プロデューサーを辞めて樋口のヒモになる話 (吉田)
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 仕事を辞めた。

 

 もともとW.I.N.G.というシビアな競争の世界に強いプレッシャーを感じていたこともあったが、とどめとなったのはおそらく先日まで担当していたアイドルのキツい言葉による精神の不調だと思われる。

 

 なんというか、マジでずばずば言ってくる子なのだ。

 

 一人の人間にあそこまで敵意をむき出しにされることは、まあ普通に生きていればなかなかないだろう。少なくとも俺には初めての体験で、彼女とどう接していくべきか最後まで正解が分からなかった。

 だからと言ってべつに彼女を嫌っていたり恐れていたりするわけではない。ただ、あの調子で無能を指摘され続けると、だんだん俺はアイドルが頂点を目指す努力の邪魔になっているんじゃないかと不安に感じられるようになったのだ。

 そうして「失敗してはいけない、上手くやらなくてはいけない」という緊張が大きな失敗を生み、そのことで余計に「失敗してはいけない」という強迫観念に囚われる負の連鎖に陥った。

 そんなこんなでいよいよ本格的に俺が彼女らの邪魔になっているなと確信できたところで、思い切って仕事を辞めてみた次第である。

 

 引き継ぎで接した新プロデューサーはなかなか有能そうだったし、まあこの先はトントン拍子だろう。

 もうアイドルたちのことを心配する必要はない。

 これからは心に落ち着きを取り戻して、悠々自適に毎日を過ごせる――

 はずだった。

 ところが実際に何もしないとなると、趣味を持たず仕事に打ち込むことくらいが生きがいだった俺は妙な後ろめたさから落ち着かなくなって、部屋の中を意味もなくそわそわと歩き始めるようになった。

 そしてその時になって俺はこの部屋が歩くのに最適でない空間ということを知る。仕事のストレスから生活能力が著しく低下し、ゴミが散乱し飲みかけのペットボトルが大量に床に置きっぱなしとなっている万年床(まんねんどこ)のゴミ屋敷の卵みたいな俺の部屋。

 片付けようにもどこから手つ付けていいか分からないという有り様。

 片付けなくてはと思った。

 何かしなくてはと思った。

 しかし何もしないことには変な気まずさがあるのに、実際には何をするのも億劫で、片付けは出来ないし外のバイトもダルいしで何も手につかなかった。

 

 それでも俺は、「せめて在宅の仕事でいいから、とにかく何かしなくては」と考え、造花造りの内職を始めた。

 他にすることのない俺は、一日中、ひたすら造花を造り続けた……飲まず食わずで三日間。極端だ。馬鹿なんじゃないかと自分でも思う。

 でもひたすら造った。

 ひたすら造る。

 ひたすら造る。

 そうして途中で意識が朦朧(もうろう)とし始めるも、しばらくは自動化された動きで作業を続け、いつの間にか手に力が入らなくなり――

 

 大量の造花の上で俺は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると何もかもが見違えていた。

 まず汚かったはずの部屋が整理されていた。ベランダにはパンパンに膨れ上がったごみ袋がいくつもあり、部屋の隅に大量の造花が積み上がっていた。

 次に音があった。何かを焼く音だ。

 それから……匂いがあった。

 

「目が覚めましたか」

 台所の方からアイスコーヒーみたいに冷えた声がする。

 聞き覚えのある声だが――その人物がここにいるはずもない。何かの間違いだ。

 俺はどきどきしながらいつの間にか被せられていた布団から出、声のあった方を確認した。

樋口(ひぐち)……?」

 その人物は、俺の担当アイドルだった樋口円香(まどか)である。

 涼しげな垂れ目と常につり上がった眉毛が意志の強い……というよりきつめの印象を与えている。少し顎を上げ、まるで見下すようにしている仕草やそのファッションも含め、全体に気の強そうなな雰囲気をまとっている。やわらそうなのは赤茶けた色の髪の毛くらいか。

 そして見た目から受ける印象は大体間違っていない。実際の樋口は確かに気の強い少女で、そもそも俺が仕事を辞めた原因は彼女の悪態にあるのだった。

 そんな彼女がどういうわけか台所に立っていて、何かを作っていた。

 どうしてここにいるのか分からなくて、ただただ混乱する。どんなボタンの掛け違えからこんなシチュエーションに発展するんだ?

「えーっと……状況が理解できない……。なんでここにいる?」

「はづきさんに住所を聞きました」

 辞めた従業員の住所を他人に教えるのはNGだが……まあどうでもいい。はづきさんも俺がそんなことで咎めることはしないと踏んで樋口に住所を開示したのだろう。

 だが俺が聞きたいのはそういうことではなくて……

「どうやってここに来たのかって意味じゃなくて、どうしてここにいるのかって意味なんだが……」

「…………」

 そのことについてはだんまりだった。

 とはいえ樋口が来てくれなければどうなっていたかわかったもんじゃないので、とりあえずは不問にしておこうと思う。

「……まあいいけどさ。部屋、片付けてくれたんだ」

「そうでもしないとここにいられないので。片付けるか出ていくかの選択になります。はっきり言って異常ですよ、さっきまでの惨状は」

「それ、なに?」

「……卵焼きです。普段、料理とかしないので、凝ったものは作れません」

「いや、ありがとう」

 香ばしい卵焼きの匂いが漂ってきて、ここしばらく何も食っていなかった俺の食欲を刺激した。

 ぐうううううっとお腹が鳴る。俺の方はなんとなく気まずい気持ちになったが、そんなつまらないことで樋口は突っ込んでこなかった。

 

 食事ができあがり、樋口がモノを運んでくれる。卵焼きとパックの白米がテーブルの上に並んだ。

 ……思えば、テーブルの上に必要なもの以外何も置かれていないというのはとても新鮮な光景だ。記憶の中のテーブルは、油のついた書類だかチラシだかが散らばっているのが常だったから。

 食事を前に、どう扱っていいやらわからず樋口をじっと見つめる。

 見つめられた樋口は不審そうにこちらを見返していたが、

「……ああ、どうぞ。犬じゃないんだから、いちいち《よし》を待たずに食べてください」

 言われて、箸で卵焼きを小さくちぎり白米と共に一口。

 空腹は最高のスパイスと言うが、どうだろう。単に樋口の腕が良いのか、文字通り空腹が最高のスパイスになっているのかは判別つかないが、卵焼きの塩っ気がすっからかんの身体全体に染みていくようで、とにかく今まで食べてきた卵焼きの中で一番美味かった。

「なんも気の利いたこと言えないけど……めちゃくちゃ美味しい」

「べつに。コメントなんて求めてません」

 体感三秒くらいで食事を平らげると、すかさず500mlペットボトルのお茶が出てきた。

「お茶、どうぞ」

「なんというか、至れり尽くせりだな……」

 普段はこちらを小馬鹿にしたような態度を取ってくる相手なので、謎の献身に裏があるんじゃないかと勘繰ってしまう。普通に怖い。

「流石に目の前で野垂れ死にされては私も気分が悪いので。もう少し今の自分のみすぼらしさを自覚してはどうですか。はっきり言って、汚らしい」

「うっ……」

 献身ぶりは異様だったが言葉の刺々しさは相変わらずの樋口円香だった。だが、俺は違う。前までの俺なら樋口のチクチク言葉にミスター・好青年(※樋口談)式のとぼけた返しをしていたが、プロデューサーを辞めた今の俺に、樋口の生意気を我慢する理由はないのだ。

「みすぼらしいとか汚らしいとかさぁ……事実でも普通他人にそんなこと言わないだろ? ジョーシキでもの言えよジョーシキで」

「……っ」

 言い返されるとは思っていなかったのだろう。面食らった顔で言葉に詰まる樋口は目新しく、正直かなり愉快だった。

 が、いつまでも答えに窮する彼女ではなくて、すぐに溌剌と言葉を投げ返してくる。

「……いつもと雰囲気が違うようですね? 私の記憶では、キラキラした言葉しか吐けない、頭の中がお花畑の夢見がちな人物でしたが」

「そりゃあな、仕事じゃあ相手に合わせて顔色を変えることもあるさ。樋口の場合、ああ接した方がいいかなって判断したんだ」

 結果的に正解ではなかったかもしれないが。

「そうやってペルソナを使い分けてまで好感度を稼ぐのに必死なんですね。現実は恋愛ゲームとは違いますよ、ミスター・ビリー・ミリガン」

「ぐう……」

 ぐうの音が出た。

 樋口に言い合いで敵うわけないのだ。

 俺はふてくされて投げやりになる。

「で、そうやってまた俺にグチグチ言いに来たのか?」

「……………………」

 大して考えず口をついた言葉だったが、樋口は険しい顔で黙りこくってしまった。

 慌てて付け足す。

「いや、感謝してるけどさ。飯も作ってもらって」

「……はい、当然です。ご飯どころか、命の恩人かもしれませんよ。あのまま放置していればどうなっていたことか……」

 確かに、樋口が来てくれなければ最悪死んでいたかもしれないのはその通りなのだ。

「自分の家で倒れるまで仕事して、それを女子高生に介抱してもらうなんて……」

「情けないな、俺……」

「本当、情けない」左手で前髪を耳にかける。「あなたのような生活能力が著しく欠如した人間は、私が定期的に見てあげないと、すぐにまたああなってしまいそうです」

「いやホント……って、え?」

 今、何かとんでもないことを口にしなかったか?

「これから、できるだけ毎日ここに来ます。そうでもしないと、あなたは本当に野垂れ死にしてしまいそうなので」

「いやいや、何言ってんの!? え、俺んちに通う? そんなの無理だし、樋口に迷惑だろ。学校だけじゃなくて、仕事もあるんだからさあ……」

「あなたのようなダメ人間と一緒にされては困ります。この程度の生活管理なら支障ありません」

「そりゃ、口では簡単に言えるけどさ」

「私はできないことをできますと口走るほど馬鹿な人間ではないつもりです」

 樋口は頑なに退かなかった。

 どんな情熱がそうさせるのかは分からない。

 そもそも樋口は俺のことが嫌いだったんじゃないのか?

 俺がプロデューサーを辞めてせいせいしたろうに、なんでまた俺にわざわざ自分から近づくような真似をするんだろう。本当に裏はないのか。

「や、ほんと悪いって。大体、俺は仕事辞めたんだからもう赤の他人だろ? なんでそこまでしようとするんだよ」

「…………っ」

 言うと、樋口は勢いよく立ち上がって背を向けた。

「……とにかく、また来ます。ベランダのゴミはちゃんと捨てるように」

 そう言い残して樋口は部屋を出ていった。

「……なんなんだ、突然」

 子供の考えることはよく分からん。

 よく分からんなりにこれまでは考えてきたが、もうその必要がない今になってまた悩むのも面倒なので、考えるのはよそう。

 

 

 

 

 

 

 それから樋口は宣言通りほぼ毎日俺の家に来るようになった。

 樋口の家は俺のマンションのベランダから望める光景の中にある。それも、真っ直ぐに覗ける位置に。つまりこのマンションと樋口の家との間に大きな距離はなくて(徒歩だとそれなりに時間はかかるが)、樋口がここに通うのには悪くない条件というわけだ。

 だからと言って、平日にわざわざ早起きして手作りの弁当を俺んちまで届けてくれるのは流石に献身ぶりが凄まじくないだろうか?

「……ああ、ゴミ、出してって言ったのに」

 俺に弁当を渡した後、ゴミ袋の放置されたベランダを見てそう一人ごちる。

「ゴミ出しって今日だっけ」

「ゴミの曜日も把握できないんですか?」

「そもそも今日って何曜日だっけ?」

「…………本当、ダメな人」

 そう言ってゴミを持って部屋を出る。

 俺の元には樋口の作ってくれた弁当箱が残る。

 

 夜になると食材の入った買い物袋を提げて俺の家に寄ってくれる。そして流し台に置いてある空の弁当箱を洗いながら、俺にいつもの皮肉をぶつけてくる。

 俺は適当なことを訊いたりして流す。

「学校、どうだった?」

「いちいちあなたに話さなくてはいけませんか? (ほどこ)しを受けているからって、調子に乗ってプライベートに関わることまで把握しようとしないでください」

「いや、お前に言われたくないから。把握どころかバリバリ干渉してくるじゃん」

「あなたにプライベートだとかプライバシーだとかそういった高等な概念があるわけないでしょう」

 

 でもそんなサイクルが崩れるときがあって、それは決まって仕事のせいだ。

『すいません』

『明日は仕事があるのでそちらには行けません』

『ご飯、必ずちゃんと食べてください』

『それと、明日はゴミの日ですので』

『忘れないように』

 なんてチェインが来る。

 しかし樋口に生活の面倒を見てもらっている俺は、自炊どころかコンビニに行く気力もなくて、結局飲まず食わずで一日を過ごした。

 翌朝、樋口がいつも通りに弁当を作って持ってきてくれる。

「おはようございます。……ちょっと、顔色が悪いようですが。ご飯食べましたか?」

 首を横に振る。

「……! じゃあ、私が一週間ここに通わなければ、一週間何も食べずにいるつもりですか?」

 応えなかった。

「……呆れた! 前までは《体調管理も仕事のうち》なんて偉そうなことを言っていたくせに、自分のこととなるとてんでダメですね」

「もうお前のプロデューサーじゃないし……」

 部屋の温度が下がった気がした。

「それ、二度と言わないでください」

「あ、ああ……悪い……」

 ただの事実なのに、どうしてそこまで機嫌を悪くするんだろう。

 樋口はぶっきらぼうに弁当箱を押し付けて、

「では、私はあまり長居できませんのでこの辺で。ちゃんと食べてくださいね」

 と念を押した。

 

 このことがあってから、樋口は以前にも増して過保護になった気がする。それまでは家庭のこともあってか夜には家に来ないことも多かったが、ほぼ必ず寄ってくれるようになった。ゴミ出しについていちいち言わなくなり、すべて勝手にしてくれる。俺はというと、朝に樋口を出迎え、彼女の作った弁当を食べ、生活の中でゴミを生み出し、夜樋口が来てくれるのを待つ、というベルトコンベア式の一日を延々繰り返すだけになった。

 

 そんな生活が二週間ほど続き、俺は樋口におんぶにだっこですくすくと堕落していった。樋口が身の回りのことをしてくれれば、それだけ俺は自活の必要がなくなる。俺は「助かる」が口癖になった。樋口はため息まじりに「本当にしょうがない人ですね」「私がいなければどうなっていたことか」「ダメな人」と言うのが口癖になった。

 俺はせめて樋口に金回りのことで苦労してほしくなかったので、絶対に失敗しないという触れ込みの資産運用の話に乗っかり、貯金の七割をつぎ込んだ。リターンはなかった。

 

 

 

 

 

 

 ってなわけでここしばらくめっきり外に出ていなかった俺だったが、とはいえこんな毎日ではいくらなんでも飽きが来るのは目に見えている。俺は思い切って外に出てみることにした。その辺を散策して遊べそうな場所を探す。パチンコはなんだか依存症になってしまいそうで怖いので、代わりにゲーセンに寄ってみた。その内のとあるアーケードゲームにハマってしまう。一回のプレイが100円、キャラクターのカードを排出するのにもう100円。一回のプレイだけなら大したことない金額だが、馬鹿みたいにカードを排出して初日から一万円も溶かしてしまった。

 

 うーん、やばいな。

 

 これまで遊びを知らなかったので貯金はそこそこあったが、それも資産運用の件で底を尽きかけている。無職の俺が家賃と光熱費をいつまで賄えるか分からない。

 こういった遊びに熱中したいのならせめてバイトでも始めるべきだが、一度知ってしまった怠惰の味からは抜け出せそうもない。

 家に帰って樋口が来るのを待つ。

 

 夜、樋口がやって来る。

「……ただいま戻りました」

 この生活を続けているうちに、いつの間にか樋口はそう言って部屋に入ってくるようになった。いちいち俺が出迎えることもなくなって、勝手に合鍵を使って上がり込んでくる。

「今日の晩御飯はあなたの好きなハンバーグですよ」

 どうせ豆腐ハンバーグだろう。

 俺が好きなのはひき肉を使った普通のハンバーグなのだ。

「ありがとう。実は樋口に相談があるんだけど……」

「相談? あなたが。珍しいこともあるものですね」

「ちょっとさ……」人差し指と親指で丸を作って『銭』のハンドサイン。「これが欲しいんだけど」

「は?」

 樋口の眉根が額の中央に寄った。

 そりゃまあ、怒るよな……。

 予想できていたので困らない。

「最悪……。あなた、自分が何を言ってるかわかってますか」

「いや……はは……」

「自分よりも年下の女の子をつかまえてお金をせびるなんて……偉そうな肩書から、落ちるところまで落ちましたね」

 笑って誤魔化すしかなかった。そうして樋口の言うことすべてを素直に受け入れ、この場を切り抜けるのだ。

 

「落伍者」

 笑う。

「社会不適合者」

 笑う。

「最近運動不足で太ってきましたよね、醜男」

 笑……う。

 ちょっとムカッとする。

 

「はあ…………。あなたのような人間にお金を出してあげるなんて、普通ありえませんからね。あなた、誰からも愛されてないんですよ。それじゃ当然ですが。哀れなので、恵んであげます。……いくらなんですか?」

「まじで!? ありがと樋口! じゃあ……とりあえず一万でいいかな」

「《いいかな》って……人として最低ですね。成人したあなたはどうか知りませんけど、高校生にとって一万円は大金ですよ」

 ちょっと失言したようで、小遣いを貰うまでに十分くらいお小言を食らった。

 

 で、次の日。その小遣いを全てゲームに費やす。ゲーセンから帰るついでに適当な店で晩御飯を食った。たまにはいいだろう。

 家に帰ると樋口がいて、俺の帰宅を待っていた。今日はやけに早い。

「遅い。どこほっつき歩いていたんですか」

 なんて言葉とは裏腹に、なんだか声色がやわらかいのが不思議だった。

「いやいや、俺も大人だからさ。そんな母親みたいなこと言わないでよ」

「まあ、あなたのプライベートに干渉するつもりはありませんが。……今日は少し早めに来たので、勝手にキッチンを借りました」

「え?」

 テーブルの上を見ると、いつもよりずっと豪勢な食事が並んでいた。パンカップのグラタンとエビピラフ。煮込みハンバーグ、タンドリーチキン、ミネストローネスープ。普段の健康に気を遣ってるらしき質素なメニューから一転、高カロリーでかつ手の込んだ、子供舌の俺がいかにも好みそうなメニューだった。

 あちゃー……。

「今から温めますので、早いですが夕食を……」

「あー……その、樋口」

「なんですか。たまにだけですよ、こういうのは」

 ほんの少しの微妙な仕草だが、照れくさそうに髪を撫でながら言う。頼むからやめてくれ。

「……いや、その、さ……」あまりにも言い出しにくくて言葉を濁す。「つまりさ、その…………ご飯、食べてきちゃった」

「…………は?」

 数学の授業中に芥川龍之介の亡霊が現れたみたいな顔をされた。

 あああ、ヤバい。罪悪感で死にそう!

「その、マジでごめん……。ちゃんと全部食べるから」

「……いえ、無理して食べなくても結構です」

 どんな罵声が飛んでくるかと身構えたが、意外にも樋口は言葉数少なめに皿にラップを敷いていき、淡々と食事を片づけた。

「明日、チンして食べてください」

 そうして部屋を出た。

 俺はというと、樋口に済まないことをしてしまったという申し訳なさで胸がいっぱいになり、樋口が去っていった玄関のドアをいつまでもいつまでもじっと見つめ続けた。

 それにしても、どうしてこんな日に限って樋口はあんなにも張り切りって豪華な食事を用意したりしたのだろう。本当に間が悪い……。

 

 しばらくして喉が渇き、お茶を取り出そうと冷蔵庫を開けると、中に白い箱があった。

 なんだこれ?

 箱を取り出し、開ける。

「あ」

 中にはワンホールの小さなケーキが入っていた。シュガープレートに俺の名前と「誕生日おめでとう!」というメッセージがチョコレートで描かれている。

 そう言えば今日は俺の誕生日だった。

 

 

 

 ケーキを食べたあと謝罪のチェインを送ったが無視された。翌日樋口は家に来なくて、俺はミネストローネスープとグラタンを朝に、エビピラフとタンドリーチキンと煮込みハンバーグを昼食にした。そして何もする気が起きなくて寝た。目が覚めると樋口が流し台に放置していた皿を洗っていて、俺は彼女の前まで駆け出して土下座して謝った。樋口は俺を見ずに「もういいです」と言った。

 

 

 

 

 

 

 そういった失敗も何度かあったが、樋口は俺の家に通うのを止めなかった。

 俺は樋口の尽くしっぷりに甘えるだけ甘え、ますます人としてのランクを下げていった。ゲーセンは飽きてパチンコにハマり樋口に要求する小遣いの金額が増えていって、だけどある日空いているパチンコ台で確変を出したらそこでもともと遊んでいたらしい強面のチンピラに理不尽にブチ切れられてボコボコにされる。俺はボロボロになってよろめきながら帰ったが、その途中横を集団の女子高生が通りすぎたと思えば後ろから大爆笑が聞こえてきて、恥ずかしくなって居た堪れなくなって心がぐちゃぐちゃになった。全員が俺の無様を見て笑っているんじゃないかと思った。

 家に着いた俺は布団にくるまり、樋口が帰ってくるまで先ほどのできごとを繰り返し思い出していた。

「ただいま」

「樋口っ!」

 樋口が帰って来たと分かると俺は安心して布団から飛び出した。

「ちょっと……どうしましたか。頬、腫れているじゃないですか」

 俺は今日起きたことを話した。樋口はいつになく親身に俺の話を聞き、氷水の入った袋を作ったり傷に絆創膏を貼ったりなどの処置を施してくれた。

「俺、樋口がいないとダメだ……。樋口がいないと生きていけないよ。どこにも行かないでくれ……」

 不意に、そんな言葉が出てくる。

 まだ17歳の女子高生を相手に、なんて情けない……。

 俺は自らの惨めさのあまり、いよいよ涙が出てきてしまう。一回り年の離れた女の子の前で膝に手をついて嗚咽を漏らす成人男性の図だ。

「本当に、ダメな人ですね……」

 樋口が言って、俺ははっと自分の言ったことの不甲斐なさに気づく。

「樋口っ。今のは……」

「ご心配なく。私はどこにも行きませんよ。どこかの誰かさんは、私がいないと生きていけないようなので」

 

 俺はきっぱりとパチンコをやめ――というかそもそも外に出るのをやめ、家庭用のテレビゲーム機を買い日がな一日家に篭ってゲームをするようになった。樋口はそんな俺に呆れる素振りを見せるも自堕落を止めようとするでもなくひたすら尽くしてくれた。休日のほとんどを俺の家で過ごすようになって、もう俺たちは半分くらい同棲しているようなものだった。

 

 これでいいのだろうかと俺はゲームをしながら思った。毎日がうす暗くてぼんやり漠然とした不安の中にあった。このままの生活を続ければ俺と樋口は落ちるところまで落ちてしまうのではないだろうか。

 いや、最悪でも樋口が落伍することはないだろう。俺たちは付き合っているわけではなくて、なんとなく一緒にいるだけの赤の他人なのだから。樋口が俺を見放せばその瞬間にこの関係は終わるし、あっちは後腐れもない。一方の俺は生活能力という生活能力を根こそぎ失い、もう樋口なしでは生きていけないのだ。

 この関係が終わったとき、俺は何を頼りに生きていけばいいのだろう?

 

 しばらくして、そんな俺の懸念を表面化するような出来事が起きた。

 樋口が熱を出したのだ。

「ただいま」という声がいつになく弱々しい気がしたのでなんとなく樋口を見ていたら急に倒れそうになって慌てて抱き起した。

「ちょっと、大丈夫か!?」

「大丈夫です……ちょっと躓いただけですから」

 もちろん大丈夫ではなくて、抱き起した時に触れた樋口の体温ははっきり異常であるとわかるくらい高かったし、顔は真っ赤で弱り切った表情も懸命に体調不良を訴えていた。

 無論、俺のせいである。仕事と学校と俺の面倒とをすべてこなそうだなんて土台無理な話だし、この頃は俺の怠惰もますます拍車をかけていて、その分樋口の負担も大きくなっていた。

 つまり、当然の結果だった。

 しかし樋口は、それでも熱で弱った体を押して俺のもとを訪ねてきたのだ。俺はその甲斐甲斐しさに途轍もないいじらしさを覚えた。

「やめてください……自分で立てますので……」

「いや、ダメだ。樋口はそこで寝てなって」

 俺の手を振り払おうとする樋口の肩に半ば無理やり腕を回す。最初はなんとか俺を拒もうとしていたが、やがて諦めたのか抵抗しなくなった。

 俺は万年床になっている敷布団の上に樋口を寝かせ、毛布を掛けた。

「…………臭い」

「まあ、男だし。ごめん」

 それからコンビニでレトルトのおかゆでも買いに行こうかと思ったが、玄関に立つと途端に動悸がする。パチンコ屋での出来事以来、外に出るのが恐ろしいのだ。コンビニに行くだけ、コンビニに行くだけと五分くらい唱えながらドアを開ける。おそらくコンビニ以外での外出は今後不可能だろうと俺は思う。で、モノを買ってきて鍋で温める。その間、樋口に洗ってもらう前提で流し台に放置していた皿を洗う。

 していると、途中で手を滑らせて皿を床に落として割ってしまった。寝ていた樋口が飛び起きて「何やってるんですか」と皿の破片を片づけ始める。

「代わってください。私がやりますから」

 と樋口はてきぱき皿洗いを済ませてしまって、俺は何をするでもなく所在なさげに樋口の斜め後ろに立ってそれを眺めて、「いつまでそうしているんですか。邪魔なのでそこに腰かけてテレビでも観ててください」という樋口の言葉に従うまま床に座り込んでテレビのスイッチを入れた。

 情けない……。

 自分の不甲斐なさに情けなさが込み上げてきて泣きそうになっていると、樋口が皿におかゆを盛ってやって来て、この部屋では初めての食事を摂った。

「……美味しいか?」

「レトルトの味です」

「そう……」

 食後、樋口を再び布団に寝かせ俺はテレビを観続けた。

 何かしようとすると失敗してまた樋口の手を煩わせてしまいそうだったからだ。

「今日、泊まってく?」

「……不本意ですが、そうさせてください」

「明日も学校あるんだろ。大丈夫か? 親御さんとか……」

「その辺については心配していただかなくて結構です」

 素っ気なく言って、寝た。

 

 樋口が寝息を立てている。普段はきつい印象を受ける目元も目を閉じてしまえば安らかなもので、愛おしく感じた。

 俺は樋口の寝顔を眺めながら考える。樋口がいなくなったら、どうなるんだろうと。樋口が熱を出しただけでこの有り様だ。もし樋口が身体を壊したら。もし樋口が俺に愛想を尽かしたら……。

 

 

 

 翌朝、シャワーの音で目を覚ます。

 外はまだ暗いが、このくらいの時間帯から起きなければ樋口は学校に間に合わない。薄い壁一枚隔てた向こう側で素っ裸の樋口が湯浴みをしてるんだと思うと後ろめたくなって、俺は二度寝を決めようとしたが目を閉じても眠れなかった。

 それからずっと目を閉じて、樋口がバスルームから上がって服を着て外に出る準備ができたところで俺は寝たふりをやめた。

「おはよう」

「おはようございます。起きましたか」

「うん、たった今」

「そうですか。じゃあ、私は少し出てますので」

 買い出しだろう。ここで一泊するのは予定外のことだったので、朝食の用意がないのだ。

「あっ、樋口。熱は大丈夫?」

「はい。おかげさまで」

「あのさ……樋口」

「なんですか。まだ止めますか」

 樋口は怪訝そうに言うが、俺には大事なことだった。

 昨日のことがあって、俺は考え直したのだ。

 

 ――もし、樋口がいなくなったら。

 

 俺は樋口に「どこにも行かないでくれ」と懇願したが、それは間違っている。もし樋口がいなくなっても、俺はひとりで生きていけるようにならなければいけないのだ。いつまでも樋口に寄りかかってばかりでいては、それが却って樋口を俺から遠ざけてしまう結果になる。

 自立。それこそが樋口のために――そして俺自身のためになるのだと俺は考えた。

 

「昨日のことで思ったんだけどさ……俺、これからはバイトとかして、料理も自分で作って、いつも世話かけてばっかりの樋口の負担を……」

 言いかけながら樋口の方を見ると――この世の終わりのような顔をしていた。

 俺は意表を突かれ、心臓が飛び跳ねる。

 なんだ、何か間違えたのか?

「……はい?」

 樋口は信じられないというように――信じたくないというように聞き返した。それが何かの間違いであると確かめないではいられないというふうだった。

「いや、だから。ちゃんとバイトして、ちゃんと一人で生活できるように頑張っていきたいなってことなんだけど……」

「私はもう、必要ないということでしょうか」

「や、必要ないというか……そういうわけじゃないんだけど……あー、そういうことになるのかな……」

 失言だった。

 べつに樋口が不要になったとかそういったことを言いたかったわけではなかったが、言葉の綾でそうとも取れる言い方をしてしまったのがいけなかった。

 出かけようと玄関ドアの前にいた樋口は、ずかずかと俺のところまで来ると、俺の胸倉を両手で掴んで叫んだ。

「どうしてですか」

「え」

「なんで、そんなこと言うんですか」

「なんでって……」

「ご飯が美味しくないからですか。お金が足りませんか。それとも――私のことが嫌いですか」

「いや! そんなことはないよ! ここまでよくしてもらってるし……」

「それって、あなたによくしてあげられない私には価値がないってことですよね」

「はあ!? ひ、被害妄想だろ、それっ」

「バイトなんてしなくていい。私がもっと頑張って稼ぎますから……! 料理もちゃんと勉強して、もっともっと美味しいものを作りますっ。好きな時に外食しても、文句は言いません。だ、だからっ――」

 樋口は俺の胸倉から手を放し、それを床についた。

「――考え直して、ください……っ」

 俺に縋るように項垂れて、樋口はそう言った。そんなふうに感情的な樋口は初めてなので、俺はかなり面食らう。

 なんだ? 一体何が起きている?

 樋口は一体何にそんな執着してるんだ?

 

 ……もしかして、俺なのか?

 俺にとって樋口が必要なように、樋口にとってもまた、俺が必要なのだろうか。そして樋口にとって俺を唯一つなぎとめることのできる手段が――献身。それを失ってしまえば、俺がどこかへ去ってしまうと考えているのだろうか。

 俺はそんなことで樋口を見捨てたりするだろうか……分からん。

 例えば、樋口以外の誰かが樋口のように俺をよくしてくれたら、俺は樋口が不要になるんじゃないか?

 彼女が俺の面倒を見てくれるとかそういったことを一切抜きにして樋口を見た時、俺は樋口と一緒にいたいと思うのか?

 迷う。しかし。

 結論が出せないのが――答えじゃないのか?

 俺は場当たり的に言葉を紡ぐ。

「樋口、樋口。俺は自分のことを全部自分でできるようになっても、樋口の前からいなくなったりなんてしないから。大丈夫だから」

 しかしそんな口から出まかせは届かない。樋口は見抜く。樋口の目が、俺への不信を物語っている。

「そう言って、また、あの時みたいに……」

 また?

 俺が樋口のもとを離れたことが、これまでに一度でもあったか?

 ――いや。

 あった。

 そうだ、俺は樋口をW.I.N.G.優勝に導くと言って……必ず頂点に連れていくとアイドルの世界に誘っておいて、その役割を半ばで放棄したじゃないか。

 樋口は俺がプロデューサーを辞めた件をずっと引きずっていたのだ。

 俺はとうの昔に樋口からの信用を失っていて、だからもう俺の言葉が届くことはない。

「わかった。……ごめん。今のは忘れて」

 樋口は立ち上がって、俺に背中を向けた。

 らしくもなく取り乱したので、そこから普段の自分に切り替えることが気恥しいのだろう。次の言葉があるまで、数瞬の間があった。

「…………はい、忘れます。あなたも、私が言ったことは忘れてください」

 

 

 

 そうしていつもの毎日に戻っていった。

 俺と樋口の乗った船は沈みかけている。

 俺たちは二人して徐に腐っていくのだ。

 

 

 

 しかしそんな日々はいつまでも続かない。どんな形であれ、歪んでいるものはいずれ破綻を来すものである。そしてそれは、当人にとってはいきなり途絶したように見えるものだ。

 

 その日、樋口は俺の家に来なかった。



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「……樋口い、どこにいるんだよ……」

 俺の独り言が、部屋の中で虚しく溶けて消えた。

 

 樋口が家に来なくなって、もう三日が経つ。

 その間、樋口からの連絡はなく、こちらから送ったチェインにも既読はつかない。

 こんなの、はっきり拒絶されているのだとしか思えない。逆にそれ以外の解釈があり得るだろうか。

 つまり――俺の恐れていた事態がついに訪れたということなのだろう。

 俺は樋口に愛想をつかされてしまったのだ。

 そりゃまあ、成人して無職で家に引きこもっているダメンズなんかに魅力があるなんてとてもじゃないが思えない。どう転んだところでいずれこうなるのは明らかだった。

 だがそれでも、連絡のひとつくらい入れてくれたっていいんじゃないか?

 もう俺の面倒を見るのはイヤになったと、たったひとこと告げてくれれば、俺の方でも《終わった》とはっきりするのに……。

 

 もういいや、考えるのは疲れた。

 この三日間、何も食べずにいる。外に出ず、日の光にも当たらず……どころか動かず、布団の中で丸まってばかりいる。気分が悪い。頭が痛い。身体が重い。

 やはり樋口がいてくれないと俺はダメだ。

 

 

 

 

 

 

 樋口がいなくなって五日が経った。

 この五日間で味わったのは、飢えと倦怠感と惨めさと、それから途方もない孤独感だった。

 樋口がいてくれないと、寂しい。

 樋口じゃないとダメというわけなのかは分からない。ただそばに誰かがいてくれればそれでいいのかもしれない。でも俺には、樋口しかいないから、その樋口がいなくなった今、俺はすごく寂しくて、孤独で、辛かった。

「どこ行ったんだよ……」

 

   ご心配なく。私はどこにも行きませんよ。

 

 嘘だ。

 俺の前からいなくなったじゃないか。

 そうやって取り上げるなら、初めからくれなければよかったのに。

 

 世の中は交換で成り立っている。貰ったら与える。そのようにして全体は循環しているし、個々の関係も保たれている。俺は樋口から貰ってばかりで何も与えてこなかった。与えるものがなかった。

 だが、貰ったものを返すべく立ち上がろうとしたのを拒んだのは、他でもない樋口だろう?

 そのままでいろと言ったのは樋口だ。俺はその言葉に従っただけで――

 ――ああ、ああ。責任転嫁の言葉ばかりが出てくる。

 やり場のない悲しみを怒りに変換して、ここにいない樋口にぶつけている。

 欺瞞だ。

 樋口がいないとダメなうえに人を非難してしまうクズな自分が嫌になる……。

 

 

 

 

 

 

 ――腹が減った。

 

 一日中寝たきりでもどうしてかエネルギーは消費されるらしく、腹が減る。

 俺はなんだか無性に卵焼きが食べたくなっていた。

 なんでだろう……。

「ああ」

 そうだった。

 そう、あの時、俺が仕事を辞めたばかりで、一人で、お腹が減って、死ぬほど孤独だった時――突然樋口がやって来て、俺に卵焼きを振る舞ってくれたのだった。

 何よりも美味しかった。

 ふと、俺はあることに気づく。

 樋口は俺を捨てたんじゃなくて、何かのっぴきならない事情から俺の家に来ることができず、また、連絡を入れることも叶わないのではないかと。

 のっぴきならない事情。

 なんだろう――事故?

 さっと身の毛がよだつ。

 そうだ、今まで気づかずにいたが、その可能性だって充分にあるのだ。

 事故だけじゃない、何か事件に巻き込まれた可能性だってあり得る。

 自分のことしか考えていなかった俺は、樋口の身に降りかかっているかもしれない災難の可能性を見落としていた。

 確かめなくては。

 樋口に繋がらないなら、事務所に。

 だが俺の携帯電話は通信契約を打ち切っていて通話ができない。Wi-Fiさえあれば、樋口との連絡はすべてチェインで行えるからので、それで充分と判断していた。さらに関係者との連絡はすべて社用携帯で行っていたので、現状こちらから連絡を入れる手段は何もなかった。

 もう樋口の安否を確かめる手段は、直接事務所に出向く以外にない。

 ならば――出るしかない。

 この部屋を。

 だが、そのことを考えるだけで眩暈がした。普通の人にはただ部屋の外に出るだけだが、俺にとっては絶対的な安全圏であるこの部屋から出、人々の自意識やら悪意やらが渦巻く危険な外の世界を旅するということなのだ。

 玄関の前でただただ立ち尽くす。出れない。身体が動かない。最寄りのコンビニに行く時は素直に言うことを聞く身体が、外出を拒否している。

 そうだ、コンビニに行くと思えばいいのだ。いつもコンビニに行く前に心のなかで何度も唱えている言葉を強く念じれば、普段の癖でむしろ身体が勝手に外に出てしまうはず。

 俺は心のなかで強く念じる。

 

 コンビニに行くだけ。

 コンビニに行くだけ。

 コンビニに行くだけ。

 コンビニに行くだけ……

 

 念じていると、右手が動き出した。カチッと開錠し、ドアノブに手をかけ、ドアを押し込む。

 開いた! と思うと同時にもう身体は外に出ていて、エレベーターに乗っている。

 やった! やった! 外に出れたぞ!

 そうして俺はコンビニへ行き、カップ焼きそばとお茶を買って家に帰った。

 お茶を一息で半分くらい飲み干して「あ~」と息を吐いて、それから台所に立ってやかんに水を入れて火をかけてお湯を作り、それを口を開けたカップ焼きそばの容器に作ったお湯を注いで三分待ち、ソースとかやくを入れて混ぜて完成したカップ焼きそばをテーブルの上に置いた。

「いただきます」

 じゃねえよ!

「何をしているんだ俺は……」

 ほかほかと湯気を立てるカップ焼きそばの前で俺は頭を抱えた。

 マジで俺はもうどうしようもないな。

 本当にダメだ……。

 せっかく外に出れたというのに、そのチャンスをふいにしてしまった。

 もうコンビニ作戦も使えないし……

 改めて玄関の方を見つめると、廊下がどんどんどんどん長くなり、外へ通じるドアが遠くなるようだった。

 時間をかければかけるほど、この距離は開いていく。

 悩んでいる時間なんてない。

 しかしもう俺ひとりではこの距離を埋められない気がした。

 樋口、樋口がいないと……。

 この期に及んで俺はまだ樋口の助力を求めていた。

 だが、樋口はその先にいる。

 その先に行かなければ、樋口には会えない。

 

 樋口。

 樋口。

 樋口。

 

 葛藤なんて無駄だ。

 息を吸って、吐いて。

 覚悟を決めて。

 俺は万里の長城ほどの長さの廊下を歩き、ダイアモンド並みの硬度でガチガチのドアノブを回し、ブラックホールくらいの質量を持つそのドアを開けた。

 

 久しぶりの外出はやはり恐ろしかった。

 目に映るものすべてが無職で女子高生のヒモをしている俺を笑っているように思えた。

「あいつ、仕事してないんだって」「女子高生に飼われてるらしいよ」「うわ、くっさ!!」「面構えからして情けないよね~」「パチンコにハマってるんだって」「借金あるらしいよ」「ああはなりたくないよなあ」「ウケる!」

 うう、もう帰りたい……。

 というか、俺は何をしているんだろう。べつに樋口が何かに遭ったと決まったわけではないし、ダメな俺を見捨てたと考えた方が正しいはずなのに、わざわざ外に出て、辞めた職場に出向かなくてはならないなんて。どんな罰ゲームだ。

 樋口がそこにいたとして、「うわ未練がましく来ちゃったよ。キモ~しつこ~」とか思われるのが関の山だ。

 うん、そうだ。そうに決まっている。

 だが。

 それでも、例え笑われても、大恥をかいたとしても、樋口が無事であることに勝る事実なんてない。

 樋口の安否を確認できればあとはどうなってもいい。

 

 電車の乗り方なんて忘れていたつもりだったが身体が憶えていて勝手に事務所へ向けて進んでくれた。

 かつての見慣れた通勤路を歩き、変わっているところと変わっていないところを確かめながら、俺は事務所に辿り着いた。

 283プロダクションの事務所は三階建て家屋の二階にある。階段を上って玄関ドアの前に立つ。辞めた社員が今さら来て、大丈夫だろうか。

 

 知らん!

 てかここに来るまでにさんざん悩んだろお前!

 もう葛藤は要らん!

 

 事務所の玄関をノックすると、「はい」と聞きなれた返事があって、ずいぶんと久しぶりに見るはづきさんが出てきた。

 彼女は俺を見るなり驚いて

「プロデューサーさん!」

 と叫んだ。

「元、ですけど」

 と俺は付け加える。

「どうしたんですか。あ、もしかして……」

 急な訪問でただただ驚かせるばかりになるだろうと思っていたが、はづきさんには俺が来た理由に思い当たる節があるようで、それが俺を不安にさせた。

「とにかく、上がってください」

 神妙な顔つきで事務所の中に勧めるはづきさんに着いていき、居間のソファで二人して座る。つい先日までここにいたのだ……という感慨を抱く暇もなく、本題に入った。

「樋口さんのこと、ですよね……」

「どうしてそれを?」

「やっぱり……。ということは、プロデューサーさんのところではなかったんですね」

 元、と付け加えるのも忘れ、俺は声を荒げる。

「やっぱり、と言うのはどういうことですか? 俺のところではない、というのも分かりません」

 どうして俺を不安にするようなことばかり並べたてるんだ。

 はづきさんは俺に言うべきか否か悩む素振りを見せ、やがておずおずと切り出した。

「……実は、先週の金曜日から樋口さんは自宅に帰っていないそうなんです」

 俺は頭が真っ白になった。

 自宅に帰っていない?

 ここで指す自宅とは俺の家のことではなくて、もちろん樋口宅のことに決まっている。

 俺の家ならともかく、自宅に帰らないのはなぜだ?

「…………どういう、ことですか」

「わかりません」はづきさんは眉を八の字にして首を振る。「家出ということも考えられますが、もしかしたら事件や事故に巻き込まれた可能性も……というのは、その間に樋口さんが事務所に来たことは一度もなく、アイドルたちも、樋口さんには会っていないそうなんです」

「ノクチルのメンバーは?」

 首を振るはづきさん。

 ノクチルのメンバーでさえそうなのだから、誰も樋口に会っていないと見て間違いないだろう。

「つまり……行方不明、ということですか?」

「そうなります」

 絶望的だ。

「捜索願は……?」

「それが、つい先日出たばかりなんです。というのは、少し前から樋口さんは休日に家に帰らないことが多かったらしくて、最初の頃は親御さんもあまり気に留めてはいなかったそうなんです。心配していたのは、ノクチルの皆さんくらいで……」

 つまり、俺のせいだ。

 俺の家に通うようになって外泊を繰り返すうち、樋口はしばらく姿を見なくなってもおかしくないような子で、突然いなくなってもあまり心配することはないという空気がなんとなく出来上がったのだ。

「休日が明けても、その……樋口さんはプロデューサーさんと交際しているんじゃないかという噂があったので……なんと言いますか、そのぉ……駆け落ちしたんじゃないかと……」

「まさか!」

「で、ですよねー……」

「樋口とは、付き合ってるとかそういうわけじゃないんです」

 俺は言い訳をするようにそう言った。事実だが、逃げ口上だ、とも思う。

「でも、そうだとすると樋口さんは……」

 そうだ。

 家にいない。事務所にいない。誰も所在を知らない。

 なら、樋口はどこに行ったんだ?

 

   ご心配なく。私はどこにも行きませんよ。

 

「プロデューサーさん?」

 突然立ち上がった俺を、はづきさんが不審そうに見上げる。

「すいません。俺、もう戻ります。ありがとうございました」

 ここにいたってしょうがないことが分かった。とはいえどこへ行っても手掛かりなどないが……。

 踵を返す俺の背中に、はづきさんが声をかけた。

「あの……! 樋口さんは、絶対に見つかります! どうか、気を落とさないでくださいね」

「はい、ありがとうございます」

 気休めだ。

 それでもありがたく受け取って、事務所の外に出た。

 すると階段を下りたところで思わぬ人物に遭遇する。

 浅倉透だ。

「あれ、プロデューサーじゃん。久しぶり」

 いつも通りのようでいて、その実声に陰りがあるのが分かる。親友が行方不明なのだ。不安なのは当然である。

「ねえ……樋口知らない?」

「悪いけど……」首を振る。

「そっか」

 俺はバツが悪くなって目を逸らす。

「樋口と付き合ってるの?」

「いや」

「じゃあ樋口から聞いてない?」

「何を?」

「ヤバいファンの話」

 ヤバいファンと来たか……。

 樋口が失踪したことと関係があるのなら、絶対ろくなことにならない。

「聞かせてくれるか?」

「聞きたい?」

「物凄く」

「……もしかして、樋口のこと捜すの?」

「まさか」

 俺は否定するが、どうだろう。

 俺は樋口を自分の力で見つけようとしているのだろうか。確かに見つかってほしいが、俺にはどうにもならない。警察の仕事だと思う。

 しかしそれならなぜ、こうして透から話を引き出そうとしているのか。

「……いや、やっぱそうかも」

「ヒーローじゃん。かっこい」

「そんなんじゃないよ。それより、話を聞かせてくれないか?」

「あー、うん。なんか、握手会のときにいろいろ変なこと言われてた。『目が合ったよね』とか『俺に微笑んでくれたよね』とか」

 うん? ライブか何かのときにステージ上で目が合ったということか?

 厄介なファンだが、まあ割と少なくない勘違いではある。普段、どれだけ悟ったようなことを言っていたって、結局好きな人には認知されたいと思うのが人情だ。それを食い物にするビジネスだって、アイドルの仕事には含まれている。

 とはいえまあ、それを至近距離からぶつけられていい気分にならないのは確かだ。そういう意味で、彼女がその人物を危険視してしまうのも無理はない。実際にそういった事件は存在するし。

「透はその場にいたのか?」

「うん」

「じゃあ、何か変だって思ったのか?」

「うーん……怖いなーとは思った」

「そうか……」

 透がそう言うのであれば、意識に留めておいてもいいかもしれない。こういう肌感覚は、存外無視しきれない。

「わかった。話してくれてありがとな、透。じゃあ、俺はこれで」

 俺は手を挙げて透と別れた。

「お願い。プロデューサー」

 

 家に帰りながら俺は考える。

 単なる事故ではない。たぶん、事故なら何かしらの形で見つかるはずなのだ。

 つまり、樋口は何か人為的な事件に巻き込まれて――

 俺は透の話を思い出す。

 ストーカー。

 樋口はストーカーに拉致された?

 分からない。透から聞いた話は確かに不穏だったが、それでも例の人物が犯人だと確信できるほどに大きなことではないようにも思えた。

 しかしその件とは別に、水面下で樋口に近づく影があったのかもしれない。結局は確かめなければ分からない。

「…………」

 もうひと仕事必要になりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 いったん家に帰った俺は服を着替える。ベランダから遠くに小さく見える樋口の家を確かめながら、スーツの袖に腕を通す。久しぶりのスーツは少し窮屈になっていたが、サイズではなくもっと観念的な意味で、俺という存在にぴったりと収まる感じがした。

 行き先は樋口の自宅だ。

 樋口宅に行き樋口の両親と会う。

「すいません。283プロダクションの者です」

 俺は名刺を手渡す。

 もちろん方便だ。

 樋口宅を訪ねるにあたって、どうすれば樋口の両親に話を通せるか悩んだ結果、283プロダクションの人間であると説明すればいいとの結論に達した。

 それ以外の身分で来ようものなら、最悪警察を呼ばれかねない。

「円香さんの前任の者です。今日、お邪魔させていただいたのは円香さんの件で――」

 つらつらと前口上を並べ立て本題に入る。

「円香さんの自室に上がらせていただくことは可能でしょうか」

「なぜ、円香の部屋に?」

 樋口・父が言った。

 尤もな質問である。

「円香さんの捜索に当たって、担当プロデューサーとして接した期間の最も長い私なら、何か手掛かりになるものを円香さんの自室から発見できるものかと思い……」

 苦しい言い訳に樋口の両親も渋面を崩さなかったが、最後までそれで押し通した。

 

 樋口の両親から許可を得て、樋口の部屋に入る。

 樋口の部屋は階段を上ってすぐのところにある。中は、落ち着いていながらもちゃんと女子の部屋だ。女子の部屋に上がるのは人生初なので緊張する……わけではなくて、これからとあることを確かめるのだが、その結果によっては最悪な事実が確定するので、それが俺の緊張を煽っている。

 俺は携帯ラジオを取り出して電源を入れる。周波数を合わせ、番組を流す。ニュースがつまらない非日常のできごとを並べ立てていた。俺は通信環境の悪い部屋で回線状況の良い場所を探すが如く部屋のあちこちを歩き回り、携帯ラジオを振り回していると――音声にノイズが雑じった。

 …………。

 冷たい石を飲まされたような感覚がする。

 が、結論づけるのはまだ早い。

 ノイズが走ったのはベッドのあたりだ。俺はベッドの裏に腕を突っ込み、ベッドの背を手で撫でて異物がないかを確かめる――――あった。取る。

 盗聴器だ。

「くそっ!」

 俺は思わず叫んでから、盗聴器をフローリングに叩きつけて足で踏みつぶしてぶち壊そうとするのをすんでで止める。

 ああ、ああ! これで樋口の身に何が起こったかほぼほぼ確定したようなもんだ。樋口はずっとどこぞの変態野郎に監視され、いよいよ我慢ならなくなったそのすっとこどっこいに誘拐されたのだ。

 もちろん結論付けるには早い。この盗聴魔の馬鹿が樋口を拉致った人物と同一人物である確証はまだない。

 だが、もう、そういうことだろう?

 部屋中のあらゆる場所をひっくり返して残りの盗聴器とそれからもしかしたらあるかもしれない盗撮用カメラを探すがそんなものは無かった。だが、どうだろう? ここまでするアホが音声ひとつで満足することなんてあるだろうか?

 分からん。だが――もし満足できていないのなら。樋口の生活のあらゆる場面を知りたいと、そのクソが欲望するのなら。

 もしかしたら、見ていたのかもしれない……直接。

 窓に近づき、外に目をやる。閑静な住宅地。どの家も頭が低く、この部屋を覗くのに向いているようには思えない。

 だが遠く――この窓から直線をずーーーっと引いていって辿り着くとある地点に、道具を使ってこの部屋を覗くのにちょうどな十五階建ての建物がある。

 

 俺の住むマンションだ。

 

 俺は散らかしたままの樋口の部屋を出て、樋口の両親に盗聴器を押し付けると「警察に連絡してください!」と言ってマンションに向かった。

 俺の中でいろいろと繋がった。

 透の話を思い出す。

 

   うん。なんか、握手会のときにいろいろ変なこと言われてた。『目が合ったよね』とか『俺に微笑んでくれたよね』とか

 

 その場面が俺の目には見える。

 樋口はひとり家を出る。彼女は夕飯の献立を考えている。考えていると、なんとなく俺の住むマンションを見てしまう。そして俺のことを思いながら、ふっと笑みをこぼす。

 そのとき、奇しくもマンションから樋口を監視していたそいつは、樋口と目が合ったと思っただろう。そしてその笑みを、自分に向けたものだと勘違いしたのだろう。

 全速力で駆けながら、思考も加速する。さらに気づく。

 樋口が誘拐された現場は、俺のマンションだ。

 樋口は俺のもとを訪ねようとマンションにやってきたその時、折悪くもストーカー野郎と出くわしてしまったのだろう。樋口がこのマンションに通っていたとストーカーが知っていたのか知らなかったのかは判別つかないが、おそらく咄嗟のことじゃないかと思う。

 偶然が重なったのだ。それが樋口を悪い方向へ連れて行き、その偶然性により、誰も樋口の行方を予想できないでいる。

 樋口の行方を捜索するにあたって、目撃証言や人物関係の観点に基づき警察は俺ひいては俺の住むマンションまで辿り着くだろう。だが、それまでだ。俺の住むマンションに辿り着くのはいいが、たまたま一緒のマンションに住んでいたストーカーの存在はそもそも想定外のことで、いわば推理小説の登場人物一覧に存在しない人物が犯人のようなものなのだ。見つけられるはずがない。

 

 さて俺んちに戻ってきたところでプランを考える。

 流石にこの建物すべての部屋を回ろうだなんて考えは不細工にすぎる。

 もっとスマートなやり方はないだろうか?

 そこで考える。

 犯人は、最初からこの部屋に住んでいて、あとから樋口の家を観察できるということに気づいたのだろうか? それとも、最初に樋口の家を調べ上げて、あとから観察するのに都合のいいマンションとしてここに引っ越してきたのだろうか?

 ここまで偶然が重なると前者の考えもありだが、樋口の家に盗聴器を仕掛け、咄嗟とは言え誘拐をおこなうだなんて行動力だけは無駄にあるこの犯人のことだ、樋口の家を調べ、それから樋口の監視に都合のいいこのマンションに引っ越してきたという後者の考えの方が、前者に比べて蓋然性が高くないか?

 なら、このマンションに……そうだな……半年以内に越してきた人間を調べ、そいつらに的を絞って部屋を訪ねていけば探索をスムーズに運ぶことができそうだ。

 もちろん前提が正しいかどうかは分からんが、無作為に一から調べるよりも方針を決めた方がずっといいに決まっている。間違っていたらすべての部屋を訪ねればいい。そもそもを言えばこのマンションに犯人がいるという推理すら前提から間違っている可能性があるのだし、もうできることをするしかない。

 俺はマンションの管理人をつかまえ、半年以内にここに越してきたやつについて訊く。

「え? そんなこと勝手に教えられんよ」

 俺はそのジジイにひたすら頭を下げて媚びておだてて話を聞き出そうとしたが、全然答えてくれないので胸倉を掴んで「教えねえと家賃滞納するぞクソ野郎! 人の命がかかってるんだ」と脅すと、202号室と503号室と601号室と701号室と702号室の計五部屋がそうだと教えてくれる。

「ありがとう、長生きしろよな」

 と言って六階へ。

 マンションの構造上、樋口の家を真っ正面から臨めるのは○○1号室の部屋だけだ。つまり目的地は601号室と701号室のみ。

 エレベーターが上昇を続ける中俺の心拍数はバクバク上がる。

 

 六階に到着。まだ開きかけのドアをすり抜けて俺は廊下を走り601号室の呼び鈴を鳴らす。

 だが誰も出ない。もう一度鳴らす。

「あの!」

 鳴らす。出ない。鳴らす。出ない。鳴らす、鳴らす、鳴らす、鳴らす――

「おいクソ犯罪者! さっさと出てきやがれ誘拐魔この野郎!」

 俺がイラついて怒鳴ると、

「なに? 誘拐魔?」

 と部屋の中から筋肉がバキバキで身長が190cmはあろうというスキンヘッドの大男が出てきた。

 俺はキュゥゥゥッと心臓が委縮し、息がしにくくなる。

「あ、あの……」

「あんた、なに?」

「す、すいません、お宅に円香さんという方はいらっしゃらないでしょうか……」

「いないけど」

「そ、そうですか。すみませんでした」

 俺は踵を返す。すると肩をがっしりと掴まれる。

「で、誰がクソ犯罪者って?」

 ――一分後、俺は顔面にあざを作って七階への階段を上る。

 さっきからいろんな所へ行って走って殴られて、俺はもうへとへとだ。

 今まで生きてきて今日が一番大変な日なのは間違いない。

 それもこれも、

 全部、樋口のためだ。

 全部、自分のせいだ。

 

 701号室の呼び鈴を押す。出ない。呼び鈴を押す。何度繰り返しても出ない。

 部屋の間取りについてだが、このマンションでは玄関から中に入ってすぐ横に台所がある。だからマンションの廊下の欄干を超えると、部屋の台所に繋がる窓が見える。欄干に足をかけて窓に手を伸ばしてもギリギリ窓に届きはしない。しかし、もし窓の錠が降りていないのなら、命を張れば――具体的には欄干から窓に向かって跳躍すれば――部屋に入ることが可能だ。

 窓は――少し開いているようだった。

 あーあー、やりたくねえなあ!

 でももう、ここまで来たからなあ!

 退路はふさがれている。こうなったら俺は無敵の人だ。

 心臓がもっもって言って嫌な汗が流れて全身が震えて口の中に嫌ァーな苦みが広がる。ここに来たことを後悔してるしなんでこんなことと思ってるけどやめようなんて考えは浮かばなくてそれが本当に嫌でしょうがない。

 やるしかない。

 俺は欄干に足をかけ――窓に飛び移る!

 飛距離が足りなければ七階の高さから地面にたたきつけられて即死だが――手が届いた! 俺は窓枠に手をかけ、なんとかよじ登り台所に侵入した。

 不法侵入。背水の陣。ここまで来たらもう何もせずには帰れない。

 

 これで間違いでしたなら最悪だと思ったが、本当の最悪はそうではなかった。

 

 キッチンは男の一人暮らしといった感じでとても汚く、まるでかつての俺の部屋を見ているようだった。この部屋は全体的にうす暗く、それ以上に重苦しく、人がいるような気配はない。だが、部屋の中の陰気臭さに胸騒ぎがする。嫌な予感がして、先ほどの命がけジャンプとはまたべつの怖さがある。

 その恐ろしさから逃れるため、俺は楽な希望に縋る。

 もしかすると単に留守なだけかもしれない。

 しかし現実がそっちに転がることはなかった。

 台所を抜け、俺はついにゴールにたどり着く。

 

 ゴールにあったのは――うす暗い部屋の中で仰向けになっている樋口の死体。

 

「あああっ!」

 俺は叫んで、樋口のもとに駆け寄った。口許に手をやる。息をしていない。樋口の目は薄く開いていてどこを見ているか定かではなかった。瞳孔は開き、うつろな瞳を宙に向けている。樋口の顔のすぐ真横に嘔吐物があった。口の端にもゲロがついていたが俺はもうそんなことはまったく気にせず樋口を抱き上げようと背中に手を回した。樋口の身体は以前抱きかかえた時よりもずっと重い。背中に当てた手に力を入れると胸だけが持ち上がって後頭部が床に接したままでそのまま首が折れてしまうんじゃないかと怖くなった俺は頭にも手を差し込み樋口を持ち上げた。樋口の身体は重力やその他外部から加わる力に一切抵抗しなくなっていた。自分の頭を支えられない赤ん坊を抱きかかえるようにして、俺は樋口の胸に顔を埋めて泣いた。

「樋口っ、樋口っ」

 情けなく裏返る声で何度も樋口の名前を呼んだ。手遅れになってしまった樋口の名前を呼んだ。

 

 ああ、ああ!

 俺はまったく、どうして手遅れになって初めて気づいたんだろう!

 俺はどうしようもなく樋口のことが好きで、樋口がどこにもいなくなってほしくなんかなかったということに!

 

 真っ暗で広くて冷たい宇宙の中で初めて触れた人工の光みたいな樋口。

 仕事を辞め独りになって倒れた俺を介抱し卵焼きを作ってくれた樋口。

 

 そんな樋口を俺はばっちり好きになってしまっていたのだ。それ以外はもう欲しくなんてなくなっていたのだ。

 当たり前だ。そこまでしてくれた女の子のことを好きにならない男が、この世のどこにいるのだろうか? これは俺が当たり前に樋口のことを好きになってしまったというだけの話だ。そして異常な形であり得ない形でそれを失ってしまったという話だった。

 もう手遅れだ。

 今になって気づいても、遅すぎる。

 だからこの気持ちを口にしたところで意味なんてない。

 だがそうして遅いと決めつけて今この気持ちを口にしなかったら、俺はそのことを一生後悔するんじゃないか? 手遅れでも意味がなくてもあのとき言えばよかったと、そしてもう今さらになってそれを言ったところで遅すぎると、一〇年後、二〇年後、三〇年後、俺は一〇年前を振り返りながら後悔し続けるんじゃないか?

 いつだって今しかないのだ。

 俺は言う。

「樋口……遅くなってごめん。俺、やっと気づいたんだ。本当は樋口のことが好きで、失いたくなかったことに。樋口さえいてくれれば他の見返りなんて何もいらなかったのに……。

 俺のことを最後まで見捨てないでくれてありがとう。俺を助けてくれて、ありがとう。

 本当にありがとう、樋口。俺、この先一人でもまっとうに生きれるように頑張るから――」

 そう誓って、心のなかでさらに付け足す。

 樋口をこうした馬鹿を絶対に許さないと。

 そいつは俺の告白を聞いているのかいないのか、部屋の隅で体育座りをしてうずくまっていた。

「おい、顔を上げろクソ野郎」

 呼びかけられ、びくっと震える。そしておずおずと顔を上げる。

 憎たらしく憎たらしくててたまらないその顔を今すぐぶん殴ってやりたかったが、情状酌量を訴える時間を与える。

「何か言い訳はあるか?」

 そいつは言った。

「まっ、円香がっ、悪いんだよっ。俺が、俺っ、俺のっ、俺がいながらっ、アイドルなのにっ、男と遊んでっ、俺はっ、悪くないっ」

「……なるほど」

 

 殺す。

 

 俺はそいつの腕を引っ張り上げる。「うわあああっ」と悲鳴を上げるそいつの顔面をぶん殴って壁に打ち付けると、死んだように静かになった。さらに追撃しようとそいつに近寄ると、「あああああああああっ!」と奇声を上げながら俺に飛びかかって来た。

 そいつは両腕を風車みたいに回し――俗にいうグルグルパンチで俺に反撃を仕掛けてきた。

「――ってえ! ちょ、おまっ、やめっ――いって! おい、それやめろよっ! こら――てめえ! 犯罪者の分際でやり返してくんじゃねえぞ!」

 がりがりに痩せて喧嘩馴れもしてなさそうなそいつのへなちょこパンチなんて効くはずもないが、言ってしまえば俺だって部屋に引きこもってばかりの上この五日間はろくに飯も食わずあちこちを走り回って殴られてきたばかりの身の上なのだ。鬼気迫るそいつの猛撃に押され、ついにクリティカルなパンチを身体の正中線に見舞われる。

「がはっ!」

 俺は短く吐いて仰向けに倒れそうになり――

 樋口の胸の上に勢いよく尻もちをついた。全体重で樋口の胸をプレスする。

「樋口っ!」

 すでにこと切れているとはいえ、樋口を傷つけたくなかった。俺は慌てて樋口の上からどく。すると――

「がっ――――はっ! げほっ、げほっ――! ――はあ!」

 樋口が大きく息を吸い――むせた!

 生きているのだ!

「樋口!」

 

 樋口!

 樋口!

 樋口!

 

 何か途方もない感情それも喜び八割が俺の胸を去来し目の奥が熱くなった。

 そうして俺が樋口を抱きかかえたのは何も感極まってというわけではない。樋口と向き合う俺の後ろで、馬鹿あほクソの低能が獲物――バストイレから取って来たデッキブラシを手にして近づいてきたのを悟ったからだ。

「オアアアアアアアアアアアアっ!」

 樋口の頭を抱きかかえながら、背中に打撃を浴びる。俺が反撃しないのは、やつの振るうデッキブラシが万が一にも樋口の頭部に直撃しないようにするためである。せっかく助かるかもしれない命なのだ! みすみす奪われるようなことがあってはならない。

 やつは俺が意識を手放すまで攻撃を止めないだろう。なので俺は身体の力を抜いて死んだふりをしようとするが、全身の緊張を緩めると同時に意識まで手放してそのまま二度と力が入らなくなりそうだった。だから力を抜きつつ意識は手放さないというギリギリの境界線で俺は耐え続け、やつの攻撃が止んだところですかさず立ち上がってぶん殴る。

 またもや壁に打ち付けられたそいつの頭を、今度こそ反撃がないようにデッキブラシでぶん殴りしっかりとどめを刺してから電話を探す。

 時間は限られているのだ。

 樋口の身体は衰弱していて、もたもたしていたらいずれろうそくの炎のようにふっと消えて失われてしまうかもしれない。

 俺は警察と救急に電話をかけた。駆けつけてきた救急隊員が意識のない樋口を運ぶ。俺も手負いなので、付き添い人を兼ねて樋口と同じ救急車に乗った。

 その間俺はずっと樋口の手を握り締めて名前を呼びかけた。気絶なんかしていられない。

 途中、樋口がほんの少し視線の焦点を俺に定めて、

「プロ……でゅー……さー」

 と久しぶりに俺をその呼び方で呼んだ。

 意識が混濁しているためか、それとも俺がスーツ姿だったためか。

 いずれにせよその時俺は感動で全身を打ち震わせた。

 何者でもなかった俺という存在がようやく定義されたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 以下は事件の顛末である。

 俺の予想通り、樋口は俺の部屋に向かう途中、エレベーター内であの男に襲われ誘拐されたらしい。樋口は強く抵抗したが、それは男にとって意外なことだった。おそらくだが、アイドルのイメージでしか樋口を知らない男にとって、抵抗の際樋口が吐いた言葉の数々は自分が夢に見ていた理想の樋口をぶち壊してしまうそれだったに違いない。

 そして樋口は男に誘拐されてからもずっと反抗的な態度を取り続け、男を苛立たせた。

 男はいつまでも抵抗をやめない樋口にとうとうしびれを切らして睡眠薬を無理やり飲ませた。仕置きの意味も込めて、大量に。

 多量の睡眠薬でオーバードーズを起こした樋口は意識を失った。そして吐いたゲロが喉に詰まって窒息し、身体が衰弱していった。

 しかしその後、男に突き飛ばされた俺が勢いよく樋口の胸に尻もちをついたことで、喉につっかえていた嘔吐物が吐き出された。運よく気道が確保され、一命をとりとめたのだという。

 幸い男は樋口に対して睡眠薬を無理やりに飲ませる以外の暴力らしい暴力は働かなかったと言うが、樋口の心には大きな傷跡が残ったろう。もっとデッキブラシで殴っておけばよかったと思う。

 

 

 

 

 

 

 樋口は苦痛を伴う胃洗浄で身体の中の薬物を外に出したが、意識は混濁したままだ。知能レベルが著しく低下し、まともな判断や高度な意思疎通は難しいと聞く。

 

 

 

 

 

 

 知能レベルが通常に戻ったと聞き、俺は樋口の病室を訪ねた。

「よ、樋口」

「……しばらく見ない間にずいぶんとみすぼらしい顔つきになりましたね」

 開口一番からこの悪態だ。

 だが俺はそれすらも心地いい。

「いろいろあってな」

 肩をすくめると背中が痛んだ。

「ってぇ……」

「大丈夫ですか?」

 樋口は慌てて身を起こした。

「や、大丈夫だから」

 言いながら樋口のそばのパイプ椅子に座る。

 樋口を見る。ちゃんと呼吸して、意識もあって、俺のそばにいる。ただそれだけのことがすごく特別で、井戸の底よりも深い……深い感慨を抱いた。うっかりすると涙をこぼしてしまいそうにさえなった。

 樋口が突然言った。

「私……アイドル続けます」

「え?」

「退院したら、アイドルに復帰して、これまで通りにちゃんと稼ぎます。だから……」

 その先は言わせなかった。樋口の手の甲に俺の手のひらを重ねて、言う。

「いろいろあって複雑だけど、樋口がアイドルを続けてくれるのは嬉しい。でも、それが俺に見返りを与えるためだけに復帰するって話なら、絶対に無しにした方がいいと思う」

「でもっ」

 俺は首を横に振った。

「俺、やっぱりちゃんと働くことにするよ。樋口だけ何もかも背負わなくてもいいようにさ」

 言うと、樋口が例の悲痛な顔をした。

「そうしたら……きっとあなたは私の前からいなくなってしまいます」

「いや、俺はどこにも行かないよ」

「どうしてそう言い切れるんですか」

「今回のことで、俺、樋口のことが好きって分かったから」

「何……気持ちの悪いこと言ってるんですか」

 樋口は窓外に目をやるフリをして顔を逸らした。

 長い沈黙が降りるが、悪い気分ではない。

 伝えるべきことを伝えられる現実に俺は感謝した。

「……わかりました。もう、勝手にしてください。それで、なんの仕事に就くんですか」

「それなんだけど」

 俺は待ってましたと言わんばかりに切り出す。

「アイドルのプロデューサーをやることにしたんだ」

「えっ?」

 驚いた顔でこちらを向く樋口。

「283プロに戻ることにした――幸い、社長は許してくれたよ。本当に甘い人なんだから…」

 救急車の中で樋口にプロデューサーと呼ばれた時、電撃が走ったような気がした。世界が俺という存在に与える役割として、アイドルプロデューサーという職があるんだと確信した。俺の役割はここにしかないと思った。

「これは子供じみたわがままかもしれないけど、家にいる時間以外にも、多くの時間を樋口と共にしたいと思ったんだ。これ以上幸せなことなんてないと思うんだけど、それってやっぱりダメダメかな?」

 問いかけると、樋口が微笑む。

「……はい、本当にダメな――――いえ、」

 いつもの口癖を言いかけて、止める。

 それから続きを口にすることなく、目を閉じた。

 俺は手近にあったリンゴを手に取って果物ナイフで皮をむいていく。ウサギは作れないが、食べやすいサイズに切ることはできる。携帯を見ると、そろそろ出ないといけない時間だった。これから事務所に行かなくてはいけないのだ。

 俺は立ち上がって、「ごめん、そろそろ行くから。じゃあ」と言い、樋口に背中を向けた。

 すると樋口が、不意に先ほどのセリフの続きを言った。

 

「そのスーツ、立派だと思います」



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