台 詞 で 創 作 1 0 0 の お 題 (まかみつきと)
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||1|| いやはや、参った。 (楽陽ベース六太)

六太目線・楽俊、陽子ほか◆あてられるとはこのことだ


 慶の王宮には、しばしば貴人の客が訪れる。

 

 慶賀の折以外には滅多に交流のない各国にあって、これは実に珍しいことである。

 もっとも、訪なうほとんどは雁の王宮関係者だから、この二国の友好関係を知る者にはさほど違和感はないかもしれない。

 来訪の頻度は別として。

 

 

 夜の夜中。

 これからちょっと慶に行くんだけど、と大学寮の窓から顔を出したのは、またしても延麒だった。

 月に何回王宮を飛び出しているやら、見当もつかない仁獣である。

「明日明後日、講義は休みだろ。とんぼがえりになっちまうけど、お前も行かないか」

 屈託のない少年に、部屋の主は笑って首を振った。

「ちょっと課題が立て込んでて、手が離せそうにないんです。折角お誘いいただいて申し訳ねえですけど、今回は」

「そっかぁ」

 残念そうに口を尖らせた六太が、じゃあさ、と使令に乗ったまま器用に窓枠に頬杖をつく。

「陽子に伝言、なんかあるか?」

 気安い宰輔の物言いに、銀の髭と灰茶の尻尾がへろりと垂れた。

「……台輔を文のかわりに使えと?」

「いいじゃんか、どうせお前のことも話すんだし。まあ日頃鸞でやりとりはしてるんだろうけど、これもついでだろ」

 なんかないのかよ、と急かされて小首を傾げた楽俊は、ああと思い当たったような顔で引き出しをあけた。

「伝言じゃないですが、こいつを陽子に届けてもらえませんか」

 ほたほたと窓際に歩み寄った楽俊が手渡したのは、油紙に包まれ、細紐でとめられた、ごく薄い箱のようなもの。

「なんだこれ、贈り物か?」

 洒落たことをしやがるとからかうと、灰茶の鼠が手を振った。

「違いますよ。以前陽子に、なにか読み書きの足しになるようなものが欲しいと言われてたんです。そのうちやろうと用意はしてたんですが、まさか金波宮宛てに送りつけるわけにもいかねえし」

 つまり、この中身は、手習い用の本というわけだ。

 微笑ましいがどうにも歯痒い二人のやり取りがいやでも想像できて、干物よろしく窓にぶらさがった六太である。

「……お前らってホント、色気のイの字もないのな」

「なにか?」

「なんでもねーよ!」

 らしいといえば確かに彼ららしいが、年頃の男女として少しは進展しないのか!と叫びたいのをぐっと我慢する。

「わかった。確かに預かったよ」

「お手数をおかけします」

 律儀に頭を下げる楽俊に手を振って、六太は使令を走らせた。

 

 

「よう、頑張ってるな」

 くだけた挨拶を受けて、書卓から顔を上げた景王が笑う。

「いらっしゃい、六太君」

 片手を上げて応えた六太に、傍らに控えていた冢宰がゆったりと頭を下げた。

「ようこそおいでなさいませ。ときに延台輔には、秋官長殿の御免状はありましょうや?」

 にこやかに微笑まれて、首をすくめた延麒である。

「ハイハイ、朱衡からな」

 懐から一通の書状を出して、浩瀚に渡す。浩瀚がそれを丁寧な所作で押し頂いた。

 六太もしくは尚隆が慶を訪なうときには、必ず秋官長楊の書状を持参のこと、と決まったのは、少し前のことである。

 つまり「慶に行きたければ朱衡の許可を取って行け」ということで、これはどうあっても脱走のやまない主従に説教の匙を投げた雁諸官苦肉の策だった。

 なぜ冢宰の院でなく秋官長の了解なのかは雁の内情を知っている者には明白で、むろん、仕事を万事片付けてからでなければ許可がおりないのは言うまでもない。

 ちなみに、もしもこの書状が二人の偽造だった場合「貴人にあるまじき振舞い」をした罪で理由如何を問わず慶から放り出せ、という厳命も付け加えられているが、これはどうやら供王の見事な下知を真似たものらしい。

慶から叩き出され、挙句厳罰の待つ玄英宮に連行されることを思えば、事前に許可の一つや二つ取ろうという気にもなるわけで、今のところこの作戦は成功しているようである。

 書状の中身を確かめた男が、再度にこりと笑った。

「確かにお預かり致しました。たいしたおもてなしもできませんが、どうぞおくつろぎくださいませ」 

 やんちゃな賓客に椅子を勧めると、浩瀚は自分の主を振り返った。

「主上もお疲れでしょう。祥瓊に茶菓の用意をさせますから、すこしお休み下さい」

「ありがとう、そうさせてもらう」

 手回よく書類を片付けて退出する冢宰に礼を言って、陽子が大きく伸びをする。その様子をみやって、六太が苦笑した。

「また根を詰めてやってんのか?」

「いや、それほどでもないんだけど。やっぱり朝から机にかじりついてると肩がこるね」

「ま、無理しないでほどほどにやれよ。・・・あ、そうだ」

 これ、と渡された掌二つ分くらいの大きさの包みに、陽子が目を瞬かせた。

「楽俊からだ。一緒に来ないかって誘ったんだけど、今ちょっと忙しいみたいでな。これだけ預かってきた」

 気軽な口調に陽子の口元が微妙に引きつった。

「台輔に宅配便させたんですか」

「……おまえらな、同じこと言うなよ」

 送り主と受け取り主に同じ反応をされたのでは、運び屋としては立場がない。

「いーんだよ、オレがなにか言伝はないかって聞いたんだから。それより、中身なんなんだ?オレが見ちゃまずけりゃやめとくけど」

「なに言ってんですか!」

 からかう六太に薄く頬を染めた陽子が、そっと包みを開く。

 厳重に包まれていたのは、薄い手綴じの本が数冊と、簡単な手紙だった。

 草色の表紙の本は丁寧に綴じてあってとても素人の手によるものには見えないが、開いた中の文字は確かに楽俊のもので。

「うわ、すげえ」

 横から覗きこんでいた六太が思わず溜息をついた。

「手蹟が見事だってのは知ってたけど、これほどとはな・・・。オレなんか五百年書いてたってここまでできないぜ」

「そうなんだ?」

 言った陽子の声音には、微かだが誇らしげな響きがあった。

 その気配に、六太はあれ、と傍らの少女を見やる。

 本を置き、書簡を開いた陽子は、なにやら楽しそうに口元を緩ませている。

 悪いとは思いつつも覗きこんだ書面には、元気にやっているか、という簡単な挨拶から始まって、同梱した本の内容がわかりやすい言葉で綴られていた。

 役に立つかわからないけれど、父親の書き付けを簡単にまとめてみた、暇なときにでも読んでくれ、こんなもんでも勉強の足しになったら嬉しい。

 朗らかで飾らない彼らしい文面に、六太もちらと笑う。

 改めて本を見なおした陽子が、その明るい色の表紙にそっと手を置いた。

「こんなにたくさん、作ってくれたんだ・・・楽俊だって忙しいだろうに」

 持ち歩いて読むのに邪魔でないよう小さめに、それを重くならないように数冊にわけて。

 ただ見ただけではなにげない書籍でも、彼の細やかな心遣いが伝わってくるようだった。

「失礼致します」

 叩扉と共に鈴を振るような声がして、茶器を捧げ持った祥瓊が堂室に入ってきた。

「よ、祥瓊」

「おいでなさいませ、延台輔」

 六太の礼節の欠片もない挨拶に芙蓉の微笑を返すと、窓際の卓子で茶器を広げる。流れるような手つきで茶を淹れながら、祥瓊が首を傾げた。

「あら、その書籍は?」

 目聡い女史に、陽子が笑う。

「読み書きの勉強にって、楽俊がつくってくれたんだ。お父さんの書き付けをまとめたんだって」

「まあ」

 群青の髪をしゃらりと揺らして、美貌の女史が微笑んだ。

「これは、勉強しないわけにいかないわね」

「うん」

 嬉しげに答えた陽子は、書簡を挟みこんだ書籍を大事そうに抱えて満面の笑みを浮かべた。

「次に会うときに、すこしでも成果が見せられれば良いな」

 ええと。

 誰と誰が、色気のイの字もないんですって?

 会話の弾む慶の君臣を見ながら、六太は祥瓊の淹れてくれた茶をすすり、自問自答する。

 楽俊は気安くていい奴だ。些細な頼まれごとでも疎かにしない義理堅い奴でもある。

 だからって、自分の勉強時間を割いてまでなんでもかんでも引きうける奴じゃ、ないよな。

 陽子だって、もとから他人の好意は素直に喜ぶ奴だけど、あんな嬉しそうな顔って、そうそう見るもんじゃねえだろ。いつもはオレたちといたって少しは王様然としてるのが、まるっきり素になってるもんな。

 ……つーことは、だ。

本人たちに自覚はない。

 それは見てりゃわかる。

 でも、なんつーかこう、醸し出す雰囲気ってーの?

 なんか、あるじゃねーか。

「あー……」

 突然ずるずると椅子から崩れ落ち始めた麒麟に、陽子と祥瓊が飛びあがった。

「六太君?!」

「いかがなさいました延台輔?!」

「なんでもねー。自業自得だから」

「ええ?」

 もしかして、自分は、トテツモナク鈍いんですか。

 訝しげに眉をひそめる二人を尻目に、ふかぶかと溜息をつく六太だった。

 帰国して一部始終を語った六太が、だからお前は底が浅いと言うんだ、と自分の王に笑われることになったのは、ごく一部の間しか知らないことである。

 




いかん、初っ端から長すぎた・・・。

六太君受難の巻。
本人たちは至って普通の友人のつもりですが。
色いでにけり、というやつか。

読み書きは難しいですね。
辞書がない(だろう)十二国は大変だろうなぁ。
壁先生に辞書作ってもらったらどうでしょう、陽子さん。
せっかく雁には海客受け入れ窓口があるんだし、先生もいい商売になりそうだが。
どうでしょうか延王様。


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||2|| スキ・キライ・スキ、…スキ。 (三人娘)

金波宮・三人娘◆花占いってこっちにもあるのか?


 金波宮の奥、後宮の園林のなかでもさらに奥まった場所に、それはあった。

 一歩足を踏み入れた鈴と祥瓊が、すごい、と言ったきり立ちつくす。

「このあいだ探検してて見つけたんだ」

 綺麗だろう、と陽子がにこにこしながら二人の顔を眺めていた。

「綺麗、なんてものじゃないわ。眩暈がするくらい」

 目を瞠った祥瓊が、呆然と呟く。

 視界一杯、見渡す限りに揺れる花。

 百花繚乱という言葉を具現化するとこうなるという見本のような光景だった。

「休憩を邪魔してすまなかったけど、どうしても二人に見せたくて、来てもらったんだ」

「すまないだなんて! あたし、こんなにきれいなもの見たことないわ!」

 頬を高潮させた鈴が思いきりかぶりを振る。

「もう、こんな素敵なことってあるかしら!」

 いますぐにでも花の海に飛び込みたいと顔に書いてあるが、足は前にでないらしい。

「どうしてそこで止まってるんだ?」

 先に立って歩き出した陽子に、二人が揃って悲鳴を上げた。

「花を折ってしまいそうで、怖くて動けないの!」

 少女らしい葛藤に、陽子が吹き出した。

「こんなにあるんだから踏まないわけにいかないけど、かきわけながら進めばすこしは大丈夫じゃないか?」

 暫し逡巡していた二人だが、ようやく覚悟を決めたらしい。

 そろそろとおぼつかない足取りながら、陽子のあとをついて歩き出した。

「すごいわね・・・人の手なんて入っていないでしょうに」

「うん。でもむしろ、手をかけていないからこんなにのびのびしているんだと思う」

 高いもので腰下ほどに丈を伸ばした花を撫でながら、三人は香りを楽しんだ。

「そういえば、こちらには花占いってあるのかな?」

 花弁の多い花をつまんで、陽子が祥瓊を振り返る。

「はなうらない?」

「そう。恋占いなんだけど、好き、嫌い、好き、嫌い、って繰り返しながら、一枚ずつ花びらを落としていくんだ。最後に残った一枚がどちらかで、相手が自分を好きか嫌いか占うの」

 説明された祥瓊が、軽く柳眉を寄せた。

「他は知らないけれど、私は聞いた事がないわねえ・・・」

「あたしも知らないわ。むこうでも、やったことない」

 首を傾げた鈴に、陽子が苦笑する。

「そうか、鈴も知らないんだ」

 世代の違いなのか育った環境なのか、そのあたりはさだかではないが。

 祥瓊が、陽子が触れているのと同じような花を引き寄せた。

「花に託す恋心、か。なんだかいいわね」

「花には迷惑かもしれないけど、素敵よね」

なぜとはわからないが自然と口元の綻んでしまうこそばゆい感覚に、三人は顔を見合わせた。

「・・・やって、みる?」

「なあに、鈴ったら。お目当ての相手でもいるのかしら」

「祥瓊だってその花、どうするつもりなんだ?」

「陽子はいるもんね。それとも、もう占っちゃった?」

「なにいってるの。陽子は占う必要なんてないのよ」

「ああ、それもそうね」

「そんなんじゃないってば!」

 額を寄せ合って、小突いたり忍び笑ったり。

 思えば、こんな暖かい時間なんて持ったことがなかった。

 くだらないお喋りが、こんなに楽しいだなんて。

 

 いつまでも続く娘たちの軽やかな笑い声が、花を渡る風にまぎれた。

 

 

 




花と三人娘。
このトリオも書きやすかったり。
世代から言うと祖母・母・娘、なんだけど・・・。(鈴ごめん)
少なくとも二人は陽子のお姉さん役を自らに任じているでしょう。
三人娘のお母さんは玉葉さんで。

どーでもいいが、こういうのはこそばゆーてよう書けまへんな!


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||3|| はい、馬鹿決定。 (馬と鹿ってどこかで聞いた)

慶主従・六太◆麒麟の号とは


      

「号?」

「そう。氾麟に、つけてやらないのかって言われたんだ」

 毎度おなじみ金波宮での茶話会。

 色鮮やかな桃饅を持ったまま、王宮の主がすんなりと伸びた指で半身を指す。

 指差された方は、主の行儀の悪さに微かな溜息をつき茶碗でその後の表情を隠した。

「景麒、っていうのは号であって、名前じゃないんだよね。全然意識してなかったけど、六太君はこれ、名前でしょう?」

「まあ、オレは倭の生まれだから、名があるんだもんな」

 倭にはこちらと違い、面倒な名前の呼びわけはない。昔はあちらの名前も複雑だったが、彼自身は六太、としか名を持っていないからそう呼ばれているわけで。

 杏の甘煮をつまみながら、雁の麒麟は頬杖をついた。

「まあ実際、字のついてる麒麟なんてそれほどいないような気もするけどな」

「氾麟が梨雪でしょ、泰麒がこうり、だっけ」

「草冠のついた高に里、だな。あと、采麟が揺籃、って言ったか」

「宗麟殿がたしか、昭彰とか」

茶碗を置いた景麒が、やや自信なさそうに眉根を寄せる。

「そうだな。あとはわかんねーや」

 指折り数えていたのと反対の手で、栗餡の餅をぽいと口に放りこむ。

「供王も、号で呼んでた気がするしな。実際字を貰ってる麒麟は半分いるかどうかってとこだろ。範の御仁のはむしろ遊んでるようなもんだから、無理に考える必要はないと思うぜ」

 第一、と六太が笑った。

「字ったって、どんな名前つけるんだよ」

「・・・それを思いついてたら、とっくにつけてる」

 馥郁たる香りのお茶を口にしながら、陽子の顔は渋い。

「なんかこう、しっくりするのがないんだよね。氾麟の『梨雪』なんて、なるほどって思うじゃない? ああいうの、簡単に思いついたら良いのになあ」

「あー、まあな。ちびのはもとの姓だけど」

「たかさと、の音読みだっけ」

 そうそう、と頷いた六太と、まだ渋面の陽子がそろって同じ方向を向いた。

「名前、ねえ……」

「印象からつけるっつってもなぁ……」

「どうしても、冷たいとかかたいとかそんな文字ばっかり浮かんできちゃって」

「そりゃ無理ねーや」

 二人分の視線を浴びて、今度は景麒が眉間のしわを深くする。

「別に新しく字をいただかなくとも、私は号で呼んでいただければ充分です」

 白皙の顔には、犬猫並みに扱われるくらいなら号のほうがましだ、とでかでかと書いてある。

 それを見て六太がにやりと笑った。

「いやいや景台輔。字は王の御厚情であるぞ。温情涙し伏して拝領つかまつるが、臣たる者のつとめであろう」

 こういう文句がすらすらでてくるあたり、五百年の重みは伊達ではない。あからさまにからかわれて、景麒の薄紫の瞳がむっとしたように細くなる。

「さようでございますか。では延台輔も、賜った字にはさぞや思い入れがおありでしょうね」

 氷の如き切り返しに、六太は口に入れていた茶をおもいさま吹き出した。

「六太君!」

 あやういところでのけぞった陽子の叱責に勝る声音で、隣国の同族に迫る。

「景麒! てめ、どこでそんなことを!」

「以前、延王より伺いましたが」

「あんのやろぉ……!」

 怒り心頭で他のことなど目にも入っていない本人に代わって、まきちらされた茶をふき取っていた陽子が、怪訝そうな顔で景麒を見た。

「六太君にも字があったのか?」

「聞くな陽子!」

 必至の牽制もしかえしとばかり無視して、景麒がきっぱりと言い放つ。

「ええ。馬鹿、と仰るそうです」

「景麒!!」

 張り倒さんばかりに抗議しても、時既に遅し。 

 翠の瞳を瞠った陽子が、ぽかんと口をあけた。

「………………は?」

「ですから、ばか、と」

「だから繰り返すなぁぁ!」

「……ばか?」

「陽子も言うなっ!!」

 しみじみと眺められ憤然とする六太に、さらに景麒が追い討ちをかける。

「延王の仰るには、馬と鹿のあいだのような生き物だから馬鹿でいいだろうと」

「けぇぇい、きぃぃぃぃぃ……っ!」

 玻璃を刃物で引っかくような声が、歯軋りの合間に漏れた。

「それを言うなら、十二国の麒麟全部、同じ字になるんだからな!」

 くるしまぎれの反撃は、みごと功を奏したようで。

「てめえも今日から『馬鹿』だ!!」

 絶叫は部屋を震わせて、あとには硬直した景麒と腹を抱えて笑い転げる景王の姿があった。

 

 その後、慶国の麒麟が号を賜ったという話は、ついぞ聞かない。

 




字どたばたバナシ。

このお題は六太以外にないでしょう。
馬鹿決定だなんてな。(でもありがち)
アニメでは朱衡がバラしてましたが、うちは基本的に原作寄りなので御勘弁を。



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||4|| 言葉にするぐらいなら目で語れ。 (つながるのは、強い思い)

三人娘目線で和州の乱を思う◆交わす視線が信頼の証


進むべき道は、一つしかない。

 

他を選んでしまったら、幾万もの民をも巻き添えにしてしまう。

負った責は途方もなく、それを降ろすすべはない。

逃げることは死ぬこととおなじで、闇雲に進むことすら危うくて。

ただひたすらに前を見つめ続けることの、なんと苦しいことか。

 

 

 

 

道は芳から恭へ。柳を辿り、雁に、そして慶。

 

最初はただ生き永らえるために。

その次は逃げるため。

捕らえられ、嘲笑われて、根本から否定された。

突き落とされた奈落の底で、自分自身というものを初めて見つめた。

けして楽しいばかりではないそれも、きっと自分には必要なことだった。 

 

 

 

 

流れ着いたのは慶。巧を歩き奏を巡り、行きついたのは才。 

 

惑い、怯え、ただひたすら下を向くだけの百年。

そこから逃げ出すことは、おのれの死を意味したから。

でも、逆らうことを選んだのは、結局自分。

同じ道を戻る旅で、かけがえのない出会いをした。

それは、あまりに悲しい別れに続いていたけれど。

 

 

 

 

仲間、というものを持ったのは、あれが初めてだった。

 

血を分けた兄弟でもない。

ずっと昔から一緒だった友人でもない。

ただ志を同じくしたというだけの、不思議な繋がり。

 

 

わが身の立場や命をかえりみず、見ず知らずの誰かに差し伸べる手。

己の故郷でもない立場で、義憤を感じ立ちあがる勇気。

今までの自分には、なかったもの。

 

 

しんどいんだ、とその人は言った。 

誰かが苦しんでいるのを見るのはしんどいんだ。

だから戦うんだと。

そこには高尚な理由などない。

他人の悲嘆を負って、受けなくてもいいはずの傷を受けるために立つのだ。

 

 

だからこそ。

 

 

武器をやろうか、と笑んだ不敵な顔と。

つかまれ、と引き上げてくれた腕の強さを。

共に戦うか、と差し出してくれた銀の輪に。

 

 

戦うことが出来た。

信じることが出来た。

頷くことが出来た。

 

 

それは、命の繋がり。

 

 

誰かの血が流れても、倒れ伏し立ちあがれなくなっても、その心を継ぐ仲間がいる。

視線を交わしあうそれだけで、進む力をくれる相手がいる。 

その(つよ)さに、自分の足で立つことの難しさと、大切さを教えられた。

 

 

一人じゃないこと。

信じること。

思いをわけあうこと。

 

 

絆は剣よりも強く、血よりも温かい。

 

 

互いを支えるものは血統でも、生まれた場所でも、育った環境でもない。

天に背くことなく、ただまっすぐ顔をあげられる心。

虐げられる者をいたわる優しさ。

それだけが互いを繋ぐ。

 

それを忘れなければ。

 

きっといつまででも、走りつづけることができる。

 

 

 




楽陽だと思った人、ごめんなさい。

和州の乱のメンツは皆好きなんで他のも出したかったんですが、
三人娘視点で終始してしまいました。残念ッ!



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||5|| 嫌なモンは嫌なの。 (雁の麒麟が逃げるものとは)

楽俊・六太・朱衡◆だから、逃げる


 

「どけ楽俊!!」

 押し殺した鋭い声に、灰茶の鼠は目をむいてとびすさった。

 宵の口、暖かい陽気に開け放たれた窓から、一陣の風が飛びこむ。

 否、風のような勢いの、それは獣。

「台輔?!」

 舞い散った紙を慌ててまとめながらこちらも可聴ぎりぎりの声で問い返せば、雌黄の鬣が流れるように揺れた。

「なんか着るもんくれ」

「……はあ」

 いくら友人知人に王のいる彼でも滅多に見ることのない神獣の姿に、返事も曖昧になる。

 とりあえず手近な部屋着をその肩にかけてやると、優美な獣はやんわりとその姿を変え、あとには見たこともない渋面をした子供が立っていた。

「転変なさっておいでになるとは、なにか火急の御用でも?」

 通常使令に騎乗して訪なう延麒が、獣身で現れたのだ。楽俊の懸念は当然のことである。

 世に十二しかいないこの霊獣は、転変すれば風にも追いつけぬ脚の持ち主。その脚力を使わねばならないほどの事態とはなんだろう。

ことが雁の件であれば、自分のところには来ないはず。よもや慶の女王に変異が、と顔色を変えた部屋の主に、ぶかぶかの着物を着こんだ雁の台輔は首を振った。

「陽子になにかあったわけじゃねーよ。焦んなくていい」

 簡潔な言葉に楽俊は胸をなでおろしたが、いまだ延麒の顔色は晴れない。

「いったい、なにがあったんですか?」

 心配そうに聞かれ、少年は音を立てて牀榻に座り込んだ。

「……来るんだ」

「え」

「奴等が、来るんだ」

 日頃快活な笑顔を浮かべる口元は真一文字に引き結ばれ、眉間の皺は鑿で削ったように深い。顔色さえも酷悪いように見える。

「台輔、お加減が」

「大丈夫、それは大丈夫だ。……なあ、楽俊」

「はい」

 精彩を欠いた紫の瞳に見上げられて、楽俊も硬い声を返す。

「迷惑はかけないようにする。だから、幾日か匿って欲しいんだ」

「匿うって」

「勉強で忙しいのはわかってる。オレに構う必要なんかないし、もちろん気なんか使わなくっていい。お願いだ!」

 延麒の切羽詰った様子に、半獣の青年は眉をひそめた。

「台輔、最初から話していただけませんか? なにをそんなに……」

「そんなに、範の方々のおもてなしがお嫌ですか、台輔」

 至極冷静、かつ威厳ある声に、部屋の二人が飛びあがった。

「朱衡!」

「秋官長殿?!」

 鬣だの尻尾だのを逆毛立てた両人にかまわず、目立たぬ下官服を身につけた壮年の男が窓から降り立つ。きっちりと鍵を閉め、しみじみと首を振った。

「よくまぁあなたがたは、こんなところから出入りしますね。もし他の人に見つかったら楽俊殿がどれだけ迷惑をこうむるか……」

「帰らねーからな!」

 秋官長の説教を遮って、延麒が言い放った。それを見返した目は、陽光をはねかえした刀剣の光よりも鋭い。

「まだそんな駄々をこねていらっしゃるんですか」

「駄々って言うな!あいつらの接待なんて、オレは、絶対嫌だかんな!」

「……セッ、タイ?」

 ぽかんと口をあけた鼠の青年に、秋官長が軽く首肯した。

「左様です。明日から数日、範の方々がお見えになるので、そのおもてなしをせねばならないのですが、わが国の主上と宰輔はお二方ともあちら方々といまひとつ折り合いが」

「……範というと、西方の大国の?」

「ええ」

「方々、と仰るからには……」

「はい、氾王と氾麟がおいでになります」

 遥か目下にも礼儀正しい雁の秋官長の説明に、楽俊は自分の牀榻を振り返った。

 とするとこの貴人、公務嫌さに王宮から逃げ出してきた、ということになるのか?

「--台輔?」

 それはそれは不審げな黒い目に、延麒がかみつく。

「いいか、王ってものを尚隆や陽子を基準に考えんなよ? フツー王同士の歓待ってのは、ずるずるべったな服着て、はてしなーく長い装飾過多の美辞麗句並べ立てて挨拶して、食ってんだか食ってないんだかわかんねー飯食いながら、お上品にじっと座ったっきり、てれーんとした歌舞音曲観たり聞いたりするんだぞ! お前、これに耐えられるか?!」

「いや、おいらは王でも麒麟でも……」

「だから、もしこれをやれといわれたらどうだって言ってんの!」

 暫しの沈黙の後、銀の髭と長い尻尾が垂れ下がるのを見て、延麒がえらそうに腕を組んだ。

「ほらみろ、お前だってやだろうが。オレだって、もうちょっと気心の知れた奴との軽い会食なら喜んで同席するけど、よりによって範だぞ! あんな奴等と気色わりぃ芸術バナシするくらいなら、罰則覚悟でトンズラしてやらぁ!」

 鼻息も荒くまくしたてた延麒の前に、音もなく秋官長が立つ。

「なるほど。それで、ここへいらしたわけですね」

 踏まれた蛙のような悲鳴が、高貴な獣の喉から零れた。

 楽俊との会話に熱中する余り、この人の存在を忘れていたらしい。

 顔面蒼白の小さな主に構わず、秋官長は落ち着き払って顎に手を当てている。 

「ですが台輔、範からは王と台輔おそろいでお迎えいただけますよう、との言伝なのですがねえ」

「や、やだったらやだったらやだ!」

 駄々っ子というより最早怯える子供の風情だが、当然相手の攻勢が弱まるわけもない。

「麒麟の本性は仁でございましょう。でありながら、準備に奔走し、あまつさえこの忙しいなか行方不明になった台輔を探しまわったこの拙めに、台輔は憐れみをかけてはくださいませなんだか」

「憐れみってそういうモンじゃねえだろ!」

 わざとらしく溜息をつく秋官長と、仁獣にはとても見えない形相の台輔。

 ここまでくると、ほとんど朱旌の芸を見ている気分である。

 主導権が秋官長に渡ったと見た楽俊は、被害を免れるついでに見物を決め込んで椅子によじのぼった。

「困りましたねえ……」

 切れ者ぞろいの雁の朝にあって、五百年の永きにわたり王の傍に仕えつづける能吏は、やれやれと首を振る。

「本当はこのようなことはしたくないのですが、ことは国交外交ですからね。致し方有りません、最後の手段をとらせて頂きましょう」

 不穏な言葉に、延麒の肩が強張った。

 どんな手段かわからないが、いざとなったら遁甲して逃げてやるという顔で相手を盗み見る。

 無論その程度のことはお見通しのはずの秋官長が、おもむろに部屋の主をかえりみた。

「楽俊殿、ここは石壁づくりの部屋ですから、外には余り音が漏れないのでしょうね?」

「え? ええ、まあ」

 いきなり話を振られた楽俊が、中途半端に頷く。その目に、どこか冷たいものを潜ませた笑みが映った。

「ですが、扉を開ければ声は筒抜け。どうでしょう、台輔?」

 たい、ほ、と音を明確に呼ばれた少年が、顔色を変えて牀榻から跳ね降りた。

「朱衡!」

「王だの台輔だのと外に聞こえたら、他の学生が何ごとかと集まってくるでしょうねえ。彼の部屋に王や台輔が出入りしていると知れたら」

「てめえ、楽俊を盾に取る気か!」

 小声ながら怒気を露わにして仁王立ちになった延麒に、秋官長が慇懃に頭を下げた。

「お嫌でしたら、玄英宮へ戻りお迎えの準備をなさってくださいませ」

 ち、と舌打ちして横を向く麒麟を、鋭い目が睨む。

「我が王も台輔も、他人に気安いのはよろしい。そんなものはこの五百年で慣れております。ですが、まだ人の寝静まらぬ刻限に獣形で楽俊殿を(おと)なうなど、もし人目についたら如何なさいます。それも公務が気に入らぬなどという我侭で。台輔がどうではなく、楽俊殿がいわれない中傷を浴びかねないのですよ」

 口を尖らせていた少年が、その唇を噛み締めて俯いた。

「親しい御友人をお尋ねになりたいのはわかります。ですが、最低限の気遣いはなさってください。それがお互いの為というものでしょう」

「……悪かった」

 しょんぼりと肩を落した延麒は、心配そうに成り行きを見守っていた楽俊に向き直った。

「ごめんな、オレの考えなしのせいで迷惑かけた」

「そんな、台輔のせいじゃ」

「いや、確かに朱衡の言うとおりだよ。騒がせて悪かった。……その」

 言いづらそうに指をひねくりまわしながら、上目遣いで楽俊を見る。 

「また来ても、いいかな」

 黒い目を瞬かせた楽俊は、ふっくりと笑った。

「公務放り出してくるんじゃなけりゃ、いつでも歓迎しますよ」

 少年がいささか照れたような顔で、おう、と笑い返し、自分の着ている着物の襟をつまむ。

「これ、ちょっと借りてくな。今度来るとき返すんでもいいか?」

「ええ、いつでもいいですよ」

 わりぃな、と拝んだ延麒を、秋官長が窓を開けて促した。

「台輔、外にたまがおります。お先にどうぞ」

「ん。じゃな、楽俊」

「はい」

 延麒が手を振ってひらりと窓枠を乗り越えていく。主を見送った秋官長が、楽俊に向き直った。

「楽俊殿。さきほどは、緊急の手段とはいえ御無礼を致しました。よもや本意(ほい)などではありませんが、あのような脅しを使いましたこと、お許し下さい」

 深々と頭を下げた男に、楽俊が慌てて首を振る。

「とんでもない。そんな、おいらに頭なんて下げないでくださいませんか」

 大国雁の高官が一介の大学生に頭を下げるなど、聞いたこともない。

「秋官長様が御心配なさるのは当然のことです。おいらに謝っていただかなきゃならないことなんて、ありませんよ」

 手だけでなく髭や尻尾まであわあわと持ち上がるのを見て、男が意外に人好きのする笑みを浮かべた。

「……あなたはよい資質をお持ちのようだ。これからもうちの主従がご迷惑をおかけするかと思いますが、どうぞよろしくお願い致します」

 微笑んで窓から出て行く秋官長を拱手して送り、楽俊は安堵の息をついた。

 なんとまあ、騒がしい夜だ。

 はちゃめちゃにちらばってしまった書きかけの草稿に戻りながら、くつくつと笑いがこみ上げてくる。

 幾日かしたら、「借りた着物を返しに」という口実つきで、また誰かが窓から入ってくるだろう。

 きっと「ごめん」から始まって、しち面倒くさい迎賓の宴の一部始終を語ってくれるに違いない。

 その時の事を想像して、この顛末を内緒で陽子に教えてやろうかな、と楽俊は笑いを噛み殺した。

 

 

「楽俊、この間はこの馬鹿がすまなかったな」

「なんでお前が先に入ってんだ! よ、楽俊この間はほんっとにごめん! それとこれ、ありがとな。でさ、聞いてくれよー!」

 




また長くなっちまった・・・。
朱衡さん悪役みたいでごめんなさい。でも好きなんですよ~
嘘じゃないよ~
「にっこりわらって百年でも二百年でも厭味言い続ける」
ようなこの御仁は、拙めのツボでございます。
あ、慶の冢宰も好き。
頭脳派が好きなんですね、どうやら。
ホラ本人馬鹿だから・
そんでもって、微かに楽陽。微かに・・・


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||6|| 逃げても無駄、隠れても無駄。 (逃げればどこまでも追いかけるもの)

景王vs景麒◆麒麟に見つからない王はいません。


 鈴の視界に奇妙なものが映ったのは、彼女が焼きあがった菓子を皿に移して振りかえったときだった。

「陽子?」

 訝しく思って問い掛ければ、びくりとはねる鮮やかな紅の髪。

「ああ、鈴か」

 ほっと息をついた王宮の主と対照的に、腰に手を当てた鈴が眉をしかめた。

「陽子ったらなにしてるのよ。厨房なんかで、それもそんな恰好で」

 どことなく幼い顔立ちの女御が呆れるのも無理はない。

 現景王はもともと着飾るのを好まないが、それでも女官や冢宰たちの説得で日頃は官服どまりである。それがさながら辺境の貧しい農夫のような恰好で、しかも厨房のすみにうずくまっているとはどういうことだ。

「景麒から逃げてるんだ」

「またぁ?!」

 ぼそりと呟いた陽子に、鈴が頓狂な声を上げた。

 この国の王と麒麟の関係は、さほど悪くない。

 登極当時から比べれば政も人心もずいぶん安定してきたし、有能な官も増えた。その分王や宰輔にかかる負担も減り、あの頃の二人の間にあった微妙な緊張感のようなものも、今では見られない。

 生真面目で融通のきかない頑固者同士だからたまには衝突したりもするが、言いたい放題口論した挙句に両方が折れるという、まあそれなりに微笑ましい主従だったりするのだ。

 あとの問題といえば、最近政務が僅かながら楽になってきた王が、あるかなしかの隙を狙って遁走したがるようになった、ということぐらいで。

 むろん雁の主従のように国外に逃亡するようなことはないが、気分転換と称して王宮内をちょろちょろとほっつき歩く王を、青筋立てた景麒が追い掛け回して説教するという光景が、金波宮のあちこちで目撃されている。

 最初こそはらはらして見守っていた諸官女官一同も、この頃ではすっかり慣れてしまい、台輔をからかったり王に協力したりと、この騒動を楽しんでいる始末だ。

 なにしろ、麒麟がその気になれば王の居所などあっという間に探し出してしまうのだから、この勝負は一方的に王が不利なのである。

「逃げるのはともかく、なんでそんな恰好なのよ? っていうより、どこからそんなもの持ち出してきたの?」

「この服はこっちにきたばっかりのとき貰って着てたやつなんだ。こういう恰好したら少しは見つかりにくくなるかなぁって」

 調理台やらかまどやらのかげにこそこそ入りこみながら言い訳する少女に、鈴は小さくうめいて額を押さえた。

 これが国内外に武勇と才色を謳われる慶国の女王とは。

 いかに風聞が尾ひれ葉ひれのつくものだとは言っても、この陽子の姿を見たら慶国の者どもは万民揃って泣き伏すだろう。

「麒麟は王気を頼りに王を探すんでしょ。見た目を変えてもどうにもならないと思うけど」

「そうなんだよねぇ……」

 かまどと水桶の隙間にもぐりこむことを断念したらしい陽子が、髪といわず手足といわず灰をつけ、憮然とした顔で口を尖らせた。

「そりゃ王を探してる麒麟には不可欠な能力かもしれないけど。ちょっとの休み時間にも王様タンチキついてるみたいに見つけられたんじゃ、息抜きもできないよ」

「まあねえ……」

 タンチキとはなんぞや、という疑問はこのさい横へ置いて、他の部分では鈴もおおむね同感である。

「だから、どうやったら景麒を出し抜けるか、試してるんだ」

「……」

 握りこぶしで力説する、景女王。

 王気と言うものが気迫であるとするならば今まさに彼女を取り巻いている気配こそが王気であろう。

 そんなに気合を入れていたらあっというまに景麒に見つかるんじゃないかと思ったが、忠告を口にする前に、陽子言う所の「王気探知装置」が大きな溜息をついた。

「麒麟を出し抜ける王などおりません」

「台輔!」

 自分の真後ろに気配もなく立った人物に鈴が悲鳴を上げ、彼女が死角となって襲来に気づかなかった陽子がこのうえなく嫌な顔をした。

「台輔、いらっしゃるならひとこえかけて下さい!」

「そのようなことをしたら、主上が逃げます」

「うっ……」

 的確すぎて冷淡に聞こえる反撃に、君臣がそろって顔をゆがめる。

 淡い金の鬣を揺らし、景麒が情けなさそうに主を見やった。

「それよりも主上、いい加減にそのような子供じみた真似はおやめください。主上の威信にかかわります」

「威信なんかいらん!」

「そういうわけには参りません!」

 ここいらが潮時だ。

 睨みあう主従に、これ以上巻き込まれないよう鈴が足音を殺して逃げを打つ。その裳裾を、陽子がはっしと掴んだ。

「待って鈴、助けて!」

「ちょっと、あたしをまきこまないでよ!」

「女御にすがらないでください、情けない!」

 三人三様の絶叫が、さしてひろくもない厨房にこだまする。

 涙目の陽子が、鈴にしがみついたまま己の半身を睨む。

「だいたい、麒麟だけ王気がわかるなんて不公平だ。王だって麒麟の気配を知ることができればいいのに!」

「無茶なことを仰らないでください!」

 お願いだから勘弁して。

 足元と頭上で叫びあう主従にはさまれて、鈴は眩暈のする額をおさえた。

 よろめく華奢な女御の裾を掴んだ情けない姿で、景王がぱんぱんに頬を膨らませる。

「もう、おまえなんて、おまえなんて、おしおきだ!!」

 びしぃ!と音を立てて突きつけられた指に、景麒が目をむいてのけぞった。

「主上?!」

「勅命をもって命ずる!今日から三日、私の居所を探すな!」

「はぁ?!」

 かつてここまで私情に走った勅命があっただろうか。

 いや、ない。

 形式どおりの反語形で、鈴が確信する。

「待ってください、主上!」

「駄目!もう決めた!」

 怒号と悲鳴の飛び交う厨房で、呻くことすらできなくなった女御はひたすら誰かが助け出してくれるのを待つのだった。

 

 




まとめらんなくて苦心惨憺。
ちなみに場所は金波宮の遠甫んち。(描写で説明しろよ・



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||7|| そんな事言うと…ふさぐよ? (楽陽……です……?)

楽俊・陽子◆オーソドックスにいきましょう。



「なあ陽子、機嫌直せって」

「や」

 一言未満の返答に、青年は深々と溜息をついた。

 そろそろ両手に余るくらいの回数こんなやり取りを繰り返していれば、溜息も出ようというものだ。

 がらんとした広い堂室には、彼女と自分しかいない。あとの連中は巻き添えを避け、難役を彼に押し付けて遁走中である。

 さすがは官吏、逃げ足も速い。

 べつにこの程度で腹が立つわけではないが、自分に責のないことでこんな苦労をしなければならないというのも、因果な話である。

「楽俊だけが頼りなの、お願い!」

 紺青の髪の女史と顔を合わせるなり大仰に拝まれて、なにがなんだかわからないうちに堂室(へや)に押し込まれ、稲妻閃く雷雲を従えて突っ立つ友人に出くわしたのが、かれこれ小半時前のこと。

 常ならば官や護衛に囲まれているはずの彼女の傍には誰もおらず、あまつさえ背後で扉の閉まる音がしたとなれば、事は明白で。

 生贄にされた、と結論が出たときには、すでに彼女を説得しない限りはここを出ることができなくなっていた。

 どうも自分はこういう場面によく出くわす。

 彼女も含め、過去にいきあたった面々を思い返して、そのほとんどがこの宮に関わりのある連中だったと気がついた。

 (ながいす)の上に胡座をかいてむこうをむいたきりの少女は、さっきからちらともこっちを見ない。

「陽子」

「や」

 問答は繰り返し、これまで見事に平行線。

 自分が堂室に一歩踏みこんだときに振りかえった彼女は猛獣さながらの眼光で、とりまく気配は王気というよりも殺気。

 相手が誰だかわかったとたん、ひどくばつが悪そうにそっぽをむいた頬が微かに赤かったのは、多分自分しか見ていないだろう。

「台輔だって悪気があるわけじゃねえだろう。ここは陽子が折れてやっちゃどうだ」

「やだ」

「やだってなぁ……」

 なだめすかしてようやく聞き出してみれば、事の起こりはまたもや彼女の半身との悶着だそうで、官が逃げ出すのも致し方ないかもしれない。

 ここの主従の頑固なことといったら、かの名高き延王ですら説得にてこずると評判なのだ。その石頭同士が角突き合わせたら、周りの者はたまったものではない。

 勘よく立ちまわりのうまい連中をうらやましいと思う反面、つい自分をかえりみてしまう。

---おいら、あんまり気がまわらねえのかな。

 おさまり悪い黒灰色の髪をかきまわして、肘置きがわりに使っていた椅子の背もたれから体を起こした。

 生真面目で何事も一本槍な彼女のこと、口の足りない宰輔に一時は怒っても、すぐに自分の言動を悔いているだろう。拗ねているのはいまさら引っ込みがつかないだけだ。

 あと必要なのは、機嫌を直すための口実で、それを引っ張り出すのが自分の役目なわけだが。

 でもこれが結構、難しいんだよな、と胸の中でごちながら、榻の向こうへ廻りこんだ。

「陽子」

 少女の足元に膝をついて見上げれば、案の定照れたような困ったような顔で。

「わかってんだろ?」

「…………」

「陽子が機嫌直さなきゃ、みんなが困るんだぞ」

「…………」

「台輔だって今頃祥瓊や鈴に怒られてるだろうから、これでおあいこだ」

 口を尖らせて目を合わせずにいた少女が、微妙に翠の視線を泳がせた。

「だろ?」

 彼女の膝元、錦張りの座面に肘を置いて顔を覗きこむと、なおうろうろと余所見をしながら、それでも微かに頷く。

 ここの女史と女御は、自国の台輔に遠慮がない。遠慮というかそもそも敬っているのかどうか謎なところもあるが、とにかく厳しいのが定評である。

 特に王に関わることには容赦ないから、今回もきっと渋面の台輔の左右からさんざんに説教しているに違いない。

 彼女もそれに思い至ったのだろう。紅唇の端にちらと微笑めいた物が浮かぶ。

 あとひと押し。

「陽子」

 繰り返して呼ぶと、観念したように少女が両手を上げた。

「ああもう!」

 盛大に喚きながら、榻の背もたれに寄りかかる。

「楽俊、ずるい。私が楽俊に勝てないって知ってるくせに」

 翠の瞳に恨めしげに睨まれて、床に座り込んだままの青年が苦笑した。

「ずるいもなにも、おいらだってなんにも説明されずにここに押し込まれたんだぞ。ずるいのはおいらに説得役任せて逃げ出した他の連中だ」

「わかった。あとで叱っとく」

「あのな」

 真顔で頷いた少女に顔をしかめ、あらためて彼女の横に座りなおした。

「だいたい、景台輔の口のたらなさなんて、今に始まったことじゃねえだろ。そんなこと一番わかってるお前が癇癪(かんしゃく)おこしてどうする。そこはもう諦めるか、百年でも二百年でもかけてなおすか、どっちかしかねえじゃねえか」

 懇々と説教されて、少女の眉根がむうと寄せられる。

「楽俊てば、景麒みたいだ」

「なに言ってる。景台輔がこんなもんですむかい。あの御仁は説教なさるときだけは饒舌だろ」

「そりゃあそうだけど」

 まだしかめっ面の少女が、青年の襟元に指をつきつけた。

「あんまり煩いと、口ふさいでやるから」

 彼女にしては珍しい物言いに、言われた方はへえと黒い瞳を瞠った。

「さるぐつわでもかますか?」

 面白がって聞いた襟を繊手(せんしゅ)にくいと引かれ、体が前にのめる。

 なに、と思う間もなく、頬に絹糸のような緋の髪が触れた。

「……おかえし!」 

 唐突に近づいて唐突に離れた少女が、頬どころか耳まで髪と同じ色に染めて立ちあがる。

 微かに暖かみの残る口元を押さえた自分の顔も、たぶん一緒で。

「陽子……っ!」

「お説教はナシ!」

「なしって」

「もう、それ以上言ったらまたするからね!」

「お、まえなぁ!」

 説教するにも睨み返すにも、お互い照れまくりの真っ赤な顔では迫力に欠けることはなはだしく。

「仕事に戻るから、ついてきちゃダメ!」

 この場を切り抜けるにはこれしかないと、伝家の宝刀を持ち出して緋い髪を翻し部屋を飛び出して行った少女を見送って、青年はずるずると榻に寝転がった。

「あー、ったく……」 

 とんだところで行動力のある彼女にはこれまでも色々驚かされてきたけれど、今度のは極めつけだ。

 微かな甘い香りと、唇に触れた柔らかな感触。

 まだ熱の残る額をおさえて、誰にともなく溜息をつく。

「……不意打ちなんて、卑怯だぞ」

 彼女は執務にかこつけて逃げたけれど、どうせまたあとで顔を合わせることになる。自分はもとより彼女も他言する気はないだろうが、衆目のあるところでお互い平静を装っていられるかは、たいそうあやしいもので。

 勘のいい人の多いここで、いつまで隠しおおせられるやら。

 明晰な彼にも、答えの出せないことはあるのだった。

 

 

 




大胆陽子ちゃんとややヘタレ(?)楽俊。

うわーおまっとうさまでした。
ようやく楽陽です。甘味料薄かったらごめんなさい。
これでも全力なんだ~~っ!!
書いてる奴が一番ヘタレだってのが・
さりげに楽俊がキツかったり(対景麒オプ・笑)
楽俊に陽子の名前呼ばせるのが好きです。へっへっへ・変態
無意識に至近距離に寄るのは好意がある証拠。


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||8|| 話して、その尊い未来の事を。 (烏号から関弓へ)

楽俊・陽子◆夢を語るのは、未来を望むこと


 季節は初夏。

 

 水も風も温み、木々の若葉が甘く薫る。

 街道沿いの草原で足を休めながら蒼穹を見上げ、襟元に風を入れた。

 南の巧からきたのだから気候的には逆行しているはずだが、肌に感じる色彩はどれも眩しいほどに鮮やかだった。

 巧でも同じ季節はあっただろうに、まったく覚えていない。

 青草の上に寝転んで、目をつぶる。

 そうしていても、日差しは瞼の上で輝いて、まるで踊るようだった。

「どうした、陽子」

 傍らに座っている連れが、怪訝そうな声をかけてよこす。

「歩きどおしで疲れたか?」 

「いや、そうじゃない」

 屈託ない子供の声に、口元が綻んだ。

 その軽やかな声は、薫風と陽光によく似合う。

 さながら、彼自身のように。

「あったかくて、気持ちがいいんだ、こうしてると」

「ああ、一番いい季節だもんなあ」

 嬉しそうな返事が動いて、彼も同じく陽子の横に転がったようだった。

「雁は巧より北にあるから、もっと寒いかと思ってた」

「この時期じゃもう寒くはねえけど、そうだなあ、巧の晩春くらいか」

「そっか」

 春、という言葉に、胸のどこかが疼いた。

 季節は巡っている。

 こちらでも、そしてあちらでも。

---あれは冬のことだった。

 突如現れた、異界からの来訪者。

 悲鳴と破壊音。

 異形の獣と、恐ろしいまでに神々しい、月の影。

 嵐のような日々の向こうにおいてきてしまった懐かしい景色を思って、鼻の奥がじわりと熱くなった。

 それとも、おいていかれたのは自分のほうだろうか。

「陽子、道端で寝るなよ?」

 笑いぶくみの声に、滲み出した感傷が消えてくれる。

「まさか」

「わからねえぞ、こんな天気じゃ」

 まあね、と答えて、頭を横に向けた。

 灰茶の鼠姿をした友人は、銀にきらめく髭をそよがせて、のんびりと空を見上げている。

「楽俊に会う前のことを、思い出していたんだ」

 自分でも意図せず零れた言葉に、楽俊がこちらに顔を向けた。

「おいらに?」

 怪訝そうな顔をしたのは一瞬のこと。言葉の裏にあるものを察して、黒い瞳は思慮深げな穏やかさで瞬く。

「そう」

 髪を撫でる若草を指先に絡めて、陽子は上を向いた。

「私がこちらにきたのは冬だった。巧は雁より南なんだから、いまのここと同じような季節を巧でも過ごしてるはずなのに、全然覚えてないんだ」

「陽子は、それどころじゃなかったろう」

「うん……。でもね」

 指を離せば、瑞々しい葉はしなやかにはねて元のように空を抱く。

 その美しさを、自分は知らなかった。

 巧でも、あちらでも。

 それを美しいと思えることの、暖かささえ。

「受け取る気持ちがなければ、何を見ても自分の中には入ってこなくなってしまうんだなって」

 横で楽俊がくすりと笑った。

「処世の先生みたいだな、陽子は」

「そんなことない。ただそう思っただけだ」

 柄にもないことを言った気がして眉を寄せれば、穏やかな声が返ってくる。

「いいんだよ。毎日見てたって気付かないことはあるさ。それをあるときふっと気付けることが、大事なんだろ」

 小さな手で同じように草をもてあそびながら、楽俊もなにかを考えているようだった。

「陽子はそれに気付けた。それでいいじゃねえか。昨日気付かなかったことに今日気付けたならめっけもんだ。今日知らなかったことは、明日わかるかもしれねえ。そんなもんだろ」

 ひとつひとつかみしめるような言いかたに、頬が緩む。

「楽俊の方が先生みたいだ」

「茶化すんじゃねえよ。そんな柄じゃねえってわかってら」

 楽俊が照れたように耳の後ろを掻いた。

「そうかな、楽俊て先生に向いてる気がするけど」

「先生?おいらが?」

「そうだよ。頭はいいし、物も知っているし、教え方もうまい」

「誉めてくれるのはありがてえけど、先生になれるほど頭いいわけじゃねえぞ」

 くすぐったそうな声に苦笑が混じる。

 柔らかな午後の日差しは心地よく、うっかりしていると楽俊の言うとおり眠ってしまいそうだった。

「じゃあ、楽俊は何になりたい?」

 ねこじゃらしによく似た草を引き抜いて、指先で振ってみる。

 軽く泳がせると、長い穂がぽよんぽよんとはずむように動くのが、誰かの尻尾のようで可愛かった。

 なにそこで遊んでんだ、と笑った楽俊も、その長い尾で草と遊んでいる。

「なりたいもの、か。仕事が欲しいと思ったことはあるけど、なににとなるとなぁ……陽子は、なんかあるのか?」

「私? そうだなぁ」

 そういえば、そろそろ進路の話もちらほら聞き始めていた頃だ。いまどきは皆大学や短大に進むから、実際に就職となるとまだ先の話だった。

「小さい頃は、保母さんとか、看護婦さんとか、そんなこと考えていたかな」

「ホボとカンゴフ、ってなんだ?」

「あー……ええと」

 聞かれて陽子はきゅうと眉を寄せた。

 こういうとき、いちから説明しないといけないから、別世界というのは困る。うかつにプログラマーとかカタカナ用語を使わなくて良かったと、変なところでほっとした。

「保母は、例えば働いている親から小さい子供を昼間預かって、面倒を見る人のこと。そういう施設があるんだ。学校に上がるより小さい子が対象かな。看護婦は、お医者の手伝いをする女性。今は男性もやるから看護師って言うけど」

「へえ、そんなんがあるのか」

 青空のした、二人で寝転がりながら、とりとめもなく喋る。

 この異界でこんなふうに誰かと、それも『将来の夢』を話すだなんて、少し前には想像もできなかった。

 なんでもないような穏やかな時間が、なんともいえず嬉しい。そう思える自分が嬉しかった。

「こっちじゃあ、ほとんどの人間は田や畑を耕すからなぁ。国によっては林業が盛んだったり、鉱業だったり、街中に行けば商家もけっこうあるけど、先生なんて少学や大学出のほんの一握りだ」

「少学を出れば、就ける職種も広がる?」

「と、いうより、学歴の高い奴はほとんど官吏になるな。少学や大学ってのは、そのための学校みたいなもんだから」

「そうか、公務員みたいなものか」

「コウムイン?」

「こちらでいう、官吏かな。国から報酬を得て役所や警備なんかをする人のこと」

「ふうん」

 官というと陽子にはいまひとつぴんとこないが、王が国を統治しているならそういうことだろう。中世以前は日本だって専制君主制だった。

 仕事か、と楽俊が呟いた。

「役人になるのが一番いいけど、それには学校出ないとなあ」

「楽俊なら楽勝だと思うけど」

 陽子の言葉に、楽俊がくすぐったそうに笑う。

「おいらを買ってくれるのは嬉しいけどなあ、陽子はちょっとおいらを買いかぶってるぞ。雁の学力は、奏と並んで十二国最高だ。それほど甘いもんじゃねえだろうさ」

「そうなの?」

「そうさ」

 答えながら起きあがった楽俊が、灰茶の毛並みについた草を払い落として立ちあがる。

「将来もいいけど、まずは関弓へ行かねえとな。先の話はそのあとだ」

「そうだね」

 促されて陽子も立ちあがる。

 関弓。

 王のいる都。

 道のりはまだまだ遠いけれど、そこへ行けばなにがしかの答えは手に入るはずだ。

 少し傾きかけた陽光の下、二人は肩を並べて歩き出した。

 




もっと詳しく知りたい場面No.1の『烏号から関弓を目指す旅』バナシです。
この時期の陽子が蓬莱の話をしたかっつーと、いささか疑問なんですが。
まあ二次創作ということでね。勘弁勘弁。
そして話の方向がずんずんずれていくのはいつものこと。
こんな短い場面なのに放置したカップ麺の如く話がのびていくのもいつものこと・嗚呼
ちなみに翻訳機能は陽子側でお願いします。


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||9|| 無闇に己惚れないで。 (玉座の重み)

自嘲陽子◆それでも、逃げるわけにはいかないから


金波宮の奥に位置する正寝。

 王にしか許されない房室の豪奢な牀榻で、陽子は吐息をついた。

 灯火のない闇の中、床に座り込んで絢爛たる夜具にもたれかかる。

 傍らには水禺刀。

 慶国秘蔵の宝重は主を侮り、微かな燐光を放ちながら沈黙したきりなんの景色も映さない。

「これで王だなんて、お笑いだ・・・」

 災異を鎮め、妖魔を圧し、豊穣をもたらすのが王。

 天意あるかぎり治世は続き、一国を束ねる神となる。

 そんなものに、自分がなれるとは到底思えなかった。

『王などていのいい下男のようなものだが、それを民に気取られるな』

隣国の王、名君の誉れ高い男の、朗々たる声が甦る。

『自分がいちばん偉いのだという顔をすることだ』

 五百年にわたり雁を支えつづけている男は、そう笑った。

 まぎれもなく、王の顔で。

 冷たい刀身を鞘に収めると、部屋は完全に闇に沈んだ。

 あの人は生まれついての支配者だ。

 どれほど磊落を気取って見せても、その下にある覇気は隠せない。

 自分にはそれがない。 

 王になれ、と言われて立った。

 国を治めよといわれて、意味もわからぬまま進む。

 怒涛のように日々は陽子を突き飛ばし、己にかえれるのはこんな夜更けだけ。

 災異が鎮まり、妖魔が減ったとて、それは天の条理。

 自分の力で何ができたわけでもない。

 官は若い女王を軽視し、幼子をあやすような笑顔で取り繕っては陰で嘲笑う。

 所詮女王よ、小娘よ、と。

 それに異を唱えるだけの力量などないから、ほぞを噛んで俯くしかない。

 王らしく毅然としなければと思っても、王たるなんの資質があるわけでなく、よりどころを失ってただぐらぐらと揺れるばかりだ。

 半身といい、民意の具現という仁獣は、なにかというと顔をしかめて溜息をつく。思えば最初からそうだった。

「予王はよく六年も保った・・・」

 先代舒覚は慶国王史のなかでも格段に短命といわれるが、それでも五年は王であったのだ。自分はたったこれっぱかしで根を上げているというのに。

 先王によって倒れた国をたてなおし、その先へと民を連れて行くのが王の使命。

 数万の人命がこの背にあると思うと、恐怖で吐き気がする。

 己の命を放りだし、恩人を斬ろうとさえした自分に、そんなものが背負えようか。

「らく、しゅん・・・」

 友、と呼べる、たった一人の姿。

 灰茶の毛並みと長い尻尾の彼は、逃げることに疲れ怯えて浅ましい獣のようだったときでも、一度も陽子を責めなかった。

 好意を信じず、裏切って見捨てても、陽子を案じて待っていてくれた。

「楽俊」

 なぜあんなふうにいられるのだろう。

 半獣に厳しい巧にありながら、それでも彼は拗ねるところのないまっすぐな優しさを持っていた。

「楽俊は、すごい・・・」

『それはちがう』

 懐かしい声がする。

 それは、あの烏号の港で聞いた言葉だ。

『おいらはべつに見ず知らずの土地に流されて、追い掛け回されたわけじゃねえ』

 すまない気持ちでいっぱいの自分に、楽俊はそう言って首を振った。 

 帰れないと零した涙を拭いてくれた、暖かい手。

 お前のつくる国を見てみたいと彼が言ってくれたから、王になろうと思った。

 陽子の気持ちをわかったうえで、お前のものだと与えられた場所ならやってみろと背中を押してくれたから、わかったと頷くことができた。

 優しいけれど、意味もなく甘やかしはしない手に、支えられて。

「頑張らなきゃあ、楽俊に顔向けができない」

 ほんのすこし震える喉で息をつき、睫のはしに滲んだものを乱暴にこする。

 難関といわれる雁の大学で懸命に学ぶ彼に、少しでもましな姿を見せられるように。

 あいつは自分の親友なんだと、彼に誇ってもらえるように。

 頑張っている友人に恥じない自分でありたいと思う。

 それが、幾度も救ってもらった自分にできる、ささやかな恩返しであるだろうから。

 

 




王様を友人呼ばわりできるのって、十二国広しといえども楽俊くらいだろー。

お題のイメージ通りの話にしようかと思っていたんですが、こっちのほうが
話が動いたので。
登極直後のへとへと陽子。
しかし、この頃の景麒て陽子の役に立ってなさそう・・・
王と麒麟て似てませんか。載&恭は別として。


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||10|| 諦めろ、恋人。 (王様になっても、できないことはある)

楽俊&陽子◆「恋人」ってのは無視してください・陳謝




「私には、死活問題なんだ」

翠の瞳と紅の髪をした少女はものすごく真剣な表情で。

そんな彼女に真正面からしがみつかれた青年は、わずかでも口元を緩めないよう、必死だった。

 

 

「舞曲?」

 滅多に聞かない単語に、楽俊はきょとんと首を傾げた。

 榻で隣に腰掛け茶菓子をつまんでいた陽子が、それに重々しく頷く。

「親しい者たちの間で、といっても、この場合は王や麒麟同士なんだけど、ちょっと宴でもひらこうかという事になったんだ。その、余興の話」

 早い話が、泰麒捜索の御苦労さん会なわけ。

 と少女。

 くだけすぎの表現に、楽俊は軽く吹き出した。

 非公式とはいえ国家間の供宴も、彼女にかかると学生の宴会並みの扱いになってしまう。

「べつに、宴を開くのはいいんだ。わたしの無茶なお願いにみんなものすごく尽力してくれたし、おかげで泰麒を探し出すこともできた。だけど」

 ざく、と乱暴な音を立てて、綺麗に切られた無花果の実に菓子楊枝が突き立てられる。

「そこに氾王様という付加価値がつくと、事はおそろしく難しくなるわけ」

「ああ、なるほどな」

 そこまで聞いてようやく、さっきから彼女のまわりに渦巻く気配の発生源がわかった。

 西の大国、範。

 かの国の人々は工芸細工に秀で、技巧の匠として知られている。

 そしてその主は、美あるを好む華麗にして典雅な、男性、である。

 友人知人たちから聞いた話を総合しただけでもなかなか難儀な御仁らしいと彼らが気の毒になるくらいだから、一応主催になるであろう陽子が溜息をつくのも無理はない。

「尭天の老舗宿あたりでやるんだって?なんか祥瓊もえらくぼやいてるみたいだな。青将軍が苦笑いしてたけど」

「祥瓊は、口で言ってるほどいやがってないよ。腕試しだと思ってるみたいだし」

 美貌の女史はかの王と張り合える稀有な人種で、今回の事にしても腕が鳴ると闘志を奮い立たせているから、むしろ押さえるのが一苦労だ。

 ぼやいているのは、それ以外の参加者である。

「延王と六太君なんか、氾王様が来るなら出席しないって最初から言ってよこしてるけど、どうなるやら」

「……いかねえだろうなぁ、あの方々は」

 氾王に対する延主従の反応など、聞かなくてもわかる。

 ははは、と渇いた笑いを口に乗せて、楽俊は陽子が淹れてくれたお茶を受け取った。

「で、その余興に舞曲があるって?」

 話を元に戻したところで、陽子がごつんと卓子に突っ伏した。

「おい、どうした陽子」

「……ひとり一芸、なんだって」

「はあ?」

 黒い目を瞬かせる青年に、陽子がふくれっつらをしてみせる。

「宴なんだから、なんか芸を見せろって言うんだ。わたしにそんなものできると思う?!」

 なるほど、ただ氾王を招いて宴を開くだけなら、準備に奔走はしても不機嫌になるはずがない。陽子が精彩を欠く本当の理由はこれだったわけだ。

 真面目だがそれだけに芸術には疎そうな彼女は、しかしその性格ゆえに無理難題をつきつけられても簡単には放り出せないらしい。

「なんか、あっちの芸とかねえのか?それなら珍しいだろ」

「だからー、そんなのできたら最初から悩まないよ。できたとしても、氾王様のお気に召すとは到底思えない。ニチブとかノウとかなら多分喜ぶだろうけど、わたしは知らないし」

「祥瓊になにか手軽なの教えてもらうってのは?」

「最初に頼んだけど、一朝一夕には覚えられないからって一蹴された。それにどのみち忙しくて全然掴まらない」

 これはどうにも難儀そうだと、青年も眉をしかめた。

 なにしろ自分は彼女に輪をかけて歌舞音曲に縁がないのだから、考えようにも案がないのだ。榻の背もたれに仰向くような恰好で唸る。

「……剣舞は?」

「それも考えたけど、舞うとなると冗祐も無理だって」

 ようやくひねりだした提案に、卓子の上から低い返事がくる。

 最後の手段も潰え、しばしの沈黙。

どうにも考えあぐねた楽俊は、ぽす、と掌を陽子の頭に落とした。

「……諦めろ、陽子」

「ええぇ?!」

 見るも情けない顔で嘆く少女に思わず笑いが零れて、そうしたら心底むっとしたようで、袍の両腕をがしりと掴まれた。

「なんで笑うかなぁ、私には死活問題なんだよ!」 

 そこまで大仰にあつかわなくてもと思ったが、普通に考えれば王には国の面子というやつもあるわけで、彼女がむきになるのもわからないでもない。

 まあ陽子自身は、難儀な課題を課せられたとしか思っていないかもしれないが。

 これ以上機嫌を損ねないよう、というより笑ってしまうにはかわいそうだったので、頑張って口元を引き締める。

「だって、演舞はともかく、陽子はこっちの楽器も駄目だろ?」

「うう……」

楽俊の袖を掴んだまましょぼくれた陽子が、どうせ芸術音痴ですよ、とぼやいた。

 その言葉に、楽俊がふと首を傾げる。

「歌はどうだ?」

「歌?」

「こっちの歌じゃなくて、むこうの歌だ。陽子が覚えてる範囲になっちまうけどな」

 歌、と言われて陽子が考え込む。

「流行りの歌は合わないだろうけど、モンブショウショウカなら、なんとかなるかも」

「モンブ……なんだって?」

 陽子と話していると時々蓬莱の言葉が出てくる。そのたびに楽俊は聞き返すのだが、たまに彼女にも説明できないものがあるらしい。

「ええと、学校で習う歌、としか言い様がないんだけど。子供向けだけじゃなくて、わりといい歌もあるかな。ただし、問題はわたしがどこまで覚えてるかなんだよね」

 真剣に考え始めた陽子は、はたと手を打った。

「六太君にむこうから本を持ってきてもらえばいいのか」

「おいおい、まがりなりにも他の国の台輔を」

 王様業が身についてきたのはいいことだが、だんだんやることが大胆になっているような気がして、楽俊が苦笑う。

「だって、わたしが渡るわけにはいかないし、景麒じゃむこうの様子はわからないもの。なにより自分たちは逃げるわけだから、弱みもある。よし、連絡してみよう」

にぎりこぶしで一人頷いた陽子がくるりと向き直って、面白そうに様子を見守っていた楽俊に抱きついた。

「ありがとう楽俊、すごく助かった!」

 それほど勢いがあったわけではないが、突然のことだから身構えているはずもなく、ちょうど少女を抱きとめる姿勢で、もののみごとに榻に倒れこむ。

「こっ、こら陽子っ!」

 感謝してもらうのはともかく、謝意の表し方に問題があるわけで。

「だからっ、そう気軽に飛びつくなって!」

 慌てて引き剥がせば、勢いで抱きついたらしい少女も赤くなってあわあわと飛び離れた。

「あ、うん、えーと、じゃ、とりあえず六太君に連絡してくるからっ」

「ああ、うん、頑張れよ」

 せわしく堂室を出て行った陽子が、扉の隙間からぴょこりと顔を覗かせた。

「楽俊、ホントにありがとう」

 花が咲いたような顔で笑って赤い髪が翻る。

 それを、安堵やら照れるやら、複雑な気分で見送った青年だった。

 

 

 




自分が実にドリーマーだと知る今日この頃。
うわー、こんなん楽俊じゃねー。陽子じゃねー。
しかしこれで楽陽とか言ったら、楽陽ファンに鉄拳制裁浴びること
まちがいなし。ふはは・
しかし、舞台は一体どこなんだ<多分金波宮。
あ、基本的に原作寄りなんで、祥瓊は歌いません。一応。



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||11|| その間違いすら間違ってる気がする。 (大学どたばた)

楽俊・鳴賢◆こんな日常があったらいいなあと。


「鳴賢。その課題、いつからやってんだ?」

 溜息混じりにかけられた声に、青年はぴくりと眉を動かした。

「たぶん、お前が始める前から、だな」

 聞きようによっては冷静だといえるかもしれない声音は、だが俊英の同輩にはつうじなかったらしい。

 それはそれは深い吐息が、うしろのほうから聞こえた。

「だから、もっと身入れてやれっていっただろ」

 しごく真っ当な御意見に、煮詰まっていたアタマがとうとう爆発した。

「だあぁ! うっさい文張!」

 諸手をあげた拍子に書卓から紙が舞いあがり、いぐちぐに積み上げてあった書籍が音を立ててなだれ落ちた。

「あーあー……」

 散らかり放題の床に、灰茶の鼠が額を押さえた。

「鳴賢、お前もうちっと本を大事にしろよな」

 それを言われると痛い。

 親が子供を叱るような口調に、鳴賢はかくんと頭を下げた。

「ごもっとも」

 しゃがみこんで書籍を拾う友人は、とにかく物を大事にする。

 筆の一本、紙の一枚でも丁寧に扱うから、彼の部屋はいつ訪れても散らかっているということがない。

もっとも、鳴賢とは対極的な几帳面な性格が関与するところも大きいのだろうが。

いっしょになって本だの紙だのをまとめると、なんとか生活にさしさわりないくらいには片付いた。

「で、文張はもう提出終わったのか?」

「今朝にはな」

 端的にかえされて、鳴賢が頭をかきむしった。

「うそだろ?!だって、お前が取りかかったのって、たしか昨日じゃ……」

「おとといだ。いくらなんでも昨日からで終わるかい」

 文張こと楽俊は笑って首を振ったが、こちらは笑うどころではない。

「俺は、この課題を、五日かけてやってんだぞ」

「……それもどうかと思うけどな」

 お互いなんともいいがたい表情で沈黙する。

「だいたい、お前なんでそんなに法令に詳しいんだよ。図書府の関連書籍を丸暗記したって足りないぞ」

 憤然と詰め寄られて、楽俊の尻尾が垂れた。

「そりゃ大袈裟だ。おいらはたまたまこっち関係が得手なんだってだけだろうさ」

 右利きなことを責められても困るとでも言うような口ぶりに、鳴賢は溜息をついて牀榻に寝転がった。

 出された課題は、近隣三国の罰刑の比較に関する考察。

 法令、こと罰刑というのは官吏になるには避けて通れない知識なだけに誰もが必死になって取り組んでいるが、楽俊ほど水準の高い論文を、しかもこれほど早く書き上げられる者はいない。

「得手とかそういう問題じゃないぜ、実際」

 同じ法令でも地官に関わることのほうが得意な鳴賢には、刑罰の法令など難解このうえないと思えるのに、それをすらすらと読んでいく楽俊が憎い。

「どうせなら全部の国の刑罰を同じにすればいいんだよな。世の中間違ってるぜ」

「間違えてるのはお前だろうが」

 うだうだと衾褥のうえで転がる鳴賢の足を、灰茶の尻尾がぺちりと叩いた。

「文句言ってねえで、仕上げちまえよ。時間ねえんだろ?」

「ちぇ。済んだ奴はいいよなぁ」

 拗ねる同輩を、黒い目が横目でじとりと眺めた。

「期限が迫ってんのに、気分転換とか言って人の部屋を遊び歩ってる奴が悪い」

「…………」

 ぐうの音も出ない鳴賢を、ほれほれと小さな手が追い立てる。

「さっさと片付けちまいな。夜にはみんなで飲みに行くんだろ」

「……わかった」

 再度促され、鳴賢はのろのろと起き上がった。

 草稿はなんとかかたまった。あとは書き上げるだけだ。

 が、その書き上げるというのが、これまた難儀なことで。

「文張……」

 じわりと肩越しに振り返ると、けちのつけようのない笑顔が返ってきた。

「自力でやれよ?」

「……はい」

 この友人、けして甘やかしてはくれないのが玉に瑕で。

「早くしねえと、おいら先にいっちまうからな」

「この人でなし!」

 そろそろ傾きかけた午後の日が入る部屋に、鳴賢の怒声が響き渡った。

 

 




……難しいお題でござった。

こっち用に書き始めたものが他のお題に似合ってしまい、慌てて練りなおした一品です。
鳴賢の得意科目はでっち上げ。
楽俊と得手がかぶらない方が面白かったので、地官向きにしてみました。



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||12|| 素敵に無敵、何の問題が? (うちの女王様ってば)

祥瓊&鈴vs景女王◆女の攻防戦in金波宮




 

「顔は良いわよね」

「そうね。美人って言うより麗人、っていうかんじもしないではないけど、うん、美人よね」

「姿勢だって良いし、最近は王の貫禄も出てきたし」

「身長もそんなに低い方じゃないしね」

「そうそう。あとは、知識……はとりあえず置いといて、いざというときの決断力は、充分」

「一刀両断、て勢いだもんね」

「ま、そのぶん策をめぐらすのは余り得意じゃないみたいだけど」

「だけど、延王様をやりこめちゃったりもするんだから、口もずいぶん達者になってきたわよねえ」

「浩瀚様や遠甫が老師(せんせい)ですもの、それくらい覚えるわよ」

「あとは剣の腕?」

「あれは賓満がついているときだけでしょ。陽子の腕じゃないわ」

「あ、そか」

「それと、努力家ってことかしらね。為政者としては貴重な資質だわ」

「たんに貧乏性って気もするけど……」

「それは言わない約束」

「はいはい。王のわりに質素を好むっていうのも、いいほう?」

「まあ、華美飽食の王よりはいいでしょうけど……見目がいいんだから多少なりと着飾ってくれても悪くないと思うのよねえ。そうでなくても若い女王なんていないんだから」

「な、に、を。そこで密談してるのかな?」

 背後からかかった地を這うような声に、女史と女御が首を竦めて振り返った。

 書卓に両の拳をつき、折らんばかりに筆を握り締めている主君に、二人は見事な微笑で楚々(そそ)と歩み寄る。

「あら、主上、ご機嫌麗しゅう」

「そのように眉を寄せられては、花の(かんばせ)が台無しですわ」

「女御殿、我等が景女王はたとえいかなお顔をなさっていても、十二国一の美姫に間違いございません」

「まあそうですわね、(わたくし)としたことが」

「……やめてくれ、頼むからっ……!」

 ほほほ、と左右で交わされる品のいいやりとりに陽子は突っ伏し、王の傍らに控えていた将軍が壁を向いて肩を震わせる。無音なのは遠慮ではなく笑いが声にもならないかららしい。

 女御が可憐に微笑んだ。

「いやですわ主上。妾どもは本当のことを申し上げているだけですのに」

「お信じ下さらないとは悲しゅうございますわ」

 紺青の髪の女史がよよと袖を目許にあてる仕草など、じつにさまになっているだけに性質がわるい。

「なにが目的だ、なにが」

 睨み上げた翠の瞳に、鈴がまあと悲鳴を上げた。

「目的だなどと、さても妾が猾吏(かつり)のような仰りよう」

「誉め殺しで人を脅しておいてよく言うよ!」

 鈴に噛みつく陽子の反対側で、嘆かわしいとでもいいたげに祥瓊が溜息をつく。

「妾どもはただ、主上に似合いの美しい装いをなさっていただきたいだけですのに……」

「やっぱりそれか! あんな動きにくいもの着ないからな」

 さすがにここまでくると慣れない口調は面倒なようで、素に戻った鈴が憤然と腰に手を当てた。

「なんで! もとがそれだけいいんだから、ちょっと着飾ればもっと綺麗になるのに!」

「やだ!」

 言い合う陽子の袖を、祥瓊が掴む。

「お願い、とても綺麗な色合わせの衣装を見つけたの。試しでもいいから袖通してくれないかしら」「ぜっったいいやだ! そんなに着たけりゃ祥瓊が着ればいいだろう、祥瓊の方が美人なんだから!」

「なに言ってるの、王族のものを私が着られるわけないでしょう。それにあの色合わせは陽子にこそ似合うのよ!」

 執務そっちのけで交わされる口論に、将軍がこりゃだめだと書類を抱えて遁走したのを、むろん三人娘は知るよしもないのだった。

 




祥瓊は陽子の衣装担当だといいなと。
こんな日常だったらいいですね。


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||13|| 嫌みの一つも言えるらしい。 (風来坊としっかり娘)

櫨家兄妹◆兄という生き物は、妹には弱いもの……かなあ?


「あら兄様、どちらへお越しかしら」

 横合いからかかった可愛らしい声に、青年の足が縫い付けられたように止まった。

 みんな寝静まっていると思っていたのに、なんで今日に限って起きているかな。

 内心の舌打ちを綺麗に隠して向き直れば、想像したとおりの顔がそこにある。

「珍しく早起きだね。でもまだもう少し寝ていてもいいと思うけど」

 兄の威厳を持ちつつ愛想良く微笑んだが、通りすがりの町娘ならともかく、かれこれ六百年を共にしている妹には、爪の先ほどの感銘も与えなかったらしい。

兄以上のにこやかさで紅唇が笑む。

「しらばっくれないでよね。どこへ行くの、と聞いたの」

「……お前のそう言うところ、珠晶によく似てるよ」

 遥か北西の国を治める座についた少女を思いやって、利広は溜息をついた。

 わずか十二にして黄海を渡り、王になってしまった少女は、その年の子供とは思えないほど頭が廻り気が強い。

 裏返せば生意気だと言われた妹は、だがしれっとした顔で隠れ家にしていた柱から離れ、兄の傍に歩み寄った。

「まあ、あんな可愛らしい方に似ているだなんて嬉しいわ。それより、また抜け出そうっていうの? 星彩もいないのに」

 まだ開けやらぬ黎明(れいめい)のなか、甲冑に身を固めた兄に、暖かそうな旗袍(うわぎ)をまとった妹が指をつきつける。

深緑の森のような瞳から、利広がやや視線を逸らした。

 まさかその騎獣を狩りに行こうとしただなどと、言えるわけもない。

「兄様?」

 可憐な外見に似合わず気が強いこの妹は、なお恐ろしいことに勘が鋭い。

 数百年の長きに渡り、奏という大国を治めつづける王の一人であるというだけでなく、あの母と怜悧な長兄というそら恐ろしい師を持っているのだから、ある意味当然なのかもしれないが。

 心中溜息をついた利広は、腕を腰にあて、せいぜい重々しく聞こえるような声を出した。

「あのね文姫。この奏がより良くより長く発展するには、他の国との調整がなにより大事なんだ。そのために私ができることはなんでもやるつもりでいるが、その最たるはこまめに他国を歩き、世を広く見聞することにあるんだよ。私の見聞きしたことが父上のお役に立てれば、太子としてこんなに嬉しいことはない」

「という口実の元に、また脱走を企てたわけね」

「……そういう身も蓋もない言いかたはやめようね」

 十八という若年で仙籍入りした妹ではあるが、こういう容赦ないところは実は昔からだった。

 大きな舎館(やどや)をきりもりする両親とそれを手伝う兄が、糸の切れた凧さながらに飛びまわる風来坊の次男に説教を喰わせるのを間近で見ていただけあって、齢十三にして次兄に勝る口巧者に育ったのである。いまさら利広に勝ち目のあろうはずがない。

 これ以上は不利、と悟った兄は、極上の笑みを作って妹の頭を撫でた。

「まあ、母上や兄上に怒られるのはいつものことだし、そろそろ見て廻りたいところもあるからね。ちょっと行ってくるよ」

「黄海に?」

 冷静至極な声に、ひるがえした足がたたらを踏む。

「黄海はべつに見歩く必要はないと思うわよ、兄様」

「……文姫?」

 うろたえる兄に、可愛らしく首を傾げる妹。

「利達兄様が仰ってたの。そろそろ利広兄様の放浪の虫が騒ぎ出す頃だなって。安闔日も近いし、星彩がいなくなって足がない。なら次に行くとしたら黄海だろう、ですって」 

「……あーあ……」

 さしもの櫨家の次男坊も、長兄の洞察力には敵わないというわけだ。

「で、お前は私の足どめ係なわけかい?」

「まさか。あたしが何を言ったところで、やめるような兄様じゃないでしょ。兄様の放浪癖は持病みたいなものなんだから」

 さりげなく酷い言いぐさをした文姫が、だからね、といって旗袍を脱いだ。

「あたしもついていこうと思って」

「はあ?!」

 顎を落した利広に、すでに旅支度を整えていた文姫が得意げに笑った。

「兄様、今騎獣がないでしょ。他の人のを借りるんじゃ気の毒だから、あたしの吉量(きつりょう)を貸してあげる。だから同行させて頂戴ね。あ、ちゃんと兄様と出かけてきますっていう書置きもしてあるから大丈夫よ」

 まさかこうくるとは思っていなかっただけに、利広は痛み出したこめかみを押さえながら、それでも言い返す。

「文姫、私は物見遊山に行くわけじゃないんだよ」

「知ってるわよ、見聞の旅でしょ。私も見聞を広めに行きたいわ」

 厭味で言っているんだけど、という呟きは、完全に無視された。

「兄様はもちろん私も久しぶりに他の国を見られるし、父様たちに報告もできる。それに、あたしがいれば兄様は早く帰らざるを得ないでしょ。ほら、これで丸く収まるわね」

 数え上げる妹に、もはや言い返す気力もない。

「だって、父様は交州に行ったし兄様なんか黄海にまで行ったのに、あたしはどこへも行ってないんですもの。たまには他の国を見歩きたいわ」

 拗ねたように唇を尖らせるようすは、昔とちっとも変わらない。

 そして、そんな妹に甘い自分も、変わらないらしい。

 苦笑した利広は、いつのまにか落していたらしい荷袋を拾い上げた。

「お前を連れて吉量でとなると、遠出はできないな。才か、範になるけど、それでもいいかい?」

「もちろん!」

 やったと飛び跳ねる文姫を制して、(うまや)に足を向ける。これ以上邪魔が入るのはたまらないから、一刻も早く出かけたいところである。

 実際、黄海に騎獣を狩りに行くにしても誰かの騎獣を借りなければならなかったから、文姫の申し出は有り難いほうではあるが、まさか妹連れで旅に出るとは思わなかった。

「やれやれ、私の周りにはどうしてこう元気のいいお嬢さんしかいないかなあ」

 ぼそりと呟けば、耳ざとい少女が傍らから睨めつける。

「兄様、それも厭味でいいのかしら?」

「おや、厭味に聞こえたかい」

「おてんばで悪かったわねえ」

 ぷうとふくれる妹に、利広が笑う。

「いやいや、女性が元気なほうが家は落ちつくものだというからね」

「いまの台詞、帰ってきたら母様にいいつけようかしら」

「……文姫、置いて行ってもいいんだよ?」

「あ、ごめんなさいっ兄様大好き!」

 小声ではしゃぐ妹を連れて、利広は雲海を見下ろす露台を抜ける。

 水面を挟んだ対岸で、一部始終を見ていた長兄が苦笑(わら)っていたことを、もちろん二人は知らない。

 麒麟の鬣の色をした朝日が、泡立つ海原を錦に染めていた。

 




櫨家のお兄ちゃんがたは妹さんにベタ甘な方向で・
でもって妹さんはかっこいいお兄様がたのせいで他の男には目もくれないくらいのブラコンで・笑
なかなか動かなかった陽子ネタから、櫨家の御兄妹に話を変えてしまいました。
ははは。
ここんちの家族好きなので(特にこの二人)書いてて楽しかったです。

リクエストくださったインディさんに捧げます。ありがとうございました♪


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||14|| 要するに愛しちゃってるワケよ。 (外野から見た楽陽見解)

祥瓊&鈴◆岡目八目、と言いまして


 どん、と華奢な手が卓子(つくえ)を叩いた。

「あれって、どう見ても両想いだと思うわけよ」

「どう見なくても、そう思うわよ」

 肩をいからせる鈴の合い向かいで、祥瓊は疲れたように茶碗を口に運んだ。そんな仕草でも実に様になるあたり、美人というのは得である。

「問題は、二人がどうにもならないくらいの晩生(おくて)だってことよね……」

「晩生というより、自分で気がついてないように見えるんだけど」

 しみじみと首を振る女史に、女御である少女が冷静に突っ込む。

「当人からして友達だとか言ってるし」

「だって、お互い親友扱いだもの」

「まして陽子は日頃から女らしい恰好を嫌って(ほう)で出歩ってるから、ぱっと見なんてまるで兄弟みたいよね」

「また楽俊が鼠姿になると子供みたいだし」

「……あの姿、可愛いもんね」

「桂桂が初見で懐くわけよね」

 それはじめた話に、咳ばらいした祥瓊が軌道を修正する。

「だけど、陽子にせよ楽俊にせよ、相手をすごく大事にしているのは間違いないのよね」

「端から見れば、りっぱに両想いなのにねえ」

 なのになんの進展もなさそうなのは、なぜなんだろう。

 慶国の女王に仕える少女たちは、そろって溜息をついた。

「まあ、陽子は王としてはまだまだこれからだし、あの生真面目さじゃ(まつりごと)だの勉強だので精一杯でしょ。それに予王のこともあるから無意識に目を逸らしているようなんだけど」

「官も、先代を忘れてはいないものね……」

 慶を傾けた短命の女王。

 その失道の原因は恋着で。

女王を疎う官吏どもが、王が変わったとてそれを見逃そうはずもない。

直接口にするわけではないが、執務だけしていろと言わんばかりの態度には、そういう裏もあるのだろう。

例外は陽子をよく知る近しい者たちだけである。

 茶菓子がわりの干し棗をつまみながら、鈴が眉をしかめた。

「そういう意味ではむしろいいのかもしれないけど、人生仕事仕事じゃ潤いがないもの」

 ここまでくると温かい友情などというよりも野次馬の気配が濃いが、邪魔者を蹴り飛ばすのはむしろこの二人のほうで。

「とにかく見ていて歯痒いのよね!」

 力説する鈴に、祥瓊も大きく頷く。

 それにしても、と二人の口から大きな吐息が零れた。

 (らん)を受け取ったときの、陽子の顔を思い出す。

 あんなに嬉しそうで幸せそうな表情、滅多に見ない。

「やっぱりどうみても」

「愛しちゃってるわよねえ」

 堂々巡りの溜息は、当分解決されそうにないのだった。 

 

 

初稿・2005.01.18




初投稿当時。
完成稿ヲ、別稿デ上書キ保存致シマシタ

いま、どんな下書きでもしつこいほど保存とバックアップを取ります。
かなりのトラウマになってるんだなあ……。

ちなみに、初稿時はもっとシリアスな話でした。
もはやかけらも思い出せませんが……。


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||15|| 眠れぬ夜は傍に居て。 (雨の音は、辛い記憶を呼び覚ます)

楽俊・陽子◆ちょっとシリアス。ややカップリング風味?




 雨粒の混じる強い風が、玻璃(はり)を叩いていた。

 春先からのこの季節、草木のために天は暖かい雨を降らせるが、それは古い景色をも連れてくる。

 あの、間断なく続く絹糸のような雨の記憶を。

 

 

 さっきから、寝返りをうっている気配がする。

 うつらうつらしながらそれに気がついて、青年は淡い眠りのなか首を傾げた。

 視界は(とばり)の遮る薄闇。

 雁の街はどこも賑やかに栄え、たとえ場末の舎館(やど)でも(しんだい)がないということはない。このあたりの程度としては安いところを選んだが、それは二人が貧乏性というだけでなく、厩が必要ないからだ。

 舎館が小さければ房室(へや)も小さく、まあいまさら気兼ねするような仲でもないしと、結果として臥室(しんしつ)のない房室を選んだわけである。……少しは気にするべきなのかもしれないが。

 短いながらも休暇中、他国は無理でも雁のなかを見て廻りたいと思っていたところへ、同じように出歩きの虫が騒いでいたらしい陽子から声がかかった。

「浩瀚と景麒と遠甫の許可は取ったから」

 満面の笑顔に、これじゃ誰が王様かわからねえなと茶化すと、自分でもそう思うと翠の瞳が笑った。 

 自主的な旅だから騎獣はなく徒歩か馳車。おかげで厩の心配は要らないが、時折陽子に従う使令に騎乗する羽目になったりもする。

 街の大小を問わず思いついたさきで止まったり、有名な景勝地を散策したりと、期間が限られているとはいえ、思いがけず関弓を目指したあの日々の続きのようで、わけもなく楽しい旅になっている。

 薄い帳の向こうで、また微かな衣擦れがする。

 眠れないのかと思って、どうも変だと身を起こした。

「陽子、眠れねえのか?」

 帳を上げて声をかけると、合い向かいの牀からすまなそうな顔が覗いた。

「……ごめん楽俊、起こしちゃった?」

「いんや、そういうわけじゃねえけど。どうした?」

 ん、と口篭もった顔は眠気の欠片もなくて、やはり寝つけなかったらしいことが伺える。

 玻璃を叩く、不規則な音。

 日暮れから降り出した雨は夜半に至って雨足が増している。眠る前、彼女が物憂げに窓の外を見ていたのを思い出した。

「雨の音でも気になるか?」

 何気なく言った言葉に、少女の顔が曇る。

「陽子」

「あ、いや、なんでもない。ただほら、雲海の上には、雨って降らないから」

 慌てて浮かべた作り笑いはすぐに力をなくし、困ったような顔に戻った。

「雨の音なんて、しばらく聞いてなかったから。つい、思い出しちゃって」

 力のない声に、ああと楽俊も思いだした。

 ちょうど今頃の季節。

 こんなに強くはなかったけれど、やはり雨のなかだった。降りしきる雨に打たれて倒れ伏す彼女を拾ったのは。

 もうずいぶん前のような気がする。

 あのときからすべては動き始めて、それは思いがけない道に繋がっていた。

 でも彼女にとっては、けして楽な道ではなくて。

 そこに至るまでも、それからも。彼女が一人負い続けているものがあることを、知らない彼ではない。

「雨、だったよね。楽俊に拾われて、なんとか助かった。なのに私は全然楽俊を信用しないで。あんなによくしてもらったのに、感謝もしないで、挙句に、見捨てて逃げ出して」

「陽子」

 低い声に、唇を噛んで俯いていた少女がぴくりと肩を揺らした。

「手、かしてみな」

 静かに言われて、臥牀(ねどこ)から降りた陽子がおずおずと楽俊の脇に膝をつく。

 差し出された細い手を、両手で包み込んだ。

 人の姿をしているときは、自分のほうが大きい掌。

 こんな小さな手でささえなければならないものが、彼女にはある。

「なあ、おいら、生きてるだろ?」

「うん……」

「おいらは、陽子が妖魔に追われていることも、海客として手配されてることも、最初から知ってた。承知の上で、陽子と行くって決めたんだ。だから、あれは陽子のせいじゃねえ」

「でも」

「途中で妖魔に襲われることくらい、考えなかったわけじゃねえさ。衛士に知られたらまずいってこともわかってた。あれは、ちょっと運が悪かっただけだ。それに、おいらものろまだったしなぁ」

「だけど」

「いいんだよ。だから、そんなに気に病むな」

 ややあって、うん、と頷いた(まなじり)から、ぽたりと雫が落ちた。

「ありがとう、楽俊……」

「礼を言われるようなことじゃねえぞ?」

「でも、ありがとう」

 繰り返す声を聞きながら、艶やかな緋色の髪を撫でる。

「こっち、くるか?」

 え、と瞬いた瞳が、意味を飲み込んでちょっと上目遣いになった。

「…・・・いいの?」

「眠れねえんだろ? 枕のかわりくらいやってもいいぞ」

 衾褥(ふとん)を上げて空いた場所をほらと叩くと、ソレデハ、とかもそもそ言いながらもぐりこんでくる。その細い背中を、衾褥ごとそっと抱きこんだ。

 肩口に頬を寄せた少女が、青年の背中に腕をまわしてくすくすと笑う。

「頭良くなりそうな枕だね」

「そんなわけあるか」

 軽口に軽口で応えて二人で忍び笑った。

「あー、景麒に知れたら大目玉貰いそう」

「そりゃおいらのほうだろ」

「それはさせないから」

「……職権乱用になるんじゃねえのか?」

 口数が多いのは照れているからで、まあ、そんなことはお互いわかっている。

「陽子」

「なに?」

 もうちょっと肩の力抜けよとか、無理するなとか。言いたいことはたくさんあるけれど、どれも本当に言いたいこととは多分違って、ただまわした腕に少しだけ力をこめた。

「ちゃんと寝ろよ。もう悪い夢なんか見ねえから」

「うん……」

 背中にまわった手が、きゅうとすがる。

 雨は、まだしばらく続きそうだった。

 

 

初稿・2005.01.18





くっはー!恥ッズかしッ!!(シリアス丸崩れ・)

「ありえないわ!」なんてダブルボイスで言わないでくださいませね・笑
こんなことあるわけないじゃ~んとかいいながら、けっこー書きたかった話です。
ええ、最初にネタができたものの一つですヨ。
いーんだ、二次創作なんだから!

どうでもいいことですが、私の好きな小説家は何故かみんな恋愛モノが苦手です。
そんで、読み手としては歯痒い思いをさせられるわけだネ・某剣聖口調(わかる人おらんだろ)
でもこの程度を書いてて自分で笑うほど照れるあたり、拙者も恋愛モノは激下手です。
いやー、こっぱずかしくてあかんわ!・脱兎



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||16|| イイ男、イイ女。 (女王様のご下問です!)

慶の諸官と雁数人◆お遊びネタです。


 唐突ですが、質問です。

 

 あなたの考えるところの『いい男・いい女』って、それぞれ誰ですか?

「陽子ったらどうしたの、急にそんなこと」

 まあいいからいいから。

「いいって言われてもねえ。どういうのかよくわからないわ。良い人ってことなら、あたしたちのまわりみんなそうでしょ」

 ……うーん、範囲広すぎ。

 祥瓊は?

「え? ああ、その、まあ私も鈴と同意見かしら」

 ……ふーん、その動揺が気になるところだけど、追求はやめといてあげるよ。

「あ、いい女ってことなら、陽子よね!」

 世辞はいらないから。

 さて次。

「主上、なにやってるんですか?」

 インタビュー。桓魋も答えてくれないか?

「いんた……なんですって?」

 あー、質問質問。

 『いい男・いい女』で思いつく人物って?

「男……は、やはり浩瀚様でしょう。女なら、そうだなあ、祥瓊かな」

 やっぱりそうきたか。

「で、それってなんです?」

 そのうちわかるよ。

 あ、虎嘯、ちょっとこっち。

「陽子、台輔が探してたぞ。なにやってんだ?」

「御下問だそうだ。いい男、いい女と言われて思いつく奴って誰だ?」

「はあ?」

 あー、虎嘯には難しかったかな……。

「んー……うーん……むー……」

 あー、いいよそんなに悩まなくても。

 ありがと、じゃ。

 浩瀚、聞きたいことがあるんだけど、いいかな。

「そのお顔だと、(まつりごと)のことではございませんね」

 ぐ、鋭いな。

「それくらいはわかります。それで、なんでしょうか」

 えーと、『いい男・いい女』って言われて、誰を想像する?

「一目置ける器ということでしたら、女性では主上と申し上げておきましょうかね」

 ……おきましょうってなんなんだ?

「男性でしたら延王であらせられましょう。桓魋や、虎嘯もあてはまるとおもいますが」

 まあ、大体想像通りだな。ありがとう。

「また延台輔となにか画策なされておられるのですか」

 バレてる。いや、ほんのお遊びだから。じゃあね。

「あ、主上。男性にもう一人心当たりがありますよ」

 ん?なに?

「楽俊殿も、『いい男』に入るでしょうね」

 ……伝えとくよ。

「おや、照れておいでですか?」

 絶対人をからかってるし!

 くっそー、まだ笑ってるな。

 

 

「主上! どちらまでおいででしたか!」

 すまない、ちょっとそのへん。

「いくら執務の時間外でも、そううろうろされては王の威厳と言うものが……」

 この見てくれで威厳とか言ってもつりあわなすぎるだろう。

それよりちょっと答えてくれないか?

「は、なにか」

 景麒の知っている範囲で『いい男』と『いい女』って、誰?

「主上……それはどのような……?」

 ちょっとした集計調査だ。気軽に考えてくれ。

「またなにか企んでおられるのか」

 そんな怖い顔するなって。

 人聞きが悪いな。別に企んでるわけじゃないぞ。

「ではそのように人に序列を作るような真似はおやめ下さい。天から国と玉座を預かる方がよりによって……」

 あー、やっぱりお前に聞くんじゃなかったよ。

 

 

「よう陽子。どうだ、集まったか?」

「あ、六太君」

「延台輔?」

「よ、景麒。で、どのくらいだ?」

「まだ五人。六人目で説教されてるところ」

「だから景麒は最後にしろって言っただろ。内容はどうだ?」

「まあ大体予想通りだね。バラバラ」

「主上、それに延台輔!」

「おいおい、べつにお遊びでやってんだから、そんな目くじら立てるなって」

「そっちは?」

「男だと圧倒的に朱衡だな。女はまちまち。大体人気のある女官に票が集まってるけど、尚隆が花街の女ばっかり十人以上数えてるから目安になりゃしねえ」

「……らしいけどね」

「主上!」

「うるさい景麒。ちょっと向こうへ行ってろ」

「あーあ、可哀想に。そうだ、陽子にも入ってるぞ」

「ええ?」

「陽子を見知っている奴等に限られるけどな。朱衡も入れてるし」

「隣国の王だからって気を使わなくていいのに」

「はは。へえ、浩瀚が楽俊に入れてんのか」

「え? あ、えーと、うん。その、並列票だけど」

「ほーお。で、陽子は?」

「え、だって、ほら、私はインタビュアーだから、中立中立」

「ふーん」

「……なんか、その笑い方気に入らないな」

「別に意味ないけど? あ、朱衡の他に陽子に入れたヤツな」

「ん?」

「うちの大学の、首席学生だぜ」

「……っ」

 

 

初稿・2005.01.19




お遊びお遊び。

内容が内容だし、たまには色味を変えてと思って台詞だけにしてみました。
心理描写がないのでちょっと難しかったですが、そのへんも含めて想像していただけると嬉しいです・他力本願
誰が誰だかわかりますかね?



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||17|| ねぇ、どうしたら嫌ってくれる? (陽子)

闇は、消えない。


アサマシイナァ

 

ソンナ命デモ惜シイカイ?

裏切リ者ノクセニサァ

 

 

 耳元で甲高い笑い声がして飛び起きた。

 

 息も動悸も荒波のようで、胃の奥から不快感がせりあがる。

 夜が塗りつぶした暗闇に蒼い猿の首がないことを見て取って、陽子は深く息をついた。

 両手で覆った顔は、冷たい汗に濡れている。

「……いるわけ、ない」

 

 陽子にだけ聞こえる声。

 陽子にだけ見える蒼い猿の首。

 

 あれは陽子の心を映したものだ。

 押し殺して見ないふりをしている自分の暗部をつきつけて、陽子の心を蝕んでいった。

 

 怯え、惑い、抗いながらも流されて。

 いつしか垂れ流すその悪意さえも、自分を正当化するための糧とした。

 

 胸を突き上げる後悔に押され、涙とともにあふれる激情のまま叩き斬ったそれは、かつて剣を収めていた鞘に姿を変え、いまでは猿の現れることはない。

 だが、長い時間唯一自分のそばにあったものはなまなかに気配が消えず、むしろ自身の闇と自覚してからは姿がなくとも陽子を苛んだ。

 枕元に置いてある蒼い珠を手にとって、その暖かさに涙が出そうになった。

 宝玉を握りこんだままふたたび夜具にもぐりながら、起こしやしなかったかと隣の牀で眠る友人をそっと見やる。

 

裏切リ者ォ

 

耳障りな声が胸を貫いた。

 

鼠ノ好意ニ悪意デモッテムクイヨウトシタクセニサァ

ヨクモ今更善人ヅラガデキルヨナァ

 

 嘲笑は耳を(ろう)するほどに甲高く響き渡る。

 それは、陽子にしか聞こえない弾劾。

---そんなこと、お前に言われなくてもわかってる。

 自分を救ってくれた友人に言い尽くせないほどの感謝を感じているのも、あのとき剣の柄に手をかけたのも、どちらも陽子自身なのだから。

 

 気にするな、と彼は言う。

 おまえのせいじゃねえ、むしろ自分のほうが悪かった、と頭さえ下げてくれた。

 その責めない姿勢がありがたい以上に、ひどく心を苛むのだ。

 どんな言葉を並べ立ててもあの自分を帳消しにできないのなら、耳を塞ぎたくなるような言葉で罵って欲しいくらいなのに。

 自分が虐げられたがゆえに、傷ついた者を見捨てておけないちいさな友は、この罪を相殺にもしてくれない。

 その優しさが、過ちに振り向いてしまった胸に痛いほど沁みて。

 嬉しいと思うと同時に、情けなさと感謝と後悔でいっぱいになる。

 

 ねえ、いっそ罰して欲しいなんて、思ったらいけない?

 

 あなたの好意に甘えている、浅ましい私を。

 

 甘やかされて、それでいいんだと安心している私を。

 

 ねえ、どうしたら嫌ってくれるの?

 

 

初稿・2005.01.19




烏号から関弓へのダークサイド・
むう、捏造捏造。


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||18|| わざとらしい空の色など燃やして。 (幼少楽俊)

楽俊・オリキャラ有り◆半獣という存在は。


 

 清水に両足を浸して、子供はただぽかんと空を眺めた。

 

 木々の枝を透かして見える色は、青と藍の中間にあるように見える。暖かかった風は次第に温度を

下げて、柔らかい灰茶の毛を時折強くそよがせた。

 足の先を揺らすと、勢いのある水がぱしゃんとはねる。

 川の流れに逆らって動かせば、水あめのように水面がもりあがって渦を巻く。

 ただ座り込んだまま、もうニ、三刻ばかり小さな鼠の子はそうして水と戯れていた。

 無心に水玉をはねあげる左の(くるぶし)は、赤く腫れあがっている。

 水場から離れないでいるのは、それを冷やすためだった。

 時折思い出したように痛むけれど、べつにそれがどうとは思わない。ただ、家で待っているだろう母親に見つからなければいいな、と思って冷やしているだけだ。

 きゅうう、とちいさく喉が鳴る。

 

 今日の午過ぎ、庠学を出たときのこと。

「半獣のくせに!」

 吐き捨てるような言葉と共に(つぶて)が飛んできて、したたかに踝を打った。

 よろめいて膝をつきながら見上げると、同い年の子供が小石を握って突っ立っているのが見えた。

「ちっとくらい本が読めるからって、いい気になるなよ、半獣!」

穎曹(えいそう)!」

 教師の鋭い叱咤に飛びあがった子供が、石を投げ出し一目散に駆け出して行く。

「大丈夫かね、酷いことをする」

「平気です。黄老師」

 駆け出してきた老教師の手にすがって立ちながら、明確に頷く。

「すまんな……わしの指導が行き届かんばかりに、お前さんには辛い目を見せる」

 溜息をつく白髭の老人に首を振った。

「老師にはこのうえないくらいよくしていただいてます。おいらが半獣なのは、生まれついてのことだから」

 そう、誰のせいとかそんなことじゃない。

 ただこの姿に生まれたと言うだけであって、誰が悪いとかそんなのは関係ない。 

 それでも。

 半獣を格下と蔑むこの国では、二つ身を持つ者たちが生き辛いのもまた事実。

 

 こればっかりは、しょうがねえけどさ。

 

 川面を蹴るように足を上げれば、水飛沫が陽光を受けてきらきらと輝いた。

 王が半獣を嫌うから、民もそれに倣う。

 少しでも賢しげな顔を見せれば、職も給田も貰えぬ半獣がと罵られる。

 そういうものだと自分に言い含めているからいまさら腹も立たないけれど、溜息は零れてしまう。

「なんでなんだろうなぁ」

 どうして、半獣という者が存在するのだろう。

 あの空の高みには天があり、世界を統べる天帝がおわすという。

 姿を見ることの叶わぬ至高の存在は、何を思って只人(ただびと)にあらぬ身を定めたのだろう。

 ぽつんと息をついて、すっかり冷えた足を小川から引き上げた。

 日は大きく西を指している。

 二、三度足先を振ってみたが、それほど痛みは感じなくなっていた。

 大丈夫そうかな、と背を丸めて足元を見ていると、後ろから声がかかった。

「楽俊」

 振り返ると、荷籠を負った母親がにこりと笑った。

「母ちゃん」

 長い尻尾を揺らす息子に、下げていた包みを渡す。

(ちまき)を貰ったんだよ。温めなおして食べようか。お茶を入れて、花巻も欲しいかい?」

 うんとひとつ頷いて歩き出した頭を、節立った掌がそっと撫でた。

黄柏(おうばく)で、湿布をしてあげようね」

 静かな声に見上げると、しょうがない子だと笑う母親の顔があった。

「こんなところで水につけてたら、体まで冷えちまうだろう。まっすぐ帰ってくればいいんだよ」

「うん……」

 頷いた首は下がったまま上げられなくなって、(つむ)った目からぽとりと涙が落ちた。

 

 空は、いつしか茜に染まっていた。

 

初稿・2005.01.20




【穎曹・えいそう】
【花巻】陽子の言う「蒸パン」てこれなんでしょうか?
中国語だとホアチェン。日本語ならはなまき(ゑ?)
肉まんの皮みたいなの。バー●ヤンでメニューに載ってます・笑

ちっちゃな楽俊バナシ。
お題に添えてないような気も……つーか、どう書いた物やら・苦心惨憺
ちびの楽俊て、み、見てみたい(笑)
『月影・下』で「選士にも選ばれた」と楽俊は言ってましたが、あの巧で半獣を推挙した人物というのは一体どんな人なんでしょうかね。
そりゃまあ、二十そこそこで雁の大学に主席で入れるような頭だったらたとえ半獣でも推薦したくなるのかもしれませんけど。
ものすごい物のわかった人なのかな。

いささか難しいお題でございました。



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||19|| 帰れ。 (秀才復活)

楽俊・鳴賢◆大学生も大変です。


 夕餉の卓で、楽俊はあれと周囲を見まわした。

 いつもなら自分より先に来ている友人の姿がない。

暁遠(ぎょうえん)、鳴賢は」

 声をかけられて、楽俊の合い向かいに座った臙脂(えんじ)の髪の友人がはてと首をひねった。

「そういえば見てないな。講義は一緒じゃなかったのか?」

「一緒だったけど、おいらさっきまで豊老師のところに行ってたから」

「そっか」

 珍しいこともあるものだと思っていると、二人のあとからやってきた青年が、盆を手に先刻の楽俊と同じようにあたりを眺める。

「あれ、文張。鳴賢はどうしたのさ?」

「それが、来てねえんだよ。玄章(げんしょう)知らねえか?」

「さあ……あいつが夕飯に遅れるなんて珍しいね」

 灰青の髪をした青年の言葉に、箸を咥えた暁遠が眉を寄せた。

「だよな。いつもなら、真っ先に飛んでくるもんな」

 そうなんだよなあ、と元気な同輩の顔を思い浮かべて楽俊も首を傾げる。

「どこかでかけたんかな」

「なら先に言って行くだろ。堂室(へや)で寝てるってのは?」

「鳴賢が、飯の時間にも起きないでか?」

「ありえないよね」

「講義は忘れても、飯は忘れないだろ」

 減らず口を叩く間にも箸を動かしながら、揃って唸る。

「具合でも悪いのかな」

「鬼の霍乱っても言うしな」

「……そりゃさすがに酷いよ、暁遠。文張、なんならあとで堂室覗いてみたら?」 

 玄章に言われて、楽俊はそうすると頷いた。

 

 結局、食事が終わる頃になっても鳴賢の姿は現れず、楽俊は飯堂を出た足でそのまま鳴賢の堂室に向かった。

 こつこつと扉を叩いても、返事はない。

「鳴賢、いねえのか?」

 軽く押した扉はやんわりと開き、楽俊は目を瞬いた。

「鳴賢?」

「帰れ」

 真っ暗な堂室のなかから、聞いたこともないほど不機嫌な声がした。

「今、人の顔見たい気分じゃないんだ。帰れ」

「帰れって……飯も食わねえで、どっか具合でも悪いのか?」

「そんなんじゃない。いいから行けよ」

「鳴賢」

 唸るような声に、鋭く返す。

 怒鳴り返すかと思った堂室の主は、逆に口篭もったようだった。

 深い嘆息が窓際から聞こえる。  

 堂室に一歩入ったところで扉を閉めて、楽俊は壁によりかかった。

 真っ暗だと思った堂室のなかは、窓から入る星明かりでかすかに薄蒼い。その窓際に、不貞腐れた顔の鳴賢が座り込んでいた。

「どうしたんだ、一体」

 おせっかいな友人の問いに、むすっとした顔の青年が、無言のまま堂室の真ん中あたりでしわくちゃになっている紙切れを指した。

 拾い上げて透かし見ると、どうやら手紙。

「うちからさ。そろそろ学業を切り上げて帰ってこないか、だと」

 薄笑ったような声音に顔を上げれば、笑いの形に口を歪ませた友人が窓の外を眺めていた。

「三年允許が貰えなけりゃ退学。俺はそのうちの一年目だからな。のっぴきならなくなるまえに、稼業を継ぐとかなんとかでしらばっくれちまえってことさ」

 眉をひそめて黙っている楽俊に目も向けず、はは、と戯言めかした声が笑う。

 突然、がしゃん、となにかが砕ける音がした。

「馬鹿にすんな、まだやれるさ!」

「鳴賢!」

 玻璃に叩きつけた左手から、幾筋も赤いものが滴る。

「誰がこのまま引き下がるか。冗談じゃねえ。俺はやめねえからな!!」

 血塗れの拳を握った鳴賢が呻いた。

「……あたりめえだろ」

 椅子にかかっていた手拭を手に、楽俊はそっと鳴賢の腕を取った。

「最初できたもんが、今できねえわけねえ」

 丁寧に傷口を覆って、複雑そうな顔を向ける同輩に笑いかける。

「あとは、お前がやる気になればいいのさ。もうちっと踏ん張ってみろよ」

「文張……」

「つまづいたって、つまづいたところからやりなおしゃいい。止まっちまったからって歩くのやめたら、前に進まなくなっちまうだろ?それじゃあもったいねえよ」

「もったいない……?」

「そうさ。せっかくここまで来たんじゃねえか。ここで諦めたら、今までの頑張りが全部無駄になっちまうだろ」

 軽く肘を叩かれて、鳴賢がちょっと笑った。

「お前の話聞いてると、ものすごい簡単そうに聞こえるんだけど」

「そう聞こえるんなら、簡単にしちまえよ」

 顔を見合わせて、二人同時にふきだす。

「ごめん、面倒かけて」

「おいらはいいけど、暁遠たち心配してたぞ。あとであやまっとけな」

「ん」

 ぺこりと頭を下げた鳴賢に、楽俊が笑った。

「腹減ってるだろ。はやくしねえと飯堂閉まっちまう。あと、手も診てもらえよ」

「うん、行ってくる……ありがとな、文張」

 顔を上げて堂室を出る鳴賢に手を上げて応えながら、楽俊は安堵の息をついた。

 

 

 頑張れと口で言うほど楽でないのは楽俊とてもわかっている。

 それでも、やらないよりやったほうがいいにきまっているから。

「おいらも、頑張らねえとな」

 窓の外、遥か西方を思って背筋を伸ばし、楽俊は静かに扉を閉めた。

 

 

初稿・2005.01.20




【玄章・げんしょう】
【暁遠・ぎょうえん】
必要に迫られてオリジナル名前をちょっと。
実は友人に頼まれて作った中華風名前の流用だったり。

頑張れワカゾー!
てことで、鳴賢復活バナシ。
この題名、フツーに考えれば楽陽なんですけどね・笑
くじけながらも進もうとする若人を応援したくなりますねー。
このあたりから、オリジナルの大学生たちがちょろちょろしますのでご注意ください。
あ、楽俊はお好きな姿でどうぞ・



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||20|| 触ったら10万取るから。 (楽陽?)

楽俊×陽子

何も言いません。
楽陽です。楽陽のつもりなんです……


 

 凱之は虚空に二つの黒点を見とめて破顔した。

 長い尾をした二頭の騶虞の背には、計三人の人影がある。

 みるみるうちに距離を詰めた騎獣は、広い門前にすうと音もなく降り立った。

「よう凱之、また世話になるな」

 日を受けて鮮やかに煌く金の髪に、凱之は笑って膝をついた。

「おいでなさいませ。延王、延台輔」

 叩頭する凱之に気さくに応える延主従の後ろの影に頭をあげ、拱手する。

「楽俊殿も」

「殿はやめてくださいって」

 苦笑した青年が、同じように礼を返した。それに笑顔を返し、改めて一行に頭を下げる。

「主上よりご案内を仰せつかっております。どうぞこちらへ」

 

 

「延王、延台輔、楽俊殿。ようこそお越しくださいました」

 正寝手前で待っていた浩瀚が、ゆったりと拱手する。

「お招き恐悦に存ずる、というべきかな。曲水の宴とは雅なことだ」

 雅事の苦手な延王に揶揄するような顔を向けられて、慶の冢宰が苦笑した。

「まあ、曲水と言うのは名目でして。主上と近い者たちのささやかな宴会でございますが、延王延台輔にはお気に召すのではないかと主上が」

 延麒六太が快活に笑う。

「なるほどな。発起人は陽子なのか?」

「いえ、祥瓊でございますよ。たまには気晴らしもと申しまして、太師に伺いを立てて準備をしたようです」

「さすがだな」

 公主であった少女らしい配慮に、六太が肩をすくめた。笑った浩瀚が、ついと右手を差し出す。

「ではこちらへどうぞ。玻璃宮にて準備が整っておりますので」

 鷹揚に頷いた延主従に従おうとした楽俊を、浩瀚はああと押しとどめた。

「楽俊殿、申し訳ありませんが、主上をお迎えに行っていただけませんか」

 え、と楽俊が首を傾げる横で、ふと延の主従が目を交しあった。楽俊に見つからないよう含み笑いして、するりと先へ足を向ける。

 それを目の端に映し、浩瀚はにこやかに青年に頭を下げた。

「賓客を使うようで申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします」

 言うだけ言って、あとはまかせたと延主従を案内するため行ってしまった冢宰に、青年はあっけにとられたように瞬いた。

 

 

 珍しく控えのない扉をこつこつと叩くと、ややあって紺青の髪が覗いた。

「あら、いらっしゃい」

 見知った顔がにこりと笑う。今夜の宴のためか、常より少し華やかな裳裾がしゃらりと衣擦れを立てた。

「なんか、浩瀚様に言われてきたんだけど……」

 珍しく歯切れの悪い青年に、祥瓊がこだわりなく頷く。

「ああ、ちょうど支度が済んだところなの、よろしくね」

 はきはきと言って、堂室を振り返った。

「陽子、お迎えの方がいらしたわ。じゃ、私は先に行ってるから」

「祥瓊?」

 怪訝そうな声を背に、祥瓊は楽俊にもじゃあねと声をかけ、本当に堂室を出てしまう。

 それを見送って、楽俊はええとと困惑したまま扉を押した。

「---陽子?」

 そっと覗き込んだ先で、緋色の髪が振り向いた。

「楽俊」

 薄い化粧を施した貌のなかで、明るい翠の瞳が驚いたように見開かれる。

 榻に腰掛けた姿に、進みかけた足が思わず止まった。

 艶やかな緋の髪は両耳の上から少しをまとめて小さく結い、碧玉と銀の花弁の繊細な花簪をひとつ差してある。残りはゆるく波打たせてふわりと背に流してあるのが、大仰な装飾を嫌う彼女らしい。

 いつもは頑なに朝服や袍で過ごしているのを、細かな刺繍の背子(うわがけ)と落ち着いた緑青(ろくしょう)色の襦に、やはり銀糸の刺繍が入った深い臙脂の長裙。この季節だから風除けにか、淡い紗の霞披(ひれ)をやんわりとかけている。

 けして派手ではないが、女性らしい(あで)やかな装いだった。

 立ち尽くしたままの楽俊に、陽子が遠慮がちに小首をかしげた。その拍子に、簪が細波(さざなみ)のような音を立る。

「あの、変、かな」

 囁くような声に、ややぎこちなく首を振る。

「そうじゃねえよ。あんまり綺麗過ぎて、なんて言っていいかわかんねえだけだ」

「……そんなこと、ないよ」

 王であるくせにいっかな世辞に慣れない少女が、淡く頬を染めて目をそらした。

 その仕草に、笑みが零れる。

「あるって。陽子は、自分の容姿にはてんで無頓着だからな」

 長い裾は動きづらいとか、簪は落とすから嫌だとか。

 およそ少女らしくないことを言って着飾りたがらないが、元々美しい顔立ちをしているのだ。だからちょっと手を加えただけでこんなにも綺麗になる。

「まあ、いつもこんな綺麗にしてたら、他の連中は仕事が手につかねえかもしれねえけど」

「そこまで言ったら冗談にもならないよ」

 榻に歩み寄った青年に、陽子が拗ねたような目を向けた。

「冗談なんて、言った覚えはねえぞ」

 低い榻に片膝をつき顔を寄せると、やや長くなった灰茶の髪に結んだ翡翠色の細紐が、するりと肩から流れ落ちる。

 少しの間見つめあい、やがてどちらからともなく目を伏せた。

 

「……なんか、とんでもねえことした気分だな」

 こつんと額をあわせて呟くと、少女がちらりと笑う。

「私が許すから平気」

「そりゃ心強いや」

 笑い返して、楽俊は手を差し出した。

「遅くなると迎えに来た意味がなくなっちまうからな、そろそろ行くか?」

 青年の手のひらに繊手を重ねた陽子が、え、と聞き返す。

「私を迎えに来てくれたの?」

「浩瀚様から頼まれたんだ。祥瓊も知ってるみたいだったけど、陽子は聞かされてなかったのか?」

 不思議そうな顔をされて、陽子は首を振った。

「私、なんにも知らないよ?」

「てことは」

 二人同時に思い当たって、笑うより呆れて天を仰いだ。

「つまり、最初っからそのつもりだったんだろうな」

「祥瓊もグルってことだよね」

 どうも熱心にこの格好を勧めると思った、と溜息をついて、陽子が立ち上がる。裳裾の立てる衣擦れが、奇妙に(なまめ)かしい。

 着慣れないせいか挙措まで淑やかな少女に苦笑した。その気配に、陽子が見上げる。

「なに?」

「いや、おいらは思ってたより器量が狭いんだな、と思っただけだ」

 首を傾げられ、楽俊はちょっと眉をしかめた。

「綺麗に飾ってる陽子を、他の人に見せたくねえって思っちまった。これって、相当不遜だろ」

 瞠った翠の瞳が甘く細められ、紅唇が笑みを刷いた。

「私には楽俊だけだよ?」

 言葉を失った楽俊に、陽子は薄く頬を染めながらも重々しく宣誓する。

「私には、楽俊だけ。もし触ろうなんて奴がいたら、罰金とります」

「……王様に何かしでかしたら、罰金じゃすまねえだろ」

「ええ? 罰金は基本でしょ」

 一国の王であるのに、感覚は庶民のままの女王に、楽俊は笑うしかない。

 その口元に指を伸ばして、陽子が意味ありげな微笑を浮かべた。

「だけど、こんなのつけてたら、売約済みの広告ぶら下げてるようなものだよね」

 唇をかすめた指先に、鮮やかな紅がのる。

 あ、と慌てて口元に手をやって、青年は赤面した。

 

 

初稿・2005.1.23

 

 




【曲水の宴・きょくすいのえん】
日本だと陰暦三月三日に行われる歌の会。
大仰でない宴会の名目が欲しかっただけ・汗
ザラメ噛みながら書いてる気分でした>大の辛党
そして構成が悪い!! ごめんなさい、精進します・
当時、サイトのアンケートでリクエストいただいた「おめかし陽子」です。
100のお題のなかには「楽陽」とかしか決まってないのも多少ありまして(汗)ツボな
ネタ振りをしていただいたのでこれ幸いとばかりお題ネタに持ってきてしまいました・
(櫨家兄妹バナシもそうですね)
とにかく着物の言葉がわからなくて全然進まないという泣くに泣けない状況だったり。
手元に古代中国の資料がないんだということに、いまさら気づいても後の祭り。
そんなわけで、服の描写に二日かかってます・大馬鹿


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||21|| 愛を謳え。 (鸞バナシ)

陽子◆聲が伝えるものは。


 

 筆を置いて、陽子は溜息をついた。

 慣れない毛筆は肩がこる。そのうえ一日中気を張っているから、なおのこと疲労が背にも首にものしかかった。

 広げられた紙面に黒々と綴られた文字に顔をしかめて、背もたれに頭をのせる。そのままの姿勢で、肺が空になるほどの息を吐いた。

 難しいこととは重々承知していたが、やはり考えるだけとやってみるとは違いすぎる。

「百聞は一見にしかずって、このことだよね……」

 遠く隔たってしまった故国の言葉を呟いてから、胸を覆う寂寥感に大きくかぶりを振った。

 嘆いている暇も懐かしんでいる暇も、自分にはないのだ。

 どんなに戻りたくても、もうあちらへ帰ることはできない。

 科せられた責務は果てがなく、逃げることは畢竟(ひっきょう)己の死と数百万の民の困苦、国の荒廃につながる。

 とんだ運命があったものだ、と思い、いやこれが天命なのだと思い返した。

 天があり天帝を頂点にいただくこの世界で、自分は神なのだと言う。だが陽子には、未だにそれが納得できていない。

 つい半年程前までは、一介の女子高性に過ぎなかった。

 優等生という看板の陰で人の顔色をうかがって、のらりくらりと生きてきた。

 このまま息苦しいながらも流されていけば、楽でいられると思っていた。

 だが金の髪をした青年が現れた時その日常は破られ、月影を潜り抜けて唐突に連れてこられた異界。

 死と紙一重の旅を続けた先に待ちうけていたのがこんな結末だったとは、あの瞬間まで思いもし

なかった。

 きゅるる、と高い声がして、陽子は視線をめぐらした。

 賢げな目をした鳥が、首を傾げて主を見ている。

 その可愛らしい仕草に、微笑が零れた。

 部屋の片隅に置かれた卓子(つくえ)の上、篭の扉を開けると、鳥は舞うように翼をはためかせて書卓に降りた。

 その鳥を鸞鳥、という。

 王だけが自由にでき、定めた相手の元へ声を運ぶ、不思議な鳥。

 美しい宝石のような姿。

 つややかな頭をそっと撫でると、赤い嘴が開いた。

「よう、ひさしぶり……ってのも、なんか変だな。元気にやってるか? 無理してねえといいけど、陽子は真面目だからな」

 小さな嘴の囀る朗らかな子供のような声に、鼻の奥がつんとなった。

 労う言葉、優しい声。

 近況を語る端々にもあたたかい思いやりが溢れていて、まるで彼が目の前にいるような錯覚さえ覚えてしまう。

 こんなふうに言葉を運ぶ鳥がいてよかった、と思う。

 手紙では伝えきれない想いでも、声ならば感情までが届く。

「駄目だな、私は」

 睫の端に滲んだものを指先ではじいて、語るのを終えた鳥に笑いかけた。きゅるる、と啼いた鳥に銀を一粒やって、嬉しそうについばむ姿を見守る。

 この返事を貰って、もう幾日だろう。

 今日こそは送らなければ、と思っても、彼の声を消すのが惜しくてためらってしまう。

「あんまり日を置いても、悪いよね」

 忙しいのかと気を使わせるのは---それはまあ、忙しいけれど---本意ではないし、陽子が送り出さないことには、次の返事も来ないわけで。

「……この声、とっておければいいのにな」

 むこうにはカセットテープもビデオもあったから録音など簡単で、こんなふうに惜しむことなどなかったけれど、でも今のほうがずっと言葉を大事に出来るのはどうしてなんだろう。

 つんと嘴の先をつつくと、もういちど同じ言葉を繰り返す。

 目を瞑り、名残惜しく聞きながら、その一言一言を忘れないよう胸に刻んだ。

 やがて嘴を噤んだ鳥に、お礼だよ、と言ってもう一粒銀を咥えさせ、差し出した手の上に止まらせる。

 伝えたいことはたくさんあって、でも伝えられないこともあるけれど。

 遠く関弓で学ぶ人を思い浮かべて、陽子は微笑んだ。

「お久しぶり、元気だろうか。私は元気です---」

 

 

 

 

初稿・2005.01.24




不遜にも『書簡』に続くイメージで・身のほど知らずが

あ、景麒の出番忘れた・笑
でもこのほうがまとまりそうなのでよしとします(景麒ファンの方ごめんなさい)
この鳥ってどれくらいの間隔で行き来してるんでしょうねー。
そんでもって、鸞の提案したの誰なんだろう。
個人的に景麒だといいな、と思ったんですが、延王が餌提供してるからには延主従も関わってそうですね。
どうやって楽俊の手元に届いたのかとか、なんで名前知らないんだろうとか。
疑問は尽きないんですが。手渡しなら鳥の名前くらい聞いてそう。



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||22|| 惚れるより慣れってね。 (三人娘&六太)

麒麟は王を選ぶ。
それってどんなかんじ?


 麒麟は王を選ぶ。

 あたかもそれは、と知ったような口で言ったのは、五百年を数える大王朝を築いた雁の名君である。

 曰くところ、

「男が女を選ぶように、もしくは女が男を選ぶように」

 である、らしい。

 

「感覚としちゃあ、まあ間違ってねえのかも知れねえけどさあ」

 梨の実にかぶりつきながら、その名君の宰輔が嘆いた。

「そうすると、アレを選んだオレの立場ってねえだろ」

 同意を求められても、ここは肯定も否定もできないわけで、座を囲む一同は笑ってごまかすしかない。

「例えば景麒とか廉麟とかならともかくだな、同性の王を選んでそんなこと言われたら、立つ瀬ないぜ」

「采麟と泰麒もそうだね」

 笑いを噛み殺しながら陽子が頷いた。

 そうね、と相槌を打って、祥瓊が首を傾げる。

「あらでも、芳はお父様と峯麟だし、元の塙王も男王と塙麟だったのでございましょう? 同性の主従って少のうございますのね」

 おもいもよらぬ一撃に、六太は梨の塊を呑みこんでうめいた。

「祥瓊……」

「あら、申し訳ございません」

 ほほと笑って口元を隠す仕草が実にたおやかで、それ以上文句を言う気もなくなって肩を落とす。

「別にいいけどさ……。オレだってどうせ選ぶなら、陽子みたいに美人の女王の方が良かったよなぁ」

「……女王の方がってところだけ受け取っておく」

「でも実際、天啓ってどんなふうに降りるものなんですか?」

 替わりのお茶を継ぎ足しながら鈴が興味津々の顔で聞くと、天意を受け取った麒麟は大仰なしかめっ面で腕を組んだ。

「それなんだよなぁ。こいつだ、って思ったのは確かなんだけど、稲妻が降ってきたとか、違う物が見えたとか、そういうんじゃないんだよな」

 行儀悪く卓子(つくえ)に頬杖をついて、目を(すが)める。

「……光、みたいのは、多分感じたんだ。けど、あいつはそうじゃなかったみたいだし」

「あいつ?」

「泰麒。昔、ちょっと会ったことがあるんだけど、そんときそんなこと言ってた」

 あの方はただ恐ろしかったのだと、王気は見えなかったと景麒にすがって泣いたという、小さな麒麟。

 そのとき自分はいなかったけれど、あの景麒が血相を変えて嘆願に来たのだから、よほどの様子だったのだろう。

 黒の鬣をした(いとけな)(かお)を切なく思い出して、六太は胸のうちでかぶりをふった。

「たとえ気分的にどんなヤな奴だって、そいつが王なら選んじまうのが麒麟なワケよ。自分の好みとか、そういうのは全然関係ねーの。まあもともと麒麟は王が第一なわけだから、そんな嫌いな奴を王に据えるってこともないんだろうけどさ」

 言って、複雑そうな顔をした慶の女王を見やり笑う。その視線に気づいた鈴と祥慶も顔を見合わせてくすりと笑った。

 ここの麒麟が王と始終喧嘩しているのは、一同のよく知るところである。

「あれだよな、惚れるより慣れっての? そういうもんだろ」

 勝手な結論に、陽子がええ?と渋面を作った。

「それって、お見合いとかでお嫁に行くとき言う台詞じゃないのか?」

「そうだっけか?」

 蓬莱での暮らしの短かった六太はけげんそうだが、陽子の隣で鈴が頷いた。

「近所の小母(おば)さんが、お嫁入りする御寮(ごりょう)さんにそんなこと言ってた覚えがある」

「あの、お見合いって、なに?」

 あちらのしきたりを知らない祥瓊に、今度は陽子が腕組みをして唸った。

「ええと、こちらでいう許配みたいなものかな。もっとも、向こうは土地の割り振りなんてないし、そのまま夫婦になって暮らすけど。本人同士じゃなくて、親とかまわりが結婚を決める方法……で、いいっけ?」

 いかんせん結婚に縁のある年回りでなかったから、同郷の少女に助けを求める。話を振られた鈴が、小首を傾げた。

「あたしの頃はまわりが決める方が普通だったわ。一度も顔を見たことのない人のところへお嫁に行く人も多かった」

 待って、と震える手が上がる。

「そのまま結婚て、見ず知らずの人と? あちらは簡単に別れたりしないって言ってなかった?」

「まあ、お見合いだったら余計そうだね」

「別れるなんてとんでもないわよ」

 多少時代差があるとは言え同じ蓬莱育ちの二人の説明に、祥瓊が信じられないと頬に手を当てた。

「そんなの、冗談じゃないわ。結婚相手を勝手に決められて、それも一生だなんて!」

 真剣に悩む祥瓊を眺めて、陽子が苦笑する。

「相当カルチャーショックだったみたいだな」

「かるちゃーしょっくってなんだ?」

「異文化を知って衝撃を受けるってこと」

 なるほどだいぶん衝撃を受けたらしい同僚の様子にくすくす笑っていた鈴が、ああと一人頷いた。

「そう考えると、王様と麒麟もお見合いみたいなものなんですね」

「……なんだって?」

 唐突に言われて、王と隣国の麒麟が手にしていた茶碗を取り落としそうになる。

「だって、お互い面識のない王様と麒麟を、天がお(めあ)わせなさるのでしょう? 天帝様がお引き合わせになるお見合いって言っていいんじゃあ」

「娶わせるとか言うな!」

「あれとお見合いなんて恐ろしい話はやめてくれ……!」

 想像するだに恐ろしい表現に六太が金の鬣をかきむしり、陽子は頭を抱えて卓子に突っ伏した。

「……いけなかったかしら」

 まだぐるぐる廻っているらしい祥瓊と悶絶する二人に囲まれて、鈴は一人途方に暮れた。

 

 

 




【娶わせる・めあわせる】御存知ない方、辞書引いてください・笑

どうも麒麟が絡むとどたばたしますねえ。
陽子の両親は見合い結婚な気がする。なんとなくだけど。
あ、柳と舜無視しちゃった。あそこんち、主従どうなってんだろう?



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||23|| 身体の内まで知ってるくせに。 (年齢制限モノではありません!)

楽俊×陽子◆独白メイン
時間軸はかなり未来ということで・


 

 

 ええ一応、これでも年頃ですから?

 そもそも若い女の子が二人以上寄れば、出てくる話の一つには違いないし。

 ああだけど。

 そんな可愛いお喋りに興じている少女たちの輪から、自分はちょっと離れていたな、なんて、今更に思ってみたりする。

 例えば、指先がちょっと触れただけで飛びあがるほどどきどきしたり、見かけただけで嬉しくなるなんて。

 そんな経験、アリマセンデシタヨ、とか。

 ……いやべつに、ひがみなわけじゃないけど。

 その障害物は、親の教育方針だったり、自分のことなかれ主義的な逃げだったりしたわけだけど、それがよかったのか悪かったのか、いまではもうわからない。

 

 まあだから、レンアイというやつに免疫なんてさっぱりないはずなのに、手が触れても、吐息がかかるほど近くにいても、嬉しくなるだけで慌てないのはどうしてなんだろうね?

 出会いの状態が、わたしにとっては最悪で、おまけにわたしは彼を鼠なんだと思ってた。

 だから、すごく大事な友人ではあったけど、性別なんて気にする余地もなくて、事実を知ったときはものすごく恥ずかしい思いをする羽目になった。

 それはもう、あのことを思い出すといまでも冷や汗が出るほどね。

 だけどそれからも、わたしたちはお互いを親友と言える間柄で、ずっとそれは変わらないのだと思ってた。

 どんなに距離があっても、立場が違うと言われても、そんなの関係ないと言えるくらい、大切な人だった。

 自分の気持ちに気づくまでは。

 よき相談相手の人たちは、わたしより先にわかってたみたいだけど……。

 えーえ、こんなに鈍い人見たことないとか、なんでそんなに晩生(おくて)なんだ!とか、挙句に本人以外はみんな気づいてたのにとまで、散々に言われましたとも。

 だって、本当に気づかなかったんだもの、しょうがないでしょう?

 

 

 好きなのはもうずっとまえからだけど、それがどういう「好き」かなんて、考えたこともなかった。もしかすると、自分はそういうこと考えちゃいけないんだって、無意識に思ってたのかもしれないけど。

 だって、わたしの考え、わたしの言葉一つで、途方もなく大きいものが動いてしまうから。

 だけど、会いたいと思って、そうしたら涙が零れたとき、違うんだと知った。

 まわりにいる誰に対する気持ちとも違うものがこみあげて、心がはじけそうになった。

 それから、病んだ恋を抱いてその身を(なげう)った(ひと)のことを思い出したんだ。

 以前のわたしにはなにが彼女を蝕んだのかわからなかったけど、この気持ちの大きさに狂気を見つけて、身体が竦んでしまった。

 

---彼女と同じ道を辿らない保障なんて、どこにもない。

 

 でも、想いは溢れてしまって、止めようがなくて。

 受けとめてもらえるかどうかわかりもしないまま、夜のなかを走った。

 もうこれっきりになったとしても、堪えていることなどできないからと、洗いざらいぜんぶ打ち明けて、それでも、嫌いにならないでと思ったら、涙が止まらなくなった。

 泣き落しなんて、サイアク。

 こんなみっともないことしたかったわけじゃないのに。

 ごめんと言って逃げ出そうとした腕を掴まれて、そのまま抱きすくめられた。

 自分の答えは聞いてくれないのか、と囁く声が、聞いたこともないくらい甘くて。

 小さく告げられた言葉。

 交わした証。

 その日から、あなたの名は私のなかで特別になった。

 

 

 指を絡めて、掌の温かさを感じて。

 ほら、こんなに安心する。

 それって、どういうことなんだろう。

 ねえ、と聞くと、あなたは笑う。

「子供が親と手を繋ぎたがるのと、一緒なんじゃねえのか?」

「……意地悪」 

 わたしの気持ちなんて全部知ってるくせに、そうやってからかうのは、照れ隠しなんですか?

 悔しいからおもいきり抱きつけば、同じ強さで抱いてくれる。

 触れたところから伝わる互いの体温が、すごく心地いい。

 きっとこれは、あなたを好きだと思えることの、幸せの安らかさ。

 

 もしかすると、ずっと好きだったんじゃないかな、と思う。

 ただあまりに気持ちが大きすぎて、自分で見えなかっただけ。

 助けてもらったからとか、支えてくれるからじゃなくて、あなたという人そのものが、とてもとても好きなんです。

 

 あなたに対するこの気持ちだけは、いつまでたっても出逢った時の十七のままだと思う。

 きっとね。

 

 

初稿・2005.01.25




ほとんど陽子ちゃんの独白。
私的にはベラボーに甘いです。でも肝心なところ逃げちゃった・

だから~、恋愛物書いてるときに暗くなるのやめろ自分・最後でぎりぎり浮上
でも王と失道、景王と舒覚って、どうしても切り離せないので。
これを乗り越えたところに、真実の愛があるのですヨ。>ウソくせッ!by山田奈●子
男王だったら、まったく問題ないんでしょうね、こういうの。後宮あるくらいだしな・
つーかもー、なにが書きたかったんですかマコトさん・(ノ-o-)ノ ‰ ちゃぶ台クラッシュ

ところで、このお題、ネタメモ欄は「ウラ?」でした。
書ケモシナイクセニ・
いやーだって、そういうふうに読めるじゃないですか~・笑
でもまあ無理は承知なので、身体の内→気持ち、ということに。
そっち方面で期待していた方、ごめんなさい・笑


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||24|| さぁ戻っておいで。 (祥瓊・景麒)

説教祥瓊(?)◆待つことも大切。


 磨き上げられた廊屋を、金の鬣をした青年が足早に歩いている。

 常にはやや冷ややかそうな印象を与える(かお)に頼りなげな陰が落ちて、どことなく親とはぐれた迷い子のようだった。

「景台輔」

 脇から玲瓏たる声をかけられて、青年は足を止めた。

「祥瓊」

 顰めた眉の下から、深い紫の視線が紺青の髪の少女に向けられる。

「主上は」

「積翠台にいらっしゃいます。でも今はそっとしておいてさしあげなさいませ」

「しかし……」

「景台輔」

 いいつのった先をたしなめるように止められて、景麒は口の端を下げた。

「台輔には、主上の御不興の理由を御存知ですの?」

「存じている。しかし、王たるはこのような些事(さじ)でみだりに感情を露わにするなど」

 紫紺の瞳から視線を逸らせて零せば、美しい少女は子供をあやすように笑う。

「わたくしには、景台輔のほうがよほど感情に左右されているように見えますわ」

「祥瓊」

 睨めつけても、元公主であった娘は怯みもしない。実際、(けみ)した年を数えれば彼女は景麒よりも年上なのだ。

「主上はまだお若くていらっしゃいます。王としてよりも市井の娘であった時間のほうが長いのですよ。些事といえど民に難あったは事実。傷心のお心うちをお察しになって、もう少しお優しくはなされませんか」

 言外に冷たいと言われ、景麒が不機嫌そうにそっぽをむいた。

「王は傑物でなければ国が成り立たぬ。第一、市井のことに逐一御宸襟を騒がせていては、政に障りがあろう」

「民の苦難に嘆き、御身を責められるを否とされるか」

 叱責にも似た声音に、びくりと景麒の肩が震えた。それを見遣って、祥瓊が深く溜息をつく。本当に、主によく似て不器用な僕。

「民に憐憫を垂れるとおなじに、主上にも慈悲をおそそぎあそばせ」

 麒麟は民意の具現というが、それ以前に慈悲の神獣であるはず。

 なのになぜ王を労わることができないのだろうと、彼を見ていると嘆きたくなる。

 やれやれと首を振って、祥瓊は柔らかい苦笑を唇の端にのせた。

「大丈夫、陽子は(つよ)い。それは、あの拓峰の乱を共に戦ったわたくしたちが、一番存じております。今は苦しんでも、きっと顔をお上げなさいますよ。信じて待ち、お戻りになったときには笑ってお迎えするのが、わたくしたちの役目ではござませんか、景台輔」

 やんわりとした微笑みのなかに、王に対する確固たる信頼がある。

 それを察して、景麒は瞑目した。

 誰よりも王を信じて良いはずの麒麟よりも、ほんの数ヶ月前に知己を得たばかりの少女の方が、王を信頼しているとは。

 これで宰輔とは、情けない。

 小さく息をついて、俯いた顔を上げた。

「……その通りだ。わたしも王を信じてお待ちすることにする」

 ぎこちないながらも小さく笑んで、景麒は踵を返した。

 まずは州庁へ。それから冢宰府を訪って浩瀚と打ち合わせて、雑多な仕事は片付けてしまおう。

 彼の主が戻ってきたときに、すこしでも執務が軽くできるように。

 今の自分にできることといったら、その程度のことだから。

 

 

初稿・2005.01.25




景麒が祥瓊や鈴を呼び捨てにするのって、なんだか
ものすごく違和感があるんですが・笑
「女史」とか「女御」って呼んでそう。
立ち直ったあとの祥瓊って、好きなんですよ。
金波宮でもバリバリ働いてそう。


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||25|| ま、とりあえず泣いとけ。 (楽陽?)

駆け込む場所、受け止める腕。


 

 

 霧雨が、雲海を貫いてそびえる凌雲山を静かに抱きすくめていた。

 無数の雫は溢れる物音を包み込み、街には眠るような静寂が満ちている。

 灯火が要るか要らないか、狭間の薄暗さのなかで一心に書物を読み耽っていた楽俊は、気忙しく、だが押し殺したような叩扉の音に我に返った。

「文張」

 扉の隙間から覗いた同輩は、珍しく顔をしかめている。

「どうした鳴賢、なにか……」

「ちょっと、着替えて来い」

 尻尾を揺らしほたほたと歩み寄った楽俊に、鳴賢が早口で言ってその肩を叩く。

「着替えって」

「いいからはやく!」

 衝立の向こうに急かされて、なにとも聞き返せないままとにかく姿を変え着物に袖を通した。

「そんなに血相変えて、なにかあったのか?」

「阿呆、血相変えなきゃならないのはお前だ」

 苦い口調に、衝立をどかす手が止まった。

「おいら?」

「このあと、予定はないな?」

「あ?ああ。今日はもう」

「じゃあ、ちょっと外に出るぞ」

 足早に堂室を出る鳴賢に従いながら、ゆるゆると不安が這い登ってくる。

「いったい、なにがあったんだ」

 いつも快活で陽気な友人がここまで真剣な顔をしているのはあまりみたことがない。

 そうさせるだけの事態で、しかも自分に関わることとはなんだろう。

 楽俊に視線をやった鳴賢が、眉間の皺をやや深くした。

「さっき、息抜きついでに買い物に出かけようと思ったんだ。そしたら、門のところにあの子がいて」

「あの子?」

 察しの悪い友人を、鳴賢がじろりと睨む。

「前、お前んとこに来てた、赤い髪の子だ」

 楽俊が黒い瞳を見開いた。

「なんで陽子が?」

「それはお前が聞け。理由は言わないけど、ひどく落ちこんでるみたいなんだ。この天気に傘もないで門の外に立ってたから、俺も驚いたよ」

 すれ違う学生たちを気()って声を(ひそ)めた鳴賢が、顔色を変えた楽俊に目を向けた。

「お前に連絡はなかったんだな?」

「ああ」

 短い返事にそうかと頷いて、溜息をつく。

 灰色に滲む街のはし、途方に暮れたように立っていた少女。

「お前に会おうかどうしようか、迷ってたみたいだ。とにかく、一番近い舎館(やど)に連れていって、お前を連れてくるから待っててくれって言っといた。あの子は呼ばなくていいって言ってたけど、よくないだろ?」

「よくねえ。ありがとな、鳴賢」

 見つけてくれたのが鳴賢でよかった。

 不安の中に僅かな安堵を抱えて、楽俊は走り出した。

 

 

「楽俊」

 案内された房室(へや)、窓際の椅子に座っていた少女が、はじかれたように立ちあがった。

「陽子、どうしたんだ」

 半ば駆けるようにして、陽子の顔を覗きこむ。少女の精彩を欠いた貌が、ぎこちなく笑顔を作った。

「ごめん、騒がせちゃって。なんでもないんだ」

「なんでもなくて、連絡もなしにいきなりおいらのところにくるようなお前じゃねえだろ」

 いらねえ気なんか使うな、と叱ると、翠の瞳が縋るように揺れた。

「ごめ……」

 謝罪の言葉は途中で途切れて、あとはただ俯いたきりの肩が震える。 

 嗚咽を堪えるように口元をおさえた指に雫が伝うのを見て、楽俊はそっと少女の肩を引き寄せた。

 背中に流された髪は濡れそぼって、彼女が逡巡していた時間を思わせる。

 舎館で着替えたのか服は乾いていたが、生地を通して触れた腕は冷たかった。

「むこうには、言ってあるのか?」

 静かに問うと、腕のなかの頭が小さく横に振られた。

「ごめ……な、さい……」

 掠れるような声に、緋色の髪を撫でる。

「べつに怒ってるわけじゃねえさ。ただ、みんなが心配するだろ?」

 うん、と弱く頷いた背中を、あやすように軽く叩いた。その手に促されるように、陽子がぽつりぽつりと口を開く。

 金波宮は浩瀚や遠甫の指揮で治められても、地方ではいまだ猾吏(かつり)の横行が激しいこと。中央からの指示に従わず、私服を肥やすことにだけ奔走するような輩があり、治水が遅れたこと。そのために、幾つもの里が洪水に飲まれ、多くの民が被災したこと。

「……全然、駄目なんだ。まわりはみんな頑張ってくれているのに、わたしだけなにもできなくて。所詮女王だって侮られても、それを押さえる力もない。王なのに、民を守るべき立場にあるのに、あの人たちを助けることができなかった……っ」

 そうか、と相槌を打ちながら、腕のなかの温もりに切なくなる。

 答えが欲しいわけじゃなくて、自身の不甲斐なさを責めているのなら、自分にできることはただ黙ってうけとめてやることだけ。

 それだけしかできなくて、それが辛かった。

 彼女がただの娘なら、こんな苦悩などしなくてすむのに。

 こんなときは、いやでも彼女に課せられたものの大きさを思い知らされる。

 そして、自分の力の足りなさも。

 尭天と関弓は遠すぎて、励ましてやりたくてもおいそれと会うことは叶わない。

 まして、距離以上に二人を隔てているのは、雲海。

 人と神の領域を()かつ空の高みは、どんなに手を伸ばしても届かない。

 引いてくれる人の手や伝えてくれる翼があるから繋がっていられる、(もろ)い関係。

 それを思いながら、自分に寄り添う少女の髪を()いた。

「そんなに、自分を責めるな」

 こんな言葉が慰めになるかはわからないけれど。

「陽子は、王様になったばっかりだろ? まだまだこれからじゃねえか。治水も、官の整理も、今始まったんだ。なんでもかでも一気に押し進めて、いい結果が出るとは思えねえ。できることからひとつづつやっていくんだ。そうじゃねえか?」

「できる、ことから?」

「ああ。陽子に必要なのは、そういうことの積み重ねなんだと思うぞ」 

 そうだな、と言葉を捜す。

「とりあえず、今は泣きたいだけ泣いとけ」

 ややあって、腕を廻した背中が小さく震えた。

「……なに笑ってんだ?」

「そんなふうに言われたら、もう泣けないよ」

 まだ濡れた翠の瞳が、恥ずかしそうに笑いながら青年を見上げた。

「ありがとう。ごめんね、楽俊だって勉強大変なのに、甘ったれたこと言って、騒がせて」

「なに、溜めこんでどうにもならなくなるよりいいだろ。それに、陽子は頑張り屋だから、自分を追い詰めすぎるんだ。ちっとぐらい気を抜いたって悪かねえぞ」

「……そうかな」

「そうさ」

 顔を見合わせて、ようやく少女が笑う。そこへ不意に玻璃を叩くものがあって、二人は同時に窓を見た。

 楽俊には馴染みの音、そして互いに覚えのある鳥が窓枠に翼を休めている。

「陽子、おいらに送ったのか?」

 相手を見れば、やはり怪訝そうな少女が首を振り、それからそら恐ろしげな顔をした。

「じゃあ、わたし宛て、かな……?」

 不安そうに窓を開けて鳥を招き入れ、陽子が恐る恐るその翼を撫でる。

---陽子、祥瓊です。無事に届いたかしら?

 赤い嘴から零れたのは、紺青の髪の少女の声だった。

 その軽やかな口調に、陽子は大きく息をついた。

「絶対、景麒か浩瀚だと思ってた……」

 おなじ予想をしていた楽俊がくすりと笑った。 

---陽子のことだから、台輔か浩瀚様だと思ってたんでしょう。でもそれじゃ陽子がかわいそうなのでわたしがかわりました。どう、すこしは安心した?

 茶目っ気を含んだ声音に、聞き入る二人が苦笑する。

 こちらの考えていることなど、先刻お見通しと言うわけだ。

---陽子の考えてるとおり台輔はご機嫌斜めですけど、まあ班渠が一緒みたいだし、浩瀚様や遠甫がよってたかって言い含めているからこちらは大丈夫よ。いつも気苦労かけられているんだし、たまには心配させてやったら、とわたしや鈴は思ってるんだけど。こんなこと言うと、楽俊に怒られるかしら。

 至って気軽な物言いに、二人は驚いて顔を見合わせた。

「陽子?」

「言ってないよ!」

---どうせ楽俊と一緒にいるんでしょう? ここを飛び出した陽子が行くところなんて、そこしか思いつきませんからね。だから、みんなもそれほど心配していません。……行っていないなら心配なんだけれど。駄目よ、いまもしも一人なら、すぐ楽俊のところへ行きなさい。陽子が一人でいたってろくなことないんだから。

 命令口調の祥瓊に陽子は頭を抱え、楽俊が苦笑った。

「……わたしはそんなに信用がないのか?」

「どういう意味なんだろうなあ」

---……ええと。とりあえず、まだ気がすまないんだったらもう少し憂さ晴らししていていいそうです。これは浩瀚様からの伝言だから、心配しなくていいわよ。遠甫は、いっそ台輔が説教する余裕もなくなるくらいに気を揉ませてから帰ってきたら、なんて言っています。それも楽しそうだけど、あとが怖いからそれよりは早めに帰ってきてね。そうそう、鸞の足に袋をつけておいたわ。銀が入っているので、御褒美をあげてください。……落していないと良いんだけど。では、楽俊にもよろしく。

 鳥がその赤い嘴を閉じても、脱力しきった陽子は顔を上げない。楽俊がくすくす笑った。

「祥瓊もたくましくなったなあ」

「……たくましすぎだよ」

 近しい友人というだけではなく、女史として傍で助けてもらっているだけに、陽子は祥瓊に頭が上がらないらしい。

 もう、と唇を尖らせた陽子の頭を、楽俊は笑いながら撫でる。

「ま、お許しも出たことだし、ゆっくりしていけ」

「……うん」

 頷いた陽子が、額を楽俊の肩にもたせかけた。

 

 

初稿・2005.01.26

 




えーと、24の続きと思っていただいても結構です。
別でも一向に差し障りはありませんが。

うちの二人は、あんまりひっつくのを気にしませんねー(だから書いてんのはお前だ)
どういうスタンスなのか、私としても迷うところなんですが。
服来てりゃいいのか、楽俊・笑  
状況にも寄るんだということでね。

これ、実はNo.11用に書き始めたものでした。
つまり、11番は本当は楽陽だったんですね。あははははー・逃


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||26|| 取り戻せないぐらい奪って。 (陽子)

戻れない場所、消せない記憶。


 消えない記憶がある。

 

 消せない思い出がある。

 

 それは、永遠の枷。

 

 

 虚海を臨む岸壁から、陽子はその黒い海を見つめた。

 

 強い風が前髪を巻き上げ、頬を叩く。

 他を受け入れぬその冷たさに、ここで初めて目覚めたときの感覚が甦った。

 

 身に迫る潮騒。

 すべてを飲み込もうとうねる波。

  

 それは恐怖と、言い知れない孤独。

 

 ああ、と嘆息した。

「ここから、始まったんだな・・・」

 この海から続く光景には、憎悪と血の臭いがまとわりついている。

 獣の咆哮。

 肉を断つ手応え。

 身を(さいな)む痛みと飢餓。

 それまでの自分には、なにひとつ覚えのないことばかり。

 

 あの日々を思えば、こうして生きていることは奇跡のようだ。

 自分を助けてくれた幾人もの顔を思い浮かべれば感謝の思いはつきないが、それでも、この海の彼方を見ると胸が締めつけられるように痛い。

 

 家族がいる。友人がいる。慣れ親しんだ景色がある。

 もう手の届かないものはあまりに多く、襲いかかる寂寥感に手足が引きちぎられるようだった。

 人から神に生まれ変わるというのなら、なぜあのときにこの記憶を消してくれなかったのだろう。

 どうにもならない想いなら、すべて奪ってくれればよかった。

 これほどまでに後ろ髪を引かれるものが、道を誤らせない保障はどこにもないのに。

 

 潮騒は、耳に響き、心に()みる。

 深く強く胸をえぐり、辛い傷ばかりを残す。

 忘れるな、忘れるなと繰り返す。

 二度と手に入らないものを求める感情は(くら)く、焦燥に似た苦さがこみ上げた。

 

 帰れないと言われ、戻らないと決めた。

 その決心を揺さぶる波音は、遠い昔に母の(はら)の内で聞いた音に似るという。

 この世界では誰も聞かない音を、陽子は記憶の底で知っている。

 だから、こんなにも魅かれるのだろうか。

 いい思い出など何一つないのに、この黒い海は陽子を呼ぶ。

 

 繋がっているのに(かえ)れない、月影の向こうの故国へと。

 

 いつのまにか頬を伝っていたものを、袖で乱暴に拭う。

 なにを思っても、もうあともどりはできない。

 自分にできるのは懐かしむことだけで、いまはそれすらも許されないけれど。

 いつか、こんなことがあったと笑って思い出せる日がくれば、それでいい。

 

 

 わたしは、ここにいます。

 この海に抱かれた世界で、精一杯生きてみます。

 だから、今は忘れて。

 もう泣かないで。

 傷が癒えた頃に思い出して、懐かしんでくれれば、それでいいから。

 

 虚海の果てに暮らす愛しい人たちを思って、陽子は目を閉じた。

 

 

初稿・2005.01.27

 




登極前の巧国で。
SSSですね。
このメモにも「シリアス?ウラ?」とか
悩んだ形跡が・笑


初稿段階では、700文字程度でした。
でもハーメルンさんは1000文字が下限なので書き足しました。
……そういうハナシが何本かあって、わりとつらいですw


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||27|| もう、追い付けないよ。 (珠晶)

王の歩みを止めることは、麒麟でも許されません。


 

「主上、お待ちください、主上!」

 慌てたと言うより半泣きの下僕の声に、珠晶は鞍の上から振り返った。

「ちょっと行ってくるだけよ。あとよろしくね!」

「主上!」

 追いかけてくる声を無視して、騎獣の腹をとんと蹴る。利口な獣は珠晶の意を汲んでぐんと高く飛翔した。

 みるみるうちに視界が開け、風に乗るその速度も上がる。

 あれは絶対べそかいてるわね、と一人笑って、珠晶は手元のややかたい毛皮を撫でた。

「これでもう追っかけて来ないわ。いくらあいつの足が速くたって、留守を放っては来られないはずもの」

 融通が利かなくておとなしい半身は、ことに珠晶の勘気に弱い。

 ついてくるなと厳命され、留守を任せたと言われれば、弱りはてながらも従って、置いてきぼりを食った犬のように項垂れてひきさがるしかないだろう。

 珠晶によく慣れた巨大な虎の騎獣が、賢げな瞳でちらりと背を見返る。

 そのたしなめるような苦笑うような気配に、十二国で一番幼い女王はつんと唇を尖らせた。

「だって、あんなやつつれてお忍び歩きなんて、できるわけないじゃない。目立っちゃってしょうがないわ」

 言って、先日連檣(れんしょう)の街に下りたときのことを思い出し顔をしかめる。

 それはひさかたぶりのお忍びのこと。めずらしく供麒が譲らずどうあってもついていくと言うから、さすがの珠晶も折れたのだ。

 たまには主従でもいいかと、珠晶はおとなしめの襦裙に着替え、供麒にも『お嬢様と随従』という体裁でそれらしい恰好をさせたものの、見込みは全く甘かった。

 供麒は麒麟のくせにそこいらの杖身よりもがっしりした体格をしている。たとえ金の髪がなくとも、あの図体で目立たないわけがない。

 おまけにちょっと目を離したすきにはぐれてしまい、挙句にあろうことか街の中で半泣きの顔で主上などと叫ばれた日には、二、三発張り倒してもまだおつりがくるというものだ。

 おかげでしばらくは下界に降りられそうもない。

 まったく、ちょっと甘い顔をするとこれだから、とぼやいて、優雅に宙を踏んでいる騎獣に微笑みかける。

「それに、あたしだって星彩に乗りたいもの。あんたもたまには遠出したいでしょ?」

 小さな手に頭を撫でられて、騶虞は嬉しそうに喉を鳴らした。

 そうよねえ、と満面の笑みを浮かべ、珠晶は心底楽しげにもう一つ腹を蹴る。

「ちょっと遠いけど、頑張ってね、星彩」

 小柄な主の励ましに、くおん、と高らかな声が応える。

「いざ、清漢宮へ!」

 弾むような声とともに、蒼穹に長い尾がひるがえった。 

 

 

初稿・2005.01.27

 




ひっじょーに難しかったお題。

最初はダークな陽子ちゃんの予定でした。
(でもそれしか決まってなかった)
これが全然練れなかったので、珠晶にバトンタッチ。
そしたら早い早い。さすが珠晶。
視点を変えると視野が広くなりますね。
いくつかこういう難しいのあるんだよなぁ・・・。


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||28|| 信じてくれなくたって、いい。(楽俊)

楽俊独白◆鹿北から午寮へ


 

 郭洛の街、場末の舎館の薄い衾褥(ふとん)のなかで、小柄な鼠はころりと寝返りを打った。

 それまで背を向けていたむこうの衾褥から微かな寝息が聞こえて、すこしほっとする。

 眠れるようならいい。雑居の舎館では落ちつけないかと案じないでもなかったが、とりあえずは

大丈夫そうだ。

 そう思って、闇のなか天井を見上げる。

 今朝家を出てからこれまで、彼女が気を緩めた様子は一度もなかった。

 病み上がりの身体で一日歩いて、そのうえ気を張り詰めどおしでは身がもたないだろうに。

---仕方ねえとは思うけど。

 人と、ことに衛士とすれちがうときの怯えようは、見ているほうが気が揉めた。

 そんなに構えることはないと言ってやりたかったが、ずっと追われてきた彼女にしてみれば無理

もないのだろう。

 だから、せいぜい気づかない顔をして歩いた。自分に向けられている、怯えと猜疑の目にも。

 

 意識を取り戻してからこっち、楽俊は陽子の笑った顔を見たことは一度もない。

 器量はいいのだから笑えば可愛いだろうに、いつもなにかを睨みつけるような目で、物音ひとつにも聞き耳を立てて。

 たった十七かそこらの娘をああまで追いこむほど、巧国の海客への仕打ちは酷い。

 望んで来たわけでもなく、二度と故郷に帰れない者を、なぜそこまで鞭打つような真似をするのだろう。

 自分の身をかえりみて、楽俊はすこし息をついた。

 

 半獣だとて、虐げられるのにかわりはないけれど。

 

 でも、追われるわけでも殺されるわけでもない。職も田も貰えないけれど、命の保障はとりあえずある。

 剣を抱いて壁に向いた少女は、眠っていても安らいだふうはない。それをみやって、なんともいえず気の毒になった。

 彼女が高熱で(うな)されていたとき、おかあさん、と呼んだ涙声を覚えている。

 苦しげに喘ぎながら零した言葉はまるで末期の吐息で、ぞっとするほど弱々しかった。

 蝕になど巻きこまれなければ、あちらの世界でごく普通に暮らしていただろうに、こんな異郷で行き倒れて。

 宙を彷徨う痩せて傷だらけの手を握ってやりながら、頑張れと励ました。必ず助けてやるから、と。

 なんとか持ちなおして目覚めた少女は、案の定酷く警戒したけれど、楽俊は気にしなかった。

---そりゃあ、信用してくれた方が嬉しいけど、それがしんどけりゃ今は信じなくたっていいさ。

 こちらに流されてからこれまで辛いことばかりだったのだろうから、時間をかけて気持ちを落ちつけていけばいい。

この旅のあいだと、雁に着いてのその先で、身の振り方を考えながらゆっくり話そう。

どうせ先は長いのだから。

 

初稿・2005.01.28




なんか夜の描写が多いナーとか・

というか、このへん短編多くて文字数下限ギリなのがツラ(ry


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||29|| 気付いてる、痛いほどに。 (景麒)

景麒◆予王時代。



 

 園林(ていえん)からの帰路、とおりかかった路亭(あずまや)のひとつで、景麒は足を止めた。

 

 細工は美しいがどこかうらぶれた風情の建物に腰を下ろして、深く溜息をつく。

 肩が重苦しくて、眩暈がした。

 両手で押さえた白皙の貌は常にまして血の気が薄く、蝋のように白い。

---台輔

「……大丈夫だ」

 地中からかけられた声に応え、ぼんやりとあたりを眺めた。

 よく手入れされた樹々、色鮮やかな花々。

 緑そよぐ園林は美しく、だがその決まりきった美しさゆえにか、ひどく拒絶されているような気がする。

 まるで、自分を拒む主のように。

 

 いや、と頑なに首を振る女の顔が浮かんで、苦い気分で眉を顰めた。

 

 間違いなくこの国の王であるのにその責務を果そうとしない主は、ただの娘であった頃に戻りたいと泣いた。

 (まつりごと)に見向きもせず、日がな一日(はた)を織り続ける背中は断固として景麒を寄せ付けない。

 それを忌々しいと思っている自分に気がついて、愕然とした。

 

 麒麟は王を選び、王に従う。

 

 天帝が十二の国を定め、王に玉座を与えてからの、それは(たが)えようのない決めごと。

 王を補佐し、民に慈悲を垂れるのが己の使命だというのに、無二の主を(いと)うとは。

 胸の内を、薄暗い靄が漂う。

 まとわりつくようなそれは、自覚すればいっそうに肩に重くのしかかる。

 大きくかぶりを振ると、薄い金色の鬣が頬に流れた。

 わかってはいるのだ。

 なにが足りず、なにをせねばならないのか。

 必要なことはわかってはいても、それをどうすればいいのかがわからないから、余計に身動きが取れなくなる。

 それでも。

---あの方が、あの方だけが、この慶国の王であるのだ。

 それだけは、忘れて欲しくないのに。

「台輔」

 いつのまにか路亭のはしに叩頭していた女官に呼ばれて、景麒は我に返った。

「なにか」

「青鳥が届いております。蓬山からとのことなのですが、如何致しましょうか」

「蓬山?」

 思いもかけない言葉に、紫の目を瞬かせる。

「わたしにか?」

「はい。碧霞玄君より、至急のしらせとのことで」

 久しく聞くことのなかった懐かしい名に、郷愁めいたものが胸中を走った。

「わかった。すぐに仁重殿へ戻る」

「かしこまりまして」

 王を選び国に下った麒麟は、蓬山と関わることはない。ましてあちらから知らせが届くことなど滅多にないだけに、なにやら胸騒ぎがした。

 しかしそれは、奇妙に心(はや)るもので。

 その違和感を訝しく思いながら、景麒は立ちあがった。

 

初稿・2005.01.28

 




泰麒帰還後ってとこですか。

このお題を見た瞬間、しまったー!と叫びました。
短編で書いた『灯火』こっちに持ってくれば良かった、と・笑
でもまあ、予想外のネタが浮かんだので、これはこれで。

ということで、本日は『灯火』との2本UPです←


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||30|| 素人が無謀なんだよ。(雁国主従・楽俊)

望む先、進む(しるべ)、戻れぬ隘路(あいろ)


 石畳の走廊を、一人の子供が全力で走っていた。

 物凄い形相で息を切らし、よろめきながらもその勢いのまま自分の正面に見えた巨大な扉に体当たりする。

「楽俊!」

 叫びながら、勢い余って堂室のなかに倒れこむ。重い扉にあたった拍子に痛めたのか、左肩を押さえながら乱れた金の髪を振り払って顔を上げた。

「延台輔?!どうなすったんです!」

 子供---延麒六太の横に跪いた青年が、慌てて手を差し出す。

「……楽俊?」

「はい?」

 息を整え、紫の大きな目をぱちくりさせて見上げれば、相手も年に似合わぬ可愛げな仕草できょとんと首を傾げた。

「どうした、なんの騒ぎだ」

 青年の背後に現れた偉丈夫を見て、二度瞬く。

「……尚隆?」

「そうだが。自分の主を見忘れるほど()けたか」

 憎たらしいことを悪童の顔で言ってのける雁国の王に、六太はまだ事態が呑みこめない。

「……オレは、お前と楽俊が決闘してるって聞かされて、飛んできたんだけど……?」

「は?」

「なんだそれは?」

 見かけは年の近い二人の青年が、そろって頓狂な声を上げた。

「俺と楽俊が、何故決闘なんぞせねばならんのだ」

「延王が本気だったら、おいらなんて一瞬で首が飛んでますよ」

 それぞれに呆れたように首を振る。

 まだぽかんと口をあけたままの六太に、尚隆が口の端でふふんと笑った。

「おおかた朱衡あたりに担がれたのだろうよ。日頃迷惑をかけられているはらいせに」

「迷惑かけてんのはオレより尚隆じゃねーか!」

 噛みつくように一声上げて、六太は深々と息をついた。

「まったく、言うにことかいてとんでもねえこと吹き込んでくれるぜ……」

 ざらりとした感触の床にあぐらをかいて座り込む少年に、楽俊が苦笑する。

「で、ホントのところはなんだったんだよ?」

 睨み上げられて、延王と半獣である青年が顔を見合わせた。

「鍛錬、に、入るんでしょうかね?」

「まあ、護身の修練ではあるだろうな」

 はあ?と言ったのは六太である。

「護身で鍛錬? なんだそりゃ」

「身を守る訓練だ。そんなこともわからんか」

「だぁから、そうじゃなくて! なんでそんなことしてんだって聞いてんの!」

 麒麟のわりに短気な少年が噛みつく。その勢いにか、楽俊がやや視線を逸らした。かわりに答えたのは尚隆である。

「大学では、弓は教えても剣は教えないからな。かといって軍式の技術までは要らんし、ならば俺が護身術だけでも教えてやろうと言ったのだ」

「尚隆が?」

「そうだ。とりあえず身を守れればいいのだからな。攻撃はするな、とにかく防げと」

 なるほど、二人の手元にあるのは刃を潰した模擬刀。これで決闘であるはずがない。

 簡単な防具をつけている楽俊と違い、まったくの普段着で立っている男が笑った。

「俺の打ちこみに耐えられれば、まあそのへんのなまくらに打ち負けることはないだろう」

 紫の視線を転じられて、ええ、と楽俊が頷く。

「おいらはあんまり力がねえし、受け流す剣の使い方くらいしか覚えられませんから。なにぶん基礎がないもんで、打ち身だらけですけど」

 はは、といつもどおりのおっとり風情で笑う頭を、六太は腕を伸ばして一発ひっぱたいた。

「あいて」

「あったりまえだ! ドのつく素人のくせに尚隆なんぞ相手にしやがって、無謀なんだよ! こいつの剣は刃引きしてあったって重みだけで人殺せるんだぞ!」

 打たれたところを押さえて顔を顰める楽俊に、小柄な麒麟が吼える。

 いやまあ、と口篭もった青年が、ほかに表情の選びようがないという顔で苦笑した。

 むっとしたのは尚隆である。

「阿呆、誰がそんな下手な真似をするか」

「万が一ってことがあるじゃねえか! 楽俊にもしものことがあってみろ、オレたち揃って陽子に殺されるぞ!」

「……楽俊が心配なのか、自分の首が心配なのか、どっちなのだ?」

「両方に決まってるだろうが!」

 さんざんに喚き散らして、六太はがっくりと肩を落した。

「あーもー、なんでオレがこんなに疲れなけりゃならないんだよ……」 

「申し訳ありません」

 律儀に頭を下げた楽俊に手を振って、目の前の主を指差す。

「楽俊のせいじゃねーよ。悪いのは全部こいつ」

「いや……」

 いいさした楽俊を制して、不穏な顔の尚隆が剣環を鳴らした。

「ほお、お前も俺に剣を習いたいか」

「冗談じゃねえや! 尚隆なんぞに打たれたら、かよわいオレなんかふっとんじまわあ!」

 べえと舌を出す半身に、尚隆が拳骨を落す。それをすんでのところでかわした襟首を、大きな掌が掴んで引き戻した。

「じょうりゅ、ぐるじ……っ!」

「お前は、どこの麒麟が王にそんな非礼を取るというのだ!」

「どごのおーが、ぎりんのぐびじべるんだよ!」

「ああもう、やめてくださいって!」

 取っ組み合って目つきも悪く睨み合う主従に、楽俊が天を仰いだ。

 

 

 夕刻。

 主従からの心づくしという名目で軟膏やら酒やらを押しつけられた楽俊が王宮を辞したあと、六太は尚隆の堂室に顔を出した。

 既に酒肴を運ばせていた主に手招かれ、露台に出る。

 ちょうど半分の月が中天にかかって、凪いだ雲海を炯炯(けいけい)と照らしていた。

「ったく、尚隆の剣を真っ向から受ける奴がいるとは思わなかったぜ。下手したら大怪我だぞ」

「そんなへまはせん。第一、俺も陽子に首を刎ねられるのは御免だ」

 ふんと鼻先であしらわれて、欄干に腰掛けた六太が溜息をついた。

「言い訳も聞かずに一瞬で終わらせてくれそうだよな。覿面(てきめん)がどうとかなんて、絶対思い出しもしないぜ」

 ほの蒼く光を放つ剣を下げた、鬼気迫る隣国の女王。

 二人でおなじ光景を想像して、うそ寒げに肩を竦める。

「しかし、なんだって急に剣を教えるだなんて言い出したんだ? 第一、楽俊はどう考えたって文官じゃんか。剣を持つ必要なんてねーだろ」

 首を傾げられ、尚隆はさりげなく盃に酒を注いだ。

「護身を教えてやろうと提案したのは俺だが、剣を覚えたいと言ったのは楽俊だぞ」

「ええ?」

 危うく覗きこんでいた水面に落ちこみそうになって、欄干にしがみつく。

「楽俊が? なんでまた」

「あの利口者が本音など言うか。寛容で温厚で嘘がつけないくせに、肝心なところはなにひとつ見せん。実に官吏向きの男だからな」

 だが、と脇の皿から桃の実を一つとって、六太に投げ渡した。

「私欲のないあの男が己で動くとしたら、陽子絡みしかあるまい」

 受け取った桃にかじりつこうとした六太の手が止まる。

「陽子」

「天官の乱、楽俊に話したのだろう? やつはなにも言わんが、(こた)えなかったはずはない」

 手にした杯を置いて、尚隆は眼前に広がる雲海を眺めた。

「陽子を玉座につけたのは、景麒ではない。無論、俺たちでもない。景麒が選び、俺たちが道をならしはしたが、陽子の背を押して玉座を選ばせたのは楽俊だ。そしてその意味を、やつは誰よりもわかっている」

 みはるかす海は地上の明かりを透かして淡く輝く。

 それはこの世のなによりも夢幻的な光景だった。

「王でも麒麟でもないものが玉座を薦め、逃れようのないさだめのなかに陽子を送り出した。その責を、陽子一人に背負わせるような男ではないだろう。たとえ最後には陽子自身が選び取るとはいえ、先を示したのは楽俊なのだからな」

 だからこそ、今度のことは堪えたに違いない、と思う。

 臣でも官でもなく、一人の友として彼女を案じ、その苦心と努力を知っているから、元とはいえ天官として王の傍に仕えた者が王を否として剣をつきつけたと聞いて、平静ではいられないだろう。

 でなければ、茶飲み話と言えど剣を覚えたいなどと言うわけがない。

「あいつが望んでいるのは、陽子を支えることだけではない。意識無意識は別として、男なら誰でも、惚れた女を守りたいと思うだろうさ」

「……人の気持ちを勝手に代弁するなよ」

 顔を顰めた六太に、あくまで俺の推測だ、と軽く言って、尚隆は杯を干した。

 武力で守るのではない。彼がその智恵と情でもって友を支えるつもりであるのは承知の上だ。

 だが、もしもの時はその身を盾にしてでも彼女を守る覚悟であることも、尚隆は知っていた。そんなものは、言われなくてもわかる。

 いま慶の中枢にある者たちは、みな王を信じ慕っている。彼等とて陽子を支えるに懸命だろうが、彼女の背を守らんと自らに任じているのは、おそらくは楽俊だけではないだろうか。

 まだ己のさだめを知らず、迷い喘いだ少女を知っている、唯一の人間。

 逡巡するその背を押した責任を、楽俊は永劫自分に課すのだろう。

---王の気に取り込まれるような馬鹿が、麒麟のほかにもあったとはな。

 王を王としてではなく一人の人間として扱い、その身を支え守ることは、相手とおなじ重さを負うということだ。

 それがどれほど重いものか、尚隆は身をもって知っている。

 だがたとえそれがどんなものでも、彼は投げ出すことなど夢にも思うまい。

「……愚かな男だ。只人の身で、王とおなじものを背負うと言うか」

 ぽつりと漏らした言葉に、六太が酷く辛そうな顔で目を逸らした。

 なんと愚かで一途な。

 それはきっと、恋だの愛だのというような中途半端な恋情ではないのだろう。それはそれで別のものだ。

 無上の、無償の親愛。

 そしてそれは、たぶん陽子も同じ。

 ふむ、と唸り、顎を撫でる。

「つまりあれだ。情が深すぎて、男女の仲にまで発展しないのだろうな」

「結局そこにおとすのかよ!」

 小さな拳骨が飛んできて、尚隆は苦笑った。

 どうせ己の道は己で切り開かねばならないのだ。ならば自分たちはここで見守っていてやればいい。雁が倒れる頃には持ちなおしておくと言われたからには、慶が安定するまでは倒れるわけにもゆかぬ。

 まだまだ当分やることはありそうだと、雁の主は月に笑った。 

 

 

初稿・2005.01.31




ネタ練りしている当初は、ホントに仕合いしてました。
でも意味とおらないので二転三転した模様・模様って
尚隆の推察は正鵠を射てますが、ここまで書く気ではなかったです・苦笑
しかし、どうにも説明くさくてやだなあ。



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||31|| 玄人のくせにそのざま?

延主従◆『黄昏~』幕間。
「なにやってんだろね」


 

「まったく、よってたかって人を馬鹿にしおって」

……さっきから、繰り返す愚痴に変化がねーんだよ。

 隣を飛ぶ騶虞の上で憤然と腕を組む主に、六太は胸中呆れて溜息をついた。

 

 雲海の只中、周囲にはただただ塗りつぶしたような青が広がり、自分たちのほかは騎影も鳥の姿もない。

 こんな高所を飛べる鳥の種類など知れているから、もとより遭遇しようもないのだが。

 時折突き出る凌雲山の青い影以外何もない雲海の上は、日頃用もなく行き来するでさえ時を持て余す。

 そこへもってきて、同行が呪詛のように恨み言を繰り返していると来れば、いくら自分が仁獣であったとしても、かつ相手が至高の主であったとしても、その騎獣の背から蹴り落としたくなるのが人情(獣情?)というものではなかろうか。

 虎に似た騎獣の背、硬い毛並みに突っ伏しながら、六太は口を尖らせた。

「っとになー、文句言うならその場で返せよ。ここでなに言ったって、いまさら陽子に聞こえるわけじゃねーだろ」

「……少なくとも、お前には聞こえている」

「俺に二人分かぶれってのかよ!」

 こいつ、言い返せなかった腹いせに、おれにいやがらせしてやがるな。

 長年の付き合いで、へその曲がり具合はある程度察しがつく。

「まだまだひよっこだと思ってた陽子に『雁が倒れたときには慶が助けてやる』とかって言われて、へこんでるんだろ」

 隣から、答えはない。

「なにやってんだかね。五百年も王様やってるくせに、まだ新人の王にやりこめられるなんて情けない」

「……うるさい」

 陽子に切り返され、六太には図星を指されて、さすがに磊落(らいらく)は気取れないらしい。

「まあ? 偉そうに言ってても、その程度ってことだよな。宗王ならもっと恰好よくあしらうだろうに、これが主上の格の差って奴かね」

 ここぞとばかり嘲笑われても空の上、それも別の騎獣にわかれていてはいつもの拳骨も出せず、尚隆が睨み返す。

「その主を選んだのは貴様だろうが、馬鹿」

「てめ……っ! 仮にも麒麟に向かって馬鹿とはなんだ馬鹿とは!」

「ほう、自分の(あざな)も忘れるとは、麒麟も五百年生きると耄碌するか」

「あんな字、てめえがかってにつけただけじゃねーかよ! おれが自分で名乗ったわけじゃねえだろ!」

---台輔、落ちます

 溜息混じりの女怪の腕に支えられて、六太は歯噛みする。

 抜けるような蒼穹の下。

 二頭の騶虞の間で交わされる、聞くに堪えない罵詈雑言は、彼らが雁に着くまでとだえることはなかった。

 

 

初稿・2005.01.31




『黄昏』インターミッション。
あの陽子ちゃんの名言には爆笑させていただきました。
いやー、王様三年目で、ずいぶん達者になって来たねー。

これ、実はサイト掲載時は600文字未満でした。
掲載可能な1000字にするためにかなり書き足しています。
ワンカットでインパクト、という体裁のお題がいくつかあるので、加筆がけっこう骨です……。


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||32|| ごめんなさい、嘘吐きました。(楽陽)

楽俊・陽子
逢いたい気持ちは、こちらでもあちらでもかわらないものです。


 

「らーく、しゅん」

 唐突に聞こえた笑み含みの声に、青年はせわしく瞬いた。

 のめりこむように読んでいた帙から顔を上げ、自分を我に返らせた原因を探す。

 堂室のなかには自分一人。

 扉からは誰も入って来ていない。

 とすると、あとは一箇所だけ。

 あえてゆっくり振りかえった窓の外、闇のなかにちらりと緋色の頭が覗いていた。

「……陽子?」

 その声音に不穏なものを感じたのか、そおっと上がってきた翠の瞳がごまかすように笑う。

「……えっへっへ」

 少女の照れ笑いにやれやれと溜息をつきながら、楽俊は立ちあがった。

「お前といい雁の方々といい、王様ってのはどうしてこうお忍びが好きなんだろうなあ……」

 ついでに言うなら、そこは窓であって出入り口ではないのだが。

 正面から遊びに来られるような立場ではない面々だから仕方ないとは言え、おかげで留守のときにも窓に鍵がかけられない。

 この窓は凌雲山の絶壁に穿たれているから、彼等のように空を駆ける騎獣でもないかぎり侵入することはできないが、まあ気分的な問題である。

 苦笑しながら窓を開き、少女に手を貸して堂室に入れてやる。

「ごめん、邪魔しちゃって」

「なに、気にすんな」

 すまなそうな声に笑い、堂室の隅に置いた火鉢に湯をかけながら、物珍しそうに書卓の上を眺める陽子を振りかえった。

「そんで、今日はどうしたんだ?」

 え、と動きの止まった少女に小首を傾げる。

 てっきり雁の王宮に来たついでに顔を見せたのかと思ったのだが、違うのだろうか。

「上に用があって来たんじゃねえのか?」

 怪訝そうな顔をされて、陽子があーとかうーとか煮え切らない返事をする。

「陽子?」

「えーと、その。玄英宮に用があったわけじゃないんだけど……」

 うろうろと視線をさ迷わせながら、てへへと笑う。

 その様子に、楽俊も気がついた。

「ちょっと待て。お前、ちゃんとこっちに来るって言ってきたのか?」

「あ、うん、そりゃもちろん」

 陽子はさも当然という顔で即座に頷いたが、それでごまかせるほど付き合いの浅い相手ではない。

「……おい」

 楽俊が一歩進むと陽子が一歩半下がった。

「えーと……」

 中途半端な笑顔を貼りつけたまま、劣勢を悟った少女がじりじりと逃げる。

 遁走したければ窓際に行くべきだったのだが、うっかり壁側に進路を取ったがために自分で退路を断ってしまった。

 たいして広くもない堂室のこと、すぐに背中が壁にあたる。

「あのな、陽子」

 情けない恰好の景王に、楽俊が眉を顰めた。

 それを見た陽子のほうも危機感をつのらせる。

---まずい。すごく、まずい。

 これは絶対にお説教がくると察し、剣呑な雰囲気の青年から逃げようと背中で壁をつたっていったものの、たちまち追いつかれ両側を腕で遮られる。

「こら」

 至近距離でやたら冷静な声がして、狭い檻のなかで半身よじった恰好の陽子が首をすくめた。

 厳格な家庭と女子校育ちが災いしてか、異性に接近されると落ちつかない。

 まして、相手が相手だ。平静でいられるわけがない。

「陽子」

 その声に弱いとわかっているのかどうか。妙に落ちついた口調にあっけなく陥落した陽子が、観念して両手を上げた。

「嘘ですごめんなさい、抜け出してきました!」

「……やっぱりか。それは駄目だって言っただろ?」

 溜息混じりにこつんと額に小さく拳骨を貰って、もういちどごめんなさいと両手を合わせる。

「---でも、あのね?」

「ん?」

「すごく、楽俊に会いたかったんだ」

 この距離で、この状況で。

 上目遣いに見上げる仕草と殺し文句に落ちない男がいたら、お目にかかりたいもんだ。

 胸中派手に嘆息して、楽俊は額を押さえた。

 それを言うなら自分のやったことも同じようなものなのだが、本人に自覚はない。どちらも意図的でないだけに、始末におえない二人である。

「……怒った?」

「怒ったわけじゃねえけど……もうちょっと自重しろ」

「ハイ、ごめんなさい。今度はちゃんと許可とります」

「それだけじゃなくて」

 言われたことがわからずきょとんと首を傾げた陽子は、自分が妙齢の、それもかなり器量のいい娘だということを忘れているらしい。

---忘れてるっていうより、気づいてねえんだろうな。

 良し悪しは別として、いかにも彼女らしいことだ。

「楽俊?」

 文張、と呼ばれることの多い最近にあって、少女の声はどこか甘く懐かしい。

 まったくな、と笑って、陽子の前髪をくしゃりと撫でた。

「ま、いいか。おいらも会えて嬉しいし」

「ホント?」

「陽子に嘘なんかつくか」

 顔を見合わせて、さっきの攻防の反動かくすくすと笑いあう。

「だけど、あんまり遅くならないうちに戻れよ? 景台輔に怒鳴り込まれんのはやだぞ」

「はぁい」

 茶を入れながら一応釘をさす楽俊に、陽子はおどけて肩をすくめた。

 慶と雁は隣だけれど、尭天と関弓は遠いから、滅多に逢えなくて。

 鸞は声を伝えても、直接顔を見ることはできない。

---迷惑かけるのわかってたけど、飛んできちゃったんだ。

 甘えちゃってごめんね、と謝りながら、想像通り許してくれたことが嬉しくて、笑みが零れた。

「なんだ?」

「なんでもない」

 会いたかったと。

 会えて嬉しいと。

 その言葉だけで、今は充分。

 

 

初稿・2005.02.01




遠恋もいいですけど、逢わせる方法考えるのが大変でス☆
って言う楽陽字書きさん多いですよね(苦笑)
一応順を追って書くタチなもので、楽俊を一足飛びに慶の官吏とかにできないんですよねー。
やってもいいんだけど、あとから修正きかないから~・倒
でもそろそろ面会方法に限界がw



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||33|| もはや天然記念物モンだよなお前。(大学悪友s)

鳴賢・オリ大学キャラ◆大学仲間による楽俊見解。


「つくづく変わった奴だよな」

 臙脂(えんじ)の髪をかきあげて、曉遠がぼやいた。

「曉遠に言われちゃ気の毒だけど、確かに本人に自覚がないだけ、いっそすがすがしいね」

 合い向かいで書籍と帳面を交互に睨みつけていた玄章も賛同する。

 その横で、鳴賢は山積みの書籍に顎をのせてふうと溜息をついた。

「いっぺんあいつの頭の中、見てみたいよな」

「きっと今まで勉強してきたことがぎっちり詰まってんだろうぜ」

「少しでいいから分けてくれないかなぁ。そしたら馬術のコツ分けてやるのに」

 各々(おのおの)好き勝手なことを言って、顔を見合わせる。

「どういう奴なんだろうな、文張って」

「半獣姿のときなんて、嘘のつけないお人よしだと思ってたけど」

「なーんか謎も多いしなぁ」

 例えば、素性はよくわからないがどうも裕福らしい男とか、その子供らしいのが顔を見せたり、ちょこちょこどこかへ出かけたり。

 巧国の出身なのだから雁に知人は少ないはずなのに、あちこちから連絡が入っている様子。

 ものすごい美人が訪ねてきたこともあったし、それに劣らぬ男装の美少女と親しげに歩いていたこともある。

 だからといって遊び歩くわけではなく、出された課題は完璧に仕上げるうえ、どう時間をやりくりしているのか友人たちの誰よりも勉強家で、がつがつしているわけでもないのに成績はいつも上位。

 これを謎と言わんでなんとする。

「要領がいいってわけじゃないけど。勉強の仕方が上手いんだろうな」

「頭がいいからだよ、そりゃ」

「鳴賢みたいに三べん読んでも頭に入らねえ奴と違うからな。お前なんて文張の三倍かけてこの課題やってんだろ?」

「うるさいな、法令だけだ」

 半畳(はんじょう)を入れられてむっつりした鳴賢が二人を睨んだが、曉遠も玄章も知らん顔である。

 卓子(つくえ)の一角に積み上げられた書籍は、半分が図書府の、残り半分がここにいない友人のものである。

 教本や彼の父親の書き付けもあるが、大半は彼自身の手によるもので、これが学生の書いたものかというくらいよくまとめてあった。

老師(せんせい)方がこれ欲しがってるって、ホントかな」

「俺だって欲しいぜ。これさえ覚えときゃ明日にでも法令関係の允許は全部取れそうな気分だ」

「覚えられれば、だろ」

 うずたかく積まれた書籍と帳面の量を測って、三人同時に大きな息をついた。

「……これ全部、頭に入ってるんだよな、あいつ」

「だろうね」

「人間じゃねえよな……」

 これほどの俊英でありながら至って温和で人当たりよく、最近では気軽に話せる友人も増えた。

 未だに他国の半獣がと言う輩もいないではないが、どうみてもひがみでしかないからかえって見苦しいと笑われる始末。

 秀才と言われ尊敬を集めつつあるなかで、本人の人柄は入学当時とまったく変わらない。

 それがいっそ不思議だった。

「なんかこう、一本芯が通ってるっていうかさ、目標みたいなの。あるみたいじゃないか?」

 出涸らしの薄い茶をすすりながら、玄章が濃い灰色の目を上向ける。

「そんなもん、みんなそうじゃないか。誰だって官吏目指して死に物狂いで勉強してんだろ」

「いや、そうじゃなくて」

 あたりまえだといいたげな曉遠に、玄章は灰青の頭を抱えて唸った。

「なんて言ったらいいのかな。官吏になるとか、そんなのより重いかんじがする」

「重いって。なんだよそれ」

「いやぁ、俺にも上手く言えないんだけど……なんかすごく大きいものを見てるような、それを芯にして自分を律してるようなとこ、ないか?」

 苦心して言いたいことをまとめる玄章に、鳴賢も腕を組んで考え込む。

「肩いからせて机にかじりついてるわけじゃないけど、あいつの集中力って怖くなるときあるよな」

「……だな」

 曉遠がぼそりと頷き、その場に沈黙が落ちた。

「一体、なんなんだろうなぁ」

「なんの話しだ?」

 突然背後から声をかけられて、鳴賢は飛びあがった。

「文張?!」

 がたがたっと賑やかな音がして、三様に飛びのく。それを不審そうにみやって、灰茶の毛皮の鼠が顔を(しか)めた。

「課題の資料が足りねえって言うから貸してやったのに、全然すんでねえじゃねえか。間に合わなくなっちまうぞ」

 なにやってたんだと聞かれても、まさか課題そっちのけでお前の噂をしていたんだとも言えず、三人揃って首をすくめる。

 しようのない学友にやれやれと首を振った半獣の青年が、居住まいを正して本に向かった曉遠の隣に腰掛けた。

 友人たちの見張りをかねてか、抱えてきた書籍を開いて読み出したのを目の端に映しながら、鳴賢はさっきまでの会話を思い出す。

 玄章の言う「重いもの」がなんだかは、鳴賢にもわからない。

 だが、それにあの緋い髪の少女が関わっているような気がしてならないのだ。

 なぜとは言えないが、そんなふうに思う。

 

 なあ、と声には出さず、合い向かいの友人に問いかけた。

 

---お前、あの子のこと話してるとき、すっごい優しい顔するの、気づいてるか?

 

 

初稿・2005.02.01

 




学生さんたち再登場。
彼らの会話も止まらないですね。
この中でも楽俊は苦労人なんだろうなー・

曉遠は別字ですが、玄章は普通の字です。
ちなみに曉遠はちょっと色男系。頭も悪くないですがやや遊び人。31歳。
玄章は取りたてて目立たないけどいい奴。鳴賢よりボンボン。29歳。
なーんて、自家設定でした。


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||35|| 過程の無い結果論は嫌いなの。(延主従)

尚隆・六太。
登極直後・暗


 

 それを、折山、という。

 

 

 目に染みるような青を、倖希はただ霞んだ目で見上げた。

 

 強い光に(まなじり)(うる)み、雫が耳へ伝ったが、それを拭う力もなかった。

 乾き果てた里木の下、こときれた父親の脇で、ぼんやりと金茶の瞳に空を映す。

 数えで言うなら十七。

 もっとも美しい年頃のはずの少女は、だがまるで十の子供のように小さく、あたりに散らばる枯れ枝のような手足を投げ出して寝転んでいた。

 

 生まれてからこれまで、満足に腹を満たしたことも、乾きを癒したことさえない。

 生を得たそれ自体が苦行で、(ながら)えているのではなく漫然と死へと漂うような脈動。

 そこには喜楽はなく、怒りすらも存在せず、ただ視界を焼く太陽の光に、時折目から溢れるものが哀なのかと錯覚する。

 

 浅く緩い呼気は、安らぎが遠い証拠。

 幸いあれと望んだ両親がつけた名は、他の誰にも呼ばれることなく朽ちるだろう。

 物心ついてから今に至るまで、荒廃以外の光景を見たことがない。

 赤茶けて続く大地と、青でぬりたくったような、白い染み一つない空。

 まばらに倒れる人と動物の死骸。

 虚空から落ちるのは、雨ではなく飢えた妖魔。

 

 それが、あたりまえだった。

 

 僥倖などないことを、少女は誰より知っていた。

 あとどれくらいかかるかわからないけれど、王とやらが倖希を救う前に、死が彼女を抱き上げるだろう。

 それを思うとき、闇はいっそ無上の官能を伴って倖希に安らぎを与えてくれる。

 早く来て、と。

 上がらない手は、半夢のなかで彷徨(さまよ)う。

---ここへ来て、その暖かい腕に私を抱いて。 

 風鳴りのような喘鳴が、細い喉を揺らす。

 その首が、強い力に持ち上げられた。

「おい」

 低い声は、だが荒海にも似た耳鳴りに遮られ遥か遠くで聞こえる。

 いつのまにか閉じていた瞼を持ち上げると、黒い影が視界に落ちた。

---誰。

 これが死というものならずいぶん現実味があるものだと、奇妙に虚な頭で思った。

「しっかりしろ、生きているのはお前だけか」

 生きて?

 否、これは生者ではなく、意識のある骸。

 舌を動かすのも億劫で、ただゆるゆると首を振ることはできた。

 ち、と耳障りな音がして、身体がぐらりと揺れる。

「成笙、この娘も運ぶぞ」

 低い男の言葉に、はいと答える声があった。

「他には?」

「駄目だ」

 短く言った声音が苦い。

「おい、意識はあるか。名はなんと言う」

 肩を揺すられて、ようよう視線を動かす。ぶつかった真摯な眼差しに、何故か酷く安堵した。

---コ、ウキ

 粘ついた舌が口蓋に貼りつき、力のない唇ではうまく言葉が紡げない。

 喘いだ少女を、男がとどめた。

「倖希、だな。いま少し持ちこたえろ。必ず助けてやる」

 ああ。

 力強く自分を抱え上げる腕に、ほろりと涙が零れた。

 わかってしまった。

---王が。

 勢いよく宙に舞いあがる獣の背で男に抱かれながら、倖希は生まれて初めて泣いた。

---これで、雁は救われる。

 

 

「尚隆」

 背後からかけられた声に、亡国の王は低く笑った。

 そのなかにたとえようもないほど冷たいものを感じて、六太がかすかに目を眇める。

 それを見ずに、男はただ雲海を眺めた。

「あの娘は」

「なんとかなるそうだ。お前が無理やり仙籍に入れたのが効いたみたいだな」

 そうか、と頷いて、尚隆はくつくつと笑った。

「王というのも時にはいいものだな。横車を押すにこれほど便利な権力はない」

 そんなことは微塵も思っていないくせに、軽薄ぶったことを言う。

 先刻、仮死状態の娘を抱いて宮城(きゅうじょう)に飛びこんで来たときは、少女の昇仙を渋る官を睨み殺さんばかりの迫力だったのだ。

 この雁の民は、たとえ生まれたばかりの赤子でも俺の血肉だと。

 己が身に等しいものを、官吏でないから切り落とせと言うのかと。

 押し殺した声に込められた激情に、官はくずおれるように平伏した。

 

 今は平静を装う尚隆の横顔に、六太はそっと俯いた。

 あの、静かな海の上で。

 国が欲しいかと聞き、欲しいと言われたから連れてきた。

 もしもあのとき、この男が否と言ったら、自分は王として迎えなかったのだろうか。

 男の命が消えるのを見取って、あるいはそれすらも見ずに、やがて自分も朽ちたのだろうか。

 いや、と首を振る。

 自分は麒麟だ。

 王を探し、王を選び、王が道を失って倒れるまで傍に仕えるだけの存在。

 その主がじきに死ぬとわかっていて、見捨てられるはずもない。

 なんて愚かな獣。

 いつかまた、この荒廃と同じ光景を雁にもたらす者と知りながら、それでも選ばずにはおれないのだから。

 黙って雲海を眺める男からやや離れたところから、共に茫漠たる海原を見つめる。

 彼の目に、この光景はどう映っているのだろう。

 同胞の血に染まった、あの瀬戸内の(みぎわ)にも似た月明かりの雲海は。

「倖希、と言うそうだ」

 唐突に声をかけられて、六太は瞬いた。

「幸いを希む、と」

 聞かせる気があるのかないのか、呟く口元が苦く歪む。

「途方もないことだ。天すら見捨てたこの国にあって、まだ僥倖を願えるとは」

 傷ついた獣の唸りにも似た低い笑い声に、背筋が粟立った。それを渾身の力で押し殺して、木組みの椅子に近寄る。

 ばしん、と景気のいい音を立てて、男の頭が前にのめった。

「なにを……っ」

「気分に浸って、ろくでもねえこと言うな!」

 己の主を力いっぱい張り倒して、紫の瞳で睨みつける。

「やるんだろうが。この国を、民を、全力で立てなおすのがお前の役目なんだろうが! それを、もう終わったような口きくな!」

 一度滅んだとまで言われる雁の荒廃は、炎に包まれ焼け落ちた故郷を思い起こさせて、そこにあった者たちのことを甦らせて、胸が詰まる。

 逃げ出したつもりの先で巡り合った、海の国の惨禍をも。

 けれど、目を開けることすらできないほど衰弱した少女の姿に、仁獣の本性が身を裂くほどの悲哀を訴える。

 こんな想いでも、こんな苦痛でも、民に与えられた辛酸に比べればなんと甘いものかと。

「お前が、王であるお前がそんなこと言ってて、どうするんだ……!」

 民が縋れるのは王だけなのに。

 いつ果てるとも知れぬ苦渋のなか、彼らはただただ倖いをもたらしてくれる王を待ち望むしかないのに。

 それが怒りなのか慟哭なのか。

 突き上げるような感情が入り乱れて、どうしようもない涙が零れた。

「……すまん」

 金の鬣を、大きな掌が労わるように撫でる。

「……そう思うんなら、もう馬鹿みたいなこと言うな」

「ああ、わかった」

 ここは、御伽噺のなかの夢の国ではない。

 幾百万もの人々が生まれ、生き、そして死んでいく。あちらがそうであったように。

 そのすべてを、自分たちは背負っていかなければならないのだ。

 そのために与えられた、永劫の生。玉座という名の責。

 だからこそ。

 冴え冴えとした月明かりの水面を、胸に刻む。

 永い永い旅路を経て、その先の光明に辿り着くために。

 

 ただ前を向いて歩こう。

 

 

初稿・2005.02.02




【倖希・こうき】

むー、お題があさってに飛んでしまいました。
連想ゲームみたいだなァ。(それでもいいらしいので御容赦を)

延王尚隆、登極直後。
重くて暗くてごめんなさい。
でもこういうほうが書きやすいのです……根暗なのか・ソウデス(断言


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||36|| どうせ嘘を吐くなら誰かのために。(説教され楽俊)

楽俊と慶の官吏(オリキャラ)
陽子との出会いをからめて。


 

 棚からうっすらと(ほこり)の積もった書籍を引き出して、楽俊は少し笑った。

 さして広くもない書庫にはぎっちりと本が詰まり、それはたしかにおおまかな分類はされているが、どこか雑多な感も否めない。

 それがこの薄暗い堂室(へや)の主の少しいい加減な性格を思わせて面白かった。

「おいでであったか」

 やや低く掠れた声をかけられて振り返り、拱手する。

「お留守に失礼致しました、葉月(ようげつ)様」

「なに、主上が御許可なされたのであろ、構わぬよ」

 灰にも見えるくすんだ白い髪と銀の目をした女は、鷹揚に笑いながら物音一つ立てずに書卓に腰を下ろした。

 年の頃は三十半ばだが、実際はあの松伯と等しいほどに齢を重ねているという。

 年寄りめいた言葉遣いは(けみ)した年月をあらわしているのか、まだ比較的若い女の口から出るにはやや不相応に聞こえるものの、それすらも奇妙に似合う人物だった。

 遥か昔から金波宮の片隅の小さな書庫に居を得ているそうだが、滅多なことでは表には出てこないから、若い官には彼女を知らぬ者も多いらしい。

 実際、わたしも遠甫から紹介されるまで知らなかったんだ、と陽子も笑っていた。王宮の主である彼女が知らないほど。それにあの予王が王宮から全ての女を追い出したときでさえ、その数に入っていなかったというから、れっきとした地仙でありながら、まるで飛仙のような存在である。

「めぼしい本でもあったか」

 椅子を薦めながら微笑む白い影のような女に、楽俊は頷いた。

「こちらには、図書府にはない本がたくさんございますね」

 素直な感想に、葉月がくつくつと笑う。

「半ばは妾の趣味で集めたようなものだ。表には出せぬものも多い」

 なるほど、数百年をかけて積み上げられた蔵書は様々で、時には禁本もあるようだった。

 背にした壁際の一角を、つと細い指が指す。

「それは国史であるよ。ただし、図書府に納められておるのとは別のものだがな」

 細面の顔を見返した青年に、気配を感じさせない女が笑った。 

「そういうものを書く者もおる、ということだな」

 幽鬼のような書庫の主は、唇さえも色素が薄い。

「……あなたが?」

「是、とも言えるし、否とも」

 銀の視線が、隙間なく並べられた書籍を眺めた。

 親指の長さほどの厚さがあるものもあれば、幾枚か数えられそうなほど薄い本もある。

 それが、この慶という国に積み重ねられてきた歴史。

「王に逆らって書いた者もある。死後悪し様に罵られた王を不憫に思い綴られた本もある。そういうものの、ここは墓場であるのだよ」

 抑揚の少ない声を聞きながら、楽俊は粛然とした気持ちで暗い色の背表紙を見つめた。

「これは、国史であると同時に、王の生涯でもあるのですね」

 ぽつりと落ちた言葉に葉月が青年を見返し、そして頷いた。

「さよう。そして」

 なだらかな肩から、白い髪の束が流れ落ちる。

「いずれは景王赤子の書も入る」

 黒い瞳を真っ向から受けとめた女が、笑うでもなく顎の下で手を組んだ。

「国とは、王とはそういうものなのだよ」

「そう、ですね」

 合わせた視線を自分から外し、楽俊はうずたかく本の積まれた書卓を眺めた。

「王とはいずれ終わる者。それは只人(ただびと)とかわりはせぬ。かわっておるのはむしろ我等官のほうだ。飽くまで生きても終わらぬ生を疎んで、仙を辞す者がおるな。それにくらべれば、王の生は只人よりもすこし長いというだけかも知れぬであろ」

 さすが、数百年を越えてきた者の言うことはふるっている。

 苦笑が零れて、楽俊は肩から力を抜いた。

「そうかもしれませんね」

 組んでいた指を解き、葉月が背もたれに身を預ける。

「王を長生きさせるには支える手が不可欠だ。だが、今の主上に関しては心配は要らぬ。そなたがその役を担えば良いと、(わたし)は思うておるよ」

 え、と怪訝そうな顔をする相手に、葉月はうっすらと笑った。

「惑うていた主上を救い、諭し慰めることのできたそなたなら、無理な話ではなかろうが」

「それは、たしかに巧国で陽子を拾ったのはおいらですが、そんな大仰な」

 困惑して首を傾げたが、銀の双眸は意外なほど真剣だった。

「……そなたは、自分の価値というものをわかっておらぬ」

 楽俊は、眉をしかめた葉月に首を振った。

「でも、おいらは当然の事をしただけですから」

 言うに困って、用もなく膝に置いた書籍をなでつけたりする。

「誰だって、道に誰かが倒れてたら助け起こすし、怪我をして、熱があったら介抱するでしょう。おいらがしたのは、ただそれだけですよ」

「ただそれだけのことを、他の誰かが主上にしたか」

 葉月の声は低く、どこか苛立って聞こえた。

「主上が巧を彷徨っている間、他に誰が主上を助けた? 捕縛され騙され売り飛ばされそうになって、同じ海客にまで裏切られた主上に、そなただけが手をさしのべたのではないか?」

「……巧は、海客は殺せという国です。衛士に突き出すか、気の毒に思っても関わらないようにするのは、仕方ない かもしれません」

 異端に厳しい故国を思う楽俊に、そうだな、と肯定にはとても聞こえない声音が応える。

「まして、主上には手配がかかっていた。役所に届けなければ匿った者も同罪。そうと知っていて、そなたは主上を助けたのであろうが?」

 楽俊はやや呆れて葉月を見た。

「……お詳しいですね。陽子に聞いたんですか」

「一度にではないがな。主上はこちらにもよくおいでになるゆえ、自然伺うことも多い」

 薄くけぶるように汚れた玻璃をとおして、葉月は空の果てを見()る。

「主上はそなたに恩義以上のものを感じておられる。そなたを友と呼び、誰よりも信を預けておられるが、同時にそなたに会った頃の自分を酷く恥じ、悔いてもおいでだ」

「それは陽子のせいじゃ……」

「わかっておる。あのとき主上の舐めた辛酸は、並大抵のものではない。そなたの親切すらも疑ってかかったのは無理からんことであったろう」

 紡いだ口調が苦い。

「そんな自分を、それでも救い上げてくれた手がどれほど有り難いことか、そなたにはわかっておるか?」

「でも、おいらだって陽子にいろいろなものを貰っています。陽子がおいらに恩義を感じてくれるのはそりゃ嬉しいことだけれど、おいらだって」

 いいさした先を首を振ってとどめ、女は楽俊を見た。

「そなたは主上の命を救い、病んだ心を救った。だから、主上はそなたに恩をかえそうと思っておられる。それは、そなたが思っているよりも、もっと大きいものなのではなかろうかな?」

 そなたは、自分の価値を知らなすぎる。

 葉月は繰り返した。

「行き倒れた、と主上はよく仰るが、そなた、その意味をわかっておるか」

「……葉月様?」

 銀の眼差しは鋭く、それでいて酷く悲しげだった。

「あの日は雨だったそうな。細く幾重にも降り注いで、終わりないような」

 楽俊が黙然と頷く。その脳裏に、一つの光景が浮かび上がった。

 林を貫く街道に降りしきる、銀の糸をまいたような細い雨。

 薄暗いその視界の中で、水溜りの中に倒れ伏した人影。

 泥と血にまみれ、酷く痩せ衰えて憔悴していた少女。

 よもやそれが慶国の王だなどと、誰が思っただろう。

「人や妖魔に追われ、一月(ひとつき)以上も飲まず食わずで。たった十七の、ごく普通の娘がだ。ただただ宝珠を握り締めて命を繋いでいたが、それすらもあの雨に流されていくようだったと」

 一月以上。

 やるせないような言葉に、楽俊は声がなかった。

 ずいぶん長い間、山を彷徨っていたと、陽子は言っていた。だが、あまりいいたげでもないことだし、詳しく聞いたことはなかったのだ。

 折悪しく、あれは晩春のこと。

 山野に食べられるような果実はなく、あったとしても陽子に見分けがつこうはずもない。

 探そうにも休もうにも、妖魔の襲来はひっきりなしで、落ちつける暇などなかったろう。

「賓満のちからをもってしても、指一本動かせなかったという。あのとき、主上は行き倒れていたのではない。死にかけていたのだよ」

 文官らしい細く整った両の指を、葉月は固く組み握った。

「主上は笑っておられた。あと半刻遅ければ、そなたは生きた自分ではなく、死んだ自分を見つけたであろうとな」

 では、と楽俊は思った。

 あのとき、陽子が身動きできなかったのは、怪我や熱のためではなかったのだ。

 彼女は衰弱しきっていた。差し出した自分の手に、すがることすらできないほど。

 それは、体力や気力が衰えていたのではない。命そのものが、消えかけていたのだ。

 肩を揺らし、大きく息をつく。

 震える手で、楽俊は顔を覆った。

 天の采配。

 まさに間一髪のところで、自分は間に合っていたのだ。

『楽俊に拾われなければ、私はあのとき死んでいただろうから』

 折りあるごとに陽子はそう言って礼を言う。

 たまたま通りかかっただけで、たいしたことしたわけじゃねえと答えるたびに、笑って首を振る。

 それは、こういうことだったのか。

 陽子は追われていた。人にも、妖魔にも。

 あのまま放置しておいたら、いずれそのどちらかに殺されていただろう。

 酷い怪我と昏睡になるほどの熱で、これは大変だと思ったものの、拾ったときはそこまで知らなかった。だから、何も考えずに連れて帰ったのだ。

 役人が来て、彼女が海客だと知った。

 妖魔を招き、剣をもって人を脅す罪人だと言われた。

 それでも助けたのには自分なりの理由があったからだし、陽子の礼もそういう意味だと思っていた。妖魔と役人と双方から匿い、介抱してくれてありがとう、と。

 そうではなかったのか。

 背筋に冷水を浴びせられたようだった。

 自分があの道を通ったのは、ただの偶然。

 あの時、もしも外へ出ていなかったら。もしもほんのわずかでも時間が違っていたら。

 陽子は間違いなく死んでいたのだ。

「主上は仰ったよ。そなたに会うたことは、自分にとってなによりの僥倖だったのだと。天意というものがあるのなら、まさにあれがそうであったと」

 楽俊、と呼ぶ彼女の笑顔には、信頼と親愛の情が溢れている。

 窮地を救い、人を信じることを思い出させてくれた友に対する、心からの感謝が。

 だがそれは、自分や周囲が思ってるよりも、もっと深いものだったのかもしれない。

「よ、うこ……」

 自分は、彼女の何を、どれくらいわかっていたのだろう。

 ありがとう、と言われるたびに、礼なんかいらねえと笑ってきた。

 それは真実自分がそう思っていたからだが、果してそれで良かったのだろうか。

 陽子の言葉に込められた意味を、自分はちゃんと受け止めてきたのだろうか。

 両手を握り締めて俯く青年を見ていた葉月が、微苦笑の溜息をついた。

「そこで自分の功績を鼻にかけない心根はたいしたものだが、あまり悩むな」

「葉月様……」

「主上の御心内は主上にしかわからぬ。それと同じに、そなたの心内もそなたにしかわからなかろう」

 言って、顔を上げた青年に笑う。

「主上がそなたに恩義を感じるように、そなたも主上に感謝することがあるのであろ?それでよいのだよ。……ただ、そなたには、わかってほしくてな」

 意図の飲めない楽俊が、首を傾げた。

「主上を助ける者はほかにもある。主上が信頼する官も幾人もおる。だがな、官として、臣として助け、信頼に足る者は多くとも、まこと主上をただ一個の人として親しみ、主上が腹心の友と呼べるのは、鈴でも祥瓊でもなくそなたなのだと、妾は思うのでな」

 陽子、と誰臆することもなく呼んで。王でも海客でもなく一個人として自然体で彼女に接することができるのは、ただの少女だった陽子を知っている、彼一人だけ。

 海客だからといって差別しなかった。

 警戒し、信用しないときでも、見捨てなかった。

 困っていれば助け、至らないところは教え叱って、苦しいときには支えて。

 それを自然に行なえることがどれほど難しく、相手にとって嬉しいことか。

「人間は裏切る。己に余裕なくば他人に構うことなど出来ぬ。そんなことはあたりまえであろ。だからこそ、そなたの存在は、主上にとっていかな宝重よりも稀有なものなのだよ」

 それぞれの道を歩みながら、声をかけあい、励ましあっていける相手であるから。

 きっと、二人がどんな関係であっても。

「おいらは」

 いいさした楽俊を、葉月が片手を挙げて押しとどめた。

「そんなたいそうなものではない、などというでないぞ。主上に失礼だ」

「葉月様」

「よいではないか。そなたの親切を相手がどう受け取るも、それは相手次第だ。だがたとえ過分と思っても、相手の好意をきちんと受けとめるのは、そなたの器量のうちだと思うがな」

 顔をしかめた相手に構わず笑う。

「いまでも充分、主上はそなたに恩を受けたと思うておいでだ。このうえそなたが無用のいきさつを知ったとなれば、つまらぬことを耳に入れたと余計にすまなく思われるやも知れぬな。ならば黙っておるがいいさ。妾のした話など、聞いたことはないという顔をしておれ。それは嘘になるやもわからぬが、どうせつかねばならぬのなら役に立つ嘘をつくべきであろ。それが、そなたにとって大事な相手ならなおのことだ」

 言外に含むものを感じて返答に窮する青年の背後で、軽快に扉が叩かれた。

「葉月、楽俊がこっちに……ああ、やっぱり書庫だったんだね。お茶にしない?」

 弾むような足取りで飛びこんできた少女が、鮮やかな緋色の髪を背景に破顔する。その勢いを葉月がたしなめた。

「主上、扉を叩いた以上、返答あってからお入りなさいませ。突然開けたのでは中の者が驚きましょう。礼儀でございますよ」

「なんだ、やましい話でもしていたのか?」

「やましくはございませぬが、説教を少々」

「楽俊は、説教されるようなひととなりではないぞ」

 口をちょっととがらせた主を見て、葉月が笑う。

「それは存じておりますが、機微はいかがかと思いましてな」

「キビ?」

 きょとんとする少女に楽俊も苦笑した。

「なに、葉月様からこの書庫のお話しを伺っていたんだ」

 そう?と首を傾げ、陽子が抱えていた書籍を葉月に手渡す。

「本を返すついでに誘いにきたんだ。たまには葉月も外に出ないか?」

「主上のお招きとあらば、喜んで」

「ありがとう。鈴と祥瓊が用意してくれているんだよ」

 嬉しそうに笑って書庫を出る陽子の後ろに続きながら、葉月が楽俊に視線を転じた。

 うっすらと笑む銀色に、楽俊も微かに笑い返して頷く。

 知らなくてもよかった。

 でも、知るべきだったと思う。

 言う必要のないことだから、口にはしないけれど。

 細い背中に、楽俊はそっと頭を下げた。 

 

初稿・2005.02.03

 




【葉月・ようげつ】
口調が氾王と似てますが、こっちのは年寄り臭いだけです。ゴメンナサ・
勝手に書庫番作ってますけども、なにしろ楽俊に説教できる人がいなくて……。
ちなみに積翠台ではないです。

とにかくもう読みにくくてすみません。
なんだか筋が通ってないような気もするしなー。

えーと。

楽俊は、陽子を助けたことを指して「たいしたことはしていないのに」という趣旨のことを言ってますが、陽子からしてみりゃとんでもないですよね。
読者はそれをよく知ってますけど(笑)楽俊はどうなのかな、と思いまして。
あの「一ヶ月以上」という時間の本当の意味を、楽俊は知らないのではないかと。
午寮の街以前には、そんなこと話してないと思うんですが、それ以降でも果して陽子がその時期の話をしたかなーと思うんですよね。
楽俊とはぐれたあと「逆算すると」と宝珠の計算をしたところを見ると、楽俊に拾われてからはぐれるまでの間では、宝珠の効果を考える余裕はなかったんじゃ
ないか。妖魔に追われてぼろぼろになって、とは楽俊も言っていたけど「1ヶ月も飲まず食わずで、宝珠だけがたよりでね」と陽子が言うとは考えにくい。
金を持ってないのも役人に追われてるのも知ってたけど、あのとき陽子が死に かけていたことまでは、わかったかどうかで。
だからこそ陽子は楽俊を「命の恩人」というけど、楽俊は礼を言われるほどのことじゃない、と首を振るのが、なんかこう、「わかってんのかなぁ?」と・笑
「行き倒れてた」んじゃなくて「死にそうだった」んだよ、と誰かに言ってやって欲しかったんですよ。
ま、余計なお世話は百も承知なんですが……。

珍しく長くなりました。


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||37|| 不安を不安と言える勇気を持て。(陽子・浩瀚)

王と臣下とは◆なんのために支える手が有る。


 

  

 主上、と呼ぶ穏やかな声に、陽子は半分だけ顔を上げた。

 声の主は書卓の前、常と変わらぬ静かな佇まいで王を見つめている。

「……ごめん」

「なにを謝っておいでですか」

 詰問でも溜息でもない。

 ごく普通の声音に、だが陽子は俯いた。

「わたしが至らないせいで、皆に迷惑ばかりかける。すまない」

 仙で胎果といえど育ちは異国である身には、文字一つ官位一つ取ってもわからないことだらけ。王の威光をもってしても、一癖も二癖もある官吏たちを相手に小娘が出来ることなどたかが知れていて。

 補佐してくれる幾つもの手があるからこそなんとかやっていけるのだということは、誰より陽子自身が承知している。

 今は深夜。

 やることがありすぎるから、こんな時間まで政務につかなければならない。これでも冢宰や宰輔が仕事を引き取ってくれるから、楽になったほうなのに。

 おそらくこれが終わってもまだ自分の執務のある冢宰の苦労に比べたら、こんな自己憐憫などみっともないほど馬鹿馬鹿しい。

 己の不甲斐なさが、肺腑がねじれるほど悔しかった。

 きつく握った両手を額に押し当てて、すまないと呟く。

 王の傍らに控えた少女が切なげに声をかけようとするのを、男が制した。

「生まれながらの王など、どこにもおりませんよ」

 虚を突かれたように翠の目を上げた主に、男は微笑む。

「王の器量と出自とは、なんの関係もございません。例えば、現在の廉王は農夫でおいででしたね? また在位百年に届かんとする供王は、登極なさったとき御歳十二であらせられた。かの奏国の王は、舎館の主だったとか。そのような方々が、はじめから政を知りましょうか」

「浩瀚……」

「知らぬものは知らぬでよいのですよ。なればこそ、われら官吏がいるのですから。文字が読めなければ覚えるだけのこと。組織の仕組みがわからなければお聞きなさい。そしてそれは容易に身につくものではない。蓬莱でお育ちになった主上が、こちらのことどもを知らぬのは当たり前でございましょう。悪いのはそれ(あざけ)る者であって、教えを乞う者ではありません。なにも無理をなさることはございませんよ」

 胸中を読み透かされて、陽子はへたりと笑った。

「……馬鹿でもいいのかな」

「よいと思いますよ。だからこそ松柏をお招きになったのでしょう?」

 うん、と頷く陽子に、浩瀚が笑った。

「わからないときはわからない、疲れたら疲れたと仰いませ。己に甘えず見栄を張るのも必要ではございましょうが、迷うとき、不安なとき、主上おひとりで足らぬことを補佐するのは、仕えるわたくしどもの義務であり、喜びでございます」

 だいいち、と区切り、敏腕の冢宰はしかつめらしい顔をする。

「たかが二年目の王に楽々と政務をこなされたのでは、わたくしどもの立つ瀬がございません」

 目を瞠った陽子の横で、祥瓊が吹き出した。

「さようでございますわね」

 軽やかに笑う少女に、陽子が情けなさそうな表情で口をへの字に曲げた。

「……そういうものか?」

「そういうものです」

 重々しく言って、浩瀚はさあさあとふたりを促した。

「今日はこのくらいにして、もうお休み下さい。寝不足は美容にもよろしくないでしょう。慶はまだ女性が少ないのですから、御令嬢方に頑張っていただかねば華やぎがございません」

「なんだそれは」

 彼にしては珍しい軽口に苦笑しながら、陽子は大きく息をついた。

「じゃあ、お言葉に甘えて休ませてもらう。ありがとう、浩瀚」

 恭しく拱手した冢宰が、にっこりと笑う。

「そのかわり、明日もすぱるたとやらで参りますので、お覚悟を」

 わざとらしいくらいさわやかな口調に、やっぱりな、と陽子が天を仰いだ。

「余計な言葉教えるんじゃなかったよ」

「あちらは蓬莱以外の言葉があって面白うございますね」

 笑いながら書類を片付け、浩瀚は堂室を辞す。

 静まりかえった回廊を辿りながら、苦笑した。

 王というものは、すべてにおいて秀でていなければならない。

 武にあっては巌の如く、政にあっては水面の如く。そして常に悠然と構えていなければ、民は惑うだろう。

 だがその反面、己の弱さをさらけ出せる勇気もまた必要なのだ、とも思う。

 すべてを内に押しこめては、いつか壊れてしまう。

 王とても人であり、人はかくも心弱きもの。

 だから、と。

 

 心を許せる者を大事になさい。

 弱さを見せてもなお受けとめてくれる相手を愛し、その心を受けとめられるようになりなさい。

 それこそが、王として最大の美徳であるだろうから。

 

 

初稿・2005.02.04




遠甫と浩瀚が来てくれて、陽子はどれほど助かったことか!・笑
女王を馬鹿にする官吏はまあともかく、一番頼れるはずの麒麟が、もの言う前にまず溜息じゃあ陽子が可哀想過ぎますよね。
それなのに「メモは駄目!」ときた日にゃあ、お前どうしろっつーんだよ!って。
あれじゃあ予王も気の毒だったろうなぁ……。
そんなわけで(?)遠甫は先生兼おじいちゃん、浩瀚は補佐官兼お父さんな自家設定です・カミングアウト
ちなみにこのお父さんは、はやいとこ娘によいお婿さんを迎えたいようです。
自分のお仕事を補佐していただくためにも・笑


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||38|| む、意外とガードが堅いな。(尚隆・楽俊)

酒のみ尚隆&楽俊。
延王のセリフには全部裏があると思っています。


 

 

 つきあえ、と言われて連れ出された場所は、奢り(ぬし)の身分からするとそれこそ天地ほども差がある食庁(しょくどう)だった。

「いつも、こんなところにいらしてるんですか?」

 呆れたような質問にも、男はいっこうに頓着なさげな顔で一番奥隅の席に陣取った。

「なに、お前たちと最初に会ったような店にも行っているぞ。ただ、店の格によって出てくる酒や料理がまったく違うからな。色々比べてみるのも面白い」

「はあ」

 曖昧な返事をしながら、楽俊も席につく。

 ものに構わない性格の彼だから、まあ本音でもあるのだろうが、仮にも一国の主がこんな小汚い店で安酒を呑んでいるなどとは、誰も思わないにちがいない。

 もっとも、日頃の態度に似合わず裏の多い男のこと、酒を楽しむついでに街の様子を見るのもその見聞の一環なのだろう。

 あとは、こちらに気をつかわせまいと安い店を選んだというところ。

 せわしげな店の者が威勢よく置いた杯を手に、向かいに座った男がにやりと笑った。

「途中で逃げるのは許さんからな」

「……逃げられませんよ」

 苦笑して、楽俊も杯を取る。

 前回同じように連れ出されたときは自分は鼠の姿で、ついでに彼の宰輔たる少年もいて、妙に道義心の強い店主から子供に酒を呑ませるとは何たる親だと叩き出される羽目になった。

 もともとたいして呑めもしないから、いっかな酔いそ うにない彼からこれさいわいと挨拶もそこそこに逃げ出したけれど、どうやら親扱いされた彼は二重に根に持ったらしい。

 夕方呼び出されたとき「今日こそちゃんと呑ませるから人の姿で来い」と念を押されてしまった。

 まるで水でも飲むように杯を干す男を、楽俊は恨めしげに眺める。

「そうはいっても、風漢様にあわせて呑めるほど、おいらは強くないですよ?」

「そんなものはわかっている」

 最後の抵抗をしゃあしゃあとあしらって、早くも次の酒を頼む。あれで酒の味がわかっているのかと、同じような呑みかたをする学友を思い出して、青年は溜息をついた。 

「で、どうだ。大学の方は」

「おかげさまで、大過なく」

 軽く頭を下げた楽俊に、風漢---尚隆が笑う。

「大過なくとは言ってくれる。さすが首席は違うな」

「そういう意味じゃねえんですけど」

 日常生活のことだと楽俊も苦笑した。そのようやく空になった杯に、向かいからさっさと酒が注がれる。

「何を言う。たいていの学生たちは口を開けばやれ允許が、やれ成績がと騒ぐそうだぞ。自分の努力が足りない奴ほど苦労話をしたがるそうだが、たしかにあの講義は俺になぞさっぱりわからん」

「まさか忍び込まれたんですか」

「まあ、ちょっとな」

 相変わらず破天荒な雁の王に、やれやれと額を押さえた。

「わからんと言ったって……風漢様のお役目は、講義の内容とは段が違うでしょう。覚える必要がないとはいわねえですけど」

 大学で習うのは官の仕事の基礎。

 たしかに役には立つかもしれないが、いかな老師たちでも王である尚隆がやらねばならないことは教えてくれない。

 理知的な顔を、尚隆が思いのほか鋭い目で見返した。

「……なるほど、陽子が信頼するわけだ」

 笑い含みに言われて、楽俊は首を傾げる。

「なんのことです?」

「わからんのならいい」

 くつくつと喉を鳴らしながら、まだ半分ほども残っている楽俊の杯に酒瓶を傾けた。

「だから、そんなに飲めませんて!」

「前回俺に責任を押し付けて逃げた罰だ」

「罰って言ったって、あれはおいらのせいじゃ……」

「ほう、俺が店主に怒られている間に遁走したのは誰だったか?」

 頃合よく運ばれた肴をつつきながら、軽口を交わす。

 周囲の卓も楽しそうな酔漢で騒がしくなり、あとは他愛ない話をしながらどんどん酒瓶が転がった。むろん大半は尚隆が空けたもので、楽俊の分などたかだか一本程度である。

 なにぶん尚隆の好む酒は強いからいいかげん度が過ぎて、卓に突いた肘で靄のかかったような額を支える。その肩から落ちた鮮やかな髪留めの紐に、尚隆が目を留めた。

「なんだ、趣味が良いな」

 え、と顔を上げた青年が、ついと紐を背に払った。無意識なのか、酔いのまわった顔はきょとんとしたままである。その紐だ、と指されてようやく頷いた。

「無精していたらずいぶん伸びちまったんで、くくってるんです。一つにまとめた方がいいって言われるんですが、どうもああいうのは似合わなくて」

「似合う似合わないと言っても、どのみち官吏になったら結わなくてはならんのだろう?」

「まあ、そうなんですけど」

 ちょっと顔を顰めた楽俊が、首筋あたりでひとつにまとめた髪を撫でる。

「雁の官吏はみな小奇麗にせねばならんのだぞ。なにしろ上が煩いからな」

「そりゃあ厳しいですね」

 上とやらよりも上のくせにいい加減な恰好をする王に、楽俊が吹き出した。

 実のところ、と尚隆が行儀悪く卓に頬杖をつく。

「お前は卒業後どうする気なのだ」

「前に陽子にも同じことを聞かれましたよ」

 笑いながら、楽俊が向かいの杯に酒を足した。それを、ちらりと尚隆が見る。

「ほう、陽子がか」

「まだ卒業の目処もたってねえのに、みなさんお気が早い」

 首を振る青年に、尚隆はにやりと笑った。

「有能な官吏の卵は取った者勝ちだからな、お前など引く手あまたになるだろうよ」

 そうでしょうかね、と軽くいなして、なにがおかしいのか楽俊がくすくすと笑う。

「御存知ですか? 雁の大学では、首席で入った者は卒業できねえって伝説があるんですよ」

「なんだそれは」

「だから、伝説なんです」

 眉を上げた尚隆も笑う。

「たいした伝説だな。それからいうとお前は卒業できないということになるわけか」

「らしいですね。ですから、先のことは目処がたってから考えますよ」

 腹黒め、と尚隆が口の中で呟いた。にこりと笑った楽俊が、ではと立ちあがる。

「おいらはこのへんで」

「なんだ、結局逃げるのか?」

 渋面になった男に苦笑う。

「明日も講義がありますからって、さっきも申し上げたじゃあねえですか。これ以上呑んだら帰れなくなっちまいます。おいらも卒業はしたいですからね」

 学業を持ち出されては、さすがの男も止められない。むう、と口の端を下げて青年を睨めつけた。

「またつきあえよ」

「今度は休みの日にしてくださいね」

 軽く頭を下げて立ち去る楽俊を手を上げて見送る尚隆の後ろから、小さな頭がひょこりと覗いた。

「かーんたんにはぐらかされて、あげくにあっさり逃げられてまあ」

「うるさいぞ」

 どこから見ていたとか、いつ来たとかは今更どうでもいい。

 不機嫌そうに杯を干して、尚隆は楽俊のかわりに相向かいに陣取った少年を睨んだ。

「吐かせるつもりなら力技でも使うが、そうもいくまい」

 むすっとしている男に、少年---六太が笑った。

「あれでけっこう、口が堅いからなぁ。楽俊の本音がみたけりゃ、鼠んときにしろよ。尻尾だの髭だのですぐわかるから」

 皿の上から慎重に食べられるものをより分けながら、箸を振る。

「それでは酒が呑めん」

「……酒呑むのが優先なのかよ?」

「お前相手では呑めんからな、楽俊につきあわせるしかあるまい」

 どことなくつまらなそうに酒を舐めながら、ふんと口を尖らせた。

「ま、奴の本音など、聞かんでもわかるがな」

「負け惜しみ」

「なんだと?」

 名高い雁の名君と慈悲深き宰輔は、その名声とは裏腹にはっしとにらみ合った。

 

 

初稿・2005.02.07

 




ざる(推定)尚隆とほろ酔い(推奨)楽俊。

高官でもないのに畏れ入らない稀有な青年を、延王が放っておく
わけないだろうと。よく遊びに行ってるみたいだし・笑
「酒が飲めるか」という『月影・下』のやりとりにもかかわらず
飲まなかった楽俊を潰してみたかったんですが、さすが楽俊。
潰れてくれませんでした・笑

「なんだ(陽子の色の紐とは)趣味が良いな」
「(おまえは慶に行きたいんだろうが)雁の官吏は~」
「そりゃあ厳しいですね(でも自分は慶に行くので関係ないですよ)」
……という、初期FSSのようなやりとり。


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||39|| 全身で感謝されてやるよ。(楽俊&陽子)

楽俊・陽子◆あの時に、自分は。
「ありがとう」という言葉。


 

 

 楽俊は、と指を突きつけられて、青年は瞬いた。

「楽俊は謙虚過ぎる」

 口を尖らせた少女が、翠の瞳で青年を見上げる。

「---おいらが?」

「そう。祥瓊や桓魋もそう言ってるよ」

 ええと、と困惑して頭をかく楽俊に、陽子が溜息をついた。

「本人に全然自覚がないんだもんね……」

 ぽすんと傍らの榻に腰を下ろし、楽俊にも座るように促す。

 素直に隣に腰掛けた楽俊に、あのね、と向き直った。

「祥瓊は自分の間違いを正してもらったって感謝してるし、桓魋は視野の狭さに気づかされたって言ってる。わたしは、楽俊に命を救われて、心をも救ってもらったんだ。みんなどれだけ感謝してもしたりなくらいなのに、楽俊は礼を言ってもらうほどのことじゃないって言うでしょう? それって、すごい美徳だとは思うけど、気持ちを受け取ってもらえないみたいで、ちょっと淋しい」

 僅か眉を寄せて、陽子は視線をさ迷わせた。

「なんていうのかな。押しつけるのは違うと思うし、受け取ってもらえないのが嫌だとかそういうんじゃないんだけど」

 言葉を選びきれない顔で、たとえば、と首を傾げる。

「わたしがどれくらい楽俊にありがとうって言いたいか、わかる?」

 真顔で覗きこまれるようにされて、さすがの楽俊もたじろいだ。

「どれくらい、って……」

「楽俊はわたしのおかげで大学に入れたって言うけど、それはたまたまわたしが王で、延王に会うことが出来たからなだけでしょう? そんなの、わたしのおかげなんかじゃないし、もしそうだとしても、それは楽俊に助けてもらったお礼なんだよ? わたしがしてもらったことに比べたら、ぜんぜん足りない」

 軽く振った頭に合わせて、緋色の髪がゆるやかに波打つ。

「これってわたしの我侭なのかもしれないけど、ありがとうって言ったら、どういたしましてって言ってもらう方が、嬉しい」

 真面目な顔で言われて、楽俊がちょっと笑った。

「……そうだなあ。おいらも、礼を言ったらどういたしましてって言われる方がいいな」

「ホント? そう思う?」

「うん、思う」

 無理強いしてはいないかとやや不安そうな陽子に頷いて、楽俊は以前言われたことを思い出す。

 相手の好意を受け取るのも、器量のうち。

---なるほど、こういう意味か。

 自分ではあれこれ考えているつもりでも、頭の中だけではわかりきれないことなど呆れるほど多い。だからこそ、面白いのではあるが。

「おいらはたいしたことしてるつもりはねえけど、それが相手の役に立ってるんならいいことだ。ありがとうって言葉までいらねえものにしちまうのは、失礼な話だよな」

 うん、ともう一度頷いて、改めて自分の考えのつたなさに苦笑する。

 その様子を見て、陽子が笑った。

「じゃあ改めて。色々ありがとう、楽俊」

「どういたしまして」

 二人しかつめらしくお辞儀をし、顔を上げた拍子にお互いを伺う視線がぶつかって吹き出した。

「なんかへんだな」

「うん、へんなかんじ」

 肩をすくめて笑いながら、でもな、と首を傾げる。

「おいらが陽子に感謝してるのも、本当なんだぞ」

 少学も出ていない身で大学に入れたのも、延王や延麒が彼を気にかけてくれ、ほっつき歩けない主従のためにという口実で他国を見歩けるのも、元をただせば陽子といっしょにいたからというただそれだけだ。

 玄英宮に招かれたとき、楽俊を伴ったのは陽子。

 助けたことを彼女が恩に着て楽俊を重んじてくれたから、現在がある。

「最初が何であれ、陽子がおいらにしてくれたことは、おいらにとってはものすごくありがたいことなんだからな?」

 じっと話を聞いていた陽子が、こっくりと頷いた。

「でもこれって、おたがいさまってことかな?」

「そうだなぁ、持ちつ持たれつってやつだよな」

 さまざまな岐路を経てなお共に在る二人は、相手の顔を見て同時にふんわりと笑った。

 

 

初稿・2005.02.09

 




感謝には笑顔の受領サインを。
称賛にもね。

葉月お説教後。
このお題のために前作を頑張ってみたりしました・笑

あれですね、私のなかで楽陽というのは『おでこがくっつくくらい近くでおしゃべりできるのに、なかなかその先進まない仲良し二人組』というスタンスらしいですね。
頼むからラブラブになってくれっ!!
って、いざそうなったら書けるとは限らないんですが・滅



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||40|| 叱られたら逆ギレ、これ基本。(やんごとなき方々と大学生)

陽子・尚隆・六太・聞き役楽俊。


 

 雁の王宮は玄英宮。王の私室である正寝の一室には、重苦しい雰囲気が立ち込めていた。

 

 王宮の主である延王とその宰輔、そして隣国慶の景女王が、眉根を寄せて腕組みをしている。

 それを、小柄な灰茶の鼠が小首をかしげて見守っていた。

「……そもそも、なぜあんなに目を吊り上げて文句言われなければならないのか、そこが問題なんです」

 押し殺した低い声が、少女の口から漏れた。

「さもありなん」

 重々しく延王が頷く。

 それに真剣に頷き返し、景女王がこぶしを握る。

「わたしがこちらのことに疎いのは確かです。物を覚えるのも遅いのかもしれないし、優柔不断で、延王のようには国政を捌けないかもしれない」

「なに、こいつのは下手な兵士が大根を切るようなもんだ。陽子が目標にするほどのもんじゃない」

「なんだと」

 まぜっかえす延麒を延王が睨みつけた。

「だけど」

 どん、と塗りも美しい卓子が細い手で叩かれる。

「なにもあんなにがみがみ言わなくたっていいじゃありませんか!」

「まさにそのとおり!」

 幾度も深く頷いた延麒が、自身も握りこぶしを振り上げた。

「こんなイタイケな子供を朝っぱらからたたき起こして朝議にひっぱりだしたり、ちょっと友人に会いに行きたいと抜け出しただけで三倍の政務を押し付けたり!」

「各国の動向を知るための見聞の旅を、難癖をつけてやめさせようともしおるな」

 精悍な面に苦渋をにじませて、延王が同調する。

「陽子はともかく、延王と延台輔に関しては、ちょっと自業自得な気がするんですが……」

 小柄な鼠が、遠慮もせずに半ば呆れたような声をかけた。

 それに雁の主従が過敏に反応する。

「なんだと?!」

「お前、陽子のことは庇うくせに、オレたちはどうでもいいのかよ!」

「どうでもいいとは思ってませんけど……」

「けど、なんだよ? 現に自業自得だなんていってるじゃねーか!」

「だって、その通りでしょう」

 言葉遣いこそ丁寧だが、鼠の姿をした青年は悪びれない。

「玉座についてまだ日が浅く、政に詳しくない陽子を景台輔が責めるのはお門違いだとは思いますが、お二方はもう五百年の間おんなじようなことをやってなさるわけでしょう? 今更雁の皆さんが見逃してくださるはずがねえじゃねえですか」

 雁主従を相手にこれだけ理路整然と、それも畏れ入ることなく言ってのけられる人物は、十二国広しと言えども数えるほどしかいないだろう。

 いつものように穏やかで濡れたような黒い瞳に真っ向から見つめられて、雁の主従はたじろいだ。

「それは……っ……」

「いや、だがな……」

 きょとんとそれを眺めている景女王の視線を感じながら、それでも言い訳をしようと言葉を探す二人に、鼠が溜息をつく。

「……陽子、お前はこうなるなよ?」

「楽俊?」

 しみじみと言われて、少女が首をかしげた。その近所で、金の髪がかきむしられる。

「うわぁ、なんてひでえことを!」

「お前、それでも友人か?!」

「おいらは思ったとおりのことを言っただけです!」

 二人がかりで掴みかかられて、半獣の青年が慌てて体をかわす。

「そんなこと言うならな、お前があの毒舌説教攻撃の矢面に立ってみろ!」

 指を突きつけられて、銀の髭がぴんと立った。

「はあ?!」

「すっっげー怖いんだぞ! すっっげーねちねち言われるんだぞ! あんなもん五百年も聞いてみろ、いいかげん逃げ出したくもなるってもんだろ?!」

「政務放り出して遊んでるから怒られるんじゃあ……」

「遊んでるんじゃねえ! ちょっとした息抜きだ!」

「息抜きの合間に仕事してるように見えますが」

「なんだとおっ?!」

「六太くんやめてって!」

 背丈が同じくらいの鼠の首もとを掴んで乱暴にゆすぶる延麒を、景女王が慌てて止める。

「そんなことしたら、楽俊が死んじゃうよ! それに今のは……」

 小さな手から無理矢理友人を剥ぎ取って救出した景女王の視線が、延麒の後ろに向けられた。

 

 ぴき、と、空間が音を立てたような気が、した。

 

「し、秋官長様……」

 心配する友人の肩に(もた)れかかり、ぐらぐら揺れる頭を振りながら拱手しようとする半獣の青年を、にこやかに笑う人物が押しとどめる。

「ご無理をなさらないでください。わたくしが用があるのは、こちらの二人ですので」

 ゆるりとめぐらされた目線の先で、延麒の顔から音を立てて血の気が引いた。

「よい機会です。仰りたいことがあるのなら、謹んで拝聴いたしましょう」

 にっこり、としか表現ができないくせに、こんなに怖い顔などみたことがないような気がする。

 正面きって視線を合わせた延麒だけでなく、固唾を呑んで見守っていた景女王と青年もぞっと背筋を縮めた。

「もちろん」

 涼やかな声は、今しも逃げ出そうとしていたもう一人の人物の動きをも止める。

「拙めは宰輔だけでなく、主上のご意見も伺いたいと存じますが、いかがでございましょうや?」

 

 返答は、重い重い沈黙。

 

 それを勝手に肯定と取って、男は二人の襟首をむんずと掴んだ。

「では、参りましょうかね」

「……おい朱衡!」

「ちょ、それはやめろって!」

 左右で引きずられる主従の抵抗に、朱衡がやんわりと視線をおろした。

「お二人の前で、見苦しい抵抗をなさるんですか?」

 ぐっと黙った延王の反対側で、延麒が両手をあげた。

「わかった、わかりました! 自分で歩くから襟を離せ!」

 わかればよろしい、と手を離した男にぶちぶちと文句をたれながら、二人が立ち上がる。

「景女王、楽俊殿。お騒がせいたしましたこと、幾重にもお詫び申し上げます。主二人は中座させていただきますが、お二人はどうかお構いなく、おくつろぎくださいませ」

 けちのつけようがない微笑と一礼を残し退出する秋官長の後に、渋面の延王と残される二人に片手拝みで謝罪する延麒が続いた。

 

 嵐が去ったような堂室のなか。

 事の成り行きを呆然と見守っていた少女と鼠の青年は、閉じられた扉を前にぽかんとした顔を見合わせた。

「……やっぱりさ」

「うん」

 翠の瞳と黒い瞳がしばし見つめあい、それから肺を空にするような深い溜息が二人の口からこぼれた。

「逆らっちゃいけない人って、いるよね」

「……だろうな」

 しみじみと己が身を振り返る景女王と、慰めるようにその肩を叩く友人だった。

 

 

初稿・2005.02.13

 




イマイチうまくいかなかった・
こっそり楽陽。


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||41|| 好きじゃないというか嫌い。(三人娘)

……だって、苦手なんだもん。


 

 

「あいたっ!」

 高い声に、鈴は苦笑した。

「刺しちゃったの? 大丈夫?」

 手にしていた生地を膝に置いて横を伺えば、左手の親指をくわえた陽子が苦笑う。

「うん、平気。一瞬だけだから」

「こういうとき、仙て便利よね」

 鈴の左隣から祥瓊が笑った。

 まあね、と照れ笑いながら、陽子が針を持ち直す。

「それにしても、ちっともうまくならないな……」

 しみじみと溜息をつくのを聞いて、女史と女御が顔を見合わせて肩をすくめた。

 二人が針を使っているのはそれぞれの私服用の布。それに対して陽子は練習と称し手拭いの端縫いをしているのである。

「まあ、鈴は長いこと下働きをしていたのだし、わたしも刺繍くらいは(たしな)んでいたけど……」

「それにしても、陽子は下手よねぇ……」

 陽子の手元を覗き込んで、教師役の鈴がうーんと唸った。

 真っ向から下手と言われた陽子が口を尖らせる。

「わたしの頃はもうミシンがあったから、手縫いなんてあんまりしなかったんだ」

「みしん?」

「……縫い物をする機械」

 まあ、と祥瓊が眉を上げた。

「蓬莱にはそんなものがあるの? 便利でいいわねえ。陽子には作れないの?」

「作れたらこんなことしてない!」

 あんな細かい機械の構造なんて、一介の女子高生が知っているわけがない。

 憤然と反論しつつ、それもいいな、と思い直した。

「電動は無理だけど、足踏みミシンだけでも作れないかな……?」

「逃げてないで、ちゃんと練習なさい。数をこなさなきゃうまくなれないんだから」

 針仕事などあちらにいた頃からやっていた鈴が、ぴしゃりとあしらい、肩をすくめた陽子が頭を下げた。

「はい……」

 くすくすと笑った祥瓊が、鮮やかな手際で刺繍を施した生地を広げた。淡い浅葱の絹に、銀糸の刺繍が美しい。それを陽子が羨望のまなざしで見つめる。

「祥瓊、巧い」

「あら、公主の嗜みですわ」

 ほほ、と口元を押さえた元公主に、現役の女王がじとりと目を向ける。

「裁縫なんて、できなくったっていいもん……!」

 卓子にあごをのせて憮然とする陽子に、開き直ったか、とは言わず、鈴と祥瓊は目配せしあった。

 そう、王である彼女が針を使えるようになる必要はない。だがお針仕事は女性の社交場でもある。できれば三人針仕事の傍らお喋りと、楽しく過ごしたいものだ。

 ……王に求めるものとは、ちょっと違うかもしれないが。

 細かく針を使いながら、鈴がさりげなく微笑んだ。

「そうねえ、まあそれでもいいかもしれないけど」

 ちらりと祥瓊を見やり、それを受けた祥瓊も、心得て頷く。

「普通男の人って、お針とかお料理の出来る女の子が好きっていうわよね」

 ぴく、と陽子の肩が反応する。その様子を横目で確認しながら、鈴も追い討ちをかけた。

「旦那様のお召し物ぐらい自分で縫い上げられなきゃあ、いいお嫁様にはなれないって、おばあちゃんに散々仕込まれたわねえ」

 紅い髪の頭の上にウサギの耳でもあったら、ぴくぴくっと動いていただろう。

 ぎぎぎ、と二人を見やった固い顔の陽子に、零れるような笑顔が向けられた。

「まあ、陽子の好きな人がどうだかは知らないけど?」

「そうねえ、お針が出来なくても、王の仕事に差し障りはないでしょうしね」

 わざとらしい物言いに、陽子がますますふくれる。

「ひどいよ二人とも」

 すっかり拗ねた陽子に、たまりかねた二人が笑い出した。

「大丈夫よ、陽子が不器用なことなんて、楽俊はとっくに承知の上でしょうから」

「そうそう。そんなこと気にしないわよ」

「それも傷つくっ!」

 手にした縫いかけの手拭を投げ出して、陽子が叫ぶ。

 笑い転げる少女たちの華やかな声が、開け放たれた窓から空に零れた。

 

 

初稿・2005.02.13




陽子は手先仕事不器用ってことで。
鈴はもちろんですが、祥瓊もある程度は出来そう。
新道にいた頃に諸々の仕事はさせられていたでしょうけど、
刺繍とかなら公主だったときもやってたようなかんじ。
まあ、王様が針仕事しててもどうかとは思うけどねー・笑


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||42|| そう、何事にも初めてはあるものだ。(六太・楽俊)

大学生なら全員やったことがあると思っていたようです。


 

「弓?」

 六太の目の前で、漆黒の瞳がぱちくりとまばたきした。

 その反応に逆に驚いて、思わずぽかんと口があく。

「弓、って、弓射だぜ? やったことないのか?」

 ふるふると首を振る灰茶の鼠を見やり、六太は信じられない気分で眉を寄せた。

 彼は少学に(はい)ってこそいないが、選士に推挙されたというからには、その下の上庠までは出ているはず。その学歴で弓射の経験がないと言うのはおかしくはないか。

 そこまで考えて、六太は喉元まで出かかっていた言葉を飲みこんだ。

―――正式に通えたわけじゃなかったんだっけ。

 母親が田圃を売った金を寄進というかたちの(まいない)にして特例を許され、堂室の隅で講義を聞いていた、と言っていたのだったか。

 そんな待遇の半獣が、弓射など教えられているわけがない。

 続ける言葉に困って口を噤んだ六太の向かいで、当の鼠は小さな手で耳の下をかいた。

「たしかに弓射の講義は元々受けてねえんですけど、選士に推挙されたときはおいらと同格の奴がいなかったんで、弓で競う必要がなかったんです」

 小首を傾げる半獣の青年に、六太はひくりと口の端を歪めた。

「……ごめん、オレ、いまちょいむかっときた」

「え?」

「なんでもねー」

 そう。推挙の際に弓が要るのは、候補となる複数の学生の学力が優劣つきにくい場合である。

 選ばれる者が他に比肩なければ、弓射で争う必要はないのだ。

 上庠から少学を一段飛ばして大学を―――それも、生国ではなく名高い雁の大学を―――受けられるだけの力があり、あまつさえそこに首席で合格してしまうような頭脳の持ち主である。

 これと同期に少学を希望したところで受かるはずもなく、あえなく落選したであろう者は運が悪いとしか言いようがない。

 結果的に、楽俊は半獣であるという理由で推薦を却下されたから、次席の者が少学に上がったのだろうが、それにしても自分より遥かに優秀な者がいるというのは気に障ったかもしれない。

 それをわかっているのかどうか、目の前の小柄な鼠はただ首を傾げている。

 むう、と六太はこめかみを押さえた。

 ちょっとばかり頭がいいのを鼻にかけるぐらいなら可愛いもの。なまじずばぬけて才あると、他との格差が自覚できないらしい。

―――こればっかりは、言ったところで意味ねーんだろな。

 六太が何故機嫌悪くなったのかわからずきょとんとする相手を、じとりと横目でねめつける。

「ま、どうあっても弓射はやらなきゃならねーんだし、頑張ンな」

「はあ……」

 かりこりと毛並みをかく楽俊に、六太は大きな溜息をついた。

 

初稿・2005.02.15

 




初弓射はこれからの設定です。

本当は鳴賢との掛け合いだったんですが、大学入学当初だと
鳴賢と知り合ってるかわからないので、六太にしてみました。
うちは六太の出張り率が高いなぁ。


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||43|| 怠惰に委ねた決心の甘さ。(陽子)

『黄昏~』の後的時間軸。
初心を忘れないように。



 

 

 赤い嘴を閉じた鳥の前で、陽子は目頭を押さえた。

 そうしていてもこらえられなくて、熱い雫が指先を伝って落ちる。

「ごめ……」

 零れた言葉は、込み上げる感情に押し流されてしまう。

 

 謝罪と、感謝と。不安も苦悩も、怒りさえ。

 

 翼に乗せられて届いた懐かしい声に、様々な思いが入り乱れて溢れそうになる。

 元気か、といつもの調子で始めた彼は、事件のことはなにも言わなかった。

 きっと誰かから聞いているだろうに、陽子をたしなめることも責めることもせず、いつものように朗らかな声で、陽子が彼に送った言葉への返事と、他愛ない近況だけを語った。

 ただ、最後。

 いつもならば、軽くじゃあなと言う彼が、僅かに間を置いた。

---無理、するなよ?

 どこか切なそうな静かな声は、陽子のことだけを想って紡がれて。

 なにも聞かず、なにも言わないけれど、その言葉に彼の気持ちがすべて詰まっていることに、いやでも気づく。

「ごめん、なさい……」

 甘えている。

 こんなにも彼に甘えていることを、今更ながら思い知らされる。

 しっかりしろと叱りもせず、無責任に慰めもしない。

 この壁は誰でもない陽子自身が越えなければならないとわかっているから、王である陽子に対して、あのひとはなにも語らない。

 ただ、一人の友として陽子を気遣ってくれる優しさが、胸に痛いほど嬉しかった。

 情けなくて、申し訳なくて、嬉しくて。

 ありがとう、という言葉は、声にならない。

 

 なにを、してるんだ。

 わたしは、なにをしてる。

 

 王であること、国を支えつづけることが容易ではないなんて、最初からわかっていたはずだ。

 数百年もの王朝を築く者の傍らで、たった数年を乗りきれない脆弱な王もいる。

 他国からの干渉がないこの世界で、それでも王が倒れるのは国内のひずみが理由に他ならない。

 数十年必死になっても実りない国政に飽く者、逆臣に討たれる者、奸臣に踊らされる者。

 玉座にある限り永劫湧き出すであろう難事の、そのすべてを乗り越え有り続けられる者だけが、為政者たりえるのだ。

 いつのまにか、油断していた。

 支えてくれる人が増え、一人懊悩することがなくなって、玉座というものの持つ禍々しいまでの毒を忘れていた。

 陽子自身ではない。

 王である陽子に対して向けられた、あれは刃。

---所詮女王だ。

 吐き捨てられた言葉。

---予王ほどの暗愚でないことは認めよう。

 それは称賛ではなく、侮蔑の感情。

 ああ、と涙に濡れた頬で嘆息する。

 あれほど苦悩して尻込みしながらも、課せられたものならばとついた今の座ではないのか。

 己に向けられたいわれない害意の源を知り、玉座の持つ狂気に慄きながら、それでもやってみろと励まされて頷いたのは、誰あろう陽子であるはず。

「わたしは、往生際が悪いから」

 維竜への進軍の途中、延王にそう言ったのは自分。

 生きることを諦めない。

 それは今の陽子にとって、国を治めることを諦めないのと同じ意味。

 良くも悪くも、それが王という者のさだめだから。

 王である己を忘れてはならない。

 自分は、陽子という一人の人間であると同時に、景王赤子でもある。

 でもきっと、ただの陽子であることもなくしてはいけないのだ。

 そうでなければ、民の希望も苦しみも、分かりはしない。

 だから、彼は「王であれ」とは言わない。

 王様の仕事は、と、まるで役所の官位ででもあるような気安い口調で陽子を励ます。

 その気遣いを無にするようなことを、自分はしでかすところだった。

 おまえにならできると、おまえのつくる国を見てみたいと言ってくれた、その言葉に恥じないようにといいきかせていたはずなのに。

 王であることに慣れてしまわないように。

 いつでも、はじめて玉座についたあのときの緊張感を、失わないでいよう。

 ようやく止まった涙の名残をごしごしと袖で拭って、陽子は手を差し出した。

 その手首に、小首を傾げておとなしく主を見守っていた鳥が、止まり木にしていた書籍の端から飛び移る。

 きゅるる、と鳴くそのつぶらな瞳に微笑む。

 また不意に涙が零れそうになって、紡ごうとした言葉を慌てて飲みこんだ。

 

 

初稿・2005.02.17




原作の隙間を縫うようなハナシばかり
好んで書く習性ガ・
いいのか悪いのか・・・。


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||45|| もっと色付けて喋れよ。(鳴賢)

悩めワカゾー!(違います)


 

 

 あの子は誰なんだと聞いたとき、彼はあっさり、友達だ、と答えた。

 

 それはまあ、そうなんだろうけどさ。

 鳴賢はどこか腑に落ちない気分で唸った。

「もうちょっと、他に言いようがないもんかなあ」

 ただ友達、というにしても、いろいろあると思うのだが。

 気軽に茶飲み話のできる友人、馬鹿騒ぎする悪友、勉強や将来について真剣に話をする相手。広い意味でなら、挨拶や立ち話くらいはするけれど、堂室に上がりこんでまでは話さない人、とかも友達に入るか。

 万事におおらかで、ものを気にしないところのある奴だから、「友人」というものに定義などないのかもしれないけれど。

 なんとなく、自分を含めた友達の輪のなかに彼女を入れるのは、違う気がする。

 たんに親しそうとか仲がいいという言葉で済ませてしまうには違和感があって。

 だからといって、恋人、というわけでもなさそうだし、妹だと言われた方がまだしっくりくる。

 まあ、ぱっと見たところは弟、なのだけれど。

 もちろん、彼女がそのへんの道ですれ違う娘たちより数段綺麗であることは間違いないのだが、その格好や挙措を見ているとどうも向こうっ気の強い少年、という雰囲気が強い。

 いっそ暢気といわれそうな彼と一緒にいるから余計なのかもしれないが、その対比がまた面白い。

 彼本人は一人っ子だと言うが、だからこそ仲のよい兄弟に見えてしまうのかもしれない。

「……そういうのも、関係してるのかな」

 優しくて頭も面倒見もいい兄と、兄によく懐いたやんちゃな妹(あるいは弟)。

 なんともほほえましい光景だ。

 自分からすれば、なんとも歯がゆい気もするのだけれど。

---一応、いい年の男なんだからさぁ。

 いやまあ、男女間の友情が悪いとかいうつもりは毛頭ございませんが、と、心の中で友人にいいわけをしながら、天井を睨んだ。

 自分には関係ないといったらそれまでなのだが、友人の色恋沙汰は気になるし、これがまた中途半端に首をつっこんだあたりがたいそう面白いわけで。

 欲を言えば、ちょっと込み合ったほうがより面白みがあるのだが、そこまで期待してはいけない。

 まがりなりにも意思をもって手にしていた筆を硯に置いて、思考は本格的に勉強から離れていく。

 さしせまった試験も課題もないし、くだらないことで考え込んで時間をつぶしてももさほど困るわけではないが、勉強熱心な彼がこの状況を見たらまた溜息をつかれるだろう。

「そうやって手ぇ抜いてるから、勉強がはかどらねえんだろ! ってか」

 椅子の背もたれに体重を乗せて、くつくつと思い出し笑いする。

「ほお、わかってんじゃねえか」

「文張っ!」

 だしぬけに声をかけられ、浮かせていた足が空を蹴る。

 すばらしく景気いい音を立てて椅子ごとひっくり返った同輩を、灰茶の鼠がしらじらと眺めた。

「鳴賢、おいらお前はもうちっと運動神経いいと思ってたぞ」

「……俺も、そう思ってたよ」

 手を貸そうともしない友人に、硬い石の床にはたきつけられた後頭部をさすりながら、地を這うような声で答える。

「なんだよな、いきなり声かけることないじゃないか」

 しみじみ痛い頭を抱えて睨みつけるも、長い尻尾はちょろりとその先を揺らすだけでおそれいらない。

「おいらはちゃんと扉叩いたぞ。返事がねえから名前呼んで開けたのに、お前ときたらこっちの声にも上の空で考え込んでるし。なにやってたんだ?」

「え」

 ようやく身を起こした鳴賢は、事の前後に思い至って椅子の足にすがりついた。

 本当は堂室から逃げ出すか物陰に隠れるかしたいところだが、あいにく現状ではこれが精一杯。

「いや、別に」

 ひしと椅子を抱き込んでやたらと首を振り回す鳴賢に猜疑心でも持ち上がったか、相手は黒い目をわずかに眇めた。

「おいらの小言を笑ってたところを見ると、また勉強以外のことか?」

「また、ってのはひどいんじゃあ……」

「またでなけりゃ今度も、だ。おいらがくるたんび、勉強そっちのけで遊んでるような気がするのはおいらの覚え違いか?」

「あー、その」

 これだから口と頭の回る奴は困る。

 舌先三寸で逃げおおせる隙間がないではないか。

 どう言を弄しても自分が遊んでいたことは確かだし、考え事の内容など断じて話せない。

 こうなったら、と瞬時に対応を切り替える。

「申し訳ございません、少々息抜きの度が過ぎたようでございます。張老師」

「誰が老師だ、誰が」

「小生心を入れ替え、これより真面目に勉学に励みますので、此度のことはなにとぞご容赦を」

 へへーっとわざとらしく平伏してみせると、きわめつけに冷たい声が降ってきた。

「そうだな、真面目にやらねえと伝説が完成しちまうもんな」

「だから、それを言うなって!」

「ほほぉ?」

「あ、嘘ですごめんなさい」

 冷たい視線に精一杯の愛想笑いを振りまいて、いそいそと書卓に向かう。

「ええと、明日の講義講義……」 

 わざとらしく本をひっくり返す鳴賢に、灰茶の鼠が深々と溜息をついた。

 

 

初稿・2005.02.28




途中から脱線しちまいました。
失礼失礼・笑


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||46|| 論理の飛躍どころかワープだって、ソレ。(陽子・祥瓊)

王の役目、麒麟の役目。
真実、麒麟にふさわしい性質とは?


 

 書卓の上に厚い紙の束を置いて、陽子は両のこめかみをぐりぐりと押した。

 そうするとすこしは目許の緊張がおさまって、ようやっと重石が取れた気分になる。

 陽子、と笑み含みの声をかけられて振りかえると、祥瓊が盆を片手に立っていた。

「その様子だと、一区切りついたんでしょう、お茶にしない?」

「賛成。ちょっと息抜きしたいところだったんだ」

 だるさの残る両腕を上げて応える陽子に、おおげさねえと祥瓊が笑う。

「だって、朝からずっとこれとにらめっこなんだよ? いいかげん肩も凝る」

「はいはい。主上のお加減に気を配るのも、傍仕えの務めですからね」

 すました返事に陽子が吹き出した。

「祥瓊には感謝してるよ。景麒じゃ休ませてもくれない。あれが慈悲の具現なんてとても思えないよなあ」

 民や官の断罪には、なにを考えるそぶりもなくまずは慈悲を求めるくせに、自分にだけがみがみうるさい半身を思い出して、陽子が眉を顰める。

 手際よく茶を淹れていた祥瓊も、苦笑気味に頷いた。

「どうも麒麟にはそういうところがあるみたいねえ……」

 かつてわずかながら働いた恭の王宮でも、見当違いの温情を垂れるなと王がしばしば麒麟を叱ると聞いた。

 まあ、他の国はあれほど派手な騒ぎはないのだろうが、慶へ来てここの麒麟を見て、どうしてこうも彼らは融通がきかないのだろうと悩んだものである。

 そのへんをいくと、隣国や範の麒麟はやや規格外になるのかもしれない。

「慈悲、というのも、難しいわよね」

 なにをもって慈悲と言うのか。ただ憐れんで許すことだけが慈悲なのか。

 茶碗を二つ卓子に置きながら、祥瓊が考え込む。

 うん、と頷いた陽子も、あらぬ方を眺め頬杖をついた。

「これは以前、人に言われたことなんだけど。たとえばここに罪人がいたとする。彼は人を殺めたのだが、これには飢えた妻子があって、彼らを養うため罪人になった。麒麟はそれを見て助けろという。だが、それでは国が立ち行かぬ。罪は罪として、裁かねばならない、と。この場合、麒麟が望んだのは、慈悲なのか、ただ民を死なせたくないという憐れみなのか?」

 翠の目線に、祥瓊が軽く柳眉を寄せた。陽子は小さな茶碗を両手に挟んでくるくる廻す。

「ただ憐れむだけなら、誰にだってできる。言い方は悪いけど、かわいそうに、って思うのは、自分がかわいそうじゃないと思っているからじゃないのかな」

「……そうね」

「だけど、憐れむのと同情するのは違う。本当に重要なのは、なにに対して憐れむのかってことだ。妻子のために罪を働き、それを裁かれる。だからかわいそう? 同じ境遇でも罪を犯さない者がいるのなら、罪を犯した者だけが哀れなのか?」

 そうじゃないんだ、と首を振る。 

「罪は罪。そのうえで、罪を犯さねばならなかった境遇を(かんが)みて、政策に過ちがあったのならそれを反省し、改善して行くのが、国を守る者の務めなのじゃないかな。そのために王がいて、その王が走りすぎないよう押さえるために、慈悲を知る麒麟がいる」

 黙って聞いていた祥瓊の耳に、あの雪に包まれた里で叩きつけられた怒声が甦った。

---歩役を休んでも死刑、老いた親の世話に一時畑を離れても死刑。

 ああ、と胸のうちに氷のようなものが滑る。

---なんて非道。

 辛い記憶を掘り起こして初めてわかる、その酷薄さ。

 王とは、民を守るものでなければならないはず。

 それをなしえないときのために、麒麟がいるのではないのか。 

 民のために憐憫を垂れる神獣。それができなければ、罪はその身で(あがな)うしかない。

---二代にわたり暗君を選んだ、あなたに対する民の絶望を御理解いただきたい。

 白刃を手に膝をつく男に頷いた芳の麒麟は、その責を果たしえなかったがゆえに、己の首を差し出した。

 昏い記憶を、小さくかぶりを振って追い払う。その向かいで、陽子が深々と溜息をついた。

「ときどき、景麒なんかより楽俊の方がよっぽど麒麟に向いてるって気がするよ」

「楽俊が?」

 目を瞬いた祥瓊が、ぷっと笑った。

「なあに、それ」

「だって、頭はいいし、ものはよく知ってるし。それに、すごく人に優しいけど、絶対に甘やかさないもの」

「そうね、それは確かだわ」

 笑いながら、二人の少女は共通の友人を想う。

 名高い雁の大学で学ぶ、半獣の青年。

 二人とも、彼に会ったから、今がある。

 半獣を差別する国に生まれながら、それでも拗ねるところのない彼は、その生い立ちからか窮地にある人を見捨ててはおけない性分らしい。

 その一方で、必ずしも頼りきりにはさせてくれない。

 負いきれないものを課しはしないし、親身になって助けてもくれるが、まずは自分の足で立って前を見るよう、促すのだ。

「きつく叱るわけではないけど、言う事がいちいちもっともだから、甘ったれてる人間にはものすごく厳しく聞こえるのよね」

 実際、こっぴどくやりこめられた(と、当時は思っていた)祥瓊が苦笑う。

「でも、麒麟だなんてとんだ発想よね。本人が聞いたらなんて言うかしら」

 くすくす笑う祥瓊に、陽子が肩をすくめた。

「呆れられる、かな? またしょうがないこと言って、とか」

「今度、鸞で伝えてみたら?うちの麒麟になってくれませんか、って」

「やだよ、そんなことしたら、盛大にお小言貰っちゃう」

 他愛ないお喋りを、落ちついた叩扉の音が遮った。

「おや、お休み中でしたか」

「ちょっと息抜き。もう仕事に戻るよ」

 にこやかに入室してきた冢宰に苦笑して、分厚い書類の束を受け取る。

 書卓について筆をとりながら、さっきまでの戯言が頭を掠めた。

 楽俊が、慶の麒麟?

 ……ちょっと、いいかも。

 あるわけのない想像とわかっていても、つい笑ってしまう。

「どうかなさいましたか」

 怪訝そうな浩瀚にちろりと舌を出して見せる。

「いや、麒麟の人選」

 は?と瞬く浩瀚の横で、意味を知っている祥瓊が小さく吹き出した。

 

 

 後日。

「麒麟は無理だけど、大公の席なら空いてるわよ?」と、祥瓊が言ったとか言わないとか。

 

 

初稿・2005.03.07




途中、危うく脱線しそうでした。
十二国記でワープとかって単語は、ちょっと違和感あるのです(^^;)


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||47|| 『恋』と『変』を見誤ってない?(金波宮)

バカバナシです。


 

 まず最初の感想は、きったない字だな、だった。

 いや、広げるまでは、筆を拭くのにでも使った紙かと思ったのだが。

 つまりはそれくらいごちゃごちゃとしているものの、一応文字であるらしい。

 というか、文章であるらしい。

 どこまでも仮定にしかならないのは、むろん自分で書いたものではないからなのだが、それにしてもこれほど読みにくい文面というのも珍しかろう。

 あえていうなら、手習いを始めたばかりの子供の字だ。おまけに、書き損じをそのまま練習にあてたのか、いくつかの文字が重なっているうえ、字数にすればたかだか十に欠ける程度の切れっぱしである。読みようがない、というのが正直なところだ。

 これが里家や庠序の堂室に転がっていたならなんの変哲もない光景なのだが、あいにくここは王宮のどまんなかである。

「桂桂……じゃないよな。誰だ?」

 桂桂はこの環境で唯一の子供だが、歳から言ってももうちょっとましな字を書く。第一、桂桂の書いたものがこんなところに飛んでくるはずもないわけで。

 はて、とどっちが文頭だかもわからない小さな紙をためすがめつしていると、後ろから肩を叩かれた。

「虎嘯、こんなところに突っ立って、なにをしてるんだ?」

 おう、ちょうどいいところに、と振りかえって、掌の半分ほどの紙を広げて見せる。

「その隅に落ちてたんだがな、桓魋、この字に覚えねえか?」

 怪訝そうな顔で覗きこんだ男も、なんだぁ、と眉根を寄せた。

「官のものじゃないな。下士官あたりが手習いでもしたか?」

「それにしちゃえらく汚い字なんだよなあ……」

 すぐに捨ててしまえばいいようなものだが、読めそうで読めない、となると、妙に読んでみたくなるもので。

 頭を寄せて解読していた二人の目が、一つの文字で止まった。

「……恋……?」

 ちょうど切れ目のあたりになるせいで、前後の文字はわからないが、確かにそう読める。

「……するってぇと、これは」

 すさまじく胡乱げな表情を互いの顔に見出して、二人は立ちつくした。

「恋文、か……?」

「二人とも、なにやってるの?」

 背後からの聞き慣れた声に、大の男が揃って飛びあがる。

「す、鈴?!」

 周章狼狽、という言葉の生きた見本になっている男たちに、黒髪の少女が眉をひそめた。

「なあに、そんなに慌てて」

「いっ、いや、別に」

 不審そうな視線が、虎嘯の手元の紙に止まる。

「あら、それ」

「これ、鈴の書いたものか?!」

「ちがうわよ。陽子に書き損じの山を捨ててくれって言われたんだけど、途中で籠からこぼれたのね。拾ってくれてありがとう。他の官に見つかったんじゃ、恥ずかしいもの」

「陽子の……?」

 鈴の頭上で、虎嘯と桓魋の視線が交差する。

 余人に見られては恥ずかしいもの。

 では、これはやはり。

「主上の、恋文……?」

「なんですって?」

 ことこの宮中では耳慣れぬ言葉に、鈴が面食らった様子で口をぽかんとあけた。

「や、だって」

 ここ、と示された箇所を、鈴もまじまじと見る。

 穴があきそうなくらい紙を見つめる少女を、息をのんでうかがうことしばし。

「やあね、なに言ってるの!」

 盛大に吹き出した鈴が、虎嘯の腕を荒っぽく叩いた。

「こ・れ・は、恋じゃなくて『変』! お変わりありませんか、よ!」

「はあ?!」

 頓狂な声で叫ぶ二人に、鈴が腹を抱えて笑う。

「読み間違いよ、二人とも。陽子の字があんまり下手だから、見間違ったんでしょ」

 呆れたような少女の説明に、二人は顔を見合わせた。

「なんだ、そうか」

「まったく、人騒がせな」

 もとはと言えば自分たちの勘違いなのだが、そこは都合よく忘れて胸をなでおろす。

「しかし、こんなへたくそなんじゃ、読み間違えてもしかたねえか」

「習いはじめなのを考えればマシなほうなんじゃないのか?」

「いやあ、桂桂だってもうちっとしっかりした字を書くんだぜ? こりゃ下手過ぎだ」

「まあなあ」

 無駄に笑う二人の腕を、誰かの手ががぽんと叩いた。

「わァるかったな、字が下手で」

「陽子っ?!」

 思いきり作り笑いと知れる笑顔のなかに殺気を漂わせ、世にも恐ろしい気配を纏った少女が仁王立ちしている。

 その迫力に、勇猛で知られる将軍と元義賊が、揃ってじりとあとじさった。

「桓魋はともかく、虎嘯にこれを笑えるような字が書けるとは、知らなかったなぁ?」

「し、主上……」

「その……なんつーか、えーと、こっちには、言葉のアヤって言葉があってだな……」

「あー、蓬莱にもあるよ。都合の悪いときにはいい言葉だよねえ?」

 うわぁ、と天を仰いだのは桓魋で、助けを求めたのは虎嘯である。

「鈴! 助けてくれよ!」

 が、振り返った先に、陽子と同郷の少女の姿はない。

「うわ、逃げた?!」

 陽子に声をかけられた瞬間に、大柄な男たちを盾にして遁走したのだろう。遥か先の柱の影からちらりとのぞいた袖が、頑張れとばかりにひらひら揺れて引っ込んだ。

「ずるいぞ自分だけ!」

 機に聡い少女を恨んでも、種を蒔いたのは自分たちなのだから文句も言えまい。

「さて。桓魋、虎嘯、練兵場へ行こうか。話はそこで聞く」

 にっこりと笑む王の言葉に、二人の顔から音を立てて血の気が引いた。

 練兵場へ行く。つまりそれは、叩きのめしてやるから覚悟しろということ。

 賓満をつけて、かつ本気になった王は強い。

 それはもう、妖魔の一群をも蹴散らさんばかりに。

「堪忍っ! 堪忍してくれ陽子!」

「主上、お静まりを……!」

「問答無用!」

 荘厳な王宮に、悲鳴と怒号が交差した。

 

初稿・2005.03.08




バカバナシ。
いやでも、馬鹿話のほうが難しいんです……。


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||48|| このツッコミ症候群患者めが。(景王vs景麒)

金波宮バカバナシその2。


 

 こつ、と整えられた爪が書卓を叩いた。

「……景麒」

「は」

 押し殺した声に、返答は簡潔。

 文句を言うときだけ饒舌で、あとはひたすら口の足りない下僕に、卓を打つ音が苛々と数を増す。

 白磁で作られたかのような冷たく感情のない貌に、苛烈な翠の瞳が向けられた。

「はじゃない!お前の頭のなかには、学習能力ってものはないのか!」

「主上……?」

 唐突に怒鳴られて、慶の宰輔は眉根を寄せる。

 どうみても、しかめっ面にしか見えないのだが。

「仰ることがわかりかねますが」

「馬鹿」

 にべもなく切り落とされて、今度こそ景麒の眉間に暗雲が立ちこめた。

「お言葉ですが、説明を怠る主上に御責任があると思われます。自己の不明を棚に上げて、いたずらに他人を悪し(ざま)に罵ることはおやめいただきたい」

「説明が足りないのはお前のほうだろう。それに、罵詈雑言だけすらすら喋るのはやめろといっている」

「雑言とは心外な。わたしは間違ったことは申し上げておりません。主上のためを思ってのことです」

「だったら、たまには主を労ってみたらどうだ」

「国や民のために尽くすが王の使命でございましょう。労うには及ばないと存じますが」

「……お前、それでも仁獣か?」

 紫と翠の視線が真正面から睨み合う。景女王こと陽子の故国風にいうなら、メンチを切る、というやつだ。

「酢でも飲んで、そのがっちがちの石頭を少しは柔らかくしてみろ」

「臣下に無体を要求なさる前に、ご自分がなさってください」

 むうう、と怒りの振り子は規定値いっぱい振り切って。

「お前がそこまでの態度を取るなら、わたしにも考えがある」

 睨みあった姿勢のまま、ばん、と陽子の手が書卓を叩いた。

 否、なにかを叩きつけた。

「主に暴言を働いた罰だ。以降わたしがいいというまで、これを外すな」

 突きつけられた代物と王を忙しく見比べた景麒が、はてしなく途方にくれた顔で首を傾げる。

「主上、これは……?」

「マスクだ」

「……ますく?」

「本来、クイズで間違えた回答者がつけるものだが、うるさい奴の口をふさぐにもいいアイテムだからな。文句は言わさん。つけろ」

 くいずとは、あいてむとはなんぞや、という疑問は、あいにく挟む余地がない。

 それでもなんとなく状況を察して、だんだん表情を曇らせていく景麒に、陽子がめいっぱい厭味な笑顔をつくった。

「わたしが手ずから作ってやったんだ。よもや嫌とはいわないな?」

「……」

 色白を通り越して青ざめた半身に、勝ったと握りこぶしを振り上げた王の姿は、運良く誰にも目撃されなかった。 

 

 

 翌日から、大きく赤い罰印をつけた白い布で口元を覆い、憔悴したふうで仁重殿にこもる宰輔の姿があった。

 その罰則は根負けした宰輔が王に泣きつくまで続き、王以外には謎の布切れは対宰輔用の最終兵器として、慶の宝重になった……わけはない。

 

初稿・2005.03.10

 

 




お題が難しいので、またもやバカバナシに逃げました。
それにしても、うちって景麒ファンの方には非常に優しくないサイトですね。ゴメンナサイ・
モノは、言わずと知れた赤バッテンつき罰ゲーム用沈黙マスクです。
原作の陽子ちゃんは、こんな阿呆なマネしないだろうな……(遠い目)


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||49|| 老若男女を問わず美人は何時だって大歓迎。(雁国)

雁国バカバナシ。


 自室にいないと思えば、だいたい脱走中。

 遁走先は十中八九が関弓で、そのうち三割の確率で博打に負けてただ働きしていたりする。

 そんなに大金をもって出ているわけでもなし、万が一にも正体が露見すれば外聞が悪いどころの話しではない。

 だが後で回収に来た誰かが払ってくれるのを見越してでもいるのか、本人にはからきし危機感というものがなく、賭け事には弱いのだから博打なんぞやるな、と口を酸っぱくして言っても、効果のあった試しはない。

 男ぶりだけは文句なしにいいから、どこの妓楼に行っても妓が放っておかないし、本人もそれをわかってあちこちに馴染みを作っている様子。

 放置しておいたらいつまでたっても帰ってこないそれを回収に行くのは、もっぱら気心の知れた側近で、近しいだけに応酬も手荒くなるのは必定。

 かくて、たまの息抜きと称する遁走劇から連れ戻された王には、盛大な小言と嫌味とツケが押し寄

せるわけである。

 これを一言で言い表すと、自業自得、とこうなる。

 

「だいたい、女の尻をおいかけまわす王など、みっともないことこのうえないだろうが!」

「心外な。のべつまくなしに女を漁っているわけではないぞ。ちゃんとした妓楼の、それもいい(おんな)をえりすぐってだな……」

「なお悪いわこのたわけ!」

「王に向かってたわけはないだろう」

「きさまなぞ、たわけでも誉め過ぎだ!」

 頭の血管が切れそうなほど顔を真っ赤にする説教役の腕を、小さな手が叩いた。

「帷湍帷湍」

 なんですか、と目線も険しく振りかえった男に、六太は手を振ってみせる。

「尚隆の女好きはビョーキみたいなもんなんだから、今更何言ったって無駄だって」

「そうやって甘やかすから、いつまでたってもこの阿呆の悪癖が治らんのだ!」

 まなじりをつりあげて帷湍が叫べば、尚隆もそのわきから顔をしかめる。

「病気とは失敬な。女性を見たら、まず口説くのが男の礼儀というものだろう」

「そんな礼儀があるか!」

「きさまの意見など聞いておらん!!」 

 左右から張り倒さんばかりの剣幕で怒鳴りつけられても、男にこたえたふうはない。

「博愛主義、と呼んでくれ」

 しゃあしゃあと胸をはる主に、やはり玉座に据える人選を間違えたかと冷たい目を向けた六太である。

「そりゃ博愛じゃなくて好きモノの間違いだろ」

「いかんな、子供がそんな言葉を使っては」

「誰のせいだ誰の!」

「仮にも王と宰輔が、そんな下品な物言いをするなぁ!!」

 玄英宮の夜は、おおむねこんなふうに過ぎてゆく。

 

 

初稿・2005.03.11




帷湍と延主従だけって珍しいですかね?
お題がお題だけに、シリアスにもラブラブにもなれない模様です・笑
オトナなお題は小松様に一任してみたり。
ところで、雁国三人衆のうち朱衡と成笙はOKなんですが、あと一人の存在が希薄でして。海神読み返さなきゃか・
ちなみに初稿ではうっかり帷湍を成笙と取り違えて書いてました。サイテーorz


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||50|| 生きてなきゃ、死ねない。(楽俊)

午寮の街にて。
設定捏造の嵐ですのでご注意を。


 

 最初の感覚は、寒さだった。

 手足の先が冷たくて、この季節になんで、と思った。

 次に感じたのは、いいようのないけだるさ。

 それがなんなのか、頭に靄がかかったようで、思考が今一つはっきりしない。自分がうつぶせで寝ているのだとわかったのは、誰かに声をかけられた後だった。

「ぼうず、気がついたか」

 どうにも重い瞼をようようあげてみると、浅黒く日焼けした顔に不精髭をはやした初老の男が、彼を覗きこんでいた。

「おう、目が醒めたようでなによりだな。どうだ、気分は」

「……だるくて、寒いです」

「だろうな。熱が出てるんだ、下がるまでおとなしくしてろ」

 熱、と呟くと、男が頷いた。

「ぼうず、ここがどこだかわかるか?」

「午寮……」

 言ってから、ああ、と思い出した。

 妖魔の襲撃を受けたのだ。

 迫り来る蠱雕の群れ。

 なぎ倒される人々。

 そのなかに煌く、青みを帯びた白刃と、それをふるう華奢な背中。

 そこまで記憶を手繰って、がばと身を起こした。

 瞬間、焼けた火箸を背中に押しつけられたような灼熱感と激痛が脳天まで走って、がくりと肘が折れる。

「なにやってんだ、傷が開くだろうが!」

 首筋を乱暴に押さえつけられて、それでも起きあがろうともがいた。

「おいら、行かねえと……」

「ばっかやろう、こんな傷でどこへも行けるわけねえだろうが! この街には俺しか医者がいねえんだ、この忙しいのに面倒かけさせるんじゃねえ!」

 大きな節だった手に思いきり肩を叩かれて、灰茶の毛並みが逆立った。

「い、ってぇ!」

「あったりめえだ。蠱雕の蹴爪にひっかけられて、命があっただけめっけもんなんだぞ。これが欽原なら死んでるところだ。わかったらおとなしく寝とけ!」

 これが医者のやることか、と思ったが、言えるわけもない。

「それよりな、一応手当てはしたんだが、ちっと毛皮が邪魔になってんだ。転化は傷に触るかもしれんが、いっぺん人の恰好になってくれねえか」

 え、と見上げた先では、男が薬の山を漁っている。視線に気づいたのか、深い皺の刻まれた口元を曲げて笑った。

「なに、腰まで衾褥かぶってるんだし、手当てするのは背中だ。気にするこたあねえだろ」

「はあ」

 別に人身をとるのが嫌なわけではないが、さっきの痛みかたからして背中の傷はそう軽くはなさそうだ。転化するとなると、相当ひびくかもしれない。

 覚悟は決めたものの、考えるのとやってみるのでは相当違ったようで、歯噛みしたくなるような激痛を薄い衾褥にしがみついてやり過ごした。

「わりぃなあ」

 男が改めて傷の様子を見ながら苦笑う。

「おめえ、歳はいくつだ?」

「に、じゅう……いち、です」

「へえ、ちっちぇえねずみだから子供かと思ったがな。名は?」

「楽俊……」

 背中に無造作な手でおもいさま塗られた練り薬が沁みて、目尻に涙が浮かぶ。

「運のいい奴だよ。蠱雕に蹴られた連中は他にもいるが、あとはみんな半死半生だぜ。背丈がちいせえぶん、軽くあたっただけなんだろう」

 だけ、というわりに、傷はけして小さくない。だが、巨大な妖鳥の蹴爪は大人一人を軽く握りこめるほどだ。背中を掻かれただけですんだなら、たしかに幸運なのかもしれない。

 存外丁寧に手当てを終わらせて、医者が笑った。

「そらよ。若いぶん回復も早いだろうが、しばらく安静にしとけ」

「しばらくって?」

「そうさな、四、五日は寝といたほうがいいだろうよ」

 そんなには待てない。

 痛む背中をこらえて、肘で体を起こす。

「おい」

「連れがいるんです。あいつ、旅慣れてねえし、探さねえと」

「莫迦か、てめえは! 動くなって今言ったところだろうが! そんな怪我と熱で出歩ってみろ、一日でてめえが野垂れ死にだ!」

 男の手が首根を掴んで、無理やり衾褥に押し戻される。

 衝撃で朦朧とした頭で、それでも首を振った。

「約束したんだ、連れて行ってやるって……だから」

 呆れたような鼻息が、斜め上のほうから聞こえた。

「若けえのに、いまどき義理がてえ野郎だぜ。それともなにか、好きな娘でも一緒にいたのか?」

 怪我人の中にも死人にも若い娘はいなかったが、と呟く医者に慌てて首を振りながら、楽俊は内心安堵した。

 では、彼女は無事なのだ。

 少なくとも、怪我はしていない。ならば逃げおおせたろうか。

「弟なんです。あいつ旅なんて初めてだから、心配で」

「どんな奴だ、背格好は?」

 答えようとして、それはまずいと思いなおした。

 この医者はともかく、衛士の耳にでも入っては彼女の身にかかわる。

「蠱雕が来たとき、森に走らせたんです。あいつが森に入ったのはわかったんだけど、おいらが人波に巻き込まれて遅れちまって」

 けして巧みでないそらし方に、男はああと頷いた。

「門前はすげえ騒ぎだったみてえだからな。蠱雕にやられたのよりも、突き飛ばされたり踏まれたりしたほうが多いほどだ。おめえなんか、門から遠かったから助かったようなもんだぜ」

「でしょうね」

 あの騒動で、倒れた人間を避けて走れるわけもない。死人の大半は、そうやってできたものだ。

「森に入ったんなら、すくなくとも無事ではいるだろうが……はぐれたんなら心配だな」

 眉間にしわを刻んで、男は顎を撫でた。

「そういや、聞いた話しじゃあ、蠱雕を斬った奴がいるってな」

「蠱雕を?」

 うつぶせていてよかった。

 ぎくりとしながらも、そ知らぬ声で聞き返す。

「ああ。熊みてえな大男が、妖魔相手に怯みもしねえで大刀片手に蠱雕をばっさばっさ斬って落としたんだとさ。衛士の顔見てどっか消えちまったって話だから、お尋ね者の盗賊かなんかじゃねえかってさ」

「へえ、とんでもねえ人がいるもんですね」

「おおかた、熊かなんかの半獣だろ。蠱雕の首を斬り落とすなんぞ、そうそうできることじゃねえ。よほどの豪腕なんだろうさ」

 本当は、傷の癒えたばかりの痩せた少女なのだが。

 笑っている場合ではないが、人の噂というもののおかしさに、かすかに口が歪む。

 だが、そう思われているほうがいい。彼女を疑う因子がひとつでも減るのなら、それにこしたことはないだろう。

「弟のことは心配だろうが、まず自分が先だ。なに、そのうち情けねえ兄貴を探しにくるかもしれねえし、先の街で待ってるかもしれねえ。焦らねえで、少なくとも三日は養生しろ。それまでは転化もするなよ」

「……わかりました」

「それから、銭の心配はするな。これだけの騒動だ、お役人が出してくれるとよ」

 よけいなことかもしれんがな、と笑って、男は立ち上がった。

 礼を言う暇もなく、むこうの衾褥に寝かされた患者の脇にしゃがみこむ。楽俊相手と同じように口悪く叱りつけながら、てきぱきと治療していく。腕は確らしいし、いい人物のようだった。

 ありがたい、と思いながら、深く溜息をつく。

「情けねえ話だ……」

 大見得を切って連れ出したのは自分のくせに、とんだところで彼女のお荷物になってしまった。

 妖魔の襲撃は、予想していたはずだった。

 そもそも、陽子があちらでも蠱雕に襲われたと言っていたのだから、今回のこともそれと同根だろう。それは重々承知の上でいたはずなのに、こんなことになるとは。

 医者の話が本当だとすれば、陽子は少なくとも怪我もせず衛士から逃げおおせられたらしい。

 だが、そこから先はわからない。

 探索の手に落ちていないか、他の妖魔に襲われていないか。

 案じても案じても、今の自分には何もできないのが歯がゆい。

 身じろぎすると、肉をかきむしるような痛みが背中をはしる。

 拳に握った手の甲を噛むようにしてこらえて、ほとほと情けなくなった。

 彼女はもっとひどいありさまだった。

 痩せた全身が怪我だらけで、右手はむこうまで突き通された酷い傷。

 華奢な娘がそれをこらえていたというのに、大の男の自分がたかだがこんな怪我ひとつで身動きできなくなるなど、だらしがないにもほどがある。

 ゆっくりと息を吐いて体から力を抜くと、少しは痛みが和らいだ。

 汗で髪のはりついた額を衾褥に押し当てて目を閉じると、熱のせいか意識が拡散していく。

 起きられるようになったら、すぐに旅立とう。

 できるだけ早く阿岸へ。そこで陽子を待とう。

 このあたりから雁へ行くには、阿岸から青海を渡るしかない。ここまで来る途中に教えた道は、陽子も覚えているはずだ。うまくいけば阿岸への途中で会うこともできるかもしれない。

 自分の至らなさを悔いている時間はない。そんなものは、これから歩く長い道中でやればいい。

 自分がどうするか、陽子をどうするか。考えなければならないことはたくさんある。

 今からでも遅くはない。やれるだけのことをやろう。

 

 まだ、希望はあるはずだから。

 

 

初稿・2005.03.22




ななしのおっちゃんはべらんめえですが、イイ人です。
半獣相手にもちゃんと治療してくれる赤ひげ先生・笑
こういう人好きなんで、つい出してしまいます。ははは。
イシャ、が出なかったので、蓬莱の字になってます。

麒麟が人になるのを転化といいますが、半獣が人になるのはなんていうんでしょうか……。
色々調べたんですがわかんなくて、便宜上、麒麟と同じに転化と呼んでおります。

で、実際楽俊の怪我ってどれくらいだったんだろー。
蠱雕はデカいし蹴爪も大きいから、勢いよく蹴られたら衝撃だけで気絶しそうですよね。
陽子よりだいぶ早く阿岸にたどり着いたところをみると、そんなに大怪我でもなかったのかもしれませんが、ここはやはり、そこそこの怪我の ほうが……って、ホントにお前は楽俊のファンか。
でもあのツメは、ちょっとかすっても結構大きな傷になりそうだ・

玉葉のママさんが楽俊を見つけられなかったのは、ねずみさんを探していたから、ということで、一時人身に戻っていただきました。
だって、そうしないとなんか計算合わないんですよ。
そして、お題はまた連想ゲームで……汗
あー、「迷叉」のほうがお題に近かったかな。



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||51|| 人を裁けるのは事実だけ。(陽子)

王というもの。


 

「主上」

 声をかけられて、陽子は凝視していた自分の指先から視線を上げた。

 卓越しに佇む半身は、常にもまして白い貌で主を見返す。

 その紫の目が揺れているのを見て取って、薄く苦笑した。 

「景麒」

「わかっております」

 かすかに首を垂れた麒麟は、やや憔悴した風情。それは陽子のせいではないが、王として陽子が為さねばならぬもののためではある。

「わたしとて、此度のことは主上の御判断が正しいと思います。彼等がなしたことを考えれば、断罪は当然のこと。ですが……」

「わかっている、気にしないでいい」

 麒麟は仁獣という。

 つきつめれば、慈愛と憐憫を垂れる、ただそれだけの存在。

 相手が誰であれ、どれほどの悪行をかさねたものであれ、裁かれると知って見過ごすことは出来ない。

 それは彼等の本性なのだ。

 だから、陽子も景麒を咎めはしない。

「今日はもう仁重殿にさがるといい」

「主上」

「無理はするな、景麒。……だがわかってくれ。王とは、業を負うものなんだ」

 血の一滴も流れない玉座はありえない。

 王道とは、所詮血塗られた悪路でしかあらぬ。

 絢爛たる居城や御物に溺れ、甚大な権を玩ぶ者は王ではない。

 幾百万の民から滴る有形無形の血を両手に受けて、その熱さに懊悩し涙する者でなくては、玉座には有れないのだから。

 真摯な翠の瞳に、景麒がごく淡く笑んだ。

「心得ております、主上」

 ゆっくりと下げられた金の髪に、陽子も静かに瞑目する。

 罪人を裁くことは、容易ではない。

 人が人を裁く以上、その重みに無感動ではいられない。

 それをすべて呑んだうえで出た答えならば、痛みごと受け入れるのが国を統べる者の役目。

 互いにそれを知っている。

 叩扉の音と共に、冢宰を拝する男が入室を告げた。

「主上、よろしゅうございますか」

 浩瀚の控えめな促しに、景麒が軽く頷いた。

「お言葉に甘えて、わたしは下がらせていただきます。どうぞおいでくださいませ」

「うん。では」

 首肯して、陽子は立ちあがった。暫し視線を合わせた景麒が、もう一度深く頭を下げる。

 託されたものをしっかりと頷くことで受けとめて、毅然と前を向いて足を踏み出した。

 

---刑場へと。

 

 

 すべてのものから目を逸らさずに。

 すべての命を忘れないように。

 迷いながら。

 悩みながら。

 

 そうやって、自分たちは生きていく。

 生きていかなければならない。

 

 たとえそれがどれほどの隘路(あいろ)であろうとも。

 

 

 まことの答えがいずくにあるかは、やがて天が、民が教えてくれようから。

 

 

初稿・2005.03.25




「風の万里~」後。
内容的にあまり長くしたくなかったので、超短編になりました。
結局、あの人たちはどうなったのやら・


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||52|| 遠慮ではなく拒否ですから。(押せ押せ延主従と逃げ楽俊)

あれはわざとだろう、というところの掘り返し。
コメディです。


 

 石造りの堂室を覗きこんだ二人の第一声は、狭いな、だった。

「それにこの壁。切り出しの岩壁じゃあ、冬なんか寒いだろうに。学生はみんなこんなところに住んでんのか?」

「大半はそうみたいですね。家が近いやつは通っているようですけど」

 答えながら、楽俊は床の隅に積み上げてあった書籍をどかして道をつくった。なにしろ、この来訪者たちは窓から入ってきたので、そうしないと通れないのだ。

「なにもそんなところからいらっしゃらなくても」

「だっておまえ、正面から入るわけにはいかねーじゃん」

 ぺろりと舌をだした延麒の頭を小突いて、延王が笑った。

「いつこられるか、俺たちにもわからんのでな、連絡しようにもできんのだ。驚かせたか」

「……心臓が止まるかと思いました」

 窓を叩く音で振りかえったら、暗闇の中に生首が二つ浮かんでいた。

 悲鳴を上げなかったのは、たんに声が出なかっただけの話である。

 さもあろう、といかにもすまなそうに頷く二人の顔には、しかししてやったりという笑いが浮かんでいる。

 わざとやったな、と直感したが、まさか王と宰輔に諫言するわけにもいかず、楽俊はやれやれと髭を垂れた。

 窓枠を乗り越えた延王に一つしかない椅子を譲り、楽俊は踏み台に腰掛けた。

 延麒はさっさと帳を開け放った牀榻に座っている。

「さすがっつーか、すごい本の山だな」

 さして広くもない堂室に積まれた書籍を見まわして、延麒が感心した声を上げた。だが堂室の主は、謙遜したふうもなく首を振る。

「おいらの持ち物なんて少ないもんです。なかには書籍に堂室を占拠されて、書卓で寝てるってのもいるようですから」

「げ」

 おおげさに仰向いた延麒が、傍らの王をねめつけた。

「お前、学生をみならえよな。尚隆の部屋なんて、すっからかんじゃん」

「なに、書籍なら朱衡のところにごまんとあろうが。それに、俺がやるべきは書物を読むことではなく書籍に残されるような偉業だからな」

「本に残されるような悪行かもしれねーよな」

 揚げ足を取る半身に言っていろ、と鼻を鳴らして、延王が楽俊に笑った。

「そんなことならなおさらだ。楽俊、王宮に住まんか?」

「……は?」

 唐突な提案に、黒い目が瞬いた。

 それにかまわず、延王がたいして広くない堂室を見まわす。

「お前のことだ、この堂室などすぐに手狭になろう。どうせ俺の所など空いた堂室がごろごろあるのだし、ここよりは広い。今からでもこっちに越してこんか」

「や、あの、そういうわけには……」

「ばっか、王宮じゃ遠いじゃねーか。どうせなら家の方がいいよな? 大学の傍にあれば、通うにもここと大差ねーし、そのほうが気兼ねもしないですむだろ」

「いやあの、延台輔?」

「そうかもしれんが、王宮の方が資料の書籍もあって便利だと思わんか?」

「そんで朱衡にこきつかわれんのかよ? あいつならぜってーやるぜ。首席入学の楽俊を放っとくわけねーもん」

「むう、それはいかんな。勉学の邪魔だ」

「あの、おふたりとも……」

「じゃあやっぱ家だな。どーだ楽俊」

「や、ですから・・・」

「ん? やはり王宮のほうがいいか?」

「そうじゃなくてですね!」

 勝手に暴走している話に、楽俊はあわあわと尻尾を立てた。

「あの、おいらはここで充分なんです。家だとか、まして王宮なんてとんでもない」

 ぶんぶんと首を振る楽俊に、延麒が顔をしかめる。

「だってお前、うちもボロ屋だけど、ここよりはましだぜ?」

「せっかく優秀な成績で大学に入ったのだからな。より快適な環境で、思う存分勉強してもらいたいのだ」

「お気持ちはとてもありがたいことですけども、そういうわけには参りません」

 ふたりがかりの説得に、さすがの楽俊もどう言ったものか頭を抱えたい気分だった。

 王相手に無碍(むげ)な断わり方も出来まいし、なまじ好意で言ってくれているだけに対処に困る。

 だからと言って、一介の大学生、それも他国からの新入生が王宮住まいだの家持ちだのと言えるわけもない。まして、学費にも困るような身分だというのにだ。

「本当に、もう充分していただいてますから。これ以上の御厚意になんて甘えられませんて」

「なんだよ、別に気にしなくたっていいんだぜ?」

「なに、俺たちが好きでやっていることだ。遠慮などするな」

 遠慮しているわけではない。まったくない。

 本音を言えば、これ以上ない迷惑なのだ。

 だがそれはさすがに口に出来ず、なんと言えば彼等が納得してくれるのか、大学の試験よりも難しい問題を前に、楽俊は頭を抱えるのだった。

 

 

初稿・2005.03.28

 




題名見た瞬間に話が決まったものの一つ。
「書簡」で珍しくぼやいてたのをネタに拝借しました。
困っている楽俊て滅多にないので、ちょっと面白かったり。
雁主従は単に好意でだけでなく、自分たちが遊びに行きやすいように下宿を勧めたとしか考えられないのですが・

本格的にどうでもいいことですが、「書簡」で学費だの勉強だのの事で悩んでいる楽俊にメタ萌えしたのはこの馬鹿野郎です。
22の男が、机に「ぽてり」なんてあごを乗せるな~!
なんか、すごく普通のお兄ちゃんなところが楽俊の魅力なんでしょうか。


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||53|| 帰るよ、君の元へ。(楽俊・玄章&悪友s)

進路。
それぞれの道。


 

 丁寧な手つきで文箱を閉じたとき、堂室の扉が叩かれた。騒がしい仲間たちのなかでは割合おとなしいそれで、来訪者が誰だかわかる。

「玄章か、入れよ」

 気安い声にひょこりとのぞいた灰青の頭が、堂室の主を見て軽くさげられた。

「急がしいところに悪いね、文張」

「なに、片付けはあらかたすんださ。気にするな。玄章のほうはいいのか?」

「うん、俺もだいたい終わった」

 にこりと笑って入ってきた同輩は、まだ残っていた踏み台にこしかけながら、閑散とした堂室をぐるりと見まわした。

「ついこのあいだまで、物凄い量の本があったとは思えない堂室だよなあ」

 素直な感想に、楽俊が軽く笑う。

 卒業試験のあいだ、書庫とみまごうばかりのありさまになっていたのは、なにも楽俊のところだけではない。

「そりゃあお互い様だろ。まあ、通り道以外の床が見えたのは久しぶりだけどな」

「俺のところは、ここほど本はなかったです。……鳴賢もすごかったけど、あれは単に散らかってただけか」

「あいつの散らかし癖だけはなあ……」

「入ったら最後、出られなそうだったもんね」

 思い出すのもはばかられる光景に、二人揃って苦笑がこぼれた。

「その鳴賢は?」

「もんのすごい量の紙の束の仕分けで、気が狂いそうだって叫んでたよ。もうちょっとしたら文張に泣きついてくるんじゃないかな?」

 玄章の冷静な推測に、楽俊がやっぱりな、と溜息をつく。

「おいら一人じゃあ、とてもじゃねえけど手が足りねえだろうなあ。最後の付き合いだ、玄章も手伝ってくれな」

「えぇ? やだよ、あんな部屋片付けるの」

「手間賃がわりに、晩飯を奢らせるさ」

「……ならやる」

 本人抜きで勝手に話を進めながら、楽俊は書卓の上のこまごまとしたものを片付けては箱に詰めていく。

 その、人型をとると自分よりやや背の高い後ろ姿を眺めながら、玄章がぽつりと声をかけた。

「慶とは、思わなかったよ」

 しみじみと言われて、振りかえった楽俊が少し笑う。

「玄章は、おいらが巧に帰ると思ってたか?」

「いや、巧はまだあんなだし、半獣の登用もないみたいだから、きっと雁なんだろうと思ってた」

 他国生まれの者が国官になる例は少ないが、ことこの雁であれば、まして首席であれば別格扱いなのは当然である。

「だって、大学卒業すれば国官だろう? 入学からずっと首席の文張なら、引く手あまたじゃないか。曉遠の台詞じゃないけど、雁のほうが待遇もいいだろうに」

 膝の上に両肘をついて、その手の上に顎をのせる。今年で三十二になろうというのに、童顔のせいか彼にはそういう子供じみた恰好が不思議と似合う。

「曉遠は先に卒業したけど、今年は三人一緒で。俺たちみんな専門がばらばらだから、それぞれのところで上のほうまで行ってさ、これからもみんなで顔合わせられたらなあって、なんとなくそんなこと思ってた」

 子供みたいだけどさ、と肩を竦める玄章に、楽俊は少し困ったように顔を曇らせた。

 学内でも特に親しい四人仲間のうち、最年長の曉遠は一足先に一昨年卒業した。希望どおり夏官を拝命し、元々の才能もあって順調に評価を上げているという。

 玄章は春官。おとなしい性格からか全体として目立ちはしないが、そのぶん人柄を見こまれて、小学関係へ任官になる。

 鳴賢は、おおかたの予想どおり地官への着任が決まった。鳴り物入りで入学し、そのあと伝説にしたがって素直に落ちこぼれたものの、最後に入学した楽俊と知り合ってからはそれを挽回したおかげだろう。それまでの不調がたたってか、卒業までに十年以上をかけたことになるが、最終的に上位成績者として名を残したことを考えれば、一度の挫折も悪くない、とは本人の負け惜しみである。

 勉強、特に法令は楽俊が。弓射は鳴賢で、玄章が馬術を。

 それぞれがそれぞれの不得手を補って、これまでやってきた。だから、これからもそうであればいいと、玄章は考えていたのだ。

 そしてそれは、たぶん遠くない未来にあると思っていたのに。

 

 慶へ行く、と楽俊が言ったのは、ほんの数日前のことだった。

 卒業をかけた最後の試験が終わり、曉遠も含めて祝杯がてらくりだした酒場でのこと。

 決まりつつある進路の話を振られて、楽俊は今とおなじに困ったような顔をして少し笑った。

「巧でも雁でもなくて、慶なのか?」

 仰天する友人たちを代表して、なんでまた、と曉遠が問う。

「巧でないのはわかる。希望したって難しいからな。だが、慶ってのはどこから出てきた? あそこは新王が立ってまだ十年にもならない新朝だ。朝も落ちついてないし、なにより国が固い。言っちゃあなんだが半獣差別も巧とたいしてかわらん。どうせ他国で働くなら、雁のほうが遥かに待遇も環境もいいだろうが。大学一の秀才のお前にしては、妙な判断だな」

「秀才はやめろって……まあ、普通はそうなんだろうけどな」

「だろうけど、なんだ」

 年長であるだけに、曉遠の言葉には遠慮がない。それに苦笑しながら、楽俊は手持ち無沙汰に酒盃を揺らしている。

「おいらは、別に出世したいわけじゃねえんだ。勉強がしたいから、大学に通ってた。巧にいたときからそれが目標だったしな。首席だったのだって、それの延長みたいなもんだ。まあ、学資のこととかもあったけども」

 それで主席を取られてはたまらんと三人の眉間に皺が寄って、楽俊が吹き出した。

「お前らの言いたいことはわかるけど、そんな顔すんなって」

「そんなんですまされてたまるか。死に物狂いで勉強して次席に終わった奴等に聞かれたら殴られるぞ」

 口を尖らせる鳴賢を、いつもどおりまあまあと玄章が押さえる。

「お前の姿勢はわかったがな、それでどうして慶なんだ」

 話を戻すのは、曉遠の役目。それも、いつもの光景だった。

 ん、と口篭もった楽俊に、三人が目線だけで問い質す。それを受けて、年少の青年が肩を竦めた。

「約束があるんだ。だから、おいらは慶へ行く」

「約束? 誰と、なんの」

 雁で学ぶ巧生まれの楽俊に、慶へ行くだけの約束をさせる理由がわからず、曉遠が詰め寄る。

 だが、楽俊は首を振った。

「それは言えねえ」

「おい、文張」

「相手があることだからな、おいらの一存では話せねえんだ」

 温厚だが、ここというときは頑として譲らない彼の性格は呑みこんでいるだけに、それ以上のことは聞き出せず、三人は揃って不満の溜息をつくしかなかった。

「よもやとは思うが、結婚を誓った女がいるとか言うんじゃないだろうな?」

 口を曲げて酒を注ぐ曉遠に、目を丸くした楽俊が笑う。

「まさか、曉遠じゃあるめえし」

「おい、そこで俺を引き合いに出すか?」

「そうさ、曉遠がそんなことするもんか。馴染みの(おんな)ってのならともかく」

「あ、そうだね。結婚て言葉は、曉遠が一番似合わないね」

「まぜっかえすなお前ら!」

 四人顔を合わせての、最後の酒宴。

 この国にとどまるならばともかく、隣国とはいえ楽俊が慶に行ってしまえば、全員が会えることなどこの先にはほとんどないだろう。国官とは、それほど気軽いものではありえない。

 そのことが、玄章には思った以上にこたえた。

 

「ごめんな、玄章」

 胸を覆った寂寥が顔に出たのか、楽俊がすまなそうに呟いた。気を使わせたことに苦笑って、首を振る。

「いや。お前が決めたお前の人生だもの、俺たちが口出していいわけないよ。大変だろうけど頑張れよ、文張」

「……ありがとうな」

 穏やかに笑うその顔は、初めて会ったときよりも少し大人びた。

 明朗で温厚で人当たりがよくて、誰よりも賢い他国の半獣。

 目先の勉強や、競争相手を蹴落とすことしか頭にないような意地の悪い連中の中で、彼の存在は異彩を放っていた。

 その性格をあらわすように優しげな顔立ちはそのままで、いまは四年という短期間で卒業を果たすだけの才知が、彼に歳に似合わぬ落ち着きを与えている。

「曉遠とさ、話してたんだ」

 多分、触れられたくはないのだろうけれど。

 なんとなく、言わないで別れるのは気が咎めたから。

 玄章はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「文張が慶へ行く理由。約束って、言ってたろう?」

 (じっ)と自分を見る黒い目から視線を逸らして、窓の外を眺めた。

 (ひる)を過ぎた空は、まだ(きら)めくように澄んで蒼い。

「その相手って、あの紅い髪の子なんじゃないか?」

「玄章」

「一度、大学に来てたよな。それと、街中で見かけたことがあるんだ」

 ちらりと様子をうかがえば、さっきまでとはうってかわって照れくさそうな顔で耳の後ろをかいている。その指先に絡む、髪を留めた翡翠の紐。

 あの子の目の色だよな、とは、他のニ人と交わした会話だった。

「……別に、曉遠の言ってたようなことじゃねえぞ?」

「それは見ればわかるよ。文張は嘘がつけないもんな。鼠姿のときは特に」

 こともなげに言うと、いまは人の姿をしている鼠がまあなあと笑った。

 これからのこともあってかここのところずっと人の姿でいるが、お互いそれにも慣れた。最初の頃は、背丈だけでも倍ほども違う半獣姿との差に、ずいぶん違和感を覚えたものだが。

「で、いつになったらその理由っての、教えてもらえるのかな?」

 真剣な顔をして見上げた先で、楽俊があのなと笑う。

「曉遠といいお前といい、なんでそんなこと聞きたがるんだ?」

「そりゃもう、超がつくほど真面目な文張が、女の子と約束だなんて洒落た真似をしてるからだな」

「洒落た真似ってなんだ。そんなんじゃねえって言ったろ」

「だって、すごい親しそうだったじゃないか」

「親しそうって……ちょっと待て玄章、お前なにを……?」

 訝しげに眉を寄せる友人に、悪戯心が頭を持ち上げた。わざと満面の笑みをたたえ、彼らしくもなくにやりと笑う。

「いやあ、お似合いもお似合い。あの子といる文張って、大学にいるときと全然雰囲気違うんだもんな。誰かと思ったよ」

「曉遠みてえな言い方するな! なんだよな、声もかけねえで見てたのか?」

「せっかく楽しそうなのを邪魔しちゃ悪いし?」

「そんなんじゃねえって!」

「嘘つくな」

「玄章……」

 どれだけ否定されようが恨めしそうに睨まれようが、耳まで真っ赤になった顔では説得力などないも同然で。

 本当に、楽俊は嘘がつけない。それが彼のいいところなのだろうけれど。

 自然に笑う口元で、とどめをさした。

「ま、言いたくなってからでいいからさ、彼女に許可もらって話してくれよな。そのときは全員で酒の用意して待ってるから」

「だから、なんでそんなことを」

「他人の(つや)話なんて、絶対面白いに決まってるだろう?」

「勘弁してくれって……」

 頭を抱え、床に沈まんばかりにしゃがみこんでしまった楽俊を、今度はさてどうやって浮上させようかと思案していると、堂室の扉が乱暴に連打された。

「……来たな」

 玄章がぼそりと呟く。

 たぶん同じものを想像しただろう楽俊が警戒した顔を上げるのと、堂室に学友が飛び込んでくるのが同時だった。

「文張!! 玄章もここか!」

 髪も袍もみごとに崩れた鳴賢が、堂室の主と客を見て音高く両手をあわせた。

「文張、玄章! 頼む、晩飯奢るからさあ、片付け手伝ってくれ!」

 予想と寸分たがわぬ展開に、それまでの攻防を一時棚に置いた玄章と楽俊が、げんなりと顔を見合わせた。

「……こうなるだろうとは思ってたけどさ」

「実際言われると、また気分が違うなあ」

 はは、と力なく笑った楽俊が、さらにへたりこみそうになった床から立ちあがる。

「しょうがねえ、これもなりゆきだ」

「同窓のよしみで助けてやるかあ」

 よいせと勢いをつけて、玄章も踏み台から腰を上げた。

 

「で、どれだけ片付いたんだと?」

「し……牀榻の上が、見えたかなあ、と……?」

「全然片付いてないじゃないか!」

「明日の晩飯も鳴賢の奢りだな」

「え」

「だって、絶対今日中には終わんねえだろ?」

「明日までかかるってか?! どうやればそんなにちらかるんだよ! つーかなんでこの手間かかって片付かないんだよ!!」

「明日中に終わるといいなあ」

「……明日でも明後日でも、奢らせていただきますです」

「こうなったら、曉遠も呼んでこようか」

「あ、それいいな」

「うわ馬鹿、あんなの呼んだら、晩飯じゃなくて宴会になるだろうが!」

「ほー」

「鳴賢君、誰に言ってるのかな?」

「悪かった、俺が悪かったです! だから助けてくれよぉ・・・!」

 

 

初稿・2005.03.29




大学モノは長くなるなー。
鳴賢だと感情的になりそうだったので、楽俊以上に温和な(という設定の)玄章に登場願いました。
お題の時間軸はそれなりに前後していますので、大学連中はこれでおしまい、というわけではございません。
連中を お好きな方々、どうぞ御安心を。
……多分・笑


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||54|| 能ある鷹は、よ。 (三人娘とおっさん)

風の万里直後。


 

「しかし、よくもまあお互いここまでやりおおせたものだ」

 酒盃を片手に、桓魋が悪戯げな顔で肩をすくめた。

「捕まりもせず、諦めもせず、か?」

 差し向かいに座った虎嘯が、笑いながらその杯に酒を注ぎ足す。

「ああ。虎嘯も同意見か?」

「いや、夕暉だ。怪我人を見舞ってるときにそう言ってた。ああいうのがなあ、さらっとでるってのは羨ましい。俺なんぞよくやった、しか言えねえ」

 いかにも朴訥とした彼らしい物言いに、桓魋が笑う。

「そういうのが効く場合もあるだろう」

「まあ、あらくれもんに小難しい言葉はいらねえからな。だが、それなりのあたまかずをまとめるとなると、夕暉ぐらい口や頭が回らんことには始まらん」

 はっはと笑って手を振る虎嘯に、ゆるりとかぶりを振る。

「なに、頭領ってのは押しだしが利くほうがいい。策を練るのは参謀の役目だからな」

 事実、と窓をすかして街並みを眺める。

 家々の窓にはいくつも明かりが点り、路地のそこここから楽しそうな歌声さえ漏れてくる。

 ほんの数日前には考えられなかった光景だ。

「これだけのことを成し遂げたんだ、たいしたものだ」

 しみじみとつぶやけば、叛徒の頭は柄じゃないと肩をすくめた。

「おだてるなよ。そっちの援軍がなけりゃあ、今頃そろって磔刑だ」

「なあに、二人そろってお互いの褒め合い?」

 軽やかな声とともに、卓の上に温かい料理の載った皿がいくつも置かれた。

「はい、お届け物よ」

「こりゃあ豪勢だな」

 ちょっとした酒宴なみの品数に桓魋が大仰な顔をしてみせると、紺青の髪を揺らして少女が笑った。

「お祝いってことで、ここの食料庫からだいぶ拝借したんですって。戦の間はろくに食べられなかったから、そのぶん今夜はご馳走だそうよ。ということで、わたしたちもご相伴に預かるわね」

 ちゃっかりと皿と箸を用意しているあたり、抜け目がない。卓は広く、同席している者もいなかったから、男二人は苦笑して頷いた。

 祥瓊のあとから同じように箸や茶道具を盆に載せてきた陽子と鈴がその隣に陣取った。

「なんだ、虎嘯たち二人だけか?」

「もっといるかと思ったから、お皿多めに持ってきちゃった」

「他の連中はまだ下で騒いでるさ」

 虎嘯が指差したさきには、中院で篝火を囲み騒ぐ同志たちの姿がある。

「部屋の中より外のほうが気が晴れるんでしょう。もう、空を気にすることもない」

 桓魋が笑い、陽子たちも笑った。

 料理に箸をつけながら、祥瓊が陽子をつつく。

「そうだ。この人たちったら、自分のことを棚にあげてお互いを褒めあってたのよ」

「へえ」

「まあ、おくゆかしいこと」

 少女三人に笑い含みの視線を投げられて、二人ともどこか憮然とした顔を見合わせた。

「本当のことだと思うんですがね?」

「なにも俺一人でやったわけじゃねえ。仲間がいて、思いもよらんところから援軍が来てくれたから、最後には全部がうまくいったってことだ」

「それをいうなら、俺だって柴望様の指示で動いてたんですからな。俺だっていわば兵隊というわけで」

 あくまでも自分は脇役だと主張する男たちに、陽子が首をかしげる。

「それだって、実働部隊は桓魋だし、最初に動いたのは虎嘯だろう。充分たいしたものだと思うけど」

「そうよねえ」

「りっぱな英雄よね」

 祥瓊と鈴の同調に、そろって顔をしかめた二人である。

「よせやい」

「褒めるなら傷病者や先陣で戦ったやつにしてやってください」

 ともに戦い、男顔負けの度胸で戦場を駆けた少女たちに褒められても、賞賛された気はしない。

 酒盃を抱えてじりじりと逃げる男たちに、三人の娘たちは顔を見合わせて吹き出した。

 楽しそうに他愛もないお喋りに興じるその姿を見て、桓魋が恨めしそうに酒を舐めた。

「たいしたものだってのなら、むこうのほうがうわてだと思うんだがなあ……」

「……まあな」

 

---我は芳国は先の峯王が公主、祥瓊と申す。

 

---采王御自らの御達しあって慶国は景王をお訪ねしました。

 

 少女二人の名乗りを思い出すと、今でも背筋が粟立つ。

 なにより、金の鬣をした優美な獣から降り立つ、緋色の髪。

 あの瞬間を忘れることは、終生ないだろう。

 まるで男のようななりをした少女。

 若い娘のくせに異様に腕が立つとは思ったが、よもや王とは想像もしなかった。

 いや、誰がそんな荒唐無稽を思いつくだろう。

「小説にでもなったら、さぞやいい話に仕立ててくれるだろうなあ」

「朱旌の連中なら、見てきたように語ってくれるだろうさ」

「そりゃあ楽しみだ」

 視線を交した男たちは、諦めと苦笑のないまざった顔で笑いあった。

 

 

初稿・2005.04.10

 




「風万~」乱直後。
フツーに書いてて気づきました。
桓魋敬語でなきゃおかしいじゃんか!



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||55|| 当然、下心は存分に満載だよ。(頑丘・利広+珠晶)

図南後、ネタバラシ話。


 

 壮麗な式典だったねえ、と朗らかに笑ったのは、華美の僅か手前程度に着飾った貴君子である。

「年は幼いが可憐で明晰そうな女王だ、なによりあの年で昇山とはと、下のほうでは珠晶の噂でもちきりだよ」

 若すぎる女王をしきりとほめちぎる青年に、横に立つ男はふんとわざとらしく鼻をならした。

「市井はそれですむかもしれんが、官吏は大騒ぎだろう」

「なに。官僚など、どんな王が来ても嫌な顔をするものさ。年端もいかない少女と侮ってくれれば、かえってやりやすいかもしれない。そのうち珠晶のほうがうわてになるだろうよ」

 まだ喧騒の残る階下を眺めながら、くつくつと笑う。

 黒を基調とした典礼服を着こなす姿は優雅で、さすが南に名高い奏の太子といえよう。

 とても、ついこのあいだ黄海を共に渡った仲間とは思えない。

 にこにこと楽しそうな青年の横で、頑丘は渋面以外の顔を作れなかった。

「……ただものじゃあねえとは思っていたが、まさか太子とはな」

 ことさらに物言いを悪くして睨みつけても、相手は眉の角度一つ変えない。

「ああ、珠晶にも同じようなことを言われたよ」

「ほう。で、殴られたか?」

 いっそ殴ってもらえと横目で見ると、善人顔の策士が満面の笑みをたたえた。

「いやあ、どっちかっていうと、呆れて言葉が出ないって顔してたね」

 それはそうだろう。

 自分の昇山に同行した人のよさそうな青年が、こともあろうに遠く奏から慶賀の使者として現れたのだ。珠晶でなくても驚く。

 しゃあしゃあと、と呟くと、軽快な笑い声がかえってきた。

 思い返せば、行動や言葉の端々に、それと察せる要素はあった。

 滅多に見ることのないような高価な騎獣、どんなことにも動じない胆力と、年のわりに達観したものの見方。そして、不可思議な言動。

 奇妙な男だと思っていたが、なるほど、数百の年を経ていると言われれば納得がいく。

「珠晶にお前が会ったことではなく、お前に珠晶が会ったことが大事、か」

 ふと零した独言に、振りかえった目が一瞬またたき、それから意を得たりと笑った。

「よく覚えていたね」

「……まだそこまで呆けてはおらん」

 むすりと口の端をさげると、青年はまた笑う。

 今なら、あの言葉の意味がわかる。

 王となるかもしれない少女に、彼が会ったのではない。

 彼に、未来の王である珠晶が出会ったことが重要だったのだ。

 おかげで、珠晶にはこれ以上ない後見が出来た。

 この世界に十二ある国のなかで、もっとも寿命が長くもっとも堅固な、奏という後ろ盾が。

 波乱は避けられないだろう朝のなかで、珠晶にとってそれはきっと強い支えになる。

「それにしても、珠晶も頑丘も正体を知っても敬語なんか使わないでいてくれるからありがたいよ。親しくしていた人に掌を返したように頭なんか下げられるのは、悲しくてしょうがない」

 芸細かく泣いたふりをする利広に、頑丘はさらに口を曲げた。

「あたりまえだろうが。まがりなりにも王族相手に不敬はできまい」

「おや、じゃあ珠晶はともかくなんで頑丘は普通に話してくれるのかな?」

「あれだけあごで使っておいて、いまさらそんな真似ができるか、みっともない」

 実際、本当はこうも気軽に話のできる相手ではないのだ。王族に対する非礼を糾されても文句はいえまい。

 なにしろ、正装の使者に相対しても叩頭どころか拱手もしなかった。実際には、驚きすぎて反応が出来なかったせいなのだが。

 だが、あの長い旅を同行した相手に、いまさらしかつめらしく礼なぞ払えるわけもない。まして無頼育ちの自分がそんな真似をしても滑稽なだけだ。

 むっつりと壁によりかかる頑丘に、利広は小首を傾げた。

「黄朱の民は、ではないのかい?」

「……俺はもう黄朱ではない。なんの因果か宮仕えになったからな」

 お仕着せの襟を窮屈そうに引っ張る男を、青年は意外なほど真面目な顔で見つめた。

「まさか、頑丘が本当に珠晶に仕えるとは思わなかったよ」

 うっすらと微笑む顔を見ずに、磨き上げられた石の床を眺める。

 どこもかしこも、これまでの自分とは欠片も縁がないものばかりで、底辺ぎりぎりの生活をしてきた身にはどうにも落ちつかない。

 だが、自分で選んだ道だからしかたがない。

「約束しちまったからな。王になれなかったときは珠晶が俺の徒弟、王になったら俺が杖身になると」

「そんな約束、反故にしてしまったっていいのに、頑丘らしいね」

「それで済ますようなおとなしいやつなら、そもそも昇山しようだなんて無謀なことは考えんだろうが。約束はどうしたとかさんざ喚かれたあげく、襟首掴んで引きずって行かれるくらいなら、おとなしくついて行った方がまだましだ」

 第一、とめいっぱいの渋い顔を作る。

「あんなはねっかえりを放っておけるか。会ったとたんに台輔をぶんなぐるような小娘だぞ」

 あとにもさきにも、あんな真似をした王など珠晶だけに違いない。

 同じ光景を思い出したのか、身をよじって笑った利広が、腹を押さえながら頑丘の肩を叩いた。

「頑丘も苦労するね」

「そう思うなら、いっそかわってくれ」

 さすがにそれはちょっと、とさらりとかわし、秀麗な顔がとってつけたような笑みを浮かべた。

「じゃあこうしよう。羽を伸ばしたいときは私に言ってくれれば、いつでも珠晶にとりなしてあげるよ。黄海でもどこでも、出かけたい放題だ」

 思い返せば、記憶のなかの彼はほとんど笑っている。

 なにも知らない人間が見ればごくふつうの好青年に見える笑顔は、だが頑丘には妖魔よりもたちが悪いものに見えた。

「ほう、お前さんのお供として連れ出してくれるってわけか?」

「え」

 切り返しはみごとに正鵠を射たのか、完全無欠の笑みが一瞬にして固まる。

「珠晶が言ってたぞ。星彩を自分にくれちまったんなら、お前さんの騎獣はどうするんだろう、まさか俺に狩らせるつもりじゃないだろうな、ってな。やっぱりか」

 じろりと見返せば、わざとらしいくらいすがすがしくあっはっはと高笑いされた。

「いやあ、さすが珠晶、読まれてたか」

「俺に案内させると、またこきつかうぞ」

「頑丘?」

「どうせ珠晶も俺がずっと王宮にいられるようなたちじゃないことはわかっているからな。自分の騎獣を狩ってこいとか言ってたし、お前さんの供はいい口実になる」

 目を丸くする青年をにやりと振りかえったとき、背後から軽いが勢いのいい足音が聞こえた。

「頑丘、こんなところでなにを遊んでるのよ! 利広まで!」

 王宮のちいさな主は、華やかな裳裾をひらめかせながら駆け寄り、二人の男の前でつんと顎を上げた。

「もう、ひとがしちめんどうくさい式典をながながとやってるっていうのに、いい御身分よね」

「俺はここの警備が仕事だぞ」

「わたしの役目は終わったからね、苦手なことはさっさとすまして逃げることにしてるんだ」

「頑丘はともかく、利広はなんか言い訳に聞こえるわね」

「やだなあ、珠晶はわたしを疑うのかい?」

「前科があるからな」

「信用できないわよね」

 今は主臣となった二人の絶妙な攻撃に、さしもの利広も声が出ない。

 その様子を満足そうに見た珠晶が、軽く肩をすくめた。

「ま、すんだことはもういいわ。式典は全部終わっちゃったから、供麒の堂室で宴会しましょ」

 紅唇から飛び出した言葉に、頑丘が目をむいた。

「仁重殿でか?!」

「だって、あたしの部屋は駄目だっていうんだもの。供麒も二人に会いたいって言ってたし、昇山成功のお祝いってことで、四人だけで御馳走食べましょうよ」

「お祝いって、おまえな……」

 どこの王が麒麟の堂室で酒盛りをするんだと天を仰ぐ頑丘に、珠晶がついと手を差し上げた。

「疲れちゃったわ。堂室までおぶっていって」

「---ついさっき、全力で走ってきたのは誰だ?」

「だから、式典と二人を探しまわるので疲れたのよ。王を走りまわらせるなんて非礼もいいところだわ。これでかんべんしてあげるから、さっさとおぶりなさい」

「……へいへい」

「へいへいじゃなくて、よろこんで、でしょ」

「よろこんで……なんて言えるか、このじゃじゃ馬」

「あ、言ったわねえ!」

 言いたい放題の二人を眺めていた利広が口元を隠しながら含み笑う。

「---なんだ」

「いやあ、頑丘、いいお父さんだねえ」

「こんなわがまま娘なんぞ要るか!」

「あら、こんな可愛い娘で不満なの?」

「---そのこまっしゃくれた口を閉じないと、階段から落っことすぞ」

「脅し文句に進歩がないわよ、頑丘」

「…………」

 

 供王蔡晶、字を珠晶という若き女王の長き治世は、ここから始まる。

 

 

初稿・2005.04.12

 




さりげなく頑珠ですか。
やー、珠晶好きだなあ。
「図南」の前半では好きじゃなかったんですけどね。
ちなみに頑丘と利広は最初から好き・笑


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||56|| 真っ直ぐ目を見て嘘を吐け。(陽子・楽俊)

月影後、即位前。
陽子サイドです。


 

「大丈夫だよ」

 振りかえると、どこか困ったような顔の青年がこちらを見ていた。

「もう、逃げない。わたしにどれだけのことができるかなんて全然わからないけど、やれるだけやってみる」

「陽子」

 気遣うように名を呼ばれるのが温かくて、すこしだけ切ない。

 それが不思議で、口元がほころんだ。

 

 夜の雲海を見下ろす、広い露台。

 思えば、この玄英宮のなかでここが一番おちつける場所だったかもしれない。

「楽俊や延王の助力があったから、景麒も助け出せたし、偽王軍もなんとかおさめることができた。あとは、わたしがやらなくちゃ」

「そうか」

 うん、と明確に頷くのには多少の努力が要るけれど、青年に安堵の表情が浮かんだのを見て、自分も安心する。

 彼には、そういう優しい顔が似合う。

「まあ、喋るのはいいとして文字は書くのも読むのも駄目だし、法律も常識も全部いちから勉強しないといけないから、目下はそっちのほうが大変かもしれないけど」

(まつりごと)は景台輔がおいでなさるし、専門の官がいるさ。わかんねえことは順繰りに覚えていけばいい。焦って一気にやろうとしても頭になんかはいらねえんだから」

「そうだね」

 欄干に背中を預けて、でもなあと空を仰いだ。

 自分の半身だという神獣の、端正な貌を思い出す。

 端正と言えば聞こえはいいが、あれは故国では仏頂面というんじゃないだろうか。

「あの景麒が、ゆっくり教えてなんかくれるかな。ものすごい鬼教師だったりして」

「なんだそりゃ」

「だって、わたしを迎えに来たときなんてひどかったんだよ。どこまでおろかな方か、とか言って」

「ええ?」

 困惑したふうな青年を見て、笑みがこぼれた。

 あの突然の登場と、それから始まったとんでもない騒動。

 あれが、すべてのはじまりだった。

 その重要なスタートからして、酷い扱いだったと思う。

「せめて一言、慶国の王として迎えにきました、とか、自分は慶国の麒麟です、とか言ってくれれば、そのあとの展開だって相当わかりやすかったと思うんだけど」

 腕組みをしてしみじみと思い返すと、同じように欄干に背をもたせかけた青年がちょっと首を傾げた。

「そりゃあおいらもそう思うが、景台輔は本当になんにも仰らなかったのか?」

「そうだよ。あなたは誰、って聞いて初めて名乗ったくらいだもの。それだって、私はケイキです、じゃあ、なんのことかさっぱり」

 見上げると、親切で頭のいい教え上手な青年は、がっくりと肩を落し額を押さえている。

 そりゃあそうだろう、と思う。

 なにしろ、彼はこちらのことなど右も左もわからない自分に、懇切丁寧に教えてくれた人物だ。逆を言えば、自分がどれだけこちらを知らなかったか、いやというほど知っている。

 物知りで気のいい彼のおかげでどれだけ助かったことかわからないが、そういう人からしてみれば、景麒の傍若無人さは想像もつかないかもしれない。

 まあ全部こまごまと教えていられるような状況でもなかったし、説明されても素直にこちらへ来たとは思えない。

 なにより、あの最悪の状態で放り出されたからこそ、彼に逢えたのかもしれないわけで。

「でも、おかげで楽俊に会えたんだから、そういう意味では感謝していいのかも」

「……そういう問題か?」

 そうだよ、と笑うと、彼はなんだか複雑そうな顔をした。

 そう、それは巡り合わせ、なのだと思う。

 異界で生まれた自分が、この世界で一つの国を治める王なのだという。

 自分以外に景王はいないという宿命めいたことの、実感はまだないけれど。

「あちらから来たばかりのわたしでは、たぶんいけなかったんだと思う。憎悪をぶつけられて、裏切られて、でもたくさんの人に助けられて。人の心や、さしのべられた手の温かさや、それを受け入れられない自分の弱さも醜さもひっくるめて、そういうのを知ること全部が必要だったんだ」

 悪しき海客と罵られ、利用され、同朋にさえ裏切られた。

 憎しみを、人を脅すことを覚えたのは、こちらに来てから。

 剣をふるい、むかいくる獣の肉を断つのは、自分の手。

 ながらえるために裏切り、人を殺そうとさえした。

 それも自分。

「……そうか」

 醜い自分を見てきたはずの青年は、だが穏やかな目で静かに頷いた。

 そのなかに、非難の色はかけらほどもない。

 苦境にある者を責めない強さは、彼自身の抱える痛みがあってこそなのかもしれないけれど。

 いつか彼のようになれたら、と思う。

「楽俊に会えたことは、そのなかでも一番大事なことだから、景麒にはちょっとだけ感謝、かな」

 茶化して言うと、青年は案の定眉をしかめた。

「こらこら、宰輔にそんなこと」

「いいの。景麒のせいで、わたしは散々な目に遭ったんだから」

 そう。それはもう、言葉ではいいあらわせないような苦難。

「陽子にかかったら、景台輔もかたなしだな」

 やれやれと笑った青年が、手を伸ばして紅い前髪をくしゃりと撫でてくれた。

 それがくすぐったくてちょっと笑い、いまは自分よりあたまひとつぶん以上背の高い姿を見上げる。

 危ないからとどれほど止めても、玄英宮に残ろうとしなかった。

 ならばと促され延麒に同行したときには、州候と対面に行くのだからと好まないはずの人型をとってまで尽力してくれた。

 どこまでも親身になって支えてくれた、優しい人。

 だからこそ、心配させたくない。

「わたし、頑張るから。きっと慶をたてなおしてみせる」

「陽子」

 心細くないと言ったら嘘になる。

 今までずっと傍で助けてくれた暖かい手が離れてしまうのは、寂しくて不安だけれど、自分には慶での、彼には雁での新しい生活がある。

 おまえのつくる国を見たいと言ってくれた彼が、胸を張って誇れるような王に、自分になるための、これは最初の一歩。

 精一杯の努力で、できるかぎりの笑顔をつくる。

「楽俊も遊びに来てね、慶に」

 そういうと、心配そうだった黒い目が子供のように笑った。

「ああ、きっとな」

 たとえ遠くても、二度と会えないわけじゃない。

 だから、ちゃんと顔を上げて、まっすぐ前を見て歩いていこう。

 そのためのちからは、もうもらっているのだから。

 

 

初稿・2005.04.14

 

 




「月影」後。

実は、台詞はまったくおなじで楽俊サイドを書いております。
同ネタを別のお題に使うというセコい手段なんですが、これはどうしても双方向で書いてみたかったので。
つーか、書き始めたのは楽俊サイドからなんです・笑


えー、「月影」下巻は色々ニヤリポイントがあるんですが、景麒救出の前にもひとつあって。
玄英宮に隠れているのは嫌だと「頑として」譲らなかった楽俊でしたよね。
でも、剣や弓は使えないし、馬も乗れないんじゃないっけか?
それで進軍に同行してどーするつもりだったんですか、お兄さん・笑 
陽子にだけ王という苦労背負わせてじゃあこれで、ということはできない御仁でしょうが、なんかウラを想像して変態笑いをしてしまうのは、この クサレ脳の楽陽馬鹿だけですか・自爆
ちなみに、州候説得のときは人型で行ったと信じてます。
偉そうな州候(それも慶のだ)が半獣の話に聞く耳持つとも思えないし、あんな会いかたをした延王はともかく、公式の使者として会うなら人型を取るでしょう。……とって欲しいなあ・笑



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||57|| 許されるのは給食年齢までだろう。 (雁主従)

ドラマCD特典小説「漂舶」後。


 

 気持ちが悪いほど満面の笑みをたたえた朱衡の顔を正視するのは、さしもの尚隆にもかなりの苦行だった。

「おかえりなさいませ、主上」

 王の心中を完全無視して丁寧に叩頭し、しばし王宮を留守にした玉体にかわりないことを長々と言(ことほ)ぐ。

 言葉はないながら朱衡の背後に同じく伏した帷湍と成笙も、意図的に表情を消してさっきから苦言のひとつもない。

 口数の少ない成笙はともかく、常に沸騰した鍋のようだと六太が揶揄する帷湍にこのような態度を取られた日には、気持ちが悪いですむわけがない。

 先方にはなにひとつ落ち度はなく、こちらの罪悪感は凌雲山をしのぐほど。

 尻のすわりが悪いとはこのことだろう。

 お疲れでしょうから、と促されたからとて、とうてい私室には引っ込めない。

 自分の斜め後ろに立つ少年をうかがえば、前に組んだ指がそわそわと落ち着きなく組み替えられ、紫の目がひっきりなしに三人の顔を見比べている。

 逃げたいのは山々だが、報復が恐ろしくてそれもできない、とその顔に書いてあるのを見て、尚隆は腹をくくった。

「……その、だが」

 叱咤にも厭味にも、慣れすぎるほど慣れている。ついでにいうなら、そのどれもがたいしてこたえたことはない。

 いいたい奴には言わせておけ、という自身の気性のせいもあろうが、これだけ長年言われ続けていればいい加減聞き飽きて耳も素通しになろうというものだ。

 だが、いやだからこそ、こういう真新しい手段をとる側近の才覚には呆れつつも称賛したくなる。

 今は春官長を拝する有能な男は、あいかわらずとってつけたような外交用の笑顔と丁寧な所作で顔を上げた。

「なんでございましょうか」

「……まずはその薄気味の悪い態度をやめろ」

「これは異なことを仰せでございます。臣どもは、このたび主上並びに宰輔が王宮を離れ下界に安息をお求めになったのは、ひとえに臣どもの不徳のなせるがゆえと思い、御宸襟を……」

「だぁから、それやめろっつってんの! どうせ文句言うんならいつもみたいに怒りゃいいだろ! いいたいことがあるならさっさと言えって!」

 滔々と続く長広舌を遮った六太に、むろん朱衡が動じるはずもない。改めて六太に向かい平伏する。

「恐れながら、かような臣どもの非礼が宰輔のお心に……」

「や・め・ろ!」

 地団太踏んで怒鳴る麒麟を、尚隆が制した。

「わかった、今回の嫌がらせの趣旨はわかった。だから普通に話してくれ。さもないと朱衡の分だけで夜が明ける。それでは朝議に差し支えるだろうが」

 ほう、と声を上げたのは意外にも成笙である。

「朝議に出る気がおありで?」

 彼にしては芝居っ気のあるにこやかな顔には、案の定隠しきれない怒気がたちのぼっている。帷湍は最初から話をする気がないようで、わずかに頭を上げて一同の様子を伺っているだけである。血の気の多い彼は喋らないのが一番ということか。

 三人三様の顔を見回して、尚隆は溜息をついた。言いたくはなかったが、これ以上猿芝居に付き合っていたのでは本当に夜が明ける。

 この状況で彼らが朝議を休ませてくれる可能性など皆無だから、さっさと話してしまったほうがまだましだ。

「今回のことについては詫びる。どうしても行きたいところがあったからな、六太に手伝わせて仕組んだのだ」

 尚隆の言葉に、ようやくいつもの顔に戻った朱衡が軽く首をかしげた。

「それほどお望みなら、一言仰ってくださればようございましたのに。子供のような悪知恵を働かせてまでわざわざ抜け出された理由を伺っても?」

 失礼な比喩に口を尖らせつつも文句を言えず、ちらりと六太が盗み見る。それを横目に映して、むすりと呟いた。

「……霄山へ、行ってきた」

 霄山、と返した朱衡は、それで一応納得したらしい。

 わかりましたと頷いて、またわざとらしい笑顔を浮かべた。

「それにしても、同じに脱走するにしても手段というものがございましょう。なぜあのように大騒ぎをなさる必要がおありだったのでしょうね。それも、前もって宰輔と喧嘩の真似事までなさって」

 う、とつまったのは、視線を向けられた六太である。

「おかげで、正寝どころか内宮にまで莫迦騒ぎが知れてしまったのですよ。雁はまだ立ち直ったばかり。人心も官も、ようやく落着いたところではありませんか。それを、こともあろうに王と宰輔が物が壊れるような大喧嘩をして、あげくに出奔だなどと、外聞が悪いですむような話ですか!」

 そろそろいつもの調子に戻ってきた春官長の横から、白い目が主二人をねめつけた。

「奏のことでさんざんしぼられて、少しは懲りたかと思ったのだが、あまり意味がなかったか」

 普段は寡黙なこの夏官長にいったん火がつくと、実は帷湍よりたちがわるいことは、その騒動の時にいやというほど思い知った。それをまがりなりにも覚えているだけに、尚隆と六太の頬はいやがおうにも引きつる。

「もう一度、調教をしなおしたほうがよいかも知れんな」

「調教って……いや、あれはもうカンベンしてください!」

 反駁しかけた六太が、危険に気づいて慌ててそれを回避する。

 それをみやって、朱衡が軽く笑った。

「まあ今回は国内でしたし、下ではさいわい騒動もありませんでしたから、大目に見ましょう。ですが、次にやったときは、このようには参りませんので。それだけは肝に銘じていただきましょうかね」

「わかった、わかりました!」

 下では、を強調した朱衡に、尚隆と六太の声が重なった。

「では、明日の朝議に備えてお休みください。それと、今回のことで主上の失道を危ぶむ声もあるようですので、しばらくは仲のよいところをみせていただきましょう。そうですね、お二人で園林などをお散歩になるなどして、人前ではつね に笑顔を絶やさずに、雑言のやり取りもおやめください」

 げ、と呻いたのは六太。額を押さえたのは尚隆。

「何が悲しくて、こいつと仲良く笑顔で散歩しなけりゃならねーんだよ!」

「可憐な乙女との逢引なら、頼まれんでもやるのだが……」

「自業自得、と書き取りをしていただいてもよろしいのですが」

「…………」

 冷厳な声に、二人はそろってがっくりとうなだれた。

 

 

初稿・2005.04.17

 




「東の海神 西の滄海」ドラマCD付録の「漂舶」後。
読んでない方にもわかるような書き方をしたつもりですが、わからなかったらごめんなさい……。


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||58|| 口が寂しいのは誰のせい?(三人娘)

小話


 

 先刻からむっつりと押し黙ったきりの王を見て、鈴はそこまででてきた笑みをあわてて噛み殺した。

 そのようすに気づいたのか、翠の瞳がちらとこちらをうかがうから、茶の支度を終えたあとはそ知らぬ顔をして一礼し堂室を出てきてしまう。

 あたりに人影がないのを確認して、手にした盆を盾にはしたない笑い顔を隠して吹き出した。

「鈴、どうしたの」

 壁を向いて肩をふるわせていたせいか、驚いたような同僚の声がして顔を覗きこまれる。その心配そうだった目が、声もなく笑っている鈴をみて呆れた色に変わった。

「……なあに、脅かさないでよ」

「ごめん祥瓊、ちょっとおかしくて」

 ねめつける少女にゆるしてと手を合わせたが、それでも湧き出る笑いは止まらない。

「駄目、おかしくておなか痛い……」

「ちょっと、どうしたの? 陽子がなにかした?」

 普通の臣下なら王を(おもんぱか)って言わないことだが、そこは祥瓊も陽子の姉分を請け負う身である。肩書きが王だからとて容赦はない。

 こくこくと頷き、鈴は祥瓊を手招いた。

 一応あたりをはばかって、というより、万一にでも陽子には聞こえないよう耳元で囁く。

「さっき。陽子ったら台輔と大喧嘩したでしょう。さんざん怒鳴りあったあげくに、もういいから仁重殿に下がれ、って」

 ああと首肯した祥瓊が、手元の紙の束に目を下ろす。

「何度やっても懲りない主従よね。おかげでわたしはそのたびに仁重殿とここを行ったり来たりよ」

「女史も大変ね」

 苦笑して、それでね、と続ける。

「あたまにきて追い出したのはいいけど、どうにも腹の虫がおさまらないらしいのよ。本人がいないわけだから、直接文句を言えないじゃない? かといって、呼び戻すのも自分からでかけていくのも悔しいらしくて、あれからずっとぶすーっとしてるの」

 上目遣いでみやると、祥瓊も吹き出した。

「やあだ、なにそれ」

 機嫌を損ねている王を笑い飛ばせるのは、金波宮広しといえども冢宰と太師のほかはこの二人の少女だけである。

 少女特有の軽やかな声に笑みを含ませて、鈴が自分の出てきた扉をうかがった。

「原因は宰輔だけど、陽子としても自分は悪くないといいきれるわけじゃないから、きまりがわるいんでしょ。でもあれだけ派手に喧嘩した手前、自分から謝るのも腹が立つみたいで。ほんっと、意地っ張りなんだから、陽子は」

「しようがないわねえ」

 なにごとにも直情で生真面目な妹分の性格がおかしくて、二人で肩を寄せて忍び笑う。

 その背後の扉から、ぬうと不機嫌極まりない王の顔が覗いた。

「すーぅずーぅ?」

「陽子!」

 はじかれたように振りかえると、半眼の陽子が生首さながら頭だけ扉から突き出している。

「なぁにを、やってるのかな?」

「え、なにって」

 はりつけた笑顔がひきつる鈴のかわりに、先に開き直った祥瓊が腰に手を当てる。

「なにはこっちの台詞よ。なにをいつまでもそんな顔しているの」

 真正面から叱られて、陽子が口を尖らせた。

「この顔はもともとこういうつくりなんだ。……それより、遠甫と浩瀚と、景麒を呼んでくれ」

「あら、仲直りする気になったの?」

「仲直りじゃない。今日こそあの石頭にわからせてやらなきゃあ」

「なるほど、自分じゃ言い負かせないものだから、遠甫と浩瀚様に説得をお願いするのね」

 しゃあしゃあと言ってのける祥瓊に、陽子がぐっと詰まる。それでもなけなしの見栄を動員したか、きっと翠の目を上げた。

「そんなのどうでもいい、とにかく説教だ!」

 にぎりこぶしで気合を入れる主を、女史の少女がはいはいといなして堂室に押し込める。

 それを眺めながら、王宮で数十年を過ごすと言うのはこういうことかと納得する鈴だった。

 

 

初稿・2005.04.18

 




またもやどたばた。
三人娘オンリーって、じつはあんまり書いてないような。
この三人の日常も読んでみたいですねー。
陽子が忙しすぎてお喋りどころじゃないんでしょうか。
でも遠甫の講義は一緒に受けてたり……しないか。
「黄昏」後はもうちょっと側近の人数増えてるのかなぁ?


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||59|| 寝ても覚めても君の顔。(楽俊)

想う。
過去を、未来を。


 

 筆を置き、大きく腕を伸ばす。

 ずっと俯いていた肩や背中がみしみしと音を立てて、それがいっそ心地いいくらい体がだるくなっていたことに、ようやく気がついた。

 ふうと息をついて椅子に背中を預ける。

 書物を読むこと、ものを書くことはすでに自身の一部のようになっているから、勉学自体は苦でもない。

 ただ根をつめる癖が年々度を増しているようで、たまには息を抜けと学友たちに襟首を掴んで堂室から引きずり出される回数が以前よりずいぶん増えている。

 親しくする者も増え、自然気心が知れてきたせいもあるだろうが、そうでもしないと室内にこもりきりな自分を、彼等なりに心配してくれているのだろう。

 もっとも、鳴賢など少しでも勉強を遅らせて自分との差を減らしたいのだろうとは曉遠の説であるが、一緒になって出歩いていたのではどのみち状況は変わらないと思う。

 第一、と楽俊は絹糸のような髯をかるくはじいて笑った。

 そんな工作をするような鳴賢ではない。ちっとも追いつけないとぼやきつつ、楽俊に手を抜けとか勉強するなとか言ったことは一度もないのだ。

 ただ、なんでそんなに急ぐんだ、とは最近よく聞かれる。

「文張、焦ることないんじゃないのか?どんなに早い奴だって、卒業まで五年はかかってるだろうに」

 昨夜の食事時のこと。いつになく真面目な雰囲気の学友に、楽俊は肩をすくめたものだ。

「べつに焦ってるつもりはねえけどな。それに、おいらより勉強してる奴なんて大勢いるだろ」

「焦ってるんでなきゃ走ってるんだ。そりゃみんな寝食削ってやってるけどさ、文張とは集中力が違うだろうが。いまに身体壊すぞ」

「平気だ。おいら昔っから身体だけは丈夫なんだ」 

「おまえなあ……」

「あと、学資のこともあるからなあ。奨学金を受けるには成績を落せねえし、受けられるにしたってあんまり長く居座るわけにもいかねえ。それに、上位を維持するには勉強するしかねえんだから、自然卒業するのも早くなるわけだ」

 自分としては筋の通っている理屈に、鳴賢が顔をしかめた。

「それ、確かにわかるんだけど、お前が言ったんでなければものすごぉく腹立つな」

おいらならいいのか?」

「お前の勉強量見てて文句なんぞ言えるか。それに文張、勉強するの好きだろうが」

「そりゃあ、好きだからやってんだけど……」

 答えながら、さすがに楽俊も苦笑した。

 学生たちのほとんどは、允許を取るために、ひいては官吏になるために勉強していると言っても過言ではない。

 勉強が好きだからと臆面もなく言える者は、たしかに稀少かもしれない。

 まあ無理するなよ、と溜息をつく友人に礼を言いながら、楽俊は胸のうちでわずか頭を下げた。

 あれこれと並べた理由に嘘はない。だが本当の理由は、他の誰にも言う気はなかった。

 少しずつ、言えないことが増えていく。

 それは数にしたらほんのわずかだけれど、かつての自分にはなかったことだ。

 関わりのある人々のこと、幾つもの国の内情に通じていること、知ってしまったこと。

 堂室を訪なう翼ある小さな使者と、その主の少女。

 そして、今は共に雁に住む母親にさえ告げたことのない、自分の意思。

 秘めていることは辛くない。

 だがときどき、こんなにもちっぽけで非力な自分にいったいなにができるのだろうと、迷うこともある。

---わたしの手は、こんなにもちいさくて、こんなにも非力なんだ。

 懊悩する少女の声が、ふと甦る。

 早くも伝説ともてはやされて久しい、慶国は和州の乱。

 王自らが猾吏を裁き乱を鎮めたと、民に新王を歓迎する気配が流れ始めたその裏で、玉座につく彼女が苦痛に顔を歪めていたことを、知る者は少ない。

---わたしたちと同じくらいの年の娘が、殺されたんだ。わたしは、彼女を助けられなかった。

 たったひとりの民も救えなくて、なにが王なんだろう。

 悲愴に笑う貌がいっそ見蕩れるほど美しくて、だからこそ胸が痛んだ。

 そばで支えるちからになりたいと真剣に思ったのは、たぶんその時からだ。

 おぼろげながら、そのつもりは最初からあったのだと思う。

 少学に入りたいと言おうとしていながら、大学に、と声に出してしまったとき、自分でも不思議なほど違和感がなかった。

 今思えばたいそうな見栄をきったものだが、あのときは自分で言った言葉がすとんと胸に落ちて、ああそうかと納得できた。

 だから、訂正しなかった。

 それはきっと、少しでも早く、少しでも多く、彼女の役に立ちたいと無意識に望んだから。

 気がつけば、その想いはいつしか自分の核となっていて。

 でも、ほんとうはまだ迷っているのだ。

 せわしい毎日と山のような勉強をいいわけにして、決めかねている。

「いいかげん、きっちり決めねえとな」

 口に出さなければ動くことも出来ない自分に、進歩がねえなあと苦笑った。

 じき、最後の允許を取る試験がある。それがすめば、卒業試験。

 

 答えを出さなければならない日は、すぐそこまできている。

 

 

初稿・2005.04.19




大学制度もっとよく知りたいです……(宋の勉強しろよ
学生のときにちゃんと勉強しとけば良かった。
あー、学生に戻りたいー。

えー、始まりました、楽陽ダッシュ・笑
ちょこちょこ別の話も挟みつつ、しばらく楽陽です。
ショート防止に冷えピタ用意しとこうか。
背景設定を考えるだけでオーバーフローです。


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||60|| 泣いて花実は咲くものだ。(張家母子)

楽陽ベースで、張家の過去もからめて。


 

 お疲れさん、と労う声に頭を下げて厨房を出ると、外はとうに日が暮れていた。

 いつものことで、適度に疲れた身体をほぐしほぐし歩く。

 遠い灯火と薄ぼんやりとした月明かりのなか、あてがわれた堂室へ向かう途中で、ふと中院(なかにわ)の隅に人影を見つけた。

 こんな時間に学生が中院にいることは少ないから、珍しいと首を傾げる。

 その視線に気づいたのか、すらりと立つ(にれ)の根元に座り込んだ影が、こちらを向いて二、三度またたいた。

「母ちゃん」

「なんだ、楽俊かい」

 呆れたような声音に、息子は困ったふうで笑った。

「こんなところでお月見かい。まあ、そんな薄着で。毛皮じゃないんだから、もうすこし着たらどうだい」

 顔を合わせた早々に世話を焼かれて、楽俊が苦笑う。

「そんなに寒くねえって。母ちゃん、仕事は終わったのか?」

 いまね、と頷いて、息子の横に腰を下ろした。

 そんなふうにしても、人の姿をしていると自分よりだいぶ大きい。ねずみの姿ならば小さいくらいの背丈だから、頭のひとつも撫でてやれるのだけれども。

 そう思って、しみじみと横顔を眺めた。

 最近こうやって人の姿をとることが多いのは、大学を卒業したあとのことを考えてのことだろう。

 獣形をとると、楽俊は段違いに小さい。どうかすると十を出るかどうかの子供と間違えられるくらいだ。獣形がどうこう言うまえに、それでは仕事にならない。いまのうちに人の姿に慣れていないとあとあと差し障るとは、本人もわかっているだろう。

 大きくなった、と思うのは、なにも背丈のことだけではない。

 あまり人の美醜に頓着するたちではないが、雁へ来て、この子はいい顔になったと思う。

 もともと素直で頭がいいと近所でも評判だった。半獣でなかったら、きっとどんなえらい官にだってなれるだろうにと言われたことも、再三ではない。無理を言って入れてもらった上庠では、教師までがその才覚を惜しがった。

 あの巧で、正式に学んでもいない半獣が選士に推されるということがどれくらい破格なことか、他の国の者にはわかるまい。

 まじまじと見られてこそばゆいのか、楽俊はすこしきまりわるげに眉を上げた。

「なんだ?」

「いや、たいしたことじゃないけどね」

 軽く笑って、おまえ、と見上げる。

 見上げるほど視線が違うことに、今更気づく。

「なにか悩んでるんじゃないのかい」

 黒い目が見開かれて、それからあーあとくったくなく笑った。

「なんだ、母ちゃんにはお見通しか」

「あたりまえさ。何年母親やってると思ってるんだい」

 そいつは失礼、と軽口を叩いた息子は、笑みを口の端に残したまま月を見上げた。

「先のことな。まだ……ちっと迷ってるんだ」

 その顔に、大きな感情は見えない。だがそれは表に出さないだけのことだと、自分にはわかっている。

 穏やかだが芯の強いこの息子には、昔から頑固なところがあった。

 けしてわがままや無理を言うような性格ではないけれど、こうと一度決めたらそれをやりぬくだけの力を持っている。

 その楽俊が迷うという理由に、心当たりはひとつだけあった。

「あたしに、気がねしているんだろう」

 驚いて振りかえる息子に、馬鹿だねえと笑う。

「親に構うことなんかないさ。おまえの好きなようにすればいいんだよ」

「母ちゃん」

 その表情に戸惑いと謝意を見て、やはりと思った。

 楽俊、と呼ぶ声に、我知らず吐息が混じる。

 昔のことを思うと、不思議とそんなふうになるのだ。

「おまえの父親が、なんであんなにたくさんの書き付けを遺したと思うね?」

 虚をつかれた様子で見返すのをよけるように、欅の樹肌によりかかった。

 懐かしい光景。

 いまはもう失われた人の、懐かしい声。

「この子は半獣だ。今の王が半獣差別をなくさない限り、この子に先はないだろう。だけども、巧が駄目でも雁がある。奏もある。ここは半獣が生きるには辛い国かもしれないけれど、他にも国はあるんだ。半獣に田畑はやれんと言うのなら、智恵で立てばいい。なに、巧でなくたって働くところなんかいくらでもある。誰よりも知識を増やして、誰よりも学んで、そうすれば、きっとなにかの役に立つ。そのためになら、この子のためになら自分はどんなことだってする。自分の持っているものは全部渡してやろう」

 言って、少し微笑んだ。

「寡黙な人だったけども。まだ両手に乗るようなちいさなおまえを抱えてね、何度もそう言ってたんだよ」

 里木に祈り、授かった最初の子供が半獣。

 それでも、自分たちは落胆などしなかった。

 黒い大きな目に凝と見つめられるたびに、どれほど幸せな気持ちになれたか。

 温かく柔らかな毛並みを腕に抱くことが、無邪気な笑顔がどれほど嬉しかったか。

 こんな可愛い子はいないと、目尻を下げていた夫。

 自分が書面を広げる傍らで意味もわからず筆を持ってはしゃぐ子に、こいつは将来有望だなどと本気で言うから、あんたは親の欲目の見本のようだと笑った。

 もともとが役人で、さして身体の丈夫な人ではなかった。

 筆を持つ手を鍬にかえた無理がたたって、息子が五つになるやならずで逝ってしまったが、最初の約束だけは果たせたと書き上げた紙の束を見て満足そうに微笑んで。

 彼が今の息子を見たら、きっと目を細めて喜ぶだろう。

 息子の役に立ったと相好を崩し、ほらみろ、俺の言ったとおりこいつはたいした奴だと自慢げに笑うのだろう。

 たった数年を連れ添っただけだけれど、そんなふうに難なく想像できるくらい、近しかった人。

 あの人と祈って授かった子だから、こんなにも愛しいのかもしれない。

「子供なんて、二十を過ぎたら家を出るもんだ。家を出て、自分の力で先を拓いていくんだよ。巧ではそれはかなわなかったけれど、ここはもう巧じゃあない。あのまま暮らしていたらできなかったことでも、他でならできるじゃないか。あたしのことなんか気にしないで、自分の思ったとおりに生きてごらん。そのほうが、あたしや死んだあの人だって嬉しいよ」

 人は誰もそうやって生きていく。

 親は子を養い、成人した子供は家を出て自分の家を持ち、今度は親となって子を育てる。そうやって長い長いあいだ人は暮らしてきた。巧で半獣は成人の扱いを受けられないから婚姻も出来ないが、他の国の戸籍を貰えればそれも不可能ではない。

 けれど、と思う。

 多分、この子にそのつもりはないのだろう。

 いくつも、それこそ無限に開けた先のなかで、いちばん険しく厳しい道を行くつもりなのだ。だから、自分と夫のようなささやかながら平穏な生活で、夫婦揃って里木に祈ることも、授かった子を抱くこともあるまい。

 それでもいい。

 なにひとつ自由にならなかったあの国で、よくも己に恥じることなく曲がることなく、こんなにも気だてよく育ってくれた。

 他人なんて関係ないんだ、と夫は笑った。

 俺は、この子が可愛い。可愛くて可愛くてしかたない。それでいいじゃないか、と。

 田畑を耕すよりも身入りのいいはずの役人を辞めたのは、子供が半獣であったせいもあるのだろう。未熟な親だから、半人前の子供しか授からないんだと、囁く口は少なくない。

 天がそう思って半獣を与えるのなら、べつにそれでも構いやしない。

 未熟なら立派な親になれるよう努力すればいいのであって、それで子供を育て上げることが出来たなら、少しはましな人間になれたのかもしれないじゃないか。

 親と子が笑って暮らせれば、姿かたちなんてなんの関係もなかった。

 自分と息子と、見えない手で二人を支えてくれる亡き夫。

 どんなに貧しくても幸せな家族だったから、なにひとつ不満はない。

 苦労をかけてごめんなどと、謝ってもらう必要などどこにもないのだ。

「あたしはあたしのしたいようにやってきた。そのことは、これっぽっちも後悔なんかしてないよ。だから、おまえもおまえの望む道にお進み。そのかわり、諦めたり投げ出したりはできないんだよ? それをわかってて、それでもそっちを選ぶんなら、自分のできる限りやってみればいいじゃないか」

 あの日。

 きっとすべての歯車は廻り出したのだ。

 海の果てから迷いこんできたひとりの少女と出会った時、この子のさだめも決まってしまった。

 いや、半獣として生を受けたときから、天命は定まっていたのかもしれない。

 そしてその子を育てることが、自分と夫の決まりだったのだろう。

 天意とは、王をとりまくものとは、一介の民の知るようなものではないけれど。

「なに、おまえにならきっとできるさ。おまえは、あたしたちの自慢の息子だもの」

「母ちゃん……」

 かすかに顔を歪ませた楽俊の腕に手を伸ばして軽く叩いてやると、うつむいた頭がことんと肩にのった。

「……ありがとうな。おいら、父ちゃんと母ちゃんの子に生まれて、ほんとによかったと思ってるよ」

 小さな声とともにはたりと落ちた温かいものに、これがきっと別れの始まりなのだろうと微笑んだ。

 

 

初稿・2005.04.20

 




よもや、お母さんをメインで書く日が来るとは・笑
三人称で書くとどうしても名前がネックになるので苦肉の策としてお母さん視点でやってみました。
かえってよかったというのはナイショなのです・
そして張家の過去は捏造の嵐~!ハハハハ


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||61|| 構って、構って、構い倒してやる。(楽陽)

進路について。


 

 

 楽俊が呼び出しの指定を受けたのは、ちょうど卒業試験の終わった次の日の夕刻だった。

「どうせ当日は疲れて動けねーだろうし、丸一日寝倒してこいよ。試験終了祝いの飯でも用意しとくからさ。あ、べつに普段着でいーぞ。内輪の宴会だから」

 金の髪を隠した使者は、書籍に埋もれた堂室の主に言うだけ言うと、窓から頭を引っ込めてさっさと帰って行ってしまった。

 試験前の忙しさを考慮してくれたのかもしれないし、伝言が終わったらまっすぐ戻れと釘をさされていたのかもしれない。多分、その両方だろうと思うが。

 親切心か単に遊ぶ理由が欲しかったのかよくわからないが、そんな人々にもとうに慣れていたから、返事も受け取らずに帰ってしまったことを笑うだけにとどめた。

 お祝いと言ってくれるのは本当だろう。

 この四年、多少振りまわされもしたが、規格外の貴人たちはなにくれとなく自分の面倒を見てくれた。そのことについての礼も改めて言いたいし、呼び出すからには先方にも話があるのだろう。

 しかし、軽く内輪の宴会、と招かれる場所が玄英宮とは。

 至高の存在である王の寝所を街の食庁扱いするのは、十二国広しといえど雁の主従だけにちがいない。いや、隣にもうひとつないではないが、あちらは生真面目を通り越した半身が目を光らせているから、ここほど思い切ったことはできなそうだ。

 浮かぶ顔それぞれの表情を思い出しながら、楽俊はくすりと笑って筆を持ちなおした。

 

 

 当日、言われたとおり本当に一日を寝るためだけに使って、目を覚ましたときには陽はすでにおおきく傾いていた。

 寝過ごしていないことに安堵しながら、手早く身支度を整える。堂室の扉を開けたところで、おなじく試験後の寝呆け眼をこする鳴賢と鉢合わせした。

「なんだ、文張でかけるのか? 明けて一日でよく動けるよな。玄章なんか蹴っ飛ばしても起きなかったぞ」

 本当に蹴られたのだろう気の毒な同輩に同情しながら、その言いぐさに笑ってしまう。

「まあちょっとな。おいらに用だったのか?」

「ん、たいしたことじゃないけどさ。曉遠が、あとでみんなで飲もうって連絡よこしたんだ。試験終了と卒業祝いかねてって」

「もう卒業祝いしちまうのか。曉遠らしいな」

 一昨年、先に卒業した友人は、いま夏官を拝命している。官吏になっても学友と顔を合わせることを楽しみにしているようだが、試験の結果も出ないうちから卒業祝いとは気が早い。大欠伸を押さえながら、鳴賢がまったくだと頷いた。

 また寝るという鳴賢に見送られて、寮を出る。こんな気兼ねのない生活ももうじき終わると思うと、感慨深いものがあった。

 雁の中心、関弓を擁する凌雲山。ここで暮らした四年間は、長くもあり瞬く間であったような気もする。そのなかで出会った多くの人や、たくさんの出来事は、どれも大事な思い出だった。

「よう、楽俊」

 なんとなく思い返しながら歩く雑踏のなか、軽快な声をかけられて振りかえると、団子の串を持った子供が駈け寄ってきた。

「会えてよかった。迎えに来たぜ」

 いつものように頭に布を巻きつけて、紫の目が笑う。宰輔御自らの出迎えに、楽俊は頭を下げた。

「わざわざですか? すみません」

「なに、オレがいたほうが、門なりを通るのにも面倒がなくていいだろうと思ったからさ」

 待っている間に露店でも寄ったのか、団子のほかにもいくつか包みを下げている。視線を受けて、延麒はぺろりと舌を出した。

「土産。糖蜜菓子だろ、飴玉に、干し棗と金柑の砂糖漬け」

「甘いのばっかりですね」

「甘くないのもあるぞ。はねこがしとか」

 それにしても菓子ばかりぶらさげて、延麒は御満悦のようだった。麒麟はなまぐさを厭うから、自然食べられるものも限られるとはいえ、みなりともども完全な子供である。

「上じゃあこういうのつくってくんねーんだもん。おいしいんだぜ」

 子供が握れるような小銭で買えるのだからさしていいものではないが、差し出された糖蜜菓子をつまみながら歩くのは、なんといわず楽しい。

 買い食いの醍醐味ってやつだな、と延麒が笑うから、つられて楽俊も笑った。

「尚隆はこういうのきらいなんだけどな。あまったるいだけでどこがうまいのかわからんとさ」

「でしょうね」

 酒豪の延王が甘味に舌鼓を打っているところは、いまひとつ想像できない。

 延麒のおかげでなんなくあがった玄英宮では、辛党の王がちょうど執務を終えたところのようだった。

 くつろいだ恰好でよくきたと笑ってから、傍らの案内役に目をやって眉をしかめる。

「なんだ、またそんなに買いこんできたのか。まるで祭りの子供だな」

「うっせーな。くやしかったらおまえも子供に戻ってみろ」

 相変わらずのやり取りに、軽やかな笑い声がかぶさった。

「陽子」

「お久しぶり、楽俊。卒業試験お疲れさま」

 鮮やかな緋色の髪が、衝立のかげから顔を出す。翠の瞳が悪戯に成功した子供のように嬉しそうだった。

「驚いた?」

「……驚いた」

 他に言いようがなくてただ頷くと、隣国の女王は得意そうな、すこしくすぐったそうな顔で微笑む。

「こちらで試験のお疲れ様会をやるって六太君に聞いたから、頼んで混ぜてもらったんだ」

「だって、楽俊をダシに宴会やるってのに、陽子外すわけにいかねーだろ」

 視線を向けられて胸を張った延麒の言いぐさに、思わず半眼になった楽俊である。

「おいらはダシなんですか?」

「あー、えー……コトバのアヤです」

 失言に気づいて顔を引きつらせる宰輔に楽俊と陽子が吹き出し、延王が意地悪く笑った。

「六太。いつまでも入り口で止まっているな。見世物としては面白いが、肝心の宴会が始まらんではないか」

「誰が見世物だ!」

「ほう、違うのか? 俺はまたてっきり朱旌の技でも覚えてきたのかと思ったがな」

 口々に軽口を叩きながら、一同が酒肴の載せられた卓についた。

 考えてみれば、この顔ぶれで会うのはずいぶん久しぶりになる。場所がこの玄英宮でとなると、もしかすると陽子が慶の王位につくまえ以来かもしれない。

 延王は豪快に、楽俊は付き合う程度に酒を交わし、飲めない延麒と陽子はそれぞれに箸を動かしながら、他愛ない話が弾む。

 料理が半分も片付いた頃、ふと延王が杯を置いた。

「で。そろそろ聞かせてもらおうか」

 いっかな酔ったふうのない口調に、隣で陽子が箸を置く。楽俊も自然背筋が伸びた。

 なにを、とは、今更誰も聞かない。それでも、尚隆、と横から声がかかったが、それには楽俊が首を振った。

「そのお話も、しなければと思っていましたから」

「ほう、すると腹は決まったか」

 かすかに眇めた目は、まっすぐに楽俊を見る。それを正面から受けて、楽俊は自分が少しも緊張していないことに気がついた。

 昔からそうだった。逡巡することはあっても、一度こうと決めたあとはひどく落ちついている。

 どうやら、自分は思っていたよりもずぶといのかもしれない。

 統治五百年を数える王を前にして、平伏もしないのだから。

「大学を卒業したら、慶に行きたいと思っています」

 隣で、かすかに息を飲む気配がしたが、さすがにそちらを向く余裕はない。

 延王が、表情を変えぬまま腕を組んだ。

「雁でも巧でもなく、慶か」

「はい」

「景王にはいささか失礼になるが、慶はいまだ国も官も落ちつかぬ。環境で言うなら雁のほうがいいと思うが、それでもか」

「はい」

 明確に頷くと、にやりと笑う。

「---朱衡が嘆くな。ひさかたぶりの逸材だと手くずねひいて待っているようなのだが」

「冗談じゃねえ、朱衡になんか渡したら楽俊が気の毒だ」

 息を詰めていたのか、溜息をつきながら延麒が顔をしかめる。麒麟の慈悲に、延王が鷹揚に笑った。

「在学中首席を通した秀才を諦めるのは正直痛いが、本人のたっての希望ならしかたない。それに、慶も優秀な人材は欲しいだろう」

 三様の視線を受けた陽子が、僅かうろたえたようにみじろぎした。

「それは、慶には信頼に足る官はまだ少ないですし、とてもありがたいことです」

 一応そこまではしかつめらしく言ったものの、やや不安そうな翠の瞳が楽俊を見上げた。

「でも……本当にいいの?」

 その子供のような仕草に、笑みがこぼれた。

 まったく、一国の王だと言うのにこういうところはちっともらしくならない。

「いいんだ。おいらが自分で決めたことだからな。けど、それには登用試験もあるし、戸籍の移動とかも必要なんだけども」

 他国への就職には、煩雑な書類手続きが必要になる。それが存外面倒なのだが、陽子は首を振った。

「試験は、多分要らないと思う」

 は、と首を傾げる楽俊に苦笑する。 

「じつは、浩瀚からなにがなんでも楽俊を慶に引っ張ってきなさい、って厳命を受けてきたんだ。雁にお祝いに行きたいって言ったら、それが交換条件だって」

「交換条件って……」

 たしかに慶の冢宰は有能だと聞いているが、王に厳命とはどういうことだ。

「だろうと思った。あれほどの男が、みすみす楽俊を雁に渡したりするわけがない。朱衡もそのへんに気をもんでいたが、案の定というやつだな」

 すでにいつもの調子にもどった延王が、にやにやと酒盃を傾けている。

「わたしは、楽俊が決めることだから強制はできないって言ったんだけど、説得して駄目ならどんな手段を使っても篭絡してこいって」

 上目遣いでぼそぼそ言う陽子に延麒と楽俊は突っ伏し、延王が腹を抱えて笑った。

「篭絡はいいな。官を得るに景王が釣り餌というわけだ。なかなかどうして、慶の者もあなどれん」

 遠慮なしにさんざん笑われて、さすがに顔が上げられない。

「浩瀚様は、ほんとにそんなこと仰ったのか?」

「ほんとだってば!」

「いや、陽子が嘘つくとはおもってねえけどもな……」

 いったいなにが待ちうけているやら、なんとなく慶に行くのが怖いような気がする楽俊だった。

 すっかり興が乗ったらしい延王のせいで宴会はやみくもに長引き、気がついたときは夜も更けたという頃をずいぶん通り越していた。

 堂室に転がる酒瓶のほとんどを空けたはずの延王はさして酔ったふうもみせず、榻にすがって寝こける延麒を仁重殿へ連れて行く。それを笑いながら見送って、陽子が楽俊を露台に連れ出した。

 雲海にはりだした露台は冷涼な風が抜けて、まとわりつく酒香を洗い流してくれる。

「綺麗だね」

 欄干から身を乗り出すように雲海を覗きこむ陽子に、落ちるなよと声をかけて、その物珍しげな様子に笑った。

「こういう景色、陽子はいつも見てるだろ?」

「忙しくてそんなに余裕ないもの。それに、尭天はまだこんなに明るくないし」

 光を躍らせてゆらめく雲海は、関弓の街並みを色とりどりの宝玉に変えている。

 その景色から目を離した陽子が、こちらを向いた。

「楽俊、本当に慶でいいの?」

 向けられた瞳は、どこまでもまっすぐに自分を見る。傲慢でも狡猾でもない、素直な瞳。

「街ひとつ取っても、雁と慶ではこんなにちがう。官の調整だってまだ不充分だし、半獣や、育ちへの差別は根強く残ってる。けして居易い場所じゃないかもしれない。それでも?」

 彼女はなにも隠さない。良くも悪くも言いつくろったりしない。そのいさぎよさが心地よかった。

「陽子は、おいらが慶に行くのは反対か?」

「そんなことない!」

 冗談めかして聞いた言葉に、長い緋色の髪が勢いよく左右にはねた。

「嬉しいよ。わたしは楽俊に慶に来てほしかったし、楽俊がそう望んでくれるのは、すごく嬉しい」

 だけど、と翠の瞳が曇る。

「慶は、まだぜんぜん弱い。延王の台詞じゃないけど、楽俊くらい優秀なら、雁に勤めるほうがずっといいんじゃないかって思ってしまう」

 不甲斐なさげに唇を結ぶ陽子の肩を、楽俊は軽く叩いた。

「言ったろう。おいらが考えて、おいらが決めたんだ。大学を出たばっかりでなんの役に立つのかわからねえけど、慶で、陽子を手伝いたいと思った。それじゃ駄目か?」

 紅い髪がふるふると振られる。

「お母さんには、話したの?」

「いんや。でも、母ちゃんにはとっくにわかってたみてえだなあ」

 母親とのやりとりを思い出して苦笑う。

「先のことで考えてるって言ったら、馬鹿だなあっていわれちまった。親に構うことなんてねえから、好きにやれって」

 まったく、と欄干によりかかる。

「よくよく親に世話をかける息子だな、おいらは」

 黙って聞いている陽子に笑うと、ふんわりとした笑顔がかえってきた。

「楽俊のこと、信頼してくれてるんだね」

「だといいなあ」

「あとで、お母さんにもお礼言いに行きたいな」

 いっそ無邪気な言葉に声を立てて笑った。

 王が臣下の母親に礼を言いに行くなど、普通では考えられないことだ。

「別に礼なんていいと思うけどな。きっと、好きなだけこき使ってくれって言われるぞ」

「ええ、そうかな?」

「たぶんな」

 この年になってやっと一人立ちできるとはいえ、してもらったことの百分の一も恩を返せないままだ。

 親不孝だと自分でも思うけれど、自分の力で先へ進んで行くことが、その姿を見せられることが恩返しだと思うことにする。

「ね。ひとつだけ、お願いしてもいい?」

「いいけど、なんだ?」

 おずおずと聞かれて、楽俊は首を傾げた。

「金波宮に来てもね、わたしを主上とは呼ばないで欲しいんだ」

「陽子」

 いいさした先を、陽子が制した。

「すごいわがままだってことはわかってる。公の場所や、他の官がいるところではしかたないかもしれない。でもそれ以外では、今までみたいに陽子って呼んでくれないかな」

 尻つぼみになっていく声と一緒に、戸惑ったような顔が下を向いてしまう。

「楽俊に、主上、って呼ばれるのは、どうしてもイヤなんだ」

 ぽつんと呟いた声に、楽俊は少し笑って紅い髪を撫でた。

「そりゃあ、すごいわがままだなあ」

「……駄目?」

「駄目じゃねえけど」

 言って、見上げる叱られた子供のような顔を覗きこむ。

「それってけっこう不敬だぞ。景台輔に叱られやしねえか?」

「鈴や祥瓊も名前で呼んでるし、大丈夫だと思うけど・・・」

「あ、そうか」

 しばし目があって、二人して吹き出した。

「そんなに深刻になることなかったなあ」

「前例がいるんだもんね」

 ひとしきり笑って、陽子が溜息をついた。

「駄目だなあ、わたし」

 欄干に肘をついて肩をすくめる。

「どうしよう。楽俊が来てくれたら、すごく甘えちゃうかもしれない」

「ええ?」

「楽俊て、すぐわたしのわがまま聞いてくれちゃうんだもん」

「そうか? 駄目なときは駄目って言ってると思うけどな」

 首を傾げる楽俊に、まあね、と陽子が笑う。

「どんなに関弓に残ってって言っても、絶対に嫌だって聞いてくれなかったもんね」

「……古い話を持ち出すなあ」

 思い出すとどうにもこそばゆいことだけれど、あのときは自分なりに懸命だったのだと思う。

 あれから四年以上。

 もうそんなに、というべきか、それともようやく、なのか。

 なにを思い出したのか、陽子がへんに笑う口元を押さえた。

「浩瀚がね。人を使うには飴と鞭と申しますって」

 怜悧な官僚らしい物言いに頷くと、笑みがさらに深くなった。

「主上のまわりにはすでに鞭役は充分揃っておりますから、そろそろ飴役も必要ですねって言うんだよ」

 いくつかまたたいて、話の前後を組みたてる。

 自分を慶に連れて来いと言ったのも、たしか彼のはず。

「もしかして。おいら、陽子の甘やかし担当なのか?」

「浩瀚はそのつもりみたい」

 くすくす笑う陽子に、楽俊はやれやれと頭をかいた。

「こりゃあ、とんでもねえ大役を仰せつかったかもしれねえなあ」

「そのへんの苦情は、浩瀚に言ってくれるとありがたいんだけど」

「言えるわけねえって。それに、おいらじゃ飴役にはならねえかもしれねえぞ? 鳴賢なんか説教魔って言うし」

「説教魔って……大丈夫、楽俊は悪いところは指摘するけど、頑張ればちゃんと誉めてくれるし、できないことはわかってくれるもの」

「陽子は、おいらを過大評価してそうな気もするけどな……」

 自信をもって任されて、その寄せられる信頼に改めて気づく。

「じゃあまあ、適度に甘やかすとするか」

「よろしくおねがいします」

 丁寧に頭を下げて、陽子が嬉しそうに笑った。

 その笑顔を消さないこと。

 預けられた信頼を裏切らないことが、今の自分にできる唯一にしてもっとも大切なことなのかもしれない。

 先の遠さ、負うべき重みは重々承知しているけれど、真実守るべきものひとつを忘れないことこそが、なにより大事なのだと胸に刻んだ。

 

 

初稿・2005.04.22

 

 




いいだけ長くなってしまった・

どーでもいい描写にべらぼーな時間と行数がかかってます。
肝心な所はそれ以上です。
へたくそー・・・(倒

大学って允許が足りないと卒業できないのは知ってますが、卒業試験もあるのかな(こっちの大学や短大は単位のほかにも卒論があるから)
いやー・あれは大変だった。
論文提出後、校内の各階で休憩所の長椅子にまるで魚河岸のマグロのように転がっていた人々を思い出すと、今でも笑えます。>自分もそのなかに入ってたくせに・
だって、二日徹夜したんでもう眠いどころじゃなかったんですよ。
て、思い出バナシかい!


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||62|| 来るものは拒まず去るものも追え。(陽子・浩瀚)

No.61に先立って行われた作戦会議(違)


 

 御璽を捺し終わった書類を脇にどけて、陽子はその山をしみじみと眺めた。

 下心があるときは、どうしてこうも仕事が早いのだろう。

 べつにやましい裏なわけではないが、御機嫌取りの意図を感じて自分で苦笑する。

「どうかなさいましたか」

 かなりの厚みがある紙の束をまとめながら、浩瀚がちらりと陽子を見た。

 それに、なんでもない、と言いかけてやめた。

 なんでもないわけがない。

「浩瀚、たのみがあるんだが」

「是と申し上げるにはことと次第が左右致しますが、伺うだけお伺い致しましょう」

 顎の下で組んだ手が、がくりと崩れる。

 やすやすと許可が出るとは思っていないが、最初から釘を刺されるとも思っていなかった。これだから金波宮の、というか自分の廻りの者たちは油断がならない。

 態勢を立て直すために、軽く咳払いなどしてみる。

「えーと。ちょっと、雁に行ってきたいんだけれど」

「主上」

 叱咤一歩手前の声は脇に控えていた景麒だが、浩瀚は視線だけでそれをやんわりと制した。

「雁へとはまた唐突な。どのような御用ですか」

 沈着冷静が売りの冢宰は、裏を返せば永久氷壁のように攻略が難しい。私事で王宮を出たいときはなんだかうしろめたいものだから、よけいに腰が低くなってしまう。

「延王と六太君が、楽俊の卒業試験が終わったらちょっとした慰労会みたいなのをやるっていうんだ。それで、わたしも顔を出したいなって」

 視界のはしで景麒の眉が急角度に上がるのを確認しつつ、あえてそちらは放置する。

 遠甫の快諾は貰っているから、あとは浩瀚の許可さえ出れば景麒もあたまから否とは言えまい。

 その浩瀚をはいと言わせるのが、けっこう難事なのだが。

 はたして、切れ者の冢宰は軽く頷いた。

「成程。一昨日延台輔がお帰りになってから、常にもましてご公務に精を出しておられると思っておりましたが、そういう事情でしたか」

「……まあその、スケジュールを明ける為には前もって準備がいるというか」

「蓬莱の言葉でごまかしても駄目ですよ」

「スケジュールは予定って意味だ!」

 現代日本は日常にも英語が溢れているから困る。あちらからこの世界に来た身には、どこまでが翻訳の有効範囲かわからなくてやりづらいのだ。

「……とにかく、行き帰りを入れて三日、休みをくれないかな」

 陽子はやったことがないが、小遣いを親にねだる子供の気分とはこういうものかもしれない。

 もしくは、言われた用事は全部済ませたからお菓子を買って、だ。

 まったく、王様と言ったって中身はそのへんの子供とかわらない。

 いつもどおりの穏やかな表情で書類をめくった浩瀚が、軽く頷いた。

「急ぎの案件は片付きましたし、ここしばらくはそれほど忙しくないですから、三日ほどなら大丈夫でしょう」

「本当?」

「浩瀚!」

 歓喜と勘気。二人の声が重なって、浩瀚がくすりと笑った。それから、おもむろに居住まいを正す。

「ただし、条件がございます」

 え、と見上げる王に、冢宰が怜悧な官吏の目を向けた。

「今期、雁国大学を卒業する張清なる学生に対し、卒業後はこの金波宮に出仕するよう御説得をお願い致します」

「……は?」

 翠の目を最大限に開いてぽかんとする王の前で、浩瀚は眉一筋も動かさない。

「これは主上の休暇との交換条件でございますので、雁に御遊行なさる以上、必ず色よい返事をお持ち帰りください。懇願で駄目なら実力行使でも舌先三寸でも---主上には難しいかもしれませんが、つじつま合わせはわたくしのほうで致しますので、どのような方法で篭絡なさっても結構です。是が非でも、御獲得くださいませ」

「で、でも」

 一言も挟めなかった陽子が、浩瀚を慌てておしとどめた。

「どこに就職するかなんて、楽俊が決めることだろう。まして、楽俊は巧の生まれなんだし、大学は雁だ。それだけでも悩むかもしれないんだから、わたしがそんな無理は」

「無理でも横車でも、どうぞ御存分に」

「存分と言ったって……わたしだって、怒られたり嫌われるのはいやだよ」

「物事には正があれば負もあるということで、そこは我慢なさってください」

「……わたしが怒られるのは構わないということか?」

「よろしいですか、主上」

 そろそろ目つきの険しくなってきた陽子に、すこぶる品のよい笑みが相対する。

 その背後に見える、表情とは正反対の反駁は許さんと言わんばかりの気配に、陽子の怒気が脱兎の勢いで逃げ出した。

 にっこり笑顔の浩瀚というのがこんなに怖いとは、陽子だけでなく他の者も思わなかったろう。現に、横に立っていたはずの景麒がじりとさがる気配がする。思わずはっしとその袍をつかんだのは、生物の本能のようなものだ。

 それを当然見ているだろうに、浩瀚はあいかわらず笑顔のままである。

「王の役目は国を統治することでございますね。ですが実際はそれをひとりで行なえるわけではございません。勅命・勅令をのぞき万事に官との協議が必要であり、またじかに民や土地をまとめるのは、高官下官を問わず官吏の役目。王はそのための采配を振るい、諸官をたばねるが役目でございましょう。百官を手足のように滞りなく使い国土を安寧せしめてこそ、名君といわれるのではございますまいか」

「は、はい」

 いつのまにか教師口調の浩瀚に、陽子はただこくこくと頷く。

「ですが、あいにく慶には安心して役を任せられる官がまだ少のうございます。であればこそ、すこしでも見込みがある者なら、招くにやぶさかではない。それにはどんな伝手だろうが活用せねばなりません。まして楽俊殿は、延王ばかりでなく雁の秋官長殿までが折り紙をつけたというではありませんか。どうあっても慶にきていただかねば困ります」

「だけど、本人が否というのを強引にお願いはできないよ。それに、六太君も雁に欲しいって言ってたし」

「そこを無理にでも、と申し上げております。もしも雁から苦情がきたら、構いませんから正直に実情を教えて差し上げなさい。第一、これ以上増やさなくても雁にはよく働く官が揃っているはずでしょうし」

「雁の官はってのは同感だけど、うちの内情まで喋っていいのか?」

「慶の人材不足は切実です。外聞になど構っていられません。それでも駄目と言われたら、氾王に泣きつくとでも言えば少しは考えてくださるでしょう」

「……浩瀚、それは脅しに聞こえるんだが」

「それが交渉というものですよ」

「慶は雁に山ほど借りがあるんだぞ。そんなこと言っていいのか?」

「蓬莱はいざ知らず、こちらには覿面の罪がございますから、怒ったところで攻めては来られますまい。援助をせぬと臍を曲げても、荒民が流れ込めばそれまでですし、大国の面目もございますから無碍にはできないでしょう。このうえまだ借りを増やすかと言われたとて、いまさらもう一つくらい増えたところで雁の身代が傾くわけでなし」

 放っておけば延々喋っていそうな浩瀚に、陽子は額を押さえた。

「よくもまあそれだけすらすら出てくるな」

「主上の御参考になればと思っただけでございますが」

 しれっと言い放ち、浩瀚はようやく作り笑いをやめた。

「雁の意思はともかく、楽俊殿には主上から率直に伺ってみたらいかがかと存じます。主上も、楽俊殿に来ていただきたいとお思いなのでしょう?」

「それは……そうだけども」

 もそもそと口のなかで呟く陽子に、浩瀚がちらりと笑った。

「でしたらそう仰って御覧なさい。相手の意思を尊重なさるのも大事でしょうが、御自分の希望を伝えてみるのも悪くないと存じますよ」

「でも、困らせたりしないかな」

「そのような生半可な御仁ではないとお見受けしておりますがね。それに、王に拝まれたとて易々と意を曲げるような楽俊殿でもありますまい」

「それはまあ」

「優秀な人材を確保するのも王の役目です。才ある人物を多く引き寄せる器量というのも、大事な資質と愚考致しますが」

「浩瀚……」

 厭味かとねめつける王に物腰だけは恭しく一礼して、有能な冢宰は堂室を出ていった。それを見送って、陽子がつくづくと溜息をつく。

「……浩瀚があんな無茶を言うとは思わなかった」

「主従は似ると申します。慶はそもそも王が無茶ですから、まわりも皆それに倣うのでは」

 袍を掴まれたのでは逃げるに逃げられず、手をひき剥ぐような無慈悲が麒麟に出来るはずもなく、ひと騒動に無理矢理つきあわされて不機嫌な景麒が、むっつりと返す。

 それに反論しようとして、陽子は抵抗をあきらめた。

 言い返そうとあれこれ思い出した顔は、どれもこれも無茶というより無謀者ばかりな気がする。

「たしかに、金波宮にはそんなのばっかり揃っているな」

 じろりと見られた麒麟は、失言に気づいて首をすくめた。 

 

 

初稿・2005.04.25




前回の前振りがここに・あれー
浩瀚が楽俊を敬称つきで呼んでいるのは、まだ他国の人間だからです。
慶にきたら呼び捨てなんだろう。

篭絡(籠絡)というとなんとなく色仕掛けな気分がするんですが(ヲイ
実は「いいように言いくるめる、まるめこむ」という意味だそうなのであしからず・笑
でもなんか「峰不●子サマが腰までのスリット着て流し目つきで膝に手をのせてくるv」みたいな雰囲気があるのはおいらだけですか?



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||63|| それでいい、それがいい。(楽俊・陽子)

門出です。


 

「文張」

 静かだが深みのある声に呼ばれて、楽俊は振り返った。

「豊老師」

 美髯をたくわえた老教師の姿をみとめて拱手する。軽く会釈して応えた豊が、楽俊の横に立った。

「名残惜しいかね」

 常と変わらず穏やかに問われて、小さく頷いた。

「そうですね、いろいろ思い出がありますから」

「そうさな。良いも悪いも過ごした年分はあろうが、あとから思えば良いことばかりに見えるから不思議なものだ」

「老師もですか?」

「それはもう。数え切れんほどで、おかげではしから忘れておる」

 冗談めかした軽口に二人で笑った。

 正門前のこの場所は、大学の主な建屋を一望できる。過去、ここを巣立つ学生たちがこうやって立っていたのを、豊は数知れず見てきているのだろう。

「元気でな」

 かけられた言葉に横を向くと、榛色の目がこちらを見ていた。

「そなたには、儂の後継として大学に残って欲しかったのだが、まあ若い者には無理な相談かも知れん」

 好々爺然とした老教師は、返答に困った楽俊の肩を軽く叩いた。

「身体に気をつけてな。たまには顔を見せに来なさい」

「老師も、いつまでも御健勝で」

 深く一礼した楽俊に、豊は笑って頷き背を向けた。それを見送って楽俊も院子をあとにする。そろそろ迎えが来る頃のはずだった。

 なにしろ宴会好きの延王主従が大学卒業などという大きな名目を見逃すはずもなく、「このあいだのは試験の慰労。今度のは卒業祝い」とのこじつけのような理由で、またもや酒席が用意されているという。

 待ち合わせに正門を出たところで、ふと足が止まった。

 薄浅葱の濃淡の襦裙に紅い髪。すらりと伸びた花を思わせる人影が、楽俊を見て微笑む。

「楽俊」

 呼びかけられて、そちらに向けた歩みを速めた。

「陽子、わざわざ来てくれたのか」

「うん。お祝いかねて、迎えに来ました」

 甘い色合いの裳裾をふんわりと揺らした少女が、にこりと笑う。ゆったりした袖を気にしながら、手にしていた色とりどりの花を差し出した。

「あちらでは、卒業や入学とかのお祝いに花束を贈るんだ。というわけで、蓬莱風に。---卒業おめでとう」

 柔らかい布のような色紙(いろがみ)と幾本もの細い飾り紐でまとめられた花は、まだ露に濡れているのかいっそう鮮やかに見える。それを受けとって楽俊は破顔した。

「ありがとうな。なんか、すごく嬉しい」

「そう?よかった」

 嬉しそうに笑った少女の頬を、艶やかな緋色が彩った。長い髪は常とは違って丹念に梳られ、後頭部で結われた一房には小さな銀の飾りがさしてある。丈の長い衣装も、彩りは控えめながら上品な仕立てで彼女の容姿をうまく引き立たせている。

「もしかして、お祝いだから綺麗な恰好してきてくれたのか?」

 普段は簡素が一番と王にあるまじき服でいる少女は、いまさらにそわそわと服をなでつけた。

「だって、せっかくだし、やっぱり卒業式は正装かなあって。でもうっかりそう言ったら、祥瓊がはりきっちゃって」

「祥瓊らしいな」

 日頃からなんとか陽子に見栄えのする恰好をさせようと奮闘しているらしい祥瓊である。こんな好機を逃すはずもない。 

「わたしだって綺麗な服を着るのは嫌いじゃないけど、とても毎日はできないな」

 本気で言っているらしい陽子に、楽俊が笑った。

「女の人はそれが普通なんだぞ。陽子のは男装じゃねえか」

 今の蓬莱では、あまり男女の間に服装の差はないという。ことに女性は男性とたいして変わらぬものも着るそうだが、こちらではそうはいかない。事実、陽子は袍を着て市井を出歩くから、なんの疑問もなく少年扱いされている。

 的確な指摘に、陽子がむうと眉を寄せた。

「祥瓊たちにも言われた。せっかくいいお品がたくさんあるのに、使ってあげなきゃ御物が可哀想だって」

「そりゃあ真理かもしれねえな」

「だけど、こんなの着慣れないから動きにくいし、衣装も飾りも高価なんだから汚したり壊したり出来ないでしょう? そう思うと立ってるだけで気疲れするんだ」

「王様の衣装が高くないわけねえって」

 年に一遍の晴れ着を着た子供のような物言いに、くすくすと笑う。

 十六頃までを育った故国では中流程度の家庭だったようだが、今の彼女の性格はこちらへきてから形成されたようなものらしい。

 たったひとりで異国に放り出され、生きるか死ぬかの瀬戸際で放浪していた数ヶ月は、同時に銭などろくにないような旅でもあった。

 そのころの金銭感覚がまったく抜けていないようで、小さな露店を覗く時でさえちょっと高いとぼやきかねない陽子である。若い娘なら誰でも憬れそうな絢爛たる衣装も、式典だから、義務だからと着ているだけで、本人にはただの有難迷惑でしかないわけだ。

 けして楽ではない暮らしで育った楽俊もあまり着飾りたがらないから、陽子の気持ちもわからないではない。彼女のそういうところはむしろ好ましいが、数ある儀式、各国からの賓客があるたびに陽子を説得しなければならない傍仕えはさぞや気苦労が多いだろう。

「そんなら、それも御庫のものなのか?」

 いま陽子が身につけているのは、それほど豪華なものではない。楽俊に女服の良し悪しはわからないが、ちょっとした富貴の娘ならともかく、女王や王后が着るには質素すぎる。

 絹らしいやんわりとした裙を軽くつまんで、陽子が肩をすくめた。

「さすがに目立ちすぎるから駄目だよ。これは、祥瓊が街でみつくろってきたんだ。これくらいなら妥協できるでしょうって」

「妥協とは、祥瓊も言うなあ」

 複雑そうな陽子に、楽俊は声を上げて笑った。

「たしかにこれくらいなら軽いし動きやすいけど、やっぱり歩き方とか気になるし、着慣れない分だけちょっと照れるね」

「そうか? よく似合ってると思うぞ」

 女王として身につける衣装は、豪奢な分だけ位の重みがある。それに比べると、今の服は軽さと色合いがいかにも若い娘らしい。

 当の陽子は誉められるのがこそばゆいようで、うーんとか言いながら用もなく裾を直したりしている。

「楽俊も、日頃からこういう恰好するべきだと思う?」

 思案顔で聞かれて、つい真面目に考えてしまった。

「べつに、必ずってことはなあ。陽子だって、儀式のときはちゃんとした衣装を着るんだろう? 公務のときは官服で、たまには気分を変えてそういう華やかな恰好もありとか、その時々で使い分ければいいんじゃねえのかな。要は礼儀が保てさえすれば、本人が過ごしやすいのが一番だろ」

「そっか」

 小首を傾げて聞いていた陽子が破顔する。

「楽俊が言うと重みがあるね」

「それを言うなって」

 茶化されて、楽俊は苦笑した。半獣とはいえ、このほうが楽だからと上甲(うわぎ)もなしに王宮に上がったのはきっと楽俊くらいなものだ。

「難しいことは抜きにしても、おいらは陽子の好きでいいと思うぞ。だいたい、陽子はなに着ても似合うんだから」

 ごく自然に言われて、陽子が一瞬詰まった。

「……楽俊て、天然だよね」

「てんねん?」

「なんでもないです」

 意味が通じなかったのを幸い、陽子がほらと楽俊をせかした。

「そろそろ行かなきゃみんな待ってるよ。花菱楼ってお店だって」

「か……え、あそこって、すごいいい店だって話だぞ?」

「大丈夫、お二人が主催なんだから。ちょっといつもより人数多いけど」

「---まて、何人いるんだ?」

 不穏なものを感じて確認すると、陽子は無邪気に指を折った。

「えーと、お二人に、祥瓊と、鈴でしょ。桓魋と、浩瀚と遠甫も来てるよ。あ、それと壁先生も。朱衡さんも来たいって言ってたそうだけど、どうしたかな。景麒は酒席にあわないから留守番」

「……とんでもねえことになりそうだな」

 いつもの顔と友人たちはともかく、一部予想もしていなかった名前に、額を押さえた楽俊だった。

 

 

 はたからみれば充分仲のよさそうな後ろ姿に、鳴賢が深い溜息をつく。

「……玄章。ああいうのを、世間じゃ恋人同士って言うんじゃないのか?」

「気持ちはそりゃもうよくわかるけど、あんまり顔出すと見つかるよ」

 門柱に隠れながらぼやく友人たちの姿に、むろん二人が気づくはずもなかった。

 

 

初稿・2005.04.28




超個人的に、壁先生にはなんとなく今後も縁あって欲しいのであります。
なんたって物語のターニングポイントつくった人だし。
宮廷とは関わって欲しくないが、そうすると寿命が・・・。



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||64|| 基本は三倍返し…お判り?(大学連再会)

雁国玄英宮にて、同窓会?


 

 午時(ひるどき)をだいぶ過ぎた食庁(しょくどう)は、やや閑散としている。

 官位の低い若輩は自然上位に譲るよう動くのが常識だから、いまこのあたりで食事をとっている者はだいたいが職歴の浅い『若手』ばかりである。

 そのなかに混じった灰青の髪の若者は、湯気の立つ茶碗をかかえて満足の息をついた。

 春官の職は不思議と他より温和な部署であるが、着任してまだ三月と経っていない若造には、それなりに気疲れも多い。

 温かい食事と一服の茶が、半日分の御褒美というところだ。

「よう、玄章」

 軽快な声をかけられて、振りかえった玄章はやあと軽く手をあげた。 

「鳴賢。曉遠も一緒なんだ?」

「そこでばったりな」

 同じく新任の鳴賢と顔を合わせることはわりあい多いが、在任三年近い曉遠がこの時間に食事とは珍しい。

「久しぶりだね。今日は遅いじゃないか」

「まあちょっとな」

 官服を咎められない程度に着崩した友人は、眉をしかめながら椅子に腰を下ろした。

「呼び出しがきた」

 きょとんとまたたいた玄章は、同じ表情の鳴賢と顔を見合わせ、同時に曉遠に向き直る。

「おまえ、なにやらかしたんだ?!」

 みごとに声をそろえた二人を、剣呑に光る金の目がねめつけた。

「おまえら……さも俺の素行が悪いと言わんばかりだな?」

「悪いだろ」

「曉遠だもんね」

 即答する二人に、臙脂の髪の青年がいかにも意地が悪そうに口の端を上げる。

「じゃあおまえらも同罪だな」

「ええ?!」

「俺たちも呼び出されたって言うのかよ!」

 箸を取り落とした鳴賢に、曉遠が右手の三指を立てた。

「俺と、鳴賢と、玄章。今夜、三人揃って参上せよとの秋官長様からのお達しだそうだ」

「し、秋官長・・・」

 雲上も遥か彼方、それも管轄違いの秋官長からの呼びだてと聞いて、二人の顔に冷や汗がたれる。

 現在、この雁の秋官を束ねるのは、五百年の治世を敷く名君を在位当初から補佐する、延王の懐刀とも言うべき人物である。その敏腕なことは雁のみならずすでに十二国中に広まっており、当然玄章たちも大学前からその名を知っている。

 めでたく大学を卒業後、この玄英宮に出仕してまだ半年足らず。秋官長じきじきに呼び出されねばならぬほどの失策はしていないはずなのだが。

 飯も食後の茶も視野の外に放り出して青くなった友人二人に、曉遠がおとなげなくべえと舌を出す。

「叱責じゃないそうだがな」

「先に言えっ!」

 本気で動揺した反動で怒り心頭の鳴賢が、憎たらしい笑い方をする顔に箸をはたきつけた。

 

 

 夕刻、さすがにみなりを改めた曉遠を先頭に、緊張で右手と右足が一緒に動き出しそうな一行を、にこやかな秋官長が迎えた。

「忙しいところ、わざわざ呼び出してすみませんね。是非三人にお会いしたいということなので、無理を頼みました」

 数百年の隔てがあるはずの新任の官にも、この秋官長は丁寧な言葉を使う。それに恐縮して礼を取りながら、「お会いしたい」とはどういうことだろうと三人の眉が寄った。

「見えましたよ」

 軽い調子で堂の奥へ向けられた声に、衝立のむこうで誰かが立ちあがる気配がする。

「ひさしぶりだな」

 秋官長の横に出てきた、困ったような嬉しいような顔に、三つの口がかくんと開いた。

「ぶ、んちょぉ?!」

 異口同音に名前を呼ばれた青年は、迫力に押されたかややたじろいだ。

「え、会いたいって、だっておまえ慶で……だって秋官長が……えぇ?!」

 早くも混乱のきわみらしい鳴賢に、玄章が慌てて肘を入れる。

「鳴賢!」

「いや、朱衡様にお願いしたのはおいらじゃねえんだ。おいらは、言ってみれば紹介役ってのかな」

 他国の秋官長を(あざな)で呼ぶ旧友に目を剥く三人の前に、目の醒めるような赤毛があらわれた。

「お呼びだてして申し訳ありませんでした。お三方には、是非一度、直接お会いしたかったものですから」

 官服のような袍を着てはいるが、見目のいい少女。その鮮やかな緋色の髪と翠の目に、覚えがある。

「君は、文張に会いに来てた……」

 またたく鳴賢に、少女がぴょこんと頭を下げた。

「鳴賢さんですね。その節は、本当にお世話になりました」

 飾らない挙措と、はきとした口調が小気味いい。だが、他国の秋官長に頼みごとをできるからには、生半可な立場の者ではあるまい。

 うろたえて彼女の傍らに立つ友人に問い質そうとしたとき、背後の扉が勢いよく開かれた。

「朱衡、陽子と楽俊来たかぁ?」

 この場にいるはずのない子供の声に飛びあがって振りかえると、そこには紫の目をきょとんと開いた少年が立っていた。

 これまた見覚えのあるその顔は、しかし見まごうことなき金の髪に縁取られていて。

「宰輔?!」

 硬直する三人のうしろで、友人の呻きと秋官長の溜息、そして少女の押し殺したような忍び笑いが聞こえた。

「……台輔、せっかく拙めの書いた筋書きを、よくもぶちこわしにしてくださいましたね?」

 にこやかななかに青筋を立てた秋官長に、雁国の麒麟が、げえっと品のない声を上げた。

「え、オレ、もしかしてすっげえまずい所に来た?!」

「いままさに、ご紹介しようかと思ったところでした」

「一番いいところをさらったかもね」

 秋官長が顔をしかめ、笑いをこらえながら少女が頷く。

 それを、三人は唖然と眺めた。

 至高の存在である宰輔に、敬語を使わないで話ができるということは。

 そしてその髪、年の頃。

「まさ、か」

 ぎこちなく視線を向けられた楽俊が、片手で覆っていた顔をそろと上げる。

「……たぶん、その推測は当たってると思うぞ」

 その様子にくすりと笑った少女が、あらためて三人に向き直った。

「名前も名乗らず申し訳ない。景王赤子、中嶋陽子と申します。楽俊のお友達に会ってみたくて御無理をお願いしたんですが、驚かせてすみませんでした」

 再びてらいなく頭を下げられて、鳴賢たちは声がでなかった。

 目の前にいるのは隣国の王なのだから当然平伏しなければならないのだが、想像もしなかった事態にそんな最低限のことすらも思い出せない。

「陽子……」

 あまりに直截な自己紹介に、楽俊から溜息混じりの声がかかったが、景王である少女はいっかな構わないようだった。

「だって、ほかに名乗りようなんてないでしょう?」

「それにしたって、もうちょっと言いようってもんがなあ……」

 まだ呆然と突っ立ったままの友人たちをちらりと見やって、楽俊は再度溜息をついた。

「……おいら絶対、あとで怒られるんだろうな」

 諦めの入った呟きに喉の奥で笑いながら、延麒が鳴賢の腕を叩いた。

「鳴賢と曉遠、それに玄章だったよな。立ち話もなんだからさ、とりあえず座ろうぜ」

 声をかけられて我に返った三人が慌てて膝をつくより早く、金の髪をした子供がぴしりと指をつきつける。

「それと、今は平伏はナシな。陽子は楽俊の友達に会いに来ただけだから」

「延台輔……」

 途方にくれた玄章に、一国の宰輔がにかっと笑った。

「いーんだって。陽子だってやだろ?」

「それはもう、初勅で廃止したくらいだから」

 意を得たりとばかりににっこりと笑った景王は隣でもはや諦め顔になっている楽俊を促がした。

「楽俊だって、みんなに会うの久しぶりでしょう? ゆっくり話せた方がいいよね」

「陽子?」

 なにかを含んだ声音にはたと気づいたとき、卓のまわりにいたのは大学の同窓生ばかりが四人。

「わたしはまたあとでお話させてもらうから。みなさんごゆっくり」

「ちょ、待てって、ずるいぞ陽子!」

「お説教はあとでねっ」

「頑張れよー楽俊!」

「楽俊殿、ごゆっくりどうぞ」

 慌てる楽俊の手をすり抜けて騒々しく三人が出ていった堂で、最初に立ち直ったのは曉遠だった。

「---文張」

 ぎくりと首を竦めた楽俊に、いっそ清々しいほどの笑顔を向ける。

「大学で百年にひとりの逸材とも呼ばれたおまえだ。俺たちが何を言いたいか、わかってるよなあ?」

 じり、と歩み寄った曉遠に、にこにこと人好きのする顔で玄章も続いた。

「さあて、覚悟はできてるかな?」

「洗いざらい喋ってもらうからな!」

 怒気もあらわな鳴賢が詰め寄ると、楽俊は絶望的な表情で天井を仰いだ。

 

 そのあとの室内の騒動を、走廊で景王以下三人が笑い転げながら聞いていたとかいないとか。

 

 

初稿・2005.04.29

 




三人分だから仕返しは三倍・笑
続きはもうちょっと先のお題で。


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||65|| ほら、根性見せろよ。(楽俊・陽子)

ひとつめの山。


 ひとつめの山は十年目。

 それが、十二の王と麒麟には通説になっている。

 それは厳密に即位から十年なのではなく、新王を迎えた朝と国がひとまずの安定を得、ほかが動き出す余裕の出始めた時期、という意味なのだろう。

 傍目にはひととおりが整った制度。王の采配に従う官吏。妖魔は最早なりをひそめ、大地は命を取り戻し、民に活気が戻った頃。

 だれもかれもが一息ついた、その空白に足を取られる。

 そう思って、青年は手元の書類を抱えなおした。

 慶に新王が立ってから、すでに八年が過ぎた。

 そろそろ幾人かがこの国の先行きを気にとめていることを、彼は知っている。

 隣国の雁からはさりげなく、遥か南の奏は旅人に混じり、それとなく様子を伺われた。

 気分がよくなる筋のことではないが、それも仕方ない。

 芳と巧は今だ新王を得ず、先年には柳が倒れた。舜は相変わらずどことも国交が浅く、王の様子も窺い知れない。

 載のことも気にかかる。

 十二のうち五国が不安定で、三国はまだ十年の山を迎えてもいない。堅実な治世を敷いている四国にしてみれば、どんなささいな噂でも見過ごせはすまい。

 ひときわ豪奢な扉の前で足を止めて二度叩くと、なかからくぐもった声が応えた。

 それを不思議に思いながらなかに入って、なるほどと笑った。

「なんだ、うたたねか?」

「あんまり気持ちがいいから、ちょっとだけね」

 明るい光の射し込む堂の窓辺で、榻に寝そべった少女が照れてちょっと舌を出した。

「あーあ、はしたないところみられちゃった」

 寝転がるのに邪魔だったのか、いつもは後頭部でまとめている髪がほどかれて、錦の上に紅い波をつくっている。

 起きあがろうとするのを、手をあげてとどめた。

「今日は朝から休みなしなんだ、休憩したっていいさ。もうちっと転がってろ」

「はあい」

 いつもならば否と言って机に向かうものを、今日は素直に笑って榻に背を預ける。傍らの卓で茶の用意をしながらそっと覗えば、やはりどこか疲れた顔をしていた。

 国がひとまず落ちついたからといって、問題がなくなるわけではない。

 これまでのようにその場しのぎではなく、すべてに本腰を入れて先の先まで見とおさねばならない。

 法の整備や治水に開墾。

 土地が荒れたせいで生産のおぼつかなくなっていた茶の流通は、特産物の乏しい慶の最重要課題だ。

 そのうえ、それまで奏や雁に流れていた巧の荒民が、慶にも逃げ込みつつある。

 まさか追い返すこともできないが、まだ自力で立つことすら危うい慶には痛い話だ。

「昨夜も遅くまで書類読んでたのか?」

 湯呑を渡しながら聞くと、王である少女は肩をすくめた。

「まあ、ちょっとね」

「朝が早いんだから、夜更かししてると身がもたねえぞ」

「うん」

 頷くだけは頷くのを見て、やれやれと隣に腰を下ろした。

「陽子は、返事はいいけど実際となるとなあ。自分が納得しねえと駄目だもんな」

「う……」

 行儀悪く膝に肘をつきながら横目で見ると、湯呑を抱えながら同じようにこちらを覗っている顔がある。

「よーこ?」

「……はぁい」

 分がないと知って降参の顔になった陽子の髪を軽く撫でた。

「仙だから多少の無理は大丈夫だ、なんて思うなよ。体力はなんとかなっても、気力がついていかなけりゃ調子崩しちまうんだぞ」

「うん、わかってる」

 頷いた陽子が、明るい薫りの花茶に深い息をついた。

「……このさきずっとこれをしつづけなければならないっていうのは、けっこうしんどいものがあるね」

 小さく漏れた言葉と、伏せた睫に落ちた(かげ)に、楽俊はかすかに目を眇めた。

「しんどいか?」

 責めはしない。そのかわり、憐れみもしない。そのどちらも、自分の役目ではないから。

 ただ聞いたというだけの声音に、ん、と頷きが返った。

「ちょっと、ね。そう思うこともある」

 ことりと肩に寄りかかってきた頭を、押し返さず黙って受けとめる。

「ほかの人には言うなよ。心配するから」

「言わないよ。楽俊だけ」

 互いにだけ聞こえる程度の微かな声で交わす、危うい言葉。

 もたれかかる髪を、撫でるように梳いた。さらさらと流れ落ちる感触が、指にひどく甘い。

 王でも民でも、安寧を願う心に違いはない。

 ただ、民は望み祈るだけであっても、王はそうあるよう努めねばならないのだ。

 この先いつまで続くかわからないその道を思い、遼遠を憂いて投げ出す者があるのも無理からんのかも知れない。

 王とは、玉座とは、これほどまでに重い。

 

 王は国を支えるが役目。

 そして、王を支える者も必要なはず。

 民だけでは立てず、国だけでも立てないのなら、王だけが一人でいていいはずがない。

 

「仕事が一段落したら、尭天にでも下りてみるか?」

 唐突な申し出に、翠の瞳がまたたいた。

「紙の上だけで物を考えてたんじゃ視野が狭くなるし、自分の目で見なきゃわからねえこともあるからな。隣にいい見本があるだろ。それに、ずっと王宮にこもりっぱなしじゃあ、陽子自身にもよくねえし」

 怪訝そうな顔をしていた陽子が、ややあってくすぐったそうに笑った。

「やっぱり、楽俊て優しすぎ」

「そうか? ただ一番いいと思うことを言ってるだけなんだけどな」

「だって、わたしにいいようにって考えてくれてるんでしょう? それってすごく嬉しい」

「そりゃあよかった」

 翳の消えた少女に、そうと知られぬよう楽俊は安堵の息をついた。

 

 

初稿・2005.05.06

 




ちょっとあぶなっかしい陽子ちゃん。
彼女は尚隆と違って、投げ出すときは衝動的に行きそうな気がするんだよな。
そのかわり、一気に全部投げ出すから国が荒れるより先に禅譲でカタがつきそう。
小松氏は利広の推測と一緒で、バレないよう黙って計画を練りそう。
気がついたときには誰にも止めようがないってかんじですね。


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||66|| 心を殺しても、想いは生かそう。(熊&鼠・笑)

半獣同士で語り合い。


 一日の仕事を片付けて堂室に戻る途中、横合いから声をかけられて、楽俊は走廊の外に首を出した。

「こっちだこっち」

 呼ぶ声に見れば、重たげに咲いた牡丹の枝の向こうで、くつろいだ恰好の男が笑っている。

「桓魋……そんなところでなにやってんですか」

 乱れ咲く牡丹の真ん中でただの石段に腰を下ろした禁軍左将軍は、呆れた顔の同僚に手元の竹筒を振って見せた。

「花見さ。ここの牡丹があまりに見事なんでな、ただ見るのも惜しいから花を肴に酒を酌んでいるってわけだ」

「人に見つかったら叱られますよ」

「なに、そうしたら酒に誘えばいい。こんな景色を見ずに放っておくなど花に失礼だぞ」

 すでにほろ酔いなのか、桓魋がくつくつと笑う。

「というわけで、話を聞いたからには共犯だ。仕事は終わったんだろう、楽俊もどうだ」

「自分から声をかけといて共犯はねえと思いますけどね」

 苦笑しながら、楽俊も走廊をはずれて園林に出た。

「将軍に花を愛でる趣味があったとは知りませんでしたよ」

 桓魋の隣に腰を下ろしてからかうと、こいつ、と杯を持った手で頭を小突かれた。

「どうせ風雅の似合う性質じゃないさ。今日だってたまたま目に付いただけだ」

 笑いながら酒を酌んでよこすのに、軽く頭を下げて受け取る。どうやら最初から誰かを連れにしたかったようで、杯はあと二枚ほど余分があった。

 すでに夜半もいい刻限だが、この時期空にはまだ月がない。

 あちこちにある灯火と降るような星の光で互いの顔が見える程度の薄明かりのなか、色とりどりの牡丹が咲き競うさまは、ただ美しいと言うよりいっそ艶かしかった。

「なるほど、たしかにいい景色ですね」

「俺は学も風情も知らんからな、花と言えば牡丹ぐらいしか思いつかん」

 いかにも武骨な将軍らしい物言いに、楽俊が軽く笑う。

「牡丹は百花の王と謂うくらいだし、いいんじゃねえですか。おいらは、梨や桃なんかも好きですけど」

「お、さすが文官は言うことが違うな」

「なに言ってんですか」

 ひとしきり笑って、そういえば、と楽俊は園林を眺めやった。

「陽子が、こっちにはさくらはないのかなって言ってましたよ」

「さくら?」

「蓬莱では、花と言えばさくらなんだそうです。枝ぶりは梨や梅のようで、花はごく淡い薄紅だって話しですよ。赤子の爪の色みてえな」

 へえ、とまたたいた桓魋が、淡い色を載せた花を引き寄せた。

「こんなかんじなのかな」

「さて、どうですかね」

 いかんせん、さくらというものを見たことがないから、二人して首を傾げるしかない。

「学校や道の脇によく連ねて植えてあって、春先のまだあったかくなりきらねえ時期に、小さな花が一斉に咲くんだそうです。それの散るさまが、花びらの吹雪みたいでまたいいって」

---それはまるで、視界に霞がかかったみたいに綺麗なんだ

 微笑んだ少女の顔が浮かぶ。

 故国への郷愁と懐古の下に見える、悲哀。

 どんなに望んでも手にいれることのできないものが、彼女にはある。

 そして、たぶん自分にも。

「楽俊」

 やや押さえられた声が、楽俊の意識を引き戻した。

 振り向いた先にある蒼い目が、真摯な色を浮かべている。

「おまえ、今のままでいいのか?」

「桓魋……」

 その言葉の意図することを正確に読んで、だからこそ咄嗟に返事ができなかった。

「俺も半獣だからな。ほかの連中よりは、もうすこしおまえのことがわかるつもりだ」

 つもりなだけかもしれんがな、と呟いた男が、ややうつむきながら二人分の杯に竹筒を傾けた。

「実際、おまえはたいした奴だと思う。浩瀚様が是非にと言うくらいの知を持つくせに至って控えめで、人柄も温厚。ほかの何よりも主上の最善を優先するありかたは、称賛どころか尊敬に値するほどだ。だが、おまえ自身はそれでいいのか?」

 まっすぐな視線に表情を選びかねて、結局笑った。

「---おいらは、陽子の役に立ちたいだけですよ」

「おい」

 眉をしかめた桓魋に、ちいさく首を振る。

「本当のことがわかったあとでも、陽子はあっちに帰りてえって泣いたんです。だけども、陽子はまちがいなく景王だ。それを捨てるわけにはいかねえし、捨てたら陽子だけでなく民も宰輔もみんなが辛い思いをする。どうあってもやらなきゃならねえことなら、少しでも気が楽なほうがいいじゃねえですか。おいらにできることなんてたかがしれてるけど、ちっとでも陽子の役に立てるんなら、おいらはそれで充分だと思ってます」

「そうやって、ずっと自分を騙す気か」

「騙してなんていねえですよ。最初から、それがおいらの望みなんですから」

 平静を装った返答に、桓魋は深い息をついた。

「ここは慶で、俺は慶の民だ。女王を憂い、恋着によって国を傾けた王を恨む民を知らんわけではない。だから、おまえの懸念はわかる。だが……」

「桓魋」

 その先を言わせずに口を挟む。

「陽子は王です。この慶至高の」

 暫し沈黙の降りた二人の間を、さやと花を揺らしながら風が通りぬけた。

「……王だと思ってなどいないくせに、よく言う」

 口の端だけで苦笑った桓魋が、竹筒を差し出して杯を催促する。不敬と言われかねない評価に、楽俊は渋面をつくった。

「そりゃあ心外だなあ。おいらだって陽子はいい王様だと思ってますよ」

「そうじゃない。おまえにとっては、王も官職のひとつみたいなもんだろうが。でなけりゃどうして王を友人扱いできる」

「それは……陽子が」

「むこうからきた主上ならともかく、こちらで生まれ育った人間がそう簡単に割りきれるわけがないだろうが。つまり」

 一拍おいて、桓魋がにやりと笑った。

「おまえも、主上に一己の人間として向かい合いたかったってことじゃないのか」

「…………」

 どうにも返事のしようがなくて、膝についた肘で顎を支えてそっぽを向く。それで表情は見えなくなったろうが、朱がのぼった耳までは隠しようがない。あんのじょう、隣から忍び笑いが聞こえた。

「本当に嘘がつけんな」

「この顔は酒のせいです!」

「ほお、俺はなにがどうとは言っていないがなあ」

「……桓魋、実は性格悪いんじゃねえですか?」

 横目でねめつけると、同じ半獣の男はふふんと鼻先で笑った。

「ただの善人が、戸籍をごまかしてまで官吏になったり反乱軍を組織したりするもんか」

「いや、そりゃ浩瀚様が……」

「乗ったのは俺だ」

「はいはい」

 胸を張っていっそ自慢げな同僚に、がっくりと肘が折れる。

「金波宮も、御多分に漏れず狸の根城と言うわけだ。いつなんどき好機が巡ってくるかもわからんからな、おまえもいざというときにそなえて腹黒くなっておけよ」

「いざってなんですか、いざって!」

「備え有れば憂いなしと謂うだろうが」

「憂いなんてねえですって」

「素直じゃないな、この」

 応酬に業を煮やしたのか、桓魋の片腕が楽俊の首にかかった。締め上げられて、簡単に息が詰まる。

「か……んた、いっ!」 

 さして太くはない腕だが、この男は熊の半獣である。見かけに騙されては痛い目を見る。

 冷や汗をたらす楽俊に、桓魋はたいした力も込めていないような顔で笑った。

「最初からあきらめる必要はないさ。第一、おまえが逃げようとしても主上が捕まえにきたらどうしようもないだろうが」

「だ、から、なんの……」

「ほー、この後に及んでまだそらとぼける気か」

 締め上げる腕に力がこもる。さすがにまずいと思ったとき、きわめつけに呆れた声が降ってきた。

「なにやってるの、二人して」

「よう、祥瓊」

 外廊から不審げに顔を出した少女に、桓魋が愛想よく手を振った。無論、楽俊に手を振る余裕はない。

「祥瓊、助けてくれ!」

 無理矢理向けた首は、桓魋がひょいと腕をひねっただけで引っ張り戻されてしまった。

「ああ、こいつの言うことはほっといていいぞ。それより、おまえ一人か?」

「陽子たちもくるけど……だから、なにやってるの?」

「牡丹を見ながら酒を飲んでたんだが、余興がわりに組み手をな」

 楽俊の抵抗を歯牙にもかけていない桓魋に、祥瓊が顔をしかめた。

「なに馬鹿言ってるの。桓魋の力で締め上げたら骨が折れるじゃない、いい加減離しなさいよね!」

「はいはい」

 美貌の女史に睨まれて、ようやく楽俊を解放する。

「祥瓊、時間が空いてるなら一緒に花見でもしないか」

 ちょうど酒の追加も欲しいし、と竹筒を振る桓魋に、祥瓊が肩をすくめた。

「どうしてこう、主従揃って同じようなこと考えるのかしらね。陽子たち呼んでくるから待ってらっしゃい」

 主従揃って、というからには、陽子たちもにたようなことを考えているのだろう。祥瓊を見送ってようやく息をついた楽俊は、まだ悲鳴をあげている首や肩をさすってなだめた。

「……桓魋」

「さっきの話は黙っておいてやるさ。これであいこだ」

 恨みがましく唸る楽俊に、桓魋が笑った。

 

 

初稿・2005.05.09

 




うあ、シリアスのつもりがラストでコメディになっちった。
熊さん優しいからなー。人選ミスか・笑
まああれです。陽子も楽俊も、近い人たちにはモロバレってことで。フフフ

中国で花と言えば梅か牡丹ですが、梅を愛でるような風雅な人ったら遠甫くらいなので(苦笑)わかりやすく牡丹でいってみました。
牡丹も芍薬も好きですが、個人的にはやはり桜に勝るものはないと・
つーか、やっぱあちらに桜はないんでしょうかね?
そのうち陽子ちゃんが路木にお願いしてくれることを祈ります・笑



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||67|| 誤算は見事なその助平面。(尚隆vs朱衡)

実務者レベルの主張。


 

 無機物でさえも青ざめる溜息をついて、朱衡は己の主に冷たい目を向けた。

「たった一人の大学生も引っ張ってこられないとは、つくづく役に立たない王ですね」

 氷のような視線を突き刺された雁国の王は、容赦のない言いぐさにむすりと口の端を下げた。

「しかたなかろう、否と言うのをむりやり引きずってくるわけにもいかん」

 榻でふんぞりかえっているところをみると、どうも開き直ったらしい。苦情があるなら本人たちに言え、と言いたいのだろうが、さすがの朱衡も他国にねじこむわけにはいかない。

 だからこそ、とられる前になにがなんでも口説き落とせと言ったのに、この呑気者は「まあしかたがないな」の一言であっさりと許可したという。

「だいたい、五百年もこんなことをやっているのだ。有能な官とやらなぞ、うちにはもう掃いて捨てるほどいるだろう」

「五百年も続いているからこそ、このあたりで新しい流れを入れたいのですよ。机の上や書物だけでなく、広く世を見聞し己の糧とできる才覚のある人間を」

「そんなもの、俺がやっているではないか」

「あなたのはただの放浪です」

 言下に切り捨てられて、尚隆がへそをまげた童子の顔になる。

「国の整備に役立てるための情報収集ぐらい言えんのか」

「妓楼遊びと博打の合間の聞きかじりを報告しているだけでしょうが。実際働くのはわたしどもですよ」

 さんざんな物言いでさらに不機嫌になった尚隆を捨て置いて、朱衡は書卓にのった紙の束をめくった。

 それには、今期大学を卒業する予定の者の詳細な記録が載っている。

 他国はどうだかしらないが、雁ではかならずこの書類が王の膝元まで上がってくる。雁の要になる国官の、それも高官に就く者たちである。下の方で適当に選ばせるわけにはいかないし、官位欲しさの贈賄や派閥をつくられては目もあてられない。忙しいなか手間を取られるのは事実だが、これも重要な仕事である。

 かつてはほかに二人、内密の選考に参加した者がいたが、今では尚隆と朱衡だけの仕事になってしまった。

 彼らがいれば、とは、朱衡は言わない。

 言ってもせんのないことだ。

 だからこそ、たんなる部下ではなくより王に近い立場で、共に先を考えられる人材が欲しかったのだし、ようやく人柄も才覚も申し分ない人間が現れたと思ったのに、結果はこのざまである。

「せっかくいい拾い物をしてきて、すこしは役に立ったかとみなおしましたのに、かえって評価が下がりましたよ」

「あれはもともと陽子の拾い物だぞ。俺はそれをちょっと預かっていただけだ」

「犬でも三日飼えば主と見てくれるものですよ。四年も預かって後ろ髪のひとつも引けずじまいですか」

 無駄に平行線の会話に、朱衡が溜息をつく。

「せめてうちの王も景女王のような見目麗しい妙齢の女性であられたら、色仕掛けという手もあったのでしょうけどねえ。こんなのがしなをつくっても気色悪いだけでしょうし」

「おまえ、王に美人局(つつもたせ)をしろというのか」

「やらせたくてもできないと言ってるんですよ。---ああ、こんな女好きで粗野なむさくるしい傍若無人の年寄りが王だから、雁に勤めるのが嫌だったんでしょうかね。それはまあ無理もない」

「よくもそこまで主の悪口が言えるな。だいいち、誰が年寄りだ」

「五百も半分近く越えているくせに、まだ若作りするつもりですか」

「俺が年寄りならおまえは枯れ木だと思うが?」

「わたくしは臣下でございますので、関係ございません」

「そうやって自分だけ棚にあがるな! そんなに悔しければ慶に行ってとりかえしてくればよかろうが」

「それができるならとうにやっております。拙めも麒麟に蹴られるのは遠慮いたしたいですからね」

 至極平静に言う朱衡に、尚隆がふふんと笑う。

「景麒が怖いのか」

「慶よりさきにやりそうなのが、うちにおりますでしょう」

「その馬鹿にも説教してやったらどうだ。おまえにくれてやるのでは楽俊が気の毒だと言っていたぞ」

「麒麟は慈悲の具現と申すではありませんか。どんなことにも憐憫をたれるのが宰輔の仕事でありましょう。いちいち気にもしておられません。せいぜい、明日一日太綱の書き取りをして頂くくらいで」

「……それだけやれば充分だ」

 むっつりと榻によりかかった尚隆が、無駄口を叩きながらも書類をめくっている朱衡を横目で見遣った。

「で、逃がした張本人の俺だけが説教されているわけか」

 こきおろされて機嫌の悪い王に、いえいえと秋官長が涼やかに笑う。

「これはただのやつあたりでございますよ」

 朱衡得意のまったく心のこもっていない笑顔を、尚隆がきわめつけの渋面で睨みつけた。

 名君と忠臣の会話とも思えないやりとりは、ことのほとぼりが冷めるまで当分続きそうである。

 

 

初稿・2005.05.12

 

 




臨場感優先のため、会話メインでございます。

御希望に添えたかわかりませんが、こういうお題はみんな小松の若御担当になりそうです・苦笑
楽俊が慶に行って一番悔しがるのは朱衡な気がします。
まあ、最初からわかってはいるんでしょうけどね。
それとこれとは別ということで・


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||68|| よくもまぁぬけぬけと。(大学連続き)

No.64の続き。
楽俊の運命やいかに。
長いです。


 

「では文張君、覚悟はよろしいかな」

 楽俊の正面で老師然として腕を組んだ曉遠は、その泰然振りが実に似合わないだけにかえって迫力が増している。

 無論、彼だけでなくほかのふたりも並々ならぬ興味と仕返しの意図をもって両脇に控えているから、逃げ出しようもない。

 それを上目遣いでみやりながら、楽俊は片手で額を押さえた。

「恨むぞ陽子……」

 本心ではないにしろ、恨みごとを言いたいのはたしかである。陽子がこの三人に会ってみたいと言ったときから覚悟はしていたものの、まさかひとりで矢面に立たされるとは思わなかった。

 もっとも、いくらこの三人でも、非公式とはいえいきなり一国の王の前で気の置けない話もできないだろう。陽子としてもそのあたりを気を使ってくれたのかもしれないが、その代償がこれとは思いきり貧乏籤を引かされた気分である。

「仮にも自分の仕える王に、その口のきき方はないんじゃないか?」

 満面の笑みでなおかつ怒りの形相、という世にも珍しい顔つきの鳴賢が、右側から卓越しにずいと肘を進めた。

「おまけに王を呼び捨てなんて、どういうことさ」

 圧されて身を引けば、反対から玄章が迫ってくる。

「……おまえら怖いって」

「ほー。誰のせいだと思ってるのかなあ?」

「張本人がよく言うぜ」

「いいからとっとと喋れ」

 三色の眼に睨まれて、さすがの楽俊も音を上げた。

「だから。巧で拾ったって、前に言わなかったか?」

「……聞いた」

 不本意そうな顔ながらも頷いたのは鳴賢である。

「だけど問題はそこだけじゃないからな。頭っから全部話せって言ってるんだ」

 凄まれて首をすくめる楽俊の前に、玄章が熱い茶の入った湯呑を置いた。いつのまに席を立ったのか、ほかのふたりにも湯呑を渡し、にこりと笑う。

「長くなりそうだからね。さて、話してもらおうか」

 彼らしい親切心かと思ったらそれだけでもないようで、楽俊はやれやれと首を振った。

「あいつが……景王が胎果だってのは知ってるよな? 先王である予王が禅譲なさり、台輔は新王を選定に入った。そんで、慶ではなく蓬莱に王を見つけたんだが、ほぼ同時期に予王の妹が偽王として立った。これも知ってるな」

 黒い目を向けられて、三人が頷く。

 安寧に遠い慶をさらに混乱させた偽王の乱。その鎮圧に際し延王が新王に手を貸したことは有名な話だ。

「ところが、景台輔が王を迎えに行ったのと時を同じくして、景王を弑するため蓬莱まで妖魔を送り込んだ者がいる。これが景主従の帰還を阻み、結果台輔は捕らえられ、はぐれた景王---陽子は巧に流れついたんだ」

「妖魔だと?!」

「台輔を捕らえたって……」

 予想外の展開に仰天する三人を、楽俊は軽く手を上げて押しとどめた。

「だから、容易に口にできることじゃねえんだ。ここから先は、慶でも雁でもほんの一部の方々しか知らねえ。おいらはおまえらが信じるに足る相手だと思うから喋るけど、もし黙っている自信がねえなら言ってくれ」

 真摯な目に、三人が顔を見合わせた。

「そりゃあ俺たちは口外するつもりなんかないけど……本当に聞いてもいい話なのか?」

 一転して心配そうな鳴賢に、楽俊がふきだした。

「話せって言ったのはおまえらだろ。心配すんな、聞かせて悪いことがあるなら、あとはご自由になんて放り出されやしねえよ」

「まあ、文張が怒られないならいいけどさ」

 屈託ない口調に、三人がもぞもぞと座りなおす。

「で、その景王を、おまえが見つけたってわけか?」

 こういうときにいち早く立ち直るのは曉遠である。うってかわって揶揄の色のない声に首を振った。

 楽俊としても陽子から聞いた程度しか知らないのだが、巧に流れ着いて捕まって、とあらましだけをかいつまんで話す。

「で、まあ色々あったらしいんだが、やみくもに逃げたものの行き倒れちまったんだな。それをおいらがたまたま拾ったんだ」

「それで、雁に?」

「ああ。巧にいたんじゃいずれみつかるかもしれねえし、陽子はむこうに帰りてえって言ってたからな。なら延王を頼れって言ったんだ。そんで、おいらが案内することにしたんだが、いくらもいかねえうちに妖魔に遭って、はぐれちまってなあ」

 情けねえ、ときまりわるく耳の後ろをかく楽俊に、曉遠が眉を寄せた。

「また妖魔か。そんな頃から巧は傾いてたのか?」

 いかにも夏官らしい問いに、一瞬躊躇う。それを曉遠がみすごすわけもなく、金の目が険しさを増した。

「文張、まさか」

 察しのいい同輩に、楽俊が頷く。

「---その、まさか、だ」

「なんだよ?」

 意味をはかれず二人を見比べる鳴賢たちに、曉遠が深い息をついた。

「妖魔は傾いた国に出る。だが、それだけじゃないだろう。妖魔を扱える者は、誰だ」

 一瞬息を呑んだ玄章が、驚愕の表情で楽俊を覗う。

「そんな」

「……陽子は、蓬莱でも巧に来てからも、ずっと妖魔に追われてた。行き倒れたのだって、衛士に追われてたからや食うや食わずだったせいだけじゃねえ。おいらが見つけたとき、あいつは傷だらけで半死半生だった。陽子は蓬莱で台輔と誓約を交わしていたんだ。事実上仙籍に入っているはずの人間が、幾日も高熱を出して意識が戻らないなんて普通はありえねえ。そんなになるほど、山野の妖魔が特定の誰かを狙うか? 蓬莱に妖魔が渡ることだって信じられねえだろ」

 絶句した三人を、楽俊は小さく苦笑して眺めた。

 陽子はいまだもって理解しきれていないようだが、この世界において、民にとって王とは神聖にして不可侵、雲上にある神である。

 神獣たる麒麟によって選び出された当代無二の存在は、髪一筋でさえ傷つけてはならない至高の身。それを妖魔に襲わせるなど、想像もできないことなのだ。

「景王を弑するため、と言ったな。それは---塙王か」

 囁くような曉遠の声に、楽俊は微かに顎を引くことで応えた。おいそれと口に出していいことではない。

「では景台輔を捕らえたのも?」

 これにも頷く。それを見て、曉遠が苦いものでも飲んだように顔を歪めた。

「なるほど。巧があれほど荒れたわけはなんだろうと思っていたが、仮にも他国の王を害しようとは、天が見過ごすわけもない。だが何故だ、それほどまでに景王を疎む理由がどこにある」

「ちょっとまった」

 官吏の顔で楽俊に迫った曉遠を、鳴賢が押しのけた。

「話がずれてるぞ。はぐれてどうした? 雁にはいっしょに来たんだろ」

 深刻な雰囲気が一気に崩れて、玄章が湯呑を握り締める。

「鳴賢……」

「だって、そういう上の方の話はあんまり踏み込まない方がいいじゃないか。それより俺はこいつの話の方が気になるの」

「そりゃまあそうか」

「そうだな」

 あっさりと納得した二人を引き連れた鳴賢が、にまりと笑う。

「あわよくばこれで逃げようとか思ってたろ。そうはさせないぜ」

「いや、そんなつもりはねえけども」

 逃げられたらいいなあとは思っていただけに、返す笑顔の引きつる楽俊である。

「けど、別にこれ以上話すようなことはねえぞ」

「それは俺たちが決める。で、妖魔に襲われてはぐれたのか? そんなの探すなりして追っかけりゃいいだろうに」

 ことこういう話は鳴賢が一番好きなようで、改めて手綱を取り直したのは彼だった。恨みがましく渋面を作っても、ほれ喋れとせっつかれるだけでどうにも逃げようがなくなって、やむなく話を続ける。

「……午寮の、街の門前だったんだけども。狙われてるのは陽子ひとりだったんだが、妖魔も人も数が多くて、そのどさくさでおいら気絶しちまったんだ。陽子は森に逃げて、そこから烏号まで別れ別れで辿りついた」

「気絶って」

「蠱雕に蹴られて、ちっと怪我してな」

 はは、と笑う楽俊に、玄章が額を押さえた。

「……よく生きてたね、文張」

「普通死ぬぞ」

 冷や汗をたらした鳴賢が溜息をつく。それから、ああと手を打った。

「それでか。あの背中の傷」

「まあな」

 楽俊がこともなげに頷くのを見て、わからんと呆れ顔で湯呑をすする。

「あんな大怪我して、まだその先追いかけたのか?」

「雁に行けって言ったのはおいらだからな。それに、おいらのへまではぐれたんだし、いっぺん助けたんなら最後まで面倒見なきゃな」

「だからってさあ……そりゃ美人だし、あんなになつかれちゃ放っとけないのもわかるけど」

 可愛い女の子には親切に、を信条としている鳴賢に、楽俊は声を上げて笑った。

「そりゃあ今の話だ。拾ったときは男のなりしてたし、陽子は陽子で当初はおいらのことも全然信用してなかったみてえだからな。今みてえになったのは烏号に着いてからだ」

 だって、と言ったのは玄章である。

「助けてくれた文張に?」

「十六かそこらの蓬莱生まれの女の子が、いきなりこんなところにひとりで放り出されたんだぞ。おまけに人にも化け物にも追われて、持ちなれない剣だけを頼りに山のなかを何十日も彷徨ったんだ。いったいなにを信用できる」

「そっか……」

「史上稀に見る登極のしかたかもな」

「それにつきあった文張もすごいけどな」

 呆れましたと顔に書いてある曉遠に苦笑う。

「おいらが同行したのはちっとだけだって」

「それで、延王に目通りを願い出たのか?」

「延王じゃなくて宰輔だけどな。最初はなんにも知らなかったから、普通に関弓を目指してたんだが、途中で陽子が台輔のことを思い出したんだ。なにせケイキって人をしらねえか、としか言わなかったから見当がつかなかったんだが、台輔でケイキったら景台輔だろ? 最初っから金の髪の、って言ってくれりゃあ、もっと話は早く済んだんだろうけども。でも、そうしたら庇護を求めたのは塙王だったろうし、その先はあんまり考えたくねえな」

「……まあな」

 卓を囲んだ四人がそれぞれの表情で口を噤む。

 自分の狙う王がわざわざ出向いてくるのだ、どうするかなど考えなくてもわかる。

「で?」

「まだ聞く気か? ……そんで、ようやく陽子が景王だって察しがついたから、役所を通じて延台輔に書状を差し上げたんだ。そしたら、延王がお忍びで迎えに来た」

「げぇ」

「嘘だろ?!」

 予想通りの反応に、楽俊は力なく笑う。

「なさるんだよ、あの方々は。偽王軍に気取られないよう御自らおでましになったそうだが、口実半分興味半分てとこだったんだろうなあ。そんで、玄英宮に招かれたわけだ。そこから先は知ってのとおりだ」

「延王が景王を助けて乱を平らげ、登極に手を貸した、ってやつか。おまえ、それをずっと近くで見てたわけだな?」

「まあそうなるな」

 軽く肩をすくめる楽俊に、三人は一様に大きな溜息をついた。

「なんだよなぁ。ただの新入生だと思ってたのに、そんなおおごとに首突っ込んでたのかよ」

「いや、首突っ込んだわけじゃあ……」

 空の湯呑を顎の下に置いてふくれつらの鳴賢に、楽俊が頭をかく。

「けど待てよ。じゃあ玄英宮に景王をつれて来た奴ってのはおまえなのか?」

 ふと曉遠が首をひねった。

「俺は、その人が宰輔と一緒に慶の各州候を説得してまわったんだって上司に聞いたぞ」

 え、とたじろぐ楽俊に、あとの二人が色めき立った。

「州候の説得?!」

「なんだよ、そんなことまでしたのか?!」

「だ、だって延台輔が手伝えって言ったし……ほら、麒麟は戦場には行けねえじゃねえか。だから」

「宰輔のことじゃねえ、おまえの話だ!」

「落ちつけ鳴賢」

 椅子を蹴立てた鳴賢の襟を、曉遠が後ろからぐいと引っ張った。その勢いの良さに、踏まれた蛙のような声を出してひっくりかえった鳴賢には目もくれず、玄章も身を乗り出す。

「で、なんでまたそんなことになったんだ?」

 小説を聞く子供のような二人に迫られて、さしもの楽俊ももはや諦め顔である。

「まずは偽王軍に捕まってる景台輔を取り戻そうってことになったんだが、陽子がそれに同行するってんでな。だったら、おいらだけ玄英宮に隠れてるわけにいかねえじゃねえか。けども陽子は危ないからやめろって言うし。行く、残ってくれ、でもめてたら、延台輔にそれならこっちを手伝えって言われたんだ。自分は戦場には行かれない。そのかわり真の王が立ったと州候を説得してまわるんだって」

「行くったって……こう言っちゃなんだけど、文張、武器なんか使えないだろ」

「まあそうなんだけどな」

 言い難そうな玄章に、楽俊も苦笑った。

 今から思えば、自分でも無茶を言ったと思う。弓のひとつ、剣のひとつ扱えない素人が王師に同行したとて、ただの足手まといにしかならないものを。

「けど、人に偉そうなこと言っといて、自分だけのほほんとはしてられねえ。陽子にだけ荷を負わせておいらは関係ねえなんて、そんなの無責任だろ」

「文張が? なんで?」

「陽子はこっちの生まれじゃねえからな。王様とか国とか言われたって、急に飲みこめるわけじゃねえ。それに、いきなりこっちに連れてこられて、親も友達も、むこうとのふんぎりがなんにもついてなかったんだ。ずっと帰りたいと言ってたものを、王様だから帰れねえなんて言われたってそうそう納得できるはずがねえ。けど、帰っちまったら、王の責務を果たさないとして台輔が失道する。そうしたら陽子もいずれ死ぬんだ。そんなん嫌じゃねえか。だから、選べないんなら、せめてやるべきことの方を取れって言ったんだ」

 あのとき、王様になったら帰れないね、と呟いた声があまりに儚くて胸が痛んだ。

 どんなに遠くても、同じ世界ならばいずれ帰ることもできよう。だが、たとえ王であっても虚海を越えることは容易ではない。

「陽子は景王としての道を選んだ。それは慶にとってはよかったかもしれねえけど、陽子自身には辛い道だ。帰れないってだけじゃねえ。王ってのは一国を負う者だ。あいつ一人がそんだけの重荷を背負うのに、知らん顔はできねえ。おいらなんかじゃあなんの役にも立てねえかもしれねえけど、それでもなにかしたかったんだ」

 自分が玉座をすすめたなどと思うのはおこがましいにも程があるが、あれほど帰りたがっていた彼女を泣かせて、放っておくことなどできなかった。

 王と半獣ではなく、同じ地面に立っている友人として、どんな些細なことでもいいから手を貸せればと思ったのだ。

「……ふーん」

 いつのまにか考え込んでいた楽俊の耳に、意味ありげな相槌が入った。我にかえって目を上げると、にまにまといやな笑みでこちらを見ている三つの顔がある。

「つまりあれだ。そのときから、あの子のことが好きだったわけだな?」

「な」

 これが総括といわんばかりの鳴賢に、息まで飲みこんで絶句する楽俊を見て、曉遠がおお残念と笑った。

「いま半獣姿だったら、全身の毛が逆立ってたところだな」

「尻尾もね。ちょっと見てみたかったなあ」

 玄章までが、悪気のさらさらない笑顔で楽俊を追い詰める。

「だもん、早く卒業したがるわけだよね。一年でも早く慶に行きたかったんだろ?」

「約束があるんだもんなあ」

 鳴賢が卒業前の一件まで持ち出して、意地の悪い笑い方をした。

「だっ、それは……!」

「いまさらなに言ったって遅ぇよ。あーもー、そこまで一人の女に入れこむなんざ、絵に書いたような一途だねぇ」

「曉遠!」

「心配すんな、誰がどうみても完璧な両思いだから」

「いらねえこと考えるな、鳴賢!」

「いいなあ文張。彼女美人だもんね」

「玄章まで言うか……」

 好き勝手な感想を口にする友人たちに、楽俊は頭を抱えるしかない。

 それでも、相手は王なのにだとか身分がどうとかなどとは誰も言わないことに、安堵もしていた。そんなことはどうでもいいといわんばかりのひやかしが、嬉しいような迷惑なような、複雑な気分である。

「よお、話終わったかぁ?」

 扉を叩きもせず、みはからったようににょんと首を出した延麒に、楽俊は眉をしかめた。

「延台輔、様子伺ってましたね?」

「え、いや、オレじゃなくて悧角ですけども」

 ははは、と乾いた声で笑い、金の髪の少年が手にした皿を堂室にもちこんだ。

「まあいいじゃんか、楽俊の考えてることなんてみんな知ってるし。それより飯にしようぜ」

「それで済まさないで下さい、って、みんなってなんですか!」

「オレとか尚隆とか朱衡とか。あとこいつらも陽子のこと自体は知ってたんだろ?」

 紫の視線を向けられた三人が、こくこくと頷く。さすがにいきなり宰輔と気楽な話はできないようだが、以前に顔を会わせたこともあり、このぶんではすぐに息投合するだろう。

「わたしがどうかした?」

 延麒同様、皿だの箸だのの載った盆を手に、陽子がきょとんと顔を出した。

「あのな……」

「なんでもねえって」

 調子よく喋り出そうとした延麒をさえぎって、無理矢理話を終わらせる。

「なんだよ楽俊」

「いいんです! ……おまえらもだぞ」

 口を尖らせる延麒とまたにやにやしている友人たちを睨んで立ちあがり、陽子の手から盆を受け取った。

「それより、なんでおまえや延台輔がこんなもん運んでるんだ?」

「ああ、六太君があとはいいからって人払いしたんだ。あ、延王もあとで来たいって言ってたけど、朱衡さんに捕まったから無理かも」

「……なるほどな」

 延麒はともかく、延王にまであおられてはたまらない。どうやら先廻って秋官長が捕獲してくれたようだが、なんにしろこれ以上話を大きくしそうな人物が加わらないのはいいことだ。

 やれやれと振りかえると、ちゃっかり楽俊の椅子に座った延麒も含め、四人が気味の悪いほど楽しそうな顔で笑っている。

「いやあ、お似合いで」

「延台輔!」

「六太君!」

 二人分の雷が雁の宰輔に落ちたのは、いうまでもない。

 

 玄英宮の夜は長くなりそうな気配である。  

 

 

初稿・2005.05.19




異様に長くてゴメンナサイ。
そしてまたオチに苦労してみたり・汗

会話にするとうるさいほど長いのは百も承知でしたが、説明文だけで終わらせるのはどうにも味気なくて楽俊に話してもらいました。
というより、楽俊目線で追っかけてもらいたかったので・笑
塙王の一件も喋っちゃいましたが、今後この三人は朱衡の手足になっていく予定なので(楽俊のかわりに・笑)まあ問題ないということで。
暗黙ですが陽子たちも了解の上で話してます。


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||69|| 高く、低く、そして貫け。(楽俊・陽子)

月影後、即位前。
No.56楽俊サイド。


 

「大丈夫だよ」

 振りかえった拍子に揺れた紅の髪が、月光をはじいて甘く波打った。

「もう、逃げない。わたしにどれだけのことができるかなんて全然わからないけど、やれるだけやってみる」

「陽子」

 名を呼ぶと、翠の瞳が微かに揺れて微笑んだ。

「楽俊や延王の助力があったから、景麒も助け出せたし、反乱軍もなんとかおさめることができた。あとは、わたしがやらなくちゃ」

「そうか」

 うん、と頷く顔に、出会った頃の陰はもうない。

「まあ、喋るのはいいとして、文字は書くのも読むのも駄目だし、法律も常識も全部いちから勉強しないといけないから、目下はそっちのほうが大変かもしれないけど」

 指を折る少女の懸念はもっともで、そのあたりは自分も気になるが、まあ悩むより覚えるしかないのだろう。

「政は景台輔がおいでなさるし、専門の官がいるさ。わかんねえことは順繰りに覚えていけばいい。焦って一気にやろうとしても頭になんか入らねえんだから」

「そうだね」

 欄干にもたれかかった少女は、でもなあと空を仰いだ。

「あの景麒が、ゆっくり教えてなんかくれるかな。ものすごい鬼教師だったりして」

「なんだそりゃ」

「だって、わたしを迎えに来たときなんてひどかったんだよ。どこまでおろかな方か、とか言って」

「ええ?」

 呆れて聞き返すと、まったくの異世界から連れてこられた少女は、そのときを思い出したのかおかしそうにくすくすと笑う。

「せめて一言、慶国の王として迎えにきました、とか、自分は慶国の麒麟です、とか言ってくれれば、そのあとの展開だって相当わかりやすかったと思うんだけど」

「そりゃあおいらもそう思うが、本当になんにも言われなかったのか?」

 しかつめらしく腕を組んで眉をしかめる少女に並んで欄干にもたれかかりながら、首を傾げる。

「そうだよ。あなたは誰、って聞いて初めて名乗ったくらいだもの。それだって、わたしはケイキです、じゃあ、なんのことかさっぱり」

 肩をすくめる少女に、思わず額を押さえた。

 たしかに、出会った頃の彼女はなにも知らない海客だった。

 ここがどういう世界で、自分がどうやって辿りついたのかもなにひとつ知らなかった。

 だからこそ、ここまでくるのに酷い苦労と辛い経験を余儀なくされたのだ。

 その元凶が宰輔なのだとしたら、これからさきのことが思いやられる。

「でも、おかげで楽俊に会えたんだから、そういう意味では感謝していいのかも」

「……そういう問題か?」

 そうだよ、と笑った顔はごく普通の少女で、一国を背負う王にはまだとても見えない。

 だが、いずれは彼女も女王の顔になるのだろう。

 それを思うと、胸のどこかが痛んだ。

「あちらから来たばかりのわたしでは、たぶんいけなかったんだと思う。憎悪をぶつけられて、裏切られて、でもたくさんの人に助けられて。人の心や、さしのべられた手の温かさや、それを受け入れられない自分の弱さも愚かさもひっくるめて、そういうのを知ること全部が必要だったんだ」

「……そうか」

 真摯な翠の瞳が、淡い月の光を受けて綺麗に輝く。

 この世界で王になろうとする者は普通、天の選定を受けるため、麒麟の待つ蓬山へと昇る。

 同じ世界にありながら異境であるという黄海をゆくその道は、長く険しく、襲いくる妖魔や苛酷な環境との戦いだという。

 異界から還り、それを辿ることなく王に選ばれた少女には、巧を彷徨(さまよ)辛酸(しんさん)を舐めたあの旅こそが、昇山の道だったのかもしれない。

 その頃の荒々しさを微塵も感じさせない穏やかさで、少女が微笑んだ。

「楽俊に会えたことは、そのなかでも一番大事なことだから、景麒にはちょっとだけ感謝、かな」

「こらこら、宰輔にそんなこと」

 一番大事、と言われるのはおもはゆいが、まがりなりにも一国の宰輔と秤にかけられるのは身の丈にあわない。

 たしなめてはみたものの、少女はいっこうに畏れ入らなかった。

「いいの。景麒のせいで、わたしは散々な目に遭ったんだから」

「陽子にかかったら、景台輔もかたなしだな」

 苦笑しながら手を伸ばし、紅い前髪を撫でると、少女が嬉しそうに笑った。

 望んで昇山したわけではない。

 我こそがと意思をもって誓約を受け入れたわけではない。

 迷って迷って、悩んで悩んで。

 決めかねて泣く彼女に、それでもと言ったのは、誰あろう自分。

 それはもうさだまってしまった道ではあったけれど、その重荷を捨てることも彼女にはできたはずだ。けれどそれだけはして欲しくなかったから、やってみろと励ました。

 重責は承知の上。

 それでも、彼女に死んで欲しくはなかった。

 酷いことをしたのかもしれない。

 その嘆きを知ってなお、彼女からもどるすべを奪ってしまったのだから。

 なのに彼女は一言の非難も愚痴も言わず、こうやって無防備なほどに信頼を寄せてくれるのだ。

 それはとても嬉しいことではあるが、彼女の心内を思うと切なくもなる。

「わたし、頑張るから。きっと慶をたてなおしてみせる」

「陽子」

 喉まで出かかった謝罪の言葉は、柔らかな笑顔に阻まれた。

 不安でないはずはない。

 王など、政など知らぬ身で、昨日まで敵であったような者たちのなかに、たったひとりで踏み込んでいかなければならないのだから。

 けれども心配させまいとそれを表に出さず笑うのは、彼女の持つ強さであり優しさなのだろう。

 いつまでも、それを失わないで欲しかった。

「楽俊も遊びに来てね、慶に」

 まるで隣の(むら)に越すような挨拶に、思わず笑ってしまう。

「ああ、きっとな」

 たとえ二度と交わらない道であったとしても、自身がその気にさえなれば変えられないことはないはず。

 毅然と顔を上げて進む彼女に恥じぬよう、誇れる友であれるように。

 自分もこの道を歩いていこう。

 

 いつか、彼女の力になるために。

 

 

初稿・2005.05.20




お題56の楽俊サイドです。
同一場面で双方向というのは一度やってみたかったんですが、面白さ85%ムズカシさ15%てとこですね。
前向きな陽子ちゃんに比べて楽俊が珍しくちょこっとダークサイド入ってみたりみなかったり。
宜しければ、並べて読んでやってくださいませ。


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||70|| 特技は聞こえないフリです。(陽子vs祥瓊)

女子限定バトル。
あ、ギャグですので。


「陽子ぉ」

「………」

「ねえってば」

「…………」

「ちょっとくらい聞いてよ、主上!」

「………………」

 紺青の髪の少女が地団太を踏まんばかりに迫るのを、慶国の王は一顧だにせず黙々と筆を動かした。

 過去はともかく、現在の慶で王が臣下の奏上を無視することなどありえないのだが、かれこれ小半時近くこの攻防は続いており、その横では灰茶の髪の青年が先刻から懸命に笑いを噛み殺していた。

「ねえ陽子、お願い」

 女史である少女は、たとえふくれっつらであろうが泣き顔であろうが相手を魅了できるだけの美貌を持っている。

 だが、それで落ちない男はいない、と裏で囁かれる哀願の表情にも、翠の瞳は一切の妥協を示さなかった。

 彼女の美貌は見慣れているとか、自身も引けをとらないだけの容貌なのだとか、そういうことはこの際関係ない。

 ここで負けたらあとが悲惨だということがわかっているから、ただひたすら公務にのみ没頭しているわけである。

 そしてそれにくじけず食い下がる祥瓊に、陽子の補佐をしている楽俊が気の毒そうながらも笑いを隠せない顔で肩をすくめた。

「祥瓊、そろそろ諦めろ。折角の休みなのに、これで一日潰したら勿体ねえだろ」

「休みだからこそよ。こんなこと、仕事中にやるわけにいかないでしょう。それに、陽子がいますぐにうんと言ってくれれば一日なんて潰れないわ」

「言うんだったら最初っから言ってるって」

 腰に手をあてて憤然といいつのる祥瓊に、楽俊がますます笑ってしまう口元を隠す。

 他の官なら呆れる場面かもしれないが、陽子を含めお互い旧知の仲である。別段公務に障ることでもなし、それぞれの性根も性格も重々飲みこんでいるだけに、むきになっている二人がおかしくてしかたない。

「ちょっと、ほんのちょっとでいいのよ。ね?」

 拝み倒しにでた祥瓊に返ってきたのは、当初からまったく変わらない沈黙だった。

 ぴくりと上がる柳眉と、またもや噛み殺された苦笑。

 何度繰り返されたかわからない応酬に、さすがの祥瓊も声音を下げた。

「……ちょっとおめかしするのが、そんなにお嫌なのかしら?」

「祥瓊の『ちょっと』は、わたしの『ものすごく』に相当するんだ」

 祥瓊の一方的な懇願に初めて口を開いた陽子が、書面から目を離さずにぼそりと呟く。

「うっかり乗ったらとんでもないことになる」

「そんなことないわよ」

「ある」

 断言した陽子は、それでも目を上げない。

「このあいだなんて、根負けして了解したらそのまま昼頃から夜まで衣装部屋から出られなかった」

「祥瓊……」

 さすがにそれはひどいと楽俊にも溜息をつかれ、紫紺の瞳が慌ててあらぬかたを見た。

「あ、あら、一応夕餉前だったわよ」

「それだって充分夜だ」

 陽子がむっつりと言い、眉間に皺を寄せたまま次の書類をめくる。

「だって、もうじき冬至でしょう。その時のお衣装も選びたいし」

「式典の衣装は決まっているだろう。なにも選ぶ必要なんてないじゃないか」

「あら、お衣装も冠もいろいろあるもの。まして一枚や二枚じゃないのよ。その色を合わせて着丈をなおして。選ぶのは服だけじゃないわ。帯や簪や飾りもあるし、髪の結い方にお化粧だって考えなきゃ」

 熱を込めて指を折る少女の羅列に、力のこもった筆先が、紙面にべたりと直しようのない墨跡をつけた。

 一瞬うっと肩を強張らせた陽子に、楽俊が笑いを堪えながら新しい紙を差し出す。情けない顔でそれを受けとった陽子が溜息をついた。

「……毎回こんな調子なんだ」

「同情するよ」

 陽子と同じく着飾ることを好まない楽俊には、彼女の苦労がよくわかる。

 それにしても、老若男女を問わず誰もが憬れるであろう絹や錦の衣装をいやいや着ている王がいるだなどと、いったい誰が思うだろう。

「けど、衣装選びなんか女史の仕事じゃねえだろうに」

「こういうことに関して、祥瓊は氾王のお墨つきがあるから。わたしの着る物だけじゃなくて、ほかにもいろいろ相談がくるみたいだし」

 溜息混じりに筆を取りなおした陽子に、祥瓊が軽く口を尖らせた。

「それに、他の女官じゃ陽子を説き伏せられないもの。勅命に従わない者なんて、幾人もいませんからね」

「……自慢できることじゃないと思うけど」

 ねめあげる王に、祥瓊がつんと顎を上げる。

「必要なことをやろうとしているだけですのに、勅命を使って逃げようとする王がいらっしゃるんですもの」

 とりすました物言いに、だから、と陽子が口の端を下げた。

「儀式の衣装なんて型どおりで充分じゃないか。飾りや髪型も適当に考えておいてくれればいいから」

「考えるのと実際あわせてみるのでは全然違うのよ。だから前もって一度お衣装あわせをさせてって言うんじゃない。それに、日頃のちょっとした服だって」

「ほら、やっぱりそっちが目的なんじゃないか!」

 機に乗じて詰め寄った祥瓊に、とうとう陽子が筆を放り出した。

「そんなの、官服で充分だって言ってるじゃないか。やっと他の官にも納得させたところなのに、またあんなずるずるした格好させられるのは御免だ!」

「ずるずるしなければいいんでしょう。大丈夫、わたしに任せてくれれば、余計な物をぞろぞろつけなくても陽子の美貌をひきたてる着付けをしてあげるから」

「そんなものひきたてなくていいんだってば!」

「だってあんなにたくさんお衣装があるのに、もったいないわよ」

「それは祥瓊たちで使っていいから」

「あのねえ。お衣装にだって、位によってそれぞれ格ってものがあるの。女王や王后のお衣装にわたしたちが袖を通すなんてとんでもないわ。だったらあとは陽子しかいないじゃない!」

 握りこぶしで力説する女史に女王が頭を抱え、内豎の青年が声を殺して笑った。

「もう、勘弁してくれ……」

 ほとほと疲れ果てた態で、陽子が椅子の背によりかかる。

「聞いてるだけで百着くらい試着した気分になるよ」

「だから、最初からすんなり協力してくれれば……」

「試着するのは二百着になる」

 折角の猫なで声に陽子から絶妙のあげあしとりが入って、祥瓊の目が半眼になった。

「……あらそう。そこまでいやがるのなら、しょうがないわね」

 不穏極まりない声に、陽子がぴくりと目を上げる。それににやりと笑んで、祥瓊は軽く腕を組んだ。

「あーんなことやこーんなこと、みんな楽俊に喋るわよ」

「へ?」

 唐突に名を呼ばれて、楽俊が黒い目をまたたく。

 同じく目を見開いた陽子は、だがすぐに落ち着き払ってにこりと微笑んだ。

「いいよ。わたしは、楽俊に聞かれてやましいことなんかしていないもの」

 見栄でもそうは言えない台詞をさらりと返されて祥瓊が絶句し、楽俊は照れるでもなくくすりと笑った。

「……本当にいいわけ?」

「どうぞ」

「公式の場で癇癪起こしたとか、延王に暴言吐いたとかも?」

「泰麒救出の時のことか?」

「それなら延台輔から聞いたな。延王にあれだけ言えるとは、陽子もずいぶん王様らしくなったって誉めてたぞ」

 まったくこたえていなさげな陽子と既知の楽俊に、祥瓊の口元が引きつった。

「……下が気になるからって政務放り出して街に降りたとか、衆目も気にせず台輔と喧嘩したとか」

「今更だね」

「今更だな」

 声をそろえた二人が、顔を見合わせて笑う。

 いかにも睦まじい様子に、怒りの矛先は楽俊にまで波及した。

「ちょっと楽俊、あなたはどうなのよ。陽子に綺麗な格好をさせたいとは思わないわけ?」

 王にさえ手加減しない少女が、同僚相手に容赦するはずがない。噛みつかんばかりにつめよられて、楽俊がたじろいだ。

「いや、仕事のしやすい格好てのもあるだろうし、陽子がよけりゃあどっちでもいいんじゃないかと……」

「そうじゃないわよ! 華やかな女らしい格好の陽子を見たいか見たくないかって言ってるの!」

「祥瓊……」

 完全に頭に血が上っている少女に、追い詰められた楽俊とそれを脇で聞かされる羽目になった陽子がそろって天を仰ぎ、額を押さえて呻いた。

「わかったから楽俊まで巻き込むな。つきあえばいいんだろう、つきあえば」

 これ以上なにか言われてはたまらないと早々に立ちあがった陽子に、祥瓊がにっこりと笑った。

「まあ、やっと御理解下さいましたのね?」

「……作り笑いはやめろ、怖いから。それと、長くて二刻。それ以上は付き合わないから。いいね?」

「わかったわ」

 懸命に威厳を保とうと努力する王に、元公主の少女は婉然と微笑んだ。その変貌ぶりに溜息をつきながら、陽子が楽俊を振り返る。

「……どっちみちこれじゃ仕事にならないし、行って来ます」

「まあ頑張れ」

 苦笑と慰めのないまざった激励に疲れた頷きを返し、足取りの軽い祥瓊について堂室を出る陽子だった。

 

 

「女性というのは大変だね」

「浩瀚様」

 陽子たちと入れ替わりに入ってきた冢宰に、楽俊が振りかえる。どうやら通りすがりに話を聞いたようで、陽子同様疲れた顔を隠せない楽俊に、浩瀚が小さく笑う。

「主上は女性にしては珍しく飾るを好まない方だから、女官たちは腕の振るい甲斐がないと嘆いているよ」

「その筆頭が祥瓊ですか」

 話には聞いていたものの、聞くと見るとは大違いという奴で、実際目の当たりにすると陽子が気の毒なほどだ。

「なまじ飾り甲斐があるだけに、頓着しない主上が歯痒いらしい。ときどきこうやってひと騒ぎあるのだよ」

「はあ」

 なんとも言えず曖昧に頷くと、浩瀚が意味ありげに笑って楽俊を見た。

「それで、実のところ、楽俊はどうなのかな?」

「お聞きになってたんですか……」

 上これあれば下それに倣うと謂うとおり、金波宮もなかなかどうして侮れないようである。

 

 

 一方。

 下位の女官を指揮し嬉々として腕をふるう祥瓊に、抵抗を諦めた陽子がげんなりと肩を落した。

「どうでもいいけど、なんでそんなに着せ替えが好きかなあ」

「あら、好きじゃない陽子の方が変わってるのよ」

「さようで……」

 時間がもったいないということで、色合わせも髪形も同時にやってしまおうと熱意と気迫のこもった女性たちに囲まれて、それだけで窒息しそうな陽子である。

 袖をたくし上げ、やる気充分の祥瓊がうふふと含み笑った。

「……気持ち悪いよ、祥瓊」

 嫌な顔の王にかまわずいそいそと着物をあてがいながら、満面の笑みで陽子を見た。

「折れたのは、楽俊のためかしらねえ。それとも、返事を聞かないようにかしら?」

「……やめてもいいんだよ?」

「あらあ、ここまできて逃がすとでも思ってるの?」

 照れ隠しに仏頂面をしても、まったく意に介す様子はない。

「本当に、陽子は楽俊に弱いわよね。お互いさまなんでしょうけど」

「祥瓊」

「はいはい、まったく照れ屋さんねえ」

 押しの強い姉といいように遊ばれる妹、としか見えない主臣に、手伝う女官たちから忍び笑いがこぼれた。

 

 

初稿・2005.05.23

 




ほの甘(のつもり)楽陽ベースの陽子vs祥瓊でした。
考えてみれば、彼女は女史なんですよね。
身の回りのことは女御の鈴がやるべきなんだろうけど、どうもお衣装なんかは祥瓊がやってそうな気が・笑


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||71|| 恋愛を運命に求めるな。(楽俊&鳴賢)

ちょっとコメディに、外野から見た楽陽を。


 正月の長い休みを控え、大学内にめずらしくうわついた気配がながれている。

 帰省する者、しない者、家族と正月を迎える者、常と変わらず書物に埋もれる予定の者とさまざまだが、それでも緊張続きの学期内からすれば気分が違う。

 今年は帰る気のない鳴賢は、朋友の堂室を覗いてまたたいた。

「あれ、でかけるのか?」

 声をかけられた堂室の主が、長い尻尾をくるりと振ってこらこらなんだと叱る。

「扉くらい叩けよ。自分の堂室じゃねえんだから」

「悪い悪い、ついな」

 ついと言いながら、お互いそれほど気にしているわけではない。兄弟の堂室に邪魔する程度の気軽さで行き来しているのだから当然だろうが。

「今度は慶と、できれば巧の様子も見て来ようと思ってるけど、まわりきるかな」

 使うものだけ最低限を小さな行李に詰めている灰茶の後姿に、鳴賢は感心の溜息をついた。

「さすが文張、勉強熱心だなあ」

「そうじゃねえ。頼まれついでって奴だ」

 肩越しに振り返った楽俊が軽く尻尾を上げる。

「苦学生が、そんな優雅なご身分なもんかい。おいらがあっちこっち見歩きてえって性分なのを御存知の人が、ちいせえ用事なんかを頼んでくれなさるんだ。そのご厚意に甘えてるだけさ」

「にしたって、それだけの信頼を得てるってのは充分すごいと思うぞ」

「そんなんじゃねえんだけどなあ……」

 小柄なねずみの姿をした同輩は、謙遜するわけでなく尻尾を揺らしている。

 楽俊は世情を自分で見て歩くことが好きらしいが、鳴賢など机の上の勉強が精一杯で、頼まれても出歩く余裕などない。折角の正月休くらいのんびりしたいというのが正直なところだ。

 あれだけ勉強していながら、このうえよくもと思うけれど、そういうあたりでも視野の違いというのが出るのかもしれない。

 だいいち、故郷の巧で拾った海客をはるばる雁まで案内してくるくらいだから、元々行動力はあるのだろう。

「そういや、あの子には会うのか? 彼女慶にいるんだろ」

「陽子か? まあ、顔見られればいいなあとは思ってるんだが、どうかなあ」

 小首を傾げる楽俊に、鳴賢の方が呆れてしまう。

「折角慶に行くのに、彼女に会わないのかよ」

「そんなんじゃねって……お互い予定があわねえことにはしょうがねえだろ」

 そんなんじゃないと言うわりに尻尾はひよひよと動いているのだが、このさいそれには触れないでおいてやる。

 聞かなくても充分わかっていることだ。

「友達でもなんでもいいけどさ、雁と慶じゃそうそう会えないじゃないか。いい機会なんだし、会いに行ってやれよ」

「そうは言ったって、あいつも忙しいだろうし」

「忙しいって、彼女働いてるのか?」

 思いもよらない言葉に目を丸くすると、楽俊は耳の後ろをちょっとかいた。

「慶に行くのに連絡もしなかったら怒られるぞ」

「あいつは怒りゃしねえと思うけど……」

 まあなあ、とか考えあぐねるふうの友人を見て、鳴賢はほとほと呆れ果てた。

「……おまえ、俺が言わなきゃ本当に顔出さなかったろ」

「いやそんなことはねえけども」

 口篭もった楽俊が、まあ都合ってもんがあるんだ、と笑ってごまかす。それに肩をすくめ、溜息をついた。

「それにしても、あの子海客なんだろ? 文張と雁に来たのに、なんで慶にいるんだ? 一緒にこっちにいればよかったのに」

 なにげない質問だったのだが、楽俊は困ったように髯をそよがせた。

「仕事のつてが向こうにできたんでな。それに、おいらは大学に入ることになったし」

 ふうん、と言ったものの、考えれば考えるほどこの二人には奇妙な点がある。だがまあ、話したがることでもなさそうだし、あまり首を突っ込むのも野暮というものだろう。

「海客かあ」

 最近ではすっかり来客用の椅子になっている踏み台に腰を下ろしながら呟くと、楽俊はきょとんと振り返った。

「なんだ?」

 黒い目と灰茶の毛皮の小柄な友は、年廻りから言えば鳴賢の弟のようなものだ。兄より賢くて気立てもいいが、まあそんな兄弟はどこにでもいるだろう。

 世慣れていないせいか、すれたところがなくてひとあたりもいい。まして鼠姿のときは十やそこらの子供のようで、頭のひとつも撫で回してかまいたくなる。本人には失礼な話だ。

 そんなことを考えながら、膝の上に頬杖を突いた。

「つまりさ。彼女は触で向こうから流されてきたわけだろ?」

「そりゃそうだが……」

 鳴賢の言いたいことを察せない楽俊が、なにを今更と首を傾げる。

「てことは、触がなけりゃおまえら一生会うことはなかったってことだ。これってものすごい確率じゃないか?」

 黒い目をしばたたく楽俊に、鳴賢はにやりと笑った。

「これぞ運命、ってやつだな」

「よせやい、柄じゃねえや」

 顔をしかめてはみせたものの、照れ隠しなのか慌てているのか、うしろでにぎやかに動くものがある。

「文張、尻尾」

 こういうところに否応なく心情が出てしまうあたり、嘘のつけない素直さが彼らしい。

 にやにやと指摘されて本気の渋面になった楽俊が、鳴賢を横目で睨みながら自分の尻尾を撫でつけた。

「だからいつも人の格好でいろって言うのに」

「鳴賢がしょうのねえことを言わなけりゃいいんだろ」

 拗ねたように背を向けて荷造りの続きをする楽俊の背中あたりで、灰茶の長い尻尾がゆらゆらと揺れる。

 あれで遊んだら面白いだろうなと思っても、口には出せないことである。もし楽俊が本当の弟だったら、きっと恰好の玩具になっていただろうが。

 まあ、人の姿を取ったところで、照れ屋の彼ならすぐ顔に出るから同じことだろう。

 そっちも見てみたかったな、などと考えるから、品の悪い笑いは止まらない。

「あーあ、運命の出会いなんてもの、してみたいよなあ」

「だからそんなんじゃねえって」

「なんだよ、虚海の向こうとこっちの人間が会うこと自体、充分運命的じゃないか」

 わざと知らぬふりをして言ってやれば、振りかえった顔は実に見ものだった。

「なーにを、考えてたのかな? 文張君」

「……言ってろ!」

 すっかり機嫌の悪くなった返事に、鳴賢は遠慮なく腹を抱えて笑った。

 

 

初稿・2005.05.26




同世代の友人などなかっただろう楽俊ですが、大学に行って鳴賢と知り合ったあとは年相応のやりとりなんかもあるんじゃないかと。
だって、ほぼ最初の友人が鳴賢じゃあねえ・笑
(あんた鳴賢にどんな印象を……)


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||72|| 目を閉じてるのは自分だけ?(陽子・楽俊)

黄昏幕間。

※ここからいくつか、アニメ設定です。
・楽俊は慶の大学に留学中。
・あわせて、バイトと実務をかねて金波宮に内豎として出仕。
・あくまで身分は学生なので昇仙はしていない。

というアニメ独自の設定を拝借しております。
原作至上主義の方はご理解のうえご覧ください。



 黄昏を終えた昏い堂室の中、控えめな香りと茶器の微かな音に、陽子は抱えた膝に埋めていた顔をそろりと上げた。

 覗えば、僅か困ったような笑みを浮かべた青年が、脇の卓子に餡菓子の乗った小さな皿を置くところだった。

「楽俊……」

 名を呼んだものの次が続かない陽子に、楽俊がそっと笑った。

「まあ、茶でも飲んだらどうだ」

「……うん」

 手に取った茶器は指先にほんのりと温かく、口にすれば身体の奥まで柔らかい香りとほどよい熱が伝わっていく。

 同じように促がされた菓子は、しっとりした甘味が舌に沁みた。

 息を吐いて、ようやく強張っていた身体から力が抜ける。同時に、身内の荒れた波が引いて行くのがわかった。

 楽俊は急かすでもなく、榻に座る陽子の足元に黙って腰を下ろした。

 陽子がなにかを悩んでいるとき、彼はそうやってただじっと待っている。

 隣に座るのでも前に立つでもないその姿勢が、まるで自分で歩もうとする幼子を見守る親のようだと気づいたのは、いつだったろう。

 間違っているときは諄々(じゅんじゅん)と諭し、辛いときは慰めてくれるけれど、自分で答えを出さなければならない時には口を挟まない。そのかわり、いつでも手の届くところで待っていてくれるのだ。

 きっと誰かに話を聞いているだろうに、静かな目には責めるふうも呆れる色もない。

 思えば、故国でそんなふうに陽子を見てくれた人はいなかった。しいて言えば祖父母がそうだったのかもしれないが、幼い頃のあやふやな記憶に呑まれてさだかではない。父や母にはそれすらもなかった。

 荒れ狂った感情が鎮まれば、自分の内面はおのずと露わになる。

 それを切り開くのでも掘り起こすのでもなく、ひとつひとつゆっくりと見て廻り考えるのを、静かな時間が助けてくれた。

 どうすればいい、と聞くことは容易いが、彼はそれを許してはくれないだろう。

 悩むことも仕事のひとつ。自分で考えて出した答えでなければ意味がないのだから。

 それでもまとまらなければ声に出してみろ、と楽俊は言う。

 頭のなかだけでおさまらないなら、思いついた事柄を誰かに聞いてもらえ。そうすることで気がつくこともあるし、溜めこむ一方よりはましだから、と。

 だから、陽子はぽつりぽつりと口を開く。

 李斎のこと。載のこと。

 覿面の罪というものがあるということ。

 それによって李斎の望む救援が阻まれること。

 延王や皆の意見、自分の気持ち。

「わたしは、国境はあっても覿面の罪なんていうものはない世界で育ったから、他国に構わない、構えないということが納得できないんだ。たしかに、いまの慶に何ができるわけでもないかもしれない。だけど、いまここで助けを求めている者を見捨てることは、わたしにはできない。したくない」

 片腕を失い、酷い有様で転がり込んできた女。

 仮にも将軍であったのだから、先触れも許可もなく他国の禁門に踏みこむことがどういうことか、知らぬはずもない。

 そうと知りながらなお禁を犯し、血にまみれた身体ですがる者を無碍にすることなど、陽子にはできなかった。

 かつて、人に追われ、妖魔に狙われた自分。

 休む場所も食べるものも、眠ることすらままならなかった日々がある。

 何故と嘆き、どうしてと恨む彷徨のなかで、陽子は一度死にかけた。

 その辛さを同じように辿っている者があると知って見ぬ振りをすることは、過去の己を見殺しにするようなものだ。

「わたしは楽俊に救われた。なのに、わたしが李斎を助けてはいけないという。わたしが王だから? わたしがただの慶の民だったらできて、王だと駄目なのか? 王は民を守るもので、民を見捨てるものじゃないだろう。救いを求める者が自分の国の民ではないから放っておけだなんて、そんなの正しいとは思えない!」

 あの恐怖。

 あの絶望。

 指先から凍えていく血の気配に、自分は死ぬんだと思った。

 雨よりも自分の身体が冷たくなるのを、ただぼんやりと空虚な頭で認識して、こんな死にかたならそれほど悪くないと何もかもを投げ出した。

 助かったあとにそれを思い起こして、異様なまでの恐怖に襲われた。

 死ぬのは怖い。

 そんなものは、仙でもただの民でもかわりはしない。

 自分の味わった絶望にいま幾万の人々がおなじに怯えていると知って、平静でいられなかった。

 わななく両手で、まとめられた髪を掻き毟る。その手首を、温かい掌がひきはがした。

「陽子」

 乱れ落ちた髪の隙間から、夜の色の目がまっすぐに陽子を見ている。

「陽子が納得できねえのは無理もないと思うけど、こっちにはこっちの理屈がある。それは陽子にだってわかるだろ」

「……うん」

「天があって、天の定めた法がある。ここで生きる限り、たとえ王でも仙でも破ってはならないきまりだ。それを踏み越えれば、遵帝のように罰を受ける。どんなに不条理に見えても、それが天の理なんだ」

 落ちついた声音に、だけど、と唇を噛んだ。

「……わたしは、李斎を助けたいと思った。命がけで頼ってきた者を振り払うようなことはしたくないし、彼女の辛苦を知って放っては置けない。だけど、わたしがそれをすれば条理に触れて、罰はわたしだけじゃなく景麒や、引いては慶の民にまで及ぶ。それはわかってる。でも……!」

 慶の王であるなら、関わってはならない。

 けれど、個人としての自分がそれを是としないから、理性と感情が頭のなかで嵐のようにせめぎあって吐き気がする。

「陽子」

 ぐらりとかしいだ頭が、すんでのところで抱きとめられた。

 きつく目を瞑って、支えてくれた肩に額を押し付ける。それを拒絶せず、乱れた髪から紐を梳き頭を撫でてくれる手の温かさに、波は次第に収まっていった。

「---落ちついたか?」

 低い声にこくりと頷くと、楽俊はちいさく笑った。

「あんまり自分を追い詰めすぎるな。なにもかもを手にいれることはできねえけど、全部を諦めちまうのも気が早すぎるだろ」

「楽俊……」

「まだ全部が駄目って決まったわけじゃねえ。王師を派遣するのが無理なら、他の方法を探してみろ。目の前にある壁がどんなに高くてどんなに厚くても、地の果てまで続いてるとはかぎらねえんじゃねえか?」

 うん、と応えてようよう顔を上げる。 

「ほら、ちゃんと髪直して。美人が台無しだぞ」

「またそういってからかう……」

 聞き慣れない賛辞は照れくさいからふくれてごまかし、受け取った紐で手早く髪を結わえた。

 きっちりと髪を束ねるのは、はきと顔を上げて歩むことに似ている。

 ぴしりと背中が伸びるのを感じて、陽子は立ちあがった。

「李斎のところに行ってくる。まだなにができるかわからないけど、少しでも力づけたいし、彼女と話してみたい」

「そうか」

 頷いて同じように立ちあがった楽俊に、陽子は改めて向き直った。

「ありがとう。わたし、楽俊に面倒ばかりかけてるね」

 見上げた黒い目が、すこしくすぐったそうに笑う。

「なに、好きでやってることだ。それに、おいらがおせっかいなだけかもしれねえぞ」

「だったら、わたしはおせっかいなほうがいいな」

「そいつはよかった」

 顔を見合わせてくすりと笑い、陽子はよしとひとつ気合を入れた。

「じゃあ行ってくる。……みんなには、まだ内緒にしてくれるかな?」

「ああ、わかってる」

 笑った楽俊が、陽子の前髪をくしゃりと撫でた。

「いくら悩んだっていいんだ。悩んで悩んで、そのうえで出した答えなら、きっと間違っちゃいねえさ」

「……うん。ありがとう」

 行って来い、という声に背中をおされて、陽子は軽く駆けるように堂室を出た。

 信じてくれる人がいること。

 支えてくれる手があること。

 それを忘れないでいれば、進みつづけるのもそう辛くはないと思えた。

 

 

初稿・2005.06.01




やっちまいました。アニメ設定で「黄昏」幕間です。
うう、楽陽にならんかった・笑
実際やるとしたら、楽俊のポジションてどうなるんだろー。
役職上、官との協議の場には顔出せないだろうし。

まったく関係ないですが、アニメで維竜出撃直前の「新しい慶王がどんだけ美人かいいふらしてくる」という台詞が結構気に入っていたり・笑
原作の楽俊なら絶対言わないでしょうけどね。(絶対と言いきれる自分がちょっと悲しい)
顔の美醜なんざ気にするような人じゃないですし。
あー、黄昏と図南、アニメ化してくんないかな。


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||73|| 僕を見逃す番人になって。(楽俊)

楽俊独白。
アニメ設定継続中。

※アニメ設定とは。
・楽俊は慶の大学に留学中。
・あわせて、バイトと実務をかねて金波宮に内豎(ないじゅ・女史の男性版)として出仕。
・あくまで身分は学生なので昇仙はしていない。

というアニメ版独自の設定を拝借しております。
原作至上主義の方はご理解のうえご覧ください。


 

 雲海の上は、下界に比べ季節に天候が左右されることが少ない。

 年季が入ってはいるが簡素な牀に腰掛けながら、楽俊は窓の外を眺めた。

 野趣と雑然の境目程度に整えられた園林は、この邸宅の主の手によるものだ。

 宮廷生活の長かった女史からすると「もうちょっと趣が欲しい」らしいが、楽俊にしてみればこれくらいが丁度いい気がする。

 もっとも、貧しい巧の片田舎で育った自分に、趣とやらの何がわかるわけでもないが。

 夜目にもあえかに開く白の芍薬が、月光を浴びて薄ぼんやりと明かりを灯したように見える。燐光を放つ、蒼い蛍にも。

 比喩でなく雲上の光景に、我知らず苦笑がこぼれた。

 本来なら、こんなところに縁があるような身分ではないのだ。

 十二国東端、慶国の要である金波宮。

 留学というかたちで雁大学から慶大学に転籍して数ヶ月。誰の案によるものやら、現在研修を兼ね楽俊は内豎として景王の執務を補佐している。

「大学生も実務の経験があったほうが後々のためになる」とは冢宰が言ったのだったか、それとも太師であったか。

 いずれにせよ筋は通っているが、仮にも天官の職であるだけに最初は躊躇があった。

 転籍しているとはいえもとは他国の大学の、しかも生まれは更に違う国の半獣である。そんな者が王の傍に仕えるなど、どこの国にも前例はあるまい。

 天官、それも内豎と言えば王の近侍も同然で、公に顔を出さないぶんだけ私事の色が強い。さすがに口には出さなかったが、同性である女史ならばともかく、公的身分を持たぬ男が女王の膝元に侍るのはきこえが悪いのではと思ったのも事実である。

 だが、わずか眉をひそめた楽俊の向かいで、話をもちかけた冢宰はいかにも鷹揚な顔でにこりと笑ったものだった。

「邪推する者もあるだろうが、その程度は国官として着任しても同じだと思うのでね。まあ予行練習くらいの気持ちでやってみてはくれまいかな」

「浩瀚様……」

 苦言の種がありすぎてどこからなにを言っていいのか詰まってしまった楽俊に、浩瀚が苦笑する。

「正直、手がたらなすぎるのだよ。まして主上を任せられるほど信頼がおけて、尚且つ執務の手伝いができる者など皆無に等しい。今は祥瓊が女史をつとめてくれているが、彼女ひとりではいかにしても手に余ろう。どうかな」

 不愉快な思いをするかもしれないが、とは、浩瀚は言わなかった。

 無論、そんなものを気にかける楽俊でもない。

 案じていたのは王である少女へ非難が向けられることだけだったが、百官をまとめる者達がそれと承知の上でおこなうことなら、いまさら否やはない。

「---若輩、非才の身ではございますが、わたしでお役に立てるのでしたら喜んで拝命致したく存じます」

 深く一礼した楽俊に、浩瀚が安堵の顔で頷いた。

「いや、こちらこそ無理を言って申し訳ない。人手不足もさることながら、主上にはすこしでもよい環境で政務にあたっていただきたいのでね」

 なにしろ、と端正な顔にちらりと悪戯な笑みが浮かぶ。

「慶国には王に慈悲をかける者がいないものだから」

 目を丸くした青年に、男がくつくつと笑った。

「主上はこちらを御存知ないゆえ、皆が己に教師役を任じているのはよいのだが、そのためか宰輔を筆頭にとかく厳しく接する癖がついているらしい。時折桓魋が鬱憤晴らしに剣の相手をさせられると嘆いているのだよ」

 どこの女王にも聞かれない評判に、楽俊はただ苦笑するしかない。

「つまり、わたしは景王の宥め役ということですか」

「仲介役、といってもいいだろうね」

 しれっと返され先行きに暗雲を見た気分になったが、いまさらあとには引けまい。むしろ、昇仙こそしていないとはいえ、正式に陽子の手伝いができるのなら願ってもないことだった。

 あとから事の次第を聞かされた陽子はもちろん、彼女を取り巻く友人たちもこの人事を飛び上がって喜んだ。

 なかでも、祥瓊の喜びようは楽俊どころか陽子までもを引かせるに充分だった。

「楽俊がいてくれれば、わたしの負担も大幅に減るってものだわ!」

「陽子もあなたの言うことならおとなしく聞くでしょうしね」

 握りこぶしで目を輝かせる祥瓊の横で、鈴がおとなしやかに笑いながらひどいことを言う。

 さんざんな言われように眉間にしわを刻んだ陽子と彼女たちの応酬から危うく逃げだした楽俊に、同じ半獣の青年が気の毒そうな目を向けた。

「考え直すなら今のうち、と言いたいところだが、話を持っていったのが浩瀚様じゃあなあ。まあ俺としてもお前が来てくれるのはありがたいからな。せいぜい頑張ろうや」

 そのほか各所でこもごもな反応はあったものの、万事はいまのところ滞りなく流れている。冢宰と太師のお声がかりというだけでなく、祥瓊の前例も有効だったのだろう。またあくまでも正寝に限って動くこともあって、限られた官以外には顔を合わせることもない。よしあしは別として、軋轢がないに越したことはないはずだ。

 騒がせたくないのだ。本当は。

 毅然と顔を上げて王道を進む彼女の妨げになるようなことはしたくない。

 その反面、どれほどわずかでも力になりたいとも思う。

 傲慢な、とひとり嗤った。

 一国の主である彼女だ。国に屈指の優秀な人材を何人でも傍に召し上げることができる。たかが一介の大学生のちからなど、なにほどのものだというのだろう。

 それでもと望み、望まれることは、きっと生涯ただひとつの僥倖なのだと胸に刻む。

 この感情がなんなのか、明確な答えは出ていない。

 否、おそらく答えはもうそこにある。

 ただそれを直視するのが怖くて、自分で目をそらしているだけなのだろう。

 けれど、そんなものはどうでもいい。

 

 ただ彼女が笑ってさえいてくれれば。

 

 辛い道をたどってきた彼女が、この先も果てなく続く隘路(あいろ)に負けず歩いていけるなら。

 

 そのためになら、どんなことでもしようと誓った。

 

 

 

 たとえ、なにを失うことになっても。

 

 

 

 

初稿・2005.06.19




うちの楽陽は、なんだか楽俊視点が基本な気がします。
陽子ちゃんは王様業に必死なうえ、なにごとにも直進型だからでしょうか。
逆・内助の巧?・笑


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||74|| 想いに殉じる覚悟はある。(1)(捏造版・天官の乱)

「黄昏~」における天官の反逆時に楽俊がいたら、という捏造ネタです。

アニメ設定継続中。

※アニメ設定とは。
・楽俊は慶の大学に留学中。
・あわせて、バイトと実務をかねて金波宮に内豎(ないじゅ・女史の男性版)として出仕。
・あくまで身分は学生なので昇仙はしていない。

というアニメ版独自の設定を拝借しております。
原作至上主義の方はご理解のうえご覧ください。


「ああ、やっと肩の荷が下りた」

 太師である遠甫宅の(ひろま)、大仰に肩を叩く祥瓊に、鈴があらまあと笑った。

「久々に腕をふるえるって喜んでた人の台詞じゃないわよ」

「喜んでいたわけじゃないわ、これも外交。慶の面目のかかっている大事な仕事だもの、手を抜くような真似なんてできないでしょ」

「あらそお?」

 揶揄するような合いの手に、からかわれた祥瓊がちょっと唇を尖らせる。

「もう。鈴は範の方々がどんなだか知らないから」

「いろいろがすごいって話だけは聞いたけど」

「すごいなんてものじゃなかったわ」

 柳眉を寄せた祥瓊に真正面から迫られた鈴は一瞬息をのみ、ついで吹き出した。

「それは、おつかれさまでした」

「……まあ、鈴も李斎様の看病があったんだものね」

 軽く息をついて椅子に背を預けた祥瓊が、腕を伸ばして身体をほぐす。

「ああ、本当にいろいろあったわ。こんな大騒動、和州の乱以来じゃないかしら」

「そのときの主犯格が、今度はふりまわされたわけね。因果は巡る糸車」

「鈴だって御同様でしょ」

 しようのない応酬に笑いあっていると、扉が軽く叩かれた。

 どうぞ、と応える声が重なって、またふたりで笑う。共有の場所である堂にはいるのにわざわざ叩扉するような律儀者は、彼女達の知る限りひとりしかいない。

「おつかれさま、楽俊。陽子の方はいいの?」

 労う祥瓊に、椅子に腰を下ろしながら楽俊が首肯する。

「ああ。仕事の区切りがついたから、泰台輔のところに行ってみるってさ」

 お茶を差し出した鈴がくすりと笑った。

「目を醒まされてなによりだわ。台輔が朝議を投げ出してすっとんでいったそうじゃない」

「あの景麒が?」

 四角四面の仏頂面、と陽子が公言してはばからない慶の麒麟が朝議を中座するなど、前代未聞の椿事である。祥瓊の疑念は無理もない。

「陽子が行ってこいって尻叩いたんだと。台輔もずいぶん御心配なさってたし、なによりここで泰台輔に一番御縁があるのは景麒だからな」

「そうね」

 頷きながら、祥瓊は昏々(こんこん)と眠る少年の顔を思い出した。

 酷くやつれ、顔色も悪かった。

 目を醒ましたからとて、これですべてが片付いたわけではない。むしろこれからが正念場といえるが、それでも命あってこちらに戻ってこられただけでもよしとするべきなのだろうか。

 先のこともいろいろと気にはなるものの、難事を極めた捜索を終え手を貸してくれた王たちも帰還して、まずは安堵の息をつく。

 思えば、こんなふうに仲間達が顔を合わせるのも久しぶりだった。

「祥瓊! あ、楽俊もいた」

 勢いよく堂に飛びこんできた(いとけな)い声に、楽俊が笑う。

「なんだ桂桂、おまえも一休みか」

 金波宮唯一の子供である桂桂は、身近なおとなたちに可愛がられまた皆によく懐いてもいるが、ことに楽俊について歩くことが多い。

 より近しい年回りの夕暉が暁天の少学に行ってしまっているから、今は楽俊が一番年の近い兄になるわけだ。そうでなくても面倒見のいい楽俊のこと、桂桂が慕うのも当然だろう。

 椅子を引いて手招いた楽俊のところに、まっすぐ駆け寄った。

「飛燕の世話が終わったところ。ねえ、楽俊」

 利発そうな子供の顔が幾分曇る。

 曇るというよりは、年にあわぬ難しいことを懸命に思案するように、きゅうと眉が寄った。

「西園て、外宮なんだよね?」

 突飛な問いに、傍に膝をついた楽俊がその顔を覗き込んだ。

「ああ、そうだ。けど、なんでいきなり西園なんだ?」

「ええと……普通の官の人は外宮までで、内宮には入って来られないんでしょう。じゃあ内宮の人は……天官はっていうことだけど、外宮に行く用事なんてあるの?」

「天官?」

 祥瓊が怪訝そうに子供を見やる。こくりと頷いた桂桂の肩を、楽俊が両手で引き寄せた。

「桂桂、何を見た」

「ちょっと、楽俊」

 鈴が制止したが、楽俊は振り向きもしない。

「西園に、誰かが行ったのか?」

 聞いたこともないほど真剣な声に、同じ顔で桂桂が先刻より強く頷く。

「内宰のかただよ。ぼくはあんまりお会いしてないけど、遠甫のところにいらしたことがあるから、お顔を知ってる。淹久閣のほうに向かってたと思う」

「他には。何人いた」

「十人くらい。だから変だと思って祥瓊に聞きにきたの。それと」

 子供の瞳に緊張が浮かぶ。

「違うかもしれないけど---剣を持ってるみたいだった」

 淹久閣は掌客殿のひとつ、さきに範主従が逗留していた場所で、泰麒が帰還してからは彼に譲られている。

 そして、いまは陽子が(おと)なっているはずだ。

 慶国の天官である内宰が他国の麒麟に用のあるはずはなく、またたとえあろうとも十人からの数で、あまつさえ帯剣してまみえるなど、万にひとつもありえない。

 あってはならない。

 だとすれば、目的はひとつ。

「よく知らせてくれた、桂桂」

 小さな肩を叩いて、楽俊が立ちあがる。

「祥瓊、浩瀚様と桓魋に知らせてくれ、至急だ!」

「わかった!」

 緊迫した祥瓊の返事を背に、楽俊は扉を突き倒すような勢いで堂を飛び出していく。同じように血相を変えた祥瓊も、ひるがえる裾に構わず駆け出した。

「鈴」

 顔を強張らせた桂桂がすがるように見上げるのを、鈴はしっかりと抱き寄せる。

「大丈夫、馬鹿な人達の好きなようにはさせないわ。絶対に」

 燃えるような大きな瞳で中空を睨み、さあと子供を促がした。

「急いで遠甫に知らせないと。台輔にも」

「うん!」

 

 

初稿・2005.07.11




てなわけで(え)続きものになりました。
長くなりそうだったので。ごめんなさい。
いやもう、全然まとまらなくてこの体たらく。
前振りゼロでやろうとするから大変なのだよ、とかねー。
初稿ではお題73でネタ振っとくはずだったのを忘れたんですが、改稿にあたりほんのすこしだけ足してみました。(73で言いなさいよ)



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