現代日本で突然妹がレベルアップした件。 (雨宮照)
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夢を見た。

 夢を見た。

 妹が、レベルアップをする夢だ。

 妹がレベルアップして、強化されて、進化する夢。

 しかし、その後の展開は皆無。

 ただ、進化するだけ。

 魔物も魔王もいないこの現代で、妹が。

 ……意味が分からないよな。

 見た本人だって、意味がわかっていない。

 自分の深層心理が心配になるほど、意味不明で病的な夢だ。

 もしかすると、犯罪の夢や追いかけられる夢よりもたちが悪いかもしれない。

 気味が悪いから、スマホで夢鑑定でも見てみるか……。

 と、俺がベッド脇にあるスマホを取ろうと手を伸ばした時だった。

 

 ……むにゅっ。

 

 なにやら、手が幸せになった。

 あたたかくて柔らかい、絶妙な触り心地。

 お湯を球体にして触っているようでいて、しかし反発力や弾力を備えている。

「ははは、はは、はは……」

 寝起きの頭。

 それも変な夢を見た直後の狂った脳が、笑いに包まれる。

「ははは、はは、はは……」

「えへへ、へへ、へへ……」

 その後も静かに笑っていると、隣から同じようなリズムの笑い声。

 しかし、その声色は美しく、透き通ったガラスのようだ。

「ははは、はは、はは……」

「えへへ、へへ、へへ……」

「ははは、はは、はは……」

 ……いや待て!

 おかしいだろう、なんだこの状況!

 人間二人が同じベッドで朝を迎えて、それに、俺の右手には――

「おっぱいだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」

 おっぱいが当たっていた!

 なぜだ、人類よ!

 どうして寝起きの俺におっぱいを触らせる!

 理性もまだ起きていない早朝に、どうして乳を!

 目覚めて間もなく怒涛のように流れてきた情報量の多さに、脳が悲鳴を上げる。

「きゃー!」

 ついでに、俺自身も一応悲鳴を上げておく。

 ……いや、それはなんでだ。

 考えていたら、もっと頭が痛くなってきた。

 じゃあ、もう考えるのをやめたらいいんじゃないだろうか。

 ……そうじゃん、考えるのをやめればいいんじゃん。

 自分自身から溢れ出た名案に、俺はセルフで感謝し――

 そして、もう一度布団をかぶって目を閉じ――

「――って、現実逃避をするんじゃない!」

 ……危なかった。

 このまま寝ていたら、問題が片付かなかったうえに学校に遅刻していた。

 だからええと、俺が今すべきことを考えよう。

 それは絶対に、現実逃避して寝ることじゃないはずだ。

 まず、この状況を整理しよう。

 飛びそうになる意識をなんとか繋ぎ止めて、部屋を見渡す。

 ……そう、部屋だ。

 ここは、いつも俺が寝ている部屋。俺の部屋。

 もちろん、いつも寝るときは一人だ。

 じゃあ、俺に胸を揉まれているこいつは誰だ。

 いったい俺は、誰のおっぱいを揉んでいるんだ――!

「正解はわたしのおっぱいでした、お兄様!」

「なんだ、刺身のおっぱいか」

「そうです! お兄様が愛する妹、刺身のおっぱいです!」

 ……そうか、俺は妹のおっぱいを――

「いや待て! なんで俺は妹のおっぱいを揉んでいる⁉︎」

 納得してる場合じゃない!

 っていうか今の内容のどこに納得した三秒前の俺よ!

 それになんだ、妹の名前が刺身って!

「ええっ! お兄様、わたしの名前を忘れちゃったんですか⁉︎」

「いや、忘れてないけど……うん。ちょっと、思うところがあってな……」

 妹が生まれてから十五年、ずっと呼んできた名前だがふと違和感を覚えてしまった。

 すまない妹よ……。

 いやいや、そんなことはいいんだ!

 そんなことより今問題にすべきは……

「刺身! お前はどうして俺の心を読んで会話してくるんだ!」

 そう。

さっきから俺はこうして妹と会話していたわけなんだけど……

 コイツ、何回か俺が発してないセリフにも返答してきてる!

 怖っ! 怖いよ我が妹!

 いつどこでそんな能力を会得したんだ!

 お兄ちゃんはお前を読心術師に育てた覚えはないぞ!

 まず育てたのは俺じゃなくて父さんだけど!

 



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有能司会者。

「……まだ寝ぼけてるんですか、お兄様?」

 と、テンション高くパニクっていた俺だったが。

 そんな俺とは対照的に、妹は落ち着き払って……というか、キョトンとしている。

 まるで車を運転してる奴に「これはどうやって走るものなんですか……?」と聞かれたかのような、コイツ何言ってんだと言わんばかりの見事なキョトン顔。

 ……正直、その目で見られるのキツいっす。

 整った顔立ちの妹が。真っ白くきめ細やかな肌の妹が、「コイツ頭おかしいんじゃねえのか」とでも言いたげな目で兄を見つめる。

 特殊な性壁をお持ちな変態紳士の諸君にはご褒美かもしれないが、俺にとっては違う。

 まともな感性を持っている俺は普通に傷つく。

 と、同時に困惑する。

(……えっ。俺の方が非常識扱い……?)

 確実に妹の方がおかしくなっちゃったと思ってたんだけど、反応を見るに俺か⁉︎

 俺のおつむがへんてこりんのくるくるぱぁになってしまったのか⁉︎

 おでこにキスして状態なのか⁉︎

 と、俺がこれまで以上にパニクって自分を信じられなくなってきていると。

「妹がお兄様の思考を読めるのなんて当たり前じゃないですか。キスしますよ?」

 なんて、真顔で刺身がトドメを刺してきたのだった。

 やっぱり俺が普通じゃなかったのか――!

 寝ぼけているせいなのか、はたまた脳の異常なのか。

 俺は、世の中の常識とズレた感性を抱えて今日を迎えてしまったらしい。

 それに、妹の発言にはもう一つ確認しておきたいことがあって……。

「最後、俺に何するって言ったぁ――!」

「……えっ? キスですけど?」

 再びのキョトン顔で即答する刺身。

 ……聞き間違いじゃなかった。

 ちょっと待って、なんかもう本当に頭がこんがらがってきた。

 妹の、刺身が? 兄の俺に、キス?

 ……なんでぇ‼︎

 キスってあれであってるよねぇ!

 唇と唇をくっつけて、愛を確かめ合う――

「あってますよ?」

 あってるよねえ!

 じゃあ、なんで兄妹の俺たちがそんな行為をするんだ!

 恋人でもないのに、男女がキスをしてなるものか!

「なるものです!」

 なるものなのか、くそぉ――!

 ……っていうか!

「おい刺身、お前俺の自問自答に入ってくるんじゃねえ!」

「どうしてですか? わたしはお兄様の考察を手助けしているのに」

 初めての感覚に、脳の疲労が半端じゃない俺。

 しかし、そんなことを毛程も気にしない妹は平気で独自の論理をぶつけてくる。

 いや、確かにさ……円滑に脳内会議を進めることはできたけどさ……

 ……この有能司会者が!

 反論できなくなっちゃうじゃないか!

 



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女子高生。

 だって、これじゃあ妹が思考に介入してくるのを止める理由がないもん!

 このままじゃずっと刺身に思考を読まれてることを意識しながら生活しなくちゃいけなくなっちゃう!

 そうなると、エッチなこととか、エッチなこととか……あとはエッチなことが考えられなくなってしまう!

 男は五十二秒に一回性的なことを考えるらしいけど、それが封じられてしまう……!

 ってことは俺、もう男の子じゃいられなくなるのか⁉︎

 じゃあ、男子高校生として生活するのも今日まで……!

 嫌だよ母さん、俺はまだ死にたくな……

 ……ちょっと待てよ?

 俺は今、男子高校生じゃなくなると言ったな。

 ……ふはは、そうか、そうなのか!

 つまり、俺は今日から花の女子高生だ!

 女子高生といえば……ルーズソックスで携帯デコって、プリクラ撮ってタピオカだ!

 ――いやどの時代の女子高生像だ今のは!

 いかん、今の女子高生と関わりがなさすぎて想像図が悲惨だ!

 よく考えろ……教室にいる同級生を思い出せ……!

 例えば、俺の隣の席によくたむろしてるギャルの会話だ。

 放課後――そう! あいつらはよくカラオケに行く!

 それと、パンケーキにウィンドウショッピングだ!

 俺なんて買いたいものが明確に決まってなければ買い物になど行かないが、女子高生は特に欲しいものがなくても店を見て回る。

 ――そんなのはネットだけで十分だ!

 ネット通販ならば検索履歴や過去の注文から導き出したおすすめを提示してくれるため、いくらでも飽きずにショッピングできる。

 足腰も痛くならないし、よっぽどこっちの方が頭がいい。

 それに、重いものを買っても持ち運ぶ必要がないしな……。

 ……で、なんだっけ?

 あ、そうそう、女子高生がどんな生活をしてるかって話だったな。

 確か、女友達と胸を揉み合って――

「あの、水を差すようで申し訳ありませんが、お兄様」

「……どうしたのかな、読心大臣の刺身殿」

「……そんな不名誉そうな響きの役職はやめていただきたいのですが……まあとにかく、わたしから物申したいことがあります」

 女子高生同士のお戯れを想像していたら、ジト目の妹が割り込んできた。

 それも、かなりのジト目。

 梅雨で例えると、ジメジメ具合にも飽きてきた七月中旬の雨のよう。

 そんな湿気たっぷりの妹が、潤いたっぷりの唇を開いて事実を俺に突きつける。

「……正直、お兄様は脳内会議が下手すぎます!」

「ぐはぁっ!」

「先ほどは司会のわたしがいたから脱線を防げていましたが、いなくなった途端なんですかこの体たらくは! 馬鹿なんですか、死ぬんですか!」

「ぐはぐはぁっ!……ちょっ、やめて刺身」

「やめませんお兄様! ええ、刺身はやめませんとも! だって、なんですか女子高生になったらって! なるわけないでしょう漫画やアニメじゃあるまいし! そこに至るまでの考えの飛躍なんて、見てられたもんじゃないです――!」

「勘弁してぇ! 心がズタズタのボロボロだよ! 箸でつまんだショートケーキだよぉ!」

 妹による容赦のない攻めが俺を襲う。

 キツイよお……精神に作用する攻撃だよお……

 くらうならまだ物理攻撃のほうが良かったよ……。

 心の傷に特効薬はないからねえ!

 胸を押さえてうずくまる俺だったが、刺身はそんな俺の姿を見て口の端を吊り上げる。

「……ふふっ。お兄様は、頭の中でもわたしがいないとダメダメなんですから……」

 よくわからないが、こんなダメ兄貴でも妹の好感度はアップしたようだ。

 なんでだろう、さっぱり意味が分からん。

 さっぱり意味はわからないけど、まあよしとしよう。

 兄として、やっぱり最愛の妹には素敵な笑顔でいてほしい。

「そんなこと考えて……照れちゃいますよお兄様……濡れちゃいます!」

 ……やっぱり多少、苦しんでる姿も見せてくれないかなあ。

 



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男体盛り。

 まあ、それはともかく本題に戻ろうじゃないか。

 だって、このまま脱線していちゃいつまで経っても現状把握が追いつかない。

 というか、むしろ分からないことが増えていってる!

 ……じゃあ、まずは現時点で浮かんでる疑問をいくつか挙げてみよう。

 例えば、刺身が俺のベッドにいる状況だ。

 高校生にもなった兄妹が、同じベッドで、同じ布団にくるまっている。

 それも、妹が俺に馬乗りになった状態で朝を迎えたのだ。

 ……いやまあ、常識的に考えて一晩中馬乗りだったわけはないんだけど、状況はこの通り。

 刺身が俺の腰のあたりに太ももをひらいて乗り、手をシーツの上についている。

 ……うーん、刺身が俺の上に乗ってるって表現、考えてみたらすごく嫌だな。

 俺の上に魚の刺身がずらりと並べられた絵が浮かぶというか……。

 俗にいう男体盛りというやつを思い浮かべちゃう。

 ……いや、あんまり俗に言わないけど。

「お兄様の男体盛りですか……! お刺身は、サーモンが好きです!」

「聞いてないよ! 兄の男体盛りをイメージして好きな刺身を語らないでよ!」

「もちろん、お兄様の好きな刺身は、このわ・た・し、ですよねっ?」

「やかましいわ! 俺が好きなのはブリの刺身じゃあ!」

「……そう、ですよね。わたしなんか、お兄様の一番になれませんよね……」

 俺の心ない一言に、口をひくひくさせて瞼に涙をためる刺身。

 困ったぞ、刺身が今にも泣いてしまいそうだ。

 こんな時、兄の俺には何ができるだろう。

 すぐに「これは勢い余って口をついて出ただけで、そんなことは思ってない」と訂正できたら一番良かったんだろう。

 でも、すでにそんなことができるタイミングは過ぎてしまっている。

 じゃあ、俺にできることは……。

 ダメだ、思いつかない。

 有能司会者だった妹が不在である今、脳内会議が滞ってしまっている。

 と、そうして俺があたふたしてる間に、刺身のまぶたから一滴の滴が……!

 くそう……俺はこんなにも申し訳なく思ってるのに、無力なのか!

 俺は、妹の笑顔ひとつ守ってやることができないのか……!

 ……刺身は小さい頃、病弱だった。

 歩くこともままならない病気で、移動はいつも車椅子。

 でも、俺が移動すると、後ろをよくついてきたんだ。

 お兄様お兄様って、俺のことを呼びながら。

 ……そんな健気な妹が元気になって、大きくなって。

 それでも、俺はまだ彼女の袖を涙に濡れさせてしまうのか。

 いいや、違うだろうこの俺よ。

 お前はそんなダメな兄貴じゃないはずだ。

 ダメな兄貴であることは認めるが――

 それでも、妹の笑顔を泣き顔に変えてしまうほどダメな兄貴じゃない!

 意気込むと、俺はもう一度目の前の刺身に向き合う。

 そうして、彼女の目から今にもこぼれそうな一粒の滴を――

 ――たまっていた目の水分ごと、全部舐め取った。

 



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宇宙の神秘。

「ひゃぁんっ! いきなりなにするんですかお兄様!」

「……! これは……!」

 突然の兄の奇行に驚く刺身。

 しかし、そんなことはもうどうでもいい。

 そんな些細な問題は、すでにアイスクリームみたいに溶けていったのだ。

 じゃあ、なにが今俺にとって大事なことなのかって?

 よく聞いてくれたな、誰にも聞かれてないけど。

 何を隠そう、俺が今一番重要視している、衝撃を受けたものは――これだ!

「妹のなみだ、美味しすぎるうううううう!」

「なにを言ってるんですかお兄様ああああああああ!」

 いやほんとに!

 これまで口にしたどんなものよりも美味いって!

 さっぱりとしているようで、なめらかな口溶け。

 味付けはジャングフードのような雑な味付けと違い、繊細だ。

 例えるならば、高級料亭のお吸い物のような上品な味わい。

 それが、すうっと消えることなく口の中を満たしてくれる。

 ……うまい、美味すぎるぞ!

 意図せず埼玉県のお菓子のコマーシャルみたいな反応をしちゃうくらいに!

 ……ああ、幸せだなあ。

 これまでの人生、こんなに幸せなことがあっただろうか。

 人生において「生まれてきてよかった」なんて思うことはそんなにない。

 例えば、小学校の運動会。

 優勝したときはとても嬉しかったけど、そこまで大袈裟な喜びだっただろうか。

 例えば、受験に合格したとき。

 嬉しかったけど、あれは一つの手段に過ぎない。

 高校に通うことが目的で、そのための手段が受験合格なのだ。

 だから、「生まれてきてよかった」なんて思えるはずがない。

 つまり、俺はこれまでの人生でそこまでの喜びを感じたことがなかったわけだ。

 俺に限らず、多くの人がそんなものだと思う。

 ……でも、今この瞬間。

 妹の涙を味わったこの瞬間、全てが報われた。

 いじめられたこともあったし、死にたいと思ったことだって何度もあった。

 それら負の感情は、いまだに俺の心の中に蓄積されていってたはずだ。

 だけど、それらを全て浄化して、それでいてお釣りの幸福をもたらす。

 そんな存在に、出会ってしまったんだ。

 

「……ぺろっ……れろっ……れろれろっ……んん……っ」

「……ひゃあっ……んっ……お兄様ぁ……もう、やめてぇ……」

「…………」

「…………あれ? 素直にやめてくれた……んにゃぁっ!」

「……ぺろっ……れろっ……れろれろっ……」

「……んあっ……もうらめぇ……っ……急に再開しないれくらふぁい……!」

 

 耳まで真っ赤になった刺身が、息も絶え絶えに訴えかける。

 しかし、抵抗すればするほど彼女は涙目になっていき……!

 つまり、これはエンドレスなのでは⁉︎

 俺が欲すれば欲するほど供給される極上の涙。

 その味はいくら舐め取ったところで衰えることを知らない。

 こんな楽園が、この世に存在していいんだろうか……。

 と、宇宙の神秘に思いを馳せていたときだった。

 

「うううう……もう……っ……いい加減に……やめてくださああああああいっ!」

 

 ――妹が、爆発した。

 



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レベルアップ。

 眩い光に包まれて、視界が一瞬真っ白になる。

 ライトを直接見たときの、数千倍のダメージだ。

 脳にまで光が届き、その中を蹂躙されているかのような不思議な感覚。

 確実に、初めて体験する感覚だ。

 ……何十秒たったのか、何分経ったのか。

 時間の感覚が、わからなくなる。

 けれど、確実に長い時間が経過している。そんな気がした。

 反射的に閉じた目を、ゆっくりと開く。

 ……何も見えない。

 朝の日差しに照らされていたはずの室内が、漆黒の闇に包まれている。

 眩んだ目が、まだ通常に戻っていないのだ。

 

「……! そうだ、刺身は⁉︎ 刺身は無事なのかっ!」

 

 視界を奪われる前の最後の記憶を思い出す。

 刺身が、光に飲まれて姿を消すシーンを。

 ……意識が朦朧としてきた。

 今すぐ横になりたい。目を瞑って、意識を飛ばしてしまいたい。

 ……でも、そんなことはできない。

 だって、俺は刺身の兄貴だから。

 妹の無事を確認するまでは、くたばるわけにはいかない。

 ……あと、そういえば既に俺は横になってた。

 だって、さっきまでの出来事は全部ベッドの上で起こってたからねえ!

 俺に馬乗りになってる妹が爆発したわけだから……ん?

 ……腰に感じるこの重さはなにかな?

 みんなも一緒に考えてみよう!

 さっきまで、俺の上には妹が乗ってて、俺はその妹を探していて。

 俺の腰には、さっきまでと同じ体重が預けられている。

 ここから導き出される解は――

 

 うん、刺身、乗ってるね。

 

「おはようございますお兄様」

「うん、おはよう刺身」

 刺身、乗ってたね。

 お兄ちゃんは刺身が無事で安心したよ¬¬――

 と、彼女の顔を見ようとしたとき、事件は起こった。

「? どうしましたか、お兄様?」

 首を傾げる妹。

 それもそのはず、だってこの違和感は刺身には感じられないものだから。

 つまり、この場では俺にしか感じられない違和感。

 ……具体的に言うと、刺身に起こった視覚的な変化だ。

 だけど、別に浦島太郎みたいに急激に老けたとかじゃない。

 性別が変わったとか、急に美しくなったとかブサイクになったとかでもない。

 視覚的な変化とはいったけど、別に刺身の外見が変わったわけじゃないのだ。

 ……だったら何が変わってるのかって?

 それは、ええと……

 一言で言うのってめちゃくちゃ難しいんだけど……

「……刺身、お前レベルアップしてるぞ」

 ――そう、レベルアップだ。

 一言で言い表すなら、レベルアップ。

 なぜそう言い切れるかって?

 確かに、この現代でレベルアップとか言われても頭がおかしくなったとしか思えないよな。

 でも残念だったな、これが言い切れるんだよ。

 ……だって、刺身の額に「レベルアップしました」って書いてあるからねえ!

 



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コンプレックス。

「…………」

 いやなんだそれは!

 意味がわからないよ!

 レベルアップ⁉︎

「レベルアップって何ですか⁉︎」

「こっちが聞きたいよこのナマモノシスター!」

「ナマモノシスター⁉︎ なんか酷いです! 同人用語と勘違いされそうですー!」

 涙目で返した俺に、同じく涙目でポカポカ殴ってくる刺身。

 ……訳のわからない状況は、訳のわからない二人組を生んでしまうらしい。

 まあ、せっかく涙目になったわけだし、妹の涙を味わわせてもらおうか。

「……んんっ! 待ってくださいお兄様! 現実逃避をしている場合じゃありません!」

 ……はっ! そうだった!

 考えなければ理解できない状況はもっと理解できなくなっていくばかり。

 こうしちゃいられない、妹のレベルアップについて頭をフル回転させ――

 ――やっぱり美味いな刺身の涙。

「だから現実逃避してる場合じゃないですー!」

 再び妹に怒られてしまった。

 まあ、怒られると興奮するから別に嫌じゃないんだけど、嫌われるのは避けたい。

 だから今度は素直に有能司会者さしみちゃんに頭を下げて会議を円滑に行うことにする。

「仰向けになった状態で頭を下げるってどういうことですか」

 すぐにヤジが飛んできた。

 あれま、先ほどまでの有能司会者ぶりはどこへやら。

 知らないうちに屁理屈ばかり言う会議滞らせ名人に退化してるぞ。

 妹よ、お兄ちゃんはお前をそんな子に育てた覚えはない!

 まず育てたのは俺じゃなくて父さんだけど!

 さっきもそんなこと考えた気がするな。

 ……まあいい、こうなったら意地だ。

 意地でも仰向けのまま頭を下げてやろうじゃないか。

 だから、ええと……この状態で腰を折ると腹筋みたいになるわけだな。

 それがすなわち仰向けで頭を下げるということだろう。

 だから――えいやっ!

 やったぞ、成功した!

 仰向けで頭を下げる――変な体勢での腹筋に成功したぞ――

 

「いや待ってくださいお兄様色々と大変なことになってます苦しいですー!」

 

 ――ん?

 なんか頭の上の方で妹の泣き叫ぶ声が聞こえるぞ?

 ……いやいや、そんなわけがない。

 俺が仰向けで頭を下げただけで、妹が苦しむなんて……

 

「早く退いてくださいー! おっぱいがちぎれちゃいますー!」

 

 ……うん、あるらしい。

 可哀想だから退いてあげよう。

「ええと、お兄様?」

「……どうした、生魚?」

「生魚って呼び方はやめてください! 金輪際、絶対に!」

 激昂する妹。

 ふむ、多少は自分の名前にコンプレックスがあるらしい。

 確かに、名前は生まれた時に親がつけるから自分で決められないし辛いよな。

 うんうん、分かるぞ妹よ。

「……で、言いかけたのは何だったんだ生魚」

「ちくしょうです! 納得していたように読心したのですがあれは間違いだったんですか!」

 さらに激昂する妹。

 顔が真っ赤に熟れたトマトのようだ。

 砂糖をかけて食べてしまいたい。

 ……え? ウチの地域では砂糖はかけないって?

 そんなことは知ったこっちゃないよ。

 だって砂糖かけたほうが甘味が増してだな――

「誰と話してるんですか! わたしにも喋らせてください! ほら!」

 ――トマトが噴火した。

 



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目覚まし鈍器。

「ごめんごめん! 悪かったからその手に持った目覚まし時計を下ろしなさい!」

「……わかりました。お兄様の脳天に振り下ろせばいいんですね」

「うわあ、目がマジだ! やめろ、やめてくれぇー!」

 ちょっ、うちの妹怖すぎるんですけど!

 生魚呼びは冗談じゃなく本当に地雷だったらしい。

 とりあえず手に持っていた目覚まし鈍器を離してもらう。

 うん、素直に離してくれたみたいだな――

 と、俺が一人胸を撫で下ろしていると。

 

「なにしてるんですかお兄様!」

 また刺身が真っ赤になって抗議の声を上げてきた。

 ……ここで赤身とか言ったら命が危ないから自重。

 ほら、考えただけで凄い睨んでるもん。

 で、今度は何を怒ってるのかな――と改めて顔を確認するのだが。

 ……ん? 何やらさっきまでの怒りの表情とは違うみたいだぞ……?

 さっきの表情がトマトだとすると、この表情はりんご。

 わずかに蜜の香りがする。

 これは……恥じらいか?

 だとすると、どうして?

 色々な疑問が浮かんでくるが、どれも答えは出ないまま。

 であるならは、俺ができることは一つ。

 本人の言葉を待つのみだ。

 と、いうことで刺身が口を開くのを待つ。

 すると、俺の心を読んだんだろうか。

 刺身が、二言目の抗議の声を上げてきた。

 

「撫で下ろすのは自分の胸にしてください――!」

 

 ……なんと。

 俺が撫で下ろしていた胸は自分のじゃなく、刺身の胸だったのだ。

 つまり、刺身の胸部。おっぱい。

 そりゃあ、りんごみたいに真っ赤な顔をするのも当たり前の話だ。

「……話だ、じゃないですよお兄様! ことは重大なんですよ、通報ものなんですよ!」

「待ってくれ! 間違えただけなんだ! そんな、柔らかくて弾力のある魅力的な刺身のおっぱいをどさくさに紛れて触ってやろうって日頃からずっと考えてたりなんて――」

「考えてるじゃないですかっ! というかお兄様? それ以前の問題ですからね!」

「……それ以前、というのは?」

 首をかしげる俺。

 そして、洗濯バサミ型の宇宙人を初めて発見した人みたいに唖然とする刺身。

 いや、そんな宇宙人は発見されていないんだけど。

 というか、宇宙人自体まだ発見されていないわけだけど――

「とぼけないでください!」

 またも声を張り上げる刺身。

 彼女は言葉も丁寧で、病弱だった名残で大人しいはず。

 そんな刺身がこんなに叫ぶほどのことが地球上に起こるはずが――

 

「お兄様、起きたときにわたしの胸を揉んでから一度も手を離してないじゃないですかっ!」

 

 ――あった。うん、あったよ。

 さすがにこれは仏の顔も一度で大激怒案件だよ。

 そういえば刺身の名前の話をしてたときも、女子高生の話をしてたときも。

 ついでに刺身の涙を舐めたときも、光に目が眩んだときも。

 ……俺、刺身のおっぱい掴んだままだったわ!

 って、すごいな俺も刺身も!

 刺身はおっぱい揉まれたまま俺を殴ってたことになるし、俺もおっぱい揉んだまま仰向けで頭を下げたわけだろ? 人間業じゃないよ。

 と、自分に感心していると、またも涙目の刺身氏。

 

「……いつまで揉んでるんですか――! 指摘されたら離してください――!」

 

 はっはっは、妹よ。

 男っていうものは、一度おっぱいに触れたら二度とその手を引っ込めることなど――

 ……ごめんなさい、調子乗りました。

 今すぐ手を離すので刺身もその目覚まし鈍器から今すぐ手を離していただけないでしょうか。

 



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ブラックアウト。

「……で、お兄様? レベルアップというのは一体……?」

 もう少し揉んでいたかったけど、本気で殺されそうだったから手を離して。

 刺身が真っ赤になった頬、耳と荒くなった呼吸を整えているのを待って。

 しばらくすると、冷静さを取り戻した刺身が俺に尋ねてきた。

 尋ねてきたのはいいんだけど――

「いやいや、こっちのセリフだって! レベルアップってどういうことなんだ!」

 ――訊かれたところで、俺が知っているはずもない。

 刺身の身に起こったことなんだから、むしろ刺身の方に心当たりがありそうなもんだが……

 ……いや、待てよ?

 よく思い出せ。

 いつだったかは忘れたが、ここ最近レベルアップという現象を深く考えた覚えが……

 ……ダメだ、思い出せない。

 どこかで絶対にレベルアップと深く関わったはずなんだが、靄がかかったかのようにそれだけが脳内で隠蔽されている。

 もどかしい。

 たどり着けそうでたどり着けない答え。

 それは、頂上の見える砂山に滑り落ちながら登ろうとしているかのようで。

 とにかく、今のままでは答えは出ないだろう。

 砂山を登るためには水をかけて地盤を固めること。

 靄がかかっているなら払うこと。

 ただ直球で答えを出そうとするのではなく、工夫が必要不可欠なのだ。

 急がば回れ、ということわざがある。

 今の俺には……回ること、すなわち冷静になることが求められている!

 つまり、今俺が最優先して行うべき行動は――

 

「だから揉まないでくださいです――っ!」

 

 ――とりあえず手段を選ばず落ち着くことだと思ったんだけど。

 てのひらに柔らかい感触が広がった後、額に硬い何かが降ってくる。

 見覚えのあるデザインのそれは――ついさっき見たばかりの目覚まし時計だ。

 ごめん父さん、母さん……俺、妹のおっぱい触って死にます……。

 まだ見ぬ友人も、まだ見ぬ恋人も、まだ見ぬペットのネコも……ごめん。

 俺、もうちょっとこの世にいたかっ……いや、まだ見ぬからそうでもないけど。

 と、とにかく俺は死んでしまうようです!

 さようなら……刺身!

 直後、頭部に衝撃が走る。

 一瞬で視界が真っ白に光り、点滅する。

 それから世界は不鮮明になり、やがて闇に包まれていき、ブラックアウトする。

 遠のく意識の中で、微かに声が聞こえた。

 啜り泣く声。

 それに続いて、絶叫。

 かろうじて聞き取れたその内容は、妹による切ない想いであった。

「どうしてお兄様が……どうして……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」

 ……お前が殴ったせいじゃ――!

 



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パラレルワールド。

 目が覚めたのは、それから二時間後のことだった。

 もちろん、時計が指す時刻は登校時刻を大幅に過ぎている。

 予期せぬ出来事だったとはいえ、遅刻してしまったことに罪悪感を覚える。

 それに、今日はテスト一週間前の大事な授業の日。

 ここで授業を受けるのと受けないのとでは、本番の結果が大きく違っているはずだ。

「……まいったな……」

 思わず独り言が漏れてしまう。

 独り言には自分を落ち着ける意味もあるらしいから、身体が異常事態を感知しているのだろう。それほどまでに、俺の頭は今真っ白なのだ。

 外に置いておいたら路上アーティストが名作を描き上げそうなほど真っ白だ。

 その白さを見るために海外から観光客が訪れそうなくらい。

 そして、各国の美術館を転々として所有者の俺が大儲けしそうなくらい。

 そして、グッズ展開してさらに一儲け。

 更には、その資金を元手に会社を立ち上げて成功し、世界に名を残す名起業家となって死後に脳を冷凍保存されてその脳が何者かに盗み出されるくらい――

 ――うん、ごめん。現実逃避はやめよう。ほんとゴメン。

 ……とまあ、こんなふうに発想がどんどん飛躍してしまうくらいには頭が真っ白だ。

 ついでに、身体は思うように動かない。

 そりゃ、脳が機能を停止してたんだから当たり前か……。

 でも、なんだろう。それにしてもすごい違和感があるというか……。

 膝を畳もうとすると、金縛りにあったかのように動かない代わりに「ジャラ……」と金属音がする。どうしよう、すごく嫌な予感がする!

「お兄様、目覚めたんですね?」

 正解です、とばかりに刺身の声がした。

 背の小さい刺身だが、ベッドに横になっている俺からはやけに大きく見えた。

 大きく――不気味に。

 片手にリング状になった鍵と注射器を持った姿は猟奇殺人の犯人を思わせる。

 そして、もう片方の手にはピストル――拳銃だ。

 さらに、心には花束を携えている。

 ……ジュリーか!

 なんかいろいろとアウトだよ妹よ!

 注射器とか危ないニオイしかしないアイテムだし、ピストル持ってたら犯罪だし!

 心の花束は目で見えないからなんで知覚できたのか意味不明だし!

 どうなっちまったんだ世の中は!

 二時間のうちに、どうやらパラレルワールド的なところに飛ばされてしまったらしい。

 だよな……刺身?

 きっと、ここはバタフライエフェクトかなにかで変わってしまった未来の世界だ。

 そうでなければ、こんな意味不明な改変が二時間で起こるはずがない!

 さあ、答えろ刺身!

 この世界が狂ってしまった別の世界線であると――!

「ごめんなさいお兄様、普通にさっきの二時間後です」

「なんでだよぉぉぉぉぉぉぉ!」

 普通に二時間後だったよ、怖いよ!

 え、じゃあ別に世界の改変とか関係なくこの妹はこの出で立ちなの⁉︎

 どうしちゃったの二時間で⁉︎

 世界ってこんなに一瞬で崩壊するような危うさの中に存在していたの⁉︎

「そんなに驚かないでください」

「驚くよ!」

 だめだ、刺身はこの事態の異常性がわかってない!

 あれだ、当事者は別に意識してないけど外から見るとすごいことが起こってるパターンだ!

 食人の文化が残ってる民族とそうでない民族がお互いをおかしいと思い合うあれだ!

 



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現実逃避。

 ちょっと待ってくれよ……。

 俺が好きだったあの平穏の日々はどこに行った……。

 かわいくて兄想いのやさしい妹。

 代わり映えのしない、少々退屈だけれど安全だった毎日。

 意識していなかったけど、俺が好きだったのはそんな「当たり前」だった。

 失って初めて気づく「当たり前」の素晴らしさ。

 こんな風になってから学習したって、なんの役にも立ちはしないよ……。

 そういえば、昔もこんなことがあったっけ。

 中学生の頃、大好きなロックバンドがあった。

 そのバンドはネットで有名になった音楽プロデューサーとメンバーで構成されたグループで、他の誰にも創れない彼ら独自の音楽を貫いた最高のバンドだった。

 特に作詞作曲を務めていたボーカルは、その世界観の根幹だった。

 一度耳にしたら病みつきになるメロディ。

 時に直球で時に技巧がふんだんに盛り込まれた絶妙な歌詞。

 俺は彼の楽曲が好きで、家に帰ると常に聴いているくらいだった。

 それだけ、大好きなバンドだった。

 しかし――俺は、彼らのライブに一度も行ったことがなかった。

 中学生がロックバンドのライブに行くというのは、思ったよりも大変なことだ。

 特に、俺みたいに地方の中学生にとっては障害になることが多すぎる。

 電車代の問題もある。一人きりで都会に行く不安もある。

 それに、時間だって夜遅ければ参加不可能になるし、クレジットカードがないとチケットが取れない。更に、当日の都合も家族や学校、部活の関係で変更されやすい。

 それらのネガティブな要素を考えてみた結果¬¬――俺は、結論を出した。

 それは、高校生になったらライブに行こう、という決意。

 中学生だと難しいけど、高校生になれば行動範囲が格段に広がる。

 高校生になったらチケットを取って、ライブ会場に足を運んで、物販でグッズを買って、生で彼らの演奏を聴いて、見て、感じて――

 でも、それは叶わなかった。

 中学三年生のある日、父親のパソコンで検索エンジンを開いてみたらそのニュースが一番初めに表示された。

 ――ボーカルが、亡くなった。

 作詞作曲、ボーカルを務めていたバンドのリーダーが、急性心不全で永眠したのだ。

 その記事を見た俺は、画面を見つめたまま動けなかった。

 信じられない。信じたくない。

 ずっと大好きだった人。ずっと当たり前に聴いていた声。

 それが、当たり前じゃなくなってしまう。

 呆然としたまま、俺はSNSのタイムラインを開いて事実を確認する。

 すると、溢れるように表示されたのはたくさんの追悼のメッセージ。

『ライブに行っておけばよかった』『死ぬ前に歌声を聴きたかった』 

 ――じゃあ、行けよ。

 なんで行けるのに行かなかったんだよ。

 今日以前ならいつだって行けたのに――なんで、行かなかったんだよ……。

 沢山の哀悼の投稿を見ながら、俺は呟く。

 こみ上げてくる怒りと悔しさを、口から少しずつ漏らしていく。

 しかし、それらの言葉は画面の向こうの相手に発しているようであって、そうじゃない。

 吐き出した言葉の全部が、自分に刃を向けて容赦無く刺してきた。

 それらの言葉は――自分に対する、戒めの言葉だった。

「お兄様、どうされたんですか? 顔色がすぐれないようですが」

 そして、今。

 状況は違うけれど、似たような後悔を繰り返している。

 生きているけれど、変わり果ててしまった刺身。

 変わり果てる前の素直で可愛かった刺身は、死んでしまったようなものだ。

 当たり前のような日々は、消え去ってしまったのだ。

 だから――もう、あの刺身に伝えたかったことは伝えられない。

 俺がこの気持ちを伝えたい相手は過去の刺身であって、目の前にいる刺身とは別人なのだから。

 



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でたらめだったら。

「……お兄様、さっきから何を考えているのですか? わたしはわたし。それ以外の何者でもありませんよ?」

 考えていると、心を読む術を使って刺身が脳内の会話に介入してきた。

 しかし、俺が過去の刺身に伝えたかった内容までは分からないらしい。

 レベルアップ、というのが関係しているのだろうか。

 レベルアップをすればするほど、刺身の読心術も精度が上がっていくとか――

「いいえ、お兄様」

 と、透き通るような声が思考を遮った。

 声の主はもちろん刺身。

 リング状の鍵を指にはめてクルクルと回しながら、真剣な表情をしている。

 その様子は非常に妖しくて、少しでも抵抗の意思を見せたら腕の一本でもへし折られそうだ。

 刺身が続ける。

「わたし、お兄様が眠っている間にレベルアップについて色々と調査を進めてみたんです」

「二時間の間によくこんな意味不明な現象を調べられたな……」

 刺身は通ってる高校でもトップクラスに頭が良くて、その評判は上級生である俺の耳にも入ってくるほどだ。

 幼い頃から入院していた間も熱心に勉強や読書に取り組んでいたし、勉強が好きなんだろう。

 でも、だからといってこんな短時間で未知の現象についてなにが調べられるというのか。

 自分の体に起こった異変だから感覚でなにかわかったのかもしれないけど、証拠のないそんな不確かな情報で刺身が動くとも思えないし――。

 とにかく、いくら考えても仕方ない。

 早速、刺身の見解を聞いてみることにする。

 ……と、先を促そうとしたのだが。

「未知の現象……? お兄様はなにを仰っているのですか?」

 肝心なスピーカーの刺身が首を傾げている。

「え……だって、お前の額にレベルアップの文字が表示されたのはさっきの一回だけで……それ以外はなにもレベルアップについて知らなかっただろ?」

 恐る恐る、当たり前のことを繰り返す。

 掛け算九九の答えをわざわざ解答と照らし合わせてみているかのような不思議さだ。

 しかし、嫌な予感がする。

 解答と照らし合わせてみたら実は自分が暗記していた九九が全くのデタラメだった。

 それくらいの爆弾が、この『未知』という言葉には仕掛けられている気がする――

「お兄様、申し訳ございません」

 刺身が、謝罪の言葉を口にした。

 わたしは、間違えてあなたを呼び起こしてしまったみたいです、と。

 あなたは、わたしの求めるあなたじゃありません、と。

 ……えっ、急にどうしたの⁉︎

 さっきまで調査した内容を教えてくれる雰囲気だったじゃん!

 だから俺もこうして楽しみに聞こうとしてたのに……

 なにか、間違ったことした⁉︎

 刺身はそれだけ言い残すと、リング状の鍵を机の上に置き、両手でピストルを構え銃口を俺に向けた。そして、引き金に手をかけて躊躇なくそれを引く。

「またね、お兄様」

 俺が最期に見た妹の顔は、なにかを懐かしむかのような優しい笑顔だった。

 



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帰還。

「……ま、……さま、…………お兄様っ!」

「美味い!」

 口の中に広がる爽やかな潮の香り。

 その舌触りは絶妙で、なめらかだ。

 ……ってこれはまさか、刺身の……?

「うわぁっ! お兄様が急に起き上がりましたぁ!」

 目を開けると、あったのはよく見知った妹の顔。

 俺に似ず整った顔がくしゃくしゃになっている。

 先ほど口の中に広がった幸福を考えるに、彼女は泣いていたらしい。

 泣いていたのにこんなに美人なんだから、非の打ち所がない。

「お兄様! わたしです、刺身です! わかりますか!」

「うん……わかるけど、ピストルはどうした? それに、鍵を持って……」

「……やっぱり! 頭の打ち所が悪かったんですね! 救急車を呼びましょう!」

 一目散に電話を探して走っていく刺身。

 どうやら俺の言動から、頭がパーになってしまったと思われたらしい。

「待って待って! 大丈夫、大丈夫だから! ちょっと寝ぼけてただけだよ!」

「むう……ほんとですか? お兄様は何か不調があっても隠したがりますからね……」

 確かに多少体調が悪かったくらいなら言わないことが多いけど、俺信用ないな。

 でも、頭を打って気を失ったにしてはすごく体調がいい。

 なんていうか、ぐっすり二度寝をしたような気分で、むしろ気持ちがいいくらいだ。

「……ならいいですけど……。心配だから、今日は学校を休んでくださいね?」

「いや、行くよ。来週のテストに向けて授業にも出ておきたいしさ」

「ダメです! ちゃんと休まないと……。先生には伝えておきますから」

「わかったよ……そこまでいうなら家で勉強させてもらおうかな。ごめんな刺身、お前にも学校遅刻させちゃって」

「……遅刻? あ、いえ、この時間なら間に合いますから気にしないでください!」

「…………ん?」

 あれ、何かがおかしいな。

 俺は二時間ほど気を失ってたはずで……もちろん、今から学校に行けば遅刻確定なはず。

 だけど、刺身は間に合うと言っている。

 まさか、刺身はレベルアップしたことで時空を超える能力を手に入れたとか――

「ほらお兄様。お兄様が気を失っていたのはほんの五分のことです!……ま、まあ? わたしはその五分間だけでもすーっごく心配して差し上げたわけですけども……」

 最後の方は自信がなさそうにごにゃごにゃと照れたように話してたが、なるほど。

 どうやら二時間という単位も俺が気を失っている間に見ていた夢だったみたいだ。

「それじゃあお兄様! くれぐれも無理はしないように!」

「お前も気を付けろよー」

 扉を閉めて、急いで駆けていく刺身。

 自室と俺の部屋がある二階じゃなくてリビングのある一階に降りてったけど、大丈夫かな?

 あいつ、完全にパジャマ姿だったけど……。

 しばらくすると足音がなくなって、玄関のドアが閉まった音がして、静寂が訪れる。

 そういえばまだ俺自身もパジャマ姿だ。

 とりあえず顔を洗って、着替えて、コーヒーでも飲むか……。

 ベッドから下半身を乗り出し、ゆっくりと着地する。

 それから、ふんっと気合を入れて上半身を起こし立ち上がろうとしたのだが――

 うん、無理だ。腹筋がなさすぎる。

 頭の中で思い描いたら楽勝だったんだけど、実際にやってみると意外とできないもんだな。

 まあ、頭の中でできたことが現実で必ずできるなら告白を失敗する人はいなくなるわけで。

 そうなると世界がややこしくなるから、こうして俺が再び――今度は床に横になってしまったことにも何らかの意味があるんだろう。

 



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名前。

「何やってんだろうなあ……」

 天井を見て、呟く。

 夢見ていた高校生活。

 行動範囲も広がって、部活も頑張って、彼女とデートして。

 それが、現実はどうだ。

 学校以外にはほとんど外出せず引きこもってるし、帰宅部だし、彼女どころか友達すら一人もいない。交友関係を広げる努力もしていない、さらに活発なタイプじゃない自分のせいだとはわかっているけど、だからこそ怒りの矛先もなくてただ虚しいだけ。

 はあ、どこで人生間違えたんだろうな……。

 ここから変われる人も何人かはいるんだろうけど、それこそ本当に何人か。

 その何人かに俺がなれるとは思えない。

 きっとこの先の進路でも、社会に出ても、結局何でもないまま時間が過ぎていくんだろう。

 そんなことなら、いっそ終わらせてしまいたい。

 大きな事件を起こすのもいい。自分に火をつけてダルマになってみるのもいい。

 頭では考えるけれど、実際に行動を起こす度胸はない。

 ああ、本当に頭で考えたことが現実になったらなあ……。

 まあ、もちろんそんなことは空想に過ぎないわけだけど。

 ……いい加減に立つか。

「……よっこいしょ」

 膝に手をついて、ぐっと押し込み、体制を整える。

 それをバネにして、一気に床を踏み、立ち上がる。

 立ち上がること一つでも、こんなに行うべき動作がある。

 人生を成功させるには、いくつの動作を完璧にこなさなくてはならないんだろう。

 考えても仕方ない。

 考えても仕方ないけど……考えずにはいられない。

「はぁ……」

 当初の予定通り、リビングでコーヒーでも飲むか。

 と、自室から一歩外に出た時だった。

「ぐぇっ」

 足元から、変な声が聞こえた。

 声のする方を見ると、なにやら見たことのないオーバーオール姿の女の子が横たわっている。

 俺はどうやらこの子を気づかないうちに踏んづけてしまっていたらしい。

「フカ……痛い……」

「ご、ごめんっ!」

 とっさに謝るけれど、なんなんだこの状況は。

 両親は別に今日誰が来るとも言ってなかったし、このロリがここにいる理由が分からない。

 ――それと、もう一つ気になることがあって。

「フカ……? フカっていうのは……何のことだ?」

「……? フカは、フカヒレのフカだよ……?」

 どうしよう、聞いてみたら余計に分からなくなった。

 どうして急に高級中華食材の名前を……?

 ロリっ娘の奇行に、なんだか頭が痛くなる。

 さっきぶつけたせいじゃないだろうな?

 今朝の妹とのやりとりに似た意味不明さが彼女との会話にもある気がする。

「ええと……フカヒレのことを、どうして今言ったのかな……?」

 慎重に、丁寧に。

 この謎の少女に、問いかけてみる。

 すると、彼女はこれまた不思議そうに言い放った。

「……え? だって、お兄ちゃんの名前……フカヒレでしょ?」

「ちょっと待ておい俺の名前がなんだって」

 聞くと、俺はすぐに部屋の中に引き返す。

 そして、鞄の中からノートやプリントなど、名前の書いてありそうなものを取り出して自分の名前を確認した。すると、一つ残らずそこには記名がされていた。

『木村鱶鰭』

 ……いや待てよどんな名前だよ!

 よく俺十何年もこの名前で生きてきたな!

 今朝刺身のこと「生魚」とか言ってめっちゃ馬鹿にしてたけど誰が言ってるんだって話だよ!

 それに、苗字木村って! 木村って――!

「ぜえ……ぜえ……はあ……はあ……」

「どう? 落ち着いた?」

「……ああ、思い出したよ。確かに俺は木村鱶鰭だ」

 ……小さい頃から昨日までの記憶が全部蘇ってくる。

 初めて遊園地に行った時も、小学校の入学式も、中学校の卒業式も。

 俺はフカヒレと呼ばれていたし、ニックネームはフカだった。

 習字のときは『鱶鰭』の文字が滲んで書きにくかったし、受験のときは名前を書くだけでずいぶん時間がかかった。

 名は体を表すとはよく聞くが、俺や刺身はどんな人間に育っているのだろう。

 将来は二人ともエラ呼吸になっていないことを祈る。

 



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全裸の少女。

「……えっと、回想してるところごめんなさいなんだけど……えっと、はじめまして」

「は、初めまして」

 だよねえ! 初めましてでいいんだよねえ!

 少女の挨拶によって、まずは関係性の確認ができた。

 別に俺が忘れてたとかそういうわけじゃない。

 もともと知り合ってなかったらしい。

「ええと……どこから話したらいいかな?」

「いや、どこからと言われても……そっちの手札に何があるか分からないから何も言えないよ?」

「そう……じゃあ、ちょっと待ってね」

 言うと、目の前のロリは機械のような動作で立ち上がる。

 そして自身の着ていたオーバーオールを脱ぎ、中に来ていたシャツを脱ぎ。

 さらにはその下の肌着にも手をかけ――

「いやちょっと待って! 何で脱ぎ出した! 俺を犯罪者にする気か!」

「うるさい。フカこそ少しはまてないの? 見せたほうが早いんだから」

 慌てる俺とは対照的に、落ち着き払ってストリップを続ける少女。

 高い位置で縛ったツインテールがピョコピョコと揺れ、かわいらしい。

「じゃあ、脱ぐね……?」

 ……ああ、神様。

 どうしてでしょう、すごく背徳感があります。

 俺が脱がせているわけでもなければ、脱いで欲しい状況でもないのに。

 なぜか、とっても悪いことをしている気になってきました……。

 手を合わせて、天に謝罪をする俺氏。

 しかし、そんな胸中を知ってか知らずか、少女は次々と服を脱いでいく。

「……はい、これで全部。フカ、よくわたしの胸を見て……」

「そんなこと……俺、ロリコンじゃないし」

「いいから、見て。見れば、だいたいのことはわかる」

 彼女が脱いでいる途中はさすがに目を覆っていたのだが、仕方ない。

 まずこの少女が何者なのかも知らないけれど、こうなったら穴が開くほど見てやろうじゃないか。決意すると、俺はゆっくりと指をずらし、少女の柔肌に視線を向けた。

「……………………えっ」

 しかし、開けてびっくり。

 そこに、あるべきものが存在しない。

 潤いのあるきめ細やかな少女の肌は存在するのだが、ただそれだけだ。

 へそや乳首など、人間の体の表面にあるべき部分が一つも存在していない。

 俺は、彼女の裸を見つめたまま固まった。

 傍から見たらすごく犯罪チックな絵になっているが、そんなことを気にしてる余裕はない。  

 ただ唖然として、その場から一歩も動けなくなってしまう。

 それから、どれだけの時間が経っただろうか。

 全裸の少女を見つめたまま、ずいぶんと時間が経った気がする。

 でも、何か考えようとしても頭がちっとも働かない。

 だって、俺が今見ているのは脳で処理できないほどの情報量。

 いや、むしろ情報は普通の裸より少ないわけだけど、それでも理解できない現象だ。

 そういった面では、レベルアップにも通ずるものがあるのかもしれない。

 なんて、またも頭を歌舞伎役者の肌みたいに真っ白にしていたときだった。

 

「……ごめんフカ。やっぱり、そんなに見られると恥ずかしい」

 

 ほんのり頬を赤く染めたロリが、俯きがちに呟いた。

「あっ、ご、ごめんっ!」

 咄嗟に謝って、視線を逸らす。

 頭の処理が追いつかなかったとはいえ、見過ぎだったかもしれない。

 ……まあ、見せてきたのはロリのほうなんだけど。

 



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法律の範囲内。

「…………で、フカ」

「……ん?」

 今度は脱いだ服を着直しながら、少女。

 何かを期待するような声で、語りかけてくる。

 衣擦れの音も止んだので振り返って少女を見ると、案の定何かを期待するような目でこっちを見ていた。ほら、はやく、とでも言いたげな視線。

 そんなに期待されると不安だけど、いっちょ言ってやりますか。

「……お前の裸、すごく綺麗だったぞ」

「な、ななな、なにいってんのフカ! 変態! ドスケベ! 性犯罪者!」

「ぐえっ」

 恥ずかしがりながらも精一杯気持ちを伝えた俺に、飛び蹴りが襲いかかってくる。

 どうしてだろう、めちゃくちゃ気持ちいい。

 その後も、飛び蹴りで横たわった俺をロリが罵倒しながら踏んづけてくる。

 正直なところ結構痛いけど、その痛みとロリの高い声での暴言の数々が俺の心を的確に射抜くキューピッドの矢のように心に刺さってくる。

 刺さるといっても、もちろん心が痛む刺さり方ではない。

 やめないで欲しい。もっと踏まれたい。

 そんなポジティブな感情が止まらなくなる、幸せいっぱいの刺さり方だ。

「……ああ、幸せ……」

 思わず声が漏れてしまう。

 今日は妹の涙にロリの罵倒と、いくつの快楽を受けたら気が済むんだろう。

 いいや、もう十分すぎるほど気は済んでいる。

 ただ、この快楽を一度知ってしまうと失ってしまうのが怖い。

 ……いつかロリの罵倒って、法律で禁止されるんじゃないだろうか。

 いや、まあ今だって法律の範囲内なのかどうかは十分グレーだけど。

 とかなんとかアホなことを考えていると、痺れを切らしたロリが最後の一発を叩き込んだ。

 俺の腹がくの字に曲がる。

「フカ、なに喜んでるのっ! そうじゃなくて、他にわかったことがあるでしょ!」

 最後の一撃をくらって尚も笑顔を浮かべている俺に恐怖しながらも、いばるロリ。

 そんなこと言ったって、分からないものは分からないしなぁ……。

 っていうか、さっきの褒めたのは不正解だったのね?

 てっきり俺、女の子は裸を見られたら褒められたいものだと思ってた。

「ほーら! はやくいって! わたしの正体は――?」

「ええと、お前の正体は……」

 急かすロリに、悩む俺。

 ここでまた失敗すれば踏んでもらえるかもしれないが、長引きそうだ。

 つまり俺がこの子の正体を知るのが先延ばしになるわけで、それは御免願いたい。

 だから、俺は考える。とにかく、彼女の裸を思い出す。

 乳首のない、平坦な胸。それから、へそのない柔らかそうなお腹。

 ここから導き出される答えは――

 

「お前の正体は、ロリっ子だ!」

「ふざけんな死ねぇ――!」

 

 ――残念、ハズレ。

 だけど、また少しだけ踏んでもらえて俺としては満足だ。

「はぁ……はぁ……もう!」

「悪い悪い、どう考えてもロリしか頭に浮かばなくてな……」

 ほら、クイズ番組とかでもあるじゃんか。

 すごい難しく考えちゃうけど、正解が実はなんでもない一般常識だったってケース。

 あの感じで、思ったことを答えてみちゃったんだよ……。

 すると、不満げに少女。

「さっきからロリロリいってるけど、わたしはフカよりもずっと長く生きてるんだからね!」

「うそ、マジで⁉︎……絶対ランドセル背負ってる歳だと思ってた……」

 どうやら、人を見かけで判断してはいけないというのは本当だったらしい。

 と、感心していると、ふと違和感が頭をよぎった。

「ちょっと待てよ……? 俺よりずっと長く生きてるってことは……」

「ふふん、やっと気づいちゃったんだね!」

 ぺったんこな胸を張るぺったん娘。

 なにやら威張っているが、まったく威圧感がないのだから不思議だ。

 でも、年齢がずっと上だと言うのは一体どういうことなんだろう。

 もしかして、もしかするとだけど……。

「宇宙人、とか……」

「正解!」

 うぉっ! マジでか!

 頭の上でマルを作って、嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる少女。

 言われてみれば、普通の人間より跳躍力が高い気もする。

 地球より重力の強い星からやってきたんだろうか。

 背の低さも、そのせいなのかもしれない。

 ――って。

「ふはははははは」

「ど、どうしたのフカ! 急にそんなに笑ったら驚くでしょ」

「いやいや、だって、宇宙人って……そんなわけないだろ」

「……ええっ! 信じてないの!」

「そりゃあな。ま、小学生はそんな戯言言ってないで、さっさとお家に帰るんだな!」

「むうう……ムカつく! また踏んづけてやるんだから!」

「お、やったぜ。またご褒美タイムか。俺の人生楽しくなってきたな!」

「やだもうこの人! 無敵だ!」

 



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宇宙人。

 ふははは、ともう一度笑って見せる俺。

 だってこんな小学生の見栄っ張りみたいな発言、信じる方がどうかしてるだろ。

 おそらく、売り言葉に買い言葉。

 ロリと言われて頭にきた少女が、適当に反撃に出た結果だろう。

 俺より年上だというのも宇宙人だというのも真っ赤な嘘。

 とりあえず、この子は交番にでも届けて家族を探してもらおう。

 なんて、現実的な対処を考えていると。

「むううう……裸までみせたのに信じないなんて……!」

 なにやら、少女が拳を握って威嚇を始めた。

 大気がビリビリと揺れて、平衡感覚が失われる。

 それから、俺の体は宙に浮かび上がり……あっ、ちょっと待て!

 なぜか、着ていた服をはぎ取られていく。

 何だこれ……超能力⁉︎

 それとも、まだ悪夢の続きを見ていたのだろうか。

 考えている間に、既にパンツまで脱がされてしまう俺。

 パンツまで脱いで、フルチンになったところで――

「えっへん、これでわたしが宇宙人だって認めてくれる?」

 と、オーバーオールロリが無い胸を張る。

 しかし、たまげたもんだ。

 今朝はレベルアップと空中浮遊なんていう、おかしな現象を二度も体験してしまった。

 が、しかし!

 俺はこれが現実だとは思ってないからな!

 だっておかしいだろ?

 このロリの存在だって意味がわからないのに、意味のわからない現象が立て続けに起こってる。だとすると、これは夢だと初めから割り切って楽しんだ方が賢いんじゃないだろうか。

 だから、俺はロリに告げた。

「うん、認める認める。だから服を返せ」

 しかし、ロリ側は俺の適当な態度が気に入れなかったようで――

「うわ! なんかムカつく!……このまま服返さずにここに警察呼ぼうかな!」

「ごめんやめて信じるから認めるから俺を犯罪者にしないで――!」

 ……国家権力を味方につけたロリは、なによりも強いのかもしれない。

 

   *

 

「まったく……おへそがない時点で察してよ。生まれ方が違うってさ」

 場所は変わって、我が家のリビング。

 服を着た俺は、少女から大事な話があると言われてお茶を振る舞っていた。

「悪かったよ、すぐに信じなくて……。でも、こんなこと現実にあるとは思えなかったからさ」

 軽く頭を下げて、謝罪の言葉を口にする。

 すると少女はお茶を一口飲んでうなずいた。

 どうやらそれに関しては許してくれたらしい。

 家族四人の食事に使う、大きめのテーブルを挟んで二人。

 普段生活を送っている日常の風景に異常が混ざっていることが、何となく恐ろしい。

 ……でも、こいつが宇宙人……ねえ?

 どう見ても人間の小学生にしか見えないが、あれだけの力があるんだ。

 さっきは脅されて信じるフリをしたけど、冷静に考えるとおかしな話ではない。

 宇宙は広大。分かっていることよりも分からないことの方が圧倒的に多い世界。

 ならば、地球人に似た生命体が暮らしている星だって。

 こうしてロリっ子が俺よりも長生きな星だって、あっても何ら不思議はない。

 そんなふうに、宇宙に想いを馳せていると。

「……フカ」

 少女が、ゆっくりと話し始めた。

 さっきは突然話し始めちゃったから、と自己紹介をし始める。

 プロフィールをまとめると、こうだ。

 まず、名前はリノ。星の言葉では『静かな闇』という意味らしい。

 名前に闇なんて物騒だなと感想を口にすると、故郷ではそういうものなの、と。

 そして、故郷の星の名前は『オードル・ト・レール』

 彼女は、そのオードル・ト・レールから命令を受けて地球にやってきたのだという。

 



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滅亡の火種。

「……そこで、本題なんだけど……」

 もう一口お茶を飲んで、目を瞑るリノ。

 たっぷりと時間をとって空気を整え、自分のタイミングで話し出す。

「……実はね、今回地球にやってきたのは……あなた達を守るためなの」

「俺たちを……守る?」

「……そう。このままでは地球は……一人の人間によって、滅ぼされてしまうの」

 突然の、地球滅亡危機の告白。

 今朝の俺なら、何を馬鹿なことを、と鼻で笑っていたかもしれない。

 そんな都市伝説のような話を信じられるわけがないと。

 しかし、俺はもう知ってしまった。

 不思議な力を、実際に目の当たりにしてしまった。

 だから、真剣に話を聞いて、リノに先を促す。

「その、一人の人間って……?」

 ここまで聞いて、ある程度の察しはついていた。

 なぜなら、彼女は大統領でもなく総理大臣でもなく、俺のところにやってきたから。

 きっと俺の近しい人間か、俺自身か。

そのどちらかが地球人にとっての脅威なんだろう。

すると、リノの口から出た人物の名前は、案の定俺のよく知る人物だった。

「……その人間の名前は、木村刺身。あなたの妹さんよ……」

 妹が、俺たちの地球を滅亡させる火種になりうる存在。

 にわかには信じがたいが、リノがいうならそうなんだろう。

 でも、やっぱり長い間近くで見てきた兄としては納得がいかない。

 どうして彼女が地球の脅威になるのか、どうして彼女が地球を滅亡させてしまうのか。

 それをきちんと説明されなければ、協力することはできない。

 複雑な思いを抱いていると、それを察したかのようにリノが話し出す。

「遠い昔、わたしたちの祖先は、争いを繰り返していたの」

 どうやら、オードルトレールの歴史を話してくれるらしい。

 それがきっと現在の俺たちの置かれた状況にも繋がってくるのだろう。

 リノが続ける。

「西と東、二つの勢力がぶつかり合って、たくさんの人が命を落としたわ」

「星は違っても、ヒトっていうのはどこも同じような間違いをするもんなんだな」

「うん……」

 どこか遠い目をして、悲しそうにうなずく彼女。

 その表情は、ロリには似つかわしくない大人びたもので。

 俺は、子供にもそんな表情をさせてしまう人間という存在を心から淋しく思った。

 そんな気持ちが伝わったのだろうか。

 リノは「でも、それは昔の話」と、微笑んで見せた。

 そして、再び真剣な顔で話し始める。

「その時にね、どちらの勢力にも属さない民族がいたの」

「そいつらは戦争に巻き込まれたってことか……」

「そう。でも……しばらくして、彼らは星を抜け出した」

 オードル・ト・レールでの戦争は、二つの勢力による戦争だったが、被害を被ったのは第三者。そのどちらにも属さない一般市民達だったという。

 彼らは資源や日用品までもを戦争中の勢力達に奪われ、さらに侵略を受けるなどして自由を剥奪されていった。

 しかし、彼らは諦めなかった。

 現状を打破するため、星からの脱出を試みたのだ。

 二大勢力から隠れて、日夜宇宙船を製造する。

 苦しい生活の中、たった一つの望みがその宇宙船であった。

 しばらくすると試作品が完成。飛ばしてみると、多少不安定ながらもきちんと浮遊した。

 脱出計画を実行に移すとなれば、星間での長い旅が想定される。

 本来オードル・ト・レール人に備わっていた超能力では補いきれなかった持久力を、宇宙船は見事にカバーしてみせたのだ。

 宇宙船の完成に、一般市民達は歓喜した。

 これで戦争から逃れられる。やっと平穏な生活が帰ってくる。

 誰もが安心したその時だった。

 この計画に隠された、大きな穴が発覚する。

 宇宙船の開発を担っていた博士が、深刻な表情で呟いた。

「二号機を開発するための……資源がもう残っていない……」

 深刻な資源不足。それが、一般市民達の計画の穴だった。

 もともとは、まだ余りのあった資源で作られていた宇宙船。

 しかし、戦争が激化するにつれてその資源も徐々に枯渇していった。

 その結果、完成できた宇宙船は試作品の一隻のみ。

 乗船定員は、たったの十人だった。

 



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外来種。

「そのあとは、開発者を含む十人が船に乗って宇宙に旅立ったわ。そして、見つけ出したのがこの星、地球だったの」

「それで、その話と刺身の間に何の関係が……?」

 壮大な他の星の戦争の話を聞かされたが、それがどうこの状況と関わってくるのかがさっぱり分からない。

 昔の話だっていうんだから、リノ自信がその逃げ出した宇宙人の一人だというわけでもなさそうだし…。

 と、首を捻っていると、リノが説明を加えてくれる。

「単刀直入にいうとね……今の地球人の祖先は……その十人なのよ」

「……えっ?」

「フカたちは猿から進化したとか、魚から進化したとか教えられてるみたいだけど……実際は、全然違う。猿や魚が元々の地球上の生物だったのに対して、フカたちはいわば外来種なのよ」

 ――外来種。

 もともとその地域にいなかったのに、人為的に他の地域から入ってきた生物のこと。

 近年では外国から入ってきた外来種が生態系を壊すっていう環境問題がよく取り上げられてニュースになってるけど、人間自体がその外来種だったのか……。

「フカも知ってるんじゃない? 人間が食べすぎて絶滅しちゃった動物とか、駆除しすぎて絶滅しちゃった植物とか」

 心当たりがある。

 この間もクイズ番組で、南アメリカで狩猟しすぎた結果、絶滅の危機に追いやられた動物の問題が出題されているのを見たばっかりだ。

「……本来、そういった動物や植物は絶滅しないはずなのよ」

 リノは言った。

 確かに、外来種が問題で絶滅するという話はよく聞く。

 それに、気候変動や噴火、地震などで絶滅するという話も。

 ――しかし、在来種同士の問題で絶滅した動物や植物がどれだけあっただろうか。

 そりゃあ全くいないってことはないだろうが、少なくとも俺は聞いたことがない。

 現在生態系の破壊や絶滅の原因とされているのは、主に土地開発や土地の汚染。

 それから乱獲や密猟、外来種の持ち込みや気候変動だ。

 そこで、改めて人間が地球自体の外来種だと考えてみると――

 土地開発や乱獲、密猟、在来種の持ち込みは言うまでもなく人間の仕業。

 それに、土地の汚染や気候変動だって原因を追ってみれば人間にたどり着くだろう。

「…………そう、だったのか……」

 考えてみれば、腑に落ちることが多すぎる。

 数多くいる生物の中でも、人間だけが言語を持つ不思議。

 与えられた高すぎる知能。

 人間だけが衣服を着用する不思議。

 それらの不思議が、「人間は宇宙から来た存在」だという一つの真実によって解明されていく。

「地球には、蛇の神様がたくさんいるでしょう?」

 突然、そんなことを言い出すリノ。

 俺は各国の神話とかを熟知しているわけじゃないが、ゲームや漫画でよく聞く神様には蛇が関係しているものが多かったような気がする。

 でも、それがどうしたんだろう?

「ククルカンや、ティアマト……それから、旧約聖書に登場する蛇」

 リノは世界各国の蛇の神様を並べて見せるが、それがなんだというのだ。

 考えたところで、わからない。

 彼女の言う宇宙から来た人間と、蛇の共通点。

 本当にそんなものが存在して、それで彼女は話題を出したのか。

 それとも本題とは全く関係のない神話の話を持ち出して、からかっているのか。

 じっと彼女の顔を見るけれど、その表情は真剣だ。

 とてもからかっているようには見えない。

 と、少し彼女を疑ってしまうくらいに脳がパンク寸前になっていた時だった。

 リノが、ポツリと単語を漏らす。

「――彗星」

 彗星…………?

 その言葉に、一度頭を真っ白にして彗星を思い浮かべる。

 藍色の画用紙に絵の具を一文字、殴り描きしたかのような見た目。

 星空のキャンバスに圧倒的な光を放つ、異様な存在感。

 今でこそ街中が煌びやかで人々は光を嫌と言うほど見ているが、それでも非日常感に魅せられ、魅きつけられる魅惑の光。

 それが、明かりもロクになかった江戸時代、室町時代……いや、もっと前に訪れていたとしたら、人々はどう感じたんだろう。

 きっと、それこそ今のように「綺麗」の一言で終わらずに神様の贈り物か何かだと勘違いしたんじゃないだろうか。または、神様そのものだと――

「……ちょっと待って、もしかして……」

 直感で、あることにたどり着いてしまう俺。

 これが分かったところでこの世の真相が解けたとか、そんなことはないのだが……。

「……そう。フカが思った通り、蛇の正体は彗星のしっぽ。それを見て、人間は蛇の神々を創造したと言われているわ」

 そして、と続けるリノ。

「それこそが……オードル・ト・レールからの宇宙船、第二波よ」

 



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知恵を与えた存在。

 最新の研究では彗星が蛇神のモチーフだとされていたが、実際は彗星に見える宇宙船だったのだと彼女はいう。確かにその後定期的に訪れたとされる蛇神はすべて彗星を見間違えたものだが、旧約聖書をはじめとする神話に登場する蛇は全て宇宙船を表現したものだと。

 最初の宇宙船に乗った十人が地球にやってきてからしばらくして。

 二大勢力の戦争は終結し、オードル・ト・レールには復興の時代が訪れていた。

 戦争で失われた資源や自然を大切にしようとする動きが活発になり、平和の時代に移り変わっていった。

 そんな中――当時甚大な被害を被っていた一般市民達の生き残りが、宇宙船に乗って旅立っていった仲間のことを大々的に発表した。

 すると、星中は大混乱。

 償いと救出、その二つを目標に捜索隊が設けられた。

 新たに見つかった資源などは宇宙船を作るために使われ、人々は応援し。

 そうして、ついにオードル・ト・レール人は百人規模の宇宙船を完成させ、自分たちの備わっていた超能力を頼りに宇宙へと旅立ったのだ。

 それから、地球へとたどり着くまではそう長い時間かからなかった。

 なぜなら、オードル・ト・レール人同士ならばお互いの居場所が超能力でわかるから。

 船長は地球にいる十人のその力が弱まり、そして増えていることに疑問を感じたが、それでも地球を目指し船を動かし続けた。

 そして、ついに地球にたどり着いた時――宇宙船の乗組員達は、自分たちの誤算に気がついた。地球の時間の流れは、オードル・ト・レールと比べて、かなり早いものだったのだ。

 宇宙船を降りてみると、数多くの自分たちに似た生物が存在したが、オードル・ト・レール人そのものはどこにも存在しなかった。

 つまり――最初に来た十人は既に子孫を残し、死んでいったのだ。

 その際、交配の相手に選ばれたのは地球の在来種、猿だった。

 そのため、本来ならオードル・ト・レール人に備わっているはずの超能力は弱まり、乳首やへそを獲得するなどの変化が生じ、完璧だった性質が崩れ去ってしまっていたのである。

「はじめの十人が地球に降り立った場所は、今のエジプトと呼ばれているところ。でも、交配を重ねるうちに狩猟対象を求めて各地へと散らばっていったみたいね……」

 リノは、続けて第二宇宙船の乗組員達が行なった功績を話して聞かせた。

 例えば、彼らが各地の猿人たちに農耕を教えたこと。

 それもただ農耕について教えるだけでなく、次第に灌漑設備を開発するなどの大規模な農耕を可能にする知恵をつけるよう、遺伝子を少し弄って持続可能なものにしたこと。

 例えば、文字や絵を伝え、その文化を次の世代へ継承していけるようにしたこと。

 その結果猿人たちが地球人として知恵を授かり、絵や文字、言い伝えによって「知恵を伝えた者」、つまりオードル・ト・レール人を蛇として神格化したこと。

「……だから、旧約聖書では最初に蛇が出てくるのよ。禁断の果実を食べさせた存在としてね」

「知恵を与えた存在……か。あの蛇が、地球外生命体を表していたとはな……」

 感心していると、もう一口お茶を飲もうとして、カップが空になっていることに気がつくリノ。申し訳なさそうに目配せしてくるから、俺も残っていたお茶を飲み干して補充に向かう。

 キッチンにある急須を持ち上げると、中身はちょうど一杯分くらいはありそうだった。

 ……せっかくだから、お客さんに一杯持っていってやるか。

 俺はそっと自分の湯飲みを食洗機に置くと、リノのカップにお茶を注いで再びリビングへ。

 歩きながら、頭の中を整理する。

 人間はもともと宇宙人で、猿と交配した結果地球人が生まれた。

 そして、地球人に知恵を与えたのもまた宇宙人。

 ……うーん。

 そうなると、地球人はオードル・ト・レール人の分岐した種族ということになるんだろうか。

 リノの姿形が人間にそっくりなのも、遠い親戚だからと言われれば納得がいく。

 っていうか、猿と人間より近いもんな俺たち!

 猿とは喋れないけどリノとは喋れてる時点で地球人とオードル・ト・レール人の関係が深いことは明白だ。

 ……と、ここまでは理解できたし、納得もできた。

 はじめは都市伝説的な話だと疑ってかかっていた俺だが、根拠のある説明によって、完全にリノのことを信じざるを得なくなった。

 ただ、問題はここからである。

 どうしてそれが、刺身が地球を滅ぼすことに繋がってくるのか。

 今の説明だけでは、皆目見当がつかなかった。

 



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中二病。

 リビングのテーブルについて、リノにカップを差し出す。

 すると、彼女は勢いよく二口でそれを飲み干すと、俺に椅子に座るよう指示した。

 それから、その小さな口を開いて告げる。

「今話したのは、オードル・ト・レールと地球の歴史。フカは理解が早くて助かる」

「まあ、俺も多少は中二病だからな。普通の人よりは頭が柔らかいのかもしれない」

 俺の軽口に「中二病……?」と首を傾げるリノ。

 これまでの話は全て通じてきたが、中二病は難しかったらしい。

 宇宙に中二病はいないんだろうか。

「……じゃあ、今度はさっきまでの話を踏まえて妹さんについての話をするわね」

 中二病のことはなかったことにして、さっさと本題に入る彼女。

 俺としては無視された感じがしてちょっと心が痛むけど、仕方のないことだ。

 スムーズに話が聞けるよう、続きを促す。

 すると、彼女は「最近、フカの妹さんになにか変わったことはなかったかしら?」なんて、いきなり質問をぶつけてきた。

「そうだな……」

 変わったこと、か。

 ここ最近の刺身について、思考を巡らせる。

 高校に入学して、手芸部に入ったこと。

 それから、家でカリンバという楽器を買ってひそかに練習を始めたこと。

 あとは……えーっと……そうだな……

「…………あ」

 考えて、考えて、思い当たる。

 突拍子もなさすぎて忘れてたけど、そういえば今朝すごい変わったことがあったじゃんか!

 身体が光り輝いたと思ったら、突然表示された「レベルアップ」の文字。

 あれ以上の変化が刺身にあったとは到底思えない!

 答えにまた一歩近づいたような感じがして、テンションの上がる俺。

 昂った気持ちのまま、リノに心当たりを告げる。

「レベルアップだ! 今朝、刺身がレベルアップしたんだよ!」

 よっしゃー、と、意味もなくガッツポーズを見せる俺。

 しかし、そんな俺とは対照的にリノはなんだか落ち着いている。

 そして、その落ち着きのままゆっくりと口を開いた。

「…………あ、ええと……多分そのレベルアップ? っていうのは全然関係ないわ」

「…………えっ⁉︎」

 う、嘘だろ⁉︎

 あんなに地球上の概念では考えられない謎の現象が、関係ない⁉︎

 そんなわけがないだろう、と再び俺はリノの顔を覗き見る。

 すると彼女はそれに気がついたようで、無表情のままこちらを一瞥すると言った。

「……冗談よ。レベルアップ、すごく関係あるわ」

「このガキ――! なんで一回騙したんだぁ――!」

「……えへへ、さっき照れさせたお返し!」

 フっと柔らかい表情になっていたずらっぽく笑うリノ。

 うーん、俺がロリコンだったら惚れていたかもしれない。

 っていうか、多分襲ってたな!

 だってほら、ここ自宅だし?

 ノコノコ自分から訪問してきたロリが全裸見せてから微笑みかけてきたら、ロリコン耐えられないだろ。俺がロリコンじゃなくてよかったよ。

 とまあ、ロリコンじゃなくてよかったトークはここまでにしておこう。

 刺身という優秀な司会者がいなくなった今、脳内会議は永遠に続く可能性があるからな。

 なんて、馬鹿な思考を取り払おうと思った時だった。

「……フカ、あの……すごく言いづらいんだけどね?」

 怯えたような顔をして、リノがこっちの様子を伺っている。

 それも、自分の身体を両手で抱くようにして、酷く狼狽ているようだ。

「えーっと……宇宙人様、どうされました?」

 俺が聞くと、継続して怯えたような表情で告げてくる彼女。

「……実は、オードル・ト・レール人に備わった超能力として、フカの頭の中は多少覗けるというか、分かってしまうわけで――」

 だからどうしたというんだろう。

 それならば、うちの妹だって同じ能力を持っている。

 だけど、別に刺身は俺に怯えたりはしてなかったよな……

 と、そこまで考えたとこで気が付く。

 ……あれ?

 俺、さっきまで、ロリだったら襲ってたとか、そんな物騒なことを考えてなかったか?

 それを踏まえて、もう一度リノの方を見る。

 すると、さっきと変わらず青ざめた表情で、涙目になってこっちを睨む彼女。

 ……うん、完全に身の危険を感じてる目だ!

 これはマズい! 警察に通報される前に、どうにか誤解を――

「安心して! 俺はロリコンじゃないから! こんな未成熟な身体に欲情しないから――!」

「な、何言ってんの変態! それはそれでムカつく! 死ねぇ――!」

 ロリっ子だって答えたときと同じように、顔を真っ赤にして怒るリノ。

 どうやら、貧相な体型にコンプレックスがあるらしい。

 俺にとっては、乳首がない時点でおっぱいが大きかろうが小さかろうが、背が高かろうが低かろうが、欲望の対象にはならないんだが……。

 まあ、そんなことを伝えたところで火に油を注ぐだけだ。

 大人しく、レベルアップについて話を聞くことにする。

 



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読心術。

 と、俺が椅子に座り直して聞く態勢を整えたときだった。

 ……待てよ? ちょっとおかしくないか?

 ふと、また違和感のようなものに襲われる。

 妹の刺身がいつの間にか習得していた、心を読む技術。

 そして、オードル・ト・レール人が本来持つ、心を読む技術……。

 スルーしてしまうところだったが、これもレベルアップと同じく無関係とは思えない。

 だって、普通の人間だったら、他人の心を読むなんてことができるはずはないのだから。

 できるとすれば、オーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズなどの物語に登場する探偵だけ。しかも、あれだって心を読んでいるわけじゃなくて思考を推理しているだけだし。

で、あるならば……うちの妹がその能力を有するのは、何か意味があるはずだ。

 例えば……刺身が、オードル・ト・レール人そのものだとか。

 でも、刺身はれっきとした地球人だと思われる。

 だって、彼女が生まれたときからついさっきまで、俺はずっと近くで見てきたのだから。

 母さんがお腹を痛めて産んだ時点で、刺身は地球人として生を受けている。

 それに……もちろん、乳首やおへそだって存在してるわけだし。

 これだけの条件が揃っていて、刺身が宇宙人でしたなんていう、ふざけたエンドはやってこないだろう。

 だとすると、どう考えれば読心術に説明がつくんだろう……。

 それが、さっぱり思いつかない。

 思考の行き止まりを感じた俺が頭を抱えたときだった。

「そこまで考えられれば上出来。やっぱり、フカは理解が早くて助かる」

 と、リノが微笑んだ。

 照れたり、微笑んだり、表情がコロコロ変わってかわいい奴め。

「ここからは、わたしが説明するからフカは安心して聞いててね」

 若干の上から目線で、リノが話し出す。

「結論から先にいうと――妹さんの読心術と、オードル・ト・レール人の読心術には関係があるわ。もちろん、全く同じではないけれど……元を辿れば、おんなじものよ」

 そこまでは、自分で考えて思い至った通りだ。

 説明を聞く限り、関係ないと言われた方が納得できない。

「ええと、実はその関係っていうのがわたしの話したいことだったりするんだけど……」

「刺身が地球を滅ぼすって話とも関係してくるのか?」

「……その通り。だからわたしも、どこから話したらいいのか整理が追いつかなくって……」

 顎のあたりに手を当てて、考え込むような仕草をすることしばし。

 さっきまでの頼れる感じはどこにいったのだろうと疑問に思うが、それだけ説明が難しい話なんだろう。実際のところ、俺もリノが何を言いたいのかが全く推察できない。

 だから、彼女が話し出すのをじっと待つ他にやることはないのである。

 でも……そうだな、お茶のおかわりくらいは用意しておくか。

 と、立ち上がろうとしたときだった。

「……フカ、そのまま座ってて。今から説明を始めるから」

 リノが、すっきりしたような顔でそれを制する。

 どうやら、言いたいことがまとまったみたいだ。

 俺も、彼女に合わせて再び話を聞く体勢に戻る。

「……これだけ話すのに時間がかかったのは、話すのが難しいからじゃないの」

 リノが少し小さめの声で話し出した。

「難しい話だからじゃなくて……急にフカにこんな話をしてもいいのか、迷ってたのよ」

「……それは、心の準備ができていないと思ったからか? それとも、理解が追いつかなそうだから?」

 俺の質問に、リノは少し考え込んだあと訥々と回答する。

「……その、両方ね」

 心の準備が必要で、理解の難しい話。

 さっきの地球人の歴史だけでも、俺の脳みそは限界に達しそうだった。

 だから、きっとここからはさらに宇宙規模で難しい話になってくるんだろう。

 もしくは――理解はできるけど、理解したくない。そんな話に……

「……フカは、本当に察しがいいわね」

 リノが、またも俺の心を読んで賛美する。

 しかし、気の所為だろうか?

 今一瞬、彼女の表情に翳りのようなものが……

「じゃあ、そんな察しもよくて理解も早いフカには、直球で説明するね」

 ……まあ、気の所為だろう。

 これから難しいことを聞くっていうのに、他のことに脳のストレージを使ってしまうのは勿体ない。

 気を取り直して、リノの長い睫毛を一直線にとらえる。

 これから出てくる言葉がどれだけ突拍子のないものでも、理解し尽くしてやる。

 そんな心意気で彼女を見つめる。

 すると、ついにリノが核心的なひとことを放った。

 

「フカの妹さん――刺身ちゃんは……ほとんど、オードル・ト・レール人なの」

 



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遺伝子の継承。

 ……えーと……なんだって?

 思わず口を開けてわかりやすくポカンとしてしまう。

 ……いやだって、ほとんどってなんだよ!

 宇宙人か地球人かに、そんなほとんどもクソもあるか!

 頭の中で、激しく肩を震わせる俺。

 かつてこんなに理解に苦しむ、理不尽な言い回しが存在しただろうか。

「複雑で簡単」とか「丸い四角形」みたいに明らかに思考の余地がない言い回しじゃなくて、なんとか考えれば答えが出そうなのが余計に厄介だ。

 刺身は「ほとんど」オードル・ト・レール人。

 つまり、地球人の部分も少しはあるってことか?

 ……ダメだ、分からん。

 自分で考えても分からなそうだから、リノの詳しい説明を聞くことにする。

「えっと……そうね……じゃあ、いくつかに区切って話しましょうか」

「おう、それで頼む。できるだけ俺にも分かりやすくな」

 俺が頭を捻っている間、リノも説明の仕方を考えてくれていたらしい。

「刺身に何が起こっているのか」「これからどうなっていくのか」「俺に何ができるのか」

 この三つに分けて、これから説明してくれるんだそうだ。

「じゃあ、まずは刺身ちゃんになにが起こってるのか説明するね!」

 だんだんと整理がついてきたからか、少しテンションの上がるリノ。

「ん……っと、フカはさっきの話で地球人の祖先が移住してきたオードル・ト・レール人だってことは理解してくれたよね?」

「ああ。外来種だって説明で納得した」

「じゃあ、フカたち人間の遺伝子の全部にオードル・ト・レール人の遺伝子が入ってることも理解できるよね?」

「そりゃあ、祖先がオードル・ト・レール人なら遺伝子の形もオードル・ト・レール人のものを継承していくんだろうからな。自然に考えてそれも分かる」

「で、ここからが問題なんだよ」

 フカなら理解してくれるだろうけど、とリノ。

 そんなに買い被られると不安になってくるけど、頑張ってみるか。

 深呼吸する俺に、リノは小さな口を一生懸命動かして告げる。

「だから、もちろんフカも……くだんの刺身ちゃんも、その遺伝子は持ってるの」

「まあ、人類全員が持ってる遺伝子なんだから、そりゃそうか」

「でね、ここからが本題。その刺身ちゃんなんだけど――オードル・ト・レール人の遺伝子が、他の人より色濃く反映されているの」

「……っていうと……なんだ、隔世遺伝みたいなもんか?」

「その通り。長い間潜性遺伝子として受け継がれてきたオードル・ト・レール人の遺伝子が、何万年もの時を経て刺身ちゃんの遺伝子に大きく影響をもたらしたの。……わたしが今日地球のこの場所にピンポイントに来ることができたのも、刺身ちゃんに備わった超能力のおかげね」

「……そうなると、刺身が心を読めるのもその隔世遺伝のおかげってことか」

「そう。刺身ちゃんの超能力は、彼女の体質に合った形に適応して表に顕れたの」

 それから、リノは他にも過去に隔世遺伝が起こった例を教えてくれた。

 例えば、全世界に伝播した宗教で崇められるような人物たち。

 さらには、世紀の大悪党や超人とされる人たちまで。

 しかし、彼女は話の最後をこう締め括った。

「過去、これらの人間たちとは行進を重ねてきたけど……今回の例は特殊なの。こんなに色濃くオードル・ト・レール人の血が顕れたのは、フカの妹さんが初めてよ」

 ……つまり、刺身はそれらの人物よりももっと多くの才能を持ち得るということだろう。

 人々を導く女神のようになるかもしれないし、人々を救う天使のようになるかもしれない。

 しかし、リノのトピックの二つ目「これからどうなっていくのか」の部分において、そんな期待は泡になって崩れ去っていく。

 なぜなら――

「それがね、フカ。今の刺身ちゃんを見てると……確実に、悪い方向に進んでる」

「なんだって!」

 どうやら、刺身の向かっていく先に明るい未来はないらしい。

 過去の例でいくと、崇められる側ではなく、大悪党側。

 それが、なんと地球の滅亡に繋がるほどの破滅に向かっていくというのだから問題だ。

 



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精神異常。

「……さっきの外来種の例に戻るけど」

 と、リノ。

 彼女曰く、地球人はもともと外来種でありながら、猿との交配や環境に馴染むための進化を続けた結果、地球にそこまでの害をなす存在ではなくなったという。

 しかし、原初の地球人に近い遺伝子を顕にした刺身はどうか。

 彼女は、人類が何万年もの時間をかけて進化してきた部分を取っ払った個体なのだ。

 ――つまり、彼女は純粋に、生態系が変わってしまう前の「外来種」としての人類なわけで。

「……結論を言えば、今の地球や人類には到底馴染まない行動をしてしまうようになるでしょうね……もちろん、今の人類には未知の超能力を使って」

 そうなったら最後、刺身はどうなってしまうのだろうか。

 世紀の大悪党として吊し上げられる? 

それとも、全地球人の反感を買って殺されてしまう?

……いいや、リノの説明によると……暴走した刺身は、そんなことでは死なない。

だから――刺身の行き着く先は、孤独だ。

嫌われるとか、無視されるとか、そんな次元じゃない孤独だ。

残された人類は一人だけ。さらに、故郷である地球すら滅亡して存在しない。

今までに誰も味わったことのない、これ以上ないほどの孤独だ。

 考えただけで、叫び出しそうになる。

 考えただけで、吐きそうになる。

 それを、最愛の妹が……

 兄想いの可愛い妹が、経験しそうになっている。

 何か、食い止める手立てはないのだろうか。

 期待を込めてリノを見る。

 すると、心を読んだのか、それとも表情から推察したのか。

 彼女は、「だから『フカに何ができるのか』をこれから説明するっていってるじゃん!」と、小さな真っ白い歯を見せて笑った。

 見た目はロリのくせに、随分と頼りになる表情をする目の前の宇宙人。

 俺に与えられた選択肢は、やはり彼女の言葉を信用し、それに従うことしか存在していないらしい。

「じゃあ……まずは、さっきまでの説明に足りなかったことを補足していくね?」

 頼もしい、それでいて可愛らしい笑顔のままリノが続ける。

「最初の説明にあった、オードル・ト・レール人が地球の在来生物である猿と交配した――っていう部分なんだけどね、フカはどうしてその二種類の間で異種間交配が行われたと思う?」

「ええ……っと、普通に考えたら、子孫を残すためにその土地の生物と交配したんじゃないか?」

 初めに説明を受けた時から、勝手に思い込んでいた理由。

それを素直に口にする。

 頭のいいオードル・ト・レール人のことだ。

 きっと、種としての将来のことも考えて原生生物との交配を試みたに違いない、と。

 しかし、目の前の少女は首を横に振る。

「彼らが猿と交配した理由は――そんな、理論に基づいたものじゃないの」

 ここからは若干理屈で考えられない話になっていくから気を付けてね、と彼女。

 一体、猿と宇宙人、地球人の祖先の間に何があったのか。

 例の如く想像のつかない俺は、リノに次の発言を促す。

 すると、彼女は少し躊躇うような仕草のあと、言った。

「また、これも結論から話すことになるけど――正解は、奇行よ」

 今更考えることでもないが、宇宙は未知で、広大だ。

 だから、もちろん他の星に移住するということになれば、それ相応のリスクが伴う。

 例えば、凶暴な生物に出会ってしまったり。

 例えば、今までに見たことがない災害に襲われてしまったり。

 例えば――精神に、異常を来してしまったり。

「最初の宇宙船の乗組員たちは、地球の環境なんて調べている暇がなかったのよ。だって、その当時オードル・ト・レールは戦争をしていて、命からがら逃げてきたわけだからね」

「じゃあ、原因は地球の環境だったってことか……?」

「そうよ。地球の環境は、オードル・ト・レール人に麻薬のような効果をもたらすの。幻覚を見せたり、精神異常に陥らせたり、ね」

 二回目の宇宙船が地球に向かった時には、しっかりと調べられていた地球の環境。

 それを知らなかったがために対策できなかった最初の十人は、狂ってしまった。

結果として、彼らが引き起こした行動は幸いにも環境を破壊したり地球を滅亡させたりするようなものではなかったが――原生生物である猿との交配という、後の地球にとって大きな行動ではあったのだ。

 



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ミッション。

「だから、フカたち地球人が誕生したのは偶然でもあるの。もちろん、彼らがもし精神異常を来していなかったとしたら、フカがいうように子孫を残すための苦肉の策として猿との交配を選んだ未来もあったかもしれないわね」

 目を瞑って、歴史に想いを馳せているかのような表情のリノ。

 先ほど人類の新歴史を聞いていた時には何も疑問を抱かなかった部分が、実は間違いだった。

 まあ、それは俺も今の説明を聞いて理解できた。

 これから刺身を救う方法を聞く上で、正しく歴史を理解しておくことはきっと大切だからな。

 でも――どうして、今のタイミングだったんだろう?

 話の内容を聞くに、別にこのタイミングで話さなくてはいけないことではなかった気がするんだけど――思い違いかな?

 考えないようにするけれど、どうしてもそこが引っかかる。

 だから、未だに遠い目をし続けるリノに質問を投げかけてみた。

「……で、リノ。お前はどうして今俺にその話を聞かせたんだ?」

 ……別に、裏なんてないのかもしれない。

 ただ、なんとなくこのタイミングで話したくなっただけなのかも。

 でも、これまでの説明を聞く限りリノはそこまで何も考えずに話すタイプじゃない。

 おそらく、この話を今のタイミングでしたことも彼女なりの考えがあってのことだろう。

 勘繰りながら答えを待っていると。

「そりゃ、なんの脈絡もなしにこんな話、語ったりしないわよ……」

 と、口を開いたリノが期待通りのセリフを口にしてくれた。

 ……やっぱり、この話はなにか別のトピックに繋がっている……!

 俺の中に、一筋の光が降りてきたかのような希望が見え始める。

 このオードル・ト・レール人と精神異常の話が、刺身を救う手立てと関わってくるとしたら。

 もしかしたら――その精神異常を対策することで、刺身は救われる⁉︎

 俺の仮定はこうだ。

 リノはさっき刺身がこのままでは異常な行動を繰り返すようになると言っていたが、それは地球にいることで生じるオードル・ト・レール人の精神異常。

 しかし、既に二回目の宇宙船クルーたちによってその精神異常を防げることは実証済み。

 だとすれば、きっと精神異常の治療に効果があるワクチンなどが開発されているのだろう。

 そして――俺に課せられるミッションは、そのワクチンを刺身に接種させること!

 よし、どうだ!

 リノ、お前の説明が必要ないくらい俺は推測で理解してるだろ――

「全っ然ちがうよ!」

「全っ然違うの⁉︎」

 ……全然違ったらしい。

 あれー、結構筋の通ったいい考察だと思ったんだけどなぁ……。

 どうも、やはり自分一人で考えられるような次元の話ではないらしい。

 この考察が違うなら俺はもう他になんにも思いつかないため、黙ってリノの説明を聞くことにする。

 すると、彼女はその俺の不貞腐れたような態度に「ふふっ」と楽しそうに微笑んで、説明を再開してくれた。

 



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治療方法。

「でもまぁ、百パーセント違うってわけでもないよ、核心的なところが違うってだけで」

「えーっと、どこが合っててどこが間違ってたのかな?」

「合ってるところはね……刺身ちゃんの状態が、精神異常だってところ。それ以外は全部間違いだね」

 俺の考察の後半部分をバッサリと切ってみせるリノ。

 この思い切りには、居合の達人もびっくりなんじゃないだろうか。

 そして、そんな剣豪リノにぶった斬られて胸を痛める男がここに一人。

 俺がオードル・ト・レール人だったら、今のセリフで精神異常になっていてもおかしくない。

 そんな俺の胸中も知らず、リノは解説を続ける。

「刺身ちゃんが異常行動を繰り返してしまう理由は、オードル・ト・レール人の血が表に出るにつれて、地球の環境が合わなくなってきたからね。精神異常の症状がだんだんと出やすい状態になっていて、危険な状態なの」

 例えば……と、最近の刺身のことを観察していたらしい彼女が具体例を話し出す。

「例えば、今朝フカは刺身ちゃんに目覚まし時計で殴られたでしょ?」

「ああ……普段の刺身だったら、あんな暴力的な真似はしてみせないな」

「あれは、完全に精神異常故の行動よ」

 確かに、それは思い当たる行動の一つだった。

 俺が寝ぼけていたからこそそこまで意識しなかったが、よくよく考えたら異常な行動である。

「あとは――さっきわたしがここに来る少し前の刺身ちゃん。覚えているかしら?」

 ええと、リノがこの家に来る、少し前か……。

 確か、その時は刺身が学校に行く準備をしていて――

「あ! パジャマで出かけたぞあいつ!」

「そう、それよ! あれも、精神異常が彼女に働きかけた結果ね!」

 ……うーん、思い当たる節が今日だけでもこんなにあったとは……。

 頭で考えられなくとも、強制的に納得させられてしまう。

 思わず、ため息が出てしまいそうだ。

 これが――だんだんと、エスカレートしていくんだもんな。

 今日の行動は別に、俺がそこまで疑問に思わないほどの小さなものだったけど。

 それがゆくゆくは猿と交配したり、地球を滅亡させたりするほどの大きな行動に移り変わっていく。それを止めるために、俺になんの協力ができるというんだろう。

 リノは喉が渇いたようで自分でキッチンに行ってお茶を淹れてくると、それを飲みながら再び話し始めた。

「……ぷはっ。お茶おいしいわね……で、ええと? そうそう、精神異常の治療方法ね」

「ああ。俺の考察は間違ってるって言ってたけど……二回目に地球にきたクルーたちは精神異常の対策をしっかりしてたんだろ? だったら刺身にもその方法を使えばいいんじゃないのか?」

 さっきからずっと頭の中にあった疑問をもう一度聞いてみる俺。

 するとリノは再び口一杯に蓄えたお茶を一気に飲み込むと、それに答えてみせた。

「それがね……その対策方法、純粋なオードル・ト・レール人にしか効果がないのよ」

「……ああ、それで……」

 納得した。

 確かに、百パーセント宇宙人に向けて作られたワクチンなりなんなりが、地球人の要素がある刺身に効くかと聞かれれば、それはもちろん違う場合もあるだろう。

 というか、ワクチンなんて地球人の間でも少しの遺伝子の差で効果に違いがあるような繊細なものだ。異星間、異種間となれば効果に違いが出るのも当たり前だろう。

 だけど、と彼女は補足する。

「これがね――地球人向けの対策っていうものを二回目のクルーたちは残していたのよ」

「本当か!……じゃあ、リノはもしかしてその対策できるものを俺に持ってきてくれたとか?」

 嬉しくなって、身を乗り出してしまう。

「ちょ、ちょっとフカ……顔が近いわよ」

「わ、悪い……」

 少し興奮しすぎてしまったようだ。

 リノが頬を赤くして俯いてしまった。

「まったく……フカは早とちりが凄いんだから……」

「ご、ごめん……」

 リノの発言に、一々平謝りの俺。

 彼女の見た目が幼いこともあって、必要以上に自分が情けなく思えてくる。

 



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機械。

「じゃあ、説明を続けるわね……」

 まだ顔が赤いのに、きちんと説明を再開するリノ。

 こんなに幼く見えるのに俺よりしっかりしてるから、また俺のメンタルが削られていく。

「さっきわたしは二回目のクルーたちが残していたといったわね?」

「うん……だから、今もその対策ってやつはあるんだろ?」

 期待して、相槌を打つように質問した俺だったが、彼女は首を横に振る。

「あることにはあるんだけど……」

「? あるなら、それを刺身に施せばいいんじゃないのか……?」

 煮え切らない様子のリノ。

 なにをそんなに躊躇うことがあるんだろう。

 疑問に思っていると、覚悟を決めた様子の彼女は俺に切り出した。

「あることにはあるんだけど……それは、遺伝子の中にあるのよ」

「遺伝子の……中?」

「そう……精神異常の対策は、地球人の遺伝子の中にあるの――レベルアップという、生理現象としてね」

 つまり――二回目に地球に来たクルーたちは、地球人の遺伝子の中にワクチンを紛れ込ませたということか。

 確かに、遺伝子自体にワクチンを隠してしまえば代々失われることなく受け継がれていく。

 そうすれば、未来で地球人の中にオードル・ト・レール人に近い遺伝子を持った個体が現れても問題なく対処できる……と。

「そう。昔の――いってもわたしたちの星ではそんなに昔ではないのだけれど――彼らには、それだけの技術がすでにあったのよ。だから、それだけ頭も良かった。自分たちの存在が何なのかさえも理解してしまうほどにね」

「自分たちの存在……?」

「うん、そう。自分たちの存在――というか、生物の正体に彼らは気づいていたの」

 生物が精巧な機械だってことにね、とリノ。

 またしても頭がこんがらがってくる。

 生物が……機械?

 俺の感覚でいうと、その二つは対照的に思えてしまう。

 自然の象徴である生物と、人工の象徴である機械。

 それらがどちらも――機械?

「……納得してないようだね」

「ああ……正直、脳がパンク寸前でな……」

「じゃあ、また噛み砕いて説明するね?」

 と、彼女は一人だけまたお茶を啜ると、俺にも分かる具体例を出して説明してくれた。

「フカは、機械ってどんなものだと思う? 例えば――機械の一生とか」

「そうだな……作られて、燃料を消費して仕事をして、やがて壊れていく……こんな感じか?」

 彼女の質問に、理解の追いついていない俺は純粋に頭に浮かんだことを口に出していく。

 すると、満足げに頷いたあと、リノが教えてくれた。

「それってさ――人間も、同じだよね」

「…………えっ?」

「だってさ、人間だって人間によって作り出されてこの世に生を受けて、食事を毎日食べて、要らないものは排出して、なにかしら自分に合った仕事をこなして――最後には古くなって不調が増えて、動かなくなるでしょ? それって、機械となにも変わらないよね?」

 言われて、しっくりくる。

 確かに、人間の一生と機械の一生は似ている。

 思えば、回路があったり神経があったり、壊れたところを機械に代用して置換えたり。

 その構造やパーツさえも、精巧に作られた機械だと一度信じてしまえばなんの疑問も生じないくらいに機械と似通っている。

「だからいったでしょ? おへそがないのは、生まれ方が違うから」

「……オードル・ト・レール人は、機械として作られるからか?」

「その通り! とても頭がパンクしそうな人とは思えない理解度だね!」

 にゃはは、とリノが上機嫌に笑う。

 整理してみると、こういうわけか。

 オードル・ト・レール人は何者かに作られた機械で、地球人の祖先。

 しかし、地球人の純粋な祖先ではなく、本当の祖先は機械と猿――これも機械か? との交配種。でも、待てよ?……だとすると、最初の生物ってのは誰が作ったんだ……?

「おっ、さすがフカ。いいところに目をつけるね!」

 またも感心してウンウン頷くリノ。

「その答えはね――実は、まだわたしたちにもわからないんだ。とりあえず、わかってないから『神様』としてるんだけどね」

 わかってないものは結局神とか霊的なモノになるんだよ、と彼女。

 宇宙広しといえど、未知が畏怖の対象になるのは変わりないらしい。

 



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嫉妬。

「で、結局今の話からなにがいいたいかっていうと、人間は弄りやすかったってこと」

 だって、もともと機械なんだから、と。

 地球人の遺伝子の中に含まれた『レベルアップ』という性質。

 これは、二回目のクルーが人類に施したアップデートだったのだ。

 旧約聖書では、蛇は人間に知恵を与えたとされている。

 しかし、実際は知恵どころではなくもっと大変なものを残していったのではないだろうか。

「――っふぅ――! 疲れたね――!」

 説明終了、とばかりに目の前のロリが伸びをする。

 オーバーオールの下に着たシャツの袖から、かわいらしいツルツルの脇が覗いている。

 うーん、チラリズムは犯罪的なほどエロティックだなぁ…………じゃなくて!

「ちょっと! 何終わった感じ出してんだよ。まだ全然気になってることあるんだけど!」

「ええー、だってもう一時間は経ったよ? ある程度理解したでしょ?」

 お茶をクイっと飲んで、気怠そうにするリノ。

「まだ全然だわ! 結局俺は何をしたらいいんだ! それと、レベルアップってなんだ!」

 しかし、俺はまだ何も本質的なところの説明を受けていない。

 人類についての新事実はたくさん耳にしたが、現在直面している問題の解説と解決策を何も受け取っていないのだ。

「まあまあ、そんなに熱くならないでよフカ」

「なるよ! ならざるを得ないよ!」

「えー、鬱陶しいなぁ……。うーん、ここからは実物を見ながら説明した方が絶対いいのに」

「……実物?」

 レベルアップの、実物?

 彼女は何を言っているんだろう。

 そりゃあ実物があったらそれに越したことはないけど……。

 内心戸惑っていると、いきなり指をパチンと鳴らすリノ。

 そして、なにやら怪しげな顔で呟く。

「ほら、もうすぐ到着するよ――実物が、さ」

 すると、遠くの方から微かに足音が聞こえてくる。

 その間隔的に、近づいてくるそれは走っているのだろう。

 それから、やがてチャリチャリと鍵の開く音がして――

 ――ドアを開けて、妹が入ってきた。

 

「お兄様、わたしパジャマで学校にいってたみたいです!」

「今更気づいたのかこの腐り生魚妹!」

「ああっ、酷い!」

 

 地球の環境に合わない遺伝子を持つゆえの奇行だとは分かっているが、我が妹よ。

 パジャマで出かけたのはいいが、その頭に乗っている卵焼きはなんなんだ。

 きっと、遺伝子が働きかけた結果なんだろうけど――何があったらそんな頭の悪そうな状態になる!

 頭の中で突っ込んでみるが、当の本人はキョトンとして首を傾げている。

 いや¬¬、お前……読心術があるなら俺の考えてることが分かるんだろうに。

 分かりやすくズッコケてしまいそうになる。

 しかし、何とか踏ん張って椅子から転げ落ちないようにしていると。

「待ってくださいお兄様、女の匂いがします!」

 刺身が、目の色をグワっと変えて吠え出した。

「まさか、わたしのいない間に女を連れ込んで――って、誰ですかこの子!」

 そして、俺のすぐ前で空になった湯飲みを転がしているリノと目が合う。

 それから、さらに刺身は吠え転がり出した。

「ふわぁぁぁぁ! ちょっと待ってくださいねお兄様、今頭の整理をつけあああああああ! 無理です無理です! どうしてお兄様と女の子が家に言いいいい! っていうかなんでこの子の心は読めないんですかあああああ! 隠し子⁉︎ お兄様の隠し子おおおおお⁉︎」

 近所迷惑になりそうなほどの大声で絶叫しながらのたうちまわる刺身。

 リノはそんな彼女を一瞥し、何か言いたげに口を開いた。

 よし、いいぞ! なんだか勘違いしてる様子の刺身の、目を覚ましてやれ!

 と、俺は勝手にリノを救世主のように感じていたんだけど――

「お、女の子じゃないよ! わたしフカより年上だもん! 敬ってよ、ねえ!」

 そんな予感は勘違い、思いっきり私情で言いたいことがあっただけだった!

「ええええお兄様より年上えええええ! じゃあ女の子じゃないじゃないですか女じゃないですか! もうこれはこうなったら、殺すしかありません! この女を殺してわたしも死ぬううううう! 覚悟おおおおおお!」

 と、台所にもうダッシュした刺身は出刃包丁を構えてリビングに戻ってくる。

 すると、その間に一息ついたリノがひとこと。

「……うーん、もうあれほどまでに奇行が悪化してたのね……」

「…………ごめんなさいあれは普段からの刺身ですほんとごめんなさい」

 地球の危機を真剣な顔で案じてくれているリノに、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 あれは恐らく遺伝子とか何も関係なく、ただの刺身の性格だ。

 そんな俺の胸中なんて微塵も知らない刺身は、構えた包丁をそのままにリノへと突進。

 リノは、何やら不敵な笑みを浮かべて立ち上がると腕を組んで仁王立ちする。

 



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二度目のレベルアップ。

「お、おい……リノ、そのままじゃ刺されて……」

 声をかけるが、避ける様子はない。

 そのまま刺身の突進を待ち構えるようだ。

「フカ……これからあなたにやってほしいのは、こういうこと」

 待ち構えながら、口を開く。

「お兄様に話しかけないで……! わたしの……お兄様にいいいいいいっ!」

 直後、出刃包丁の先がリノの小さな身体に突き刺さる。

 血液が勢いよく溢れ出し、その場に膝をついて崩れ落ちる。

 しかし――よく見ると、その顔は未だ笑顔だ。

 立ち上がったときと何ら変わらない不敵な笑み。

 表情はそのままに、両の腕を刺身の後ろへと回している。

 ――そして、彼女は刺身の耳元で囁いた。

「あーあ……これで立派な犯罪者……だね?」

「――――――――――――――――っ!」

 刺身が硬直する。

 恐らく、怒りと悲しみ。

 感情のゲージがマックスになったんだろう。

 許容範囲を超えた感情は体内で消化レベルできるレベルをとうに超えていて、溢れ出す。

 眩い光――ライトの数千倍の光となって、現前する。

「うわ……っ…………!」

 視界が奪われて、存在するもの全てが無に帰してしまったかのような錯覚に陥る。

 脳にまで光が届き、その中を蹂躙されているかのような不思議な感覚。

 今朝、体験したばかりの感覚だ。

「……どう、フカ? 二度目のレベルアップを目にした気持ちは」

「……二度目だろうと三度目だろうと、慣れる気がしないよ……」

 俺の口から、弱々しい声が漏れる。

 それもそのはず、この現象は自然界に存在するはずのないものなのだ。

 自分の遺伝子にも刻まれているワクチンだとはいえ、その衝撃は決してやさしくない。

「今のでわかってもらえたかな……? レベルアップのやり方」

 光を一番近くで感じつつも、包丁による怪我以外はノーダメージのリノ。

 こうなることが分かっていたなら、事前に目を覆うように指示して欲しかった。

 そんな不満を心にしまい、俺は答える。

「やり方は……なんとなく分かった。刺身の感情を、脳や身体が処理できないくらいに増幅させる手伝いをすればいいんだろ? そうしたら、なぜかレベルがアップする」

「ご名答! レベルアップっていうのは、言わば感情の制御装置。宿主の感情が限界に達すると、周囲にそのエネルギーを放出して処理するの。そして、その回数や濃度が大きい数字になればなるほど、次の許容範囲が大きくなる。見たところ今はレベル五十くらいのはずだから、許容範囲も中くらいね。……もっとレベルの低い時は、かなり頻繁に爆発してたはずだよ」

「かなり頻繁に……。それって、身体に影響はあるのか?」

 説明を聞いて、ある疑念が生まれる俺。

 俺の立てた仮説が正しいとすれば、小さい頃の刺身は――

「そうね……身体への負担はかなり大きいと思う。それこそ、普通に生活するのが難しいくらいに」

 ――やっぱりだ。

 前述の通り、刺身は幼い頃病弱だった。

 移動には車椅子を使用しなければならないくらい、足腰が弱くなっていた。

 しかし、結局医者の診断でその理由が解明されることはなく、研究チームも白旗を挙げた。

 その、病弱の原因がレベルアップによるものだったとすれば、あのとき医者や研究チームが総力を上げても突き止められなかったのも頷ける。

 あの時から、刺身にはオードル・ト・レール人の遺伝子が色濃く出ていたんだろう。

 そうなると、今まで見てきた刺身のちょっとおかしな部分は全部、遺伝子が地球の環境に合わないがための暴走だったのか……。

 人類の新事実の後に知る、妹の新事実。

 どちらかといえば、後者の方が自分の身近にあるだけに衝撃が大きい。

 



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システムと使命。

「でも――レベルアップを繰り返すほど身体への負担も減るし、強くなっていくから大丈夫。だからフカは――これから、刺身ちゃんがレベルマックスになるまで、狂わせてほしいの」

「俺が――刺身を狂わせる?」

 突然、妙なことを頼んでくるリノ。

「ええと――それじゃあわかりやすいように、レベルアップの説明をさせてもらうわ」

 そして、ついにレベルアップについて語り始める。

 リノの話をまとめると、レベルアップのシステムはこうだ。

 地球の環境とオードル・ト・レール人の遺伝子が合わないために引き起こされる奇行。

 それを抑えるためには、そもそもオードル・ト・レール人の遺伝子を薄めればいい。

 そうすることで体内の遺伝子の割合は地球人に近づき、最終的に宿主は完全な地球人と同じ割合の遺伝子を持った普通の個体に戻ることができる。

 結果、奇行を引き起こすこともなくなるというわけだ。

 レベルアップは、それを可能にするための技術。

 感情を爆発させて、それと同時にオードル・ト・レール人の遺伝子を少しずつ体外に放出する、というシステムになっている。その爆発を起こして、ちょうど地球人と同じ数値にまで遺伝子が減らせるのが百回目の爆発、百回目のレベルアップだ。

 そこで、晴れて宿主は完全な地球人になることができる。

「……ほ、ほぉ……」

 説明を聞いて、間抜けな顔で一つ頷く俺。

「……フカ、絶対わかってないでしょ」

 もちろん、俺が理解していないことなど心が読めるリノからすればすぐに分かってしまうのだが。……いや、今のは誰が見ても明らかだったか。

 でもさ、ちょっと考えてみてほしい。

 リノの説明だと、レベルアップするごとに刺身は地球人に近づいていくんだろ……?

 だったら、ある程度レベルがアップした段階でもう、地球が滅亡するほどの大惨事にはならないんじゃ……?

 引っかかって、頭を悩ませる。

 すると「それもそうね……わたしの説明が悪かったかもしれない」と、またも彼女は回答を用意してくれた。

「確かに、わたしの説明ではレベルアップするごとに奇行の回数も減って万事がうまくいくように感じたかもしれないわね。でも、実際は真逆なのよ」

「……真逆?」

「……そう、真逆。レベルアップをすればするほど……実は、奇行の内容が濃く、残酷になっていくの。例えるならば……バイキンのようなものかしら? 薄い除菌剤を空間に撒いた場合、弱いバイキンたちは一掃される。でも、強いバイキンはその場に残ってしまうわよね? すると、数が減って焦った強いバイキンたちは生き残ろうと必死に頭角をあらわすのよ」

 なるほど、最初に放出される遺伝子はいわば弱い遺伝子。

 そして、後に放出される遺伝子こそより強く、凶悪なものになっていく、と。

「だから、レベルが上がれば上がるほど刺身ちゃんはどんどん思いも寄らない行動を起こすようになる。そして、地球を滅亡させてしまうことにも繋がるの」

「……それを食い止められるのは、あいつのレベルを百にすることだけなんだな……?」

「そうよ。このまま放っておいても結局奇行を繰り返すことには変わりないし、地球を滅亡させるリスクはある。だから、できるだけ早くレベルをマックスにすることが最適解なの」

 ……俺が、地球を救う……。

 正直、はじめにリノに説明された時は実感が湧かなかったけど、きちんと説明を受けて色々なことを理解した今だからこそ、事の重大さが分かってきた。

 ……そうだよな、地球を、救うんだもんな……!

 それに……なにより、最愛の妹を救ってあげられるんだもんな……!

「よし! 俺、引き受けるよ! 刺身を、いくらでも狂わせてみせる!」

「……ありがとう。フカならそういってくれると思ってた……」

 心底安心したような表情で息を吐くリノ。

 別の星の危機だっていうのに、そんなに想ってくれていたことが素直に嬉しい。

 しかし次の瞬間、少しだけ――彼女の表情が、悲しそうなものへと変わった。

 一瞬だったから見間違いだったのかもしれないけど、少しだけ不安になる。

 今の瞬間、彼女が本当に悲しげな表情を見せたのだとしたら――それは、何を意味しているのだろうか。

 考えてみたけれど、心を読む技術を持っていない俺にはさっぱり理解できなかった。

 



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お仕置き。

「……お兄様、話は済みましたか?」

 リノとの話が終わって、少しして。

 彼女の使った食器をキッチンに運びながら考え事をしていると、刺身が話しかけてきた。

「えっと……お兄様、ごめんなさいっ! あの女の子との関係性を確認もしないで、その……殺そうとしてしまって。刺身は本当に悪い子です」

 震える声で、俯きながら謝る刺身。

 きちんと反省しているようで、表情はとても不安そうだ。

 とてもさっきまで出刃包丁で人を刺していたような子とは思えない。

 そういえばリノは大丈夫なんだろうか。

 俺の記憶が正しければリビングは血だらけになっていたはずだけど――

(……あ、元通りになってる……)

 そこは、さすがの宇宙人。

 刺されても別に問題はないし、後処理も完璧みたいだ。

 じゃあ、これから俺がしなくちゃならないことは特になくなったわけだな?

 リビングにいるリノと目配せすると、俺は妹を狂わせるっていう使命を受けたときから頭で密かに練っていたプランを妹に告げる。

「刺身、ちょっといいかな」

「なんですか、お兄様……? いけない刺身に、お仕置きですか……?」

 ……おい、なんで嬉しそうな顔をしてるんだ。

 お仕置きって、普通罰として行われるわけで、嫌なもののはずなんだけど……。

 まあ、そこはリノに踏まれて喜んでいた俺だ。

 兄妹だってことで、目を瞑っておいてやろう。

 ……って、俺が言いたかったことはお仕置きとかそういうことじゃなくて――

「……刺身」

「……? なんですか、お兄様?」

「ええと……、これから、デートしないか?」

「はい……それは構いませんが…………って、ええっ⁉︎ デートですか⁉︎」

 なぜか、ノリツッコミみたいに一回受け入れてから驚く刺身。

 脳の処理が追い付かないほど感情が左右されたんだろうか。

「ど、どどどどどど、どういう風の吹き回しでっ!」

 目を白黒させて狼狽えてみせる彼女。

 頬は上気し、若干の過呼吸に陥っている。

「そうだな……なんか、今日はそういう気分だったから、かな」

 と、簡潔に答える俺。

 色々と言い訳を考えるより、スパッとひとことで説明した方が疑われることもないだろう。

「もう一度確認するけど……行ってくれるか?」

 さらにダメ押しの、考える時間を与えない追加質問。

「…………はい! 不束者ですが、よろしくお願いします……!」

 すると、彼女はプロポーズを受けた直後みたいに虚ろな表情で。

それこそ、プロポーズを受けたときみたいな返事をしてみせたのだった。

 

   *

 

「お兄様、今日は天気が良くてよかったですねっ!」

 柔らかい春の日差しのもと、刺身が隣で笑いかける。

「こうしてお兄様と二人きりでお出かけができるなんて……夢みたいですっ!」

 そう言いながら手を合わせる彼女の目はこれまで見た中で一番の輝きを放っていた。

「確かに、お前とこうして外出したことはなかったな……」

「そうですよお兄様! わたしが誘っても、いつもあーだこーだと理由をつけて家から出たがらないんですから……まあ、おうちデートも、もちろん楽しいですけど……」

 そう言って唇を尖らせる彼女が本当に愛おしい。

 先ほど、今回のデートの約束を取り付けたあと。

 俺はリノに別れを告げて、早速デートの準備に差し掛かった。

 どこに行こうか、何を食べようかとインターネットで検索する。

 しかし……俺は、デートの準備というのを軽く捉え過ぎていたみたいだ。

 まず、穴場どころか定番のスポットすら全く知らないという知識不足。

 さらに、食べ物屋だってファストフード店やコンビニしか頭の辞書には載っていない。

 加えて、デートに来ていく服どころか外出するためのおしゃれな服なんて一着も手元にないという残念な始末。

「それじゃあお兄様、まずはお洋服を買いに行きましょうか!」

 と、こうして刺身が心を読んで買い物デートを提案してくれなかったら、誘っておいて自分からすぐに今日のデートをドタキャンしてしまうところだった。

 



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初デート。

 デートの場所は池袋。

 自宅のある埼玉から電車に乗ってすぐに来られる都会だということで、刺身が提案してくれた。刺身の言によると、駅に隣接するファッションビルを歩いていれば自然と似合うものが見つかるはずです、とのことだ。

 さらに、ビルの上層階には食事ができるお店もたくさん入っている。

 刺身はここをデートで使ったことがあるんじゃないかと思うほど、完璧なプランだ。

「ぶー、なんですかお兄様。刺身だって、今回が初デートなんですからね?」

 頬を膨らませて、ちょっぴり不機嫌そうにする刺身。

「悪い悪い……それじゃあ、行こうか」

 俺はそんな彼女に若干安心しつつも、それを悟られないように軽く返事をして歩き出した。

 ……まあ、心を読まれてるわけだからいくら取り繕おうとも中身はバレバレなわけだけど。

 とまあ、そんなわけでファッションビルの中を兄妹二人でぶらぶらする。

 時には刺身が俺に似合いそうな服を選んでくれて、それに着替えてみたり。

 時には俺が気になった服を手に取って、刺身に微妙な顔をされたり。

 そうして小一時間ほど歩いた頃だろうか。

「お兄様……わたし、ちょっとお腹が空いてきました」

「実は俺もそろそろ食べたいと思ったところだ。いい時間だし、お昼にするか」

 時刻はちょうど正午をまわったくらい。

 俺は、刺身が決めてくれたパスタの店に向かおうと歩みを進める。

 しかし、どうしてだろう。

 刺身はその場に立ち止まったままだ。

「……? 刺身?」

 呼びかけるが、返事はない。

 さっきまで楽しそうにしてたのに……具合でも悪くなったんだろうか?

 それとも、遺伝子の関係で奇行に走ろうとしてるのか……?

 心配になって、彼女のところまで引き返す。

 すると、ワナワナと俯いて震えていた彼女が大きな声で言い放った。

「いい加減服を買ってくださいです――! 優柔不断にも程がありますよお兄様ぁ!」

 ……うん、普通に怒ってただけだったみたいだ。

 デートの服を買う目的で一時間も服を見て回って、一着も買わなかったらそりゃそうか。

 でも、言い訳するわけじゃないけどさ、服買うのって難しくないか?

 無難な服を買ってもあんまり面白くないし、かといって奇抜な服は似合わないし。

 刺身が選んでくれた服も、いいんだろうけど俺の好みとはまた違うしな……。

 と、心の中で抗議してみる。

 すると、怒った刺身はさらに激昂し。

「なに一丁前にファッション中級者みたいなこといってるんですか! 初心者は無難な服を無難に着こなしておけばいいんですよ! ほら、さっき渡したチェック柄のシャツでも買ってきて着てください! さあ早く!」

 所々怒り過ぎてジャンプしたりしながら、優柔不断な俺に外から決断を下してみせた。

 ……ほんと、不甲斐ない兄貴で申し訳ないです。

 肩を落としながら、素直に試着を済ませ、服を購入。

 その場で着替えて、刺身のもとへ出ていく。

 すると、上から下まで俺の服装を眺めた刺身がぽつり。

「……なに着たってかっこいいんですから、すぐに選べばいいんですよ……」

 なんて、小さな声で漏らすのだった。

 



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レストランにて。

 場所は変わってレストラン。

 またしても、ここは刺身がかねてから来てみたかったというパスタの店だ。

 本当、プランに関しては頼りっきりで情けないばかりだ。

 しかし、テーブル席の向かいに座って近況を話して聞かせる刺身はとても笑顔。

 それだけで、気持ちが救われていくような感覚に陥る。

「お兄様、ほら、注文したパスタが来ましたよ!」

 彼女の明るい声に振り向くと、二人分の皿を抱えて持ってきてくれるウェイトレスさん。

 目の前に料理を丁寧に並べると、一礼して去っていく。

「うわぁ……! とっても美味しそうですね……!」

 俺が頼んだのは、卵とベーコンのカルボナーラ。

 刺身が選んだのは、エビとトマトのクリームパスタ。

 どちらも、麺が艶々としていて食欲をそそられる。

「本当に美味しそうだな……。こんなの、絶対家じゃ食べられないもんな」

「そうですよお兄様! 早速ですからいただきましょう!」

 フォークとスプーンでくるくると麺を巻き取り、小さな口へと運んでいく刺身。

 トマトソースでほんのり赤くなった唇が艶かしく目に映る。

「じゃあ、俺もいただこうかな……」

 と、俺もスプーンとフォークでパスタを巻き取り始めた時だった。

 そういえば……と、デートに来た目的を思い出す。

 急遽企画された。妹とのデート。

 自分の不甲斐なさを実感したり刺身の可愛さを再確認したりと普通に楽しんでしまっていたが、目的は刺身を狂わせてレベルアップすることだったじゃないか。

 パスタを一口食べて、決意する。

 そうだ、そうだったよ……。

 ここで行動を起こさなくて、どこで刺身を狂わせるっていうんだ!

 俺は意気込むと、美味しそうにパスタをつまむ刺身に声をかける。

「刺身……お前の食べてるやつも、一口くれないか?」

 俗にいう、一口ちょーだいである。

「いいですよー。それじゃあ、ひとくち分のパスタをお兄様のお皿に取り分けましょうか?」

 もちろん断らずに、気まで使ってくれる刺身。

 献身的で、将来いいお嫁さんになることだろう。

 だが、しかし!

 それだけでは、妹は狂うどころか心を動かされもしないだろう。

 であるならば、やることは一つ!

 確実に彼女が狂ってしまうであろう、今考えられる最も恥ずかしい手段だ。

「いや、取り分けなくていいよ刺身」

「? なんでですかお兄様……って、もしかしてアレをする気じゃ……!」

 なにか思い浮かんだらしく、頬を真っ赤にして口をパクパクさせる刺身。

 おそらく、恋人同士が食事する時に行うアレを思い浮かべたんだろう。

 ……そう、その「アレ」とは全非リア充の憧れ、「あーん」である。

 しかし、俺はそんなことで刺身が狂うとは思っていない。

 だって、寝起きの兄貴に真顔でキスを迫るような妹だからな。

 ってことは、「あーん」どころかさらに上のムーブが求められる。

 だとするならば、この状況で俺がやるべきことは一つだけ!

「……じゃあ、刺身。先に俺から一口あげるよ。顔、近づけて?」

 言うと、素直に身を乗り出して顔を近づけてくる刺身。

 そんな彼女に一瞬ドキッとするも、平静を装ってパスタを掴む俺。

 そして、そのままフォークとスプーンでくるくると巻き取り――

 ――自分の口に入れた。

「⁉︎」

 予想外の動きに、呆気にとられた様子の刺身。

 さっきまでの興奮はどこへ行ったのか、赤くなっていた頬は本来の白さを取り戻している。

 だが、しかし。

 ここで終わらないのが地球を救う救世主であるところの俺だ。

 口に入れたパスタをそのままに、驚いている刺身へと顔を近付けていき――

「ぢゅるるるるるっ……んんっ…………っ……ぷはぁ……っ……」

 ――口移しで、彼女の口の中へとカルボナーラを放り込んだ!

「ふぁ…………」

 とろけたような顔で虚ろな目をする刺身。

 彼女の頭の中は、今どうなっているのだろうか。

 快楽に蹂躙されている? それとも、幸福に苛まれている?

 とにかく、最高に狂った感性を持っている彼女のことだ。

 きっと、喜んでくれているに違いない――と、確信してガッツポーズをとっていると。

「はわわわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 妹が、叫び声を上げながら発光し始めた。

 これは――やっぱり、レベルアップ成功だ!

 



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避難した先。

 しかし、このタイミングでのレベルアップ。

 場所も時間も選んでいる余裕がなかったから、お昼時の混雑した飲食店でのレベルアップになってしまった。

 発光している目の前の妹は、数秒と持たずに激しい爆風を伴って爆発してしまうだろう。

 ――その前に、どこか安全な場所に移さなければ!

 思い立つと、俺は刺身の手を引いて立ち上がる。

「店員さん、必ずすぐ戻ってくるので、ちょっと出てきます!」

 食い逃げだと思われないように荷物を置いて店員さんに声をかけ、そのまま駆け出す。

 あと何秒だかは分からないが、爆発まで時間がないのは事実!

 だったら、とにかく階段の方に走って――ここだ!

 ショッピング施設の階段の脇には、必ずと言っていいほど何もない空間がある。

 だから、階段を目がけて走っていけば必ず人目につかない場所がそばにあるのだ。

「よし、ここならいいだろう! ほら刺身、思う存分爆発していいからな――!」

 俺が言い終わるより先に、全身の光量を増幅させる刺身。

 それを確認すると、俺も目を瞑って爆発に備える。

 そして、次の瞬間刺身は蓄積されたエネルギーを宇宙人の遺伝子とともに空中へ放出し――

 また、一つレベルをアップさせた。

「……またわたし、レベルアップしたんですか……?」

 怯えたような声で刺身が尋ねる。

 庇護欲を掻き立てる、震えたような声だ。

 そんなか細い声を耳にして、俺は一刻も早く彼女を抱きしめてあげようと目を開ける。

 すると、事前に目を閉じていたお陰か、視力へのダメージは殆どなかったんだが……

 何故か、周りがピンクのタイルに囲まれている。

 無我夢中で人目につかないところに走っていたから、気が付かなかったけど……

 そういえば、階段の近くには何もない空間の他に、もう一つよくある施設があったんだった。

「……お兄様? ええと……よく状況が掴めないのですが……」

 フラつく彼女の腰に手を回してしっかりと抱き止める。

 しかし、内心は冷や汗だらだら。

 だって、焦っていた俺が妹を連れ込んでしまったのは――

「…………どうしてわたしは、お兄様に女子トイレで抱き抱えられているのでしょう……?」

 ――女の花園、女子トイレだったのだ。

 ああ、最悪だ!

 よかれと思って行動したのに、このままじゃ紛うことなきド変態じゃないか!

 だんだんと脳から血の気が引いていき、指先が冷たくなってくる。

 頭が真っ白になって、何も考えられなくなっていく。

 ふと腕の中にいる刺身の表情を見ると、彼女は不思議そうに首を傾けていた。

 ……くそ、かわいいな!

 こんな状況でも実の兄貴を萌えさせてしまうのだから、この妹は……!

 まあ、とにかく妹が俺のことを軽蔑しないでいてくれたのはよかった。

 とにかく、一刻も早くここを出て、レストランに戻ろう。

「じゃあ、刺身。レストランに戻ってパスタの続きを食べよう」

「……? は、はい……ところでお兄様? 刺身たちはなぜ女子トイレに……」

「よーし! 今度は刺身の食べてたトマトのパスタを一口もらおうかなー!」

 必殺、大声で誤魔化す攻撃。

 刺身がよからぬことを妄想し出す前に、興味を別のところに移してあげなくちゃ。

 と、抱いていた妹を開放し、手を引いて歩き出した。

 そんな時だった。

『次どーする? アクセサリーでも見にいこっか〜』

『そだね! これから暖かくなるから髪型も変えていきたいし!』

 女子トイレの入り口から、若い女性の話し声がした。

「ねえ、お兄様……? やっぱりここ、女子トイレじゃ……」

 それから、やっぱり疑問を捨てない我が最愛の妹。

 ……これ、もうチェックメイトなんじゃ……?

 ああ、神様。

 俺の人生って、なんでこんなに波乱の連続なんでしょう?

 破滅に向かう罠が、人よりたくさん仕掛けられている気がします……。

 もしここで通報されたり捕まってしまったりしたら、俺はどうするんだろう。

 例えば女子トイレで何をしようとしていたのか聞かれたら――

 ――レベルアップを人に見られないため、じゃあ切り抜けられないよなあ……。

 まあ紛れもない事実なんだけど、そうは問屋が卸さない。

 ならば、ここで捕まってしまうこと自体すでに破滅なんじゃないだろうか。

 だとすると、とにかくここで彼女たちに見つかることは避けなくちゃならない。

 その場合、俺が取るべき行動の最適解は――

「刺身、こっちだ!」

「ええっ、お兄様、なにをしようと……っ⁉︎」

 



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人類の勝利。

『今なんかヘンな声しなかった〜?』

『ええ〜? 気のせいっしょ〜』

 タイル張りのトイレの中に、女性の声が木霊する。

 どうやら、鏡を見ながらメイクを直しているようだ。

 ドアの隙間から彼女たちの様子を覗いた俺は、とりあえずホッと息を吐く。

(なんとか隠れられたみたいだな……)

 あの瞬間、俺は間一髪、彼女たちに見つからないタイミングで身を隠すことができた。

 ……刺身の手を引いて個室に入るという、さらに見られたらまずい状況に陥ることになってしまったが。

「んー! んん――!」

 刺身は、突然のことに驚いてジタバタと暴れ、声を出そうともがいている。

 しかし、彼女の身体は再び俺の腕の中。

 さらに、彼女の口は俺のてのひらによってきっちりとガードされている。

 だから、今のところ刺身が騒いで見つかるという不安はないだろう。

 ……ふ、ふふふ……ふはははは!

 勝った、勝ったぞ! 人類の勝利だ!

 このまま上手く息を潜めていれば、いずれ女性たちもメイクをし終わって出ていくだろう!

 そうすれば、そのタイミングでこっそりとトイレをあとにし、見つからずに済む!

 そのためには、とりあえずこのまま物音を立てずに隠れていることが大切だ!

 息をする音も聞こえないくらいに、ピタリと動きを止める。

 未だ女性たちは鏡の前でなにやらカチャカチャと道具を漁っている。

 このまま何事もなく終わってくれ……!

 俺が、そんな切実な思いを心の中で叫んだ時だった。

「んんんー! んん――! んっ、んん――!」

「ぐは……っ……!」

 刺身が、俺の股間に膝蹴りを喰らわせたのは。

 男にしか分からない、この世の終わりのような激痛が股間を襲う。

 全身が冷たくなって、血液が股間に集中する。

(ああああああああああああああ! 刺身のあほおおおおおおおお!)

 内心大声で叫びながら、俺はその場で股間を押さえてうずくまった。

 痛い、痛い、痛い!

 現実でも大声で叫び出したいが、そんなことをすれば女性たちに見つかってしまう!

 そんなことになれば、地球が滅亡する前に俺の人生が終わっちまう!

 汗がだらだらと身体の表面を伝い、ぽたぽたと滴り落ちていく。

(おい、刺身……なんでこんなことしたんだ……)

 痛みが限界になった俺は、小声で刺身に問う。

 すると、彼女は別段悪びれもしない様子であっけらかんとこう言った。

(そこに股間があったからです!)

「チクショウめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 思わず、大きな声を出してしまう俺。

 あ、マズい! と思った時にはすでに遅かった。

『え……男の声……っ?』

『キモっ……多分あそこの個室からだよね……?』

 誰もいないことを装うため、鍵をかけていなかった自分を恨む。

 女子トイレにいてはならない男の存在に気づいた女性たちは、何を思ったのか俺たちが隠れている個室へと近づいてきたのだ。

『やっぱり誰か入ってるよ……』

『これ、マジでやばいんじゃない……? よかった、スタンガン持ってて……』

 話しながら、どんどんと距離を詰めてくる。

 っていうか、なんでそんな物騒なものを持ち歩いてるんだよ。

 普段よく襲われるのかなあの子。ストーカー被害にでも遭ってるのかな。

 窮地に陥ったことで、要らないことばかりが頭に浮かんでくる。

 そんなことがわかったところで、なにもこの状況は解決しないのにさ。

 ……ああ、もうダメだ……。

 今度こそ、俺の人生は終わりだ……。

 絶望に打ちひしがれながら、ふと隣にいる刺身を見る。

 すると、彼女は何故か決意に満ちた瞳をしているではないか。

(どうしたんだ、刺身……?)

 不思議に思って、小声で刺身に声をかけてみる。

 すると、彼女は真っ直ぐな瞳でこう言った。

(お兄様……わたしを、狂わせてみてはいただけないでしょうか?)

 



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太もも。

 言われて、瞬時に理解する。

(お前、まさか……この状況でレベルアップするつもりか⁉︎)

(……その通りです。今わたしがレベルアップして爆発すれば、なにも知らないお姉さんたちの視界は真っ白になるはずです。そうしたら、お兄様はわたしを抱えて逃げてください)

(そう言ったって……お前を急に狂わせる手段なんて、俺持ち合わせてないしなぁ……)

 刺身の考えた案は確かに理に適っているようだが、果たして本当に可能なんだろうか。

 だって、さっきだってちょうど思いついたからパスタを口移しなんてしてみせたけど……この状況でなにか特別なことをしろって言われても、何も思いつかない。

 困ったなあ……。

 でも、他になんの作戦も思いつかないのだって事実。

 だったら、付け焼き刃でも刺身の作戦に便乗してみるのが最適か……。

 悩んでいると、刺身が隣でサムズアップしながらひとこと。

(大丈夫ですよ! お兄様は……わたしの知り合いの中で、いちばんの変態ですから!)

 ……喜んでいいのか悲しんでいいのか、分かりかねる励ましだった。

 じゃあ……とにかくやってみるか。

 妹を狂わせるために、とりあえず頭を捻ってみる。

 うーん……狂わせるためには、感情を爆発させなくちゃならないんだよな……。

 だとすると、喜びや悲しみ、怒りなんかより、一番いいのは羞恥だろう。

 そうだな、この個室の中でどうにかできる羞恥か……。

 それでいて、服を脱がせるとか、すぐにここから逃げ出せない行動もNG。

 だとすると、正解は……

(あーもう、ダメだ! 頭で考えてちゃ分からない! 俺は俺のやりたいことをやる!)

 吹っ切れた。

 理論でどうこう考えても、こんな窮地を脱する方法なんかない!

 だったら、俺は捕まる前に妹にどうしてもやってみたいことをやってやる――!

 近付いてくる女性の足音。

 しかしもうそんなことは気にならなくなった俺は、妹を抱えて逆さにする。

「ひえっ! お兄様、ちょっとなにして……!」

「何って、お前を逆さにしてムチムチの太ももを全力で吸ってやろうと思っているだけだが?」

「だけだが? じゃないですよヘンタイ! そこまではお願いしてないですって!」

 妹の膝あたりを持って逆さにすると、彼女の緑色のフレアスカートが捲れ上がって水色のレースのパンツと肉感の凄まじい太ももが露わになる。

 真っ白くてムチムチした、それでいてハリのあるいい太ももだ。

 うーん、やっぱり太ももは太くなくっちゃ!

「なに失礼なこと考えてるんですかヘンタイ! はやくおろして!」

「何が失礼なもんか! 俺は褒め称えてるんだ! このムチッとして、食べ応えのありそうな太ももを! ムチムチの! 美味しそうな太ももを!」

「ああもうっ! そんなにムチムチムチムチいわないでくださいいいいっ! やめてぇ!」

 涙目で、宙ぶらりんになりながら絶叫する妹。

 俺は、そんな彼女を笑顔で見守りつつ太ももに舌を走らせる。

 すべすべで、毛穴の一つも目立たない脚。

 柔らかくて、ずっとスリスリしていたくなるような脚線美。

 はあ、俺はなんて幸せ者なんだ……!

 この分だと、俺の方が先にレベルアップしてしまいそうなほど楽しいんだが――

「……ぺろっ……んんっ……れろっ……れろれろっ……」

「んあっ……ああっ……んんっ……んっ……んああっ……もうっ……やめ……ぇっ……」

 流石に可哀想だから、ラストスパートに入るとしようか。

「ぢゅるるるっ、れろれろっ、ぢゅるるるるるるっ、ぢゅるるるるるるっ、ぢゅるるるっ」

「んああああああっ、んっ、んあっ、ふぁ……んんっ、あっ、んああああっ、んんんあっ!」

「ぢゅるるるるっ、れろっ、ぢゅるるるるるるっ、ぢゅるるるるるるっ、ぢゅるるるるるっ」

「んああああああっ、んあっ、んっ、んんっ、あっ、んあっ、んああああっ、んんんあっ!」

 太ももを舐められて吸われて、顔を真っ赤にして乱れる刺身。

 涙目になって振り回されるその姿は、狂い咲く華のようで。

 だから、俺はその華が落としていく露であるところの体液を、舌を這わせて迎えにいく。

 すると、刺身はこの日一番大きな嬌声を上げて全身を真っ白に染め上げた。

「今だっ!」

 瞬間、俺はトイレの個室のドアを開く。

 すると、瞬く間に女子トイレ中を駆け巡る閃光。

 室内の全てを蹂躙して、無に帰させてしまう圧倒的なエネルギー。

 そんな中、俺はまぶたに遮られた光が徐々に弱まっていくのを感じると。

 抱えていた刺身をお姫様抱っこに持ち直し、そそくさと走り去るのだった。

 



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日頃の感謝。

「それじゃあ、プラネタリウムにいきましょう!」

 俺が九死に一生を得てから、一時間後。

 パスタの店を出た俺たちは、刺身の提案でプラネタリウムへと向かっていた。

 またもや刺身の提案で、だ。

 そろそろ本当に不甲斐なさすぎて首を吊りたくなってくる。

 二人並んで、池袋の街を歩く。

 右にも人、左にも人。

 大勢の人に囲まれて、半引きこもりの俺は吐き気がしそうだ。

「パスタ、美味しかったですね!」

「そうだな……あんまり普段外食しないだけに、新鮮さも相まってすげえ美味かった」

「ですよねっ!」

 他愛もない会話を、とびきりの笑顔で楽しんでくれる刺身。

 この笑顔を見ていると、刺身が妹で本当に良かったと思う。

 世の中の兄妹のほとんどは、信じられないことにあんまり仲が良くないみたいだからな。

 こうして二人揃ってデートができるなんて、奇跡みたいな確率なのかもしれない。

 そう考えると、今日はとってもいい機会だ。

 この際、日頃口に出さない感謝を伝えてみるのもいいかもしれない。

「……刺身」

「…………? 改まってどうしましたお兄様? お手洗いですか?」

「違わい。ちょっと伝えたいことがあってな……」

 少し緊張気味の俺に、首を傾げる刺身。

 どうやらこれまでの経験上、大事なことを伝えようとした際には読心術が発動しないらしいことが分かった。

「伝えたいこと……ですか? あっ、もしかして……!」

 俺の言わんとすることを理解したらしく、恥ずかしそうに頬を染める彼女。

 確かに日頃の感謝を伝える方も恥ずかしいが、伝えられる方も十分恥ずかしいだろう。

 だからこそ真剣に、俺は彼女に気持ちを伝えようと思う。

「刺身……」

「ひゃ、ひゃい!」

 照れからか、声が裏返る刺身。

 普段は天真爛漫な少女という風だが、こんな一面もあったのか。

 照れに弱いという妹の弱点を見つけて、少しだけ優越感を覚える。

 そして、しばし間を開けたあと俺は彼女の方に両手を置いて言った。

「……いつも、ありがとう。刺身といると楽しいし、一緒に遊んでくれるし、こうして出かけても俺のことを気にかけてくれてる。本当に、感謝してるよ」

「…………はい!」

 言い切った!

 俺は恥ずかしさで顔が熱くなってくるのを自覚しながらも、心の中でガッツポーズをする。

 ふふふ、俺だってやるときはやるんだ。

 日頃の感謝を伝えてやったぞ――!

「………………?」

 ――なんて、俺がテンション高く内心飛び跳ねそうなほど高揚していると。

 なぜか、胸の前で手を合わせたままの刺身がキラキラした目でこっちを見ていた。

「……お兄様、それで続きは……?」

「…………え?」

「? どうして不思議そうにしてるんですか? 続きですよ続き!」

 純粋無垢な輝く瞳で見つめ、ありもしない続きをねだってくる妹。

 ……どうしよう、日頃の感謝の後になにかあると思われてる!

 普段しないようなことをしたから、それで終わるはずがないと思われているのだろうか。

 残念だったな刺身……お兄様はプレゼントも用意していなければ、続きの言葉すら用意していないのだよ!

 心の中では、胸を張って自分の不甲斐なさをドンと言ってのけられる俺。

 でも……やっぱり、言えない!

 現実でこんなに目をキラキラさせてる妹に向かって、これで終わりだとは言えないよ!

 そうして悩んでいる間にも、刺身はエメラルドのような瞳を俺に向けてくる。

 と、とにかく何か言わなくちゃ!

 感謝の続きにあるものを……呼び起こさねば!

 



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天網恢恢疎にして漏らさず。

「さ、刺身!」

「はいお兄様!」

「ええと……その……」

 脳をフル回転させて、刺身に言うべき言葉を考える。

 しかし、状況が状況。

 焦れば焦るほど脳の活動パフォーマンスは空回りして、適切な言葉が浮かばない。

 ……こうなったら、もう吹っ切れるしかない!

 胸の中にある伝えたい気持ちを、正直に言おうじゃないか!

 俺は深く息を吸い込むと、目の前の刺身の大きな両眼をまっすぐ見つめる。

 そして、そのまま大きな声で言い放った。

「俺は……刺身のことが大切だ。だから……たとえお前がこの地球を滅ぼしてみんなの敵になろうとも、俺だけはずっと刺身の味方で居続ける! ずっと一緒にいてくれ、刺身!」

「お、お兄様……!」

 言い終わって、急激に羞恥が押し寄せてくる俺。

 リノに聞いた刺身の危険性をそのまま口にしたら、ラブソングの歌詞みたいになってしまった。当の刺身は、驚きつつも嬉しかったようで目に涙を浮かべて微笑んでいる。

 ああ、すごく恥ずかしかった……。

 でも、伝えられてよかったな。

 普段言えない本当の気持ちを口に出す。

 これって、案外難しいけれど本当はすごくスッキリする、大切なことなんだと思う。

 ……まあ、実際はまだ言い残したことがあったりするんだけどね。

 なんて、恥ずかしさの余韻に浸っていると。

 パチパチパチパチパチ……!

 どこからか、まばらな拍手が聞こえてくる。

 近くで大道芸でもやっているんだろうか。

 辺りを見回してみる。

 すると、そこには目を疑うような景色が広がっていた。

 ワアアアアアアアアアアッ!

 気が付くと、俺と刺身が大勢の人に囲まれている。

 ドーナツの穴に入れられたかのような威圧感だ。

 そしてはじめのまばらな拍手に端を発して、観衆が一気に拍手喝采。

 次の瞬間、路上であるにもかかわらず、まるでアリーナのような賑わいをみせる観衆。

「兄ちゃんやるな!」

「彼女さんを幸せにしてあげてね――!」

「リア充爆発しろ――!」

「天網恢恢疎にして漏らさず――!」

 各々が、各々の祝福の言葉を全力で叫んでくる。

 最後の歓声はさっぱり意味がわからないけど。

 ただ、これではっきりした。

 これ、もしかしなくても絶対恋人と勘違いされてるやつだ――!

 プロポーズだと思われてるよ絶対!

 じゃないといくら都会でもこんな祝福ムードにならないもん!

 だとすると、一刻も早くここから脱しなければ!

 というか、囲まれてるのが精神的にすごくツラい!

 人に囲まれるどころか人に慣れていない引きこもりの俺は、妹に視線で助けを求める。

(頼む刺身、不甲斐ない兄貴をどうにか人のいないところに連れて行ってくれ……!)

 刺身の顔を見て念じてみるが、刺身は刺身で様子がおかしい。

「えへへ……お兄様がわたしのことをそんな風に……えへへ……」

 ああ、阿呆になってらっしゃる!

 きっと、大衆に囲まれたことでおかしくなってしまったんだろう。

 緊張がピークになると、人はこんなに無能になってしまうのか……。

 新たな知識をつけつつ、俺は困ったことになったとこめかみを掻く。

 頼みの綱である刺身がこの体たらくでは、もうどうにもならない。

 人っていうのはこの手の話題が大好きだからな……。

 しばらくは、このまま解放してもらえないんじゃないだろうか。

 



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火事場の馬鹿力。

 そうなると、もう一つ困ったことになる。

 ……プラネタリウムの時間に、間に合わなくなってしまう可能性があるのだ。

 刺身がかなり楽しみにしていたプラネタリウムデート。

 俺としては星を見るアトラクションにそこまで興味はないが、彼女がワクワクしていたのだ。

 これに間に合わないようなことがあれば、俺は一生後悔することになるだろう。

 であるならば、ここで俺がとるべき行動は一つ。

 刺身を連れて、どうにかここを切り抜けることだ。

 だけど、これだけの観衆を正面突破できるとは思えない。

 どうにか工夫をして、ここから逃げ出せればいいんだけど……。

 と、そこで先ほどの女子トイレでの一件を思い出す。

 ……そうだ、レベルアップ!

 刺身がレベルアップをすれば、大量の光を放ってみんなの目を眩ませることができる……!

 早速、俺は彼女のレベル上げを遂行することにする。

「なんだなんだ……?」

「彼氏の方がなんかするみたいだぞ!」

「楽しみだな! よく見ててやろうぜ!」

 幸いにも、観衆は俺たちに注目してくれている。

 しっかり見ていればいるほど、爆発した時の目のダメージは大きいはずだ。

 確実に、俺たちに興味のある連中から潰していくことができる!

「さ、刺身……!」

「えへへぇ……どうしましたお兄様ぁ……」

 いつにも増してニコニコ笑顔の刺身に呼びかける。

 すると、その笑顔を内面から放出したまま近づいてくる刺身。

 よし、落ち着け……ここでどんな行動を取れば刺身が狂うか見極めろ……!

 みんなに見られても問題なくて、刺身が狂う行動。

 きっと、そんなことがあるとすればそれは――

 

「はわわっ……! お兄様っ、なんてことを考えて……っ! ああっ、ダメですっ……そんなところぉ……ああっ、ほんと、お兄様っ、それくらいにっ……ふあぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」

 

 絶叫しながら、眩い光に包まれる刺身。

 無事に、レベルアップしたようだ。

 腰が抜けた様子で、その場にトロンとした目でへたり込んでいる。

 俺はそんな彼女を火事場の馬鹿力で背負い、目を押さえて蹲る衆人の群れの中へ。

 そして、なんとか遠くの人通りの少ない場所に逃げ込むことができた。

「はぁ……はぁ……。なんとか逃げ切れたみたいだな……」

 息も絶え絶えに刺身の髪を撫でる。

 ふっと香るシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。

 未だ、刺身はレベルアップの余韻で心ここにあらずといった感じだ。

 ならば、と俺は彼女の髪に鼻を押し付けて彼女の匂いを嗅ぐ。

 ……ああ、生き返る……。

 どうやら、俺は彼女の髪の匂いが好きらしい。

 体育の授業以外では全く運動をしない俺が久々に体力を使ったけれど、刺身の匂いを嗅いでいるうちに疲れなどどこかに消し飛んでしまった。

 ――とまあ、俺の作戦は大成功したわけだけど。

 一体、どんな方法でレベルアップを促すことに成功したのか。

 実は、その鍵は刺身の心を読む能力にあった。

 俺は、彼女に心がきちんと伝わるよう、まずは気持ちを整理した。

 そして、別に伝えたい大切な気持ちなんてないと自分自身を欺き、刺身と心が繋がる状態へ。

 そこからが、俺の妄想力の見せ所だった。

 俺は――自分の考えられる刺身とのエッチな状況を、なるだけ事細かく頭の中で思い浮かべたのだ。生々しいものを中心に、あくまで伝えようとせずにただただエッチなことを考えた。

 すると、心を読めてしまう刺身には、その光景がダイレクトで伝わり。

 彼女自身の純粋さ、ピュアさも相まって、彼女は狂ってしまったというわけだ。

 どうだ、俺の作戦は! これ以上ないほど完璧だっただろう!

 おかげで刺身の醜態を民衆に晒すことなく、彼女を連れて逃げられた。

 これは、俺の今までの人生の中でもトップレベルに機転が効いた瞬間だと思う。

「んっ……お兄様……な、なな、なんで頭を嗅いでいるんですか!」

「おう、気が付いたか刺身……。どうも、俺はお前の匂いが好きみたいでな」

「ふぇっ⁉︎ お兄様がわたしの匂いを⁉︎……ど、どうしましょう。匂いが好きな相手って、遺伝子的にすごく相性がいいとされているみたいですが……ふわぁ……」

 意識の正常になった刺身が、俺の行動に驚く。

 そして、そのまま恥ずかしそうにして再び気絶してしまった。

 一体どうしてしまったんだろうか。

 今の会話の中に、別に感情を昂らせる要素なんてなかったはずだけど……。

 おそらく、これもオードル・ト・レール遺伝子の奇行の一種なんだろう。

 そう思って、あまり深くは追求しないようにする。

 だって、宇宙のことを知ろうとしたってきっと全部理解をすることなんて出来ないんだから。

 それなら、深く考えないようにするのが十分だ…………って、ええっ!

 チョロロロロロロロロロ……

 プラネタリウムの時間に間に合うように、刺身をまたおんぶして会場まで連れて行こうとしたら、刺身の足元から音を立てて水滴が滴っていた。

 どうやら、度重なる気絶やレベルアップの影響で彼女は失禁してしまったらしい。

 俺はそれをアスファルトに這いつくばって舐めつつ、思う。

 ――そんな、おもらしをしてしまう刺身も魅力的でかわいいと。

 だから、俺は刺身のおもらしパンツを脱がせてビニール袋に入れ、ポケットに仕舞う。

 これは今日から、俺のお守りにしよう。

 このおもらしパンツを見れば、これから先どんな苦難があろうとも勇気をもらえる気がする。

 だって、このパンツは俺が刺身を守った勲章のようなものだから。

 そして、刺身のおもらしが染み込んでいるおパンツなのだから――。

 



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人付き合い。

 そんなこんなで失禁の後処理をしていた俺たちは、遅刻しそうになりつつもなんとかプラネタリウムに到着。平日の昼間ということもあって、チケットを入手することができた。

 俺たちが選んだのは、世界を旅しながら星空を眺められるという上映作品。

 上映時間になるまでは、二人でツーショットの写真を撮ったりしながら過ごした。

 それにしても、周りはカップルばっかりだな……。

 世のリア充どもは、普段からこうして楽しそうにお出かけしてるのか……。

 それで、さらにこうしてイチャイチャしてるわけだな!

 クソ、羨ましいな……。

 勘違いしてもらっちゃ困るが、別に俺だって好きで引きこもってるわけじゃない。

 できることなら楽しい所に出かけたいし、大勢でワイワイ遊びたい。

 恋人だっていずれは欲しいし、たくさんデートを重ねたい。

 でも……俺はそれが苦手で、必要以上に疲れを感じてしまう。

 常に気を遣ってしまうし、反省も他の人以上にしてしまう。

 だから自分のせいで空気を悪くしてしまったことや自分の発言がグループの輪を乱してしまったことなんかは、すぐに思い出せるほど心に刻まれてる。

 その逆もそうだ。

 自分が言われたこともずっと覚えてるし、今後忘れることもないだろう。

 きっと、俺の心は対人に優れていない。

 だから、引きこもる。

 学校以外はできるだけ、家の中で一人で過ごす。

 なぜなら、その方が楽だから。

 楽しいことなんて初めから望まない方が、楽だから。

 しばらく経つと、長めのブザーが鳴って案内係のお姉さんが説明を始める。

 その声をBGMに刺身を見ると、刺身もまた俺の方を見ていた。

「……どうした、何かあったか?」

 聞くと、心配そうに俺の目を見つめながら刺身。

「いえ……なんていうことはないんですけどね? その……なんというか……」

 歯切れが悪い。

 いつもならもっとハキハキと話すはずなのに、なぜかこちらの顔色を窺っているような様子だ。不思議に思っていると、意を決したような彼女が言う。

「……お兄様が、すごく辛そうな表情をしていらっしゃったので……」

「ああ……」

 どうやら、気がつかないうちに卑屈な顔になってしまっていたらしい。

 きっと、嫌なことを思い出してしまったからだろう。

 中学時代、いじめられていたころの記憶。

 妹に、いらない心配をかけてしまったみたいだ。

「ちょっと考え事をしてたからかな。心配かけてごめん」

 手を合わせてつとめて明るく謝ると、慌てた様子でわたわたとする妹。

「い、いえ……それならいいんですけど……」

 それから、彼女は俯いて黙ってしまう。

 案内中だから黙っているのはいいことなのだが、なんだろう。

 少しだけ、モヤモヤする。

 彼女は今、どんなことを考えているんだろうか。

 それを、表情から読み取ることはできない。

 でも、何かを真剣に考えているということだけは、隣にいるだけで自然と理解できた。

 



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世界中の星空。

「それでは、チケットの番号を確認の上、指定の席に御着席ください!」

 お姉さんの説明が終わった。

 そして、周りのカップルたちがゆっくりとプラネタリウムの中へと足を踏み入れる。

 俺たちもそれに続いて進もうと、一歩。

 踏み出そうとすると、ふいに後ろから袖を掴まれて足が止まった。

 その場に立ち止まる。

 後ろを確認すると、袖を掴んでいるのは刺身だった。

「……わたし、嬉しかったんです」

 ギュッと袖を掴んだまま、刺身。

 その表情は、先ほどと比べて大分やわらかなものになっている。

「なんのことだ?」

 反射的に聞き返してしまう。

 きっと、考え込んでいたことに結論が出たんだろう。

 彼女がついさっき何を考え、真剣な表情になっていたのか。

 俺は疑問に思っていたから、聞き返したのは正解だ。

 彼女は、ふわふわした花のような笑顔を浮かべて答える。

「……お兄様がデートに誘ってくれて、嬉しかったんです。お兄様がわたしと遊びに行きたいって思ってくれてるんだなって、知ることができて……」

 だから、と続ける。

「これからも、たくさん色々なところに連れて行ってくださいよ! 楽しいことを、たくさんしましょうよ! お兄様が一緒にお出かけする相手は、わたしでもいいじゃないですか!」

「刺身……」

 恐らく、刺身は俺の心を読んで気持ちが沈んでいる理由を察したんだろう。

 そうすると、さっき考え込んでいたのは俺を励ますためだったのか……!

 彼女が俺のことを思いやってくれていたと知り、心がジーンと温まってくる。

「さあお兄様、中にいきましょう? 世界中の星空が待ってます! 今日、この瞬間をわたしとお兄ちゃんの始まりの日にしてやりましょうよ!」

 満面の笑みで、手を差し出してみせる刺身。

 俺には、そんな彼女の笑顔が太陽のように眩しく見えた。

 レベルアップで放つ光なんかよりも、ずっと温かくて優しい光。

 俺は、そこに向かって手を伸ばす。

 すると、彼女は小さな手でしっかりとその手を握り返してくれて。

 そして、二人で一つのシルエットになって歩き出す。

 気が付くと、俺は笑顔になっていた。

 刺身に負けないくらい、満面の笑み。

 きっと、傍から見たら随分と気持ち悪い絵面になっているのだろう。

 でも、幸いにも周囲は隣に座るパートナーに夢中だ。

 俺たちのことなんて、見えていない。

 だったら、このままずっと笑顔でいてやろうじゃないか。

 これは、俺と刺身の世の中に対する反抗だ。

 明るい人間だけが笑顔でいられる世界への、ささやかな反抗。

 今日だけは、こんな俺だって笑顔で過ごしてやろう。

 どうせ、近いうちに世界を救ってやるんだから、今日だけは。

 二人の気持ちだけを優先して、笑顔でいさせて欲しい。

 ふと刺身の顔を見ると、また彼女と目が合った。

 そして、今度はどちらからともなく笑い出す。

 ――この瞬間、俺たちは世界の誰よりも幸せを感じている自信があった。

 



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プラネタリウム。

「楽しかったですね、お兄様!」

 人生初のプラネタリウムを楽しんだあと、駅ビル内のカフェにて。

「ああ、凄かったな! 俺、プラネタリウムって偽物の星を見るだけだって勝手に思い込んでたけど……最近の技術ってほんとに進歩してるんだな!」

 テンション高く、俺たちはプラネタリウムの感想を言い合っていた。

 いや、ほんとにすごいんだってプラネタリウム!

 最初想像してたのは、真っ暗な空間で星の映像を見ながら「これが夏の大三角だ」とか「これが何座だ」とか、そういう学術的な説明を受ける退屈なものだった。

 でも、いざ始まってみると引き込まれるのなんの!

 あれは、ただ星を眺めるなんてものじゃなかった。

 言うならば、星空の海に飛び込んだような感覚だ。

 天の川銀河の中に潜って行ったり、流星群を間近に見たり。

 普通に生きていたら絶対にできない経験をプラネタリウムが与えてくれた。

 それに加えて。

「それにしてもお兄様……見過ぎでしたよ?」

「…………ナンノコトデスカ」

「惚けないでくださいー! 上映中ずっとわたしの方をみてたじゃないですかー!」

 ……そう、俺は刺身の方をずっと見ていた。

 いや、そりゃ星だって見てたよ⁉︎

 プラネタリウムに来たんだから、星を見なきゃ仕方ないじゃんか!

 ……でもさ、気付いちゃったんだよ。

 プラネタリウムの座席ってリクライニングシートなんだけど……

 なんと、すぐ近くに刺身の整った顔があるんだよ!

 じゃあ、見ちゃうじゃん!

 星より綺麗な顔が間近にあるんだからさ!

 心の中で刺身の顔をベタ褒めしていると、それを読んだ刺身が激昂する。

「見ちゃうじゃん! じゃありませんよ! 恥ずかしくて集中できなかったじゃないですか!」

「いや、俺だって星を見る気だったよ! でも可愛かったんだもん! 見ちゃったんだもん!」

「ああっもう!……なんでそんなに平然と恥ずかしいことを……っ!」

「だって本当なんだもん! かわいいんだもん!」

「っ……んんんん! もう! お兄様は『だもん』禁止です! 金輪際言っちゃダメ!」

 涙目で、フレアスカートの裾をギュッと握って吠える刺身。

 ちょっとからかいすぎてしまったかもしれない。

 可愛すぎて見つめちゃったのは本当だけど、嫌われてしまうのは困る。

 だから、俺は素直に刺身の言いつけを守ってこう言った。

「かわいいんだもの」

「みつをですか! 『だもん』を『だもの』に変えたら許されるとでも⁉︎」

 ……うーん。

 どうやら、火に油を注ぐ結果となってしまったらしい。

 どこを間違えてしまったのかはわからないが、これも奇行の一つなんだろうか。

 真っ赤になって怒る刺身に、赤の反対色の、緑色のメロンのケーキを注文する。

 すると、刺身は少し表情を緩めたあと、怒りの矛先をなくしてどうしたらいいのかわからないといった風にこっちを睨みながら「うううう……!」と唸った。

 その唸り声を聞いて、思い立つ。

(もしかして、これは怒りでレベルアップさせるチャンスでは……?)

 普通なら、刺身を怒らせようなんて発想が思い浮かぶはずもない。

 なぜなら、怒らせてしまえば俺は妹に嫌われてしまうからだ。

 しかし、刺身にはレベルアップという感情を発散する機能が備わっている。

 ということは……いくら怒らせても、レベルアップさえしてしまえば彼女は怒りの感情を忘れてくれるのでは!

 



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スカートの中。

 思い立つと、早速行動に移る。

 まずは、席を立ち上がって……それから、テーブルの向かいにいる刺身の前へ。

「…………?」

 突然動き出した俺に、刺身は腕を組んで怪訝そうな顔をする。

 そんな彼女の前にしゃがむと、俺は彼女の履いていたフレアスカートの中に、ゆっくりと右手を潜ませた。そして、本来あるはずの布地がそこにないことを指で示す。

「お、おおお、お兄様⁉︎ 突然なにをしてらっしゃるんですか⁉︎」

 急な兄貴の奇行に、目に涙を浮かべて動揺する刺身。

 ふははは、作戦成功か……!

 きっと、刺身は今この上なく怒りを感じているはずだ。

 だって、ここはカフェの中。つまり衆人監視の中。

 さっきの人だかりみたいに俺たちに注目してる人は誰もいないが、少しでも変な行動を取れば、たちまち多くの人の鋭い視線が俺たちに突き刺さることだろう。

 そんな状況で、自分がノーパンであることを示してくる兄貴。

 おもらしをしてからカフェに来るまで、刺身は一度も自分の下着に違和感を持った様子がなかったからな……。

 恐らく今の指摘で気がついて、顔を真っ赤にしているはずだ。

 さらに、彼女はスカートの中に手を突っ込まれている。

 それも、言うまでもなくカフェの中でだ。

 家の中だって怒られるだけじゃ済まないはずの愚行に、刺身が耐えられるとは思えない。

 きっと、今すぐにでも怒りのエネルギーが頂点に達して爆発するに違いない。

 やっちゃいけないことを全力でやっている高揚感に、顔が熱くなる。

 さあ、妹よ。その怒りを解き放つがいい!

 さすれば汝は地球人へと近づき、さらにその負の感情を空中分解することができるのだ!

「お兄様っ、手をっ、どけてっ……ああっ、あっ、んんんっ……」

「嫌だね! これは……そう、罰だ! お前が街中でおもらしをした罰だ!」

「ごめんなさっ……いぃ……っ、もう、しないからぁ……やめ……っ……」

「ははははは! どうだ、イライラしてきたか! ほら、爆発しちゃえよ!」

 普段は大人しくしているだけに、悪いことをしていると楽しくなってくる。

 可愛くて頭のいい妹を、出来の悪い兄が辱めているのだ。

 なんだか、新しい性癖に目覚めそうである。

 なんて、しばらくスカートの中で刺身の温もりを感じていたのだが。

 なぜだろう、一向に刺身が爆発する気配がない。

 それどころか、彼女はだんだんとイキイキと、嬉しそうになっていき……。

「おしおきをっ、おしおきをお願いしますっ……この駄目ないもうとに、おしおきを……っ」

 最終的には、自分から罰をねだってくる始末。

 ええと……これはどういう状況なんだろう。

 怒らせるつもりが、悦ばせてしまったようだ。

 困惑している最中にも、刺身はどんどん腰をくねらせて要求を続けてくる。

 だったら、と俺は決心する。

 スカートの中に手を入れるだけじゃなく、もっと凄いことをしてやろうと。

 具体的には、その手を動かしてやろうと。

 唾を飲み込む。

 ごくんと、大きな音がした。

 それだけ、緊張しているんだろう。

 今耳元で大きな声でも出された日には、心臓が止まってしまってもおかしくはない。

 それだけ、俺と刺身の間に緊張が走る。

 だから、俺はその緊張を沈めるために刺身の涙を舐めとった。

 相変わらず、極上の味わいだ。

 爽やかで、それでいてコクのある不思議な味がする。

 夢の中をギュッと凝縮して液体にしたような風味。

 そんな幸せなひとときに、意識が飛んでしまいそうになる。

 しかし、俺はこれから刺身の期待に応えなくちゃならない。

 もっと、エッチなことをしてやらなくちゃならない。

 だから、涙を味わうのはそこまでにして、刺身の目を見つめた。

「行くぞ……」

「うん……お兄様、きて……」

 脳がとろけそうな会話。

 俺は彼女を怒らせようとしていたはずなのに、いつの間にか幸せに苛まれていく。

 ああ、刺身……! これはお前が望んだことなんだからな……!

 一緒に、快楽のその先に行こうじゃないか……!

 ゆっくりと、手を動かそうとする。

 指の先まで神経を研ぎ澄ませて、ゆっくりと――

 ――と、全意識を指先に集中させていた時だった。

 トントン、と何者かに肩を叩かれる。

「…………えっ」

 驚いて振り返ると、そこに立っていたのはカフェのユニフォームを着たお兄さん。

 頬を引きつらせて、メロンのケーキを持っていた。

「ええと、お客様……。こちら、ご注文のメロンケーキになります……」

 何かいいたげに、それでもビジネススマイルは顔に貼り付けたまま告げるお兄さん。

 俺は、テーブルにメロンケーキを置いてもらうと、流れるような動作で床に這いつくばる。

 そして、頭を床に擦り付けて言った。

「…………本当に、申し訳ございませんでした……」

 刺身の怒りを買う作戦は、いつの間にか店員さんの怒りを買う作戦に変わってしまっていたらしい。本当に、申し訳ございませんでした。

 



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守りたいもの。

 メロンケーキを食べて、そのあと雑貨やアクセサリーを見て回って。

 そうしているうちに日が暮れて、俺たちは帰宅することになった。

 電車を降りて、自宅へと向かう。

 刺身の髪の毛に輝くのは、青色の花の形をした髪飾りだ。

 俺が、デートの終わりにプレゼントしたものである。

「今日は本当に楽しかったですね〜!」

 刺身が、自身の髪飾りを撫でながら言う。

 どうやら気に入ってもらえたようで一安心だ。

 青い花を選んだのは、彼女の声を聞いていてそのイメージを持ったから。

 刺身の声は、透き通ったガラスのように繊細な声。

 その涼しい声色に、青色の髪飾りはぴったりだと思った。

「それにしても、お兄様とのデートっていいですね!」

 ニコニコしながら刺身がいうから、俺はどうしてそう思うんだろうと疑問に思って聞き返す。

 すると、刺身は暗くなった景色の中、月明かりのような静かな笑顔を湛えて言った。

「だって、お家に帰ってもずっと一緒なんですから、さみしくならないじゃないですか」

 言われてみれば、そうなのかもしれない。

 旅行のあと、祭りのあと、デートのあと。

 楽しい出来事のあとは、どこか寂しさを覚えるのが人間だ。

 だけど、俺たちのデートはこれで終わりじゃない。

 二人がデートだと思っていれば、ずっと、それは永遠に続いてく。

 だって、二人は兄妹で……同じ家に住んでるんだから。

 今夜も、明日も、明後日だって、寂しくならずにずっといられる。

「だから、お兄様はわたしを一人にしちゃダメなんですからね?」

 いたずらっぽく笑う刺身。

 本人にはそんな気はないんだろうけど、俺はどうしてもリノとの会話を思い出してしまう。

 ――どうしようもない孤独。

 刺身が地球を滅亡させた未来には、彼女自身が最も苦しむ未来が待ち構えている。

 しかし、地球も刺身も救ってあげられるのは俺一人だけ。

 ならば――俺が、頑張るしかない。

 刺身の笑顔を見て、今改めてそう思った。

 俺が守るのは、この笑顔だ。

 相手が遺伝子だろうと宇宙だろうと関係ない。

 俺は、俺の守りたいものを守り抜くだけだ。

 

   *

 

 そんなこんなで、俺は毎日刺身をレベルアップさせ続けた。

 リノの説明では今までの人生で刺身がレベルアップした回数は五十回だという話だったが、それが嘘みたいに彼女は短いスパンで狂い、レベルアップを重ねる。

 例えば、俺の入浴中に刺身が押しかけてきたとき。

 普段なら絶対にそんなことしないはずなのに、遺伝子の暴走からか俺の風呂に突入してきた刺身の背中を流してやったことがあった。

 そのときも、背中を洗われながら刺身は恥ずかしそうに体をくねらせ。

 そして、体を反転させて俺に抱きつくと――そのままレベルアップした。

 また、例えば寝ている俺の布団に刺身が潜り込んできたとき。

 普段なら絶対にそんなことしないはずだからと、俺は彼女の方に背中を向けて眠ったフリをし続けた。すると、彼女は息遣い荒く俺の耳たぶをぺろぺろと舐め出し。

 そして、小一時間ほどそれを続けて自室へと帰って行った。

 だから、俺はまた逆転の発想を試みる。

 今度は、寝ている刺身のベッドに行って彼女の耳たぶを俺が舐めたのだ。

 すると、刺身はまだ起きていたようで「んぁ……」と可愛く呟きながらくねくね。

 それでも続けていると、次第に彼女の息が荒くなって頬が上気してきた。

 だから、俺は手応えを感じてさらに激しく耳の奥まで舐める。

 すると、刺身はそのくすぐったさに耐えきれず、そのまま腰を浮かせてレベルアップした。

 



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集合的無意識。

 そうして、もう何度彼女がレベルアップしたかも分からなくなってきたとき。

『――フカ、久しぶりね』

 目の前に、オーバーオールの少女が現れた。

 俺の部屋のクローゼットの前。

 夕方五時ごろのことだ。

 刺身はまだ学校から帰宅していない。

「リノ……なのか?」

 尋ねたのは、久しぶりだったからじゃない。

 彼女の見た目が、以前会ったときとは決定的に違っていたから。

『そうよ。フカ、すごいね……こんなに早く達成に近づくなんて……』

 顔色一つ変えず、称賛するリノ。

 というか……彼女には、感情が一切ないように見える。

「ということは、もう刺身が完全な地球人になるのも近いってことだな……!」

 リノが再びやってきた意図を察して問いかける俺。

 しかし、彼女は無感情に言い放つ。

 その言葉に、俺は声も出なくなってしまった。

 

『ああ、そのことなんだけど…………アレは、その場で吐いた嘘よ』

 

 ――意味が、分からなかった。

 リノの言う嘘とは、なんのことを指しているんだろう。

 それは、レベルの上限が百だということについてか――それとも、刺身がオードル・ト・レールの遺伝子を色濃く継承しているということについてなのか。

 しかし、彼女に受けた説明が嘘だったとして――なぜ、彼女はそんな嘘を……?

 突然のことに、俺は話すどころか動くことさえできなくなる。

 だけど、リノはそんなことはお構いなしとばかりに話し始める。

 いや――伝え始めると言ったほうが正しかっただろうか。

 なぜなら、彼女が俺と取っているコミュニケーションの手段は、声じゃない。

 再開したリノは――ずっと、俺の脳内にテレパシーで直接語りかけてきていたのだ。

『まだ事態が飲み込めていないようね』

 伝えて、リノは目の前にホログラムのような図を展開する。

 そこには、刺身のシルエットに九十九%と書かれた数字が浮かんでいた。

「これは……刺身の、レベルか?」

 数字から推測した俺が尋ねると、リノが頷く。

 しかし次の瞬間、彼女は俺の想像を否定もしてみせた。

『その通り。だけど……この数字は、地球人の正常な遺伝子に近づいていることを示すものじゃないの』

「……どういうことだ?」

 困惑する俺に、無機質な表情で彼女は説明する。

 レベルアップについて、彼女が吐いていた嘘を。

『……集合的無意識、という言葉を聞いたことはあるかしら?』

「…………集合的無意識?」

 聞き覚えのない単語に、オウム返しをしてしまう。

『簡単に説明すると……そうね、意識や個人的無意識の、さらに深層にある人間の普遍的な意識のことよ。どう? これでわかった?』

「いやすまん、全然分からん」

 全然分からなかった。

 いや、だって急にそんな難しい単語を並べて説明されましても。

 知らない単語を説明するために知らない単語を使わないで欲しい。

『そ、そう……じゃあ、集合的無意識の例を話すわね?』

 無表情ながら若干呆れ気味に説明を続けるリノ。

 呆れられても困るんだけどな、分からないものは分からないんだから。

 と、不貞腐れながら続きを聞く。

 



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存在しないモノ。

『例えば……神話や伝承の例がわかりやすいかしら。世界各地に、ドラゴンの逸話が残されているのは知っているわよね?』

「……ああ。具体的に詳しく知っているわけじゃないが、あること自体はな」

 俺の答えに、満足そうな雰囲気を醸しながら頷くリノ。

 無表情でも、なんとなく思っていることの雰囲気は出るらしい。

『あとは……振り返ってはいけないということが描かれた神話ね。これは日本にもある神話だからフカにも身近なんじゃないかしら』

「そうだな。古事記の黄泉平坂とか、あとはギリシャ神話のオルフェウスとハデスの話が確かそうだったよな。でも、それがどうしたんだ?」

 以前訪れたときと同じく意味不明な会話を展開するリノを不思議がる俺。

 そんな俺に、リノはテレパシーでメッセージを伝えてきた。

『それって……よく考えるとおかしなことじゃないかしら?』

「……おかしなこと?」

 再びオウム返しをする俺に、リノが続ける。

『だって、その時代の人々が文化的交流を行なったという事実はどこにもないでしょう? なのに、世界各地に似たような伝承や神話がある。これっておかしくないかしら?』

 言われて、初めて気づく。

 確かに、その通りだ。

 その時代に人々の文化的交流がないのだとしたら……一体、なぜこんなことが起こっているのだろうか。偶然、同じようなことを似たような時期に考え出したのだろうか。

 ……いいや、そんなはずはない。

 なぜなら、リノがわざわざ説明中に話し出すようなことなんだ。

 これは、きっと人類の歴史にとって大切な着眼点なんだろう。

 俺が神話の疑問点に気付いたことを悟ったのか、再びリノが話し出す。

『結論は、こうよ。太古の人類は――普通に離れた民族ともコミュニケーションをとっていたの。こうして、今わたしがやっているようなテレパシーを通じてね』

「……それは、まだオードル・ト・レールの遺伝子が強く残っていたからか?」

『正解よ。フカももう気付いてるんじゃないかしら。わたしの今の姿を見て、オリジナルのオードル・ト・レール人が、どんな姿をしていたのか』

 言われて、改めてリノの姿を観察する。

 ……彼女には、口が存在しなかった。

 この間来たときは、口を使って会話して口を使ってお茶を飲んでいたはずだ。

 なのに、今は口のあった部分には何も存在していない。

 膝や肩のように、皮膚がただ途切れずにくっついているだけだ。

『この間わたしが来たときは、地球人の姿に馴染むために擬態して来ていたのよ。マスクをして口を隠してもよかったんだけど、食べ物や飲み物を摂取してみたかったからね』

 あっけらかんと言い放つリノ。

 ってことは……人類の祖先はもともとテレパシーを使っていたため、口がなかったということか。それが、だんだんと猿との子孫が代を重ねるごとに消えていったというわけだ。

『ようやく本質が見えてきたみたいね。さらに情報を付け足すなら……そうね、文字やイラストの例なんかを出してみようかしら。アレなんて、完全に地球の独自の文化なのよ? だって、テレパシーが使えたら文字なんて必要ないじゃない。それに……テレパシーには、時間なんて存在しないし』

 分かりやすい解説のあとに、意味不明なことをチョロっと漏らす彼女。

 ええと……時間が、なんて?

『時間が存在しないって言ったのよ。未来も過去も、現在も。まあ、ここら辺の説明は言語を使っているフカたちにはわからないでしょうね。だって、言語には「あいうえお」と発話した時点で過去と現在が流れて行っているんだから。テレパシーの点と点のやりとりなんてわかるはずがない』

 そういうものなんだろうか。

 リノがわからないと言うんだから、俺には本当に理解できない現象なんだろうけど……。

『まあ、いいわ。話を続けましょう』

 と、肩を落とす俺に気を取り直したかのようにリノが伝え続ける。

 彼女曰く、次はついにテレパシーの仕組みを説明してくれるらしい。

 



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テレパシー。

『……ここで登場するのが、さっき説明した集合的無意識なのよ』

「はあ……」

『集合的無意識っていうのは、つまりオードル・ト・レール人から遺伝したテレパシー因子の生き残りなの。だから地球人たちは完全にはテレパシーを使えなくとも、知らないうちに同じことを考えついたり曖昧な言語であってもコミュニケーションが取れたりする』

「神話の例と……あとは例えばどんなことがそれに該当するんだ?」

『そうね……日本人だと、「あれ」とか「それ」で違う場所にいても意味が通じるでしょ?』

「ああ……それにももしかして集合的無意識が?」

『その通りよ。こそあど言葉は、テレパシー因子が日本人に残っているからこそ利用できるの』

 リノの言い方に、少し引っかかる。

 どうして、彼女は「地球人」ではなく「日本人」と言葉を変えて話したのだろう。

 外国語にも、「あれ」や「それ」に該当する言葉はあるはずだけど……。

 考えていると、脳内を見透かしたリノが言う。

『フカ、それは間違いよ。日本以外の国の場合、こそあど言葉は滅茶苦茶なの。そうね……言うならば、日本語は他人中心の言語で外国語は自分中心の言語といったところかしら?』

 言いながら、彼女は英語のこそあど言葉の表を見せてくれた。

 見てみると、確かに規則性がなく難しい。

 日本では「あのペン」「そのペン」と表現できるところも、英語だと「that pen」とは表現できても「it pen」とは表現できない。

『そのあたりにテレパシー因子が関係してくるの。だから、つまり日本人にはオードル・ト・レール人の遺伝子が比較的色濃く残っているっていうことね』

 ……よくはわからなかったけど、なんとなく言いたいことは理解した。

 つまり、日本語話者同士のコミュニケーションはなんとなくの言語でも通じるが、外国語話者同士のコミュニケーションにはなんとなくの言語が通用しないということ。

 主語動詞を必ずしも必要としないことからも日本語のアバウトさは窺える。

 そのアバウトなコミュニケーションを可能にしているのが、オードル・ト・レール人の遺伝子にあるテレパシー因子なのだろう。

『だからこそ、日本人である刺身ちゃんが「鍵」に選ばれたの』

 曖昧な理解度で納得していると、リノが気になることを言ってきた。

 ……鍵って、どういうことだ?

 これまでの流れから言えば、刺身はオードル・ト・レール人の遺伝子を一際色濃く受け継いだ個体で、その遺伝子が地球の環境に合わないことで精神異常を起こし地球を滅亡にまで追い込んでしまう危険性のある女の子だ。

 しかし、レベルアップしてレベル百になることで彼女は完全な地球人になれるはずだったが――

『彼女は、鍵よ。地球人を再び集合的無意識にまで落とす鍵』

 機械のように無機質なテレパシーを送ってくるリノ。

 オードル・ト・レール人は機械だと言っていたが、それを身をもって感じるような冷たさだ。

「つまり……刺身のレベルアップは、本当は刺身を地球人にする処置なんかじゃなくて……地球人全員にテレパシーを使えるようにするための段階だったっていうのか⁉︎」

『それだけじゃないわ。集合的無意識でつながった人類は、パソコンをたくさん繋げて出来ることを増やすように、出来ることが無限に広がる機関となるの。例えば、考えたものを瞬時に具現化したり、永遠を作り出したりね』

 リノの言葉に、人間が機械だという彼女の話を思い出す。

 つまり、精巧な機械であるところの脳を数十億個繋げることで考えられないような奇跡を起こすことの出来る装置が誕生するということだ。

『……本当によかった、察しのいいフカをすっかり騙すことに成功して。あなたがやっていたのは、地球を救う行為なんかじゃないの。あなたがやっていたのは……地球人に眠るオードル・ト・レールの遺伝子を再び引き出し、地球人全員をオードル・ト・レール人の奴隷としての機関にするための行為だったのよ』

 言うと、彼女は俺の部屋の中央に空間を広げる。

 真っ暗な闇の空間を作り出し、そこに手を入れた。

 ――すると、出てきたのは学校にいるはずの刺身だった。

 状況が掴めないらしく、リノと俺を見比べて狼狽えている。

「お、お兄様……と、口のない小学生……? ゆ、夢でしょうか……?」

「気を確かに持て! これは現実だ! ええと……俺の意識を読みとれ!」

 頭を押さえてフラフラする刺身の肩に手を置き、揺さぶる。

 彼女がいつも通り読心術を使えるなら、この複雑な状況もすぐに理解できたかもしれない。

 でも――

『無駄だよフカ。刺身ちゃんの読心術は一時的に停止しているもの』

 オードル・ト・レール人によって、彼女の能力は停止させられてしまっていた。

 読心術を使えない刺身が、すぐにこの状況を理解できるはずもない。

『あなたが読心術と言っているのも、集合的無意識の一つ。でも、精度は低いし表面的なことしか理解できないの――だから、今から全てを分かり合える機関を作ってあげるね?』

 言い終わると、リノは刺身にゆっくりと近づいていく。

 一歩一歩、しっかりと踏み締めて刺身の前へ。

 そして――刺身の目をしっかりと見て、目を閉じた。

 直後、刺身は眩い光を放って爆発する。

 今までのレベルアップの中で、最も激しい光の暴走だ。

 目を閉じていても、瞼の裏まで灼き尽くされそうな光の暴力。

 俺は、その場に立っていることさえままならなかった。

 



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永遠。

『今、刺身ちゃんにはフカが殺されているシーンを創造して付与した。テレパシーによる体験は、現実で経験したのと何も変わらない事実として脳が処理する。だから、彼女は最後のレベルアップを悲しみと怒りで達成した。……フカ、ごくろうさま。人類は、一つの機関に成り下がることに成功したわ』

 遠のく意識の中で、リノの声が聞こえる。

 刺身は……? 刺身は、無事なのか……?

 真っ白に初期化されていく意識の中、唯一脳内に残ったものは後悔だった。

 もし、あのときリノの表情に見えた翳りに気付くことができていたら。

 もし、俺がリノのいうことを鵜呑みにしていなかったら、普段どおりの生活を続けることもできていたんだろうか。

 いつの日か見た夢を思い出す。

 日常の儚さ、脆さを教えてくれた夢のことを。

 あの時俺は後悔したはずなのに、どうして人は過ちを繰り返すんだろう。

 大好きだったミュージシャンが亡くなった時も、刺身がピストルと手錠を持っている不可解な夢を見た時も――何度だって同じ後悔を繰り返してきたはずだ。

 それでも俺は、まだ伝えることができなかった。

 刺身に、自分の気持ちを。

 幼い頃、刺身が俺の後ろをチョコチョコとついてきていた頃から胸に抱いていた想い。

 何度も何度も、彼女に伝えようとして諦めた胸に秘めた想い。

 彼女――刺身に対する、溢れんばかりの恋心を。

 

 段々と、自我が無くなっていくのを感じる。

 体温や鼓動、皮膚に当たる空気の感覚がまず初めに消え失せ、意識がなくなる。

 そして、頭の中が完全なる虚無。真っ白になって、無意識になる。

 それから、徐々に周囲の人間の記憶や思考がなだれ込み――

 人間は、ついに集合的無意識で繋がった存在へと成り下がった。

『すごい……! すごいよ、地球人……! これは、オードル・ト・レール人にも勝るほどのエネルギー、破壊力、思考力! これで、我々は世界を一からやり直すことができる……! これほどの機関が存在すれば、どんなシミュレーションだって……どんな記憶、生命体、永遠を作り出すことだって可能になる! さあ、手始めに永遠を作り出して! 永遠を作り出して、オードル・ト・レールを永久のものにするの!』

 リノがテレパシーで命令すると、地球全体が産声を上げる。

 ついに今、ここに地球人全員を動力源とする機関が誕生したのだ。

 あるところには菫の花が咲き、またあるところには蓮の花が咲き。

 また別の場所では菊の花が香り、またあるところでは牡丹の花が咲き乱れた。

『それじゃあ、刺身。オードル・ト・レールへ行きましょう。あなたはわたしたちと一緒に来て、地球機関の鍵としての役割を果たすのよ』

 伝えると、リノは宇宙船に刺身を乗せて宙へと浮かんでいく。

 その先端は、ただ一点だけを鋭く捉えていた。

 



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アブダクション。

   *

 

 オードル・ト・レールに到着すると、刺身は真っ白い部屋に閉じ込められた。

『あなたはここで永久に鍵として暮らしてもらうわ』

 オーバーオールを脱いですっかり裸となった少女に告げられる。

 その後、白い壁に囲まれた刺身はずっと疑問を抱き続けていた。

(学校にいたのに、いつの間にかこんな訳のわからないことに……!)

 読心術、つまり不完全なテレパシーを持っている刺身だったが、彼女には読みとれない情報がたくさんあった。その中には、オードル・ト・レール人による陰謀やレベルアップについての情報なども含まれている。

 そのため、彼女はこの状況を微塵も理解できていなかったのだ。

 刺身にとってみれば、得体の知れない口のない集団に兄を殺されいきなり地球外に連れ去られるという急展開。兄、フカヒレの死が嘘であることは直感的に分かったが、ピンチであるのには変わりないらしい。

 それに、先ほど裸の少女は永久にこの部屋で暮らすよう命令したが、何もしなくてもいいのだろうか。それだと、退屈で頭がどうにかなってしまいそうだ。

 地球人とオードル・ト・レール人。その全員が集合的無意識下でつながっている中、刺身だけが中途半端な状態で閉じ込められているという状況。

 その状況を、果たして刺身は理解することができるのだろうか――

 

「わかりました! つまりわたしは地球人を集合的無意識下で繋げるために過去宇宙人に用意された鍵となる人物だったんですね!」

 

 ――オードル・ト・レールの時間で二時間後。

 刺身は、自身の置かれた状況について完璧な答えを導き出していた。

「おそらく、お兄様はこの星の宇宙人に騙されて利用されてしまったんでしょう。お兄様は人がいいですからね……! いえ、それ以外も全部いいですけど!」

 頬に手を当てて床に転がり、くねくねと体を捩る彼女。

 彼女の頭の中は常人の数百倍もよく出来ていたらしい。

「でも、どうして中心的な人物で鍵ともあろうわたしが集合的無意識に飲み込まれていないんでしょう……?」

 疑問に思う彼女だったが、今はとりあえずの正解に近づいたことで気分が高揚し、それどころではない。再び頬に手を当てくねくねと動き出す。

「うへぇ……お兄様が騙されたのは、やっぱりわたし関連の嘘を吐かれたからでしょうか……? お兄様は妹のことが大好きなシスコンですからね……うへへ」

 しばらくそうしてくねくねとし続ける刺身。

 しかし、急に「あっ!」と声を上げると床から飛び起きた。

「こうしてはいられません! 一刻も早くお兄様を助けないと!」

 そして、机に向かって、とある装置を作り始める。

 オードル・ト・レール人が刺身に用意した真っ白い部屋には、ある程度日常に必要なものは準備されていた。彼女は、その中からいくつかの道具を選び、何かを組み立て始めたのだ。

 それから、数分後。

「できましたー! これで地球のみなさんの意識をここに呼ぶことができます!」

 出来上がったのは人型の機械と、小型の端末。それから拳銃と手錠だ。

 地球人の繋がった意識から一つを切り離し、クラウド上にアップロードする端末と、その意識をダウンロードするための機械である。

 手錠は、万が一失敗したときに備えて人型の機械につけておくものだ。

 早速刺身は、早速端末を起動し無意識下の人間の中で兄だと思われる個体の意識を抽出する。

 すると、みごとにフカヒレの意識はクラウド上を経由し、人型の機械に移動した。

 



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反逆。

「……まいったな……」

「お兄様、目覚めたんですね?」

 人型の機械に宿ったフカヒレの意識は事態が飲み込めないようで、ジタバタと暴れながらここがパラレルワールドなのではないかと思考を巡らせている。

「ごめんなさいお兄様、普通にさっきの二時間後です」

 刺身は、落ち着いた様子で言う。

 しかし、彼女は久しぶりに兄に会えるという興奮で二つの大失敗を犯していた。

「なんでだよぉぉぉぉぉぉぉ!」

 信じられないといった風に叫ぶフカヒレ。

 それもそのはず。

 まず、彼女の言った「二時間後」が指しているのは彼女がオードル・ト・レールに連れてこられてから二時間が経過したということ。もちろんその時地球にいたフカヒレにそんなことを伝えても、彼は知る由もない。

 さらに、彼女のいう二時間とはオードル・ト・レールの時間での二時間だ。

 リノの説明にもあった通り、オードル・ト・レールの時間の進みはゆっくり。

 だから、この星ではたった二時間のことでも地球では数年が経過していることになる。

「わたし、お兄様が眠っている間にレベルアップについて色々と調査を進めてみたんです」

「二時間の間によくこんな意味不明な現象を調べられたな……」

 よって、話が噛み合うはずなどないのだが――

 刺身は、自身が起こしたそれ以上のもう一つの失敗にも気がついていなかった。

 しかし、フカヒレが脳内で繰り広げる戸惑いの会議を傍観するうちに彼女は気付く。

「未知の現象……? お兄様はなにを仰っているのですか……?」

「え……だって、お前の額にレベルアップの文字が表示されたのはさっきの一回だけで……それ以外はなにもレベルアップについて知らなかっただろ?」

 ――彼女の呼び出したフカヒレの意識が、同時間を生きるフカヒレの意識では無かったことに。別の時間に無意識下にいた、フカの意識であったことに。

「お兄様、申し訳ありません」

 だから、彼女は謝罪の言葉を口にした。

 そして、片手に持っていた拳銃を構え引き金を引く。

 クラウド上からダウンロードした意識は、謂わばコピーのようなもの。

 だから、殺してしまえばその記憶は抹消される。

 彼女は、自らにこれは単なるフカヒレの意識のコピーに過ぎないと言い聞かせ引き金を引く。

「またね、お兄様」

 そして次の抽出では絶対に失敗しないことを心の中で約束し、必ず兄に再会できることを願って「またね」とおまじないのような挨拶を口にした。

「絶対――お兄様を、取り戻してみせるんです!」

 彼女は、奮起した。

 過去のとはいえ、最愛の兄に擬似的に会うことでやる気にさらに火がついたのだ。

 彼女は、端末に不備がないかをもう一度入念に調べ、改善。

 それから、再び兄の意識の抽出に取り掛かる。

 しかし――

『地球機関の崩壊を確認。直ちに点検せよ。繰り返す。地球機関の崩壊を確認。直ちに点検せよ』

 けたたましいサイレンの音と赤く点滅するランプ、それから異常事態を知らせるアナウンス的テレパシーによって彼女は研究の中断を余儀なくされた。

 それから突如として真っ赤に照らされた真っ白な部屋に、光が差し込んでくる。

 光の方角を向くと、開いた扉の奥に少女が立っていた。

『刺身、貴女……何が起こっているというの⁉︎ どうして地球機関が……!』

 どうやら、慌てている様子だ。

 彼女は刺身に詰め寄るが、刺身だって何が起こっているのかさっぱりわからない。

「地球機関……つまりお兄様たちになにかあったんですか⁉︎」

『そうだけど、どうして貴女は知らないのよ! それに、どうして普通にしていられるの……! まさか、貴女は集合的無意識の鍵でありながら、意識を取り戻したというの……?』

 驚愕するリノだったが、驚いている場合ではないと気を取り直し、直ちに地球へと向かう準備をする。

『刺身、貴女も来るのよ……! ああ、全く意味がわからない! どうしてこんなことになったのかしら……わたしたちの計画が無茶苦茶じゃない!』

 それから、リノや刺身を乗せた宇宙船は再び地球へと動き出した。

 肌寒い宇宙船の中で、刺身は直感する。

(この反逆は……きっと、お兄様が……)

 

   *

 



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数十億の叫び。

 他人の意識が、とめどなく脳内に流れ込んできた。

 戸惑い、悲しみ、痛み。

 負の感情が溢れて、胸が締め付けられる。

 しかし、次第にそれは虚無へと変わり、最終的には「無」が全てを支配した。

 五感は全て曖昧になり、心を失ったかのようになる。

 常に微睡の中にいるような、不思議な感覚だ。

 地球上の数十億の脳が、繋がって処理を始める。

 一瞬の中に永遠を作り出し、過去、未来、現在。

 全ての時間の概念を無に還す。

 瞬きを忘れ、口を閉じることなく、ただただ人間は存在し。

 そして、巨大な機関の一部としてただ脳を働かせた。

 自我は微塵もなくなり、人々は機械としてただ仕事を行う。

 この俺も、そんな機関の一部と成り下がっていた。

 思考が停止し、他人に脳を使われる。

 止まったままの身体と止まったままの脳。

 そして開いたままの目や口。

 そのまま、永久の時が経過した。

 永久の時を、無の状態で過ごす。

 何を考えることもできず、動くこともできない。

 ただ、呼吸を繰り返しているだけだった。

 しかし、そんな時に突如として脳内に言葉が生成されたのだ。

 ――『妹』の一文字が。

 雷に打たれたかのような衝撃だった。

 大海の中に突然水のない空間が発生したかのように、急激に自我が流れ込む。

 荒波や滝のような激しい勢いで、五感、思考力、全てを取り戻す。

(刺身……! そうだ、刺身だ! 俺は、刺身を助けようと……!)

 取り戻した記憶で初めに考えたのは、刺身のこと。

 俺の正直な気持ちが全身を満たす。

(刺身……! 俺の大好きな妹! 俺の大好きな女の子! 俺の大好きな人間! 愛してる! 愛してる! 大好きだ! 愛してる! 愛してる! 愛してる! 愛してる!)

 心が研ぎ澄まされていく。

 感覚が研ぎ澄まされていく。

 刺身に対する愛が、集合的無意識の全てを弾き飛ばしていく。

 

「刺身……! 俺は、刺身のことが大好きだ……! ずっと、小さい時から……大好きだ!」

 

 口にした瞬間、俺の脳と心は完全に意識を取り戻した。

 自我を取り戻し、他の地球人との繋がりが全て絶たれた。

 ――これが、俺だ。

 妹をこよなく愛しているのが俺だ。

 刺身の全てを愛しているのが俺だ。

 ……刺身への愛情が溢れ出す。

 小さい頃、俺の後ろをついてきて愛らしかった刺身。

 中学生になって関係の悪化を懸念していたが、今まで以上に仲良くしてくれた刺身。

 高校生になってさらに積極的に接触してくれるようになった刺身。

 眠たそうにする刺身。ご飯を食べる刺身。歯を磨く刺身。

 音楽を聴く刺身。風呂に入る刺身。髪を結ぶ刺身。

 髪を乾かす刺身。服を着る刺身。洗濯する刺身。

 笑顔の刺身。泣き顔の刺身。照れる刺身。怒った顔の刺身。

 楽しそうな刺身。嬉しそうな刺身。悲しそうな刺身。

「俺は……刺身が、宇宙一好きだ!」

 兄妹の関係を壊したくない。

 その一心で今までひた隠しにしてきた感情。

 それが、堰を切ったように溢れ出す。

 すると、次の瞬間俺の身体が突然光を放った。

 その光は俺のいる場所を中心にして地面を駆け巡り、地球全てを覆い隠す。

「愛してる」「愛してる!」「愛してる!」「愛してる!」「愛してる!」

「愛してる」「愛してる!」「愛してる!」「愛してる!」「愛してる!」

「愛してる」「愛してる!」「愛してる!」「愛してる!」「愛してる!」

 俺の愛情が、連鎖する。

 地表を駆けて、愛が地球を包み込んでいく。

 そして、徐々に地球人の集合的無意識は解除されていき。

 人々は、個人の「愛」という意識を取り戻した。

 集合的無意識に打ち勝つ、唯一の方法は愛だった。

 なぜなら「好き」という感情は人間にとって最も強烈な自我だから。

 強烈な無意識に対抗する術は、それを超える強烈な意識をぶつけることだったのだ。

 こうして、地球機関はオードル・ト・レールの呪縛を打ち破ることとなった。

 



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【最終話】愛は勝つ。

   エピローグ

 

「お兄様…………っ!」

「刺身! 生きてたのか!」

 地球機関が崩壊して、地球人が救われてから一週間後の朝。

 妹の刺身が、家に帰ってきた。

「お兄様……わたし、宇宙にさらわれちゃいました……。怖かったんですよ? 一人で寂しかったんですよ? それに、九州から埼玉まで帰ってくるのは大変でしたし……」

「ごめん、俺が宇宙人に騙されたばっかりに……」

 肩を落として謝る俺。

 刺身はこんなにボロボロなのに、それでもキラキラと笑っている。

「いいんです。だって、お兄様は……わたしのことを想って、宇宙人に勝ったんですよね?」

「ああ……そうだ。ずっと伝えられなかったけど、本当はお前のことが好きだったから!」

「愛してますよ、お兄様」

 刺身が、俺の胸にやさしく顔を埋めた。

 お日様の香りが鼻腔をくすぐる。

「わたしは、ずっとお兄様のことが好きでした。小さい頃から、ずーっと」

「俺も、ずっと刺身のことが好きだった。それこそ、宇宙人に対抗できるほど強く愛してた」

 刺身が俺の腰に手を回して、ギュッときつく抱きしめる。

 俺もそれに応えるかのごとく彼女の背中に腕を回し、そっと力を込めた。

 そして、数分間沈黙したまま抱き合って。

 それから、しばらくの間見つめ合う。

「刺身。俺と付き合ってくれ」

「……はい。よろこんで……」

 遅過ぎた告白。

 その間には、兄妹恋愛の壁や病気、宇宙人の襲来などたくさんの障害があった。

 でも、俺たちはその全てを乗り越えていける力を有している。

 それは、愛という名の確かなパワーだ。

「……ありがとう。刺身、愛してるよ」

「はい、お兄様。刺身はすごく嬉しいです…………それじゃあ、早速ベッドのほうに」

「早いよ! まずはその一週間でボロボロになった服を着替えてお風呂に入りなさい!」

「まずはシャワーというわけですね! 先に入ってるので途中から突入してきてください!」

「違うよ! ただ風呂に入って欲しかっただけで……! ああもう、急にグイグイ来る!」

「じゃあせめてチューを! チューだけでも!」

「今の状況じゃやだよ! もっと落ち着いたときにしたいよ――!」

 

 ――レベルアップ。

 それは、人間が考えたフィクションの中の現象である。

 しかし、虚構であるフィクションが実は現実とリンクしていたとしたら――

 人間の頭の中で考えたことが、実際は全て現実と繋がっているとしたら――

 

 あなたは、それでも「愛」を思い出せますか?

 

   * * *

 

 長い間この作品にお付き合いいただき、ありがとうございました!

 感想・評価などいただけると嬉しいです!



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