メイデンボヤージュ (ネビュラプロ就職希望)
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①-1

 福島(ふくしま)ノアは、可愛いものに目がない。

 まあ実際には目が無ければ、視界に映るものが可愛いか可愛くないかを判断できないし、下手を打つと可愛いという概念を理解できるかどうかすら揺らいでしまう。事実硝子玉のように透徹した双眸が、それぞれの眼窩(がんか)に収まっているのだけれど。

 普段は博学才穎、品行方正。

 淑やかで、しなやか。

 たおやかで、柔らか。

 しかし、彼女が可愛いものを発見した際の豹変ぶり。それを考えると、表現上では“目がない”とするしかない。

 この話を、何とはなしに()()()()()に振ってみた。するとお姉ちゃんは、「ノアが可愛いものを発見した時、無くなっているものは目じゃなくて自我なんじゃない?」と返してきた。

 自我が無くなる。もとい我を失う。

 実の姉ながら、エスプリの効いた答えだった。あの日、聴いたあれを思えば言い得て妙だ。“あれ”とはタッタッタッと腕の立つドラマーが刻むビートの如く至極規則的で、それでいて着実に彼方から此方へ何かしらが接近していることを知らせるように僕の耳朶を打ったその音は、紛れもなく、間違いようもなく我を失った彼女の足音だった。

 思い返せばそれが福島ノアとの初対面である。いや、わざわざ思い返す必要などなかった。その衝撃たるや、どれだけ月日を重ねたとしても忘れることはないであろう。だからこそ僕はこうして話の種にしているし、思い出語りに花を咲かせようとしているのだから。

 彼女との邂逅の一体何処が、どれほど衝撃的なものだったのか。その微に入り細を穿った説明は後々語るものとして、勘案しているうちに福島ノアは可愛いものに目がないのではなく、可愛いものにしか目が行かない、の方が正しいのではないかとも思えてきた。

 自家撞着も甚だしい。

 全くもって恥ずかしい。

 そんな具合に、これから語ろうとしている少女の特徴を言い表す言葉すら、探すのに手間取ってしまうような僕だから、すぐに見失ってしまうような僕だから、先にこの一言だけ断言しておこうと思う。

 

 恋は盲目だ。

 

 

 日めくりカレンダーを見ようが、月めくりカレンダーを見ようが、卓上カレンダーを見ようが、はたまたカレンダーのアプリケーションを見ようが、今日は、その日付欄に記されたアラビア数字が赤く染まった日曜日だということは、外出前の十数回に及ぶ多重チェックによって確認済みである。

 ユダヤ教・キリスト教の聖典である旧約聖書『創世記』によると、神は次六日間で世界を創造なされ、七日目にお休みになられたという。それが長い時間を経て、一週間と日曜日という概念になった。

 現代日本においても、日曜日は殆どの学生や会社員にとってお休みの日であるわけだけれど、その休日の過ごし方は三者三様であろう。自宅で、溜めていた本やアニメを消化する人もいるだろう。平日は行けないような遠方に家族とお出かけしたり、あるいは買い物をしようと足を運ぶ人もいるだろう。

 どっちにしろ休日というものはウキウキとしたり、ホッとしたりするものであって、その赤いアラビア数字にブルーな思いを馳せている人は、例外中の例外というほかない。

 

 その例外というのが僕のことだ。

 

 僕は折角の休日をブルーな気分で迎えた。というより、現在進行形でブルーな気分である。

 ブルーというよりかはマリンブルーか。

 ここは都心に屹立する大型ショッピングモール。

 僕は、ふとショーウィンドウに映り込んだ自分の姿を、視界の端に捉えた。花柄のワンピースに無地のカーディガン、そして黒のタイツにショートブーツ。マリンブルーというのは髪の色のようで、それが肩口まで伸ばされている。背丈は、23対目の染色体の構成がXXの者にしては高めの部類だ。

 先程から、一人称として「僕」を使っていることも合わせて、どうも所謂「僕っ娘」らしい。

 ────と思った読者には非常に心苦しく、申し訳なく思うのだが、僕は男だ。いや、精神的な性別が男だとか、そういうわけではなくて、オギャーとこの世に生まれ落ちたその日から僕は男であったし、七五三は三歳と五歳の時にやったし、端午の節句が近づくと五月人形を眺めていたし、男でなかった日は一日たりともない。別に僕自身は読者をからかったり、誤謬を招くような意図はなかったのだけれど、ありのままの姿を描写した結果、豈に図らんや、糠喜びをさせてしまったようで重ねて謝罪しておく。

 

 そうやって、僕が男であるということを証明してみせたところで、次の疑問は何故に僕がそんな女性的な格好をしているかという点に移ることは理の当然であると思うし、きっと僕が同じ立場でもそう考えるはずだ。

 そしてその回答は、僕の十センチ程度下から弾き出されることとなった。

 

「うんうん。やっぱり乙和(とわ)ちゃんのセンスはバッチリだね。ハルちゃん、本物の女の子みたい」

 

 言いながら、僕が映り込んだショーウィンドウをまじまじと見つめる少女こそ僕が休日に女装をしている理由にして元凶。

 僕の実の姉、花巻(はなまき)乙和である。

 流石に服のサイズやら背丈やらは違うけれど、髪型は現在の僕のものとほぼ同じで、顔もよく似ていると思う。勿論、髪の色はマリンブルー。

 彼女はどうも僕を着せ替え人形のごとく扱っているようで、自分の背丈では似合わなさそうな着合わせを僕にさせてくる。

 別に彼女とて強要してきているわけではないから、断ればそれで済むのだろうけれど、訳あって僕は彼女の要求はある程度呑むことを標榜としているので、受け入れた形だ。

 しかしながら、いざ街に繰り出してみると気恥ずかしさみたいな感情が自然湧き出てきて、ちょっとブルーもといマリンブルーな気分になっていたところである。

 何が落ち込むって、自分でも結構似合っていると思えるところが落ち込む。まるで、僕がとてもなよなよとした男みたいではあるまいか。

 先程、背丈は23対目の染色体の構成がXXの者にしては高い部類だと言った。それは裏を返せば、構成がXYの者にしては低いということでもある。まだ骨端線が閉じていないことを祈りつつ、牛乳を飲んで早寝を心がけるしか道はない。

 でも、姉や地元の友人と幼少の頃からマリンスポーツに興じてきたこともあってか、マッチョというわけではないにしろ、身体はそこそこ引き締まっている方ではあると自負している。断じてなよなよとしてはいないはずだ。

 ちなみに、女装して出掛けるのは初めてではない。慣れているといえば慣れているのだから、そうマリンブルーになる必要はないだろうともう一人の僕が宥めにきたけれど、「いや、そんなもん慣れたかねぇわ!」と一喝してしまい、彼は雲散霧消してしまった。

 

 そんな感じで言い訳がましいことを縷々と述べたところで、未だにショーウィンドウを見ていた乙和を置き去りにして歩を進める。

 

「あ、待ってよハルちゃん!」

 

 乙和はトコトコと小動物のような早歩きで、僕との距離を詰めてきた。姉としての威厳が絶無な光景である。

 

「んもう。こんなに可愛いお姉ちゃんを置いてくなんて、酷いよ」と頬を膨らませながら乙和。

 

 それに対して僕は戯けるような口調で、こう返した。

 

「いやぁ。悪い悪い。僕は前しか見ない性格なもんだからさ。まさか付いて来てないとは露程も思わなかったよ」

 

「お姉ちゃん!」

 

「ん?」

 

 藪から棒な発言に、僕は思わず素っ頓狂な声を出す。

 

「お姉ちゃんとお呼び!」

 

 乙和は腰に手に当てながら言う。

 

「はいはい。次からは気をつけるよ、()()

 

「もうっ。気をつけてないじゃん!」

 

 プリプリと怒りながら乙和はさらに続ける。

 

「昔は“お姉ちゃん”って呼んでくれてたのになぁ」

 

 懐旧談を口ずさみむ乙和。その足取りは、近くに石ころが転がっていたら蹴っていそうな調子だ。まあ、ショッピングモールの中だから石ころなんて落ちてないけれど。

 

「でも、さっきの修辞的な表現。何だか咲姫(さき)ちゃんみたい」

 

 いや修辞的な表現というか、お前はあまり背が高くない僕よりも更にちんちくりんだぞ、という皮肉を込めたのだけれど、どうやら伝わらなかったようだ。それよりも、僕が聞き慣れない人名が出てきた。いや、何処かで聞いたことがあるような気がしないでもないけれど。

 

「咲姫ちゃん? 誰だそれ?」

 

「えぇ!? 前にも説明してあげたじゃん。ハルちゃん忘れちゃったの?」

 

 呆れたように嘆息しながらも、「やれやれ」といいながら解説を始める乙和。姉としての威厳を保てるのが嬉しいのだろうか。

 

「咲姫ちゃんというのは、我ら《Photon Maiden(フォトンメイデン)》のDJ兼ボーカル、出雲(いずも)咲姫ちゃんのことなのです」 

 

「ああ、フォトンの人なのか。それで何処かで聞いたような気がしたのか」

 

「うん。咲姫ちゃんはね、共感覚っていう能力があって……」

 

「ああ。本とかで読んだことあるな。一つの刺激に対して、別の感覚も同時に生じることだっけ?」

 

 例を引くと、聴覚情報に色を感じたり、味覚情報に音を感じたりすることがあるのだとか。

 

「なーんだ。知ってるんだ。つまらないの」乙和は唇を尖らせる。より一層小動物感が増したように感じる。

 

 そんな乙和だったが、にわかにぱっと顔色を明るくした。その視線の先を追ってみると、成程、クレープ屋さんだった。乙和はクレープ屋さんをはじめ甘味処を見ると、自然頬の肉が緩むという体質の持ち主なのだ。

 

「おいおい。大丈夫か。乙和だってフォトンの一員なんだろ。太ったらパフォーマンスに影響が出ちゃうんじゃないのか?」

 

「ふ、太っ……。んもっ。衣舞紀(いぶき)みたいなこと言わないでよ」

 

 またもや聞いたことがあるような無いような名前に、「衣舞紀?」と反射的に返した。

 

「ああ。衣舞紀のことも忘れちゃっているんだ」

 

 乙和はやれやれと肩を竦めた。さっきまでの緩みきった顔は何処へやら。再び得意げな顔になって、

 

「衣舞紀。本名、新島(にいじま)衣舞紀は、フォトンのリーダーの娘。ストイックなんだけれど、他人にも厳しいって感じなんだよね。プロポーションの維持の為に甘いものは控えなさい、って頻りに言ってくるんだ」

 

と至極記号的な紹介をしてくれた。

 

「成程ね。その新島さんとやらはストイックなのがネックで、僕のさっきの忠告によって彼女の言を思い出して、それこそ恐怖が鎌首を(もた)げてきたと」

 

「おお! 今度は言葉遊びかぁ。“ネック”っていくのと“鎌首”っていうのを掛けてるわけだね」

 

「説明するな。恥ずかしくなる」 

 

「いやいや。中々いい趣味をしていると思うよ」 

 

「この手の言葉遊びに定評のある作家さんがいるんだよ。その影響だ」

 

 閑話休題。

 乙和は胸の前で両手を軽く握りながら言う。

 

「でもでも、最近はあんまりクレープ食べてなかったし、それにほぼ毎日レッスンで体力使っているんだし、自分へのご褒美としていいでしょ?」

 

「まあ、僕は別にフォトンのパフォーマンスに容喙(ようかい)するような立場じゃないし、いいんじゃないか?」

 

「わーい。さっすがハルちゃん! お姉ちゃん想い〜」欣喜雀躍(きんきじゃくやく)とする乙和。忙しい表情筋だ。

 

「じゃあさ。じゃあさ。二人で別々のフレーバー頼もうよ。それをシェアされば二つの味を楽しめるわけだし」

 

「いいよ。でも、それは僕の買い物を済ませてからな。流石に食べ物を持って本屋に入るのは頂けないから」

 

「はいは〜い。分かってますよ〜」

 

 乙和は莞爾と笑いながら、ステップを踏むような軽い足取りになる。姉弟とかそういうのを抜き目にしても、かなり分かりやすい性格をしていると思う。

 それにしても、本人が居ない前でもその言いつけを守るとは。新島さんとやらに結構な信頼を寄せているようだ。

 

 そんなことを考えていると、矢庭に僕の方に向き直って、「それにしても」と言を紡いだ。

 

「本を買う為だけに都会に出てくるなんてね」

 

「ああ。好きなの作家さんのサイン本屋がここに入ってる本屋に置かれてるらしくてさ」

 

 潮風の香る僕らの地元には、あまり大きな書店がないので────いや、変なプライドが一瞬邪魔してきたけれど、忌憚なく言うなら僕らの地元は()がつく田舎で、大型書店なんてものは絶無なので、こうして遠出をすることになった次第である。

 

「それ、電子書籍とかじゃだめなの?」

 

「電子じゃサインはできないだろ」

 

 僕の返答にふうん、と乙和。とても興味がなさそうである。しかしながら、他に変える話題も見つからないようで、

 

「で、何ていう作家さんなわけ?」

 

と尋ねてきた。

 

「ああ。百目鬼(どうめき)仁美(ひとみ)先生、アイ先生っていえば分かるかな? その人の新作だよ」

 

「いや、全く聞き馴染みがないんですけれど。何、その目要素たっぷりの作家さんは」

 

「お! 勘がいいじゃん。百目鬼仁美先生、通称アイ先生は、修士課程在籍中に『眠気眼(ねむけまなこ)』って作品で作家デビューしてさ。主人公の高校生たちの甘酸っぱいくも、生々しくて時に残酷な青春模様が見事に描かれていて、処女作にして傑作って言われているんだよね。んで、その後修士課程を修了してからは本格的に活動を開始して、『視線』ではミステリー方面にも展開したんだ。元々、見落としてしまうような細部に張られた書き方から、“瞬きを許さぬ作家”って言われてた時期もあっただけに発表されたときには期待が高まったんだけど、いざ世に出回ってみるとそれを裏切らない、いや、良い意味で裏切ってもきた作品でさ。それ以降ミステリーは書いてないんだけど、是非もう一作書いて下さいって、あちこちの出版社から要望が来てるんだってさ。そして、最新作の『見えない糸』なんだけれど、これは発表時のインタビューでアイ先生本人が、執筆している最中で『眠気眼』の頃に回帰いる感が出てきた作品ですって答えてから、一気に注目が集まったんだ。ああ。もうここまで説明したら何となく察したと思うけれど、アイ先生っていうのは、先生が視覚情報を中心に緻密な情景描写をする作風が特徴的だから、ファンからはそう呼ばれるようになったんだ。それで……」

 

「ストッープ! 長い、とてつもなく長いから。いきなりそんな滔々と語られても脳の処理能力が追いつかないから。っていうかその先生、作品のタイトルまで目関連のワードばかりじゃん! もはや狂気だよ」

 

 キャパシティの限界だと言わんばかりに頭をブンブンと振りながら乙和。

 彼女は感嘆と呆れが綯交(ないま)ぜになったような口調でさらに続けた。

 

「ホント、ハルちゃんって本が好きだよね。ノアと気が合いそう」

 

 驚くべきことに、本日三度目となる同様のやりとりである。

 

「はいはい。その人もフォトンのメンバーなんだろ?」

 

「え、何で分かるの? ハルちゃんいつの間にエスパーになったわけ?」

 

「もうこの流れならそうとしか思えないだろ。で、そのノアさんとやらはどんな人なんだ?」

 

「う〜ん。はっきり言って変人だね」

 

「変人? 乙和に変人呼ばわりされるなんて、そりゃもはや変人の域を超えてるんじゃないか?」

 

「ちょっと! それどういう意味?」乙和はむっと両の頬に空気を含ませて言った。

 

 そんな話をしながら歩いていると、天井から吊るされたインフォメーションがあった。そこには、赤と青で色分けされたピクトグラム。それを見るや否や乙和は思い出したように、

 

「ごめんね。ちょっとお花摘みに行ってくる」

 

「花? こんな都会の建物の中に花畑なんてあるのか?」

 

 僕は戯けてキョロキョロと周囲を見渡す仕草をする。

 

「もうっ。ハルちゃん。そんな意地悪言ってると女の子にモテないよ」

 

「別にモテなくてもいいよ。っていうか早く行って来なよ」

 

 僕がそう言うと、乙和は小走りでお手洗いの方に駆けていった。

 

 転ばなきゃいいけれど。遠ざかるその足音を聞き届けながら僕は思った。

 

 それは、そんなフェードアウトしていく足音に呼応してフェードインするように。

 

 聞こえてきた。

 

 タッタッタッと腕の立つドラマーが刻むビートの如く至極規則的な音が。

 

 それでいて着実に彼方から此方へ何かしらが接近していることを知らせるように僕の耳朶を打ったその音が。

 



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①-2

書き忘れましたが、ヒロインはノアです。


 僕はその足音に反応して、向き直る。そうして、僕の虹彩に足音の主を映した。

 

 色素の薄い、金糸のような髪。これをお団子ヘアのような状態で結い上げられている。“ような”、などとひどく曖昧模糊(あいまいもこ)な表現になってしまったのは、お団子部分の周囲に、編み上げられた髪がさらに巻かれているからである。ポニーテールの尻尾の部分を丸めたものをシニョンというらしいけれど、女性の髪型というのは、そうやって少しアレンジが加わるだけで、名称が変わるものだから、あくまで“ような”というところで留めておく。

 特筆すべきは髪だけではない。

 磁器と見紛う白皙(はくせき)

 硝子玉の如き双眸(そうぼう)

 整った鼻梁(びりょう)

 柔らかさを感じさせる唇。

 メイクや服装こそ今めかしい感じだけれど、それはあくまで本来の素材の良さを十二分に活かすための術に見える。

 総じて、とても美人だというのが正直な印象だ。

 

 しかし、よくよく見るとその頬は朱に染まり、熱い吐息を荒く吐いていた。

 ここだけ切り取ると何だか色っぽい、艶っぽい表現ではあるけれど、どうも様子がおかしい。

 

「可愛いっ……!」

 

 眼前の彼女は確かにそう言った。

 その言の対象が何なのか、もとい誰なのか。

 それを理解するのに数秒を要したことで。

 反応が遅れた。失敗した。

 取りも直さず遅きに失した。

 

 彼女が、僕の元に猪突猛進としてくることに気付かなかったのだ。回避の手段が選択肢から消滅した今、僕にできはことは可能な限り足を踏ん張り、衝撃に備えることだ。

 僕の思考は見事神経を介して身体に伝わり、僕をして彼女を受け止める肉の壁へと変化せしめた。

 

 それからコンマ数秒後、予想通りの衝撃が訪れる。これには対応できた。しかし問題はその後だ。彼女はその両腕を僕の背中へと回し、その身体を寄せてきた。つまりは抱擁である。

 

 どうやら肢体はほっそりと、それでいて女性らしい柔らかさを保っているようだ。

 芳しい匂いがしては、僕の肺を満たす。僕は香水に関して明るくないのだけれど、どこか有名なブランドのものでも使っているのだろうか。

 

 ────って呑気に描写している場合ではない。

 僕は今年16歳となる高校一年生だけれど、残念ながら、今日に至るまで異性と甘い関係を築いたことなど一度もない。女難という概念がこの世に存在することが信じられないけれど、もし存在するのであればとことん生き難くなってしまえ、と法界悋気(ほうかいりんき)する。そんなタイプの人間である。

 だから、いきなり美人から熱い抱擁を受ければ、当然吃驚(びっくり)だ。

 いや、少し違う。驚いてこそいるけれど、(ども)ってはいない。声が出ていないからである。

 すると、彼女は口を開く。

 

「乙和〜。何それ? 普段と一風違って超可愛いんですけど。ギャップ萌えってやつですか。マジで可愛すぎてキレそう。いや、待って。逆に落ち着いてきた。あと一世紀こうしてたら完全に戻るからちょっと待って」

 

 状況を整理してみよう。僕は今現在、乙和によって女装させられている。背丈こそ男女差はあれど、自分で見ても普段の乙和とそっくりだ。ならば、第三者からの遠目では見分けがつかなかったのも無理はないのかもしれない。いや、でもこんな突然に抱擁されるなど考えてもいなかったし。

 周章狼狽(しゅうしょうろうばい)を通り過ぎ、硬直状態にある僕。

 

 そこに助け舟が訪れた。

 

「ハルちゃん、お待たせ───ってノア!?」

 

 舟は舟でも沈没船だったけれど。

 ノア。その名前には聞き覚えがある。というか聞いたばかりの名前だ。

 今、僕を両腕の中に逼塞している彼女が、《Photon Maiden》の福島ノアさんということか。

 

 福島さんはやってきた乙和を一瞥すと、ただでさえパッチリとした目を見開いた。そして乙和と僕を交互に見比べて、微かに声を漏らした。

 

「え? 乙和が……二人?」

 

「……どうも……」

 

 いくら女装をしていようが、声までは変えられない。無事に変声期を終えた、Y染色体特有の低い声が辺りを反響する。

 刹那、福島さんは耳の端まで林檎の如く真っ赤になった。

 

 

「本当にごめんなさい」

 

「いえいえ、別に気にしてはいませんから」

 

 それから福島さんは、幾度となく深々と頭を下げてきた。その行為には謝意以外は含まれていないのだろけれど、公衆の面前で何度も婦女子から謝られているというこの状況は、あまり居心地が良いものではない。

 しかも謝罪の対象が女装した男だと分かったときには、愈々僕は二度とお天道様の下を歩くことは叶うまい。

 

「ノア! だからいつも落ち着きなって言ってるのに」

 

「うぅ……。今回ばかりは返す言葉もない」

 

 そんな僕の思いを余所に、乙和は福島さんに追撃を加えていた。福島さんはしゅんと肩を窄める。しかしながら、彼女の方が乙和よりも割合身長が高い、というか福島さんはかなりスタイルが良い女性なので、実の姉には非常に申し訳ないけれど、背伸びしたがりな子供感がする。

 とは言え、彼女が立つ瀬が無い思いでいるのは事実だろう。瀬を作るなどと天地創造的なことはできないけれど、助け舟を出すことがこの場で僕に与えられた役割のはずだ。

 

「本当に気にしていませんから。むしろ貴女の経歴に瑕疵が付かないか、僕はそっちを気になりますよ」

 

「いやいや、もう何とお詫びしたら……。ってあれ? 私まだ名乗っていないような」

 

「ああ。さっき、豈に図らんや、貴女のことを乙和から聞いたんですよ」

 

「そうだったんですか!? すごい偶然ですね」

 

 福島さんは鷹揚に微笑むと、「それにしても」と更に続ける。

 

「貴男が乙和の弟の……」

 

「はい。名乗り遅れました。花巻(はるか)です。いつも姉がお世話になっております」

 

「どうもご丁寧に」

 

 僕と福島さんとの間で繰り広げられる社交辞令。蚊帳の外に置かれていた乙和が、そこに容喙する。

 

「ちょっとハルちゃん! 何で私がノアにお世話されている前提なわけ?」

 

「だって、どう考えても福島さんの方がしっかりしていそうだし」

 

「むぅ。はっきり言って良いことと悪いことくらいあるんだよ!?」

 

 いや、福島さんの方がしっかりしていることは認めるのか。僕が胸裡でツッコミを入れていると、乙和は続けて言った。

 

「でも、ノアの琴線に触れるなんて、やっぱり私の目に狂いはなかったわけだね」

 

「福島さんの琴線に触れると、何かあるのか?」

 

「ノアはね、可愛いもの絡みになるとああなるんだよ」

 

 やれやれ、とわざとらしく肩を(すく)める乙和。

 ここで僕はようやく、乙和による福島ノアの紹介を思い出す。一言で言えば変人。さもありなん、というほかない。

 可愛いものを愛でたいという気持ちは理解できよう。しかしながら、知人とはいえ(今回は知人じゃなかったけれど)、(てん)として恥じることなく抱きつこうとするのは、一切言い訳の余地なく変人だ。

 外見が“清楚で知的なお嬢さん”という印象を見受けるだけにギャップが凄まじい。

 

「いやぁ。自信に繋がりますなぁ」腕を組み、頷きながら乙和。

 

「いや、実害が出た以上はもう女装はしないぞ」

 

「えーっ。折角第三者から見ても似合うって証明されたところなのに」

 

「だからこそだよ。一昔前のアニメなら、ここで『トホホ〜。もう女装はこりごりだよ〜』って画面が丸く、黒く閉じてオチがついていた頃だろうよ」

 

「うっわ、古っ。ジジ臭いのは趣味の読書だけにしときなよ」

 

「読書はジジ臭くねぇ!」

 

 とんでもない偏見だ。全国の読書愛好家に謝れよ。

 そう言いかけると、クスクスと笑い声が耳朶を打った。見ると、福島さんが鷹揚(おうよう)に手で口を覆いながら笑みを浮かべている。

 

「あぁ。ごめんなさい。なんだか二人のやりとりが可笑しくて」

 

 その言を受けて、僕と乙和は顔を見合わせる。

 ノンバーバルコミュニケーション。

 姉弟間の暗号。

 一時休戦の協定が水面下で結ばれた瞬間である。

 乙和は知己の前で、僕は初対面の人の前で、これ以上醜態を晒すわけにはいかない。

 まあ、晒したからこそ(わら)われているんだけれど。

 

「それよりも、悠君は読書が趣味なんですか?」硝子玉の瞳を僕の方に向けて福島さん。

 

「まあ、一応。そんなに広く読んでいるわけじゃないんですけれど」

 

「へぇ。好きな作家さんは?」

 

「アイ先生です」

 

「え、本当に!? 私もアイ先生の作品大好きなの」

 

「じゃあ、福島さんもアイ先生の最新作のサイン本を求めてここに?」

 

「そう! アイ先生って滅多にサイン本なんて出さないから、居ても立ってもいられなくって」

 

「その気持ち分かります。『眠気眼』の頃に回帰しているって御本人も言っていましたから、相当熱の入った作品なんだって期待が高まりますよね」

 

「そうそう。アイ先生は刊行する度に文章が洗練されていくって感じだったけれど、決して『眠気眼』が拙かったってわけじゃないわよね。むしろ少しぎちこなさげな文章が、主人公の複雑な心情を描いていたって評価されてたんだし。っていうか福島さんもってことは、悠君もサイン本目当てに来たの?」

 

「そうなんですよ。まあ、そうでなくてもアイ先生の最新刊は書籍で買う予定だったんですけれど。やっぱり電子書籍には出せない、紙の重みっていうんですかね」

 

「分かってるじゃない。手に取ってみたときの本の実際の重みや厚さ。ページをめくるときの感覚。あれは電子書籍じゃ出せないわ」

 

 頚椎がおかしくなるのではないかと思うくらいに首を縦に振りながら、福島さんは言った。見れば、双眸は爛々と輝き、白肌の頬には朱が滲んでいる。何故そんなはっきりと分かるかと言えば、僕と福島さんは会話の途中でジリジリと距離を詰めていたからであった。

 いやはや。我ながらついつい饒舌になってしまった。僕の周りには、残念ながらアイ先生について語り尽くせる仲間がいない。年々減少傾向が嘆かれる読者人口。その中で人口に膾炙(かいしゃ)するアイ先生。家族にも友人にも、これについて語れる人が皆無なのだ。しかし、それは福島さんも同じようだった。絶滅危惧種が仲間を発見したらこんな気分なんだろうか、と謎の感傷に浸る。

 

 福島さんと僕によるアイ先生談義に強制的に幕を下ろしたのは、乙和の「ちょっと、お二人さん!」という声だった。

 

「何だよ。虫の居所が悪そうな顔して」

 

「本の虫同士共鳴しあうのは分かるけれど、いいの?」

 

 いいの? と至極ざっくりとした言だ。言葉足らずも甚だしい。しかしながら、僕はその意味を、行間を一瞬で理解する。

 

「そうか! こうしてる場合じゃない。早く本屋さんに行かなきゃ」

 

「あら、いけない。私ったら、また会話に熱が入りすぎて……」

 

 僕と福島さんは顔を見合わせ、誤魔化すように照れ笑いをした。

 

 

 かくて本屋さんを訪れた僕、もとい僕ら。思わぬところでシンパを見つけた僕は、マリンブルーの気分は何処へやらと言わんばかりに軽やかな足取りであった。

 

 僕は読書をすることは勿論好きだけれど、本屋さんにて種々の本が陳列された姿を見ることも好きだ。特に目当ての本でなかったとしても、ついつい手に取ってみたくなってしまう。

 ふと目に入ったときのフィーリング。

 タイトルや表紙のイラストから連想されるストーリー。

 何故だが、本屋さんに這入るだけでその本が持つ魅力が十二分に発揮されて、僕の購買意欲を刺激して止まないのだ。僕はディスプレイの理論とやらには全く明るくないのだけれど、書店員さんたちが長年収集したデータ、もしくは勘によるディスプレイの研究の成果が、そうさせているだと密かに推測している。

 僕は、とある伝手を駆使してアルバイトをしているので、同世代の子たちに比べれば割合金銭的な余裕はある方だけれど、本屋さんを訪れる度にこんな調子なので財布の中身は常時心許ない。

 

 おっと、いけない。いきなり本屋さん、並びに書店員さんたちの巧妙なる罠にかかり、話の本筋から逸れてしまうところであった。

 先程乙和に咎められたばかりであるというのに。これでは人のことを言えなくなってしまう。というよりもイジりづらくなってしまう。

 

 繰り返すようだが、アイ先生は刊行が発表される度にファンを欣喜雀躍させる人気作家である。それもあってか、大型ショッピングモールのテナントとして入っている本屋だからそれなりの規模の店舗ではあったのだけれど、今回僕と福島さんが求める『見えない糸』は、特に探すのには苦労しなかった。

 

 堂々とワゴンが設置されており、そこには、『瞬きを許さぬ作家、アイ先生のサイン本はこちら』と手作りのポップが立てられていた。

 

 しかしながら、僕は再びマリンブルーの気分になった。なぜなら、そのワゴンには件の本が一冊しか置かれていなかったからである。

 



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①-3

 現状、アイ先生のサイン本を買い求めようとしているのは、僕と福島さん。しかしながら、ワゴンの中にあるのは残り一冊。

 飽和という概念を知らない小学生や幼児に問うてみても、一人余るという回答が返ってくることは請け合いだ。

 

「どうぞ、福島さん」僕は本に掌を向けながら言った。

 

「いえ、そんな! 悠くんこそどうぞ。もとはと言えば、私が変なことに巻き込んだんですから」福島さんも、掌を本に向けて返した。

 

「いえいえ、そんなことを言いだせば、僕の方こそ紛らわしい格好をしていたことに原因があるんですから」

 

「いえいえ。でも後輩に気を使わせるなんて何だか悪いですし」

 

 以下、同様のやり取りが数十回にわたって行われた。

 もしも、遠慮のラリーを競う世界大会があるのであれば、トップに食い込むほどの記録が予想される。そんな大会は絶対にないだろうけれど。

 日本人特有の譲り合いの精神。

 本来ならば美しい共同体意識なんだろうけれど、この場においては不毛な結果しかもたらさない。

 

 そんな堂々巡りの戯劇を見かねたのか、乙和はすっとワゴンの中の本に手を伸ばし、

 

「二人とも、早く取らないとこれも売れちゃうよ」と言った。でも困ったね、と口元に指を当てた乙和は更に続ける。

 

 矢継ぎ早に僕は切り出す。

 

「この際、僕は読むことができればそれでいいですから。ここで買わなくても、今のご時世電子書籍もありますし」

 

「でも、ハルちゃんって電子書籍否定派じゃなかったっけ?」

 

「紙の方には電子にはない味があるってだけで否定してるわけじゃないぞ」

 

「でも、やっぱり悪いですよ」

 

 福島さんも一歩も退かない。いや、退いているんだけれど。

 互いに遠慮しあって、談論風発して一向に結論が出ない。すると乙和が口を開く。

 

「じゃあさ。どっちが読み終えたら、もう一方に貸せばいいじゃん」

 

 そう至言めいて。

 

「これならノアもハルちゃんもアイ先生とやらのサインを生で拝めるし、最高の解決策じゃない?」

 

 胸を張り、薄く笑う乙和。典型的な、漫画に描かれたようなドヤ顔である。

 

「でも、それじゃあ結局どちらかが永久的に持っていくことになるだろう。解決案ってより弥縫策じゃないのか?」

 

「そこは……何からの微調整を加えてもらえれば」

 

 先程までのドヤ顔は何処へやら。痛いところを突かれた乙和は遠い目をする。相も変わらず忙しい表情筋である。

 

「微調整ね……」福島さんはそう絞り出すように呟いた後、

 

「じゃあ。こうしましょう。この本は二人でお金を出し合って買いましょう。私は少し貸してもらえばそれでいいから、その後は悠君が貰っちゃって……」

 

「いやいや。ですから、それじゃあ申し訳ないんですって」

 

「話は最後まで聞かなきゃダメよ、悠君。そこでね。その代わりと言っちゃ何だけれど、貴男には、私の買い物に付き合って貰えない? それでおあいこでしょう」

 

 僕は、福島さんのその提案を反芻(はんすう)する。

 今回の僕と福島さんの不毛な譲り合いの戦いは、お互いがお互いに「自分だけが貰ってばかりでは申し訳ない」という気持ちが惹起させているものだ。

 乙和によって持ち出された解決策も、その「申し訳なさ」を抜本的には取り除けない。

 しかしながら、僕はサイン本の半永久的な所有権を貰うことで、福島さんの買い物に付き合うことで、取りも直さず、福島さんのささやかな要求を聞き入れることで、その「申し訳なさ」を中和しようということか。

 

「えーっと。福島さんは良いんですか? こんな男、もとい女装男に買い物を同席させて」隔意を無くすべく僕は質問する。

 

「良いの。良いの。年下の男子と買い物なんて、滅多にないから」

 

 どうやら、福島さんには“女装した友人の弟と買い物をする”というには抵抗はないようである。まあ、そんな奇天烈な状況こそ滅多にないだろうけれど。

 言葉の揚げ足取りのようだけれど、年下の男子と買い物なんて滅多にない、ということは同年齢やそれ年上の男とは頻繁に連れ歩いているのだろうか。

 福島さんはとても見目麗しい外見をしているから、恋人の一人や二人は居そうだと勝手に勘繰ってしまう。

 本当に戯言だ。

 

「分かりました。それで手を打ちましょう。でも、やっぱりサイン本を貰っちゃっうわけですから、僕が多めにお金を出しますね」

 

「いや。我儘を聞いて貰うんだから、むしろ私の方が」

 

「いやいや」

 

「いやいやいや」

 

「もう! また始まった!!」乙和の怒号が店内を貫き、書店員さん及び他のお客さんからの冷ややかな目線に、追い出されるされるように店を後にした僕らなのだった。

 

 

 結局、代金はきっちり折半という形で落ち着いた。僕は福島さんに向き直って問う。

 

「で、お買い物って何に付き合えばいいんですか?」

 

「ああ。特に欲しいものがあるわけじゃないんだけれど。強いて言うなら“可愛いもの探し”かな?」

 

 細くてしなやかな指を弄びながら福島さん。

 

「ほら。可愛いものって見るだけで見てるだけで癒やされる気がしません?」

 

 問われて僕は思い出す。

 福島さんとの邂逅を、あのファーストインパクトを。ここで言うインパクトとは、心理的な意味にも物理的な意味にも掛かっているところがミソだ。

 乙和からの解説もあったとおり、彼女は可愛いものに対して並々ならぬ拘りがあるようだ。しかしながら、姉のいる身から言わせてもらうと、女の子というのは得てして可愛いものが好きだろう。

 乙和は、推しのアイドルの話を僕に熱く語ってくるときがあるのだけれど、僕はそれを話半分に、というか九割方聞き流している。しかし、乙和はそれを特に気にする様子はない。要は、特に共感を得られずとも、自分の好きなものについて語れる。その行為自体に意味があるのではないだろうか。

 乙和と福島さんを同列に扱ってよいかは多少の疑問を残すとして、可愛いものについて他人に話したいという欲求は、根本的には同じなのではないだろうか。

 僕と乙和を見間違えたり、自分の好きなものの話になると熱が入りやすくなるなど、所謂天然な気があるけれど、福島さんは、基本知性的で鷹揚な女性だ。

 特に変なことが起こることはないだろう。

 

「分かりました。そんなことでいいなら、この不肖花巻悠、お供しましょう」

 

 僕は努めて颯爽とした笑顔で返す。

 そんな僕の言を受けて、

 

「そっか。それじゃあ二人とも、楽しんで来てね」そう早口に乙和。

 

 見れば、何故か顔面蒼白である。

 僕は、そんな乙和を肩に手を置いて引き止め、耳打ちするような小声で切り出す。

 

「おいおい。弟と知人だけを置いてけぼりにするなんて嘘だろ。気まずいなんて域じゃねぇぞ」

 

「いや……その……さっきも珍事がありましたとおりノアは……」

 

 と、乙和が言い淀んでいるうちに、福島さんが口を開く。

 

「本当!? 嬉しい。最近、なぜだが私の周りの人は買い物に付き合ってくれないのよ」

 

 福島さんの形の良い眉が倒豎していく。それに釣られるように、僕は小首を傾げる。

 福島さんの買い物に付き合いたがらない? 

 

「まあ。ハルちゃんだけ犠牲にするわけにはいかないから、一応私も行くよ。一度見れば分かると思うし」

 

 今度は犠牲ときた。不思議は深まるばかりである。

 

 

「ああ! 可愛い!

 

「可愛いがすぎるんですけれど。

 

「待って。待って。いや、やっぱ止まらないで。ドン・ストップ・可愛い!

 

「こっちのブラウスもフレアスカートも超可愛い! 可愛いに可愛いを掛け合わせたら、その積は超絶可愛いと判明してしまった。今この瞬間、福島ノアの名は21世紀のピタゴラスとして数学の教科書に掲載され、後世に相伝えられてゆくことが確定してしまった。

 

「くぅ。自分が末恐ろしい。

 

「いや、何より恐ろしいのは、こんな可愛いデザインを考えついてしまう発明者がこの世に存在すること。

 

「まさしく、可愛いの母と言うほかない。

 

「おお。慈悲深き母なる女神よ。どうか迷える子羊を導き給え。可愛いを恵み給え。

 

「おっと。私としたことが、取り乱してしまった。それで? 可愛いの前では全てが無力だという話からだったっけ?

 

「それ、誰が着るのかって? もう。冗談はよしてよ悠君。貴男に決まっているじゃない?

 

「え? 聞いていないって?

 

「あのね。悠君。真剣に聞いてほしい。

 

「遍くこの世の至るところに可愛いは存在する。でもね、そんな可愛いは氷山の一角に過ぎないの。咲くことも叶わず、見られることもなく埋もれてしまう可愛いが、この世にはたくさんあるの。

 

「そんな惨憺たる現状を打破するのは、韜晦してしまった可愛いを舞台の上に引き上げることができるのは、───

 

「他でもない。可愛いなのよ。

 

「可愛いが、他の可愛いを引き出すの。稀に、可愛いは絶対的だなんて論文や報告が挙がるけれど、私はそうは思わない。

 

「可愛いは相対的なの。

 

「さあ! 悠君! この可愛い服を着て、可愛くなっちゃいなさい! 貴男の中に眠れる可愛いを覚醒させなさい!

 

「ほら、乙和からもお墨付きが出たわ。もう逃げ場はないわよ。試着しちゃいなさい。

 

「……。

 

「こちら、現場の福島です。現在関東エリアに接近している可愛い13号ですが、最高瞬間風速を更新し続け、非常に強い勢力を保っている状態です。外出は極力控え、頑丈な建物の中で可愛いを摂取するようにしてください。

 

「ああっと。ここでたった今入ってきたニュースです。政府は先程の会議の結果、全世帯に対して原稿用紙1枚分の可愛いを給付する意向を決定したとのことです。

 

「それでは、只今より公共の電波を通して、可愛いをご提供致します。

 

「可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い」

 

 

「ふぅ。満足した」

 

 そりゃ満足でしょうよ。僕は胸裡でそうツッコミをいれた。

 

 福島ノアさん。

 可愛いものに目がない。

 しかしながら、周囲から刺さりまくる好奇の目は、それこそ目を覆いたくなるようなものであった。

 乙和をはじめ、福島さんの周囲の人が彼女の買い物に付き合うことを避けていた理由は分かった。しかし、

 

「ハルちゃん災難だったね〜」

 

 明らかにそれを知っていたのに、教えてくれなかった人が横から言ってきた。至極牧歌的な声色で。

 

「いや、乙和も途中から悪ノリしてたじゃねぇか!」

 

「私も、最初はやっぱり恥ずかしいって思ってたけれど、ハルちゃんのお洋服選びをするなら、協力しようかなと」

 

 呉越同舟って奴? と乙和は戯けて言う。

 

「なんか誤算があったとは言え、目的はもう済んだな」

 

 僕は嘆息して言葉を紡ぐ。刹那、僕の袖がぐいっと引っ張られた。

 引かれた方を見遣ると、乙和は何故かとびっきりの笑顔を作り言った。

 

「ちょっと、ハルちゃん! クレープの件、忘れてないよね?」

 

 忘れていたか、忘れてなかったかと言えば、はっきり言えば前者である。僕の海馬は、現状福島さんのインパクトにのみ占拠されている。クレープが挟まる余地など無い。

 

「クレープ?」と僕が答える前に福島さん。

 

「乙和、この間クレープ食べすぎたのが衣舞紀にバレて大目玉食らってなかったっけ?」

 

「うぐっ。もうっ。ノア〜」図星を突かれて一瞬仰け反る乙和。

 

「あ〜あ。バレても私は知りませんよ〜」

 

「うぅ。ノアの意地悪っ!」

 

 なけなしの語彙で応射した後、乙和は僕の方に向き直り、

 

「ねぇ、ハルちゃんからも何か言ってよ! 『お姉ちゃんがクレープを好きなんじゃなくて、クレープがお姉ちゃんを好きなんです』とか、『うちのお姉ちゃんはクレープを定期的に摂取しないと死んじゃう病気なんです』とか」

 

 何故にそんなバレバレな嘘を吐かねばならんのだ。仮に言ったとして、僕に泥棒癖ができたらどうしてくれるのだ。

 なんて言ったら暫くは愚図られるだろう。そうでなくとも、姉に対しては最終的に追従してしまう僕である。

 

「まあ、福島さん。僕からも折り入って頼みます。今回だけは、目を瞑ってもらえないでしょうか?」

 

「なんか、二人して来られると居心地が悪いわね」

 

 福島さんは少し口元を引つらせて、

 

「乙和にも買い物に付き合わせちゃったし、好きにしたらいいんじゃない?」

 

「ほんと!? やったぁ!!」

 

 まるで重力を無視するかのような跳躍をしながら喜ぶ乙和。実に単純である。クレープくらい無手勝流に食べればよいのにと思うけれど、素直に周囲に許可を求めてくるあたり、それが乙和の性分なのかもしれない。

 

 思ったけれど、可愛いものを相手にしていないときの福島さん、つまりは平時の福島さんは、乙和は軽くあしらっている。別に身内的に嫌というわけではないし、むしろ乙和の扱い方をよく心得ている感じだ。傍から見ていると、姉妹のようにも見える。

 

「時に福島さん」僕は耳打ちするように尋ねる。

 

「喜んでいる乙和は、可愛くはないんですか?」

 

(あい)()き何とかではあるわね」

 

 成程。さもありなん。

 



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①-4

 かくてクレープ屋さんの前に戻ってきた。

 芳しい匂いが鼻腔を刺激する。

 生地が焼ける匂い。

 クリームの甘い匂い。

 フルーツの瑞々しい匂い。

 僕は、乙和みたいに熱狂的にクレープが好きというわけではないのだけれど、こうして良い匂いに包まれると、久々に食べてみるのも悪くないという気分になる。

 

「ねぇハルちゃん! 何食べる? 何食べる?」

 

 ショーケースの中の食品サンプルに密着するように近づき、双眸を輝かせなている乙和である。

 

「落ち着けよ、乙和」フォトンのファンが見てたら幻滅されるかもしれないぞ、と彼女を宥めて、僕もサンプルを見遣る。

 

「そうだな。僕はこの苺が入ってるやつかな?」

 

 とても安直な回答である。

 

「おお! お目が高い。苺のクレープはシンプルだけれどその分お店の個性が出る。安直に見えて相手の出方を窺えるし、そのまま流れも持っていける珠玉の一手だね」

 

 よく理解できなかったけれど、クレープに一家言ある乙和からすれば、この選択は悪手ではなかったようだ。

 

「じゃあ、私はこっちのバナナアンドチョコレートソースを頼もうかな?」

 

「ああ。二人でシェアするんだっけ?」

 

 それも忘れかけていた。

 そうだ。忘れかけていたと言えば、福島さんは何を食べるのだろう。

 僕は後方の福島さんに視線を向けて、

 

「福島さんは、何か食べないんですか?」

 

と問うた。

 

「いえ、お恥ずかしいながら、今月は可愛いものを買いすぎた所為で、糊口を凌がなくてはならないので……」

 

「ああ……」

 

 無情なり。手元不如意の悲しさは僕も十分理解できる。というより僕も、ともすれば調子に乗って気に入ったものを衝動買いしがちだ。

 しかし、今日会ったばかりの人とはいえ、一人だけ蚊帳の外に置いて食べるのはなんだか忍びない。

 

「もし宜しければ、奢りましょうか?」

 

「おっ。ハルちゃん太っ腹〜。じゃあ私の分も……」

 

「乙和は普段僕が買ってきたものを勝手に食べてるじゃんか」

 

「むぅ。いけず」ハリセンボンよろしく膨れる乙和。

 

 それを余所目に福島さんは胸の前で手を振りながら言った。

 

「本当に大丈夫だから。悪いわよ」

 

「いえいえ。本の代金を折半したんで、余裕がありますから」

 

「じゃあ、せめて悠君が最初に読んで」

 

「分かりました。それで手を打ちましょう」

 

 僕は莞爾と笑って言うと、福島さんは「ありがとう」と鷹揚に言って、ショーケースを覗きこむ。

 

 唇の隙間から小さく、じゃあと繋げる。

 

「このキャラメルソースを」

 

 店員さんに注文すると、三者の頼んだ品物はすぐに手渡された。

 

「やったぁ。クレープだぁ」

 

 断食を終えて久方振りに固形物を食べる修行僧の如く、目を爛々と輝かせて一口目をかぶりつく乙和。

 

「んん〜。ほひひ〜」

 

 最早“おいしい”の一文字も発することが叶っていないけれど、本当に幸せそうに頬張るなぁ、というのが素直な感想だ。

 ふと見ると、クレープ屋の店員さんの目元で光の粒が煌めいた。まあ、ここまで喜んでくれたなら、クレープ屋冥利に尽きるのだろう。

 

 僕も一口。

 しっとりとした生地と、滑らかなクリームの食感が見事に同居している。

 もう一口。

 このクレープの白眉である苺がお出ましだ。するとどうだろう。苺が持つ爽やかな甘さだけが味蕾に作用するのである。断じてクリームの味が消えたわけではない。むしろ、クリームは苺を引き出すために隠然としているのだ。そうしてフレッシュに包まれた口腔は、また滑らかなクリームを求めるのである。

 甘い。味覚的な表現はたったその二文字だろう。しかしながら、クリームと苺、まったく別の甘さを持つ二つが、交互に主張を繰り返す。姿形は違えど、素晴らしい隣人愛で支え合っている。

 

 総じて、久々に食べるとおいしい、といった具合である。

 

「ねぇねぇ、ハルちゃん。そろそろ交換しようよ」

 

「それはいいけれど、乙和。口の端にクリームが付いているぞ」

 

 本当にファンに幻滅されても知らないぞ、と僕はハンカチを取り出しそれを拭う。

 

「えへへ。さんくす」

 

 そう無邪気な笑みで返す乙和。

 僕の憂いも気に留めず、彼女は交換したクレープに舌鼓を打つ。

 僕は呆れた表情を作りこそすれど、それ以上口出しすることはしない。甘いものを食べて、上機嫌になっていたのだろう。

 すると、横からクスクスと笑い声が聞こえた。

 いつか聞いたような、というか数時間前にも聞いた笑い声。

 福島さんのものである。

 彼女も、甘いものを食べたことで気分が上向きになったのだろうか。

 

「ああ。ごめんなさい。本当に仲の良い姉弟に見えたものだから」

 

 ふむ。改めて確認すると、僕は眼前にいる無類のクレープ好きによって女装させられた状態である。だから、傍から見れば姉弟ではなく姉妹に見えるだろう。挙措や身長的には僕が姉役で。

 しかし、福島さんが言いたいのはそうではないのだろう。休日に一緒に出掛け、面倒そうな顔を作りながらも互いの用事に付き合う。その状況に牧歌的な姉弟仲を感じ取ったのだろう。それが至極平和に思えて、彼女の頬を緩めたのだろう。

 

 もし、そうなのだとしたら。

 

 もし、僕たちが仲の良い姉弟に見えるのだとしたら。

 

 もし、お姉ちゃんと弟という構図に、視覚的ではないとはいえ見えるのだとしたら。

 

 

 ────僕は、とても複雑な思いである。

 

 

 手元のクレープを一口食べる。

 間接キス。

 そんな甘い言葉が浮かぶ行為ではあるけれど、僕の口内は、脳髄は、胸裡は。

 

 チョコレートの中に潜む、仄かな苦さに占められていた。

 

 

 

「遅れてすいません」

 

 ウェイターさんに案内された僕は、目的の人物を発見するやいなや口を開いた。

 

「いいえ。私も今来たところだから気にしないで」

 

 サイドに残した髪の房を左右に揺らして答える女性。福島ノアさんである。

 僕から呼び出しておいて、待ち合わせに遅れるなんてとんだ失態だ。

 席に着く前にウェイターさんに、「ホットコーヒーで」と注文するあたり、余裕の無さが窺える。

 

「お先でした、ってこういう時に言うんですかね?」

 

 言いながら、僕は鞄から本を取り出し、福島さんにさしだす。タイトルには『見えない糸』とある。

 

「直接じゃなくても、乙和に渡してくれれば良かったのに」受け取りながら福島さん。

 

「いえいえ、先に読ませて貰ったんですから、直接お渡しするのが礼儀だと思いまして」

 

「律儀なのね」

 

 僅かに目尻を下げた福島さんは、揶揄うような調子で続けた。

 

「そういえば、今日は女装はしていないの?」

 

「あの時は乙和に無理矢理着させられていただけですから」

 

「え〜。折角可愛いかったのに」

 

 福島さんは、頬杖をつきながら、露骨に残念そうな声を出す。面と向かって可愛いだなんて言われたこともあってか、不思議と全身の血潮に熱を帯びる。

 

「いやあ。何だか暑いですね」

 

 話題を切り替えようという意図もあって、上着を脱ぎながらそう切り出す。

 

「そうかしら」

 

 小首を傾げる福島さんに、「ええ。ちょっと暖房が効きすぎですね」と返す。話題の切り替えには成功だ。

 一安心と、テーブルのお冷を手に取り、喉を潤す。 

 

 刹那、福島さんは「あっ」と呟いて、

 

「それ、私が口をつけたお冷なんだけれど」

 

 そうだ。よく考えてみれば、僕は先程来店したばかりなのだからお冷も用意されていないはずだ。

 

「え、えーっと。すいません」

 

 動揺する僕を見て、彼女は鷹揚に手で口元を隠しながら言った。

 

「うふふ。女装していなくても可愛いのね? 悠君」

 

 細い指を口元から退けると、そこには妖艶な笑み。

 

「冗談はよして下さい」

 

 堪らず僕はそっぽを向いた。

 

「あら? 照れてるの? やっぱり可愛い」

 

 どうやら彼女も楽しくなってきたようで、僕の顔を覗き込みながら言ってきた。

 

 目のやり場を無くした僕は、テーブルに視線を落とす。

 そこには、瞬きを許さぬ作家。

 百目鬼仁美ことアイ先生の最新作。

 『見えない糸』。

 

 感想を言えば、所謂恋愛小説であった。但し、心情描写が生々しすぎるのか、恋愛経験のない僕には、理解の及ばないところがあった。

 

 福島さんは、この作品に共感するのだろうか。

 

 そんなことを思いながら、コーヒーを待つ。

 




書き溜めが尽きました。姫神P助けて……


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