換骨奪胎 (メラニンEX)
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第一話

初投稿となります。拙い作品ですがよろしくお願いします。


大義じゃなくて、好き嫌いの間違いだろ。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

いつだって一方的な展開は、飽きてしまうものだ。どんなにカッコいい主人公だって勝ち続けるのは面白くないから試練が与えられるし、強大な敵に負け続けるのもやっぱり面白くないから、少しの弱点と詰めの甘さが与えられたりする。

 

永遠に勝ち続けられる強さ。蹂躙。ダラダラとしたワンサイドゲーム。それらは物語の中で、不思議と好かれない。展開の読める打ち切り漫画のように、芸術性が高すぎる3時間のフランス映画のように、少し、人気の出る要素とは外れたところにある。

面白くないから、というのもそうだけれど、多分その覆しようのなさが現実を思い起こさせてしまうからだ。

 

フィクションの中の「最強」や「最高」はいつか破られることが多い。主人公の覚醒だとか、仲間たちの助けや、あるいは重なった偶然によって、感動と汗と涙と共に超えられる。みんなが好きな逆転劇。紙一重のせめぎ合いの果ての勝率の方が、人気が高い。

──じゃあ、現実もそうなのだろうか。どんなに強大な相手にも必ず弱点があって、奇跡が起これば勝てるのだろうか?

 

 

 

眼下に広がる夜の森を、なにかが猛スピードで吹き飛んだ。耳をつんざくような轟音と共に数十メートルも飛躍したそれは、幾度かの加速を経て水飛沫を上げて湖に突っ込んだ。一拍遅れて追いついた音が、びりびりと夜空を震わせる。

 

─眼下で繰り広げられている光景は、まさにその答えだった。

 

湖の水面上で、莫大な量の呪力がぶつかり合い、その余波が波紋のように広がっていく。黒色の空間を裂いて、赤い焔がひるがえる。光がちらつく。けたたましい音が響き渡り、地面が揺らぐほどの振動が何度か連続して起こった。

うすく、硫黄の匂いが鼻をつく。

 

そう。

本当の蹂躙は、圧倒は、最強は、ワンサイドゲームは。画面や紙の向こうのフィクションではなくて、現実の世界にこそ息づいている。異世界転生も勇者の剣もこの世界には無いのに、フィクションにも無いような埒外の馬鹿げた強さは確かに存在するのだ。

 

その証明であるかのように、水面上に立つ男の髪が月の光を弾いてひかっていた。私から見れば豆粒大ほどに遠い位置にあるにも関わらず、その輝きは夜の中で際立って強く、ひとつの曇りもない。星みたいに体の内側から光を放っているみたいにきれいな、ひと。

 

──五条、悟。

 

まさしく、彼は圧倒的だった。物語の展開を一人で覆してしまうような、魔王を第一話で倒せそうな、無茶苦茶なハッピーエンドを力づくでもぎ取ってくれそうな、フィクションの世界からも締め出されそうな、完全無欠のスーパーヒーローは月の下で、重力すら無視して、この世の誰も敵わない透明の力を纏って立っていた。

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーあ、予想通りというか何というか」

 

東京都郊外、某所。深夜の山中でのことである。日本の首都とは言っても、未だに都市化の開発が進んでいない部分は多くある。ここいらの山もその内のひとつで、辛うじて登山道の整備はされてはいるが、この時間帯であれば人っ子ひとり通らないような場所だった。

街灯の一本もない登山道を外れ、ちょうど岩棚のように張り出した部分に人影が2つあった。厳密に言うなら、見るものによっては3つ、とするべきかも知れない。

 

口火を切ったのはその中の、袈裟姿の男だった。年齢が分かりにくい顔立ちと、その額を横切る縫合痕が目立つ。

「見事なまでのやられっぷりだ。ま、彼とやり合って生きてるだけ上々なんだけどね」

穏やかな声の調子と、喋っている内容がどうにも乖離した男は、にこにこと機嫌よく笑っているのにどこか薄ら寒い。きゅ、と目尻が細まるといっそう菩薩像のような印象が増した。

男がふい、と視線を眼下の夜の森から、横に立つ人物にやった。

         ・・・・・・

「どうかな、涼利。勝てそうかい?」

「無理だな。そして私を名前で呼ぶなよ、不快だから」

間髪入れず、きっぱりとした否定が返った。

返事をした人物は、ちらりとも袈裟の男の方を見なかった。若い。そして、その若さと相反するように老成した、物静かな空気を纏っている。包帯とガーゼに覆われた顔は、元々の面差しも相まって性別がひどく分かりにくい。

 

「おや。こういう時に『当たり前だろ!』とか言ってみるのが血気盛んな若人の習性だと思ってたんだけど。君はどうも、そこらへんが何とも枯れているよね」

名前のくだりには触れることなく、男がうっそりと唇を横に引いた。

涼利と呼ばれた人物は、今度は返事もしなかった。ただ黙って、眼下で繰り広げられている一方的な戦いの結末を、凪いだ目で見ている。

 

ちょうどその時に、湖の上にあった黒い球体がほどけていくところだった。夜より暗い色の天蓋は、シャボン玉が弾けるときのようにあっけなく、音もなく、瞬きの間に消えていく。同時に、上から押し潰すような呪力の圧もまた、緩んでいた。

 

「ん。五体満足…とは流石にいかなかったようだね」

言葉の通り、水面に突っ立っていた小柄な影(つまりは先程吹き飛ばされた方)の首が、後ろからぐしゃりと力任せに引きちぎられる。無論五条悟の手によってのことであった。月の光も恥じらうような美貌には不釣り合いな、情緒もへったくれもない野蛮な手つき。いや、首の取り方にそんなものがあっても困るのだが。

 

 

まあ何にせよ、どう言い繕っても一方的な戦いだった。おそよ10分もかかっていない戦闘の初めから終わりまで、五条悟はまったく本気では無い様子であり、漏瑚はその彼に手も足も出ていなかった。その漏瑚とて決して弱い呪霊ではない。こと火力とその範囲に関して言えば呪霊の中でも折り紙付きである。彼の操る炎は、その気になれば都市ひとつ焼けるだけの威力がきちんとある。にも関わらず、その炎は、五条悟の衣服に焦げ目をつけることすら出来ていないのだ。

 

『無下限』てのはすごいな、と涼利はぼんやり思索した。業界でも名高い、不可視にして無限、矛であり盾であり、現実に存在する永遠は、その名にふさわしいだけの絶対性を内包している。

無論それは六眼持ちの五条悟が扱っているから、という所が大きい。涼利もストックのひとつとして同じ術式を有してこそいるが、とても彼の完成度には遠く及ばない。たまに使うたびにその難解さと呪力の消費量に悩まされるものだから、改めてこの術式の持つ可能性の大きさと、自らの未熟をまざまざと見せつけられた気分にもなった。

 

「…さて、どうする?助ける?」

袈裟姿の男の声の先は、涼利ではなく残りのひとつの影にどうやら向けられたものだったらしい。返事の代わりにその影の指の先を割って、ぱきりと花が一輪伸びた。

人間ではない。一目見てそれが分かる異形だった。身の丈が2メートル近く、簡素な袴や首から下のシルエットは人間に近しいものがある。ただし、その肌はつるりと白く肉というよりも陶器のような質感であり、剥き出しの上半身には臍や爪と言ったものがない代わりに、黒い紋様が肌の上を走っていた。

そして何よりも、本来目があるはずの場所からは木の根のようなものが生えていた。不気味な容姿と、不思議な静謐さの両立する呪霊。名を花御と言う。

 

「私は高専関係者に顔を見られるわけには行かないから、ここで帰らせてもらうよ。助けたいなら助ければいい。君たちにそんな情があるかは、知らないけどね」

「…… ■■■■■■、■■■■■■(私たちこそが、人間ですから)

人間では理解しようのない音と共に脳内に入り込んできた返答に、袈裟姿の男は小馬鹿にしたような表情を浮かべた。

ク、と喉の奥で笑い声を飲み込んで、花御に背を向けざまに低い声で呟いた。

「よく言うよ、呪霊風情が」

その、ほとんど、生温い初夏の風に混ざるような音量の独り言に返したのは、異形の方ではなかった。

「…お前がとやかく言えた義理か?それ」

 

振り返ってみれば、涼利が薄茶の目で、じ、と男を見やっている。暗闇の中ではほとんど色の分からない虹彩が、つかの間雲の隙間から顔を出した月によって淡い銀に光り、そしてまた暗がりに沈んだ。

 

「死体に泥を塗ることしか能のない寄生虫が。お前は呪霊を見下せるほどご大層なものじゃないだろ」

 

淡々と吐き出された言葉にもやはり熱量がなく、数学の公式を読み上げているような調子だった。罵倒と呼ぶにはあまりも平坦な響き。とはいえ、男への侮辱の意図がきちんと込められていることは明確なものである。男の唇は笑みの形のまま、剣呑に目が細まった。

両者の間に僅かに緊迫した空気が漂う。

 

 

「……恩師に対して酷い言いようだ。『彼』に口のきき方は教わらなかったようだね」       

「事実の指摘でキレてんなよ。脳の血管破れるぞ」

 

煽るような口ぶりとは裏腹に、涼利の感情の読み取れない顔に嫌悪を乗せて男を睥睨していた。冷え冷えとした両者の目がかち合う。

厭悪、侮蔑、敵愾心、僅かな憐れみと懐古。

同じような感情を持って互いを見るその視線は、どこか似た印象を見るものに与えた。

 

「まあ、いい。ここで喧嘩を始めるのは私も本意ではないし、お互い肉体に傷を増やすのは本意じゃないだろう」

 

睨みあったのはほんの数秒のことだった。剣呑な空気を収めた男は、またあとで、とひらひら手を振って去っていった。

たっぷりとした五条袈裟と墨染めの法衣が夜闇に溶けて見えなくなるまで視線を外さなかった涼利は息をひとつ吐いて、花御の下へ近づいた。

 

■■■■■■■■■■、■■(ありがとうございます、郡上)

「いや。特にそう言う意図は含んでいないから、その礼は的外れだ。私はあの男が嫌いで、あいつにでかい態度を取られるのはもっと嫌だったというだけ。──それは置いておくとして」

ぴ、と涼利は眼下の森を指さす。

「私は漏瑚の生死はどうでもいいが、お前たちの計画にはあいつが必要だろ。頭の回収と胴体の回収、どっちが行く?」

■■■■■。(どちらでも。)■■■■■■■■、(回収するだけなら、) ■■■■■■■■■■■■■■■。(私でも貴方でも問題ないでしょう。)

「確かにな。じゃ、私が体だ。あの寄生虫に五条悟の前に出たことをあとからねちねち言われるのも面倒だし」

 

花御がひとつ頷いたのを合図に、両者の姿が崖の上から消えた。夜更けのとっぷり暮れた闇は、その高さを足のすくむものに変えていたが、まるで怯む素振りさえない。よく訓練された動物のような速さで、影がふたつ、駆けて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

–––––気づいたのは、虎杖悠仁だった。

 

あれよあれよと言う間に高専の地下室での映画鑑賞タイムから連れ出され、連れてこられたのは担任の教師と知らない特級呪霊との戦いの場。

何が何だか分からないうちに火山に囲まれ、宇宙が広がり、担任の教師が特級呪霊の首をもいでいた。

 

虎杖悠仁、15歳。

呪いの世界に足を踏み入れて間もない、宿儺の器。

 

未だに呪術の何たるかもよく分かっていないし、その扱いにも長けているのは言い難い。いわんや、先刻目の前で繰り広げられていた呪術の最奥のぶつかり合いとて。

とは言え、彼の肉体は特別製である。呪いの王を押さえ込み、時に天与のそれを凌ぐスペックを誇る。その常人より遥かに優れた五感が、夜空を背にして、彼の頭上を高く飛ぶ人影を捉えた。

 

ひら、と。まるで羽衣のようにその透明な裾がはためいた。

 

新たに現れた呪霊が生み出した植物に足を取られ、視界が反転した中の、ごく僅かな時間の間のこと。人型であると分かったのすら奇跡的な距離と移動速度だったが、不思議と虎杖にはそれが何か大きい荷物を抱えた人間であることをはっきりと確信していた。

 

(……え、あれ、人、だよな?それとも呪霊?どっちにしても何であんなとこにいるんだ?)

 

そう、人間である。普通の人間なら居ないような場所、時間帯、速度で頭上を通り過ぎはしたけれども、それは確かに人だった。

そして、見ていた。引き伸ばされた時間の中、ほんの一瞬だけ、ちらりと、それでいて確かに。森の上を飛び去っていくときに、少しだけ首をひねってこちらを見たのを、虎杖悠仁はスローモーションの映画を見るような心地で、見入ってしまった。何かを見つめているのを、見てしまった。

 

何を、見ていたのだろう?

–––そんな風な目で、一体、なにを………

 

「っう、わ、痛ッてぇ!」

 

一瞬それに気をつけ取られていた隙に、虎杖の足を掴んでいた植物の蔓が緩んでおり、受け身を取り損ねた彼はどしんと背中から落ちた。間抜けな声を上げてしまったことを恥じつつ振り返れば、既に下手人らしい呪霊の姿は遠く去ったあとで、五条の足蹴にされていた富士山頭の呪霊の生首は持ち去られていた。

 

 

 

 

 

 

「このレベルの呪霊が徒党を組んでるのか。これは楽しくなってきたねえ」

 

一人合点がいったようにふむふむと頷く五条が、ふと振り向いておや、という顔をした。虎杖悠仁は五条のほうではなく、頭上の夜空をじっと眺めており、何やら口がぽっかり空いている。彼にとっては何もかも急展開であろうことは承知の上だったが、それにしても妙な様子である。

 

「おーい悠仁、どしたの?大丈夫?」

目の前でひらひら手を振ってやると、やっと意識がこちらに向いたらしい彼が、ごにょごにょと口ごもった。

「あ、いや、今なんかあっちの方に…」

「あっちの方に?誰かいた感じ?」

「ウン。なんて言うか…レインコート着た…人?だと思う。多分。凄い勢いでどっか行っちゃったけど」

 

へえ、と五条は面白がるような声を上げた。

呪力や術式の類なら全て見通すことのできる彼の六眼には何も映っていなかった。つまりそれだけ高い隠蔽系の術式持ちか、気配の殺し方がよほど上手いのか。虎杖が多分人、と言ったのだからさっきの呪霊と組んでいる呪詛師だろうが、五条悟に気づかせなかったというだけで大した腕前の証明になる。

高い火力を持った富士山頭の呪霊。精霊に近い、気配の消し方の上手い呪霊。それから五条悟に気取られることなく去って行った謎の呪詛師。

ちょっと不穏な感じの組み合わせだな、と五条は内心でひとりごちた。五条の足元にも及ばない呪霊ではあったが、他の術師であれば即死していても何らおかしくない強さ。それが何かを企んで襲撃をかけてきたとなれば、何らかの思惑を感じずにはいられない。

マ、どちらにしても。

 

「悠仁……っていうか皆にはゆくゆくアレに勝てる位強くなってほしいんだよね」

「アレにかぁ!」

「目標は分かりやすい方がいいでしょ。そのために連れてきたんだし」

 

軽い調子で無茶を言い出す五条に、ちょっとばかし認識の差を感じはしたものの、そこは尊敬する担任のお言葉。精一杯やるしかないかな、と素直な虎杖少年は決意した。

燃え盛る火山の領域を思い出し、広がる無限の宇宙を思い出し、突如現れた敵意を削ぐ植物たちを思い出し、エッ俺これからああいうのと戦わないとダメなのぉ?と言いたくなったところで、虎杖はふと、もう一つ思い出したことがあった。

 

–––あのひと。一瞬だけこちらを見ていた、レインコートのひと。

 

(……結局何見てたんだろな?)

虎杖は一瞬とは言えあの呪詛師を確かに視認したが、両者の視線が合うことはなかった。つまり、あの人間は虎杖ではない何かを見ていた、ということになる。植物の呪霊が火山頭の呪霊を連れて逃げられるかを確かめていたのか、はたまた–––五条悟を見ていたのか。

その答えを確かめる術を虎杖は持たなかったし、この時点でそこまでの興味も無かったので、五条にそれを口に出して言うこともなかった。

少年の少しばかり興奮した脳裏が、今しがたの激闘と五条が口にした「交流戦」という新たな単語への興味に占められていたこともあり、すぐにその疑問は虎杖の中で大したことのない場所に追いやられてしまった。

なので、この夜に舞っていたレインコートの記憶が、脳の内側にある、昨日見た映画の内容とか、しばらく使っていないポイントカードのことが入っている場所から出てくるのは、もうしばらく先のこと。渋谷にて彼女と初めて対面した虎杖悠仁はこの忘却を後悔することになる。

 

郡上涼利(ぐんじょうすずり)

 

いずれ五条悟に傷を負わせることになるその呪詛師の顔や名前を、まだ虎杖悠仁も、五条悟自身も知ることはない。それどころか、郡上が与する呪霊たちですらその未来は預かり知らぬものだった。その結末を知るのは郡上と、どこかの月の下で薄笑いをする、死人の皮を被った男だけである。




郡上涼利(ぐんじょうすずり)

1998年6月21日生まれ。渋谷事変の時点で20歳の大学生兼呪詛師。苗字の由来は郡上ヴァカンス村スキー場から、名前の由来は「利を掠める」から。百鬼夜行より前に、夏油の傘下を脱退している。
※ちなみにスキー場の方は「ぐじょう」ですがそれだと五条先生と紛らわしいので「ぐんじょう」読みにしています。


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第二話

今回の冒頭の呪霊は、小野不由美先生の『残穢』をモデルにしてます。また、3/4発売の公式ファンブックのネタバレとして、美々子と菜々子の苗字が出てきます。未読の方はご了承下さい。


あなたのことは好きなんだが、それはそれとしてあなたの大義は嫌い。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

断っておくが、郡上涼利に人を養う趣味はない。そのはずだ。

 

彼女は両親なし、都内でもそこそこ偏差値の高い国立大学に通い、東京都の郊外にある築40年の一軒家で暮らす大学2回生である。職業柄、その安っぽいドラマにありがちの、苦学生のような身の上でも金銭的に困ったことは最近ではほとんどない。が、だからといって他人に喜んで金を使うような慈しみの心は生憎と持ち合わせがなかった。それが自分にメリットをもたらさないのなら尚のこと。

 

「いい加減に起きろ。朝に惰眠を貪っていいのは家賃を納めたやつだけだぞ」

 

なので、涼利はここ最近の生活を一体何と呼ぶべきかについて考えるといつも戸惑うことになる。

義務ではない。別にやらなくても涼利は死なない。

仕事ではない。この愚かしい少女たちを自分の家に住まわせたところで一銭の得もない。出費が増えるだけである。

責任ではない……と言いたいところだが、これが1番近いのかもしれない。別に保護者でも何でもないが、彼女らより4歳年長であり、庇護を失った未成年に生活の糧を与えるのは1番付き合いのある成人

–––つまりは涼利の「責任」である、と世間は言いたがる。嫌な言葉だ、と涼利は考えた。

 

なので、特に容赦もしなかった。

カビでところどころ斑になった牡丹模様の襖を開いて、寝ている人物の被っている布団を勢いよく剥がし、部屋の障子と窓を全開にする。

床に化粧用品や服が散らばっている部屋はお世辞にも片付いているとは言い難い。ついでに空気も悪かった。古い畳の匂いで満ちていたはずの部屋は、今はオンナノコの香りで染められている。

 

「………うう、や、めてよぉ……。部屋はいってくんなって…」

「は?お前誰の家でもの言ってるんだ。まずお前の部屋じゃないから」

 

なかなかひどい寝ぼけ顔で睨んでくる金髪の少女とは反対に、黒髪の方は布団がないので無言でシーツにくるまろうとしている。寝汚いと言う言葉を辞書で引いたら例として挙げられてそうな光景だった。

朝の透明な日差しが、細かな埃の粒に反射して部屋の中で淡くぼやけ、靄がかった光を放っている。その眠たげな匂いのする部屋を元来据わっている目つきでじろっと見渡して、涼利は宣言した。

 

「いいか、お前たちがこの家に来てから既に20回は言ってるけど、遅くとも10時半までに起きろ。学校も仕事もしてないニートだろうが、最低限人間らしい生活時間に行動してくれ。私の生活リズムが乱れる」

「………ニートって言うなよ」

「ニートだ。小中高と碌に通ってなくて、バイト経験もなし。呪詛師として稼いでもいない。今、衣食住の面倒を見てるのは私。申し開きあるか?」

 

うぐ、と菜々子の口紅が薄く残った唇から悔しげな呻きが漏れたが、それ以上の言葉は紡がれなかった。涼利はずかずかと大股で黒髪の少女に近づき、しがみついている薄べったい敷布団を引っ張った。ぺいっと振り落とされた少女はくぐもった悲鳴を上げたが、涼利は一つも気にしなかった。

 

「ほら美々、お前もさっさと起きな。それから目が覚めたんなら2人とも布団干してこい。この部屋、化粧品臭いぞ」

返ってきたのはは舌打ちとため息が一回ずつ。あからさまでガキっぽい、その無礼を無条件に許されると思っている者の動作だ。ため息をつくべきは涼利の方だったが、それを口から出すことはしなかった。何せもう20歳のいい大人だから。そして、大人として行動したいから、そうしている。それ以上でもそれ以下でもない。

 

のろのろと庭に布団を干しに行く2人の後ろ姿を見送って、涼利は庭とは反対側の台所に足を向けた。先程まで蒸らしていた米がそろそろ良い頃合いのはずだ。それと昨日の残りのほうれん草のお浸し、あと一品か二品は欲しいところだ。大学が今日は四限からなので、朝と昼をまとめて一食で取ったほうが手間も増えずに済む。冷蔵庫に残っている食材で、何が期限切れに近かっただろうか、と涼利はぎしぎし危うい音のする縁側を歩きながら考えを巡らせた。

 

………ずず………すすす…ずざ……

静謐な朝の中で規則正しく響く足音に混じって、違う音がひとつ、加わった。ちょうど布地を引き摺るような、それ。長い上着が床に擦れるようなものより音と音との感覚が長く、また少し硬い質感を感じさせるものである。ちなみに、動きやすい服ばかり着る涼利も、高校に行ってないくせに制服ばかり着る美々子と菜々子も、床を引き摺るデザインや丈の服は誰一人、一着も持っていない。

 

音の出所は縁側の端、ちょうど太い梁が見える場所だった。年月を経て飴色になったそこから発されている音こそが、広さと安さしか取り柄のないこの家の、安さの原因の筆頭でもある。

 

–––女だった。

黒い留袖を着て、渋い金の帯で首を括って梁からぶら下がっている。顔は梁の影で見えづらく、足袋が片方脱げた足が妙に浮腫んで青く膨れている。帯というものは着る時に感じるより長く、またこの家は古いので天井が低い。従って、余った帯が床に着いており、女の体が風もないのに人間風鈴よろしく揺れるたびに、擦れた部分が音を立てている、と言うわけだ。有り体に言って、この家はどこに出しても恥ずかしくない幽霊屋敷だった。

 

ゆら、と揺れる女の首吊り死体もどきに、涼利は平然としていた。緞子の帯を平気で踏みつけ、すたすたと歩く足取りは軽やかだ。女の青く浮腫んだ素足が顔の真横をかすった時でさえ、顔色ひとつ変えない。見えていないわけではない。呪いに見えていることがバレないように、あえてこういう振る舞いをしている––わけでもない。普通に見えているし、むしろこの手のことに関して言えば、他人よりよく見えるための手段を有してすらいたが、涼利は単純に無視していた。ごくたまに首吊り死体をまじまじ見たいときには眺めることもあるが、今朝は別にそういう気分ではない。

 

なので、通り過ぎた少しあと、女の青黒く腐った手が涼利の後頭部にゆっくりと伸びたときも、後ろを振り返ることはしなかった。ただ、涼利の手の指全てに嵌ったシルバーリングの内、右手中指のものが消え、代わりに現れた短い槍で、女の首を吊った帯ごと後ろ向きに掻き切った。

 

一閃。

所要時間、およそ0.1秒。

ごとん、と首が、続けて胴体が落ちる音。同時に帯の擦れる音がぱたりと止む。最後まで一瞥すら貰えなかった女の体は、すぐに黒っぽい粉に変わって消えていった。

 

その光景を尻目に、槍を指輪に戻し、立て付けの悪いガラスの引き戸を開ける涼利の脳内からは既に女のことはない。朝ご飯の献立の方が、人型の呪いを殺したことより重要視なのだ。

………いや、意外とそうでもなかったのかもしれない。そのあとの遅めの朝食では白ご飯とほうれん草のお浸しと卵焼きと味噌汁、それから何故か出来合いの昆布巻きが出た。黒い昆布に黄色のかんぴょうが巻かれた、正月によく見るあれ。黒と、黄色。黒い留袖と、巻かれた金の帯。

 

そのカラーリングに一人だけ気づいた菜々子は嫌そうな顔をしたが、文句を言うことはなく黙って食べた。長年の付き合いの中で郡上涼利という人間の持つ図太さは嫌と言うほど知っていたし、これ以上何か言うと本気で家から叩き出されそうだったからである。

 

それに、3人に共通する数少ない価値観として「食べ物を粗末にしてはいけない」ということがある。自然と身についたものではない。教えられたものだ。

 

『出されたものは、残さず食べようね。』

 

今は亡き夏油傑が言った言葉だ。美々子と菜々子は彼への信仰ゆえに、涼利は師から教わった知識のひとつとして、それを身の内に留めている。

 

「姉さん……あの、めんつゆとって欲しい」

「嫌だ。それぐらい自分で取れよ、愚妹その1」

その事実は、年も、術師としての力量も、過去も、非術師への価値観も、かの人へ向ける感情も、何もかもが違う3人の奇妙な共同生活を、時々助けてくれたりくれなかったりする。

郡上涼利。枷場美々子、枷場菜々子。家族じゃないけど、姉と妹。幽霊屋敷に住む3人の朝はいつも通りだ。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

東京都郊外。

築40年、木造平屋建て、修繕が行われたのは40年間で何と2回のみ。風呂・水洗トイレ・庭付き、ガスは引かれている代わりにIH無し。日当たりは南向きなのでそれなりにいいが、庭の水捌けは悪い。60平米という広さと駅までおよそ20分と言うメリットに対して、過去に首吊り自殺をした住人を筆頭に呪霊が大量発生するというまるで釣り合っていないデメリットを抱えた、れっきとした事故物件である。

 

その玄関で、どこからか生えた白い手首がうごうごともがいている。それを、履いているアディダスNMD–R1V2モデルの、メタリックブルーの踵で思い切り踏みつけた涼利は、何故か少し先の廊下からこちらを見ている美々子に声をかけた。

 

「美々。私は今日5限までだけどその後用事あるから、遅くなる。晩飯は自分で適当に食べといてくれ。戸締りはしてもしなくてもいいけど、出かける時は貴重品持ってけよ」

 

うん、とかすかに頷いた黒髪の少女の顔はすこし強張っている。それが常に薄暗い家のせいなのか、着ている黒いセーラー服のせいなのか、はたまた別の理由なのか、涼利は判別がつかなかった。

ちかちかと、僅かな明滅を繰り返す白熱灯の下で、美々子の顔は不健康そうで、光の角度からこちらを睨んでいるようにも見えた。ぱくぱくと何度か、オレンジのリップが塗られた唇が物言いたげに開け閉めされた。

 

「姉さん、えっと、あの」

「何」

「…………あ、のね………」

 

話しかけてきたくせに口ごもって俯いた美々子の、伸び始めた黒髪を涼利は何となしに眺めた。その少し不揃いな毛先には、珍しく枝毛があった。一年以上前、夏油の下を涼利が出たときは、彼女の髪は今の涼利と同じくらいのベリーショートだったはずだ。それが今では、背中の半分より僅かに上ほどになっている。こいつ髪伸びたな、とふと涼利は思った。

 

一緒に暮らし始めてからそんなこと一度も思ったことは無かったのに、今初めて、双子と離れていた年月の長さを肌で感じたような心地だった。そしてその年月の間に、多くのものは変わった。そのひとつに、こういう会話の間を取り持ってくれていた人の喪失がある。

 

「……だからさ、これも何回も言ってるだろ。言わないと何も分からない。聞きたいことがあるんならちゃんと言え」

 

昔、涼利と口下手な美々子がもう少しまともに会話ができていたのは、両者の間に夏油傑がいたから、と言うのが大きな理由だ。彼がいない場では話が続かないのは、よくあることだった。

 

「………姉さん、今日の夜、出かけるんだよね」

むっつりと閉じていた口を開けて、美々子がぼそりと呟いた。

「…あいつらと?」

端的。明確。指示語じゃなければもっと良いんだけど。そのやたら時間のかかった問いかけに、涼利も短く返した。

「ああ。どこかで適当に作戦会議して、その後は依頼されてる別の仕事を片付けてから帰る予定」

 

美々子の眉間にきゅ、と皺が寄った。嫌そうな顔だった。黒目が落ち着かなく揺れている。その奥の方にごちゃごちゃした感情が押し込められているのが涼利にも分かった。これは恐怖、それは懇願、あれは疑問…。

口に出せばいい。音にして、形にしたらいい。それすらもできないのに、他人に分かって欲しいと思うのは怠惰だ。

結局少し待っても、そのどれも美々子の口から言葉として出てくることは無かったので、涼利は「行ってくる」とだけ声をかけてガラス戸を開けた。ついでに、まだもがいている白い手首だけの呪霊をもう一度しっかり踏みつける。ぐに、とした独特の感触が妙に生々しかった。死を踏み躙る行いだ。夏油傑が今されていることと、そう変わらない。

気をつけてね、と言う小さい声に返事はしなかった。

 

 

 

扉の外はきつい日差しと、見事な蒼穹が広がっていた。夏のじっとりした湿度の高い空気は、吸えば吸うほど肺の中が熱く蒸れていくような気分になる。正午過ぎのいまが、気温のピークだ。一歩屋外に出ただけで、毛穴から汗がてろりと垂れる感触に、不快指数がぐんと上がった。

涼利は、少しばかりうんざりした気分だった。それは何も気温のせいだけではない。暗い家の中でこちらを見ていた美々子の視線、踏んだ白い手首、提出期限の近いいくつかのレポート、頬に張ったガーゼの中のいつまでも固まらないかさぶた。袈裟姿の男の笑みがふたつ。

それらがどうにも、涼利の頭の中を静かにさせてくれない。

 

 

涼利はシンプルに生きていきたい。明確なもの、分かりやすいものを少し好ましく思い、そうでないものには興味が無くなってしまう。

 

やりたい事をやり、やりたくない事をできるだけしない。人生で心掛けているのはこれだけで、その決めた事を実行するためにはそれなりの力が必要だった。涼利が未だに好きでも嫌いでもない呪詛師なんて職業を辞めていない理由なんてそんなものだ。だと言うのに、ここのところずっと増え続けている気がする。

 

やる必要もないのに行うこと。好きと嫌いに分別できないもの。どうでも良いはずなのに捨てていないもの。そういう、明確でないものたち。

 

「くそ、あついな……」

 

ぼやくと、また温度が上がるような錯覚を覚える。髪が首筋に張り付く感覚が鬱陶しかった。早く冬にならないかな、とアスファルトから立ち上る陽炎を見て、現実逃避に涼利は夢想した。

 

冬。それも震えるほど寒くて、とびきり空気の澄んで星がよく見える、雪の降る夜。携帯越しにあの人の死を聞いて、夜中に一人でコンビニに線香を買いに行ったような、あの季節の訪れが恋しかった。

でも、そんな静かな冬は黙っていても来てくれない。それどころか、今や時間とともに、最悪の形で、物凄い速さでどんどん遠ざかっている。それが嫌だったから、涼利は今、やらなくても涼利は死なない事を、何も困らない事を、あの忌々しい男や呪霊と連んでやっている。

 

 

 

冬。今年の冬になったら、ちゃんと迎えられているのだろうか。

夏油傑は、物語の終わりを。

美々子と菜々子は、一年越しの喪失の始まりを。

涼利は–––涼利もまた、ひとつの物語の終わりを。

 

 

見上げた空はやはり青い。ぎらぎらした日差しを遮る雲はひとつもなく、目に痛いほど鮮やかな発色をしている。その突き抜けた晴天の青に、涼利は夏油傑にまつわる思い出をひとつ描いた。ほとんど空っぽに近い、彼のスマホのカメラロールのことだ。後生大事に一番古いところにあった、二人の青年の写真。その片方の青年の目は、今日の空を閉じ込めたような青だった。画質の良くない写真ですら、その美しさは明確だった。間近で見ることがあるなら、きっと格別なのだろうと涼利は考える。

 

かつて、夏油傑が見ていた青色。まだ涼利が見たことのない青色。

そして遠くない未来に、涼利が見ることになる色でもある。涼利は今年の初めの頃に、その未来を選び取ったから。

今年の冬に、五条悟は何も迎えずにいられるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

都内のとある大型河川の下、ぽかりと空いたトンネルの内部。人が通るためのもの、というよりは排水のためのものだろう。そういった機能や点検に使うのだろう足場や配管があり、ところどころにある地上と隣接した網目状の蓋から日の光が細く差し込んでいるので、完全な暗闇にはなっていない。

がらんどうで、地下にあるのに不思議と開放感のある場所だった。人が日常的に存在しないからか、見渡す限り何もないせいか、苔などが生えてはいてもあまり不潔な感じはしない。

 

その水路脇の足場を少し奥に進み、突き当たりにはより開けた空間が広がっていた。コンクリートの壁には誰が持ち込んだのか、謎のハンモックが掛かっている。

 

蒸し暑い夏から切り離されたように、ひんやりとした地下空間では現在青年の爆笑する声が反響していた。

 

「あっはははは!ひぃ、ぶ、はははは、ふふ、くくく」

 

笑いは基本的に快感によって生じるものだ。楽しい、面白い、理由はなんであれ、不快感から笑うものは少ないだろう。従って、笑い声が騒音だ、とか自分を馬鹿にして笑っていると文句を言うものはいても、笑うという行為そのものをいけないことだと批判するものもまたあまりいないに違いない。

 

ところが、げらげら笑う声の主がハンモックの上で寝そべる青年となると、話が変わってしまう。どうもこの青年が笑うと、どんな内容であろうが、楽しそうであろうが、明るい声だろうが、問答無用で人の神経を不愉快に逆撫でするのである。笑うと言う行為そのものが醜悪に思えてくるのだ。薄っぺらく無邪気、それでいて吐き気を催すような酷薄さが、その声には宿っている。笑えばいっそう、その性質が露わになった。

 

「無理、もう俺『ベニスに死す』が見れないよ……うくく」

未だ笑いの止む気配の無い青年の目尻には涙すら浮かんでいる。寝そべる体躯はすらりと長いが、その割にどこか幼い顔立ちをしている。顔や体には何本もの縫合痕が走っており、「継ぎ接いだ」という印象を見るものに与える青年だった。名を真人と言い、読んで字の如く人の呪霊である。限り無く人に似た姿を持ち、それでいてかけ離れたモノ。

 

「す、すみません…。初対面の人に失礼な事を」

「別に気にしていないから、謝る必要もない。君が私の容姿を褒めたのは理解してるしな」

 

不快な笑い声をBGMに、涼利にぺこぺこ謝るのは彼女よりいくつか年の若い少年だった。いかにも気の弱そうな少年と彼より背が高い涼利なので、完全にカツアゲみたいな光景が地下水路の開けた場所の上に広がっている。

 

涼利が指輪から出した短槍の峰の部分でハンモックを叩いた。ぶらぶらしていた真人はいきなり落とされそうになって、慌ててハンモックにしがみついた。

 

「で?お前が死ぬまで笑ってるんならそれでもいいが、そろそろ何の用か教えろ。年中暇してる呪霊と違ってこっちは忙しいんだが」

「あはは、それは大変だ。仕事だとか勉強だとか、人間ってそういうのにわざわざ縛られるの、ほんと好きだよねぇ」 

 

これ返すね、と青年は手元にあった本を投げ渡してきた。それをぱし、と受け取った涼利の目がやや険しいものになる。

 

「クソガキお前、この本の表紙はどこにやったんだ」

「そんなのあったっけ?忘れた。もしかしたら邪魔で捨てたのかも」

 

青年は至ってけろりとした調子である。涼利が先日真人に貸し、今しがた手元に返ってきた「カラマーゾフの兄弟3巻セット」は、飾り気のない裸の状態だった。本来付いている筈の表紙は影も形もない。しかも角に若干折り目がついてた。

見ていた吉野順平はウワ、と内心思った。人間社会でこれをやると、下手すれば友達を失うことになる行為である。まだ出会ったばかりの、偽名しか知らない女性に、そこそこ本好きの少年は同情した。

 

「それ、中々興味深かったよ。こういう血の繋がりなんかがテーマなの、人間ならではだよね。呪霊じゃそうはいかないし」

「そうか。どうでもいいが、次からお前に本を貸すことはないぞ。読みたかったら図書館にでも行くんだな」

「どうでもよくないんだろ、怒らないでよ"タージオ"。ぷぷ」

 

笑いの発作がぶり返したらしく震えている真人を他所に涼利の顔は終始無表情のままだったが、順平はそう言うわけにもいかず、その顔を真っ赤に染め上げた。

 

タージオ。トーマス・マン原作の「ベニスに死す」に登場する、老作曲家から想いを寄せられるポーランド貴族の美少年のことである。この作品はルキノ・ヴィスコンティ監督の手による映画化で多くの賞を獲得し、今も映画史に燦然と輝く名作となった。その映画の中でタージオを演じたのは、『世紀の美少年』と名高いスウェーデン人のビョルン・アンドレセンという俳優だった。彼の儚く中性的で、同性を傾かせるほど危うげな絶世の美貌は、この映画で一躍有名になった。

ここまでの情報を踏まえて、先程あった会話を参照。

 

『私の顔が、何か』

『いえ、あの………なんて言うか…』

––その、ビョルン・アンドレセンに似ているな、と思いまして。

 

ちなみにこれは、互いの自己紹介の後、涼利が自分の顔を何故かじっと見ている順平に対してした質問と、その答えである。うっかり口から出てしまったとは言え、普通に失言だった。まず持って涼利は女だったし、顔も全く似ていない。中性的な美貌をなんとか形容しようとしたのだろうが、全然上手いこといっていない。可哀想なくらい女性を褒めることに不慣れな、吉野順平少年の弊害だった。映画ファンとしても男としても駄目な部類の口説き文句である。

 

『こんなに物騒なタージオがいるわけないだろ!』

 

当初は、映画に造作が深いが俳優にまるで興味がないせいでぴんときていなかった真人だったが、それが「ベニスに死す」のタージオ役の俳優の名前だと聞かされるやいなや大爆笑し始めた、という訳である。それからずっと、この呪霊はその笑いを引きずっている。長い上にうるさい。

 

世紀の美少年に例えられてしまった涼利といえば慣れたものであった。幼少期から高身長と中性的な顔立ちのせいで、とにかく女子からモテまくり、数えきれないほどの逆ナンを断り、男に勘違いされてきた人生である。流石にビョルン・アンドレセンに似てると言われたのは初めてだったが、彼女にとってはそこまで笑うような話でもなかった。

ガーゼと包帯で隠れているこの顔の、どこをどう見たら絶世の美少年に見えるのか多少不思議には思ったが。

 

 

不快な笑い声を立てている継ぎ接ぎの呪霊。

レインコートを着て黙っている、中性的な風貌の女。

気の弱そうな童顔を真っ赤に染めた少年。

本来なら人の立ち入らないはずの地下空間は中々のカオスが広がっていた。

閑話休題。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

–––闇より出てて闇より黒く、その禊を祓いたまえ。

 

高校一年生で口にするには少し照れ臭い文言が、吉野順平の口から唱えられたのとほとんど同時に、ちょうど彼の真上を起点とした幕が広がった。透明度が高く、黒いベールに似たそれが下りていく速度は非常に遅く、完全に地面に到達することは無かった。その少し手前で、布地が綻びるように欠けて、形が保てなくなっている。

少年がぐっと力むのに合わせて地面に向かう動きは見せているものの、こちらが地面につけばあちらがつかず、といった具合に別の場所が欠け始めてしまうのだ。

 

「止め。そこまでにしといた方が良さそうだな」

 

その声に、ぱっと黒く薄い幕が搔き消える。集中していた様子の少年がこちらを向いて、疲れたように息を吐いた。

「どう、でしょう。さっきよりは黒色が濃くなってはいましたけど………」

「いや。きちんと覆い隠せないと帳とは言えない。あれだとせいぜい、一般人でも外から入れる強度だろ………報酬ケチってきたなこいつ。受けるの止めとこう」

 

貶しているわけでもないが、特に慰める気もないらしい、温度の低い講評に順平はちょっと方を落とした。ちら、と見上げた先の涼利は、あまり興味がなさそうに独り言を呟きながら、スマホの画面に視線を落としている。そろそろ薄暗くなってきた時間帯、地下水路の中もまたそこかしこから帳とは違う闇が濃くなってきていた。その中で、スマホの液晶の青い光がぼう、と浮き上がっている。

 

「とは言え、君の術式そのものは問題なく扱えていたんだ。真人と会ってまだそれほど経ってないんだよな」

「あ、はい。だいたい2週間くらいですかね…」

「なら、取り立てて出来ていない訳じゃない。初めから何もかもできる奴の方が稀だ」

 

つらつらと、淀みのない調子でそう言い切った女性は画面を何度か爪でタップし、それに合わせて軽やかな電子音が一度流れた。それを確認した彼女は「もうこんな時間か」と誰に言うでもなく呟いた。電源を落としたスマホを、洒落たデザインのレインコートに仕舞った女は、もたれかかっていた壁から離れて、すたすたと順平の方に歩いてきた。

 

先だって、順平がビョルン・アンドレセンに例えたその顔立ちは、薄暗がりの中でぞくりとするような雰囲気があった。かの俳優とは全くタイプの異なる(それどころか性別も違う)のだが、やはり相当な美形である。甘さが無く、どこか硬質な輝きがあって、鋭利だ。過不足や歪みがどこにも見当たらず、全てのパーツが正しい位置にある。ガーゼや包帯で顔の何割かが隠されてはいたが、それは彼女の持つ美しさを損なうことすらできていない。

順平の同級生の女の子にはとても真似できない、見るものを思わずたじろがせるような面差しだった。

 

 

「回数をこなせばすぐに帳は降ろせるようになる。同じ呪力操作でも反転術式は完全に相性やセンスの分野だから、出来ないなら諦めた方がいいし、それに時間を使うより術式を磨くのが有意義だろうな–––と言うか、おい、真人」

 

言葉を切って、涼利が奥の方に居る真人を見やった。

青年はちょうど作った改造人間を飴細工のようにして遊んでいる真っ最中で、どう見ても質量保存の法則が適応されていない変形を遂げたそれがどこかで限界を迎えたらしく、派手に吹き出した血がばしゃりと音を立てて真人の体を濡らしていた。

その呼びかけに、ペンキを頭から被ったような状態で、青年がきょとりとこちらを向く。

 

「お前が教えてやれっつったくせに一人遊びしてんなよ。彼みたいな使役系の術式持ちなら、作った改造人間と戦わせて慣れさせる方がいいんじゃないのか」

「え?あー、それもそうかもね。まあ、君もなかなか教えるの上手かったとは思うよ。同じ人間同士の方が感覚が掴みやすいのかなぁ」

「妙に上からだな、お前………」

「それにさあ、」

 

に、と真人の唇の端がゆっくり持ち上がる。先程ビョルン・アンドレセンのネタで散々笑っていたときとは違う笑みだった。嘲ってやろう、悪意を持って揺さぶってやろうと言う意図をわざわざ隠していない、露悪的で厭らしい表情。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・

「誰かに教えられたことのある奴の方が教えるのも上手いって、よく言うだろ?君もその類なのかと思って」

「かもな」

 

たっぷり込められた悪意に反して涼利の反応は薄い。相も変わらず感情の読みにくい、凪いだ顔で真人を見返している。青年は口を尖らせた。

 

聞いていた順平には何のことやらさっぱりだったが、恐らくは彼女の反応が真人の期待していたものではないのだろうな、と言うのは薄らと理解できた。多分彼は、涼利が怒ったり戸惑ったりするのを見たかったのだ。そういう、順平にも見覚えのある、いじめっ子のような表情だった。「心というものは存在しない」と言い切った彼にしてはずいぶん、似合わないようにも思える。

 

「えー、何その反応。君ってほんとつまんないなぁ。魂の代謝が少ないっていうか、揺れ幅が小さいっていうかさ………」

「そいつはどうも。お前を楽しませていないことが何より嬉しいぜ。じゃあ、そろそろ仕事の時間だし、私は先に戻るかな」

 

別れ際の挨拶とかは特に無いまま、彼女のすらりとした姿が瞬きの間にその場から消えていた。つい一秒前まで、確かにそのレインコートを着た長身が暗い地下水路の自身のすぐ近くで立っていたはずなのに、陰も形もない。ついでに、残穢も何故か残っていない。

漫画やアニメにあるような、煙や魔法陣や呪文や残像も無しに、元からそこには誰も居なかったかのように消え失せている。

 

–––まさに、神出鬼没。

ありがちなキャッチコピーが吉野順平の頭に浮かんだ。

 

もう少し彼の動体視力が良ければ、郡上涼利の肌の上に浮かんだ無数の赤い文字が見えたかもしれない。が、彼の目には薄赤い光がほんの僅かに映っていただけだった。

 

 

「………今のが、あの人の術式なんですか?」

「厳密には、そのひとつだね』

真人はまた、にやにやしている。楽しくてたまらないという顔だった。

「彼女、『シキトリ』って名乗っただろう?」

 

順平はこくりと、ひとつ頷く。郡上涼利と言う女の本名を、この少年は知らない。呼べるのは、彼女が堂々と『プライバシー保護の為の偽名だ』と冗談なのかどうか分からない口調で言ったそれひとつだけである。

「あれ、彼女の通り名みたいなものなんだよ。で、言葉遊びでもある」

人間だからそう言うの好きなんだろうね、と馬鹿にした口調で言いながら、真人は手にした小さな改造人間を放り投げては、またキャッチしている。

「言葉遊び?」

「そう、好きの反対を無関心と言い換えるのとはちょっと違うけど。『シキトリ』は意味のある漢字が当てられているんだ。それが分かれば彼女の術式も分かると思うよ」

 

ぽん、と目の前に飛んできた手乗りサイズの改造人間を慌てて受け取める。濃くなってきた闇の中で、暗い色をしたそれをきちんと視認できた自分自身に、順平はふ、と奇妙な成長のような、優越感のようなものを思った。暗闇の中で淡くひかる呪力。以前の自分には見えていなかったもの。他の方には見えないもの。暗がりに潜んでいるもの。

 

「俺は彼女の術式、なかなか好きだよ。知りうる限りじゃ2番目に、人間らしい術式だと思ってる」

「………ちなみに1番目は?」

 

後から思ってみてもそれは愚問だった。真人とシキトリと名乗った彼女がどんな関係であるとか、なぜ呪詛師と呪霊が組んでいるのか、とか聞いておけばよかったのかも知れない。なのにその下らない質問をしてしまったのは、映画館での出会いから続く、この残忍で魅力的な呪霊に吉野順平が少なからず惹かれていたのだろう。そして、この呪われた世界のことにも。

 

 

 

「もちろん、俺の無為転変だよ。人を呪う胎から生まれた俺の術式こそ、もっとも人間らしいものに他ならない」

 

地下水路の中は、今やほとんど闇に近かった。僅かに切れかけた電球の逆光で、真人のいるハンモックの上はより濃い闇がわだかまっている。その黒い空間の中に真人の顔も沈み、距離もあるからかその表情は定かではなかったが、笑っている、と順平は何故かそう感じた。

 

 

 

–––シキトリ。しきとり。術式を他者から盗むから、式盗り。

 

簡単で面白みの無い言葉遊び。そもそも呪いである真人にしてみれば、己を根幹を表す名を2つも持つと言うのが信じられない行為ではあるが、同じものをいくつもの側面からいくつもの言葉で表すと解釈すれば、案外面白いのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同時刻に、とある都内の廃ビルでレインコート姿の女が男の死体を蹴って転がした。ごろり、とされるがままの男のこめかみからは、矢尻が飛び出し、細く一筋の鮮血が流れ出していた。力の抜けて肉の塊になったそれに、涼利は手を当てる。まだ死んでさほど時間が経っていないからか生緩く、そして柔らかい感触だ。

 

–––ずる。ずるずる、ずるり。

 

何かが抜け出す音だった。這い上がる音だった。

初めは見た目に変化の無かった両者だが、徐々にそれが訪れる。涼利の手が触れた部分を中心に鈍い光を放つ赤い文字が浮き上がり、それが生き物のように集まって進んでいく。数秒もせずにそれは一つの文章になって、完全に涼利の体表に書かれたものになり、そしてふつりとその光が途絶えた。

 

 

 

 

 

式盗り。剥式呪法の担い手。

 

本来なら、生まれながら術師ひとりにつきひとつしか持ち得ないはずの術式を他者から剥奪し、自分のものとする術式だ。古代から隣人を妬み、憧れ、奪い取るために傷つけあう人間の変わらぬ営み。彼女の術式は、まさに人間の数ある悪性の、ひとつの現れとも言えるだろう。

そしてその持ち主である、レインコートを着て、ガーゼと包帯に顔を隠して、凪いだ目をした呪詛師。魂の代謝が他人と比べて少ない彼女のことを、真人は思いの外気に入っている。夏油傑とどう言う関係なのか、ちょっかいを出してやろうと考えるくらいには。

そんなよからぬことを真人が考えていたからか、廃ビルから出るところだった涼利は、小さいくしゃみをひとつした。




用語解説 

・郡上涼利
美々子と菜々子を養ってる。ビョルン・アンドレセンには似てない。シキトリと言う偽名は、身元バレを防ぐために名乗っており、大体は敷鳥という当て字を使う。中二の頃に自分で考えた。

・ミミナナ
主人公の家の居候。料理が上手いのは菜々子、掃除とかがマメなのは美々子。

・郡上家
激安事故物件。大学進学を期に主人公が買った。4〜2級呪霊が出る。一応人除けはしてるが、たまに心霊スポット凸とかされるときがある。盗むものが何もないので誰も施錠をしない。準一級以上が出現しないのは、出るとすぐさま涼利に術式を引っ剥がされるから。

・首吊ってるひと
前の前の前の住人の愛人と言う噂。地元でマイナーながら知名度があるので殺してもまた出る。2級くらい。

・シルバーリング
涼利の使ってる呪具。十種の武器を持ち運べる。メリケンサックとして使ってもいい。ごつい。

・ビョルン・アンドレセン
作者の推し俳優。一時期待ち受けにしてた。


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第三話

切りどころが分からなくなって、めっちゃくちゃ長くなりました。ファンブックは買えなかったので、電子書籍にしました。作者は夏油さんと誕生日がいっしょだったので嬉しい限りです。


家は、テリトリーだ。

 

人間の生活の拠点であり、起点となる場所。自らのもっとも安全な、安心できる場所である。世界で最もセキュリティの厳しいシェルターにいるより自宅にいる方が、くつろげるという人間も多いだろう。

自分や信頼できる家族が選んだ家具や生活の道具、過ごしてきた時間の長さ、共に暮らす人間。そういうものが積み重なり、家というのはある種の領域になる。決して自分を脅かさない、安全で居心地のよい、自分の延長線上にある空間。

 

–––ならば今、この家は吉野順平のテリトリーではなくなりかけている。

彼は、玄関のドアを閉めながらそう考えた。バイバイ、と手を振る真人の後ろ姿が、夕闇の中の廊下の暗がりに消えて見えなくなるのを待って、閉めたドアに鍵を掛ける。

昔から、鍵を閉めるという動作は、好きだった。空間が完全に閉じられて、誰も入ってこない場所になる、儀式のような気がしていたから。でももう、そう考えることは順平にはできなかった。

 

フローリングの廊下を歩いて戻ると、相変わらず見慣れたリビングには唯一の同居人である母の死体と血の海が広がり、クーラーをかなり低い温度でかけているからか、ぞわりと順平の肌が震えた。今朝起きてもう何時間も経つのに、母の遺体ひとつによって順平の家はもう順平のものではなかった。世界で一番安心できる、居心地の良い空間はどこかに行ってしまった。別の、知らない人の家と言われた方がまだ納得がいくくらいだ。

 

 

 

そのリビングの中で、郡上涼利は中腰で順平の母の死体をまじまじ見ていた。明るい白熱灯に照らされて、レインコートのポケットに両手を突っ込んだまま、じろじろと上から下まで舐めるように眺めている。血溜まりを上手いこと避けた位置から、母の遺体の周りをゆっくりと歩き回っていた女は、廊下のドアを閉める前に順平が入ってきたことに気づいたようで、背を伸ばして少年の方を向いた。

 

「真人は帰ったか?」

「………はい。あの、お話って何ですか」

 

リビングの中に郡上涼利がいるだけで、順平の自宅は何となく安っぽい映画のセットのように見えた。海外の刑事物か、それでなかったら超能力者のでてくるSFもの。その導入部だ。ありがちな悲劇から、主人公の物語が始まる場面。それぐらいに、現実味のない光景だった。

 

そう言えば、物心ついた時から順平は女性を家に招いたことがなかったので、彼女は記念すべき第一号だった。その涼利は、真人と共に順平の自宅を訪れて死体を前にしてもあまり興味がなさそうな素振りを見せていたが、何故か真人が帰る頃になって順平に話がある、と言い出して青年を先に帰していた。真人もその彼女の話とやらに興味津々だったが、涼利が「今帰らなかったら、お前が読みたがっている本を大学の図書館からもう二度と借りてこない」と脅したので真人は順平の家を後にしていた。以前「カラマーゾフの兄弟」の表紙を剥がして返した彼に、涼利はまだ本を貸しているらしい。

 

 

「まず聞いておきたいんだが、吉野家は何宗だ?」

「えっ?」

 

母の死や、これから計画していることについて何かあるのか、という順平の予想に反して、全く関係の無い質問だった。ふざけているのか、と思って見上げた先の女の顔には特にそういう色は浮かんでおらず、順平の顔をじっと見ている。母の死体を見ているものと全く同じ、温度の低い目つきだった。

 

「え、あの何宗って、何がですか?」

「君の家が何の宗教を信じているか、ということ。無宗教でもいいが、要するにどういう形で葬儀をする予定なんだ」

 

ある意味では死体について真面目に考えてくれている、と受け取ってもいいが、間違いなく配慮に欠けた質問だった。実母を惨いやり口で殺されたばかりの思春期の少年に、「葬儀の予定は?」と聞く奴は世の中広しと言えどそういない。葬儀屋だってもうちょっとマシな聞き方をするだろう。澱月を出さなかったし、殴りかかりもしなかった吉野順平少年の忍耐はなかなかのものだった。単純に、そういう気力が順平の中には枯渇しており、何度かの付き合いの中で、彼女の悪意なくそういう物言いをする所に慣れていた、というのも理由のひとつだが。

 

「いや、ちょっと分からないです…最近はずっと親戚の葬式とかも無かったですし」

彼女の無神経さへの僅かな怒りと、質問の無稽さに戸惑いながらの順平の答えに、涼利はひとつ頷いた。

「特に気にする必要は無さそうだな。次だ。十中八九火葬だろうが、もしかして土葬の家柄だったりするか?」

「な、」

今度こそ順平は絶句してしまった。吹き上がるような怒りが、少年の臓腑を焦がす。

「何が言いたいんだ!母さんのし、死体を前にして火葬だの土葬だの、ふざけてるのか!?」

 

普段の順平なら考えられないような大声が、びりびりと部屋を揺らした。音量がうるさかったのか、隣室からドン、と壁を叩かれて、その音にまた順平の苛立ちが募る。目の前の涼利の無神経さもそうだったが、母を殺されたばかりの悲しみや混乱、殺したであろう呪詛師への怒り、無力感、理不尽さ、真人に囁かれた復讐によって押さえつけられていたそういう感情が一気に、毒のように順平の体内をめぐっていた。

 

涼利の白皙は、相変わらず能面然としたままだ。白い光に上から照らされて、ぴくりとも動いていない。整っているだけに、彼女の真顔はいつも怖いと感じていた順平だったが、今はその怖さも忘れて掴みかからんばかりの勢いだった。

 

「別にふざけてないが。それによってやり方も変わってくるから確認のために一応聞いてみただけ」

「やり方………何の?」

「修復だ。君の母親の死体の。流石にこの状態だと、色々不味いんじゃないのか」

「修復、って」

 

その言葉に、レインコートの女から目を外して、母の死体を見下ろす。何度見ても、その度に目を逸らしてしまうだけの惨い状態だった。順平の母・凪は背が高かった。高校に入ってからもまだ、れっきとした男子である順平は母より背が低いままだったほど。その、母も自慢にしていたすらりと長い足は、腰から丸ごとどこにもない。青褪めた上半身はまだマシな状態だったが、ところどころ肉が齧られた痕が残っており、黒く酸化した血液が付着している。腰の断面からは僅かに脊柱やどれがどれかも分からない内臓ががはみ出していた。そして、何より。もう人の匂いがしなかった。嗅ぎ慣れた母の香水ではなく、血と饐えた肉のそれが鼻をつくのが、どうしようもなく順平を虚しくさせた。

 

「シキトリさん、直せるんですか」

こんなに、ひどいのに。こんなに、ぐちゃぐちゃになってしまったのに。

その惨状に、涼利への怒りがすう、と引いた。彼女が母の死を悲しんでくれていないのは分かってはいたが、母の遺体の状態がひどいというのは確かな事実だった。死体を修復しても母は戻らないけれど、元の状態に戻せるのなら順平だって戻してやりたかった。

 

「できる。私はエンバーミングの本職じゃないが、それっぽいことなら呪術で可能だ。下半身を作るだけならそこまで時間もかからないだろ」

「体を切ったり、は」

「修復するのに何で解剖が必要なんだ。爪と髪が多少いるだけだ」

「………母さんは、元通りになるんですか」

 

言いながら初めて、順平は母の遺体をどうしてやるつもりだったのか、自分が考えていなかったことに気がついた。朝に母の遺体を見つけて、混乱して、真人に連絡をとって。ずっと、母がどうして殺されなければならなかったのか、殺した犯人を殺す計画を立てたりはしていたけれど、事切れた母をこの後どうしてやるのか考える余裕もなかった。

 

そうだ。人が死んだら、お葬式をして、悼んでやるのが普通なのに。どうして忘れていたんだろう。

 

順平の言葉に、床に座ってリュックサックを漁っていた涼利は「完全に元通りは無理だが」と言いながら、何やら取り出していた。ゴム手袋や、謎の大きな入れ物、ゴミ袋、マスクなどをぽいぽいと放る仕草は手慣れている。

 

「今よりマシにはなる。どうする、やるか?」

 

端的な質問だった。ここに至ってもなお、彼女には順平への気遣いや躊躇いと言ったものは、かけらも見せないまま、ひたすらに静かな目で彼を見ている。

沈黙が流れ、順平はシャツの裾をぎゅっと握った。いつだったか、母が買ってきてくれた、少しダサいデザインのそれに、皺が寄る。クーラーの音しか流れていない部屋が、ひどく嫌だった。この家にいれば沈黙だって心地よかったはずなのに、もうそれは一生戻ってこない。母の体のことなのに、母はもう自分で決めることすらできなくなってしまった。

 

「………はい。お願いします」

 

長い沈黙の後に、絞り出すような順平の答えに涼利はひとつ頷いて、彼に背を向けると、リュックサックから取り出したブルーシートをリビングに広げ出した。事故現場に引かれるようなそれの、目に痛いほど鮮やかな青色が、見慣れた家を侵食していく様子は、やはり現実味がない。

 

あ、と声を上げた涼利の白い顔には、僅かにブルーシートの青が照り映えていた。彼女の付けているシンプルなピアスが、白熱灯に反射しているのをぼんやりと眺めいた順平は、その声に意識を引き戻された。涼利を見ると、床にしゃがみながら順平を見上げている。

 

「言い忘れてた。有料だ」

 

金取るのかよ。順平が言おうと思っていたお礼や、大声を出したことに対する謝罪の言葉がすごい速さで喉の奥に引っ込んだ。

 

晩夏の落陽が、西から赤く差し込んでくるのを、涼利はカーテンを引いて遮ると、指に嵌めたシルバーリングを全て外してリュックサックにしまい、ゴム手袋をつけた手で順平の母の前髪を払い、瞼を閉じさせた。その無表情や気遣いの欠片もない発言にはひどく不釣り合いなほど、やさしい手つきだった。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

吉野家のリビングは猥雑としていた。

ブルーシートが広げ終わった瞬間に、もうそこは順平の家の中でありながら切り離された場所だったが、時間の経過とともにそれは加速度的に乖離していた。床だけに視線を落としていれば、そこが何のための場所なのか分かる人間はほとんどいないだろう。

 

青い地面の上には、ゴミ袋やバケツ、謎の札が数枚、サランラップ、2リットルのペットボトル、爪切りやハサミ、挙句の果てには何故かクイックルワイパーなどが整然と並べられている。その大半には血糊や謎の塊がべっとりこびりついていた。明らかにリュックサックの体積を大幅に超えたそれらの器具は、まとめてシートの一部分に寄せられており、床の大半を占めるのは全く別のものだった。

 

土。正確に言うと、赤みがかった粘土の固まり。すべて集めると洗濯物のカゴ一杯分よりまだ多いくらいのそれは、涼利がリュックサックから出してきた袋入りの大量の粘土に、クイックルワイパーで床を拭き取ってから絞った順平の母親の血を混ぜ込んだものである。

 

時間経過によって変わる電灯が、白からオレンジに切り替えた光の下で涼利はそれを一心にこねていた。ブルーシートの上、彼女の手の中にある粘土の固まりは小さいもので、床に置いた大型のタブレットに表示された精密な人体図と睨めっこしながら、それを整形して並べていく。

 

手伝えることは特にない、と申し出たときに断られていたし、さりとて母の遺体に手をつけているのを放って出かけるわけにもいかず、その光景をじっと見ていた順平の視線に気づいたのだろうか。涼利がふとこちらを向いた。オレンジの光に照らされた彼女の目は、その色に染まっているせいか、平素の冷たさが少し和らいでいるようにも見える。

 

「どうかしたか」

「いえ。何でも………あの、その方法で母さんの体は元に戻るんですよね?」

 

母の欠けた下半身の所を埋めるようにして、赤い粘土で形を模した骨らしきものが、人体模型のようにきっちりと、部分ごとに並べられている。骨盤、大腿骨、脛、足の指の一本一本にいたるまで、かなり細かく作り込まれた粘土の人体模型図はほとんど完成しかけており、残すのは左脚の一部分だけとなっていた。

そうは言っても、彼女が作業を始めてからやったことは部屋の掃除と粘土の整形のみで、術式らしいものは何一つ使ってもいない。真人からも「術師としてトップクラス」と言われていた涼利を疑うわけではないにせよ、不安は確かにあった。

 

「ああ。予定より時間はかかってるけど、問題ない。この調子でやればあと15分も要らないだろうな。ご要望通り火葬用だ、焼いても骨は残る仕様になってる」

「これは……そういう、死体を補う術式なんですか?」

 

順平の言葉に、涼利は首を一度だけ横に振った。一瞥も少年にはくれないまま、粘土をこね、タブレットの人体図と差異があったのか、また形を変えていく。

 

「いや。これは本来土から呪骸を作りだす術式だ。東洋版のゴーレムと言うとわかりやすいか。通常の呪骸より耐久性に難がある分、安価で簡単に作り直すことができるのは利点だな。加えて、土に混ぜるものや核の材料によって、何に比重を置くかは作り手の自由となる」

 

今回は人体の一部を混ぜることで外見を似せることを重視した形だ、と言いながら涼利は細長く整形した腓骨を当てはまる位置に置くと、全体のバランスが崩れていないか確かめるためにひょいと立ち上がった。

 

呪骸、と順平はつぶやいた。真人から自立する術式を刻まれた人形のようなもの、と聞いて自らの操る式神を思い描いていたが、こうして作られるところを見るとかなり違う。

 

「呪骸と、澱月みたいな式神は違うんですよね」

「材料と視認の有無の違いだな。君の式神は君の呪力で作られ、呪骸は現実にある物質を材料に作られる。従って式神は呪力なしの一般人には見ることが不可能たが、呪骸は猿でも見える。あとは術師なしでも動けるかどう、」

 

ぴたっと涼利の言葉が途切れた。見れば彼女の手も動きを止めている。ぎぎぎ、と後を立てそうな具合で彼女は首をひねって順平の方を向くと焦った様子でゴム手袋を嵌めたまま、マスクをした口を覆っている。沈黙の中でクーラーの可動する音と、遠くから聞こえる町の喧騒のみがつかの間部屋を流れた。

 

「………今、私なんて言った?」

「えっ、あ、術師なしでも動けるかどうか?って」

涼利は首を振った。砂色の瞳孔が見開かれていて、順平は初めて彼女が動揺したところを目撃していた。

「そこじゃない。その前だ」

「猿でも見える?」

「そう……………ウワ最悪。移ってるじゃねぇか」

 

乱暴な仕草で彼女は頬のガーゼを引っ掻いた。涼利がこうもはっきりと感情を表に出すようなことは、幾度かの付き合いのなかでも初めてだったので、物珍しい気分で彼女の白い顔や、顎の高さで揺れている黒髪を見やった。彼女は何度か、マスクを上げたり下ろしたりしてから、また鼻まで引っ張り上げる。

 

「あー、つまり、猿って言うのは呪術界のスラング、非術師を指すめちゃくちゃ下品な言い方だ。気分悪くしたならすまん」

「いえ、別に大丈夫ですけど…どの世界でもあるんですね、そういう差別用語みたいなの」

涼利は苦々しい顔で幾度か首を振ってため息をつくと、嫌そうに骨を一本また床に置いた。それからしばらく黙ったまま作業は進んでいき、10分ほどしてからこれでひと段落だ、と彼女は宣言して順平の母の遺体を離れた。

 

 

母の青褪めた上半身の下には、精密に組まれた赤い骨組みが出来上がっていた。足の踵などの細かい部分は、流石に全ての骨が再現されているわけではなくまとめて一つの部品のようになっているものもあったが、それでも全体の完成度は高い。小学校の頃に理科の実験室に置いてあった人体模型のそれとかなり近くなっていた。粘土でできているので質感は本物よりくにゃんと柔らかく、平面的ではあるが、暗赤色で色づけされているために妙な生々しさがある。

この1時間ほど見ても、母の生前と変わらない上半身の下に骨だけがある光景は、出来の悪いコラージュのようだ、と順平は思った。

 

ここから新しく肉付けにあたる作業をやるのか、と考えていると涼利はすぐに戻ってきた。ゴム手袋を外した手に、先程まで床に置いていた謎の札らしきものを手にしており、折り畳まれたそれは何かを包んでいるように盛り上がっていた。大きさは手のひらの半分くらいだろうか。それを赤黒い粘土で作られた骨盤の上に置くと、涼利は順平の方を振り返った。

 

「これで完成だな。今置いたのが呪骸の核だ。今回は君の母親の爪と髪を呪符で巻いただけのシンプルなものにした。本来はここに細かい術式なんかを書いたりして自立稼働させるんだが、それは省略だ。動かす必要ないからな」

–––始まるぞ。見たくなければ別にいいが。

 

涼利のその言葉が終わる頃に、順平の母の遺体は変化し始めていた。濃いオレンジの光の下、青い地面に寝た母の骨盤の呪符を中心として、ピンク色の肉が生み出されていた。本来そこにあるはずの血管や神経は存在しないまま、形容し難い音を立てて、ものすごい速さで腰、太腿、ふくらはぎと上から筋肉が骨にまとわりつき、その上に何層かの皮膚が貼られていく。最後に足の指に爪が生え終わるまでおよそ30秒程度で、順平の母の体はほとんど元通りのシルエットを取り戻していた。どこから持ってきたのか、涼利がゴソゴソと母の下半身に服を着せてやれば、母はまるで眠っているようにすら見えた。

 

「確認してみてくれ。違和感があれば直す」

 

恐る恐る母の足に触れると、滑らかですこし固い感触が伝わってきた。呪術に使う人形の作り方を流用しているからか、生きた人間そのものと同じ触感ではなかったが、それでも充分すぎるほどだった。穏やかな寝顔、上と下で分たれていない体。今日の朝起きて、きっと見られると思っていた順平の母の寝姿がそこには再現されていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

「あの………今日はありがとうございました」

廊下のドアを閉めた後、クーラーがかかっていないせいでむっとした熱気のこもる玄関の段差に腰掛け、口を動かしながらアディダスのスニーカーを履いている涼利に順平がそう礼を言うと、わずかに首を傾げられた。

 

「何が?」

「いや、母の体をわざわざ直してくれたことが、ですけど」

 

本気で分かっていないのかはぐらかしているのか、判別のつかない表情である。彼女は、食べていたコンビニのローストビーフサンドの最後の一口を飲み込み、黒いリュックサックを背負い直して、三和土に立ち上がった。

 

「そのことなら礼は要らない。私は遺体の修復を吉野に提案し、君はそれを受けた。私の技術と労力に対して、君は報酬も支払ってるしな」

涼利はレインコートのポケットに入った財布を外から叩いた。

「君の母親の下半身は、今のところ焼かれるか核を壊されるかしない限りは絶対に変わらない仕様にしておいたが、上半身にはあまり手を加えてない。腐る前に火葬場で焼くことをお勧めするぜ」

 

それだけ言って涼利はドアノブに手をかけて少し開いたところで、ふと顔だけ振り向いた。ドアの隙間からはとっぷり暮れた夜が覗いており、外廊下を挟んだ向こうの紺の空には、明るい月が昇っていた。都心の夏、そこまで澄んでいない空気とネオンでくっきりと映らないはずのその丸い金色は、今日に限って綺麗に見えた。蒸し暑い夜の熱気に、順平は少し息苦しさを覚える。

 

「そういや君は、母親殺した奴を殺しに行くんだったか。じゃ、しばらくは時間取れないかもしれないが、できるだけ早めにな」

「………止めないんですか、僕のこと」

「止めて欲しいのか?」

 

涼利の顔はやはり静かな色が浮かんでいた。作業中に猿、と言ってしまったときのような感情は何も浮かんでいない。彼女は順平の一段下の場所に立っているので目線がいつもより近くなっていた。砂色のたじろぐような光を孕んだ眼差しがよく見える。

 

「そう言うわけじゃない、ですけど…」

「けど?」

「メリットがない、くらいは言われるかと思ってました」

 

短い付き合いではあるが、彼女はメリットを重んじる性格をしているのは順平も承知していた。彼女に頼み事をするときは何らかの対価が必要だったし、無ければ大抵彼女は引き受けない。涼利はその効率性を他者にまで強要はしなかったが、順平自身にやろうとしている復讐が理にかなっていないことの自覚はあった為、結果として順平の口からはその台詞が自虐のように吐き出された。

 

「君が殺人によって被るメリットもデメリットも、私に何ら関係ない。口を出すほど興味もない」

だけど、まあ。彼女はドアノブから手を離して、腕を組んだ。ドアがバタン、と音を立てて締まる。

「君にメリットがないのは同感だ。君の殺人で母親は戻らないし、君は呪詛師として呪術界に追われることになる。この職種は稼ぎだけはいいが、こう言う危険もあるからな」

 

順平の視界の中央に、何かが突きつけられていた。ちょうど目と目の間にあるそれを寄り目でゆっくりと見れば、オレンジのライトを弾く、黒い銃口だった。

は、と声にならない声が順平の口から溢れた。映画のワンシーンのようなそれは眉間の皮膚の上で確かに冷たい温度をもって存在しており、目を逸らすことができない。その冷たさに、これが現実であるという実感が急速に湧いてきて、我知らず、奥歯がカタカタと震え始めた。

 

順平に銃口を向けた張本人は涼しい顔で、少年をじっと見ている。いつもと同じ温度の目つきで、さっきまで普通に話をしていたことと変わらない表情で、平然と引き金に手をかけた。そのあまりのシームレスさに順平は恐怖と同時に驚いてもいた。母が体験したばかりの死が、すぐそばに迫る気配。

–––圧倒的な恐怖を前に、毒のように体内にあった怒りが萎んでいく感触。

 

映画の中で何度も聞いた、がちゃりという安全装置が外される音が響き、ぎゅっと順平が目を瞑ったが、想像に反して順平の頭が吹き飛ぶことはなかった。

 

「こうやって銃をいきなり突きつけてくる私みたいな呪詛師は、掃いて捨てるほどいる。映画で見るより怖いだろ」

ちなみにこの銃、『ジョン・ウィック』の第1作で主人公が使ってたやつなんだ。淡々とした口調と、突きつけられている銃口という状況の差に、混乱の最中にある順平の頭はぐらぐらした。一体何が、起きている。

 

「呪殺にデメリットしかないとしても、どちらにしろ君の判断だ。復讐にメリットを求めるのも妙な話だし、私が説教できるようなご身分でもない。私のやってることだって側からみたら復讐みたいに見えるんだろうしな」

 

涼利は器用に肩をすくめてから拳銃を順平の眉間から下ろした。どっ、と止めていた呼吸が戻り、冷たい汗が顔からたらりと垂れた。未だに眉間に冷たい感触がのこっているような気がして、手で撫でる少年を前に全く悪びれないレインコートの呪詛師は銃の安全装置を戻してポケットに入れた。

 

「そう言うことだ。やるなともやれとも言わないが、やるなら危険性は分かっておいた方がいい。呪詛師としてのアドバイスだ」

「…ありがとうございます………?」

 

先程閉じたドアがもう一度開かれ、また蒸し暑い風がなだれ込む。いきなり銃口を向けたことに謝罪もないまま、涼利は「邪魔したな」とだけ言ってマンションの廊下を歩いて去っていった。スニーカーを履いた彼女は足音を立てることもなく、あっという間に暗闇に溶けた。

ばたん、とドアが締まり、その音と共に順平は膝が抜けて床に座り込んでしまった。

 

母の死。真人が囁いた復讐。呪詛師。赤い骨組み。母の眠ったように安らかな顔。肉が作られていく生々しい音。ブルーシートの青さ。

–––たった今向けられていた銃口の感触。

 

今日の朝起きてからの何もかもが走馬灯のように順平の頭をよぎり、頭を抱えた。何もかも順平のこれまでにはなかった出来事、抱いたこともないような感情ばかりがいきなり大群となって、この1日の間に体験してしまったものだから、少年の脳はいよいよ限界に近かった。その様々な感情が渦巻く、母を失ったばかりの順平には今日の全ては都合の悪い夢のように思えたが、ひとつだけ確かなこともあった。

 

「くそ、何がアドバイスだ………」

 

絶対普通に殺すつもりだっただろ。母の遺体を直してくれた涼利への恨みごとを聞くものはどこにもおらず、遠くの方でクーラーのごう、と風を吹き出す音が聞こえるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

–––昼を、偽の夜が塗り替えて行く。

 

 

いつだったか、吉野順平が地下水路で練習していたものとは、規模も密度もまるで違う帳が、文字通り空から里桜高校の敷地を包み、覆い被さってゆく。無から有が生まれる。その黒い天蓋の中には、月も星も、風すらもない。どこまでも厚い雲が続く、光のない不自然な夜空のみが広がっている。

 

現在、この高校の内部では呪力を持ったものには暗い夜が、そうでないものには変わりなく明るい昼が見えるようになっている。そして出入りは外からの一方通行のみが許され、中からは決して出られない。帳の作り手の経験の浅さに反比例して、ほとんど完璧に近い出来だった。

 

 

 

古びたコンクリート製の校舎のひとつ、その屋上。いかにも青春もののドラマに出てきそうな、簡素で無骨な造りのそこ。平素は厳重に鍵をかけられている筈の場所には、2人の男の姿があった。

似たような黒い服を着た2人の内、片方は継ぎ接ぎの青年で、残った方は黒髪の仏像じみた顔の、もういくばくか年嵩と見える男。真人と、以前五条悟と火山頭の呪霊が戦っていたときに居た、袈裟の男だった。

 

 

「うーん、できたはできたんだけどなぁ………」

 

何やら真人の顔は不満げだった。偽とはいえ十二分に暗い闇の中でもはっきりと分かるように、幼稚な口の尖らせ方である。今は袈裟ではない服に身を包んだ男が、唸っている真人を不思議そうに見た。

 

「おや、どうかしたのかい。初めて帳を下ろしたにしては充分な出来だと思うけどね」

真人は手をぐねぐね動かしながら男の方を向いた。

「いや、前に郡上が帳を下ろし方を順平に教えてたときに、応用として色んな効果つきの帳を作っててさ。俺にも出来るかな、と思ったんだけど。結構難しいもんだね」

 

薄暗い地下水路の中で、一定の速度より決して速くも遅くもならない、淡々とした説明を加えながら、黒い帳を自在に操るレインコートの女の姿が真人の脳裏には浮かんでいた。

この男『夏油傑』と名乗る男が一時的な協力者として連れてきた呪詛師・郡上涼利は、戦闘能力もさながら、帳を下ろす腕前に関しても一級品だった。

 

 

「数千種類の術式を扱うということは、数千種類の呪力の流し方を熟知することと同義だ。先天的な才能というより彼女の剥式呪法の都合上、後から身についたものだけど、こればかりは他人が容易く真似できるものじゃあないだろう」

「フーン。で、郡上、今日は来ないんだよね?」

 

真人は、帳にはもう興味を失ったようだった。彼の発音は時々幼い。「郡上」は「グンジョー」のように、妙に延びて間抜けっぽく聞こえる。そのまろやかな響きには似合わない、目つきの悪いレインコートの呪詛師は、屋上に姿が見当たらなかった。

 

「あぁ。今日は別件で仕事があるらしいね」

 

郡上涼利は、別に『夏油』の部下でもなければ、真人たち呪霊の思想に共感して動いているわけでもない。利害が途中まで一致しているということで、一時的に協力しているだけである。なので彼女個人でやっている仕事で、真人たちとは全く違う行動をとることはよくあった。むしろそこそこ知名度のある呪詛師であり、大学にも通っているだけあって、真人らと行動を共にする方が珍しいくらいだ。

 

 

「それは残念だ。せっかくだから順平が可哀想に死んでいくの、見せてやろうと思ったのに。郡上がどういう反応するか、ちょっと見てみたかったな。彼女、順平のこと結構気にかけてたみたいだったし」

 

真人は、暗闇の中で楽しげな笑みを浮かべていた。彼は不機嫌そうなときの方が少ない性質だが、今日は特ににやついている。誰かの誕生日パーティーをめちゃくちゃにしてやろうとする、意地の悪い悪役みたいな笑い方だ。

「おや。君も存外、あの子のこと気に入ってるみたいだね」

「まあね」

『夏油』があの子、と口にしたのを聞いて、真人はより笑みを深めた。彼自身気づいていないようだったが、その発音はじつに柔らかいものだった。聞きようによっては、人間がわずかな愛情なんかを見出しそうな響き。

 

 

 

 

郡上涼利という人間は、極めて安定している。平坦で冷静、ぶれが少ないと言い換えてもいい。軸がずれたり、他者からの影響を受けることがほとんどないのだ。彼女はいついかなる時も自らの価値基準のみにそって行動するし、彼女自身もそう公言して憚らない。

 

 

彼女はいつだか真人が出会った老人とは違う。植物のように、魂の代謝が無に等しかった老人とは異なり、真人の特別な目には小さく揺れ幅が少ないとは言え、彼女の魂が時折動く様子がはっきりと映っていた。だが不思議なことに、彼女の行動は魂の代謝に振り回されることが少ない。快感、不快感、僅かな嫌悪、好感。魂がそれぞれ違う動きを見せたとて、彼女は変わらないままだ。

 

人間が感情と呼びたがるそれは、彼女の内部にたしかに存在するが、まるでそんなものはないかのように彼女は行動する。どんな風に魂が代謝したとて、いつも同じ凪いだ目で世界を静かに睥睨し、淡々とした口調で話し、当たり前のように術式を使う。感情と全く異なる行動をする人間は、その軋轢にストレスを感じるものも多いが、彼女は全くそんな様子でもなかった。

 

知識欲の旺盛な真人は、この魂の代謝と肉体のとる行動が妙ちきりんな女について興味津々だった。代謝があまりにも微量だから行動にまで影響が及ばないのか、彼女は感情と行動を完全に切り分けることができるのか。知りたい、と考えた。

 

その答えのひとつが、横の男だった。真人の視線をよそに、男の黒髪が夜風にたなびいてる。時折、ほんの僅かな時間に、涼利の魂は夏油傑を目にして、不快感や嫌悪の類の代謝を行う。そして、その中でもごくたまに、彼女の眼差しは変化する。いつもの乾いた砂のようなそれから、踏まれた花を憐れむようなものにして、男を見ている。魂の代謝に引っ張られて、肉体が確かに影響を受けているのだ。常人より遥かに少ないけれど、彼女にもそれに振り回されるときが存在している。

 

それをもっと見たい、と真人は思っている。この男と涼利の関係を詳しく知っているわけでもないけれど、あの、安定した、いつも一定の温度で生きている女が、たかだか魂の代謝に振り回されて激情に駆られ、その情動のままに動く愚かな様を見て、心の底から嗤ってやりたい。それは、真人の密やかな望みの内のひとつでもあった。

 

 

 

 

 

眼下の校舎の端の方で、わあっと一度喧騒が広がり、そして一瞬でそれが静まった。感知した呪力は、確かに順平のものだ。どうやら講堂の制圧はつつがなく完了したらしい。なら、もうすぐ真人の出番になるだろう。そう判断して、屋上のコンクリートの縁から立ち上がると、傍の夏油は外套を被り直していた。

 

フードのに隠れた男の顔は、ちょうど影になっていることで、額の縫い目が見えなくなっている。その横顔は闇の中でもごく淡く笑いが浮かんでいる。真人の、どこか無垢の入り混じった酷薄を伺わせるものとはまた違った、匂い立つような邪悪が、その面差しには宿っている。

 

「そう言えばさ、10月31日のときに郡上は五条悟とぶつけるんだっけ?」

ふと、今後の予定について真人が気になっていたことを尋ねれば、夏油は首肯をした。

「ああ。君たちだけだと、民間人を巻き込んでも旗色は相当悪いからね。彼女には足止めに入ってもらうよ」

 

柔らかな声で紡がれる計画は、立板に水をかけるようにするすると流れていく。どれほど悪辣な内容であっても、男が話し出せば不思議と、説法や読経のようにも聞こえるような錯覚すら聞くものに与えた。

 

「郡上涼利は五条悟に勝つことはできないが、この現代において唯一、五条悟に傷を負わせうる術師だからね」

男の笑みは穏やかなままだった。以前漏瑚に『負けるよ』とごくあっさり言っていたのと同じ口ぶりだ。

「その言葉、漏瑚が聞いたら怒りそうだなぁ。『儂があの小娘より弱いだと!?』とか言っちゃって。随分期待してるんだね、郡上のこと」

 

–––それ、肉体から?それともこっちから生まれたものなのかな。

 

ぴ、と真人は親指で額を横切る仕草をしてみせた。ちょうど男の縫合痕をなぞるような手つき。揶揄いの意図が多分に込められたその動作に、夏油はしばし黙った。彼の魂がほんの僅かな時間、代謝し、また止まるのが真人の目には見えた。

 

「どちらも、だろう。この肉体の記憶によって私は彼女の強さを誰よりも知っているし、この脳で思考するから彼女の術式の持つ価値を理解する。まあ、それにね」

 

被ったフードの奥、男の唇が歪な形に変化した。その肉体がすでに死後硬直の先にある骸が故に、どうしても夏油の笑みはぎこちなく強張ったものになる。微笑むくらいならまだしも大笑しようとすると、その顔は何とも気持ちの悪いものにならざるを得ないのだ。

安寧の中の死骸を土足で踏みにじった墓荒らしの笑みは、顔の肉がひきつれて、酷くおぞましかった。

 

「郡上涼利はたった1人の愛弟子だ。師である私が彼女を信じてやらないわけにはいかないだろう?」

 

 

一拍おいて、屋上には真人の大爆笑が響き渡った。まるで空虚な言葉。魂がぴくりとも代謝していない、悪意以外何の感情の込められない台詞は、どんな賛美歌より呪いの耳にひどく心地がいい。人間はこうでなくちゃね、と真人は内心で呟いた。

 

月も星もない、暗いばかりの夜に沈んだ学校は、もう間も無く始まろうとする惨劇などまるで知らないように静かな顔で黙っている。夜闇、復讐、何も知らない少年の愚かさ、呪い合う人々。そのどれもが、真人にとって好ましく、いたぶるための玩具だ。極上の箱庭を上から見下ろして、人の胎から生まれた呪いは、いっそう破顔した。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

ピピピピ、ピピピピ、ガチャリ。

コール音のフレーズが2度繰り返された後、電話口の向こうから何度か金属がぶつかるような音に続いて話し出した声に、吉野順平は思わずぎょっとした。

 

『はい。仕事の依頼ならできればメールで頼む』

「………………あの。シキトリさん、ですか?」

『そうだが。–––あぁ、君、吉野か』

 

相変わらず淀みと疑問符がない、打てば響くような返事だったが、聴こえてくる声にまったく覚えがなかった。ついでに知らぬ間にスピーカーがオンになっていたようで、部屋中に響き渡った音量に、少年はあわててスマホの画面をタップして通常の状態に戻すと、誰か近づいてきてはいないか慎重に耳をそばだてたが、特にそう言うことはない。

白く飾り気のない内装と同じように、夜の静寂に閉ざされている。何もかもがひっくり返った日の続きとは思えないほど、静かだった。

 

「そうですけど……本物ですよね」

『そういえば電話は初めてだったな。これはボイスチェンジャー使ってるだけだ、今は声紋認証とかあるし』

 

順平は聞き間違いかと思ってスマホにもう一度耳をくっつけたが、やはり聞こえてくるのは刑事ドラマの犯人役みたいな機械音声である。キンキンしていて耳障りな声だ。声の主の口調は変わっていないので多分本人だとは思うが、別人だとしても分からないだろう、と順平は思った。

 

『何か用か?正直なところ電話をかけてこられても、仕事は受けられないんだが。君、今高専だろ』

「………はい」

何となく気まずい思いで順平は頷いた。

『真人が宿儺の器にぼこぼこにされたのは知ってるんだけどな。–––で、殺したのか?』

「……いえ、未遂で済み––済ませてもらいました」

 

順平は、あの日涼利が突きつけた危険性も分かった上で、復讐の実行に踏み切った。真人は命は全て無価値で無意味だと言った。だからこそ何をしてもいい、とも。順平もそう思った。ならばきっと、順平が母を殺した犯人を殺したとしても、無意味な命が無意味な命を殺しただけで、そこに大した意味もない。そう言い訳をして、高校の全生徒を昏倒させ、犯人だと思っていた同級生を殺しかけた。直前で虎杖悠仁が乱入しなければ、おそらくそのまま殺していただろう。

 

「それで虎杖くんに止められたあと………真人さんに、殺されそうになって」

『へえ』

「触られる前に、シキトリさんに銃を向けられたことを思い出しました」

 

自分でも何故かは分からなかった。ただ、階段をゆっくり降りてくる真人の姿が目に映り、その手が順平に優しく触れる前に脈絡もなく思い出したのは、あの日涼利が玄関で静かに突きつけた銃口の冷たさだった。

 

『ジョン・ウィックの第1作で、主人公が使ってた奴なんだ』

 

どくん。耳の裏の血管が跳ねる音が妙に響き、あの時と全く同じように怒りが急激に萎み、圧倒的な恐怖に動けなかった。

 

真人のことを疑ったことはなかった。人間に期待しない分だけ、人ではない彼に順平は信頼を寄せていたし、彼によって順平の見る世界は確かに変わった。あの時、順平が真人にやるべきは虎杖を殺さないように頼むことだけで、警戒などする理由がどこにもなかった。なのに、順平は思い出した。思い出して、反射で震えてしまった。

 

「–––気づいたら勝手に澱月が出て、それで」

 

そうして、順平は見た。彼の手にわだかまった呪力が、暗がりの中で淡く確かに光るのを。それは真人が無為天変を発動していた証に他ならず、その対象は間違いなく順平だった。彼が触れたのが、無意識に出した小さな式神でなければ、順平は今ここにはいなかっただろう。

 

『ふうん。それで助かって、高専に保護されたわけか』

ゆっくりとしたスピードで、所々飛び飛びに話された順平の説明を聞き終わって、涼利は大体の事情を察したようだった。

「はい。呪詛師候補としてどういう処分になるかはまだこれからですけど………」

 

順平は月以外に光源のない、暗い部屋の天井を、ぼんやり見上げた。白に近い色合いだが、明かりがつけば角に書かれた文字もはっきり見えるようになる。順平は現在、高専内の一室で軟禁状態に置かれていた。とは言っても施錠されていること、式神を呼び出せない部屋であること以外は特に厳しい環境でもなく、スマホもこうして取り上げられていない。殺人の一歩手前まで行ったにしては軽い処置だ、とは順平も思っていた。

 

『経緯は分かった。それで用件は?分かってると思うが、高専の保護下で呪詛師と長電話してる場合じゃないぞ。君が内通者疑惑を深めたいなら構わないが』

「–––お礼が、言いたかったんです」

『お礼?』

「ありがとうございました。あのとき銃を向けてくれて」

 

言いながら、こんな変なお礼を言うことはこれから一生ないだろうな、と順平は考えた。

涼利が善意で順平に銃口を向けたとは思わない。むしろ善意だった方が怖い。彼女はただ、復讐に付随するリスクを提示しただけで、そこに悪意も善意もなかったのだろう、と順平は思っていた。

だけど、その鮮烈すぎるほどの恐怖の代償として、順平は今ここにいる。真人に出会って呪術を始めて知り、その出会いが結果的に順平の命を脅かしたように、涼利が向けた銃口は、順平の延命に繋がっている。それは確かなことだ。

 

『君は相変わらず妙なことに礼を言うな。それは君が勝手に助かっただけで、私は何ら関係ない。別に君が死んでも生きても特に思うことはないし、むしろ今から色々喋られることを思って若干困ってるくらいだ。』

 

スマホの画面の向こうの声の調子も相変わらず、あけすけで無神経だった。それでも不思議と、悪い気分にはもうならなかった。

 

「分かってます。あなたは僕を助けようとしたわけじゃない。真人さんが僕を殺すことも、ご存知だったんですよね」

『あいつなら絶対やるだろうな、とは思ってた』

「母さんが死んだことに同情していたわけでもない」

『もちろん』

「ちゃんと、それも分かってます。でも、じゃあどうして、母さんの死体にあんな手間をかけて修復してくれたんですか?」

『–––遮って悪いんだが、もう火葬したか?』

 

彼女はまだ火葬にこだわっているようだった。それがなんだかおかしくて、順平はすこしだけ笑ってしまった。

ベッドから立ち上がってガラス窓を開くと、夏の終わりの風が吹き込んでくる。今夜の風はわずかに涼しくなり始めており、秋が近づいてきている気配を遠くに感じた。帳の中の偽のそれとは違う、星も月もある夜だ。郊外にあるからか、その光は一段とくっきりとして見えた。

 

「いえ……でも近いうちに、必ず」

『ならいい。で、疑問の答えだが。単純に、私が個人的に死体そのものに思うところがあるからだ』

「死体、そのもの?」

『あぁ。理由なんてそれだけだ。君の母親がどう死んだかも、今際の際にどんな苦しみを味わったのかにも–––おい、愚妹その2、電話中だ。向こう行ってろ』

 

スマホ越しの機械音声が少し離れて、ばたばたという足音、続いて女の子のものらしい声が何か言うのが順平の耳に聞こえてきた。はっきり何を喋っているかは聞き取れなかったが、涼利の口から出てきたその単語に順平は驚いた。

 

「…妹さんいるんですね、シキトリさん」

しかもその2ということは、最低2人以上いることになる。何となく独り暮らしのイメージがあり、家族の話を一切しない涼利に妹のいる姉の感じは無かったので、この人家族とかいるんだ、と順平は失礼なことを考えた。

『そんな可愛いものじゃない、妹と名のつくただのニートだ』  

きっぱりとした言い方に、順平はまた少し笑ってしまった。

 

『––とにかく。君の用件は私への礼と、今の疑問の答えで良かったか?ほかに言いたいことがなければ切るぞ』

「あ、はい。………あの。もう、会えませんよね」

『当たり前だ。どうあれ私は呪詛師かつ真人たちの一時的な協力者で、君は高専の保護下にいる人物だ。会うメリットがない』

 

いつも通りのそっけない口ぶりは、機械音声によって一層のこと冷たさを増していた。全くの事実ではあるのだが、その不変が順平には少し寂しかった。一ヶ月にも満たない期間ではあったが、帳や呪力操作について教えてくれていた涼利のことを順平なりに慕っていた。その期間の分くらい気にしてくれてもいいんじゃないか、と思ったのに。

 

すぐに切られるか、と思っていたが予想に反してスマホの向こうはつかの間の沈黙が続いた。それは多分数秒の間だったのだろうが、少ししてややボリュームの落ちた声で涼利は、真人は、と口を開いた。

 

『魂は肉体の先にあるとか何とか、よく言うだろ。私はあの御託を全く信じてないんだが、君はまだ信じてるか?』

「え。どう、でしょう………今はよく、分からなくなりました」

 

いつだか火葬か土葬か聞いてきたときのような脈絡のない質問に、順平は戸惑った。真人のことは、もうわからない。自分をこの世界に引き入れ、そして殺そうとしたあの呪霊の考えは、一時確かに順平を救ったこともあったけれど、今も全く変わらないかと言われると難しい。

 

『一応最後の土産話として、サービスだ。私はあのクソガキの視界をジャックしたことがある。結果として、それっぽいものは見えた』

「……じゃあ、やっぱり正しいんですか?真人さんの言ったことは」

心なんてなくて、みんな無価値で無意味であることが、この世の真理なのだろうか。

『何でそうなる。未だに脳や魂や術式がどういう仕組みで発生するか分からない以上、あいつの術式は魂じゃなくて肉体を弄るだけのものかもしれないし、そもそも見えているのが魂だとなぜ分かる?

あとは単純に真人の頭が狂ってる可能性もあるか』

 

そこはジャックしても分からなかったから、それ以降私は信じてない。涼利はそう言うと、ふ、とかすかに息を漏らした。

 

『君の一件もそうだ。君は考えるより先に、体に染み付いた私からの恐怖で、真人の攻撃を避けたんだろ』

「そうです」

『それは魂が代謝するからなのか、肉体に何かがあってそうなるのか。私は宗教家でも哲学者でもないから知らんが、少なくとも、体はただの肉の袋で魂が無ければ何の価値もない、とは思わない。肉体には肉体の価値がある、と私は考える。君が信じる必要も全くないが』

 

その言葉に順平は、あ、と気づいた。涼利はこうやって人の死や価値について考えおり、多分それは死体についても同じことなのだ。彼女は死体にも何らかの価値を見出し、その思考の一片として順平の母の遺体を修復してくれたのだろう。

 

同時に、ちか、と思考の片隅で浮かび上がるものがある。

死体の前髪を払って、瞼を閉じさせていた手つき。私のやってることだって、側からみたら復讐みたいに見えるんだろうな。火葬にやたら拘っていた。肉体の価値。誰かに教えられたものの方が教えるのも上手いって。猿。死体そのものに思うところが。

 

『まあ、真人にだけは、魂と肉体の真理みたいなものが分かってる可能性もある。だけどその真理とやらを–––長い間たくさんの人間に研究されてきた物事を、分かりやすく極端な話にするのはカルトにありがちなやり方だ。カルトっぽい所にいた奴としてそれは言えるよ』

 

涼利の機械音声を聞きながら、それらの断片が絡まりあって、順平の中で見たことのない映像が結ばれていくような感覚だった。思考が完全には纏まらないまま、順平は言葉を吐き出すために口を開けた。何故か聞かないといけない、とそう思ってしまったから。

 

 

 

「シキトリさん、もしかしてーーーーーーー?」

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

最初に気づいたのは、やはり虎杖悠仁だった。

 

 

 

 

夜の東京高専。その、外れ。

学校の名のつく割に、文化財の寺院と言ったほうが近いような其処は街灯がほとんどなく、暗闇に沈んだ敷地内を3人の人影が歩いていた。一角にある小ぶりな建物に足を踏み入れたところで、ぴたっと立ち止まったのはその内の虎杖だけだった。

 

「あれ。何か聞こえね?つか誰か喋ってない?」

 

虎杖は並んでいた残りの2人のうち、まず右の男性を見た。かっちりとしたスーツ姿の男性である。掘りが深く、薄い色の金髪も相まって異国の血を感じさせる彼は、きっぱり否定した。

 

「いいえ。私には、何も」

 

次に虎杖は左隣を見た。見上げるほど背の高い、夜に溶け込む黒服の男性。こちらは白髪に、何故か目隠しをしている。その特徴的な容姿はこの業界のトップスターこと、五条悟以外にはありえない。

 

「僕も聞こえなかったね。ここが忌庫ならただのホラーで済むんだけどなぁ」

「ここは留置館です、五条さん。分かりきったことかと思いますが」

「オイオイ七海ィ、分っかんないかなあ僕の小粋なジョークが」

 

呆れた様子で首を振った七海と、ウザ絡みをする五条には最初どうやら聞こえなかったようだったが、3人仲良く廊下を進む内にそれはどうやら本当だったらしい、と理解することになった。

 

留置館と呼ばれる、高専に捕まった危険度の低い呪詛師を一時的に置いておく施設はさほど広くない。生徒が普段通う校舎と変わらない、和洋折衷の造りではあるが規模がまるで違う。ここに長居をする人間が少ないからだ。

呪術界という年中人手不足の業界では、よほどの大量殺人をした呪詛師か、現行犯で呪術師に殺されるかでもしもない限り、処刑ということはあまりない。捕まえたら首根っこをつかんでとびきり危険な任務に放り込むことが多い。悪い呪詛師は単純にただ処刑をするより、危険な呪霊と戦って尊い犠牲になってもらったほうが効率いいよね、という中々黒い事情によるものだ。

 

ここに留め置かれた呪詛師の寿命は短く、割とすぐ死ぬことが多いので現在の住人は1人のみである。今日の午前中に里桜高校にて殺人未遂を起こしかけた少年–––吉野順平。3人は回復した彼から事情を聞くためにここを訪れており、声が聞こえるとしたら彼以外他にいない、のだが。

 

「やっぱ喋ってるよね?」

「そうですね」

「バッチリ喋っちゃってるねぇ」

 

細い少年の声が、電気の付いていない、静かな留置館の廊下にわずかに漏れていた。中で窓を開けているのか、時折ごうごうと吹く風の音にかき消されている音量ではあるが、その語尾が上がったりしている。それは疑問符がついた、つまり独り言ではないと言うことだ。イマジナリーフレンドと会話をしているのなら別だが、彼が特にそう言う精神的に病んだ様だったという報告は聞いていない。

 

「……中に人や呪いの気配はない。電話でしょう。まだ子供とは言え、連絡手段を取り上げるくらいはやっておくべきでしょうに」

「電話の相手によっちゃあ、色々まずいんだけどね。こっちも現場の後始末なんかでごたついてたからなぁ」

 

大人たちの懸念をよそに、虎杖はこそこそと施錠された扉の前まで近寄って耳をぺたりとくっつけた。冷たい感触とともに、彼の研ぎ澄まされた聴覚は、顔馴染みの少年の声を厚い扉越しにも聞き取れていた。

五条が面白がって虎杖の頭の上に自分の顎を乗せ、呆れた顔の七海は少し離れた所で用心深く耳を澄ませているので、虎杖は何だかスパイごっこでもしているような気分になった。

 

「どう、悠仁?何かヤバいこと言ってる?て言うかこのドア防音性高すぎでしょ、何言ってるか全然分かんないんですけど」

五条が囁き声でぶつぶつ文句を言った。流石に危険度が低いとはいえ呪詛師を置いておく場所である。多少のことでは破れない扉の頑丈性は、最強の聴覚をもちょっとだけ凌いでいた。

「いや、特には………ありがとう、とかお礼が?順平めっちゃ敬語だ………風強いし聞き取りづれぇな………でも、あんま家族とか友だちっぽくない感じ、かも」

「えー、じゃあ誰と電話してんのかな。七海、お前もちょっとこっち来なよ」

 

ため息をついた七海がドアに渋々耳をつけたところで、部屋のなかでは少しの間沈黙が流れていた。それから数秒おいて、今度ははっきりと3人の耳に聞こえる音量で、吉野順平の声が届いた。

 

『ーーーーさん、もしかして』

 

電話の相手の名前らしき部分は聞き取れなかった。ちょうど、一際つよく吹き込んだ晩夏の風と、それに煽られたらしいカーテンが動く音に飲み込まれていた。

 

 

 

 

『あなたの大切な人の死体は、大切に扱ってはもらえなかったんですか?』

 

 

 

静かな声だった。虎杖が聞いた、少しはにかむような細い声とも、激情に駆られていたときの大声とも違う。親しい誰かを心配するような、そんな声で、吉野順平は信じられないようなことを口にしていた。虎杖が反射的に動こうとしたのを五条が押さえて、七海に口の形だけで「鍵出して」と言った次の瞬間。

 

『待ってください、ちょっと、』

 

また少し置いて、相手の返事に戸惑うような順平の声は途中で切れた。どさり、と重い何かが床に落ちる音、続いて建物中に響き渡るような物凄い轟音が鳴った。

–––アラートだ。高専に登録されていない呪力を感知するためのシステムが作動していた。

音と同時に七海の鉈が鍵目掛けて振り落とされ、五条がドアを蹴破っていた。南京錠が容易くひしゃげるのももどかしく、虎杖が部屋の中に侵入する。

 

 

明かりの付いていない部屋の中では、窓側に細身の少年が倒れていた。崩れた吉野順平の体には外傷こそなかったが、力が全く入っていない。「順平!」と虎杖が声をかけるも反応はなく、駆け寄って揺り起した手から、ごろりとスマートフォンが落ちた。画面は暗く電源が切られた状態で、通話の痕跡は既に消えていた。

 

「落ち着きな、悠仁。視たところ呪言だろう、命に別状はないけど一応硝子に診てもらったほうがいい。七海、悪いけどついてやってくれる?」

「了解です。行きますよ、虎杖くん」

 

顔を青くしたまま、吉野順平を揺さぶっていた虎杖は、七海の声にはっとして、細い体を勢いよく担ぎ上げると足早に部屋を出ていった。夜の建物をバタバタと、2人分の足音が速いスピードで遠ざかり、瞬く間に消えていった。

 

 

1人部屋の中に残った五条は、長躯をかがめて床に落ちたスマートフォンを拾い上げた。先程呪いを吹き込まれたはずなのに、その痕跡がまるで残っていない。六眼で見ても残穢が一粒すら見えなかった。嫌な符号だな、と五条は思った。

 

吉野順平の家にあった、実母・凪の死体。その修復された下半身にも、本来あるべき残穢がなかった。そして、この電話越しの呪言。たった二件ではあるが、残穢を残さないというのはそれだけで脅威だ。何せ、その痕跡から分かるはずの、呪詛師の特定や追跡がすべて不可能になる。

 

二件で使われていた術式が全く異なることから、虎杖たちが遭遇した継ぎ接ぎの呪霊と組んでいる呪詛師は最低でも2名以上存在し、なおかつそのどちらも残穢を残すことなく犯行を行えることになる。

 

「吉野順平に呪力強化を教えてた呪詛師もやたら腕がいいみたいだったしなぁ。これ、なかなか難しい案件かもね」

 

ちなみにその3つとも郡上涼利がやったことなのだが、それを知るよしもない五条悟はぼんやり呟いた。

 

夜の静かな部屋の中で、五条はふと、手の中にある電源の落とされたスマートフォンに目をやった。前にもこんな光景を見たような、不思議な既視感に襲われたからだ。呪言などはまるで関係のない、ただの電話だったはずだが。数秒考えて、彼の優秀な記憶能力はすぐに答えを思い出した。

 

『あなたと連絡をとるのはこれで最後だ、五条悟。電話をしてきてくれたことに感謝してる。もちろん、それ以外のことにも』

 

電話の主が最後のときに電話をぷつりと切ったのも、こんな夜だった。底冷えのするような、薄墨色をした空の高い所に月が昇り始める時間帯、粉雪が降っているのに不思議と明るい日。あの時も、五条は暗い部屋にひとりで、通話の一方的に切られたスマホをしばらく見つめていた。

たわいもない思い出だ。それをすぐに頭から追い出してスマホをポケットに入れると、五条は虎杖たちに追いつくべく歩き出した。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

『–––私のことを忘れろ』

 

広い事故物件の台所、コトコトなる鍋の蓋の音に混じって、声が密やかに紡がれた。

 

 

 

菜々子が台所に戻ると、ちょうど涼利の眼球の色が変わるところだった。深い紫から、いつもの砂色に。ふらふらと定まっていなかった焦点が、ぴたりと絞られる。2度3度、ぱちぱちと目を瞬かせた涼利はスマートフォンから耳を離して、何度かタップするとスキニーのポケットに端末をしまって冷蔵庫を開けた。

 

「電話終わった?」

涼利は黙ってべ、と舌を見せた。そこには、さっきまで刻まれていた赤い文字は消えている。服から出ている肌にもそれらしきものはない。

「相手、だれだったの?」

「もう会うことないやつ」

 

それだけ言うと、涼利は取り出した缶を開けてぐびりと呷る。ストロングゼロのよく買っているダブルシークワーサー味。ご飯前にそんなものを飲むな、と何度言っても聞くことはないので、美々子も菜々子も諦めている。そもそも衣食住の面倒を見てもらっている身分なので、そんなことを偉そうに言えるわけでもない。

 

鍋をにかけた火を弱めながら、切れかけの電球に照らされた、見慣れた中性的な顔を菜々子はなんとはなしに見ていた。ずっと耳のあたりで長さを保っていた黒髪は、今は顎より少し下くらいでざんばらに揺れている。この人が髪があまり伸びない性質なのは長年の付き合いで知っているので、これでも伸びた方だった。いつも欠かせないガーゼは今は貼られておらず、額にぐるりと巻いた包帯のみとなっている。

 

その珍しい、肌面積が多く見える白皙はしばらく頬杖をついたまま遠くに視線をやっていたが、唐突に口を開いた。

 

「菜々。お前さ、初めて人殺したときって何歳だった?」

「はあ?何、いきなり」

「いいから」

「…去年か、一昨年か………忘れたけどそれぐらいだから、多分14とかだと思うけど」

 

菜々子の答えに、聞いてきたくせに興味がないような微妙な顔で、涼利はふうん、と頷いた。また缶を呷る。いつもと変わらない無表情だったが、彼女はその顔で人をムカつかせるのが大変上手く、菜々子はちょっと腹が立ったので逆に聞いてやった。

 

「じゃあ逆に聞くけど、すず姉は何歳だったわけ?」

「10歳の冬」

 

即答だった。まさかの小学生時代に初体験をしていたとは菜々子も知らなかったので普通に引いてしまったが、よく思い出してみれば初めて会った頃の彼女は、物凄く目つきの悪い子供だった。美々子も菜々子も学校に通っていなかったし、周りに子供は1人もいなかったので仕方なく彼女とは関わっていたが、夏油の口添えがあってもそれはそれは勇気のいることだった。あの頃の彼女が人殺しでした、と言われても正直違和感はない。

 

 

「ヤバ。それって猿?殺したの」

「いや、術師だった。–––まあこういう奴だよな、呪詛師やんのなんて。彼やっぱり向いてないな」

 

涼利は何とも言えない目つきで缶を潰すと、それを宙に放った。有り得ない軌道を描いた空き缶は空中でひとりでにぐしゃぐしゃと丸まり、隅に置いてあったゴミ袋へと吸い込まれた。涼利の肌を這う赤い文字が一瞬だけ浮き上がり、すぐに消えた。

鍋が吹きこぼれたのであわてて蓋を開け、中をかき混ぜていると後ろから「完成?」と声がかかった。菜々子が頷くと、涼利は美々呼んでくる、と言って椅子を引く音が台所に響いた。

 

湯気の立つ鍋を手袋越しに掴み、机の上に置いたところで向こうを見ると、暗い家に溶け込む涼利の後ろ姿が菜々子の目に映った。背の高い、黒い服を着た彼女の姿にはときどき別の人の面影が浮かぶ。特にさっきの電話のときのように、自分たちと話すより柔らかい口調で喋ると殊更そう思えてくるのが、たまらなく嫌だ。すず姉、と呼ぶと彼女が振り返った。

 

 

「さっきの電話さあ、めちゃくちゃキモかった。君とか言ってんの全然似合ってない。夏油さまの真似?やめといた方がいいよ」

 

その言葉に涼利は大して怒るでもなく、相変わらず何を考えているのかさっぱり分からない顔でじっとこちらを見た。いつもみたいに「ふざけんな」とか「あの差別主義者と一緒にするな」とか言ってくれたらいいのに、そう言ってくれたら噛みつけるのに、彼女の口から出てきたのは別の言葉だった。

 

「そんなつもりはないけど、意外とそうなのかもな。じっとしてるとあの人のこと忘れそうだから、どっかしら真似してる可能性はある」

 

––––お前もたまに、夏油先生に似てるときあるし。

 

彼女はあっさりそう言って、無駄に広い家の廊下をすたすた歩いて行ってしまった。台所に取り残された菜々子はその言葉に少し唇を噛んだ。切れかけの白熱灯がちかちかと瞬いている。夜の底みたいな窓の外とは対照的な、真っ白な光のある空間に鍋の煙がたゆたっている。食欲をそそるその匂いが何故か目にしみて、菜々子はマスカラがとれそうな気がしてならなかった。




用語解説

・郡上涼利
図らずも救済してたひと。デリカシーとオブラートがない。実母を失ったばかりの順平からお金を巻き上げ、銃口を向けた呪詛師。酔わないのでストロングゼロが好き。順平のことは無意識に弟子っぽい扱いだったため、そこそこサービスはしてた。

・リュックサック
無限ではないが、ウォークインクローゼットの半分くらいの空間と繋がっている。よほどでかい家電以外はここにいれてるせいで、家に私物が一個もない。

・吉野順平
ただただ可哀想。主人公にはキレていい。この後は高専で初犯かつ特級呪霊や呪詛師にそそのかされたことで抒情酌量となり、呪術師として更生させられることに。渋谷事変のときも謹慎中なので出てこない。記憶は消されたが火葬はした。ちなみにそこそこスパルタで涼利が教えていたため、原作に比べて呪力操作がわりと上手。

手持ちの内で使った術式

・順平ママを修復したやつ「土隷呪法」
呪骸作りの術式。パンダ先輩みたいな戦闘用より、人に近いものを作る方が向いてる。  

・真人の視界ジャックしたやつ「憑奪呪法」
ほぼ「SIREN」。極めると意識の乗っ取りまでできるが、涼利はそこまでは未到達。

・呪言
舌のみに印が出る。似たようなのは他にも持ってるが、こちらは対人用。

・目が紫になったやつ「千覗術式」
千里眼に近い。過去も未来も見えないが、射程がバカ。これで見てたのでナナミン達が来る前に記憶を消した。

・空き缶潰し「???術式」
これをある呪詛師からとったことで名前が売れた。



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第四話

時間がかかってしまいました。冥さんに沈黙はカネと言わせたいがためにこの話を書いたと言っても過言ではないです。


他者の為に本気で人殺しができる奴って、どうしてこうも気持ち悪く思えてしまうんだろう?

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

東京郊外、都立東京高専敷地内にて。

したたるような濃い緑の森が、眼下には延々と広がっている。日本では2校しか存在しない呪術師を育成するための教育機関の片割れであるこの場所は、従来の学校とは何もかもが違う。カリキュラムであったり、任務が存在することだったり、口を濁さずに言うなら死者が出ることだったり、あげつらえばキリがないが、その外観においても教育の場としては異色のひとことだった。

 

このご時世ではめっきり見なくなった海鼠壁の建物、五重の塔のようなものや鳥居、注連縄の垂らされた檜皮葺きの屋根など、全体として木造で年季のいった建物群が立ち並んでいる。その様子は学校と言うよりも文化財の神社や、由緒ある古刹という方がかなり近いだろう。

その端には広々とした森がある。夏の終わりごろの時期でも、その青さを失っていない常緑樹がどこまでも生い茂ってはいるが、所々に小道や建物が見え隠れしており、樹海や鬱蒼とした、という状態からは遠い。天然の森を切り開いて作った、実地の訓練場なのだろうか。

 

その森が見える位置、黒い瓦屋根の上で、不法侵入した郡上涼利は器用に胡座をかいてスマホの画面に目を落としていた。時刻はまだ日の高い頃、洒落たデザインの、透明なレインコートを着た涼利は見た目こそ涼しげに見えたが、長袖が生む暑さにややげんなりしていた。黒い短髪を灼く残暑の陽射しは、じりじりと焦げるようだった。

 

画面の中では、暗い夜の中を目にも止まらぬ速さで駆け回る男と、それに殴られたり蹴られたり、サッカーボールよろしく行ったり来たりしている呪霊が一体。本来後者は撮影器具に映り込むことはあり得ないのだが、彼女の所有する術式のひとつによって撮られたそれは、くっきりはっきり高画質で漏瑚がぶちのめされているシーンを涼利に提供していた。  

 

耳にワイヤレスイヤホンを突っ込み、スマホからちらりとも視線を上げることのない涼利の顔から、ぽたりと一筋汗が流れた。頬、顎と伝っていた透明な一雫は、唐突な振動によってスマホの画面に落下した。振動、というか下手人は涼利をゆさゆさと揺らそうとしたのだろうが、体幹が尋常ではなく鍛えられている彼女はびくともしなかった。液晶の上に水分が乗っかったことに不快指数が若干上昇した涼利は、それでもしばらく無視を決め込んでいたが、約1分ほど経っても止まらないので、黙って銀の指輪から一本の曲刀を出現させた。

 

–––はら、と。柄頭に巻いた赤い房が揺れた。

出すが早いか、涼利は揺さぶってきた男の膝裏を手刀でしたたかに打ち、体勢を崩したところに足でくるりとひっくり返すと、屋根瓦の上にうつ伏せの状態に持ち込んで首の後ろに曲刀を当てた。涼利のアディダスのスニーカーに背中を踏まれて、屋根にぶつかった男の顎が鈍い音を立てた。それだけで、彼女の武芸に携わる者としての年月と才能が伺える、滑らかな動作だった。

文明社会で着るものとは思えない服を纏っているせいで、剥き出しになった男の背中は肉付きが薄い。背骨の感覚が涼利の靴越しにも明確なほどである。

 

「お前、さっきから鬱陶しいぞ。いちいち絡んでくるな」

日光の当たっている屋根瓦が、肌に直接触れているのが熱いのだろう。男は涼利の靴の下でもがもがとうごめきながら、何とか起きあがろうとしている。が、上半身をしっかり押さえられているせいで、起き上がることは不可能になっていた。

「熱ッ、イタッ、ちょっとやめてよお。呼んでみただけじゃん」

「それを1分無視したということは、お前と話す気がないという意思表示だ。いま動画見てんだよ」

 

男も涼利の同業者だけあってそれなりに鍛えてはいるのだろうが、いかんせん細い。日本人男性の平均と同じくらいの涼利より、身長が低いこともあって抵抗はまるで意味を為していなかった。ぐりぐりと、アディダスのスニーカーで的確に肺の後ろ側を圧迫され、熱々の屋根瓦に押しつけられた男はひどく哀れっぽい。けほ、と男が咽せこんだ。

色の抜けた金髪をサイドテールに括り、仏像が着ているような簡素な黒の袈裟だけを纏う、華奢な男だった。顔立ちはどちらかというと可愛い系だったが、呪詛師という職業に就く人間特有の、薄汚れた感じのする目がぎらぎらしている。

 

「えぇー、いいじゃん、せっかくなんだしお喋りしようよ。まさかこんな所で本物の『式盗り』に会えるなんて思ってなかったし。俺、ついてるなあ!」

 

身動きの取れない状況で、重面春太はにこにことした顔で首をひねって涼利の方を向いた。どことなくうっとりしたような口振りだ。自己紹介するべきじゃなかったか、涼利は少しだけ後悔していた。

 

 

 

 

『式盗り』という、郡上涼利の偽名であり呪詛師としての名義のひとつでもあるそれは、呪詛師業界でもそこそこ名が通っている。彼女は術式の特異性はもちろん、顔や声についても厳しく隠してはいたのだが、それでも涼利も歴の長い呪詛師である。かれこれ10年近い年月の間、呪詛師を続けられる人間はそう多くない。結果として、何もかもが白日のもとに晒されたわけでもなかったが、何もかも秘密のままと言うわけにも行かなかった。

 

今現在、『式盗り』と言う名前は業界でも半ば都市伝説のような扱いを受けていた。確かに実在する呪詛師らしいが、顔も本名も年齢も性別も分からず、声を聞いたものもおらず、ただ他者の術式を奪い取る術式持ちということが、畏怖や嫌悪とともに独り歩きしていた。連絡先を知るものもごくわずかだがその仕事ぶりには間違いがなく、相応の対価を支払えばどんなことでもやってくれる。ちなみに平日はあまり受けてくれないことが多いので、呪詛師は副業か、もしくは学生という噂がまことしやかに囁かれている。

 

そう言う扱いの涼利なので、今回の襲撃に際して現地で落ち合い、簡単な自己紹介を済ませた瞬間から「本物!?本物!?」とうるさい男に絡みつかれていたわけである。

 

「まさか、悪名高い式盗りの素顔がこんなにかわい–––」

重面は、自分のことを踏んづけている涼利を上目遣いでじっと見た。レインコートに、中には黒い服とスキニー。ピアスとごつい10本のシルバーリング。長身痩躯で、顔は相当整っているのだが、ガーゼと包帯で隠れていることも相まって人相が悪い。可愛いとはどう口が裂けても言えない部類の女である。

「……若い女の子だとは思わなかったなぁ」

「セクハラやめろ」

涼利は足に体重をかけた。晩夏の昼空に、みしりという嫌な音とともに男の情け無い悲鳴が上がった。涼利自身、自分が可愛いという言葉からかけ離れた人間であることに自覚があり、可愛くなりたいと思ったことはかつて一度もないが、この男の言葉には僅かな生理的嫌悪があった。菜々子なら多分「まじ無理なんですけど」とでも言っていただろう。

 

「でも、顔、特に隠してないんだね。みんな顔知らないって言うから、お面でも被ってるのかと思ってたよ」

「今回が特例なだけだ。いつもは隠してる」

 

涼利は自分の素性を他人に知られることを警戒していた。もちろんその術式の特異性も理由のひとつだったが、そもそも呪詛師はみな犯罪者である。呪術師はもちろん、一般の警察に捕まったとしても後ろ暗いところしか無い御身分なので、涼利は顔や名前や、声や指紋といったところをこの情報社会で大っぴらにしている同業者に疑問しか感じなかった。

残穢を残さないレインコートも同様の目的のものだし、手袋やボイスチェンジャーだって、個人情報を流出させないために使っている。

 

現在の案件は、人間相手に情報を漏らすことがない呪霊と、素顔どころか涼利の11歳から付き合いがあり彼女が師と仰ぐ夏油傑––の、死体を乗っ取った男という、顔を隠す意味が大してない相手だからやっていないのであって、これは完全な例外だった。

 

「へえー、そっかそっか、特例なんだぁ。ってことは式盗りの素顔知ってるやつ、やっぱり少ないんだよね?」

重面の笑顔がにぱっと弾けた。この界隈では珍しい、明るい色が満面に散らされたものではあるのだが、無邪気さとは程遠い欲が滲んでいる。

「ああ」

「ふふふ。じゃあ、俺もその数少ない奴の1人なんだ。女の子の特別扱いってなんか嬉しいね」

「お前、気持ち悪い奴だな……」

 

涼利は僅かに眉を寄せた。他人には分からないほど微かな変化ではあったが、彼女は内心で「こう言うヤツ大学の合コンに1人はいるタイプだな」とこっそり考えていた。自意識過剰で、相手が自分に気があると勘違いしがちな人間。この手合いは、人の話の聞きたい部分しか聞かないので、話が通じないのだ。

これ以上話していても泥沼にハマりそうだったので涼利は口を閉じ、曲刀を重面の首筋から外して指輪に戻すと、ごり、と余分に背骨を踏みつけてから足を退かした。

 

熱々の瓦屋根から開放された重面の剥き出しの肌はあちこち赤くひりついており、その部分をさすりながら彼は、少し離れた場所に座って斧を磨いている男に声をかけた。

 

「そう言えば、鞣造は全然びっくりしてなかったよね?鞣造、もしかして式盗りの素顔、前に見たことあったの?」

「いや、ない。初対面だ」

 

否定したのは、大柄な男である。つるりと毛の無い頭からエプロンとズボン以外何も纏っていない体躯までしっかりと日焼けしており、それだけ見れば海の家で焼きそばでも作っていそうな格好だった。とは言え、男の斧を触る手つきは慣れている。どう扱えば人を殺すのに最適なのか、分かっている者にしかできない仕草だった。

 

「俺は式盗りだろうと誰だろうと、人間の顔になど興味はない。驚かなかったのはそれだけだ。俺が気にするのはただひとつ–––そいつの体から何が作れるか、だからな。」

 

男は、陽光に斧をかざしながらそう宣った。黒く縁取られた目が、鏡のように磨き上げられたその鋼に映り込んでいる。俗っぽい欲の滲んだ重面のそれとは異なり、ある種の無垢さを感じさせる目だった。

 

「式盗り。お前、身長は何cmだ?目測だと175くらいか」

「176だ」

「惜しいな………あと4cmあればそこそこのハンガーラック候補だったんだが。女でその骨格、その身長……ふむ」

 

男は斧から視線を外して、じろじろと涼利の体を見た。エド・ゲインみたいなことを言い出した男は、興味深そうに顎に手をやって何やら頷いている。

 

「足もそれなりに長い…そう、お前であれば良いバーチェアができるだろうな。どうだ式盗り、極上のバーチェアになる気はないか?」

「セクハラやめろ」

 

何がバーチェアだ。

涼利は馬鹿馬鹿しくなったので、屋根に腰を下ろすともう一度スマホを取り出して動画を見始めた。顔だの足だの、涼利の肉体を一体何だと思っているのだろうか。

 

(しかし、まあ。五条悟をハンガーラックに、な)

イヤホンの音声越しにも僅かに聞こえる、エプロン男の蘊蓄を聞き流しながら、涼利は大柄な呪詛師の自己紹介を思い出していた。開口一番、そんな世迷いごとを言い出したときには、涼利は危ないお薬でもやっているのか疑ってしまったが、どうやらそうでもないらしい。少なくとも味方の涼利に対してこの見境のなさなので、男は本気で五条悟を殺害のち加工してやるつもりで、今回の襲撃に参加したようだった。

 

呪詛師という、呪術界の犯罪者たる職業に就く以上、涼利も含めて倫理観に欠けた人間の巣窟なのだが、そうは言っても限度がある。この世界に身を置く術師は、五条悟という人間の恐ろしさを直に体験せずとも、遅かれ早かれ知ることになる。それが呪詛師をやっていく上で、必要不可欠な常識だからだ。

この男はそれを本当に知らないのか、知った上で信じていないのか、よほど自分の実力に自身があるのか。

 

涼利には判別しようのないことだったし、興味もないことだった。ただ二つ言えることとして、この業界で無知と蛮勇は決して通用しない。それができないのなら、この男は長く呪詛師として生きることは不可能だろう、ということだった。

 

(………動いたな)

 

そこまで動画を見ながら考えたところで、涼利は不意に濃い緑の目を上げた。先程からスマホを見ながら使っていた『もう一つの視界』は、長らく森や木の風景しか映し出していなかったが、そこに変化が訪れていた。涼利はスマホの電源を落として、そちらに視点を切り替えた。ざざあ、と焦点がぶれる。

 

『しゃけいくら、明太子』

 

–––細身の少年だ。甘い茶色の髪に紫の瞳をして此方を–––つまりは涼利が視界を共有している花御のことを睨んでいる。音の消えた視界で、口が何事か動いている。高専の生徒の証である黒の詰襟に身を包んだ彼は、油断なく構えた姿勢で、口元を覆うジッパーを下げた。木漏れ日の差し込まない暗い森の中、やや荒くノイズ混じりの画質でも、少年の口元にある印は問題なく涼利にも確認できた。呪言師だ。東京校に在籍していると言う、狗巻家の人間だろう。

 

「真人、時間だ。花御が生徒の1人と接敵したぞ」

「お。もうそんな頃かぁ」

 

視点を涼利の本来のものに戻して、屋根で寝転がっている真人に声を掛けると、人の呪霊は気だるそうに起き上がって伸びをした。その体は、この前吉野順平の一件で宿儺によって完膚なきまでにぼろぼろにされていた面影はほとんどなく、相変わらず人を不快な気持ちにさせるような笑みが戻っている。

 

「さて。俺らも仕事を始めよう。俺は高専の忌庫に、君たちは帳の内側で呪術師たちと」

 

真人の言葉に返事を返した3人の呪詛師も、それぞれ立ち上がった。

 

本日、2018年9月下旬。東京・京都の呪術高専両校の交流会が、ここ東京高専にて開催されている真っ最中である。その隙をつく形で、真人ら呪霊一派及びそこに属する涼利ら呪詛師たちは高専に侵入していた。真正面からの戦闘や不意打ちが目的ではなく、真人が忍び込む忌庫のほうが本命のため、その他の面子は主に陽動が担当となる。

 

「一応聞いとくが、真人」

「ん?」

 

涼利が帳を下ろす前に動き出そうとしていた真人は、ちらりと振り返った。花御との視覚の接続を切ったのか、その目の色は既に薄い茶に戻っていた。トーンの低い涼利の声は、やはり淡々としている。あいつ、と涼利は軽く顎をしゃくって、上機嫌に斧を撫でている男を指した。

                 

「あのエプロン男。昨日視た感じだと、9割くらいの確率で五条悟と接触してやられるぞ。多分死んで無かったから、口割るまでは生かされるんだろうが、どうする。口封じ用に何か仕込んどくか?」

「あー、どうしようかな。夏油は捨て置いていいって言ってたけど。まあ、そうだね。君に任せるよ」

「了解」

 

そう言うと真人は軽やかな足取りで屋根を降りて行った。陽動担当の呪詛師3人は時間に若干の余裕があるために、まだ屋根の上に残っていた。ごくあっさりと交わされた、エプロン男こと組屋鞣造の足切りを聞いてしまった重面春太はちょっと顔をしかめた。びびるほど綺麗な顔した女の子とはいえ、業界でも都市伝説扱いされている式盗りの名前は流石に伊達ではないらしい。

 

「ウワ、えっぐいね式盗り。それ、未来視かなんかの術式?」

「そんな感じだな。詳しくは企業秘密だが」

「視えてるんなら、助けてあげないの?鞣造のこと」

 

その潜めた声の問いに、涼利はひとつ瞬きをした。重面より頭半個分ほど背の高い彼女の顔はキャップのつばで翳っており、ガーゼや包帯も相まって表情は分かりにくくなっている。ただその砂色の瞳孔が、夏の陽射しの下で、得体の知れない光を帯びて彼を見つめていた。

 

「呪詛師何年目だ、お前。足切りも口封じも、この業界じゃ珍しいことでもないだろ。現代最強とわざわざ戦って逃してやるほど、あのエプロン男は私にとっての価値がない。やりたいんなら自分でやれ」

 

ぎらぎらした、透明で湿度の高い空気の中、そのシャープな顎のラインをぼんやり見ていた重面は彼女の言葉を反芻して、それもそうか、と思い直した。

この業界はとにかく命が軽い。呪術師たちも大概だが、そこからさらに自分で好き好んで犯罪に手を染めている分、呪詛師のそれはときにティッシュ以下の価値しかないのだ。昨日敵だったやつと手を組むこともあるし、味方だったやつと次の日から殺し合いなんてこともザラにある。そんな所で他人の命を背負ってやるほど重面も暇ではない。剣を作ってくれたのは鞣造なので、その分はちょっとカワイソウだなあ、とは思ったものの特にそれ以上の感想が湧くことはなかった。

機嫌良く流れている組屋鞣造の鼻歌が、どことなく滑稽な空気を3人の間に醸し出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

–––ややあって。

帳が高専の森の上空から、恐ろしいほどの速さで降りていく。

誰もが見慣れた暗黒のそれではない。外は確かに黒いのだが、内側には夕闇にほど近い、薄明るい空が広がっていた。この前の里桜高校の一件で、中も夜になっていたものとは確実に異なっている。

午前の夏空の、綿雲がひとつふたつ浮いていた鮮やかな青を塗り潰して、橙がかった鬱金色の光がどこからか差している。僅かに翳りのあるその空模様はややくすんでおり、時刻としては夕暮れどきのように見えるのに、太陽がどこにもない。とは言え、内側にいる者の身を取り巻くのは相変わらず残暑厳しい午前中の気温。見ている光景と、肌で感じる温度にはあり得ない差が存在し、拭いがたい違和感を生み出していた。

 

空の一点から、それが地面に到達するまでおよそ30秒もいらなかった。帳の内側で、黄昏の天蓋が完成しきったのを確認した涼利は、ひとつ頷く。

「掌印なしでも帳ってできるもんだねぇ」

感心したように呟いた重面を他所に、女は冷めた目を向けた。

「そもそも必要あるか?『五条悟だけ』を弾くように設定してはいるが、それでも呪力操作の応用だろ。領域を開く訳じゃない」

 

その言葉に、重面は大仰に肩をすくめて見せた。大いに必要だ、普通なら。帳や反転術式と言った呪力操作の類は、完全に使用者のセンスがものを言う分野である。読んで字の如く、どちらも呪力さえ有れば誰でも使えるはずなのだが、反転術式を会得している術師はそう多くない。逆に帳は、補助監督のような非戦闘員でも扱える難易度だが、今涼利が作り出したもののように、ここまで一般の帳とは効果の異なるものを果たして帳と読んでいいかも分からなかった。

 

通常、呪術師たちが扱う帳の効果は二つ。出入りの制限と、外界からの視覚の遮断。つまりは、入ることはできるが出ることはできなくなり、外からは帳の内側の様子は見えなくなる。中には電波が途切れる場合もある。これが殆どだ。

ところが、今降ろされたものは全く違う。外から見えなくなることは同じだが、電波は途切れず、出入りもほほ自由になる。誰でも入れるし、誰でも出られる。–––五条悟を除いたこの世の全ての人間が。この帳は、五条悟以外には何の効果ももたらさない張りぼてだが、五条悟の前だけ盤石な壁となって立ち塞がることになる。つまりこれは、もはや帳というより五条悟専用の障壁というほうが正しかった。

 

ここまで限定的かつ専門的なものを、掌印なし、言霊による宣言なし、呪具による補助もなしに使いこなしていると言うだけで、郡上涼利の持つ頭抜けたセンスの高さが垣間見えていた。呪詛師業界内でも嫌われているだけの実力はあるんだなぁ、と重面は改めて引いてしまった。

 

 

「ま、これあと25分弱で破られるけどな」

「あれ、そういう時間縛りで強化してる感じなの?」

なんでもないように、腕時計を見ながらきっぱり言い切った彼女に、重面が不思議そうに尋ねると、涼利は首を横に振った。

「いや、単純に五条悟に力づくで押し負ける。今回のこの帳は渋谷のときの為のテストだから、破られてもそこまで問題ないように、掌印なしで強度は落としてるんだ」

 

そう答えた涼利は口を閉じて、重面の頭上を仰ぎ見るように鳶色の目を細めた。彼が振り返っても何もなく、背後には翠緑の森が広がっているだけだが、涼利はどこか遠く、帳をも透かして見るような眼差しである。

 

「どうかした?」

「–––何も。私はそろそろ花御のサポートに入るし、お前も散った方がいい。ちんたらしてると『烏』に見つかるぞ」

 

そう言うと、彼女はすたすたと迷いなく森の中に入っていき、そのレインコートを纏った長身はすぐに見えなくなった。ぼんやりと、その黒い短髪に巻かれた包帯の残像を見送っていた重面だったが、少しして、言葉通り本当に烏が一羽、二羽と薄金色の空を飛び始めたのを見て、あわてて持ち場の方に走って行った。

  

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

深い森のなかで、柏手ではなく舌打ちが響いた。

その音に、じっと油断なく腰を落として辺りを見回していた虎杖悠仁が舌打ちの主を見上げる。

「しくじったな。俺の術式を解禁したはいいが、これではろくに使うこともできん」

 

ドレッドヘアの巨漢である。この業界には運動量の激しさからかはたまた別の理由からか、長身の持ち主に事欠かないが、この男はその中でもとびきりだった。鍛え抜かれた鋼の鎧のような筋肉がその巨躯を覆っており、実際の身長より威圧を増して見える。

その剥き出しの筋肉は、現在2人を取り巻く光景とはまったく似合っておらず、周囲から浮いていた。とは言え、それは虎杖も同じなのだが。

 

–––カーテンのような、乳白色の霧。含まれた水分によって辺りの気温はぐんと下がって肌寒いほどになり、しっとりと両者の着ている衣服を湿らせていた。そして何より、その異常なほどの霧の濃さによって、先程まで見ていた森の木々や川べりの様子は全く見えなくなっていた。かろうじて足の裏に触れる感触で、地面が分かる程度。視界は1メートルあるかどうかも怪しいほどである。

虎杖の優れた五感でもそれは同様で、むしろ常人より優れている分、その感覚が上手く働かないのは酷く不快だった。目を凝らせば凝らすほど、距離感が狂っていくような気さえする。

 

「この霧……あの特級呪霊の術式なのか?」

「十中八九新手だろう。植物と霧では系統が違い過ぎる。それにこんなものが使えるのなら、もっと早くに出すのが妥当だ。呪霊か、はたまた呪詛師か」

どちらにせよ、先程姿をくらませた特級呪霊に加えてこの霧の作り手を警戒する必要ができてしまった。東堂の顔は不満げだった。

 

先刻、交流会に突如として乱入してきた、植物を操る特級呪霊および複数の呪詛師。五条悟を通さない帳によって、内側の生徒たちは高専側の最大戦力といまだ分断されたまま乱戦に持ち込まれていた。

その中で特級呪霊によって、生徒側は伏黒や禪院真希ら怪我人を出しながらも死傷者は出ておらず、虎杖と東堂のコンビが『黒閃』の連撃と術式の使用で優勢になり、あと一歩––というところで、この濃霧の出現である。せっかく虎杖といい所まで追い込んだのをみすみす邪魔された東堂は、不満を抱えながらも冷静に頭を働かせていた。

 

ともあれ、毒や幻覚の類がないのは幸いだった。霧が広がる速度からして広範囲に及んでいるだろうし、脱出は相当困難だろう、との東堂の分析に虎杖はふんふんと頷いた。

辺りは霧によって音まで吸い込まれたように静まりかえっている。

 

「さっきの奴、霧に紛れて逃げた感じ?」

花御という虎杖が知るよしもない名の呪霊は、霧が出始めたときから直ぐに姿を眩ませており、虎杖と東堂は霧が薄そうな場所を探しながら追っていたが、この数分全く影も形も見えなかった。

「いや……あの特級呪霊はまだ致命傷は負っていない。逃げるよりも––」

 

言葉を切った東堂が、同時に虎杖の口を押さえた。その緊迫した様子に気圧された虎杖が何事か、と聞こうとした時である。

–––ぱきん、と。軽い音が霧に包まれた静寂の中で響く。両者が見れば虎杖の靴が、地面に生えた枯れた蕾のような何かを踏んでいた。それが何かを認識するより早く、東堂が虎杖の襟首を引っ掴み、虎杖がその動きに合わせて跳躍する。

 

先程まで虎杖の頭があった場所を、太く尖った木の枝が、うぞうぞとひとりでに動いていた。意思をもつようなそれは、徐々に巨大なその全容を霧の中から現してきており、標的を逃した枝はぴたりと動きを止めたのち、虎杖と東堂の方に狙いを定めた。

 

ばきばき、めき、と音を立ててものすごい勢いで霧の中を伸び進み、複雑な動きを見せるそれを、虎杖は飛び下がって避け、東堂は紙一重でかわした。

 

「思ったとおりだ!ブラザー、あまり離れてくれるなよ、この視界では最悪同士討ちになりかねん!」

了解!と元気よく発された返答に、東堂はにやりと不敵に笑った。相変わらず視界は劣悪。この状況下では彼の術式「不義遊戯」はほとんど使用不可だ。この術式が有する柏手による位置の強制入れ替え効果は自動ではなく、入れ替えるもの同士の選択やその間の距離を測り、術師本人が計算する必要があるからだ。従って、相手との距離が正確に算出できない今の環境は、東堂にとって相性が悪い。

だが。それが一体何だと言うのだろう?

 

「どうやら見えていないのはあちらも同じようだ!地面だけ気をつけて、向かってきたものを叩くぞ!」

 

そう、今しがた虎杖が踏んだような植物の罠を使ってこちらの位置を測った、ということはあちらも視界を遮られているということの証拠だ。見えているのならわざわざこんなことをしてくる意味がない。

視界の条件が同じならば、東堂たちにも勝機は十二分にある。その手応えに虎杖も気付いたのだろう、にっと口の端が上がるのが東堂の目にはっにりと見えた。『馴染みのある』いい笑顔だ。

 

「全中を制した俺たちの力、存分に味わってもらうとしよう!」

「いや、それは全く記憶にないんだけど!」

 

虎杖の呪力を纏った拳が霧を裂いて、太い枝をへし折る音とともに、困惑混じりの否定の声が響いていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

高専の木造建築群を取り巻く空は、薄く夕暮れの気配を滲ませていた。空色に一滴オレンジを垂らしたような色。そのグラデーションの光に照らされた校舎は、いっそう古びていて、年代がかった暗いもののように映る。その暗い色の中で、鮮やかな白衣を着た女がふと足を止めた。浮き上がる真白が、夕風にさあ、と揺れる。

 

名を呼ばれて振り返ると、ちょうど人影が2つ並んでこちらへと歩いてくるところだった。黒衣に身を包んだ男女は、家入にも見慣れたものだったので、彼女は立ち止まって会釈をした。

 

「硝子。どうだった?」

家入は頭を横に振った。その仕草だけで大方の事情は察したのだろう、尋ねた男は重たげな溜息を口から吐いた。

サングラスと厳つい体格が相まって、ヤのつく自由業にしか見えない男なのだが、不思議とどこか疲れたような雰囲気が漂っている。

「無理でした。反転術式を阻害する術式があらかじめかけられてたようで、両手の方もしっかり同じようにされてましたよ」

 

家入は肩をすくめた。何のことはない、特級呪霊と呪詛師によって起こされた今回の襲撃事件が終わって、高専側が捕らえた唯一の呪詛師のことだった。調べによって組屋鞣造という名が判明したその男から、いざ情報を引き出そうとしたところで、それは唐突に不可能になっていた。

 

特級呪霊に傷を負わされた生徒たちの治療が終わり、やっとお役御免かと思っていた家入は何故か青い顔をした補助監督に連れられて、尋問用の部屋に足を運ぶはめになっていた。少し前のことである。

 

家入が部屋に足を踏み入れたときには既に、男は情報源としての価値を全く失っていた。窓の無い部屋、太い縄に胴体を括られて膝立ちの状態で床に座していた男は、あまりの痛みに体をよじってめちゃくちゃに暴れており、縄が今にも引きちぎれんばかりに軋んでいた。声も出さないまま、口からはだらだらと唾液と血が流れており、白目をむいた目がぴくぴくと痙攣している。何やら小さな肉片が男の前に落ちているのに気づいた家入は、一目みてそれが何であるかを理解し、自分がなぜここに呼ばれたのかを悟った。

 

–––落ちていたのは、男の舌だった。

 

断面がまだ乾いておらず、床には少量の血が流れ出していた。間違いなく目の前の男のものだった。舌は感覚器官の中でも敏感な神経を多く持つ。麻酔も無しに切り落とされたのだから、男のこの暴れようも納得がいく。むしろショック死していないだけ頑丈だとすら言えた。

 

「そうか……腕もその状態なら筆談も無理だな。記憶を覗ける術師に依頼するか何か、別の方法を考えんといかんな」

 

フウ、と夜蛾はまた溜息をついた。

せっかく五条が殺さないまま捕らえたというのに、これだ。おそらくは特定の言葉をトリガーに発動する術式だったのだろうが、何にせよ今回の襲撃事件の裏側に何があるのか、高専側が知るすべは完全に絶たれたということになる。他の呪霊や呪詛師は全て逃亡済みで、報告によれば敵側には大した傷を負ったものもいない。対して高専側には、忌庫近くにいた補助監督数名の死者と、生徒側に負傷者が出ている。その上に情報を吐かせることも、今しがた不可能になったのだから、今回に限って言うなら高専側の敗北に近い形であった。

 

「おまけに『また』残穢ナシです。探すのも難航するでしょうね」

「ふふ。学長もお気の毒だ」

薄い笑みの滲んだ、艶やかな声音だった。声の主は歳の頃を推し量りづらい容姿の女だ。編んだ白髪を顔の前で垂らした妙な髪型なのだが、ぴたりとあつらえたようにそれが似合っている。濃い色のルージュが塗られた唇が、たおやかに持ち上がった。冥々。不思議な響きの偽名を名乗る女はすこし楽しげだった。

 

ここ最近、特級呪霊がらみの事件で数件続いていた残穢を残さない呪詛師–––複数いると思われる彼ら彼女らは、今回の襲撃事件にも参加していたようで、冥々の操る烏の群れの目にすら映っていなかったが、その『残穢の不在』こそがその存在の他ならぬ証拠だった。

 

「ああ、全くだ。悟だけを拒む帳、東堂たちを迷わせた霧、それからあの呪詛師の口封じ。里桜高校のことも含めれば、吉野凪の遺体や吉野順平への呪言。分かっているだけでも5件に上る」

重面春太と並行して、こいつらの捜索も本腰を入れるべきだろうな。

 

呟かれた言葉はしかし、実現させるのにどれほどかかることか。残穢が残らない以上、過去の呪詛師のデータと照らし合わせることができないのだ。どのように残穢を消しているのか、実体として何人いるのか、どれほどの力を有した術師たちなのか……何一つ分からないものを一体どうして探し出すことができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

家入が去っていった後で、冥、と低い声で夜蛾が女を呼んだ。冥々は振り向きもせずに、ヒールを履いた足を止めた。女の纏う優美な黒衣が、とろりとした橙色の夕闇にとけこんでいる。

「はい?」

「お前、この残穢を残さない呪詛師に心当たりがあるんじゃないのか」

 

夜蛾のそれは詰問口調ではなかったが、半ばほど確信しているかのような、疑問符のつかない言い方だった。いかついスクエアのサングラスの向こう、意外と可愛い目が疑念を宿しているのを知りながら、冥々はふっと微笑んだ。

 

「参りましたね、どこで分かったんです?」

「途中からだ。今日のお前は、妙に口数が少なかった」

「おや、私の『沈黙は(カネ)』という信条が裏目にでたようですね。これは」

「いや、(きん)の間違いだろう、それは………」

微妙にアレンジされたことわざを口にした女術師は、ひょいと肩をすくめて見せた。普通の人間がやれば気障ったらしく見えそうなところが、上背に恵まれ、蠱惑的な雰囲気のこの女がやると、まるで映画のワンシーンのように様になっていた。

 

「ふふ。五条くんがさっき言っていたでしょう、『もしかするとこの残穢を残さない呪詛師は複数ではなく、一人の可能性がある』と。あれが本当なら、該当者はたしかに思いつきますね」

 

はぐらかすような、はっきりしない口ぶりだった。

高専所属ではなく、フリーの術師の冥々は、職業柄グレーゾーンの術師たちともそれなりの付き合いがある。その幅はただ高専に把握されていないだけの零細から、呪詛師まがいの連中まで様々だが、ともかく高専に所属する術師たちよりはずっと顔が広い。彼女自身、高専に知られれば多少まずいことも、いくつか抱える身である。夜蛾もそのことは知った上での質問だった。

 

「そうか。冥、お前ならその呪詛師を追えそうか?」

「可能は可能でしょう。本当に私の想像通りの人物なら、かなり時間はかかることになるでしょうが」

「なら、一応当たってみてくれ。金額はお前の言い値で出す」

 

その言葉ににっこりして、委細承知、と頷いた冥々はしかし、胸中で釈然としない思いだった。夜蛾には仮定のこととして話をしてはいるものの、この一件で冥々の中ではほとんど犯人の目星はついたも同然だった。残穢がない以上確定はできないが、そもそも残穢を完全に消す手段を持つ呪詛師は極めて稀だ。その上で、複数の全く系統の違う術式が見られている。この二つの符号から言っても、あのレインコートの呪詛師が––『式盗り』が一枚噛んでいる可能性が高い。

 

(それはそうとしても、彼女は高専に真正面から喧嘩を売る真似をするようなタイプじゃあない)

 

この狭い呪術界で、高専と面と向かって敵対することのリスクや損を知らないような愚かな人間では、決してないはずなのに。よほどの理由があったのか、宗旨替えでもしたのか………。少し冥々は考えて、すぐにそれを打ち切った。どちらにせよその答えを知ることはないし、知ったところで一円の得もない。わざわざ余分な思考に時間を割くのは、彼女の嫌うところだった。タイム・イズ・マネー。これもまた、冥々の信条のひとつである。




用語解説

郡上涼利
呪詛師界隈の都市伝説みたいな奴。術式のおかげで界隈ではビビられてる。現代っ子として個人情報の流出に気をつけてたらいつの間にかそんに扱いになってた。冥さんとはフリーの仕事で敵対したときに烏を撃ち落としたおかげで、後からえげつない額を要求されたことがある。
次の話で居候があと3人増えることになる。

レインコート
残穢を吸収してくれるメチャメチャ有能な呪具。一級。これの作者はあとで登場する予定。呪詛師界隈では「式盗り」の代名詞でもある。

重面春太
初対面で踏まれた人。主人公とはこれから特に絡まない。

組屋鞣造
舌を切られた人。主人公とは怒っていい。未来視でどの路線でも五条先生に真っ先にやられるため、早めに処理された。

冥々さん
あとちょっと先で絡む人。主人公が夏油の弟子であることは知らないが、金にドライなところで馬は合うため付き合いが謎に続いている。高専外の仕事で敵対したこともあるし、協力したこともある。



使った術式

未来視
「自分の視界限定」の未来が見える術式。最長で1週間先まで。ただし視界の中に無いものは全く見えないため、例えば1週間先の自分の、視界の外で死ぬ人がいたとしてもそれは全く予知できない。

霧出したやつ 「水操呪法」
霧を作るだけではなく、水分の操作や状態変化を可能とするもの。呪力を纏っていない人間なら、一発でミイラにするくらいはできる。


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お仕事編 郡上涼利と新たなる3人の居候
第一話「むしかんなぎ 上」


ここからは完全オリジナルのお仕事編です。涼利が依頼された仕事の話を4つか5つやって、そのあと過去編、それから渋谷事変の予定。


2014年1月某日。

 

 

 

細かい雨が、けぶるように降っている。真冬の最中なのに、雪にはなり損ねたように冷たいそれは、相変わらず液体のまましとしとと音を立てて、道ゆく人々の差す傘や服や、あるいは頭上に掲げたカバンを濡らしている。今はまだ正午を過ぎて間もない頃なので、もうあと何時間かして更に冷え込みが激しくなれば、雪に変わるかもしれない。そんな予感を感じさせる、恐ろしく寒い雨だった。

 

 

少女は傘を持ってくればよかったな、と後悔しながらバスのロータリーの中で屋根を叩く雨粒を眺めていた。あともう少ししたら来るバスに乗って最寄りのバス停に着いたとしても、そこから更に家までは距離がある。この季節の雨に打たれて帰るのはかなり嫌だった。普段なら我慢できたのかもしれないが、今は一年間の苦行がやっと終わって疲れているところなのだ。駅中のコンビニでビニール傘を買って帰るか、母親に連絡をしようか少女は迷った。振り返って、ロータリーと隣接している私鉄の駅を見れば、少女のような受験終わりの子供を迎えに来たのであろう親らしき人がぽつぽつと立っている。

 

少女の母親は専業主婦なので頼めば迎えに来てくれるのだろうが、何となく少女は自分の傘が壊れかけていたことを思い出して、コンビニに足を向けた。ウィーン、と音を立てて自動ドアが開き、中の暖まった空気が流れ込んでくる。コンビニのどこかで聞いたようなポップスをBGMに、背後の会話のいくつかが少女の耳に届く。

 

「ウチの子大丈夫かしらねぇ………」

「なかなか来ないんだけど」

「あっ、やっと出た!ちゃんと連絡してって言ってるでしょ!」

 

などなど。そう言う心配と高揚と、その他色んなものが混じった声は、コンビニを出ても減るどころか、時間が経つにつれて少しずつ増えてすらいた。そのざわざわとした音の群れは、コンクリート造の駅のなかを白い呼気とともに薄ぼんやりとした形を成しているようにも見える。

 

少女が、買った傘のビニールをぺりぺりと爪で引っ掻いて剥がしていたところで、またすこし種類の違うざわめきが大きくなった。その声に視線を上げれば、一台のバスがちょうど着いたところだった。

ぷしゅう、とため息のような音とともに、一段と濃い白でバスの周りの空気が濁る。

 

バスから降りてきた受験終わりの中学生たちは、みな少女と同じように疲れた顔で制服と防寒具に身を包み、同じようにやはり傘を持っていないものが多い。天気予報では降水確率の低かったはずの、冬の冷たい雨に顔をしかめている。

その中で、ぱっと不意に傘がひとつ開くのが見えた。朝顔の花が咲くように、鮮やかな変化がいやに少女の目を引く。あいにくと朝顔のような美しい色合いではなく、無骨で男性が使うような黒いものだ。折り畳みではないしっかりとしたそれは、受験会場に持ち込むにはかさばりそうなものを、わざわざ持ち歩く奇特な人間もいたらしい。

 

傘の主はそのまま、速い歩調で駅の方に向かってきて、屋根のある場所に入ったところで傘を畳んだ。2度、3度と雫を振って落とし、するすると淀みなく傘を巻いていく。

傘を畳んで現れた顔は、少女の見知ったものだった。成長途中の中学生の中でも飛び抜けて高い身長は、見慣れないオーバーサイズのモッズコートを纏っている。耳の長さで切られた、黒い短髪が少しだけ湿気でうねっており、つるりと硬そうな白い頬には大きなガーゼが貼られていた。

 

 

「–––あれ、郡上さん?」

少女が思わずこぼした声に、脇を通り過ぎようとしていた短髪の少女が振り返った。きりっとした二重に上から見られると、なんだか訳もなく居心地が悪くて、少女はたじろいだ。

やはりクラスメイトの郡上涼利だった。コートの中に着ているのは同じ中学校の制服なのに、少女とは脚の長さが違うせいで、まるきり別の服のようになっている。

 

「お疲れさま、郡上さんも今受験終わったとこ?」

「そう、ちょっと前に。烏丸さんもお疲れ」

静かな声だった。陶器製のコップをかつんと爪弾くような、硬く低い響きがある。

「ありがとう。そう言えば、郡上さんてどこ受けてたの?あ、別に言いたくなかったら良いんだけどさ」

「■■高校。あそこの数学結構難しかったな」

 

出た名前は、中学からはそこそこ離れた公立高校だった。ここら辺の公立では偏差値が2番目くらいに高いところでもある。彼女は中学を結構な頻度でサボっている割に頭がいい、とは聞いていたが噂は本当だったらしい。少女は今更ながらに驚いていた。

少女と郡上涼利は大して親しい訳でもない。3年に上がってクラスが変わったばかりのころには、出席番号が近いせいで席が隣だったことが一度あるが、それでも彼女の学力や志望校を知らない程度の仲である。こうして呼び止めた自分に、内心で少女は意外なことだと思っていたくらいだ。受験終わりの疲労を、誰かと共有したいような感情でも湧いたのだろうか。

 

「あそこ割と難関でしょ。郡上さん頭いいんだね」

「そうでもない。それに私は内申悪いから、受かるかどうかは怪しいところだな」

 

さらりと放たれた言葉に自虐の色は薄かったが、少女は思わず苦笑した。この同級生は決して非行に走るような人ではない。テストの日には一度も休んだことはないし、提出物もきちんと出している。運動能力が並の男子よりよほど高いことで有名で、文武両道を地で行くタイプとして同性からひそやかに人気だった。

なのだが、彼女が学校をそこそこの頻度で休むこともまた、同じくらい有名なことだった。テストや出席が義務付けられるイベントごとは除いて、少なくとも月に一度、多ければ三度ほど、彼女の席は一日中空っぽだった。もちろん事前に連絡などない、正真正銘のサボりである。

 

これがいわゆる、荒っぽくて頭の悪い不良生徒なら、まだ思春期特有の青っぽさ、と言い換えることもできるのだろうが、彼女は至ってそう言う風でもなかった。教師に何故休んだのかと聞かれても、けろりとして「急用があったので」と毎度答えるだけなので、教師たちからは大人を舐めきっている、と言われて評判の芳しくないというのは学年でも知られた話だった。内申点が悪いというのは謙遜や誇張されたものではなく、まごうことなき事実なのだろう。

 

「そう言う烏丸さんはどうだったんだ。手応えはあった感じ?」

「まあまあかな………模試の判定はBだったし、そのまま本番にも反映されてるといいんだけどね。落ちてたら困るな、一応滑り止めのとこはあるけど」

「私立はやっぱ高いしな。学費」

 

さらりと、郡上は少女の母親と同じようなことをつぶやいた。やはりトーンの低い声なのだが、ざあざあと激しくなってきた雨音に不思議とかき消されてはいない。その陶磁器の如く白い横顔と同じように、周囲からふうっと浮かび上がっているような錯覚を、少女は覚えていた。

 

「郡上さんは滑り止めどこだったの?◇◆学院?」

「私は滑り止め受けてない。受験料節約したいし、それに、」

 

不意に郡上が言葉を切って、視線をつ、と上げた。彼女の薄い茶色の瞳孔の動きを半ば反射的に追ってしまい、少女はその時初めて自分たちの間横に立っていた人間を認識することになった。

 

 

 

「––––や、涼利。受験お疲れさま」

 

 

柔和な笑みを浮かべる、髪の長い男だった。頭の天辺を視界に収めるためには、普段使わない首の後ろの筋肉をかなり傾げる必要のあるほど背が高い。その割にひょろっとした印象がすこしもなく、がっしりとした筋肉が、その長身には満遍なくついている。

黒髪を背中の半分ほどまで伸ばしており、頭の後ろ側でハーフアップのお団子にしている、という日本人男性ではあまり見ない髪型がよく似合っていた。大きなピアスの開けられた耳は、縁起の良さそうな福耳型で、細い目と相まってどこか美術の教科書に載っていた菩薩像のような雰囲気のある男だった。

年の頃は不明瞭で、老成した青年のようにも、若作りをした中年にも見える。

 

「……迎えに来なくて良いって、言っただろ」

ごく僅かに眉を寄せた郡上を他所に、男のやんわりとした笑みはひとつも崩れることはなかった。男はさりげなく彼女の背負っていたスクールバックを持ってやろうとして、郡上は無言でそれを拒否した。

 

見た感じ恐らくは郡上と親交のある人なのだろうが、一体誰なのだろう。郡上の父親にしては若すぎるし、そもそも血族にしては顔の系統があまりに違う。

それに、サラリーマンや、人前に立つ殆どの職でこの長さの髪やピアスはありえない。口さがなく言えば堅気の人間にはあまり見えない格好だし、彼女とどんな関係で、何の職業についている人間なのだろうか、と言う要らぬ疑問は湧いてきた。

「たまたま近くで用事があったから、そのついでだよ。この天気じゃあ、歩いて帰るのは辛いだろう?車で来ているし、せっかくだから涼利を乗せていこうかと思ってね」

「気遣いはありがたいが、事前に連絡をくれ」

 

ぽんぽんと行ったり来たりする言葉の応酬に、置いてけぼりになった少女はぽかんとしてしまった。

どうやら彼女の予定外らしいとは言え、迎えが来たのなら折を見て退散したほうが良いのか、挨拶でもしておいたほうが良いのか。これが彼女の親などであれば「いつも娘さんにはお世話になってます」くらいで済ませられるものを、声をかけるにしてもこの謎の男にどのように言えば良いのか分からないので、少女はちょっと迷った。

 

「試験中かと思って、連絡は入れない方がいいのかと思ったんだよ。意外と終わるの早かったんだね。結構待つことになるかと思ったけど、入れ違いにならなくてよかった」

 

そうか、と言ってため息をひとつ吐き出した郡上は、思い出したかのように少女の方を振り返って、疑問符の飛び交う顔の少女に何と説明しようか迷ったようだった。

その視線を追うように、今までは郡上にのみ目をやっていた男が初めて少女の姿を捉えた。黒目の小さい、三白眼よりのそれと目がかち合った少女は、ぞくりと背を震わせた。冬の寒さとはまた違う、産毛がそそけ立つような、底知れない感覚だった。

 

「すまないね、こちらだけで会話を進めてしまって。君は、涼利のお友達かな?」

背を僅かに屈めてこちらを見やる男の顔は、端正だった。人目を引くような華やかさはないが、女の子たちがこっそりと「かっこいいよね」「わかる」と囁き合うタイプだ。残念ながら少女の好みではないが、それでも整った顔立ちだとは思う。なのだが、何故か同時にひどく怖い、とも少女は感じてしまっていた。背が高い、とか知らない男性だからと言う理由ではない。もっと得体の知れない恐怖だった。

15年生きてきた中で、今まで一度も感じたことのない種類の眼差しで、男は少女を見ていた。

「………えっと、」

「同じ学校のクラスメイトだ」

男への尻込みと、大して仲良くもない彼女との関係をどう言ったものか、少女が悩んでいるうちに、郡上はきっぱりとそう言い切った。澱みのない答えは、暗に友達ではないと言っているようなものだが、郡上は全く気にしていない風である。

 

「そうなの?私はこの子の保護者みたいなもので、夏油傑と言う。いつも涼利がお世話になってます」

苗字が違う。聞いたことはないが、郡上の実の両親は亡くなっているのだろうか。不躾な問いが、少女の頭に浮かんだ。

得体の知れない悪寒は続いていたが、存外に郡上への柔らかい感情の込められた仕草で軽く彼女の頭を撫でると、夏油と名乗った男は細い目をいっそう弓なりにして笑みを深めた。

「なにかと気難しいところのある子だけど、卒業までの間もクラスメイトとして仲良くしてやってくれると嬉しいな」

「あ、ハイ。それはもう、こちらこそ」

 

反射的にそう答えて頭を下げると、ふ、と雨の匂いの空気がゆれる気配があった。顔を上げて見ると、にこにこと微笑んだ男が何故か右手を差し出していた。握手、ということだろうか。現代日本で、中学生とその同級生の保護者がやるような行為ではないだろうが、戸惑っている少女を前に夏油が手を引っ込める様子もないので、少女はおずおずと手を出した。

 

分からないふりをしてやり過ごせば良かったのかもしれない。なのに、胸の内にあった疑念や警戒とは裏腹に、少女の腕はするりと上がった。夏油と名乗った男の穏やかな声や物腰には、そう、不思議な引力のような何かが確かに備わっていた。例えて言うなら、底の見えない深い水の中に、爪先を濡らしてみたくなる衝動のような。

 

男の骨張った手があと少しのところで触れる、というところで握手が実現することは無かった。ぱし、と軽い音を立てて男の手首を郡上が掴んで止めていたからである。

 

「先生。そういうこと、人前でするのやめろ。後から妙な噂を立てられて困るのは私なんだぞ」

「おや。涼利はどうせ学校でも浮いているんだろうから、保護者の私だけでも同級生と仲良くしておこうと思っただけだよ」

くつくつと笑う夏油の手首を掴んでいる郡上は、顔をしかめて少女の方を見た。

「悪いな、烏丸さん。この人のことは気にしないでくれ」

「あ、うん。全然大丈夫だよ」

「なら良いんだ。次学校に行けばいいのって、月曜日だよな」

「多分そう、だと思うけど………」

「ありがと。じゃ、また来週に」

 

かなり強引に話を打ち切った郡上は、そのまま夏油を引っ張って駅の外へと歩いて行った。慣れた様子で男が傘を持ち、黒い小さな屋根の中に納まった2人の姿は、白く煙る雨のカーテンの向こう側へと消えていった。あっという間に現れて去っていった同級生とその妙な保護者に、やや唖然としていた少女は、ふと辺りを見回して変わったことに気が付いた。

 

少女の周囲で、受験帰りの子供を待っている母親らしき人や、バスを待っているOL、そのうちの数人が郡上と夏油が歩き去っていった方向を惚けたようにじいっと見ているのである。

まあ綺麗な女の子と家族っぽくない男の組み合わせで、しかもどちらも整った顔立ちと来たら目立つのも当たり前だろうが、それにしてもこんな漫画みたいな光景も起こるもんだなぁ、と少女は半ば呆れと感嘆の思いだった。

 

 

(あの人、『先生』って呼ばれてたな)

 

あの男。夏油と呼ばれていた、黒髪の男。温度の低い、少女の体験したことのない感情の込められた視線で、少女を見ていたひと。その呼称にはどんな意味があるのだろう。

日本で「先生」と呼ばれる職業はいくつかある。教師、医者、政治家、あとは芸術家くらいだろうか。あの髪の長さを許される職業は限られるだろうし、芸術家くらいしか当てはまらなさそうである。受験終わりで酷使された頭がさらにこんがらがりそうになったところで、少女はひとつ思い出したことがあった。

 

まだ2年生に上がったばかりの頃に、クラスに必ず1人はいる、情報通気取りの女子生徒がしたり顔で、聞いてもいないのに教えてきた噂話だった。

 

–––ね、知ってる?

–––1組の郡上って、ヤバい宗教やってるんだって。

 

ひそひそと。結局大した根拠もないらしかったその噂は49日の半分すら持たず、あっという間に消え去ったはずだ。少女も聞いたときはとんだ法螺話もあったものだ、と内心馬鹿にしていたはずのその響きが、今になって雨音にまじって耳の奥で木霊していた。

ざあざあ、ひそひそ。ヤバい宗教やってるんだって………しとしと、ざあざあ………

 

雨足はさらに勢いを増しており、一月の寒空は雨のカーテンに阻まれて駅の外の様子は全く見えなくなっていた。天から地に向かって叩きつけられる雨粒は白く濁っており、その向こう側に去っていった人の後ろ姿はとうにない。

少女はぶるり、と身を震わせた。その震えが寒さ故のものなのか、未知への恐怖なのかは少女自身もよく分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぎゅっと、手に呪力を纏わせて力を持って込めると、手のひらの中にいた小さく醜悪なハエ型呪霊は、短い断末魔を上げて潰れた。ぐしゃりと黒い霧となり、跡形も残らない。呪霊を殺す上での利点のひとつは後に残るものがないことだ、と涼利は常々考えている。血痕を拭き取ったり、鋸を使ってバラしたり、そういう煩雑な手間とはかけ離れた場所にある。

 

片手で呪霊の残りかすを払うように涼利は一度、二度と手を振って、その持ち主の方をじろりと睨んだ。もともと目つきの悪い彼女のそれは、時に大人ですら気圧されるほどのものだったが、夏油にはまるで効いていない。黒い傘の下、涼利より遥かに高いところにあるその横顔は、寒さで少し鼻が赤くなっているものの、いつも通りの薄笑いが浮かんでいる。

先生、と涼利が呼ぶと夏油が顔をこちらに向けた。黒い瞳が面白そうに光っている。

 

「あれ、祓っちゃったのかい。返してくれて構わなかったのに」

「蠅頭一匹でガタガタ言うなよ。あんなの山程持ってるだろ」

「そうでもないさ。弱すぎるものは戦力にならないし、蠅頭をいちいち集めるのは手間だからね。君が考えるより数はずっと少ないと思うよ」

 

薄い唇をゆるく、にやりと上げてみせた夏油に、涼利はため息をつく。先刻、受験帰りの駅で偶然会った同級生、烏丸の目には同級生の保護者がいきなり握手を求めてきて、それを涼利が止めたようにしか見えなかったのだろうが、実際には違う。

 

「そもそも、初対面の弟子の同級生に呪霊けしかけるのはどうなんだ。いきなりすぎるだろ」

「ああ、いや、別に殺そうとしたわけじゃない。彼女、私を見てちょっと警戒していただろう?もしかして『視える』人間なのかな、と思って確かめてみようとしただけだよ」

 

彼曰くそういう意図が込められていたらしいが、どちらにせよやった行為には違いない。涼利にしてみれば、連絡なく迎えに来た師匠が同級生に向かって差し出した手の中に、ばっちり蠅頭を乗せていたものだから大変驚いた。涼利があわてて手首を掴むふりをして蠅頭をとったからいいものの、蠅頭一匹でも非術師であれば体に不調くらいは出かねない。これで後から『郡上涼利の保護者と握手した日から体調が悪くなった』などと噂を立てられてはたまったものではない。夏油の先刻の行いは涼利にはまったく都合の悪いものでしかなかった。

 

「だけど、当てが外れたようだね。彼女もやっぱり、どこにでもいる猿でしかなかったみたいだ」

 

すこしトーンの落ちた声は、ひどく冷え切っていた。雨音に紛れたその声は穏やかな響きをしているのに、ひどくぞっとするような色が宿っている。涼利はフン、と鼻を鳴らした。

 

郡上涼利が師事する呪詛師、夏油傑は業界内でも非術師嫌いで有名だ。術師という普通の人間には見えず、使うことのできない能力を持っている人種は誰であれ、多少なりとも非術師への見下しのようなものを持つ。勿論それは個々人により大小の差はあれど、完全にゼロ、というものは少ないだろう。

 

その傲慢さは通常、歴史の長い術師家系の出身者になればなるほど濃く根深くなる。我々はこれほど長きに渡って普通の人間とは異なった術師を輩出し続けてきた、その歴史の一端であるという自負と選民思想が家中に蔓延しているからだ。

ところが夏油傑と言えば、非術師家系の出身者であると聞いたにも関わらず、その非術師嫌いは徹底して苛烈で、潔癖で、ビタ一文もまからないものだった。非術師のことを『猿』と読んで憚らず、その私生活においても非術師の手が加わったものをなるたけ口に入れようともしないのだなら、その嫌悪は筋金入りだった。

 

「穢れた猿が世の中にはどうしてこうも多いのか。嘆かわしいことだよ、全く–––涼利?聞いてるかい?」

「聞いてない。先生のナチスみたいなご高説は、この5年で耳が腐るほど聞いてるだろうが。ただでさえリスニングで酷使したんだから休ませてくれ」

 

興味なさげに、湿気で跳ねた髪を指でいじる弟子のつむじを見下ろして、夏油はその髪をかき混ぜた。どうやら精神的にタフネスなこの弟子も、流石に受験を終えて多少は疲弊しているらしい。

 

小学生のときから背の高い子供だった涼利は、ここ最近の成長期に入って日毎に夏油とも視線が近づいてきていた。その骨が軋む音が聞こえそうなほどの伸びの速さは他ならぬ彼女の成長と変化の証だが、同時に変わらないものもまた、存在する。郡上涼利という呪詛師の、術師と非術師の区分に重きをおかないところも、そのひとつだった。

 

師とは打って変わって、郡上涼利は術師という理由で人間を愛さない。同様に非術師という理由で人を排除しない。徹底して、その時の自分の損得勘定によって、両方の人間に対して殺害も救済も躊躇いなく行うのが、この呪詛師のあり方である。

 

 

涼利は、伸びかけてきた前髪を鬱陶しそうに耳に引っ掛けた。黒く艶やかな短髪が一房するりとかき上げられる。露出した白い耳は1月の寒さに赤く染まっており、ふとそれを見下ろした夏油は見慣れた「あるもの」が無いのに気づいて、口を開いた。

 

「そう言えば涼利。開けたピアスの穴、ようやく安定したんだね。ファーストピアス、外してるじゃないか」

「外したのは1週間ぐらい前だな。流石に受験会場につけていくと減点くらいそうだし、それより前に安定したから助かったよ」

 

中学3年の夏ごろに、何を思ったかいきなりピアッサーで穴を開け出した涼利の耳には、ずいぶん長い間、透明の目立たないファーストピアスがついていたのである。普通耳に開けた穴が安定するまで3ヶ月程かかるところを、持ちうる天与呪縛の特性上、彼女は倍近い時間がかかってやっと、ということらしい。

世間一般的に、充分不良の部類に入る彼女でも流石に受験会場にピアスつけて行く度胸は無かったらしい。志願書に貼る証明写真はどうやったのか、気になるところではあるが。

 

「ふふ。涼利が夏にピアスを開けたときには、いきなりどうしたのか心配したけどね」

「先生だってどうせ高校デビューでピアス開けたクチだろ。半年くらい大した違いじゃないと思うぞ」

まさに高校デビューでピアスを開けた夏油は、痛いところをつかれて苦笑いした。

 

「そうだ。高校に入学したら、セカンドピアス買ってあげようか。涼利に似合うかっこいいやつ、選んであげるよ」

 

夏油の提案に、涼利がじいっと彼の顔を見上げた。もとよりくっきりとした二重瞼の、薄い茶色の瞳孔が瞬きもせずに見上げているのはちょっと怖い感じがするが、夏油にとっては慣れた仕草である。どうしたの、と問うと涼利は首を横に振った。

 

「やめとく。先生のつけてるピアス、正直私の趣味じゃないし、自分でつけるアクセサリーは自分で買う」

「…失礼だな。流石に私だって、女子高生に拡張ピアスをあげたりしないよ。それに、せっかくなんだから、私からの入学祝いということでいいじゃないか」

 

真正面から、気に入ってる拡張ピアスをディスられた夏油は悲しかったが、彼は術師に甘く、そこに輪をかけて弟子に甘い男である。ぐっと堪えて言い募ると、涼利は少し賢しらに冷めた顔で小首を傾げた。

 

「入学祝いって。別に大したことじゃないし、いちいち祝ってもらわなくていい。中学から高校に通う学校が変わるだけだろ」

 

その、妙に大人ぶった涼利の言葉に、ふっと夏油は笑みをこぼした。常日頃から、既に呪詛師として働いており、価値観が老成しているこの少女も、ときに年相応の振る舞いを見せるときがある。今もそうだった。彼女の「自分のことは何でも分かってます」とでも言いたげなその横顔こそ、子供の証だと知らぬもの特有の表情だ。

 

「そうでもないさ。君の高校時代は人生で一度しかないんだから、とてもおめでたくて、祝福されるべきことだよ。大切な弟子の青春が良いものになるように、師である私が勝手に祝いたいんだ。–––ま、」

 

歯の浮きそうな台詞を切った夏油は、ちょっとくちびるの端を上げてにやっと笑った。信者から金を巻き上げるときの教祖スマイルより、すこしやんちゃそうな、いたずらっぽい笑い方をすると、彼の顔は普段と比べて若々しく見える。きれいで、不思議と愛嬌のある顔つきだった。

 

「その貴重な青春を、わざわざ猿山で迎えようとする君の気持ちは理解しづらいけどね」

「……最後の一言で台無しだ。途中まで1ミリくらいは感心した時間を返してくれ」

 

涼利は深めにため息をついた。くすくすと笑う夏油は楽しげで、いつものどこか張り詰めたような静かな雰囲気が、僅かに緩んで、ひらかれている。その広い肩の端っこが、涼利の包帯に傘を傾けているせいで濡れて色が変わっている。涼利は傘を奪い取って逆側に差しかけた。

 

相も変わらず、傘の1cm外は土砂降りで、おまけに靴の中に水がうっすら沁みてぬかるんでいたけれど、涼利は気にしなかった。

勝手に祝ってくれるんだったら、うんと高いピアスをせびってやろう。そんな可愛げのないことを考えつつ、受験帰りの中学生呪詛師はほんのちょっとだけ、唇を綻ばせて笑った。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

はっと、嫌な汗が首の裏側を伝う感触に、涼利の意識が一気に覚醒して浮き上がった。体の奥底からせり出されるような、そんな感覚を覚えたのちに、視界の焦点が僅かな時間で定まっていく。

どうやらうたた寝をしていたらしい。横に置いた荷物の向こう側に座る人物は、そのことに気づきもしないで窓の外を落ち着かなげに眺めている。車中に吹くクーラーの風が伝った汗を急速に冷やしていく。やや肌寒いほどのその温度に、無意識に涼利は腕をさすった。

 

 

 

タクシーの窓の外に目をやれば、初秋の彩度の高い青空の下、緑の深い山並みや、何の植物かも分からないものが植えられた畑や、首を垂れ始めた稲穂が見渡す限り一面に広がっている。全体として都会より、風景そのものが明るく色鮮やかに、生き生きと光っているような錯覚すら湧いてくる。ありふれた地方の田舎町の光景ではあったが、都会のコンクリート製の建物に目が慣れた涼利の目には、ひどく新鮮で懐かしいものだった。

 

密やかな振動が足に伝わったもので、涼利は窓の外の風景から、車の反対側の席に座る人物に目を移した。視線の先の青年と言えば、車窓からの風景にぼんやり見いったり、かと思えば天井を挑むような目つきで睨んでみたり、足を小刻みに揺らしていたり、襟巻きをいじってみたり、とにかく一時もじっとしていられないという感情を体全体で表現していた。

「脹相、頼むからじっとしてくれ。車に慣れてないんだろうから動くなとは言わんが、せめて貧乏ゆすりを止めろ」

「………貧乏ゆすり?」

 

青年が血色の悪い顔をこちらに向けた。

黒髪を二つ結びにした青年は、その精悍な面差しの真ん中にボディペイントのような線を横切らせている。年の頃は涼利とそう変わらないように見えた。青白く不健康そうで、やや威圧感のある顔立ちの彼は、皺ひとつない、真新しいグレーのシャツと黒のスラックスに身を包み、首元に黒に近い赤の襟巻きを巻いていた。いかにも服に着られている青年は涼利をじろりと見た。

 

「足を揺らすなってことだ」

 

涼利の言葉に、ぴたりと素直に足を止めた脹相は、少しのあいだ黙って大人しく座っていたが、1分も経たぬうちにまた振動が始まったので、涼利はすっぱり諦めて耳にイヤホンを突っ込んだ。流行り物のポップスに耳を傾けながら見る脹相の顔は、窓の向こうを透かすように憂いを帯びた表情である。分かりにくいが、どこか不安そうに眉がひそめられたまま、遠くを見つめている。

 

しばらくの間、車内にはしんとした静寂のみが流れ、スマホをいじる気にならなかった涼利は手持ちぶさたで、ぼんやりと瞼の裏側に残る夢の名残りに思いを馳せていた。

夏油傑。11歳の初夏に出会って18歳の冬に彼の下を出るまでの7年間、涼利の師であった人物が夢に出てくるのは久しぶりだった。彼が死んでからもうすぐで1年近く経つが、涼利の薄情さは無意識領域でもしっかり健在なようで、彼のことを夢に見たり、あるいはその喪失に枕を濡らす………などということはこの1年でただの1度もない。正真正銘、これが初めてだった。

 

夢の中の夏油は鮮やかで、涼利の記憶に残る、在りし日の姿はそのままだった。笑うと糸のように目が細まって胡散臭くなる顔も、あの受験帰りの日に珍しく着ていた黒いコートも、非術師への苛烈な憎悪を隠そうともしない潔癖さも、何一つ変わってはいなかった。

 

ひどく懐かしい気分だった。生々しく痛む傷などではなく、古い写真を偶然本棚の中から見つけたような、そんな感覚。

 

(………あのひと、今何してるんだろ)

 

ふと、そんなことを考えた。涼利は無神論者で、死んだ後のことなど全く興味はない。けれども、死後にも続く世界があるとするのなら、間違いなく地獄行き。それに相応しいだけの罪科を重ねてきたのが、夏油傑と言う男だ。

–––では、生きていたのなら?

今も生きて、涼利がやろうとしていることを知ったなら、止めたのだろうか。

 

 

 

「お客さん」

 

運転席の方から声が掛かって、涼利は前を見た。運転手がハンドルを握ったまま、バックミラー越しに視線を寄越していた。いつの間にか、遠くに見えていた濃い緑の山々はぐっと近いところまで迫った距離にあり、辺り一面の田畑の中には民家がほとんど見当たらなくなっていた。

 

生部野(うぶの)さんのお屋敷はですね、もうすぐの所にある登山道の前で降りてそこから歩くか、あと20分くらいの所にある車道を上がって行くかになります。どちらになさいますか?」

涼利は少し考えてから、尋ねた。

「登山道なら、屋敷まで何分かかりますか」

「あー、そうですな。あすこは結構傾斜がきつくてね、歩き慣れていない人なら30分以上はかかるかと」

 

涼利は深い緑の山並みに目をやった。未だに目的地である生部野家の邸宅は、よくよく目を凝らせばそれらしき屋根瓦が豆粒大に見える程度である。かの家の持ち物である山の、その頂上に位置する屋敷なら確かにそれくらいの時間がかかるだろう。車が入れる道は見えている山の、反対側にあるのだろうか。

 

「なるほど。じゃ、登山道の手前で下ろして下さい」

涼利の言葉に、タクシーの運転手はぎょっとしたように後ろを振り返り、また慌てて前を向いた。前方で危うい位置にいたバイクの運転手が通り過ぎざまにこちらを睨んでいく。

「いいんですか?行けば分かりますけど、登山道というかほとんど整備されてないような道ですよ。時間はかかりますけど回り道して車道で行った方がいいと思いますがね。足元も悪いし、それに–––」

 

年配の運転手はちょっと口をつぐみ、バックミラーの中で視線が迷ったようにうろうろと動くのが映っている。たっぷり10秒近く口籠った彼は、結局言いにくそうに口を開いた。

 

「あの辺りの山は、地元の人間はそもそも立ち入らない場所なんですよ。あんまり良い噂がない。迷い込んだ子供が帰ってこないだとか、幽霊がでるとか、一帯の山を管理してる生部野さんの一族もなんだか怖いお人だって話で–––」

そこまで言った運転手は後部座席で黙ったままの涼利を鏡越しに見て、ばつの悪そうに頭を下げた。

「すみません、今から行くのに怖がらせるようなことばかり言ってしまって………出過ぎたことを」

「お気になさらず、その手のことは存じてますので。山歩きには私も彼も慣れてますから、特に心配は不要です」

 

土地に根付いて家ぐるみで呪詛師稼業を営むような一族は一定数存在している。そう言う者たちは、非術師たちには何をしているか正しく理解できずとも、何か得体の知れない邪悪なことをやっているのだ、ということだけは分かるので、そこに住む住民から白眼視されることはザラにある。今回の目的地である生部野家などはその筆頭であった。

 

山登りに関しても、仕事柄ありとあらゆる場所に足を運んできた涼利と、脹相も涼利よりずっと頑丈な肉体を生まれながらにして持つ身である。2人の足なら多分10分もかかるまい、と涼利は踏んだ。

 

「そうですか、ならいいんですが……。それにしてもここいらは大した観光地もありませんで、外から訪れる方は少ないんですよ。お客さんたちのような若いご夫婦がいらっしゃるのは珍しいもんですから、驚いてしまいましたよ–––ここらへんでよろしいですかね」

 

車が狭い車道の端に寄せられて止まった。ブレーキが滑らかにかかり、ぼうっと窓の向こうを眺めていた脹相が、不審げに周りを見渡したので「降りるぞ」と声を掛けると涼利は財布を取り出した。

 

「釣りは取っておいて下さい。一応口止め料ということで」

「えっ。口止め、ですか」

多めに5000円札を渡し、釣銭を出そうとした運転手を制してそう言うと、男は手にした札と涼利の顔を交互に見て、困ったような顔をした。

「誰かに何か聞かれたら、適当にはぐらかしてもらうだけで結構です。流石にこの値段じゃ買収というには安すぎますので」

 

涼利は財布をリュックサックに仕舞うと、ドアを開けて外に出た。途端に、10月の初めだというのにまだ夏の気配の色濃い温度が、頬を撫ぜる。恐る恐るといった風で涼利の出した5000円札を仕舞い込んだ運転手は、頭を下げると一目散といった勢いで車を走らせて去っていった。

 

 

 

 

 

 

降りた場所の少し先に古びた石碑があり、その脇から幅の狭い山道が伸びていた。タクシーの運転手が言っていた通り、登山道とは名ばかりで足元は僅かに木でできた階段らしきものはあるだけで、地面は凸凹としてひどく歩きづらそうである。深い森の梢に遮られた道はこの時間でもひどく暗く、100メートル先すら危ういほどだった。それに、何だか–––

 

(–––何かに、見られているような)

 

ふつふつと、さわさわと。肌が粟立つようにひどく不愉快で、それでいて形のない感覚に脹相は顔を僅かにしかめた。ひとつ、ふたつではない。無数の小さな何かが、音もなくこちらを見据えている。受胎九相図の受肉体、人間と呪霊の狭間に立つ者ゆえの鋭敏な五感が、薄気味の悪い視線と潜められた息遣いを確かに捉えていた。この山に住まう呪霊の類だろうか、と脹相が考えたところで涼利が彼を呼んだ。

 

 

プシュウーー、と長い一吹き。振り向けば、特有のつんとする薬臭いスプレーを脹相の顔面にかけた涼利は、続けて彼の体全体に満遍なく纏わせていき、30秒ほどもすれば青年の体はすっかりその匂いがついていた。

 

「……いきなり何をする」

「虫除けスプレーだ。ここでは絶対必要になるからな」

 

噎せた青年の責めるような視線にもどこ吹く風、自分にも同じように煙を満遍なく振り撒いた涼利は「持っとけ」と脹相にスプレー缶を投げて寄越した。

 

「ここの連中にはバルサンも蚊取り線香も効かないけど、気休め程度にはなるだろ。出発前にも言ったけど、この山を降りるまでは絶対虫を殺すなよ。呪霊もそうじゃない奴も区別なく、蚊一匹、蠅頭一体も禁止だ。破ったらその後のことは保証しない」

 

そうなったら置いて帰るからな、とあながち脅しでもなさそうな調子で淡々とそう言った涼利は、リュックサックから取り出した、骨伝導マイクつきの小型ヘッドセットを右耳につけ、黒いキャップを被っていた。

ここ数日で脹相が見慣れたその動作は、彼女の仕事の始まりの合図に他ならない。

 

キャップを被った瞬間に、彼女の顔がたちまちの内にぐにゃりと変化した。無機質で中性的な麗貌から、どこにでもいそうな平凡で特徴のない女の顔に変わった涼利は、それでも隠しきれない冷めた眼差しで深い木々の奥を睥睨して、口を開けた。キィン、と僅かなハウリングののちに、合成音の声が濃緑の闇の向こうに吸い込まれてゆく。

 

「屋敷の人間に伝えてくれ。『御当主のお招きにあずかった式盗りが、この度の通夜に参列するべく参りました』と」

 

その、誰に向けたものか分からない呼びかけに脹相は胡乱な目で涼利を見たが、その言葉が終わると同時に、肌を絶え間なく刺していた謎の視線がふつりと途絶えるのを感じて顔を上げた。

先程まで確かにそこにあった、姿のない視線、薄気味の悪い温度、それでいて濃密な気配は、最初から何もなかったという顔で完全に消え失せている。

                            

「それじゃ、行くぞ。ここから先は業界最大手の巫蟲(ふこ)どもの巣窟だ、妙な行動は慎めよ、長男。」

 

黙したまま頷いた脹相に、涼利は少し肩をすくめてキャップを被り直すと、登山道の中に入っていった。レインコートの透明な輪郭はすぐに深緑に染まって溶け込み、その家主の後ろ姿を追うようにして脹相もまた一歩暗い道に足を踏み入れた。

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

呪詛師とは、非合法ではあるが職業の名だ。

少なくとも郡上涼利にとってはそれだけの認識であって、別段生き様だとか人種を指す言葉ではない。

金銭を稼ぐ手段であり、それを生業とする人が一定数存在し、法もモラルもない職種だが、暗黙に定められた独自のルールのようなものは確かに横たわっている。

 

涼利はその術式によって業界でも特殊な立ち位置にいるが、それでも呪詛師という職種に属する以上最低限守るべき節度があるのだ。つまり何が言いたいかと言えば、涼利は同業者たちから無制限に、片っ端から術式を奪い取ることはできない、ということである。可能か不可能かで言えばもちろん可能だが、そんなことをすれば業界からたちまちのうちに干されることになるので、そこらへんには涼利も細心の注意を払っていた。

 

郡上涼利が他者から術式を手に入れるルートは主に3つ存在する。

 

ひとつ、強奪。

これは主に敵対した呪詛師や呪術師から、というよりも呪霊からの方が多い。理由は先程述べた通り、無闇矢鱈に術師から奪うと面倒なことになるため、後腐れのない呪霊から奪う方が楽なのである。無論暗殺な術式を奪うことがメインの仕事や、敵対して奪った方が都合の良い場合には術師から盗るときもある。これが手持ち術式の割合で最も大きい部分を占めている。

 

ふたつ、買収。

意外に思われることが多いが、呪詛師界隈ではそこそこ需要がある。大抵誰かが死んだ後、金に困った遺族が死体から術式を奪う権利を涼利に売り渡し、涼利は金を支払って術式を奪う。この額については事前に擦り合わせが行われて決まる。もっとも涼利自身が何年か前までは金銭的余裕がまるでなかったどころか借金を持つ身であったため、この手段はごく最近になって使い始めたものだった。

 

最後に、譲渡。

これが最も少ない。当たり前だが、術式偏重のこの業界なので、自らの最大の武器でありステータスでもあるそれをわざわざ得体の知れない奴に渡す馬鹿はそういないのだ。とは言え、ゼロではない。例として、涼利の4桁にも及ぶ手持ち術式の中でも1、2を争う希少なものとして「未来視」と呼ばれるものがあるが、これは高校3年生のときに術式の保持者だった女性から涼利に仕事の報酬として譲られたものだった。

 

 

そして本日、2018年10月初頭。郡上涼利が電車とバスとタクシーを乗り継いで、ここ山梨と静岡の県境に位置する蠱毒の名門「生部野(うぶの)家」まで訪れた理由は上記のうちで2番目–––すなわち亡くなった家人の術式の買い取りを、現当主に打診されたからだった。

 

 

 

 

 

 

恭しく紙垂をぶら下げた、荘厳な造りの八脚門を超えた先にあったのは広々とした庭だった。芝とは違う、色鮮やかな花をつけた秋草や、ふっくらとした射干玉やその他にも千紫万紅、天然の草木を生かした風でありながらきちんと人の手で世話がされていることが窺える様子である。これ以上ないほど、自然との融合がそのまま形をとったような光景だった。

その背の低い草花の生い茂る庭の上を、カラスアゲハやら赤とんぼなどがひらひらと風に舞っており、ともすれば五月蝿いほど賑やかにコオロギの鳴く声が一面に響いていた。

 

その、まさに秋の盛りと言わんばかりの光景とは裏腹に屋敷の建物の壁には、黒と白の鯨幕が張り巡らされている。涼利と脹相の他にもちらほらと、庭を抜けて屋敷の中へと向かっていく人間もまた一様に黒い喪服を纏っていた。秋の美しい庭をゆく黒い服の人々と、それを取り囲む鯨幕。何となくうら寂しい気持ちになるような取り合わせだった。

 

 

 

庭の真ん中を突っ切るだだっ広い石畳の道を進み、建物の中でも一等大きい、寺院の講堂のような場所に足を踏み入れた中には大勢の人がたむろしていた。ざっと見た限りでもゆうに50人は越しているだろう。皆どこか目つきの悪く、喪服を纏ってはいるのだがとても故人を悼みに来たとは思い難いような雰囲気のものばかりである。

 

ほとんどは葬式らしく黒い服をきちんと着ているのだが、中には何故か蛍光色のアロハシャツを着た老人や、白いレースで幾重にも飾り立てられたワンピースを着た女、薄汚れた青いジャージ姿の中男男性など、未だ肉体を得て日が浅く人間社会の知識など最低限しかない脹相から見ても、明らかに場にそぐわない人間が何人か混ざっていた。

それ以外にも、かろうじて喪服を着ている人間でも身の丈を越すような呪霊をそのまま出しているものや、果ては–––

 

「………おい。あれは人間の葬式に持ち込んでいいのか」

「そんなわけあるか。普通にアウトだが、主催者側が何か言わないかぎりは特にお咎めなしだ。安心していいぞ、あのレベルは流石にこの業界でも一握りのネジの飛んだ奴だ」

 

脹相の視線の先、若くかっちりとした紋付袴姿の男性は手に一抱えあるほどの大きさのガラスケースを携えており、淡い緑の水が揺れるそこにはスイカ大の何かが揺蕩っている。黒い房のようなものが水の動きに合わせて揺れ動くそれは、見ようによっては人の首みたいに見える–––というかばっちり人の生首だった。まだあどけなさの多分に残る顔立ちの女の首は、青褪めて生き物の気配がなく、息を呑むような美しさと目を背けたくなるような痛ましさを兼ね備えている。

 

「あの生首野郎、それなりに有名な呪詛師なんだよ。それだけじゃない、あそこにいるのは弓削だろ、その隣にいるのが神島。『Q』のお使いっぽい奴もいる。桐敷、祟井–––今年は加茂も来てるのか。珍しい」

「加茂、だと?」

つらつらと指差しながら名を列挙した内のひとつに、脹相がぴくりと片眉を上げた。加茂、という名は受胎九相図にも縁深い。

明治の世に、加茂の汚点とも称される呪術師、加茂憲倫の手によって人間の女性が呪霊との間に宿した胎児。その堕胎した胎児たちは150年間高専に保管されていたのを、真人ら呪霊によって交流戦の隙をつく形で盗み出された後に受肉していた。脹相はその受肉した3体の内の1人である。つまるところ、脹相にとっての創造者であり、ある種の父とも呼ぶべき存在が加茂憲倫なのだ。加茂家の人間は、その縁者である。

 

「そう、加茂だ。御三家のな。気に触ったか?」

その仕草に、涼利は自らの失言に気づいてそう聞くと、脹相は首を横に振った。

「いや。俺たち兄弟にとって加茂憲倫は母の仇ではあるが、だからと言って加茂と名のつく人間の全てを恨むようなことはない。ただの赤の他人だ。知った名だったから気になっただけだ」

 

むっつりとした仏頂面ながらそう言い切った脹相はしかし、釈然としない顔で辺りを見回した。

 

「ここは呪詛師の家柄なのだろう。なぜ加茂家のような呪術師側の人間が、その家の葬儀に来ている」

「生部野はいろいろ治外法権でな。年中山に引きこもって出てこないし、積極的に犯罪に手を染めるような連中でもないから上にはほっとかれてんだよ。おまけに歴史は御三家より長いし、呪術界の発展に少なからず関わってきてるから、下手に手出しできないってわけだ」

 

とつとつと、機械音声で平坦に語られる涼利の声は、賑やかな講堂の中でさしてうるさいわけでもなかったが、脹相は次第にレインコートとスーツを纏った呪詛師に向けられる視線の多さに気づいて、内心で驚いてもいた。ちらちらと興味深そうに、あるいはあからさまに顔を顰めて涼利を見るものの何と多いことか。

 

(–––レインコートに、10本の銀の指輪)

(–––式盗りだ。あの忌々しい盗人が)

(本物か?以前見たときと顔が違うぞ)

(今度は誰の術式を奪いに来たの?)

(恐ろしい………まさか私の術式を…)

(どこ?本当に来てるの?写真とろっかな)

(近頃の生部野は金に困っているとか………)

(横の男は誰?)

(術式を売り飛ばすなど犬にも劣る行いを)

 

そのどう考えても好意的ではない視線や囁き声を受けた涼利はけろりとしており、いかにも慣れた様子であった。

脹相は彼女の正確な年齢を聞いたこともなかったが、少なくともここに集まったなかでは若い方だろう。その若さでここまで、彼女より年上も含めた呪詛師たちから恐れられているというのは並大抵のことではない。

 

「お前は、随分同業者から嫌われてるんだな」

ぼそりと呟いた脹相に、そりゃな、と涼利は短く返した。機械の硬く冷たいフィルター越しのそれは、僅かに見下したような響きがある。

「術式偏重の業界だからな。一族が継いできた伝統も、重ねてきた努力も関係なく術式を奪えるのが私の剥式呪法だ。今までさんざん馬鹿にしてきた『視えるだけの猿』に成り下がると思うと、怖くてたまらないんだろ」

 

 

努力ではなく生まれ持った才能でほとんどが決まってしまう呪術界は、その性質ゆえに持たざるものを徹底的に蔑み、自分よりも下のものを見下そうとする方向性がある。呪力を持たぬ人間、術式を持たぬ人間、術式は持っていても家系の相伝ではなかった人間。全て、その対象だ。

 

そうして『術式を持たざるもの』を強制的に作り出せるのが、郡上涼利が恐れられる所以である。偉大なもの、世に二つとないもの、つまらないもの、ありふれたもの、大きな可能性を秘めたもの、みな平等に涼利にとっては奪いとれる的でしかない。涼利の手が触れ、涼利によって新しい名を付けられれば、等しくそれは涼利のものとして体に刻まれる。

 

彼女とて無闇矢鱈に術式を取り上げるわけではないが、それを奪われたと気付いた術師は大抵似た顔をする。持つものが持たざるものに零落した驚き。自分が今まで見下してきたものと同じ位置にまで蹴り落とされ、こらから先の人生を術式なしで生きていかねばならないという恐怖。涼利がこれから先、恐らくは味わうことのない感情に埋め尽くされた目で、涼利を見るのだ。

 

術式を持たぬものを見下した経験が一度でもあるものは、涼利を恐れずにはいられないのだ。誰も持たざるものにはなりたくない、見下してきたものと同じ位置から世界を見たいものなどいやしないのだから。

 

 

これまで一度も、そしてこれからも「術式を奪われる恐怖」を味わうことのない涼利は、そんな風に傲慢さの滲んだ響きで皮肉ったが、脹相は分かったのか分かってないのか曖昧な顔つきでひとつ頷いただけだった。

 

 

 

 

少しして。式盗りさま、と潜めた声がかかって2人が顔を上げると、講堂の入り口付近に小柄な少年が立っており、視線に気づいて深々と会釈をした。黒い着物に同色袴を合わせた品のいい装束。育ちの良さをあちこちに纏わせた立ち振る舞いが、一度の会釈に表れている。切り揃えられた前髪の下、彩度の高い金茶の瞳が初秋の光を背にしてなお、炯炯とひかっていた。

 

「お待たせいたしました。支度が整いましたので、どうぞこちらへ」

「今いく」

 

 

連れ立って講堂の外に出る。からりとした秋晴れの空の下、どこか香ばしいような初秋の匂いと、未だに薄く残る夏の残り香の入り混じった風に落とされたのか、落葉が1枚、脹相の頬を掠めた。

反射的に掴んでみると、僅かに黄色味がかった、名前の知らない木の葉である。木の中には季節が変われば色が移ろう、というのは知識としてしか知らなかったもので、本物のそれを目にしたのは初めてだった。何となく新鮮に感じてそれをしげしげと眺めた脹相は、はてどこの木から落ちたのだろうと、美しく整えられた庭をきょろきょろと見渡せば、講堂を出て左手奥、潜ってきた門のすぐ横に、それらしい木を見つけた。門と背丈を争えるほど高く育った、がっしりとした古木である。その1番上の枝には、黄色の葉の波に落とされた一滴の墨汁のように、ぽつねんと一匹の烏が止まっていた。黒く艶やかな羽を持ち、小柄な体格だが賢そうな目で脹相たちのことを見下ろしている。

 

そういえば、と。その時になって脹相はふと微かな違和感を覚えた。山の麓からこの邸の中に入って今にいたるまで、彼は虫以外の動物を見ていない。ひとつの気配も感じなかった。鳩や鳶などどこにでもいる動物も、ここ位の田舎であればいそうな鼬や狸にしても一匹も目にしていないのだ。この山が、それでなければこの烏は何か特別なのだろうか、と脹相が思い至ったところで、笛の鳴るような音が一度鳴り、すごい勢いで頬の真横を通り過ぎた。

 

 

『–––この矢、当たるなら烏に当たれ』

 

1秒前まで白かった涼利の肌を、赤い文様のような文字が這っていた。シルバーリングの嵌った手先から、僅かに見える首、顔の一部、歯の向こうの舌にまで。読めないほど細かく詰まった、緋文字の羅列にびっしりと埋め尽くされた手は、アーチェリーに使うアルミ製リカーブボウを指輪から呼び出して握り、一瞬で弦を引き絞って矢を打ち出していた。

 

少々変わった呪言の通り、放たれた矢はあやまたず逃げようと羽を広げた烏を捉え、その体を貫く–––とはならず、当たる直前で矢はその形を変えた。細長く鋭い立体がほどけてリボンのような平面と化し、それが間髪入れず烏の体にからみついて締め上げた。必然、身動きの取れなくなった哀れな烏はもがいてその拘束から逃れようとするも、今度は、ぐん、と見えない何かに引っ張られたようにして、次の瞬間には涼利の赤い文字に覆われた手で首根っこをひっ掴まれていた。

 

「………この烏がどうかしたのか?」

感情が出にくい彼女にしては割と分かりやすく嫌そうに、眉がぎゅっと寄っていたので脹相が思わずそう尋ねると、涼利は烏の頭を突っついた。烏が苦しそうにぐえ、と鳴く。

「使い魔みたいなもんだ。物凄い守銭奴の主人が使役してる」

そう言うと、涼利の目の色が薄い茶色から烏と同じ黒へと滑らかに染まっていき、彼女は硬い声で誰かに向かって宣言した。

     ・・・

「いいか、冥さん。次から勝手に見たら金とるぞ」

 

低い響きは淡々としてはいたが、その言葉には決して良い感情の含まれない冷たさが確かにあった。

もう一度きゅ、と強めに烏の首を締めた涼利は、1秒、2秒哀れっぽいその姿の向こう側を透かすように(実際に離れて烏を操る術師が見えているのだろうが)睨むと、首から手を離した。同時に巻きついていた白いリボン状の拘束が消えて1枚の紙に戻り、涼利の肌からもすう、と赤い文字が吸い込まれるように消えていく。

 

いきなり手を離され、苦しげに一度二度とバタついた烏は、地面に激突する寸前でかろうじて方向転換し、体勢を整えて秋の高い空へと飛び去っていった。

 

「烏の目を通して見られていたのに、殺さなくてよかったのか」

「殺すとえぐい金額ぼったくられるからな。昔一回やって死ぬほど後悔したから、2度としないと決めてる。5人と1匹の居候がいると、ただでさえ出費が嵩むし」

 

重い実感の篭った、苦々しい口ぶりでそう言った涼利は弓を指輪に戻すと、黙して置物のように立っていた案内役の少年に向かって「足を止めて悪かった」と言うと、まだ10代前半であろう幼い彼は「いえ」と首を横に振って、また歩き出した。てくてくと、美しい庭を淀みなく進む少年の細い喉元には、透明な糸を何重にも巻きつけたような不思議な飾りがつけられており、それが秋の透明な陽射しに反射してきらりと光っている。脹相の遥かに下にある首元がふと、もぞもぞと動いたように見えて、彼はふと目をそこにやった。

 

少年の白く薄い皮膚の下が、盛り上がるようにしてぼこぼこと何かが蠢いていた。それはしばらくの間皮膚の下を動き回るだけだったが、とうとう我慢ならなくなったように、首の後ろ側からぷつりと皮を破って這い出してきた。蜘蛛である。灰色の体に赤い線が2本走っており、けざやかな毒々しさこそないがよく肥えていて、人の親指と変わらないほどの大きさだった。人の体の中から出てきたというのに血の一滴も纏わないその蜘蛛は、狡猾そうな8つの目で脹相をじろり、と確かに見て、また少年の首に糸をくるくると巻きつけると、すすす、と服の内へと潜り込んでいった。怖い、とは思わなかったが、生理的な不快感をもよおす光景に、脹相は眉をしかめた。

 

「あんなのは可愛い方だぞ」

脹相の視線の先に気づいたのか、涼利がぽつりと呟いた。機械音声の、僅かにノイズが混じったその響きは乾いていて、明日の天気を口にするときのように平然としている。

「この家の術師連中はほとんど体内に虫型の呪霊を飼ってるけど、中にはどこから出したか分からんようなデカい奴もいる。何年か前に会った先代は、メシ食ってるときに口から百足出てきたから、危うく殺虫剤をかけるところだった」

「やめろ」

 

思わずその光景を想像しそうになった脹相の眉間の皺がますます深くなり、彼はもうすでに帰りたくなっていた。あの事故物件で待っている弟たちは今頃何をしているだろうか、と現実逃避がてら見上げた空は場違いなほど高く明るく、どこからか、カア、と烏の鳴き声が響いた。




用語解説

郡上涼利
仕事に勤しむ呪詛師。九相図3兄弟を「君の監視兼戦闘経験を積ませてやってよ」と偽夏油に押しつけられた。当然ミミナナから大ブーイングを食らって家内が若干ギスギスしてる。葬式なのでパンツスーツにレインコート。3兄弟にかかる諸経費は偽夏油持ちだが、家賃分だけは九相図たちに労働で払ってもらってる。


脹相お兄ちゃん
まだ箸も使えないうちに涼利の仕事に付き合わされ、呪詛師界隈の治安の悪さに引いている。仕事のときは「長男」呼び。着てる服はシャツとネクタイは涼利のお古だが、足の長さが5kmあるためスラックスだけユニクロで買ってもらった。費用は偽夏油に涼利が(上乗せして)請求した。

生部野家
山梨と静岡の県境にある蠱毒の名門。一応開祖のモデルはいる。代々女が当主を務め、家訓は「上蠱・中女・下男」。掛け値なしにヤバい家だが独自の技術をたくさん持ってるのでお目溢しされてる。相伝が維持するのに金がかかる術式なので涼利にお鉢が回ってきた。

生首の人
呪詛師。割と歴が長い。

夏油傑(真)
やっと登場した。ピアスは拡張じゃないやつをあげました。仲は良いけど根本の思想が違うので、お互い色々目を瞑ってる。涼利にとって「信頼してるし信用もしてるし尊敬してる部分もあるが、けして共感できない人」。でも大切な人。

烏丸さん
中学校の同級生。夏油の怖さにきちんと気づいたデキるJC。

未来視を涼利に譲った女性
あとで出てくる。涼利にとってこの人は、夏油にとっての理子ちゃんに近い立ち位置にあたる。故人。

キャップ
顔を変えて見せる呪具。3級ぐらい。

骨伝導マイク
仕事のとき声変えてるって前の話で書いちゃったので急遽登場した。アニメでオペレーターキャラが付けてるみたいなやつ。


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第二話「むしかんなぎ 中」

バトルシーンを入れると長すぎるので一端切ります。ほんとは上下2話で終わる予定だったんですが、予想以上のボリュームになりました。展開遅くてすみません。なお、今の時間軸としては交流会から八十八橋までの期間が間延びした期間となっております。


郡上家のつくりは至ってシンプルだ。

全体として、やたらと広い長方形の中庭を囲む、漢字の「口」を横に引き伸ばしたような形であり、短辺の片方に台所と居間が、もう片方の短辺に風呂とトイレ、長辺の片方に和室が4つ、もう片方の長辺に広い座敷が2つという構造だった。出入り口は台所のすぐ隣になる。風呂とトイレを除いた全ての部屋が中庭に面しており、どの部屋からも襖を開けると、縁側とその次にガラス戸を挟んで中庭が見えるようになっている。

 

中央にある中庭は家の中でもそこそこ美しく、白砂を敷き詰めた地面の上に飛び石がいくつかと丈の低い植木が置かれていた。残念ながらその簡素に整った光景をぶち壊すように、中庭にそそり立つ物干し竿には洗濯物が揺れているし、欄間にはハンガーがかけられているし、なんといっても端っこの梁からは留袖の女呪霊が首を括っている。和の美しさと生活感、そして本当にあった怪談みたいな要素が混在する、なんとも言い難いのが郡上家のいつもの風景だ。

 

 

「………分かった、大丈夫…うん。また買ったもののレシート置いとくね」

 

–––んにぃ。

高い声で鳴きながら、黒い猫が台所でスマホをいじっていた菜々子の足にすり寄ってきた。柔らかくてふわふわした毛並みは、スリッパを履いただけの素足にひどく気持ちがいい。いつもこのしなやかで小柄な生き物を目の当たりにするたびに、菜々子はちょっとむずむずとした気分になる。あったかくて、抱き心地がよくて、気まぐれで優美。こんなに可愛くってお前は大丈夫なのか、みたいな。

手を伸ばして抱き上げてやると、菜々子たちが涼利の家に来たころよりかなり重くなっており、ずしりとした生き物の確かな質感が腕に伝わってくる。ごろごろごろ、と喉を鳴らす猫の様子は至って機嫌が良さそうで、羨ましいほど悠々自適である。もっとも、この家に来てから10ヶ月近くの期間の中で、この猫の機嫌が悪そうなところはあまり見たことがない。菜々子と美々子が「ジジ」と呼んでいる黒猫は、いつだって楽しそうにくつろいで、のびのびとしていて、この世で一番ストレスという言葉と無縁な毛玉だ。

 

 

ジジは、涼利が家で飼っている猫である。具体的にいつごろ飼い始めたのかは菜々子も美々子も知らないが、2018年の初めに双子が涼利の家に来たときには既にいて、我が物顔で日当たりのいい縁側に寝そべっていた。時々どこかへふらりと出かけて1週間も帰ってこないこともあるので飼い猫、というにはちょっと微妙だが、とにかくこの家を根城にしていることには違いない。

 

涼利がぽろりと漏らしたことには、なんでも夏油の下を出てから引き受けた、「報酬は現物支給」の仕事で騙されたとのことである。見知った人物が相手だったので、未来視でいちいち視ていなかったのが仇になり、報酬は呪具か術式かと思って行ってみれば、ケージに入った仔猫を押し付けられたらしい。猫だって「現物」には間違いないし、その言葉を確かめなかったのは涼利なので捨てるのも寝覚めが悪い、ということで姉は里親を探すも結局見つからず、今に至っているわけだ。

 

菜々子も美々子もこの可愛らしく、人懐っこい黒猫に喜んだが、同時に猫を飼う涼利という取り合わせに違和感しか覚えなかった。何せ郡上涼利である。双子が7歳のときからもうすぐで16歳になる今までの9年間の付き合いだが、涼利は全然動物が好きではなかった。他者に関心が薄く、お金に細かいタイプで、生き物を嫌ってはいないがお金をかけるなど嫌がりそうな人間なのだ。非常食用に飼ってる、とでも言われた方がまだ似合うくらいである。

 

そんな彼女は意外にもきちんと猫の面倒を見ていた。菜々子たちがつけるまで猫は「お前」「猫」呼びのままだったし、1週間家からいなくなっても探したりしないけれど、涼利はジジが頭の上に乗っても怒らないし家にチュールは常備されている。その光景を目にしたとき、菜々子も美々子も涼利が頭でも打ったのか心配になった。それくらい慈愛の精神から程遠い人なのだ。

 

 

「………うん、うん。じゃあね」

スマホを切った美々子がそれを置くと、待ちかねたようにジジが菜々子の腕からするりと抜け出して、テーブルの上から美々子の肩まで伸び上がって抱っこをせがんだ。美々子はその喉を軽くくすぐりはしたものの、片手にぬいぐるみを持っているので抱き上げることはなく、ジジはちょっぴり不満そうに一度鳴いた。意外にもこの菜々子の片割れは、ジジをべたべたと甘やかさない。どちらかと言うと、溺愛しているのは菜々子の方である。

「すず姉、なんて?」

「仕事先でトラブルが起こって長引きそうだから、夜ご飯いらないって。帰りも遅くなるみたい」

「そっか。何時になるかは言ってた?」

「ううん」

 

ふるふると、美々子は首を横に振った。菜々子とは全然違う、ツヤツヤの黒髪がそれにつられて左右に動く。片割れの黒髪に浮かび上がった、淡い天使の輪っかを見ながら菜々子はもう一度、そっか、と呟いた。

 

この広く古い家の主である彼女は1週間のほとんどを、大学か仕事で留守にしている。夏油の下にいたときからせわしなく動き回っていないと気が済まない人だったが、こうして一緒の家で暮らし始めてからなお一層、その傾向は増しているように見えた。

もとより、その特異な術式を保有する涼利は、できることの幅が他人とは比較にならないほど広い。制限はあれど、ほとんど「何でも1人でできる」と言って差し支えないだろう。そのせいか依頼される仕事内容もてんでばらばらで、今日のような術式の買い取り、暗殺、人探し、呪物の買い付けの代理、護衛、物品の運び屋………と上げればその種類に限りがない。涼利が仕事を選ばないこともあって、半ば万屋のような有様だった。

 

そういう多忙な涼利なので、一緒に暮らす前と後で食卓を囲む機会はさほど変わらなかった。この、古めかしく、凝った和風建築の事故物件はいつもがらんとしていて、双子だけで時間を過ごすには持て余してしまうほどである。–––いや、持て余していた、と言う方が正解か。今のこの家は、どこかにいつも緊張感が張っていて、菜々子たちはその張り巡らされた透明な糸を気にしながら暮らしてるような感覚を味わっていた。

 

 

 

 

 

菜々子はこの家唯一の洋式である、居間のテーブルにぺたんと頬をくっつけて、あかるい光がさしている中庭を睨んだ。じっとりとした菜々子の視線の先には、座敷の前にある縁側に腰掛けて何だかくっちゃべっている2つの影がある。

1人は大柄な男で、前髪だけ残したスキンヘッドのような独特の髪型をしている。ボンテージに似た、明らかにコスプレにしか見えない格好をしていて、鍛え上げられた筋肉が全身を覆っており、ただでさえ露出の多い衣服が今にもはちきれそうな具合だった。

もう一方は、もはや人型ですらない。菜々子の知っている語彙に何とか当てはめようとすると、ぎりぎり「カービィ」になる。身の丈は双子とそう変わらないのだが、輪郭が梨のようにいびつに膨れた胴体から手と足が出ていて、そのまんなかに巨大な口が開いており、彼(たぶん男だろう)が笑うたびにそこから成人男性の拳2つ分ほどもある乱杭歯が覗いた。口の上には人の目鼻口を思わせる穴が4つ空いており、そこから流れる血が、いっそう不気味である。

 

 

この2人とすら言えないような彼らに、今は涼利と出かけている1人を加えた3人が、涼利に連れられて郡上家にやってきたのはつい最近のことだった。姉の「今日から10月31日までここに泊めるから」の一言で、美々子にも菜々子にも何の相談もなくそれは決定事項となり、彼ら3兄弟との強制的な共同生活を双子は余儀なくされていた。

 

「美々子」

「うん」

 

あいつらさぁ、とテーブルに顔をくっつけたままの菜々子がだらんとした姿勢で指差したのを見て、美々子がこっくり頷いた。生まれたときからずっと一緒の双子でも、菜々子と美々子は表情の作り方が全然違う。むしろこういう、表情に欠けていて冷たく見える感じは、涼利と美々子に似通っていた。その共通点にふっと不思議な気持ちになることが時おり訪れる。菜々子にもあるのだろうか。血の繋がりも考えも異なるのに、過ごした年月だけで、涼利と似てしまったどこかが。

 

「すず姉、なんでわざわざウチに連れてきたんだろ」

「分かんない」

「………あの偽物野郎に何か言われたのかな」

 

美々子が押し黙った。中庭から吹き込んできた初秋の薄甘く香ばしい風が、ほどいていた菜々子の金髪をふうっと舞い上げ、動くものに目のないジジがそれをを一度、二度と猫パンチする。

美々子はジジの前足を握ってそれをやめさせると、ふにふにとした肉球を弄りながら、口を閉じたり開けたりして何かを言い淀んでいた。

 

「……それもやっぱり分かんないよ。でも、あの姉さんだし、あいつに言われただけで動いたりしない。姉さんなりに何か考えがあってやってるんだと思うよ」

 

とつとつと切れ切れに、それでもきっぱりとした言い方に閉口したのは今度は菜々子の方だった。

菜々子は美々子ほど、涼利を何もかも信頼しているわけではない。特にこの夏油傑の遺体や、それにまつわる件に関して涼利は双子に何も話してはくれないのだから。今月末のハロウィンの日に、夏油の死体を乗っ取ったあの男や呪霊共が大がかりな計画を起こすつもりで、涼利がその計画の要であるということ––それから、その計画で五条悟と交戦するということ。涼利は偽夏油と何らかの縛りを結んでいること。2人が知っているのはそれくらいで、あとは何を聞いても答えてすらくれない。

 

涼利がどういう方法で、夏油の死体を取り戻すつもりなのか。五条悟と戦って、どうするのか。何も教えてはくれない涼利のことを考えるたびに、薄皮をゆっくりと一枚いちまい剥がされるような、形のない不安や疑念というものはむくむくと菜々子のこころの内側に湧き上がるのだった。

 

 

 

 

ちょうどそのとき、菜々子の腕の中で気持ち良さそうにとろけていたジジが飛び起き、腕の中から素早い動きで抜け出すと居間のフローリングの床を駆けて、ぴょい、と中庭に飛び降りた。飛び起きたときに、抱えていた菜々子が驚いてテーブルに顎を打ちつけたのも知らぬ、軽やかな足取りだった。

向かった先は縁側に腰掛けている壊相と血塗である。呪いと人の混血児たちが来た初日から珍しく人見知りをしなかったジジは、人の形をしていない血塗のことがたいへん気になるらしく、彼の姿を見るとときどき近づいては、フンフンと彼を嗅いだり撫でることを要求しているのはここ数日で美々子も菜々子も見慣れたことだった。

 

「涼利の飼ってる畜生だ!お前、今日もちいさいなあ」

青緑の肌をした、3兄弟の末子はその異形の外見には似合わず猫を可愛いと思う感性はあるらしく、そのダミ声にはうれしそうな響きが確かにあった。

「あまり不用意に触ってはいけないよ、血塗。この大きさの獣は、我々であればうっかり殺してしまうかもしれないから」

「ウン、分かってるよお」

元気よく返事をした血塗は、おそるおそるその指先でジジの頭をつついてやり、それに気を良くしたジジが指に頭をこすりつけたのに驚いてちょっぴり身を引いた。逆に弟を優しい目で見る壊相は猫にはさほど興味がないようで、ちらりとも触れようとはしなかった。

「そう言えば兄者、こいつなんて名前だったっけ?あいつ、何だか変な呼び方してたよなあ?」

「ああ……確か爺、じゃなかった?」

「そうだった!流石は兄者だなぁ」

 

ジジだっつの。

爺、爺、と惜しいと言うには嫌な響きの名前を連呼する受肉体の兄弟たちを眺める菜々子は、お腹の底から深いため息を長く吐き出した。

菜々子たちは、個人的にあの兄弟たちを嫌う理由を持ってはいない。

彼らは『視える』側の生き物で、憎むべき非術師ではない。人間の術師ではないが、かと言って非術師が生み出す呪霊でもない。菜々子や美々子たちを傷つけたわけでもない。極端な好き嫌いで人を判断してきた双子にとって、彼らを分ける区分はあまりにも曖昧でグレーゾーンだった。

 

涼利が自分たちに相談もなく連れてきたことは気に入らなかったし、姉妹3人の生活空間を邪魔されたのは癪だったけれど、菜々子が彼らを同居人として認めたくないのは全く別の理由だった。

 

(…なんか、本当になっちゃう気がする)

 

渋谷での大がかりな作戦まであと1ヶ月を切っている。その日に、菜々子たちはあのひとの体を、ちゃんと取り戻せているのか。その時に涼利は何をしようとしていて、無事でいてくれるのか。今はまだ訪れていない、それでいて刻一刻と近づいてくる未来への不安。

漠然と胸にわだかまった形のないそれらは、唐突に九相図の3人が郡上家に来たことで妙な予感を伴って菜々子の胸を重くさせた。

あと一月もないうちに、何かが決定的に変わろうとしている。渋谷で、自分たちの計画が成功するか否かに関わらず、取り返しのつかない変化を迎えようとしている。そんな予感がどうしても消えない。彼らはその不穏な未来の使者のように思えてならなかったのだ。

 

「‥すず姉、早く帰ってこないかな」

「ね。今日はお土産、買ってきてくれると思う?」

「どうだろ。信玄餅買ってきてほしいな」

「さっき頼めばよかったかも」

 

菜々子の言葉にしない不安を察知したのだろうか、美々子がぎゅ、と手を握ってきたので、菜々子もまた同じだけの強さで握り返した。同じ大きさの、同じ温度の手のひら。菜々子はポケットからスマホを取り出した。LINEを開いて一番上に表示されたアイコンには、相変わらずのアンソニー・ホプキンスの横顔が映っている。「帰りに信玄餅買ってきて」のメッセージを送ると、なぜかすぐに既読がついたので菜々子はまた机に顔をくっつけて、仕事しろよ、と小さい声で呟いた。たぶん、返事は帰ってこないだろう。郡上涼利は既読スルーの常習犯だ。これはお互いLINEを交換したときから変わらないこと。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

講堂の中は薄暗かった。元来現代的な光とは縁遠い場所で、小学校の体育館ほどある大きさの内部を照らすものは、祭壇のように前方に開けたところに設置された柱状の電灯と、戸口の鯨幕を透かして入ってくる初秋の陽光だけである。それだけの光源だけではとても端々まで完全に明るくさせるには足りず、ずらずらと並べられた椅子に座す参列客の間や、何やら忙しげに動き回っている家人たちの顔や、飴色の壁や、高すぎてよく見えない天井のあちこちには、濃淡さまざまの闇が凝っていた。

 

簡素な折りたたみ式の椅子に座った、明るい茶髪をした黒い上下の青年は、きょろきょろと人相の悪い参列客や薄暗い講堂の中を見回し、それから高い天井をぼうっと見上げた。

天井というものは、ある一定の高さを超えると感心するという度合いを文字通り飛び抜けて、眩暈がしてくるようになる。生部野家のこの講堂もその類で、いかめしく芸術的に湾曲した木製の梁はあまりの高さ故に、その一等高く暗いところをじっと見ていると、何だかヘンテコな妄想が掻き立てられるような具合だった。あっちの暗いところからこの家で飼われている呪霊が見張っているんじゃないか、いやこっちの影で今何かが動かなかったか、というある種の想像力豊かな子供のように。実際にそんなことは全くなく、それらはまとめて青年の心配性の生み出す産物なのだが、どちらにせよそう言ったことを考えるほどに、この講堂が彼にとって居心地悪く落ち着かない場所であることは確かだった。

 

 

「そんなにきょろきょろするものじゃないよ、猪野くん」

「えっ、そんなに分かりやすかったっすか。気付かれないように観察に努めてたつもりなんすけど」

「ふふ。残念ながら、いかにもお上りさん、という感じだったね」

 

くすくすと、薄暗がりに溶け込むような女がとろけるような声で笑った。こちらもまた、葬儀に参列するものとしてはやや奇抜なデザインの黒衣に身を包んでいたが、この場においてはさほど目立っていない。むしろ、女の持つ月の光を集めたような白髪の方が、周囲から浮き上がってあわく光っていた。ちらちらと女の方を見ては、決して視線を合わせないように俯くものも何人かいる。女の肩に乗った烏が、その視線を嫌がるように首を振った。

 

「我々術師家系生まれなら、個人差はあれど金持ちの家には嫌でも慣れるだろうけれど。流石にこの規模は、君は初めてだったかな?」

「まあ、そうっすね」

 

この2人–––高専に所属する二級術師猪野琢磨も、フリーの術師である冥々も、どちらも生まれは代々呪術師を輩出する家柄である。この業界というのはとかく命の危険と反比例して報酬がよいので、長く続けるうちに不思議と金に困らないものも多い。その財産を有効に利用できるほど長生きできるか、というのはまた別問題としても、歴の浅い家柄ですら金回りのよいところが殆どだった。修行場としての機能を兼ね備えるために、家が広いというのも決して珍しくない。

 

「少なめに見ても、うちの本家の3倍以上はありそうだなぁ…ここの連中、どうやって敷地の中移動してるんですかね。車とか?」

「さあ?もしかして虫に乗ったりしているのかも–––というのは冗談だけれど、ここら一帯の山は全て生部野家の私有地だというのだから参るね。近頃は衰退していようと、呪術界の名門と呼ばれる家のほとんどは、この家の足元にも及ばないだろうさ」

 

衰退している、のところで冥々は少し声をひそめた。いかにも面白がっているふうだ。衰退してこうなら、栄えていたころは一体どれほどの権勢を誇っていたのか、名家というほどでもない中流家系出身の猪野にはとんと見当もつかなかった。

その広大でほの暗い講堂の中を、指摘されてしまったので、今更隠す意味もないだろうと猪野は首ごとぐるぐると辺りを見回したけれど、冥々が先刻口にしたような特徴の人物はやはり見当たらない。

 

「例の奴、黒いキャップとレインコートに、銀の指輪10本嵌めて、ピアス開けた背の高い女、でしたよね。いなくないっすか」

「そう。まあ性別については骨格からの推測に過ぎないけれどね。どちらにせよこの中にはいないよ」

冥々は肩に乗せた一羽の烏を指の背で優しく撫ぜた。その烏といえば、プルプルと小柄な体躯全体で怯えたように震えており、哀れっぽい風体である。

「式盗りがこの子を射たのは外だった。家人に連れられて講堂から出てきていたから、今はこの邸宅のどこかにいると考えるのが妥当だろう。可哀想に、この子もすっかり怯えてしまって…彼女はどうも、暴力に躊躇いがなさすぎていけない」

その口ぶりはどこか親しげで、猪野は改めてこの守銭奴と名高い一級術師が呪詛師とも付き合いのある人物なのだ、という認識に現実感を深めた。

「聞く限りめちゃくちゃ目立ちそうな外見ですけど、そんなんでも捕まらないもんなんすね。その式盗りとかいう呪詛師」

「彼女の素顔も声も指紋すら我々が知らない以上、レインコートや指輪を外してしまえばそれまでだよ。実際彼女、それを全部外して私から逃げおおせたこともあったしね」

あのときは困ってしまったよ、と冥々がひょいと肩をすくめる。乗っていた烏が傾いて、足を慌てて組み替えるのがなんだか可愛らしかった。

 

 

 

 

2人がこの田舎にある生部野家までやってきたのは他でもない、「式盗り」と呼ばれる呪詛師の追跡を目的としてのことだった。以前の高専の交流会を襲撃し、その隙をついて忌庫から呪物を強奪した呪霊および呪詛師たち。その内の1人として容疑がかかったのが、彼女だった。呪詛師界隈では有名だというその呪詛師が、本当に襲撃に参加していたようならば捕まえて高専に連行しろ、とのオーダーを受けた冥々は「式盗り」が生部野家の葬儀に参加するらしいという情報を掴んで、呪詛師がたむろする葬儀場くんだりまで足を運んだわけである。

 

 

「しかし、遅いね」

冥々が手首の内側にある、腕時計の文字盤を見ながらぽつりと呟いた。一目見て高価なものだと分かるそれを縁取る、シャンパンゴールドの輪が薄暗い講堂の中できらり、とひかめく。

両の針は葬儀が始まるはずの時刻をとっくに過ぎており、集まった周囲の呪詛師たちもそのことに気づいているのだろう。どこか苛立っているもの、時計を頻繁に見ては焦ったような顔をするもの、そわついたもの、と枚挙にいとまがない。

 

「2時からでしたっけ?」

「ああ。この家の人間は時間に厳しいのだけど…もしかするとトラブルがあったのかもね。それも遺体がらみの」

冥々は後ろ側を振り返った。視線の先にいる、「羽化する蝶」の紋を染め抜いた、揃いの黒の着物を纏う生部野家の家人と思わしき集団は何やら険しい表情で顔を突き合わせており、途切れながら聴こえてくる声もどこかただならぬ響きがあった。

どこか分かりきったことだ、とでもいうふうな意図を言外に滲ませた女の言葉に、猪野はその真意を図りかねてきょとりと首を真横に倒した。

 

「生部野で執り行われる葬儀は、呪詛師にとっても呪術師にとっても貴重なチャンスなのさ。門外不出の『赤尸(せきし)』が未完成とはいえ手に入るのだからね。この中で大人しく座って待てるものもいれば、そうじゃないものもいる。式盗りも参加しているし、どうやら今回の葬儀は荒れそうな予感がするよ」

 

くすくすと、冥々はまた笑みを深めた。その白い面は薄暗い講堂の中でとろりと濃い陰翳に彩られて、いっそう凄絶に見える。ちょうどそのとき、強い勢いで吹いた初秋の風が入り口の鯨幕を巻き上げ、淀んだような暗い講堂に一瞬、あかるい光を投げ込んだ。椅子やそれに座った人々の遠い向こう、開けた場所の真ん中はぽかりと空いている。恐らくは棺が置かれる場所なのだろう。未だあるべきものが、そこにはまだ置かれていない。どことなく間が抜けて、欠け落ちたまま、講堂はすぐにまた薄暗く閉じられた箱に逆戻りした。

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

その部屋にもやはり、あるべきものは足りていなかった。講堂から少し離れ、歴史の教科書に出てくる貴族の邸宅を彷彿とさせるような、寝殿造に近い生部野家の屋敷。この季節には肌寒い温度の冷房、風に触らないところに置かれた蝋燭、死臭を消すための香が焚きしめられた一室。その中央には、錦織の布団が引かれていたが、それはこんもりと布団だけが盛り上がったまま、その中身がない。少し前まで寝ていたひとがちょっと用を足しに抜け出たような有り様である。無論、そんなことはありえないのだが。

 

「ないな。死体」

部屋の障子を開けたときから流れた重たい沈黙を破って、涼利がきっぱりと言い切った。つまりは、端的に言ってそういうことだった。涼利が既に前金を支払い、今から奪い取る術式の持ち主である遺体はこの部屋のどこにもない。二十畳ほどの空間のどこを見渡しても、部屋にあるのは冷えた空気だけである。

 

「最初に確認だ。私は先週、生部野家の銀行口座に金額の半分を振り込み、君たちはそれを受け取っている。間違ってないか?」

機械音声の淡々とした温度の低い質問に、案内役の少年は顔を青ざめさせてこくこくと何度も首を縦に振った。つい先程まで、年頃にあわず落ち着いて聡そうだった雰囲気は霧散して、今にも泣き出すのではないか、といった具合で黒い袴をぎゅっとにぎっていた。

「予定では今から私は故人の術式を取り込み、それが終わった後に残りの半分を支払うはずだった。これも間違ってないか?」

「そ、相違ありません。式盗りさまへのご依頼は姉–––今代当主が僕に一任しておりました。振り込みは僕の目で確かに」

「そう。じゃ、その上で故人の術式を私に渡すのが惜しくなったとかいうわけじゃないよな」

「…いいえ、まさかそのようなことは…!」

 

しどろもどろに口籠もった少年は俯いてしまい、ちょっとやり過ぎたかと反省した涼利は、何だか責めるような目で見てくる脹相を見て、空っぽの錦布団を見て、あー、と口を開いた。今は平凡そうな女のものに変わった薄茶の瞳がぐるりと一周する。

 

「冗談だ。どうせどこかの呪詛師が未完成の『赤尸』欲しさに死体を盗んだんだろ。君たち生部野が人間相手に嘘つくほど、興味がないことくらい知ってる」

 

そう言った涼利は部屋の敷居を跨いで入ると、リモコンを拾ってクーラーを停止させた。そうしてリュックサック(この短期間の間あまりにもこの中から大量のものが出てくるので、脹相は世のリュックは全てこういうものだと勘違いしていた)から取り出したのは、呪符ではなく白い和紙を綴じた束である。それを何枚も重ねたまま、ためらいなくびりびりと豪快に、破いていく。ほろほろと部屋の畳に落ちた紙吹雪は、あっという間に小ぶりな山となって積み上がった。少年はぎょっとしたようにその光景に目を見開いたが静止するには至らず、止めかけた手を下ろした。

 

束を丸ごと紙片の山に変えた涼利の肌にはやはり、赤い文字列が群れをなして浮かび上がっており、その緋文字の出現に伴って積もった山がひとりでに動いた。初めは部屋の外から吹いた風で宙に舞い上がったのか、と勘違いするほどゆっくりとした動きは次第に速くなり、渦巻きながら何かをかたどりはじめている。ぐるぐる、竜巻に飲み込まれる木々のように。

 

やがて真っ白だったそれらの紙片はうすらと色づき、今や完全に人のような形を成して立ち上がった。ところどころ綻び、絶え間なく動く紙吹雪がより集まった人影はぼやけていて、ピントの合わないカメラのように輪郭がぶれている。

その不安定ながら結ばれた像をよく観察すれば、脹相も見覚えがあった。服こそ違うが、左手にひと抱えもあるケースをぶら下げている。その中にはスイカ大の肌色が、顔の作りもわからぬほど曖昧に見えた。取り巻く薄い緑。–––揺れる、淡いみどりの水。

 

(先ほど講堂で見かけた、生首持ちの男…?)

 

「–––巻き戻れ」

 

呪言ではない。硬い声がそう命じると、人影を映す紙吹雪はざざあ、と驚くほど滑らかに動き出した。ちょうど動画の逆再生をかけたときのように、敷居のすぐ前にいた男の影が後ろ歩きで布団の前にしゃがむと、肩に担いだ何かを布団に戻し、また後ろ歩きで視界の前まで戻ってくる。そして、きょろきょろと部屋の中を見渡したのちに襖をしめるような動きをして廊下に出た。布団の中から死体を奪ったらしき動作を見るに、この男が犯人で間違いないのだろう。

 

「もういい。停止しろ」

 

発された言葉に、ぴたりと、人型の紙吹雪の群れが止まった。それを確認した涼利は、息をついて少年の方に向き直った。高い位置にある薄茶の目に見下された少年が、僅かに怯えたようにぴくりと震える。

「………これは、一体…」

「過客再来。『トリックぶち壊し術式』と嫌われてるが、要するに起こった過去を擬似再現することに極めて長けた術式だ。今回はトリックもクソもないが、その点においては信用してくれて構わない。…いやしかし、まさかこいつだったとはな」

 

涼利は自分の横側にあちこち欠けた形で、ぼやけた輪郭を隠しもせずに茫洋と立つ男を流し見た。当然ながらこの人形に人格なぞ存在しない。あくまでこの場所で行われた行動をなぞるだけの術式。過去の亡霊とすら呼べないほど淡い影は、ひどく虚ろな顔をしている。

 

「帯戸川も落ちたもんだ。生部野に喧嘩売るような真似をするとは」

「それは…はい、そうですね。とにかく僕は姉に伝えて参ります。申し訳ありませんが式盗りさま、死体が戻ってくるまで術式の引き渡しはしばしお待ち願えませんか。遅れたことに対する埋め合わせについても、姉上であれば色よい答えがいただけるかと」

 

ようやく落ち着いてきた少年の言葉に鷹揚に頷いた涼利はしかし、それは構わないが、と口を開いた。同時に小さく何か呟くとともに廊下に出ていた紙吹雪の人形が先程とは逆に、早送りのように動き出した。きょろきょろと見回すような動きののちに布団の前でしゃがみ、遺体を担ぎ上げたポーズで敷居の前までやってくる。一連の流れは全て、通じての4倍速ほどのせかせかした調子だった。

 

「私も自分で死体泥棒を追ってくる。こいつを使えば後を追うのは簡単だしな」

涼利はちょっと紙吹雪の群れをつついた。

「い、いえ、式盗りさまのお手を煩わせることはありません。元はと言えば僕ら生部野の不手際です。その上に犯人の捕獲を手伝ってもらうなど…」

「勘違いしないでほしいんだが、別に君たちを思って言い出してるんじゃないぞ。君たちだけに任せるより自分でやった方が効率がいいし、万が一それで逃げられたら払った前金が無駄になる。それが嫌なだけだ」

 

きっぱり言い切った涼利は「姉君にはそう伝えといてくれ」と付け加えるとすたすたと部屋を出て行ってしまい、脹相は慌ててそのあとを追った。少年はしばらく思い詰めたような顔をしていたが、顔を上げると、玄関に靴を取りに行った涼利たちとは逆方向の廊下を、足早に歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

これほどの空間をとる必要があるのか、はたして疑問に思うほどの玄関でいつものアディダスのスニーカーではなく、バックルのついたローファーを履く女の横顔を見ながら脹相は、涼利、と呼んだ。一度脱ぐともう一度履くのが非常に面倒な、脹相の革のワーキングブーツは少しばかりしっとりとしている。ブーツの紐を固く結ぶのは、未だ脹相にとっては箸の正しい持ち方と同じくらい難しいことだった。

 

「あ?何だ」

ガラの悪い反応を返した涼利は、若干手間取っている脹相を見て嫌そうな顔をした。

「お前、あの死体が盗まれること分かってたんじゃないのか。昨日の夜に、お前は未来視の術式を使っていなかったか?」

涼利はその僅かに自信なげな言葉に、器用に片眉を上げてちょっと驚いたような顔をすると、玄関の三和土から立ち上がって膝を払った。黒いスラックスはいつものジーンズと違ってこう言うところがやり辛くて敵わない。

 

「声量落とせよ長男、ここで何が聞いてるか分かんないだから。–––ま、でもお前の言ってることは正しいぜ。私は1週間前から高確率であの遺体が盗まれるのは知ってた。わざと生部野には黙ってたんだ」

「何故だ?」

全く理解不能だ、と言いたげな顔で脹相は目の前の凡庸で特徴のない顔を見た。座る脹相を上から見下ろす淡い茶色の瞳孔はいつも通り、僅かに開いているよう具合で彼を睥睨している。

 

「実は私、ここの当主に頼みたいことがあってな。とは言え、簡単に了承してもらえるような案件じゃないから『大事な遺体を盗んだ犯人を捕らえました』、くらいの恩を売ったら飲んでくれると思って。死体が盗まれないと、売れる恩も売れないから黙ってたんだ。あとは、まあ–––」

 

涼利はまだ靴紐結びに手間取る脹相の前にしゃがみ込むと、素早い動作でバランスの良い蝶結びを作って引っ張った。その短く機能的に切られた爪の俊敏な動きを脹相がぼんやりと眺める上から、微かに楽しげな調子の声がひとりごちた。

 

「あの犯人–––お前も見た生首野郎。あいつの持ってる術式がなかなかいいやつで、前々から欲しかったんだ。とは言え理由もなしに同業者から奪えば角が立つが、あいつの方から生部野に喧嘩売ったんなら、特に咎められることもないだろ。つまり今日は上手くいけば、故人の術式と死体泥棒の術式が手に入って、なおかつ生部野に頼み事ができる。一石二鳥のチャンスなんだよ」

 

渋谷の前哨戦には物足りないだろうが、とせせら笑うように低い声で呟いた女は、そう言うと脹相のきちんと紐の結ばれたブーツから手を離して立ち上がり、もう一度神経質に膝の砂を払って玄関の引き戸を開けた。葬式の当日にはいささか不釣り合いなほど彩度の高い青の空が、外には広々と続いており、扉を開けたことによってじっとりとしたぬるい空気が押し寄せてきた。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

生部野家の所有する山は、屋敷に通じる部分を除いてほとんど整備されていない。よく見れば何人もの人間が通る内に踏み固められたのであろう、獣道がいくつか見受けられるのみとなっている。屋敷から離れるほどその道も細く分かりづらさは一段と増してゆき、屋敷を出てそれほど経っていない今ですら、初めて訪れる脹相は振り返ってもどこを歩いてきたのか、さだかには思い出せなくなりそうな様子である。人が歩いたり、暮らすためではない山というのが、歩くものは嫌でも理解できた。かといって人の手が全く入っていない、という訳でもないのがこの山の妙なところである。

 

(山の様子が先程までと違う……?)

 

脹相は迷いなく深い山の斜面を走る涼利を追いかけながら、木々の上方を見上げた。濃い針葉樹が立ち並ぶここいらは昼間でも、日光が多少遮られてしまうが故に薄暗く、地表に届く光は淡くか細い。黒く柔らかな感触の土にはくっきりとした足跡が2人分残されている。先程抜けてきた、落ち葉が絨毯のように広がっていた地面とはまるで違っていた。

 

そう、先程まで走っていた山の一部はここよりもっも明るく、葉が赤く染まった広葉樹が群生していたはずなのに、がらりとそれが切り替わっている。まるで、区画ごとに植生が精密に管理されているような風だ。あいも変わらず生き物の気配はひとつとしてなく、人が住むような痕跡もまるでないのに、人間の手で整えられている。

見上げた木々もまた枝同士が触れ合って折れることのないよう剪定された跡があり、その遥か高みから遠い木漏れ日が差していた。初秋の午後の透明なその光を、瞬きの間顔に受けた脹相は目を眇めた。

–––この広大な山は、一体何のために使われるのだろう。誰のためにここまで手を入れて管理されているのだろう。ふと、脹相はそんなことを考えた。

 

「止まれ」

 

短い制止に足を止めれば、涼利の少し前を早送りされながら浮遊していた紙吹雪が、いよいよその姿を保てなくなって風に散るところだった。映し出されていた男も、すぐにとろけて秋の風に弄ばれる紙片に変化する。それを燃やした涼利は、ちょっと残念そうな顔をした。

 

「時間切れか?」

「そう。まあここまで使えたからいいけど、やっぱり長期の探し物なんかには向かないな」

 

分かりきったことだけど、と言いつつもその顔は普段と比べればずっとあからさまに不満げだった。その顔が今は、いかにも平凡そうな、特徴のない女のものであるせいかもしれない。

 

 

 

式取りと悪名高い郡上涼利の剥式呪法は、「他者の術式を奪う」という破格の効果を持つが、それと比例していくつかの制限もまた存在する。術者である涼利が縛りとしてかけているわけではなく、元来備わった機能である。

そのひとつが時間制限だった。涼利の所有するほとんどの術式を展開できる時間は、およそ3分から5分と極めて短い時間に限られていた。これを超えると術式は自動的に終了され、再使用には1時間以上かかる。この再使用までのクールタイムは術式によっても異なり、中には1日1回しか使えないものもある。また、時間制限以内に展開している術式を別のものに切り替えたとしても、再使用には同じだけの時間がかかるなど、ハイリスク・ハイリターンを体現するものとなっていた。

「ほとんどなんでもできる」が、「なんでもできる状態を維持する」ことが不可能な涼利は、それ故にバトルスタイルが基本的に短期決戦向けとなる。

 

つまるところ、今のようなある程度時間のかかることをやろうとすると、途中で術式が中断されてしまうというのは彼女の大きな弱点でもあった。

 

 

「ここからならいい具合に見えそうだな。脹相、ちょっと」

涼利は山の斜面に生えた、針葉樹の隙間を覗き込むと脹相を手招きした。彼がそこから眺めた下にはやはり静かな秋の山並みが広がっているばかりで、人影などどこにもない。金色のイチョウが、その葉群れを秋風に揺らしているだけだ。

あそこが見えるか、と涼利が指差した場所は斜面のずっと下、イチョウの林が途切れて小ぶりな池がある場所だった。深い緑色をした水は、遥か上から見下ろしても綺麗に澄んでいて、その水面に黄色い葉がひらひらと散っていた。

 

「あの池のところに、あと14分したら生首野郎が来る。ある程度は遠距離で削れるといいんだが。お前の穿血はあそこまで届くか?」

「いや…無理だろう。流石に遠すぎる」

速度・威力・範囲を兼ね備えた脹相の得意技『穿血』でも、距離が遠ければ次第に速度が落ちてしまう。この距離ではほとんど攻撃の意味をなさないだろう。脹相のその返答に涼利は頷いた。

「だよな。死体に万が一当たってもことだし…どうするかな」

 

ぶつぶつ独り言を溢しながら考え始めた涼利は、顎に手を当てた。男のように手首の表側につけた腕時計を眺めた彼女の顔には、細い木漏れ日が射している。秋の光によって、ほとんど淡い金色のように見えるその目が、規則正しく瞬くのを見ながら、脹相はふと口を開いた。

 

「涼利、先程言っていた『セキシ』とはいったい何なんだ?死体が盗まれたことと何か関係がある–––というか何故そもそも死体が盗まれたんだ」

先刻空っぽだった和室で涼利が口にしていた、耳慣れない単語が頭の隅に引っかかっていたもので聞いてみると、涼利は一拍おいて、ああ、と頷いた。頷く振動に合わせてマイクが揺れ、機械音声に軽いハウリングが混じる。

「そういや説明してなかったな。死体泥棒が来るまでまだ時間はあるし、一応教えとこうか。セキシっていうのは生部野家で作られてる特殊な呪霊のことだ。で、蠱毒の一種でもある。字はこう」

涼利は中腰になって、落ちていた枝で地面をがりがり引っ掻いて、その文字を書いた。セキシ。赤尸。–––あかい、かばね。何とも不吉な字面に、脹相は首を傾げた。

 

「ちなみに一個体を指す言葉じゃない。生部野の管理下にある成体は全部で百体以上いるはずだが、それらを纏めた名称だな。文字通り見た目が赤いこととか、あとは道教の三尸の虫が由来のはずだ」

 

地面に脈絡なく三尸だの何だのと適当な文字を書き足していた涼利は、持っていた枝をぽいと放った。「スプレー貸せ」の言葉に鞄にいれていたスプレー缶を渡すと、白く薬くさいそれを噴霧しながら涼利はじろりと脹相を見た。

 

「と言うか、赤尸の幼体ならお前もう見てるぞ」

「どこでだ?覚えがないが…」

「ついさっきだ。案内してた子供の首から出てきた蜘蛛、いただろ。あれだ。あれが成長して赤尸と呼ばれるようになる。ちなみにあれは1人につき3匹飼ってるはずだから、お前が見たのはそのうちの1匹だけだな」

 

その言葉に、脹相の脳裏をよぎったのは、少年の皮を破って出てきた灰色の蜘蛛の姿だった。脹相とたしかに目線があったような、よく肥えた親指大の、蜘蛛。尻に赤い二本線のはいった、不気味な生き物が袖の中に入っていく光景。

 

「…赤くなくないか?」

「成長したら全身真っ赤になる。気持ち悪いくらいな。話を戻すと、赤尸はさっきも言った通り蠱毒…生き物や呪霊同士をお互い殺し合わせて、生き残ったものを強化していくやり方だ。これは別に術式でもなんでもないから、生部野家以外でやってるとこもある。赤尸が特殊なのは育てる環境と手順でな」

 

少しばかり意味深に言葉を切った涼利は、唐突に「蠱毒はどこでやるものだと思う」と問うた。甘い金色に染まった瞳孔が瞬きもせずに、じいっと、脹相を見据えていた。

 

「は?どこ、だと?」

さっきも言ったけど、蠱毒とは百足やら蜘蛛やら蛇やら大小様々の虫や生き物を、お互いに食い合わせて、生き残ったものを使う代物だ。ここまではいい。それをやるのはどこか、という問題だ。虫たちを『何』に閉じ込めて殺し合わせる?」

「何って…壺だとか箱なんかじゃないのか」

「そう、大概想像するのは壺だろうな。だが面白いことに、大元の中国でも日本でも、使う容器や、閉じ込める虫の種類は明確に定められてる訳じゃないんだ」

使う種類によって蛇毒だったり、虱毒と呼んだりするけど。

そう付け加えた涼利は、また枝をつかって、地面になんだか絵を描き始めた。がりがりと迷いなく、一筆書きに描かれたそれは、ごく簡単な–––

 

「つまり蠱毒をやる場所は何でもいい。壺、箱、筒、檻、家、庭…そして、この家で使うのは」

–––人間の体だ。

涼利は、こつこつと枝で地面に描いた人の絵を叩いてそう嘯いた。クッキーの型のように簡略化されたそれに、涼利はまた付け加えていく。胴体の真ん中、等間隔に並んだ3つの丸。

 

「生部野の人間は全員男女関係なく、生まれた後すぐ体内に蠅頭のような弱い呪霊を3匹入れられる。こいつらは宿主の血や肉を食って成長していき、やがて体内でお互い殺し合うようになる。どれか1匹でも欠けたらまた補充して、それを繰り返すうちに段々と体内の呪霊は成長していく訳だ。そして宿主が50の誕生日を迎えた瞬間に、最後まで勝ち残った1匹は」

 

胴体に並んだ3つの丸を線で繋ぎ、それを太く雑に伸ばした楕円を涼利はどんどんと大きくしていき、やがて楕円は地面に描かれた人型をも貫いた。ただの土に描かれた簡素な絵であるはずが、なんとも不気味かつ、聞こえてくる話の邪悪さに脹相は質問したことを若干後悔した。自分たちの生い立ちも気分のよいものではないという自覚もあるが、生部野家の赤尸とやらのおぞましさもたいがいだった。

 

「–––宿主を内側から食い殺す。骨の一欠片、血の一滴も残さずに食ったら、そこで赤尸はやっと完成だ。要は生部野家の人間の体内で、宿主の血肉をたらふく貪り、呪霊同士50年殺し合い続けた極上の蠱毒だ。宿主を食い殺して生まれた瞬間から、高い知能と呪力、戦闘能力、生部野への絶対的な忠誠心を誇る優秀な兵士。これを赤尸と呼ぶのさ」

 

描いた絵をぐしゃぐしゃと足で擦って消すと、涼利は枝を投げ捨てた。

脹相は簡潔に纏められたその説明に、ふと先程まで案内してくれていた少年の幼い顔と中から現れた蜘蛛のことを思い出した。いずれ成長した暁にはあの少年もまた、内側から巨大な赤い蜘蛛に食い破られて死を迎えることになるのだろうか。そんな不吉な未来が青年の頭をよぎった。いずれにせよ脹相にはどうしようもないことであるし、そんな気もまるでなかったにせよ、微かな憐れみは彼の心の中の裡に沸き起こっていた。

 

(………いや、待てよ)

その時になって脹相はおかしなことに気づいた。涼利の説明が正しければ、赤尸の幼体を宿した生部野家の人間は、50の誕生日に内側から食い殺されれ、宿主の肉体を全て食らうことで赤尸は成体となる。ならば今回、「遺体が残っている」という事実がおかしい。本来なら残らないはずの遺体が、なぜ盗まれるというのだろう。

 

「だが、それだと辻褄が合わな–––」

「脹相、静かに」

 

言いかけた質問は、硬い機械音声に制止された。有無を言わせない圧に口を閉ざせば、すでに涼利の視線は下方に向けられている。すなわち2人が立っている山の斜面の遥か下、小ぶりで澄んだ池。先刻「下手人が現れる」と言っていた地点を、その凄絶な光を宿した琥珀色の瞳が凝視していた。

 

–––その出現は一瞬のことだった。

池を取り囲む、一面の金色のイチョウの林から弾丸のように放たれた黒い影が、勢いを全く殺さぬまま飛び出し、そのまま一気呵成に駆け抜けた。左肩に肩に黒く大きい人型の荷物を担ぎ、右手にガラスケースを携えているのすら、脹相の目になんとか納まるほどの速度。走る人影が、現れたのとは逆側のイチョウの林にまた姿を消したところで、涼利はわずかに口角を上げて呟いた。

 

「お出ましだ。どうやら生部野には見つかっていなかったらしい。じゃ、脹相、予定通り死体泥棒退治といくか」

 

言うが早いか脹相のベルトを掴んだ涼利は斜面から、躊躇いなく飛び降りた。イチョウの舞う青い空を背景に、準備する間もなく空中浮遊を味わわされた脹相は内心で言いたいことはたくさんあったが、彼にできることは着地の衝撃に備えて口を閉じておくことだけなので、黙ったまま彼は眉根をぎゅっと寄せた。




用語解説
 
郡上涼利
短期決戦向きの呪詛師。人様の葬式でよからぬことを企んでいる。信玄餅は買えなかったので「通販でいいだろ」とか言って怒られる。お兄ちゃんが予想以上に重かったため、あとでちょっとだけ腕を痛めた。

脹相
よからぬ知識ばっかり与えられている人。涼利にベルトを掴まれたためズボンが脱げそうになった。疑われないための演技とは言え、いたいけな少年を責めた涼利に引いた。

ミミナナ
渋谷事変の計画をあんまり話してくれない姉に苛立ったり、いきなりの共同生活に戸惑う思春期。涼利への信頼度にはちょっぴり差がある。

壊相&血塗
家の外にはあんまり出られないけど、人間生活にいそしんでいる。ジジの名前をちゃんと呼ぶのにはもうちょっとかかる。

ジジ
郡上家の飼い猫。涼利が騙されて押し付けられた。家でのヒエラルキーは涼利に続いて2番目に高い。

少年
案内役。当主の弟くん。頑張って50年生きてほしい。悪徳大学生呪詛師に責められた可哀想な少年。実は螢太くんという名前がある。

猪野琢磨
涼利の追跡に来たひと。詳しくは秘密ですが涼利は使役系の術式を奪えはしても使用できないため、万が一のことを考慮して冥さんが連れてきた。

冥々さん
引き続き追跡に来たひとpart2。今回の相方が憂々くんではないのは、涼利が彼の術式を欲しがってるのと、憂々くんは涼利がめっちゃ嫌いだから。

赤尸
あとで成体も出てくる。50年経った奴は基本特級の最底辺〜一級上位クラスとして生まれてくる。全ての個体に共通する点として、差はあれど人間の言葉が話せる上に忠誠心が高いので、生部野家の大事な戦力。やり方自体は割とシンプルだけど、生部野家が極端な近親婚家系なことと相伝術式が深く関わっているため他の家では真似できない。

剥式呪法
デメリットが開示された。時間制限の他にもいくつもできないことがあるため、基本スペックとして百鬼夜行時の乙骨パイセンの劣化と考えてもらって大丈夫。とは言え乙骨パイセンにはできない(であろう)ことで可能なこともあるため、色々ピーキー。


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第三話「むしかんなぎ 下」

クソ長いです。ぼちぼち読んでやってください。


走るという動作は下半身が主軸となるが、それにしたって上半身、特に腕は重要な要素である。腕を大きくふれば自然と体も連動して前に進む。腕を全く動かさない、いわゆるお侍さん走りはスピードが出にくいことは、読者諸兄も良く知るところだろう。

 

その点からして、今現在生部野家のイチョウ林を猛然と駆けていく一人の男は、両腕を動かさないどころか、重たい荷物を抱えているにも関わらず、恐ろしいほど素早かった。足にジェット噴射でもついているような、人知を超えた加速である。もしかしたらお侍さん走りを編み出した江戸の世はたいへん進んだスポーツ理論を持っていたのかもしれない。

 

 

男の容姿は黒い上下にスニーカー、中肉中背かつ彫りの浅い日本人あるあるの顔立ちで、特段目立ったところは何もないのだが、抱えている荷物が異様なほど目立っていた。何せ左手に液体に漬け込んだ生首入りのガラスケースと、右手には明らかに人型をした袋である。控えめに言っても殺人罪と死体損壊、あと誘拐。袋の中身が死んでいれば殺人罪が二件になって役満だ。断っておくと、中身は確かに死体なのだが、別に彼が殺したわけでもない。どっちみち持ち歩くような代物ではないことだけは確かだが。彼が抱えて走る荷物を咎めたり、取り上げてくるような人間はいないことだけが不幸中の幸いであった。―少なくとも、今は。

 

帯戸川というこの男は、携えたその首によって名の高い呪詛師ではあったものの、実のところそう大した実力をもっているわけではない。生部野家の手にかかればたちまち蟲の餌になるしかないことくらい分かっており、また今盗み出した死体は業界での嫌われ者「式盗り」が買い取ったもので、彼女と敵対することも憚られるような程度であった。

なので、こうして逃げている。持ちうる限りの速さで、逃れようとしている。

 

とは言えもし追いかけてくるのが式盗りであったならば、打てる手はないでもなかった。呪詛師界隈でも半ば都市伝説のような存在である呪詛師「式盗り」。もし出会ってしまったときの心得としてこんなものがある。

一つ。己が珍しい術式の持ち主ならば、差し出して命乞いをしろ。

二つ。莫大な金か、珍しい呪具を持っているのなら、やはり差し出して命乞いをしろ。

三つ。何も持っていなければ、全力で逃げろ。

彼の術式自体は速度の操作、というありふれたものであったが、彼が携える生首は著名な呪物である。この速度ならおそらくは追いつかれないだろうし、万が一追いつかれて殺されそうになったのならそれを差し出せばいい。運がよければ生部野家にも口添えして何とかしてくれるかもしれない―そういう姑息な打算と慢心が男の心のどこかにはあったのだろう。

 

 

帯戸川の足元で降り積もったイチョウは、彼が走り抜けるのに合わせてシャクシャクと軽やかな音を響かせている。忍び込む時のためのゴム底が立てる密やかなそれは、彼も生首も口をつぐんだ静寂の中ではいやにうるさくすら感じるものである。

サク。–––その音ばかりが、どうにも。

サク。耳についてしまって。

サク、ガチャリ。

–––異物の音が。

 

「クソ、もう来やがったのかよ!?」

 

ドクン、と帯戸川の心臓が嫌な跳ね方をした。生部野家の追っ手か、死体を買ったという式盗りか、どちらにせよ全く男にとっては嬉しくない来客だ。ところが意を決して振り向いた先には人影などひとつもなく、立ち並ぶ木から新たにはらはらと、目にも眩しいイチョウが宙を舞いながら落ちているだけである。しばらく止まっても誰かが現れることもなく気のせいだったか、と男の体から力が抜けて深い息を吐き出した。その、背後から。

 

――ずろり、と底の見えない影が手を伸ばした。

 

物音ひとつなかったがゆえ帯戸川は半拍反応が遅れ、姿をとらえる頃には既に、五cmも離れていない間合いの内に肉薄していた襲撃者が、男の腕の肘から先を骨ごと断ち切り、つかの間宙に浮いた死体袋を掴んでかすめ取っていた。ごとん、と鈍い切断音が帯戸川の耳の奥で鳴り、それから思い出したように切断面からもの凄まじい痛みが伝播して、鮮血が吹きこぼれた。

 

金色のイチョウ林を背にして、軽く死体袋を抱えなおした女は、噂通り銀の指輪を十本嵌めた長身に、透明なレインコートを纏っていた。顔の表情はキャップと、貼られたガーゼによって隠されており、翳った面差しの中で肌を覆う緋文字の列と、薄い茶の瞳ばかりがぎらぎらと輝いている。

「こ、の野郎┈!」

死体袋を取り返そうとして今度は逆に踏み込んだ帯戸川は、ガラスケースを手首に通したまま、右手の指四本を可動域の逆に折られて引っ張られた。枯れ枝を割るような音が響いてガラスケースが地面に落ちる。ぐらりとバランスを崩してたたらを踏んでしまったところ目掛けて、重い蹴りがみぞおちにめり込み、砲丸投げの球のごとき速度で吹き飛ばされた。樹齢を重ねたイチョウの幹を何本かへし折り、その振動によって振り落とされた目にも鮮やかな葉が、紙吹雪のように帯戸川の視界を遮った。

 

一瞬。まるで勝負にもならない、蹂躙をなした張本人もまた、吹き飛ばされた男に一足飛びに追いついて、足元から滲み出た影で帯戸川の体を完全に抑え込んでいた。郡上涼利の足の周囲、およそ半径一メートルには土でも折り重なるイチョウの葉でもなく、不透明な闇が可視化されて広がり、ぽかりと穴が空いているようにも見えた。そこからは幅広のリボンのようなものが数えきれないほど、ひとりでに動いており、そのリボンのような触手のような何かで、男の体はぐるぐる巻きにされて地に伏していた。リボン型の影には厚みがまるでなく、ペラペラとした質感である。その一本から真っ赤な液体が滴っているところを見るに、帯戸川の腕を最初にぶった切ったのも、おそらくこれだろう。

肘から先が欠損したという喪失感、バランスの歪み。切断面を焼けた鉄で炙られるかのような痛みに冷や汗を流しながら、彼は付け根から折られた右手で地面を探った。しかし、指の内部で、折れた骨がこすれる度に激痛がするばかりで、肝心要のガラスケースはどこにもないようだった。

(くそ、あいつの目さえあれば┈!)

痛みと焦燥感で、彼はつい先ほどまで頭にあったはずの呪物を献上して見逃してもらおうだとか、そんな考えは脳裏から吹き飛んでいた。男はなんとかして右手を起点に動こうとするも、それを目ざとく見とがめた硯が黒いローファーの踵で上から踏んづけたことによって、完全に動きを封じられた。

 

「おい、それ以上動くと達磨にするぞ」

道端の石に向かって話しかけるような、男のことを心底どうでもよいと思っているのが丸わかりの冷えた声音である。

式盗り。呪詛師の中でも恐れられる、指折りの凶悪な術師が己の真上におり、己の命運そのもが指一つに掛かっているという恐怖。得体の知れないものへの恐怖と、自分を踏みつけにしている人間への憤慨は、心底見下した涼利の声音によって帯戸川の身の内で一気に膨張して、理不尽な形で発露された。

 

木春(もくしゅん)何やってんだ、さっさと目を開けて俺を助けろ!お前をいくらで買ったと思ってるんだ!?」

最後のほうは何かを察した涼利の出した影が、咥内に突っ込まれてくぐもってこそいたが、それでも彼の所有する呪物が、その指示を耳にするには十分な時間であった。

「長男、その生首の目に穿血しろ!開けられる前に!」

 

 

 

涼利の硬い声音に、彼女よりわずかに遅れてイチョウ林に入った脹相は、先刻男が指を折られた痛みで地面に転がったのであろう、生首入りのガラスケースに、血でできた音速の弾丸を放った。御三家が一角、加茂家が誇る相伝術式―それも呪霊と人間の狭間に立つ彼が扱うものは威力、持続力、そして血に含まれる毒という点において、本家より数段勝っている。当たれば即死、掠めれば毒による死、音速を超えた血の弾丸を避けられるものなどごく限られている。呪術界でも、呪霊の中でも一握りの上澄みに入るその一撃は、無防備に転がっているガラスケースごと、生首の閉じられた生白い瞼ごと撃ちぬこうとして、

 

―ケースの手前五cmほどで、ぴたり、と止まった。

 

誇張ではない。弾かれたのでもない。深紅の軌跡を描きながら、最短距離で撃ち出された穿血はまさしく、その場で運動性を失って空中で停止していた。血液という、肉体の延長線上にあるものを使っている脹相は、己がたった今撃った穿血が何か、強制的に凝固させられて静止しているのだということは分かっていたが、何が原因でそうなったのかは理解できず、目の前のガラスケースの中で意思なく揺蕩う女の首を、不可解そうに睨んだ。

 

ちゃぷり、とごく淡い緑の液体の中で、「木春」と帯戸川に称された女の長いまつげが、ゆっくりと震えた。緑の波に揺られたがゆえではなく、ひとりでに震え、そうしてぱちり、と、その眼が開かれようとしている。

 

(┈まずい)

生首が目を開けようとしていることに気づいた瞬間、脹相の体は総毛だった。全身の産毛が逆立つような不快感とともに、呪物の呪肉体である彼の肉体は、全力で警告音を鳴らしていた。それに加えて涼利や、持ち主らしき男が発した「目を開ける」という単語。総括してこの生首が目を開けて自分を見た場合よくないことが起こる、と悟った脹相が、瞬時に体の周りに血で膜を作って、イチョウの木影に飛び込んだのと、女の目が静かに見開かれたのはほとんど同時だった。

 

最初に変化が起こったのは、いまだ空中で動きを止めたままだった脹相の穿血だった。鮮やかな紅色のそれは、生首に近い部分からたちまち灰色に転じたかと思うと地面に転がり落ちて、硬い音とともに砕け散った。ついで、涼利が死角から撃っていたはずの拳銃の弾丸二発も、同じように。そして地に叩きつけられたところからビキビキと轟音を立てながら放射状に、地面が、イチョウの木々が、宙を舞う木の葉一枚一枚に至るまでが灰色の透明な鉱物へと変化していた。血でできた弾丸より幾分か軽く薄い、ぱりん、という破壊音を響かせながら、風に浮くことすらできなくなった木の葉が連続して落ちてゆく。

 

 

–––緑と紫がグラデーションになったような瞳が液体の中でてらてらと光っていた。

 

女の眼にはおよそ白目というものがなく、ただ不規則に光を屈折する紫と緑が目尻の際まではめ込まれているばかりだった。その異形の眼差しの先、およそ二十メートルに渡って無機質で脆い鉱物へと変えられており、免れたのは光と空気、そして隠れることに成功した脹相のみだった。ぱりん、と。また灰色の結晶と化したイチョウの葉が崩れる。およそ現実とはかけ離れた、SFチックで荒涼とした世界は、恐るべきことに瞬きひとつで展開されていた。

 

 

 

 

 

 

 

「さすがは一級呪物、うちの居候には荷が重かった┈かと思ったけど無事で何より」

 

イチョウの影に身を隠した瞬間、細い腰に鞭のようにしなる影を回して強引に引っ張られた脹相は、密集した木々の間に頭をぶつけつつ、影でぐるぐる巻きにされた帯戸川の上でバウンドしてから、木の幹を蹴って着地した。成人男性一人分の重さがかかった男が、口をふさがれながら蒼白な顔で何かを口にした。もごもごという声量だけでもその悲壮さが伝わってきたが、悲しいかな、そんなことを気に留めてくれるものはこの場には一人もいなかった。

脹相の英断の証である、血の膜は完全に結晶となっており移動と着地の衝撃で崩壊して、ぱらぱらと彼の服にまとわりながら地面に落ちている。

 

「どこか石化したか?」

「爪先が若干石になった。動かしにくい」

脹相が足を振った。

「へえ。それ、中の足まで石になってるのか?それともブーツの表面だけ?」

「中まで石だ。重さはそこまでだが┈」

 

とっさに木の陰に入りきらなかった脹相の右足は、ごついワークブーツの先が灰色の鈍い鉱石になっていた。動かしにくいことには違いないのだが、むしろ重量としては生身の肉体より軽く、少し動かせば砕けそうな具合だった。

 

「そこはお前なら血で固めたらいけるだろ。あとは┈┈っと、危なかった」

涼利の足元に留まっていた影が一気に拡大し、二人の前面に壁として顕現した。影に遮られた部分を除いて、二人を取り囲む左右のイチョウ林は結晶の群れへと変化する。脹相は知らぬことだったが、光や空気は石化の対象外となるのが、あの呪物の術式であった。そして同じように、影という形のないものを石にすることは不可能だったらしい。秋の象徴のような金色の木立ちが、透き通った灰色に瞬きの間に移ろってゆく。

 

「あれ、いい術式だろ?適度に面制圧ができるからな、前々から狙ってたんだ」

「正気か?」

「もちろん」

 

涼利はきっぱりとうなずいた。その白皙には微塵の不安も浮かんでいない。依然として、剃刀の刃にも似た鋭利な空気に満ちている。

その時に、足元で転がされていた男が血の混じったつばを吐きながら影を口から外して、忌々しそうに声を荒げた。

 

「式盗りてめえ、俺を嵌めやがったな!おかしいと思ったんだ、久永の先読みの目を持ってるお前がいるのに、警備がそこまで厳重じゃなかった。お前、木春の術式盗むために、俺のことを生部野の連中に告げ口しなかったんだな!」

「そのおかげでお前は楽に死体を盗めたんだろうが。礼を言われることはあっても、文句をつけられる筋合いはないぜ」

 

けろりと、悪びれることもなく涼利はそう言い放った。

元来涼利が観測した未来の中で、実際に帯戸川が死体を盗難する確率はそこまで高いわけでもなかった。特に涼利が事前に生部野家に忠告した未来では、警備が厳重になったせいなのか盗難は行われず、そのせいで涼利が望んだ生部野家への「頼み事」は失敗に終わっていた。なので忠告は止めておいたのだが、そこへの違和感は男にも感じ取れるものだったらしい。

なおも喚く男に、涼利が拳銃を口にねじ込んで黙らせているのを尻目に、脹相は「久永」という聞きなれない苗字にと内心で首を傾げていた。郡上とは似ても似つかないし、彼女の出身の家柄なのだろうか。

おそらくは指輪で殴ったのであろう、鈍い殴打の音が一度響くと完全に男は黙ってしまい、顔に血しぶきがかかったまま、平然と蛮行を終えた涼利は手をはたいて立ち上がった。

 

「と、いうわけで手っ取り早く術式盗りにいくか。あとちょっとで生部野家の連中が来るから、その前に済ませとかないと」

「何が、というわけで、だ。この影だって有限だろう、俺たちを隠したままだと攻撃できないんじゃないのか」

「いや。これは禪院のそこそこ強い術師からかっぱらった術式だから、そこは問題ない。私との適合率も高いしな。ま、でもせっかくいい囮がいるから、使わせてもらおう」

 

涼利は、そういうとひきつれたような笑みを口の端に浮かべた。頭上には灰色の透明な結晶が群れなして屋根のように二人を覆っており、バカラのグラスを日光に透かしたときのような、複雑で無軌道なプリズムが、涼利の白皙を濃淡に彩っている。ぞっとするように悪辣な女は、幻想的な陽光に縁取られていっそう無機質に美しかった。

 

 

 

ややあって。主の命通りに視線が届く範囲をすべて灰色の結晶の林へと変貌させた呪物―木春の目がまた、一度二度、瞬いた。見渡す限りすべて脆い石に変わった、かつてのイチョウ林は見る影もなく。細い枝葉から順にさらさらと砕けて、風に散りつつあった。彼女には自分でガラスケースごと移動する機能はついていない。主君の命のままに、見える範囲を石へと転ずる術式を有するのみ、思考とよべるようなものすらほとんどないに等しい。その考えるには不向きな脳の中で敵の姿はなぜないのか、というところにぼやけながら行き着いたところで、その思考をかき消すように、人影が目の前を横切った。結晶を割る音が連続して鳴り、細かな欠片に肌を割かれながら転がってきた人影を、機能に忠実に、脊髄反射のように規則正しく石にすべく、木春の瞳がまた一度瞬く。

 

グラデーションの眼に一瞥された、ぐったりとした男の肉体は、地面につくよりも速く、きらきらと光る鉱物の塊へと変化した。そのスピードはやはりというべきか驚異的で、呪物自身に、それが己の主君だと判断できないほどだった。

 

その隙をついて、何もなかったはずの空間から飛び出した涼利は、木春の目が彼女を捉える前にガラスケースを引っ掴み、足元の影から形作った箱に放り込んだ。帯戸川を囮に視線を逸らし、ケースに手をかけるまで流れるような動作である。およそ略奪行為というものに慣れ親しんでいることがまるわかりの手癖の悪さであった。

 

そしてそのまま涼利はリュックサックに、影に包んだままの首をいれたところで、両者は同時に、足の裏から伝わってくる振動に目を見張った。

 

足の裏から内臓まで揺さぶってくるような物凄いものだった。その揺れに、結晶と化していたかつてのイチョウ林が、一気に崩れて透明で硬い宝石のような雨が凶器のように遅いかかってきた。脹相は血で、涼利は影で身を守ってもなお、跳躍した粒がひとつふたつと頬を掠める。

 

 

地震か、と勘違いしそうなほどの揺れが断続的に続き、そしてそれの発生源が地下ではなく何かが近づいてくる前触れであると気づいた瞬間に、涼利が一喝した。

 

 

「!脹相、一歩下がれ!」

 

 

 

 

 

涼利のよく通る呼び声に反応し、とっさに脹相が飛びのいたブーツの爪先を掠めるようにして赤色が走った。その音をも越すような、生き物には到底だせそうもない速さと、目を焼くがごとき鮮烈な赤さに、人間よりずっと研ぎ澄まされた五感を有する脹相ですら、動きに遅れたうすあかい軌跡しか目にすることは叶わなかった。

 

地面の上で、大きな残骸がいくつか残るばかりであった帯戸川の体はいきなり現れた闖入者によってさらわれ、その巨大な口にくわえられていた。それを何度も見たことのある涼利は平然として驚いた様子などまるでなかったが、脹相はそういう訳にもいかず、初めて目にする驚異的な生き物を半ば呆然と見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

–––巨大な蟲だった。

 

大きさにしておよそ、二階建てのバス程度だろうか。正面から見ている脹相にはその巨体の全ては映りきらない。彼の短い受肉してからの間に見た呪霊の中で、最も大きかった。頭部はアゲハ蝶の幼虫のように小さな触覚が生えた丸い形をしており、口に当たる部分で帯戸川を咥えていた。その下にカミキリムシのような細長い胴体と6本の脚、そして背中には半透明な翅が2対あり、僅かなはばたきの度に、呪力を纏った微風を巻き起こしていた。だが、最も特筆すべき点はそこではない。

 

 

 

赤い。緋い。朱い。赭い。あかい。あかい。

 

ひりつくほど、焦がれるほど、見るだけで燃え出すほど凶悪な赤が、醜悪な巨蟲の体表の隅々までを塗りつぶしていた。丹色、代赭、茜、蘇芳、緋色、辰砂、臙脂、真紅…あらゆる赤を表現するどの言葉でもない。焔より、薔薇より、てんとう虫より、温度計の水銀より、血より、濃く美しい赤色だった。触覚から翅先まで、その身の毛もよだつほどの赤色に均一に彩られており、生き物というよりオブジェのようなその呪霊が滑らかに動いているのはひどく不気味だった。蟲の体全体が脈打つっているような錯覚すら覚える。

 

–––これが、そうなのか。

 

 

 

「これが、赤尸…」

 

「の、成体な」

 

知らずのうちに脹相の口からこぼれた呟きに、訂正を加えた涼利は一歩前に出て頭上の遥か上に向かって声を掛けた。

 

「遅かったな。この山は生部野の庭だから、ちんけな死体泥棒ぐらい一発でお縄かと思ってたぜ」

 

その言葉に、アゲハ蝶の幼虫に似た頭部の目の辺りがぴくりと震えて、涼利の方を見下ろすような動きを見せた。帯戸川の体を何度かポキポキと音を立てて丸めた赤尸は、するりとそれを嚥下して涼利に顔を近づけた。醜悪かつ涼利の頭など一息で引きちぎれそうな顔を近づけられた涼利は、若干嫌そうに鼻に皺をよせた。

 

 

 

「–––はい。繭も今日は葬式の準備でごたついていたようでしたから、私たちに指示を出すのが思ったより遅れてしまいましてね。まずは講堂にいた弔問客をあらためる方が先決でしたし」

 

 

 

発された声は、滑舌のよい男性のものだった。朗々とした響きと張りのあるそれは、目を瞑れば人間が喋っているようにしか聞こえず、蟲型の呪霊から発されているとは到底思い難いほどの美声だった。控えめに言って、とてもイケてるボイスである。人間のものに似ているというか、人間そのものというか。目を背けたくなるような外見と渋いバリトンとの差は、シュールを通り越していささか気持ち悪い。

 

人語を解するとは聞いていたものの、辿々しい鳴き声のようなものを想像していた脹相はぎょっとした。ここまで流暢に人間の言葉を話せる呪霊はそう多くない。仲間内の漏瑚や真人がすらすらと話すからつい忘れそうになるが、本来呪霊で人間の言葉が話せるものは稀である。

 

そうして言葉を話せる呪霊は、大抵知能に加えて凶悪な力を持つものだ。この蟲もまたその例を免れないのだろう。

 

 

 

「あと少しで山を抜けられてしまう危険もございましたが、式盗り殿の力添えのおかげで沙凪の体も、下手人も捕らえることが叶いました。誠にありがたく存じます」

 

「私もその遺体に用があって来たし、そのついでに死体泥棒を捕まえただけだ。そう畏まってもらうことじゃない」

 

恭しく脚と頭を折り曲げて感謝の意を示した赤尸は、ふいに涼利の後ろに立っていた脹相を見咎めてぶよぶよとした赤の首を傾けた。その触覚もその動きにつられて揺れる。むっと濃さを増した独特の臭気に脹相は襟巻きを鼻までずり上げた。植物の青くささと腐敗臭、それからたっぷりとした血の匂いが渾然一体となって鼻を刺激する。ぽたりと口から粘液が垂れて、地面から煙が一筋上がった。

 

 

 

「おや、式盗り殿がお一人でないとは妙なこと。後ろにいらっしゃるおのこはお弟子様でございますか?」

 

「…いや。こいつは訳あって預かってる奴だ。家賃代わりに臨時で働かせてる」

 

「なるほど。ずいぶんと旧い血の匂いがいたしますな。加茂のそれに似てはいるようですが…」

 

またまた赤い頭がぐんにゃりと逆側に曲げられた。関節のない動物にしかできない、見ていて不安になるような動きだった。

 

       

「これは珍しい。混血でしたか。」

 

「余計な詮索はやめろ。それとも、お前たちの主人が探ってこいとでも命じたのか?」

 

涼利はぴしゃりときつい語調で赤尸の言葉に返した。

 

「失礼。我々も血を通じた呪いには縁深き身ゆえ、少々気になってしまいましたが、踏み入れるところを間違えたようですな。申し訳ない、式盗り殿の–––ええと」

 

「…居候だ」

 

「無礼をお許しください、居候殿」

 

 

 

こんどはぺこりと謝罪するように、赤尸は首を縮めた。最初の衝撃に慣れてくると心なしか人間臭く、しおしおとした調子にすら見えてくるのだから妙なものである。

 

マア、受胎九相図のように人間の胎を通して生まれてきたわけではないが、赤尸もまた人間の体内で育ち、呪いと血を与えられて誕生する呪霊である。脹相も人間や純粋の呪霊よりは近しい感覚を覚えていた。

 

別に構わない、と彼が答えると「それはよかった」と赤尸はゆうるりと目玉のような模様を細めた。

 

 

 

「貴方のことは私の同胞たちも大層気になっていたようですから…お気を悪くさせたなどとあらば、ねえ?」

 

 

 

ぶより、と。太い首が捩れるように回って、あたりを見渡す動きを見せた。つかの間、その同意の矛先が誰に向けられたものか分からず脹相は内心で一瞬首をかしげたが、毒入りの霧が引き潮のごとく遅い速度で晴れた先にあるものを見て、その疑問はたちまち氷解した。

 

 

 

『………呪いまじりの血の匂いだ』

 

『だあれ?あいつ。たべちゃだめかなあ』

 

『横にいるの、式盗りの小娘でしょう。何をしにきたのやら』

 

『■■■■、■■■?×%¥○*』

 

 

 

 

 

蠢いている。ささやいている。ざわざわと、うぞうぞと、金色のイチョウ林の樹の合間を埋め尽くさんばかりに、虫たちがぎっちりと集い、揃ってこちらを見ていた。目の前の呪霊と同じ、どぎつい赤色で濃密な呪力を纏ったものがちらほらと、それ以外はてんでばらばらの色をした虫型の呪霊たちが群れをなして2人を囲んでいた。赤尸らしきものたちが話す声が、物凄い密度の中で響き、それ以外にも虫たちの顎を鳴らすカチカチという音や、ブンブンと震える羽音が耳についた。空を見上げてもぱらぱらと翅のついたものが飛び回っている。ひとつの隙もなくどこを見渡しても、虫、蟲、むし…。足元にごく小さな蠅頭が近付いてこようとしたのを、脹相は反射で潰そうとして、涼利がその手をはたいた。

 

 

 

「一体いつまで。お前たちは無駄話をしているつもりですか?」

 

 

 

その沈黙と喧騒の合間を割いて、凛とした女の一声がざわめきを鎮めた。空を舞う虫の群れがさっと二つに分かれて、1匹の赤尸が上から降りてきており、これまた真っ赤な複眼が涼利ともう1匹の赤尸をきつく見据えていた。こちらはかなり蜂に近いフォルムで、その大きさと、胸部からカマキリのような腕と、尾からサソリに似た長い針が突き出していることを除けば、従来の蜂とそう変わらない。青空を背景にその体色も眩しく飛ぶ赤尸は、不機嫌そうに低い羽音を立てていた。

 

 

 

「おやおや。無駄話とは手厳しい。もう下手人は捉えたのですから、少しばかり世間話でもしたところで、支障などありますまい」

 

「立派な支障です。我らの当主がお呼びなのですよ?一分一秒でも早く繭さまの下に下手人の骸と沙凪さまのご遺体、式盗りを連れてくるのがお前の責務です。この遅れを支障と呼ばずしてなんだと?」

 

「さて?余暇とでも呼んではいかがかな」

 

とぼけたようなイモムシ頭の赤尸の言葉に、蜂に似た赤尸が苛立たしげに舌打ちのような音を立てた。ちなみに蜂に発声器官などないので、一体どこで舌打ちをしているのか甚だ不思議である。

 

「戯言を………お前もです、式盗り。まさか沙凪さまのご遺体に手などつけていないでしょうね」

 

「まさか。ご当主の立ち合いもなしにそんなことするかよ」

 

「…でしたら他に言うことはありません。北の屋敷で繭さまがお待ちですので、お早く」

 

 

 

くるりと空中で向きを変えた蜂型の赤尸は、最後にちらりと脹相を見るとあっという間に高く澄んだ天を飛翔して見えなくなった。真紅の翅が小刻みに羽ばたく残像が蒼穹にかすかにのこり、やがてその軌跡もすぐに消えた。あの巨体をどうやってそれほど速く動かすのか首を傾げそうな速度である。その赤尸が去っていったのを皮切りにほかの蟲たちもぞろぞろと動き出し、山ごと動いているかのような振動で地面が揺れた。

 

 

 

「…やたらきつい物言いの赤尸だったけど、私あいつに何したか?会った覚えがないんだが」

 

「はて、どうでしたかな。あれの宿主が式盗り殿とお知り合いかどうかは私、とんと存じ上げませぬが…。あれも少しばかり可愛そうな蟲でして」

 

 

 

地面から死体袋を拾って肩に担ぎ上げながら涼利がイモムシ頭の赤尸に問うと、ふむ、と赤い呪霊は言葉を切り、その艶やかなバリトンボイスがほんの僅かに笑みの色を含ませて、低くうっそりとつぶやいた。

 

 

 

「あやつは生まれるときに、自我が混じってしまったようなのですよ。私のように完全に記憶を継いだわけでもなく、はたまた完全に喪ったわけでもない。中途半端に混じって自分が分からないから、ああいう物言いで周りを威嚇するほかにない」

 

 

 

–––どうかあの哀れな蟲の無礼を、許してやってくださいまし、式盗り殿。

 

 

 

くふ、と末尾にどこはかとない喜色の滲んだその言葉に、涼利は呆れたような顔をして死体袋をもう一度しっかり抱え直すと、その言葉には反応しないまま黙って山の斜面を登り始めた。虫の大群が動く音にほとんど消えそうな声量で、彼女が「気ッ色わる」と吐き捨てるのが、脹相の耳に届いたけれど、どうやら聞こえたのは彼のみのようである。脹相もわざわざ指摘するような物好きではなかったので、積もったイチョウの絨毯を爪先ですこしだけ蹴り上げるようにして、足を動かした。先程まで灰色の石と化していた右の靴は、もう皮をなめした黒色に戻っており、秋の光を跳ね返してぴかぴかと光っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

急な山の斜面を引き返していき、また5分ほどで着いた先はさっき出てきた屋敷とはまた別の建物の群れであった。寝殿造のようだった先程の屋敷とは違って、ところどころ現代風のコンクリート製のシンプルな棟がひとつとガラス張りの温室が混ざっており、和洋も古典も近代もまぜこぜな研究施設といった雰囲気である。その広大な庭先には、揃いの喪服を纏った人だかりがあった。集まった生部野家の家人のひとりがはっとしたようにこちらを見、おそらくは涼利が肩に担いでいる死体袋を目にしたのだろうか、ほうっと安堵した様子で胸を撫で下ろし、その空気の弛みは瞬く間に伝染した。弓を張るが如く緊迫していた雰囲気があっという間に霧散してゆく。

 

 

 

 

 

集まっていた家人たちも他に葬式の仕事があるのだろうか、死体が見つかったのなら一安心だと言いたげに、足速に何人かは人だかりから離れていった。そうして最初に脹相と涼利、それから周囲を取り囲むように歩く赤尸たちに気づいた家人が、駆け足で玉砂利を踏みながらこちらへと向かってたもので涼利も死体を渡そうと肩から下ろしたところで、声がかかった。

 

 

 

「式盗り、ご苦労様。叔父さまの遺体はご無事?」

 

幼く甘い、それでいてひとつも舌足らずさのない声だった。水笛を鳴らすような透明で軽やかな響きが、りんと広い庭を吹き抜けて聴くものの鼓膜を揺らす。

 

 

 

見やれば人だかりの奥からちょうど、背の低い人影が出てくるところで、涼利がその人物に向かって頭を垂れた。人影は声の通りにまだうら若い少女である。否、若いどころではない。未だ12、3歳、多めに見積もっても14には届かないであろう容姿だった。それでいて『未完成』という印象はまるでない。欠けたところも、過剰な部位も見当たらず、その少女はその幼さにして既に完成しきっていた。葬式には不相応な、真紅の地に蚕の成虫が飛び交う振袖に黒い帯をしめ、虫の入った琥珀の帯留めをつけていた。この年で着るにはいささか大人びた意匠だったか、一分の隙もなく少女は着こなしている。腰ほどまで伸ばした黒髪が歩くたびに右、左と揺れ、動きに合わせて天使の輪が複雑に形を変えた。

 

–––生部野繭。この山に住まうものたち全てを統べる、小さな女王がその姿を現していた。

 

長い睫毛に縁取られた、淡い金色の瞳がぱちりとまたたく。この家の人間らしく、青ざめて血の気の引いた頬がすこしだけ持ち上がった。

 

 

 

「ご当主、ご無沙汰しております。犯人は遺体にまだ手をつけていないようでしたが、私は何分ご遺体の元の状態を知りません。ですので遺体の状態は、今からご確認していただこうかと」

 

涼利のいやに丁寧な言葉遣いを初めて耳にした脹相は、珍獣でも見るような目で涼利を見た。郡上涼利は敬語が使えるのである。よく意外だと言われがちではあるが。

 

「繭、気配からして体内の呪霊は未だ中に留まっているようです。また我らが到着してから、式盗り殿が死体から術式を剥がしたこともございません」

 

「そう。報告ありがとう。ええと、それで下手人は、お前がもう食べてしまったのよね」

 

涼利が疑われていると思ったのか、口を挟んだイモムシ頭の赤尸に頷いてみせると、繭と呼ばれた幼き当主は小首を傾げた。間違いなく人の姿をしているのに、その動作には先程の赤尸を思わせる無機質な柔らかさがある。くにゃ、という音が聞こえてきそうな風だった。

 

「ええ。もうすっかり消化して…いや、足の一部でしたら腹の中にございますよ。吐き出しましょうか」

 

「結構よ。一応はお客様の前なのだから、汚い真似はよしてちょうだい」

 

 

 

しっしっと周りで所在無げに立つ家人たちに散るように命じた繭は、ふいに目線の合った脹相に、にこっと微笑んでみせた。その蕩ける蜜のような笑みに脹相はどう反応するのが正解なのか分かりかねて、しょうがなく頭を浅く下げた。

 

「式盗り、しばらく見ないうちに弟子をとったの?あなたのような方が師匠だなんて、ふふ、似合わないこともあるのね」

 

「違います。さっきも同じことを聞かれましたが、こいつは弟子じゃなくて預かってる居候です。私だってこんな太々しい弟子、ごめん蒙りますよ」

 

涼利は嫌そうに鼻に皺を寄せた。

 

「恋人って聞いた方がお好みだった?」

 

「下衆な勘繰りはやめて下さい。いくつですか、貴方」

 

「12よ。もうすぐで13になるけど」

 

 

 

少女はおかしそうにころころと笑った。幼くして凄絶な美しさを湛えた玉のごとき美貌がふっとゆるみ、年相応にあどけなく、可憐な花が咲き乱れるようなものに変わる。

 

何らも纏う空気もまるで違うが、付き合いが長いのか、気のおけないやりとりを当主とぽつぽつ交わしていた涼利は、脹相をあごでしゃくって挨拶するように促し、特に言うこともない青年は「どうも」と頭を下げるにとどめた。

 

 

 

「居候の『長男』だ」

 

涼利が雑に付け加えた補足に、可憐な当主は驚いたように、小さい手で口を押さえた。

 

「む。ということは次男もいるの?」

 

「…俺は9人兄弟の長兄だ」

 

「あら、少ない。私35人兄弟の14番目よ?最近は少子化が進んでるって聞いたけど本当のことだったのね…」

 

 

 

大事な兄弟の人数をむっつりとした口調で脹相が訂正すると、繭は可愛らしくうっそりと微笑んだ。脹相の中にインプットされている知識ではどう考えても9人兄弟のほうが35人兄弟よりいる確率が高いと思いはしたのだが、何となくそれを言い出すことはできずに彼はそれを飲み込んだ。「多産多死」なぞとぼそりといった涼利を咎めたものはいなかったが、おそらくはそういうことなのだろう。

 

そうこうしているうちに、とりあえず死体を一端棺に移し、それから術式の引き渡しをしようということになって一同は、館の中へと移動した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じじ、と安物のジッパーを下げて出てきた死体は欠けたところはなく、青ざめてほんのりと独特の匂いが鼻をついた。そしてやはり、生部野家の誰もがそうであるように、全く同じ顔をしている。すっと通った鼻筋、シャープな二重瞼、色の薄い唇。その顔をじっと見る繭の顔とは僅かな性差や加齢を除いてほとんど同じつくりで、彼女が同じ年、同じ髪型、同じ服であれば、きっと見分けがつかなかったことだろう。まるで、鋳型を使って作られた人形のようであった。瞼をこじ開けずとも、その先には全く同色の金の目があることを、涼利は既に知っていた。

 

 

 

「大丈夫そうね。欠けもないし、蟲も中にちゃんといるみたい」

 

少女は満足そうに頷いた。

 

家人の手によって無粋な死体袋をすっかり取り払われると、また別な家人によって遺体は用意されていた棺に入れられた。だらりと花に埋もれながら伸びた手足は短くはないがそこまで長くもなく、男のものにしてほっそりと華奢である。うっすらとした死臭にまじって、ファンデーション(菜々子がつけているものより匂いがきつかった)のような香りも漂っていた。

 

 

 

「そう言えばご当主、亡くなったと聞いて、てっきりご病気か怪我と思ってましたが」

 

手持ち無沙汰に死体をジロジロ眺めていた涼利が何気なく、いつもどおりの淡々とした声音で口を開いた。クーラー風の音に紛れることもなく、マイクによる合成をかけてなおその声は低く通っていた。

 

「自殺だったんですね、この方」

 

平然と、晩御飯の献立でも言うような調子だった。

 

び、とその指が指す先は遺体の喉元であり、たしかに濃く塗られた死化粧でも完全には隠せていない、うすらとした細い刺し傷のようなものが見え隠れしている。

 

「こういうのって『犯人は貴方だったんですね』って言うシーンじゃないの?コナンでよく見たわよ」

 

「…ご当主コナン見るんですか?」

 

「ええ。すごく些細な理由で殺人する人が多くて面白いから好きよ、あれ」

 

 

 

あきらかに普通の12歳がしないやり方で名探偵コナンを楽しんでいる幼い当主を、蝉の抜け殻を欲しがる幼児を見るような目で見下ろした涼利は、微妙な端末を振り払うように咳払いをひとつした。

 

 

 

「貴方たちはどうあれ血族を殺しはしないでしょう。せっかくの赤尸の苗床であるのですから、殺すには勿体なさすぎる」

 

 

 

50年という長い時間と宿主の苦痛をかけて作られる赤尸は、それゆえに並の呪霊とは希少価値も戦闘能力も一線を画している。宿主が50を超えずに死ねば、赤尸は決して生まれず、中途半端に強く生部野への忠誠心を持たない呪霊があとに残るのみ。それゆえに生部野家は、赤尸を生み出す可能性そのものである同族を重んじ、身内殺しはいかなることがあろうと禁じられている。生かさず殺さずの手段が山ほどあるだけ、とも言うが。

 

 

 

「まあ、そうよね。叔父さま、1週間前だったかしら、それくらいの時に亡くなられてね。朝食の席に来られなかったから呼びに行かせてみたら、お部屋で喉を突いてたみたいなの。見たところ結構長く苦しまれたみたいだけど、誰も気づかなかったらしくて。残念だわ」

 

「へえ。おいくつでしたっけ。30?」

 

「ううん、今年で31のはずよ。大体あなたのお師匠さまの3つ上の先輩なんだから、それぐらい覚えておきなさいな」

 

 

 

 

 

 

 

繭のやんわりとした何気ないその言葉に、涼利は内心でげ、とため息でも吐きたい気分になった。その名前はここ一年で若干嫌いになりそうなんですよ、と言うわけもなく、涼利はため息を飲み下す。

 

今回訪れた表向きの目的である、術式の買い付け。その持ち主である故人–––「生部野沙凪」は涼利の恩師、夏油傑の高専時代の先輩である。とは言っても涼利自身、ほとんど話したこともない関係で、以前に一度だけ夏油に連れられて生部野家を訪れたときも、彼と故人が仲睦まじく歓談していたような光景も見なかった。ようするに、ほとんど他人に近い人間でしかない。顔は生部野家の特有のそれでしかないので覚えづらかったし、覚えているのはよく言えば謙虚な、悪く言えば卑屈そうな印象のみである。

 

 

 

 

 

 

 

『夏油くん…ほ、んとに呪詛師になったんだねぇ………』

 

 

 

ただ、ちょっぴり吃音混じりの細い声で、憐れみなのか寂しさなのかわかりにくい感情のこもった言葉に、涼利は少しばかり驚いたものだ。そこには呪詛師ではない夏油傑を知るものにしか出せない、生ぬるい温度があり、それを受けた夏油が困ったように笑っていたものだから。

 

 

 

どうして高専所属の呪術師から呪詛師になったのだろう、とその当時は彼の行動に疑問しか湧かなかった。いや、今の涼利でもそれは謎のままだ。涼利は今では、夏油が呪詛師になるに至った経緯をとある筋から聞いて概略は知っている。知ってなお、どうしてそうなったのかは全く理解ができなかったし、これから理解する日もこないだろう、と思った。ある種の正しさや理由を重んじた夏油と、物事を自分本位に測る涼利では物事の見方があまりに違うから。

 

結局そのあと、高専時代のことを夏油に聞いてもにこにことはぐらかすだけで教えてくれることはないまま彼は死んだので、涼利はついぞ師が何を思って生きる世界を180度変えるに至ったのか、真の意味で知る機会は未来永劫ないわけである。

 

 

 

 

 

 

 

脹相と繭、そして幾人かの家人たちが見つめる中で、棺に眠った沙凪の、死装束の袷から覗く肌を、赤い文字が群れをなし移動してゆく。それだけではなく、爪先から、耳から、手の先から。体の先端部分から徐々に中心へと寄り集まり、それらは最終的に、故人の胸の上に置かれた涼利の掌へと吸い込まれていった。

 

その光景を見下ろす涼利の白い頬には、微かな赤い光が照りはえて、点々と煌めいている。

 

 

 

 

 

 

 

(…あの寄生虫は知ってるんだろうか)

 

記憶だけではなく、想いまでも。そんなことが頭をよぎって、不愉快な気分になった涼利は、赤く鈍い光を纏う文字列が、故人の青い肌から自分の手のひらに完全に移動し終わったのを見計らって、その手を離した。死からそれなりの時間が経っているはずなのに、ごく微かな弾力性を持ったそれがしっとりと離れるのを惜しむように張り付くのを振り払う。そうして、己の肌に移り住んだ術式へと、最初の呪いの言葉をかけるために口を開いた。

 

 

 

「–––今からお前の名は、『傾秤呪法』だ」

 

 

 

その短い宣言とともに、涼利の肌の上を動いていた赤い文字の群れは「傾秤」の2文字へと形を変えて、やがてその光は途絶えた。涼利から新しい名前という呪いを与えられたことで、術式の所有権は故人である生部野沙凪から郡上涼利へと移行し、涼利が許可しないかぎりその関係は揺らぎのないものとなる。

 

 

 

そのまま指輪のひとつから拳銃を取り出すと、一度二度とくるくる回して、後ろにいた脹相を呼びつけた。これ持ってみろ、の言葉に彼は訝しげな顔でひんやりとした銃口を握り、そして涼利の手が完全に離れた瞬間に、青年の肘から先の腕がかくん、と勢いよく下がった。手のひらから落ちた拳銃は床にめり込み、畳の繊維が深く裂けている。

 

 

 

「約束通り、『重さへの干渉』の術式で間違いない。重量の上限下限はこれから調節していくとして…」

 

「おい、俺を実験台にするな。せめて一声かけてからやれ」

 

 

 

不機嫌そのものの顔で脹相は落ちた拳銃をもう一度、今度はしっかりと力を込めて持ち上げると、半ば放り投げるような形で涼利に銃を返した。その重さは外見とは裏腹にあり得ないほどの重量を兼ね備えており、両手で持ち上げても軽々と振り回すことは難しく、およそ30kg近くあるのではないだろうか。涼利が受け取る時には、ぱし、という軽い音しかしなかったので、脹相はますます眉間の皺を寄せた。この女、自分が受け取るときだけ銃を軽くしやがったのである。

 

 

 

「私、こうして貴女が術式を取るところは初めて見るから分からないのだけど。ええと、叔父様のご遺体はもう必要ないのかしら?」

 

まろい頬に手を当てた繭の問いかけに、涼利は首肯した。

 

「私が死体に術式を返却したいだとか思わない限り、特にそういうことはないかと。ちなみに生部野は火葬ですか?」

 

「うちは土葬よ」

 

「ふうん。じゃあまた、今日みたいに死体が盗まれないよう気をつけておかないといけませんね」

 

 

 

警告というほど重々しさのない涼利の言葉に、繭がぷっと吹き出した。真紅の振袖でちいさな口を覆って、けらけら、くすくすと笑いを堪えようとして失敗した高い声が漏れ出し、がんぜない子供を見るような金の目で涼利を眺めている。

 

 

 

 

 

「うふふ、あは、あるわけないでしょう、そんなこと。この後のオークションで、叔父様の体内にいる未完成の赤尸は取り出して売るんだから。術式を奪われ、赤尸も失った死体に狙われるほどの価値はないわ。そうじゃなくて?」

 

 

 

まるで悪意のない声で、それでいて故人を踏み躙るかのようなことを呟いた繭は、優しげな手つきで棺に横たわる沙凪の髪を梳いた。男の黒い髪はすでに艶めきを失い、少女の手が行ったり来たりするたびに何本かが頭皮から離れて繭の手に絡み付いたが、少女はまるで気にも止めなかった。

 

 

 

「…私が言えた義理はありませんが、人間の体に本当に興味ないですよね、生部野家って」

 

「人間の体ほど不完全なものはないもの」

 

どことなく冷たい色をした声でぽつりと返した涼利は、後ろで憮然とした顔で立っていた脹相に近寄り「内密の話があるから先に講堂に戻っといて」と耳打ちした。青年が無言で障子を開けて退室すると、部屋の中にはクーラーの稼働する音以外が消えて、ひそやかな無言の空間が生じた。

 

 

 

「貴方たち、悪いけど席を外してちょうだい。この人、聞かれたくない話があるみたいだし。そろそろオークションの準備なんかも始めるよう言っておいて」

 

涼利が脹相を下がらせたことで何かを察したのだろう。少女当主の言葉に、部屋の中で控えていた家人の2人が困惑した様子で顔を見合わせたが、年齢は親子ほど違えどもそこらへんの命令系統は叩き込まれているらしく、2人は繭と涼利の両名に頭を下げて部屋を退出していった。武術に明るいもの特有の、無音に近い足音が板張りの廊下を早い歩調で遠ざかれば、少女は「さて」と涼利に向き直った。

 

 

 

「人払いするほどのお話、一体なにかしら。叔父様のご遺体を取り戻してくれたことに感謝はしてるけど、術式の買い取り金額を下げたりはできないわよ」

 

うちの財政、そこまで余裕ないもの。冗談めかして笑ってこそいるが、繭の目の奥はちらりとも笑っていない。むしろ昆虫の複眼を覗き込んだときのような、無機質で鋭利な光が宿っている。

 

涼利は息を吸った。スーツの中、運動でわずかにしっとりとしたシャツが膨らみ、またしぼむ感触が肌を伝った。

 

 

 

「いえ、そこではありません。ご当主にお願いしたいことは他でもない、呪具の貸し出しです」

 

「呪具?うちの宝物殿の?」

 

「はい」

 

 

 

涼利は顎を引いた。ここで交渉が決裂すれば、涼利が渋谷で行う計画はほとんど勝ち目がなくなってしまう。貸し出しを了承してもらうためだけに、わざわざ犯人のことを事前に告げず、自分で捕まえて引き渡すなどという七面倒くさい手順を踏んで、今に至る。かけた労力とこれからのことを考えても失敗は絶対に許されない。

 

指輪をつけた手を膝に置いて、自分より遥かに小柄な当主に頭を垂れ、郡上涼利は短くその武器の名を紡いだ。

 

 

 

「–––天沼鉾。貴方がたの有する特級呪具の内の一つを、どうか暫くの間、有償で私に貸しては頂けないでしょうか。お願い致します」

 

 

 

滅多に見ることのない呪詛師の、帽子に包まれたつむじをじいっと見る生部野の現当主の視線は口元とは裏腹にきん、と冷えていて、道端の石ころを眺めるような様子であり、繭はしばらく黙ったまま一言も発さなかった。そのまま時計の秒針が一周するか、しないかというときになってようやく、当主は結論を下して、その口唇を小さく空けた。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

「五百万!五百万より上の方はおられませんね?それでは神島さま、落札でございます!」

 

興奮しきったような、上ずった男の声に、猪野の閉じかけていた瞼がばっと勢いよく開いた。別段、それまでだってはっきり開いていたわけでもないが。彼のちょっぴり厚めの瞼は、この一時間近く、一センチ閉じたり開いたりを繰り返してきた。

瞼をこすりつつ辺りを見渡してみれば、オークションが始まった当初は台の上にのせられていた3つの檻は一つに減り、その最後の一つもまた高そうな喪服を着た老人に手渡されるところだった。

 

「┈そろそろ終わり、っすか?」

「今しがた終わったところさ。おはよう猪野くん、よく眠ってたね」

 

揶揄の意図がたっぷり込められた言葉に、実際寝かけていた猪野は言い返せず、いやあ、と照れ笑いで誤魔化しながら頭を掻いた。その時に、ちょっと離れたところで、どうっと笑い声が上がり、一時間ほど前まではしんとした追悼の沈黙に静まっていた講堂も、すっかりその面影をなくしていた。

二人のいる講堂ではすでに葬儀は終わったあとで、火葬場への移動や骨拾いもないので、葬式のみに参加したものは少数だが出ていったものもいた。ではなぜ多くの弔問客が残っているのか、と問えばその目的はひとつ。「オークション」である。

 

先だって説明したかもしれないが、生部野家の人間は例外なくその体内に呪霊を3体飼っている。これを成長とともに体内で殺し合わせ、だんだんと強い呪霊を育てていくわけだ。その中で宿主が50まで生きれば、セキシと呼ばれる特別な蟲型の呪霊へと成ることができる。では、できなかった場合はどうなるのか。

この場合、体内の呪霊は規定量の血液を摂取しておらず、50年という定められた年数を生きていないために、相伝術式「賜血脈縛」の対象から外れてしまう。それどころか、中途半端に生部野家の血液を持っているために逆に相伝術式への耐性を獲得し、知性や言語能力も著しく低い呪霊が3体残ってしまう。生部野家にとっては、このようなセキシのなりそこないを飼育する義理もメリットもないため、殺すかあるいは他所の家に売り出すことにしていた。

 

この未完成のセキシは、生部野家では恥以外の何物でもなかったが、一歩山から出れば評価は覆る。言葉を話せずとも、指示を聞くことは可能で、能力もそれなりに高い。なにより名門生部野家で作られた蟲毒だというだけでステータスには十分で、使役する呪霊として一定の人気があった。なのでこうして、普段外部との接触を断つ生部野家では、家人が50を迎えずに死んだ際には外部からの客を招いて葬儀を執り行い、そのあとに故人の体内の呪霊を取り出してオークションにかけているわけである。

 

最後に「神島」と呼ばれていた家が競り落とした未完成のセキシは、最初に遠目に見えた二体とは異なって暴れることもなく、ぐったりと眠ったように檻の中でとぐろを巻いている。後部にいる猪野からは、それが果たして芋虫なのかゲジゲジなのかなんなのかはっきりとは見えなかったが、目測でも2メートルはありそうな長い蟲ということは分かった。受け取った喪服の男がよろついている。 

 

「ではこれにて、最後の呪霊の売買が成立いたしました。本日は我が生部野家までご足労いただき、誠にありがとうございました」

 

壇上でオークションの司会を務めていた、やはり同じ顔をした二人の男の内のどちらかがそういうと、弔問客たちもぱらぱらと立ち上がって講堂の入り口へと向かい始めた。そうでないものは、呪霊を競り落とした家の者に向かってなにやら難癖をつけていたり、薄笑いを浮かべながら談笑したりしている。腕の時計(七海から譲ってもらうまでの代替品、と猪野は考えている)を見れば、予定されていた終了時刻からは結局40分近い遅れがあり、講堂の入り口から覗く空は茜色に染まりつつあった。

 

「で、冥さん。どうするんすか。結局式盗りとか言うやつ、講堂に戻って来ませんでしたけど。もう帰っちゃったんですかね」

「どうだろうね。私が生部野家に頼んで止まらせてもらっていた烏のうち、一羽は落とされたけどあと四羽とも門から出ていったところは目撃していない。多分まだいると思うよ、それもすぐ近くに」

「え?でもここらへん冥さんの烏、いないですよね。なんで分かるんすか?」

 

猪野がきょろきょろ見上げても、あたりの木々や屋根の上にも、あかね空に映える濡羽色の鳥たちは見当たらない。彼女の操る烏たちとて、その視界は有限だ。いない場所のことなど分かるはずもないのに、その口調はやけに断定的だった。

 

「分かるさ。あの子は烏の視界のくぐり抜け方を知りすぎているから、絶対に烏から見えない場所をたどっていけば逆に見つけられるんだ。―ほら、いた。あそこだよ」

 

何時間も待っていたことが馬鹿らしくなるくらいにあっさりと、指さされたところには、スーツ姿の女が人混みの中を起用にすり抜けていくところだった。あと少しで門をでてしまう、というところで、武器を構えるでもなくごく普通に「式盗りくん」と呼んだ冥々の声に、その女が振り返った。

 

物凄く嫌そうな表情を浮かべた、年齢の分かりづらい女性、というのが猪野の第一印象であった。それ以外、言われていた通りのレインコートにピアス、キャップに銀の指輪と、条件は合致しているのだけれど、どうにも印象に残りにくい感じがぬぐえず、ぼやけた輪郭をしている。大抵の人間はどこかしら特徴を持っているというのに、その女の顔にはそれがひとつもなく、日本人女性の顔を足して割った平均値のような、不自然で人工的な平凡顔だった。

どこにでもいそうな、誰でもない顔をした人間。当初のイメージとはかけ離れたうすら寒い雰囲気に、猪野はわけもなく気圧された。

 

「久しいね。一緒の仕事をしたのはもうずいぶんと前のことだけど、また顔を変えたのかい?」

「そういう呪具なんだ。私が変えているわけじゃない」

硬い、機械音声が、女のつけたマイクから流れ出した。きいん、というハウリングが細く響いた。

「さっき君に撃たれた子がずいぶん怯えていたよ。まったく、慰謝料を請求しようか考えてしまったじゃないか」

「あの烏は私に撃たれたことで、これから呪術界でレインコート着た人間に近づかない方がいい、という教訓を得られたんだぜ。こっちこそ勉強代として金払ってほしいくらいだ」

 

 

言葉尻はきつかったが、ある程度互いに馴染みがあり、そのうえで警戒心が底に見え隠れしている口調だった。高専では誰ひとり、冥々にこんな口のききかたをするものはいないので驚き半分、恐さ半分という心持ちで式盗りを見ていると、おそらくは猪野よりも高いであろう身長の彼女は興味なさそうに彼を一瞥してから、目をそらした。

 

「しかし、冥さんが生部野に来るとは珍しいな。烏の餌でも買いに来たのか」

「いいや?ここの蟲毒を食べられるほど私の烏は悪食じゃない。今日は、君がここに参加するという噂を聞いたから来たまでだよ。君は、高専からの容疑がかかってるからね」

 

その言葉に、涼利はつかの間黙った。そうして一度、ばかにしたような息を吐いた。琥珀色の、一重まぶたに嵌まった眼球がじろり、と冥々を睥睨する。

 

「ふうん。あんたが知っての通り、私は呪詛師だ。残念なことに高専に追っかけられるような容疑なら手足の指より多く思い当たるんだ。どれだ?八咫の鏡の贋作ばらまいたやつか?」

「そうじゃない―というかあれ、君だったのかい。知らなかったよ。いやまあそこではなくてね、先日高専で行われた交流会のことだよ。残念ながら呪霊の乱入で一時中止にはなったが、君はあの場にいたんじゃないのかな。少なくともそういう容疑がかかっている」

「私がその呪霊とやらとつるんで、襲撃に参加したと?」

「そういうことだね」

 

纏う雰囲気が両者ともに鋭くなり、その剣呑さに帰りゆく弔問客たちが面白そうに眺めながら去って行き、中には写真を撮ろうとしたものもいたが、なぜかシャッターを切ることができず不可解そうに首を傾げていた。涼利はここに至ってもあっけらかんとした様子で、追い詰められた犯罪者のような焦った素振りはまったくない。

 

「私の残穢でも見つかったか?」

「まさか。君は証拠を残すようなへまはしないだろう。ただね、現場では残穢のない帳や霧といった例がみられているほか、東京高専周りの事件でも残穢が一切残らない犯行が相次いでいる。さすがに複数人も残穢を消せる呪詛師がいるとは思い難いし、それにしては使われた術式が一切被っていないのもおかしい。そして会場にいた私の烏の目を犯人は搔い潜っていた。この三つを満たせるのは呪詛師界隈広しと言えども、君くらいだ。どうかな、式盗りくん」

 

冥々の、艶やかなルージュに彩られた唇が面白そうに、その両端が持ち上がった。うつくしく、凄絶に。対する涼利はじっと冥々から視線を外さないまままばたきもせずに見つめ、やがて「とくには」とだけ言った。涼利のショートヘアが、ゆっくりと傾き始めた太陽を背にして、濃い橙の光の粒を帯びて、ちかちかとひかめいた。

 

「やってないことに反論と言われてもな。要するにあんたのそれは消去法だ。明確に私がやった証拠もないのに容疑かけられたら困る。その年で呆けてもしたのか、冥さん?」

「ふふ。珍しいじゃないか、らしくもない安い反論だ。普段ならこういう時はきっちりアリバイ工作までするのが君なのに」

 

あくまでも容疑を否認する涼利と、追求の手を緩めない冥々の間にはきっかり3メートルほどの距離があり、両者ともにその距離を縮めようとも、広げようともしていない。それは互いへの信頼ゆえではなく、冥々の背中にある大斧の届く間合いであり、涼利の指輪が格納する槍や鎌や長刀が確実に当たる範囲であった。二人とも武器を構えすらしていないが、その距離を保っていることこそ、黙した開戦の暗示である。

 

「交流会って9月の■□日だろ。その日なら一日家にいたけど、これじゃ不満か?」

「ああ。その反論には残念ながら君にかかっている容疑を跳ね除けるほどの―」

 

―価値は、ないね。

 

一瞬で大斧が涼利の首の皮一枚のところに迫り、彼女の耳は確かに死がうなりをあげてやってくる音を捉えた。冥々の持つ、研ぎ澄まされた武術は勢いよく、よどみなく涼利の首を刈り取った。間違いなく、猪野はその未来を確信したところで、涼利の体がふっと消え、斧は空を切った。傍で黙ったまま事の成り行きを見ていた青年も同時にその姿を消していた。

「えっ?」

何か体を見えなくする術式なのか、それとも遠距離の瞬間移動なのか。どちらにせよ先ほどまでいたはずの門前には、スーツ姿の呪詛師はどこにもおらず、暮れ方の空の下で帰ろうとする人込みがあるのみだった。 

 

「やられたね。あの瞬間移動は貴重だから、そうそう使わないと踏んでいたけど、わりとあっさり撤退を選んだ。多分あれ以上喋るとぼろがでそうだから、だろうけど。憂々の術式を出しにして聞き出せばよかったかな」

 

冥々は斧を携えたままちょっとばかり首を傾げた。その顔には珍しく薄笑いが浮かんでいなかったけれども、それも一瞬のこと。にこ、と笑みを取り戻した彼女は猪野を振り返ると、困ったような顔を作ってこう尋ねた。

 

「どうだろう猪野くん、夜蛾学長、代金を返せと言ってくると思うかい?」

「いや、俺には分かんないっすね┈┈」

 

 

 

 

 

 

どご、と鈍い音を立てて、静岡県にある私鉄の駅のコインロッカーから転がるように、人影が二つ飛び出てきた。大きなサイズであるとはいえ、そもそも荷物を入れるところであって人間には不適切な場所である。双方平均よりかなり縦に長い涼利もチョウ相も、あちこち頭をぶつけながら二人は床から立ち上がった。

ここは一体、といきなり移動してきたことに驚いたチョウ相が辺りを見渡せば、そこは見覚えのある駅だった。生部野家に来る際に一度、電車を乗り換えた寂れかけのそこは、あと少しすれば帰宅ラッシュが始まりそうな時間帯だというのに人もまばらである。そういえば行く前に、涼利がコインロッカーでなにやらごそごそとしていたな、ということをチョウ相は思い出した。その涼利は出てきたコインロッカーの中を探ると、青銅でできた杭に呪符を巻き付けたような謎の物体を取り出した。 

 

それは涼利が有している瞬間移動の要石であり、普段リュックサックに入れているものの片割れであった。二つで一組となるものの、互いに引き合う性質を利用したもので、例えば京都高専の東堂や、冥々の弟である憂々のように媒介なしの術式とは似て非なるものである。これが一つでも壊されれば移動は不可能になる代わりに、これを離れた場所に置いておくだけで移動できる優れものであった。移動先を狭いコインロッカーに入れていたのはただの涼利の趣味である。ハリーポッターの見過ぎとも言う。

 

「想定より遅くかかったな。冥さんに見つかる確率低かったはずなのに、あの人何なんだ┈┈」

ぶつぶつ言った涼利は、三つ編みの美女の残像を振り払うように舌打ちをしてから、チョウ相を見た。

「今日は晩飯いらないって言ったし、チョウ相、何か買って帰」

 

彼女の言葉を途中で遮って、チョウ相のお腹から長い音が響き渡った。ぐ~という漫画のような間抜けな響きに涼利はぽかんとしてから、なんとも言えない顔で自身の腹を眺めている青年を見つめてちょっとだけ苦笑いをした。

 

[newpage]

◇◆◇◆

 

「お待ちどうさま、鰻重2人前ね!」

 

「ありがとうございます、あとスプーンひとつとハイボール下さい」

 

「あいよ、ちょっと待ってな!」

 

 

 

どんっと勢いよく2人がけのテーブルの上に置かれた黒い重箱を、脹相はしげしげと眺めた。香ばしく食欲をそそるような香りが中からするのだが、受肉して食べたものとは全然違う食器が珍しく、彼の見たことがないものだった。郡上家ではほとんどの料理は鍋から直でとるか、大皿に盛り付けるだけで、涼利との仕事先で食べるものといえば八割がたファーストフードである。受胎九相図の長兄にとって人生初の鰻重である。

 

 

 

駅のコインロッカーを蹴破った2人が今現在いるのは鰻という高級そうなものとは、およそ縁のなさそうに一見みえる店であった。店先ののぼりには「浜名湖直送ウナギ」の文字がでかでかと掲げられていた。軒先に赤い提灯がかけられた昭和風の店内には多くの人でにぎわっており、裸電球の下げられた低い天井には酩酊したものたちの大声や笑い、肉を焼く白い煙が充満し、眺めているうちに広いのか狭いのか分からなくなってくる。店内の客層も一定ではなく、よれったスーツ姿のサラリーマンや若い大学生の集まり、一人で黙々と食べている老人など多岐にわたっていた。その中で涼利と脹相は一応スーツに近い格好をしているので、さながら新入社員といったところだろうか。

 

 

 

「「いただきます」」

 

 

 

2人の声が期せずして重なり、脹相は重箱に、涼利は付け合わせの汁椀に手をつけた。ぱかりと重箱の蓋を開けた先には裸電球の黄色みかかった光に照らされて、こんがりと焼き目のついた鰻があった。ちょうどよい焼き具合の身にはにはしっかりタレが染みており、ぎらついたその鰻の下側には真っ白い米がのぞいていた。白米のほんのり甘い匂いと、鰻のそれが混ざり合って蓋を開けた瞬間から立ち上った。

 

 

 

(………美味い)

 

ごく、と一息に咀嚼して飲み込む。濃厚なタレの味と、程よく脂の乗った身が口の中でほどけて滑り落ちていく。白米と一緒に口にいれればいくらでも食べられるそうな絶妙の組み合わせだ。まだ箸が使えない脹相はスプーンを使って慎重に一口、二口と頬張ったところで何故か彼のスプーンが止まった。

 

 

 

「脹相?どうかしたか」

 

顔隠しのキャップを脱ぎ、マイクを外した涼利は、スマホを左手で操作しながら器用に鰻の身をほぐして食べていたが、少しして脹相の止まった手に気付き問いかけた。

 

彼の顔は困った、という風に太めの眉が寄せられていた。昼過ぎから2人とも何も口にしていないのだから満腹いうことはないだろうし、口に合わなかったのだろうか。涼利はそう考えた。

 

「不味かったんなら貰うけど」

 

「いや…そうじゃない」

 

これ、と脹相はほとんど手をつけていない鰻重をスプーンで指した。彼はスプーンが似合うような外見ではないので、なんだかシュールな光景である。

 

「これは持って帰れるものか?できれば弟たちにも食べさせてやりたいんだが……なんだその目は」

 

「………別に。持って帰るぐらい構わないと思うけど、壊相たちから頼まれたわけでもないんだろ。お前、腹減ってるんだろうし自分で食べたっていいんじゃないのか」

 

 

 

涼利の色彩の薄い茶の瞳が、信じられないものを見たようにまじまじと開かれて脹相を見つめていたもので、文句でもあるのかと思えば、涼利はふいっと視線をそらした。平素感情が表に出にくい彼女にしてはたいへん珍しく、あからさまに驚きという心の機微に染まった涼利は少しばかり幼く見えた。

 

 

 

「俺はいい。確かに腹は空いてるが、こんなに美味いものは、自分で食べるより弟たちに食べて欲しいんだ。壊相も血塗もきっと喜ぶだろうから」

 

 

 

首を横に振った青年のくちびるが柔らかに綻んだ。スプーンから完全に手を離し、遠くを見る脹相の視線は限りなく優しい色をしていて、言葉の通りに弟たちの喜ぶ顔が彼の瞼にはありありと浮かんでいるのが、涼利の目にも明らかだった。表情筋が普段全く仕事をしない脹相が、あんまりにもしあわせそうな顔をするもので、涼利はなんだか腹の奥深いところがむかつくような感じを覚えた。ハイボールを呷って飲み干すと、脹相の指すれすれにグラスをごん、と音を立てて置いた。

 

 

 

「さっぱり理解できない。頼まれてもないのに、自分の食事を減らしてまで持ち帰る意味あるか?」

 

「ある。俺はお兄ちゃんだからな」

 

寸分の迷いもなく脹相は言い切った。

 

「答えになってない。下の兄弟に何かしてやるのは、兄の義務でもなんでもないだろうが」

 

「…そうだな。じゃあこれは、俺が勝手にやりたいと思っているだけだ。俺は弟たちにひとつの憂いもあってほしくないし、やりたいと願うことなら応援してやりたいし、美味しいものを食べて幸せでいてほしい。だから、持って帰りたいんだ」

 

 

 

 

 

涼利は目を細めた。九相図の三兄弟と暮らし始め、その中で戦闘能力の最も高い脹相を仕事に連れ出してから日は浅かったが、それでも彼ら3人が互いを愛し、尊重しあっていることは嫌でも理解できた。それはいつだって人間の間に横たわるものと比べても純度が高く、無償の愛だとかそういう言葉の似合う感情だった。それは一体、彼らが呪霊に近い存在だからなのか、彼らが彼らであるがゆえなのか。

 

 

 

涼利と双子たちではそうはいかない。9年という長い年月を共に暮らすうちに、涼利たち3人はたくさんのことを学んだ。お互いの好きなものも嫌いなものも、信じていることも憎んでいることも、弱いところも初恋の人も、触れたらだめなことも。ちゃんと言葉にせずとも経験として知っていることも多い。その上、張らなくていい見栄だとか多分許してくれる悪口とか、細々とした不純物がうんと混ざり合っている3人の姉妹なので、脹相たちのように真っ直ぐ愛情を露わにするのは小っ恥ずかしいとか馬鹿らしいとさえ思うフシがある。

 

 

 

(………私は分けてやりたいだとか、思ったことがない)

 

 

 

むしろ、その類の言葉を盤星教に所属する呪詛師たちから言われるたびに、内心の反発は常にあった。夏油に言われて大喧嘩になったことも一度や二度ではない。術師の子供が3人しかいない状態では、涼利が必然的に「お姉ちゃん」というポジションにならざるを得なかったのは、大人になった今では理解してはいる。けれども、「お姉ちゃんだから」「年上なんだから」と言われるごとに、だから何だという理不尽さと、美々子や菜々子への苛立ち、それから長い間妹だった幼い涼利の部分がぐつぐつと煮立ち、そうして妹だった自分が少しずつすり減っていくような気分がしたから、涼利は美々子たちに自分のものを分けたりなんかしなかった。しつこくせがまれたらあげたけれど、自分からやりたいだなんて一度も思わなかったのだ。

 

年上だから。

 

姉だから。

 

術師だから。

 

–––非術師だから。だから、一体何だって言うんだよ。

 

 

 

 

 

美々子や菜々子が心底嫌いなわけじゃない。彼女たちの姉でいることもそれほど嫌ではない。だけど、自分以外の誰かがそれを理由にして自分に口出しされるのが、不愉快でたまらなかった。だから涼利にとっての「お姉ちゃんだから」は自身の行動の理由などではなく、他人から言われる押し付けがましい言葉でしかなかったのだ。

 

 

 

(…だけどこいつは、それを理由に動けるんだな)

 

まるでさも当たり前のように、躊躇いもなく。

 

 

 

羨ましいとは思わなかった。そうなりたいとも、思わなかった。けれどももし、自分が脹相のように「姉だから」を理由にできる人間ならば、何か違ったのかもしれない、とだけ考えた。それはあまりにも遠いifで、想像すら及ぶことができなかったけれど。ぐるぐると、涼利の胸の裡でさまざまな思い出と感情が去来し、あっという間に通り過ぎていった。

 

 

 

 

 

「…脹相、お前やっぱりその鰻重食べな」

 

「いや、俺は…」

 

言い募った青年をうるさそうに手で払うと、涼利は氷が溶けてほとんど水に近いハイボールの残りを無理やり傾けた。

 

「食いかけ持って帰ったってしょうがないだろ。金はあとで寄生虫に請求するんだし、どうせなら新品の方がいい。–––すみません」

 

涼利はそう言って近くを通った店員を呼び止めた。

 

「お伺いします」

 

「鰻重2つ、持ち帰り用にお願いできますか」

 

「かしこまりました、お会計の際のお渡しでよろしいですか?」

 

「はい、大丈夫です」

 

 

 

そう言うと涼利は自分の残していた鰻重にどこか不貞腐れたような顔で手をつけると、勢いよく掻き込んだ。脹相とは違ってきちんとした箸使いの彼女を見ながら脹相もスプーンを持って食べようとして、彼はふと「ありがとう」と涼利に礼を言った。

 

 

 

「別に。私の財布は何も痛まないし、礼なら寄生虫にでも言うんだな。ま、それにさ」

 

涼利は左の肘をテーブルについて顎を乗せると、ゆっくりと瞬きをした。長い睫毛が涼利の白い頬に影を落とし、ひどく彼女には不釣り合いな静謐の美しさがつかの間彼女の面には浮かんでいた。さながら月が流れる雲に翳るようにそれは一瞬のことで、すぐにどこかへ行ってしまった。

 

 

 

「…やれることは、やれるうちにやっといた方が良いのかもな、と思って」

 

 

 

脹相はあずかり知らぬことではあるけれど、郡上涼利に残された時間はそれほど長くない。病でも呪いでもなく、涼利が渋谷での作戦で身に負うリスクはあまりにも高い。五条悟との交戦だけではない。それ以外にも多くの命の危険を潜り抜けて、10月31日を生きて終えられる可能性は限りなく低いのだ。否、ほとんどないとすら涼利は考えていた。あと、一月後に自分がこの世にいないのかもしれないのなら、やれることはやっておくしかない。もちろん自分が死んだあとの遺産だとか不動産の名義だとかは既に準備してはいたのだけど、脹相の言葉を耳にして、「姉として美々子や菜々子にしてやれること」もやっておくべきなのかもな、という涼利の珍しい思いつきが、誰に言われたわけでもなく自然に、口から出ていた。

 

 

 

死にたいわけじゃない。必ず死ぬと決まったわけでもない。ただ、欲しいものを手に入れるために犯すリスクがあまりに多いというだけ。そのことを承知で、最初からこの作戦に加わったのだ。それなら、あとひと月くらいはやってあげてもいいかもしれない。生きている姉としてできることを、あの子たちに。

 

 

 

「?そうだな、俺たちはお兄ちゃんとお姉ちゃんだからな。下の兄弟にしてやれることは、やった方がいいと思うぞ」

 

言外に重たい意味を含ませた涼利の言葉に何を考えたのか、頬にご飯粒をつけた脹相がうんうんと頷いてきたので、涼利は鼻に皺を寄せて嫌な顔をした。箸で脹相を指して、ぴしゃりと言い切った。

 

「おい、『俺たち』と一括りにするのやめろ。同じ3兄弟の1番上だからってお前みたいなブラコンと一緒にするんじゃない。私はお前と違って色々事情があんだよ。あと言っとくけど壊相と血塗で鰻重一個だからな」

 

「えっ。1人一個じゃないのか」

 

「バカ言うな。お前の弟たちどっちもあんまり食べないだろうが」

 

3人の兄弟のうち、1番人間に近いのが脹相でその次に壊相、そして最後に血塗となる。人間と呪霊の混血児である彼らは食糧だけがエネルギー源ではなく、脹相は人並みに食べるが壊相はダイエットをするOL程度、最も呪霊に近い血塗はご飯茶碗の半分ほどで満腹になるような具合だった。

 

「じゃあ美々子と菜々子の分か?」

 

 

 

するりと吐き出された問いに涼利はう、と口籠った。かつては妹で、11歳のときに血の繋がらない妹たちの姉という役割を与えられ、未だ姉になりきれない半端者の呪詛師は一度だけ目を瞑って、目の前の青年を睨みつけるように見た。生まれながら誰に教えられずとも兄で、弟のことしか頭にない、これから先死ぬまできっと兄であり続けるであろう彼のことを。

 

 

 

「そう、………………うちの愚妹どもの分」

 

 

 

初めて口にするかのように躊躇いながらのその言葉に、脹相は一度二度瞬いて、それからふ、とまなじりを緩めた。彼が弟以外にその柔らかな笑みを向けたのは実を言うと初めてのことだった、とは言えそんなことは誰も知らぬこと。騒がしい店を出て、涼利の妹と脹相の弟たちが待つ家に戻ればやがて忘れ去られる、取り止めのない仕事終わりの夜の一幕である。

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

––ぴちゃり、と生暖かい液体が頬にかかって滴り落ちた。暗く開けた庭は、あちこちに置いた篝火で真昼のように明るく、その光をもって目の前の惨劇は誰の目にも明らかになっている。庭の草木をまだらに染めている血潮。あちこちに飛び散っている人間だったものの成れの果て。そして、設えられた祭壇の上にいる巨大な生き物が、今にも僅かに動こうとしている。みじろぐだけで、夜の風を生臭いものにたちまち変じさせたその生き物は、山の向こうを眺めていた頭をゆっくりとこちら側に戻してゆく。–––振り向いてしまう。そうだ、自分はこの先に何が起こるか知っている。何をこの蟲が口にするか、よくよく覚えている。焦ったいほどの速度でそのアゲハ蝶の幼虫に似た口吻が開く。

 

 

 

 

 

 

 

「–––やあ、さっきぶりだね?我が子たち」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごとん、と僅かな凹凸を踏んだかのごとき振動に、『彼』の意識は唐突に覚醒した。一度の振動を除いて、ほとんど滑らかに移動する感触に、意識は再び微睡もうとしたが、「はて、ここはどこだろう」という脳裏に沸き起こった疑問により、『彼』は二度寝をやめて辺りをキョロキョロと見渡した。ぶおん、と何かがそばを通り過ぎるような音が時折鳴るほかはひどく静かである。

 

 

 

腕をすこし伸ばせば四方八方は硬くぬるい壁にぶつかり、辺り一面は自分の指先も見えない、真っ黒い空間が広がっている。唯一、『彼』の正面遠くにはひび割れのような細く真っ直ぐの光が差しており、観音開きの扉があるのだろうが、今の『彼』の不安に苛まれた心持ちではどうにも、果てのない闇の只中に揺蕩っているように思えた。扉いや、厳密に言うなら完全に黒く塗りつぶされた空間なのではなく、銀色の壁と床が暗闇の中に沈んでいるのだが、今の『彼』にはとにかくそう見えたのだった。周囲を囲む壁はガラスや鉄ではないようで、金臭い匂いやひやりとする触感もない。どちらかと言うと分厚いプラスチックのような手触りである。

 

 

 

(…なんだろう、ここ。と言うか、なんでこんなところにいるんだろう?)

 

 

 

『彼』は茫洋とした頭でそう考えた。『彼』の記憶で最後に残っているのは自分の部屋の畳と、そこに広がった血溜まりの光景だ。作り物のように赤い血が勢いよく畳に染み込んでいて、それに触れた時にぐじゅりという嫌な感触がしていた。そう、それから途方もない安心だ。『彼』はその光景に例えようもないほど安堵したはずである。しかし、どうしてそうなったのかも、それからどうしたのかも思い出すことは叶わなかった。ただひたすらに『彼』の意識は曖昧に霞がかってつぎはぎだらけで、不完全も良いところだった。

 

 

 

「ここがどこか」も「どうしてここにいるのか」も思い出せなかったものが次に考えることといえば大抵同じで、『彼』もやはり同じことを思った。すなわち「自分は誰か」ということだ。

 

 

 

(……大丈夫、それなら思い出せる)

 

ごとん、とまた空間が少し揺れた。それに合わせて『彼』の入った札付きのプラスチックケースもつられて動き、中にいた『彼』の体が傾いてつるつると滑った。何本かの腕で反射的にケースの床を掴もうとしたが、うまく引っかからず『彼』は床に臥した。

 

 

 

(…俺の、名前は、)

 

『–––あら、ようやく起きていらっしゃったのね』

 

 

 

甘く高い、そして舌足らずさが少しもない、幼い少女の声だった。そうして水笛を吹き鳴らすように透きとおった響きが、不釣り合いな闇の中で突如として『彼』の耳に届いた。辺りに『彼』以外の何者も姿はない。どこかにスピーカーがあってそこから聞こえているのとも、聞こえ方が違う。まるで–––そう、『彼』の頭の内側に直接吹き込むような不思議な反響を、その甘やかな声は纏っていた。

 

そうして『彼』のよく知る声だった。この水笛のように美しく鳴る声音を、『彼』はある少女を置いて知らない。

 

 

 

(………繭、さま?)

 

『ええ、そうよ。おはよう、叔父さま。まあ厳密に言うとあなたは叔父さまじゃないけれど。ふふふ、びっくりして声も出ないって感じね?』

 

 

 

くすくす、とまるで邪気のない笑い声が耳元で聞こえた。姪が物心つかないころから叩き込まれた癖で、慌てて平伏しようとして彼の腕はまたずるりと滑った。その失態に、体温がぐうっと下がり、『彼』は生きた心地がしなかった。今の自分がどう言う状況かは分からないとは言え、亡き姉の跡を継いだ当主に礼を欠いたと家人に知られれば、何と言われるか想像するまでもない。

 

声の主がどこにいるかはさておき、やはり声は自身の姪であり生部野家の現当主である生部野繭のものであった。『彼』の属する一族がひれ伏す、もっとも新しい頂点。蟲たちの女王たる、少女の麗しい声。

 

 

 

(しかし繭さま、僭越ながら私に何か御用でしたか。私は今自分がどこにいるのかも定かではないのですが。それとここは一体どこなのでしょうか…生部野家ではありませんよね)

 

『あ、ううん、大した用事じゃないの。ちょっとお話をしに来ただけよ。それと、もちろんそこは屋敷じゃないわ』

 

(………左様でございますか)

 

 

 

釈然としないながら当主の言葉に否やを言えるはずもなく、『彼』はじいっと身じろぎもせずに繭の次の言葉を待った。声の調子からして怒っていたり、不機嫌な様子ではない。初めは自分が不手際をして、当主の命でどこかへやられたのかの思ったが、ちがうのかも知れない。

 

しかし、それを踏まえても『彼』の身の裡には、どこからか語りかけてくる少女に、自分の思考が読まれているのではないか、はたまた自分に何かひどい罰を与えようとしているのではないかという疑心と恐怖がべったりとこびりついていた。

 

 

 

『彼』は、自分より遥かに幼い、己の姪のことがずっと怖かった。ほとんど接点などない、当主である彼女の姿を目にするたびに、その声を聞くたびに背筋が凍って、身の震えが止まなかった。

 

多分それは、『彼』が持つ生部野という家への恐怖が、たまさかその頂点である彼女へと向かっていったに過ぎないのだ。それは『彼』自身にも自覚のあることだった。『彼』の姪は、さながら生部野という一族の結晶のように、生部野のもっとも醜悪で美しい部分を濾して、それが人型を成したように、『彼』には思えてならなかったから。

 

 

 

–––がたん、と暗闇が揺れる。『彼』は壁に手をつこうとして、またしても上手くいかず、ずるずると滑ってケースの床に崩れ落ちた。ぐちょり、とねばついた音が何処からか鳴る。

 

 

 

 

 

『彼』が生家である生部野一族のことを殊のほか厭悪するようになったのがいったいいつのことか、それは『彼』にも定かではない。けれどもその畏怖と、嫌悪と、侮蔑がないまぜになった心持ちで生部野家にまつわるものを見るようになってから、それに耐えきれなくなるのはすぐだった。屋敷の敷地内を歩く、鏡合わせのように自分と同じ顔をした親族。我が物顔で闊歩する、巨大な赤い蟲–––彼は虫が大嫌いだった。女尊男卑の染み付いた思想。それから、何と言い表せば良いのだろう。己の体の中を蠢く、生き物の息遣い、翅音、感触。己をいずれ食い潰す蟲が、体の中にいるというこの上ない生理的な忌避感。

 

 

 

一度は高専に入学しても『彼』には大した実力がないことが判明しただけ。結局卒業後には家に戻るはめになり、そうして––そうして、今に至る。

 

 

 

(…繭さま、お聴きしたかったのですがここは何処なのですか?私は何か不手際をして、どこかへ移されたのでしょうか?)

 

『んん?あれ、まだ頭がはっきりしてないのね、叔父さま。何か勘違いしていらっしゃるみたいだけど、別に罰としてどこかに行かせてるわけじゃないわよ。移動中っていうのは合ってるけど』

 

 

 

しばらく続いた無言の空間に堪えきれず、思い切って口火を切った『彼』に対し、繭はやや驚いた様子であった。まるで『彼』がまだ気づいていないことに、めんくらったような幼い相槌。

 

しかし移動中–––ということは、ここは車、それもトラックのような大型車の内部だろうか。それならこの暗さや時折の揺れにも納得がいく。どうして自分が謎のケースに入れられて、トラックで運ばれているかは依然として不明だが。

 

 

 

 

 

『うーんと、どこから分かってないのかしらね。まず確認なんだけれど叔父さま、』

 

  ・・・・・・・・・・・・・・・

 

–––ご自分が死んだことは理解していて?

 

(………………え?)

 

 

 

お菓子の成分を読み上げるかのように、軽々しく問われた確認の内容に『彼』は絶句した。とんでもない言葉に反射で否定しようとして『彼』はもごもごと声にならない喃語を口にした。

 

死んだ?自分が?馬鹿馬鹿しい。なぜ死んだ人間に意識があり、こうして思考できるというのか。当主の言葉と言えども流石に反論を唱えようと思いたった『彼』はしかし、はた、と気づいた。

 

そうだ。あの畳に染み付いた血溜まりは一体誰のものだった?彼の脳裏に、多量の血液を吸い込んでぶよぶよとした畳の感触と、濃厚な鉄錆の匂い、吹き出してとめどなく脈打ちながら溢れる血潮がまざまざと蘇った。

 

 

 

それから、自分の喉を硬い金属が太い血管をぶちぶちと裂いて、肉を割っていく感触は?

 

 

 

(………いや、そうだ、そうだった、私は)

 

 

 

あの日、『彼』は確かに自分の喉にボールペンを差し込んだ。障子を透かした月明かりに、メタリックなボールペンの軸がきらきらと光っていて、皮膚と頸動脈を突き破ったペン先がごり、と鈍い音を立てて喉の骨を掠めて首の後ろまで貫通した手触りを、『彼』はその時になってはじめてはっきりと思い出した。何せ自分で握っていた凶器だ。鼻と口にせりあがった血を吐き出すことも叶わずにのたうち回り、やがて手足の先から冷たくなって意識が遠のいてゆく光景。

 

そう。確かに『彼』はそのまま事切れていた、はずだ。それでもやはり、疑問は初めに戻って堂々巡りになってしまう。なぜ『彼』はここにいるのだろう?自らの手と意思によって死んだはずの『彼』が?

 

 

 

(そうだ、私はあの日に自殺を図って)

 

『ええ。しっかりばっちりお亡くなりになったわ。ついでに言っとくともうお葬式も終わっちゃったの』

 

(ではここは死後の世界、なのですか………?)

 

 

 

恐る恐る発された『彼』の問いに、繭は笑い混じりに否定した。

 

『いいえ?叔父さまがいるのは、間違いなく私も生きている現世よ。言いようによっては、叔父さまは一時的に死を乗り越えたとも言えるのかもしれないわね』

 

(ど、どうやって、ですか?私は死ぬ間際に誓って何もしておりません。ただ市販の痛み止めを飲んだだけです)

 

 

 

 

 

死を乗り越えるだとか言うような大層な何かをした覚えは、『彼』のぼやけた記憶のどこにもない。そも、死を乗り越えるような現実離れした方法など、呪術界が広く古くオカルトチックな世界であるとしても聴いたことも見たこともない。呪術師が人間であり、寿命や肉体のくびきから逃れられない存在である以上、長きにわたる歴史においても死者の蘇生は非実在のものである。ただ1人、日本の結界の根本を担う「天元」と呼ばれるものが不死であるという噂は知っているが、それとて一度死んで蘇ったわけではない。『彼』の頭はまさしく混乱の最中にあった。

 

 

 

 

 

『まあまあ、そこは置いておいていいのよ、どうせすぐにわかることになるから。それより、ね、沙凪叔父さま。私ずっとあなたに聞きたいことがあったんだけど』

 

(はあ………なんでございましょうか)

 

未だに置かれている状況はひとつも理解できないままだが、幼い当主の楽しげな様子に水はさせず、『彼』は歯切れの悪い返事を返した。

 

『叔父さま、生部野のことが嫌いだったでしょう?』

 

(………いえ、まさか。仮にも私めの生まれた家でございます、決してそのようなことは、)

 

『大丈夫よ、誰にも言ったりしないし。第一叔父さまもう死んでるんだから、バレたって責める人なんかいないわよ。そうでしょ?でね、これは聞いた話なんだけど、叔父さまが家出して高専に行ったきっかけが、おじいさまが死んだことがきっかけって本当?』

 

(それ、は………)

 

 

 

 

 

繭の言葉が耳に入ってきたとき咄嗟に思い浮かんだのは、『彼』の父親で、繭の祖父にあたる男の体が食い破られる瞬間のことだった。おそらくは人生で初めて見た、赤尸が生まれる光景。『彼』の父は50まできちんとその生を全うし、50の誕生日を、庭に設えた祭壇の上で迎えていた。今でも『彼』の頭の内側には、そのとき飛び散った血飛沫の生暖かさまではっきりと残っている。

 

 

 

12時を過ぎた瞬間に、『彼』の父親の体は破裂し、中から現れた巨大な赤い蟲によってことごとくを食い荒らされた。庭の広範囲にわたって撒き散らされた肉体の破片はひどい有様で、篝火に照らされた暗い庭には、生臭い匂いを発する頭蓋骨のかけらや、内臓から漏れ出した糞尿や、その他もはや原形などほとんど留めていない肉が、美しい庭を地獄絵図へと変えていた。けれども、『彼』の身のうちに長く恐怖を残したのはそのグロテスクさが理由ではない。そも、それより忌まわしい光景など掃いて捨てるほど見ることになるのが、生部野家の人間の宿命である。

 

 

 

恐ろしかったのは、その蟲の言葉だった。アゲハ蝶の幼虫とカミキリムシを混ぜたような身体に、半透明の翅を生やしたその赤尸が夜の中で振り返り、口を開いたときに『彼』はどうしようもない嫌悪感を抱かざるをえなかった。

 

 

 

『––––やあ、さっきぶりだね、我が子たち』

 

 

 

その声も、話し方も生前の父そのものだった。目を瞑れば父がそこにいて、こちらに語りかけてくるような、似ているという次元を超えた、まるきり同じ声が、おぞましい蟲の体から放たれている違和感。それを驚きも恐れもせずに見ている親族たち。

 

 

 

『やれ、よかった。■■も羽化できた』

 

『○●も50まで待つのか?あれは体が弱いから気がかりだ』

 

『しょうがあるまい。あれの母は体が弱いから』

 

『喜ばしいこと。私も早く人間の体など捨ててしまいたいわ』

 

『しかしあの口ぶりだと記憶は全部継いだのね?珍しい』

 

 

 

なぜ、誰も怖がっていないのだろう。人がその体を脱ぎ捨てて蟲に転じたことを、なぜ誰も疑問にも思わず、畏れていないのだろう。

 

『彼』には理解できなかった。理解できないものは怖かった。幼いころからずっと家の誇りだと教えられてきた赤尸を見ることすら嫌になった。いずれ自分も同じ道筋を辿ることになるなど、耐えられそうにもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(…それは本当のことです、繭さま。嫌いというより私は恐ろしかった。父のことが契機ではありましたが、どのみち同じであったと思います)

 

『宿主の記憶を継いだ赤尸がいることが、怖かった?』

 

(………ええ)

 

 

 

赤尸たちは50年と言うながい歳月を宿主の体内で過ごすうちに、彼もしくは彼女からいくつか引き継ぐものがある。その一つが声である。昆虫というもののほとんどが言葉を発さない都合上、声の出どころは宿主からになるのだ。喋り方、高さ低さ、抑揚、どれをとってもまったく変わらず、かつての宿主と全く同じ声音で赤尸たちは、話し、笑い、泣くことができた。噂によれば声紋認証を突破することができたとすら言われている。

 

そうして二つ目に、彼らのうちで稀に引き継ぐのが、記憶であった。個体差はもちろんあり、宿主の名程度しか覚えておらず、赤尸である自分とはまったく別のことと切り離して考えるものや、生まれてから死ぬまでをひとつの欠けもなく記憶して、人間に近い感性を未だ持ち続けているもの。あるいはその狭間、まだらに残った人間性に苛まれるもの。

 

いずれにせよ宿主と、その血肉を喰らって生まれる赤尸はどこかで繋がり、何らかの形で連綿と続いていくものがある。それはある種、人が呪霊へと生まれ変わるといっても良いのかもしれない。はたまた自らの大量の血肉を分け与え、体内から赤尸を生み出すことを出産になぞらえて、赤尸は「赤子」からとったとも言われている。

 

それ故に。生部野家の人間は、50まで生きてその肉体から赤尸を生み出すことを「羽化」と称して讃美する。人から蟲へ。不完全で未熟な体を脱ぎ捨てて、美しく神々しいほどに赤い体へ転ずるその過程を。声を継ぎ、記憶を継ぎ、あるいはそのどちらを有さずとも、赤い肉体のどこかにはかつての宿主の欠片が脈々と流れているのだ。その儀式を経て初めて、生部野家の人間は死をも克服した存在となれる。

 

それこそが、奈良の御代から長きにわたり蟲毒を研究し続けてきた生部野家が辿り着いた、至上の観念だった。

 

『そう。私たち生部野家の不文律を怖いと思ってしまったのね。それはさぞかし、家中で生きていくことだって辛かったことでしょう。お可哀そうに』

 

生前は一度も聞いたことのない、芯からの慈しみと慰めの込められた繭の声音がなんとも居心地悪く、『彼』は頭を下げたまま緩く首を振った。ぐにょりと首が不規則に揺れて、頭がケースの表面にこすりつけられる。室温と同じプラスチックを、てろりとした粘度の高い液体が滑り落ちて、床に大きな水溜りをつくった。

 

『―でも大丈夫、大丈夫よ。それももうすぐ終わりなのだから』

 

(┈え?)

 

あどけない少女の声の調子が、唐突に変わった。甘やかで高く、水笛のように耳ざわりの良かった声から、わずかに低く冷たい声に。『彼』は本当に、おのれの頭にどこからか声を吹き込む人物は、はたして本当に姪で一族の長であるあの少女なのだろうか、という疑念すら持った。

 

その声は、繭の年齢よりももう少し幼い少女のようにも、もっと年かさの媼のようにも聞こえた。

 

威厳に満ちていて、硬質で、それでいて聞いているうちにだんだんと灰色の雲の如き不安が腹の底に積みあがっていくような響きが、その声には備わっていた。

 

『ここまで言ったらさすがに思い出すかと思って待ってあげたけど、駄目ね。答え合わせの時間にしましょうか。あなたは羽化しそこねたから、このテレパシーもどきも長くはもたないし』

 

–––ねえ、どうしてあなたはさっきから私の前で滑ったり、転んだりしてばかりなのか、わかる?

 

『彼』はその時になって、体の妙な動かしにくさに理由があったのを初めて知った。てっきり眠っていたから体が固まっていたのか、死んだから体は自由に動かせないだとか、馬鹿馬鹿しいことなら魂だけの状態だとか、そういうことなのだとばかり考えていたのである。

 

(それは┈私は死んでいるのですから、死体を動かせないのは道理のことでは)

 

『全然はずれ。遺体は今私の手元にあるし。あなたはまだ慣れていないだけよ。手足合わせて4本以上ある感覚にね』

 

 

 

ぐじゅり、と腹の下に溜まった粘液が嫌な音を立てた。

 

そうして『彼』は繭の言葉に、おのれの体が一体どういう形状なのかを悟って、本能的に身をよじった。足と手が合わせて四本というどころではない。八本?十本?否、それよりももっとずっと多い。形も短く、頼りない刷毛のような何かを蠢かせることしかできそうにもなかった。

 

 

 

『そう、それからどうして、声を出さないのかしら?私の術式には人間とテレパシーするような能力なんかないのに』

 

 

 

そうだ。『彼』は繭と話すときもずっと声を出すのではなく、思考するだけで会話が成立するから、声を出すことすら忘れていた。驚いたときでさえ『彼』の口からは一音も漏れ出ることはなかった。まるで、声を発することそのものを忘れていたかのように。

 

『彼』はようやっと飲み込んだ絶望に悲鳴を上げようと、あるいは恐怖ゆえの鳥肌が出てくれはしないかと一縷の望みをかけるもむなしく、ただ、伸びあがった固く長い体躯の端が天井について、ゴトン、という大きな物音が鳴っただけだった。

 

『分かるかしら?あなたはもう、』

 

(おやめください、五十よりも前で自ら死を選んだことはお詫びいたします!わた、私はただこんなことになるなど思いもしていなかった!ただ―ただ人間のまま死にたいと思っただけなのです!どうしてこんな風になっているのですか繭さま!?俺は31で死んだ、赤尸になどなれるはずがない!)

 

 

 

『彼』は今や気も狂わんばかりだった。激しい苦悶に従ってその長躯は何度もケースにぶつかり、それは横倒しになって乱暴な振動が『彼』を震わせた。キキ―、というブレーキ音がなって滑らかな移動が止まったが、既に『彼』の心をそれ以上に乱すことはできなかった。

 

『彼』はただ、父親の変化を目にしたときから体内に巣食っていた恐怖を、結局飼いならすことはできなかった。蟲を恐れ、変化を恐れ、赤色を恐れ―やがて積み重なった恐怖は蟲よりも早く『彼』を食い破ったのだった。あの日の夜に、腕の皮膚の下を這う百足を目にした『彼』はとうとう、いつか蟲になり果てる日まで生きることよりも人間として死ぬことを選び、机の上にあったボールペンを衝動的につかんで己の細い喉へと差し込んだ。

 

それで終わりのはず、だった。50まで生きて赤尸にならなければ、万が一にも記憶を持ったまま蟲になるという『彼』にとっての最悪の事態は回避できる。寿命のない赤尸になって、蟲の体で永遠にも等しい時間を過ごすような悪夢は、そこで潰えるはずだった。だから『彼』は死の間際に安堵した。これ以上おびえながら生きていく生活は、そこで断たれたと思ったから。

 

『そうね。通常生前の記憶保持はそれなりのリソースを食うから、50年という節目を超えた正式な赤尸にしか継承できないんだけど。でも、たまにあなたのような例が出てしまう。赤尸になりそこねたのに、宿主の記憶を一時的に受け継ぐ蟲が』

 

その言葉と同時に、トラックの中の暗闇が破られて、きつい光が差し込んだ。観音開きの扉の糸筋だけだった明かりが急速に広がり、『彼』の複眼を焼いた。黒い海を揺蕩っていたような錯覚はたちまちのうちに掻き消え、透明度の高い初秋の夕暮れの日差しがトラックの空間を満たしてゆく。あれほど彼の不安を掻き立てていた暗闇はもはや隅のほうにわずかにわだかまっているだけで、彼は何も見ないようにそちらへと身を丸めてうずくまった。

 

「おい、暴れてんじゃねえか。どうすんだよ」

 

「こういうときのために対処方法はあのロリ当主に聞いといたんだろうが。この鳥頭」

 

 

 

どうやらトラックの運転手らしい男と、もう一人。どちらも中年らしいだみ声が『彼』の鼓膜をたたいた。いや、今の『彼』の体に鼓膜が備わっているとはとても思い難いが、ともかく知らない声の主二人は、粗野な口調でやいやいと言い合ったのちに男のどちらかが、がこ、と音を立てて扉を完全に開け放った。

 

(やめろ、いやだ、見ないでくれ、見せないでくれ、お願いだから┈!)

 

『彼』は目を瞑って忌まわしい現実から逃れようと頭を振ったが、その願いはとうに叶う段階を通り過ぎていた。

 

『だめ、ちゃんとご覧になって。あなたにはもはや、閉じる瞼すらないのだから』

 

そして、とうとうトラックの内部の闇は完全になくなって、『彼』の肉体は白日の下にさらされた。音が聞こえそうなほどはっきりとした、風に揺れる稲穂色の落陽は、『彼』の体に長い影を作りながらも隅まで照らし出していた。

 

―すなわちは、その百足にも似たいくつもの節から成り立つ、まだらに赤く染まった蟲を。

 

生前の瘦せていた体とは打って変わり、丸々と超えた体は百足と芋虫を足したような形であり、その表面は、ねばねばとした薄赤い粘液で覆われていた。頭には長い二本の触手と短い無数の触手がついており、その下から金色のトンボに近い形の複眼がケースの表面には映り込んでいた。『彼』が動くたびに、ケースに移る巨大な蟲もまた同じように動く。表面を染める赤い斑点は、どれも不気味な形をしており、どことなく人間の顔を思わせるとうな模様がぽつぽつと浮き上がっている。あの凄まじく濃く鮮やかだった体色とは異なり、みすぼらしくそれでいて、毒々しい、人ならざる異形の姿がそこにあった。

 

嘘だ、と顔面を近づければぬちゅり、という音をたてて透明の壁にぶつかるだけ。

 

―既に。『彼』は蟲で、蟲は『彼』であった。分かつ境界は、とうに消え去った。

 

(┈┈、┈┈)

 

『これは別に誰が悪いとかじゃないの。ただ叔父さまが低い確率の不運を引き当てた、というだけの話。私だってあなたの中から叔父さまの記憶を取り除いてあげることはできないから、どうしようもない。でも、じきに終わるわ。いまは保持できている記憶も、正式な赤尸ではない不完全なその体では徐々に抜け落ちていく。名前や、体験した出来事、恐怖は残りやすいから最後のほうになるかもしれないけど┈いずれは人間であったことも。蟲になるのが怖かったことだって忘れられるわ』

 

己の醜悪な体を目の当たりにし、動けなくなった『彼』に満足したのか男たちはトラックの観音扉を閉め、『彼』の視界は再び真っ暗闇に閉ざされた。しかし、『彼』の心にはすでに己の肉体がどうであるのかが拭いがたく焼き付いており、もはや体が見えないことなど何の慰めにもなりはしなかった。トラックのエンジンがかかり、動き出す振動に『彼』の力の抜けきった巨体はケースに叩きつけられた。

 

 

 

『叔父さま?いやこう呼ぶのもおかしいかしらね。運悪く叔父さまの記憶を受け継いでしまったあなた、聞いてる?自分のお名前、思い出せる?』

 

少女の声に、『彼』ははて、その脊椎のない首を傾げた。名前。じぶんの、なまえ。

 

(なまえ┈┈、おれの、なまえ、は)

 

あったということは思い出せるのに、それがどう呼ばれていたのか、どう書くのかは靄をつかむように曖昧模糊なまま、『彼』の脳裏についぞ浮かび上がってくることはなかった。

 

『そう。いい傾向ね。きっとすぐ、何もかも忘れた一匹の呪霊として、蟲として生きられるわ。その日まではつらいかもしれないけど、頑張って』

 

―それじゃあ、おやすみなさい。

 

暗転。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

ぱちり、と長いまつげに縁取られた金の瞳が見開かれた。

 

少女は、動かなくなった叔父の体にぴったりとくっつけていた頬を離して身を起こすと、無邪気に伸びをしながら、巨大な桶の中で立ち上がった。そのまま、高価そうな赤い振袖の裾を払うと、上から差し出された赤尸の腕に乗って、地面に降り立った。草履が、少女の軽さ通りの密やかな音を立てる。

 

少女が―生部野繭が立っているのは、所有する山の間にある一族の墓地であった。緑深い地に、ぽっかりと空いたテニスコート程の敷地に所せましと奈良の昔から増え続けてきた石塔が、折り重なるように建っている。見渡す限り石塔の林、と言わんばかりの密集具合、あまり適切な距離を保っているとはいいがたいほどの混みようだった。苔むした石塔が立ち並ぶさまはいい風に言えば神秘的、悪しざまに言えばろくすっぽ手入れもされていないのが一目見れば明らかだった。苔が生えているものなどまだましで、中には崩れかかったもの、土台部分しか残っていないものもあり、そしてどの墓にも花のひとつすら供えられていない。周りの木々も伸び放題で、墓地の端に近い部分から植物に飲み込まれて自然へと帰し始めている。その光景はまさに、生部野という一族そのものが持つ、死者への冷たい眼差しを端的に表しているといっても良いだろう。それはこの場において、もっとも新しい遺体とて例外ではない。

 

 

 

ざあ、と粉っぽい秋の風が墓地を通り過ぎた。

 

生部野家において、身内の墓に花を供えるものなど一人とていない。なぜなら、墓を持つもの、というのは50以前に死んで赤尸を生み出すことができなかったものを指すからである。彼らにとってこの墓地は、先祖から続く哀悼のための場でもなければ、死者を思い出すためのよすがでもなんでもない。むしろここに遺体を埋められることこそが、恥ずべき罪ですらあった。

 

「お話は終わったのですか、繭?」

 

「ええ。もう埋めていいわよ、お前たち」

 

少女を持ち上げた、イモムシ頭にカミキリムシの胴体をした赤尸に、繭がそう頷いてみせると、あたりで控えていた他の赤尸たちは手早く沙凪の死体を入れた桶の蓋を閉め、荒縄で縛ると、その上に手早く土をかけ、あっという間に桶は土の向こうに見えなくなった。

 

 

 

「しかし、まあ。沙凪の中にいた蟲がまさか記憶継ぎとは思ってもおりませんでしたよ。あれほど蟲嫌いで家出までした子が生み出したのが、運がよいというべきか悪いというべきか」

 

「叔父さまにとっては悪夢以外何者でもないでしょ。さっき喋ったかんじだと、あと半月持つかもたないかでしょうね。それぐらいで記憶は全部消えると思うわ。あと、その言い方だと息子が心配だったように聞こえるわよ、おじいさま」

 

「おやおや。珍しくごっこ遊びがご所望でしたか。よろしいですとも愛しき我が孫、なんなりとおじいさまに甘えなさいませ。おんぶか、それともお姫様だっこ、どちらがよろしいので?」

 

ふざけたように、心にもない茶番を始めてきたセキシに、繭は「冗談よ」とだけ言って墓地から外へと続く林道へと足を向けた。

 

けらけらと巨体に見あわぬ、低く軽やかな笑い声を立てた、かつて繭の祖父で沙凪の父親であった男から生み出された蟲も、少女の三歩程度あとをついてのっそりと進んでいく。このセキシにしても、別段自身のことを本気で少女の祖父だと思っているわけでもなく、彼女を孫として愛する情動はまるでない。生前の、生部野■■であったころの記録は保持しているにせよ、それは今のセキシである自身とは切り離された事象であり、直前の祖父だ孫だというのは、生部野家特有のブラックジョークみたいなものであった。

 

 

 

「ま、あやつ以外にも赤尸になれずに死ぬものなど沢山おりますからな。多少珍しい失敗例だった、というだけ。そこいらの細やかな配慮を今のわたくしに求められてもね。それより、繭さま」

 

あっさりと、血を分けた我が子の惨状の話題から切り替えた蟲は、前を行く主君に尋ねた。

 

「あの呪具┈天沼鉾を式盗り殿に貸してしまってよろしかったので?宝物殿の中でも五指に入る代物でしたのに」

 

「うちみたいな袋叩きが基本の戦法の家に、あんな火力あっても使わないじゃない。それよりは月ごとに定額払ってくれるっていうんだから有難く貰っておいた方が財政の足しになると思うけど」

 

 

 

市場にだせば億単位の価格がつく呪具を、つきあいはそれなりに長いとは言え外部の呪詛師に貸したことを問えば、少女の唇から漏れ出したのはそんなあっさりとした答えだった。こういう、時折の浅慮を子供らしいというのか当主にはふさわしくないと咎めればよいのか。

 

 

 

「しかしですね、此度の死体の盗難に一枚嚙んでいたとまでは申しませんが、式盗り殿は『あの』久永家の未来視をもっておいでなのですよ。あらかじめ盗難を予期していたと考えるのが道理でしょう。それを我々に黙っていたことを考えますと、あの鉾を貸すのは早計だったようにも思いますが┈」

 

「そこは帰り際に釘を刺しておいたわ。『今回は結果としてうちに被害が出てないから不問にするけど、次やったら刻んで山の養分にしてやる』ってね。しばらくはあの盗人も大人しくしてるんじゃないかしら」

 

 

 

物騒なセリフをさらりと吐いた当主とは裏腹に、それでもイモムシ頭の赤尸の顔は物憂げだった。人間のような表情金がないはずのその顔がムニュムニュと、何か言いたげに動いているのを見て、繭は苛立たしげに黒絹の髪をかいた。枝毛のひとつもない美しい黒髪が、赤い振袖の肩に、きらきらと暮れ方の光をはじきながら散らばった。存外に、子供特有の無邪気さとはかけ離れたこの少女には珍しい、幼げなしぐさである。

 

 

 

「┈あなた、天沼鉾に何か思い入れでもあったの?さっきからやたらと気にかけてるけど」

 

「いえ、沼鉾というか┈そうでした、繭はまだ幼いころでしたものね、知らないのも無理はありませんが。あれの片割れは大事件で使われて問題になりましたもので、どうも不吉な印象が私にはぬぐいがたいのです」

 

天沼鉾。奈良の昔から存在する名家、生部野家においてもかなり貴重な分類の呪具の一つである。

 

この呪具にはかつて失われた片割れがあり、その銘を天逆鉾と言った。十年前に非術師の団体が主導して引き起こした「星漿体殺害事件」において、ある呪詛師が五条悟を瀕死にまで追い込むのに使われ、その後傷を受けた本人の手によって破壊されている。いかなる攻撃をも通さない五条家の至宝を傷つけた、というある種の伝説的な呪具であり、呪術界きっての不吉の象徴でもあった。その片割れである天沼鉾もまた、郡上涼利に貸したことでよからぬことに使われ、ひいては生部野家に不利益をもたらさぬか、ということをこのイモムシ頭の呪霊は懸念しているのであった。

 

「星漿体の殺害に天逆鉾が関わったことぐらい私だって知ってるわよ。でも、沼鉾は天逆鉾みたいに無下限を破るような効果はもってないでしょ。名高い五条悟の前じゃ爪楊枝以下の威力なんだから心配いらないわ」

 

繭のきっぱりとした口ぶりに、イモムシ頭の呪霊もそれ以上の反論を差しはさむ気にはならず、黙って歩く速度を速めた。

 

あのとき。ほこり一粒もない静謐な宝物殿の薄暗がりに立っていた、式盗りの白い凡庸な顔は、キャップのつばと前髪でほとんど表情は見えなかったが、その琥珀色をした瞳だけが炯々と、らんらんと輝いていることだけは確かだった。さまざまな呪具をいれたガラスケースを背にして、長大な青銅の鉾を手にして佇むその姿は一枚の絵のごとく馴染んでいて、ともすればこの女のために作られた呪具なのではないか、という錯覚すら、赤尸の脳裏を掠めたくらいである。

 

 

 

『いい武器だな。未来視で見た時もそう思ったけど、生で見ると格別だ』

 

 

 

手入れを絶え間なく続けているおかげか、はたまた呪具に備わった加護ゆえか、青く錆びることなく鏡のようにきらめく刃には、わずかに微笑む式盗りの口元が映り込んでいた。

 

レインコートを纏った女はそのまま、あきらかに身長の倍程度はあるその鉾を一度二度、軽く振り回した。尋常ではない重さを、滑らかに制御した呪詛師はぴたりとその刃を止めてじっと見つめていた。その光景を目にしたときからずっと、イモムシ頭の赤尸の中にはひとつ、疑問がべたりと張り付いて、消えることなく今に至っていた。

 

「さっさと来ないと置いていくわよ」

 

「………失礼いたしました、只今」

 

急かす声に、ずりずりと這って主の下へと急ぐうちにもやはりその疑問は絶えず彼の心を、淡く、薄く苛んだ。オークションが終わるころには東の端から宵闇が見え隠れしていた程度だった空の色はすでに逆転しており、薄墨に紺を溶かした天蓋の西に、今しも沈んだ太陽の残像ばかりが残っている。それなりの標高を誇る山からは、その風景がまさにパノラマのように広がっていた。

 

―式盗りはいったい、天沼鉾を誰に向けるつもりなのだろう。

 

あの鉾では五条悟を傷つけられないのならば、誰があの、鏡のごとく光る切っ先を向けられるのだろう。

 

–––キャップを被った、レインコート姿の呪詛師が手にした巨大な鉾を勢いよく振りぬく。刃が夜風を切り、黄金の月の光を浴びながら、だれかの胸を深々と刺し貫く。そんな光景を、ふと赤尸は想像した。けれども肝心の刺された誰かの顔は彼の想像力で補完することはかなわず、黒く塗りつぶされたまま、ただ、その口がにんまりと笑っているような気がするだけだけだった。




解説

郡上涼利
悪事を積極的に働く呪詛師。冥さんに今回のことで「あ、こいつまじで高専と敵対したな」と思われたのでこれからお仕事を減らされる。姉にも妹にもなりきれない人。じつは兄がいた。

お兄ちゃん
鰻重は持って帰った けど弟たちがあんまり食べなかったので、結局自分で食べた。涼利のことはなんとなく三兄弟の一番上、ということで変なシンパシーを感じている。

帯戸川さん
死んじゃった。書いてるときはもうちょっとDV男っぽかったけどやめた。

木春
生首のお姉さん。もとは呪術師だったけど死後に呪物になってる。石とかは特にない。術式は、見たものをきれいな結晶にできる、というもの、お兄ちゃんみたいに呪力を纏ったもので守れば一応防げる。

生部野沙凪
故人。なんと歌姫先生の同級生。とくに本編にかかわっておらず、夏油の離反時は実家に連れ戻されていたため噂しか知らなかった。ちなみにトラック内で喋ってた『彼』は沙凪本人ではなく、どっちかというと「自分のことを生部野沙凪だと思い込んでいる異常な蟲」。幸運なことにあとちょっとしたら記憶は消えて、普通の赤尸になれる。よかったね。

名前の由来はそのまま蛹。「羽化できなかったもの」、蛹のまま死んだ人。

生部野繭
きゃわいいロリ当主。サイコパスとかいうわけではなく、普通にこの家の教育が狂ってるだけ。家の相伝術式である「賜血脈縛」の担い手。効果は自分の血を摂取した呪霊の一時的支配。特級とかになると血の量が尋常ではなくいるので、どっちかというと雑魚の大量使役がメイン。これを補うためにセキシたちが作られている。

イモムシ頭のセキシ
おじいちゃん。人間だったときの記憶と、今の蟲である自分といい感じに折あいをつけてセキシライフを満喫している。

冥さん
取り逃がした。このあとしっかり、涼利の仕事を減らして干し殺しにしてやろうともくろんでいる。夜蛾先生は優しいのでお金返せとは言われなかった。じつは歌姫先生からお香典を預けられていた。

猪野君
あんまり出なかったね。

久永
未来視を涼利に譲渡したひとの苗字。

天沼鉾
涼利 は アマノヌボコ を そうびした!


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第四話「郭公の垂乳根ども 壱」

今回のお話は主に「妊娠」「想像妊娠」及び若干の癌にまつわるワードが出てくるお話です。かなりセンシティブな部分を含んでおりますので、もしこの時点で無理だと感じられた方はブラウザバックをお願いいたします。大丈夫な方のみお進みください。



 

 

この度は当敷鳥心霊相談サービスをご利用いただき誠にありがとうございます。当サービスでは、お客様の身に起こる怪奇現象のよりスムーズな解決を目的として、実際の調査を行う前の段階としてこのアンケートにお答えいただいております。お客様が分からない、あるいは答えたくないという質問がございましたら、「分からない」または空欄でも構いません。事件解決後間もなくお客様の個人情報は破棄され、特定の個人が識別できる情報として、公表されることはありません。また、ご希望があればこのアンケートをお客様自身に返却も可能ですので、お気軽にお申し付けください。

 

ご氏名 伊滝 月人

 

質問1 怪奇現象が身の回りで起こっているのは、アンケートの回答者さまご本人でしょうか?

 

いいえ。私も何度か見たことはありますが、体験したことはほとんどありません。

 

質問2 質問1でいいえと答えた方は、怪奇現象が起こっている方のお名前、回答者さまとの関係をお答え下さい。

 

伊滝あや子。続柄は妻です。

 

質問3 現在起こっている怪奇現象について、体験したものを下記の選択肢からお選び下さい。

①ラップ音・家鳴り

②幻覚・幻聴

③姿を見た・声を聞いた・触られた

④病気、怪我をした

⑤悪夢

⑥ものが無くなった

⑦身に覚えのない番号からの電話

⑧その他  ↓下の空白にお願いします。

 

①、②、⑤、⑧。

妻は半年ほど前から妊娠の初期に近い症状、3ヶ月ほど前から腹部が大きく膨れる症状が出ていますが、これが怪奇現象に端を発するものかどうかは不明です。また、妻は2年前に癌の手術で子宮を摘出しており、術後経過につきましてカルテを添付しております。ご一読下さい。

 

質問4 怪奇現象の始まった時期はいつ頃ですか?

 

妻に妊娠初期の症状が出始めたのは半年ほど前です。腹部の変化、ラップ音や原因不明の声を聞き始めたのは3ヶ月ほど前になります。

 

質問5 怪奇現象の発生原因に心当たりがありますか?

 

いいえ。

 

質問6 質問5であると答えた方は、原因についてお答え下さい。

 

 

 

質問7 怪奇現象の解決方法に指定がありますか?

 

ありません。なるべく早期の解決を希望します。

 

質問8 質問7であると答えた方は、ご希望の解決方法をお答え下さい。

 

質問9 最後に、宗教・財産・病気・ご家族など特に留意すべき点やご質問がございましたらご自由にお書き下さい。

 

上記の通り、妻のカルテのみ添付させていただきました。その他特に留意すべきことはありません。こういったオカルト方面に関わるのは私も妻も初めてですが、どうぞよろしくお願いします。また敷鳥心霊相談サービスを紹介していだいた花田先生にもよろしくお伝えください。

 

 

アンケートにお答えいただき誠にありがとうございました。速やかな解決に向けて活用させていただきます。アンケートの提出はWordまたはPDFのファイルにして、メールアドレス××××@gmail.comへ送信お願いいたします。

 

敷鳥心霊相談サービス

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

かちり、というクリック音が鳴って、ここ4年ほど使っているパソコンの画面には「送信が完了しました」の表示が浮かび上がっている。1日の間に、嫌というほど目にするその表示は会社で取引先に送るときと何一つ変わることなく、画面をもう一度クリックするとあっけなく消えた。

 

その変わらなさが、ことこのメールに関しては何だか妙に感じてしまって、伊滝月人 はしげしげと画面に見入った。しかし何秒見たって、彼が想像していたような劇的な変化―例えば履歴が勝手に消去されているだとか宛先が文字化けするとか、画面が突然ノイズ交じりになったりだとか―は一切することなく、送信履歴を見ても、今しがた送ったメールも添付したPDFファイルも相変わらず冷然としてそこにあった。

(そりゃ、そうだよな)

今年で34を迎えても己の中には残っていたらしい、未知の世界に対する好奇心や理由なき恐怖に彼は苦笑した。少年の心など、働き始めた12年の間に窒息しそうな通勤電車や、吐くまで飲んだ忘年会のトイレに置いてきたと思っていたのに、意外とその生存能力は侮れないものがある。

 

「あれ。持ち帰りの仕事あったの、月人くん」

ひょい、と背後から声をかけられて、月人は椅子から5ミリ飛び上がった。机に膝をぶつけて思わず「いてっ」と呻けば、かすかに笑いながらあや子が部屋の中に入ってきた。敷居の近くに置いてある皿に足を引っかけないかひやひやしたが、今日の彼女の足取りはいたって軽い。パタパタと鳴るスリッパの音も心なしか楽し気だった。

 

妻であるあや子とは、出会って九年、結婚してから七年になる。初対面から多少痩せて髪が短くなったことを除いて、さほど変わっていない。もとから童顔気味の容姿だったことも相まって、病を患った後でも不健康そうに見えないのは数少ない美点だ、というのが彼女の言である。肩につくくらいに伸びた、くすんだ鳶色のような、日本人には珍しいあや子の地毛はまっすぐで艶々とした天使の輪を浮かばせていて、月人は彼女のその髪を好ましく思っている。

 

 

「そんな感じかなあ。あ、でも、ちょっとメール送ってただけでもう終わったから大丈夫。」

 

疚しいことなどまるでないのだが、一応パソコンの画面を閉じて曖昧に笑うと、あや子はふざけたようにぴし、とパソコンを指さして宣言した。

「あやしいね、月人くん。誰にメール送ってたか言ってごらんなさい。こういうの、昼ドラではアレと連絡とってるとこだよ?」アレ、というときに彼女はぴん、と小指を立てた。

「えぇー┈それなら俺、もっと狼狽えてないとダメじゃない?」

 

 

あや子にしても本気で考えているわけではないのだろう、追及することもなかったが、月人にしても見せてそこまで困ることでもない。閉じたばかりの画面を再び開いてメールの送信履歴を見せると、昨日月人が洗った彼女の髪の毛から、覗き込んだ時にふうわりと、爽やかで甘い香りが鼻腔をくすぐった。画面の中には、取引先の名前や会社の上司、同僚らの宛先に交じって、ひときわ奇妙なものが一番上にきており、それを目にしたあや子が、ちょっと首を傾げた

 

「シキトリ┈でいいのかな?これ」

「うん、そうだって聞いた」

「敷鳥心霊相談サービス┈アンケートの返答┈?」

 

オウム返しに読み上げた彼女は首を逆側に傾げた。彼女に月人が、そのサービスの話をしたのもずいぶん前のことだったので、どうやら忘れてしまったらしい。クリックして、当たり障りのない挨拶文とアンケートを添付する旨を書いただけの文面をさっと見せて、月人は、ほら、と切り出した。

 

「前に話したやつだよ。花田先生が、もしよければって紹介してくれた」

そこまで言うと合点がいったように、あや子はうなずいた。

「あれかな、先生の知り合いで、こういうことを専門にしてる人って言ってた?」

「そうそう」

 

 

ふーん、と微妙なトーンで相槌をうったあや子には、気分を害したような素振りはない。もとより度が過ぎるほど温厚で寛容な妻ではあったが、「この話題」に関して言えば普段とはやはり異なって、多少神経質になることもある。ただでさえ不安の種が多い今、余計な心配を増やすかもしれない、という考えが頭をよぎって、メールのことははぐらかしてしまったが、どうやら月人のそれは杞憂に終わったらしい。

 

「でもなんか意外かも。こういう除霊とかする人ってさ、アンケートとかメールなんか使わないイメージあったよ。こう、神社にいったときに『あんた、なんてもんにとり憑かれてるんだ!』とか神主さんに顔真っ青にされて、紹介された人から謎の電話がかかってくる┈みたいなのじゃないんだね」

「俺もそれは思った。オカルト業界も進んでるのかな、最近はネット上のお化けの話とかもあるし」

あや子が『とり憑く』と何気なく口にしたことに、月人は内心でどきっとした。その、動揺は彼女に悟られはしなかったけれども、反射的に動いた指が意味のないクリックをしてしまった。

 

(とり憑く、かあ┈┈)

月人は、最初の目的はどこへやら、メールの送信履歴をスクロールしながら「あ、この人見覚えある」などと楽しそうに眺めている、ブルーライトに縁取られたあや子の横顔を複雑な思いで見て、それから下へと目線をやった。

妻の腹部は、ゆるく結ばれただけのエプロン越しにも分かるほどはっきりと膨らんでいた。熟れた果実のように、ふっくらとまろやかな曲線を描いたそれを、無意識なのだろう、ゆっくりとした調子であや子の手がなでさすっている。骨ばった細い手が、上から下へ、また下から上へ。穏やかに、慈しみ深く。その姿は、ともすれば(夫の欲目もあるが)静謐で、女性にしか持てない美しさを湛えていた。ずっと子供を欲しがっていたあや子の姿は、これ以上ないほど幸せそうで、月人はこれが真のことで、普通の妊娠であったのならどれほどよかっただろうか、とここ半年間ずっと思っていた。

 

勤務先の検診で伊滝あや子に癌が見つかり、若さゆえか進行が速かったことで、子宮を摘出したのはもう2年も前のことだった。子供が欲しかった彼女は、ずいぶんと摘出を嫌がったけれども、主治医の懸命な説得や、月人の意見を最終的に取り入れて手術を行っている。摘出手術、抗がん剤治療、ホルモン剤治療、放射線治療と、終わりの見えない治療も根気強く受け続けて、およそ半年前になるまでは何の異常もない健康そのものだったのだ。もう、今の彼女には子供を産むことはもちろん、妊娠そのものが不可能になったという彼女の悲しみはあったにせよ。

けれども半年前を期に彼女の体は妊娠のような兆候を表し始めており、あや子の腹部は妊娠中期ごろのように膨らんで、ときどき「動いたかも」と言い、白米が食べられなくなっていた。

 

 

病院で診察を受けてみれば、手術や妊娠にまつわる精神的不調を発端にした「想像妊娠」という判断が下された。ようはストレスのかかった精神状態が、肉体の変化を引き起こしている、ということだ。本当に中に胎児がいるわけではない。超音波検査や妊娠検査薬の進んだ現代では、過去と比べても減少傾向にあり、医師から「想像妊娠である」と告げられて妊娠兆候が減退することが多い、と説明されたが、あや子の場合は医師からそれを宣告された後も一向に症状は改善されず、それどころか悪化している節すらあった。

 

結局は、精神に負担をかけないようにしながらの通院と経過観察、ということに現在は落ち着いていて、それはつまるところ打つ手がない、ということの現れでもある。少なくとも現代医学の分野においては。

 

 

親交のある医師、花田翼からオカルトに携わる、このサービスの存在を教えられたのはずいぶん前のことだったが、ダメもとで頼ってみようと思ったのは最近だ。料金が良心的であったこと、治療行為を実際にするわけではないので失敗したとしてもあや子の体に負担はかからないなどの利点はあった。月人自身、どちらかというと幽霊だのなんだのは迷信だと思う性質だったので、「敷鳥心霊相談サービス」と連絡を取った自分に驚いていたが、少なくとも今の彼の中には、そういった物事を笑い飛ばせるだけの余裕や、不信心はほとんどなかった。

 

―ぽとん。ぴちゃん。

 

どこかで水音が鳴って、月人の首筋が強張った。まただ。今日はまだ二人とも風呂など使っていないし、そもそも今鳴っている水音は、普通の、どこからか漏れ出した雫が垂れるような、そんなものとはまるで違っていた。ものすごく、よく響くのだ。雫が落ちる瞬間の音を、ボリュームを最大限にして、そのうえでビブラートをかけたような、複雑な反響を伴った音だった。当然、階下や隣室から苦情が来たのも、この半年間で既に両手の指より多かった。

 

一度、音の出どころを探ろうとして、月人が家中を歩き回ってもまるで見つからず、家の中のどこかで、この奇妙な水音がしていることしか分からなかった。

分かっているのは、この水音がするのはいつも夜だ、ということだけ。それも今のような、夜がとっぷりと暮れたころに、その静寂を破るようにして音は鳴り始める。

 

「┈あやちゃん、水音が」

つぶやくような月人の言葉に、視線をこちらに向けたあや子が、うん、と軽い調子で頷いた。

「そうだね。またお隣さんから怒られちゃうかなあ」

 

どこか他人事のように、重みのない、ふわふわした言葉だった。いつものことだ、とでも言うように。

あや子は、ここ半年の間、家の中で頻発する怪奇現象に一度も驚いたことも怖がったこともない。ドアが勝手に開くことも、閉めた蛇口が出しっぱなしになることにも、だれかがはい回るような足音にも、自分が見えない誰かと喋っている、と聞かされたときでさえ「そうなんだ」の一言だけだった。

 

 

分からない。少なくとも半年前とはまるで様子が異なってしまっていることだけが確かで、それがいつからなのか、どうしてなのかは、ちっとも月人には分からなかった。だから、ずっと怖い。自分があや子の何か大事な変化を見逃して、それが致命的な欠落につながりはしないか、大切な妻がこれからどうなってしまうのか、何一つ分からなくて、怖い。

(┈何か、取り返しのつかないことが起こってる気がする)

 

―ぴとん。また、どこかでよく響く水音が鳴って、階下から文句がわりに床を叩かれた。風のない部屋のドアが、ひとりでに勢いよく閉まり、その風に煽られて部屋の隅に置いた盛り塩が床にさらさらとこぼれた。

 

月人は、あや子のマウスを握っていない方の手をぎゅっと握った。ほっそりと、乾いて骨ばった妻の手と、じっとり汗ばんだ己の手。汗の一滴も分泌しない、その落ち着きようが羨ましくもあったけれど、妊娠の兆候が出ているのに浮腫みもしていないその手がわけもなく物悲しくて、月人は、揃いの結婚指輪をそうっと撫ぜてやった。

 

―ぽちゃり。まだ、水音は止まないままだ。変えたばかりのLEDライトが点滅し、部屋が暗転してからまた元の明るい状態に戻る。部屋の隅に、血塗れの女の幻影がよぎった気がして目をこするも、瞬きの間にそれは消え去っていた。

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

午前十時五十分。東京都内の私鉄駅、改札口前にて。

 

朝の通勤通学ラッシュもすでに終わり、さりとて昼食を食べにいくにもまだ早い。一日の間に人間が固まって行動する時間帯というものは限られていて、今はちょうどその隙間のような頃合いだった。何をするにも中途半端で、名前をつけづらい、ただ無意味に明るくてがらんとした、そんな時間。

私鉄の駅の中に人はまばらで、ときどき急ぎ足のサラリーマンが通り過ぎて行ったり、あるいは遅めの登校する大学生がのんびりと改札を出ていったりする程度である。オフィス街でもない立地にあるその駅で、今しも改札を出ようとした少女と、その少し後ろでもたついている青年がいた。少女の方は高校生くらい、青年のほうはもう少し年かさで大学生くらいだろうか。平日の午前にしてはちょっとこの場に似つかわしくない二人組だった。

 

「ちょっと脹相、早くして。待ち合わせに遅れちゃう」

 

むむっと、眉間に眉を寄せて美々子は、ほどけたブーツの紐を結ぶのにもたもたと手間取っている青年を、涼利そっくりの表情でにらんだ。肉体を持って一月も経っていない彼は存外に器用な性質で、今着ている服も自分で着れるし、スプーンやフォークも持てるようになったし、インスタントラーメンを作れるようにもなってはいたのだが、どうにも箸と靴だけがダメで毎回時間を取られていた。

 

 

そんな彼の服装はいつもの修験者のようなものではなく、涼利のお下がりのデニム風シャツと以前買った黒いスラックスというシンプルな恰好に、涼利がいつも使っているリュックサック型の呪具を背負っていた。ついでに目つきの悪さを誤魔化すために渡された伊達メガネをつけると、あっという間に変わった着物姿の男は大学院生っぽいカジュアルで真面目そうな青年に早変わりしていた。

いっぽうの美々子もいつもの黒いセーラー服ではなく、黒地に花柄のプリントされたシャツにキャラメル色のプリーツスカートという、かっちりとしながらも洒落た服に身を包んでいる。二人の関係性は、美々子の姉の家に住む居候同士(とはいえ美々子は自分たちのほうが先に住んでいて、その上家主の妹なのだから立場が上だと主張している)ではあるが、一般的に他人から見れば兄と妹か、はたまた年の離れたカップルといったところだろうか。

 

ようやっとのことで靴紐を結び終えた脹相は、待つ気などさらさらないと言った調子で進んでいく美々子の後ろを駆け足で追いかけていき、エスカレーターを降りて駅の外に降り立った。駅の外側には、よく見るタクシーなどが停まるためのロータリーなどがなく、歩道や交通量の少なそうな車道を挟んで大きな建物がぽつぽつと建てられていた。

 

 

脹相は訪れたことのない場所に、興味深そうにあたりを見渡した。今まで仕事で色んな場所に短期間のうちに連れまわされていたが、その内のどことも雰囲気が違う。ビルの立ち並ぶ繫華街というわけでもなかったし、かといって駅の外に直接田んぼが広がっているわけでもない。ところどころに『学生割引』のチラシが貼られた飲食店やスーパーが並ぶ他には住宅なども見当たらなかった。

脹相は知らなかったことであるが、ここら一帯は、都立や私立の大学が集まる、いわゆる学生街である。学生がよく利用するような店以外は、あまり近くにはなかった。

 

「美々子、待ち合わせは駅じゃないのか」

「違う。姉さんの大学」

大学には縁もゆかりもない二人が、そんな場所に何の用かというと、つまりはまあそういう訳である。美々子と脹相は、今日から始まる涼利の仕事を手伝う算段になっており、今は合流のために彼女の通う都立○○大学まで足を運んでいる途中だった。大学生である彼女は一限目のみ講義を受けて、そのあと依頼人と会うことになっている。

美々子がグーグルマップと睨めっこしながら着いた都立大学は、濃い色のレンガでできたがっしりした建物が密集して並んでおり、緩やかな坂の上に古めかしい門があって、その周囲をコンクリート製の塀が取り囲んでいた。受肉するときの知識として大学という存在は知っていたものの、実際に見るのは初めてだった脹相からすると「思ったよりも小さい」というところだった。大ってついてるのに。

 

緩やかな傾斜の坂の下につく頃に、ちょうど一限目の終わりを示す大きなチャイムが鳴り響き、それからほどなくして学生たちが一人、二人と坂を通り過ぎて出ていった。みな、脹相と同じくらいの見目をした、脹相とはまるで違う人生を送っている若者たちだ。呑気そうな、モラトリアムの最後を謳歌している人間たち。美々子がちょっといやそうに避けた大学生たちの、その軽やかな足取りを目で追ったところで少女があっと声を上げた。

「姉さん、やっと来た」

視線の先を追うと、坂の下から見上げても縦に長い女が、手を軽く上げた。涼利である。いつものレインコートや防弾ベストやキャップは纏っておらず、てろんとした素材のカーキ色のドレスシャツに、白のライン入りの黒いスキニーという恰好である。ぺたんこの帆布のトートバッグを携えた涼利は、脹相のよく知る剣呑な呪詛師の空気など微塵も感じさせない風で、同じ年ごろの学生たちの間に違和感なく溶け込んでいた。もしかすると、学生である彼女のほうが、素の顔なのかもしれない。

家の外で素顔をさらしている彼女は珍しい。脹相がそのことに驚いているよりも早く、涼利はすたすたと坂を下って二人の方へと近づいていた。

 

「時間通りだな。迷わなかった?」

「うん」

こっくりと美々子が頷いた。その返答に満足したらしい涼利は「ならいい」とだけ言ってさきほど来た駅とは逆方向に歩き出した。

「ここからJR乗って二十分くらいだから、病院にはまあ十一時半過ぎにはつくか」

「病院?」

 

今回の行先や仕事の詳細を聞かされていなかった脹相が聞き返すと、涼利はああ、と首肯した。

「病院つっても正規のところじゃないけどな。いわゆる闇病院ってやつだ。保険証がなくても診察してくれるから、お前も怪我したときのために覚えといて損はないと思うぜ」

そう言って涼利は脹相のリュックサックがしっかりしまっているか、確認してから一度、大きく叩いた。ぱん、という衝撃に、一拍おいてから内側からも返事をするかのようにもう一度、音が鳴った。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

大学から歩いてすぐのJRに乗って、三人が降りた先は閑静な住宅街だった。学生街とは打って変わって、ファミリー向けのマンションや団地(どれもこれも若干古びている)が折り重なるように立ち並んでいる。テナント募集中の張り紙や、シャッターの閉まった店が多いことが、生活感とともにどこか寂れた雰囲気を醸し出していた。

 

 

改札を出て線路沿いに少し歩き、涼利が足を止めたのはやや横長の、五階建てのビルの前だった。病院やクリニックの看板はどこにもなく、それでなくても病院というものから連想される機能的や無機質な印象はまったくない。小洒落た雑貨店や洋服屋、値段の張る美容室が入っていそうな建物である。クリーム色の外壁は半円状の模様が規則的にいくつか並んだ、変わった塗装で飾られており、深い赤色で塗られた窓枠も相まって苺入りのショートケーキを彷彿とさせていた。

 

よどみなく自動ドアをくぐった涼利に続いて脹相も中に入っていくと、内部はさすがに病院らしく、清潔で開放的な待合室にはミントグリーンのソファーが並べられており、診察や会計を待っている患者らしき人間が思い思いの場所に座っていた。消毒薬の匂いがつんと鼻をつく。室内の壁に埋め込まれた大きな水槽と、貼られた『乱闘・決闘・その他の暴力行為をする前に思いとどまりましょう』というポスターと、その表面に書き足された『※宗教勧誘、違法ドラッグの売買、銃火器及び爆発物の持ち込みもダメです!』がやけに周囲から浮いている。

 

 

知らないが、座っている患者たちは柄の悪そうなものが多く、異様なほど筋肉が盛り上がったもの、派手なアロハシャツを羽織った袖から入れ墨が見え隠れしているもの、目の焦点が合わないまま一人でげらげら笑っているものなど枚挙に暇がない。

 

「あれ、トシヒサだ」

中に知り合いでもいたのだろうか、美々子が驚いたように呼ぶと、ちょうど会計を済ませるところだったらしい青年が振り向いて、げ、と顔を歪めた。

涼利とそう変わらない、二十歳前後くらいの男である。街中では大層目立ちそうな着物を片肌脱ぎで着ており、上半身はぴったりとした黒のインナーで覆われていた。精悍な顔立ちの半分近くは包帯で隠されており、陰鬱そうな空気を纏っていた。そして脹相の目には、青年のそこかしこに残った残穢がはっきりと見えたので多分呪詛師なのだろう、と見当をつけた。

「なんでこんなところに、お前らがいるんだ」

「仕事だよ仕事。悪いか?」

 

涼利はしれっとした調子でそう答えた。まるきり青年を舐めきっているのが、短い応酬の中にも露骨に表れており、青年は気分を害したように目を細めて涼利を睨んだ。

青年―もとい祢木利久は涼利や美々子、菜々子がかつて所属していた盤星教後継団体の呪詛師のひとりである。夏油傑がどこからか拾ってきて、彼を『家族』の一員として育てていたころからの知り合いなので、涼利らとも付き合いは長かった。が、三人のように姉妹として親交を深めるわけでもなく、むしろ涼利はこの青年から嫌われていたといっても過言ではない。夏油を盲信せず、非術師排除にもまるで興味もないくせに実力と態度のでかい彼女は、彼以外にもだいたいのメンバーに嫌われていたのだが。

 

 

「そういうお前は?何か病気でもしたのかよ」

「お前に答える義理はない」

「あ、そ。毎回思うけど、こういう時にお前ら非術師アンチは、猿の医者しかいない病院には行けないって言うんだから、不便だよな」

「┈あぁ?」

 

 

揶揄うような言葉に、後ろ側にいた美々子が「ちょっと」と涼利の服を引っ張ったが、彼女はまるで意にも介さなかった。

非術師嫌いは術師の内でも持っているものは多いが、彼女の師である夏油同様、祢木青年もまたその苛烈さは折り紙つきだ。普段の食生活から衣服、住むところに非術師の手が入らないよう極限まで切り詰めている。なので、もし自然に治癒しない怪我や病気になった場合は回復する手段がかなり限られてしまうことになる。非術師の医者に診てもらうのは嫌、しかし術師もしくは呪霊を見ることができる人間を探すことだけでも難しいのに、さらにその中で医師を見つけるとなると、さらに難易度があがる。このクリニックのような特殊な存在はまさに天からの助けだっただろう。

 

二人の間の雰囲気がややぴりつき、周りの患者たちが面白そうに、あるいはつまらなさそうに見つめた雰囲気を裂くように、声が割って入った。

「待合室で騒いでる方!どなたかは知りませんが、ここは病院ですよ!喧嘩なら死なない程度に外でやってくださいって張り紙が見えないんですか!」

まったくと言っていいほど迫力のない声だったが、このクリニックにいる誰もが従わなければならないそれがだんだんと近づいているのを察知した涼利と祢木は、若干気まずい雰囲気で距離をとり、舌打ちした祢木青年は乱暴な手付きで代金を置いて出て行ってしまった。言うまでもないが喧嘩を売ったのは涼利のほうだ。青年の対応のなんと大人なことか。

 

 

祢木青年と入れ替わりになるように、ぱたぱたと安っぽいスリッパがリノリウム張りの床を叩く音はすごい速さで待合室に迫り、とうとうガチャリ、と勢いよくドアが開いた。

「止めてください、止めてくださーい!ここのローンまだ払い終わってないんですよ!なんだってみんな、目の前のポスター無視するんで┈┈あれ?式盗りちゃん?」

開いたドアから顔(らしきもの)を出して驚いたように待合室を見渡した白衣の人物こそ、このクリニックの院長を務める男―花田先生こと、花田翼 医師であった。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「だいたいですよ、うちのクリニックで揉め事起こさないで下さい、式盗りちゃん。病院は暴力ともっともかけ離れたところにあるものなんですよ!」

「うるさくして悪かったって言ってるだろ┈」

 

ぷんぷん、と蒸気が出そうな勢いで涼利に文句を言い立てているのは、声からして若いであろう男性だった。男にしては細い、オーボエのような木管楽器を思わせる声音はくぐもっていて、苛立たしそうな色を纏ってこそいたが、威厳や威圧という言葉からは程遠い。およそ人を怒るという行為が向いていないことが、一音目から滲み出ていた。

 

男性の背は涼利よりもやや高く、くたびれた白衣に包まれた肢体は骨っぽく痩せていて、縦幅と横幅があきらかに釣り合っておらず不健康そうな具合である。そのせいか、中に着ているストライプのシャツや黒いスラックス、歩きやすそうなグレーのスニーカー、どれもこれもが少しばかりだぶついていて、余った状態だった。首から下げられた安っぽい名札には「花田翼」というでかでかとしたゴシック体の上から、可愛らしいシールでデコられており、更には押し花の栞が下にぶら下がっている。

 

いかにも人よい医者、という空気が全身から発されているような男である。涼利は見るたびに彼が、こんな裏社会で闇医者なぞをやっているのか首を傾げたくなる。もっともそれは、彼の首から下を見ているときだけに限定されはするのだが。

 

彼の首から上は、初見であれば五度見必至の珍妙なものである。現に後ろ側にいる脹相などは、クリニックの廊下を進みながら不審そうに花田を見つめていた。

 

寝ぐせだらけの飴色の髪に縁取られた花田の顔は、外気に晒されることなくお面に覆われていた。それも普通の、夏祭りの屋台で売っているような、プラスチックのキャラクターものではない。木製の古びた、それでいて禍々しい能面だった。女を表す面で、細かく区別すると「増女」と称されるものであり、白い瓜実顔は年代物特有の光沢を帯びて、歴史的価値が高いのは誰の目にも明らかな代物だった。天井から放たれる白熱灯の光を柔らかく反射して、不思議な光沢を帯びたそれの、横から伸びた紫の紐を頭の後ろ側でくくり、余った部分が背中について垂れ下がっている。能面のせいで、素顔の造形も、詳しい年齢も何もかもが隠れており、穏やかな声音や所作の医師はそれをつけているだけで一気に不審極まりない、怪しげな人物へと変貌していた。

 

「まったく。それに、今日は式盗りちゃん以外も連れてくるなんて聞いてませんでしたよ。事前に教えてくれてたなら、おいしいお菓子でも準備したのに」

「言ったところで花田さんが出すの、どうせおからドーナツとか五穀ビスケットだろうが」

「失礼な。おからドーナツは糖質も低いうえに美味しいじゃないですか。ねっ、美々子ちゃんもそう思いますよね」

「私、あんまり好きじゃない」

 

ばっさり否定されて、能面に手を当てて大げさに嘆いてみせた花田は、すたすたとクリニックの中を迷いなく歩いていく。招かれた待合室の奥はいくつかの検査室が並んでいた。途中の廊下にはやたらと曲がり角や分かれ道が多く入り組んでいて、まるで迷路のような作りになっていたが、涼利はもちろん美々子も慣れた様子で進んでいく。二人とも、この面をつけた奇妙な医師とは懇意のようで、会話にも親しい空気が漂っていた。

 

「そういえば」

能面がにゅっと、脹相のことを見てきたので彼は内心でぎくっとした。

「君とは初めまして、ですよね?クリニックに以前いらしてるのなら、顔と症状を絶対に覚えてると思うんですけど」

「┈脹┈じゃない、長男だ。こいつの家の居候をやっている」

うっかり名前を言いかけた脹相の、言葉少ない紹介に花田医師は嬉しそうに頷いた。顔を能面が隠しているので表情は変わっていないのだけれども、雰囲気が何だか輝いている。

 

 

「なるほど、ご丁寧にありがとうございます。僕はこのクリニックの院長の花田翼と言いまして、専門は心臓外科です。もっとも僕の患者さまたちは専門を聞いちゃいないひとしか来ないので、最近は自分が小児科なのか産婦人科なのか肛門科なのか耳鼻科なのか、分からなくなってきたんですけどね┈。まあ色々あって、今回のケースのような呪霊や呪物がらみの患者さんがきたときに、式盗りちゃんにはいつもお世話になってるんです」

 

 

明るい笑い声を上げた花田医師は、いわゆる「視える側」の人間である。と言っても術式は持たず、術師として活動しているわけでもない。(医師免許をもっているのに)ヤクザだの指名手配犯だの呪詛師だのと裏社会の人間が主にやってくるクリニックを経営しながら、ときどき混じる呪われた患者が来た際には涼利や、あるいは他の術師に紹介をする仲介業者の真似事をしている人物であった。

 

多種多様な犯罪履歴を持つこの病院の患者たちは、ごく普通に生きている人間に比べて人の怨念渦巻くような場所に行ったり、人の恨みを買う機会も多い分、呪いに遭遇する確率も上がる。花田を通した仕事の中で、今回のように依頼者が完全な一般人のケースはかなり稀である。およそこのクリニックほど患者の治安が極悪な病院は、涼利の長い呪詛師経験の中でも他になかった。

 

 

建物の中央にある階段を上ってすぐのところにある部屋に、どうやら今回の依頼人はいるらしかった。一階のような検査室や手術室などが並んでいた光景とは違い、二階には入院するための個室と思わしき部屋がずらりと廊下の両側を埋め尽くしていた。壁にはパステルカラーの静物画や、待合室にも貼られていたポスターが適温の空調にはためいている。淡い黄色や、橙がかった電灯の光もあって、柔らかで心を落ち着かせるような色調がフロア全体を満たしている。

「伊滝さん、式盗りさんをお連れしました。入っても大丈夫ですか?」

四人の中で一番前にいた花田が、白いスライド式のドアをノックしてそう呼びかけると、室内からどうぞ、と声が聞こえてきた。花田が開けたドアから中に入っていき、続けて帽子とマイクをいつの間にかつけた涼利が入っていき、それから脹相も中に足を踏み入れようとしたところで、目に入ってきた信じられない光景に彼はひゅ、と息を呑んだ。

 

 

 

 

 

 

「―な、」

 

 

 

部屋の内側をびっしりと覆っていたのはピンク色の脈打つ肉壁だった。踏み出しかけた足裏にぷにん、という触感が伝わる。慌てて見渡した室内だった場所には誰の姿もなく、そこはまるで巨大な生き物の体内に迷い込んだようになっていた。規則正しく拍動が鳴る、暖かいその場所はまるで―。てらてらと光る天井から何かが滴り落ちる。

どくん。肉壁全体が意思を持つかのようにうごめいた。

靴を熱くどろりと粘度の高い液体が浸してゆくのにも関わらず、脹相の意識は、この不可思議な現象を前にして無意識のうちにフラッシュバックしていた。百と五十年以上も前に離れた、今もなお恋しい場所。暖かく快適で、いつまでだっていたかった懐かしいあの場所に、目の前の光景はあまりにも似通っていた。

(ちがう、これは┈┈なんだ?何が起こって)

 

いきなりのことに戸惑いを隠せず、混乱の最中にあった脹相を、後ろから軽い衝撃が襲った。慌てて振り返れば、眉をぎゅっと寄せた美々子が怒ったように「早く中入って」と、もう一度彼の背中を叩いた。

 

視線を前に戻せば、中に広がっていたはずのグロテスクな肉壁などどこにもなく、しんとした可愛らしい内装の部屋があるばかりだった。病院の一般的な個室とは異なり、木目調の大きなテーブルと座り心地のよさそうな椅子が何脚か、その奥には漫画のいっぱい詰まった本棚や冷蔵庫が置かれており、おそらくは入院患者が暇を潰すための部屋なのであろうか。

 

いつもにも増して青白い顔で冷や汗を流す脹相に、「体調悪い感じですか?」と花田が訪ねてきたのに首を振って部屋の中に入ると、やや高い温度の空調に彼はほうっと息を吐いた。

今しがた見た何かは現実とするにはあまりにも荒唐無稽で、いきなりの白昼夢と片付けるにはあまりにも生々しかった。現実に引き戻されたことを確かめるように脹相が湿った手を握ったり、また開けたりを繰り返していると、がたりと椅子を引く音が耳に入った。

 

脹相が正体不明の幻覚の残像に悩まされているうちに涼利はさっさと挨拶を始めていて、偽造の名刺を渡した彼女に依頼人の方がぺこりと頭を下げた。

 

「敷鳥心霊相談サービス調査員の、敷鳥と申します。今回は当サービスをご利用いただきありがとうございます。またアンケートや詳細なカルテまで添付して下さり、非常に助かりました」

ちなみにサービス云々はまったくの嘘である。自作のホームページにはちょっとした企業のように書いているが、実態として涼利しかいない。

「伊滝月人と申します。いえ、こちらこそ┈よろしくお願いいたします」

 

そんなことはつゆ知らず、緊張気味に頭を何度も下げたのは、椅子に座っているうちの片方、三十代半ばごろと見える男性だった。いかにも会社員風といったスーツ姿で、少し疲れたような空気を纏っている。優しさと優柔不断が入り混じったような、そんな風貌をしていた。

 

ようやく落ち着き始めた脹相は、もう一人の依頼人に目をやってすぐに「ああ、こっちが『呪われている方』なのだ」とすぐに判断した。呪力が一定数以上ある人間ならば誰でも同じことを一目見て理解しただろう。それほどにその女性の体のあちこちには、彼女のものではない残絵がはっきりとこびりついていた。底の平らな靴を履いた足にも、ゆったりとしたシルエットのワンピースに包まれた膨れた腹にも、それをやさしく撫ぜる指にも。ぼんやりと足元から女性を見上げていったところで、女性も挨拶をするべく立ち上がろうとして、涼利がそれを制止した。

 

「奥様はどうぞ、座ったままでいてください。お身体に負担もかかるでしょう」

「すみません、ではこのままで・・私、妻の伊滝あや子と申します。本日はどうぞよろしくお願いします」

 

柔らかな声で、呪われた女はそう名乗った。

呪われていることなど微塵も感じさせない、朗らかな表情であや子は涼利に頭を下げ、それから脹相に、そして美々子にと順につづけた。肩につく、暗い鳶色の髪がはらりと垂れて、どこか幸の薄そうな面立ちに影で縁取って行くのを、脹相は理由もなく、ただ食い入るようにじっと見つめていた。

 




郡上涼利
「敷鳥心霊相談サービス」はホームページだけ作ってる架空のサービス。さも企業のように書いているが、従業員は涼利しかいない。だいたい花田さんみたいな仲介の人か、噂を聞いて書き込んだ非術師が対象。面白そうだったら涼利が実際に会うこともあるが、割と過疎ってるサイト。

脹相お兄ちゃん
何か幻覚見てた。ちゃんと見たのにも理由がある。また涼利のおさがりの服を着せられてる。

美々子ちゃん
姉妹三人で使ってる通信料を超えたので、スマホ低速か労働か選べと涼利に言われて今回の仕事についてきた。本当はセーラー服が着たかった。依頼人が非術師なのでまぢテン下げ・・

花田先生
能面つけてるスーパードクター。大学病院勤務だったが、元患者から呪物を押し付けられて能面が外せなくなったので辞めた。呼吸も食事もなんなら入浴もできるハイテク能面だが、外そうとすると顔の皮膚が取られる。美々子や菜々子とも仲良しで、なんなら夏油さんとも会ったことはある。患者の客層がえぐい。子供好き。見えるけど術式なし。

月人さん
医療器具を扱う会社のサラリーマン。病院経由で花田先生と知り合った。久しぶりにあった友人が能面つけてるのでクソほどびびってる。非術師。

あや子さん
今回の主役。鈍すぎて全然怪奇現象にもびびってないすごいひと。非術師。

祢木くん
ちょっとだけ登場。夏油の下にいたころからの付き合いだが、態度の最悪な涼利なので不通に嫌い。ラルゥとミゲル以外大体のメンバーが嫌ってるから大丈夫だぞ。


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