シュロの神話学的旅日記 (加藤ブドウ糖液糖)
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『シンオウ・神話旅日記』
1.新連載のごあいさつ/ガラルにて


作品説明に書いてあります通り、rairaibou(風)さまによる『モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。』に多大なる影響を受けております。


前書き

 

 この度月間文藝ラプラスで新連載を持たせていただくことになった。名前はシュロ・トクジ。タマムシ大学を出て、エンジュ大でシンオウ神話の研究をしている。文学部の教授も兼ねていたりする。

 私がいつも考えていることを——といっても、シンオウ神話のことばかりなのだが——日々あったことのエッセイに載せて書いていくつもりである。これに興味がある人がどれほどいるかは分からない。依頼された以上はやるが、どれくらい面白く書けるかは自分にも分からない。これを目当てに文藝ラプラスを買う人はごく少数だと思うので、気楽にやろうと考えている。

 神話についてはなるべく丁寧な説明を心がけたいと思うが、何分シンオウ神話というものは大変奥深い。基礎知識を要求する話題が沢山出てくる。それが嫌いな方は、何があったかとか、旅行記の部分だけかいつまんで読んでくれても構わない。

 無理をする必要はない。判断は読者の皆様に任せることにしよう。あまり身構えずに読んでほしい。第一回は、ガラルにいた時の日記からはじまる。

 

シュロ・トクジ

 

〇月△日

 

 この度新連載が始まった。今つけているこの日記が紙面に載るのか、はっきり言って半信半疑である。現在はガラルに滞在している。ワイルドエリアは激しい砂嵐に包まれていて、テントの中で原稿を書きつつ止むのを待っている。大岩の周りにはイシズマイが集まっていた。ガラルらしくカレーをふるまってやろうかとも思うのだが、あいにく私は砂が混じったカレーを野生のポケモンといっしょに食べようという程の変人ではない。代わりに鞄の中のあらびきヴルストをハサミで切り、イシズマイの方に投げてみた。何もやらないよりはよかろう。

 旅先では研究室から離れて、ケーシィと共にだらだらと本を読んでいる。まとめるべきあれやこれやについて考え、疲れたら原稿を書く。日記のような書き方だが、これもれっきとした原稿である。それにも疲れたら、スマホロトムと話すことにしている。

 ロトムという奴は本当に頭が良い。だが、こういう話をするとロトムはいつも遠慮するのだ。それどころか褒め返されたりもする。ロトム曰く、教授職にあることが尊敬する理由だそうなのだ。偉い人だという感じがするらしい。

 しかし、私に言わせてみればそれだけのこと。勉強はしてきたがまだまだ知らないことばかり、ぐうぜん教授になれただけである。機械にはめっぽう弱いし、テレビのチャンネルも回すことができない。パソコンだって使えない。ずいぶん前、パソコン通信が発表された頃にマサキ君と対談した。生みの親から説明を受けても分からなかった。多分、尊敬される人間ではないのである。それに比べてオーキドはよくやっている、と思う。

 一応言っておくが、幼馴染だからこういう書き方をしているのだ。さすがにそこまで失礼な人間ではありません。

 で、砂嵐は未だやみそうになかったわけだ。イシズマイの身じろぎする音を聞きながら、ロトムにテレビを映してもらう。ヘイガニにお尻をたたかれた芸人がギャーギャー騒いでいた。近頃の番組はよくわからない、と思う。別のチャンネルではチャンピオンの試合が始まる。私はこっちを見ることにした。ガラルリーグは相変わらず盛況らしい。彼ら彼女らがこうやってお金を落とし、かつ私のような老人にまで「未来のために」と分配してくれるのだから、頭が上がらない。シンオウのチャンピオンは特にこの気が強いようで、たまにイッシュ古代遺跡の研究に行くから一緒に来ないか、と連絡が来ることがある。私を誘っても仕方がないでしょう、と思っていつも断っている。シンオウのチャンピオンが美人だと思っている皆さん、どうです、うらやましいですか。でも現場での彼女はひどいですよ。具体的には……やめておこう。まあ、彼女が部屋を片付けられないことぐらいは書いてもよろしいだろうか。これが載ったら編集部がOKを出したということだから、編集部の責任である。どうせ公然の秘密だ。みなさん、シンオウチャンピオンの部屋は汚いですよ。

 

 さて、ガラルチャンピオンの試合を横目に見ながらブラックナイトに関する資料を読んでいる。近々ソニア氏という女性の論文を審査しなくてはならないため、その準備も兼ねてのことだ。どうやらマグノリア博士のところのお孫さんであり、画面に映るチャンピオンとは幼馴染でもあるらしい。アブストラクト(論文要旨)を見るかぎりは、非常に挑戦的な内容であった。独創的な仕事であり、却下されるか非常に優秀な成績を出すかのどちらかになるだろう。優れた仕事はしばしば受け入れがたいものである。無敗のチャンピオンと才気あふれる研究者、やはり傑出した世代は重なるのだろうか? カツラ、私、オーキド、キクコなんかも同世代だ。いや、一緒にしたら怒られるかな。

 そういえばマグノリア博士から一度、彼女が恐ろしく緊張しているとの知らせを受けた。神話学の第一人者に読まれるのは緊張する、とのことだ。あまり客観的に自分を見ないので、そのあたりのことはよく分からない。自然体で十分だと思いますよ、というようなことを返信しておいた。気づけば神話学の第一人者とまで呼ばれるようになっていたが、実際はそういった研究を私が初めてやったというだけのことなのだから、べつに尊敬すべきことでもない。あの頃は無謀で、それは私の資質が優れている、ということを意味しない。私は自分の能力でできることをやっているだけだ。

 気づいたらチャンピオンの試合が終わっていた。相変わらず圧勝だったようだ。ゴールドスプレーを再び吹き付けて、ペンを走らせる。頭がようやく冴えてきた。

 

 その日はシンオウ神話のはじまりについて考えていた。「はじまりのはなし」という名前の文書には、

 

「初めにあったのは

 混沌のうねりだけだった

 全てが混ざり合い

 中心に卵が現れた

 零れ落ちた卵より

 最初のものが生まれ出た」

 

 とある。この一説からは、世界の始まりについての、ある種のイメージが読み取れる。こういった世界観をつくるにあたって、人間はまず、自分の知的活動が妨げられない環境、つまり文化的に発展した社会にいなければならない。そしてそのような神話において、ポケモンが人間に先立って生まれている。これは何を表しているのか。

 兄と弟。姉と妹。強いのはどちらか?もちろん、基本的には兄と姉である。つまり、先に生まれた方である。この神話で先に生まれたのはポケモンであった。この地域の人間はポケモンの力を借りて成長してきたのだろう。それと同時に、ポケモンに対してある種の畏れを持っているのだ。

 これは現代まで脈々と受け継がれてきた価値観だと思う。だからこそ世間はロケット団のようなならず者に怒りを覚え、プラズマ団のような組織にだまされてしまう。この頃はギンガ団と呼ばれる組織も怪しいそうだ。シンオウ神話に出てくる各地を巡っているそうだが、何をするつもりなのだろうか。

 

 私は、神話における混沌のうねりについてはなんにも言及するつもりはない。世界の成り立ちについて語られているものは、今のところこの神話ただ一つである。比較対象があればよいのだが、これだけでは根拠がうすい。だから、ソニア氏のような論文には、実は大きく期待していたりする。

 

 そういえば、宇宙の成り立ちはまさしく混沌のうねりであることが判明しつつある、という話を同じ大学の先生から聞いた。シンオウ神話はわれわれに何を伝えようとしているのだろうか。今は全然わからないし、完全にわかる日はもしかすると永遠に来ないかもしれない。だが、古代にこのような物語が生まれているというのは、何という驚きだろう。仕事柄様々な地方に行くので、観光記みたいなものも書いていこうと思う。この連載を通して各地方の、そしてシンオウ神話の魅力を伝えられれば幸いである。

 肩に衝撃を感じて顔を上げると、ケーシィがそばにいた。かなり力強い。たぶん、何回も蹴ったのに私が気付かなかったといったところだろう。考えることに没頭するといつもこうなる。砂嵐が止み、イシズマイ達は影も形もなくなっている。全身にゴールドスプレーを吹き付け、テントを畳み、駅まで歩く。鉄道に揺られてうとうとした。

 



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2.SNSをやる話/ガラルにて

〇月□日

 

 スボミーインというホテルで、今日は朝からSNSというものを見ている。備え付けのソファーベッドが非常に快適である。賄賂をもらったからこう書いているワケではなく、本当に快適なのだ。みんなも泊まればいいと思う。寝心地がいいから。

 SNSはpoketterを主に運用している。文字数制限がある分、呟きたいことをびしっと収められたときはすさまじい快感だ。この前のツイートにオーヌキ君が何やらリプライで言っていたが、私にはどういう文脈でこの言葉を発したのかよく分からなかったため、触れないことにした。オーヌキ君は知り合いの優秀な学者なのだが、poketterだと何を言っているのかよく分からない。ヤブクロンはボールの中に、という諺もある。触れないのが最適解だと私は確信している。

 画面に並んでいるジムリーダーや四天王、チャンピオン。同僚――博士というのは得てしてあまり呟かないようだが、プラターヌ博士と娘の方のアララギ博士は例外のようだ――の呟きをぼけっと見て、今日もあれこれ考える。

 立場が上になればなるほど事務的な呟きが増える。業務連絡が多いアカウントは見ていてあまり面白くない、と思う。それがかえってミステリアスな時もあるのは理解しているけれど、はじめからそういう雰囲気を狙うのはどうなのだろう。

 そんなことをロトムに話すと、シュロ先生が時々SNSの厄介オタクに見える時があると言われた。それに憤慨して10分ほど追いかけっこになり、またpoketterのタイムラインを見ているとダンデ君の"グッドゲーム!!最高の試合をありがとうだ!"という呟きが。私も何かつぶやかなければ、という気分になり、"私も見ましたおもしろかったです"と入力するのに小一時間掛かった。走ったので指が震え続けたためだ。ああ、内容の無さたるや!耐え難い時間の浪費であった。

 少し休んでようやく気を取り直し、ホテルの机に資料を積み重ねて、ガラルの言い伝えとイッシュ地方の神話の関連性について考えてみた。共通項を抜き出し、特性の研究結果から導き出された事柄を一つ一つ並べて、ああでもないこうでもないと苦労して繋ぎ合わせる。そして再び考えると、そのほとんどが間違っているように感じるのだ。なんという苦労だろう、しかし研究とはこういうものだなあ、と全身で感じる。確かにつらい。つらいからこそ、楽しい。そう考えて再び横になり、そのままSNSを見た。ハリーセンが水を吐き出す動画が流れてきた。

 

 目が痛くなってきたのでケーシィと神経衰弱をし、全敗して気分を損ねたところで、再びホテルの机に積み上げた資料と格闘する。それにも疲れてからはフレンドリィショップに寄った。普段は教授としてある程度の尊敬を受けてはいるが、肩書がなければ私もただのおじいさんとしての眼差しを受けることができるのだなぁ、ということが分かって、嬉しかった。

 街の人は皆優しい眼差しだった。シンオウ神話が築いた価値観、"他者への尊敬"は、ガラルという土地でも共通なのだ。アララギ博士の「ポケモンは人と人とを繋ぐために生まれてきてくれたのかもしれない」という心温まる名言の通りだ。ホテルへの帰り道、神話は世界を善くしているかもしれない、とつぶやこうと思った。しかし、今日はもうチャンピオンの勝負について呟いていたので、やめにした。こっちを呟けばよかったかなあと思う。

 

 今日も「はじまりのはなし」について考えたのだが、どうもまとまらない。

「最初のものは

 二つの分身を創った

 時間が回り始めた

 空間が広がり始めた」

 

 短いが、非常に重要な一文だ。最初のものが分身を作ると同時に、空間が広がって、時間が回る。「時間が回る」、「空間が広がる」という表現に、私はとくに感心する。空間が「生まれる」のではなく、時間が「流れる」のではない。それを語っている瞬間から、すでに時間の概念、空間の概念があるためだろう。

 少し難しいかもしれない。どういうことか、順を追って確かめてみよう。まず、空間も時間もない世界が想像できるだろうか。たぶんできないと思う。もし世界が想像できないなら、上の文章にある「分身」も想像できないだろう。世界がないのに、世界の中にあるものは想像できない。

 これを受け入れた人は、「創り出された」という言葉も意味を持たないことが分かるはずだ。そもそもの空間がなければ卵が存在することはできない。卵より小さい隙間に、卵が入るだろうか。答えはいいえ、だ。まして空間がないのだから、卵は存在できそうにない。始まりのポケモンもいないのだから、分身も体を持つことができないだろう。

 時間も同じだ。時間が"ない"とはどういうことだろうか?最初のポケモンが二つの分身を作り出すとしよう。このとき、最初のポケモンがいて、その次に分身を作り出した、と言うことができる。その次に、というのがポイントである。この神話には順序がある。順序があるということは時系列もあるだろう。時系列があるということは、時間もあるのだ。

 とはいえ、神話がおかしいと言いたいわけではない。

①我々の基準でまともに解釈するとおかしくなる。

②おかしな神話に人は付いてこない。

 ①と②を踏まえた私の結論は、今見ればまともではない解釈が、当時はまともだった可能性があるというものだ。それこそがこの神話の本当の意味なのだと思うし、それを考えることが、今は何より面白い。

 

 明日は雑誌の企画か何かで、マクロコスモスのナントカという人と少しだけ話す予定である。パックのロズレイティーを一杯作り、飲んで、寝ることにする。薫り高いが、やはりこれはアローラで飲むべきものだという囁きが全身を駆け巡った。アローラの澄んだ空気が恋しい! そんなに吸ったことはないけど。対談が終わったらエンジュに戻る予定だ。マツバ君におみやげでも持って行こうか。

 



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3.偉い人に会った/ガラルにて

〇月☆日

 

 ローズタワーという場所に呼ばれた。空飛ぶタクシーに揺られてシュートシティへ向かっている途中に吐きそうになってしまうも、思考に没頭したことによって気持ち悪さを忘れることができた。人間この程度のことはできるものなのだなあ、と驚いた。私が天才だからだろうか?その可能性も高いような気がする。

 モノレールから降りると、ずいぶんと凝ったデザインの塔が見える。二人の社員が出迎えてくれた。ミアレのとはどちらが高いだろうか。少なくとも外見はこちらのほうが凝っている気がするぞ。そう思いながら足を踏み入れると、内装も凝っていた!このようなエレベータがあるのか、とさらに驚く。驚いてばかりの一日だ。コガネのエレベータとは訳が違うんだなあ。このようなテックが使われているとは、知らなかった。見ると社員の二人は誇らしげにしている。まるで私一人だけが古代に取り残されたように感じた。自分が原始人になったようだ。どうせなら本当に神話が書かれたときに取り残してほしいと思う。そうすれば、思う存分研究ができたのになあ。

 さて、屋上にてローズ委員長と話した。何枚か写真も撮られたらしいが気付かずに終わる。彼の未来構想を聞きながらたまに神話のことを引き合いに出し、ごくごく平凡な感想を語っていただけ。それなのにえらく気に入られてしまったようで困惑する。SNSの広告で見た少女漫画の主人公はこんな気持ちなのだろうか。また俺何かやっちゃいました?

 冗談はやめよう。千年という話が出てきたため、時間についてその成立過程に対する考察を軽く語った時に、これだ、というような閃きがあった。それは感謝したい。ブラックナイトの話などは興味深かったが、それぐらいである。凄い人だなあ、とは思った。帰り際に握手を求められたので快く応じた。ふくよかで包み込むような手のひらだった。

 帰りにイイものをもらったが、さすがにこれを土産にするわけにはいかない。しかし大事に持っておくことにしよう。これを貰う途中に秘書がすさまじい目で睨みつけてきた気がしたが、おそらく気のせいであろう。気のせいだと思いたい。

 気のせいだったのだろうか。とにかく、モノレールに乗り、フレンドリィショップに寄る。今日はスタジアムにも行ってみることにした。

 スタジアムではキバナ君とカブ君のエキシビションをやっていた。私はポケモンバトルの方はあまりできずケーシィと共にテレポートで逃げ回ってばかりいたから、バトルの見方は全くと言ってよいほど分からない。言い訳ではないが、一念発起して強くなるぞ、と思ったことはあった。イツキ君に頭を下げ、ナツメさんに頼み込み、ゴジカ氏に縋りついた。結局全てうまくいかなかったので、もうしょうがないと思っている。あなたも同じことをやってみてほしい。たぶんできないから。できたらもう、すごく尊敬する。

 そういえば、勝負の行方に周りが白熱しているのに得体の知れない老人が一人棒立ちというのは気味が悪かったかもしれない。まあ、それでも良いかと思う。ガラルにおいてマクロコスモスグループの優待を受けられるというこのカード。私は本当にいいものをもらったなぁと、ローズ氏からもらったカードを眺めながら思索に移った。

 

 ローズタワーでのひらめきを思い出そう。シンオウ神話の「時間」と「空間」は文脈から考えるに、世界の側にあるのではなく私たちのほうに備わっている能力なのではないか。

 たとえ話をしてみると、こうなる。モモンの実がある。熟していて、カヌチャンの肌のように発色がよい桃色だ。だが、こだわりメガネをかけてもう一度見てみよう。赤いレンズのせいで、モモンの実はすっかり色あせて見えるだろう。そして生まれた時からこのメガネをかけている人は、モモンの実はこういう色なのだ、と思って生きていくだろう。

 ところで、我々にも同じことが言えるのではないか。我々は時間と空間があると思っている。しかし、本当は生まれた時から、時間と空間というメガネをかけているだけなのではないだろうか。

 奇妙な考えではあるが、私には不思議としっくりくる。ノズパズには磁力が感じられるが、我々には感じられない。我々は時間と空間を通して世界を見ているが、ノズパズは磁力で世界を認識しているのだ。神話を書いた人々は、まさにこのような感覚を持っていたのではないだろうか。そしてこの感覚の由来、源泉は、ディアルガとパルキアではないだろうか。

 ここまで考えた時、突然頭がしびれるような感覚を味わった。フィールドを見れば激しい砂嵐が吹き荒れている。砂埃のカーテンに大きく影を映したジュラルドンから、スタジアムを揺るがすような咆哮が響く。私は目の前の光景に心を奪われて、それに合わせて思いっきり腕を振り上げた。

 

 ということで、連載一発目はこれでおしまい。ガラルはなかなか楽しいところだった。先の対談は、原稿のゲラが送られてくるそうだ。あともう少しすれば雑誌が出る。すると、私はジョウトのじいさんではなくローズ委員長と対談したこともある偉い人という目で見られてしまうかもしれない。それは少し嫌なことであって、なるべく避けたい。ほとぼりが冷めたころにまた来ようと思う。次は冬ごろかなあ。多分、鎧の孤島にでも訪れることになるだろうか。中々に楽しみである。お土産を買うのを忘れたことに気づいたので、マツバ君にはこの得体の知れないカードでも渡そうかと思う。ガラルで贅沢ができるぞ。よかったなマツバくん。でも、他の人が使えるかは知らないぞ。



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4.エンジュの近頃/研究室にて

『モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。』のrairaibou(風)様から、無事連載許可というか、そのようなものを頂けました。本当にありがとうございます!『モモナリですから~』は本当に面白い作品なので(知名度の差から考えると、こちらからあの作品に飛ぶ人はあまりいないだろうとは思いますが)、未読の方は是非ご一読ください!


〇月□日

 

 無事エンジュに戻った。日常のささいな出来事に感謝するのが人として大事なことなのである。ちなみに学者として大事なことは、常に好奇心を持つことだ。

 ジムに立ち寄ってマツバ君にローズ氏から貰ったカードを渡したら、露骨に嫌そうな顔をされた。けっきょく私が持っていることになった。少しの間話して、それが終わったらケーシィに頼み研究室へテレポートする。お気に入りの椅子に腰掛けて、今日も色々考える。メリープの毛を加工したものが植えてあって、程よい刺激が眠たくなるのを防いでくれる。ぱちぱちと体に心地いい刺激。年を取ると思わずうとうとしてしまうが、この椅子ならばそれもない。気楽なものである。

 

 研究室で考えると、他と比べてある程度自分の考えが思い通りになる気がする。 今日は前回の日記で話さなかったこと、つまり心について書こう。

 シンオウ神話の大部分で共通する目的がある。それは、人間とポケモンの心について書く、ということだ。もちろん、その他の側面もあるとは思うが(民俗学的な、あるいは科学的な……)そちらは若い人々に任せたい。横から見る分には面白いけど、自分でやるとどうしても頭が痛くなってしまう。あとはそう、疲れるのだ。これは最重要問題である。

 ポケモンには湖の三妖精、というのがいる。アグノム、ユクシー、エムリットのことだ。一方シンオウ神話では、心の要素が三つに分かれている。記憶、意思、感情だ。

 人間がどのように世界を見ているかは、時間と空間を使っている、と答えられる。一方で、世界を見ているのはどんな奴か、と言われたら、これは時間と空間では答えられない。ここで出てくるのが心というわけだ。

 シンオウ神話では、記憶、意思、感情が心の材料だと考えられていたようだ。

「おそろしいしんわ」を引いてみよう。

 

「そのポケモンの目を見た者

 一瞬にして記憶がなくなり

 帰ることができなくなる

 そのポケモンに触れた者

 三日にして感情がなくなる

 そのポケモンに傷を付けた者

 七日にして動けなくなり

 何もできなくなる」

 

 目を見る、触れる、傷つける。ポケモンとの物理的な距離が縮まっているのが分かる。そしてその一方で、距離が縮まれば縮まるほど被害も大きくなる。

 注目してほしいのが、被害が出るまでの猶予期間である。一瞬、三日、七日、と、意外なことに伸びているのだ。これがざっとまとめた結果だが、この神話は一体何を表しているのだろうか?

 

 とまあ、かなり気になるところなのだが、今日は戻って初日なので早めに切り上げる。他の先生方に挨拶を済ませてから、夜中の焼けた塔に入ってみる。フヨフヨと浮かぶゴース達を眺めつつ、月明かりの差し込む方へ。足元がおぼつかないけれど、ケーシィがいるため安全だ。月の光が焼け落ちた壁の方から、忘れられた思い出のように降り注いでいる。薄紫色の霧が漂っては消える。あのようなガス状のポケモンにも心が宿っていて、私と同じように物を見ているのだから、驚くべきことだ。若い子供たちも同じようなことを思うのかなあ。いや、たぶん、ゴースに見えている世界と私に見えている世界は、本当に同じ世界なのかしら、なんてことも思うんだろうなあ。

 自販機で買ったおいしい水をちびちびと飲んだ。なかなかうまい。水だから、月見酒ならぬ、月見水、ということになる。最近は様々な地方を行ったり来たりしているが、この街も、この味も、本当に変わっていない。大人の皆さん、若い世代がこの水で焼酎を割れるようになるまで、変わらないことを願おうじゃありませんか。




ところでrairaibou(風)様のその他の作品を読んだことがない方は、是非お読みください!


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5.大学教授の日々/研究室にて

〇月△日

 

 この前は思いの外センチメンタルな文章になってしまった。月の出る夜はどうしてもああいう、おしゃれっぽいことを書きたくなってしまうのだ。あとは桜が咲いているとき。文藝ラプラスってそういう雑誌でしょ、というイメージが抜けない。年を取ったなあ、と自分でも思うが、仕方がないことだ。どうしても涙腺は緩くなってくるのだから。

 さて、今日はじとじとと雨が降り続いている。講義を終えて、背もたれを思いっきり後ろに傾ける。研究者とは思えない姿勢だが、このように座ると丁度外の景色が見えるようになっているのだ。二つの塔が奥の方で風流にたたずんでいて、思わずため息をつく。美しい景色だ。エンジュ大学に着任してよかったことは?と聞かれたら、二番目か三番目にこれを挙げると思う。一番目を知りたければこの雑誌を定期購読されるとよいだろう。ネタが切れたら書くから。

 アウトドア派なので、雨降りだと散歩の時間が空く。仕方がないから机の本を手に取って読みはじめた。

 壁が空いていればそこに本棚を置いてしまうのだが、それもすぐに埋まる。やがて壁一面が埋まる。学者は本を読まなくなったら終わりなのだ。こうして行き場の無くなった本は机に積まれることになるけども、机に置くならよく読む本の方がよい。そういうわけで、今は積まれた本を読んでまた積みなおし、またまた読むということを繰り返している。たまに本の塔を崩してしまう。処分しようにも難しい。どうしたものか。

 

 シンオウ神話で記憶、感情、意思と表現されるものは、今使われている言葉とは意味が違っている可能性がある。昔の人々と我々との間で、言葉の意味が変化しているかもしれないではないか。今回は、昔の人が記憶という言葉で何を意味していたのか、考えてみよう。

 まず、記憶というものがある。これは過去のものだ。未来の記憶とか、現在の記憶とかは言わない。それは未来予知や感覚と呼ばれるだろう。

 しかし、過去という概念があるのは、私たちが記憶を持っているからではないだろうか。記憶は過去のものだが、それがなぜ過去と分かるのかと言えば、それが記憶されているからだ。

 今ではないものが過去だ、と答えてみよう。しかし、記憶がなければ今ではないものなど存在しない。だが記憶とは過去のものだ。これでは堂々巡り、循環論法になってしまわないだろうか?

 

 しばらく悩んでいると、机の隅でピコンと電子音が鳴った。研究室で考えごとはテーマが自由なのだが、その分変な穴にはまることがあって疲れる。

 スマートフォンを見ると連絡が来ていた。受信ボックスには予備審査会の日取りが決まったとか、お土産はまだかとか、オレンジアカデミーへの出張講義がウンヌンとかのメッセージが溜まっている。古いものだと一時間前に届いている。時間が経つのは早いなあ、と感じる。

 作業をこなしているうちに、ガラルから先の対談のゲラが届いた。電子書籍でも出るらしく、立派なことである。紙面ではどうなっているか分からないが、スマホロトムの液晶では毛が薄くなってきた頭頂部がうまいこと隠れる。思ったより私も若く見えるぞ。カメラマンがうまいのだろうか。なんだか知的な雰囲気だが、本当ならこんなことをする必要はないのになあ、とも思う。大企業のまとめ役、しかもガラルの人気者だ。その人が何を考えているかは当然ガラルの皆に、つまり一般の人にこそ知らせるべきことではないだろうか。インテリ向け、意識高い系を気取るのはどうなのだろう。

 とはいえ、確かに好き好んでガラル史を学ぶ人は少ないだろう。もっと面白い本が出ていればよいのだが。前提知識がある程度必要だから、やはりインテリ向けなのかなあ、と思い直した。ムカッときたら後で分かりやすい本を書けばよい。シキミさんにでも教わりに行く。シッポウシティに行くのもよい。

 対談の内容はあまり変わっていないが、読み終わったときの私の感想はだいぶ変化した。千年後の話はちょっと、あまりにスケールがデカいよ。世界の始まりほど壮大ならよいのに、微妙に現実的な数字で反応に困る。千年もあればエネルギー問題解決してたり、逆に世界が千年経つ前に終わったりするんじゃないのか。

 

 考えるうちにますます分からなくなってきた。今夜ははじまりの神話を読み返すことにしよう。旅行計画でも立てて気分をすっきりさせねば。アルケーの谷にでも行ってみようか。

 



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6.そうだ、散歩に出よう/研究室にて

〇月☆日

 

 本日はアタマを休め、あまり考えない日にする。もしかするとご存じない方もいらっしゃるかもしれないが、本気で頭を使ってものを考えることは大変な仕事である。真理への険しい道と、進みやすい一時的な解決への道のどちらを取るかと問われると、想像の上では我々はゆうかんに真理への道を選ぶ。しかし実際進みやすい道の誘惑に抗うのは難しい。たいていの場合は進みやすい道を選ぶ。私なんかは毎回、進みやすい道に流されている。誘惑に弱い男だから。

 もちろん進んではいるのだ。後で戻らなければいけない、という点を抜きにさえすれば……進んでいるという実感に惑わされ、実際は同じところを堂々巡りしているだけだというのに、「今日はよく考えたぞ」などと思ってしまう。私は特にそんな時が多く、ここに文字を書いていない日は大体がそのような感じである。そしてその度にこう呟くのだ、何も考えることができなかった、と。今日はその習慣を覆して書く。以上をお読みの方ならわかるとおり、締め切り前に無理やり書いているのだ!

 一人研究室に籠って、ラジオとテレビを同時に聞いている。一つはカロスのアニメーションで、もう一つはお馴染みコガネシティのドラマである。連続ラジオドラマと子供向けアニメーションを見ながら、物語について色々と思う。

 物語には色々な思いが込められている。子供向けアニメでアルフの遺跡が出てきたとしても、文字は明らかに古代語、アンノーン文字ではない。子供にも読めるよう、既に翻訳されているのだ。伝わらなければ意味がないからだ。

 そう考えると、神話にもそういった側面はある。子供向けということはないにせよ、様々な側面が絡み合って、一部が歪んでいる可能性はある。それを解明するのは大変な作業だが、できればそうであってほしいと願う自分もいる。現状に甘んじることなく、徹底的にこの構図を揺り動かし、探求し、解明する。出来ることならその闘争の内に研究生活を終えたい。少しぜいたくだろうか。

 

 時が経ち、オーキドはポケモンバトルをやめてしまった。キクコも今は後進の育成に努めているようだ。そういった意味では、私だけが子供のころからずっと辞めていない。ロトムにこのことを呟いてもらうよう頼んだ。マウントを取るのである。炎上するかもしれないが、関係ない。少しずつ拡散されていくのを眺めつつ、私も大分SNSの使い方がうまくなってきたぞ……とニヤニヤ。すると、突然ケーシィに背中を蹴られた!やめておけ、とでも言いたげな目をしている。昔からの付き合いだが、こいつも大概元気である。こんなに長く生きていていまだに進化の一つもしていないというのは、逆に誇るべきことなのかもしれない。

 急にものすごい数字の呟きが流れてきた。ナンジャモという女の子が炎上しているらしい。急にあほらしくなってPoketterを閉じた。はいはい、インフルエンサーインフルエンサー。ケーシィからはものすごい目で見られた。

 アニメもラジオも終わったので、テレポートを使ってもらう。今日はなんだか気分がよい。ウツギくんの研究所の近くまで足を伸ばして、そのままぶらぶらと歩く。

 途中で赤髪の少年と目が合って、バトルを申し込まれた。普段は絶対にバトルなんかしないけど、今日は気が大きくなっていたのか、受けることにした。今思い返すとぞっとする話である。

 彼はワニノコを使っていた。一人と一匹、どちらもいい目をしている、と思った。若い頃のオーキドか、あるいはレッドの再来か。もっと例えるにふさわしい人がいたような気もするが、誰だったか……ともかく、強くなりそうで、将来が楽しみな顔立ちだった。

 ひさびさのバトルだったが、私が言うべきことは特にない。あたりまえの結果だが、テレポートとめざめるパワーでふつうに勝ててしまった。彼はよいトレーナーで、指示も的確だった。ただ、やはりポケモンの経験の差は大きい。初心者狩りのようで申し訳なく思うが、今頃はさんざん陰口をたたかれていることだろう。()()()()である。賞金に50円もらい、代わりにおいしい水を一本あげた。子供からおこづかいを貰うのも忍びないが、賞金を受け取らないのも失礼だろう。頑張ってねとだけ言い残し、テレポートで古都になじむ控えめな色合いの、エンジュのポケモンセンターに戻った。実は一発だけ水鉄砲をくらっていた。

 ポケモンバトルでも若い世代は育っているのだなあ。研究に興味がある子も、このように増えていればよいのだが。今日はなぜだか清々しい気分である。それにしたって、今日も、何も考えることができなかった!明日はよく考え、研究向きなくら~い気分を取り戻すとしよう。今夜は温めたモーモーミルクを飲む。やわらかい熱が体の中にじんわりと広がり、よく眠れそうである。



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7.早とちりにご用心/キンセツにて

情緒不安定回です


〇月△日

 

 指のかさぶたを気にしていたら、いつのまにやら飛行機の後輪がキンセツシティはずれの滑走路にふれて、ガタリと上下に揺れる。顔をあげて窓の外に広がるホウエンの景色をじっくりと眺め、ある鉄塔にまで視線が行き着くと、その上に黒い豆粒のような影が見えた。人だ!両手を広げて危ない足場に立っている。あの高さから落ちてはひとたまりもないだろうが、大丈夫なのだろうか。不意に、自殺、という二文字が頭をよぎった。まずいと思い、年齢に痛む膝を叱咤しながら、急いで空港を出た。

 少し前、オダマキくんから研究所に来てほしいというメールが届いた。添付されていた映像を確認すると、二人の子供がポケモンとたわむれている。取っ組み合ってどろんこになり、勉強もせずかけっこに夢中だ。

 ニョロモの子はニョロモで、どうやらオダマキ君はこの二人の子供にほとほと手を焼いているようだ。私もヒマではないが、思いがけない機会と穏やかな陽気に誘われて、こうしてホウエンにやってきた。それを見るまでは、ビバ、ホウエンという気持ちだったのだが。

 やんちゃな子どもの遊び相手と、流星の滝でみつかった資料を調査するのが元々の目的なのに、思いがけない目的がふえてしまった。目的は分からないものの、予想が当たっていたら私は一生後悔する、と思った。とにかく、止めなければ!

 いそいで捕まえたおんぼろのタクシーはものすごい音を発し、車は縦横にがたがた揺れ続け、車内には恐ろしいほどの埃が舞う。とても鉄塔の側まで乗っていられず、運転手に言ってまだ誰もいない道端で降りた。小銭を払う時間も惜しい。多めに払ってそのまま走る。

 膝がじんじん痛むし、息が切れて苦しい。汗で髪の毛がじっとりと湿って、頭皮にまとわりつく。ヒルズにかけこみ、前かがみになってどうにか呼吸を整えることができた。階段をのぼって屋上へ急ぐ。もう飛び降りているかもしれないと思ったが、なんとか間に合ったらしい。もし飛び降りていたら、近所の人が悲鳴をあげていただろう。

 屋上には警備員と、他にも一般の人がいたけども、その全員が鉄塔にいる人物を全く無視して思い思いに行動していた。すこし驚きながら人々を観察すると、彼ら彼女らはなんの心配も抱いていないようだ。いつも通りで、むしろほほえましい光景でさえあるかのように鉄塔の方に目を向けている。私も改めて鉄塔の方に目を向けると、そこにいたのはヒワマキシティのジムリーダーであるナギ氏であった。なんだか心配になって、近くにいた男性に話を伺うと、彼女はどうやら風を感じているとのことである。この街の人ではないようだから、勘違いするのも当然だ、と彼は笑った。とたんに疲れが押し寄せてきて、くたくたになった体をベンチに預けた。よかったはよかったが、未だに納得がいかない。かん違いした自分が悪いのは間違いないが、それにしても……なんか……こう!

 少し回復してから、ナギ氏本人にも話しかけ、なぜ鉄塔に上っているのかを聞いてみた。だいたい男が語ってくれた通りだった。危なくはないのか、と聞いてみたら、次のような答えが返ってきた。なんでも、自分が風と調和している限り、この鉄塔から落ちることはない、ということらしい。大空と一体になっている限り。この一言に、私はジムリーダーとしての矜持と、美学を感じた。皆さん、キンセツシティの屋上でナギ氏を見つけても焦らないように。私みたいになっちゃうから。

 さて、その後はあのくたびれた男のことが気にかかり、彼がなぜここにいるのかについても色々と話を伺った。面白かったが省略させていただく。それは、ここには到底書くことのできないものだ。夕暮れに佇む彼の姿には人生の哀愁があった、とだけ書いておく。話の内にテッセン氏の名前も出てきた。すごい話を聞いてしまった。連載がなければ、この人に話しかけることもなかったのかもしれない。偶然とは面白いものだ。

 

 ここでシンオウ神話の話をしよう。「面白い」と思えるのは、我々に心があるからだ。前回は記憶についてぼんやりしたことを書いたが、今回は感情について考えてみよう。

 前回の記憶は、実はまだ十分ではない。記憶は、まず""そのまま""記憶される。このままでは何の意味もない。ただ空間と時間の中に何かがうごめいているだけである。その記憶にラベルを貼り付ける働きをするのが、感情だ。

 心について考えてみよう。AならばBということを考えよう。Aを見た時に、これはBだという結論にたどり着くためには何が必要だろうか?

 まずは、AをAだと理解できることが必要だ。これができないと難しい。しかし、それだけではダメだ。AならばBだ、ということも知っていなければならない。

 私見では、AをAだと理解することが記憶、AならばBだと知ることが感情に対応する。

 記憶は、本をただ空間と時間の中にある、立方体として記憶する。それを感情の力によって、これは四角くてページがめくれる、だから本だ、と思うのだ。そして、そうやって得た世界を解釈するのが意思の働きだと、私の解釈をざっくり言うとこうなる。意思については次回。

 

 キンセツシティから研究所へ向かう。キャンプをしてもよかったが、今日はコトキタウンのポケモンセンターに泊まることにした。素朴な建物がぽつぽつと並んでいる。あかり少ない町の花を、月の光がやさしく照らしている。キンセツならば見えなかっただろう、ひかえめに輝く星が美しい。スバメが飛んでいくのを見て、無性にさみしくなった。

 こういった自然に触れると、たまに自分が何をやっているのかわからなくなる。他のポケモンたちと触れ合い、リーグに挑み、旅を続けた方がよかったのではないか。同じ思いを抱えている人が、きっと読者の中にもいるだろう。おセンチな気分なので少しだけ書く。皆さんにはそういう寂しさを大事にしてほしいと思う。その寂しさが世界を支えている。その中にはきっと、あなたのものも少し入っているだろう。




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8.少年ふたり/キンセツにて

〇月□日

 

 朝起きるとひどく喉が渇いていた。天気は快晴。ガラス越しにぎらぎらした日差しが照りつけている。目に染みこんで溶けてしまいそうな青空に新緑が映え、花々は光を浴びて色とりどりに顔を輝かせる。うら若きかけ出しポケモントレーナーに交じって、壮年のポケモンブリーダーやテレビ局のしたっぱなどが顔を出し、センターの朝食を食べながら談笑している。希望に満ちた光景だが、今はどうもそんな気分ではない。喉が渇いている中で、ポケモンセンターの少し乾いたパンを食べるのは中々苦痛である。若いころはこれで元気百倍になれたものだが、年を取るとは恐ろしい。ぼそぼそとパンをかじる。迷惑じいさんへの道を踏み出したというおもむきがある。あとジムバッジ7つで晴れてチャンピオンだ。

 もしゃもしゃとパンを食べていると、横から手がにゅっと伸びてきた。にぎられているのはサイコソーダの瓶。緑髪の気弱そうな少年だ。飲んでいいのかいと聞いたところ、彼はこくりと頷いた。大人のプライドが邪魔をしたが、やはり私の本性は下品なようで、一度飲んでいいとなると遠慮なしにごくごくといってしまう。さらさらと喉を通る清涼な水分、泡が弾ける際のエスパーな感じ、ふわっと鼻を抜ける爽やかな甘み! あれほどすばらしい瞬間はなかなかない。彼に名刺を渡して、困ったら連絡してほしい、と改めてお礼を言った。

 すっかり気分がよくなって、ポケモンセンターの醍醐味である雑談に交じってみた。サイコソーダをくれた彼にもいろいろなことを聞く。するとどうやらポケモンを持っていないらしく、お礼にケーシィを見せてみることに。エスパータイプに何か運命的なものを感じているのか、尻尾を捕まえようとする姿が非常に愛らしかった。立派になった姿を見たいものだ。

 コトキタウンの広い自然に別れを告げミシロタウンへと向かう途中、101ばんどうろでオダマキ君がグラエナたちに追われているのを見つけた。この子らを追い払ってくれと言われたものの、どうも私のケーシィでは相性が悪い。仕方なく、テレポートでオダマキ君を連れて再びコトキタウンへ戻る。つい先ほどセンターを出たばかりなので、非常に気まずかった。

 

 オダマキ君はとても変わった人間であり、各地方を代表する博士との交流もなくこうして日夜フィールドワークに勤しんでいる。前述の通り家庭もあって、研究にかけても疑う余地のない才能がある。このように間抜けなことをして、何か間違いがあったらどうするのかと私は心配なのだが、当の本人はいや助かりましたよハハハ、となんとものんきなことを言っていた。大物である。

 それで私を呼んだ理由について聞いてみると、自分の子供たちにはどうもバトルの才能があるようだから、今のうち最低限ほかの教育を済ませてしまいたい、とのこと。最近はどの地方も物騒であって、その時にあたふたしないように色々と教えてほしいそうだ。オダマキくんは私のことを家庭教師か何かだと思っているのかもしれない。承諾こそしたものの、遺憾である。

 さて、しばらくはホウエンで泊まることになる。それが終わったら、久々に家で懐かしの手持ちとゆっくりしたいものだ。

 

 

 

〇月☆日

 

筆者コメント

『6.そうだ、散歩に出よう』にて書いた赤髪の少年が何かしたらしく、国際警察に呼び出されました。ジョウトに戻ることが決まったので、詳細は後日ということになります。編集部の皆さん、うまくやっといてください。私はこの事件に何ら関与しておりません。無罪です。ホントだってば!

 

 



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取調室の風景/神話を論じる幕間

今回は番外編です。小説回。飛ばしても特に問題はないです。


取調室の風景

 

 国際警察は、通常ならば来るはずのない客人を迎えるために、それこそきりきり舞いにかけずり回った。なかでも下の役職に就く黒髪の女は、まるまるとした笑みを浮かべる老人を個室に案内し、コートを脱ぐのを手伝ってから、今度はけたたましく鳴り響く電話の対応に迫られている。現在このような状況で、エンジュ大学文学部教授シュロ・トクジを迎えるというのは、それなりに大事だったのである。

 現在調査中なのは、ギンガ団が行った、また行うであろう数々の悪事であった。建造物の占拠、脅迫、破壊工作。表向き宇宙エネルギーの開発を謳う研究機関として発足して以来、だんだんとその頻度は増してきている。シンオウ地方だけかといえば、そうでもない。ロケット団、マグマ団・アクア団の対立、プラズマ団にフレア団にエーテル財団にマクロコスモス傘下の一部企業……国際警察がこれほどまでに忙しかった年があっただろうか。

 そんな中で、この老人は今や重要人物の一人になった。狙われる理由は二つほど。一つ目は、各地方の神話の知識を持っていること。ホウエン・シンオウでうごめく組織にとっては、喉から手が出るほど欲しいものだ。そして二つ目は、運悪くロケット団ボス、サカキの息子と関わってしまったこと。騒がしくなるのも無理はないというものだ。

 取調室の壁は厚かったが、あいにく断熱性能は高くない。

「あれですね、なかなか寒いんですね」

 雪の降りしきるシロガネ山の麓で、シュロは女に話しかける。寒さで声が震えるし、新人らしき女は緊張しているのか何もしゃべらず、数秒おきにドアの向こうを確認している。

「あの、よろしければドアを閉めていただきたいんですが」

 黒髪の女がシュロの方を見つめる。くりくりとした真っ赤な瞳に、艶やかだがここ最近ストレスが溜まっているのか、少しだけ乱れた黒髪。スーツの胸元には国際警察のエンブレムと、ドラゴンの意匠が輝いている。

 彼女はドアの方を向き、もう一度シュロの方を見てから、ふるふると首を横に振った。

「閉められない、ということでいいですか?」

「申し訳ありませんが、そういうことです」

 困ったな、と老人は肩を落とす。女はそんな様子を見て、机に置いてあった取り調べ用のランプをそっとシュロの手に向けた。

「これ、よかったらどうぞ」

「……?」

 言動の意味が分からず、シュロは困ったように笑みを浮かべた。

「こうやって、光に手をかざすんです」

 そう言って国際警察の女はランプの光に手をかざした。

「はあ」

「このランプ、光量が強くて暖かいんです。どうですか?」

「……まあ、ちょっと暖かいですね」

 ランプの光と熱が、彼の手の冷たさを少しずつ和らげていく。国際警察の女は満足したような笑みを浮かべて、再びドアの方を気にしだした。

 国際警察の女は、もう一仕事終えた感じを出している。変な取り調べ担当を引いちゃったな、とシュロは思った。

 それから十分ほど経っただろうか。廊下の奥から、コツコツと硬い床を叩く足音が聞こえてきた。中年の男が歩いてくる。切り揃えた髭と、肩にかかるぐらいの髪が特徴といえば特徴だろうか。彼は部屋に入るなり肩を震わすと、モンスターボールを投げた。出てきたのはブーバーン。シュロは手をランプの下から離し、ようやくこの部屋もまともになった、とほっとしたような面持ちになった。

「や、どうも。何年ぶりですか? 二十年ぶりくらい?」

「おー、誰かと思えばカワムラ君か!国際警察に就職したんだ。可と不可をさまよっていたあの男が立派になって……」

「よしてくださいよ、もうすぐ43です」

 そう言ってカワムラと呼ばれた男は笑った。鼻が大理石の柱のように真っすぐ通っている。中年太りの気配はあるものの、未だ鋭く開いた眼と眉の距離は近く、目を細めた時の顔立ちには繊細で物憂げな美しさがあった。

「それぐらい経つかなあ。しかし国際警察とは、大学のころでは考えられない」

 シュロが再び口を開く。男の隣で、黒国際警察の女は平静を装っているものの、どこかもやもやとした表情が浮かんでいる。どうも、カワムラへの悪口に腹を立てているらしかった。

「あの頃からおかしな生徒だったが、まさかね……ああ、それでだ。あの赤毛の子がどうかしたのかね」

 カワムラは女性に目配せした。

「ウツギ博士のポケモン研究所から、誰かがワニノコを一体盗んだようです。その際に窓ガラスや研究資料等も一部破損しています。調べた結果、あなたが雑誌にバトルの一部始終を載せた赤毛の少年であることが判明しまして」

 ここまで言ったところで、カワムラが目で制した。

「ま、それもあるんですが。この機会に色々済ませておこうと思いまして」

 どうやら長くなりそうだぞ、とシュロは思った。親指と人差し指で眉の付け根を抑え、ゆっくりと揉む。随分硬くなっていた。

 しばらくは捜査に関係のない、思い出話が続いた。カワムラの大学時代の話や国際警察に入って驚いたこと、シュロの近況など。珍しく、笑い声が取調室に弾んだ。国際警察の女がカワムラのことをとても気にかけていた、という話題に差し掛かったところで、彼女が強引に話を切り替えた。

「よっぽど恥ずかしいのかな」

「さあ?誰にでも触れられたくないことの一つや二つはあるもんでしょう。特に()()()……彼女の名前ですが、シガナはFallですから」

 カワムラはここまで言ったところで、ハッとしたように彼女の方を見た。

「シガナ、これ言っちゃダメな奴だったか?」

「一番言っちゃダメな奴です」

 シュロが口を挟んだ。

「その、Fallっていうのは?」

「えーと、何と言いますか」

「絶対言わないから、教えてもらうわけにはいかないかね」

「駄目です。忘れてください」

 シガナ、と呼ばれた女性の声には、こんな高い声のどこに、と思うような有無を言わさぬ迫力が籠っている。どうやらダメらしいと悟って、シュロはすぐに引き下がった。しかし忘れる気はさらさらない。Fall。後で考えよう、と老人は心の中で笑みを浮かべた。

「では、真面目な話に移りましょうか」

 カワムラが苦笑いを浮かべて言う。

「実はですね、あの少年……シルバーという名前なのですが」

 口をもごもごさせた後、彼はすぐに言い足した。

「どうやらロケット団のボス、サカキの息子らしいのです」

 シュロの椅子ががたんと揺れた。だが、驚愕の表情は一瞬思考を巡らせた後、すぐさまワクワクするような顔に変わる。ピューと鋭く伸ばした口笛の音が、見た目に反して温かい取調室に響いた。

「それは、なんというか……」

 老人がつぶやいた。面白くなってきたぞ、と言いたげな雰囲気だった。そこからはまあ、長かった。

 ほっそり痩せた老人である。荒く剃られたひげに、深い皴の入った顔。ボリュームのある白髪が少し目立つ程度の、普通の人。しかし今彼の顔、その中でも赤茶色の目が、子供のように輝きだした。

「それで、どうするのかね?いずれにせよ面白くなるだろう。幸い、ここはかの少年がいるシロガネ山の近くだ」

 男はシュロの笑いが収まるのを待ってから、声の調子を落としてささやく。

「シルバー君はロケット団に強い反抗心を抱いているようでしてね。我々としては好都合です。先生には悪いですが泳がせておきます。優秀な部下から、他の組織も忙しくしているとの報告を受けてますからね」

 娘は青白い顔を赤らめ、俯いた。

「そうだったよな、()()()?」

 シガナと呼ばれた女性はてれてれ笑って、それからハッと気づき顔を見られまいとしたのかそっぽを向いた。

「シュロさんとシルバー君の関係ですが、形式上お話を伺う必要があるんです」

 彼女は咳払いをして、メタモンのような目で話し始める。

「特に関係はありません。偶然です。これでいいかね?」

「では、結構です。ご協力ありがとうございました」

 シュロはその様子に堪えかねて、噴き出した。

「国際警察には、意外とずさんなところがあるらしい」

「調査がしっかりしてるからです、現場じゃその分忙しいんでね……さて、形式上、あと一週間はお話を伺うことになります。それでなくとも、色々とありますので」

「一週間ねえ」

「仮にもギンガ団とロケット団に睨まれてる訳ですからね。それなりにいい部屋もありますんで、ご勘弁願います」

「それはありがたい。最近じゃポケモンセンターの布団が体に応えるようになってきた」

「ここで話した内容に関わるもんじゃなきゃ、原稿を書いてもいいんですよ」

「チェックはしますからね!」

 カワムラが何でもないことのように答えて、シガナが慌てたように付け足した。シュロはあははと笑って、愉快そうに言った。

「チェックの必要はないかな。今月はちょうどネタ切れでね」

 

 その後、ギンガ団とロケット団残党が他地方にまで出張って老人を探し、途中衝突したとの知らせが入った。シュロはまた愉快そうに笑っていた。久々に羽を伸ばして、神話について考えるのが楽しくてたまらないらしかった。

 施設から去る日に、老人は二人のほかにも仲良くなった国際警察の個性的な面々の顔を思い返しながら、高いシロガネ山を見やった。ざわめく世界から切り離されて、シロガネ山には静かな時間が流れている。また雪が降りだしていた。ひらひら舞う銀色と白の雪が、山頂をその名の通り壮麗に飾り立てている。山の急斜面の隅々まで、荒々しいリングマの眠る大岩に舞い降り、静かに水を湛える洞穴に舞い降り、暗く逆立つ二番目の頂にそっと舞い降りている。ドンファンが踏み荒らした草むらに、バンギラスが削りとった更地に、ハガネールが掘り崩した一角に、ひらひら舞い落ちては厚く積もっている。視界の端で、ちらりと炎が揺れた気がする。

 雪がかすかに音立てて空の彼方から舞い降り、私の頭に、外套に舞い降り、強いポケモンと弱いポケモン、まだない心とすでにない心、その全てに舞い降りる。

「ロトム、写真を撮ってくれ。飛び切りの一枚を」

 シュロはそう呟いた。また、何かが始まるような気がしていた。

 

 

 

神話を論じる幕間

 

「シュロさん、そろそろ混乱してきた人もいるでしょうから、ここらでちょっと神話考察の概略を書きませんか」と提案された。理由を尋ねたところ、どうもこのエッセイ、私の過ごす日常を楽しみにしている人が九割、神話に関する話を楽しみにしている人が一割、という感じらしい。いやいや嘘でしょ、と思ったが、実際アンケートにはそのようなご意見ばかり寄せられている。はじめはそのお説教を楽しみにしている人もいたようだが、話が進むにつれその割合が減っていることが読み取れる。読者の皆さん、申し訳ありませんでした。そういうわけで、今回はなるたけ簡単な言葉で私の考えの大まかな説明をさせていただきたいと思います。短めに、と言われたため、それは短めに。

 それにしても、誰も理解できないことを書いたって自分が滑稽になるだけだ。普通の人なら高等な教育をひけらかしていると思われるだろう。でも私は高等な教育を食い扶持にしているから、別に何とも思わないもんね!

 

 はじまりのはなしを大雑把に解剖すると、今はどうやら神話的な創世記、哲学的な認識能力の話*1、科学的な宇宙の誕生*2という三つの要素が複雑に組み合わさってできているように思えます。特に、哲学的認識と科学的宇宙の成り立ちが混ざり合っているとするならば、これは非常に難しい。古代に現代レベルの科学力があったとは到底思えないので、望み薄ですが。それこそセレビィやディアルガの力でも借りなければ確認のしようがありません。しかし、奇妙な一致が見受けられるのは本当です。先日、はじまりのしんわは人間の始まりの神話であると書きましたが、もしかすると全ての始まりの神話だったのかもしれません。おおむねこのような感じで、これからは人間の認識能力を神話に絡めつつ、その限界を探っていくことになると思います。次回はどこに行こうかな。生きていれば、ホウエンに行きたいね。

 

◯月△日 シロガネ山の麓にて著者しるす

*1
『はじまりのはなし』は、ドイツのカントという哲学者が書いた『純粋理性批判』という本と内容が似ています。

純粋理性批判の解説:本書いわく、人間の認識(シンオウ神話ではおそらくこれが心と呼ばれているのでしょう)は感性(外部データを受け取る能力)・悟性(外部データを把握、記述する能力)・理性(これらのデータから全体性を見出す能力)と呼ばれるものから成り立っています。

 

感性の基本的な枠組みは時間・空間です。そして、感性の枠組みから外れたものはそもそも認識できません。そういうものは"物自体"(何かがある、ということではなく、認識できないものをまとめてそう呼ぶというのがミソです。つまり無でも我々にはそう見える、ということもありえる)と呼ばれます。筆者はギラティナが物自体に対応するんじゃないか、と踏んでます。

 

悟性の基本的枠組みはカテゴリーです。カテゴリーというのは、世界の状態を言葉で表せる、概念にするものです。これは自身の仕組みに従って勝手に働くため、理性が正しく処理できない変なものを生み出してしまうこともあります。

 

理性は全体性を見出す能力です。基本的枠組みは科学法則でしょうか。悟性により把握された概念を法則や理論に当てはめ、概念同士を結び付けて世界を理解しようとするのです。しかし、人間の理性には、世界をさまざまに系統立てようとする中で、悟性が生み出した変なものに惑わされて答えの無い問題にあたることがあります。人間の認識能力には限界があって、その点ではヒトもまた法則に従ってるね、という感じですね。でも、限界があっても理性ってやっぱりすごい。これを使って、我々に何かできないでしょうか。

 

そこでカントは、理性を使って、世界が何かって考えるより、道徳って何だろう、どうすればよく生きられるんだろうって考えようぜ(俺が考えるとこうなるよ)ということを示そうとします。ここからは別の本『実践理性批判』の話になってしまうので止めますが、このように道徳、認識と深く結びついたカントの哲学がポケモンに混ぜ込まれることに、あまり違和感はないと思います。間違っている点は多々あると思いますが、とりあえずこのような感じです。

*2
あまり詳しくはないのですが、宇宙の始まりの際には、時間と空間の区別もない世界で超ミクロな時空が生まれては消滅を繰り返していた、という仮説が立てられているそうです。ここから先の話も面白いのですが、うまくまとめられる気がしないので省略します。とにかく、超ミクロな時空からビッグバンへの移行という仮説と、時間が回り始めた、空間が広がり始めたという描写を重ねることができないか、と現在模索しています。




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9.難しい話をしたい日もある/エンジュ大にて

ちなみに今回はストーリー的な進展は(あまり)ありません。しかし、神話理解のためには結構重要かつ非常に入り組んだ議論をしています。


まえがき:あらかじめお断りしておくが、国際警察の取り調べを受け、〆切が極限まで迫っていて精神的に追い詰められていた時の原稿である。学者っぽい書き方が前面に出ており読みづらかろうと思うので、疲れている方は飛ばしてくれて全く構わない。もっと別なことをして楽しむべきであろう。私は最近インテリアに凝っている。滅多に帰らないのだが、家がきれいだと嬉しいものである。

 

〇月

 

 今月は非常に疲れているため、手帳を開くのは今日だけであろう。故に日付も必要あるまい。例の如く国際警察というのは秘匿性が高い組織で、取り調べの詳細については語ることができず、よって沈黙するしかない。推して知るべし、である。ともかく知る人ぞ知る、カントーとジョウトの狭間にある支部での一週間の取り調べを終えて、今朝エンジュに着いた。なぜこんなに長いのか?大人の事情が絡んでくるため、お答えできかねる。

 思い返せばホウエンは暖かかった。連日気温は二十度を上回るが、かといって居心地の悪い暑さになることはない。澄んだ空気に陽の光がきらきらと舞い、生気に満ち溢れている。何ごともない日は、その陽気に誘われるように公園に入り込み、地面いっぱいに詰め込まれた草花に囲まれたベンチに陣取って読書に専念する。国際警察の一人である男に肩を叩かれたのはそんな時であった。

 施設滞在中は専らホウエンポケモンリーグの生中継をテレビで観戦した。カゲツ氏と名も知らぬトレーナーが戦っている。現状をじっくり観察すると、どうやらカゲツ氏のサメハダー優勢である。

 ホウエンリーグといえば、と数年前に銀髪のイケメンが当時のチャンピオンを下した直後のホウエン地方内の熱狂振りを思い出した。少し前にマサラタウン出身の少年がロケット団を壊滅させ、あざやかにカントーチャンピオンの座を掴み取った時も、イッシュのカラクサタウンでゲーチスがどす黒い野望をひた隠しながら「ポケモンを解放してこそ 人間とポケモンは対等になれるのです!!」と絶叫した時も、群衆の大喝采はこの通りだったのだろうなあと思う。

 

 ぼちぼち脳を切り替えて考えよう。資料無しに記憶―感情―意志/ユクシー―エムリット―アグノム、の関係を完成させてしまうことは危険なので、一度神話から離れて時間と空間について実践的に考えてみることにしているが、そうすればする程シンオウ神話の製作者は天才だということが分かる。日々刻刻、自然と戯れ概念と格闘して生きている。考えれば考える程、天才だなあと感嘆しながらも、それでもやはり解明されるべき点は山ほどあるなあと驚嘆する。正確に言い直せば、解明されるべき点を明らかにしたという功績の中に天才的な体系性と力強さがあるのだ。まず世界をモデル化し(ここに目を見張るような天才性がある)、そのモデルの中で精密極まる体験と言語を駆使して、問題を彫り出し続けるのである。

 時空を語る糸口は、実は空間の方にのみ存在するのではないかと思う。私はテレポートを使用して勤務先に通っているので実感はなかったが、この部屋へ来るときに突然、この部屋から見た外の空間と、この部屋を見ていた空間が同じものであることに気付く、といったことがあった。景色がかなり違うのだからそれも当然のことではあるが、しかしそれならば、どうやって全く違う景色について、実は同じ場所を見ているものだと気づけるのか。

 外からの景色と部屋からの景色は明確に違うのだからそれは別のものと言ってもいいはずであるし、そちらの認識の方が自然であり、健全で、余計な手間が加わっていないはずである。そうならないのは、それらを同じと見るあるルール、避けられない見方の適用によって、だと私は考えている。丁度赤いサングラスを掛ければ赤いものが見えなくなるように、我々は"それらを同じと見るサングラス"を生まれながらにして掛けている。

 つまり、同じであることに気付くというよりは、ある見方の適用によって同じだということにする、と言うべきなのだ。そもそも「空間」というものを、われわれはそのようにして作り出したに違いない。世界のモデル化とは「はじまりのはなし」にある通りに語ることによって、初めからそう語られるような認識に世界を限定してしまうことであり、しかもあっという間にその世界観を理解する私たちだけの話になってしまうことだ。

 この神話が私たちの備える概念をもとに語られるのではないとすると、それが世界の根源的あり方なのかは、何がどのように誕生したのかは判然としない。私はこれまで何度もやってみたが、ついに私が捉えた世界の枠組みを超えてこの話を理解することはなかった。私が持つ枠組み無しに、神話の内容を理解することはないのだろうか。

 「人間以外の、刻々と変化する空を飛び回るペリッパーや、回遊するラプラスは、そういう空間の存在を知らないだろう。実際には彼ら彼女らもそういう客観的空間の内部にいるのに」。我々はそういったことをつい考えてしまいがちになるが、この客観的空間という構成物も我々だけが作り出した特殊な夢の一部と見たほうがよい。別の規則をあてはめれば別の世界が作れただろう、それどころか現に、彼ら彼女らは別の規則を適用し、別の世界を生きているだろう、と想像することが、ポケモンと触れ合うことの肝であることは、読者諸賢にはわかっていただけるだろう。

 話が混線しているという自覚はあるが、こっちは国際警察のお世話になっており、気が動転していたのである。後で訂正版が出るかもしれない。こっちはちょっとプレミアがついたりするだろうか……気を取り直して、総括するとこれは、はじまりのはなしとはすなわち人間のはじまりのはなしに他ならない、という主張である。

 少し分量が足りない。ここで打ち止めにせずにあえて探求を進めると、私が面白く思うのはここから先の話で、このように構成された空間理解をさらに深めることで時間は初めて見えるようになる、というところである。それらを同じと見るあるルールを適用しなくてよいはずのものに適用し、行き来できる線ではないものをあえて線に見立てることによって時間は初めて表せるようになる。年表も時計も、空間というサングラスをもとにして、それのみでは世界に現れないはずの時間を表しているのである。ゆえにシンオウ神話において、パルキアは空間を安定させるに留まるが、ディアルガは"時間という概念"をまさに"生み出す"のではないか。

 だが、ここまで解しても、この話は我々の見方を語っているだけであって、これは生物一般の見方ではなく、存在一般の見方でさえない。さしあたり我々は我々のものの見方しか手に入れておらず、いかにしてもその内から抜け出すことはできない。その限り、はじまりのはなしは我々のはじまりのはなしである、という解釈を覆すことは難しいだろう。後で資料を読みながらもう一度まとめるが、中々よい思索の種を蒔けたように思う。後で読み返すときに、未来の自分からキングラーのように口角泡を飛ばして批判されたとしても、である。

 

 少し酒を煽って、ホテルの窓を見る。暗いエンジュにぼんやりと灯の光が並んでおり、それが忘れられなかった。




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10.学問の心構え/イッシュにて

いいたとえが思い浮かばなかったんです


〇月△日

 

 本当ならホウエンに行きたかったのだが、本日はフキヨセの搭乗口から降り、イッシュの歪んだ経済の中心部であるヒウンシティに来た。「実世界のポケモンの誕生について」というテーマで学際的なシンポジウムが開催されることになり、そこに招かれた。司会か発表か、いずれにせよ億劫だなあと思っていたが、事前の連絡によると私は最悪ただ居るだけでよいらしい。なんかいつの間にか大物になっちゃったね。それもなんだかなあとは思ったが、結局引き受けることにした。いるだけでいいらしいから。

 プラズマ団の野望は砕かれたが、チャンピオンが名も知れぬ少年に敗れて未だ先の見えない状況でも、経済そのものは滞りなく流れているように見える。港に響く汽笛の間抜けさは街の音に打ち消され、波をざぶざぶ立てて客船がどこかへ旅立っていく。地下水道に屯するスキンヘッドたちは煙草をふかして、足をぶらつかせながら船と一緒になって流れる煙をぼんやりと見ている。すべてガラス張りの高層ビル群と、早足にすれ違うスーツを着たサラリーマン、OL達の人波に、ふらふら流されながらも、どうにかヒウン大学、その一室まで辿り着いた。いや、ヒウンは老人に厳しい街である。

 階段教室のいやでも目に付く位置にどかりと腰かけて、かなり度が入った銀縁眼鏡越しに薄暗い会議室全体をきょろきょろする。新進気鋭の若手研究者、精力的に研究を続ける教授、名の知れたリーグトレーナーなどなかなか見ない顔ぶれが揃っており、その隣にはそれぞれの(比較的小柄な)ポケモンも控えていた。なるほどこういったテーマで討議を行うのにポケモンが居ないというのも確かにおかしな話である。人間とポケモンのかかわり方について、人間だけが考えるというのではお話にならないものだ。私もケーシィを膝の上に座らせてやる。この状況もなかなかおかしいと言われればそれまでなので、そんなこと言わないでほしい。泣いてしまうから。しかし、流石はイッシュに名高いヒウン大学である。これも多様性というやつかしらん、と思う。

 

 討議が始まった。時折は納得し、時折は間違っていると思い、時折は不満と思いながら、相も変わらずレンズの内側からこの時空を観察してみる。とある若手研究者の発表。職に困っているから、この発表を見たどこかからお声がかかればいいな、などとユーモアを交えながら言う。近頃は研究の削減が大変である。

 彼は図鑑にたびたび登場する「インドぞう」「ナパーム弾」といった言葉に触れながら推論していき、結論はというと、新たに確認されるポケモンと我々が持つ概念一般の関係、その傾向には何らかの法則性があり、未対応のそれを分析すればこの世界の新たな"何か"に到達できるのではないか、というものであった。どうなのだろう。面白そうではあるが、クオリティとしては低いような気もすると言ったところ、その研究者の子がかなり落ち込んでしまった。この年になるとままあることだが、今日はあまりにも落ち込みようがひどかったのでヒウンアイスをおごることにした。

 彼と一緒に並んでいる間、研究の話などをした。いわく私は学会発表でサザンドラのように恐れられているらしい。ちょっとショックであった。

 その後は最近の若手研究者のことについて聞きながら、アイスを一口食べた。冷たい甘みが広がる。アイスは非常においしい。だいがくきょうじゅのはつげんとはおもえないが、事実だから仕方がない。

 もう日が傾いていた。彼に期待している、と言って別れ、連絡先を交換する。ヒウンアイスは溶けても非常に美味しかったが、それでも知覚過敏のためベンチに腰掛けゆっくりと食べる。年取ったなあ。前まではかき氷もぺろりと行けたものだが。傾けたコーン(元サンヨウジムリーダーではありません。念のため)の端からだばだばと真っ白い雫が汚れたアスファルトに零れ落ちた。

 もったいないと思ったのもつかの間、足元を見れば一匹のヤブクロンが寄って来ていた。白い雫を懸命に舐めている。後ろで広い海に夕日が反射し、不規則に揺らめいた。振り返ればガラス張りのビルは真っすぐに聳え立ち、夕日を睨み返している。サラリーマン、OL達がミツハニー達のようにぞろぞろと出ていき、元居た場所へ帰っていく。その光景を、私はなんだかとても美しいと思った。ボケてきているのかなあ、と思う。コーンを一口に噛み砕いて、ヒウンを出る。マコモ女史の研究室にお邪魔するのを忘れたが、それもよかろう。明後日はトレーナーズスクールで出張講義をすることになっている。それもよかろう。今日はライモンのホテルに泊り、夜景を見ながら眠ろう。そうだ、それがいい……

 




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11.教育の心構え/イッシュにて

〇月□日

 

 サンヨウシティに来た。広場の噴水は日の光を弾きながらざあざあと音を立て、水面には忙しなく泳ぐバスラオの影が見える。さわやかなそよ風が階段を駆け上り、街全体を吹き抜けていく。のどかな光景ではあるが、街の真ん中にあるサンヨウジムは閉鎖され、どうやら改装中らしい。プラズマ団の落とした影は未だにイッシュ全体にのしかかっていた。しかし、そんな中で、ひときわ生気あふれる場所がある。それがトレーナーズスクールである。右の窓から廊下でかけっこをする子供たちが見え、ああ、いいなあ、と思いながら応接室へ向かった。いや、廊下でかけっこしちゃだめなんだけどね。

 

 印象に残った青年について書いておこう。それなりに付き合いの長い温厚そうで丸々とした顔の中年の教師の横に、清楚で、どことなく品格がある、見たことのない青年が控えていた。

 出張授業は特にとどこおりなく終わった。こう見えても私は子供の機嫌を取るのがうまい。将来すばらしいトレーナーが出た際に、この分野に対しても理解を示してもらうのが目標である。目指せ未来のシロナさん、というやつだ。授業が終わってからは再び応接室へひっ込んだ。中年の彼は教室へ戻り、なぜかチェレン君と二人でテーブルを挟むことになった。飲み物は何か、と聞かれたため、お言葉に甘えてミックスオレを出してもらう。

 少し気まずい時間が流れた後、ふいに彼の方から質問が飛んできた。いわく、大人とは何なのか、ということだ。駆けだしトレーナーから様々な旅をして、自分なりの結論は出たと思っていた。しかし、トレーナーズスクールの教師を目指すことになり、ジムリーダーの打診を受けた(最初聞いたときは焦ったが、べつに極秘ではないらしい。よかった)時から、自分はいつまで経っても子供のままなんじゃないかという思いと、そもそも大人って何なんだろう、という思いがせめぎ合っているらしい。彼の気持ちは非常によくわかった。私も彼の相談に答えているうちに、ヒスイ研究に恐る恐る足を踏み入れた若い日のことを思い出したほどだ。ここに回答を書くことはできないが、話しているうちに何となく彼の表情も和らいだようだった。夕暮れに別れのあいさつを交わしながら、よい思春期だな、とぼんやり思う。サンヨウで思春期を過ごせるだなんて、なんて幸せなのだろう。ここでは時間がゆったりと過ぎる。急激な転換期もなく、その代わりゆっくりと醸成された穏やかな空気にいつの間にか新緑の香りが混じる。老年の沈黙と青春の歓喜が混じり合う、風のように流れるピアノ・ジャズを聞きながら、少年少女は段々と大人の何たるかを知っていく。彼はいい教師になるだろう。イッシュに住んでいる方は、ぜひお子様をチェレン君のもとにやってはいかがでしょうか。



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『アサギジムでバトルを』

別の雑誌に寄稿したやつです!


――ハガネールは今度こそ起き上がらない。オーダイルは三度目のアイアンテールをこらえ、よろめきつつも左足で地面を踏みしめていた。息も絶え絶えに低く下がりかけた頭の、その最後の勢いのままに、踏みしめた足を軸に体を大きく回した。ハガネールは勘に従い、即座に、顎を地に擦れるほど低く、そして頭を斜めに構えた。もしアクアテールが来るのならば、冷ややかで滑らかなその額がその勢いを受け流すはずだ。それ以外ならば倒れるほかない。ミカンが激流を思わせるオーダイルの、宙を彷徨う尾の先を、じっと見つめていた。果たして、赤髪のトレーナーの指示の下繰り出されたのは、アクアテールだった。彼は、この技以外にない、と思っていた。それを見届けたハガネールは、勇敢な挑戦者とそのパートナーを讃えながらも自らの勝利を確信した。良いバトルだった、と、ハガネールは徐々に青くなっていく視界の中、思いがけずに、ゆっくりと意識を失っていった。

 

 

シュロ・トクジ『アサギジムでバトルを』

 

 以前から思っていたのだが、研究者というのはどうやら、概してポケモンバトルにも精通していなければならないようである。我々は既にしてオーキド・ユキナリという、稀代のバトルの天才にして携帯獣学の権威が成し遂げてきた、数々の偉業を目撃している。シロナ女史はシンオウ地方のチャンピオンという立場にありながら、サザナミタウンの海底遺跡や、遺跡群が成立した歴史的経緯に関する興味深々たる著述を残してくれている。であれば、私も研究者の端くれである以上、ポケモンバトルに関して、何らかの理性的にして興味深い事実、あるいは理論を提供してもよいのではないだろうか。少なくとも、あの時アサギにいた私はそう思っていたようだ。ゆえにこのようなジャンルの雑誌、つまるところ主に()()()()()()()のことを扱う雑誌に、このような文章を載せられているのである。

 所用でアサギシティに寄ったとき、しばらく時間が空いたものだから、私は船乗りの集まる少しむさ苦しい、ゆえに気持ちのいい潮の香りがする食堂でピラフでも頼もうかと思いながら柵に寄りかかっていた。太陽が燦燦と輝く昼間で、用もなく岬にまっすぐ立っている灯台の、生真面目なアカリちゃんに驚嘆しながら、この生真面目な『することない仲間』と共に広大かつ神秘的な海を眺めて、はるか遠いカロスの海もこの海も、結局は同一の海であることを思い、私は空間という概念が含むものの広さ――空間とは、もちろん広さのことなのだが――そして尊敬すべき同期であるオーキド、尊敬すべき同志であるシロナ女史のことを考えていた。そのとき、丁度ミカンさんらしき影が灯台から出てくるのが見えた。ご存じの通りミカンさんはアサギジムのジムリーダーであり、そして私はポケモンバトルのことを考えていて、当然親交もあった。それが主な理由だろうか、ふと思ったのだ。そうだ、ジムバトルを見たい、と。

 

 アサギの精一杯にカラフルな石畳を私は歩いていき、丁度ミカンさんが階段を下りきったあたりで挨拶を交わした(記憶が朧げなので、ここに掲載できるのはリアリティに欠けるやり取りだが)。

 

「アカリちゃんの具合はどうですか?」

 

 わ、シュロさん、と少し驚いたような声を上げた後に、ミカンさんは花のほころぶような笑顔を見せる。(おじさんがこう書くと少し気持ちが悪いですね。だがこう書きたくなる気持ちもわかってもらえると思う。なにせミカンさんはいい子なのである)

 

「わざわざ来てくださったんですか」

 

 ミカンさんは嬉しそうに笑った。こういう人柄が街の人々から愛される理由なのだと思った。それに、毎度毎度シャキーン!と言える胆力とサービス精神も、人気に貢献しているに違いない。

 

「いえ、所用で近くまで来たもので。この頃アカリちゃんの元気がないと聞いていましたから、心配になって。お見舞いに行っても?」

 

 ここで説明すると、アカリちゃんというのはアサギの灯台にいるデンリュウのこと。このところさらに体調が悪くなったらしいが、現在は心優しいトレーナーのおかげですっかり元気になっているらしく、何よりである。で、ミカンさんが言う。

 

「もちろんです! ……その、シュロさん、わたしも一緒に行きましょうか? 腰を痛めたりとか……」

 

「わっはっは。お気遣いは嬉しいですが、ミカンさんは降りてきたばかりでしょう。なあに、まだ灯台ぐらい登れます。ごゆっくりなさってください」

 

 腰の心配をするとは、相当な天然である。思わず笑ってしまった。私がこう答えると、ミカンさんは顎に人差し指を添えて、むむむ、と少し悩むようなそぶりを見せる。しかし少し間をおいて、彼女の顔がパッと明るくなった。

 

「でもわたし、アカリちゃんには何度だって会いたいですから!」

 

 どうしたんだろう、と思ったらこれである。全く、ジムリーダーというのは見上げた人間だ、と思った。

 

 ともかくアカリちゃんのお見舞いを終え灯台を降りるときに、私はミカンさんの鋼の芯が通った優しい心に感動しつつも、それを利用し邪悪な期待をかけるように話を切り出した。

 

「この後、ジムバトルの予定はありますか?よければ、観戦させてもらえませんかな」

「いいですよ!」

 ミカンさんは笑ってそう言った。そう答えてくれることはなんとなく分かっていた。少し心が痛んだが、かくして私はアサギジムのバトルを観戦させてもらえることになった。

 どうやらチャレンジャーは万全の体制でジムに挑みたいらしく、その子がポケモンセンターから戻ってくるまでの間、ジムトレーナーの方にコイルを見せてもらった。私の頭ほどの大きさしかないのだが、だからこそ隅々まで丹念に磨き上げられており、そのU字の鈍く光る磁石と鋼のつやつやした丸い体が微妙な均衡を保って一つの美を形成している様を観察するに、賛嘆の念を抱かずにはいられなかった。だが、これだけでも美しいのに、二つ、それどころかさらに多くの生命がぶつかり合うバトルでは、一体何が起こるのであろうか。この美を保つ以上の価値は、果たしてそこに存在するのか?この年まで生きてきて、ずっとそう思っていた。そしてこの美を見た瞬間でも、それは正直で有効な感想であることを私は再確認した。さて、コイルを様々な角度から眺め、鋼タイプもさすがに照れを覚えるかという頃に、チャレンジャーは黒服に身を包んで登場した。では、検証してみようではないか、と、私は席に着いた。

 アサギジムのポケモンは、その特性上、通常のはがねタイプよりタフであるらしい、とハガネールを見ながら思った。潮風に吹きつけられながら、錆びつく様子もなく涼しい顔で道路を闊歩している姿からも、それが伺える。ジムバトルの興味深い側面の一つは、ジムバトルにおいてのみ私のような学者――つまりポケモンバトルとあまり縁を持たない、言うなれば弱い学者――が自然的な環境に根差した強いポケモンとトレーナーを生で観察する機会を持てる、という事実だろう。とはいえ私は何度もキッサキ神殿に潜り込み、ケーシィのテレポートで命からがら逃げかえってきているので、何が強いポケモンか、ということぐらいは、失礼だが他の方々とは違い鋭敏に分かる。

 だが、研究者として過ごした三十余年の観察体験の中で、あのように目的意識を明確に持って鍛え上げられた、鋭い強さを持つポケモンを生で見たことはなかった。チャレンジャーはどれ程の強さなのか、と思い反対側を見ると、驚くべきことに私が戦ったこともある赤毛の少年がいた。コートに立つは荒々しい潮の、鋼さえ貫くような白い牙を見せて腕を組み――今思えば、少年は客席に見える私を睨みつけていたのだろう――ムスッとした顔の赤髪のパートナーとは対照的に、不敵に笑っているオーダイル。あの時のワニノコか、と私は直感した。

「お互い、よいバトルにしましょう」。毎回、そんな言葉が試合の直前に吐かれるのを見て、こんなものはまったく意味のない定型文なのだから今すぐにでもやめてしまえばいい、と私の友人の研究者が言ったことがある。彼は言うだけあってバトルが強かった。しかし、ジムリーダーほど強くなることはなかった。私は今まで気に留めていなかったのが、この言葉が聞こえた時、彼がジムリーダー以上に強くなることなどそもそもあり得なかったということが、ミカンさんとチャレンジャーの少年が交わした一瞬の目線から、コートに張り詰めた緊張感から、審判がルールを説明する声の震え、はためくフラッグとポケモンバトルという行為の全てのオーラから、分かった。彼らはどんな挑戦者が来ようと、よいバトルにしよう、と本気で言っている。

 チャレンジャー――赤髪の彼――がそれに応えることは無かったが、彼は彼自身のよいバトルを実現しようと、本気で思っていたことであろう。勿論断言するが、私の友人はよい人間であり、よいトレーナーであり、よい研究者である。しかし、これをまったく意味のないことだと断じるその一点において、それだけでジムリーダーに勝ち目はない、と私は洞察した。私には分からないが、読者の皆さんにも、そのような経験があるのではないだろうか。思いがけず現れた若い才能に、自らが培ってきた小さな、しかし砕けることは無いように思われた自信が、粉々に踏み砕かれるような経験が。まあ、その後に始まるバトルに比べれば、どうでもよい話である。

 私の目撃したバトルは、強者特有の睨み合いもなく、ただ純粋な技の応酬で始まった。あまりに爽やかな港町の空気が、アサギジムに満ちていた。窓から差し込んだ日光が武骨な鋼のアーチを照らしていた。そのコートにあって、少年の方のオーダイルは一度戦ったことがあるとはいえ、ここまで進化すると余りに見慣れない雰囲気だったし、ミカンさんのハガネールは暫く眺めていても全く色褪せない鈍色の輝きを全身に漲らせており、普段私が見ているポケモンリーグと水準は同等であるはずなのに、どこか途轍もない違和感があった。昔、オーキドのバトルを観ていた時にも、どうしてか、ここまでの切迫感はなかったからだ。

 振りぬかれる。突起を持った数珠つなぎの胴体の、冷厳な有刺鉄線を千本束ねたような尾だ。それに大顎の暴君のエンジュの紅葉にも似た深紅の尾鰭に渦巻く水の塊が激突する姿を描くには、そうとうに腕のいいドーブルを必要としただろう。もちろん、あの場にドーブルはおらず、激突は一瞬だったのだから、厳密には、その光景はドーブルが写すに相応しいとは言えない。それに、ハガネールやオーダイル自身、自らの意思を表明したとして、この瞬間の昂揚を絵に描いてほしいと望むかどうか、極めて疑わしい。それよりはむしろ、仮に彼らが願望を表明するならば、あの戦いをもう一度、と自らのパートナーに訴えたことだろう。だが、砂埃を立てて両者の尾がぶつかり合い空気を震わせる光景は、私の中でポケモンバトルとは何かを考えるきっかけとしては、あまりに贅沢なものだった。

 

 ポケモンバトルに関して言えば、映像や資料、技を"一手"として捉える見方に慣れきってしまうと(それはそれで難しいコトだ)、誰でも一人前の持論を述べることは可能である。私がそのような視点を獲得したのは、先ほど語った研究者のバトルを見せてもらった時だった。全てが予期されたように動いていた。遺跡から発掘された大いなるガラクタの制作された年代を計器で測定するのをただ待つように、彼が勝つのは決定された結果に過ぎないとでも言いたげな目をした相棒のウィンディの姿を見た時に、そうなのか、と感じた。それは私の中にある一つの狂気かもしれなかった。私がバトルの論評を書くようになったのもその時からだった。批判などあるわけがないと思っていたし、読者諸賢もご存じのように、実際に批判は数えるほどしかなかった。今までの論評は全て解釈学的視点から為され、かつこの視点で見ることに、私より習熟した人間はいなかったようだ。

 しかし、ここにきて考えは変わりつつあった。オーダイルのアクアテールが弾け飛び、コートの土を濡らすのが見える。ハガネールは振りぬいた尾の勢いそのままに体を回転させ、とぐろを巻き、ミカンさんの指示に従い注意深く構えなおした。低い鳴き声が聞こえた。私は相当の緊張を覚えて、それを落ち着かせるためにポケットの中に手を突っ込んだ。再び両者から鋭い指示が飛ぶ。ハガネールは「てっぺき」を、オーダイルは「みずでっぽう」をそれぞれ選択したらしかった。その豪快な口に似合わず、鋭くすぼめた口先から――もちろん、みずでっぽうとは思えない威力ではあったが――戦況を動かすとは到底思えない技が繰り出される。これは正直に言うが、本当に理解しがたい選択だった。何より信じられなかったのは、ミカンさんとハガネールが拍子抜けした、というような素振りを全く見せなかったことであり、それ以上にショッキングだったのは、技を出すにあたって赤髪の少年が私の方を見たことである。

 ウツギ研究所の周辺でこの少年と戦ったことを覚えている。めざめるパワーにより少し削れた、濡れた土くれが周囲の草むらにカサカサと音立てて飛んで行った。水浸しのケーシィの目の前、ワニノコがその上で倒れていたが、それらの事実は私のバトルの腕前の乏しさを示して余りあると言えよう。めざめるパワーが発散していること、それ程の実力差がありながらもみずでっぽうを喰らわせてしまったことからも、様々なことが読みとれる。俯いている少年から賞金を受け取るのも忍びなく、おいしい水と引き換えということにしてすぐさまその場を去ったのだ。そして国際警察に呼ばれたのである、理由はここにも書くことができないが。

 「てっぺき」によりただでさえ硬い身の守りを盤石なものとしたハガネールは、ミカンさんの指示に迅速に従いつつも、どこか悠々とオーダイルに近づき、高威力を狙う「アイアンテール」の予備動作として再び体を大きく回転させた。チャレンジャーはほんの一瞬目を堅く瞑り、「こうそくいどう」の指示を出した。オーダイルはそれを受け入れて足を踏み鳴らし、そして躍動する足の筋肉の残像を残しながらもコートを滑るように吹き飛ばされていった。

 物凄いものを見たぞ、と思った。あまりに澄んだ港町の空気の中で、相手のトレーナーの意思を汲み、技を真っ向から受け止めて次に繋げようと奮闘するオーダイルの姿は、まさしく意志の塊といえよう。飛散したはがねエネルギーの衝撃を一身に受け止めるのは今思い返しても異様な記憶映像であり、現実は資料のように行かないというような理想論ではなく、資料のような現実が実現されるということこそが驚くべきことなのだ、という感想を抱かずにはいられなかった。そこには剥き出しの現実性があった。

 オーダイルは空中で前傾姿勢をとり、手足を地面に叩きつける様にしてその勢いを弱めた。四本が重なって三本になり、再び交差して四本に戻る、深い傷跡がコートに残っていた。赤髪のトレーナーが、当然いけるな、と言った。先程よりも二回り大きい鳴き声がジムに響いた。相変わらず窓からは日光が差し込み、硬質な金属に熱を宿す手助けをしていた。ハガネールの余力を大きく残して、バトルは一区切りを迎えたように見えた。

 概してポケモントレーナーは、自分のポケモンのことを深く知りたがるものらしく、そこは携帯獣学者に通ずるものがあろう。なぜ彼らはポケモンのことを深く知る必要があるのか。ポケモンが生きており、そこに絆を築かなければならないためである。しかし、絆なるものの正体は何なのか、これは何を意味するのか、一度考えてみる必要がある。断っておくが、私は携帯獣学者ではない。そもそも観戦記なのだから、これは例えられぬものを例え、バトルに交えつつ無理を承知でささやかな論を展開するという小さな試みに過ぎない。しかし、私が"バトルの何たるか"から未だ程遠い場所にいるにも関わらずアサギジムのバトルに一つの真実を感じた時のように、ポケモントレーナーの方々が何か——真実に近いもの——をこの文章から読み取っていただけるのなら、勿怪の幸いと言うほかない。

 オーダイルは再び、ハガネールの濡れた喉元に鋭い牙を突き立てようとしていた。ハガネールは鎌首をもたげ、トレーナーの指示通りに、引き付けてアイアンヘッドを喰らわせようと思っていた。先程とは桁違いの素早さでオーダイルが駆けてくる。その距離を見定めるように身を乗り出したハガネールは、渾身の力を頭にこめて突き出したが、手ごたえはなかった。オーダイルは直前に宙へ飛んでいた。鋼の顔面が真下を通過するのをオーダイルは感じ取り、頭から落下し断固としてつやつやと輝く胴体に噛みつく。ハガネールは、盛り上がった胴体にがっちりと食いつかれながらも身を振りほどくと同時に、自分の関節の一つが凍り付いていることに気づいたようだった。オーダイルの歯はひどく傷ついていた。

 ポケモンバトルを見てすぐに分かるのは、事実として、絆を結んでいないポケモンと絆を結んだポケモンとでは、絆を結んだポケモンの方が強いということである。中にはトレーナーを命を賭して守るポケモンも居るというが、私が見た光景はその記述が真実であると実感させるに十分なものだった。もしトレーナーとポケモンの間に――どのような種類のものであれ――確かな信頼関係がなければ、何がオーダイルを突き動かし、てっぺきを重ねたハガネールの胴体に、痛々しい牙を何度も突き立てさせるだろうか。まさしく、野生にはないそのような絆が存在するのだ。()()()()()()()()()()()()()。それでも、そのポケモンがさらなる強さを追い求めるならば絆が必要であると主張することは、的を外しているだろうか。

 ハガネールは不自由な胴体を気にしながらも、指示の通りアイアンヘッドを繰り出してオーダイルに猛然と突っ込んだ。攻撃が大振りで高威力になっている、その勢いを利して、オーダイルはハガネールを誘導し、隙を見つけては的確にみずでっぽうを撃ち込んでいく。私は潮風を肌で感じながら、赤髪の少年が時折こちらの方を確認するのを眺めていた。オーダイルの鼻先すれすれのところをハガネールが通り過ぎかけたとき、尾が光った。それからすぐに少年は指示を出したが、私の目にも、オーダイルが再び硬度を増した尾の一撃を顔面に喰らい、コートに叩きつけられ横滑りしていくさまが見えた。追撃は辛うじて避けたが、体力はあまり残っていなかった。オーダイルは傷ついた口元から、ぺっ、と砂交じりの粘液を吐き出した。ハガネールが尾をコートに叩きつけた。氷はいつの間にか溶けていた。来い、と全身で言っていた。

 絆とは何かと考え、ようやく満足のいく定義が与えられたかと思うとまた予想外の反応が観測される、とはアクロマ君の談である。絆について語る際に、しばしば言及されるのは概念の定義だが、絆は定義からはみ出るようなアクチュアリティーを有しているように感じられる。その限り、絆を定義するという試みは一つの比喩の形成作業でしかあり得ないように思われるし、実際に絆は定義などされず、ただ結ばれる。しかし、一つだけ言えることがあるとすれば、絆を結ぶ当人が、そうすれば強くなれるということを理由として絆を結ぶのは、不可能に近い、ということである――なぜなら、絆は分からないのだから。オーダイルがアイアンテールを喰らうあの瞬間を時間の幅として捉えたなら、あの時絆は乱れていたに違いない。だが、ハガネールが地面に尾をたたきつけた瞬間、少年とオーダイルの心は一つになったに違いない。

 オーダイルは波を身に纏い、ハガネール目掛けて突進した。なみのりの最中、腹の底から息を吐き出して、吠えた。ミカンがそれをキッと見据えている。ハガネールは尾をコートに叩きつけ、コートにエネルギーを走らせ、ストーンエッジのタイミングを伺っていた。少年はオーダイルの背中をじっと見つめ、何一つ見逃さず相手の動向に注目しながら、少しだけ顔を顰めた。岩が砕け、水が飛び散り、空気が冷える。とうとうオーダイルはハガネールの目前まで到達し、手痛い一撃を喰らわせた。オーダイルの決死の一撃は、ハガネールの予想と比べて、あまりにも前方で決まり過ぎた。急所に当たったと分かり、私は頭を抱えてのけぞる。このようなことは()()()あるのだ、と興奮していた。

 その一部始終を、ミカンさんは見守っていた。もとより耐久力の高いハガネールが、てっぺきを二回重ねている。相性の悪い技を急所に食らったハガネールは、オーダイルよりは幾分体力を残していた。そして、ハガネールは、銀色の偉大なる大蛇は、尾を鉄の色に光らせており、その頑健なる尻尾はゆらゆらと左右に揺れて、コートに小さく砂煙を立てていた。少年はオーダイルに距離を置くよう指示し、未だに高速移動の効果は健在だった相手を追いすがろうとするハガネールはさすがに体をふらつかせて、よろめいた。かと思うと首を大きくのけぞらせて敵を見据え、全身を大きくうねらせた。次の瞬間、ハガネールはオーダイルの方に突っ込んできた。

 私は当然、少年がアクアテールを指示するものだと思っていた。両者がぶつかり合い、最後に立っている方の勝ちだと。しかし違った。聞こえてきたのは「こおりのキバ」という言葉、見えたのはアイアンテールが届くほんの少し前、ハガネールの胴体に今にも砕けそうな牙を突き立てるのと引き換えに、右腹を痛打されるオーダイルの姿だった。バランスを崩したオーダイルは醜悪なまでに目を見開き、ハガネールを睨んでよろめいた。オーダイルは猶も片足で地面を踏みしめていた。それを察知し、頭を低く構えたのはハガネールの手柄だろう。オーダイルは、耐えた。次はハガネールの番だ、と思った。"アクアテール"という声が聞こえ、それに応えるように"受け流してアイアンヘッド"という声。後はミカンさんも少年も、二体のポケモンの動きを静かに見守っていた。しかし、あえてこう書くことにしよう。彼、彼女は共に戦っていたのだと。

 オーダイルは息も絶え絶えに、激流のような尾を振った。ハガネールはタイプを忘れさせる程流麗な動きで、軌道に自らの頭を添わせようとした。尾が滑るかのように見えたのもつかの間、胴に張った薄氷がハガネールの動きを鈍らせた。少年の叫びとともに、後ろに続く激流が全てを飲み込んだ。

 あまりに清々しい午後三時のアサギジムの中で、オーダイルは一匹、金縛りにあったかのようにぽつんと立っていた。赤髪の少年は背筋をシャキッと伸ばし、足取りも尊大に近づいて行ったが、あの時の少し嬉しそうな顔、ジムバッジを渡すときの、ミカンさんのどこか誇らしげな顔を、私は忘れない。ポケモンバトルとはある種の絆である、という命題が私の中に降りてきた。

 絆とは、当然ながら相互の関係でしかあり得ない。真に強くなるためには、絆を深めることが既に自己目的化していなければならない。それゆえ、ポケモンバトルとは情熱的な闘争であると同時に、絆という原始的な抑圧機構なのではないだろうか。いや、そうであればどれほどよいだろう。抑圧機構であるがゆえに顔を出す根源的な情熱、ポケモンバトルにはそのような次元が確かに存在する。そう思った。

 

 

 

 




その内纏めようとは思いますが、今のうちに旅日記で散らかった論点を整理して、構造化してみるのも楽しいかと思います。さて、今回はだいぶ書き方が違うため、感想・評価等いただけると大変励み、また参考になります。その他質問、誤字脱字報告なども、お気軽にどうぞ!


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12.パルファム宮殿を見た/カロスにて

このあたりの神話は、作者の見立てでは非常にデリケートな問題を抱えているので、どう解きほぐしたものか悩んでいます。


〇月△日

 

 こちらに来る前に、知り合いから今年のカロスは赤い恰好をした変な人がいっぱいいると告げられていた。だが、いざ着いてみたら、実にいい人の多いこと! 変な人はたくさんいようと基本的にどうでもいいのだが、いい人が多いのはやはり嬉しいものだ。万一そういった『変な人』に出会っても、ケーシィがそばにいて、一通りの注意をしていれば、カロスで身が危険にさらされることはないだろう。さらされるにしてもその時は"私のような人間ではどうすることもできない大災害に巻き込まれる"というくらいであって、こちらも問題ではない。私は老い先短いのだ、かかってこんかい、である。

 

 もう十回近くカロスの空気を体験しているため、おのぼりさんのように格別感動しすぎることもなくなった。変な人が本当に居れば遠出して見物しに行くのだが、と思ってもみたが、やはり見渡す限りいい人である。変な人を見たかったなあ、と少し残念に思う。しかし、それならそれなりの楽しみ方はあるものだ。門番にチップを握らせる。何もいやらしいことはなく、こういった文化が根付いているのである。ジャローダが模られた豪奢にきらめくパルファム宮殿の門を通り抜け、庭に出た。中心の噴水からはこんこんと水が噴き出し、ひんやりした空気が肌に感じられる。広々とした庭を悠然と歩き、品のいいマダムやジェントルマンと、剪定のことで談笑する。トリミアンの鳴き声が聞こえ、少年少女がそれを追いかけている。ヨワシ雲が流れる。涼やかな空気に愛でられ、美しさの頂を誇る青葉を見て、次こそは流星の滝に行くぞと意志する。

 

 『いし』について、ずっと考えている。それを素描すべく訪れたホウエン地方のことも。『いし』とは意志なのだろうか。これまではあえてこの表記を採用してきたが、もしかすると意思なのかもしれない。大体、恐ろしい神話において記憶や感情は名前を出して描写されているのに、『いし』はと言うと、動けなくなり何もできなくなる、としか書かれていない。はっきり書いていてくれれば、と何度思ったことであろう。助手などは、もともとは古代語なのだから、意思と意志の区別などせずに、古代の語義に沿って考えてみてはどうですか、と提案してくれた。そのため、今回は仮に『wille*1』という言葉を充てることにする。それにしても、このような文脈依存的な理解の仕方では、すべてがいかがわしい。多分人間の言葉は、この摩訶不思議な『いし』を語るのに適していないのだろう。記憶と感情の整理はある程度ついた(少なくともそのように思われる)のに、漠然と把握していたはずの『いし』を問い直した瞬間に得体のしれないものになってしまう。しかも、その得体のしれないものの正体をつかみかけている、という感覚があるのが一番わからない。

 神話の記述によれば、ポケモンを傷つけた後、willeはもはやない。だが、その他の物、すなわち記憶と感情は、はたして残っているのだろうか。それを掴もうにも、手は虚空をつかむだけである。反省してみるに、willeは消えてしまったと語るとき、われわれはただ行動におけるwilleが消えて、何もできなくなると言っているだけなのだ。だが、記憶か感情のどちらかが消えた際に、我々はその行動から何が消えたのか判別することができるが、willeの場合、そのようなことはできない。心の内面で、何が起こっているのか。それを判別することは至難の業である。実は、何もできなくなるという記述に、willeが消えたという保証はない。古代の人々にか、それとも私にかは知らないが、ここには明らかな錯覚があるように思う。

 

 マダムやジェントルマンとの談笑を終えると、その時丁度子供たちがトリミアンを抱えて宮殿へ入っていくのが見えた。それも見届けた後は、庭にいた音楽師の語りをぼんやり聞いていた。折からの強風が庭の枝を揺らして、花火が打ちあがった。視界に閃光がうがたれ、腹の底に轟音がひびく。私は「ああ、そうなのだ」と心の中で呟いた。私は花火を見ることを意志しただろうかと自問したが、決してそうではないことを確認した。私はただ単に「花火を見た」のであって、それとは別に「花火を見ようと意志した」わけではなかった。ここにwilleは介在しているだろうか。willeが無ければ何もできなくなるとは、どのような意味なのだろうか。

 旅音楽師にいくらかのチップを払った。少し払い過ぎたか、もしかして旦那、爵位をお持ちだったりしませんか、と尋ねられた。そんなことはないです、と答えたところ、バトルシャトーという場所を教えてもらう。夜になり肌寒くなったので宮殿を出た。宮殿に明かりが灯り、ジャローダが模られた金色の門は、昼間とはまた違った輝きを見せている。そろそろホテルに戻らねばならない。帰りに温かい飲み物でも買おうと思っていたが、そうだ、ここには自販機がないのだった。懐手して帰ろうと思ったが、どうにも腰のホルダーにつけたボールに手が当たる。仕方がないので、ケーシィを湯たんぽ代わりにして帰ることにした。少しだけ嫌そうな顔をしたケーシィを抱きかかえながら、たまにはそんなのもいい、と思った。皆さんもお手持ちのポケモンを抱きかかえてみてはいかがだろうか。新たな発見があるかもしれない。それか腰をいわすか、のどちらかである。ちなみに私は両方で、翌日腰がとても痛かった。湿布だらけである。イテテ。

*1
willeはドイツ語で意志・意思等を意味する言葉であり、この言葉はカントやカントに影響を受けたアルトゥール・ショーペンハウアーの著作である『Die Welt als Wille und Vorstellung(意志と表象としての世界)』にも見ることができます。意志という言葉は理性の構造だけでなく自由意志という問題にも絡んでくるため、ここではひとまずwilleをあてることにしました。




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13.ミアレの裏路地で/カロスにて

〇月□日

 

 嫌な天気だ! ミアレシティに行こう。そうだジョウトに行こう風に書いてみたが、どうだろうか。親しみやすい文章になっていればいいのだが。実は、ミアレと湿った空気は相性がいい。スタイリッシュなミアレには冴えない曇り空が似合う。私のようにミアレが苦手なノンスタイリッシュ人でも、曇り空の日は堂々と出かけることができる。書いてて悲しくなるね。というわけで、どこかの古いカフェーを訪れてみようかなあ、カンコドールあたりがいいと思い立ち、服装で目立っては敵わんとシックに外出の支度をし、その前にふとテレビを点けたら、赤いスーツの集団による廃墟の不法占拠が発覚し、カロス地方全体が少し緊張しているということだ。急遽、カフェーに行くのは取りやめにした。緊張状態で店主の応対が変わりそうだからではなく、全く態度が変わらず面白くなりそうにないから。あそこは常に店内がガラ空きで、私はそこが気に入っているのだが、まあそんなカフェーが今更緊張状態を気にするわけもない。どうせ客が来ないんだから一緒である。

 予定を変更してタクシーに乗り、サウスサイドストリートからオトンヌアベニュー前に出る。かつてミアレ大学に居る友人に会いに行く際によく通った道であった。ふと、すぐ隣の薄暗い路地裏に入ると、肌に纏わりつくような湿った空気が一層粘り気を増すと同時に、なぜか屯している子供達に声をかけられる。片言のカロス語で「怪しい者じゃないよ」と答えた。「見るからに怪しいだろ」というものだから、また「怪しい者じゃないよ」と答えて、やけっぱちでずかずかと奥に入っていった。私に言わせれば、こんな路地裏に子供達だけで集まるというのも十分に怪しいと思うのだが。

 なおも何か言っているようだったが、私がしばらく薄汚れた壁を見つめて感嘆の声を漏らしているうちに呆れたのか、仲間内でひそひそと話し始めた。いや、ミアレにも探せばノンスタイリッシュなところもあるもんだなあ。それにしても、煌びやかな電飾の奥に匿われた、この塵まみれの空気を知っている者が、どれだけいるのだろうか。スタイリッシュな街の裏側で、ノンスタイリッシュに生きるということは、どういうことなのだろうか。

 

 今日も『いし』について考えている。花火を見るという行為を私は意志しなかったばかりか、実は私に意志がなくとも花火を見ることは可能なのだ。『恐ろしい神話』には、"そのポケモンに傷を付けた者/七日にして動けなくなり/何もできなくなる"と書かれている。確かにwilleがなければ能動的に何かをすることはできないだろうが、それでも能動的に何かをするということは――布団から起き上がれない場面、または寒い冬場に炎タイプのポケモンのそばを離れられない場面を想像していただきたいのだが――willeがあっても不可能なことがある。つまり、動こうというwilleがあっても動けないのか、動くwilleそのものが欠如しているために何もできないのかという問題が残されている。外的に見れば、それらは同じことなのだ。いや、そもそも我々にwilleは"ある"のだろうか?「それを語れるのも、我々がそれを語ろうと意志するからではないか」と言うとき、その人には私にwilleがあるのかを確認する術はない。それどころか、私にもないかもしれない。相も変わらず、『いし』は私の手をすり抜けていく。

 だが……この想定は人間のみでは不毛であろう。これは『こころ』というシンオウ神話のキー概念に深くかかわっている。そしてこの問題を解決するためには、新しい思考を、人間とポケモンの関係をもう一度考え直さなければならない。バトルをやめてから放し飼いにしているドンカラスとジーランスのこと。鍵束の管理を任せていた、あのクレッフィのこと。懐のボールをさすりながら、もうそろそろ向き合わなければならぬ頃だなあと昔のことを思った。

 「じいさん、ホントに何しに来たんだよ」と子供のうち一人が言った。隣でペルシアンが毛繕いをしていたのだが、その時の彼(彼女?)はおよそ子供の相棒とは思えない程の風格を醸し出していた。固いきずなで結ばれているのだなあ、と一目で分かった。思考の深海から浮上し、どう答えたものかと深く息を吸い込む。ところが空気中のホコリもたくさん吸い込んでしまって、たいへんむせてしまった。ひどく塵の舞う空気をものともせずに、子供たちが一斉に寄ってきて私の周りを取り囲んだ。優しい子らである。

 激しく視界が揺れる中で、目の端にちらりと一匹のニャスパーが映った。胸のあたりを何度かたたいて立ち上がると、突然、薄暗い路地裏の真ん中に集まる子供たちの瞳の奥に、漠然とした不安が見えた気がした。人とポケモンはもともと孤独であること、生きている限りそれは運命であること、だからこそきずなが必要であること、きずなは『いし』の証明でありうることなどが、一挙に頭の中に浮かんでくる。なるべく暗い印象を与えぬよう、しかしため息をつきながら、子供たちに礼を言った。

「ありがとう、もう大丈夫。怪しい者じゃないよ。私は文章を書いていてね、執筆のために観光に来たんだ。ああ、もう大丈夫、大丈夫。ありがとう。うん、これで全部うまくいく……」

 なぜこんな答え方をしたのか、私にも分からない。あの時何が起こったのだろうか。果たして、この時の私に『いし』はあったのだろうか。いずれにせよ、なんと不思議なことなんだろう。路地裏の子供たちに別れを告げ、ひとまずホテルへ戻ることにした。ちなみに言い添えておくと、ホテルはシュールリッシュではない。残念ながら。

 

 

〇月☆日

 

 めちゃくちゃに背の高い男性を見て、今日はもう原稿どころではない!まだまだ書きたいことがあったのだが、それは来月に持ち越すことにする。

 



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14.バロンになりました/カロスにて

〇月△日

 

 数日前の気が滅入るような湿気が嘘のように、終日太陽がぎらぎらと照り、額から汗が一筋二筋と垂れてくるほどである。ハードマウンテンの煮えたぎるマグマと、そこに伝わっている伝承を想い起こす。シンオウ神話の中では、この伝承も好きであった。ずいぶん昔のことだが、ハードマウンテンの伝承を聞いた時は実際に火山に赴き、岩場の前で様々な箇所を確かめながらそのかなりの部分を暗記した。そのほか、碌に進むこともできなかったが、キッサキ神殿には呆れるほど何度も訪れた。いまでもそのあたりに行くと、体がふんわり浮き上がるようないい気分になることであろう。

 だが、このすべては民間伝承であり、シンオウ神話体系に組み込まれてはいるが、中核をなしているわけではない。しかし歴史的経緯を考えるに、ヒードラン伝承こそが事実においては最も大きな役割を果たしたのではないか、と思うようにもなってくる。全く厄介な代物であって、こんな暑い中でこれを考えるといらいらしてくる。ふと、汗が首筋にまで垂れてきたのに気付いた。ため息をつきながらバトルシャトーの門を叩く。いつもならばここいらで考察を挿入するのだが、ハードマウンテンの伝承に紙面を割くのは、なんだか嫌である。今日はバトルシャトーでの一幕だけを語ることにする。神話に触れないのだから、文体も軽薄なものでいい。

 ひゅうと背後から風が吹き込み、品格あるフロアの腕に連れられてまた何処へともなく去っていく。ミアレと同様洗練されてはいるが、城内の空気はスタイリッシュというより、やはりエレガンスである。イッシュのポケモンリーグを見物しに行った時にも――今は見る影もないが――このような趣があった。ところが、今日のバトルシャトーは一味違うようだ。なんと、ホールにドラセナ氏が居たのである。さすがは四天王と言うべきか、白亜の壁に緋色のドレスがよく映えている……もう結構な年のはずであるが。*1

 今更知らない仲ではない。呼びかけようとするも、執事に止められた。こういう場所になってくると執事の格も必然的に上がるものなのか、私に品格のないのが一目で見抜かれてしまったらしい。一応あそこに見えるドラセナ氏の知り合いだと言ってはみたものの、どうにも胡乱げな目つきをされる。まずいことになったぞ、と思った。ガラルでもらったあのカードもマツバ君に与えてしまった。そこで立ち去ってもよかったのだが、こうなれば意地である。なおも話し続けると、とうとう執事が折れ、ドラセナさんに一度だけ確認を取りにいってくれるとのこと。アサギの灯台を思わせる背筋の伸び方であり、やはり私には品格がないなあと感じた。しばし時間を挟み、執事の方が戻ってきて立ち止まると、どうあがいても私にはできないような見事な一礼。どうぞお通り下さいと言われ、認められたはずなのに無性に悲しくなる。私にはふさわしくない場所に来てしまったぞ、という気がした。

 ありがたいことに、ドラセナさんも私のことを覚えていたようで、しばらく話が弾む。彼女がりゅうのあなの長老のことを「全盛期はとうに過ぎたが、彼ならば今のリーグに参入しても(おそらく)通用する」と評していたのが印象深く、オーキドもそうなりたかったんだろうけど地位と教養が邪魔してなれないんじゃないか、と言ってみた。本音である。ちなみに、欲を言えば私もそうなりたかった、と付け足す。地位はオーキドやドラセナさんに比べれば中の下程度だし、手持ちはともかく私自身の才能は疑いなく()()のだが。私とは全く違って、彼らは正真正銘の天才だということだ。りゅうのあなの長老は古くからの付き合いだが、あれもそうなのかもしれない。

 するとドラセナさんは笑いながら「なんでしたら、今からでも遅くないかもしれませんわよ」と言い、私が爵位を得るための手続きを始めた。その時の私の顔は相当にひどいものだったと思うが、あれはなんでだろう。もしかすると私が長老を雑に扱っているのが気に食わなかったのかもしれない。まあ、気に食わない部分があるといえば私も同じなので、別段問題はないが。相手があまり完璧だと、好意を持ちたくなくなる。卑屈で軽薄な感じがするから。ゆえに欠点の一つぐらいあったほうが良いというのが持論なのだが、ドラセナさんの場合その欠点の癖が強すぎる。詳しくは語らないので、どうしても知りたい方はドラセナさんとリーグで二番目に戦えばよい。

 というわけで、名目上バロンになったけど、人間まあ変わらないね。誰か、どうすれば品格を身に着けられるのか、教えてくれませんか?

 

 

 

 

*1
編集部注:余計なことを書かないように。




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15.これからのヒードランの話をしよう/カロスにて

〇月□日

 

 一昨日昼過ぎにコボクタウンを発ち、昨日の昼頃シャラシティに着いた。酷暑は鳴りを潜めている。夜中にひっそりとキャンプをしたせいか、着くなり少しマスタータワーを眺めただけで、その後はずっとポケモンセンターに閉じ籠る。最近、旅をしているとこういうことが多くなる。路地裏の子供たちが気にかかり、その都度思考は緻密に形成した神話的概念空間から引きずり出される。ハードマウンテンの伝承を想い起してからというもの、何もかもがうまくいかない気がする。だが、これも旅の醍醐味と思うと思考は進展し、朝から街を散策する元気も出るのである。

 先日書こうとして取りやめた、ポケモンと繋がる山岳信仰について考えを進める。その地に伝わる伝承では、アルセウスによるシンオウ創造の際に零れ落ちた滴より生まれたのがハードマウンテンとヒードランであり、ヒードランは火山の噴火を司るとされている。だが、この伝承は、アルセウスが実際に世界を生み出したポケモンである、という前提から始まっているのだ。思い切って言ってみれば、これは相当に奇妙である。アルセウスは卵より産まれ、時間と空間を生み出し、記憶―感情―意志を生み出し、それにより"もの"と"こころ"が生まれ、世界が出来上がる(二匹にモノ/三匹に心生ませ/世界形作る)――その際に滴が零れ落ち、ハードマウンテンが誕生する、というわけである。

 だが、ヒードラン伝承の全てはシンオウ神話の根幹から遠く隔たっている。"はじまりのはなし"における時間と空間は"我々が認識する世界"の象徴であり、実は世界それ自体を表しているということはないのだ。世界それ自体はむしろレジギガスにまつわる神話に描写されており、特に拙著『地図と國引き』(セキチク書房)に詳しい。時間と空間という言葉はあらゆる意味で根源的であり、傍から見ただけではどのような意味なのかを察することはできない。我々は時間と空間がどのようなものであるのかは了解しているし、その都度適切に使うことができる。だが、それは我々が感じている限りのものであって、言葉に飲み込まれている一般的な時間と空間が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。この意味で、ヒードラン伝承は"はじまりのはなし"の誤解に基づくものだと考えられる。神話同士が食い違うとは、由々しき事態だ。

 ところが、ヒードラン伝承はシンオウ神話体系とはかなり隔たっているにもかかわらず、歴史上の古代シンオウ人の足取りをつかむ手掛かりとしては、かなり特殊な位置を占めている。火がもたらす力とは何か? 鉄器である。そして鉄器、さらに推し進めれば武器の概念は、トバリの神話の成立とも関わってくるはずだ。人間がポケモンに与しうる力としての武器を発展させた古代シンオウ人は、しかし、ポケモンと手を取り合った別の人間に打倒され、現在のような位置を占めている、ということは有力ではないにせよ、それなりの根拠と説得力を持ち今なお検討に値する仮説といえよう。しかしこのまま延々とヒードランについて書くと読者が減りそうであるからして、ここで筆をおくことにする。

 疲れを感じてマスタータワーから出ると、もう日が暮れている。夕日が眩しく、空は焼き付くようなオレンジと赤のグラデーションで染まっており、マグマさながらである。ハードマウンテンでのことを想い起しつつ、しばらく夕焼け空を眺めると、ヒードランが伝説として語られるのにもなんとなく合点がいく。あれは、マグマの象徴なのかもしれない……なんでも象徴化させたがるのはお前の悪い癖だ、という声が聞こえてくるようであるが、本当にそう思った。

 刻々とタワーの影が回り、水面にまた伸びていく。五日後にホクラニ天文台で、マーレイン氏とあと一人は誰だったか、鼎談の予定がある。そろそろ休もうと思い、ポケモンセンターに戻った。

 



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シュロ・トクジ さんのつぶやきを見てみましょう

今回は特別編です。
ラフィングドッグ:主人公以外では初めてのオリジナルキャラクターです。Poketterと呼ばれるSNSの管理人であり、年齢は30歳後半をイメージしていただければ、と思います。

鼎談は後日全編掲載する予定ですが、書きなおすたびに新たな発見があり、いつになるやら……


シュロ・トクジ @tokujishu6

 

こんばんは、シュロ・トクジです。今回、ラフィングドッグさんがPoketter フォローアー限定特別公開という機能を予定しているそうで、そのテスター?になりました。それに伴い、今回は鼎談の"はじめに"と本文の前編を少しだけ公開します。もちろん、各社には了解を得ております!ご興味のある方は、ぜひ私のアカウントをフオローしていただければと思います。


はじめに

 

 この 鼎談(ていだん)のきっかけは、今年の〇月、ある週刊誌のレヴュー欄に掲載された、拙作『アルセウスの見た宇宙』(トクサネ学芸出版)についてのラフィングドッグ氏の書評を読んだミアレ出版社の人からもたらされた意向であった。現代人における神話や、ゲームにおける物語の制約についてラフィングドッグ氏と忌憚なく話し合ってほしいと言うのである。

 ラフィングドッグ氏は――言うまでもないと思うが――遊びに関する鋭い視点を以って数多くの作品を世に送り出し、世界に多くの支持者を持つPoketterの創業者である。ただ、これまでは主として小説やゲームのストーリーに対する評論はあれど、今回のように神話や現実の出来事を基にした新書に立ち入って論じることはなかったらしい。無論、これは適当な機会がなかっただけのことであって、ラフィングドッグ氏の無関心のせいではない。それどころか、このような新書や学術書には親しんでいるに違いない。

 ところがミアレ出版の編集者の人が、「オッ、この食いつきは……」と、謎の手ごたえを感じてしまったらしいのである。はじめこの話を聞いたのはお気に入りのレストランだったが、私はオールド・ヴィンテージのアサメ産ワインを飲みながら、「こいつバカじゃなかろか」と思った。もしかしたら口に出してしまっていたかもしれない。さらに、元キャプテンでありながら天文学にも深い造詣を持つ麒麟児、マーレイン氏にも対談を打診している、と伝えられ、「ああ、ミアレ出版の人は働きすぎでおかしくなっちゃったんだ」と思った覚えがある。こちらも、もしかすると口に出ていたかもしれない。

 そんなぐちゃぐちゃな成り行きではあったが、結果的に両氏が承諾され、まさかの鼎談という形でホクラニ天文台に集い、あのように刺激的でエキサイティングな議論ができたということは、本当に奇跡としか言いようがないであろう。トクサネ学芸出版の皆様、ミアレ出版の編集者様、ラフィングドッグ、マーレイン両氏に今一度感謝を申し上げたい。

 さて、本鼎談は非常に内容が濃く、じっさい本誌には三週間に渡って掲載される予定である。最先端の宇宙論とゲーム開発の最前線、そして古代シンオウ神話研究の今、という食い合わせが悪そうなテーマではあるが、ラフィングドッグ氏の鋭い観察眼やマーレイン氏の細やかな気配りに終始助けられ、結果としてはとても面白いものになった。少なくとも私はそう感じている。

 最近のPoketterにはさまざまな機能が追加され、私のような機械音痴でも相当に扱いやすいものになっているようである。ご本人もそれに力を注いでいるという自負があるらしく、対談の中で、「自分は世界をより親しみやすいものにするために開発を続けてきたが、観念的なレベルではいつの間にか天文学や神話学のような話になっている」と語っている。しかしながら、氏はまだ人間・ポケモン原理や超越論的ポケモン論の内部には入っていないから(私も前者には詳しくない)、そこは私やマーレイン氏に尋ね、こちらもラフィングドッグ氏にいくつかのことを尋ねるという形になった。そうは言っても、単なるしつもんコーナーで満足しようとしたわけではない。

 世界についての伝統的な説明は今日でも携帯獣学や、何よりポケモンバトルという仕方で盛んになされている。それももちろん大事ではあるが、そこに輝いていた意志が沈着して、いつしか事柄のレッテルのようなものになって空回りしていることが多い。自分もそこにいたはずなのに、概念としてはわかっていても――リーグの試合等を除けば――もはや一々心震わせることはないというのは最大多数ではないにせよ、今日の一般的状況ではないだろうか。このような現状を、携帯獣学やポケモンバトルに比べればいまだ未知であるものを持ち込むことによって破り、再びあらゆるものへの驚き、θαυμάζεινを取り戻すことは、人間とポケモンのコミュニケーションに必要なものだと信じている。

 対談の中での両氏の鋭敏な感覚と挑戦は、たびたび私をパルシェンの殻の中での微睡から覚醒させる縁となったように思う。不穏な動きを見せる世の中で、本鼎談が何か人々への刺激となれば幸いである。では、素晴らしきこの世界に、乾杯。

 

 〇△□×年〇月 シュロ・トクジ

 

 

 

 

シュロ・トクジ×ラフィングドッグ×マーレイン鼎談(前編試し読み)

 

シュロ・トクジ(以下、シュロ):今回はお忙しい中お集まりいただき、感謝の念に堪えません。確か、皆さんとお会いするのはこれが初めてではないんですよね。旧知の編集者からの紹介で、マーレインさんには何度か、ラフィングドッグさんからはPoketter社を通じたお仕事で何か書かせていただいたように記憶しています。もっとも、お二方が覚えておられるかはわかりませんが。

 

マーレイン:こちらこそ、お声掛けいただき恐縮です。精一杯務めさせていただきます。

 

ラフィングドッグ:ありがとうございます。シュロ先生とお会いすると安心しますね。例えば、私が冗談だとか、突飛なことを言っても、中々通じないことが多いんですけど、シュロさんには、ああ、この方なら通じるなっていう種類の安心感があるんです。そういう意味では、マーレイン君には初めて会いましたが、彼もなんというか安心感がありますね。なにせ島神に選ばれている訳ですから。しかも金髪だし。

 

シュロ:金髪は関係ないんじゃないの。

 

マーレイン:はじめまして。ぼくはごく初期からPoketterを使っているので、創設者の方にそう言っていただけて非常に光栄ですね。

 

シュロ:ラフィングドッグさんのギャグ、フーディンやメタグロスには大ウケするんですけどね。私なんかはついていくので精一杯なので、こちらとしては味方がいるだけで安心感が違いますよ。というわけで、マーレインさん。ラフィングドッグさんはどうか分かりませんが、私に対しては対等な口調で話していただいて結構ですよ。

 

ラフィングドッグ:私も、ぜひ砕けた口調で話していただければ嬉しいですね。それでなくとも、議論が白熱すれば必然的にそうなると思いますが。では、そろそろ議題に入りましょうか。今回は我々がそれぞれの立場から「この世界」という広大無辺なテーマについて自由に話してよいそうです。多分にノイズの混じった、しかし未だ人間はここで暮らす他にない、行き詰りつつある巨大な箱庭の創造的アルゴリズムについて。

 

シュロ:その言い回しはどうにかならないんですかね?

 

ラフィングドッグ:こっちのほうがウケがいいんですよ。

 

シュロ:うーん、世の中分からん。

 

マーレイン:あの、世界についてというテーマなんですが、正直何から言っていいのか……。早速ですみません、こういうのは初めてでして。

 

ラフィングドッグ:じゃあ手近なところから入っていきますか。例えばここ最近は、各地方でいろいろな組織が世間を賑わわせているという印象がある。最近だとロケット団が復活したり、ギンガ団、あとはマグマ団やアクア団が出てきた。マーレインさんに伺いますけど、まずアローラにそういった組織はありますか?

 

マーレイン:一番近いのはスカル団でしょうか。でも島巡りに落ちた若い子が集まっている地元の不良集団みたいなものだし……先ほど仰ったグループと比べるほどではないかな。すみません、知り合いもいるので。

 

シュロ:スカル団。島巡りというとカプ神が絡んできますよね。カプ神に復讐しよう、という方向性ではない?

 

マーレイン:どちらかというと、島の因習の方を強く嫌ってますね。アローラは島国で土地もあまり広くないので、地域のネットワーク……島単位でのかかわりが強いんですよ。その空気が苦手みたいで。

 

シュロ:カプ神は因習の化身のように見えますが、なぜ矛先が向かないんですかね。勝てないからだとは思いますが、スカル団にとってカプ神はお神輿で、神輿に罪はないと。担いでる側が悪い。そういう防衛機制が働いてるのかな。

 

ラフィングドッグ:アローラは観光客向けにロトムフォンを積極的に導入してるから、グローバル化が進んだことはスカル団の発生と関係あるかもしれないね。

 

シュロ:というと。

 

ラフィングドッグ:今まで彼らの世界はアローラだけだった訳ですよ。だから外の地方に出ない場合はそこに帰属するしかない。つるむとしてもアローラの中でつるむでしょ。今SNSって世界中でやってるからさ、外の世界が見えるわけだよね。だからアローラが絶対じゃないんだって、そういう意識が芽生えたんじゃないの。

 

シュロ:それは前の時代にスカル団みたいなグループがあったかと、あとは環境によりますよね。たまたま時期が重なっただけで原因は別のところにあるかもしれないし。

 

ラフィングドッグ:それはそうですよ。ただ、観光客が外の世界の人だったのがさ。今だとその人が何やってるかとかも分かるじゃない。境界線が曖昧になったことは一因だと思う。スーパーメガやすもあるんでしたっけ?

 

シュロ:ここに来る途中見てきたけど、廃墟みたいになってません?あそこ。

 

マーレイン:二つありましたけど、一つ潰れましたね。

 

ラフィングドッグ:あ、潰れてたんですね……。

 

シュロ:マーレインさんの実感としてはどうなんでしょう。今ラフィングドッグさんが好き勝手言ってますけど。

 

マーレイン:確かに他地方に行くって言いだしやすい環境にはなったと思います。前に友人がキャプテンに任命されたことがあって、それを蹴って島を飛び出したときはかなり焦りましたね。今はそういうことが減ってきてます。スカル団との相違点を見ると、彼は島巡りを完了している一方でスカル団は完了してないという所が挙げられるでしょうか。

 

シュロ:そうなると、なぜスカル団は出ていかないのか。島が嫌で、出ていきやすい環境になった。じゃあ出ていくとならない理由は何なんだろうか。

 

ラフィングドッグ:単純にさ。島巡りに失敗して他地方に行くのは逃げだよね、って言う人はいるでしょう。個人的には逃げて何が悪いのか知らないけど。島巡りに失敗したのに他地方に行ってうまくいくはずない、みたいな意識も本人の中にある。

 

マーレイン:たしかに。僕はみんなが見栄を張っているように見えます。

 

ラフィングドッグ:なぜ島から離れないのかって聞いたら、本人はこの島を変えるためとか、そういう趣旨のことを言うと思いますけど、やっぱり怖いというのが一番言いやすい。

 

シュロ:まあ、スカル団の中にも色んな人がいますから、全員そうだってわけじゃないと思いますけどね。

 

ラフィングドッグ:あとは境界線がないって言ったけど、それによって拘束される部分もあるよ。アローラの中に他地方が入るのと同じように、他地方の中にもアローラが入る。この相互浸食をどう捉えるのかだよね。他地方に行って「アローラの島巡りってどんな感じなんですか!?」ってテンション高めに聞かれたらまいっちゃうよね。

 

シュロ:私としては、スカル団がカプ神を憎む方向に向かわなかったのが面白いですね。この状態で存続しているのはそう悪い結果でもないかもしれないな、と。

 

ラフィングドッグ:それはどういう意味で?

 

シュロ:まず緩い組織があるとします。そこに圧力が掛かると、ふつう緩い組織が採れる道は二つに絞られる。崩れるか、過激化するか。私は、過激化した組織が他地方のそれじゃないかと思うんです。

 

ラフィングドッグ:スカル団は緩い組織を続けることができたと。だから緩いのは過激にならないだけマシ……

 

シュロ:私はそう思います。カプ神をぶっ倒すぜ!とならないだけマシじゃないですか? 他はもっと過激ですよ。

 

ラフィングドッグ:でもよくないものはよくないでしょ。スカル団があるのはいいことだと?

 

シュロ:断言はできないですよ、それは。トップの意向が変わったら悪い組織になりうるでしょう。でも、アローラに緩いつながりを保てる場所が生まれた影響は悪いことではないんじゃないかな。珍しいと思う、そういう場所は。

 

マーレイン:(笑)ホクラニ天文台は結構ゆるいですよ。

 

ラフィングドッグ:前にポケモンリーグの設立計画に協賛したけど、あれも山頂に作る予定だよね。やはり各地方でもポケモンリーグはアクセスしにくい場所にある。崇高で厳格なイメージとか、物理的な距離が精神的な距離になる。ゆるさでも近づきがたさでも。

 

シュロ:距離をとるのは大事ですね。伝統や慣習にはとりわけ強い引力があります。そこから離れたいとき、外の世界を知らない場合は伝統や他者を排除する方向に向かってしまう。世界の広さを知らないと、まずは。

 

ラフィングドッグ:一回空とか見ればいいのにね。

 

マーレイン:それが難しくて、ポータウンってずっと雨が降ってるんですよ。カプ神が関わってるんだったかな。

 

ラフィングドッグ:さっきシュロさんが緩い組織がある分にはいいと言ってましたけど、ずっとモラトリアムっていうのはどうなのか。そこはアローラの人が態度を変えないと。

 

シュロ:態度を変えるなら変えるでいいけど、スカル団の側から自発的に行為させるっていうことが大事でしょう。相手からはっきり除け者にされると過激化する可能性がある。ここはマーレインさんを含むアローラの皆さんが決めることだと思います。

 

マーレイン:わざわざここまで話してくださってありがとうございます。僕からすると、スカル団は迷った若者の集まりなんです。離れるか、戻るか。それは僕たちアローラの大人が何とかしなきゃいけない。離れるなら離れるでいいし、アローラに戻るなら受け入れる。迷っていて、闘ってそれが終わるならとことん闘う。彼らの糧にならないと。

 

シュロ:それが一番良さそうですね。

 

ラフィングドッグ:だから、ある意味では第二の島巡りだよね。

 

マーレイン:少し規模の大きい反抗期みたいに思えます。親がアローラで、子がスカル団。反抗期の子供をどう導くかでその子の将来が決まりますから、僕らがしっかりしないと。

 

シュロ:マーレインさんのような考えの人が増えればスカル団はそのうち無くなるでしょうね。さて、これで区切りがついたかな。

 

マーレイン:じゃあ、僕からいいですか。スカル団は迷いが根底にあるけど、他の組織には迷いがないですよね。トップの違いでしょうか。アローラは観光がメインなので他地方の人と話すこともあるんですが、結構価値観が違うことがあります。その原因の一つというか、帰結に各組織があるのかなと。

 

ラフィングドッグ:組織として捉えると置かれている環境の違いということになるよね。

 

マーレイン:他地方の組織は凄いものが多いですよね。宇宙開発関係でたまにギンガ団の噂を耳にするけど、何と言ったらいいか……

 

シュロ:トップの性質が違いますかね、そこは。

 

ラフィングドッグ:スカル団に比べると、ギンガ団はなりふり構わない。スカル団は島から出るという選択肢もあるにはあったけど、ギンガ団のトップは世界が憎いから。環境に適応するということを考えると、自分に合った環境に行くか環境を変えてしまうか。

 

シュロ:そういった組織にある論理を限界まで先鋭化したのがギンガ団だと思います。先ほど逃げるってことについて言いましたけど、世界に外側はない。世界から逃げるのは無理なんですよ。普遍的にあるもの、基礎にあるものが嫌になると、逃げようがない。だからアカギ君……ギンガ団のボスですね。彼は、だから壊すしかない、と思っている。何をかっていうと世界をです。これは結構驚くべきことで、例えばね……

(試し読みはここまでとなります。続きは〇月△日発売予定の『週刊ミアラー』でお楽しみください。なお、一部地域ではお取り扱いがない場合がございますので、同日発売の電子書籍をご購入ください。)




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16.スカル団と出会った/アローラにて

今回はエッセイ色強めです!お願いします!


〇月□日

 

 鼎談を終えてからは、ずっとウラウラじまのモーテルに閉じ籠って原稿を書いている。自堕落な生活と思われるかもしれないが、いやいや皆さん、それはとんでもない勘違いですよ! 冷静に考えてみれば、私にはこのアローラ旅行というものがそれほどありがたくないのである。先ほど書いた通り、ホクラニ天文台での鼎談やキングラー星雲の天体写真は非常に感動したが、鼎談のチェック作業や付録、序文に普段の原稿の執筆や講義資料の取りまとめなどすべきことが山ほどあるのだ。そうは見えないかもしれないが、まあまあ多忙なのである。しばらくアローラに滞在できるといっても仕事量はほとんど変わらない。というか、正直今の方がつらいですよ。せっかくアローラにいるのに、カンヅメで仕事をしなきゃいけないなんて!

 

 その他、気分を変えようとこっそりモーテルを出ても、どくろバンダナを巻いた素行のよろしくない集団が地から湧き出したようにうじゃうじゃと群れを成して跋扈しており、変な気分になるだけだ。彼らは何なのですかと聞こうにも、それを知っていそうな旧友と直接会う暇さえないのだから、息苦しいことこの上ない。花畑まで足を伸ばせばまた違った感想も出てくるかもしれないが、残念なことにそこまでの暇はないのである。いやになるね。

 そういえば、ふと覗いたPoketterの画面の中で若いジムトレーナーが目を輝かせて「長い間我慢していたスイーツを食べることができて幸せ」と呟いていた。なんとなく、正反対のことも言えるのではないかと思った。すなわち「長い間食べてきたスイーツを我慢することができて幸せ」というように。問題は、こういうとなんだか冗談っぽくなってしまうことである。我慢しない喜びがあるように、我慢できたという喜びもあるのではないか。これはリッシ湖伝承解釈の少々突飛なワン・パターンでもあり、これを作業仮説とすれば従来とは少々違った角度から『いし』とは何かについて迫ることができるように思われる……というところから思索を展開していこうと思ったのだが、タイミング悪くリンリンと着信音が鳴り、備え付けの受話器を取ると来客の報せだった。

 はてと思いながら表に出てみれば、どくろバンダナ(似合ってない)を巻いたモモン色の髪をした若い女性と、同じくどくろバンダナ(こっちも似合ってない)を巻きオレン色の髪をした若い男性の二人組。先ほどの不良グループの一味かと思ったが、私の素性を知っているということは関係者だろうと思いなおし、最近の編集者って変わったファッションだなあ、と考えながら普段通りの応対をする。ところがどうも違うらしく、結局、本当にスカル団なるちょい悪グループのメンバーらしい。カツアゲかもしれないと震えていたら相手も気の毒に思ったのか、ボスが呼んでいるだけだから悪いようにはしない、と宥めるように話してくれた。不良にまで気を使われるとは情けないことである。あるいは、彼らは根っからの不良ではないのか。

 原稿も進まないことだし行ってみようか、とも思ったが、ボスがホクラニ岳麓のポータウンにいると聞かされ、ほんとにもうその気が失せてしまった。ナッシーバスを降りた時点で話しかけてくれれば手間も省けたし、「不良に絡まれた」と言えば国際警察に連行された時のように締め切りにも幾分猶予が出ただろうに、いやはやタイミングの悪いことである。正直うんざりするが、とはいえ、ここまできて断ることもできそうにないので、しぶしぶボスの顔を見に行くことにした。モーテルの管理人に部屋はそのままにするように伝え(帰ってきて資料の場所を把握できないと困る)、レンタルのライドギアでムーランドの背にしがみつく。腰を最大限いたわる姿勢だ。当然前を見ている余裕もないため、スカル団の二人に先導してもらう。その間、雑談なんかしつつロトムフォンでせっせと原稿を書かせてもらった。ちょくちょく二人から質問が飛んできて原稿が中断されたりもしたのだが、その甲斐あってか打ち解けてきたようにも思う。彼らとはせっかく仲良くなれたことだし、そのバンダナ似合ってないよと教えてあげるべきだったかもしれない。

 

 さあ、そろそろ到着という頃に、近くにニャースだらけの交番が見えた。高い塀に囲まれたポータウンの目と鼻の先である。気になって君らアレは大丈夫なの、と聞くと、『理解あるオッサンだから大丈夫』とのこと。不良に理解ある警察のオッサン、いい響きだ。不良にもバンギラスにもサザンドラにも"こころ"があるのには違いない。警察官としては不良の部類だが、"こころ"がつながっているのはよいことだと思いたい。アローラの見知らぬ警察官よ、誰に何と言われようと、それでいいのだ。その交番を過ぎたあたりからは、話に聞いていた通りどんよりした雨模様。ここでムーランドに礼を言い、ライドギアに戻す。濡らさないための気遣いというのもそうだが、この年でのポケリフレは色々ときついものがある、というのも理由の一つである。ともかく固く閉ざされた門が開き、中に入るよう言われる。一層凄まじい雷雨だ。スカル団はカプ神に嫌われているのか、それとも別の原因なのかは分からないが、このように生きた伝説の現象が見られるというのは羨ましい限りである。もう夕方ということもあり辺りは薄暗く、寂しい家々の扉とかすれたスプレーアートが独特の雰囲気を放っている。

 濡れた石畳をかつかつと踏みつけながらバリケードの脇を潜り抜け、中心に構えるぼろぼろの屋敷へ向かう途中、少し汚くはあったがポケモンセンターが見えた。二人に入ってもいいか尋ねたところ許可がもらえたので、喜び勇んで中へ入る。今回アローラに来てからというもの、一度もロズレイティーを飲めていなかった。こんな雨模様の中いただくロズレイティーはどんな味だろうと少し期待しながら中へ入ると、カフェースペースは惨憺たる有様。薄々気付いてはいたが、カフェースペースがないなんて!全ておんぼろなら納得もしたが、回復装置が無事な分、余計にショックである。センターの中で寝転がっていたスカル団の一人にどれだけ楽しみにしていたかを力説し、豆も残ってないの、と聞くと、顔を背けられた。こういう時の私はしつこいので、何度も聞く。結局、どこからか現れた趣味でコーヒーを淹れているというスカル団の青年に手伝ってもらい、なんとかロズレイティーを飲むことができた。当然他のカフェーには劣るが、とてもありがたいことである。

 ポケモンセンターでごねたせい(おかげ?)で、空はすっかり濡れたドンカラスの翼に覆われたかのような黒に染まっている。月は見えない。ちょい悪グループのボスに会うには丁度いい時間だが、モーテルから案内してくれた女性スカル団に聞いてみると、「今日はもういい」そうだ。奥の屋敷の一部屋をお借りして寝ることにしようと思ったのだが、屋敷の右上当たりの部屋から壁を蹴る音や物を叩きつけるような音が聞こえ、なかなか寝付けない。あの部屋に『ボス』がいるとしたら、大変なことである。今日の情けなくも優しいスカル団の様子を見る限り、そんなことはなさそうだけど。




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17.G.Z.M.氏/アローラにて

〇月□日

 

 普段なら、あんなことがあった、こんなことがあったと思い出しながら順序だてて原稿を書いていくのだが、昨日今日と〆切に追われており、何か起こる度にここに書き留める、というなんとも不格好な形式になっている。もうやりくりがかえんぐるまだ。こういう文章を書き続けていると毎回書く内容のバランスを考えるのだが、私は政治や国際情勢の話を極力しないことに決めているので(そんな話をしたらあっという間にやけど状態になって気絶確定である)、書ける内容は自身のごく身近な範囲の日常生活だけということになる。それも甚だ乏しいので、旅をしていてもたちまちネタが尽きてしまう。何より、身近に起こった面白い出来事を書くだけならばもっと適任がいるはずである(例:マサキ、マサキ、マサキ)。

 さて、スカル団の下っ端が、私が借りた部屋の扉をノックして、ボスの部屋に来るよう伝えに来た。屋根を伝って部屋に行く途中になぜこんなグループに所属しているのか聞くと、なんでもこの下っ端は島巡りに失敗し、ならばと一念発起して受けたタマムシ大学の試験にも失敗したそうだ。「なんでこうなったんスカね。自分はこう思ってるんすけど、センセはどう思いまスカ」と訴えるから「私にはわからない」と答えた。そりゃそうだ、分かるはずがない。今、私が濡れた屋根で足を滑らせたとしても、「それはなぜか」が分からないのと同様である。雨で滑りやすくなっていたから、私が高齢であったから、慣れない土地で浮かれていたからと答えることはできようが、その全てはたんに可能性の話であり、"なぜ数ある可能性の中から実際にこうなってしまったのか"を、我々が知ることはない。原因は複合的であり、現実は偶然的なのだ。しいて言うならば全ては神の気まぐれであり、このことは意志と行為との微妙な関係にも当てはまる。

 このように現実の複雑さに比べれば、スカル団というコミュニティはまだまだ健全で、かわいいものである。カリスマ的指導者が団体を一つに纏め上げるのは恐るべき独裁の端緒だが、スカル団の下っ端はたんなるボスの手足ではなく一個人であり、一個人が傷ついた心を通わせてグループを形成しているというのは本当に自然な態度だ。もう感動に似たものさえ覚える。タマムシ大学に落ちたという彼の手を借り、ちゃっかりおすすめの参考書として私が書いたものを教え、どうにか屋根を伝い、窓から身を縮めて入り込む。割れた窓ガラスが雷光を反射し、暗い通路を真っ白に染め上げた。服の襟を整え、咳払いをして扉の前に立つ。合言葉を答えてもらえば、さて、ご対面である。

 

 

 

 



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18.さらば、ケーシィの形象よ/アローラにて

〇月×日

 

 朝、目覚めると陽の光がモーテルの窓から眩しく差し込んでいる。白い光が部屋に広がり、机に積まれた資料のコピーが文字も読めないほど白色をはねっ返していて、痛いほど目に染みる。朝日が輝くうち風呂に入り、目を細めながら資料を纏めてモーテルをチェックアウトした。いよいよシンオウに行くのである。スカル団のボスと話したことは書かないようにと頼まれたが、なぜ書くと思っているのか。三流雑誌ならまだしも、何が悲しくて天下の文藝ラプラスにいたいけな少年少女の不器用な悩みを書いて全国にばらさなければいけないのか。そこまでモラルのない人間だと思われているとしたら非常にショックである。思われている? そっか……

 気を取り直す。今月号は多分、スカル団の人間にチェックされるであろう。ボスと側近の女性と話した内容は書かないことに決めているが、少し前に「スカル団などかわいいものだ」というようなことを書いており、そこだけが心配である。しかし、これからカントーを経由してシンオウ地方に行こうというのだから、これも些細なことだな、と思う。

 学生時代、私は神話の研究をしようと人文携帯獣科学研究科に院進したのだが、携帯獣分野の知識がないので行き詰った時、勉強したくはなかったが、ポケモンバトル等で触れ合うのもなんとなく億劫だった。その頃分野として出てきたばかりであった分子携帯獣学の授業に出席したとき、人とポケモンをどんどん分割していって、人間はどこまでポケモンか、という思考実験を知り、そうした考え方を面白く思った。私があの時から科学的携帯獣学に鞍替えしていたとすると、今頃どうなっていたのだろう。

 こう考えると、私が今人間であるのも、エンジュ大学の教授であるのも偶然であるというような気がしてくる。今現にそうである以上の意味はなく、これ以外の事実はないと思う。ケーシィをボールから出してこんなことを言うと、突然体が白く輝きだして、ユンゲラーに進化した。

 一度書いておくと、私とケーシィは随分昔からの付き合いであり、昔からオーキドとの勝負をさぼり、ロケット団の末端構成員に抵抗を試みることもせずに逃げ、その他様々な避けられない勝負以外殆どバトルに出さないという「政策」を貫いていた。という訳で、私がくたばる間際まで、こいつは進化しないのだろう、お前もバトルを望んでいる訳ではないだろう、という姿勢は私とケーシィの間で共通していた。

 なにしろテレポートばかり使っており、それに関しては四天王にも引けを取らないほど熟達しているのだが、それ以外の技はからきしであり、まともに使える攻撃技は悪タイプの『めざめるパワー』のみで、私のトレーナーとしての腕前もよろしくない。ケーシィは何しろエスパータイプの技が好きで、あくタイプなどもってのほかであり、赤髪の少年のワニノコに勝ったのもなだめすかしての結果に過ぎない。万一ほかにエスパータイプの技を覚えたら、即刻野生に戻り、群れを治めても、優れたトレーナーを探してもよいというのが若いころの暗黙の了解であったが、まさかこのタイミングで進化するとは、大事件である。

 はじめは驚いたものの、しばらくユンゲラーを見つめていると次第にそんなこともあるかなあ、という気持ちになっていく。今進化したのも、偶然と言えば偶然のことであろう。ボールを目の前に差し出すと、自らボタンを押して中に戻り、再び自分から外に出てきた。お前、ついてくる気はあるのか、と言うと、ユンゲラーは私の背後に恐らくは覚えたての『ねんりき』を放つ。振り向けばオニドリルが逃げていくのが見え、少しぞっとした。

 ここまで生きてきて今更オニドリルにやられてやるつもりもないが、シンオウに行くのが少し遅れる程度の影響は出ただろう。オニドリルと言えばジョウトでさんざん見てきており、ちょっと一突きされたとて、という感覚になっている。私自身、ポケモンバトルが苦手な分、意外と体は頑丈だと自負しているというか、必然的にそうならざるを得なかった。皆さんは絶対にまねしないように。

 ユンゲラーの話に戻ろう。今更感謝するのも違うと思い、それでお前、ついてくるということでいいかね、と聞くと、こいつは器用にロトムフォンを呼び出し、原稿用のソフトウエアーに見事なテレパス入力を披露した後、画面をこちらに向けてくる。どれどれと見てみると、「神話ハ面白イガモウ結構、バトルノ練習ヲセヨ!」と書いてあった。ユンゲラーと言えば『変身』のモデルとなったポケモンでもあり、やはり人間とポケモンの()()()も曖昧で、偶然的なものなのかなあ、と思う。私は右往左往するロトムフォンをひしと捕らえてPoketterに事の顛末を入力し、また道路を歩きだした。この前の呟きはそういう訳だったのだけど、しかし、近頃は全くと言ってよいほど神話について触れていないね。これは、ずいぶん反省すべきことのようだ。



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開会宣言――シンオウ考古学研究会

シンオウ考古学研究会開会宣言――シュロ・トクジ教授

 

 ご紹介に預かりましたシュロです。普段はエンジュ大学で神話や伝承の研究ですね、これを行なっております。本日は、私の専門である神話学という分野の成立と、その展望に関して少しお話しさせていただきます。

 さて、シンオウ神話に関しては、既にして興味深い様々な考察が存在しています。考古学はもちろんのこと、ポケモンの生態や、さらに掘れば社会学的、地政学的観点から考察したものさえあるんですね。素晴らしい。これらは新しい視点を供給してくれるため、我々のような研究者にとって、常に、非常に興味深いものであり続けていることと思います。

 しかし、これほど様々な見地の存在は、逆に言うと謎も生むわけですね。即ち、これほどたくさんある主張の、どれが本当にシンオウ神話で語られていること、シンオウ神話が語ろうとしたことなのでしょう?まあ、どれも本当の部分があり、どれも間違っているがあると答えるのが適切であろうことは疑えません。でも、それのどこが。どれのどこが本当で、どこが間違いなんだ。今までの資料を探してみるに、総合的な考察は今のところなさそうです。

 総合的な考察とはなんでしょう。考えてみれば、複数の意味を持つ何かについて考察するなら、それぞれがどの程度の深さまで食い込んでいるのかというメタな、上位の考察も必要とされるのではないでしょうか。複数の見地があり、集合し、それぞれがある部分で一致し、すれ違い、離れていく。例えば、考古学的に全てを説明する仮説と、携帯獣学的に全てを説明する仮説が存在したとしましょう。どちらか一方が完全に正しく、どちらか一方が完全に間違っていると言うことは稀です。いえ、あり得ない。そう言っても良い。無論、この二つを比べた際に考古学の優位は疑うべくもないのですが、というのも考古学は携帯獣学をも利用して総合的に歴史に切り込んでいく学問ですから……しかし、まだ不十分な箇所は残されています。例え神話が昔の人々の間でどういう文化で話されていたかが解明されても、その神話が何を意味するのかは分からない。神話学というのは、伝承の研究において、そこを補完する学問領域と言っても差し支えないかと。補完ですから、えっと、私は支部長みたいなものですかね。シンオウ考古学会神話学支部支部長、ということに……なるんでしょうかね?はみ出しものかな。考古学と歴史学の隠し子って名乗ってもいいんですけど。まあ、そのー、ね。開会宣言であんまりふざけると若い子に悪いのでやめておきましょう。一般公演とは訳が違うので。

 気を取り直して、神話学が考古学を補完する方法ですが、これは主にシンオウ神話における個々のエピソードが持つ影響力の大きさを軸に学説を調整していく、というものです。こちらとしてはシンオウ神話に関する考古学的考察に異論はありませんが、その構造はさしてフラクタルではないように思われるので。フラクタルというのは適切ではないかもしれませんけど、全体と一部が自己相似になっていないというような意味合いですね。つまり、ある関係を考古学的にうまいこと説明できるからと言って、それを神話全体に当てはめるのはちょっとアブナイんじゃない?ということです。ここまでは普通の意見でしょう。

 しかし、ここがシンオウ神話の面白いところだと思うのですが、重要なのは上記の関係と同様に「神話同士の衝突/融合等々に関するメタ―関係」をシンオウ神話全体に当てはめてしまうのもまた危ないということです。どういうことか?危険な修辞になるかもしれませんが、再び例示を試みることにしましょう。メタ関係――またまた考古学と携帯獣学を比べてみます。一つの伝承は考古学的に説明できる。もう一方の伝承は携帯獣学的に説明できる。ここで立ち止まって考えてみると、あることに思い至る人がいます。これらの伝承の関係は、考古学と携帯獣学の関係に似ているはずだ、つまりこの二つを比べれば、シンオウ神話の伝承全体がどのように関係しているのかが分かるのではないか、と。これは確かに、考古学という枠組み、携帯獣学と言う枠組みから外部へと抜け出しているように見えますし、より大きな観点から捉えていると言えるでしょう。ところが、シンオウ神話はそのような見方さえも拒むように思われます。シンオウ神話のそれぞれの伝承を比較した際に見られる違いは、他の伝承と同じように違っているわけではありません。地政学的に見れば同じでも、思想史的に見れば違うかもしれない。逆もまた然りでしょう。先ほどの体系でさえ、一致が見られる場所は実のところ氷山の一角でしかないとも言えましょう。

 勿論、このような考察方法も、一番初めに述べたように、単体でも十分に興味深く、常に新しいものです。とはいえ、隣接項からボトムアップする考察方法では何がどこまで正しいのかを求めることは非常に難しいのではないかと、そのように思われる。

 ではどのようにすればいいのか。どのような考察方法をとれば、本当にシンオウ神話で語られたことを解明できるのでしょうか。その答えは、おそらくですが、体系化されたシンオウ神話の内的連関を紐解くことにあります。継いで接いだ外部との関係ではなく、整然とした内部へと潜り込むことに。いえ、内部が整然としていると決まったわけではありませんし、どちらかと言えばとっ散らかっていそうな予感はしますが。それでも筋を辿ると言うのはアリだと考えられます。

 神話学とは即ち、欠けていた神話に対する哲学的考察を補うものである。と。

 内的連関を把握し、シンオウ神話を既存の学問とは全く異質な一つの体系として見ること。神話体系の根幹をなす部分を見抜き、そこで初めて外的連関を見出しトップダウン型に舵を切ることは、ボトムアップ型の考察が出切りつつある今にしか出来ないことであろうと、私は考えています。

 えー……あ、一つ欠点があるとすれば、新しい情報が出た際に揺らぎやすい研究方法ではあるんでね。ま、新しい情報が仮説を裏付ける物であればよし。そうでなくても、研究が新鮮な気持ちでできると考えれば悪い物でもないでしょう。だって、実のところ楽しみでもあるんですよ。全く新しい、今までの研究を根底から覆すような資料が出てきたとして、今の私がまたイチからシンオウ神話を研究したらどんな結論が出るのか、というのは。

 ちょっと喋りすぎましたかね。では、以上で開会宣言を終了させていただきます。すみません、昨日お酒を飲みすぎまして。すみません。すみません。




新情報が出て今までの考察の間違いが判明しつつあるんですが、どうにかしながら更新していきたいとは思っています。月一くらいを目安に、気長にお待ちください。なにせ連載されてるのは『月刊文藝ラプラス』なんですから!

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19.ジムにお邪魔した/ヤマブキにて

物語も中盤に差し掛かってまいりました!ちなみに、原作の時系列が無茶苦茶ですが、そこはどうぞお目こぼしください。わかんないんだもん。


〇月□日

 

 ユンゲラーの処遇をどうすればよいかきいてみるため、しばらくヤマブキに留まることになっている。ヤマブキジムのジムトレーナー諸氏に育成に関するアドバイスをいただき、ついでにバトルの手ほどきもしてもらおうという算段であった。しかし、突然訪れたにも関わらず暖かく迎え入れてもらえたのはありがたいことだが、ワープパネルが眩しく光っており、なかなかどうしてめまいが収まらない。しかもサイキッカーの一人が、交換条件として私の心を読んでみたいという。不思議なことだ。だがいつも通りにしていればよいらしいので、変だなぁとは思いつつも目を瞑り、椅子に座って考えに移った。

 振り返ってみるに、先月はアローラにいたせいか非常に浮かれていた。しかも、浮かれていると自分では気づかずに!この前も"反省しないものは云々"と書いたばかりであるのにこのようなことになり、自分に対して言いようのない不満が募るばかりである。反省しなければ。ま私は自分に文才がないことを痛感しており、常々自分に「ここまで生きてきたのだから、独自性と示唆に富むものが書けないわけがない。大学院にまで入った死に体の病人が今更悪人に怯むようなこともあってはならない」と言い聞かせている。それでありながらあの体たらくで、島の不良の言いつけを守ってしまうときた。しかし今更破ろうとも思えないから、益々不満は募る。観光ができなくともあの地方は人を良い気分にさせるのか、わざわざ携帯獣学部ではなく文学部に入った私でもアローラの魔力には逆らえないらしい(これはもちろん冗談だが)。アロハシャツを着ていた日もある。さぞシュールな光景に映ったことだろう。

 そもそも私が当時人気絶頂だったタマムシ大学携帯獣学部ではなく文学部に進学したのは、ポケモンのことがまるで分らなかったからである。今もそうだが、タマ大携帯獣学部はモテる。もう、尋常じゃないぐらいにモテる。にも拘らず私が文学部に進学したのは、『こんな強い力を持った生き物が人間の言うことを聞く』ということが――トレーナーの腕がいくら良かったとしても――不思議でしょうがなかったからだ。ポケモンと人間が共生関係にあることこそ携帯獣学の要である。このことは学究を待つまでもなく、誰でも知っている。それは、一方で、最も確実な事のように思われるが、他方、能力の高いポケモンの生態にちょっと探りを入れると、人間などは少し触れただけで瓦解するのではないかと思われるくらい儚げなものである。当時の私は、この不思議の解決を文学に求めよう、と思った。

 

 大学に入学してから、私はシンオウ神話とケーシィに出会った。今から考えれば、奇跡のようなことだと思う。私にバトルの才能が大してなかったから、たまたまボールも持ち合わせていなかったから、逆にケーシィと仲良くなれたのである。しばらく過ごすうちに、いつの間にか私のポケモンだと思われており、ゲットの流れになった。テレポートの練習もこの時に始め、煩雑な手続きをして許可証まで取ったのに、飛ぶ教室を間違えた。その時に初めて出会ったのが「トバリのしんわ」である。そして、シンオウ神話にのめり込んでいった。余談だが、結果として私は選択科目の単位をいくつか落とした。皆さんはまねをしないように。

 さて、はじめて「トバリのしんわ」を聞いた時、実のところ私は何も分からなかった。何も分からなかったから、何もかも分からなくなったから、神話を学びたかった。神話がどのようなものであるのか、当時の私はほとんど知らなかった。だが、そこは何かおどろおどろしく不健康な世界、しかし『ポケモンがなぜ言うことを聞くのか』という問いに答えてくれそうな唯一の場所であるというような予感があった。実際ケーシィにテレポートを使ってもらえていたこと、なのに寝る前の四方山話に大した反応を示さないことなども拍車をかけていた。

 最初の頃、文学部に入ったら心理学をやろう、と何となく決めていたのだ。『こんなに強いポケモンが弱っちい人間の言うことを聞く』という謎を解き明かせる可能性が最も高く見えたからだった。もちろん、心理学も崇高な学問である。しかし、トバリのしんわを聞いた後に、講義に出席しようとはどうしても思えず、しばらく落ち込んでいた。結局、こうして私はタマムシ大学文学部の、文化史携帯獣文学科(携文、と呼ばれていた)を選んだ。

 そして、私は携文でまたもや落ち込むことになる。私の場合、積極的に文化史携帯獣文学を学ぶというより、シンオウ神話に深く触れたいという動機の方が強いのだから、浅く広い授業にたちまち疲れてしまった。当時はシンオウ神話が専門の教授も在籍しておらず、こんなはずではなかったと思った。文学よりも、考古学や哲学、文化人類学の知識が必要だった。今思えば私は神話のひとかけらも分かっていなかった。

 丁度ここまで考えたところで、額に硬質の刺激が感じられた。目を開ければ、卵型に引き伸ばされた私の顔が逆さに映っている。ユンゲラーに叩かれたのだと気づくまでに、数秒かかった。まだまだ考えも序盤で適当なものだったのだが、もうジムトレーナーの準備が整った、ということを意味していた。サイキッカーの人も可哀そうなものだ。大学教授の思考を読んだらこんな自分語りを聞かせられるのだから。

 

 まあ、冗談はさておこう。ヤマブキジムトレーナー諸氏との相談の結果、これはユンゲラーを進化させることに決まった。ここ最近物騒だからサイコパワーの出力を上げるに越したことはない、とのことだ。ケーシィは嫌というほど見たのにこの姿はもう見納めかと思い寂しくなったが、ユンゲラー自身はなかなか乗り気な様子。ポケモンセンターに戻る時に、「私に協力できることがあれば、ぜひ言ってください」と伝えたら、皆さんに「今度は読心術以外になりそうです」と苦笑しながら言われた。少し悲しかった。明後日進化する予定だと教えられ、そわそわしながら道路を歩くユンゲラーの姿を眺めながら、こいつもよく私についてきたもんだなあ、とぼんやり思う。山吹色の夕日がスプーンに反射し、眩しく光っていた。




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20.『トバリのしんわ』/ヤマブキにて

〇月×日

 

 シルフカンパニーを訪れ、護身用のボールを買った。タマムシ大学に在籍していた当時の社長の失敗作から着想を得たものらしく、捕獲こそ不可能だが、どんな野生のポケモンでも5秒以上はボールの中に閉じ込めることが可能という優れモノである。現在は受注生産だが、私も若いころは大変に重宝したし、今も時々使っている。シンオウに行くので、かなり買い込んだ。無論、キッサキ神殿に行くためである。ずいぶん昔に契約書を書いたので、自由に出入りすることができる。死んでも自己責任なのが玉に瑕だが、こんな情勢なので命もあまり惜しくない。

 

 なぜポケモンが人間の言うことを聞くのかについては、様々な基礎付けが試みられてきた。その形態はモンスターボールの工学的システムや、革命的論文であった"預かりボックス内プロセッシングユニットとしての携帯獣論理"を経て、ヴィジュアルデザイン学におけるジムバッジ論に至るまで実に多様であるが、そのどれも人間を特権的・絶対的・統一的な存在と見なさないという共通項を有しており、実際には明らかな非対称性があるにもかかわらず――故にプラズマ団は可能だったのだが――あくまでも人間とポケモンは対等であるという姿勢を崩していない。そして、シンオウ神話も、どうやら同意見のようである。

 『ひとと けっこんした ポケモンがいた /ポケモンと けっこんした ひとがいた /むかしは ひとも ポケモンも /おなじだったから ふつうのことだった』(シンオウ昔話 その3)という文章がある。初めに言えるのは、これが書かれた時点で既に人とポケモンは同じではなかったということである。ポケモンと結婚した人間がいたというのはそれはそれで興味深い記述であるとはいえ、今回はヒトもポケモンも同じだったという点に注目することにしよう。人間とポケモンは同じだった、という主張の意味するところとはなんであろうか、と問うてみると、そこには古代のポケモンに対する態度の変化が見えてくる。

 トバリの神話は、簡単に言えば「人が剣を持ってポケモンを殺し、加えてその死を軽んじた。いつしかポケモンは人間の前に姿を現さなくなり、人間はそれに反省し剣を捨てポケモンと和解した」ということになる。ここでも裏を読む必要がある。トバリの神話が書かれる以前、人間はポケモンと戦っていた、対等に対立していたわけである。さて、ポケモンと対立するというのは凄まじいことのように思える。加えて、それを可能にした剣とは何なのか。文字通りに剣と解すべきか――だとするならば、製鉄、火山、ヒードラン信仰の理由にも説明がつく。なぜならばポケモンに対抗する力を与える存在であるから――それともヒスイ伝承の言うように、ポケモンに対抗する何か別様の力を考えるべきか。同様に失われた力であるとの関連性をどのように考えればよいのか。未だ謎は尽きない。



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21.事件が多くて困る/ヤマブキにて

〇月□日

 

 毎日といっていいほど大事件が起こり、ロケット団が劇的な復活を遂げ、イッシュの半分が凍り、伝説のポケモンも今日こそ復活するのではないかと人々が惑い、フレア団員の数がうなぎ上りに増加し、アローラの空に奇妙な綻びが生まれているこの頃について、私はとんでもないことになったなあと嘆いているが、この雑誌の編集部は平気のヘイガニという様子でけろりとしている。編集のYさんは、諸事情により短編小説が寄稿できないという作家さんの連絡を飄々と受け流しながら、その分の頁を涼しい顔で私のところに回してきた。事件が多くてネタに困らないな、と言われるが、いやいやこんな事件をネタにできるわけがないでしょう。文藝ラプラスの編集は奇人が多いらしい。

 いろいろあったが、そのころの私はポケモンセンターに足を運び、ヤマブキのジムトレーナーであるイサオ君と合流していた。交換相手は知っている人ならば誰でもよい、と思っていたのだが、万一サイコパワーが暴走するといけないから、ということで来てくれたらしい。交換用の装置にユンゲラーが入ったボールが吸い込まれるのを見ながら、ふとプラズマ団のことを思う。

 

 プラズマ団はポケモンを開放すると主張しているが、私はその理由がよくわからない。私の考えを説明するために、例え話をしよう。

 

 ポケモンは人間の指示に従わされていてかわいそうだ、というのがプラズマ団の意見であろう。そして、ポケモンが人間の指示を聞く時、その理由を想像することができる。従わされているか、あるいは月並みなことを言えば、そちらの方が普段より大きな能力を発揮できる、あるいは目的を達成するのに適している、など。リソースの限界という怪しげな概念を用いてもよいならば、状況把握を放棄しあるいは委ねることによって、目的に専念できるため、と答えられるかもしれない。我々の状況把握能力が特に優れているから、という答えもあることだろうし、実際、バトルにおいてはそれを示すジムバッジは大いに役立つ。まずその二つがあって、プラズマ団はそれを混同していると思う。

 しかし、反論を考えることもできる。我々よりはるかに賢く、さまざまなセンスがあるポケモンの場合、それが何の役に立つのだろうか。そう言われるとむりやり従わせている論が少し元気になるかもしれない。確かに、そのようなポケモンは存在しないと断言することは今のところできないし、何よりこの答え方では、人間が役に立たない場合にポケモンと共存するのは難しいように思える――そして、残念ながら、役に立たない人間はしばしば存在する。少なくとも私はバトルの時に役に立たない。だが、ポケモンは私のことを助けてくれる。これは無理やり手伝わせているのか。いや、どうも違う。

 ここで言いたいのは、ポケモンが人間の言うことを聞く理由のうち、特定のどれかが正解なのではなく、かといって間違いなのでもない、ということである。そのような理由は無数に存在し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。独特のリアリティをまとってはいるが全ては偶然だと言うほかない、ということであり、原因から機械的に原理を引き出すことなどできないのではないか、ということである。従うことも、従わないことも。

 ポケモンが人間に従う理由は様々である以上、たった一つの理由をもってポケモンを人間から解放するという主張はナンセンスに思える。"なぜ従うのか"という問いに対する完全な答えも、また、存在しない。ヒトとポケモンが同じだった、ということは、在り方は違えど普遍化不可能な心を持つしかじかの存在であるということを意味しているのだ。ゆえに、『ボールさえあればポケモンはかならず人間に従う』などと考えている人は、ポケモンを従わせることなど夢のまた夢であろう。邪推すると、このように主張する人こそ、画一的な思考、抑圧的かつ画一的な欲望を持っているのではないだろうか。逆説的にポケモンを支配したいという願望が心のどこかにあるのではないだろうか。

 

 こんなことを考えていたら、装置からボールがぽん、と落ちてきた。もうフーディンである。イサオ君が「フーディンはシュロさんによく懐いているようなので、メガシンカができるかもしれません」と教えてくれた。この前進化して、今日も進化したばかりなのに、また進化されると頭がこんがらがりそうである。今日はどうもありがとう、と言って、フーディンを連れホテルに戻ることにした。もう抱き上げられないほどの大きさになっており、少し寂しい。そっと手を差し出すと、気だるげに繋いでくれた。固く冷たいスプーン越しにフーディンの繊細で温かい手を感じた。そこは変わらないのだな、と嬉しくなった。

 



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22.伝説を垣間見るなどの行為/ホウエン空港にて

反省を踏まえ、今回は非常にゆるめで分かりやすくなっていると思います。お願いしまーす!


〇月△日

 

 空港で一晩を明かした。ホウエン経由でシンオウに行く予定だったのが、西側一帯が大日照り、東側一帯が豪雨という異常気象で、綿密に立てていた計画の全てがおじゃんになる。伝説のポケモンが甦りつつあるとのニュースを他の乗客が固唾を飲んで見守る中、私は一人静かにシンオウで検証する予定だった仮説の書かれた原稿をハンドシュレッダーにかけることにした。ホウエンに寄るのだから流星の滝に行きたい、という要望を国際警察に却下され唇を噛みながら、それでもシンオウに行けるのだからと自分を宥めても、結局それもできなくなってしまう。なぜかは知らないが、いつもこうである。私はいつも大事な目的地に行けずにいるのだ。

 ホウエンでいえば、フエンタウンのロープウェーにも乗ることができなかった。旅館の温泉で疲れを癒し、たまに入ってくる火山地帯のポケモンの姿を眺めて酒をちびちびやるところまでは最高だったのだが、さあロープウェーに乗るぞ、というところでチケットを見せようとすると、どこかで無くしたのか見つからない。結局係員の方に探すのを手伝ってもらい、乗る予定だった便が出発した頃にようやく発見する。皆さんの計らいで次の便に乗せてもらえることになったものの、運悪く火山活動が活発化し、結局先程のものが最終便になってしまったのである。ムロタウンに行こうとしたこともあったのだが、ハギの船がちょうど故障しており部品交換が必要だというので、結局行けずじまいであった。

 まだまだある。ライモンではカナワタウンに行こうとするもバッフロンの群れが線路を通過していたために運休。ふらりと訪れたしゅぎょうのいわやは落石により通行止め(現在は撤去されているそうだが)、カントーではナナシマのアスカナ遺跡を調査するためシーギャロップハイスピード号に乗るも、船酔いで一人調査班からの連絡を待つ羽目になってしまった。老人ぼけではなく、若い頃からこうなのである。ポプラさんがまだ大人のお姉さんと呼ぶにふさわしい年齢であったころ、ターフタウンへ地上絵を見に行った時も、付近でダイマックスしたポケモンが出たというので取りやめにした。こういうわけで、私は基本的に、まともなフィールドワークをあきらめている。そのくせ、環境的にはひどいとしか言いようのないキッサキ神殿の内部にはケーシィ一匹と忍び込むのだから、我ながら変な人間である。こうして振り返ってみると、このような主題で連載を持てているのが不思議でしょうがない。

 一瞬光が差し込み、少し遅れてドサイドンのいびきにも似たごろごろという音が聞こえてくる。窓の外を見ても代り映えのしない豪雨。低く暗雲が垂れ込めており、切り刻まれた原稿は湿気っている。腰と膝がひどく痛むので、あえていったん立ち上がり、体を動かすことにした。長く座っていた影響か、体中の骨がミシミシと音を立てているような気がする。単にこの痛みを癒すだけの伝説のポケモンもいれば、このような豪雨を降らせるポケモンもいるのだから、全く凄まじいものだ。

 

 伝説のポケモンには様々な種別があり、ここホウエンで異常気象を引き起こしているグラードン・カイオーガについて記されているものは、神話学的分類でいえば『素朴実在論的世界起源神話』と呼ばれるグループに属する。字面では難しそうに見えるかもしれないが、なんのことはない。素朴実在論とは自分の目に見えたものがそのまま実在すると信じるような態度のこと、より具体的に言えばモンスターボールを見て「ここにモンスターボールがある」とする態度のことである。ところで素朴というと、なんだか頭の弱いイメージを持つ方も多いだろう。純真といえば印象も変わるだろうが、しかし実態が変わるわけではない。さて、ではなぜこの態度は素朴などと呼ばれているのか(ただ実在論と呼べばよいではないか!)。これにはもちろん理由がある。

 例えばイッシュ地方での話だが、モンスターボールに見えていたものが実はタマゲタケで、胞子を引っ掛けられた、というようなことがよくある。そういった時のことを考えると、この態度はまだまだミジュクだと言わざるをえまい。素朴実在論的態度をとるならば、モンスターボールそっくりなタマゲタケを「これはモンスターボールそっくりなタマゲタケかもしれない」と疑うことは難しいだろうからである。いーや、それは見る目がないからだね、と反論する方もいらっしゃるかもしれないが、それではこの画像を見ていただきたい(図1)。

 どうだろう。この画像は皆さんにはモノクロに見えただろうが、実は一部のとりポケモンだとか、コンパンだけが認識できるような色で刷られているのだ。いやいや、コンパンやとりポケモンに見えているような色ではなくて、我々の見ているモノクロの写真こそこの写真の"本当の色"なのだ、という人も中にはいらっしゃるかもしれないが、その人も我々に見えている色が本当の色だという証拠を提示することはできないだろう。ただ自分にはこう見える、としか言いようがないのである。このように我々の認識能力には限りがあるのだが、素朴実在論はそのことを省みない態度であり、ゆえに素朴なのだと言うことができよう。

 その点、シンオウ神話は世界を物と心という要素で考えている。ホウエンの伝説を下げるという訳では断じて無いが、しかし物を認識する心の枠組みを規定したこと、その枠組みを『時間』と『空間』の二要素にしたことといい、見事なものである。誰も問題としない所まで深く追求し、世界の核心に迫るその姿勢が垣間見える時、改めて古代の人々への尊敬の念が湧き上がってくる。無論そのような意味では、この豪雨と向こう側の大日照りの中、懸命に生きて壁画を遺した古代ホウエンの人々とて例外ではない。シンオウの神々は概して人間に害を及ぼすことはないが、こちらの神々は違う。この素朴さは自然を畏れる——畏れざるをえない状況下にあった——人々の生き方を如実に表している。神話とは、ただ単に文化的成熟の度合いを表すだけではないのである。

 豪雨は未だ降り続き、いよいよ一階に浸水してきたとのことだが、緊迫感はありつつも誰も必要以上に慌てる様子がない。自らのポケモンを信頼しているのか、理由は分からないが、人間にはやはり古代から受け継がれてきた人間なりの逞しさというものが備わっているようだ。しかし、今回は普段よりも分かりやすく説明を提供できた気がする。私も成長してきたのではないだろうか!

 

追記:どうも通信環境が悪いようで、原稿を送ることができません(小分けにしても同様でした)。この文章はなぜか繋がったPoketterのDM?という機能で送信しているものなのですが、もし受信できたのであれば文末に掲載をお願いいたします。私は国際警察の方に無理を言って流星の滝におりますので、何か急用がありましたらそちらまでお願いします……とはいえ、どうせ送信できないでしょうから、一言だけ。流星の滝、サイコーーーーーーーー!編集部のあほー。まぬけ。私はシガナちゃんの実家にお邪魔して、ゆっくりと伝承について伺っちゃってるもんね。あなたも全く人と会わず、資料も読まず、カンヅメで原稿書いてみなさいよ。できないよ、そんなこと。実はこの文章も、さっきのが送信エラーになったの確認してから打ってるもんね。というわけで、私は楽しくやってまーす!ワハハ。(原文ママ)

 




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講義録①

こういうのもやりたい、というもののサンプルでございます。サンプルなのであまり良い出来ではありませんが、ご一読ください!


○○○○年ヒウン大学にて 学際的協力~携帯獣学者のための教養講座~

 

 

 

(ハウリング音)

 

えー、ご紹介に預かりましたシュロ・トクジです。普段は神話学というのをやっていて、一応エンジュ大の教授もやっています。

 神話学についての説明は……必要ですかね?え、手元に、パンフレットが、ある。ああ、いらないんですね!ありがとうございます、前の方を見てご存じだと思いますが、実のところ時間があまりないもんですから。客員教授になった時もそうでしたが、ヒウン大学というかイッシュってこういうところがあるんだな。

 あっいや、あのー、褒めてるんですからね。軽い感じでやれと言われたんで、こういうジョークも必要かなと思いまして。

 うーん、どうしますかね。時間?おや、じゃあさっそく話していきましょう。今回はですね、神話学はみなさんご存じという体で『じゃあ、シンオウ神話に固有の面白さってナニ?』という話をしたいと思っています。

 早速ですが、他の神話との違いを考えてみたときに、例えばグラードン・カイオーガというポケモンがいますよね。ホウエン地方の伝説では陸海の象徴みたいに語られているのですが、これは研究対象として見た際に自然の表象をポケモンに与えたのか、ポケモンの能力を自然に還元したのか、あるいは同時に起こったのか、等の検討が結構難しい。前者っぽいけど確定はできないよね、というのが普通の見解です。具体的なものと結びついてしまっていると逆に難しかったりするんですね。表象化、という視点が抱える問題の一つだと思います。

 一方、シンオウ神話を引き合いに出しますと、その核心と思われるような部分ではこういう議論が全然生まれない。これはどうしてかと考えると、時間空間といったかなり抽象的な概念が扱われているんですね。それもそうか、という理由があるのですが、シンオウ神話のポケモンは宇宙のイメージと結びついているんじゃないか、という仮説が結構前からありまして。いえ、どうやって観測したのか、宇宙を見たとすると星々の描写がないのは不思議だ、などの問題は残ってますけども、ここではその仮説を採用します。一定の信憑性があるので。

 儂は、シンオウ神話の驚嘆すべきところは、これによって二つの正反対な世界観、しかもその極北を示してしまったところにあると思っています。極北と言っても、両方ともどこか方角として北にあるわけじゃないですよ。まあ、確かにシンオウ地方は世界の中でも北のほうにありますけど、そこはほら、置いといて。

 ホウエンの伝説は事物―表象兼意味とでも呼ぶべき関係にあって、記述される伝説は表象の側に立ち、そこに意味が与えられています。グラードンは神話においてそのまま大地の化身であり、カイオーガはそのまま海の化身です。しかしシンオウの神話は、言うなれば意味―表象―事物と呼べるような関係にあると、儂はそのように感じるのです。ディアルガは時間の化身ではありますが、グラードン、カイオーガのようなあり方をしていない。そのまま時間の化身って訳にはいかない。これは、先ほど申し上げました通り時間空間といった概念がかなり抽象的な概念であることに由来します。

 意味というのは、一定の意味での神話を超えた普遍性のことだと考えてください。ですから、神話を記述する言葉の、神話と関係ない部分で普遍的に通用する意味というか、そういうものだと思っていただければ。

 えーと、先程の関係を言い換えれば、意味は「海」という言葉の持つ意味、表象は「海」という言葉とかそれを表すもの全般、事物は「海そのもの」ですか。ホウエンの伝説に関する発言は、「海そのもの」とカイオーガ(海を表すものであり、海を意味するもの)の関係だ、と言ってもいいかもしれません。ここでは海と我々は明確に別物で、我々が認識する側、海がされる側ですね。まあ、厳密にはちょっとね、別ではありますけども。

 でもシンオウ神話は違う。ポイントは、表現と意味は厳密に結びついている訳ではないというところで、表現が意味になる為には、その表現を認識しなきゃいけないし、その表現が何を意味するか知らなきゃいけない。神話は意味を作り上げるところから始まるんでまた特殊なんですけど、一般にはそうなんです。

 例えば、イノムーに通行禁止のマークを見せようとしても意味はないですね。それが見えないから普通に通っちゃう。これは表現をそもそも認識してないという可能性ですね。

 それに、コレは流石にとっぴな想像ですけど、ランセ地方の人、これポケモンバトルという風習がないんですが、そういう人がポケモンを連れてこの地方に来るとします。で、トレーナーと目が合う。我々はここで「ポケモンバトルだ!」となりますよね。目を合わせるという表現がポケモンバトルを意味する。

 だけど、ランセ地方の人はたぶんそうならないですよね。おお、なんか目が合ったなあ、で終わりでしょう?表現の意味を認識していないというか。表現自体は認識しているけど、意味の体系が違う。これ以上掘り下げるとこう、他の方が発明した概念、えっと、差延ですか。そういうのに触れなきゃいけなくて面倒なのでやめますけど。

 儂はこれ、シンオウ神話でもこれに似たようなこと、それどころかもっと面白いことが起こってるんじゃないの、と思うわけです。先程認識って事を言いましたけど、我々がものを認識するときに使ってる概念というのがあるんですね。それが何かと考えてみると、究極的にはなんと空間と時間なんですよ。我々が認識する対象であるはずのものを、我々は認識の手段として使っている。これはその、循環してますよね。ディアルガとパルキアは時間と空間の象徴だけど、それを認識するためにまた時間と空間の概念を使っている。ホウエンでは起こらなかった問題ですね。

 それで、身近なところだと、主観的な時間と客観的な時間というものが感じられると思います。ああ、この講義はつまらんからもう一時間は経っているかと思ったのに、まだ十二分しか経ってないや!というような。これ十五分の発表ですから、もうすぐ終わるんですけどもね。

 このとき、我々の認識している時間と、実際に流れている時間との対立が起こっていますよね。なので、暫定的にですけど、客観的な時間を事物に、主観的な時間を意味に振り分けてみることができると思います。

 客観的な時間が意味するのは、まあ宇宙の時間だと思ってください。最近だと特殊相対性理論みたいなのがありますから、この別途で考察を入れる余地はありますよ。

 ああ、もう終わりそうですね。本当はもっとお話ししたいんですが、流石にこの時間だと難しいし、掻い摘んで話しますか。

 つまりですね、何らかの方法で垣間見られた宇宙は、それだけでは神話に表象される事物の側にあるのですが、その事物の側に表象を見出した時――そこから時空を見出した時――宇宙そのものの持つ時空が"ばね"になり、意味が表象の外部へ飛び出してしまったところ、意味の体系が変わってしまったところだと、儂はそう考えています。我々がディアルガやパルキアを時間空間の化身として認識するとき、その認識自体が時間、空間の中で行われざるを得ないんですね。ゆえに、意味=事物、事物=表象、しかし意味≠表象……となるわけです。

 とどのつまり、時間には理解の仕方がたくさんあるわけですな。ですから、表象化できるものは一部に限られている。さらに面白いのは、それさえも乗り越える世界観が微かに顔を覗かせている面なんですけど、そこまで説明するのは骨が折れるのでね。

 勘違いしてほしくないのは、儂はシンオウ神話の話ばかりしてるからこういうこと言ってますけど、もちろんホウエンや他の地方のの伝説にもそういう面はあるんです。大地も海も豊穣とかを意味しますからね。ここで言うと、イッシュの伝説はホウエンとシンオウの中間に位置しているかなあ、という感じがします。

 だけど、シンオウ神話は事物と意味の狭間に揺蕩っている感が特に強く、その意味も事物も我々の存在理由に深く結びついている。生命の二重螺旋を繋ぐような存在様式、そこは特筆に値するでしょう。

 そういう理由で、儂はそういう神話の解釈やら、研究やらをやっています。講演に関係のない部分でですね、なぜ考古学や宇宙携帯獣物理学ではダメなのか、というご質問等も出ると思いますが、もう時間もないので、そういった質問は後で聞きに来るか昔の論文集をお読みください。どなたでも歓迎です。様々な携帯獣学の見地からご意見を伺えれば、まことに幸いですからね。

 では、以上で講演を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。この後少しだけ質疑応答の時間がありますので、ご質問ある方は挙手していただければ。ただ、先程申し上げたことに注意してくださいね。

 

 




今からずっと感想欄で質疑応答の時間をとっておりますので、ぜひお願いします。評価、意見、質問、誤字脱字報告等もお気軽に!
追記:感想欄にこの話を解釈してくださった方がいるのですが、それが大変分かりやすいのでそちらをご覧になることをお勧めします。ありがたや……


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23.引きこもってるナウ/ガラルにて

ここから未改稿です。


〇月△日

 

前回の連載の後ひどい目にあったが、儂は切り替えが早いので有名である。というわけで、再びガラルに来た。国際警察の方々は別件で流星の滝に滞在するらしく、儂は比較的安全な地方にいるよう勧められている。引きこもってるナウ、である。ナウ。この言葉も覚えた。儂もインフルエンサーの仲間入りというわけだ。

 先の対談も中々の反響があったようで、見知らぬ人から声を掛けられることもあった。ありがたいことなのだが、今は理由こそ言えないものの、その心労がたたり外を出歩こうという気も起きない。ローズ氏から頂いたカードがあるためマクロコスモス系列の補助は殆ど全て受けることができるというのも相まって、諸々のことがいやになり、ずっとホテルに閉じこもっている。ちなみに、編集部に叱られ落ち込んでいるからではない。

 上記以外、もちろんガラルに来た目的などない。少なくとも儂が目的などを持っても、その通りになることはないと感じているからだ。それにしても、恩知らずなことを言うようだが、なぜローズ委員長が千年後の話などできるのか不思議で仕方が無い。何回言っているんだと思われるだろうが、儂は不思議に思うことは考えなければ気が済まない性分だ。それほどまでにガラルのことを思っているのだなあ、と感嘆はするが、どうもそれだけではなさそうである。ここ最近では、儂はいかなるところでもいかなる場合でも「自分はもうすぐ死ぬ」という思いが頭から離れない。ゆえにささやかな望みとして、儂は自分ができる限りのよいことをしたと確信して――それが誤りであっても、少なくともそう思い込みながら――願わくば、儂がもはや成し遂げられないことを若い世代が成し遂げつつあるのを確認しながら死にたいのであるが、おそらくローズ委員長にもそのような思いがあるのだろう。

 ところで、自分の成し遂げた仕事が他者に害悪を齎すと知ってしまった時点で、このような逝き方は不可能になってしまう。だから、このような死を達成するためには、生きている内に他者の魂に最大限配慮して仕事を成し遂げなければなるまい、というのが常識的見解であろう。だが、実のところ全く逆のことも言えはしないだろうか。他者の魂を自分の世界から全く排除して仕事を成し遂げることによっても、この死は達成できるのだ、と。実際には全く違った結果に導かれていようと、「他者は気付いていなくとも、私は間違いなく良いことをした。そして私が死んだ後、他者はきっと私の仕事の重要性に気付くだろう」と信じるだけで、その死は達成できてしまう。もちろん、人生は自分の生涯が果たしてどちらであったのかに気付かせる暇も与えず、淡々と過ぎていく。道に迷い、死ぬ。それなのに、どうしてこのような人生が、世界が生まれたのだろうか?古代シンオウにおいて、このような問いに答えるのが『はじまりのはなし』に連なる文献群である。

 ところが、『はじまりのはなし』において提示された世界像は不完全なものであることが近年の研究において判明しつつある。ギラティナという第三のポケモンが存在するらしいのである。その衝撃は落ち着いてからしばらく経つのだが、儂は未だ伝承と従来の文献が収斂する解釈を明瞭に見ることが出来ないでいる。"やぶれたせかい"とこの世界の関連性、ギラティナの追放という現在に伝わるまでに変化したに違いない物語を乗り越え、可能な限り真実を見据えたいものだ。しかし、今日は憂鬱で考える気力もない。

 無気力なままでふっとホテルの窓から街並みを覗いてみると、もう夜に差し掛かっていた。ドーブルが筆で払ったような赤紫の雲が、星空の緞帳を下ろしながら流れている。艶めいた黒壁のブティックから飛び出した光は、歩道の石畳に降り注いでいた。翼を広げたアーマーガア像を取り囲む夕闇を溶かしたような噴水に街の様々な灯りが反射している。くすんだ金色の文字盤を背景に二十時三十分を指す時計塔が、泣きたくなるほど美しい。

 一瞬、この光景を永遠に、という考えが頭をよぎった。とはいえ、やはりそれは間違っているのだ。儂はまた考えねばならないし、ガラルはきっと変わらねばならない。こう思えるのも激動の他地方から遠く離れていることが理由なのだから、老人の戯れ言と言っても差し支えないのではあるが、それでも変わらねばならない。



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24.ワイルドエリアに濡れる/ガラルにて

〇月□日

 

 ワイルドエリアに行こうとして、今は大雨だから少し待ってからにした方がいいとスタッフに言われたため、ありがとうございます、と言ってそのまま強行突破した。ワルである。ポケモンになったらあくタイプになること請け合いだろう。確かに儂はもう若くはないし、ゴールドスプレーのにおいも弱まる雷雨の中、野生のポケモンが闊歩するワイルドエリアを歩くのは、いささか危険かもしれない。でも、感覚がマヒしているのか雷雨と言われても大したことはないように思えるし、何より文明的なものを放棄して、野生のポケモンがいる中で思索に耽ることには何事にも代えがたい喜びがあると思うのだ。

 そうは書いたが、ワイルドエリアにいるからといって格別面白いわけではない。野生のポケモンに対する感動は薄れ、木陰に置いた折り畳み式の椅子に座り頬杖を突きながら時間と空間、そして反転世界について考える。その辺りは湖の側になだらかな丘があって、ガマゲロゲは儂のことを気にする様子もなく、雨を喜んでぬかるみに座り込んでいる。パルスワンが嬉しそうに濡れた草むらをかき分けて走っているが、その鳴き声は煩いほどである。アズマオウが訳もなく跳ねる。何もかも嫌みのないどんよりした穏やかさで、ふと、死後の世界がこんなならいいのに、と考える。

 シンオウ神話において、死とはどのようなものだったのであろう。ここ最近、儂は死とギラティナ、破れた世界の逸話を結び付けて考えている。そして、そのような括り方をするからには、ディアルガ・パルキアの二項も必然的にこの世界を象徴するものとして纏められる。このことは今までの解釈に対して、新たな見方を促すだろう。『シンオウむかしばなし その1』には、"海や川で捕まえた/ポケモンを食べた後の/骨をきれいにきれいにして/丁寧に水の中に送る/そうするとポケモンは/再び肉体を付けて/この世界に戻ってくるのだ"とある。水とは送りの泉と戻りの洞窟のことであろう。そしてギラティナは送りの泉の水が流れ込む戻りの洞窟の最奥部に出現したようであり、ここには明白な関連がある。また、生命は巡る、という世界観を示すこの神話は他のテクストとの関連が薄く、ギラティナは現在再発見されるまで神話の影に姿を隠していた。これの意味するところは、なんであろうか。

 ここにおいて、送りの泉と戻りの洞窟、そしてギラティナに「輪廻/死」という関係があることは明らかである。しかし、この関係はいつ、どこで生まれたのか。そして、いつギラティナは姿を消してしまったのか、ぼんやりと考える。パルスワンが尻尾を振りながら枝を咥えて駆け寄ってくるのが見えたので、ゴールドスプレーの匂いがまだ残っているであろう外套の右袖を捲った。枝を受け取り他のポケモンがいない方に目いっぱい投げてやると、稲妻のような速さで跳ねていく。あのように好奇心旺盛なポケモンが、破れた世界への裂け目を発見したのだろうか、と思う。

 これは推論だが、もし破れた世界に行った人間かポケモンがいなければ、破れた世界のことが記録に残ることも、伝わることもなかったに違いない。ゆえに、破れた世界に迷い込んだ人間かポケモンは存在した、と考えるのが妥当であろう。付け加えておくと、ここで『シンオウむかしばなし その1』を持ち出して理由を特定することは難しい。既に輪廻の象徴となっていたギラティナがその昔ばなしに書かれたような習慣の原因なのか、その習慣と洞窟最奥部のギラティナが結びつき輪廻のイメージが与えられたのかは、現時点では区別不可能だからである。そしてまた、理由は不明だが破れた世界に迷い込んだ人間――仮にAとしよう――がいるとすれば、Aはギラティナのもう一つの姿を見たに違いない。Aはギラティナの現実世界の姿と、破れた世界の姿の両方をその眼に収める、という訳である。この逸話が伝わっているからには、戻ってきたAがいなければなるまい。だが、戻ってこなかったものもいただろう。ギラティナに対する暴れ者/死のイメージは反転世界から戻ってくることのできなかった人間やポケモンにより、この時から授けられる。かくして死という概念が表出し、その対になるものとして生が、まるで初めからそこにあったかのように出現する。

 これは余談であるが、ギラティナは死を司り、二つの姿を持っている。とすれば、Aはディアルガとパルキアのことを、時間を司るポケモン、空間を司るポケモンとしてではなく、この世界を司るポケモンの二つの側面として見る視点を手に入れた、と考えることもできる(儂もそこまでの信憑性を感じていないが)。パルスワンが雨の中、生気をみなぎらせて駆け戻ってくるのが見えたので、思索を中断した。やはりワイルドエリアは生のエネルギーに満ち溢れている、と感じる。だがこの生も、実際は夥しい数の死によって支えられているのである――人間・ポケモン問わず。

 



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25.風邪っぴき療養日記/ガラルにて

〇月☆日

 

 案の定風邪をひいてしまった。窓から見えるのも曇り空ばかりで、先日の美しさは見る影もない。千年続くとは、こういったつまらない日に対する感動を千年抱き続けることでもあり、長い時間の中では感動を成立させる一瞬も忘れ去られてしまうだろう。ホテルのサービスは快適で、マクロコスモスの方々とフーディンには感謝してもしきれないほどであるが、やはりローズ委員長への疑問の念は強まっていく。ニュース番組を見ると、各悪の組織のトップの姿が突然確認できなくなったとの報道。普段ならば目を見開くところではあるが、今は頭が働かない。慣れないことをしても疲れるだけと思い、続けてシンオウ神話の世界観について考えることにした。

 『シンオウむかしばなし その1』を見つめると、ギラティナが歴史から消えた理由について、思い当たる部分がある。『トバリのしんわ』とは、一方で、功利主義的な契約を結びなおすという面を持ち、他方で、『シンオウむかしばなし その1』の証明かつ否定であるという気がする。ギラティナという要素が入り込んでいる影響か、それとも老人ボケなのか、神話のヴィジョンは霞んでいる。*1しかし、それでも、分かることはある。

 『トバリのしんわ』には、次のように書かれている。"剣を手に入れた若者がいた/それで食べ物となるポケモンを/むやみやたらと捕らえまくった/余ったので捨ててしまった/次の年何も捕れなかった"。科学的にこれを解剖するならば、これは乱獲による個体数の減少による一時的な飢饉ということになるであろう。だが、神話学的には少々違った説明を要する。喉の痛みを感じたところで、フーディンがエネココアを淹れてくれた。少しpoketterを覗きつつ、お気に入りの音楽を聴いて小休止することにする。最近は『クララにクラクラァ』という曲をよく聞いている。多分売れないだろうが……儂はまぁ、非常に好きである。皆さんも買ってみてはいかがだろうか。ちょっとばかり値が張るけど。

 

 さて、"余ったので捨ててしまった"という節が"骨をきれいにきれいにして"という節の否定になることは最早自明であり、"次の年何も獲れなかった"という節において「ポケモンが肉体をつけて戻ってこなかった」ことが証明される。だが、これだけならば我々は再び輪廻思想に立ち返り、骨を洗って戻りの洞窟へと流せばよいはずであろう。即ち、ギラティナが消える必要は無かったのではないか、という問いが残る。でも、現にギラティナは長い間姿を消していた。

 この点で重要になるのは『トバリのしんわ』の二面性である。社会的な合意形成を果たす神話に、二つ以上の明確な意味を込めることは難しい。契約の必要性により、世界観は客観的な生と死の対立、即ちディアルガ・パルキアとギラティナの対立から主観的な生の内側の対立、即ちディアルガとパルキアの対立へと移ろう。契約的な面を残す以上、神話は必然的に生の内側へと焦点を当てざるを得なかったのであろう。では、ギラティナはどうなるのか?ここに、輪廻のうちに芽生えていたギラティナに対する暴れ者/死のイメージが蘇る。ギラティナは、おおむねこのような経緯で排除されたのではないだろうか。

 我ながらすっきりと纏まったと思いフーディンに原稿を見てもらおうとするも、CDのメロディーラインに対する抗議で忙しそうだったので取りやめた。かくして『シンオウむかしばなし その1』は『トバリのしんわ』に結び付き、世界観は古代呪術的自然主義から理性主義へ、儂の体調も風邪から快方へと変遷していくのである。そうであればいいのだが。

*1
風邪をひいてるからでした!いやあ、申し訳ありません。てへへ



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26.虹のきざはし/エンジュにて

〇月□日

 

 冬の終盤の晴れ間。乾いた太陽の光が葉を落とした木々の枝の隙間から歩道に差し込んでいる。外套を着ずに出歩いてみると少し肌寒い。この連載を始めてから、一年が経過したらしい。ガラルではホテルに閉じ籠っていたため気づかなかったが、エンジュに戻ってくると冬の寂しさのようなものをまざまざと思い知らされる。薄い灰色の靄がかかったような青空。影のような山並みを背景に、スズのとうが屹立している。あと何度これを見られるのかと思いを馳せてしまいそうな、つまり自分の存在に不安を抱かせるような、眩暈がするほど美しい光景である。

 エンジュに戻ってからというもの、頭が冴えて仕方がない。もうすぐ死ぬのかと弱気になりつつも研究室で筆を進める。本日、Poketterで進捗を報告していた『シンオウ神話体系I』ならびに『ギラティナ、その追求と点検』が完成したので、すぐに原稿を出版社に送った。『シンオウ神話体系I』は断片的に語られるに留まっていたシンオウ神話を体系的に纏め直し、かつ可能な限りの解釈を提示することによって、読者が神話の全体像に触れることができるような本にすることを目指した。神話の全体的構造を可視化し、時代背景にも網羅的に触れられれば、本書は極めて有意義なものとなるだろう。この本が以上の目的を達成できているかどうかの判断は、読者の皆様に委ねたい。

 『追求と点検』の構想は二十年ほど前からあり、これはシンオウ神話を象った後でその思想の矛盾点を追求し考察することを目標にしていた。無論その巧みに隠された矛盾と現代の反社会的組織のイデオロギーの関連性についても言及している。最も、それについて本質的なことを言うためにはシンオウ神話そのものについて知らねばならなかったから、まずシンオウ神話とは何なのかについて根本的に考えなければならなかった。40年ほどかかってしまった。その結果機を逸してしまい、本書でも素描しかできていないことは残念に思うが、後悔はしていない。『シンオウ神話体系I』において儂はこの生涯の中で最高の仕事を成し遂げたと確信しているためである。

 心残りがあるとすれば、『体系I』が儂の探求の終着点、最終的な立場を示すものではないということだ。それは『追求と点検』の素描と、後進の研究者による解釈に譲るほかない。『体系I』は区切りこそついているが未完成である。重要なのはシンオウ神話の深遠なる思想を細部まで掘り起こしながら絶えず視点を移動し転回し、ゆくゆくは超克することであった。できればそれを成し遂げたかった。そうはならなかった。悲しきかな、儂がこの仕事を達成できる時間はとうに彼方へと過ぎ去ってしまったようだ。

 原稿を出版社へ送った後は、フーディンと共に当てもなく散歩する。時刻は昼過ぎだが、外はさほど暖かくなってはいない。ケーシィだった頃とほとんど変わっていない街並みを確認しながら、折角進化したのだからその頭脳で様々な問題について教えてくれればいいのに、と思いつつも口には出さずに、古都をうろつく。視界がぼやけていて、老眼鏡を常につける必要があるかもしれないと考える。やけたとうは今日も健在だが、中に入ることはもう断念したほうがよさそうである。

 それにしても、エンジュ大学の教授に着任してからかなり経つが、終ぞホウオウ、それどころかいかなる伝説のポケモンをも見ることはなかった。別に、見たから何になるということでもないが……。




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27.鳳凰を見た男/エンジュにて

〇月△日

 

 キキョウシティで講演の後、マダツボミの塔で静かに瞑想に耽る。キキョウシティはエンジュと並び称される古都であり、エンジュシティを"幽玄"の美だとするなら、こちらは"侘び"の美しさということになるだろう。

 講演の題は『心は消滅しうるか』。瞑想の目的とシンオウ神話における「こころ」の関係について述べたものであり概ね好評のようであったが、儂としては本当に話したいところまで行けなかったのが心残りである。本当に話したかったところというのは「こころ」と「行動」の対応関係についてなのだが、書く気力がない。体力の衰えを感じ、寂しくなる。まあ、えーと、その内講義録が出る予定なので興味がある方はご購入下さい。

 儂にはもうそれぐらいしか書くことがないような気がする。一世一代の大仕事を成し遂げ、燃え尽きてしまったような心地である。書くことが尽きたわけではない。むしろその逆であり、シンオウ神話には言及しようと思えばいくらでも言及できる奥深さがあるのだが、儂の側に言及する体力がないのである。家に帰り、寝る。その他にどうしようもない。

 

 

 

〇月☆日

 

 ひどい病気ではないが、何か月かの入院が決定した。案の定か、という気持ちなので別段悲しくはなかった。これの執筆は続けるが、旅日記ではなく単なる日記になってしまうね、と編集者の方と談笑する。時々生徒が見舞いに来てくれるらしく、ありがたいことである。

 

 

 

〇月▽日

 

 近頃眠くて仕方がない。そういえば、シンオウ神話の"時間が回る"という表現は、時間を線形に考えると始まりがあろうと始まりがなかろうと論理的に矛盾してしまうということに対する解決策ではないか、とふと思った。しかし、原稿の分量が規定枚数に達しそうもない。『追求と点検』で没にした分でも載せてもらおうか。

 

 

 

〇月◇日

 

 体が重い。儂の計画では、これをつらつらと書きながら悠々自適に過ごし、退院したら古代シンオウに思いを馳せつつ静かに旅をしようと考えていたのだが、どうやらそんな悠長な話ではなさそうだ。もしものことがあったら、万事スマホロトムとフーディンに任せたい。まあ、悪くない最期だと思う。死んだら地獄で研究でもするかな。

 

 

 

〇月×日

 

 見た。病室の窓からホウオウを見た。ホウオウを見たのだ。儂は確かにこの目でホウオウを見た。自分でも訳の分からぬままものを書き散らし、ようやく冷静になった今、震える手で日記を書いている。体が軽くなっている。病気も治っているそうである。治ったとはいえ儂にできることがあるかと言われるとなんだか疑わしいが、とはいえ、もうしばらく生きてみるほかなさそうだ。

 

 

 



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シュロ・トクジ論文集所収『槍の柱、その屋根の存在に関して』

最近のシュロさん、ブラブラ歩いてたまにエッセイ書くよ。真面目な講演でもちょっとふざけるよ。って感じで生きてて、流石に学者としてダメだろって思っちゃったので、たまには若かった頃の真面目な論文を載せてみます。
 その内若かりし頃の話とか書きたいですね。矛盾が怖いのでレジェンズが出た後にでも……


✳︎

『アルケーの亀裂―人間中心主義について』、『普遍=コーポレーション』、『割れた鏡、青白い仮面の神』、『不可視の雲――レックウザ試論』、そして『二重大陸:ジョウトとホウエン』。本書には研究初期~中期にわたる、若い頃の様々な論文が収められている。もしその中で何か一つ"例外"を上げるとするならば、儂はこの論文の名前を上げるだろう。

 この論文集に収められているものの中でも非常に短いものであり、また唯一、完全に間違っていることが分かっている論文だからである。息抜きとして読むこともできよう。若い頃の儂の謎のこだわりにより、槍の柱に屋根があるかないかの議論に終始するためだ。だが、その次に発表した非常に重大な論文の流れを汲んでもらう為には是非とも必要と思い、収録していただいた。言うまでもなく『割れた鏡、青白い仮面の神』である。なお、参考文献は巻末にまとめて掲載している。

 本論文の初期形態は〇〇〇〇年⬜︎月、シンオウ考古学研究会において古代遺跡という共通課題のもと口頭発表された。これは翌年×月に論文化され、『古代遺跡の系譜』(シンオウ考古学研究会編)に収められたものの再録にあたる。その都合上、前述の通り現在の調査結果から幾つか誤りが判明した箇所が存在するため、その部分には注釈を設けることとした。ただし殆ど修正は加えていない。必要に応じて逐次注釈を確認してもらいたいと思う。

 現在の考古学の研究材料としては、従って、本論文にさしたる価値はなかろう。論文の本質は議論の喚起にあり、本論文が呼び起こせたであろう古代遺跡の為の議論はおそらく全て呼び起こした(なぜならそれこそが考古学において重要な作業であるから)。今振り返れば、神話学なる分野が産声をあげたのはこの議論の終焉と同時であるから、神話学的議論の余地もここにはない。それでもこの論文が再録されたのは、ひとえに、前述のものとは全く別の部分で、未だ議論を喚起する余地が残っているように思われることを理由とする。その部分がどこか、私には未だ明確に言い表すことができない。ただ、それは本論文集を打ち捨てることによって明るみに出るだろうということ、その部分こそが新たに解釈される、真なるシンオウ神話になるだろうことについては、私は奇妙な確信を持っている。

 短くはあるが、最後に。これらの論文の発表当初から議論に参加してくれた同僚は勿論、この再録を快く引き受けて下さったヒスイ出版の方々に、深甚なる感謝を。

 

シュロ・トクジ

 

 

 

 

 

 

『槍の柱、その屋根の存在に関して』

 

 大昔、シンオウ地方は今ほどの文明が存在しない世界であった。おそらくは畏怖と理性に従って、その世界で文明が発生し、集団のいくつかは伝承を、そして神話をもつにいたった。火山地域のヒードラン、満月島、新月島のダークライ、クレセリア。坐せるアルセウス。封じられたレジギガス。槍の柱のディアルガやパルキア。湖にはアグノム・ユクシー・エムリット。これらに纏わる話が生み出されるに至った事細かな過程は定かではないが、古代においてこれらのポケモン達は崇められていたと仮定することに不都合はないだろう。この崇拝の形式は文明の発達度を示すと同時に、崇められるポケモンがその文明にとってどのような存在であったかを示す、と考えることができる。今回はその一形式としての槍の柱について考察したい。また、槍の柱の姿を紐解くことにより、ディアルガ・パルキアが古代においてどのような存在であったか、またその二匹と密接に関連しているシンオウ神話、その一端を垣間見ることも可能である。

 槍の柱はテンガン山山頂に存在する遺跡である。テンガン山の形成過程に関する地質学者の仮説が正しければ、おそらくこの場所は、古代シンオウにおいて最も宇宙に近かったと言える。この槍の柱の存在により、ディアルガ・パルキアとシンオウ神話、そして宇宙の三つは強く結びついている。

 槍の柱の構造だが、これは彫り込まれた石柱が立ち並び、その奥は少し開け、踊り場か祭壇らしき姿が残っているというものである。現在も復元が試みられているものの、今は屋根が存在したのか、それとも存在していなかったかを巡る議論がなされている最中だ。しかし、奥部に開けた場所が存在することを鑑みるに、信憑性のある仮説は槍の柱には屋根が存在しなかったか、もしくはせいぜい、その一部だけを除いて屋根が存在していたかのどちらかであろう。

 例えば、シント遺跡においてジョウトとシンオウの文化が交わった際に、シンオウの側から神を讃えるための踊りが伝わったとされている。ディアルガ・パルキアと宇宙の関連性を考えると、宇宙に繋がる場所で踊りを行う方がより自然であると考えられる。頭上から降り注ぐ星々の光や太陽光も神秘性を高める効果が期待できる。また、ディアルガ・パルキアが実際そこに降り立つとするならば、屋根が彼らの行動を制限する可能性が高い。

 それでもなお、反論として、シント遺跡には屋根が存在するという主張もあろう。確かにシント遺跡には屋根が存在する。しかし、その代わりとしてか、床部分には槍の柱に存在しない、三角形の角に円を刺したような魔法陣が描かれている。遺跡に書かれた絵はジョウトのアルフの遺跡に見られるものであり、また遺跡の形式も屋根が低いジョウトの特徴が強く出ている。ジョウトから伝わった壁画により宇宙との結びつきを表現することが可能になったのであろう。一部キッサキ神殿にも似た特徴は見られるが、シント遺跡の屋根の存在は異文化との融合が原因であるとして十分に説明がつくものである。槍の柱にも屋根が存在したことを裏付けるには不十分であり、依然として屋根は存在しなかった——少なくとも踊り場には存在しなかった——という仮説が正しいのではないかと考える。

 槍の柱とキッサキ神殿との対比も興味深い。巨人、レジギガスを封じると言われるキッサキ神殿が地下深くへ広がって行く構造であるのに対し、槍の柱はテンガン山の頂に存在し、天高く広がっていく。シンオウ神話においてレジギガスはアルセウスの敵として書かれており、ディアルガ・パルキアはアルセウスの分身として書かれている。レジギガスとレジスチル・レジアイス・レジロックにも何らかの関係があると予想されており、おふれの石室も地下深くという意味ではレジギガスと同様、深海に存在する(とはいえ、同じく地下深くに存在するイッシュの海底神殿、古代の城との関連性は現在研究中であり、不明である。古代シンオウと際立って密接な関連が予想されるのは、現時点では、ジョウト、ホウエンの二地方ということになろう)。

 付け加えるなら、キッサキ神殿にアルセウスの敵であるレジギガスそのものが存在するのに対し、槍の柱には分身たるディアルガ・パルキアしか存在しないというのはどこか不自然にも思える。屋根がなかったという仮説を採用するならば、アルセウスのための祭壇が槍の柱の更に上部に存在したであろうと考えてみるのも、難しくはあるが、不可能ではない。以上、ここに槍の柱か元はどのような姿だったのか、またキッサキ神殿との関連性、アルセウスの祭壇があった可能性などについて示した。私はこの先、以上のような意味を持つ槍の柱で崇められる対象としてのディアルガとパルキアの実像に迫りたいと考えている。(謎の多いレジギガスとキッサキ神殿がどう関連するかは、ホウエン地方に残る伝説に関するさらなる議論を経なければ何も語ることができないので、ここでは触れられない。)

 

 




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28.雪の思い出/イッシュにて

祝ほぼ十万字!!ポケマスゲーチスイベもよかった……


〇月△日

 

 まあ、イッシュに来た訳である。分かりやすい文章を書きたい、と思うようになったから。

 というのも、一か月前、携帯獣学者のオーヌキ君に「シュロ何某氏の言っていることは大したことないのに、難解な言葉を使っていてケシカラン」と批判されたためだ。この批判を受けた時、儂は、儂が言わんとすることは重大な意味を持っている(少なくとも儂にとっては)と考えていた。まあまあまあ、彼にとって違うというのであれば、そこは仕方がない。ね。儂も譲りましょう。でも、そんなに難解な言葉を使っているかなあ?

 そういうわけで儂は本屋に行き、オーヌキ君の著書を何冊か読んでみることにした。するとどうだろう、何たる分かりやすさ!分野の違いはあれど、科学携帯獣学の原理や技の発生の仕組みが明快に説明されており、更には身近な木の実とポケモンの協力さえあればできる実験の例まで載っている。認めざるをえない。内容が大したことないかはともかくとして、儂の著書はもれなく難しい表現ばかりであった、と。確かに思い返せば、大学院生の頃から難しい文章を読み解き、そして書く訓練はしてきたのだが、簡単な文章を書く訓練、より正確に言えば内容を変えずに表現を伝わりやすいものにする訓練は全くやってこなかった。

 一つ弁解をするなら、表現の難しさが思考や学問の特殊性と結びついている、ということはありえるし、それによってブレークスルーが生まれた例もある(マサキ君の論文はまさにそういうものだったと言える)。儂の知り合いの研究者にも難解な言い回しを多用する方がおられるが、当然その難解さの分だけ含蓄のある発言で付き合っていて飽きない。すると、何が問題かははっきりしてくる。儂の発言に含蓄がない(と思われている)ことがいけないのだ。どうすればよいのだろうか。解決策は単純で、神話学の面白さをなるたけ平易な言葉で説明すればよい。だが、前述のとおり、儂は簡単な文章を書く訓練を一切やっていないのだ!

 前置きが長くなったが、故に儂はイッシュに来た。ポケモンリーグを訪れる予定であった。勿論、シキミ、ギーマ両氏にアポもとっている。簡単な文章を書きたかったし、目下その作業は継続中である。ああ、驚くなかれ、あの『月間文藝ラプラス』の神話学者による連載であるにも関わらず、儂は難解さ、文学性の欠片もない文章を掲載するのが理想だったのだ。

 夕方の六時頃リッチホドモエにチェックインし、ベッドに倒れこんでゴロゴロ寝転がりながら少し考える。今日は何時にもまして疲れた。簡単な文章を書くというのは、こうも骨が折れることなのだなあ。いや、ベッドにゴロゴロ寝転がると書くことは大して難しくないのだが、今やっているように儂の(いわゆる)難解な言い回しを(いわゆる)平易な言葉に翻訳して書くということが難しいのである。

 例を挙げるなら、こういうこと。ピカチュウがねずみポケモンで、主にトキワの森に生息していて、でんきタイプに分類され、体毛が黄色く、頬が赤く……という特徴を知っている人は、『あ、ピカチュウがいる』という言葉を聞けばこれらのことを思い浮かべてピカチュウを探せるだろう。当然、こういう特徴を持っているのがピカチュウだと意識することもなく無意識のうちに姿を思い浮かべながら、である。

 しかしピカチュウがどんなポケモンか知らない人に対しては、『あ、ピカチュウがいる。ピカチュウっていうのはね、ねずみポケモンで、主にトキワの森に生息していて、でんきタイプに分類され、体毛が黄色く、頬が赤くて』……と一々こういった説明をしなくてはならない!我々はピカチュウにどんな特徴があったかを意識的に思い出さなければならないし、説明も長くなり、疲れる。この場合、ピカチュウの部分に任意の"難解な"用語を、ピカチュウの特徴の部分にその用語の意味だとか、説明だとかを当てはめて考えていただければ分かるだろう。我々のような学者は普通の人にとってのピカチュウのように、専門用語の意味を腹の底から理解してしまっている。とはいえ、それをわかりやすく伝えないのは怠慢だ、と言われたら、それはその通りだと答えるほかない。

 チェックインの前は、未だ霜の残る6番道路を散歩していた。外はひんやりしていて、サクサクと音立てて地面を踏みしめればシロガネ山を訪れた時のことが思い出される。ひらひらと舞い降りていた雪。ゲーチスが「ワタクシだけが ポケモンを使えればいいんです!」と言ったことは有名な話だが、そのためには人間がポケモンを手放すだけでなく、ポケモンもまた人間を見限っていなければならないのではなかろうか。そしてまた、そのようなことがありえると、彼は本気で思っていたのだろうか。今頃悪の組織の首魁たちは、どこで何をしているのだろうか?

 そういえばこのところ、アクロマ君をアローラで見たという情報が儂のダイレクト・メール欄によく届くようになった。雪舞うライモン大のとある研究室を訪れた時、彼が時空を歪める装置の研究計画書を嬉しそうに見せに来た時のことを覚えている。今回の件にはその装置が関わっているようであり、となれば儂は事の成り行きを正確に見届ける義務を負っていることになるだろう。エンジュで死んでいる場合ではなかったようだ。まだすべきことが残っていたことは嬉しいが、全てを達成できそうにないことは寂しい、と思う。

 ふっと顔を上げれば、ここにも細雪が降ってきている。肌寒くなってきたのでホテルに入った。

 




質問、感想、評価、お気に入り、ここすき等いただけると作者が喜びますので、お気軽にどうぞ!


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29.原稿の悩みを聞いてもらう/イッシュにて

〇月□日

 

 ポケモンリーグの控室でシキミさんに会い原稿を見てもらったが、曰く「わたしも駆け出しなので、詳しいことは分からないんですけど……でもでも、自分がいいと思えるものを書けばきっと伝わると思いますよ!」とのこと(発言はそのまま)。これを聞いて儂は「ああ、そうか」と安心すると共に、どこか絶望的な気分になった。自分がいいと思えるものを書く。なるほど、これほどシキミさんの温かい人柄と横溢する才能とがよく表れた言葉があるだろうか。自分がいいと思えるものを書こうとしても、いや書こうとすればするほど、自分のスタイルが崩れてしまう人がいることは、これまでの長い歴史が示すとおりであるのに。

 シキミさんは確実に善意で発している。しかし、実はこういう言葉ほど響かないものはないと思う。なぜなら、うまくいかなかった人はそもそもこのようなことを語れる立場にいないからであり、うまくいった人は才能があったか運がよかったかのどちらかだ、と見なされてしまうためであろう。そして、実際シキミさんには恐ろしい程の才能があるのだから、彼女には分からない才能が乏しいゆえの悩みというものは存在するであろう。

 実際、自分がいいと思えるものを書くより重要なことは限りなくある。例えば、読者に通じる言語の選択であり、読者が見やすい表示の方式であり、括弧の使い方である。そもそも「いい」という評価も公共性を帯びているのだから、漠然とした「よさ」を追い求めてしまった時点で、スタイルはすぐさま崩壊への路を辿るのだ……と、ここまで考えたところでハッとした。時間にして二秒にも満たないが、ここまで鮮やかに答えが示されるとは思っていなかった。

 どういうことかというと、儂が神話について何かを語るとき、この時のシキミさんと同じ立場に立っているのだ。しかもそのことに気付きながら、懇切丁寧に説明することを拒否していたのである。それをぬけぬけと「わかりやすい文章を書きたい」と言うのだから、このような皮肉を言われるのもよく分かるというものだろう。少々涙目になりながら、感動しつつお礼を言った。ありがたいことである。*1

さらに追記:帯と序文を書かせていただいた。とても面白いミステリで、誰が犯人なのかぞくぞくしながら読ませていただいた。稀有な読書体験であった。ぜひお買い求めを。コオリッポ・ライブラリーから出版されているので、ぜひお買い求めを!

 

*1
追記:後日原稿を送ったところ、そんな意図はなかった、と謝られてしまいいたたまれない気持である。結局儂が新刊の帯を書くということで話がついたが、儂でいいのだろうか。ああ、心配だあ!



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30.気まずいチャンピオンロード/イッシュにて

〇月×日

 

 リーグ前のポケモンセンターに泊まった。チャンピオンロードを抜けたヴェテラン達の間に一人だけ冴えない老人が挟まっている光景は、外から見ると大変奇妙だったと思う。早朝、散歩にでも出ようかとセンターを出ると、クリムガンやバッフロンなど鍛え抜かれた面子がトレーニングに励んでおり、今更ながらリーグとは軽々しく来て良いところではないのかもしれない、と感じた。気まずい。アポはとっているので、勿論ギーマ氏には会うのだが。

 リーグの控室のデザインからも、四天王の性格はある程度察することができるだろう。ギーマ氏の場合は、赤と黒を基調にした、全体的に優雅な部屋であった。促されるままソファーに腰掛け、『あくタイプ』という分類方法の納得いかない点について話し込む。全体的に面白い議論だったが、その時、話の流れでついうっかり「いやあギーマさん、儂の書くエッセーはどうも"悪"文のようでしてな、最近は分かりやすい文章を書こうと思っているのです」と口を滑らせてしまった。どういうことか、と聞かれて事情を話すとひどく怒られる。なんでも、ギーマ氏としてはコアな層に向けて脇目も振らずにひたすら語り掛ける姿を「よい」と思っていたそうである。確かにギャンブラーらしい見方だ、と思う。

 そんな評価をいただいていたとは恐悦至極だが、しかし儂の決意もかなり固まりつつあった。首を横に振る。どうせ書けないと思うよ、と言われるも、「いえ、分かりやすい文を書かなければいけない事情があるのです」。その後はしばらく押し問答が続き、やがて儂が「時間も押しているでしょう」と切り出すと、ギーマ氏は「だからきみが折れてくれれば話は早いんだけどね」と返す。一進一退の攻防だったが、儂が立ち上がって挨拶を済ませようとすると、突如彼がにやりと笑う。「本当にこの部屋を出ていいのかい?」

 大変嫌な予感がしたが、ここまでくると儂も引くわけにはいかなかったのである。ドアノブに手をかけた。とある言葉が聞こえてくる。心地いい低音の揺らぎが耳に入った瞬間、儂は急いで席に座りなおした。皆さんには何のことか分からないだろうが、次のような言葉だ。即ち、「賭博、隕石、ハリケーン」!

 結局、今回だけは分かりやすく書くことに挑戦してみる、ということに決まった。一応チャンスが与えられたということになるだろうか。しかし、板挟みである。儂はどうすればよいのだろうか?儂はいちおう神話学者だから、神話に板挟みという場面がないか考えてみることにしよう。

 

 『はじまりのはなし』はダブルミーニングなのではないか、と思い始めた。即ち、宇宙の起源と心の起源を同時に語っているのではないだろうかと。これはある意味で板挟みの状況にあると言える。なぜなら、普通は心を持つ我々の側から見た世界を神話に描写するはずだからである。つまり、我々―客観的世界の神話という単純な対立図式にならなければならない。ところがダブルミーニングであった場合『はじまりのはなし』は少し複雑で、我々は我々の見た世界を神話に描写すると同時に、世界の中で生まれる我々をも描写しなければならない。客観的世界—神話—我々、これは骨の折れる作業である。

 実際に議論してみよう。世界に存在する人間やポケモンは、実は心の中の観念にすぎないのではないか、と疑ったことがない人は少ないであろう。普通の意味ではそれはあり得ない。そういう考えも、実際は外界に存在する一人間(あるいはポケモン)が抱いたものにすぎないからだ。でも、その批判だって、それが理解されるときには『それを理解する心』の中の出来事でしかなくなるのではないだろうか。だが、その考えだって実際には外界に存在する一人間の……これでは無限後退になってしまう。シンオウ神話がこの両者を並立させなければならないとすると、正しく板挟みの状態にある、と言えるだろう。普通の意味では、どちらかの時点で後退をぶつっと切って、はい、これが世界ですよと提出するしか道はないように思える。

 だが、『はじまりのはなし』は独自の方法でこれを拒む。まず、我々がサイコパワーで宇宙の全体を見ているところを想像してみるとしよう(これは例であって実際にあったであろうことではない。神話学でうかつに例を出さないのはこれをいちいち説明するのが面倒だからであり、かといって説明しなければ考古学になってしまうためだ)。しかし、我々は宇宙の中にいるじゃないか。これでは先ほどと同じになってしまう!そこでシンオウ神話は、一旦自分がこの現実で見る宇宙の中に居ると仮定し、それを達成した瞬間に、その宇宙を現実の世界と同じようなものとして――つまり、現実そっくりのミニチュアを大きくするように捉え――自分が見ている宇宙の方を消すという方法をとる。そして心と宇宙を重ねるための原理として、時間と空間を採用する、というわけである。

 グラードン・カイオーガ、レシラム・ゼクロム等の伝説は全て自分が経験できる世界のみを表すと言ってもよい。だが、シンオウ神話は時空という概念を媒介にして自分があたかもこの世界の外に立ったかのような視点をとる。しかし、決して立っているわけではない。このことを鑑みるに、唯一アルセウスだけが経験できる世界を超え、その外から我々が経験できる世界の成り立ちと仕組みを調べることが可能な超越的存在なのだろう。

 話を儂のことに戻すが、板挟みにはこういう解決方法があるらしいということが分かった。これで解決、ということになれば嬉しいと思いつつ、推敲のためにもう一度書いた文章を読み直してみる。なるほど、儂はどうやら、賭けに負けたらしい。分かりやすく書くことは不可能なようである。来月からはおとなしく思索に耽ることにしようと考え、トレーナーズスクールで晴れて教師になったらしいチェレン君に手紙を出し、空港に向かった。



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講義録②

ポケモンレジェンズ!!!!


『シンオウ神話』を読む――講師:シュロ・トクジ

 

 皆様、ご機嫌はいかがでしょうか。今夜は普段とは違い一般の、とはいえシンオウ神話についてある程度ご興味を持たれている紳士淑女の皆様を前にして講演せねばなりません。知性溢れる立ち居振る舞い、ウィットに富んだ語り口調、儂には少し荷が重たいような気も致します。多少の不手際もあるやもしれませんが、ご容赦下さい。回をまたぐにつれ減っていくことを願っております。

 既に何度もお話ししております通り、儂にとってシンオウ神話程興味深く、また現代に密接に結びついているものはありません。本日はシンオウ神話体系の内の一つ、『シンオウしんわ』を例にとって講義を行います。

今回の講義では皆様と共に文脈を辿り、ある程度???の正体を推測することを目標としましょう。その過程で皆様は、恐らく当時のシンオウの人々が何を考えていたのかについて思いを馳せることになります。それでは早速ですが、『シンオウしんわ』の原文は以下の通りです。

 

"おこるな ??が くるぞ

かなしむな ??が ちかづいてくるぞ

よろこぶこと たのしむこと

あたりまえの せいかつ

それが しあわせ

そうすれば ??? サマの

しゅくふくが ある

というのが くちぐせ だ"

 

 不明瞭な個所が三つあるのがお分かりになるかと思います。文脈で判断すると、その内一匹ないしは二匹が恐れられている存在であり、最後のものが人々に祝福を与える存在のようです。また「口癖だ」という部分もそうですが、怒りや悲しみ、喜びといった感情に関する言葉が使われていることにも注目して頂きたい。喜怒哀楽の内、喜と楽の二つは三匹目のポケモンに結びついていますが、怒と哀が分かれているのかにも目を配るとよいでしょう。

 さて、案の定と言うべきでしょうか。これには先行研究が存在します。感情から連想される通り、やはり先行研究において有力なのは最後の???様をエムリットだと解する説です。また、異説には最初二回の???がダークライ、最後の???がクレセリアだと解するものも存在します。しかし、儂はそのどちらも退けたい。今回は先行研究に疑問を呈しつつ、より信憑性があると思われる点を結びながら考えていきます。

"おこるな ??が くるぞ/かなしむな ??が ちかづいてくるぞ"。先行研究においてダークライが当て嵌まるのではないか、と解されている二節です。ですが、儂としてはどうしても受け入れ難い。というのも、儂にとってこの二節はどうしてもこの解釈とは違う並列関係にあるように思われるからです。

 ダークライ説もそうですが、基本的にこういったテクストは意味を取る為に研究者の脳内である程度扱いやすく改変されていることが殆どです。説明の為、まずは原文を二つのパターンで、このような形に書き換えさせていただきましょう。

 

"怒ったり、悲しんだりすると??が来る/近付いて来る"(ダークライ説)

"怒ると??が来る、悲しむと??が近付いて来る"(A説)

 

ダークライ説に対し、差し当たりA説と表記しました。いかがでしょう。儂としては、原文の意味は崩れていない、と信じたいところです。改変を加えた部分はそれほど多くはありません。二節の区切りをある程度緩めた程度と言えるでしょう。もしこの操作が許されるのであれば、さらに踏み込んでもよい。

 

"怒ったり、悲しんだりすると??が来る"(ダークライ説)

"怒ると??が来るし、悲しむと??が近付いて来る"(A説)

 

いかがでしょうか。現代的な言い回しにはなったが、どちらの改変も二節を一文に纏めただけ、と言いうるような微々たるものであり、文意とかけ離れていないように思える。しかし完成した文にダークライという語を当てはめると以下のようになります。

 

"怒ったり、悲しんだりするとダークライが来る"(ダークライ説)

"怒るとダークライが来るし、悲しむとダークライが近付いて来る"(A説)

 

上の文章は自然ですが、下の文章は不自然です。並立関係にある文章に同一の名詞を当てはめることは基本的に推奨されていません。ダークライ説は怒りや悲しみの感情自体が並立関係にあると見て、そこにダークライを結びつけたのだと考えられる。しかし、在り得るもう一つの並立関係を考えた際に完成する文は、同じ意味でも明らかにおかしいのです。また、来ると近付いて来るは意味合いとしては似通っていますが、短いシンオウ神話の中で言葉を削るのはあまり良い行為とは言い難い。そして言ってみれば、なぜ感情を契機としてダークライが動くのでしょう?

 考える際は、"おこるな ??が くるぞ/かなしむな ??が ちかづいてくるぞ"という二節が、どのような意味合いを持つのかが重要です。ですが、これらの???がもし一匹のポケモンを指すとしたら、このような書き方をするでしょうか?確かに韻律や、強調表現の為にこのような書き方を取ったという可能性も存在するでしょう。しかし、今のところは退けても問題にはならないように思います。少なくとも儂の場合は、そこまでの説得力を感じません。

 

 一方エムリット説ですが、そこから連想されるのがアグノム、ユクシーであることに異論はございますまい。不明な個所が三であるのに対し、ポケモンの数も三匹。整合性が保たれます。ポケモンの数が三匹であるということは、必然的にA説をとるということでもある。我々の前に残されているのは、怒り、悲しみ、喜びと楽しみ。アグノム、ユクシー、エムリット。これらがどのように対応するのかという、ある種パズルのような謎です。エムリット説を採用するならば、"そうすればエムリットさまの祝福がある"という一節が完成します。この場合、残るはユクシーとアグノムですが、不思議なのはアグノムの存在である。例えばユクシーは記憶を司っている。怒りや悲しみにまつわる記憶を消すことも可能でしょうから、どちらに当て嵌まってもおかしくはありません。しかし、アグノムは意思を司っている。意思は我々にとって比類なき重要性を誇ってはいますが、しかし怒りや悲しみに対し役割を持てない。あるいは、持ったとしても恐れられることはないのではないか、という疑念が残る。

 すると、アグノムの位置はここではない。ではどこなのか――それが、最後の???なのではないでしょうか。エムリットは感情を司るポケモンであり、怒りも悲しみも、感情を消してしまえばそれでよい。ユクシーも前述の通りです。そしてアグノムは意思を祝福し、何かを決断する力を高める。もしこの仮説が正しければ、まさにこの『シンオウしんわ』がアグノムに関連する文献の少なさを補うものとなるかもしれません。

 

 では、以上で本日の講義を終了します。いかがでしたか。下手な語りではありましたが、???の正体について多少は皆様と共に考えられたかと思います。少しでもシンオウ神話の、考えることの面白さを感じ取っていただければ、それに勝る喜びはありません。最後は少々駆け足になりましたが、それはこの部分を、ご自身でも考えていただきたいと思ってのことです。是非お配りした資料を基に、当時のシンオウの人々に思いを馳せてください。彼らと、パートナーの顔を思い浮かべながら。次回以降にはなりますが、皆様の考えなどもお聞かせください。恐らくは、昔の人々も、この話が語り継がれてゆくことを願っていたのですから。




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週刊誌『ポケモン生活』特集 『あの人の手持ち:シュロ氏』

 週刊ポケモン生活には何度か寄稿している。今でもご恵贈いただいた物をパラパラと捲ることがあるが、いずれも楽しい特集だ。私が持っている号が特別面白いということもあり得ようが、それが二度三度重なるとなれば、それはやはり編集者の腕前、そして何より文章を書いているトレーナーやブリーダー諸氏の妙を示していると考えて差し支えない。この素敵な雑誌にささやかながら彩りを加えられれば幸いである。

 今回の特集は『あの人の手持ち』。プロのトレーナー以外にスポットライトを当てるこの特集は二カ月半にわたって行われ、私の他にもアーティスト、作家、プロレスラーと多種多様な職業の人々に取材が行われるそうだ。この方々に比べれば私の手持ちを知りたい人などはごく少数だろう。というか少々不安になるほど豪華なラインナップである。大丈夫なのか、『週刊ポケモン生活』。いや、私が心配することでもあるまいが。

 とっとと私の手持ちの話に入ってしまおう。今原稿を進めている間にも「どうせケーシィのことでしょ、サイコパワーが研究でナントカなんでしょ」という声が聞こえてくるようだ。勿論その通り。ああ、正確には違った。フーディンと呼ばねばならないのだ。

 彼とは大学時代からの付き合いである。つい最近進化したばかりなので癖で未だにケーシィと呼んでしまいはするが、三十余年にわたり非常に良好な関係を築いてきた。知名度があるかは別にして、私の手持ちの中で最もよく知られているのはフーディンであろう。

 だが、それは逆に言うと、その他の手持ちは殆ど知られていないということでもある。

 そもそもケーシィのほかに手持ちがいるということを知っている人間が非常に少ない。雑誌にもPoketterにも出てこないし、基本的には自宅にいるのだから当然といえば当然だ。編集者の方にも非常に驚かれ、この特集が決まったのは彼ら彼女らの影響であるというのも大げさではないだろう。

 実のところ、私の手持ちは四匹いる。在学中にゲットしたフーディンを除く三匹は大学院を修了した後、付き合いのあったオーキドやキクコらの勧めで捕獲した。というか流れで捕獲することになった。意図的に捕獲しようと思ってしたポケモンではないのだ。

 でも不思議なもので、時代の流れを反映し、ドンカラス、クレッフィ、ジーランスという少々武骨な名前が並んでいる。親から受け継いだ訳でもなければバトルを経て加入した訳でもない。全員が餌付けもしくは利害の一致という、現在では見ることの少ない方法で加入している。バトルの腕前が高い方ではないため当然といえば当然だが。

 しかし、トレーナーの腕前が低いからと言ってポケモン達までそうであるかはまた別の問題だ。私の場合は逆で、腕が高く扱いきれないと判断したが故に連れ歩いていない。優れたトレーナーは相手との実力差を測り、適切な威力の技を指示することができるだろう。私にはそれができなかった。申し訳ないことだが、彼らは強すぎた。

 でも勘違いしないでいただきたいのは、だからといって嫌われている訳ではない、ということ。バトルで仲間にしたポケモンは、トレーナーの腕が低いと見れば反抗的な態度をとることもある。ジムバッジはトレーナーの腕前の指標。もちろん今と昔で基準は変わっているだろうが、私のジムバッジ数は少ない。もっとも規定の八つのバッジを集めても指示を無視するポケモンは存在するし、その一方で才能を見抜きジムバッジを一つもゲットしていない子供に懐くポケモンも存在するのも事実だ。しかし一般的に言って、ポケモンは力量の高いトレーナーを認める傾向にある。

 そのうえで言うと、我々の関係は少々特殊だ。私とこの四匹はバトル以外の方法で通じ合ったのだし、あの時代の危機も共に乗り越えてきた。私たちには私たちの習慣が、役割分担がある。彼らは強く、私は弱い。しかし私にも強みがないわけではない。腕前が低くとも信頼関係を築くことはできる。私が見限られていないのはそのためだ。

 ただ、トレーナーの腕が高いに越したことはない。言うまでもないことだが、ポケモンというのは人間に比べて遥かに大きな力を秘めている。例えポケモンはじゃれ合いのつもりでも、そのエネルギーが人間を傷付けてしまう可能性は大いに考えられる。この雑誌を普段から読んでいる方ならそのことはよくわかっているだろうが、念のために言っておこう。

 では、改めて私の手持ちをご紹介する。

 フーディンは大学時代からの相棒である。仕事柄移動が多く、そのためテレポートを覚えている。大学時代に他棟の教室に移動するのが億劫で覚えてもらった技だ。でも、市街地で行うために免許を取る羽目になり、結局はそちらに時間がとられた。今でも大活躍しているので結果オーライといったところか。

 何度も使っているうちに腕前が上達してきたようで、前に実験してみたところ200m先の針の穴の中に紐を通すことができた。つい最近進化したばかりで、私ともども溢れるサイコパワーには戸惑っている。良い訓練法を知っている方は、ぜひ @tokujishu6 のダイレクト・メールにまで送っていただきたい。

 性格は私が見る限り面倒くさがり屋なのだが、何度も助けられているのもまた事実である。私がキッサキ神殿でハガネールに追い詰められたときなどは、めざめるパワーで天井を一部崩落させた後テレポートで逃げるというファインプレーを見せてくれた。我ながらよく生きていたな、と思う。でも、私も熱を出したケーシィを助けたことがあるのでお互い様だ。

 そのケーシィと仲がよかったのが、初めて紹介するドンカラス。テレポートは知っている街にしか行けないが、『そらをとぶ』は空中から知らない街の地形を俯瞰できるという他にはない利点がある。ケーシィと並んで、若いころの私の移動を助けてくれたポケモンだ。フーディンの他三匹は私の家で留守番してもらっているのだが、後で紹介する二匹のストッパー役でもある。こちらも後で紹介するが、クレッフィが引き起こしたある事件の時に最も活躍したポケモンである。彼らと共に旅をしていた頃はバトルも多少できなければならない時代だったから、彼女の強さに敬意を表して戦い方も書いてみるとしよう。

 現在覚えている技は馬鹿力、霧払い、ブレイブバード、辻斬り。昔は空を飛ぶ、不意打ち、挑発、ブレイブバードという構成で巧みな駆け引きを繰り広げていたし、ピントレンズをモノクルのように顔につけて相手の攻撃を的確に捌いていく姿はとても頼もしい。親馬鹿と思われるかもしれないが、単に光物が好きなポケモンだと思っていたヤミカラス時代とは全く違う、ギャップのある魅力的なポケモンだと今でも思っている。基本的に私のポケモンはかなりの実力派である。私の手を離れればの話だが。

 性格は落ち着きがあって、現在は私が各地で買い集めてきたインテリアを愛でて悠々自適に暮らしている。そんな頼れるポケモンがなぜ留守番しているのかというと、頼れすぎるため。こう言ってよければ、他の二匹が非常にポンコツなのだ。もちろん、愛すべきポンコツである。

 ポンコツコンビのジーランスは、私が海や川を移動するうえで非常にお世話になったポケモンだ。性格は頑固一徹で、考えに没頭したら止まらない。まるで哲学者か何かのようだ。彼がなぜ留守番をするに至ったか、その秘密は彼の石頭にある。

 共に旅をしていた時、私は彼の背に乗って滝を上っていた。確かイッシュのどこかだったと思うのだが、大きな岩が滝から突き出していたのだ。私は避けるように頼んだはずなのに、運悪く彼が何かの考えに夢中になっていたようで、その岩にぶつかる。そして登っている感覚がないことに疑問を覚えたのか彼が少し頭に力を込めると、なんとその岩が砕けてしまった!

 その時既に諸刃の頭突きを覚えていたようだ。私は砕け散る破片を横目に見ながら「強すぎて気軽に指示できない」と冷や汗をかいた。他に滝登りをしている人や岩の破片の餌食になったポケモンが存在しなかったからいいようなものの、そもそもこの行動も問題だ。とつげきチョッキを身に纏い諸刃の頭突きで邪魔なものを粉砕する彼の突破力には大いに助けられたが、これは流石にやりすぎである。まろやかな味の釣り餌を好む普段とのギャップが凄まじく衝撃的だった。それからというもの、彼は庭にある池でのんびりと暮らしている。現在ドンカラスが馬鹿力を覚えているのは石頭の彼に拳骨を落とすためだ。愛すべきポケモンであるのは間違いないのだが。

 最期に紹介するクレッフィは、同族に比べると珍しく生真面目だ。研究員だった頃は家の至る所に本棚からあふれ出た資料が散らばっていて、鍵が見つからなくなることもしばしば。このポケモンはそんな生活を改善してくれたのである。当時から滞在先での生活をサポートしてくれており、現在は留守の多い自宅のハウスキーパー役だ。防犯意識も高く、まさに打ってつけのポケモンである。自宅にはクレッフィの趣味で必要以上に錠前がついているが、些細なことだ。

 ここまでならば。そう、ここまでならば。

 ドンカラスの紹介の際、私はクレッフィが引き起こしたとある事件を話題に出した。それを説明するには技について言及しておく必要があるだろう。覚えている技はリフレクターと光の壁、瞑想、そしてドレインキッス。光の壁とリフレクターが防犯意識の高さと嚙み合ってしまったのだ。当然、悪い方向で。

 以前貴重な資料を家に保管した際、所用で他地方に行かねばならなかった。その時に何の気なしに気を付けて留守番するように言い聞かせたのである。すると生真面目なもので家の守りを固め始める。そこまではいいのだが、固め方が問題であった。編集者の連絡により異変に気付いた私は肝を冷やした。帰ってきたときには私自身も入れなくなっていたのだ。結局ドンカラスが霧払いで解除してくれたものの、あれ程驚いた出来事は殆どないと言っていい。命の危険は不思議と気にならないのだが、帰ってきてから確認しようと思っていた資料が見られないのは当時の私にとってとてつもなく恐ろしいことだった。現在は改善されている。まあ、改善されていなければ困る。

 さて、私の手持ち紹介は以上である。本来ならば魅力をもっと語りたいところだが、限られた紙面を私如きが占有するのも無粋というものだろう。これまで書く機会はなかったが、私と手持ちポケモンの間ではしばしば事件が起こっている。当然危険なものもあれど、しかし我々はそれを乗り越えて仲を深めてきたのだ。もし皆さんとポケモンの間に、万が一何か些細な事件が起こったら。その時は仲たがいしたままにせず解決策を考え、笑い話にしていってほしいと思う。

 

写真:中庭で笑みを浮かべるシュロ・トクジ氏とポケモンたち

 



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書評:シュロ・トクジ論文集

ポケモン世界の論文が読みたい欲が抑えきれなかったので、捏造しました。


書き手:K.ラフィングドッグ

 

 この度、シュロ・トクジ氏の論文集がようやく刊行された。遅いくらいだと思う。このところ連載しているエッセイのお陰で彼をエッセイストと認識している方は多いかもしれないが、本書はあの飄々としながらも親しみやすいエッセイとは毛色が全く異なっている。難しいのだ。そのまま挑めば火傷するであろう本書は、しかし、圧倒的に面白い。各論文の頭に本人による目的と論証のあらまし、当時の振り返りが付されているのも親切だ。

 私は天才ではなく、本書の論文は乗り越えられるべきものだとシュロ氏は言う。確かに今見れば間違いが証明されたものも多い。それなのに、この論文集からはいまだ汲み尽くせないほどの可能性を感じるのはなぜだろうか?

 奇才の知られざる思考の痕を、皆様もぜひ辿っていただきたい。

 

『アルケーの亀裂―人間中心主義について』

 歴史を尊重すること。本論文において語られるそれは、即ち、心による――闘争による――人間とポケモンの相互理解を表す。たとえば、現在我々が歴史について語る場合、ポケモンと人間が共に歩み始めた後の社会の変動を思い浮かべる。我々がバトルについて語る場合、リーグトレーナーの華々しい活躍や現代的に洗練された緻密な読み合いや駆け引きを考える。しかし、もし古代の人間が歴史について語るなら、人間とポケモンによって構成されている社会の変動についてではなく、おそらくは人間による人間のための社会と、その外部のポケモンとの衝突について思い浮かべるだろう。人間とポケモンのあらゆる声を――希望に満ちた声、白熱する対決の声などだけでなく、血生臭い争いの声、憂わしげな声、誤解と蹂躙の声――が聞こえていた社会を。バトルについても同様である。今もワイルドエリアなど耳を澄ませば微かに聞こえてくる声。この論文で著者が繰り返し剔抉を試みる歴史とは、静態論的な既に作られた社会の歴史ではない。社会がまさに作られている最中の生成論的な歴史、ポケモンとの共生以前について、傷つけ合いながらも、いかにして人間とポケモンは共生関係を築いたかについてである。

 

『普遍=コーポレーション』

 なぜモンスターボールは大企業が製造権を独占しているのか?その理由はもちろん特許であるが、大企業の独占というイメージは陰謀論や不平等にも結びつく。この論文において著者は特許以外の観点、すなわち倫理という視点からモンスターボールの問題について考察/擁護している。著者の主張は、もし特許が存在せずとも、いずれ大企業がモンスターボール生産を引き受けることになっただろう、というものであった。なぜなら、モンスターボールは普遍的であり、かつ生死に関わる物だから。そこには品質の差が存在してはならない。もしモンスターボール開発が分散的になれば、実力的に差は無かったはずなのに、なぜ彼は恵まれ、私は恵まれないのか――モンスターボールの品質の差だ、という論理が生まれる。モンスターボールは今やあらゆる人間にとって必須といっても過言ではない。それゆえ、責めを受けやすい道具でもあるだろう。人間とポケモンの生命に責任を負う企業は、必然的にその責任を果たすための大きさが、機械制大工業が求められるのではないだろうか? それこそが、普遍=コーポレーションの意味であろう。ガンテツ氏は自分が認めたものにしかボールを作らない。その理由もまた、責任という観点から捉えられるかもしれないと著者は言う。古代から現代にいたるまでのモンスターボールの歴史を辿る、刺激的な論文である。

 

『不可視の雲――レックウザ試論』

 レックウザとは何なのか?レックウザとは何だったのか?レックウザとは、果たして何でありえたのだろうか? 記号論にも通じる若き日のシュロ氏が成し遂げた古文書の解読と、そこから展開される異端思想の敷衍は、この論文集の中でも最も独創的な達成と呼んで差し支えなかろう。ホウエンの神話においてグラードンは燃え盛り揺らぐ陸の象徴であって、カイオーガは荒れ狂う海の象徴であった。二匹は地殻変動により激変する地球環境の中で、それぞれ陸と海の争いを担い、人々に畏怖を覚えさせた。そして、長い間続く争いを調停するのがレックウザである。しかし、レックウザとは何なのか?海が荒れ、大地が裂ける。陸と海との争いの永続性は、既に多くの人々の知るところとなった。この論によれば、レックウザとはそこに秩序を齎すものである。争いは疲労と交渉によって終わりを告げるが、自然は疲労を知らず、神もまた疲労を知らない。この異端の主張は、こうである。"グラードンとカイオーガは、人格神ではない"。自然の化身であるならば、自然に説得が通じないように、あの二匹にも説得は通じないだろう、と。言い換えればポケモン性の否定である。古代のポケモンの定義は、もちろん今とは違う。ある地方でイシツブテはポケモンではなく、かと思えば風のざわめきがポケモンとして扱われていた地域がある。異端の記録は核心に進む。レックウザはポケモンであるか?その結論は否であった。その理屈はこうである。空からの視座は地球で何が起ころうとも宇宙は不変であることを人々に悟らせる。争いを調停する、という解釈を拒むのだ。事実が変化するのではない。解釈が変化し、争いは最早認識されない、ということである。ホエルオーとミズゴロウを比べるかのごとく、人々は地球に起きていることもまた、宇宙に比べればちっぽけなことだ、と悟る。その意味でレックウザは、天空を超えて、宇宙と秩序を象徴する。

 しかし、この異端の説はやはりホウエンの人々には受け入れられなかった。明日の糧に苦しむ人間がいる中では、言葉よりもパンを求めるべきであろう。こうして異端の説は消滅し、暗号化されていた古文書にのみ痕跡を残すこととなった。もしホウエンの人々がこの異端の説に耳を傾けていれば、そのスケールがシンオウ神話に並ぶ可能性もまた開けていたであろう。しかし、そうはならなかった。

 

『割れた鏡、青白い仮面の神』

 この論文を読んだ人間は、皆が口を揃えてシュロ・トクジ氏の最高傑作だと言う。シンオウ神話の全貌を切り取る本書は、その静謐で思慮深い筆致と重厚な内容からそれ自体が一つの神話のようにも思える。本書において、シュロ氏は一貫して考古学者であるよりも思想家であり哲学者であった。私の仕事は書評だが、これに関しては門外漢が軽々とモノを言うことが許されないような一種の迫力がある。序盤に少し触れて終わることにしたい。

神話とは何かと問うためには、我々が何を語っているかを反省せねばならない。著者はこの論文によって物語の三つの階層を提示する。世界成立、社会成立、社会制度内成立である。世界成立とは、文字通り世界の成り立ちを語る物語である。著者によれば、我々は基本的にこの物語を神話と呼んでいる。一方社会成立であるが、これは今の社会がどのように成立したかを語る物語である。これは伝説という位置を与えられる。そして社会制度内成立は、既存の社会制度の中でどのような出来事が起こったかの物語である。著者はこれに民話の名を与え、かつこれを社会制度超越とも呼ぶ。

 続いて、著者は神話の分析に入る。ホウエン神話が自然をポケモンに模したのに対し、シンオウ神話は概念をポケモンに模す。プレートに関しても触れられる。プレートに刻まれた文章について著者は興味深いことを記している。それは即ち多元宇宙論であるが、これは鼎談にも収められているので興味がある方はそちらを参照されたい。

 

 




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シンオウ神話学講義#001(前編)

大体25万字を予定しています。エタる前提でお読みください!(誠実)


 まずは自己紹介から始めます。私の名前はシュロ・トクジと言います。もともと考古学をやっていたのですが、大体四半世紀ほど前に上梓した論文がちょっと話題になりまして、色々個人的な問題等が重なって考古学の新しい部門というか、考古学と哲学の間くらいにある神話学、これはmythologyなんですけど、まあ意味論的考古学とでも呼べるような部門を創ることになりました。その時は、おれが学会に新風を巻き起こしてやるぜ、と自信満々だったのですが、まあ年をとるにつれ自分の未熟さが分かってくるんですね。でまあ、今はあちらこちらの学会に顔を出して、たまに口も出す。数理社会学も少しやってまして、多分私の思考にはそこも影響しています。論文は昔書いたものは考古学系で、発掘調査とかもしているんだけど、最近はずっと抽象的なものばかり書いています。だからまともな考古学を教えようとすると時代遅れになる部分もあるので、シラバスではシンオウ神話学講義ということになっています。

 

 初めに言い訳をしておきますと、普通の意味での考古学とか世界史とかの講義は、私にはできないわけです。やろうと思えばやれないこともないんだけど、もっといい先生がたくさんいるんですね。エンジュ大学の教授陣ともなると、同僚の私が言うのも変ですけど、学生の皆さんから見れば錚々たるメンツが集まっているので。だから一昔前の考古学なら話せるし、古代シンオウ史とかヒスイ史も研究に必要な部分は知っているんだけれども、私がやる意味はないわけです。リーグトレーナーに物理学を教えてって言っても意味がない。馬鹿馬鹿しいですね、そんなことは。

 という訳で、考古学とか歴史の授業を期待してきてくれた方には申し訳ないんですが、年代の測定方法であるとか、他地方の文明との交差とか、歴代の村長が成し遂げたこと、調査によって得られるような知識等は、残念ながらここではお話しすることができません。例えばキキョウ大学のスミレダイ先生や、アサギ技術大学のシダノ先生の授業に潜った方がいいかもしれません。

 では私が何をやるのかというと、われわれは何を考える生き物なのかというのを一緒に振り返りたいと思っています。なんで神話を調べると我々が何を考えているかわかるの、という疑問は、神話というのは我々が世界に対して与える説明の一形態なんですね。なんで世界はこうなのか。社会はこうなのか。今では科学という方法を手に入れているんですけども、じつは神話だってそれが正しいと言える根拠を検証できれば今でも科学的な一仮説とみなすことができる。まあ当時は科学がなかったので、神話が権威を持っていたんですね。これがこの世界の法則ですよ、と。

 たとえば、神をけなすと天罰が当たる、みたいな話が神話にあったとします。みんなはそれを信じているから、神をけなすなんて恐れ多くてできない。古代人にとってのこの命題は、現代で言うと水素がパンパンの風船に火をつけると爆発してしんでしまう、みたいなものだった。そんなことする人は滅多にいないんですよ。死んじゃうと言われてるんだから、命がけでそんなことやりたくない。科学ならちっちゃい風船で実験できますが、神話での相手は神です。基準がわからない、だから検証っていうのが全体的に封じ込まれる。科学は基準を測れる。これは再現性があるっていうのが前提なんですが、神を相手にするとやっぱり人格神なので、再現性があるかないかなんてわからない。これは物語化の弊害でもあります。

 ほかにも理由があって、人には認知バイアスというのが存在するんですね。おんなじ物を見ても、事前に与えられた情報が違うと全く違う解釈をする。バイオリンを弾いて高級レストランに行く映像を二人に見せます。ほかにもいろんな事やりますが、とりあえずはこの二つで。それで、一人には「この人はバイオリン弾きです」と伝え、もう一人に「この人は美食家です」と伝える。すると、バイオリン弾きだと思ってみてた人はバイオリンを弾くシーンが強く印象に残って、レストランのシーンは「あったねそんなの」という反応だった。もう一人は当然反応が逆になります。ですから、現代人がタイムスリップして神様の悪口を言う。それでちょっとひどい目にあったら、現代人はタイミングが悪いなあと思うぐらいでも、古代の人はそら言わんこっちゃないと感じる。何も起こらないとしたら現代人はほれ天罰なんか当たらないと思うけど、古代の人は事前に与えられた情報の中でしか、神話の枠組みでしか解釈できない。でもこんなのは当たり前なんですね。

 情報がたくさんある世の中で、私たちはいちいち全ての情報を確かめるわけにはいかない。だからよく見れば、検証せずに情報を受け入れるというのは古代から現代まであんまり変わらないんだ、構造は大して変わっていないんだと、私はそう思っています。言ってしまえば、検証できるのにしないという点では我々のほうがだめかもしれない。なので、古代の人々はどのようにして世界に説明を与えてきたかというのを振り返るのは、自分を客観的に見つめなおして、こういう観念にとらわれていたなあと思うきっかけにもなりえる。

 あとは、やっぱり古代の人も理論を物凄く考えてます。だから神の存在を前提とする部分は科学的に見ると間違っているかもしれないんだけれども、考えて考えて、もうこれしかない、っていう結論は我々が考え出すものと同じか、時々それより優れている場合がある。我々がこの水準で考えるというのはなかなかありません。科学より劣っているということがしばしばいわれますが、私にしてみると前提が違っているにすぎない。実験できない分極限まで考える。意外とこれが面白いんですよ。

 

 今回はシンオウ神話学講義ですが、他の神話や伝説ではだめなのか。ご存じかは分かりませんが、私の専門はシンオウ神話です。他の神話や伝説というとホウエン神話とかイッシュ建国伝説とかがありますね。

 結論から言うと他の神話や伝説だけ取り上げても十分講義はできます。ではなぜシンオウなのか。これは私の専門だからという答え方もできますが、実際の理由としては、今回の自分を、ポケモンと人間を見つめなおすという点において最も根源的な部分に言及できるのがシンオウ神話だからです。他の地方の伝説としては、例えばここだとホウオウが三匹のポケモンを蘇らせたとか、ルギアが羽ばたくと嵐が起こるだとかそういったことですね。舞踊と音楽とか、深い伝統があって今もこんなにむき出しの形で生きているのはこことホウエンのあそこぐらいだと思います。この伝説も掘り下げていけば、まあ合計で14回ぐらいは軽くできてしまうんですが、今はやらないんですね。今はやらないというのはその内やりたいということですけど、まず最初にやっておきたいのがシンオウ神話だった。

 これはシンオウ神話が概念に言及する神話だからですね。ジョウトとホウエンに伝わっているのは自然現象に言及する話です。ホウオウはどうかと言われると難しいんですけど置いといてください。カロスには生と死と調和という少しばかり概念に近いものも存在しますが、実際に起こっていることを見ると現象側の話ではないかと私は思います。これはシステム論というか、本当に草木が枯れたり、逆に花が咲いたりというのを記述しているにすぎない。その意味ではホウエン側である。より近いのはイッシュ伝説でしょうか? あれは社会契約の話ですよね。概念は人間が作り出したもので、その意味では自然の方が基礎的なレベルにあると言うこともできます。しかし、より人間的な神話はどちらでしょう。人間というのはポケモンに比べてはるかに弱い存在です。そういうやつらにとって神話ってなんなんでしょう? 考えたことがありますか?

 シンオウ地方というところは真ん中に大きな山があって、山の頂上に遺跡がある。自然豊かなところで、面積はかなり広いんだけど高い割合で森林が広がっている。環境的な共通点はあまりない。そういう地方の神話を学ぶという状況は、へんだと感じると思います。

 それは間違っていなくて、我々はへんなことをやってるんです。シンオウ神話における問いかけもこの地方に存在しなかったわけではありません。自分はなんでここにいるのか。世界っていうのは何なのか。自分って何なのか。すぐ思いつく答えに禅というものがあります。マダツボミの塔はそういう問いかけに応えるために建立されました。べつにシンオウ神話だけが特権的だというつもりはありません。様々な答え方があって、それは誰にでも考えられるものなんです。ただ、固有の考え方ではあると思います。シンオウは自然豊かな場所で、言うなればポケモンの大地です。そこで人間はどういう位置を占めているのか。人間本位の考え方ではない。正確に言えばなかったということで、時間がたつにつれ社会が強くなって、人間的な考え方が入ってきたりする。自然信仰と理性信仰が争っているような部分もあります。でも、つまり、我々は人間でめんどくさい社会を作っていてその中にポケモンがいるけど、神話は基本的にその逆をいっている。だから面白いんですね。そして私の専門がこれで、泥縄ではあるけどもこういう広範な授業をやる。

 自分が今ここにいて、どう生きているのか。単位のためにここにいるっていう答えもありますが、それは単位が取れちゃったら終わりですよね。単位をとるためにここにいて、進級するためにここにいて、卒業するためにここにいて、就職するため、高い収入を得るため、とやっていくと結局答えられない部分が出てくる。じゃあ、どういう考え方をすればいいのか。その目印の一つがシンオウ神話です。

 

 シンオウ神話にはどういうものがあるのか。一節引いてみましょう。

 "宇宙生まれる前/その者一人呼吸する"。

カッコいい。プレートから読み解くシンオウ神話の始まりにある記述ですが、宇宙生まれる前というのは人間には理解しがたい。だからこそ力を持つ描写です。けれどね、そんなの人間には認識しようがないですよ。この話は実際に書き手がみたことでしょうか? 違うよね。これは作り話なんです。明確に作り話で、事実ではない。もう少し慎重に言うと、たまたまこれが事実である場合もあるかもしれません。でも、これが事実だと認識しうる次元に、我々は立つことができない。つまり知的に誠実な書き方ではないわけです。宇宙の始まりを見たわけではないんだから。

 重要なのは、なぜこんなことを書かなければいけなかったのか、という点です。さっき誠実ではないと言いましたけど、考えてみれば我々にもわからないことはあります。数学における二十四の重要未解決問題であるとか。例えばそれを解こうとして、解決の糸口を見つけた、と思った人がいる。それは例え解決の糸口ではなかったとしても、誠実に考えていたわけですよね。これがどこで誠実でなくなるかというと、「これが解決の糸口です」と断言したとき。「これが解決の糸口になると自分は考えているけど、実際にどうかは分からないよ」、というのが誠実さです。だから言っておきますが、この講義も私がこう思っているというだけで、色々調べてはいますが結構その場の思い付きで話してもいるので、ところどころ間違っている可能性もあります。そこを指摘できる人は成績が上がりますね。

 でまあ話を戻しますけど、神話というのはずっと誠実でいられるわけではない。分からないことに対する説明として用意されているから、当然どうやったってわからないことに対しても無理やり答えなければいけない。「それっぽいけどなんか違うんじゃない?」という段階で推論を諦めなければいけないこともあります。社会的役割と理性的な欲望のせめぎ合いとしての神話があるんですね。シンオウ神話は言ってしまえばアマルガム、合金です。三種類の源流があって、それが土着の自然信仰、宇宙信仰、超越論的観念論ですね。自然信仰の皮を被った宇宙論と超越論的観念論がある。自然信仰は社会的役割の方が強いのですが、後者二つは社会的役割を突き抜けてそれ自体が勝手に駆動しやすい。「社会のために世界を説明する」のではなく、「世界を解き明かすために世界を説明する」という目的が優位なんですね。一般的には、勉強が楽しいから勉強する、というのがいい。べつに前者が悪いという訳ではありません。ただ、私は後者に強い魅力を感じる。ここの三つの源流と二つの区分はややこしいんですが、後半になれば慣れてくると思うので我慢してください。

 で、誠実という話に戻るついでに勉強の話をすると、皆さんは大学に入るまで長いこと勉強してきて、ハイ問題です、と出されてそれを解くということをずっと続けているんだけど、すると勉強っていうのは答えを出すことだっていう認識になってくる。これは怖いことです。答えを出さなきゃいけないとなると、我々はどこかで立ち止まる。立ち止まらなくていいところで。だから、神話を他山の石としてください。うまく立ち止まるためにも、まだ立ち止まらなくていいと安心するためにも、同じ性質を持つ文献にあたることは重要です。自覚的に行為することを知ってくれればうれしい。これは難しくて、私なんかはこの年になっても未だにできない(笑う)。ですから覚えて帰るだけでいいです。それで時々思い出してください。

 

 じゃあさっき引いた一節にもどります。 "宇宙生まれる前/その者一人呼吸する"。……(中編に続く)



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シンオウ神話学講義#001(中編)

AZさんは色んな地方に関わっているみたいなのですが、私はふるいポエムにも出てきたんじゃないかと思っています。ふるいポエムの中には、もう一度誰かに会いたいと考えたとある人間に同情しながらも、世の摂理を受け入れる筆者の心情を書いたものがある。そのとある人間とは、AZのことではないでしょうか。時系列は別かもしれませんが、時空の裂け目が存在する以上別段あり得ないことではないと思います。今回の講義ではカロス史についても少し触れられますが、これはもちろん二次創作なので内容の正しさを保証するものではありません。


(続き)

 "宇宙生まれる前/その者一人呼吸する"。その者っていうのがいるよね。これを観測者と呼ぶとします。シンオウ神話は心=世界ですから、「呼吸する」は心が生まれていない状態とも言える。自我が未発達な状態と重ねてもいいんですが、これはあとで議論しましょう。まずは神話全般の枠組みをとらえるのを目標にします。

 これは記述としてはおかしい。その者一人呼吸するって、じゃあそれを書いてるお前は誰なのか。その者以外の視点がある。だから一人ではないのではないか。

 仮説としては伝聞形式で、その者が誰かに宇宙を創ったときのことを話したというのがあります。そいつが書いている。なぜ話したのか。本人が書いたって言ってもいいんだけど、その場合は誰に向けて書いたのか。どっちも我々に向けてですよね。我々が世界を作った者と繋がっているということにした。何かを共有しているという権威、アイデンティティを獲得する。それはテキスト自体には書いてなくて、テキストを書くという行為の内に存在する意味なんです。ことばというのは他者との関係。なんで関係が成立したかっていうと書いたからですよ。明示的には我々も物語の中に出てこなきゃいけないんだけども、暗示としては書くことがすでに関係なんだよね。だから神話はある意味で行為、契約でもある。神話はその世界においてその世界を解釈するものですけど、それに対して神話学はある神話がどういう構造を持っているか、どういう変化をするか、という解釈を行います。こういうことを喋るんだなと思ってください。

 神話にはどういう枠組みがあるのか。これは試験に出すので単位が欲しい方はメモとって。板書するので撮ってもいいですが、シャッター音は小さめにしてください。神話は事実を報じるか、あるいはそれを述べることによって事実となるに違いない権威ある言葉と呼ばれます。作り話でも事実ということにして信じ込ませる。神話はそういった大昔の、一回しか起こらない(奇跡的な)出来事を語った物語です。我々は、例えば毎日ご飯を食べる。これは繰り返しますよね。でも私が生まれる、これは繰り返さない。一人の人間が何回も生まれるのはSFの世界です。生き物全体で見れば繰り返してるんだけど、じゃあ世界は? これは神話になります。これは宇宙論では神話を拒否して多世界解釈をします。世界はたくさんある。我々がたまたま生命が生まれる宇宙にいるだけだって言うんだけど。

 あと、存在を説明し、同時に基礎づけるという機能。目的論的って言い方をすると早いんですが、よく分からない道具があったとする。「なんなのこれ?」「これはこういう由来があるよ」というのが今あるものの説明。「いるのこれ?」「これは神様がこういう意図で作って、こういう使い方ができるからいるよ」。これが基礎付け。存在理由と言った時に色んな意味があるのがわかると思いますが、大体は二つの意味でつかわれます。一つ目はなぜ存在しているのか。二つ目は何のために存在しているのか。神話はこの二つを説明する。正当性を与えるわけです。

 語り手がそれを真実であると信じるか、少なくともそのようなふりをすること。これは大事ですね。作り話は面白くても作り話でしかない。デタラメであってはいけない。原始の神話的出来事は人間が従うべき、守るべき範型を示しているからです。従うべき規則の説明、基礎づけがデタラメだったら誰も従わない。なぜ従うべきか直感的に理解できない、自分には不利なことばかり、じゃあ従わないとなるのが普通です。なので本当にあったことで合理的な理由がありますと言わなければいけない。実際は嘘でもそう言わなければいけない。みんなにそう考えてもらった方が、社会にとって都合がいい。その根拠を神話とする、嘘も方便というやつですね。

 そういう意味で言うと、当然神話は逆もあり得る。神話には社会制度に正当性を与える機能があるって趣旨のことを言ったけど、それは間違った社会的制度にも理由を与えられるんだよね。これは同僚から聞いた話なんだけど、近頃はカロス史の研究が進んできた。その中に物凄い規模の戦争を起こした人がいて、それは人間もポケモンも万単位で死んでいる。ありえないでしょ? でも実際にあった。その戦争がなぜエスカレートしたかという仮説のうち一つに、神話が利用されたという説がある。これは私の論文が引用されたんだけど、神話の解釈をダイレクトに倫理観のレベルに持ち込んだのが当時のカロス王家だったのではないかって言うんですよ。王家が戦争を激化させた理由はよく分からない。古代兵器が関連すると言われてるんだけど。ただ激化させるためのツールとして神話ね、これが使われたんじゃないかという説はあります。神話がどういう機能を持つかって色々あるんだけど、その一つが民族の世界観の表現なんですね。で、カロスの伝説は生と死を司る二つの繭というもの。戦争が起こる前までは超自然的で、恐れ敬う。あらゆる生命を司る。ただ近くにあるので枯れたり咲いたりするだけで、質には差がないと。ある種の機構、人智の思い及ばぬもの(There are more things)だった訳です。

 ところが戦争が始まってからの解釈としては、カロスという国家に結び付くような解釈が為されたんじゃないかというのがある。正確には戦争が始まって数年後で、何が引き金か、この数年の間に何があったのかというのは掘り下げていくと面白いんだけど、今は置いておきましょう。AZという王様です。で、この時の何がカロスにおける神話伝説の実態だったのか。つまりカロス国民の生命。ロジックは生命なんですよ、やっぱり。でも生命というのは、ありとあらゆる生命じゃなくなったわけ。単なる伝説がカロスの伝説になったので、それはカロスという属性を得たということです。じゃあカロスの神様な訳だからカロスに付いてくれるよね。だからそれに歯向かう奴は神様を敵に回すということだから、そこに都合よく死の繭がある。こっちは生の神様が守ってくれるよ。相手は死の神様がやっつけてくれるよ。カロスのために戦おうね。そういう論理が全部戦争に使われたわけ。元々は恐れ敬ってただけなんだけど、プロパガンダで恐れ敬ってくれて神様も感謝してるよにされた。それを国王がどこまで信じてたかは分かりませんよ。こんだけ死者を出す理由は理解できないし、なんか唆されたらしいという資料もある。でも神話っていうのは、語り手がそれを真実であると信じるか、少なくともそのようなふりをすることだから。誰かが、信じてないけど利用できたから利用した、そういうのに利用されるリスクが常に付きまとってるんだよね。

 だから神話学というのは、今グローバルだから戦争が起こって世界が成り立つか分からない、起こったら終わりなんじゃないとは思うけど、そういう戦争に神話を利用することを防げるかもしれないよね。神話じゃなくて科学でも何でも、戦争は戦争じゃないですか。もっと規模が小さくてもいいけど。絶対的な正しさを作るということではなくて、相対化する。お互いの違いを見ることによって、お互いの異質である所ということを照らし合わせるということは非常に大事だと。合理っていうのは理に合うってことだよね。理に合うって何か、理が客観的にあるのかというとそれは分からない。どっちが理に合わないかというのを比べる。それをやってください。

 だいぶ話が逸れましたが、神話とは何か。神話は儀礼であって、民族の世界観の表現です。だけど神話にも色々あって、神話的儀礼に注目すると、言語と行為という異なった媒体によって展開している。語られた物語と儀式の数が同じという訳ではないんですね。

 儀礼とは何か? ジョウトには舞妓さんがいますよね。これは神に踊りを奉納する神職です。音楽と舞踊は一種の酩酊状態を引き起こすので、これは精神を現実から切り離すために行われる。儀礼的な媒体で展開していて、神の世界と人の世界っていうのがある。一方でシンオウ、ここで例に出すのはヒスイだけど、これは日常生活の延長線上にある。神話が日常に溶け込んでいるのか、日常が神話的なのか。生活が儀礼的なのか、儀礼が生活的なのか。言い方はどっちでもいいんだが地続きの価値観なんです。だから最初自分を知るってことを言いましたけど、神話には人間の無意識の構造が浮かび上がっているとも言える訳です。シント遺跡ではジョウトとシンオウのそういう文化が融合するんだけど、まあ面白いですよ。性格の違いもあるので。

 神話の性格には色々ありますが、今回の講義では世界成立、社会成立、社会内成立に分けて紹介したいと思います。神話学っていうのは面白くて、これは段階的に発展してきた概念なので、その基礎から順に説明します。まず初めに、創世神話と英雄神話という分類が提唱されました。次いで創世神話にも色々あるよねということで、結局世界起源神話、人/携帯獣起源神話、文化起源神話に分類された。これで分類が英雄、世界起源、人/携帯獣起源、文化起源の四つに分かれます。けれど、こういう階層で見たときに、英雄神話というのは文化の中で成立していることじゃないかというディスクールが活発になったんだよね。なので世界起源→生物起源→文化起源→文化内という階層ができた。しかし、今回講義するシンオウ神話は特殊な在り方をしている。世界=心とでも言いますか、そうすると世界起源と生物起源が一つに合体する。なので階層が三つになります。将来他の地方の伝説を学びたい人はこの流れを全部頭に入れておくとよいかもしれません。大体の類型、つまりお話の型は同じです。

 では伝説と神話はどう違うのか、物語と神話はどう違うのか。伝説には最初、結構明確な定義があって、それが創造的原始と静態論的現代の中間にあったと信じられている具体的な出来事を語り継ぐものだと。だから古代から現代までの間に実際にあったことですよ、という体で何か物凄いポケモンとか人とかを語り継ぐ。ただ私としては世界成立、社会成立、社会内成立に対応させたいという気持ちが少しあります。世界成立がシンオウ・ホウエンでこれが神話。社会成立がジョウト・イッシュ・アローラでこれが伝説。ガラルはまだ全貌が分かってないが、カントーが社会内成立かな、という気がしています。ポケモンが何をしてどれぐらいの力を持っているかに綺麗に対応するとは思っていないんだけど、形式としてはこうなるんじゃないかな(笑)。これも定義の話ですが、神話はその民族にとって本質的な性格を基礎づけるものなので。ポケモン自体が何をしたかは、あんまりハチャメチャな力でなければあまり重要ではない。それよりも世界がどう見えていたのか? このような問いかけは、実は自分に世界がどう見えているのかということでもありますね。(後編に続く)

 

 




ここは違うんじゃないか、ここが面白いなどのご意見、ご感想、ぜひお待ちしています!


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シンオウ神話学講義#001(後編)

少しずつ改稿を進めていこうと考えています。次にエッセイを投稿できるのはいつになるやらという感じですが、今回投稿したシンオウ神話学講義も理解できれば間違いなく面白いはずなのでぜひ根気よくお読みください。


(続き)

 我々にはいま世界が見えている。さっき言ったように神話は世界観の表明です。古代の人は、世界を神話によって解釈しています。しかもシンオウ神話だと神が世界を創造して、その伝統を汲んだ組織がヒスイの共同体に重なっている。コンゴウ団とシンジュ団って名前なんですが、つまりアイデンティティなんですよ。

 じゃあ我々のアイデンティティとはなんなのか。

 これは答えるのが難しいんですね。みんな神話を信じてないんです。ここにいる人たちは大半が高等教育を受けてますからなおさらだと思いますよ。働いて生きていく上ではそれで十分だよ。でも、僕たち私たちにはアイデンティティが全くないんだっていうのも変な話ですよね、根本的に。じゃあなんで社会集団を形成できるのか分からない。そういう議論は昔からあったんです。それが広義の意味でのシンオウ神話に繋がってきます。

 シンオウ神話というのは便宜上そういう風に言うんだけれど、誰が特定の作者だとかは言うことができない。この高度な神話はいかにしてあるのか。これが高度な神話だから、当然そうじゃない神話もありえます。

 いくつか仮説があって、ある人がこういう話を作った。

 二つグループがあるとします。ひとつは一般的にさほど強くないポケモンをトーテム化して、つまり祀ってね、高度な論理でその弱さを正当化しているグループ。もうひとつは圧倒的な力を持つポケモン、例えばバンギラスとか伝説のポケモンでもいいんですけど、それを畏れる単純な物語を持つグループ。

 これが融合するとどうなるか、と考えてみる。すると強力な対象を高度な論理で崇めるグループになるんじゃないか、と考えた人がいる。上手くいくかは別ですよ。しかし可能性は否定できません。それはなぜか。歴史的にみると力の弱いグループは強いグループに服従せざるを得ないんですが、弱いグループも妙にタフな場合がある。アイデンティティを守ろうとする。でも、その時に力が弱いままだったらどうするか。弱いままでも守れる武器を開発するんですよ。つまりロジック、論理です。自然は弱肉強食ですから、自然から変化したわけです。自然の摂理には反するが、論理的には正しい。そのグループは自然から離れた物語の世界を発見したと言ってもいいんだ、と仮説の提唱者が言ってる。高度な物語の発見。

 その一方で、自然の摂理には有無を言わせぬ迫力があります。その中で生き延びるために人間が使うのは数の論理、集団の力です。ポケモンも群れを作ってるじゃないかという反論があるかもしれませんが、仮説の提唱者は著作の中でそれを退けてます。なぜでしょう。

 ポケモンには相性がありますから、天敵がいる。それを集まることによってマシにしよう、強いものに守ってもらおうというのがポケモンの群れの論理だとこの人は言ってるわけです。これは機械的な連帯だ。この応答には様々な批判がありますが、大多数のポケモンの群れが同じ種族というのは疑いありません。それに対して人間の方はどうなのか。人間が形成する群れは有機的だった。最初は機械的だったかもしれないが、ある時から有機的になった。ある時とはいつか。ポケモンと関係した時です。人間を媒介にして様々なポケモンが寄り集まることが可能になったので、それぞれ得意なことができるようになった。そして結果的にその媒介である人間が最も利益を得たんだ、ということを言ってます。様々なタイプを含んだ群れは脅威です。普通のポケモンの群れは弱点が決まってます。それを臨機応変に対応して、一網打尽にできる力を持つ群れが現れた。最近発見されたゲッコウガの希少な特性を群れの単位で行った、しかも能力も変化する。これはたまったものじゃない。人間はそういう力を使いました。これが人間の数の論理です。しかし役割分担には悪い面もある。俺は戦ってるのにあいつは土いじりしかしない、あの人は私の仕事に感謝の一つも言わないとか文句を言えるでしょ。力が正義って論理のままだと戦ってるやつが一番偉いことになるが、実態はそうではない。人間だけだと力が強い奴に文句言えませんよ。でもポケモンがパートナーだから、ポケモンが牙をむけば人間は何の問題にもならない。共同体だから生き延びたのであって誰が偉いとかではない、しかし今の価値観だと文句が出る。共同体の規模が大きくなり、軋轢が生まれだす。力が全身の末端まで行き届かなくなる。どっちが手を出しても簡単に破綻するからより強靭な構造が必要になります。歪みを解消しなければ、という時に出会うのがさっき説明した弱者の最終兵器、つまり物語の世界だと言われています。

 もちろん生活は現代と大きく違いますよ。でも自然は今も弱肉強食です。人間の中にも変化しない部分が見つかります。それを「やはり全然違う」で終わらせていいんでしょうか。鋭い方なら気付いたと思うんですが、この仮説にはいくつか現代との共通点が見つかります。未だに解決していない問題もあります。そういう意味で言えば、道具が増えていっただけなんです。本質が変わっていないという保証はどこにあるのか、という問いは無意味です。変わる前を知らない訳ですから、本質が変わっていると言う為にも研究の必要がある。

 シンオウ神話のポケモンは世界を成立させる神ですからね。それが時間と空間、人間の心を象徴しています。時間がない世界も空間がない世界も考えられないし、心がなければ世界を認識できない。ホウエン神話のポケモンは陸海空ですが、陸がなくても水タイプのポケモンは考えられるし、エスパータイプなんかは陸も海も必要としない種が存在するかもしれません。もちろん全ての、ちょっと友人、今学会でだいぶ偉い地位にいる人に何を言われるか分からないので"おそらく"全てのと言っておきますが、ポケモンはこの星がなければ生まれていなかった。でも考えることはできるんです。なぜ時間と空間、そして心は考えることができないのか?そもそも我々が考えるために必要な条件だからです。それがないと考えるという行為自体が成立しない。そういう次元があることを見抜いてたんですよ。この洞察は驚くべき深みを持っている、と私は思います。

 こういう世界の見方を得ることは難しい。何が私を形作っているのか、これが自分に世界がどう見えているのかとダイレクトに繋がってきますよね。別に、他の学問じゃこうはいかない、という意味で今回の授業のシラバスを書いたわけではないんですよ。私はそれ以外の方面に才能がなかった、それだけのことなんです。シンオウ神話は非常に面白い形で、我々に今も何かを指示している。そういう形で神話というものを見ていきたい。神話っていうのは確かに作り話です。伝説も格は落ちますけど、本当に起こったかまだ怪しい。それを外から眺めて「昔の人はこんなものを信じていたのか」というのは、現代人としては正しいかもしれない。しかし、古代の人はそれをどう受け止めていたのか、それを見ている我々はどのような神話を信じ、神なき神話を生きているのか。そういうことを私は知りたい。私の手持ちにはケーシィがいます。それはどういうことなのか。なぜケーシィの手持ちに私がいるわけではないのか。ポケモンと人間のコミュニケーションとは何なのか。ポケモンバトルはどのような経緯で今のような形式に変わったのか。日常でそんなことを聞く人はいません。しかし私は気になる。どうやってそれを知ればいいか、日常的な言葉では難しい。明らかに作り物である神話がなぜ書かれたかというと、やはり神話という形でしか書けないものがあったからじゃないかと私は思います。なので今回は、私が長い間研究してきたシンオウ神話というのを使ってこの講座をやっていきます。

 という話をしていきますが、この先どうなることでしょうね(笑)。

 



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シンオウ神話学講義#002(前編)

しれっとこちらを投稿。


 

 第二回ですが、始める前にちょっとした雑談をします。みんな最近まで受験勉強してたでしょう。受験勉強っていうのは例えば歴史の用語を5,000語くらいかな、覚えるわけですね。あと外国語だったり、携帯獣学とかの単語を3,000語位覚えて、ポケモンも800種類ぐらい覚えて、そのほかの所でもやっぱり現代文とか、小説を読む習慣がない方だと意識的に単語を覚えたりするわけだよね。有名大学は数学、特にダメ計の問題が難しい。他にも覚えなきゃいけないことはあるんだけど、その合計が9,000単語。5,000と3,000と800でね、大体9,000 、9,000単語覚える。これはいつからこうなったんだろう、って思った方もいると思います。暗記は苦手だとか、苦手じゃないけどめんどくさい。知識っていうのが重んじられるようになったよね。

 私の時代も似たような感じでした。でも大学に入ってね、漠然と講義を受けてたんだけど、ある時エンジュの人口とその近辺にいるポケモンの数を確認する機会があったのね。そこにどれだけいたかっていうとね、当時でも全然30,000匹以上ポケモンとかがいたんですよ。でさ、エンジュっていう小さい地域の中に30,000のポケモンがいる。恥ずかしい話、私はタマムシ大に入って9,000語で鼻高々だった訳ですよ。でも30,000の命がそこにあるんだって実感した時に、知識ってなんなんだろうって思った。考えてみたらオドシシが角からどうやってサイコパワーを放出するかとか、何も知らないんですよ。オドシシのちょっとしたことでさえ知らないんだから生態系も何も知らない。複雑系とは何でしょう。世界のすべて、ポケモンのすべてを勉強したぞと思ってた矢先にこれです。私は今まで何を勉強してたんだろう? 今までの勉強は無駄ではないですね。でもなんで"この"科目を勉強する必要があったのか。得意だから? それもあるね。でも得意って言っても既にあるものの中で得意ってことでしょ。じゃあなんでかっていうと、これが重要だからだよね。ではなぜ重要なの? 一体いつから重要になったのか。現状の社会制度が成立したときにです。

 生命に対する驚き、とでも言えるような感覚がシンオウ神話にはありました。現代社会とは違った感覚の下に古代社会は流動します。しかしシンオウ神話には同時に、その驚きを抑え込むような制度、即ち現代社会に通じるシステムの萌芽もまた、既に含まれていた。今回はこの霊性と両義性でも呼べるようなものを考えていきますが、真面目にこれをやったら八年は授業をやらないと終わらない。でもちょっと見てみましょう。

 

 まず私が古代の霊性と言ったときに、皆さんは多分古都の風景を、あるいは古代遺跡とかを思い浮かべましたよね。シント遺跡、やりのはしら、海底遺跡とエトセトラ。ここで立ち止まって考えたいのは、我々が言っている古代というのは本当に同じ古代なのかという点です。古代遺跡とエンジュの寺院の年代がかけ離れているのは分かると思います。さらに言えば、古代イッシュと古代ジョウトは本当にひとくくりにできる概念なんだろうか。そして同じ古代シンオウの中でも色々ある。アヤシシ信仰が始まったのとやりのはしらの建立はどちらが先か、皆さんはご存じですか? 一息に古代と言っても差があるんですね。

 試験勉強を通ってきた人たちなんかは、時折暗記だけしてこの大学に来た、と言われることがある。何年何月何日にこういうことが、このポケモンの特性は云々でどの地方に生息していて……と一問一答形式で覚えた方も中にはいるかもしれない。しかし、現実には数字や単語がその辺を歩いているはずがない。問題が翼をつけて空を飛んでいたり、答えが足を生やして草むらを駆けているなんて馬鹿な話はない。現実にはみんな一人の人間、一匹のポケモンなんだから、色んな文化、色んな環境の中で生きているわけです。でもまあ、みんな違ってみんないいで話を終わらせたら研究にならないからね(笑い)。独特の生物や文化が、お互いにどう関わりあって時代を作っていたのか。これの研究が必要なんだね。

 お互いの影響関係というのはテキストを読んでいるだけではわからない。遺跡の中から発掘された陶器の造りに似通ったところがあるかもしれない。あるいは植物の種子を分析すると遺伝子が繋がっているかもしれない、そこは人間でもポケモンでも同様ですね。地方別に考えてしまいがちですが、時代の大きな流れや雰囲気は共通している。その上でやっぱり違っているというのを考えてみる。共通の前提があった上で、別々の対処をしたと考えるのがいい。そうすることで一つの地方だけを研究していたのでは得られない発見があります。

 一番とっつき易いのは、年表と地図を作って書き込んでいきつつ比べること。非常にお勧めです。

 

 さて本題に入ります。シンオウ神話に注目しましょう。シンオウ神話は多面的かつ総合的な体系であり、哲学、宇宙論、そして自然科学の源流としての側面を持っている。当然ヒスイ信仰の直系の祖先でもあります。ただ一枚岩というわけではない。なぜ古代について語ったかと言うと、シンオウ神話も初めから体系があったわけでは全くなく、通時的に徐々に形成されていったものだからです。『シンオウしんわ』『シンオウちほうのしんわ』『シンオウのしんわ』『シンオウむかしばなし』……挙げていけばたくさんありますね。掘り下げていけばどれも興味深い内容を含んではいるのですが、上手く時間内に収まるか分からない為今回は省略したい。ただ知っておくべきことには、これらの話は単体で見ると全然歴史が違うんですよ。キクコを持ってきて「最近のポケモンリーグはねぇ……」と言っても的外れな論評になります。ヒスイの歴史と比べてもシンオウの歴史は非常に長いです。リーグの話をするならモモナリやキリュー等の世代の話をすべきなのと同様に、シンオウ神話体系の話をするならば、核心を考えねばならない。

 その一方で留意すべきことは、そもそも我々は研究対象たる神話がそれ以前のどの神話の影響のもとにあるか、が知りたいのではないということ。それはあくまで手段であり、目的ではない。知りたいのは、それがいかなる構造のもとに創造された神話であるかであり、どのような理念を示すに至ったかです。以上の通時的な思考法は、歴史影響論という呼び名があります。ですがそれは有用であると同時にリスクが大きい。この講義ではある一定の範囲内に限定して考えていきます。以上のことを踏まえて聞いてください。課題に関してはエンジュ大学のシステムであるHo-ohを通じて提出をお願いします。

 では、今からシンオウ神話体系の全体構造と、考え得るその発展過程を話していきます。重要なのは、"シンオウ神話体系の核にあたるものとは何か?"ということです。……(中編に続く)

 



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