アンナとゾーイ (蚕豆かいこ)
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アンナとゾーイ
アンナ・ポペスキューは母親から、しばしば「おまえはレイプされて生まれた子だ」と聞かされた。
体から酒のにおいがにじみ出てくるくらいウオッカを喰らって悪酔いしたとき、あるいは男に――自業自得の感が強いとはいえ――捨てられたとき、もしくはその両方のとき、母は決まって鼻にしわを寄せて、毎度毎度まるで初めて明かすようにしてののしった。「おまえはあたしが十四のとき、リヴァー・オークス・ドライヴの向こうにあるバプテスト教会で牧師にレイプされたときに孕んだ子なのさ」
だが、母親をレイプしたという男は、ときに牧師であり、ときに学校の副担任教師であり、ときに〈あらゆる戦争を終わらせるための戦争パート2〉でヨーロッパに行ったきり連絡のつかない叔父であったりした。母が話すたび、アンナの父親は変容した。
いずれにせよテキサスは、痩せ細った小麦と綿花の畑が黒い風とともに地の果てまで続くかと思われるほど広いくせして、レイプ被害者のほうが咎められ、唾を飛ばされる土地である点でだけは、一つ星の旗の下に染め抜かれていた。アンナと母の生家がある「死刑の町」ハンツヴィルはとくにその色が濃い。だから母は泣き寝入りするしかなかった。レイプされたと訴える女は恥を知らない、だからそんな女のいうことは信用できない。自分はレイプされた被害者だと主張できる相手はアンナだけだった。しかもアンナには母親をレイプした男の血が半分流れている。二重の意味でアンナは共犯者だった。
だが、どの家であっても三世代前の不祥事から昨夜の夕食の内容まで知れ渡っている狭い町では、アンナと母親の身上を知らない者はいなかった。町民も母を襲ったのがどこのだれかは正確には知らない。重要なのは、アンナの母が、レイプされるほどふしだらな女だったということだ。
バーではカウボーイハットにブーツの薄汚れた男たちがバドワイザーの瓶片手にいう。「女ってのは、てめえから誘って寝たくせに、翌朝になるとレイプされたってわめく生き物だからな」。家を守るその妻たちが井戸端会議で口々にいう。「そういうことされたのは、彼女のほうにも下心があって、のこのこついていったからでしょう。本当に嫌なら断れたはずだもの。まだ十四だったの? まあ、小さい娼婦だなんて、けがらわしい!」
郊外にあるハンツヴィル刑務所でオールドスパーキーが老体に鞭打って仕事をするとき、つまり電気椅子に死刑囚が座らされて死刑が執行されるときは、罪状にもよるが、全米から大勢の記者たちが市に駆けつけて、町はちょっとしたお祭り騒ぎになる。屋台も出る。死刑反対派のデモを嘲笑いながらビールを飲むのもいい。そして死刑がない日はアンナの母親を攻撃するのが代わりの娯楽だった。死刑囚は死刑になるようなクズだから電気椅子にかけられると胸がすく。レイプされるような淫乱な女はクズだからいくら攻撃してもいい。……
母は耐えかね、ますます酒に溺れる。酔ってアンナに暴力をふるう。家にアンナの居場所はなかった。かといって外を歩けば「あのあばずれの娘」と大人たちににやにや笑われ、あるいは正義の怒りをこめて石を投げられる。
子供にとって世界は家と学校しかない。家にはいつ爆発するかわからない火薬庫のような母がいる。学校へ行けば、苛烈ないじめが待っている。同い年の男の子たちがデイヴィ・クロケットのあらいぐまの帽子もとらないくらいからアンナは痛めつけられてきた。彼らはスーパーマンだったり、バットマンだったり、ザ・フラッシュや、キャプテン・アメリカだったりした。あこがれのヒーローたちになりきって、力を合わせて、アンナというヴィランをやっつける。男の子たちは皆たまらない高揚感に熱狂して毎日夢中になった。
女の子たちは、殴る力が弱いので、道具を活用した。はさみでアンナの髪をふぞろいに切ったり、接着剤で尿道を性器ごと閉じさせたりした。
小学校五年生の夏、クラスでいちばん体格の大きなクーパー・バージェススミスという男の子が、学校から出てすぐのところでみつけた犬の糞を素手でつかんできて、爆笑するクラスメイトたちに押さえつけさせていたアンナの口にねじこんだ。クーパーと母親が、彼の父親に虐待されているということは、なかば公然の秘密だった。アンナも真夜中にブロード・モア・ドライヴとウォーターズ・エッジ・アット・ザ・エイティーンを挟んだバージェススミス家からクーパーの父親の怒鳴り声を聞いたのは、一度や二度ではなかった。
アンナが糞を飲み込まず、吐いたことにいらだったクーパーがおもいきりこめかみを蹴り飛ばした。気を失ったアンナはそのまま捨て置かれた。昏倒しているアンナを助けようとする人間はいなかった。覚えのない痣が増えていたから、通りがかったさいにフットボールの練習くらいはしていったのかもしれない。
そんなだから持ち物がなくなるくらいは日常茶飯事だった。はじめのころはアンナも教師に相談した。教師はうんざりしていった。「きみは友だちを疑うのか? 泥棒だって? きみはクラスメイトを犯罪者にしたいのか?」。つまり、彼はこういいたいのだ、とアンナは理解した――おまえが泣き寝入りしていればすべて丸く収まるんだ、すべて。アンナの去り際、教師が同僚にため息をつきながら漏らしたのが聞こえた。「片親だからろくな子に育たないよ。まして、あの母親だからな」
アンナを守ろうとする教師はいなかった。それどころか、いじめの指導をする教師さえいた。
アンナが純粋なブロンド白人だったからこそ、まだその程度ですんでいた。
近所に黒人の一家が引っ越してきたことがあった。周辺の白人たちはロッキー山脈よりも想像力をたくましくして、その黒人一家にあらゆる嫌がらせを断行した。いじめという労働には安息日はなかった。彼らのメッセージはシンプルだ――ただちにここから出て行け。アンナの母親も嫌がらせに参加した。ことさら精力的にだ。一家に一刻も早くこの地を去りたいと思わせるためにあらんかぎりの知恵を絞った。いじめられるつらさを知っている母だった。その母が誰に命じられたわけでもなく嬉々としていじめる側に回っていることが、アンナには不思議だった。抑圧された人間は、痛みを経験して他者に優しくなるのではなく、さらなる弱者に“報復”したがる生き物なのかもしれなかった。
半年後、黒人一家の三人いる子供のうちの十九歳の長男が、ウォーカー地方裁判所の前で銃を乱射した。三人が死亡し、八人が負傷した。被害者はいずれも白人だった。犯人は警察が駆けつけるやサム・ヒューストン・アヴェニューの路上で自らの顎を撃った。この悲劇的な乱射事件にハンツヴィルの白人たちは「やはり黒人は凶悪なけだものだ」と口々に言いあった。しばらくもしないうちに、家族から殺人犯を出した黒人一家の家は売り家になった。町は平穏な日常に戻った――黒い異物がまぎれ込んで気の休まらない非日常から、あばずれのポペスキュー母娘に唾を吐く日常へと。
アンナが十四歳になった一週間後、母親は蒸発した。顔にサインペンで「わたしはファックが好き」と落書きされ、服もずたずたに切り裂かれたので下着姿で学校から帰ると――例によってすれ違った町民らに反キリストだとか娼婦の子とか罵られて石を投げられたので、全身に打ち身ができていた――小さな家に、母の姿はなかった。三日経っても母が帰ってこないので、自分は捨てられたのだとようやく覚った。
児童福祉施設や市の職員が草の根を分けてアンナの親類を探した。もし市内でミドルティーンの白人の少女が野垂れ死にでもしたらさすがに市の責任問題になりかねない。アンナはアラバマのアンダルージアにいる母方の祖父母に引き取られることになった。
ヴィルヘルム二世に目にもの見せた〈サン=ミエルの戦い〉からの帰還兵でもあった祖父は、体罰こそ女と子供をまっとうな人間に矯正させる唯一の手段と信じ切っていて、アンナも初日からベルトでぶちのめされた。老齢とはいえ大男だったので、その腕っぷしから生み出される暴力はあのクーパーでさえ足元にも及ばなかった。人間はあまりにもひどく殴りつけられると脱糞してしまうのだということをアンナははじめて知った。祖母はアルコール中毒であるばかりか、夫に影よりも従順に従うばかりで、アンナを庇うなど想像の外だった。
一年も経たないうちに、アンナは祖父母の家を飛び出すことになる。
あてもなくさまよいながら、アンナは自らの境涯を顧みた。なぜ自分は幸福な人生を歩めないのか。母がレイプされたからだ。その娘だからだ。アンナは自分自身を激しく憎んだ。おまえが淫売の娘だから、あたしはこうしてお腹を空かせて、帰る家もないホームレスになっちまったんだ。なにもかもおまえのせいだ。アンナは自分への復讐に燃えた。自分が最も忌み嫌う行為を手づから犯して、できるだけ痛めつけてやるのだ。
復讐の手段は売春だった。生まれてこのかた淫売の娘と面罵されてきた。人生をねじまげた姦淫こそが自分にふさわしい罰に思えた。ヒッチハイクや、食事や、ときには一本の煙草のために売春した。アンナは笑った。見なよ、あんたのおまんこは、煙草一本ぽっちの価値しかないのさ! 自分の心に亀裂が入るのを感じて、アンナは勝ち誇る。ざまあみろ。
各州を娼婦として根無し草みたいに放浪した。十五年で回った州は両手の指より多い。どこであっても体はできるだけ安く売った。ほんとうはただでもよかった。しかしながらアンナにとってはたったひとつの資本でもあった。
年明けに北ベトナム人民軍が無敵のはずのアメリカ軍を打ち負かし、四月にキング牧師が凶弾に倒れたかと思うと、六月にはロバート・ケネディも兄と同じ運命をたどった一九六八年のその日、アンナはイリノイ州ウィネトカに流れ着いていた。せせこましく家が寄り集まっている町だった。十月も中旬に差しかかり、メキシコシティーオリンピックの熱狂をよそに、ミシガン湖周辺にも秋が忍び寄っていた。何日か前の客のせいで肛門に鈍痛がまだ残っていたアンナは、ニック・コーウィン・パークの木立の影を寝床に選んだ。まちがいだった。突如現れた三人の少年たちにアンナは取り囲まれ、レイプされた。アンナは激しく抵抗した。なぜなら、アンナの肉体はアンナの自由意思によって責め苦を受けねばならないのであって、不本意な強姦は、肉体を貫通してアンナ本人をもまとめて破壊するからだった。
サイレンよりも高く叫んで両腕を振り回した。つぎの瞬間、頭部にすさまじい衝撃が走った。世界が激しく揺れた。立っていられなかった。ビールびんで頭を殴られたとわかったのは、星のまたたく夜空を背景に、少年の一人がびんを持った手を振り下ろそうとしているのが見えたからだった。少年は何度もびんをアンナの顔に叩きつけた。そのたびにアンナの手足は別の生き物のように跳ねた。そのさまがおかしかったのか、少年らの笑い声が聞こえた。
腕で頭をかばい、仰向けの状態からうつ伏せになって這おうとした。後ろ髪を掴まれた。アスファルトが遠ざかり、直後に一瞬で目の前に迫ってきて、視界は白く染まった。アンナは気絶したのだ。次に目が覚めたときには、病院のベッドの上だった。
看護婦に呼ばれた黒人の刑事が、フランケンシュタインの怪物さながらに管につながれ包帯だらけで寝かされているアンナを訪ねた。刑事はウェイントラウブ警部と名乗った。
「犯人どもはきっと捕まるだろう」
ほかに何を言われたかアンナは覚えていない。だがシドニー・ポワチエの時計を二十年くらい進めたような老刑事は、アンナをことさらに蔑むでもなく、被害者として丁重に取り扱った。アンナは、信じてみようと思った。
歩ける程度には回復したころ、ウェイントラウブから犯人グループと思しき三人を拘引したので面通しをしてほしい旨の連絡があった。警察署でマジックミラー越しに揃いのオレンジのジャンプスーツを着せられた十五人の男たちと向かい合った。アンナは彼らのなかから難なく三人を見つけた。それは警察側が犯人と目していた三人とぴったり合致していたので即座に送検された。
裁判の前日、アンナを弁護士が訪問した。退院したアンナは近辺でいちばん安いモーテルに泊まっていた。既製品ではないスーツに身を固めた弁護士は、場違いもはなはだしかった。
「起訴の取り下げを考えていただきたいのです」
開口一番がそれだった。アンナは証人として出廷する予定だった。
「頭蓋骨にクソが詰まってんのかい?」
「わたしは起訴された少年の一人のご両親に弁護を依頼されました。依頼人は起訴を取り下げていただければあなたにお詫びもかねて一〇〇〇ドルを支払う用意があると」弁護士は厚みのある封筒を南北戦争の時代に作られたかのような古びたナイトテーブルに置いた。「悪い話ではないでしょう」
「こっちは頼んでもいない救急車を呼ばれて、病院に入れられて、しめて九五〇〇ドルの請求書がきてるんだけどね。あんたのくそったれ依頼人のくそったれなどら息子のおかげでね!」
「なにか勘違いをしているようですが、わたしはあなたの年収を一時間で稼ぐことができる。それに見合う仕事をしているからです。裁判が開かれたとしても、わたしは無罪を勝ち取れます。それがわたしの仕事です。口をつぐんだだけであなたは一〇〇〇ドルが手に入る。出廷すれば、カネはもらえず、九五〇〇ドルを全額自力で返済することになり、それでいて裁判にも勝てない。利口な選択をしてください」
「帰っとくれ」〈タレイトン〉の煙草を指に挟んでいた手が震えた。「帰っとくれ!」
翌日。公判の冒頭陳述で、被告人の三人はいずれもアンナのほうから誘ってきた、だが終わり際にいきなり叫ばれて、わなに嵌められたと思ってとっさに逃げただけだと無罪を主張した。アンナは激昂した。
「なにいってんだ、よくもそんなぬけぬけと……」
「静粛に。証人は求められたときだけ発言してください」
判事にたしなめられても、アンナの怒りは容易にはおさまりそうになかった。裁判は波乱の幕開けとなった。
検察立証でアンナは予定通り証言台に立った。
「あなたを襲った犯人はこの場にいますか?」
「ああ」
「その犯人を指さしてください」
アンナはふんぞり返る三人に人差し指を順番に突きつけた。
「本事件のあった十月三日の午後十一時十二分、警察に事件現場の近隣住民から通報が入っています」クック郡の地方検事が犯罪立証を行なった。「女性が血を流して倒れていると。通報者は日課にしている犬の散歩中でした。被害者はアンナ・ポペスキュー。対応に当たった警官が救急車を手配し、彼女はアドヴォケイト・スーザラン総合病院へ緊急搬送されました。被害者の膣内および直腸内からは三つの異なる血液型の精液が検出されました。血液型は被告人三人と一致します」
検事は判事に鑑定書を渡した。
「身寄りのない無抵抗な女性を狙った卑劣な犯罪です。どうか厳正なる判決を」検事が陪審員たちに訴えかけてしめくくった。真摯な表情で頷いた陪審員も何人かいた。
被告反対尋問では、被告人の弁護士――はした金で示談を求めた男だ――が、きのうのことなどなかったかのような何食わぬ顔でアンナに質問した。
「あなたのご職業は?」
「異議あり」検事が声を上げた。「本件とは関係のない質問です」
申し立てを受けた判事が老眼鏡から弁護士を覗き込んで意図をはかった。
「本件と深く関わる質問です」弁護士は余裕のある立ち振る舞いを崩さず法廷全体に語りかけた。「なぜなら、彼女の答えですべてが明らかになるのです――レイプなど最初からなかった。悪意あるでっちあげだと」
アンナはたちまち沸騰した。「なにいってんだ、この糞野郎……」
「静粛に。法廷侮辱罪で退廷を命じますよ」
警告した判事は弁護士に続きを促した。
「彼女の職業こそが、本件の鍵を握っているのです」
判事は弁護士からアンナに視線を移した。「証人は弁護人の質問に答えてください」
「娼婦だよ」アンナはへの字口で答えた。「流れのね」
陪審員席の空気が変わった。
「なんだい、娼婦ならレイプされてもしょうがないってのかい!」
「警告は三度目です。次はないですよ」判事がガベルを叩いた。
「あなたはこのイリノイ州で娼婦として仕事をしたことが?」
弁護士が目元に嘲笑を滲ませた。証言台をつかんで身を乗り出しているアンナは奥歯を嚙み砕きそうになっていた。
「したよ。それが?」
「回数は?」
「なんだって?」
「何人の客に買われましたか?」
「異議あり――」焦燥を募らせた検事が立ち上がった。「悪意のある印象操作です」
判事も認めた。「弁護人は必要な質問のみをするように」
だが、アンナに対する陪審員たちの心証を悪化させる弁護士の戦略はすでに達成されていた。それに――弁護士にはまだ手札があった。
再尋問では、検事が再びアンナに質問した――経済的事情からやむをえず娼婦をしていること、州法を犯していないこと、あくまでも被告人三人にレイプされた事実には変わりないこと、といった回答を引き出し、アンナのイメージ回復を図った。だが、陪審員たちの同情を引こうとして、アンナが娼婦にならなければならなかった理由まで訊いたのは、失敗だった。アンナは正直に答えた。つまり自らへの復讐だと断言した。淫売の娘として生まれた自分を罰するために娼婦へ身を堕としたのだと。煙草一本と引き換えに性交したときには溜飲が下がったとも訴えた。検事の「しくじった」という顔は見ていなかったが、陪審員たちのアンナを見る目が急速に冷めていったのはわかった。彼らの顔はこう語っていた――この女のいうことは支離滅裂で信用できない。アンナはもどかしかった。どうしてわかってくれない?
アンナをよそに判事が被告人一人ずつに棄却請求をするかどうか訊ねる。三人ともにやにやしながら請求すると答えた。判事が努めて事務的にアンナに棄却するか否かを訊く。アンナは感情的になる。「するわけないだろ! あたしは被害者なんだ!」
裁判は次のステップに移った。被告立証だ。被告人の弁護士はジャケットを整えて、
「本日は、被害者――と呼ぶのが正しいかもわかりませんが――を買ったことのある人間に証人として来ていただいています。彼女の素顔を知る重要な判断材料となります」
この場に呼んでもよろしいですか、と判事に許可を求めた。判事が許可した。
証言台に立った男には確かに見覚えがあった。頭は禿げているがひげが濃いその白人男は、聖書に手を置いて宣誓したのち、弁護士の質問を受けた。
「あなたは最近、娼婦を買ったことがありますか?」
「異議あり。弁護人は本件とは関係のない質問を繰り返しています」検事の声は心なしか自信に欠けていた。
「だいじなことです」弁護士は自信にあふれていた。「われわれは無実の人間たちを犯罪者として裁こうとしているのかもしれないのです」
判事は弁護士に頷いた。「質問を続けて」
満足そうな笑みで弁護士は先の質問を繰り返した。
男は答えた。「ええ、一度」
「買うときに、お互い交渉すると思います。内容や金額なんかを」
「そうですね、しました」
「具体的にどういった交渉を?」
「彼女は」男はあごをなで、ねっとりとからみつくような視線をアンナに向けた。「まずわたしに、なんでもいいからやりたいことを言ってくれと。そこから、できるできないを交渉したいと」
「あなたはなんと?」
「ほんとになんでもいいのかよって思って、へへ――だめもとで、尻を使いたいっていったんだ」
「すると彼女はなんと答えたのですか?」
「いいよって。本当かよって訊きなおしたくらいでさ」
「それで、実際に彼女の“お尻”は使ったのですか?」
「ああ、もうばっちり。彼女、おれが突っ込んでるあいだ、めちゃくちゃ喜んでたぜ。相当な好き物だと思ったね」
陪審員席から嘆きのため息が盛大に漏れた。十字を切る敬虔な者もいた。判事がガベルを叩いて注意した。
一方でアンナははらわたが煮えくり返りそうになっていた。自分の身体にひどいことをすれば復讐心が満たされる。肛門を使わせるのもその一環だった。「喜んでた」のは、尻までもが犯されて、その苦痛と屈辱もあいまって、自分がとことんまで堕ちたことが実感できたからだ。気持ちよかったからではない。それでは罰にならないのだ。
「それだけですか?」
「いいや。終わったあと、おれのを口できれいにしてくれたぜ。てめえのクソがついた、おれのナニをよ」
ついに陪審員らの数人が口を押さえて退廷した。
休廷を挟んで裁判が再開されたが、依然として場は弁護士の支配下にあった。
「ミス・ポペスキューは、客が望めば肛門を使わせ、口淫もする娼婦でした。そんな彼女の膣内は言うに及ばず、直腸から精液が検出されても」弁護士は大げさに肩をすくめてみせた。「なんの不思議もありません。彼女はただ仕事をしただけだったのです。そしてコトが終わったあと、被告人らとその親を脅すためにレイプ被害をでっちあげた」
「異議あり。それでは被害者が重傷を負っていた説明がつきません」
しかしこの異議申し立ては検察の勇み足だった。弁護士が見逃すはずもなかった。
「では被告人らが彼女に暴行を加えたという証拠は? 被害者が重傷を負っていた説明がつかない? それを調べるのは警察の仕事です。賢明なる陪審員のみなさんにおいては、すべからく法の精神を思い出していただきたい――疑わしきは罰せず。われわれは無実の証拠がないものを有罪にするのではなく、有罪の証拠がある人間だけを罰しなければならないのです。被告人の三人がたとえ被害者と性交に及んでいたとしても、それが強姦であったかどうかをどうやって証明するのです? まさか、被害者の訴えを百%鵜呑みにして、証言だけを証拠として、被害者が指さした人々を有罪にしていくのですか、魔女裁判が横行した暗黒時代のように? もしそんな蛮行がまかりとおってしまったなら、それは司法への冒涜、民主主義への冒涜、この国の基本理念である自由と平等への冒涜にほかなりません。――証言。それは唯一絶対の証拠とするにはあまりにあやふやで不確かなものです。もし偽証だったら? あるいは勘違いだったとしたら? 自称被害者の指一本で、無実の人間が刑務所に送られ、電気椅子にかけられる、みなさんはそんな世界がお望みですか?」
陪審員の幾人かが思いつめた顔でかぶりを振った。
「われわれはよく考えなければなりません」弁護士の熱弁は続いた。「もし、証言だけを頼りに前途ある善良な若者たちに濡れ衣を着せてしまったら? イリノイ州とアメリカ合衆国の司法の歴史に、わたしたちの名前とともに汚点が残るでしょう、二十世紀も半ばを過ぎたこの現代に、われわれは時計の針を何百年も巻き戻し、証拠もなく人を裁いていたあの野蛮な時代へ退化してしまったのだと。そんな悪しき判例を残せば、次は必ずわれわれに報いが返ってきます。他人事ではないのです。まったく見たこともない“被害者”が、あなたや、あなたの大切な人を指さして、ある日突然こういうのです――あいつにレイプされたと。それはあなたかもしれない。あなたのお子さんかもしれない」
弁護士は陪審員に手を差し伸べながらいった。陪審員たちはみな熱心に聞き入っていた。
「事件の真相はこうです――被告人三人は被害者に誘われて性交に及んだ。女性の身体に興味のある年頃です。しかたないでしょう。しかし終わったあと、被害者は叫んだ。レイプされたとうそをついて脅迫したかったのか、その真意はわかりません。びっくりした三人は思わず逃げ出した」弁護士はきょとんとした顔を陪審員らに印象づけてから、ふたたび口を開いた。「それで終わりです。そのあとのことは被告人たちは知りません。現場から去ったのですから。たしかに被害者は瀕死の重傷を負った状態で発見されましたが、三人が去ったあとにだれかに襲われたのかも。そういう可能性を排除できない以上、彼らを裁くことは適当ではない――司法に携わる者のひとりとして、わたしはそう思うものであります」
完全無欠の被告立証だった。アンナはあきれて声も出なかった。検察の反対尋問も、反証も、最終弁論も、もはや陪審員十二人の結論を動かすことはできなかった。陪審評議のため別室へ移動した陪審員たちはやけに早く戻ってきた。
「われわれ陪審員は、全員一致で、被告人三人を無罪にすることを決定しました。ミス・ポペスキューの証言には信憑性を疑わせる部分がすくなからずあり、客観的にみて彼らを有罪にするべき事由が見当たりません」
陪審員を代表する一人が確固たる口調で告げた。
「ふざけんなよ、このオカマ野郎!」
「証人は静粛に」
「あたしはこのガキどもに殴られて、レイプされたんだ。なんでこいつらを守ろうとするんだ、犯罪者なのに! どうしてだ。保護すべきは加害者じゃなくて被害者なんじゃないのかい!」
「証人に退廷を命じます」
判事が裁定を下したとき、犯人の少年の一人が、喉を反らせながら、手で「あっちいけ」とジェスチャーした。激怒のあまりアンナの視界が歪んだ。衝動のまま席を飛び出して三人に飛びかかった。司法がなにもしてくれないなら自分の手で裁きを下すのだ。だが法廷の警備にあたっていた警察官たちの動きのほうが速かった。アンナが被告人席にたどり着く前に追いつき、警棒で渾身の一撃を右肩に浴びせた。アンナは激痛に思わず膝からくずおれた。警官たちは錯乱した娼婦が動けなくなるまで手足を滅多打ちにした。事件の夜の再現のようだった。抵抗できなくなると後ろ手に手錠をかけられ、連行された。そのときの三人の、最高に面白い見世物を見るような笑みが、アンナの眼底に強烈に焼きついた。
勾留されたコートワースの留置場では、警察官たちの嘲る声が漏れ伝わった。「売女のレイプ被害にいちいち耳を傾けてたら、ダンボみたいな耳があっても足りねえよ」
一ヶ月近くして、アンナの法廷侮辱罪については不起訴処分となった。留置場を出たときは雪がちらついていた。
事件はもうすでに無罪が確定して決着がついている。検察側は敗訴したら上訴できない。司法はアンナを傷つけた連中に罪を償わせる機会を永遠に失った。
三人のにやけた顔が脳裏を離れなかった。忘れようとすると、どの記憶を忘れたいか指定する作業が入るのだから、強制的に思い出してしまう。何度もそうしているうちに脳髄にこびりついて固定化されてしまった。寝ても覚めても、食事中も、にやけ面が休むことなくアンナを苛んだ。有罪判決さえ下っていればひと区切りがついたはずだった。事件と折り合いをつけて一歩ずつでも前進できるようになっていたかもしれない。だがやつらは無罪放免され、法的にはアンナを半殺しにした真犯人は不明のままで片付けられている。区切りのつけようがなかった。折り合いのつけようがなかった。これでは前に進む決意など固めようがなかった。
区切りをつけるには、折り合いをつけるには、自分の手で方をつけるしかない。にやけ面をやつらの死に顔で上書きすることでしか、アンナは事件から解放されないのだ。
最初に目に入った銃砲店に入った。釣り具のようにさまざまな銃器が陳列されていた。
「あたしでも使えるやつがほしい」
「なら拳銃だね。この書類に氏名と住所、電話番号、それに社会保障番号を書いて。登録がすんだら連絡する。だいたい一ヶ月くらいを見ておいてくれ」
アンナはあっけにとられた。
「社会保障番号だって? しかも、一ヶ月待てって?」
「規則だからね」
「そんな番号もってるわけないだろ。金と銃を交換してくれりゃそれでいいんだよ!」
「警察を呼ぶぞ」
アンナは店主に中指を立てて店を出た。
しばらくも歩かないうちに、声をかけられた。背の高い白人だった。ハンツヴィルの男たちと同じ目をしていた。
「見てたぜ。売ってくれなかったんだろ」
胡乱だと思っているのを隠さずにアンナは「それが?」と訊き返した。
「訊くが、ニガーを殺すための銃か?」
「なんだって?」
「隠さなくったっていい。クソみたいなきれいごとはなしだぜ。おれもあいつらには脳みそがボイルになっちまいそうなくらい頭にきてる。見たかよ、こないだのメキシコシティーオリンピックの、トミー・スミスとジョン・カーロスを……まさに“より忌々しく、より汚く、より醜く”だぜ。ニガーどもはますます調子づいてきてやがるってわけだ。あんたも街にはびこるスイカとチキンを貪るのがお似合いな黒ナス連中に、アメリカの正義ってもんを教えてやりたいんだろ? あのいかれたジェームズ・アール・レイみたいによ」
黒人たちが権利を主張しはじめていた。新聞やテレビといった表舞台で黒人を見ることが多くなった。保守的な白人たちは目障りに感じ、かえってこれまで以上に黒人への弾圧を強めていた――おまえたちニガーが視界に入ったら不愉快だからおとなしくしていろ、と。
だが、アンナにはどうでもよかった。マルコムXもキング牧師も、KKKも。銃が手に入るならどうだってよかったのだ。
「ああ、そうさ」アンナはなるべく相手が喜びそうな言葉を連想した。口でのサービスはお手の物というわけだった。「ニガーを殺す銃を探してるんだ。あの真っ黒な頭を連中の好きなスイカみたいに吹っ飛ばして、かわいそうなお仲間と一緒にあの世へひとっ飛びさせてくれる銃をね。売ってくれるのかい」
「そうこなくっちゃあな」
男は上機嫌になって自宅へ招いた。汚い部屋だった。黒い民族衣装のようなものが壁にかけられていた。頭衣には白抜きのスカルマークがあった。
「おれの親父は、ブラックレギオンだったのさ」
自慢そうに語った男は、部屋の奥から精肉を包装するようなワックスペーパーにくるんだ、持ち重りのする包みを持ってきた。受け取ろうとすると引っ込められた。
「八〇ドルだ」
「使い方も教えてくれるかい?」
「いいぜ。弾もつけといてやる」
包みを開くと、銀の回転式拳銃が姿を現した。銃身が円筒ではなく六角形になっていた。なにより全長が六インチあるかないかというおもちゃのような小ささだった。隠し持つにはもってこいだ。
「アイヴァー・ジョンソンM1900だ。サーハン・サーハンがロバート・ケネディを殺ったのもこのメーカーの銃なんだぜ」
男はアンナに小さな凶器を握らせた。壁に向けて構える。腕を伸ばすと意外に重くなる。
「死んでもいいやつ以外には絶対に銃口を向けるな。五発しか装填できないが、なに、最初の一発か二発でけりがつかなけりゃ一巻の終わりなんだから問題ない。だが撃ち尽くしたら、ここから銃を下に向けて折る。勢いよくだ。そしたらシリンダーに入ってる殻薬莢が勝手に飛び出す。そして新しい弾を込める。忘れるな! この国では年間三万人が銃で死んでるが、そのうち撃たれて死んだのはほんの一握りだ。たいていはホルスターに戻すときに暴発しててめえを撃ってる。拳銃はしまうときがいちばん危険なんだ――」
アンナは銃をズボンのウエストにねじこんで外へ出た。すれ違う人々がみなアンナが銃を隠し持っていることを知っているように思えた。アンナは虚勢を張るためにわざと蓮っ葉に歩いた。そのうち気にならなくなった。
アンナはパーク近辺で年配の男に絞って売春した。終わって後始末をしているとき、世間話のように「ここいらで、レイプをでっちあげて脅迫しようとしたばかな女がいたそうじゃないか。おかげでこっちまで商売がやりにくくなったよ」といえば、「ああ、子供たちを捕まえてレイプ犯に仕立てようとしたんだからな。あこぎな淫売さ。子供たちの一人の父親とは幼馴染でね。この近くさ」「へえ、どこ? ここから見える?」「グリーン・ウッド・アヴェニューとスコット・アヴェニューが交差する角の家さ。……やつとやるのはかんべんしてくれよ。穴兄弟になっちまう」という調子だ。
家を監視した。雪が積もったある夜、少年が一人出ていった。あとを尾けた。フォレストウェイ・ドライヴ沿いに歩き、隣町のノースフィールドへ続くタワー・ロードと交差する、スコーキーラグーンズという自然公園へ行きついた。ほかの二人はすでにいた。勢ぞろいしたというわけだ。草地にはテントが設営されていた。
音のない夜だった。テントに入った三人の話す声も難なく聞き取れた。「やっぱり、ナタリー・ウッドのおっぱいは最高だよな」「まったくだよ。こないだ、シカゴのカスケード・ドライヴ=インで『草原の輝き』がかかってたんだけど、服の下のおっぱいばかり想像して、たいへんだったよ。〈プレイボーイ〉はおれの世界を変えてくれたんだ」「そのとおり。〈プレイボーイ〉は特別な雑誌なのさ。〈フェイマスモンスター〉がいくら面白くても、おっぱいは見られないからな」「あさってだったか? おまえんちのパリ旅行?」「ああ。つぎにおまえらと会えるのは来年だな」……血気と若さにあふれた、気の置けない友だちとの時間をなにより大切にする、普遍的な少年たちの姿がそこにあった。アンナのことなどとっくに忘れているようだった。だから思い出させることにした。
テントのファスナーをだしぬけに下ろして、顔を突っこんだ。こもっていた少年たちの体臭。そのなかで三人が驚いた顔を並べていた。
「よう、クソガキども」
笑ってみせると、ようやく一人がアンナであることを認めて落ち着きを取り戻した。「なんだよ、クソ淫売じゃねえか。おれたちのちんぽの味が忘れられなかったのか?」
それが彼の遺言になった。アンナは「いいや、顔を忘れに来たんだ」といってから、一転して無表情になって、拳銃を向けた。少年の笑みが凍り付いた。アンナは引き金を引いた。耳をつんざくような破裂音がして、少年の鼻っ面から血飛沫が散った。アンナの顔にも熱い返り血が飛んだ。足を投げ出した少年は滝のような鼻血を流していた。目にはすでに光がなかった。
残りの二人は、発砲の大音響に恐慌状態となって逃げようとしたが、唯一の出入り口にはアンナがいた。彼らは復讐者に背を向けてテントを破ろうと必死に試みた。アンナはその一人の背中に向けて撃った。彼は力が抜けたように動かなくなった。息はあった。ひとまず置いておいて、最後の一人は後頭部を狙った。たった六フィートもない距離だったが、.38口径の弾頭は少年の頭の右を通過してテントの布地に穴を開けた。弾を当てるのはこんなに難しいのか、と思いながら、撃鉄を起こしてしっかりと狙いを定めた。
逃げられないと悟った少年がきびすを返し、中腰で突進してきた。銃を奪おうとした。だが撃鉄を起こされた銃の引き金はおどろくほど軽い。銃声が響いた。アンナから手を離して、自分の喉を押さえる少年の指のあいだから、みみずのように血が這い出ていた。その頭に銃口を押し当ててとどめを刺した。
事切れていない少年にも完全な死が必要だった。だが引き金を引いても撃鉄の落ちるカチリという虚しい音がするだけで、弾は出なかった。アンナは教えられたことを懸命に思い出しながら銃を下へ折った。連発したせいで銃身もシリンダーも熱を持っていた。薬莢が薬室から吐かれなかった。戸惑い、銃を上へ傾けると、折れていたフレームが元通りに接合されてしまった。
そうしてまごつきながらも、なんとか使用済みの薬莢をまき散らすように捨て、焦りから震える手で新しい弾薬を一発だけ込めた。
「助けて。救急車を呼んで……」息も絶え絶えに生き残りがいった。「なんでおれがこんな目に」
「あたしをレイプして殺そうとしたくせに、なにいってんだい」
「だって、抵抗したじゃないか」少年は泣いているようだった。「抵抗せずにおとなしくやらせてくれていたら、おれたちだってあんなことしなかった」
アンナは少年の後頭部に銃口を押しつけた。うつぶせに倒れている少年に、いまからおまえを殺すというメッセージを明確に伝える必要があった。「やめろ!」彼はその短い言葉を言いきることができなかった。声は銃声がかき消し、命は銃弾がかき消した。
三つの死体が転がるテントで、アンナは力なく座り込んだ。ついで銃を投げ捨てた。鼻腔をえぐるような硝煙の刺激臭と、むせ返る血の臭いに、いまさら気づいた。〈タレイトン〉を立て続けに三本吸った。いますぐにこの場を去らなければならないことは理解していた。だが、達成感と疲労感の両方がアンナの身体を奪い合っていて、なにかきっかけがないかぎりは、しばらくは動く気にもなれなかった。
きっかけはもたらされた。一台の車が草地の近くで停まった。下りてきた男がテントに向かってまっすぐ歩いてきた。男は親しげに声をかけてきた。「シャヴィー、ママがおまえのパスポートが見当たらないっていってるぞ。いったん父さんと一緒に戻りなさい」男は懐中電灯とともにテントのそばまできた。「シャヴィエル。どうせまだ寝てないんだろう?」
アンナは銃をひっつかんで飛び出した。そのまま男を横目に走った。「おい!」懐中電灯の光が追ってきたが、すぐに光はテントへ向けられ、アンナは闇に埋没した。
直後、天を呪うような絶叫が、夜の
すぐに警察が追ってくるのは確実だった。キーの差さっている車はないか探した。
家々は煌びやかなイルミネーションをまとい、庭先にクリスマスツリーを飾っている家もあった。アンナはようやく、あしたが二十四日であることを思い出した。
ウィネトカの住宅街は、多くの家がクリスマス休暇で旅行をしているらしく、防犯のためタイマーで照明がオンになっているだけで、人の気配がなかった。
だが、窓に人影のある家が一軒だけあった。クリスマスの飾りのない家だった。
◇
「ママ、うちにもサンタさんくる?」
夕食どき、ゾーイは母親に訊ねた。コーヒー色の肌と厚い唇が少女の血筋を表していた。
「あんな悪魔、こないほうがいいのよ」
「でも、クラスのみんなはサンタさんにプレゼントもらうんだっていってたよ。パティもリリアーナも、それにカーリーも。アーリーンはサンタさんにお手紙かいたって。お手紙にほしいものをかくと、それがクリスマスツリーの下におかれてるんだって」
「そうしてサンタクロースは子供たちをたぶらかそうとしているのよ。ものなんかで人間の心を釣って堕落されようとする卑しい悪魔。いつもそういってるでしょ」
「おとなりの」まだ八歳のゾーイはあきらめきれずに食い下がった。「ジェイは、お父さんのミスター・メイズに、〈宇宙船XL-5〉のおもちゃをサンタさんにもらえるようにお願いしたって。ジェイはこうもいってたわ、パパやママは、サンタさんとお話ができるって」
〈宇宙船XL-5〉は六年前のドラマだが、年にいちどは再放送されていたので、ゾーイのクラスメイトの男の子はみんなとりこになっていた。〈宇宙船XL-5〉のロケットのおもちゃはクリスマスプレゼントの定番のひとつだった。ゾーイはドラマどころかテレビ番組を見たことがなかったから、ほとんど知ったかぶりだったが、とにかくとてもクールなおもちゃなのだろうと漠然と想像していた。
「悪魔崇拝者だからよ」と母は一蹴した。「悪魔を崇拝しているから、悪魔と交信ができるの。だから、サンタクロースと話ができない人間が、正しい人間なの」
だからゾーイの家にはクリスマスツリーもない。クリスマスカードも。
「クリスマスは邪教のお祝いよ。くれぐれもそんなものに参加しないこと。魂が汚れちゃうからね。汚れた魂の持ち主はどうなる?」
「……じごくにおちる」
「よろしい。じゃあお祈りをするわよ」
夕食が並ぶ。大量のポテト。大量の卵。大量のケチャップ。
「ママ」お祈りを終えたゾーイは、おそるおそる訊いた。「クリスマスカードくらいはいいでしょ?」
母親の顔が強ばった。
「もらったの? あげたの?」
「もらった」
「もらった!」母は天井を仰いだ。「なんてこと」
「あのね、ペパーミントパティが、チャーリー・ブラウンをびっくりさせるために、内緒でクリスマスカードを書いてたの。それで、アーリーンがわたしにもカードをくれたの」
ゾーイは正直に打ち明けた。母親に、そう、それはよかったわね、だいじにとっておきなさいと言ってほしかった。堂々と所有し、飾ることもできる。
「あげてはいないのよね?」
ゾーイは何度も首を横に振った。母はあからさまに胸をなでおろした。
「あげてないなら、まだとり返しがつくわ。もらっただけなら、まだ事故みたいなものだけど、あげたとなると、自分から積極的に異教の儀式に参加したことになるからね」
それからゾーイを真正面から見据えた。
「ここにもってきて」
ゾーイは言われたとおりにした。アーリーンにもらったクリスマスカードは部屋に隠してあった。母に差し出した。
「燃やしなさい」
母はきっぱりと命じた。
「でも……」
「燃やしなさい」母は繰り返した。さらに付け加えた。「いまから、外で。見ていてあげるから」
母のいうことは絶対だった。マッチを持たされたゾーイは家の前の階段を下りた。振り返ると、ドアの前で腕を組んだ母が促した。ゾーイは、アーリーンへの罪悪感に胸を痛めながら、マッチを擦って火をつけ、つまんだカードの角を炙った。カードは無言の悲鳴を上げながらみるみる炎に包まれた。熱さに耐えられずゾーイが歩道に捨てると、カードだったものは次第に縮こまって灰になった。アーリーンからの優しさも。
任務を終えたゾーイが戻ると、母はぎゅっと抱きしめた。
「これもあなたのためを思ってのことなのよ。異教徒のお祭りに参加するっていうことは、サタンに魂を売って、永遠に神さまによって滅ぼされることにほかならないの。わたしはあなたをサタンの世界に落としたくないのよ。わかってくれるわよね?」
母はゾーイを抱いたまま続けた。「音楽も聴いちゃだめよ。映画も見てはだめよ。漫画もアニメもテレビも、誘われたって見てはだめよ。おなじ信者以外の子とはお友だちになってはだめよ。お友だちになりたいなら、ゾーイがその子を入信させるの。そうすればゾーイの魂のステージもあがるわ」
もちろん試みたことはあった。一年生のとき、同級生のヴィヴィアンに「お友だちになりたいから、信者になってくれる?」ともちかけた。ヴィヴィアンは、気味がわるそうな顔をして離れていった。以来、ただでさえ腫れもののように扱われているのに、勧誘すればさらに嫌われるのだと子供心に理解して、クラスの子を入信させるのはやめた。信者でなければ友だちにはなれない。だからゾーイには友だちがいなかった。学校にも、近所にも。
「さあ、お家に入りましょう」母がゾーイの背中を優しく押したときだった。
「そこのあんたら」
声がかかった。女性のようだったが、酒と煙草に喉を好き放題荒らされた人間特有の嗄れ声だった。
「車を貸しな」
ブロンドの白人で長身ということ以外になんの取り柄もなさそうな女が、回転式拳銃を母娘に向けて、通りの向こうから歩いてきていた。アンナだった。「貸してくれりゃ、なんにもしない」
ゾーイの母親はとっさに娘を背後に隠した。
「ばかなことはやめて! ほしいものはあげるから」
「よし。家に入りな」
母は拳銃から目を離さず――まるで拳銃から視線を逸らしたら撃たれるとでも思っているようだった――後ろ手でスクリーンドアを開け、ゾーイに「大丈夫よ、大丈夫」とささやきながら後退した。アンナも続いて家に入った。
母親は鍵を
「いいよ、投げてくれたんでいい」
母親は激しく震える手で鍵を投げた。
アンナは足元に落ちた鍵を拾った。
「クリスマスだってのに、ツリーもないのかい」
アンナも母や祖父母らとはクリスマスを祝ったことがない。だがそれはむしろ異常で、ふつうの家庭はクリスマスをあたたかく過ごすのだと知っていた。ところがこの家には飾り付けがなかった。しかも、なぜか冷蔵庫の扉には南京錠がかかっていた。
「こう……七面鳥とかはないのかい」
「よけいなお世話よ。早く出ていって!」
母はゾーイをかき
遠くに響くパトカーのサイレンがアンナの
アンナは二人へ振り返った。ゾーイが葡萄のようなくりくりした目に不安を浮かべ、闖入者を見上げていた。
「来な」アンナはゾーイの細い手首をつかんだ。「あたしと来るんだよ」
母親が色を失った。「だめ、やめて! その子だけは。お金ならあげるから、お願い、その子はやめて!」
そのときすでにアンナはゾーイの小さな体を脇に抱えて外へ飛び出していた。「ママぁ!」ゾーイが泣き叫ぶのもお構いなしだ。
アンナは家の前に駐めてあったシェヴィーⅡの助手席にゾーイを放りこみ、運転席に乗り込んだ。
「サツになにか言ったら、このガキを五十個に切り刻んで全州に送ってやる! いいね!」
追いかけてくる母親に吐き捨て、アンナはアクセルを踏み込んだ。無免許だったがヒッチハイクで旅をしているあいだに見よう見まねで運転できるようになっていた。赤の古いクーペは老いた猛獣のような咆哮をあげてウェスト・チャットフィールド・ロードを駆けた。
ゾーイはドアを開けて飛び降りようとした。時速四十マイルで走る車から降りたらどうなるか考えが及ばなかったのかもしれない。とにかく知らない人といっしょに車に乗っているのが耐えられなかったのだ。アンナは愚行に走ろうとしている黒人少女をひっぱたいた。
「死にたいのかい? おとなしくしてな!」
それでもゾーイはいうことを聞こうとしなかった。ドアのロックのつまみを上げようと何度も試みた。そのたびにアンナの右手が飛んだ。「このくそったれ!」銃を向けると、しゃくりあげながら、ようやく脱出をあきらめた。そのかわり、前にもまして大声で泣いた。
「夜は泣くなってママに教わらなかったのかい?」
耳障りな泣き声にアンナは銃を握ったまま自分の頭をかきむしった。
それから当てもなく車を走らせた。なにをどうすればいいのか、わからなくなっていた。ずっと以前からそうだったのかもしれない。
◇
夜明け前からシカゴ市警はすでに騒々しい。ウェイントラウブが出勤すると、同僚たちがみな意味ありげににやついていた。真意がわからず愛想笑いですませていたが、デスクで仕事にとりかかろうとしたとき、理由がわかった。抽斗という抽斗に、砂がこれでもかと詰められていたのだ。
部内の白人刑事たちが爆笑した。そのうちの一人、ピーターが寄ってきて、
「もうすぐ定年退職だろ? 引退後はフロリダのビーチ? いまから砂に慣れておかないとな。おれたちからのささやかなクリスマスプレゼントさ」
ピーターは、どうだ、おもしろいだろ、と目で付け加えた。その裏には、こんなメッセージが込められている――笑え。じゃないと、まるでおれたちがおまえをいじめてるみたいじゃないか。
「ああ、ありがとうよ」ウェイントラウブは平静をよそおって砂のなかから書類を抜き出した。ピーターはウェイントラウブの肩を叩いて仲間たちのもとへ戻っていった。そしてハイファイヴをした。
「ウェイントラウブ警部、殺人の通報です。場所はスコーキーラグーンズ」若いアジア系の警官が折しも駆け込んできたところだった。「タワー・ロード沿いです。少年が三人射殺されていると」
「よし。わたしと一緒にこい」
ウェイントラウブは書類整理もそこそこにオフィスを出た。一階は制服警官と被疑者でごったがえしている。喧騒と人をかきわけてエントランスへ進んでいると、いましがた警官に拘束されてきた黒人の被疑者が「おまえは白人の犯罪者にもおなじことをするのか? おれには白人とおなじ権利があるんだ」と抵抗し、ウェイントラウブの目の前で警棒の制裁を受けた。ひざまずく格好になった被疑者は、ウェイントラウブの姿を認めると、いっそうの憎悪に顔を歪ませた。
「白人のケツを舐めたのか? ニガーの恥さらしめ」
見慣れた目だった。黒人の犯罪者は、白人よりも、むしろ同胞のはずの黒人の警官に激しい憎しみを覚えるらしかった。男の次の言葉がそれを証明していた。
「“白人に従順になるように調教されたことに気付かない哀れな家畜だ”」
ウェイントラウブは、なにもいうべきではない、と自制した。男の言葉は、マルコムXが自伝のなかで大学や大学院を卒業した黒人に対して述べた一節の引用だった。
現場は森に囲まれ、潟湖を望む草地だった。射殺体は三人ともテント内にあった。
「この時期にキャンプ? 子供たちだけで?」
聞き込みによると、三人は家族ぐるみの仲で、しばしばここで子供たちだけのキャンプをしていたらしい。たとえ真冬でも。
また、テントのなかには、五発の薬莢が無造作に転がっていた。
「リムがある。リヴォルヴァーですかね」
「弾痕は六発。五発しか込めていなかったか、五発しか入らない銃だったか」
まだどんな可能性も捨てるわけにはいかなかった。とにかく犯人は武装しているおそれが強い。緊急配備の検問にひっかかる幸運をひとまずは祈るしかない。
被害者の情報をまとめたファイルがウェイントラウブに渡された。顔と名前に目を通していく。ウェイントラウブの顔が険しくなった。
「見覚えが?」
「わたしが手掛けた事件の被疑者たちだった。女性を半殺しにした容疑だ。三人とも無罪になった」
犯人らしき人物を目撃したという男性に話を聞いた。被害者の一人の父親だった。深夜に来てみると、テントから逃げていく人影を見た。成人に見えた。おかしいと思ってテントを覗くと、血の海だった。
父親はウェイントラウブらにいった。「暗くてよくわからなかったが、女のようだった。長いブロンドの髪だった」
ウェイントラウブの脳裏に、警察の力不足から犯人たちを有罪にできなかった、長いブロンドの被害者女性の顔が浮かんだ。あくまで可能性のひとつとして頭に刻んだ。まだどんな可能性も捨てるべきでないし、決めつけるべきでもないからだ。
◇
主要幹線道路は避けて走っていたが、そのせいでアンナはどういけば州を出られるのかわからなくなった。
「この車には地図はないのかい」
サンルーフやグローブボックスを漁っても見つからなかったので、アンナは給油がてら適当なガソリンスタンドに寄った。地図や飲み物くらい置いてあるだろう。
「いいかい、逃げようとしたらどこまでも追いかけて、ぶっ殺してやるからね。おとなしくしとくんだよ」
ウエストに差し込んだ銃をちらつかせて脅すと、ゾーイは何度も頷いた。
指名手配されていないか用心して、意味があるかわからないが、うつむき加減で買い物をすませた。
車に戻るとゾーイは約束を守っていた。不安そうに目で追ってくる。
「お留守番できたご褒美だよ」嫌味のつもりで瓶のコーラを一本押しつけた。車を発進させる。
「飲めない」
「炭酸は嫌いかい?」
「違うの。自然のものじゃないから、こういうのは飲んだらいけないの」
「ばかいえ、石油だって自然のものだけど、石油なら飲んでいいってのかい? コーラ飲めないんじゃなくて飲まないやつなんかいるかよ」
「ママが、コーラとかはお金もうけのための悪魔の飲み物だって」
「あんたはどうなんだい。飲みたいのかい、飲みたくないのかい」
「……喉かわいた」
もう何時間も走ってきている。飲まず食わずだ。
「じゃあ飲むしかないね。これ使いな」
運転しながら五セント硬貨を渡した。ゾーイはまばたきをした。
「これをどうするの?」
「ふたを開けるんだよ。あんた、利き手は?」
「スプーンは右手だけど、はさみは左手を使うの」
「なんだそりゃ。まあならどっちでもいいや。かたっぽの手でふたを押さえる。で、もうかたっぽの手で、コインをふたの下に差し込む。え? どれ、あたしに見えるようにしておくれ――よし、じゃあ、コインを上へ力いっぱい持ち上げな」
何度かゾーイは力を込めた。開かなかった。「どんくさいね! コインでふたをめくるようなイメージでやってごらん」アンナに叱咤されたゾーイの何度めかの挑戦で、栓が音を立てて抜けた。
「なにこれ!」どんどんあふれてくるコーラの泡にゾーイはあたふたした。
「ほら、もったいないから早く飲んじまいな」
ゾーイはおっかなびっくり、びんに口をつけた。こわごわひとくち飲んだ。喉を通った。目を大きく見開いた。
「おいしい!」
それからアンナのほうを向いた。
「なんだい」
「ぜんぶ飲んでもいい?」
「あたりまえだろ」
これみよがしにめんどくさそうに答えたにもかかわらず、ゾーイは初めて笑顔を見せた。びんを傾けてごくごく飲んだ。
それから苦しそうな顔をした。吐きそうな顔だ。
「げっぷしたいんならしなよ」
「人前で……げっぷはしちゃいけないって」
「コーラ飲んでおもいっきりげっぷするのが気持ちいいんじゃないか」
ゾーイはがまんできなくなって、盛大にげっぷした。アンナはとくになにもいわなかった。ゾーイが空のびんを両手で持ったまま、アンナにいった。
「もう一本飲んでもいい?」
「好きにしな」
買い物袋を置いてある後部のベンチシートを親指で指し示す。ゾーイは身を乗り出してコーラのおかわりに手を伸ばした。
上り坂を登ったところで、警察が検問を敷いているのが見えた。いまからUターンなどしたらそれこそ自白しているも同然だ。そのまま直進するほかなかった。
警官がアンナの車を停めた。だがあきらかにやる気が感じられなかった。当然だ。クリスマスシーズンに仕事をしたい警官などいない。ウインドウを下げさせた警官は、免許証すら
「例の手配犯、ニガーの子供を連れてるとかいってたか?」
「いいや。そんな話は聞いてねえ」
話し合って、アンナにあごで「行け」と示した。ほっとした様子すらおくびにも出さず、アンナは車を発進させた。
サイドミラーにも検問が映らなくなったあたりで、地図を広げた。だが運転しながらルートを探すのは骨が折れた。そこでゾーイにナビゲーターをやらせることにした。
「メキシコにいきたいんだ。国境までいったらあんたを解放してやる。せいぜい気張ってナビやるんだよ。いいかい、いまあたしたちはここだ、チャドウィック。ここからメキシコにいくルートを教えな。メキシコからここまで逆にたどったほうがいい。新聞とか雑誌の迷路で、よくやるだろ、ばか正直にスタートから進むよりゴールからはじめたほうがうまくいくってやつ」
「新聞も雑誌も読んだことない。〈チャーリー・ブラウン〉をアーリーンに見せてもらったことはあるけど」
「まあガキは新聞読まないだろうね」
「うちは新聞とってないの。ママが、新聞はわたしたちを洗脳しようとしてる悪魔のプロパガンダだって」
アンナも、ゾーイの家がなにかおかしいことに気がつきはじめていた。
「あんたの家、クリスマスツリーなかったね」
「うん」
「ママからプレゼントはもらった?」
「ううん」
「毎年? 一度も?」
「ない」
「くそったれなママだね。最低な母親オリンピックがあったらあんたのママは金メダルがとれる。あたしのは銀色に降格だ」
「ママはいい人だよ」
「買えないんじゃなく、クリスマスプレゼントをわざと買わない母親なんてのは、ろくでなしのクズに決まってるさ」
「ママをわるくいわないで!」
アンナはおちょくるように「ママをわるくいわないで!」と真似してみせた。
「じゃあ、感謝祭は? 先月あったろ」
ゾーイは首を横に振る。
「ハロウィンは?」
ゾーイは首を横に振る。
「あんたの誕生日は祝うだろう?」
ゾーイは首を横に振る。
アンナはいよいよ不気味に思えてきた。
「なんでだい」
「クリスマスも、感謝祭も、ハロウィンも、異教徒のお祭りだから、お祝いしちゃだめなの」
「誕生日は?」
「この世は試練のためにあるの。わたしたちは、とても悪いことをしたから、この世に生まれてきたの。神さまの教えどおりに生きることができたら神さまの国にいけるの。だから、この世に生まれたってことは、悪いことをしたせいだから、お祝いするんじゃなくて、罪を再認識して、悔やまなければならない日だって……」
「反吐が出るね。雑誌は? ほんとに読んだことないの? 〈セヴンティーン〉は? 〈ヴォーグ〉は? 〈フェイマスモンスター〉は?」
ゾーイは首を横に振る。
「そんなんで友だちとなにを話すんだよ」
「お友だちはいないの。つくっちゃいけないの、信者じゃないと。運動会も出ちゃだめだって、ママが……」
「映画は? 音楽は? 好きなテレビ番組は? 好きな俳優は?」
なにかひとつくらいあるだろうとアンナは思ったが、ゾーイはすべて否定した。そもそも知っている俳優の一人さえいなかった。
「うちにはテレビもラジオもないの」
「アーミッシュかよ」
「ぜんぶサタンが人間を堕落させるための罠だって、ママがいってた」
「あたしにはあんたのママがサタンに見えるよ」
「ママはサタンなんかじゃないわ!」
「はいはい。わかったからさっさとルートを探しとくれ」
そのとき、ゾーイがおなかを押さえた。
「吐くなら外で吐くんだよ」
しかし、ゾーイはぽつりとこぼした。「おなか空いた」
アンナはため息をついた。「あそこへ寄っていこう」
〈ブロックルバンクの店〉はアンナも一度いったことのある気のいいレストランで、店主のブロックルバンクは肉を焼かせたらイリノイでは右に出るものはいない腕前と情熱の持ち主だった。店内は早くも客であふれているが、だれもアンナたちを気に留めない。堂々としているほうがかえって怪しまれないのかもしれない。
「ここのオープンサンドは一級品さ。腹も膨れる」
いましも店主がバーベキュー用のオープンピットでブリスケットを焼いているところだった。焼き網に載せると跳ねるほど弾力のある二ポンドの肉が炙られる。オーク材でもとくに身の詰まった品種の薪が独特のスモークを生み、湿らせたピーカンナッツの殻で火を抑えることでより風味が増す。裏返すと芸術的な焼き目が目を直撃する。最後に三十七種類のスパイスを混ぜたタレを、ぞうきんで油絵みたいに肉に塗る。その調合レシピはフルシチョフにだって盗み出せない。タレの砂糖や酢で肉の表面がカラメル状に照り輝きはじめる。タレが燃料に落ちるとさらに燃えて、スモークがますます香り豊かになる。
「端っこのこげた部分をバーントエンドっていうんだ。最高にウマい」
「焦げたものはからだにわるいってママがいってたわ」
「人間いつかは死ぬんだよ。JFKだってウィリアム・ハーストだって死ぬ。ウマいもん食って死ぬか、バーントエンドも知らずに死ぬか、それだけの違いさ」
バーントエンドをたっぷり使ったブリスケットのオープンサンドに、ベイクドビーンズ、マッシュポテト、青りんご入りのコールスロー、ねずみくらいあるピクルスが二人の前に出された。
アンナがお手本を見せた。オープンサンドにかぶりつく。ソースがぼたぼた垂れるのも気にしないのがイリノイ流だった。
ゾーイもためらっていたものの、空腹には勝てず、遠慮がちに小さくかじった。つぎの瞬間、ゾーイは新しい世界を目にした子供にあるべき反応をこれ以上なく鮮烈に示した。すなわち、双眸を輝かせてむしゃぶりつき、肉の旨味を口いっぱいに味わった。途中からは、涙をぽろぽろこぼしながら、
「おいしい、おいしい」
と呟いていた。
「あんた、名前は?」
食べ終わって車に戻るとき、アンナは訊ねた。
「ゾーイ」
「ゾーイ。国境までいったら、あんたをかならず自由にする。だから……それまでは辛抱しておくれ」
「あなたの名前は?」
「は?」
「あなたのお名前」
「――アンナ」
「ありがとう、アンナ」
アンナは吹き出した。「誘拐したやつに、“ありがとう”? それもママの言いつけかい?」
「わたしが言いたいだけ。ごちそうになったんだもの」
それだけいうと、ゾーイはさっさと助手席に乗り込んでしまった。憤然として腕組みなどしている。
調子が狂う。アンナは舌打ちして車に乗った。
◇
聞き込みでも大した収穫はなかった。
「すでに州外へ出たのかも」
それにウェイントラウブは渋い顔をした。州を出られたらFBIが出しゃばってくる。そうなればウェイントラウブたちは使いっ走りになるばかりか、すべてFBIの指示待ちになるので、思うように捜査できなくなる。ウィネトカ周辺と州境にそれぞれ検問を手配しているが、もし抜けられたら終わりだ。
無線が入り、助手席の新入りが応対する。
「黒人の少女を女が誘拐とのことです」
ウェイントラウブは嘆息しそうになるのをなんとかこらえた。黒人からの被害の訴えなどシカゴ市警はまともに取り合わない。だれが担当するかたらい回しにしたあげく、黒人のウェイントラウブにお鉢が回ってきたのだろう。こちらは別の事件を捜査しているというのに。
「いってみよう」
それでもウェイントラウブはハンドルを回した。定年まで勤めあげてきた刑事としての矜持からだった。
通報のあった家はおなじウィネトカだった。北にタワー・ロード、東をゴードン・テラス、西をオーバーン・ロード、そして南をウェスト・チャットフィールド・ロードに囲まれた住宅街のなかの一軒だ。ほかの家と違ってクリスマスの飾りのたぐいがいっさいなかった。雪だるまさえ。
スクリーンドアを開けた黒人女性にウェイントラウブたちが名乗ると、彼女は泣き崩れながらすがりついた。
「警察に相談すれば娘を殺すといわれたのですが、もうあなたがたに頼るほかないのです――お願いです。どうか娘を助けてください」
「娘さんを誘拐したのは女といっていましたね。どんな女です?」
「金髪の白人です。銃を持ってた。車を奪って、娘を人質に……」
ウェイントラウブと新入りは顔を見合わせた。そいつだ。
「検問の連中に至急連絡しろ。犯人は車で逃走中。赤いシェヴィーだ。ナンバーはイリノイ、Aの56229。八歳の黒人の少女を連れてる。白人女性と黒人の女の子だ。この車がひっかかったらすぐにわたしに連絡してくれと伝えてほしい」
覆面パトカーの無線に怒鳴るウェイントラウブのかたわらで、新入りが住宅街を見渡しながらこぼした。「間に合うといいんですが」
ウェイントラウブも苦いものを感じていた。往々にして警察は幸運に見放されることを、この歴戦の刑事は知っていた。
◇
日も落ちてきたので目に入ったモーテルに宿をとろうとした。車中泊がいちばん安全だったが、助手席でうとうとするゾーイを見ていると、たとえ安宿でもいいからベッドで寝かせてやりたい、という思いがこみ上げてきた。
だがモーテルの主人はアンナの後ろについているゾーイを見るなり、露骨に「嫌なものを見た」という顔をした。
「わるいがニガーには部屋は使わせられないよ」
「なんでさ」
「なんでって」常識のない人間を見る目で主人はアンナを見た。「
「べつにいいじゃないか。おなじ人間なんだから。ちゃんと金は払う」
「あんたがどんな教育を受けてきたかはしらないが、いいかね、トイレは男性用と女性用にわけられてるだろう? おまえさんがいってるのは、男が女性用トイレに入りたいっていうのとおなじことなんだ。そうとも、男も女もおなじ人間さ。だけど、世の中にはルールがあるんだ。男は女性用トイレに入ってはいけないし、いくら女性用トイレに長い行列ができてるからって、女が男性用トイレで用を足してはいけない、それとおなじように、白人と黒人は別々のトイレを使わなくちゃいけないんだ。入るべきじゃないトイレを使うのは、ふしだらだ――秩序を乱すんだよ。そういうことだ」
アンナの頭に血が上った。生まれだけでその人間のすべてを知った気になっている連中。目の前の経営者が、アンナを淫売の子というだけでいじめてきたハンツヴィルのクラスメイトや大人たちと重なって見えた。
「黙って部屋を貸せばいいんだよ、このぼんくら。ニガーを泊めないって信念貫いて死ぬか、この子を泊めて命拾いするか、どっちか選びな」
アンナは銃を取り出した。主人は条件反射で両手を上げた。
「あたしは本気だよ。もう三人も殺してる。どうせ捕まれば死刑だ。いまさら三人が四人になったって、あたしはどうってことないんだ」
「わかった、わかった!」六フィートはある主人は小動物のように脅えた。「泊まってけ。一晩だけだぞ」
「じゅうぶんだ。だれが長居するかこんなとこ」
アンナは宿賃の倍額を先払いした。主人はきびきびとした動作で部屋の鍵をカウンターに置くとまた手をあげたままになった。
ゾーイを連れて階段へあがるとき、
「通報しようなんてばかな考えは起こさないほうがいいよ。そういう気配を見せたらあんただけはかならず殺す。あたしは捕まるだろうけど、あんたは死ぬ。それだけは絶対に保証してやるよ。変な正義感よりもっとだいじなものがあるって考えるんだね」
念押しすると、まだ手を上げている主人は首振り人形になった。
部屋は意外にもきちんとベッドメイキングされていて、寝泊まりするのになんの不足もなかった。
「シャワー浴びるから、テレビでも見てな。だれか来ても絶対に入れるんじゃないよ。居留守使いな」
「テレビは見ちゃいけないってママが」
「ママがここにいるかい? 見ていいのかどうかは、自分の目で見てから判断するんだ」
スイッチを入れてやった。ちょうど再放送の〈母さんは28年型〉がはじまるところだった。ポール・ハンプトンがオープニングを歌うのにあわせ、歌詞のテロップの上をピンポン玉が跳ね、いま歌われている箇所を示していた。アンナはバスルームへいった。
ひとりになったゾーイは、母親との約束を破る罪悪感からか、最初こそ顔を背けていたが、楽しげな歌に興味をそそられ、ちらちらと盗み見た。そのうち、画面に目をやる時間が伸びていき、本編がはじまるころには食い入るように見ていた。
ジェリー・ヴァン・ダイクが一億回目の飛び上がって驚くさまを見せ、どう見てもT型フォードの二十八年式ポーターに乗り移ったグラディス・クラブトリーが母親として一億回目の注意をしていた。
そして、二十八年式ポーターが欲しくてたまらないエイヴリィ・シュライバーが、ジェリーにピストルを突き付けて脅した。
「なめてると痛い目見るぜ」
小さなモノクロの画面で繰り広げられる異世界のできごとに、ゾーイは釘付けになっていた。まばたきする間も惜しかった。
翌朝。遅くまでテレビに夢中になっていたせいでなかなか起きないゾーイに手を貸して身支度させて、アンナはモーテルをチェックアウトした。
やっかいな白と黒の連れ合いを乗せたシェヴィーⅡが見えなくなると、主人はせめてもの腹いせにシカゴ市警に通報した。もう命の危険はないだろう。
「ゆんべ、銃で脅して泊まっていった女が来やしてね……黒人の女の子を連れてて……黒人は泊められないっていったら脅されやして……それでしかたなく……え? ええ、白人のほうは背が高くてブロンドで……黒人のほう? うーん、いわれてみれば八歳くらいかなあ。車? よくご存じですな、そのとおり、赤のシェヴィーで、へい……」
◇
食料が尽きたので、アンナたちはヴァンダリアに入った。スプリングフィールドに遷都されるまではイリノイの州都だったファイエット郡の郡庁所在地は、すっかり寂れ、往年の輝きなど斜陽ほどしか残ってはいない。だがウォルマートがある。
「なんでも好きなもの入れな」
カートを押すアンナは、サッカーができそうな広大な店内と、どこまでも続く商品棚、それを埋め尽くす多種多様な商品に圧倒されているゾーイに苦笑していった。
「なんでも?」
「人質のお駄賃さ」
ゾーイが迷いに迷って、赤いリコリス・キャンディをひと袋、おずおずと抱えてきて、勇気を振り絞ったという様子でかごに入れた。上目遣いのゾーイは、怒られないかアンナを警戒していた。お菓子を買おうとしただけで叱られる家だったのかもしれない。
「これだけかい?」
ゾーイは、意表を衝かれた顔をしたが、しだいにその顔が輝いた。
結局、ゾーイはチョコバーやスタルダブル・チューインガム、ポテトチップスなどなど、お菓子でかごに山をつくった。お菓子の山脈。これこそ子供の夢だ。
駐車場へもどるとき、ゾーイの足が止まった。アンナはその視線をたどった。併設されている映画館だった。上映中の映画のポスターがずらりと並んでいる。
「観るかい?」
「いいの?」
「映画を観るのに許可なんかいらないんだよ」
ゾーイにどれが観たいか選ばせた。
「ぜんぶ!」
「そりゃ無理だ。だいたい一本二時間くらいかかる」
それを聞いてゾーイが、はっとした。
「アンナ、大丈夫?」
「なにが」
「そんなに時間かかると思わなかったの。――メキシコ、いかなくていいの?」
「メキシコは、逃げないんだよ」
アンナはわざと急かした。「ほら、もうはじまるかもしれないよ」ゾーイは、ポスターがとりわけ美しかった『ロミオとジュリエット』にした。
いったん買い物の荷物を車に置いて、あらためて映画館へ足を運んだ。
二人が去ったあと、一台のパトカーが駐車場を通りかかった。赤いシェヴィーを探すよう命令されていた警官の一人である彼は、「ああいう車かな、まさかね」と、寝ぼけまなこでナンバーを確認してみた。一気に目が醒めた。なんど確かめても、手配中の車種、そしてナンバーと一致していた。
映画を観るのも初めて、映画館にくるのも初めてだったゾーイは、興奮しきりだった。だがオリヴィア・ハッセーとレナード・ホワイティングの演じる悲恋に、たちまち魅了され、最後には泣いていた。
「すごい。もっといろんな映画が観たい」
映画館を出ると、空が荘厳なオレンジと紫の黄昏に染まっていた。
「あたしには合わなかったけど、そりゃよかった。これがすんだら好きなだけ観にいきな」
ゾーイが歩みを止めた。アンナは振り返った。ゾーイが所在なさげに佇んでいた。「アンナといっしょじゃ、だめなの?」
「むりに決まってんだろ。あたしはメキシコ。あんたは家に帰る。それが運命……」
アンナは駐車場内にパトカーが何台か停まっているのに気づいた。見ていないふりをして運転席に乗る。
ルームミラーを見る。パトカーの一台が、ゆっくりバックしてきて、アンナの車の進路を塞ごうとしていた。
アンナは、まだゾーイが乗ってもいないのに、ギアをバックに叩きこみ、アクセルを踏み抜いた。タイヤが悲鳴と白煙をあげた。半ばブロックしかけていたパトカーの尻を、リアグリルで押しのけた。落雷みたいな衝撃音がした。パトカーは斜めにずらされた。
九十度、方向転換をし、それから前方へ急発進した。待機していたパトカーがいっせいに動き出した。どれもアンナの尻を狙っていた。
利用客らを蛇行運転でよけながら、アンナはウォルマートをぐるりと周った。資材置き場を器用に通り抜けた。だが、パトカーたちは、われさきに追跡しようとしていたせいで、狭い通路に二台が集中してぶつかって、うず高く積まれた資材まで倒して、それがとなりの資材のタワーまで倒すのをドミノみたいに繰り返し、かえって後続の進路を塞いでしまった。
一周してきたアンナは、そのまま駐車場から出ようとした。
その前をゾーイが立ちはだかった。
急ブレーキを踏んだアンナはつんのめった。車はぎりぎりで止まった。思わず怒鳴った。「あぶないだろ!」
ゾーイは助手席に飛び乗った。そして、いった。「一緒だから」
アンナは「ああ、くそ!」と頭をかきむしり、車を出した。
あとには、にっちもさっちもいかないパトカーと警官たち、そして茫然としている客たちだけが残された。
◇
モーテルの経営者からの通報を受けて急行していたウェイントラウブは、ヴァンダリアでの一件の報告を無線で受けて、ハンドルに手を叩きつけた。なんてざまだ。だからおれが行くまで手出しはするなといったのに。
「でも、妙ですね」
ウェイントラウブの内心を知ってか知らずか、新入りがいった。
「目撃証言が正しいなら、ゾーイが自分の意志で車に戻ったということになります。逃げられたはずなのに」
そこがウェイントラウブもひっかかっていた。ある種の洗脳にかかって「逃げようとして失敗すれば、どんな報復を受けるかわからない。だから過剰なまでに忠誠心を示さなければならない」という精神状態にあるのかもしれない。
これもまた、決めつけなのか? あらゆる可能性を考慮しないといけないのか? ゾーイが完全に自由意志でアンナとの逃避行に同行しているという可能性を? ウェイントラウブにはわからない。もう、なにも。
◇
すぐそばまで警察の手が伸びていることをまざまざと実感させられたアンナは、間道を使って南下していた。じきに警察は総力を挙げてアンナを追ってくるだろう。一刻もはやくメキシコとの国境を越えなければならない。
「でも、アンナ」ゾーイは地図を前に悩んだ。「ここはイリノイなのよ」
「わかってるよ、それが?」
「メキシコにいくには、どうしたってテキサスを通るわ。テキサスをよけるんなら、相当遠回りになるけど」
「ああそうさ。遠回りでいい」
「どうして? テキサスを突き抜けたほうが早いよ」
「テキサスには絶対帰りたくないんだ。とくにハンツヴィルにはね。なにがあっても」
「じゃあ、州道一五〇号線に入って、チェスターからひとまずミズーリ州に入りましょう」
「オーケー、完璧だ」
と返答した直後だった。
サイレンが響いた。ぎくっとしてルームミラーを見やった。パトカーが後方にぴたりとついていた。
まさか、こんな早く? いや、ただのスピード違反の取り締まりかもしれない。たしかにスピードを出しすぎていた。アンナは舌打ちした。だがシボレーではパトカーにドラッグレースを挑んでも勝てる見込みはない。おとなしく車を路肩に寄せた。
「アンナ?」
「いいから、じっとしときな」
停車させると、パトカーから下りた警官がゆっくりと運転席側の窓に近づいてきた。白人の男だった。
「何マイル出てたと思ってる?」
「飛行機にはかなわないさ。それくらいには謙虚だよ」
「免許証を」
「なくしちまっててね」
「そっちの子は?」
警官がゾーイにあごをしゃくった。
「友人の子さ。いまアーカンソーにいる。ウィスコンシンのじいちゃんばあちゃんの家で預かってたのを、そいつのもとへ届ける途中なのさ」
でまかせだったが、しげしげと覗き込む警官にゾーイは屈託のない笑顔で手を振った。よもや誘拐されているとは思えない明るい表情だった。
「とりあえずあなた、パトカーに乗って」
警官が怪訝そうにアンナを手招きした。アンナは素直に応じた。警官が背を向けた瞬間にウエストの拳銃を後部座席に投げ、車を下りる。パトカーへ歩きながら、この場を打開するにはどうすればいいか、必死に頭を巡らせたが、なんの知恵も浮かばなかった。
「氏名は?」
後部座席に乗るよう指示され、職務質問がはじまった。本名を名乗ったら逮捕されるだろう。かといって偽名を出しても、結局は無免許運転が判明して逮捕されるだけだ。
「おい、おまえの名前だ。早くいえ。それとも――いえない事情でも?」
万事休すか。口を噤むアンナを不審に思った警官が無線機に手を伸ばした、そのとき。
「ハァイ」あどけない声がかけられた。アンナも警官もそちらを見た。パトカーの運転席側の窓からゾーイが覗き込んでいた。
「車に戻ってろ」警官が心底わずらわしそうにいった。職務上の警告というより、親が奴隷たるわが子を叱るときのような口調だった。
「無線機を放して」
無表情となったゾーイが、アイヴァー・ジョンソンM1900を警官に突きつけていた。警官はなにがなんだかわからないという顔をしていた。アンナも唖然とした。
「わたしたち、指名手配されてるの、武装した凶悪犯として。だから捕まるわけにはいかないの」
冷静さを取り戻した警官がひきつった笑みを浮かべた。「どうせおもちゃなんだろ?」
ゾーイは真顔のまま、アスファルトに向けて銃を一発撃った。両耳を串刺しにする発砲音がした。警官が音にびっくりして〈母さんは28年型〉のジェリーのように頭を天井にぶつけんばかりに飛び上がった。
硝煙の揺れる銃口をあらためて警官に向けた。
「“なめてると痛い目見るぜ”」
ゾーイが脅し文句を決めると、警官はいよいよ両手を上げるしかなくなった。
「アンナ、下りて」
「ゾーイ、あんた……」
「早く! メキシコにいくんでしょ」
アンナは気圧されてパトカーから下りた。
「あんたもよ」ゾーイは警官にも命じた。警官は手を上げたまま、さっきまでの権柄ずくな態度はどこへやら、素直に従った。
「後ろを向いて」
警官はパトカーにもたれかかるようにしてゾーイに背中を見せた。
「アンナ、こいつから手錠を取って」
「手錠を?」
「いいから早く!」
アンナは戸惑いを隠せないまま警官のズボンの尻から手錠を奪った。
警官が嗚咽を漏らし始めた。
「お願いだ、たのむ。女房は妊娠してるんだ。来月生まれる。おれがいないと路頭に迷うんだ」
「すてき。奥さんとお子さんを大事にしてね。じゃないとわたしたちみたいになるよ」
ゾーイはアンナに、警官を後ろ手にして手錠をかけるよういった。そのとおりにした。警官は後部座席に閉じ込められた。
「キーも抜いて、どこかに捨てよう」
ゾーイが提案した。いわれるままアンナはパトカーのキーを抜き、広大な畑へと力いっぱい投げた。スケアクロウくらいしか見つけられないだろう。
さらに、パトカーに積んでいたダクトテープで警官の口を塞いで、アンナとゾーイはシェヴィーⅡに戻った。
あわただしくエンジンをかけながら、アンナは呆れていた。
「よくもまあ、あんなこと……」
「ほかに方法なかったでしょ?」
「まったく。ゾーイ、あんたはいかれてるよ。ほんと、いかれてる」
だが言葉とは裏腹にアンナは笑っていた。心の底からの笑みだった。
「そうだね、いかれてる。だって、世界がクソみたいにいかれてるんだもん」
ゾーイがいうと、アンナは今度こそ爆笑した。ゾーイも大笑いした。
車内はしばらく笑いに包まれた。
◇
ドゥ・コイン付近をパトロールしていたはずの交通課のパトカーから定時連絡が途絶えたため、同課が捜索にあたったところ、当該パトカーの車内で警官が手錠をかけられているのが発見された。ブロンドの白人女に、黒人の幼い少女。車種もナンバーも一致する。
警官の証言でウェイントラウブらが首を傾げたのは、警官がゾーイに銃で脅されたという点だ。アンナならともかく、どうしてゾーイが?
「アンナがゾーイにやれと命じたのかも。誘拐された被害者が、自身の生存率を高めるため、犯人に協力的になる事例はしばしば見られます」
「違う、そんなんじゃなかった。むしろ、女の子のほうが優位にいた」
警官は混乱しているのかもしれない。ウェイントラウブはむしろそう思いたかった。
「ほかになにか見たり聞いていないか。目的地とか」
ウェイントラウブに警官は赤く腫れた目で記憶を探った。
「たしか、黒人の女の子が、白人女にいってました……“メキシコにいくんでしょ”って」
◇
南へ行く道は例外なく検問が敷かれていた。ゾーイが偵察にいって、戻ってきては首を横に振った。
かくなるうえは強行突破しかない、とアンナは思いつめた。囲みを破りさえすれば警察はまたアンナたちを見失う。
「さすがにそれはまずいわ、アンナ。相手が一人ならともかく……」
「たった一人の検問なんかあるもんかい。やるっきゃないんだよ」
ゾーイという味方がいて、浮かれていたのかもしれない。アンナは堂々とカスカスキア川に架かる橋の検問を通ろうとした。検問の警察官は、アンナたちの数々の所業を聞かされていたのか、いずれも真剣な面持ちで職務にとり組んでいた。
「免許書を拝見……」
警察官に、アンナはM1900を見せつけた。「これが免許証さ」
ぎょっとした警官らは、まさに確保すべき誘拐犯が目の前にいるのだと知って、いっせいに拳銃を抜いた。だが助手席のゾーイが邪魔で撃てない。運転席側から撃っても弾丸が貫通するおそれがあった。彼らは仮にも警察官なのだ。
「通してもらおうか」
警官たちはなにもできなかった。ただ、素通りさせるわけもいかず、何人かは車の前から動こうとしなかった。
「邪魔だってんだよ!」
腕を車外へ出し、青空へ向けて撃った。雲ひとつない、澄み切った空が、弾丸を吸いこんだ。
「みんな、銃をおろせ」
警官らが武器を地面に置いた。手を上げた。アンナは手で「どけ」と合図した。立ちふさがっていた警官たちが不承不承、脇へ退いた。
すさまじい全能感。アンナはあらゆるものを屈服させる力に酔いしれながら、銃をウエストに戻そうとした。
銃声がした。警官たちは思わず伏せた。彼らはシェヴィーⅡの車内が一瞬だけ閃光に染まったのを見たはずだ。
「くそ」アンナは脂汗を流していた。右の足の付け根に、
アンナは苦痛をごまかすために雄叫びをあげ、アクセルを力の限りキックした。
「アンナ! 大丈夫?」
「平気さ。殺されかけても死ななかったんだからね」
だが傷口からは確実に出血していた。しかもアクセルを踏もうと右足に力を入れると電撃のような痛みが脊髄を貫く。車はしだいにスピードを落としていった。
「アンナ、運転を代わって」
「ばかいってんじゃないよ」
「このままじゃ追いつかれちゃう!」
八歳の子供ではペダルに足が届かない。だからゾーイにアクセルを手で押しこんでもらうことにした。
「大丈夫だからね、アンナ。二人で絶対にメキシコへいこう!」
しかし、ルームミラーにも、サイドミラーにも、赤と青の回転灯、まばゆいヘッドライトがみるみるうちに満ちていた。いまやサイレンはイリノイ州のどこにいても聞こえそうだった。テキサスにまで届いていたかもしれない。
アンナの運転が限界とみたらしいゾーイは、レッドバッドという町に車が入るや、廃墟らしき赤れんがの建物の前に停まらせた。
「わたしを盾にして」
「なんだって?」
「みんなはわたしを人質だと思ってる。盾にすれば撃ってこない。わたしになにかあれば全米で黒人が暴動を起こすわ、一九六五年のアラバマや、去年のニュージャージーや、キング牧師のときみたいに。彼らもそれは避けたいはず」
アンナは無理に笑ってみせた。「名案だね」
シェヴィーⅡはすぐさま何十台というパトカーに包囲された。上空にはヘリもいるらしかった。
アンナは、ゾーイを盾にし、銃をつきつけて下りた。
「こいつの頭を吹っ飛ばすよ!」
「武器を捨てて投降しろ! もう逃げられない!」
「それを決めるのはあんたらじゃない。動くな!」
アンナは後ずさりでその二階建ての建物に入った。「だれか一人でも入ってきたらこの子を殺す!」叫ぶだけでひと苦労だ。階段を上って、二階の窓から見渡す。閑静な町は臨戦態勢に突入していた。
「メキシコにいかせな。それが条件だ」
それだけいうとアンナはゾーイとともに窓からひっこんだ。
「うまくいくかね」
アンナは煙草を吸いながらごちた。
「きっといくよ、きっと。――ねえ」ゾーイは煙草をみつめながらいった。「煙草って、おいしいの」
「いいや。体をいじめたいだけさ」
「なにそれ」
「ゾーイも年とったらわかるようになるかもね」
「ねえ」
「ん?」
「わたしも吸ってみたい」
「ガキが吸うもんじゃない」
「ママみたいなこというのね」
これは効いた。カウンターパンチだった。アンナは敗北を認めるあかしとして〈タレイトン〉の一本をゾーイにくれてやった。
しかしマッチが切れていた。アンナが自分の煙草に火をつけたのが最後の一本だった。
「しかたないね。ほら、煙草くわえて」
ゾーイはぎこちない動作で煙草を唇に挟んだ。
「ちょっとこっちきて。あたしの煙草のさきっちょに、あんたの煙草のさきっちょをくっつけて、それで息を吸うんだ」
ゾーイが屈んで、アンナがくわえている煙草の先端に、自身の煙草を触れさせた。吸った。ゾーイの煙草の先端がオレンジに光った。直後、ゾーイは喘息のようにむせた。
「こんなの、なにが楽しくて吸うの」ゾーイは咳き込みすぎて涙目になっていた。
「それがわかるようになれば、大人さ。ろくでもない大人」
「変なの」
「ほんとにね」
二人はしばらく笑いあった。なにがおかしいのか、全然わからなかったが、おかしかった。
建物の近くの広場にヘリが着陸したらしく、爆音で壁も床もびりびり振動していた。前年にシカゴ市警に創設されたばかりのSWAT部隊も駆けつけてきたらしかった。
大仰なことだ、とアンナが感心したとき。
「アンナ・ポペスキュー。きみだろう。わたしだ。ウェイントラウブだ」
拡声器越しだが聞き覚えのある声、それに名前だった。アンナはやおら立ち上がって窓に近づこうとした。ゾーイに引き留められた。ゾーイがアンナの前に立った。アンナは苦笑した。それからゾーイを盾にして、窓から姿を見せた。
「もう、こんなことはやめろ。どうあってもきみはメキシコへは逃げられない。投降するんだ。逃げられやしないんだ」
アンナは、傷の痛みも、出血による意識不鮮明も、寸時、すべて忘れ、気つけ薬でも飲んだように頭が明瞭になった。
「あんたはあいつらを野放しにしたじゃないか。犯罪者を放免したじゃないか」刑事は検察でも判事でもないことくらいはアンナも知っている。だがいわずにはいられなかった。
「有罪にできなかったことはわたしも残念に思っている。だが、だからといって殺人をしていい理由にはならない。復讐をする権利はだれにもないんだ」
「じゃあ泣き寝入りしてろって? あんたたちはいつもそうだ。あたしにくそったれなことをしてきたやつは何も咎めないくせに、あたしが仕返しをしたらとたんに色めき立って、あたしの罪だけを問うんだ。あたしを裁くならまずあいつらに罰を受けさせろ! なんであたしだけ!」
「復讐は何も生まないんだ」
「なにか生みたいなんて話はしてないだろ。公平性の話だ。なんでいじめられたあたしが罰を受けるんだ。あんたらが何もしてくれなかったから、あたしが自分でやるしかなかったんだよ」
「犯罪を裁くのは司法の役割だ。司法以外に人を裁く権利は――」
「だから、それをちゃんとやれっていってるだろ! あいつらをムショにぶちこんでさえくれりゃ、あたしがこんなことをする必要もなかったんだ。こんなくそったれなことになったのはあんたらのせいだ!」
「刑法は、犯罪の抑止のためにあるんだ。復讐の代行じゃない」
「その犯罪の抑止ってのをあたしがやってあげたのさ。レイプするとみじめに殺されるってね。見せしめだよ」
「それをすれば犯罪者になるだけだ。きみはあのろくでなしどもを殺したせいで殺人犯になってしまった。法を犯してしまったんだ。どんな理由があろうと、法は守らねばならないんだ」
「法律があたしを守ってくれなかったのに、なんであたしが法律を守ってやらなきゃならないのさ」
「少なくとも」ウェイントラウブは言葉を絞り出した。「その子に罪はない。解放してやれ。母親が待ってる」
拡声器を向けている黒人刑事のとなりに、ゾーイの母親が進み出てきた。両手を組み合わせて祈っている。
「わかった」腕のなかでゾーイが驚いたのがわかった。知らぬふりをしてアンナは続けた。「条件がある」
「ちょっと!」
「言ってみろ」ウェイントラウブが促した。
「母親にだ」アンナは大声を観衆に投げかけた。この場にいる全員が証人だ。「毎年クリスマスにはこの子にプレゼントを贈ること。なんでもいい、なんだっていいんだ、お母さんにもらえるなら」
仰ぎ見ているだれもが怪訝な顔をしたのがありありとわかった。「そんなことか?」という顔だった。
「わかった、約束させる」ウェイントラウブが戸惑いながらも拡声器を向けた。
「誕生日もだ」この際だとアンナは付け加えた。「誕生日に、ハロウィンに、復活祭も、ちゃんとこの子と祝ってやるんだ。たまには遊園地に連れていきな。あとは――そう、テレビを自由に見させてやること。音楽も、映画も、コミックも、雑誌も、それに運動会も、いっさい禁止にしないこと。これが条件だ」
警官もマスコミも野次馬も、徐々に母親へ白い視線を向けるようになった。
「約束させる」
「母親にいわせな」ウェイントラウブにアンナは返した。
ゾーイの母はなおも決断しかねているようだった。アンナはこれ見よがしにゾーイのこめかみに銃口をねじ込ませた。
ついに母親は折れた。
「わかったわ、約束する。だから娘を返して」
よし、とつぶやいたアンナは、なぜかはわからないが、ウェイントラウブと目が合った。老刑事は、そういうことにするんだな、と目で語っているようだった。アンナは頷いた。それからゾーイとともに窓から離れた。
「どういうことよ!」
「潮時ってやつさ。子供は家に帰るもんだ」
「アンナも一緒じゃなきゃいや」
「行けるわけないだろ。あたしはこれからオールドスパーキーに焼かれにいくのさ」
「わたしもいく」
「ばかいうんじゃないよ。これからはクリスマスも誕生日も祝ってもらえるんだよ。よかったじゃないか」
「よくない。よくないわ。アンナ」
「あんたには、頭のおかしい売春婦にさらわれたかわいそうな女の子って箔がつく。うまく使いな」
「アンナ」
「泣くやつがあるかい。帰れるんだよ」
アンナは、なにか形見のようなものをゾーイに残してやりたいと、にわかに思った。これといって渡せるものがなかった。銃以外は。
「お守りだ」アンナはアイヴァー・ジョンソンをゾーイのスカートに差し込んだ。ブラウスと上着で隠してやる。「弾が一発だけ残ってる。使わなくても、自分は銃を持ってるんだ、いつでもこいつを殺せるんだって思うだけで、気持ちに余裕ができる」
しゃがんでいるアンナとゾーイは、しばらく無言のまま見つめあった。ゾーイが抱きついた。それは別れの抱擁だった。アンナも少女の背中を何度か優しく叩いた。
やがて体を引きはがしたゾーイは、「また会える?」といった。
「あの世なら会えるかもね」
なにか気の利いた冗談をいおうとしたが、でてきたのはそんな陳腐な、つまらない台詞にすぎなかった。
ゾーイは階段へ向かって歩いた。一度だけ振り向いた。アンナはあごをしゃくった。ゾーイは階段へ消えた。
しばらくすると、外で歓声が爆発した。喧騒を遠くに聞きながらアンナは火のついたままだった煙草をおもいきり吸った。すぐに階段を駆け上がるいくつもの足音が響いた。たちまち完全武装のSWATがS&WのM39ピストルやウージーの銃口、それにまぶしいライトを突きつけてきた。アンナは紫煙とともに思わず笑いを漏らした――もう銃なんか持っちゃいないのに。
両腕を後頭部につけた状態でうつ伏せにさせられ、手錠をかけられた。「あなたには黙秘権がある。供述は法廷であなたに不利な証拠として採用される可能性がある。――」事務的に告げる背後で、別の隊員らが安堵からか軽口を叩いているのが聞こえた。「子供を人質にとるなんて、こいつはきっと地獄に堕ちるよ」
アンナは、ああ、そうだった、と悔やんだ――あたしは地獄行きだ。だからゾーイとはもう会えない。うそをついてしまった。何十年先かわからないが天国にいったゾーイは、いつまでもあたしが来ないものだから、きっと恨むだろう。悪いね。でもきっと天国はいいところさ。それで勘弁しとくれ。
一九六八年、十二月二十五日、アンナはひとまず病院へ搬送された。治療を受けたのち、回復を待って逮捕となった。
第一回公判がはじまるまでに一年、結審するまで十一ヵ月かかった。アンナは三つの死刑判決を受けた。
終始アンナは無罪を訴え続けた。自分にふりかかった火の粉を自分で払ってなにが悪いのか。しかしアンナの主張はことごとく否定された。
アンナはテキサス州ヒューストン北にあるポランスキー刑務所の女性死刑囚監房に収容された。ほかの五十八名の死刑囚と同様、一日のうち二十二時間を狭い独房で過ごした。日々、ゾーイが翻意してアンナとの逃避行を手助けしたなどと証言しないかと脅えた。だから、手紙の一通も来ないことが、かえって安心をもたらした。
テレビ局にインタビューされたこともあった。あなたは犠牲者だ、あなたは無罪だと、あなたを応援している死刑執行の反対派に対して、なにかいいたいことはありますか、と訊かれた。ばかばかしい、とアンナはむなくそが悪くなった。だからこう答えた。
「やつらの顔を見てみな。あたし本人を見ていない。あいつらは自分たちの武器を手に入れて喜んでる。かわいそうな境遇で犯罪者にならざるをえなかった女性ってね。あたしが男だったら見向きもしなかったろうよ。あいつらはあたしの味方をしてるつもりで、社会に怒ってるように見えるけど、実際はすげえ気持ちよくなってるのさ。それこそセックス以上にね」
アンナを死刑廃止やフェミニズム運動のイコンに利用しようとする人間はしばらく絶えなかった。アンナはそのすべてに中指を立てた。しだいに彼女の味方は減っていった。けっこうなことだ、とアンナは満足げだった。
そうして時は過ぎた。
◇
収監から十四年後の十二月二十五日正午、そのときがきたので、すでに五十歳をこえていたアンナは監房から出された。手錠と足錠をかけられ、白いヴァンで四十五分かけてハンツヴィル刑務所に移送された。移送の道中、延々つづく墓地を車窓から眺めた。
墓地と森を抜けると、
ハンツヴィル刑務所に死刑囚は収容されていない。そこは死刑囚を収監するのではなく、死刑を執行する刑場だからだ。
ウォールズに到着したのは午後一時半ごろだった。身体検査をし、シャワーを浴びて服を着替え、指紋を採ると、鉄格子の扉の監房へ入れられた。刑務官はいずれもプロフェッショナルに徹していて、アンナにことさら憎悪をぶつけることもなく、淡々と作業をこなした。あるいは流れ作業を心がけていないと務まらない仕事なのかもしれない。彼らはこれから神と正義のために人を殺すのだ。
死刑が執行される午後六時まで監房で過ごした。ベッドとトイレしかない監房でできることはかぎられていた。二十二歳になっているはずのゾーイは今どうしているか、結婚はしただろうか、子供はもういるだろうかなどと、とりとめのない想像をふくらませるだけだった。
六時の少し前。刑務官が鉄格子をあけた。テキサス州知事が刑の執行を許可したのだ。アンナは大きく息を吐いて気持ちを切り替えた。刑務官に案内されて処刑室へ入る。冷たいが明るい処刑室には、手術用のようなベッドがあった。
処刑室とガラス一枚を隔てた別室は二つ。互いに仕切りがあって顔を会わせずにすむようになっている。一方には被害者の遺族たち。もう片方には死刑囚の親族が入ることになっているが、アンナに親類縁者はいない。義務から弁護士が一人いるだけだろうと思っていたアンナは、そこに思いがけない顔を見つけた――ウェイントラウブである。ウェイントラウブはアンナと目が合うと、荘重な面持ちのまま頷いた。
ゾーイや、ゾーイの母親はいない。彼女たちはアンナの死刑とは無関係だからだ。
アンナはベッドに寝かされ、規則にしたがって五人の刑務官によってベルトで拘束された。ベルトは上半身に二本、腰に一本、両手首に一本ずつ、足を閉じさせた状態で太ももに一本、すねに一本。首以外は身じろぎもできない。
AP通信の記者たちが立会室に入る。時刻は六時五分。
刑務官が注射の準備をしている。アンナの死刑は電気椅子ではなく、薬物注射で執行されることになっていた。
これには前年のジュナーロウ・チェノウェス・ジュニアの死刑執行の悪名高い不手際が関係していた。ジュナーロウは薬物と交換条件でセックスを持ちかけた女性とトラブルになって彼女を強姦し、一フィートの足で頭を踏みつけて殺害したのち再び死体をレイプした罪で電気椅子による死刑が宣告された。その死刑執行のさい、酔っ払った担当執行官の手違いで電気が通りやすくなる処置を忘れられた彼は、既定の時間の通電を受けても死に至らず、二〇〇〇ボルトの電圧で二分以上も生きたままバーベキューにされた。露出した肌はバーントエンドみたいな焦げ目がつき、処置室にはオーク材のスモークとは似ても似つかない、半世紀は壁と天井に染みつくであろう強烈に生臭い煙がたちこめ、床は立会人たちの吐瀉物で海ができた。この不祥事でテキサスのオールドスパーキーは休業を余儀なくされていた。
「最後にいいたい言葉は?」
刑務官がマイクをアンナの口元に近付けて手順どおり訊ねた。死刑囚の最後の言葉は記録に残り、新聞で報道もされる。
「娼婦ならレイプされても文句いうなっていってる連中にいっておきたい――あんたが店を経営しているなら、万引きされても文句いうなってね。売る側は、売りたいやつに、売りたい金額で売る権利があるんだ。そしてレイプされたあたしが死刑になるのが、アメリカって国なのさ。あたしを見捨てた社会に、あたしを死刑にする権利があると思うかい? よく覚えておきな。あんたらが助けなかったやつ、見捨てたやつ、関心を持たなかったやつ、そういったやつらは、ある日、突然爆発する。必ずね。そうなってから騒いでも遅いんだ。ま、爆発しても自分に火の粉が飛んでこなきゃ、おもしろいニュースとして消費するんだろうけどね」
死刑執行を前にしてベッドに束縛された無力な状態とは思えない、反省の色のないアンナの放言に、被害者遺族が気色ばんだ。それこそがアンナの見たかった顔だったので、彼女は満足した。
薬物注射による死刑執行では、三種類の薬物が決められた順番で投与される――その最初の薬品であるチオペンタールナトリウムがアンナに静脈注射された。致死量以上の麻酔薬がアンナの意識を二十秒ほどで泥濘へ沈めた。
ウェイントラウブには、アンナが眠りに落ちたように見えた。
ついで刑務官が強力な筋弛緩剤のパンクロニウムを注射した。
最後に、心臓を停止させる塩化カリウムを投与した。そのときだった。
「ああ、ゾーイ、どうして……」
目を閉じたままのアンナの口からかすかに漏れたささやきを、ウェイントラウブは、たしかに聞いた。刑務官らにも動揺が走っていた。最初に投与したチオペンタールナトリウムは致死量を超えている。意識を保っていられる人間はいない。しかもパンクロニウムまで注射されては声帯も横隔膜も動かせない。うわごとすら口にできる状態ではないはずだった。
ウェイントラウブも刑務官らも事態を注視し続けた。もしアンナの意識があるのなら、すみやかに意識を失わせることで苦痛を感じさせることなく処刑する薬物注射の正当性が揺らぐ。だが五分待ってもアンナはまつ毛一本動くことはなかった。眠っているような顔も
ウェイントラウブは釈然としないながらもウォールズを出た。煙草に火を灯して、煙とため息を吐く――おそらくアンナの「うわごと」については報道されないだろう。新たな処刑法のトレンドである薬物注射の信頼性をいたずらに損なうことは得策ではない、と各メディアが判断するだろうから。ウェイントラウブは曇天をいちど仰ぎ見ると家路に就いた。全身に疲労を詰め込まれたようだった。
帰宅して夕食をとっていると、妻が「そういえば、おぼえている?」と訊いてきた。
「なにを?」
「きょう、立ち会いにいったんでしょう、死刑になった……」
「ポペスキュー。アンナ・ポペスキュー」
「そう、彼女が人質にしていた、ゾーイって女の子……」
「ああ、それが?」
「きょう、亡くなったんですって」
ウェイントラウブのスプーンが止まった。
「なんだって?」
「自殺だそうよ」
妻もラジオのニュースで聞いただけで、それ以上のことを知らなかったので、ウェイントラウブはゾーイの自宅へ車を飛ばした。事件から十五年経っても居住地は変わっていなかった。近づくにつれ胸騒ぎがした。赤と青の点滅する光――何台ものパトカーの回転灯があたりの雪景色を不吉に染め上げていた。規制線が張られていて家の敷地に入ることはできなかった。立ち番している警官に訊ねても不審な目を向けられるだけだった。警察を去ってだいぶになるウェイントラウブの顔を知っている警官はいなかった。クリスマスのリースが飾られてあるスクリーンドアがひらいた。ゾーイの母親だった。母親は、かつて娘の誘拐事件解決に尽力した元刑事の姿をみとめると顔をくしゃくしゃにしながら彼に駆け寄った。ウェイントラウブは規制線を挟んで母親から事情を訊いた。
母親がいうには、ゾーイが拳銃自殺を図ったとのことだった。弾丸はゾーイの頭部を吹き飛ばした。即死だった。母親は娘が銃を持っているなどまったく知らなかった。
「お夕飯の仕度をしていたら、二階からすごい音がして、あわてて見にいったら……ああ神さま、どうして……」母親は泣き崩れた。
「いつごろですって?」ウェイントラウブは母親を支えながら質した。「何時ごろだったんです?」
「たぶん、六時すぎくらい……わたしはいつもそれくらいにお夕飯をつくるの。きょうはクリスマスだからごちそうを……」
ウェイントラウブはあとの言葉が耳に入らなかった。ゾーイが自殺したのは、アンナの死刑執行と同時刻だった。
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