蔵の中の失楽 (nazario)
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洞の底の崩落①

「やぁっ!」

アスは気合を入れて、最後の一匹を薙ぎ払う。巨大な目玉がぐしゃりと潰れて溶けていくと、ようやく辺りが静かになった。

見れば、他の戦士はもう戦闘を終えているらしい。だったらこっちを手伝ってくれればいいのに。

 

「つ、疲れたぁ~!」

渓谷中に響き渡りそうな声を上げて、アスは思わずその場にへたりこんでしまう。

上がった呼吸を整えていると、途端に遠くから鋭い叱責が飛んできた。

「アス、そんな雑魚にいつまでかかってるんだ!」

「雑魚ったって、これだけいたら時間ぐらいかかるよ…全く、ヤアヤ姐は厳しいなぁ」

「あんたがそんなにだらけてちゃ、あたしもユバ様に顔向けが立たないんだよ!」

「はいはい、っと」

 

杖を頼りに、アスは小柄な身を起こす。今日の編成では妖の者はアス一人で、残りの二人は弓の者に槍の者と、比較的身体能力に優れたものが集まっている。

妖の者は足が遅いのは分かり切ってるんだから、二人と足並みを揃えられないのも仕方がないじゃないか。

 

「アスちゃん、おっつかれー!」

「うわ、急に抱きつかないでよ」

「えー、アスちゃんの反応つまんなーい」

背後からぶつかる様な勢いで飛びついてきたのは、弓の戦士のユウムナだ。

アスよりもさらに華奢なユウムナだが、これだけの数の魔物を狩っても平然としている。

日光にきらきらと輝いているユウムナの白い髪は、天のウルの変異の証だ。

ユバの一族の戦士は皆人間離れした膂力を持つが、突然変異によって生まれた者は、普通の戦士よりもさらに飛びぬけた戦闘能力を授けられている。

そんなユウムナに思いきり抱きつかれても顔をしかめる程度で済んでいるのは、ひ弱な妖の者とはいえ、アスもまた戦士の一人だからだ。

 

「なんかさ、今日のヤアヤ姐、いつもよりイライラしてない?」

「そうかなー? アスちゃんがさぼってたからじゃないのー?」

「さぼってないよぉ…」

うめくように答えながら、アスは重たい杖を脇に置いて思いきり伸びをする。

「いやあ、今日もよく働いたなぁ。さっさと都に帰って、祈り人たちに癒してもらおう」

「またナーダちゃんのところ? いいなーいいなー!」

「ユウムナも誰かに会いに行けばいいじゃん」

「だって私、契りができないから相手の子がつまんないよー」

「おい二人とも、いつまで喋ってるんだ! 狩りが済んだらさっさと帰るよ!」

 

遠くから飛んでくるヤアヤの叱責に適当に応じながら、アスは戦闘の痕跡を振り返る。

狩りと言っても、持ち帰れる獲物があるわけじゃない。瘴気に侵された魔物の肉なんか食べたら、せっかく治った祈り人もみんな病気になっちゃうだろうし。

つまんない戦いだったなぁ。そう思うのは、心の中だけにとどめておく。

またヤアヤに怒鳴られるのは勘弁してほしいところだった。



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洞の底の崩落②

「というわけで、今回もめぼしい戦果はなかったよ。魔物の駆除だけで終わりってことさね」

ヤアヤが残念そうに告げると、石造りの円卓を囲んだ面々は一斉に黙り込む。

 

「だから言ったじゃないか、魔物なんか狩っても得はないって」

と真っ先にため息をついたのは鉈の戦士のナタリだ。

その億劫そうな物言いに、すかさずヤアヤが食って掛かる。

「だったらほっとけって言うのかい!? それで奴らが都にまできたらどうするつもりなのさ!」

「いやいやいや、俺はそんなこと言ってないって……」

「じゃあどういうつもりなんだい!」

「ナタリ、お前の言い方が悪い。だがヤアヤも少しは落ち着け」

 

口論に発展しそうな二人を冷静な声がさえぎる。剣の者のケトは、七人の戦士たちのまとめ役だ。

まとめ役なんて、本来は不必要なんだけど。そもそも以前は、戦士を集めたこんな会議だってなかった。

絶対的な指導者、戦士の始祖であるユバがいなくなる前は。

 

魔物の襲撃と洞窟の崩落に巻き込まれてユバが消えてから、もうずいぶん経つ。

歴戦の戦士を失ったということよりも、都におけるすべての判断を下す者がいなくなったという点こそが、ユバの一族にとっての最も大きな打撃だった。

今までは食料の配分はもちろん、どの戦士がどの祈り人と契って子を為し、誰が生贄になるかまで、まさに生殺与奪の全てをユバ一人が決めていたのだから。

だから彼女を失った今になって、こんなかったるい会議なんかをすることになる。

失ったと言っても、死んだのだとは思えないけど。

もし本当に生きてるんだとしたら、今、何をしてるのだろうか。

 

「……ねえアスちゃん?」

「ん? ああ、そうだね。そう思うよ」

急に話を振られて適当に相槌を打つと、他の面々からの鋭い視線が飛んでくる。

あれ、今大事な話してたっけ?

慌ててケトに目で助けを求めると、呆れたように首を横に振られた。

 

「……なんにせよ、ユウムナにもアスにも怪我がないのが一番の戦果だ。薬草も惜しみなく使えるわけではないからな」

「だいじょーぶ、あの程度なら楽勝だよー!」

「そ、そうそう! なんとかなるって!」

 

と言ってはみるものの、やはり他の戦士たちの反応は鈍い。

暗い顔してたって仕方ないのになあ。もうちょっと楽しいことでも考えたらいいと思うんだけど。

とまたぼんやりと思考が宙に漂い始めた時、浮かない表情のケトがぽつりとつぶやいた。

 

「アス、お前は何を考えてるんだ」

「え? あ、今はちゃんと話聞いてるよ?」

「嘘をつけ。さっきからずっと上の空だろう」

「そ、そんなことないよ! ……あ、でも、ユバ様は今ごろ何してるのかなぁって思っちゃって」

「……そうだな、ユバ様がいれば、生贄だって悩むことはなかった」

 

力なく返ってきたケトの言葉で、アスはようやく気が付いた。今は誰を生贄にするか、っていう話だったのか。

それは文字通りに、生命を贄に捧げる儀式だ。ユバの一族が大いなる力を得てきたのは間違いなくこの習慣によるものだ。

始祖ユバがいなくなった今となっては、誰を生贄にするかも自分たちで決めなければならない。

しかし、祈り人の名前が挙がるたびに、こいつがいなくなると他の民が不安定になるから他の奴にしろ、いやそいつには特別な役目があるから駄目だなどとけちがつく。

かと言って、自分たち戦士の中から生贄を出そうにも、それができない事情もあるのだ。

結局、始祖ユバが去ってから今まで、生贄の儀式が行われたことは一度もない。

 

アスの不用意な、というか不注意な発言のせいで、一同はまた黙り込んでしまった。

やはり自分たちは、ユバがいなければ何も決められないのだろうか。

言葉にはしなくても、アスだけでなく他の戦士たちもそう思っていることが何となく伝わる。

その気まずい空気をどうにか挽回するためにアスが何か言おうと息を吸った瞬間に、鋭い舌打ちが聞こえた。

その音の主は、爪の戦士のメクティコだった。他の戦士から距離を置くように斜めに座った姿勢のまま、長い前髪の下から周囲をぐるりとにらみつける。

 

「うざってえなあ、いっつも同じことばっかりぐるぐる言いやがって。そもそも焦って決める必要はねえだろ。侵略者が来ねえんだからよ」

「今のところはそうだが……」

「あたしもメクティコに賛成だよ。とにかく、生贄は実施しない。するにしたって誰を選ぶか、あたしたちには決めようがないんだからな。皆、それでいいな?」

ケトの言葉を遮ってヤアヤがきっぱりと言うと、七人の戦士にはどこか安心したような雰囲気が広がった。

何か反論しかけていたケトも、ずっとあくびを噛み殺していたナタリと、ついに一言も発さなかった槌の戦士のチカオトルも頷いている。

ちらりと横を見ると、ユウムナはやり取りを聞いていないように矢じりの羽根を指でしごいている。

そしてすべての決定を先送りにし、何もかもがうやむやのまま、会議は解散になった。

つまりは、いつも通りの展開だった。



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洞の底の崩落③

戦闘の後に長い話を聞かされたせいで、気が付けば日暮れに近くなってしまった。

体を動かしてないから疲れてはいないが、気持ちは何となく重い。

岩道を自分の影を踏むようにとぼとぼと歩いていると、アスは道端に誰かを見つけた。

その小柄な姿は、長い上衣の裾が地面に着くのも構わず、うつむいて花を摘んでいる。

水晶のように澄んだ紫の瞳がこちらへ向くより早く、アスは駆け出していた。

 

「ナーダっ! たっだいまー!」

「きゃっ! せ、戦士様!?」

ユウムナにされたように後ろから抱きついてみると、ナーダ・シウは分かりやすく驚いてかわいらしい声を上げてくれた。

なるほど、確かにこれは楽しいかもしれない。

 

「何それ、花? 何に使うの?」

「あ、これは……戦士様が帰ってくる前に、お部屋に飾っておこうかと思って」

「へえ、綺麗だね! 都の中にもこんな花咲いてたんだ!」

「ふふ、そんなにじっと覗いたらお花が照れてしまいますよ」

悪戯っぽく笑うと、ナーダはアスの手を柔らかく振りほどいて立ち上がった。

ナーダは女性の中でも小さな方だが、子供のような背丈のアスと並べば、頭一つ分くらいは背が高い。

「せっかくだから、一緒に帰ろうよ」

とアスが手を差し出すと、ナーダは素直にその手をとった。

だがその表情からは、いつのまにか先ほどまでの笑みは消えている。

 

「戦士様、今日はいつもよりもお帰りが遅かったですね。何かあったのですか?」

「ん? ああ、たいしたことじゃないよ。ただ話し合いが長引いただけ」

「本当ですか? 今日の狩りでお怪我や傷を負われたのではないのですか?」

「まっさかぁ! 侵略者ならともかく、魔物相手に怪我するわけないよ。どうしたの、占いで悪い結果でも出てたの?」

「いいえ、そうではありませんが……」

とナーダは歯切れ悪くつぶやき、消えた言葉の代わりのようにつないだ手を強く握った。

 

ナーダは、星を使った占いを生業としている娘だ。占いの精度は驚異的と言っていいほどだが、本人はその正確さを持て余しているきらいがある。ユバの都に来たばかりの頃には、自分の占いが見せる恐ろしい未来に耐え切れず、両の目を塞いでしまっていた。

今はその恐怖を乗り越えて再びまぶたを開いているが、どんな未来を見てしまったのか、理由も語らずに悲観的な眼差しを見せることもある。

良くも悪くも能天気な自分とは大違いだと、細い指先を握り返しながらアスは思う。

 

 

「今日のナーダはずいぶん心配性なんだね。僕が魔物なんかに負けると思ったの?」

「違うんです、ただ、日が中天を過ぎてもお戻りにならないので、何かあったのではないかと考えてしまって……一度そう思うと、頭からその考えがなかなか消えてくれないんです」

「ってことは、お昼からずっと僕の心配してたんだ。いやあ、そんなに長く一つのことに集中できるんだからすごいよね! 僕だったらどんなに頑張っても絶対に眠くなっちゃうもん」

冗談めかして言うと、ナーダは少しだけ表情を緩めた。

慎重なのは良いことだけど、あまり思いつめすぎるのは決して良いことではないだろう。特にあの大崩落以来、ナーダは眉間にしわを寄せていることが増えたような気がする。

何か、彼女の息抜きになるようなことがあればいいのだが。

と、アスは深く考える前にナーダを誘ってみることにした。

 

「ねえ、僕、明日の昼は暇なんだ。一緒に出かけてみない?」

「……すみません。お誘いを断るのは大変心苦しいのですが、他の戦士様の狩りに同行する務めがあるのです」

「誰かに代わりに頼めばいいよ、ケトには僕からも言っとくし」

「そんな、無責任です」

と言いながらも、ナーダの瞳は迷うように揺れている。すでに気持ちは、アスの提案に惹かれ始めているのだろう。

あともう少し押せば、言いくるめることができそうだ。

 

「ナーダ。祈り人は僕ら戦士の戦いを遠くから見守って、祈りの力で助けてくれる大事なお仕事なんだよ? そんな暗い顔じゃ僕らの元気だって出ないよ。明日は休んで、しっかりナーダの元気を取り戻さなきゃ」

「……暗い顔、してますか」

「うん! パウラに怒られたタラコナみたいだよ!」

「……ふふ。そんな情けない顔で務めを果たすわけにはいきませんね」

「よし、決まりね! どこ行こうかなー」

ようやく笑顔らしい表情を見せたナーダの手を引き、歩幅の差を埋めるためにアスは飛び跳ねるようにしながら歩く。

せっかく一緒に過ごしてるんだから、自分の呑気さがちょっとでもナーダに移ってくれればいいのに。

そう思いながら歩く道に、寄り添った二つの影が長く伸びていた。



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洞の底の崩落④

集落の外れにある小さな石造りの小屋の中は、埃一つないくらいに綺麗に掃除されていた。

ちょっとした調度品さえ真っすぐに置かれた部屋からは、清潔を通り越して神経質な印象を受ける。

ナーダが摘んできた花を花瓶に飾ると、冷たいばかりだった室内の空気が少しだけ和らいだ。

 

「ナーダは相変わらず綺麗好きだねぇ。僕は眠れればいいだけなんだから、そんなに気を使わなくてもいいのに」

「私がしたくてやってるんです。ここは戦士様が帰ってくる場所ですから、いつだって万全に整えておきたいのです」

といっても、この小屋はアス個人の住居ではない。都の中に点在している、戦士の逗留所の一つだ。

たいていの戦士は、決まった住処を持つことはない。狩りの合間に体を休める時は、この手の小屋を勝手に使うか、懇意にしている祈り人の家を渡り歩くかしている。

アスも以前はその例に漏れず、寝床はその日の気分次第で変えていた。だが、最近ではこの小屋になんとなく腰を落ち着け、ナーダが世話を焼いてくれることに甘えている。

 

しわ一つなく整えられた寝台に座ったアスは、立ったままのナーダを手招きする。遠慮がちにナーダがアスの隣に腰かけると、布団の中の干し草が二人の体重の分だけ沈んだ。

「ね、ぎゅっとしてもいい?」

「ええ」

返事を待つ前に、アスはナーダの肩に手を回す。華奢な体を確かめるように背筋をなぞり、そのまま前に手を滑らせて薄い腹に触れる。

と、ナーダはわずかに抵抗するように身をよじった。

「駄目ですよ、戦士様……」

「え、なんで? ここだと嫌? 契りの神殿まで行こうか?」

おかしいな、さっきまではいい雰囲気だと思ったんだけど。

今だって強く拒絶されているわけじゃないけど、ナーダの様子はどうにも乗り気には見えない。

 

「いえ、違います。……その、私ではお役目が果たせないので」

「うー、その話かぁ……」

アスは思わずうめき声をあげ、ナーダの肩口に顔をうずめる。

アスも忘れていたわけではない。むしろ、この都における最も重大な問題だからこそ、目をそらしていたかったのだ。

 

契りの儀式は、都での生活に不可欠なものだ。特に、祈り人と戦士の間のそれは、愛情の確認や欲の発散以上の、特別な意味をもつ。

老若男女、さらに望むと望まざるとにかかわらず、戦士と交わった祈り人は必ず新たな戦士を孕む。その契りの儀式こそが、生贄と並んで都の柱となる機構であった。

そのはずなのに、あの大崩落以来、祈り人と契りをかわしても新たな戦士が生まれなくなってしまった。男であろうが女であろうが、精霊ですら、契りによって命を孕むことはない。

だからこそ、今日の戦士会議でも贄を決めることができなかったのだ。限りなく湧いてくる泉が突然枯れてしまったようなものだ。原因も対処法も分からない状況で水瓶を割るほど、無謀なことはできない。

 

「でもさあ、ナーダだけじゃないんだよ? 他の祈り人にお願いしても、誰と試してみても駄目だったもん」

「……やはりそうなのですね。私もシーダやネラに聞いてみましたが、結果は同じでした」

ナーダは視線を部屋の隅へと移しながら、そっと肩からアスの手を外す。

「そっかぁ、祈り人にも伝わってるんだね。そりゃそうか、僕ら戦士の顔ぶれが変わってないのは見ればわかるもんね」

「残念ながら、その通りです」

なるほど、だから今日は出会った時からナーダの表情が晴れなかったのか。アスはひそかに納得する。

ただでさえ大きな戦果がないのに加え、侵略者が攻めてこないせいで祈り人の救出も滞っている。その上戦士も生まれず、都にまったく新しい風が吹かないのでは、士気が上がるはずもないだろう。

能天気さには自信があるアスでさえ、討伐と身のない会議を毎日繰り返していると、同じ道をぐるぐると歩き続けているような気分になる。

何かこの状況を打破するような出来事があればいいとは思うが、アス個人ではたいしたことはできない。

 

明日も続くだろう変わり映えのしない日々を考えて、アスは無意識に大きくため息をついてしまう。

ナーダを元気づけるつもりだったのに、自分が落ち込んでたら逆効果じゃないか。

口には出さなくても、アスの沈んだ気持ちは伝わってしまったのだろう。慰めようとするように、ナーダはそっとアスの頭を撫でた。

「ううー、気を使わなくていいよー……ナーダだって元気ないのに……」

「いいえ、戦士様」

 

しかし意外なことに、返ってくるナーダの声は穏やかだった。

 

「私は、今の状況は一種のお告げではないかと思うのです。新たな戦士様を授かれないのは困りますが、今は七人の戦士様を中心として都の秩序が回復しつつあります。もしも今まで通りに契りと生贄を繰り返していたら、頼るべき軸を失ったこの都は大いに迷っていたでしょう。そう考えれば、悪いことばかりではないと思いませんか?」

「そうかなぁ。……うん、そう言われればそうかもね。ナーダらしいや」

 

確かに、ナーダの意見はなかなか筋が通っているのかもしれない。

大崩落が一族に与えた傷は、今でも埋めきれないほど大きい。指導者たるユバを失っただけでなく、祈り人の中にも行方知れずになったものが何人もいる。

その中には強大な祈りの力を持つものや、大地を守護するべき精霊たちさえ巻き込まれていた。残されたものたちだって、全くの無傷ではない。部族のまとめ役を失った民や、単純に人手不足で食料の採集もままならない集落もある。

今は都全体が、変わってしまった状況に対応するすべを手探りしているのだ。そんなときに新しい命を授かっていたら、収拾がつかないほどの混乱状態に陥っていたかもしれない。だから、ここは雌伏の時として力を蓄えることに専念するのだ。

そう考えなければやりきれないというのもある。だが、小さな光から希望を導きだして見せるやり方はナーダが星見の力で行う占いにも似ていて、少し気持ちを軽くしてくれた。

 

進退のない現状をなんとか飲み込めたのはいいものの、そこで会話が途切れてしまった。ひんやりとした沈黙に耐え切れなくなったアスは、勢いに任せてナーダの肩を軽く押し、一緒に寝台に倒れこむ。

「えい」

「きゃっ……。もう、駄目ですよ。私じゃ、授かることは……」

「ううん、今日は何もしないよ。でも、一緒に寝るくらいはいいでしょ?」

 

警戒もなく押し倒されてしまう無防備な体を腕の中に閉じ込めて、上から毛布で覆ってしまう。抵抗のつもりなのか、もぞもぞと動いているうちにナーダの体からこわばりが解けていった。

そのまましばらく抱きしめていると、二人の体温が近づいて一つの生き物のようになっていく。

考えないといけないことはたくさんあるけど、今はこのまま眠ってしまおう。

アスは目を閉じて、頭の中にある言葉にできない不安を追い出してしまおうと努力する。

明日はきっといい日になると、誰かが保証してくれればいいのに。



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夢の先の欠落①

両手いっぱいに白い花を抱え、ナーダは集落への帰り道を歩く。一歩進むたびにこぼれてしまう花びらを拾いながらなので、歩みは決して早くはない。

けれど、そろそろ急がないと本当に日が暮れてしまう。

できる限りの早歩きを続けて、ナーダはようやく集落の広場にたどり着いた。まだ明るい日の下では、男たちは薪を割ったり、女たちは繕い物をしたり、それぞれの仕事を果たしている。

その中で話し込んでいた二人の女性は、ナーダを見つけて声をかけた。

 

「やあ、ナーダ。ずいぶんな大荷物だな」

「まあ、綺麗なお花ですね! それ、渓谷の植物ですか?」

眼鏡をかけている小柄な女性は、スーラ・レイ。渓谷の若き研究者だ。淡々とした話ぶりで冷静な判断を得意とするが、時々抜けたところがあるのがかわいらしい。

その隣の長髪の物柔らかな女性はキサラだ。普段は草原の集落に暮らしているので、今日は何かの用で渓谷の集落を訪ねてきたのだろう。スーラと話しているということは、学術的な用件だろうか。

 

「スーラ、それにキサラもいたんですね。良ければこれ、受け取ってください。渓谷のこの時期に咲く花で、花弁を数日干して煎じれば香りのよいお茶になります」

「そうなんですね、ありがとうございます!」

「うん、この花のお茶は味も良いんだ。でも、簡単に採れる場所には生えてくれないんだよな。遠出してきたのか?」

「ええ、戦士様に連れて行っていただいて……」

と、アスと出かけてきたことを話すと、二人は嬉しそうに相槌を打ってくれた。

戦禍の中にあっても、他人の恋愛話を聞くのは楽しいものだ。

もしかしたら、こんな状況だからこそ娯楽を求めているのかもしれない。

 

「まったく、随分のろけられてしまったな。仲が良くて羨ましいことだ」

「わ、私と戦士様は、そんなのじゃ……」

ナーダが赤面しながらスーラの言葉を否定しようとしたところで、口を挟まずに笑顔で頷いているだけのキサラに気がついた。

「すみません、二人のお話し中に割り込んでしまって……キサラ、何かスーラに用があるのでしょう?」

「いえ、ちょうど話し終わったところだったんです。それに、ナーダさんのお話を聞くのが楽しかったものですから」

「そうだ、さっきの話だが、ナーダに聞いてみたらどうだ? 真面目な奴だし、向いてるんじゃないか」

「……はい?」

スーラから水を向けられると、キサラは嬉しそうに指先を合わせて話し始めた。

 

「ナーダさんもご存じの通り、私はリムセ村で子供たちの指南役をやっているのですが、相手が私だけではあの子たちも退屈してしまうのではないかと思いまして……そこで、渓谷の皆さんに先生になっていただけないかとお願いに来たのです」

「せ、先生に?」

「ええ、もちろん祈り人の任務が重なったらそちらを優先していただきます。でも、最近は侵略者もあまり来ないようですし……ほら、島からはアロイさんが協力してくださってるんです」

とキサラが指す方を見ると、笑いながら逃げる子供たちと、それをふらふらと追いかける水色の髪の女性が見えた。

 

「こら~、せっかく島の伝統料理を教えてやってるんだから、話を聞けよ~×××ども~」

「あははは! アロイさん、いつにもましてチャケ臭いっす! そんな走りじゃアチキは絶対に捕まえらんないっすよ!」

「タラコナ、てめえあんまり調子に乗ると……うぷっ!? うっ、うげええぇ、おえっ……」

「うわー! だ、大丈夫っすかアロイさん! 誰か、水持ってきてー!」

 

島の料理人アロイは、ナーダの語彙ではとても表現できないような悪態をついていたかと思うと、二日酔いのせいか唐突にうずくまって嘔吐してしまう。駆けまわっていた子供たちは、アロイがえづきだすと一転して背中をさすったり水を飲ませたり、甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。

騒がしくも微笑ましい、思いやりに満ちた光景だ。

 

「アロイさんには、料理道具の使い方や食材の選び方なんかを教えてもらってるんです。魚の捌き方なんて島の子じゃなければ知る機会も少ないから、子供たちも興味を持って聞いてくれてます」

「魚料理なんて知らなくても、渓谷では生きていけるがな。とはいえ、必要以上の知識を学べるのは、生活に余裕がある証拠だ。侵略者が何を企んでるか知らないが、ずっとこのまま来ないでくれればいい」

 

スーラは眼鏡の奥の目を細め、子供たちの様子を微笑ましそうに眺めていた。

向学心の豊かな彼女にしてみれば、学びの場が子供たちに開かれるのは、諸手を挙げて歓迎すべきことなのだろう。

 

「では、スーラも教師役を引き受けるのですか? 面白そうですね、どんな授業をするのですか?」

「……いや、私は断らせてもらったんだ。力になりたいのは山々なんだが、師匠の体調がな……」

 

ナーダの問いかけに対し、スーラはゆるりと首を横に振る。

 

「ダリアさんのお加減、まだ良くならないんですか?」

「……体の怪我はたいしたことないんだが、心の回復が追い付いてないんだ。食事もあまり取らないし、最近は一日中ぼうっとしていることが多い」

 

ダリアは、先日の大崩落の最も深部にいた祈り人だ。少女のような風貌ながら優れた研究者だったが、瘴気を強く浴びてしまったのもあって、今はまともな会話もままならない状況だ。

 

「医者も見てくれてるとはいえ、あまり師匠を一人にしたくないんだ。すまないな、キサラ。せっかく誘ってくれたのに」

「いえいえ、こちらこそ大変な時にすみません。ダリアさんが落ち着いたら、ぜひ教室に遊びに来てくださいね。気分転換くらいの軽い気持ちでもいいですから」

「ああ、そうするよ。ディンシャにも教室のことは言っておく。あいつも研究者だから、意外と興味を示すかもしれないしな。私よりも師匠の看病をする時間が長いから、気も滅入ってるだろうし」

「はい、ありがとうございます!」

 

提案を断られたのにも関わらず、キサラの表情は明るかった。その笑顔のまま、ナーダにも優しく微笑みかける。

 

「ナーダさんも、良ければ一度教室を見に来てください。今日みたいに渓谷にお邪魔することも増えると思うので」

「ええ、もちろん」

 

それからしばらく他愛のない話をした後、キサラは子供たちを呼び集めて帰っていた。アロイに肩を貸しながら草原の集落まで歩くのは相当に骨が折れると思うが、キサラは集落を出る最後の時まで笑顔のままだった。肩にかかる重みも、足元にまとわりつく子供たちの声も、何もかもが楽しくて仕方ないというように。

 

ナーダは幾分軽くなった花を袂に持ちながら、いつもの癖で空を見上げる。

昼過ぎに集落に戻ってからずいぶんと話し込んでいたはずなのに、まだ太陽はあんなに高いところにある。

雲を透かす白い光が、自分たちにゆっくりと流れる時間を与えてくれているように思えた。

 



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夢の先の欠落②

「いやあ、退屈だねえ露呼クン」

「……」

「あ、そういえば最近日が長くなったと思わないかい? こんな未開の土地でも、天体はちゃんと動いてるんだね」

「……」

「それとも、ボクらが暇を持て余してるだけなのかな。今更戻りたいとは思わないけど、やっぱり向こうにはいろいろあったからねえ。実験道具も、研究材料も。そういえば……」

「……ああもう、うるっせーなおっさん! 無視してるんだから話しかけんなっつーの!」

 

露呼と呼ばれた青年は、苛立ったように手元の楽器をかき鳴らした。でたらめな手つきで弾かれた弦は、それでもきれいな和音を奏でた。

迎徒はようやく露呼の気を引くことに成功し、満足そうに眼鏡のブリッジを指で持ち上げる。

反応を示してしまったことで何かのタガが外れたのか、露呼は勢いよく立ち上がって迎徒をにらみつけ、不平をまくしたてる。

 

「だいたい、なんで俺に付きまとうんだよ! うっとうしいんだよいい加減! 話し相手が欲しいなら他の奴らを探せ!」

「だって、振瑠クンも怜央クンも、雷弩だってこの間の崩落に巻き込まれて行方不明じゃないか。侵略者組もずいぶん少なくなっちゃったねぇ」

「それでも他にいるだろ! あの軽歩兵の奴らとか!」

「あの子たち、話しかけてもあんまり会話が成立しないんだよねぇ。皆自分のことで手いっぱいだから、独り言みたいで寂しいんだよ」

「俺に話しかけても同じだろうが、そんなもん!」

「同じじゃないよ、今まさに君が証明してくれてるじゃないか」

「てめっ、それはお前がしつこいから……! ……はぁ、ったく」

 

言い返そうとしたところで、まさしくそれが迎徒の思うつぼだと気が付いたのだろう。露呼は頭をぐしゃぐしゃとかき回すと、再び地べたに座り込んで楽器を取り直した。

 

「……暇なのは分かるけどよ、あんただって棒でアリの巣なんかいじってんじゃねえよ。それでも俺らの科学技術担当かよ」

「いや、アリじゃないよ。多分ネズミだと思う」

「……」

二度目のため息の代わりに、露呼の指は複雑な旋律を弾いた。

よくもあんなに素早く指が動くものだと、迎徒は密かに感心する。

「それにこれ、遊んでるんじゃないんだよ。簡易な日時計を作ろうと思って……」

「そんな話、俺にしてどうするんだよ。俺はもうあんたには協力しねえって決めたんだ。研究だろうと戦いだろうとな」

「つれないね。そんなに蛮族たちとの演奏会が楽しいかい?」

「ああ、楽しいよ」

 

露呼は、かつては侵略者の兵の一人だった。突出した働きはないがそこそこ真面目に任務を果たしていたのに、ユバの戦士たちに鹵獲されてからすっかり変わってしまった。今だって、かつては憎みあっていた彼らとともに音楽を奏でるため、楽器の練習に余念がない。興味を持つ程度ならまだしも、楽器を自作してまで演奏会に加わろうというのだから、その情熱はたいしたものだ。もしかすると、こっちが本来の彼なのかもしれない。

もう一度同じ旋律を弾くと、露呼は小さく舌打ちを漏らす。

 

「……やっぱり駄目だ、音が狂ってやがる」

「ふうん、ボクには全然分からないけどね……って露呼クン、どこ行くの?」

「タクナって奴が機械に詳しいらしいから、そいつに見せるんだよ。雷弩のおっさんがいねえんだからしょうがねえだろ」

「……君ね、自分が侵略者だってこと忘れてないかい? ユバの大地に暮らす彼らにとって、君は家族や友を殺した憎い敵なんだよ?」

「んなこと言ったら何もできねえだろ。俺はここでうずくまってケツをミミズにつつかれてるだけの毎日なんかごめんだ」

「いや、ネズミだってば」

軽口をたたきながらも、迎徒はひっそりと感心のため息をついた。当たり前のことだが、迎徒や露呼の行動には、捕虜として様々な制約が課されている。もとより束縛を嫌う彼なら不平不満が溜まって自棄になってもおかしくない環境なのに、露呼の価値観は驚くほど冷静だ。

 

「なるほどね、君は意外に変化に積極的なんだな。やっぱり若者は違うねえ、君みたいなのがこれからの世界を変えていくんだろうねえ。イエス! 面白くなりそうだ!」

「また爺さんみたいなこと言いやがって……とにかく、俺はもう行くからな。話し相手が欲しいならモグラにでも頼め」

「だからネズミだって……ああ、聞いてないね」

遠ざかっていく背中を見送りながら、さして残念でもなさそうに、迎徒はつぶやく。

「それにしても、ボクらのお仲間はなにしてるんだろうね? この土地を奪うのを諦めたとは思えないけど……」

砂を盛って作った土台に、迎徒は慎重に棒を突き立てる。

それは奇跡的なくらいにまっすぐ立ったが、すぐに吹いた風によってあっけなく倒された。

 



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夢の先の欠落③

「うーん、なんかすっきりしない天気だね。昼前までは日が出てたのに、急に雲が多くなってきちゃった」

「あれ、そうだっけー? 朝からこんな感じじゃなかった?」

 

アスとユウムナが今いるのは、都を囲む壁の外だ。と言っても、普段の狩りほど離れた場所ではない。目を凝らせば、平原を越えたあたりに家々から立ち上る煙が見える程度の距離だ。

しかし、急に立ち込めてきた雲のせいで、今は都の姿はぼんやりとしか確認できない。いや、あれは雲ではなく霞か霧なのだろうか。

 

「うーん、ナーダと渓谷に行った時はこんなんじゃなかったと思うけど……」

「えー、何それ何それ! 天気なんかどうでもいいから、そのお出かけの話聞かせてよー!」

「い、いや、そんなたいしたことじゃないよ? ちょっと元気がないみたいだから、気晴らしになったらいいなーと思って……」

「うんうん、どれで? どこ行ったの? 手は握った? ちゅーした?」

 

アスなりに普段とは違う景色に疑問を呈したつもりだったのに、ユウムナはまったく違うところに食いつく。緊張感なくおしゃべりする二人の様子に、黙ってついてきていた爪の戦士メクティコは露骨に舌打ちを漏らした。

 

「……あのな。気が長くて仕事熱心なお二人さんと違って、俺はこんなとこ長居したくねえんだよ。丁寧に探してるのは結構だが、もうちょいてきぱきウルを集めていただけませんかね?」

「うわ、感じ悪」

「あ? 俺が間違ってるっつーのか? だらだら話してえんだったらウル集めをさっさと終わらせて、帰ってからやりゃあいいだろうが」

「正論なのが余計に嫌な感じだよねー。メクティコちゃん、物には言い方ってのがあるんだよー?」

 

嫌味ったらしい言い方ではあるが、メクティコの言は正しい。すでに日が傾き始めているうえ、アスが言及したように天候だって良くないのだ。無駄話をしているうちに夜になってしまえば、死の風の瘴気が強まる。頑健な肉体を持つ戦士であっても、夜の死の風はなかなか耐え難い。うかつに触れればあっさりと気を失ってしまうほどだ。それがなくたって、都の外での活動は早く済ませるに越したことはない。

しかし、メクティコが言うように”てきぱき””さっさと”作業を進められない事情があるのも事実だった。

 

「ねえアスちゃん、なんか今日、少ないよねー?」

「え、魔物の数? うん、そうだね。楽で助かっちゃうよ」

「違う違う、ウルの話だよー。確かに魔物もいないけどさー」

ユウムナに言われて、アスは辺りを見回す。

「うーん、確かに。少ないのもそうだし、質もあんまり良くなさそうだよね」

魔物や侵略者を討伐するだけでなく、ウルの満ちる環境からそれを集めて持ち帰るのも戦士の責務だ。荒れた大地を芽吹かせるように、傷ついた祈り人に再び力を与える物質。詳しいことは分からなくても、ウルがもたらす恵みの重要さはアスもなんとなく理解している。

ただ最近では、どの地を訪れてもウルが薄くなっているような気がしていた。

 

「そういえばさ、ナーダと行った渓谷のウルもいまいちだったよ。なんか、すかすかな感じ」

「この辺りも、もう何度も来てるからねー。新しい場所を開拓するべきなのかなー? ねえメクティコちゃん」

「……はっ、くだらねえ」

とユウムナに水を向けられるが、メクティコは冷たく鼻を鳴らす。

「探したって都合よく見つかるもんじゃねえだろ、ウルは。反対に言ったら、豊富にあるときはどこにでも溢れてるもんだ。どこ探してもちびっとしかねえのは、この間の崩落の影響としか考えられねえ。だったら、しばらくはこの状態で我慢するしかねえだろ。どうせ自然に回復していくんだから、新しい場所を探しに行くなんて時間の無駄だ」

「へー、そんなこと考えたこともなかったー! メクティコちゃん、頭いいんだねー!」

 

意外にも丁寧なメクティコの説明に、ユウムナは素直に感心していた。

メクティコの冷静な考えは、好戦的で短絡的な戦士の中にあっては貴重といってもいい。ただ、意見がどうにも悲観的で皮肉気なのがアスには気になって、つい茶化してしまう。

「うわー、やだやだ、時間の無駄とかかっこつけちゃって。こういうのが案外、人に言えないようなえぐい趣味とか持ってるんだよね」

「あ、分かるー! 祈り人には自分のこと『お兄ちゃん♡』とか呼ばせてそう!」

さきほどまでは感心していたはずのユウムナも、あっという間に一緒になってメクティコをからかい始める。

 

もちろん軽い冗談のつもりだったのだが、メクティコは珍しく焦ったように、

「はぁ!? お、お前らが俺に意見を聞いてきたのになんだよその態度は! だ、だいたいあれは、キャキャやキマが勝手に呼び始めただけで……!」

「え、本当にお兄ちゃんって呼ばせてるの? すごい、仲いいんだね」

「な……っ!? お、お前ら、俺に鎌をかけたのか!?」

「かけたっていうかー、メクティコちゃんが勝手にかかってきたっていうかー……まあ、仲良しなのはいいことだよね!」

と、軽口を叩きながら、三人の戦士は探索を切り上げて都へと引き返す。

しかし、明るい雰囲気を取り戻したところで、今日の収穫がわずかなウルと集落一つの一回の食事にも満たないくらいの木の実しかないというのは、変わらない。ユバの都全体が慢性的な物資不足に陥っているのは、疑いようのない事実だった

 



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夢の先の欠落④

都に着くころには、すでに日が暮れ始めていた。山々の間に沈んでいく太陽が、空を茜色に染めている。

森の集落へ向かうというメクティコと別れ、ユウムナとアスは都の中央、契りの神殿へと足を向ける。

「メクティコ、こんな遅くからに祈り人のところ行ってどうするのかなー?」

「なんかね、キャキャが寝付くときに隣にいないと後で泣かれるんだって」

「本当に仲良しだねー……」

ユウムナはメクティコと違い、特定の祈り人と親しくするつもりはないらしい。アスにはナーダがいるが、こんな時間に訪ねて世話を焼かせることもないだろうと思い、今朝は神殿で過ごすことにしたのだ。

しかし、二人の目論見はすぐに変更を余儀なくされることとなる。

 

街道へと続く脇道を二人がのんびりと歩いていると、後ろから何やら焦ったような足音が近づいてくる。

ユウムナもアスも、人影を視認するよりも早く、その存在に気付いていた。

わずかな日の光を頼りにほとんど走るような歩調でやってきたのは、高山の医者のファルマだった。こんな時間だというのに、手には彼女の仕事道具である武骨なカバンを提げている。

 

「ファルマ? どうしたの、そんなに怖い顔して」

「っ! 戦士、すまない。説明している時間はないんだ。無礼な態度だとは思うが、話なら後にしてくれ」

「いや、私たちは別に気にしないよー。何、急いでるのー? 送ってあげよっかー?」

「なんだって? うわぁっ!?」

ファルマが頷くよりも前に、ユウムナはファルマの胴体を抱えて肩に担ぎあげていた。出遅れたアスは、とりあえずファルマのカバンを受け取った。

「そんなに焦ってたらファルマちゃんが転んでけがしちゃいそうだよー。で、どこに行ったらいいのー?」

「こ、こんなことを戦士にさせるなんて……。いや、正直に言えばかなり助かる。悪いが、高山の集落に向かってくれないか」

ファルマに頷くと、さっそくユウムナは走り始める。一人分の重みがかかっているとは思えないほどの軽やかな足取りだ。

「ファルマちゃんの診療所に行ったらいいんだねー?」

「違う。向かうのは、ダリアのところだ」

「ダリア? もう日も暮れてるのに、今から看病?」

思わずアスが口を挟むと、担ぎ上げられたファルマは首をひねってアスの方を向いた。その瞳には焦りだけではなく、不安げな色が宿っていた。

「そうだ。もうダリアは、丸一日目を覚ましていないらしい」

 

小さな部屋の中には、ダリアのほかに二人の人間が集まっていた。ディンシャとスーラは、ともにダリアの弟子であり、今は彼女の看病を担う研究者だ。

ファルマを送り届けたアスとユウムナも、何か差し迫った事情の気配を察してファルマの診断に同席する。

寝台の上で横たわるダリアは、見守られながら時々小さな声を漏らす。苦しんでいる様子はないが、ファルマがその小さな体に何をしようと、まぶたが持ち上がる気配もない。

「栄養状態は悪くない。脱水か……あるいは、貧血に似ている、かもしれない」

彼女にしては珍しく歯切れの悪い物言いをすると、ファルマは聴診器をダリアの胸から外して手元に何やらを書きつけた。

 

「かもしれない、というのはどういう意味ですか」

気まずい沈黙を破って硬い声で反駁したのは、ディンシャだった。生真面目な印象の青年は、先ほどから何度も自分の眼鏡に触れたり、くせ毛をかき回してみたり、落ち着かない態度だった。おそらく、ダリアの不調の原因が見えないことに対する不安を、苛立ちで隠しているのだろう。

「まだ断定できる状態ではない。医者として率直に言えば、こんな症状はほとんど見たことがない」

「ほとんど? ということは、前例はあるんですか? 教えて下さい、どんなに容体が悪くても対策が立てられるはずです!」

ディンシャは鋭く言葉尻を捉え、食ってかかるような勢いでファルマに訴える。

ファルマは眉間に一層深いしわを刻むと、ちらりとアスとユウムナに視線を向けた。

何か言葉を求められているのかと思ったが、戦士とは戦うしか能がない生き物だ。こんな場面では役に立つことができるはずもなく、ただ緊迫した空気を固唾を飲んで見守ることしかできない。

 

二人の反応をどうとらえたのか、ファルマは何事もなかったようにダリアへと視線を戻した。

「この症状にもっとも近いと私が感じたのは、慢性的な栄養失調と多臓器不全……つまり、老衰だ」

「ろ、老衰?」

ファルマの言葉に大きく反応したのは、やはりディンシャだった。

「そんなのあり得ないでしょう、だって師匠はまだ……」

「そうだ。年齢としては、ダリアはまだ子供の範疇にある。だが、皮膚やその他の器官からうかがい知れる内臓の状態は、きわめて不調だ。しかも、施された治療への反応が非常に悪い。その点で、老人同然だと評価せざるをえない」

「老人……」

「それがなぜなのかは分からない。が、単に瘴気の影響であるとは言えないのではないのか、というのが現時点での私の推測だ」

ファルマは険しい表情のまま、一度言葉を切る。

 

「ただ、根本的な原因は分からないまでも、ダリアに栄養が不足気味なのは間違いない。本人には酷かもしれないが、無理にでも食事はとらせてくれ。それが今できる全てだ」

「……分かりました。でも、一つお願いしてもいいでしょうか」

ディンシャはわずかに声を震わせながら、ファルマを真っすぐ見つめた。

「ファルマさんが調べた師匠の状態の記録を、私にも見せてくれませんか。あなたの診断を軽んじているのではありませんが、私なりに原因を調べてみたいんです」

それを聞いてファルマは少し驚いたように目を開いた後、この部屋を訪れてから初めて表情をやわらげた。

 

「ああ、学者先生の力を借りれるのは助かるよ。私もリカル……看護助手がいなくて困っていたんだ。記録の見方を説明するから、明日診療所に来てくれないか」

「できるなら今すぐ見せてほしいのですが……」

「いや、今日はもう遅い。私にもあんたにも、多少は休息が必要だ。朝までには記録を見せられるようにまとめておくから、落ち着いたら診療所に来てくれ」

と、ディンシャへいくつか指示を出した後、ファルマは診察道具をまとめてダリアの部屋を去っていった。

 

アスとユウムナもその雰囲気に乗じて、ダリアが眠る小屋を後にする。外に出るとすでに日はとっぷりと暮れて、雲間からのぞく月だけがぼんやりと光を投げかけていた。

なんだか今日は、色々なことがあった気がする。楽しかったやり取りもたくさんあったはずなのに、今頭を占めているのは単調な疲労感だけだ。激しい戦闘をしていたわけでもないのに、いったいどうしてだろう。

アスがぼうっと考え事をしていると、隣を歩いていたユウムナが不意に足を止めた。その視線の先には、アスたちよりも先に帰ったはずのファルマが立っていた。

 



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夢の先の欠落⑤

「戦士、少しいいか」

ファルマは変わらず険しい表情を浮かべながら、二人の戦士を呼び止める。おぼろげな月明りが頼りの薄闇の中で、彼女の髪だけが燃えるように赤い。

「どうしたの。こんなところで待ち伏せ?」

「そういえば、さっきも話の途中で私たちを見たよねー? 何か言いたいことでもあるのー?」

「ああ、あまり人に聞かせたい話じゃない。……といっても、時間が遅いのも事実だ。歩きながら手短に話す」

もう夜更けと言ってもいい時間だというのに、ファルマの表情には疲労はない。けれど、その横顔には言いしれない不安の影があった。

 

「率直に聞く。ダリアのウルはどうだ。戦士にとっては、どのように見えている」

思いがけない質問に、アスは目をまたたく。一緒の部屋にいたとはいえ、ダリアのウルなんてちっとも意識していなかった。だが、ユウムナは特に驚く様子もなくその問いに答えた。

「……普通の人より減ってるねー。それに、なんか元気ない感じだったようなー」

「やはりそうか……」

大きくため息をつくと、ファルマはアスに目を向けた。

「ユバの戦士は風邪なんてひかないだろう。それでもあえて聞くが、人間がなぜ病にかかるか分かるか?」

さらに意図の見えない質問に戸惑いながらも、アスは正直に自分の考えを伝える。

「え、分かんない。体が弱いから?」

「そうだな、それも一つの正解ではある」

 

ファルマは小さく微笑むと、

「子供達には、病気の精霊が体に入ると熱や咳、腹痛が出ると説明している。この精霊は寒くて不潔なところや空腹が好きだから、体調が悪くなったら精霊が嫌がることをして追い出せと」

「あったかくしていっぱいご飯食べろってこと?」

「そうだ。それが体が持つ回復力を高めつのに最も有効な手段だ。細かな理屈はあるが、だいたいそれだけ分かっていれば問題はない」

「じゃあ、ダリアもその通りにすれば回復するんじゃないの?」

「私もそう思っていた。けれど、あの崩落からいつまで経っても、ダリアの体にはその回復力がまったく戻らないんだ。私はそれが、ウルと関係しているんじゃないかと思っている」

ファルマは指先を顎に当て、アスたちよりも自分自身に言い聞かせるように説明した。

 

「この都に来てから、通常ではありえないような傷や病が回復していく様子を何度も見てきた。もしかすると、不調を治すためには患者の体力だけでなくウルが必要なのではないか……あるいは、ウルでなければ治せない症状が、今のダリアを蝕んでいるのかもしれない」

「……ってことは、ウルを集めてダリアにあげれば元気になるの?」

「どうだろうな……私は医者だから、ウルを集めるということがどうなのかも、それが体にどう作用するのかも分からない。祈りの力を与えてくれるのは確かだが、それが良いことばかりではないとも思う。私の周りでも、ウルを与えられた前後で別人のように変わってしまったものを何人か知っているからな」

 

ファルマはそこで言葉を切り、立ち止まった。

「けれど、それでもやってみる価値はあると思う。幸い、高山には力のある精霊も残ってるし、ガリヤみたいにウルが扱える人間もいるからな。いろいろと試してみるよ」

アスには半分も理解できない話だったが、ファルマは先ほどよりもすっきりとした顔をしていた。自分の考えを言葉にしたことによって、何かを掴んだのだろう。

先ほどから黙り込んでしまったユウムナの代わりに、アスは背伸びしてファルマの肩を叩いた。

「そっか、頑張れ!」

「ああ。ありがとう、戦士!」

少しだけ目じりをやわらげて微笑むと、ファルマは重そうな鞄を持って診療所へと帰っていった。

 

「ダリア、治りそうだって。良かったね」

「……」

ユウムナはダリアの部屋を出てからずっと、浮かない顔をしている。目覚めない彼女を案じているのかと思ったが、ファルマが解決法を示した今でもその表情は晴れない。

「治りそう……かなー。私にはそんな風に思えない……」

「え? どうして?」

聞き返しても、ユウムナはうつむくばかりだ。

「ファルマだって言ってたじゃんか、試してみなきゃ始まらないって」

「……でも、はっきり治るなんて言ってないでしょー?」

「治らないとも言ってないじゃん、どうしてそんな暗い顔してるの?」

「……アスには分かんないよ」

珍しく突き放すようにつぶやくと、ユウムナは大きくため息をついた。

なんだか分からないけど、ユウムナも落ち込んでいるようだ。もしかしたら、ダリアと仲が良かったから不安になっているのかもしれない。

そうだとしたら、余計にそんな顔をするべきではないと思う。

 

「ねえ、ユウムナ。そんな暗い顔してたら、ユウムナだって病気になっちゃうかもよ? ダリアのことが心配なのは分かるけど、僕らにもできることをやったらいいんじゃない?」

「できることって何? 昨日だって全然ウルを集められてないんだよー?」

「う……まあそうだけど、それはそのうちなんとかなるだろうし……ほ、他にもできることはあるじゃん! ほら、お花を持ってお見舞いに行くとか!」

「……そんなの意味ないよー。私が行ったって、気味悪がられるだけだしー……」

ユウムナは両の拳を固く握る。変異の戦士は、奇妙な色の髪や肌をもって生まれてくる。その外見と飛びぬけた戦闘能力を理由に、彼らを恐れる祈り人がいるのは確かだ。

 

だけど、それでも。

「ダリアと友達だったんでしょ? だったら気味悪いなんて思うはずないよ。それにダリアって、そういうのも面白がってくれそうじゃない? 『戦士様のお見舞い、とってもがおーだね!』とかさ」

「……そう、かな」

ユウムナの声に、少しだけ明るい色が混じる。その機を逃さず、アスは畳みかけるように話す。

「そうだよ! だって、病人のお見舞いに行く戦士なんて聞いたことないもん」

「……うん、確かにそうかも」

そこでようやく、ユウムナは少しだけ口角を上げた。

「ありがと、アスちゃん。なんかちょっと、元気出たかもー」

「あはは、僕は何もしてないって。そうだ、綺麗な花が生えてる場所を教えてあげるよ! 昨日、ナーダと一緒に見つけたんだ! 朝になったら一緒に行こう!」

顔をあげたユウムナの手を引いて、アスは神殿へ向かって走り出す。

けれど、月に背を向けて進めば進むほど闇は濃く、行く先を飲み込んでいくかのようだった。

 



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花の影の災厄①

アスが目覚めた時には、すでに外はだいぶ明るくなっていた。日の出とともに起きるのが当然だった生活が、最近は眠気に任せてぼんやりと過ごすことが多くなっている。

なにせ、時間を持て余して仕方ないのだ。侵略者は一向に姿を見せないし、洞窟からの魔物の出現も減ってきているのだから。

 

「戦士様、今日もいい天気……ではないですけど、穏やかないい朝ですね。この後は、どちらへお出かけですか?」

「どちらへって……特に何も決めてないなぁ」

 

ナーダに髪をとかされながら、あくび交じりにアスは答える。

ユバの戦士は、生まれ持った素質で能力の全てが決まる。優れたしるしを持って生まれれば努力をせずとも頑健であり、そうでなければどんなに努力しても能力は伸びない。ゆえに、鍛錬の必要は一切ない。

だから、毎日討伐がない日が続くと、本当にやるべきことがない。一日や二日ならともかく、それ以上の時間がアスに与えられるのは初めてのことだった。

 

「良かったら、私と一緒にキサラさんのところへ行きませんか?」

「へ? ナーダ、キサラと仲良かったっけ?」

「実は最近、彼女に頼まれごとをされてまして……」

 

ナーダはなぜか、少し照れるように指先を胸の前で合わせている。

 

「先生の真似事をしている……なんて言ったら、戦士様は笑いますか?」

「せんせい……ってことは、何か教えるの?」

「ええ。占いは少し難しすぎるので、星や雲の読み方を。簡単な兆候をいくつか覚えれば、子供でも明日の天気くらいは予測がつくようになりますから」

「へえ、そうなんだ」

 

相槌を打っている間に身支度は終わり、アスはそのままナーダに連れられて集落の外れ、少し開けた広場へと向かう。

すでにそこには、キサラに連れられた子供たちが集まっていた。

 

「あ、ナーダだ! 今日も曇りだね、昨日言ってたの大当たりだ!」

「あれ、戦士様もいるの? 一緒にお勉強する?」

「馬っ鹿だなー、戦士様が勉強なんてするわけないだろ!」

 

ナーダの顔を見るなり、子供たちは笑顔を浮かべて口々に話し始める。これでは寡黙なナーダは手綱を取るのにも苦労するだろうと思われたが、ナーダは慣れた様子で軽く手を打ち鳴らす。

 

「ほらほら、お喋りはそこまでです。今日もあいにくの曇り空なので、雲の種類は後にして星座の勉強を進めましょうか。昨日はどこまで話したか覚えてますか、シャウキ?」

「え? えーっと……なんだっけ」

「はいはい、あたし分かるよ! 島の精霊と森の精霊が喧嘩して、どっちが足が速いかかけっこをするんだよね!」

「その通りです。森の精霊は先に走り出して、島の精霊が背中を追いかけます。日暮れごろに上がってくる二つの星が、森の精霊の瞳で……」

 

子供たちのきらきらとした眼差しを一心に浴びながら、ナーダは星座の由来についての解説を始める。元から人前で話すのには慣れているのだろうが、子供相手でも分かりやすく、さらに退屈させないように工夫しているのがよく分かった。

アスは子供たちの後ろで、頬杖をついて教室の様子を眺める。子供たちは特に疑問も挟まずに聞いているから、この精霊の話はよく知られているものなのだろう。だが、生まれてこの方ずっと戦いの中にいたアスにとっては、どれも初めて聞く話だ。

滑らかに進んでいく物語を聞くともなく聞いていると、キサラに小さく声をかけられた。

 

「戦士様、退屈ではありませんか?」

「ううん、面白いよ。でも、なんていうか……すごく、不思議な感じがする」

「不思議、ですか」

「なんて言えばいいのかな。ナーダもみんなも楽しそうなのはいいんだけど、こうやってゆっくり誰かの話を聞くなんて初めてだから……こんなにのんびりしてていいのかなって思うよ」

なんだか、少し気持ち悪い感じ。自分の心に浮かんでいた言葉は、さすがに口に出さなかった。アスだってこの状況に水を差したいわけではないが、なんとなく胸の中の靄が晴れない。

しかし、キサラはアスの憂鬱を拭い去るように、にっこりと微笑んだ。

 

「戦士様はご存じないでしょうけど、侵略者が来る前はよくあった風景なんですよ。今みたいに異なる民族との交流は盛んではなかったので、もっと小規模な教室でしたけど。こうして何かを教えられる場があるのは、私にとっては穏やかな日の象徴です」

「……ふうん」

「もう一度教室を開く時は、侵略者を打ちのめしてこの大地から追放してからだと思っていました。けれど、神の思し召しか精霊の導きか、その日は思ったよりも早く訪れてくれました」

穏やかなキサラの声に、アスの中の靄が導かれて少しずつ形をとっていく。

「……そっか。まだ戦いが終わってないのに、こんなことしてるから変な感じなんだ」

「おそらくは、そうなのでしょう。私たちは今まで、崩れる足元に取り残されないために、ずっと走り続けていたようなものです。その崩落が止まったからと言って、急に立ち止まれはしないでしょう。戦いがない日々を不安に感じるのは当然です」

そこでキサラは言葉を切り、アスの頭をそっと撫でた。武器なんて一度も持ったことないみたいな柔らかな手のひらから、キサラの体温が伝わってくる。

 

「それでもいいんです。何かが急に良くなるわけじゃないけど、これ以上悪くなることもない。こんな日々を、平和と呼ぶのは間違いではないと思うんです」

「……へいわ、かぁ」

「ええ。戦士様も考えてみたらどうでしょうか、何かご自身がやりたいことを」

「うーん、全然思いつかないけど……そもそも、僕にそんなのあるのかな」

「無ければ探せばいいんですよ。こうやって誰かの話を聞いているだけで、何かを思いつくかもしれませんよ?」

 

キサラは目を細めてアスに慈愛の視線を向ける。まるで自分が幼い子供になったみたいで、なんだかくすぐったい気持ちだった。

照れ隠しのつもりでちょっと眉をしかめて、アスは立ち上がる。

「……とりあえず、座って話を聞くのはもういいかな。ナーダの話は面白いけど、僕の先生には向かなそうだよ」

「あら、そうですか。また気が変わったら、いつでも来てくださいね。私の授業もお見せしたいです」

「うん、また今度ね」

「よい師と出会えることをお祈りしてますね」

 

キサラは中座しようというアスを引き留める様子もなく、丁寧に頭を下げた。

まだ講義を続けているナーダに目だけで別れを告げ、アスは子供たちに背を向けて歩き出す。とはいえ、どこへ行くかはまったく決まっていない。

「どうしようかなぁ……。ナーダだったら、占いで決めるのかなぁ……」

しかし、空を見上げたところでアスの目に映るのは、太陽を覆いつくすような白い雲ばかりだった。

 



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花の影の災厄②

キサラたちと別れたところで、アスはもう一度天を仰ぐ。まだ日は高く、小屋に戻って眠ってしまうには早い時間だ。行く当てがあるわけではないが、ひとまず人が集まるところに向かえば、誰か話し相手にでもなってくれるだろう。

そんな思惑を抱えて都の中央へ向かって歩いていくと、何か賑やかな音が聞こえた。固いものがぶつかり合うような高くて軽い響きは、かつて何かの祭りで聞いた太鼓の音色にも少し似ている。

かん、かん、と小気味よく鳴る音に誘われ、アスは遠目に見える人だかりへと近づいていく。その音を生み出している者たちは、分厚い一枚岩の上にいた。太い街道が集まるところにどっしりと置かれたその岩は、ある時は踊りなどを披露する舞台として、またある時は子供たちの遊び場として使われている。

現在大岩の上で行われているのは、木剣を使った戦闘訓練らしい。簡素で動きやすい服装に身を包んだ若者が、肌に汗を浮かばせながらお互いを打ち合っている。その顔ぶれは、渓谷の民が多いだろうか。しかしよく見れば、中にはよく見慣れたものもあった。

 

「……あれ、ヤアヤに、ケトもいる? 何やってるんだろ」

 

赤銅色の髪をなびかせながら、ケトとヤアヤはそれぞれの相手と訓練をしている。木でできた武器は、普段の戦いで使っているものよりもずっと軽いのだろう。激しい打ち合いが続いていても、二人の顔には疲れの色は見られない。

 

「はあっ!」

 

ヤアヤが一歩踏み込むと同時に勢いよく切り上げると、相手が持っていた木剣が甲高い音を立てて弾き飛ばされる。相手の少女は空になった両手をぽかんと眺めると、悔しそうに肩を落とした。

 

「……参りました」

「ああ。途中までの動きは良かったが、中盤から疲れのせいで打ち込みが雑になってるよ。もっと膂力をつけたほうがいいんじゃないか?」

「そんな簡単に……っ」

 

と言いかけた少女は唇をぐっと噛み、黙ってヤアヤに向かって頭を下げた。あの子は確か、ダダと言ったか。渓谷の民の一人で、名のある狩人の子孫らしい。しかし、長い髪の下の顔は、まだ子供と言って差し支えないくらいの幼さだった。打ち負かされた悔しさを隠さないまま、ダダは落ちた木剣を拾いに舞台を降りていった。

残されたヤアヤは手持ち無沙汰そうに何度か素振りをしていたが、すぐにアスの視線に気が付いた。

 

「……お、アスか。何してるんだい、こんなところでお散歩かい?」

「いやいや、それは僕が聞きたいよ。ケトもヤアヤ姐も、みんなして何やってんの? 新しい遊び?」

「遊びとは、ずいぶん侮られたもんだね」

 

アスのあけすけな物言いに、ヤアヤは木剣を肩に担いで苦笑した。アスの言葉にいちいち目くじらを立てないのが、短気なヤアヤにしては珍しい。

それをいいことに、アスは浮かんだ疑問をそのまま口にする。

 

「だって、僕たちユバの戦士に鍛錬なんか必要ないでしょ。いくら練習しても戦士の能力は変わらないって、僕だって知ってるよ」

「そりゃそうさ。でも、だからといって毎日遊んでいるわけにもいかんだろう。体は鈍らなくても、気持ちの問題だよ」

「……あたしが、お願いしたんだ」

 

二人の会話に小声で割り込んできたのは、先ほどヤアヤに打ち負かされた狩人の少女、ダダだった。ヤアヤの助言に噛みついた時ほどきつい言い方ではないが、声には幾分かの硬さが残っている。この打ち合いを遊びだと称したアスに苛立っているのだろうか。

その雰囲気に若干気おされつつも、アスはダダに問いを重ねる。

 

「ダダが? なんのために?」

「戦士様じゃなくて、あたしが強くなるためだよ。そうすれば、何かの時に役に立つかもしれないだろ? 戦士様がしばらく侵略者と戦ってないみたいだから、頼み込んで稽古をつけてもらおうとしたんだ。まさか、他の人までこんなに集まってくるとは思わなかったけど……」

 

と、ダダは少し気まずそうに周りを見回す。平たい岩の上で訓練用の武器を握っているのは、ざっと十人はいるだろうか。ケトの相手をしている長髪の青年も、確か同じく狩人だったと思う。以前見かけた時には大きな弓を背負っていた気がする。

 

「あれ? そういえば、ダダ……だっけ? 君の武器も剣じゃなくて弓だったよね?」

「そうだけど」

「どうして弓の訓練じゃないの? 強くなりたいんだったらそっちの方が……って、あれ? なんか僕、まずいこと言った?」

 

ダダの表情がいっそう険しくなるのを見て、アスはようやく自分が失言したらしいことに気がつく。しかし、一度口から出た言葉は取り消せない。

ダダは深く眉間にしわを刻むが、すぐに大きく肩を落とし、うつむいてしまう。口をつぐんだダダに代わって、ヤアヤが話を引き継いだ。

 

「……ユウムナには断られたんだよ」

「ユウムナが?」

「そうだ。やらないといけないことがある、とかなんとか言ってね。だから代わりにあたしが来たんだ。ケトは暇そうにしてたからついでに連れてきた」

「暇では、ふっ、ない!」

 

短い槍で青年の鋭い突きを捌きながら、ケトはヤアヤの言葉を否定した。青年は余裕そうなケトの態度に歯噛みし、さらに激しい攻勢に打って出る。弓とは間合いも戦い方も全く異なるだろうにケト相手にあれだけ戦えるのだから、この青年も相当の訓練を積んでいるに違いない。

その勢いにアスが目を奪われていると、打ち込みの音に紛れて小さなつぶやきが聞こえた。

 

「……戦士様にとったら、こんなの子供の遊びに過ぎないって思うかもしれないけど」

 

それは、顔を上げたダダの声だった。落ち着かない様子で木剣の柄を弄びながらも、その目はしっかりとアスに向けられていた。

 

「あたしたちだって、何かできることを探したいんだ。せっかく時間があるんだから、少しでも強くなって皆を守りたい。もう、侵略者に負けて惨めな思いをするのは嫌なんだ」

「……そっか。ごめん、遊びなんて言って」

「いいよ、別に。あたしの剣が未熟なのは、自分だって分かってるし。弓だってまだまだなんだから、もっと修業しないと」

 

そこで初めて、ダダは少しだけ口角を上げた。後ろ向きな言葉とは裏腹に、少女の声には確かな意思が感じられる。

黙って話を聞いていたヤアヤは、ダダの頭に腕を置いて寄りかかる。

 

「まあ、たまには他の武器を使うのも目新しくていいんじゃないのか? さて、ダダ。もう今日はお終いかい?」

「……やめない。戦士様から一本取るまで、絶対諦めないよ!」

「うし、よく言った。アス、あんたもやってくかい?」

 

好戦的に笑って、ヤアヤは木剣の切っ先をアスに向けた。アスたちが話し込んでいる間も、その背後では打ち合いの音や気合の声が響き、活気があふれている。石造りの舞台に上がってその一員になるのは、なかなか楽しそうなことに思えた。

しかし、アスはヤアヤとダダの間で視線をさまよわせたあと、小さな頭を横に振る。

 

「ううん、やめとくよ。多分ここには、僕のやりたいことは見つからないと思うんだ」

「そうか。暇だからってあんまりだらだらするんじゃないよ? 次の戦いで体が鈍ってたら、みっちり鍛え直してやるからね」

 

大きく口を開けて笑うと、ヤアヤはダダに向き直って木剣を構えた。再び響き始める打ち合いの音を背に、アスはまたあてどなく歩き始めた。

 



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花の影の災厄③

ダダたちが稽古をしていた大岩を大きく迂回して、アスは都の北側へ足を向ける。日当たりの悪い荒地が続く北側は居住区どころか農作地さえまばらで、すれ違う人なんているはずもない。

雑草もろくに生えない白茶けた土を踏みしめながら、アスは先ほど自分がヤアヤの申し出を断った理由について、ぼんやりと考え始める。

 

面倒だったわけではない。むしろ、ダダやヤアヤの中に混じって体を動かせば心のどこかにある鬱屈した気分は簡単に吹き飛んでしまいそうだと感じていた。アスの頭は単純だから、胸を占めている不安や迷いさえも、他のことをしているうちにすぐに忘れてしまう。それは良いことのはずなのに、どうしてだかとても恐ろしいことのようにも思えていた。

 

「やりたいこと……やりたいことねえ……」

 

小さく呟く声は、冷たい風にかき消されていく。

そういえば、ユウムナは今頃何をしているのか。ダダの頼みを断ったようだが、そうまでしてユウムナがしたいこととは何だろう。ユウムナは気まぐれに見えても面倒見がいいから、よっぽどのことがなければ人の頼みを無下にしたりはしないはずなのだが。

だから、ユウムナは見つけているはずなのだ。自分自身にとって『よっぽどのこと』を。

戦いのない平和な日々の中で、アスはいまだに何をしてよいのか分からずに戸惑っている。キサラに神話や教養を教わることは戦士である自分にとっては意味がないだろうけど、ヤアヤたちのように戦闘技術を磨くのも何かが違う気がする。そんな漠然と言い訳をしながら何も始められないアスにとっては、自分がやるべきことを見つけたユウムナがうらやましくもあり、少し寂しくもある。

堂々巡りの思考にため息をついたその時、アスは遠くで何か動くものを見つけた。

 

「あれ? ……おーい、何してるの?」

 

枯れ木の向こうに動いた影は、しかしアスの呼びかけには答えない。聞こえているのかいないのか、じっと小さくうずくまっているだけだ。

 

「? ユウムナ……だよね? ねえ、何してるのってばー!」

 

木々の隙間から遠目に見たって、その特徴的な白い髪の毛はすぐに分かる。

けれど、繰り返し呼んでみても、ユウムナらしき人影は、ついに振り返ることなく木々の向こうへと消えていった。

 

「なんだよ、無視なんて感じ悪いなあ。それにしても、あんなところで何をしてたんだろ?」

 

アスは不満をあらわにしながら、ユウムナがいたあたりに近づいて周囲の様子を確かめてみる。しかし目に映るのは茶色く痩せた枯れ木ばかりで、面白そうなものは一つもない。薄寒い雰囲気に思わず身を震わせた瞬間、アスは張り出した根の上にぽつんとたたずんでいる、妙なものを見つけた。

 

「……? ユウムナ、これを見てたのかな?」

 

それは、姿だけで言えばコンドルに似ていた。ただし、その羽は見慣れたものとは違い、頭の先から尾羽まで雪のように真っ白だった。天の変異の戦士のような異質な姿には、神秘的な美しさを感じる。

その珍しさに、アスは思わず雪像のような鳥に向かって手を伸ばす。しかし、その頭に指先が触れた瞬間、コンドルの首は吹き飛んだ。

 

「……っ!?」

 

いや、首だけではない。嘴が、翼が、鉤爪が、音もなくさらさらと崩れ落ちていく。アスは慌てて手を引っ込めるが、純白のコンドルの崩壊を止めることはできない。目の前に確かにあったはずの鳥の姿は、数度瞬きをする間に手のひらくらいの砂の山になってしまった。

 

「……なんだよ、これ……気持ち悪い……」

 

アスは無意識に自分の人差し指を、ローブの裾にこすりつけていた。けれど、触れたところが砂のように崩壊していく不気味な感触は、そう簡単に拭い去れるものではなかった。

誰かが作った彫刻が、たまたまここに放置されていたのだろうか。触れただけで崩壊してしまうほど風化した彫刻を、訪れる者さえいない荒野に? そこに偶然ユウムナとアスが通りがかったのか? 悪戯にしては地味だが、何かの意図があったと考えるには手がかりが少なすぎる。

誰の仕業か突き止めようととしても、コンドルがいたという証拠になるのは目の前のわずかな砂埃くらいだ。それさえも、すぐに風に吹かれて散ってしまった。

 

「……やめた。考えるのは僕の仕事じゃないんだ。もうさっさと帰ろ」

 

半ば自分に言い聞かせようと意識しながら、アスは枯れ木の林に背を向けた。急ぐ用もないのに自然と歩調は早まり、再び大きな道に戻る頃には走り出していた。

来るときに抱えていた煩悶は一切解決していないが、そんなことは頭からすっかり消え去っていた。とにかく、どうしようもなくナーダに会いたかった。

 



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花の影の災厄④

突然訪れた平穏な日々に戸惑っていたのは、ユバの戦士だけではない。

例えば、それぞれの民族の中にも、戦う役目を担った祈り人たちがいる。草原のライカ村は元より活発な気質で、狩猟や傭兵を生業とするものが多い。しかし、侵略者や魔物から身を守る必要がなくなった今では、慣れないながらも農作業や裁縫を手伝う顔がちらほらと見られた。

ライカ村の女狩人であるイメラもその一人だった。狩り装束よりもずっと武骨な作業着で泥だらけになりながら、悪友のイナウケを見てひどい顔だとお互いに笑いあう。畑仕事なんて地道なことは自分には似合わないと思っていたが、こういうのも案外悪くないかもしれない。

しかし、そんな穏やかな時間は長くは続かなかった。

 

作業着の裾が足にまとわりつくのに舌打ちしながら、イメラは一心不乱に駆ける。目的地は、現在ライカ村の族長を務めるイナウケの住居だ。周囲の小屋よりも幾分しっかりとした作りの扉を蹴り開けるような勢いで開け、イメラは叫ぶ。

「イナウケ! まだ起きてるか!?」

「……うん。どうしたの、イメラ」

イナウケは呼びかけにこたえ、寝台で上半身だけを起こした。いつも結い上げられている長い髪は、今は下の方でゆるく一つにまとめられて肩から胸に流されている。少し気だるそうな声は、陰の落ちた表情とあいまって、普段の活動的な雰囲気とは全く違う美しさがあった。

まだ日も高いのに横になっているイナウケをいぶかしむ様子もなく、イメラは入り口の横の水瓶から水を汲んで弾んだ息を落ち着かせる。そして拳で口元を拭うと、寝台のイナウケに向き直った。

 

「また出たぞ、起きられなくなった奴が。これでもう、ライカ村では四人目だ」

「……四人目? 今朝の時点では二人だったのに」

「アイサとヤイサだよ。二人同時になったから、こんな時間まで気が付かなかったんだ」

「そう……本格的にまずい事態ね」

イナウケのため息を聞くと、イメラは眉間に深い皺をきざんだ。そして土足のまま小屋に上がり込むと、イナウケのすぐ隣、拳一つ分もないくらいの距離に腰を下ろす。

「まずいなんてもんじゃないだろ。フシコもレキムのオヤジも、もう二日も目を覚ましてないんだぞ? このままだと死んじまうかもしれねえのに、なんでそんなに落ち着いてられんだ」

「怒鳴んないでよ、イメラ……これはライカ村だけの問題じゃないんだから。ウタリ村でもリムセ村でも、それどころか他の民族の集落でも、眠り込んだまま目を覚まさない奴らが何人か見つかってるって聞いたでしょ? でも、どこの村でも、まだ原因や治療法は見つかってない。対処法が分からないんだから、焦っても仕方がないじゃない」

「だからって何もしねえつもりかよ!」

「だったら何ができるか言ってみてよ、イメラ。あたしたちにできるのは、眠りこんだ皆の口にどうにか食料を押し込んで、目を覚ますのを待ちながら体を綺麗にしてやることだけ。違う?」

「イナウケ……っ!」

 

ぎり、と音がなるほど奥歯を噛むと、イメラはイナウケの肩を掴む。薄手の寝間着は簡単にしわになり、その下の体の線をはっきりと浮かばせた。

イナウケは抵抗せず、反対にイメラの手に体を任せるように力を抜いてもたれかかる。イメラは思ったよりもあっけなく倒れこんできたイナウケの体に、分かりやすくうろたえた。

「い、イナウケ!? どうした、また気分が悪いのか!? 昨日倒れたばっかりなのに、朝から無茶するから……! 待ってろ、今薬を……」

「いや、今は大丈夫。ただ、こうしていたい気分なんだ……ねえイメラ、もっとそばに来てよ」

困ったように黙ると、イメラはおずおずとイナウケの首元に頭を摺り寄せた。日に焼けた赤っぽい髪から香る子犬のような匂いを感じて、イナウケの顔がわずかにほころぶ。

「分かってるよ、イメラ。あんただって不安なんだよね。でも、あんたのそんな顔、見たくないよ」

「イナウケ……」

「……ごめん、水を一杯くれない?」

「分かった、すぐに持ってくる」

 

イメラはそっとイナウケの体を枕に預けると、木の杯に水を汲んでイナウケの口元へ持っていく。

イナウケは幼い子供が母にそうされるように、イメラの手から水を一口だけ飲んだ。そして静かに息を吸うと、

「……イメラ。もしあたしが、」

「……やめろ、言うな!」

イメラはイナウケの言葉を鋭くさえぎって、先ほどよりも強くイナウケに縋りついた。その声には怒りよりも、追いつめられた獣のような必死さが込められている。だが、イナウケはイメラの制止に構わず、独り言のように言葉を続ける。

「もしあたしが起きてこなくなったら、あんたがライカ村をまとめるんだ。いいね?」

「……いやだ。オレには、そんなこと……」

「勘違いしないでよ」

イナウケは小さく笑うと、胸元にうずめられたイメラの髪をくしゃりと撫でる。

「あんたに族長を譲るつもりはない。ただ、あたしが眠ってる間だけ、村のことを任せたいんだ。こんなこと、あんたにしか頼めないよ」

「……ふざけんな。そんなこと言って、オレに雑用を押し付けるつもりなら承知しないからな。このでっかい家ん中も族長権限でめちゃめちゃにしてやる」

「はは、おっかないなぁ……」

イメラは力なく笑うイナウケを見上げるが、昼間なのに分厚い雲が日を隠しているせいで、その顔は暗い影に覆われている。イメラを抱き寄せる腕の力がいつになく弱いことは、ついに最後まで言い出せないままだった。

 



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花の影の災厄⑤

眠りの病はゆっくりと、しかし確実に都全体を覆い始めていた。何よりも厄介だったのは、彼らがまるっきり眠っているだけではないということだった。

自ら目を覚ますことはないが、無理に口をこじ開ければ食事をとらせることはできる。声をかけても反応はないが、ぼんやりと目を開くことはある。いわば、極端に動きの悪い病人のような存在だ。病の原因が何かは分からなくても、ただ弱ってく相手を無下にすることはできない。それぞれの集落では、一部の人手を眠りの病に罹ったものの世話に当てるようになった。その分、普段は畑仕事や木の実集めをしている人員が減るのは当然のことだ。

だが、食物の備蓄はどこの集落にも平等に、そして豊富にあるわけではなかった。ユバの都に、これまで出会ったこともない敵の牙が忍び寄っていた。その名は、飢餓と貧困という。

 

 

「お願いします、これ、今年で一番出来がいいタパパなんです! これとその木の実を交換してくれれば……!」

「うぅ……でもぉ……」

 

プリトナがぱっと大きく広げたのは、一枚の薄手の布だ。海沿いの島でしか手に入らない染料で染められたそれはタパパと呼ばれ、美しく丈夫な衣服の材料として人気が高い。その評判は島の民の中だけにとどまらず、民族を越えた交易の際にも価値が高い。

しかし、タパパを差し出された森の民の少女は、その見事な模様にも顔を輝かせない。プリトナは一瞬打ちひしがれたような表情を浮かべるが、すぐに取ってつけたように笑いながら別のものを取り出す。

 

「だ、だったらこっちはどうですか? うちの村で採れた、とっておきの真珠です! 首飾りにしても耳飾りでも映えますよ! こんな質が良いの、いつもだったらこんな取引には出せないんです……あなたの綺麗な目にもぴったりで……」

「ごめんなさい、なのぉ……」

 

森の娘ジョカは籠を胸の前で抱えたまま、力なく首を振る。その中にある木の実は、籠の大きさに比べたら悲しくなるくらいのわずかな量だった。

けれど、たったこれだけを集めるのにもジョカは半日森の中を歩き回ったのだ。

ジョカが視線を落としたのを見て、プリトナは笑う。もちろん冗談を聞いたわけではなく、目の前の相手に媚びるために。

 

「ち、違うんです、全部寄越せなんて言いたいわけじゃなくて……ただ、うちにはもう、皆に食べさせてあげられるものがなくて……このままじゃ、ばあちゃんが……」

「で、でも、あたしだってお腹減ってるのぉ……マルキアからの配給だけだと、この子たちまで食べさせてあげられないのぉ……」

「そ、そんな……」

 

ジョカにとっては、いつも一緒にいる蛇たちは自分の家族と言っても過言ではない。しかし、マルキアにとってはそんなことは考慮の埒外だった。マルキアが取り仕切る食料の配給は、きっちりと成人女性一人分しか配られない。ただでさえ少ないその取り分を蛇に分け与えているせいで、ジョカはしばらく空腹で眠れない夜を過ごしていた。

ジョカが明確に否定の意思を示すと、プリトナは今度こそはっきりと落胆の色を浮かべる。快活な島の少女らしからぬ暗い表情に、ジョカは思わず言葉をかける。

 

「あ、あたしには分けられる分はないけど、他の人なら何か持ってるかも、なのぉ……良かったら、案内するのぉ……」

「……ううん、もうそっちには断られてきた後なんです。よその民の面倒まで見てる余裕なんかないって、はっきり言われちゃいました……」

 

プリトナは呟くように答えながら、無意識に右肩を抑える。先ほど森の集落を去るときにぶつけられた石は、笛職人の少女の華奢な肩に大きな青あざを作っていた。

よそ者がいきなり食料を分けてくれなんて、厚かましいお願いをしたのがいけないんだ。自分たちの生活を守ることに必死なだけで、誰も悪くないんだ。もちろん、私だって間違ってない。自分と身動きの取れない祖母のために、できることはなんだってしなくちゃ。

そうやって自分を慰めようとすればするほど惨めな気分は強まって、プリトナも黙り込んでしまう。

 

そんな気まずい沈黙は、幼い少女の甘い声で中断された。

 

「あら、ジョカ。今日の採集はもう終わったはずよ? 私、あなたに追加をお願いしたかしら?」

「ま、マルキア……!」

マルキアと呼ばれた少女は、二人に向かってあどけなく微笑んだ。この年端もいかない少女が、否、少女の姿をした毒婦こそが、現在の森の民を実質的に支配しているのだ。

 

眠りの病が大々的に広がる前、ごく初期の段階に、マルキアは自らをあがめる“教団“の構成員を各戸の看病に向かわせた。教団は元から薬学に精通している集団であり、看病の申し出自体は唐突ではあるが決して迷惑ではなかった。ただでさえ働き手が倒れて人手不足になる中で、専門知識を持った教団の手助けは多くの住人にとってはまさに天の救いであった。

理由のない善行について怪しむものもいたが、教団は自分たちの教義を押し付けることもせず、献身的に看病に尽くした。それをきっかけに、閉鎖的に暮らしていた教団は、短期間で集落全体の生活に溶け込んでいった。

いよいよ集落の半数ほどが眠りに落ち、自治が機能しなくなった頃、マルキアは森の集落の食糧庫の管理を申し出た。最初からこれが狙いだったのかと気づいたところで、もう遅い。自分たちの生命を教団に握られると分かっていても、彼女に逆らえる力を持つものは森の民にはすでにいなかった。

 



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花の影の災厄⑥

ジョカは驚きと怯えが混じった表情で、籠を背に隠そうとする。だが、その手はマルキアとともに現れた背の高い仮面の女によって簡単に抑えられた。

 

「あ、駄目なのぉ! 取らないでぇっ!」

「それはこっちのセリフよ、ジョカ。食料を採っていいのはその日の採集当番だけ、と決めたでしょうに。皆が好きなように採集をしたら、森の豊かな恵みだってすぐに尽きてしまうわ」

 

彼女よりもずっと年上に見える年頃のジョカを諭すマルキアの口調は、不自然なほど大人びている。有無を言わさず籠を取り上げられて目に涙をためているジョカのほうが、よほど子供らしく見えた。

仮面の女は籠を逆さにしてわずかな木の実を手のひらに落とすと、恭しくマルキアに差し出す。

 

「ありがとう、クラウレ。さて、これは決め事通りに貯蔵庫へと戻すわ。……言っておくけど、鍵は厳重にかけておくから、忍び込もうなんて思わないことね」

「……っ!」

 

そこで初めて、マルキアは一瞬だけプリトナに目を向けた。盗人扱いされたのだと気づいた島の少女の頬が、怒りと羞恥でさっと赤く染まる。

プリトナの反応を見たマルキアは口の端を吊り上げ、意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「それにしても、交渉に持ってくるのがタパパと真珠だなんて……呆れた。あなた、まったく状況を理解してないのね。誰もかれもがお腹を空かせてる中で装飾品なんか持ってきても、取引になるわけがないじゃないの。島の人って呑気な気性が多いっていうのは本当ね。目が開いてても頭をちっとも使わないんだったら、眠ってるのと大差ないわ」

「何よ、あ、あんたみたいな子供に何が分かるの!? 突然出てきて、勝手なことばっかり言わないで!」

「あら、泣き落としが聞かないと見たら今度は恫喝? ふふ、本当に単純なのね。……ねえ、食料を恵んでほしいならいい方法を教えてあげてもいいわよ」

 

マルキアにつかみかからんばかりに怒気をあらわにするプリトナの頬を、細くしなやかな指がつうっと撫でた。背後の仮面の女がにわかに気色ばむが、マルキアは気にも留めずに少女の耳に唇を寄せてささやきかける。

 

「あなたが望むなら、いい”お客さん”を紹介してあげるけど、どうしたい? あなたみたいな愚直……失礼、素直で純真な女の子なら、きっと可愛がってもらえるわ」

 

その言葉を聞いてプリトナは驚愕し、次いで嫌悪に強く顔を歪ませた。

プリトナだって、”お客さん”に”可愛がられる”ということが何を意味しているか分からないほど幼くはない。

 

「そ……そんなこと……!」

「あらそう? ふうん、かわいそうに。今日もあなたのおばあさんは、お腹が減ったまま眠るのね。あなたのわがままのせいで」

 

けれど、マルキアはプリトナの最も大切な場所を平気で踏みにじってくる。頬に触れた指がゆっくりと下り、少女の柔らかな唇にたどり着く。

明るい日の下で朗らかな笑みを浮かべていたはずのそこは、今はひどくひび割れて血の気を失っている。プリトナは瞬きもせずに大きな目を見開いた後、噛みしめていた唇を緩め、暗いまなざしをマルキアに向けた。

 

「……本当に、食料をくれるんですか? 私が、頑張れば……」

「ええ、もちろん。安心して、あなたならきっとうまくやれるわ。さあ、こっちにいらっしゃい?」

 

プリトナはその言葉にまぶされた毒に操られるように、マルキアにふらふらと歩み寄った。少女の危うい足取りを見るマルキアの紫紺の瞳は、この上なく楽しそうに弓なりに細められる。

プリトナの細い指が奈落へ続く蜘蛛の糸を掴もうとしたとき、それを引き留めるように低く威厳のある声が割って入った。

 

「プリトナ、探したぞ」

「え……あ、せ、戦士様?」

「食料だ、受け取れ」

 

がさがさと茂みをかきわけて現れたのは、巨体の男の戦士、チカオトルだ。マルキアには目も向けず、チカオトルは小脇に抱えていた(ざる)をプリトナのに押し付ける。その上には、干した果実がいっぱいに盛られていた。

 

「これ……果物!? しかも、こんなにたくさん……」

「マリマリだ。緊急時のために溜め込んでたと、気持ちよく分けてくれた。礼を言うといい」

 

朴訥とした口調で説明すると、チカオトルはプリトナとジョカをまとめてマルキアから遠ざけるように追いやった。何度も頭を下げながら走り去っていくプリトナにおざなりに手を振ると、チカオトルはマルキアに向き直った。

話に割り込まれたマルキアは、戦士を見て小さく鼻を鳴らす。

 

「マリマリね……家じゅう探させたのに、まだ備蓄があったなんて。まあ、あの子はああいう子だから、仕方ないわね。それにしても、仕留める直前の獲物をかっさらってくなんてお行儀悪いじゃない、戦士様」

「お前に言われる筋合いはない、マルキア。お前こそ好き勝手に食い散らかしてるらしいが」

「人聞きが悪いわね。私がいなかったら森は今頃大混乱よ? あなたたち戦士がしっかりしてないから、代わりに仕切ってあげてるんじゃない」

 

責めるような言葉とは裏腹に、マルキアはどこまでも楽しそうに笑い声をあげる。チカオトルは眉間にしわを寄せると、感情を表に出さない彼にしては珍しくため息をついた。

 

「お前が何のつもりかは知らん。だが、病気で皆が不安になってる間くらい大人しくしてできないのか」

「……呆れた。あなたも何も分かってないのね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……?」

 

チカオトルは相槌も打たず、ただマルキアの言葉に首を傾げた。マルキアはやはり上機嫌そうに目を細めると、覚えの悪い子供を相手にするように指を一本立ててしゃべり始める。

 



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花の影の災厄⑦

「いい? 今私たちを苦しめているのは眠りの病ではないの。たかだか流行り病なら、侵略者に生まれ故郷を略奪されつくしても立ち上がってきた私たちは負けない。むしろ、逆境から立ち上がるために連帯を強めることだってできるわ」

 

チカオトルを生徒に見立てて、マルキアは訳知り顔でつらつらと語る。そのまま任せていれば日暮れまで続きそうなほど滑らかに進む話に、チカオトルはなんとか口を挟む。

 

「だが、現状はそうではないだろう。この都に暮らす誰もが暗い顔をして、先ほどのように内輪揉めだって散見される」

「だから、本当にまずいのはそこなのよ。敵に踏みにじられても前を向けたのは、この大地にウルの恵みがあったから。私たちが傷を癒し、糧を食み、明日を信じることができたのは、すべてウルのおかげよ。けれど、今やユバの大地からはウルが消えかけているわ。ウルは万物の源なのだから、当然作物や家畜の実りにも影響してくる。その結果が、あなたがさっき見た惨状よ。飽きずに魔物退治を繰り返す戦士の皆様の目には、きちんと現実が映っているかしら? 神のためとか勝利のためだとか、大層なお題目だけでは飢えも渇きも満たせないわ」

 

チカオトルは長い話を聞くのが苦手だ。長くしゃべるのは、もっと苦手だ。何も考えていないわけではないが、自分は戦士に生まれたのだから、ごちゃごちゃと考えるよりも戦うのが本分だと思っていた。勝つために戦い、役目が終われば死ぬ。それ以上のことは、生きていく上では無駄でしかない。

だが、マルキアの不吉な話は聞き流すべきではないと本能が告げていた。彼女が語る内容が真実であることを、チカオトルも実感しているからだろう。今都にいる祈り人たちは、誰を見ても一様に腹を空かせ、疲れた顔をしている。

 

「きっと、ウルの枯渇を察しているのは私だけじゃないわ。なのに話がさほど広まっていないのは、精霊さえも衰えているから。そもそも、崩落に巻き込まれて消えた精霊はどのくらいいたかしら? フラワシやイグナだけじゃない、草原も島も高山も、失ったものは多かったはずでしょう? ウルの流れを見て、それを統べる存在が失われているのよ。今まで通りにやっていけるはずがないじゃない」

「……だが、しばらくすればウルだって戻ってくる」

「分からない人ね。そんな根拠がどこにあるの? あったとして、それをどうやって皆に信じさせるのかしら? ……ねえ戦士様、私たちを本当に苦しめているのは、病気じゃなくて食料をはじめとしたあらゆる資源の不足なの。今は単なる不満程度でとどまってるけど、この先に何があるのか……まだ理解できない?」

「……この上、さらなる凶事が起きると言いたいのか」

「起きるのではなく、私たちがそれを望むのよ。生きるべきものとそうでない者の間に、新たな線を引くために」

 

森の民はマルキアに食糧事情を支配されているため、切り詰めた生活を余儀なくされているものの、酷い飢餓は起こっていない。だが、元から周囲の資源に乏しく農耕の習慣もない島の民は、プリトナのようにほとんど全員が困窮状態に陥っている。

もともと、ユバの都の人口は戦士と祈り人合わせても三十もいかないほどでしかなかった。そこから新たに戦士が生まれ、侵略者から奪還した祈り人が増え、今では百人を超える住人がいる。食料生産に大して過剰気味の人口でもどうにかやっていたのは、マルキアの言う通りウルの恵みがあったことと、生贄の儀式があったからだ。

生贄は命を神に捧げて超常の力を得る神聖な儀式であって、決して口減らしのためにあったわけではない。だが、結果として都の人口を増えすぎないように抑制する効果があったのは否めない。

無用な混乱を防ぐために停止している生贄を、マルキアは復活させようというのだろうか。ただ食料を行きわたらせるためにという、浅ましい目的のために。

チカオトルは無言のまま、マルキアを強くにらみつける。けれど少女は、戦士の険しいまなざしをものともせずに嫣然と微笑んだ。

 

「……ふふ。戦士であるあなたには、きっと一生分からないでしょうね。お腹が減るとか病気で動けなくなるって、とっても惨めなことなのよ。それこそ、死にたくなるくらい」

チカオトルはユバの戦士だ。食わずとも飢えず、傷ついても病むことのない頑健な肉体を神から授かっている。だから、今プリトナやジョカが直面している苦痛を体感することは絶対にない。マルキアが言う、死にたくなるほどの惨めさを理解することも。

 

「あなたたちが犠牲者を決めたくないなら、私がやってあ、げ、る。その気になったら、いつでも呼んでちょうだい?」

 

腕を伸ばしてちょんとチカオトルの胸をつつくと、マルキアは踊るように身をひるがえす。そして、仮面の女を連れて森の奥へと消えていった。

チカオトルはその小さな背中を見送った後、初めて自分が知らず拳を固く握っていたことに気がついた。少女と話していた時間はわずかだったはずなのに、侵略者を相手に一晩中戦った時よりもずっと濃く、重い疲労感が体に残されていた。

 



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人の道の零落①

強く吹く風は、ただ砂と乾いた空気だけを運んでいく。渓谷の強風はいつものことなのに、今日はいっそう激しく感じた。

ナーダは抱えていた籠を置き、手近な岩場に腰を下ろす。籠の中に入っているのは、暗い色のキノコだ。今日は少し遠出をしたから、思ったよりも多く集めることができた。これを干して保存すれば、しばらくは食料に困らないだろう。

いつものくせで空を見上げるが、やはり今日も曇り空だ。白く分厚い雲は、未来を何も教えてはくれない。

 

けれど、ナーダはしばらくそこから動く気になれなかった。

集落に帰れば、皆の疲れた顔が待っている。山の裏まで足を伸ばして集めてきた食料は、腹を空かせた民の手によって分けられ、自分の手元にはわずかしか残らないだろう。それは仕方のないことだ。

もっと集めてきてほしいと要求されたり、これしかないのかと責められることだって、十分に考えられる。看病にかかりきりになっている者や、そもそも体が動かせない者だって多いのだ。肉体労働が得意でなくても、目だった傷病がないナーダが採集に回されるのは当然のことだ。

分かってる。今日も明日も、皆のためならきっと働ける。だけど、一人になれるわずかな時間だけは空を見ていたかった。

 

真っ白な空に向かって、ナーダは両腕を伸ばす。しばらくこうしていると、血の気が引いた指先が痺れて、感覚が他人のもののように遠くなっていく。そのままじっとしていると、体がそのまま一面の白の中に溶けてしまいそうだ。

そんなことをぼんやり考えていたものだから、近づいてくる人の気配に気が付くのが遅れた。

 

「……ナーダ? こんなところに座り込んで、気分でも悪いの?」

「っ!?」

 

穏やかにかけられた声に、ナーダはびくりと身を震わせた。この岩場は街道からはかなり外れたところにあり、通りがかりに寄るような場所ではない。

有益な草花や獣がいるわけもなく、乾いた風が岩を撫でるだけの寂しい場所なのだ。あるのはそれこそ、日陰に生えるキノコくらいのものだ。

目の前の人物もそれを探しに来たのだとしたら、すでに採り尽くしてしまったことを告げねばならない。しかしラルク・オグは、ナーダの心を読んだように軽く首を振った。

 

「私は採集とは別の用事で来たの。ナーダの成果を横取りするつもりはないよ」

 

ラルクは渓谷の祈禱師で、ナーダとは従妹の関係でもある。わずかに青みがかった銀髪には、見る人が見れば二人の血縁を感じることができるだろう。

ナーダにとってラルクは、同じ占いの力を持つだけでなく、祈祷によってその結果に干渉することもできる、頼れる存在だった。たとえ瘴気によってラルクの肌が人のものとは思えない色に染まってしまっても、額に異形の角を授かっていても、ラルクへの信頼は変わらない。

ラルクは岩場の隙間の少し開けたところに座り込むと、何か布らしきものを広げた。その上に、澄んだ氷のような青い指が、きらきらと輝くものを乗せていく。

 

「それは……宝石、ですか?」

「うん。ちょっと前に、高山の人から分けてもらったの」

 

地面に宝石を並べ終わると、ラルクはナーダの方へ歩いて戻ってきた。その手には、先ほど敷いた布からつながった細い紐が握られている。

 

「小さいけど、どれもきれいでしょ? こんなことに使うのがもったいないくらい」

「こんなことって……?」

「見てればそのうち分かるわ」

 

と、ラルクは指を一本立てて空を指した。その先を視線で追うと、一面の雲を背景に、黒い円を描くように動いているものが見える。

あの影はきっと、コンドルだろう。大きく旋回する姿は、目的なくゆったりと飛んでいるようにも、地上の獲物に狙いを定めているようにも見える。ここを狩場としているのだろうか。

 

「……あの鳥はね、光るものが大好きなの」

 

何も尋ねていないのに、ラルクは小さく呟いた。その視線はナーダでもコンドルでもなく、地上に撒かれた宝石へと向けられている。まるで、何かを待ち受けているように。

迂闊に返事をすればラルクの集中を切らしてしまいそうで、ナーダも思わず息を詰める。

コンドルが輝石や宝石を好むのは、ナーダも話に聞いたことがあった。コンドルは神の使いとされており、金貨などと引き換えに窮地に力を貸すと言う言い伝えもある。なんでも、侵略者から助けられた際に黄金のコンドルの姿を見たというものもいる。

その習性を知ったうえで宝石をこれ見よがしに並べるとは、ラルクにはコンドルをおびき寄せたい理由でもあるのだろうか。しかし、何のために?

岩陰で息を殺していると、コンドルは不意に一直線に舞い降りてきた。羽を畳んでもなお大きく見えるその鳥は、宝石のすぐそばで値踏みするように嘴で石をつつく。

 

「っ!」

 

瞬間、ラルクは素早く紐を握った拳を引いた。どんな細工がしてあったのか、その動きに連動してコンドルの足元に敷かれていた布が巻きあがり、包み込むように口が絞られる。否、それは布ではなく、目の細かい網だった。コンドルは己の自由が奪われたことを感知して暴れるが、網に全身を覆われているため、空に逃げることは叶わない。

 

「よし、うまくいった」

「ら、ラルク? あなた……何のつもりですか?」

「何って、罠をかけたのよ。手作りにしては上手だと思わない?」

 

ラルクは網の塊へと近づくと、もがくコンドルを網ごと持ち上げた。その鳥はラルクの小さな両手には余るくらいの大きさだが、身動きが取れないならば抑えるのは難しくはない。首を絞められた赤子のような、不気味な鳴き声が岩場に響く。

 

「待ってください、ラルク……! それをどこへ連れていくのですか!?」

「……祈禱の間へ。この鳥には、生贄になってもらうのよ」

「そんな……!」

 

予想していたはずの言葉だったのに、ナーダの頭が理解するのを拒む。ラルクの手中にあるのは、鳥の姿をした神の使いだ。猫やトカゲなどの動物ならともかく、コンドルを生贄にするなんて儀式は聞いたことがない。それは考えるだけでも冒涜的なことだ。そんなことをすれば、神の怒りが大地に降り注ぐのではないだろうか。

 

「ナーダ、どうしてそんな顔をするの?」

「あ、当たり前です! それはただの鳥ではないのですよ!? あなただって分かってるでしょう!?」

「……ねえナーダ。昨日の星は、どんな未来を教えてくれた?」

 

悲鳴じみたナーダの詰問には答えず、ラルクは唐突に問いかける。

 

「……ごまかさないで。いますぐそれを、解放しなさい」

「ごまかしてるのはナーダの方じゃない? ねえ、見えないんでしょ? それとも、あえて見てないのかな。どっちにしても、結果的には同じことだよね」

 

ナーダが反論できないのは、ラルクの声に確信の響きがあったからだ。

事実、今のナーダには星が見えていない。いや、ナーダだけではなく、この大地に生きるほとんどの生物にとって、星を見るのは不可能だろう。なにせ、夜になっても分厚い雲が空を覆い尽くしてしまっているのだから。

星見の一族にとっての占いは、神秘的な力よりも、経験と知識によるところが大きい。ナーダとて他の占い師がどのような手を使っているのか詳しく知っているわけではないが、ただ手を組んで目を閉じていればお告げが降ってくるというものではないのだ。

むしろ、未来を見るためには、どんなにかすかなものであれ、星の光を正確に観察するためにしっかりと目を開いていなければならない。

だからこそ、最近の空模様は星見の者にとっては鬼門なのだ。かといって、地べたから見上げていても空が晴れるわけがない。こんな状況で星を見ることができるのは、それこそ雲の上まで飛ぶことができる鳥くらいのものだろう。

ナーダが返事をしないのをどのようにとったのか、ラルクは目線を地面に落としたまま、小さく笑顔を浮かべた。

 

「この鳥が聖なる存在だってことは分かってるよ。だからこそ、私がやらなくちゃいけないの」

「どうして……」

「どうして、も」

 

ラルクは子供が遊びでそうするように、ナーダの言葉を繰り返す。

歳が近い二人は、幼いときから従妹同士で遊ぶことが何度もあった。棒を持ってトカゲを追いかけたり、いたずらが過ぎて二人そろって叱られたり。ナーダはラルクに、近しい血縁関係にある者として以上の絆を感じていた。

けれど今は、ラルクが何を考えているのか全く分からない。

 

「じゃあ、私は行くね。ナーダも元気でね」

「あ……」

 

捕らえた鳥を携えて、ラルクは迷いのない足取りで去っていく。その背中に伸ばした手は、何のためだったのだろうか。神の使いを弑することを諫めようとしていたのか。それとも、先行きが見えない現状を誰かに導いてほしいという、幼子のような甘えだったのか。

答えはどこにも存在しない。双角を持つ異形の祈祷師は振り向きもせず、ナーダを寂しい岩場に残していった。

 



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人の道の零落②

「ナーダ? ねえ、ナーダってば」

 

何度か呼ばれて、ナーダはのろのろと顔をそちらに向ける。

気づかわし気な声で自分を呼んでいたのは、見慣れた戦士の顔だった。

 

「気づいてたら悪いんだけど……それ、もう駄目なんじゃない?」

 

言われて視線を落とすと、ナーダの手の中には縒り過ぎてぐしゃぐしゃになった糸玉があった。

憂鬱な気分を紛らわすために手仕事をしていたはずなのに、やはり考え事の方に頭が支配されていたようだ。

二人が過ごす小屋の中は、重い雲を透かした夕日によって、鉛のような色に染められている。

 

「……本当ですね。もったいないことをしました」

「いいよ、それ僕に貸して? 僕、こういうのちまちま解くの好きなんだ」

 

アスは明るく笑うと、ナーダの手から糸玉を奪い取り、器用にもつれた糸の端を探し出していく。

本来ならば、戦士にそんなことをさせてはいけないと恐縮するべき場面なのだろう。しかし、ナーダはただぼんやりとアスの指先がくるくると動くのを見つめていた。

きっと止めても、アスは糸玉を返してはくれない。今は戦士だって食料集めくらいしかやることないんだから、と苦笑いしながら細い指を働かせるだけだろう。

頭の中で考えるやり取りは嘘みたいに順調なのに、現実の自分がどんな行動をするべきなのかは、よく分からない。

 

「……ごめんなさい」

 

結局口をついて出てきたのは、曖昧な謝罪だけだった。

アスはやはり手を止めないまま、朗らかに応じる。

 

「ううん、僕がしたくてやってることだから。ナーダも最近慣れない力仕事ばっかりで疲れてるんでしょ? 今日だって、ずいぶん遠くまで食料を探しに行ってたみたいだし。ほら、眠いならもう眠っちゃいなよ」

「……違うんです」

 

違う、違うんです、とナーダは何度も繰り返す。それしか言葉を知らない幼児のように。

「……ナーダ? どうしたの、何か嫌なことでもあった?」

「……」

アスは糸玉を脇に置いて、うつむくナーダの頭を撫でる。髪の毛をそっとかき分けるように触れる手のひらは温かくて、思わず涙が溢れそうになった。

ナーダは小さな手に頭をすり寄せるようにしながら、ぽつりと呟く。

 

「……また最近、占いができないんです。何度夜空を見上げても、星が見えなくて……都がこんなに大変な時なのに、私は何もできなくて……」

「そりゃあ、これだけ雲が出てるんだもん。星が見えないのは仕方ないことだよ。他のことを手伝ったりしてるんだから、占いができないのを引け目に感じなくてもいいんじゃないの?」

「違うんです……違うんです! ……私は今、何も見えないことに安心しているんです」

吐き出した言葉を追いかけるように、閉じたまぶたからぽろぽろと涙がこぼれだす。

アスが戸惑ったように手を止めるのが、わずかな気配だけで分かった。それでも、この優しい戦士を困らせるだけだと分かっていても、弱音は堰を切って溢れてくる。

 

「天気のせいじゃないんです。もし今空が晴れていたら、私はまた目を塞いでしまうかもしれません……だって、これからの都に吉兆があるとは、とても思えなくて……!」

「……ナーダ」

「ねえ、戦士様だってそう思いませんか? 恐ろしい未来におびえながら暮らすより、何も見ない方がいいじゃありませんか……滅びがすぐそこに迫っているとしても、最後の一瞬までは何も知らずに笑って生きていく方が、本当は幸せなんじゃないかとすら思います……」

そう言いながらも、ナーダの表情は幸せとはほど遠い。

強く目を閉じても涙は止まらず、ただ目の前の闇が濃くなるだけだった。自分の感情さえ思い通りにできないのがもどかしくて、ナーダはまた嗚咽を漏らす。

 

「ねえ、戦士様……どうして私は……どうして私は、こんなに弱いのでしょう……?」

「……ナーダは弱くなんかないよ」

 

反射的に否定しながら、アスだってそれがナーダにとって必要な言葉ではないと分かっていた。

例えばアスが祈り人だったら、ナーダと同じ目線で励ませた。例えばアスが何の力も持たない子供だったら、もっと他の言葉が言えた。けれど、アスはユバの戦士だ。どんなに神に願っても、どんなに真摯に祈っても、ナーダの弱さに寄り添うことはできない。

だから、アスはただナーダを抱きしめる。

 

「僕にとってナーダは、自分の芯を持った強い人だよ。だから、自分を嫌わないで」

 

それでも、腕の中のナーダは身を震わせながらただ謝るだけだ。神から力を授かった戦士と言ったって、たった一人の涙すら止めることができないんだから笑わせる。

小屋の中で寄り添う二人は、迫る夕闇から隠れるようにただうずくまっていた。

 



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人の道の零落③

マルキアが語った不吉な予言通り、不穏な雰囲気はすぐに都全体を暗く覆っていく。終わりの見えない病との戦いに、祈り人の顔は少しずつ荒んでいった。

 

強いものにも弱いものにも、老いも若いも、一切の区別なく眠りは訪れる。起きられるものは、眠りの病に侵されたものの面倒を見なければならない。すでに半分ほどに減ってしまった人数で、衣服や寝具の洗濯、身体の清拭、そして何よりも大事な食事の世話を行う。ほとんど成果がはないといっても、食料の採集だって行わなければ飢えてしまう。日の出てる間は誰もが働きづめで、厳めしい武器も華やかな楽器もすっかり埃をかぶっていた。

そうして一日を終え、疲れて寝床に入った後でも、果たして自分は明日の朝日が拝めるのだろうかと怯えなければならない。そして目覚めると、わずかな安堵とともにまた眠りそこなったと失望する。そんな日々を重ねていく中で、少しずつ人々の精神は摩耗していった。

 

キサラは背後の粗末な小屋を見て、そっとため息をつく。本来ならば復興し始めた学校の倉庫として使う予定だった土地に、急ごしらえで作った集会所。その中にいるのは、うつろな目をして座り込んだ若者たちだった。ふだんの儀礼や行事で人々が集まっていた広場には、病人と看護者が寝泊まりしている。このあばら屋は、動ける人間がその日の作業などを話し合うための場所だった。

連日の作業に追われて疲れ切っている彼女たちを「動ける」と評して良いものかは疑問だが。

 

キサラは豆を莢から出していた手を止め、背後の様子を探る。あばら屋を作った余りでどうにか葺いた屋根の下で同じ作業に当たっているのは、キサラと同じくまだ年の若い女性が多い。その中には、リムセ村だけでなく、ウタリ村やライカ村の顔ぶれも入り混じっている。

どの村でも人が次々と病に倒れているため、集まって作業をした方が効率が良いということになったのだ。草原の民はもとより民族間での交流も多く、協力関係を築くこと自体に抵抗は少なかった。

平時であればお互いの暮らしについてなど楽しい雑談がひっきりなしに交わされているであろう顔ぶれなのに、今は皆、黙々と手を動かしている。

 

眠りの病に倒れる者は、風邪や通常の流行り病と同じく老人や子供が多かった。必然、働き手として駆り出されるのは体力がある若者たちということになる。

そこまでは、誰もが納得がいく話だ。困った時には助け合うのが当たり前で、とうの若者たちだって、言いつけられる仕事に文句を言うのは表面だけで、労働力として頼られていること自体は誇らしく思っていたはずだ。

けれど、単純作業に終わりがないとなると話が違ってくる。祭りも宴もない状況がいつまで続くのかと長に問うても、答えは帰ってこない。

それでも、崩落で消えたイトラの代わりにルクルが指示を出しているだけ、リムセ村は恵まれている方だ。隣のライカ村は、その長さえ病に倒れている。

 

指導体系が乱れれば、仕事の割り振りもおおざっぱになっていく。それに加えて、最も重要な食料の採集と病人の看病は、ある程度知識や経験がある者でないと難しく、必然的にできる者が限られてくる。

いくら頼りにされていると言われても、毎日辛い作業を課されていては面白くない。しかし、食料集めもままならない現在では、満足に報酬を渡すこともできない。結果、よく働く者ほど、自分たちだけが割を喰っているのではないかと感じ始める。誰も口には出さずとも、そんな暗い空気が集落全体を覆っていた。

 

キサラはほんの少しだけ唇を噛むと、止まっていた手を再び動かし始める。

暗いことばかり考えていたって仕方がない。とにかく、自分たちが働かなければ未来はないのだ。せっかく平和な日々を掴みかけたのだから、石にかじりついても泥水をすすっても、この苦難を乗り越えてみせないと。

こんな時にいつも頭に浮かぶのは、教室に通う子供たちの楽しそうな笑い声と元気な姿だ。あの日々を取り戻すまで、あとどのくらいの夜を数えればいいのだろうか。

頑張ろうと決めたはずなのに、この先のことを思うとどうしても手が震えてしまう。

キサラの生徒たちがほとんど眠りの病に倒れていたのは、幸運だ。こんな情けない姿、生徒には見せられないから。

子供たちにはいつも、助け合えばなんだってできると教えてきた。けれど、助け合っても駄目だったなら、どうすればいいんだろう。

この日々の先に、きっと問いの答えはある。だが、それが明るいものなのかどうかは、誰にも断言することはできない。



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人の道の零落④

何度目かも分からないため息をつこうとしたその時、近くの里山に採集に行ったはずの若者の一人が戻ってきた。

また手ぶらで戻ってきた報告を聞くのかと人々の表情が沈む中、彼女は――イメラは、臆することなく小屋に入り、背負っていた袋を下ろした。

「……野菜がある。ラタキの……畑を作ってたやつの、家から持ってきた」

「え……野菜……!?」

イメラの口から出た言葉に、村人はにわかに色めき立つ。近頃口にできているものと言ったら、保存の効く芋か干し豆ばかりだ。それでも量を食べられるだけ恵まれているのかもしれないが、毎日同じものばかりではやはり気分も滅入ってくる。薄茶色の煮込みの中に、味のいい野菜が入っていればと何度思ったことだろう。

 

「すごい、どのくらいあるんですか!? 皆に行きわたるくらいあればいいんですけど……」

「そりゃ無理だな。だが、ここにいる奴らで分けるぐらいならどうにかなりそうだ」

イメラはどっかりと腰を下ろして胡坐をかくと、すぐ横にずだ袋を放り出す。少量ではあるが確かに中身の詰まった重い音に、周囲の目が釘付けになっている。

「一、二……ざっと十人ちょいか。だったら一人あたま三日分くらいにゃなるだろ。俺の分は最後でいいから、適当に分け前を決めてくれ」

「ちょっと待ってください!」

イメラの投げやりな言い方に、キサラは口を挟まずにはいられなかった。

「ほ、本当にここにいる者だけで分けるつもりなんですか!? あなたの思いやりは分かりますが、こういうものはまずは病人に……」

「……思いやり? はっ、ずいぶん笑えること言ってくれるじゃねえか」

イメラは鋭く攻撃的に息を吐くと、キサラを強くにらみつけた。

 

「んなきれいごと言ってる場合かよ! 動けもしねえ病人どもにいくら飯を回したって、あいつらが何をしてくれるんだ!? とにかく、俺たちが食って動かなくちゃどうにもなんねえだろ! 俺だって、俺だってなあ……!」

声と同時に拳を振り上げたところで、イメラは結局その手を力なく下ろす。

「助けたい奴はいっぱいいるんだよ……だけど、あいつらが目覚める前に俺らが倒れたら、本当にこの都はお終いじゃねえか……俺だって、こんなふうにみみっちく食い物を奪い合うのなんて御免なんだよ……」

硬く握った拳で、イメラは自身の膝を打つ。そして目の前に立つキサラよりもさらに遠くを見つめるような暗い瞳で、独り言のようにつぶやいた。

「……俺がいつか死ぬときは、生贄になって誇り高く死ぬんだと思ってた。どんなに辛い目にあっても、最後には神様のもとで戦士として眠れるんだって信じてたから、泥を啜ってでも生き延びてきたのに……その先に待ってる終わりがこんなに惨めなら、いっそ侵略者に殺されてた方が……」

「やめなさい!」

「……っ!」

 

キサラが珍しく大きな声を上げて、イメラははっとしたように口をつぐむ。だが、その言葉の続きを言わなくとも、周囲にはその気持ちが伝わってしまっていた。キサラの顔に浮かんでいるのも、イメラに対する怒りよりも苦悩の色が濃い。

もとより武闘派の気質が強いライカ村の中でも、イメラは特に実力のある狩人だ。獣相手のみならず、侵略者との戦いでも戦えない村人を守るために善戦していた。一度は侵略者に捕らえられていたが、捕まってからも抵抗を続けていたイメラは、決して彼らに敗北したとは思っていないだろう。

そんな誇り高い女狩人の口から、侵略者に殺された方がましだったという言葉が出た。それほどに、ユバの都の現況は多くの者にとって耐え難いものだった。

とはいえ、さすがにイメラが言いかけたことにはっきりと同調するものはいなかった。その代わりに、誰かが疲れた声でこうつぶやく。

 

「……まだ分からねえのか、この病に効く薬は」

「……薬? 気付け薬の類なんて、ずいぶん前に使い切っちまったよ。新しいのを作らせようにも、スルカはもうとっくに眠ってるでしょう。ルルちゃんを置いて、気楽なもんだ」

「いや、薬は草原だけのものとは限らんだろう……ほら、以前来た高山の医者を覚えてないか?」

誰とも知れぬその声に、イメラははっと反応する。

「……覚えてるぞ。背の高い女と眼帯をした助手の二人組だったよな?」

 

以前レキムやイナウケとともに遠出をした際に、侵略者に見つかったことがあった。全面的な戦いにはならなかったが、逃げる際にイメラは足に弾丸を食らってしまった。

ライカ村では、腕に覚えがあるものは戦士を連れずに都の外で狩りをする。当然のことながら、そこでどんな怪我があっても戦士を頼ることはない。だからイメラが足に負った傷も、ウルではなく塗り薬などを用いて癒すつもりだった。

イナウケに肩を借りながら集落に帰ると、たまたまその日は見慣れない二人組が訪れていた。それが高山の医者、ファルマとその助手のリカルだった。

草原にしか生えていない薬草を手に入れるために訪れたという二人は、足を引きずりながら帰ってきたイメラたちを見て驚きながらも手早く治療してくれた。

 

確かに、あの二人なら草原にはない薬を持っているかもしれない。そうでなくても、何かしらの治療法を思いついてるんじゃないか。

「イメラさん、お医者さんを知ってるんですか!?」

遠くから聞こえた驚きの声は、高く柔らかい少女のものだった。

「あんた……」

「申し遅れました。私、ウタリ村の村長のラムサラと申します」

「それは知って……いや、なんでもない」

 

言いかけて、イメラは自分の発言を恥じるように口をつぐんだ。

集落は違うとはいえ、同じ都の中で暮らしていれば、村で重要な役割を果たす者の名前は自然と覚えていく。ラムサラがイメラの名を知っていたのも、イナウケの側で儀式についていくことがあったからだろう。イメラも会話こそしたことはないが、ラムサラを遠目に見たことは何度もあった。

だからこそ、今ここでぼろみたいな衣服をまとっているやつれた娘が、高貴な身なりをしていた若き村長だとは思えなかったのだ。

しかし、外見のひどさは自分だって同じようなものだろう。イメラは小さく首を振ると、ラムサラに向かって改めて名乗る。

 

「ライカ村村長代理のイメラだ。高山の医者……ファルマには以前に怪我を治してもらった恩はあるが、知り合いとは言えない」

「そうなのですね……けれど、どんなに細い糸であっても、私たちはそれにすがるしかありません」

ラムサラは伏せていた視線を上げ、まっすぐにイメラを見つめる。艶のない麻糸のような前髪の隙間から、金の瞳がきらりと光った。

「どうかファルマさんを頼って、この病に打ち勝つ方法を尋ねてはもらえないでしょうか。イメラさんが不在の間のライカ村の皆さんは、このラムサラが責任をもって看病させていただきます」

「……ファルマが治療法を知ってる確証はないんだぞ。仮にあったとしても、あっちだって状況は似たようなもんだろう。余所者と話す余裕がねえって門前払いを食らわされても何らおかしくはねえ」

「存じております。それでも、ここでうずくまっている限りは私たちに希望はないのです」

 

イメラの素っ気ない口調で返されても、ラムサラの瞳に宿る光は変わらない。むしろ、風に吹かれてさらに勢いを増す炎のように、少女の意思はさらに強く、固くなるように思えた。こういう目をした奴は、自分の言ったことを決して曲げない。それは、イメラもよく知っていることだった。

「分かった。ただし、薬を持ち帰った際にはライカ村のもんが先に使わせてもらう。その代わり、あんたもあんたの村を優先して面倒を見ろ。うちの奴らには、手助け程度で十分だ」

「……分かりました。出立の前に何か必要な支度があれば、申し付けてください。できる限り支援いたします」

 

頭を下げると、ラムサラはまた人々の中へと戻っていった。ライカ村は後回しでよいと言ったのに、さっそく近くの村人に話しかけている。あの調子では、自分の村とほとんど同じような扱いをすることになるだろう。この緊急時だと言うのに、とんだお人好しだ。

だからこそ、イメラは彼女の期待に応えたいと思った。

ここから高山の集落を目指せば、どんなに急いでも着くのは明日の朝だ。今の体調では、丸二日はかかってしまうかもしれない。

それでも、一刻も早くファルマに会って話をしよう。ラムサラの熱に当てられたように、イメラの胸も熱い鼓動に動かされていた。

 



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人の道の零落⑤

壁に映る影は、貼りついてしまいそうなほど微動だにしない。ディンシャは持ってきた灯火を机に置くと、突っ伏しているファルマの肩をそっと揺すった。

 

「……ファルマさん、こんなところで寝たらかえって体に悪い。後は私が片付けておくから、少し休んだらどうですか」

「……眠っていたのか、私は」

小さく唸った後、ファルマは顔を上げる。わずかな眠りを得たとはいえ、その顔には疲労の色が濃く残っている。

 

当然だ、とディンシャは思う。眠り病が都に広まり始めてからというものの、ファルマはあちらこちらに出ずっぱりだ。診察、看病、薬の調合まで、彼女を頼る声は途切れることがない。さらに日が暮れてからは、こうして患者の記録と首っ引きになって治療法を考え続けている。ディンシャも手伝いに入っているが、彼女が布団で横になっているところなんて見たことがない。眠りの病に立ち向かう医者が眠れないなんて、皮肉すぎる話だ。

 

「少しは休んだらどうですか」

無駄だと分かりつつ、ディンシャは同じ言葉を繰り返す。

「こんな状況だからこそ、ファルマさんが倒れたら元も子もないですよ。何度も言ってますが、休養をとるのもあなたの仕事です」

「ああ、分かってる。あと少しだけ記録を整理したら、すぐに眠るから……」

と言いながら朝になっているというのが、お決まりのやり取りだった。しかし、いくらなんでも彼女の消耗具合は限界に見えた。

ファルマはもう、いつ倒れてもおかしくない状況だ。それが単なる疲労で済めばよいが、もしかしたら眠り病の仲間入りをするかもしれない。

ファルマ自身もそれを分かっているのだろう。一度眠ってしまったら、次に目を開けられるかどうかは分からない。だからこそ、こうして身をすり減らすようにしながらなんとか解決策を探しているのだ。ディンシャはため息をついて、奥の手を切り出す。

 

「……この前言っていた説について、私の方でもまとめてみました。まだ仮説というにも心もとない段階ですが、多少は読めるものになっているはずです」

「本当か!」

その一言に、ファルマは文字通りに顔色を変えて飛びついた。先ほどまでは死人のようだった顔に、血色がわずかに戻っている。彼女には、身のためを思った言葉よりも、病の治療法の方がよっぽど薬になるらしい。ディンシャは思わず苦笑しつつ、壁の向こうを指さす。

「ええ。ファルマさんの寝台の上に置いておきましたので、ゆっくり目を通してください」

「駄目だ、今寝台なんかに行ったら本当に眠り込んでしまう」

「だから、そうしてくださいと言ってるんです。私にだって学者の誇りがありますからね、寝不足の相手と自説についての議論をしたくはありません」

「……お前は酷い奴だ」

 

肩を落としながら、ファルマもまた笑っていた。立ち上がった時に大きくふらついたが、まだ自分の足で歩けるだけの体力はあるようだ。

念のため彼女を部屋まで送り届けて、ディンシャは大きく息をつく。明日はきっと、自分一人で診察や他の雑務やらを回していかねばならないだろう。一日だけならまだしも、ファルマがもし目覚めなかったら。

そんな後ろ向きなことをつい考えてしまうのは、ディンシャの悪い癖だ。

「……ファルマさんがやってこれたんだ。私にだって、できないはずはない。……多分」

 

最後に付け加えた留保は、自身のなさの表れというよりも長年の癖みたいなものだ。けれど、それを笑い飛ばしてくれる師匠も、ぶっきらぼうに尻を叩いてくれる同士も、ここにはいない。それでも、この形のない怪物にどうにか立ち向かわなければならない。

ディンシャはファルマが見ていた記録を手に取り、自分の書きつけを机に広げた。自分だっていつ起きられなくなるか分からないのだ。時間があるうちに、読める記録には目を通しておきたかった。

 

それでもまだ夜は長く、夜明けは遠い。

 



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人の道の零落⑥

山脈が白み始めた頃、その人影は集落のはずれに現れた。

見慣れぬ来客に初めに気が付いたのは、早朝から水汲みに出かけていた少女、ナンディだった。

「……あれ、誰だろう」

向かう先に立つその姿は、朝日が作る己の影をじっと見つめているようだった。いや、わずかに動いてはいる。大きな木の枝を杖代わりにしながら、芋虫が這うほどの速度で集落の中心部に向かって進んでいるようだ。

「病人? その割にはしっかりしてるような……じゃなくて、早く手を貸さないと……!」

 

担いでいた桶を道端に置き、ナンディはふらつく人影に駆け寄る。

近づけば、その姿は己とさして変わらない年頃の女性だとすぐに分かった。目だった外傷などはないようだが、纏っている狩り装束は泥と埃でひどく汚れている。

「だ、大丈夫ですか? 旅の方だったら、もう少し行けば休めるところがありますから……」

「……助けはいらない。その代わり、水を……いや、チャケをくれないか。なるべく、強いものを」

その声は掠れてはいたが、思いのほか芯のある言葉が返ってきたことにナンディは驚く。

「お酒……ですか? わ、分かりました。すぐ持ってきますから、そこを動かないでくださいね!」

 

旅人をその場に残し、ナンディは来た方向へと戻っていく。あんなに疲れ果てた人間に酒など振る舞っていいものかとは思うが、乱れた髪を突き通す旅人の鋭いまなざしには、有無を言わせないような強い意思があった。

それでも念のために簡単な非常食なども持って集落の外れへと戻ると、旅人は先ほどよりもずいぶん近いところまで歩いてきていた。

「う、動かないでって言ったじゃないですか! どうしてそんなに無理を……」

「……チャケは」

「ちゃんと持ってきましたって! ほら、ゆっくり飲んでください。高山の火酒は強いですから」

だが旅人は、ナンディの言葉が聞こえていないように、差し出された陶器に口をつけて一息に煽る。酒精の匂いがぱっと広がり、見ているだけのナンディも喉の奥が熱くなるような気がした。

音が鳴るほどの勢いで火酒を飲むと、口を拭った旅人は琥珀色の瞳でナンディを見据える。

「オレは草原のライカ村からの使者、イメラだ。ファルマに……この集落の医者に、会わせてもらいたい」

 

 

道さえ教えてくれればいいと言い張るイメラをナンディは放っておけず、結局ファルマの診療所まで付き添うことにした。

しかし、診療所で二人を出迎えたのは目当ての人物ではなかった。

「ファルマさんに客人……ですか。ご用件をお聞きしても?」

気弱そうな眼鏡の青年――ディンシャは、やつれた姿のイメラに驚きと警戒心を隠さず、固い表情で対応する。

 

「そんなもん、決まってるだろ……! 薬が必要なんだ、くそったれな眠りの病から皆を叩き起こす薬が!」

しかし、ディンシャはイメラの激情に対応するように、さらに声を低めて応じる。

「薬……あなたはそれを、誰かから聞いたのですか? どこにそんなものがあると?」

「誰からって……ファルマは医者なんだろ? 薬じゃなくてもいい、奴らを治す方法が……いや、新しく病にかかるのを防ぐ方法だけでも分かればいいんだ! 頼む、教えてくれよ!」

「私の話を聞いてください。もし仮にそんなものがあるとするなら、どうして私たちはそれを都に広めていないのですか?」

イメラはぐっとひるんだ様子を見せるが、それでもディンシャに掴みかかるようにして言い募る。

「なあ、あるんだろ!? お前らなら、何かこの病に打ち勝つ方法を見つけて、試してるんだろ!? そうだって言ってくれよ!」

「……残念ながら」

ディンシャは目線を落とし、ゆっくりと首を振る。その動きによって張り詰めていた糸が切られたように、イメラは膝から崩れ落ちた。

 

「だ、大丈夫ですかイメラさん! ほら、やっぱり無理してたんじゃないですか!」

ナンディが慌てて肩を支えるが、イメラはそのまま床に座り込んでしまう。

「すまねえ……少しだけ、休む場所を貸してくれないか……」

「少しと言わず、しっかり横になって体力を養ってください。薬はありませんが、食べるものなら多少はありますから」

「……ああ」

がっくりと頭を低く垂れたところで、狩人の眼が放つ鋭い光は失われていない。手負いの獣のようなその眼差しに、ディンシャは首筋がひりつくような感覚を覚えた。

「ディンシャ、この人に寝床を貸してあげてくれますか? 僕、お水を持ってきますから!」

「ええ、もちろんです。イメラさん……でしたか。こちらへどうぞ」

「……はは、もう立ち上がるのも難しいみたいだ。悪いが、手を貸してくれ」

自嘲するようにつぶやくイメラに、ディンシャは恐る恐る肩を貸して歩き出す。肩にかかる重みは、予想していたよりもずいぶん軽かった。

ちょうど空いていた部屋の一つまでたどり着き、ディンシャは密かに息をついた。

ファルマの手伝いで看護師の真似事をしているとはいえ、異性の体に触れるのはなかなか慣れるものではない。それに、この旅人は他の者とは違って、側にいるだけで何か落ち着かないような気分にさせられる。

これが何か不吉の前触れではなく、ただ彼女の疲労感に当てられているだけなのだと思いたいが。

 

「一度離れていただけますか? 今、扉を開けますから……」

瞬間、喉元に冷たい感触が付きつけられた。ディンシャは小さく息を呑むと同時に、自分の予感が間違っていなかったことを悟った。

「違うな。お前の部屋はそこじゃねえだろ」

「何、を」

「下手に動くなよ。こいつは護身用の小刀だが、切れ味は抜群だ。お前が一回瞬きをする間に、もう一つ口を作ってやれる」

食糧狙いの盗賊に付け入られたのかと思ったが、ディンシャはすぐにその考えを打ち消す。

小刀を握った手は哀れなくらいに震えていて、イメラの体力が限界であることは疑いようがなかったからだ。

しかし、イメラが求めているものはおそらく干し肉や豆の干物なんかではない。もし食べ物を奪うことが目的なら、ナンディに出会った時点で刃物を出して脅しておけば良かったはずだ。

では、イメラは何のためにこの診療所まで来たのか。答えは決まっている。彼女は、最初からそれを求めて来たのだとはっきり言っていた。

 



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人の道の零落⑦

イメラはディンシャの喉元に刃を突き付けたまま、低く問い質す。

「……お前、嘘ついてるだろ。眠り病を防ぐ方法も治す方法もないなんて、そんなことがあるわけがない。この集落を見ていれば、そのくらいは分かる」

「なぜ、そう思うんですか」

「草原に比べたら、起きてる奴が多すぎる。しかも、その辺を歩いている中には老人や子供の姿だって目につく。若者以外は壊滅状態のライカ村に比べたら、あり得ねえ風景だ」

「……」

 

ディンシャは小さく唾を飲み込む。イメラには、粗暴な物言いと振る舞いを打ち消してなお有り余るほどの鋭い直観があった。

これがただ因縁をつけてくるだけのごろつきなら、適当にごまかして帰すことができただろう。しかし、高山の状況をこの短時間で的確に把握されているのであれば、安易な嘘はかえって彼女の猜疑心を強めかねない。

「黙るなよ、お坊ちゃん。何か隠したいことがあるって言ってるのと……っ、同じだぜ」

小刀を握る手が、わずかに滑る。イメラはそれでも強気な態度を崩さないが、彼女の体力が限界に近いのは間違いないらしい。

(どうする? ナンディが戻ってくるまで時間を稼げれば、二人がかりで抑え込めるか? いや、あんな優しい子に手荒な真似はさせられない……けれど、こんなに気が立っている人が納得するような説明なんて、私には……あの仮説はまだ検証段階だ。あれに頼らず高山の罹患状況に何か理屈を見出さなければ……)

考えれば考えるほど頭はから回るばかりで、ディンシャの目は無意識に救いを求めてさまよいだす。

 

「……おい、今どこを見た? 隣の部屋……そうか、そこにファルマがいるんだな?」

「っ!」

迂闊だった。熟練の狩人が、追いつめられた獲物の動きを見逃すはずがないのに。

イメラはディンシャの視線だけで行き先を察知し、鋭く息を吐きながら笑う。

「ちょうどいい、お前じゃ埒が明かねえと思ってたところだ。ファルマがいるなら、詳しい話はそっちから……」

「や、やめてください! ファルマさんはようやく休みをとれたところなんです!」

思わず声を上げたところで、イメラの推察を肯定したようなものだと後悔する。しかし、こんな危険な人物を弱っているファルマに会わせるわけにはいかない。喉元に冷たい刃を感じながら、ディンシャの思考はさらに空回りを重ねていく。

(どうする、どうすればいい? ファルマさんに頼らず、私だけでこの状況を切り抜けるには……でも、今渡せるものなんて、例の仮説くらいしか……!)

「急にでかい声だすなよ。もうお前への用は済んだから、逃げてもいいぜ。それともなんだ? 素直に何かを話す気になったか?」

ディンシャを解放するような言葉とは裏腹に、イメラは突き付けた刃をおろすことはない。

見定めているのだ。細い細い逃げ道を提示された鼠が、どうやって手の内に逃げ込んでくるのかを。

 

「さっきから、あんたの目がふらふら動いてるのがよく見えるぜ。オレを言いくるめるために餌を差し出すかどうか、迷ってるんだろ? 喉を掻っ捌かれそうになってるのにファルマには頼りたくないなんて、ずいぶん余裕じゃねえか。あんたみたいな臆病な奴が騒ぎもせずにじっと考えてるんだから、何か隠してることがあるんだ……そうだろ?」

ディンシャは恐怖を覚える。自ら命の危険に対してではなく、この女狩人の並外れた洞察力に。

それと同時に、胸の中にはわずかに期待が芽生えていた。あの仮説を見せれば、彼女の聡明さは何かを導き出してくれるかもしれない。

 

「で、でもあれは、まだ検証もできていない段階で……こんな不確かな情報を話すわけには……!」

イメラ相手に取り繕うことは諦めているが、それでも誰彼構わず広げて見せられるほど、ディンシャの自説は易しいものではない。それに加えて、軽々に話すわけにはいかない事情もあるのだ。

あの仮説が事実だとするなら、このユバの都の構造自体が揺らぎかねないものなのだから。

 

イメラにそんなディンシャの逡巡が伝わるはずもなく、煮え切らない態度に耐えかねた舌打ちが聞こえた。

「かったるいこと言ってんじゃねえよ! いいか、俺はお願いをしてるんじゃないんだ。ここで何かを持って帰らなきゃ、あいつらに顔向けが……」

喉元の刃が不意に小さく動き、ディンシャの皮膚に糸のように細く血がにじんだ。イメラは自分の手元が意図せず傷を作ったことに苛立ちを隠さず、再度舌を鳴らした。

「もう分かっただろ、この刀だって脅しじゃねえ。無暗にあんたを傷つけたくはないが、薬が手に入るならオレはどんな罪に問われようが構わないんだ。それが分からないんなら、もっと痛い目に会わせるしかないぞ」

「そ、そんなこと言われても……」

「もういい、やめろ」

 

着火寸前の二人のやり取りを中断させたのは、女の落ち着いた声だった。

二人の背後の部屋から出てきたファルマは、寝起き姿で髪を下ろしたまま、壁にもたれかかる。

「ありがとうな、ディンシャ。おかげで少しは頭がすっきりした。お前の書いた説もしっかり読ませてもらった。確かに検証不足ではあるが、この病が広がるのを防止できる可能性はあるかもしれないな」

「ファルマさん、それは……!」

「イメラ、だったな。久しぶりの挨拶がこれとは、草原の民には変わった文化があるんだな。お前の気持ちは分かったから、そろそろディンシャを解放してくれないか」

「……分かるだと?」

イメラはディンシャの身体を突き飛ばすと、小刀を構えてファルマに向き直った。

「お前に何が……食い物にも働き手にも困ってねえ、お前らに何が分かるっていうんだよ!」

「状況は違っても、この病にどうにかして立ち向かいたい、皆を救いたいという気持ちは同じはずだ。お前は違うのか?」

 

刃物を突き付けられているにも関わらず、ファルマの態度に怯えたところは一切ない。イメラは険しく眉をしかめるが、ファルマはその視線を正面から受け止めるように口角を上げた。

「字は読めるか、イメラ。お前に見せたいものがある。分からないなら私が読み上げるから、聞いてから信じるか判断してくれ」

「でもファルマさん、それはあまりに時期尚早です! 説を裏付ける証拠だってまだ不十分なのに……」

「だが、もう限界だ。万人が納得するまで論拠になるものを探していたら、都全体が疲弊してつぶれてしまう。こうやって乗り込んでくるくらい気概がある奴がいるうちに、一度皆を集めて話がしたいんだ」

「……集める、だと?」

イメラの怪訝そうな声に、ファルマはしっかりと頷いた。

「ああ、高山と草原だけじゃない。この都で動ける人間、可能なら全てに伝えたいんだ。眠りの病の感染源が何か……いや、誰なのかを」

 



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白の裏の剥落①

ビシャールに会いに高山に行きたいから、着いてきてほしい。

ナーダの申し出を、アスはすぐに了承した。

理由は聞かなくても分かっていた。きっと、占いができないことに関係しているのだろう。詳しい事情は分からないが、ナーダとは親しい仲のラルクにも相談ができていないらしい。そのせいで、ナーダの様子はいつになく不安定だった。

だが、戦士の自分ではナーダに助言を与えることも、優しく支えることもできない。民族は違うが同じ占いの力を持つビシャールがナーダの力になってくれるのなら、アスにとっても嬉しいことだ。

 

しかし、ビシャールの住む高山の集落に近づくうちに、ナーダとアスは異変に気が付いていた。

旅人らしき姿を、常より多く見かける。しかも、そのすべてが二人と同じく高山に向かっているらしい。

「ねえ、今日って何かあったっけ? お祭りとか」

「まさか。お祭りなんて華やかなもの、もうずいぶん前から取りやめになってると思いますが……もしかしたら、私の知らないところで何かあるのかも……」

言い終わらないうちに、数人の男の集団に足早に追い抜かされた。やはり彼らも、行く方向は同じようだ。

「急ごうか」

ナーダとアスは、どちらともなく歩調を早める。占いが使えなかったとしても、何か奇妙なことが起こっているということは誰の目にも明らかだった。

 

 

二人が高山の集落にたどり着いたのは、ちょうど日が中天に差し掛かるころだった。今日も空は真っ白な雲に覆われ、太陽の光を直接浴びることはかなわない。

「なんだろう、あれ?」

集落に着いてすぐ目についたのは、中央の広場にある人だかりだった。

あるものは立ち、あるものは座り込み、けれどその視線の先は定まっている。どうやら、広場の中心にある(やぐら)のようなものを見上げているらしい。

「戦士様、私たちも近くに行ってみますか?」

「んー……でも、ナーダはヴィシャールに会いに来たんでしょ? 寄り道しない方がいいんじゃないの?」

小さく会話を交わしながらも、二人も櫓と周辺の人々に目を向けずにはいられない。アスたちの後にも、集落にやってくる人の流れは途切れない。新たにやってくる人々も、櫓に向かって真っすぐに歩いていく。

やはり、何か目的があって彼らは集まっているのだろう。

 

アスがぼんやりとその様子を見ていると、中央に向かう人々の中によく見知った顔を見つけた。

「お、アスじゃん」

人だかりを離れて近づいてきたのは、鉈を持ったユバの戦士、ナタリだった。

「ナタリ……行事なんかに君が顔出すなんて、珍しいね」

「そうでもないさ、俺は噂話が好きだからな。面倒で仰々しい儀式は嫌いだけど、なんか面白そうなことやるって聞いたらすぐに飛びつくぜ。アスもそのつもりなんだろ?」

「いや、僕らはちょっと別の用で……」

「へえ、じゃあここに来たのは偶然か。まあいいさ。面白そうなことになりそうだからちょっと見て行けよ」

ナタリは親し気にアスに近寄り、肩を組んだ。アスのやや張り詰めた雰囲気をものともしない様子は、豪胆とも無神経ともとれる。

「これ、誰が何のために人を集めてるの?」

「どうだろうな、俺も詳しいことは知らないよ。なんとなく人の流れについてきたら、ここに来ちゃった感じ?」

「何だよそれ、じゃあナタリだって偶然ここに来たみたいなもんじゃないか」

「そいつはどうだろうな? ほら、見てみろよ」

 

ナタリに促され、アスは集まった人々に目をやる。よく見れば、その顔ぶれは驚くほどに多くの民族が入り混じっていた。

険しい顔で何事かを話しているのは、草原のイメラとキサラだ。その近くでは、マルキアがいつもの取り巻きを引き連れて、楽しそうに目を細めている。隅の方で肩身が狭そうに、けれど真剣な面持ちで櫓を見上げているのはモアナとプリトナだ。

「祈り人って、なんだかんだ縄張り意識が強いだろ。これだけたくさんの奴らが集まってるのは、それこそ祭りくらいのもんだ。それにな、ここに来てる奴らの中には遊んでる余裕なんてないくらいに切羽詰まった顔だってある。そんな奴らがわざわざ来てるんだから、話を聞かせるために呼びつけたって思うのが自然だろ。そうでもしてまで聞かせたい何かがあるってこともな」

ナタリの口調は軽薄だが、その言葉には説得力があった。何か重要な話があって呼び出されているのだとしたら、祈り人たちのものしい雰囲気にも納得がいく。

「ま、全部俺の思い込みかもしれないけどな。予想が外れたところで、それはそれで楽しそうだし」

「……」

「あ、タクナだ。おーい! その隣の奴、誰?」

「げ、戦士。お前まで来てるのかよ……」

ナタリは顔見知りを見つけたのか、騒ぎを遠巻きにしていた若者二人に向かって走っていった。

 

アスはナタリの背中を見送って、改めて群衆を見回す。

ナタリの言う通り、集まっている中には各民族の指導者的な役割の者も見られる。また、ヤアヤやケトなど、ユバの戦士もそろっているようだ。

だが、顔ぶれは様々だが、集まっている人数自体はそれほど多くない。

「……違う。今ここに来れる人は、きっとこれだけしかいないんだ……病気のせいで……」

独り言ちたアスがわずかに身震いしたその時、櫓の上に背の高い人影が現れた。

「……ファルマだ」

医者という立場のせいか、ファルマは高山の集落外にも顔が広い。集まった人々の中にも知己がいたのか、安堵したようなため息が広がる。

その音をかき消すように、ファルマは朗々と話し始めた。

 

「忙しい中、この集落にまで呼び立ててすまない。皆に聞いてほしいのは、もちろん都を脅かしている病の話だ。この病の原因を、我々は突き詰めつつある」

「っ!?」

いきなり事態の核心をつく発言に、アスは驚きを隠せなかった。

驚いたのは聴衆も同様で、砂嵐のように動揺が吹き荒れる。その反応を予想しきっていたように、ファルマは一層声を張り上げて話し続ける。

「だが、結論だけを話しても信じられないだろうから、まず患者の特徴から話そう。彼らが深い眠りに陥っているのは周知のとおりだが、医学的な見地から見た共通点として、患者の生命力が……ウルがとても少ないという点がある」

ファルマの言葉に、アスは眠り続けるダリアの姿を思い出していた。思えば、彼女が最初の患者だったのかもしれない。

ユウムナとともに彼女を見舞ったあの時には、眠り病がこんなに広がるなんて思っても見なかった。

 

「病に罹ったものの共通点は他にもある。知っている者もいるかもしれないが、この病の罹患者はの数は集落によって差がある。高山は初期こそ立て続けに患者が現れたが、今では一人も新たな感染者が出ない日もある。だが、草原と島の集落は患者は増える一方だ。私たちは、その理由は各集落の環境にあると考えている」

いつの間にか、聴衆は水を打ったように静まり返っていた。集まっている人々は若者が多いはずだが、誰も無駄口を叩かずにファルマの話に耳を傾けている。

「草原と島の集落に共通しているのは、住居の形態だ。昼夜の寒暖差の激しい高山と渓谷に比べ、開放的で隙間の多い造りが多い。それは森も同じなのだが、森は小屋が樹上に建てられている。……それだけが病を招いているとは言い難いのだが、もう一つ、感染者が多いところで必ず目撃されているものがある。子供の頭ほどの大きさの、白い影だ」

白い影。その言葉に、妙に胸騒ぎがするのはなぜだろう。

そういえば、ユウムナはどこにいるのだろう。あの目立つ容姿なら、人ごみの中にいたってすぐに見つかりそうなものだけど。

ファルマはそこで一度言葉を切り、少しの間目を閉じた。再びまぶたを開いた時には、その梔子色の瞳はある人物を射抜くように厳しく細められていた。

 

「ここまで言えば、推測が立つものもいるだろう。眠りの病の感染源……その正体は、ユバの戦士、ユウムナではないかと考えている」

 

 



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白の裏の剥落②

「天の変異の戦士、ユウムナ。彼女はあの大崩落以前からダリアと親交があったようだが、頻繁に会いに来るようになったのは彼女が大崩落で不調になってからだ。それはこの集落の者ならよく知っていることだろう。眠りの病が発生したのは、ユウムナのダリアの訪問と時期を同じくする」

ファルマはあらかじめ頭の中で作り上げた文章を読み上げているように、聴衆がうろたえる暇も与えず語り続ける。

「根拠となるのは時期の問題だけではない。戦士はウルを操る力を持つ。我々の傷を癒したり、失われた力を取り戻したり、その効用は様々だ。……私は以前から、ウルを与えることができるならば、ウルを奪うことも可能ではないかと考えていた。特に変異の戦士は、ウルを感知する力が強いようだ。であれば、生きている人間のウルを取り出すことができるのではないか」

 

ファルマの話が進むうちに、不安そうなさざめきが広がっていた。しかし、聴衆の視線は櫓ではなく、広間の向こう側に集まっていた。

「おい、いたぞ!」

彼らは見つけたのだ。白い髪と、黄金の瞳。他の誰とも似つかない、神に選ばれた戦士の姿を。ユウムナは己に向けられた視線を押し返すように、真っすぐに唇を引き結んで立ち尽くしていた。

「何よりも!」

ファルマは力強く叫び、群衆の注意をもう一度惹きつけた。だが、のろのろと振り向く人々の目は、不安になることをまだ聞かなけれないけないのかと訴えているようだ。

「……目撃されているんだ、私が先ほど挙げた、草原と島の住居。その二つの小屋の多くは、窓やくぐり戸が……子供くらいなら簡単に通れるような隙間がどこにでもある。そして、ユウムナはユバの戦士の中でも小柄な方だ。それこそ、子供と見分けがつかないくらいの」

大勢の人が集まっている広場は、不気味なくらいに静まり返っていた。息を呑む音さえ響いてしまいそうなほどだ。

全ての人の視線の先は、硬い顔で立ち尽くす人影に向けられていた。

 

「ユウムナ……」

アスの小さなつぶやきは、一斉に沸き立った声にかき消された。

「戦士様」「戦士様?」「戦士様……!」

群衆から伸ばされた手を、ユウムナは拒まなかった。そのまま、丁重とは程遠い手つきでユウムナは引き立てられ、広場の中心へ連れていかれる。

その動きを全て見ていたのに、アスは彼らを止めることができなかった。アスにも、ユウムナの不振な行動について思い当たる節があったからだ。

目の前で砂になって崩れていった鳥の姿が頭に浮かぶ。なぜあんな荒れ地にいたのか、理由を聞かせてほしい。けれど、こんなふうに責めるようなやり方はあんまりだとも思う。

助けを求める気持ちで辺りを見回すと、櫓の側、ユウムナのすぐ近くで凍り付いたように固まっているケトを見つけた。

 

戦士のまとめ役であるケトなら、この騒動をなんとかしてくれるのではないか。その期待はすぐに無駄だと分かる。ユウムナを見るケトの瞳は、アスと同じように、いや、それよりも強い戸惑いの中にあった。

「ケト、何か言ってやれよ!」

すぐそばにいたヤアヤがケトを小突くが、ケトは人形のように肩を揺らすだけだった。

「わ、私は……」

小さく口を動かすが、目の前のユウムナと視線を合わせることもできずにうつむいてしまう。

 

いつの間にか櫓を降りていたファルマが、ユウムナの正面に立った。

「戦士ユウムナ。あんなことを言ったが、私たちはこの病を引き起こしているのがあなただと、確信を持っているわけではないんだ。何か間違いがあるのなら、ここで正してほしい。……そうでなければ、どうしてこんなことをしたのか、理由を教えてくれ」

「……」

しかしユウムナは、何も言わなかった。正確には、言葉を発さないまま首を横に振り、否定の意思だけを表した。

「……病の原因はあなたではないと言いたいのか、それとも話すつもりはないということか」

ファルマの問いかけには答えず、ユウムナは静かに目を閉じた。その小柄な姿に、視線が突き刺さる。

「何とか言ってよ!」

誰かの悲鳴のような声とともに飛んできた小石は、ユウムナを掠めることもなくその足元に落ちた。

だが、それが群衆の感情の堰を破る大きな一撃となった。

「嘘ですよね、戦士様……?」「俺は信じてますから」「なんで黙ってるんですか」「じゃあファルマが間違ってるって言うのかよ?」「何か言ってくださいよ!」「私たちを」「あの医者には俺も助けてもらったんだ、信用できる」「もう僕、何が本当か分からないよ……!」「そんなひどいこと、あり得ない!」「ずっと私たちを、騙してたんですか!?」

口々に叫ばれる不信と不安は、追いつめられた獣の悲鳴に似ていた。

 

「やめろ皆! 私はこんなことのために、お前たちを集めたわけじゃ……」

「ファルマさん、危ないです! 下がってください!」

櫓の影からディンシャが飛び出し、狙いを外れて飛んできたつぶてからファルマをかばう。その背の後ろには、ユウムナはいない。当然のことだ、ユバの戦士は小石ごときではかすり傷もつかないのだから。もちろん、祈り人に守ってもらう必要もない。

だけど、その心はどうだろうか。身を挺して守ってきた民から疑いの目を向けられ、言葉でも行動でも庇護されない。そんな状況で、少しも傷つかないでいられるだろうか。そんな状況にあっても言えないような秘密を、ユウムナは抱えているのだろうか。

アスは瞬きもできないまま、飛び交う石と怒号をじっと見つめていた。どうして自分は何もしないのかと、自分自身に問いかけながら。

 

「ごめんよ、ちょっと通してね。あいてて、押さないでよ。全くもう、乱暴だなあ」

しかし、その混乱は長くは続かなかった。

群衆をかき分けるようにしながら現れたのは、長身の男だった。その姿を見た瞬間、祈り人たちの目は先ほどとは違う意味で困惑に染まる。

「あいつ……侵略者?」

誰かがつぶやいたのを耳ざとく聞きつけ、男は――迎徒は、にっこりと微笑んだ。

「イエス、その通り! 知らない人もいるだろうから、一応自己紹介しておこうか。ボクは大陸の科学者兼医師兼技術士官、迎徒だよ。キミたちが侵略者と呼ぶ集団に所属していた。まあ、今は虜囚の身だけどね」

迎徒は細い縁の眼鏡に手を駆けながら、明るく笑う。だが、群衆は迎徒にも殺気立った目を向けていた。

再び騒ぎが起きようとしたのを制したのは、やはりファルマだった。

「待て。迎徒と言ったな。私たちは今、重要な話をしているんだ。好奇心で首を突っ込むのはやめろ」

「重要な話? どう見ても私刑でしょ、これは」

迎徒はファルマの尖った声にあくまでのんびりと応じると、足元のこぶし大の石を拾い上げた。

「まあ、それを邪魔しようとしてるわけじゃないんだ。どんなに野蛮だろうとキミたちの文化は興味深いからね。だけど、職業柄どうしても見逃せないことがあったもんでね、口を挟ませてもらおうと思って」

そこで迎徒は言葉を切り、群衆に向かって大きく手を広げた。

「眠りの病の感染源はね、この小さな戦士なんかじゃないよ。ボクはそれを証明できる」

 



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白の裏の剥落③

「説明は後にしよう。君たちに見てほしいのは、これだ」

迎徒は抱えていた大きな荷物を置き、それにかけられた覆いを手品師のような手つきで取り去る。

現れたのは、廃材から作ったらしい檻と、その中で落ち着かなく動いている獣だった。

「これは……」

「そう、ネズミだよ。君たちだって見たことあるだろう」

迎徒が檻に足をかけると、閉じ込められた白いネズミはきぃっと高い声で鳴いた。

アスの隣で、ナーダがびくりと肩を震わせる。

 

ファルマは眉を寄せ、考え込むように口元に手を当てる。

「それは見れば分かる。だが、この大きさは……」

「うん、異常だね。ボクもこんなに大きな個体は見たことないよ。もしかしたら、ネズミに似た別種の生き物なのかもしれない。瘴気による変異か、それ以外のものか……この場で推論を言うのはよして、話を戻そうか。このネズミが普通じゃないのは、大きさだけじゃない。こいつがおそらく、眠り病の原因なんだ」

「先ほどもそう言っていたな。どうしてだ? その根拠は?」

「君たちのやり方と同じで、罹患者の生活環境から推測したんだ。ただ、ボクには時間がいくらでもあるからね。君たちが見落としてしまうようなどうでもいいことまで観察できる。例えば、近くの地面とか」

「……穴?」

「うん。眠り病が発生した人の住居を見ているうちに、近くの地面が柔らかく掘り返されてるのに気が付いたんだ。ちょっと深く掘ってみたら、モグラの巣穴みたいなものに行き当たった。そこを行き来していた動物がいると見当をつけて張り込んで、こいつを捕まえたんだ。そういえばそこのお医者さんは、地面から高い所や隙間のある家屋には患者が少ないと言っていたね。ちなみに、風通しの悪いところに放り込まれてる侵略者には、一人も感染者はいない」

「でも……いや、まさか……」

「子供くらいの大きさの白い影、だったよね? 患者の近くで目撃されていたもの。例えばこのネズミが枕元に居たら、子供に見間違えても仕方ないと思わないかい? こいつはきっと、寝ている人から生気を……君たちが言う、ウルを吸っているんだ。だから夜にしか目撃されない。だから隙間の多い住居に入り込む。以上がボクの推論だ。どうかな? 少なくとも石を投げる手を止めるくらいは楽しんでもらえたみたいだけど」

 

迎徒は眼鏡を押し上げ、ファルマは豊かな赤毛をぐしゃりと掴んだ。

「ああ、お前の言うことは分かった。……だからってそんなこと、信じられると思うか? 他ならまだしも、侵略者のお前が言うことなんて……!」

しかし迎徒は、愉快そうに肩を揺らす。

「イエス! その反応は織り込み済みさ。だから、生きた検体を捉えるなんて手間をかけたんだ。ボクとしても、検証可能なデータを欠いた主張をするなんて、科学者としての矜持に関わるからね。さて、この集落に孤立した小屋はあるかい?」

迎徒が視線を向けたのは、櫓の側で控えていたナンディだ。

「ぼ、僕ですか? えっと、村のはずれに空き家がいくつか……」

「待て、答えるな。……迎徒。貴様、何をするつもりなんだ」

「何って、臨床実験に決まってるじゃないか。簡単なことだよ。ボクはこいつを檻から出して、一晩過ごしてみる。それで翌日僕が眠りこけていたら、君たちもこのネズミが眠り病の原因であると信じられるんじゃないかな」

「それは……っ、そんなこと、医者である私が認めると思っているのか!?」

「あれ、実験の信頼性じゃなくて、倫理を気にするのかい? 意外だね。ボクが君たちのお仲間にしてきたことを考えたら、こんなの比べ物にもならないよ?」

迎徒はおどけたように肩をすくめて見せる。その口調は、群衆をわざと挑発しているようにも思えた。

狙い通り、静まっていた人々は再び怒りの色を目に宿し始める。ただし、その対象はユウムナではなく迎徒に移っていたが。

 

「いいんじゃねえの、やらしておけば」

不穏なざわめきを切り裂いて、若い男の声が響く。見れば、そこにいたのは侵略者の青年だった。確か名前は、露呼と言っただろうか。渓谷の民、タクナがその隣で慌てたように立ち上がる。

「おい、露呼……」

「どうせそのおっさん、誰が止めても聞かねえよ。自分の身体使うってんだから、他人に迷惑かけないぶんだけマシだろ。もしそいつが信用ならねえってなら、俺が見張りをしてやる。……俺と、タクナが」

「は? おい、なんで俺も!?」

「同族の俺だけだったら監視の意味がねえだろ。付き合えよ、この前言ってたパーツ譲ってやるからさ」

「ちっ……」

タクナは不承不承といった様子を隠さず、けれど黙って頷いた。

 

「ありがとう、露呼くん。助かるよ」

「同郷のよしみ……つうか、腐れ縁だ。年寄りのケツを拭いてやるのも若者の仕事だろ」

「ひどいなあ、さっそく老人扱いしてくれちゃって。まあ、事実だけどね」

迎徒はたいして消沈した様子も見せずに肩をすくめると、

「じゃあ、さっそくその空き家に案内してくれる? 後は露呼くんたちに監視を任せていいから。そこの櫓に鐘があるよね? 露呼くんでも付き添いの彼でもいいけど、もし明日の朝、ボクが目覚めなかったら鐘を二回鳴らしてくれ。問題がなかったら一回。その時はボクが皆に頭を下げて回るよ」

ファルマがあっけにとられている間に、話はとんとん拍子に進んでいく。

そして翌日、同じ高山の広場にて。

鐘は、二度鳴った。

 

 

迎徒は、一晩ただネズミを眺めていただけではない。

翌朝小屋に入ったタクナと露呼が見つけたネズミの尾には、長い糸が括りつけられていた。

牙や爪に触れないように注意しながらそのネズミを野に放つと、ネズミは一目散に高山へ向かって駆けていった。

「おっさんの予想通り、だな……」

迎徒が残した書き付けを手にしながら、露呼は苦笑する。その隣でしゃがみこんでいるタクナは、不満そうに舌を鳴らす。

「事前に俺に言っとけば、発信機くらい作ってやったのに」

「山の中まで電波が届く代物か? 大方の方向が見当つけば、あとは地の利がある現地人に任せるのが一番だ……って、おっさんの遺書に書いてある」

「死んだわけじゃねえだろ、縁起悪いこと言ってやるなよ……」

「死んでもいいと思ってやってるんだろ、このはた迷惑なおっさんは。敵地のど真ん中で昏睡状態になって、まともに世話をしてもらえるなんて期待してるわけがねえ。自分のやりてえことだけやって、あとはお前らに任せるとよ。相変わらず勝手なことばっかりだ」

「……なに人ごとみたいに言ってるんだよ。お、ま、え、も、働くんだろうが。俺を巻き込んだんだから、今度はお前の番だ」

タクナは手にしていた糸の端を引き、逃げたネズミを手元に引き戻す。

「ファルマに……いや、族長全員と、ユバの戦士にも知らせなくちゃならねえ。鼠退治は人手が多い方がいいからな」



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白の裏の剝落④

※今さらですが、この辺からねつ造が激しくなってくるのでご勘弁ください。
具体的には、高山の寺院周りを色々書いていくことになるかと思います。


迎徒が眠りについたその日の夕暮れ、ユバの都で大集会が開かれた。場所は都の中央の神殿の一角、普段戦士が寄り合って話し合いをしている広間だ。

入り口に面した南側、すなわち太陽を背にする位置は、この都の中で最も位が高い者にしか許されない。かつては始祖ユバがいたそこに、今は七人の戦士が座っている。

アスは前に立つケトから一歩引いたところで胡坐をかき、無意識のうちにため息をついた。協調性のない戦士たちがこうして全員揃ったのは驚きだが、それが良いことだとは思えない。

性格も力も違う戦士たちはの意見が一致したことは、始祖ユバを失った大崩落のあの日から今に至るまで、一度もない。都の危機だと言われても、今回だって戦士の意見が揃うことはおそらくないだろう。ただでさえ、綺麗に結論が出る話題ではないのだから。

 

戦士の前に置かれた円卓を取り囲むように、いや、さらにその外側に描かれた人の円を埋め尽くすように、祈り人たちは集まっていた。一応は族長やまとめ役などが内側に来るように配慮はされているらしいが、中心的な役割でないものたちもも輪の一員に加わろうとばかりに身を乗り出している。その熱気が離れたアスのところまで伝わってくるようだ。

 

だが、祈り人たちとは対照的に、戦士の座は冷えた空気に包まれていた。

ケトは一応その中心に立っているが、自ら望んだというよりも追い立てられてそこにいるという色が隠せない。

そんな厳しい顔のまま、ケトはそれでも口を開いた。

「では、タクナ。迎徒の見張りを終えて、今把握できている情報を教えてくれ」

高い所から指名されたタクナは、臆する様子もなく立ち上がって訝しげに問い返す。

「あ? さっきファルマとあんたには話しただろうが。もう一回同じことを話せって言うのか?」

「ああ、そうだ。お前の話の後にここに来た者もいる。私から話すよりも、自らの眼で事態を観測していたお前の話の方が正確だろう」

「……ちっ。融通利かねえな、戦士様は」

タクナはいらだたし気につぶやくと、円卓を囲む面々に向かって声を張り上げた。

 

「俺と露呼……この侵略者が迎徒のおっさんが籠った小屋を見張ってたことは皆知ってるだろ。今日の朝、おっさんが起きないのを確認してから、俺たちはそっから這い出てきたネズミを追っかけた。そいつは集落から出て、高山の方へと向かっていった。行き先は、大寺院のある一番でかい山だ」

「待ってください、それは……!」

物音を立てながら立ち上がったのは、高山の祭司、マイヤだ。平時は穏やかで控えめな彼女がタクナの話を遮ろうとするのを、ファルマが手の動きで止めた。

「……餌を喰ったなら、獣は必ず巣に帰る。腹の中にあるのがオレたちから吸ったウルでも同じだろう。つまり、その山の中にネズミどもの住処があるんだな」

ライカ村の狩人、イメラがタクナの言葉を引き継いだ。荒んだ目つきの中に、生命を狩ることを生業にする者にしか出せない説得力があった。その雰囲気に気おされたのか、イメラが出した結論に異を唱えるものはいなかった。

 

場を仕切り直すように、ケトは剣の柄を一度床に打ち付けた。

「情報はこれで共有できたな。では、これより本題に入ろう。今後、我々がどうするべきか……」

「んなもん決まってるだろ、山狩りだ! オレたちをこんな目に会わせたネズミどもを、一匹残らずぶち殺す! そうだろ、戦士様!」

イメラは膝を立てて座ったまま、鋭く吼える。その言葉に頷く者は、ライカ村の若者たちだけではない。瘦せこけた顔の中で奇妙に光る眼には、閉鎖的な日々に耐えかねたくすぶりが溢れはじめているようにも見えた。

その怪しい一体感を、再び立ち上がったマイヤが打ち壊す。

「待ってください! 大寺院があるのは神の山です! そこに住まうものは、獣といえど神の使いと同じです! 考えもなしにそれを殺すなど、そんな恐ろしいこと……!」

「だったら黙って死んでいけって言うのかよ!? 気味の悪い白鼠に頭までかじられておかしくなったんじゃねえのか!? ああそうか、お山暮らしのてめえらには大して被害が出てねえもんな、俺らが滅んでも痛くも痒くもねえか!」

「そうは言っておりません! 第一、私たちが草原にどれだけの物資を送ってきたと思っているのですか!?」

イメラに張り合って叫んだあと、マイヤは自らの声に驚いたように身を硬直させた。そして悔しそうにうつむきながら、

「……私も、あのネズミが病の原因だということは否定しません……けれど、寺院の祭司として、山狩りを許容することはできません。あのネズミは魔物でも侵略者でもなく、私たちが暮らす大地からやってきたものなのですよ? 精霊様でさえ弱ってしまっている今、自然の一部を闇雲に攻撃するのは正しいことなのでしょうか。むしろ私たちは、この病とともに生きる形を模索するべきではないかと考えます」

 

「……僕は違う考えですが、山狩りに反対なのは同じです」

柔らかな声とともに手を挙げたのは、ナルワラだ。その後ろに控える島の民のたちは、細身の少年に信頼の眼差しを向けている。

「都の外に戦いに行くとなれば、どうしても戦士様たちに頼らざるを得ません。しかし、ネズミを殺すと言っても、まだその巣もどのくらいの群れがいるのかも分からない。海図を持たずに荒れた海に漁に出れば、手練れのロトイテであっても消耗は必須です。もしかすると、途中で手傷を追うことだってあるかもしれない」

この広間に居並ぶ族長たちの中では、ナルワラは明らかに幼い。だが、歴戦の面々に少しも臆することなく、少年は堂々と自らの意見を述べた。

その目元に涙の痕があるのを、いったい何人が知っているだろうか。胸の前で手を組む癖は、彼の聡明な幼馴染みを真似たものだった。その持ち主は、大崩落の日を境に姿を消してしまった。

「確かに、眠りの病は僕らを苦しめ続けています。僕だって、多くの仲間が弱っていくのを見守ることしかできないのはとても辛いです……けれど、新たな戦士を授かる手段もない中で戦士様を失えば、それこそ最も取り返しがつきません。事は慎重に進めるべきだと、島の民は考えます」

 

アスはそれぞれの言い分を聞きながら、見えないように膝の上の拳を固く握った。

徹底的な戦いを望むイメラ、未知の害獣を恐れながらも寄り添おうとするマイヤ、慎重を期したうえで病の根絶を願うナルワラ。

どの意見も正しく、従ってどの意見にも反論の余地がある。どれだけ時間をかけたところで、全員が納得する結論には落ち着かないだろう。

今は同じ都の中で暮らしているとはいえ、ユバの大地の各地に住まっていた民族は決して一枚岩ではない。今まで大きな諍いが起こっていなかったのは、侵略者という外からの敵があってこそだ。

しかし、今問題になっているのは高山からやってくる獣であり、しか病による被害の多寡は民族によって異なっている。その差が、事態に対する切迫感に直結していた。

この分では、間違いなく議論は荒れる。その考えを読んだように、甘やかな声が響いた。

「あら、皆さん勝手なことばかり言うのね。私はまず戦士様の意見を聞くべきだと思うけど」

瞬間、広間に毒気が広がったように感じた。マルキアは、髑髏の仮面を取り去って幼い顔にとろけるような微笑みを浮かべていた。

 



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白の裏の剝落⑤

議論に水を差したマルキアの視線は、形ばかりはこの場を取り仕切っていたケトに向けられている。

「……意見とは」

「あら? 私たちがこんなに熱心に話しているのに、あなた方には聞こえていないのかしら? それとも、戦士様の高貴なお耳には小鳥のさえずりなんて届かない?」

ケトが険しく眉を寄せ、反論しようと口を開いたのを先取りするようにマルキアは続ける。

「ええ、そうだったわね。始祖たるユバがいなければ、あなた方戦士は七人いたって何も決められないお人形ですもの。戦うふりだけ一生懸命で、お仕事の後は皆でのんびりお茶飲み話。まったく、羨ましいご身分ね?」

「き、貴様、我々を愚弄するつもりか!」

「これを侮辱と捉えるなら、あなた方は耳だけでなく眼も塞がっているわ。自分の姿も見えていない人間に、他者を導く資格はないと思わない? だから、代わりに私が……いいえ、私たちが決めてあげる。誰が生きて、誰が死ぬかを」

マルキアはケトからすうっと瞳をずらすと、不穏なやり取りを見守っている群衆に向き直った。

「この病に……いいえ、不気味なネズミに対してどうするべきかというのが、今日の議題だったわね。狩ろうとするもの、従おうとするもの、見定めようとするもの。でも、もっと確実で安全な手段があるわ。生贄の儀式を復活させて、ウルを循環させるのよ」

反論する者は、いなかった。祈り人たちはもちろん、ユバの戦士でさえ息をのんでマルキアの発言に耳を傾けている。いとけない毒婦はその反応に満足気に頷くと、両の手のひらで宙をすくって差し出した。

「この都に不要な者をみんなで選んで決めるべきよ。口には出さなくても心で思っていることがあるでしょう? 老人はどうせ先行きが長くないのだから、潔い最後の見本になってほしいわね。不治の病人だって、負担をかけながら生きながらえるよりも皆に感謝されながら死んでいく方がいいわ。子供はたくさんいた方がいいけど、乳飲み子を今育てるのは骨が折れるから先に神の御許に送ってあげましょう。世界が正しい形に戻れば、すぐに新しいのを授かるわよ。正常な世界になってから、元気な子を育てればいいわ」

 

「……やめろ、マルキア」

マルキアの語る甘美で輝かしい世界に、重く低い声がひびをいれた。槌の戦士、チカオトルは岩のように座ったまま、マルキアをにらみつける。

「お前の言葉に従えば、この都に住む者は人でなくなる。最もらしい理由を付けたところで、それはお互いがお互いを喰らう獣の考えと何一つ違わない」

「どうして? 私は私の考える最善を提案しているだけよ。人でなしでも結構、恨まれても上等だわ。……何も決められずにこの狭い檻に囚われて死んでいくより、ずっとまし」

そこで初めて、少女の顔が常に纏わせていた笑みが消えた。最後に吐いた言葉だけは、本音だったのかもしれない。

「さあ、私の話を聞いたところでどうするの? ねえ、戦士様。皆あなたの答えを待ってるの」

すぐに笑顔の仮面をかぶり直すと、マルキアは問いかける。自らに反論したチカオトルではなく、立ちすくんだまま何も言えないケトに向かって。

ケトは迷子のように目を泳がせる。ヤアヤを、ナタリを、ユウムナを、そしてアスを見て、終着点を定められないままもう一度祈り人の方へ戻り、そこで活路を見出したように目を見開く。その視線の先には、ナーダがいた。

 

「そ、そうだ、占い師の意見を聞かせてくれ。星はこの先の未来をどう告げている?」

「わ、私は……」

ナーダには答えられるはずがない。ナーダとともに過ごしてきたアスは、分厚い雲が星を隠している今、星見による占いができないのを知っている。

けれど、この場でそれを言っても不安を煽るだけだ。神秘の力を拠り所にできないと分かれば、自然と人々の考えはより確実らしい方向へと流れていくだろう。

そうなれば、マルキアの考えが支持されてもおかしくない。

「待って、ナーダは今……」

「戦士様は、占いの力を頼りにするのですね? だったら、ナーダの代わりに私が話します」

割り込もうとしたアスの言葉を遮ったのは、渓谷の祈祷師ラルク・オグだ。青い肌に異形の角を持った祈祷師は、落ち着き払った瞳でケトを見据える。

 

「あの大崩落の日から、祈りの力をうまく使えなくなった人は多くいるでしょう。でも、私は違いました。以前よりも難しくなったけど、しっかり準備を行って集中すれば占いはできます。そうして見た未来のために、私は対策をとりました」

ラルクが取り出したのは、いくつかの動物の骨だった。円卓の上に並べられたそれは、一切の穢れを知らないように白い。

「これは、神の使いたる黄金のコンドルの亡骸。あの鳥には、戦士ほどではないけど、ウルを操って希望を導く力があります」

「それは……!」

黙ってうつむいていたナーダが、弾かれたように顔を上げた。けれど、ラルクは一切視線を動かさない。

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人々の混乱と不安が、ざわめきに乗って広がる。その中で、ラルクの声はどこまでも真っすぐだった。

 

「私の他にも、占いや予知の力を持っている人はいますよね? だとしたら、私の行動の理由は分かるはずです。少なくとも私とビシャールには、同じ未来が見えていた。高山の人で、ビシャールから占いの話を聞いた人はいますか?」

その呼びかけに頷くものはいなかった。代わりに、指名されたビシャールーー石の声を聞く高山の占い師は、小さく首を横に振る。

「私は……何もしませんでした……。神の鳥を殺すこともなかったけど、ネズミを追い払うこともしなかった……それに意味がないって、分かっていたから……」

ラルクはビシャールの言葉にほんの少しだけ目元をやわらげると、一度大きく息を吸い込んだ。

「……結論を言いますね。どんな手段をとったところで、ユバの大地は……この世界は、滅びからは逃れられません。だから私は、このまま終わるべきだと思っています。あの大崩落を考えるまでもなく、この世界はもうぼろぼろなんです。そこの住人である私たちだって同じです。誰にでも失ったものはあるでしょう? 癒せない傷を隠して、いびつな姿を取り繕って、どうにか生きているだけ」

ラルクは細い指で自らの頭から生えた角に触れた。

 

「これ以上あがいても、もう元には戻れません。失ったものも、変わってしまったものも、もう二度と帰ってきてくれない。……変わっていったあの子にも、私は何もできませんでした。私の祈禱は無力だったし、ルキュはそんなものを求めていませんでした。でも、どんどん知らない姿になっていくルキュを見るのが怖くて……私はあの子から、逃げてしまった」

ラルクが語るのは、彼女の手伝いをしていたある少女のことだ。ルキュが姿を消したのも、確か大崩落の日だったとアスは思い返す。

「私は、最後にルキュとどんな会話をしたのか、もう覚えてません。いつかは戻ってきてくれるはずだなんて、甘い考えをしてたから……。あの子のことが理解できなくても、せめて側にいればよかった。もう戻ってきてくれないなら、それを受け入れれば良かった! そうすれば、最後の時までは一緒にいれたかもしれないのに……! ……だからこれは、私なりの罪滅ぼしなんです。何をしたって避けられあないなら、滅びから逃げてはなりません。ただ寄り添って、ありのままに受け入れるべきです」

喉を裂くほどに叫んだラルクの眼には、涙が光っていた。その言葉を否定する者はいなかった。

ラルクの隣で身を縮めている、星見の占い師を除いて。

 



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白の裏の剥落⑥

「もう……やめてください……」

「……ナーダ?」

アスのつぶやく声は、遠く離れたところに座るナーダには届かない。ナーダは誰とも視線を合わせずにうつむいたまま、長い銀髪をかすかに震わせていた。

「どうして……こんな目に会わなくちゃならないんですか……? 私たち、ずっとずっと頑張ってきたのに……お互いに非難して、怯えて、争いあって……こんなのが私たちの望んだ未来だったんですか? 平和で安らかな暮らしは、もう戻ってこないんですか? 私たちも世界もユバ様に見捨てられてるのに、こんなに頑張って生きていく意味なんてあるんですか?」

辛そうにゆがめられた大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれている。しんと静まり返った広間には、その雫が落ちる音さえ響きそうだった。

「……」

ラルクは隣で泣きじゃくるナーダを一瞥するが、けれど何も声をかけず、静かに目を背けた。

 

息が詰まるような沈黙の後、ナーダは何かを決心したようにすっと顔を上げた。

「私、もう耐えられません……暗い未来も、病に倒れる人も、誰かの諍いも、もう何も見たくありません……! どうか私を、生贄にしてください……!」

「ナーダ、それは……!」

肩に置かれたラルクの手を、ナーダは駄々をこねる子供のように振り払う。

「どうして止めるんですか! 私が死ねば、全てが良い方向に進むんですよ! 祈り人を生贄にすれば、ウルだってきっと循環します。占いの力が使えない私なんて生きている意味がないし、ラルクやビシャールみたいにもっと優れた人がいくらでもいます……! 私たち、ずっと前からそうしてきたじゃないですか! 大崩落の前のやり方に戻るだけでしょう!」

「駄目だ!」

 

考えるよりも先に、アスは動いていた。驚くケトの横をすり抜けて思い切り床を蹴り、円卓めがけて飛び降りる。足の裏に冷たい石を感じながら、さらに目指すところへ向かって駆ける。

アスはナーダの目の前で足を止めると、彼女の胸元を掴んでまっすぐに視線を合わせた。

「戦士、様……」

呆然とつぶやくナーダに、鼻先がぶつかるくらいに顔を近づける。

「今までと同じことを同じやり方でやってるだけじゃ、僕たちに未来なんかないんだよ! いくらウルを循環させても、器自体に穴が空いてればいつかは尽きる! マルキアが言うように生贄を繰り返しても、その場しのぎにしかならない!」

声で殴りかかるように、アスはただ吼える。苛立ち、焦燥感、義憤、悲しみ。胸の中にある感情を言い表すには、どんな言葉でも足りなかった。

簡単に諦めるな。どうしてそんなことを言うんだよ。まだ何か可能性はあるはず。ナーダの代わりなんかどこにもいない。どうして、どうして分かってくれないんだ!

二人の視線が交わったまま、永遠みたいな沈黙が落ちる。ナーダの眼からは、絶え間なく涙がこぼれ続けていた。

 

「じゃあ私たち、どうすればいいんですか……?」

弱々しい声を聞いたその瞬間、アスの中で何かがすとんと腑に落ちた。

ナーダはずっと、見えない未来に怯えていた。霧の中で道を見失った子供に何を言っても、先に進もうなんて思えるはずがない。だったら、僕が歩んで道を作るしかない。

小さく息を吸って、止める。心臓が胸で跳ねているのを感じる。体中の筋肉が収縮して、細胞が叫びだす。答えは最初から、この体の中にあった。

「……僕は戦士だ。冷静に考えることなんてできない。何もせずに滅びを受け入れるのも、もちろんごめんだ。僕は、この命が尽きる最後の瞬間まで戦いたい」

目に棘が生えたみたいで、痛いのに閉じられない。何もかもがまぶしくってたまらない。額の内側が熱い。じっとしていたら、頭の先から指先から腹の中から火が出て、全身が燃えてしまいそうだと思った。

 

ひるんだように黙り込むナーダに替わって冷たい視線を向けたのは、異形の祈祷師だった。

「……勇ましいのは結構ですが。いったい何と戦うとおっしゃるんですか、戦士様」

「病の……いいや、この世界の滅びの元凶だ。僕は高山へ行く。行けば何かが見つかるはずだ」

「水場を目指すトカゲよりも安直な考えですね。しかも、あなた一人で? そんなの、命を捨てるのと同じです。戦士の死がどれほど取り返しがつかないことなのか、あなたはちっとも分かってない」

「取り返しなんか考えてないよ。第一、世界はどうあがいたって滅ぶって言ったのは君じゃないか。だったら僕が何をしようと君には関係ない」

ラルクは意表を突かれたように、少しだけ目を見開く。そしてすぐにすっと細めた。

「……私にとっては、そうですね。でも、ナーダがどう思うかは考えないの? どうせ滅ぶ世界なんだから、少しでも側にいてあげればいいじゃない! ……少なくとも、無謀な戦いに挑むよりはよっぽど彼女を幸せにしてあげられるのに」

「……知らないよ」

 

アスは奥歯を強く噛む。

前に進むと決めたから。その道が自分の足を傷つけると分かっていても、僕は歩みを止めない。その道が、誰かの心を傷つけると分かっていても。

「そんなところで目をつぶって泣いてるだけの弱虫なんて、僕は知らない」

ナーダの細い喉がひゅっと息を吸い込むのが聞こえた。けれど、聞こえないふりをした。

手にしていた杖を思い切り円卓に打ち付けて、アスは自分の迷いを断ち切る。

 

「僕は誇り高きユバの戦士だ! この身に流れる血潮は、戦いを求めてたぎっている! 狩るべき獲物がそこにいるのに、立ち止まっている理由なんてない!」

「大口叩くじゃねえか、ちびで鈍足のアスのくせに」

背後から低い声が聞こえた。振り返った先にいた爪の者、メクティコは両手の武器をがしゃんと打ち合わせ、皮肉っぽく笑う。

「メクティコ……」

「お前一人で何ができるんだ。山に登る途中で穴にでも落ちて、ネズミにかじられるのが関の山だ。誇り高きユバの戦士の行きつく先が獣の糞だなんて、笑えねえぜ」

メクティコの言葉尻に重ねるように、別の音が鳴る。槍の石突を床にたたきつけたのは、槍の者ヤアヤだった。

「心配だから自分もついていくって、あんた素直に言えないのかい? 少なくともあたしは乗るよ。どうせそれしか能がないんだ」

どん、と広間全体が揺れるほどの音が響く。大槌を振り下ろしたチカオトルは、それきり腕を組んで言葉を発さなかった。チカオトルを代弁するように、ナタリが自分の武器で床を叩く。

「チカオトルの旦那は賛成だって、多分。で、俺もそんな感じで。ケトもそれでいいよな?」

「あ、ああ……」

賛同の意を示す戦士たちに目で感謝を伝え、アスは最後にユウムナを見る。白髪の戦士は小さく頷いて、弓の弦を弾いた。

それを見守っていた祈り人たちの間にも、ざわめきが広がっていく。

「戦い……」「戦うのか?」「戦うんだ」「戦おう!」「戦え」「戦え!」「戦え!」「戦え!」

戦士たちに呼応するように、あるものは自らの武器を、あるものは足を、あるものは拳を打ち鳴らす。

 

口には出せなくとも、その空気に反対する者はきっといた。だが、そんな小さな反抗は、激しい雨のような喚声がかき消してしまう。

アスは、自分の言葉に間違いがなかったとは思っていない。けれど、この終わりかけの世界で生きていくためには必要なことだ。例えその足で何を踏みにじっているとしても、僕は前に進まなければならない。

「戦士様……!」

だから、ナーダの叫びのような声にも、振り向くことはできなかった。

 



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白の裏の剥落⑦

今更な注意ですが、今回の話から男女、男男、女女、それぞれのいちゃつきがちょっと混入してきます。
描写はキスとハグくらいです。

ご確認のほどよろしくお願いします。


総意は決まった。ユバの民は得体の知れないネズミによって疫病が広がる状況を静観することを良しとせず、その元凶を絶つために高山を捜索することを選択した。

しかし、都の外には相も変わらず死の風が吹いている。どんなに気焔を上げても、祈り人が戦士に同行することはできない。捜索の任を負うのは、七人の戦士たちだけだ。

その代わりと言うように、夕暮れに戦士たちが出立の準備をするのに合わせて、都を上げた宴が開かれた。といっても、住人の半数以上が眠りの病に倒れている中では豪奢な振る舞いができるわけもない。広間で大きなかがり火を焚き、その周りを囲むだけだ。それでも、強く揺らめく炎の熱を浴びることで、戦士と祈り人たちの心は一つになっていた。

 

普段の宴とは異なる静かで張り詰めた雰囲気は、勝ち筋の見えない戦の前にはむしろちょうどよいのかもしれない。賑やかな歓声の代わりに火の粉が舞う音を聞きながら、ユウムナはそんなことを考えていた。

いつも呑気なアスが、あんな大演説を打つとは思わなかった。戦士だけではない、この場に集まっていた祈り人たちだって、皆期待に満ちた眼差しをアスに向けていた。今だってかがり火の向こうに見えるアスは、祈り人から代わる代わる手を握られたり声をかけられたりで休まる暇もなさそうだ。

けれど、自分たちの行く先は決して明るいものではないことをユウムナは知っている。あの大崩落の日から、この世界に満ちていたウルは減少していく一方だ。たとえ病を運んでいるネズミを絶やしたとしても、根本的な解決にはならない。

そのことに気づいているのは、恐らくユウムナだけではない。あのラルクという祈祷師を始め、ウルの扱いに長けたものであればこの世界に終わりが近づいていることは多かれ少なかれ理解しているはずだ。だとすれば、自分たちが送り出されようとしているこの戦いに、果たして意味はあるのか――。

 

「戦士様、よろしいですか?」

暗いところに沈み続けていく思考は、穏やかで控えめな声に遮られた。

振り向くと、小さな籠を持ったディンシャが立っていた。

「あの……お怪我はありませんか」

「怪我? なんのことー?」

ユウムナは首を傾げる。侵略者とも魔獣ともしばらく戦っていないんだから、怪我なんてしようと思ってもできない。そもそもユバの戦士は頑健さも回復力も並外れているのだから、戦いで負った傷だって放っておけば治ると言うのに。

けれどディンシャはためらいがちに、けれどはっきりと答える。

「……ファルマさんがあなたを病の原因だと宣言した時のことです。あの時、多くの人から石をぶつけられたでしょう。額がまだ赤くなっています。これは高山の薬草で作った膏薬です。お使いください」

「いいよー、そんなの。見た目はともかく、痛みは全然残ってないしー」

 

だがディンシャは返事を待たずに動いていた。薄く柔らかい膏薬をユウムナの額に貼りつけ、上から亜麻布を巻いていく。

かすり傷程度の怪我に対する必要以上に丁寧な手つきは、こういった行為が不慣れなのだろうかと感じさせた。処置が終わったユウムナの額に、ディンシャは亜麻布の上から指で触れる。

「……あなたが石で打たれたのは、私のせいです。ファルマさんが公表した考えは、私が言い出したことでした。本来であればもう少し証拠を集めるつもりでしたが、そんなことは言い訳にもなりません……。もしあの侵略者がネズミを持ってきていなければ、きっと間違った考えがこの都に蔓延していたでしょう。私は自らの思い込みでユバの戦士を病のもと呼ばわりして、危険にさらしたのです」

「ううん、ディンシャちゃんの考えは間違ってなんかないよ」

首を小さく横に振って、ユウムナは額に触れていた指から逃げる。

問われなければ、言うつもりはなかったことだ。しかし、ディンシャが自らに責任を感じているというのなら、ユウムナは己の行いを説明する必要があるだろう。

「あの時のあたしさ、皆の前に連れていかれたけど、縛られても口を塞がれてもなかったよね。違うって言おうと思えば、いくらでも言えたんだよ。でも、そうしなかった」

反論しようとするディンシャを視線だけで止めて、ユウムナはゆっくりと話し出す。

 

「ダリアちゃんが初めて眠り病にかかったとき、ディンシャちゃんもいたよね。あの時のディンシャちゃん、自分でもダリアちゃんの病気を調べたいって言ってたでしょ? 私はね、それがすごく羨ましかったんだ。私は戦士だから、戦いがなければ誰かの役に立つことなんてできない。特に私は変異の戦士だから、本当に戦い以外のことは何もできないんだよ。……それでも、ダリアちゃんに何かをしてあげたかったんだ」

異質な色の髪と瞳を持つユウムナに向けられる視線には、常に畏怖と恐怖が込められている。自分は他の戦士とは違って契る機能さえない体に生まれてきたのだから、それでいいと思っていた。例えばアスがナーダと築いているような温かな関係を自分が持つことは、ありえないと分かっていた。

だがダリアは、ダリアだけは、旺盛な好奇心と天真爛漫な性格に任せ、ユウムナにも臆することなく話しかけてくれていた。

その振る舞いが、どれだけユウムナの心を慰めていたのか。失ってからようやく気づくなんて、自分はとことん愚かだと自嘲する。

 

「私、ここしばらく花を集めてたんだ。ダリアちゃんのもとに、お見舞いとして持っていくために。……ウルをたっぷり蓄えた花だけを摘んで、ダリアちゃんに捧げてたんだよ。この世界のウルが失われ続けてること、花を摘んだ場所のウルがさらに減ることを分かって、あたしはダリアちゃんの目を覚ますことを選んだの。もしかしたらその時、ディンシャちゃんは花を届けに行くあたしを見かけてたかもしれないね。だから、君の説はやっぱり間違いなんかじゃないよ。ダリアちゃんはともかく、他の集落の皆が倒れたのはあたしのせいかもしれない。……それで目を覚ましたってダリアちゃんが喜んでくれるはずないって、分かってたのにね」

「それは……」

ディンシャはユウムナの告白に、困ったように眉を下げた。戦士のくせに身勝手な行動をするなと糾弾してもいいし、やはり自説は正しかったと胸を張ってもいいのに。どちらも選ばずにただもぞもぞと指先を動かすディンシャを見て、ユウムナは少し頬を緩めた。

「変なこと言っちゃったね。安心して、ちゃんと役目は果たすから。ネズミをやっつけて、皆が目覚められるように手がかりを一つでも見つける。私にできるのなんて、それだけだから」

アスの言う通り、私たちはユバの戦士だ。戦うことが運命で、戦いによってしか誰かの役に立てない。こんな単純なこと、もっと早くに気づいていればよかった。ダリアと話す嬉しさを知る前に。少女の笑顔を想いながら、必死に花を摘む前に。そうすれば、こんな胸の痛みも知らずに済んだのに。

 

ディンシャは明るく笑うユウムナから目を逸らして、小さくつぶやいた。

「……師匠は、目覚めてあなたがいなければ、きっと悲しみます」

「そんなわけないって。ダリアちゃんのことだから、すぐに新しい発見をしたらそっちに夢中になるよ」

ユウムナはただ事実を言っただけだ。なのに、どうしてディンシャがそんな泣きそうな顔をしているのか分からない。やっぱり私にはお喋りなんて向いてないんだ、と結論付けようとしたその時。

「目を、閉じてください」

また手当をしてくれるのかな、と思ったユウムナは黙ってその通りにした。額に痛みなんてないけど、薬を塗ったり布を巻いたりしてディンシャの気が済むなら、別に文句はない。

だが、長い指が触れたのは思ったのとは違う場所だった。顎が上を向かされたと思ったら、唇に柔らかい感触が触れて、すぐに離れていった。

 

「こ、これは師匠の分です。師匠がここにいたなら、おそらく、たぶん、こうしていた、のではないかと、推察するのも不可能ではないと、私としては……」

レンズの下の端正な顔が、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。

「……ふふ。それじゃあ何言ってるか分かんないよ」

思わず混ぜっ返してから、ユウムナは自分が本心から笑ったことに驚いた。

ディンシャはさらに顔を赤くした後、大きく深呼吸をしてユウムナに向き直る。

「必ず、生きて帰ってきてください。私はここで、あなたを待っています。あなたに謝罪と感謝を伝えるために」

「……うん。待ってて」

ユウムナは手を伸ばして、ディンシャの眼鏡を奪い取る。二度目の口づけの間に、言葉はなかった。だから、ユウムナはそれを、ディンシャからの激励だと思うことにした。

 



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白の裏の剥落⑧

「おー、ユウムナがまたちゅーしてる。いいなあ」

タクナの隣に座っている戦士が、焚き火の向こうを眺めて歓声をあげた。

「構ってほしいならお前も向こうに行けばいいだろ。俺は忙しいんだよ」

タクナは思い切り顔をしかめ、ナタリを追い払う仕草をする。だが、若い戦士は立ち上がるでもなく、かと言ってタクナの作業を慮るでもなく、ただ不満気に唇を尖らせた。

「えー、冷たいこと言うなよ。それに、俺が行っちゃったらタクナは寂しいだろ」

「馬鹿言え。あ、こら、その部品に触るなよ。整備中なんだから」

なんでこいつら、こんな呑気に話してるんだ。露呼は目の前の二人のやりとりを眺めながら、思わずため息をついた。

 

もともと露呼は宴なんかに参加するつもりはなかった。だが、タクナから迎徒の見張りに付き合った借りを返せと言われれば、断るすべはなかった。

敵同士だったとはいえ、せっかくできた友人だ。年齢が近いという以上の親しみは感じているし、侵略者の技術を教える者とこの地での振る舞いを教える者として、お互いに恩恵のある関係を築けていると思っている。だから今だってさっさと帰りたいのをこらえて、機械いじりをしているタクナの側にいるのだが。

だが、ただ時間を潰していればいいと思っていたのに、まさか戦士が寄ってくるとは。

 

「っていうかさ、タクナだって俺にああいうことしてくれてもいいんじゃないの?」

「なんだよ、ああいうことって」

「ちゅーしてほしいって言ってんの。分かるだろ?」

細かな部品から遠ざけられたナタリはタクナの肩を掴み、そこに顎を乗せた。

さっきからこいつら、なんか距離が近いんだよな。露呼も一応すぐそばにいるのだが、このナタリという戦士の視界には入っていないようだ。そして、タクナもまた露呼の存在をすっかり忘れているらしい。

「……なんでお前にそんなことしなくちゃいけないんだよ」

「餞別だよ、餞別。命を懸けた冒険に出るんだからさ、ちょっといい思いしたいんだよ」

「他の奴を探せよ。俺がお前にそんなことしてやる理由なんてねえ」

「理由なんて必要か? いつも契りの時はいっぱいしてくれるじゃん。この前の夜だって……」

がり、と耳障りな音が鳴る。やすりをかけていたタクナの手元が狂ったようだ。

「お前……ふ、ふざけんな! あれはだって、お前がどうしてもしろって言うから……!」

「だから、今だってそう言ってるじゃん。ほら、お願い」

「……っ!」

タクナは顔を赤らめながら戦士を振り払うが、本心から嫌がっているわけではなさそうだ。

……俺はいったい何を見せられてるんだ。もう一度心の中でぼやくと、露呼は密かにため息をつく。

 

ところが、くるりと身を翻したナタリは、無関心を決め込んでいた露呼に近寄ってきた。

「あーあ、振られちまった。他の戦士は餞別もらってるのに、俺は何もなし。どころか小言ばっかり。やってらんないなー」

目を逸らしてさり気なく逃げようとしたが、見透かされたように壁に手をついて退路を塞がれた。

やむなく、露呼はナタリに向き直る。

「……なんだよ。俺に用かよ」

「命を張ってくる戦士様に、お前からねぎらいの気持ちはないのかって聞いてるんだよ」

「ねぎらい……?」

「簡単だよ、こうするんだ」

とナタリは露呼の胸元を片手で掴むと、

「んむっ!?」

あっさりと唇を奪った。戦士の頭で半ば塞がれた視界の端で、タクナが目を剝いたのが見える。

ちゅ、と軽い音を立てて離れると、ナタリは悪気もなく首をかしげる。

「あれ、もしかして初めてだった?」

だが、そんな言葉は突然の接触に混乱している露呼の耳には届かない。

「し、信じらんねえ。人前で、こんな、き、き……」

「なんだよ、侵略者だって行ってきますのちゅーはするだろ」

「しねえよ!」

やけになって大声で叫ぶが、ナタリの視線はすでに次の獲物に向けられていた。

 

「じゃ、次はタクナね」

「次って……お前な、露呼を巻き込んでかわいそうだと思わねえのかよ……」

「命を懸けた戦いに行くのに、ちゅーの一つももらえない俺の方がかわいそう。ほら、早く」

「一つは今奪ったとこだろ……ああもう、分かったよ。すればいいんだろ、すれば」

タクナは小さくため息をつくと、眉をしかめながらもナタリの頬に手を添え、口づける。すぐに唇が離れようとするが、その瞬間、それまでされるがままだったナタリが空いている手を伸ばしてタクナの後頭部を抑え込んだ。

「ん……おい、てめ……っ、ん、あぅ……っ!」

一度は逃げかけた灰色の髪が、強引に引き寄せられる。その隙間からちらりと見えた耳は、真っ赤に染まっていた。あとの文句は、貪欲な戦士の口が飲み込んでしまった。

悲惨なのは露呼だ。戦士に首根っこを掴まれたままだから、タクナとナタリの口づけを目の前で見せつけられる状態になっている。二人の舌が絡み合う音さえ、生々しいほどに聞こえてしまった。

「んぅ……っ、ぁ、も、いいかげんに……ん……っ」

タクナが諦めて力を抜くと、二人の口づけはますます深くなる。先ほど自分に与えられたものとは比べ物にならないほど濃密なそれに、露呼は瞬きもできずに見入っていた。

 

ナタリが満足する頃には、タクナの息は完全に上がっていた。長い口づけから解放されると、タクナはそのまま背の低い戦士の首筋に顔をうずめる。

「ありがと。元気出たよ」

「……やっぱり俺、お前のこと大っ嫌い……」

吐息に混ぜてそれだけをつぶやくと、タクナは戦士を突き飛ばすようにして体を離した。

その衝撃で我を取り戻し、露呼も慌てて戦士の手を振りほどく。

「な、なんでこんなこと人前でできるんだよ……てめえらやっぱり頭おかしいだろ、この蛮族め……!」

震える声で睨まれても、ナタリはからからと笑っていた。

「よく言われるよ。じゃあな、帰ってきたら三人で続きしようぜ」

そして、二人に向けて明るく手を振って走り去っていく。

いまだに感触の残る唇を無意識に撫でながら、露呼は呟く。

「……お前、趣味悪いな」

「うるせえ!」

タクナが投げつけた工具は、避けなくてもかすりもしないほど的外れのところに飛んでいった。

 



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白の裏の剥落⑨

明るい橙の火が照らす広間を、アスはゆっくりと見渡す。我の強いユバの戦士たちは、皆思い思いに出立の前夜を過ごしているようだ。

 

渓谷の狩人たちに取り囲まれたヤアヤは、自身に期待の眼を向ける彼らを一人ずつ抱きしめていた。その中には、いつかヤアヤに頼んで訓練を行っていたダダ・ナウルの姿もあった。

「頑張ってね、戦士様。あたし、一生懸命お祈りするから」

「あはは、気張り過ぎて倒れんなよ! 戻ったらまた鍛え直してやるからな!」

「た、倒れたりなんかしないよ! 戦士様こそ転んだりしないでよね!」

 

ケトは中心から離れたところでビシャールと並んで座り、黙って夜空に弾ける火の粉を見つめている。二人の間に言葉はなく、けれど肩を寄せ合って同じ方へ視線を向けていた。

「……あなた、前に私が見てた戦士様に少しだけ似てます」

「そうか」

「ええ。そういう口下手なところが、本当にそっくりです」

 

チカオトルはさりげなく人目に付かないところを選び、不機嫌そうに唇を尖らせているマルキアの指先に口づけていた。

「あなたは話の分かる戦士だと思ってたのに、結局は他の戦闘人形と一緒ね。言っておくけど、私と信者たちにかかれば、あなたたちの支配なんていつでもひっくり返せるのよ? そうしない私の情け深さに感謝しておくことね」

「ああ、感謝しよう。これでいいか」

「ちょっと、何を……! ん、もう……勝手な人ね!」

 

姿が見えないメクティコは、眠り込んだままのキャキャやシャウキの顔を見に行くと言い残していた。

「俺が様子見たからって病気が良くなるわけじゃねえけどな。……俺はうるせえとこにいるより、辛気臭え場所でじっとしてる方がいいんだよ。付きまとってくるチビどもがいない分、気合が入りそうだぜ」

 

 

アスは自分の頬に触れて、妙な疲れ方をしてるな、とため息をついた。

この宴の間に、あまりに大勢の人に話しかけられたせいだ。自分が旗振りなんて柄じゃないし、そうなる必要もないとは思う。それでも皆の前で偉そうなことを言った責任は感じていたから、アスは自分を慕ってくれる人たちと言葉を交わし、そうでない人にも話しかけた。だが、宴が終わるころになっても、待ち人が訪れることはなかった。

 

篝火がゆっくりと勢いを失って、夜の闇が広がっていく。いくぶん弱くなった炎が照らす範囲に、目当ての人物はいない。

広間から離れた木々の隙間を探して目を動かすと、暗闇の中にほのかに光るものを見た。

葉の落ちた枝が月に照らされ、複雑な模様を地面に落としている。その影に閉じ込められるようにして、ナーダは立っていた。

アスは無意識のうちに息を詰めながら、ナーダに歩み寄る。篝火を囲んで皆で話していたときの賑やかさなんて、一瞬で忘れてしまった。

「……来ないでください」

しかし、十分な距離に近づく前に拒絶された。

「ナーダ」

呼びかけても、ナーダは黙って首を横に振るばかりだ。構わず、アスは歩みを続ける。

 

「やめてください、戦士様……私に近づかないで」

アスに聞く気がないのを感じ取ったのか、ナーダは言葉でけん制するのをやめて走りだした。乾いた草を踏み分ける二人分の足音と、衣服が風に翻る音だけが聞こえる。

「ナーダ、ねえナーダ……逃げないで、ナーダ」

月明かりだけが頼りでは目の前の姿さえ見失ってしまいそうで、アスは馬鹿みたいに名前を呼ぶ。

「来ないで……放っておいてください!」

答えるナーダの声には、涙が混じっていた。思わず伸ばしたアスの手が、華奢な肩に届いた。力の限り引き寄せようと思ったところで、足がもつれる。

 

「……っ!」

すぐに起き上がれなかったのは怪我をしたからじゃなくて、こんな時まで格好がつかない自分が情けなかったからだ。いくら大勢の前で胸を張って威張ってみたところで、アスがちびでのろまで手足も短いのには変わりないのだと突き付けられたみたいだ。

「……」

そのままつっぷしていると、ためらいながら足音が戻ってくる。

「……大丈夫か、って聞いてくれないの?」

いくぶん離れたところで、ナーダの足は止まる。

「聞きません。あなたは強い人ですから、私の心配なんて不要でしょう」

夜露で濡れた地面が、じっとりと肌にまとわりつく。それでも、なんだか意地になって顔を上げられなかった。

「……他の皆は色々してくれたのに。心配だけじゃなくて、励ましとか、お祈りとか、他にもいろいろ」

「知ってます。……ずっとあなたを、見てましたから」

「うん、僕も気づいてた。それで、ナーダはどう思ったの?」

「私は……」

ナーダが口ごもっている間に手早く立ち上がって、正面から向き合う。だが、うつむいている少女と視線はぶつからない。

アスはナーダの答えをじっと待つ。虫の声も聞こえないほど、静かな夜だった。

 

「……行かないでください」

ようやく絞り出されたその声には、悲痛な響きがあった。

「私は、怖いんです。この先の未来に、恐ろしいことが起こるのが。今でさえ辛いことばかりなのに、もっと大きな悲しみがやってくるとしたら、私はもう耐えられません……あなたを、失いたくないんです……!」

「……でも、このまま都に閉じこもっているんじゃ駄目なんだよ。ナーダも分かってるでしょ?」

「だとしても、あなたが戦いに行かなくてもいいじゃないですか! こんなに体も小さくて、華奢なのに……」

「……うん、そうかもね。でも、僕は戦士だ。弱っちくてものろまでも、それが戦わない理由にならない」

頬に違和感を感じて、拳で拭う。手には大きな泥の塊がついていた。擦ったから、かえって汚れを広げてしまっただろうか。でも、そんなことは気にならない。

 

「ねえ、ナーダ。前に僕が言ったこと覚えてる? 占いをができない、未来を見るのが怖いって泣いてた時、ナーダは弱くなんかないって言ったよね。今でも僕はそう思ってるよ。でも、自分が強いか弱いかを最後に決めるのはナーダだ。僕は戦士だから、ナーダと同じ立場でものを言うことはできない。だから、違う言い方をする」

「……」

うまく伝わるだろうか。いや、理解されなくても構いはしない。ナーダがそれを信じない、信じたくないというなら、アスは自らの行動で証明するまでだ。

「弱いのも怖いのも、否定するつもりはないよ。でも、それを逃げる理由にしないで。ナーダが怯えて立ち止まるための言い訳にしないで」

少し高いところにある襟首をつかんで、思い切りナーダに顔を近づけた。菫色の虹彩が怯えて縮こまっているのが見える。

 

「僕の言ってることが分かるか、ナーダ・シウ! 恐怖がお前の眼を塞ぐなら、その耳に聞かせてやる。言葉でも分からないなら、暗闇も突き破るくらいの光を僕が見せてやる! だから、お前も戦うんだ。弱くても、震えていても、どんなにみっともなくても! 戦え! お前自身の戦いを!」

肩を強く押さえつけ、無理やり目線を合わせた。ナーダがぎゅっと目を閉じたのを確認して、アスも静かにまぶたを閉じる。

そして次の瞬間、全力を込めて額を打ち付けた。

「つっ……!」

閉じた目の奥に、火花が散る。手加減なしでやったから、お互いに骨まで痺れそうな痛みを感じているだろう。

それでも、アスは無理やりに笑顔を作る。

「気合入った?」

「……い、痛いくらいに」

ナーダの瞳に、涙の膜が張っている。けれど、怯えた目をした少女が涙をこぼすことはなかった。

「うん、ちょっとはいい面になったじゃん」

あえて乱暴な言い方をして、アスはまぶしそうに目を細める。

東の空が、うっすらと青く明け始めていた。

出発の時は、もうすぐだ。

 



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監視の幕間・泣かない悪魔の進化

“なんや、ちょっと目を離した隙にけったいなことになってるやないの。伝染病? ネズミ? くかかっ、ようそんなでたらめ言うもんどす。もう何がなんやら分からんようになっとるくせに”

“うちは最初の方からずっと見よったけど、どうなっとるかいっちょん分からん! ばってん、皆ばり楽しそうばい!”

“ンダガ? グダメイデルヤツ、タンゲオンド”

“そこも含めて見ものというものだろう。それにしても四号選手よ、珍しく静かじゃないか? 覗きは貴君の専売特許じゃないか! いつものごとく、自身の欲望をさらけ出してはどうだ? にやにやと、そしてへらへらと!”

“いやあ、僕にだって見たいものを選ぶ権利はありますからね。こんな茶番劇に入れあげる趣味はないですよ”

“茶番じゃなかよ? どげんなるか分からんけん、ばり面白かもん”

“そうだな、我々の予想を超えていることは確かだ。ユバを失った世界が、まさかこうも無軌道に展開していくとは”

“……そんなに褒めるようなことですかね。型破りに見えているのは、役者も脚本もとんでもなく程度が低いせいだと思いますけど”

“むう、今日の四号ちゃんは辛口たい。なしてそんな厳しゅうすると?”

“別に、思ったことをそのまま言ってるだけなんですけど……。はあ、誰かさんだったらこういうのも適当に茶々を入れながら、うまくまとめてくれるんですかね。どうも上手くいかないや”

“それはそうと、絵も描写もないというのかえって自由で困るな。沈黙が続くと、ここにいないのと変わらないじゃないか。二号選手なんか自分に注目が集まらないことをいいことに、黙々とスクワットに精を出しているぞ”

“アホ言いなや、あてがそんなことするわけあらしまへん。あんさんらがぴいぴいわめくのに、嘴突っ込む気ぃにならんだけどす”

“ヘバ、アン烏サドゴイッタガ?”

“七号ちゃん、何言うとーと? ……こうやってお喋りするのは楽しかばってん、ちょっと物足らんね。うちらが見守るのもいつまでできるか分からんし”

“そもそも、見守る必要なんてあるんかいな。元が出来損ないの世界の、さらに終わり損ないの残りカスやのに。延長戦ゆうのも褒め過ぎやないの、こんなもん”

“ふむ、その言も一理あるな。だとすれば、諸君はどうするつもりだ? このまま滅ぶに任せておくか”

“……せやかてなあ、なんもかんも放り捨てて投げ出すっちゅうのは無責任やろ。陰からこそこそ見てるだけっちゅうのも性に合わへんみたいや。何ができるかは分からへんけど、何かしたらんと気ぃ済まへんねん”

“……ふむ。ほうほう、そうか。君はそうするのか。いやいや、私は手を出すつもりはないよ。だが、君の決意に口を出す気もない。なかなか見上げた根性じゃないか!”

“……あんた、何を虚空にぶつぶつ言うてんの? 見えないお友達でも見えとんどすか?”

“四号ちゃんは辛口やけど、五号ちゃんはご機嫌やね!”

“……っ♪”

“どうでもええけど、あての肩をそないにばしばし叩かんでおくれやす”

“はっはっは! ワタシは今、大いなる伏線を張ったのさ。セリフだけでは何をしてるか分からないだろう? もしかしたら会話の途中で二号選手と熱いハイタッチを交わしているかもしれないし、その会話に異物が紛れ込んでるかもしれない。なるほどな、今回ワタシに与えられているのはこういう役回りらしい!”

“役とか伏線とか、どうでもいいですよ。何もかもつまらないです。とっくの昔に主役が降りた舞台でバカ騒ぎしてるなんて、興ざめでしかありませんよ”

“そっか、うち分かったとよ! 四号ちゃんは退屈しとーんやなか、寂しかとね。大丈夫ばい、ユバちゃんがおらん世界でも楽しかりゃ笑うたっちゃ良かし、寂しかりゃ泣いたっちゃ良かよ! 自分に言い訳せんで良か!”

“寂しい? 僕が? ……くだらない感傷を押し付けるのはやめてくださいよ。僕がユバさんや三号姐さんのことをいつまでも気にしてるとでも?”

“はっはっは、今のセリフ、三号選手に聞かせてやりたいものだな! なかなかどうしてかわいいことを言うじゃないか!”

“ねー!”

“……やだなぁ、六号ちゃんも五号姐さんも、趣味が悪いですよ。悪趣味を通り越して、悪魔じみてますね”

“神も悪魔も、台本に描かれてるだけではただのインクの汚れと大差ないさ。同じ染みなら、自由自在に飛び散っているものを眺めている方が面白いと思わないか?”

“セナダバオナズダ”

“うちはなんでんかんでん楽しみばい! あ、見て! また何か始まっとーよ!”

“まあ、もうしばらくは高みの見物としゃれこましてもらいまひょか。くかかっ”



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剥落の裏の白①

「はぁ……」

アスがこぼしたため息は、すぐに白く凍り付いて目の前を曇らせた。

高山の冬の厳しさは、試す相手を選ばない。雪に覆われた山道は、身体能力に優れた戦士の足でさえ簡単には進めない。寺院に向かう道のりは多少整備されていたとはいえ、大崩落以来手が入っていない状態では獣道と大差なかった。

地図を確認しながら先頭を歩くユウムナが、やわらかな新雪に足をとられる。

「うわっ!?」

「気を付けろ」

短く言ったチカオトルも、次の一歩を踏み出した瞬間に巨体を傾ける。

「おっと、勘弁してくれよ。あんたが落っこちたらさすがに置いていくぞ」

辛うじてチカオトルを支えたメクティコが毒づいた。切り立った断崖を巻く山道を一歩踏み外せば、谷底へ真っ逆さまだ。登って追い付いてくるのを悠長に待っていれば、夜になって死の風が強まってしまう。

この気候では、瘴気によって体力が尽きるのを待つまでもなく、凍り付いてしまいそうだけど。戦士の氷漬けなんて、ユバ様が見たら情けないと嘆くだろうか。

アスはすぐに気が散りそうになるのをこらえて、必死に前を行く仲間たちの背中を追いかける。

分かってはいたことだが、戦いを挟まずに他の戦士と足並みをそろえて進むのはなかなかに辛い。しかも、タクナからよく分からない道具まで預かっているのだから余計に気が散る。無意識のうちに耳を覆う機械に触れると、向こう側からがさがさした声が聞こえた。

 

『急ぐから足が滑るのよ。雪道では歩幅を小さくして、少しずつ進んだ方が結果的に早くなるわ』

ひび割れた声の主は、誰なのか判別しづらい。だが、雪山に慣れた雰囲気から考えれば、きっと高山の祈り人なのだろう。

アスの耳の機械が発する物音に気が付いたのか、ヤアヤが素早く振り返った。

「どうした? 都から何か連絡があったのかい?」

「えーっと、歩幅を小さくして、少しずつ進めって。その方が転びにくいらしいよ」

ヤアヤの顔に浮かんだのは、期待外れ、と言った表情だった。だが、気を取り直したように肩をすくめ、

「先を行く奴らに伝えてくるよ。ついでにユウムナに、あたしらがどこまで来てるのかを聞いてくる。ナタリ、アスを頼んだよ」

分厚いベーゼの毛皮をまといながらも、ヤアヤは身軽に雪道を駆け上っていった。

「ヤアヤ姐、『歩幅を小さく』とか全然聞く気ないだろ。あれで転ばないんだから羨ましいもんだよな」

「本当だよね」

ナタリのぼやきにため息交じりの相槌を打ち、アスは首の周りの毛皮をもう一度強く巻きつけた。

 

 

「ああ、戦士様ったら! そんな走り方じゃ危ないよ!」

シャマーラのじれったそうな声が、広間に響いた。

「ねえ、タクナ。あたし、もう一回喋っていい? いいよね?」

「駄目だ。ひっきりなしに話しかけてたらあいつらの邪魔になるだろう。それに、機械を動かしてる動力にも限りがあるんだ。なるべく温存して使いたい」

タクナが首を横に振ると、シャマーラは不満そうにしながらも引き下がった。

「おい、タクナ……」

怪訝そうな顔で声をかけてくる露呼に、タクナは目だけで黙っていろと伝える。機械に疎い同胞たちはともかく、やはり侵略者はごまかせなかったか。

 

本当のことを言えば、話しかけようが黙って見守ろうが通信機が使う動力はたいして変わらない。そもそもが急ごしらえで作った装置なのだから、考えてもいない故障で通信が途切れることもあるだろう。タクナが心配するべきなのはそこなのだが、不意の故障なんて心配したところでどうしようもない。備えるのは自分たちの心だけで手いっぱいだし、それで十分なのだ。

頻繁に話しかけていたら、唐突に通信が途切れた時に心が乱れるだろう。最初からやり取りができなかった時よりも、中途半端に声を奪われた時の不安はなお大きくなる。だからこそ、予備の手段も用意してはいるのだが。

「じれったいなぁ……あたしが一緒に行ければ、もっと楽に歩けるように先導してあげるのに。こうして機械を通じて見聞きするだけっていうのは、やっぱり辛いよ」

広間の壁には、タクナの手元の機械によって小さな映像が映し出されている。戦士に持たせたのは音をやりとりする機械だけでなく、映像を送る光学機器も持たせていた。こちらに映し出されている画像は不鮮明だし揺れていて見づらいが、少しは一緒に居られる気になる。

シャマーラもなんだかんだと言いながらこの映像が見られる広間から離れようとはしないのは、やはりタクナと同じ気持ちなのだろう。他にも看護や採集の手が空いたものは、皆タクナの周りに集まって小さな機械のぼやけた映像にくぎ付けになっている。

 

祈り人の中で所在なさげに座り込んでいる露呼が、誰にともなく呟いた。

「遠くから見てるだけなのは、いつもの祈りだって同じじゃねえのか。声も届かねえ遠くから見守って、文字通りに祈るだけしかできねえんだから」

「同じじゃないよ。あんたには分からないかもしれないけどね、戦士様は、遠くから見ててもあたしの祈りに気づいてくれるもん」

シャマーラは膝を抱えて唇を尖らせる。普段纏っている毛皮を戦士に譲り渡したせいか、華奢な肩を晒した姿は寒々しく見えた。

「朝の分の食事が終わりました。戦士様たちはどうですか?」

一仕事を終えて広間にやってきた島の民たちを迎えて、タクナは簡単に今までの様子を説明する。

戦士たちは夜明けと同時に都を出て高山を登り始めたのに、一度目の交代の時点ですでに中腹を過ぎている。この分なら、昼前には目的地の寺院にたどり着くだろう。

懸念していた通信機は、どちらも順調に動いている。この上なく好調な道行なのに、タクナはなぜか胸騒ぎを感じていた。

こんな時に限って、幼いころに集落の年寄りに言われた言葉を思い出す。自分の影には、嘘をつけないよ。そいつはじっとお前を見ていて、お前が逃げていることを必ず連れてくるんだから。

「ねえ見て、あれ……なんか変じゃない? ねえタクナ、これ、本当に大丈夫なの?」

シャマーラの声を、タクナは背中で聞いていた。振り返れば、機械が壁に映す映像が嫌でも目に入ってしまう。だが、見なければそれは現実にはならないんじゃないか。

決してそんなことはあり得ないと分かっているのに、しばらくそのまま動けなかった。

 

 

アスが立ち止まると、先を行っていたナタリが振り返った。

「どうした、アス」

「今、鳥の声が聞こえなかった?」

「? この吹雪の中で鳥が飛んでるわけ……」

言葉の途中でナタリも気づいたらしい。いつの間にか、吹き付ける雪風は止んでいた。相変わらずの曇り空だが、風がないだけで寒さはずいぶんましになる。

「……でも、この山に鳥はいないって。その機械からの音を聞き間違えたんじゃねえの」

「……そうかな」

お互いに釈然としないものを感じながら、ナタリとアスは足を進める。吹雪が止んでいるうちに、地図を持ったユウムナたちとの距離を縮めておいた方がいいだろう。

それは向こうも同じ考えだったようで、岩場を一つ越えるとすぐに他の戦士の後ろ姿が見えた。

「ごめん、もしかして待っててくれたの?」

「いや、そうじゃねえ」

しかめ面のまま応じるメクティコの肩を、ナタリがおどけて叩いた。

「何だよ、また迷ったのか? 仕方ねえなあ、ちょっと俺にも見せてみろって」

立ち尽くす戦士の脇をすり抜けて、ナタリはユウムナの手から地図を取り上げる。その動きを止めるものは誰もいなかった。

「……なんだ、もうすぐ目的地じゃん。なんでこんな分かりやすいところでぼうっとしてるんだよ」

「目的地が……寺院が見えたから、だよ」

ユウムナはナタリから地図を奪い返すと、その手で行く先を指し示した。今立っている岩場をもう少し登ったところに高山の寺院はある。

本来ならば祭司たちが灯す火が目印になるのだが、大崩落以降訪れる者を失った今は、ルッタとマイヤが描いてくれた地図だけが頼りだった。

 

しかし、こうして近づいてみれば、寺院の在処は灯火を確認するまでもなく明らかだった。

厳かな石造りの建物に続く雪に閉ざされた道に、途中から緑色の絨毯が敷かれている。寺院に近づけば近づくほど芽吹いた草花は増え、まるでそこにだけ春が来たように伸び伸びと繫茂している。

「なんだよ、あれ……!」

アスは思わず、分厚い手袋を外して自分の眼をこする。だが、吹雪も霧もない尾根から見上げる景色は、夢でもなければ見間違えようもない。さらに駄目押しをするように小鳥の群れが羽ばたいていくのが見えた。鮮やかな色の鳥は寒さに弱いから、高山にいるはずがないのに。

「やっぱりあれ、私にだけ見えてる幻とかじゃないよねー……」

髪飾りの横に付けた光学機器(カメラ)の位置を直しながら、ユウムナは苦笑いする。

アスがつけた耳の装置からも、祈り人たちの混乱する声が聞こえていた。どうにかその声を聞き取ろうと、アスは目をつぶって耳を澄ます。装置を抑える自分の手が震えているのは、手袋を外したせいだと思い込むことにした。

 



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剥落の裏の白②

「気味が悪いな」

ケトが解体用の小刀をひらめかせ、道を塞いでいる蔓草を切り払った。柔らかな草が茂る地面はずいぶん歩きやすいが、先ほどの雪道を思い返してどうしても頭が混乱する。

思わず目を落とすと、アスの足元を大きなトカゲが走っていった。

『渓谷のトカゲですね。この辺りではまず見かけない種類です。それに、私が以前見かけたものよりずいぶん大きい気がします。戦士様、右手の植物に顔を向けていただけますか?』

都から通信機を通して呼びかけているのは、ディンシャだろうか。落ち着いた口調だが、学者としての興味が隠しきれていない。

『ああ、やはり……。どうも寺院の周囲では、動植物が巨大化して成長しているようです。大変興味深いので、それらの標本を持ち帰ってきてもらいたいものです』

ため息交じりに状況を分析するディンシャに、別の声が割って入った。

『そんな話してる場合じゃないと思うよぉ。侵略者が捕まえてた例のネズミを解体してみたけど、やっぱりこいつも妙に体がでかいね。ぶくぶく太っているのとは違って、骨格も含めて全体的に大きいんだ。キヒヒ、もしかしたらそのネズミもトカゲも、私たちが知っているのとは別の種類なのかもしれないねぇ。戦士に言うのもおこがましいけど、十分に気を付けて進んでくれよぉ』

機械を通した声でも、その笑い方でチュナだと分かる。アスたちの道行は、思ったよりも多くの祈り人に見守られているようだ。

「うん、分かった」

頷いたところで、アスたちの声は向こうには届かないということを思い出す。

一方的に見られ、声だけが届けられるというのは不便だし、それ以上に気味が悪い。普段の狩りで祈り人に見守られているのとは、やはり違う。何が、というのは言葉にはできないが、とにかく違うのだ。

 

「都の奴らはなんだって?」

アスの独り言――気分としては相槌を打ったつもりだが――を聞きつけて、メクティコが振り返った。ディンシャとチュナからの分析を伝えると、メクティコは長い前髪をかき上げて鼻を鳴らす。

「ふん、そりゃあ役に立ちそうなご助言だ。こいつらが普通のトカゲよりでかいなんて、言われるまでこれっぽっちも気付かなかったぜ。全く俺の眼は節穴もいいところだな」

皮肉っぽいつぶやきに、アスは顔をしかめる。

「そんな言い方ってないだろ。ディンシャだってチュナだって、僕らのことを心配してくれてるんだから」

「心配で奴らの腹が膨れるなら、いくらでもしてほしいもんだがな。俺たちの行動に嘴を突っ込んでくる間は、採集も看病もしていないってことじゃねえか。こっちは俺たちに任せて、あいつらは都を守るって決めたはずだろう? お互いの仕事を果たさなくちゃ、話にならねえ」

冷たく言い捨てると、メクティコは歩調を早めて先頭を行くケトに並んだ。

 

「メクティコちゃん、苛ついてるねー」

追い抜かれたユウムナが苦笑いする。寺院はもう目の前だから、地図を見る必要はもうないらしい。

「メクティコちゃんが仲良くしてた子は、だいたい眠ったきりになってるから。キャキャちゃんとかシャウキちゃんとか、小さい子がご飯もまともに食べれないんだから心配するのも無理ないよねー。もしかしたら、あたしたちの中で一番焦ってるのかも」

「そういうユウムナは落ち着いてるね」

「あたしはほら、戦うしかできないからさー。ごちゃごちゃ考えるのも得意じゃないし?」

そうは言っても、ユウムナだって都の祈り人を気にかけていないわけではないと思う。だが、このネズミ退治に出発してからのユウムナは、都での暗い顔が嘘のように明るく振る舞っている。肝が据わっていると言えば聞こえがいいのだが、アスはその態度に何とはなしに違和感を持っていた。

「……迷いがないな」

二人の話を背中で聞いていたのか、メクティコに追い抜かれたケトがつぶやいた。

「え? ケトちゃん、何か悩みでもあるの? 珍しいねー、いつも即断即決なのに」

「いや、そういうわけでは……」

「じゃあどういうわけ? もしかして、道の話? 寺院はもうすぐじゃん。迷う方が難しいよー?」

ユウムナが無邪気にケトに絡む様子は、普段侵略者を相手にしている時と何ら変わりはない。なのに、アスは言いようのない胸騒ぎを感じていた。

こちらの声が都に聞こえないのは、結果的には良かったのかもしれない。もしアスの口元に通信機がつけられていたら、不安に押し出されるため息が祈り人に届いてしまっていただろうから。

 

 

道中に見つけた生物は、もちろんトカゲだけではない。例の白ネズミの姿も、いたるところに見かけている。そのどれもが同じ方向へ、すなわち寺院へ向かっていた。

ここまでは、タクナが追跡したネズミの行動とも一致するところだった。雨風が防げるところを住処にしているのだろう、というのがディンシャの意見だった。

つまり、寺院の中に足を踏み入れればネズミの大群と顔を合わせる可能性がある。

「そうだったら話は早いがな。一匹一匹探して仕留めていくよりも、大元を叩いた方が手がかからねえ」

背の高い木に登って身を隠しながら、戦士たちは寺院を見下ろしていた。青灰色の石を積み上げて造られた寺院は、松明に照らされていれば荘厳な雰囲気を醸していただろう。だが今は、蔓草や枝に覆われて、どことなく窮屈そうな印象だ。間を置かずに出入りするネズミたちは、寺院の威厳なんてかけらも気にしていないだろうが。

「とはいえ、あまりに数が多いようなら手段を考えなくてはならないだろう。場合によっては罠を用いた方がいいかもしれない」

「寺院に傷をつけたらアウララたちがきいきい言いそうだけどなぁ」

「建物なんて、都がもとに戻ればいくらでも直せる。今はネズミどもを始末するのが優先だろうが」

緑の葉の間から顔を出し、チカオトルとナタリが意見を言い合っている。メクティコが二人にいちいち突っかかるのはいつも通りの光景だ。しかし、こういう場に率先して口を出すもう一人が、今は黙り込んでいる。

「……」

寺院に到着してから、ヤアヤはずっとこの調子だ。眉間にしわを寄せたまま、顎に手を当てて難しい顔をしている。

アスはわいわいと議論をかわす男連中に背を向け、幹を伝ってヤアヤの隣へ行く。

 

「ねえヤアヤ姐、どうしたの? 」

「……アス。あんたさ、渓谷の祈り人とつるんでなかったか? ……ああ、あんたと仲がいいのは占い師の嬢ちゃんか。じゃあ分からないかもしれないな」

「な、なんだよ。僕がナーダと仲良かったらどうだって言うの?」

「狩りの話だよ。あんた、侵略者じゃなくて獣を狩ったことはあるか?」

アスの返事を待たず、ヤアヤは続ける。

「あたしはある。ダダやリーザに混じって、渓谷や草原で野生の獣を追っかけて、弓や罠で仕留めるんだ。動物ってのは頭が良くてな、こっちも全力で知恵を絞らないと勝負にならない。だから、狩人ってのはありとあらゆる物事を観察するんだ。獲物の行動、癖、どこで餌を喰ってどこで眠るのか。それを知ってこそ、飛び道具も罠も意味を持つんだ」

そこで言葉を切って、ヤアヤはアスに険しい視線を向けた。

「だからあたしも奴らの足跡なんかを観察していたんだが……なあアス、妙だと思わないかい? どうして寺院の中にあんなにたくさんネズミが入っていくのに、獣の臭いがしないんだ?」

「臭い?」

 

アスが首を傾げたその時、空気が動く音がした。

その気配を察知したのは、戦士の勘、としか言いようがない。

お互いに合図がなくとも、七人の戦士は示し合わせたように息をひそめ、瞬時に木の陰に隠れていた。

次の瞬間、大地が大きく揺れる。アスがいたところから見えたのは、そいつのほんの一部だった。

地を這う巨体。ぬめるような光沢を放つ、白銀の鱗。そして、感情の宿らない、細長い瞳孔。

最も近い言葉で表すなら、それは蛇だった。ただし、その規格外な大きさは、生き物というよりも山や川など、自然そのものに近いように思える。

巨大な蛇は悠々と寺院に近づくと、大きく口を開ける。その中身も不気味なまでに白く、頭部の両側にある瞳だけが血のように紅い。

そして開いた口の中に、誘い込まれるようにネズミが駆け込んでいった。寺院の中から、そして周囲の森から、信じられないほどに多くのネズミが現れ、自ら蛇に飲み込まれていく。

メクティコが漏らした呻きは、おそらく意図してのものではない。意味がないと分かってはいても、口に出さずはいられない。それは間違いなく、戦士たちの総意だった。

「クソ、迂闊だった……! 俺は間抜けだ、何も見えてない節穴野郎だ! どうしてこのネズミどもに、親玉がいるって考えなかったんだ……!」

蛇は真っ赤な瞳で虚空を見たまま、さらに口を開け、別のネズミの群れを飲み込んでいた。

 



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剥落の裏の白③

戦士の付けた機器を通じて巨大な蛇の映像が送られてきてから、広間は騒然としていた。

「蛇? 高山に蛇なんていたのか?」「あれは尋常のものではありません。おそらくは洞窟から来た魔物が変異したものかと」「だが、形が同じなら弱点も同じはずでは? おい狩人、蛇はどうやって狩るのだ」「あんな食い物にもならない細長い獣なんて狩るかよ、気持ち悪い。それを言うなら、にょろにょろに詳しい奴はあんたの身内にいるんじゃねえのか?」「……ジョカがいれば、何か助言をくれたかもしれないのに……」

しかし、そのほとんどは混乱と恐怖を形にしただけで、未知の存在に立ち向かう戦士に伝えるべきことではない。

 

タクナは眉の間を抑えながら、何度目か分からない舌打ちを漏らす。

(くそっ、こんなことなら光学機器(カメラ)なんか持たせるんじゃなかったぜ……)

戦士の道行きを見守り、時に助言を届けていたはずの祈り人たちは、今や混乱状態だ。わずかでも都で待つ辛さを軽減できればと持たせた通信機が、かえって皆の不安を煽ってしまっている。

いっそ何も知らなければ戦士たちを心の底から信じて祈ることもできたのに、異様な敵の姿をこの目で見てしまった今では、戦士たちの無事を信じることさえできそうにない。

何かがあったときに備えて、想定外のことが起こった時のために。安全を祈ったはずの言葉は、タクナ自身の不安の裏返しだった。そして今、実際に『想定外』が現れた段になって、タクナはどんなに目を逸らしても恐れからは逃れられないことを思い知った。

(あんなでかい化け物、どう考えても勝てるわけがない……! 侵略者の巨人兵だって一口で呑んじまいそうな大きさじゃねえか……戦士がいくら強いと言っても、あれじゃ勝負にもなりやしねえ……)

 

だが、タクナは顔を上げる。ただしそれは立ち向かう敵の姿を見定めるためではなく、この混乱を多少なりとも聞いているはずの戦士に激励を飛ばすためでもない。

タクナの瞳は、自らと同じように考えている人間を探すために動いていた。そして映像を見守る群衆からいくぶん離れたところで、その少女は迷う人々の視線を待ち構えていた。

「……聞こえるかしら、戦士様?」

よく通るマルキアの声に、巨大な蛇に釘付けにされていた祈り人たちが振り向く。あるものは不安げに、あるものは縋るような目で。

「ウルを集める鼠たちの住処。それを食らう化け物の存在。その二つが明らかになっただけで、今回の探索の目的は十分に果たされたわ。だから今すぐ都に戻って……」

戻って、無事を確かめさせてくれ。それこそが、タクナの心が求めていた言葉だった。

しかし少女の甘い言葉を、獣のような叫びが引き裂いた。

「ふざけんな! そんなの認めてたまるか!」

呆然とマルキアを見つめていたタクナの手から、通信機が奪われる。イメラは瘦せこけた顔の中で二つの輝きだけを爛々と光らせていた。

「そいつがネズミどもの親玉なんだろ!? 戦士様、そいつをぶっ殺して、腹かっさばいて、生き血を絞り尽くして大地に返してくれよ! そうすれば全部終わるんだ、皆目を覚ますんだ! そうだろ!?」

 

戸惑う人々の中にも、イメラの切羽詰まった慟哭に頷くものは確かにいた。

言葉を途中で遮られたマルキアは、さして困った様子も見せずに肩を竦める。

「……私がいくら説得したところで、聞き入れてくださるつもりはなさそうね」

「当たり前だ! なんで敵が目の前にいるのにおめおめ逃げ帰らなきゃなんねえんだ!」

「この都の未来のためよ。勝ち目がない戦いで戦士を失うなんて愚の骨頂……あら、ごめんなさい。足し引きも分からない人にこんなことを言っても分かるはずがないわね」

「……手下頼みの森のガキが調子に乗るなよ。てめえの頭をかち割って中身をお仲間の朝ごはんにしてやってもいいんだぜ」

背後に控える女が前に出ようとするのを。マルキアは目の動きだけで制した。

 

「これでも私はね、あなた方とも仲良くやっていきたいと思っているのよ? だから、この場にいるもので決を採りましょうか。戦士たちに一時撤退を伝えるべきだと思うものは挙手を」

マルキアはたっぷりと時間をかけて広間を見回した。その結果は、誰の目にも明らかだった。

「……そう。分かったわ。これがこの都の総意なら、私だって従いますとも」

数十名が集まる広間の中で、挙げられた手は半数にも及ばなかった。

「……本当だろうな? お得意の口裏合わせなんかに訴えるつもりじゃないだろうな」

「いいえ。でも、しっかりと覚えておくといいわ。今手を挙げていた者の顔ぶれを。手の数ではなく、その持ち主たちがどんな力を持つものだったかを……」

イメラははっとした顔で手を下げる人々を見る。きまり悪そうに、あるいは堂々とした顔つきで手を下ろすのは、渓谷の祈禱師と星読みの女、それに高山の占い師。

超常の力を持つものたちの意見を、自分たちが退けた。その事実は、戦士たちに巨大な蛇との戦いを強いると決めた祈り人たちの団結感を挫くには十分だった。

「……それでは、私は病人たちの看病に戻るわ。何かあったら報告してちょうだい」

満足そうに微笑むと、マルキアは悠々と広間を去っていった。

 

 

集落へと続く廊下に、二人分の足音が響く。

マルキアの後に付くクラウレは、苛々と爪を噛んでいた。

「マルキア様のお考えに背くとは許せませんね、あの愚民どもめ。私が何人か脅して、意見を変えさせましょうか」

「いいのよ。あえて手を挙げにくいように誘導したのだから、あの結果は当然のこと。そもそも、私の狙いはこの場を支配することではないもの。極端なことを言えば、戦士が生きて帰ってこまいが私は構わないのだから」

マルキアは振り返ることすらせずに応じる。

「ラルクとかいう祈禱師と気弱そうな星読みの娘は必ず乗ってくると思っていたけど……他にも占い師たちが撤退派だと表明してくれたのは僥倖だったわ。元から未知の敵の出現に混乱していたのに、あの雰囲気では狩人たちもろくな助言はできないでしょう。あとは戦士たちの頑張り次第だけど……果たしてあの化け物相手に、どこまで牙を立てられるかしらね?」

「……マルキア様は、戦士たちがこのまま死ねばいいと思っているのですか?」

わずかに低まったクラウレの言葉を、マルキアは朗らかと言ってもいいくらいの温度で笑い飛ばす。

「まさか。でも、このままでは最悪の場合も想定しなくてはいけないかもしれないわね。不慮の事態を想定しておけば、混乱のなかで主導権を握ることは容易だわ……」

嘯く少女の口元は、笑みの形に歪んでいた。クラウレは背の産毛が炙られるような感覚を覚える。しかし同時に、自らの唇も間違いなく喜悦を表しているのだと知っていた。

 



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剝落の裏の白④

「……で、都の奴らはなんて言ってるんだ」

尋ねる形にはなっているが、メクティコはアスの方を向こうとはしていない。

生い茂る木々に隠れるようにして、アスたちは寺院に近づいていた。その道中で見かけたネズミは、学者連中でさえ数えるのが馬鹿らしくなりそうな数だった。小さい獣の鳴き声とうごめく音は雨だれのように響き、戦士の神経をますます苛立たせている。

「マルキアがなんかごちゃごちゃ言ってたけど、このまま戦えってことで決まったみたいだよ」

「ふん、んなの分かり切ってるだろうが」

吐き捨てるメクティコの瞳は、寺院の背にある山脈を見据えてぎらぎらと光っている。正確には、山の土手腹に空いた洞窟、その奥に潜む大蛇を見ているのだろうが。

「我々が聞きたいのは、あの蛇に一撃食らわせる方法……」

「だよねー」

チカオトルのつぶやきをユウムナが受け継ぐ。その小さな指は、矢羽根を整えては矢筒に戻すというだけの行為を何度も繰り返している。

 

「単純に考えてさー、いつも通りみんなで一気に攻めればいいんじゃないのー?」

「一気に、ねえ。口で言うのは簡単だが、どこまで通用するのかは疑問じゃないかい?」

ヤアヤは槍を一振りすると、穂先を蛇が消えた岩穴へと向けた。

「遠目から見てる限りじゃ、あの鱗は相当に固そうだ。せめて腹か頭を狙いたいが、そのためにはあいつの動きを止めなくちゃいけないだろう? でも、半端にちょっかいをかけるだけじゃ遊び相手にすらならないだろうな。尻尾の一振りであたしら皆谷底に真っ逆さまなんて、笑えないね」

「じゃあ、頭を使って倒すのはどうだよ。獣を狩るのと同じように、罠をかけるんだ」

ナタリの案は、やはりヤアヤに否定された。

「駄目だね。どうやって落とし穴を用意するんだい? これからあたしらだけで昼も夜もなく穴掘りをするのか? あの馬鹿でかい体がすっぽりと収まるくらいの大穴を掘ったら、あたしらの足場さえなくなっちまいそうだが」

「じゃあ、兵糧攻めはどうかな? あいつがネズミを食うなら、洞窟に入っていくネズミを狙って片っ端から狩ればお腹減って暴れる元気もなくなるでしょ。ネズミを減らすっていう本来の目的も達せるじゃん」

「……それでは時間がかかりすぎる」

アスの提案は、暗い顔のケトに一蹴された。

わざわざ議論するまでもなく、分かり切っていた答えだ。だが、あえて言葉にすることでお互いの認識を共有していく。自分たちには前進するしか道はないのだということを刻み付けるために。

 

「……アス」

それまで沈黙を保っていたメクティコが、静かに名前を呼んだ。いつもとは違う雰囲気に首をかしげながらそちらを向くと、メクティコは手ぶりで通信機を外せと伝えてきた。

怪訝に思いながらも、とりあえずその指示に従って通信機を服の中にしまう。これで、都とのやり取りは一時的に不通になる。

「どうしたのさ、メクティコ」

「ちょっと都の奴らに……特に高山の祈り人には、聞かれたくない案を思いついたんだ。それを話す前に確かめたいんだが……おい、ユウムナ」

「なにー?」

「あのネズミはウルを集めて蛇に運んでる。それで間違いないんだな?」

「そうだと思うよ。あの洞窟の中、ウルが集まってすごいことになってるのが分かるもん。ネズミがいっぱいいる寺院もなかなかだけど、洞窟の中はたぶん比べ物にならないくらいの濃度だよー」

「つまりあいつは、ネズミの肉や皮じゃなくてウルそのものを餌にしてるってことだ」

メクティコはそこで言葉を切り、確認をとるように戦士の面々を見回した。子供相手に星見を指南していたときのナーダを、アスは脈絡なく思い出していた。

 

「落とし穴はともかく、ナタリが言った罠ってのは悪くない考えだ……洞窟からクソ蛇を誘い出して、頭を叩き潰す。化け物とはいえ、急所をやられたらさすがにくたばるだろう」

「待ってよ、誘い出すってどうやって?」

「決まってるだろ、餌だ。あいつがウルに寄ってくるなら、それをちらつかせてやればいい。な、アス」

「え、僕?」

「当たり前だろ。お前の術が一番ウルの力を分かりやすく使ってるんだから」

メクティコはユウムナの背から勝手に矢を奪うと、地面にがりがりと線を引き始める。卵から長い管が生えたような気味の悪い絵は、どうやらあの巨大な蛇を表しているらしい。

「いいか、あいつの住処は洞窟だ。あの中は瘴気が濃い上に視界も悪いから、そこで勝負を仕掛けても勝ち目がない。だが、ウルに寄ってくる習性があるなら話は別だ。あの大寺院でアスに術を使わせて、まずは奴をおびきだす。チカオトルの旦那とナタリは、寺院の尖塔の足元で待機してくれ。そこで俺が合図を出したら、塔を思い切りぶち折れ」

メクティコは地面に塔の絵を描き、その先端から蛇の頭に向けて矢印を引っ張る。

名前を出されたナタリは、大げさに目を見開いて見せた。

「おいおい、いいのかよ。あの寺院を壊したら高山の姉ちゃんたちが黙ってねーと思うけど」

「……必要な犠牲だ。都が復興すれば、また再建の機も訪れよう」

チカオトルが険しい顔をしながら頷いた。メクティコは賛同者に気をよくした様子も見せず、淡々と続ける。

 

「寺院の作りは頑丈だが、あんたら二人の馬鹿力があればどうにかなるだろう。ここ最近の鬱憤を晴らすつもりで、思い切りぶちかませ」

「そりゃあいいな。本当、このネズミどものせいで色々溜まってるもんな……いや、あんまり発散しすぎないようにしないとな! 俺の戦いは契りの神殿が本番だから!」

ナタリは顎を上げてからからと笑った。順調に話が進んでいくのを見守りながら、アスはこの作戦の要が自分自身であることを思い出し、慌てて割り込む。

「ちょっと待ってよ、ウルで蛇をおびき出せたとしてもさ、蛇は僕にまっすぐ向かってくるんじゃないの? そこを狙って塔を倒すなんてこと、本当にできるわけ?」

「なるほど、そこであたしらが出てくるってわけか」

もはや何がなんだか分からないくらいぐちゃぐちゃに書き込まれた線を覗き込み、ヤアヤが腕を組む。

「そうだ。ヤアヤとケトは蛇の足止めをしながら、アスの身を守れ」

「蛇に足はないけどね」

愉快そうに混ぜっ返すヤアヤに、メクティコは思い切り顔をしかめる。

「……寺院を巣にしてるネズミがたかってくるなら、ついでにそいつらも血祭りにあげろ。ユウムナは俺と一緒に行動だ。全体の様子を見つつ、蛇がこっちの狙い通りに動くよう誘導する」

「簡単に言ってくれるねー。ま、いいけどさ」

勝気に唇を吊り上げ、ユウムナはメクティコの手から矢を取り戻した。立ち上がって蛇の絵を足で消し、メクティコはアスの目の前に立ちはだかる。

「どうだ、アス。都で大口を叩いた威勢はもう消えちまったか? 蛇に噛まれるのが怖いなら、側で俺が手を握ってやっててもいいぜ」

「……はっ、冗談きついよ」

ここまでお膳立てを整えられて、嫌だと言えるものがいるだろうか。いや、ありえない。

アスが考えるべきことは、思っていた以上に単純だった。巨大な敵、果たすべき役割、そして信頼できる仲間たち。この戦いに血がたぎらないなら、それはもはや戦士ではない。

 



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零落の道の人①

ユバの戦士は、戦う時に策を講じることはない。大概の相手には小手先の工夫など必要ないし、頭を使わなければならないときはその手のことが得意な祈り人が考えるからだ。

弓は遠くから矢をかけ、槌は近くでぶん殴るといった程度の役割分担はある。だが、それだけだ。

だからこそ、大蛇を倒すにあたってメクティコが考えた案は極めて単純なもので、それ故にアスたちの理解も早かった。急ごしらえな作戦ではあるが、きっと上手くいくだろうと思っていた。

そう。思っていたのだ。

 

編み込んだ髪を振り乱しながら、アスは走る。纏っていたベーゼの毛皮は、いつの間にかどこかに落としてしまった。そんなことに気を取られる暇もなく、アスがさっきまで足を置いていた地面が大きくえぐれる。

「こっちだよ、デカブツ!」

背後から聞こえるヤアヤの声に振り向く余裕はない。だが、迫る気配がわずかに遠ざかったのが分かる。

「走れ、アス! だいぶ近くまで来てるぞ!」

「分かってる……っ!」

先導するケトの鋭いまなざしに意地で応えて、必死で足を前に動かす。二人の助けによってようやく稼いだ少しの距離は、この状況を打開する勝機になるとはとても思えなかった。

 

 

アスの術で集めたウルを餌に誘い出し、チカオトルたちが寺院の尖塔を倒す。その一撃で、蛇退治を終わらせる。

メクティコが立てたこの作戦には、大きく二つの誤算があった。

最初の誤算は、蛇の素早さだった。

アスが術を放つには、呪文を唱えてウルの力をためる必要がある。それを分かっていたからこそ、ケトとヤアヤが護衛に付いていたのだが。

「えーっと、じゃあ始めるね」

アスは杖を目の前に構え、意識を集中させる。

都の未来がかかってるのだから、慎重にやろう。幸いなことに、ネズミが蓄えてくれたウルが漂っているのを感じる。この分なら、術が小さすぎて餌にならないということはなさそうだ。

深く息を吸い込むのに合わせて、周囲のウルを集める。

(……よし、良い調子だ。このまま、もう少し大きく……)

「おい待て。何か動かなかったか?」

ケトが気づいたその時には、白銀の大蛇はすでに住処の岩穴から這い出していた。

何かを確かめるように二、三度舌を出し入れすると、感情の感じられない瞳を寺院に向ける。

次の瞬間、巨体がくねりながら、猛然と寺院に向かって突進し始めた。

 

「……っ!? 早すぎるだろ……!」

ナタリとチカオトルは、もちろん尖塔の根元に待機していた。メクティコの合図が出たら、塔を倒して蛇の頭にぶつけるために。

しかし、あの速度を見ればそんな器用な調節ができそうにないのは明らかだった。

「……アス、いったん術を止めろ! 距離を取れ!」

一直線に向かってくる蛇を見て、メクティコがそう判断を下したのは自然なことだった。だが、戦略とは目の前の危機よりも最終的な目的を達成することを主眼におくものだ。戦士たちは戦闘においては優れているものの、戦略については素人同然だった。

メクティコの言葉に従い、アスはウルの収集を止める。警戒態勢を取っていたケトがいち早く飛び出し、群がるネズミを相手していたヤアヤが出遅れた。三人の隊列は、動き出しから崩れていた。

 

蛇は獲物が逃げ出したのを察知すると進路を変え、身体全体を大きくしならせる。それに合わせて尾が大きく振れたのが、ナタリとチカオトルが立つ尖塔の根元に当たった。たったそれだけで傾いでしまう尖塔のもろさが、二つ目の誤算だった。

「おい、どうすんだよ! こっちに倒れたら意味ないだろ!」

「止めろ! このままでは寺院の本堂が潰れる……!」

計算外の事態でも、チカオトルとナタリの動きは素早かった。ナタリが傾いた尖塔の中ほどまで一息に飛び上がり、反対方向に思い切り蹴りつける。それと同時にチカオトルが槌を支えにすることで、どうにか塔は本堂をそれて倒れた。

だが、それだけだ。作戦の要とも言える攻撃手段は、何の役目も果たさないうちに失われてしまった。

 

「っ……、作戦変更だ! このままアスを追わせて、崖に誘導するぞ!」

「無理だよっ! 体当たりをかわすので精いっぱいで、方向転換なんかできっこない!」

ユウムナの切羽詰まった叫びは事実だった。前もって立てていた作戦は、すでに瓦解している。それでも、考え直す暇なんてなかった。もし一瞬でも足を止めれば、アスは大蛇の口の中に迎え入れられるだろう。

通信機器は、どうにかまだ耳に付いたままのようだ。だが、そこから聞こえるざわめきが祈り人の声なのか、それとも自分の血が激しく流れる音なのかは分からない。

アスは前もろくに見ないまま、ただ走る。今自分は、寺院を左手にして走っているはずだ。崖に向かうには、どこかで右に曲がる必要がある。

(どうにか曲がったところで……っ!)

自分は急停止して、蛇だけを崖に突っ込ませるなんて芸当はできそうにない。やるとするなら、自分も大蛇と道連れだ。

そうしろと言われたなら、命令に従うしかない。だが、今の都には絶対的な主導者はいないのだ。星も見えない薄闇の中で、自分たちが自分たちを導くしかない。

ユバ様がいれば、こんなことにはならなかったのに。

追い詰められた時こそ、見ないふりをしていた弱い心が喋り出してしまう。

 

「黙れっ……僕は、僕は……!」

巨大な蛇に追われながら、あるいは追いながら、冷静でいられた者はいなかったのだろう。アスたち三人は迫りくる巨体から逃げることしか考えておらず、メクティコとユウムナ、ナタリとチカオトルはどうにか頭に追いつこうと無我夢中で走っていた。

だから、蛇の尾のことなど、誰も見ていなかったのだ。その長く白い鞭は、いつの間にか一同を射程に捕らえていた。

「……止まった!?」

蛇の異変に気付いたのは、もっとも後ろを走っていたナタリだった。白銀の鱗に覆われた頭を呆然と見上げていると、蛇はお辞儀をするようにゆっくりと頭を下げた。

「なんだこれ……ぐあっ!」

その衝撃は、思いもよらない方向からやってきた。

下げた頭を支点にして、自由になった尾を振り回す。大蛇が行ったのは、ただそれだけだ。規格外だったのは、やはりその体の大きさだ。後続四人が、一息で横凪ぎに振り払われる。それでも勢いは止まらず、気づかず走り続けていたアスたち三人をも鞭の一撃が襲う。

「ぐ、うっ……!?」

全力疾走していたものだから、受け身をとれるはずもなかった。アスは自分の身体が宙に浮かぶのを感じる。

まるで、激痛の中で横向きに落ちているようだった。

 



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零落の道の人②

アスの目の前を、一匹の蝶が横切った。金色に漆黒の網目模様を重ねた翅が、不規則な動きで宙を泳ぐ。

伸ばした指先は寸前でひらりとかわされ、光の軌跡だけを辿った。

「戦士様、どうかしましたか?」

アスの動きに気づいたのだろうか。前を歩いていたナーダが振り返って、首を傾げた。その腕の中には、白い花がいっぱいに抱えられている。

柔らかな匂いを嗅いだ瞬間、アスはなんだか泣き出したいような気持になった。

「ううん……ちょうちょがいたんだ。捕まえようと思ったけど、逃げられちゃった」

「ふふ、ずいぶん運がいい蝶ですね」

華奢な肩を揺らして、ナーダが笑う。腕の中の花束もふわふわと揺れて、甘い香りがさらに強くなった。

アスはわざと唇を尖らせると、ナーダの腰に抱きついた。

「なんだよ、その言い方。ちょっと近くでよく見ようとしただけで、乱暴に掴もうとはしてないのに」

「知ってますよ。私が言いたいのはそういうことではなく……」

「じゃあ何?」

ふざけて抱きつく力をぎゅっと強める。お互いの肌の間に薄い布を隔てているのがもどかしくて、けれど衣擦れの感覚が心地よい。

「……戦士様は乱暴者ではありませんが、甘えん坊ですから。一度捕まえたら放してあげないでしょう?」

「それは……確かに、そうかも」

背中に頬をくっつけると、ナーダの笑い声が肌でも感じられる。くすぐるように鼻先をこすりつけると、ナーダはおかしそうに身をよじった。その動きにつられて、抱えた花がはらりと落ちる。

「あ、そうだ。ナーダ、その花もらっていい?」

「はい?」

返事を待たず、アスは花を拾い上げた。そのまま、いつか見た手順を思い出しながら茎を折り、複雑な形を作っていく。自慢じゃないが、手先は器用な方なのだ。

余った茎を折り込むようにして編み上げれば、一輪挿しの髪飾りの出来上がりだ。新たな花を摘むためにしゃがみこんでるナーダの背後に立ち、アスは白い飾りを挿す。

そうっと、気づかれないように。でも、本当は気づいてほしい。

「……あ」

手を放そうとした瞬間、またあの蝶が飛ぶのが見えた。黄金の鱗粉が降り注いで、目がくらんでしまう。

待って。まだ、もう少し側にいてほしいのに。

 

 

「……ッ!」

アスを幸福なまどろみから引きずり出したのは、全身の激しい痛みだった。

どこもかしこも同時に殴りつけられてるみたいで、一か所に意識を向けるのが難しい。

あまりに大きな衝撃に麻痺していた感覚が、一度に戻ってきたようだ。

アスたちが巨大な蛇の尾に打ちのめされたのは間違いなく現実だった。この痛みのおかげで、それだけは疑いようもない。

「僕、寝てたのか……? いつから……いや、どのくらい……?」

アスは腕をついてどうにか身を起こす。そこで初めて、辺りがぼんやりと明るいことに気が付いた。

太陽や星が放つような強い光ではない。だが、慣れれば十分に周囲を見渡せる程度には明るい。光の源は、アスが這いつくばる地面から生える草だった。

その草の背丈は、ちょうど子供の膝くらいだ。長い茎が岩からまっすぐ伸びているだけで、葉やつぼみのような物は見当たらない。今までに見たどんな植物とも似ておらず、強いて言えば先細りの蚯蚓が立ち上がったような見た目をしている。草の先端に指で触れると、ほんのりと温かかった。

「揺れてる……風もないのに……」

冷たく固い岩盤の上に、白く柔らかな草原が広がっている。まだ夢の中にいるような光景で、頭が上手く回らない。

 

「なんで……? 洞窟の中に、別の世界がある……?」

「違うよ。これはただの草だ」

痛みに顔をしかめながら、声がした方向に首を向ける。岩壁に背を預けて白い光をぼんやりと見下ろしていたのは、ヤアヤだった。

その足元には、ナタリとチカオトルがぐったりと座り込んでいる。

思わず二人に駆け寄ろうとしたところで、先回りして釘を刺された。

「気ぃ失ってるだけだよ、さっきまでのあんたと同じだ。だからあんたも大人しくしてな」

「じゃあ、他の三人は? まさか、あの蛇に……」

「勝手に殺すんじゃねえよ、縁起でもねえ」

メクティコのうめき声は、やはり地面の低いところから聞こえた。

光る白い草に埋もれるようにして、メクティコは横たわっている。喋ることさえ億劫だと言いたげな雰囲気だった。

「あたしとアスとケト……後に飛ばされた方が、まだ尻尾の威力が落ちてたらしい。ついでに、飛ばされた方向も良かったんだな。運よくこの草が生えたところにぶつかって、大きな怪我はしないで済んだ」

ということは、四人はもっと重傷だったのか? ヤアヤはゆっくりと瞬きをしながら、アスの疑問に答える。

「メクティコは足をやっちまった。どうにかあるもんで添え木はしたが、走るのは無理だろう。ナタリとチカオトルは見ての通りだ。息は止まってないが、目を覚まさない。ユウムナは……」

「……終わったぞ」

 

言葉の続きを引き受けるように、ケトが暗がりから現れた。だらりと下がった手が持つ剣からは、真っ赤な血が滴っている。

「ケト……何、怪我したの……?」

違うと分かっていながらも、問いかけずにはいられない。しかしケトは肯定も否定もせずに目を逸らした。その視線の先から、小柄な人影が現れる。

「いやー、まいっちゃうよ。これじゃあ戦士なんて名乗れないねー」

ユウムナは、場違いなくらいに明るく笑っていた。まるで、うっかり転んでしまったところを見られただけみたいに。腕の付け根からぽたぽたと滴る血なんて、まったく知らないみたいに。

「おっとっと……」

アスの考えが伝わったように、ユウムナが何もないところでよろけた。しかしそれは、当たり前のことだろう。体の一部を失えば、重心も変わる。

ユウムナは体勢を立て直せないまま、体をぐらりと傾がせる。

だが、ケトが素早く腕を伸ばしてユウムナの肩を支えた。

「大丈夫か?」

言った後で、ケトは失言に気づいてうつむいた。

「あはは、ごめんごめん。手で支えようとしたのに、なくなっちゃったの忘れてたよー」

その笑顔には少しの曇りもない。だからこそ、片腕を失ったその立ち姿が、酷く痛々しかった。

 



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零落の道の人③

「なんだよー、アスちゃん。あたしより暗い顔しないでよねー?」

「だって、ユウムナ……!」

「周りを見なよ、アスちゃん。洞窟の中なのに、こんなに明るいのって不思議だねー」

ユウムナはしゃがみ込み、ぎこちない動きで光る草を抜き取った。

宙に摘まみ上げられた草は、細い根を泳がせるようにゆっくりと左右に揺れている。もちろんそれは、ユウムナが動かしているのではない。草自体が、蛇のように動いているのだ。

「あは、やっぱりこれ、草じゃないよねー。なんだろ、新しい生き物? あの蛇の子供? 持ち帰ったら都の皆は驚くだろうと思わない?」

「……ユウムナ」

「細くて、柔らかくて、脆いなー……」

小さな指が草の両端をつまみ、ぷちっと二つにねじ切った。ゆらゆらと動いていた細い草が、切られた瞬間動きを止めてぐったりと垂れ下がる。

 

「ねえ、アスちゃん。この洞窟の中、契りの神殿に似てると思わない?」

「……え?」

「新しい命が生まれてくる、そのちょっとだけ前の時間。ウルの種類は違うけど、この静かで気持ちいい雰囲気はそっくりだと思うんだー」

ユウムナの鼻先で、息が白く凍っている。洞窟の底は酷く寒い。早朝でも夜更けでもうっすらと温かな空気が漂う契りの神殿とは、むしろ対照的だ。

だがアスは、ユウムナの言葉を否定できなかった。ゆっくりと蠢く草たちに囲まれていると、なんだか落ち着かなくて誰かの手を握りたくなってくる。それは確かに、契りの神殿で新たな戦士の誕生を待つ瞬間と通じるものがあった。

「たぶん、ここから始まるんだよ」

「……何が?」

ユウムナはアスの相槌さえ求めていないようだった。片腕と引き換えに知ったことを、淡々と読み上げている。そう言われれば信じてしまいそうなほどのよどみなさだった。

「新しい神様と新しい生き物が作る、次の世界だよ。ウルを使い果たしたあたしたちの代わりが生まれてくるんだ」

枯れた花が新芽の養分となるように。獣の死体を小さな虫が食い荒らすように。弱った虫の体を破ってキノコが生えてくるみたいに。

生命は――ありとあらゆる命をかたどるウルは、形を変えながらゆっくりと世界を巡っている。もちろんユバの戦士だってその大きな輪の中にいる。

だけど。そんなこと、分かっていたつもりだけど。

「……俺たちにゃ、もう未来はないって言いたいのかよ」

低い呻きが聞こえる。頭を押さえつつ立ち上がったナタリの目は、ふらふらと揺れながらも激しい感情を宿していた。

「あの化け蛇も……クソ鼠どもも……気味悪いこの雑草も……クソくらえだっつうの……!」

「……」

悪態を吐き出すと同時に、ナタリはがくんと前につんのめる。その体をチカオトルの太い腕が支えた。

目を覚ましたのか、という安堵の声は戦士の誰からも上がらない。洞窟の冷気と光る草の生暖かい感触が、呼吸をするたびに気力を奪っていくようだった。

 

(……例えば)

声に出さないまま、アスは考える。

例えばどうにかあの蛇を倒したとして、ユバの都はもとに戻るのだろうか。ネズミに奪われたウルは、すでに大蛇の腹に消えてしまっている。眠っている人々が目を覚ます保証なんてどこにもない。誰も口にはしないけど、本当は諦めてるんじゃないか。

(もし、この先に希望がないなら――)

今ここにいる戦士たちには、二つの道がある。一つは、満身創痍ながら蛇に戦いを挑み、無残に散っていくこと。まともに動ける戦士さえ半分に満たない状況であの大蛇に勝つなんて、どんな奇跡が起こっても不可能だろう。

もう一つは、ここが引き際だと判断し、都に引き返すこと。アスの耳に付けた通信機が生きていれば、きっと祈り人はそうしろと勧めただろう。

「……っ」

アスはその道の先に待つものを想像し、静かに奥歯を噛む。眠り続ける人々。足りない食事。新しい命は産まれず、誰もが老いていくだけの暮らし。そのどれからも目を背けず、滅びに抗い続けることはできるだろうか。

 

戦えば、明日は開けると思っていた。何もしないまま立ち止まるのは嫌だった。だから泣くだけのナーダを弱虫だと言った。他の祈り人の前で偉そうに演説を打ち、他の戦士たちとこの場所へやってきた。

だけど、たどり着いた先にアスたちの未来はなかった。すでにもう次の世界は始まっていて、出番を終えた役者は早く引っ込めと訴えられている。巻き込んだ仲間も傷を負い、もうどうすることもできない。

ならば、ゆっくりとここで滅びを待つべきなのかもしれない。温かな草に生命力を奪われながら、少しずつ衰えていく。それこそが、もっとも苦痛が少なく、穏やかな未来なのだ。ナーダは、ラルクは、他の占い師たちは、こうなることを知っていたのだろう――。

「……ごめん」

アスは小さく、吐息に混ぜて呟く。閉じたまぶたの裏には、様々な人の顔が浮かんでいた。

 

「アスちゃん」

肩に小さな手が置かれた。そうだ。ユウムナにも謝らなくちゃ。腕を失ったのは僕のせいだ。この後死んで神様のところに行くときも、腕が欠けたままだったらどうしよう。僕の腕を切って代わりに差し出せば、ユウムナの腕は返してもらえないだろうか。

「ねえ、アスちゃん」

ユウムナはもう一度アスの名前を呼ぶと、手の力を強めた。細い指が肩に食い込む。

「どうしよう、ユウムナ……僕、こんなことになって、どうすれば……」

一度弱音を吐き出すと、声が情けないほどに震え始める。体も冷え切って歯の根が合わなくなる。あのベーゼの毛皮はどこに行っただろう。せっかく預かったのに、戦いの途中でなくしてしまった。僕なんかがもらわなければ、今頃も誰かの身体を温めてくれただろうに。

「全部、僕のせいだ……! 」

「うん、そうかもねー。じゃあ、これからどうする?」

「これから……?」

耳に入った言葉を、ただ繰り返す。見上げたユウムナの顔は、白い光を受けてぼんやりと輝いている。

 

「あたしたちは傷だらけだし、都の皆とも話はできない。あの蛇はめちゃくちゃ強くて、よく分からない草が生えてる。でも、あたしたちはまだ死んでないよ」

「……」

例えば、他の戦士がそう言ったら。空元気とも言えるような勇ましさに、アスの気持ちは余計に臆病になって引っ込んでいただろう。命があるうちに、どうにか都に引き返すべきだと。自分で選ぶのではなく、流されるままに行く道を決めていたに違いない。

それが誰よりも大きな傷を負ったユウムナの言葉だからこそ、アスの心は少し前に動く。

「……まだ戦うつもりなの、そんな体で」

「こんな体、だからだよ。アスちゃん、それに他の皆も、よっく聞いてね。()()()()()()()()()()()()

「っ……!」

冷たい洞窟の中に、ユウムナのはっきりした声が響く。それを六人分の息を呑む音が追いかける。

「でも……」

「あたしに任せて。絶対上手くやるから」

ユウムナは笑う。唇の端を吊り上げ、どこまでも強気に。

アスはその笑顔に励まされながらも、同時に言いようのない不安を感じていた。

 



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災厄の影の花①

「倒すって……どうやって、あんな奴を」

アスの問いかけに、ユウムナは胸を張って答えた。

「あの蛇をおびき出して、弱いところに一撃をぶちかます。メクティコちゃんの考え方をもらってくよー」

名指しされたメクティコは、大きく息を吐く。

「……自由に動ける場所で俺たち全員で殴るのと、動ける奴が半分減ったうえに洞窟に誘い込まれた今じゃ状況が違いすぎる。同じ作戦を使っていいわけねえだろ。馬鹿なのか?」

「そうかなー? 大きく動けないのは相手だって同じだから、狙いを定めるのはむしろ楽になったはずじゃない? あたしたちだって走り回る必要がなくなったんだから、めちゃくちゃ不利になったってことはないよー」

「……だとしても、あいつに攻撃を食らわせる方法は? 使えるものって言ったらこの洞窟くらいしかねえ。どうにか天井を岩ごと落として、俺たちも一緒に生き埋めか? ……はは、案外いい死にざまかもしれねえな」

メクティコは珍しく皮肉っぽさのない笑顔を浮かべた。対照的に、ユウムナは眉間に強く皺を寄せた。

「それは駄目。みんなで生きていくための戦いなんだから、全員で生きて帰らなくちゃ意味がないじゃない……攻撃は、アスちゃんに任せたい」

「……僕に」

ユウムナは頷いて、アスの方に右手を置いた。

「巨人兵を倒すときと一緒だよー。力を溜めて溜めて、いっぱいになったところで蛇の弱点にぶつけてほしい」

「弱点?」

「それはあたしが見つけてくるから、心配しないで。アスちゃんは……あたしが合図を送るまで、術の準備をしてて。合図するから、その瞬間を逃さないで、一番大きいのをぶつけて」

ユウムナの瞳は、揺らめく草の光を受けてきらきらと黄金色に輝いている。アスが頷く前に、その光は逸れていった。

「見つけるって……ユウムナ、まさか一人であいつに挑むつもりなのかい!? そんな体で!」

ヤアヤの怒鳴り声に、ユウムナは苦笑しながら振り返った。アスとの話は、そこで打ち切られた。

「一人で大丈夫だよ。ううん、一人で行く方が絶対良いはず」

「冗談じゃないよ! そんなこと、あんただけに任せられるか!」

「あたしを信じてよー、ヤアヤ姐。今までにあたしが獲物を仕留めそこなったことあった? 逃げ遅れて手傷を負ったことは? 一度もないよね?」

「だから、その体じゃっ……」

「ヤアヤ姐は神様を疑うの? この体は髪の毛一本から足の爪の先まで神様が作ったものなんだから、絶対に大丈夫だよ。ほら、足も動くし頭もちゃんと働いてる。大丈夫だよ」

同じことを二度いうのは、不安や誤魔化しの表れだ。祈り人の誰かがそう言っていたのを、アスは思い出していた。

「くっ……ケト、あんたも何か言ったらどうだい!」

埒が明かないと思ったのか、ヤアヤは苛立った声でケトを引っ張り出す。

ずっと沈黙を保っていた戦士は、ユウムナを見下ろしながら静かに問いかけた。

 

「……他の者に行かせるつもりはないのか」

ユウムナはアスの問いには答えず、

「……それ、中身は何?」

ケトの胸元に下げられた、小さな布袋を指さした。

「これは……火打石だ。ビシャールから預かった。邪なものは火を嫌うから、魔除けになるのだと」

「そっか。ねえケトちゃん。それ、借りてもいい?」

ケトは少しだけ目を見開く。

「焚火をしてあいつをおびき出したいんだ。火の熱と光と、ウルの力が込められた物を使えば、立派な餌になるよ。だから、たぶん返せないと思うんだけど……」

ユウムナの語尾は小さくしぼんでいく。だが、ケトはしっかりと頷いた。

「分かった。持っていけ」

「ありがと」

アスは二人のやり取りを、妙に静かな気持ちで見ていた。

もう何を言っても、ユウムナが考えを変えることはないだろう。

「……ユウムナ、来い」

チカオトルの声に従い、ユウムナは素直に動く。巨漢から受け取った押し花の束は、火打石と同じく、布袋にしまわれた。ナタリが震える手で差し出したのは、小さなネジとゼンマイだった。それも無言で受け取り、丁重な手つきで納めていく。

ヤアヤは石でできた矢じりを、メクティコは鮮やかな鳥の羽を。他にも、大きなものから小さなものまで、戦士の身からは呆れるほどたくさんの『お守り』が出てきた。

誰かの思いが込められた品々の一つ一つを、ユウムナは愛おしそうな目つきで眺めていた。

この場にいる誰もがすでに覚悟を決めている。動けないのは、アスだけだった。

 

「……アスちゃん」

ユウムナが困ったように笑っている。自分も何かを渡さなければ。でも、いったい何を? 何て言って渡せばいいんだ?

服の裾を強く握ると、白い花びらがはらりと舞い落ちた。どこから落ちてきたかも分からない花弁が、灰色の岩場に夢のように白い彩りをもたらした。思い出したのは、いつかナーダと二人で花を摘みに行ったあの日だった。

あれはどのくらい前のことだっただろうか。平穏な日々はずっと遠く、もう思い出せないほどだ。

あの日から今まで、ずっと服のどこかに引っかかっていたのだろうか。そんなはずはない、と頭では分かっている。山道を登り、走り、吹き飛ばされてここにいるのだから。けれど、そんな奇跡があってもいいのではないかとも思っている。

ユウムナがしゃがみこんで、花弁を拾い上げた。一瞬だけ、その顔から笑みが消えていた。

「んー……これはいいや。薪にするには小さすぎるもんね。アスちゃんが持ってて」

拾い上げた花びらを、アスに押し付ける。

何も言えないまま受け取ったそれを、アスは手の中に強く握りしめた。

「……うん。これだけあれば十分かな。あんまりいっぱいあっても持ちきれないしねー」

集めた品々を布で包み、ヤアヤが両腕が使えないユウムナの背中に括りつける。

「包みが反対側に来るようにしてねー、一人じゃ出せないから」

「……火種はどうやって作るんだい。火打石、その腕じゃ使えないだろ」

「あ、えーっと……」

今更焦った顔を浮かべるユウムナの前に、今度こそアスは立ちはだかる。

「最初の点火だけ、僕が術を使う。その後は、攻撃のために備える……それでいいよね?」

「……うん。アスちゃん、ありがとう」

ユウムナは照れくさそうに笑っていた。その肩を思い切り引き寄せて、首筋に顔を埋めた。

渡せるものなんて何もないから、せめて。

「……帰って来いよ、絶対」

「うん、絶対に」

贈る言葉は、これで正しかったのだろうか。正解がないことは知っている。だけど、誰かからの保証が欲しかった。神様がこの世界を見捨てていなかったら、この願いに答えはあったのだろうか。

 

 

開けた岩場に座り込んで、ユウムナは矢筒から予備の矢を全て取り出した。片足で支えながら矢を山型に組みあげて、片方の手を挙げる。すると、わずかに光った後に大きな火が生まれた。

ユウムナは、目の前で燃え上がる火をただ見つめていた。それから、纏っていたベーゼの毛皮を引きはがし、炎の中に投げ込む。一瞬だけ火の勢いが弱まり、すぐに燃え上がる。

出発の前の宴で、皆がかがり火を囲んで輪になっていたのを思い出した。

預かった押し花を、羽飾りを、組み紐を次々と投げ込んでいく。火の粉がぱっと散り、込められた想いが熱い舌に舐めとられて、灰に変わっていく。

薄暗い洞窟の中でも、炎の色は美しい。いや、陽の光がないからこそ美しく感じるのだろうか。

炎の動きに合わせるように、岩を割って生える光る草たちはふるふると揺れていた。奇妙な生物の踊りを目で追いながら、ユウムナはただ一つ、小さな包みだけを握りしめている。

これだけは、どうしても燃やしてしまうわけにはいかなかった。

「……あ」

邂逅の瞬間は、音もなく迫っていた。光る草原の向こうから、ゆっくりと大蛇が姿を現す。白銀の鱗が滑らかに大地をこすり、主のための道を開いていく。

どんなに目を見開いても、その巨体の全てを視界に収めることはできない。だから、ユウムナは自然と視線を下げていた。そのまま膝をつき、握った片方だけの拳を胸に当てる。

(……ごめんなさい。あたしは今から、許されないことをします)

守るべき民を見捨て、ともに戦う仲間を欺く。そして、終わりかけの世界に生まれた新しい神様を、この手で殺す。

許しを乞うつもりはない。それでもユウムナは、目の前の巨大な存在に、あるいは何かもっと大きなものに、ただ祈りを捧げた。

大蛇の細い瞳孔は、一かけらの感情も映さない。ただ目の前の獲物を見定めるだけだ。

二つの生命が対峙していたのは、火の粉が何度か弾けるくらいの短い間だけだった。

やがて見分を終えた大蛇が動き出す。その瞬間を寸分たがわず見計らい、ユウムナはかがり火から矢の燃えさしを拾い上げる。

(……あ)

そうしようと思ったところで、片腕がないことを思い出した。まあ、仕方ないか。握った宝物を手放すわけにはいかないし、格好が付かないのはいつものことだ。

わずかに苦笑いを浮かべながら、ユウムナは這いつくばって燃えさしの端をくわえた。頬に感じる熱ささえ、今は心地よかった。

大蛇の口が大きく開き、ユウムナを飲み込まんと迫ってくる。くわえた小さな炎だけが、ユウムナの行く末をわずかに照らしていた。

 



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災厄の影の花②

「……ぐぅっ!」

全身が強く締め付けられて、思わずユウムナは唸り声を上げる。だが、低い呻きは湿った肉壁に吸い込まれてどこにも届かない。どんなに叫んだところで、誰かが助けにくるわけもないのだが。

ユウムナは歯を食いしばりながら、細い息を繰り返す。そして、全身を圧迫する壁の動きにあらがわないように、むしろその蠕動を使って泳ぐように、奥へ奥へと進んでいく。

大蛇の身体はけた外れに大きい。ならば、そこにつながる喉にもそれなりの太さがあるはずだ。小柄な獲物――例えば、腕を失ったユウムナならば、なんとか通り抜けてしまえるくらいの。

一番の懸念は、喉に入る前にあの牙にかみ砕かれてしまわないかということだった。だから、ぎりぎりを見極めて自ら飛び込むようにして飲み込まれた。何もかもが一発勝負の賭けだったが、ユウムナはどうにか勝ちを拾ったらしい。

「く……うぁっ?」

濡れた狭い道の中でもがいていると、頭の先にほんの少し空気の流れを感じた。どうやら、食道の出口までたどり着いたようだ。ここぞとばかりに力いっぱい蹴り出すと、頭に続いて肩、腰が自由になる。無事な方の手で辺りを掴んで、残りの身体を引き抜いた。と同時に、落下する感覚。

 

「……っ!」

ばしゃり、と妙に軽やかな水音と、腐った肉を泥水で煮詰めたみたいなひどい臭い。

おそらくここは、大蛇の胃の中だろう。生暖かくまとわりつく水と悪臭は、これまでのどんな戦いでも味わったことのないような最低の感覚だったが、ユウムナはどこか安心してもいた。

(こいつも、腹の中は他の動物と同じなんだ。何かを食らって血肉にすることで生きてるんだ)

だったらきっと、殺せるはずだ。

そこでようやく、口の中の燃えさしを吐き出した。肉壁とよく分からない体液で火はとっくに消えてしまい、舌には焦げの風味だけが残っている。

「あー、まずったなー……どうにか燃え残ってくれないかと思ってたんだけどなー」

 

さすがに、そこまで都合よくはいかないものか。火種が手元にある状態でここまで来れたら、一番よかったのだけど。

そういえば、”切り札”の方は無事なのだろうか。ユウムナは今更のように慌てて、体に括りつけた包みから、あるものを取り出す。ユウムナがただ一つ、都から持ち込んだもの。それは、灰緑色の土だった。粘土を四角く固めたようなそれは、見た目よりもみっしりと詰まっていて、重い。

「よかった、無事だ……」

とはいえ、これはユウムナが作ったものではないから、こんなに濡らしたり揺らしたりして平気かどうかは分からない。作った当人でさえ、化け物の体内に運ばれるなんて思ってもいないだろうけど。

 

 

ダリアが眠る部屋から持ち出すならば、これしかないと決めていた。

ダリアの部屋には珍しい生物の標本や綺麗な鉱石が乱雑に配置されていて、宝箱の中みたいだった。その中できらきらと目を輝かせる少女も含めて。

『ねえダリアちゃん、これ何? なんか変な匂いするー』

『あー! ユウムナ、それはいじっちゃダメー!』

この粘土を見かけたのは、ユバの都を眠りが支配するよりも前のことだった。見慣れない物体に触れようとしていたユウムナは、ダリアが珍しく慌てた声を出したことに驚く。

『これはね、すっごい危ないものなんだよ! ちょっと触っただけでも「いーっ」だよー!』

『ふーん、毒餌とか? 全然おいしそうには見えないけどー』

『違う違う、これはねぇ……』

その後の説明は、ユウムナの頭ではよく分からなかった。

ただ、この粘土は自然に採れたものではなく、いくつかの薬や何やらを混ぜ合わせたものだというのは分かった。

 

『ラズルにいろいろ教えてもらったんだけど、思ったようにはできなかったの。うぅー、難しいよー……』

ダリアの説明はほとんど聞き流していたが、その名前はユウムナの耳に引っかかった。

『ラズル? ってことは、これも爆発するのー?』

『ううん、このままじゃしないよ。導火線も雷管もくっついてないもん』

『なんで?』

足りない部分があるなら、付け足せばいいのに。ユウムナは単純にそう思ったのだが、どうもそうはいかないらしい。

『なるべく「がおー!」に作ったから、導火線での着火だとちょっと危なすぎるの。火をつけてから投げたとしても、これが自分から十分離れるまでに爆発に巻き込まれちゃうよ』

『じゃあ、すっごく長い線を使えばいいんじゃない?』

『うー、それだと戦いでは使いづらいんだもん……そこの調節が難しくて、しょぼーんなの……』

ふう、とため息をついて少女は指先で粘土をつついた。ダリアが挫折して落ち込んでいるのは珍しい。

ユウムナはダリアに頬をくっつけて、不思議な色の塊を覗き込む。

『じゃあさ、これ、捨てちゃうの?』

『ううん! しばらくそっとしてたらいい考えが浮かぶかもしれないから、大事に取っておくの!』

それでも、ダリアは自分の失敗作に向かって明るく笑いかけた。

その時、ユウムナはなぜかとても羨ましく感じたのだ。役に立たないものなのに、ダリアの手の中に居場所があるその土くれが。

 

例えば、自分がうっかり病気でもして、戦士として不具になったら。変異の存在として生まれたユウムナには、戦う以外の能力は与えられていない。だから、武器を持てなくなったら生贄になるしかない。徴を分けた子も、契りを交わした相手もなく、何一つこの世界に残さずに消える。

ユウムナ自身はそのあり方を潔いと思っているけれど、ときどき考えてみたりはするのだ。他の戦士が赤子を抱いているのを見かけた時や、生贄に向かう背中を見つめる眼差しを追う時に。

もし自分が死ぬときに、生贄としての役目以外にできることがあるとしたら、それはなんなのだろう、と。

 

 

暗闇を手探りで進み、胃液が浅いところを見つけてユウムナは座り込む。片腕で、ダリアの作った爆薬をしっかり抱えながら。

自分で爆薬に火をつけて最期を迎えられるなら上々だと思っていた。だけど、それができなくても構わないのだ。

ユウムナが蛇に飲み込まれるのは、他の戦士も見ている。合図を出したらアスの術を撃ってくれとも伝えてある。

しばらくは様子を見るだろう。アスの準備も必要だろうし。だけど、ある程度時間が経ってもユウムナからの合図らしきものがなければ、きっと戦士たちは大蛇を殺すための行動を起こしてくれる。もしかしたらそれは、大蛇の腹からユウムナを救い出すための動きかもしれないが。

けれど、術であれ武器の攻撃であれ、大きな衝撃が伝われば爆薬はその役目を果たす。戦士の攻撃が届かずとも、大蛇が暴れればそれでよい。ダリアが、あの天才が持て余すほどの威力を持ったこの粘土は、柔らかな内臓を引き裂いて大蛇を死に至らしめるだろう。どんなに化け物じみた生命力を持っていたとしても、ユウムナが必ず神の御許に送り届けてやる。

 

ただ一つの心残りは、六人の戦士たちのことだ。特にアスには、辛い役目を負わせることになる。どうか、自分のせいだと思わないでほしい。

それを上手く伝えるには時間も言葉も足りなかった。けれど、何かもっと他の言い方があったんじゃないか。もっと言っておくべきことが、伝えなくちゃいけないことがあったんじゃないか。

「……やめよう、考えるのは」

自分に言い聞かせて、ユウムナはぐっと顎を上げる。これ以上余計なことを考えていたら、頭の中のわだかまりや靄が涙になってこぼれてしまいそうだった。

 

そして、視線を挙げた先で、ユウムナは気づいた。

自分の鼻の頭さえ見えなかった暗闇で、何かが動いた。

それは、黄金色の小さな蝶だった。

 



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災厄の影の花③

目を固く瞑ると、肌色の渦巻きや極彩色の稲妻が見えてくる。ウルを集めて練るのは、その奇妙な模様を見えない指で掴み、縒っていくようなものだ。

「っ……!」

頭の後ろで、ヤアヤが息を呑む音が聞こえた。けれど、アスは振り向かずに集中を続ける。

ユウムナが何をするつもりなのか、分からないわけがない。あんな思いつめた顔で戦いに行くような奴じゃないのに。

でも、皆で帰ると約束したんだ。だったら、もう信じるしかない。あいつを、自分を、仲間たちを。

「合図は!?」

「まだだ、まだ何も……」

メクティコやナタリの声も、いつになく焦っている。まだ信じているんだ。何もかもうまくいって、笑って帰れる未来を。

 

アスの耳元には、タクナが作った通信機がある。吹っ飛ばされた時に壊れてしまったとはいえ、都とのつながりを感じさせてくれるものを身に付けていたかった。

ユウムナの光学機器(カメラ)も壊れてしまったから、こちらからの映像を届けることも、都からの声を聞くこともできない。

だが、もしこの洞窟の中の光景を祈り人が見ていたら、どうなるだろうか。

いつもの狩りだったら、皆それぞれのやり方で戦士を鼓舞してくれる。

踊るもの、歌うもの、叫ぶもの。

しかし、ユウムナが飲まれるところを見てしまったら、きっと皆の姿は揃うだろう。

ただ見守ることしかできないという事実に打ちひしがれるように膝をつき。

震える指を抑えるように、もう片方の手で抑え込む。

そうして作った拳を額に当て、固く固く目を瞑る。眼前の絶望的な光景から、ただ逃げるように。

アスが今まさに、そうしているように。

 

(お願いだよ、ユウムナ……どうか無事で……!)

強く願いながら、アスはウルを練り上げていく。合図があったら、いつでも攻撃に転じられるように。

アスを除く五人の戦士の五対の瞳は、ユウムナからの合図を待って白銀の大蛇を見つめている。息が詰まるような沈黙の中で、不意に何かが聞こえた気がした。それは、夜明けに降る雨みたいな、虫のさざめきみたいな音だった。

『あ……ょ……』

壊れたはずの機械が、何かを告げている。ざあざあと流れる音が、人の声の輪郭をとった。

「!? ユウムナ!?」

周囲の戦士がばっと振り返る気配がした。アスは目を閉じたまま、壊れたはずの機械から聞こえる音に集中する。すべての感覚を耳に集中させると、雑音まじりの声はじょじょに明確な形になり始めた。

『なんで……ちょう……が……んなところに……。ああ、飲み込ま……ちゃったんだ。じゃあ、あたしと同じだね』

これは幻か、それとも神がきまぐれに起こした奇跡なのか。その疑問に答えるものはどこにもいない。だが、確かにアスの左耳には、ユウムナの声が届いていた。

『お前もついてないね、蛇の腹の中身が死に場所になるなんて。……まあ、派手に送り出してやるから、一緒に行こうか』

「……っ」

噛みしめた奥歯がぎり、と鳴った。同時にかき集めていた集中力が飛び散りそうになり、強く拳を握り直す。

ユウムナは、死を覚悟している。みんなで帰るなんて言ったくせに、初めから自分だけが犠牲になるつもりだったんだ。本当のことを言ったら、戦士が反対すると分かっていたから。

爪が食い込む痛みで、アスは自分を引き締める。今やることは、できることは、たった一つしかないんだ。

耳元でささやく声に、ため息がひとつ混じった。

『……馬鹿だよね。あたし、自分が死ぬってなってからようやく、怖くなってる。今までいっぱい見てきたのに。生贄になるひとも、自分で殺した人も』

まるで、誰かと焚火でも囲みながら話しているようだった。ユウムナの声は穏やかで、恨みや恐怖はちっとも感じられない。

『みんな、神様のところにいるんだよね。多分怒ってるだろうな。悔しいだろうな。やりたいことも残したいことも、きっとたくさんあったはずだよね。……あたしにもあるもん』

 

っく、と奇妙な音が聞こえた。それは、ユウムナの嗚咽だった。

『やってきたことが間違いだったなんて、思わない。今だって、このやり方が一番正しいって思ってるよ。でも……ああ、悔しい。悔しいよ、ダリアちゃん……あたしがもっと強かったら……ここにダリアちゃんがいたら……』

膝をかかえてうつむくユウムナの姿が目に浮かぶ。つぶやきを聞いてるだけでも叫びだしてしまいそうだ。なのに、精神は不思議と研ぎ澄まされていく。崖を挟んだ向こう側で蛇に飲み込まれたはずのユウムナが、すぐ隣に座っているように感じるのはなぜだろう。

「――っ」

必要な分の『力』が、十分に高まったのを感じた。そして、それがユウムナに伝わったのも分かった。

『ケトちゃん。メクティコちゃん。ナタリちゃん。チカオトルちゃん。ヤアヤちゃん。……アスちゃん』

その名前を呼ぶ声に、どんな思いが込められているのだろう。

アスは心の中で返事をする。

なんだよ、ユウムナ。深刻そうな顔しちゃって、似合わないよ。

聞こえるはずのないその声が聞こえたみたいに、通信機の向こうから笑い声が届いた。

『……うん。あたしは先に行くから。先に行って、死んじゃった人にみんなの分までごめんなさいって言っておく。だから、みんなはゆっくり来て。誰も生贄にしないで、誰かの犠牲を当たり前にしないで、みんなで戦って……みんなで生きる世界を、創って』

約束する。約束するよ、ユウムナ。アスは何度もうなずいた。

 

目を閉じていても、そこにいると分かった。闇色の中に浮かぶ一つの黄金に向かって、最後の的を絞る。

思い描くのは、弓の形だ。限界まで引き絞られた弦の、張り詰めた感覚を指に感じる。つがえた指を離したら、この矢はもう二度と戻ってこない。分かっていても、行かせなくちゃいけない。居心地がどんなに良くても、同じ場所に留まり続けることはできないと知っているから。

「ああああぁ――っ!」

喉を枯らすほどに叫びながら、手を離した。練り上げた力の塊が、あの場所に向かって吸い込まれるように飛んでいく。

 

一瞬、大蛇の身体が卵を飲まされたように膨らんだ。その直後に、轟音と閃光、そしてめちゃくちゃな熱風が押し寄せてくる。

「ぐぅっ!?」

「目を守れ、何か飛んできてる!」

アスの前に、素早くヤアヤとケトが立ちはだかった。

爆風に紛れて飛んできたのは、大蛇の鱗だろうか。反射的に顔を守った腕やむき出しの足の肉をえぐりとっていく。

驚いたことに、胴体をずたずたに穿たれながらも、大蛇にはまだ息があった。痛みに抗うように、半分以上千切れた身体を大きくよじる。

「くそっ、あいつ…」

「上を見ろ、崩れるぞ!」

周りの戦士が何かを叫んでいるのは分かった。だが、アスは苦痛の中で暴れる大蛇をただ見つめていた。腹に空いた大きな穴からは肉の焦げる臭いが漂っている。あいつも生き物なんだ、と今更のように理解した。

無意識に蛇に向かって身を乗り出すと、突然、身体が浮いた感覚がした。

「馬鹿、いつまでぼうっとしてるんだ! 逃げるぞ!」

ヤアヤの脇に抱えられている。それを理解した瞬間、アスは思い切りもがいて抵抗した。

「なんでだよ! まだあいつは生きてるだろ!」

「もう死んだ! 早く逃げるぞ!」

「違う! ユウムナだよ!」

「もう死んだ! 死んだんだよ!」

ヤアヤの声は勇ましく、有無を言わせない強さがある。だが、見上げた目には確かに涙があった。

「嫌だ、一緒に帰るんだ! ユウムナ、ユウムナぁ!」

振動とともに、ぱらぱらと岩壁のかけらが落ちてくる。狂ったように洞窟の壁に体当たりを続ける蛇の姿が、砂埃に隠れて見えなくなっていく。

どんなに必死に叫んでも、もう声は届かない。



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欠落の先の夢①

あるものは、銀の竜が空に昇るのを見たと言う。

またあるものは、山が裂けて真っ白な血が噴き出したのだと言う。

その瞬間を見ていなくとも、終わりが訪れたことはすぐに知れた。空を分厚く覆っていた雲が、己の重さに耐え切れなくなったように砕けて落ちてきたからだ。その白い欠片は、触れれば指の上でふわりと溶けた。溶けるのに、冷たくない。冷たくないから、積もらない。空で生まれてから大地に受け止められる間だけ、儚く存在していた。

傷だらけの戦士たちが帰ってきた日から、不思議な雪は三日三晩降り続いた。

 

 

「おはようございます、戦士様」

声をかけられる前から、アスの目は覚めていた。板張りの天井の隅には、人の顔みたいな木の節がある。床には雨漏りの跡が黒く染みているのを知っている。柔らかな藁布団の上には、華やかな刺繍が施された黄の掛布。きょろきょろ見回すまでもなく、いつも寝泊まりに使っていた小屋だと分かる。

木戸の隙間から差し込む光はもう白く、夜明けからだいぶ経っていることを告げていた。こんな風に、太陽の光で眠りが途切れるのはいつぶりだろう。

「……」

意を決して体を起こす。寝台の横で花瓶の花を取り換えていたナーダが、衣擦れの音にはっと振り向いた。細い陶器の瓶が、高い音を立てて倒れる。

「戦士様……! よかった、目を覚まされたのですね!」

そっと肩に触れてくる指は温かかった。掛布にくるまって眠っていたはずなのに、自分の身体が冷え切っていたのを実感する。

「僕、何日寝てた?」

「……お身体が冷たいです。まだ安静にしていた方がよろしいですね」

目を合わせようとした瞬間、ナーダが素早く立ち上がった。さっきまで触れていた細い指は、倒れた花瓶をもとに戻すために動く。

「起きるよ。他の皆に会いに行かなきゃ」

「ええ。でもその前に、ファルマを呼んできましょう。本当に動いても平気なのか見ていただかなくては。病み上がりから無理をして倒れたらことですから、今日はゆっくり休まれた方がいいです」

「ナーダ、僕は大丈夫だから」

「そうですか。では、スルカに薬湯を作ってもらいましょう。それとも、何か召し上がりますか? スーラが滋養がつくという茸を分けてくれたんです。私も調理方法を教わりましたから……」

「ナーダ」

ほんの少しだけ声に力を込め、だるい身体を寝台から引き剝がす。重くてしんどくてたまらないけど、動ける。痛い思いも辛い思いもしたけど、アスは何も失っていない。

「僕、行かなくちゃ」

裸足で踏んだ床は冷たい。冷たく感じるということは、自分の身体に熱が戻り始めているということだ。何も着ていない胸に触れる空気が気持ちいい。

「戦士様……」

とりあえず、手近にあった適当な布を巻きつけた。その裾が、声と同じくらいのか弱さで引き留められる。

けれど、アスは振り返らない。

「ただいま。行ってきます」

「おかえりなさい……行ってらっしゃい」

ナーダの声は震えていたけれど、それでも細い指が背中を押してくれた。簡素な木の扉を押し開けて、アスは光の下へと歩き出す。久しぶりの太陽がまぶしくて、思わず目を細めてしまった。

 

 

街道を歩いて集落の中心地に近づくうちに、都の変化にはすぐに気が付いた。

「持ってきたぞ、十人分! これで今日の水汲みはお終いだ!」「何言ってんだい、これじゃ足りないよ! 料理に水浴びだけじゃない、畑にだって水をやらなきゃいけないんだ! もうひと往復しておくれ!」「僕が行くよ、そろそろ体を動かしたいんだ……っと」「お兄ちゃん、危ないよ! 仕方ないわね、あたしがついていってあげる!」

家の外で働く人々の顔はいくらか青白く、やせ衰えた手足は子供のように細い。けれど、その顔には眠りの病が支配していたころにはなかったある色がある。

未来への期待、すなわち希望だ。

「ファルマ、スルカ、スーラ……」

ナーダの口から出た名前を思い出す。その中には、眠り病に犯されていた者がいたはずだ。アスがあの洞窟から戻ってきてからの数日間で、都はゆっくりと、だが着実に病から回復しつつあるのだろう。

だとしたら。

「……行かなくちゃ」

止まりかけた足を前に進めるため、自分にもう一度言い聞かせる。

戦った者として、勝った者として、そして守り切れなかった者として、アスには果たすべき責任がある。

広場を避けるように迂回して、アスは歩き続ける。その爪先は南へ――高山の民が集う集落へと向かっていた。

 



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