夢うつつ (pathfinder)
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夢うつつ

 

「……ん」

 

薄暗い灯りが意識が覚醒したばかりのぼんやりとした視界に入る。眠りから目覚めた。

頭を動かさず、辺りを見回す。頭上には茶色が見えた。天井じゃない。おそらく木の板だろう。……すぐに近くにあった梯子の存在に気付き、これが二段ベッドだとわかる。見慣れない景色が広がっている。

段々と思考がクリアになり、ここが自分の家ではないと気づく。じゃあ、ここはどこだ。

仄かな灯りの近くに誰かがいる。椅子に腰をかけて机に向かっている。このベッドからは背中しか見えない。顔は見えなくてもその誰かが誰なのか、すぐわかった。

彼女も俺が目覚めたことに気付いて身体を捻って顔をこちらに向ける。オレンジブラウンの髪が揺れる。

 

「あ、目が覚めたんだ~?」

 

聞き慣れたゆっくりとした、眠たげな声。近江彼方さんが微笑んで俺に囁きかけてきた。

 

「……ああ、おはよ」

 

「おはよ~……まだ朝じゃないけどね」

 

意外な光景だ。どちらかといえば普段は俺が彼女を起こす方だ。立場が逆転している。

部屋にかけられた時計をちらりと見る。彼女の言う通り、朝じゃない。それどころかまだまだ夜だ。時刻は日付変わって一時間近く経っていた。彼女は今日も遅くまで勉強していたのだろう。

 

「ぐっすりだったねぇ」

 

「……俺寝ちゃったのか?」

 

「そうだよ~」

 

段々と俺は寝てしまう前のことを思い出す。今日も両親がいなくて夕飯が弁当なんです、というのを彼方さんに話したら近江家の夕飯にご招待されたんだ。彼方さんと遥ちゃんと三人で食事をして、その後、近江家でゆっくりして……ああ、多分その後寝ちゃったんだ。意識があやふやになっていたのをなんとなく覚えている。

俺が最後に時計を見たときの時刻が八時頃だったから、五時間近く寝てたことになる。俺は彼方さんの言う通り、ぐっすり寝ていたのである。

 

「あれ? 俺なんでベッドで寝てるんだ……?」

 

俺はゆっくりと上半身を起こしながら彼方さんに尋ねた。

俺にベッドに潜った記憶はない。なんなら俺がベッドを借りた覚えもない。なんで俺はベッドに? というか今俺が寝ているベッドは誰のだ? なんかいい匂いするし。

 

「それはだね……遥ちゃんと一緒にベッドまで運んだからだよ」

 

「……それは……すみませんでした」

 

「女の子二人で運ぶのはほんと大変だったよ~。ちょっと引きずっちゃったけどね」

 

彼方さんは申し訳なさそうにする。いや本当に男を女の子二人で運ぶのは大変だろう。引きずっちゃうわ。ちょっとじゃなくてがっつり引きずっちゃうわ。すぐ想像できる。むしろ俺の方が申し訳なさでいっぱいになった。

 

「ほんとはね、彼方ちゃん一人で運ぼうと思ったんだけど……」

 

うんそれは流石に無理だろう。遥ちゃんにも悪いことをさせてしまった。今は寝ているだろうし、朝になったらお礼と謝罪しよう。

 

「……ちなみにこのベッドは誰の?」

 

「彼方ちゃんのだよ~」

 

「!?」

 

このベッド、彼方さんのなのか。思わず驚いてしまう。確かにいい匂いがした。ずっと嗅いでいたいと思ってしまうぐらいの。

 

「ごめんっ、すぐ起きるっ」

 

俺はずっとこのままベッドにいたいという誘惑を断ち切り、すぐに起きてベッドから退こうとした。本音ではこのままいたいがこのままいれば変な気持ちになりそうだった。具体的には下心的な。上には遥ちゃんがいるだろうし、それは不味い。いや遥ちゃんがいなくてもそれは駄目なんだけど。

 

「ダメだよ~。君はそのままベッドにいてね」

 

「……え?」

 

続けて彼方さんは口を開く。俺の考える時間はなかった。

 

「彼方ちゃんも一緒に寝るから~」

 

「…………はい?」

 

なんだろう、彼方さんの言っていることが信じられない。一緒に寝る。その意味を咀嚼する。俺と、彼方さんが、一緒のベッドで、眠る。

 

「!? ちょ、ちょっと待ってくれっ!」

 

彼方さんの発言をなんとか理解した俺は取り乱してしまう。

 

「待たないぞー。あと遥ちゃん上で寝てるから静かにね」

 

「あ、はい、すみません……って」

 

彼方さんは俺にお構いなしにテキパキと机の上を片付け、卓上のライトスタンドの灯りを消す。その動作はあっと言う間で、俺が気を取られている間に、彼方さんは今にもベッドに侵入してきそうだった。

 

「ほらほら、彼方ちゃんのスペースを空けて」

 

そう言いつつ、ベッドに手をかける彼方さん。侵入してくる。彼女の身体に触れないように反対側に身体を動かしてなんとか彼女が入るスペースを作る。

 

「それじゃあ、失礼しまーす」

 

その空間に彼方さんが入ってくる。シャンプーの匂いだろうか。至近距離の彼女からふんわりと甘い香りが漂う。今だけ鼻呼吸を止めたくなった。

 

「わー、顔近いね~」

 

俺のすぐ近くに彼方さんがいる。鼻と鼻がぶつかりそうな距離。息遣いがよく聞こえる。二人だと流石に身じろぎができない。

 

「……やっぱり狭いんで出ます。だから」

 

一度彼方さんに起きてほしい、とお願いするつもりだった。しかしそれは彼方さんに遮られてしまう。

 

「も~、ダメだぞー。今日は彼方ちゃんと一緒に寝るのだ~」

 

むしろ彼方さんは俺の動きを封じるかのようにぎゅぅ、と抱きついてくる。彼女の温もりが安心とドキドキの二つの正反対の感情をもたらす。

 

「……わ、わかった。わかったんで少し離れて……」

 

それがせめてもの抵抗だった。このままだと寝る寝ないとかの前に心臓が持ちそうになかった。

 

「えー……彼方ちゃん、この体勢結構気に入ったんだけどな~」

 

「男の身体なんてごつごつしてて逆に寝にくくないか?」

 

「そんなことないよー。これはこれで、この硬いのが良い感じだよ~」

 

彼方さんは俺の身体を離す素振りはなく、むしろさらに身体を押し付けるように抱きついてくる。

 

「これだと俺が寝れないんです……」

 

「むむむ……彼方ちゃんはよく眠れそうなのに~……」

 

彼方さんは名残惜しそうにしながらようやく身体を引いてくれた。といってもほんの少しだ。密着はしていないが広げたら腕の中には入りそうな距離だ。つまりはあまり変わっていなかった。

 

「彼方さん、さっきとあんまり変わってないです」

 

「えー……ちゃんと離れたよ~。それに、これ以上離れられないよ? ベッド狭いから~」

 

彼方さんはそれ以上は離れようとはしてくれなかった。果たして再び眠れるだろうか。そう思いつつ、嬉しそうにしている彼女にそれ以上離れろなんて言えなかった。

 

「ふぁ~……」

 

彼方さんが欠伸を零す。よく眠れそうと言ったのは本当だったみたいだ。いや、よく考えたら彼女はどこでも眠れるか。

 

「今日はありがとう。夕飯、俺の分まで用意してもらって」

 

彼女が眠ってしまう前に伝えたかったことを伝える。もう今日じゃなくて昨日のことだけど。

 

「いいよいいよ~。君と一緒にお夕飯食べる機会なんて滅多にないし」

 

「あと美味しかった」

 

「また食べたい~?」

 

「もちろん」

 

彼方さんはにへらと顔を綻ばせる。薄暗い部屋の中、その表情が眩しく見えた。

 

「じゃあ~……明日。遥ちゃんと彼方ちゃん、そしてあなた。三人でお出かけしよう~。お弁当作って公園でピクニックしよう~」

 

明日は休日。俺も予定はないので大歓迎なのだが。

 

「……俺も一緒でいいのか?」

 

遥ちゃんと二人っきりで過ごしたいのではないか、と思ってしまってそんなことを言ってしまう。

彼方さんの遥ちゃんへの溺愛っぷりを見ると二人だけで過ごしたいと思っていても不思議じゃない。そこにお邪魔してもいいのかと思ってしまう。

 

「とーぜんだよ~。むしろ君がいないと」

 

彼方さんのその言葉にほっと安心。俺はお邪魔虫ではないらしい。

 

「だって、君は彼方ちゃんの恋人だよ?」

 

改めて彼方さんの口からそう言われるとこそばゆい気持ちになる。体温が上がった気がした。もう当たり前のことなのに。

 

「楽しみだな~。大好きな二人とお出かけするの」

 

「ああ、楽しみだ」

 

布団の柔らかさと彼女の匂いと身体に残った疲れが眠気を誘う。瞼が閉じて再び開く。その夢うつつの一瞬、楽しそうな光景を見た。

 

「……本当に楽しみだ」

 

もう一度繰り返しその言葉を口にした。自分でも思いがけない行動だった。三人で出かける明日がその光景のようになって欲しかったからかもしれない。

もう一度、瞼が落ちる。すぐに開くがなんとなく瞼が重い。

 

「君も眠そうだね~……ふぁ~……彼方ちゃんも……」

 

彼方さんも同じように瞼を重そうにしながら欠伸をしていた。彼方さんも俺もそう遠くないうちに眠りに落ちるだろう。

 

「こうして一緒なら良い夢見れそうだよ~……」

 

心地良さそうに彼方さんは呟きつつ、俺との距離を詰める。抵抗しようかとも思ったが眠気の方が強くてこのままでいいやと思ってしまった。さては彼方さん、これが狙いだったのか。

引っ付いてきた彼方さんの身体の柔らかな感触が心地よい。眠気が強いせいかさっきと比べてドキドキ感がない。安心感と幸福感が心を満たしていた。

 

「……やっぱり、この硬さ……安心するなぁ……」

 

「それは、よかった……」

 

彼方さんはうつらうつら船を漕ぐ。もう半分夢の世界へと旅立っている。

俺だって似たようなもの。もう瞼が開かない。開く気力がない。意識だけはまだなんとか残ってる。もうただ残ってるだけだ。

 

「……明日……楽しみだねぇ……」

 

彼方さんのその言葉は段々と消えていくように小さくなっていった。言い終えた彼女はきっともう夢の中。

 

「すやぁ……すぅ……すぅ……」

 

彼方さんが眠る。規則正しい呼吸の音が聞こえる。それが子守唄代わりになって俺の意識も段々と朦朧となる。世界が輪郭を失っていく。

そう言えばおやすみと言うのを忘れていた。もう億劫だから心の中で。日付が変わってるから今日だけど。

おやすみなさい。また明日。

 




お目汚し失礼いたしました


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ブーゲンビリア

おまけです


 

 

 

「それじゃ、ちょっと行ってきますね。お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」

 

遥ちゃんはそう言って、パタパタと駆けて離れていく。二つに結われた髪が揺れる。

昼下がりの公園。穏やかな日差しが降り注ぎ、なんだか眠りに誘われそうになる。遥ちゃんの姉、彼方さんはそんな陽気のせいか眠ってしまっていた。俺の膝の上で。

 

「すやぁ……むにゃむにゃ……」

 

繰り返される規則的な呼吸。彼方さんの表情は穏やか。どうやら夢見はよさそうだ。

昨日、いや今日、ベッドの上で彼方さんと話した通り、公園にピクニックに来ていた。彼方さんと遥ちゃん、それと俺の三人。公園を散策したり、レジャーシートを敷いて座ってお喋りしたり、お弁当を食べたり、穏やかな時間を過ごしていた。

彼方さんがウトウトし出したのはお弁当を食べて少し経った頃だった。そのまま、近くにあった俺の膝を枕代わりにして夢の世界へと行ってしまった。いつもと変わらない彼方さんを見て遥ちゃんも俺も少し笑ってしまったのは内緒だ。

しばらく二人で喋っていたが、その遥ちゃんまで行ってしまった。手持ち無沙汰だ。

……と思ったが、その心配はどうやら杞憂のようだ。

 

「ん…………んん」

 

瞼がゆっくりと開く。光に慣れるためか、数回瞬きした後、再び瞼が開く。トロンとしていてまだ少し眠そうな瞳。

 

「ふぁ~……おはよー……」

 

「おはよう」

 

ゆっくりな口調。彼方さんが目を覚ました。だけど身体は起こさない。彼方さんはそのまま横になった状態でいた。なんで。

 

「……あれ~? 遥ちゃんは?」

 

膝枕の状態で彼方さんは首だけを動かしてそのことに気がついたみたいだ。

 

「あー、えっと……」

 

言い淀む。どうやって言おうか。そのまま言うのは憚られる。

 

「遥ちゃんになにかあったの」

 

しかしそれがよくなかった。

真剣な表情。いつもの彼方さんとは異なる、早口。彼女の身体が強張ったのが視覚と膝からの触覚からわかった。

彼方さんは遥ちゃんになにか良からぬことが起きたのかもと思ってしまったみたいだ。

 

「違う違う。遥ちゃんは……ちょっとお花摘みに」

 

これ以上勘違いされる前に俺は正直に言う。ぼやかして言うのは許してほしい。女の子がトイレに行った、なんて俺が公共の場で言うのはデリカシーにかける行為だろう。というか恥ずかしい。だからこそ迷いが生まれてしまった。

 

「あー……そういうことか~……焦ったぁ」

 

彼方さんは一転、安堵した表情を見せた。

 

「ごめん。俺が変に言い淀んだせいで……」

 

「もー、ほんとだよ~」

 

ちょっと頬を膨らませた姿が可愛らしくて笑ってしまう。申し訳ないとは思っているが。

彼方さんは安心したのか、身体の力が抜ける。心地の良い重みが戻ってきた。

視線を感じて、下を向いて彼方さんを見る。目が合う。なにか発見したかのような表情。

 

「……じゃあしばらく二人っきりだ」

 

「うんまあ……だな」

 

彼方さんがぽつりと呟いた言葉が妙に響く。屋外だっていうのに。

一瞬、風が吹く。たいしたことない、弱い風だ。木々が揺れる、そんな音がした。やけにはっきりと聞こえた。

二人っきり。魅力的なワードだ。正直言うと意識せずにはいられなかった。

 

「ふぁ~あ……」

 

彼方さんはというと欠伸をして、また少し眠そうにしていた。遥ちゃんのことで安心したのだろう。にしても俺はこんなにも二人っきりということを意識しているというのに、彼方さんはそんなこと意識していなさそうだった。ちょっと悔しい。

 

「まだ眠いの?」

 

「うーん……ちょっとね~……」

 

「また寝るか?」

 

「それは止めとく~」

 

俺の想定外の回答が彼方さんから返ってきた。驚く。

 

「あなたと二人っきりだからね」

 

彼方さんはへにゃっとして微笑んだ。俺は開こうとした口をぱくぱくと動かすことしかできなかった。さぞ面食らった顔をしているだろう。

……意識、してないわけじゃないんだ。

 

「嬉しい?」

 

「嬉しいよ」

 

からかうような彼方さんの問いかけ。悪戯っ子のような楽しげな表情。

俺はすぐに白旗をあげた。意地を張りたくもなったが、わかりやすく表情に出ててしまうだろう。

 

「そっかぁ~……」

 

彼方さんは嬉しそうに微笑んだ。さっきよりも頬が緩んでいるのがはっきりとわかった。

 

「ねぇねぇ。彼方ちゃん、ちょーっと気になったんだけど……」

 

彼方さんは突然そう切り出してきた。が、俺にはなにも心当たりがない。

 

「……? なにが?」

 

「彼方ちゃんが眠っている間、遥ちゃんと二人でなに話してたの~?」

 

純粋に気になったのか、そんなことを彼方さんは尋ねてくる。

やましいことはなにもない。少しだけ、彼方さんにそれを話すのは恥ずかしいが。

 

「むっ」

 

俺が話す前に彼方さんはなにか気付いたのかそんな声を上げた。その表情は不満を隠すことなく露わにしていた。口を尖らせて拗ねている。

 

「……もしかして、浮気~?」

 

冷たい口調。

膝で横になっている彼方さんは俺の太ももを抓る。微妙に痛い。

 

「違うから」

 

「じゃあ、なにを話してたの?」

 

気恥ずかしいが遥ちゃんと話していた内容を伝えようと口を開く。

 

「その……彼方さんのこと話してた」

 

「え、彼方ちゃんのこと?」

 

「うん。俺が知らない彼方さんのことを遥ちゃんに聞いてたんだ」

 

遥ちゃんだけが知ってる、彼方さん家での過ごした方や様子だったり、お姉さんとしての彼方さんのことだったりを彼女から聞いた。そして俺も恋人としての彼方さんについて遥ちゃんに話した。それを伝えると一転、頬に朱を宿らせた。

 

「おおぅ……それはちょっと恥ずかしいなぁ……」

 

彼方さんはその言葉通り恥ずかしそうに身を捩らせて悶えた。

 

「けど、そっか……よかったぁ~」

 

本当に安心したように彼方さんは小さく呟いた。わかってもらえてよかった、と俺も一安心していると彼方さんが口を開く。

 

「あなたは彼方ちゃんだけの恋人なんだからね。よそ見なんかしちゃダメだぞ~」

 

口調はいつも通りのんびりとしたものだったが、圧力をかけられているように感じた。しないよ、と当然否定した。

そんな俺の反応を見て、彼方さんはうんうんと数回頷いた。

 

「信じてるからねぇ」

 

彼方さんに釘を刺されてしまった。俺にその気はないというのに。ほんとのほんと。

 

「彼方ちゃん、遥ちゃんのことが世界で一番大好きだけど……」

 

彼方さんは俺の目を見て――俺の視線を捕らえて釘付けにして、続きの言葉を発した。

 

「恋人はあなただけだよ?」

 

……暑い。体温が急上昇したのを確かに感じる。汗が噴き出る。

彼方さんの瞳の中に照れくさそうにしている情けない男が映る。……俺だ。

 

「…………そっすか」

 

「ふっふっふっ、照れてる照れてる~」

 

照れるな、って言うほうが無理だろう。

 

「俺も……恋人は彼方さんだけですから。よそ見なんかしないから」

 

予想通り余計に体温が上がったが、それでも口にした。直球な言葉には意図がある。一つは浮気なんてしませんよアピール。もう一つは、

 

「…………おぉぅ」

 

――ちょっとした仕返しがしたかった。俺は彼方さんに照れさせられたのだからそのお返しだ。

彼方さんは思った通りの反応してくれた。膝上の彼女の顔は林檎のように赤くなる。

 

「いやぁ……彼方ちゃん、照れちゃうなぁ~……」

 

「嫌でした?」

 

「ううん。もっと言ってほしいぐらいかも」

 

俺の言葉を否定したどころか、彼方さんは追加を希望してきた。いやいやそれはこっちが照れる。悶絶もん。

 

「……言うほうも照れるので、偶にで」

 

「えぇー」

 

ぷくぅって、不満そうに頬を膨らませて、小さな子供みたいなことをしてくる。可愛らしい仕草。

 

「ダメなの~?」

 

「ダメとは言ってないですよ」

 

ダメとは言ってない。極々稀に、気が向いて言う気力が湧いてきたら、きっと言う。具体的に言うと数年に一回レベル。

俺が消極的なことは彼方さんにはお見通しなのだろう。彼方が口を開いた。

 

「もっと言ってくれたら……彼方ちゃん、すっごいことしてあげるんだけど~?」

 

「……ごくり」

 

思わず唾を飲み込んでしまった。無意識だった。『すっごいこと』に惹かれてしまった。彼方さんの言い方が妙に艶っぽかったせいだ。

彼方さんはその様子を見てにやりとした。……しまった。もう遅いが、そう思った。

 

「お? 興味津々?」

 

「そりゃ……」

 

「じゃあ~……もっと言ってくれる?」

 

畳み掛けるような彼方さんの再びのお願い。しかも『すっごいこと』というご褒美をつき。そんな魅力的な餌をぶら下げられる。

 

「…………はい。言います」

 

ご褒美と俺の羞恥心。天秤にかけて、選んだのはご褒美のほう。俺は彼方さんが喜ぶような直球な言葉を言うことになった。

 

「じゃあ、ほら、さっそく」

 

待ち遠しいのか、今か今かと彼方さんが急かしてくる。ちょっと待ってほしい。

 

「…………俺の恋人は彼方さんだけだから」

 

なんとか考え抜いて思いついた言葉。これで彼方さんも満足してくれるだろうと思った。だが。

 

「もう一声!」

 

「え」

 

――どうやら、まだ満足してもらえないみたいだ。彼方さんは嬉しそうにはにかんでいるのに。どうしろと。これで十分じゃないの。

 

「もう一声ほしいなぁ。彼方ちゃんがもっと嬉しくなっちゃうようなやつ」

 

彼方さんのお望みは無茶ぶりに思えた。ニコニコしながら俺の言葉を待っている彼女を見ているとそれに応えたいと思ってしまう。

これ以上を望んでいる彼方さんが嬉しくなっちゃうような言葉。もっと過激な言葉を言えばいいんだろうか。考え込んでしまう。

 

「…………彼方さんは俺の嫁!」

 

思いついたのはなんとも恥ずかしい言葉だった。言ってから後悔する。独占欲発揮しすぎだろうか。引かれないか、不安だ。

彼方さんは言葉の意味を認識できないみたいで一瞬きょとんとした。いや俺の言葉があまりにも非常識すぎて理解できなかったのだろう。数秒して、言葉の意味を理解して、顔を紅潮させた。これでよかった、っぽい。

 

「嬉しいけど~……それってプロポーズ?」

 

彼方さんが困惑しているのも無理はない。そうとも取れる言葉だと俺も思う。

 

「あ、え、と」

 

言葉に迷う。そういうわけではない、と否定することもできる。だけどその気がないわけじゃない。むしろ望み通りだ。いやだけど今すぐどうこうという意味で言ったんじゃない。現実的に不可能だし。……なんて思考が巡り巡っていた。

 

「大丈夫。わかってるよ~」

 

彼方さんは目を細めて、俺を見ていた。ふにゃりと頬を緩ませて。

その言葉で俺は落ち着く。

 

「いつか、ね」

 

「いつか……」

 

彼女の言葉を繰り返す。音にすると、つい想像してしまう。いつかの未来のこと。一瞬だけ、ぼんやりとした景色。すぐに消えてしまった。そうなればいいと思った。

彼方さんと目が合って、視線が交わって、きっと同じことを考えてるんだと思えた。その証拠に彼女も俺もはにかんでいる。

なんだか照れくさくなって、話を変えようとして、ちょうどいい話題があったことを思い出した。

 

「それでご褒美とは……」

 

そう、彼方さんが俺を釣るために用意した『ご褒美』とやらのことだ。

 

「それはね~……」

 

もったいつけるように間を作る。焦らされる。それだけの『ご褒美』なのだろうか。期待が高まる。

 

「彼方ちゃんの膝枕~」

 

……ちょっとだけ力が抜けた。がっかりはしてない。期待しすぎた感はあるけど。いや、そもそも。

 

「……今俺が彼方さんを膝枕してるんですが?」

 

「そうだよ~、今度は彼方ちゃんがあなたに膝枕してあげる」

 

交代して、膝枕してくれるということみたいだ。

寝転んでいる彼方さんの太ももに思わず目が向かってしまう。スカートの裾から透明感のある柔らかそうな肌が覗く。魅力的なご褒美だと、考え直した。

 

「えっちな目してる~」

 

ニヤニヤしてる彼方さん。でもね仕方ないと思うだよ。彼方さんの太もも、寝心地も触り心地もよさそうなんだから。

 

「彼方さんが膝枕してくれるのは今から?」

 

誤魔化すように彼方さんにそう尋ねた。彼方さんは俺の膝枕を堪能して、膝から起き上がる気配はまったくない。本当に膝枕してくれるのだろうか。

 

「うーんと……まだもうちょっとこのままがいいから、……遥ちゃんが帰ってきたらしてあげるね?」

 

彼方さんの言葉で遥ちゃんが戻ってくるのが待ち遠しくなる。いやでも、帰ってきたら二人っきりじゃなくなるな、それはちょっと残念だな、なんて思う自分もいた。なんというジレンマ。

彼方さんは幸せそうに、また瞼をウトウトさせていた。また眠ってしまいそう。また手持ち無沙汰になってしまうな、と思った。いや、彼方さんの寝顔をずっと見ていればいいか。

暖かな、ちょっと暑いぐらいの昼下がり。時間がゆっくり過ぎていくような穏やかな休日のことだった。

 

 




お目汚し失礼致しました。
ありがとうございました。


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電燈

おまけのおまけ。


 

 

もう日はほとんど沈んでいた。灯る街灯の光が薄暗い地面を照らす。

コツコツと、アスファルトを叩く音が4つ。俺と彼方さん。歩幅を合わせて歩く。

俺と彼方さんの間で袋が揺れる。中はスーパーで買った特売品。持ち手の片方は俺が、もう片方彼方さんが持っている。

公園でのんびりして、時刻は夕方になった頃。俺たちはそろそろ帰ろうということになった。ただ帰る途中にスーパーに寄りたいと彼方さんが言った。夕食の材料の買出しをしたいとのことだった。

そこで、遥ちゃんは自分は先に家に戻っていると言い出した。洗濯物を取り込んでおくよ、と。

しかし、遥ちゃんは俺に近づいて、耳元で、

 

『そ、その……2、3時間ぐらい、寄り道してきても大丈夫ですからっ』

 

と顔を真っ赤にして小声で囁いていた。遥ちゃんの真の目的はこっちらしい。気を利かせてくれているみたいだ。その寄り道はしないけど。

 

「~~♪」

 

楽しそうな表情の彼方さんから聞こえる鼻歌。足取りは軽やかで、今にも踊り出しそう。見てるだけで俺も楽しくなる。

 

「……ありがとね~」

 

突然、ぽつりと彼方さんは小さく呟いた。その声で彼方さんの方へと振り向いた。彼女もこちらを見ていた。

 

「買い物、手伝ってくれて」

 

これこれと主張するように、二人で持った袋の持ち手を彼方さんはほんの少しだけ上げる。

 

「あなたのおかげで彼方ちゃん、助かっちゃった」

 

「いやうん。彼方さんともうちょっと一緒にいたかったから」

 

「おおう……嬉しいこと言ってくれるねえ~」

 

彼方さんは照れ臭そうに、だけど嬉しそうにする。俺も恥ずかしくなってきた。

 

「ひょっとして照れてる?」

 

「彼方さんだって」

 

むず痒い。夏じゃないのになんだか身体が暑い。だけど嬉しい。

 

「……ちょっと暑いねえ~」

 

「……ですねぇ」

 

彼方さんも同じみたいだ。顔を見合わせて、二人してくすっと笑った。二人して照れてるのが堪らなくおかしかった。

 

「袋、重くない~? 大丈夫?」

 

彼方さんは二人で持っている手とは反対の、俺の右手を見た。右手にはもう一つの袋があった。これも中身はスーパーでの戦利品だ。なので、俺は今両手に袋を持っている状態である。

 

「重くない。だって彼方さんが手伝ってくれてるし」

 

片方だけだが、負担が軽減されるのはかなり助かっている。それに、こんな時のための男手だ。今日は彼方さんの弁当を頂いたし、そのお礼がしたいところだ。

 

「そっかぁ。ならよかった~」

 

ホッとした笑みを彼方さんは見せた。

 

「さすが男の子だねぇ」

 

「荷物持ちでよければいつでもやりますよ」

 

彼方さんに褒められて、もっと格好つけたくなってついそう言った。後悔はない。荷物持ちとはいえ、彼方さんに頼られるのは俺にとっての喜びだ。

 

「え、それホント~?」

 

「本当ですよ」

 

「……それはあなたに悪い気がするなぁ」

 

「俺がやりたいんです」

 

「えー、でも」

 

俺の言葉になお彼方さんは申し訳なさそうにしていた。

どうすれば彼方さんが気にせず頼ってくれるかな。……思いついて口を開く。

 

「なら、その時は今みたいな感じにしませんか」

 

俺はこういう風にと伝えるために左手で二人で持った袋の持ち手を少しだけ上げた。

彼方さんはきょとんとして、それからすぐに合点がいったのか、瞳を大きく開かせる。

 

「ナイスアイディア~」

 

「でしょ」

 

「彼方ちゃん、今から次の機会が待ち遠しいぜ」

 

弾むような声。彼方さんの表情は夜闇の中で光る電灯のようで眩しい。

俺も彼方さんと同じく、次の機会が待ち遠しく思えた。荷物持ちが楽しみになんて、そんな風に思えるとは今まで想像できなかった。

「俺も、ですよ」

 

「そんなこと言って大丈夫? 彼方ちゃん、ばんばん頼っちゃうよ~?」

 

「ばんばん頼ってください」

 

頼られれば頼られるほど一緒にいれる時間が増えるのだから。しかも彼方さんに良いところを見せられるのだ。こんなに嬉しいことはない。両手とも塞がってるからできないけど反らした自分の胸を叩きたくなった。

 

「じゃあ、遠慮しないぞー。覚悟しろ~」

 

彼方さんは悪戯っぽく微笑んでそう宣言した。一体、どんな荷物を持たされるっていうんだ。できれば人が持てる範疇でお願いしたいところだが。

 

「……まあ、頑張るよ」

 

「期待してるからね~。あなたのカッコいいところ、見れるの」

 

期待されるのは嬉しいけど、万が一持ってなかった時が怖い。冷蔵庫とか持てとか言われもキツいよ? 頑張るけど。

 

「ねえねえ」

 

「なに」

 

「次っていつでもいいの~?」

 

彼方さんが言った『次』というのは次にこういうことする機会のことだろう。要は俺が荷物持ちする時ことだ。

 

「もちろん」

 

「じゃあじゃあ~、明日でも?」

 

「大丈夫。俺、暇だから」

 

彼方さんの問いかけにすぐに答えた。暇だから、なんて言ったが例え用事があっても暇にするつもりだった。彼方さんに会えることより勝る用事なんてないって本気で思った。

 

「やった~」

 

彼方さんは喜びを表すかのように何も持っていない片方の腕を無邪気に挙げた。

 

「じゃあ、明日ね。約束だよ~?」

 

わかったよ、と。いつも通りの口調で言った、つもり。気付かないうちに食い気味になっていたかもしれない。

もしかしなくてもそうなっていたのだろう。くすりと、彼方さんの声がその証。

二人で持った袋が楽しそうに踊る。中身がどうなろうとお構いなしの激しさ。無意識のことだった。止めようと思っても止められなかった。止める気なんてさらさらなかった。

 

「うりゃ~」

 

楽しくて楽しくて、そのうちわざと袋を揺らし始めるようになる。俺と彼方さん、最初にどっちかがやったのかわからない。

じゃれるような彼方さんのかけ声が薄暗い世界で響いた。

 

「おりゃ」

 

俺もそれに対抗して声を出して袋を揺らす。

 

「やったな~……うりゃ」

 

「そっちこそ。おりゃ」

 

俺も彼方さんも、何度もわざと袋を揺らす。子供じみたふざけ合い。

 

「てりゃ~」

 

「とりゃ」

 

地面に映る街灯の光の影がそれに合わせて揺れる。こんな悪ふざけでも彼方さんとなら楽しい。二人して笑い合った。

だけどその時間も長くは続かない。というよりすぐ終わってしまう。

スーパーから近江家はそれほど離れていない。ゆっくり歩いているのに、もう見えてきた。見上げれば、近江家の電灯が光っているのも見えた。

薄暗闇の逢瀬も終わってしまいそうだ。そろそろ本当にお別れの時間。

 

「…………」

 

「…………」

 

その事実に気付いて、俺たちの口数は減り、やがて二人して黙り込んでしまった。

名残惜しい。明日も明後日も、その先もあるのに。今日が続いてほしいと思ってしまう。

 

「……もう着いちゃった」

 

彼方さんの声には寂しさが滲んでいた。痛いほど気持ちがわかる。せめて。

 

「もうちょっと一緒にいたいのになぁ」

 

そんな言葉が聞こえてきて、俺は驚く。

 

「どうしたの~?」

 

「……いや。同じこと考えてたから」

 

彼方さんの言葉は俺がそのとき考えていたとの同じだった。そして公園から帰ろうかというときも同じことを考えていた。彼方さんとスーパーにいるときだって。つまるところ、俺はいつだって彼方さんと一緒にいたのだ。もうどうしようもないくらい。

じゃあ、と彼方さんが言葉を発した。

 

「うち、寄ってく~?」

 

「……やめとく」

 

「どうして?」

 

「いつまでも彼方さんから離れられなくなりそうだから」

 

小恥ずかしい台詞が出てきた。本心だ。だけど冗談めかした口調じゃないと羞恥心でどうにかなりそうだった。

 

「おおぅ」

 

彼方さんが呻いた。二人で持っている袋のほうだけ若干重くなる。

 

「っと」

 

それに引っ張られそうになる。いきなりのことで反応が鈍る。だけどもすぐに体勢を立て直した。

 

「ごめんねぇ」

 

「いや大丈夫大丈夫」

 

「彼方ちゃん、驚いちゃった」

 

でもね、と声がした。彼方さんは頬を膨らませて、拗ねた表情を見せていた。

 

「あなたが悪いんだよ? 彼方ちゃんをときめかせるようなこと言うから」

 

と言われましても。あれは紛れもない本心だし。

 

「ねぇ、思ったんだけどさ」

 

少し考え込んで、彼方さんはそんな言葉を切り出してきた。

 

「あなた、さっきから恥ずかしい言葉ばっかり言ってない?」

 

「本心ですけど」

 

すかさず俺はそう返す。

 

「おおぅ」

 

またも彼方さんが呻く。今度はわざとらしかった。

 

「彼方ちゃんをキュン死させたいのかー」

 

「キュン死するんだ……」

 

「する。キュンキュンしすぎて彼方ちゃんの心臓止まっちゃう~」

 

そこまでときめくのか。それは困るなぁ。まあ、きっと彼女なりの比喩というか大げさな表現というか、そういうものだと思う。

そこで少し意地悪なことを思いつく。

 

「じゃあ、言うのやめとく」

 

「……いじわる~」

 

再び拗ねる彼方さん。言いだしっぺはあなたですよ?

しかし物欲しそうな視線を彼方さんに向けられる。じぃっと見られ、なんとも耐え難い。

 

「うそうそ。冗談だから」

 

ちょっとだけ意地悪したくなっただけなので引っ張ることなく発言を撤回した。

 

「ほんと?」

 

「ほんと」

 

「じゃあじゃあ~、これからも彼方ちゃんをじゃんじゃんときめかせてね~?」

 

「キュン死しない程度に?」

 

「キュン死するぐらいに」

 

「……わかったよ」

 

望むところだ。

さて問題は彼方さんがときめいてくれる言葉を思いつくかどうか。それとその言葉を言うときに羞恥心にやられないかだ。

 

「明日も期待してるからね~?」

 

おっといきなり来たよこれ。

 

「頑張ります……」

 

とはいえ楽しみにしている彼方さんを見て、できないなんて言えるわけがない。今できる精一杯の回答がこれだ。

少し困った顔をしているであろう俺を見て彼方さんは笑った。やっぱり眩しかった。

 

 




お目汚し失礼致しました。
ありがとうございました。




配信だけど3rd Live両日ともよかった(小並感)


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ペトリコール

なんとなく続きました。


 

 

ふと嗅覚が独特なな匂いを捉えた。これは雨の日の匂いだ。

雨が降っている。大雨というほどではないが、傘がないと困るぐらいの量の雨だ。

コンビニの出入り口付近の軒下から俺は灰色の空を睨んでいた。人が睨む理由なんて限られている。……恨めしいからだ。

そんなことしようが天候は変わってはくれない。空の色はそのままだ。むしろ……。

 

「はぁ……」

 

一向に良くなる気配のない天気を見て、一つ溜息をついた。

空がこんな風になったのは俺がコンビニに立ち寄って物色している間のことだった。店内に入る前は少し曇っているだけだった。それが数十分でこれだ。

なんで恨めしいのか。それは俺が傘を持ってきていないからだ。

このままだと俺は、雨が止むまで待つ、ずぶ濡れで帰る、コンビニで傘を買う、のどれかを選択しなければならない。それぞれに、どれぐらい待つかわからない、風邪を引くかもしれない、無駄な出費、という地味に嫌なデメリットが待ち受けている。

憂鬱になる。薄暗い空と雨音と匂いが余計にそう感じさせた。

とはいえそろそろ覚悟を決めなければ、と思った時だった。

 

「あれ~、もしかして……」

 

よく知った声。その音を辿る。そこには俺の想像した通りの少女がいた。菫色の傘を差していた。

 

「彼方さん」

 

「やっぱり。こんなところで会えるなんて偶然だねぇ」

 

制服姿の彼方さんはしみじみとした口調でそう言った。本当にそうだ。同好会もあるし、会う約束なんてしてなかったから今日こんな遭遇をするとは思わなかった。

 

「彼方さんは学校の帰りですか?」

 

「そ~。あなたは?」

 

「コンビニに買い物に来たんですけど、傘を持ってくるのを忘れて」

 

「突然振り出したもんね~」

 

「おかげで家に帰れない」

 

彼方さんも俺も空を見上げた。その空を見て、また溜息をつきたくなった。

 

「雨、止みそうにないね~」

 

「……ですね」

 

止む気配どころか、空は暗く濁った灰色に染まっていっていた。これから日は沈んでいくが、この空の色はそんな理由ではなさそうだった。この天気はさらに悪くなりそうだ。

本当にどうしたものか。

 

「あ、そうだ~」

 

嬉しそうに彼方さんが声を上げる。

 

「よかったら、あなたも彼方ちゃんの傘に入っちゃおうよ~」

 

名案でしょう、とでも言いたげなドヤ顔を彼方さんは見せる。確かにナイスアイディアだ。

 

「そうしたらあなたも家に帰れるよ~」

 

「それだと彼方さんが遠回りになっちゃうでしょ」

 

「それは……そうだけどー」

 

彼方さんは少し考え込んで、すぐまたなにか閃いたかのような表情になる。

 

「じゃあじゃあ~、彼方ちゃんのうちで雨宿りしちゃう?」

 

彼方さんが言い出したのは魅力的な提案。思わず頷きたくなるが理性がそれを留めた。

 

「……いきなり行くと迷惑にならない?」

 

「そんなことないよ。むしろ大歓迎~」

 

満面の笑みでウェルカムオーラを出す彼方さん。

 

「ほれほれ、彼方ちゃんと相合傘しようよ~」

 

傘の持っていない手で招き猫みたいに手招いて俺を誘う。

断る理由はない。なにより俺が彼方さんの誘うに乗りたいと思っている。

 

「じゃあ、お願いします」

 

「どうぞ~、おいでおいで」

 

彼方さんは傘を少し上に持ち上げて、俺が入るスペースを作ってくれた。失礼しますと言って、その中に入る。

身長差のせいだろう。彼方さんは腕を伸ばして傘を差している。持ちにくそうだった。

 

「傘、俺が持つよ」

 

「ありがと~」

 

傘を受け取る。彼方さんが濡れないように気持ち彼女よりに傘を持つ。

 

「じゃあ~、出発しんこー」

 

こんな天気だというの、楽しそうに歩き始めた。俺も遅れないように、彼方さんが濡れてしまわないように着いていく。目的地は彼方さんの家。

道のでこぼこにできた水溜りを足を踏みいれるたび、水滴が軽やかに跳ねて飛び散る。キラキラと光る。

 

「そういえば、コンビニでなに買ったの~?」

 

「これ」

 

俺はズボンのポケットに仕舞い込んでいたものを取り出して、彼方さんに見せた。ただのシャープペンの芯だ。見せてまた仕舞った。

 

「宿題やってるときに芯のストックがなくなりそうなのに気付いてさ」

 

なんなら最後の芯を使ってしまっていた。宿題自体はすでに終わったから急いでほしかったわけじゃないが、予備がないのは心許なかった。

 

「おー、ちゃんと宿題しててえらいねぇ。よしよししてあげよう~」

 

小さい子相手にやるように彼方さんは頭を撫でてきた。恥ずかしい。彼方さんと俺との身長差が余計にそう感じさせる。が振り払うわけにいかないし、そもそも振り払えない。

時間にして数秒。悶えてしまう時間が終わってしまった。彼方さんが手を俺の頭から離した。

 

「彼方さんは同好会?」

 

恥ずかしさを誤魔化すように、俺は彼方さんに尋ねる。

 

「そうだよ~。今日も練習大変だったぜぇ……楽しいんだけどね~」

 

彼方さんは疲れを滲ませながらも充実感に満ちた表情をしていた。疲れは心配だが、その満足げな表情に俺はほっとする。

 

「……彼方ちゃん頑張ったからご褒美が欲しいなぁ」

 

唐突にそんなことを言い出し始めた。ご褒美とはなんぞや、と思っていると彼方さんが再び口を開く。

 

「撫で撫でプリーズ」

 

顎を引いて頭を下げて、彼方さんは差し出すように頭を俺のほうに向けた。俺に撫でられるのを待っている。まだやるとも言っていないのに。やるけど。俺も彼方さんも足を止めた。

傘を差していないほうの手で彼方さんの髪に触れる。そして労わるように優しく手を動かして彼女の頭を撫でる。

 

「おぉ……いい……気持ちいいー……」

 

ふにゃりと顔が蕩ける。彼方さんは猫みたいに目を細めて、言葉通り気持ち良さそうにしている。

彼方さんのふんわりとした髪は触り心地がよくて、ずっと触っていたくなる。手が引き寄せられ吸い付いて離れがたい。

撫で続けているとだんだんと彼方さんの頭がこくりこくりと動く。瞼も閉じていく。まずいと思った。

彼方さんの身体が委ねるように寄りかかってきた。

 

「……すやぁ」

 

気持ち良さそうな彼方さんの吐息が聞こえた。よくない。今寝られたら俺は雨の中傘を差しながら彼方さんを引っ張って運ぶ羽目になる。なかなかきつい。

 

「起きて。彼方さん、起きてください。おーきーてー」

 

撫でるのを止めて、彼方さんの身体を強めに揺さぶる。

 

「…………はっ」

 

その声と共に彼方さんは瞳を大きく開けた。幸いなことにすぐに目覚めてくれた。

バツの悪そうな表情。自分が寝てしまったことに気付いているようだった。

 

「ごめんねぇ。寝ちゃった~」

 

彼方さんはふにゃりと微笑んだ。まだ夢うつつな瞳。

 

「あなたの撫で撫でが気持ちよすぎたから~」

 

そんな責任転嫁をされましても。

 

「せめて家に着くまでは耐えて」

 

「頑張ってみる~……」

 

力のない、間延びした声。はたして家まで耐えられるか。少し不安になった。

再び歩き出す。傘からはみ出して濡れないように歩こうとするとどうしてもゆっくりになってしまうが。

雨は次第に強くなっていっているような気がする。聞こえてくる音は激しい。傘に落ちた雨粒も大きくなっているように感じられた。

 

「雨、すごいねぇ」

 

彼方さんも俺と同じように思っていたのか、空を見上げて言った。

 

「大丈夫~? 濡れてない?」

 

「濡れてないよ。彼方さんのほうこそ」

 

「彼方ちゃんは全然濡れてませーん」

 

ふっとなにかに気付いたのか、彼方さんはじっと俺のほうを見つめてくる。いや見つめているのは一点だ。どこを見てるんだ?

 

「あなたのおかげかなぁ」

 

柔らかな笑みを浮かべて彼方さんはそう言った。

 

「そんなことないと思うけど」

 

「……肩、濡れてるぞ~?」

 

彼方さんは俺の肩を見ていた。バレてた。

 

「彼方ちゃんにはお見通しだぜ」

 

くすくすと笑う彼方さんにバツの悪さを感じてしまう。こういうのはバレてしまうのダサいと俺は思ってしまうのだ。

 

「濡れないように、もっとそっちに寄るね~」

 

彼方さんはすすっと身体を寄せ、彼女と俺にあった間を詰める。彼方さんの制服が俺の服に触れた。

彼方さんの髪が揺れて、ふわりと匂いが香る。ずっと嗅いでいたような、ほっとする匂いだ。

 

「ほら、これならあなたも彼方ちゃんも濡れないよ?」

 

そうだけど、これは近い。服越しに彼方さんの柔肌を触っているような、なんとももどかしい感触が身体を支配した。

 

「……歩きにくくない?」

 

「えー、そんなことないよ~」

 

即座に否定された。彼方さんの表情からはそんなこと露とも思っていないことが読み取れた。

彼方さんは俺の瞳を覗き込んでくる。

 

「それとも彼方ちゃんが近いのは嫌?」

 

「そんなことはない」

 

同じように即座に否定する。近くのは嫌じゃない。いてほしいと思う。

どうやら俺の答えはお気に召したらしい。彼方さんは顔をニヤつかせた。

 

「彼方ちゃんはもっと近づきたいって思ってるよ~」

 

「もっとって」

 

どれぐらいの距離なんだって、そう続けようとしていた。

 

「このぐら~い」

 

傘を持った腕を包み込むように抱きしめられた。

さっきとは違う。服に触れているレベルじゃない。はっきりと彼方さんの身体を腕に感じる。柔らかさと温かさと両方とも。あとなにがとは言わないが当たってる。

明らかに歩きにくい。どう考えてもそれは確かなことだ。それは彼方さんだってわかっているだろう。

 

「だって、ここは彼方ちゃんの特等席だもーん」

 

彼方さんのその言葉に胸が締め付けられる。内側から熱が湧き出てきてどうしようもなく熱くなる。

身体が軽くなる。水滴が飛び散るのも気にならない。この感情を彼女も抱いているといいと思った。

強まる雨の中、俺たちはスキップするかのような足取りで歩いた。

 




お目汚し失礼致しました。
ありがとうございました。


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虹の根元

この作品を読んでくださる方、お気に入り登録をしてくださる方、感想をくださる方、高評価をしてくださる方。
いつも励みになっております。本当にありがとうございます。



 

しとしとと雨が降り続いていた。連日の雨。降り止む気配はない。

今日も彼方さんの家に泊まっていた。高揚感が俺を支配していた。恋人の家に泊まるのだから当然だろう。もう何度も泊まっているが。

 

「……眠れない」

 

おかげさまで全然眠れなかった。現在午後10時。眠気は訪れそうになかった。

 

「彼方ちゃんも~……」

 

隣に座る、パジャマを着た彼方さんがいつもなら想像できない台詞を言っていた。まあ、お昼からついさっきまで二人で長すぎるお昼寝をしていたからというのもあるんだろうけど。

 

「寝るまでお話、しよっか~」

 

「うん」

 

俺は彼方さんのそんな提案に乗ることにした。

彼方さんの部屋。床に並べた座布団の上。彼方さんと俺はただ寄り添っていた。

本当に珍しいことだと思った。あれだけ寝てれば、というのは彼方さんには関係がないと思っていた。

 

「う~ん、今日が特別なんだと思うなぁ」

 

それに対して彼方さんはそんな言葉を漏らした。

 

「どういうこと?」

 

「あなたと二人っきりだから~」

 

そうだった。今、近江家には彼方さんと俺だけだった。二人っきりだ。遥ちゃんはスクールアイドルの合宿をしていて、二人の母親は仕事らしい。

 

「お風呂、一緒に入りたかったな~」

 

だというのにあやまちを犯したくなるようなことを彼方さんは言い出した。ちょっとドキッとする。心臓に悪い。

 

「我慢できなくなりそうなんで」

 

「我慢しなくていいのに……」

 

さらにくらっとクる言葉が飛び出てきた。やめて。

 

「襲わないなら~……彼方ちゃんが襲っちゃうぞー怪獣彼方ちゃんだーがおがお」

 

迫力はない。ただただ可愛いだけだった。パジャマ姿だから余計に。

ただ言葉とは正反対に、そういう行為をする気配はない。彼方さんは俺の肩に顔をもたれさせて寄りかかってきて、それだけ。

 

「重い?」

 

「重くない」

 

「よかった~」

 

子供みたいなじゃれ合い。ぬるい空気が揺蕩う。

会話の内容だって中身がないようなものばかり。そんな会話を交わし合って、俺たちは睡魔が訪れるのを待っていた。

 

「パジャマ似合ってる。かわいい」

 

「えへへ~、そーかなぁ。嬉しい」

 

パジャマを着た彼方さんは可愛いかった。いつも可愛いけど。俺の褒め言葉に照れっぽくはにかんだ。

 

「ずっと見ていたい~?」

 

「見てたい」

 

「んふふー」

 

問答に満足したのか、彼方さんはご機嫌そうに笑い声を零す。

 

「彼方ちゃんを喜ばせるようなことばっか言って、嬉しいけど照れちゃうよ~」

 

その言葉は冗談ではなく、彼方さんの頬は薄っすらと朱に染まっていた。

 

「思ってることを言っただけだけど。言わないほうがよかった?」

 

「むぅー……それは、言ってほしいけど~」

 

彼方さんは拗ねたように赤い頬を膨らませた。リスみたいだ。

 

「……いじわるぅ」

 

肩にもたれていた頭を起こし、彼方さんは俺の鎖骨の辺りをぐりぐりと責め始める。地味に痛い。

 

「痛いんだけど」

 

「いじわるした仕返しだぁー」

 

そう言ってさらに強く頭を押し付ける。余計に痛くなる。

 

「ちょっ」

 

「えいえいえーい」

 

彼方さんは頭をぐりぐりと動かすのを止めない。俺の鎖骨は攻め続けれられていた。ちょっと痛いけど、彼方さんが楽しそうにしているので止めようとはしなかった。

 

「あー楽し~」

 

しばらく続けて鎖骨ぐりぐりに満足したのか、そう言って彼方さんは責めるのを止めて胸に寝転がった。ぽすっと、心地の良い重みを感じる。

 

「あなたとこうやってだらだらしてるの好きー」

 

間延びした声が胸元から響く。その声と重みに安心感を抱く。

 

「俺も好きー」

 

その言葉はすらっと出てきた。意識したわけじゃなかった。発音まで彼方さんみたいになった。

 

「一緒だぁ」

 

彼方さんはニコニコと微笑んだ。俺もきっと気持ち悪いぐらいにやけている。

会話と会話の合間。その隙間にできた声のない瞬間。外の雨音が響く。

止まない雨。いつまで続くんだろう。

 

「雨、やまないねえ」

 

彼方さんも同じように耳を傾けて、同じことを感じていた。

 

「天気予報では朝には止むみたい。確か天気予報でそんなこと言ってた」

 

そうは言ったが俺自身雨が止むとはあまり思ってなかった。今日の空の雲はそれぐらい厚かった。明日になってその灰色がなくなるなんて思えなかった。

 

「じゃあじゃあ、もしかしたら虹が見えるかも~」

 

「だったらいいなぁ……」

 

虹が出てきたらいい。それを二人で見れたらどれだけ最高か。夢みたいな、ささやかな願望を抱いた。

 

「きっと見れるよ~」

 

彼方さんの言葉があんまりにも自信満々だったから俺までそう思ってしまいそうになる。でもきっとこれ、根拠はないなと勝手に思った。

 

「なんでさ」

 

「んー……なんとなく~?」

 

尋ねたらやっぱりそんな答えが返ってきた。ですよね。

 

「彼方ちゃんの未来予知~……なんちゃって」

 

「当たるのを期待してるよ」

 

「あ~! ……信じてないなぁ~?」

 

わかりやすい俺の発言に彼方さんは少し不満そうにした。むぅと唸って、彼女はわかりやすいむくれ顔を見せる。可愛いと思った。

 

「そりゃまあ」

 

見れたらいいなとは思うけどさ。

 

「むむむぅ」

 

ちょっと威嚇するような唸りをまた見せる彼方さん。

 

「夢の中なら見れるんじゃない」

 

俺はそんな彼方さんを宥めるためにそう口にした。夢の中なら、そんな都合のいいことだってきっと起こりうるだろう。少なくとも現実よりも可能性はある、多分。いやどっこいどっこいか。

 

「二人とも同じ夢見れるかなぁ」

 

彼方さんは心配そうに言う。

 

「こうやってくっついて寝てれば、見れるかも」

 

俺も根拠のないことを口にした。これは願望だ。

 

「なら今日は一緒に寝よ~」

 

正確に言うと『今日も』だ。毎日ではないけど。

 

「ああ、うん」

 

彼方さんと一緒に寝たい気持ちが俺にはあったからその言葉に首を縦に振った。

 

「ぎゅーって抱きしめて、あなたを抱き枕にしちゃうぞー」

 

「来いよ」

 

「とりゃー」

 

ウェルカムしたら彼方さんは身体をその場で一回転させ、正面から覆いかぶさり体重をかけてきた。負担はさっきよりも大きい。というのも彼方さんが抱きついてぎゅうぎゅう締めてくるからだ。

 

「ぎゅぅ」

 

と擬音を口にしながら、抱きしめる力は緩めずさらに強くしてきた。さらに密着する。パジャマだから彼方さんの身体の感触がはっきりとわかる。心臓が跳ねる。

 

「ふふー、ドキドキしてる~」

 

「彼方さんだって」

 

お互いにお互いの心臓の鼓動がわかる。ドキドキしていることがお互いにわかる。なんかちょっと恥ずかしい。

 

「でもこれ、安心する」

 

「あ、それ彼方ちゃんもわかる~」

 

だけどそのドキドキと同じぐらいに安心感を得ていた。彼方さんも同じみたいだ。

 

「あなたを直に感じられて、包まれているみたい~」

 

蕩けた声が耳元で聞こえる。囁くような小さながくすぐったい。

 

「……囁かれるの、好き?」

 

「……彼方さんはどうですか?」

 

俺も同じように耳元で囁く。抱きしめ合ってるから顔は見えないが、同じような顔をしてるだろうなと思った。

 

「ひみつー」

 

「じゃあ、俺も」

 

「ずるーい」

 

「彼方さんだって」

 

どうでもいい問答をしているな、と俺は自分で思った。意味のない言葉のやり取りだと彼方さんもわかっているだろう。その言葉の交わし合いが愛おしく思える。もっと話がしたくなる。

だけどそれは長く続かないだろうとも思った。だってこうして抱き合っていたら安心して眠くなってしまう。

 

「眠くなってきてるねぇ」

 

「彼方さんだって」

 

お互いにお互いに体重を徐々に預けてしまう。少女の重みが当然ながら重くて少し煩わしくて、心地よく思えた。

 

「おも~い……」

 

「それはお互い様だって」

 

「彼方ちゃんは重くないよ~?」

 

「嘘つくな」

 

「ほんとだもーん。彼方ちゃん、枕みたいに軽いもーん」

 

「あはは」

 

「いい加減彼方ちゃん怒るぞぅ」

 

と言いつつ、彼方さんは俺を突き飛ばそうとかそういうことをしてこなかった。どころか力を抜いてより身体を預けてきた。暖かくて柔らかくて、こっちの力も抜けてしまった。

 

「いい枕だね~、これ」

 

「俺は枕じゃない」

 

「仕返しー」

 

さっきのあれを根に持っているみたいだ。いや人間なんだから決して軽いわけはない。軽い方だと個人的には思うけど。

 

「女の子に対する態度が問題なんだぞー」

 

「許してよ」

 

「えー、どうしよっかなぁ……」

 

微睡むかのように考え込む。いや半分寝ているのかもしれない。

 

「じゃ~あ……ずっと一緒にいてね」

 

夢見心地で呟かれたその言葉。耳朶をくすぐらせ、夢うつつな意識に温かさをじんわりと染み込ませた。

 

「それで……いつかでいいから、一緒に虹、見ようね~?」

 

俺はその言葉になんて返したのだろう。微睡みに包まれて、もうなんて返したか、果てして言葉を伝えられたのかすらわからない。

夢の中に誘われていく。その中で彼方さんも自分と同じ状態であることがぼんやりとわかった。彼方さんが先か。それとも自分が先か。それすらもあやふや。

その夢の中で、さっき話したように虹が見れるといい。二人で同じ夢が見れればいい、そう思った。

一緒に虹を見に行こう。そんな微かな願望を意識が消える、その時まで抱き続けていた。

 




お目汚し失礼致しました。
ありがとうございました。


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花火

今回は夏っぽいお話です。よろしくお願いします。


 

陽が落ちても、汗が出てくるような暑さだ。額の汗を拭い、思った。

時刻は20時すぎ。多少はマシになったとはいえ、暑苦しい。

冷房や扇風機が恋しい。せめてぬるい風でもいい。外に風はなく、空気中の熱は停滞していて、身体が溶けてしまうそうだった。

 

「お待たせ~」

 

特徴的な靴音とともに彼方さんはやって来た。慌てて来たのか、息を少し切らして。

 

「言うほど待ってないよ」

 

「そぉー? でもあなた、すごい汗かいてるけど~?」

 

「そりゃ暑いから。そう言う彼方さんも汗、かいてる」

 

「……あんまり見ないでねぇ。彼方ちゃん、はずかしぃ……」

 

つうっと。彼方さんの額から首筋を通って、汗は彼女の服の中へと吸いこまれていった。

見ないで、と彼方さんは言ったが。

 

「ごくり……っ」

 

色っぽくて思わず息を飲んでしまった。彼方さんにも聞こえるぐらいの音だ。薄暗い闇でもわかるぐらい、彼女の頬が赤色に染まった。

 

「も、も~……えっち~」

 

「……ごめん」

 

恥ずかしそうな彼方さんに俺は謝るしかできなかった。いやうん、これは俺が悪い。ごめんなさい。

 

「……あっついねぇ」

 

「あっついなぁ……」

 

二人して手を仰いで、自分たちの体温をなんとか下げようとしていた。傍から見たらきっと滑稽な光景なんだろうな、これ。

……そんなことよりも。彼方さんにまず言わなきゃならない言葉があった。

 

「……綺麗です、彼方さん……その浴衣」

 

恥ずかしいがその言葉を口にした。するとすぐに彼方さんは綻んだ表情を見せてくれた。その顔が見たかった。

白と基調とした、菫色の花があしらわれた浴衣。赤紫の帯が映えて見えた。彼方さんの足元には眩しい素足と下駄。

 

「えへへ~、似合う? 似合う~?」

 

「すっごく似合ってる」

 

その言葉でさらに嬉しそうに顔を蕩けさせた。こっちまでにやけてしまいそう……もうすでににやけてる。暑いなぁ。夏だからかな。

「……そろそろ、しよっか~」

 

二人でひとしきり恥ずかしがって、最初に声を上げたのは彼方さんの方だった。まだ少しだけ顔が赤いように見える。

 

「ああ、うん」

 

頷く。そのためにここに来たんだから。人気のほとんどない夜の公園に。

鞄からあるものを取り出す。ここに来る前にコンビニで買ったもの。

 

「おお~、これは迷っちゃうなぁ」

 

俺の手に持ったものを見て、嬉しそうに彼方さんは言った。

取り出したのは手持ち花火。今日は彼方さんと二人で手持ち花火をしようと約束していたのだ。

手持ち花火をするための準備をする。消火するための水を用意したり、火をつける道具やゴミ袋の準備……などなど、いちおう火を取り扱うのでそこら辺はしっかりと。

 

「まずはどれからする?」

 

「うーんとね~……じゃあ、これ~」

 

いくつか用意した手持ち花火から彼方さんは一つ選び取った。ススキ花火と呼ばれるものだ。俺もそれに倣い、同じものを取り出す。

まずは彼方さんのから火をつける。勢いよく火花が飛び散る。火花は薄の穂のように長い尾を描く。

 

「うおお~……すごーい、綺麗~」

 

俺も自分のに慎重に火をつける。鮮やかな火花が彼方さんのものと同じように長い尾を描くように飛び散る。

 

「これは確かにすごいな……」

 

楽しそうに火花を見つめる彼方さん。俺もその鮮やかさに目を奪われる。

 

「あっ、色が変わったぁ」

 

彼方さんの驚きの声。白の火花を上げていた彼方さんの花火が赤の火花に色合いを変える。俺のも黄色から青色へと火花の色が変化する。

 

「振り回しちゃダメだよ~?」

 

何を思ったのか、そんな風に彼方さんは俺を嗜めた。

 

「俺、振り回しそうに見えた?」

 

「だって男の子って、そういうの好きそうだし~」

 

「しないよ、俺はそんなこと」

 

「えぇー、本当かなぁ?」

 

「信じられていないし」

 

心外だ。

 

「だってあなた、ちょっと子供っぽいところあるから~」

 

「それは彼方さんも」

 

「そんなことないも~ん」

 

そんなくだらない言い合いをしている間に花火はいつの間にか消えていった。

 

「あ」

 

「あ」

 

彼方さんも俺も、揃いに揃って間抜けた声を上げた。俺たちは何をやってるんだ……。

二人して顔を見合わせて笑った。笑うしかないなこれ。

 

「まあ、まだまだ花火はあるし」

 

「だね~」

 

新しい花火を取り出す。今度こそはちゃんと花火を楽しまないとな。

彼方さんにも新しい花火を渡して、順番に火をつけた。鮮やかな火花を散らす。

 

「……この間の花火大会、行けなかったねー」

 

その様子を見ながら、彼方さんはポツリとそんな言葉を発した。

彼方さんが言う花火大会とはつい最近この近辺で開かれてた打ち上げ花火大会のことだろう。

 

「お互いに用事があったし、仕方ないって」

 

彼方さんはスクールアイドル同好会の、俺は親戚の。二人とも外すことのできない大切な用事があったから、そこは仕方がない。

 

「そうだけど~……やっぱり二人で見たかったなぁ……」

 

「確かに。見たかったなぁ」

 

残念そうに言う彼方さんに心底同意する。浴衣の彼方さんと打ち上げ花火を見られたら、妄想しただけで楽しそうだ。

でも~、と彼方さんさんは口を開く。

 

「こうやって二人っきりで花火できるから、こういうのもありだねぇ」

 

その刹那的な閃光が彼方さんの瞳に映る。その光は彼女の横顔も照らす。花火に負けないぐらい、綺麗だと思った。

 

「あなたもー……二人っきりで嬉しいでしょ~?」

 

揶揄うかのように彼方さんは悪戯っぽく囁いた。

 

「嬉しいよそりゃ」

 

「えへへ~、彼方ちゃんと一緒だぁ」

 

へにゃりと、本当に嬉しいそうに彼方さんははにかむ。彼女のその柔らかな表情が胸を締め付ける。

ススキ花火は二つともまたしても徐々に勢いをなくして、やがてはその輝きはふっと消える。夜に咲いた花のように。花火が消えるとどうしても感傷的な気持ちになるのは俺だけだろうか。

そんな気持ちをかき消すように次の花火を取り出そうとしていると、

 

「ねえねえ、線香花火ないの~」

 

そう言って彼方さんはこちらを覗き込んできた。薄暗闇の中、目が合う。

 

「もちろんあるよ」

 

「じゃあ~、ちょーだい」

 

「はいはい」

 

彼方さんのおねだりに俺は少しだけ笑って、線香花火を彼女に渡した。

しゃがんだ彼方さんが持つ花火に火を灯す。ぱちぱちと音を立てて、爆ぜる。火花を散らす。

 

「手持ち花火と言えばやっぱりこれだよね~」

 

うんうんと頷く彼方さん。

派手さはない。だけどその小さな火は幻想的で、目を閉じるのも息を呑むのも惜しくなる。その光に照らされる彼方さんと共に、瞳の奥に焼き付けておきたいと思った。

 

「綺麗だ……」

 

思わず声が漏れた。馬鹿みたいな感想だがそれ以外思いつかなかった。

 

「そうだねえ」

 

彼方さんの言葉を聞きながら思う。夢みたいなこの光景を忘れてしまいたくなかった。できるなら、ずっと見ていたいと。この夜が、この夏が、終わって欲しくないと。

 

「彼方ちゃん、ずっと見ていたいな~」

 

ああ、同じことを考えていたんだな。嬉しくなる。

だけどそういうわけにはいかない。線香花火もやがて消える。小さくなる火花を見て、もうそろそろかと思う。

 

「あー……彼方ちゃんの消えちゃった……」

 

彼方さんのから先に消えた。寂しげな声音。

それから数秒後、俺のもあっけなく消えた。まだ見ていたかった。花火が消えるたびにそう思った。

また、視線がぶつかる。彼方さんは一転、ニヤリとしていた。何かを企んでいるのかのよう。

 

「ねぇねぇ、もう一回線香花火しよ~」

 

「いいけど、なんで?」

 

「どっちが先に消えるか、競争しようぜ~」

 

そういうことか。俺は彼方さんのおふざけに乗ることにした。

 

「よしきた。負けたら罰ゲームな」

 

「罰ゲーム?」

 

彼方さんは不思議そうに聞き返してきた。

 

「勝った方の言うことを聞く……どうだ?」

 

「お~、彼方ちゃんやる気出てきた」

 

俺の言葉に生き生きとし出した彼方さん。果たしてどんな罰ゲームを彼女は考えるのか。

公正にするために二人同時に花火をつけることになった。幸い、花火に着火するための道具は予備を持ってきてあった。

お互いに『せーの』で火をつける。ささやかな、それでも鮮やかな光がまた瞼に映る。

 

「彼方ちゃんの罰ゲーム、聞きたくない?」

 

「聞きたいけど……こういうのって先に言うものか?」

 

「だって彼方ちゃんが伝えたいから~」

 

まあ、俺も聞きたいからいいけど。そのまま彼方さんに続きを促す。

 

「彼方ちゃんの罰ゲームはね~」

 

ニコニコしながら話し始める彼方さん。薄明かりに照らされる彼女の表情は伝えたくて仕方ない、我慢できないというのが手に取るようにわかる。

 

「来年もー、こうやって一緒に花火することと」

 

『と』? これで終わりじゃないのか。まだ続きがあるっぽい。

 

「それで、打ち上げ花火も一緒に見に行くこと~」

 

そうか、そういう手があったか。

しかし彼方さんも欲張りだ。罰ゲーム一つだけじゃなくなってる。二つに増えてる。いやそもそも。

 

「それ、罰ゲームにならないよ」

 

「ふっふっふ~、そっかぁ」

 

満足そうな微笑み。俺の言いたいことがわかってると言わんばかりの反応だった。

 

「でもさ、今から? 気が早くない?」

 

「早くないよー。そうすれば確実でしょ~」

 

「確かに」

 

「だから~……来年のあなたの予定を今のうちから予約しちゃいまーす」

 

また、来年。どうしようもなく心が躍ってしまう。もう来年が待ち遠しくなる、そんな罰ゲームだと思う。もうこれ、罰ゲームじゃないなぁ。

 

「あなたの罰ゲームは~? 彼方ちゃんに聞かせてー」

 

彼方さんは楽しそうにそう催促して俺の言葉を待った。悩む必要はなかった。俺の、彼方さんへの罰ゲームはもう決まっている。

 

「俺の罰ゲームは――」

 

言葉が音になる。彼方さんは大きく目を見開いた。

そして、火花が小さくなり火種が落ちる。ほぼ同時の勝負。

暗闇の中、彼方さんは照れくさそうに微笑んで、こくりと頷いた。来年の予定は決まった。楽しみがまた増えた。

 




お目汚し失礼致しました。
ありがとうございました。


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夢の続き

前回から少し間が空いてしまいました。ごめんなさい。
今回もよろしくお願いします。


 

夢の続きを探していた。

まだ夢を見ていたかった。目覚めたくなかった。目覚めは唐突で、その夢も突然打ち切られるように幕を閉じてしまった。

少しの未練を抱えながら、意識がはっきりとしてくる。

 

「……何時だ今」

 

世界は暗闇。きっとまだ夜なのだろうと思う。

闇に目が慣れていないせいで時計を見ることができない。だから正確な時間まではわからない。

スマホはどこに置いたっけ。近くにはなさそうで、スマホで確認することはできなかった。

 

「すー……すぅ……すやぁー……」

 

近くから呼吸の音が聞こえ、温もりと柔らかさを感じる。きっと多分彼方さんだ。昨晩二人でベッドに入ったことは覚えている。

次第に目が暗闇に馴染んでくる。隣にはやっぱり彼方さんがいた。安らかに眠る彼女の姿はどこか祈るようで、修道女のような神聖さを帯びていた。

時計を見つけ時刻がわかる。午前3時過ぎ。闇はまだ深く、部屋の外の世界は静寂。朝はまだ遠い。

 

「…………。……眠れない」

 

何度か目を閉じて睡魔が再び訪れてくれないかと試みるも、なかなかお迎えには来てくれなかった。

溜息を一つ。フラストレーションを吐き出して切り替える。一度起きようと思った。身体を起こそうとした。

 

「……むにゃむにゃ……ダメ……すぅすぅ……」

 

起こそうとすると引っ張られて身体の動きを止められる。見れば服の裾を彼方さんが掴んでいた。可愛らしくて思わず声を出さず笑ってしまった。

……どうしようかな。掴んでいる手を無理に剥がしてでも起きるべきか。それともこのままにしておくか。

そのままにしておいてあげよう。迷った末にそちらを選んだ。夢の中眠り続ける彼方さんの邪魔をするのは嫌だった。

 

「すーすー……むにゃ……えへへ~」

 

闇の中で部屋に飾られた時計の音が妙に響く。そして微かに彼方さんの寝息も聞こえてくる。俺はそれに安らぎを感じた。

彼方さんは寝ながら嬉しそうにはにかむ。なにかいい夢でも見ているのだろうか。

 

「すぅ……むにゃむにゃ、あなたといっしょにいられて……うれしいなぁ……すやぁー」

 

本当に寝ているか怪しくなるぐらいはっきりとした寝言だ。聞いているこっちが恥ずかしくなる寝言でもある。彼方さんの寝顔を見ていられず、天を仰ぐ。

 

「実は起きてたりしないかこれ」

 

一人そう小さく呟くが、反応はない。起きてはいない、のか。

ちらりと彼方さんの顔を覗く。変わらない彼女の寝顔。幸せそうな表情。

彼方さんの眠りを見守っていよう。そう思っていたが。

 

「すやー……ぎゅー……えへへ……」

 

眠っている彼方さんに強く抱きしめられてしまう。どんな寝相だ。唐突だったので内心焦った。幸運なことに声を上げずに済んだが。

柔らかくて温かい、安心してしまうような彼方さんの身体に包まれる。安心してしまうと同時に邪な感情も抱いてしまいそうになる。

さすがにこれはまずい、と思った。

 

「……彼方さん、離れてください、彼方さん」

 

小さな声で彼方さんに呼びかける。反応はない。俺の声は眠っている彼方さんには届いていないようだった。

もっと大きな声で呼びかけるべきだろう。だが気持ちよさそうな彼女の顔を見たら大きな声で呼びかけることなんてできなかった。

 

「困ったな……」

 

もう手段は無理矢理抜け出すぐらいしか思いつかなかった。

 

「ごめん、彼方さん」

 

きっと届かないであろう謝罪をして、彼方さんを少しずつ引き剥がす。抜け出して離れようとする。なるべく起こさないように慎重にゆっくりと。

 

「……ん、んん……んん」

 

俺のその動きに彼方さんは抵抗してくる。離れようともがくと彼女はより距離を詰めて密着してくる。

 

「んんん……なんでぇ……はなれちゃうのー……」

 

きっと夢の中でも似たようなことが起きているのだろう。彼方さんの寝言はそう思わせた。

心苦しくなる。離れたくなくなる。離れなければいけない理由を疑いたくなる。このままでいいのではと思ってしまう。

だけどこのままだと俺の理性が持たない。煩悩を追い払いつつ、抜け出そうともがく。

 

「……はぁ」

 

葛藤の末、辛くも彼方さんから抜け出した。まだ彼女は夢見状態のまま。だけども俺はもうそんな状態にはなれそうもなかった。

身体を起こす。といっても上半身だけ。少しだけ距離をとって彼方さんの眠る姿をぼんやりと見ていた。夢の中に居る彼女が羨ましく思えた。

 

「…………」

 

……なんだろうな。眠り続ける彼方さんが妙に寂しげに感じだのは。俺の錯覚なのか、あるいは。

 

「すぅ、すやぁ……んんー…………ぁ……えへへ~」

 

ああ。思わず彼方さんの手を握ってしまった。その瞬間すぐさま彼女の顔が綻んだ。本当によくわかるもんだ。

自分よりも小さい手。細く綺麗な指。大切にしたいと思った。手先に、指先に、力がこもってしまう。

 

「……ん……んんー……んんんっ…………ぅ」

 

あ、しまった。

 

「……ぅんん……おはよー……もーあさぁ……?」

 

もう遅かった。

目の前でゆっくりと、気だるげに瞼が開く。いつも以上にのんびりとした、寝起きの口調。……彼方さんを起こしてしまった。

 

「まだ」

 

「……えー……ほんとぉ……」

 

「本当だって。まだ暗いじゃん」

 

「あー……ほんとだ……」

 

そこでようやく彼方さんはまだ夜中だと気付いてくれたようだ。

 

「ごめん、起こしちゃった」

 

「んふふふー……いいよー……ふぁ~」

 

彼方さんも上半身だけ身体を起こした。まだまだ眠そうな彼方さんを見て、罪悪感が湧いてきた。そんなこと彼女はまったく気にしていなさそうだが。

 

「ん~……」

 

彼方さんは両手を上に伸ばして、身体を伸ばす。おかげ様で胸が張って強調される。薄暗闇の中でもわかる。

 

「ふぁ~……まだまだ夜中だねぇ」

 

またも欠伸を零しながら彼方さんは時計を見た。寝惚け眼を手で擦った。

 

「あなたも起きちゃったの?」

 

彼方さんの言葉に俺は頷く。すると彼女は頬を緩ませ嬉しそうに顔を綻ばせた。俺は怒っていない彼女の様子に安堵した。

 

「一緒だねぇ」

 

「なんで嬉しそうなの」

 

「あなたと一緒だから」

 

恥ずかしい言葉だと少し思った。もちろん嬉しいのだけれど。言葉が出てこなくなる。

 

「照れてる~?」

 

なんと確信犯だったか。ニヤリと笑ってこちらを覗き込む彼方さんを見て思った。俺の表情を確認した彼女はふふーと囁くようなくらい小さな声で笑った。なんとなく悔しさを覚えるが、その無邪気な笑みに毒気が抜けていった。

 

「照れてるよ……」

 

投げやり気味に言葉と身体を投げた。ベッドに身体が沈み込む。衝撃はマットレスが吸収してくれる。痛くない、気持ちいい。だけども眠気は感じない。

 

「もう1度寝るの?」

 

「寝れるかなぁ」

 

とても眠れるとは今は思えない。そんな感情が言葉に篭ってしまった。

 

「じゃあじゃあ~、彼方ちゃんとお喋りしよう~」

 

「あれま」

 

想像外の言葉が彼方さんから出てきた。ちょっぴり眠そうな彼方さんの顔を思わず二度見してしまう。目が合うとくすぐったそうに彼女は笑った。

 

「だってあなたと一緒に寝たいんだも~ん」

 

思いがけない可愛らしい台詞にぽかんとしてしまう。その反応を見て彼方さんはにまりとする。なにか悪巧みを考えているような表情。

 

「えーいっ」

 

そんな、掛け声とともに彼方さんがこちらに飛び込んできた。躊躇いのない動作。俺は身構えなんて出来ていなかった。女性一人分の重みが衝撃とともにぶつかってきた。

 

「……重い」

 

そんな単純な言葉がまず出てきた。あと痛い。

 

「むー……そんな言葉、女の子に言っちゃだめだぞー」

 

胸元からちょっと不機嫌そうな彼方さんの声が響いた。顔を覗くと頬を膨らませていた。可愛いかよ。

 

「ごめんごめん。でも実際重い」

 

「彼方ちゃん重くない。枕みたいにふわふわ~」

 

「いやいやいや」

 

人間なのだから重みはそれなりにある。そりゃ彼方さんは軽い方だと俺も思うけど。

 

「退いた方がいい?」

 

「……退かないでいいです」

 

彼方さんの俺の心を見透かしたような言葉に逆らえない。

重みはあるけど、それ以上に彼方さんの身体に密着するというのは物理的、心理的に心地よい。幸せな気持ちになる。離れがたい。

 

「じゃあ~、彼方ちゃん重くないってこと~?」

 

「そういうことです……」

 

「よろしいー」

 

彼方さんの満足そうな言葉が届いた。言わされた感あったけど彼方さん的には満足してくれた、っぽい。

ぎゅっと抱き着いてくる彼方さんを思い通りにさせながら部屋を見回した。暗さはまだ変わらない。まだ夜は続く。

 

「朝までこのまま眠れなかったらどうしような」

 

特に意図のない言葉。頭に思い浮かんだことを口に出した。ただ今のままだと眠れる気がしないのは嘘じゃなくて本当のことだった。

 

「だったら明日は一日中お昼寝だぁ」

 

「なんて不健康な」

 

「でもちょっとだけいいかもって思ったでしょ~」

 

「……まあ」

 

「ふふふ~」

 

俺の考えは見透かされていた。彼方さんが漏らした笑い声に反論なんてできるわけがなかった。

でも憧れだと思う。一日中夢の中で過ごすなんて。実際できるわけないけど。

 

「どお~? 明日は彼方ちゃんと、一日中夢の世界にいよ?」

 

なんとも彼女らしい言い回しで誘ってきた。魅力的で魅惑的な誘いだ。

 

「眠れたらなー」

 

「だいじょうーぶ。眠れるまでずーっとこのまま~」

 

逆に眠れなくなりそうだ。そう言うと彼方さんは不満そうにブーイングしてきた。興奮すると眠れないって言うじゃん?

でも、今夜ぐらいはそれもいい。俺は彼方さんの誘惑に乗っかろうと思った。明日の、面倒くさい日常のことなんて考えないようにした。

 

「……あのね~」

 

「ん?」

 

「さっきね、彼方ちゃん、夢の中であなたと一緒だったよ~」

 

「どんな内容だったの?」

 

「忘れちゃったぁ。……でもとっても幸せだったよ~」

 

「そっか」

 

「今度もあなたと一緒の夢、見たいなぁ……」

 

夜はまだまだ長い。眠れない、曖昧な時間も続く。

また明日が待ち遠しくて、時間を埋めるように彼女と俺は他愛のない話を交わし合う。次起きたら忘れているような、内容のないことばかりだ。日が昇って、意識が溶けて消えるまで、ずっと。

今のうちに言っておこう。おやすみ。

 




お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。


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ミラージュ

遅くなりましたが、一昨日11月11日は近江遥ちゃんのお誕生日。
そして、今日11月13日は天王寺璃奈ちゃんのお誕生日。

二人とも誕生日おめでとう!!
(本編内容とは一切関係ありません)



 

「先輩、こっちです」

 

沈んでいく橙の太陽が少女を鮮烈に照らしている。俺が彼女を見つけたとき、自分の場所を知らせるために手を大きく振っていた。駆け足で彼女のもとへ向かう。

 

「……ごめん、待たせた」

 

「いえ、そんな。全然待ってませんから」

 

彼女――桜坂しずくさんは俺の謝罪に少し焦った口調になった。こっちのほうが年上だし、まだまだ親しい訳じゃない。なので遠慮があるのだろう。

 

「それよりもごめんなさい。急に呼び出してしまって」

 

「いいよ別に。まあ仕方ないよ」

 

俺も彼女も同じ方へ視線を向ける。ベンチに腰をかけた彼女の、その太ももの上で。彼方さんは眠っていた。

 

「すやぁ……」

 

とても気持ちよさそうで、起こすのも躊躇ってしまうぐらい。というか。

 

「桜坂さん、起こそうとしたんだよね?」

 

「はい。声をかけたり何度も揺すってみたりしたんですけど」

 

「でも起きなかったと」

 

「はい……。この通り、起きてくれないんです」

 

ぐっすり眠る彼方さんを見て、それから桜坂さんと目が合って、二人して苦笑した。

 

「本当なら起きるのを待っていていたいんですけど」

 

「用事があるんだよね?」

 

確か、彼女から届いたメッセージにはそう書いてあったはずだ。届いたのはほんの数十分前。

放課後に桜坂さんと彼方さんが二人で遊んでいた。その途中二人で座ったベンチで彼方さんが眠り始めたが、しばらく経ってもそのまま気持ちよく眠っていた。桜坂さんにはこの後家族と用事があり、帰る時間が迫っていたがなかなか彼方さんが起きてくれなかった。そんな内容がメッセージで送られてきた。

すやすや彼方さんを桜坂さんの膝枕からゆっくりと慎重に移動させ、背中におぶる。流石に俺の身体にも負荷がかかる。

 

「その……ごめんなさい。彼方さんのこと任せちゃって」

 

「いいよいいよ。家族の用事なら仕方がないよ。彼方さんのことは任せて」

 

「よろしくお願いしますね、先輩」

 

最後まで申し訳なさそうにして桜坂さんは去っていった。……と思ったら戻ってきた。なぜ?

 

「寝てるからって、イタズラしちゃダメですからね?」

 

うるさいやいと、その囁きに返してやろうと思った。だけどその時にはもう離れて距離が開いていた。やられた。

そのまま離れていくのかと思ったら、彼女は一回こっちを振り返って手を降ってきた。軽く笑いながら俺はそれに降り返して、彼方さんの家へと足を向けた。

ところでどうして桜坂さんは俺のことを「先輩」と呼ぶのだろうか? 聞いてみても「先輩だからですよ」としか答えてくれないし。確かに年上ではあるのだが、学校は違う。謎だ……。

夕暮れを歩く。どうしても歩く速さはスローなものになる。背負っている状態の動きづらさももちろんあるけど。それ以上に、背中に感じる重さと柔らかさは大事なものだから宝石を扱うようになってしまう。

 

「すやー……むにゃ……すぴー……」

 

彼方さんの呼吸の音が耳元で響く。一定のリズムで繰り返されていた。乱れのない、安らかな寝息。どんな夢かはわからないが、悪夢ではなさそうだ。

世界は夕焼けによって黄金に染められている。その光景は黙って歩いているのと相まってセンチメンタルな気分にさせられた。感傷的になって思考がマイナスへと向かってしまう。

思考の対象は今日学校で配られた進路希望調査のプリントだった。なにを書けばいいのかわからないでいた。将来に対するぼんやりとした不安が気を重くさせる。今が幸せだから余計に。この幸せがなくなってしまうんじゃないかと、つい考えてしまう。

なにを怖がっているんだ。まだ不確かなことじゃないか。そう鼓舞しても不安は消えてくれない。

――そこで脈絡もなく、頬になにかが触れる。

 

「暗い顔して、どうしたの~」

 

のんびりとしたその声が聞こえてきたのと同時に今頬に触れているものが同じく頬だとわかる。自分のものと違ってもっと柔らかくてもちもちしていて、触れていて気持ちいい頬だ。

 

「……彼方さん?」

 

その頬の持ち主は一人しかいないだろう。近江彼方さんだけだ。

 

「ふっふっふ~、だいせいかーい。今頬をくっつけてるのはあなたが大好きな彼方ちゃんだよ~」

 

大正解て。一体いつからクイズになったんだ。

 

「この状況だったら考えられるのは彼方さんしかいないでしょ」

 

「むーぅ、もっと驚いてほしかったのに」

 

横目でちらっと見える、拗ねて悔しがる彼方さんが微笑ましい。くすりと声が漏れそうになった。

 

「まだ寝ててもいいのに」

 

「だって、気付いたらおんぶされてるんだよ~? 折角だし堪能したかったの~」

 

いかにも堪能してますよーと言いたげに、彼女は頬に頬擦りをしてくる。

 

「えへへ~、マーキング~」

 

ご満悦そうな声だ。こっちはくすぐったいし、その上歩きづらいよ。

 

「マーキングて。なんで。なぜにマーキング?」

 

「それは~……この特等席は彼方ちゃん専用だってアピールするため~」

 

そう言ってぎゅっと身体を寄せてくる。柔らかな彼方さんの身体で背中が幸せになる。

そんな意図があったんかい。というか誰に対してのアピールなんだ。

 

「こんなところを好き好むのは彼方さんぐらいだよ」

 

「え~……ほんとぉ?」

 

なぜに嬉しそう? 声だけでわかる。絶対ニコニコしてる。満面の笑みだよこれ。

 

「やったぁ、彼方ちゃん専用~」

 

弾んだ声。その嬉しさを表現するかのようにぎゅうぎゅうとさらに強く抱き着いてくる。

 

「あんまり暴れないで」

 

「え~……なんで? 彼方ちゃんとくっつけてあなたも嬉しいでしょー?」

 

「嬉しいんだけどさぁ」

 

彼方さんを落としそうになるから困る。あんだけくっつかれると力が抜けそうになる。

 

「それでそれで……暗い顔してたけど、どうしたの~?」

 

話が戻ってきた。寝起きの彼方さんが最初に言ったのが俺の表情のことだった。話が脱線した。

 

「なにかあったわけじゃないんだけど……将来のことをちょっと」

 

「おっとぉ、それは彼方ちゃんへのプロポーズか~?」

 

それはまだ早すぎだ。

 

「じゃなくて進路のこと」

 

進路希望調査の紙が配られて、なんと書いたものか迷っていた。こんなもの適当に書けばいいものの、ふと未来のことを考えさせられてしまう。5年後、10年後の自分は一体どこでなにをしているのだろうか、と不安になってしまった。そのことをぽつりぽつりと漏らした。

彼方さんは俺の話を黙って聞いてくれた。時折頷いてくれる声がして、彼女が居眠りせずにちゃんと聞いていてくれるのがわかる。

 

「そっかー」

 

まだ実体のない、ぼんやりとした悩みをその言葉で飲み込んで受け止めてくれた。俺は勝手に思った。笑わないで聞いてくれた。

 

「その気持ちわかるよ~。不安になるよね? 未来のことってわからないことってわからないことだらけだから」

 

腕に回された彼方さんの腕が優しく覆ってくれて慈しんでくれているように思えた。大丈夫だよってことを教えてくれていた。

 

「でもね、確かな事だってあるって彼方ちゃん思うんだ~」

 

続けて発せられた彼方さんの言葉が妙に力強く感じた。いつもと変わらないはずなのに。

 

「それはねー……ずっと一緒だってこと~」

 

「ずっと一緒?」

 

「そだよ~、あなたと彼方ちゃんはずっと一緒。これはもう決定事項だぜー」

 

おどけた口調。その響きには優しさが入り混じっていて、鼓膜を通して心にすっと染み込んで溶ける。剥離することなく、驚くほど良く馴染んだ。

彼方さんのその言葉を心に刻んでおきたくなった。いつでも脳内再生できるように脳みそに叩き込む。遠い未来でも覚えていれる様に。

 

「未来は不安なことよりも楽しいことばっかだぞー。だから大丈夫」

 

「そっか……うん」

 

見えないからこそわかることがある。回された腕に少し走った緊張。間延びした声に含まれる感情。触れた身体の感触と聴覚はより深くその言葉の意味を教えてくれた。

 

「じゃあ、こうやって彼方さんをおぶるのもきっとずっと変わらないなぁ」

 

「ふっふっふ~、末永くよろしくねぇ」

 

「へーい、こちらこそ」

 

約束と呼ぶには大げさな、ちっぽけで蜃気楼みたいな未来の展望を彼方さんと俺は交わした。本当に履行されるかどうかもわからない。そうなればいいと思う。

思えば、俺の不安も蜃気楼みたいなものだ。実体なんてない。保証なんてどこにもない。彼方さんと交わした契りとそう大して変わらない。楽しいことだって、そう。

 

「……進路調査用紙にはなんて書こうかな」

 

「彼方ちゃんのお婿さん~」

 

「それは駄目だろ」

 

学校に提出するものですよ? それを書いたら職員室に呼び出されるだろう。

 

「えへへ、ダメ~?」

 

「駄目。そんな甘えた声を出されてもこれは譲れないからな。絶対駄目だから」

 

「ちぇっ、ちょっとは彼方ちゃんを喜ばせてくれてもいいのにー」

 

そんな嬉しい戯言を聞き流して、考える。とりあえず、大学進学にしよう。必要になれば後から変えればいい。

大事なことを知れた。未来はどうなるかはわからないが、そこは間違えない。

不安は消えないまま、抱えていく。

 

「彼方さんが俺を喜ばしてくれるなら考えなくもない」

 

「……えっちー」

 

「なんでそうなる」

 

「わかってるクセに~」

 

そういう意味では言っていないのに。決して。

耳元でくすくすと噛み殺した笑い声が聞こえる。その声を聞けばこっちをからかっているのが丸わかりだ。

笑い声が止んで、しっかり聞いててねと彼方さんが前置きしてきた。音量はそのまま変わらず、囁きのような声。

 

「彼方ちゃんの将来の夢は~……あなたのお嫁さんになることだよ?」

 

「!?」

 

――思わず心臓が止まりそうになった。彼方さんのとびっきりの甘い声が耳に飛び込んできた。

とんでもない爆弾だ、これは。一歩間違えれば、俺の命は間違いなく逝っていた。

 

「どぉ~? 嬉しい? 喜んでる?」

 

こいつはしてやられた。完敗だった。やってやったぜという感情が彼方さんの言葉の端々から感じられた。

このままじゃ本当に進路調査用紙に彼方さんのお婿さんと書かなきゃいけなくなる。マズいマズい。

俺は頭をフル回転させてどうにかしてこの事態を避ける知恵を絞る。考える。呼び出しは嫌だ。呼び出しは嫌だ……。

 

「ふふふ~」

 

俺のそんな姿にご満悦な声の彼方さん。楽しそうでなによりだよ……。

……とりあえず。消えない将来への不安は脇に置いておいて。今すぐそこに迫る危機について、頭を悩ませることになったのだった。

 

 




お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。


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スリーピングビューティー

今日、12月16日は近江彼方ちゃんの誕生日です。
お誕生日おめでとう!!!


 

 

「~~~♪」

 

隣から鼻歌が聞こえる。随分機嫌がよさそうなのがすぐにわかる。音の端々から伝わってくる。

 

「彼方さん、ご機嫌だね」

 

「だって今日は彼方ちゃんの誕生日なんだよ~。そりゃご機嫌になるよ~」

 

彼女の言葉通り、今日12月16日は近江彼方さんの誕生日。彼女が主役の日だ。

さっきまでニジガクのみんなに盛大に祝ってもらっていたおかげか、俺が彼方さんを迎えに行った時には既に上機嫌だった。

なんで迎えにいったのか、それはこれから彼方さんちで彼方さんと遥ちゃん、そして俺の三人で彼女のお誕生日会をやるためだ。ちなみに彼方さんには知らせていない。家には既に遥ちゃんがいて、彼女はお誕生日会の準備をしている。

俺は所謂足止め役。遥ちゃんの準備が終わるまで彼方さんを家に入らせないようにする役目。彼女に悟られないように時間を稼ぐ。

とはいえ、遥ちゃんだけに準備の全部を押し付けているわけではない。彼方さんを迎えに行くまでは遥ちゃんと一緒にお誕生日会の準備をしていた。とちょっと言い訳しておく。

パーティーの準備が終われば遥ちゃんから連絡が来る手筈になっている。それまでは時間稼ぎと……もう一つの目的を果たそう。こっちも重要だ。

 

「ニジガクのみんなとのお誕生日会、楽しかった?」

 

「もっちろーん。すっごく楽しかった~」

 

俺の何気ない問いかけに彼方さんが食い気味に答える。俺は驚いてちょっぴり仰け反った。

 

「彼方ちゃんいっぱい祝ってもらっちゃった~。あのねあのね~、エマちゃんがね――」

 

彼方さんの話は止まらない。話したいことがたくさんあるみたいで、興奮しながら克明にニジガクのみんなにどう祝ってもらったのか教えてくれた。彼方さんのそんな様子が微笑ましくて、頬が綻んでしまいそうになる。

 

「あー、なに笑ってるの~。ちゃんと聞いてる~?」

 

話すことに夢中になっていた彼方さんに気付かれてしまった。ちゃんと聞いているさ。

 

「彼方さんが楽しそうに話すから、俺も嬉しくなっちゃって」

 

見てるこっちが笑顔になってしまうぐらい彼方さんは楽しそうで嬉しそうだったから。自然とそうなってしまうのは仕方がないことだ。少し照れながら答えた。

 

「というか、そんな笑顔だった?」

 

「うん、物凄くニコニコしてたよ~」

 

「そこまでか」

 

「ほんとほんと。自覚ないみたいだねぇ」

 

「いや、うん」

 

自覚はないけど納得してしまう。それぐらい微笑ましかったんだ。

 

「そんなことよりお誕生会の話の続き、聞かせてくれよ」

 

「あなたが邪魔したんだぞぉー」

 

「はい、ごめんなさい。俺が悪かったです」

 

「ふふふ~、彼方ちゃんが許してしんぜよう~」

 

誰がどんなプレゼントをしてくれたのか。どんなケーキを食べたのか。話の続きを彼方さんは語ってくれる。語り終えてもまだまだ足りなさそうな表情なのが本当に楽しかったことを物語っていた。

 

「ねぇねぇ」

 

「なに?」

 

「ところで……なんで迎えに来てくれたの~?」

 

おっと、痛いところを。

彼方さんはなんの疑いもなく、ただただ純粋な疑問を俺にぶつけているだけなんだろうけど。

 

「あとあと~……今彼方ちゃんたちはどこに向かってるの~?」

 

困惑の中にほんのちょっぴりの警戒が混じった声音でさらなる問いかけが彼方さんから投げつけられた。

彼方さんの家に向かっていないことに気付かれた。そりゃいずれは気付かれるだろうなとは思った。

 

「それは……」

 

「それは?」

 

間違っても、彼方さんのお誕生日会の準備ができるまで足止めしてます、なんて言えない。

それならもう、もう一つの俺個人の目的を言うしかない。……非常に恥ずかしいけど。

目的地を彼方さんに告げる。それはこの近辺にある大型ショッピング施設だ。俺も彼方さんもお世話になっている場所だ。

ただ告げられた彼方さんはわからないといった表情だった。場所だけじゃわからないよね。

 

「実はさ、彼方さんの誕生日プレゼントを選びたくてさ」

 

……実をいうと俺はまだ彼女の誕生日プレゼントを用意していなかった。というか、なにを選べばいいかわからなかった。アクセサリーみたいな身に着けるものだと個人の好みもあるし。似合わないとかそういう事態は避けたかった。

だからいっそのこと、彼方さんと一緒に選べばいいと思ったんだ。その方が確実だった。浪漫の欠片もないが。

 

「あなたが選んだものだったら、彼方ちゃんなんでも嬉しいよ?」

 

俺の話を聞いてくれて思った通りの言葉が返ってきた。そう言うだろうなとは思った。嬉しいことだ。でも。

 

「一緒に選ぶのも楽しいと思うんだ」

 

もう一つ、そういう楽しみも俺はあると思った。一緒に見て回って、選んで、買う。ただ贈り物をするよりも一緒に選んだ思い出という付加価値が付いてくる。するともっとプレゼントに愛着が湧く。

 

「一緒に選ぶかぁ……確かに楽しそう~」

 

「でしょ」

 

「でも遥ちゃんが……」

 

ちょっぴり心配そうに遥ちゃんのことを気にする彼方さん。この反応は予想済み。

 

「大丈夫。事前に話しておいた」

 

ちなみに遥ちゃんに話したところ、『ゆっくり選んできても大丈夫ですよ』と言われた。きっと準備時間をなるべく確保したいからだろう。

 

「そっかぁ~……それじゃあ、一緒に選ぼー!」

 

片手を高く突き上げて、今にも駆け出しそうなぐらいなテンションを見せる彼方さん。だけども所々の仕草でいつものゆったりとした動きを垣間見せて、そのギャップが面白かった。

その言葉が聞けてホッと思わず息を吐いてしまった。肯定的に受け止めてくれてよかった。彼方さんの楽しそうにわくわくした顔が俺を安心させた。

なんとなく彼方さんに触れたくなって、彼女の手を掴んで握った。

 

「んー? 突然どうしたどうした~? 彼方ちゃんと手を繋ぎたくなっちゃったかぁ?」

 

突然のことに少し驚きつつも、嫌そうな表情を見せず彼方さんははにかんだ。

 

「うん」

 

素直に頷くと彼女はさらに破顔した。

 

「えへへへ~、いいよ~。彼方ちゃんも同じ気持ちだから~」

 

彼方さんは握られた手を指を絡めるようにして、握り返してきた。隙間をなくすかのようにしっかりと結ばれた。

寒空の下、肌と肌が触れて重なり合ってお互いの手のひらの熱が交じり合う。焼け石に水状態ではあるがそれでも温かく感じた。

 

「あったかいねぇ」

 

「だな、温かい」

 

微かな温かさを共有しながら足取りは朗らかに進む。

街は騒がしい。もうすぐクリスマスということもあって街はクリスマス一色に染まっていた。

大型ショッピングモールは平日だというのに人で溢れていた。辿り着いたその場所もクリスマスの装飾が飾られ、クリスマスに向けて購買意欲を煽っていた。ただ、単純にとても綺麗で、見ているだけで心奪われる光景だった。

 

「彼方さんは今欲しいものある?」

 

「ん~……そうだねぇ……」

 

そういえばと思い、着いて早々にそんな質問をぶつけてみた。彼方さんは回答に困り悩んでしまう。

そりゃそうだよなぁ。いきなり言われてもぱっとは出てこないだろう。

 

「……新しいフライパン?」

 

沈黙ののち、彼方さんはそんな誕生日プレゼントっぽくないものを提示してきた。

 

「いやそういうのじゃなくて」

 

気持ちはわかるけど。考え込んで浮かんでこなかった結果、今必要なものを言っただけなんだろうけど。

 

「それともプレゼントはフライパンでいい?」

 

「むぅ、いじわる」

 

唇を尖らせた拗ね彼方さんに冗談だとすぐに伝える。この拗ね拗ね彼方さん、可愛くてずっと見ていたいぐらいなんだけど、さすがに彼女のご機嫌を優先した。なんたって今日は彼女の誕生日なのだから。

さすが大型ショッピングモール。お店が多すぎてどこから見て回るかを決めるだけで大変だ。とりあえず、最初に目に入った衣料品店に入ることにした。

その後、別の衣料品店、靴屋、本屋などいくつかのお店を軽く見回ってみたものの、これだというような決め手になるようなものは見つからなかった。候補はいくつか見つかったんだけど。

少し焦りが出てくる。果たしてプレゼントは決まるのか、タイムリミットまでに決まるのか、という二つの焦りだ。後者に関して、まだ遥ちゃんから連絡はないが、もうそろそろ来てもおかしくなかった。

 

「ねえねえ、ここ! 次はここ入ってみようよ~!」

 

テンションMAXの彼方さんが次のお店を指し示す。彼女のハイテンションな姿は俺の焦りを緩和させてくれる。

彼方さんがしゃっきりさんな腕で指し示したのは雑貨店。アクセサリーも取り扱うみたいだがお値段は学生向けな、リーズナブルな価格帯のものが多い。店外からちらっと見えたPOPや値札からそう思った。

繋いだ手を彼方さんに引っ張られる。その動きに逆らわずにお店の中へと入った。当然店内もクリスマス一色で、客層もなんとなく男女ペアが多目な気がした。

 

「じゃーん! どぉ? このネックレス、似合ってる?」

 

「なんかいつもより大人っぽく見えていいね。似合ってる」

 

「えへへ~」

 

陳列されている商品をああだこうだ言いながら店内を回る。モノよりもそれを手に取るたびに様々な表情を見せる彼方さんにどうしても視線が向かってしまう。揺れる髪の毛の一本も見逃したくなかった。

彼方さんの方を向いていた視線を剥がして、店内へと視線を向ける。やはり気になってしまうもので、何度も視線は宙をさまよって結局のところ彼女の元へ戻っていってしまう。

その繰り返しの中で、不意に彼方さんの表情が変わった。

 

「お」

 

彼女の声が漏れた。決してその響きは悪いものではない。楽しそうに聞こえた。

彼方さんの顔をしっかりと見る。彼女の視線は止まっていた。その先を追う。

 

「……ブレスレット」

 

青緑の石をさりげなく装飾させた、普段使いしやすいシンプルなデザイン。その淡い色が光った。

 

「ふむふむ、ほぉー、なるほどなるほど~」

 

彼方さんはまず覗き込んで観察して、それからブレスレットを手にとって目の近くまで持っていきじっくりと吟味した。時折POPなんかにも目を移しながら。

一通り吟味し終えたのか、ブレスレットを顔から離す。そして彼方さんはそのブレスレットを腕に装着した。

 

「ねえねえ、このブレスレットはどぉかなぁ? 似合ってる?」

 

ブレスレットを着けた腕を差し出して彼方さんは俺に見せてきた。捲られた長袖の先、白い肌にその色は映えて見えた。

 

「似合ってるよ」

 

こういう時、自分の語彙力のなさが悔しい。もっとユーモアに富んだ褒め方ができたらなと思う。

彼方さんはそんな俺の顔をじっと見つめて、

 

「そっかぁ、えへへへ~、彼方ちゃんニヤけちゃうな~」

 

それから顔を綻ばせた。頬は緩んで、彼女の言う通り口元はニヤけていた。

それから少しの間黙り込んで、それから彼方さんは口を開いた。

 

「彼方ちゃん、これがいいな」

 

「このブレスレット?」

 

「そ~」

 

彼方さんが選んだのはその青緑のブレスレットだった。俺の財布事情からしても支払えるレベルの商品だ。なんならもうちょっと高くても大丈夫なんだが。

そのことを口にしたのだが。

 

「ううん、これにする~」

 

「気つかってない? もうちょっと高いのでも大丈夫だよ?」

 

「いいの」

 

「だって、あなたが似合うって言ってくれたから」

 

「そっか」

 

彼女がそう言うなら俺に文句なんてない。それに……俺も本当に似合ってるって思ったから反対なんてするはずもなかった。

二人でレジに持っていく。彼方さんは着けて帰るからと言って、ラッピングはしてもらわなかった。商品を受け取って、お店を出るとちょうどいいタイミングで携帯が一度だけ震えた。遥ちゃんからの合図だ。本当にいいタイミングだった。

ショッピング施設から出るとやっぱり寒かった。吹き付ける北風が妙に冷たくてなお一層そう感じられた。

時刻的にはまだ夕方なのだが、陽は落ちて空は暗くなり星が出ていた。季節のせいかな、本当に夜が早くなった。

 

「うぅ~う、寒い~……」

 

冷たい風が吹いて、繋ぎっぱなしの彼方さんの手が震える。振動が伝わってきた。

 

「寒いし、早く帰ろう」

 

「だね~、温かい布団が恋しい……」

 

「まだ寝るには早いだろ」

 

「えー、でもあなたは彼方ちゃんと一緒に寝たくない~? きっとすごく気持ちいいよ?」

 

それを言われると寝たくなってくる。いやいやこの後はお誕生日会があるんだ。遥ちゃん(と俺)が頑張って準備したのだからちゃんと彼方さんを祝いたい。

 

「うふふ~、気が変わったらいつでも言ってね~? 彼方ちゃん大歓迎だから」

 

まだ眠っていない眠り姫が囁いて誘ってくる。喉が鳴りそうになって我慢した。いつも思うのだが、どうして彼女の誘いは抗いがたいのだろう。思わず流されたくなってしまう。

 

「……気が向いたら」

 

俺の精一杯の返答に彼方さんはしてやったりと言わんばかりのドヤ顔を見せた。

内心じゃ今すぐその誘いに乗っかりたい。だけど今日はまだまだこれからなのだから。せめてお誕生日会が終わるまでは堪えよう。その後は……。

 

「すけべな顔してるぞー」

 

「どんな顔だよ……」

 

「頬が緩んでニターってなってる~」

 

別に変なこと考えていないのにな。だからその嬉しそうなドヤ顔は止めなさい。

 

「……それよりも。さぁさぁ早く帰ろう」

 

「ふふふ~、そうだねぇ」

 

くっそう。今に見てろ。近江家の玄関の扉を開けた時の表情が楽しみだ。隣で小悪魔のように笑う彼方さんを見て、その光景を想像する。

彼女の誕生日は終わらない。まだまだ始まったばかりだった。

 




お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。


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微睡んでいたい

2021年最後の投稿となります。よろしくお願いいたします。
(内容は年末とは一切関係ないです。)


 

 

うちのリビングは日当たりがいい。お昼になると太陽が窓から差し込んできて、暖かな日溜まりができる。

 

「うーん……あったかぁい~」

 

その場所に彼方さんは気持ちよさそうに寝転ぶ。猫みたいだと思った。

休日の昼間、うちの家に彼方さんが遊びに来ていた。といっても二人でのんびりとしているだけだが。

特別なことはなにもしていない。俺も彼女に倣い、陽の当たるその場所で座り込んでいた。

 

「ぽかぽかで気持ちよく眠れそうだあ」

 

「寝てもいいよ?」

 

「えー……せっかく二人っきりだもん。ここで寝ちゃうのはちょっと惜しい……」

 

彼方さんの言う通り、今のこの家には俺と彼女の二人だけだった。うちの両親は休日をいいことに小旅行に行っていた。息子を一人残して。別にいいけど。彼方さんと二人っきりになれたし。

彼方さんの言葉は嬉しい。わかりやすい言葉は胸にぶっ刺さって、思いがけずニヤけてしまう。

 

「……すやぁ」

 

「あれ」

 

目を瞑り、寝息を漏らす。安らかな表情。

ひょっとして寝てる? ついさっき、寝れるのが惜しいと、珍しいこと言ったのに。早くない? それも彼方さんらしいと思うけど。

 

「…………はっ」

 

と思ったらすぐにお目目をぱちりと開けた。

 

「危ない危ない。寝ちゃうところだったぜ~」

 

笑いが零れてしまうのは不可抗力だと思う。彼女を馬鹿にするとかそういう意味じゃない。

彼方さんは唇を尖らせていじけた表情を見せた。機嫌を損ねてしまったようだった。

 

「むう、そんなに笑って馬鹿にしてる~?」

 

「してないしてない」

 

ただちょっと面白かっただけだ。あと和んだ。うんそれぐらい。決して馬鹿にしていない。

 

「それを馬鹿にしてるって言うんだぞー」

 

どうやら彼方さんにはそう読み取られたらしい。そんなつもりまったくないのにな。

今も唇を尖らせたまま、拗ねている彼方さん。ただ寝そべっているので迫力はないし、むしろ微笑ましく感じられた。

 

「許してよ」

 

「えー、やだ~」

 

「ごめんて」

 

「どうしよっかなぁ」

 

「どうしたら許してくれる? なんでも言うこと聞くからさ」

 

「う~ん……そうだねぇ……」

 

俺の言葉に彼方さんは真剣に悩みだす。おいおい。せめて痛いのとか苦しいのは止めてほしい。

 

「あ、彼方ちゃん閃いた! 彼方ちゃんをいっぱい甘やかしてくれるなら許したげる~」

 

甘やかす、ときた。なかなかに抽象的というか曖昧というか、どうすればいいのか困ってしまう。

困ったので俺は彼方さんに直接聞いてしまうことにした。それが一番手っ取り早かった。

 

「ちなみに具体的には?」

 

「えっとね、そうだな~……例えば、あなたが彼方ちゃんを腕枕してくれるとか」

 

「腕枕か。やってみる?」

 

「え、いいの?」

 

「それぐらいなら、うん」

 

……ぶっちゃけ。内心は無茶難題がこなくてホッとしてる。腕枕ぐらいならお安い御用だ。

さっそく。彼方さんのすぐ横で寝転がる。腕を伸ばして広げるとその上に彼女は頭をのせた。

重さが二の腕の辺りに伝わる。思ったより痛い。

あまり長いことやらないほうがよさそうだ。少しの間ならいいが、腕へと負担がかかってしまう。

 

「ん~~、よく眠れそう~」

 

「それはよかった。でも少しだけな」

 

「えぇー」

 

「だって腕痛くなるし」

 

「むぅー……それなら仕方ないねぇ」

 

「お」

 

意外と素直に聞いてくれた。もっと嫌がるかと思ったのに。

と顔には出さずに少しだけ驚いていると彼方さんは続けて口を開く。

 

「でもくっつくのはやめてあ~げない」

 

彼方さんはすすっと身体をより密着させてくる。彼女の身体の柔らかさがよりはっきりとわかった。身体を丸めてくっついてくるその様子はやっぱり猫みたいだと思った。

 

「えへへ……しゃーわせ~」

 

蕩けた顔を見せる彼方さんに俺も幸せだと感じた。

自分がとても単純なことに呆れてしまう。好きな女の子とただ触れているだけなのに。ほんと男って単純だわ。俺は自分が単純なのを男のせいにした。

 

「ねえねえ、あなたも嬉しい~? 幸せ~?」

 

「そりゃまあ、うん、嬉しいし幸せだけど」

 

至近距離から俺の反応をその綺麗な瞳でじっくりと見つめてきて、それから彼方さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「ふっふっふっ、照れてるねぇ」

 

「……照れてるよ。照れてる。照れてるさ」

 

さっさと白旗を上げる。認める。照れてるよ。照れるしかないでしょ、こんなん。照れる以外の反応がわからないよ俺は。

なにが面白いのか、彼方さんはくすくすと零した。余計に恥ずかしくなったのは言うまでもない。

 

「かわいい~」

 

「やめてくれよ……」

 

からかっているのか、それとも本心なのか。判断が付かない。彼方さんは本心だよと言っていたが、どちらにせよ嬉しくはないのに変わりない。こそばゆくて仕方がない。

 

「ずっとこうしてたーい」

 

さっきも言った通り、ずっとはしないぞ? これはフリではない。繰り返す、フリではない。ハネムーン症候群になってしまう。シャレにならない。

 

「そろそろやめたほうがいい?」

 

「まあ、うん、そろそろ、なあ」

 

腕はまだ大丈夫そうだけど。そろそろやめてくれたほうが無難か。

言われた彼方さんは少し残念そうだった。シュンという擬音が聞こえてきそうなその顔はやめてほしい。罪悪感をかき立てられてしまう。

 

「じゃあじゃあ~……今度はこうするねー?」

 

腕枕の状態から彼方さんは身体を回転させながら俺の身体の上へと登り覆いかぶさった。

 

「彼方ちゃん専用ベッド~」

 

俺は彼方さんの身体にのしかかられて、彼女の言う通りベッドにされていた。いや見方を変えれば彼方さんは俺の掛け布団になるんじゃないかこれ。

……大丈夫か俺。寝惚けてないかこれ。この暖かな日溜まりのせいか。

当然ながら重い。彼方さんが重いとかじゃなくて人間にのしかかられたらそうなる。ただ彼女の身体の柔らかさを一番近くで感じられて、脳内は幸福感で満たされていた。

 

「くんくんくん……はふぅ、いい匂~い」

 

なにをしだしたかと思えば、彼方さんは俺の胸に顔を埋めて匂いを嗅いで堪能していた。なぜ堪能できるのかが俺にはさっぱりわからない。

 

「男臭いだけでしょ……」

 

「彼方ちゃんは好きだけどなぁ」

 

「それに同意する人間は世界で彼方さんだけだよ」

 

「えーでも~、あなたも彼方ちゃんの匂い、大好きでしょ~?」

 

「好きだけどさあ」

 

好きだけど、俺のと彼方さんのでは匂いは匂いでも異なるものだろう。一方はいい匂い、もう一方は臭い匂いなのだから。それともこう考えるのは俺が男だからだろうか。

 

「あなたも~……彼方ちゃんの匂い、嗅いでみる?」

 

彼方さんはなんでもないような顔でそんなびっくり発言を繰り出した。思わず心臓が跳ねた。

果たしても本当に嗅いでもいいのだろうか。罠だったりしない? そんな疑心が浮かぶ。

 

「どうぞどうぞ~」

 

俺が躊躇っていると彼方さんはずいずいと迫ってくる。

ああ、もう、嗅いでしまえ。ネガティブな感情を投げ捨てて、俺は彼女の誘いに流されることにした。

位置的に俺がそのままで匂いを嗅げるのは彼方さんの髪、顔ぐらいだろう。それより下は彼方さんが動いてくれないと匂いを嗅げない。

 

「すぅ……」

 

顎を引いて、俺の胸に乗った彼方さんの髪の匂いを嗅いだ。吸って、吐いて、彼女の匂いを堪能する。肺一杯に満ちる。

当然だがいい匂いだ。シャンプーかトリートメントか、その特有の華やかな匂い。それとは別に香る、ミルクのような彼女自身の匂い。混じり合って鼻孔をくすぐる。

 

「どお?」

 

ちょっぴり恥じらい気味に尋ねる彼方さんに、俺は抱いていることをそのままぶちまけていいものか躊躇う。オブラートに包まなければ変態というかもはや犯罪者になりそうだった。

 

「ずっと嗅いでいたい……」

 

胸元から伸びる視線に抗うことはできなかった。できなかったよ……。

それでもなんとかヤバいところまで零さなくても済んだのは奇跡だった。まあだいぶキモい発言なんだけどさ。

 

「そうでしょそうでしょ~」

 

赤みを帯びた頬を気にせずに彼方さんはうんうんとしたり顔を俺に見せてくれた。その表情に救われたような、小恥ずかしいような、なんとも言えない気分になった。

 

「むふぅ~」

 

その間にも彼方さんは胸元に顔を埋めて、匂いを堪能していた。

なんとなく身もだえしてしまう。彼方さんの気の抜けたリラックスした様子を見て、まあいいかと思えた。

ちょうどいい暖かさの日溜まりは俺の力を抜けさせてくれた。ずっとここにいたい、ずっとこうしていたいと俺に思わせた。

 

「ずっとこうしてたーい」

 

俺が考えていたことが彼方さんの口から発せられた。本日二度目の言葉だ。

驚きはない。この温もりならそう考えるのは自然のことだと思えた。彼方さんなら尚更。

 

「俺もー」

 

俺の言葉も間延びした、緩みきったものになった。今度は俺も同意できた。

 

「ふぁ~……」

 

可愛らしい欠伸が間近から聞こえてきた。それに俺もつられて口を開けて欠伸をしてしまう。二人で顔を見合わせて笑った。

 

「眠るのは勿体ないって言ってたじゃん」

 

「こんなに暖かくて気持ちいいんだから仕方ないよねぇ」

 

「確かに」

 

「でしょ~」

 

彼方さんの気持ちがよくわかる。さっきから意識が溶けて消えそうだった。せっかく彼女と二人っきりなのに、それでも眠りたいと思ってしまう。

 

「…………」

 

「…………」

 

彼方さんも同じみたいだ。二人して会話が減って黙り込む時間が増えてきたのがその証拠。

日溜まりの暖かさが夢と現の境界線を曖昧にしていた。彼方さんの身体の熱と重さがなんとか意識を現実へと留めさせていた。それにも限度があるけど。

 

「……寝てもいいよ」

 

「うん……そーする~……」

 

二人とも意識は半分夢の中に旅立っている。

 

「あなたも~……眠そうだねぇ……」

 

「まあ……眠い……」

 

「……ふふふ……夢の中でも一緒だぜ~……」

 

うつらとうつらと、揺蕩っていた。彼方さんのように微睡んでいれるのがとても幸せだと思えた。

現実が溶けていく。夢と世界が混ざり合って消えていく。宇宙が終わっていく。

 

「……どんな夢……見たい……?」

 

「むにゃ……そーだなぁ……」

 

「たくさん……あるのかよ……」

 

「……いっぱいあるよ……」

 

「それは……たいへんだ……」

 

「でもぉ……楽しそうだよ……えへへ……」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………すー」

 

「…………すやぁ」

 

 

 




お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。


2021年も大変お世話になりました。
感想を書いてくださった方、高評価をくださった方、お気に入り登録をしてくださった方……全て執筆の励みになっております。重ねてお礼申し上げます。
2022年もどうぞよろしくお願いいたします。


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温度差

お久しぶりです。


 

「はぁー……」

 

吐き出されるのは白い息。その息を両手にかけて、少しでも寒さを凌ごうとした。

もちろん、焼け石に水なのは言わずもがな。それでもと、何度も生ぬるい息を吹きかける。暖かくなるのは一瞬だけ。かじかんだ手にはそれだけでも救いになった。

 

「はぁー……」

 

もう一度、息を吐く。薄暗い世界の中で白い息はすぐさま霧散していく。

手袋をしてこればよかった。今更ながら思う。もう後の祭りだが。

ポケットに手を突っ込む。やっぱり寒さは厳しい。息を吐いて手にかけるのとどっこいどっこいだ。要するに寒い。

彼方さんはまだ来ない。メッセージだともうそろそろだと思うんだけど。

 

「おまたせ~」

 

さほど長い時間待っていたわけじゃないが、ようやくかと思ってしまった。寒いからね、仕方ないね。

ともかく待ち人が来てくれた。

 

「待った?」

 

「そんなに待ってないよ」

 

凍え死ぬかと思ったけど。そんなこと彼方さんには口が裂けても言わない。

ところが彼方さんは俺の言葉に不満があったのか口を尖らせた。なんでだ。

 

「むー……ここは『今来たところ』って答えるところでしょ~」

 

「おっと」

 

そんな罠があるとは。デートの定番のやつだそれ。今日はデートじゃないけど。

 

「じゃあ、もう一回~」

 

リテイクきたこれ。俺は苦笑いで彼女の要望に応えることにした。

 

「……今来たとこだぞ」

 

「うむ、よろしいー」

 

やり直しにご満悦な彼方さん。ご機嫌そうでなにより。

彼女の頬が赤く染まっているのはやはり寒さのせいか。頬だけじゃない鼻もだ。可愛らしくて胸が熱くなった。身体はまだ寒いままだが。

今日はバイト上がりの彼方さんを迎えに来ていた。こういうことは毎度ではないが初めてのことでもなかった。タイミングが合えば、だ。

こういう機会は俺としても大歓迎で、できる限りいつも迎えに行きたいぐらいだった。なんせあまり多くない彼方さんと会える貴重な時間だ。スクールアイドルやバイト、家事諸々で彼方さんは忙しい。彼女がしたいことの邪魔をしないで会える時間はなるべく大事にしたい。

 

「それじゃあ~、エスコートよろしくね~」

 

「よろこんで」

 

軽口を交わし合って、近江家へと足を進める。

歩き出しと同時に彼方さんはとてとてと俺に近づいてきた。そして彼女の指が俺の服の裾を掴んでくる。腕の部分に触れそうで触れない、服だけを掴む絶妙な加減だ。

 

「えへへ~」

 

顔を覗き込むとくすぐったそうにはにかんだ。その瞳を見て、身体が内側からむず痒くなる。だけど不快じゃない。

なんでそんなに嬉しそうなんだって、聞かなくてもなんとなくわかった。

 

「なんだよ」

 

「なんでもな~い」

 

「ほんと?」

 

「ほんとだぞー」

 

「もしかしてだけどさ、彼方さん、手を繋ぎたいとか?」

 

なんとなく裾を掴んだ意図を俺なりに解釈したらそういう結論に至った。思い違いかもしれない。割と自信あるけど。

 

「えー、そんなことないよ~。そんなこと言ってむしろ手を繋ぎたいのはあなたなんじゃない?」

 

ちょっと拗ねたような視線が突き刺さる。いやいやいや。

 

「彼方さんでしょ。裾を掴んでるのってそういうことなんじゃないの」

 

「違うもーん。あなたのほうだよー」

 

小さな子供みたいに頬を膨らませて否定する彼方さん。違うの?

 

「む~ぅ……」

 

あー……わかった。俺が折れよう。掴んだ裾を揺らしたり動かしたりして悪戯している彼方さんを見て決めた。

 

「わかったわかった。俺のほうだから。俺は彼方さんと手を繋ぎたいよ」

 

「うふふ~、ようやく素直になったねぇ」

 

俺のヤケクソ気味の言葉で脹れっ面だったのがすぐさまニコニコになった。早い。

いいさ。俺が手を繋ぎたいのは本当のことなんだから。

 

「素直になったから、手ぇ、繋いでいい?」

 

「もちろん! いいよいいよ~」

 

バイト上がりとは思えないほどのハイテンションな返答だ。すごい食いつきっぷりだ。素直になったのは彼方さんのほうだ。

彼方さんは服の裾から手を放して、つーと腕のラインをなぞるように手を動かす。やがて彼女の手と俺の手が触れた。その瞬間、反射的に弾かれるみたいにお互いの手が離れて、再びすぐお互いに手を近づけて握りしめ合う。

 

「あなたの手、冷たいねぇ」

 

「彼方さんのだって冷たいけど」

 

「お揃いだねぇ」

 

「お揃いだなぁ」

 

しょーもないこどだけど、彼方さんと同じ気持ちを共有できるのは嬉しい。彼女も嬉しそうだから余計に。

 

「っ」

 

思わず驚いてしまう。彼方さんが手の繋ぎ方を変えてきたからだ。お互いの指が絡み合うように指を動かしてきた。

俺の驚きようを見て彼方さんは小悪魔みたいな笑みを浮かべた。彼女の意図通りの反応を俺がしてしまったからだろうか。

 

「えへへ~」

 

してやったりと言いたげな表情に俺は口を開閉させることしかできなかった。言葉が出てこなかったんだ。

困った俺は空を仰いだ。冬の空気をしんとしていて澄んでいる。だからか見上げた夜空も綺麗に見えた。

……そういえば。

 

「彼方さん、手袋してきてないんだ」

 

手を繋いだ時はもちろん、彼女の手はずっと俺と同じで素手のままだった。

 

「うん、してないねぇ。鞄の中には入ってるけど」

 

「?」

 

「ニブチンさんだなぁ」

 

呆れたような彼方さんの言葉。俺は彼方さんが手袋をしていない理由を考える。

……そうか。すぐにわかった。つまり彼方さんが俺と手を繋ぐための口実のひとつなんだ。合点がいった。

 

「ああ、いやうん、わかったわかった」

 

「ほんとに~?」

 

「ちゃんとわかったよ」

 

「うんうん、よくできました~」

 

嬉しそうにはにかむ彼方さん。その言い方はまるで小さい子供相手だ。

おちょくってるように聞こえるが、まあいいか。あくまで手を握りたいのは俺なんだから。

ご機嫌そうに手を大きく振り回して歩く彼方さん。俺はそれに引っ張られるように歩く。繋がった手を解くつもりはなかった。

あ。彼方さんがなにか見つけたのか、声を上げた。

 

「ねえねえねえ」

 

彼方さんが前からこっちへ顔を向けた。にんまりと頬を歪ませていた。なにを企んでる?

 

「なに?」

 

「月が綺麗だねぇ」

 

……ああ、そういうことか。

 

「知ってる。なんなら星も綺麗だ」

 

見える星は少ないけどな。

 

「そういう意味じゃないだぞー」

 

「それも知ってる」

 

「素直じゃないねぇ」

 

どこかつまらなそうに彼方さんは言う。彼方さんがそれ言う? どの口がって言いたくなる。いや言ったんだけど。

 

「言う言う。だって恋人だも~ん」

 

俺は面を食らってしまった。あまりにもあっけらかんと言うから。

 

「じゃあ~、わかりやすく言ってあげる」

 

握りしめる手の力が強くなる。

 

「好きだよ~、うふふ~」

 

そして、ちょっぴり照れ混じりの彼方さんの言葉が耳の中に飛び込んできた。飛び込んできた言葉は熱になって身体の中を駆け巡り、隅々まで伝導される。身体に熱が籠ってしまうからどうにも落ち着かない。体内の熱さと体外の寒さがそれを加速させる。

……いまだになれないのは果たして俺だけだろうか。意地の悪いことを思いついた。

 

「俺も、彼方さんのこと、好きですよ」

 

思いついたそのままに言葉を発する。彼女のご機嫌がこの後どうなるかなんて考えていないままに話した。短慮とはまさにこのこと。

 

「えへへ~……嬉しいなぁ」

 

気になる彼方さんの反応は……これでもかっていうぐらいニヤけていた。危惧していたことは回避されたみたいだった。

 

「もっともーっと『好き』って言って?」

 

「……えぇ」

 

どころか、さらに『好き』を要求されちゃったよ。

 

「あなたの好きって気持ち、もっと聞きたいなぁ? ダメ?」

 

「や、恥ずかしいんだけど」

 

可愛らしく求められるが、本当に恥ずかしい。

 

「今更だと思うけどなぁ」

 

今更ではない。さっきのだって俺はすごく恥ずかしかったし、いまだに慣れていないのだ。

あとお外で言うのは特に。せめて彼方さんの部屋じゃ駄目だろうか。遥ちゃんはいるけど外よりは100倍マシだ。

 

「やだ。今すぐ聞きたい」

 

良い笑顔で即拒否された。

 

「ほら、何度も言われるとさ、慣れちゃうだろう? だからこういうのは偶にがいいんじゃないかなって」

 

「そんなことない! あなたの『好き』は何回聞いても飽きないもん」

 

なんとかんとかか理由をつけて回避しようとしたが、彼方さんは許してくれない。

 

「ほらほら~、ね、彼方ちゃんだけ大好きって、ちゃんと言葉にして言って?」

 

さらなる追撃という名のおねだりが迫りくる。俺はどんどん追い詰められていく。これはもう羞恥心を投げ捨てて言わなきゃならないか……?

 

「……わかった」

 

またも俺の方から降参した。なんだか、いっつも彼女のおねだりに負けている気がする。

でもこれはしょうがないんだ。惚れた弱みってよく言うだろう? そういうことだ。

 

「やったぁ! 早く早く」

 

無邪気に笑う彼方さん見て、俺の体温は上限を知らず上がっていく。このまま溶けて気体になってもおかしくない。

温度差は広がる。内と外と、俺と彼女と。

 

「……彼方さん大好きです」

 

もうやけぱっち精神で言葉を放った。もちろん気持ちは込めている。それでできれば彼方さんもこの身体の芯から燻ってくるような熱さを堪能してほしい。

 

「もっと~」

 

「彼方さんだけ、好きです」

 

「まだまだ」

 

「世界一可愛い。大好き」

 

「えへへ~、もっともっと言って」

 

何度も何度も催促されてそれに応える。その繰り返しの中で気づいた。彼女の顔は真っ赤っかになっている。嬉しそうな表情にどこか恥じらいが混じっている。多分、俺の妄想ではないはずだ。

俺はそれを彼方さんに指摘することなくスルーした。思い違いかもしれないというのもあるが、わざわざ指摘する必要なんてないと思ったんだ。

 

「やっぱり手袋、必要なかったねぇ」

 

ああ、うん。ある意味、その言葉が彼女が言わない気持ちを表しているような、そんな気がした。俺の妄想ではなかった。

 

「こうやってずっと歩いていたいなぁ」

 

「『好き』はなくていい?」

 

「それはダメ」

 

お外での『好き』の連呼はまだ続行するんだ。

 

「寒いでしょ」

 

「寒くないよー」

 

「でもずっとこのままだとお腹も空くし疲れるしちゃんと寝れないぞ」

 

「むむむ……それなら仕方ないか~」

 

「……またいつだって機会はあるから」

 

「言質とったっど~」

 

言質て。ちょいと物騒なワードだ。そんな大層なことじゃないのに。あととったっど~て。

温度差はそのまま歩く。彼方さんちに着けばこの温度差はなくなってしまうのだろうか。それが惜しかった。

 




お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。


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春の匂い

誤字報告してくださった方、ありがとうございました。


 

ずっと夢を見ていたい、と。彼女のようなことを俺も思ってしまう。

だけど現実は。決まった時間にたたき起こされる。ベッドから飛び起きて、鳴り響くスマホを黙らせて、せわしない朝が始まる。

制服に着替えて、食パン1枚を食べ、支度を済ませて、玄関から飛び出した。見上げると、雲一つない青空が視界いっぱいに広がっていた。ぼんやりと眺めて、それから学校へと足を進める。

まだ少し肌寒いが、それでも1週間ぐらい前と比べると暖かくなってきた。冬が終わりを迎えて、春が近づいていた。というか、もう春だ。

 

「……ふぁあ~」

 

学校への道の途中、大きな欠伸が漏れ出てしまう。まだまだ眠かった。

 

「大きな欠伸だねえ」

 

近くから声が耳に届く。よく知った、いつもののんびりした声。

いつの間にか隣には彼方さんがいた。虹ヶ咲学園の制服を着ている。俺と同じで学校に向かう途中だろう。

 

「……いつの間に」

 

「気づかなかった~?」

 

「全然」

 

「えへへ、くノ一彼方ちゃんの忍術すごいでしょ~」

 

俺が気づかなかったのは彼方さんの忍術のせいなのか。それともただ単に寝惚けていて気付かなかっただけか。なんとなく後者だと思うが言うまい。くノ一いいよね。

 

「それにしても大きかったねぇ~、欠伸」

 

「彼方さんみたいに?」

 

普段の彼方さんはこんな感じで、よく大きな欠伸を漏らしていた。可愛いと思うけど。

 

「それ、女の子に対してあるまじき言動だぞー」

 

「ごめん」

 

謝りつつも。内心、事実じゃんとか思ってました。もちろん言わない。すいません。

 

「「ふぁあ~」」

 

今度は綺麗なハモり。二人して大きく口を開けてマヌケ顔。

 

「マヌケな顔してる」

 

俺はふっ、と思わず笑いを零してしまう。

 

「あなただって」

 

彼方さんもニヤリ、顔を綻ばせた。

 

「もう春だし、仕方ないよねえ」

 

「暖かいし、仕方ないよなぁ」

 

彼方さんも俺も、お互いに言い訳をし合って自分を正当化した。二人とも笑ってしまう寸前だったのは仕方ないことだ。

もう春なんだ。彼方さんとの会話で、彩られる街の光景で、改めて実感する。仄かに春の匂いがした。

 

「こんなに気持ちいい天気だとすやぴしたいねぇ」

 

まだまだ起床してそんなに経っていないはずなのに。もう寝ることを考えている彼方さん。

 

「確かに。こんなに暖かいと眠るのも気持ちよさそうだ」

 

とはいえ俺も彼方さんの意見には大賛成で、できるものなら眠りの世界に戻りたかった。

 

「ふふふ~、でしょでしょ。一緒に学校サボっちゃう~?」

 

「いやそれ駄目だから……」

 

それが魅力的なものであることはわかりきっていることだけど。

 

「むむむ……気持ちよさそうなのになあ」

 

気持ちはわかる。

 

「わかるなら一緒にすやぴしようよ~。朝からお昼寝タイムにしようよ~。ねぇねぇ」

 

ああああ、やめてくれ。その誘惑は甘美すぎるんだ。理性が決壊してしまうのを堪えるので精一杯。

 

「ねぇねぇねぇ、彼方ちゃんと一緒におサボり、しよ~?」

 

「……しません」

 

俺が後ろ髪ひかれつつきっぱりと断ると彼方さんはぶーぶーとブーイングしてきた。ヒドいやと思いつつ、かわいいからつい許してしまう。

そんな会話を交わしつつ、俺たちはお互いの学校を目指していた。ニジガクとうちの学校は途中まで同じ道だ。

だから一緒に入れる時間には限りがある。この朝の時間も長くないのだ。時間は有限で、噛み締めるように歩く。

空を飛ぶ鳥たちが見える。空の青さに魅せられたのか、彼らはどこまでも翔けていく。その姿が羨ましかった。

 

「……やっぱり今日はサボろうかな」

 

鳥の往く先を目で追っているとそんな言葉が不意に口を突いた。

 

「こぉら~」

 

俺が零した言葉に気の抜けたお叱りが飛んできた。まあ迫力はない。

 

「理不尽だ」

 

そしてなぜに俺は怒られてるのか。最初にサボろうと言い出したのは彼方さんじゃないか。そこは彼方さんも乗ってきてくれるところじゃないの。

 

「あなたが不良みたいなこと言い出したからだぞー」

 

「おっと、どの口が言うんだよ」

 

彼方さん、鏡見て言って?

 

「この口~」

 

口を窄めて、自分の口をアピールしてくる彼方さん。可愛い、可愛いけど。なんとなく、キス顔に見えてどきりとした。

 

「この口?」

 

俺は誤魔化すように彼方さんの頬を両手で挟んだ。沈むような肌触りは中毒性を帯びていた。その毒に俺は侵されてしまう。

 

「あはは、ちょっとぶちゃいく」

 

更なる誤魔化しのために俺は笑った。

 

「彼方ちゃんは可愛いもん」

 

むぅと唸ってむくれた顔を彼方さんは見せた。そんなこととっくに知ってるよ。

両手をぱっと放すと恨めしげな視線が飛んできて

 

「彼方ちゃんは可愛いもん」

 

繰り返された。よほどぶちゃいく発言が癇に障ったのか。

彼方さんの瞳が細まった気がした。

 

「彼方ちゃんは可愛いもん」

 

「ごめん」

 

三度目の同じ言葉。俺は堪らず謝罪した。

 

「……なら~、言うことがあるよねぇ」

 

「彼方さんはぶちゃいくじゃないです」

 

「う~ん……」

 

彼方さんの反応はそうじゃないと物語っていた。あれ、じゃあ……

 

「彼方さんは可愛い!」

 

朝っぱらからなにを言ってるのか。自分でも馬鹿なのかと思うが。きっと多分、そういうことだろうと思って口にする。

 

「そう! 大正解~」

 

華やかな笑顔が咲いた。よかった。俺は安堵した。

でも一つ言いたいのはぶちゃいく発言は決して貶める意図はないってことだ。なんだか言い訳みたいだけど本当のことだ。

 

「ふっふっふ~、じゃあ学校行こっか~」

 

元気いっぱいに身体を上下に弾ませて、彼方さんは俺を誘う。いつもののんびり彼方さんとの差が激しい。ジェットコースターみたい。

冷たい風が吹く。熱に浮かされた身体が冷えて現実を直視させた。時間は有限で、分かれ道はそう遠くない。

あーあ……同じ学校だったらな。ありもしない、だけどありきたりな夢を想った。

 

「今あなたがなにを考えてるか、彼方ちゃんが当ててあげようか~?」

 

隣の彼方さんが俺の顔をまじまじ見てそんなことを言い始めた。それからすぐ、俺の返答を待たずに彼女は口を開く。

 

「彼方ちゃんと同じ学校だったらー……って考えてるでしょ~?」

 

「……正解。なんでわかったんだ」

 

「単純だよ。だって、彼方ちゃんだっておんなじこと考えてたから~」

 

ふっと彼女は笑った。ありきたりだよねえ、とぼやいて。まったく同じ考えだったから釣られるように俺も笑った。

 

「きっと楽しいだろなあ」

 

「絶対楽しいよ~」

 

絶対と断言をしてくる。

 

「だってあなたがいるから~。楽しいに決まってるよねぇ」

 

彼方さんの当たり前のような口調に嬉しくなる。彼方さんの言うことは本当にその通りだと思った。

ああ、本当に、本当におんなじ学校だったらいいのにな。

 

「ねえ、手、握ってもいい~?」

 

彼方さんが突然そんなこと言い出した。

 

「いいけど」

 

なんで。と言う言葉が口を突きそうになった。いや当然の疑問だろ?

 

「ふふふ~、握りたくなっちゃった~。ダメ~?」

 

「……駄目じゃないです」

 

なんというか、彼方さんに甘えられると唯々諾々で頷いてる気がしなくもない。いいんだけどね。俺も握りたいから。

彼方さんの手の暖かさは降り注ぐ日差しに似ている。まだ少し肌寒い空気に冷えた身体を内と外から温めてくれる。

手を繋いでいると気持ちまでも伝わってくるという。なんとなくではあるが、彼方さんが手を握りたいと言い出した理由がわかった気がする。

 

「暖かくてホッとするね~」

 

「まあ確かに。だけど放すときが大変だ」

 

だってこんなに暖かいんだから。簡単には放すことなんてできない。この気持ちよさにずっと浸りたくなる。まるで微睡みのよう。

やっぱり学校サボるか。いやサボらないけど。

 

「放さなければいいと思いまーす」

 

「そういうわけにはいかんでしょ……」

 

「だよねぇ」

 

顔を見合わせる。彼方さんも俺も面倒な感情を抱えているのがわかった。手を繋いだまま一緒にいたいって感情のことだ。

この感情の解消方法なんてない。どうにかして自分を誤魔化すしかない。

 

「…………」

 

風が吹いた。俺たちの身体を通り抜けていく。

仄かに。また、淡い春の匂いが香る。冷たい風が運んできてくれた。肩の力が抜けた。

 

「春だねぇ」

 

彼女の呟きが聞こえた。

彼方さんはなにを思って春を感じたのだろう? もしかしたら俺と同じかもしれないし、全然違うかもしれない。わからない。

だけど今、彼女と俺は確かに同じことを想っている。それは歓びだ。そう思う。

 

「今度のお休み、公園で一緒にすやぴしよ~?」

 

いつものように。彼方さんらしいお誘い。

 

「いいね」

 

公園でお昼寝は無用心な気もする。だけど迷いなくその誘いに乗った。断るなんて選択肢は頭の中にはない。

理由なんて単純明快で言葉する必要なんてまったくないが。あえて言葉にするのならきっと『春だから』だ。

楽しみがまた一つ、増える。きっとその時は今日よりも春らしくなっているだろう。そんなことを想像するのが楽しくて、今度の休みが待ち遠しい。

いつの間にかやるせない感情がどこかへ吹き飛んでいく。楽しみが心の中を塗りつぶして占領した。自分でも子供じみていると思う。

また、風が吹いた。

 

「「くしゅん」」

 

彼方さんも俺も、揃ってくしゃみをした。それから互いの顔を見合って、二人して笑った。

 




お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。


いよいよ虹ヶ咲2期が始まりますね。めちゃ楽しみ。


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remember

だいぶお久しぶりです。ごめんさい。そしてよろしくお願いします。


 

 

…………。

一生の不覚というか。あんまりにも疲れていたというか。

最後の記憶は公園に辿り着いて、ベンチに腰をかけたところ。その後はもうすぐにまどろみという名の暗黒へ。そして現在に繋がる。

つまりは、まあ……公園で眠ってしまったんだ。睡魔にあっけなく負けて、そのまま。

いや今日はほんと気持ちのいい快晴で、気温も暖かで。言わば絶好のお昼寝日和だったんだ。疲れているところにこの天気。眠ってしまうのも仕方がないと思う。

なんて無用心なんだ。目が覚めて、真っ先に思った。そして安心した。意識を失う前と同じ光景が広がっていることに。

自分の身体が五体満足であることを確認しほっと安心すると、なにやら違和感。身体の左側が妙に重い。

 

「……すやぁ」

 

なんならなにか聞こえてくる始末。さすがに肝が冷えるというか冷や汗が出てくるというか。とにかく焦る。

その違和感に目を向ける。音の発生源もおそらく同じだ。首を動かすのが億劫だった。

 

「すー……むにゃむにゃ……」

 

――そこには女の子がいた。俺の左肩に頭を乗せて、もたれかかって眠っている。羨ましいぐらいに気持ち良さそうな寝顔だ。

睫毛が緩やかな曲線を描いて伸びている。頬はマシュマロのように柔らかそうだ。呼吸のたび、彼女の胸が上下する。

 

「…………」

 

思考が止まる。呼吸が詰まる。身体が固まる。数秒間そのままだった。

なんで隣に女の子が? いったいいつの間に? そもそもこの女の子は誰?

思考が回り出すと同時にそんないくつかの疑問が浮かんでくる。浮かんでくると同時にこれは本当に現実なのかという猜疑心も湧き上がってくる。夢か現か。現実離れのシチュエーションに疑わざるを得なくなる。

 

「んんぅ……すやぴー……」

 

俺の心情とは正反対に、呑気な寝声が耳元で響く。気持ちよさそうで羨ましい。あんまりにも無警戒すぎない、とも思うけど。

ここでもう一度眠ればこの状況どうにかならないだろうか。そんな現実逃避が頭を過ぎった。

ま、どう足掻いても現状は変わらないんですけどねー。

 

「あー……いい天気だなぁ……」

 

とりあえず、空を仰いだ。

隣の女の子が起きてくれないと俺はなにをすることもできない。というかどうすればいい? もたれかかっているこの少女を無理矢理どかそうとしてあらぬ誤解を受けるのも困る。警察のお世話とかマジ勘弁。昨今のご時勢だとありえなくもない。

女の子が自分で自然に起きてくれるのが一番無難だ。俺はその展開を願った。

空は澄んでいて、どこまでも青い。気が遠くなるほどに果てしない。ぼんやりと空の流れを追っていた。

 

「……ん」

 

寝息と違う。寄りかかる少女から聞こえる音が今まで聞いたことがないものに変わる。

ぼんやりとしていた意識が引き戻される。視線は音のする方へと移る。ぴくぴくと震える瞼が映る。

 

「……んんっ」

 

ゆっくりと、その瞼が開かれる。そして、ぱちり、ぱちりと。瞬きが2、3回繰り返される。

 

「ふぁあ~~」

 

寄りかかっていた少女は上半身を起こしてぐぐっと身体を伸ばしながら大きな欠伸をした。

ようやく、起きてくれた。身体の片側にかかっていた重さがなくなった。気持ち的にも楽になった。

ただ、まだまだ眠たそうにしていた。果たして俺の横で眠っていたワケを聞くことはできるだろうか。

 

「んん~~……あ、おはよ~」

 

俺に気付いた彼女は呑気にも俺にお目覚めの挨拶をしてきた。

 

「おはよう……」

 

あんまりにも呑気だから身体から力が抜けてしまった。そのまま挨拶を返す。

……いや、そうじゃなくて。

 

「……どなた?」

 

顔も知らぬ、いつの間にか俺の隣にいた少女にそう問いかける。まったく初対面の相手なのだから当然のことだと思う。俺の記憶が正しければ一度も会ったことないはず。

 

「そんなに警戒しないでよ~」

 

「警戒するでしょ普通」

 

警戒しないほうがおかしい。というか俺の横で眠っていたこの少女も凄いわ。今もとても普通で、取り乱したりなんかしていない様子だ。

 

「酷いな~……今にも死にそうな君を介抱してあげたのに」

 

唇を尖らして、不満を零す少女。彼女の言葉から気になる単語を見つけた。

 

「介抱……?」

 

つまりあれか。彼女は俺を世話してくれてたってこと? どういうこと?

 

「そうだよ~。こんなところで死にそうなぐらい顔真っ青にした男の子が眠ってたから心配で様子を見ててあげたのに」

 

いざとなったら救急車呼ばなきゃって覚悟してたよ、なんて付け足して彼女は語る。

えぇ、信じられない。確かに死ぬほど疲れてたし、だからこそ公園のベンチで眠ってしまったんだけど、他人から見て心配されるレベルだとは思わなかった。

 

「うっそだ」

 

「ほんとほんと~。呼吸も荒くて苦しそうだったよ」

 

彼女の語る言葉がいまいち信じられないが、嘘を言っているようには見えなかった。口調こそ間の抜けたものだが、その顔は真剣そのものだ。

彼女の言うことは本当のことなんだろう、信じられないが。助けられたということなのか。

 

「ありがとう、ございます……?」

 

「どうして疑問符がついてるのかな~? 素直に感謝してくれてもいいと思うんだけどなぁ」

 

「いやだってさ……」

 

俺が目を覚ました時、眠ってたし。本当に介抱なんてしてたの、とは思ってしまった。まだ信じ切れてなかった。

 

「そりゃー彼方ちゃんも眠っちゃったけど……ちゃんとあなたの様子が落ち着いてきてから眠ったよ~?」

 

子供っぽく頬を膨らませて彼女はそう言った。

まあ、その時のことを知るのは彼女のみなので、どのみち彼女の発言を信じるしかないんだけど。

あと彼女の名前がわかった。彼方、というらしい。おそらく下の名前で、苗字ではないと思う。多分。

 

「……いや、本当にありがとう。ご迷惑おかけしました」

 

頭を下げる。本心からの行動だ。死にそうなほど疲れて寝てしまった俺が一番悪いのだ。おそらく彼女の行動は厚意からのもので、そこに感謝しないのはなんだか釈然としなかったんだ。

 

「うむ、苦しゅうない」

 

「それはおかしくないか……」

 

王様みたいな発言に、俺は首を傾げた。

 

「だって助けてあげたんだぜー」

 

そう言われたら反論できない。俺の様子を見て彼女は微かに笑った。

……きっと彼女なりに俺が気を使わないように、わざとそうしてくれてる。そう解釈しておこう。うん。

 

「それで今はどう? 相変わらず死にそうな顔してる?」

 

「う~ん……ちょっとはマシになったかな~」

 

「ちょっとなんだ」

 

「そー、ちょっとだけ。まだまだ不健康そうだぞー」

 

ちょっとだけらしい。自分でも自覚がある。眠ったことで多少はマシになったが、まだまだ眠い。疲れが残っていた。

 

「ひょっとして、眠れていないのかな~?」

 

彼女は俺の顔をじっくりと観察して暗い表情を浮かべる。

 

「や、眠れていないわけじゃなくて。夜更かししていたというか、睡眠時間を削らざるを得なかったというか……」

 

試験勉強とかで最近夜更かしする機会が多かっただけで、不眠症とかではない。そのことを彼女に伝えた。

 

「そっかー。ちゃんと寝なきゃダメだよ~」

 

心配そうな彼女の顔が一瞬で打って変わって綻んだ顔になった。力が抜けた、安心したような表情だ。

赤の他人なのに心配してくれて表情を変えてくれるなんて。隣で眠っていたことも含めて色々と不思議な人だなと思った。

……心配かけてなんて言い草だ。自分で自分に呆れた。

 

「だからといって、こんなところで寝てたら危ないぞ~」

 

彼女が俺を咎めるように言う。俺のことを心配して言ってくれているだと思う。だがちょっと待ってほしい。

 

「……きみがそれを言う?」

 

彼女だって俺の隣ですやすやすやぁと気持ちよさそうな寝息を立てて眠っていたじゃないか。介抱? してくれてたことには感謝していてるが。不用心の度合は似たり寄ったりだろう。むむむー、と彼女は不満そうな声を上げた。言葉で返してこないのは図星だったからか。

 

「……こんないい天気だし、絶好のお昼寝日和なんだから仕方ないよねぇ」

 

言い訳するように彼女は言う。俺も同じだからこれにはなにも言えない。

というか、と彼女は言葉を続ける。

 

「あなただって寝てたよね。危ないのはあなたもだよ」

 

一緒いっしょと彼女は繰り返す。ころころと無邪気に笑う声が公園に響いた。

 

「あ~! そう言えば自己紹介がまだだったねぇ」

 

思い出したかのように彼女は声を上げた。言われてみれば確かにまだだった。俺も失念していた。まあきっとこの出会いは一期一会の出会いだから必要性がないと言えばないのだが。恐らくはこれ以降会うことはあるまい。

だけども、そのまま彼女は自分の名前を名乗ってくれた。

近江彼方。それが彼女の名前。自分のことを「彼方ちゃん」と呼んでいたから名前のほうはわかっていたが。

 

「じゃあ~、あなたの名前も教えて~?」

 

「俺は――」

 

俺も自分の名前を彼女――近江さんに告げる。

 

――こうして俺と彼女は知り合ったんだ。そして俺はようやく自分が夢を見ていることに気付いた。

 

 

 

---

 

 

 

「……ん」

 

目覚めたらそこには大きな膨らみが二つ。頭には柔らかいクッションのような感触。どうやら俺は彼方さんに膝枕されているようだ。

 

「あ、起きた~?」

 

俺が目を覚ましたことに気付いたのか、膨らみの上から声が聞こえた。彼方さんの声だ。そのまま彼方さんは俺の顔を覗き込んでくる。宝物を見つめているかのような表情に一瞬胸が高鳴った。

 

「……俺、寝てた?」

 

「うん、それはもうぐっすり」

 

彼方さんは子供あやすかのように俺の髪を優しく撫でる。ゆっくりと動く撫でる手に安心感を抱く。ずっと浸っていた心地よさだ。

 

「気持ちよさそうだったよ~。いい夢、見れた?」

 

「うん、まあ」

 

覗き込まれた彼女の視線とぶつかる。純粋な瞳に吸い込まれそうになる。

夢の内容を言おうか、迷う。引かれないか、少し心配。感傷的すぎるような気がするから。

 

「……彼方さんと出会ったときのことを夢で見たよ」

 

言おうか迷いつつも口に出した。誤魔化すのは違うなと思った。その瞳の反応を窺う。

 

「懐かしいねぇ。そんなに昔のことじゃないけど」

 

彼方さんもあの日のことを思い出しているのか、遠い目をしていた。

彼女の言う通り、そんなに昔のことじゃない。けど、あの日から関係性は随分変わった。彼方さんも俺もあの日からなにか大きく変わったわけじゃないのに。

 

「不思議だねぇ」

 

俺の考えていることを彼方さんが言葉にして発した。おいおいエスパーか。驚きつつ、俺も同じことを考えていたと口にした。

 

「だよねだよね。こんな風になるなんてあの頃は想像できなかったぜぇ」

 

こんな風、つまり恋人の関係のことだ。変な意味ではない。

本当に、不思議だ。あの時、隣で一緒に眠っていた見知らぬ少女が。今は眠っていた俺に膝枕をしてくれる恋人になっているなんて。人生なにがあるかわからないものだ。

特別なことなんてなかったと思うのに。それこそ出会った日ぐらいだ。

 

「……ふぁあー」

 

意図せず俺の口から欠伸が漏れた。

 

「なあに、まだ眠いの~」

 

彼方さんはまた優しく、あやすように頭を撫でる。

 

「まだちょっと」

 

彼方さんが撫でるから余計に、とは言わなかった。止めてほしくなかった。本当に心地いいんだから仕方がない。

 

「じゃあ、今度は彼方ちゃんも一緒に寝る~」

 

「膝枕は?」

 

「やめる~」

 

そんな惨い。俺は慄いた。膝枕されながらなので恰好はつかないが。

 

「このままがいいんだけど」

 

「これだと彼方ちゃん眠れないよ~」

 

「そうだけど、そうだけどさぁ」

 

この極上の枕を手放すなんて俺にはできない。

 

「それに、彼方ちゃんも眠たくなってきちゃったから~」

 

懇願虚しく、彼方さんは言葉通り俺の頭をどかして一度立ち上がる。至極の柔らかさから彼方さんの家の硬い床へと変わった。まさ青天の霹靂だ。

そして彼方さんは俺の横に寝そべり出した。

 

「床、硬いんだけど」

 

「床だからねぇ。そんなことよりも腕枕してー」

 

そんなことって。とか思いつつ、俺は片腕差し出した。さっき膝枕してもらったし、うん。

彼女が目を閉じる。睫毛が細い線を描いていて、綺麗だと思った。

 

「おやすみ~……」

 

そう言ってからすぐにすぅすぅという寝息が近くから聞こえ出す。相変わらずの早さだ。

俺も目を瞑る。彼女の眠る音が夢へと誘う。次はどんな夢を見るのか、そんなことを考えつつ、俺の意識は眠りの海へと潜っていった。

 




お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。



虹ヶ咲第二期、振り返り生放送も含めて全部終わってしまいましたね。
面白かった、楽しかった、終わってしまうのが名残惜しい、色々な感想が思い浮かびますが、さいこーにトキメいた三か月間でした。
関係者の皆様にお疲れさまとありがとうを伝えたいです。


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ミルク

今回もよろしくお願いいたします。


 

「すぅすぅすぅ」

 

遥ちゃんの寝息が静かな部屋に響く。彼女は彼方さんの膝を枕にして眠っていた。羨ましい。

そんな遥ちゃんに彼方さんは慈愛の眼差しを向けていた。優しい、穏やかな微笑みを浮かべて。まさにお姉ちゃんだと思った。

しかし、なんというか。

 

「珍しいよなあ」

 

と俺は思ってしまった。なんなら口から漏れ出てしまった。

 

「えー、なにが~」

 

彼方さんが俺のほうへと顔を向ける。その顔は不思議そうにしていて、俺の発言の意味がわかっていないようだった。

 

「いや、いつも逆じゃないと思って」

 

いつもなら彼方さんのほうが眠っているような印象がある。すやぁって、そんな寝息を上げて。

 

「そうかなぁ」

 

「そうだよ」

 

不服そうな彼方さんだが、俺はやっぱり逆のほうがしっくりくると思った。彼方さんには申し訳ないのだが、いっつも眠っているのは彼方さんのほうだと違和感を覚えてしまうのだ。

 

「ひどいなぁ。そんなこと言う子には……こうだ~」

 

その言葉と同時に彼方さんの手が俺の頬まで伸びる。そしてそのまま頬を抓って引っ張った。

 

「……ひたひ」

 

痛い。地味に痛い。そんなにダメージはないんだけど。頬を引っ張られているせいで変な発音になってしまった。

 

「彼方ちゃんにひどいことを言う悪い子にはお仕置きが必要だよねぇ」

 

ニヤリと唇を歪ませて、彼方さんは意地悪な笑みを浮かべていた。

 

「これはお仕置きではなくて暴力では……?」

 

「違いますー。暴力じゃないですー。れっきとしてお仕置きだよ。教育的指導だもーん」

 

彼方さん、それはマズい。アウトだ。

教育的指導という名の暴力行為(頬の引っ張り)は1分間ぐらい続いた。ほんと地味に痛い。

毎度のことだが、今日も俺は彼方さんの家にやってきていた。今日はお泊りだ。彼方さんに誘われて、遥ちゃんからも是非と言われ、今日もお泊りすることになった。

ちなみに二人のお母さんからは娘をよろしくお願いしますと言われた。特に深い意味はないはずだ。

近江家にいることもだいぶ慣れてきた。実家のような安心感はまだ抱けないけど。だから若干肩に力が入っているような気がしなくもない。

すぐに隣には彼方さん。その膝の上に遥ちゃん。俺と彼女の目の前には折り畳み式の小さなテーブル。そのテーブルの上には彼方さんが入れてくれたホットミルクのコップが3つ。彼方さんと俺、そして遥ちゃんの分。

遥ちゃんを起こさないように照明器具の光は弱くしていた。そのため部屋は薄暗い。メロウな雰囲気。

なんとなく、身体が水分を求めているような気がした。テーブルの上のコップを持ち、口元へと近づける。コップを傾けて液体が口へ、そして体内へと流れ込んでいく。

舌の焼けるような熱さはとっくに収まっていて、ちょうどいい温かさを保っていた。甘すぎないぐらいの程よい甘みとほっと安心する味わいが口の中に広がった。

 

「はぁ……」

 

思わず溜息が漏れた。特に意味はない。リラックスしているからなんだろうか。

 

「うふふ~」

 

そんな俺の姿を見ながらなぜかニコニコしている彼方さん。さすがにその笑い声のボリュームは控え目だった。

 

「……なんで嬉しそう?」

 

「えー、なんでだろうねぇ。特に理由はないんだけどね~、えへへ」

 

なんじゃそれ。

 

「しいていえば~……あなたの肩の力が最初の頃よりも抜けてるからかなぁ」

 

「自分じゃわからないけど」

 

「リラックスできてるよ~。まだちょーっと遠慮してるところもあるけど」

 

彼方さんから見てそう見えるのであればきっとそれは正しいのだろう。自分じゃやっぱりよくわからないが。

 

「遠慮せずにもっともーっとくつろいでも、いいんだよ~?」

 

「……まだ難しいよそれは」

 

「えー」

 

彼方さんは口を尖らせてブーイングをする。もちろん不満げな顔でだ。

だけど考えてみてほしい。遥ちゃんや親御さんが普段一緒に暮らしている家で気軽にくつろげるか? やっぱりどうしても気後れというか遠慮というか、そういうのをしてしまうのは当然のことだと俺は思うんだ。

 

「そういう彼方さんは俺の家でくつろげ……いやくつろいでたわ」

 

彼方さんはどうなんだよと問おうとしたが、思い返してみれば愚問だと気づいた。彼方さんが俺の家に来たときは割と普通にくつろいでいた。肩の力なんて入っていない、ふにゃふにゃ状態だった。自己解決。

 

「む~、失礼だ~」

 

「いやくつろいでたじゃん。歴然とした事実じゃないか」

 

「えぇ~、これでも彼方ちゃん心臓バクバクだったぞー」

 

「うっそだ」

 

まったくそんな風には見えなかった。心臓バクバクしている人間の態度とは思えないリラックスぶりだった。俺の目の錯覚か?

 

「それにね……実は今も心臓バクバク」

 

「なんで」

 

「だってー……あなたが隣にいるから~」

 

「んぇっ」

 

予想外の言葉が彼方さんの口から飛び出してきて、図らずも変な声を上げてしまった。予想外すぎた。だってそんなこと、彼方さんからはまったくもって感じないから。

 

「あー、信じていないな~。本当のことだぞー」

 

「いやさぁ」

 

彼方さんは不満そうにしているが、そんな風には全然見えない。本当に心臓バクバクのド緊張状態なんだろうか。

 

「じゃあじゃあ~……触って確かめてみる?」

 

「!?!?」

 

思考が凍る。筋肉が硬直する。彼女が発した言葉を処理することができない。

何秒か経ってから、その言葉をようやく飲み込むことができる。身体が動かせるようになる。唾を飲み込んだ。

恥じらいを含んだ声だった。いつもとは少し、声音が違うような気がした。

薄暗い部屋の中、上気した彼女の頬が妙に目立つ。片手を胸に当ててきゅっと握り締めている。

彼方さんがどこのことを言っているのか、わかった気がした。……ちょっとだけ、わかりたくなかった。

 

「いやいやいや」

 

なにを言ってるんだというニュアンスを込めたせいか、思わず声のボリュームが大きくなってしまった。

 

「しー、静かに。遥ちゃん眠っているから、ね」

 

「あ、ああ」

 

人差し指を唇に当てて彼方さんは俺を嗜める。言われた通り、小さめの声でそれに返した。

なんだか納得がいかない。誰のせいで声をあげてしまったのか。彼方さんのせいじゃないか。

俺の顔が露骨だったのか、彼女はごめんごめんと謝って、

 

「さっきのは冗談だよ。ひょっとして、本気にしちゃった~?」

 

なんて口にした。

ひどい。男の心を弄んでる。まるで小悪魔のようだ。俺のドキドキを返せ。

だけどほっとしたのも事実だった。

その束の間、彼方さんの言葉は続く。でもね、と。

 

「あなたなら触ってもいいよ~、なんて」

 

……再びフリーズ状態になったのは言うまでもないことだ。小悪魔だ。小悪魔彼方さんだ。

そんなに俺の心を弄ぶのは楽しいか。少しやさぐれながらそんな言葉をぶつけてやった。

 

「んふふ~」

 

彼方さんは言葉には答えずただ意味ありげに微笑んだ。楽しそうでなによりだ。

ああ、今喉が渇いているのは絶対に彼方さんのせいだ。もう一杯、テーブルのコップに口をつける。生温い液体が喉を潤した。

 

「ね、美味しい~?」

 

そのままのニコニコ顔でそんなことを尋ねてくる。

 

「美味しいよ」

 

俺はなんとも素っ気ない返答をしてしまう。俺にはグルメリポーターみたいな、気の利いたことは言えない。美味しかったのは事実で、そのままの言葉を伝えるだけになった。

言葉を伝えた途端に彼方さんはあからさまにニヤニヤし出した。思っていた通りの表情で少しホッとする。

彼方さんが『ね、美味しい~?』と俺に尋ねるのはこれが今日初めてではなかった。今日だけでもう六回目だ。その度に俺の返しは毎回似たようなもので、それに対する彼方さんの表情も同じだった。

毎回聞かれるがうっとおしさは感じなかった。それはこの薄暗い灯りが醸し出す雰囲気のせいか、彼方さんが毎度見せる堪えきれずニヤついたその笑みのせいか。とにかく、くどくなかったんだ。

 

「あのね」

 

俺がコップを再びテーブルに置いたのを見て、彼方さんは口を開いた。

 

「彼方ちゃん、欲張りだからね~」

 

そんな前置きをしてくる。

 

「知ってるよ」

 

「うん。だからねぇ、もっとあなたに美味しいって言ってほしいなぁって」

 

彼方さんはむず痒そうに頬を掻く。

可愛らしい欲張りだ。いや彼方さんの欲張りはいつだって可愛い。俺はそう思っている。

 

「言うよ」

 

だから当然俺の答えはこうなる。上手いこと言えないけど、それでよければ。その言葉を付け足して。

彼方さんはきょとんとして、すぐに意地悪そうな表情を浮かべた。

 

「え~、どうしよっかなぁ。彼方ちゃん欲張りだからな~」

 

唇をにんまりと歪ませて、またも小悪魔フェイスになった。

あまりにも困った顔をしていたのか、彼方さんはまたすぐにころりと表情を変える。今度はいつもの優しくて穏やかな、それでいて眠そうな顔。

 

「いいよ~」

 

彼方さんの言葉は続く。

 

「だから言うの忘れないでねぇ。約束~」

 

当たり前だと。俺がそう返すと、彼方さんはへにゃりと笑みを浮かべた。

 




お目汚し失礼いたしました。
ありがとうございました。


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燦々

 

太陽が照り付けている。痛さを感じるような暑さだ。まさしく地獄。人が出歩くような環境ではない。

いったい今日の気温は何度なんだろうか。今朝のニュースをよく見なかったから正確なところはわからない。それでも絶対に30度以上であることは確かだろう。命にかかわるレベルだ。

そんなんだから外を歩く彼方さんも俺も汗をだくだくと流していた。二人して服が汗でびしょびしょになっていた。

 

「あっつーい~……」

 

隣の彼方さんが胸元でぱたぱたと手で仰ぐ。首筋の汗が鎖骨や胸元へと流れていった。その光景を見ながらどうすることもできない暑さに辟易とした。

俺たちはなんでこんな日に外出なんてしているんだろう。こんな日に外に外出したことを後悔した。

なんで外出したのかって? 至って単純なことだ。

俺の家で彼方さんと夏の宿題や自習をしていたのだが。勉強を始めてから1、2時間からたった頃に彼方さんが

 

「彼方ちゃん頑張ったよ~。勉強頑張ったご褒美にアイス食べた~い」

 

と言い出したのがきっかけだった。ただしかしうちにはアイスがちょうどなかった。なので買いに行くことになった。

だが、まあ、外はこの有様だ。外に出て、30秒ぐらいで後悔した。自分でも早すぎると思うが、本当に苦痛を感じる暑さなのだから仕方がない。

彼方さんも似たようなもので、家から出てすぐさま顔を歪ませた。気だるげな顔をしながらも、それでも彼方さんは引き返すとは言わなかった。

 

「彼方さん、やっぱり帰らない? いくらなんでも暑すぎる」

 

「むむむ、確かにそうだけど……でも帰らないっ」

 

「なんで」

 

「だって彼方ちゃんのお口はもうアイスのお口になってるの~」

 

家から出てすぐに交わした会話がこれだった。彼方さんはアイスをご所望らしい。気持ちはわからなくはないけど。暑い日には特に恋しくなる。

 

「あっつーい~……」

 

今日何度目かの台詞。気持ちは同じだ。暑い。とてつもなく暑い。人が生きていけるようなレベルじゃない。

汗に濡れたシャツが身体に張り付いて気持ち悪い。そう思っていても、この暑さのせいで発汗を抑えることができなかった。

陽炎が見える。アスファルトの上でもやもやと揺れる。

 

「あっつーい~……」

 

隣の彼方さんはそんな言葉を言いながら、距離を詰めてきた。隙間がなくなって、お互いの腕がぴったりとくっつく。くっついたところが暑い。

 

「彼方さん」

 

「ん~、なにー」

 

「暑いんだけど」

 

「夏だからねぇ。彼方ちゃんも暑くてつらい~」

 

「そうじゃなくて」

 

こんなにも暑いのに、なんで近づくのかと。俺は彼女に言いたくなった。

わかっているのかわかっていないのか。彼方さんはとぼけたかのように逸らしてきた。

どころか腕を絡めてより密着してきた。腕に抱きついてきた。彼方さんの身体がさらに密着しているせいで余計に暑くなる。

なにもこんな灼熱地獄でこんなにくっつかなくてもいいだろう。なにゆえ?

 

「……彼方さん」

 

「んー、なぁに~」

 

「彼方さんのせいで暑いんだけど」

 

「えー、彼方ちゃんのせいじゃないよ~。夏のせいだよ~」

 

「いやさぁ、明らかにこれ彼方さんがくっついているせいだよ」

 

俺の言葉に心外そうにする彼方さん。

 

「ええー、そんなことないよ~」

 

やはり予想通り、彼方さんは否定する。すっとぼけていた。

彼方さんにだってわかっているはずだ。こんなに身体を密着させて、少なくとも触れ合っている部分は彼方さんだって暑さを感じているはずだ。感じていないわけがない。

 

「そんなことあるでしょ。彼方さんだって汗かいてるし」

 

頬に伝う汗と、その跡に張り付く髪。それがなによりの証拠だ。

 

「えっち~」

 

彼方さんの身体を見ながら指摘すると心外な言葉が返ってきた。

えっちな要素がどこにあるんだって言うんだ。これっぽっちもいやらしい気持ちなんてないのに。

 

「なんでさ」

 

「え~、視線がなんかいやらしい」

 

「言いがかりだ……」

 

いやらしい視線なんか向けていない。彼方さんの首や顔に汗が張り付いているのを見ただけだ。

いやらしいと言いつつも彼方さんは離れるどころか、しっかりと腕を絡めてくる。より簡単に抜けられないようになる。さらに暑くなる。

そもそも彼女の言葉に恥じらいや嫌悪感などの負の感情が込められていなかった。俺で遊んでいるかのような楽しそうな声だった。

 

「それなら尚更離れるべきじゃない?」

 

「えー、やだ~」

 

即座に拒否された。こっちがえぇ……と言いたくなる。なんでよ……。

 

「だってくっついていたいも~ん」

 

子供みたいな言い方だ。堂々と彼方さんは言い放った。

 

「暑くても?」

 

「暑くても~」

 

迷いもなく言い切った。彼方さんに離れる気は微塵もなさそうだ。こんなに暑いのに。それでもくっついていたいという。

 

「ああ、もう……わかったよ。もうそのままでいいよ」

 

「やった~」

 

俺が諦めると嬉しそうにもう片方の腕を突き上げた。

なんというか、いつものこんな感じで押し切られるなあと思ってしまう。まあ彼方さんが楽しそうでなによりです。

そのまま、腕を組んだまま、コンビニへと向かう。冷たいアイスを求めて。あるいは涼しい冷房の効いた店内を求めて。

太陽がじりじりと照り付ける。汗は止まらず流れ続けていた。日差しが弱まる気配はまったくない。

上から浴びせられる太陽の熱気と、地面からの照り返しと、組まされた腕と。俺の逃げる場所はどこにもなかった。

早く、早くコンビニに辿り着いてくれと。切に願った。

 

 

 

----------

 

 

 

「あ~……涼しい~~」

 

彼方さんのいつにもまして気の抜けた声に心の底から同意した。

涼しい、生き返る。コンビニの店内は冷房が効いていて、外の地獄とは大違いで極楽だった。身体を覆っていたむわっとした熱気が消えて、なんとなく呼吸もしやすくなったような気がする。

 

「生き返る~」

 

俺の心の声が彼方さんの口から飛び出してきた。二人して考えることが同じになるのは仕方ないことだ。

 

「あー、本当。生き返るな~」

 

俺だって気の抜けた声になってしまう。本当に天と地の差だ。

彼方さんと俺は早速アイスコーナーへと向かう。出入口である自動ドアから一番離れたところにあった。行けば、ボックス型の冷蔵ケースの中にたくさんのアイスクリーム商品が敷き詰められていた。

ケースから漂ってくる冷気でさらに身体の温度が下がった。気持ちいい。

 

「気持ちいいー。彼方ちゃんずっとここに住む~」

 

「ダメでしょ」

 

めちゃくちゃ気持ちはわかるけど。俺もずっとここにいたいけど。住みたいけど。

 

「スーパーに比べると割高感があるねぇ」

 

冷蔵ケースの縁の辺りに貼ってある値札を見ながら彼方さんは呟く。確かにスーパーに比べるとコンビニの値段はちょっと高い。

 

「まあそれでも買うんだけど」

 

だってスーパーには少し距離がある。こんな暑い中行けるか。行きたくない。

 

「だね~」

 

彼方さんもぐったりした様子で答えた。もうあの炎天下の中を彷徨いたくないよね。俺たちは値段よりも利便性を選んだ。

 

「どれにしよう。たくさんあって迷っちゃうな~」

 

彼方さんの言葉通り、たくさん種類がある。彼方さんの視線は冷蔵ケースの中を右往左往と流れ流れる。定番のものから新商品、いわゆるプライベートブランドと呼べれるものまでより取り見取りだ。選ぶのに迷うってしまうのは仕方がないだろう。俺の視線も揺れに揺れる。

迷い彷徨っていた視線がふと止まる。あるアイスに目が留まった。

安くて美味しい定番の氷菓だ。かき氷にアイスキャンディーでコーティングした、くじ付きの有名なやつだ。小さな頃、暑い季節になるとよく食べていたことを思い出した。

 

「ねぇねぇ、あなたは決まった~?」

 

その声で顔を上げる。いつの間にか、彼方さんがこちらを見ていた。

 

「お~、それ懐かしいねぇ」

 

俺の視線を辿った彼方さんはそのアイスを見て、懐古しているのか浸るような声で言った。ド定番だし彼方さんも食べたことがあるのだろう。

……久しぶりに食べてみるのもいいかもしれない。懐かしの味を堪能したくなった。

 

「決まったみたいだねえ」

 

「なんでわかるだよ」

 

「よく見てますから~」

 

よく見てたらわかるものなんだ……。

俺は素直に感心した。恐怖とか困惑とかよりもまず先にそんな感情が浮かんだ。すごい。

 

「彼方ちゃんもおんなじのにしよっと」

 

彼方さんは冷蔵ケースから二つ、アイスを取り出してはいと俺に手渡した。受け取るとひんやりとした温度が手の肌に伝った。なんとか触れれる冷たさ。

俺は受け取った手とは反対の手を彼方さんに差し出す。

 

「お手?」

 

「違うから」

 

ほれと彼方さんが持つアイスをこちらに寄こすように伝えた。

 

「はっ、彼方ちゃんの分まで奪うつもり!」

 

「いや違うから」

 

彼方さんは驚いた顔したのち、自分の分のアイスを奪われないように抱え込む。

なんで奪う必要があるんだよ。

 

「俺が買うから」

 

「奢ってくれるの? ありがと~」

 

彼方さんはころりと表情を一転させ、過去イチ眩しい笑顔になってアイスを俺に渡してきた。現金だなと俺は笑った。

そのまま二人分のアイスを持って、レジへ。奢るといっても値段的にはたかが知れている。百円玉を二枚出して購入する。二つのアイスとお釣りを受け取って、アイスを一つ、彼方さんに渡した。

コンビニの出入り口である自動ドアが開く。むわっとした熱気が外から侵入してきて身体にぶつかる。そのまま一歩一歩、外へと向かって足を進める。外に出ると身体を覆っていた冷たい空気は熱へと塗り替わっていき、その熱が身体を覆っていく。

 

「あっつい~……」

 

「暑いな……」

 

二人してげんなりした。天国から地獄だこれは。

 

「……ねえねえもうアイス食べようよ~」

 

「……だなぁ。これじゃすぐにアイス溶けそうだしな」

 

お互いに顔を合わせて頷いて、俺たちはアイスの封を開ける。木の棒を摘んで引き抜いて、アイスを取り出した。

水色の輝きが、漂う冷気が、熱で表面が融解しかけている様がなんとも冷たそうで、早く味わいたくて仕方がなかった。

 

「んんっ! つめひゃ~い」

 

早い。彼方さんはもうアイスを頬張っていた。想定以上の冷たさに彼女は目を細めて顔を歪めた。

俺も、と。いかにも冷たそうなそれにかぶりつく。舌を始め、口いっぱいに冷たいという感触だけが広がった。彼方さんみたいに声にならない声を上げてしまう。

そんな俺を見て、一度アイスを口から離していた彼方さんがくすくすと笑い出した。

 

「変な顔~」

 

彼方さんには言われたくない。彼方さんだって変な顔だった。

 

「これは永久保存しなきゃだねぇ」

 

「待って。それは止めてくれ」

 

彼方さんは片手にアイスを持ち、もう片手でスマホを取り出した。そのカメラを俺に向かって構えた。撮る気満々じゃないか。

恥ずかしいんだけど。そんな画像を記録に残すとか止めてほしい。

 

「え~、いいじゃんか~」

 

俺の顔がそんなにおかしいのか、彼女はさらにまた、笑った。

 

「よくない。恥ずかしいんだけど」

 

そんな恥ずかしめを俺だけが受けるなんてまっぴらごめんだ、などとごねてると。

 

「じゃあじゃあ、一緒に撮ろ~」

 

彼方さんがそんな提案をしてきた。

 

「彼方さんと一緒に?」

 

「そ~。一緒に」

 

……まあ、一緒ならいいか。

 

「彼方さんも変な顔してくれよ?」

 

自分だけ普通の顔するなんて許されないぞ。いちおう釘をさしておく。

 

「大丈夫~。アイス食べたらしたくなくても変な顔になっちゃうよ」

 

それもそうだ。

彼方さんはスマホを構えた。そして彼方さんも俺も同時にアイスにかぶりつく。頬いっぱいに冷たい刺激が襲い掛かってくる。かしゃりとシャッター音が鳴り響いた。

二人でその写真を覗く。俺も、そして彼方さんも口を歪ませて、間抜け面になっていた。酷い写真だ。

 

「思い出がまた一つ増えたねえ」

 

アイスとスマホを持った彼方さんがにんまりと笑った。それを見ただけで写真を撮られた甲斐があったものだ。

夏の思い出をこれからもいっぱい撮ろうね~と、彼方さんは夏の楽しみを指折り数え始めた。プールに、花火に、お化け屋敷に……。夢を見ている暇なんかないような忙しさになりそうだ。彼方さんの語りは止まらない。

彼女のアイスが溶けて、水滴となって地面に落ちていく。夏はまだまだ長いなあと思った。

 




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