灰色の空に浮かぶ流星 (しう)
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灰色の空に浮かぶ流星
灰色の空へと並び立つビル群を縫って、事務所へと向かう。
設立からしばらくが経って仕事の規模も随分と大きくなったのに、社長さんもプロデューサーもこの事務所を移し替える気はないらしい。通い慣れた道、通い慣れた廊下、通い慣れた階段、代わり映えのない風景だ。
「樋口じゃん。やっほ」
事務所の奥には、ソファの上で仰向けに寝転ぶ透の姿があった。肘掛けの上に足を乗せてくつろぐその姿は、とてもアイドルのそれとは思えない。自堕落という言葉を絵に書いたような姿だ。
数年前、ごくごく狭い業界の片隅をほんの少しだけ騒がせたカリスマアイドルの、成れの果てだった。
*
かつて、ノクチルという名のアイドルユニットがあった。
というのは、嘘だ。ノクチルは未だに人知れず、ひっそりと活動を続けている。ただしその活動の実態を知るものは、今やどこにもいなくなった。
283プロダクション。数多くのアイドルを輩出した、今や知らぬ者のいない大手芸能事務所。ノクチルはその事務所で結成されたアイドルユニットの一つだ。
結成当時はまだ曲りなりにも人気はあった。満員御礼、とまでは言わないが、継続的にライブやイベントを開けるだけの余力はあった。将来有望な注目株の一つとして名を知られてもいたとも思う。
その全ては過去形だ。
要は、私達はプロとして通用する器ではなかった、ということなのだろう。『ごっこ遊び』などと揶揄されながら続けた活動の先に待ち受けていたのは、凋落という現実だった。羅針盤も持たずに海へ漕ぎだしたところでどこへ辿り着くことも出来やしない。そういうことだ。
もしもあの時、ノクチルを注目株たらしめるだけの理由があったのだとすれば、それはただ一つ、透の存在に他ならないだろう。
ノクチルには天才なんて誰一人いなかったけれど、それでもたった一人、透にだけはカリスマとしか呼べないような、絶対的な魅力があった。
仮にノクチルの凋落が必然的なものだったのだとしても、透だけは『本物』であったと、今でも私はそう信じている。
透の隣から見上げる空はいつも満点の星空みたいに輝いて見えた。私達は皆夜空に浮かぶ北極星を目指すみたいに、透の持つ輝きに惹かれ続けていた。
繰り返そう、その全ては過去形だ。
結局の所、私達も透も特別な何かになんてなれず、無為に時間を浪費するだけの、何者でもない只人に成り下がった。
かつてカリスマと持て囃された透は落単と留年を繰り返す典型的な大学生となり、私も隣で似たような生活を送り続けている。小糸だけは順調に進級を重ねてはいるようだけれど、しかしその事実が、一体どれだけの慰めになるのだろう。
ノクチルという名の船は、既に穴の開いた泥船に成り果てた。
あの頃の私達には、夢と呼べるような明確な将来像があった訳ではないけれど、それでも未来へと抱いていた希望のような道筋は、たった一夜にして全てが閉ざされてしまった。
あの日からずっと、私が見上げる空は、灰色のままだ。
*
「子供の遊びじゃないんだからさ」
と、壮年の男性が言った。
彼はとあるレコード会社の重役で、283プロの取引相手に当たる人物だった。
「僕たちは商売でアイドルを取り扱っているんだよ。需要のあるところに高い品質の商品を提供する。それが仕事っていうものだ。品質の担保されない商品は到底出荷なんて出来っこなない。ねぇ、僕の言ってることは間違っているかな?」
均整な話し方だ、と思った。隙間なく城壁を積み上げるかのような、冷たく乾いた話し方。私の良く知る男性とは、まるで逆の話し方だ。
「この契約は打ち切りだ。扱える楽曲はゼロ。皆無。分かるよね?」
懇意にしていたレコード会社へ、契約の更新へ行った際の出来事だった。
私達の前でそう捲し立てる男性は、以前に契約を結んだ時とは違う人物だ。その人物は既に辞職していて、彼の役職を引き継いだのがこの男性なのだと聞く。
ノクチルを殺した出来事は、言ってしまえばそれだけだ。
登場人物の配役が入れ替わった。それだけで私達は、完膚なきまでに未来を閉ざされた。
*
「あー、今日テストだったっけ? ウケる」
「ウケてるじゃないでしょ」
「……ヤバい?」
「ヤバい」
日が暮れるまで、透と他愛もないことを駄弁った。
大半が毒にも薬にもならないようなとりとめのない話だ。デビューしてから何年も経つというのに、話の内容は昔と何も変わっていなくて、何だか懐かしくすら感じる。
あるいはそれは、昔から何一つ成長していないということなのかもしれないが。
アイドルにとっての停滞は劣化と同義。止まったままの懐中時計は静かに埃を被っていく。再び針が動き出すまで誰も見向きをしてはくれない。
事務所の中は、大手芸能事務所の一角とは思えないほど閑散としていて、なんだか現実の光景じゃないかのように感じる。事務所唯一のプロデューサーは、連日営業にでも行っているのだろう、ここ最近はとんと顔を見かけない。……今更彼に合わせる顔なんて、あるわけもないが。
「飲み行かない?」
午後六時を少し回った頃、透がそう言って、私達は事務所の裏手にある安居酒屋へと向かった。透と事務所帰りに飲む時はここと相場が決まっていて、あんまり頻繁に通い詰めるものだから、今では注文を頼む前にカクテルが二杯運ばれてくるほどだ。畳の上に座布団を敷いただけの簡素な席だけれど、その安っぽさも今では気に入っている。
「樋口はさ」
テーブルに並べられたお通しをつまみながら、透はそう切り出した。
「レッスン、まだ続けてるんだ?」
「まぁ、時間だけは売れるほどあるし」
「じゃ、誰かに売っちゃえば?」
「誰に?」
「誰だろ。プロデューサーとか?」
「あの人が売りたいのは、多分、私達の方だと思うけれど」
「え、そうなの。初耳」
「聞かなくても察しは付くでしょ」
グラスを揺らしながら、私はそう答える。濁った液体が、ガラスの中で染みるように溶け合っていく。
ああきっと、この期に及んでも、あの人は私達に期待をしている。例の一件の時も、契約相手を最後まで説得しようとしていたのは彼だった。きっと終わりを迎えるその時まで、あるいは致命的な破滅を迎えた後だろうが、彼が私達を見限ることはないのだろう。
でも私にとって、その期待は重荷だった。
何者でもない私には、その期待に応えるだけの覚悟なんて持ち合わせてはいなかった。言い訳を重ねるようにレッスンを続けているのもそのためだ。期待に応えようとしているためのポージング、体の良い逃げ口上だ。
今も昔も変わらず私は、あの人のズルさに縋って生きている。
「それに、浅倉も」
「ん?」
「レッスン、続けてるんでしょ」
浅倉が、大学に行く時間を削ってまでレッスンを重ねていることを、私は知っている。家に帰る気力もなくて、事務所を休憩室代わりに使っていることも。
「あんな頑張れるなんて、知らなかった」
「……あー、そんなんじゃないんだけどさ」
果汁の残滓を求めるみたいに、カクテルを口に運びながら、透は言う。
「なんかさ、不安なんだ。身体動かしてないと、本当にアイドルじゃなくなっちゃうみたいで」
「それ、まだアイドルとしての自覚があるってことでしょ。そう思えるだけ十分、すごいと思う」
私がそう言うと、透はほんの少しだけ目を細めてから頬杖を付いた。
「……多分さ、私は樋口が思ってるより、ずっと普通の人だよ」
そう呟く透の姿は、やっぱり私にとっては、世界で一番特別な人の姿だった。
*
「ヤバ。吐きそう」
「……浅倉、飲み過ぎ」
時刻は午前〇時を回った頃だった。
あれから私達は、酔いに任せいくつもの店を梯子し、気付けばすっかり夜の帳も落ち始め――
「ぷろでゅーさーの、ばかやろー!」
「みすたー・すかぽんたん! おたんこなす!」
「あいどるなんて、くそくらえー!」
「げらげらげら!」
――お互いすっかりぐでんぐでんに出来上がってしまっていた。
駅まで歩く気力も残っていなかった私達が、千鳥もかくやの変足歩行でどうにか事務所に着いたのは、すっかり日付も変わった頃だった。
「ふふ、終電ないわ」
「……最悪」
月の見えない夜、星明りだけではろくに影も見えない。
常闇の中を手探りに進み、事務所の扉に手をかけた、その時だった。
「透に……円香!? どうしたんだこんな時間に!?」
背後から、聞き慣れた声が鳴り響いた。
私達の姿を認めた彼は、濃厚なアルコールの匂いに気付いたのか、酷く顔を顰める。
「二人とも……飲むなとは言わないが、ほどほどにな? 二人は、ほら、アイドルなんだから」
「アイドル、ですか」
「? 二人とも、283プロが誇る立派なアイドルだろう?」
「そうですか。そうですね。……」
「……まぁ、立ち話もなんだ。それに、実は、二人に伝えたいこともあるんだ。とりあえず、中に入ろう」
彼に釣られ、一歩、事務所へと足を踏み出す。
扉の隙間から入る風だけが、カラカラと乾いた音を立てていた。
*
浴びるように水を飲み、胃の中のものを全て吐き尽くしたころには、すっかり酔いも醒めていた。
「樋口、アシカみたい」
アシカ。鰭脚類と呼ばれる海生哺乳類の一種。膝立ちになって前屈みに嘔吐する姿がそう見えたのだろうが、それは透も同様なので、お互い様だと思う。
「はは……二人は昔と変わらないな」
その様子を眺めながら、プロデューサーが言う。
「……あなたも」
「ん?」
「いい大人なのに、子供みたい。そういうとこ、ちっとも変わってない」
「はは、確かにそうかもな。多分、円香が思っているよりも、ずっと俺は子供だよ」
後ろ髪をガシガシと搔きながら、プロデューサーは答える。
「俺だけじゃなくて、世の中の誰もが、子供の気持ちを抱えたまま大人のフリをして生きているんだ」
「それはまた、随分と無責任な話ですね」
「それが社会っていうものだ。大抵の大人は、大人になりたくてなったわけじゃない。周りの環境に押されて、仕方なく大人を演じる内に、次第に子供ではいられなくなっただけだ。内面なんて本当は何も変わってないのにな」
「それは、良いことなのですか? それとも――」
「分からない。でも俺は、必ずしも悪いことばかりじゃないと思っているよ」
それからプロデューサーは、少しだけバツの悪そうな顔をしながら、「本題に入ろう」と言葉を続けた。
「フェスの仕事があるんだ。先方の要望で、無名だけど実力のあるユニットを紹介して欲しいと言われた。俺はその仕事に、ノクチルを推薦したいと思っている」
「フェスの詳細は?」
「この書類に書いてある。一度目を通してもらえると助かる」
プロデューサーはホチキスで留まった書類の束を取り出した。
期日はいつで、規模はこうで、スケジュールはああで、狙いはこっちで、理想はそっち。
……破格の待遇だ、と思った。凋落した無名ユニットに持ち掛けるような話じゃない。こんなの、受けない方がどうかしている。
「良いじゃん。新曲作ろうよ」
身を乗り出しながら、透もそう答える。いつになく乗り気な様子だ。
「……いや、それに関してはちょっと待ってくれないか?」
にも関わらず、プロデューサーは浮かない顔で静かに首を振った。
「曲に関しては既に先方が用意したものを使う。衣装やスタッフに関しても既に手配が済んでいる。詳しくは書類の方を読んでくれ」
改めて、最後まで書類に目を通していく。
コンセプト、ターゲット、ユニットのアピールポイントに経営戦略、フェス終了後の売り出し方、エトセトラエトセトラ……。
「……一つ、質問をしても良いですか?」
「ああ、何でも聞いてくれ」
「これ、私達がやる必要があります?」
「……俺は、ノクチルのみんなならやれるって信じてるよ」
私は静かに嘆息した。なるほど、これは確かに間違いなく大きなチャンスだ。イベントの成否はどうであれ、ノクチルにとって大きな躍進になることは間違いない。
何しろイベントそのものが、そうなるように仕組まれているのだから。
フェスの名目で行われるそれは、いわば大規模なパフォーマンスだ。無名の才能がフェスによって発掘される、そのシナリオが既に組み上がっている。あとは中心に添える雛人形をどう選ぶかだ。
「……」
販売戦略の立案に楽曲提供。聞こえは良いが向こうが欲しがっているのは無名のユニットの華々しいサクセスストーリーであって、ノクチルではない。たまたま私達が向こうの想定したシナリオの条件に合致していただけだ。
「……少なくとも、先方の想定するドラマの主人公を張るだけの実力があると評価されたことは事実だ。全てが認められなかったわけじゃない」
声のトーンを落としながら、プロデューサーは言う。
分かっている。こんなことは、この業界では珍しい話でも何でもない。
ありのままの自分が全て受け入れられるなんてのは幻想だ。誰だって人知れず、どこかで妥協して、折り合いを付けて、社会に迎合していく。それがきっと大人になるということだ。何より、この機会を逃せば透の価値を世界に証明する日は二度と来ない。
大人ではない私たちはいつまでも、子供の自分を否定することしか出来ない。
「分かりました。やりましょう」
静かに、私はそう返す。
「……良いの?」
薄暗い照明が、透の瞳を仄かに照らす。
私の目に映る透の瞳は、あの日の空と同じような灰色で、その空には一度だって流星が浮かんだことはない。
「良いよ。だって」
夜光虫のように、透の瞳が揺れる。
いつか誰かに言われたことを思い出しながら、私は答える。
「子供の遊びじゃないんだからさ」
*
ステージに上がる瞬間は、眠りから醒める瞬間にも似ている。
モノクロの意識が覚醒し、鮮明な彩りを携えて、確かな現実に足を付ける。
ふと、一際大きな歓声が鳴り渡った。
ポジションゼロ。センターである透が、ステージの中心へと立ったのだ。
狂おしいほどの雄叫びが舞い上がり、波及する鯨波が、大気を傲然と唸らせる。
世はアイドル戦国時代、と誰かが言った。
ならばステージの上は、さしずめ戦場と言えるだろう。
だからそれは、例えるならば、軍靴の行進のようにも見えた。
孤独な戦場の中で、私達四人だけが鮮明に、スポットライトを浴び続けている。
『――――――――――――ッッ!!』
コール。
レスポンス。
シャウト。
BPMのテンポに合わせ会場のボルテージが昂っていく。
雄叫びと旋律がドロドロに溶け、混ざり合い、一つの指向性を持って収束する。
――歌え!
「――――――――!!」
音。
メロディ。
爆音じみたロックナンバーと共に、スピーカーから大音塊が鳴り響く。同時、残響するイントロに合わせるように、否、その先を導くように、私達のパフォーマンスが幕を上げる。
私は、スマートフォンの画面越しに、その様子をぼんやりと眺めていた。
あれから数か月後、大々的に開催されたそのフェスは大きな熱狂を伴って、成功裏に幕を閉じた。二日に分けて配信されたライブの合計視聴者数は五十万を超え、その様子はニュースやワイドショーでも取り沙汰されるほどだった。今でもそのライブの様子は、大手動画投稿サイトのアーカイブにはっきりと残っている。
ノクチルはその立役者として――あらかじめ決まっていたレールに沿って――華々しく称賛され、再始動の地盤を確固たるものとした。
絶え間なく流れるコメントを横目に、自分ではないかのようなパフォーマンスを繰り広げるアイドルの姿をぼんやりと眺め、私は頬杖を付く。
全てのパフォーマンスを終えた私達は、万雷の拍手に包まれながら、ステージ袖に消えていく。フェスの成功は、その光景が証明していた。
あの日見上げた灰色の空には、煌びやかな流星が輝いて見えた。
最善の選択をしたはずだった。ノクチルのため、透のため、誰もが笑える道を獲得したはずだった。
でも――私は分かっていなかったのだ。選択の本質は獲得ではなく放棄だ。私達は道を一つ選ぶごとに反対の道を切り捨てる。選択とは不可逆で、通り過ぎた道を引き返すことは二度とない。一度大人になってしまえば、もう子供には戻れないように。
いくつものメディアが私達を取り上げた。多くの人々が私達を称えた。世論の流れに後押しされ、今後のノクチルの活躍と健闘は絶対のものであると言われた。でも。
――結論から言って。
それからノクチルが華々しい表舞台に立つことは、二度となかった。
*
灰色の空へと並び立つビル群を縫って、事務所へと向かう。
透はいつかと同じように、事務所のソファに仰向けに寝そべっていた。
「樋口じゃん、やっほ」
数か月前、日本中のアイドルファンを騒がせたカリスマアイドルの、成れの果てだった。
「子供の遊びじゃないって言われてさ、あの時、ドキッとした」
昨日の出来事を話すみたいに、透は、数年前のあの日のことをそう振り返る。
「プロデューサーは庇ってくれたけどさ、多分、あの人の言ったことは正しかった」
それは違う、と私は思った。
確かにあの時のノクチルは、プロとして通用するような器ではなかったかもしれないが、それでも透だけは、私達にとっての『本物』だった。
透は、「買い被り過ぎ」と首を振る。
「これでも色々考えたし、頑張りもした。でも私はどうしても、大人ってやつにはなれなかったし、なりたいとも思えなかった」
ああそうか、と私はようやく気付く。私はあの男の言葉を否定したいと思っていた。私達のパフォーマンスは子供の遊びなんかじゃないって証明してやりたかった。
「なんっにも楽しくなかった。華やかなステージも、何万人の観客も、作られた舞台の上じゃ、ちっとも心が動かなかった」
でもきっと、透はそうじゃなかったんだ。
「
最初から、分かっていたはずだった。私達はアイドルになるためにノクチルを始めたんじゃない。ノクチルでいるためにアイドルを始めたんだ。
いや、それさえ違う。私達はノクチルでいる必要さえなかった。ただ私達四人の遊び場さえあれば、それだけで良かったはずなのに。
周りの環境に押されて、流されているうちに、私は大切な物さえ見失ってしまっていた。
その日、灰色の空には銀一色の流星のカーテンが引かれた。
空を覆い尽くす銀幕の裏側を覗き見ることは、誰にだって出来なかった。
*
かつて、ノクチルという名のアイドルユニットがあった。
というのは、嘘だ。ノクチルは未だに人知れず、ひっそりと活動を続けている。
私達は今日もまた、誰に知られることもなく、子供の遊びを続けている。
そうやって私達は、少しだけ大人になった。
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