Mercenary Imperial Japan (丸亀導師)
しおりを挟む

歴史・オリジナル国家

徳川秀忠までは現実と同じような歴史を辿っている。


西暦1633年徳川家光の時代、家光はキリスト教の締め付けを更に強化しつつもタイ等の日本人町の強化を発布、

お家取り潰しになった大名に対して家臣団と共に蝦夷地の開拓及び切り取り次第の令を発布。

 

それと共に国内の戦闘経験者からの伝記、戦の事話を集め経験の失伝を懸念すると共に、オランダに対して傭兵を正式に契約すると通達。派遣団の中には西軍の大名、譜代の中でも小名となる者たちから出征を命令。後に西洋から魔神と呼ばれる集団。

 

1646年清明交替戦争に明側で参加、朝鮮半島漢城以南 を占領,以後清軍と合流した朝鮮軍と膠着状態となる。

日本軍10万対清・朝鮮連合軍50万と対峙する。

 

1653年明朝王女の日本脱出。皇族との婚姻により血筋は残る。

 

1661年鄭成功日本の庇護下に降る。

 

1662年日本台湾をオランダから割譲要求、類稀な軍事力により領有。

 

1663年三角測量が始まる。

 

1664年日本沿海輿地全図の作成開始される。

 

1672年三藩の乱へ介入、清軍を撃退すると共に日本式城の建築、要塞戦を構築する。

 

1683年澎湖海海戦、清軍壊滅的打撃を被る各地で反乱が頻発し、組織的攻勢が出来なくなる。

 

1683年日清講話、第一次日清戦争終結。

 

1684年1樺太発見するも清国との中立地帯であった為上陸せず。

更に北部であるカムチャッカ半島へと上陸、周辺に村町を形成しつつ扇状に進出する。

 

1689年ロシアとの初接触互いに領土を取り合う。

 

1705年分裂期のラオスへと介入、混乱に乗じて軍を駐留北部を実効支配し、日本語教育の開始同化政策が行われる。以後50年間行われ、日本へと編入される。

 

時を同じくしてベトナム莫朝へと傭兵貸与による支援開始、しかし債務不履行が行われた為1713年、莫朝の統治範囲を実効支配する。以後日本語教育が行われ、同化政策が開始され後20年後編入される。

 

同じ頃新大陸派遣団、シアトル近郊を領有主張。

 

1712年ロシアとの国境線確定、以後日露戦争で樺太が割譲固定されるまで動かず。

 

1723年ウラジオストクがロシア領となるも、清国との約定により動かず。

 

1728年日本国内で壊血病の原因が経験則より発見される。以後外洋渡航者増加。馬から天然痘と似た症状が確認される。実験の結果種痘始まる。

日西戦争勃発、スペイン軍が本土から来られない事を逆手に取り、フィリピン全島を掌握。現地住民の代表との決闘により従属化、並びに日本語教育を行い同化政策を実行。

 

1732年大陸東端へと到達、測量隊が帰国各地へ編纂された地図を元に鎮守府が設立される。

 

1734年オスマン帝国と傭兵業での契約が締結される。

 

1735年代露土戦争勃発に伴い武家の三男以降を中心に軍2万4千が派遣される。参加者の凡そ2割が中東へと残り交流を深める。

 

1736年国府学院設立、数学、科学、国学、語学、外学の5教科が選出される。なお、科学の中に薬学、医学等が含まれる。

 

 

人口7000万人を突破する。

 

1775年アラスカ到達山脈伝いに領土を拡大していく。同年当地の原住民を代表との決闘により、従属化。

日本語教育を行いつつ、定住を強制同化政策を行う。

 

1778年田畑への上水の為に蒸気機関が発明される。これにより、より高地により少ない力で上水が可能となる。

 

1780年アメリカ独立戦争に傭兵派遣。

 

1802年蒸気機関車が、初めて走る。

 

1809年スウェーデン=ノルウェーに傭兵派遣

グスタフ4世派の勝利に寄与。

同年帰国中ナポレオン戦争でフランス軍との戦闘に突入、勝利に寄与する。

 

 

1812年英国との間に軍事協定が締結され、英国領への内政不干渉及び日本領への内政不干渉を締結される。

 

1820年北アメリカ大陸にて日墨戦争勃発、メキシコ側に多大な損害発生。

ロッキー山脈大盆地までを日本国国境線として定める。

 

1834年カムチャッカ半島にて金銀鉛鉱脈石炭,硫黄,泥炭,発見される。

 

1842年後装式小銃(蝶番式閉鎖機構)の量産始まる。

 

1854年 アメリカの艦隊が、既に日本へと吸収された沖縄へと接近する。

幕府の艦隊はそれを辞めよ、と警告し本州へと誘導する。

その年日米和親条約が締結され、日本とアメリカの初めての国交が樹立する。

 

1860年 時の将軍慶喜は、日本国の現状を把握し幕藩体制の限界を各地方との連携により確認する。

 

1863年 徳川幕府、大政奉還。並びに藩主は向こう十年県知事として安定化に努め、その後代役を選出するようになる。

 

1864年 国号日本帝国へと改められ、天皇を中心とする立憲君主制国家となる。また、法の制定が行われ、日本帝国憲法と定められ各種法律を発布、後に改正を数度行われる。

 

1885年 内閣制度の始動。及び太政官制廃止。

 

1894年7月 日清戦争勃発。同年12月清国降伏

帝国陸海軍、軍備の増強を早急に進めるよう内閣に通告。

 

1904年2月 日露戦争勃発

1905年9月 日露戦争終結 ポーツマス条約締結

 

1907年朝鮮半島完全併合

 

1910年までの世界

 

【挿絵表示】

 

 

(地図中棒線部は、線色の国の半勢力下)

 

 

 

大日本帝国

 

太平洋北部大地を領有し、各地の部族・民族を従える帝国。

紆余曲折を経て、英国と百年に渡る同盟関係を構築している。

最近(1920年)オランダの植民地経営に疑問を持って、首を突っ込んでいる。あわよくば解放してやろうと思っている。

 

重工業 軽工業 農業 そして初期のバイオテクノロジーを操る。化学に関する分野は英国との技術供与によって、かなりのレベルであるが、一歩劣る。

工学分野は、溶接等の技術の発明をしたことにより非常に発達している。ただし鋳造技術は史実並み。

生物分野は、他の追随を許すのことなく、食品衛生、微生物学、細菌学の分野ではドイツを、上回る。

 

 

人口

 

1920年

 

1億7000万人

 

常備兵力120万

警察兵力50万

 

 

 

以下ネタバレ注意

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1920年までの世界地図

 

【挿絵表示】

 

ロシア革命後

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

欧州

 

【挿絵表示】

 

ロシア革命後

 

【挿絵表示】

 

 

東アジア

 

【挿絵表示】

 

 

中華内戦終結後

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

バルト連合王国

エストニア

ラトビア

リトアニア

の三国から構成される国家連合体。

 

ロシア革命後

エストニアを、クルーゼンシュテルン(スウェーデン系)

ラトビアを、ビロン(ドイツ系)

リトアニアを、ホーエンツォレルン(ドイツ系)

 

各貴族が代表となり纏められている。

 

人口

 

エストニア120万人

 

ラトビア 160万人

 

リトアニア140万人

 

 

常備兵力10万

 

 

 

スウェーデン=ノルウェー連合王国

 

 

1809年、スウェーデン=ノルウェー内戦後グスタフ4世がそのまま王位を保持し続けた歴史を持ち、1905年で分裂しなかった。

つまり、現実の王朝とは別。

また、デンマークを加えた三国で連合をしていたが、ナポレオン戦争でのデンマークの敗北後連合を解消する。

 

スウェーデン・ホルシュタイン=ゴットルプ王朝

 

ノルウェー・オルデンブルク朝

 

人口

 

スウェーデン588万人

 

ノルウェー 600万人

 

常備兵力20万人

 

 

 

コラ公国

 

欧州からアジアへと逃げる際、取り残された白軍が興した国。

コルチャークによる独裁的な政治であるが、英国からの援助等により国としての体裁が成り立った。

産業は漁業や、小型船等の造船業。鉱物資源等からそちら側へも力を入れることとなる。

議会制民主主義であり、立憲君主制国家。

 

人口50万

 

常備兵力5万

 

アレクサンドル・コルチャーク朝

  

 

 

ポーランド大公国

 

ポーランドの大貴族であるヒェロニム・ミコワイ・ラジヴィウ

を筆頭として建国された国。

史実ポーランド同様の国力となっているが、心の支えとなる者がいるため、団結力は史実よりも高い。

 

ヒェロニム・ミコワイ・ラジヴィウ朝

 

人口2717万

 

常備兵力40万

 

 

ウクライナ共和国

 

ウクライナの住民がロシアからの独立を目的として建国された。

軍港や造船所等を保有し、海軍力はソヴィエトよりも高いが人員不足等が懸念されている。

 

人口3223万

 

常備兵力45万

 

 

コーカサス民族連合国

 

コーカサス周辺地域の民族を纏めた国。

多民族国家であり、各民族の族長同士が話し合い一人の首長を決定して首相とする。

多民族であるので、纏まりがあまり良くないが英国の支援によりエスペラント語が浸透していくことになる。

 

人口

1100万

 

常備兵力20万

 

 

 明王国

 

1646年清明交替戦争により大幅に国土を、無くすが日本によって国を残す。

日本の皇族と王女の婚姻して出来た息子が王位を継承し、1920年代未だに存続している。

また肥沃な大地なため、比較的稲作が盛んである。

 

 

 朱 王朝

 

 

人口

 

3200万人 

 

 

常備兵力50万人

 

 

 

中華民国

 

中華内戦によって建国された。清王朝の後継国であるが。清の名残の悉くを葬り去る事により腐敗した内部を一斉粛清した。数少ない優秀な文官が、指導者層に多数存在しているため非常に優秀な国へと生まれ変わる。

 

しかし、基幹産業がこれと言って無いため外貨獲得率はお世辞にも高いとは言い難く、多種多様な人種があるためにそれが多くの問題を孕む。また、稲作を行う耕作地が少ないため専ら大麦や小麦、ライ麦等の麦を主食とする。

 

人口

 

6100万

 

常備兵力60万

 

 

 

 

 

ロマノヴァ大公国

 

ロシア革命より逃れたアナスタシア・ロマノヴァを中心に興ったロシアの正当な後継国であるが、国土は東になり名実ともにアジアの国となった。

日本経済権に組み込まれており、土地で産出する鉱物資源や優れた鋳造技術により、日本国の大切なパートナーと言う立ち位置を確立する。

 

海軍力は皆無に等しく、沿岸警備隊を組織している。

 

人口

4200万

 

常備兵力41万

 

 

 

 

 

Antikomintern Treaty Organization(防共条約機構)

加盟国

 

【挿絵表示】

 

 

 

コラ公国

 

フィンランド大公国

 

ポーランド大公国

 

バルト連合王国

 

ウクライナ共和国

 

コーカサス民族連合国

 

 

 

 

これより1990年代地図

 

 




こんな感じの世界です。
ご不明な点等ございましたら、感想等で質問受け付けます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

登場兵器類 

歩兵装備

 

日本軍一個分隊は総勢12名で計算される。

 

44式自動拳銃/Browning Type44

 

口径38

銃身長

88㎜

使用弾薬

武式9×17口径弾(380acp)

装弾数

7+1発

作動方式

シングルアクション

ティルトバレル式ショートリコイル

全長

151㎜

重量

570g

 

武郎任具 宇太郎が設計した自動拳銃。

幕府の頃からお抱えの銃・砲設計師の家柄であった彼が、作り出した最高傑作の一つ。

軍、警察問わず使用されることを前提に設計され、あらゆる局面での安定した作動を実現した一品。

量産性にも優れており、ヨーロッパ等にも広く輸出された。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

30年式歩兵銃

口径6.5mm×50

銃身長797mm

使用弾薬6.5×50SR 三十式実包

装弾数

5発

作動方式

ボルトアクション方式

全長

1,276mm

(三十年式銃剣着剣時: 1,663mm)

重量

3,630g

(三十年式銃剣着剣時: 4100g)

最大射程2000m

有効射程420m

 

情報

日露戦争時に使用されていた日本軍の主力歩兵銃。銃弾形状は円頭型である。

6.5㎜口径でありながら、7.7㎜クラスに匹敵する体内破壊力を持っている。また、弾芯に鉄を使用することにより対装甲目標に対して高い貫徹能力を有する。

ライフル自体に防砂用のダストカバーが付いておらず、満洲地方での戦闘時ライフル内に砂塵の混入によって動作不良が確認された。

 

 

38年式歩兵銃

 

口径6.5mm×50

銃身長697mm

使用弾薬6.5×50SR 三八式実包

装弾数

5発

作動方式

ボルトアクション方式

全長

1,176mm

(三十年式銃剣着剣時: 1,563mm)

重量

3,430g

(三十年式銃剣着剣時: 3,900g)

最大射程2400m

有効射程460m

 

30年式と同様に6.5㎜弾を使用し、弾芯に鉄を使用している。ダストカバーを装着したことにより砂塵や泥等からの機関部の保護を用意にした。

実包の形状は尖頭型であり、装甲目標に対してより高い貫徹能力を有する。

また、銃弾の重心を微妙にずらす事により人体に侵入した後に転倒し、体内を破壊するような動きをする。

重心をずらしたことによる軌道のズレを銃身内の旋条により克服した。

30年式から100㎜程の短縮に成功し、命中精度の低下を抑えた名作である。

 

 

 

 

八十二式狙撃銃

口径6.5mm×50

銃身長697mm

使用弾薬6.5×50SR 三八式実包

装弾数

5発

作動方式

ボルトアクション方式

全長

1,176mm

(三十年式銃剣着剣時: 1,563mm)

重量

3,430g

(三十年式銃剣着剣時: 3,900g)

最大射程2400m

有効射程460m

 

 

【挿絵表示】

 

 

38式歩兵銃の機関を換装して八十ニ式自動小銃の弾倉での装填を行うよう改造した。

2倍〜4倍迄の倍率変更可能な狙撃眼鏡を搭載するために、排莢ルートを上部ではなく右側に変更した。

 

 

 

 

八十二式自動小銃

塹壕戦の教訓から生み出された、世界初の完全自動装填連続射撃を可能とした実用的アサルトライフル。

38式実包を、使用弾薬とする事で従来の銃との弾の共用を可能とし、各国の同様の兵器よりも低反動に抑えられているが、フルサイズライフル弾を使用するため、連射時の制御はm14よりかはまし程度。南部と武郎忍具の最後の合作。

 

 

【挿絵表示】

 

 

前期型後期型比較

 

【挿絵表示】

 

 

 

口径6.5mm×50

 

装弾数20発箱型弾倉

作動方式

ロングストロークピストン・ガス圧作動方式

ティルトボルト式

全長940mm

銃身長420mm

重量4.0kg(銃剣着剣時4470g)

連続射撃毎分500発

有効射程400m

 

 

 

 

八十二式短機関銃

 

 八十二式自動小銃とのコンペティションに破れた、短機関銃。

軽量高発射速度を実現し、塹壕戦内部での戦闘を想定した短い全長の銃である。

しかし、冬季の厚手の服を貫通した後の人体へのダメージが少なかった為、主力小銃とはならなかった。主に戦車兵や要人警護等に使用される。

後期型では銃床が、プレス加工品となり更に重量が軽くなる。

 

【挿絵表示】

 

 

口径9mm×17

 

装弾数30発箱型弾倉

作動方式

シングルブローバック方式

オープンボルト

 

重量3.7kg(専用ナイフ着剣時4.0kg)

連続射撃毎分600発

有効射程190m

 

 

 

 

 

 

 

72式軽機関銃

 

 

 

口径

6.5 mm×50SR 三八式実包

銃身長

500 mm

装弾数

最大30発

作動方式

ガス圧作動方式ホッパー式弾倉

全長

1,100 mm

重量

10.3 kg

発射速度

500発/分

 

 

【挿絵表示】

 

 

日露戦争時、機関銃の有用性を改めて実感した日本軍がそれの軽量化と、小隊での使用を前提に研究し実用化したもの。

ホッパー式弾倉を使用しており、歩兵の装備している実包をそのまま使用可能とした。

しかし、銃弾が剥き出しであるゆえに泥などで汚れた場合給弾不良が起こる場合もある。(どの機構の機関銃もこれに悩まされている。箱型弾倉型以外。)

 比較的軽快な連射速度であり重機関銃等の据え置き用のものとは違い、歩兵の速度に対応する為に軽量で機関銃搭載型の73式装甲車両の装備である。

 

 

この給弾機構を基に、大型の対空機関銃が開発された。

 

(史実の11年式に該当するが、銃床形状や塗油装置が備わっていいない。また、突っ込みのような減少は構造を見直されており、発生していない。)

 

 

 

 

 

82式軽機関銃

 

 

【挿絵表示】

 

 

口径

6.5mm

銃身長

550mm

装弾数

50発

最大50×リンク接続数

作動方式

ガス圧作動方式 ロングストロークピストン オープンボルト

全長

1216mm

重量

9.28kg

発射速度

700発/分

有効射程460m

 

1922年頃から更新されていった日本軍の主力軽機関銃。72式はで問題となっていた重量配分による傾き、発射薬の不完全燃焼から来るフラッシュの問題を解決し、一度射撃に使用する弾薬の数量を解決した。

ベルト給弾方式により、継続射撃時間を延長したことにより銃身の加熱が多くなったため、より銃身交換を用意にするために冷却機構を簡略化し、冷却筒ではなくフィンとした。

 

コッキングレバーは存在せず、グリップと一体化されておりグリップを中心から射撃位置にスライドさせることにより射撃体勢となる。そのため、排莢は下部から行われ撃つたびに開く蓋がついている。

 

(機構に関してはvz59を参照されたし。)

 

 

 

 

 

 

 

 

73式重機関銃

 

 

口径

12.7 mm

銃身長

1,143 mm

 

使用弾薬12.7x99mm 73対物実包

装弾数

ベルト給弾(1帯50発連結可能)

作動方式

ショートリコイル

全長

1,645 mm

重量

38.1 kg(本体のみ)

58 kg(三脚を含む)

発射速度

485-635発/分

射程

2,000 m(有効射程)

6,770 m(最大射程)

 

 

【挿絵表示】

 

 

日露戦争の教訓から防御主体となった時、ロシア軍の分厚い冬服に小銃弾を使用する機関銃弾が効率的に殺傷し得なかった(なお重症になり体内に残る)

そのため機関銃弾の大口径化が推し進められるも、歩兵銃等と共に行動することを前提とする軽機関銃という概念を作り出すことに成功したため、より防御に主眼を置いた大口径銃弾を使用する運びとなった。

また、来たるべき対装甲車両戦闘用に徹甲弾等の研究も開始しされる。

 

開発当初、保弾板による給弾方式としていたが継戦能力に対していちいち横の者が入れる事になってしまうと、現場からの声を取り入れベルト給弾方式となった。

 

小銃開発に対して度々激突していた武郎任具 宇太郎と南部 麒次郎の二人が協力の下設計した作品。武郎任具が100発のベルトと提案したのに対して南部は50発のベルトの方が振り回しやすいと言った。

 

事実50発にする事によって使用する際の補助を低減することが出来た事から的確であった。

この後自動小銃開発で武郎任具から得た知見を元に、南部は自動小銃を開発することになる。

 

 

 

83式30粍小銃擲弾器

 

【挿絵表示】

 

使用例

 

【挿絵表示】

 

 

口径

30mm

銃身長

200mm

全長

372mm

重量

1.6kg

最大射程

200m

有効射程

100m

 

八十二式自動小銃用擲弾発射器、1型擲弾筒の重量による機動力低下に看過されて開発された。

直射を想定した設計思想により、近距離でのより有効的な火力を得るために開発される。

加害半径が減少するものの、よりピンポイントの火力投射を行うことを想定された。

後にレールシステムへ対応するタイプも製造される。

 

 

 

 

30年式曲射歩兵砲

 

ストークス式

口径 81mm

仰角 45°-75°

発射速度

毎分 6-8発

有効射程 700m

最大射程 1100m

 

日露戦争前の、対塹壕戦用に開発された。

従来のモーターと呼ばれる迫撃砲とは違い、薄い砲身に旋条の無い物である。曲射射撃による攻撃により、塹壕の上部から敵に砲弾を降らせようと考案された。

後に発展していくも、その完成度から殆どの改造なく凡そ40年の間使用され続けた。

 

 

1型擲弾筒

 

口径50mm

銃身長254mm

全長610mm

重量4.7kg

最大射程

1型72式榴弾:670m

有効射程

1型89式榴弾:120m

 

第一次世界大戦時の日本軍の主力擲弾筒。89式重擲弾筒と同様。

迫撃砲の威力を再確認した日本軍であったが、より至近での歩兵火力の増強を目的に装備された。

その威力は60㎜口径の迫撃砲並みであり、これによって日本軍からは60㎜級迫撃砲が姿を消すことになった。

 

 

 

車両

 

33年式輜重貨車

 

動力

トラクション・エンジン

 

全長6m

全幅4m

全高4m

重量9tn

25馬力

最大巡航速力20km/h

 

燃料 石炭or薪

 

連結機により、専用の荷車を牽引可能。

最大牽引重量5tn

 

 

【挿絵表示】

 

 

世界初の軍用自動貨物輜重車。従来馬引きであった輸送を、機械化することにより馬の食糧費を削減し、より不整地での高速輸送を実現した。

一線から退いてからは、主に発電機を兼任し簡易炊飯車としての側面を持った。

 

 

 

38式自動貨車

 

 

【挿絵表示】

  

 

速度性能が不満であった33式の蒸気機関をガソリンエンジンとすることにより、より高速性能を上げた。

 

 

73式装甲戦闘車

 

 

【挿絵表示】

 

 

世界初の実用的な戦車。日露戦争の塹壕での損害から編み出された物で、装甲により機関銃の無効化と機動力による騎兵の置き換えを目的として作成された。

 

 

84式軽装甲車

 

 

【挿絵表示】

 

 

快速力を基本とした機動戦術の為に開発された車両。車両の特性上装甲厚は必要最低限に留められており、至近距離からの対戦車砲の攻撃には非常に脆かった。

攻撃力として世界的な装甲車両よりも上ではあるが、多少というだけである。

 

 

87式シリーズ戦車

 

【挿絵表示】

 

84式の欠点を補うための正式採用車選定試験にかけられた3つの車両。

この中で抜け出したのは軽戦車であり、中・重戦車は重量制限という中で充分な性能を示せなかった事から不採用とされた。

しかしながら、重戦車の研究は引き継がれる。

 

95式とその試作車両

 

【挿絵表示】

 

87式軽戦車の鈍足を取り除くべく開発された試作車両と、それを基に開発された95式戦車。

95式はその優れた足で、対戦中悪路で物資輸送困難な場所での運搬や牽引、またはその護衛で活躍した。限定的であるが敵の補給路分断部隊との遭遇戦時、当時の軽戦車としては強力な主砲によって敵を返り討ちにするなどの戦果を上げている。

 

 

試作中戦車

 

【挿絵表示】

 

将来的に発生するであろう対戦車戦闘に対する研究の一環として、攻防速全てを兼ね備えた主力足り得る戦車の試作型。

鋳造による装甲はお世辞にも強固なものではなく、後の整式生産車は圧延式装甲板が用いられた。

 

 

95式装甲車両

 

【挿絵表示】

 

戦車よりも低価格でありながら、軽戦車の役割を果たすために開発された車両であるが、その速度は速いとは言えず、走行装置の未発達故にそれ程の地形追従性が得られなかった事から、95式軽戦車に

その座を取られた。

 

 

95式装甲機動車

 

【挿絵表示】

 

日本軍の偵察小隊用車両。小銃弾程度への防弾性をほこりつつ、その速力は遅くない。これ以降開発された車両はこれを視野に入れて開発された。

 

 

 

94式小型輸送車

 

【挿絵表示】

 

日本軍の小隊車両、民生品小型トラックを小改造して作られており、小規模である利点を生かし山岳地帯等で活躍した。半装軌型等も存在する。

 

 

97式中戦車

 

【挿絵表示】

 

97年採用の日本軍正式中戦車でありながら、主力戦車。開発当時これに並び立つ車両は存在せず、t34/76に対して砲貫通力で上回りそれを圧倒する。

 

 

95式半装軌兵員輸送車

 

【挿絵表示】

 

民生品トラックの改良車両、日本軍の平野部での主力輸送手段。   

 

 

95式半装軌105粍自走榴弾砲

 

【挿絵表示】

 

95式半装軌兵員輸送車に105粍榴弾砲を載せたもの。命中精度は、変わりなく機動力を補うために使用された。しかしながら、隠蔽性は減じた事により砲兵の不満材料となるため、97年以降では脱着可能であり、砲架との分離が可能となる。

 

 

97式軽装甲機動車

 

【挿絵表示】

 

95装甲機動車をより小型にしたもの。主に中隊指揮車両とされた。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

1942年には主力となっていた、日本軍の上陸用舟艇とその支援車両。

その役割は地味なことこの上ないが、現場の兵士からは正しく盾として矛として信頼された。

 

支援車両はスクリュー航行を行っており、陸上において多少の不自由があった。

 

 

 

 

97式中戦車前期後期比較

 

【挿絵表示】

 

砲塔装甲厚の向上と量産性の向上を測るため、砲塔の装甲材の見直しの結果より装甲に適した材質へと変更されるとともに、ロマノヴァの技術である鋳造に置き換えられた。

 

サスペンションの剛性なども向上しており、地形追従性は前期型よりも増している。

 

 

 

1式装甲車

 

【挿絵表示】

 

1式軽戦車との次期歩兵戦闘車輌として戦い勝利を収めた結果、軽戦車に取って代わって量産された。

 

 

 

水泡作戦:欧州名称オペレーションネットバブル

高度な情報伝達により行われた戦術、半包囲、包囲戦術。

中規模な包囲網の中に、更に細分化した包囲を形成することによって分断を可能にし早期の敵無力化を主眼においた戦い。

高度な指揮能力が必要な為に、2000年では既に過去の遺物として使用されていない。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

pz3 ドイツが欧州向け対ソ連向けに開発した第一世代主力戦車、その採用には様々な物語があるものの結局完成したのは戦後てあった。欧州外向けのタイプは基本的に欧州よりも火力が劣る75㍉砲タイプである。

 

Ohey1 トルクメニスタン陸軍省が日本帝国の73式装甲戦闘車を原型として現有可能な性能を求められて作り出したもの。完全防衛戦用の車両であり、攻勢には不向きである。

 

 

艦艇

 

薩摩型戦艦

 

 

【挿絵表示】

 

 

日本初の弩級戦艦、可能な限り無駄の無いような主砲配置を目指した結果、背負配置式の主砲配置となった。

 

 

石見型戦艦

 

 

【挿絵表示】

 

 

登場時最強と呼ばれた超弩級戦艦。その高速性能、防御能力は他の既存の戦艦を凌駕した。

また、遠距離での戦闘となった場合砲弾は、山なりとなるため水平装甲の強化を行った。

 

 

扶桑型

 

 

【挿絵表示】

 

 

石見型戦艦を基に砲塔を3連装として砲撃能力を強化したもの。

船体強度は新型の高張力鋼の採用と船体構造の最適化により、重量はそのままにより砲撃に対する強度が強化された。

 

 

 

伊勢型

 

 

【挿絵表示】

 

 

扶桑型で問題となった偵察機に対する爆風問題に対する帰結点として、砲塔の集中配置が行われた。

これにより、爆風により偵察機が吹き飛ぶことが無くなった。

また、装甲防御をより強固なものとした。

 

 

長門型

 

 

【挿絵表示】

 

世界最初の16インチ砲搭載戦艦。走攻守全てが水準以上を叩き出し、その船体形状からより衝波性の高いものとなっている。

以後条約を想定した船体はこの艦艇をモデルに、無条約型等多種多様な派生計画が出来上がる。

 

大和型

 

【挿絵表示】

 

【挿絵表示】

 

 

それは帝国海軍、最初から電子戦を意識した最初で最後の戦艦である。

それはその巨体とは裏腹に、異様に足の速い艦艇として知られ2000年代となってもなお、第一線に存在し続けた。

 

対空兵装である両用速射砲は従来の89式よりも一発の炸薬量、並びに毎分の投射量、旋回性能など全てにおいて凌駕した。

また、弾着観測用であった筈の水上機を回転翼機に換装した最初の艦艇でもある。

 

 

 

夕張型軽巡洋艦

 

 

【挿絵表示】

 

 

薩摩型戦艦の主砲配置を元に、5,500tという重量に高い攻撃能力を有する戦闘艦として仕上げた。

なお、この世界の5,500t型は基本こいつの派生型である。

 

 

古鷹型重巡洋艦

 

 

【挿絵表示】

 

   

夕張型の火力底上げの名の下に設計された。

高火力、高速性能を追求した艦艇であり後の重巡洋艦の設計の基礎とされた。

 

 

 

航空機

 

1号偵察機

 

 

【挿絵表示】

 

 

全長:8.60 m

全幅:10.90 m

全高:3.31 m

主翼面積:29.43 m2

自重:657 kg

全備重量:890 kg

空冷星型7気筒(最大160 hp) × 1

最大速度:162 km/h

巡航速度:102 km/h

実用上昇限度:4,600 m

航続距離:419 km

乗員:2名

 

日本初の軍用航空機。

欧州の機体が車両用エンジンを元に作られているのに対して、完全新規の設計のもと、回転トルクを抑えるために考案されたエンジンを搭載する。

 

偵察、爆撃等の任務に従事した他、後期量産型はプロペラ同調装置により機種に12.7㎜機銃2丁を搭載した。

 

 

 

93式艦上戦闘機

 

 

【挿絵表示】

 

 

航空母艦に搭載するために可能な限り機体を小型化するため、複葉機を諦め単葉機となった。

その完成度は意外な程に高く、引き込み脚など様々な新規技術を詰め込んだ為に、『整備士泣かせ』と呼ばれた。

 

 

 

92式艦上爆撃機

 

 

【挿絵表示】

 

 

敵艦に対する攻撃の帰結の中に急降下爆撃があるが、それを行うため強固な機体が必要となったため、不安要素の無い複葉機をとなった。

しかし、時代は単葉機へと移ろいゆく真っ只中であり出現からおよそ3年で陳腐化してしまった。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

98式陸上戦闘機

 

※正式に採用は97年。戦闘機対戦闘機を目的として作られた制空戦闘用戦闘機。

グローバルスタンダードと仇名が作られるほどの精巧さと、量産性の高さを持った機体。しかし、スタンダードであるが故に、同年代の戦闘機との差はそれほど無く、突出しているところがない。反面その汎用性は非常に高く、時には爆撃すら行えるほどであった。対爆撃機等の戦闘も行うが高高度戦闘能力はカタログ程高くはない。

 

 

97式戦術爆撃機

 

日本軍の戦術思想である歩兵等の地上軍への掩護並びに、敵塹壕の掃討を目的とされた機体。

急降下爆撃機や斜銃による対地掃射、後にガンポッド等によるガンシップの先駆けと言われた機体。

 

 

99式戦略爆撃機

 

正式採用は97式と同年代であるが、97シリーズと言われるほどこの年代に兵器が集中しているため便箋上言われていた。 

黒龍と呼ばれる仇名があった。

日本軍の戦略的な思想として、敵地工場に対する壊滅的打撃を目的とされ作られた。

 

 

98式戦略偵察機

 

【挿絵表示】

 

※正式採用は97年。日本軍の戦略的な思想として敵地の鉄道路線や補給線、並びに地形図等の作成等を目的に開発された。

内部には同調式電波発振器(TV電波発振器)が取り付けられ、リアルタイムで敵地の様子を映像として作戦司令部へと送り届けた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

1942年時の艦載機のうち半数はこれに置き換えられていた。

 

2式艦上戦闘機

対爆撃機能力の向上と高高度戦闘。自動空戦フラップによってその速度からは信じられない程の機動性を有した機体。

 

2式汎用攻撃機

攻撃機と急降下爆撃の双方の側面を持ついいとこ取りの機体。雷装は外装式、爆装は収納式であり限定的であるが高い空戦能力を発揮して恐れられた。

戦後ターボプロップエンジンに換装され15年の間運用された。

 

 

1式回転翼機

 

【挿絵表示】

 

世界初の軍用回転翼機。黎明期のものであり、そのテールローターの配置は後のシングルローター式とタンデムローター式の長所と短所を併せ持つ。

非常に中途半端な性能であり、通称セミ・タンデムローターと呼称される。

 

艦載機などのバリエーションが存在し、対潜哨戒任務に主に活躍した。

 

 

 

【挿絵表示】

 

2式戦略偵察機

世界初の実用的ターボプロップエンジンを登載した軍用機。ターボプロップエンジンの開発に時間を要し、採用から2年間試験機としての活躍が続いた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

4式戦略爆撃機

ターボプロップエンジン搭載上昇限度は9200mと言われているが、実際メーターには13000mまで刻まれており、実戦では凡そ12000mでの運用実績がある。そのため、過小表記されている資料が多い。

 

 

 

4式陸上戦闘機

 

【挿絵表示】

 

 

日本軍初の実用的ジェット戦闘機。

その機体形状と、エンジンの配置は後の世の戦闘機に多大な影響を与えるも、時代に不釣り合いなその形状から低速領域での戦闘に非常に不向きであり、後に誘導噴進弾の開発によって一応の対応を見せるも、基本的には高速度領域のプロペラ重戦闘機や高高度爆撃機、自機と同じジェットエンジン機の迎撃を主任務として20年ほど運用される。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大国として
日露戦争


傭兵を生業とする軍事国家、日本帝国。
彼の国は、広大な領土を保有する大国ロシアとの戦争を行っていた。

未だ誰も経験したことのない、途轍もない戦い。
要塞に悪戦苦闘しながらも、軍事国家の名に恥じぬ対応の素早さで適応していく。
失敗は糧となる、より強くより凄惨に如何にして敵の心を挫くかただそれだけの為に。



旅順要塞の攻略。それは近代的な要塞を相手取った、人類で初めての要塞戦。

それは手探りの戦いで、暗闇の中を電灯無しで歩き迷路を突破するようなものだろう。

日本軍は正にその様なものへと、足を踏み入れていた。

 

山の上に築かれた要塞は非常に堅牢で、ただ突撃をするだけでは崩れることを知らず。

砲兵からの支援を願うも、それだけでは瓦解せず。

塹壕を掘り、次第に近付く敵陣地、されども有効打は無くただ突撃するだけと、観戦武官等は考えた。

 

事実一度目の総攻撃の折り、日本軍は多大なる犠牲を払っていた。たった数日で5000名余りの人間が、この世を去ったのだ。正直どうかしているように思えてくる。

しかし、それでも前進出来ている事を考えれば、よくやったのだろう。

 

だが、第二次総攻撃時それに変化が現れていた。日本軍が、何やら不思議な動きを始めた。一心不乱に土を掘り溝を作っているではないか。

 

更に、砲兵火力の届かぬ所に、何故か噴き上がる噴煙は、何やら砲弾の着弾した様にも見えた。吹き飛ぶ機関銃陣地、そして肉片あれは腕であろうか?

何が起きているのか、それは前線部隊を見なければわからない。

 

そこでは何やら筒のような物が地面から生えている、よく見れば下の部分は板状になっていて、恐らくはそれが反動を地面に吸収させているのだと思われる。

要するに迫撃砲である。

 

この時代の迫撃砲は、所謂臼砲という臼のような形状をして、尚且分厚く重く近代戦には一切向いていない、と思われる代物であった。

しかし、ここに至っては既に第一次世界大戦のストークスモーターのものと合致する。

 

はて、ストークスモーターはこの時代には無いのである、では何故これがあるのか…それには一人の一兵のある言葉があった。

 

「砲兵は良いよな、敵を目の前にして殺し合わなくて済む。にも関わらず俺たちに支援砲撃する時は、あんまりにも遅い。そして、俺達がほしい場所に落としてくれない。そんなことなら、俺が花火でも持って、敵陣地を直接焼いたほうが効果的だ!」

 

そんな言葉をほざいていた。

それを一人の将校が、密かにも聞いていた。花火…彼の頭には花火の事でいっぱいになった。

そこで、彼はそれを兵器に転用できないかと、意見書を上申する。勿論、歩兵科の親分の所へ。

 

その意見は意外なことにスルスルと通って行った、そして砲兵科と真正面から激突したのである。

争点は、砲兵でも無い物が砲を扱うというところであった。

だが、その争論も次第に沈静化していく。それは余りにも当たり前過ぎた。

 

曲射しか行えず、山なりでお世辞にも命中精度が高いとは言えない。何より射程が短く、砲兵が扱うにしても余りにもお粗末なものだ。そして、野砲の配備状況もそれを後押しした。

情報による露西亜の兵器は、自らが配備する31年式野砲よりも高性能であるというものだ。

焦ったところで状況は改善しない、付け焼き刃であるが火力増強のためと、渋々了承された。

 

戦争が始まる前に使用用途の具体的なものを取りまとめ、それはドクトリンに加えられる。

さて、こいつが正式に配備される年代は明治30年。したがって名称はこうなった。30年式曲射歩兵砲

 

 

30年式曲射歩兵砲

ストークス式

口径 81mm

仰角 45°-75°

発射速度

毎分 6-8発

有効射程 700m

最大射程 1100m

 

 

 

さて、新兵器が部隊に齎されたがそこで一つ問題が発生した。弾薬を如何にして運ぶかと言うところであろう。

輜重科に任せれば良い、と言う意見が出るがそこに待ったがかけられる。そもそも駄馬が足りないのだ。

 

輜重科の労働環境は非常に過酷となる、最も重要な立ち位置でありながら、矢面に立たないというだけで酷使される。

そんな中、新しく弾薬を運べと、最早怒りは爆発寸前であった。しかし、一つ光明が差す。

 

小さな工場からこんな言葉が入った。「速度は出ませんが、牽引力はかなりあります使えないでしょうか?」と。

そして、件の商品が現れた。モクモクと煙を噴きながら進む姿は、まるで蒸気機関車。だがしかし、そこにレールは無く、代わりにあるのは巨大な後輪である。

 

こいつを持ってきた工場は、主に人力車を作っていたのだが、時代の流れから来る衰退に抗うべく、人力車にトラクションエンジンを搭載すると言うものを行った会社であった。 

だが、起死回生の作も買い手がなければ意味がない。そこでどこからか嗅ぎつけたのか、この輜重科への売り込みである。

 

この改造車、大きな後輪の接地圧を高めて前輪を取り付けたいわゆるトラクターのようなものである。

独自開発したこれをと、売り込みに来た訳だ。もっとも、得体のしれないもので、しかもそれなりに値段が貼る。

 

それでも腐っても輜重科、計算をしていくと、一頭の馬を育てるよりも一台のこれを買ったほうが総合的に安いものと気が付くと、商談を成立させる。

 

これが日本軍初となる自動貨車33年式輜重貨車の誕生である。後にこの会社はこの車両をガソリンエンジンに組み替えたものを開発し、ライン作業を定着させる。

更に馬車鉄は基本これに置き換わっていく、特に路面電車にある架空線を引けない場所ではこれにより置き換えられた。

 

33年式輜重貨車

 

動力

トラクション・エンジン

 

全長6m

全幅4m

全高4m

重量9tn

25馬力

最大巡航速力20km/h

 

燃料 石炭or薪

 

連結機により、専用の荷車を牽引可能。

最大牽引重量5tn

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

そんなもので、集積場へと運ばれていく砲弾、兵糧、防寒具。馬引きよりも遥かに早く、安定している。

無論、騎兵科からは良い顔をされなかった、その煙で馬が驚くからだ。だが、意外なほどに静かである。

 

日露戦争の様相はこれによって大夫、欧州各国の予想とは違うものになりつつある。

進撃速度は予想を上回り史実よりも奉天会戦は一月ほど早くなるのだった。

また、栄養失調等が幾分かマシになっており、ここまで史実の6割に抑えられている。

 

さて、会戦が始まって驚いたのは露西亜軍である。日本軍が余りにも早い展開を見せたのだ、これも輜重科の貨車によるところが大きい。

拝借されたそれは歩兵の足となり、最前線のすぐ近くまで兵員を運んでは下ろし、運んでは下ろす。

 

鉄道でない為、決まった場所しか行けないと言うこともない。裏方に回ったそれは物凄く効果的であった。

 

露西亜から見たら恐ろしいところである。

さっきまで目の前にいた敵が、いつの間にか倍の数に膨れ上がっていたり、砲撃密度が余りにも高く、機関銃陣地は瞬く間に破壊されていってしまう恐怖。

恐怖が蔓延した部隊は非常に脆く、特に旅順要塞を攻略した第三軍を前にした者たちは失禁したものもいたという。

 

そうしている内に勝敗は決した。

日本軍の損害は史実の7割、露西亜軍の損害は4割増しである。

露西亜軍は更に深くへと押し込まれていく。

それでも結局のところ、講和には至らず決着は海戦でなるのだ。

 

海戦模様はもはや語るまい、史実通りにバルチック艦隊は壊滅するのだ。天気の状況も兵の疲弊度も、まるで変わらず。

完封勝利、だがこの海戦により思わぬことが起こる。それは日本の造船の歴史に残るであろう出来事だ。

 

 

 

講和交渉、それも余り違いはない。あるとすれば日本の要求が前よりも強気であるところだろう。

実際、日本はまだ余力がある。全力を出しているが、それでも息切れする程ではない。

 

対してロシアは、現在革命の兆しが見え始めており戦争継続が困難な状況であった。それでも、意地と見栄で戦争の継続も辞さぬと返答する。

 

双方共に、表面上はやる気満々だ。もっとも仲介を行っていたアメリカから見れば、ロシア側が無理をしているように見える。

そこで、アメリカはロシアに進言した。

樺太を譲渡する代わりに、賠償金を払わないこと。

 

今のロシアには極東の小さな島など関係なく、国内の革命分子が余りにも厄介であるために意外にも、アメリカの提案はすんなりと通る。

 

 

結果的に見れば、ロシアと日本は判定勝ちで日本の勝利と言うところであった。

ヨーロッパ各国は7対3で、日本が負けると思っていたがその想定は違っていたのだ。

 

そして、やはり手を出すのは大変な国だということを、再認識(・・・)させられる事となった。

 

西暦1500年後半から世界の海運、そして傭兵として各国から知られていた、傭兵の国。

 

Horror mercenary (恐怖の傭兵)

 

その片鱗が垣間見えたと。

 

 

 




誤字、評価、感想等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

新型戦艦と次の兵器

傭兵の国と呼ばれたのも今は昔。

嘗ては、世界中で雇用されていた傭兵は18世紀後半頃になると、急速にそれは衰えていく。

国家と言うものが曖昧だった時代から、形がはっきりとし尚かつ安定した国軍の整備を行う者たちが増えたからだろう。

 

だがしかし、辺境のような場所ではそれらも続いていた。

19世紀には、本格的な傭兵業は立ち行かなくなるが、当時の幕府は時代に即した戦闘形態の研究のために、各地に小部隊での傭兵を組織し、それから得られたデータを元にその新しい戦術を打ち砕く方策を模索していた。

 

そして、先の日露戦争の折り帝国軍は時代というものを実感していた。特に顕著だったのは、海軍であろう。

 

 

嘗ては、世界一の海賊として知れ渡っていた幕府の水軍。規律が行き届き、小綺麗な格好をしているその姿はまるで海賊とは思えない者たちであった。

それも時代に合わせ、正式な制服を身に纏い。世界でも有数の海軍として名を連ねた。

そんな彼らも、時代を見る。己の弱さを知り尽くし、敵の急所を突くその姿は海賊と言えよう。

 

しかし、そんな組織の上層部は現在あるものに対して会議を開いていた。

新造戦艦に関する研究と言うものであった。

先の戦争時、戦艦は火力の中核を成し司令塔となり、艦隊を勝利へと導いた…のだが、ある問題が浮き彫りとなった。

 

 

第一に特殊榴弾に対して余りにも無力と言うこと。

 

第二に火力の中核である主砲の命中精度の悪さ。

 

第三に波による船速の減少

 

この3つだ。

 

一番最初に解決策を見出したのは、対榴弾であった。

敷島型を4隻保有している海軍は、その構造、戦列艦時代から続く砲列甲板の廃止案が浮上した。

 

元来砲列甲板は、艦艇の規模に対して低火力の砲弾を多数配備し、数でもってこれにあたる事を目的としていた。

しかし、時代は大口径高火力へと進み始めていたのだ。

そこへ来ての、日本海海戦である。当然ながら榴弾には船体を貫通する程の貫徹力は無い、弾殻が薄く信管調定は敏感に設定されているからだ。

 

だが、むき出しの人間や非装甲の上部砲列甲板には多大な被害を及ぼす。

 

その対策はいたって単純である。要は砲塔に収めてしまえば良いのだと、であるから

中口径連装砲を亀甲状に配置する

ものと

12糎ないし14糎クラスをケースメイト方式(船体そのものに砲塔を埋め込むような形状)配置する

ものの2つの案が出された。

 

 

 

次に解決したものは、第三であった。

敷島型等に見られる、前弩級戦艦の船首部には衝角という体当たり用のものが付いている。

正直に言ってしまえば、これが波を作り艦艇そのものに対して抵抗をもたらしている。

 

これを取っ払うだけでも1ノット程には寄与できるだろうと、素人目にもあの形状は非常に抵抗が強そうな見た目だ。実際足枷になっていたのは言うまでもない、無駄を削ぐのがベストである。

 

では船首の形状はどうするのか、答えは直ぐに出て来ました。

クリッパー・バウ。要するに大型の商船等で既に使われていた、船首構造へとそのままシフトしていきます。

これにより、無駄な力を削ぐことが可能となりました。

 

また、新戦艦には動力も新たに作らなければなりません。そこで、当時世界最先端であったイギリスのタービン機関に目を付けます。既にライセンス生産を考えていたのだから、それをそのまま戦艦に転用し、石油・石炭を利用したタービン機関で駆動する艦へと一本化され、目標を22ノットと策定しました。

 

 

 

意外にも二つ目である主砲の命中精度が長引く事になります。

もっとも、砲門を増やすという安直な答えは直ぐに出て来たのですが、問題はそこからでした。

では、どういう配置がもっとも良いのだろうか?

 

この問題が第一項と結びつき、議論を呼ぶ。

副砲案の副砲を配置するはずの場所に、主砲を置き換えようというものもあれば、それでは重量が嵩むから、前方4門後方4門を前後一つの砲塔に纏めようというもの。

背負式に2門×2を前後に置くというものも出された。

 

1つ目は砲塔が多くなりすぎると言われ、2つ目はダメージコントロール能力が低くなる、何より砲塔一つを失うと戦力が半減するのが気に食わないようだ。3つ目は砲撃時、互いに干渉し合う可能性があるとしていた。

 

まず最初に脱落したのは、亀甲状配置案であった。既にイギリスに2隻の前弩級戦艦を受注してしまったが故に予算が少ない。限られた予算の中でより効果的に、より少ない人員で動かすには余りにも主砲が多すぎるし、維持費も嵩むであろうと考えられたからだ。

 

2つ目は、4連装2砲塔案であった。一撃で、攻撃力が半減するのが、何よりも痛いところであろう、だが研究の余地ありと言うこととなった。

 

結果的に、背負式砲塔配置の艦艇となった。

そのようなものを艦政本部は結論を出し、早速設計に入ると謀らずも、サウスコロライナ級戦艦と同じような見た目の戦艦となったのだ。

 

しかしながら、対水雷対策とし14糎クラスの主砲は見送られる事になる。

駆逐艦に対しては速射性能の高い砲が優位ではないか、と言うこととなったからだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

さて、この薩摩型戦艦は欧米以外の国が初めて生産した戦艦であり、欧米以外の国が初めて作り出した弩級戦艦となった。

一番艦が就役したのは1907年である。実にドレッドノートから一年遅れである。

その間に、日露戦争時に鹵獲した艦艇は軒並み売却や、解体され資材に回された。

 

ボロボロになった船を維持する金が惜しい、何よりこれからどんどん古くなるだろうからいらなかった。

第一、こんなに多くあっても補助艦艇が少なければ、艦隊運用も難しい。柔軟な動きをするためには、それ相応の別々の動きをする艦艇が必要なのだ。

 

そういう事もあり、日本軍はかなりの数の旧式艦艇をロシアに売りつけた。

元の鞘に戻っただけかもしれない、正規の値段の半分以下良くて4割位の回収ではあるが、それでも儲けたのは言うまでもないだろう。善意では無いのだ。

 

それでも、新型戦艦を4隻建造するために売上の5割を費やした、実験艦的側面を持つ故に、多くの施設が作られた。

主砲の実験場から、新式のドック、クレーン、そして海・陸軍技術本部である。

 

戦争が終結してから、軍備を徐々に減らし兵員を帰郷させ始めていた時期で、陸軍も海軍も金が少しずつ目減りしていく事を予想し、早急に手を打った。伝統的に、2つの軍は協力体制をしいている。いついかなる時も互いを監視しあい、互いに金を出し合って同じようなものを作るときは兎に角協力し合うのだ。

 

今回は海軍が借りを作った形だが、いずれは精算されるであろうし、何よりも得の方が大きい。

そして、この研究所が最初に研究を開始するものは、航空機であった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

軌道を回せば

海軍が新型戦艦について話をしている時を同じくして、陸軍もまた新しき兵器を考えていた。

旅順要塞や、トーチカへの接近の際に塹壕を掘り進めていたのだが、やはり歩兵への直接支援火力は迫撃砲だけでは足りたものではない。

 

だが、野砲を前面に持って来ようにも榴弾砲の雨霰の中前に出れば、目立つ野砲はかえって的になり死者を増やすこと必至。

特に機関銃の最大射程と野砲の有効射程は被っているために、野砲は流れ弾でさえ被害を被るだろう。

 

そこで、移動しながら尚且装甲を保有した車両の開発が急務となった。また、迅速な展開を視野に入れていた騎兵科も、この開発に参画する事となり、機動力主体の騎兵科。攻撃防御力主体の歩兵科とで棲み分けが行われる。

更にそこに砲兵化が載っかると言う、じゃあもう全兵科で共同研究しようぜ!が始まった。

 

最初は輜重科が保有していた33年式輜重貨車を素体に、装甲を施したり砲を取り付けようとしていたのだが、巨体の割に被弾に滅法弱いと言う弱点が発覚してしまう。

砲兵は牽引車として使用したことがあるからこそ、同じようなものを欲していたが如何せん機動力が無い。

 

更に車輪が巨大であるため、少しでも何か棒のようなものが挟まれば進まなくなってしまう。

確かに輜重科には向いているが、道なき道を突き進む歩兵科や騎兵科には向かない。砲兵科には向いているかもしれないが、なお輜重科は、新式の貨車を導入した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

砲兵科もそれに右を習えで、この車両を導入する。重砲を牽引するには丁度良いと考えたのだろう、実際速度が早すぎればサスペンションの無い重砲はバラバラになってしまう。主に車軸の関係上だが。

機動力が求められる野砲は、そうも行かないようだ。

 

歩兵科と随伴出来て、野砲も牽引していけ尚且、騎兵での運用も可能な車両…そんなの無理だ。塹壕や不整地を突破出来る車両なんか、第一車輪では輜重科だとかなら良いけれど接地圧が大きすぎる。どうしても塹壕の前では泥濘んでしまう。

 

いっその事、線路でも引ければ別なのに。そんな一言を言うと、誰かが言った

『どこかで無限軌道とかってありませんでしたか?』

誰が言ったかわからぬその言葉、一同は無限軌道?と言う具合だったが、やって見る価値はありますぜ!

 

といった具合に、開発を始めた。何よりまずは無限軌道からだったと、1から始める道は困難を極めた。

まず、どういうものなのかといったところだ、実はこの国に無限軌道は入ってきていなかった。

 

現実問題、そもそも無限軌道を使う場面に一度たりとも遭遇するような事もなかったのだ、仕方ないと言えば仕方ないが誰か考えつかなかったのだろうか?

海外から写真を取り寄せて、見よう見真似で作っていくが、最初のうちは上手くことが進まない。

 

ある時誰かが鎧兜を見てひらめいた、穴を開けて格子状にすれば強度が上がるのではないか?と。

早速やって見れば、なる程砂地や泥にも容易に食い込み尚且、太めの格子は車重を支えるのに十二分に機能している。

 

やったやったと手を上げて喜ぶも、速度が出ないし曲がるのも一苦労。

だったらと、片側だけしか動かないようにしようと試行錯誤を行い、試験に次ぐ試験。

 

いつの間にかエンジンも変わり果て、最初の設計からは思いつかない程に洗練されていく。

ただ、そこで思わぬものにぶち当たった。

現在の車体では野砲を搭載したとき、どうも容積が足りないのだ。

 

じゃあどうするかと、だったら新しい小型の砲を作るしかない、どうせ塹壕やトーチカを破壊するのだから、75ミリも大きさはいらない37ミリあれば良い。

そこで、低反動の小さな砲が作られた。

42式37ミリ戦車砲である。

 

最終試験は多くの観衆が見守る中行われた。

小さくもそれなりの火力を持った小型の砲を携えて、無限軌道を備えたそれは起伏が多い大地を駆け回る。

その姿は、まるで庭で駆け回る犬のごとし威圧感はあまり無いが、鉄の塊が走ってくれば基本は人は逃げようとするだろう。

 

それが、停車してトーチカの眼の前で砲を撃てば見事に貫通するではないか。

拍手喝采、更にその車両は野砲を牽引して前へと進み相応の運搬能力を見せつけた。

因みに元号が変わったその年にお披露目となった、また兵器類はこの年から皇暦で表記される事となった。

73式装甲戦闘車

 

 

【挿絵表示】

 

 

さて、この車両の武装は取り外し可能なものだ。万が一故障した場合を想定している、要するに機械的な信頼性が良くわかっていなかった。なにせ世界で初めての戦車なのだから。

しかもまだまだ生産ラインが整っていない、良くて月産8両程度であろう、主に金の問題で。

 

数が20両ほどまでなったとき、これらを使用した新たな戦術の研究がスタートした。

騎兵科はこれの機関銃タイプを配備したが、結局歩兵科との連携をせねばならず次第に歩兵科と騎兵科の枠が曖昧になっていく。

 

もうそれならばと、騎兵科は廃止となり変りに機械科と言うものが産まれる。

騎兵科の財政をそのままに、更に歩兵科の取り分と砲兵科の野砲部隊との連携を主眼に置いた混成部隊。

より効果的に、より安く済むようにするにはそれしか方法がなかった。

 

更に言えば、機密保持の観点からこの車両は海外に輸出されることはなく、紛争地帯への小規模な傭兵の派遣には、装甲車両としては対外的に存在していないようになっている。

その代わりと言っては何であるが、対戦車砲を歩兵火器に組み込み、歩兵自体の火力を底上げした。

 

機関銃をも配備され、もはやただの傭兵ではない。更に言えば、ここまで言ったら設備費用もばかにならない、従って傭兵と言っても使い潰せない。雇い主は殆どいないであろう。

 

因みに機関銃は当時採用していたオチキス式のものを独自に発展改良されたものである。いわゆる44年式機関銃作動機構はホッパー給弾である。

 

 

さて、無限軌道軌道の研究がかなり進んでいく中で、これを民間に転用出来るのでは?と考えつくものだろう、実際これらのアイデアを元に企業し、日本のモータリゼーションを加速させていった奴等がいた。

 

最初に参入したのは、あの陸軍初の自動貨車を納入した会社であった。

道路に土砂を入れる際、それまで人の手を使って土を薄く伸ばしていたものを、排土板を取り付けた車両によって作業する。

というものを取り入れさせた。

 

この会社は後にこういったインフラ整備用の車両で、大々的に発展していく。機械式ショベルが、この会社の代名詞とでも言えるであろう。

33式で発展した牽引用の巻取り機が強く発展に寄与した形だ。

(この時代にユンボだとか油圧式ショベルカーは存在しない。初期型が出来るのは1914年頃で、実用に耐えうるものでは戦後1940年代まで待たねばならない。)

 

ワイヤーを使用する車両型のクレーンもこの頃独自に開発し、土木建築の世界はこれによりある程度余裕と、より大きな建築物の建築が行われていく。

 

戦後の国内整備計画に基づき、幹線道路の確順が求められている。特に内陸部との連絡道路の整備は急務であるから、これらの機械は大いに役立つであろう。

 

それに触発された者たちもいる、国内の輸送を行っている鉄道各社だ。

国の後押しで行われているそれを見て、危機感を覚えていたのだ。このままでは、我々は取り残されるのではないか?と。

 

実際その可能性が高いのだから、焦りもわかる。特に鉄道省、その隷下の国営企業たる東海道幹線や東北道幹線等は、競争する気である。地方に分配された力を結集し、車両開発を加速させ、より安全で早く到着するためにはどうすれば良いか、考え始める。

 

それを横で見ていた船舶事業もまた、同じように焦りだす。

 

日本国内は内需で成り立つ、傭兵の国は傭兵で金を稼がない。

だが、それも数年間の話で直ぐに戦争が始まった。それも、それまで誰も体験した事のないほど、大規模なものが。

 

欧州大戦の幕開けである。




世界地図を検討中、この世界の日本の勢力図を載せてあります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蚊帳の外?いいえ当事者である。

欧州大戦が始まる前、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が暗殺された。これが直接的要因であるが、本来欧州の対立構造は既に一触即発状態であった為、なにか口実を欲していただけだと思われる。

 

さて、この自体を引き起こした要因である皇太子の暗殺は誰が行っただろうか?

無論、サラエボの民族運動家達が行ったことである。

だが、彼等を支援しこの行動に移させたのは日本帝国であった。

 

一見無意味なこれは、実際には欧州を混乱に陥れることにより、アジア地域での力が弱まる空きを突いて、アジア地域への浸透をより深くする事が目的であった。

だが、それだけではない恐らくは最大の要因であるのは間違いない事が、暗殺前にあった。

 

それは、第一次バルカン戦争でのある出来事が発端であった。

 

1912年に争われたこの戦いに、日本軍から抽出された一部部隊が傭兵としてオスマン帝国軍に参加した。敵はバルカン半島の主要な国家の連合軍。80万対30万の戦いである。

この戦争蓋を開けてみればわかるとおり、オスマン帝国は大敗を喫する。勝てる戦いではないのだ。

 

さて、そんな戦争に雇われた形であるが参加した日本軍凡そ5万、オスマン帝国は雇った者たちに飯を食わせ弾薬を融通する。

日本とは1732年頃の初契約時からの仲で、国家間どうしも非常に良好な関係を築いていた。

 

日本の他にオーストリア・ハンガリー帝国が、オスマン帝国を支援していたのだがあからさまにオスマンの領土が目当てである。

オスマン帝国弱体化を図るために、表面上はわざと支援し戦争の開戦を辞めるよう言っていたのだが目論見通りに争われた。

 

日本軍は、機関銃陣地と砲兵の連携による防御主体の戦闘に留めるべきと、オスマンに提案し了承されたが、当時のオスマン軍にその防御に必要な機関銃も、砲も足りるものではなかった。

マケドニア戦線に配備された彼等を待ち受けていたのは、手痛い敗北。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

ほぼ全戦力をマケドニア一つに絞ったギリシャ軍に、オスマン軍は敗北を重ねる。

唯一善戦したのが、日本軍の籠もる陣地。

敗走する姿を尻目に、彼等の殿として戦った姿は世界に知らしめられた。精強な兵として、良い宣伝ではあるがこんな戦争にあって宣伝されても前線は地獄であろう。

サロニカは失われ多くの武器弾薬は失われはしたものの、日本軍の為にオスマン軍の主力の凡そ8割は撤退に成功する。

日本軍は損害少なく、逃走を確認するや撤退を決行し周囲を地雷原にして去っていく。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

オーストリアはそれを端から見ていた、そして勝利したバルカン連合の連携を破壊して内輪もめをさせる。

第二次バルカン戦争

もはやオーストリアの掌の上、バルカン諸国は疲弊しオスマンは弱体化し、ロシアは日本との戦争による疲弊から立ち直っておらずオーストリアの一人勝ち。

 

日本はそれを良しとしなかった。

それの報復こそが皇太子の暗殺である。日本軍は名誉を傷つけられた、日本国も傷つけられた。金は貰えど、傷つけられた汚名を拭うには再び戦争を起こすしか無い。

 

きっと大規模な戦争へと発展することだろう、実に愉快で破滅的だ。我々とオスマン帝国の受けた屈辱を存分に思い知るが良い、と彼等は一応の善意を持って行った。 

 

 

日本帝国が裏で事を運んでいた事を知っている国は、一国だけいた。それもやはりと言うべきか、流石というべきか英国である。

日本帝国と英国、この2つの国は暗黙の了解の元に世界の裏で手を取り合っている。

 

清国の内部の破壊を日本帝国が手助けし、英国がフランスを内部分裂させてインドシナ半島での力を削ぎ、清への干渉を不可能とさせたのはまだ新しい出来事である。

 

東西の蛮族は手を取り合うこと100年もの間、互いの領域へは不干渉を貫き通し互いの利益を享受する。

時には欺瞞の為に、争う姿が見受けられるも全てはウソである。

 

今回の皇太子の暗殺も当初はここまで大規模な催しの中で行う予定では無かった。毒殺がもっともスマートなやり口であった。だが、英国は囁いたもっと派手な方法があるぞと。

 

英国にとっても、最近のオーストリアの言動は目に余るしフランスも抑え込みたかったから実に好都合。英国は悪い笑みを浮かべ、日本は怒りを持った顔で事にあたる。

 

当事者たる2国は暗殺後の世界を眺めた。

 

オーストリアはセルビア政府に抗議し、今回の出来事を徹底的に調査せよと強く意見したが

「この問題はセルビア政府とは無関係であり、これまでの所いかなる措置も実施されていない」

と、否定した。(暗殺者は死んでいるし、命令したわけでもないし陳謝した。それ以上出来る事はないし何より、どこを探っても暗殺者達のアジトまでしか到達出来なかった。)

 

オーストリア政府は1911年7月セルビアに対して宣戦を布告。

後に欧州大戦、ひいては第一次世界大戦と呼ばれる戦争の幕開けである。

 

一方の日本帝国本土では、英国より技術交換という名目でライオン級巡洋戦艦の設計図が提供された。

それを元に装甲及び砲塔を35.6糎砲に換装した石見型戦艦が設計される。石見、伊賀、能登、安房(性能は金剛型に準拠、水平装甲厚のみ強化) の4隻だ。そして、欧州大戦の開戦前には全艦就役し、戦力化された。

 

石見型戦艦

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

石見型を元に武装強化案が出されるも主砲口径の大型化は見送られた。変りに35.6糎砲の3連装型も試作されるも、扶桑型まで持ち越しとなる。

 

また、兼ねて寄り設計をしていた古鷹型重巡洋艦の就役も重なり

日本軍の戦力はより各順していく。

前級である、5,500t級巡洋艦である夕張型から主砲口径が20糎となり、防御能力も上がった。

 

夕張型軽巡洋艦

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

古鷹型重巡洋艦

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

戦争に向けて着々と準備を進めていく。

 

 

 

民間の方ではセミ・ディーゼルエンジンが流行っていた。通称焼玉エンジンと言われるこれは、小型船舶で流行し日本国内での軽油の需要が高まると同時に、より大出力の本格的ディーゼルエンジンの開発が始まった。負けじとガソリンエンジンの開発を行う企業が現れる。

 

ディーゼルエンジンvsガソリンエンジンの開発競争の幕開けである。より、効率良くより小型高出力を目指す。互いに切磋琢磨していく姿は実に美しい。

 

それを蒸気機関は傍から眺めていたが、蒸気機関の企業は電力の方へとシフトしていくこととなる。

 

この頃都市部で路面電車、郊外で路線バスが走り始める。また、駅の近郊に割高ではあるが、タクシー会社が設立され始める。

 

1912年自動車の保有率は人口に対して3%を突破、生活の中にバスが浸透し利用者は人口の3割程に登る。

農業用トラクターが使用され大規模農地での収穫が開始される。

道路交通法発布され、初の自動車事故が発生し法廷が開かれる。

北樺太調査隊が油田を発見、採掘を開始する。

 

北海道に北畑航空設立、軍以外の初の航空会社でありエンジン、機体、パイロットの養成を開始、渋沢栄一が資金提供。

一年以内に航空機を本格的に飛ばせるように、開発に着手する。

 

 

1913年全国的に公害が問題となり始める、企業や研究者達は知恵を絞り始める。

山梨県河川流域への立ち入り禁止令が発布される、日本住血吸虫症撲滅運動本格化する。田園から果樹園へと転換し始める。

 

工業生産額が、イギリスと肩を並べる。

GDPが世界3位になる。1位イギリス2位アメリカ

 

アジア主義という思想が広がりを見せ始める。

最後の将軍徳川慶喜死去、国葬が行われる。

 

 

海・陸軍技術本部と北畑航空会社の航空機戦争が始まる。

軍で初めて導入されたのは北畑航空会社の複葉機、この時世界で初めて本格的な星型エンジンが使用され、馬力、回転速度、航続距離いずれも世界水準を超える機体が完成する。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

全長:8.60 m

全幅:10.90 m

全高:3.31 m

主翼面積:29.43 m2

自重:657 kg

全備重量:890 kg

空冷星型7気筒(最大160 hp) × 1

最大速度:162 km/h

巡航速度:102 km/h

実用上昇限度:4,600 m

航続距離:419 km

乗員:2名

 

 

軍部は潔く負けを認めるも、より航空機とエンジンの開発に力を注ぐ。

財閥各社が参入、航空機戦国時代へと突入する。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。

地図を出したほうがよろしいでしょうか?
cadでやっているので少し時間がかかります。数日待って頂きたいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東部戦線集結

第一次世界大戦序盤ドイツはシュリーフェン・プランのもとベルギーへ侵攻を開始、計画通りに事が進むと思われた。

しかし、ベルギー軍の思わぬ抵抗の為に初手から計画は躓いた。結局2個軍団を反抗勢力に向けなければならず、ドイツ軍右翼は疲弊した姿でフランス国境線へと現れた。

 

イギリスはその間にベルギーの中立を保護するためロンドン条約に従って行動を開始、ドイツ宰相は紙切れ一枚と嘲笑するも、イギリスはドイツに対して宣戦を布告、日本に対しても参戦を求めるも『まずは近場から、絶対にトルコとの戦端は開かないこと、』を条件にトルコ以外のドイツ並びに同盟国に対して宣戦を布告。

 

同日日本軍は、直ぐ様青島へ軍を派遣。海軍は小型艦艇のみとなったドイツ海軍を撃破後、陸軍の揚陸を支援しつつ海上からの砲撃を実行する。陸軍は日露戦争での損害を考慮に念には念を入れる周到な火力を揃え、航空機による偵察や敵機への対空戦闘を行う。

 

練りに練った対要塞戦用の戦術である浸透戦術を実行に移す。これにより、短期に損害を少なく効率的に敵を屠り、一月の内に青島は陥落した。

この戦闘には73式装甲戦闘車が、投入され歩兵への直接的火力支援、高機動による包囲前線の急激な縮小にドイツ軍は対応すら満足に行かず降伏した。1914年10月31日〜11月2日という短期間での攻略である。

 

 

黒色の部分がドイツ領域

 

【挿絵表示】

 

 

 

青島攻略後、日本帝国は満洲鉄道を利用してロシアに対して支援を、開始する。極東方面からロシアに送られるものは主に食べ物であったが、ロシアにとってはこの上ないものとなる。

冬場に移行しようとしている中、食料の備蓄が少ないものとなっていた為か、この時点でロシアは備蓄を決めた。

 

日本軍は、食料を満載させた車両が発信後12月16日満洲からモスクワまで列車での旅となる。

日本帝国が用立てた車両はE形51の蒸気機関車、当時最も馬力があり、その巡航速度は80km/hに達していた。

それを2両編成で連結しおおよそ10万の兵力を輸送した、数日に渡る車両での移動は非常に退屈であった。

また、寝台の台数が足りず椅子等に雑魚寝するものもいたという。この事から戦後弾丸列車構想が現れる。

将棋などのボードゲームを簡単に遊べるよう、折り畳みの盤等に

この頃良く売れることとなる。

 

到着した後に、日本軍はまず仮設住宅の建設を始めた。

モンゴル民族のゲルを参考に造られた簡易住宅は、その見た目からは想像を超えるほどに保温性の高いものである。

簡易住居とは思えないほど充実しているそれは、前線から大凡200kmほど離れた所へと建設された。

 

200km等あっという間に過ぎる距離であるが、そこは輜重科の役割である補給と同じように、戦線の流動化に伴い迅速に移動するようになる。

未だに使用されている蒸気式の33式輜重貨車は、うまい飯や発電等に役立っている。

 

こいつはどこで破棄されても良いように、最前線にまで駆り出され、ロシア軍にまでその料理は振る舞われた。温かい食べ物はそれだけで士気を高める。

そしてそのまま新年を迎えると、日本料理である餅が振る舞われた。甘い蜂蜜を練り込み、固まらなくなった温かい餅は評判なものであった。

 

ドイツ軍とロシア・日本連合軍の睨み合いは続くが、1月31日連合軍の拠点の一つのボリムフ近郊にて、モクモクと煙のようなものがドイツ陣地から連合陣地へと風に吹かれて立ち込めてくる。

この時日本軍は戦慄した、あれは化学兵器の類に違いないと。

 

学のないロシア軍と違い日本軍の殆どの人間には、最低でも中等教育が施され、化学等を習う。

その中で、戦争で最も扱ってはならないものに、土地を汚す化学兵器があった。

 

そんなものを使ってくるのだ、やばいと思った日本軍は直ぐ様塹壕の後方へと退避する。

ロシア軍の連中も連れての退避だ、相応に時間がかかるが全滅するよりは良い。

 

ふと風の向きが変わる、煙はドイツ軍陣地の中へと戻っていく、それを見るや直ぐ様反転し所定の位置に戻ると、混乱するドイツ軍の塹壕線の兵器の配置を、確認する。

機関銃手も慌てて飛び出しているのを見るに、かなりの量が見て取れた。

 

既に一月同じ飯を食うも、学がない者たちに戦い方を教えるのは骨が折れたという。誰しもが教員になれないのと同じように、教えることは教えるプロが必要であるのだ。

毒ガスがどれ程危険なものか、改めてロシア軍の二等兵までも教える羽目になる。

ああやって逃げるのだと、教えるも次は無い可能性もある。

 

そして、その数日後の1915年2月7日ドイツ軍が、日露軍の守る陣地に向けて攻勢を、開始した。

 

日本軍が到着してから、塹壕の構築速度は凡そ2倍となり、守りは非常に頑強であった。

悪天候の中突撃するドイツ軍を、指定された防衛線に到達した瞬間から猛烈な砲撃が始まる。

 

距離に応じて様々な銃砲弾が次々と降り注ぐ中、一人また一人と倒れ伏し遂には動くものもいなくなる。

哀れなるは、その死体は埋葬されずに放置されるであろう事だ。日本軍は、化学兵器を使用した瞬間から親の仇を見るようにドイツ軍を蔑視した。

 

それでも尚、諦めの悪い事に今度は包囲を企図したのだろう、マズーリ湖北部からぐるりと回るようにロシア軍の薄い部分を攻撃していき、あわやと言うところで日本軍がその側面を突いた。

突然の側方からの攻撃に半包囲状態となったドイツ軍を、砲弾が向かい入れる。

 

いや、砲弾ではない。周囲に砲兵は皆無だ。ではどこからか?歩兵が何やら筒のような物を持って、射撃しているではないか。それは擲弾筒、60ミリ口径の迫撃砲並みの威力がありながら、その実態は歩兵でも扱える支援用火力。

 

それがドイツを襲う。攻勢が一転、追い込まれるドイツ軍、これはいかんと退却を開始する。

窮地にたっていたロシア軍だったが、今こそ逆襲の時と息巻いたが日本軍の将に落ち着けと諭される。

「悪戯に兵を消耗するは、悪将のする事。ここは少し落ち着かれよ、さもなくばその方は悪将とその名を刻まれよう。」

頭に来る言い方だろうが、それを理解したのか逆襲は中止された。

 

あの蒸気車両が今度もまた役に立ったのだ、車両が牽引する無限軌道型の貨車。それに人が乗って移動する。走るよりも速く。

日本軍が良く使ったこの戦い方は、後に機動防御と呼ばれるようになる決戦を避ける(・・・・・・)戦い方である。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

日本軍は本来であるならば早期に決着を付けたい、だが今回に限ってはそれが不可能である。

多くの原因は補給線だ、シベリア鉄道その輸送量はお世辞にも多いとは言えない。

 

未だに虚弱なこの路線の強化を推し進めるに、ロシアの財政は潤ってはいなかった。だいたいの原因が日本にあるのだから仕方のないことだと、日本自体も割り切っていたが、それでも戦車を運ぶには時間が掛かるものだ。

 

ガソリンに関して言えばロシアからの提供があったにせよ、37㎜砲弾は日本の独自規格故に輸送に頼り切るしかない。

そういった事が積み重なったことで、日本軍の機動戦術の根幹をなす部分が未だに無かったのが大きい。

もっとも防御のみに徹すれば、前述のドイツとの戦闘のように切り抜けられるのだ。

 

この戦闘の結果、ドイツ軍は一個軍団を消費した。数的にロシアに劣るドイツにとって、この戦闘での敗北は非常に痛手である。

もっとも、不幸中の幸いである事にロシア軍に反撃するほどの組織力がなかったところであろうか?

日本軍が消耗に消極的であったところであろうか?

 

それでもドイツ軍が苦しいことに変わりはなく、西部戦線ですら膠着状態であるにも関わらず、こちら側東部戦線ですら前に出ることは愚か押し込められている状況を打開することすら出来なかった。

 

兵の士気は未だに高いままであるが、このまま行けばジリ貧であることに変わりはない。

もしも、ここに日本軍がいなければ、巧みな防御戦術を行う者たちがいなければと司令官は苦虫を噛み潰したような顔であったであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。
後程アンケートを取ります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

パナマを越えて

日本陸軍がちょうどロシアと共にドイツ軍の侵攻を押し留めていた頃、海軍は太平洋を横断して東回りでイギリスを目指していた。だが、どんなに頑張っても艦船の航続距離には限界が存在しているし、北回りで行こうとすれば真冬の北部太平洋を進むことになる。

正直言って無謀だ、少なくとも艦船に傷が付く可能性がある。

 

そこで、大規模な港湾施設を保有した丁度いい距離の島が太平洋に存在する。

ハワイ諸島だ。

 

ハワイは正式名称ハワイ王国。日英両国に独立を承認されている数少ない国の一つである。(実体経済は日英に依存させられており、人口の凡そ2割が移民。)

その港湾は日英両国の為に整備されたと言っても過言ではない、大規模な燃料貯蔵施設があり、給油や給炭に持ってこいの地理である。

そこで半舷休息を取り、しばし息をつく。

次に向かうは、北部アメリカ大陸西海岸の大型港湾施設。

於呂(おろ)県(カリフォルニア州)の嘴湾(サンフランシスコ、タコの嘴に測量後似ていたので)にあるそれはその艦隊を迎い入れ、更に補給を行う。

 

そこから目指すのはパナマ運河である。

パナマは、日英の共同開発を行った地域であり、その利益の凡そ1割を両国で順当に分け合っている。

アメリカ合衆国政府も話に口を出したことがあるが、強引にアメリカの利益率を訴えてきた為に両国から締め出しを食らった。

 

何より日本も英国も、この国にはあまりいい思い出が無いのだ。それはアメリカ独立戦争まで遡る、と言っても1915年からせいぜい100、4・50年くらいしか経っていないが、当時日本と英国は敵であった。

 

片や植民地アメリカに対する懲罰のために、片や雇い主アメリカに協力するために。互いに激突し、多くの負傷者を出した。

英国は米国の独立を認めざるを得なくなるが、その時日本という国を改めて知った。日本はと言えば、米国は後払い料金を踏み倒した癖にありがとうの言葉も無い。

正直このとき日本は激怒した。どうやって滅ぼそうかと考える程に、騙されたと。

 

そんな時にかつて敵であったものがいるではないか、英国が日本を見、日本は英国を見る。そこで互いに、言った。『そうだ、経済封鎖しよう』と。

そんなこともあり、米国の経済力はそれ程高くなく、パナマに出資するというのは《寄生したい、あわよくば乗っ取りたい》と言う言葉の現れだろう。(ただし米墨戦争でメキシコ北部を獲得している。)

 

 

そんな歴史もあるパナマを通る艦隊の全貌はこうだ。

 

薩摩型戦艦4

夕張型巡洋艦4

古鷹型巡洋艦2

 

である。

 

規模は非常にコンパクトであるが、致し方ないものだ。石見型は完熟訓練が済んでおらず、扶桑型はまだ建造中大戦中に就役するが戦力化には半年は掛かる。

駆逐艦は航続力に難ありな為に致し方ないことである。

(もっとも後に夏期に北太平洋航路でイギリスに駆逐艦隊が向かう事になるが、それはまた別の話。)

 

それでも、弩級戦艦戦艦が送られてくる事を知った英国は喜んだ。装填速度は多少速くなり、35.6糎を一発撃つ間に30.5糎を2発撃てるという評判を聞いていた為であろう。

速度も23ktとそれなりであったところも、喜んだところだ。

 

さて、パナマ近郊の港で給油した後に一気にカナダのハリファックス港まで進む。途中米国の巡洋艦が警戒しに来るも、何事もなく到着する。長距離の航海のためここで約4日間の休息となる。

船員は各々観光などで心の疲れを癒やし、余裕を持って英国本土へと向かう。

 

ハリファックスから船団が出港する日と被るため、護衛を兼ねた船出となる。

これが日本海軍のこの戦争での最初の任務である。

この年の2月上旬にドイツは商船に対するUボート作戦を開始していただけに、商船団は心底安心していた。

 

航路

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

そして英国のポーツマスに到着したのは1915年4月15日.2月20日頃に日本を出港したので余裕を持った航海であった。

船団護衛も暫くして、着任の挨拶をするとまず最初に来たのは記者クラブによるインタビューである。

東の果てより援軍が来たことに皆興味津々であろう事が伺える。

 

特に黒人やインド人等の所属する記者クラブは、同じ有色人種でありながらここまで大々的に歓迎されている姿を見て感嘆している。

勿論彼等にも特別に質問時間が割り当てられ、『あなた方のように、我々はなれるでしょうか?』と聞いたが、一介の艦長に言えることは限られている為はぐらかす意味合いも込めて言った。

『それはあなた方自身が一番良くわかっている筈だ。』と。

 

 

さて、ここまで長い旅をした海軍であるが彼等の目的はこれで9割方達成したと言っても過言ではない。

何を言いたいかと言えば、これは大規模な宣伝工作の一種だと考えてほしい。

 

英国側は『我々には地球の裏側からこのような援軍をしてくれる同胞がいる。我々の側に立てば勝てるぞ!』と言うような具合だ。もっとも、大半の国は日本の事を金を払うと現れるヤベー奴くらいに思っている。(例:歴史的に殺した貴族の首をとって、雇い主にそれを見せびらかして報酬を恐喝する等。)

 

少なくとも、戦力としては連合はこれでドイツよりも強いであろう事が周辺地域が感じ取った。これにより日和見主義の国々は少しずつ連合側へと靡いてくる事だろう。

 

彼等の次の任務は進行中のガリポリ攻略で失われた3隻の戦艦のイギリス海峡での補填の役割を果たす事だ。

要するにロイヤルネイビーの手となり足となり戦って欲しい、というところであろう。

 

更に日本軍は、英国にあるものを持ち出した。それを見たとき英国は、頭に?マークが出た事間違いないだろう。

農業用トラクターに見えたが、車体は完全に鉄板で覆われているのだから、戦闘車両であることはわかった。

 

これを持ってきて何をする気であろうか?と。だが、一部の革新的な奴等変わり者たちはそれが何の用途で使われるのか、推測を立て質問を投げかけた。

『貴方方の騎兵は、今やこれが主流なのか?』と、答えはYESただそれだけである。

それを聞いた瞬間から英国は、これの解析を始めフランス内部の諜報員からフランスが開発中のある車両に目を付け、直ぐに量産を開始する。そして、ドイツ軍は悪夢を見るだろう。

 

約束を守り戦力も送り尚且このようなものを、無償でくれる。英国は唯一の心から信頼を寄せられる国と、日本の事を考えているのかもしれない。

契約を遵守する国は他にない、皆嘘ばかりつくから英国は巧みに捌くしかなかったのだから。

 

 

 

遣欧派遣艦隊がそんな事をしている時、外交官達は米国と交渉を開始していた。

独立戦争依頼、金を払えと言い続けて早140年。今は国家としてまともな姿をした物となっているが、利子が利子を呼び国家予算の凡そ4倍ほどにまで膨らんでいるぞと、彼等に通告するために。

 

米国は、英国と日本に挟まれ正直言って肩身の狭い思いをしている。それもこれも、先祖が金を払わなかったが故の出来事であるが、自尊心が強い彼等は国民にその事を教えるわけにはいかないから、対面上は互角のように見せている。

日露戦争の仲介役を買って出たのも、借金の返済額が少しでも減るかもしれないという希望的観測の元行われたものだった。

 

そんな時に転機が訪れた、日本国が世界大戦に参加しないか?と、まるでパーティーに誘うかのように言ってきたのだ、勿論アメリカ大陸の他の国々と同様首を突っ込みたくはない。が、日本には余りにも弱みを握られすぎている。

何より借金の凡そ半額を帳消しにしてくれると言うのだから、乗らないわけにはいかない。

 

そしてこれにより、米国は連合国として参戦を行う事を決意する。ドイツ等の同盟国に対して宣戦布告したのは1916年1月の事であった。

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大規模包囲

冬季攻勢が不可能となった同盟軍であったが、5月初旬マズーリ湖にあるロシア軍に対し3度目の攻勢を行った。後に言う第三次マズーリ湖攻勢である。しかし、今回もまた日本軍の巧みな機動戦術によって、攻勢点を挫かれ大損害を被る。

 

その失態から立ち直るのは意外にも早くに訪れた。6月中旬東部戦線に対する全面攻勢に同盟軍は出たのだ。数に勝る日露連合であるが、日本軍の数は全体的に見れば1割に満たない。

それを逆手に取り、ロシア軍が抱えている正面を挫き日露連合を包囲しようというものだ。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

始めのうちは全正面、特にロシア軍の多い中央部においてジリジリとロシア軍を押し進めていた。

だが、いくら押してもドンドンと後ろに後退していくロシア軍に、一部司令官は何かを感じたが冬季攻勢からの敗戦によって、一部勝利に酔っていたのだろう前進を更に進めていく。

たった10日の内に100kmもの距離を制覇していった。

 

だが、吉報はそこまでであった。

 

携帯出来る無線の無い時代、背負うことすら出来ぬほど巨大なそれを動かすには発電機が必要となった。

恐らくはそれが最大の原因であろう、余りにも速き前進は無線から来たる情報を意図的で無いにしろ無視させる原因となった。

 

突如、ロシア軍は後退を辞め途轍もなく巨大な塹壕陣地で、同盟軍を押し留めた。

悲劇はそこから始まった。落ち着いて無線から入ってくる情報を精査していくにつれ、前線司令部は顔を青くしていく。

中央のみ突出し、両翼は寧ろ押されている。両翼は良くもわからない者が兵たちを蹂躙し、散り散りになって敗走したという。

 

結果的に見てみれば、同盟軍は見事なまでに罠に陥ったと言えよう。焦らせれやっと報いたと思えば、敵の術中の中にいたと言う。

哀れなのは兵たちだろう、運が良ければ捕虜になるが悪ければ餓死、あるいは代謝の低下による凍死だろう。

 

周囲の押された同盟軍は、本土の予備兵力を投入してなんとか立て直し戦線を安定化させた。

 

塹壕もないのに何処からか機関銃の音が響く。それによって、前に進むことが出来ない。

命中した者たちの銃創は、小さく死にはしないが後方へと送られるのは当たり前であろう。つまり6.5ミリ弾による裂傷であった。

 

この戦闘において、ドイツ軍8万、オーストリア軍43万、ルーマニア軍3万の犠牲に対し、日本軍1万、ロシア軍14万と言う圧倒的な戦闘となった。

 

この戦闘は後にВосход солнца(日の出)と呼ばれる大包囲殲滅戦である。

この戦闘に用いられた兵器は後に、世界的に標準装備されるであろうものが多数配備された。  

 

 

 

 

日本軍はこの戦闘に入るまでに、多くの準備をしていた。まずは数ヶ月の間に、戦力の増強を図りその総兵力は20万に達していた。更には、本土から73式装甲戦闘車を600両持って来ることに成功していた。

これに付随して、牽引車はその数倍にも登りロシアでも量産された。

 

それと同時に新型機関銃、または軽機関銃と言うものを配備し、一個小隊に対して軽機関銃分隊を一個、擲弾筒分隊を一個と言う編成となった。これによって、より分隊としての攻撃能力は向上した。現地で編成されたものだが、リコンビネイション・システムと言う、日本軍独自の編成の組み換え法則により対応した。

 

 

72式軽機関銃

 

 

【挿絵表示】

 

 

口径

6.5 mm×50SR 三八式実包

銃身長

500 mm

装弾数

最大30発

作動方式

ガス圧作動方式ホッパー式弾倉

全長

1,100 mm

重量

10.3 kg

発射速度

500発/分

 

 

攻撃力の上がった部隊は、防御戦闘のみならず攻勢の準備を進めた。ロシア軍との協議した結果、中央部に弱兵を置き付かず離れずの距離を撤退させ続け、狩りを行うように人の本能に働きかける。あと少し、もう少しと考えていくうちにドンドンと内部へ侵入していく、と言う他力を使ったものである。

 

通常であればそんな事起こり得る筈もない、まともな神経でどう考えても罠であることは明らかだ。

まともであれば、である。彼らは勝利を渇望した、幾度も戦闘を行うも全て弾き返され、鬱憤が溜まっていく。それを巧く利用する、言うのは簡単だが行うのはどれ程難しいことか。

 

突出した部隊のすぐ後ろを、縄で袋を閉じるが如く縫い固めるには、騎兵では硬さが足りない。

そこで日本軍は73式を投入したのだ、小銃弾程度では貫通することが出来ず、最低でも野砲クラスが必要だが機動力が有るがゆえに、狙撃するのは非常に困難である。

狙っているうちに、軽機関銃によって蜂の巣にされるものも。

 

そこへ車両の後から牽引車に載った歩兵が掃討戦を開始し、同盟軍は包囲をさせるがままに後退を余儀なくされる。

更に、電波妨害を開始し同盟軍は周囲100kmに辺り無線の使用不可能となった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

そして大包囲は完成し、同盟軍は多大な損害を被る。

綿密な計画と、ロシア軍との協力により得られた勝利である。

その日、ロシア軍では酒盛りが行われる程に活気あふれていた。

たった10日の出来事が、更に同盟軍を苦しめるも、日露連合に積極的な前進の動きが見られず、戦線は再び膠着状態となる。

 

日本軍としては積極的攻勢により、先手先手を取りたいところであるが、ロシア軍の進軍速度が遅くそれどころではなかった。

 

 

 

 

一方西部戦線は、5月上旬にフランス軍がアルトワを奪還すべく軍を動かした。第二次アルトワ会戦と言われる。この戦いは猛烈な損害を出しつつも、フランス軍は5kmを走破した。だが、ドイツ軍の猛烈な砲撃により戦線は再び膠着状態となる。

 

膠着状態を打破すべくシャンパーニュ攻勢が行われようとしていたが、遣欧艦隊に同乗していた日本の陸軍将校の会議参入により、攻勢の無期限延期を余儀なくされる。

これには多くの反対意見が出たが、たった一言でその意見を封殺した。曰く『バカの考えた作戦で、化石のようなものだ。』

と言ったとか、言わなかったとか。

 

そんな事により、無駄な戦力の消耗を抑えるとともに全く別の作戦を行うこととなる。

もっとも、やり方を少し変えるだけでより効果的となると、回答した。数日間における準備砲撃を辞めさせ、突撃直前に砲を猛射させることにより敵の情報を錯綜させる。という代物である。

 

また、砲撃の最中に敵の重要区画に対して最接近し、敵の防御の隙を縫うように前進していき、耳と口を奪うことにより後方から戦線に大穴を開けるものである。

 

言うなれば浸透戦術とでも言うべき代物だろうか?

 

だが、入念な訓練もされていない部隊にそれは出来ないことを知っていた為、突撃直前の砲撃までしか守られることはなかった為、戦力の低下は防げるものの前進はそれ程距離を稼ぐことができずに

1915年9月上旬シャンパーニュに対して攻勢を、決行。見事奪還に成功する。西部戦線始まって以来の少ない犠牲の元にそれを成し遂げた。

 

シャンパーニュ攻勢

 

 

【挿絵表示】

 

 

攻勢後

 

 

【挿絵表示】

 

 

連合軍の戦術が少しずつ変わり始めた。

 

 

 

ドイツ軍から見ればいきなり目の前の土が噴火したと思ったら、あれよあれよという内に前線司令部が瓦解して、知らぬ間に内部から戦線が崩壊していく恐怖。絶対に味わいたくない。

 

 

日本軍が来てから連合側に活気が戻りつつあり、正直言って日本が戦争を楽しんでいるように見える者たちがいるのも事実だろう。だが、彼等は楽しんでいるように見えて、内心はもっと簡単に出来ないだろうか?とか、消耗が多すぎるだとか考えている。

 

そんな彼等に記者がインタビューすれば

「そんなことよりも、もっと上手い飯が食いたいな」と、返すに違いない。欧州の料理は余り美味しくないのだ、だからこそ一刻も早く終わらせなければならない、と冗談交じりに言うだろう。

 

 

1915年10月、ブルガリアは同盟側として連合国に対して宣戦を布告した。

これにより、バルカン半島での戦闘は同盟側有利に進展していく事となる、しかしブルガリアは直ぐ様ドイツ、オーストリアからの援軍要請を受け東部戦線へ戦力を抽出する事になる。

 

また、同月日本国は英国情報局から『オスマン帝国が虐殺行為を行った。』との情報を受け、事実確認を行うためオスマン帝国大使を通して確認しようとするも、どうやら伝わっていない様子。

 

日本国として、度々注意と勧告を行ってきただけに今回の虐殺は見過ごせないものとなる。

1916年1月20日、日本国はオスマン帝国に対して虐殺の査察を入れるよう要求するも、戦時中である事から受け入れられず。

日本国は、オスマン帝国に対して宣戦を布告した。

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。

後々武器、兵器のページで説明を追加していきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四面楚歌

スウェーデン=ノルウェー連合王国、それは本来であればそれぞれに1905年独立していたはずの存在だった。

しかし、それは日本という欧州外部からの力によって書き換えられた。

 

1809年3月、スウェーデンでは軍事クーデターが起こされ、対ナポレオンの急先鋒であった国王グスタフ4世アドルフが廃位されようとしていた。

北欧の力は既に地に落ち、バイキングの名も今は遠い昔となっていた当時、もはやナポレオンに敵対するには力が少なすぎると、軍は考えていたのだろう。

 

その時、国王派に雇われていた日本国の傭兵団の隊長浅井 鎮西将 高智(あざい ちんぜいのしょう たかあきら)を中心とする部隊は倍とも言われる軍を相手に、職業軍人という強みを生かした柔軟な戦術により、戦列歩兵というもの粉砕した。

 

機動力が勝る方が勝つと言うものを決定付けた。

これにより、廃位を免れたグスタフ4世アドルフはより一層ナポレオンに対抗すべく国を纏めた。

なお、これは日本が表で動き英国が裏で動いた最初の事象である。

 

それが、この世界でのスウェーデン=ノルウェー(以後、瑞・諾と呼称)である。

 

 

さて、時は流れドイツ帝国はこの国に対して中立でいて欲しいと、外交上の儀礼の基通達した。

ナポレオン戦争の時の一応の同盟?国のようだったから、まあその言葉に乗ってやっても良いかと考えていた矢先、1916年2月中旬事件が起きた。瑞・諾の所有する船舶を誤ってUボートが撃沈したのだ、ドイツに激震走る。

 

なぜこのような事が起きたのか、それはその船舶が英国行であったが故にである。

未だ無限潜水艦作戦が開始されていないにもかかわらず、この時の潜水艦U-87は何を血迷ったのか確認もせずに瑞・諾国旗を掲げたこの船舶を撃沈した。

 

潜水艦内部で何があったのか、それはわからないが船員の内数名に重傷者が出ていた事からヒューマンエラーが起きたのは確実である。

 

なお、攻撃を受けた船舶は英国経由スペイン行であった事から、スペイン政府の逆鱗にも触れる事となる。

 

瑞・諾政府はこの事件に対してドイツに抗議文を提出すると共に、今後如何なる軍事行動も北海・バルト海を通してのものの一切を禁止するよう求めた。これは、事実上の最後通牒である。

何故ならばドイツ海軍の存在するのは北海・バルト海である。

 

これを制限されると言うことはドイツ海軍の機能停止を意味するとこで、到底受け入れられるものではない。

事、ここに至りドイツは1916年5月下旬、瑞・諾に対して宣戦を布告。これにより同盟軍は全方面に対して戦線を抱える事となり、同盟国による勝利は絶望的なものとなる。

 

さて、間に挟まれたデンマークはたまったものではない、いつ自分がベルギーのように侵攻されるかわかったものではない。

そんな時英国が囁いた、海峡を通してくれれば我々連合を守ろう。(何をとは言ってない。)

デンマークは板挟みの中決意した、連合軍に無害通行を許可することを。

 

 

1916年6月上旬、日本軍東部戦線方面軍は部隊を、伴って一路瑞・諾へと向かっていた。

ある程度氷も溶け、ラトビアのリガから出港し、瑞のストックホルムに到着するとそこから南下する事に…

 

東部戦線は塹壕線の構築が完了し、いつでも攻勢を開始できるようブルシーロフが着任した。

日本軍が抜けた穴を、彼は巧く補填出来るかは神のみぞ知るものだろうが、あそこから押されるようではいずれ国として崩壊するのは、明らかだ。

 

日本軍はそれに任せ、デンマークへと上陸する。始め彼等からは奇異の目で見られる。

なんせ英国が来るとずっと思っていたところに東洋人が現れたのだから、期待はずれか?と

 

大規模な軍団の移動のようだから一見すればドイツに気取られる筈だった、だがイギリスはやってくれた。

ドイツ軍に侵攻を誘発させた、既に戦線の後退が見られたドイツ軍は勝利を欲し、ヴェルダンへと戦力を集中させた。

 

その間、ドイツ諜報部隊は西部戦線へと目線を逸らされ日本軍の監視が空いたのだ。

冬と春の間のバルト海を抜けるのはそれは容易な事ではなく、普通であれば通らない。

そこを強行することで、ドイツは気付かぬまま遂にデンマークとドイツの国境線に日本軍は到達する。少ない防衛戦力、塹壕すらないそこは柔らかい腹部だ。

 

そこで日本軍は全周波数に向け“タマネギ”と信号を打った。

6月下旬、その大攻勢は始まる。作戦名は『皮を剥く』である。

 

攻勢前

 

【挿絵表示】

 

 

 

ヴェルダンで戦闘を行っていたドイツ軍にある一報が届いた。イギリス軍がベルギー・ヘントに於いて攻勢を、開始したと言う情報だ。まさかの2正面戦闘にドイツ軍はしてやられたと、現在ベルギー方面は手薄となっている、そこを突かれれば戦線は一気に崩壊する危険があるのだと。

 

ヴェルダンでの攻勢はそこで止まり、急ぎヘントへと一部部隊を、向かわせる。 

そこでドイツ本国へとまた一報だ、東部戦線に置いてルーマニアが宣戦を布告同時攻撃によってブルガリアがギリシャからの背後を突かれた形で危機に瀕していると、またロシア軍が一大攻勢を仕掛けてきた。

 

後方の予備兵力を使いなんとか抑えようと試みるも、更にイタリア方面からの突き上げが始まり、そして中立国であるデンマーク国境から日本軍が姿を表したと。

絶望的であろうなんと5正面での防衛戦だ、もう兵力が足りない。

 

唯一の救いはこの時の日本軍はデンマーク国境線から30km地点で止まり防衛線を構築しつつオランダを目指した事だろう、救いであるかはわからないが、それでも西海岸に出られるのは不味い事は確かだ。そんな中、オランダで親ドイツ派によるクーデターが起き、分割された。

海岸線を砲撃する艦艇はみなドック入りしている為に、まともに止めるすべはない。

 

 

一体何があったか、ユトランド沖海戦である。

 

これは史実より少し早い5月20日〜21日に掛けて行われた。経過は史実通りであったが、途中日本軍欧州派遣艦隊がドイツ艦隊を、挟み込むように現れた。

30.5cm砲で強力な防御を破ることは難しいものの、ドイツ艦隊の悉くが艦上構造物がグチャグチャとなる。だが沈む事はなかった、貫徹力が足りなかった為であろう。ただ一隻ケーニヒ級ケーニヒが、日本軍からの過激な砲火を浴び爆沈する。

 

結局反航戦であったが故に、そのまま双方離脱したもののこの戦いでドイツ艦艇は皆ドック入りし、その後の戦闘で姿を表すことはない。海上封鎖された海軍は、要塞化された海峡を突破出来なかったからだ。

 

その結果西部戦線のドイツ軍の後方に突如として出現した日本軍は、後方からドイツ軍を脅かす。

直接的な戦闘を行わずとも西部戦線を締め上げるには十分すぎる。尚かつ、ベルギーやオランダ内部の反独組織の抵抗が表面化すると、ベルギー方面の補給が途切れる。

西部戦線は混迷の中、連合有利へと傾く。

 

そして1916年、10月攻勢は終了し戦線は再び膠着するものの、同盟軍は虚を突かれた形で、戦力の凡そ10%を損失する。 

更に戦闘機による優位もこの時には既になく、連合もプロペラ同調装置付きの機体でドイツ機を落としている。

それでも戦いを辞めないのは異常なものだが、時代を考えると当然なのかもしれない。オスマン帝国は遂に孤立し、戦線が崩壊し始める。

 

攻勢後

 

【挿絵表示】

 

 

1916年11月欧州でそんな事をしている時、日本海軍の第二次欧州派遣艦隊が米国から兵員を満載した輸送艦と共に、英国へと到達する。今まで戦線に立っていなかったと言う事から、オランダ方面に配備される彼らを待っていたのは、夢のような英雄譚ではなく、機関銃陣地に突っ込んでくる白人を機関銃で薙ぎ払う、東洋人による殺戮現場である。

 

中には発狂するものもいたが、そういう奴は問答無用に足の指を骨を折られる(比喩に非ず)

発狂したものは屍よりも面倒であるから、不名誉除隊にするのが望ましい。首を刈られなかっただけ温情であろう(未だに残っている文化。)

後にこの事から再び日米関係は冷え込む事となる。

 

 

第二次欧州派遣艦隊陣容

 

石見型4隻

 

夕張型6隻

 

峰風型15隻

 

もはや艦隊戦が起こることは無いかもしれないが、それでもこの艦隊の到着は同盟軍にさらなる不利をもたらす。

しかし、最後の艦隊戦と呼ばれることとなるボーンホルム島沖海戦で、第一次、第二次派遣艦隊は活躍することとなる。

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悪足搔き

序盤に登場人物が出ますが、主人公ではありません。


机を挟むように四人の男が対面している。方や髷を結い腰には由緒正しい脇差しを指した男が、鋭い眼光を机の上にある地図に向けている。

方や四角い顔をした如何にも軍人然とした髭を鼻下に蓄えて、眉間に皺を寄せながらも、深く考えている。

長い間沈黙していたが、その長い沈黙を破ったのは髷の男であった。

 

『パーシング殿、貴君の武勇聞き及んでおりまする。無法者を率いながらも敵を討ち取る、その何たる豪胆さか実に見事。

しかして、この地にその武勇は果たして役に立つものか、わかりませぬ。それをお覚悟でここに?』

 

「お褒めいたただき光栄です。確かに我々の部隊はお世辞にも実戦経験があるとは言い難い。それどころか、我々はこの戦争でのより良い戦い方すら解らぬのです。我々はいったい何をすれば良いのか、厚かましいようですがそれをご教授願いたい。」

 

顎に手を当て暫く考える素振りを見せ、地図の一点を指を指す。

 

『ちょうど良かった。我々は、急がねばならぬからな。ベルギーに一刻も早く到達し、宣戦を一繋として独国墺国を孤立させねばならない。

貴君等には、我々が構築した防衛線を瑞・諾国軍と共に死守してもらいたいのだ。

何、指標はある。我々が既に構築した射撃線よりも内側に敵が入ったならば、直ぐ様嵐の如く銃火を浴びせるべし。

さすれば敵も打ち砕けよう。』

 

「それだけ…ですか。本当に?」

 

困惑した顔に思わず侍は眉を潜める。

 

『いかに良き武器を持たせようとも素人が玄人に勝てる通りなし。ならば、素人は素人なりの戦の仕方があるだろう?私はそなたを嫌いではない。米国は嫌いであるが、そなたは信頼がおけると感じる。』

 

「素人…ですか。そうですね、では差し詰め我々は学生で貴方方は教師と言ったところですか。

わかりました、死守して見せましょう徳川殿。」

 

 

 

 

 

1916年12月中旬攻勢も一段落し陣地構築によって一先ずの休息をとっている連合軍であったが、独墺国内に潜入している英国諜報員から『独墺国が反抗作戦の準備に入った事を確認した』との情報が司令部に入ると、反抗地点の割り出しに走り出す。

 

そんな中に、日英は仏にある作戦を提示する。攻勢に対して、武器が持ちこたえる間にベルギー〜オランダ間のドイツ陣地の攻略である。

いち早く情報を共有していた彼等は、2国で仏の説得に当たったのだ。

 

戦場を俄にであるが押し始めている為に、仏の将軍たちは少し嬉しそうな反面このままずるずると長引かせる訳にはいかんと、そう考え始めている。何より、戦後どの国が覇権を握るかこの戦争で最も得をする奴に決まっている。

ならばここで、エラン・ヴィタールを見せることにより発言権を強め、より懐深い事を見せねばなるまい。そして、決まった。

 

『ライン川攻防戦』それは、陽動。主攻勢はブリュッセル・アムステルダム大包囲となる。

その日の為に英国は本国から、日本の戦車を解析・改良し量産した物を投入する。以降この戦車は世界の標準的な存在となるだろう。

 

 

Tank mk1

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

こいつを持って、日本が騎兵戦術を発展させた、所謂電撃戦をこの戦闘で開始する。

回転砲塔による優位は、日本戦車よりも遥かに優れた結果を生み出す事となった。

 

そして、1917年1月中旬。同盟軍による最後の攻勢『ライン川攻防戦』が始まった。

初動猛烈な準備砲撃が始まる中、フランス軍は塹壕に身を隠しまだかまだかドイツ軍が進み出ることを待ち構える。

 

ドイツ軍の動きは、まるで日本軍にやられた事をやり返すかのようなそんな動きであるが、作った連中がそれに対する方法を考えていないはずが無い。

 

ある地点にまで到達した途端に、猛烈な砲撃が彼らを襲う。最終防御射撃、または突撃破砕射撃と呼ばれるそれは、ドイツ軍に嵐のように鉛玉が降り注ぎ、バタバタと倒れていく。

だが、彼等は勝利を信じて止まないのだろうか?

屍を越えて進む様は、さながらアンデッドであろうか?

 

狂気に呑まれたそれを他所に、フランス軍は次の塹壕へといち早く撤退し、最低限の損害でそれをクッションのように柔らかく受け止めていく。

そして、戦線が膠着した時英国は動き出した。

 

その動きに迷いはなく、一挙に前進を開始する。砲弾の備蓄のない同盟軍にそれを止めるすべはなく、やすやすと戦線に穴を開けていく。

 

更に逆側にいる日本軍は、防御を米、瑞・諾国軍に任せ前進を開始し歩兵は英国と合流すると戦車隊は更に同盟軍を包囲すべく機動を開始する。

長い長い戦線を同盟軍が押し続けることは到底不可能で、一点に絞られた逆襲に呑み込まれていく。

 

 

場所は変わり東部戦線、ここでは更におぞましく戦力の少ないであろうルーマニア方面を、オーストリアが攻撃し前進しようとしたところロシア軍がその空きを付き、オーストリア軍の戦線に穴が一時的に開いてしまった。そこにロシア軍が雪崩込み、戦線は完全に崩壊、後方まで一気に進んだところで既のところでドイツ軍に押し止められる。

 

それでももはやオーストリア軍は死に体である事に変わりない、内臓を食い荒らす寄生虫ように次々と雪崩込む姿は、お世辞に言って気持ちの良いものではない。

それでも、彼らの一撃は講話への確かなる一撃となる。

1917年3月26日、同盟軍は窮地に陥る。

 

同盟軍最終攻勢後

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

そこで、ある事が起こった。同盟軍に協力してたポーランド系住民で構成された部隊が、反乱を起こしたのだ。これはいったいどうした事だろうか?

彼等は属国としてドイツ領ポーランドでの独立を約束されていたはずである。

 

だが、今ドイツ勢力下にポーランドは存在せず、連合軍による統治下にある。そこで、東より東洋人の使者が来た。

『もしも、一定の戦果を上げれば我々はドイツ側のポーランド領の解放の準備がある。』と、それを聞いた彼等は色めき立った。

そして、秘密裏にこの時を待ったのだ。

 

『今こそ、天が我らに与えたもうた好気なり!』という言葉が合図となり、オーストリアの後方から襲いかかる彼らの姿に、ロシア軍は戸惑うも攻撃を続けた。

 

 

ポーランド軍の反乱

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

陸上でそんな事をしている時、海上でも同じように戦が起きていた。恐らくはこの戦争で最後の艦隊戦である。

 

 

ボーンホルム島沖海戦

 

 

【挿絵表示】

1

 

 

 

【挿絵表示】

2

 

 

 

【挿絵表示】

3 

 

陣容

 

ドイツ海軍

 

戦艦6隻 内 巡洋戦艦2隻 弩級戦艦4隻

 

巡洋艦8隻

 

駆逐艦14席

 

 

日本海軍

 

戦艦8隻 内 超弩級戦艦4隻 弩級戦艦4隻

 

重巡洋艦4隻 

 

軽巡洋艦10隻 

 

駆逐艦15隻

 

 

バルチック艦隊

 

戦艦4隻 内 前弩級戦艦2隻 弩級戦艦2隻

 

装甲巡洋艦4隻 

 

駆逐艦6隻

 

 

 

この戦いではスウェーデンを攻撃しようとしたドイツ海軍に対して、海上封鎖の形で待ち構えていた日本海軍が出撃し、沿岸砲と挟むようにドイツ海軍を追い込むも、速力に任せ離脱しようとする。

 

同航戦となりながら離脱を謀るドイツ海軍を、海上で待ち構えていたロシア海軍が頭を抑えるように前へ出たため、慌ててターンしたドイツ海軍。作戦通りに進路を変えた日本軍は、完全にドイツ海軍を捉えた。

 

ここからは完全に一方的なものとなった。

先頭艦が被弾し速力を落としたドイツ海軍は、足先乱れ艦同士が衝突をしながらも逃走を謀ろうとするも、もはや戦闘続行不可能となった艦隊に勝ち目はなく各個撃破される。

 

ここにドイツ海軍は、事実上駆動する艦隊が存在せず陸上から一方的な上陸が可能となった。

そして、この一撃の後の陸軍の大敗北により 

 

1917年4月1日、ドイツ国内にて革命が始まり、政府首班達に対する弾劾と、ヴィルヘルム2世の廃位が決定付けられると、臨時政府が樹立する。

 

翌日オーストリアは、降伏勧告を受諾。

 

1917年4月12日、共和制ドイツは連合国に対して白紙講話を行った。もはや国内は立ち行かず、餓死するものもいたという。

 

一番長く戦っていたのはオスマン帝国であった、5月3日まで粘るも、軍の反乱により降伏を受諾。ムスタファ・ケマル・アタテュルクを中心とする共和制トルコが樹立する。

 

1917年オスマン帝国の降伏により、およそ3年間に渡る戦争は幕をおろす。




誤字、感想、評価、等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

敗れた者は棒で叩け

欧州では没落した国を死体蹴りするのが、文化的なことである。際限無く賠償を払わせ、その国の内部がズタズタであろうとも何の感情も無く、ただただ自らの欲望のためだけに全てを喰らう姿は、聖書の神のように自分勝手だ。

 

自ら血を流したものは別に良い、何より他の国を助けた国ほど選り好みをしても良い筈…なのだが、どうやら会議が紛糾しているようだ。原因を作り出しているのは、東の大国ロシアである。

 

ロシアは、ポーランドのドイツ側領地の帰属問題を持ち出してきたのだ。

要するに自分達が占領したのだから、そこを自分達に渡せと言うことだろ。それに、念願の不凍港をバルト海に持つことが出来る事から、躍起になるだろう。

 

それに対して真っ向から反対したのは、日本帝国だ。今回の戦争、ポーランドは陰ながら連合の勝利に起因していた。

ドイツ国内に潜り込んでいるスパイにはポーランド出身のものも多く、日英はそれ等と協力し内部から同盟軍を崩壊に導いていた。

 

流石の英国も欧州の国々との約束事はある程度護らねば、次は我が身の可能性すらあるのだから、ロシアに反対を表明する。

それに、日英にとってロシアは仮想敵国であり一時だけの協力など、最早この時に必要ではないのだ。

 

だが、ロシアの後ろにはフランスが存在しこのままでは第二ラウンドを始めるのでは?と周囲がピリピリと警戒している。

日英としては、それでも構わない。やるなら徹底的に、ロシア内部で革命を起こす事など容易い。

その時は、未だに力が残っているオスマン帝国を引っ張り出して、挽回の機会を与えてしまえば良い。

 

そうやって、日英が考えている事を知ってか知らずかルーマニアが話を始める。 

オーストリアの突出し、国土に食い込んでいる部分の割譲を、要求するようだ。それくらいなら別にどうでも良い、喜んで切り取りしてもらおう。

 

各国もさながらパイの取り合いのように、切り取りを行うかと思うだろうが、同じ欧州。民族的な対立を嫌という程知っている。故に、それぞれ自分たちの民族が住む場所を切り取った。 

 

日英に旨み無し、対立構造など殆どの民族とは無い(直接的な関わりが薄い)故に技術や特許等をとってしまうか、と考える。

二国ともどちらかと言えば、技術者等の間接的国益となるものが、欲しかったりするわけだ。

 

さて、それぞれが欲望を満たした後次に賠償請求と言う事となる。

早速フランスが法外な額を提示すると、我先にと賠償金を積んでいく。

あれよあれよという内に、国家財政の数百倍という財政破綻待った無しと言う状態になっていく。

しかも、何の役にも立たなかったどころか、戦争にすら参加していないスペインがちゃっかりと混ざっているではないか。他には清やポルトガルまで。

 

流石に日英はふざけるなと、何もしていない連中はここから出ていけと言い放つ。血を一滴たりとも流していない奴らに、そんな資格は1厘も無いのだ。特に清、何の関係もないのにこんなところに来るとは、一体誰が招待したのか?フランスだ。

 

ドイツをそれ程憎んでいるのか?完全に立ち行かなくさせる腹積もりであろう。

だが却下である、どうせ清からも色々な方向から毟り取るための準備であろうが、あそこには絶対に進出させない。

結局、スペイン等の非戦闘国は辞退した。

 

結果としてドイツは2270億マルクの賠償金を、オーストリアは国家の解体、オスマン帝国は領土の縮小を余儀なくされる。

特にドイツの賠償額は払いきれるものではないため、無期限にする事を日本が提案しそれを議決する。

 

 

1919年8月・後にヴェルサイユ条約と呼ばれるこれは、次の戦争の引き金になるが、それは当時の人々には解らない。

 

 

ヴェルサイユ条約発行後

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

さて、世界に次の難題が降りかかろうとしている。

それは、オランダに駐留していた米軍の一兵卒がとあるバーによった時の事だ。

友人と共にそこに入った彼等は、カード等の賭博をやりつつ酒を煽っていたのだ。その時、彼は倒れた。駆けつける友人、彼は途轍もない高熱に侵され数日後命を落とす。

歴史の深いその土地の名をとって〘ホールン風邪〙と呼ばれるこれは、世界に広まった。後のA型インフルエンザである。

 

勿論日本帝国軍の者も感染し、発症する前に帰国の途に就いている。シベリア鉄道経由で帰還途中、車内で倒れ意識不明となるも回復する。

同じ部屋を割り当てられた者達は一週間の内に発症するが、皆対処療法にてなんとか持ち直す。体力に余裕があるからこそ成し遂げられた。

 

更に季節が味方をする。彼らが帰国の途に就いたのは、4月である。季節として、次第に暖かく湿度の高くなる時。従ってインフルエンザウイルスは、そこで押し止められる。

勿論数名に感染者が出るものの、本国に到着したらすぐに化学兵器研究所によって、研究のサンプルが採られる。そう、古くからの防疫拠点であった四方の出島で。

 

では、日本国以外の国はどうだったのだろうか?

それはそれは猛威を振るった。発祥地である米国では、短期間の内に数百万の感染者が出ていたという。もっとも、風邪との見分けはあまりつかないため治るものもいれば、そのまま絶命するものもいる。終息するまでに200万人が命を落とした。

 

英国では島国であったが故に、隔離という方法をとって感染を最小限に留める。

それだけではなく、ワクチンの開発を進めていた。

 

フランスやドイツ等の大陸国では酷い有様だ、人の口に戸は建てられない。比較的乾燥している地域に、クシャミや咳等で感染は容易に拡がる。

医療崩壊が起きていたドイツ国内は地獄のようなもので、道端に死体が置いてあるのが常態化した。人口の1割が死亡したと言われている。

 

当時まだヴェルサイユ条約の製作中であり、そんな議論の中に起きた出来事だった。無垢の民が病死していく姿に、征服者としての日本は酷く心を痛め(少ない人の心)、統治するのならば妥協せねばならぬなと、ヴェルサイユ条約の内に、日本から同情の意を込めた賠償金の無期限というものができたのだろう。

 

地獄のようなドイツから更に東に向かうと、半分ほど復活したポーランド。そこもまた、同じく地獄である。だが、彼等にとっての天国がこの後に始まる。

 

ロシアで大量の死者が確認された。

そこまでは良い、それからが問題であった。

最初は小さな集会があった、そこから集会は徐々に人が増えていき、そして一隻の戦艦が反乱を起こした。そこから反乱は軒並み拡がっていき、1920年3月には内戦が始まった。

 

自然に始まった内戦はロシア各地に拡がり、多くは皇帝派と共産派に別れ互いに血を流した。

だが、そんな血が流れても地獄のような風邪は留まるところを知らない。

 

ロシアがそんな中、ポーランドはこれぞ天命かと地獄の中に活路を見出した。

ポーランド国内には、意外にも優秀な医者などがいたのだろう、インフルエンザの影響はロシアほど受けていなかった。

 

ロシア領内のかつてポーランドであった場所を一挙に占領していく。他の国々、特にルーマニアは好気と捉え、ポーランドを支援する代わりに、共に領地を広げた。

多くの雑多な勢力が乱立する中、皇帝ニコライ二世とその家族はソヴィエト社会党に捕まり、数日後射殺されるも一人だけ姿を発見されなかった。一人、アナスタシア王女だけがいない。

 

それもそのはずその時、アナスタシア王女はウラジオストクにいた、もっと言えば船の上。日本への訪問へ行く途中にこの革命が起きたがために、彼らの思惑は惜しくも中途半端なまま進む事となる。

 

 

1920年11月革命時勢力

 

 

【挿絵表示】

 

 

日英は、これを好気と捉えた。どちらに味方するか、得体の知れないソヴィエトか?はたまた傀儡にしやすい王女か?

それとも両方に付いて、内乱を長引かせて少しずつ搾取するか?

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


次回長門型戦艦(長門型とは言ってない)出します


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

首を晒せ

この世界ではエスペラント語が忘れ去られずに使われています。


『力をお借り出来ないでしょうか』

 

首相官邸の貴賓室に若い女性の声が、木霊した。一般的な人が聞けば何を言っているのか、まったく理解の仕様が無いだろうが首相位になれば、エスペラント語など覚えているだろう。

 

「我々に、白軍側に付けと?そういう事で宜しいのですね?

ですが、事は単純な事ではないのですよ。

一国の皇女様ならご存知であろうと思いますが、世界は今どちらに付くか迷っています。我々も例外なくね、果たして我々を引き込む、何か重要な事は無いのですか?」

 

『それは…ですが、貴方方にとってもあの共産主義者達のような主義は、君主制をとっている貴方方にも害悪になる筈です。』

 

男は少し顎を触りながら言い放った。

 

「必ずしもそうではない、我々の国は奴らの掲げる社会主義的な国に、限りなく近い制度をしている。

連中がそれに気が付くかどうかはわからないが、この国をもっとよく見た方が良いと思うが?

まあ、何にせよ国家として協力するにはそれ相応の理由が必要です。」

 

 

『……』

 

「無駄な時間でしたな、どうかお帰りを。」

 

ソファに座る彼女は、手を握りしめ今にも血が出そうだ。

 

『臆病者。貴方方は臆病者です!』

 

彼女はそう言い放ち貴賓室から姿を消した。

後日、シベリア方面へ10万の軍の派遣が決定したと聞いたとき、彼女は面食らっていたという。

 

 

 

 

1920年7月、ロシア・ノヴォシビルスク〜クラスノヤルスク間のシベリア鉄道が爆破された。徹底的に破壊されたそれは、最早使わないと言う意思表示であろうか?

その爆破は白軍が仕掛けたもので、これで東側に行く全ての住民と白軍全軍がウラジオストクへ向けゆっくりと進むことができる。

 

追手となる赤軍は、未だ欧州方面の内外全ての敵を排除し続けている。その空きを突いての、大脱出である。

その中にはユダヤ商人や、伝統的なロシア貴族。ロシア正教の聖職者まで様々な者達が極東へと逃げ延びた。

それ等は今は亡き皇帝に忠誠を誓っていた者たちで、たとえ何があろうとも皇帝に付き従うだろう。

 

それとは逆向きに向かう集団がある、日本軍北部方面軍の侵攻部隊だ。行き帰りが楽になるように、いずれ幹線をもう一つ通さなくてはと鉄道省の者達も引き連れて、周辺の調査も兼ねた出兵。

 

兵士達の目には鬼が宿っている。皇女にコケにされたと思った首相から、激励の言葉を携った彼等はきっと赤軍に、人間の通りから外れた素晴らしい行動を取るであろう事は、考えるに難しくない。舐められたらお終いだ、一番簡単な事は見せしめを見せること也。

 

シベリア鉄道でクラスノヤルスクまで進出した彼等は、周辺の地図を開いて都市を中心として防衛線の構築を始めた。

もっとも、ソヴィエトにこんなところまで軍を派遣する力は今は無い、周辺の街や村を皇女派にするのが最大の目的であろう。

 

だが、こんなにも広大な範囲を、たかだか10万の人間がいたところで守りきれるものではない。

では、どうすべきか?都市間での相互防御による防衛線の構築しか方法は無いであろう。

 

幸いな事に周囲にはエニセイ川がある為水運も可能だ、そこを防衛線にすることも出来る。だから、林業に使用も可能だろう事が伺える。

もっとも、河川の幅や深度が未知のためどこまで河川を応用した運河を構築できるかは未知数だが、進めない場所は車両なり列車なりを走らせれば良いだろう。

 

後の100ヵ年計画である。100ヵ年と言うのだから、彼等が死に次の次の世代で終わるであろう。

 

 

さて、軍を配置したのは良いのだが赤軍は幾日経っても現れない。それはそうだろう、奴らは今欧州の方で自らに従わない勢力を粛清する為に励んでいるのだ。

もっとも、既に英国に皇女側に付くことを宣言していたおかげか、抑え込んでいるのだろう。

 

だが、兵士たちはうずうずしている、このままではあらぬ方向へ武器が向かうともわからない、そんな日が続いた。

もう限界だ、3月も動きが無いのにと誰かが言い出しそうになっていたときふと街道に目を向けると、赤軍の旗が翻った。

 

最早城塞都市と言える程にまでなったこのクラスノヤルスク、如何に数を揃えようとも攻略するのは並大抵の事ではないぞ?

と、言わんばかりの銃弾の雨が降る。

もっと威勢よく突撃してくるのかとおもえば、直ぐ様壊走し姿を消していく。拍子抜けである、もしくは釣り野伏せか?

 

次の日も次の日も、同じ事を繰り返す。まるで戦術がなっていない、ただただ突撃を繰り返しては逃げていくを繰り返す。

最早面倒だ、幾人かで部隊を編成し斥候を放つ。

暗闇の中、懐中電灯無しに迷わず歩く彼等は先祖代々の斥候、その技術は歩法にも現れ、音もなく忍び寄る。

 

暫し行くと薪火が見える。ここかと場を捉えれば、それを地図に記す。

さて、一仕事終わったが後は戻るだけであるが、どうやら見張りがいるようで草葉の近くにいるようだ、丁度いい情報源として持って帰ろう。

 

二人一組だがなんてことはない、一人がそっぽを向いた瞬間相方の肩を叩き振り向きざまに喉笛と、腕の腱を斬る。

もう一人は、仲間が首を締め上げ気絶させる。ちと五体満足では重い。意識がないのなら暴れることはない、キツめに麻紐で膝上を締め上げ血を止め鉈で足を断つ。

痛くはないだろうがなに、この程度では人は死なんきちんと止血しているしな。

縄で身体にくくりつけ戻る。

 

括り付けた捕虜の足を見て、軍に着いてきたロシア人は身震いするが、周囲の日本人は皆平然としている。

その足で司令室へと向う、勿論捕虜を預けてからだ。

その日、総攻撃が始まった。時刻は朝4時、夜討ち朝駆けである。

 

応戦する者たちは少なく、ただただ濁流に飲み込まれる如く命の灯火が消えていく。

その日、クラスノヤルスク攻略隊2万突如として全滅した。生き残った者たちが見たのは、死んだ者たちが首を狩られた姿。小隊以上の者たちはまだ良かった、首は洗ったように奇麗であった。

それ以外の者たちは、カラスに食われるのを放逐するだけのまるで見せしめの様な姿。

 

なお、この惨状を作り上げた等の本人たちは皆清々しい程に、爽やかな顔をしていたという。

これ以降、赤軍がこの地に対して攻撃を仕掛けることはなかった。

 

後にこの地において、首塚が建てられる。2000年代に欧州の戦没者調査団が調査したとき、2万体もの人骨が森の中で散り知りに倒されていたという。一部は獣等に食われた形跡もあった。だが、どの遺骨にも首は無く、首塚の下にはみっしりと髑髏があったそうな。

 

そんな、事をしている時世界は反共産によって手を取り合った。赤軍が拡がりを見せる中、ロシアの支配から逃れた国々は一つの同盟を結ぶ。

 

Antikomintern Treaty Organization(防共条約機構)

 

世界地図とその加盟国

 

 

【挿絵表示】

 

【挿絵表示】

 

 

それらの国は、ソヴィエトから一国のみが宣戦布告された場合、即座にソヴィエトに対して宣戦布告をするだろう。

この時、日英はこの条約機構に署名せずにいたが、発効の同日に世界へ向け意思を示した。

 

『もし、他国へ向けソヴィエト、もしくはそれに組する国が宣戦布告、またはそれに準ずる行為を示したとき日本国はソヴィエト、またはそれに組する国へ宣戦を布告する。』

 

これは条約機構とロマノヴァ公国、双方に対しての配慮を行った形である。

それでも、その意味は実質的な最後通牒でありソヴィエトはこの後慎重な動きをする事になる。

 

 

国外の動きと連動するように、日本は新型の戦艦の建造を急ピッチに進めていた。

戦艦はこの時代核と同じような役割をになうもの、恫喝の道具であるそれは、より強くなければならない。

 

英国に通達したそれは、英国を驚かせるものであった。16インチを搭載しながら、従来の巡洋戦艦並の速力を持ち16インチ砲に対しての防御能力を持つ。

それが出てきた場合、既存の戦艦は陳腐化する誰もがそう思った。

 

日本からしてみれば、それは古鷹からの発展であったから当然の形状であり、何も違和感を覚えていなかった。

 

 

長門型戦艦

 

 

【挿絵表示】

 

 

これを受け、国際的な軍縮条約の発効を英国は計画するもそれを取り仕切る、中立的な組織が必要とされた。

そこで、英国の提案により国際紛争解決や国際的な条約の発効を行う組織を各国に提案した。

国際連盟の始まりである。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

軍縮と改造

皆様お気付きであると思いますが、私は一度も航空母艦に対して言及していない事に。


各国要人が永世中立国であるスイスジュネーブにある、パレ・ウィルソンに集結する。

英国の発案である国際的な平和維持を目的とした、組織を設立するために集められたのだ。

 

1921年代1月10に設立されたこの組織は、史実よりも日英の協調があったが為に、史実から一年遅れたこの日に設立された。

この組織の加盟国は国際的に認められた唯一の国である、それ以外は国ではないと、された。

 

同地にはソ連とその周辺に位置する防共条約機構の国々も参加し、日英の属国となっている地域からも参加する者たちがあった。

最初の加盟国、その数は54ヶ国。英国の連邦構成国や、フランスの構成国はカウントされず、純粋な独立国である。(片側斜線の国は、独立国であるがその国の経済勢力圏にある国。)

 

第一回に開かれた会合に出席した国は、多かれ少なかれ領土問題を抱えている。

永世中立国であるスイスが議長国となり、各国の領土がこの時初めて明文化され、それが公式のものとなった。

 

勝手な拡張が不可能となった事に様々な国が疑問を持ったが、これが世界で初めて秩序立った会議となった。

この時の首席者達の並んだ写真は、当時の国々の関係を非常にわかり易く示した物と言われている。

 

この時ソヴィエトは防共条約機構の国々の事を認めることは出来ず、断固抗議すると発言するが、そもそもソヴィエトはロシアの後継に非ずという意見が大部分を締め、ロマノヴァ大公国の存在がそれを後押しすることとなった。

 

 

 

さて、そんな会合が終わると次に軍縮、特に問題視されたのは海軍の軍縮であった。

各国は、大戦の折り大量の戦闘艦を保有し特に戦艦という存在が財政を圧迫している状態になりつつあった。そこで、英国が海軍を保有する国家に、相応の国力と必要数の概算による保有枠を決定することを提案する。

 

もっとも、大型艦艇である戦艦。その次たる戦力となる巡洋艦に対するその条約は日本の長門型戦艦に対する一つの対策と影で言われた。

それもそうだろう、既存艦艇よりも強いものを量産された場合、海戦において圧倒的な力を誇示させることになる。

如何に友好国といえど、それは許容範囲を超えていた。

 

日英は、広大な範囲を取得しているためにそれ相応の数が必要と言うと、

保有枠

日英:50万

米:30万t

仏伊17万5000トン

 

基準排水量3万6000t以内

 

5:5:3:1.67:1.67(英 日 米 仏 伊)

 

とされこの時米国は猛反発したという。『なぜ、日英のみあれほどの保有数なのか』と。理由は単純で、広大な海域を保有しているからというものだった。また、英国は新規に16インチ砲の建造を開始するも、米国にそれは許されなかった。

 

何故ならば新規建造した38糎砲戦艦が、既に保有枠一杯であったためである。

それでもと言い続けるも、世界大戦の後のインフルエンザ蔓延の責任を取れるのならば一向に構わない。と英国に言われれば黙る他なかった。

 

日本は、旧式戦艦を全て廃艦とし薩摩型戦艦以前のものは、その姿を消すことになる。巡洋艦もまた、装甲巡洋艦のほぼ全てをスクラップや標的艦に割り当てられた。

 

だが、この時英国は日本の考えを甘く見ていた。

彼等は、『戦艦の事など別にどうでも良い』かのように直ぐに条約を受け入れていた。彼等は密かに航空機の大規模運用を目的とした艦艇の建造を開始していたのだ。寧ろ長門型は、その隠匿に使われたものとも知らずに、戦争に対して彼等は過剰なほどに心配症である事を。

 

海軍軍縮は思った以上に日本と英国の大勝利で終わる。英国は、難しい相手の力を制限することが出来た事に、日本は誤魔化しきれた事に。

後日日本へ監視団が訪れたとき、やけに平らな甲板を持った艦艇が目に止まるが、それが何なのかその時は解らず仕舞いに終わる。

 

 

 

さて、軍縮は世界的潮流となり、陸軍もまた軍縮を始める。

人員の削減というのは非常に難しいもので、これまでの人数の凡そ8割とするとしても、30万の無職者が出てしまう。

これではいけないと考えるに、一つの結論が出る。

 

また、軍隊の経験からそのまま運動学校(後の体育大学)等の学校を設立するものや、横の人脈により多種多様な営業活動を行うものなど、それぞれの能力に相応しい企業を設立していった。

だが、開拓団に行く者たちが半数を超える。北部地域やロマノヴァ大公国に移住するもの、中東等で新たに石油開発を進める者たちが現れる。

 

そんな中、幾十人の者たちが集まり要人警護を行う、雇われ者の会社が設立される。民間軍事会社の設立であった。1年内に凡そ2百人程の就職先となるこれは、一大事業を展開していくことになる。

 

軍は人員の削減を行った反面、新規に兵器の導入を開始する。もっとも、旧式となった戦車の売却や戦車に排土板を取り付けた車両を導入したりなど、減った人員に対する機械化が顕著になる。

際立ったのが、後に自動小銃と呼ばれる分類の銃であろう。

 

塹壕戦の経験から得たのは、ライフル銃の取り回しの悪さと自動拳銃の意外な活躍があり、ライフル並の威力と塹壕での取り回しやすいような大きさと、連射能力を付与されたそれは時代を先取りしたものだろう。もっとも、フルサイズライフル弾であるためバトルライフルに類別されるだろう。

 

八十二式自動小銃

 

【挿絵表示】

 

 

これのコンペティションに破れた

八十二式短機関銃

 

【挿絵表示】

 

こいつは戦車兵等に好まれるようになる。また民間軍事会社は好んでこれを使用した。

 

 

 

さて、日本は兼ねてからの計画通りに鉄道網と道路網の構築に力を入れていくことになる。

日本の国土は非常に広いため、正直車だけで経済を回すのはとてもではないが不可能で、多様な方向へと力を加えなければならない。

 

幸いにして海軍の金が浮いたので、早速それの一部を転用して鉄道の整備に着手した。

樺太海峡大橋の建設から始まったこの一大プロジェクトは、最終的にはユーラシア・北アメリカ貫通トンネルの開通をもって完了するまでの一大プロジェクトとなる。(凡そ80年かかった)

 

既存路線と新規路線

 

 

【挿絵表示】

 

 

車両の電化は思ったよりは進んでいるがまだまだ北部の地域、即ちアリューシャン列島や極北等の極寒地ではまだまだ蒸気機関が主流である。寒さに耐えきれないからだ。

 

そんな中でも弾丸列車構想というものが浮上する。時速200kmを超す、この列車を作るにはまだまだ時間がかかるし、

第一空気力学がまだまだ未熟な時代、列車が浮上して脱線なんてことになったら、それこそ恥である。

 

また、道路網の構築も同様に進んでいくが朝鮮と満洲の間がネックとなっている。

清を潰すのは簡単なことだが、もし他国に介入されれば最悪の場合フランスとの戦争や米国との戦争に成りかねず、負ける事はないがそれでも苦しい戦いになるのは明らかだ。

 

であるならば、地道に内部から切り崩して行くほかなく長い時間を掛けることに苛立たしい事となった。

だが後に朗報が届く。1923年頃に清は滅びるからだ。それまで煮え湯を飲まされた感覚を持っていた日本は、直ぐ様一つの軍閥を支援しそれ等は独立国を建国するが、それはまた別の話である。

 

1921年11月初旬、この日日本で初めて歩行者用信号機が点灯した。今まで、1896年車両用信号機を導入して27年経ち、自動車事故が多発したのが原因である。

また、退役軍人の増加により車両の保有数が1000万台を突破していた。

 

道路はもともと馬車が通るために広くは造られていたが、それでも車に対しての広さとはまた違い、速度を出してのカーブは非常に危険である。

そこで、自動車に対する免許制度が始まる。結果として事故発生率は10年間で5割減するもそれでも多い。

道路交通法の改正が凡そ15年間ぶりに行われた。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。

百尺規制のビル郡ってなんか美しくありませんか?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

疫病との戦い

その土地にある田で仕事をしていると、泥かぶれになるぞ。終いにゃ腹が膨れて、死んでいく。

本土の甲斐国にある甲府盆地一帯は、今や葡萄や梨の栽培に力を入れている。

 

まだ徳川幕府であった頃、甲斐の国より不吉な知らせが届いた。ある村に住む者たちは、皆腹が膨れ上がり妊婦のようで背は低く皮や骨ばかりである。

そのようなものが当時甲斐を治めていた甲府徳川家より、直々に文にて届けられる。

 

その文をあまりにもおかしな事と感じたか、公儀より使者を遣わしそれを見聞させよと、御触れを出した。

それから長い長い戦いが始まった。

 

あまりにも不可解な病、肉体的に健康であるにも関わらず腹水が溜まっていき苦痛の中死んでいくそれは一体何が原因なのかな、開腹手術の無い時代それは全く持って理解できないものであり、神々の怒りだとかそう言う類土地の呪いだと、言われることもあった。

 

水戸徳川家頼房が、その病の対策の支持を取るように言われると、その好奇心旺盛な性格からサナダムシのような腹の虫のせいではないか?と言うと、直ぐ様死人の腹を切り裂いてそれを見た。

 

民からすれば突然やってきて肉親の身体をバラバラにされたのだから溜まったものではないが、それが医学を進歩させる。

屍の体内の肝臓付近に何やら筋状のものが集まっていることに気がついたのだ。

 

頼房は個人的によく罪人の体内を見ていたこともあり(本も出すほどの熱中)、それが肝臓に本来無いものだと言うことをわかっていた。軍隊というものに医療団というものを取り入れたのはこの時だ。

 

何故日本軍の進軍が東南アジアではフィリピンで止まっているのか、それは病が原因であった。

ただでさえ暑く、ものが腐りやすい為に食料の確保が難しい土地柄にも関わらず変な病気まで流行っている。日本軍は、それに参っていた。

それでも、医者団が帯同するのだからある程度死者数は減っている。

 

そして、各地には必ずある病気が存在していた甲斐国に蔓延する地方病、それによく似た症状が確認されるのだ。

しかも東南アジアではそれが顕著に出たのだから、たまらない。そのために日本軍の、南下は止まった。

止まらざるを得なかった、水に触れるだけで死んでいく病など考えただけでも恐ろしい。

 

頼房の実験が認知された頃には、南下政策は完全に停止、南方に関する領土拡大は、そこから日本人街が多数存在する場所で停止する。

 

そして、北上する事を始めた。

その中で医療団はある事に気が付く。元来医者になる連中は頭が良いから、気が付くのが早かった。

北に行くに連れ、徐々に生き物が少なくなっていく、と同時に寒さが強烈になる。

そこまでは良い、そこから一つのことを発見した。

『冬場は、物が腐らない。暑いと腐るが寒いと腐らない、暑い場所には数多くの生物がいるが、寒い場所にはいない。

だとすれば、もしかすると物を腐らせるのは小さな目に見えない生き物の仕業ではないだろうか?』と。

 

そこから顕微鏡(調度品として輸入したもの)で様々な物を解析すること時に表すと1661年、小さな小さな生き物が見つかる。

微動物(後の細菌)と名付けられたそれは、味噌蔵の中から発見され味噌の発酵に何かしら関与していると仮説が立てられた。

 

戦争のため、国を上げた細菌学の研磨は欧米の趣味の領域のそれを超越していたが、あくまでどれがどういう働きをするかに留まり、分類に対しては興味を示すことはなかった。

 

それから時が流れ、欧米の知識を貪欲なまでに吸収していくと共に、今まで自分たちが考えていたものとは違う方向からのアプローチに、感嘆しているが同時に欧米の方もまた日本の一方向のみに尖った知識に驚きを隠せない。

特に発酵食品に関連する部分は、他の追随を許さぬほどである。

(この分野に関して言えば、1800年の時点で史実の21世紀初頭レベルの理解力)

 

生物の自然発生説が世界的に有力視されていた時、それの否定派であるパスツールの掩護をし、日本が長年培ってきた培養結果をパスツールへと寄贈した。

このデータは東洋と西洋の細菌に関する理解度、という形で現れた。

 

『細菌はあくまでも生物であり、ガラスや水のような物からは、産まれ出ることは出来ない。』

という、日本側の思想の根幹を成すものであった。

また、日本側から白鳥フラスコを用いる実験に対して提示された内容は、パスツールも驚きを隠せなかった。

 

沸騰させたスープは、その殆が腐らなかったが特定の条件下では

納豆菌が発生し発酵するというもの。

そのため、実験道具は念入りに純アルコールを用いたアルコール消毒を行い、なおかつ純水を用いた実験を並行して行うことが示されていた。

 

 

 

だが、細菌の研究が進む中、寄生虫の研究は一向に良い方向に進む事はなかった。

甲斐国の病は一向に無くなる気配が無く、如何にしてそれを無くすかまだまだ日本国内の寄生虫学会を悩ませていた。

 

水に入る事によって体内に侵入するこの生物、宿主がわからなかったのだ。

世界中に手を伸ばしたことが、時間を浪費させてしまった。

それが見つかるのは、1916年。大戦の真っ只中、一匹の巻貝の発見から始まった。

 

これを気に殺貝が開始され、以後80年もの間これとの戦いが繰り広げられる。

 

この貝の発見は世界中の同様の症状で苦しむ地域に、その解決策を提示する基となった。

この貝に寄生している生物は住血吸虫と呼ばれるものであり、哺乳類であればどの種でも関係なく寄生する。

 

侵入初期は、住血吸虫が皮膚から侵入したときにかゆみを伴う発疹が出来るが、これは数日の内に収まる。

問題はその後だ、様々な部位の血管内に住み着きそこで赤血球を粗食する。

出産を大腸や尿管等で行うため、その時期に達すると下血と共に腹痛が確認される。

そして、放出されなかった卵は体内の臓器にある毛細血管等に詰まるのだ。

 

そして臓器の機能の低下によって、腹水により腹が膨れ上がり苦しみながら死んでいく。

 

末期までいったものを救うことは出来ないが、それの原因を無くすことは可能であった。

まず、水田の埋め立てが始まった。嘗て田園が広がっていた場所を果樹園にすることによって、被害の減少を図ったのだ。

ただ、それだけでは被害が無くなることもなく死闘は続いていく。

 

 

 

そんな中、欧州でインフルエンザが発生する。

ウイルスと言う存在が日本に初めて認知されたのは、これより20年程前、細菌濾過器を使用して大腸菌の研究をしようとしていた、一人の学者によって仮説立てられた、超微小生物の存在だ。

 

薬剤を使用していないにも関わらず、大腸菌が破裂するように死滅している事が確認されたのだ。後にこれら細菌を攻撃する者にファージという名前がつけられる。

経験則からであるが、それの研究が始められた中での出来事である。

 

それと同様に感染者の体細胞が破壊されていたことによって、これらウイルスの存在が確実にされ、あらゆる薬剤に効果が無いことが確認されたことにより、対処療法が確実視された。

 

数名の検体を基に、この見えない敵の空気中での感染力の割り出しが行われる。

一時敵に、四方の出島との連絡は無線を通したもの以外禁じられたが、次第に明らかとなるとワクチンの開発が始まった。

 

後にこのワクチンは無駄な物となる、変異種と言う存在が現れるために獲得免疫が仕事をしないのだ。

この問題が解決するのは、1930年代に入ってから電子顕微鏡が開発され、ウイルスと言う存在を目視できるようになるまで続くこととなる。それまでの間、インフルエンザと言うものは対処療法で戦わなければならなかった。

 

 

余談であるが、1830年頃日本は炭疽菌を使った兵器を完成させていた。実験は危険性を考慮し船舶で行われたが、実験の結果そのあまりにもの悲惨さから、生物兵器の一切の使用を封印した。だが、継続的に研究は続けられた。

 




住血吸虫に関してはwikipediaを参照しております。詳しくは、地方病(日本住血吸虫症)というものがあります。 
 
誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

中華内戦

皇居の周辺は皇宮警察によって監視されている。日夜巡回が不規則に行われ、不審者が居れば場合によっては直ぐに捕まり、警視庁の方へと連行される。

そんな場所に、一人の黒髪のゲルマン系の男が平川門の方から、風景画を描いている。今や写真のある時代、風景を映し出すだけなら写真でも充分な筈なのだが。

 

そこへ一人の青年が話しかけた。

 

「こんなところで絵を描くなんて、変わっていますね」

 

『何を言っているのか解らないが、私の絵の批評をしているのか?』

 

互いの間に沈黙が訪れる。

 

『これは失礼しました。ドイツからお越しになられたので?』

 

いきなりドイツ語を、話し始めた青年に目を向けびっくりしたかのような表情をしている。

 

『そうだ、私達が負けた国を見てみたいと思ったのでね。この国は、建国以来負けたことがないと聞いたが?』

 

『厳密に言えば、自国の領土を失うような敗北はしていない、です。負けたことが無い国なんて、この世には存在しません。

それにしても、少しノッペリとした絵ですね、もっと奥行きが欲しいんじゃないですか?』

 

その言葉を聞いてギロリと彼は青年を睨む

 

『やはりそう思うか、絵描きは向いていないか…昔ウィーンの学校でも同じ事を言われたよ。君は画家よりも建築家の方が向いているとね、中等学校を卒業しておいて良かったと思うよ。

そのおかげで、今もこうして絵を描ける。』

 

「あっそう『建築家さんですか、では仕事でこちらに?』

 

それを聞いてクシクシと頭を筆の軸で掻く、何やらここにいる理由があるようだ。

 

『それがですね、元々は清国で建築物の設計を頼まれていたのですが、内戦になったとか。それならば、安全な方へと言うことでこちらに…もう、戦争はコリゴリだ。自国の化学兵器にやられましてね、あれは酷かった。』

 

『大変だったのですね、どうでしょうかこれから何処かへお茶でもしに行きませんか?私もこうやって誰かと話すのは久しぶりですので。』

 

青年の挙動は少々おかしかった。目深にハットをかぶり、スーツでこんなところに長居するには。

 

『良いですね、では少し待っていてください。』

 

『ありがとうございます。江戸、案内させていただきます。』

 

二人は何処かへと消えていく、そんな中皇居の中では大騒ぎが起きていた。迪宮様が何処かへ消えてしまったと。

 

 

 

清国は滅んだ…内部の腐敗によって自壊したのだ。力を失った皇帝よりも、軍閥の発言力は上昇し各地で暴動をお越し、警察力の無くなった清国内は、深刻なまでの治安の悪化が起こった。

 

それはそうだろ、まともな統治機構が崩壊したのだから治安を守る者も無く、犯罪を取り締まることが出来無い。

それに、法もなにもないのだから正しく無法地帯と言うわけだ。

では何故そこまで深刻な事になったのか、それを説明していこう。

 

 

その昔、日明との戦争に破れ東南アジアでの求心力を手にしそこねた清、経済的にも貿易はシルクロードを介するものしか無く、海洋進出は日明の影響もあり、その殆どが行われなかった。

そこからして財力は少なく、外国からの圧力へ屈しやすかった。

 

時代が進むにつれ内部腐敗が始まると、そこへ来て北からロシアが攻め寄せる、最早これまでか?と、清国は覚悟を決め戦争を始めようとしたとき、突如として進軍は止まり幸いにして侵攻は満州までで済んだ。

 

この時、ロシアが止まったのは日本国との間に武力衝突が起こったからであり、本当に偶然の産物出会ったと言えよう。

だが、清国の民たちはこう思った『我々には、天帝様がついている。だから、奴等は止まったのだ。』

なんとも中華思想らしく、自分たちの理想を押し付けるような考えだ。

 

力は無いが、人口だけは多いため英国が商業を持ち込んだ。

だが、長い間対外的な大口貿易を行ってこなかった為か、英国に対して自分たちの利益が多いように通商契約を取ろうとする。

税金ばかりが高く、旨味が少ない貿易に英国の商人は次第に足を止めなくなっていく。

 

これでは不味いと、税率を大きく下げて止めようとするがそれがいけなかった、英国はドンドン税率を下げていく。終いにゃ関税自主権を握りつぶされ、銀の流出が始まった。(アヘンを一切売ってない)

 

そのまま1860年ごろ、太平天国の乱が勃発した。太平天国軍を前に清軍はまともな対応が不可能となった。そして、日英に泣き付いた。この時、太平天国軍は明に対して宣戦布告なき攻撃を行った。それに対して明は、清国に対して武力介入も辞さぬ事となりでは自分もと、日本は介入に関して前向きであったこともあり、清へと進駐していく。

 

その過程で英国は自国の勢力が及ぶ経済圏を、自国の植民地に指定し、清国から割譲すると経済政策を始めた。

結局、そこから清国の外貨獲得手段は少なくなり経済は最悪の状態となった。しかも、穀倉地帯を失ったことにより経済の低迷は加速していく。

 

その不満があったのだろう、各地の種族主義が加速度的に増え今度こそ止められないこととなった。これが、清国の空中分解した理由であった。

なにより内部での諜報活動は張作霖によって行われ、実質的に日本の工作によるところも大きい。

 

 

 

日露戦争の頃から日本との協力関係にあった張作霖は、北洋軍閥

の内部に浸透後、袁世凱の後を継ぎ北洋軍閥のトップへと躍り出ると彼は兼ねてからの計画の素清朝に対して反旗を翻した。

 

内戦前

 

【挿絵表示】

 

 

 

内戦中

 

【挿絵表示】

 

 

 

自らの統制する北洋軍閥の力により、瞬く間に北京〜満洲迄を勢力圏に治め、実質的な大陸の覇者ではあるが思想的なぶつかり合いの前に、纏まるものも纏まらず。戦線は膠着状態となる。

そこで、張は日本国へ支援を要請した。

 

もっともまともな思想を持っていた張であるが、日本は彼へ一定の警戒をしてきた。

更に先の条約後の影響もあり、直接的介入に世界的にいい評価を得られない可能性があった為に、手を上げて支援を行うことは出来なかった。

 

そこで、退役軍人を中心に設立された民間軍事会社

「Road guide」

に、張作霖軍に対して戦術の教授。いわゆる戦術顧問団として、雇われる形となる。

 

日本の戦闘方法の殆どは、高い識字率と教養の名の基に行われる非常に高度な浸透戦術である為、最初の内はその成果を疑問視する声があった。

それは、そうだろう。なにせ、中国の軍閥は今の今までまともに戦争を経験するどころか、対外戦争を行ったのは1860年が最後。

実戦経験を積んでいる者たちは皆無である。

 

彼等が到着したときまず最初に始めたことは、日本の保護国に対する行いのそれであった。

 

まず、識字率を上げる事に努めたのだ。中国語は皆漢字であるため、非常に覚えるのが非効率であった。そこで、音読みに相当する部分にカタカナを、名詞に相当する場所に漢字を割り当てる事によって学習の簡略化に努めた。

 

数年の内に識字率が50%に達すると、機動戦闘が可能となっていくがそこはまた別の話だ。

 

張作霖は喜んでこの支援を受けたのだが、彼の参謀たちは気を良くしなかった。

相手は軍人崩れ、即ち正規の軍人ではないのそれに従う通りは無い、それでも『張さんが言うのなら…』と言う事で渋々従っていた。

 

中国国内の内戦は、意外なことに大規模な戦闘に発展していない。これは張の後ろに日本の影を見たが為か、それとも何かしらの支援を受け取っている可能性があるためか?

だが、誰が支援をする?既に東アジアは、日本と英国の分割によって成り立っているというのに、少しずつ英国への不信が積もっていった。

 

日本が東部でそのような事をしているのとちょうど同じ頃、一つの国がその生涯を終えた。

ホイ共和国…ホイ族が中心となって作られた多民族国家が、この中華内戦の煽りを受け、チベット王国に併合された。

 

これは、両者合意の上の出来事である。互いに中華内戦に巻き込まれた場合、生き残る確率を少しでも上げるために行ったのだ。これに口を出す国は皆無であり、大局への影響はそれほどあるものではなかった。

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

軍縮下の整備計画

ウ~ン難産、


そこは富士の麓、ブラロロロとエンジン音が鳴り響き、丘の向こう側から現れたるは2台の戦車。

しかし、それらは嘗て使用していた《73式装甲戦闘車》とは明らかに違う。

 

形も速度も全く違う2台は、ある地点まで到達すると各自停車する。そこで2つの秒時計を所持しているものが、各車の時間を紙に書いていく。どうやら速度を競わせていたようだ。

 

「アレのどちらかが時期主力戦車か?大きさはだいたい同じようだが、確か装甲厚は3粍程度しか違わないんだったか?ならあのスマートな方が、良いんじゃないか?確か試製軽戦車だったな。」

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

「はい、あの程度の装甲厚の違いだけであそこまで速力に違いがあると、どうしても速い方にしたくなります。火力に関して言えば、同37粍砲に換装できるそうですので。」

 

試製軽戦車と呼ばれた方を見て語った。

 

「なら、決まりだな。それにしても、良くもまあ軍縮だというのに新しい戦車か減った兵員分の予算額で色々と揃えていくのかな?」

 

「概ねその通りなのだと、小官は考えておりました。中佐はあまり良くお考えではないので?」

 

眉間に皺を寄せ渋々と言った感じで考えた。

 

「戦車は別にいいと思っているよ、現行の73式はもう車両としての限界だろうからな。見てみろアレを。」

 

指差した方向を見ると73式が先程の2両と競走していた。

試作車達と肩を並べて走っている姿を見ると、哀愁が漂ってくる。加速も登坂能力も足りず、速度は遅い方とどっこいどっこいで正直魅力らしい魅力は殆ど無い、正しく時代遅れの鉄の箱だ。

 

よく見ればあちこちで73式が比較対象とされている。特に目立ったのが12.7粍口径弾に対する抗堪性の比較、試作車輌は随所に新型装甲板を取り入れたことにより、至近距離でのものはともかく200米以上での貫通は不可能であったのに対して、73式はまず200米でさえ貫通される。これでは、前線では使えない。

 

そんなもの乗りたいとは思わないだろう?

私も、乗りたいとは思わない。そう考えれば上層部は、以外にも早い段階でこの事に気が付いていたのだろう。

だからこそ、欧州大戦は早いところ決着を付けたかったのかもしれない。これが露呈すれば優勢は崩れるから。

 

「あんなになるまで扱き使ったんだ、供養の一つでもしてやりたいな。」

 

「そうですね、首塚いや戦車塚でも作りますか?」

 

二人は足早に何処かへと向かう、きっと別の仕事があるのだろう。

 

 

 

 

時に1924年、軍縮による人員の削減は、日本帝国に戦力を見直す時間を与えた。それは時代とともに進化していくモータリゼーションが故に、今まで使用していた兵器が直ぐに陳腐化されていく中、焦りにも似たものが軍部を駆り立てる。

 

もしも、ここで時代に取り残されたらきっと植民地にされるのでは?という懸念、物量が効かなくなっていくという時代の流れ。

昔から日本は質によって物量を覆してきた、だが技術が発展し身体能力だけでは戦に勝てなくなる。

そういう時こそ、時代に沿った戦い方が求められる。

 

だからこそ、こうして兵器の開発や試験その結果を集積しフィードバックしていく。

最新の部隊編成は瞬く間に変わっていくのだ。

 

つい最近まで擲弾筒は歩兵小隊と共に行動を共にしていたのが、解除され、即応型の独立擲弾筒小隊となった。

その代わりと言ってはなんだが、30粍の擲弾発射器が開発された。いわゆるライフルグレネード、と言うよりも小銃の下に懸架して使用する着脱式擲弾器と言われるものだ。

 

83式30粍小銃擲弾器

 

【挿絵表示】

 

使用例

 

【挿絵表示】

 

 

なぜにこういう形式が採用へと繋がったか、それは擲弾筒の欠点である「直射には不向き」と言う点に尽きるであろう。

敵の火点を潰す際、上部からの攻撃が可能な擲弾筒はその点では優れていたが鋭角的な近距離での運用に適さない場合が多く、実際の戦闘ではそれが裏目に出ることがあった。

(それでも機動戦をやってのける辺り、途轍もない練度である)

 

そこでいつでも使えるようにと言う利便性から、擲弾器をライフルに装着して射撃可能としたのが本作だ。

30粍と小型ながら威力は手榴弾よりかはある、それに30粍ならばその反動を受けても何ら支障もなく、銃を構えながら撃つことが出来た。

それにトーチカを攻撃するには、丁度良い火力であるのだ。

 

ただ、全部隊員に配備するには重量等の関係上不可能に近く、一個分隊に一人の割合で割り当てられた。

弾の重量が50粍榴弾の800gから320gに減った。携行弾薬量に比しての重量が大幅に減少したことに加え、擲弾筒本体の重量4.7kgから1.6kgに減少したことにより単純機動力が増した。

反面一発の威力は減るが、それを即応の擲弾筒小隊が補うのである。

 

もっとも野戦という野戦には戦車や砲兵による火力支援と、航空機による爆撃が存在する事を大前提としての事である。

火力支援の乏しい中で、どれ程兵力を効率良く運用していくか、それに対する答えであった。

 

 

 

では小隊、もしくは中隊規模で火力を上げたいと言われる場合どうすれば良いだろうか?

軽機関銃がその答えであるが、現行の72式軽機関銃にはとある欠点が露呈した。

 

一度の装填で放てる銃弾が30発である事、特殊な機構であるために射撃速度に限界がある事だ。

ホッパー式はクリップが自重で落ちる速度が一定である為、発射速度の増加が難しい。

 

そこで、新規にベルト給弾機構を採用した全く新規の機関銃が必要となった。

そこで登場したのが82式軽機関銃であった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

後に70年間主力に居座り続ける事になる機関銃が、ここに誕生した。

 

 

 

 

日本軍としては、機械化による大規模な組織的な展開に早急な対応をしていくのが急務である。

勿論、元々は自分たちの行った機動戦術なのだからそれの整備には念には念を入れる。

 

最初は歩兵の輸送手段からであるが、現行の輜重隊の車輌を借りた行軍は非常に非効率的である。

最近ではあのトラクター、既に型落ちの代物で足が欲しいと言う始末であるが、如何せん大量にあるが故に処分に困っていた。

 

そんなときに中華内戦が始まったゆえに、半額で売るという強硬手段に打って出ている。張作霖政権がそれで勝てば良し、負けても懐が潤うのでそれもよし。

 

と言う事で新たな車輌が開発されている、基本的には民生用のトラックを使用すると言う事になっているが、不整地能力が低いゆえに多少の手を加えると言うので契約が成立している。

 

さて、輸送手段の速度が上がると問題は護衛する車輌であるが、これも基本的には民生用から選ばれた。

それに装甲を取り付けて行く、ただそれだけだ。実際戦闘に必要な部分だけを残せば数を揃えるには、それが一番手っ取り早い。

 

このように雑多な内容で車輌を選定していく日本軍であるが、これが後々響いてくることになるのを、この時誰も予想だにしなかった。

 

 

 

 

だが、妥協しなかったものはある。それが戦車だ、本当ならば走攻守全てを揃えたものを作りたい。

だが、強力なエンジンも無い時代何かを犠牲にしなければならない。

 

速度のために装甲を削ぐのか、装甲のために速度を削ぐのか。

結論を言えば日本軍は、速度を取った。元来の機動戦術を生かすため、そのために輜重隊の車両も歩兵用の装備も可能な限り速度を求めたのだ。

 

限界ギリギリ、対戦車ライフルなんてものはそうそう動かせるものじゃない。基本的には据え付けて待ち構えなければならない、ならば小銃徹甲弾の貫通か、対戦車ライフルの遠距離狙撃から身を守れるならそれだけで良いと考えた。それが、現段階の限界…本当ならば全部揃えたい。

 

 

年間にして8400億円(一人頭月収平均35万円)支出が抑えられたことによりその、およそ半分を国庫に取られているにせよ4200億円が開発費や装備の更新に当てられる。

戦艦一隻作るならばそれだけで終わってしまうだろうが、今は軍縮時代。その利用方法は、どちらかと言えば陸軍に向けられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東北帝国大学のとある研究で一つの実験が行われた、本来よりも少し早いその実験は、凡そ20kmと言う距離の中で確実な作動を見せたそれは、確かに小さくも電波を送受信し声を届けた。

確実な作動を見せたそれは画期的な無線設備と言われ、後にその指向性からレーダーに使われるようになる。

 

その実験を海軍は遠くから眺めていた。

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。

そろそろ主人公?出すかなぁ?因みに女性です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

紛争期
それは提灯か、はたまたコウモリか


主人公登場です、初等5年学生くらいかな?

因みに学校制度は6歳入学。
初等6年
中等3年
高・専門等3年(看護4年)
最高学府3年(医学4年間)
大学院22歳〜学歴問わず




「先生!どうして、本能寺の変で織田信長は討たれたんですか?

これじゃあ、まったく意味がわかりません!」

 

「それは、諸説あるんだ、まだ決まった事じゃないんだが先生は、ただそこに山があるから登るのと同じように、信長がいたから討たれたんじゃないかなと思うんだ。」

 

また始まった、先生お得意の自説討論。つまんない内容ばかり並べ立てて、自己満足で授業は終わり。いつものパターンね。

キーンコーンカーンコーンと、ベルがなってやっとお昼休み、窓際の席から青空を眺めながら給食を食べる。

 

「ねぇ、ねぇニーナちゃん昨日のテレビ見た?」

 

舌足らずな声で私を呼ぶのは朱莉(あかり)ちゃん黒髪は烏の濡羽色で肩まで有る。とても綺麗。身長は140cmも無くて小さくてかわいい。

 

「うぅん、見てないけど何か面白いのあったの?」

 

「うん、日ノ本国史見聞録。」

 

ああ、そういえばこの子そういうの好きだったっけ、国史の先生と意見とか合いそうなんじゃない?

 

「ふーん、それでどんな内容だったの?」

 

この子、が話すに隣国の大日本帝国とその戦争の歴史だそうな、話を聞くにすごく野蛮で荒々しくそれでいて狡猾な人たち、それしか感想が出てこない。

だいたい自分の国の事でもないし、生きてるうちにそんな国に関わるのかな?

 

そんな話をしながら一日が過ぎていく、私にとってなんの関係もない国の出来事、それの話をされても何も響いては来なかった。

けど、『そんな関係のない国の事わざわざTVで流すのかな?』と、思ってしまった。家に帰っても、なんか気になって仕方がないから、アチェーツかマーチに聞いてみようかなぁ。と、ぼんやり考えていた。

 

好機は以外にも早くやってきた、お夕飯だ!

アチェーツは、今日は速く帰ってきてた。中等学校の世界史の先生をしているから、きっとよく知ってるはず!

ペリメニをお箸で食べながら、注意深くアチェーツを見ているとそれに気がついたのか

 

「どうしたんだい?僕の顔に何かついてる?」

 

「うぅん。学校でね、あーちゃんがなんか日ノ本国史見聞録っていうのを見たんだって。」

 

「あぁ、あの議題の国ごとに名称の変わる番組の。」

 

見たことなかったけど、コロコロ名前変わるんだ。

 

「それでね、なんか聴いた限りだけど凄く野蛮な国だって言ってたんだけど、ちょっとアチェーツその国の事知らない?」

 

「ニーナ、お前くらいの歳なら知ってると思うんだが、授業中居眠りとかしてるな?

まあ、説教は後にして地図を持ってきて。話はそれからだ。」

 

「は~い、お説教お手柔らかに。アチェーツ」

1990年私の長い長い歴史探訪が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

提灯、現代における懐中電灯の役割を果たすそれは、今も内部に電球を入れて明かりを取るときに使われるもの。

最近では懐中電灯には使われなくなり、専ら看板の代わりとして使われているものが多い。特に欧州の人間はこの手のものに弱いらしく、意外と観光客に人気だがそれとは別の話だ。

 

提灯と言われたものは、今で言う電波探信儀だ。わからない人にはレーダーと言うのが、わかりやすいだろう。

なぜ、提灯と言われたのだろうか?それは、自ら電波を発することと、光を周囲全ての方向に放射する姿を重ねたのだろう。

 

軍隊というものは以外と保守的なもので、新しいものを忌避するものも多い。特に海軍というものは海に出るのだから、当然信頼性の高いものを取り入れたいのも頷ける。

 

当時のレーダーはまだまだ出来たばかり、目視とそれ程変わりない性能と、最悪故障するリスクもありあまり受けが良くなかった。だからこそ、電波をバカスカ出してそれを逆に探知されたら、それこそ笑い話で済めば良い最悪死人が出る。だからこそ、不要論を持つものも多かった。

 

だが、将来性を見れば必ず発展の余地があるのは明白で目視よりも性能が良くなれば、それこそ海戦は一気に様相を変えるだろう。敵艦をいち早く発見出来れば、それだけで敵をボコボコにできる。卑怯などとは言うまいな?夜討朝駆けは武士の習いである。もっとも、海軍の戦闘方法が具体的にどういうものなのか、陸軍である私にはあまり良くは解らないが。

 

 

 

さて、会議は踊るがされど決まらず。依然対立している、もっとも否定派も将来性を鑑みてきている様子で、一定の評価をつけ始めているから、やや導入派が優勢か?

と言ったところで乱入者が現れた、海軍の会議に陸軍が現れたのだ。階級章は…中佐、あの戦車を見ていた男だ、どうやら陸海軍間の陸軍側連絡将校のようだ。

 

会議へなぜ乱入したのか、と問われたところ

「電探の研究を陸軍でもとりおこないたい、独自にやるよりも互いに協力しあわないか?」と、言うものだ。

これで決定した、『まずは検証とともに陸上用の物から造ったほうが難易度は低いだろう』と言う意見で一致し、海・陸軍技術本部向けの技術となる。これには、開発者であった八木教授が中心となるよう抜擢される。

 

海軍は使用用途をまずは決めていた、受信機だけでも艦艇にあれば座礁を防ぐ効果があるかも、と。

そこで、灯台に設置するようにと言う。

各島に設置されたそれから電波を受信するとともに、距離の測定を行う。連続する電波で座標を送信するのだ、そして2点もしくはそれ以上からの距離から、自らの位置を概算する。

(ロラン航法のようなもの)

 

そんな話をしたら、なら島に送信機と受信機を別々に置けば、簡単に船が分かるのでは?と言う意見が出てくる始末、話が纏まらないが教授等は最初の話を進めることになる。

後にそのようなものが出来るが、それはまだまだ先のことだ。

 

さて、彼等がそんな話をしていて私もそれを聞いていたのだが、皆一つ忘れていた事があった。この時代、レーダー波を映し出すものは《Aスコープ》と言う心電図のようなものしか存在せず、実際に役立つには非常に熟練した者でなければならなかった。

 

まあ、時代というものは得てしてそういうものを楽観視させ、そういうもの(・・・・・・)だと認識させてくれる辺り、まだ優しいものだろう。

この時の我々には余裕があった、まだ中華の動乱は膠着状態で動くようなものじゃなかった。

 

この年、1924年の12月ごろ我々にもう一つの朗報が入る。ブラウン管受像装置の実験が国内で行われ、それが成功する。

これが、我々のレーダー研究に弾みを付ける加速器となるのだ、

安定した受像により鮮明な像を映し出すことが出来る。これは、索敵に優位に働くこと間違いなかった。

 

 

さて、問題が起き始めたのは、1925年。山も紅葉しこれから紅葉狩りだという時期に起こった。

中華内戦に動きがあった、突如として沈黙を破ったのは馮玉祥軍閥。

 

閣錫山軍閥に対して布告無き攻撃を行った、日本は事前に動きを察知して帳政権に対して厳戒態勢を行うよう指示を出していた。

それは良い、問題なのは攻撃を仕掛けた連中の陣容だ。

明らかに、中華系ではないウイグルの民族が混じっていると言う報告が入ると、佐官以上の軍令部所属組は招集を受けた。

 

裏にいた者たちが動き始めたのが明白となり、裏の者たちに対抗するため本国から帳政権への軍事介入の閣議提出と、作戦立案を開始せよと言われた。

 

まずこの戦闘に関しては明らかに介入しているであろう、ウイグル共和国。それに対して如何にして侵攻を行うかである、この時私は一つ疑問が残っていた。ウイグルにしては、数がおかしいそれも聞くところによれば、かなり近代化した装備を身に纏った連中がいるぞと。

 

もしかすると、我々が気が付かない間にウイグルは彼奴等の手中に落ちているのでは?そう、ソヴィエトだ。

だが、確たる証拠がない押収でき兵器にモシンナガンがあったとしても、連中の兵器は帳政権と違い雑多なものが多いのだ。証拠になりえない。

 

その年の11月閣錫山派が、我々に助力を求めてきた。提灯政権への服從を前提にそれを確約させ、我々は遂に中華に軍の介入を開始する。それと同時に、ソヴィエトはモンゴルの国境を越えロマノヴァの国境を越え侵攻を開始した。

 

我々はその挙動に反射的に矛先をソ連へと変える、そこで起こった出来事は我々の戦車開発に非常に大きな影響を与えるものであった。そして、国際社会はこの出来事を受けどう動いたと思うか?

 

1925年11月13日《宣戦布告なき攻撃》ソ連侵攻

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 




誤字、感想、評価などよろしくお願いします。

アンケートをとりますしばしお待ちを。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

動乱の幕開け

アチェーツに言われて世界地図を開くと普段授業で使うのが開かれる。

見慣れた光景、初めてこのページを開いてからあんまり使ってこなかった世界地図。

 

「あーちゃんが言ってた日本という国はこれだよ。」

 

地図の中央から少しだけずれた、複数の島と半島によって形造られた国。正直な~んだ小さいじゃんと思ったのは内緒である。

 

 

【挿絵表示】

 

 

でも、アチェーツはそれを言ったあともう一つページを捲ると出てきたのは、一度たりとも授業で使われた事のなかった、大きな赤色とピンク色に分けられた世界地図。

 

「それで、この赤色の国が総称《大日本帝国》という国家共同体。いや、帝国だ。大きさが全然違うだろ?あーちゃんが見たっていうのは、この大日本帝国の方だろうなぁ。その歴史なら。」

 

 

【挿絵表示】

 

 

それにはいくつかの巨大な国々があるだけだった、

 

「なんでおんなじ名前なのに、こんなに大きさが違うの?」

 

「僕たちの住んでいるここも、大日本帝国の構成国家。簡単に言うなら、初等学校で一年生から六年生まで別れてて更にそこから組に別れてるだろ?

組が、例えば僕らのロバノヴァ大公国や日本帝国で、年がここにある大日本帝国や英国連邦だよ。簡単に言うならね。」

 

じゃあ私達も乱暴な粗雑な国の一員…なんかやだなぁ。

 

「ふぅん、じゃあ誰が一番偉い人なの?ロバノヴァならロバノヴァ大公なんだよね。」

 

「そうだね世襲制だからね、日本帝国も同じく世襲制で、国家元首は天皇だ。

そして、大日本帝国の元首も天皇だ。図に表すとわかりやすいかもしれないかな。」

 

             天皇

           構成国家元首

        構成国家行政担当大臣(首相)

       士族階級(軍人・公務員非常任)

      そ   の  他  一  般  人 

 

「こんな感じになるね、ここまではまだ学校ではやってなかったかな?ま、予習だと思って、いつか役に立つと思うから。」

 

でも、テストとかに出るの何時ぐらいになるんだろう?初等学校でも、6年生の終わり頃位しかやらないんじゃないの?

「わかったわ、アチェーツありがとう。」

 

「でも、そうかそんなに歴史に興味があるのか?流石は我が娘、俺と同じ道を歩むのか?アチェーツは嬉しいぞぉ!」

 

うわぁ、凄く嬉しそうでもそんな顔されても今は聞きたかっただけなんだよなぁ。

 

「アチェーツ、ごめんなさい。そっちの方向へは行けないわ、だってアチェーツのお友達変な人たち多いんですもの。」

 

「う、それは否定できないけど、変な人たちなんて聞いたら彼奴等の悲しむぞ?それに、目上の人にはそんな事言っちゃだめだからな。」

 

は〜い、と言って去ろうとしたら反撃が来た。

 

「ニーナ、お返しだ。修学旅行はクラスノヤルスクだからな、精々がんばって勉強してこい!」

 

なんで中等学校のアチェーツがそんな事知ってるの?言わなくて良いのに!

 

 

 

 

1924年12月16日、クラスノヤルスクに到着した我々の目の前に拡がっていたのは、一面の雪景色と凍りつきたエニセイ川であった。

途轍もなく寒い、こんな所にも人は住めるのだなと改めて思うとともに直様司令部へと向かった。

 

現状は極めて難しいものであった、クラスノヤルスクから凡そ120kmの地点で防衛戦を構築していた我等であるが、その前には雲蚊の如きソ連軍が鎮座しているという、もっとも数だけで言えばこちらも負けてはいない。

のだが、どうやら向こうにも戦車が確認できたようだ。

 

我々の車両に似ているか?いや、どちらかと言えばフランスのルノー戦車に酷似しているか、まあいい。(T-18戦車)

問題なのは明らかに何処かの国が支援をしている、でなければあのように大量の戦車を作る金があの国にある方がおかしいのだ、だがそれは断定出来ない、そんな余裕今はないのだ。

 

我々は、背水の陣を敷いての戦いとなる。

敵の勢力は平地に大量に存在している戦車がだいたい1000両程だろうが、どう見ても小銃弾ですら撃ち抜けそうな見た目だ。

 

対して我々のものはどうかと言われれば、防御に一抹の不安を抱えつつも有利に事を進める事はできるだろう。

 

正式量産車84式

 

【挿絵表示】

 

 

 

先に動いたのはソ連であった、北部を戦車を使った包囲戦というよりかは平手押しと言うべきか?戦車を歩兵の盾として活用する、まあまあ機動戦闘するには速度が足りないからな。

相手の速度が遅いのならばそれに付け入ろう、即座に陣地を放棄して山岳方面へ移動を行う。

戦車に山道は酷だろうて、存分に消耗していただいた。

 

山から山砲やM2の銃砲弾の嵐が彼等を襲い、次々と瓦礫になっていく戦車に対して、84式の偽装を解き緩やかな坂を下り降りて彼等に斬りかかる。

歩兵は戦車の後を直様ついていく、取られた場所を直様取り返し逆にソ連軍の攻勢を挫いた。

 

だが残念な事に戦線は一つだけではない、敵が北部へと攻勢を開始したのと同時に南部でこちらは渡河を開始した。

もはや冬期となり、分厚い氷となっている河面を突撃しなければならない。

 

徹底的な砲撃によって破砕射撃は散発的だったことにより、少なくない損害を出しながら橋頭堡の確保を成功させ、次々に戦車の渡河を成功させていく。

 

平地に辿り着いた戦車隊は前進を始めた、40kmと言う快速を生かし敵を追い越しながら機銃で薙ぎ払う。

こうまでくれば敵も砲撃し辛い筈なのだが、どうした事か連中は何も考えていないのか射撃を続行する。

 

あちら側を巻き込んだ射撃によって、こちら側にも損害が増え始める。それを止めるべく戦車隊が、突撃を開始すると何処からか狙撃を受け正面装甲を貫通させられ、少なくない損害が出始めた。どうやら敵には20粍級の対戦車ライフルが存在するらしい。

 

損害を出しつつも山岳に取り憑くと追い越した敵を随伴してきた歩兵部隊が包囲していく。

綺麗に纏った連携により遂には捉えたか?と思われた、そこへまた砲撃だ容赦の無い砲撃、何をしたいのか自分たちの兵士を殺したいのか?

 

それによって包囲は解かれ今度は人の波と例えられる、死を覚悟した者たちの突撃が始まった。

これはいかんと即時に後退を決意、簡易的に築いた塹壕線まで後退し、そこで戦闘は止まった。

 

 

戦闘経過

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

その時点で我々の保有していた戦車520両の凡そ1割に何らかの損害が出た。これは装甲厚の少なさ故に起きた出来事であり、必然的な問題であった、いかに速力を上げようとも砲弾よりも速く動くことは出来ないのだから。

 

私はこの時、このアバカンの地に於いて戦車・歩兵・砲兵等を統括する機械化大隊の長を行い、この時の戦いの中でもっとも損害を被った部隊である。

 

この時、私は切腹を行おうとした。これ程の損害を被ったのだ、責任を取らねばならぬと、だが連隊長がそれを止めた「お前がやらねばならぬ事は、このような事が二度と起こらぬように軍内部の改革を行うことだ。」と、そこから私は決意を新たに前に進んだ。

 

結局の所、この紛争はソ連との停戦交渉の末に素の国境線のまま、戦闘前へと戻った。

なんの為の戦闘だったのか、その答えは誰にもわからなかったが一つ気になることはあった。

ソ連戦車を鹵獲した時、そのハッチは外側から粗く溶接されていた事。

後になって聞いたことだが、彼等の身元はトロツキー派であった事がわかった。

 

当時のソ連が何をやりたかったのか…見せしめか。トロツキー派を減らせて、領土を拡張できれば一石二鳥と考えたのか。ともかく、我々にそれを知る由は無かった。

 

余談であるが我々が戦っている最中、中国大陸ではソヴィエトの傀儡となっている者たちを完全に包囲していたようだ。

どのように包囲していたか、不勉強極まりない私のせいで図面を用意出来ないが、完全勝利に近いだろう。

 

途中参戦したチベットにより戦線は更に動き、結果的にこのようになった。

中華戦線戦闘後

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

さて、外交上戦争には発展しなかったのだが、今回の件で有る事が判明した。

戦闘開始当初、英国がソ連に対して宣戦布告一歩手前まで行っていた事が明らかになったのだが、それを制した者がいた。それはフランスとアメリカである。

 

あろう事かこの二国はソ連側に非はないと、英国の判断を批判した。それどころか、我等に対して非常に攻撃的な判決を下していた不愉快極まりない。

国連での発議は無いにせよ、この紛争に関して口出しをしたのだ、確実にこの三国は裏で手を結んでいる。

 

元はと言えばこの三国は革命によって起こった国だ、王や公爵等が納める国に対して非常に攻撃的な部分が、手を結ぶ切っ掛けとなったのだろう。

これにより世界の地図はより簡単に見る事が出来るようになっただろう。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

連盟

1991年初等科6年12月歴史

 

「国際連盟というのは第一次世界大戦後、再びの世界大戦勃発を起こさぬように、世界平和と国際協力を行なう為に作られた組織です。ここまでは良いかな。」

 

国際連盟ね、でも確か役に立たなかった筈なのよね。だいたいあの時代の人達に協調性を求めても、それを守れるような精神性を持ち合わせていないもの。

良くて二国間の合意を守れるかどうか、それも怪しいのに…なにこれ、《日英同盟(1812年発行〜)》?

 

英ってあの英国の事よね、最近雑誌では何かと王室の事でスキャンダルがあったとかいう。

それと、地図にある英国連邦の首都列島多くの植民地を持っていた大英帝国。

 

各地で争いを起こし、闘争の果て領土を増やしていった大日本帝国。

領土を隣接し、利益を享受出来るような距離でもない相手とどうしてこうも長く同盟を続けていられれるのか、全く理解できない。

 

「おい、ペトロヴァ。ニーナ・ペトロヴァ、何をぼーっと考えてるんだ?」

 

ハッハッハと周囲から笑いが聞こえる、そんなに集中してたか。

 

「すいません、それで何でしたか?」

 

「国際連盟設立によって世界はどう変わったんだったか?」

 

どうって、あまり変わりはないんじゃないの?だって、条約無視の戦闘とか宣戦布告無き戦闘、戦場での虐殺行為。上げてみたらきりがないのでは?唯一の救いはICPOやMSF等の各種組織の設置くらいじゃないかな?

 

「そんな劇的な変化はありません、強いて言えば正規の戦争が起こりづらくなったくらいじゃないですか?」

 

「あー、お前の言っていることも最もだ。確かに正規の戦争は起こりづらくなった、だけど非正規の戦闘例えば他国の内乱を助長するような行為はこの時は大いに進んでいたそうだ。

だが、忘れちゃいけない事がある。初めて国際機関が出来た事により、その前からは幾分か世界は周囲を見始めたんだ。」

 

そりゃ意識せざるを得なくなるけど、結局第二次世界大戦を止められなかったんだから意味ないんじゃないの?

 

 

 

 

 

 

1925年 

国際連盟、国際軍事法廷において日ソの戦闘に関して重大な判決が言い渡されようとしていた。

国際連盟始まって以来の大規模な戦闘の結果を世界の国々が固唾を呑んで見守っている。

 

宣戦布告無き戦争行動は、国際連盟の検証のいかなる理由があろうとも罰せられるべきである。

もし、この戦闘に対してなんの制裁もなければ、国際連盟はなんのために存在しているのだろうか?

 

判決を下すのは理事国達、だがその中には日本の姿がある。あの戦争の勝者となった国は国連の常任理事国となったからだ。

まず、ソ連に対しての制裁として向こう十年間の軍事費の増加の停止、及び海軍艦艇の一部没収となる。

 

次に日本に対しては、中国大陸での利権特に明に対しての門戸開放を行うよう求めた(・・・)。しかし、日本はその事に対して条件付きの開放ならばと譲歩を引き出そうとする。

そして、それは叶った。

 

第1に明に対する対等貿易を行うこと。

第2に関税の権利は明が有すること

第3に大使館を除いた治外法権を適応しないこと。

第4に明国民に対する差別的扱いを行わない事。

 

以上の4つである。

これには米仏は驚いた、日本は確実に突っぱねるとばかり予想していたからだ。

だが、逆に先手を打たれた事に項垂れた。

 

工業製品で、米国は日本に太刀打ちできるものは無く、絹織物でフランスは日本に太刀打ちできるものは無い。

では軍事力はと言えば、世界を相手に充分戦える質と量を兼ね備えた帝国軍に二国だけではない太刀打ちできない。更にこれに英国が来ると苦しくなるのは必至である。

 

フランスからしてみれば煮え湯を飲まされ続けている相手。日英共に植民地関連の出来事からナポレオン戦争時、日本の傭兵団から受けた戦列歩兵を鎧終一触する見事な統制射撃、地形を城に見立てた野戦築城の戦いに、寄せ集めの軍隊では歯が立たない。

英国海軍との海戦による大敗北、いずれにせよこの二国はフランスにとっていつもの邪魔ばかりしてきた相手である。

 

そんな相手を蹴落とそうとする、実に愉快である筈だった。なのにである、それを逆手に取ってか条件付きの承諾だ。

しかも、明を一端の独立国として扱えと言う。これでは、植民地にする事は無論の事、日本の庇護かから脱させる事は事実上不可能となった。日本の事だ、直後に同盟を結び防備を固めさせるであろう。

 

米仏は政治的に負けたのだ、彼等は焦りすぎた。その結果、仲間意識と言わないでもない間柄のソ連は更に弱体化し、日本は更にロマノヴァへ力を入れて軍を強化するだろう。

もはや後戻りは出来ない。彼等はだんだんと協力し合うようになる、その傍ら日本は国連総会で次の発言をした。

 

『ドイツのヴェルサイユ条約内の艦艇及び戦車の開発の制限緩和』

 

である。

 

欧州の国々はその発言に驚愕すると共に、国土が蚊帳の外である日本に詰め寄り言う。

 

『本国が我らの土地に無いのだから言えるのだ。』と

 

それに対しての日本の回答はドイツ人には心地の良い響きであったであろう。

 

『自分たちの国を自分たちの手で守る術の無い国に、独立国を名乗らせておきてたくはない。ドイツは自分で立つことのできる国であろう。』

 

何を言っているのだ?と思う国がいる一方で東ヨーロッパの中小国は違った。ドイツに好印象を抱かせる事が出来れば、万が一ソ連と事を構えることになった場合、背後に気を付けることなく全力で事に当たれるのでは?と。

それに、今からドイツを仲間に引き入れる事が出来れば必ず役に立つ。恩を売っておいても良いかもしれない。

 

彼等、防共条約機構加盟国は日本の意見に関して肯定的姿勢を示した。

 

フランスとしては面白くない、何故かつての敵に塩を送るようなことをしなければならないのか、寧ろもっと絞り上げるべきではないか?と、でなければあの戦争で出した損失に割に合わない、とでも言いたげである。が、であるあの戦争で出した損害の9割は自業自得と言うものだ。

古臭い戦法に括り、自分たちは何時までも最強の陸軍を持っていると言う傲り、それが形となっただけだ。決してドイツだけのせいではない。

 

フランスは、フランスがソ連をけしかけた事を、日本が知っている可能性が高いと踏んでいた。

その為に、ドイツを日本側にする事でフランスと真向から戦える国を作り上げたいのだ、と考えていた。

だからこそ、ヴェルサイユ条約の緩和は断じて受け入れられない。

 

それに同調したのは、ドイツによる被害者。ベルギーと内部工作によって国が一度は2つに別れた、オランダである。

両国はフランスと共にこの案に対して大いに反対の意思を印す、

『我々はアレを忘れない』とでも言うような態度である。

 

この場において数少ない中立国はスイスと南米諸国となんとスペインであった。

南米が中立的なのは、欧米の事に頭を突っ込みたくない事と更に言えばこの事に関して、興味を示していないのが要因であろう。なまじ遠いからこそ出来る所業だ。

 

彼等の勢力を味方につけた方が今後世界を一歩先に進めることが出来る、そう言われても過言ではない。

まだまだ発展途上の南米に様々な輸出品を送り出すのは、南米に国土がほど近い国、それは日本とアメリカ。貿易による戦争が始まりつつある。

 

結局のところ国際連盟でのドイツの扱いはあいも変わらずであるが、ここに来て東欧とドイツは急接近していく事となる。

意外な者たちが手を取り合い始め、一つの共同声明を発することとなる。その組織の名はEEC〘東ヨーロッパ共同体〙と呼ばれる、共栄圏の確立であった。

 

この共栄圏の確立には、一人の建築家が牽引していたと言われている。どうやらその人物は、我が国に訪問した際、とある政治思想を持った青年と話をしたことにより、この方策を考えついたと言う。

彼の名はアドルフ・ヒトラー、芸術に傾倒し風景画をこよなく愛する、一人の建築家兼政治家である。

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悪魔たちの囁き

1992年私達ももう中学生になるんだという頃、私の友達の朱莉ちゃん。あーちゃんの家に遊びに行っていた、私達はお世辞にも頭が良いとは言い難かったけど、別に何かに追われている訳でもないので、そんな心配したこともなかった。

 

そんな日、あーちゃんの曾お祖母さんと出会った。話は聞いたことがあったけど、実際に合うのは私は初めてで、以外にも若々しい姿に私にも要ればこんな感じだったのだろうか?と、少しだけ考えてしまった。

 

始め、曾お祖母さんとあった時一番驚いたのは、話す言葉だった。舌足らずなエスペラントを話し、ドイツ語を流暢に話す姿に。

どうしてドイツ語だとわかったのか、それはあーちゃんが同時翻訳していたからだ。昔から聞いているのだから、ある程度話せるのだという。

だから、私も少し勉強をした。親しくなってからは、良く昔話を聞かせてもらった。

 

中学生になった頃の私は、歴史に対してより深く知りたいと思うようになっていた。きっとあーちゃんの影響だろう。それに、授業で『論文を書こう』と決められたのもある。

特に、ロマノヴァ国内だけでなく。より広く近代の世界の事を調べる内に、生き字引とでも言う存在が必要不可欠となっていた。

 

そこで一番身近だったのが、あーちゃんの曾お祖母さんだった。最初は当たり障りない事から聞いていき、昔の生活や出来事を聞いていくにつれて、時代がどんどん登っていきまだ10歳の頃の話が始まった。

 

第一次世界大戦、ドイツの敗戦そこからの生活の困窮。朧げながら浮かぶ母の病死、戦災孤児として教会に預けられるも満足な食事が捕れない日々。自分よりも小さい子供の世話、蚤や壁蝨による不快感。

 

今とは余りにもかけ離れた環境の中、誰かが教会の扉を叩いて生活が一変した事。

初めて食べたものは、濁った少し塩っぱいスープと中には豚肉とニンジン、白く太い根菜を輪切りにしたの、そしてじゃが芋が入っていた。

 

恐らく豚汁だろう、私はあまり好きじゃないけど好きな人は好きよね。話がそれちゃった。

 

そんなものが提供され始めると、教会も生活に余裕が出来てくるから他の部分も良くなって行ったと言う。

教会を支え自分達孤児を救ったのは誰なのか、少女となった彼女はそれを知りたかった。

 

そして、昔話に出てくる遠い黄色い肌を持った悪魔が、私達に施しをしていると知る。

すると、皆怖がっていた筈なのに『なんだ大丈夫じゃないか』と言う心になる。

 

今となっては笑える事だがそれが、怖かったのだという。自分の娘が日本人と結婚する時は猛反対したと。

 

 

 

 

 

1926年纏まりの無い世界は混迷の中、だがしかし確かにそこにある平和を謳歌していた。

大々的な戦闘は鳴りを潜め、人種的な弾圧位がそこに存在している。

そして、それは小さな火を各地に灯す。

 

東南アジアは日本と言う強力な国がいる為に表面的なものは存在しないが、それでもオランダ植民地であるインドネシアやニューギニアでは昂然と弾圧が行われ、毎年少なくないものが殺されている。いずれも人権は無い。

 

国際社会で格好の良い仕草は、他国の空気を読むことだ。昂然と行われている民族弾圧もまた、見過ごすのが良いと誰もが考えているが、この時代それが普遍的な価値観だと言うのは間違いであろう。

 

ある時を堺に、オランダ型の植民地経営は批判を呼ぶ。それはたった一枚の写真から始まった、白人の婦人が黄色人種の使用人たちに何やらコインを投げ渡している写真だ。

 

よく見れば、投げ渡しているのではなく下に落として拾わせている。誰が撮ったかわからぬものだが、これが世界中の新聞に記載されたのだ。題名は『私の飼っているサル』である。

こんな題名を、つける方も悪いと思うがこれに英国植民地管理者達が難色を示した。

 

自分たちも同じような事をしていると、友好国に思わせたくなかったのであろう。この写真から、オランダに対する英国の激しいバッシングが始まった。

各国の新聞にこれに対する批判を掲載したのだ、題名『前時代的で野蛮な者たち』と言うタイトルだ。完全に煽っている。

 

では、その煽っている英国はどうなのかと言われれば、かなり植民地経営はしっかりしたものだ。より利益を追求すると、自然と植民地に対する緩和措置をせざる負えなくなるがゆえに、英国本土と変わらぬ程には発展しているという。

 インドの階級制度のような最早形骸化していたそれを、再び世に広めるような事もせず、より安定的に生活を送らせ生産性を上げたことにより住民から独立運動など起きようもない。

 

それに日本も同調する、足並み揃えた2大国にオランダは成す術なく屈服するかと思われたが、そうは問屋がおろさない。

米仏が現れる。最早完全に勢力が別れたであろうこの国は、植民地経営として日英を許せない。

 

この対立構造は、ドイツ国内における戦災孤児達の扱いにも良く現れていた。

日本は代々統治に関して一つの事柄を基に、その土地に住む者たちを懐柔していた、曰く『土地の者を我等がものとするならば、先ずは女、子供を大切にすべし。さすれば自ずと協力的となる。』

 

決して男を優遇しない、必ず家にいる女・子供を目標として支援を行っていく、家庭を護る者たちが自分達に危害を相手が加えないと知ると、途端に心を開いていく。そうすると、家の男共は成す術なく協力せざるを得なくなってしまう。

体の良い人質であるが、これが少しずつ変わって統治に機能する。

 

だからこそ、孤児達に飯を与え未亡人達に職を与え男達にそれらを見せ占める。

それだけで、周囲の考えが変わっていき比較されるのだ。

 

英国は、100年の間日本と言う存在を傍らで見てきたそれ故に、そのやり方を知っている。だから真似るのだ、そうすれば何れ自分たちの利益となることを理解しているのだ。

 

仏国は違った、ドイツの力を削ごうと躍起になり全くと行っていいほど支援などしない。仏国が支援を行っていた地区は、乳幼児死亡者率が戦時中から1.5倍程上がる。明らかに弱体化させるつもりであろう。

 

3分割で行われるこの作業、2つの目的が交差する中ワイマール共和政での選挙が始まる。

立候補に名乗りを上げる者たち、それぞれの党首は選挙運動を加熱させいよいよ最高潮へと突入する中、誰よりも一際輝く者がいた。

 

アドルフ・ヒトラーである。

まだまだ弱小政党である『国家社会主義ドイツ労働者党』は、福祉政策を目玉に現在行われている、連合国による孤児の救済。特に仏に対して非常に大きな不満を声高に宣言した。

 

彼の言葉は非常に解りやすく、時には自らが愛する絵画に例えて話を交え、張り詰めた緊張を和らげる。

その言葉には何かを魅力する力があるのだろうか?決して多くはない聴衆を前にして、堂々と立ち居振る舞い演説を終える。

 

この選挙によってナチス党は5議席から、一気に40議席まで拡大する。

議会における勢力として1割未満ではあるが、決して存在を無視できないものとなる。

そして、議席を獲得した彼等の最初の仕事は仏による孤児の虐殺についての文言であった。

 

彼等が当選した背景には前述の通り、フランス支援地帯における、乳幼児死亡者率の上昇から見る、明らかなるフランスのドイツ人蔑視を辞めさせたいと言う気持ちからだった。

 

それ程までに大事となっているにも関わらず、どうしてあなた方はそれを見て見ぬ振りをするのかと、糾弾する姿に国民たち特に投票した者たちはその心を確信する。彼等ならば変えてくれると。

 

それに対する議会は冷ややかであった、敗戦国が戦勝国になにか口を出せるのだろうか?いや、出来ない。そう彼等は思ってしまっている。そこで立ち止まってしまっている、勿論わかっている者たちもいるが、行動に移そうにも力を振るう場所は無い。

 

だが、こうしてこの党が出てくると次第に同じ考えを持つ者たちが集まり手を取り合う。

ヒトラーと言う人物の周囲に力が集まりだした瞬間であった。

 

数年後彼は東欧諸国とECCを確立させ、『世界に冠たるドイツを再び』のスローガンの基、オリンピックを招致する。

 

 

 

ドイツで各国がそんな事をしている時、大正天皇が崩御なされた。1926年の12月の事であった。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

私の役割

大和型を少しずつ描き始めてるので、ゆっくりペース。


1992年秋中学での生活や、部活動等の忙しい中また歴史の授業が始まる。

 

『最後となりますがこれより登場いたしますのは、大日本帝国最初の本格的対戦車戦闘を視野に入れた主力戦車となりました。87式軽戦車となります。』

 

 

【挿絵表示】

 

 

画面の右端から現れたのは、小さな戦車。その姿は今のものと比べれば遥かに弱々しいが、人の横に並べばその大きさは一目瞭然で、それなりに大きい事がわかる。

主砲も細く弱々しいが、そこから発射される砲撃は的を正確に居抜き、土煙を舞い上がらせる。

 

歓声が響き渡る映像を見ている…なんで授業中にこんなものを見なければならないのか、授業に関係ないのに。

 

「さて、次に見るのは英国のなんだが。昨今、日英の間にはカーテンと呼ばれる対立関係が産まれ始めている。この2つの大国の動静を我々中小国は、じっくりと見極めなければならない。

その為には、双方の軍事技術から顧みるのがもっとも早いだろう。」

 

それ関連か、確かに昨今での対立関係は非常に宜しく無く正しく“冷戦”とでも形容される事態になっている。

宇宙開発競争も、その代表的な例だろう。

 

この冷戦は非常に情勢が難しく、どの国がどちらについているのか?特にEUは中立の立場で日英の板挟みにあっている構図だ、彼等がいるからこそ全面戦争にならないのでは?と、専門家の間では言われている。

核兵器なんて使った事もない兵器での恫喝の仕合、ロケット開発での宇宙進出。

どちらが先に倒れるのか、全く解らないチキンレース。

 

私達の世代はそんな時代を生きなければならない、幸いな事にどちらも統制自由経済型の国。行き過ぎることもせず、論理感を共有しているからこそ、そこまで大々的に争わない。

最も私達の国みたいな、どちらかの属国関係のある国家はいつものヒヤヒヤしながら見る外ない。

 

映像も終わり、今月の社会の宿題のテーマは『歴史から顧みる冷戦の正しい終わらせ方』の自分なりの考察である。

なんだか、また難しそうな内容。一月もあるし、苦手な人じゃなければ一週間位で形は、見えてくるんじゃないかなぁ。

 

「ニーナちゃん、部活一緒に行こ!」

 

あーちゃんは昔から変わらない、因みに私は柔道の部活動に入っている。護身用もあるけれど、これが結構楽しいのだ。素手で殴りかかってきた相手のいなし方。ナイフや棒や銃等武器を持った相手への対処方法、捕縛の仕方など、もしもの時にきっと役に立つ!

 

ま、アメリカ共和国に行かなければ使わないと思うけど、あそこ治安が最悪だって話だし銃を携帯した方が安全だって聞くけどね。

 

 

 

 

 

 

1927年この2年間私はあの戦訓から、再度主力戦車となる車両の開発責任者として選ばれていた。

責任者と言っても名前だけの素人、責任を取るだけの仕事だ。

軍令部からの仕様と、私の私案、そしてより安価な車両の3つが選考を通過しそれぞれが組み立てられた。この3つの内の一両が採用される事となるだろう。

 

 

【挿絵表示】

 

 

試案は軽戦車である、そして軍令部からの仕様は重戦車である。

正直に言って、安価なものは装甲厚が余りにも薄い為に実戦では20粍砲によって貫通されるのが明白であるから、採用される事は無いであろう。

 

最低でも25粍無ければ諸外国の対戦車砲の攻撃をまともに受ける事が出来ないのだ。現在主力とされている20粍級は、我々の12.7粍級よりも遥かに貫徹能力が高い、あれと同じ目には二度と会いたくは無い。

 

だが同時に、装甲厚を多くしすぎた場合機動力だけでなく、泥等に足を取られる事となる。では、履帯を広くすれば良いというが履帯を広くするという事は、エンジン出力を余計に消費しなければならないし、履帯が破損した場合の交換も迅速に行えない。

 

そこに妥協点を生み出してなんとか形にしたのが、あの軽戦車。現在可現実化が可能な範囲で、尚且新機軸を取り込んだ車両。

油圧制御により、より確実なトランスミッションの駆動と搭乗員への負担軽減を行う。

これにより、今までならば途轍もなく重かった操作を片手で行うことが可能だ。

 

勿論難燃性に関しても織り込み済みだ、制御用油は通常の機械油よりも更に可燃性の低い物を新たに開発するなど、並々ならぬ努力の基これ等を作ってきた。

潤滑剤に関しても新たに、より寒冷地に強い完全飽和制炭化水素であり、これだけでも特許料を貰える。

 

仕様書通りの物の試作組と、試案は別個であるためどちらがより優れているか競争であるが向こうは、既存の技術の寄せ集め。枯れた技術の水平思考で来る筈だ、信頼性は向こうの方がある可能性もある。そこは押して図るべし。

 

さて、横並びに並べられた各車は一斉にエンジンを始動させ、互いに音をたてる。

それぞれが音を奏でる中、一両だけガラガラとディーゼルの音が鳴り響く。我々の車両だ。

 

それに周囲が騒然とする、出力重量比はガソリンエンジンの方が優れているのにも関わらず、敢えて使っているのは何故なのか。ザワザワとする中、ピストルの音が鳴り響き500m走がはじまる。

 

先行するのは我等の車両、最高速度よりも加速性と旋回性に重点を置いた設計により、グングンと差を付け直ぐに最高速度である。

次に続くのは、なんとあの重戦車だった。加速が以外にも良いのかカタログスペック以上の速度だ。

 

最後尾は、あの安価な車両だがその安定性は目をみはる物がある。が、速いのは我々だ。

 

見事一着、幸先の良い物だこのまま順調に行けば良いが、次に登坂能力である。

坂を登るには強力なトルクが必要となるため、必然的に高トルクのディーゼルに部が出る。

 

この性能は、どれほど歩兵と同じような悪路を走破できるのか、と言う所に行き着く。従って、速度重視のガソリンよりもパワー重視の泥地や岩場ではディーゼルの方がより力が伝わりやすいため、我々の車両はこれにも高評価を得た。最も、重戦車は以外にも登った、どうも無限軌道の方に何かしらの細工を施してあるようだ。

 

その後砲撃試験等を行った結果、対戦車能力は我々の物が一番高いものの、対物性能に関して言えば口径の問題で最も低い結果となった。だが、手数は遥かに上である事から充分に機能するであろう。

 

結果として言えば、我々の戦車は他のどの物よりも優れた性能を発揮した。だが、逆に言えば新機軸の物を使うがために、新たに生産ラインを造らなければならないという、既存の利権に真向からぶつかる。だが、これこそが用兵側からの答えだ、もしこれを無視すればこの国は終わるだろう。

 

数日後採用が決定され、量産が開始されていく。ラインが完成するまで凡そ二月、少しずつ増えていく車両に喜びを感じつつも、私にはある事例が言い渡された。

 

重戦車の開発続行、その責任者となる事だ。技術者たちを引き連れて、重戦車の開発者たちと意見を交換していく事となる。前線から離れてしまうのは少し、心残りがあるが私の役目ならばそれを全うするのが武士の勤めというもの。

 

そこから始まるは、ひたすらの改良。この戦車を基に後に日本軍で前期、後期合わせ最も生産された車両が産まれることとなる。

97式中戦車だ。

もっとも、それまでに我々の開発した87式の新規設計案を基にした95式が開発されたりと、道は険しくのしかかっていた。

 

これが、国の為と信じて今日もまた資料を漁り、前線からの報告を下にした車両の開発を進めていく。そして、中にはロマノヴァのドクトリンである機動防御を主体とした車両の開発にも着手することとなり、我々は大所帯のチームとなっていく。

 

そんな頃だろうか?フランスでは植民地による反乱が始まりつつあった、フランスは外人部隊を設立し植民地での戦闘に従事させていくも、同時に我々のPMCとかち合う場面も現れていく。

それは、戦争の前哨戦であるのだろうか?戦訓は取り入れてこそ、広大な大地に無限軌道は不向きである。

 

 




ニーナが習っているのは、創設当初の柔道です。
今のとは比べ物にならないほど実践的で、殺傷能力が極めて高いものです。
柔道が柔術の一派と考えられていた当初のものです。
つまり、相撲や合気道の形もあり、殴る蹴る等も勿論存在します。
目潰しや金的は勿論のこと、指で喉仏を潰したり関節を外すのは当たり前のような、より実践的な武術です。



誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

阿爾及戦争わ

「植民地の独立、この出来事は当時世界中で起こっていた民族独立運動の一端と言われているのだが、ここで皆に質問だ。じゃあなぜ、今の世界は殆ど二分されているような形となっていると思う?」

 

1994年中学三年の歴史の授業、もう1900年代の歴史に入って2ヶ月経っているが未だに1930年だ。

 

『この部分の、歴史は非常に濃厚で現在の世界の基となった国々の事情を多種多様な面から見ることにより、世界大戦を如何にして回避するのか。それが私達の世代に課せられた物だ。』

 

というのが歴史主任教師の考えらしい、もっとも受験の時に必要なものは揃えてくれているから、何も文句はない。

因みに私はウラジオストクの学校に受験志望を出した、あそこは歴史。特に現代史を専攻に置いている学校なので、親にもあそこを勧められた。もっと色々な事を知りたいのだ。

私に、歴史の面白さを説いてくれたあーちゃんに感謝。

なお、あーちゃんはシェフになりたいようで、そっちの方面に行くそうだ。

 

「日英の2カ国が植民地で行ってきた政策は、現在でも行われている、〘同化〙という形態であったのが大きいと言われている。相手の文化をある程度許容しながら相手を呑み込んでいく。言ってしまえば、文化を失わせたと言うものだろう。

それ故に、1900年代以前に領土となった場所を除けば、その悉くが生活に満足している。」

 

でも、私達の国は違う。同化政策の基形造られた訳ではない、私達の国の場合は経済を握られているのだ。

私達の国は、日本帝国無しでは生きられない様作り変えられてしまっている。

建国の経緯からそうなる運命であったのは、誰もが認識していた事であろうが、それでも独立国として何とか体裁を保っている。

 

「ただ、1930年代。まだまだ人種差別全盛の時代においてこの事に言及する者達は皆無だったと言う。

何せ、植民地を持っているのは当たり前と言う感覚だ、当事者達が何も感じていなければ声すら上げない。

それ程までに当時の、日英の環境は善かったのだろう。今として見れば、悍しいだけだがね。」

 

文化を完全に破壊する事の恐ろしさ、でもきっとそれはフランスのような圧政よりも遥かにマシで、不法に国境を越えようとする動きもあったという。ただ、自国の利益が逃げてしまうのをただ黙って見ているだけじゃなかった。

 

可能な限り弾圧によって、国から出ないようにしていたのだがそれが祟ってしまった。それが今から60年程に前のこと。半世紀も経ってない、そんな事身近に起きていたならば私は何を成すのだろうか?

 

 

 

 

 

 

1930年

最初の一発はとある露店から始まった、黒人の男が開くそこに白人の男性が買い付けを行っていた。が、何やら揉め事を起こしたようで殴り合いが始まったそうだ。そして、白人の男は逆上したのか保持していた銃でアラブ人を撃った。それを見ていた周囲の黒人が、白人男性を殴り殺した。

最初はこんな事件が発端であったようだ。

 

ようだ、と言うのは何故か。私自身聞いた限りしかわからないのだ、だから申し訳ないが箇条書きで書かせていただく。

 

・一発の弾丸が発射され、加害者被害者双方が死ぬ

 

・フランスの外人部隊が懲罰として周辺住民を粛清する

 

・粛清に反発した者達が旧い武器を手に取り、軍施設を襲撃そのまま武器を奪取(凡そ70ヶ所に対する同時襲撃)

 

・襲撃者達はアルジェリア民族解放戦線(以後FLN)を名乗り、フランスに対して宣戦を布告

 

ざっと言えばこんな流れだ、このことに関して日本は公には、首を突っ込む事はしなかった。

内政に干渉するからと言うのは聞こえがいいが、要は旨味があまり無かったと言うのが本音だ。

 

アルジェリアは長い間フランスからの圧政に対して鬱憤が溜まっており、それが爆発した形である。それが直接白人に対して非常に過激となるのは必然であった。

 

この運動が隣国に飛び火するのでは?と当時考えられていたが、どうもフランス内部の統治のあり方が非常に悪いものであったからと、現在では知られている。

それ故に、日本国もこれに対して警戒を強めたが杞憂に終わった。

 

話がそれたな、日本国は公的には介入しなかったが国内で設立された民間軍事会社『Road guide』彼らの姿が、現地で確認されている。彼等がどういうルートでアルジェリアに渡ったのか、1950年の今となってもハッキリとしていないが、噂によればイタリアから渡ったとされている。

 

(※1973年に公的にイタリアの関与が認められた。なお、秘密裏に日本政府が武器の輸出を行っていたと言う疑いが、MI6の報告で存在している。)

 

彼等の使用していた兵器は、日本国内で開発され軍の新型主力歩兵装備選定で落選した八十二式短機関銃であったのだが、少々改良が加えられ、より量産性に特化したストックを装備していた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

市街地での戦闘が行われ、無闇矢鱈に砲撃を行えないフランス軍は窮地に立たされる。

アルジェリア領のおおよそ7割、人口密集地のおおよそ8割に該当する地域はFLNの勢力圏へと組み込まれ、民衆はそれを支持した。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

これに黙ってやられる訳にはいかないフランス中央政府は、アルジェリアに軍を派遣するのだが、そう簡単に事はいかない。

別の植民地でも小規模に反乱の兆しが見受けられたのだ、各地から兵力を抽出する事が出来ない。

情報統制をしていたにも関わらず、アフリカ各地に伝播していった情報。どうせ英国が何かやっていたのだろう。

(※1976年MI6開示情報において関与が確認される)

 

それにより、Rg社の協力を得たFLNは勢い付き数の上で劣勢となったフランス軍に対して積極的に攻勢を仕掛けていく。

と言っても、真正面からの攻撃は装甲車両を多数保有していたフランス外人部隊とぶつかったらとてもでは無いが、勝ち目がない。

 

故に歴史上に見るゲリラ戦が始まった。勢力圏の街へと侵入した場合、フランス軍は何も問題なく通り過ぎるのだが、彼等が通り過ぎた後輜重隊が来た時様相が一変した。

相次ぐ襲撃、先ず初めに無線を搭載している車両が狙われ、そこに擲弾の雨が降り注ぐ。

 

どこからとも無く降り注ぐそれに、輜重隊は成すすべもなく壊走し物資を置いて逃げる始末。

いままでこんな戦争、誰もが経験したことが無い。アジアでは日常茶飯事であるから、Rg社の者達が取った作戦は非常に効果的であったと言える。

 

だが、流石に一国を相手取るのは甚だバカバカしいものだ。普通物量で押し潰されてもおかしくはない、だが民衆に紛れる彼等にそれは通用しなかった。

 

そこから、フランスは業を煮やし解らなければ無差別に攻撃すれば良いのだと、結論付ける。

民間人のいる家屋を破壊し、民間人を殺し尋問し有りもしない罪で即断即決の基その場で銃殺刑を執行する。

 

そんなものを行い見せしめとする事で、沈静化しようと目論んだのだろうが火に油を注ぐ事となる。

戦闘はより激化し、遂にはコロンにその魔の手が伸びる。

先住民とコロンは、完全に離別し例え隣にいたとしても殺し合いを興ずる。

 

流石にこの事態は不味いと、遂に国連が動いた。日英独蘭米からなる調査団の派遣が行われる。このとき既に1932年であった、発覚するまでどれほど隠蔽していたのか、これで明らかになっていく。

 

その凄惨さから、調査団はフランスによるアルジェリア統治に対して認められないと言う結論を出し、駐留軍の即時撤退を勧告する。

それを渋るフランスに同情の余地はあるものの、叩けるものは叩くのが欧州流である。ここぞとばかりに各国がフランス叩きを開始する。

これは堪らないと、数ヶ月後撤退を開始するもアルジェリアは無政府状態である。

 

FLNが統治を行うむねを了承すると、それに対してイタリアが協力を申し出る。

イタリア王国アルジェリアの誕生である。

もっとも、完全な独立国であり、国家元首にイタリアの王エマヌエーレ3世を戴くイタリア連邦の構成国となった。

 

非常に寛容な政策をとるようなこの国に、アルジェリア住民は最初懐疑的であったが、次第に心を開き第二次世界大戦の始まる頃には完全にイタリアと協力関係を持つようになる。

彼等は戦争中共に肩を並べたという。

 

因みにこの戦闘で装輪式装甲車にも本腰を入れることになる。

 

 

 

 

 

 

 

『貴方!ご飯よ〜。何してるの?』

 

『うん?死んだ爺さんの遺品整理、かな。こんな本大事にしまってたからね、自著伝にして売ろうとでもしてたのかなってね。ちょっと補足も入れといて上げたんだよ。』

 

妻はふ〜んと言う感じの顔をしながらこれを眺めている。

 

『そう言えば弟さん、ロマノヴァに婿入りしたのよね。形見分けとかしたのよね?』

 

『…そりゃしたけどさ、あんまりこう言うのに興味なさそうだったんでな?それにこれだって、つい最近見つけたばかりだしね。この前電話していたときは、孫が産まれたとか言ってたな。今だと、中等科卒業くらいか?ま、そんな事言っても仕方ないよ、それよりも飯にしよう。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

旅客機と爆撃機

1994年中学3年の夏、このカンカン照りの日差しの中で私達は体育をやらされている。

なんでこんな日にグラウンドで徒競走なんてしなければならないのか、全くもって理解し難い。

 

『暑い、なんでこんなにも暑いの…』

 

『ニーナちゃん、でもウラジオストクはもっと暑いし日本なんてそれこそとんでもなく暑いみたいだけど、この位でバテてちゃだめだよ?』

 

クソっ肌の色が白いからか、紫外線に弱く顔が紅くなるのに対してあーちゃんは、肌が黄色いから寧ろ小麦色になって全然平気そうに見える。

 

『その肌の色が羨ましぃなぁ。』

 

『でも、ニーナちゃんのほうが寒さに強いじゃない。お互い様だよ。それに、そんなに暑いの嫌なら泳いでくれば良いじゃん、エニセイ川で。』

 

 

嫌だよ、あんな所で泳いだら凍死しちゃう。

 

『でも、いいなぁ。私、海とか一回見てみたいんだぁ。ねぇねぇ、もしウラジオストクに暮らすようになったら、遊びに行っていい?良いよね?』

 

な、何という圧力。ま、屈しても良いけど。

 

『良いけど、飛行機とやっぱりシベリア鉄道経由どっちで来るの?シベリア鉄道の、方が半額で済むはずだけど。』

 

『ウ~ン、そんなに日にちがないと思うからやっぱり飛行機かな?でも、その日の天候によるかも。』

 

何にせよ、暑い夏空の下体育が続く。あ、飛行機雲…そう言えば、旅客機って何時ぐらいから本格的な運用が成されたんだろう、今まで何にも思わなかったけど。

あぁ、こうなると気になって仕方ないのよね、私の悪い癖。

 

今度図書館で旧い図面とか調べて見ようかしら?

 

 

 

 

 

 

 

1930年様々な国が様々な問題を抱えていた時代、通信網の発達により日本国では一家に一台ラジオの時代がやって来た。

より小型化した真空管により、価格は低く抑えられ今や生活必需品、と呼ばれている。

そんな日本国内で、とある航空機が空を飛んだのもこの時期。

 

鶴丸飛行機と呼ばれたそれは、純白の塗装に頭頂部が赤色に塗装された所謂、丹頂鶴のような狙った塗装を施された双発機である。

 

【挿絵表示】

 

この機体は当時としてはかなり優秀な機体で、日本の空の輸送はこいつで決まりと言われる程の完成度であった。

 

ヨーロッパでこの時代有名なものはユンカースju52があったのに対してアジアではこいつが主力航空機と目されていた。ただ、ju52の運用開始が1935年くらいだったのに対し、鶴丸は1930年から運用されていたのだから、こいつが如何に先進的であったかよくわかるだろう。

しかし、それでも未だに欧州〜亜細亜の間を航空機が制するには時間が必要と思われたが、当時の日本航空がとある航路を計画した。

 

日英航空路。そう言う名称で計画されたそれは、実現はほぼ不可能であろうと言われたもの。

英国のブリティッシュ・エアウェイは、これに対して冷ややかであった。まだまだ早いと、この計画を人蹴りした。もっとも何度か飛行場を使用して飛び石のように行く、と言うこの計画に空港の上許可を出された時、日本航空は歓喜に満ち溢れていたと言う。

 

ただ、既存の機体ではどうしても航続距離が足りない、これでは東京から沖縄すら到着できるの怪しいものだ。

限界ギリギリで届かない可能性の方が高い、周囲からは無理だと言う声が聞こえてくるも、それを何とかして黙らせたいと言うのが企業としての本音であった。

 

陸海軍も、この機体の航続距離に不満があるものの輸送機として使用を開始していただけに、この航路に首を突っ込みたくなる。

確言う私は、戦車開発を勧めていた折何故だが知らんが引っ張られ協力してやれと言われた。お門違いも甚だしい。

 

正直に一言だけ言ってやったのだ、『どんなに素晴らしい機体を作ったところでエンジンが駄目なら、戦車も飛行機もただの鉄屑も同然だ』と。そしたら、そりゃそうだよなぁと言うが早いか直ぐにエンジンの開発を急いだようだ。

 

彼等が何故急いでいるか、それは4年に一度の祭典。オリンピックが1936年にベルリンで開催されるのだ。1932年には間に合わないのは、誰しも解っている。だからせめて、36年には航空機でベルリンまで行けるよう開発を行っている。

 

そして、もう一つ。空を征するのは我々だと言う意思表示を、無自覚にも他国に刷り込む。そして、例えそれが解っていたとしても、旅客機の発着を政府は止められない。オリンピックだ、何の違法性も無い物をそんな事で止めたら、世界中からバッシングを浴びるのは目に見えている。それに漬け込んでと言うわけだ。

 

それに、選手団をシベリア鉄道で欧州に向かわせたくないと言う理由もある。

高確率で何かしらの検問に引っ掛かる可能性があるのだ、ソヴィエトはだからこそ信用出来ない。特にロマノヴァの代表団は深刻だろう、最悪の場合謂れのない罪に問われて投獄されかねない。

 

それ故に、日本国代表団と共に船舶で欧州まで行くのだが如何せん時間がかかる。そう言う裏のない側面もあるのだ。

 

さて、この大陸横断機であるが勿論この時代には不可能ではないか?とどこかで考えられていた、確かにその通りで次世代の機体でも結局3000kmがせいぜいの航続距離だ。

だが、逆に言えば、それだけのポテンシャルを秘めていて例えば鶴丸飛行機は、胴体の形状を一部変更した爆撃機タイプが存在する。

 

ペイロードの関係上航続距離を一部犠牲にし、機体に対空銃座を取り付けたりと、武装を施されていたりする。

旅客機改造機の為、直接的な攻撃力は無いに等しいが高高度からの爆撃であれば充分に機能するだろう。

 

もっともこの時期の旅客機や軍用機は双方共に、供用の物が目立つので別段珍しい事でもなかった。

この機体は便宜上90式双発爆撃と呼ばれていたが、正式な名称は与えられなかった。(※正式の兵器ではなかった疑いがある。)

 

 

【挿絵表示】

 

 

そして、こいつは当時の航空機としてはかなりの速度がある、出現当時。戦闘機の巡航速度はおおよそ300km/h、最高速度に至っては360km/hが関の山。つまり、この爆撃機に着いてこれる戦闘機はこの時期あまりいなかった。

 

そんな事があるので、戦闘機不要論なんて物が出てくるが、冷静な者がいる為仲裁した。

『航空機はこれから進化していく、今すぐに結論を出すのは時期尚早ではないか?』と、これにより戦闘機不要論は取り沙汰される事なく終わりを迎える。

 

さて、こんな進化を遂げていく航空機その大きさは船よりも小さく目で見つけるのは至難の業だ。

そこで、レーダーであるが日本軍はある程度実用化の目処が立っていた。

 

と言っても、未だに基地用で艦艇に搭載するには未だに大きく、更にAスコープと言うスコープでの索敵は非常に面倒である。

これを解決するにはBスコープないしPスコープの開発が待たれる。

 

だが、これは悪いことばかりではない。要は一方通行の電波を送ることができれば、敵味方の識別ができるのだ。

それ故に、1930年代後半になると日本の機体は微小ながら、日本軍独自の周波数を発する事となる。

 

これにより、事故の発生率は低下し緊急着陸などより容易に行うことが出来るようになった。

勿論間接的な誘導を行うにはそれ相応の計算が必要で、それを行うにはまだまだ技術は発達していなかった。

 

日本の航空機開発は、軍民が手を取り合い足りないものを補い合う形となっていった。

私はそれを外から見ることが出来た、数少ない人なのかもしれない。

 

余談だが、どっかの誰かは知らないが戦車で空を飛べば一石二鳥だ!とか抜かすやつがいた、そんな事できるわけ無いのに研究させようとするか?そんなものに予算が降りるはずもなく、ボツとなったが、あれを提出したのは何処の誰だ?

 

それと、この年私は晴れて陸軍少将へと位が上がったのだが、未だに歩兵科なのだ。この数年間技術科にいたはずなのだが、これは私に戻ってこいと言っていたのだろう。

現実、私は現場に出て混成師団の師団長をやることになるのだが

それはまた別の話になる。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

軍事と将棋

棋譜はピヨ将棋を使用しています。

何故家康は、名人制度を創ったのか。私なりの帰結です。


1995年1月、駒台の上にパチンと1六に桂馬が打たれ、後手はうめき『負けました』とハッキリとした日本語で負けを認めた。

第50期王将戦、遂に4冠王は負け王将はそのタイトルを防衛した、こんな事もう二度と起こらないだろうとコメンテーターが話し始めたところで、テレビを消した。

 

私が何でこんなものを見ているのか、それは単に暇だからだ。私が住んでいるここ、ノリリスクは人口が3万程度の都市だ。

冬場は太陽が殆ど登らず、基本的に12月の後半からは学校が休みになる。友達の家に行くのも良いが、一人で行くことはあまりお勧めされない。凍死のリスクがあるから、自然と近場の友人宅に行くことが多くなるのだ。

 

だからこうしてテレビを見てたんだけど、今日の番組はちょっと変則的で将棋特集だらけ。

どうやら、4冠王と呼ぼれている人が最後の5つ目のタイトルを掛けて、タイトル保持者と最後の戦いをするとかで大日本帝国加盟国の間では大変な騒ぎとなっているらしい。もっとも、私はあんまり知らないけど、アチェーツは気になっているようで、早く書類を片付けようとしていた。

 

バタバタと音が聞こえバンッと言う音と共にドアが開く。

 

『どうだ!間に合ったか!?』

 

私は無言で首を横に振る、ガックシと項垂れるアチェーツ。

 

『えっとじゃあ、どっちが買ったんだ?』

 

『王将』

 

『まあ、無理だろうなぁ。気迫が違ったもんな、地震からこんな立ち直り方をさりちゃあ、勝てないよ。』

 

ふぅん、そんなに面白いのかな?ボードゲームって古臭いイメージがあるし、学校の必須科目でやってるから難しいのは知ってる。

 

『ねえ、棋士ってさ何の仕事してるの?』

 

『あ?そうだな、例えば4冠王は軍事作戦における戦術と、それの対応策に関する研究とか、後は野戦における簡易要塞線の構築なんて論文を発表したりしてるな。』

 

 彼等棋士は軍師の役割を担う日本独自の官位のようなものだと言う。

基本的に師団規模での運用を考案し、平時には研究者や研究の責任者をやらされている人達だ。参謀もそれに該当するらしい。これがプロ棋士。

 

その実力を試すために、タイトル戦なんかも開かれていて短期的な脳の瞬発力を測る10分将棋後30秒の天将戦。

長期的な集中力を必要とする2日制の名人、王将。

平時の通常戦闘を想定した、一日制の棋聖、期王戦。

なんかがあるらしい。将棋人口は6億人、その中でプロだけがなれるらしい。実際アマチュアと戦えばまず、負けない。

 

『4冠王は万能型だ、もしかしたらと思ったけど。流石に無理だな。』

 

もしも、戦争中にそんな人が戦っていたらどれ程強かったのだろうか?

 

 

 

 

 

1931年

将棋大会が毎年開かれる。

軍師会と呼ばれるそこには、陸海問わず尉官から将官まで様々なものの姿がそこにあった。

基本的にはそれぞれの科の仕事をしながらも、実践を想定しつつ将棋でそれを試すと言うのが、この会の主旨なのだが昨今は少し状況が違う。

 

時代の流れによって兵種が増え、結果的に対応不可能なものが出てくる。そのため昨今では完全な力試しのための競技となっている。

その為勝つための研究にも余念の無いように、仕事そっちのけで考えてくる始末。正直考えどころの多いものだ。

 

パチパチと周囲から聞こえてくる音を聞きながら、私も席に座るとどうやら相手方は若い尉官のようだ。

この場では、どちらが強いかと言う真剣勝負を行うためいかに上官と言えど加減無用である。

 

因みにこの大会で負け越すと、師団や連隊等の部隊長から引きずり降ろされる弱い奴は必要ないと言う事だろう。

もっとも、実戦でそれが出来るかどうかはわからないが、実際に200年以上行われているのだから、あながち間違いではないのかもしれない。

 

っとどうやら先手の彼が仕掛けてきたらしい。急戦模様か、急戦は得意だ。

因みに、急戦が得意な奴は基本的には前ならば騎兵科に配属になっていた。今では歩兵科の戦車部隊、もしくは機械化歩兵と言ったところだろう。

 

 

ただ、昨今の情勢から将官クラスよりも参謀として、つまりは佐官としての実力が試されると言うのが大きい。

将官はもっと大きな目線が必要となる、それこそ国家間のやり取りを前提とした戦略だ。そこにボードゲームが介在する余地はない。寧ろ、全体的に平均値よりも上でなおかつ周囲の意見を取り入れられるかが、鍵となる。

 

私は将官になったが故に本来はここにくる必要は無いが、こうやって若手と戦うことでどれだけの実力があるのかを見て、誰がどんなものに適しているのか?何てのを見る指標にできるというわけだ。

 

さて、彼から仕掛けてきた将棋だが中盤まで私は押され気味であった。

 

【挿絵表示】

 

 

しかし、彼は焦っていたのか暫く進めていくと彼の駒が足りず私に手が届かない。

そこで私の反撃が開始され、次第に形勢はこちらが良くなっていく。

 

次に私は6七馬と成り駒を陣に寄せていった。ここで彼は歩を打ってそれを止めようとしたが、それは悪手だ。

 

【挿絵表示】

 

 

次に8七歩から詰み筋が存在している。その事に気が付かなかったのだろう。そこから私は1分事に寄せて行き、最後に7八産まれたと玉に当て投了となった。

 

序盤は彼に主導権を握られる形となっていたから、慢心さえなければ勝てただろう。まだまだ、若いのだ。

それに、これだけ出来れば同じ歳の頃の私よりも強いのは明白であるから、これからが楽しみというものだ。

 

もうすぐ夕方となる頃に将官達が集まって優勝者に表彰を行う。金一封だ、私は一度も貰ったことがない。

(※軍師会が後に天将戦と呼ばれる事になる、短期型の戦いである。)

 

これが終わると数日後に机上演習が行われる。優秀者と我々の全面戦争だ。基本的には、我々は完膚なきまでに潰すように戦術を練っているので、何処まで粘る事が出来るのか。そして、自分たちに足りないものは何か、それを見つけ出す事が出来る。

この年もまた、良い方向に向かえば良いと思うばかりだ。

 

 

 

 

名人戦というものもあるが、現在は形骸化している。国土が広すぎて、そんなに時間を裂く事ができないのだ。

いずれ航空技術が発達すれば、自ずと行えるようになるやもしれない。

 

 

まあ、何にせよこれで軍部の流れが全て決まる訳でもなく評価の一形態に過ぎないのだから、各々の仕事をするのが好ましい。

それに、平時には必要なものは研究者や軍政家であって、戦闘のプロである必要はないのだ。

 

その時はその時で、階級を速やかに与えられるようにするのが、私は好ましいと思っている。なにより、そう言う軍師タイプのものは基本的に野心を持って行動するものが多い、それを抑止するためにも構造改革が必要ではないか?

 

提案をしてみるのも良いだろう。何、階級はあるのだ後は人脈で出来るところまで、やってみるのもいいかもしれない。

アマチュアの参入も考えてみれば良いな、互いに切磋琢磨出来るならば一石二鳥だろう。

 

と、そこまで考えて1932年の1月頃中央アメリカに位置するメキシコと合衆国の間に緊張が高まり、戦争一歩手前になってくる。

原因は何かと言えば、合衆国内での株価暴落であろう。もっとも世界的な企業が無いので、世界にこれが波及することもなく日本は平穏無事であった。

 

目出度く大会は中止、これ以降準戦時体制へと移行することとなり完全に無くなる。

大会の再開は戦後以降で、その時には私は60を超える。

フェイドマスター制度を取り入れ、4つの区分に分けそれぞれの場所でタイトル名を決める。難易度は非常に高くなるだろうが、全てを征する者が出てくる事を願う。

 

名人・天将 日本

棋聖    北米

王将    南米

期王    ユーラシア中央

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二次米墨戦争

『現在の世界の国境線が確定されたのは1944年12月の事だ。それまで、世界中で大規模な戦争。第二次世界大戦が行われ、米ソ仏の三国同盟。つまりは、拡大主義勢力と確定主義勢力の間で行われた戦争だ。』

 

世界地図

 

【挿絵表示】

 

 

ヨーロッパ

 

【挿絵表示】

 

 

 

戦争、今は昔の出来事。だけど私達は学ばなければならない、愚か者ではない事を証明するために。

 

『この戦争の発端が何であったのか、それは学者によって様々な論文が執筆されており、一概に何とは言えない。

ただ、言える事とすればその全てがこの戦争の引き金であったと言えるだろう。』

 

帝国主義、革命主義、民主主義、自由主義etc…様々な物がエゴイズムと言う形でぶつかりあった時代、何が正しく何が間違っていたのか、それは各々の感性で答えを導くしかない。

互いに言い争い、感性を高めていく。それが歴史思想学と言う学問だ。

 

そこまで話してチャイムが鳴る。

 

『今週はここまでにしよう、今回の宿題のテーマはそうだな。【世界大戦の原因とその先の未来へ。】だな。各々臨機応変にことに当たるように、以上!なんてな、良いか提出忘れるなよ、最低でも題名だけでも良いから提出しろ、卒業できなくなるからな。』

 

高校中退なんてまっぴら御免だ、就職先がなくなってしまう。なんて、考えながら宿題するのも良いけど。『ただいま~』お茶を飲みながらでも良いよね。

郊外にある、少し立派な家そこに辿り着いた私はウキウキしながら戸を開く。

 

『ああ、帰ったのか。どうだ?珈琲を飲んでみないか?』

 

『あんな苦いものは嫌よ、それよりもルフナティーが飲みたいな。』

 

私がそう言うと、白髪混じりの顎髭を触って了承してくれた。いい香りが鼻孔をくすぐり、それにため息が溢れる。

 

『おまたせ、どうだい味は。』

 

『美味しいよヂェードゥシィカ、今日は少し濃いめなのね。』

 

胡桃のビスケットを口にしながら二人でのんびり、くつろぐ。

 

『ウラジオストクでの暮らしは慣れたかな?向こうとは大夫違うだろ?』

 

『うん、こんなにも温かいなんて思いもしなかった。もう一枚脱いでも良いくらい。』

 

風邪を引くからやめなさいと咎められた。

 

『お勉強はどうかね?わからない事とか、協力してほしい事があれば直ぐに「おじいちゃん」に任せなさい。』

 

『ウ~ンそれじゃあ、図書館とかに無い資料とかって無いかな、詳しく調べたいことがあるんだけど何処にもないの。』

 

使えるものは使う、それが子供の特権だ!

 

 

 

 

 

 

 

1933年1月

メキシコが悲鳴を上げている。

国境線の町が燃えている。兆候があったのはあまりにも近く、メキシコ軍は戦力を集中させる間もなく、米軍の侵攻を許した。

一気にメキシコ全土を飲み込んでしまおうと言う勢いのもと前進を開始すると、次第にメキシコ軍の応戦が始まる。

 

その頃、私は本国で将棋をやっていたが急遽本国にいた将官全員が招集された。

 

『いったい何があったんですか?』

 

招集された面々は一様に重大な事が起きた事を確信しながらも、確認をいち早く行おうとした。

会議室にいる中佐が言う。

 

「合衆国がメキシコに対して宣戦同時攻撃を行いました。現在情報が錯綜しておりますが、確実な事は民間施設への攻撃が行われているとの事です。」

 

ザワザワとしているが全員が対応を考える。

 

『内閣から派兵要請は出ているのか?それによっては、軍を即座に動かす必要が出てくる。』

 

「内閣からは、軍部が戦闘可能であれば即座に宣戦布告の用意有り、ただし一週間の猶予を与えるべし。との事です。」

 

一週間、それはおそらくは我々の準備期間。いかに我々であろうとも、侵攻する場合は一定の猶予が必要だ。攻撃はそれほどのリスクがあり、防御のように脊髄反射で攻撃することができない。

 

『亀梨中将に北アメリカへの出向を命ず、明日航空機にて北米軍司令部との合流に向かうべし、作戦は明朝渡す準備にかかれ。

他の者たちは作戦立案にかかれ、一昼夜後に亀梨中将へと渡される。総員、開始せよ。』

 

この日徹夜が決まった。

 

『国連軍が編成されるのは最短でも一月かかる、その間にメキシコが降伏する可能性がある以上、早急かつ確実な方法を取らなければならないが、諸将の意見を聞きたい。』

 

最初に発言したのは海軍さんだ。

 

彼等が言うには、空母航空隊による占領地奪還。つまりは、強襲揚陸作戦であろう、だが強襲揚陸するには現在北米大陸に存在しているほぼ全ての揚陸艇をかき集める必要があるため、二週間の準備期間が必要だという話だ。

 

勿論そんな余裕は無いわけだが、その余裕を作り出すのが我々陸軍の役目であろう。

 

『新鋭戦闘機と爆撃機、練度は大丈夫なのか?』

 

『発艦から戦闘までは申し分無い、しかし着艦は若干の心配が残る。特に鳳翔の方でな。』

 

なんとも不安の残る言葉だが、信ずる他あるまい。

 

では、陸軍の作戦計画はなんだと聞かれれば、我々の作戦は極めて単純だ。要するに、自らの領地から米本土へと侵攻を開始すること。これをする事により、米軍はメキシコへの戦力を我々の方へ向けなければならず、寧ろ我々と戦わなければメキシコで完全に包囲されてしまうのだ。

 

平手押しで決定であろう、後は現地の師団長や連隊長の腕の見せ所だろうか?ともかく、目標はメキシコ国境からの米軍の撤退である、停戦は政府がなんとかしてくれるだろう。

 

 

更に南米駐留軍から即応師団がメキシコへと、数日後に到着するのだと言うから、そこで遅滞戦闘に邁進してもらう他あるまい。

 

方針が決まれば、次はどこにどれほどの戦力を集中するのかと言う議論が始まるが、それは割愛させていただく。非常に大量の組み合わせで、私自身覚えていないのだ。もっとも、公文書館に行けば見られるだろうが、そこまでしたくはない。

ただ一言言えば、この短時間で良くもここまで集められたものだと、そう関心した事を覚えている。

 

(北米大陸・各国境守備隊に1万を残し、

中央部進撃6万内戦車隊3連隊

中南部進撃10万内戦車隊1師団

南部進撃16万内戦車隊3師団

 

南米駐留軍8万内装甲車1師団

 

テピク奪還部隊

龍驤型空母×2

【挿絵表示】

 

鳳翔型×2

【挿絵表示】

 

高雄型重巡洋艦×2

【挿絵表示】

 

改古鷹型×4

【挿絵表示】

 

改夕張型×6

【挿絵表示】

 

朝霧型駆逐艦×12

【挿絵表示】

 

 

揚陸部隊6万)

 

『これだけの戦力を出すのだ、持久戦は考えられない。最大でも三月で終わらせようぞ。』

 

我々としては出来得る限りの戦力を投入してメキシコを支援した、この当時北米大陸に存在していた全戦力の半数をこれに差し向けた事になる。

我々にとっても負けられない戦いが始まった訳だ、因みに結果として言えば、我々の勝利である。

 

 

 

 

さて、ここからはこの戦争が起こった経緯を話していこうと思う。

事の発端は1929年アメリカウォール街から始まった、米国内の株価大暴落が始まりであったとされている。

株価の大暴落の発端は今尚謎であるが、一人の投資家が口火を切ったのは確かである。

 

アメリカの株式市場は当時から世界的なものではなく、内需型であったが為に諸外国への影響は最小限に留まっていた。しかしながら、小なりの影響があったとされており綿花製品の価格暴落がそれだと言われている。

 

当時アメリカのプランテーションの中心地である南部では、綿花の栽培が盛んに行われており、日英のトラクター等を使用した大量収穫が行われていた。

しかし、英国で化学繊維であるポリエステルが開発されると、工場によって季節に関わりなく作製されるそれに、次第に市場が縮小していった。

 

だが、それだけに留まらない。より価格が低く品質の良いものが、インドより登場すると遂に南部の経済が破綻寸前まで追いやられる。

それだけに留まらず、安く良質な工業製品が日本より輸入されるようになると、今度は工業地帯がどんどんと赤字となっていった。

 

日夜ホワイトハウスの前ではデモが行われて、参加者は暴徒化一歩寸前と言うところまで言っていた。

 

 

そして起こるは大統領の弾劾であった。経済の低迷を最早止められない、そう判断した両院は大統領を挿げ替え、より対応力の高いタカ派のものを選出した。

それがいけなかった、強行的に法案を可決するのは最初のうちは良かったのであろう。しかし、次第に行為はエスカレートして行き、彼は外部に敵を作り始めた。

 

自分たちが何故落ちぶれているのか、それを他国のせいにしそれを外側へ外側へ暴力を向けるようにしたのだ。

だが、日本や英国と戦えばただでは済まない、ならば一度勝った実績のある敵を叩けば良いと。そして始まったのが、メキシコとの戦争である。

 

 

 




歴史思想学なんてものはありません。

少し時間がかかりました、すいません。

誤字、感想、評価等をよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Batalhalto

1995年

宿題もさることながら、高校の部活動にも精を出す頃私はやはりあいも変わらず柔道を習っている。

高校ではより実戦的にと言うことで、普段着を着ての部活動となる。

 

『護身術ならば、普段身につけているもので戦うことを想定しなければ意味がない。』

 

と言うのが柔道の教えだ。道着なんて以ての外、そんな物普段着るものなどいない。あるとすれば和服で有ろうが、それでもそれを着ているのは夏場の日本人くらいなもので、ロマノヴァでは寒過ぎるから、そんなの着る人めったに見ない。

 

そんな時一人の生徒が手を上げた。

『どうして実戦形式にこだわっているのか?』と。

正直に言えば、柔道を使う機会など滅多に無い。それどころか、昨今では銃のような火器があるのだから近接戦闘用のこれはあまり意味のないものではないか?と言うのが主旨なのだろう。

 

確かにオリンピックのジュウドウでは、私達が習うものは使えないだからと言って護身術としての側面を無くしてしまうのは、馬鹿のやる事だ。だってそうでしょ?戦うために創られたのに、その意味をきちんと汲み取っていないもの、所詮スポーツは遊びの延長なのだから。

 

ただ、昔の人はこれを作るためにどれ程の血を流し、どれ程地を踏みしめたのだろう。

祖父に聞いてみるのも良いかもしれない。と言う事で聞いてみた。

 

 

『それで、そんな事を聞いてどうしたいんだい?だいたい、私等の時代は大々的な戦争が終わった後で、戦争なんか行ったこと無いんだぞ?』

 

『じゃあ、ディアドシュカなら解るの?』

 

難しい顔をしている、どうやら悩んでいるようだ。

 

『知っているだろうがね、私は親父とは縁を切ったんだ。だから話を聞かせてもらえなかった。兄貴ならそう言うのを知っているかもしれない聞いて見ることにするよ、かわいい孫の事だ絶対に首を縦に振ってもらうさ。』

 

瞳に火が宿る、お願いしまーす。

 

 

 

 

 

「"This strategy is ridiculous(こんな作戦…馬鹿げている)" Such words were leaking from my mouth(私の口からそんな言葉が漏れていた). I became a soldier with such a dream (私は物語に登場する)of the noble and strong oriental mercenaries(高貴で強い東洋の傭兵のような) that appear in the story.(夢を持って軍人になった。) But why,(なのに何故だ、) why are my subordinates slaughtering (何故私の部下たちが)civilians in front of me ...(民間人を虐殺するのは…)

 

米軍士官ダグラスの手記から抜粋。

 

 

1933年1月

我々の一夜漬けを以ってして策定された作戦を携え、亀梨中将が輸送機に搭乗し数度の離発着を経て、たった2日で北米軍司令部に到着した、と言う連絡を受けた。

要は、私はその場に行っていないから詳しくは知らないが、戦闘経過だけは資料として残る。

 

まず宣戦布告であるが、それは予定通り1月26日に行われた。一週間の猶予を与え米軍全部隊に、停戦支持が行き渡るのを待つ最低限の期間。

しかし、我々の期待は裏切られ米軍が止まることはなく、我々は兼ねてから進めていた作戦を開始した。

後でわかった事なのだが、この時米大統領へ我々の声明が公式に伝わっていなかった事が発覚した。恐らくは内部犯による犯行だと思われる。

 

第一に大規模な部隊による、米本土侵攻が開始された。これらは機甲師団を中心とした、機動部隊で編成され敵部隊を今までの我々の戦術単位よりも、より細分化した包囲で進み無理の無い安定した進軍速度を実現した。

もっとも、速力のあまり早くない車両で行った弊害が功を奏した結果であるため、諸手を挙げて喜べない自分がいる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

さて、それと並行して南アメリカ大陸に存在する大陸南部方面軍の一部戦力がメキシコ軍へと合流を開始すると、それまで押せ押せの形となっていた米軍に岩か何かに衝突したかの如く、ビタッと前進が止まった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

ただ、何も日本軍が到着したからと言う事だけではない。この一週間と言う短時間で、簡易的な要塞線が構築されていた、ただそれだけの事だ。

人海戦術の為せる技というものか、メキシコのマフィアから民間人までをも総動員して造られたこれは、非常に脆いそれ故に米軍は止まらざる負えない。

 

そのハリボテは非常に強固に見えた、据え付けられた機関銃は鉄パイプで本物の数はその10分の1も有れば良いだろう。

だが、それでも外から見れば立派なものだったそして、その後ろには完全武装の日本軍がいる。

 

そう、罠に嵌めようとしているように見えたのだろう。もしも私ならそうするし、余計なリスクを負いたくはないはずだ。なにより、規模のわからない相手程怖いものは無い。

 

そして、メキシコシティの壁は機能を始める。

日本軍の到着から、次第に分厚くなっていく塹壕を見た米軍は一週間後気が付いた。防御力が上がっていることに。その全貌をわざとらしく米軍偵察機に撮影させてみればわかっただろうが、幾重にも貼られたそれを突破するのは容易では無い。

 

これぞ建設機械の為せる技。最早、動かすこともままならずさながら蓋をされた様だ。事実、後方と前方に突如として出現した日本と言う軍事力、完全に虚を突かれている。

そして、更に絶望が舞い降りる。

 

当時米太平洋艦隊は少数の艦艇のみが駐留する軍港、ソノラグアイマス軍港を拠点としていた。

ここは、半島によって半ば要塞のように外部の攻撃から艦艇を、守るのには最適な構造のようになっていた。

 

その日彼等は制海権の維持のため出港をしようとした、メキシコ海軍を鎧袖一触するのも訳はないとそう高を括った。

慢心とも取れる。そんな中日本からの宣戦布告に、警戒の色を強めいついかなる時も、水上の構造物を見逃さない。そう、確信していた。だが、悲劇は上から来る。

 

We were never proud(我々は、決して慢心などしていなかった。).We believed(我々は、信じていた。) that the enemy(敵は) came from the sea(海上から来るという事を), "gun battles overturn everything.”(砲戦こそが全てを覆すと)

It fell as if to ridicule us.(そんな我々を嘲笑うように、降ってきた。)

In a blink of an eye,(瞬く間に) the cruiser's artillery top was (巡洋艦の砲天板が)pulled out and detonated into the ammunition depot,(抜かれ弾薬庫に誘爆し、)breaking the ship.(艦は折れた。)

That is no longer a fight.(あれは、最早戦いなどではない。) It would be a slaughter.(虐殺だろう。)

 

これは、とある兵員の手記から抜き取った言葉であるが、正しくこのような事が起こった。

世界で初めて、航空母艦から発艦した航空機が艦艇を撃沈した戦闘。

 

ここ数年で飛躍的に進歩した航空機が、遂に戦争の表舞台へと登場し、『制空権を保持するものが戦争を制する』とすら言われる事となる。

米太平洋艦隊、当時の艦艇に戦艦は存在せず巡洋艦を中心とした水雷戦を中心に鍛え上げたそれは、正しく爆撃機にとっては格好の的だ。

対空兵装の充実していない艦艇など袋叩きだろうよ。

 

空母艦載機

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

確して制海権を失った米軍に対して、日本軍は存分に強襲揚陸艦を行った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

米軍は占領地の鉄道をフルに活用することにより、前線へ物資を移送していたが、この地点への強襲揚陸艦により前線の弾薬の枯渇が始まるのが明らかとなる。

更にもう一箇所と、揚陸し圧迫をより強固に行うが、そこで戦いを終わらせるゴングが鳴る。

 

 

国連の介入が始まったのだ、正直な話単独でアメリカを相手取るのは骨が折れる。最悪の場合ソ連が参戦する可能性があるからだ、勝てなくはないがそれ相応の損害が出る事は明らかで、これによって戦いは一応の閉幕となった。

 

たった2ヶ月、されど2ヶ月。潮流は明らかにこちらが有利に動き出していた最中であり、このままなだれ込み首都を攻撃することすら考えていたのだが、これで全てが無に帰した。

 

なんともお粗末な事で、国連は米国に対して何の咎も与えなかった。国境線を元へと戻し、賠償命令を出さなかった。

何が起こったのか、当時を知るものからすれば有り得ない。あまりにも米国贔屓であると、日英が言うが仏、白(ベルギー)、蘭が反対を示し結局賠償すら獲得出来なかった。

 

日英両国はこれに対して、遺憾を表明しメキシコとの軍事協定を結ぶ事で再発防止を実現しようとした。

これを日・英・墨安全保障条約という。

 

また、今回の戦役から装甲車両の山岳部での不利を認識し、歩兵装備の充実化が図られることとなる。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

溝と軍拡

1995年夏

あちゅい、暑い、すごく暑い。この気温なんとかならないのかしら?なんて言えば良いんだろ、サウナ?嘘でしょ、こんなにも暑くなるなんてノリリスクってもしかしなくても涼しいんだなぁ。

あ~、溶けちゃいそう。

『ニーナ、大丈夫かい?そんなにぐでっとしてしまって、熱中症じゃ無いだろうな?ほら、スポーツドリンクを飲むんだ水分補給は大切だぞ。』

 

『ありがとう「おじいちゃん」…それなに?』

 

手を見ると何やらビニールに入っているものが、何それ?

 

『ねぇ、それなに?』

 

『これかい?これは小豆○ー、アイスキャンディだ。食べるのは初めてかい?向こうは寒いからなぁ。』

 

甘い、それになんだろう?ザラザラ、サラサラ?そんな食感だ。

 

『兄貴が贈ってきてくれたんだ、ニーナの欲しがっていた資料と一緒にね。どうだ、美味いだろぅ?』

 

と言いつつ一つの本を取り出して、机の上に置いた。

 

『俺の死んだ爺さんの手記だ。もっとも、お前に読めるかは解らないけどな。勉強がてら読んでみるのも良いかもしれんな。』

 

そう言うのを尻目に、本を開けてみる。何やら書かれている文字は馴染みの薄い、漢字と呼ばれるものがちらほらと…読めない。

そこでふと?ヂェードゥシィカの顔を見た。

 

『ヂェードゥシィカって、日本出身だったの?』

 

『おやおや、この顔でわからないか?』

 

いやいや、だってその顔どちらかと言えばダビデ像とかローマ彫刻みたいな顔だから、てっきり。

 

『ずっとラテン系の血筋だと思ってたのに。』

 

『おやおや、名前はトシオ ペトロフだぞ?確かにロシア語明記にして、意味も若干変えているがわからなかったのか?勉強不足だぞ!』

 

ウ~ン?いやいや、こっちでの名乗りはアレクサンドル ペトロフでしょ?表札にもそう書いてあった筈、まさか。アレクサンドルってセカンドネーム?いやいや、常識外を付いてくるのか。

 

『そうだ、俺は日本人だったんだ。父親と離縁してね、その後、お前のお婆さんとであったんだ、爺さんだけは俺を庇ってくれたようだけどな。』

 

私にも日本人の血が流れている?ヂェードゥシィカ、冗談は言わないよね。

 

『さ、お勉強の時間だ。』

 

 

 

 

 

1933年夏

あれから一段落したと言う所だが、問題はそう単純なものではなかった。対立構造が完全に露呈し、国連内での軋轢は想像以上に浮き彫りとなった。

基本的には植民地を持った国やそれに迎合する国と、連邦制ないし帝国制を制定し見かけ上の独立を行わせた国の対立。

 

要は

 

日英+ヨーロッパの中小国

      対

仏ソ米+ヨーロッパの中小国

 

である。

 

ここでもっとも大きな問題は、ヨーロッパ中小国というものはバルカン半島の国々だ、彼等はあまりにも対立しすぎていた。

その為、この後に待ち受けた戦争は非常に苦しいものとなる、この時はまだ誰もがあんな事になるとは思わなかった。

 

まあ良い、対立はハッキリとして仏米ソの接近が表面化し日英はそれに対してさらなる力を求めた結果、一つの解答を出した。

独逸への経済、軍事等あらゆる方面からの支援である。

これより始まるのは、軍拡競争。止め処なく走り続けるしかないマラソン…

 

国連の内部は紛糾していた、誰が悪いだ悪くないだと議論の内容はまるで学校のお遊戯のように移ろう。

そして、軍縮を進めようとすると反対意見が飛び出しそれに悪乗りするかのように、国連を脱退する者たちも現れる。

最早それを止めるすべはなく、世界は二分化していくもしも次に戦争が起きたなら、それは一度目の比にならないほどの被害が出る。

 

誰もがそれを予想する、それでも歩みは止められない。絶対的な力を持つ神という存在が、本当はいないと誰もが知っているから、天罰は来ないと誰もが知っているから。

そう考えれば、中世はどれ程〘平和〙であったことか。

 

 

 

そんな中、海軍の軍縮は明け各国は戦艦の建造を始める。それは日本も同様で、新型の戦艦の建造が開始された。

全ての国がほぼ同時に建造を開始する姿を、当時の人々はこう評した。〘鱒の産卵〙

 

何故今になって戦艦を建造するのか、一つは石見型の老朽化と戦力としての火力の不足に起因する問題。

そして、もう一つが最重要であった。この戦艦は新機軸の技術のテストベットであるという事だ。

 

レーダー開発は着々と進んでいたが、それを搭載するには巡洋艦では小さ過ぎた。そのためには、大型艦が必要となった時たまたまこいつに白羽の矢が立った。

世界初のレーダー搭載艦、だが正直な話このレーダー厄介物である。

 

何処がどう厄介かと言えば、全てにおいてであろう。大電力を喰う割には、その探知距離は30kmに満たずお世辞にも目視より良いものではない、それに壊れやすいと来た。だが、コイツのおかげ後に製作されるものの性能は格段に良くなるのだから侮れない。

きちんとしたテストベッドとしての戦艦がそこにあった。

コイツは1936年末の完成を目標とされた。実験艦という側面からか、その建造数は2隻に留まり海軍はその影で空母研究をより加速させる。

 

 

 

その最中、特に艦載機分野に置いて複葉機の限界というものが見られ始める。そこで海軍は、艦載機の全面的な単葉機化を推し進めていく。

一方で陸軍は成約の少ない中で、航空機の開発が進み海軍用機よりも、幾分か性能の良いものが誕生しつつあるものの、未だ満足するものは出てこず、正式となったにもかかわらず量産が取り止めになった機体も出ていた。

 

そのおかげか旅客機開発を行っている民間企業は、払い下げられてくるそれらの新機軸の国内での安価な特許料から、様々な物を作っていくのだが、あいにく私には専門外のためわからない。

 

 

 

航空機がそんな感じで加熱している中、我々車両開発陣もまた先の戦闘から戦車の限界を痛感していた。

メキシコと言う山岳地において、戦車はその重量からか?いや、〘車両〙と言うものの特性だろう。そこから、進軍時の制約を露呈させた。

 

ありとあらゆる地形を踏破出来る人間の足と違い、あまりにも急な勾配は登ることは出来ない。そのため、進軍速度が低下するのは仕方のないことであった。

これはサスペンションの地形に対する追従性の問題と、出力に対して過大な重量からの問題であった。

 

とは言え、エンジンと言うものは早々改良が効くものではない、何より大きさが違うものを積めば逆効果になることもある。

だが、サスペンションの方は研究が大分進んでいたからか、代替えのものが直ぐにも開発されると、生産はそちらに向いていく。

リーフスプリングから独立懸架式へと変更となった。

 

車内容積は圧迫されるだろうが、被弾には強くなるし地形の追従性は良くなる。

原型はあまり無いが、これが良いというのが用兵側なのだから仕方がない、だがコイツは主力には成れないだろう。用いるならば、歩兵直協用だなと。今でもその判断は正しいと言える、コイツはしっかりと歩兵と共にあったのだ。だからこその、臨時量産型の94式、だが時代には確実に取り残される。

 

ならばと、割り切った設計にしよう。装甲?戦車とは戦うことを想定しない、ならば脚だけを強化しよう。本来の構想とは違うものだが、それを担う者は既に形が出来ていた。

後は砲塔だけだと。

それから出来たのが95式である。

 

 

【挿絵表示】

 

 

割り切るのが一番だ、中途半端は事故のもとだ。

どうせアレが完成すれば、対戦車戦闘はアレが肩代わりする限定的な能力さえあれば良いと。そう一人つぶやいて。

 

 

少々熱くなってしまったが、まあ陸軍で出た問題は後を言えばやはり一人一人の戦闘能力の向上だ。

それには大きな問題がある、軍隊の格闘技はきちんと整備され最早強化しようもなく兵器も、不具合と言えるところも次第に更新されていく。

 

ただ一つ残るのは、防御面だが果たして方法が無い。有るにはあるが費用対効果は限定的で、さらに意味がないと言える。

材質はシルク、絹で出来た防弾衣正直言って腐る、倉庫の肥やしになると言うよりも保存していると、虫食いだらけになる事から誰も軍事用として正式採用しなかった。しかも拳銃弾しか防ぐことは出来ないのだ。こんなものどうすれば良いと?

 

諸外国でも似たようなものだ、防弾衣の開発は我々の世代の最後の課題だろう。金に物を言わせても作れないものは作れないが、そんな中アメリカだけがとある化合物を作り出す。恐らくは偶然の産物だったのだろうそれは、ポリアミドと言われる。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。

風邪って怖いですね、コロナと同じ症状だったからヒヤヒヤしました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暗い歩み

1996年1月

実家程ではないもののやっぱり寒い冬の中、TVに映るのは日本帝国神戸の様子だ。

ちょうど一年前のこの日、大地震が都市部を直撃し少なくない命が犠牲になったのだ。軍は1級国家緊急事態を天皇から通達され震災直後から動き始め、内閣が支援物資を確保する間に軍事物資や道路等の整備を始めていた。

 

そんな映像が流れていたのも、もう一年も経つ。今ではその景色に当時の様子は伺いしれないほどに修繕が行われているが、巨大な橋脚だけは未だに建設中だ。

あれは高速道路なのだそうだ、狭い敷地の有効活用とはああ言うことを言うんだな。

 

高い建物が無いのがあの国の建物の特徴、所謂百尺規制。(自立式電波塔等の例外あり)地震に対する、最大限の備え。

あの規制が存在するのは、英国本土と日本本土。並びに地震地帯の国々だろう。

 

『高層建築は景観を損なう』という単純な理由じゃないだけマシだが、世代交代の時期が来ているのか日本帝国では規制緩和の流れが出ているらしい。噂によると250尺までの緩和だそうだ、建造材と建築技術と景観を吟味した結果それ位が望ましいらしい。

 

アメリカのニューヨークのような景観は、日本ではあまり好ましく思われていないらしく。建物も花崗岩のような質感にしやはり、古風な感じの外観のようだ。

 

話がそれたが、そんな感じの無理の無い建物が多いからか被害は比較的に小さかったらしいのだが、やはり天災であるから人命は多く失われた。

建物は堅牢であるが、殆どの人が家具に挟まれたり落下物での死者であったと。

 

そこでふと、高祖父の文書を読んでいて気が付いてしまった。高祖父の書いている文中には一文も日本帝国、特に本土で起こった天変地異での対応等が書かれていないのだ。

1935年帝都大震災と言うものがあったと言うのに、それに対してすら一切記述されていない。なんの為に?意図的か?

何か隠さなければならない事が起きたのか、それとも隠さなければならない事を行ったのか。

 

 

 

 

1934年ネパール 

誰もがいつものように起き上がり、農作業を開始する。空は晴れ光が降り注ぐだけれども、動物たちは騒がしく牛や馬は暴れ猫や犬は怯えている。

 

そして、それはいきなりの出来事であったガダッと卓上の物が音を立て床へと落ちるもそれだけではない。周囲の物が揺れ動き、草木は根から逸脱する。

ビハール・ネパール大地震、ヒマラヤ山脈の周囲は危機に瀕した。

それに対して国連は援助物資の供給を行うと発表するが、それは地震から一週間経った後、つまり手遅れとなったあとの話だ。

 

それ以前に宗主国、いや英連邦の加盟国としてインド政府から援助を行おうとしていたが、地震の影響により道路は寸断され復旧まで大凡3ヶ月という概算が出された。

更に当時ネパールは鎖国政策をとっていた為に、ネパール国内ではどうなっているのか誰にもわからない状態だ。

 

そこで、鎖国の解除を促すために英国は援助を行おうとしたが、魂胆は明らかでありそれを拒否するのも当たり前のように行われた。

ああ、そうかと誰もがこれはもう手が無い、強硬手段はインド国民が嫌がるし行うことはできない。間者を送ろうにも文化すらわからないのだから、どうしようと?

 

と、そこまで考えたところで何を考えたのだろうか?当時の、日本の内閣は空挺降下による支援を真剣に思考した。

我々当事者に立つ軍人から言わせて頂けば、そんな空挺降下自体誰もやったことが無いにもかかわらず、大規模な物資を空中から散布する?そんな大量の航空機をどうやって調達するのか?

 

当時民間の旅客機だって、世界的に見ても双発機がせいぜいで4発機なんてものは実用段階になく、軍用機でもそんな用途のもの未だに手探りであったのだから、無理だと正直に内閣へと意志を示した。

そして、国連の発表の大凡2日前現地へと出発する。

 

救出団の人数は20名、航空機を乗り継いで現地近郊のプラカシュへと到着した。

当時の装備は諸外国と比べてもあまり特徴的なものはなかったが、どこよりも早く到着したことは誇りに思っていただきたい。

更に、唯一特徴的と言われれば犬を連れての飛行であった事だろう。

 

救助犬という物を考案したものは誰であったろうか?最早記憶の彼方だが、元は敵陣地攻略用に開発されたものの延長だったという記憶はある。

それが役に立った、未だに意識のある下敷きとなった者たちを少なくない人数救出したことは確かだ。

 

彼等は、帝都地震の時も活躍したがそれは諸事情により割愛させていただく。

 

ともかく、我々は名を上げてから直ぐに行動を行うことで、石碑に名を残したろう。両国間の関係は間違いなく良い方向へと向かった、全ては打算のために。

武士道なんて言葉を昨今良く耳にするが、私の世代から言わせて頂けばあんなもの綺麗事だ。

 

今でも、思い出すのはあの赤軍のもがき苦しむかの様な首、あれを思い出すと次も同じようにしなければなぁと、そう思ってしまう。何を書いているんだろうか?こんな事書いたところで、我々の世代の悪習をこの手から取り除くことは出来ぬのに。

 

さて、救助隊が帰ってきて一番に必要なものはなにか、それが少しずつ見えてきた。

他国の者たちもそうなのだが、まず軍隊の装備(・・・・・)そのものに問題があるのだが治安維持はその地の治安部隊に任せなければならない。

 

勝手が違う、というものは当たり前な事だ。宗教や生活、死生観そのせいでどういう埋葬をすれば良いとか、我々には資料が少なすぎた。実際、それが発端で一時戦闘というか暴動が起きるほどには。国際的な協調というには程遠い、準備不足も甚だしい。

 

まあ、これのおかげか一時的に協調路線にという風潮が出来つつあった、人種問題で直ぐに立ち消えたがそれでも効果はあったのだ。

 

 

 

だが、もう一つの事件がこれを打ち消した。

この年の暮れ、ソヴィエトでは大粛清が始まる。それが対外的にどういう結末を迎えたのかは、後に語ることとなるだろうがこの出来事はとある事に直結した。

 

突然赤軍が動き始めたのだ、何処へ向かってと言われるだろうが各地国境線に部隊が集結し、周辺国は直様戦時体制に移行するとともに大動員を始めた。一触即発、その言葉のような有り様は戦争の始まりを予見させた。

 

だが、ソヴィエトの兵は何を思ったのか国境の内側を向いて部隊を配置されていたという。まるで、内側から誰かが逃げ出さないように、と。

事実、ある日フィンランドとの国境で、複数人の逃亡者が確認されそれを射殺していたという。

生き残った者たちがどうなったのか、見せしめにされたのか?はたまた消されたのか。

 

そして、逃亡者は東欧だけでなくロマノヴァにまで来たという、そして国境線を跨ぎ亡命を言い出したのだが、それを追ってきた赤軍とロマノヴァ守備隊との間で偶発的な戦闘が勃発した。

双方ともに銃を使用せず投石や、殴る蹴るなどの肉弾戦を行い最悪の事態を免れたが戦争一歩手前には陥った。

 

鉄のカーテンと形容可能な防諜能力、当時は侮れないと私も思ったそれは、しかし思い違いでありただ殺戮の限りが尽くされたことにより、諜報員も一切合切が殺されただけだ。

 

どうやって外貨を獲得しているのか、未だにそれが腑に落ちない。サンクトペテルブルクしか港湾が無いにも関わらず、様々な国々と貿易を行っていた可能性が浮上している。

そこから導き出されるのは、相当数の国家の中に共産党員が紛れ込んでいたことを意味している。

 

特にその輸出品目は主に鋳物であった事から、大量生産技術の確率に成功していたようだ。

いったい何処からそんなものを調達したのか?フランスだろうよ。もしくは米国か?とにかく、その2つの国家から数々の輸入を行っていた事は確かだ。

一つの港湾では不可能であるのに…

 

 

 

 




誤字・感想・評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

列島を横断せよ

1996年5月

ウラジオストク空港では、国際的な行事が開かれた。世界各国の大型の空港では、この月に航空ショーを開くこととなっている。

今年はここ、ウラジオストク空港が選ばれたのだ。

 

駐機場には多種多様な古今東西様々な機体が所狭しと並んでおり、時折その中から機体が前に歩み出ては滑走路から飛び立っていく。

その中で一際注目の的となっていた2機があった。

日本大空のA-34と

 

【挿絵表示】

 

北畑航空のNE-3だ。

 

【挿絵表示】

 

 

この2機実は因縁があると言う、片や技術の進歩について行けず、十数年で退役した国際線機。片や国内線の主力として数十年年間改良を加えながらも飛び続けた古強者。

全く違う用途で使われたこの2機、祖父は航空機が好きだからこう言うものにわざわざ連れて来られて見せられている。

 

熱く語る姿には、まるで少年の頃を思い出すかのように目を輝かせ、時折息を荒くしている。

祖父が言うにはこの2機は、元々ベルリンオリンピックに間に合わせるために創られた、国際線機だったという。

 

A-34は、当時の航空力学と風洞実験から得られたデータによって形造られ、大凡双発機としてはかなり上等な航続距離を叩き出し、他国の航空産業を驚かせたそうだ。

幼い頃、祖父に連れられてアレの試作機に載せられたことがあったらしい。今は搭乗できないそうだから、周りの人達から見れば羨ましいだろう。

 

『懐かしい、あの機体。胴長だろ?実はアレでたった20人しか載ることが出来ないんだ。空力学的に優れた形というのは、機体をより細く空気抵抗を少なくするために、あのような形にせざる負えなかったと。

その分シートはリクライニングしたし、アレでいて予圧機能があるんだ。流石に高度1万を翔べば、耳が痛くなったりしたからそこは不完全だったんだろうな。』

 

長い話が始まりそうだ、そう言えば高祖父のあの本にもアレに対して何か書いてあったような。愚痴みたいな内容だったけど、果たして確認してみるか。

 

 

 

 

1934年5月

また、呼び出しを受けた。今度は何だと、聞き返せば遂にオリンピック用の機体が完成したのだ、試験を行うからお前見て来いと言うのだ。戦術研究科よ、自分で見て来なさいと言おうと思ったのだがそういう前に「もちろん私も行くぞ」と言われ、書類を片付けて行くことにした。

 

「家族同伴で来る事」なんて言われてもそもそも既に息子共は結納を終えて仕事に行っている。暇になる奴らではない、どうして私の日程が空いているのか計られたな…

孫達、特に末の子が今6つで、ちょうど暇なようだから私が連れて行こうと言うと、義娘はどうぞと言って私にお守りを任せた。

 

この子は少々気難しい性格ゆえ愚図らないか心配であったが、ずっと車や電車に夢中だ。

学校の授業が簡単過ぎてつまらないらしいのだが、友達もあまり見かけない事だし、少し心配でもある我儘に育っていない事だけは確かだ。

 

最新のディーゼル寝台特急車に乗り、御殿場へと向かう。そこからバスに乗り換えて演習飛行場へと到着すると、一際目立つ銀色の機体が2つの見えてくる。塗装を施されていない、無垢の飛行機。

 

『お祖父様、アレが飛行機ですか?』

 

『そうだよ、アレが新しい旅客機だ。この国の威信をかけたより良い機体であるはずだ。』

 

ほぇ〜と言っている。将来はパイロットになりたい、なんて言いそうだな。軍人にだけはなって欲しくないが、もしその間に軍人になるなんて言ったら、私はこの子を叩き斬ってでも止めてみせる。

 

『おお、これはこれは生駒少将お久しぶりです。』

 

後ろから声をかけられた

 

『桑名か?そうかお前が日大空側の開発責任者か。』

 

『そうです、どうですかこの機体は美しい流線型でしょう?これで北畑をギャフンと言わせてご覧に入れます。

そちらのお子様はお孫さんで?』

 

後ろに隠れている、この子はこんなにも社交的ではないのか。それともこれが普通なのか?

 

『こら、挨拶しなさい。そうだ、孫の俊雄だ以降よろしく頼む。』

 

『そろそろですので、私はこれで失礼します。』

 

そう言うと何処へとも行ってしまった。指定された席に付けば陸海軍のお歴々が並んでいる、その中で私だけ軍服を着ていない。浮いていると思うが、それで良いのだ。

こんな堅苦しい所では、この子も泣いてしまうからな。

 

機体を後ろにそれぞれ写真を録りいよいよ競技会が始まった、まずはそれぞれの機体のコンセプトから始まり、自ら工夫した場所等をツラツラと語っていく。

 

私の第一印象として、NE-3は前型であるNE-2の拡大発展型なのだというのが、ひと目で判別できた。キャノピーの形状と翼を少し伸ばしたようだが、その他の部分は一目では判断が難しい。恐らくは、内部構造を一新しているだろうと思われる。

 

NE-2

 

【挿絵表示】

 

NE-3

 

【挿絵表示】

 

 

対してA-34は葉巻のような独特な形状と、その機体に対して異様に長い胴体が特徴だ。

その機体形状から恐らくは、人員の輸送能力よりも空気抵抗を極力減らした事による、燃費の向上を意図した設計であろう。

何処と無く軍用機の雰囲気を漂わせている辺り、日本大空は軍人の設計技師達の集まりだという事が伺える。

 

A-34

 

【挿絵表示】

 

 

 

既に双方は実機としての試験を終え、搭乗可能ということで乗り心地で決めてもらおうと、どうやらそう言う話になっていたようだ。そこで、どちらにも依怙贔屓しない人物が必要だったのだろう、だからこそ私が選ばれたと。

 

直接的な関わりが無くて、なおかつ機体等にある程度知識があり、社会的地位の高い人間。

こんなの軍人の中を探した方が楽だったというわけだ、実際この旅客機の姿だって始めて見たからな。

 

まず最初にNE-3に搭乗すると、まあ豪華ではないもののゆったりとしたシートが目に入る。

搭乗可能人数は大凡30人程だろうか?極めて普通だ、改めてNE-2の拡大だと言うことが目に見えて明らかとなる。

 

飛行を始めると揺れの少ない良い飛行をしており、まあ旅客機なのだからと思うが高度が上昇するにつれ次第に機内の温度が下がっていく。

寒いというのが正直な感想だろう、未だに与圧技術というものが完成していないのだと言う。国内産ならばまぁまぁ我慢できるだろうが、欧州までは流石に嫌だと思うな。

 

2時間の飛行が終われば、そこから大凡一時間の休憩時間と30分の記入を行い機体の良し悪しを行う。その後、A-34へと登場する。

 

想像通り内部は狭く立って歩くには少々手狭か?いや、私の身長が高すぎるだけだ。

それでも狭い事に変わりはなく、旅客機と言うには少々難ありか?

 

それでも離陸は非常に滑らかで、騒音もNE-3よりも少なく振動もあまり無い。

振動計数に非常に神経質に作られたのだろうか?少しずつ高度が上がっていったのだが、不思議と息苦しさや寒さをあまり感じない。

 

なるほど、とこの機体には与圧装置があるのだ。どうやって作ったかは解らぬが、正に昨今の機体には無い全く新しい物だ。確かに座席の緩やかさは無いものの、そこは座席を減らすことによって補えるか?長距離の旅にはある程度通用するだろう。採算が取れるか解らぬが、どうせ高給取りしか乗れまいて。

 

そして、また戻ると休憩と総評を書かされる。

そのうちに孫は眠ってしまった、疲れたのであろうスヤスヤと寝息を立てる姿には、本当に私の孫なのだろうか?と思う程に、静かな子である。

 

その日は、それでお開きとなり最近普及したダイアル電話で、明日の夕方頃に帰宅する事を話、ここで一夜を過ごす。

次の日の夕方に帰宅すれば、大きな見出しが出された新聞が居間に置いてある。

 

《大空は誰の手に》

 

と大げさな見出しだ。もっとも、そこからが本番なのだ。双方の航続距離が本当なのか実際に飛ばしてみなければ解らぬもの。

従って荷重最大値で、それを行う。

 

結局の所2機共採用されたのだが、A-34は皮肉にもその航続距離からか軍用に転用されるも、機体設計の余裕の無さが祟り採算の取れたものではない。オリンピックには活躍したが、結局帰りは船舶へと変更になるなど、その後ろ姿はお世辞にも良くは無かった。

もうそろそろ退役と言われ、この話を書くことに決めたのだがいい思い出でもあったな。

 

ちなみにだが、島嶼部には滑走路が少ないため飛行艇が今でもよく飛び交っている。

連絡機としてはもってこいだ、これも一度行ったことがあるが正直陸上機とは勝手が違い過ぎるのか、良く解らななかった。だが、川西航空は今でも盛況であのときも非常に好評だった事を、思い出す。戦争のときは、良く使用されていた対潜哨戒で。

 

あいつと一緒に乗りたかったな…まさか、家を飛び出すと思わなかったからな。身体は大丈夫だろうか?便りが無いのは元気な証拠というが、心配だ。

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。

現在この作品が終了後、この作品の前日譚となる作品を書くべきか迷っています。
読みたい場合はYESを別に良いやという人はNOをお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

日独英首脳会談

1996年8月また暑い日がやって来た、今年はなんと〔あーちゃん〕が泊まりに来ている。

目的は勿論海で泳ぐ事だというが、ウラジオストクだってそんなに海が温かいというわけでもなく、正直寒いのではないだろうか?

 

ま、そんなに頻繁に行くわけでもないし夏休みは2週間しか無いから、直ぐに行かなくなるし今は楽しんでいれば良いか。

 

「次のニュースです。昨日行われました連盟首脳会談は、無事終了し宇宙開発に対する合同出資条約の更新が行われました。

また、今回の出資額は英3 日3 欧3 南米2 中米1.5 となりました。また、今回の会議からスペインの欧州連合加盟に伴い、欧州連合の出資額の増額が決定されました。」

 

少しずつ世界は統一へと向かっていっている、表向きな協力関係として2000年までに月面着陸を行うこと。

そして、月面基地の建設を2010年代の目標とすること、既に中継基地の建設は終了し月着陸船を載せた機体を基地へと横付けするだけだ。

 

『おはようあーちゃん。今日も海に行くの?』

 

『勿論!あ、連盟会談?ほほぉ〜これはこれは、これでまた戦争から一歩遠ざかりましたねぇ。金を別の方向に振り向けてるって事は、自覚があるんだろうなぁ。』

 

この子は今もこんな感じなのか、安心した分少し心配でもある。

 

『そう言えば、ここで問題です。世界的出始めてラジオによる公共放送の場で公開された会談は、何時どこでどの国が行ったでしょうか。』

 

『そんなの、専行してるから簡単よ。1935年3月27日、ドイツ首都ベルリンで開かれたラジオ放送、独英日首脳会談よ。』

 

パチパチと拍手が聞こえてくる。

 

『正解正解!流石だねぇ、じゃあこんな裏話があるのも知ってる?』

 

裏話?なんの事だろうか?

 

『この首脳会談は実際は囮で、本当は軍人同士の交換が真の目的だった。て言う話、まだ仮設の段階で確証のある証拠は出て来てないけど、あり得ない話じゃない。』

 

解読を急がなくちゃな、もしかするとその事が書かれているかもしれない。

 

 

 

 

1935年3月27日20時

 

執務室のラジオから音声が聞こえてくる、その話し声は専らドイツ語で大概のものはその意味すら知らないだろうが、私は嘗ての大戦でこの言葉を覚える機会があったから、こうして聞くことができる。

 

始まった内容は、これからの国際関係や人種問題。

例えば民族自決主義、例えば日英の介入主義に対する国外から見た様子等、似たような考えを持った国だけでは解らない、そんな問題点をツラツラと上げていくのが、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー。

 

彼の話の中には建物や絵画等に例えて物を語る、そんな事を行うと意外な事にわかりやすいのか民衆には広くその言葉が浸透する。

短くより、簡単に人への宣伝とはそうやって行われるのだろう。

 

ヒトラー及びチェンバレン彼等は民主的に選ばれたのだが、一方で我々の代表たる人物、近衛公。彼は天皇からの任命と貴族院からの選定によって生まれた。つまりは、選挙による民主的な首相ではない。直接的でもなければ間接的でもなく、天皇によるトップダウン方式だ。

失敗すれば天皇に間接的にダメージを負うのだが、それでも彼を首相にするには理由があった。

 

正直優柔不断な所が散見される彼だが、こと聞き手に回った場合において右に出るものはいないと、我々の間では評されていた。

そんな彼が、我々の国の成り立ちや国民性からそのような事があり得ていると言い、我々に民主主義は少し早いとする見解を言った。

 

そんな放送が流れている私の机の目の前には、一人の士官が直立不動の姿勢でおり休めしている。

その格好は私達の国にはあまりにも不釣り合いなほど、でありその服装は、あの戦列歩兵を連想するほどに格好の良い物だ。我々の帯青茶褐色の服とは違う、非常にスタイリッシュである反面その特徴的な灰色は少し、戦場では難がありそうに見えるが。

 

「ヴァルター・ヴェンク少佐、で良いのかな?ようこそ日本帝国陸軍へ、交換士官に自ら進んで立候補したそうだがどういう心境でそれを選んだのかね?」

 

「現在祖国の国防体制は極めて貧弱であります。それを改善したく、小官は立候補いたしました。また、ここからは個人的な話となりますが、小官は生駒閣下の先の大戦でのご活躍を知り手本としたく。かのマズリー湖の戦いにおいて貴方は、一個大隊で一個連隊を蹂躙するという離れ技をなさった。それによって祖国の勝利は遠退いた、そんな貴方から様々な事を学びたいのです。」

 

昔話だな、そんな物を話し出す彼の瞳には英雄というものを前にした子供のような目をしている。

彼は私が二十五歳の頃に産まれた、年齢を言えば長男と同じ位の年齢だろうか?

 

「そんな昔の教訓は既に様々な国で取り入れられている筈だ、私でなくとも今では誰もが可能だろう。それにだ、私が君に教えられる事はそんなに多くはない、その殆どを君は既に知っているのではないか?」

 

「だとしても、あの時あの場所であのような判断が取れる人間はそうはいない。私では崩れていたでしょう。」

 

そんな事を言う彼は、私の後を付いていくようになる。基本的に平時の将校はデスクワークが仕事となる。運動不足にならぬように自分なりに管理をするのが、前線で戦ってきたものの努めだと私は考えているが、軍政に携わる者には太り気味の者もいる。

 

基本的に週に一度下士官に混ざって訓練を受けているのだが、如何せん歳のようで最近では衰えを隠しきれない。

それでも、招き入れた客人の前で無様な姿を晒したくは無いのだから、張り切ってしまう。

 

首脳会談のあの日から数ヶ月が経ち、彼もすっかりとこの国になれていた頃、内閣の方から一つの文が届く。

機密事項の一分を協力国のものへの開示、と言う内容だ。最も、最近の兵器開発に関する部分でも、一時の内に盗めぬ物ののみというものではあったが。

 

私は、この時には彼の事を高く評価していた、何をやるにも一生懸命で色々なものを貪欲なまでに学ぼうとするその姿勢。

ただ、机上演習はお世辞にも良くは無く侵攻戦に関して言えば及第点と言ったところだ。逆に防御に周れば非常に強固で柔軟性のある対応であるから、適正と言えよう。逆襲側と言った所か?

 

そんな彼に開発中の新型戦車のお披露目をしてやろうと思ったのは、当たり前の事だったのかもしれない。

 

 

『これから行く場所だが、いつも君を連れていけなかった場所になる。くれぐれも内密に頼むぞ、これくらいなら私の裁量で片付けられるからな。』

 

『有難ウゴザイマス。戦車開発ノ現場ヲ見ラレルノ、嬉シクオモイマス。祖国デモ最近ニナリ、ヤットマトモに造レルヨウニナッタノデスガ、イロイロト問題がアリマスノデ参考ニサセテイタダキマス。』

 

今や電化が進みつつある東海道線を電車で御殿場へと向かう。スーツを着て移動するのは、一応の隠蔽の為だが背の高いオトコ二人が並んで歩む姿は、実に目立つものだったろう。

時折流れる景色には土を高く積み、形作られ始めていた新幹線が見える。

 

それを抜け、到着したるは実験場である。

ちょうどそこには95式と試作車両が並んでいた、どうやら走行試験を行っていたらしい。

 

『皆作業ご苦労、最近はあまりこちらに顔を出せなくて済まないね。』

 

『いえ、少将こそ良くこちらへ。そちらの方は?』

 

ヴェンクが前へ出る。

 

『彼はヴァルター・ヴェンク少佐。わざわざドイツからこちらへ交換士官として、こちらへ学びに来たのだ。

それで、試作車両はかなり進んでいるようだがどんな感じだね?』

 

『そうですね今日の走行試験は終わりですので、データをお見せします。』

 

事務所へと向かい統計標を出して説明を始めた。

最新の対戦車砲である57㍉口径砲の限界と今後の進歩方向を、統計から導き出された数値には実に魅力のあるものが出されていた。

 

『やはりか』

 

『数年前に出した貴方の予想通りです。やはり最低でも75㍉口径の野砲と同程度でなければ、今後戦車は急速な進歩が予想されるのです。』

 

そして、2つの装甲の数値もあった。

 

『車体の装甲はやはり圧延鋼板の方が良いんだな、鋳造ではそれ程までに金属剥離が起きるのか。』  

 

『そうですね、多少量産性は落ちますが車体はやはりそちらの方が、何より複雑な形であればある程鋳造は強度が落ちます。使えるとすれば、砲塔部位かと。』

 

試作車両

 

 

【挿絵表示】

 

 

『そうか、ありがとう。予算はこちらでなんとかしよう、引き続き開発に専念してくれ。必要なデータや機材も揃えよう。

 

さて、時間を取らせて済まないね資料庫に入っても良いかな?彼に渡しすものがその中にある、くれぐれも民間の方には流さないでくれよ?』

 

『了解しました。』

 

 

話の流れとしてはこんなものだろうか?首脳会談の裏には私の行ったような出来事が、各省庁で散見されるであろう。

もっとも、上手く隠蔽しているだろうが…この時には既に戦争が始まることは想定されていた。いつ起こるのか、正確には解っていなかったが、近い内には必ず起こると想定されていた。

だから、このような事を見つけられても我々には痛手にはならない。

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人種問題

1996年9月

 

 

『人種差別撤廃条約、この文言が初めて国連に提出されたのは1936年12月の事だ。当時は、まだまだ有色人種に対する差別が欧米では頻繁に行われていたと言うだけに、非常に珍しい文言である。さて、ここで皆に質問だがこの文書が出て来た背景にはいったい何があると思う?解ったものは挙手を…早いなペトロヴァ』

 

『はい、日本国に対する配慮と初めての黒人メダリストを称える所から出たのだと思います。』

 

教師が頷いた。

 

『概ねその通りだろう、1936年はベルリンオリンピックを迎えており、ドイツ復興のシンボル的立ち位置となった祭典で、尚且この時代の混乱を反映していた。特に100m走で金メダルを獲得した黒人選手に対して、それが顕著に現れたと言えるだろう。写真を見てくれ。』

 

便覧の写真には爽やかに微笑み、会場へ手を振る選手の姿がある。

 

『彼はこの一月後、フランス滞在中に消息不明となりセーヌ川付近の海岸で遺体が発見される。どう見ても他殺と断定出来たそうなんだが、当時自殺と判断されたと言う。今では考えられないことだが、それがまかり通った時代だった。と言う事だけ覚えておいてほしい。さて、そろそろ時間になるが質問があったら文書で提出してくれ。』

 

 

こうしてまた一日が流れていく、写真を見て吐き出すものも入ればそのままトイレに行くものもいる。

それくらいにはこの水を吸ってブクブクに膨張した死体は、生理的に受け付けないものだった。私だって…いや資料の中にもっと悍ましいものがあったおかげで、気持ち悪い程度ですんだけど。

 

『ペトロヴァ、今日の放課後社会科実習室に来なさい。』

 

いったいなんだろうか?

放課後行ってみると、歴史学の教師たちが一様にこちらを見ていた。

 

『あの、それでいったいなんでしょうか?』

 

『皆、君の発言が気になってるんだ。まだ誰も、あの時代の歴史で深く知るすべのない事まで、憶測の段階であるが君はそれを答えられる事に。何が君にそれを与えているのか、気になってね。』

 

まさか、まだそんなに1900年代前半って深堀出来ない時代なの?正直言ってこの年までは、私まだ解読出来てないんだよねぇ、古い漢字とか多いから凄く読み辛いし。

 

『その顔は知らなかったと言う顔かな?あの戦争の前の事は、意外な程に検閲が厳しい。特に開戦間際の数ヶ月、その部分は鉄のカーテンに閉ざされているかのように、僕等はそれを知りたいだけだよ。こうやって、研究会を開くくらいにはね。』

 

 

 

 

 

 

1936年ベルリンオリンピックが開催されたこの年、私の家にあるものが設置された。見るからに巨大で重そうな箱、ブラウン管によるテレビが設置された。

町中で見かけたそれをついつい買ってしまったのだ。

 

妻や義娘達からは何故こんなものを買ったのかと、問い詰められたが息子達からは援護射撃があったおかげで、なんとかお咎めなしと言うことになった。

オリンピックを見る為に買ったのだ、生憎私はこのような仕事柄映画館にまで足を運んでいる時間が無い。だから、こうして家族で囲んでみるのはとても良いことだった。

 

その年ヴェンク少佐は帰国した、基よりオリンピックまでと言う期間であったのだからそれは仕方のないこと、私が教えられる限りの事を彼には叩き込んだ。

それが彼の血となり肉となる事を祈ったものだ。オリンピックの折には彼は一人でドイツ選手を応援し、意外な程に熱狂していた。やはり母国と言う物が、彼の心にあるのだろうと。

 

 

さて、事態が動いたのはこの年の10月。オリンピックの悲劇と言われる出来事が起きてからだ、当時陸上3種競技で金メダルを獲得した黒人選手が変死体となって発見されたのだ。

しかも彼の国籍は英国連邦ケニアである。非常に不味いことになったのは言うまでもない。

 

彼の死の原因究明の為に仏国内への調査を行うよう、英国の使節が派遣されたのだが仏はこれらを拒否。この事態を自殺として捜査を打ち切りにした。

これに激怒したのは英国である。宗主国としての威信を傷つけられたのだから、黙って置く訳には行かないと恐らくは紛争を起こす前に初めて行われた裁判。

国際司法裁判が、このとき初めて開かれた。

 

これだけならば別に良いのだ、判例となってむしろこれからの世の中は国連が取り仕切るぞと、そういう形が見えてきた筈だった。それを、仏は拒否した。あからさまにお前達には関係無いと言う、敢然とした態度。

 

我々の世代にしかわからないだろうが、見栄というものが一番大事にされた時代なだけに、こうなる運命だったのだろう、笑える話だろ?見栄だけで戦争が起こるのだから。

さて、そこから各国の関係は冷えに冷え民間側にも支障が出始めた。

 

まず、運河の通行に関する案件である。パナマ スエズの仏船籍の航行を認めずと言う条項を管理国であった日英が仏に通告したことが始まりなのかもしれない。裁判を受けなければ、通すことは出来ないと強行したのだ。余計に関係が悪くなる。

 

だが、それで事は終わらない。輸入額が高騰し生活苦が広がり始める仏は国内でそれが顕著になる前に、一手を講ずる。運河を介さない貿易、即ち米国との貿易を強化する。

たった半年で大西洋の貿易額はそれまでの数倍にまで膨れ上がった。

 

大西洋が2国の命綱、そうなるとそうなると邪魔になるものがいる。英国、そして隷下のロイヤルネイビー。保護国家たるアフリカ諸外国。

そこで、さらなる一手を仏は行う。人種差別撤廃条項を提出すると言う、事だ。原因を造ったやつが、その原因を無かったことにするようなそんな条項を提出する…面白い。

 

決して日本に対する物事など何もない、ただの下心からこれらは始まり条項は恙無く了承された。

もしも、後世の人々がこの事の人々がこの事を知れなくとも構わない。むしろそれが望ましい、真剣に議論するにはあまりにも馬鹿な事だ。

 

 

溢れたものたちが一致団結し、日英に対して挑戦状を叩きつけるが如く次にはソ連がそれに加盟した。

三国同盟、彼等は物量共に保持し日独英同盟に対した訳だ。

 

我等と彼等の板挟みに合う国は溜まったものではないだろう、どちらについても貿易が滞る。それならば、自分達が組みするのはより理解できる者たち、利用できる者たち等で世界は徐々に別れていった。

 

虚しいものだったよ、戦争など軍人ほど望んでいなかった。彼我の戦力差を考えればやる事ほど馬鹿らしいことは無い。

それでも、関係悪化のおかげが軍資金は右肩上がり、戦車の開発速度も上がるし、戦艦の就役も早くなる始末。

おまけに海軍は空母の完全戦力化の完全戦力化を謳い、新たな予算で6隻の正規空母を造るという、いったいどれ程多くの艦艇が世に出たのか訳のわからないことになった。

 

これはもう止まらないと、この時にはもう諦めにも似た感情が出て来ていた事を思い出す。

1937年の初頭頃2月かな?その頃ドイツはチェコを併合した、武力的なものは何一つないただ財政が立ち行かなくなったチェコを、ドイツが買い取る形だ。

 

何故チェコの財政が立ち行かなくなったかと言えば、仏寄りの政策故に周辺国との貿易が立ち行かなくなったから、と言うのが答えだ。そして、親ドイツ的であった西部地域は投票によって切り取られた。

当時ソ連と対立中であった周辺国は、ソ連と手を取り合う仏に対して疑念を抱いていた事もあり独逸を支持する声が後を断たなかった。

それが更に状況を悪化させるのだが、もう何も言うまい。

 

そんな中で南アメリカのブラジルで政変が起きた、親仏米派と親日英派の武力抗争だ。

激化する戦闘、どちらとも一進一退の攻防これに首を突っ込まない列強はいない。

 

両勢力共に義勇軍を派遣する、この戦闘をブラジル内戦と言うのだが専門家はきっとこう例える〘新兵器の見本市〙。我々は、傭兵を派遣する、実際に戦闘を経験させ磨き上げる為に。

どちらが勝つかそれは賭けにも似た楽しみだと、この頃の私は思っていた。

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。
 
戦力に関しまして一つ、戦争が始まるときに各国の総戦力を表示します、編成なども詳しくしていきたいのです。基本的にそこから幾ばくか抽出して同比率となるよう軍集団、軍、軍団、師団、旅団、連隊、大隊、中隊、小隊、分隊を構成していると考えていただければ幸いです。ただし、輜重科に関しては独自の戦闘単位とます。







追記
シン・エヴァを見ました、感想としましては監督の趣味全開と言った所です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

傭兵()兵士()

1996年9月

社会科実習室で先生方に事のあらましを話した、高祖父の残した文書、それの翻訳をしていくに連れて色々と歴史の勉強をしていた事を。

 

『すると、なにかい?君の高祖父は、あの戦争で戦った一人の兵士?だったのかな?』

 

『そこまでは、まだ翻訳も出来ていないところがありますし、所々で文章的におかしな場所もあって。きっと癖なんだと思うんですけど、苦戦しています。』

 

それを聞いた途端に先生たちは難色を示した、眉間に皺を寄せてヒソヒソと話ている。

 

『日本語か…確かに難しいね、君の高祖父は聞いた内容としてはかなり古い人だったんだろうね、翻訳したノートは家にあるんだったね。見せて貰えないかな?きっと君の助けになると思うんだけど。』

 

『それは…祖父との約束があるんです。何があっても、一人で解読しなさいって。きっと祖父は内容を知ってるんだと思います、それを言わないのは私の力でそれを知るのを楽しみにしているからです。』

 

教育者たるもの、ここで生徒の考えを汲んでくれると有り難いんだけど。またヒソヒソと話し合ってる、もっと堂々とすればいいのに。

 

『取り敢えず多数決で、君のそれを無理に紐解くのは辞めておこうと言うことになった。のだが、もしも解らないことなどがあれば是非頼ってほしい、こちらにも利益になるしそちらにも利益になる。どうだい?悪い話ではないだろう?』

 

『悪い話かどうかは、私が決めることです。でも、本当に行き詰まった時はお願いします。』

 

パチパチと拍手が起こる、なんの為の?渋い顔をしている先生方も一応納得はしていると言う意味なのか?

 

『解読が終わったら是非聞かせて欲しいです、楽しみにしていますよ。』

 

 

 

1937年4月

ブラジル内戦への派兵に伴い各地に散らばる士官下士官問わず、比較的優秀な者達を選抜していく。

全体として第一弾大凡3000名を送ることとなったのだが、そこで一つ問題が発生した。

 

このような場合に基本的には、その人数に見合った階級を割り当てるのだが、今回だけはそうも行かない

内戦と言うものは基本的に兵力の削り合いになるだけでなく、裏切りと言うものが意外と多いのだ。

 

心変わりと言うのだろうか?確実に勝てる方へと付く奴らがいるのだ、そうなった場合我々の部隊にも全滅の可能性が浮上してくるのだ。そのため、ある程度戦場を知っていて尚且動けるもの、更に階級はそれなりに高い人物、特に将官が望ましい。

そして、私に白羽の矢が立った。

 

 

軍令部総長が目の前にいる、私はブスッとした表情で彼を睨みつけ事の成り行きを聞いているが、納得が行かなかった。

どうして私なのかと、他にも若い奴らがいるのだと経験を積ませなければならないのに、最早経験もクソもないただ歳をとった男が行ってもなんの意味もないのだと。

 

帰ってきたのは、それでも行け、一番経験が多く何より遠征に最も慣れ親しんだ人間は君しかいないのだと。向こうの言葉を話せるのは君だけだと。

好き好んでポルトガル語を学んだわけではない、まだ傭兵稼業が有ると学校で習わされたのが元凶か?

 

私の同期は正直に言って、もうその殆どがいない。私よりも上もあまりいない皆還暦で辞めていっためていった。上は上で動き回れるものがいないのだ、渋々了承するも条件を付けた。

特務として階級を臨時に上げること、参謀はこちらで決める事だ。

 

そして、もう一つ問題が存在した。

『民間の軍事会社から協力者が出される、だと?』

 

『ええ、話によれば向こう側には経験豊富な者達がいる。何より、傭兵は我々よりも詳しいだろうと。』

 

なら最初から彼等を使えば良い、私はそろそろ老人と言っていい年齢だ。身体に鞭打って前線に立ちたいとは思わない。

 

『貴方は彼の事を誰よりも知っている筈だ、写真を見てほしい。』

 

なんとまぁ、驚いた事に顔見知りがいるではないか。

 

『何処ぞで野垂れ死んでいるかと思えば、なぜ連絡しないのか。家内は喜ぶかな。協議は何時頃から』

 

『明日ここで』

 

通達が遅すぎるが仕方ないか。

兎にも角にも傭兵のお頭との面会が始まるのだが、どうせ彼の性格を私は当初から知っていた。なぜなら、

 

『お久しぶりですね、父上様。』

 

私の三男だ。あいつが何故か目の前にいると、

 

 

良くもまあ、

 

『良くもまあ、ノコノコと顔を出せたものだな。この十年間連絡一つせず何処をほっつき歩いているのかと思えば、傭兵か。』

 

『ええ、小さい頃からずっと教えて頂いていた生きて行く術、それを実行したまでです。』

 

11年前コイツが軍を辞めたとき、まだ25で少尉。青臭い奴だったんだがな、成長している事が良くわかった。そりゃ自分も歳を取ると、この時思った。

 

『さて、積もる話もあるかと思いますが生駒少将閣下。傭兵稼業には、何が一番大切かご存知ですか?』

 

『そうだな、信頼されるという事ではないかな?でなければ仕事等受けられる訳がないからな。』

 

『そうですね、ですが今回のように国家と言う巨大な後ろ盾がある場合、それは当てはまりません。従って、我々傭兵が成すことは第一に如何にして利益を獲得するのか、第二に生存する事になります、また…』

 

ここからはかなり長い話となる為割愛させてもらうが、私は傭兵と言うものがいまいちピンと来ていない人間だ。

特に、どれ程の戦闘でどの程度の損耗ならばBetterなのか、いまいち掴みづらいというところか?

 

『そんなに損耗が嫌ならば、戦車でも持っていくか?』

 

と言えばそんな高価なものを持って行って、帰りまで載せて帰るのだから輸送費が高くなる。

と言う理由から没となる、まあ戦闘機とどっこいの値段なだけにおいそれと持って行きたくないのだろう。だが、装甲車輌が無くてはいざという時の戦闘に支障が出る、機動力不足だ。

そこで、あれを持っていくことを考えた。

 

『一時期試作20輌ほど作らせたものがあるんだが、それを持っていくか。あれならば、損耗しても誰も文句を言うまい。元より廃棄するのが決定されたからな。少佐アレの資料を持ってきてくれ。』

 

『あの、粗大ゴミですか。わかりました、少し待っていてください。』

 

『粗大ゴミ?何ですかそれは。』

 

しばらくすると資料を持ってきてくれた。

 

『こいつは軽戦車を代替する為に造られたのだが、性能が中途半端過ぎたのでね、失敗作の烙印を押された装甲車だ。部品の大半は市販のトラックのものを流用しているから、比較的に安い値段で組まれている。だから破棄しても構わない、これならいいだろう?そんなに重くないしな。』

 

それにゴミ処理に使えるのだから、余計な金を注ぎ込まなくてすむ。

 

【挿絵表示】

 

 

『まあ、良いでしょう。それで?そちらの方の用意は出来ているんですか?』

 

『何時でも万全、と言いたい所だが集結に後一週間。いや4日はかかる、各地から招集しているからな先に行っても良いんだぞ?』

 

それは御免被ると言われ、これで勇雄(いさお)との面会は終わりを迎えるものの、その後帰路につくと家の前で待ち構えていた。

どうやら、門を潜れないようだ。きっと家内は喜び、卒倒するのではないか?本心としては、これほど嬉しいものはない。

 

今思えばこの時、こいつを留めていれば良かったなどと後悔している。勇雄は、この後家内と出会うことなく南米の地で倒れ伏す事となる。それも、私が戦線を離れ世界大戦を戦っているときに、命を落とすのだから。もっと、何か気の利いたことを聞いてやれば良かった等とそう思ってしまう。

 

だが、後悔してももう遅い勇雄はもうこの世にいないのだから、なんと親不孝な息子だ。

だが、これだけは言える。この南米での傭兵活動、勇雄は立派に戦い指揮をとばしていたと。

 

軍人のままであればきっと良く皆を励ます、立派な指揮官になっていたに違いない。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

分裂した国

1996年8月

うーんと、唸り声をあげながら私は今日も高祖父の残したこれを、翻訳している。

最近は専門用語等が多くなってきた事により、ますます訳の解らない内容になってきた。

 

たぶん戦争の事が書いてあると思うんだけど、それでも何か良くわからない。アルファベットへの変換を行っているから、暗号化とかを取り入れて書かれている箇所すらあった、何かを隠しているのだろうか?

 

そう思って地道に解読しても、ごくごく普通の文章になるだけで何か秘密を隠しているようには見えない。

どういう神経をしていたら、こんなに難解な文章を書こうとするのか。それに進むに連れて滲みが出てきて文字が消えていたり、それを加筆して直している場所もある。なんで?

 

『ねぇ、おじいちゃん。どうしてこんな書き方していると思う?』

 

『うん?ああ、これか。たぶんだが、これ書いていた頃には70を超えていたと思うんだが、きっと頭の体操を兼ねていたんじゃなかろうか?』

 

ボケ防止にこんなの残したの?

 

『にしても、こんなにも解読が難しいものを残すとは。爺さんは、本当に変わり者だな。おかげで、こんなに可愛い孫の顔が見られるのだから、俺は嬉しいよ。』

 

『なんで絶縁されたの?』

 

少し首を捻っている。

 

『お前のお祖母さんと結婚をすると言ってね、当時俺には許嫁がいたんだけどそれで親父。お前の曾おじいさんと喧嘩したんだ、まあ親父は軍人だから強い強い。だけど爺さんだけは、俺の肩を持ったんだ。だから、親父は俺と絶縁したんだ。爺さんだけは、いつでも帰って来いよと、そう言ってくれた。』

 

愛されてたんだ…そりゃそうだよね。そうじゃなきゃ一緒に飛行機に載らせてもらうなんて出来ないだろうから。

じゃあ、日に日に難しくなっていくのはボケ対策で頭を使いたかったから。じゃあ、この滲みは何?

 

『ねえ、何か変な病気とか持ってたりした?』

 

『いいや、健康体そのものもだったぞ。70で木刀を振り回し、現役の軍人を叩きのめす程度には化け物だった。』

 

ますますわかんない。

 

 

 

 

 

 

1937年4月下旬

 

私達はアルゼンチン入りしていた、アルゼンチンからブラジルの反政府勢力の勢力下へと入国を行う。これが一番早いのだ、厄瓜多から行った場合大森林を抜けなければならず、そんなところ通りたくもない。

と言う事で、車輌を使い南米の大国アルゼンチンに来た訳だ。

 

移動時の編成

 

 

【挿絵表示】

×20両=60名

 

【挿絵表示】

×80両=560名

 

【挿絵表示】

×400両=2380名

この編成は、臨時編成であり移動用の車輌の殆どが民生品の車輌で構成されていた。

 

それにしても、これ程多くは民間の部隊ではそれ得られまいて。

『この地域は本当に湿度が高いな、亜熱帯はあまり好きではないが仕方ない。資料を読む限り全員のワクチン接種は終わっているな。しかし、黄熱病か怖いものだな。』

 

『そうですな、幸いにして我が国がこういう分野に長けていたのが功を奏しましたな。』

先人には感謝しきれぬ、病のせいで南下政策を行わなかったが為にこれ程まで医学が進歩するとは、思っていなかっただろうに。

 

『客員には充分通告してあると思うが、再度連絡を頼む。決して生の水を飲むなと。何がいるか分からんからな、下痢になったら堪らんぞ。後、貝が大量にいる水辺には近づくな、寄生されるぞと。』

 

『確かこの地域にも吸虫がいるんでしたな、いやはや何処にでもいるとは嫌なものです。

それはさておき、3000人で何処まで出来るでしょうか。私はこの戦闘が始めてでして、ご子息はなれているご様子でしたが。』

そう、私の参謀と言うか生徒として連れてきたこの男、田中少佐。年齢は35と、まあまあ優秀な男だ。出世欲よりも金勘定の方に興味があるような男だが、こと逃走経路の確保に関して言えば恐らくは同期の中でも抜きん出ている。と言う、模擬戦の結果から連れてきた。

 

そうこう話をする内に車両は国境線を通過する。一台に付きだいたい12名が運搬されていく中で、大小の車輌は遂に目的地である

ポルトアレグレ近郊の臨時政府軍集積所へと到達する。

そこで、待ち受けていたのは隊列を組んだ部隊とそれを率いる、将校だ。いや、民衆から信頼を勝ち取ったクーデター派頭領と言ったほうが正確かもしれない。そういう相手と肩を並べるには、官僚ではなく軍人でなければ、暴走を止めることは出来ない。

 

到着と同時に計画通りに各員が隊列を組んでいく、向こうと相対するように形成されていく隊列は、そして私が車から降りるときには隊列が完成していた。軍刀を引っ提げた私は悠然とその横を歩き、彼の将校の目の前に姿を表す。

 

彼の目を見て最初に思ったことは、まるで何かの目標に出会ったかのような少年の瞳をしていたと言う事だろうか。

彼の方から自己紹介が始まった。

 

Eu te vejo pela primeira vez.(お初にお目にかかります。)Meu nome é Castello Blanco.(私は、カステロ・ブランコと申します。)Aqui sou o atual comandante do(ここ、ポルト・アレグレ軍管区の実質的な) Distrito Militar de Porto Alegre.(司令官をやらせて頂いています。)イコマトクヒサ将軍の訪問ヲ心ヨリ、嬉シク存ジマス。」

 

日本語を勉強したのだろう、援軍が来たことを最も相手に好意を懐かせる方法としては、上出来であろう。

なら返答は、向こうに馴染みのあるもので良いのかな?

 

Obrigado por me receber.(出迎えに感謝する。)Aliás, onde está seu empregador?(ところで、雇い主はどこかな?)

 

階級章を見るに、彼は大佐である。将官と見間違うとは私も衰えたものだと思えた。軍管区の司令官ならば最低でも少将、だが大佐がなっているのだから人員不足は明らかだろう。

それを聞いた彼は私を、直ぐに案内しようとしたが兵達に宿舎に行くよう通達した。

 

雇い主、クーデター派の長。

その名をペドロ・デ・アルカンタラ、かつて存在したブラジル帝国最後の皇帝ペドロ2世の孫に当たる人物だ。歳は私よりも2つほど上である、その点を考慮して私が選ばれたのだ。

 

歳が割と近いということもあり、このクーデターに及んだ経緯を彼は私に事細かに話した。

かつてブラジル帝国であった頃、革命が起きた事。そして、その革命は民衆が望まざる結果独裁者が牛耳る、暗黒の時代が始まった事である。

 

現在、ここブラジルの政府はその歴史をなぞるまま、形だけの選挙で選出された大統領。大農園主だけが富を持ち、他は貧しく暮らすだけ。

嘗て祖父であるペドロ2世が行った奴隷制廃止を否定し、革命を行った彼等に少なからぬ恨みを持つこともあったこと。

 

何より、その独裁体制は皇帝の時代よりも苛烈であり、まさに一部の富める者達だけの政治だ。

ヴァルガスが反旗を翻すもそれは失敗に終わり、もはや手立てが無いかと思われたときに、米国の経済危機の波がブラジルを襲った。

 

地政学上米国経済に依存する形となっていたこの国のプランテーションは、事実上の崩壊を始めていたおり、彼は重い腰を上げた。決して若くはないが、しかし彼の言葉に軍の若手将校達は呼応する。

 

南部に存在するここド・スール州を中心にした南部軍と同目的に動くペルナンブーコ州を中心にした北東部軍が協力体制となっているが、サン・パウロを中心としている南東軍と私兵を相手取るには、南部軍はあまりにも兵数が不足しているのだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

それ故に我々を傭兵という形で雇い入れた。最もそれだけではなく、どうやら米兵の存在が確認されているらしく内戦に乗じて何かを行うつもりなのだろうか?

我々としてはそれを見過ごすわけには行かないのだから、好都合である。

 

これと同時に私と彼とで最終的な契約の調印が行われた。

 

一つ・報酬に関して

 

現行の国家予算の1.5倍を目安とし、向こう100年間での分割支払いとすること。また、債務としてのこれに利子は付かず、生産力の向上に伴う国家予算の増額に対してもこれに合算されることはない。

 

二つ・国際的な枠組み

他の南米の国家との相互協力関係を行うこと、またこの提案は三国同盟戦争時の協定を基にした南米による独自の連合体の確立と共に、対外的な圧力に対する画一的な行動を行うこと。

 

三つ・依存型経済の払拭

一国に対する依存関係を見直すとともに、多方向への輸出入品の開発を行うこと。なお、本稿の達成のために日英は基礎技術の提供を行うが、それ以上の技術的支援はこれを一切行わず、南米の団結により現状の打破を行うこと。

 

 

だいたいがこんな感じだったと思う、もはや文章など私が所持している訳でもないからな。

もっとも、この後に1943年中頃まで内戦が終わらずグダグダと散発的な戦闘ばかりが起きる。我々の最初の一撃によってそれが始まったのだ。

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

市街戦

1996年10月

修学旅行、それは高校生の私達が通る道。大概の大日本帝国加盟国の学校では、スイスに行くこととなっている。未だに存在する永世中立国と言うものも珍しい、そんな国だからこそ私達をそこに行かせるのかもしれない。

 

中立国、前大戦にすら参加することの無かった国。それらは、あの戦争を本来あるべき姿で残す為に、戦勝国自らがわざわざ残した戦争の名残とも言われている。

そんなところに修学旅行するのは嬉しいものじゃ無い。

 

みさせられるのは、瓦礫となった街がこの博物館の中にある写真額縁に飾られている。

案内役の人は淡々と説明を続けながら前へ前へと進んでいく、途中気持ち悪くなる子もいるけれど、それでも話を続けていく。

 

そして、とある物が飾られている場所へと行きそれを皆が目にする。ブラジル内戦、大戦の序章と言われた戦争。その当時行われた、民間人に対する虐殺行為。このとき、いったい何があったのか当事者達は黙して語らないと言う。

 

日本軍と思われる軍人の横に積まれた、死体。衣服は当時の労働者に良く使われていたと言う服装、その中にはベストのような物を着込んだものも含まれている。

 

他方、米軍と思われる軍人の横に積まれた、死体。黄色人種、ネイティブと思われる人々、白人。やはり、その中には軍人と思われるものもある。

 

今ではコラテラル・ダメージと呼ばれるそれは、当時としては当たり前だったのだろうか?そんな訳無いのではないだろうか、実際写真の軍人(将官?)の顔はどこか辛そうに…、なんだろう他人に見えない。どこかで見たような、そんな顔をしている。

 

ただ、同時に何か達観したような雰囲気を醸し出しているから、慣れている?そんな一人の偉丈夫が、その写真にはあった。きっと嘗ては検閲をされたであろうそれ等が、なぜこんなところで飾られているのか。それはきっと、私達が考えなければならないのだろう。

 

 

 

 

 

1937年5月

その日は雨が降っていた、南半球の5月は比較的雨の降り辛い涼しく感じるものなのだが、この日だけ雨が降っていた。

それは、何かを暗示したものだったのだろうか?それともただの偶然か、何にせよ戦争を始めるには実に好気であった。

 

その日、我々3000人はあからさまにサン・パウロへ向け行軍を開始した。その姿を、現すのならば単なる的と言うのが正しいものだろう、何せ車輌も伴わずただただサン・パウロへと歩いているのだ。向こうへ情報が到達してから、軍が派遣されるまでものの数日程で、我々の目の前にはおおよそ1万とも言える敵軍がこちらを迎え撃つ為に進撃していた。

 

もっとも、私としてはそんな者と真っ向から戦うなどまっぴら御免であるから、少し趣向を変えた戦いをしてみることとした。

元来歩兵と言うものは柔軟な行動を行えるよう進化した兵科である、砲兵や騎兵と違い誰でもなれる。どんな地形にも対応出来る。

 

だからこそ、小細工と言うものを行うのは比較的簡単な事だろう。

程良く、そこには川が流れていた事からそれを防壁と考え対岸で待ち構える形に。最初から進行する気などサラサラ無いのだから、迎え撃つ準備だけをしていく。

 

【挿絵表示】

 

 

対岸には小さな町が存在し、戦火を免れる為に民衆は既に退避しているが、知らせながらここまで来たのだからその前には人があまり多くはなかった。

イタラレという名の町、いやこの戦場一帯は山岳というほどではないにせよ、木々に覆われ大多数の部隊の投入が困難である。

 

向こう側に連中が到着し、町の資材を使用して夜を過ごそうとしたその日の内に攻撃を開始した。

俗に言う夜討ち朝駆けであるがパニックを起こしただろうに、ここ南米の戦術は何かと旧いものも多く、対応は非常に遅かった。

 

その日の内に後方に位置していた臨時の集積物に放火し、風のように攻撃を終わらせた。

渡河を行った何人かに情報を貰ったのだが、どうやら少なくはあるが町に民間人がいるらしいと、最悪被害が出ているか?

 

次の日から対岸では夜間の襲撃に怯えたように哨戒を始めており、こちらの攻撃が効果的であった事を簡単に把握出来たと共に、米軍の対応力の速さに舌を巻いた。

 

それでも、数日の間の戦闘で向こう側に焦りが見え始めていたことから、再度こちら側から渡河を行い奇襲を仕掛けた。

向こう側の対応は雨のような機銃掃射が見えるが、狙いは正直正確では無い。まんまと囮に掛かってくれる、そのうちに敵の上が何者か解った。そして、渡河の準備を進めていることが判明し、この攻撃の後に直様行ってきた。

 

【挿絵表示】

 

 

こちらの守備の薄い中央部を突破しようとしたのだろう、向こうもこちら側を良く見ていると言うのが解った。まあ、私の計画通りに動いてくれるのなら此方としても有り難い。

昨日の夜の川の水は温かいが、今日の水は極めて冷たい。

 

5月も下旬の南半球20度の気温を超えることもなく、ただただ冷える。そして、渡河したのは良いものの生憎午後から雨が降り始めた。予定よりも早い雨であったが、渡河した部隊は完全に孤立して最早袋の鼠である。雨で体温が奪われ体調を崩し、まともな飯も食えず零下にならずとも、低体温に襲われること必至。

後は見て見ぬ振りをするばかり。

 

助けることをせず、ただ見せしめとする。従軍記者がいないだけ良かっただろう、向こうは正規軍という建前ではないのだからこんな事も出来る。基本的には米国人の骸が散乱する。

 

そして、それと時を同じくしてある一報が入った。

「民兵が活動をはじめ、敵の首都並びに米派に対して攻撃を開始した。」

というものだ、こちらの側だけに有利にことが進む中、私は息子の事を考えていた。

なるほど、上手い手を考えたと。

 

【挿絵表示】

 

 

彼奴は、自分の得意とする分野。傭兵稼業によって得られた人脈を使い、政府に反発する連中をこの機に乗じて蜂起させたというところであろう。もっとも、これにはある問題点がおるのだが後述させていただく。

 

これによって、全面に出ていた連合部隊は瓦解を始めた。当初の予定通りに、側面からの攻撃により半包囲を形成しつつあった形を更に狭めていく。

 

【挿絵表示】

 

 

最早砲撃など不可能なほどの接近戦、町中での戦闘が始まり連射性の効く兵器を多数所持しているこちらが、狭い路地などで活躍を見せる。

そんな中、姿形は正規軍の民兵が現れると事態はより一層混沌とし始めた。

 

敵味方の区別のつかない戦場。グダグダと泥沼に足をつっこんでいるのかと思う程に、夥しい数の流れなくてもいい血が流れた。

一部では、非武装の民間人にも被害が発生していることから、この事態がどれだけ深刻かわかるだろう。

 

この事態が、いわゆる息子の行った方法の副作用である。見分けの付きやすいよう我々の側には一人一人にバンダナを左に着けていたのだが、それでも心理的に焦っている人間にとって、こんなものは目に付き辛いようだ。

 

それと、短機関銃の件について一つ懸案事項が発生した。米国義勇兵の中に何やら防弾衣を着た者たちが多数見受けられたという。現在我々が使用している短機関銃の弾丸が、至近距離でなければ貫通出来なかったのだ。

 

これは一大事、勿論ライフル弾は簡単に貫通したのだが、これでは犯罪者に横流しされた場合警察などの、治安維持の観点から無視できな事柄へと発展していく事は明らかだ。

帰国の前に文書を作成しておこうとした。

 

そして、我々の契約である敵の都心の一部占領が完遂され、戦略的な重要地を手に入れた。都市の民衆からの支持はお世辞にも高くはないだろうが、少しずつ善政で見直されればと切に願うところだ。私はその後すぐ似本国へと帰国の途に就く、それは7月の事であった。

 

このときの戦訓からか、米軍は後の戦いではより慎重になるのだが、当時の観点からそれを指摘できるものは無かった。

私の頭は防弾衣の事でいっぱいだったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

世界大戦
大将軍


1997年4月

 

「321ブースターイグニッション アンド リフトオフ」

 

ゴオゴオと音を立てながら宇宙ステーションへ向け、ロケットが加速していく、

テレビに映るその姿は、国際的な祭典の中でも特に重要度の高い行事である〘月面計画〙に基づいて各先進国が打ち上げを行っている。月面基地資材投下用ロケット、幾度も繰り返された資材運搬の一つの人員輸送。

 

後日にはローンチ・リングを使用した大型物資の射出が行われ、中継基地へと運搬される。

月面着陸後のマスドライバー建設資材は着々と運び込まれている。

 

そんな時代の中に私達はいる、人類の協調を具現化したものを創り出せる、そんな歴史の岐路に立っていると言われている。

そんな時代が、数十年前にもあった。

 

第二の世界大戦、その時代私達とは真逆の人類の不和の象徴の時代。世界的に騒乱が続き、関係各国は3つの陣営を作り出してそれ等を乗り越えようとし、見事に戦争へと発展したという結末にそれは当たり前だと、ツッコミを入れたくなる。

 

私の祖国ロマノヴァは、その時代には既に大日本帝国の庇護下で存続しており、軍隊の構成も侵攻軍というよりも防御一辺倒の編成であった。それは今の戦車達にも言えることで、避弾経始を多数盛り込んだ平べったい車輌は、最早伝統的とすら言える。

 

そんな軍隊は戦時中はたった一人の統率者によって運営され、その基で戦争を遂行する。

当時の任官された人物は征北大将軍という臨時の位を持っていたという。

 

高校も卒業する年齢になったから、卒業論文をこの半年の間に書き上げなければならないけれど、何を題材にすれば良いのか。そう考えた時に、高祖父の手記にある一つの単語。それに目をつけた。日本軍の固有役職である、〘大将軍〙という臨時官職。

 

一応現代まであるようなのだが、なった事がある人なんて現存しているわけも無く、任官した人物も当時としては極秘だったという。それこそ、ピンポイントで暗殺されてもおかしくない役職だからだ。だから、任官された人物を把握する手段は現在に至っても存在していないらしい。

 

もしも、この本を世に出したらきっと凄いことになるんじゃないか、と密かに思っている。

 

鎮守大将軍 坂之上 泰久

 

征東大将軍 生 駒 徳久

 

征西大将軍 加 藤 源太郎

 

征北大将軍  源  頼隆

 

征南大将軍 徳 川 義則

 

きっと錚々たるメンバーなのだろう。

 

 

 

 

1938年3月

この頃になると私達将官は、最早戦争が回避不可能な段階へと突入している事を薄々と感じていた。

昨年12月の頃、フランスは遂に公にソ連との軍事同盟を締結し、中央ヨーロッパ並びに東欧各国に対して威嚇行動とも取れる行いを始めた。

 

国境線沿いは今や軍隊が睨み合い、今にでも戦争が始まるのではないか?砲弾が降ってくるのではないか、等その緊張度は計り知れないものである。

そのため、国境線沿いでは要塞線が構築され始めており特に侵攻する手立ての少ない東欧ではそれが顕著に現れた。

 

しかしながら、これ等が効果を発揮するためには敵機動戦力に対する要塞の迂回を想定しなければならないため、要塞線は特に急所であると思われる河川の存在しない平野に、重点的に構築され

た。とは言え、東欧は必然にして平野の多い場所である。その全てに要塞等建築できる訳もない。

 

では如何にするかと言われれば、その解答をドイツが持っていた。チェコを吸収し、工業力も益々成長したこの国が、戦車やその他装甲車両を、この東欧に売り機械化の手助けをしていた。勿論限界があるが、そこを英国が資源を安く仕入れてくれるのだから、連携が産まれている。

 

こんな西方での危機的状況を鑑み、日本は西方への軍事援助を行うと公式に発表。この年、それに対する軍団の編成がおわり遂に出兵と相成った。

それに伴い第一次世界大戦以来となる征西大将軍の設置が行われた。

 

大将軍、それは臨時官である。基本的に長期的な戦闘が予想される場合、また一個軍以上を統率する為に置かれる者だ。

基本的には、将官クラスが任命されるが場合によっては佐官でも任命される事が制度上許されている。

 

だが、この大将軍というものは既存の階級に縛られない為に作られたものであり、若くして才ある者に指揮権を委ねる場合に最も多く用いられる。例え大将であろうとも、大将軍の命令には忠実でなければならない。

 

そんな階級を加藤中将が拝命した。彼は欧州に派遣され東欧の防備を可能な限り実現するだろう。

その事を確信する彼は防御戦が得意だ、侵攻はともかく。

 

さて、臨時官が任命されると言う事は国家として準戦時体制へと移行するという事、他ならない。

つまりは、東西南北全ての方位の大将軍の任命が順次始まっていく事になる。

 

もっとも私が大将軍と言う臨時官が未だに存在していたことを知ったのは、少将へと昇格した時だ。そう、将官だけが知っている。秘密にして暗殺を避けるという目的からか、上層だけで固められている。もしも、暗殺されれば誰か裏切り者がいることが簡単に掴めると言う所も、その理由であろう。

なんにせよ、この年それぞれの方位の大将軍が任命された。 

 

北の 源 頼隆 列記とした由緒正しい源氏の子孫である、彼はどちらかと言えば防御からの反攻戦が得意な男だ。ロマノヴァの前線へと派遣するならば、まあこやつが適任であろう。防御を主体に置いているロマノヴァとの連携のみを考えた上での配置だ。

 

西の 加藤 源太郎 公家の出だがそれ故に粘り強くあらゆる防御戦闘をこなす。ソ連の東欧への侵攻を睨むための派遣軍には、最適か?防御に特化したような男だ。

 

南の 徳川 義則 かの有名な徳川御三家水戸の出身で海軍。南方では艦船が主体となるのだから当たり前の配置か?南方への敵はそれ粘り強い抵抗を想定していない為に、直様東西へと配置転換が予想される。

 

東は私 生駒 徳久 花火屋の倅がトチ狂って軍人になった口。あの時から考えれば出世したものだと、このときは思った。得意なものは機動戦や奇襲等の流動的な攻勢と、少し変わった挑発程度のもの。アメリカ一国相手取るには少し物足りなかったかもしれない。

 

そして兵站部門である、鎮守大将軍 坂之上 泰久 文官からの採用だ。大蔵省のブラックボックス、玉手箱、計算の鬼。なんて呼ばれていた奴。一応海軍で佐官までいたようだが、何を思ったのか大蔵省へと行った経歴がある。マメな性格のようで、補給路等は全てコイツに一元管理される。

 

5人でいったい何ができるか、何てことは思われても仕方の無い事だが、勿論副将が存在する。所謂参謀だが、そこは管轄の管区から選抜される4人と本土の2人、それから下部組織が付いてくる。勿論、誰が最高責任者かなんて彼等は知らない。

将官が命令を忠実に実行するところを見て、やっと理解するだろう。

 

〘まどろっこしいにも程がある。正直な話、この大将軍という位は分かりづらすぎる。ならば、普通に階級を上げれば済むはずだろうに〙

とそういう意見もあるが、戦時体制に置いて各方面を取りまとめるのに、これほど都合の良いものはない。なにより、職権の乱用が効かないのがこの官位だ。それでも私は、あの時は強行したが…

 

 

ちなみにだが、中央軍は地方軍にあまり良く思われていない事がある。それは常に戦場と隣り合わせである地方に対して、中央は太平洋という広大な守りによって護られていると思われているからだ。

 

だが、実際のところ基本的に遠方への遠征は中央軍が仕事を行うことから、中央軍の方が死傷者が多い。

その事を地方軍の上は理解しているが、下ではそうは思っていないものが多いのが、あの戦争を通しての私の見解だ。

 

大将軍という職について初めて実感し、是正の必要性を痛感した。だが、私に政治力は無く友人等が私の話を通して、それを行うという。今はまだ無理であろうが、20年来に解決してくれると後進は助かるのだが、それが実現するだろうか?非常に心配である。

 

私も、もう長くは生きられぬであろう。日々肉体が衰えていく事を実感しつつある。

 




最近暑くなって参りました。皆様今年も熱中症にお気をつけてください。

誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東欧戦役

1939年4月

この日一大事件が起こる、当時ソ連が領有していたベルゴロドに置いて、突如として軍の弾薬庫が爆発し少なくない死傷者が出た。という情報が入った、その日の昼頃には少なくない数の赤軍がウクライナとの国境線に集結し、今にも戦端を開かんと待機を始めた。

 

そして、この爆発をウクライナ軍によるソ連軍への宣戦布告無き攻撃という文句を行い、賠償とそれに伴いウクライナの一部割譲を要求するよう勧告を行った。

勿論のことウクライナ側にそんな事を受け入れるものなどいる訳もなく、断固とした態度でそれを突っぱねようとした。

その結果として軍事的な衝突が発生するのは必然であった。

始まりの紛争。)

 

それと連鎖するかのように2,3日後にはソ連と国境を接する、《防共条約機構》各国はソ連に対して宣戦を布告するとともに、ここに東欧戦役(東部戦線)が始まった。

 

恐らくは初めから侵攻の準備を整えていたであろうソ連は、手始めにコーカサスへと侵攻を強めていた。

殆どの戦線で突破するやる気の無い戦闘をしているかと思えば、こういう要所に集中してくる。

  

 

【挿絵表示】

 

 

彼らが何を狙っているのかは一目瞭然、コーカサスにあるバクー油田であろうことは明らかだ。この油田は東欧、ひいてはドイツにとっての生命線と言われる程に重要なものである。

これがなければ、産業は起こせないと言われる程にこれに依存していた。(ドイツ使用量の8割)

 

さて、そんな場所の守備についているのはコーカサスの民族混成部隊。お世辞に言っても連携が取れる者たちではない、何故か。何より、言葉が通じない間柄というものはどうしても連携が取れなくなってしまうのだ。

 

それでもここ20年の間にエスペラント語が浸透していたのか、建国当初よりも動きは良い。そこに配備されたのが、我らが征西大将軍率いる一個軍。(1997年現在、確認されている資料上では2個軍となっているが、どちらが正しいのか。)

 

 

軍内訳

          

一個歩兵師団

 

二個歩兵連隊 5200人・車輌600両

 

 

一個軽戦車大隊 960人・640両

 

【挿絵表示】

 

 

一個主戦車大隊 920人・主力戦車230両

 

【挿絵表示】

 

 

二個砲兵大隊 660人・車輌260両

 

【挿絵表示】

 

 

二個工兵大隊 1600人・車輌160両

 

二個輜重大隊 1600人・車輌240両

 

【挿絵表示】

 

【挿絵表示】

 

 

一個師団総員 10940人

 

 

更に飛行師団が付随し

 

一個飛行師団×2

 

戦闘機隊・50個中隊

 

軽爆撃機隊・37個中隊

 

重爆撃機隊・22個中隊

 

偵察機隊・24個中隊

 

 

【挿絵表示】

 

【挿絵表示】

 

 

推進輸送補充隊・15個中隊

 

合計…148個中隊

 

 

中隊は平均で戦闘機隊が12機

爆撃機隊が9機~12機

偵察機隊が10機前後

 

(高祖父の時代にこれらの機体に名称は付けられていなかったようである。そのため、年代による混同が見受けられたため年号を意図的にずらした者達が横行していたようだ。)

 

これが12個師団、2個航空師団でおおよそ14万の軍勢を将た彼が、工兵隊により作り出された黒海とカスピ海まで延々と続く万里の長城も格や、という程の要塞線に待機する。エリブルス山脈河川防衛線だ。

 

【挿絵表示】

 

 

 

(高祖父の記述において、だいたいの記述で抜けているのが補給線はどうしていたのか。という部分であるためここに記述する。

当時の日本軍の補給路は主に3つ。1つは黒海からの直接海上ルート、もう2つはトルコ・イランからの陸路であったようである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

この補給線のうち陸路は、現代では幽霊高速路と言われるいわゆる高速道路になっていて、その土地の重要なインフラを担っているようである。

 

たった数ヶ月の間にどうやってその道を作ったのか、地道なものではあるだろう。しかし、驚愕するべきはそれを両国に依頼する事ができた、外務省の手腕だろう。)

 

 

それに対する赤軍の動きは流動的な動きで翻弄しようとしていたのだろう、我々とのあの戦いから遥かに学びより強くなっているのは明白だ。

記録によれば機甲師団を多数確認している事から、機械化が本格的に行われていたと言う。(当時のソ連軍の機械化比率は凡そ1割程であり、その戦力の大半をコーカサス方面へと向けていたようである。)

 

ただ、腑に落ちないのはフランス製の戦車。例えばソミュアS35のような車両なども多くあり、彼らの機械化方針は専らフランスの影響を受けていた。そして、そこから導き出される事は即ち、ソ連式戦車は避弾経始を重点的に取り入れられ、砲塔の大きさはそれ程大きくない。最大でも二人用だったという事だ。

それでも、その戦車は征西軍に対して猛威をふるった。

(ここで記述されている通り、仏ソ秘密技術協定が存在していた。この文書が発見されるのは1980年代後半になってからだ。)

 

 

その足は速く、同時代の軽戦車もかくやと言う段階である。その名はt34と呼称された戦車である。我々の新主力戦車である97式と時を同じくして開発されていたものだ。

 

t34/85との比較

【挿絵表示】

 

 

(t34/75の資料は現在存在していないが、実戦では75が数多く使用されたようである。しかし、高祖父の記憶ではt34と言ったらこの形状であったようだ。)

 

正面での対戦車戦闘を意識して作られた戦車同士がこの時初めて戦闘を行った。

その結果は後述しよう。

 

さて、戦闘開始から既にソ連軍の動きは決まっていた。ウクライナとの接続を切るために、彼等は動いていたようである。

その速度は尋常ならざるもので、とてもではないが歩兵がその戦闘速度についていく事など出来ない。

(ここでの接続はどうやら港湾を使用した接続のようである。前線に最も近い港湾を使用していたようだ。)

 

従って、初動に対してコーカサスの守備隊は後手にまわった。それでも被害を最小限に、あらゆるケースを想定し可能な限りを尽くした征西軍には感心されられる。要するに、戦車等よりも速く動けるものを中心に行動すれば良いと言う事だ。

即ち、航空機の活用による装甲車両の撃破を狙った。

 

幸いなことか?ソ連軍の航空機は皆複葉機ばかりで、あまりにも遅い。この時代においても、もはや高射機関砲の的でしかないのだ。12.7粍ですら、少数の焼夷弾が命中した段階で火を拭き始めヒラヒラと落ちていったと言う。

 

だが、我々の航空機とは速度の差があり過ぎたのか戦闘機による撃墜は以外な程多くは無く、速度の向上に対して低速域の戦闘にはあまり適していないと言う評価が付き纏う。

これもまた仕方のない事だが、それでもこちらへはそれが優勢の鍵となる。(これによって、日本軍は回転翼機の開発を加速させた。)

 

だが、それでも数の力というものは凄まじい雲蚊の如きその様相は屍を築いてもなお、とどまるところを知らない知らない。故にどれ程防御を固めていようと、押されることに変わりなし。

ジリジリと後退するもそれも作戦の内とでも言うかのように、直様逆撃を喰らわせ戦局を膠着させる。

まさか山脈から出て来るとは思っても見なかったのだろう。 

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

そんな動きは凡そ半年程の間で行われていた。ソ連の当初の作戦は頓挫したかのように見えていたが、それは一つの正面においてでしかない。

フィンランド・コラ方面では一部戦線が崩壊し、ソ連軍が雪崩れ込む事態に陥っていた。その為、ドイツがソ連に対して宣戦を布告すると同時にフィンランド・コラ方面へと展開し、それを抑え込んだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

戦車隊を保持していたようだが、こちらの方面は本命ではない為か、旧式の車両が多かったようだ。

そのおかげか、進軍は直ぐに止まり第二次要塞線で膠着し逆襲まで時間を稼ぐのが目的となった。

(当時、ソ連軍の師団数は凡そ200師団。それの中でも20師団がフィンランド、30師団がコーカサスへと向けられ100師団が広く東欧に付けられていた。)

 

 

【挿絵表示】

(1939年11月まで)

 

たった一度の攻勢をソ連が行った、ただそれだけの一連の出来事であるのだが、それでも止めるだけで精一杯な東欧と、それを支援する独英日。

一進一退の戦いは次第に東欧有利へと進むと、誰もが考えていた。ときその出来事は起こった。バルカン戦争である。(通称第四次バルカン戦争)

 

 

 

 

 

 

 




今回少し時間がかかりました。次回からも少し時間がかかるかもしれません。ご了承の程よろしくお願いします。

誤字、感想、評価等よろしくお願いします。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東欧戦役2

1998年3月

大学への進学もそろそろに、私は祖父の故郷にある大学へと進学する事となった。高祖父の事を調べるにはこれ以上無いという環境、それに祖父も実家へと帰省したいのだという。曾孫の顔を見せれば、曾お祖父様も納得するだろうという事だ。

 

高祖父の記述と現在存在する歴史的な資料を照らし合わせる作業はここ数ヶ月の間にそれなりに進んだ。日本国の大学に行くのだから、それ相応の言語を習得せんと努力した介もあったという事だ。

そんな私を見て、祖父は『まるで爺さんを思い出すよ。』と言っていた。多様な言語を話していたらしく、色々な言語の手紙を読んでいたという。

 

さて、そんな資料の極一部に東欧戦役の従軍記者が記したものがある。戦争の本当の序盤も序盤、まだまだ激化する前の戦端が開かれたばかりの頃のものだ。

これ以降の資料は、正直言って戦意高揚の為の文章が多くなっていく事もあり、客観的な内容とは程遠いものとなっていく。

だから、この時期の戦争の形態を知るには、最もわかりやすいものだという。

 

高祖父はこの東欧戦役に関して、それ程詳しく物事を書いたものがないのだが、どこかしら神様の視点でこの戦争の推移を見ていたという、そんな資料が出てくるような人だったらしい。だいたいの損害がどの程度出るのかを当てていたそうだ。

以下にその資料と高祖父の記述の違いを、編集して行こうと思う。

 

 

 

 

 

記者の日記

1939年4月23日

今日私は、東欧コーカサス民族連合の取材へ行けとそう言い渡されてここに来た。

東の大国、大日本帝国の軍隊と共にここに到着したが、彼等のその姿は我々ドイツ軍のものとはまるで違ったものだった。

 

まだら模様の服を纏い、更にその上からベストのようなもので胸から腰辺りにまでのびていた。一見すると重そうなのだが、彼等はそれを苦にすることもなく塹壕に身を潜めている。

そんな彼等の手には見慣れないライフルがある、口々に

 

Aŭtomata fusilo(自動小銃)

【挿絵表示】

 

 

と言われるも、実際の射撃を見るまでそれが真実と解らなかった。だってそうだろ?全軍に自動火器を配備するなんて、何処の国もやってないんだから。信じられるか?祖国を含めた、殆どの国ではボルトアクションライフルなんだぞ。

 

 

 

それに目につけるところには、必ずと言っていいほど車両がある。兵士がそこから皆降りてくる、完全に機械化されている。感覚が麻痺してしまいそうだ。

 

(当時、日本程機械化に成功していた国は存在していなかったようである。そのノウハウは勿論のこと、弱点も知っていた。更に言えば、自動小銃は日本軍にとって別に珍しいものでも無くなっていたようだ。

 

記者の物と比較し、高祖父の手記には別の文言があった。

『突飛つすべきは新しき無線機、このように軽いものは今まで無かった。』

この頃の日本軍は一個小隊辺り、一基の無線機が当たり前でそれは当時としては珍しい。日本軍はそれを用いて戦っていたそうだ。ちなみに大きさはショルダーバッグ程のようだ。)

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

1939年5月12日

ここ数日の戦闘はまるで進捗の無い小説家のように、一歩も進まず後退もしない。代わり映えの無い戦闘がここ数日の間繰り広げられている。

 

戦車を活用した日本軍独自の包囲殲滅陣が見られるのかと、そんな期待をしていた自分を恨んでいる。このままでは、殆どの記者と同じようなものしか書けない、これでは記者としていけない。

明日直談判をしに行こうと思う、もっともっと売れるものを。

 

(この時期は日本軍の立案した作戦の内、持久戦の護りであったようだ。塹壕の存在していない戦線から、少しずつ部隊を後退させている事をソ連軍にも、味方であるはずのコーカサスの部隊ですら押されているように見えていたようだ。)

 

1939年6月16日

 

やっとだ、やっと私の嘆願が実ったらしい。明日からは激戦区である中央部防衛線の方へと移動となる、他の記者たちは羨ましそうにこちらに目を向けている。どうだ!羨ましかろう!と声を挙げたかったが、私も大人だそんな声をあげない。

 

あそこの防衛戦は今は、かなり押されているようだがこれこそ戦いだというものを是非ともものにしてみせる。

(激戦区である中央部はこの時、中腹まで後退していたようである。)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

1939年7月?日

 

こんな洞窟に閉じ込められるとは思っても見なかった、あの時の自分を、恨むと同時にこんな空間にいるにも関わらず、常と変わらぬ態度の日本の軍人は本当に人なのか?と疑いの目を向けてしまう。

 

ここはコーカサス山脈のエルブルスの麓にある地下要塞、日本軍が準備期間を用いて密かに作ったという、正しく鉄壁の要塞だ。平原をを切り開くことなく造られたここは、地元の者ですら知ることもなくここに鎮座する。その構造は蟻の巣のようだ。

 

ここには凡そ6個師団が隠れ潜み、ソ連軍に対する逆撃を今か今かと待ち続けている。

どうやってか知らないが、山岳道路を切り開き要塞への補給線が形成され、戦車までもが配備されている。

見つからなければ良いが、もし生きて帰れば間違いなく紙面を飾るぞ。

 

(日本軍の逆襲作戦❨鴉の嘴作戦❩の要として建築されたようである、コーカサスの大要塞。その防御能力は砲撃を全く受け付けないと言う、その堅牢さを戦争中に見せることはないが、部隊収容能力にも確かに秀でていたと言う。)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

1939年8月13日

 

遂に作戦が開始された。こちらに見向きもしないソ連の背後を突くべく、要塞から部隊が出撃し全速力で前線を押し上げるべく走り始めた。

それは今までと異なり、異様なほどの戦意の中で行われている。私もそれに酔っているのだろうか、戦車部隊と共にそれを行うために前へと進んだ。

 

決して多くはない人数であったが、どうやらソ連軍に後方の後詰めの姿は見えず日本軍は暴れに暴れた。戦車同士の戦闘も私の目に映り、写真もこの手に納めることが出来たのだ。収穫は上々、心配なのは後はどうやって戻るかだ。

こんなに前進していって、包囲されないのだろうか?

 

(❨鴉の嘴作戦❩とは機動戦術の一つとして日本軍が命名した一つの戦闘隊形。中央に位置した補給線を中心に、まるで嘴太烏の嘴のように戦線を拡大していくようにしていたらしい。

高祖父の手記には基本的には、2つの戦線が近接した場合に用いると書かれていた。)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

1939年9月18日

 

遂に前進が止まり、戦線の拡大を辞めた。ここから押し込まれるのか?と思われたが、何やら様子がおかしい。話を聞くにここから南西へ前進を始めるという、包囲を始めるということだろうか?

 

私は装甲車両の助手席から戦闘を眺めているが、果たして日本軍の考えている事が解らない。

前進を続けると思えば横へ行く?何かあったのだろうか?

(この時日本軍は何かしらの異変があった事を通達されていた、と言う事が伺えるものの、この記者にはそれが何なのか通達されていなかったようだ。)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

1939年10月2日

 

遂に敵の一個軍団を包囲したと言う、今までの動きがそれをするためだったのだと気付いた時、この軍隊の恐るべきところを実感した。

我々ドイツ軍ではこれほど迅速に包囲殲滅出来ただろうか?逆に言えば、これ程の博打のようなものを平然とやってのける、この軍隊は頭が可怪しいのではないか?そう思わずにはいられない。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

1939年11月6日

何とか落ち着いて来たといったときに、何とバルカン半島でまた戦争が始まったらしい、が。どうやら今度は一筋縄では行かないご様子。情報網で掴んだ話のようだが、ソ連と繋がっているのはユーゴスラビア、アルバニア、ブルガリア三国が結託してギリシャ、並びにルーマニア他、対ソ連同盟に対して宣戦を布告したという事だ。

 

それに加えてオーストリア、スロバキア、オランダ、ベルギー、フランスがドイツに宣戦を布告した。こんな事があって良いのか?

本当に何が引き金になるのか解らない、だがこんなふざけている。

だが、一つだけ救いがあるとすればイギリスとイタリアが我々の味方をするという事だ。果たして我々は、勝てるのだろうか?

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

南方戦役

1939年11月

欧州が二分され、我々の補給路が断たれた。もっと言えばその補給路は東南アジア方面のオランダ領にまで及んでおり、このまま続けば最悪の事態になりかねない。そう判断した為、オランダへ最後通牒を突きつけることと相成った。

 

(後に二月(ふたつき)戦争と呼ばれるようになる戦闘行動。)

 

二日後に戦線を布告し対仏蘭戦が開戦となるに当たり、編成された部隊がベトナムのクアンガイから南下を始めると、仏守備隊との戦闘が始まった。それと同時に仏東洋艦隊並びに蘭東洋艦隊が出撃したとの情報を得て、帝国海軍の作戦が実施された。

 

(この時、仏本国から派遣された艦隊は新鋭戦艦2隻を中心とする非常に強力なものであったようだ。)

 

これ等の事象を行うに、たった2ヶ月程の準備期間しか与えられず部隊の編成は、同地に敵した形へと変更された。

当時の我々に与えられた時間は意外なことに有意義なものであり、部隊の再編にはそれ程手間取わなかったようだ。

 

(この記述の通り、2ヶ月前には既に戦争になることを悟って動いていたようだ。)

 

ようだ、と言うのはこの時には既に私は北米の方へと任官済みであったのだから、資料での事しかわからぬ。

征南大将軍の徳川 義則は既に任官されていた事から、直様これ等の部隊を率い南方作戦を開始した。

 

 

軍内訳

 

一個歩兵師団

 

二個歩兵連隊 5200人・車輌600両

 

二個軽戦車大隊 1920人・1280両

 

一個砲兵大隊 330人・車輌130両

 

三個工兵大隊 2400人・車輌240両

 

三個輜重大隊 2400人・車輌360両

 

一個師団総員 12250人

 

 

 

一個飛行師団×2(海軍航空隊)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

戦闘機隊・50個中隊

 

飛行艇隊・30個中隊

 

重爆撃機隊・22個中隊

 

偵察機隊・24個中隊

 

 

 

これと更に連合艦隊が付随した。

 

艦艇

 

正規空母×4

 

軽空母×4

 

戦艦×4

 

重巡洋艦×8

 

軽巡洋艦×10

 

駆逐艦×38

 

強襲揚陸艦×2

 

揚陸艦×20

 

潜水艦×30

 

他雑役艦艇多数

 

 

戦闘の経過はこちら側有利に進んでいった、完全な侵攻戦であるため侵攻が終わった後は掃討戦へと移行しなければならず、進軍速度は鈍化する。

更にインフラの悪さがそれに拍車をかける、その為にことこの戦域に限って言えば、中戦車以上の重量のある車両は足手纏いとなりうる。

 

(当時の南部インドシナは、国土の一部のみ都市化されており国土の殆どが大森林であったようだ。また、インフラは非常に脆く橋に至っては一部を除いて人が通るのがやっとのものまであったという。)

 

なにより最初の戦線であるクアンガイ以南は非常に森林が多く、車両での移動は困難なものとなる。現地民を兵力としている可能性すら存在していたのだ、であるから兵員の構成としては現地出身者が2割を締めている。

 

(この時期において、日本軍の部隊は他の国家の持つ植民地軍と乖離していた部分として、日本が植民地を本土と同格に扱っていたと言うところがある。その為、地理的要因から来る兵員と言うものがかなり多くを締める。基本的には、その地方の人間が中核を担っていた。)

 

彼等は、非常に良く動いたと記録されており森林地帯において数多くの罠の発見に寄与した。実際大規模な戦車戦等よりも散発的な、フランスからの少ない守備隊しか存在していなかったここには、それ程時間が割かれなかった。だいたい2ヶ月程度の戦闘で幕をおろした。

 

 

 

問題なのはこの戦線と並行で行われた、インドネシア攻略だ。

前述したとおり、艦隊を使用した揚陸戦となるのが目に見えてあきらかである。その前にフランス植民地艦隊がここには存在し、その戦力は放って置くには危険すぎる。もしも揚陸時にここに来たならば、大損害を被るのは明らかだ。

 

(この頃の日本軍は臆病な程に損害を恐れていたようである。様々な資料においても、また同じように損害に対する見積もりが過大であったようだ。)

 

蘭印に仏海軍が展開している事、そして航空戦力が確認されていた事。そして、その航空機に問題があった。

その機体には☆のシンボルマークが描かれており、一目に米国の義勇兵であることが解ったのだ。

 

(当時のアメリカ合衆国という国は、大恐慌の金銭をなんとしてでも捻出すべく、あらゆる非合法の手段に手を出していたようであるが、傭兵というものも数多く出していたようで、一節によるとソ連の戦車を作る工業製品の凡そ9割が、米国製の機械で加工されていたと言われている。)

 

戦力としてはそれ程大規模ではないが、どう考えても戦争する気があるのが解る、これはあの国がどちら側に立っているのかを明らかにするには充分であった。

 

 

さて、揚陸戦に対する脅威は航空戦力が1海上戦力が2陸上戦力が3と序列が与えられ、海軍には敵飛行場破壊が戦術最重要目標とされ、次点において海上戦力の無力化が推し進められた。

これ等の目標を達成された場合、インドネシアは確実に降伏するだろうと予測された。

これを最低でも4ヶ月で達成させて初めて、戦略的勝利と言える。

 

 

それ以上の分断は東欧戦役で戦闘を行っている、征西軍に危機的な状態になると判断されていたためだ。最低でもジャカルタまで敵を追い落とさなければ、戦略的敗北とみなされる。

 

(実際のところ、東欧戦線はこの時期でも弾薬の凡そ8割を残しており、どうやらインドやイラン等から現地調達していたようだ。従って、補給線が4ヶ月寸断されても兵の指揮以外は保たれたようだ。)

 

さて、私がこうして書いていると言う事は作戦が見事に成功し、無事補給線も保たれたものだ。

その作戦が成功したのは何よりも豪州と新西蘭が参戦しなかった事によるものだ。

 

敢えて言うなら英国がこのインドネシア攻略時にこの2カ国に対して、戦争への参戦要求を行わなかったおかげである。

何故か、それは敵の戦力が一極所に集中してしまったがために、後方の飛行場の警備が疎かになったのだ。

 

(そこに対して秘密裏に潜水艦による揚陸、並びに飛行場の爆撃が記録に残されている。)

 

元々インドネシアに存在した蘭軍はその総数から言えば大した数ではなく、多くても6万程度であった。つまり、あまりにも広大な領地を守備する場合。分散させたら最後、各個撃破される危険性があるため重要拠点に集結せざる負えない。

 

豪州がどのように宣言したかと言えば要約すれば

我々は、東南アジアへの一切の侵攻をせず。

だ。

 

蘭印の蘭軍はこれを信用せざる負えない状況故に、正面切っての戦闘を決めたのであろう。

そう言うとなればきっと戦闘は激しくなかったのではないか、そう思うだろうがこれが苛烈を極めた。忘れてはいけない、米国義勇軍。いや、この場合は傭兵とでも言えばよいのだろうか?

 

(この時のインドネシア防衛航空隊の凡そ8割が米国からの義勇兵であった。)

 

航空機とパイロット込みで必要なところに必要な数だけの兵力を派遣し、部隊の水増しをする。正しく傭兵集団とも取れる彼等の相手をするのだ。戦闘機が一機あれば歩兵一個大隊を壊滅に追いやるに充分な戦力なだけに、出し惜しみする余裕は無かった筈だ。

だからこそ、そこで艦隊を動かす。目を向けさせる為に。そして、敵の目がそちらに向いている間に飛行場を秘密裏に破壊する。潜水艦によって。

 

今でこそ笑えるような話だが、当時の帝国海軍の潜水艦は実は隠密能力が他国よりも劣っていた。これは偏に広大な領域をカバーするだけの航続距離を得るためだ。致し方ないとは言え、それでは潜水艦としての役割を果たせないのでは?と、当時の私も思っていた。

 

しかしながら、戦術の幅を拡げるという意味ではこの航続距離は非常に魅力的で、更にこれに航空機を搭載しどこからでも航空攻撃が可能である。と言うのが、我々の潜水艦の強みでもあった。

それを利用した、最初の戦闘がこれであろう。

 

(これ等の潜水艦の発展型として、SLBM搭載の戦略原潜や巡航ミサイル搭載のSSGN、特殊部隊揚陸用のSLPHなどに発展したという。)

 

見事に成功したこれは、瞬く間に敵を恐怖のどん底に落としたに違いない。私が見ていたわけではないが、それでも手にとるように解る。

そして、あっけなく戦闘は2ヶ月の間に幕を閉じたのだ。上陸戦が成功して、たったの一週間での全面降伏。当時は面食らったものだ。あまりにも早すぎた、おかげで賭けに負けてしまうくらいに。

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。

次回 南方戦役2インドシナ攻略戦


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

南方戦役2:仏領攻略戦

戦闘描写が苦手なら書かなければいいじゃない


1998年5月

 

大日本帝国の大学へと進学し早い事にもう一月の時が流れた。忙しくも充実した日々の中、祖父が私の下宿先である大叔父と談笑している。曾お祖父さんは、数年前に他界していたらしく私も初めて見る仏壇と言うものに手を合わせる祖父の姿が見られた。

 

そんな中でも資料探しと言うものに余念はなく、高祖父の書いていた南方戦役の詳しい内容を入手する事が出来た事を、ここに記す。南方戦役は、どうやら高祖父が書いていた以上に混迷とした戦闘が行われていたようである。

 

例えば街そのものに爆弾を仕掛け、街に帝国軍が入った途端に爆発させたり、大森林の中で狩猟に使用するような巨大な穴を掘ってそこに竹で作り出した罠を張って、通過したものを串刺しにする。そんな陰湿な戦いがたった2ヶ月の間に繰り広げられていた、ようである。

 

実際にそれ等の街の写真が残っているが、あまりにも悲惨なもので大学に行くまで閲覧した事が無かった。

戦場ではない一般人が普段通りの生活の中で死んでいる、そんな光景が写っていた。

 

 

 

 

1939年9月

 

今日もまた、雨が降っている。ここ数日毎日雨だ、雨季であるから仕方の無いことであるがと、ここまで考えたときに電話が鳴った。呼び出しだ、だがいったいなぜそんな事が起こるのか、確かに欧州では戦争が起こっている。だが、ここには関係がないのではと、この時は思っていた。

 

招集されたのは小隊長の者たち、それがずらりと椅子に座り大隊長が言った。

 

『これより部隊を率いる準備に入ってほしい。仏領において不穏な動きが見られたそうだ、早々に宣戦布告の可能性がある為に諸君等はこの後直ぐに戦闘位置に付いて欲しい。

それぞれに規定の場所へと、いつ始まるか解らないがとにかく急いでくれ。』

 

戦争はもっと遠くで起こるとそう思っていたのに、なんでこんな所にまで飛び火するのだろうか?

この地が血で染まるのは今からざっと、100年前から無かった事だ。俺たちに実戦の経験はない、戦争はいつも本土の連中が肩代わりしていたから、俺達に必要なのは守るための訓練だった。

 

それが、いまもっとも身近な俺の地元で起ころうとしていると考えると、逃げる気も起きない。

何とかして、街を友を守らなければならないと固く決意をして、俺たちは防衛線を構築する。

 

(当時の日本軍の軍編成がもっとも良く分かるのが、この文章であろう。日本軍は侵攻軍は中央、つまりは本土の人間が行い守備隊は地方出身者が中心となっていた、と言う良い例である。)

 

 

 

10月

 

予定通りの位置に付き早い事に、既に一月が流れた。街から人の気配は失われ、あるのは鳥のさえずりと草木の風音くらいなものか?

防衛線を構築すると言っても、ここは生来の大森林地帯。正直言って塹壕なんて掘れないし、出来るのは歩哨をたてるくらいなもの。

 

そして、この一月の間ダラダラと仏領の歩兵も俺たちと同じように行動していて、戦争が始まるなんてそんな気配微塵もない。

のだが、俺たちは再び招集された。

どうやら侵攻軍の編成を終えようとしているときある事実に気が付いたようで、地の利を生かすために俺たちを使おうとしているようだ。

 

待ってくれと、そう言いたい。そう言いたかった。俺達は侵攻する為の技術を持っていないんだ、俺たちが砥いたのは守る為であって侵攻する為の力じゃない。

そんな事は百も承知であろう彼等は、俺たちを引き連れて行動を開始すると思われる。

 

(当時本土と呼ばれていた日本帝国領とその他の地域の出身者との間には、精神的にもかなり溝があったようである。本土と殆ど変わらない生活ではあったようであるが、何かが欠けていたようだ。)

 

 

 

 

11月2日

 

遂に本土の連中は仏、蘭に最後通牒を突きつける形で戦端を開くらしい。周囲に緊張感が漂うとともに決意を固く持たなければと、みんな口々に言っている。そんな日になってしまったのだが、今日も歩哨に俺たちの隊は出る。

 

だが、今日は何か様子がおかしかった。森があまりにも静かなのだ、鳥の声さえ聞こえない。歩哨には共連れで良く犬を連れて行くのだが、今日に限って言えば良く吠えた。

俺達が歩く方向を先導するように、そして何かを見つけるとそこで止まるのだ。

 

今日一日で7つも罠を見つけてしまった。非常に単純な狩猟に使われるそれを、人が傷つくのが狙いであるがゆえに大量に設置されている。これは不味いと、俺は明日から本格的に見つけようと決心した。

 

(この時期になると、既に夜間での罠の掛け合いがあったようだ。非公式ながら、数十人が命を落としている。)

 

 

 

 

11月3日

明日からは本格的な戦争が始まると、皆口々に言いあっている。何を間違えたのか、どうして戦争なんかが起こるかなんてもはや些細な事なのかもしれない。とにかく今は、この現実に向き合う強い心が必要だ。

 

(手が震えていたのであろう、文字が少し崩れているところを見ればきっと、戦争などしたくはなかったと言うのが解る。)

 

 

 

 

 

11月4日

 

最後通牒の期限が過ぎると同時に頭上を轟轟とエンジンを鳴らしつつ、巨大な爆撃機が空を舞い国境の上空を飛んでいく。それと時を同じくして、俺達は迫撃砲の発射音を後ろに聞きつつ前進を開始した。

罠が張り巡らせられた森を抜けていくと、何かが動いたのを感じて戦闘体勢に入ると同時に本隊へと連絡を入れる。

 

1小隊につき一つの無線機、非常に濃密に練られた情報網が味方の連携をより良くした。

諸外国ではここまで出来ないような事を、俺たちの国は出来るがいったい国家予算の何割を戦争に注ぎ込んでいるのか。

 

(当時の日本軍は国家予算の半分をこの戦争に注ぎ込んでいたようである。そのため大阪〜博多弾丸列車や、海峡トンネル等の公共事業が向こう10年間計画が停まる。)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

11月18日

 

連日連夜の行軍に疲労も顔に現れだした。散発的な戦闘で死者もそれなりに出ているが、抵抗としてはそれ程大規模なものもなく、寧ろやる気を感じられるものもない。

いや、俺達の力が強すぎるのかもしれない。

 

仏領には、まともな航空戦力が無い。これは、大分前から言われていたことで、これで真実味が増した。それに引き換え俺たちの戦い方は、子供の頃見た欧州大戦の記録とはかけ離れていて、俺達が指示した場所に的確に攻撃する戦術爆撃機が先に敵の頭を潰して、俺たちの道を整備する。

これじゃあまるでボードゲームだ想定していたよりも、数段速い速度で前線を押し上げていく補給線は大丈夫だろうか?。

 

(実際この時の日本軍の年間生産量の凡そ1.2倍の投射量であったことから、苛烈な砲撃を続けていた場合進軍が停止、もしくは再占領されてもおかしくは無かったようだ。もっとも、その後戦時急増ラインの再配備により、国内の生産工場が本格的に軍需品の生産へと傾倒していった結果、消費量の5倍まで膨れ上がる。)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

11月26日

俺達はダラットに辿り着いた、皆疲れている。街へと入城するに当たり、街が簡易的に要塞化されていたからか非常に強固な護りをしいていた。

高所の建物からは火炎瓶が投げられたりして、少なくとも10台の装甲車両が燃やされたようだ。生憎軽油で動いているからそんなの関係無い、ようだ。

 

俺達の部隊にも初めての犠牲者が出た。どこからか一発眉間を撃たれて、俺の目の前で倒れて息絶えた。脳漿が飛び散り、あたり一面に血の匂いが撒き散らされた。

こいつには二人の子供がいるのに、さっさと行ってしまうなんてな。なんて説明すれば良いのだろうな?

 

(戦争は昨日生きていたものが、今日死ぬような世界である。そう実感させる。明日は我が身、それを地で行く時代。)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

12月13日

この世界はいつからあんなにも狂ってしまったのか?

サイゴン防衛突破の要であるビエンホア半包囲戦の折、俺はとんでもないものを見てしまった。

子供がいたんだ、まだ歩くこともままならない小さな赤子が籠の中に一人でいるところを。

 

部下が放って置けないと、それを上に持ち上げた途端そこを中心に、大規模な爆発とともに建物が倒壊し奴が赤子諸共潰された。

俺達は、ここは欧州じゃないし確かに子供も黄色人種だった、人種が違うというだけで人はここまで悪魔のようなものになるのだろうか?

 

(このような罠を仕込んだものが数多くあったようである。人種が違うとはこう言う事なのだと、当時の価値観はあまりにも解らないものだ。)

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

12月25日

遂にサイゴンへと到達する、入城したときに目に見えた景色は悲惨と言って差し障りないものだった。

仏人だろう白人がリンチを受け枷にかけされて、烏に啄まれている。ここは、一体何世紀の街なのか?勉学の行き届いていない人間とは、ここまで残虐になる事が出来るのか?

 

俺達北部の人間には考えられない価値観だ。昔の武士達はこんな感じだったのだろうか?

話に聞く、赤衛軍との戦いで建てられた首塚。もしかすると、俺達の宗主国はコイツ等と同じ価値観ではないか?そんな噂話が流れる。

 

俺の部下にもその話を真に受けるものがいた、そんな時にちょうど戦闘も落ち着いた。そこから一言二言上から、噂話に関する事を聞かされた。

 

「嘗て首塚を築いた者達はその殆どが、退役した。今残っているのは、生駒中将くらいなものだ」と。

 

事実であるが、今は無い。一部を認めた言葉はそのまま噂話に浸透していくだろう。

 

 

(この時期の生駒中将は、恐らくは私の高祖父であろう。私の故郷であるロマノヴァ大公国に存在する、赤衛軍の首を埋めたと言われる首塚。当時でも当時者の数はそれ程多くはなかったようだ。)

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

1940年1月26日                

敵軍最後の抵抗勢力をカマウへと追い詰める、頭上には雲蚊の如き友軍機が飛び回り銃・爆撃を繰り返す。       

砲兵隊による砲撃も連日のように行われ、もはや抵抗らしい抵抗も無い。数日ほど前、仏東洋艦隊が消滅した事を皮切りに続々と投降者が出て来ている。やっと戦争を終わりにできるのだと、心から思っている。   

 

 

(これ以前の1月分の内容は、血液による腐食により文字の判別が不可能。なお、これが書かれてから凡そ3日後に戦闘が終了した。)      

 

 

【挿絵表示】

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

南方戦役3:仏艦隊追走

1998年

大学での私は結構浮いていると言っても過言ではない。ロマノヴァ出身という事と、この国では非常に珍しくも戦史を専攻しているからかもしれない。何故、他国の人間が今となってはあまり関係の無いような、何十年前の事をと。それが普通だろう。

 

勿論研究室というものもあり、そこの人たちとは良い関係を築けていると思う。ただ、基本的にこの分野の人たちは変わっている人たちばかりだ。昨今オタクという単語が生まれ、彼らをつけるとすればまさにそれだ。

 

そんな人たちだからか、私の高祖父の名前を聞いたときその反応は、非常に興奮したものだったのが印象に残る。

そんな彼等の集めた資料を読み漁りながら私なりのあの戦争への考察を考えている。今日は、順当に行くとすれば、南方戦役の続きとなるだろう。

『あぁ誉れ高きその姿』と言う短編集だ。

 

 

 

 

海原を進むその姿は雄弁でありながら美しく、正しく海に浮かぶ鉄壁の城と言えるものである。【戦艦】それは、私の人生の一部。いや、人生と言っても過言ではなかった。

 

私が戦艦に憧れを抱いたのは、そう小学生かそのくらいの事であり、ちょうどその頃日露戦争が集結間近となっている頃と重なる。私は呉港の見える高地へ行きそれ等を眺めては、

「いつか俺は戦艦の艦長になるのだ!」

と、言っていたようである。

 

時は流れ1939年11月、俺は海軍にいる。年齢を考えればいずれかの艦種の艦長になっていてもおかしくは無い。そして、現に俺はなっていた。ただし、潜水艦の艦長として。

 

200番代対潜水艦戦闘兼対大型水上艦艇用の潜水艦,伊215。

【挿絵表示】

 

夢とは程遠く、見栄えの良い水上艦のように目立つこともなく、闇世の中をただひたすらに試験的に取り付けされた、収納型の耐水上電探を起動して敵艦が通るのを今か今かと、ひたすらに待ち続ける。

 

場所はポロッコ港からセレベス海を抜けた先、敵の勢力圏であるマカッサル海峡のド真ん中でバリクパパンに入港していると言う、仏東洋艦隊の監視だ。

勿論3隻が持ち回りの区間を警戒するのだが、これがまた辛い。

 

昼間はずっと水中にいて、バッテリーの駆動限界を計算しつつ夜間になれば充電の為に浮上しなければならない。艦内の空気はシュノーケルがあるとは言え、淀んでいる。酸素が貴重なものだから、タバコも吸えないし何より夜間でも灯火管制によって噛みタバコだ。

 

実際のこの動きは実に一年以上前から行われていたのだが、それを当時の蘭や仏が知っていたかは解らない。ただ、これまでいくつかの水深の測定を行い、海図にそれらを記録する事でこの海域でのより良い働きが可能となっている。

 

宣戦布告から2周間程経った頃、港に動きがみられた。見覚えのある艦影が、ゆっくりと出向していく。

直ぐにでも連絡をと思うのだが、ここで電文を飛ばした場合俺達は駆逐艦の餌食になるかもしれないが、自己犠牲というものかそんなことよりも早く打つことを選んだ。

 

「副長、浮上してから無線を行うまでどれ程かかる?」

 

「最低でも1分、文章の長さにもよりますが打電に30秒。」

 

急速潜航で潜航するに40秒かかるとすれば、最大4分。敵の見張員の練度が高ければ、見つかるだろう。

そして、それは実際そうだった。私の失敗だ、私の致命的な失敗。仰角レンズ越しの空に何も見えなかった、そうその日は曇りだったのだ。

 

浮上して3分、早急に打電し即座に潜水を開始しようとしたとき、上空で何かが光った。次の瞬間、空を見上げればそこに確かに飛行艇の姿、どうやら見つかってしまったようだ。

夜間であればどれ程良かったことか、夜間であれば殆ど見つからない。

 

幸いなことか、電文は既に打ち終わり潜航準備に取り掛かっていたことか?

無線傍受の為のものはまだ終わっていないが、構いやしない一目散に潜航を、開始する。

 

飛行艇であれば、恐らくは胴体に機関銃の一つや二つあるだろう、6番第相当の爆雷や爆弾も搭載しているかもしれない。

いずれにせよ直ぐにでも海防艦が来るであろう、追跡はこの艦では出来ない。

 

「僚艦は既に動いているか?」

 

「スクリュー音としてシュノーケリング深度で14knt、巡航で進んでいるようです。少なくとも、駆逐艦が来る前にはここから離脱するでしょう。」

 

囮となるのを決意して、盛大に音を響かせるために蓄音機を載せてあるのだが、それを点ける。レコードは、仏国歌で良いだろう。

派手に音を鳴らしていると、次第に近づくものがある海防艦だ。

 

条約外の補助艦艇は異常なほどに多いのがこの仏海軍である。特に蘭との関係の強化として、それらが多数配備されているのだ。法の穴を付いたようなそんな政策の果て、それが私達に襲いかかった。

 

聴音機で確認出来るだけのスクリュー音、それは凡そ6つ。こちらのスクリュー音を捉えるべく、慎重に進んでいるであろうその音は、我々にとっては死を意味する。

 

そこで我々は慣性の続く限り、機関を停止させてそれをやり過ごそうとした。たとえ囮となっても死にたくはない、こちらは物音一つ立ててはならない。秘匿が張れれば、その時は爆雷の雨が降ってくる。

 

背中に汗が流れる、出来る限り電力の消費を抑えるべく非常灯のみに切り替え、いざという時最大船速を出せるように。

 

「着底までおよそ10m、このまま着底すればばれます。」

 

「魚雷の調定は出来ているな?1番2番発射用意、」

 

発射管への注水音が漏れ、敵に知れ渡るであろう事は承知の上狙いは耳を奪う事だ。

 

「一番発射…最大巡航速度、敵は既に3時間こちらを探し回っている。海防艦ならそろそろ燃料が心許ないだろう?それに、そろそろ雨が降る時間だ。」

 

魚雷一番が発射されてから凡そ1分後、爆発音が周囲に響き渡る。そこを14kntで抜けていく、音を拾えず盲状態での前進は途轍もない危険を孕むが、確率的に言えばこちらの方が生存率は高い。

 

ジャワ海は水深が浅いからこそ出来る芸当である、水面と水底に音が反射して探査どころではない。まず間違いなく、音響員は耳を駄目にするだろう。

暫くして2番、3番と時間をずらし後部の5.6番で逆方向へ向けたりと試行錯誤を行って、目をくらませる。

 

と我々は、非常に悪運が強かったのか生き延びる事が出来た、こうして書けるのもそのおかげか。私は当時の軍人としては変わり者か、とてつもなく生と言うものに執着していて言ってしまえば臆病である。それが功を奏したのかな?

 

さて、遅れる形で艦隊を追撃することになった。定期的に哨戒機が飛んでくるが、それでも何とかやり過ごしていた。先行していた僚艦に追いついた頃には、仏艦隊がリアウ諸島にまで到達していた。恐らくはインドシナの支援のためにここまで遥々来たのだろう。

 

だが、本当にこんなところまで出て来るとは思ってもいなかった。我々の思うつぼであるのだ、実に彼等は安全な港から引きずり出され、遥々こんなところまで来た。という事はつまり、こちらの艦隊が出張ってきている事を示している。

 

作戦海域には既に日本海軍の艦隊が展開され、彼等を今か今かと、待っていたんだ。そこからの戦争はまるで一方的なものだった。

防空圏から出てきた艦隊は、まず偵察機に発見されその後急降下爆撃機や攻撃機による波状攻撃にさらされた。

 

この時期の艦隊に防空能力はあまり求められるものではなかった、日本軍だけが過剰な対空兵装を充実していたのを、笑われている程には。

そして、2時間もしないうちに巡洋艦以下はその事如くが行動不能に陥り、戦艦のみ中破で姿を残していた。

 

そこへ日本戦艦からの砲撃が降り注ぎ一方的な殴り合いの末、降ってくる砲弾は艦艇の損傷した箇所を抉り、恐らくは生存者の可能性も見えない程に叩き潰したのをこの目で見た。私の役目はこれまでで、後はこの時ちょうど航続距離の半数であったがために、クアンガイへと寄港した。

 

航路

 

【挿絵表示】

 

 

その数日後だろうか?仏領インドシナ、並びに蘭領インドネシアが全面降伏したのは?

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

南方戦役4:リアウ諸島沖海戦

1998年研究室映写機

 

 

記録映像

 

いきなり映るのは航空機の尾翼か、それが映り周囲を見渡すようにカメラが首を振るとそれには、広大な海と木の色合いを残した巨大な甲板が映り、それを囲むようにぐるりと艦艇が映り込む。

一旦止まるとそこには手を振る船員達の姿が映り込み、それと同時に急に機体が加速する。

 

次第に甲板から離れていく機体に映るのは壮大な海に浮かぶ、空母とその護衛である艦艇たち。

塔のような艦橋を見るが長門型であろう戦艦の姿もある。

見る見るうちに小さくなって行く姿、空には雲が無いのかそれともフィルムが古いだけか、それらが美しく描画される。

 

【挿絵表示】

 

 

と、暫くの合間暗転し一旦撮影を停止したと思われる。十数秒経つと再び映像が映され、何やら海を映している。

この機体の下部は硝子張りなのだろう、股の下から映し出されたるは、艦隊。

 

胡麻を振り掛けたようにポツポツと空母のいない艦隊が3列縦陣で、北上している。

【挿絵表示】

 

だが、暫くすると空中に突然何かが炸裂し煙が形成され始めた。対空砲火であろう、散発的なものが展開されるも機体は悠々と空を飛び続ける。

 

水上機母艦から何かが飛び立つのが見えると、それ等のが次第に上昇を始め撮影者を追尾し始めた。フロートを持つ下駄履きの水上機が、攻撃を仕掛けてきた。Late298、非常に良い動きをする。水上機にしてはかなり良いものだろうが、偵察機と言えど空母艦載機。その速度は水上機の比ではない。

 

クルクルと巴戦を仕掛けてくるが、それには乗らず高高度をとって悠々と空を飛び続ければ堪らず引き返していく。

後部銃座も仕事を無くし、それをただ眺めては上空から何かが来るのでは?と警戒をしている。

 

再び映像が暗転し、次に映ったのは自らに近づく黒い鳥の群れ。いや、艦載機群である。

発艦時映し出されていたものと同じである者たちが、大挙して押し寄せる姿は渡り鳥のようだ。

 

パラパラと幾編隊へと別れ、急角度での爆撃を開始する。所謂急降下爆撃は、同時に機首の機銃が瞬く。

何機かが、高角砲の餌食となるもその大半が艦上構造物を事如く破壊せしめ、艦艇を次々とボロ雑巾のようにして行く。

 

対空砲火が緩やかになると同時に、水面をスレスレに飛行し艦隊へと魚雷を透過する攻撃機達。

3筋の艦隊編成によって外側に位置していた巡洋艦、駆逐艦へと次々と命中し駆逐艦に至っては、命中した直後巨大な水柱と共に沈没して行く。

 

だが、盾としての役割は果たしたと言うべきか、戦艦への命中は僅かに二本。だが、同時に艦上構造物で傷を負っていないものは無いと言える程に、もはや甲板で動くものは確認出来ない。

 

映像はそれで終わりではない第ニ波攻撃が直様死に体の艦隊へと食らいつく、今度はバラバラになった艦隊へと各個撃破を狙って一つ一つ虱潰しに破壊していく。

もはや対空砲火等無く、ただ散り散りに逃げる艦艇だけが映る。

 

横に穴の空いたの防御陣、そこへ艦攻隊が糸を縫うように入り魚雷を投下する。

それは吸い込まれるように海へと着水すると、白い筋を描いて戦艦のド出っ腹へと食い込み巨大な水柱を作る。

 

一隻の戦艦はそれによって右舷の腹を見せ始め、いよいよ転覆するかと思われる程に傾斜している。

戦闘開始からものの2時間の出来事である、各国の海戦という概念が根底から叩き潰された瞬間でもあり、航空機と言うものの潜在的な力をまざまざと見せつけているが、まだ戦艦を完全に仕留めたという訳ではない。

 

 

と、その時周囲に無数の水柱が立つと戦艦の周囲を覆うように数多の砲弾が降り注ぐ。

飛翔してきたと思われる方角には、楼閣を備えた艦艇が4隻確認出来る。長門、及びその同型の陸奥、それと伊勢型が2隻確認された。

 

留めを刺しに来たであろう事は想像に難しくなく、事実この数十分後には仏艦隊は全滅した。

碌な反撃も出来ず、唯一出来たのはたった一度の射撃でそれは日本軍のはるか後方に落下した。

 

記録映像は最後の射撃その発砲から、爆沈までそこで終わる。

 

 

 

 

 

この映像はリアウ諸島沖海戦と呼ばれている、この世界大戦始まって最初の大海戦と呼ばれる戦い。

【挿絵表示】

と言っても、戦いは映像を見た通り航空母艦を使用する日本軍の圧倒的な勝利で幕を下ろした、一方的でもはや勝利という曖昧なものですら無い。虐殺のようだ。

 

この海戦は、蘭領に駐留していた仏艦隊が仏領インドシナへ戦力の投入を行う為に北上してきた、そこを日本軍が網を張って罠にかかった。仏艦隊はインドシナを放棄しても良かった筈だった。だが、何故かそれをしなかったのだ。

 

今でも当時の状況を知っている生き残りの船員たちは、それを奇妙な事だと思っている。

一説によると仏艦隊は、本国より秘密の通信が入りインドシナへと艦隊を動かしたと言われている。

 

当時の記録には確かに通信があった事は解っているが、おかしな点としてフランス本国にはそのような資料は一切なかった事だろう。そして、日本軍の当時の機密文章に次のような事があった。

 

「忠臣の証作戦」

 

当時の仏国の機密回線はこの時既に破られていた可能性が、日英の研究者等の見解のようである。

実際戦後50年たった今でこそ公開された資料が見られるのだが、文章の節々に、偽装電波による仏領への情報の撹乱が行われていたようだ。

 

また、高祖父の手記にこのような事が書かれていた。

 

「なんと、哀れな艦隊は海軍の糧とされる。もはや戦艦の時代も終わりかと、この時の報告に私は驚きと同時に何かしらの確信を得ていた。後年海軍は、戦艦の対空火力を強化し戦艦は損傷担当艦と言われる立場になろうとは思わなかった。」

 

現在の日本帝国海軍の編成の一つに、打撃艦隊編成というものがある。これは、戦艦を中心とした防空及び対艦対地能力のある、非空母による最後の艦隊と呼ばれる代物だ。

恐らくは、このリアウ諸島沖海戦からこのような思想が生まれたようである。

 

ともあれこれは過去の海戦史の中でもっとも、片側の戦力との損害比率が偏る戦闘であった。恐らく、今後一切これが抜かれることは無い。そんな一方的であったそうな。

 

帝国海軍損害

 

航空機16機 人員20名

 

 

仏東洋艦隊損害

 

戦艦3

巡洋艦8

駆逐艦16

 

人員3208名  

 

 

判明しているだけでこれだけである、軍事関係者は実際はもっと多いとも言われているんだとか。

その理由としては、先の大戦で本国でも身内諸共命を落としたケースが多いということ。その為、死亡届が無いのだとか。

 

ちなみに、この作戦とインドシナ攻略はほぼ同時に並行して行われ、更に蘭領インドネシアの軍港は、同時刻宣戦布告した英領より飛来した、戦略爆撃による空襲に見舞われバリクパパンが。

潜水空母艦隊によってパレンバン港が襲撃され、殆どの通商路が破壊されており、これ等の戦闘によって蘭領インドネシア政府は降伏を選んだ。

 

実際たった二ヶ月の間、経済封鎖されていただけで治安が悪化し内戦一歩手前まで行っていたようで、それこそ戦争なんてやっていられる状態ではなかったようだ。

住民たちの反乱によっていくつかの官邸は焼き払われ、今まで暴動を力で抑え込んでいた軍ですらその片棒を担いだ。

 

南方戦役はそんな形で終わりを迎えたのだが、彼等南方方面軍は自らの領地へと、一時帰国する。

本土組だけが現地へと残り、治安維持を始めとした処問題を解決するのに奔走した。

 

それだけではなく、彼等にはまた別の方面への作戦行動に向けて準備状態へと移行した。

それは南米ブラジル内戦の激化に伴う、戦力派兵であった。

 

もはや休む間もない帝国軍、それは北米大陸でも似たような事態へと移行して行っていたようだ。

日系人に対する迫害が表へ出て来ると共に、米国との関係は更に冷え込んでいったが、民間での出来事に国は口を出さなかった。

しかしながら、仏への軍事物資輸出の制限を行うよう国連よりの勧告を無視し続ける。

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東欧戦役3

征西大将軍記

 

1939年11月5日

 

征西派遣軍の司令部は蜂の巣をつついたような状態となっていた。

この事態は想定の範囲内というべきであるが、もう少し後だと考えていただけに私の思考を上回る事態となったのだ。

 

本国との距離は程遠く、補給線は確実に断たれた。勿論中東方面からの支援物資が期待されているが、それもそれ程多くはないぞ。何よりアフリカは仏の領土、どんなにもがいても英仏の戦闘は避けられない。

 

よってそちらの方にも中東の物資を送らなければならないから、私の事務仕事は増える。

一応こちらの人間を司令官として任命し、防衛に当たるだろうが些か地の知が足りぬだろうから、防衛部隊も動員せざる負えないだろう。

 

ちょうど近くにはインドが存在する為に、補給には事欠かない筈だが非常に不安だ。

 

 

11月6日

 

インドへの通信が何者かによって妨害されている。電話回線が最も安全で確実であっただけに、これは嫌なものだ。そう思っていたのだが、偵察機によると電信が途中で木で切断されているようだ。これは、事故か。

 

 

 

11月7日 

 

航空機による伝令を採用した、どうやらイランで反政府勢力による戦闘が勃発しているようだ。なるほど、その為に電信が破壊されたのか。

モールスは傍受される可能性が高く、また暗号を使用しようにも共有の暗号を決めていないために、使いようがない。

一応の為に29冊のブリタニカを送っておこう。

 

 

 

11月9日

 

さて、暗号として機能させたのは良いが、どうやってここまで運んで来るか、それが問題だ。果たしてイラン政府が無害通航を許可してくれるだろうか?

それと、最近ソ連軍に動きが無い。

こちら側への攻勢を辞め、どうやら北部から潰す魂胆のようだ。我々に北欧を助ける術はない。

 

 

11月15日

 

どの戦線も膠着状態、前進すること叶わず。計画通りといえばそうだが、如何せん弾薬の消費が激しすぎる。東欧各国との武器の規格の違いがここで足枷になろうとは、やはり同盟は同盟で規格を統一せねばならん。

 

それとやっとインドからの補給物資が出立したと言う報告が入った。各戦線での弾薬量は、残り約半数か。機関銃の発射レートの低下とより精密な砲撃で対応しなければならない。

幸いなことか、我々は防戦一辺倒で相手する。消耗は向こうの方が遥かに多いさ、一つの戦線で見れば我々の方が少ないが全ての戦線では我々の方が多い。

 

 

11月26日

 

補給部隊の第一陣が到着した、しかし戦車等の車両や航空機の部品だけは存在しないのだ。共食い整備が続くか。人員に対しては

出来得る限り損耗しないようにと、最大限努力しているが些か敵の数も多い。最も、冬も本番に入る。数日中にも敵の補給路は凍り付いて、砲撃が緩やかになるだろう。

 

 

12月6日

 

やはり零下の中の戦闘は敵にもこちらにも戦闘意欲を削ぐには十分過ぎるものであった。

これに伴い攻勢準備の一貫として、とあるものの完成がこの日成った。

 

八木式1号無線受映器と八木式映像受信機、航空機搭載用の八木式映像発信機だ。私個人として受映器での映像を見るのは初めてであったが、どうしてこれはとても良いものだ。

偵察機からの即時の戦況確認が出来ると言うのは、革新的なものだ。これで、作戦の立案がどれ程楽になることか。

百聞は一見に如かずと言うが、正しくこれこそその言葉の通りに扱えるものだろう!

 

 

12月13日

 

フィンランド方面からの定期連絡があった。どうやらソ連の攻勢を押し込む事に成功したらしい。

ロマノヴァが密かに軍事技術である対戦車車両を、我々の許可なく輸出していたのが功を奏したのだろう。黙認していた者としては、まあ良かったと思うが少し複雑なところだ。

 

だが、安心している場合ではない。ポーランド方面は最悪な事になっているようだ。何があったのだろうか、第3防衛線であるヴィスワ川まで後退するはめになっている。情報が錯綜している今、我々に確認するすべはないが恐らくドイツ主力部隊の半数が仏方面へと引き抜かれた事が大きくなっているのだろう。

 

だが、反攻は可能だろう。計らずも戦場の形は鶴翼の陣となっている。今こそ反撃の時か?だが、我々にある物資は後2度攻勢を掛ければ無くなってしまう、やるのなら博打打ちにならねばならぬ。

ロマノヴァが宣戦布告しないのは、何か理由があるのだろうか?

あの国が戦線を構築してくれれば、確実にこちらの有利に事が運ぶのだが。

 

 

12月23日

 

インドとこちらを結ぶイランの補給線。軌道によって繋がっているそこに、どうやらソ連?いや、米国の工作員による破壊工作があったようだ。これは、もはや戦争行為に他ならないがこれを本国に届けるには相当の時間がかかるだろう。

 

証拠も調査をする筈の国際組織が機能していないのだから、しらばっくれる相手をどうすることも出来やしないさ。しかし、米国か。もしも、あの国が我々の国に戦線を布告した場合苦しい戦いになるのは目に見えている。

 

生駒、彼奴ならば上手く戦うだろう。もっとも軍人の数が足りるか解らぬが。

 

 

12月31日

 

大晦日のこの日いい情報が入った。

本国が遂に蘭印を降伏させたようだ、これで滞っていた物資も入ってくる。この二月の間、英国に対する借款が出来てしまったからそれを払ってくれるだろう。

 

それにしてもたった二月で終わらせるとは、南方はそれ程までに戦力が少なかったのか?まあ、これで補給線も安泰だ物資が来るまで二週間、耐えてみせねばな。あぁ汁粉が飲みたい。

 

 

 

 

1998年

コーカサス方面(日本名東欧戦役)は、戦史上意外な程に文章での記録が少ない。

少ない理由として上げられるのは、映像として記録に残されたものが大半であったと言うところだろう。

まだまだ、フィルムもどれ程の年月で劣化していくなど考え付いていないそんな時代、恐らくはフィルム万能論によってそれは行われた。それが俗説だ。

 

私はそれに疑問を投げかけたい。最近発見された様々な手記、公にされた記録と共に見えてきたのは、征西第将軍等の大将軍達。

私は五大将軍と呼んでいますが、これ等の大将軍達は前大戦後もずっと秘匿されていたと言うのが、最も大きな鍵だと考えています。

 

彼等は、たった5人だけ選抜された各方面の軍事に対する最高責任者。言うなれば征夷大将軍と同じような役目を持っていた、そう記されています。

ですが、彼等は秘密裏に選抜されているため記述に名が残る事は殆どありません。

 

唯一私の高祖父は、戦前から名を多くの者たちに知られていた、所謂英雄と言われるそんな存在です。

ですが、高祖父はそれを隠れ蓑に使っていたようである。態々自分名義で命令文を出しては、その文章中にあえて別の暗号をいれる程に。

 

五大将軍にはどうやら手記を書かせると言う記録のされ方がされており、これ以外では記録されていないのだ。

殆どの戦闘が彼等の提案によって行われていたようだが、名義は全くの別人からだとか大本営からとかになっている。

 

今はまだこれらに対するこの考え方は推論の息を出ないものだが、いずれそれらに対する解答が出てくるだろう。

私は高祖父と言う一つの証拠を持っているのだから。

 

 

と、ここまで書いていて思った。これでは論文ではない、何かしらの出版物で何よりすごく痛いのだ。

書き直しだとそう思ったとき、ふと高祖父の墓に行ったことが無いことに気がついてしまった。

 

凄い人だったのだろうから、きっと墓もすごいに違い無いとそう思っていたのだが、大伯父曰く「骨は遺言どおりに海に撒いた」そう言われた。

どうやら、墓というものには酷く無頓着だったようだ。それと同時に遺言で燃やしてほしいと言われたものがある事を、思い出したようだ。数日後それを見せてもらう約束を取付けた。




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


一つのアンケート取ります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

世界大戦

1940年3月世界のあちらこちらで戦争をしていた頃、ある国際法がもはや形骸化している国際連盟から発布された。

「戦時下における中立国と交戦国との貿易の禁止条約

訳すと中交貿易禁止条約」

というものだ。

 

正直に言えばまあ、巫山戯ているような文章だ。中立国はすべての国に対して平等に扱う。つまりは、どちらにも物資を与え供給していた。それを無くして有利になるのは我々、連合軍だがそれでもこの条文は荒れるだろうと誰もが思った。

 

中立国としての立場を持っていたのはスイスだけではない、米国もまた一応の中立国としての立場があった。

勿論、鉄鋼資源などを英国に輸出していたし仏国にもまた輸出をしていたのだ値段を別にして。

 

それが出来なくなるというものは、経営を成り立たなくさせるものであったのだ。だから、米国はこの条文の一切を無視した。無視をして仏国に輸出をひたすらに続けていた。対仏貿易が国益の中心とすら言えるほどに。

 

だが、1940年5月に悲劇が起きる。輸送に従事していた船が何者かの雷撃により爆沈したのだ。

これに対する米国の声明は英国を避難するものであった。

英国は前述の条約内の規定である、「協定違反の場合の措置」を守った。撃沈されてもしょうがない、と言うところだろう。

 

実際はどうであったかは私にも解らないが、一つの言える事は英国は当時そんな潜水艦をそこへ展開していなかった。と言う事だけは確かだ。

 

確かに英国がそれを行う可能性は高い、そう対仏に対する戦闘があまり芳しくないのが要因であった。

独国は板挟みにあい、防戦で手一杯。東欧はソ連と、バルカンでのいざこざで泥沼化。

おまけに輸送は、仏領のおかげで滞っている始末。大西洋航路しか無くなり、非常に困った状況だ。

だからこそあの条文を通させたのだろう。

 

だが、だからといって攻撃するほど馬鹿ではないし、やるのなら裏で動くのが英国流であるのだ。あまりにもスマートではない為に、昨今ではやはり米国の策謀であると言われている。

今の3勢力による冷戦構造には、もはや関係のないことかも知れないが、そういう事があったとだけここに記しておこう。

 

さて、この事件の後米国はこの言葉を合い言葉に連合各国へ宣戦布告をした「リメンバー・ビスケー」と。

これに対する我々の反応は酷く冷静であった、宣戦布告を待っていたのだ。いずれこうなる事を我々は、予見していた。

 

私は直ぐ部隊の展開を行うよう指示を飛ばした。米国との国境線そして、カナダへと軍を進駐させここに世界大戦が文字通り始まったわけである。

だが最初から攻勢に出る事は勿論のこと、戦線の範囲を知ることは不可能であった。

 

何せ北米大陸は広大で更に米国はその凡そ半分を、領土にしている。攻勢するだけでも広い戦線を抱えてしまう上に、山脈を超えての攻勢には必要な山道が欠けているため、結局北部と南部からしか攻撃は、出来ない。

 

しかし、我々は攻勢に出るにはその人員が明らかに不足していた。いかに我々が戦闘に精通しているとしても、3つの大規模な戦線へ軍を同時かつ大量に配置する事は非常に難しい。経験したことのない大規模な戦線は、正直に言って私の指揮能力の限界を痛感させられるものであった。

 

米国はメキシコへも侵攻を行うも、先の戦訓からメキシコ軍は頑強な抵抗を見せ一進一退の攻防を繰り広げている。

逆にカナダは主要都市のみの防衛、つまりは、大西洋に面した都市部やハドソン湾に面した東部のみの防衛に徹することで、米国の攻勢を部分的に緩和した。

 

西部は我々に一任される形となったが、やはり部分的な山脈の途切れた場所を中心に、防衛戦を形作り攻勢を押し留める方策を取らざる負えなかった。

攻勢側である米国も戦力の大規模な移動には苦労したであろう事は容易に考え付いた。

 

北米大陸中央部は山脈からの枯れた風のせいで砂漠となっている。その土地を横断するかのように来る部隊には必ず給水が必要不可欠であるが、残念な事に我々との関係があまり良くないからか重要施設を中央部に作らなかった彼等。

最初から戦線が伸び切っている、弾薬の運搬ですら可能な道が無いのだからますます大変だったろう。

 

これ程大きな戦線は人類史上類を見ないものである、従って一つ一つに巨大な穴が出来てしまう。攻勢側も守勢側もだ、そうなるとより地形を上手く利用し、兵器をより効率よく運用して方が有利となる。

 

私はこの分野ではあまり得意なものではないと自負していたのだが、幸福な事にまだまだ米国の練度は高いものではない。

勿論我々と比較した場合というものが付くが、平押し一辺倒では戦争は始まらないのだ。

 

地の利を活かすことのできるものは、大概が守勢でありこの時もまた我々が活かすことによって数を覆していた。

最も、攻勢に出られないというところに弱みがあったが、それでもうまくやったであろう。

 

そして、もし攻勢に出る場合どのルートが良いのかというものがあった。

まず、中央部の山脈を越えての中央部殴り込み、これはリスクが大きく見返りも少ないので却下された。

次に、北部と南部の同時攻勢、これは作戦に対して人数の少なさ故に却下された。

次に、南部のみの攻勢。これは、メキシコと協力体制での攻勢となるのが特徴であったが、時期が悪かった。春先、中南米のこの地域は竜巻が良く発生する為に進軍に適していなかったのだ。

 

消去法として北部からの攻勢が企画立案され、それを実行に移した。

第1段階として後方の敵兵站集積所の偵察及び空爆。

第2段階に鉄道線への空挺降下と破壊工作。

第3段階に準備砲撃とそれに付随する装甲戦力による機動的浸透戦術。

第4段階に歩兵機動戦力による迅速なる占領。

第5段階に補給路並びに簡易鉄道線の布設である。

 

全てが上手くいくか?と言われれば不可能なもので、正直言えば絵空事だ。

私自身上手くいくなど露ほども思っていなかった、実際鉄路は布設されなかったのだから。

 

その変わりと言えばいいのだろうか?ただグダグダと続く戦闘を続けていくうちに、そこまでの鉄路が出来ていた事だろうか?

カナダ領内に、我々の鉄道路線が出来るということは即ち戦後に問題を残すことに他ならないのだ。

実際国際問題になっているのは皮肉なものだよ、私の責任だろうがな。政治的にすまないとも言えない、だからせめてここだけでも謝ろう。すまなかったと。

 

さて、これよりの戦闘で艦隊を使用した米国への攻勢が入っていないと言うものもいるだろう。

これは、米太平洋艦隊が数年前のメキシコ侵攻の折に艦隊が消滅していたという事が原因である。

また、これによる強襲揚陸は不可能な自体がある。

 

南方戦役で使用した艦艇は軒並みドック入りであるのだ、帰還途中に強烈な暴風雨に見舞われ、溶接によって建造された者たちは、大規模な損傷すらあった。

また、占領地の維持のために輸送船等を使わざる負えずそれを動かすのは不可能となった。

 

では、東太平洋艦隊艦隊を動かせるのか?と言われれば、パナマ運河を安全に通過するにはブラジル内戦を先に終わらせなければならずこれもまた、時間のかかるものである。

また、大西洋を使用するにも港が無い以上海上作戦は敢行できない。

 

結局の所、戦争を早く終わらせようなどどはなから成立しないことに労力を割くものなどいなかった。

因みにだが終戦は知っての通り1945年7月となるのだが、私の記憶は間違っていないだろう?

 

 

 

 

 

 

1998年

 

ここまで高祖父の記録を読んでいて、現在の私達の生活の中にある諸問題がこの時出来たのだなといくつか思い当たるものがあった。

三国冷戦または暗闇のマラソンと言われた、静かな技術による戦争。

 

敵基地を直接叩くべく、多くの国が独自の兵器を開発し人工衛星等の宇宙開発に注力した。

勿論、それぞれがそれぞれの形でその技術を作り上げたのはそうだろう。

 

例えば

大陸間弾道弾、一番最初に開発したのは独率いる欧州連合戦争に間に合わせるべく造られたそれは、戦後数日後の昼間打ち上げられた。

 

次に開発したのが英国連邦、欧州連合とたもとを分かち独自の路線で進めたそれは、欧州連合のそれを遥かに上回る飛翔力により、より大型の物体を打ち上げられるようになっていた。

 

一番遅れていたのが大日本帝国、なまじアジアという技術力の低い地域である。一国でその全てを賄わなければならず、英国から遅れること5年それは空を舞った。しかし、それは遥かに小型でまるで潜水艦にでも搭載するのかと言われ、実際それを初めて行った。

 

そんな技術的な争いを高祖父は、たぶん英雄としての目で見て現状を憂いていたのかもしれない。自分の無力感というものを、文字が震えているものもあった、冷戦というものがどれ程恐ろしかったのか、想像するのも大変だ。

 

今だって何故か冷戦が集結したことになっているのだから、もしかすると水面下で何かがあるのかもしれない。それが良いことならば良いのだが、何よりも不穏なのだ1980年政府間で一体何が起こったのか私達は、何も知らされていないのだから。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

南米戦役

一つの映像が流れる…そこにはこう書かれていた。

 

1940 0624

フォルタレザ攻防戦 空撮

 

今でこそ美しい海と砂浜、それとビルとの奇妙なコントラストがあるこの街は、この年代大規模な市街戦によって多くの建物が倒壊し、民間人が犠牲になったと言う。

 

 

まだまだビル群など存在しない、正しくビーチの側に創られた少し大きな街は、しかしその姿からはあまりにも不吊り合いな黒煙のような物が下から浮かびそれがアチラコチラから、上がっている。

 

白黒の映像であるにも関わらずあまりにも多くの箇所から火の手が立ち昇り、しかしそこに人々の姿は無い。

民衆は何処かへ行ってしまったのだろう、そんな映像がこの映像の他にも幾つもあり、この街を巡る攻防は半年も続いているようだった。

 

映像が進んでいくうちに廃墟が多くなっていく、突然何かが爆発しその周辺にいくつもの爆発が重なっていく。土煙が舞い上がり、そこに足のような物が紛れ映る。一瞬だけ写っただけでもわかる、いったい何が起こったのかと。そして、映像は終わる。

 

 

世界大戦の序盤の終盤に差し掛かったこの頃、ブラジル内戦は一つの転機に入っていたという。

2つの陣営に別れていた者たち、それ等はそれぞれの後ろ楯を得るために世界大戦の中に埋もれていった。

 

大統領派は米仏の後ろ盾によって国民解放戦線に加入し、新皇帝派は日英の後ろ盾によって独立国家連合へと加入。これによって、世界は地図上でほぼ完全に二分化される。

 

そして、その影響が直ぐに出たのが南米であった。やはり日英の影響力が濃い南米南部地域は、そちら側に付くし、それとは違うコロンビア等の南米北部地域は解放戦線に付く。

そして両者が激突するのは、それらの国々が戦の真っ最中であったやはりブラジルとなるのは必然である。

 

国土の大半が戦場と化し、寄る辺なき難民が国中を彷徨い諍いが耐えることなく、もはや何処が何処に属するかなど曖昧な部分もあったと言う。

そんなものが南米戦役、戦争というよりも戦国時代と言うものだろう。

 

そんな状況でも比較的安定していたのが、前述した大統領派と皇帝派であるのだ。

特に皇帝派には、現存する記録映像や写真が数多く残っており、当時の資金繰りがかなり良く反映されていた。

 

例えば各偵察隊に一つの8mmカメラを提供するほどには潤沢であったとされており、当時としては破格の提供率を誇っていたようだ。一つ試しに映像をご覧いただこう。

 

 

 

これは、実際の戦闘を捉えた映像である。次の戦闘時の参考とされたし。

 

1940 0708 フォルタレザ

  

音のない瓦礫の世界が映し出され、幾人もの兵士達が周囲に並び立ち移動している。

少し下を映し出すとシングル8 4号と刻印された缶が見受けられ撮影者とこれが何によって撮影されたのかがわかる。

そして映像が途切れ、次のシーンに移る。

 

そこには積み上げれた土嚢と小さな橋が架けられていて、反対側にはこのカメラのある方向を向いた機関銃が据え置かれているのが見える。

周辺映像からリオ・ココ川に架かるフランシスコ・ビリャ通りの橋だと言う事がわかるのだが、こんな小さな橋ですら防衛線となるのを見ると、相当混戦していたようである。

 

立っている旗は私も歴史の事を十分理解していると思っていたのですが、全く訳のわからないもの。恐らくは、個別の記録にもないような武装勢力との小競り合い程度の戦闘時映像なのだろう。

 

皇帝派、いや映像の人物たちは傭兵として派遣された者たちは、この交戦距離で圧倒的な制圧力を持った自動小銃で、次々と陣地を制圧して行くのである。経験から裏打ちされたものなのか、はたまた暴徒と正規の訓練を受けた者たちの差なのか、一人として欠けることない。一個小隊が、百人程いる武装勢力を一方的に潰して回る。爽快感すら感じる程に恐怖がある。

 

音もないただの映像なのにどうして、戦後自分たちに不利になるような映像を残すのか、これがわからない。

日本軍が介在する戦線には必ずと言っていい程、この手の映像が残されている。まるで私達に、何かを語ろうとするかのように。

もしくは首狩りの代替なのかもしれないと、私はロマノヴァの人間だから思うのかもしれない。

 

大学の同じ学部の人たちは、その可能性に微塵も考えついていないような素振りをする。

それを大学の先生に伝えると面食らったような顔をして言ったのだ。『そう言う考えもあるのか。』と、そんなんで良いのか?客観的に見られなきゃ研究なんて出来ないんじゃないの?と

 

話がそれてしまったようなので、一度戻ります。

前述のように、ブラジルの内戦はもう後戻り出来ない領域に踏み込んでいるため、日本軍が本格的に米国へと艦隊を派遣するのは極めて難しい事になってしまっていると言う事がわかると思います。

 

港もまともに機能していない、無駄に広大な領土。それに見合わぬ、人口と軍隊の数。食料すら、一国で賄うことが適わないそんな国が艦隊を入れられるようなものだろうか?いや無理だ。

だが、現状を憂いていても始まらないのだとそこへ南方戦役から戦力が抽出される。

 

本国の人間により構成された所謂南米派遣軍本隊、と言うものだ。基本的には征南軍と同じなのだが、一つにして最大限違うのは大将軍の隷下では無いと言う事。 

詳しく言えば鎮守大将軍 坂之上泰久 隷下になるらしい、そう高祖父の手記にはあった。

 

政治的に縛られているものの、その戦力は並のゲリラ等諸共しない猛者達の集まりである。

彼等が到着すれば戦線が動くと思われていたらしい、実際一年の間に親米勢力はその8割が姿を消すなりしていたらしいのだが、実際のところどうであったかは、あるデータからこう導き出された。

 

親米勢力は6割程は存在していた、と言うものだ。詳しく言えば、内部で分裂し内紛状態に発展していたと言う。

元々纏まりがなかったところに、日本軍の攻撃が来たものだから更にゴチャゴチャとした勢力図になっていった。寧ろマフィアの集まりのようなそんなものになっていった。

 

(これによって尾を引いていくのが、現代で言うブラジリアンマフィアによる、麻薬の類の密輸。米共和国内部の粗製乱造された銃器類、教育水準の低迷につながるのだからこの時代この戦争は世界の構造の一つを形作ったと言えなくもない。

冷戦も一段落付いた昨今では、この問題に対して何かしらの強権的な方法で対処していくと言われている。)

 

親米派の最大勢力である大統領はと言えば、数年の間に求心力の殆どを失っていて実際に戦争等できる訳もないのだが、どうしたものか皇帝派はそれに対して引導を渡せなかった。実際、荒れた畑をもとに戻すには大変な労力だったであろう。

現在の農業国家ブラジルを知る身からするに、そんな事があったのだと普通はわからない。

 

さて、場面はまた別の場所へと切り替わる。司令室であろうか、そこにはペストマスクを顔に付けた者たちが、地図とにらめっこをしている。

階級章を見るに、どうやらかなり位の高い者たちというのが見て取れる。唇の動きを見ることができないため、何を話しているのか、理解し難いが日付でだいたい予想が付く。

 

1940 0803

 

通称 ベレンの旅路作戦

 

の発動が行われたのがこの日。

 

ただ、正規軍として価値のあるものとして海岸線の都市に対する経済的な封鎖並びに、敵の炙り出しを目的とされた一種の囮作戦とでも言える、大規模な打通作戦だ。

この作戦は確実に成功し、私達の時代に繫がる歴史を作り上げた作戦であったと言えると時に、ブラジルが工業国家として成り立たないよう証明した作戦であったと言える。

 

 

 

 

 

 

 

 




誤字、感想、評価等宜しくお願いします。

遅くなり申し訳ございませんでした、仕事で気が付いたら寝ていることが多く執筆に力が入っておりません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

南米戦役2:ベレンの旅路

1998年11月

私は南米はブラジル帝国、パラー州ベレンへと来ている。旅行かと言われるかもしれないが、これは私の大学の教育方針である先鋭化された学術部門。

と言う方針によるものであり、先進国1大学の少ない国、と言われている日本帝国の大学方針でもある。

 

専門的な知識をより必要とする人材の育成には本当に特殊な人々の力が必要だという観点から、そのような構成になっているようだ。

そんな中の近代戦史の研究には必ずこうやって、生徒の行きたいところへ行かせてくれる。

 

私がここに来たのは他でもない、戦跡を辿る為であって旅行ではないのだが少しは食べ物に現を抜かしても良いだろうと、レストランに入ったりする。

ここいら辺の店には特殊な料理が並んでいる。

 

小麦粉やコーンスターチを使ったものではない、第3の粉。米粉を使用した料理が多いのだ。これは、戦後の食糧事情によるところも大きく、日本軍による配給は保存の効く米粉を使用したものが多かったようだ。

 

しばらく大通りを歩くと見えてくるのは戦史博物館、この地において行われた戦闘を記録していくための、記録保管所とでも言うべきだろう。

そこには、南米戦役で使用された皇帝側と大統領側の兵装や、戦闘車両等が保存されており、当時の戦闘風景を街ごと保存している。

 

だが、私の目的はそこではない。私はそこを素通りし、郊外へとタクシーを進め来たのは街から40kmほど離れた道路。

舗装工事も程々に今も尚砂利で作られている幅6m程の道、この道の名は『ベレンの旅路』と呼ばれる、旧い幹線道路。または、軍用道である。

 

この道が作られたのは今より60年程まえの南米戦役時、皇帝派の援軍としてブラジルへと派遣された日本軍によって大凡一年という短期間で創られた、簡易道路が始まりと言われている。

秘密裏に創られた筈のこの道は、しかし密かに作られたという証拠が見つかっていない。

 

敵の後方とはいえ、兵士の殆どいないそんな街にあんな軍用道を作ったとしてなんになるのだろうか?それに、当時の状況を鑑みるにこれをやるには並大抵のことでは、隠蔽は愚か上空からの航空機すら退けることかなわない。

 

いったいどうやってやったのか、研究者たちも舌を巻く。

当時を知る人々へのインタビュー等は、1980年代までの規制により公に行われなかった事から、資料が少なすぎる。

だが、昨今ではその人達も歳をとりいよいよ解らなくなるのは困るとなってきているので、私はここに降り立ったわけでもある。

 

そして、私はある仮説を持って来ていたのだがそれが答え合わせとして、今ここにある。

ここはアマゾン川のすぐ近く、だからこそここに道を作ったのだ。

アマゾン文明の跡地であったのだ、この道は。日本軍はどうにかしてそれを再利用と言う形で、ある程度道と思わしきものを形を整えて行ったのだろう。

 

新しい橋の横には古ぼけた木骨の橋が架けられていて、なんとも良くもここまで作り上げたと当時の人々に関心を覚える。

ちなみに南米文明の考古学を履修している友人に言わせると、

『もったいない事だが、これがなければ歴史に埋もれていたのだから皮肉なものだ。』

だそうである。

 

さて、私が現地入りしてわかった事であるがアマゾンと言うのは意外にも赤道寄りの方ばかりに巨木が乱立している、と言うのがあげられる。かつての戦乱によって多くの木が燃えた、と言う記述が存在しておらず大規模な干ばつが起きたというものもない。

 

と言うことはつまり、古くから南部の方へ人間がいたのだろうと、そう言う事もあるのだと後で報告書に書かねばなるまい。そう思い地図を開く。この道を逆走する事に意味がある、今と昔では遥かに景色が異なるだろうがそれでも、どのようにこの道を形成していったのかがわかるだろう。

 

一度ベレンへと、戻り車輌の燃料調達と遅れてきたアシスタントのアルバイトと合流すると。

その足でガイドと共に大学が用意した車両で移動を開始する。私の研究に水分とお金を出してくれている事に、嬉しく思うとともに感謝を述べたい。

 

さて、日本軍は一年の間にこのブラジルでも発展の少ないここ、ベレンまで到達するようなそんな動きを当時行った。

それが大局にどのように影響したのかは言うまでもないが、南西大西洋の制海権を連合軍側へとする事が、行われたと言うのは紛れもない事実だ。

 

彼等は、長い年月を掛けてこの作戦を実行するに至ったと言うのが私が、南米考古学者たちとの協力の下導き出した答えだ。

長いと言っても十年二十年ではなく、凡そ二百年もの間と言うまるで想定していないであろう時間帯だ。

これには、大日本帝国構成国であるインカ王国が深く関わっている。

 

(インカ王国

ペルーとコロンビアに挟まれた国。

完全な独立をしたのは実際のところ1962年の事、もっとも大日本帝国構成国の大半はこの年代での独立であるから、それほど珍しいものでもない。

元から独立していたのは、ロマノヴァ、明、くらいと言って良いだろう。)

 

インカ王国は、かつてインカ帝国と呼ばれていたものを日西戦争において、日本がその土地を獲得したとき当時のインディオの王族を立てることによって出来た国なのだが、それがブラジルと何の関係があるのか。

 

インカ帝国には、太陽信仰が存在していて太陽の登る東側を特に神聖視していたという。つまりは、神々が東側から来たという事なのだろう、インカ帝国へ文明を伝えた存在それらの伝承を彼等は、引き継いだ。それを属国化した日本帝国が紐解き、この世界大戦に投入したと。

 

無駄な話が実に多いだろうが、このベレンの旅路作戦の無謀とも言える大規模迂回には、これらを入れなければ説明出来ないほどに凄まじい進軍速度である。

道が無い場所をそれ程の速度で進軍することはまず不可能だ、現代の技術を持ってしてもそれらを行うことは出来ないと、私は断言する。

 

でなければ、道のない場所に道を作ってまで意味の無い大回りをする軍隊、と言うのが生まれてしまうのだ。

ベレンの戦略的価値は当時、かなり高いものであったようでそこを攻撃するには当然海上か、南部からしか無いと言われていた場所だ。

それを西より奇襲を仕掛けることによって、たった5日で攻略せしめたのだ。

 

一年の準備期間と5日と言う戦闘期間はあまりにも隔絶した開きであるが、同時に当時の日本軍は人的資源に乏しかったと言う側面が浮かび上がる。

本国軍をほぼ全軍投入して戦争をしているのだから、あまり戦力を減らしたくないのだ。

 

実際、征東軍つまり北米大陸方面軍はこの期間のうちまともな攻勢を一度たりとも行わず、ただじっとしていたのが良い例であろうか。

 

さて、南米戦役はこのベレン陥落によって一応の連合軍の勝勢となり、解放戦線は次第に北部仏領ギアナ(当時)へと追い詰められ

1941年12月末に全面降伏する事になる。

この戦役、での解放戦線は戦争全体での凡そ1割の戦力が失われ、連合軍側も少なくない戦力を失ったようである。

 

日本軍はこの戦闘が終了した後、直ちに戦力を再編成し防戦一方であるメキシコへと軍を進めるとともに、パナマ並びにホーン岬を超えての艦隊の派遣を決定し、解放戦線は戦線の後退を余儀なくされるものの島嶼部の要塞化を更に推し進めた。

 

と同時に、欧州戦線にて動きが見られる。

仏艦隊とイタリア艦隊の総力戦に決着がつけられたのだ、これによって、地中海は仏海軍のテリトリーとなり連合軍は欧州において追い詰められていく。

幸いな事は米国大西洋艦隊が日本帝国艦隊と睨み合いをしなければならない状態となり、英国本国艦隊が仏との艦隊戦へと舵を切る事に成功する。

 

もしも、南米戦役の終結が1年ずれ込めば連合国はこの戦争に敗北していただろう。

それ程までに重要であったのが、このベレンの旅路作戦であったのだ。




誤字、感想、評価等宜しくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北米戦役

1941年8月

南米からの通信により、計画通りに事が進んでいることがわかるも向こう側の戦況が完全に安定化しなければ、こちらには兵力が無いので攻勢には出たくない状態である。

 

幸いなことに、米国陸軍は戦力の逐次投入を行いながらこちらの要塞線を攻略しようとしているが、そのおかげで最近では攻勢がピタリと止んでいる。

いったいどんなやつが指揮をしているのかと、そう考えているが向こうも必死なのだろう。

 

一番に気掛かりなのは東欧では無いだろうか?あそこは現在波蘭が押し込まれているのだから、最悪風船のように破裂してしまうのではないか?そうとなっては最悪の場合、独逸も共倒れか…やはり南方戦役の戦力をあちら側へも送るべきだ。

そうとも属国の者達もある程度は戦ってしかるべきではないか?我々だけが、血を流すのなど。

 

であるならば、ロマノヴァへの働き掛けるのをもっと積極的に行うべきだと、本国へと通達するか。敗けては何もかもを失うぞと。まあ、ロマノヴァの戦力が動くのはまだ先だろうが、奴等のドクトリンは防御一辺倒で侵攻を考えていないからな、墓穴を掘ったな。政治的に必要な事であったがそれが足枷になろうとは。

 

今日の会議も終わり頃、本国から新型戦艦の建造が終了したと言う連絡があった。戦力化には最低でも3ヶ月は必要だろうが。

さてその全容を見たとき、思わず頭を抱えたくなった。全幅が最初持っていた情報よりも大きいのだ。

 

これではパナマは越えられぬ、南米をぐるりと回らねばならぬとは、どうしてこんなものを作るのか。

戦力化は良いがそこをもっと考えてほしいものである。

あんなデカ物国庫を圧迫するだけだ、戦力として持て余しそうであるがそれでも使ってやらねばならぬ。

 

極力の消耗は抑えつつ敵の動向を制限するためにも周辺の土地、特に奥地にあるであろう生産工場の爆撃を重点的に行っているが、日に日に爆撃隊の損害が多くなる所を見るに対応がいちいち過剰だが、いい判断をしている。

 

少し回りくどい方法ではあるが、実行中のあれが目を芽吹くまでの辛抱か?あれが出来れば悪鬼羅刹の如くこちらに牙を向けて突撃せざる負えなくなるはずだ、期待して待っていようと思う。

 

そう言えば近日中に新型爆弾の『気号』が前線入りしてくるようだ、まだまだ作戦に使うには早いしなにより資料を見るに工場区域等で使うには些か破壊力が違いすぎる。

これは、防御計画を少し修整しその部分に当ててみるのもいいやもしれぬ。

 

 

 

 

 

1999年2月

 

とても暑いブラジルでの作業が滞りなく進捗している中、合間を縫って高祖父の文書を読んでいる。

これは、後日に書いたものと月記があったためだ。

昔、私が初めて見たときは発見されていなかったようであるが、どうも最近になって旧宅から発見されたようである。

 

1941年の8月と言うのは米国の主戦派の議員の一人が何者かの手により暗殺される。と言う事件が起こった時期があるが、高祖父の『実行中の作戦』と言うものはそれだったのではないだろうか?

この事件が起こる前から、米国内での無差別的な殺人が前年の2倍に跳ね上がっておりもしかすると、と言うのが私の見解である。

 

特に白人を中心に狙いを定めている事から、白人と黒人の対立構造を更に先鋭化させるには効果的であったようで、戦争中の合衆国下院では度々話題に登るほどに深刻化していたようだ。

特に人種間の対立が激しい運動に繋がり、白人が黒人を射殺する等が当たり前になりつつあったのだ。

 

黒人も黙っているのではなく、やり返すのだからこれによって小さな小競り合いどころの問題ではなくなっていた。

そこで、この事件の犯人を日本軍の関係者とすることによって、事態の収集に務める事となったのだが、正しく答えであったのは皮肉な事だ。

 

もっとも、この当時の動きは既に高祖父の耳に入ったようだ。その証拠に、日本軍は要塞線の形状を少し変化させることにより、米軍を錯覚させるようになっていく。

 

1941年の11月頃、南部及び中央部の攻略が不可能なことから米軍は北部の日本軍のライフラインである補給線の寸断を目的とした、北部大攻勢を開始した。

これも高祖父は誘導したようでこの攻勢で米軍は兵力の1割が、戦線から離れざる負えなくなったと言われている。

 

いったいどのような手を使用したのか、陣形図を見るにその形は一見すればまるで時代錯誤ではないのかと思われた。

鶴翼の陣とよばれるものだと、戦闘終了時の形状を見れば言われるが、この戦闘でのこれは元々は違うものであったとされこの事から日本軍は初めから米軍をはめるためでこれを思考したのだろう。

 

後にスレーブ湖畔の戦いと呼ばれる。

 

その動き自体は非常に緩やかなもので、まるでクッションに包まれていくようと言われる程の超至近戦闘。

殆ど肉薄した距離である為に、双方砲撃など出来ない。それどころか、機銃を撃つことすら難しく歩兵装備でのみでそれらに対応する他ない。

 

米軍の兵士達はそんな戦いに次第に奥へ奥へと誘引されていき、陣形は次のようになっていく。

中央に行くほどに、人口密度が多くなりある程度行ったところで前進が止められる。

 

罠だと判断した頃にはもはや手遅れで、意図して制空権に機体を入れていなかったところへ、戦術爆撃が新型爆弾を投下していく。

 

ある兵士の手記にはこうある。

 

『上空で一段回目の爆発が起き、爆弾から何かが広がっていくそして地表に到着する次の瞬間周囲一帯は、とてつもない爆風で満たされた。

 

それは戦場の至るところで観測される。

一見すれば、米戦車の姿は健在なものもあるがピクリとも動かない、そう中の乗員は圧死したのだ。

この惨たらしい兵器は我々の損害を少なくするには良いが、こんなものを使って我々は絶滅戦争でもするのだろうか?』と。

 

実際この時に使用された爆弾は通称気号爆弾、と呼ばれる燃料気化爆弾の一種であったと言われており、焼死体等の情報からそれらの火力は既に現代でも通用するものとなっていたようである。

 

また、この時の事を高祖父はこう記した。

『例えどのような手を使っても戦争というものは勝たねばならぬ、例え私が裁かれようが気にも留めずただ突き進むしかない。』

と、しかし当時高祖父の参謀と呼ばれた者たちによる告白文がある。それによると

 

『生駒中将はそれを聞くと非常に喜んで言った。

「そうか、そうかそれは良いことを聞いた。ところで、これを市街地に投げ入れたらどうなるだろうか?君たちはどう思う?私は面白いものが見られると思うな。」と、あの時は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。』

と、高祖父は当時の人から見ても何処か頭のネジが抜けたような人だったのだろうか?

ここで高祖父の経歴を見たとき、一つある事に目が行った。

 

ロマノヴァの首塚、あそこでかつてあった戦には高祖父が士官として参加していた事がわかったのだ。

そして、その時の戦果は誇れるものではない。実際こう記されていた。

 

生駒少佐 小隊長首並びに雑首19をここに献上す。

 

つまりは、そういう事なのだろうか?私の高祖父は、人の生首をとって喜ぶようなそんな人物なのだろうか?

少し思い悩むも、では北米戦役当時の高祖父はそんな考えでここまで大規模なものを行うかと言われればそうでもない。

 

きっと、あっさりと方が付いたことと、気化爆弾と言う代物の戦術的価値に関してそう感じたのではないだろうか?

その証拠と言えるだろうか、市街地においてこの兵器が使用されることはただの一度も無かったようだ。

 

専ら敵の塹壕や掩蔽壕への空襲に使用されたという、特に基地に対する第二次攻撃に頻繁に使用されたようで、的確に兵士のみを攻撃していたようだ。

親族だから庇っているわけではない、高祖父もきちんとした人だと言う事を忘れてほしくはないのだ。

 

 

 




誤字、感想、評価等宜しくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東欧戦役4:逆転

1941年8月

北米戦役が動き出した頃、東欧戦役でも状況が動き始めていた。

当時のこの時期、東欧ひいては欧州での戦況の転換点とでも言える事件が起こった。

 

この時期に起きたことは3つ、 

 

日本軍による波蘭戦線の逆襲

 

ソ連軍の攻勢限界による鈍化

 

独逸の対仏攻勢の開始

 

だ。

 

3つの出来事がほぼ同時に発生した、これをタイフーン作戦と言う所謂反抗作戦として計画されたものだ。

このタイフーンの命名根拠として、当時日本軍が波蘭入りしたときの動きを表したものだと言われている。

 

その動きは、正しくタイフーンの渦を巻くかの如く戦場に現れそのままソ連軍を呑み込み孤立させた。

当時の資料はあまりない上、なによりこの動き常軌を逸した速さで行動しなければ不可能だという。

 

しかもその間に、コーカサスの防備は薄くなると思われたからこそ、ソ連軍はその動きに耐えられなかったとも言われている。

では、どうしてそのような事が出来たのか?それは英国による交渉の賜物だろう。

 

この当時、トルコ共和国は連合への好意的中立宣言をしており、外交的通商的に連合国である日本軍へ物資及び軍の無害通航を許可していた。それはどれもこれも英国の仕事であり、この大戦西洋においてもっともこの戦争に尽力していたのは、確実に英国だろう。

 

英国との協議は長く行われ、そして今こそという時にトルコによるソ連への宣戦布告と連合への加盟が行われたのだ。それと同時に、集中していた戦力を一路コーカサスへと集結させ日本軍と入れ替わることにより戦力の穴を埋めた。

 

だが、トルコが波蘭へと赴いたほうが早いのではと思われることだろう。現にトルコのほうが地理的に接近している。

だが、侵攻作戦を行う場合トルコにはあるものが欠けていた。

機甲戦力である。

 

勿論コーカサスに存在する日本軍の機甲戦力は軒並み波蘭へと移動することから、その戦力は軒並み落ちる事になる。

では、どうして彼等はそこを死守出来るというのだろうか?

それは、一つの対戦車車両が関係している。

 

ロマノヴァには、戦車と言うものがこれ一切存在していないそれは侵攻作戦というものを切り捨て、防御のみに特化した軍隊だからである。

だがしかし、機甲戦力が存在していないと言うわけではない要するに防御に特化したものならば存在していると言うことだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

ЛР2という、対戦車自走砲だ。それは、この戦線へと投入された。これが意味するところは、ロマノヴァが戦争へと参加する準備が出来始めたと言うことと同義である。

それが、コーカサスへと来たということはつまりロマノヴァの部隊がここに参加することを意味する。

 

そして、その日ロマノヴァとトルコは正式にソ連と戦闘へと至るり、コーカサスはソ連の猛攻を退ける為にあらゆる手段を行った。

例えば、日本軍が新たに作り出した小爆弾を空中散布する『親子爆弾』や、『気化爆弾』がいい例であろう。

 

一方、波蘭へと進んだ征西軍は直様戦闘行動を開始する。波蘭軍の北部から突如として現れ、ソ連軍の中央攻勢部隊をまたたく間にすり潰す奇襲をやってのけたようである。

詳しくは日本の資料にはないので割愛するが、この時の戦いは後に波蘭では映画化されたようなので、そちらを参照すると良いだろう。『ヴィスワ川の奇跡』と言う題名だ。

 

どうしてこうも東欧戦役に関する資料が少ないのか、本当に探すのに苦労する。

 

 

 

さて、次にソ連軍はこの攻勢を受けてその動きを鈍化させた。一説によると当時戦闘に参加していた部隊の、凡そ1割がこれによって事実上の消滅をしたというのだからソ連軍がその動きを麻痺させるには充分だったのだろう。

 

だが、それだけが原因ではない。ソ連の備蓄資源特にゴムの枯渇が問題になっていたりする。

元来ソ連はとてつもなく寒い地域にある国で、ゴムを使用する製品の殆ど、特に天然ゴムはほぼ輸入に頼っていたのだが、ここに来て米国と日本の戦争が響いてきていた。

 

米国籍の船やその筋からの物資の輸入を連合国は黙認していたからだ。

もし、それを行った場合米国と事を構える事になりかねないのだから、そんな事をやりたいわけがない。

 

ところが日英と米国が戦争を始めたことによって、事態が一変した。内陸からの輸入等、これを一切停止させられたのだから堪らない。

際限なく溢れ出ていた車両は、だんだんと生産されなくなっていく。

 

ならばと、革製品にするが畜産だってうまくいく土地ではない。かつて、多くの国が侵攻を拒まれた極寒の大地がここぞとばかりにソ連へと噛み付いた。

穀倉地帯も既に枯れ果て、食糧事情も心許なく既に攻勢は不可能だと言うばかり。

そして、形成は逆転した。

これよりソ連は東西から挟撃され崩壊の一途を辿っていった。

 

それは戦争全体を通してもっとも大きな出来事であり、それによって世界の中立国は次々と連合へと加盟していく。

 

これと同時に仏は侵攻し手に入れたルール地帯を、活用し多くの工業力を用いて独逸の反攻を防いでいたが、如何せん阿蘭陀や白耳義を仲間として扱うには少しばかり負担が大きく、そしてやはりそこを独逸は突き崩そうと攻勢を行った。

 

そして同時に英国が動き出す。ロイヤルネイビーが米国との戦闘からなんとか抽出した艦隊を、ドーバー海峡に展開すると仏艦隊が出張ってくる。その間に残った揚陸艦が阿蘭陀へと揚陸をしたのだ。

 

背後からの一撃に、阿蘭陀に展開中の仏軍は後退を余儀なくされ、8月中旬。戦闘開始から僅か2周間で、距離にして凡そ150kmをも後退していた。

大敗北を喫するも、ロイヤルネイビーも無傷とは言えず痛み分けではあったが仏海軍もズタズタである。

 

制海権は連合軍側へと一時的に傾く、それを良しとしない米国海軍大西洋艦隊は動こうとするが、南米へと進出してきた日本軍が気になりそうも言っていられない。

戦争の潮流は完全に連合側へと傾き、これ以降逆転することは無かった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

一連の動きは欧州の至るところで見受けられ、バルカン等もまたこれらの動きに呼応して戦況が変化し、こちらでも連合優勢となる。

 

そんな中唯一、連合と解放戦線の戦力が拮抗していた場所がアフリカであるが、ここが何故拮抗しているかといえば重要拠点となり得る場所があまり多くはないからで、植民地軍も本気で戦争をしないからクダグダと戦っているフリをしている。

 

戦争なんて言うのは真面目にやっている者はほんの一握りだけだったのかもしれない。




誤字、感想・評価等宜しくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

南米領海戦

1941年9月

 

バルバドス島

 

英連邦に属していたこの島は、今や米国の航空基地としてその役割を担っている。

南米大陸において、我々の南米掃討軍に対して唯一の空からの戦闘を仕掛けてくるのは、数少ない彼等の機体だ。

 

今の所カリブ海は完全に奴等の手中に落ちている為に、パナマを使用してでの英国への支援は行うに行えない。

ただ、パナマ周囲の制空・海権の守備は万全であるがゆえに、だからこそそこから艦隊をカリブ海へと入れたいのだが、大和が問題だ。

 

そこで、ブラジルを南回りに回ったのは良いものの大規模な艦隊を整備可能な港湾が少なすぎるのが問題になっている。

特に大和型が問題だ、吃水が深くあのままではまともな港湾にたどり着けない。

そこで、水郷県(ガイアナ)までの道のりを給油艦帯同のもと進めせることとなり、現在水郷県に駐留している。

 

艦隊としてはそれ程大規模なものではない、

 

戦艦2

 

巡洋艦2

 

駆逐艦8

 

の編成であったが全く危険な道のりではないようである。

それはそうだろう、制空権は我等に有りと言うのが我々の基本方針であるが故に取られないのが大前提だ。

 

 

さて、バルバドス島の攻略であるが戦略上通らずにはいられないであろう。

実際のところ、偵察もまともに行えない現状どのような戦力が駐留しているか検討もつかない。

 

戦艦による陸上構造物に対する艦砲射撃を行うのが望ましいと考えているが実行に移すかどうか。戦力も抽出しなければならないし、どこから戦力を持ってくればいいのか…一体誰がこんな大将軍なんてものを作ったのか。今の時代には実にそぐわない、手が足りんよ。

 

 

1941年10月

 

本国からの連絡があり、戦力の拡充が行われた。全体でおおよそ一個軍団と本国の艦隊の大凡3割がこちらへと派遣されてきた。なんとも、大げさなほどであるが米国艦隊を相手にするには些か少ない。米国は現在グリーンランドをその手中におさめている。

 

その為、カナダが降るのは時間の問題であるため一刻も早く、本格的な攻勢に出ろと煩く言われた。

政治の問題というものはつくづくこちらの足を引っ張ろうとするものか。

 

既にカナダの亡命政府は我々の方面にいるのだ、今更東部を占領したとて寧ろ好都合。その間に、攻勢を始めてやろう。

各部隊戦力が整い次第、次の防戦後逆襲する事となっている。後は追い越し殲滅するのみである、機械化した部隊の燃料は無尽蔵に送られてくるというのは良いものだ。何も考えずに済む。

 

 

1941年11月

 

米国による4度目の大攻勢、前回の反省をしたのか航空戦力を充実させたらしい。こちらの航空戦力といい勝負をしていたようだ。もっとも、前回の反省はそこまでのようだ練度が足りていない。

 

歩兵の動きも前よりも鈍く、どちらかと言えば訓練不足が垣間見える。どうやら、人的資源が枯渇してきたのだろうだが逆に装甲戦力は見違えている。

 

M4とか言う新型の戦車が確認された、機動力もこちらに劣らず寧ろ装甲では向こうが上か?だが、背が高いせいかよく破壊されている事を耳にする。

既に攻勢を開始した北米南部方面軍はメキシコ国境へと突撃するかの如く向かっている。

メキシコと陸路で繋がれば、米国は戦線の拡大を無視できないだろう。

 

同時に海軍陸戦隊をバルバドス島へと派遣することが決定された、これにより派遣された艦隊を動員しての攻略戦を行える。

まったく、このままでは情報過多で私の処理能力を上回りそうだ、全ての戦線の面倒など見きれぬぞ?やはりその場その場での、指揮官の指名がもっとも楽だなと独りごちる私がいる。

 

 

1941年12月

バルバドス島攻略が開始されるが、なにも無理に落とす必要はないようだ。

基地の規模が数週間前に海底ケーブルを介して、なんと写真が送られてきた。電気信号を使ったファックスなるものらしいが、便利なものだ。

 

戦略偵察機によると、航空基地としての規模はそれなりのようだが、自活出来るようなものでもない。

貯水槽を破壊すればあっという間に水に困ること請負だ、なにより住民をどこへやっているのかと言えば、そのまま住居に押し込んでいるようで、こちらからはあまり攻撃をさせたくないようだ。

 

ならばと、潜水艦と駆逐、巡洋艦による水攻めが好ましい。既に数回の空爆によって、滑走路は破壊されているし貯水槽もまたバラバラだ。

その事から長くても一月、と言うところだろう。もしも、住民に手を出せばそれでお終いだ、基地の規模から数千人がやっとなのに1万程の人口を抑えられるか?無理だ。

 

食うものに困った者たちは略奪を始めるだろう、それを征する武力を持った少数が彼等を止めようとすれば、必ず武力を行使せざる負えず。従って我々は、攻略せずもはや体制は決しつつある本大戦に、無理な出血は意味のないものだ。たとえ外道と罵られようとも、勝ってしまえば良いのだから。

 

ふとそこまで考えたあたりで、情報が入ってきた。バルバドス島が降伏した、思わず手を握る。

こんなにも上手くいくのは久し振りだ、だが米軍が救援に駆けつけないのは不可解だ、いや戦略上の放棄だろうか?

戦力の温存か、確かに艦隊が出張ってこないのは色々と困るな。

 

 

 

 

2000年10月

 

私やその他の研究者による南方戦役の調査は大凡2年という間に終わり、私は論文に名を連ね晴れて研究者の一人として歩み始めた。大学から大学院へと行かないかと言われたあたり、私は喜んでそれを承諾した。

学びながら給料も貰えるだから、大学院に誘われるものは殆ど断らない。そんな事が一段落あった頃、一つの事柄を耳にした。

 

とある古戦場の映画を撮るという事だ。場所はバルバドス島、島民たちにとっては史上最悪の出来事、『飢餓の刑』と呼ばれる出来事の話だそうだ。それの協力をと、私は頼まれた。

何故あの古戦場が『飢餓の刑』と呼ばれているのか、それを調べ始めると高祖父の手記にそれの本当の意味が解った。

島民たち当時の生き残りの人々の記憶、それには深い深い傷が残っていたことに。

 

高祖父は勝つために、あらゆる手段を模索して戦争を行い、たとえどんな手段を使用してでも戦争に勝利しようとする。非情な面を抱えた軍人だった。いや、どちらかと言えばもしかすると高祖父の世代の軍人には、このような性格の人物が多数いたその可能性が多く見られる。特に、この戦闘に対して賛否が全く出ずに即座に決行されていたあたり、集団としてそのような傾向があったのだ。

 

さて、ここ数年の間に、前大戦の被害者等の証言をもとに作られた映像などが一つの流行を生み、地上波では大々的にこのような映画やドキュメンタリーが撮影されたりしている。

その中には連合国の行ったことも、勿論洗い浚い出されていてある意味、現在の国際的な問題になっている。

 

国家の威信だとか、連合国の行った非道だとかそういうのを嫌う人達は山ほどいる。

それは、現在の社会に不満を持っている人々であり当時の負けた側の主張を丸呑みする者もいる。

 

だが、そんな主張をする人々に私は映画を撮影するとき合点がいくように、この真実を丸ごとやっても良いものだろうか?

言ってはなんだが、彼等は非常に暴力的で現行の秩序を暴力で変えようとする、暴力革命思想の持ち主たちだ。

 

だからこそ、私はこの映画を作るのならば片方のイデオロギーのみを入れるべきではないと主張するつもりだ。もしそうなれば、彼等の暴力性は更に激化するだろうし、逆に少な過ぎればそれもまた激化する。非常に困ったものである。

 

それ故に、私は手を抜くわけには行かない高祖父の数ある資料の全てを総動員しなければならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




いつもお読み頂きありがとうございます。最近、私個人のモチベーションが下がっており、投稿が不安定になっております。
ですので、2週間に一話だとか、そう言うのが増えるかもしれません。

誤字、感想、評価等宜しくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東欧戦役5:コルス島沖海戦

2000年10月

 

私は映画の為の資料収集をしながらも論文を書くというハードスケジュールに苦しめられていた。

何故こんな事を受けたのかとあの時の自分を呪いたい、実際資料は真偽が定かでは無いもののその多くが存在を主張する、死人の数は島民の大凡4割程だ。

 

これ程の死者を出すにはいったいどれ程の事をやればいいのか、高祖父の行ったことへの怒りと同時に、早期の降伏を行わなかった駐留米軍の愚かさを嘆いている。

それと同時に、これを映画にするにはどうすれば良いのだろうかと、頭を悩ませる。

 

まずこの資料を監督や脚本家に見せるのは、正直気が引けるし文章に書き起こすには多すぎる。

だけれども渡さなければならい、なら参考になる映画が必要だと数年前に作られた欧州の映画を見た。

 

構成としてはこれと同じようにすれば良いのだが、果たして上手くいくかどうか。

こう言ってはなんだが、この映画決して面白くはならないと思う。寧ろ気持ちの悪いものになりそうだ。

 

 

 

1941年12月

欧州の地中海は今荒れに荒れていた、1940年4月頃仏海軍との艦隊戦の末にその力を無くしたイタリア海軍は、地中海でのその勢力を著しく低下させていた。

また、同年英国海軍が地中海南部の制海権を維持するために、地中海艦隊を動員することが出来なくなった事から、地中海中部及び北部は、一時仏海軍のものになっていた。

 

それが動き始めたのが1941年8月頃で、この時期にソ連軍の最終攻勢が頓挫し、仏海軍が英国大西洋艦隊によって痛手を受けたことにより地中海における仏海軍の戦略的驚異が低下した。

この事から今が好気と、イタリア海軍が最後の力を振り絞り艦隊戦を決意した。それがコルス島沖海戦である。

 

海戦はイタリア海軍優生で終わり、この事から仏海軍は事実上行動不能に陥ってしまった。そんな戦いだ。

 

これに参加したのはなにもイタリア艦艇だけではなく、ギリシャ

・トルコ・日本からも参戦している。

ですが、これらの艦艇には戦艦は愚か重巡洋艦も含まれていない。

いても軽巡洋艦、そしてその殆どが水雷艇であると言うところが突飛つすべきところだろう。

 

日本から戦力として抽出されたものは、もはや旧式となっていた鴻型水雷艇と言う、準駆逐艦クラスのものが16隻と1号型と言われる所謂魚雷艇が40艇あったと言う。

 

内訳はこうなる。

 

 

 

 

イタリア海軍戦力

カイオ・ドゥイリオ級戦艦2隻(中破修復作業中)

 

ヴィットリオ・ヴェネト級2隻(完熟訓練中)

 

ザラ級重巡洋艦4隻(内1隻中破)

 

ルイージ級軽巡洋艦4隻

 

ライモンド級軽巡洋艦4隻

 

ソルダティ級駆逐艦18隻

 

ダルド級駆逐艦8隻

 

 

 

日本海軍遣欧艦隊

 

鴻型水雷艇16隻

 

1号型魚雷艇40艇

 

 

 

トルコ海軍

モルトケ級戦艦1隻

 

コジャテぺ級駆逐艦4隻

 

トゥナズテペ級駆逐艦4隻

 

 

 

 

ギリシャ海軍

伊ルイージ級軽巡洋艦2隻

 

伊ダルド級駆逐艦6隻

 

 

 

 

それに対する仏海軍はと言えば、万全ではないものの戦艦もきちんと整備されている。先のドーバー海峡海戦での痛手から回復して日は浅く、砲術士の研鑽はそれ程良くはない。

 

 

仏海軍戦力

 

ダンケルク級戦艦2隻(1隻中破)

 

リシュリュー級戦艦2隻(うち1隻大破)

 

ブルターニュ級戦艦3隻

 

ノルマンディー級戦艦2隻

 

トルアーン級軽巡洋艦3隻その他軽巡洋艦12隻(うち5隻中破)

 

デュテーヌ級重巡洋艦2隻

 

シュフラン級重巡洋艦4隻

 

ビッスン級駆逐艦6隻その他駆逐艦42隻(うち10隻中破)

 

 

艦艇の数は思った以上に開いており、戦闘を行うにしても重巡洋艦以下の艦艇しかイタリア艦隊には実質上戦力としては存在し得ないだけでなく、戦艦の数ですら負けている始末。これは、もう勝てないと言う他ない。

だが、歴史が証明しているように実際はこれで勝利したのだ。

 

さて、映画の中ではこれらが艦隊戦をする描写が全体の大凡三分の一をしめるのだが、この艦隊戦が始める前に一人の将官の目線で話が進んでいく。

彼の名はフェデリーコ・アレッシ、イタリア王国海軍の少佐である。

 

極々一般的な家庭を持ち、子供たちともよく遊ぶ気さくな男で良くナンパをしては妻よりきついお灸をすえられているそんな、どこにでもいるような男だ。そんな一人の軍人が主人公として、話は展開されていく。

 

戦争が始まって直ぐに総動員体制へと移行された祖国とそれを守る為に出撃していく艦艇。ソ連軍の沿岸用の魚雷艇を完膚なきまでに叩き潰す、そんな戦闘を駆逐艦の艦長としてそつなくこなしていく、そんな姿。楽な仕事、生死を感じさせないようなそんな雑作業とでも言えるそんな戦いとも言えない戦闘行為。

 

少年の頃夢見ていた大海戦とは程遠い、そんな事を思いながら戦ったのもつかの間、彼等はフランス海軍と戦闘する事になる。

黒海からの期間の最中彼等は、フランス艦隊に突如として襲撃された。

 

襲撃時間はフランスからの宣戦布告その数時間前、しかも最後通牒無しでの襲撃である。

完全な不意打ちにいくつもの艦艇が海へと消えていく、それは海戦ではない。反撃をした戦艦も数隻葬り去られ、生き残った艦艇も無傷なものは皆無。

 

やっと生き残るも制海権は奪われた、領海を失い物資の補給は少なくなった。

それでも、東側だけはと英国艦隊と共に守り続ける日々。そこに入ったのは残存艦艇をかき集めて寄せ集めの艦隊としてフランス海軍へ総攻撃を掛けるという、猛烈な反対の中実行される作戦。

艦隊は死物狂いで、戦いに挑む。

 

 

そんな作品だ。

 

実際そんなドラマがあったのか、審議は定かではないが現実と言うものは得てしてそういうものだろうと、言い聞かせる事とする。実際登場人物はいたのだから、無きにしも有らずと言ったところだろう。

 

さて、この映画の3分の2はそんな人間ドラマ的な要素が多く戦闘シーンは長くとも連続20分かそこらで全体が2時間、という長さに対して以外と短い。

予算が尽きる寸前であったと言うことを聞かされたのならば、まあ仕方のないこと。CGと特撮の組み合わせが非常に良くできた作品だそうだ。   

 

 

 

では、実際の戦闘の経過を話していこう。

 

 

 

まず、手始めに陽動と戦略的な意味を込めて仏の領有するコルス島への強襲揚陸から戦いの幕は切って落とされた。

コルス島はイタリア本土からほど近く、寧ろ泳いでも渡ることが可能であるため、特殊訓練を受けた者たちが数十名先んじて秘密裏に上陸し敵地の状態を、偵察していた。

 

そこへと大挙して押し寄せるはイタリアの漁船や商船が志願した、特設揚陸部隊。次々と大小様々な船が押し寄せる。無論水際防衛戦で撃退されるかと思われるが、そんな中に奇妙な船がが紛れ込んでいた。いや、戦車だ。 

【挿絵表示】

 

いつ持ってきたのだろうか、日本軍の揚陸支援用の車両それが、砂浜へと複数押し寄せる。

その日のうちに海岸線はあっという間に占拠された。

 

突然の襲撃に仏本土は危機を感じ取り、南部海岸線の防備及びイタリア軍との前線に更に兵を配置すると、艦隊を地中海へと出撃させた。 

 

【挿絵表示】

 

勿論目的は揚陸部隊のイタリア本土との遮断、確実に出てくるであろうイタリア艦隊を撲滅すべく全力で対処する。

英国海軍は米海軍との睨みあいで動くこと敵わない為に、全戦力を投入する腹積もりであったようだ。

 

航路は順調に進みコルス島沖に到着するかという頃にコルス島沿岸部に、駆逐艦らしき艦隊を多数確認するとそこへと砲撃命令が降る。

勿論それは囮である、隻数としてイタリア海軍とほぼ同程度のそれが、囮だとは梅雨ほども感じずに。丁字不利の形を打開すべく取舵一杯。

 

それに夢中になっていると更に前方より艦隊が近づく、今度こそイタリア海軍だ。

それから砲撃弾が降り注ぎ、次々と水面へと落下し水柱を上げはた、はたと認識した仏海軍は丁字不利の形を打開すべく再び取舵一杯し、正しくUターンと言ったところだろう。

 

そこへと殺到するは何処からともなく現れたるは、魚雷艇。そこから次々と魚雷が放たれ、扇状に広がると計算され尽くしたかのように、駆逐艦?艦隊の間を縫って仏艦隊へと殺到する。

命中数は放たれた中での20%、それでも打撃は大いに艦隊を、揺さぶる。それは巡洋艦以下の艦隊からの脱落を意味していた。

 

駆逐艦等の小型艦が飛来により中破ないし撃沈判定をくらう中、戦艦もまた速度を落とさざる負えなくなる。

数が多いことが祟ることもある、イタリア空軍が現れた。

 

上空からの爆撃も始まり、いよいよもって逃げに徹する。艦隊の離脱は成功させねばならなかった。しかし、船足はイタリアに部があり。

次第に数を減らしそして、仏艦隊は降伏した。ここにおいて、イタリア海軍は雪辱を果たし仏は地中海における制海権を、失うこととなる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

これが俗に言うコルス島沖海戦だ。

 

この艦隊戦、欧州方面において決定的に連合軍が有利になったことを印象付けるにはうってつけの勝利だったらしく、この時期に度々ポスターや新聞が頻繁に配布されたようだ。

これ以降、仏は海岸線からの揚陸にかなりビビっていたようだ。

 

 

 

 




誤字、感想、評価等宜しくお願いします。



皆さんに質問があります。
フランキ砲というものをご存知の方に聞きたいのですが、フランキ砲のような装填方式のマスケット銃ってありましたか?なんか、気になりまして。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北方戦役:極寒の行軍

タイトル詐欺だな


2000年2月

 

映画への資料集めもそこそこに、私は久方ぶりの実家へ帰省をしていた。

日本国本土での生活環境はとてもじゃないが、私の実家なんかよりも遥かに快適で正直に言うと、今はとても寒い。身体の隅から隅へと冷気が流れていくようだ。

 

今日は吹雪いてはいないが、その寒さは大河が凍ってしまう程には寒い。

そんな中でも、基地の方からは砲撃の音が響いてくる。

クラスノヤルスク大公国軍の軍事基地、そこでは例年通り寒気の中での雪中行軍。

 

砲爆撃訓練が実施されているようだ、この訓練であるが何故このように寒い時期に本格的にやられているのか、と言えば。

これもやはり、第二次大戦の影響が大きいのは当たり前の事で、かつての自分たちの国の役割とそして自分たちはいつでも万全と言うことを、周辺国に思わせるためでもある。

 

そして、そんな彼等の行動には昨今様々な意見が飛び交っており、時にはそれが批判されることもある。

例えば隣国であり、現在ロマノヴァと文化財等の保護等で言い争いが耐えないロシア連邦との軍事面での緊張に繋がる。だとか、軍隊を廃止しろだとか、そういう人たちからだ。

 

だが、彼等がこんなにも厳しい訓練に耐え抜き、空きを生じさせないでいるからこそロシア連邦とは対等な貿易関係でいられるのだ。

未だに工業化乏しいロマノヴァは、それがなければ今頃国家が吸収されていても不思議ではないのだ。

 

確かな鉱物資源の裏にはこのような薄暗い背景が存在し、工業国への依存度がかなりの割合で高く、労働者の所得や物価もやはり先進国と比べれば低い水準である。

中流国と例えるならばどの国か、そう言われると真っ先に名前が上がる程にこの国は代表的なのだ。

 

だが、この国が唯一誇れる工業生産品が存在する。それは除雪車だろう。

日本帝国のようなぼた雪というのは意外なほどに、他国には少なくどちらかと言えば、氷の上に降り積もりそれが圧雪されて氷のようになるのが一般的だ。

 

もちろんその為に、日本帝国への輸出は伸び悩んでいるが欧州や各国の南極観測隊等には基本的に、ロマノヴァのものが使われている。例外としてやはり日本帝国だけは使わないのだが。

 

さて、この除雪車これが発展したのはやはり世界大戦後の話となるのだが、これはとある出来事のお話だ。

 

 

 

1942年2月

ソ連の背面を付くために冬季攻勢を本格的にしようとしていた時のことだという。

ちょうどこの頃、日本帝国の97式戦車後期生産型が登場しソ連の防御重戦車の装甲を何とか抜いていた頃の話だ。

 

この頃の北方戦線は冬真っ只中、雪だけでなく河は凍りつき風に触れただけで凍傷になるほどに深刻な寒さの中、行軍していた者たちがいた。

日ロ連合軍である。

 

その最前線には道の雪を、氷った道を少しでも進ませるために、排土板を、取り付けたпр2が前進している。

装甲厚のある先頭車両はきっと弾除けの代わりも兼ねて、その道を作っているのだがそれでも凍った地面は容赦ない。

 

進んでいるさなか、1輌の97式が空転した。一度回転してしまうと、無限軌道ではとまらない。足元を止めなければ、どんどん回ってしまう。

せめて路面が土であるならば良いのだが、生憎完全に凍っている。

 

それを見るロマノヴァの兵士たち、そして日本軍の将校へとこう言った。どうして冬期装備を付けていないのか、これでは行軍どころではないと。

対して、これが我々の冬期装備だ。貴官等の方がおかしいと。

実際ロマノヴァの装備は世界でもっとも冬季に強いと言われていただけに、標準的ではない。

 

さて、ここで日本帝国の車両が回転してしまったが、どうしてロマノヴァの車両が空転しないのか。

無限軌道の作りに要因がある。それは、ピンだ。ロマノヴァの無限軌道はスパイクシューズのように地面に突き刺さる、それも戦車の自重で用意に突き刺さり地面をしっかりと食っている。

 

これ日本軍の97式の地形適応能力、特に氷雪地帯に対する適応性の低さというものを証明するエピソード、として有名なものだ。実際初期ロットのものは、こういったものが多かったようだが後期にもなると対応をしたのか、1944年以降でこのようなものは聞かない。

 

しかしながら、これの記す通り日本帝国の除雪もとい除氷能力は実際のところ低かったと言えよう。

これは、単に本国が比較的温暖であったと言うこと、更にロシア中央部の気候を甘く見ていたことが要因と思われる。

 

そして、ロマノヴァ軍はそれを見ていた。人の振り見て我が振り直せという諺通り、日本軍のそれを見てさらなる対策を講じようと冬季での戦闘をより効率的に行えるよう進化していったのが、現在のロマノヴァ軍だ。

 

軍隊と民需の除雪車の開発はこうやって繋がっているということを、私は言いたい。

たまにこう言う人がいる、軍事は悪だ何故貴女はそんなものを研究しているのか、即刻辞めるべきだと。

 

個人の意見を持つことは良い事だ、だが私は一言言いたい。個人の意見を忙殺するような、そんな物言いをされたくはないと。

私は、近現代史を研究する傍ら軍事雑誌や映画、テレビ等のものに対してアドバイスをして、銭を稼いでいる。

勿論その殆どが海外への外征、で溶けていく。

 

軍事は悪か?いいや私は違うと談じよう。軍事とは単なる集団的自衛本能とでも言うべき行動に基づいて、そうやって組織化されたものだと。

本当に悪ならばそれは存在できていない筈であり、一人一人が意見等持つことも出来ないだろう。

 

話がそれてしまって申し訳ない、実を言えば2週間後テレビ討論とか言う番組に出演することになった。台本も貰っているけど、実際の話台本には殆どなにも書かれていない。その人物の意見を尊重するというのが手指のようだ。

 

私がこうして実家に帰ってきたのは、私が日本人ではなくロマノヴァ人である、という事を改めて認識する事と私の高祖父に対しての客観性を意識するためだ。

私だからこそ、言える意見があると心に秘めて。

 

そして、客観的に見た高祖父の事を今ここで話そうと思う。

もしも高祖父が、北方戦役に駆り出されていた場合、間違いなく行軍が停止することは無かった。確実に準備を重ねていき、裏でも動いたに違いない。

 

何かしらの行動を起こす為には、前段階となるものが必要となる。しかし、高祖父は同じ時期に対米戦を有利に進めるべく一部の部隊を大西洋岸のカナダ領へと向かわせた記録が残っており、実際にその部隊は戦後、あまりにも早い行軍速度を疑問視されている。

 

そう考えるに征北軍は、大将軍にその土地に対する知識の不足があったが為に、今も尚批判されることがある。

だが、高祖父だけが異常だと言うことは高祖父の指揮をする範囲が如何に広大かと言う事で解る、彼は一人で北米大陸全ての戦線を操作していたのだから。

 

 




誤字、感想、評価等宜しくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北米戦役3:万象の砂

1942年4月

 

米国への侵攻を開始する。非常に広大な領土である、それ故に敵はかなりの長距離に防衛戦を構築していると、参謀たちは話していたが実際はそうでもないだろう。

街や村等へは一切の眼もくれず、我々は直進すべきだと彼らに言うがそんな事をすれば背後から突かれると言われる。

 

普通に考えればそうであろうが、寧ろ街を取ればそれによって、我々は内部から攻撃されること必至である。向こうは開拓者つまりは野蛮人の集まりだ、法も関係もなく我々に銃を突き付けること請負だ。

 

ならばと仕方なく方針を転換せざる負えない。街を、取るならば折角だ鉄道を利用させてもらう。

補給線が心許ないのが、この広大な大地のせいかなにもないのにも関わらず、こんなにも広い土地を持つと言う欲に駆られた亡者共か?。

 

なんにせよ、かつての戦いでも街には一切の攻撃をしなかったのだが、大袈裟な不死鳥の名を関する都市これを取るのは至難の業に違いはない。市街戦程苦しいものはないのだ。私の名により、市中に対する戦術爆撃の命令書を出しておいた。後は裁量によって如何なく殲滅してくれる事を望む。

 

 

1942年6月

 

戦線があまり前に進むことなし、やはり都市部への攻撃によって向こうも後に引けない。

維持になって持久戦に持ち込んでいる、一応のメキシコへの支援もあることだから部隊を南進させることにしたのだが、それでも攻勢に耐えるだけこちらにも犠牲者は出てくる。

 

ならばだ、いっその事街ごと燃やしてしまえば事足りる。そう思ったが急げというものだ、すぐにでも準備を始めさせた。こんな一月も待っていられない、今すぐにでも焼き払ったほうが良い。

やはりというか、開拓者である事から皆銃を手に持ってこちらの兵を攻撃しているという。

 

非正規戦は組織的な軍隊では最も苦手としているところも多いが、もうその心配も無いだろう。

降伏する文書を空中投下した一週間後に、爆撃を決行するよう指示を出した。これでまだ降伏しないのであれば、もはやそれまでだ。

 

それと、上官の首を献上してくるのならば更に便宜を経っても良いと、付け加えた。

 

 

 

1942年7月

 

件の街は文字通り地図から消えた、瓦礫だらけとなった街からは死んだ人々が横たわり、熱波から逃げようとしたのだろう黒焦げた遺体が見つかるばかりか。

さて、この街からの離反者は大凡10分の1で留まったようだ、まぁまぁだろう。まったく便衣兵と言うものはつくづくやっかい極まりない。やはり街ごと焼くのが良いだろう。

 

死にたくなければ致し方ない、これで街にいた米軍は確実に死んだ筈である。

瓦礫だらけの街は戦車でも踏み潰して進むことができるから、掃討戦も楽になること間違いなく、これで期間から遅れて2ヶ月の侵攻は進み始める。

 

機密資料の一部が発見されたようだ、『天の光を生み出すには?』等という訳のわからぬ事が書いてあるらしく、異様な気配を醸し出している。

 

 

 

1942年8月

捕虜の聴取文を読んだのだが、着実に我々の事が伝播していっているようだ。

例えば

『日本兵は歯向かうものに容赦せず、投降者には非常に甘い。』

『街に兵を匿うと、街が滅ぶ。』等だろう、その中で一番際立っているのが私関連だ。

 

『ダイスの悪魔が囁いている、次の出目で街を滅ぼそう。人々悪魔に懇願し、忽ち仲間を切り捨てる。「どうか街を無くすのはお辞めください」と。』

だろう。敵は私の事を悪魔とでも思っているのだろうか?

 

まったく、虚像は大きい方が良い。それを隠れ蓑に様々なことをやったとしても全て、私の命令通りに出来るのだから。

だからもっと楽しませてくれると良いのだが。

 

さて、それから気象予報士の観測によって得られる、気象予報は実に精度が高いものとなった。それもこれも、あの周波数変位電探のおかげか最近では、航空機での爆撃効果が大きくなっているのを実感できるだろう。

 

現に再計画よりも数日早く戦線を押して行けているのだ。だが問題は、中央西側を抜けた辺りであろう。

向こうさんの迎撃が段々と少なくなっている事から、前線の防衛戦をある程度放棄している可能性が高い。

 

となれば後方に行けば行くほど、防御がより強固となっているに違いない。また、あの周辺は竜巻発生地域だ。軍の動きは逐次確認し、潔く後退させるかさもなくば東海岸からの揚陸が望ましいのだが…。

 

 

1942年10月

 

また街に立て籠もる、持久戦を我々に強いているのだと容易に想像つくところを見ると、米国も割と頑固なものだ。

仕方のない事だがこれ以上の将兵の犠牲は出したいものでもない、兵糧攻めへと移行させていただく。

 

今の世の中食い詰めた環境というものは殆どがないものとばかり、そんな中で生きてきた我々に昔人のような忍耐力はそれ殆あらず。一月もすれば必ず投降するものだ。

 

さて、久々にという書き方は少々語弊もあるだろうが野戦病院を拝見してきたのだが、まあやはりと言うか酷い匂いをする我が国の患部に対する処置は欧米からすれば、かなり未開なのか?いや、北欧でも盛んに目にしたのだから未開というのはおかしな事だ。昨今では外科的なものが多いが、だがこれが最善なのは確かな事だ。

 

幹部にある憑けものがウゾウゾと蠢くさまは慣れるものではないが、それの後には綺麗な患部が見えるのだから侮れるものではない。が気持ちの良いものではないのは事実であろう。

 

私が司令室から出てこのような所にいるという事は、戦線が安定化しているという事だ。

米軍は、自然を味方に付ける。必ずそれを実行するだろう、と同時に北米大陸南部に対する攻勢を停止するように下知を下そうとしている時だからだ。

 

次の南部の攻勢はしばし間隔を開けようと思う、向こうの戦力が整うのは後半年は必要な筈だ。それらが前線に揃ったあたりに全面攻勢に踏み切るべきだろう、敵の完全な装備の崩壊をもってこの戦争に終止符を打たねば、連中は納得しない。

 

それに…国内には敵が多いからな。こちらが相当数の人死を出さなければ講和の席にすら着こうとしない。これはまずい事なのだこのままやり過ぎれば我が国は一大列強になってしまう。そうなれば、あるのは破滅だけだ。

 

 

2000年4月

ここまで高祖父の手記を読んで一つだけ気になった事がある。高祖父は、戦争を早期に終わらそうと画策するような人物であった、と言うのが私の見解だ。優しい人というよりかは、どちらかと言えば利己的な観点で自らが所属する国家に仕える。そんな軍人だ。

 

だけれども現在の研究者たちの見解とは違う。高祖父は、超人のように例えられる。妻子に対して浮ついた話もなければ、何かをしでかしたというものも無い。

前線に立てば敵を完膚なきまでに叩き潰し、退却戦を指揮すれば敵を屠って退却する。

 

そんな事ばかりが書かれていて、確かに戦果は凄いとしか言いようが無いものの、それ相応の損害をある時期を堺に増やしている。明らかなのは戦闘の仕方が変ったと言うところだ。

慎重な立ち回りだったのが、急に強引なものへと変わった。

 

つまりはこの月記の記す通り、わざと損害を増やしたのだ。国家を覇権国にしたくない為に?でも何故だろうか、軍人であるならば最善をつくすはず。もし、このまま行けば国家がどんなふうになってしまうと、考えていたのだろうか?

いや、考えていたのだろう。

 

インターネット等ではこの時期から高祖父は無能扱いされる。だってそうでしょう、損害が目に見えて増えたのだから。

それでも、戦闘では勝っている。相対的な評価というべきだ。

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北米戦役4:イスパニョーラ島沖海戦


【挿絵表示】

【挿絵表示】


大和型戦艦
それは帝国海軍、最初から電子戦を意識した最初で最後の戦艦である。
それはその巨体とは裏腹に、異様に足の速い艦艇として知られ2000年代となってもなお、第一線に存在し続けた。

対空兵装である両用速射砲は従来の89式よりも一発の炸薬量、並びに毎分の投射量、旋回性能など全てにおいて凌駕した。
また、弾着観測用であった筈の水上機を回転翼機に換装した最初の艦艇でもある。



【挿絵表示】

1942年には主力となっていた、日本軍の上陸用舟艇とその支援車両。
その役割は地味なことこの上ないが、現場の兵士からは正しく盾として矛として信頼された。

支援車両はスクリュー航行を行っており、陸上において多少の不自由があった。




【挿絵表示】


1942年時の艦載機のうち半数はこれに置き換えられていた。

2式艦上戦闘機
対爆撃機能力の向上と高高度戦闘。自動空戦フラップによってその速度からは信じられない程の機動性を有した機体。

2式汎用攻撃機
攻撃機と急降下爆撃の双方の側面を持ついいとこ取りの機体。雷装は外装式、爆装は収納式であり限定的であるが高い空戦能力を発揮して恐れられた。
戦後ターボプロップエンジンに換装され15年の間運用された。


それは暗い海の上に突如として、現れた。火山のような爆音と共にそれ等は閃光を放ち、それ等は大地へと降り注ぐとけたたましい音ともに地表が刳り飛ばされた。

私達はそれを見ることしか出来ず、ただただ降り注ぐそれ等に基地が破壊されるのを見ている他無かった。それは、まるで神の怒りのように街を森を、焼き払った。

 

カリブの血潮より抜粋

 

 

 

1942年11月10日

 

北米大陸の侵攻を停止する代わりに、米国の目を中南米へと向ける為に、敵根拠地の一つであるイスパニョーラ島の奪取を画策する。その準備段階として島内にある米守備隊飛行場に対する、爆撃機隊による絨毯爆撃の実施を承認する。

 

この作戦の可否は私に一任されているが、私の提案ではない。では何処からの提案かと言われれば、英国である。

現在、英国艦隊の駆動艦艇はその大凡4割の戦力を損失しており、単独での作戦行動は極めて不可の状態である。制海権を、維持できているだけで奇跡だ。

 

そこで負担の軽減を目的に米国艦隊をこちらへと誘引したいのであろう事は明白だ。カリブ海近海のこの島を取られれば、米国の制海権は、一気に狭まる。

潜水艦の恐怖におちおち輸送船を出すこともできなくなるだろう。

 

戦略物資が取れるか?と言われればそんなものは何一つないが、取られれば再び犯行に転ずる時には、最大の障壁となる。戦略敵な価値は極めて高い。

戦術的に見ても、この基地航空隊がいなくなれば日本海軍はいつでもカリブ海へと侵入できる。

 

だからこそ、全力を持って叩きに来るだろう。ただし、自らを優位に立たせるために、島北部に部隊を配置し艦隊もその方向にいるはずである。それだけは注意願いたいものだ。

 

 

 

1942年11月26日

 

兼ねてよりの計画通り、トリニダードから艦隊の出撃が開始された。との連絡を受け取る。

明日明後日中に、敵艦隊誘引の為南部より揚陸作戦の開始と北部への空母、戦艦を中心とした連合艦隊が北部に展開する予定である。

 

それに続いて英国の輸送船団並びに、我が帝国の揚陸艦隊の出撃が始まる。予定だが、先程連絡が入り無事の出港といったところだろう。

わざわざ艦隊を出させるのだ、米国よ来なければお前の威信は地に落ちるぞ?

 

 

1942年11月28日

 

諜報部から速報、米国艦隊本国から出港が確認された。珍しくも英国よりも早く情報を掴んだらしい。

だが、英国がそんな事を見逃すだろうか?いや見逃す筈はない、きっとなにかイヤらしいことを考えての行動に違いない。

 

 

1942年11月30日

 

海軍からの報告、海戦の結果米艦隊に対して多大なる損害を加えるも、戦艦3隻を中心とする少なくない損害を被ったようだ。

ではあるが、作戦の成功と米艦隊の7割が海中に没したとの情報を信じる他ない。

 

 

1943年1月6日

 

イスパニョーラ島米駐留軍の組織的抵抗が終了する。これにて、イスパニョーラ島攻略作戦の終了とともに、第二段であるキューバ攻略を決定すると共に、メキシコ湾の海上封鎖を開始し通行する米国船籍船に対する通商破壊に調印した。

 

これによって米国工業に対する一切の戦略資源の北米大陸への、鼠輸送を駆逐し早期の降伏をくだす。これに反応ない場合米東海岸の住人には申し訳ないが、都市部への無差別攻撃も辞さない。無論ビラの投下等最善は尽くすが、無理だろう。

だからこそ、北米中央部での決戦を本格的にしなければ。

 

 

 

 

2000年6月

 

とあるテレビ番組で戦争体験者のインタビューから着想を得た、ドキュメンタリー。[民から見た世界大戦]というものなんだけれども、その中でもっとも印象深いと言われるのがこのイスパニョーラ島攻略作戦。またの名を$箱作戦と言われるこれ。

 

米軍は保有する艦艇の9割が撃沈や鹵獲されると言う衝撃の結果に、当時の関係者たちはどんな反応をしていたのか。と言うのが、私の考えたものだった。高祖父は7割の敵を排除出来たと判断したようであるが、どうして7割だったのだろうか?当時の高祖父へ渡された資料には、きちんと戦果が記載されていた。

高祖父は、敵を多少過大に評価したのだろう。

 

この戦いを見ていた島民の人は口々にこう言った。

『海岸線にいると遠くから雷鳴が聞こえてくる。もう爆撃で、米軍基地はズタズタなのに、執拗な艦砲射撃が鳴り止まない。』

雷鳴、それが表すものはたった2隻の戦艦を表すにピッタリな言葉だろう。

 

大和型戦艦、大日本帝国が最後に建造し、今なお船籍に登録され艦隊で運用されている、世界最大排水量をほこる戦艦。

その戦艦の初の実戦が行われたのが、この$箱作戦である。

 

戦場での戦いは其の多くが当時の島民が撮影した写真や、記者たちの壮絶な映像によって残されており、世界で最も資料の多い海戦。とも呼ばれるほどに、有名なものだ。

 

皆も知っての通り、この作戦においての主役は勿論戦艦。それも最後の大規模海戦と言う、正しく大艦巨砲主義という概念の集大成とでも言える。そんな戦闘だという事は、言わずもがな。

空母は陸上攻撃と米爆撃機隊の迎撃のために、対艦装備である雷装を保持していない。

 

当時の資料として帝国海軍は当初から巨砲による決戦を模索していたのか?と言うのが、研究者たちのいつも論点となる。

だけれども、主目標であるイスパニョーラ島の攻略をなす為に致し方なくしていた可能性もある。

 

さて、島の攻略にあたりまずは戦略爆撃機による島の基地の破壊が行われ、実際に要塞化されていない外部の施設はその尽くが破壊されたという。

また、小規模な兵器工場等は内部から破壊工作によって潰されており、戦闘前から既に攻略が始まっていたようだ。

 

11月26日時点で島の主だった陸上砲台は中から破壊されていたり、弾薬庫の破壊によってその戦闘力の半数が潰されていた。

防衛装備の少ない中一月持たせるのは容易なことではない、島一つを要塞と見立てて立て籠もるにも、弾薬は少なかったのだとか。

 

11月28日には帝国海軍が北部に立て籠もる米軍に対して、艦砲射撃を実行し街が文字通り消し飛んだ。

海に近い街プエルト・プラタはその姿を歴史から消されてしまった。

 

現アルマンド・ベルムデス国立公園に逃げ込んだ米軍達が山の上から、日本軍と英国軍の侵攻を目にするだけで戦うことはできずにいた。重砲は破壊され手にあるのは少数の野砲と数の限り有る、機関銃。

揚陸する戦車を前にして彼等は、成すすべなくそれを眺めた。

 

 

1942年11月30日

において、たったの一日それもその時間において5時間と言われる程に短い、海戦が朝8時20分から始まった。

島民たちは、雷鳴だけが轟くところを聞いていたと言う。

実際の戦闘は当時の日米双法の総力戦と言ったところが大きい。

 

日本は長門型、伊予型、大和型を中心に10隻の戦艦と14隻の重巡洋艦、28隻の軽巡洋艦と40隻の駆逐艦が集結し、複数の艦隊運動を行っていたようである。

 

米国はサウスカロライナ級、アイオワ級等の新型戦艦を中心に11隻の戦艦と13隻の重巡洋艦22隻の軽巡洋艦と46隻の駆逐艦が集結し、複数の艦隊運動を行っていたようである。

 

互いに接触し、最初に戦端を開いたのは帝国海軍の大和型であったと言う。36km地点から途轍もない精度で落下していく砲弾に、米国戦艦群は2隻の戦艦の機関を破壊され、その時点で数は帝国海軍有利となった。

 

そこまでは良いのだが、それだけでは済まない。陸用爆弾を搭載した空母艦載機による爆撃で、巡洋艦以下の艦艇はその上部構造物が破壊されていったと言う。

 

索敵の観点で負けていた米軍、しかし練度は拮抗しており互いに一歩も譲らない戦いであったがどうしても装甲厚、一撃の重さで、帝国海軍は勝っていた。

それによって、米海軍は徐々に姿を海に没していき最終的に海に浮いていたのは2隻の戦艦と15隻の駆逐艦だけで、その戦力は昼頃にはなくなっていた。

 

勿論帝国海軍も痛い出血を貰ったが、それでも制海権は確実に連合軍のものとなったのだ。

 

それ以降、イスパニョーラ島北部への本格的な揚陸が始まり、広大なその島は僅か2ヶ月の間に確実に日英の領域へと変えられてしまった。




誤字、感想、評価等 よろしくおねがいします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東欧戦役6:モスクワ陥落

遅れて申し訳ない、
なんかモチベーション下がってます。


1943年6月

 

俺がその塹壕へと侵入し、ソ連人と組み合うとそのソ連人の腕がポキリと小気味良い音を立ててへし折れる。

何事か?と、首を捻れば何とも脛の骨が足から飛び出ているではないか。

 

ギョッとして目を剥くと、あちらこちらでそれと同じような現象が巻き起こりふと敵を見れば、目は虚ろで頬は痩け歯はボロボロとしている。

そして、それを冷静に見るに塹壕のあちらこちらでそんな死体が散乱しそこに蛆が涌いていた。

 

蝿がたかり、それぞれの死体は真っ黒に彩られその光景はまさに地獄のようであった。

しかし、それはあくまで俺の目の前だけにあったように当時の俺には感じられた。そして俺は、その死体に向け剣を突き刺し見るも無惨に切り刻んだ。もはや決して生きている筈のない、それを。

 

ここはモスクワ、革命によって多くの血が流れた悲劇的なこの場所も、今となっては瓦礫の山か。

嘗てあったであろうモスクも、教会も何もかもが破壊し尽くされ見る影もない。それでも、赤軍は抵抗を続ける。

 

あぁ見ろ、今部隊の人間の頭が吹き飛び脳飛沫があたりを染める…俺はいったいなんの為にここにいるのか。

故郷のバイエルンが恋しい、何故東部戦線等にいるのかこんな、こんなところなら西部戦線の方が良かったのに。それでも、今日も生き残れたことに安堵する。

 

俺の隊は連合国混成特別旅団、多数の国々の人間が集まって作られた何かよく解らない組織だ。

 

 

『おい、大丈夫か?』

 

エスペラント語で話しかけてくるのは、俺の直の上司。生駒 和義と言う、日本人の大尉殿だ。

 

『大丈夫じゃない、大問題だ。』

 

『そうか、なら大丈夫だな』

 

軽口をよく叩くそんな奴だ、軍人特に中隊長としての腕としてはかなりなものだと思う。何事にも模範的で、何より最低限の犠牲で俺達を導いてくれるのだ。

頼もしい隊長さんだ。

 

『敵は後退して体勢を立て直しているみたいだ、地の利が向こうにあるのは確実だからな。内部分裂して抗争しているとはいえ、どちらを信用して良いのやら。』

 

『撃ってきた相手を撃つだけですよ、それより煙草をいただけませんか。少しだけ休憩がしたいです。』

 

中隊の小隊員も集まってきて、人数がますます増え周囲の警戒を強めているとき声が聞こえた。女の声だ、ロシア語で助けを呼んでやがるが、良くある手だ。大方女兵士だろう、この手で何人の兵士が死んだ事か。

 

『なあ大尉、あんたの親父さんならこの戦況をどう打開する?』

 

『ああ?あの怪物なら、街そのものを地図から消し去ろうとするんじゃないか?犠牲を少なくするためなら、やりかねない。

最善手だと言ってね。さ、休憩は終わりだ行くぞ。』

 

塹壕を抜けた先、瓦礫だらけの街を進む。

焦げたような煤けた色の街並みは、嘗ての繁栄を伺い知れるものもなく、ただただ生き物の気配もなにもないそんな、灰に包まれた世界。

 

時折あるのは、殺し合ったと思われるソ連軍服と平民服の死体。

ああ、きっと粛清とそれに対する反感がそれをさせたのだと理解しつつも、こんな守るべき者を殺して軍人は何になるというのだろうか?

 

隊で固まりつつも、上部の警戒をしながらひたすらに前進を続けると、広場に到着する。

通称『赤の広場』、そう呼ばれた場所には夥しい数の死体が山のように積み上げられ、死体の服には一様に『Контрреволюционный』と書かれたものが着せられていた。

 

死体の中には女・子供までいるのだ、反対するものを家族諸共皆殺しにしたのだろう事は、容易に解る。

これが、共産主義の成れの果てか、はたまた限界に突入した国家というものは統制のために、こうもなるのだろうか?

 

いや、俺が少年であった頃に聞いた世界大戦とは嫌というほどに違い、こんな馬鹿みたいなことをするのが人だと言うことを拒みたくもある。

だが、逆にこういう事を阻止しようと動く者たちもいるのだ。

 

例えば、現在共産党は2つに分裂しているという片方は、連合国の降伏文書を受け入れる者たち(以後新ロシア)。

片方は、徹底抗戦を掲げる者たち(以後ソ連)。

そして、戦争は既に次の段階に移行している。俺達、通称国連軍の仕事は、内戦に介入し新ロシアを支援する事。

 

つまりはあえて国際連盟としての紛争解決の一貫という建前で、戦後処理を済ませようとしていたのだ。

ソ連はこの時点で穴だらけの虫食いだらけ、木という体をなさず。

 

東からは正統ロシアを掲げるロマノヴァ大公国軍が押し寄せてきている為に、彼等は焦っている。何故かって?ここの民衆は皇帝派ではないからだ。

もしもロマノヴァが来ても、徹底抗戦するのは間違いない。

 

それはさておき、いい加減まともな標識を用意してほしいものだ。これまで遭遇した連中が誤射によって、死んだなんて笑えない事が出てきているのだから。

 

 

 

2000年7月

 

今年ロマノヴァ大公国とロシア連邦の間で、とある取り決めがなされた。

それは、互いの国境線において設置されている常備軍の順次撤退、と言うものだ。

 

世紀末に入ってからというもの、次々と両国間の関係改善を行っているのが今時両政権。

これが出来るのも、世間一般的に言えば世代交代の為せる技とかそういう所だ。

 

両国の軋轢は基本的に共産派と王党派とも言える構造から、2つの国家へと分裂した。

互いが互いを見下し、罵りあって競争するかのように片や欧州へ擦り寄り、片や大日本帝国へと最接近した。

 

第三次世界大戦がもし起こるのであれば真っ先にぶつかり合うと言われた2国。

ちなみに、ロシア連邦の構成国は殆どがソ連の当時のままの国名であるから、相当ロマノヴァを嫌っていたらしい。

 

特に最後の攻防とも呼ばれた、モスクワ攻囲戦後。各国の軍隊はそこで足を止め、ソ連の内戦の行くべきようにただただ睨みを効かせていた。

そして、当時の連合国の参加国には停戦命令が出ていたようであるのだが、ロマノヴァはそれを無視して侵攻を続けた。

 

その点がロシア連邦との軋轢を産んだのだろう。

それがよくえがかれているのが、ノンフィクション作家であるロバート・デニール氏の著書、『モスクワの夜』という体験を元にした作品だ。是非読んでもらいたい。

 

さて、私がなぜこんな事を書いているのかといえば、やはりロマノヴァとロシアの間での軍の撤退以外何者でもない。

ロマノヴァ関係者として、結構ニュースで取り上げられているのだ。

 

正直嫌だ、そんなに目立ちたくないそれに私の研究分野とは少し違うのだから詳しくはないのに。

だから私は抗議しよう、私にそんなことを聞くなと。

聞くのなら私の祖父か、大伯父に聞いてくれと。だって、この作戦に参加したのは、二人の父親である私の曾祖父なのだから。

 




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北方戦役2:止め処ない進軍

ワクチン接種2回目はやばいね、39℃行っちまった辛いねぇ。


1961年記録

 

 

俺がここに話すことは真実であるという事を神に誓おう。

そうあれは俺たちの戦争での出来事だった。

俺達はユーラシア大陸、ソ連領内をただひたすらに真っ直ぐ道なりに進み、行軍していた。

 

敵はいなかったのかって?

 

そりゃ、少しはいたんだけどな、な〜にまるで一般人みたいな服装をしていてな。そいつ等がライフルを持ってるから、てっきり敵だと思ってよ…まよくあるよなそういう事。

そんな連中だけだったな、正規軍なんてものはまったくあたったりしない。

 

俺達が殺したのは、みんな農民だったよ…悔いはするさ。なんせ、戦う意思のないそんな連中を殺したんだぞ!

だけど、しょうがないじゃないか戦争なんだから間違えなんて誰だってするだろ?

 

それで、ある時命令が来たんだ進軍を止めよと。だけどなぁ、日本人の将軍が俺達のロマノヴァの将軍に言ったそうなんだ。

 

『このままここに止まってしまって良いのか?国土を取り戻したくはないのか?』

 

とね、なあおかしいだろ?一国のたかが将軍がそんな権力あるのか?連合軍の総意と逆行するようなそんな司令…。

そういや、聞いたことなんだが日本軍の当時の司令官、大将軍だったか?

みんな殺されたんだよな?

 

何でも、四人の大将軍は横暴でそれを嫌った皇帝に地位を剥奪されて、アフリカの紛争地に送られたって。

真実なんだろ?ざまぁないな、大方俺たちのとこと同じような連中だったに違いない。

 

アイツのせいで俺たちの手は汚れなくてもいいのに汚れちまったからな。

ざまぁないね。とにかく、あの戦争は俺達にとって良い事は何一つ無かった。

領土が広くなることもなければ、賠償金をたんと取れたわけでもない。本当になんの為に戦ったのか今でもわからない。

 

ただ一つだけ言えるのなら生きていて良かったそれだけにつきるよ。あんな泥地帯、歩くだけでも嫌さ。戦車は埋まるし、草だらけでどこに沼があるかわかったものじゃない。

第一あんな土地いるか?管理するだけロマノヴァの負担になるだけじゃねぇか。女大公様もそれをわかっていて、戦後あの地帯の割譲を辞めたんだって誰でもそう思ってるぜ?

 

 

 

2000年8月

ここ最近色々な資料がこちらに寄せられるようになった。戦後に撮った記録映像だとか、そういうのが公開されるとともに研究所である私の通う大学にも、それらがたくさん来るのだが全部を見るという訳にはいかない。

 

人海戦術で虱潰しに見ているんだけれど、とてもじゃないが追い付かないのが現状だ。

そんな中、私は1961年の戦後を振り返ってというロマノヴァの記録映像を見つけた。

 

映像にあったロマノヴァ軍の進軍とそれの停止に対する違反行為は、実際にあった事だ。

おおよそ一月の間その進軍は続けられたという、記録が残っておりその原因は昨今の情報開示まで秘匿されてきたのだが、手元の資料と記録証言によってそれが限りない事実だということが証明された。

 

だが、それだけではない。興味深い事にこの記録にはあるものが入っていた。情報少ない〔大将軍〕たちだ。

現在の日本帝国の軍隊の階級の定義において、〔大将軍〕と言うものは存在しない。臨時官というものであることは確実とされていて、実際それが最後に確認されているのが第二次大戦だ。

 

その後彼等の消息と言うとどうやら当時1961年頃、JUEN冷戦の影響が映像内に見て取れる。

どんな冷戦かと言えば、核兵器を保持した日英欧中立国の4つの勢力による世界秩序がなされており、いつ戦争になるかわからない事があったという。

 

実際、この当時英国植民地領直轄地であったアフリカ各地の植民地、そこかしこで内戦が勃発しそこに日本国の傭兵軍団が駐屯して、実質的な戦争が行われていたのがこの当時だ。

特に旧仏領とされていた地域での戦闘が活発であり、それが度々国連総会で言われると、日本側は民間人の動きであり本国の関係は無いと言い続けていたようだ。

 

ならばと英国も黙っていたわけではなく、英国領中央中華へ核ミサイルの配備を密かに進めていたようで、実質上の核戦争一秒前にまで行っていたようだ。

そんな影響で当時日本帝国の人気は高くはなかった、特に通称属領とまで言われていた衛星国の内ある程度の自治意識が大きかった、ロマノヴァでは特に大きかったようである。

 

そして、1944年まで征北大将軍(講話後解任)であった源頼隆中将(当時51歳)は、退役後何故かアフリカの地で帰らぬ人となっている事から、あながち間違いではないのであろう。

実際彼に対しては戦後、軍法会議に掛けられたらしく除籍となっている。彼は戦中かなりのタカ派で、日米講話には断固反対していたようでもある。

 

その点から、ロマノヴァ軍の一月の間の行軍継続は正しくこの軍人の一人による暴走と言っても過言ではなく、当時の日本軍でさえこれを重く見たのか再三命令文を送っていることから、非常に迷惑な事であったようだ。

天皇からの直接の命令で停まったことから、これ以後大将軍が使われることがなくなった根本的原因であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


JUEN冷戦(ジュエンレイセン)

日本、英国、欧州、中立国の4つに世界が分かたれた冷戦。
各陣営核武装の末、最も危機的状況に陥った時期発生した。
原因は定かではない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北米戦役:5 水泡作戦

1式回転翼機

【挿絵表示】

世界初の軍用回転翼機。黎明期のものであり、そのテールローターの配置は後のシングルローター式とタンデムローター式の長所と短所を併せ持つ。
非常に中途半端な性能であり、通称セミ・タンデムローターと呼称される。

艦載機などのバリエーションが存在し、対潜哨戒任務に主に活躍した。


97式中戦車前期後期比較

【挿絵表示】

砲塔装甲厚の向上と量産性の向上を測るため、砲塔の装甲材の見直しの結果より装甲に適した材質へと変更されるとともに、ロマノヴァの技術である鋳造に置き換えられた。

サスペンションの剛性なども向上しており、地形追従性は前期型よりも増している。



1式装甲車

【挿絵表示】

1式軽戦車との次期歩兵戦闘車輌として戦い勝利を収めた結果、軽戦車に取って代わって量産された。



水泡作戦:欧州名称オペレーションネットバブル
高度な情報伝達により行われた戦術、半包囲、包囲戦術。
中規模な包囲網の中に、更に細分化した包囲を形成することによって分断を可能にし早期の敵無力化を主眼においた戦い。
高度な指揮能力が必要な為に、2000年では既に過去の遺物として使用されていない。






1943年7月1日

 

今日、正午より攻勢を始める。

全面への力押しだ、この半年という期間の間に中米メキシコとの共同作戦によって中米に存在していた米国メキシコ侵攻軍を共同撃破し、メキシコ軍の合流を待ったこの半年。

 

私に託されている征東大将軍の肩書の元様々な者たちに働きかけ、本国の出来得る限りの戦力をここに集結させた。

今、本国は近衛である本土防空隊と近衛師団、本土防衛志願をした老兵達だけで護られている。

 

米国はこの半年の間にどうやらゴム資源が枯渇し始めているようだ。正直このまま海上封鎖と、睨み合いを続けていれば数年の内に米国の備蓄資源は底を付くだろうが、我々にもそこまでの余裕というものはない。このまま講話を申し出てくれれば助かったが、それが来ることはなく徹底抗戦の構えを解かない。

 

それならばと、米国内の不和を高めるために米国内の不穏分子である、黒人と白人のコミュニティにより深く軋轢を生ませる為にどんどんと力を注いだ結果。

内戦一歩手前までは持ち込めている、だがそのあと一歩が届かない。向こうの諜報機関も上手く立ち回っているのだろうことは、想像に難くない。

 

さて、戦力の各順の為に方方に手を出したのだから最新鋭のものから、信頼性のおける旧式まで全てを揃えての戦いとなるのだが、如何せん意味の分からない兵器もあるものだ。

 

回転翼機というものが、それらの中に混じっていた。実地試験も兼ねてと言うところだろうが、こいつが正式に兵器として機能するか?しないだろう、少なくとも今時大戦ではこれはいい的になってしまう。

 

 

小規模基地における空中哨戒用ならば行けるだろうか?と考えて配備を進めているたところ、意外なほどに効果があったという。

一見すれば貧弱で、実際貧弱なのだが赤外線での暗視装置があるようで、これが役に立つと。

配備が進んでいた、携帯型暗視装置と併用すれば夜間でも無類の強さを誇っていたと。おかげで、これまでの前線で突破された、もしくはされかけた戦線は皆無だ。

 

昨今の前線からの要望により6.5ミリ弾の対物威力の不足の声が上がっていたようだったが、弾頭形状と弾芯の鋼製への変更によりこれを補ったようだ。実射を見て見るに、2割増し程度だろう。

 

戦略爆撃機も戦術爆撃も準備に入った、いつでも飛べる。陸軍基地航空隊、便箋上空軍は、いつも空を護っている。

新たな車両も到着した、軽戦車は競争で破れ今やタイヤ付きの装甲車か。

97式の砲塔も少し変わったように思え実際に丸みを帯びている。

鋳造に変えたのか、にもかかわらず前よりも硬い。

 

さて、呼ばれたのでこれで書くのは一旦辞めとしようか。

 

 

 

1943年7月2日

今日は非常に気分が良い、作戦は計画通りに推移している事を非常に喜ばしく思うとともに、戦車隊達の迅速かつ的確な動きに感動している。

たった一日で、敵防御陣地に穴を開けたのだ正しく戦車のなせる業。重防御型が全てを肩代わりしたのだろう。

 

大陸中央部の敵はスカスカだ、突破してしまえばあとは南北の分断が容易に行えるだろう。

だが早すぎるのもあまり良くない、早すぎれば過ぎるほど人は増長し失敗しない場所で失敗する要注意だな。

 

 

1943年7月29日

 

案の定、カナダ方面に集結し攻勢を行っていた英国の部隊が、前進を止められてしまっている。

カナダの開放を先にやりたいというのと、米国への攻勢と言う二兎追ってしまったが故の出来事で別に驚きもしない。

 

少しだけプランの修正を行おう。

何、我々帝国陸軍は既にミズーリ州の中央部のまで進出している。このまま五大湖のミシガン湖へと向けて前進を進めて行けば、今年中には到達できるだろう。

 

 

 

1943年9月3日

 

昨日電報が届いた、南米にいた息子が死んだらしい。武装解除の途中、錯乱した投降兵が短機関銃を乱射したところを協力者であった現地住民を庇っての死だ。

良くやったと言いたいところだ、日本男児ならばそれほどの心意気を見せてくれれば満足行くところだろう。

 

家内には既に通達されたようだ、あいつはかなり落ち込むだろうが、義娘である長男の妻がなんとか支えになってくれれば良いのだが、戦争が終わったら共に死地に行こうと思う。少なくとも、どこで死んだのかこの電報の送り主、ヤツの会社に聞いておくとしよう。

 

 

さて、そんな事よりもだ。英国からの通達より、カナダへ英国本国の大西洋艦隊が派遣されてくるようだ。

現在残存している米大西洋艦隊は、その基礎的な能力の低下と戦力としての評価は著しく低いが、昨今では航空機による艦艇への襲撃が増加している。

 

それ自体は航路の変更で何とかなるのだが、やはりワシントンを落とすとなると揚陸戦になるのは必至。

では空母の全力投入するしかないというのだが、現段階でこれをやると、確実に海軍戦力が低下する。最悪の場合制海権を奪還される危険もある。

 

であるからこそ、五大湖まで陸上戦線を押し上げなければならないが、英国が足を引っ張る。見栄なぞこの際捨てればいいものを、どうせ補給路は完全に絶たれているのだから数ヶ月すれば勝手に降伏する。いかにして敵の補給路断絶点を広くするかによって、その速度も変わってくるだろう。

 

 

 

1943年12月14日

 

カナダの米国兵は未だに降伏せず、いや降伏できないのかもしれない。カナダから入ってくる情報を聞くに、指揮系統が完全に麻痺していてある部隊は降伏を簡単に決意し、ある部隊は徹底抗戦をするらしい。

 

共にガリガリにまでやせ細っているにも関わらずだ、勇猛果敢な者たちがいるのだろうと思うのだが、もう冬だ。きっとカナダの寒さに耐えかねて降伏者は増えるだろう。凍死者の方が多くなるかもしれないが、せめて生きてくれればな。

 

さて、五大湖まで到達できたようなのでここで一旦戦線を、整理するために進軍を停止させた。

無理をさせれば部隊の崩壊が始まってしまうからな。

それと勿体無いが、工業地帯は破壊させてもらった。何分最悪の場合は想定しなければならないからな、これで反撃されたらそのまま逃げれば良い。

その時には戦略的価値はこの土地はなくなっているからな。

 

 

 

1944年1月8日

 

戦略偵察機からの通達があった、ケンタッキー州のど真ん中付近で巨大な閃光が確認されたという。その地点には巨大なキノコ雲が確認されており、新型爆弾の実験が行われた可能性を示唆された。

まずい状況になったのだろうか?そのおそらくは新型爆弾は、どれほどの大きさだろうか?

 

いずれにせよ急がねばなるまいが、制空権を更に強化する必要が出てきたな。

噂に聞く、核分裂反応爆弾というものだろうというのは、容易に想像がつく。

地雷にでもされたらたまらないな。

 

 

 

 

 

2001年1月8日

 

21世紀のこの日に行われる祭典は、人類にとって実に意味のある行事だ。

核兵器、その最初の実験が行われたのが今日この日だったそうである。

 

平和の祭典と言われるこの祭事は、前大戦時始めての実験により被害を受けた民間人に対して、当時そこに住んでいた住人たちのために行われている。

戦時中、大規模な実験を行う為に街一つ使って行われたその実験。

 

少なくない人が実験の日街から避難していなかった。周知される事のない実験により、その人々は大小様々な被害を受け今もその街にはその当時の時間で止まった時計が存在している。

狂気の産物が産まれたその時間を記すのは、人類の滅亡の針が刻まれた時間として20世紀中盤に囁かれていた。。

 

今はもう、そんな事をさせたくないと核保有国はその保有数を全盛期の10分の1としているが、それでも人類を滅亡させるには十分な量であると言え本当の平和とは程遠く、恫喝の平和はまだまだ後100年は有に続くだろうと言われている。

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北米戦役6:核回避


【挿絵表示】

2式戦略偵察機
世界初の実用的ターボプロップエンジンを登載した軍用機。ターボプロップエンジンの開発に時間を要し、採用から2年間試験機としての活躍が続いた。



【挿絵表示】

4式戦略爆撃機
ターボプロップエンジン搭載上昇限度は9200mと言われているが、実際メーターには13000mまで刻まれており、実戦では凡そ12000mでの運用実績がある。そのため、過小表記されている資料が多い。



1944年1月9日

 

イギリス諜報部より連絡が入った、昨日の米国での巨大な閃光はやはり核実験であると断定されるものとなった。

これは、ドイツ在住のハンガリー人数学者フォン・ノイマン氏の即日の計算予測からなされたものであるようだ。

 

炸裂した威力の推定はTNT換算で20ktと、途轍もない威力が記載されている。この情報を数ヶ月前に貰っていれば、軍の動きも変えたのにどうしてこういう連携が出来ないのか、やはり同盟関係と言っても他国に情報を共有はしたくないのだろう。

 

さて、情報によると兵器の直径は凡そ3m程、重量5tだそうだから、現在米国で確認されている爆撃機にこれを搭載した場合、爆弾倉に収めるには大きすぎるのだとか。爆撃の可能性が低下したこともあり、懸念事項は地雷へと私の中では転換している。

 

核地雷なんてものが設置されればそれはもう、最悪の事態だろう。どこをどう前進すれば良いのか、それすら解らなくなるのだ注意のしようがない。

ならばと私ならどこに仕掛けるだろうか?餌となる場所は必ずある、そして恐らくそれは絶対国防線としてもっとも超えられたくない場所。

 

そう、13植民地。であるならば、アパラチア山脈以東を絶対国防圏であり、本土と仮定するならばアパラチア山脈北部地帯と、南部地帯の開けた平原に埋設するのが自然だろうか?

ならば、山を越えるのが道理であろう季節は雪降りしきる、冬が良い。

ならば性急なれど、来月かな?それまでに山脈に到達できるわけはない。

 

では何時になるのか、そうならば夏だろう。だいたい6月の終わり頃か、それくらいになるだろう。

それまでに向こうが降伏を申し出ればそれまで、反対派を押し切ってでも受諾する。核はそれほどまでの代物だと、私は考えているのだ。

 

理解されないだろうが、存在すら怪しいものを疑って勝てる戦を引き分けにしようという愚かな発想だと、そう言われても私は一向に構わない。だが、それでもそうはならなかった場合なんとしてでも、こちらの被害を最低限に抑えなければ。

 

 

1944年3月12日

予想よりも進捗は速い、英国が欧州方面から戦力をこちらに回してきている。強行的な判断による力押し、確かにそれは通常であれば正しい。大いに正しい事なのだが、嫌な予感がする。スクラップ作戦(恐らくデトロイト攻略)は、確実に上手くいくだろう問題はその後だ。米国がわざと引いているように見えて仕方がない。

 

 

1944年4月7日

やはりと言うか、なんと言えば良いのやら。デトロイトの中心部が謎の大爆発とともに吹き飛んだ、デトロイト攻略の最中英国軍が侵入する一歩手前の出来事だ。起爆の失敗か、或いは何かしらの誤作動か。新型偵察機のガンカメラは非常に優秀にその瞬間を撮っていた。

 

なにはともあれ、これで疑惑は確信へと変わることだろう自国内でそんな物を使う。

もう、米国は正常な判断が不可能な段階へと入っているのかもしれない。私が追い詰め過ぎたのだろうか、だがそれでも止まるわけにはいかない

 

核兵器の予測できる範囲内での設計図を見させてもらった。いや、開発中なのだろうそれを見せに来たということは、戦争が長引いたら私に使えと言う意味だ。

並行して、新型戦略爆撃機の要目と実装配備の日程まで入れているのだから、その本気度は確実だろう。

 

戦略爆撃とは工場を主体とする軍に直結する、それらの産業を破壊する事だ。だが、もしも核を使えと言うのならそれはもはや戦略爆撃等という生易しいものではない、殺戮だ。

民間人も女子供も関係なく、見境なくすべてを焼き尽くすこれに爆撃などもっての外だ、まだ焼夷弾を街に投下するほうが良い。正しく外道のやること。四面楚歌の国は、まだ降伏しないものか?

 

 

1944年6月7日

 

遂に我々の一部主に南端側だが、山脈線に到達した。上手く行けばこのまま講話する可能性がある、現地住民の代表団は現政権の大統領とは違い武装解除のうえで州を明け渡す暴挙に出た。

もう、米国中央政府は機能を半ば停止しているのか…だとしたら講話も無理か?

戦費が心配だ、このままやり過ぎれば戦後この国を取る旨味など欠片も残らないぞ。

 

 

1944年7月12日 

 

戦線は日に日に前進し、あと少しでアパラチア山脈北部に到達する。今や米国は最初の13州程度の大きさしかない、それでも核を信じてこうやって止まり続ける。愚かだ、やるしかないのか?

いや、まだ時間はある。最後の最後これで駄目なら、核の使用を検討せよと、本国近衛からの指示が出た。

 

アパラチア山脈を超えて中心部に直接殴りに行く、少数精鋭の特殊部隊。

この為だけに組織した、この為だけに訓練を施した。八咫烏よ、どうかこの東征を成功し我等に核を使わせないでくれ。

 

 

 

 

 

 

2001年2月6日

私は今、アパラチアクレーターゾーンへと、足を踏み入れている。戦争最後の核の炸裂、それがここメドーズ街道で起こった。

日本軍の最初の核使用、米国はこれを確認し始めて降伏をした。

それは、クーデター政府がホワイトハウスを占拠し実質上の革命の名の下に民衆の放棄があって始めて行われた。

 

高祖父は、賭けに負けたのだろう。この場所は、非常に強烈な熱にさらされた。縦に並ぶように

 

 




誤字、感想、評価等よろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北米戦役7:最後の敗北

1944年7月26日

マウンテンホーム前哨基地

そこにはずらりと並べられたテーブルと、椅子そしてそれに腰を掛ける厳つい顔をした青年たち。

それを前に一人の将校が、話を始めた。

 

『総員傾注!まずは諸君等の訓練終了をここに祝そうと思う。おめでとう。』

 

バチパチと拍手が鳴り響く、がそれは無音に飲み込まれていく。

 

『諸君等がこの半年の間受けてきたものは、なんの為か今ここに説明しよう。』

 

そうすると、黒板に一つの地図が記された。

 

『現在、我々は敵。解放戦線の最後の牙城である、米国へと侵攻をしている最中である。ここまで押してきて、最早負けることは無いと、誰もが思っている事だろう。

しかし、だ!!

米国は、ある兵器を我々よりも早くに実戦配備した。通称核爆弾だ。』

 

シーンと静まり返る。

 

『諜報部がこれの研究施設を捜索、発見した。場所はノースカロライナ州、シャーロット近郊の森の中だ。

ここを制圧、ないし破壊する事が出来れば次の核攻撃は無いものと判断される。

これの、制圧を行う為に諸君等にはここに空挺降下し、決死の覚悟でこれを破壊してもらいたい。

また、陽動としてワシントンDCに戦略爆撃がデラウェア湾に対して機雷投下が実施される。』

 

大規模な陽動、そしてそれに参加する機体は凡そ300機と言う国庫が悲鳴を上げるのでは?と言える程の爆撃機と、それが搭載する対地爆弾。

そこまでする必要があるのか、それは部隊員である俺がそして戦友たちが思った事だ。

 

こんな作戦を立案した人間はさぞ殺戮が好きなんだと、誰もが思った。が、今思えばそんな事もない、この時の俺達は核兵器がいったいどんなものか知る由もなかった。

だいたいこんな考えを生駒大将は、考えていたんだろう。

 

切り札を失った米国は否応なしに降伏するだろう。

 

と、戦術的な方面での最後のアプローチだ。勿論結果的には俺たちの作戦が45年の1月3日までかかってしまい、降伏の5日前に日本の核兵器が使用されたと。そんなところだ。

 

俺達が降下作戦を行ったのは1944年8月1日

天候は曇、隠れて行くには丁度いい他の地域は晴れだったようだが、山沿いだからであろう。

 

新型爆撃機の派生である輸送機は爆弾倉を、兵員輸送用に改造されていてお世辞にも快適とは言い辛い。

降りる前にはブザーが鳴って、後部のドアが開くと中に収納されていた棒が出てくる。一応これに沿って降下するのだ、でないと尾翼に当たって死ぬ。

 

そうして、俺達は降下した。手には折りたたみストック型の82式小銃、それと一緒に降下していく82式軽機。

必要最低限、重量物は少なく食料も3日分、後は後日降下されてくる予定。俺達が生きていればだ。

 

降下したらすぐに部隊で集まって、襲撃が決行された。と言っても、研究所の見張りはそんなに多いということも無く、50人いればいい方で簡単に陥落したんだ。

そう、簡単だよなそこまでは。直ぐに米国の軍が来た、それはそれは大量に。

 

大事な大事な研究施設、ぶち壊すつもりがないらしく砲とかそういうものは持ってこない訳だ。だけれども、重要な研究施設にしては警備が少なすぎるし、おかしなと思ったときにはもう遅い。完全に罠にはめられたと言えよう、元から研究員なんていなかったし遠心分離機なんてものもないし。欺瞞情報を掴まされて、俺たちゃ孤立さ、してやられたよ。

 

それでも物資は投下してくれる辺り、見捨てられてないと言うのはあったし、人員もちょくちょく降ってくる。

そこで、新しい司令も来るんだ。ここから南に行ったところに本当の施設があると。

突破しろと言われても、仕様がないだがやらなきゃならない。

 

結果、手が薄くなる1月まで待たなきゃならなかったという訳さ、作戦は成功したよ。でも、正直勝ったかと言われれば負けだな、こんなグダグダな作戦行きあたりばったりで、勝利なんか言えるものかよ。

 

それで遅れてしまったと、確かに情報網が無かった俺達のせいでもあるし、もっとも大きいのは生駒大将の焦りだろう。

ひいては連合軍全体の足並みが揃ってなかったせいでもある訳だな。方や核を使う前に正攻法で終わらせたい、方や核の力を見たい。

 

そして結果は生駒大将の負けだ、焦ったがゆえの敗北。当事者としちゃ面白くないよな、賭け事の駒にされるなんてよ。

 

〔戦争記録より〕

 

 

 

2001年2月6日

 

アパラチアクレーターゾーンは、4つからなる核兵器によって地表が硝子化した場所。

元々は街がそこにあって地表付近で炸裂した。

 

どうして日本軍は、地表付近で信管が作動するようにしたのか詳細は不明であるが、核兵器と言うものの性質を良く理解していなかったと思われる。

 

地表を抉るように炸裂したそれは、街を抉るようにクレーターを作った。

高祖父の手記にこんなものが書いてある。

 

『これ以上の先延ばしは不可能である。願わくば、空挺作戦の従事者の生命を。私の責任だ。焦りすぎた、諜報部の情報は英国からの情報でもある。信用しすぎるのはいかんな。』

 

と、あるようにこの頃から英国と日本との間には既に軋轢が生じていたのである。

現場では、そんな事もないように受け入れられていたようだが、そうでもないのがお上の事情。

 

結局の所足の引っ張りあいで、戦争がより悲惨なことになったのは言うまでもない。高祖父は、最後の最後で情報戦に敗北しそのまま終戦になった。

身内に敗れるのは、正直言って良いことでは無いでしょう。

 

戦後の派遣を巡って、それのせいで多くの兵士が命を落とした。勿論、核爆発の餌食になった米軍の兵士もまた、それに含まれる。でもこういう見方もある、核を使ったからこそ終戦は早まったのだと、そしてその後大きな戦争も起きなかったと。

 

 

 

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終戦:始まり


4式陸上戦闘機

【挿絵表示】


日本軍初の実用的ジェット戦闘機。
その機体形状と、エンジンの配置は後の世の戦闘機に多大な影響を与えるも、時代に不釣り合いなその形状から低速領域での戦闘に非常に不向きであり、後に誘導噴進弾の開発によって一応の対応を見せるも、基本的には高速度領域のプロペラ重戦闘機や高高度爆撃機、自機と同じジェットエンジン機の迎撃を主任務として20年ほど運用される。




1945年1月9日

瓦礫の山となったノーフォーク港へと、一隻の古臭い弩級戦艦が入港してくる。

そのマストに掲げられしは、赤と黄が特徴的なそれは中立国

 

(ここで言う中立国とは、スイス・スペイン・ポルトガル・デンマーク・イラク・カザフスタン・チベット・キルギス・ペルー・ボリビア)

 

の中で唯一まともな〘戦艦〙というものを保有している国、スペインの艦艇である。

それが何故こんなところにいるのか、それは至極単純な事である。米国の降伏文書調印の為だ。

 

当時、米国は外部の国家との連絡手段が完全に遮断されており、中立国であるスイス等へと連絡を取ることは愚か渡航する事すら出来ない。

連合国のそのあまりにも悲惨な攻撃は、米国のインフラを尽く破壊し尽くし火力発電は愚か、水力、風力に至るまで徹底的に破壊せしめていた。もはや、焦土と言っても過言ではない。

 

その為、現在米国における発電は専ら政府官邸ばかりに注力されており、海底ケーブルとの接続は完全に絶たれていた。

 

更に、終戦の為の降伏文書を国連軍に受諾する事を通達したのは良いものの、それを受け取る側と受け渡す側の中間となる国が北米大陸には、存在しなかった。

南米には少なくとも存在していたが、北米のそこまで行くほどの経済力もなければ、信頼に足るものもない。

そこで白羽の矢が立ったのが、一応の欧州での中立国の盟主へとなりつつあるスペイン王国であった。

 

この当時、スペイン王国はある種危機的状況にあったが為に、世界大戦に参戦する事なく、中立を宣言した。

英国からの勧誘も一切を断り、内部の地盤を固めていたのだ。

カタルーニャ地方での民族独立運動が激化し、それに呼応するかのように地方へと波及していった問題に、頭を抱えていたからだ。

 

だが、カタルーニャ地方やその他の地方でも独立するのは流石に嫌だ。と言う、声が独立運動を緩和させていく。共にどちらが欠けても国として成り立たなくなる。

経済的に依存しあっているのが、この当時のスペインの情勢でもあったのだ。

緩やかな自治領としての名を与えつつ、国情を安定化させた当時の英雄の名は、フランコ。軍人であり、政治家である。

 

さて、そんな内情の為に軍拡もおちおち出来ずにいたスペイン。気が付けば戦争も終盤戦となりつつあり、どちらに味方すれば上手い汁を啜れると言うのは簡単に分かる事だが、もしもここで勝ち馬に乗ればきっと国際社会から爪弾きにされるだろう。

『勝ちが確定した段階で来やがって』と思われるに、違いはない。

 

であるならば、中小国が大半をしめる中立国の纏め役としての顔を持てば良いのではないか?と、フランコは考えた。

そして、それが直ぐに実現されたのがこの米国の降伏文書調印である。

 

実のところ、中立国としてまともな海軍を保有するのはこのスペインだけであった。隣国ポルトガルは沿岸部の守備だけ行う、漁業海軍。

他の国々はあまりにも貧弱な国力の為か、はたまた海がそもそも存在しておらず海軍を持たない。そんな国ばかりだ。

だからこそ、スペインだけが米国へと乗り込んだ。

 

スペインがそこに乗り込んだとき、そこには自国の艦船とは比較にならない程に巨大で、大規模な艦隊。

空にはプロペラ音とは違う、轟音を響かせながら空を切るように飛ぶ航空機。

示威行為甚だしい事だが、それでも臆することなく進んだのは意地があったらかだろう。

 

たった一枚取られた写真、それは米国の完全な敗北を決定づけた。

 

この敗戦で米国は以下の文言を受諾し、国家として1からの再建を余儀なくされた。

 

1.その所在地に関わらず米国軍全軍へ無条件降伏布告。全指揮官はこの布告に従う。

 

2.米国軍と国民へ敵対行為中止を命じ、船舶・航空機、軍用非軍用を問わず財産の毀損を防ぎ連合国軍最高司令官及びその指示に基づき米国政府が下す要求・命令に従わせる。

 

3.公務員と陸海軍の職員は、米国降伏のために連合国軍最高司令官が実施・発する命令・布告・その他指示に従う 非戦闘任務には引き続き服する。

 

4.合衆国大統領及び米国政府の国家統治の権限は、本降伏条項を実施する為適当と認める処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる。

 

5.米国政府は捕虜として抑留している連合軍将兵を即時解放し必要な給養を受けさせる。

 

基本的な5つの文章からなるこれらは、降伏文書を調印した場所つまりはスペインの軍艦であるエスパーニャから、

 

エスパーニャ宣言

 

と言われることがしばしばある。

 

この宣言により、第二次世界大戦という大きな枠組みの中での戦争は一応の完結を成し得た。

のだが、それ程単純な事ではないのだ。

 

この宣言の後、米国は合衆国改め共和国となることにより、自分たちはもう違う国です。と言う、所謂アピールの形を取るとともに議会の再編がなされた。

まず、全国への選挙を行うにしろ治安の悪化が非常に早く、誕生した瞬間、米国内は完全に分裂状態となった。

 

そして、当初部分的割譲のみであった米国の国土は最初の13州までの影響力しかなくなってしまっていた。フロリダは反政府ゲリラが闊歩し、完全に政府の手を離れ独自に正当政府を名乗り独立。フロリダ民主共和国(1945〜1954)の誕生である。

 

そして、アパラチア山脈以西においては日本国の影響が非常に強く、プレイン合衆国(平原の国々)(1945〜)と名乗り日本国の実質的傀儡政権が樹立する。

それに英国が反発するなど、情勢は荒れに荒れた。

 

 

だが、そこに来て日英、両国にはある問題が勃興していた。度重なる戦費、そして戦場になることのなかった本土と現地の乖離。戦争は終わり経済が停滞を始めていたのだ。

だが、それでも国債を買ってくれなければこのままでは、国として立ち行かなくなる。

 

互いに互いを意識をより強く持ち、そして互いにそれをぶつける相手を睨んだ。

そう、冷戦の始まりである。




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

冷戦期
冷戦:危機の始まり


1945〜1950までの地図

【挿絵表示】



1950年代それは冷戦の時代

 

冷戦、それを聞いて私達の世代が思い浮かぶことはなんだろうか?宇宙開発の連携による冷戦の終結?それとも、巨大国家体制の崩壊からの連邦制制度の確立?

 

代表的な勢力で言えば、

 

日本帝国を中心とする東、東南亜細亜、太平洋の殆どの利権を手に入れていた大日本帝国

 

イギリスを中心とするアフリカ、インド洋並びに中央亜細亜を席巻し正しく沈まぬ帝国と言われた大英帝国

 

2大国と呼ばれる国がそこにはあった。

 

 

この2国に対抗して各地に同盟が建てられていく。

 

科学技術の発展に極端に傾注し、領土拡張よりも全体の経済力を発展させ巨大な二国に対して自らの道を進んだヨーロッパ連合

 

南米アルゼンチンを筆頭とし、地理的距離によって中立を保とうとする国家連合体。

南アメリカ連合

 

メキシコを中心とした日和見主義の中央同盟

 

そして、一国だけ孤立したスペイン

 

があるが、この1945年以降のその殆どの争いは2大国が起こしていたと言っても過言ではない。

 

では、なぜそんな関係になってしまったのか、それを紐解いていこうと思う。と言っても答えは以外に簡単に出てくるものだ。

結論を言えば、互いに恐怖し合ったからと言うのがこの議論の終着点だ。

 

時は1945年の1月某日、日本軍が戦争で核兵器を使用してから始まった。

そのあまりにもの破壊力に、それを見ていた観戦武官や他国の兵士がそれを本国に克明に伝え一刻も早く、自国もこれを持つべきだと、考えるようになった頃からおかしくなった。

 

なまじ大英帝国は巨大な国家である。その財力はその広大な国土からの税収と豊富な資源から成り立っていた。それは大日本帝国とて同じ事で、もしもこれらを取るのだとすれば同じ程の力がなければならないし、逆に守るためには同等の力を持たなければならない。

 

軍事バランスが完全に崩れれば最後待っているのは悲劇だと、このときの大英帝国は考えていたのだろう。そして数ヶ月後、おそらくは大日本帝国の研究資料を盗んだのであろうそれによって、すぐさま核兵器の実験を行い、各国にそれを示した。〘俺たちもこれを持っているんだぞ〙と。

 

恐喝と恫喝は周辺国どころか、自国の植民地的な地位を持っていた衛星国に被害が生じる。紛争の時代の始まりである。

 

 

 

口火を切ったのははアメリカ共和国とフロリダ民主共和国の間に起きた、領土紛争である。

フロリダ半島を領地として実質的な支配を行っていたのはマフィアを中心に強盗団や逃亡兵達が中心となって作られた、実質的な国。それがフロリダ民主共和国の実態であるが、その軍事力は当時まだまだ復興中であったアメリカ共和国の直接的な脅威となっていた。

 

それだけ聞けば、日英にはなんの関係もないように聞こえるだろうがだが、このときこのフロリダが使用していた兵器群の内凡そ9割が英国製であったのだ。

ブリティッシュ弾がそこかしこに落ちており、もはや誰が見ても明らかなのは、このフロリダを後ろから支えていたのは英国である。

 

彼等がなぜそれをしたのか、それは当時の北アメリカ大陸の情勢の影響を受けていたと言うものだ。

当時大陸の北半分は英国連邦の一つである、カナダであったがそのすぐ下には大日本帝国の衛星国であるプレイン合衆国が強烈な存在感を醸し出し、北アメリカ大陸の覇権を脅かしていた。

 

それならば、もう一つ勢力を作ってしまおうと言う発想の元彼らは力を行使した。もっとも、それは悪い方向に転んでしまったのだが、それは当事者ではなく第三者として見る事ができる私達だからこそ解ることだ。

 

英国の影響力はキューバ等の島嶼部にも及んでおりこれによって、カリブ海北部からは完全な英国影響圏と言えるものであった。

しかしながら、それが長続きすることは無かった。

 

1953年フロリダでその事件は起こる。

当時英国首相の座に付いていた、ジョージ・フロイドがこのときフロリダ軍の戦闘機により、搭乗していた政府専用機事殺害されたのだ。

 

これは、一部過激派の仕業と当時言われていたのだが実際には日本の手引により密かにパイロットがすり替えられていた。と言う調査結果が出ている。

しかし、当時情報戦に完全な自信を保持していた英国がその情報を掴むことが出来ずに、フロリダとの国交断絶にまで関係を悪化させた。

 

なぜそんなところに英国首相がいるのか?と疑問に思う人もいるだろう。

ちょうどこの時期英国の影響圏では度々反乱の兆しが見えていたために、英国首相自らが陣頭指揮を行う事で引き締めをする。と言う、政策を実行している真っ最中だったのだ。

 

ちなみに、この時期の反乱も勿論日本帝国の差金であった事は言うまでもないのだが、それでもこの時期の英国は様々な方面で日本帝国の諜報に踊らされており、これをきっかけに現在のMI6は世界でもっとも情報戦に長けた組織であると認識されている。

 

 

 

さて、ここからが本番であるがこのフロリダ民主共和国、1954年に消滅しているのは皆さんの予想通り、経済的な孤立に耐えきれなかったからである。

 

では、それ以前の動向がどうであったか、それを次に話そうと思う。世界史としては、ここが重要となるのでしっかりとメモを取るように。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

フロリダその勃興

フロリダ民主共和国とは何なのか、それは1945年の米国降伏時に遡る。

当時フロリダには、多くの避難民達が北アメリカ中部から押し寄せてきていた。

 

彼等は基本的に、日本軍の手によって土地を奪われたり農地を荒らされたりした人達だ。

戦略物資である食糧を、米国の手に渡らせない為にも農場そのものを焼き払うそんな手を実行したりしていた。特に反抗的な者達には見せしめのように、断固たる決意で行ったという。

 

その被害者たちは日本軍から逃げるように北米大陸東海岸に集結するが、そこに待っていたのは食べ物もなく痩せこけた人々、住む場所すら存在せず雨ざらしとなった家具。

テントの群れがそこかしこに点在し、疫病が蔓延する一歩手前にまで行った景色。

すべてが高祖父の計略のうちの一つであるが、所謂兵糧攻めを国単位でされた。

 

まともな土地も無いのに、逃げた人々はどうにかして食べ物にあり着こうと必死に移動を続け、米国では比較的にマシな部類であったフロリダに自然と集まっていったようだ。

 

フロリダがどうしてマシであったのか、それは亜熱帯の気候から授けられる。砂糖や柑橘系の果物、そして豊富なスイートポテトの栽培である。日本で言う薩摩芋がこの地に大量に植えられたのは、飢えから逃げるためであった。

 

商品作物だけで飢えを凌ぐことは出来ない、そして気候からか小麦は育ち辛い。稲作はノウハウが無い、そこで目をつけられたのが当時世界的に広く知られていたこの薩摩芋だ。

その亜熱帯から来るそれは、休む間もなく栽培されていき民衆の腹を満たす。

かつてスイーツとして食べられていたものが、ここに来て主食となったことは何たる皮肉か。

 

それでもなお、戦争が終盤に差し掛かると次に目をつけられるのは自分たちではないかと、内心ビクビクと彼等は過ごす。当たり前だろう、同じことが起きる可能性は充分あるのだ。

 

そして、それは違う意味でそれを証明した。米国東海岸とフロリダを繋ぐ弱々しい鉄道路線というインフラが爆撃の為使用不可となり、米国東海岸州に食糧を送ることが出来なくなってしまった。

 

これでフロリダは完全に孤立した。

幸いな事か、食料だけに困ることは無い何せそこら中に植えてあるのだ、肥沃な土地は民衆を潤し米国への忠誠心や帰属意識よりもより優先すべき、家族を守るようになる。

 

戦争も終わり頃、英国軍がメキシコ湾から上陸してきた。そこでの州知事の判断がフロリダを米国からの独立へといざなった。

知事は徹底抗戦を表明したが、それに反抗する勢力。いや、大多数の民衆によって吊るし上げられ、英国軍が作戦を開始する頃には、反乱軍の旗がはためいていたという。

 

それが、フロリダ民主共和国の始まりだ。

 

 

戦争が集結した頃、その暫定政権はアメリカ共和国と合併する話が出たが、独裁主義的な政治理念と自由民主的な思想とが相容れることはなく、また英国の意向の元2つの国が東海岸に短期間存在した。

 

食料自給率の非常に高いフロリダはその生産能力を背景に、米国の南部の人間に働きかけ、自分たちの側へと来ないかと耳障りの良い事を言いながら吹聴していく。

終戦直後の米東海岸の人たちはその言葉に耳を傾ける者達が比較的に多く、それがさらなる軋轢を生むきっかけとなった。

 

食料を分け与える変わりに自らに従うよう働きかけるフロリダに、ジョージアとサウスカロライナが同調しアメリカ共和国からの鞍替えをしようとする。

流石にそれを見てみぬするほど、米国は臆病でもないが当時の米国は実際かなり困窮していた。

 

止めようにも、止められるだけの食料を確保することすらままならない状況であるのだ。

そこで、当時のアメリカ共和国首相、ダグラス・マッカーサーは日本国の援助と引き換えに、向こう99年間のニューヨーク租借を宣言する。

荒廃したニューヨーク等、当時の米国にはいらぬもの日本国はそれを承諾し、食料と武器弾薬を格安で米国に売却する。

 

それに呼応するかのようにフロリダ民主共和国には、英国からのお下がりの武器弾薬が供与され、ジョージア、サウスカロライナの民兵及び州軍に配備され一触即発となる。

 

再軍備を始めたばかりの米国は、退役軍人を中心とした全く新しい組織、国防軍の設立が始まったばかり。

慣れない日本製の武器、弾薬の共通化のできていないかつての自国の余った大量の備蓄弾薬。

それらを処分しながらも、彼等は少しずつ力を蓄えていく。

 

それに対して、戦中英国の進駐を快く受け入れた彼らには非常に深く英国の武器が根付き、よく言えば慣れたもの。

悪く言えば、その姿は英国軍そのものであり軍事顧問ですら派遣する英国に、その司令部は完全に頼りきった。

それでも、当時の米国軍にしてみれば非常に強大な敵であったことは違いない。

 

だがいに互いがいがみ合い、サウスカロライナ国境線でその事件は起きた。どちら側が先に撃ったのか未だにわかることはない。

(私見であるが欧州連合が起こした可能性がある)

一発の銃声により凶弾に倒れた少年の名を取りカルロ紛争が始まった。

1950年、世界最初の日英代理戦争の開戦である。

 

 

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

カルロ紛争〜中東の影

明けましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。今年の五月頃には完結させたいなぁなんて思っている今日このごろ。ちなみに次は遡って江戸時代編をスタートさせる予定です。外伝という事で、こちらのページでやります。正しく「Mercenary」の意味がわかる作品にしたいですね。



その戦争は、一言で言えば訳のわからない始まり方をした。

首謀者はいったい誰だったのか、全くと言っていいほどわからない。

当時、アメリカ共和国とフロリダ民主共和国双方に交戦の意思は、全くとして無かったという。

 

互いに武力を用いて恫喝を行いつつも、互いに乗り気ではない。武器の見せ合いをしながら、自分たちはどれほど有利なのだと言うことを、自国民に示すだけのお飾り軍隊同士。

 

正直に言って本気で殺し合いを始めようとするのは、双方の後ろ盾をしていた日本と英国。

その核保有国2国だけが、本気でいがみ合っていたと言うのは現在私達研究者の間での説である。

 

正直に言ってこの戦争の引き金はこの2国のどちらかが、最初に引き金を引いたものだ。そして、これによって第一の被害者となったカルロは、フロリダの豪農の息子だった。

豪農は怒り狂った、そして彼はその数日後にアメリカの兵を一人射殺した。

 

そして、それを見ていた兵たちは自衛の為にフロリダ軍へと銃撃を開始して、銃撃戦が始まり事態の収拾をしようとした司令官たちはそれを互いに察知し勘違いから、全面戦争へと突入した。

 

一人一人の武装はフロリダが優勢であった。限定的な武装のみを許可された米軍に重装甲車両は存在せず。旧式の戦車(マチルダ2の戦後貸与)であるが、それに対するのは旧式の37ミリ砲や徹甲弾の無い野砲だけ。

そんなもので足を止めることなど到底無理なことである。

 

戦線は3ヶ月の間にはメリーランド州はワシントンにまで到達する勢いで進捗するが、そこで予想外の出来事が起こる。

日本軍が国連決議の採択無しに軍を派兵したのだ、これにはフロリダ軍は驚きを隠せない。

戦線は瞬く間に止まり押し返される。

 

元々、世界大戦初期レベルの軍備しか持たないフロリダはこの大戦後の軍備を備えた日本軍になすすべ無い。

空をジェット戦闘機が駆け、誘導してくる対地爆弾が司令部を的確に潰してくる。

 

一機の攻撃機に戦術重爆撃機並の爆走を施して飛ばす事ができる、その出力は余りにも理不尽である。

その高高度から落とされ、正確に施設を破壊していく誘導爆弾。そのどれもこれもが、世界大戦時とは比べ物にならないほどに速い侵攻を可能としていた。

 

これに対して、英国は国連で批難決議を採択しようとするが日本国は常任理事国であるが故に、それは尽く否決される。

更には英国がフロリダへと兵器の輸出をしていた事を暴露され、武官すら送っていたことを明るみにされると、途端にその批難は鳴りを潜めた。

 

もはやフロリダに継戦能力はなし、次々と陥落する拠点に慌てふためく隙もなく2ヶ月で元の国境線に押し込められ、最後の抵抗とは名ばかりに作られた簡易的な要塞線は、2日のうちに陥落し

戦争が始まって七ヶ月。

たったそれだけの期間で根も葉もすべて刈り取られ、全面降伏となった。

 

この結果だけを見るに、やはりこの戦争の引き金を引いたのは日本国ではないか?と言うのが私の主張であるが、大学の同僚からはそんな事を言ったら消されるぞと、止められている。

この戦争を止めようとした人はいたのだろうか?

 

いた、私の高祖父はこの当時既に老いさらばえ政治に関して足を踏み入れることは無かったが、その教え子である世代たち。

20代,30代の軍士官達からは非常に大きな反発があったと予想される。その結果と言えばいいだろうか、この時期に日本軍はある一定世代の左官に対して退役処分を行っているのだ。

 

後にこの世代を中心に現在の政党の一つである、立憲民政党が立ち上がり、二大政党と呼ばれることになる。

 

 

さて、カルロ紛争は日本軍の介入により一応の北軍のしょうりとなったが、ここで日本軍は米国に対して武装集団の一部解禁を行った。戦闘車両主に軽装甲戦車、制空戦闘機、戦術爆撃機、沿岸用の海軍である。

 

これらの解禁により、現在の米国は一応の治安維持を可能としている。戦争の爪痕は現在も残っておりフロリダは自治区として、現在も存在し続けている。

一方で、軍隊は米国の国力の足かせとなっており現代でも主要国の中で最も影響力の低い国と言われている。

 

 

このカルロ紛争の余波は中東にまで及び、当時日本帝国が領有していた地域では度々イスラム原理主義勢力によるテロ行為が行われていた。

これの後ろにはやはり、英国の影があったという。

 

さて、中東で一体何があったのかと言うことを見て行こう。

中東は嘉永年間に遡る辺に日本国とトルコによる影響を受けてきた。同じアジアの国のと言う事を利用して、白人に対抗するための利害関係だ。

 

したがって、宗教上の障壁はその当時存在しなかった。敵の敵は味方、それの理念に従い共同で護ってきた。

しかし、第一次世界大戦後オスマン帝国が事実上の崩壊の後日本帝国手動の統治に切り替わると、その障壁が重くのしかかる。

 

イスラム教徒というものは、非常に厄介であり取り扱いの難しい宗教である。特に厳格に戒律を護ってきた者たちにとってこの時の日本国はどれほど目障りだっただろうか?

偶像崇拝から多神教に加え豚肉も食べ、飲酒もする。

そんなおぞましい者たちだ、それに従う政権に剣を向けたくもなるだろうと言うのが、私の見解だ。

それが英国にとって都合の良いものとなる。

 

対テロ戦争。イスラム教徒から言うにはジハードの始まりだ。




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

善意の誤算

日本帝国の植民地に対する統治方法を知っているだろうか?

植民地の統治方法には大まかに分けると6つ存在している。

 

地域の租借と治外法権のみを行うもの

 

先住民統治の元、駐留軍を駐屯させるもの

 

現地王侯貴族を通じて統治する間接統治

 

本国から総督等が派遣されてくる直接統治

 

外交防衛を本国が行い、統治は現地に委ねる自治領

 

自国への完全な併合

 

である。

 

そして、この中で日本帝国が行った統治方法としては、全てに当てはまる。

彼等は多種多様な統治方法をその場その場で構築していった、と言う歴史を持っている。

 

元々国がないのなら自治領としたし、近郊部ならば併合を行い、王侯貴族がいれば間接統治を行なった。

元々官僚的な国であったからこそ、このような事になったのであろう。徳川幕府が当時行った基本的な運営方法は、意外にも成功したのだ。マニュアル作りから始める徹底ぶりに我々研究者も驚きを隠せない。

 

多神教の国であったからこそ、そんな事が出来たのかもしれないし、おおらかな国柄はそれを可能にしたのだろう。

一神教の国は基本的にアジア、南北米大陸には存在しなかった事から、現地の神々に対する社の建立等によってこれらを進めていったに相違ない。

 

つまりは多神教の原住民達とは非常に馴染みやすく、統治機構自体も多様化しやすかったのが、この日本帝国型のチャンポン植民地形態であろう。

現に日本帝国の植民地であった国々はその尽くが、多神教へと帰教しており、一神教であるキリスト教等とは相容れないものとなっている。

 

何を言いたいのかと言えば、それは中東を中心に広がっているイスラームにも該当すると言う事だ。

特に日本帝国は、トルコとの共同経営という建前で間接統治を一部行っていたところを、第一次大戦大戦の結果完全に領有する形となったのだ。

 

さて、ここで大きな問題になったのがアラビア半島の統治方法である。今まで一神教が多く存在していた土地に、いきなり多神教の概念をねじ込んだ場合どうなるだろうか?

そう、文化の衝突が発生し大規模な混乱を招く危険性がある。

 

そして、それは起きるべくして起きた。まず、トルコが中心として作成していた法律、特に自治領としての基本的な憲法に関する部分だ。これには日本帝国は、コーランの中にある偶像崇拝の禁止やイスラーム以外の宗教の禁止を無くすと言う手段で自らを主張した。

 

人権として、基本的に男女ともに関係なく平等に参政権、と容姿の自由が加えられたこと。その他大小様々な部分をコーランとは殆ど被らない状態となった。

それに伴い、これから20年程すると女性のより活発的な政治運動を始める者たちが出現する。

これはイスラームに限ったことではなく、世界的な事であったのだが、厳しい法律からより柔軟な法律に変わったことで爆発的に広がってしまったのだ。

 

こうしたことから、昔を懐かしむ人々がチラホラ出てくる。例えば女性に対する性犯罪数だが、法の改定から女性が肌を露出することが多くなった頃から次第に増え始めていた。統計的に見れば、人口増加に伴う変調ではないか?と言う専門家もいるが、それにしても10年で2倍に増加するのは、やりすぎだろう。

 

つまりは意外なことに最初にイスラム原理主義を声高に叫び始めたのは、女性側だった。特にその時期の成人女性の服装は現代でさえも目に余るほどの薄さで、正直な話裸により近い。

私であれば絶対に着るのを拒否するぐらいだ、だいいち日差しがあれほどある場所でこの様な格好をする方がおかしいだろう。

 

一理ある事を言う壮年の女性から端を発したこれ等は、勢力を拡大していき、一時期は自治政府の党を形成するほどにまで膨れ上がる。しかし、そこで大きなことが巻き起こった。そう、第二次世界大戦である。

 

世界大戦の為に言論の締め上げが行われ、反政府的な言論は一時制限され、多くの者たちが投獄される。

戦後になってそれ等の者たちが再び外に出てみると、世界はより一層羽目を外していた。

 

それを見た彼等は怒り狂うが、今の自分達には何もない。指示する人々も、懐古する老人たちもいない。もはや滅びるしか無いのか、イスラームの真実を教える事が出来ないのかそうなったとき、一筋の光が西から射した。

 

それは、善意の光ではない。中東という、非常に大量の原油が出てくる金鉱を掘り当てるための、実に悪意に満ちた汚らしい光であった事だろう。そこを手に入れる為には、形振り構わない。

かつては味方であった国であるが、今や全く違うイデオロギーを持つ敵国。容赦をする必要などどこにあるというのだろうか?

 

私は、ロマノヴァに籍を置いているから言えるが、この当時の大日本帝国と大英帝国の間柄を客観的に言えば、離婚寸前の夫婦と言った感じである。

勿論私の故郷もこの当時、日本帝国の保護国のようだがそれでもまだ客観的に記されている資料は幾ばくかはある。

 

この事態に関わらず日本帝国と英国の間柄は後に1990年代まで、このようにいがみ合いを続けていく。

そして、その隙をついて欧州連合が動き宇宙開発の時代の先駆けとなる。

 

 




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

宇宙を夢見た者たち

時は1945戦争もあと少しで終わる頃、場所はドイツワイマール共和国改ドイツ第三帝国は北部沿岸部ライエルンにて、あるものの発射実験に成功していた。

ドイツ国防軍による陸海空を超えた支援によってそれらは、その日日の目を見た。轟音とともにそれ等は天高く飛翔し、成層圏を突破し熱圏にまで到達した。

 

意図せずにそれは地球の周回軌道に入り、電波も何も発しない宇宙ゴミとなったが、世界で最初の人工衛星となったものでもある。だが、設計者であったヴェルナー・フォン・ブラウン氏は宇宙狂いと言われる人物であり、実際は彼の意図したものだったのかもしれない。

 

戦争もあり、大事に対して小事と思われたそれは日英には、一部の天文学者や軍人以外には見向きもされず独国の独占技術となった。

 

日英が争っている間、1951年に欧州で大きな枠組みが作られた。大国に対抗するための大同盟、2大国に対する中立的な立場で物事を言える存在。欧州連合が発足した。

初代議長には1945年まで、第三帝国を総統として率いた

アドルフ・フォン・ヒトラー氏が選出されこのときある演説をした。

 

敗戦、戦勝問わず民衆にパンと仕事を与える

 

民衆が恐怖に飲まれぬように、欧州全体での軍事的組織の確立

 

希望を胸に抱く、大いなる世界の道を作る

 

後にこれ等は3つのスローガンと言われる

彼の演説は議場が静まるまで始まらないのが有名であり、それ等は人々の心を掴んだと言える。

これを元に欧州は宇宙開発を中心に世界を見渡すよう、耳を目を強化していった。

 

 

1945年時を同じくして、ロマノヴァにセルゲイ・コロリョフと言う人物が現れる。ソ連時代からの亡命研究者の一人である。

彼はロマノヴァの軍部からあるものを開発するように言われた、それは独国で発表された新たな飛翔体の研究である。

 

この当時のロマノヴァの軍事は知っての通り、日本軍に半ば牛耳られていた。つまりは、日本軍の一部の者たちがあれに対して、興味を示したことを、これは表している。

しかし、主流派ではない彼等は国庫をそれに使う事ができない、では融通が効いて、ある程度の規模の自由研究可能な衛星国がどこにあるのか?それがロマノヴァであった。

 

さて、この事態は実は英国でもあった。英国では、土地柄的に農業に向いていないカナダ。しかも日本軍と直接的に戦う場合、最も攻め辛い極寒の大地だそこでの研究が始まっていた。

この2国の行動は偏に、肥大化しすぎたがゆえの処置である。

 

当時の日本帝国と大英帝国は、その産業構造を実質的な戦争の為の工業や、精密機器類の開発を重点的に行っていた。それは自動車然り船舶・航空然り既に実戦に投入されていたり、簡単に想像が付くものの発展系である。

 

それはつまりは、発展性の乏しい産業構造とも言える。新しいものへの取り組み、特に巨大で大規模なものになるだろう、というものに対して予算を組もうとすれば、それはその他の兵器の開発を遅らせることにほかならなくなる。

そうなったら、互いに恐ろしい事になることが明白であるから出来ないのだ。

 

そこで彼らが考え導き出したものが、衛星国つまりは連邦制の良いところを使ったもの。即ちは裏切らない国々に代理で作らせてしまおう、そういう所だ。これは単に自国の予算を守るだけでなく、衛星国の産業を一段階引き上げ更に強力な味方へと昇華する為にも副次的に行われた。

 

だがそれは、逆に言えば衛星国の自立に直結し、より国家としての独立心を芽生えさせ1980年には、その殆どが連邦構成国だとか帝国構成国だとかの同盟国よりも上ではあるが、強制性の無い存在へと変わってしまうのは皮肉な物だ。

 

 

話を戻そう。ロマノヴァとドイツは一国として、宇宙開発に手を出していた。ドイツが先んじてそれを進めていたのだが、そこで様々なアクシデントに見舞われる。

例えば指導員の方向性の食い違いだとか、八方に手を出し誰がために前に進めなくなるだとかだ。

 

一方のロマノヴァは一人の人間に全てを任せると言う異例の方針で挑み、差をぐんぐんと縮め。

1954年本格的な人工衛星を世界で初めて打ち上げると言う快挙を成し遂げる。

 

これに焦ったドイツはその三月後に打ち上げに成功し、追いつけ追い越せの戦いとなっていた。

ちなみにだが、これ等の競争で使用されていたロケットは、ドイツは巨大なエンジンを主動力とした単段式、多段式ロケット。

ロマノヴァは、小型エンジンを束ねたクラスター方式を主流としている。エンジンの形式で小型であったときは、ロマノヴァが有利であったようだ。

 

1960年代には月への月面計画が進んでいたようであるが、日英間での軍事衝突が間近に迫り、審判の日が来る等という時に月面計画なんて進められないと、この計画は凍結され2005年やっと人類は月面へとたどり着いた。長い長い回り道の末である。

 

その間には、ロケット技術を応用した核ミサイル等も数多く開発配備され、世界を10回焼き尽くしてもお釣りが来るなんて言われる時代もあった。90年代になって、世界はやっと落ち着きを取り戻したのだ。冷戦は、結局の所誰の勝利にもならずすべてが一様に疲弊した。

 

そんな中で宇宙を夢見た、者たちの夢は叶えられた。例えそれが、生きているうちに果たせなかったとしても。

 




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遺骨無き墓

墓というものは現代で一般的には、そこには火葬されれば骨が、土葬されれば朽ちる肉体が土の中に埋められるものだ。

だが、例外として戦地に赴き失意のまま息を引き取りそして行方の知らぬ骨というものがある。

基本的に、そう言った墓には骨が入っておらず何かしらの遺品があったりするものだ。

 

私は今、高祖父の墓の前にいる。立派な墓だ、土葬ではなく火葬であるからこんなに大きくする必要はないのだが、何やら高祖父の元部下だとか言う偉い議員たちの手によって、そんな墓が建てられたという。実にありがた迷惑な話だろう。

 

私がなぜ、こんなところに来ているのか。それは、祖父に呼ばれたからと言うところだ。

私は前に、軍人としての高祖父を研究テーマにしていた事があった。実際に研究をしていたのだが、途中でその消息が忽然と掴めなくなった。手記にも載っていない、彼の部下だったという人を当たってもわからなかった。

 

そこから、研究テーマを1から練り直し現在では一応の世界歴史学者の一人として、大学に勤めている。

そんな私は、この目の前に鎮座する嘗ての研究対象である人物の墓にいったい何があると言うのか。

 

線香を焚いて手を合わせていると、後ろから人の声が聞こえてくる。見知らぬ人達だ、歳格好背格好は私と同じくらいか向こうのほうが少し上。髪色も烏の濡羽色とでも言えるような、髪は肩まであるようなそんな女性。

 

彼女をまえにしたとき、祖父から彼女を紹介された。どうやら私の再従姉妹に当たるらしい、今まであった事がないのが不思議だが、祖父の人間関係上どうやらそこで揉め事があったようだ。

彼女は祖父の2つ上の姉の家系らしい。 

 

それと同時にどうやら、この墓の管理者でもある。つまりは、この寺の住職の娘ということになるわけだ。

祖父が彼女に依頼したことは、単純な事であり難しいことである。それは、この墓の中身を見せて欲しいと言うところだ。

 

それを住職は快く受け入れているようで、彼女が監視人としてここに来たと同時に私との初めましての挨拶をしに来たようでもある。

そこで、墓の中を見せてもらった。骨壷がいくつか並んでいる中で、一つだけ異様を見せつけられている。

 

蓋が閉じていない、そして中には何も入っていない。その骨壷には名前が彫ってあり、生駒 徳久 と読める。

つまりは、骨が何一つ入っていないのだ。どういう事か、高祖父は戦後日本の地で骨を埋めたのではないのだろうか?祖父の話は偽りだったのかと。

 

そうでもないようだ。高祖父が死んだ年齢は76と言われているのだが、実際これは高祖父が失踪してからというのが正しいようだ。祖父がロマノヴァへ逃げるように移住してから二年後の事で、葬式の概要もあまり良く知られていない時だったのだ。

 

それでも、どうしてこんなにも時が経って言う事にしたのか、それは政治的なものが絡んでくるらしい。当時の冷戦下、英雄が突然失踪したなんてものが流れたら、軍としては嫌なことがあったのだろう事は想像に難しくない。だとするならばいったいどこへ行ったのだろうか?

 

そう思ったとき、祖父と再従姉妹の彼女から依頼をされた。高祖父の足跡を辿って欲しいと言う事だ。私には別の研究があるから、暇な時になってしまうが。という事を言って了承してもらったが、果たして私が目をつけたのは世界の内戦を記した手記だ。

これを書いた人ならば、当時どこで日本人が多くいたのかがわかる筈だ。

 

と、そうだとすれば善は急げと言ったところでマッタがかかった。他愛のないことだが、再従姉妹の彼女が私と話をしたいと言い出したのだ。まあ、別に悪いことでもないので了承したのだ。

 

彼女の話の内容は、許嫁の事だった。私には到底関係のないものだが、もしも祖父がロマノヴァに行かなければ私もこうなっていたに違いない。

どうやら、彼女は既に婚約まで進んでおりあと2ヶ月もすれば結婚をするのだという。

 

私ももう27なのだから少しは浮ついた話をしたいのだが、私の周りにはそんな人誰もいない。そんな事を話したら、逆に羨ましがられた。自由な恋愛を行える私の環境、自由な職に付けると言う事の偉大さを改めて感じると共に、彼女に同情した。

 

同情こそすれ結局それに対して反証とかそういう事をすることは、私には出来ない。だってそれは他人の家のことだから、だから自分で解決しなければならない事。だから、彼女に言った。

『貴女が動かなければ何も始まらない、何かを学びたいのならば正直に告げてみればどうだろうか?』

 

そう言うも、それは無理だと言われた。それでは何も変わらない、それこそ自分で道を開くことができなければ前に進むことさえ出来ない。それを彼女はわかっていないのか、解っていても雁字搦めに絡め取られて出来ないのか。それでも、私からの助言はそれだけしか出来ないというと、わかってくれたのかそこで話は切り上げた。

 

後日聞いた話であるが、彼女はその後直談判したらしく許嫁との結婚はすれど、勉学は続けても良い事になったようだ。それがどういう道になるのかは当人たちの問題だ。ともかく、私は自分の研究を続けつつ高祖父の事を調べ始めた。

 

 

 




誤字、感想、評価等よろしくおねがいします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

消息

『先生、教えて下さい。どうすれば良いのでしょうか…、我々はどうすれば彼等に勝つことが出来るのでしょうか。先生だけが、頼りなのです。』

 

『その問いに対する答えは、私は持ち得ていない。民衆だけがその答えを持っている。』

 

 

 

 

 

2009年

 

やっと前に進むことができる、私が持っていた研究ももう直ぐ完了する。後は発表は彼等に任せれば良い、共同研究なのだからそれくらいはお願いしても良いはずだ。

私はそう思いつつ自分の部屋から出ると、駅へと向かい新幹線で一路京都へと向かった。

 

この地にはかの大戦での大将軍と言われた将校の研究者がいる。彼等の足跡を辿ろうとした、そういう研究者だ。勿論その結果は、私の高祖父のみ足跡が途絶えていることから、難航しているのはわかることだろう。

 

 

「おお、これはこれはニーナ女史。お待ちしてましたよ、飲み物は何にしますか?」

 

彼は、紅茶に凝っている。異常とも言えるほどに、毎日何杯も何杯も紅茶を飲んでいるそんな噂が絶えない。そして、彼が飲み物を聞く場合、コーヒーや緑茶と言う意味ではなく。ダージリンや

ウバ等の産地から、ブレンド等事細かに紅茶の名前を言わなければならない。

そういうことで、私はルフナを選択肢案内されたソファに腰を掛ける。

 

「君に頼まれていた資料なんだがね、これくらいしか手持ちにはないんだ。1959年の出国者リスト、その中でも高齢な人物にのみ焦点を当てたものだ。」

 

かなり分厚いと思っていたのだが、意外なことにその厚みはざっと160ページ程でしかない。それはそうだろう、この当時冷戦期の真っ只中。国外に出ることがどれ程難しいことであるか、自らの勢力圏から出るにはそれなりの理由が必要だったのだから。

 

「残念なことに、そのリストの中には生駒将軍の名前は無かった。だが、気になる部分は23ページ目を開いてほしい。明らかに行間がおかしい、意図的に誰かが揉み消した形跡が見られる。問題は、そこにはどこへ行ったのかと言う部分が欠けているいるということだ。持ち帰って調べてくれ、もしかすると血縁者だからこそわかるものも、あるかもしれない。」

 

 

 

とそう言われ、私は資料片手に家へと帰る。血縁者で解っていたのなら、こんな苦労するはずもないのにと心で思う。

数日後、親族たちを集め会議を開いた勿論内容は高祖父の事で、何かしらの手がかりは持っていないかだ。

 

老人達は皆80近く一番上では100を超えている。朧気になり始めている記憶を何とか総動員し答えを導き出そうとしている。

衰えた頭で嘗ての昔の情景を思い出すことは、至難の業か?しかし、一人気になることを行った人がいた。認知症を発症し、こんなところに集めても良いのか、と言われた長女だ。

 

「お父さん、お父さん。お馬さんはどこにいるの?」

 

お馬さん、何故馬なのか。そして、また一人思い出した。

 

「そう言えばそうだな、爺さんは乗馬を度々していたそうだ。元々、騎兵になりたかったとかなんとか言ってたな。」

 

当時は確か、国外への渡航にはまだ船舶も残っていた筈。だとすると、そこまで考えてから資料を見る。馬を国外に持っていこうとした乗客がいるはずだ。そう確信にも似たものが頭を駆け巡る。そして、それは正に正しかった。

 

貨物の中に宛先の明確でない一頭の木曽馬がいたのだ。本来これ等の貨物には宛先と送り主、そして金額等が添付されるはずなのだ。ところが、これには何も書かれていない。そしてその位置はあの名簿の中で唯一歪んだ場所と一致している。

 

この馬が、降ろされた場所はイランのシャヒッド・バホナー、そんなところに普通馬を一頭だけなんて送るはずない。

確実にこれが、高祖父の痕跡だと断言できる。それしかもはや、信じる他ない。

 

行くのはいいが、私も色々と準備しなければならない。祖父達は年齢的にこれが最後のチャンスだろう。年内にも探さなければ、イランの大使館に聞くしかないかもしれない。




木曽馬  この世界のものはこちらよりも馬体が良い
体高150センチ  500kg  農耕 乗馬 荷馬等の幅広い運用をされた。
長きに渡る品種改良により、先端恐怖症を克服した稀な馬種となっている。


誤字、感想、評価等よろしくおねがいします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最後の戦い

遅くなり本当に申し訳ない。エルデンリングをやったり、ウクライナでの戦争が起こったりで、そっちにばかり意識が向いていました。


『これ程まで人員が揃っているにも関わらず、どうして私に声を掛けた?』

 

杖を付きながら、老人はこちらを向いてそう言った。

 

『これでも、進行されれば連中は止まることは無いのです。奴らの後ろには、日英がいる。国家総動員令を出しても、戦力はあまりにも足りない老人の手も借りたいほどに。』

 

目を細めこちらを見据える、その目の眼光は自分を射殺そうとするかのようだ。それでも、直ぐに何を思ったのか老人は前へと進み、段の上へと立った。

そして、彼を見つめる人々は彼の声を聞き多くの歓声を浴びせた。

 

そして、壇上から戻った彼は彼を案内したものに告げた。

 

『日英が後ろにあるにしては、動きが雑だとは思わないかね?私も年だけはくっているから君たちよりかは解るつもりだよ。』

 

 

 

 

 

1960年

 

聖なる侵略というイランとトルクメニスタンの間で起きた戦争があった。世界最後の宗教戦争とでも言うべき戦争であり、国連軍が派遣された一度目の戦争。

 

イスラム原理主義の元、かつての領土であったトルクメニスタンを取り戻すべく、イランは一部地域の人々がトルクメニスタンからの砲撃が行われた。という理由で宣戦を布告した。

結果的に言えば、トルクメニスタンの判定勝ちというべきところ、国連軍の派遣までの3週間を生き延びたのだ。

 

この戦争では開戦当初、誰もが戦争へと発展することを予想することが出来なかった事で知られており、この戦争の半年前には中立国どうしでの不戦の誓いを立てたばかりであった。

また、イランの当時の政権を握っていたムハンマドは、トルクメニスタン大統領と、良い関係を持っていることで知られていた。

 

これにより、まさか半年のうちに政情が悪化し宣戦布告にまで発展するとは考えられていなかったのだ。

もっとも、当時のイスラム教の宗派の対立というものを確実に理解している国は少なく、当事者たちが空気を感じてわかる程度の認識であったのだ同情の余地はある。

 

しかしながら、国連はこの戦争を察知できなかったのは事実であり、後にこれらのことからより戦争を監視するための組織を作ることに繋がった。

 

 

さて、この戦争での両軍の戦力差は以下のとおりである。

 

トルクメニスタン

 

総兵力20万

 

戦車0

 

対戦車車両720

 

戦闘車両800

 

制空戦闘機120

 

対地攻撃機72

 

 

イラン

 

総兵力60万

 

戦車420

 

対戦車車両1200

 

制空戦闘機400

 

対地攻撃機130

 

 

一見すればイランが有利に見えるだろうが、全てを防衛に回したトルクメニスタンに対して、イランは周辺諸国からの侵攻を警戒して大凡半数しかウズベキスタンに向けることは出来ておらず、これが結果的にウズベキスタンの有利に働いた。

 

ちなみにであるが、この当時両国で使用された重火器の性能は概ね互角。それどころか、小銃から戦闘機、攻撃機は欧州から買い付けたものであり、性能はまったく同じだ。

従って殆どの戦線でミラーマッチのような状態である。違いがあるとすれば、イランはpz.3というドイツの第一主力世代主力戦車の初期型が配備されていること。

トルクメニスタンは、独自のOhey1という対戦車自走無反動砲を配備していたことだろう。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

この両国、日英との関係は一切無い。それどころか、中立であるためにその恩恵は受けられないので、欧州との関係がどちらとも捨てられないだけに武装は同じであった。両国で共同で買い付けたものもあるほどに。

 

それ故に侵攻戦をかけるイランの兵器の性能は筒抜けであり、自国産の車両を有するトルクメニスタンが、ある意味で有利な立場となった。防御に特化した戦術を駆使し、その動きは蟻塚の兵隊蟻のように己の役割を担う。

 

国民国家という言葉が記すのは言葉だけでなく、文化として意思としてこの国は自分たちのものであると、共有する事こそが重要であり、イランはその事を知ることもなく、ただ〘戦争が始まれば直ぐに降伏するであろう。〙という根拠のない期待でもって戦争を開始したがために、トルクメニスタン軍の猛攻を浴びた。序盤から、彼らの作戦は破綻していた。

 

国境線上に街があると言っても過言ではない、そんなトルクメニスタンは死物狂いだ。食料は北東部のウズベキスタンとの国境線付近で栽培され、砂漠を超えて前線へと運ばれていく。

幹線道路というよりかは、ディーゼル車両の鉄道での輸送が頼りとなっていたが、その分大量の物資を提供した。

 

山岳を突破出来ずにいたイランは突破口を求めて自然と、より平地へと進むためにカスピ海へと進路をとる。だが、そこにも堅牢な守りを敷かれどうしようもないほどに、停滞した。

 

事態を重く見た上層部は、戦力を海外から注力することを決意し日本国の独立した軍事会社(この企業は現存していない)から、軍事顧問として数名を雇い入れ事態の打開をはかる。

当時の軍事顧問として雇われた者たちの手記にはトルクメニスタン軍の動きに驚愕していたことが読み取れた。

 

なぜなら、その動きはかつての自分たちが所属していた、大日本帝国での一部で見られる動きに酷似していたからだ。その動き自体は流動的な防御に、より迅速な陣地転換。正しく機動防御と言える。塹壕戦であるにもかかわらず、そんなことを成し遂げるにはとてもではないが小国ができるようなものではないと。

自分たちはいったい何と戦おうとしているのか、そう彼らを悩ませた。

 

そして、そんな彼らがいても3ヶ月もの間戦争が続き、遂には国連が動き出す。

重い腰を上げた者たちは拳を大きく振り上げようとして、イランは止まった。

 

周辺の国々に国連軍が集結するその前に、理性を取り戻したのか時の政権が転覆したのだ。もっとも大きく言うならば暗殺が起こったとでも言うべきだろう。そして、内戦が始まりいつの間にか戦争はトルクメニスタンの勝利で幕を閉じた。

 

 




次回今章最終回です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ

その地に伏すは老人と、その家族であろう人々。彼らは一つの立派な石碑の前で両手をあわせ、献花台に伏している。イスラーム的な動作と、仏教的神道的な動きが合わさったようなそんな奇妙な参拝である。

 

あたり一面は煌々と太陽が照らす砂漠、そこには誰もが人が住めるような場所ではないことは一目瞭然であり、献花台もまた半ば埋没している。それでいて、きちんと手入れが行き届いて見えるのは、砂漠という立地のため故か。

 

焼けた硝子のような砂で献花台に伏すのは普通であれば火傷を負いそうなものだが、彼らの服装は実に理にかなう長袖である。

しかし、彼等の先に名を記すものも無く誰に対して作られたのか、地元の民すら解らないそんなものに彼等は一つの花紫のオダマキを置き去っていった。

直後砂漠は吹き荒れ、置かれた花を見事に吹き飛ばし塵の彼方へと運んでいった。

 

まるでそんなものをここに置いても意味はないと、そう墓の主が言っているかのように。

いずれは忘れ去られ砂へと沈み、完全に風化し歴史の表舞台から消え去るであろうその墓。

 

その様式は決してこの地方特有のものではなく、どちらかと言えば西洋的なモニュメントにも見える。

それは、そういう習慣のないこの地方の者たちが一生懸命にそれを考えた結果だろう。

それでも、こんな砂の中では長くは持たない。

 

家族と思われる者たちが現地人と話を始めるが、彼等は首を立てには振らない。むしろそれを拒み続ける。

遺言というものは守られるべきであろう、それを破ればそれは死者への冒涜に他ならない。神もそれをお許しにはならない、とでも言いたげである。

 

もっとも、死者にとってはどちらもどうでも良い事だろう。何故なら死人に口はないし、思考する脳はないのだから。

 

 

 

 

一人の人間の生き死にが歴史を左右するということは珍しいことで、彼の死もまた左右するということはなかった。

彼 生駒徳久 が大日本帝国からいなくなったとき、若干の陸軍内での権力闘争があったようであるが、体勢に対した影響は出ていない。

 

そして、時代の流れとともに日英の冷戦となって現代へと至る。冷戦も表向きには終結したように見えていようが、それでもいつ戦争が起こるのか、軍部や政治家はピリピリとしている。

小規模な紛争、非対称戦が数多く起り国連軍がその度に組織され紛争解決に奔走する。

 

日本の傭兵は。いや、世界的な傭兵は、こういうとき必ずと行っていいほど、紛争の原因に挙げられる。彼等の構成員に国籍は関係ない、まるで山賊のようなものでもはやスポンサーのためならば、どのようなこともいとはない。

反政府勢力であったり、政府勢力に必ずと行っていいほど存在する。その度に日英は非難される。

『どうして奴等を止めないのか』と、止めないのではなく止められないのだ。

 

彼等の実体が多国籍化した、マフィアのようなものでありその資金源は謎に満ちている。

『Mercenary Imperial 傭兵の帝国』と呼ばれる組織だ。

その名はかつては日本のものであった、それは今は昔のことである。

 

 

 




遅れて申し訳ない。仕事とかでごたつきました。

今話で、本編は終了します。

もっと細かく色々な面を作れれば良かったかなぁと、反省しながら次の話を考えております。

次の作品なのですが、この世界の過去アメリカ西海岸の開拓者を考えております。時期としましては1700年代前半ごろとしておきます。年表では、ラオスと同時期としておきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

次回作予告

 

 

 

もしよろしければまた見ていただければ幸いです。

 

本作では私のにわか知識によって描けない部分が多々存在しておりました。

もし書き直すことが出来れば書き直したいものです。また、そのときには書き方を統一してより読みやすいものに出来たらと思っております。

 

 

 

 

このMercenary Imperial Japanの世界の過去の話を大まかにした作品です。

 

https://syosetu.org/novel/288514/

 

 

今までご覧いただきありがとうございました。

 

 

以下文字数稼ぎとなります。本文ではありませんので飛ばしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん  

 

 

いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむういのおくやまきようこへてあさきゆめみしえいもせす

いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむういのおくやまきようこへてあさきゆめみしえいもせす

 

西暦1633年寛永10年、徳川家光より全国の大名に対して、ある勅がくだされた。

 

 

 

キリシタンに対する弾圧を更に強める事、スペインに対する備えを行う事、そして外洋船舶の建造である。

 

 

 

このときの世界は、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス等によるヨーロッパ勢の海外進出が盛んに行われ、そして多くの対立構造を作り出していた時代。

 

スペインとオランダは長きに間の戦争〔80年戦争〕の真っ只中であり、互いに国力をすり減らしていた。

 

そして、アジアに目を向ければもう各地に欧州の植民地支配構造ができ始めていた頃である。

 

 

 

ちょうど同じ頃、東アジアの北東部現在で満州に当たる付近では、後金が勢力の拡大を行い明との対立が激化し戦争へと突入していた頃である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。