一歩ふわりと下がって躱し、少女は一つ、高らかに柏手を打った。

 ぱきん、と硝子の割れる音が領域に響き渡る。闇の空に無数のひび割れが走り、世界が砕けた。

 迫りくる白い闇に視界を奪われ、虎杖は目を閉じる。

 次に目を開いたときには、闇天の領域は消え去っていた。

 夜空の下に広がるのはアスファルトの地面に、破壊されたコンクリートの建物、嗅ぎなれてしまった血と埃のにおいが一気に押し寄せる。闇天の領域が無臭な空間であったことに、虎杖は今更に気づく。

 

 なぎ倒され、剥き出しの断面を晒す建物の間に、細い人影がひとつ、真夏の陽炎のように立っていた。

 

 白髪黒角の、純白の瞳を持つ、少女が。

 

 音もなく少女は膝を折り、屈みこんだ。黒い袖が花びらのように瓦礫の上に広がる。その足元に仰向けに倒れるのは、僧衣黒髪の男。

 血の一滴も、流れていない。けれど、冗談のように()()()()()。生命の気配が感じ取れない。

 真人を取り込み、何かをしようとしていた男が。枯れ木が倒れるように死んでいるのだ。

 何の躊躇いも見せることなく、少女は袈裟の懐に手を差し入れた。蝋のように硬く白い指が掴み出したのは、表面に無数の目玉が開いた、小さな箱。

 その箱を、少女は一度お手玉のように投げ上げ、受け止め、それから口をぱくりと大きく開く。 

  

「えっ」

「おまっ!?」

 

 ごくり、と白い喉が上下して少女は握っていた獄門彊を嚥下した。

 驚愕の声をあげた呪術師たちに、獄門彊をつるりと飲み込んだ少女は首だけを向けた。

 白の瞳と黒の強膜の眼で、地に膝をついたまま少女は一同をぐるりと見渡す。

 虎杖と真っ直ぐに視線が交わった。

 

「先、輩?」

 

 その言葉に、ほんの微かに少女が口の端を吊り上げる。

 けれど何も言わないままに、少女はまた男へ手を伸ばす。額に手をかけたかと思うと、無表情に頭の半分をねじでも外すように回した。

 菓子缶の蓋が外れるように、頭の上四分の一ほどが取れ、少女は顕になった脳味噌へ爪を立てる。

 ぐちゅり、と肉が剥がれる音がして、ぽつりと声が落とされた。

  

「みつけた」

 

 両手で肉塊を持った少女は立ち上がり、無造作に瓦礫を踏み越え、呪術師たちのただ中に飛び降りた。

 その手が持つのは、ただの肉塊ではない。ぬらりと艶のある脳を丸ごとひとつ、彼女は手にしていた。

 弓に手をかけたまま、京都の加茂憲紀が探るような眼を向けた。

 

「……八咫犖、か?」

「どうかしら。あなたにそう呼ばれていた体は、ほら、そこにあるけれど」

 

 脳を手にしたまま、少女は細いおとがいで背後を示す。そちらに目を向けて、虎杖は腹の底を冷たいものが掠めた。

 壁のように直角に聳えるコンクリートの大きな瓦礫に、体が一つ背中を預けて座っている。壁には長く、引きずったような血の跡がある。

 打ち捨てられた倉庫の人形のように俯き、欠片も身動ぎをしない少女の短い黒髪と角の形には、見覚えがあった。何故かその姿に、空になった蛹が重なる。

 あれが犖だというなら、では、目の前のこれは誰なのだ。

 流暢に言葉を操り、犖と同じ顔で、犖が決してしなかった微笑みを浮かべて、五条悟が封じられた獄門彊を躊躇いもせず飲み込んだ、この存在は。

 

「贄というのは旧くとも便利ね。去年の乙骨憂太のように、自らの生命を捧げて呪力の制限を外すでもしなければ領域を開けない、わたしの術式の悪食ぶりのせいだけれど」

「じゃ、なんでオマエは生きてんだよ。あんときゃ、里香が憂太の生命を取らなかったから、憂太は無事だったけどよ。オマエの術式もそーいうタイプか?」

 

 目を細め、韜晦するように少女は淡く微笑んだ。

 苦虫を噛み潰したような顔で刀の柄に手をかけたまま、パンダと共に現れた呪術師が問う。

 

「贄にしたのは、人間としての生命なんだろう。オマエには、八咫犖の体が持つ生命と、特級呪物『くだん』のミイラが持つ、二つの生命があった。複数の核を持つ呪骸みたいにな」

 

 脳を持ったまま、少女はやわらかい表情を浮かべ、返した。

 

「さすがに五条悟と同じ先生ね。日下部篤也」

「うるせぇよ。つまりはだ、今のオマエは人の部分を捨てた混じりっけなしの特級呪霊……『予言獣・くだん』なんだな?」

「ええ」

 

 明日の天気でも言うような軽さで、少女は首肯した。

 緊張が走る呪術師たちの只中で、有角の少女だけが何も変わらなかった。

 

「五条悟がいたら一目でわかったのでしょうけれど、これだもの。仕方ないことね」

 

 腹の辺りを撫でながら、少女は宣う。

 虎杖はけれど拳を固められなかった。

 目の前の少女は、もう人ではない。気配が違う。呪術師としての感覚はそう言っている。

 それでも、言葉と目の奥の感情がそのまま過ぎた。黄昏時に蓮池のほとりで、帰ろうと高専の方角を示した、あの先輩と。

 

「一応聞いてやるが、腹ん中のそれを返す気はあるか?とっとと吐き出さねぇと、腹下すぞ」

「断るわ。今すぐ取り返したいならば、わたしの(はらわた)をかき分けて探し出して」

 

 それよりも、と少女は脳を片手に持ち替え、空を指さす。

 

「死にたくないなら、全員、今すぐここを離れるべきではないかしら」

 

 つられて空を見上げた瞬間、視界に映ったのは巨大な、隕石のような火球。

 街を押し潰さんばかりの炎の塊が、渋谷の空を赤く染め上げていた。あまりの熱さに喉が焼け、肌がじりりと熱を帯びる。

 

「は、……はぁっ!?」

「ほうらね、逃げたほうがいいんじゃないかしら。先生でしょう?日下部篤也、庵歌姫」

 

 脳を無造作に袂に投げ入れ、押し寄せる炎の下で少女はくるりとその場で回る。

 白い髪と黒い袂が、扇のように広がった。

 

「全員退避ッ!さっさと逃げろ!」

「でもっ、先生が……先輩がっ!」

「やめとけ!あれはもうラクじゃねえ!あいつだったとしても、もう間に合わねえんだ!」

 

 パンダに胴を抱えられて持ち上げられながら、虎杖は身を捩じる。

 火球の下に一人佇む少女と、その瞬間目が合う。

 真白な瞳が、眩しいものを視るかのように細められる。口元が動き、何か、言葉を話している。なのに轟々と燃え轟く炎がうるさくて、何も聞きとれない。

 先輩、と己が呼ぶ声すらも聞こえない。

 

 そうして、劫火が街に直撃した。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 十月三十一日夜、渋谷に突如として放たれた炎は、半径約百メートルを焼き払った。

 渋谷駅周辺の人間の避難は進んでいたものの完了しておらず、少なくない数の人間が犠牲となった。

 渋谷駅構内に閉じ込められていた非術師らは解放されたものの、死体の数も夥しい。五条悟の気を逸らすためだけに虐殺された人間の数は、百や二百では効かないだろう。

 

 それでも、霜月初めの朝日は破壊された街をただ穏やかに照らした。

 詰まる所、未来は変えられたのだ。

 肉を削り、文字通りに骨を折り、その果てに未来を変えられたという結果を手に入れられたのならいい。

 

 ざまあみろ、と、一体の角持つ白髪に白い瞳の異形はこの国の都を見下ろしてそう嘯いた。

 その罵倒が誰に対してかは異形自身特に考えていない。ただ、言いたくなったから口に出したのだ。

 

 足元では蟻のように人間たちが群れ、営みを繰り返している。とはいえ渋谷が半径百メートルに渡って焼き尽くされ、人が大量に死んだ事実が消えることはない。

 愛する者をあの夜に失った者は、この日の光の下で嘆きに沈んでいるだろう。爪痕は深く、失われたものは還らない。

 或いはその嘆きは、救いきれなかった呪術師たちの咎となるのかもしれない。が、無理なものはある。

 呪術師たちも傷つき倒れ、死者が出た。 

 果てに、準一級術師の一人が、事もあろうに特級の怨霊へ堕したのだ。

 登録された名は、特級仮想怨霊『予言獣・くだん』。人であったころの名は、八咫犖。

 

 呪術界上層部は、その術者ならびに術者が転化した怨霊こそが今回の渋谷の事件の首謀者だとして、全術者に通達したという。

 

「おまけに、あなたがわたしと夏油傑の共犯だそうよ。ある意味で、間違っていないのが腹立たしいわ」

 

 東京屈指の摩天楼、スカイツリーの頂点に、長い黒角を持つ異形は腰かけていた。

 かつて犖という名で、人の器に宿っていた存在、その姿を捨て去った少女の成りをした呪いは、足元に東京の街を広げて、一人呟く。

 語り掛けるのは、太腿の間に置いた一つの箱だった。表面に目玉の浮いた特級呪物、五条悟を封じた獄門彊である。

 

「あれから数日経つけれど、夏油傑の遺体は高専に届けたのに、どうしてわたしが実は生きていた夏油と手を組んだ犯人にされるの。髪まで燃やして遺体を拾ったのに、証拠として扱われないなんて非道よね」

 

 膝裏にまで伸びていた白い髪は、項を隠すだけの長さにまで焼き切れていた。

 あの夜、火球で以て街を焼いたのは、犖ではない。

 五条悟と虎杖悠仁が、頭富士山と呼んでいた特級呪霊だ。恐らくは大地か火山か、その辺りの呪いだろう。街を灰燼に帰した豪火の球は隕石と言うより、マグマや火山弾に近いものだった。

 そもそも『くだん』にそのような術式はないのだ。

 宿儺でもあるまいに、大量破壊大量虐殺などお門違いも良いところ。未来の呪霊たる『くだん』が干渉するのは、人の世そのものだ。

 

 未来を選び決定するその力で以て、犖はあの袈裟の男の未来を握り潰した。

 男から伸びていた無数の運命の道を、ひとつも余さず、徹底的に、闇に焚べた。

 彼が望んでいた未来に至る因子も、すべて凍結させた。

 『くだん』は未来決定術式により凶事を選び、現実とし、己は死んで来たのだ。術式の対価として生命を捨ててはまた生まれ、予言して死ぬことを繰り返して来た。これまでの『くだん』が選択し決定した未来は、戦争、流行病、飢饉と、どれも国が傾くほどの災いだ。

 歴史に残るような禍つ事を引き起こせる力を総動員しなければ潰しきれなかったあの男の底知れなさは、犖にも素直に恐ろしい。絶対に、二度と敵対したくない。

 誤魔化し賢しらに余裕ぶっていただけで、実のところは夏油傑の肉体が持つ呪霊操術に己が絡めとられないか、紙一重のところだった。内心では、冷や汗どころか脂汗を流すほどに張り詰めていたのだ。

 それでも、犖は押し切った。すべてを捧げた賭けに、勝った。

 終わってみれば二つあった生命のひとつを対価にするだけで済み、犖は今も生きている。傷跡は深く残れど、東京は都の形を保っている。

 

 その手で未来を潰し殺した呪詛師に対し、別段犖は恨みを持っていなかった。しかし、あれは宿儺が虎杖の体を奪って復活することを望んでいた。あまつさえ、夏油傑という他人の体を乗っ取っていたのだ。

 だから、全力で以て叩き潰した。

 他人の体を我がものとして使う存在が、犖はどうしても嫌いだから。

 己の好悪の感情ひとつで、犖はあの呪詛師が意のままに描いていた未来を引っ掻き回し、選び直した。

 衝動のまま他人のすべてを御破算にするのは、如何にも呪いらしいと己で思う。

 

 尤も、『くだん』の力で以て因果を捻じ曲げ、留めているだけだ。これからどうにかしなければ、箍が外れてしっぺ返しが飛んでくるだろう。

 脳だけになって夏油傑の遺体に巣くっていた術者は、それだけの破壊の芽を都中に仕込んでいた。

 解き放たれれば、東京が一夜にして壊滅するだけの膨大な、ざっと一千万の呪霊と、その他の呪物や人間を。

 そうまでして、あの呪詛師が何を望んでいたのやら。

 けれど、もう犖の興味はそこになかった。昔よりも、これから先に横たわっている脅威が先だ。

 

 だからその仲間であったあの炎の呪霊は、犖が遺体の中にいた術者を殺し、体内に獄門彊を収めたと見るや、炎を放って焼き尽くそうとした。

 獄門彊を飲んだ犖は、初撃を凌いで渋谷から飛び出した後、翌日の夜まで炎の呪霊に追いかけ回されたのだ。中途から、宿儺様がどうのと言う白髪の小柄な童姿の者まで加わり、燃やされかけるわ凍らされかけるわ、散々な目に遭った。

 お陰で、髪は焦げてなかなか戻らない。

 あの場にいた者の中であの炎の呪いの相手ができるのは、五条悟か両面宿儺くらいなものだろう。だが、五条は箱の中、宿儺は虎杖の中に封印されていたから、実質的に無理だ。

 特級術師の一人、九十九由基も駆けつけてくれたらしいが、犖は彼女と相対しなかった。呪霊となったのだから、見ず知らずの術師にはもう頼れない。

 領域を展開し呪力を削った状態では、特級呪霊『くだん』と言えどあの炎の呪霊には勝てない。

 未来視を駆使して逃げ切りはしたが、見つけ次第彼らはまた追って来るだろう。

 五条悟を封印した獄門彊には、それだけの価値がある。

 

「呪霊共にあなたを渡すのは言うまでもなく駄目。かと言って、呪術師たちへ返しても上層部に奪われてどうせ永久封印。それなら、どちらにも属していない者が勝手に封を解くのが、一番手っ取り早い」

 

 だから、犖はここにいる。

 炎の特級呪霊と、宿儺の縁者から逃げ切ったその足で高専から強奪した特級呪具を、白蝋のような肌をした手に持って。

 太腿の上に乗せた獄門彊に、犖は手にした刀の形の呪具の切っ先を真っ直ぐに向けた。

 

「特級呪具、天逆鉾。効果は発動中の術式解除……だったかしら?これとわたしの術式の組み合わせで駄目なら、本格的にまずいから効いてくれなければ困るのだけれど」

 

 天逆鉾は、五条悟がどこぞから回収し高専に収めたものだ。そう考えれば、因果な品だった。

 つぷ、と犖は特級呪具の切っ先を目玉の浮いた箱の表面に突き刺す。同時に術式を開き、幾つかの未来を手繰り寄せた。

 効果は、一瞬で現れた。

 ぱきり、ぱきり、と表面に罅を走らせ始めた獄門彊を持ったまま、犖は塔のてっぺんから跳び下りた。

 逆さになり落下しながら、犖は天逆鉾が突き立った獄門彊をスカイツリーの中へ投げ入れる。

 ガラスが脆く砕け、剣が刺さった封印の箱から光が漏れる。その光の中に、ぼんやりとした長身の人影が浮かび上がった。

 一瞬だけ、碧眼と視線が交わった気がした。

 けれど犖は止まることなく、墜ちるに任せた。呪力で編まれた体は、非術師たちの目に留まることなく地上に着地する。

 

 スカイツリーの最上階で唐突に解放された五条悟は、訳が分からないだろう。

 夜の渋谷の地下5階にいたと思ったら、いきなり朝の摩天楼に放り出されたのだから。

 それでも、事態を事細かく書いた紙を天逆鉾の柄に矢文よろしく結んでおいたから、あとは五条悟が自力でどうにかするはずだ。

 

 五条悟は、渋谷事変の共犯であると上層部は発表した。

 が、完全に復活した彼に立ち向かえる胆力や能力は、上層部にはない。封印解除は厳罰に処すと言えば呪術師たちは止められるかもしれないが、呪術師どころか人であることを捨てた犖には、そのような縛めは障害にもならない。

 鬼の居ぬ間の洗濯とばかりに下した判決など、鬼が戻ればたちまちご破算だ。精々慌てて震えればいい。

 渋谷に訪れることなく引きこもっていた人間たちの姿を思い返して、犖はうっそりと微笑む。

 自らは運命に翻弄されないと思い込んだ者たちが目論見をひっくり返され、巣に水を流し込まれた蟻のように慌てふためく様は、愉快だから。

 

 だから呪術師たちが五条悟を見つけやすいよう、スカイツリーなどという目立ちやすく丈高い建物に上ったのだ。

 ほどなく彼らはわざと足跡のように残した犖の残穢を見つけて駆けつけ、五条悟とも対面するだろう。

 そのときどうなるかは、五条悟次第だ。

 もしかすると、温厚不真面目に構えているあの男もついに怒って首都のランドマークタワー上階を吹っ飛ばすかもしれないが、そのときはそのときである。

 東京が吹き飛ぶより、よほどましだろう。

 

 未来視によって()()()()()()()()()()()()()()()()を辿りながら、犖は一度だけ雲突く塔を振り返り、仰ぎ見た。

 

 かつて五条悟の甘さが、犖を生かした。

 君は人間にもなれるから、とあの最強は小さな化け物を日の当たる場所に連れ出した。

 生かせと強請った覚えはないし、何を言っているのだこの馬鹿はと思ったものだ。それでもあのとき、五条悟は犖の生命の恩人になった。

 その借りは、忌々しいことに返しきれないと思っていた。

 犖は、八咫犖の体を捨て去る最後まで、人間のことは好きになれなかった。

 一人ひとりが多少なりまともであっても、人間は寄り集まれば愚行を重ね、己の首を絞めて嘆きの声ばかり膨れ上がらせる。

 未来へ向けた感情の澱から、ついには未来そのものを歪める力を持った呪霊まで生んだ、度し難い生き物だ。

 五条悟が、虎杖悠仁が、多くの術者が、己の存在を削り続けてまで尽くすようなものが人の世の中にあるとは、思えなかった。

 犖には、見つけられなかった。未来と過去を視通す眼を持ってさえ、できなかった。今際の際に至ってさえも。

 それでも生まれてすぐに死していては、人の世について、己自身のことについて考え、思いめぐらせることすらなく犖は終わっていただろう。

 五条悟が犖に手にしてほしいと望んでいたものは、得られなかったのかもしれない。

 けれど、無意味に無価値に未来に呪いを撒いて死するだけの、宿儺に嘲笑われた白痴の獣として消え去る未来だけは既になくなっていた。犖はもう、そのことを識っている。

 

 人の中にいたから得られたものがあり、人の生を自ら失ったことを少し、悔やんだ。

 なら、案外に人と過ごした生は悪いものではなかったのだ。

 捨てた後でしか価値に気づけないとは皮肉だが、失ってからしかわからぬものも、時にはあろう。

 棘が指先に刺さった程度とはいえ、喪失の痛みは痛み。それを覚えている限り、得たものの価値を犖が忘れることはない。

 だから、犖はひとつ呟いた。

 

「これで借りはないわ。先生」

 

 八咫犖という少女の体は、既に失われた。

 夏油傑の遺体を拾うに精一杯で、あの体は回収できずに炎で焼かれてしまった。炭すら残っていないかもしれない。

 術式を完全に展開する代償には『くだん』は生命を捧げなければならず、未来選択術式を使いこなすためには、人の身で扱える呪力に限界があった。

 だから人の体を呪胎として捨て去り、犖は呪物の力を完全に体に行き渡らせることができる呪いとして羽化することを選んだ。

 成功するか否か五分五分だった目論見は、なされた。

 なされたから、今の犖は完全に呪霊となっている。

 肉体はなく、ほとんどの非術師の眼には姿すら映らず、仮に首だけになっても呪力の補完さえできれば死ぬことはない。

 犖は、呪術師が祓うべき生き物だ。たとえ今の形が本来の姿からかけ離れ、器だった少女の面影が、色濃く投影されていたとしても、影であって実はない。

 体が完全に人から外れたなら、いずれ心も引きずられて、今よりさらに人の枠を外れ、崩れていくかもしれない。

 

「とりあえず、帳尻合わせをしなければならないわね」

 

 摩天楼より離れた地下水道へ移り、水溝の縁に腰かけつつ犖は頬杖を突いた。

 因果を捻じ曲げ凍結させ、今は事実上の封印状態を保っている、この世に混沌を撒くものたち。

 彼らを祓うなりなんなりしなければ、あの呪詛師の思惑通りになってしまう。

 人がばたばた巻き藁のように斃れ、死ぬのはともかくとして、あれの望む未来が訪れるのは大いに癪に障った。それでは何のために、領域まで展開したかわからない。

 五条悟が復活して事態を収拾すれば、呪術師たちも事の重大さに気づいて動き出すだろうが、それまでは犖が因子を消し潰していくしかない。

 

 途方もなく気が遠くなる上に、呪霊となり術師にも追われるようになった犖には生命がけの作業だが、目的なく当てどなくこの世をさ迷うよりは幾分緊張感がある日々のほうが、楽しめるはずだ。

 それを成し遂げられたとして、果てに何があるかは、何も視ていない。呪霊となった心や体がどう変じていくかは、無明に包まれている。

 

「まぁ、何とかはなるでしょう」

 

 そう呟いた少女の形の呪いは暗がりへ踏み出し、振り返ることなく消えて行く。

 あとにはただ、下水の生臭い風と、さあさあと音を立てて流れる水音だけが残った。

 

 

 

 

 




「これからの世界の話をしよう」のすぐ後ぐらいに主人公は東堂によって飛ばされ領域展開したため、術式の遠隔発動はされていません。裏梅が駆けつけてたら積んでいた、タイミング一発勝負でした。

人間生活を教えてくれた相手の口調が移っている主人公です。
人外系主人公(ヒロイン)のチートラスボス化を、一度書いてみたかったのです。

しかし次話が最終と言って普通に無理でした。
もう一話続きます。

あと、虚構推理の蘇生能力+未来決定能力はドのつくチートだと思います。


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9話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

今更に今更すぎますが、本誌の展開バレ普通にしてます。

では。


 

 

 

 

 

 

 伏黒が空に向けて撃った拳銃は、犖の呪具だったそうだ。

 預けていたのは、犖本人。戦場に駆けつけようと走っていた伏黒にバイクで追いつき、手短に状況を説明して拳銃を渡して来たのだという。

 あの拳銃は、元々二丁で一対となる呪具。片方を発砲すればもう片方の持ち主には自然と伝わる。犖は伏黒に敢えて二丁の片割れを渡し使わせることで、領域を展開するタイミングを計っていたのだ。

 伏黒が撃った弾には、犖の呪力が大量に込められていた。

 呪力弾と化したその弾と犖を東堂が『不義遊戯(ブギウギ)』で入れ替え転移させ、犖本人を召喚した。

 犖は、自分の居場所を東堂に携帯であらかじめ送り、伏黒が拳銃を空に向け撃った瞬間に術式を使えと伝えていたという。携帯を見ろ、とはあの戦いの中で伏黒が東堂に伝えていたことである。

 弾丸と入れ替わる形で、戦場の上空に飛び込んだ犖は高めていた呪力を開放して領域を展開し、全員を己の生得領域に引きずり込んだのだ。

 

 領域展開を絶対に敵に悟られないように、犖は考えていた。

 仲間も道具も使えるものはすべて使い、考え抜いてそうしたのだろう。

 それでも、何か一つ間違えば失敗していた賭けだったのだ。

 途中で呪霊に襲われていた犖を助け、戦場に向かう途中で別れたパンダ先輩と日下部先生曰く、犖は「上手くやれば、これ以上死人が出ずに済む。だが失敗すれば全員が駄目」と言っていたそうだ。

 

 犖が開いた『四諦曼荼羅』は、あのときの彼女本人によれば運命を可視化させ、術者が掌握する領域。

 その領域には万象一切を焼き尽くす炎も、あらゆるものを斬り刻む無数の斬撃もありはしなかった。

 闇の中に無数の光が灯り、その光が束ねられた無数の白銀の川が流れていた。

 一見すれば神秘的とすら言えるうつくしい世界だった。小学生のころ行ったプラネタリウムの天の川を思い出させるような、押し包んでくる闇と、闇の中でも見失わない光に満ちた場所だった。

 だがその実態は、運命という概念そのものに手をかけ現実を捻じ曲げる、規格外の呪法である。

 領域を展開する代償は己の生命という重いものだが、逆に言えば生命ひとつを捧げるだけで未来を選択し決定する力と釣り合いが取れるのだ。

 『くだん』が内包し、その器であった犖が引き出したのは、そういう力だった。

 

 その力を持ったまま、犖の行方は途絶えた。

 

 あの炎が墜ちて来たとき、虎杖も他の仲間も皆退避することはできた。

 巻き込まれた非術師たちは助けることができなかったが、確かに呪術師たちはあれ以上一人も死ななかったのだ。

 炎を放った呪霊が、数ヶ月前に五条先生を襲った単眼の炎の呪霊であることは、虎杖にも確認できた。あの呪霊は、街を焼き払った後呪術師たちには目もくれず、白髪に有角の()()()()だけを追ったのだ。

 空に炎が弾け、ビルの表面を融かす劫火が大気を焼き、街は真昼のように明るくなった。吼え猛って炎を自在に操る呪霊に狙われる影は、炎と比べればあまりに小さかった。

 だが、白と黒の少女の姿は、まるですべて視えているように避け、時には呪力の盾で炎を空へかち上げて逸らし、巧妙に逃げ回っていた。

 特級呪霊たちの鬼事は渋谷から代々木公園へ、代々木から神宮球場へ、果てはレインボーブリッジがかかる海上へと目まぐるしく展開した。

 それでも白髪の犖は、どうにか人の少ない場所へ呪霊を誘導していたようにも見えた。だがやはり彼らの通った後は炎が走り、街が破壊された。

 最後には犖のほうが海上へ飛び出し、炎の熱で発生した白い水蒸気を利用して、炎の呪霊の頭に踵落としを叩きこんで海中に沈めたのだ。

 

 犖はそのままどこかへ飛んで逃げ去り、呪霊はすぐさま海中から復活してその影を追った。

 

 特級呪霊二体による鬼ごっこは、それで終わりとはならなかった。

 

 今度は多摩の森林方面に二体は現れ、辺りを焼きながら炎の呪霊は少女の呪霊を追いかけ続けた。いつのまにやら、炎の呪霊の側には氷の呪法を操る呪詛師らしい人影が加勢し、獄門彊を腹に収めた犖は、二対一のまま逃げ回ったのだ。

 ほぼ一日にも渡る特級呪霊たちの追跡戦は、方々に被害をまき散らした。

 呪術師たちは、特級呪霊二体と呪詛師一人の鬼ごっこの道線上に晒される民間人をどうにか助けようと駆けずり回ることになったのだ。

 状況把握をまともにしている暇すら、なかった。

 日が出ようが中天に差し掛かろうが、一向に衰えない勢いで炎の呪霊は攻撃を放ち続け、犖は躱し、いなし、目まぐるしく逃げ回った。氷の呪詛師に動きを止められかけながら振り切って立ち回り、呪力だけで牽制していた。

 まともに反撃するだけの余裕が、犖にないことは一目瞭然だった。あれだけ異常な威力の領域を展開した後休む間もなかったのだから、当然とも言えた。

 かと言って呪術師たちが援護しようにも、炎の勢いが激しく側にすら寄れない。人々の犠牲を減らすことしかできなかった。

 それでも、翌日の夜になってようやく彼らは退いた。

 一瞬の隙をついて炎の呪霊に接近した犖が、その頬を殴り飛ばしたのだ。

 吹き飛んだ呪霊が山に叩きつけられ気絶したその間に、少女は氷の呪詛師を回し蹴りで地に叩き落し、凄まじい速さで空を滑り、一瞬で姿をくらませた。

 

 すぐに復活した炎の呪霊と氷の呪詛師はそれでようやく諦めたらしく、姿を消したのだ。

 

 あとには、方々が壊された街と焼け爛れた大地、森林が残された。

 民間人たちが活動する日中に至っても彼らは退かなかったため、幾人もの非術師が彼らの戦いを見た。

 大半の人間に呪霊の姿は見えないのだが、『視る』力を持っている何人かは彼らを見てしまった。街が壊れたのは、化物同士が暴れたせいだ、とネットの上では大騒ぎになったらしい。

 帳すら下ろしようがなかったのだ。情報統制をしている時間が、ろくろくあるはずもない。人々を避難させるだけで、呪術師たちには精一杯だった。

 炎の呪霊がそこまで執拗に犖を追跡したのは、彼女が獄門彊を持っていたからだ。

 五条悟さえ封じてしまえば、どうとでもなる。人の世を破壊し、呪霊たちが勝利を収めることができるのだ。

 だから獄門彊をこともあろうに飲み込んだ犖を追って追って、追い回した。

 疲弊した呪術師たちがあのとき獄門彊を手にしていたならば、炎の呪霊と氷の呪詛師に奪われていたかもしれない。

 特級術師の九十九由基も駆けつけたが、その彼女も人々の避難に尽力し、こうして特級呪霊となった少女は、獄門彊を持ったまま姿を消したのだ。

 

 しかし呪術師たちには、休む暇もなかった。

 炎の呪霊たちが姿を消した直後、今度は呪術高専東京校が犖によって襲撃されたのだ。

 天元の結界を難なくすり抜けた彼女は、迷いもせずに高専が保有する特級呪具『天逆鉾』といくつかの呪具を奪い、再び姿を消した。

 阻もうとした者は全員意識を刈り取られており、高専周辺をいくら捜索しても、煙のように犖の姿は消えていた。

 ついでとばかり、犖は高専の解剖室に遺体をひとつ安置していった。

 残していったのは夏油傑という名の、特級呪詛師の体。

 夏油傑の遺体からは、脳が丸ごと失われていた。けれど乱入して来た九相図の一体によれば、夏油傑は夏油傑ではなかった。

 その名は、加茂憲倫だという。百年以上前の呪術師の名を、何故か九相図は口にしたのだ。

 九相図の言うことが正しければ、去年五条悟がその手で処刑した彼の肉体に、加茂憲倫という別人が宿って体を使っていたことになる。

 夏油様を取り戻すためと、虎杖に宿儺の指を飲ませた二人の呪詛師の少女たちが言っていたことを、虎杖は思い出した。

 あの二人は本当に、夏油という人間の体を取り戻したくて、宿儺に縋るほどにまで追い詰められていたのだ。

 体を操る術式の要となっていたのは、誰がどう考えてもあの脳だった。そうでなければ、犖はわざわざ頭を開いてとり出したりなどしない。なのにその脳も、犖が獄門彊や天逆鉾と共に持ち去った。

 何もわからない。犖に問わなければ、何ひとつわからないのだ。

 何をどこまで視通して、どうして誰の前にも姿を現さないのか。

 

 犖を追いかけなければならないと頭でわかってはいても、虎杖も他の皆も、高専に戻って犖を追跡し諦めた頃には、疲労でろくに動くことすら覚束なくなっていた。

 途中で参戦してくれた特級術師の九十九はともかく、十月三十一日の夜から渋谷で戦い続けた呪術師たちは、呪力も体力も限界だったのだ。

 頑丈が取り得だと自負している虎杖すら、疲労と負傷が祟って全身が綿のようにくたくただった。拳を握ろうにも、手が勝手に震えて力を込められない。

 歯がゆさに膝を叩こうが奥歯を折れるほど噛みしめようが、どれほど悔しく惨めであろうが、体が言うことを聞いてくれなかった。

 

 全員休めと言ってくれた保険医の家入硝子も、負傷者たちを治し続けた疲労の色を隠せていなかった。半身が焼かれていたナナミンや真人の手に触れられた釘崎すら治療したのだから、当然だ。

 その彼女に、そんな有り様では八咫や五条を見つける前にお前が死ぬぞと言われ、ようやく虎杖は伏黒や東堂と僅かでも休もうとしたのだ。

 

 ところが今度は、これまで姿どころか気配すら見せていなかった呪術総監部というところから、通達が下りた。

 渋谷の事件はすべて、八咫犖準一級術師及び同術師が転化した特級仮想怨霊『予言獣・くだん』が引き起こしたものである。彼女の共犯が五条悟と夏油傑だと、彼らは言ったのだ。それに彼らを唆したとして、夜蛾学長に死刑を宣告した。

 

 怒るよりも先に、虎杖は何を言われたのかがわからなかった。

 どうしてよりにもよって、その二人が犯人になる。先生と先輩がどうして咎められる。夜蛾先生が死刑にされなくちゃならない。

 あり得ないことを、さも当然の真実だとばかりに命令を下す人間がこの世にいることが、虎杖には信じられなかった。

 この判断に伴い両面宿儺の器の処刑猶予を取り消し、即時執行するという通達すら、一時頭の上っ面を滑って行った。

 宿儺の器の処刑を望む人間、つまり五条先生や先輩たちが言っていた『虎杖悠仁を殺したい上層部』の存在は、虎杖も知っていた。

 確かに、宿儺を恐れる人間がいることはわかっていた。宿儺の凶悪さは、虎杖も嫌と言うほど思い知らされている。その宿儺が体の中にいる自分に恐怖し、生かしておけないと思う人間がいるのも、納得はできなくても理解はできていた。

 同じ特級呪物の器の犖も、飄々淡々と他人からの殺意については受け止め、その上で受け流すしかないとばかりに呪術師をやっていたのだから。

 虎杖は、自分を殺したい人間がいることも自分なりに理解したつもりで、受け止めていた。かと言って殺されてやる気は欠片もなく、虎杖はただ彼らの殺意だけを知って、強くなろうと思っていた。それでいいと、思っていた。

 けれど、彼ら人間の悪意を完全に見誤っていたのだ。

 嘘を正しさにすり変え、真実を闇に投げ入れ、邪魔者をすべて葬り去ろうという意図は余りに明らかで、悪辣だった。五条悟は上層部が嫌いで、保守派も五条悟が嫌い、といつか犖が言っていた言葉が、今更頭を過る。

 知ったつもりになっていて、わかっていなかったのだ。何一つ。憎しみすら感じさせるほどに、彼らは容赦がなかった。

 そんな馬鹿な話があって堪るかと、総監部から差し向けられたらしい術師たちに誰より苛烈な勢いで食って掛かってくれたのは、伏黒だった。

 だが、疲弊しきりの呪術高専の術師たちと総監部側のどちらに分があるかは明らかだった。

 

 そこで、物理的に壁を破壊して五条悟が戻って来なければ全員どうなっていただろう。

 一瞬で総監部側を無力化した現代呪術師は、碧眼を露わにし、嵐のような勢いで激怒していた。

 感情を一切こそげ落としたかのような無表情のまま、五条悟はただ手を一振りするだけで虎杖たちを捕縛しようとしていた術師を薙ぎ払った。

 

「……ごめん」

 

 それでも、伏黒や虎杖を振り返った顔には間違いようもない五条先生がいて、どうしようもなく安堵した。

 有体に言って、膝から力が抜けて尻餅をつきかけた。

 

「ごめん。待たせた。詳しいことはラクが伝えてくれたから、ちょっとだけ待ってて」

 

 そう言って五条悟は再び姿を消し、それから程なくして総監部からの命令は書き換えられた。

 八咫犖準一級術師は、渋谷で起きた大規模な呪霊と呪詛師による襲撃とは無関係、五条悟特級術師も同上。夏油傑に関しては、昨年の時点で既に死亡は確認されており今回目撃された姿は呪詛師が操る傀儡。その呪詛師も既に討伐されたと、通達が入れ替わった。

 一から十までが、引っくり返ったことになる。虎杖の死刑も夜蛾学長の死刑も、取り消しになった。

 五条悟がいなければ最悪日本が終わる、と渋谷で先輩呪術師の猪野さんが言っていた。が、戻って来ればすべてが変わるのだ。

 

 五条先生は、戻って来てくれた。それでも、犖は帰らなかった。特級仮想怨霊『くだん』の名が消えることもなかった。

 犖は天逆鉾を突き刺した獄門彊をスカイツリーに放置し、己は消えてしまったという。

 残穢も足跡も残さず、痕跡を拭い去ったかのように。

 

 あのとき犖が無造作に示した抜け殻のような体も、見つけることができなかった。

 炎の呪霊の初撃が直撃した、謂わば爆心地にあったのだ。骨も残さず燃えても、不思議はない。

 だが、同じ場所にあった夏油傑の遺体が高専に届けられていたから、もしかしたら犖自身が回収したのかもしれないと伏黒やパンダ先輩は言った。

 それでも虎杖には、なんとなく違う気がした。

 黒い角に白い瞳をして言葉を話した犖の、あの突き放すような言い方からは自分の体への執着が感じ取れなかった。

 あの姿の犖は夏油傑の体の回収を優先し、己の体は放置した。だから、骨も残さず燃えてしまったとしか思えない。

 何故だろうか。爺ちゃんの骨を拾った日のことを思い出した。からん、と骨を摘まんで落としたときの乾いた虚しい音が、耳の奥に蘇った。

 焼いた爺ちゃんは小さく白くなって壺に収まり、犖の体は腕しか残らなかった。

 渋谷駅の地下構内に、取り残されていた腕だ。床に広がる乾いた血だまりの中に忘れられたように落ちていた、高専の制服の袖に包まれた腕。それだけが、唯一回収できた犖の体だ。

 宿儺が、虎杖の体で千切り取った腕は、その場に落ちたままにされていたのだ。

 あの場にいた二人の呪詛師の少女たちに回収されたかと思っていたのだが、彼女たちは恐らく虎杖を追うことを優先して腕を残していった。

 彼女たちの行方も、犖の行方もそれきり途絶えた。

 呪霊に殺された者は、遺体の一部でも残っていればいいほうだとは呪術師の中でよく言われることだが。呪霊に転化した者の場合も、同じなのだろうか。

 伏黒に預けられていた拳銃も、気づけば春の淡雪のように消えていた。

 拳銃は、核を使用者の体の中に埋め込み、銃を投影する特級呪具『不珠』の一部だった。『不珠』は核さえ無事ならば、壊されようが何度でも投影できる、負担も大きいが効果も大きな呪具である。

 投影武器の拳銃が消えたということは、核が壊れたか使用者の呪力が尽きたかのどちらかで、いずれにしろ犖の手がかりとはならなかった。

 

 すべての糸が途切れても、それでも、誰も虎杖を責めはしなかった。

 

「ラクが何かやらかすのは、わかってたよ。俺たちが会ったときはもう目の色が違うっつーか、目そのものが違ってたしな。ぐるぐる渦巻いてて、違うモンを見てるみたいだった」

 

 人間の姿の犖と最後に会話をしたパンダ先輩は、むしろ申し訳無さすら感じているようだった。

 

「元々あいつは、人間の部分とそうじゃない部分が綱引きして生きてるようなやつだった。まぁそういう呪術師も、ここにゃいるだろ。人じゃないやつとか、色々白黒つけにくいのがさ」

 

 感情を持った突然変異呪骸のパンダ先輩から見て、あのときの犖は、人側の綱が切れた状態だったという。

 きっと、いや間違いなくその綱が断ち切られてしまった原因は虎杖だ。宿儺に奪われた虎杖の体を取り返そうとして犖は死にかけ、死にかけて何某かの扉を開いた。

 それは、先輩が八咫犖であり続けるためには開いてはならないものだったのだ。

 

「でも、ラクはラクだったからな。だから運んだんだけど、まさか特級呪霊になって姿消しちまうとはなぁ。悟のやつが探しても、見つかってねぇんだろ?」

「五条先生が忙しくなったってのもありますけど……はい、六眼で探すのも難しいと言われました」

 

 伏黒が言うように、犖は六眼からも隠れていた。『未来予知』の術者であったころでさえ、本気で逃げ隠れした犖は容易には捕まらない相手だったのだ。

 術式の解釈を広げ、膨大な呪力を持つ特級呪霊となり、『未来決定術式』にまで能力を昇華したなら、最悪『呪術師に発見される未来』を犖は永遠否定し続けることもできる。

 六眼で見れば術式を解けるかもしれないが、因果そのものに干渉され影を踏むことすら禁じられれば難しい。

 戻って来たその日に上層部をふっ飛ばして事態の主導権を握った五条先生本人が、さらに多忙になったことも捜索が進まない事態に輪をかけている。

 渋谷の事件から、呪霊たちが凶悪化しているのだ。

 多くの人々が原因不明に死に、街が破壊されたことが社会に不安をまき散らしている上に、あの屍使いの呪詛師が東京に様々な破壊の因子を仕込んでいたから。

 その因子の場所を、犖は五条先生に伝えていた。

 獄門彊に突き刺した術式破壊の特級呪具、天逆鉾と共に残されてあった手紙に書いてあったという。

 知り得ないはずのことを犖が視通せたのも、『くだん』の術式の一部なのだろう。

 あるいは、あの持ち去った脳を解析するなり何なりして、解き明かしたのかもしれない。

 

 虎杖も伏黒も、それに復帰できた釘崎も、呪霊を祓う毎日に戻るしかなかった。五条先生は、考え込む時間が増えたように思う。

 

 呪術高専の生徒が、特級呪詛師になった事例はこれまでにもあったそうだ。

 だが呪物の器とはいえ人間が、事もあろうに自らの意志で『未来決定術式』を持つ特級呪霊に転化した前例はない。八咫家の親戚筋からも情報が提供されたが、そこにも人に極めて近い『くだん』は発見できなかった。

 本来の『くだん』は、未来を予言して死ぬだけのはずなのに、犖はそれからも逸脱している。

 領域を展開したこと、明確な意思疎通が測れたこと、人間によく似た外見をしていたことからして、犖は通常観測されていた『くだん』とかけ離れている。

 その危険度を鑑みれば、呪術師たちは討伐しないわけには行かないのだ。

 どれほど心が強靭な人間であったとしても、呪霊になればその意識や形は歪む。決して元には戻らないし、犖には戻る体もない。

 事態を聞いて海外から急ぎ帰って来たという二年の先輩、特級術師の乙骨憂太という人はそう言っていた。

 犖曰く、特級の女たらしだというその先輩は、鋭い眼をした刀を使う人だった。

 

「呪いになった人間を、僕は見たことがある。何にしても、僕たちは『くだん』を捕まえるべきだ。それこそ、傷つけてでも」

 

 そういう乙骨先輩の指には、綺麗な指輪が嵌められていた。

 先輩が言うことは、呪術師として正しいのだろう。呪いを祓うのが呪術師で、犖は自身が呪霊であることを否定しなかった。

 白と黒が反転した瞳も、長く伸びた黒い角も、何から何まで人ではない。顔形は人間のころと瓜二つだったが、それすらも器の面影の投影である。

 生得領域で邂逅した宿儺が、虎杖と瓜二つの外見をしていたように。

 その宿儺は、上機嫌だった。

 

「貴様らはあれを殺すことも視野に入れているようだが、言ってやろう。『くだん』相手にそれは下策だ」

 

 乙骨先輩や日下部先生や五条先生が集っている場で、唐突に虎杖の頬に口を開いた宿儺は、嘲笑うように続けた。

 

「あれは、己の生命を対価に運命を決定する呪い。死に際に最もその能力を発揮する。貴様らが仮に『くだん』を殺せば、その瞬間この世に禍いを引き下ろすことを決めるやもしれんなぁ」

「先輩はそんなことしねえよ!」

「ないとどうしてわかる?元より『くだん』は、短命な生を己に強いるこの世そのものを恨み、災いの未来を選ぶものだ。呪いとして生まれ持った性質に、人間のままごとしか知らん者が飲み込まれないと何故言い切れる」

 

 その危険を知りつつ殺すならば殺せばいい、と宿儺は嗤っていた。

 見つけ出すのに手こずるだけで、殺すこと自体はそう難しくないだろう、とも。

 

「仮にあれが人であった己を忘れていなかったとしよう。その状態で貴様ら術師がやつを殺せば、裏切られた『くだん』の恨みは一層深く、濃くなるだろう。絶望し切ったあの獣の呪いがこの世に解き放たれれば、引き起こされる混沌はさぞ面白かろうよ」

「……ッ!」

「何よりも、貴様らはあれが戻って来ない理由を理解できんのだろう。誰も解き明かせんのだろう?それで仲間を名乗るとは片腹痛いぞ、呪術師共!」

 

 そうだなぁ、と宿儺は口を喜悦に歪ませ続ける。

 

「あれを引き戻したいならば、呪霊操術師にでも取り込ませればいい。元が人でも今は呪霊。調伏し、使役できんことはないだろう。それほどの術者が、貴様らの側に残っていればの話だがな」

 

 宿儺は高らかな哄笑を残して沈黙した。

 呪いの王は、未来を呪う力を持った呪霊の誕生に愉悦を覚えていた。呪術師たちが犖を殺すことを、望んですらいるようだった。

 両面宿儺とは、そういう呪いだ。

 

 呪霊は途切れることなく現れ、犖は煙のように掴めないままに時間が過ぎていく。

 単独任務にも行けるようになって、変わらずに呪霊を祓い続ける。伏黒や釘崎や五条先生や先輩たちと時々笑い合って、それでもどうしても一人は帰って来ない。空間が、伽藍と空いている。 

 最後に送ったスマートフォンのメッセージに、既読がつくこともない。犖が最後に送ってくれていた言葉、『頑張れ』のその先が送られてくることも、ない。

 

 その日もそうやって、任務をこなすだけの日になるはずだった。

 呪霊を祓った帰り道、補助監督の人と別れて通りかかった夜の裏路地で公衆電話が鳴らなければ。

 随分珍しくなった緑色のその電話は、路地の隙間に置き去りにされたように佇んでいた。

 何の気なしにその横を通り抜けようとしたとき、不意に電話が鳴ったのだ。

 

 呪力の気配も何もない、ただ褪せた緑色の電話が、無機質な電子の音をうらぶれた路地に響き渡らせる。

 受話器を取ってしまったのは、呼ばれているようだと思ってしまったから。

 向こう側から流れて来たのは、淡々とした鈴を振るような声だった。

 

『───こんばんは。久しぶりね、虎杖』

 

 三度しか聞いたことがない、それでも間違えようのない声に、答える声が詰まった。

 向こう側で、訝し気に息を吐く音が聞こえる。

 

『番号、間違えたのかしら?あなたが虎杖悠仁という名前の呪術師でないのなら、切るわ』

「ま、待って待った!間違ってない!間違ってないから切らんで待って!ラク先輩!」

『……声がつくと、数倍うるさいわね。あなたと東堂、喋るのに勢いがあり過ぎではない?』

 

 それは、眩暈がするほどに変わらない犖の声だった。

 思わず両手で受話器を握りしめる。ミシ、とプラスチックが軋む音が響いた。

 

「ほんとに、ラク先輩?」

『そうよ。証明する手立てはないけれど。浅草雷門へあなたと帽子を買いに行って、不忍池であなたの話を聞いたのは間違いなくわたし』

 

 それはともかく、と犖の声は一度言葉を切ってから、続けた。

 

『あなたに聞きたいことがあるのだけど、虎杖悠仁の兄を名乗る者に心当たりはあるかしら?』

「……は?」

『生き別れの兄でも血の繋がりがなくてもいいわ。あなたの兄を名乗りそうな身内を知っている?』

 

 よーしよーし全然話がわからん、と虎杖は咄嗟に思った。

 とりあえず、正直に質問には答える。

 

「い、ねえよ。俺の家族は爺ちゃんだけだし」

『そうよね。以前もそう言っていたのだし。……ほら、脹相。聞こえたでしょう。虎杖に兄というのはいないのよ』

 

 そんなはずはない!と叫ぶ男の声が、辛うじて聞こえた。

 何が何だかわからない。だがとりあえずこの、人の話をよく聞いているようでいて実はあんまり聞いてない絶妙に傍若無人な感じは、紛れもなく犖だった。

 バクバク鳴る心臓を押さえ、続ける。

 

「先輩、今誰かといんの?」

『虎杖悠仁の兄を名乗るうろんな者よ。煩くて敵わないわ。……って、待ちなさいこら!脹相!』

 

 ガシャン、と前触れなく電話が叩き切られたように途切れる。

 だが程なくして頭上に影が差し、虎杖は電話ボックスから飛び出た。路地を塞ぐように現れたその姿に、虎杖は一瞬で身構える。

 

「お前、あんときのやつ!」

 

 渋谷駅で虎杖が戦い負けた、血液を操った呪胎九相図の受肉体。

 あの混乱の中でいつの間にか行方をくらませていた敵が、そこにいた。

 だが相手には戦意も殺意もない。どころか、その場でわなわなと手を震わせてこちらを凝視しているのだ。

 何なんだこいつ、と虎杖も動きを止めたときだ。

 ばこん、と間抜けなまでに大きな音と共に、目の前の受肉体が吹っ飛んでゴミ箱にぶつかる。即座に頭を押さえて復活した。

 

「……何をする!」

「それはわたしの台詞。突拍子のない行動をしてくれるのは有り難いけれど、考えなしはやめて」

 

 路地の暗がりから、ゆっくりと誰かが姿を現す。

 街灯のひび割れた明かりが照らし出したのは、白の瞳に黒の角膜、色素を失ったような白い髪、額から伸びる長く黒い角。

 狩衣と高専の制服を合わせたような黒い装束に見覚えはなくとも、忘れようのない少女が、そこにいた。

 ただし拳を振り抜いた、たった今誰かを殴り飛ばしましたと言わんばかりの姿勢で。

 拳を振るわれたらしい青年のほうは、一瞬で立ち上がって少女に食って掛かる。

 

「邪魔をするなと言っているだろう、くだん!俺はお兄ちゃんだ!」

「たった今本人に否定されたところでしょう。今のあなたは、殺しかけた相手を弟呼ばわりして頼まれてもいないのに守ろうとする、徹頭徹尾の不審者よ、脹相。わからないの?」

「いや俺にはわかる!虎杖は俺の弟だ!」

「あなたがわかっていないから言っているの。話を聞きなさい、人間体一年未満」

「オマエこそ兄弟も持たない呪霊だろうが!」

 

 何だこれ。

 何なんだコレ。

 こっちを横において、喧々囂々言い合う二人である。

 というか、電話に出て来た脹相ってこいつかよ!と思ったものの、それ以上先に思考が進まない。

 犖に会えたなら言いたかったことが、根こそぎ頭から吹っ飛んでしまった。

 とりあえず誰かに連絡を入れたほうがいいのかと、スマホをポケットから取り出した瞬間だ。

 

「待った」

 

 びり、と軽い痺れが手に走った。

 スマホが手から滑り落ち、地面に叩きつけられる寸前で黒い糸に巻き取られ白い手に収まる。

 

「誰かを呼ばれたら困るの」

 

 ぱちぱちと切っ先から火花を散らせる両刃の小ぶりな短剣を、犖が虎杖に向けていた。スマホを巻き取った黒い糸は、狩衣のような犖の袂から伸びている。

 虎杖のスマホを袂へ放り込んだ犖は、目を細めた。

 

「高専への連絡なら、電話の最中にすべきだったわね。目の前で携帯を取り出すなんて、邪魔してくださいと言っているようなものよ」

 

 やわらかく、課題の誤りを指摘する口調で犖はゆっくりと首を傾げる。

 懐かしさで胸が突かれる。それでも構えは解かずに、虎杖は言葉を選んだ。

 

「ってことはさ、ラク先輩、高専に戻る気はないってこと?」

「ないわ。この不審者があなたについて訳の分からないことを言って理解しないどころか、高専を襲撃しそうな勢いだったから、納得させる必要があったの。大失敗だったわ」

 

 短剣の先で、犖は雑に脹相を指した。

 渋谷で虎杖と戦い、殺しかけた青年の形の呪いは憤懣やるかたないとばかりに犖を睨む。

 

「不審者不審者と言ってどうして信じない。俺は弟たちと血を通して繋がっているんだ。俺が虎杖の死を感じ取ったならば、こいつは紛れもなく俺の弟だ」

「それなら、殺しかける前に気づきなさいと言っているの。殺されかけた相手にお兄ちゃんだぞとすり寄られても混乱するだけでしょう。傍から見ていたら、あなたはただの立派な不審者」

 

 そうなのかとばかりに脹相の視線が虎杖へ向く。

 虎杖は、遠慮なく大きく頷いた。

 

「俺もオマエみたいなやつは知らん。いや顔は知ってっけどさ、絶対に兄ちゃんじゃねーわ」

「……一回お兄ちゃんと呼んでみてくれないか?」

「アンタ俺の話聞いてねえだろさては!」

「一回だけだ!」

 

 直後、ばりばりばりばりぃ、と短剣から迸った白い稲妻が呪胎九相図の長兄に直撃した。

 結構な良い体格の体が吹っ飛び、壁に叩きつけられる。その全身に、袂から伸びた黒い影の糸がぐるぐると巻き付いて捕縛した。

 天逆鉾と共に奪われた特級呪具の中に、雷光を放つ短剣があったはずだ。これがそうか、と虎杖は内心納得した。

 

「しつこい。兄の名を強請れるほど、あなたは虎杖を知らないでしょう。黙っていなさい」

 

 心底あきれ果てたと言わんばかりの眼で、犖は脹相を見下ろしている。

 その顔形は、ひと月と少し前、あの劫火の下で別れたときと変わらない。

 膝裏まであったはずの白い髪は短くなってこそいたが、却って人間だったころの髪型に近づいたように見えた。

 

「ホントに、ラク先輩なんだ」

「そうね。正確には特級仮想怨霊『くだん』だけど」

「ちっとも正確じゃないだろ。ラク先輩の名前、全然入ってないじゃん」

 

 『くだん』と誰かが呼ぶたびに、記憶の中の犖の形がそぎ落とされて小さく縮んで行くような気がしていた。

 何もかもが反転したような姿で、今の犖は目の前に佇んでいる。

 

「あのさ、何で戻って来ないんだ?」

 

 ことり、と犖は首を傾げた。

 

「呪霊だから。人間の体が、もうないから」

「そんだけ?」

「重要なこと。人間の体がないと、人の感覚はどんどんと薄れる。色々と欠けていくの」

 

 わかるように言うわ、と犖は髪を手で払った。

 

「渋谷でわたしは『上手く行けばこれ以上死人は出ない』と言った。知ってる?」

「パンダ先輩は、そう言ってたよ」

「でも実際はどうだった?わたしが漏瑚……あの炎の呪霊から逃げ回ったから、大勢人が死んだでしょう。嘘をついたわけではなくて、あれを言ったわたしは、あなたたち呪術師以外の人間の死を、本気で忘れていたの」

 

 炎の呪霊が街を燃やしたために出た、大勢の犠牲者を虎杖は思い出した。

 語る犖の白い瞳には、揺らぎが一切なかった。それだけで、遠くから語りかけられているような気分になる。

 

「あなたたちのことは、傷つけたくない人間と認識できる。でもそれ以外の、呪術師が守るべき非術師たちのことを、わたしはもう何とも思えない。あなたたちと同じ人間に見えない。それって、少なくとも呪術師としては致命的でしょう」

「……」

「呪術師を死なせないために、非術師の屍を積み重ねて平気な者を、仲間と思える?いえ、呪術師ならば、それを仲間とみなしてはならない。祓うべきであり、殺すべき対象よ。呪霊操術で、手駒にするならまだしも。そしてわたしは、呪霊操術は嫌いだから絶対に嫌」

 

 淀みなく淡々と犖は応えていった。スマホを使って話していたころと答え方が同じで、だから虎杖には何も返せなかった。

 

「いつか必ず、あなたたちはわたしを殺さなければならなくなる。そのときに、あなたはわたしを殺せる?」

 

 犖の手が音もなく伸び、虎杖の手首を掴み、引き寄せる。

 胸の中心、心臓のある場所に犖は虎杖の手を導いた。

 とくり、とそこで動く音を感じた。同時に思い出したのは、自分の手が、小さな心臓を掴み潰した感触。

 考える間もなく、項の毛が逆立った。

 犖の手はすぐに虎杖の手を持ち上げ、手首を離す。ひんやりとした拒絶が、白い瞳の奥に灯っていた。

 

「殺せると、すぐ応えられないならそういうこと。五条悟ならできるだろうけれど、親友に教え子にと、あの人間にばかり引き金を引かせるのもいい加減駄目。だから、戻らない。それにこちらにいたほうが、都合のいいこともある」

 

 短剣から片手を離さないまま、犖は空いているほうの腕を下げた。

 

「あのときも言ったけれど、わたしが宿儺の前に出たのも、人の振りをやめたのも、あなたのためではないわ。だから、あなたが背負うものはないと思うのだけれど」

「だけど、俺が負けなかったら、宿儺には……!」

「いいえ」

 

 違う、と犖はかぶりを振った。

 

「あなたが脹相に勝てていたとしても、宿儺の指を持っていたのは漏瑚。十本以上の指を呪霊たちが手にし、五条悟が戦闘不能になり、東堂葵も駆けつけていないあの状況の渋谷で、あなたが漏瑚に狙われ勝てる未来に、手が届いた?」

 

 渋谷を焼いた単眼の呪霊の炎を虎杖も見ていた。是、とは答えられない。

 

「脹相との勝負の結末関係なく、漏瑚に捕らえられて指を飲まされていたでしょう。あの呪詛師の二人から飲まされた分は省けたかもしれないけれど、十本飲まされればどのみち宿儺が勝っていた」

 

 言葉が喉の奥に貼り付いて、出て来なかった。

 犖の声は、夏の雨のように平坦に続いた。

 

「わたしがあの場に飛び出せたのは、あなたの体を使って宿儺が虐殺を行う未来を視て、知っていたから。知った上で、その光景を見たくないと思ったから。あなたにそういうの、似合わないと感じたから。でもそれはわたしが抱いた欲求であり、願い」

 

 顔の横に垂れる長い髪を、犖は白蝋のような指で耳にかけた。

 犖の言葉には淀みもなかった。本心をあるがまま口に出しているだけで、背伸びも気負いも酔いもしていない。それが、わかってしまった。

 

「今のわたしは、わたしが選んで決めた形。あなたが負うべきものは、ない」

 

 犖が、自分の眼の下を指す。虎杖悠仁が両面宿儺の器になった証である、眼の傷を示しているのだ。

 

「その上であなたは、わたしに対して何かをしたいと思うの?それは、自己満足と言うのではないかしら」

 

 白刃が、ぎらぎらと光っていた。

 虎杖はひとつ、頷く。答えは、決まっていた。

 

「……思う。先輩がそう思ってても、それが本当のことでも、俺は俺が負けたことを許せないから」

 

 白い瞳が、ゆるりと弧を描いた。

 

「そうね。そうよね。そのほうが好きよ。聞き分けの良さも道理も、ここに至っては馬鹿馬鹿しいわ。わたしの思いもあなたの思いも、どちらもあるがままでいいから」

 

 くすりと犖は笑って、指を一本立てた。

 

「それなら、ひとつ、約束をして」

「約束?」

「約束よ。縛りではないわ」

「……わかった。約束、なんだな」

「ええ。約束。いい?ちゃんと覚えなさい。……もう二度と、何より大切な自分を誰かに明け渡さないと約束して。その体を使う権利を持つのはこの世でただ一人自分だけだと、最期まで我を張り通して。これだけよ」

 

 とん、と犖の指が虎杖の胸を突いた。心臓の真上の位置だった。

 

「それが、先輩がしてほしい約束?」

「そう。期限は、あなたが死ぬまで。虎杖悠仁が、両面宿儺と共に死ぬまでよ。できる?」

「やる」

「……持ち掛けておいて言えた義理はないけれど、もう少し深く考えたらどう?わたし、特級呪霊よ」

「先輩は、ひどいことはしないから」

 

 深く、肺の空気をすべて吐き出したのかと思うほど犖は息を吐いた。

 

「ひどいことはしなくても、わたしは人でなし。次会うときには、わたしを殺せるようになっておいてほしいくらい」

 

 犖の視線が、ふ、と虚空を向く。虎杖には見えない何かを探すように視線が動いて、犖は地面に転がしていた脹相を軽々肩に担いだ。

 

「さようなら。縁があったらまた会いましょう、虎杖。あなたたちと見た夢は、それなりに楽しかったわ」

 

 とん、と犖が地面を蹴って後ろに跳ぶ。

 追おうとした靴の爪先の地面を雷光が深々と切り裂き、次の瞬間には犖と脹相の姿は暗がりに飛び込んでいた。

 とぷん、と影が動いてその姿を飲み込む。影が閉じる寸前、額めがけて飛んできたのは虎杖の携帯。

 反射的に掴んだその間に、溶けるように二つの影は消えていた。

 辿れるような残穢も呪力も、においも残っていない。夢幻か、嘘のような邂逅だった。

 けれど嘘でない証拠に、地面にはくっきりと煙を上げる溝が穿たれ、虎杖は犖の言葉を覚えている。

 虎杖の先輩は、確かにここにいた。決して夢でも、幻でもない。

  

「約束、か」

 

 四角く細長く切り取られた群青色の空には、既にほの白い月が姿を見せていた。犖の瞳と、それはよく似た色をしている。

 

「約束は……絶対、守んなきゃな」

 

 もう二度と、裏切らないために。

 でも帰ったら皆にはなんと言えばいいのだろうと、そう思いながら一人歩く。何で止めなかったと、釘崎に金槌片手に追いかけられるかもしれない。

 それでも伝えなければならないと、夜の街を進む。帰るべき、学び舎の方へ。

 いつかまたこんな夜に、月の瞳をしたひとと出会えることを、望みながら。

 

 

 

 

 




完結です。似て非なる二人が出会ってすれ違って、違う道を歩き始める話でした。また何かの折に道は交わるかもしれません。地獄の縁とかで。

角系人外主人公(ヒロイン)チート化と好き勝手にしました。精神体の実年齢考えると、先輩系ヒロインかは微妙ですが。
お付き合い頂き、ありがとうございました。

番外編は、書けたら書くかもしれません。
書きたくはあります。東京校女子トリオの話とか、2年生のときの話とか、親戚との話とか。

以下はおまけの人物紹介です。長いです。




八咫犖
・主人公。渋谷事変にて、未来を呪う特級呪霊『くだん』へ転化。
・身長165㎝程(人間・呪霊時共通)。胸は小さめ。
・人間時は、特級呪物『くだん』の木乃伊を飲んだ器。木乃伊の七つ目を飲んだ際、魂が呪物によって完全に崩壊。体に宿る人格は破壊され、呪物に宿る呪霊を基盤に再構築された。その精神は呪霊混じりの人間ではなく、人間混じりの呪霊と言える。親戚に桜川家がある。
・自分自身や人同士の感情は観察によりある程度理解できるようになったが、自分へ向けられる人の感情を理解できるようにはなれなかった。言葉を自由に話せれば、今少し理解できていたかもしれない。このずれは、他人からするとポンコツに見える。
・無表情は人間の体に魂が馴染んでいない不具合。呪霊化後のほうが感情が顔に乗る。
・人間時は『未来予知術式』の術者。呪霊化後、因果に干渉する『未来決定術式』を持つ。応用として因果を『凍結』した封印術も使う。ただし『未来決定』は術式使用の条件が己の死なので、疑似的な生命の核を呪力で作りそれを潰すことで補っている。人間だったころ自分に仕込まれていた術式からヒントを得たのだが、大変面倒。大規模な未来を決定するには、本当に生命を捧げなければならない。
・他人の因果にも干渉できるようになったため、能力の試しも兼ね渋谷で負傷した呪術師たちの因果を『回復』方面へ弄っている。
・『未来視』『過去視』は『未来決定術式』の副次的な産物だが、視るだけならば生命を潰す必要はない。
・特級呪霊となってからは、諸々言いくるめた脹相と組んで加茂憲倫(仮)が残した呪霊や呪物を処理している。伏黒津美紀にもいずれ会う。
・冷静沈着に見えて享楽的な刹那主義者だが、視た未来に囚われ無気力かつ無感情になるのを恐れる反動。精神が死なないよう、自分に選択肢を増やしてくれる他者と関わる必要があり、現時点では脹相と行動を共にしている。
・彼が虎杖を弟と呼ぶからくりにも気づけるが、気にしない。虎杖悠仁が仮に宿儺の玉座となるため仕組まれた存在であっても、犖にとって虎杖悠仁は虎杖悠仁以外の誰でもない。
・完全に殺していない加茂憲倫(仮)の脳を所持。呪霊や呪物を処理するため必要なのだが、早く捨てたい。
・自分が死んだら銃の呪具を譲る、と真希と約束していたのだが、漏瑚の炎で体が焼けたとき壊れたため残念に思っている。
・虎杖悠仁は眼で追いかけてしまう後輩、五条悟は一応恩人。東堂と冥冥は付き合いやすい他人。東京校女子同士の仲も悪くないのだが、波長が最も合うのはパンダ。
・呪術師と会う可能性を術式で潰しているため、呪術師側からの接触がほぼ不可能。六眼で解析されないよう、とりわけ五条悟を警戒中。親友が特級呪詛師に、教え子が特級呪霊になるとはあの最強も大変な人生だなと思いつつ、会う気はさらさらない非人間。呪霊呪物の情報だけは東京校へ一方的に送りつけている。
・呪霊化した後は高専からパクった雷光を放つ両刃の短剣と、影を渡る呪具を使用。

・五条悟の封印を、もう少し早く解除することもできた。が、上層部が判断を下すのを待っていた。彼らが予知を覆せるか試したのだが何も変わらず、自身の精神の問題だけでなく高専の外にいたほうが選択肢が増えると判断し、呪術界から離反した。
・仮に負の感情を抱いて死ぬと、大厄災の未来を決定しかねない。それ故、絶望させてから殺したいと宿儺に狙われている。とはいえ当人は仮に仲間だった高専の術者に殺されても、『呪霊を狩るのが呪術師の仕事』と割り切れる。
・呪物や呪霊の封印に呪力の大半を割いているため、単純な戦闘力は大幅に弱体化中。
・殺せば術式が暴発すると目され、呪詛師側に呪霊操術師がいれば取り込まれる可能性もなくはない呪術界にとっての地雷。多分、獄門彊に入れとくのが最適解。
・元来の『くだん』は、未来を選択しすぐ死ぬだけの自我も覚束ない短命な呪いだが、八咫家が人と混ぜ合わせ、五条悟が人の世に連れ出し、虎杖悠仁が関わり、宿儺が死の縁へ追いやったため覚醒し、類を見ない自我が発達した『くだん』が爆誕。要因多々あれど、大体は八咫家と五条悟のせい。

東京は壊滅していませんが、漏瑚裏梅生存中かつ、傾国レベルの災いを招来可能な特級呪霊がうろついてるので、危険といえば危険です。
後輩は結局、先輩を獣とは呼べませんでした。

ここまで読んで頂き、誠にありがとうございました。


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番外編『虚構×呪い』

ちょっとギャグのノリです。
虚構推理のキャラクターが出ます。

では。


 

 

 

「私、岩永琴子と申します。よろしくお願いします」

 

 年末年始の呪霊の繁忙期を切り抜けた呪術高専に、唐突可憐にそのお姫様(ひいさま)は現れた。

 仔猫の握りがついた赤色のステッキを持ち、ベレー帽を被り佇む深層の令嬢然とした愛らしい少女は、最初に出会ってしまった呪術師に向けてにっこりと微笑む。隣にいる無害そうな黒髪の青年は、合わせるように会釈をした。

 

「お伝えしたいことがありますので、五条悟という方に取り次いで頂けないでしょうか?アポイントを取ろうとしたのですが、番号などがわからず直接お伺いしました」

「……はい?」

 

 幸か不幸か、その少女と邂逅した釘崎野薔薇は、それはもう固まった。

 そして続く一言を聞いたときには、さらに凍りつくこととなる。

 

「私、八咫犖準一級呪術師の親戚、こちら桜川九郎の、恋人です」

「ちょっと待って今すぐあの馬鹿を呼び出すんで」

 

 はい、と朗らかに答える岩永を前に、釘崎は能う限りの最速で担任の最強呪術師を電話で以て呼び出したのだった。

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 十月三十一日に起きた事件は、『渋谷事変』と名がつけられた。

 多くの民間人が死に、呪術師にも死傷者が大量に出た呪術師界の歴史に残る悲惨な事件となった。

 あの事変からこちら、明らかに呪霊の数は増え、凶悪化している。おまけにその事変後に起きた諸々で上層部の首がかなり無理やりに挿げ替えられ、色々と混乱が起きている。

 その混乱の原因の一部を担っているのが、事変の中で人間から特級呪霊へ転化した釘崎野薔薇の先輩、八咫犖だ。

 人間の状態から、自らの意志で『未来決定術式』という冗談のような能力を持つ特級呪霊『くだん』になるという、ジャミラ以上の変身を遂げた上、そのままあっさり行方を眩ませた元高専生だ。多分呪術高専の歴史の中でも、三本の指に入るとんでもないやり方でドロップアウトした先輩である。

 人間であったころの犖は、喋らないし表情が動かなかったし、何より額から角が二本も生えていた。

 パンダ先輩に次いだ人間離れした外見こそしていたが、話しかければ案外ちゃんと戦闘や報告書のアドバイスはくれたし、さっぱりと引きずらない性格だったので、釘崎としては付き合いやすい先輩だった。

 だがとにかく、犖は自分のことを極端にまで喋らなかった。

 釘崎の同級生の伏黒にもその傾向があるが、犖に至っては本当に人間の両親から生まれたのかと思えるほど、呪術高専に来る前の生活がまったく想像できなかったのだ。

 多分、そこら辺の山の霧の中からふらっと生まれて霞を食って成長し、ふらっと人里に下りて来た、などと言われても信じてしまえそうな浮いた感じがあった。

 

 だが、唐突に呪術高専東京校に現れたのは、八咫犖の親戚を名乗る青年だった。

 あの先輩に、親戚とかいう人間ぽい血の繋がりがあったのかと、釘崎はまずそこのところで驚愕した。だが考えてみれば、いて当たり前なのだ。

 呪術師の力は血によって受け継がれがちであり、血なまぐさい業界だが、親戚縁者がまるきり途絶えた術者の家系というのは案外少ない。

 

「僕の桜川家と犖さんの八咫家は元は同じ家でしたが、百年くらい前に別れたんです。一応桜川が本家、八咫が分家ということになっていますが、そんな格付けはあってないようなものです」

 

 だから僕と犖さんは親戚ではありますが、血筋的には他人に近いですと、そう宣言した青年には、何となく犖の面影があって釘崎はすんなり信じられた。

 黙っていればぼんやりしているようにしか見えないが、奇妙なまでに強靭な生命力を芯に持っている。そういう犖と似た空気を、桜川九郎という青年は纏っていた。

 加えて、よく見れば癖なく整った顔立ちが似ていないこともない。

 

「正直、八咫犖さんの名前を出したときに拘束されることもこちらは予想していました。そのようなことにならずに、安心しています」

 

 ただ、その青年が連れて来た隣にいる小柄な少女、こちらはまったくわからなかった。

 ビスクドールのような愛らしい少女なのだが、呪術師としてそれなりな修羅場を潜った釘崎の勘が言っているのだ。こいつはただ者ではないと。というか恋人ってそれ声高々と自己紹介で言うことか。

 ついでに言うなら、桜川九郎とも八咫犖とも彼女はまったく似ていない。

 長身目隠し銀髪全身黒ずくめというどう考えても不審者な身なりの呪術師最強に顔色ひとつ変えずに相対している時点で、この岩永琴子と名乗った少女がそんじょそこらの者であるはずがないのだ。

 

「そんなことはしないよ。ところで、君たちはどこまで知っていてどうしてここへ?」

 

 運良く都内の任務から爆速でとんぼ返りをした五条悟は、応接室に彼ら二人を招き入れていた。尚、居合わせているのはたまたま岩永と桜川に出くわした釘崎だけである。

 伏黒と虎杖筆頭に他の先輩たちまでもが、それぞれ任務で現在は出張らっていた。一応虎杖と伏黒に連絡は入れたのだが、残念ながら今日中に戻って来るのは無理らしい。

 それを見越したかのように現れた少女は、あくまで可憐だった。

 その可憐さを絶やさぬまま、岩永琴子はとんでもないことをぶちかました。

 

「数日前にお会いした犖さんに、伝言を頼まれたからです。それからいくつかお伝えしたいことがあって」

 

 ぴしり、と音立てて部屋の空気が凍った。

 五条より先に釘崎は口を挟んでいた。

 

「会ったんですか、あの先輩に?」

「はい。奥多摩雑居ビルの屋上でバンホーテンココアを飲みながら呪霊を狩るくらいには、元気でしたよ。黒い角と白い瞳も艶々でした」

「ちょっと待って。バンホーテンココア?」

「ええ。甘いものが好きと仰っていましたよ。呪霊なので味覚はあれですが、人間のころの術式を使っていたときの癖をなぞっているとかで」

「あー、それはラクだね。甘党なのは変わってなかったか。……しかもバンホーテンかぁ」

 

 目隠しに手を当て、五条が天井を仰ぐ。

 渋谷の事変以後、呪術界は特級呪霊『くだん』を捜索しているのだが、これがまったく見つからない日々が続いている。事変が終わってひと月半ほど経ってから、虎杖が接触したそうだが、これまたあっさりと逃げられている。

 だが少なくともあの日から、虎杖がふと思いつめたような眼をすることは少なくなったから、何かはあったのだろうと釘崎は思っている。

 そのような渦中の人……もとい呪霊と、この少女と青年は出会ったという。

 五条も気になるのか、長い指を考え込むように組んだ。

 

「どうやって会ったんだい?実を言えばさ、僕たち呪術師は全然見つけられてないんだよ。あっちが僕らに会おうとしない限りさ」

「それは案外簡単でした。犖さんが『くだん』の力で選んでいるのは『呪術師と会わない』未来です。ですから、非術師は()()()()()。根気よくお金と時間と非術師の人手をかけて探せば、引っかかりましたよ」

 

 事も無げに。

 事も無げに、岩永という少女は言い切った。

 あまりのあっけない言い方に、釘崎も思わず口を挟んでいた。

 

「え、それだけですか?」

「ええ。それだけです。ですが犖さんも驚いていましたよ。彼女、非術師に知り合いがいなかったので、非術師が自分を探すという未来をまったく想定していなかったとか。ぶっちゃけ、選定もれですね。それでも、彼女の連れがやらかさなかったら、見つけられなかったでしょうが」

 

 はぁ?という裏返った声が、釘崎と五条双方から出た。

 珍しくぽかんと口を開けた五条は、額を押さえる。

 

「何、その究極のうっかりミスみたいなオチ」

「犖さんも同じことを言っていましたよ、五条悟さん。あなたは彼女の人間の先生だそうですが、やはり言動は似るようですね」

 

 今度は岩永は食えない笑みを浮かべた。

 

「ということは、君が鍵になって探したのか」

「ええ、私はぎりぎり非術師です。見えはしますが、術式の類は持ち合わせていません。九郎先輩は」

「僕は、八咫と同じことをしていた桜川の人間です」

 

 九郎という青年の一言に五条がすぐさま目隠しを外す。現れた青い瞳が剃刀のように細められた。

 

「君は術式を持ってる。だけど、『くだん』のものじゃないようだね」

「はい。僕や従姉も十二年ほど前に『くだん』を食べましたが、『くだん』由来の術式を発現したのは犖さんだけでした」

「確かに、君に角は生えてないしね。混ざりはしたが、それだけになったってことか。それも十分凄いけど」

「でも、術式が発現しないなら僕たちは失敗でした。一つ食べた時点で僕と従姉は適正無しと判断されたので、以後の試みが何かを僕たちは知りませんでした」

 

 呪術師界隈の薄暗さがもろに現れている話だと、釘崎は顔をしかめた。最低二つの家が呪物の器を作ろうと画策し、その計画に年齢一桁の子どもたちを使っていた。

 そこを切り抜け生き延びたのが、この桜川なる青年とその従姉、犖らしい。

 もしかすれば、他にもそういう子どもたちがいたのかもしれない。釘崎の視線にはなんら反応せず、九郎は続けた。

 

「僕と従姉の術式は、端的に言えば肉体再生です。それが『くだん』を消化、無毒化したので、僕たちは人間です」

「なるほどね。ラクは呪物飲むまで呪霊も見えてなかったって言ってたけど、空だったほうが器として優秀になってしまったというところか。それにしても、肉体再生とはね」

「『くだん』の未来予知能力は、死に瀕して使用できる力と思われていました。だから、僕や従姉は自死することで『くだん』の能力を使えるようになるのではと期待されていたんです。結果的にそうはならず、『くだん』の器を造る試みの主導権は、桜川から八咫に移りましたが」

 

 このしれっとした顔で淡々と話す様が、まさに犖との血縁関係を思い起こさせた。

 

「桜川の家の名前は僕も知ってるよ。なんせ渋谷の後高専に『くだん』の資料が送られて来たからね」

「それは僕です」

「当主以外閲覧不可能っぽい、チョー門外不出って感じのあの資料も?」

「岩永と僕で送りました。犖さんとはその試しの儀以来会っていませんが、忘れるわけには行かなかったので」

「『くだん』の能力を知らせておいたほうが、あなたがた呪術師は無闇に動かないと思いまして。桜川も八咫も隠蔽に汲々としていたので、少し私たちでお送りしました」

 

 何せ相手は未来決定術式持ち。

 その力を呪霊が持っていることは、人間にとって危険であることは間違いない。

 有体に言って、パニックになった呪術師たちが五条悟が何か言わずとも全力で『くだん』討伐に動こうとすることはあり得たし、これからもあり得る。刺激しないのが最善であるというのが五条の判断だが、それに対する反対も少なくない。

 人間であった犖を知っている乙骨憂太という二年の先輩も、呪霊となった犖が野にいることに難色を示していたほどだ。

 彼は彼で、事故死した幼馴染みの少女が生前と似ても似つかない特級過呪怨霊となるところを見、制御不明な彼女と長年共にいたそうだ。その経験に裏打ちされた言葉なのだろう。

 

「で、ラクは君たちに伝言を渡したんだ」

「はい。最初は驚かれていましたが、すぐににこにこと嬉しそうでした。あのひと……敢えてひとと言いますが、予想外を好まれる性格のようですから、網を抜けられた私たちには友好的でしたよ。未来を視られるようになったから、退屈が大っ嫌いになったとかで」

「元気にはしてた?」

「脹相という方と組み、美々子、菜々子という双子さんを扱き使うくらいには。双子さん方は渋谷で犖さんに借りができてしまったそうで、その借りを担保に働かされていました。私見ですがあの借り、犖さんは多分一生チャラにする気がありませんね」

 

 双子と聞いて、釘崎には思い当たることがあった。

 渋谷で虎杖が宿儺に乗っ取られた瞬間があったそうだが、その原因になったのが双子の呪詛師の少女たちと炎の単眼呪霊が気絶していた虎杖に飲ませていた指だという。

 あの馬鹿にやらかしてくれた呪詛師二人を、どうしたことか犖は顎で使うようになったらしい。

 

「その二人って、夏油傑の遺体使ってたヤツのとこにいた呪詛師じゃないんですか?」

「ええ。そのようですね。彼女らは夏油傑なるその人の遺体を取り返そうと目論んでいたとか。結果的に犖さんが遺体を回収して届けたから、そのことが恩になってしまったそうです。犖さんはそのようなつもりはまったくなかったそうですが、丁度いいからと呪霊退治に駆り出していましたね」

 

 逞しそうな先輩の現状報告に、釘崎は目を細めた。

 犖は呪霊へ転化する前、虎杖の体を乗っ取った宿儺によって殺されかけたという。

 死にかけたために術式がもう一段階新たな領域へ進み、結果として犖は呪霊になった。

 宿儺によって殺されかけたということは、虎杖の体が殺しかけたということだ。

 虎杖は随分、そのことを気にしていたというか、気に病んでいた。

 自分が敵に負けたために、何かとよくしてくれていた先輩がそんなことになれば無理もないが、当の先輩は予想以上に強かにやっているらしい。

 

「とりあえず現在の彼女は、渋谷事変の黒幕とやらが仕込んでいた呪霊呪物の回収及び処理をして津々浦々を旅していました。多分きっと恐らく非術師を殺しはしないので、放置しろと仰っていましたよ」

「うーん、放置云々以前にまずみつからないんだよね。特に僕、この眼を警戒されてるようだし」

「それは勿論。他の術師にならともかく、五条悟の綺麗で煩いお空の眼に捕捉されるのは、絶対に嫌と言っていました」

 

 術式を見抜き解き明かす眼と未来を見抜き選ぶ眼は、正直釘崎にとってはどっちもどっちで意味不明な領域にある。

 高次概念同士が殴り合いしているようなものなのだが、六眼をぼろくそに言われた上絶対に嫌とまで言われた五条悟は遠い眼になっていた。

 

「私たちがこちらに伺ったのは、まさにそのこの国に仕込まれている呪霊呪物絡みです。今現在は犖さんが能力で停止させているために活性化はしていないそうですが、抑えているのも面倒なのでもうちょっと呪術師が頑張ってくれないと困る、とのことでした」

「……やっぱり、一部呪霊の妙な不活性化の原因はラクか。はー……参ったねホント。ますます祓うわけにはいかなくなる。あの子、そんなに勤勉な質だったっけ?」

「彼女はこう言ってましたよ。これらを放っておくとつまらない未来絵図になりそうだからと、呪いが蔓延って人間が押し込まれ、うじうじと嘆く未来は、とっても面白くないんだそうです」

「面白くない、ねぇ」

「それと、わたしは先輩だからと言っていました。どこかの先生がわたしは先輩だとそう言っていたから、これくらいやってやるのだとか」

 

 犖の矜持というか信念はそこに行ったのか、と釘崎は目を細めた。

 そのどこかの先生というのは、間違いなくこの目の前で酸っぱいものとしょっぱいものと甘いものを重ね食いしたような顔をしている五条悟のことだろう。

 ぽん、と岩永はここで愛らしく手を打った。

 

「とまあ、ここまでは私が勝手にお伝えしている犖さんの現状報告でして」

「ここまで喋ったの、前座なんですか?」

「はい。犖さんからの直接の伝言は、ひとつだけです。伏黒恵の姉をもう一度隅から隅まで六眼を用いて見直せ、と。見やすくなるよう弄ったから、あとはそちらでどうにかやれ、と」

「伏黒のお姉さん?なんでその人が出てくるんですか」

「詳しいことは何も。犖さんたちがやると手っ取り早く因果因子ごと潰してしまうので、呪術師側で繊細穏便に解決しろとのことでしたね」

 

 投げっぱなしジャーマンキメたかのような、雑な伝言である。

 が、人間のときも繊細緻密な射撃の腕があるくせに、手間と感じれば、無表情で対戦車ライフルを取り出し、地面ごと呪霊を抉り取る癖があった先輩だ。

 対応の振れ幅に差があるのも、当然だろう。

 

「……わかった。至急やっとくってラクに言えるんなら言っといて」

「ああ、すみません。私たちも犖さんとの接触を切られてしまったんです。今は非術師も警戒されているようなので、また行方不明なのです。でも、高専に用事があるときは、まず私たちに連絡をすると仰っていましたよ」

 

 というわけで五条悟さん、是非私と連絡先を交換しましょう、とスマートフォンをさっと取りだす岩永琴子には、不思議な風格と貫禄があったのだった。

 

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

 

 

 岩永琴子と桜川九郎が高専に来た目的の二つ目は、『届け物』をすることだった。

 その届け物の中身は、なんと釘崎にもひと目でヤバいとわかる呪いの品々である。

 犖はそれらを雑に集めて一纏めに封印して、高専に届けておいてと岩永たちに渡したらしい。スポーツバッグ二個に分けて押し込まれていた品物に、さすがに五条も目を点にしていた。

 

「なーんだこれ……何を凍結したらこういう封印式になるんだろ……。あ、そっか。未来決定の応用か。可能性を凍結してるんだな。なーるほど、概念干渉の一個の極点だねこりゃ」

 

 とまあ、六眼でまじまじと観察するほどの術式で縛られているらしい呪いの品々は、五条がどこぞへ持って行った。

 残った釘崎は、岩永と九郎を送っといてとさらりと担任に言われ、こうして小柄な少女と無害そうな青年の二人組と共に、高専内を歩いているところである。

 特級呪霊の血縁上の関係者とその恋人ともなれば、今後色々と面倒なことになりそうなのだが、それは百も承知なのだろう。

 そも、岩永琴子の生家たる岩永とは、五条が反応するような()()()()()()らしい。しかも、非術師の名家である。

 こうなると、呪術師側は非常に手が出しづらくなる上、五条はどう考えても岩永や九郎を利用する気がなく、彼らを害そうとする者とは敵対するだろう。

 だからこうして、釘崎は当たり前に二人を先導し、ステッキをつきながらの岩永に当たり前のように質問されるのだ。

 

「質問なのですが、犖さんはどのような先輩でしたか?」

「……普通の良い先輩でしたよ。報告書の書き方とか、参考になること教えてもらってましたし」

「そうですか。……その先輩がいなくなって、寂しいと思います?」

「まぁちょっとは。でも死んだわけじゃないですからね」

 

 普通に死ぬより千倍は厄介な、術師の呪霊化現象、しかも特級呪霊への転化というある意味での大惨事を引き起こしたことに目を瞑るなら、犖は悔いのないやり方を選んだと言えるし、それはそれで悪くない人としての終わりではなかったのではと思っている。

 虎杖や伏黒や、五条の話を聞いて、釘崎はそう結論付けたのだ。

 つまりそれは、釘崎野薔薇がわざわざ幾人かの人間に、先輩の最後を聞いて回ったということ。

 話を聞き合わせるという苦労を踏んでまで、己の中で何かを納得させたいと行動するくらいには、あの変わり者の角の先輩に、思い入れだってあった。

 できるなら、呪霊などにならずにまた訓練に付き合ってほしかった。

 無表情のまま、肩だけを震わせて笑う先輩の狙撃を掻い潜って、一発訓練で出し抜きたかった。

 だが犖は己で選んで、ここを離れて行った。

 方法はともかくとして、己で選択し目的を果たした犖のその意志の力を、釘崎野薔薇は好いている。

 無論、結果的に命がけで庇われる形になった虎杖や五条、呪霊へ転じる様を直視することになった伏黒には違った想いがあるだろう。

 だからこれは、釘崎が出した釘崎だけの答えだ。答え合わせも擦り合わせも、いらない。

 

 とはいえ本当に、方法は大概にひどいだろとは思う。

 何なんだ、未来決定術式って。ふざけているのかそれは。あんた未来予知じゃないのかよと。

 しかも自分の生命一つをかけて領域を開けば、国一つ呪えるとは凶悪に過ぎる。代償が、安すぎやしないか。

 だがそれだけ、『未来』という概念へ人々が向ける負の感情が強いということなのだろう。『死』すらも突き詰めれば、万人に訪れる未来の姿とも言える。

 そこから、未来そのものを歪める能力を持つ呪いが生まれたのだ。そんな呪いを人に受肉させようとした犖の生家は、呪術師の釘崎をして正気を疑う。

 高専の門が見えた辺りで、岩永がちらりと釘崎を見上げた。

 

「ちなみにですが、野薔薇さんは未来の呪霊たる『くだん』を祓除する手段を考えていますか?」

「一応は。でもまず、見つけられなきゃどうしようもないって話ですよ」

 

 呪いは呪いで、呪術師は呪術師。

 もしも今の犖を形成する何かが崩れ、本来の『くだん』の性質を剥き出しに己の生命を対価に人の世を呪う獣となれば、祓うのが当然だ。

 虎杖の中の宿儺など、敢えて『くだん』にこの世を呪わせ、余興にしようと企んでいる節すらある。

 だから、いざ『くだん』の祓除をするとなれば釘崎は決して躊躇わないし、躊躇ってはならない。

 しかし現在ですら、呪術師たちでは犖を見つけられない。これでは、いざというときどうすればよいのやら。

 そう思いつつ答えれば、岩永がくすりと頬を緩めていた。

 

「野薔薇さん、少し耳を貸してください。あなたにだけ伝える、犖さんからの伝言です」」

 

 背伸びをする岩永の背の高さに合わせて屈めば、小さな少女は澄んだ声で囁いた。

 

 ────わたしを撃ち抜く鍵は、腕。

 ────だけど、今のあなたでは届かない。

 

 ─────それでもいつか、届かせてみせて。

 

「以上です。さてこの謎が、解けますか?」

 

 岩永と九郎は門を背にして、静かに佇んでいる。

 問いの答えを了解しているようにも、釘崎の答えを待ち望んでいるようにも見えた。

 腕、という一言に釘崎の頭の中で何かが灯る。

 

「あ」

 

 呟いた釘崎に、岩永は微笑みかけた。ベレー帽を直し、ぺこりと丁寧に会釈をする。九郎も静かに頭を下げた。

 

「見送りはここまでで結構です。下に車を呼びましたので」

「……ありがとうございました」

 

 不思議な恋人たちは、そうして静かに去って行った。

 だがどうも、彼らはまた訪れるような気がしてならない。単なる勘だが、呪術師の勘なのだから馬鹿にもできない。

 

「腕……腕、ね」

 

 門の前で仁王立ちのまま腕を組み、釘崎は呟いた。

 腕と聞かされ思い出すのは、渋谷で残った唯一の犖の体。宿儺が千切り取って捨てた、右腕だ。

 呪霊となった呪術師の体の一部である。当然のように高専に回収され、厳重に保管されている。

 腕を通して『くだん』を追跡、呪詛を送るのは不可能と判断され、かと言って破壊すれば完全に繋がりを断つことになるために、呪物さながらに封印された代物だ。

 釘崎は、その現物を見ていない。

 見ていないが、犖の伝言を受け取るならば、その腕におそらく、釘崎の術式は有効なのだ。

 

 釘崎野薔薇の術式は、芻霊呪法。

 形代に呪力で攻撃を加えれば、本体にダメージを通せる。

 形代となるのはそれこそ、相手の体の一部や呪力が籠もる断片。だが呪霊となった人間の腕は────わからない。

 

 犖の言葉を信じるならば、今のままの釘崎では大した攻撃とはなり得ない。

 だが、犖は撃ち抜けると言ったのだ。それが意味するところは。

 

「そうよ。あなたの術式には、可能性がある。可能性の話だけれど、ね」

 

 どこからともなく響いた言葉に身構えたのは、呪術師としての本能だ。

 気づけば目の前の門の瓦屋根の上に、人影が一つ、足を振りながら腰掛けていた。

 狩衣と高専の制服が合わさったかのような黒衣に黒の角と角膜、白い瞳孔を持つ異形の少女は、ことりと首を傾げた。

 

「こんにちは。あまり変わっていないわね、釘崎野薔薇」

「……先輩は、だいぶ変わりましたよね。派っ手なイメチェンしちゃってまあ」

 

 武器たる金槌と釘を構えたのは、呪いを前にした反射だった。

 ぷらぷらと足を振って灰色の瓦の上に座っているのは、まぎれもない呪霊。ただその顔形は、完璧にかつての面影を留めていた。

 数ヶ月前まで共に歩いて門をくぐった先輩と同じ顔で、その少女はあくまで軽快な口調を崩さない。

 

「これをイメチェンと呼ぶなんて、釘崎野薔薇は釘崎野薔薇ね。虎杖悠仁にはなんだか戸惑いがあったけれど」

「そりゃ、あいつにはあるでしょうよ」

 

 ふうん、なんて鼻を鳴らしている辺り、相変わらずこの先輩は妙なところで人間味と情への理解が薄そうだった。

 東京中の呪物呪霊をわざわざ自らの力を消費してまで封じるなんて、面倒なことをしているくせに、なんで腹が立つほど簡単なことはわからないのだろう。

 

「で、このタイミングで現れたってことはさっきの二人のことを見てたんですか」

「概ねはそんなところ。後は、天元の結界を今でもすり抜けられるか試しにね。連れている兄馬鹿が、試せ試せとしつこいから」

「ってことは」

「わたしなら、天元の結界をすり抜けられるようね。すり抜けられる未来を選んでいるから、当然なのだけれど」

 

 クソガバ結界じゃねーかと、内心で罵った。交流会のときと言い今と言い、何のための天元様なのやら。

 呪霊へ転じた先輩はと言えば、反対側に首を傾げていた。

 

「今は後輩がいたから声をかけただけで、前みたいに泥棒しに来たわけじゃないわ。五条悟も、あと五分で来るようだし。その前にさっさと消えるつもり」

「先輩、特級呪霊なんでしょ?それでも怖いんですか?」

「当然。虚式を凌げる未来は、わたしの手では引き寄せられないもの。それに、あの六眼で術式を視られたくはないから。第一、今のわたしが術式は凶悪でも、人間のときより少し多いだけの雑魚呪力なのはわかるでしょう?」

「……」

 

 渋谷事変で、ツギハギの呪霊にしてやられた顔の傷痕に軽く触れ、釘崎はさらりと己の怯懦を認めた犖を見上げた。

 

「先輩、私や真希さんや七海さんたちの怪我に、何かしました?」

「うん?」

「惚けないで下さい。家入さんが言ってましたよ。奇跡みたいな確率が幾つか引き寄せられたから、治せた怪我があるって。あれ、先輩じゃないんですか?」

 

 白と黒の少女は、淡く微笑んだ、それがつまりは、答えである。

 

「少し試したの。わたしの術式はどこまで融通の利くものなのかって、ね」

「試し打ちで人の運命弄ったんですか」

「もうしないわ。あれ、最悪の感触だったから。何と言えばいいのかしら。自分を手放してしまいそうな、勘違い万能感(・・・・・・)、みたいな?わたしそういう、自分の呪いの奴隷にはなりたくないの」

 

 赤い舌をちろりと出して犖は肩をすくめ、釘崎は金槌を引いた。

 

「……五条先生(・・)は、珍しく凹んでましたよ。先輩がいなくなったこと」

 

 気楽に振られていた犖の足が、止まる。

 それは、本当のことだ。

 五条悟はあれ以来、時折無言で考え込むことが増えたように思う。

 聞けば、元々生家で処分されかかっていた犖を引き抜いて東京へ荷物のように持って来たのは、五条悟だった。人間の生活とやらを教えていたことも、あったらしい。

 釘崎の知らない何かの情が、二人の間には(かよ)っていたのだろう。この先輩に、ちょっとどころかかなり薄情な面があるにしても。

 果たして、角の少女は事も無げに応じた。

 

「ああ、うん。五条悟がそうなるだろうなと思ってはいたわよ。思っていたけど、でも、それは乗り越えてもらうしかないじゃない。生徒って、いつかは先生から離れて卒業するものだし、先輩は後輩より先に卒業するものでしょう?」

「私たちが卒業するのは呪術高専ですよ。人間じゃないでしょ。ってまあ、あの渋谷で間に合えなかった私の言えたことじゃないですけど」

 

 にこり、と犖は微笑む。人間であったころは決してなかった、感情の乗った表情だった。

 

「その悔いがあるなら、もっと凄い術師になればいいわ。いつか『くだん』を、殺せるくらいに」

 

 犖は、くるりと後ろへ仰け反る。瓦屋根の上からあっという間にその姿は消え、釘崎が門の外へ走り出たときには、呪力の気配すら断ち切られていた。

 

「逃げ足一番かよ!」

 

 言うだけ言って、またしても手品のように消え去って行った。しかも最後の一言は何なんだ。殺されてもいいと言うのか、呪術師に。

 

「……」

 

 あり得るなと、釘崎は思った。

 自分の呪いの奴隷になりたくないと、犖は言ったのだ。

 呪霊になって何を今更という話だが、犖には確かに人であったころがある。

 呪いとも人とも、何ともつかない形と心のまま呪術師を生き、その魂を以って呪霊となった。

 どちらでもあってどちらでもない、狭間にしかない『自分』を、犖は手放したくないのだ。

 自分でありたい、自分を捨てたくないという衝動と願いは釘崎にも理解できて、それが崩れ去るならば殺してほしい、と思う心もわからないではなかった。

 

「死ぬっほど不器用ね、ラク先輩。いいわ、その言葉受け取ってやるわよ。絶対、忘れてやらないから」

 

 気配が既に絶えた森に向けて金槌を突きつけ、宣言する。聞こえていてもいなくても、正解でも誤りでもどちらでもよかった。これは、自分が自分に誓うことなのだから。

 聞こえるはずがない鈴を振るような笑い声が、木々の間をすり抜け木霊して、響いていく気がした。

 

 五条悟が駆けつけて来たのは、それから程なくのことだった。

 

 

 

 




番外編は以上です。虚構推理より、主人公ペアです。

1年2年3年の女子トリオは、そこそこ仲が良かった。
そして梃子でも五条には会わない主人公。

ありがとうございました。

最後に─────虚構推理アニメ二期万歳!!!


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