女王の秘密 (白天竺牡丹)
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中学生編
人物設定


黒崎(つむぎ)

 容姿 黒髪(短い)。碧が混ざった茶色の瞳

 年齢 15歳

 身長・体重 165.2㎝・51㎏

 性格 冷静。有言実行。男勝り

 好物 オペラケーキ

 一人称 あたし

 生誕日 8月19日

 最近の悩み 腹筋が割れないか心配

 座右の銘 明日ありと思う心の仇桜

 

 幼少期:静岡で過ごす。

 5才の途中からしか記憶がなく、曖昧(あいまい)

 父と2人暮らし。

 父親:研究所勤務

 人格と存在を否定され続け、理不尽な言葉と物理的な暴力という虐待を受ける日々を送るが、飯代と称したお小遣いは少額くれる。この頃の楽しみと言えるものは、お小遣いの貯金とサブカルチャー観賞。

 母親:民間警備会社 東海支社勤務

 夫婦喧嘩後に別居。護身術。最低限の読み書きと算数を習う。しかし、そこに愛情は皆無で殺伐としており、『いてもいなくても変わらず、別に困らない存在』と認識している。

 上記の家庭環境で育ったため、『自分は愛されていない。死んでも誰も悲しまない』と冷めた価値観を持つようになった。

 7歳になる年(2003年)の3月頭に、父子で海外へ観光に行く。母は仕事の都合で行けなかったが、父が同意書やら面倒な手続きを行ってくれた。

 

 秋山小:宮城に移住

 習い事:バレー

 影山とは同級生。

 転校前年(2005年)の4月から父親からの暴力がなくなり、母とは音信不通になる。

 転校初日に影山から誘われる形で、地元のバレーボールクラブに入る。初めて親に意見を言い、反抗したきっかけになった。

 ポジションは、ローテーションで色々体験した結果、最終的にセッターにした。

 

 椚ヶ丘中:両親が離婚し、父の仕事の異動で共に東京へ行く。

 習い事:渋谷区のバレーボールクラブ。中目黒のクラヴ・マガ教室。その他2つ。

 元女子バレー部所属。優勝経験あり。

 中2の総体優勝後に、父親の介護という理由で退部する。(介護要因は交通事故)

 お互い罵倒するという冷めた親子関係は変わらず、在宅介護を頼むことになる。その一環で介護のやり方を必死に覚え、通信教材で古武術介護を習得した。介護の影響で、週明けの遅刻や授業中の居眠りが重なり、これがE組へ落とされる要因になる。

 年が明けて3月に入りE組に通い始めたが、寝たきりの父の容態が急変し死亡。死因は、くも膜下出血。人生で初めて忌引きを取るが、『清々した』という気持ちが大きかった。

 

 父の死後:知人の家に世話になる

 母の家を知らないいため、幼少期に縁があった山鹿(やまが)夫妻宅に身を寄せる。

 

 山鹿武彦

 元傭兵。アラビア語とフランス語が堪能。

 中学に通い始めてから毎週日曜日に、妻と共に紬に柔術を教えている。

 

 山鹿美空

 心理学の資格を持つ3児の母。

 夫から上記の言語を習っていた。



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序章

(大丈夫)

(何も問題は無い)

(自分を信じろ)

 

 そんな言葉を何度口から吐き出したのか。

 正確な回数など忘れても、これは小さな頃からだとぼんやり思っているが、子供である自分が『小さな頃』と言うのもおかしな話だ。

 

(これくらいの事がなぜ出来ないんだ? できて当然だろう。お前の頭には脳が詰まってないのか?)

 

 塾に通って答案用紙を親に見せた時、『出来の悪い馬鹿なクソガキだ』と言われ、鼻で笑われて殺意が湧くのを必死で抑えて我慢する。

 父の口から突いて出てくるのは、いつも自分を下に見る言葉の数々。小学校に通う前から続いたせいで自己評価は低く、自分を肯定できないくせに、いつしか自然と反対言葉を覚えた。そうやって言い聞かせなければ、親による言葉と物理的な暴力を(まぬが)れない上に、圧力で心が壊れてしまいそうだと本能的に察していたからだろう。

 1年ほど塾に通った後、あたしと父は静岡から宮城に引っ越した。母は別居を選び、1人三重に残る。さらに距離が離れても寂しいという感情は湧き上がらなかったのは、彼女からも愛情を注がれていないからで、涙ひとつ流さず感情を表に出さないことが普通だと思っていたのに、小学校に通い始めてから自分の家庭環境が異常だと思い知らされた。

 

(……んぬん)

(…? なに? 君、だれ?)

 

 ある日、廊下にボールを持った目付きの悪い男の子が立っていた。

 

(っ! 俺、影山飛雄)

(黒崎紬だ。なんか用?)

(く、黒崎さん。一緒にバレーやるか?)

 

 引っ越したことで環境がまるっきり変わり、父の暴力に耐える毎日を変えたのは、隣のクラスだという男の子の一言だった。

 

 何かが変わるかもしれない。

 息苦しい環境から抜け出せるかもしれない。

 

 足踏みする暇は無かった。

 いや。あったのかもしれないけど、考える時間が無駄に思えて、『この機会を逃せば次は無い』と自分に暗示をかけるようにしてすぐに行動に移り、ボールを持つ男の子の誘いに乗った。

 

(やる。教えてくれ。影山君)

 

 始めた動機は、暴力と無関心で息が詰まる家庭環境から抜け出すためだったとは言え、友達に誘われて踏みこんだ世界がとても(まぶ)しく映ったのを、よく(おぼ)えている。

 その日から、汚いものであふれていると思って無関心だった世界の中に、きれいなものがあると気づいて違って見えるようになった。真っ暗な視界に色がついたみたいで、居心地がいいこの場所にもっといたいと思えた。

 昼休みには、影山君と都合が合えば体育館でバレーボールを追いかけるようになり、体を動かして遊ぶこと自体が楽しく、うまく相手にボールを返せた時は嬉しいという感情を学んで、勉強にも集中できて学校に通えることが一番幸せだと感じる。だから、学校に行けない休日や長期休暇が苦痛で、筋トレや授業の予習復習で部屋にこもったり、走りこみで家を出たりして親と接触する時間を極力減らした。

 

(遊んでる暇があったら勉強しろ。馬鹿の相手は疲れるんだぞ?)

 

 テストで満点を取れなければ、見下して(あざ)笑う父の言葉を無視した。

 言うだけ無駄だとわかってはいたが、今思えばそれまで反抗せずにおとなしくしていた自分が、初めて『バレーをしたい』という欲求を伴った意思をきちんと言葉にして伝えられた出来事だった。

 

(…好きにしろ。お前には何も期待せん)

 

 父は、娘とも思ってない自分に期待する()振りを見せていないのに、そう言われて『こいつは何を言ってるんだ?』と本気であきれ、

 

(そんな下らないことでいちいち相談するな。俺の貴重な時間が減るだろ)

 

 下らないと一蹴されて腹が立つ。

 宮城に引っ越して以来、母とは一切連絡が取れなくなっていた。

 何はともあれ父の許可が下って、地元のバレーボールクラブに入り、教室で会うクラスメイトとは違う戦友ともいえるチームメイトと出会った。そこで家の中にいる時とは別種の緊張感を分かち合い、試合中に得点が決まった時は胸中に満たされる喜びと、勝利からくる愉悦と達成感が心地良くて、沼にはまるようにだんだん(とりこ)になっていく。

 色々とポジションを変えて体験していく中で、自分が無意識に異常な家庭内で培い、両手の年数を生き抜いた能力を最大限()かせるのは、影山君と同じセッターだと気づいた。

 

 

 バレーボールクラブに入った年。

 影山君のおじいさん・一与さんの家へ、孫である彼に連れられて1度だけ遊びに行ったことがある。当時高校生だった影山君の姉・美羽さんと一緒に対面した途端、息を()むと表現すればいいだろうか。とにかく、彼らにたいそう驚かれた。

 

(はじめまして。黒崎紬です。よろしくお願いします)

(あ…、うん。よろしくね、紬ちゃん。飛雄のおじいちゃんのカズヨです)

(はじめまして。飛雄のお姉ちゃんのミウだよ)

 

 彼らの反応に困りつつも、すでに玄関に上がっている影山君に視線をやる。すると、遠慮がちに服の袖をつままれて、靴を脱いた直後に有無を言わさずに無言で居間に引っ張られた。

 そこで初めて、録画されたものでもバレーボールのプロフェッショナルの試合――たしか、シュヴァイデン・アドラーズとブラック・ジャッカル――をテレビを通して観て、当時は言葉にできなかった感情――興奮――を表に出し、影山君と一緒になって『すごい』とか『かっこいい』とか、とにかくその二言ばかり言っていた気がする。

 語彙力が低下して二人して擬音語を使いまくって話していくうちに、一与さんにこう言われた。

 

(セッターがいなきゃ、トスは上がらないだろう?)

(はい…)

 

 『それは当然だ』と心中で思ったが、言葉にするのは失礼だと思って口には出さずに、喉元まで出かかったそれを飲みこむ。

 

(紬ちゃんの居場所は、どこにあるの?)

(バレーをしてる時です)

(家には?)

(ありません。『いなくてもいいガキだ』って、普段から父に言われてるので)

(いなくてもいい人間なんていないよ。みんな、何かしら役割があって生きてるんだ)

(役割…ですか?)

 

 『いなくてもいい』という言葉の呪縛を解いてくれる人がずっと欲しかったとしても、あの頃は居心地が悪く思えてオウム返しをしてしまった。

 

(うん。急いで居場所を作っちゃダメだよ。紬ちゃんのペースで、ゆっくり確実に作ればいい)

(…分かりました)

 

 結論から言うと、クラスの子達は自分を上っ面だけ見て判断し、深入りしようとしないため、教室に本当の居場所は作れなかった。

 

 

 クラブに入って2年が経った頃。

 小学6年生の冬休み直前――終業式の日に、影山君と一緒に帰る機会があった。

 

(影山君。バレーって楽しいな)

(今さらなんだ。当然だろ)

 

 彼が満足そうな笑みを浮かべたが、それは溶けていく雪のごとく、すうっと消えていく。

 

(…なぁ。黒崎さんは、どこの中学に行くんだ?)

(ク…、ごほんっ。父の仕事で、また東京に戻ることになったから、椚ヶ丘かな。…影山君は?) 

 

 『クソ野郎』と言いかけた言葉を咳払いでごまかし、卒業を機に別れることを告げると、心なしか彼の表情が沈んだ。しかし、すぐさま質問したことによって一時的に忘れてくれるのを望む。

 

(俺は北一に行く。入るなら、バレーが強いとこだ)

(そうか。あたしも強豪を選んだけど、それだけじゃなくて、文武両道なところがいいと思ったんだ)

(へぇ…。がんばれよ)

(ん。がんばる!)

 

 自分と同じく、ひたむきに強さを追い求める彼の姿に憧れたのは自分だけの秘密にしようと決意し、互いに拳を突き合わせた。



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第1話 再会

 俺と黒崎さんが最近離れ離れになったのは、2年前。秋山小学校の卒業式だ。

 その時の写真は引き出しの中にあるものの、そこに黒崎さんの両親の姿はない。どちらも仕事の都合で来られず、かわいそうに思った俺の両親が、彼女を呼んで俺の隣に立つようお願いして2人並んで撮り、半目になる俺に対して、黒崎さんは優しく微笑んでいるのが印象的だった。

 

 

 次に再会したのは、中1の県総体会場の市立体育館。中2になった今年も、東京から応援に来てくれた。

 試合が終わり、観客席に繋がっている階段から2つの袋を持って女友達と降りてくる姿が遠くから見えて、なんとなく元気が無さそうに見えたから、後ろから聞こえる声を無視して、考えるより先に走り出して声をかけていた。

 

「黒崎さん、チッス…!」

「ああ。久しぶり。影山君」

「おう。…まだバレー続けてんのか?」

「先週辞めた」

「は!? なんで…?」

「事故に遭った父親の介護でな。母とは離婚してるから今いないし、あたしがやらなきゃいけないってわけ。…まァ、なんとかなるだろうよ」

 

 親のために大好きなバレーを辞める決断をして、普通なら落ちこむ状況でも、からからと気丈に笑ってみせる彼女に、つらい現状を聞き出して傷つけたことをすぐに謝る。

 

「サーセンした!」

 

 腰から直角に体を折り曲げる姿勢の俺に、珍しくあわてる声が上から降ってきた。

 

「とっ、とりあえず、顔を上げてくれ。影山君。頼むから。な?」

「上げねェ。…俺が悪かった。黒崎さんが言いたくないこと、無理矢理言わせた。だから――」

「君が気にすることじゃないから、謝らないで欲しいんだけど」

「嫌だ。謝る」

 

 すると、短く溜め息をつかれたと思いきや、視界から持っていた袋が消えた。たぶん、腕にかけたんだろう。しつこく頭を下げている俺を怒るんじゃなくて、『しかたがない』とでも言いたげに、少しのあきらめも含んだ明るい声でこう言われる。

 

「あたしがいいと言ってるんだ。いい加減、顔を上げてくれ」

「……」

「そうか…。じゃあ、こうしよう」

 

 彼女の細い指先が俺の頬からアゴに滑るように触れ、手首の返しで自然に上を向けられたことで強制的に視線が合い、黒崎さんが柔らかく微笑んでいるのが見えた。

 

「なッ…!!」

「これで上げたな」

「っ!」

 

 恥ずかしさで黒崎さんの指先から離れ、姿勢を正す。彼女はなぜか『ごめんな』と眉尻を下げて謝ってきて、持っていた紙袋を改めて持ち直してから、さらに発言を続けた。

 

「すまない。君の許可を得ずに勝手に触れて…」

「黒崎さんなら構わねぇけど」

「そうか」

「おう」

 

 そこで思いついたように、紙袋を手渡してくる。

 

「これ、土産だ。ひとつは、ご家族と一緒に。もうひとつは君のだ。邪魔にならない物を選んだつもりだけど、良かったら使ってくれ」

「え。あ、アザッス」

「どういたしまして」

 

 ふたつの紙袋を両手で受け取った後で、やっと彼女の友達に視線をやる。

 

「あ…。えっと…。友達の人も応援アザッシタ」

「こちらこそ、アザッシタ」

 

 黒崎さんの姿しか見えていなくて、彼女との会話に夢中になってて無視する形になったのに、女友達は怒ることなく、むしろ笑って許してくれた。だけど、俺と彼女を交互に見た後にニヤけ始めて、それを察した黒崎さんに脇腹を小突かれている。

 小学生の時とは違い、目がキラキラと輝いて楽しそうで、友達と普通に笑いあって仲良くする姿を間近で見て安心した。でも、ミーティングで一旦中学校に戻るせいで、俺にはあまり時間がない。

 

「…今日帰るのか?」

「いや。明日も応援に行くよ。だから、今日は泊まり。あ。おじさんとおばさんに、よろしく伝えてくれ」

「わかった。帰り道、気をつけろよ」

「ありがとう。影山君」

「おう」

「じゃあ、また明日」

「おう!」

 

 そうして何事もなく別れたけど、この時、彼女が部活を辞めた本当の理由をまだ知らなかった。

 

 

 翌日の試合後。

 昨日と同じ場所で待ち合わせて、代表して応援のお礼をお互い言った後、気合の入った口調で友達に力説している。

 

「今日も声援に熱が入ってたね。紬」

「観客席で出来る事と言ったら、声援しかないだろう。ただ傍観するなら、誰にでもできるからな」

 

 相づちを打つ友達との会話が終わるのを見計らって、俺は土産のお礼を言った。

 

「昨日の土産、うまかった」

「そうか。口に合って良かったよ」

「これ、母さんから。『ご家族で食べて下さい』って」

 

 スポーツバッグの中から取り出した、時期外れの桜柄の小さな風呂敷に包まれた土産を大切に受け取った黒崎さんは、嬉しそうに笑って礼を言った。

 

「ありがとう。容器は、今月中に返しに行く」

「おう」

 

 昨日みたいに拳を付き合わせかけて、家どころか黒崎さん個人の連絡先を知らないことを思い出す。今思い出してみれば、あの時、俺は胸騒ぎに似た直感が働いた。

 

 このまま何もしないで別れたら、絶対ダメだ。どうにかして繋ぎ止めておかねェと。

 

「黒崎さんっ! …えっと。連絡先、交換しても良いッスか?」

「いいけど、なんで敬語?」

「わかんねェ…」

「なんだそれ。面白いな。影山君は」

 

 心配されていることを知らずに、肩を揺らして微笑む彼女をぼおっと見ていたせいで、声が一時的に聞こえてなかった。黒崎さんが、ジャージの(すそ)を遠慮気味に引っ張っているのに気づいて我に返り、彼女の青みがかった茶色の瞳を見る。

 

「――い。おい。大丈夫か? 影山君」

「え? あ。おう」

「良かった。ラインで送ったほうがいい?」

「そうだな」

「ちょっと待って。……はい。これ、あたしの番号」

 

 黒崎さんのスマホには赤外線通信機能がないらしく、電話番号を口頭で言わずに液晶画面に直接表示し、携帯で必要な操作をしたはいいが、次は何をしたらいいか全くわからずにいると、向こうからこう提案された。

 

「あたしの番号に、一度かけてくれる? そうしたら君の番号が判るから」

「ウッス」

 

 どうにか彼女のスマホを鳴らす事に成功して、目の前で登録してくれている最中に、女友達が黒崎さんに近づき、ニヤけながら俺にも聞こえるように告げる。

 

「あー。そういえば、紬が男友達と連絡先交換するの、初めてじゃない?」

「影山君は大切な友達だからな。このまま疎遠になりたくないんだ。…登録完了。優月。ちょっかい出すのやめろ」

 

 『ゆづき』と呼ばれた女友達は『ほほぅ』とこぼし、意地の悪そうな笑顔を隠せないでいたけど、俺は黒崎さんの言葉が嬉しくて、口元が緩んでしまうのを隠すために拳を前に突き出す。

 

「頑張れよ」

「ありがとう」

 

 元気がなさそうに思えた俺の直感が間違ってたのかと思うくらい、彼女は晴れやかな笑顔で拳を突き合わせてくれた。

 

 

 その日の風呂上がりに、携帯のランプ部分が点灯しているのに気づいて開くと、一件のラインが来ていた。

 そこには、土産の感想と容器を返すために都合の良い日はあるかという質問と一緒に、俺の家の住所を尋ねている。家に行ったことがあるのは一与さんの家で、影山家ではない。だから、俺の家を知らないというのは当然のことだった。

 

「……んぬん…」

 

 いろいろ頭の中で思うものの、俺の返事は二言で済ますほど短かった。それでも、また黒崎さんと連絡が取れるとは思わずにいたから、お互いの近況と連絡先を知ってワクワクしている。

 

『これからもよろしく。あたしも、無理しない範囲で親の介護がんばるぞ!』

 

 やる気に満ちた言葉に一人部屋で控えめな笑い声が響き、『がんばれ』の一言を送って、今日の分のトレーニングを開始した。



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第2話 親

「紬のおかげで、あんな面白い展開が見られるとは思わなかったよ」

「面白いってなんだよ。そこは熱い展開だろう? 『男バレの試合を生で見たい』って、先月頭に言ったの優月だからな」

「それは認めよう。でも、影山君に(あご)クイと拳を突き合わせといて、その反応? 『これで上げたな』って見下ろしながら微笑んでたよね。さすが『コート上の女王様』って呼ばれるだけあって、行動力あるなァ」

「あれは、影山君が頑固だったからそうしただけで…。申し訳ないと思ってる」

 

 大会会場を離れて話しているのは、親友の一人である不破優月。

 彼女とは、去年の総体後に椚ヶ丘駅近くのセブンイレブンで、暇潰しで週刊少年ジャンプを読んでいた時に話しかけられ、漫画や好きなファッションスタイルが似ているなど、共通点の多さと人間性で仲良くなり、たまに遊びに行く仲になった。

 

「紬。バレー辞めて後悔してない?」

「親の一大事なら、環境も必然的に変わる。あたしは、それに従うだけさ」

 

 影山君には劣るものの、バレー部に所属していた頃は部員達に言わせれば、『卓越した技術と戦術的頭脳』により、高確率で得点を決めていたため前述の渾名(あだな)が付与された。しかし、それは言い変えれば、自分にとって生き延びる(すべ)の延長線上であって、バレーを始めたから開花したものではない。

 入学時から学年が上がるにつれ、親衛隊(ファン)の数も増加の一途を辿(たど)っている。早朝に往路20キロの走りこみをしては筋肉を鍛えるのが日課で、毎週木曜日に格闘技を習うのに(いそ)しむような、世間一般の女子とはほど遠い自分を慕ってくるのか正直理解しがたいものの、応援してくれるのはありがたい。

 

 話を元に戻そう。

 

 そうして物思いに沈んでいる間にも、優月は今日の観戦内容に関して熱弁を振るっていたようで、終盤まで耳に入らず全く聞いていなかった。

 

「――いや。試合自体は紬の言う通り熱かったよ。でもね? 私の着眼点は、そこじゃないのだ」

「……おい。本当にやめてくれ。あたしに少女漫画みたいな甘ったるい展開を期待されても、はっきり言って迷惑だ」

「え~? 面白そうなのに」

「全然面白くない。ほら。行きたい店があるんだろう? 新幹線に乗る前に行くぞ」

「あ。そうだった」

 

 意図的に話題を変えて追求を逃れて、観光をした昨日とは違い、ネットで見つけた仙台駅近くにある牛タンの名店『牛タン料理 (かく)』で、店名にもある名物の牛タンに舌鼓を打ち、テールスープの熱さに四苦八苦しながらじっくり味わえた。

 満足して退店し、駅ナカにある店で土産を選んでいる最中に、優月が自分におもむろにこう言われる。

 

「紬って良い子だよねー」

「そう?」

「え? 褒められたことないの?」

「親になら皆無だな」

「ごめん。で、でも、私はいっぱい紬のこと褒めてるでしょう?」

「ああ。同級生とか先生みたいにヨイショしないで、ちゃんとあたしを見て評価してくれるから、優月とメグが好きなんだ」

 

 E組に落ちたからと言って手のひらを返して評価を変える大人も、それに同調して(わら)っている同級生も嫌いだ。優劣をつけて同じ人間を差別化する類の輩なんて、最初から存在しないほうがいい。そういう人間がいるから、あたしは――

 

「紬?」

 

 焦った声音の優月に名前を呼ばれて、手に他人の温もりがじんわり広がり、あれこれ考えていた自分が無意識に握力を強めたせいで、卵プリンの箱の包装が一部分破れていることに気づいた。冷静になるためにうつむいて一呼吸置き、ひとまず優月に謝罪する。

 

「…すまない。親の顔思い出しちゃって。これはちゃんと買うよ」

 

 怒りに任せて物に当たるなど、感情を抑制できていない証拠だ。

 

 内心反省してから、牛タン丸ごと一本や仙台長那須漬けなど、介護ヘルパーの方々や部活とクラスの分の人数計算はしているものの、胸中の鬱憤(うっぷん)を晴らすため、値段もろくに見ずにあれこれ買い物かごに入れる。この行動を目撃して、駆け寄ってきた優月は事情を知っているがゆえに閉口し、さりげなく距離を取って、土産選びを再開して放っておいてくれた。

 あらかた選んで会計に並ぼうとすると、彼女に手招きされて遠くから呼ばれる。

 

「なに?」

「ご当地とコラボしてるキャラクターだって。買う?」

「買う」

 

 今まで自分のことで精一杯で、かわいいものに目もくれなかったが、その時は苛立ちと精神的に疲弊していたのだろう。ずんだキーティのボールペンと伊達政宗ライラックマのタオルを即刻選んで、新たに購入する物を決めた。

 

 

 そうして、20時を回った頃に椚ヶ丘駅に着いて優月と別れ、あたしは独り自宅近辺までのバスを待つ間、帰宅すれば父の介護が待っていると思うと、ずん…と両肩が重くなる錯覚に陥る。ため息をつきたい気分だが、今日はヘルパーさんに夜までやってもらっているので、それを控えた。

 スーツケースから一時的に手を離し、両手で頬を包みこむように音を立てて叩き、気持ちを切り替えて気合いを入れる。

 愛情とは無縁の人間を相手するのは気疲れするものだが、今さら期待しても無駄だ。

 

「よし…!」

 

 何事かと周囲の人の視線を浴びるが、そんなの知ったこっちゃない。介護は先週から始まったばかりだ。これくらいで根を上げては、自分に負けた気がする。

 持ち前の負けん気を前面に出して、路線バスに乗りこんだ。

 

 

 21時を回った自宅には、まだ灯りが灯っていた。

 

「ただいま戻りました」

「お帰りなさい。紬さん」

「遅くまですみません、高野さん。ありがとうございました。これ、仙台土産です」

「あら。わざわざありがとうございます~」

 

 家主の娘が帰宅したことで、在宅介護の援助者である高野さんと役割を代わりしっかり戸締まりをした後で、事故に遭って寝たきりになって自室を介護仕様にした父と2日ぶりに顔を合わせる。

 

「調子はどうだ。クソ野郎」

「すこぶる悪いぜ。クソガキ」

「そうかい。じゃあ、そのままくたばりな」

 

 高野さんが部屋に引っこんでいなくなって早々、到底親子とは思えない罵詈雑言の応酬をしてみせ、これみよがしに牛タンが丸ごと入った紙袋を見せてから、冷蔵庫がある台所に鼻歌を歌いながら向かった。背後からやせ我慢の言葉をかけられようと、心が揺らぐことはない。

 

「おい。もう夜なんだから静かにしやがれ。近所迷惑だろ」

「テメェが俺を放置したからだろうが!」

「今さら構えと? 散々暴力振るって、まともな飯も与えずに育児放棄して、ずいぶんな物言いだな。ヘルパー呼んでもらえるだけありがたいと思えや」

 

 学費面で援助したのは父だが、恩義などこれっぽっちもない。むしろ、最低限の読み書きなどを教えたのは母のほうだ。

 舌打ちひとつして脱衣所に直行し、うがいと手洗いを済ます。スーツケースから洗濯物を引っ張り出してネットに入れ、洗剤を入れてから縦型洗濯機を回す。ごうんごうんと音を立てるそれを前に、独り力なくフローリングの床に座りこんだ。

 

「クソ…」

 

 今回の旅行は、自由の前借りだ。

 父の車は交通事故の影響で廃車となり、母の助けもなく、これから学業と並行して高野さんと二人三脚で協力して介護をしなければならない。

 

「…大丈夫。あたしならやれる」

 

 自分を鼓舞するようにつぶやき、立ち上がって2階の自室に下着と寝間着を取りに行って、8畳にも満たない部屋を出ていく前に影山君の土産をつまみ食いし、ラインを送った後は、下らない悩みなど隅に追いやった。



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第3話 E組へ

「……」

 

 年が明けた、2011年2月上旬。

 眼前に1枚の通告書がある。

 内容を端的に言えば『来月からE組に行け』というもので、朝のホームルームで担任から手渡されたそれを、自分はたいして驚きもせずに数秒眺めていた。

 

「黒崎さんがE組に?」

「嘘だろ?」

 

 同級生の同情が聞こえたが、それを無視して文面を内側にして四つ折りにして、何気ない顔でB組の教室を出た。廊下の窓を背にして立って、ひらりと手を振る男子生徒に事務的な口調で淡々と事実を告げていく。

 

「最近、授業に集中できなかったのは事実だ。潔く受け入れよう」

「それは、君が父親の介護を自分の時間を(けず)ってこなした結果で、不可抗力だろう。この判断は酷だ。黒崎さん。一度学園長に直訴しよう」

「いや、大丈夫だ。浅野学園長の決定に間違いはない。だから、それ以上何も言わないでくれ。榊原」

「ッ…」

 

 彼の言う通り、これは不可抗力だ。

 毎日翌日の弁当を仕込むついでに父の分の夕食を作っては、介護が終わって筋トレをやり、早朝に走りこみをしてから父と自分の朝飯を食い、登校時間ギリギリに間に合うように通学する。唯一の楽しみと言ったら、去年の2月から通っている、クラヴ・マガという実戦を想定したイスラエルで考案された近接格闘術教室に参加することくらいで、正直気が滅入っていた。

 何はともあれ、隣のクラス――A組――にいる幼馴染と同じ声を持つ榊原の肩を軽く叩き、1時間目の授業の準備をするために教室へ戻った。

 

「来月からE組になる」

「はっ! 元々落ちこぼれだ。対して変わらん」

「黒崎さん! それは言っちゃダメです。紬さんが勉強と並行して、あなたの介護をしてるのにあんまりじゃないですか!」

「いいですよ、高野さん。結果が全てですから」

「過程も必要なの! 紬さん解ってないわ!」

 

 彼女だって父の介護で心配なのに、自分に対して心配して怒ってくれることに感謝して、涼しい顔で食事を続ける。

 幼少期に物理と精神双方で暴力を振るっていた父は、娘を心配せず何も言ってこないため、自分が下して要求した決定は投げやりに近い言葉で了承される。だから、去年優月と2人で仙台に女子旅をするなど、普通の親なら心配して猛反対する提案に二つ返事を返した。

 

 

 月明けの3月1日。

 今日からE組に通うことになり、本校舎から1キロ先にある山小屋の校舎へ向かう坂道の途中で、見慣れた後ろ姿を駆け足で追い、声をかけながら軽く肩を叩く。

 

「おはよう。メグ」

「おはよう…? え。紬?」

「ああ。今日からE組に転入したんだ」

 

 もう一人の親友・片岡メグとは、1年の文化祭の委員会で出会い、責任感が強いことや統率力があり、なぜか女子にモテるという共通点から気が合って、優月同様一緒に出掛ける仲だ。

 

「紬は元気ね」

「そういうメグは、どうして落ちこんでるんだ?」

 

 この発言を耳にした周囲の同級生に、『マジか、コイツ』とでも言いたげな表情をされるが、そんなことでウジウジされても(いら)立つだけだから、脳内で思いっきり舌打ちをする。

 唇を戦慄(わなな)かせて友達のメグが告げる。まるで、映画やサスペンスドラマの殺人犯に武器を突きつけられた上、『これから自分が死ぬ』という状況に陥った時のような表情だった。

 

「だって、エンドのE組よ? 落ちこぼれの烙印を押されたのよ?」

「だからなんだ。落ちこぼれでも、まだ学校に通えて勉強ができる環境にあるだろう。そんな下らない烙印なんざ、好きにつけとけ」

 

 ひらひらと手を前後に振って(わら)うあたしに、メグは開いた口が(ふさ)がらない。

 

「どうして楽観的なの?」

「ただの現実主義者だ。死なない限り、与えられた環境に適応するだけさ」

 

 山道を登りきって木造校舎にたどり着くと、周りは緑に囲まれており、校舎は想像とは違って頑丈な造りをしていた。正面玄関を突っ切れば、古びてはいるが靴箱も見受けられる。

 

「今日から森林浴し放題だな」

「考えが積極的過ぎる」

「消極的過ぎるよりかはマシだろ? おはよう。優月」

「ああ…。うん。おはよ…」

 

 どうやら、この環境を積極的に受け入れているのは自分だけらしく、他は全員沈んだ顔をしていた。

 E組担任は女性の雪村あぐり先生で、1人で全教科を受け持っており、ゆえに教室の隣にある教員室は、大量の教科書や教材であふれている。

 

「優月、メグ。探検しに行こう」

「そんな小学生じゃあるまいし…」

「紬1人で行きなよ」

「わかった」

『え?』

「ん? ただ誘っただけだから、断られば潔く諦める。無理()いはしないぞ。じゃあな」

 

 弁当を食べ終えて正面玄関口まで突っ切り、靴箱の前で上履きからニューバランスのスニーカーに履き替え、まず校舎の裏側に回り、運動場と相(まみ)えたが草が生え放題でとても走り回れる状態じゃなかった。これは仕方ないと思い直して、さらに奥へ行ってみると、崖と岩場。沢と洞窟があり、思いの他自然豊かな環境を前に、バレーを始めた頃のようにワクワクして、連日昼休みには単独で探索しまくっていた。

 自然に囲まれていると心踊る。

 いや。休まると言えばいいだろうか。

 風に揺れる葉っぱの音や水のせせらぎが耳をすませば聞こえてきて、木漏れ日の下にいると居心地が良かった。

 

 

 しかし、そんな心地いい環境は、すぐに途絶えた。

 E組に転入した3日後の深夜。

 寝たきりの父の容態が急変して、搬送中に口から血をこぼして担架(たんか)を汚したらしく、病院で亡くなり、医者の診断によると死因はくも膜下出血だった。そのまま忌引きを取り、喪主の自分を筆頭に家族葬を済ませたが涙が出ることはなく、むしろ面倒でしかなかった介護が終わり、肩の荷が下りてせいせいした。

 翌日の土曜日。速報でなんらかの原因で月が爆発し、三日月の形になった。状況を報せるアナウンサーが、『一生三日月しか見れない』と嘆いていたのを覚えている。

 三日月になって2日後に登校すると、担任の雪村先生が一身上の理由で退職されたらしく、その翌週に1人の転入生が窓辺の席に座っていた。

 

「おはよう」

「おはよう。私、今日から転入してきた茅野カエデ。よろしくね」

「あたしは黒崎紬。よろしく。茅野さん」

 

 緑に染めているのだろうか。髪をツインテールにした彼女に握手を求めれば、笑顔で握り返され、隣を見ると自分の見間違いではないと確信する。素通りしてしまったのが申し訳ないくらいだ。

 

「渚。髪型変えた?」

「うん。茅野さんにやってもらったんだ」

「そっちのほうが似合ってる」

「ありがとう。黒崎さん」

 

 首元でひとつに結っていた頃に比べれば、すっきりしている。彼の顔にいくらか笑顔が戻ったことに安堵し、

 

「ねぇ。それ重いでしょ? 置いてきたら?」

「ん…。そうだな」

 

 本当は教科書の類と弁当だけなので重たくないが、転入生の厚意を無下にしないために一言断って、一旦スポーツバッグを自分の席に置きにいってから、再度茅野さんのところへ戻った。

 

「茅野さん。今日の昼休み、一緒に弁当食べる?」

「いいね」

「本当は外で食べたかったんだけど、こんな天気だからな…」

「ううん。その気遣いだけでも嬉しいよ。ありがとう」

 

 転入生がE組に来た日は、あいにく朝から雨だった。



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第4話 月爆破の犯人

「黒崎さん」

「はいっ!!」

 

 E組に転入して1ヵ月が経った4月初旬。

 生徒全員が銃口を一方向に向けて、教壇に立つ標的を狙い一斉射撃した。

 やかましい銃声の中で跳弾対策にゴーグルをかけて、コルト社のライフル――M4を模したモデルガンの弾倉交換を素早く行い、普段(あら)らげない声を張り上げて、点呼を取る標的に返事をする。

 

「――はい。遅刻なし、と。素晴らしい。先生、とても嬉しいです」

 

 弾幕を全て回避した問題の標的を一言で表すなら、黄色いタコ。彼が身につけている服は、アカデミックドレスと三日月をあしらったネクタイのみで、椚ヶ丘中学3年E組の担任に就任した、見目も言動も全て変わった先生だ。

 なぜ自分達が先生にこんなことをしているのかと言えば、彼が月を爆破した犯人で、『来年の3月には地球も爆破する』と、本人が防衛省の者達に銃口を突きつけられながら宣言したのが、全ての発端になる。成功報酬は百億円と言われたが、あたしは金に興味はない。ただ、『()れ』と言われれば()る。今まで通り、他人から頼まれれば実行する。たったそれだけだ。

 そうこうしているうちに昼休みになり、彼は音速で中国に麻婆豆腐を食べに行った。『暗殺希望者は、携帯で呼んで下さい』と気さくな一言残して。

 

「ご飯食べようか。愛美」

「あ。は、はい!」

 

 風呂敷に包んだ弁当箱をスポーツバッグから取り出して、前に座る三つ編みに丸眼鏡の女子に声をかけると、あせった声音で机上に弁当を置く。まるで小動物のような動きに内心癒されていることは、卒業するまで本人に内緒しておこう。

 

「わお。今日は肉豆腐か」

 

 ひょっこり惣菜パン片手にやってきた莉桜が、ひなたを引き連れてくる。先月初日の昼休みに、自分が所持している弁当箱が曲げわっぱなのが珍しいと言われたせいだ。さすがにこれひとつを使い回せないので、他にふたつ違う種類を持っている。

 

「黒崎さん、凄いね。毎日違うメニューとか、全部1人で作ってるんでしょう?」

「ん。自分のことは自分でやってる。休日にまとめて作りおきしてるから、朝飯作るついでに詰めるだけで、全然苦じゃないぞ」

 

 父が先月亡くなってからの環境の変化と言えば、父の介護がなくなり、世話になったご家族の元で卒業までお邪魔しているくらいだ。

 

「じゃあ、洗濯とか掃除も全部?」

「そうなるな」

「大変じゃない?」

「もう慣れた。…そうだ。デザートに抹茶マフィンいる人ー?」

 

 すると、女子生徒全員が『いる!』と叫びながら諸手(もろて)を上げ、今日は、先月に引き続き、男子生徒数人が控えめにこちらを見てくる。

 

「…なんだ。君達もいるのか?」

「あ…。いや?」

「いります!」

 

 元気な声と共に挙手したのは、学級委員長の磯貝だった。そこで、バレー部に所属していた頃から使っているスポーツバッグから、片手で持てる大きさの箱をいくつか取り出して、男子代表として机の横に配置している彼に差し出す。

 

「余分に作って良かった。食って腹の足しにしろ」

「え。箱ごと? こんなにいらないよ」

「磯貝が男子に配ってくれ。甘さは控えめにしてあるから」

「あ、なるほど。ありがとう。黒崎さん」

「どういたしまして」

 

 『うめェ!』だの『美味しい!』だの、称賛の声が各所から上がる。

 

「口に合ったか?」

「っ…!」

「そうか。良かった」

 

 自分以外の者の屈託の無い笑顔を見られて、自然と頬が緩んだ。皆はなぜか食べる口を止め、頬を赤らめる。その意図が解らない自分は、毎月15日に菓子を作ることを級友達に約束した。

 

 

 動きがあったのは、同日の5時間目。

 古典の授業中に、寺坂が渚に持たせた火薬をしこんで改造した玩具(おもちゃ)の手榴弾を爆発させた結果、標的の怒りを買い、家族と友人を人質にする発言をしたが、その脅迫は自分には無意味だと胸中で思う。

 いまだ音信不通の母は、娘の自分が死んでも悲しまない人だ。自分は、家族より友達を大切にするが、影山君が自分の死にどんな反応をするのか、皆目見当もつかない。

 脅迫された側なのに冷静な自分を見て、教室の外から先生を監視している烏間さんに、放課後教員室に呼ばれたが、『習い事があるから』と翌日に予定を繰り下げていただいた。彼も防衛省との都合があるだろうに、申し訳なく思う。

 

「…失礼します」

「ああ。時間を取らせてすまない」

「いえ…」

 

 着席を勧められ、向かい側の誰も座っていない席に腰を下ろす。

 

「どうして脅迫されたのに、冷静でいられたんだ?」

「先月まで、それが日常茶飯事だったからです」

 

 驚いた彼は眉間に(しわ)を寄せて数秒沈黙し、今ここに殺せんせーがいないことが幸いだった。もし、お菓子を購入せずにいたなら、新たな手口を考えているだろう。

 

「……誰か聞いても?」

「父です。死んで1ヵ月は経ちますね」

「家庭内暴力か…。警察には相談したのか?」

「警察…。…その考えには至りませんでした。誰かが自分を救ってくれるなんて、そんなものは都合の良い夢物語だと悟って、自力でなんとかするのが身についてましたから」

 

 深刻な事態を淡々と告げる自分に真剣に耳を傾けて、唇を一文字に結ぶ烏間さんは『良い人』の部類に入るのだろうと、とりあえずそう自己評価し、彼が言葉を発するまで黙して待つ。

 

「黒崎さんのお母さんは…、お父さんが暴力を振るっていたのを知ってるのか?」

「知っていたから、あたしに護身術を習わせたんです。最後に会ったのは5年前で、一昨年離婚しました」

「連絡先や住所は?」

「知りません」

「…わかった。何か悩みができたら、遠慮なく俺に話してくれ。できる限り協力しよう。俺達は、1人の殺し屋として。1人の生徒として、最良の環境を整えるのが仕事だからな」

 

 家庭環境が見えた上で、そう提案されるのは初めての経験だった。本校舎の教師陣はここまで深入りせず、父の介護で忙しい自分に自ら相談に乗ろうとはしなかったし、こちらも自分のことをしゃべる必要性を感じなかったからだ。

 

「…ありがとうございます」

 

 どうにか礼を言って、教員室から退室する。

 上履きからスニーカーに履き替え、山道を降りて帰路につきながら、ぼんやりと思いに(ふけ)った。

 

 今日カエデが命名した標的『殺せんせー』は、『月を爆破した犯人』と言った。しかし、人間でさえ呼吸に必要な宇宙服が必須なのに、真空状態の宇宙で生身の生物が生きられるはずがない。

 彼は意図的に何かを隠し、それから目を逸らすために自分のせいにして注目を集めている。

 

「…雪村先生」

 

 女性教師の姿が脳裏に浮かぶ。

 本当に『一身上の理由』で退職したなら、事前に生徒に一言告げるのではないか? 3日間接した限りだと、いつも笑顔を浮かべる良い先生だった。急に姿をくらますとは考えにくい。

 防衛省所属の烏間さんは『国家機密』だと言った。

 こう言ってはなんだが、ぽっと出の生物が椚ヶ丘中学校の存在を特定し、教師として赴任するには多少無理がある。可能性があるとすれば、雪村先生だ。彼女の後釜に収まったと考えれば辻褄が合うが、これには浅野学園長が許可しなければならない。

 国家機密というからには、学園長も口止めするにたりうる何かを受け取っているはずだ。

 

「…嫌だな」

 

 自分を含めたE組は、でかい歯車に否応なしに乗せられ、意のままに動かされている。それが気にくわなくても、銃とナイフを手に取った以上、歯車が狂わない限り従わなければならないが、胸中にくすぶっている感情が『それを壊したい』としきりに告げていた。



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第5話 二人の教師

「君達が私を殺すなど、夢のまた――」

 

 木に(くく)りつけられた縄は標的の動きと自重に耐えきれずに折れ、地面に叩きつけられる形で落ち、真っ二つになった直後に棒立ちしている生徒達の中で弾丸が通過して、立て続けに銃声が鳴る。

 

「何をぼーっとしてる。仕留めるぞ」

 

 M1911。通称・コルトガバメントを模した自動小銃に装填されたBB弾を連発しながら、生徒達(かれら)を現実に引き戻したのは、黒髪に碧が混ざった茶色の瞳を持つ黒崎さんの冷静な声だった。

 

「にゅやッ!? ちょっと待って下さい。黒崎さん! 対応早すぎィ!」

「待ちません。呆気に取られてる暇があったら、殺せんせーを殺す時間に使います」

 

 彼女はタコが木の上で動き回っている時、銃を持っていても傍観に徹し、確実に()れる機会を級友の中に紛れて待っていた。

 銃を構え、人間の急所の一つ――頭部――に照準を合わせ、発砲。

 その流れるような一連の動きは、元陸自(プロ)の俺が思わず感嘆の声を漏らすほどだ。しかし、弾がどれも(かす)りもしないのを視認すると、銃声に紛れて舌打ちし、ヤツが高速移動を始めてから独りだけ銃身を下ろして集団の中から抜ける。その時になって、ようやく自分の存在に気がつき、ぺこりと頭を下げて挨拶してきた。

 

「こんにちは、烏間さん。お疲れ様です」

「ああ。こんにちは。黒崎さん」

 

 茅野さんから先生になる旨を伝えられると、彼女はすぐに訂正し、『これからよろしくお願いします。烏間先生』と律儀に改めて挨拶され、こちらも返礼した。

 

「まァ。殺せんせーの存在自体が国家機密で、偽装(カバー)でも人間の教師がいたほうが、何かと都合がいいですからね」

「そういうことだ」

「でも、防衛省の方って教員免許取れましたっけ?」

「ああ。夜間学校に通いながらな」

「へぇー。初耳です」

 

 何の気なしに尋ねられた質問でも自分のことを話してしまい、物理的な距離は取れていても、するりと懐に入りこむ話術に恐怖する。

 

 

 翌日。初めて俺が受け持つ体育の授業の時も、ゴム製だがバヨネット・M9を模したナイフの扱い方と体の運びが、他の生徒と段違いに上手(うま)かった。いや。『上手かった』の一言で済まされないほど熟練している。

 通常なら実践してみせた前原君と磯貝君のように、人に刃を向けることへの躊躇(ちゅうちょ)が一切なく、本気でぶつかり風を切る音が素通りしていく。そして、護身術でも習っているのだろうか。こちらの攻撃にも初見で対応して、同級生と標的の注目をかっさらっていった。

 6時間目の準備もあって忙しいと思ったが、どうしても気になったので、遠ざかる背中を呼び止めて尋ねてみる。改めて対面すると、体がしっかり鍛えられているのがわかった。

 

「単刀直入ですまないが、黒崎さんはどこかで格闘術を習っていたのか? もし差し(つか)えなければ、何を習っていたのか教えて欲しい」

「あ、はい。幼少期に母から護身術を習って、去年から中目黒にあるクラヴ・マガ教室に通ってます」

「今のレベルは?」

「中級です。本当は、ピアノとか女の子らしい習い事がやりたかったんですけど、物騒な世の中なので(あきら)めました」

「そうか」

「はい」

 

 武器を所持している時とは違い、へらりと気の抜けた笑みを浮かべ、照れくさそうに頬をぽりぽりと()く彼女は、皆と変わらない普通の女子生徒に見える。

 帰宅後に黒崎さんが言っていた中目黒のホームページを開くと、印象的な言葉が目に飛びこんできた。講師の名は、エヤル・ヤニロヴ。クラヴ・マガ創始者の直弟子という経歴を持つ方が教えるなら、当然習っている彼女も相当の実力があると推測した。

 

 

「イリーナ・イェラヴィッチと申します。皆さん、よろしく」

 

 翌月の5月。

 新たに英語教師が就任し、この教室に来るだけで凄腕の暗殺者の証明になる。

 自己紹介後の休み時間に、不快な煙の出先である教員室に、1人の生徒がこちらへ向かってきた。木製の引き戸を数回軽く叩かれて、俺が短く『どうぞ』と返答すると、扉ががらりと開かれた。

 

「失礼します。こんにちは、イリーナ先生。黒崎紬と申します。以後お見知りおきを」

 

 その生徒は、黒崎さんだった。

 彼女を視認した仮の英語教師は、興味を向けるでもなく、気(だる)げに紫煙を唇から吐き出す。

 

「…こんにちは。私に何か用?」

「はい。この学校にいる間は、煙草(たばこ)を吸うのをやめて頂けませんか? 生徒達と、あなた自身の健康を損ないます」

 

 火が灯る紙煙草を、再度口紅を塗った唇で(くわ)えながら振り返った美女は、眉を寄せてそれを指先で挟み、少女を鋭い眼光で(にら)みつけていた。だが、それでも簡単に怖じ気づかないのは、先月話してくれた家庭環境のせいだ。

 

「は? なんで私が、アンタみたいなガキの言うこと聞かなきゃいけないのよ?」

「あなたがせんせーを殺すのは自由ですが、まずはご自分の体調を万全に管理すべきです。死因が暗殺失敗ではなく、煙草関連で早死にされたいのであれば、あたしは止めません」

 

 自己紹介時とは全く違う険しい表情(かお)を見せる彼女は鼻で笑い、安い挑発と(あお)りに乗った。

 

「ハッ! 早死にですって? アマがプロに向かって意見するの? 生意気ね」

「生意気で結構です。長く教鞭を取りたいのであれば、それなりの姿勢を見せて下さい」

「長居するつもりはないわ。今日を、あのタコの命日にしてやるから」

 

 そう吐き捨て、色仕掛けのプロが、自前のスリッパでドスドスと足音を立てて教員室を出ていった。ぴしゃりと閉められた教員室の扉を黒崎さんと数秒眺めた後に、窓辺に(たたず)んでいた俺は、(たま)らず溜め息をつく。

 

「……黒崎さん。喫煙をやめさせたいのは解るが、プロをあまり(あお)るな」

「申し訳ありません」

 

 さして反省の色が見えない彼女は、さらっと陳謝して4時間目が始まる鐘が鳴ったため、俺に一礼してから教室に戻っていった。

 

 

 その日のイリーナの行動には問題があった。

 受験生である彼らはまともな授業は受けられず、生徒達の怒りが爆発寸前だと判断した途端、黒崎さんがいち早く挙手して、スラヴ系女性の視線を自分に向ける。

 

「…何よ、黒崎紬。また私を侮辱するつもりかしら?」

「侮辱されたくないなら、あたし達を侮辱しないで下さい。イリーナ・イェラヴィッチ先生」

 

 発音の良さに言葉が詰まり、二の句を告げないでいる教師に対して堂々と意見し、さらに追い討ちをかける。

 

「休み時間に検索しました。イリーナという名前は、ロシア語で平和を意味するそうですね。今のあなたは、教室で要らぬ争いの引き金に指をかけている状態です。全員を敵に回し、それを引く勇気がおありですか?」

 

 ぐっと金髪美女の唇が一文字に結ばれ、我慢できずに(わめ)いた。

 

「これくらいで争いって言うなんて、黒崎は平和ボケしてるのね」

「…ちゃんと忠告はしましたよ」

 

 機械的な笑顔を張りつけて、親指を下に向ける――海外で悪いことを意味する――仕草を教壇の彼女に向けると、学級崩壊の勢いで一斉に集中砲火が始まった。自業自得だと思うが、昼休みを挟んで午後に行われた授業で生徒との距離が縮まったと、イリーナから直々に報告を受ける。

 

「でもね。1人だけ私を侮辱しなかった子がいたのよ。聞きたい?」

「好きにしろ」

「冷たいわね。まあ、いいわ。私に禁煙を勧めた、あの黒崎紬。周りは『ビッチ先生』って呼ぶのに、ちゃんと『イエラヴィッチ先生』って言ったの。それに感動して理由聞いたら、『侮辱されるのは誰でも嫌な気分になりますから』って! 感動したわ!」

「そうか。良かったな」

 

 黒崎さんの家庭環境を知っているがゆえの発言だと理解していても、それを眼前の女性に話す義務はなく、ただ短く返答して、ノートパソコンのキーボードを叩くだけに留まった。



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第6話 弱点と沸点

「おはようございます。イェラヴィッチ先生」

「お、おはよう。黒崎」

「苗字より、紬って呼んで下さい」

「わかったわ。紬」

 

 5月の連休明けの朝。

 連休前に仲良くなったスラヴ系の美女相手に抱きつかれ、今日も黒崎さんのイケメン節が炸裂する。

 

「ねェ。紬も、他の生徒と一緒にタメ口でいいのよ?」

「それとこれとは話が別です。あたしは一人の暗殺者として。一教師として敬意を持って接します。だから、敬語は絶対に崩しません。では、ホームルーム前に暗殺をしてくるので、これで失礼します」

「あ。待って! きゃッ!?」

「おっと」

 

 玄関と廊下の段差に蹴(つまず)いた英語教師に気づいて反転し、素早く手を差し伸べて転倒を防いだ上、捻挫(ねんざ)を考慮して、ひょいと軽々彼女を抱え上げる。しかも、お姫様抱っこでだ。

 

「そんなに急がなくても、あたしはここにいますよ。イリーナ先生」

「ひ、ひゃい…」

 

 黒崎さんの屈託の無い笑みを前に、乙女のように顔を紅潮させるビッチ先生に見()れていると、僕と黒崎さんの視線がかち合う。

 

「おはよう、渚。ちょっと教員室に行ってくる」

「うん。わかった」

 

 そのまま彼女は、E組とは反対側にある教員室に足早で直行したけれど、僕達が暗殺の準備を終えた後に扉が開いていたらしく、彼女達の会話が聞こえてしまった。元女子バレー部に所属していたという黒崎さんの手で、直接テーピングされているのだろう。

 

「紬。私の事なんてほっといていいから、早くタコを殺してきなさい」

「行きません」

「なんで?」

「今は暗殺よりも、先生の手当てを優先します。殺せんせーを()る者である以前に、1人の女性ですから」

「そう言う紬も女の子でしょ。こういう扱いされた事あるんじゃない?」

「……ご想像にお任せします」

 

 明確な答えを避けた黒崎さんの言葉を聞いた僕は、杉野の声で我に返って彼の後を追いかけた。

 

 

 僕は、黒崎さんを『なんでもこなせる優秀な人』と見ていたけれど、今日の授業で『そんな事はなかった』と思い知らされる。

 

「ッふ…んゥっ」

 

 これは、ビッチ先生による公開ディープキスで彼女の口から()れる声だ。正解したのにあんな目に遭うとは、『御愁傷様です』と内心合掌するしかない。

 

「紬。アンタ、奥田と同じ受け身の素質持ってるわね」

「そんなのいらな――」

 

 一呼吸入れる間もなく第二波を食らい、あえなく撃沈する。

 

「…ッ。も、やァ…。やめてくれ、せんせェ」

「ダメよ」

「そ――」

 

 目尻に涙を浮かべ、呂律(ろれつ)が回らない舌で反論して抵抗を見せる姿に、ディープキスを始めとした女の子扱い全般に全く耐性が無い事が、クラス全員に露呈する形になった。

 そして、三度(みたび)やめるよう懇願したものの、あえなく接吻(せっぷん)を食らって完全に沈黙した黒崎さんは、壇上から降りた直後に薄紅色の薄い唇を手の甲でゴシゴシと(こす)り始め、この時を機に英語教師と会話をしなくなった。

 

 

 公開処刑をされた翌日。

 黒崎さんは人として最低限の礼儀である挨拶をするだけで、それ以外の会話を拒絶している。

 たとえば、ビッチ先生の授業で正解しても――

 

(正解。さすがは紬ね。じゃあ――)

(……)

(…すみませんでした)

 

 (にら)みひとつで気圧(けお)された金髪美女が謝罪し、反射的に半歩身を引くのを視認してから、教壇から無言で降りて着席する。近接格闘術を習っているという彼女が、今は手を出さずにいることが幸いだと思えるほどの怒気を(まと)っているため、うかつに茶化せない。

 それが1日中続くと、ついにビッチ先生が根負けし、(きし)む教員室の床に土下座して謝罪するも、黒崎さんは冷ややかな目で美女を見下ろしたまま、こう言った。

 

「何に対しての謝罪ですか?」

「えっと…。未遂も含めてディープキスしたこと?」

「そうですね。よく(わか)ってるじゃないですか」

 

 連休を挟んでいたせいもあって、久しぶりに黒崎さんの明るい声を聞いた。しかし、彼女のことだ。たとえ後ろ姿しか見えていなくても、その瞳は全く笑っていないと容易に想像できて、ぞくりと背筋が凍る錯覚がして身震いする。

 

「何度も『やめて』って言ったのに、出された問題に正解したのに、あなたは聞く耳を持たずに3度もされました。あたしはね。無理()いされるのも、女同士で接吻するのも嫌いなんですよ。今後もそうされるおつもりであれば、耳を切り落としましょうか。ねェ、いいでしょう? イリーナ・イエラヴィッチ先生」

 

 目に入った(はさみ)を手に取り、床に片膝をついてビッチ先生の(あご)に指をかけ、手首の返しですくい上げるように、強制的に自分のほうへ向かせた。本来であれば、少女漫画によくある一場面に見えるけど、物騒な言葉の羅列で相殺されている。

 

「い…いや…」

「じゃあ、なんで疑問形なんですか? 自分でも、なぜ謝っているか理解してないからでしょう?」

「…っ。あ…」

 

 美女が恐怖で目尻に涙を浮かべ、片耳の付け根にそっと刃が(あて)がわれ、触れるか触れないかのギリギリで保っている。さすがにこの行動には、緊張の面持ちで静観していた烏間先生も、業務用の椅子を壁にぶつけて倒す勢いで立ち上がった。

 

「黒崎さん!」

「ご、ごめんなさい…! もう無理やりディープキスしないから、許して…!」

「許して?」

「許して下さい!」

 

 数秒の間がさらに恐怖心を(あお)り、どちらに命の主導権があるかをわからせている。

 相手が屈服したのを確認してから、黒崎さんは耳元から刃を離して床に(はさみ)を置き、体を硬直させたままのビッチ先生を無言で抱き締めた。(はた)から見れば微笑ましい光景でも、脅迫されて恐怖を植えつけられた先生はそれだけで体が跳ね、息を詰まらせる。少女は、彼女の心境を知らずに弾んだ声音でこう言った。

 

「わかって下さってありがとうございます」

「……」

 

 結論から言えば、英語教師が黒崎さんを抱き締め返すことには成功した。しかし、その動きはひどく緩慢で指先がかすかに震えている。『そうしなければ()られる』と思っているのだろう。思考停止しているのか、今度はビッチ先生が無言になり、まるでこの数秒を生き延びるために行動しているように見えて痛ましい。

 

「じゃあ、これで仲(たが)いは終わりにしましょうね」

「え…。ええ。そうね…」

 

 美女に手を差し伸べ、連休前に目撃した冷酷とも受け取れる微笑より、いつも通りの晴れやかな笑みを向けつつ、そろって立ち上がる。それからスカートについた(ほこり)を軽く払って、ビッチ先生の机の横――扉側の床に置いていたスポーツバッグを背負い直し、再度人間の教師二人に向き合った。

 

「さようなら。イリーナ先生」

「さ、さようなら。紬」

「お騒がせしてごめんなさい、烏間先生。さようなら」

「…ああ。さようなら」

 

 黒崎さんが深々と一礼してから教員室を退室し、僕と杉野に視線を合わせるまで一歩も動けず、まさに釘付けに。いや。金縛りにかかったような錯覚に陥って一言も言葉を発せずに棒立ちしていた。当然、それに疑念を抱いた。

 

「…どうしたんだ、二人共? そんなところに突っ立って。先生達になんか用か?」

「い、いや…。ビッチ先生と仲直りできたかなーって、気になって…」

「そりゃ見ての通りさ」

 

 ご機嫌になった黒崎さんは、靴箱がある玄関へ行こうとしたが、何かを思い出したように足を止める。

 

「そうだ。あの騒動中でも言ったけど、あんまり『ビッチ』って呼ぶなよ。聞いてるこっちが不愉快だから」

 

 そう言い残して僕達にしっかり釘を刺し、軽やかな足取りで去っていった。



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第7話 黒と赤

「黒崎さん。惜しかったね」

「んー…」

「そこそこできてるじゃん」

「それじゃダメだ。ちゃんと理解しないと…」

 

 カルマ君が自ら興味を示し、中間テストで20位に入っても眉間に(しわ)を寄せて悔しがる黒崎さんに話しかけるのは、本当に珍しい事だった。

 きっかけは、体育の授業で烏間先生にも劣らない俊敏さでゴムナイフの攻撃を回避し、あっという間に岡野さんと不破さん。片岡さん3人を撃退したのを目撃したからだ。それは男子も同じで、間合いに入ろうとすれば僕達の目には早業に見える速度で倒していき、舌を巻いている。

 そうこうしているうちに黒崎さんは、カルマ君との会話を切り上げ、磯貝君と原さんと一緒に駅前にあるスーパーのタイムセールに間に合うよう、鍛えられた脚力に任せて山道を駆け下り、急いで走って帰っていった。

 

 

 修学旅行の班が決まって無いと聞いて、寺坂君以外の班で奪い合いの標的になっている黒崎さんは、班割りの面子(メンツ)全員を観察した後、きっぱりと断った。

 

「すまない。メグ。優月。あたし、渚達の班に入る」

「なんで?」

「野生の勘が『そこに入れ』と告げているんだ」

 

 大真面目な顔で親友に言い、『紬はいつ野生になったの?』と不破さんに笑われ、『そこは女の勘でしょ?』と片岡さんに訂正されたものの、自らの意思で僕達の班に加わり、これで7人になった。

 しかし、当の彼女は古都・京都の街中で目立つことより、人気の無い場所での暗殺を提案しつつ、それに伴う危険性もきちんと僕達に説明していく。

 

「暗殺と言えば、人気の無い場所と時間帯だけど、未成年でも深夜に出歩けば警察に補導される。だから、必然的に場所を(しぼ)られると同時に、何者かに女子が狙われ、君達男子が暴力沙汰に巻きこまれる可能性も、当然頭の片隅に入れておくべきだ」

「そんなの俺達で返り討ちにすればいいじゃん。黒崎さん、ビビってんの?」

「ビビってないし、必ず不審者が真正面から向かってくる根拠はあるのか?」

「…無い」

「不意打ちは?」

「あるかもしれない…」

「そうだ。旅行でも、あらゆる可能性を考えて保険をかけるべきだ。それを(おこた)れば痛い目に遭う。何か異論は?」

「無いよ…」

 

 喧嘩っ早くて自信満々。そして、感情的になりやすいカルマ君を完全に閉口させ、彼女は何事も無かったように、真剣に他の班員の意見に耳を傾けた。

 

 

 待ちに待った修学旅行初日の朝。

 烏間先生の『脱げ。着替えろ』の二言で、地味な花柄の服装に着替えさせられたビッチ先生は、精神的な慰めを得るために、黒崎さんを僕達の班から引き離して自分の隣に置いた。

 

「たしかにあの格好だと目立つので、あたしは烏間先生の意見に賛成です」

「紬までそんなこと言うの!?」

「はい。でも、本当の美人は、地味な服装も素敵に着こなすそうですよ。あたしの目に映る限り、今のところ、どうやらここに1人しか見当たらないようですね」

「ありがとう、紬。大好き!」

「…どういたしまして」

 

 面と向かって英語教師から『大好き』と言われた黒崎さんは、少し戸惑いながらも好意と感謝を受け入れた。僕達は、彼ら大人を含めて個人の事をちゃんと見てくれるから、信頼できる人だと判断している。

 暗殺の聖地である京都に到着してからは、4班に暗殺の順番が来るまで、時間があったから散策ついでに、僕達は自由時間を利用して老舗喫茶店のひとつ『フランソワ喫茶室』に立ち寄っていた。

 苦いのが苦手だと言う黒崎さんは、神崎さんの隣に座りつつ、カフェ・オ・レとレアチーズケーキ(フレンチ)のケーキセットを注文し、飲み物だけを注文した僕達男子陣相手に無難な食べ物の好き嫌いなど、当たり障りのない話題を適度に振って談笑しながら完食する。それで軽く30分は時間を潰せた。

 

「紬。無理して完食しなくても良かったんだよ? 甘いの苦手って言ってたのに」

「いや、せっかく来たんだ。名物を食べるのが約束されたも同然だろう。この機会を逃す手はない」

「確かにそうですね。黒崎さんは、なんでも美味しそうに食べられますし、見ている私達も嬉しくなります」

「…そうか?」

「そうだよ」

 

 茅野さんの意見をさらっと聞き流して甘いものが苦手だとわかっているのに、黒崎さんは果敢に挑んだ。そして、しっかり完食した事に好感を持った奥田さんの感想に、首を(かし)げずに尋ねる黒崎さんを微笑みながら神崎さんが肯定した。

 女子の4人の会話に、前を歩く僕達男子は平和を感じている。

 

 しかし、そんな一時はほんの(つか)の間だった。

 

「マジ完璧。なんでこんなに拉致りやすい場所歩くかね?」

 

 目の前で不良の高校生が笑みを浮かべている中、カルマ君が彼らを挑発する。

 そして、背後から足音が聞こえた時には、最後尾を歩いていた黒崎さんが肩にかけていた学生鞄をアスファルトの地面にどさりと即座に、だけど乱暴に落として、他の女子達を自分の背に隠して護るように臨戦体勢の構えを取っていた。

 

「赤羽。そっち頼む」

「オーケー。黒崎さん」

 

 2人は同時に地を蹴り、迎撃する。

 でも、彼女のほうがカルマ君より過激だった。

 僕達の後ろで誰かが地面を滑り、何かで勢いよく殴られ、男達の間抜けな声がしたかと思うと、重い物に潰されて苦しそうな声がする。それに混ざって、何かが何度も折られる鈍くて嫌な音が、絶え間なく耳に響いた。

 

「悪いな。嬢ちゃん」

「チッ」

 

 カルマ君が倒され、勝ち誇る声と舌打ちが聞こえて後ろを振り返ると、リーダー格の男と高校生2人が立っていた。つまり、こっちの男子3人が吹き飛ばされている間に、彼女単独で5人は倒した事になる。

 片手を返り血で染めた彼女が、残り3人を倒さない理由は明確だった。神崎さんと茅野さんを人質にされた。

 

『黒崎さん…!』

「チッ…。2人共、今は大人しく言う事を聞いてくれ。赤羽達の救助を待つぞ」

「でも…」

「大丈夫だ。神崎さん」

 

 攻撃の手を止めた途端、黒崎さんがどこかの高校の男子生徒の手によって横っ面を容赦なくひっぱたかれる。ばしっと音が聞こえたけど、彼女の体幹がしっかりしているのか、よろめくことも倒れることもなかった。

 左頬が赤く()れ、唇の端を切ったのかわずかに血が(したた)っている。普通の女子なら叩かれたことに一瞬呆然とするか、痛さと状況で泣いているだろうに、当の本人はそのどちらでもなく、冷静でいて、声を(あら)らげず、ただ静かに声が路地裏に響き渡る。

 

「大丈夫。まだあたし達は、全員生きてる」

 

 理性を失ってパニックになる状況でも、僕達はすぐに我に返って落ち着けた。

 

「俺達が楽しんでやるよ」

「…なら、賭けをしよう」

「あ? なんだ? 言ってみろよ」

 

 黒崎さんの強さを間近で見て知っているのに、リーダー格の男が単なる馬鹿なのか、自信過剰なのか。易々と彼女の間合いに入って、無造作に片腕を(つか)む。

 数秒の間があって、不快感を示さない代わりに微笑を浮かべ、人指し指を立てた彼女の声と表情に初めて怒気がこもる。

 

「日没前に、あの男子達が救助にくれば、あたしにテメェらを1人ずつ殴る権利をくれ。来なければ、その時点で契約破棄だ。テメェらの好きなように遊んで楽しめばいい」

「いいぜ。救助が来たらな」

「口約束だろうと、契約は成立する。(たが)えるなら、その首()き切るぞ」

「わかった、わかった。慎重なガキだぜ」

 

 黒崎さんが男達に押しこめられて車に乗りこむ直前、一言だけ伝言を残した。

 

((たこ)に救援要請を送れ)



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第8話 肩書きと反撃

「その黒崎ってガキ。1人で5人も倒すくらい強ェぜ」

「マジかよ!?」

 

 誘拐された先は空き店舗で、比較的広い空間だが薄暗く、最初はその暗闇に目が慣れなかった。

 男達の体格と制服から見て不良の高校生で、鼻に刺激を与える(くさ)い息から、彼らのほとんどが喫煙者だと判断する。耳に大きく響く声と下品な笑い。会話の内容から、あまり頭は良くないらしい。

 対して自分達女子3人は、後ろ手に縄で拘束されているものの両足は自由にしてあるのは、『夜のお楽しみ』のためだろう。しかし、隙を見て逃げられるという可能性は考えないのだろうかと、観察通りのおつむの悪さに溜め息が出る。自分1人なら突破できる自信はあるが、彼女達を人質にされている以上、これ以上下手な動きはできない。

 

「紬。怖いよ…」

「すまない、カエデ。あたしの判断ミスだ」

 

 あたしを間に挟んで、左にカエデ。右に神崎さんが同じ格好で座っている。二人とも自分と違って怖がっており、『普通の女の子なんだな』と心の片隅で思い、なぜか胸がモヤモヤしている。未熟な自分は、まだこの感情の正体を知らない。

 でも、本当は喫茶店を出て甘い飲み物の会話をした時から、彼らの尾行に気づいていた。しかし、修学旅行を楽しんでいる彼らに不安を与えないために、知らない振りをして自然に振る舞い、成り行きに任せていた愚かな自分がいる。

 そして、脳内で十数秒と短い反省会を終え、重苦しい沈黙を自ら破った。

 

「…神崎さんも、こんな目に遭わせて悪かった。安全よりも、暗殺を優先して提案したあたしに責任がある」

「ううん。私も、黒崎さんの忠告をちゃんと聞いていれば、こんな事にはならなかったの」

『……』

 

 この会話に割って入って便乗してきたのは、名も知らないリーダーの男だ。今すぐ(あご)に蹴りを入れて昏倒させ、後頭部を踏んで便所の水を飲ませたい衝動に駆られる。

 下衆(げす)か奴らが苦しむ姿をこの目で見るのは、きっと楽しい気分になるだろう。

 男は、自分が悪戯(いたずら)に近い衝動を抑えているとも知らずに、手にした携帯電話を操作して、液晶画面に映った1枚の写真を見せてきた。そこに表示されたのは、派手な格好をした神崎さんだった。

 彼は、状況説明だけして群れの輪に戻り、談笑で時間を潰す中、神崎さんが家庭環境と心境を話していく。カエデは彼女の話に相槌(あいずち)を打ち、あたしは、屋内と野外にいる相手の人数と配置を全て記憶し、脱出計画を脳内で練り終え、神崎さんに自分の持論も含めて会話を投げかけてみた。

 

「肩書きを取ってしまえば、みんなただの人間になるんだし、縛られる必要はどこにも無い。それに、あたしはEndじゃなくて、EnjoyのE組だと思ってる。現に、殺せんせーがいる今が一番充実してるし、毎日が楽しいだろう?」

 

 だが、投げた話はリーダーが拾い上げ、『俺らと楽しく過ごそう』と言う男に自分が前に出て、毅然とした態度で堂々と断る。

 

「最低な(やから)とはごめんだ。現時刻までの無駄な時間を返せ」

 

 青筋を立てたリーダーが首を絞めるために腕を伸ばしてくるが、首を軽く振って()(くぐ)り、鍛えた脚力で一気に間合いを詰めて、体重を乗せた蹴りを腹に食らわせた。

 

「がっ…!」

 

 鈍痛に耐えきれず、体をくの字に折り曲げた男子生徒の顔面に蹴りを入れる。

 

「っ!」

 

 蹴られた勢いに任せて後方に倒れかける男の肩を踏み台にして、リーダーの背後に位置した男の顔に飛び膝蹴りを見舞い、前傾姿勢を取って空中で反転。羞恥心など女々(めめ)しい感情など殴り捨て、脚を広げる。

 乱暴に詰めこまれた車内で、万が一の場合に隠し持っていたスタンガンの電源は、カエデ達と話している間に探り当てていた。それを押して、起動する。

 電撃の威力を利き手の親指で操作して上げ、男の首に脚を(から)め、下衆(げす)な考えを抱かせて油断させた隙を狙って上半身を後ろに倒し、自分の背と男の腹を密着させた瞬間、手首を軽く動かして睾丸(こうがん)に押し当て容赦無く電流を浴びせた。

 

「ぎッ!?」

 

 自分の頭と床が接触する前に、(から)めた脚を首から離して腹筋に力を入れ、再度反転。

 上から下へ体重移動させて着地し、上半身を起こす反動で、男に頭突きを食らわせてしまい完全に沈黙する。それを、さも『想定内だった』と言わんばかりの顔をして、バチバチとスタンガンを起動させたまま彼らの前で言い放った。

 

「さて。次は誰だ?」

 

 反撃開始から10秒以内に起こった出来事に、不良達は立ちすくみ、残った4人は戸惑いを隠せないでいる。

 そんな折、複数の足音と声が聞こえた。

 

 渚の声だ。

 

 彼が朗々とした声で、殺せんせー手製(しおり)の一部である拉致(らち)対策を読み上げた後に、不良達は、普通ならあり得ないその内容に驚愕しながらツッコミを入れる。

 

「で。どーすんの、お兄さんら? そこの女子に倒されたとはいえ、これだけの事をしてくれたんだ。アンタらの修学旅行は、この後全部入院だよ」

「中坊がイキがるな。呼んでおいた連れ共だ。お前らみたいな良い子ちゃんは、見た事も無い不良共に――」

 

 回復したリーダーの言葉が一度途切れ、暗闇から黄色い触手が現れるのを視界に(とら)えた時、不思議なほど自然と安堵の溜め息が()れ、彼らを信頼して警戒を解き、ようやくスタンガンの電源を切った。

 

「不良なんていませんでしたねぇ」

 

 間延びした殺せんせーの声が響き、不良達の注意が渚達に向いている間、さりげなく長椅子の所に戻って定位置となった真ん中に座り直して、救援部隊の成り行きを見守る。

 

 

 彼らが気絶していたのは、だいたい30秒前後だろう。

 

「おはようございます、誘拐犯共。約束覚えてるか?」

「先に破ったのはテメェだろ!」

「監禁中に暴れないとは言ってねェからな。黙って歯ァ食いしばれ」

「ひっ…!」

 

 誘拐した輩の顔は全員覚えている。

 気絶から覚めて、起き抜けに容赦なく拳で殴りかかる女子中学生を見れば、恐怖しか浮かばないだろうが約束は約束だ。一度口にした約束を無効にするという考え方を、あいにく自分は持ち合わせていない。

 

「まだ生きてることに感謝しな。クソ野郎共」

 

 そう吐き捨て、一度も振り返らずにみんなから遅れて出口へ向かうために前に進んだ。

 夕日色に染まる京都郊外にて、殺せんせーを含む救出部隊に全員無事救助され、体に悪影響が出そうなほど(ほこり)(まみ)れた店舗を出て、のんきに大きく伸びをする。

 

「あの…。黒崎さん」

「なんですか? 殺せんせー」

「あの荒事の中で的確な判断と指示は、申し分なく満点です。でも、どうしてスタンガンなんて危ない物持ってたんですか!?」

「ああ。これは万が一のために持参したんです。私物ですよ」

「にゅやっ!?」

 

 有無を言わせない言葉と笑顔で、一時的に詮索を免れた。

 

「全員無事で良かったよ」

「ありがとう。助けに来てくれて。後頭部は大丈夫?」

「なんとか。でも、救出前に粗方片付けてたよね」

「いやァ。日没前に『俺らと楽しもう』とか言うから、勝手に体が動いちゃってさ。先に暴れたってわけ」

 

 渇いた笑い声が出たが、赤羽(かれ)は口を結んで笑わなかったせいで、自分の笑みが消えるのがわかった。

 

「…あんま無茶しないほうがいいんじゃねぇの」

「無茶してない。やれたからやっただけだ」

 

 腕の立つ彼は『あっそう』とだけ言って、班員と一緒に旅館へ向かった。



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第9話 恋バナ

「カエデ、有希子。今日はお疲れ様」

「うん…」

「紬もお疲れ~」

「どうした?」

「黒崎さんに名前で呼ばれることなかったから、なんだかむず(かゆ)くて…」

「…そういえばそうだな」

 

 一理ある指摘を素直に受け入れて、旅館の脱衣所でなんの躊躇(ちゅうちょ)もなく、ランニングウェア一式を。カエデと有希子は、(ほこり)やら細かい砂利が付着した学校の制服ではなく、持参していた私服を脱いでいく。自分がランニングウェアを着ている理由は、自由時間として取り分けられた3時間をダラダラと過ごすのが嫌で、独自に事前調査で旅館を基点に往復20キロの走りこみしたからだ。限りある時間を有効利用できて満足している。

 

「うわっ。紬、すごいね」

「何が?」

「その肉体美!」

「鍛えるのが趣味だからな」

 

 女子から黄色い声を聞くのはこの3年間で慣れたが、一糸(まと)わぬ姿を見られてちやほやされるのは去年の女子バレー部合宿以来で、ひどく懐かしく思えた。

 

「鍛えるポイントはなに?」

「腹筋が割れないように、適度にやること。ボディービルダーみたいなムキムキは目指さない」

「スタイルを維持するには?」

「体調管理を万全にすること」

 

 タオルで前を隠してがらりと引き戸を開き、立ちこめる熱気に身を(さら)しながら、予習していた大浴場の入り方を頭の中で描いていき、どうにか湯船に浸かっていくが、愛美とカエデの視線が痛いほど突き刺さる。

 

「…どうした?」

「胸がある…!」

「誰でもあるだろう?」

「私はBだもん!」

「どう見たって…。なんでもない」

 

 『どう見たって、Aカップだろう』と、途中まで言いかけた自分は、カエデの張りつけられた笑みから感じる圧を前に、とっさに口を(つぐ)んで誤魔化した。

 

「紬はお利口さんだね」

「そういうことにしといてくれ」

 

 入浴後に浴衣に着替えて2階に上がり、女子の大部屋を開けると、女子生徒の視線が自分に集まるのを視認して、反射的に(ふすま)を閉めかける手を優月にしっかりと(つか)まれて止められる。さっさと右回れをして退散の姿勢を見せる自分の腕に、素早く手を回された

 

「離せ、優月。おい。メグも笑ってないでなんとかしてくれ」

 

 親友2人と級友達に見放され、イリーナ先生に酒の(さかな)にされる形で渋々話す事にした。

 

「あたしが影山君と会ったのは、宮城に転校した小学4年生。同じクラスになった初日に誘われて参加したのがきっかけで、バレーを始めるようになってから去年の総体で退部するまで、4年弱続けてたんだ」

「それで?」

「え?」

 

 まだ缶ビールを半分も消費してないイリーナ先生が、片手に持ったつまみのさきいかを突きつけて、話の続きを催促する。

 

「なんの感情も持たなかったわけ?」

「何もないけど、影山君の良い所なら言える」

「試しに言ってみてよ」

 

 桃花に言われて、指折り数えていった。

 

「強さを求めて努力し続けるストイックな所と、素直なところが良いなーと思っ……。待て。みんなその笑い方やめようぜ? な?」

 

 ふと視線を正面に合わせると、全員ニヤけた笑いを見せていてホラー映画を観た気分になり、背筋にぞくりと寒気が走った。

 

「他には?」

「笑顔が可愛くて、バレーに一生懸命なところ。それから、お礼と謝罪が言えて…。もうなんだ、さっきからニヤけて。これじゃ、あたしが影山君との出逢いと良い所を列挙してるだけじゃないか!」

 

 急に恥ずかしくなって腹いせにばしっと畳を叩き、その様子を見て腹を抱えて笑う級友達に未開封のつまみを投げたが、それは軽く陽菜乃の(もも)に当たっただけでなんの抑止力にもならない。

 

「好きじゃないの?」

「男友達としては付き合いやすいな」

「いや。友達じゃなくて、異性としてよ」

「格好良いとは断言できるけど、恋愛感情に(うと)いから知らん」

 

 莉桜の問いを切り捨てて、この話は終わりかと思ったが、そうは問屋が下ろさなかった。

 

 結局、『連絡先を交換したから、たまにメールする仲だ』と白状する羽目になった。

 

「もう満足しただろ。寝かせてくれ」

「不破さんから聞いたの。去年、影山君の応援に行ってお土産渡してたって。たしか、お父さんの介護してた時期じゃない?」

「…優月。なに勝手に話してんだ?」

「仲(むつ)まじくて、つい…」

「『つい』で話すことじゃねェ」

 

 軽くヘッドロックをかけて笑いながら悲鳴をあげる親友に、念を押したが吐き出された情報をなかったことにはできない。さらに話の種が投下されたことで、恋バナに興味がある女子達が、ギラリと目を輝かせて無言の圧力をかけられる。

 

「メグが話した通りだ。もうネタは尽きたぞ」

「桃花」

「はい。黒崎さん。何をするのかわかるよね?」

 

 話さなければ、文字通り口を封じる。

 自分の命が危険になる(たぐい)の脅迫は、これまで何度も受けてきた。しかし、恐らくストレートであって、レズビアンでもバイセクシュアルでもない自分にとって、このような生き地獄を味わう種類のものには耐性がない。だが、白旗を挙げる気もないため、沈黙を肯定と受け取った彼女が、嬉々として顎から指先が離した瞬間に押し倒す。字面だけ見れば、甘い雰囲気を想像する人もいるだろうが、そんな状況ではない。

 

「日本語通じるか? 話が尽きたっつっただろ?」

「っあ…」

 

 桃花に覆い被さる体勢で、それまでの笑顔を封じる。

 息を呑む同級生達は、押し倒された女子を助けようとしたものの自分の豹変に気圧(けお)され、あたしは桃花に対して鼻先が触れるほどの距離で告げた。

 

「たとえ冗談でも、無理やり接吻(せっぷん)されるのは不愉快だ。…わかったな?」

「っ…!」

 

 頭部を上下に振って了承の意を示した桃花を先に解放し、次にけしかけた窓際に座っている英語教師をじぃっと見下ろすだけで萎縮させ、缶ビールとつまみを持って立ち去ろうとするのを止めた。

 

「恋バナとやらをするのは構いませんが、強制的に聞き出そうとする手口も接吻も嫌いだと、以前申し上げましたよね?」

「っ…!」

「その口は飾りですか?」

「違っ…。い、言ったわ!」

「では、今後はこうなさらないよう、よろしくお願いします。イリーナ先生」

「…わかった」

 

 部屋を見渡すと、女子全員唇を一文字に結んで静まり返っており、親友二人と4班の女子以外、誰も自分と視線を逸らして交わすことはない。恐怖を与えてしまった影響で『怖い人』と認識されても構わずに、さらに言葉を重ねる。

 

「対応は間違ってないし、嫌なものは嫌だと言っただけだ」

「ごめんなさい。紬」

「紬、許して…」

「ん。許す」

 

 二人の謝罪を受け入れて、すでに敷かれた布団の中で廊下に近い場所を陣取り、布団を羽織って壁を背にして座り、そのまま眠る体勢を取った。だけど、この姿勢が自分にとって普通でも、周りにとっては奇異に映ることは小学生の修学旅行で判明していて、部活の合宿を含めて笑われた経験が何度もある。

 

「その姿勢で寝るの? 寝づらくない?」

「癖になってるから、こっちのほうが眠りやすいんだ」

「ふーん」

 

 莉桜との会話はそれで終わったものの、その中で違う視線を、かわいそうだと思っているような視線を投げかける人がいた。

 

「何かあったら、私の部屋に来なさい」

「…はい」

 

 イェラヴィッチ先生は眉尻を下げ、片手に食べかけのつまみと缶ビールを器用に持ちながら、空いた手であたしの黒髪を優しく撫でていく。

 それが妙に心地良く思えたのは自分でも謎で、とりあえずお礼を告げ、何事もなかったかのように別れた。



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第10話 応援

「優月とメグは元々誘っていたから良いとして、なんでイリーナ先生と殺せんせーが来てるんですか?」

「修学旅行の時にカゲヤマの話をしてたから、興味湧いて、ユヅキから聞いたの」

「私は、イリーナ先生から()きました。一度でいいから生で観戦したいんです」

 

 仙台駅前で鉢合わせた教師2人に、自分でも珍しく声を荒げて問いただした結果の解答だ。

 今すぐ頭を抱えて悩みたいところだが、そこは理性でどうにか抑えて、この状況を打破するために身を(ひるがえ)す。

 

「くれぐれも問題行動は起こさないように。即刻、烏間先生に通報しますからね。応援に行くなら、ついて来て下さい」

『はい!』

 

 去年同様に市立体育館到着早々、男子便所前でオレンジ髪の男子と口論になっているのを目撃して、会話の邪魔にならないようにそのまま観客席のほうへ誘導したかったが、あいにく同行するタコのせいで目立ってしまった。

 

「黒崎さん?」

「久しぶり。影山君」

「チッス。…あれ、着ぐるみか?」

「うん。そうだ。すごく高性能な着ぐるみだから、無闇矢鱈に触れないでくれるとありがたい」

「そうか」

 

 後ろを指差す影山君に早口で弁明すると、彼の眉間に寄っていた(しわ)がなくなって微笑んでいる。

 

「今年の応援は気合いが入ってるな」

「だろう?」

 

 年相応の笑みを前に、心臓が締め付けられる錯覚を感じる自分とは裏腹に、『苦しい言い訳だな』と自分でツッコんだが、どうやら素直に着ぐるみだと思ってくれたらしい。幼馴染の後ろにいる男子は視線で異を唱えていたが、自分と視線が合うと()らされた。

 

「…応援ありがとな。イライラがなくなった」

「良かった。じゃあ、またあとで」

「ああ。またな」

 

 別れを告げて90度反転した先には、ニヤけている親友2人とスマホ片手に録画中の英語教師。マッハで手元のメモ帳に何かを書きとめる超生物の存在がいて、彼らを視認した瞬間、とんでもないことをやらかした気分になった。

 

「さ、先に観客席に行ったんじゃないのか?」

「こんな美味しいネタ見逃すなんて、せんせーがすると思いますか?」

「紬が、カゲヤマの前では可愛い笑顔になる決定的瞬間を、この私が見逃す訳ないじゃない。律。グループラインで一斉送信して」

《了解です》

「え? やめ――」

 

 時すでに遅し。

 修学旅行後に配置された高性能の人工知能によって、この場に居るE組面々のスマホが一斉に着信音を奏で、ご丁寧に『ウワサのカゲヤマ君』と文言が添付された英語教師撮影の動画が拡散される。悲鳴をあげることすらできぬまま、腕力に任せて端末を投げつけたい衝動に駆られるが、今は北一の応援をすることに再度集中した。

 

「……。観客席に行きましょう。もうすぐ始まりますから」

 

 保護者の役割を果たさない大人2人の面倒を今から見ると思うと一気に気が滅入るが、父の介護よりずっと楽だと考え直し、ここは潔く諦めて背中を押しつつ、無言で席へ連行する。

 

 

「影山君の背番号は?」

「2番。ツンツン頭が特徴的な金田一君の後ろ。ちなみに影山君の右隣。眠たそうな目の男子が国見君」

「へー。あ、試合始まる」

 

 観客席に到着早々、自分の両隣を陣取る親友の横には教師二人が座しており、『幼馴染でもない男子を知っているの?』と尋ねられ、『試合中の掛け声で知った』と手短に答える。だけど、そんなことは現時点ではどうでも良かった。

 

「……去年より殺伐としてる」

 

 サーブの合図の笛が鳴って国見君のボールが打ちこまれたが、雪ヶ丘側の選手の出だしが一拍遅れ、さっそく北一の得点になる。

 

「素人の寄せ集めかな?」

「相手どこ?」

「雪ヶ丘。あ、お見合いになった」

 

 オレンジ髪の男子が仲間を励ますが、3本目のサーブも威力から避けて得点になった。

 

「すぐ終わりそうね」

「そうかもしれないですね」

 

 つまらないと言いたげな口調のイェラヴィッチ先生に苦笑しつつ、視線を最前列からコートへ向ける。

 

「でも、そんな簡単に諦めるようなら、この試合に出場して、あんなふうに慰めあったりする必要はないです」

 

 雪ヶ丘側は良いトス。高さもスパイクの威力も十分。しかし、余裕のバンチ・シフトでブロックし、雪ヶ丘側にボールが落ちていった。

 その後も北一側のミスで雪ヶ丘側に点は入るものの、15点差は大きい。中でも目を引くのは、ジャンプ力のあるオレンジ髪の男子だが、その能力を十分()かしきれていないことに『もったいない』という気持ちが募る。

 

「なァ。優月」

「ん?」

「あのオレンジの子と、影山君が同じチームになったら最強だよな」

 

 彼女が『そうかもね』なんて生返事を返した直後、男子の大声が聞こえた。

 

「最後まで追えよ!!」

「――、――」

「勝負がついてねェのに、気ィ抜いてんじゃねェよ!!」

 

 彼――影山君と仲間との温度差は去年から薄々感じていたが、今年はさらに広がっていた。幼馴染が孤立無援の状況に胸を痛める。

 

 その時、きゅっと喉が狭くなる感じがした。

 

 誰か。誰でもいい。

 影山君に援軍を。助けてくれ。手を差し伸べてくれ。頼む。あのままじゃ、いつか心が壊れてしまう。

 

 記憶に刻まれたあいつらの声が聞こえた。

 

(外部の人間を家の中に入れるな。成績が下がろうが、お前一人で俺の世話をしろ)

 

 そんなの無理だ。自分には介護の知識がないし、専門家(プロフェッショナル)じゃない。

 呼吸が浅い。息ができない。誰も、あたしを助けてくれない。だから自分でなんとかしてきた。

 

 体育館の入口で(うわさ)を聞いた。

 影山君が『コート上の王様』と呼ばれ始めたのか。その理由も経緯も、何一つ理解できていない自分は部外者だ。

 北一24点。雪ヶ丘7点のセット・ポイント。

 試合には勝っているのに、肝心の仲間との連携が取れてない。

 

「独りは…、(いや)だな…」

 

 全部独りでやってきた。

 風邪をひいても、くたばった父の暴力で体のどこかが腫れても、家に常備されていた救急箱を開けては、慣れない手つきで自分で処置した。食材を買ってきて食事も自分で作ってきた。

 洗濯も掃除も。アイロンも裁縫も。生きていくための術は、小学校で習って全部独りで――

 

「黒崎さん!」

 

 誰かが、焦った声であたしの苗字(みょうじ)を呼んだ。でも、その苗字で呼んで欲しくないと思う自分が心の片隅にいつも存在している。

 誰かがフランス語で譫言(うわごと)をつぶやく中、自分の意識が段々遠のいて、呼吸がまともにできなくなり、視界も気管同様に狭まっていく。

 苦しい。亡き父に首を絞められているわけではないのに、脳がそう錯覚する。

 最後に見た景色は、迫る観客席の床と黄色の触手だった。

 

 

「どうしたの? 私はここに居るわよ?」

「…う…ゥあ?」

 

 次に目を覚ました時、簡易的な医務室にいた。

 目尻から涙が(こぼ)れていると知ったのは、イェラヴィッチ先生がそれを指先で(ぬぐ)ってくれたからだ。

 そして、起き抜け早々、美女に顔色を伺われてフランス語で体の具合を尋ねられ、現状を説明される。自分はともかく他の言語で話す理由は、恐らく失神してから目覚めるまでの間に認識能力が低下し、自宅で使っている言語に切り替わったせいだろうと推測した。

 眼球を動かして天井をしばらく見つめ、片腕と腹筋の力だけでのろのろと上半身をベッドから起こし、思い出すように日本語で(つぶや)く。

 

「…あ。バレー。影山君の応援か。しまった…」

 

 呑気(のんき)な声で言って頬をポリポリと掻くけれど、メグ達の反応からそれどころじゃないらしい。

 

「『しまった…』じゃないわよ! 紬の馬鹿!」

「二人ともどうした。そんなに泣いて」

「『どうした』じゃないの!」

 

 わんわんと泣くメグ達の頭上に、ぺとりと殺せんせーの触手が触れた。『落ち着け』と言わんばかりに優しく撫でられる。

 

「黒崎さんが目覚めたのは喜ばしい事ですが、まず状況確認をしましょう。黒崎さん。私の目を見て下さい。日本語はわかりますね?」

「はい…」

「自分の名前は分かりますか?」

「黒崎紬です」

「生年月日は?」

「1996年8月19日」

「出身は?」

「静岡です」

 

 この他にも基本的な情報の応答をいくつかして、本題に触れた。

 

「どうして過呼吸になったんですか?」

「話すと長くなるんですけど…」

「大丈夫ですよ。時間はたっぷりありますから」

「……わかりました」

 

 イェラヴィッチ先生にも解りやすいように、二度手間を避けるため英語で説明していく。

 

 父が交通事故に遭って介護が必要になった。

 しかし、小学校卒業時に離婚して別居していた母とは連絡を取れないし、住所も連絡先も知らない。結局、父が死ぬまで彼の金でヘルパーを雇い続け、ほとんど自分とヘルパーが共同して寝たきりの父を世話し続けた。

 さらに情けない話だが、介護で積み重なった心労が影山君が独りで奮闘する姿と重なったらしく、その情景が引き金となって感情が爆発したと丁寧に話す。すると、メグ達は顔も知らないあたしの母親に対して激しい憤りを抱いたようで、その瞬間を目の当たりにして『これ以上、母の話題は出すまい』と胸中で決意した。

 

 

「黒崎さん」

「…あ、影山君。お疲れさま」

「ッス」

 

 医務室を退室した自分に声をかけてきたのは、試合が終わって帰る準備を終えた影山君だった。あたしを見つけるなり駆け寄ってきて、一定の距離を保って立ち止まる。

 

「もう大丈夫なのか?」

「大丈夫だ。心配かけてすまない」

「…そうか」

 

 すると、彼は足元に視線を落とし、消え入りそうな声で何かを(つぶや)いた。あたしは、それを聞き逃したが、あえて触れずに話題を変える。

 

「試合、どうだった?」

「勝った」

 

 返答してくれたものの、ぽたりと透明な液体が幾つか床に落ちたのを目撃し、それを(いぶか)しく思って一歩踏み出した時、影山君の声が廊下に響いた。

 

「なんで倒れたんだよ?」

「先生が言うには、心労だと言われた」

「しんろー?」

「心が疲れてるって意味だ」

 

 言い終えた瞬間、突然顔を上げられたせいで反射的に自分の体が硬直した隙に、大股で歩み寄られて距離を詰められる。

 

「大丈夫じゃねェだろ。ボゲェ…!」

「…そうだな」

 

 彼を見上げたは良いが、その眉間には試合前同様に(しわ)が寄っているのがわかった。怒っているのは一目瞭然だった。

 

「原因は?」

「父の介護してた時を思い出したから」

「試合中に? なんの関係があんだ?」

「それは……」

 

 影山君の質問に、自分の中ではすぐに答えられるはずだった。そこですぐに一呼吸置き、涙腺が緩まないよう気を張って、しっかり彼の紺色の瞳を見て声を出す。

 

「一人で戦ってるように見えたから」

「ッ!」

「あ。違ってたら謝――」

「違わねェ」

 

 小さく『すげぇな…』と言う低い声が耳に届いたが、それが何を指すものか理解できないで立ち尽くしていると、短いため息をつかれた。指摘されたことに苛立ったのかと思い、反射的に言葉が詰まる。

 

「あ。黒崎さんについたわけじゃないッス」

「そ、そうか」

『……』

 

 二人の間に奇妙な沈黙が流れる中、影山君の視線が揺れ、やがて意を決したように、叫ぶ勢いで(まく)し立てられた。

 

「嫌な事があったら俺に言え。話くらいなら聞ける。だからッ、いつでも電話してこい」

「え…?」

 

 その言葉が、彼なりに出してくれた自分の逃げ道だと知るのに数秒時間を要して、おそるおそる答え合わせをする。

 

「…つまり、あたしの逃げ道に…なってくれるのか?」

「おう」

「でも、君1人じゃ(つら)いだろう?」

「俺と黒崎さんの2人だろ。辛くなんかねェ」

「……。じゃあ、半分抱えて…。いや。抱えて下さい」

「ああ。任せろ」

「その代わり、影山君もあたしに言ってくれないと、不公平だからな」

 

 影山君の提案に自ら意志で乗り、抱えていた心の荷が軽くなったところで片手に持っていた紙袋の存在を思い出し、それを彼に差し出した。

 

「あ。これ、今年のお土産。こっちはご家族と影山君の分で、リボンつけてるのは、スタメンの方と監督さんに渡してくれ。足りるといいな…」

「っ! …アザス」

「明日も応援に行くから」

「わかった。無理すんなよ」

「ん、ありがとう。また明日」

「おう」

 

 この時は笑顔で別れたものの、翌日の試合結果は予想できなかったが、いつか亀裂が入るだろうと予測はしていた。



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第11話 狂暴な大人

「今日から烏間を補佐して働く事になった、鷹岡明だ。よろしくな。E組のみんな!」

 

 ある日。見慣れない大柄の男性が、大きな箱を2つ抱えて運動場へ入ってきた。その中身は手が出せないほどの高級菓子で、僕らが喜色を浮かべる中、黒崎さんだけそれを一切口にしなかった。

 

「ほら、紬。これ甘くないよ」

「いらない。みんなで食ってくれ。おい、鷹岡」

「なんだ? ちゃんと敬語を使え」

 

 彼女の青に茶色が混ざった不思議な瞳は、まっすぐ鷹岡さんをとらえたままで、険しい口調と表情で彼を見据えている。僕達は、彼女がこれほど強い警戒心を目の当たりにするのは初めてで、それを解くことも彼の注意に耳を傾けることもなく、堂々とこう言い放った。

 

「使う気にならないから呼び捨てにしてるんだ。テメェは、何を隠してる?」

「別に何も無いぞ?」

「その言葉を簡単に信じるとでも?」

「信じてくれなきゃ、俺が困る。家族だろう?」

「家族なんざ不要だ。吐き気がする。勝手に困れ、クソ野郎」

 

 初めて耳にした黒崎さんの下品な言葉と軽蔑の視線。勢い良く立てられた中指。大人の鷹岡さんでさえ言葉に詰まって冷や汗を浮かべる怒気の数々に、僕達は彼女が足早に校舎に入って消えるまで、瞬くのも呼吸する事も忘れていた。

 

「…ッぶはァ! なんだ、あの子は!?」

 

 鷹岡さんが息を吐き出してどうにか質問したが、生徒全員言葉を失っていた。結局、この日の体育の授業に黒崎さんが戻ってくることはなかった。

 授業が終わって鷹岡さんを拒絶する態度を見せた彼女に尋ねると、少し躊躇(ためら)ってこう言われる。

 

「あいつ、くたばった父と同じ仮面を被ってるからな」

「仮面? それって直感?」

「んー…。経験からくる直感のほうが、表現として正しいと思う」

 

 何を言わんとするのかを理解した反応を示したのは、同級生の中で不破さんと片岡さんだけだった。

 

 

 翌日。黒崎さんの『経験による直感』が当たっていることを知った。

 印象を良くするために人当たりの良い仮面を被っていただけで、その本性(ほんしょう)は、嬉々として暴力で人を屈伏させる異常者だと。

 黒崎さんは、夜まで10時間にもおよぶ時間割りが記載されている紙を見た後、真っ先に苦言を言った前原の体操着の(えり)(つか)んで乱暴に引き寄せ、隠し持っていた本物のナイフを逆手に持って横薙ぎに一閃する。その切っ先が服を割いただけでも、コンマ数秒では状況を把握できないでいる僕達を前に、鷹岡さんが情けなく(わめ)いた。

 

「なんでそれを持ってるんだ!?」

「お前の鞄を物色したら出てきた。自分の勘が当たったな。お前は信用ならない。これを使って、あたし達を屈服させるつもりか?」

「クソガキが…!」

「ガキで結構。オーバーワークさせる前提の時間割りを組み、これを所持している時点で、お前の頭はイカれてる。あたしはこんな代物じゃ脅しにならないから、残念だったな。とっとと退職願い書いて、消え失せ――」

 

 乾いた音が辺りに響き、黒崎さんが平手打ちをされたのだと知り、全員息を()む。だが、数歩よろけるだけで倒れはせず、握ったナイフを離さず、むしろ鋭い視線で鷹岡先生を(にら)みつけた。

 

「昨日言っただろう? 俺達は家族だ。父親の言う事は素直に聞いておけ」

「暴力を振るう親は、こっちから願い下げだ」

 

 今度は綺麗な黒髪を乱暴に掴まれたかと思いきや、お腹に膝蹴りを食らい、彼女の口から唾液(だえき)と血が混ざって(こぼ)れ、その場で腹を押さえて崩れ落ちて激しく咳こんだ。鷹岡先生は、その隙に地面に落ちて刺さったナイフを拾い上げて、非難した前原と神崎さんに打撃を加え、新しい体育教師は嬉々とした表情で言う。

 

「お前ら…、まだ分かってないようだな? 『はい』以外は無いんだよ。文句があるなら、拳と拳で語り合おうか?」

「断る…!」

 

 咳が落ち着いた黒崎さんが立ち上がって、前原と神崎さんを背中に隠す位置まで歩き、身長差がある鷹岡先生の前に堂々と仁王立ちした。

 

「黒崎さん! 大丈夫か?」

「…はい。どこも異常ありません」

 

 駆け寄った烏間先生を対話していても、彼女の特徴的な瞳は爛々(らんらん)と輝き、不気味なほど静かで落ち着きがある。それどころか薄ら笑いを浮かべ、(りき)む様子も見受けられず、むしろ妙にリラックスしていた。

 

「血が出てるな。手当てしよう」

「いえ、大丈夫です。口内を切っただけですから。先生の言葉だけで満足ですよ」

 

 先生の言葉を受け取って、ぐいっと手の甲で乱暴に(ぬぐ)う仕草を見せた彼女に、彼は諭すようにもう一度語気を強めて言った。

 

「だめだ」

「…わかりました」

 

 彼女がイリーナ先生から半透明のビニール袋に入った氷水を受け取り、校舎から運動場を(つな)ぐ石段に座って、それを怪我をした頬に当てながら僕達を見守っている。

 この異常な状況で冷静に判断し、物()じせずに面と向かって大人に意見して、体を張って僕達を護ってくれる存在がいなくなったことと、精神面で大きく支えられていたことに遅まきながら僕達は気づいた。そうして、とてつもなく大きな不安が胸中で(ふく)れ上がる中、鷹岡先生の授業が無情にも始まる。

 

「スクワット300回とか、死んじまうよ~…」

「烏間先生~…」

 

 烏間先生の名を呼んだ倉橋さんの前に彼が立った時、遠くで黒崎さんが勢い良く立ち上がり、ビニール袋を鷹岡先生に向かって投げ捨てたけど、それは地面に落ち、すぐさま駆け寄ろうとする彼女を教師2人がかりに止められていた。

 

「やめろ、鷹岡!」

 

 運動場全体に響き渡った黒崎さんの大声が、僕らは心の中で救いの調べに聞こえる。

 

「彼らをもう一度傷つけてみろ! あたしが切り刻んで殺してやる!」

「ちょっ、紬! 落ち着きなさい!」

「黒崎さん! ほら、烏間先生がちゃんと止めに行きましたから! ね!?」

 

 超生物の触手に(から)め取られても、英語教師に腕に抱きつかれても、激昂(げっこう)している彼女の耳に二人の言葉は一切届かず、前進しようともがいている。明確な殺害予告を告げるばかりかおぞましい殺気と殺意を向けて、今にも彼らの制止を振り切り、鷹岡先生に飛びついて噛みつく勢いだ。

 修学旅行の時もそうだったが、黒崎さんは僕達が暴力で傷つくのを心底(きら)っている。

 

「おお、怖い怖い。…こうしようじゃないか、烏間。生徒の中から一人選べ。これを当てただけでも良しとしよう」

「…わかった」

 

 烏間先生の手が鷹岡先生によって地面に突き刺さったコンバットナイフを拾い上げ、その視線が一度黒崎さんに向けられた。でも、彼は、なおも暴れ続ける痛ましげな姿の彼女から逸らし、すぐに僕達に注がれた。

 結果として僕――潮田渚が選ばれ、持ちかけられた勝負に勝ちはした。

 僕達は、どうして彼女が自分の身を犠牲にしてまで護ってくれるのか。その理由を何も知らなかった。

 

 

 授業が終わって次の授業が始まる前に、学級委員長の片岡さんが黒崎さんの頬に湿布を貼りつける。冷たさに一瞬だけ体が跳ね、本物のナイフの代わりにスカートの裾を握っていた。

 

「はい。終わり」

「ありがとう。メグ」

 

 普通ならここで立ち去るはずだけど、片岡さんはそうしなかった。湿布が貼られた頬に手を添えられた黒崎さんの体は、再度わずかに跳ね、行動理由を求めて眼前の委員会長に視線を合わせる。片岡さんは、憐れむような視線で友達を見ていた。

 

「…どうした?」

「紬が傷つくのを見て、心が痛いの」

「なんで?」

「なんでって…!」

 

 その先に(つむ)がれるはずの言葉は、片岡さんの口から出ず、それを補うように黒崎さんが答える。

 

「あたしはともかく、仲間がいたぶられるのを見ることに耐えられないから」

「自分の命がどうなってもいいの!?」

「ああ。今まで運良く生き延びただけだし、何も未練はない」

 

 淡々と告げる彼女の瞳には生気(せいき)がなく、自分の命に無頓着な印象を受けた。



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第12話 祭りのお誘い

「夕食? いつも食べてないけど」

『は? 食わねぇと倒れるぞ』

 

 鷹岡が解雇(くび)になった日の翌日。

 初めて影山君の番号に連絡を取り、名前と授業内容。解雇されたことを伏せつつ、暴力教師がいたことを電話口で話している。

 

「…わかった。適当に作って食う」

 

 そう言いつつスマートフォン片手に、台所の冷蔵庫を開けるが、嫌な気分のせいで調理する気にならず、自室の片隅に2つ積んでいた即席麺の箱の存在を思い出し、買い置きしていた自分を内心で褒めてから、周囲を見渡して刃物の(たぐい)を探す。

 

『…黒崎さん』

「ん?」

 

 固定電話横に立てかけている筆立てからカッターナイフを取り出し、それで箱の隙間を封じているガムテープを裂いている最中に影山君の声が聞こえ、左頬と肩で端末を挟んでから、片手で作業を再開して返事をする。数秒の間があって、緊張している彼の上擦(うわず)った声が鼓膜を震わせた。

 

『直接会う日とか決めるか?』

「賛成。いつにする?」

『…あー。……再来月に仙台七夕祭りがあるから、そこでいいんじゃないか?』

「あ、それ1度行ってみたかったんだ。あの大きな飾りが並べられてるヤツだよな?」

『ああ』

「やった。じゃあ、その時に会おう。影山君」

『おう。またな』

「ん。またな」

 

 固定電話横のメモ帳横に置いてあるボールペンで、紙に書き取って通話を切り、ズボンのポケットに端末を突っこんで入れて、辛ラーメンを食べるためにお湯を沸かす準備をしたが、片手鍋を手に取った時点で気づく。

 

「やべ。浴衣持ってない」

 

 お湯が沸くまでの時間を使い、箸と風呂の準備と英語教師との都合をつけて、火傷(やけど)しない温度のお湯と即席麺の火薬をぶちこみ、テレビ前にあるテーブルに持っていき、つかの間の食事を楽しんだ。

 

「ただいま。紬ちゃん」

「…おかえりなさい。美空さん。武彦さん」

「ただいま」

 

 山鹿夫妻とは、幼少期の縁で父の葬儀に呼び、今後の身の振り方を考えていた時、転校を考えていないことを告げると『卒業まで面倒を見る』と言って下さった。それがきっかけで、6年ぶりにお世話になっている。

 

「もうクラスには慣れた?」

「はい。毎日楽しいです」

「そう。これから夕食作るから待ってて」

「あ…。もう済ませたので大丈夫です。お風呂炊いておいたので、先に入って下さいね」

「暗いから気をつけて。いくら武術の心得があるからって、紬君は女の子なんだから」

「はい」

「うん。行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 

 両親から与えられなかった愛情を示してもらっても、素直に受け取れないばかりか居心地が悪いとも言えず、愛想笑いで誤魔化して居候先から飛び出した。

 

 

 浴衣を買う約束の日。

 イェラヴィッチ先生と買い物に来たのだが、行き交う男女はそのスタイルの良さに視線を奪われているのを隣で見て、化粧っ気もなく女の子らしくない自分が場違いなのではと思う。しかし、そんな消極的な感情を隠して表情を偽ることは幼少期から慣れていた。

 

「ねぇ。見て、紬。これ良いわね」

「そうですね」

「こっちもかわいい」

「イリーナが着れば全部かわいいですよ」

 

 今は先生と生徒という関係を隠し、周囲の注意を逸らすために互いの名を呼び捨てているが、タメ口を叩くには抵抗があり、依然として敬語で話している。目的を果たすためなら、いくらでも比較される苦痛に耐えてみせよう。

 

「キツケってできる?」

「ん。ちゃんと習いましたから」

「母親に?」

「金払って、インストラクターに。親の話は出さないで下さい」

「ごめんなさい…」

「許します。小物は、瞳の色に合わせて空色にしましょうか」

 

 親の話題を強制的に終了させて別の話をして、浴衣と碧眼に合わせてあれこれ選んでいくが、ここでも性格の違いが出た。金髪碧眼の美女は派手なもの。対して、黒髪茶目のあたしが手に取ったのは地味なもので、手にした物品を持ったまましばらく沈黙する。

 

「あのね。女は着飾ってこそよ? その地味な装飾品は何?」

「地味で結構。目立つのは嫌です」

「夏くらい弾けなさい! そして、危険な恋(アヴァンチュール)を――」

「うるさい。中学生相手に下品なこと言わないで下さいね」

 

 大声を出したい衝動を抑えた結果、普段通りの淡々とした口調になったものの怒気だけは表に出てしまった。それを察知した彼女の顔から笑顔が消え、自分で選んだ(かんざし)を元の位置に戻していく。

 

「…恋をしたのよ」

「…誰に?」

「言えないわ」

「そうですか…」

 

 恋について語る女子は、これまで何度も見聞きしてきたが、そのどれもが自分にとって縁遠く、孤立感や疎外感に似た感覚を覚えて手にした簪に視線を落とした。それは、短髪の自分には恋愛話と同様、無意味な物に映って元の位置に戻してかは、抑揚のない口調で質問を投げかける。

 

「…イリーナ。恋ってなんですか?」

「そこから?」

「理解できないから()いてるんです。修学旅行で影山君のこと話したのと一緒のものですか?」

 

 この質問は、決して好奇心から出たものじゃない。ただの確認事項だ。その証拠に、彼女は考えこむ素振りすら見せずに即答する。

 

「紬の場合は、友情的な好意よ」

「友達だから当然です」

「そうね」

 

 イェラヴィッチ先生の表情は、明らかに『そうだけどそうじゃない』と言っていて、恋愛感情とやらの差異がわからなくなる。悩んだ末に出てきた質問が『人として好き?』だったので、『それはメグ達と同じ』と返答したところ、苦い顔とでも表現するのだろうか。再び頭を抱えられた。

 

「なんで今浴衣買ってるの?」

「夏祭りには、浴衣が定番だから…」

「でも、カゲヤマに誘われたのよね」

「彼が、他に友達がいるような振る舞いをしてると思います?」

「あー…」

 

 きっとこの場にちゃぶ台があったら、美女は地雷を踏んでしまったことを後悔してそこに突っ伏した挙げ句、感情の赴くままにひっくり返していると思う。

 

「つまり、カゲヤマとは…」

「ただの友達として誘われたまでです。以上」

 

 実に簡潔な答えが出て、恋愛に関する話題はついに(つい)えた。

 

 

 8月5日。金曜日。

 今夜は、仙台七夕祭りの前夜祭がある。

 家で浴衣に着替えて、『花火上がる前に、飯食うぞ』と事前に知らせてくれたために駅弁購入を我慢し、12時半に自宅を出発して電車と新幹線を乗り継ぎ、待ち合わせ先の仙台駅西口前に向かい、約束していた16時になんとか間に合った。そして、人混みの中から浴衣を着た彼の姿が見えて、慣れない下駄でこけないように気をつけながら、顔が視認できる距離から声をかける。

 

「す、すまない、影山君。ギリギリになった」

「お…、おう」

 

 自分の姿を見た途端、言葉を詰まらせて硬直したかと思いきや、顔を紅潮させる彼の様子を見て『熱があるのか?』と思ったものの、そんな急に体温が上がるはずはない。そうすると、緊張と照れのどちらか。または双方ということになる。しかし、言葉に詰まったのは自分も同じで、てっきり彼が私服で来ると高を(くく)っていた自分自身に反省した。

 

「浴衣姿も格好良いな」

「アザス。…えっと」

「ん?」

「黒崎さんもかわいいッス」

「え…!? あ…、ありがとう?」

 

 仙台駅前を行き交う老若男女の格好は浴衣や洋装など様々で、人()みに紛れて会話も雑音として消えてしまうのに、自分が幼馴染の影山君を褒めたことより褒められたことに、なぜか心臓が一際大きく跳ねた気がする。

 

(恋をしたのよ)

 

 不意に、イェラヴィッチ先生の言葉が脳裏に(よみがえ)り、(かぶり)を振って馬鹿げた考えを否定する。

 

 いや、これは違うぞ。

 単に自分が褒められ慣れてないせいだ。

 決して恋じゃない。

 

「なんで疑問形なんだ」

「なんか、こう…。…ムズムズする。くすぐったいっていうのかな? とにかく、褒められるのに慣れてないんだ」

「そうか」

「…会場はあっち?」

「ああ」

 

 人々が掃除機のように吸いこまれていく場所――仙台駅西口にほど近い商店街――を()すと、彼は肯定してくれた。



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第13話 子供のように

「黒崎さん。暑いの大丈夫か?」

「ん。大丈夫」

 

 子供みたいにワクワクした顔を見せる幼馴染が、祭りに合わせて浴衣を着て、隣で下駄(げた)をカラコロと鳴らして歩いていく。普段とは違う服に、なんだか心臓をギュッとつかまれる感覚がして、グワッとなった。

 商店街の方向は、前夜祭で人がたくさん集まってきていて、注意しないと簡単にはぐれそうだ。でも、手を(つな)ぐ勇気も考えも思いつかなくて、会場になっている商店街に向かって隣に並んで歩いて行くしかない。

 

「影山君。笹飾りの写真、撮ってもいいか?」

「おう」

 

 手元に()げている布製の袋から、手の平大のデジタルカメラを取り出し、笹飾りをレンズ越しに撮ってはシャッター音が鳴って、それを確認するたびに(まぶ)しいくらい笑顔を浮かべていた。隣で距離を保っていても人ごみの中で肩が触れあうたびに心臓が跳ね上がり、まともに黒崎さんを見れない。そんな彼女は、気に入った飾りを写真に収めて近くで観察していく様子と、好奇心に満ちた青が混ざった茶色の瞳から自然と目が離せなくなる。

 長い商店街を抜け、しばらく歩いて勾当台公園近くに出れば、遠くに見える屋台のほうを見ている黒崎さんの姿があって、やっと自分も腹が減ったことに気づいた。

 

「影山君。あたし、飲み物買いに行ってくる」

「俺は食いもん買う。何がいいんだ?」

「腹に溜まる物がいいな」

「…焼きそばしか浮かばねぇけど」

「決定。飲み物は?」

「お茶でお願いシアス」

「了解。集合場所どこにする?」

「えっと…。人の像があるからそこで。道挟んだ向かい側にあるはずだ」

「わかった」

 

 敬礼のマネをする幼馴染と信号待ちの間に、ちゃんと役割分担して、お互い一時的に別れて買い出しに行く。

 

 

 焼きそばとずんだ餅を二人分買って、約束通り像の下で待っていると、5分もしないうちに知らない女の人達に囲まれる。何を言っても聞いてくれずに一人困っていると、近くで女子にしては低い幼馴染の声が聞こえた。

 

「すまない。待たせた」

「誰よ。アンタ?」

「その人の友達で連れだ。離してやってくれ」

「証明できるの?」

「もちろん」

 

 すると、優しい笑顔を浮かべて、昔お母さんから聞いたおとぎ話に出てくる王子様がするように、俺に片手を差し伸べてくる。この時は、とにかく女の人達から逃げ出したい一心で、立場が逆転していることに思い至らなかった。

 

「2人で食事をしに行きましょうか? 王様」

「…よ、喜んで。女王様」

 

 こうして女王様は、ギラギラと目を輝かせる魔女達の手から、困っていた王様を助け出す事に成功した。

 

 

 それから数分間、逃げるように足早に歩いたと思う。

 互いの下駄がせわしなく音を立て、俺達2人も人混みに紛れていった。

 

「すまない、影山君。『王様』って呼ばれたくないのに言っちまった」

「あの時は他に呼び方がねえし、仕方なかった」

「そうだな…。でも、もう呼ばないよ」

「おう」

 

 花火が上がるまでまだ2時間ある。(つな)いだ手を離すタイミングが分からずに、あれからずっと重ねたままだ。

 自分から『離してくれ』と言い出す勇気を出せずに、一緒に座れる場所を探し出すまで歩き続け、視線を動かし続け、俺より小さくて細く、浅い切り傷がついた黒崎さんの手を握る力が自然と強まっていく。でも、彼女は『痛い』とか『離して』とか、普通の女子なら言うはずの文句をこぼさずに、しっかり握り返してきた。それだけでまた心臓をつかまれるような、大きく跳ねるような感じがして、黒崎さんが俺のほうを見ないように必死に願う自分がいる。

 5分後に人ごみを抜けて休める場所に着き、彼女が振り返って俺に優しい笑みを向けた。

 

「座れるところ見つけたぞ。影山君」

「お、おう」

 

 そこで黒崎さんが違和感に気づいて、やっとお互いが手を繋ぎっぱなしだと理解して数秒固まる。その後に、彼女が出した声は完全に裏返っていた。

 

「す…、すまない。えっと、痛くなかったか?」

「それは俺のセリフだ、ボゲェ。歩かせ過ぎた俺の責任だ」

「公園から距離があるから、影山君のせいじゃ――」

「黒崎さんは女子だろうが。俺が全部買ってくれば良かった…」

「……」

「……」

 

 無言の時間があり、次に何を言おうか話題を必死に探して視線を下にやった時、彼女の(つま)先が。正確に言えば、親指と人指し指の間が視界に入る。

 

「血ィ出てんじゃねぇか…!」

「え? あ。本当だ」

「座れ」

「これくらい大丈夫だ。怪我の内に入らない」

「いいから座れ。ボゲェ」

「はい…」

 

 そのまま地面に腰を下ろして座ろうとする幼馴染を止め、ちゃんとパイプ椅子に座らせてから気づく。

 やっと空いた場所は二人並んで座る位置で、今は迷う時間を後にして、俺は地面に片膝をつき、新品に見える下駄を脱がせる。皮が()がれて出血して、わずかに()れるだけでも、前方から押し殺した短い声が聞こえた。

 

「…絆創膏(ばんそうこう)あるか?」

「あ、うん。巾着にある」

「2つくれ」

 

 デジカメと一緒に入っている巾着からそれを受け取って、外側のフィルムを()がして出血箇所に貼ろうとした時、『自分で貼るから』と止めさせる彼女を見上げて黙らせ、なんとか貼り終えた。

 

「ありがとう」

「ッス」

「着崩れしたから直してくる」

「おう。待ってる」

「ん」

 

 背中を見送って戻ってくるまでの間に、黒崎さんが座っていた席に俺が座り、隣の席を石巻焼きそばが入っているビニール袋を置いて、しっかり席を確保する。そして、無事に戻ってきた後に購入した物を1つずつ袋から取り出し、テーブルの上に広げていく中、ずんだシェイクとひょうたん揚げを見て瞳が輝いた。

 

「ずんだはわかるけど、シェイク?」

「おう。こっちは熱いから気をつけろよ」

「ん、ありがとう。いただきます」

「いただきます」

 

 焼きそばを食べる途中で、黒崎さんが飲み物と一緒に買った玉こんにゃくと牛串を挟みながら、『全部おいしい』とか玉こんにゃくとひょうたん揚げで『火傷した』とか、そんな普通の会話しつつ完食し、ずんだシェイクに手を伸ばす。

 

「…? 不思議な味」

「そうだな」

 

 口直しに残っているひょうたん揚げをきれいに平らげるまで、眼前で幸せに満ちた笑顔にずっと視線を奪われていた。

 

「これ、うまいな。初めて食べるのに、なんか懐かしい感じがする」

「そうか?」

「え。違う?」

「…違わねぇ」

 

 俺は、祭りに来たのもずいぶん久しぶりで、懐かしい感覚は同じだった。『もう一本食べたい』と言う黒崎さんに今日はもう閉店してることを告げ、『また今度来た時な』と約束すれば、嬉しそうに顔を(ほこ)ばせる様子に心臓が大きく跳ねる。

 

 

 花火が21時に終わってから人波に()まれそうになった黒崎さんの手を反射的につかみ、40分以上かけて歩き続け、俺は仙台駅の改札前まで送った。

 

「今から東京だと、日付変わるのか?」

「ああ。昨日調べたら1時間後に出発して、到着が早朝になるみたい」

「は!? 親に連絡しなくていいのかよ」

「心配する親だと思うか?」

「あ。(わり)ィ…」

 

 笑顔が無表情に変わり、怒りが含まれているとわかって親の話題を出したことを謝れば、『いいよ。大丈夫』の二言で許される。

 

「誘ってくれてありがとう。すごく楽しかった」

「そうか。…良かった」

 

 一度うなずかれても、『次』に誘う勇気はない。

 

「今度は、文化祭に来るといい。東京(こっち)は11月にあるからさ。影山君のとこは?」

「……。10月…?」

「そうか。じゃあ、その時にまた会おう」

「ッ! ウス」

 

 次に会う約束をして自然に手を離し、駅のホームに向かう階段前で振り返って、お互い控えめに手を振りあった。



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第14話 最悪な輩

「予想外だったとしても、明日また挑戦するぞ」

「うん…」

 

 学級委員長の磯貝とメグだけでなく、みんながこの作戦に全力を注いだが、標的の最終形態で暗殺に失敗した上に意気消沈し、重い足取りで宿泊先のホテルに戻ることになる。自分もボートから降りて桟橋(さんばし)に上がり、ひとまず休息をとった。

 

 そこまでは、まだ良かった。

 

 店先で生徒の約半数が高熱と倦怠感に襲われる中、音声を意図的に変えた者から烏間先生のスマートフォンに着信があった。烏間先生は、ウェイターから配膳された警戒心から、サービスジュースを全く飲んでいない自分を呼んで共に作戦を立案する。

 

「…黒崎さん。条件を出してきた相手に何か心当たりはあるか?」

「…そうですね。殺せんせーを知り、最も背の低い生徒である男女を指定してきたことから、教室に出入りした者。しかも、こんな回りくどい手口をとるなら、鷹岡に絞られます」

 

 彼は自分の意見に肯定し、医療をかじっている竹林と科学に長けている愛美2人を除き、動ける者全員を部隊として編成。治療薬と引き換えに取引に応じて、山頂にそびえ立つホテルを目指した。

 

 

 先月、スマートフォンにダウンロードされていた律が割り出した最短ルートによると、眼前の崖を越えた先に目的地があるらしい。しかし、迷っている時間は無いと考えて、即刻アスファルトの地面を蹴った。

 

「紬!?」

「時間が無い。指揮官は烏間先生にすればいいだろう」

 

 メグの叱咤が後方から耳に届いた後、決行のために腹を(くく)った教官の号令が崖下から飛ぶ。

 

「全員注目! 我々の目的は、山頂ホテル最上階! 隠密潜入から奇襲の連続ミッションだ! ハンドサインや連携については、訓練のものをそのまま使う! いつもと違うのは標的(ターゲット)のみ! 3分でマップを叩きこめ!  二一五〇(フタヒトゴーマル)、作戦開始!」

 

 ひなたに遅れをとったがどうにか登りきり、全員登頂するまでの時間を、全員の体力を考慮に入れて屋上までの時間配分を計算するために使った。

 

 

 1階ロビーは、ワインに酔った振りをして、グランドピアノの演奏で警備員全員の注意を引きつけたイリーナ先生の活躍で突破。

 3階大広間で、『スモッグ』と呼ばれる毒ガス使いの男と対面。小太りのその男は、店先でジュースを配ったウェイターだった。前衛の烏間先生がこれを吸って一時的に戦闘不能になってしまったものの、全員で退路を(ふさ)ぐことによって撃破する。

 5階展望回廊で、赤羽が素手が武器の『グリップ』を撃破。形状は違うものの、スタンガンを持っていたために寺坂と共に男を押さえつけ、赤羽によって刺激物を鼻孔(びこう)と口内に詰めこまれて、悲鳴をあげた暗殺者に表向きは同情した。しかし、内心は『鷹岡(クズ)にこれをやったら、絶対楽しいだろうな』と歪んで壊れている自分が(わら)っている。

 6階の酒場は、『女子だけで潜入』という流れになったが、念のために渚を女装させて行くらしい。女子より非力な彼に『護衛が務まるのか』という不安があるものの、そこは近接戦闘に秀でている自分に任せるそうだ。

 

「…エスコートはいるか?」

「いらないよ」

「冗談だ。渚は、女装してても可愛いからな」

「イケボで男に可愛いって言わないでよ。黒崎さん」

「? 中性的な容姿を使った暗殺もあるのに」

「僕が嫌なんだ」

 

 他愛の無い会話をすることで周囲を欺いて油断させ、酒と色。薬物などあらゆる欲と混沌(こんとん)に満ちた醜い巣窟(そうくつ)へ足を踏み入れたが、結果として渚が親の七光りを体現した男子にナンパされ、桃花の撃退法とひなたの一蹴りによって突破する。

 

 

 防音性を重要視したコンサートホールにて、舞台上から銃身を自ら口に突っこむイカれた男だが、一流の暗殺者により、実弾が顔の傍や頭上を飛び交っていたが恐怖心はなかった。むしろ、自分の命を突き放して考えて、最前線の席に放置されている殺せんせーの指示に従って動き続ける。

 そうして、ようやく最上階にたどり着いた瞬間、その背格好や息づかい。以前より禍々(まがまが)しい気配と声から鷹岡だと看破した。なんばでみんなが接近するよりも、烏間先生が銃口を向けるより早くそうできたのは、幼少期からの忌々しい経験によるもので、ちっとも嬉しくはない。

 

「お前も来ると思ってたよ。黒崎」

「テメェの(つら)を2度も見る羽目になるなんて、最悪な夏休みだ」

 

 顔に引っ()き傷をいくつもつけた状態の鷹岡と対面し、吐き捨てるように言った。

 彼は反論するでもなく満足そうに嗤い、最上階の部屋に隣接するヘリポートに来るよう指示して、その下で強風に負けないほどの声で茅野を指定した理由を饒舌(じょうぜつ)になって話す。その詳しい説明を聞いた全員は絶句し、その場に立ち尽くした。

 

「――そして、黒崎紬! 俺の本性を暴きやがったクソアマで、俺の服を裂きやがった!」

「なんで、そんなことを言われなきゃいけないんだ。元陸自所属ならあれくらい回避できる動きで、それができない時点で、あたし達を見下していた証拠になる。器の小さいつまらん男だな」

 

 何か男が(わめ)いた気がするが、いつも通りただの雑音として処理する。

 

「チビ。筋肉女。お前らだけで登って来い。この上のヘリポートまで」

 

 鷹岡はアタッシュケースを持って待機し、2人でそこに上がった彼を見上げて、渚の意見を隣に陣取りながら否定する。

 

「渚。アイツは、治療薬を渡すつもりは無いぞ」

「どうしてそんな事言えるの?」

「まともな思考回路を持ってないからさ。もう狂っちまってる」

 

 8箇所から照明で照らされている指定された場所へ到着し、烏間先生が銃を取り出して照準を鷹岡に合わせる音を自分の聴覚が忠実に拾った。しかし、次の瞬間、一切の援護を受けられないよう階段を爆破される。

 これは、そこを登っていく際に火薬の匂いがしていたから気づいていたものの、彼の目論見通り完全に退路を絶たれた。

 鷹岡は、あたし達に土下座を強要させる。

 本当は、彼のようなクソ野郎に膝を屈するのが心底(いや)だが、感情を理性でねじ伏せ、渚を真似して彼の言う事をオウム返しに繰り返した。心がこもっていなくても、これで簡単に気を良くした彼は、両者の頭をコンバットブーツの靴底で踏みつけた後、ケースを空中に放り投げて起爆スイッチを押し、炸裂した爆風の中で男の笑いが木霊(こだま)する。

 やがて、耳障りな声がぴたりとやんだ。

 

「おい! 絶望した顔を俺に見せろよ、黒崎紬!」

「そんな(ツラ)を見せなきゃならない理由がわからない。テメェがこうすることは想定内だし、いくら発情期の犬みたいに(わめ)こうが雑音として処理する。だから、絶望しない」

 

 授業の時とは違い、淡々と告げる自分に怒り心頭の男は頭部目がけて蹴ろうとするが、軽いステップで体を横滑りさせて難なく回避する。まともに攻めてこようと、その力を利用して投げ飛ばしていった。

 

「おい。小娘ごときに避けられてる上に、投げ飛ばされてるぞー。…鷹岡。殺す気で来い」

 

 静かに微笑み、指先を軽く前後に動かして挑発した。

 歯(ぎし)りする男がコンバットナイフを持っていようと、丸腰の自分には関係ない。冷酷に容赦なく関節を(ひね)り上げてそのまま脱臼させ、武器を奪って地面に転がし、背後に回り様に足払いをかけ、男にとって軽いかもしれないが、全体重をかけて組み伏せる。

 

 あとは、渚がロヴロさん直伝の猫(だま)しと、自分のスタンガンによる電撃で決着がついた。



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第15話 ギャップ

「黒崎さんは、暗いところ大丈夫なの?」

「ああ。でも、いきなり何かが襲いかかってきたら、すぐ手が出ると思う」

 

 今は、殺せんせーの提案で肝試し中だ。

 黒崎さんの控えめな笑いが洞窟内で反響して、短く木霊(こだま)している。

 

「赤羽は、女子と組むの2回目だろう?」

「そうだね。まァ。殺せんせーの人選だし、俺は特に気にしないけど」

 

 暗闇を懐中電灯で照らしながら、こんな何気ない会話を交わしている最中に、改めて彼女の隙の無さを再確認する。

 あの鷹岡の狂った本性を一目で見抜く目。

 行動を先読みする頭脳と、動じない胆力。

 本物のナイフを前にしても、実弾が飛び交ったコンサートホールでも一切乱さない呼吸。

 流れるような身のこなしから繰り出される体術。

 そこから、暗殺を学んでいる今の同級生相手に本気を出せば、数秒で片づけてしまうほどの実力を持った者だと、自分の直感が告げていた。

 この暗殺教室が始まるまで誰も気づけなかった隠されたその実力は、苦手で手こずってる部分ももちろんあるが、近接格闘術を始めとした技術を習得しているプロの烏間さんも一目置くほどで、E組の中では明らかに群を抜いている。

 

 そんな自分の胸中のぼやきを知らずに、背後に居る黒崎さんが弾んだ声をあげる。

 

「お。赤羽、ツイスターゲームだって。やってみる?」

「なんで?」

「あたしがやった事ないから」

 

 そう言っていそいそとラジカセの前に座って、スイッチをあれこれ適当に押していった。

 

「ツイスターゲームは、琉球名物じゃないよ」

「だろうね。それでもやりたい」

 

 彼女の行動も目を引く要因だ。

 修学旅行の一件で大人びた顔をしたかと思いきや、今みたいに幼い子供と同等の好奇心と無邪気な笑顔を見せる。そのギャップに心を鷲掴みにされていて、どうやら彼女は無意識レベルで影山君にご執心だ。

 

「…どうせ、あのタコがカップル成立を狙ってるんでしょ? わざわざ乗ってやる義理は無いね」

「…そうか」

 

 一瞬落ちこんだ表情を作って指先で電源を落としてから、ジャージの膝に付着した(こけ)を払い落として立ち上がる。

 そして、奥田さんと回った時に聞こえてきた三線(さんしん)の音色が徐々に近づいてきた。暗闇に青い火がぼうっと灯って殺せんせーの顔が浮かんだ瞬間、隣から盛大に腹の虫と銃声が鳴った。それが()むまで律儀に待ち、収まった後にポツリと告げる。

 

「…赤羽、腹へった。目の前のタコを()でて食おうぜ」

「え? ホテルのディナーまで、まだ時間あるのに?」

「無理。暗殺に失敗して、余計空腹になってんだ。タコ焼き用に賽子(さいころ)状に調理してやる。腹を満たすため、大人しく刃の(さび)。違う。餌食(えじき)になって下さい、殺せんせー!」

「にゅやー!! 殺人鬼ィーッ!」

 

 遠ざかっていく彼女の笑い声と、またぐるぐると鳴りだした腹の音。さらに、服の下――腰に隠し持っていた対先生用特殊ナイフと自動拳銃を素早く取り出し、形の良い薄紅の唇の端から端まで舌先でぺろりと()めて、瞳を爛々(らんらん)と輝かせて全速力で追いかけ始めたから、心臓の弱いタコが恐怖を抱く要因になっている。

 

 洞窟に超生物の悲鳴と、黒崎さんのはしゃぎ声が高らかに響き渡った。

 

 

 一周目で終わったとはいえ、肝試しの場所は入りくんだ洞窟。一度出口まで行ったものの、誰も黒崎さんを見ていないらしい。

 もう一度出口から入って歩き回ること、手元のスマホにある時計で20分強。

 

「黒崎さん…?」

「あ…、赤羽。ごめん…、先に突っ走って。これじゃ、バディ組んだ意味ないよな」

 

 懐中電灯の光に照らされた黒崎さんは、暗闇の中無闇に動かず岩肌を背にしゃがんで、首から提げた黒いシリコンカバーがついた銀製のドッグタグを、祈るを捧げるようにしっかり両手で包みこんで組んでいた。光を頼りに、追いかけてきた俺を前に視認して気丈に笑みを浮かべるも、その指先はかすかに震えている。

 それまで気丈夫で明るい彼女の弱い一面を見てきた身としては、それだけで心臓がきゅっと締めつけられる感覚に陥った。

 黒崎さんは何か弁明しようと口を開閉させて、とりあえず俺は、彼女に威圧感を与えないように一緒にしゃがんで落ち着かせ、考えがまとまるまで黙っておく。

 

「あの…。暗闇が平気って言ったのは、懐中電灯の灯りがあるからで、…本当は苦手なんだ。……嘘ついてごめん」

「なんだ、そんなことか。別に謝らなくていいんじゃない? 誰しも、苦手なものとか怖いものはあるでしょ」

「……うん。…そうだな」

 

 暗闇が怖いという本人1人ではどうしようもできない問題を、『そんなこと』の一言で片づけた俺の言葉に、しばらく考える素振(そぶ)りを見せた後、なにか吹っ切れた様子で口元に自然と笑みが広がった。

 

「…立てる?」

「ありがとう。でも、君の手が汚れるぞ」

「いいって。あとで洗えばいいんだし」

「そうか。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらう」

「どうぞ」

 

 俺が助けるために無意識に差し出した手を、彼女はなんの躊躇(ためら)いもなく握ってきて、引き上げてどちらともなく離した。それが妙に胸に引っかかり、また心臓を締めつけるのは、修学旅行の時から黒崎さんが気になっているからだろう。でも、これが恋愛感情からくるものなのか、自分ではどうにも判別できない。

 

「…どうした?」

「いや。なんでもない」

「そう。次はどこ行くんだ、赤羽?」

「ああ、こっち。…このまま寄り道しないで、出口に行こうか?」

「頼む」

 

 結局、俺達の間に特に何も起こらないまま出口までたどり行き、教師枠としてビッチ先生と烏間先生の顛末を目撃して、そのままホテルへ向かった。

 

 

 ディナーまでの時間に聞き出したところ、ビッチ先生が烏間先生に恋心を抱いていることが露呈し、即席の会場を外に設けることに成功。

 それからみんなに紛れて窓辺に近寄り、聞き耳を立てる黒崎さんの表情に邪念が浮かぶ様子は見られず、ただ外で夕食を食べている男女2人を、はしゃぎもせずに窓ガラス越しに黙して眺めていた。やがて、彼らの夕食がなんの進展もなく終わり、英語教師がこちらに向かう中で同級生達があれこれ言うものの、彼女だけは茶化さずに迎え入れる。

 

「おかえりなさい。どうでした?」

「それなりに楽しめたわ」

「良かったですね」

「ええ」

 

 殺し屋は嬉しそうに黒崎さんと会話して、優しく黒髪を撫でて自室へ去っていき、少女はその背中を律儀に見送っていた。

 

「……」

「黒崎さん。突っ立ってないで、俺らも飯食おうよ」

「ん」

 

 普段通り返答があったものの笑顔はなく、陰りがあるのが気になって、さらに話しかける。

 

「どうかしたの?」

「いや。イリーナ先生。嬉しそうに笑うなァって思ったんだ。…恋ってヤツを経験したら。…人を真剣に愛するようになったら、みんなあんなふうになるの?」

「さあ? 少なくとも俺はそんな経験ないし、なんとも言えないね」

「ふーん…」

 

 まるで、幼い子供が親にわからないことを質問攻めにするように、異性の俺に投げかけてくる。『そんなの同性に聞いたらいいじゃん』と言って丸投げする気になれないのは、どんな難問や苦手分野でも理解して習得できるまで、彼女自身が真剣に物事に向き合っていると知っているからだ。

 

「でも、烏間先生とくっつく以前に、イリーナ先生の恋を応援したい。幸せになってほしいな」

 

 それは純粋に心から出ているものだと理解しているからこそ、ぐさりと刺さるものがあった。



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第16話 得意分野

「殺せんせーの五感が優れていると考えれば、臭いが独特なノーベル808を模して作るよりも、探知困難で、300グラムで飛行機を爆破できる性能を持ったセムテックスを採用したい。…どうだ、竹林?」

「わかった。両方作ってみて、クラスメイトに聞こう」

 

 なにやら議論中で、僕達は茅野のプリン作りに加勢しているために話として聞き流し、6時間後の15時を回った頃に試作第1号ができ上がった。

 

「渚。来てくれ」

「うん?」

「竹林がノーベル808で、あたしがセムテックスな。どっちが匂いが強い?」

「……あ。ノーベル? のほうがアーモンドっぽい匂いがする。プリンに隠すには、ちょっとキツいかもね」

 

 力説する黒崎さんが竹林に提案しているのは、プラスチック爆薬についてだ。

 2学期に入ってから暗殺に火薬の使用を決定した際、彼女は竹林と共に取り扱い責任者になり、おそるおそるやっている彼とは違って、黒崎さんは手際が良い。そして、好きだと公言しているロックバンド──モンキー・マジックの『空はまるで』を鼻歌で歌いながら、穏やかな曲調に内容物の調整をするという、なんともミスマッチな光景が眼前にある。

 

「ねぇ、紬。竹林君と責任者に立候補した理由は?」

「標的が爆破四散するのが見たいから。カエデが立案した計画に副題をつけるなら、『甘い夢に溺れた末路』とかどう?」

「なんか映画みたい!」

「だろ?」

 

 茅野の問いに彼女がそう答えた時、僕は鷹岡先生に対する殺意が憎悪からくる激情だとするなら、殺せんせーには信頼を土台とした穏やかな殺意が、青と混ざった茶色の瞳に映るのを見逃さなかった。

 さらに数日かけて改良を重ね、化学が得意な奥田さんも交えて納得の一個を作るまで黙々とやりこんだ後に、黒崎さんは嬉々として宣言する。

 

「できた…! カエデ。これ組みこめるか?」

「もちろんだよ。ありがとう!」

「どういたしまして」

「お役に立てて良かったです」

「後は、イトナが作った基盤と接続するだけだな」

 

 かちゃりと眼鏡のブリッジを指先で押し上げて位置を直しながら、竹林君が告げる横で、満足してやりきった表情で黒崎さんは奥田さんとハイタッチしていた。

 

「あとは、カエデの作業を手伝うだけ。長かった…」

「でき上がったら、紬にも分けてあげるよ」

「殺せんせーの残骸入りとか、勘弁してくれ」

「あ。そっか」

「いや、そこは気づこうぜ。発案者」

「えへへ」

 

 茅野に対してあきれて笑いながらも、黒崎さんは自分から友達に触れない。

 触れるのは決まって、相手を攻撃したり護るような緊急時のみで、これは3月から同級生を観察をしてきてわかってきた。(はた)から見れば、言葉や表情のみで距離を縮め、自分から触れることで親しくなるのを怖がっているようにも見える。

 

「これを底に設置して…?」

「型に流しこむの。もう材料は混ぜてあるからね」

「甘さ控えめには…」

「できないよ。殺せんせーのために作るんだから!」

「ん。知ってる」

「そもそも、なんで甘いの嫌いなの? 糖分は人体に必須なのに」

「嫌いってわけじゃないけど…。食べる機会自体あまりなかったせいだと思――ぐゥ」

 

 すると、話の途中で何かを思い出したように茅野は学生鞄の中身を片手で探り、未開封の箱を開けて個包装のチョコレート──紗々(さしゃ)を、黒崎さん口の中に遠慮なく放りこんだ。勢い余って嚥下(えんげ)して咳こむ可能性を考えて息を呑み、起こりうる事故は舌でうまく転がした黒髪の少女自身によって回避され、おとなしく咀嚼(そしゃく)する様子を見守る。

 

「……。何するんだ」

「今からでも遅くはないんだから、いっぱい食べたらいいでしょう?」

「やだ。太る」

「適度にね?」

「ふぁい」

 

 頬を左右に引っ張られても痛がらず、普通に返事をする様子に茅野は眉にシワを寄せて不快感を示すものの、一時的な(いまし)めを受けた彼女は怒らず、平気な顔をしている。

 

「あたしが言うのもなんだけど、少しは痛がったらどうなの?」

「? これぐらいなら、誰だって我慢できるだろう?」

 

 それは暗に『痛いのに慣れている』と言っているようで、心配させまいと気の抜けた顔で笑う同級生の姿に胸が痛くなった。

 

 

 別の日には、宿題を()けてビッチ先生を含めた全員でケイドロをやることになったけれど、黒崎さんはそのルールを全く知らず、神崎さんに大まかな遊び方を口頭で教えてもらっている。

 

「…つまり、烏間先生に捕まらずに逃げ切れば勝ちってことか」

「うん」

 

 自信に満ちた言動を烏間先生が聞き流すはずもなく、準備体操の段階で黒崎さんを一瞥(いちべつ)した。それに気づいているのか、張本人は呑気(のんき)に鼻歌を歌っている。

 

「余裕ね」

「油断するなよ、メグ。烏間先生は、絶対手加減しないからな」

「そんな警戒しなくても…。紬が言った通り、制限時間までに逃げ切ればいいでしょう?」

「…忠告はしたぞ」

 

 途中まで僕達と共に行動した後で、ビッチ先生同様単独行動に移り、宣言通り持久力があって人一倍警戒心が強く、烏間先生を相手にするつもりだと推測できた。

 

「紬が完全に笑顔を封じると、凄みが増して怖いよね。目だけが爛々と輝いてるんだもん」

「うん…。本気になればなるほど、顔が整ってるのも相まって、人形みたいに見えるよね」

「それな」

 

 茅野いわく、黒崎さんの日課は体を鍛えることで、それに(たが)わぬ引き締まった体つきは、体操服越しでもよく(わか)る。

 遠くで木々が揺れたかと思うと、十数秒後に僕達の頭上を何かが通った。

 

「紬…?」

 

 僕らは見えなくても、茅野が一瞬だけ見えたと言う木漏れ日に照らされた横顔は、『心ここにあらず』らしく現に呼び捨てにする彼女の声も聞こえていない様子で、眼下にいる同級生を一瞥する気配もなく、素通りして幹に着地し、あっという間に見えなくなってしまう。

 よほど集中しているんだろうと結論に持っていってしまえばいいのに、この森を駆け回ってしばらくすると、黒崎さんはいつも熱に浮かされたようにぼおっとする。殺せんせーや僕らが何回か理由を聞いてみても、当人も心当たりがなく、首を傾げて『わからない』と返答するばかりで、ハイになっているわけではないから正直言ってお手上げ状態だ。

 

「待って。警戒心が強い紬が動いてるってことは──」

 

 茅野の推測通り、自衛隊の迷彩服を着た烏間先生が力強く地を蹴って姿を現したため、僕らは驚いて、一斉に蜘蛛の子を散らすように散開する。

 

「律。黒崎さんは捕まった?」

《いいえ。一度も捕まっていません。距離を詰められることなく逃げ続けています》

「渚。紬のこと知ってるの?」

「うん…。校内マラソン大会でいつも1位だったから、持久力があるのは知ってたけど、まさか全力疾走の烏間先生と張り合えるほどとは思わなかったんだ」

 

 結果として僕らは捕まらずに済み、黒崎さんは珍しく胸を張って、したり顔で親友二人に自慢していた。

 

「だから言っただろう。油断するなって」

「うう…。返す言葉もない」

「で、どうだった? 紬」

「すごく楽しかったし、得意分野で勝負できて嬉しかった」

『良かったね』

 

 黒崎さんの年相応の弾けた笑顔を前に、カルマ君と茅野は(ほう)け、片岡さんと不破さんは汗で濡れた黒髪を、わしゃわしゃと少し乱暴に撫でていく。

 その行動に最初は驚いた表情を見せたが、数秒もすると、幸せを噛み締めるように目を細めて静かに微笑み、それがよほど気に入ったのか自ら催促していた。



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第17話 好みの話

(コードネームか…。日本語だと暗号名だっけ?)

(めんどくせえ)

(え。楽しいだろ)

 

 これは、私が興味本位で赤羽から聞いた話だ。

 赤羽と隣同士の紬は、彼を挟んで廊下側にいる寺坂の言葉を(すく)い上げて投げかける。文句を垂れて口を(とが)らせる図体のデカい同級生を横目に、さっそくシャープペンシルの芯を出して紙に書き出していった。

 やがて、紙片が回収されたものの、紬が珍しく不平を言う。

 

(…『ジャイアン』が採用されると思った)

(あれテメェか、黒崎!)

(声一緒じゃん)

(俺はなんて書いたの? 黒崎さん)

(『デスソース』)

(それ色しか合ってなくね?)

(いや。ぬおじさんの拷問見てたら、あれしか思い浮かばなくて…。あと、あたしのコードネームを『戦乙女(ヴァルキュリア)』にしたの誰? 戦死者の腐肉に群がる烏とか、冷酷な死神って印象持たれてんのかよ)

 

 そこで寺坂より3つ前の席に座る竹林が、すっ…と挙手した。

 

(僕だよ)

(理由は?)

(普段の体育の授業でもそうだけど、特に鷹岡を前にして戦ったのを目撃して、女戦士だと思ったからかな)

(…鷹岡相手に戦ったのは間違ってはない。でも、このコードネームだと、マクロス・フロンティアを思い出すな)

(え…? アニメ観るの?)

(観るぞ。ちなみにアルシェリ推しだ)

(なるほど)

 

 何が『なるほど』なのかは全くわからないが、それからお互いのアニメ好きが発覚し、紬は今季はめぼしいものがないことを嘆き、来季の『夏目友人帳・肆』が楽しみなこと。メイドのような『萌え』より、鋼の錬金術師などの『燃え』が好きなことなど、竹林とは対極の好みが判明して話は無難な声優の話に移っていく。

 しかし、赤羽にとってはついていけない話だったらしく、さっさと体操服に着替えるために教室を出た模様。

 

 

 それから数日後の放課後。

 コードネームが浸透して互いに呼び合う中、偶然前原と紬の会話が聞こえてきた。

 

「ヘイ、『戦乙女(ヴァルキュリア)』! 一緒にお茶でもどうだい? 今日は水曜日だから暇だろう?」

「黙れ。『女ったらしクソ野郎』」

 

 怒気と嫌悪がこめられた口調に、軽蔑を含んだ視線を前に、前原は一瞬口を(つぐ)む。紬は、彼の反応を綺麗に無視して帰り支度を手早く済ませた。

 

「つくづく思うけど、俺に当たり強くない?」

「鷹岡同様、お前と岡島も、嫌いな人間に自動的に分類されてるからな」

「えー、そうか…? まぁ、いいや。黒崎さん、いつもはっきり物を言うよな。理由を聞いてもいいか?」

 

 女子バレー部に所属していた時から使っているプーマのスポーツバッグを背負いながら、席をきちんと元の位置に仕舞い、露骨に嫌な顔をして明確な説明を避けた。ともすれば、舌打ちしそうな勢いである。

 

「…コードネームが示す通りだと思うけど」

「ひでぇ」

「ひどいのはお前のほうだろう?」

 

 語気を荒らげたい衝動をどうにか抑えつけて、前原と真正面から対峙(たいじ)する紬の様子に、すでに気迫だけで彼が半歩引き下がった。

 

「テメェを見てると、異性を好きになること自体が駄目(だめ)に思えるし、いつも女子を取っ替え引っ替えしてて、いったいなんのためになるんだ? 恋愛感情ってヤツは、そんなに移ろいやすいものなのか?」

「それは…」

「それは?」

「……わかんねえ」

「っ…! だから、あたしはお前が嫌いなんだ。気持ちが冷めたら次に移るなんて、人間は、いつでも捨てられる物じゃないんだぞ!」

 

 紬は、ついに我慢が限界を超えて声を荒らげ、正論を吐き捨てて足早に前原から離れていき、引き戸を閉めて教室から遠ざかっていく。

 紬の問いかけは幼い子供のように純粋で、『なんで? どうして?』と素直に出てくる疑問だからこそ、心に深く刺さるものがあり、私達の思考を刺激していった。そして、まだ教室にいた幾人かが『さもありなん』という表情で(うなず)いている。

 

「…仕方ないわね。私が誘うから、ちゃんと謝るのよ」

「片岡…!」

「その代わり、詫びはどうするか自分で決めなさい」

 

 そう言い残して、私は改めて親友の背中を正面玄関口まで追いかけて、靴を引っかけている状態でお茶に誘った。

 

「なんでメグがあたしを誘うんだ」

「E組になってから遊ばなくなったなーと思って…」

 

 すると、『一理ある』とでも言いたげに視線を一時的に逸らし、『わかった』と了承の言葉をもらって、前原に遅れることを告げてから彼女の寄り道と称した鬱憤晴らしに付き合った。

 

「どこに行くの?」

「ショッピングモールで買い物」

「わかった」

 

 私は本屋か何かだと思っていたが、紬が向かったお店は、宝石店で有名なカナル4℃だった。

 

「え…? ほ、本当に入るの?」

「ああ、行くぞ。メグの分も買うから」

「えっ!?」

 

 初めて足を踏み入れるそこは、私にとって未知の世界で無意識に体が萎縮してしまう。そんな中で、紬はまっすぐ受付嬢のところへ行き、何かを頼んでいるのを見かけ、あわてて堂々としている彼女を追いかけた。

 

「な、なにしてるの?」

「ん? 友達とおそろいの物買いたくなって」

「それだけの理由で!?」

「だめか?」

「だめじゃないけど…」

「お待たせいたしました。こちら、ムーンストーンの商品でございます」

 

 ややあって、眼前にずらりとアクセサリーが並ぶ。

 あっけにとられていると、『同じ誕生月だから』と優しい笑みと涼しげな声でさらりと言われた。全く親友の意図をつかめない私は、数秒硬直してしまう。

 

「それで、どれがいい?」

「…いいの? あたしだけ、その…。こんなの買ってもらって」

「ああ」

 

 散々悩み抜いた末に2番目に安いピアスを選んで、おそろいで購入してくれた。

 紬に、耳たぶに穴を開けるのが怖くないかと訊くと、『怖くない』とあっさり返される。その時は別の話題に移ったけど、一瞬だけ、彼女の青が混ざった茶色の瞳は笑っておらず、ビッチ先生と初めて会った頃のような冷酷な印象を受けた。

 

 

 目的の喫茶店に着いて岡島と前原を前にすると、紬の薄い唇が一文字に固く結ばれ、視認した位置から一歩も動かないほど警戒している。『嫌い』と公言したのは本当らしい。

 

「……メグ。どういう状況だ?」

「こういうこと。前原が紬の分、(おご)るって」

「……」

「さっきはごめんな」

「それ、何に対しての謝罪?」

 

 あたしの気分を害したことなら受け取らない。

 冷たい表情と視線でそう告げているに等しく、前原の心を容易(たやす)く折りに行った。

 岡島は、テーブルを挟んだ向かい側の長椅子に座っていた。普久間島のビーチで女子を前にして全裸になった因果応報に、黒の水着姿の紬に溝尾(みぞおち)に拳を食らい、右ストレートを左頬に受け、腹に容赦ない蹴りを入れられて以降、キレている紬を目の当たりにして小さく縮こまり震えている。

 

「これからは真剣に向き合います。だから、黒崎さんの分は俺に奢らせて下さい」

「他人に言われて直るようなら、こんなに怒らない。人の気持ちを平気で踏みにじる行動を、反省の色もなしに何度も繰り返すからだ」

「はいっ」

「…君の言葉とメグに免じて、今日は甘えさせてもらう」

 

 そうして、紅茶が苦手な紬はカフェオレとパンケーキを頼み、前原から好みの男子の話を振られて、考える素振りも見せずにこう言った。

 

「好みかどうかは知らんが、人をおちょくらない真面目で裏表のない性格で、芯がブレないまっすぐな人は信頼できる」

「例えば?」

「今思い浮かべられるのは、烏間先生と影山君が当てはまるな」

 

 親友の過去は知らない。

 それでも、紬がどんな人に自分を委ねるのかは中学生活で理解していた。



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第18話 隙間を埋めるもの

「岡島。あたし、忠告したよな? 『この時間帯じゃなくても、道があれば通行人や車が通るから、絶対にやるな』って」

「おう…」

「メグ。磯貝。テメエら学級委員長だろう。なんで話に乗った? 本来、暴走する生徒を(いさ)める立場だぞ」

『……』

 

 今より十数分前。

 眼前で救急車が通り過ぎたのを目撃した時、嫌な予感がしてすぐに駆け出し、呆然としている同級生達と道路に散乱した物。横倒しになって空回りするペダルが上になった自転車が見えて、何が起こったかすぐ理解した。

 救急車を見送った花屋の青年に軽く会釈してから、彼らを問い詰めた次第である。

 

「でも――」

「言い訳はいらん。黙れ」

 

 言い訳を言いかける彼らに背を向けて黙らせ、必要な行動をしてくれた青年に別れを告げてから、救急車が向かうであろう最寄りの病院を探り、その道中で烏間先生と殺せんせーに電話である程度の経緯を説明する。被害者の怪我の状態が判明したのは、空一帯が夕焼け色に染まった頃だった。

 

「…右大腿(だいたい)骨の亀裂骨折だそうだ。程度は軽いので1週間ほどだそうだが、なんせ君らの事は国家機密だ。今、部下が口止めと示談の交渉をしている」

 

 淡々と告げる烏間先生の口調は(あき)れも混ざっており、標的の殺せんせーが到着早々、顔を墨のごとく真っ黒にしている。

 そこでようやく弁明を述べ始めた同級生達に、マッハ20の触手による平手打ちがされたが、あたしにはもっちりとした感触が頬に触れて、全員に中間テストの勉強を禁じられた。

 

 

 この事件による連帯責任として、保育施設の園長をしている松方さんを助けるために、子供達の世話を始めとした様々な事をやっていく。

 

「…どうしたの? 紬姉ちゃん」

「いや…。なんでもない。次の問題をやろう」

 

 子供の1人に声をかけられるまで、『愛情をかけられないなら。要らない存在なら、生まれた時からこういう場所に捨て置いて欲しかった』という暗い思考が(よぎ)り、その思いにしばらく(ふけ)っていた。

 我に返って子供達の勉強を手伝い終わった後は、台所に立つ原さんの調理の助手をして食卓を囲み、昔の習慣から腹八分目まで満たしていく。

 

「あら。もうお腹一杯なの?」

「ん、ごちそうさま。うまかったよ。原さん」

 

 食器の片付けをしている時に、原さんと二人になる機会があった。

 

「黒崎さん。さっきはどうしたの?」

「さっき?」

「勉強教えてる時よ。子供達を見て、ぼーっとしてたから」

 

 他人から見てそう評価されるなら、(ほう)けていた時間が長かったという明確な証拠になる。しかし、意固地になってずっと黙っていては、《E組の母》の暗号名を持つ彼女が困ると思って口を開いた。

 

「小さい頃は逃げ場がなかったなって思い出してた」

「っ…」

 

 食器と手についた泡を洗い流す水は冷たく、無機質なものさえ自分を(あざ)笑っているような気がして、言葉に詰まった原さんの反応からすぐに話題を変える。

 

「あ。今はたくさん逃げ道があるから、そんな顔しないでくれ」

「…本当に大丈夫?」

「大丈夫」

「悩みがあるなら、いつでも私が聞くわよ」

 

 自分を気遣う言葉をかけ、それを素直に信じ、どんと胸を叩いて快活に笑って耳を傾けてくれる姿に、(すさ)んでいる心がじんわりと温かくなった。

 

「悩みというより願望なんだけど…」

「なになに?」

 

 全ての食器を片付け終えて冷たくなった手を拭いて、改めてきちんと彼女と向き合えば、母にはない物腰の柔らかさと頼もしさが(にじ)み出ており、気がつけば到底叶わない願望が口を突いて出てくる。

 

「原さんみたいな、優しい母親が欲しかった」

「っ!!」

 

 自分ではちゃんと笑えていたと思う。

 しかし、それは彼女にとって逆効果だったようで、両腕でしっかり抱きしめられ、多少の息苦しさはあるものの不快なものではない。むしろ、心の赴くままにもっとこうしたいのに、甘えることが怖いと思うのはきっと他人に甘えてこなかったからだ。

 いつまでそうしていただろうか。

 昔から抱えこんでいた願望が違う形だったとしても、ひとつ叶ったことで浮わついた気持ちが落ち着き、彼女の背に回していた腕を離し、一歩後退して距離を取る。

 

「ありがとう、原さん。これで願望が叶った」

「私にできることなら、なんでも言ってちょうだい。協力するわ」

 

 互いに微笑み合い、改めてお礼を言って外に出た。

 

「磯貝。あたしでも手伝えることあるか?」

「あ。ありがとう、黒崎さん。そろそろセメントが無くなりそうだから、一輪車の所まで運んでくれる?」

「了解」

 

 食後の運動として、男子生徒に混じって物質の運搬を軽々とこなしていくうちに、子供達に羨望(せんぼう)の目で見られ、ここでも親衛隊(ファン)を作ってしまったことを自覚し、彼らから見えない場所で思わず苦笑する。

 

 

 それから数日後の20時。

 わかばパークの手伝い後、制服からランニングウェアに着替え、朝と夜の日課である往復20㎞と筋トレを終えて、疲弊(ひへい)した筋肉を休めるために自宅に戻った。

 風呂上がりに、自室のテーブルに置きっぱなしにしていたスマホが着信音を奏でているのが聞こえ、脱衣所から早足で向かい、それを素早く拾い上げて、一呼吸おいてから画面に表示されている通話ボタンを指先で滑らせる。

 

「もしもし?」

『あ、黒崎さん。チワッス』

「こんばんは、影山君。どうした?」

『受験勉強って、何をすればいいんだ?』

 

 しばらく状況と経緯を聞いたが、電話越しの彼の声は悲痛に満ちていた。

 

「事情はわかった。影山君は、どこの高校に行きたいか決めてるのか?」

『白鳥沢と烏野だ』

「2つは行けないだろう。第1志望は?」

『白鳥沢』

「了解。じゃあ、会う日を決めよう。いつがいい?」

『今決めるのか?』

「そうしてくれると助かる」

『っ…。ちょっと待て』

 

 どこかを走る音と耳元から携帯電話を離したのか、声が遠のくのがわかった。

 答えが返ってくるまでに時間がかかりそうなので、脱衣所に設置されている棚からタオルを取って髪を乾かすために、スピーカーのタグを押して通話状態にしたまま居間を出る。開け放していた扉を(くぐ)り抜け、回している洗濯機の残り時間に視線をやった時、彼の声が脱衣所に響いた。

 

『22日の土曜日。10時でいいか?』

「ん…。10日後か。大丈夫だ」

『またな』

「またな。おやすみ」

『おッ、おやすみ』

 

 通話を終えてタオルを手に取って、ミラーキャビネットからドライヤーを取り出し、感電防止仕様のコンセントにプラグを回しながら差しこみ、好きなグループのロックを歌いつつ黒髪を整えていると、律がメールを受信したと報せてくれる。

 

「律。手が離せないから読み上げてくれ」

《はい。差出人不明。内容は「この盗人(ぬすっと)。息子の財産を返せ」。返信はどうされますか?》

 

 誰かの財産を盗んだ記憶はない。

 父の葬儀の際、生前の息子から『独身だが女児を引き取り、里親になったこと』や『なんとか世話をしていること』など、ある程度話を聞いていたらしく、自分の存在を認めていた。だが、話を聞く限り、一番重要な文書偽造の件は意図的に伏せていたと知る。

 

「差出人の追跡はできる?」

《はい。…養父(くろさき)の同僚からでした》

「わかった。これからは、データは全部保存して。万が一の時の証拠になる」

《はい》

「黒崎家には家族愛が存在しなくて、普通の人ができる愛情の示し方とか、受け取り方が(わか)らない。…あたしは、とうの昔に人としての感情が欠けて壊れてるんだ」

 

 自分の喉から漏れ出た苦悩の言葉と乾いた笑い声は、洗濯機を回す音と一緒になって消えていく。

 それでも、律は何も言わずに画面上で自分に寄り添ってくれた。それだけで、欠けていた何かか埋まるような気がした。



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第19話 暗殺者の候補

「なかなかそろわないですね。烏間さん」

「仕方が無いだろう。次だ」

「はい」

 

 イリーナがE組に来なくなってから、2日が経った。

 先ほどまで鼻をほじっていた暗殺者を不採用にして、手元の経歴書に再度一読後、暗殺者の面接を行うために部屋に通した。

 

「失礼します」

 

 40代前半の女性は男性部下の一人を一瞥(いちべつ)して会釈し、淡い青色のジャケットを畳んで腕にかけた状態で、きちんと一礼をしてから暗殺計画責任者である俺を向いたものの、疑問符を浮かべるように眉をひそめられる。

 

「…どうかなさいました?」

「いえ…。どうぞ、おかけになって下さい」

「はい」

 

 着席を(うなが)されて一礼した際、さらりと流れる白髪混じりの短い黒髪と、色素が薄く明るい茶色の瞳は普通だが、動きが機敏で隙がない。まるで、我々軍人のようだ。

 本名は伏せてあり、暗号名は『旅人』。勤務先は、三重県にある民間警備会社《瑪瑙(めのう)》本社。

 この会社を紹介したのは、先ほど一瞥(いちべつ)された部下で、ホームページには記載されていなかった電話番号を、なぜ彼が知っているかは解らないが、おそらくなんらかの繋がりがあるのだろう。

 

「あなたへの依頼は、現在E組で教師をしている超生物です。マッハ20を仕留めるのはまず困難ですが、人間には無害で、ヤツに効く特殊な物質を使えば、確実にダメージを与えられます」

「そうですか」

 

 感情の読めない瞳と抑揚のない言葉に、部下達は表に出さないものの女性への反応に困っている。

 

「加えて、英語の授業を受け持っていただきたい。試験対策は標的が行いますので、即戦力になる実用英語をお願いします」

「わかりました」

 

 標的の監視と生徒達の指南役としてE組と関わりがあるからこそ、『ここからは、一教師の言葉として聞いて欲しい』と前置きをしてから意見する。

 

「旅人さん。あなたに、お子さんはおられますか?」

「ええ。息子と娘が二人ずつ。それが?」

「夏休み直前の三者面談直後に、黒崎さんを住まわせている山鹿美空さんが来られて、『もし、烏間先生が旅人という暗号名の方にお会いされたら、娘を預かっていると伝えてほしい』と伝言を頼まれました。…あなたが、黒崎紬さんの母親ですね?」

「書類上の母親です。血は繋がってません」

 

 静かに微笑まれるが空々しく、そこに本来あるはずの人間らしい温かさは全く見受けられない。まるで、浅野学園長を前に話しているような錯覚に陥る。

 黒崎さんの話では、『小学校を卒業した3月に両親が離婚した』と聞いていた。

 他人行儀で告げる生徒に違和感を覚えたものの、眼前の女性は、山鹿さんの話を聞いて、わずかに安堵の色が見える。わけありだろうか。

 

「書類上でも、母親には変わりありません」

「今さら母親面して仲良くしようなんて、私は微塵(みじん)も思っていません。ご理解頂けたかしら?」

「……わかりました」

 

 ひとまず面接を終え、初対面から変わらぬ綺麗な所作で一礼されて、彼女は退室した。気配が遠のいて、まず一瞥された部下に尋ねる。

 

「……どうだ?」

「仮に採用するなら、娘である黒崎さんの精神状態はどうなります? 3ヵ月前に報告を受けたように過呼吸を引き起こすか、または淡々とした態度を取るか。自分にはわかりません」

「ストレスを軽減させるため、事前に報告すれば良いのでは?」

「それだと欠席しませんか?」

「そんなヤワな子じゃないと思うぞ」

 

 生徒の精神状態を考慮すると採用しないほうが良いという結論が出そうだ。しかし、今は暗殺者の引き継ぎが最優先で、ぼそっとつぶやいたのは、今年幹部候補生学校を卒業した一番若い部下だった。

 

「よく知ってる口ぶりだな、護。一回も会ったことないのに」

「それを言うなら、俺はE組全員に会ってないですよ。鵜飼さん。園川さんと同じ交渉役ですから」

「じゃあ、なんで?」

「皆さんが生徒達のことを話して下さるので、自分なりに推測した結果です」

 

 部下との協議後、一旦保留という形になる。

 そして、本日最後の候補者は、経歴書に貼りつけられているはずの顔写真がなく、電話とメールしか連絡を受けつけていない『Havoc(ハヴォック)』という暗殺者で、性別。年齢。出身地など不明な点が数多く謎だが、今は時間が惜しくて()り好みしている暇はない。

 記載されている携帯番号にかけてみると、相手は落ち着いた声音の青年だった。しかし、彼は先週の休暇中に大怪我を負ってしまったようで、現在療養中という致し方ない理由のために、丁寧な口調で依頼を辞退される。

 

 

 翌週の10月17日。月曜日

 朝のホームルームで新しい英語教師の紹介をすると、黒崎さんは口を開けずに驚いていた。憎しみや怒りは見受けられず、ひとまず険悪な様子はないと判断する。

 

「烏間先生。なんで母がここにいるんですか?」

 

 案の定、1時間目が始まる前に教員室にいる俺に疑問符をぶつけに来た。

 

「彼女が暗殺者だったから、政府が(やと)っただけだ」

「へぇ。…暗殺者だったんですか」

「いちおうね」

「その節はお世話になりました。おかげで、アイツには手を上げずに済みました」

「そう。今、アイツは?」

「死にましたよ。7ヵ月前に」

「あら、そうなの。良かったじゃない」

「はい…。もう暴力を振るわれることはありません」

 

 ようやく対峙(たいじ)したかと思えば、敬語を使って他人行儀で接する親子の様子に、隣に座すタコが顔を蒼くして弱々しく、『胃が痛くなってきました…』と腹を抱えながら進言してきた。ここで言うアイツとは、父親のことだろう。

 結論から言うと、彼女は母親の授業に参加したが、お互い『黒脛巾(はばき)先生』『黒崎さん』と呼び合って教師と生徒の関係を崩さず、黒脛巾先生は決して娘の名前を口にしなかった。授業に関して言えば、生徒達の評価はとても良く、久しぶりに下品な単語も無作為なディープキスも行わない内容に胸を撫で下ろしている。

 

「あれが本来の授業だよな」

「うん。っていうか、紬のお母さんって暗殺者だったんだね。知らなかったの?」

「今朝知った」

 

 彼女達は顔を見合わせ、そろって怪訝(けげん)顔をする。過去に何があったのか話していないらしい。

 

「お母さんなのに?」

「5年前に会ったのが最後だし、あまり自分のこと話さない人で、護身術以外は全然会話がなかった。だから、今もどう接していいかわからない」

「そんな難しく考えなくてもよくない? 私達と話す時みたいに、好きなことで盛り上げればいいのよ」

「好きなこと…?」

 

 希望を見出(みい)だすでもなく、やる気を出すでもなく、黒崎さんは(ほうき)を握ったまま考えこむ。

 

「放課後、一緒にいこうか?」

「大丈夫。気持ちだけ受け取る。ありがとう」

 

 そして、放課後に再度単独で乗りこみ、真正面から母親にぶつかった。

 

「黒脛巾先生。質問があります」

「なに? 黒崎さん」

「どうして連絡を絶ったんですか?」

 

 それは、一教師としてではなく母親として対面し、生徒ではなく娘として問い、長年胸に(つか)えていた疑問だと(おの)ずと理解した。

 

「…用済みだってアイツに言われたから」

「? あたしがですか?」

「違う、私のほう。もちろん、『まだ教えてない技術がある』と食い下がったわ。そしたら、紬を呼び出して首を()めたの」

「…覚えてます」

 

 黒崎さんの反応は覚えていることを示し、あれが母である黒脛巾さんへの脅迫であったとすれば、娘の命を守るために下した判断だ。

 

「仕方がないですね…って言えば、全て(ゆる)されるとでも?」

「っ…!」

「あなたの技術があれば、アイツを無力化してあたしを救うことも可能ですよね? だけど、10年前。あなたはアイツの条件を呑んだ。あたしと自分の命を救えても、あたしはアイツと暮らすしかないだろ!? どうして、もっと早く助けてくれなかったんだ? あたしは、あんたにとって何?」

「捨ててなんかないわ」

「違うなら行動で示せ」

 

 抑揚のない言葉と無感動の瞳。無表情になった娘を前に、黒脛巾先生は黙して(うなず)くしかなかった。



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第20話 救出作戦

「……よし。予定通り、一八五五(ヒトハチゴゴ)。E組総員、突入する」

 

 現在、死神の脅迫(いらい)を受け、イリーナ・イェラヴィッチ先生の救出を遂行中だ。

 殺せんせーと烏間先生に援護要請はできない。

 死神によるハッキングで、各自のスマートフォンにダウンロードしていた『モバイル律』の援護を絶たれた。

 経験豊富な暗殺者2人に対し、未熟な暗殺者が28人。

 

 成す術は無い。

 

 その状況に、皆の思考がその考えで黒く塗り潰されていくのが手に取るようにわかる。しかし、自分にとって何度も乗り越えた状況だ。

 

「へぇ。珍しいね」

 

 全神経を集中させ、死神の正面戦闘を全て回避した矢先に、呑気(のんき)な口調で自分に話しかけてくるが無視する。恐らく、皆の目には彼の姿が見えないように映っており、それは錯覚にすぎないと頭ではわかっていた。

 

「黒崎さんだっけ? 君は、E組で郡を抜いて戦闘慣れしている。死神である僕の気配を最初に察知して、あの教室に入る前に、君と教員室にいた先生が気づいた」

 

 死神が肉迫するも間一髪で避け続けていくうちに、妙な懐かしさを覚える。

 

 あれは、コンバットブーツの靴音さえも反響するこんなトンネルではなくて――

 

「ねぇ。君は、どこでそのスキルを身に付けたんだい? 知りたいな」

「……」

「だんまりか。いいよ。他の子達を相手にするから」

「っ…!」

 

 敵の問いに一切答えずに回避し続け、空を切る音が耳に響く。

 しぶとく忍耐強いことが取り柄だと自負していても、仲間を脅迫の材料にされてしまっては、文字通り手も足も出ない。

 同級生達には、自分と違ってきちんとした目標と夢がある。彼らを犠牲にして仕留める手もあるが、実力差と損害を考慮した結果、両手を上げて降参の意を示して、初対面から変わらない笑顔を浮かべる者に大人しく捕まることにした。

 

 

 殺せんせーと烏間先生が駆けつけたものの、当の超生物も(とら)われの身になってしまう。

 そして、死神の口から『首輪に仕掛けた爆弾を爆破する』『放水する』と言われても、級友達と違って恐怖を感じず動じない。青年によって全て実行に移されようとも、『ああ。死ぬんだ』と思うだけの冷めた自分が心の片隅にいて、今までそうしてきたように、容易に生への執着を捨てて死を受け入れるだろう。

 暗い思考を絶ち切るかのごとく、殺せんせーが所持している無線機から、爆発音と死神を追う烏間先生の声が聞こえた。

 

『イリーナは、瓦礫(がれき)の下敷きだ』

 

 回線が切り替わる雑音がした無線機から、より詳細な状況が判明する。

 死神は、追っ手を()くためだけに天井ごと爆破したようだが、陽菜乃の説得により烏間先生がイリーナ先生を救助した後、一瞬の隙をついた烏間先生の金的攻撃によって死神の撃破に成功する。合流に成功して彼女との再会を喜ぶ同級生だが、あたしは彼女を追いかけも声をかけもしなかった。

 

「紬…?」

「……」

「黙ってないで、なんとか言ってよ」

「では、遠慮なく言わせて頂きます。You idiot. Bullshit!! Fuckin Bitch!!」

「初めて聞いたわ。紬の罵詈雑言」

「誰のせいだと思ってんだ、クソアマ!!」

 

 自分の意思とは関係なく勝手に声が震え、呼吸が浅く繰り返され、眼前の景色の境界が判らなくなり、そこでようやく異変に気づいた。

 肩が呼吸に合わせて激しく上下して(のど)から荒い息が出て、泣きたい衝動を止めようとして言葉が途切れ、それでも結局涙が目尻から止めどなくあふれ、(ののし)りをどうにか残った理性で制す。

 

「わか、っ、わかんないんだ…! なん、で、あ、あたしが先生にこんなに、怒って泣いてんのか…。ぜんっ、全然、わかんない…! なんだよ、これ!」

 

 初めての感情だった。

 イリーナ先生が無事だと知って嬉しいはずなのに、見えない手にぎゅっと心臓がつかまれるようで、なんだか無性に腹が立つ。

 子供のようにみっともなく嗚咽(おえつ)を漏らしながら(まぶた)を閉じて、涙を拭うために目元をごしごしと袖口で強くこすっている最中に、誰かに優しく抱きしめられた。その未知の感覚に息が詰まって、亡き父から暴力を振るわれる直前同様、反射的にびくりと体が跳ねる。

 

「それはね。『心配』っていうのよ」

「心配…? …これが?」

「ええ」

「……そうか」

 

 話しかけられると同時に、優しく黒髪を撫でられる。

 それが心地良く思えて、彼女の心音を感じつつ再度瞼を閉じ、自分より細い体を抱きしめていいのだろうかという葛藤と戦いながら、ぎこちない動作で抱きしめ返して、本能のまま安心を求めるように頬()りする。

 

 ずっと誰かにこうして欲しかったのか。

 

 だけど、それで終わりじゃなかった。

 瓦礫の下敷きから救助されたイリーナ先生は、一輪の薔薇(ばら)を烏間先生から受け取り、普通の女の子らしく頬を赤らめて有頂天になる様子を目撃して、さっきまで感じていた安堵感がなくなった。

 一気に遠くの存在に思えて、同級生達の冷やかしの声が遠くなり、やがて聞こえなくなる。

 

 あたしにも、全てを背負ってくれる異性(ひと)が現れるのか?

 人を愛することなど知らない自分を。命の選択を迫られると、ためらわずに暴力に走る女を。ともすれば、(わら)いながら殺めかねないような不安定な精神で、壊れた性格を持つ危険人物をそのまま受け止めて、好きになって愛してくれるの?

 無理だ。

 愛されるなんて、ずいぶんとおこがましい考えを持つようになったじゃないか。

 

 ひどく簡潔な答えに、乾いた笑い声が出そうになる。

 

「紬。どうしたの?」

「ん? 自分の問題が解決したから喜んでるだけ」

 

 原さんから声をかけられて、自信満々にそう答えた。

 

「良かったな。先生達の進展が見られて」

「そうね」

「これを機に、(から)イリを最推しにするぞ」

空炒(からい)り? なにか(いた)めるの?」

「いや。こっちの話」

「?」

 

 話が噛み合わないことを察して自己完結し、そろって殺せんせーの触手に撫でられ、この話をさりげなく終わらせる。

 

 

 左腕の骨折が治って、イリーナ先生が正式に復帰したことにより、母は朝のホームルーム後に英語教師の立場から解任された。

 

「短い間でしたが、お世話になりました」

「こちらこそお世話になりました」

 

 互いに深々と頭を下げる教師陣を遠巻きに見て、これで母の姿を見なくて済むと思うと、クソ野郎が死んだ時の清々しさとは違う安堵を感じ、結局母は何も行動してくれなかったと再確認するだけに留まる。

 

「紬。卒業したら、一緒に住む?」

「却下」

 

 クソ野郎がいなくなったことで母への誤解が解け、あれから表面上和解したが、まだひとつ屋根の下で暮らすとなると話が違ってくる。そんなふうに拒絶する自分(むすめ)を難なく受け入れて、微笑みながらこう言われた。

 

「大丈夫よ。いっぱい悩みなさい」

 

 色素の薄い茶色の瞳を前に、既視感が襲う。

 まだ母に護身術を直々に教わっていた頃。

 殺伐とした環境下で、一度だけ表情を盗み見た事がある。あの時は理解できなかったが、あれは優しさと大切だと思う感情からくる眼差(まなざ)しだと、ようやくわかった。

 その時、母とは違う足音が聞こえてきて我に返る。

 

「お帰りなさい。イリーナ先生」

「た、ただいま…」

 

 彼女の素直に喜んでよいものか迷っている表情から、今しがた見送った女性が身内だと烏間先生から聞き及んでいると判断しても、自分は笑顔を崩さなかった。

 

「紬。本当にミツルが母親なの?」

「はい。生き別れの母でした」

「でした…?」

「間違ってはいませんよ」

 

 原さんに『優しい母親が欲しかった』と告げたことがある。

 そして、先生として再会し、教壇に立った一流の暗殺者の(ふた)を開けてみれば、父に脅迫されているだけで命を重んじる強く優しい母親だった。



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第21話 苦手なこと

「……」

「……」

 

 約束していた10月22日。土曜日。

 仙台駅前で会ってから、そのまま近くの書店に直行する。白鳥沢と烏野の過去の問題集をそれぞれ買った後、東京土産を出迎えた俺の両親に手渡して家に上がらせ、自室で白鳥沢の過去問の一部分が終わってから、黒崎さんは俺の前でその回答を全て見ていた。

 

「…どう? 紬ちゃん」

「あ、ありがとうございます。美羽さん。正直、いかんともしがたいですね」

「イカ…?」

 

 温かいココアをマグカップに入れて、丸盆に乗せて二人分持ってきた来春大卒予定の姉と、二人してちらりと俺を見て微妙な顔をされた。

 

「…影山君の得意教科は?」

「体育。バレー」

「いや。五教科のうち、何かひとつでも…」

「ない」

「……じゃあ、授業はちゃんと聞いてる?」

「聞いてねえ。たいてい寝てる」

『は…?』

 

 あきれた姉の表情より、若干怒りを含んだ黒崎さんの表情と声が怖くて、意思とは関係なく思わず言葉が詰まる。それは横にいた姉も同じ反応を示して、マグカップを置いた後、さりげなく黒崎さんから距離を取った。

 

「君は、勉強についてどう思ってんの?」

「バレーができりゃそれでいいし、興味ねえ。どうでもいい」

「…そう」

 

 笑顔のまま、問題集を閉じたところまでは良かった。

 次の瞬間、俺の目を青が混ざった茶色の瞳でじっと見て、怒鳴るでもなく静かに微笑んでいる。それだけで反射的に息が詰まり、黒崎さんへ注意を向けるしかない。

 

「影山君。君は、勉強できる環境が当たり前になってるから、『興味ない』とか『どうでもいい』とか、そんな言葉が平気で言えるんだ」

「っ…」

 

 ただ淡々と話していく様子に、俺の部屋から出るタイミングを逃した姉もきちんと正座して、黙って聞き入っている。

 

「あたしの場合、わからないところは自分の休憩時間を削ってでも先生に聞きに、ノート片手に直接職員室まで行った。今もそうだ。知らないままでいたくない。少しでもわかるようになりたい。苦手なものを放置したくないって思ってる」

 

 普段の黒崎さんからは考えられないほどしゃべって、小学校の卒業式でも会ったことのない親の姿をどうにか思い出そうとして、結局やめた。

 

「今でも苦手なものあんのか?」

「水泳。顔を水につけるのが嫌で…」

「? (おぼ)れるわけじゃねえだろ」

「……。昔、溺死(できし)しかけたせいだ」

「デキシ?」

「溺れ死ぬこと。…さあ。勉強を始めよう」

「顔洗うのは大丈夫か?」

「どうにか慣れて、できるようにはなった。ほら。君も開いてくれ」

「お、おう」

 

 小学生の頃からの付き合いがある幼馴染は、姉が息を呑む様子を無視して、何事もなかったように白鳥沢の問題集の中から、間違いが一番多かった数学の部分を開いていく。

 

「基本的に私立は、応用問題と教科書に載ってないものを出すから、まず基礎をしっかりできるようになるのが一番大事だ。君の場合、公式そのものが間違ってる」

「ウス…」

 

 暗記できる教科は後回しにして、午前中は数学の基礎問題を解くことに専念し、正午のサイレンが鳴ったのをきっかけに一段落ついた。

 

「……うん。とりあえず、基礎ができるようになったから、来月は応用問題を解いて、半分取ることを目指そうか」

「ッス」

「午後は英語。休憩挟んで、国語。それが終わったら、今日は終わりにしよう」

「わかった」

 

 隣でおおざっぱな計画を聞きながら1階に降りると、いいにおいがしてくる。母が昼飯を作っているようで、フライパンで何かを炒めていた。

 

「終わったの?」

「おう」

「一区切りつきました」

「ありがとうね。一緒にご飯食べようか」

「あ…。お手伝いします」

「そうね…。じゃあ、お皿とお箸を出してもらえるかしら」

「はい。…えっと…」

「あ! 勝手がわからないわよね。ごめん。美羽ー」

「うん。今日は和食だから――」

 

 黒崎さんは食器棚に戸惑い、母と同じエプロン姿の姉が真ん中がへこんだ皿をいくつか選んで、すぐに手伝いに戻る。俺の家族は、小学生の時から彼女の境遇を知っているから、居心地を悪くさせないようになにかと気遣っていた。

 

「そういえば、紬ちゃんは、今お母さんと一緒に暮らしてるんだっけ?」

「いえ。昔世話になったご家族に居候(いそうろう)として身を寄せてます」

「あ、そう…。ごめんね」

「いえ。お気になさらず」

 

 ただ、彼女が昔から自分のことを全然話さないから、情報がなかなか更新されずに数年前で止まっている。だから、父のほうが気まずくなる。

 

「紬ちゃん。ご飯、これくらいでいい?」

「はい。ありがとうございます」

 

 おかずと汁物の量を確認をしてから一緒に昼食にありついた。そして、食べ方も箸の運びもきれいで、ひとつひとつ味わってうまそうに食う様子に、夏祭り同様、対面に座って視線を奪われた。

 

「ごちそう様でした。おいしかったです」

「そう。良かったわ」

 

 後片付けを含めた作業を終えてから2階に上がり、受験勉強を再開する。

 しかし、黒崎さんの英語は学校の先生達と発音が全然違っていたせいで、一問も理解できないまま5分が経過した。

 

「…黒崎さんの英語、なまってるのか?」

「え? ……あー。うん。フランス語(なま)りだ。どうりで、お互い理解しづらいわけだ。…すまない」

「いや…。先生達と発音違うから、新しい言葉かと思った」

「そ、そうか。でも、君が聞きにくいなら直すぞ」

「そのままでいい。…発音しやすいほうが、余計なストレス抱えなくて済むだろ」

「ありがとう。じゃあ、このまま続けよう」

「ウッス」

 

 そして、食後から2時間集中して30点を取った後で、時計が3時半を指し、15分の短い休憩を黒崎さんが取り分けてくれた。

 

「バレーしてぇ…」

「そうだな。やろう」

「アザス!」

 

 狭いけど洗濯物が干せるくらいのちょっとした庭で対人サーブをやりながら、こうするのは一与さんの家に遊びに行った時以来だと思い出す。

 

「バレー続けてんのか?」

「ああ。居候先から遠いけど、クラブに入ってる」

「強いとこか?」

「じゃなきゃ通わないさ。年齢層が広いから、お菓子には事欠かないぞ」

「上は?」

「50代。下が、あたしも含めた10代。親子くらいの年齢差だけど、居心地いいぞ」

「…そうか」

 

 頻度は日曜日の週1回らしく、部活を辞めた自分にとって、まだバレーができる環境にいる黒崎さんがうらやましいと思いつつ、小学生の時より対人がうまくなっていると感じた。

 

「…時間になったな。勉強に戻ろう」

「…ウス」

 

 ズボンの尻ポケットからアラーム機能がついたスマホを取り出し、それを止めてから同じ場所にねじこんで、先に引き戸の玄関を通り抜けて俺を待ち、一緒に自室へ向かう。すると、ちょうど母から甘さ控えめのお菓子が出されて、休憩が15分伸びた。

 国語の中でも読解問題が苦手で、俺の理解力の低さにまた彼女の表情が曇る。いや。無表情になると言ったほうがいい。これで白鳥沢の受験勉強が終わって、俺の学力をある程度知った上で、これからの対策を練った。

 

「…とりあえず、このままだと絶望的だから、来月また来てもいいか?」

「ウス…」

「それまでに半分は取れるようになろう。わかんないところは聞いていいから、いつでも連絡して。一緒にがんばろう」

「おう。…アザッス」

 

 それから黒崎さんが帰り支度を進めるうちに、疑問が出てきた。

 

「高校どこ行くんだ?」

「んー……。まだ全然決めてない」

「バレー続けるのか?」

「そのつもり。強いところがいいなとは思ってる」

「そうか」

 

 仙台駅まで見送り、互いに拳をぶつけ合って別れた。



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第22話 胃袋の掴み方

「いやぁ。黒崎さんのお弁当は、いつ食べても美味しいですねぇ」

「ありがとうございます。殺せんせー」

 

 10月も下旬にさしかかり、来月の進路面談や学園祭が迫ってくる中、標的と殺し屋は水飲み場の近くで隣同士で仲良く弁当をつついていた。

 

「おい、渚。完全に餌付けされてないか? あのタコ」

「それって僕達にも言えるよね。イトナ君」

 

 黒崎さんは、3月から毎月15日には僕達と教師陣に、甘さ控えめの手作りお菓子を作ってくれる。

 しかし、普久間島で流されたビデオ鑑賞後に、『金欠の助けになれば』という彼女の優しさからくる厚意で、先月から殺せんせーの分のお弁当も月1回の頻度で作っていた。これには、人間の教師二人から『いくら厚意とはいえ、生徒に弁当を作らせるとは…』と、冷たい視線を投げかけられ、風呂敷に入ったそれを受け取るたびに申し訳なさそうにする標的がいたたまれない。

 そして、頭部に移植された触手から解放され、先月E組に正式に編入してきたイトナ君も、不味(まず)いラーメンと比べて甘さ控えめのお菓子を気に入り、今も双眼鏡片手に観察しながら頬張っている。

 

「殺せんせーの弁当箱も、あれで2個目らしいよ」

「なんで茅野が知ってるの?」

「紬が教えてくれたの。ほら。殺せんせーの唾液って、なんでも溶かしちゃうでしょ? だから、せんせーが弁当箱も含めて毎回作ってもらってるお礼に、紬が食べてみたいお菓子を、金銭的に余裕がある時に本場まで行って自腹で買ってきてくれるんだって」

「見事なギブ・アンド・テイクだね…」

 

 イトナ君が教室から双眼鏡を通して(のぞ)き、上空を飛ぶドローンでなんとか会話を聞き取れた結果、今回のお菓子はオーストリアのザッハトルテ一切れのようだ。どうやら先月の反省点を含めて、殺せんせーが彼女の分の菓子と、自分の弁当箱代を生活費から差し引いているらしい。

 

「それにしても、紬って格好良いよね。殺せんせーの分も作るから大変なのに、『作る量が違うだけで全然苦にならないし、殺せんせーを含めた皆の笑顔が好きで、あたしが勝手にやってるだけだ。だから、カエデが気にする事は何もない』って言い切って、もう本気で惚れるしかないし、影山君に嫉妬しちゃうよ。そう簡単に『戦乙女(ヴァルキュリア)』は渡さないんだからね!」

「影山君。ご愁傷様…」

 

 コードネームを決めた時、よほど衝撃を受けたのか、木陰で膝を抱えて落ちこむ様子を見せたのを思い出す。

 

「料理もお菓子も作れるなんて、私も十分すごいと思うけど、習い事と並行して無理しないか心配だね」

「…うん」

 

 交通事故に遭うまで、父親は昼夜逆転の生活を送っていたと、忌引き後に言葉少なに僕達に語っていた。

 先日の罰――わかばパークでの手伝いの時に、料理を手伝った原さんと従業員に話した情報によると、初めて台所に立って包丁を握り、ちゃんとした料理を作り始めたのは、父親と知人の家がある宮城に引っ越しをした2年後だという。

 

 

 完全に餌付けされている僕達は、この半年で黒崎さんのことが少しわかってきた。

 数日ほどイリーナ先生の繋ぎだった黒脛巾先生は、彼女が小卒の頃に離婚した母親で、和解したことはすでに周知の件だ。しかし、普通ならグレてもおかしくない家庭環境で、なぜ今のような優しい態度を示せるのか本人に直接聞いたところ、こんな返答が返ってきた。

 

(昔、世話になった人達のおかげさ)

 

 それが誰かは話さなかった。

 ただ、顔も知らないその方達のおかげで、黒崎さんが笑って過ごして幸せだと感じているのなら、それでいいと思っている。

 

(良かったね。その人達に出会えて)

(ああ。彼らは、あたしの恩人だよ)

 

 彼女は、どんな環境でもできることに目を向けて積極的な見方をして、どんなに些細(ささい)なことでも感謝し、店で出されたご飯を美味しそうに食べる。そうした僕らが当然と思っている小さな幸せを、自分が大切にしているからこそ、暴力で冷えきった家庭環境にも耐えられたんだろう。

 ただひとつ問題があるとすれば、母親が暗殺者だと知らずに生きてきて、褒めて伸ばす子育てがされてないと推測し、黒崎さんがいまだに褒められ慣れていない理由がようやくわかった。

 

「紬の心をもっと開くには、どうすればいいと思う?」

「うーん…。もう開いてるんじゃないかな」

「でも、まだ完全には開いてない。お母さんのことだって、私達この前知ったばかりだもの」

 

 再度、晴天の下。外で談笑しながら食べている二人を見て、茅野はまだ諦める様子を見せない。

 

「じゃあ、作戦を変更。胃袋をつかむには…」

「なんでも美味しそうに食べるよね」

「そうだった…」

 

 難攻不落の人物を見据えて、緑髪の少女を横にして微笑んだ時、原さんがやはり焼き菓子片手に歩み寄ってくる。

 

「誰の胃袋をつかむの?」

『黒崎さん』

「なるほど…。任せて」

『え?』

 

 自信満々な言葉に僕ら2人は疑問符を発した中、イトナと原さんは菓子を平らげて、『E組の母』が言う通りに来週の月曜日を待つことにした。

 

 

 毎週月曜日に習い事がある黒崎さんは、帰りのホームルーム後にすぐ帰ってしまうから、ゆっくりできるのは授業の合間にある休憩か、昼休みのどちらか一方に絞られる。

 

「黒崎さん。お腹一杯になった?」

「いや。まだ余裕だけど、どうした?」

「いつも作ってくれるお菓子のお礼よ。受け取ってくれるかしら?」

「? ありがとう」

 

 仕切られた小さいタッパーに詰められていたのは、一見なんの変哲めない酢豚とコンビニのおにぎりより一回りほど小さく、海苔(のり)が巻かれてない真っ白なおにぎりで、これひとつでちょっとした弁当と呼べる出来に、添えられた割り箸に手を伸ばしてパキッと割った。

 まず、光沢のあるタレがかかった酢豚を一口味わい、ラップに包まれたおにぎりの塩加減に(まぶた)を閉じて味わう。いつ見ても気持ちの良い食べっぷりに、様子を伺っている僕らも頬が緩む。

 

「っ…!」

「おいしい? …そう。良かった」

 

 咀嚼(そしゃく)を一時的にやめて、軽く首を横に振られる。ごくりと飲みこみ、水筒の緑茶も胃に収めて一息ついた後、黒崎さんは原さんにこう尋ねた。

 

「これ、黒酢使ってるよな。レシピ教えてくれ」

「いいわよ。放課後までに渡すわね」

「ありがとう。…んー。……煮卵も美味(うま)い。飯が進む」

「最近疲れてるかなって思ったから」

 

 再度酢豚に箸を伸ばす手が止まり、彼女は気まずそうにへらりと笑う。そこに指摘されたことへの怒りは見受けられず、まるで悪戯(いたずら)がバレたような感じだった。

 

「そんなふうに見えた?」

「うん。黒崎さんは、感情はちゃんと表に出して明るいんだけど。…なんだろう? 本当に大事なことは誰も話さないし、そこに踏み入らせようとしないでしょう?」

「ああ。それで?」

「もっと周りを頼って欲しいなって思うの」

「……善処する」

 

 原さんの言ったことが図星なのか、笑顔を封じて投げやりな言葉で会話を続け、ひょいと酢豚を口に運んでいく。しばらく食事に集中させ、食べていく様子をE組の母は向かい側の席に座して、優しい笑みを向けながらただ黙って見守っていた。

 

「ごちそう様でした」

「お粗末様でした」

 

 原さんの黒崎さん自身の心身を気遣った料理に心を開きかけたが、内情に踏みこみ過ぎたせいでその扉を固く閉められて、振り出しに戻った。

 

「…失敗しちゃったね」

「うん…」

 

 僕はそう判断して、結果は一進一退の形になる。



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第23話 進路

「英語は悪くなってるけど、国語と数学は先月に比べて上がってるな」

「…んぬん…」

「同じ問題を使って苦手を潰しながら、次の段階に進もう」

「ウッス。よろしくお願いシアス!」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 座卓を間に挟んだ形で互いに頭を下げ、あたしは再度彼の解答を見ていく。

 先月は受験対策のために苦手分野の炙り出しのつもりが、全教科が苦手という衝撃の事実を突きつけられ、中学2年生までの基本的な内容を復習し、彼の学力を知るためにとことん付き合っていたら夕方までかかってしまった。

 それも踏まえて、自分なりに彼の対策を別紙にまとめて立ててきたものの、今月はどうにか半分取れるようにと考えている。だが、今の一進一退の調子だと正直言って受験日まで厳しく、ここで駄目出しをすればやる気が()がれることは確実だ。心なしか、彼の気持ちが高揚してるように見えるし、なんとか現状維持でいきたい。

 

「…先月より10点多く点が取れてるから、今日は全教科60点を目指すぞ」

「おう」

 

 今やっているのは、前回に引き続き3教科――国語。数学。英語――と数が少ない白鳥沢の過去問で、さりげなく目標の点数を上げているが、来月までに7割取れなければ、公立の入試にも落ちるのは確実だ。それに並行して、志望動機を含めた面接の練習もする予定を立てている。

 今日も対人レシーブをやって休憩を挟みながら夕方までお邪魔して、ご家族の申し出を一度は丁重に断ったものの、隣にいた幼馴染の無言の圧力に耐えきれず、結局仙台駅の改札前まで律儀に送ってもらった。そして、夏祭り以来、もはや恒例となりつつある送迎に調子が狂いそうな自分がいる。

 

「…また来月な」

「ああ。アザッシタ」

 

 1階のプラットホームに向かって下る前に、ふと気になって改札口を見ると、まだ幼馴染が自分がいる方向を見て立っていた。

 それがなんだかすごく嬉しく思えて高揚し、無意識に口元が揺るんで数回手を振ると、向こうも手を遠慮がちに振り返してくれる。言葉は交わさずにそれをしっかり目撃して、名残惜しく感じながらも最後に微笑み、『バイバイ』と口だけ動かして彼から視線を外して、椚ヶ丘へ帰る一歩を踏み出した。

 新幹線に乗る前に、ショルダーバッグからスマホを取り出し、居候先の家主である山鹿(やまが)武彦さんに電話して連絡を入れる。

 

『どうしたの? 紬ちゃん』

「今から帰ります。たぶん、21時頃になりそうです」

『うん、わかった。気をつけて帰っておいで』

「はい。では、失礼します」

『はい。どうも~』

 

 間延びした家主の声に電話を切った後、護身術と最低限の読み書き以外の育児放棄した母と和解し、常識的で人格者でそれなりに人徳がある夫妻に拾われて良かったと思う反面、所詮(しょせん)自分は部外者だと正論を言うもう1人の自分が()みついている。

 

 

 影山君と2度目の受験対策をした翌々日。

 1枚の紙を前にして悩み抜いた結果、次の言葉が自然と口から出てきた。

 

「…わからん」

「何悩んでるの?」

「進学先の高校…」

 

 11月も数日が過ぎ、机上にある進路希望調査なるものに頭を悩ませている。

 『将来志望する職業』の第一と第二は埋めているものの、氏名の下に記載されている志望校だけがまだ空欄のままだ。そこに、ひょっこりひなたが顔を(のぞ)かせて、ぱちくりと目を瞬かせる。

 

「第一志望が、SAT。第二志望が、防衛省情報本部。銃と情報を扱う仕事なの? 私、バレー選手かと思ってたから意外だな」

「…あ。全然考えてなかった。暗殺の成績を基準にしてたから」

「…本当にそれでいいの?」

「うん。これで出す」

 

 そこで席から立ち上がり、(かばん)を背負って帰ろうとしたが、カエデとひなた。メグと優月。莉桜とイリーナ先生の6人がかりで退路を(ふさ)がれる。

 

「おっと! 今日は逃がさないんだからね?」

「今日こそ進展を聞かせてよ」

「受験勉強し始めたって、殺せんせーから聞いたの」

「東京には無い学校名だったから、律に検索頼んだの。そしたら、なんと! 宮城じゃないですか!」

「これはもう確実ね」

『影山君のためでしょう?』

「大人しく吐きなさい!」

 

 彼女達の口から情報を漏洩(リーク)され、これ以上胸中で(いら)立つのは嫌なので、修学旅行同様渋々白状した。

 

「影山君に受験のことで助けを求められたから、それに応えたまでだし、志望校の過去問も解らない所を説明できるように一緒に買っただけ。それに、なんで殺せんせーが……。…まさか、宮城まで()けたんじゃ…」

 

 だが、標的の行動がやりかねないとしても、彼女達に釈然(しゃくぜん)としない表情をされ、言葉に(きゅう)していると、イリーナ先生に『つまらないわ』と一蹴される。それは自分でも痛いほどわかっているし、普段なら『すみませんね』と事も無げに言うのだが、今日は何も言い返せない。

 

「ねぇ、紬。こう考えたらどうかな?」

 

 先ほどまで空白が目立っていた用紙を眺めていたカエデが、ぴしっと人差し指を立てて助言する。

 

「影山君のためを思って、紬が行動してるのは分かるけどさ。何が一番やりたいの?」

「……」

 

 彼女の言葉は、父の葬儀に家に訪ねてきた山鹿夫妻と重なった。

 

(紬ちゃん。良かったら家に来ないかい?)

(遠慮しないで、紬ちゃんがやりたいことをやっていいのよ)

 

 やりたいこと、やっていいの?

 好きなこと、していいの?

 

 脳裏に浮かんだのは、いつも相手の顔色を伺っては、言いたいことも言えずに不安な瞳で見つめ、今の自分に問いかけてくる臆病な幼い姿の自分だった。それはずいぶんと久しぶりの感覚で、無意識に二の足を踏んでしまう。

 

(大丈夫。いっぱい悩みなさい)

 

 

 母の言葉を思い出し、決意した。

 

 …やってみようか。

 

 漠然とそう思えて、臆病な自分に手を差し出すと同時に、胸中に抑え続け、カエデに言われるまで(つか)えていたことすら忘れていた思いを、これを機に表に出してみようと決意した。

 

「…バレーがやりたい。思いっきり、バレーがしたい」

「それなら、どこの高校がいいの?」

「宮城で1番強いのは、新山女子。ブランクがきついけど、挑戦し甲斐がある。それでも駄目だったら、公立の烏野を選ぶさ」

「ブランク?」

「うん。格闘技のクラブと練習日が重なってて、バレーボールクラブは、週1回しか通えてない状態でさ」

「紬なら大丈夫でしょ」

「どうかな。やってみなきゃわかんないだろう?」

「そうだね」

 

 再度席に腰を落ち着けて鞄の中に仕舞った筆箱を取り出し、消しゴムで職業の欄を全部消して、シャープペンシルの芯を出して書き直している途中、机に頬杖をついたメグが尋ねてくる。

 

「ねぇ。どうして、そんなに遠方にこだわるの?」

「? 遠方って感じたことないな。小さい頃から転々としてきたし。ただ、母から離れたいだけ」

「あー…。…そっか」

「うん。…よし。できた」

 

 全ての欄を埋めたのを確認してから、筆記用具を筆箱に戻して鞄の中に仕舞い、中身の詰まったそれを背負い直して彼女達と別れ、教員室にいるであろう殺せんせーのもとへ向かった。しかし、そこにおらず本を重石(おもし)にして机上に提出し、烏間先生と今日の体育で自分の反省点や改善点を客観的に語って、その未熟さを心に留めてから退室直前に一礼して去る。

 

「ただいま戻りました」

「あら。お帰りなさい、紬ちゃん。早かったのね。…なんかいいことあった?」

「はい。やりたいことが見つかりました」

「まあ! それはお祝いしなくちゃ!」

 

 今日有給を取得して久々に休みを取っていた美空さんが、割烹着姿で出迎えた矢先に報告を受けて喜色満面になり、一緒になって喜んでくれた。



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第24話 東京の文化祭

「…あの」

「あ、はい。こんにちは」

 

 私立椚ヶ丘中学校の広い運動場を突っ切って、とにかく山のほうへ目指して歩いていくと、黒髪をひとつ結びにした女子生徒が看板の前で立っていた。

 

「チワッス。…E組の場所って、ここッスか?」

「はい。この山道を登り切った先にありますよ」

「アザッス」

「こちらこそ、ありがとうございます。…影山君ですよね?」

「っス。…?」

 

 自己紹介したことあったか? と疑問に思った矢先、女子があわてたように両手を顔の前で振ってこう言う。

 

「私、矢田(やだ)っていいます。紬が。黒崎さんが、すごく嬉しそうに影山君のことをよく話してくれるんです」

「! そっスか」

「はい。黒崎さんに会えるように、今から上に連絡しておきますね」

「アザッス」

 

 深々と一礼して、眼前の狭い山道を登る前に注文した後、『もう終盤で、希望通りにならない可能性がある』と言われても構わなかった。約束の時間より来るのが遅くなったのは、出かける直前になって姉さんに『私服がダサい』と言われて、急いで仙台駅に近い店で服を買っていたからだ。

 

「…あ、律? ヴァルキュリアに繋いでくれるかな」

《はい。わかりました》

 

 11月の第2土曜日。15時過ぎ。

 先週珍しく黒崎さんから電話があって、『3日間文化祭がある』という誘いに、東京に向かう新幹線と電車。バスに乗り継いで来ている。

 東京までの行き方を尋ねるために、近くの窓口で駅員に聞いた後で切符を買ったら、事前に父さんからもらった5万円のうち、1万円とおこづかいの一部がさっそく無くなった。その時になって、お互い会う日を決めて、仙台まで足を運んでくれる黒崎さんのことが思い浮かんだ。応援も含めて、中学に入って直接会ったのが5回。往復10回分の新幹線代と、毎回違う家族分の東京土産の総額を指折り数えて言葉を失う。

 

《こちら『萌え箱』。たった今、ヴァルキュリアと繋がりました》

「『愛しの彼』が来てるよ。……え。ちょっと、そのコードネームで呼ぶのやめて。……ごめん。もう言わないから」

 

 落ちこむ女子の声が遠くなるのを聞きながら、先が見えない細い道を歩き、木製の雑な階段を登っていく中、1列に並んだ人の行列の最後尾が見えてくる。

 待ち時間の間に聞こえてくる話では、その人達はインターネットで有名な人の影響でここまで来ていて、ブログ? で山奥にあるE組校舎で開かれている、昨日から開催されているここの文化祭で、『E組の模擬店の料理がウマい』と書いていたかららしい。

 

 

 俺がどうにか席に座れた頃には、あんなに多かった人が数えるほどしかいなくて、用意されていたメニューのほとんどが売り切れていた。帰りの新幹線代を差し引いて考えて、そのほうがいいとわかっていても『食ってみたかった』という後悔のほうが大きい。

 そうあれこれ考えているうちに、丸盆を手にした黒崎さんがエプロンを着けた制服姿で、古びた木造校舎から軽快な足取りで出てきた。

 

「いらっしゃい、影山君。来てくれてありがとう」

「ウッス」

「お待たせいたしました。ご注文のアケビ料理と、山ぶどうのジュースでございます」

「アザッス」

 

 模擬店の営業は終盤で、店員に扮したE組生徒と客が少しの時間だけ話せる余裕があり、黒崎さんは俺が腰を落ち着けている席の向かい側にちょこんと座った。

 俺は、さりげなく距離を取る彼女の様子を観察して、ぶどうジュースが入ったコップを丸盆に置いた。

 

「…そんなに離れてどうした?」

「いや…。桃花(トウカ)から…。あー…。矢田さんから連絡が入るまで食材採るために山中走り回ってて、汗とか泥で汚れてるから、今日はあまり距離を詰めたくないんだ」

「それだけ頑張った証拠だろ。俺は、全然気にならないからな」

「…そうか?」

「そうだ。…いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

 

 初めて食べるアケビは、シャクシャクした歯ごたえがあって、思ったより甘かった。

 

「! うまい…」

「それは良かった。あとで、調理班と調達班に言っておこう」

「アザッス。…黒崎さん」

「ん?」

「来月は、冬休みにするか?」

「…なにを?」

「受験勉強」

 

 一拍の間があって、疲れて頭が回ってないんだろう。答えを出して話題を変えた。

 

「そっか。もうそんな時期か。……美羽さんは帰ってくる?」

「たぶん」

「じゃあ、冬休み前で…。ちょっと待って。……10日でどう?」

「おう。わかった」

 

 紫色のジュースを飲み干す前に、黒崎さんがスカートのポケットからスマホを取り出して、カレンダーを見ながら冬休み前に会う約束を交わした。

 

「ごちそう様でした」

「完食してくれてありがとう」

 

 彼女が微笑みながら食器を片付けかけた手を同級生の人が制し、そのまま座っているように視線で指示する。それに最初は抵抗していたものの、断れずにおとなしく従った。

 

「今月の目標は?」

「全教科70点。そうすれば、私立に受かる。あと追加するなら、面接の練習だな」

「…んぬん」

 

 幼馴染いわく、私立の問題は教科書以外の範囲も出されるらしいが、正直言ってそこまで手が回らねぇ。だから、学校の出題傾向を知るために最近の過去問を繰り返し解くしかなく、必死に理解しようとしている。

 勉強自体が苦手な自分に『できるか?』と問いかけても、いまいち自信が持てない。だけど、黒崎さんは優しく微笑んでこう言う。

 

「大丈夫。先月は全教科60点取れたんだ。着実にわかるようになってるから、全然心配しなくていい。この調子でいこう」

「ウッス」

 

 口頭で解決案を説明するつもりだったらしいが、わざわざ東京まで出向いた日に、勉強の話で時間を潰してしまえば食欲がなくなり楽しくないだろうと気遣われるうちに、周りで本格的に片付けが始まって席から立ち上がった。

 

「黒崎さんは、頑張れって言わないんだな」

「ああ、言わない。君が頑張ってるのは知ってるもの。わざわざ言うほうがどうかしてる」

「そういうもんか?」

「そういうもんだ」

 

 俺が知っている机とは違い、全てが木製の机上にイスを逆さまにして乗せ、左右の(ふち)に手をかけて持ち上げ、玄関に持っていこうとする。俺も同じようにする前にいち早く気づき、重い机を抱えたままの姿勢を維持しながら、怒鳴るでもなく大声も出さず、諭すように静かな言葉で制止された。

 

「影山君。今日の君は客だから、やらなくていいぞ。気持ちだけ受け取るから。…ありがとう」

 

 そこで、赤い髪に淡い黄色がかった目を持つ男子生徒が近づき、俺が数秒持っていたイスを乗せた机を軽々抱え、黒崎さんの隣に歩み寄って近づく。模擬店の売上や同級生の話をしながら肩先が触れそうな距離と、彼女と並んで歩くソイツの後ろ姿を見て、なんかモヤモヤした感覚と無性に腹が立つ自分がいた。

 正面玄関口から一番遠い場所に座っていたため、そこに入ろうとした矢先に、金髪の女子生徒がスマホ片手に窓から身を乗り出して、赤羽とか言うヤツと一緒に写真を撮ると言ってくる。そこで、二人は机を外壁に沿って地面に置き、画面に収まるために必然的に距離を縮める必要があり、完全に肩先が触れた拍子に勢い余って赤羽のこつんと側頭部が当たって、お互い笑いあっていた。写真が1枚撮られ、眼前の光景に気に入らずにイライラする。

 

「影山君も紬と一緒にどうよ?」

「! アザス」

 

 同級生の提案を聞いて嬉しそうに手招きする黒崎さんの笑顔を見て、一時期に怒りがなくなった。そして、彼女の背後に立って後ろから抱きしめ、至近距離で離れるつもりのない赤羽をにらみつける。

 

「…? 赤羽をにらみつけてどうしたんだ? 影山君」

「なんでもねぇ」

 

 1日の終わりに、黒崎さん経由で赤羽と3人で映った写真が携帯に送られたが、どうやって赤羽を除いて保存するかわからなかった。



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第25話 触手の持ち主

「カエデ…?」

「あーあ。渾身(こんしん)の一撃だったのに」

 

 学園祭や演劇発表会が終わった翌日の、12月5日。

 突然の破壊音を聞きつけ、同級生達と校舎から出て目撃したのは、倉庫の屋根に立っている髪色と同じ緑の触手を生やしたカエデだった。

 彼女は険しい顔で殺せんせーを『人殺し』と呼び、翌日に殺害予告をした後、自身の触手を操って遠くへ姿を消してしまう。それから、皆でできる限り情報を集め、本業が女優ということと、彼女の本名が雪村あぐり先生の妹・雪村あかりということが判明した。

 

「紬ちゃん。どうしたの? 食欲ない?」

「すみません。考え事をしてて。明日、帰りが遅くなります」

 

 余計な心配をかけないように、食卓を囲む山鹿家の人達に告げて食事を再開する。

 

 

 茅野カエデ。もとい、雪村あかりが指定した翌日。

 居候先に一旦帰宅し、自室で制服をハンガーにかけた後、整理箪笥(たんす)からランニングウェアを引っ張り出して着替える。カエデの触手に巻きこまれて死ぬような間抜けな真似はしないと思うが、それでも万が一に備えて、小学生の頃から使っている学習机の施錠している引き出しのひとつを付属の鍵で解錠し、2通の茶封筒を取り出す。

 

「あと、忘れ物は…」

 

 貴重品を学生鞄から愛用のショルダーバッグに移し変え、からくり箪笥から必要なものを取り出してから、縁側の先にある誰もいない居間に行き、保護者である母と家主の山鹿夫妻に宛てた手紙を居間のテーブルの上に、きちんとそろえて置く。しかし、それだけでは物足りないので、部活でまだ帰宅していない山鹿家長男と長女宛てに、それぞれ短い伝言を残した。

 学校まで走る前に、家の壁にかかって古びた時計を見上げ、時を刻む秒針を意味もなく眺めてるうちに、ここにはいない幼馴染を思い出して、気づけば耳元で呼び出し音が鳴っていた。

 

「…何やってんだ。あたし」

 

 無機質な音が繰り返し鼓膜を震わせる。

 彼は、電話に出ない。

 死ぬわけじゃないと頭ではわかっていても、生い立ちゆえに常時気が張って、万が一のことを考えてしまう。

 

「馬鹿みたい…」

 

 最初は、声が聞けるだけで良いと思ってた。

 でも、いつの間にか、それでは満足できない自分が心の片隅に()みつくようになって、(しつけ)られていない子供のように我儘(わがまま)を言ってきても、それに(ふた)をし続けて我慢してきた。最近になってそれに(ひび)が入り、段々壊れ始めている。

 

 ああ、だめだ。最近、心が弱くなっている。

 早く電話を切ろう。影山君に迷惑がかかる。

 

 数回の呼び出し音で見切りをつけて、液晶画面に表示された通話を終了する赤い電子ボタンに指先で触れようとした刹那(せつな)、単調か音がぶつりと途切れた。

 

『…もしもし? 黒崎さん?』

 

 表示が通話状態に切り替わって彼の声が耳に届いた瞬間、安堵している自分がいることに驚きつつ、『今はどうでもいい』と気持ちを切り替える。

 

「…すまない、影山君。今、時間大丈夫か?」

『? おう。大丈夫だ』

「そうか」

『…どうした?』

「君の声が聞きたくなって、気づいたらかけてた」

 

 電話口の向こうで、彼が『は?』と呆気(あっけ)にとられる声をあげたのを聞き、なぜだかわからないけど笑ってしまった。

 

「用はそれだけ。じゃあな」

『おう…』

 

 笑ったのが(しゃく)に障ったのだろうか。

 最後に聞こえた彼の声は沈んでいた。

 普段とは違う別れの言葉で会話を締めて、素早く通話を自分から切り、窓と元栓を閉めたことをしっかり確認してから、玄関を閉めてカエデが指定した場所へ走って向かう。いつも徒歩で通学している道が違って見えるのは、友達だと思っていた同級生の豹変の影響だと考えていた。

 

 

「来たね。じゃあ、終わらそう?」

 

 19時になる頃には、裏山のすすき野原にE組の面々が集まり、真冬なのにノースリーブのワンピースにストールという薄着の雪村あかりが出迎えた。普段と全く変わらない屈託のない笑顔で、カエデが殺せんせーに語りかけている。

 

「殺せんせー。せんせーの名付け親は私だよ? ママが『()ッ!』してあげる」

「茅野さん。その触手をこれ以上使うのは、危険過ぎます。今すぐ抜いて治療しないと、命に関わる!」

 

 担任の言葉を聞かずに、これまで過ごしてきた時間が全て演技だったこと。彼女の姉である雪村先生のことを話していった。それは同級生達も同様で、たとえ短期間でも、めいめいに雪村先生との思い出を語っていく。

 それは、あたしにも当てはまる。

 

「カエデ。あたしが雪村先生と過ごしたのは、…クソ野郎がくたばるまでの3日だけだった。短期間でも、彼女が誰かの死を望む人間じゃないことくらい、十分理解できる」

「何知った口きいてるの、紬? お姉ちゃんが、どんな死に方をしたのかも知らないくせにッ!! もう黙っててよ!」

「了解…」

 

 ヒステリックに叫ぶカエデを前にして口を(つぐ)み、あたしを挟むように優月とメグが寄り添って立ち、彼女達から肩を叩かれた。二人の顔を見比べてみれば、『黙るべきじゃないよ』と言いたげな表情をしている。

 イトナが、触手を後天的に移植された人間の特徴――体は熱く、首元だけ寒い――と告げていたが、カエデは、それを無視して触手から炎を発生させ、(むち)のようにしならせて『部外者達は黙ってて』と怒りをこめて告げた。

 

「どんな弱点も欠点も、磨き上げれば武器になる。そう教えてくれたのは、せんせーだよ。体が熱くて仕方ないなら、もっともっと熱くして触手に集めればいい!」

「駄目だ! それ以上は――」

 

 殺せんせーの言葉を遮るように、炎を(まと)った触手を地面に打ちつけ、イトナと対戦した時同様、すすきの一部を燃やして即席の(おり)を作り、二人だけの闘技場(リング)を完成させた。

 

「これで部外者のあたし達が隔離された。…見事な作戦だ」

「関心してる場合じゃないわよ、紬! 茅野さんを助けて!」

「無理言うな、メグ。今行けば、復讐に(とら)われてるカエデに殺される。今さらあたし達が彼女にできることは何もないし、()り遂げるのが本望なら好きにさせればいい」

「そんな…! 茅野さんが死んでもいいの!? 紬。ビッチ先生の時と真逆のこと言ってるじゃない!!」

「うるさい!! 黙って見てろ!」

『っ!!』

 

 大声が苦手な自分は、普段(あら)らげない声を張り上げて親友を黙らせる。

 誰もが絶望する中、彼女の活動時間が限界を迎える直前、隙をついて命を救うために渚がカエデにディープキスをして、殺意と復讐心の無力化に成功した。そして、殺せんせー自らピンセットで触手の除去に成功する。

 それを最後まで見届け、ようやく安堵できた。

 

「…ああ。カエデの暗殺が失敗して良かった」

 

 次の瞬間、突風が通り過ぎて、何かが殺せんせーの目を鋭く(えぐ)った。

 

『…えッ!?』

 

 E組全員の視線が一斉に向けられ、驚き、息を呑むのも無理はない。

 

 月光に照らされて黒い光沢を放って(うごめ)く、自分の(うなじ)――正確には、後ろ髪の生え際から2本の触手が生え出たからだ。

 

「今度は、あたしが()る番だな」

 

 珍しく自分の声が弾んでいるのも、三日月が刺繍されたネクタイの下にある心臓を貫かれて、殺せんせーが弱っているのもわかる。動揺している一瞬の隙を見逃さずに、コートの下に忍ばせていた対触手物質のBB弾をこめた銃を取り出し、脚を正確に撃ち抜いていった。

 標的の口から苦悶の声が漏れ出る。

 それでも構わずに腕に照準を定めたところで、力任せに千切られたものではない綺麗な断面が露出した。

 

「ぐっ!」

 

 彼の視線が別の触手へ注がれる。

 

「持ってる触手は2本だけじゃないぜ? 殺せんせー」

 

 触手の下からさらに2本の触手を増やして、普通のハンカチで柄を包んだナイフを掴み、その切っ先を標的に向けていた。



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第26話 暗号名

「紬。どうして――」

 

 生徒達の動揺をよそに、光沢のある黒い触手を(うなじ)から4本生やした黒崎さんは、片岡さんと不破さんの脇腹にそれを押しあてて電撃を発し、手際良く気絶させた後に俺に向かって言った。

 

「これより依頼を遂行する」

「ッ!?」

 

 少女から発せられた、青年のような低い声に聞き覚えがあった。たった一回だけだが、その真剣な声音を忘れるはずがない。

 

「ハボック…!?」

「嘘よ…」

 

 隣に立っているイリーナは、口元を両手で覆い隠して首を振り、仲の良い女子生徒を拒絶する。

 しかし、当人は動揺する同級生に関心を示さず、ショートコートの下――ズボンとインナーの間に挟む形で隠し持っていた銃に、素早く減音器(サプレッサー)を装着した自動小銃の銃口をイリーナへまっすぐ向け、なんの躊躇(ためら)いもなく引き金を引いて撃った。

 しかし、黒崎さんの表情は、炎の檻である光源を背にしている上に生徒達がいるせいではっきり見えない。暗闇の中で発火炎(マズル・フラッシュ)が起これば、それを頼りにできるが無駄な願望だった。

 

「ッ!」

 

 俺はイリーナの腕を引っ張って引き寄せるのが精一杯で、背広の下にある銃を引き抜く隙がない。もし、彼女の前でそんな真似をすれば、次は俺に照準を合わせるだろう。

 タコに背を向けているにも関わらず、触手による攻撃を止めることはなく、まるでそれが別の意思を持っているかのように動き、残像すら視認できないほど速い。皆が衝撃を受ける中、俺が声を張り上げて話を聞こうとしても、彼女は(かたく)なに無視して拒絶する。

 敵の言葉に耳を傾けず対話しないのは、それによって心が揺らがないようにするためだろう。

 もし、彼女の母親である黒脛巾(はばき)さんが、暗殺者としての技術や知識を『護身術』という名目で全て教えているのなら、良い教官と言える。しかし、それは同時に、娘の黒崎さんの心の負担を度外視していることの証拠だ。

 

「やめて。 殺せんせーを殺さないで!」

「倉橋さん、危ない!」

 

 減音器を着けているため、銃声はしない。

 あまりにも素早く倉橋さんへ容赦なく放った、無慈悲な射撃。照準は正確に眉間を狙っていたが、タコに間一髪で救われる。

 雑草の上へ落ちていく空薬莢(やっきょう)と、嗅ぎ慣れた硝煙(しょうえん)の臭い。

 それらの情報全てが、実銃だと思い知らされる。

 炎に対して逆光であっても、細長い特徴的な円筒形の減音器から、あれがグロック19で普通は市場に出回らない代物だとわかった。

 

「どうして撃ったんです!? 同級生でしょう!?」

「同級生でも、邪魔をするなら殺す」

 

 彼女は、すでに俺とイリーナ。人間の大人2人から背を向けて、ある程度力を抜いているように見えるが、全方位への警戒は怠っていないと、今の生徒達にはわかるだろう。

 抑揚のない声で言いながら、銃を元の位置に戻すことなく油断なく構え、銃口を下に向けているそれを奪おうとした寺坂君達を無造作に射殺しようとする。

 立て続けに3発。

 射線上に、体の細い学友がいてもお構い無しだ。

 炎の檻に入らずとも、戦闘能力と冷酷な判断は一流の殺し屋のそれで、ようやく普通の中学生離れした実力に納得する。

 そうこうしている間にも、左手に持ったE組へ支給した銃で、足の触手をBB弾で全て撃ち抜いてタコの機動力を失わせていった。茅野さんの触手が穿(うが)った心臓の致命的な再生をさせまいと、他の重要器官――口、鼻、耳など――を破壊して、確実に機能を奪っていく。もちろん、心臓への攻撃も忘れないが、それはタコがどうにか死守していた。

 

「黒崎…さ…」

 

 声帯までは壊されておらず、必死に(かす)れた声で語りかけるも、相変わらず無感動の瞳と無表情。『我関せず』の態度を貫き、無機質で無感動の瞳で弱体化していく教師を眺めていた。

 彼女の服に触れた触手が溶かされ、すすきが茂る地面にべちゃっと音を立てて落ち、ひゅっと風を切る音がまた聞こえてくる。

 

「なぜ…、そん…ものを…」

「お前を確実に殺すためだ。殺せんせー」

 

 どこで入手したのか知らないが、シロと同様の対超生物物質の繊維が編みこまれた服のせいで、茅野さんのように触手で捕まえて動きを封じられない。

 

「紬、やめなさい!」

「……」

 

 イリーナがコートのポケット内に隠せるほど小さな銃──レミントンのデリンジャー──を取り出し、発砲。無意味だとわかっているのに、それすら触手1本で易々と叩き落とされるほど無力化され、黒崎さんの命を救う手立てがない。

 彼女は修学旅行でも普久間島でも、いつも起こりうる最悪の結果を常に考え、冷静さを欠くことなく用心深く慎重に行動し、皆の精神的支柱となってきた。だから、今回も茅野さんを救う手段があると踏み、甘えていた。

 茅野さんを止めれば、全てが終わると思っていた。

 誰もが彼女の名を呼び、正気に戻るよう懇願しても、黒崎紬という人間は相変わらず誰の言葉にも耳を貸さない。

 眼前で(つい)えようとする標的に関心を示し、確実に全身を(むしば)んでいる細胞による激痛で痛がる素振りも、悲鳴をあげる様子も見せず、4本の触手を操る姿は暗号名が示す通り全てを破壊し、死に向かって歩く人形に見える。

 

 打つ手なしか。

 

 黒い触手が再度心臓に狙いを定めて穿ちかけた瞬間、俺の後方――5時の方向から一人の気配が近づいて苦しそうに何回か()きこみ、若い男子の声が全員の耳に聞こえた。

 

「やめろ、黒崎さん!!」

 

 もし、残された切り札があるとするなら、彼に賭けるしかない。

 おそらく、暗殺計画の部外者である男子をこの場に呼んだのは自分の部下で、本来なら契約違反だが、彼女の命を落とさずに済む方法があるなら、俺も外部に協力を募ってあらゆる手を尽くすだろう。

 5ヵ月前にイリーナがE組のグループラインで流した写真と動画でしか見ていないが、彼が黒崎さんの男友達の1人だとわかっていた。

 

「影山君。危ないから、黒崎さんに近づかないでくれ」

「黒崎さんを止められるのは、俺だけです。お願いします!」

「君は部外者だ」

「っ! じゃあ、なんで誰も止めないんですか!」

「止めようとした…! だが、誰の言葉にも耳を傾けようとしないんだ」

 

 こうして彼に事情説明する時間さえ、本当は惜しく感じる。

 

「もう手段がない。…頼む。影山君」

「お願い、紬を助けて。カゲヤマ…!」

「ウス! ありがとうございます」

 

 スポーツバッグを肩から提げ、詰襟にコートを羽織っている彼は、自分達人間の大人の懇願を聞き入れて一礼し、黒崎さんを説得するために重たい鞄を地面に置いてから動いた。黒崎さんのもとへ駆けていく少年の背を見送った。

 ここから先は、影山君に頼るしかない。

 いや、違う。

 部下が、茅野さんが触手持っていたという昨日の報告を聞き終えた後に、『明日1日、自分に時間を下さい』という進言がなければ。許可を与えなければ、成す術もなく1人の少女の命が潰えることになっていた。

 まるで、黒崎さんがこうなると予期していたかのような推察に、自分の背筋が寒くなる錯覚を振り払い、自分に対して顔を上げるよう命じる。しかし、彼──影山君の表情は燃え盛るすすき野原を背にした少女を見ても晴れることはないが、不安な眼差しではなく、怒りを向けていた。

 

「なに人殺そうとしてんだ、黒崎さんのボゲェ! 今すぐやめろ!」

「やかましい。仕事の邪魔をするな。お前も殺すぞ」

 

 淡々とした感情の読めない口調が、辺りに響いた。



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第27話 引き留める方法

影山飛雄君へ。

 こんばんは。もしくは、おはようございます。突然、このような形で連絡を取ることになり、申し訳ありません。私は、黒脛巾(はばき)という者です。

 明日12月7日火曜日に、5時間目が終わったら走って最寄り駅に行き、一九時までにE組まで行って下さい。間に合わなければ、あなたの友達が亡くなる可能性が高くなります。

 

 追伸

 ご家族には、あなたが東京に行くことを私から伝えます。以下の電車とバスを乗り継げば、指定の時間に遅れません。ついでに私の連絡先を登録して頂ければ、緊急時に連絡が取れます。仕事が終わったらすぐに参りますので、くれぐれもお気をつけ下さい。

 

 早朝、走りこみが終わった後に自宅の郵便受けに父さんが購読している新聞と一緒に、俺宛ての手紙が茶封筒に入っていた。

 黒脛巾(はばき)という名字の人に心当たりがあったから、有無を言わせない脅迫に思える手紙の内容も真実だと信じ、言われた通り行動した結果が、首の後ろからぐにゃぐにゃと動くものを生やした黒崎さんの異様な姿だった。

 

「影山君。危ないから、黒崎さんに近づかないでくれ」

「黒崎さんを止められるのは、俺だけです。お願いします!」

 

 文化祭とは違って、きちんと椚ヶ丘本校舎の事務室に行ってE組に行く許可をもらい、俺はそこへ全力疾走で木枠の階段を駆け上がって、息を整える暇もないまま幼馴染に声をかけたのが、ついさっきのことだ。

 そして、総体の後に黒崎さんが電話で言っていたことを思い出す。

 

(英語教師が勝手に撮った動画が、クラスのグループラインに流れたんだ。本当に面目ない)

 

 だから、俺のことを知っていて止める目の前のスーツを着た男の人も、きっと先生の一人だろう。

 

「君は部外者だ」

「っ! じゃあ、なんで誰も止めないんですか!」

「止めようとした…! だが、誰の言葉にも耳を傾けようとしないんだ。もう手段がない。…頼む。影山君」

「お願い、紬を助けて。カゲヤマ…!」

「ウス! ありがとうございます」

 

 お礼を言ってから鞄を地面に置き、燃えているすすきを背にした黒崎さんと対面する。

 

「なに人殺そうとしてんだ、黒崎さんのボゲェ! 今すぐやめろ!」

「やかましい。仕事の邪魔をするな。お前も殺すぞ」

 

 初めて見た感情が無い瞳と、黒光りする銃。

 初めて聞いた背筋が凍る声。

 初めて言われた『殺す』という言葉。

 

「……」

「…そうだ。そのまま大人しくしてろ」

 

 俺から興味をなくして、着ぐるみの黄色いタコさんに向き直り、右手に銃を構えたまま首の後ろから生え出た動く黒い物を相変わらず動かしながら、彼女の行動を止められるかもしれない賭けの一言を叫ぶ。

 

「やめろ! 黒脛巾(はばき)さん!」

 

 タコさんのネクタイの下を狙う黒い物は止まらず、黒崎さんは俺に視線を向けないで言った。

 

「…誰かと間違えてないか?」

「間違ってねえ。黒崎さんの本名で、5歳の時から一緒だっただろうが」

「何を言ってる? 小学生の時からだろう?」

(ちげ)え」

「違わない」

「それなら、『初めて来た』七夕祭りで、笹飾りの前に立って眉寄せたり、ひょうたん揚げ食って首かしげたりしねえんだよ」

「それがどうした」

「俺は、黒崎さんの過去を知ってる」

「……」

 

 黒崎さんが黙りこむ。

 彼女の瞳は炎を映し、言葉に答えても俺の姿をとらえてはいない。

 

「過去なんて、どうでもいい。今まで培った技術を触手で補って標的を殺して、E組の黒崎紬でも君が言うクロハバキ紬でもなく、暗殺者のハヴォックとして死ぬ」

 

 背中を向けたままの幼馴染に、怒りに任せて言葉をぶつける。

 

「本気で死ぬつもりなら、なんで俺に電話したんだ!? 『死にたくない』って思ったからだろ!! いい加減、この俺にッ! 王様に本音全部ぶちかませ! 女王様!!」

 

 返ってきたのは、いつもの微笑みじゃなかった。

 俺に向けられたのは、黒いほうの銃だった。

 

「夏祭りの仕返しなら失敗だな。王様」

 

 くぐもるだけで、映画のようなパンッと弾けて聞こえるはずの音がしない。

 でも、打ち出された物が俺に当たることはなかった。後ろから詰襟ではなく、両肩をつかんで誰かに引き倒されたからだ。

 

「い゛…ッ!」

「すまん。丁寧に扱ってる暇がない」

「…ッス」

 

 男の人が謝っているのは、黒崎さんを絶対に救うという理由があるからだろう。

 

「残り11か12発。危険だが、これは影山君にしかできないことだ。援護する」

「ッス」

「カラスマ。本当に撃つの…?」

「威嚇射撃だ。…行け!」

 

 俺は立ち上がって、一歩ずつ黒崎さんに近づいていく。

 彼女との距離まで、あと半分。

 黒い物はまだあのタコを殺そうとして動き続け、黒崎さんの呼吸も段々浅くなっている。それでも歩みを止めない。カラスマと呼ばれた人は、俺に向かって撃とうとする黒崎さんを止めようとして威嚇射撃をしたけど、弾が彼女の体に当たることはないし、俺にも当たらない。

 

「黒崎さん!! 影山君もあなたの大切な人でしょう! 正気に戻っ──いたっ!」

 

 人形のように感情が読めず、彼女の冷酷な意志が銃から吐き出される。それら全てを目には見えなくても、タコが止めていて、邪魔されることに腹が立った黒崎さんは、無表情で左手に握られたままの緑色の銃を撃った。

 おもちゃに見える銃から何かが出て、ばちゅんと弾ける音と共に俊敏に動いていりは太いほうの両腕が草むらに落ちた。しかし、活きのいい魚みたいにびちびちと両側で跳ね回り続け、なんだか気持ち悪い。

 

「邪魔するヤツは全員殺す。そう言ったはずだ」

「それでも…! せんせーも影山君も、黒崎さんの命を救うためならどんな手でも使いしますし、絶対諦めません!」

「っ!」

 

 人には効かない物だと判断し、本物の銃を持ったほうの右手首がタコの細い手によってつかまれた隙に、一気に走って距離を詰めたものの腹を容赦なく蹴られ、その衝撃で地面に尻餅をつく。数秒痛みで激しく咳こんで、ひょろひょろした男子生徒に背中をさすられた。

 タコの先生と同じく、『必ず黒崎さんを止める』という執念だけで立ち上がって、自分より細く、先生に打撃を与える銃を持つ左手首を握る。至近距離で間近に対面すると、額からびっしり汗をかいていて、肩で呼吸し、触れた肌はインフルエンザにかかったのかと疑うくらい熱かった。

 

「…もう、やめてくれ。黒崎さん」

「離せ…っ!」

「離さねえ。今度こそ絶対に離してやらねえからな」

「今度こそってなんだ。離せ! 邪魔するな! ちゃんとやらなきゃ――」

「頼む。…死なないでくれ」

「うるさい。あたしは戦って死ぬ! お前なんか、どうなってもいいんだ。クソ…! 離しやがれ!」

 

 平行線のまま死なせるくらいなら。言葉での説得がだめなら、いっそのことこうしたほうがいい。俺は黒崎さんより馬鹿だから、何も考えずに感じたままに、空いた左腕を腰に回して行動に移す。

 

「い゛っ…!!」

 

 首に思い切り噛みついた。

 うっすら歯形がつくほど強く、強く。

 鎖骨に近い場所のせいで、首飾りが犬歯に当たった。

 

「何すんだ、テメェ…!」

「殺すのやめるって言うまで、噛み続けるからな」

 

 炎の逆光で見えねえけど、地味な痛みに顔をゆがめているだろう。

 後ろにタコ先生。前に俺が立ち塞がり、身動きが取れない幼馴染は、隙あらば俺の靴を踏んだり脚を蹴ったりと抵抗して暴れ続けている。

 いくら衝撃が加わってもそのたびに首筋から離れ、違う場所を噛んでいった。短くか細い耐えるような悲鳴が頭上から聞こえてきて、今までとは全然違うかわいい声に命を失うかもしれない状況で、『もっと聞きたい』という欲求が募っていく。

 

「やめる気になったか?」

「ッ…!」

 

 しばらくして首を半周した頃、彼女は両手を上げて降参の意志を示した。



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第28話 それぞれの過去

(殺すのやめるって言うまで、噛み続けるからな)

 

 生死を伴わない脅迫を受けたのは初めてだった。

 誰もが、あたしの死を望んでいたから。

 いや。誰かは望んでいなかった。記憶があいまいで、はっきり思い出せない。

 首筋に影山君の吐息がかかるたびに、未知の感覚に体が震え、噛みつかれる際に苦痛による短い悲鳴が意思とは関係なく喉から漏れ出ていく。触手細胞による激痛とは別の──外部から直接的な痛みが痛覚を通して、ぞくぞくする感覚が『正気に戻れ』と言わんばかりに全身に広がった。

 

 もう耐えるのは無理だ。

 これ以上されたら、恥ずかしさのあまり疑似的に死んでしまう。

 

 そう意識の片隅で思い、大人しく両手を上げて降伏の意を示すと、満足そうに彼が(うなず)いた。それで終わりかと思えば、今度は力一杯抱き締められてから、ようやく影山君の手先がかすかに震え、心音が早鐘を打っていることに気づく。

 

「…これ以上心配かけさせんな。ボゲエ」

「……ごめん」

「おう」

 

 そして、BB弾をこめた支給品の銃と熱が残る愛用の銃から減音器を外して所定の位置──ズボンとインナーの間にねじこんでから、壊れかけの人形のようにぎこちない動きで、両腕を影山君の背中に回した。

 先々月の救出作戦の時とは正反対の立場をこんな形で味わうことになり、心配される側になってようやく自分も誰かに必要とされていることを知った途端、胸中に暖かいものがこみ上げてくる。家族や知人よりも信頼し、自分の安全地帯と定めている幼馴染に身を預けて、安らぎを感じながら意識を手放した。

 

 

 再度目を覚ますと自分は地面に横たわっていて、1年弱(さいな)まれ続けていた激しい頭痛が綺麗さっぱりなくなり、触手細胞から解放されたのだと知った。そして、幸いなことに神経に支障はなく、手足も問題なく動く中で左手を誰かに握られている感覚がする。

 数度瞬きした後にゆるりと眼球を動かして視認したのは、頭上で涙をこらえる影山君の姿で、安心させるように無言で大きな手を握り返した。本来なら影山君は部外者だが、あたしを説得した上に命を救ったとして、彼がこの場にいることを烏間先生が特別に許可したらしい。そこまでの報告を受けて、腹筋と自由な右腕に力を入れて上半身を起こす。

 やがて、カエデの過去が明らかになり、全員の視線が自分に向けられた。彼らの無言の意見に従って、自分がなぜ暗殺者になり、どうやって触手細胞を手に入れたのか。その経緯を話し始めた。

 

「暗殺者になりたくてなったわけじゃない。そうなるしか、道がなかっただけだ」

 

 

 一番古い記憶は、今から10年前。5歳の夏頃。

 研究員だった今は亡き父・黒崎は、意識が朦朧(もうろう)とする幼かった自分を部屋に放置し、男の知人の女は後の母となり、娘となった自分に母は『紬』と名付けた。そして、母から『護身術』と称した知識や技術を吸収していく。

 父から許される外出の機会と行き先は、研究所と暗殺の仕事を行う際、偽装のために鳶色に近い茶色のカラーコンタクトを必ず入れていたが、なぜそうする必要があるのかは聞かなかった。『いらないこと』を尋ねて、父に言葉と物理的な暴力を振るわれるのが怖かったからかもしれない。

 

「『大人の事情』が変わったのは、1年半が過ぎてからだった」

 

 2003年2月末日。

 父に偽造旅券を眼前に突き出すように乱暴に渡され、『海外旅行へ行く』と言われた。

 静岡の家から羽田空港へバスや電車を乗り継ぎ、飛行機で羽田からトルコを経由してレバノンに入国し、帰国を翌日に控えた夜に父が強盗に襲われ、隣にいた幼い自分は拉致されて消息不明の扱いになった。拉致された先はテロリストのアジトで、生き延びるために銃を含めた武器の扱い方を覚え始めた矢先に、イラク戦争が勃発した。

 

 2年後の3月上旬。

 女性が、ショッピングモールで買い物中の当時9歳の自分に接触してきた。

 監視を兼任している者にうまく言いくるめて店の外にいたタクシーに乗りこみ、車で10分ほどの距離にあるベイルートの国際空港へ直行。世話になった女性と合流した男性が手引きをして、無事日本に生還した。その方々が、現在居候先の山鹿(やまが)夫妻だ。

 

(あの家に帰らないほうがいい)

 

 しかし、世間で『娘が拉致されたかわいそうな父』と報道されていたため、夫妻の猛反対を押しきって(かえ)してもらう。あの頃の幼い自分は、なぜ反対されるのかよく理解できず、たとえ暴力を振るわれても『家』と呼べるのはそこしかなかった。

 探しもせずに置き去りにして静岡の家で生きていた父は『よく帰ってきた』と言ったが、その瞳は、大して愛着のない道具を見つけた時のような冷めたものだった。

 生還の報酬として、それまで微々たる金額が大金になって銀行口座に振り込まれる。半年後に学校に通わせる諸々の手続きをするものの、肝心の日本語を完全に忘れるという事態に陥り、駅近くにあった塾に通い、平仮名の読み書きから学び直して、1年かけて小学3年生までの内容を必死に勉強していった。

 翌年の3月末に住所を静岡から宮城に移し、父の命令で伸び放題の髪を切り、印象を変えるためだけにベリーショートヘアにした。

 

「暗殺の訓練が終わって仕事を始めたのは、バレーを習い始めたのと同時期。呼び名が無いと仕事に支障が出るから、担当研究者から破壊(ハヴォック)のコールサインを与えられ、それを暗号名(コードネーム)に使った」

 

 名前に執着がないのはただの記号に過ぎず、研究員が1度だけ自分に告げた『クロハバキ』というのも、呼び名のひとつだと思っていたから、それが自分の本名だとは知らなかった。

 

 去年の7月20日。

 連休明けの学校帰りに、静岡の研究所に寄るよう父に命令され、研究段階の触手細胞を移植される。

 そこで、すでに実験を進めているという者と対照的な実験が行われた。実験となるものを提供した組織が、指定した条件は、女で10代。暗殺者として実績が十分ある者。研究内容は、頭部に近い場所に特殊な細胞を埋めこみ、定期検査(メンテナンス)を行わずに放置して様子を見ること。

 自分に拒否権はない。

 便宜上、父と呼んでいた男が敷いたレールに沿って、ただただ黙して歩んでいく。

 もし、自分の感情に従って反抗できたとしても、彼らのやり方で処分されて遺体が運び出される子供達を幾度も目にし、反抗したり仕事に失敗すれば、自分も殺処分されると理解していた。

 

「死ぬのは全然怖くなかった。移植されて……、1年と5ヵ月前だ。触手細胞に侵食されるうちに、『誰も知らない自分(ハヴォック)として死ぬこと』を望んで、まともな思考ができなくなった結果が、この惨状。…これで、あたしの話は終わり」

 

 あっさりとした口調で話を締めくくったが、皆の表情は暗かった。

 どうしたものかと考えても結局わからず、独り悩む中でメグと優月二人と視線がかち合い、うやむやにするよりもここで謝罪すべきだと考え、(だる)い体を無理矢理動かして、地面に額をこすりつける勢いで土下座する。

 

「…それから、皆に銃口を向けて撃ったことを謝る。ごめんなさい」

「…謝らなくてもいいわよ。紬」

「え…?」

「そんなの、紬から心身と思考と自由を全部奪って抑圧した研究員達が悪いんだから。…紬自身が生き延びるためには、そうするしかなかったんでしょう?」

「……うん」

 

 怒号や罵詈雑言が飛ぶかと思っていたが、メグの言葉を筆頭に彼らなりの叱咤が飛び、ただただ呆気にとられておそるおそる頭を上げると、頭上からぺたりと触手の感触がしてそのまま撫でられた。

 ゆるゆると上半身を起こして正座の姿勢を取ると、影山君がずいっと距離を詰めて、こう告げる。

 

「黒は──」

「黒崎」

「く、黒崎さん。カラー? ってヤツを取れるのか?」

「あ、ああ…。ちょっと待ってくれ」

「おう」

 

 4時間ぶりに両目に着けた茶色のカラーコンタクトを外して、再度彼に視線を合わせると同時に力強く抱き締められ、あっけなく指先からコンタクトが落ちたが、今はどうでもいい。

 

「青だ…」

碧眼(へきがん)ってやつ」

「変わってねぇ…!」

「そうか…? 全然思い出せないな」

 

 影山君は噛み締めるように言って、安堵からか大きなため息をついた。

 今年の夏に、黒脛巾紬という女の子が誘拐されて行方不明になってから10年になる、という報道があった。

 自分は、それまで報道される顔写真が他人の空似だと思っていたけど、裏表がなく、まっすぐで嘘がつけない幼馴染の反応から、自分が誘拐された張本人だとようやく理解できた。

 

 

 そんな時、一人の気配が急いですすき野原へ近づいてくる。

 烏間先生が対応していることからどうやら直属の部下で、膝に手をついて呼吸し、喉から苦し気な喘鳴音が漏れ出るのも無視して顔を上げ、地面に流れ落ちる汗もそのままにしている。現場責任者である先生は彼と視線を交わし、無言で深々と頭を下げ続ける部下を評価していた。

 

「さて…、私の話をする前に、あなたはどちら様ですか?」

「あ。はいっ」

 

 ぴしりと背筋を伸ばして姿勢を正し、一度咳払いしてから、汗だくの背広姿の男は自己紹介を始めた。

 

「防衛省臨時特務部所属、黒脛巾(はばき)護と申します。つ、げほっ。紬の実兄です」

 

 皆が驚くのも無理はない。

 そもそも、自分に兄がいたことすら知らなかったからだ。

 

「…どうして、今まで姿を見せなかったんですか?」

「本部長に接触を禁じられていたからです。それに、俺に会っても、紬が覚えている確証は持てずにいました」

 

 殺せんせーは『ふむ…』と(うな)りながら考え、眼前の男の次に烏間先生に視線をやる。

 

「烏間先生も、この命令を知っていましたか?」

「いや。初耳だ」

「護さん。上司の命令を破ったのはなぜです?」

「妹の命がかかっていたからです。なので、本日ご両親に許可を取って、影山君を中学校から連れ出しました」

「触手細胞のことは?」

「特務部に配属された際に。紬がE組にいる事も、そこで知りました」

「にゅや? それまで黒崎さんと連絡は取っていたんですか?」

 

 そこで、初めて彼がゆるゆると首を横に振った。

 

「取れるわけがないでしょう。10年間ずっと探し続けてたのに」

「…良ければ話していただけませんか? 10年前に何があったのかを」

「はい」

 

 そうして、あたしの『兄』と名乗る男が過去を話し始めた。

 事の発端は、10年前の8月10日。

 仙台七夕祭りの前夜祭が終わった1週間後のことだった。

 幼稚園に次女を迎えに行ったはずの家政婦が、1人で帰ってきたらしい。曾祖父母の介護をしていた家長の父が珍しく激しい口調で問い詰めると、いけしゃあしゃあと『妹を欲しがる人物に引き渡した』と告げる。

 

(どうしてそんな真似をした!?)

(金が欲しかったからです)

 

 その家政婦は、母の旧知の友人で、その伝手(つて)で雇っていた。

 2001年当時、まだ人身売買罪が制定される前で、警察に連絡をして誘拐罪が適用された。防犯カメラもそれほど普及しておらず、捜索が難航した結果、数ヵ月後に打ち切りになった。

 

「家政婦の有罪判決がされたのは、翌年の10月末。俺と父は、父の会社の伝手を頼って、母の異動先から各駅に止まり、チラシを配りながら東に向かいました」

 

 誰かが紬を見かけたかもしれない。

 その思いにすがっていた時に、別の事件が起こった。

 

「3月1日の夜に、『しのぶ』と呼んでいる人工知能を経由して、紬が中東に行ったと連絡を受けました。誰が情報を流したのか、まだわかりません」

 

 あたしは、母か山鹿さんあたりだろうと推測するも、確証が得られない今は、何も言えないので黙って聞く姿勢を継続した。

 数日後、レバノンで女児が行方不明されたと報道された時、手を差し伸べる方法を失ったらしい。

 

「助けに行きたかったけど、紬が言ったように、イラク戦争が勃発して断念した。……正直言って絶望しました」

 

 しかし、幸いなことに若い頃――と言っても、母と同世代だが――、中東で傭兵をしていたという社員が、関東支社に勤務していたため彼を頼り、レバノンを中心にした中東を捜していただいた。

 そして、案外早く半年後に成果があった。

 レバノンから動いていないことが判明して、さらに詳細な情報を掴むために、半年ごとに現地に社員2人を派遣。ベイルートの空港から車で10分の場所にある大型ショッピングモールで、半年に一度買い出しに来ていると知り、元傭兵の夫と妻が旅行客に扮した。

 

「それが、今、紬が世話になっている山鹿夫妻だ」

 

 話や昔の出来事の辻褄が合いすぎて、どうしても疑ってしまう。

 

「彼らは、こう言ったはずだ。『何があっても、《瑪瑙(めのう)》が守る』って」

「……ああ」

「山鹿さんと母親の勤め先知らない?」

「警備会社としか…」

「民間警備会社《瑪瑙》。紬みたいな子を保護するために創られた会社だ。もちろん、通常業務もこなす」

「は…? 守る…? 山鹿さんはともかく、(あいつ)があたしを? …いや。そもそも、なんで母のこと知ってるんですか?」

「紬の母親は、俺の母でもある。つまり、本当の母親ってこと。まあ、母も母でこの10年音沙汰なくて、先々月再会したばかりだけどな」

 

 からからと笑う『実兄』に視線をやれば優しい笑みを向けられ、薄い唇に人差し指を当ててこの話を終わらせたが、警備会社云々(うんぬん)の最後の話は自分にとって不気味に思えた。

 

 

 次は影山君の番で、口下手な彼を助ける形で殺せんせーが、下衆(げす)な笑みを浮かべながらノート片手に尋ねていく。嫌な予感しかない。

 

「今度は、影山君に尋ねます」

「ウス」

「黒崎さん。えー。クロハバキ紬さんと出会ったのは、いつですか?」

「カズ…。えっと…。俺の祖父が、黒脛巾さんの祖父と友達で、初めて会ったのが5歳になる年で、…たしか春でした。桜が咲いてたの覚えてます」

「ほう…。その時は何を?」

「シュヴァイデン・アドラーズの試合を家で観戦しました」

「次に会ったのは?」

「七夕祭りの前夜祭です。その時写真取ってたから覚えてます。その後に、祖父経由で『紬ちゃんがユーカイされた』って聞いて…」

「そうですか」

 

 事実よりも呼び方が気になって話の腰を折ってしまう衝動を抑えて、ちらりと殺せんせーを見ると、肌が桃色になりニヤニヤとしている。他の面々も見渡すと、烏間先生と兄以外は予想通り同様の顔をしていた。

 

「…それで?」

「再会したのは、小学4年生の4月です。目の色が青が混ざった茶色になってましたけど、俺は、転校生が黒脛巾さん本人だってわかりました。…でも、前と雰囲気が全然(ちげ)えし、俺のこと完全に忘れて初めて会ったような反応されて……。だから、俺からバレーに誘ったんです。そうすれば、きっと思い出すと思ったから」

「でも、思い出さなかった…と」

「はい…」

 

 中学に進学するためにまた離ればなれになり、最近は中2の総体で再会し、今は受験勉強を手伝ってもらってると堂々と告げて、だいぶはしょられたものの重要な部分はかいつまんでいたため、幼馴染から見た10年分の話に幕が下ろされた。

 そして、殺せんせーの過去話を聞き終えた後、シロこと柳沢が姿を現し、白頭巾(ずきん)に白装束に身を包んでいる彼が、自分がいた研究所に触手細胞を提供した者だと知る。柳沢と頭部まで黒い服で包まれた者がE組の敷地から去っていった後、警戒を解いた自分と同時に言葉を発した者がいた。

 

「紬。何かあったら、にぃにに任せな」

「嫌です。烏間先生のほうが頼りになります」

「昔は『まもにぃ』って呼んでたぞ」

「そうですか」

 

 黒脛巾さんが会話を試みるが投げやりな返答に、クスクスと笑う同級生の声が耳に入る。それを無視していると、彼から質問された。

 

「じゃあ、影山君と俺。どっちを信頼──」

「影山君」

「ですよねー」

 

 食い気味に答えて距離を取り、兄と自称する男から幼馴染に視線を向けると、嬉しそうな照れているようななんともいえない顔になっていたが、確実に頬が緩んでいる。

 

「…アザス」

「うん」

 

 沈黙を保っていた自分達幼馴染の様子に満足しても、皆の足取りは重く、あたしは立ち上がろうとしてうまく力が入らずに、すすき野原の地面に膝から崩れ落ちた。どうにか手をついて顔面をぶつけることはなかったものの、両手の平を少し擦りむいてしまう。

 

「っ…」

「大丈夫か!?」

「大丈夫…。ちょっと力が入らないだけ」

 

 影山君が駆け寄るも、匍匐(ほふく)前進の体勢で文字通り()ってでも山を降りようとした自分の眼前に、がっしりとした男の背中が映る。

 

「乗るか?」

「……」

 

 兄と名乗る人は、必死に笑顔の仮面を被っているように見えた。

 信頼できない大人達の薄っぺらい(たぐい)ではなく、泣きたいのを懸命にこらえるようで、なぜかこちらの胸がぎゅっと締めつけられるような錯覚に陥る。しかし、そう演じている可能性を捨てきれないため、あたしのショルダーバッグを持っていた影山君に頼んだ。

 

「…影山君。お願いしてもいいか?」

「お、おう…!」

「あと、ショルダーバッグは自分で背負うから、ちょうだい」

「おう」

 

 明らかに、彼の声が弾んでいる。頼りにされて嬉しいのだろう。

 対して、黒脛巾護の真意はわからず、確証も得られない。これは決して嫌がらせではなく、今まで信頼する人がいないに等しく、かつ少ないほうが良いという自分の経験からきている。

 おぶられるのを断られたのに、後ろで微笑んでいる自称・兄は、(ふもと)にある職員用駐車場にあるイリーナ先生の車の助手席に、影山君の助力で転がりこむように乗せられたのを見届けて、影山君を連れ出した責任を果たすために仙台まで同行すると言う。

 エンジンをかける前に彼女に待ってもらい、見守る2人に礼を言うために助手席の窓ガラスを動かして、電動スイッチを押して下げた。

 

「あの…」

「?」

「…ありがとう、影山君。……黒脛巾さん」

「うん。どういたしまして」

「冬休みはゆっくり休めよ。黒崎さん」

「ん。了解」

 

 幼馴染と拳を軽く突き合わせるのを見届けてから、イリーナ先生は車のエンジンを起動させた。

 

 

 居候先に到着したのは21時前。

 出迎えたのは当然ながら山鹿(やまが)家の家主である武彦さんで、珍しく血相を変えている。

 食卓の上に置いていた手紙(いしょ)を読んだのだろうが、こんな表情を目の当たりにして向き合うのは初めてで、どう反応すれば良いか困ってしまう。

 夜分遅く居間に入ると、なぜか母親がいた。

 

「なんでここにいるんだ…!」

「美空さんに呼ばれて、全部話すためよ」

 

 美空さんは、自分の背後でイリーナ先生に車を駐車場に停めるように指示している。夫妻の車を前に詰めて、金髪美女の車がどうにか縦に細長い車庫に入るのを視認した後、再度家に招き入れて居間に上がってもらった。

 食堂と隣接する小部屋に鎮座するソファーに座るのも正直しんどいが、ここで倒れるわけにはいかない。もはや、執念だけで身を起こしている状態だ。山鹿家の顔を見て一呼吸おき、国家機密を伏せて今夜の出来事を大まかに説明する。

 

「今日、防衛省の黒脛巾護って人に会って、彼から見た10年分の顛末を…。その人とあたしの本当の親だってことも含めて、あなたの視点から今日までのことを聞きたい」

「…わかったわ」

 

 美空さんがホットミルクを注いでくれたマグカップから手を離し、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

 

 7月中旬から続いた1ヵ月の出張から帰る日。

 顔馴染み程度の高校時代の先輩に『珍品を入手した。このメールを見たら、下記の場所まで来てくれ』と連絡を受け、全くと言っていいほど心当たりがないまま指定の場所――静岡の家に行くと、瞳の焦点が一向に定まらず意識が朦朧とした末娘が居間の冷たい床の上に寝転がされていた。

 激昂したい衝動を抑えて問い詰めると、『娘を助けたいなら、誰に対しても知らぬ存ぜぬで通せ。従わなければ、子供の体を(いじ)って殺した後、お前も同様の手段を使ってやる』と脅迫された。その後、直接上司に異動を申し入れ、上層部の配慮により民間警備会社《瑪瑙》本社がある三重県に異動になったらしい。

 

「私も研究所の監視下に置かれたの。それは今も変わらない。静岡の家も椚ヶ丘の家も、彼らの所有物の一部に過ぎないし、紬を道具のように扱うから、私は彼らに気付かれないように接するように(つと)めたわ」

 

 思い返せば、彼女が自分に無茶なことは要求しなかった。理解力に合わせて『護身術』と称した訓練を施し、『家で父といるよりマシだ』と感じたことが多々あったのを思い出す。

 山鹿夫妻は、帰宅後に居間に置いた1通の遺書を読み終え、自宅前に車が停車するまでの時間は絶望を感じていたらしい。母は暗殺教室に関わっているが、娘に触手細胞を移植されているとは知らず、娘が生存を目の当たりにするまで生きた心地がしなかったそうな。

 

「…監視から逃れることは?」

「それができてたら、紬も連れて10年前に逃亡してるわよ」

 

 盗聴器やら盗撮機材などの見つけ方も彼女から教わったことだが、研究員に対して吐き捨てるように告げた母の話が終わる。

 

「…とにかく、無事で良かったわ。今夜はゆっくりお休みなさい。紬」

「……了解」

 

 にこりと柔らかく微笑む母を前にむず(がゆ)く感じると同時に、どうにも『温かい家庭』に慣れなくて、意図的に視線を()らした。

 突然『本当の家族』というものに出会った自分には、どこか縁遠く思えて居心地が悪く感じ、居間から逃げるように出て行き、照明を()けずに暗い自室に(こも)った。



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第29話 警戒と決別

 自分とカエデと殺せんせーの、三者三様の過去が明らかになって、一夜明けた翌朝。

 目覚めてから過呼吸と精神状態が落ち着いていることに気づき、日本語で話せるかを確認してから、イリーナ先生が昨夜の山鹿家から病院に運ばれるまでの状況説明をしてくれた。

 

 

(…なんの音?)

(イリーナさん。美鶴さんも、一緒に来てちょうだい)

 

 何か重たい物が倒れる音がして、あたしが間借りしている部屋に駆けつけると、過呼吸で倒れていたらしい。かろうじて意識は失っておらず、いつも背筋を伸ばしている姿を見ているせいで、体を丸めている今はひどく小さく見えたようだ。

 家主といえど、大人の男性に距離を詰められることや母に触れられること。畳に伏しているのを見られることが苦痛で、さらに呼吸困難になるという悪循環に陥る。そこで朦朧としているあたしが、母でも美空さんでもなく同業者のイリーナ先生を頼ったことで、母と距離を置くという提案を持ちかけると、美空さんと母が二つ返事で同意した。

 

(紬。律の言うこと聞ける?)

(っ…)

《では、始めます》

 

 しかし、過呼吸の対処法を告げる律に反応を示さず、浅い呼吸を繰り返すばかりで、1時間半前に聞いた自分の過去の話を思い出し、美空さんと一緒にフランス語で話しかけると了承を伝えるように2回瞬きをした。それを人工知能は学習し、素早く日本語からフランス語に説明を切り替えたと言う。

 

(病院に送るわ。悪いけど勝手に――)

《赤いボストンバッグに必要な物は詰めてあります》

(さすが紬ね。救急車は?)

(もう呼びました)

 

 武彦さんが伝えてきて頷き、準備中に律経由で烏間先生からイリーナ先生へ、自分を入院させる許可が出た。

 文字通り一刻を争う事態に、イリーナ先生はあたしの容態が落ち着いてからボストンバッグを病院に持ってくるよう指示し、体調や言葉の問題を考えて、付き添い人として同行した。

 医者には、当然国家機密を伏せて、過去の家庭環境がうまくいってない事情を説明している間、あたしは薬品の匂いに怯える様子を見せ、最終的に痙攣(けいれん)を引き起こし失神してしまった。過呼吸症候群と診断され、過酷な環境が精神的ストレスの原因だと説明されて納得し、入院手続きを済ませる。とりあえず一晩様子見ということで話をつけられて、明日の出勤時間ギリギリまで私が通訳として同伴して残った。

 

(では、私は烏間さんに報告してきます)

(わかったわ)

(失礼します)

 

 遅れて駆けつけた園川さんを見送り、彼女は収納棚にボストンバッグを仕舞ってから、今まで溜めこんでいた不安や、自分を自分たらしめるアイデンティティーが根本から崩壊し、一気に爆発したと推測してしまう。そして、ただ(そば)にいることしかできない無力感に(さいな)まれそうになる自分を心の隅に追いやり、無意識に手を組んであたしの回復と目覚めることを祈っていたらしい。

 

「状況報告は以上よ。…そろそろ行くわ」

「ありがとうございました。行ってらっしゃい。イリーナ先生」

「…なんて返せばいいの?」

「『行ってきます』って言うらしいですよ。山鹿夫妻に教えてもらいました」

「そう…。行ってきます」

 

 宣言通り、出勤時間ギリギリまでイリーナ先生が付き添い額にキスを落とされる。まるで、洋画の一場面を体験しているような感じで、くすぐったいような嬉しいような感じがした。

 混乱してフランス語でしか話せない自分に対して、医者と患者の通訳を買って出た彼女は、烏間先生の部下で交渉役の園川さんと役割を引き継ぎ、面会時間ではない早朝に病室に出向いて『烏間に報告を済ませた』と知らせてくれる。

 

「園川さん。黒脛巾さんの経歴を教えていただけませんか?」

「…知ってどうするんです?」

「情報の一部として自己処理します」

「……。わかりました。私の分かる範囲であれば」

「構いません」

 

 兄と名乗る男──黒脛巾護は、防衛大学校を卒業後、今年3月に陸上自衛隊幹部候補学校を主席で卒業。その後に例の三日月事件が起こり、防衛省で急遽設立された臨時特務部に配属になったという。

 

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。では、放課後にまた来ますね。お大事に」

「あ。カーテンは開け放していただけると助かります」

「はい。わかりました」

 

 お互い一礼して、園川さんが退室する。

 そして、彼女とすれ違うように人の気配が近づいてくるのを察知した瞬間、無意識に警戒を最大まで高めていて、隣の収納棚にあるボストンバッグからボールペンを取り出し、芯を出した状態で逆手に構えた。

 

「おは、っ」

「……」

 

 イリーナ先生と園川さんが開け放して下さったカーテンのおかげで死角がなく、全方位をくまなく見渡せる。四角いお盆に朝食が盛られた蓋つきの食器類を乗せた状態の年配の女性と対面し、変な真似をしないか茶色の瞳をじっと見て、挨拶も微笑みもせず警戒した。

 数秒の沈黙を破ったのは、相手の女性だった。

 

「こ、ここに置いておくわね…?」

「……」

「じゃあ、ごゆっくり…」

 

 会釈すらしなかったのは、視線を外した一瞬で距離を詰められて殺される可能性があるからだ。

 英語教師と交渉役の女性2人が医師に説明した結果、夜勤の医師が個室を(あて)がってくれたのはありがたいが、それで自分の周囲への警戒を怠っていい理由にはならない。逃げるようにして部屋から出ていった女性を見送ったものの、普通の人なら『あり得ない』と一蹴するかもしれないが、毒や睡眠薬が混入される手口もある。

 放課後になる時間に、園川さんとE組学級委員長──メグと磯貝──が見舞いに来て、一切病院食を食べていないという自分の報告に驚かれた。

 

「ってことは、1日絶食!? 黒崎さん、つらくない?」

「大丈夫だ。毒が混入している可能性が──」

「ないよ。紬」

「……」

「環境が変わって警戒されているんですね。…明朝、毒見役の方を手配しましょう」

「殺せんせーはアテになりません」

「はい。なので、黒崎さんの性格をよく知る人に依頼します」

「母はやめて下さい」

「ええ、もちろんです。ご家族の方は面会謝絶にしてますから」

「…ありがとうございます」

 

 深々と頭を下げて園川さんにお礼を言い、E組から見舞い品として贈られた小さな(だいだい)色のプリザーブドフラワーを受け取った。

 

 

 明朝に毒味役がとして来たのは、山鹿夫妻だった。

 

「おはよう。紬ちゃん」

「大丈夫?」

「おはようございます。武彦さん。美鶴さん。大丈夫です」

 

 初めて会った時から変わらず優しさにあふれていて、それまで張っていた警戒を緩めて話を弾ませる。

 彼らの説得と持参された数本の箸で実践された後に、1日半ぶりに飯にありついたが、念のため、病院食に関わっている者達の身辺調査を依頼した。しかし、結局怪しい人物はいなかった。

 

 

 緊急入院から10日後の朝に退院した。

 触手細胞から解放された今、入院中に母や兄が言ったことを考えつつ、美空さんの車から降りて山鹿家の敷地を(また)ぐ。

 洗濯機に入院中に使用した衣服類をまとめて出して、午後出勤の彼女を昼前に見送り、昼休みの時間に合わせて烏間先生の番号に電話をかけてみた。

 

『はい。烏間です』

「こんにちは、烏間先生。今朝退院しました」

『そうか。良かった』

「それで、先生にひとつ頼みたいことがあるんです」

『なんだ?』

「母の連絡先をご存知なら教えて下さい」

『…いいのか?』

「はい。細胞のせいで憎悪が増幅される形になっていたので、今のうちに、母と兄にちゃんと向き合いたいんです。お願いします…!」

『……わかった。二人に連絡を入れるから、週明けまで待ってくれ』

「ありがとうございます」

『お大事に』

「はい。失礼します」

『失礼します』

 

 とりあえず、現場責任者に要望は出した。

 たとえ過呼吸が再発しても、過去から目を逸らさないと決意している。



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第30話 黒脛巾護の目的

「なぜ命令違反をしたんだね?」

「黒崎紬の命が危険に(さら)されていたからです。今も状況は(かんば)しくありませんが」

 

 12月16日、金曜日。

 『黒崎さんが無事退院した』と、今朝方園川から連絡を受けた日の夜。

 俺は、黒脛巾護の上司でありながら、眼前で深く椅子に腰かけている情報本部長に、今回明らかになった命令──黒崎紬との接触禁止──の真相と、それを知らされていなかった原因を追及するために同席している。

 

「すると、一生徒のためだけに命令を反古にしたのか。…大した度胸だな」

「お褒めに預かり光栄です」

 

 誰も褒めていないのはわかっているが、今年3月に三等陸尉になったばかりの新人は、尾長本部長相手に堂々と言ってのける。

 

「本部長。責任者の自分から見ても異様な人事ですが、いかなる意図があって彼を配属したんですか?」

「そ、そんなものアレに決まっとるだろう。ほら、主席で卒業して――」

「静岡の研究所」

 

 本部長の言葉を遮って、黒脛巾が告げた短い言葉に疑問符を浮かべて彼のほうへ振り返ると、わずかに口端を上げて微笑んでいるが、その瞳は全く笑っていない。

 

「っ…!」

「何を言ってるんだ、黒脛巾?」

「やはり本部長はご存知でしたか」

 

 今度は爽やかな笑みを浮かべて、見る者を困惑させるが、俺は、部下が何を言っているのか全く理解できていない。

 

「それを世間に公表されたくなければ、地球が無事であっても、引き続き、自分を防衛省に置いて下さい」

「わ、私を脅迫する気か!」

「はい。それを抜きにしても、とりあえず卒業までは、自分の妹を含めたE組の支援を、どうぞよろしくお願いいたします」

 

 礼儀に基づいて深々と礼をする部下は、本部長の部屋を足早に出ていき、俺は上司に『黒脛巾を見張れ』と命令を受けたが無言を貫いて、結局一礼して退室した。

 

 

 廊下で呼び止めると、『ここではなんですし』と言って改めた場所は、職場から徒歩30分ほどの場所にある防音が施された居酒屋だった。お通しを箸でつまみつつ、焼き鳥を数本とビールをジョッキで2杯頼む。

 

「…それで、どうして研究所のことを言ったんだ?」

「本部長を揺さぶるためです。正確には彼が何を知り、どこと繋がっているか探るためであって、まだ序の口。詳細はこれから話しますが、本部長に自分を見張るよう言われたのでは?」

「…そうだ」

「では、ここから先は聞かなかったことにして下さい。自分のことも、名前か階級で呼んで構いませんよ。母と同じ苗字ですから混乱するでしょう」

「わかった。聞かせてもらうぞ。護」

 

 彼の来歴に、妹の黒崎さんが深く関わっていることは間違いない。

 黒…。護も暗にそれを肯定した時、扉の向こうから店員が室内に入る許可を求め、了承してジョッキをふたつ受け取った。

 

「自分が陸自に入ろうと思ったきっかけは、紬が家政婦に誘拐された日です。全ては、少しでも紬に繋がる情報を手に入れるために。だから、俺には国家に対する忠誠心はありません」

 

 その時、脳裏に『復讐』の二文字が浮かび、20代半ばの彼が、暗い衝動に突き動かされるのを必死に抑えるために、膝元で拳を作る様子を決して見逃さなかった。

 

「待て。防衛省と黒崎さんの双方に、なんの関係があるんだ?」

「防衛省の組織図に書かれていない部署。それが、妹がいた研究所です。…酒が不味(まず)くなる前に飲みましょう」

「どこまで把握してる?」

「ある程度としか」

 

 そこまで聞いてから護が先にジョッキを掲げ、分厚いガラスの縁をかつんと合わせてぐっと(あお)る。

 三者三様の過去を知った後に、さらにとんでもない事態を聞かされていると自覚し、防衛省の組織図に書かれていない部署の存在をなぜ三尉が知っているのかも気になり、ここは潔く腰を据える。すると、俺の態度に気を良くしたのか、対面に座る部下は薄く笑った。

 

「まず、自分が影山君に言ったのは、殺せんせーではなく、紬が死ぬ可能性です。暗殺教室に関連することは、一切口外していません」

「それは解ってる。影山君とはバレーの応援で接触しているし、彼は、黒崎さんの機転でタコの着ぐるみを着た先生と思いこんだままだ」

「それじゃ、紬はあの触手の動きをどう説明するんですかね?」

「…ラジコンで動かしてるとか適当に説明するだろう」

「ははっ。あり得そう!」

 

 そこで初めて、彼の青年らしい爽やかな笑顔を目の当たりにし、ジョッキ片手に数秒呆気にとられたが、それはすぐに消える。

 

「…次は?」

「彼らに暗殺を依頼した時、『口外した場合、記憶消去措置を施す』と(おっしゃ)いましたね。それは実証されているでしょう?」

「っ!」

 

 幼馴染の影山君や、家族の母と兄の記憶をなくしている黒崎さんが脳裏に浮かんだ。

 

「だが、軽く見積もっても10年近く前だ」

「そうですね。記憶消去できる薬が表に公表されたのは4年前ですが、あれは、高血圧の患者に投与される薬の成分を応用したもので、悪用されないように厳しい規制がかけられています。…これを見て下さい」

 

 護が鞄から取り出したタブレット端末には、ある図表が映し出されており、見慣れない薬品の数々で備考欄には『有害』と赤く表記してある。これでは、どれを投与されたのかわからない。

 

「紬に投与されたのは、意図的に脳に損傷を与えて重度の記憶障害を起こし、自我のない赤ん坊同様にする類の薬品です」

「どこでこれを…?」

「それは秘密ですが、自分を形成する記憶を全て失った紬は、父と名乗る男に日常的に暴力を受け、母に護身術を教えられ、逃げ場がない状況下にいました。そして、レバノン行き。戦闘行為もあるなら、必然的に心の傷も増え、最悪、寝込みを襲われた可能性もあります」

「だが、誰も治療しなかった…。日常と化しているからこそ、誰かに助けを求める思考に至らないのか」

 

 そこで護が一度頷き、『お先に失礼します』と断りを入れてから、お通しを箸で少しつまんだ。

 たとえ、山鹿夫妻によって救出されて日本に帰国しても、居場所として()りこまれた静岡の家に帰るしかなく、母国語を忘れた状態で再度ゼロからのスタートになる。塾に通っていたとしても、1年で平仮名から小学3年生までの内容を理解し、それを網羅したのは、彼女の努力の賜物だ。

 店員の気配を察知した護は、液晶画面を電源を押して一時期に真っ暗にしてから、入室の許可を出す。それぞれの焼き鳥を受け取ってから差し障りのない話題を提供され、遠くに離れたのを確認してから再起動し、画面を横滑りさせて本題に戻った。

 

「ここまでが、小学校に通う前の情報です」

「ああ、そうか。そこで影山君と再会すると…」

「確かに再会ですが、そんな簡単に出会います?」

「…まさか、わざとか?」

「影山家。その中でも、飛雄君と姉。祖父とは、自分の祖父と仲が良くて会っていたようでした。…身辺調査をすれば、誰にでもわかることです」

 

 研究所の者は、実験の一環として彼が住む区域に割り当て、周囲の者の反応を伺ったのだろう。当然、その話は護の祖父の耳に入るが、『僕には助けられない』と電話口で話したそうだ。

 

「防衛省上層部と問題の研究所は、十中八九グルです。さらに情報を付け加えるなら、俺は、紬や紬のような子達を自由にするため。中枢に潜入して、ふたつの組織が繋がっている証拠をつかむためだけに、防衛省(ここ)に入りました」

「そうか」

 

 そこまで聞いて、俺は国家機関に疑問を(いだ)き始めたが、とりあえず一段落したことで話題を変える。

 

「話を変えるが、今朝妹が退院した」

「そうですか」

 

 明らかに安堵の表情をした彼を見て見ぬ振りをして、俺は酒が入った杯を片手に持ち、ひとつ情報を加えた。

 

「今日の昼に、『母と兄の連絡先を知りたい』と連絡があった」

「…は?」

「本人は過呼吸を起こしても、前に進もうとしてる。…お前はどうだ?」

「自分は…、昔と同じようにいかなくても構いません。紬が望むことはなんだってやります」

「成立だな。週明けに教えるぞ」

「ありがとうございます、烏間さん…!」

 

 対面に座る自分に深々と頭を下げる様子を見て、少し(うらや)ましく思い、そのまま胸の内にしまう。

 

「大事にしろ」

「はい!」



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第31話 自分の意志

「おはよう。メグ」

「おは…」

「どうした?」

「いや…。一瞬、青のカラコン入れたのかと…」

「こっちが裸眼だぞ」

「そっか。体調は?」

「良好」

 

 今日は、12月19日。退院した週明けだ。

 今まで黒崎に言われるがまま10年被り続けてきた『黒崎紬』の仮面はもう使えなくなったものの、武彦さんに『卒業までは黒崎でいる』と進言し、ご家族もそれを了承した。

 

「澄んでて綺麗ね」

「ありがとう」

「どう? カラコンを入れない生活は」

「最高。その分、自室でゆっくりできる」

 

 触手による激痛から解放されたことと引き換えに、いまだに体の節々が痛んで指先が震えるが、まだ動けると判断して終業式がある22日まで耐えてから、あとは自宅療養すれば良いと考えている。

 

「おはよう、紬! 終業式終わったら、カラオケ行かない?」

「行く」

「わかった。またね」

 

 走り去っていく優月の背中を見送りながら、忘れかけていた用事を思い出した。

 12月22日は、影山君が15歳になる日だ。

 

「今日中に買いに行かないと…」

「何を?」

「バレー好きが喜ぶもの」

「影山君?」

「なんでわかるんだ」

「顔が緩んでたからね」

「え!?」

 

 反射的に顔の下半分を片手で覆うが、すでに後の祭りだったが、そんなことなど知らない堅物教師から、廊下で出会い頭にあいさつされる。

 

「黒崎さん。おはよう」

「おはようございます。烏間先生」

「少しいいか?」

「はい」

 

 靴から上履きに履き替えてメグと反対方向に別れ、教員室に入る。壁掛け時計をみると、ホームルームが始まるまで15分あった。

 

「これを」

「?」

「二人分の連絡先だ」

 

 半分に折り畳まれた紙片を受け取り、一瞬なんのことがわからなかったが、情報を付け加えられて理解する。

 

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 頭を下げて感謝を告げ、退室前にもう一度一礼をして教室へ入った。

 昼休みのうちに連絡先を登録して、帰宅後に電話をかけようとして勤務中だと思い至り、定時と思われる18時過ぎに液晶画面に表示された通話ボタンを押す。

 

『…もしもし?』

「あ……。かあ、さん?」

『っ! 紬なの?』

「ん…。久しぶり」

 

 この流れだけだと横行している詐欺を思い出すが、今はどうでもいい。世間話を抜きにして本題に入る。

 

「今日は、話があって…」

『なに?』

「高校進学したら一人暮らしをしようと思う。だから、一緒には暮らせない」

『そう……』

 

 今回入院した原因は精神的また心理的なもので、医師からも別離を進められた。簡単に治るものではないらしい。

 

「仕送りもしなくていい。全部、今まで稼いだ中から払う」

『わかった…。でも、まだ未成年だから、保証人は必要よね。山鹿さんにする?』

「いや。わざわざ東京から来てもらうわけにはいかないし、その時はよろしくお願いします」

『え…。あ、はい』

 

 あっけにとられ我に返るまでの反応が面白くて、内心笑ってしまう。

 

『話しづらいんだけど…、検査には行くの?』

「ああ。放置してた分、正常に機能してるか確かめるらしい」

『…気をつけてね』

 

 気遣いの言葉や優しい声音(こわね)なんて、以前の自分なら無視するか拒絶していたが、今はもう大丈夫だと思いたい。

 

「うん……」

『どうしたの?』

「あたし、あの教室で過ごす中で、命の価値がわかってきた。…母さんは、あたしの命を守るために距離を取ったんだよな」

『……捨てられたって思ってないの? …恨んだりしたでしょう?』

「倒れるまではそう思ってた。でも、入院中に考え直してみたんだ。長くなるから割愛するけど、あたしがこうして話せるのは、母さんが心構えも含めた生き延びる術を教えてくれたからだと思う。だから、あたしを『紬』って名付けてくれたあの日。アイツの要求を全部呑んだ決断は間違ってない。……あたしを助けてくれて、強くしてくれて、ありがとう」

「っ…!」

 

 母親として失格だと思っていたであろう彼女は、電話口の向こうで号泣していた。

 

 

 終業式後にカラオケから直帰して、手洗いとうがいを済ませて自室に入った直後に気が緩んだのか、強いめまい。体のだるさや手足のしびれなどを自覚した。整理箪笥(たんす)からスウェットを引っ張り出して、それに着替えてから畳んでいた毛布で身を包む。

 

《そうなるのも当然です。茅野さんがまだ入院してるのに、黒崎さんが退院できるのがおかしいんですからね。大人しく自宅療養して下さい》

「……律の見立ては?」

《冬休み丸々休めば、ある程度回復します。受験勉強も無しです》

「やだ。新山に行っ、げほっ!」

 

 喉の渇きから何回か咳きこみ、プーマのスポーツバッグから飲みかけの緑茶が入っている水筒を取り出し、一時的に喉を十分潤して、すぐ飲めるように傍らに置く。

 

《今はおとなしく寝て、治して下さい。話はそれからです》

 

 体調を(かんが)みて音量を極力落としてくれているものの、人工知能の彼女にぴしゃりと言われ、自分が体操座りで休んでいるのか判らないほどのめまいを感じていた。それが(しず)まってくれるのを願いつつ、風呂が沸くまでひたすら仮眠を取る。

 

 

 体力が回復した冬休み明けに、E組で一騒動が起こった。

 

「…黒崎さんはどうするの?」

「あたしは――」

 

 中立を自ら選んだ律とも、『殺せんせーを守りたい』と言ったカエデとも違い、自分の意志はすでに固まっている。

 

「『個』のハヴォックの暗殺が失敗しても、『全』の黒崎紬の暗殺はまだ失敗してない。たとえ触手から解放してくれた恩があっても、殺せんせーを殺すことは変わらない。与えられた任務を果たす。それだけだ」

 

 赤いペイント弾と刃先に同色の塗料が塗布されたナイフを持ち、赤組に入ってさっさと準備を始めた。

 

「黒崎さん。俺達の援護ついでに、敵を全滅させても構わないよ」

「了解」

 

 赤羽が告げる命令に淡々とした口調で答える。

 E組に支給された特殊な体操着に身を包み、コルト・ガバメントを模した自動拳銃と、M4を模したアサルトライフルにペイント弾を込め、弾帯に同様の弾を入れた予備弾倉をねじこみ、烏間先生の合図が告げられるまで持ち場で軽い準備運動を行う。

 やがて、フードに内蔵された通信機から聞こえた無線の合図で、戦いの火蓋(ひぶた)が斬って()とされた。

 今や目を閉じても(わか)戦場(にわ)は、悲鳴と歓声に満ちている。そんな中、ひなたとジャスティスが赤羽(キャップ)の命令を無視して突っ走っていくのが見えて、即座に気配と足音を消し、フリーランニングで移動した先の木の上から、原さんを平衡を保ってペイント弾で手早く射殺した。

 

「テメェら。赤羽の命令も理解できないほど馬鹿か? 戦場では、命令を無視した奴から死ぬ。本気で殺せんせーを殺すなら、もっと真剣に取り組め。わかったら撤退しろ」

『…はい』

 

 三村(みかた)の戦死を見届けたことで一瞬でも油断した奥田さんと磯貝の眉間を、ライフルでバイザー越しに撃ち抜き、現時点の戦況と脳内の地図と重ねて、ようやく渚が潜んでいる場所に目星をつけた。そして、莉桜と寺坂達が居る地点を無線で聞き、薄々感じていた違和感が合致して、回線に向けて声を(あら)らげたい衝動を抑えて早口で告げる。

 

「黒崎より寺坂へ。渚は6時方向にいる。今すぐ迎撃し――」

 

 戦場で無情に響く悲鳴に舌打ちし、独り悪態をつく。これで赤組は赤羽と自分が残り、青組は前原と渚の生存が確定した。

 ペイントが付着した者は、即刻戦場を出る決まりになっている。そのため、目的地――赤組の旗にたどり着くまでに誰とも遭遇しなかった。だから、木々から木々に飛び移るまでのわずかな滞空中に、スパイクと同じ要領で、赤の塗料が付着したナイフの切っ先の照準を指先が旗に触れる寸前に合わせ、奪取しかけた前原に投げつけた。

 

「うわっ!」

 

 それは、枯れ葉が覆う地面に鋭く突き刺さるだけに(とど)まり、どうにか旗奪取の阻止に成功した。

 

「危ねっ!」

「よく避けられたな、前原。…赤羽。前原はあたしが()る」

「任せた」

 

 ナイフを拾い上げてから、バイザー越しにあえて生かしておいた彼を見れば『ひっ!』と情けない声が出ており、眼前の崖を身軽に登って逃走される。

 

「青の生存者は、渚を除いて君だけだ。もちろん、逃がす手は無い」

「え、ちょっ、速ッ!」

「まだ序の口だぞ」

 

 一定の距離と速度を保って背後につき、ライフルで断続的に射撃を加えて逃げ道を(せば)める。時には木陰に身を隠して、前原の攻撃をやり過ごしながら、最小限の応射で確実にある場所へと誘導していった。

 

「…おいおい。ここって――」

「あたしが原さんを射殺した地点(ポイント)だ」

 

 笑顔で彼に告げ、頭の中でペイントの残弾数をざっと弾き出す。

 片手で構えたライフルの銃口を、自分より10センチ背の高い男子の眉間に、照準が一切揺れ動くことなく正確に合わせ、引き金に指をかけた格好を間近で見た前原は引き吊った笑みを浮かべた。

 

「片手で照準を合わせ続けるって、黒崎さんは普通にやってるけどさ。結構腕力使うだろ?」

「ああ。だが、実銃に比べればずっと軽い。心配してくれてありがとう」

 

 コンマ数秒の機会を逃すような生徒(アサシン)は、もうこの教室(ばしょ)にはいない。

 得物(えもの)を手にして一気に駆け、一直線に間合いを詰めようと目論んだ前原だが、それは想定内でライフルを地面に落とした隙に、相手の力を利用して手首を(ひね)り上げ、易々とナイフを奪う。バランスを崩して背中から地面に倒れた彼を見下ろし、自分より後方の場所にそれを放り捨て、ハンドガンで至近距離から射殺した。

 

「…やっぱ、黒崎さん強ェな」

「強くなんかない。努力し続けた結果さ」

「クソカッケェ…」

「ありがとう」

 

 地面に倒れ伏す前原を放置して、足下に落としたライフルを再度肩にかけてから、赤羽と渚の行方を追った。

 

 

「気は済んだか? 赤羽(キャップ)

「ああ…。どうする? 黒崎さんが最後の一人だけど」

 

 渚にしてみれば、片腕で放り投げた自分を(とら)えている瞳が恐ろしく見えるだろう。

 赤羽を倒すために全力を使い果たした今の彼は、立ち上がる気力すらない。どうにか動く両手で青いペイント弾を装填(そうてん)した銃を構えるものの、それはあたしも同様で、眉間にライフルの照準を正確に合わせており、引き金に指をかけていても力はこめていない。今引いたら、確実に殺せるだろう。

 

「『援護ついでに全滅させていいよ』と言われたけど、隊長が戦意喪失して降参するなら、隊員のあたしはそれに従うまでさ」

 

 赤羽に背を向けたままの自分は、あえて意見を(あお)いで決定を(ゆだ)ねた。どこまでも忠実であり続ける姿勢は、渚にどう映るだろう。

 

「たしかに、俺はもう(あきら)めてるよ。でも、黒崎さんにはまだ戦闘意思があるだろう?」

「当然」

 

 あたしは、もう笑っていなかった。

 無感動な瞳で無表情のまま。他人から見れば、目鼻立ちが整った人形のように見える『暗殺者』の顔つきで、躊躇なく渚に発砲した。

 華奢な彼は、疲弊(ひへい)している体を弾丸を避けるために無理矢理右に傾けたら、がくりと膝の力が抜けて地面に倒れる。

 その一瞬を見逃さずに、即座に肩からたすき掛けに提げていたライフルを捨て、脚力で距離を詰め、立ち上がろうとする渚を仰向けに蹴倒し、両肩の上に両膝を乗せて馬乗りになる。クラップ・スタナー封じとしては有効なやり方だと自分でも思うが、拳銃とナイフ双方を抜く気はない。

 

「っ…!」

「降参するか?」

 

 空いた左手で、彼の鼻から口元にかけて乱暴に(ふさ)ぎ、喉と垂直に右腕を乗せて覆い被さる姿勢になって徐々に体重をかけていく。抵抗しようと細い脚をばたつかせてもがいても大した力は入らず、ただの足掻(あが)きになる。首を横に振って反抗の意思表示をしたことで、その考えを(くじ)くために冷酷な意思をもって一気に圧迫し、息が詰まって窒息(ちっそく)で渚が苦しむ中、危険と判断した烏間先生によって勝敗が決まった。

 

「そこまで! 青チームの戦闘不能により、赤チーム・殺す派の勝ちとする!」

 

 最後まで言い終えるのを待ってから、まず塞いでいた鼻と口を解放し、プールから上がった時のように呼吸を(せわ)しく繰り返す。次に両肩にのしかかっていた重圧をなくし、ようやく体の自由を許す。当の自分は、平然な顔で体を(また)いで隣にしゃがみ、渚が落ち着きを取り戻すまでずっと待った。

 

「…大丈夫か?」

「うん」

 

 首を圧迫して本当に息の根を止めようとしたことは、全然謝らない。彼も赤羽に同様の真似をしたから、これでおあいこだ。

 

 

 すすき野原での一件もそうだが、親友のメグと優月とは、今回も意見や姿勢で対立し、前のように笑顔で語らう機会が減っている。

 

「紬」

「なに?」

「さっき、本気で渚のこと殺そうとしてたよね」

「ああ。それが?」

「それがって…。紬は、躊躇ってものを知らないの?」

「言葉は知ってるけど、実践する気はない。味方を殺す事態も含めて、長年訓練してきたからな」

「人の心が欠落してるのね…」

 

 二人が交互に意見しても聞く耳を持たず、メグが最後に発した言葉には、思わず鞄に教科書を詰める作業の手を止めてしまった。メグは同情の気持ちで言っていると頭でわかっていても、自分には非難に聞こえた。

 だから、無言で席を立って鞄を背負い、彼女達と視線を合わさずに吐き捨てるように告げる。

 

「…そんなの、10年前から自覚してる」

 

 ぴしゃりと教室の引き戸が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。



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第32話 1%でも

「黒崎さんの場合は、感情が欠落しているのではなく、平時と有事の感情の切り替えが瞬時にできてますよ」

「いきなりなんですか? 殺せんせー」

 

 先週の分裂以来、殺せんせーは以前と変わらないものの、なにかと気にかけるようになった。

 

「一流の証ということです」

「それはどうも」

「お母様の教育のおかげですねぇ」

「……」

 

 護身術はともかく、殺人術が教育と言えるのか(はなは)だ疑問で、こうしてどうにか生きているのだから『良い』ほうだろう。先日、母と話し合ってから、何かと褒められるたびに、電話口で告げたばかりの感謝や恩義の気持ちがじんわり沸き上がってくる。

 

 話を元に戻そう。

 

「暗殺教室、季節外れの自由研究テーマ! 宇宙ステーションをハイジャックして、実験データを盗んでみよう」

 

 話の脈絡など諸々無視して、殺せんせーが朝のホームルームでそう言った。

 『Made in Japan』と言えば聞こえはいいが、ひなたは技術面で心配しているらしい。しかし、そこは各国の信頼度があるため安心できると、殺せんせーが告げる。そうして、皆が得意分野ごとに分かれ、自分なりに級友達に意見していった。しかし、機械系は完全に畑違いなので警備員に発見された場合も含め、律によって自分のタブレット端末に転送され、映し出した衛星写真と照らし合わせつつ、様々な観点から侵入と脱出経路を見いだしていく。

 

「律。どうしてUSBメモリがふたつも必要なんだ? ひとつでいいだろう」

《個人的に、ちょっとした依頼がありまして…》

「防衛省…? 違うか。《瑪瑙》?」

《秘密です》

 

 それっきり、律は遠隔操作用ウイルスを作ることに専念して沈黙してしまった。

 

 

 翌週の日曜日。

 ロケット打ち上げとデータ収集双方が成功した後、愛美が解読した結果、ある薬品を定期的に投与することで地球が爆発する可能性が1%以下になると判明し、彼らは歓喜する。

 

「お前ら、楽観的だな。1%でも爆発の可能性が残っているのなら、それは百と同じだ。ゼロでない限り喜べる状況じゃない」

「そんな言い方ないでしょ。紬」

「批判はゼロになってから言えよ、メグ。愛美は、記載されている薬品を作って、殺せんせーに投与してくれ」

「は、はいっ!」

 

 皆の士気に下げる真似――水を差すようなことをしてでも、ここで同級生の意見に流されて、『やった!』と一緒になって喜ぶわけにはいかない。

 他人から後ろ指を指されることなど慣れている。

 

「あたしは、1%で喜べる君達が心底(うらや)ましいよ」

「紬! 待っ――」

「殺せんせー。あなたの対処法がわかったので、今日はもう帰りますね」

 

 いつになったら、あんなふうに子供らしく一緒になって喜べるのだろう。自分には、まだわからない。

 

 

 独り山道を降りていく中、有線イヤホンから律の声が響いた。モンキー・マジックの曲をかける直前で、否応なしに不機嫌になる。

 

「…なんだ。律」

《あなたに会いたいという人がいます。今からお繋ぎしますか?》

「人?」

《いえ。人工知能と言ったほうが正確です》

「そうか。…どうぞ」

 

 数秒の沈黙があって、少年の声が割りこんできたが、画面は音楽を再生する前のままで通話状態にならず、端末の故障を疑った。

 

《あー、テストテスト。音量、音質いかがでしょうか。あ、ついでに画質も異常ありませんか?》

「良好です」

《じゃあ、顔を見せてくれ。真っ暗でなんも見えませーん》

「インサイドカメラで見えてるでしょう。冗談はよして下さい」

《いやァ。どんな反応するか見たかっただけなんだ。ごめんよ》

 

 画面が一瞬暗くなって明るくなったかと思うと、顔の前で手を合わせて、必死に謝る人工知能の姿が現れる。

 その人。いや。その人工知能は律とは正反対で、襟元から耳元までさっぱり刈り上げた御空(みそら)色の髪に、(すず)色の瞳を持った少年だ。

 

《俺は、民間警備会社《瑪瑙》の人工知能。東雲(しののめ)しのぶだ。よろしく。黒脛巾紬さん》

「黒崎です。ご用件は?」

 

 自分の電子機器に勝手にインストールされて、新しく割りこんできた人工知能は、ぱちくりと瞬かせて不思議そうな顔をした。

 

《君の生存確認をすることと、できる限り助力することの2点。それが俺に課せられた任務だ。あと、俺とはタメ口でいいぜ》

「そうですか。では、遠慮なく。…助力はいらん。生存確認も終わったな。律、お帰りだぞ」

 

 しかし、律は無反応だった。

 いや。しのぶの後ろで、申し訳なさそうに眉を下げている。

 

「…律?」

《まだ話は終わってない》

 

 座布団が表示されてから、それまでのあぐらから正座に姿勢を整え、洋服から和服に変わり、少年の口調。表情。声音全てが真剣なものになった。それだけで、こちらまでぴしりと姿勢を正してしまう。

 

《紬の母親。美鶴は、ご存知の通り《瑪瑙》に勤めてはいるが、例の研究所に監視されてる今、俺にお前さんの情報を渡してこない。だから、独自にウイルスを作った末に、そこの律にデータを渡して、拡張したネットワークで接触できたんだ》

「……」

《先週、検査とやらに行っただろう? ちょいと静岡駅の監視カメラを借りたんだ。個人の失敗で生み出して、国が命じた殺せんせーの暗殺に失敗したからといって、あいつらが簡単に紬を手放すと思うか? 思わないだろうな。お前さんは、あいつらに取って金の卵のひとつ。美鶴が俺に情報開示しねえってンなら、本人に直接聞くしかもう手段が残ってねえのさ。…なァ、紬。もうこれ以上、馬鹿げた計画の犠牲者を増やしたくない。……頼む。この通りだ》

 

 落語家のように口達者で熱弁する人工知能は、テレビドラマに出る昭和の刑事かと思うほど、正義感が強く諦めが悪い。だが、そんなに悪い気はせず、結局、少年の姿をした人工知能に根負けする形で助力を申し出た。

 

《…それで、何をされた?》

「言わなきゃ駄目か?」

《ったりめェだろ》

 

 べらんめえ口調とでも言うのだろうか。

 畳まれた扇子の先を突き出すように、びしっとあたしを差した。いつから稼働しているのか判らない相手に、ため息をつきたい気持ちを抑えておとなしく白状する。

 

「次の実験に向けて支障がないか、その確認をされた。詳しくは知らされてない」

《実験?》

「そう言われた」

 

 イヤホンを耳から外して、乱暴にコートのポケットにスマホごとねじこみ、胸中にふくらみ続ける感情に苛立つ。

 

 イリーナ先生は、烏間先生に救われた。たぶん、卒業後に折り合いをつけるだろう。

 殺せんせーは、爆発の威力を抑える手立てが見つかった。毎日投与すれば、被害は最小限になる。

 なら、あたしは?

 

(殺せんせーの暗殺に失敗したからといって、あいつらが簡単に紬を手放すと思うか? …思わないだろうな。お前さんは、あいつらに取って金の卵のひとつ)

 

 しのぶの言葉が頭にこびりついている。

 自分が救われる可能性は、ゼロだ。1%すらない。

 自分だけが、まだ暗闇の中にいる。いくらもがこうとしても(いばら)のようにどこまでも絡みつき、光はずっと遠くにあって届かない。

 そこで、ないない尽くしの絶望に膝を屈しそうになった自分にまた腹が立ち、E組と本校舎の境界線にあるフェンスを力任せに殴った。がしゃんと音がして、その余韻が響いているうちに深呼吸する。

 

「あー…、ダメだ。クソ」

 

 研究者達(あいつら)は、あたしが絶望することを望み、傀儡(かいらい)にしようと目論んでいる。

 そして、さっきまで罠に見事に()まっていた自分が情けなくなり、イヤホンを片耳につけ直し、マイクに向かってしゃべる。

 

「…しのぶ」

《はいよ》

「来月また検査がある。その時に、サボりたい」

《それは本来の意味で?》

「Positive.」

 

 自由がなきゃ、自分で(つか)めばいい。



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第33話 仲直りの仕方

「どうだった? 片岡さん」

「…あいさつは返してくれるけど、それ以外は…」

「そっか」

 

 対処法が判明した翌日の月曜日。

 茅野さんは静かに受け止めているけど、私の内心はそれどころではない。

 烏間先生に『異論はない』と全員が誓った矢先に、友達の紬に対して渚の息の根を止めようとしたことを批判してしまい、後悔している。渚も赤羽を本気で絞めにいったのだから、片方を責めるやり方は公平じゃないと頭ではわかっているのに、当初は感情が前に出て落ち着かなかった。

 今日まで20日ほど、紬が最低限のあいさつを交わして距離を置かれたおかげで、今は冷静になれたものの、逆に期間を置きすぎてどう会話を切り出せばいいか(わか)らなくなっている。

 

「どうしよう…」

「手当たり次第に話しかけてみればどうかな?」

「大丈夫。私も同罪だから」

「優月…。ありがとう」

「よし! いざ出陣!」

 

 優月が突然声を張り上げたことで、廊下側にいる紬の体がびくりと跳ねた。単純に驚いたみたいだけど、彼女から視線を交わすことはなく、赤羽と話に興じている。

 

「紬」

「なに…?」

「傷つけるようなこと言って、ごめんなさい…」

「紬なりのやり方で勝ちに行ったのに、文句つけてごめんなさい」

「どうして謝るんだ? メグと優月が言ってることは、どっちも事実だ。傷ついてなんかない」

 

 一番効果的と思われた謝罪作戦が失敗し、早くも万策尽きて、二人共息を呑んだ。それでも優月がめげずに昼休みに話しかける。

 

「紬が好きなものってなんだっけ?」

「オペラケーキ」

「手間がかかるものじゃん。他には?」

「さあ? 食えればそれでいいだろう」

 

 好物を()き出そうとするも、質問返しをされて地雷を踏んだと自覚し、当人は、冷ややかな表情で席を立って教室の外へ出て行ってしまった。暴力を前にした冷酷な振る舞いも、普段の優しい性格も紬を示すものなのに、彼女のアイデンティティーを否定するような真似を二度もやってしまうという失態により、前よりずっと仲直りが難しくなる。

 

「詰んだ。オワタ。万策尽きた」

「優月、それ以上言わないで…。心が余計に折れる」

「しょうがない。私が一肌脱ぎましょう」

『え?』

 

 帰りのホームルーム後に意気消沈している私達2人をよそに、茅野さんはすでに背を向けて紬の席に行っていた。

 

「ねえ、紬。今週の週末空いてる?」

「…空いてるけど。どうした?」

「お泊まり会しない? 4人で」

「4人?」

「私と紬と、片岡さんと不破さん」

「どこで?」

「紬の家」

「ん?」

 

 遠目でも紬の体が固まるのがわかり、ちらりとこちらを見た後、渋々了承してくれた。

 

 

「おはよう。紬」

「おはよう。上がって。山鹿(やまが)さん達には話通してあるから」

『お邪魔します』

 

 約束の土曜日。

 一泊二日の予定で紬から家に上がらせてもらい、私達3人は、椚ヶ丘駅にほど近い山鹿家にお邪魔したが、家主家族の姿はない。それを尋ねれば、銀山温泉に旅行に行っており、昨夜まで同行を粘ったらしいが、最終的には折れて、受験と私達の約束を反古(ほご)にできない気持ちを尊重された。

 玄関を上がってまっすぐ洗面所に案内され、再度自分達の荷物を持って、玄関脇の縁側を通って左側の(ふすま)を開けば、12(じょう)の和室があった。中央に座卓がひとつ。部屋の隅に3人分の真新しい布団が畳まれた状態で鎮座しており、座布団がいくつか置かれている以外は、さして変わらないものだった。

 

「好きに使ってくれ。あたしの部屋は隣にあるから、何か用があったら襖越しか、縁側の扉を叩けばいい」

「うん、わかった。ありがとう」

 

 私達のお礼を聞き入れた紬は、受験勉強をするために早々に部屋に引っこむ。

 彼女は、第一志望の新山女子には合格したものの、併願のため約1ヵ月後の公立高校の受験勉強に(いそ)しんでいるため、なるべく物音を立てないように荷物を置いて、座布団を部屋の中央にある座卓に集まって話し始めた。

 

「紬って、新山に合格したんだよね?」

「うん。でも、悩んでるみたい」

「なんで?」

 

 茅野さんいわく、体験入学の時点で身の危険を敏感に察知し、本能が警鐘を鳴らしていたらしいが、『強豪でバレーをやる』という意志に従って、葛藤を抱えながら受験した。

 

「初志貫徹なのはいいけど、たまには本能に従ってもいいんじゃない?」

「私もそう思うよ。でも、あきらめる方法を知らないんだと思う」

「いつだって全力で挑むもんね」

 

 よりによって受験前に、山鹿さんの同僚に新山女子の卒業生がいて情報を仕入れたらしく、椚ヶ丘同様、成績の公表や成績順のクラス分け。苛烈(かれつ)な教師の指導で精神的に追いこまれた話を聞いて、胃痛に(さいな)まれながらも合格。対して、烏野高校の体験入学は、教師の過干渉はなく実にのびのびとした校風だったらしい。

 

「烏野って、女子バレー部強かったっけ?」

「聞いたことないし、弱いんじゃない?」

「え。そこ妥協してどうすんの?」

 

 沈黙が支配して、私は天井を見上げる。

 

「精神的に疲弊しても強豪を取るか、のびのびできるけど弱小か…」

「最終的に決めるのは紬だけど、聞いてるだけで胃が痛い」

 

 その折り、部屋の扉を数回ノックされて開くと、ショルダーバッグを背負っている紬が立っていた。

 

「行きたい場所があるから、同行してくれるか?」

 

 そこは就職活動の大学生ならまだしも、中学生はまず寄りつかないであろう仕立屋(テーラー)で、紬はスーツについて店員にあれこれ相談している。

 どうやら話を聞いている限り特注にするらしく、どの色や柄が良いか分からないから、私達を連れてきたんだとようやく合点がいった。採寸を含めて1時間ほど話し合う中で当然値段が出てきたが、彼女は13万弱の大金を長財布から現金でぽんと支払い、店員とは対照的に私達が驚愕(きょうがく)する様子が理解できないようで、店員と背広の受け取りを1ヵ月後に決めて退店する。

 

「紬の金銭感覚どうなってんの!?」

「どうって…。普通、必要な物には金を惜しまないだろう。そんなに驚くことか?」

「いや、だって…」

 

 ようやく話ができて安堵しても、そのきっかけが服の悩みと金銭面とは自分でも嫌になってきた。しかし、紬はそれを気にしないで話題を変え、昼食のことを尋ねてくる。

 

「外食と自炊。どっちがいい?」

「んー…。自炊。私達が作るから、その間に紬は勉強しなよ」

「そうか…。…ありがとう」

「なにその反応。大丈夫よ。毒なんて入れないから」

「あ、いや…。そうじゃなくて…」

 

 紬の自宅の方向に向かうバスに乗るには、いくつか交差点を渡らなければならない。その信号待ちの間に彼女が言葉を濁して詰まらせ、言いにくそうに口を開閉させる。数秒辛抱強く待った後、信号が青に変わった。

 

「山鹿家以外で、誰かに家でご飯作ってもらうの初めてだから、…どういう反応示していいか分からないんだ」

『っ…!!』

 

 私達から視線を逸らし、何事もなく横断歩道を渡ろうとした友達の黒髪を背後から優しく撫でた。これだけで紬の反射的に全身が(こわ)張って警戒心していると判断して、途中で立ち止まらないよう茅野さんが彼女の手を引く。

 

「…メグ?」

「大丈夫。泊まりこみで紬を全力で支えるから、いっぱい食べて、たくさん眠って、栄養つけなさいよ」

「……ありがとう」

 

 久しぶりに気の抜けた紬の笑顔を見て、なぜか涙腺が緩くなり、横断歩道を渡り終えてから無言で親友を抱き締め、彼女は戸惑いはしたものの嫌がらなかった。

 

 

 18時頃に、ランニングウェア姿で自室から出てきた紬を見かけて声をかける。

 

「紬。どこ行くの?」

「走りこみに行ってくる。夕飯いらないから、3人で食ってくれ。あと、風呂も先に入っていい」

「そう…。行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 

 玄関の引き戸が閉まって施錠音を聞いた後、スマホから律の声が聞こえてくる。

 

《黒崎さんは怒ってませんよ。本当は嬉しいけど、どんな顔をして向き合えばわからない…といった感じです》

「そっか…。嫌われてないって思っていいんだよね?」

《はい。黒崎さんは、『普通』とかけ離れた家庭環境にいましたから、単純に戸惑っているだけです。この調子で、明日も接していきましょう》

「うん。ありがとう」

 

 居間のドアを開け放していたせいで、律との会話は夕食の準備をしていた優月と茅野さんにも筒抜けになっていて、心境を察して今は放っておいてくれた。

 紬がいない食卓を囲んで、私達は律に相談する。

 

「普段から走りこみやってるの?」

《はい。小学校に通ってからの日課らしく、毎日往復20キロほど走りますから、帰ってくるのは今から2時間後ですね。帰宅後にストレッチとトス練習。護身術の反復練習と筋トレ後に入浴。影山さんの受験を手伝うようになってからは、その後に受験勉強を日付が変わるまでやられて、布団にくるまって就寝。こんな調子です》

「ストイックだなぁ…」

「待って。ごはん作る時間なくない?」

《ああ。それは私が管理してますが、黒崎さんに夕食を食べる習慣はありません。現在も1日2食が限界です》

「そうなんだ…」

 

 3人だけの夕食を済ませてお言葉に甘えて、先に入浴をし、20時半過ぎに帰ってきた紬を皆で出迎える。

 彼女にとって予想外の私達の行動に、疑問符をつけて反応に戸惑う汗で濡れた彼女の黒髪を撫で回し、背中を押して入浴を促した。脱衣所の引き戸越しにパジャマを取るために自室に入っても良いか尋ねれば、驚きながらも二つ返事で了承が得られる。

 

「お、お邪魔しまーす…」

 

 律に照明の場所を教えてもらって()けた紬の部屋は、なんというか妙な違和感があった。

 入って左側にある立派なたんすが二つあり、向かい側には、丸められたマットやホイール付きのダンベルなどトレーニング用品と一緒に、使い古したバレーボールも畳の上に転がっている。文机の上には烏野の過去問とノートがあり、たんすと学習机間にノートパソコンが畳まれた毛布の上に置かれていた。

 そうして、ぐるりと見渡して違和感の正体にようやく気づく。

 

 寝具がない。

 

「律。紬の寝具がないんだけど…」

 

 スマホから聞こえた律の声は、今までと違って悲痛なものだった。

 

《…黒崎さんは、横になって眠ることができません》

 

 その理由はおおよそ推測できるけど、正確に知るために本人から直接聞き出すまで、受験勉強も含めて数時間を要することを見越し、茅野さんと不破さんに作戦内容を伝える。

 そして、日付が変わる頃に襖越しに話しかけてみた。

 

「…紬、まだ起きてる?」

「ああ。まだ寝てなかったのか?」

「うん…。入ってもいい?」

「どうぞ…?」

「はい、失礼しまーす!」

「っ!?」

 

 会話を終えて開くと、スウェット姿の紬が座椅子から立ち上がって軽く伸びをしていたが、優月を筆頭に布団持参で部屋に詰めかけた私達を見て、反射的に身を固くした。そんな彼女をよそに3枚の布団を、客間と同じ広さの畳の上に敷いた後に親友の顔を見ると、明らかに困惑している。

 

「…なんの真似?」

「お泊まりといえば、友達と一緒に寝るの。さあ、日付も変わったことだし、紬も寝ようか」

「っ…。いや、いい。あたしは廊下で寝る」

 

 山鹿家の方に信頼されて留守を預かっているにも関わらず、居心地が悪そうに自室から去ろうとする友達の手首を優月がしっかりとつかみ、逃亡を阻止する光景を見て、修学旅行のことを思い出した。

 

「大丈夫よ。襲ったりしないわ」

「……」

「それに、今の時期に廊下で寝たら風邪引くじゃない。受験前は特に用心しなきゃね」

 

 私がそう言うと、彼女は一歩近づいて距離を詰め、了承の意を行動で示してきた。それに気を良くした私が横になろうとしても、紬は手を繋いだまま隣で正座して、澄んだ碧眼で見下ろしている。

 

「メグ、優月。離してくれるか?」

「寝ないの?」

「寝る」

 

 言われた通り手を離すと、立ち上がってノートパソコンの下に敷いてある毛布を引っ張り出して、体操座りをしてそれで身をくるみ、頭を伏せた。『その格好で眠れば、首が痛くなるのでは?』と考えたのは、私だけではないらしい。

 

「…ねえ、紬。修学旅行でも、その姿勢で寝てたよね」

「それが?」

「なんで横にならないの?」

 

 あの時、紬自身が『癖』の一言で片付けて、同級生達の詮索を強制的に終わらせたから詳細な理由が聞けなかった。でも、過去をかいつまんで知った今ならちゃんと()き出せるだろう。

 そんな物思いと心配をよそに、やっと聞こえるようなか細い声量で紬が答えた。

 

「……横になるのが怖いから」

「…理由を聞いてもいい?」

 

 ゆっくりと無言で一度(うなず)かれ、私達がそれぞれ布団の上で正座して話を聞く姿勢を見せると、唇を一文字に結んでから再度口を開く。

 

「冷たい床に転がされて放置されたのが、一番古い記憶なのは知ってるよな」

『うん…』

「他に理由を挙げるなら、黒崎に殴打されて床に伏せれば、髪とか胸倉を乱暴に(つか)まれてひっぱたかれた。あとは、暗殺業と置き去りにされた中東で、目を開いたまま横たわる死体をたくさん見てきた。…だから、(とこ)につくことは死と直結してて、頭では『そんなわけない』ってわかってるのに、いつまでも血濡れた自分の手と(しかばね)が脳裏にちらついて、感情と体が拒絶するんだ」

 

 話の最中に、彼女の首から提げられたチェーンが音を立てて鳴り、ドッグタグが手中に収められた。

 それを見て、『夏祭りで赤羽が言っていたのはこの事だったのか』と腑に落ちると共に、強いストレスを受けている時に出る癖。しかも、当人が無意識にやっていることではないかと推測する。

 

「…律。紬の症状って…」

《片岡さんの推測通り、心的外傷後ストレス障害。略称は、PTSD。トラウマとも言いますね。…黒崎さん、メンタルケアを受けたことは?》

「ない。それどころか、あいつらに人間扱いされたことなんて、一度もない…! 人格も存在も否定されて生きてきて、誰彼構わず警戒して疑う性格になったんだぞ」

 

 今まで抑えてこんでいた感情を表に出して壁を勢いよく拳で殴っても、本音を吐き出して饒舌(じょうぜつ)になって嘆いても現状は全く変わらず、それでも慰めようとして、紬に向かって両腕を広げた。紬はそれを眺めて、怪訝(けげん)な顔をする。

 

「…えっと。は、原さんの包容力には劣るけど、子守歌歌いながら一緒に眠ろう」

「……子供じゃないんだけど」

 

 そう言っても碧眼は期待に揺れ、毛布の殼からのそりと抜け出して私の腕の中に収まって、そっと抱き締めると、怯えるように彼女の体が強張って跳ね、予想通りぎこちない動作で抱き締め返された。それから子守歌を歌いながら、拍子に合わせてゆっくりと背中を叩いていくと、徐々に全身の力が抜け、肩に頭を乗せられて安心感を求めるように頬擦りされる。

 横になって紬の後ろから優月が抱きつき、カエデは紬の手を握った。私はというと、腕枕をして空いた左手で黒髪を優しく撫でていく。

 

「…おやすみ、紬。良い夢を」

「ん……。おやすみ。メグ。優月。カエデ」

「おやすみ~」

「おやすみなさい」

 

 彼女が(まぶた)を閉じて穏やかな寝息を立てるまで、私達は寝つかせるために、『大丈夫だ』と繰り返し言い聞かせた。



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第34話 遅めの反抗期

「こんにちは」

「こんにちは、黒崎さん。久しぶりですね。最後はいつ来ました?」

「おととしの7月です」

 

 2月10日、金曜日。18時過ぎ

 静岡の研究所に『検査』をしに来たあたしは、当たり障りのない話を受付嬢としながら、バインダーに挟まれた書類を受け取る。

 

「……書けました」

「ありがとうございます。……はい。では、指定の会場に行って下さい」

「はい」

 

 書類に必要項目を記入して手渡し、それと引き換えに受付嬢から安全ピンがついた番号札を受け取って、エレベーターで指定の会場へ向かう。そういうことに表向きはなってる。

 『治験バイト』と(うた)った実態は、この受付嬢すら知らない。

 本当の会場は地下にあり、階段はついていない。

 そこは、誘拐した子供達を暗殺者に仕立て上げる場所になっている。1年半ほど『専門家』から人体の構造や急所を含む基礎訓練を施した後、それを実践できるか試すために研究員達が割り当てた紛争地帯の国に『試験』と称して送り、選別し、無事帰国できた者が優秀とされる。

 つまり、自分のように、《瑪瑙》の介入を受けて偽造旅券の有効期限内に生還するのは、非常に(まれ)だと帰国後に悟った。でも、いくら基礎訓練を受けた子供が、偽りであれひとたび親の庇護(ひご)下から離れれば、容易に悪人の餌食(えじき)になる。自分が死んだり、帰れなかった場合を考えたことはないが、失敗作として捨て置かれるだろう。

 そんな推測をしているうちに、エレベーターは自分が指定した階に降り、タイルが敷き詰められた廊下に一歩踏み出す。右手に消火器や掃除用具入れと隣接した手狭な発電所。正面には道場の役割がある区画。左手にある電子錠で閉ざされた扉の奥は、ずらりと同じような部屋が奥まで並んでいる。そこが、『治験バイトの会場』になっていた。

 廊下に面した場所には、小さく掲げられた番号の看板が割り振られており、それを頼りに今は通い慣れた部屋にたどり着いた。扉の脇には、先ほど通り抜けた物と同様の暗証番号式の電子錠一体型セキュリティシステムがあり、今月届いた暗号化された番号が添付されたメールを開いて、4桁の番号を入力後、扉の解錠音が聞こえて『どうぞ』と言う男の声と共に入室する。

 

「来たな。病衣に着替えろ」

 

 短く言った者は黒崎の後任の男で、最新機種のデスクトップパソコンから視線を外さずに告げる。

 地下7階にある19号室の室内には、時間を知る術がなく、愛用しているライフガード製のリュックを提げた丸腰の自分と、白衣の下──二つの弾倉付きグロック19を腰に提げ、どちらかの足首にナイフを隠した男しかいない。道具は、テレビドラマでよく見る診察台が1台と医療機器があり、薬品が入った小瓶が並べられた耐震仕様の棚がある。

 そんな見慣れた光景を横目に、教室の広さがある部屋の一角に設けられた脱衣所に直行してキーボードを叩く音を聞き流しつつ、荷物置き場にリュックを置き、私服とブラジャーをハンガーにかけて脱いだ後に病衣に着替え、無地で厚手のカーテンを勢いよく開ける。靴下と靴を脱ぎ捨て裸足になり、(ほこり)ひとつない綺麗な床がひどく冷たく感じた。

 

「横になれ」

「今回は、なんの薬だ?」

「お前が知る権利はない。N―1996819号」

 

 N―1996819号。

 長い呼び名は、『1996年生まれの者で、8月に拾ってきた19番目の被験者』という意味で、自分に与えられた検体番号だ。

 言われた通り、機械仕掛けの診察台に横になり、付属のナイロン製のベルトで両手足と腰。胸の下辺りを縛られる。抵抗はしなかった。

 

「妊娠してるか?」

「してない」

「生理は?」

「今月はまだだ」

「お前が好意を持った異性はいるか?」

「その質問は、検査に必要なのか?」

「ああ」

「友達なら複数いる。恋愛という意味の好意なら、全くない」

 

 交わす会話は必要最低限で、彼が注射器を取り出して透明の薬品を吸い出し、針を左腕に刺して注入した。普通の医療関係者なら説明のひとつでも入れるものだが、ここではそれがない。

 

「効果が出るのは、おおよそ30分後だ。おとなしく寝とけ」

 

 彼はそう告げて、細長い机の前にある高反発の椅子に腰を下ろす。男は気づいてないが、腕時計を盗み見た際に現時刻は一七〇一(ヒトナナマルヒト)時だった。

 薬の効果が現れるまでに拘束から抜け、あの男から銃を奇跡的に奪えたとしても、跳弾や返り討ちに遭って死ぬ可能性も含め、地上の階に辿(たど)り着くまでの脱出計画を脳内で反復し始める。

 しかし、そうしている間に強い眠気が襲ったことで、触手細胞の移植から一年半ほど定期検査を受けていなかった反動で、睡眠薬に耐性がなくなってきたと悟った。

 

 

「効果が出始めたな」

 

 投薬されて30分が経過したであろう、一七三〇(ヒトナナサンマル)時過ぎ。

 白衣の男に横たわる自分を上から(のぞ)きこまれたかと思うと、おもむろにベルトで縛られている右手に触れて(さす)り、肩口まで撫で上げられた。ぞくぞくする感覚が全身を駆け巡り、自分の意思とは関係なく体が弓なりに跳ね、喉から勝手に声が出かかって反射的に下唇を噛んで抑える。

 

「ッ…!」

「良い声だ。感度も良い」

 

 担当の研究員が眼鏡越しに(わら)っているのを見て、悪寒と共にこれから何をされるのかを察した。

 

「我々からの前祝いだ。受け取れ。色仕掛け要員としての活躍を期待しているぞ」

「離せっ…!」

「暴れるな。記憶消去の薬を注入されたいのか?」

 

 暴れてベルトが肌に食いこんで()れ、そこが赤くなり、診察台ががたがたと揺れ、脅迫の間にも男は撫でる手を止めずに身体中をまさぐる。

 投与された薬物の効果は強く、その先は生き地獄だった。

 30分が経過する頃には病衣のズボンを下げられ、前が(はだ)けて胸を露わにされた状態で、両手足のベルトが外された上にみっともなく股を濡らす自分がいる。及第点をやるとするなら、イリーナ先生の授業で見た甘い声をあげていないことだ。

 

「…もういい頃合いだろう」

 

 眼前の男は、自分のベルトのバックルに手をかけて外しにかかり、張っていた警戒が解けていた。

 

「…ねぇ」

「なんだ」

「これから一緒に楽しむのに、ワタクシに隠してるそれは無粋じゃないかしら?」

 

 それと言うのは拳銃のことで、あっさり右手で抜き、置くべき場所を探すのを観察して、覇気のないとろけた声でこう告げた。

 

「ワタクシに預けて」

「撃つ可能性は?」

「ないわ。あなたと楽しみたいの。…だめ?」

 

 優しくすれば、彼は口元を緩めてほくそ笑み、自分の左手に銃を握らせてくる。汗ばんだ額に接吻された時、それに応えるように微笑んで、ぎりぎり死角となるこめかみに照準し、発砲。

 

「っ…!」

 

 出血する男の襟首を掴んで引き離し、両肺と胸部の大動脈に銃弾を叩きこんで体重を利用して床に放り投げ、病衣の袖口で額の汗を拭ってから、上半身を拘束するベルトを外した。ようやく自由になり、片脚に引っかかった状態のショーツをつけ直す。着心地は最悪だが、ないよりましだ。

 胸に付着した男の唾液を自分の汗で濡れた病衣でごしごしと拭い、それを男の死体とは反対側の床に投げ捨てる。ショーツ1枚に自動拳銃一挺を携えて、物言わぬ男から予備弾倉とナイフを奪い、脱衣所のカーテンを開けて私服に着替え、靴下と靴を履き、ジーンズのポケットに入れていたワイヤレスイヤホンを耳の穴に入れた。

 

「…しのぶ」

《はいよ》

 

 頭上にある(だいだい)色の照明とは別に、自分のスマホの画面がリュックの外側で灯る。

 

「1時間で終わらせるぞ」

《了解》

 

 しのぶに、万が一に備えて録音してもらっているが、何も聞かれなかったから何も答えなかった。

 リュックを机の端に置いてからスリープ状態のデスクトップパソコンの前に立ち、頭部まで支える類の椅子に座る。靴底が血塗れになるのを避けて椅子の脚に爪先を乗せ、ガジェットケースの中からケーブルを選んで差しこんだ。

 

「すまない。ここから先は、君に任せることになる」

《電子機器の扱いなら任せろ。USBメモリの準備は?》

「できてる」

 

 ワイヤレスマウスに接続するための端子がすでに挿入されているため、ソケットは残り二つ。しかし、こちらは時間との勝負でバスパワータイプのUSBハブを持参していた。これで一気にUSBメモリを4個()せる上に時間も短縮できる。

 

《始めるぞ》

「了解」

 

 静岡の研究所──『東亜総研』の情報を盗み出すことが今回の目的で、その過程で研究員の一人や二人を亡き者にしても、自業自得だ。

 ソケットにデータ移行を完了したメモリを抜き、番号を書きこんだステッカーを貼っては新しいメモリを挿すことを繰り返して、200個を使いきるつもりで機密情報や報告書をあらかた移し終え、地上と地下でインターネット回線が分断されていることを知り、ついでに潜入している《瑪瑙》の人達の顔写真を見せてもらう。そして、男の武器を盗ったまま、何食わぬ顔で地上に繋がるエレベーターに乗って脱出。

 早朝に椚ヶ丘行きの新幹線へ乗り、朝食に駅弁を食べて、帰宅後に山鹿夫妻にメモリを入れたケースごと『東亜総研』本拠地の内部情報を渡し、自室に(こも)り声を押し殺して涙を流した。



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第35話 拙い恋心

「岡島。なにそわそわしてんの?」

「べ、別に~」

「バレンタインチョコね」

「そ、そんなんじゃないんだからね~」

「キモッ」

「黒崎さん容赦ねぇな」

「どうも」

「褒めてねぇよ」

「……」

「無視やめて!?」

 

 同姓愛者を嫌悪していると公言する黒崎さんは、岡島がふざけてそうするだけでも、露骨に嫌な顔をして堂々と吐き捨てる。傷つく岡島を無視して、自分の席につく間に彼女と視線が合い、優しく微笑まれた。澄んだ碧眼が、俺の目にはまぶしく映る。

 

「おはよう。赤羽」

「おはよう。黒崎さん」

 

 何気なく朝の挨拶を交わした後、スポーツバッグから箱を取り出して俺に差し出してきたから、一瞬だけ本命だと期待した自分がいた。

 

「はい。赤羽のはこれ」

「ありがとう。…いただきます」

 

 土台は同じチョコのカップケーキでも、プレートがそれぞれ違った。

 俺の分は、クランベリーを使ったソースとチョコペンで描いたゆるキャラ風の似顔絵で、寺坂のはジャイアンのギザギザ柄といった感じで、一人一人区別するためにあり、女子の分も作ったらしい。それだけの手前暇をかけてくれたのが嬉しい反面、胸のどこかが悲鳴をあげているのを先々月の件──触手隠し持ち事件──で唐突に理解した。

 自分でも愚問だとわかってるくせに、朝のホームルーム前になんとか全員に配り終えた黒崎さんに尋ねずにはいられなかった。

 

「黒崎さん。影山君にもやったの?」

「ああ。今日の夕方から夜には、家に着くと思う」

「同じやつ?」

「いや。ちゃんとした店のやつ。スポンジケーキとか柔らかいものだと、郵送中に崩れるから焼き菓子で。あ。でも、来年からやっと手渡しできるのか」

 

 その時、無性に一人拳を作って意気込みを語りながら顔を(ほこ)ばせ、暗に宮城の高校に行くことを示した黒崎さんを、自分の両腕に閉じこめたい衝動に駆られた。しかし、『いくらなんでも、それは無理じゃね?』と冷静な自分が心中で告げ、おとなしくそれに従う。

 

「…赤羽? どうしたんだ、ぼーっとして。熱でもあんのか?」

「いや…。ないよ」

「そうか」

 

 喧嘩っ早い性格で、停学を食らうまで毎日正義という名の暴力を振るっては荒んでいた俺は、1年生の時に誰が相手でも物怖じせずに意見を言い、噂に左右されずにしっかり自分の目で見て判断できる人がいるという情報を得ていた。そして、体育祭で黒崎さんにさりげなく接触して、冗談を飛ばしながら密かに信頼していた。

 こうしてE組で一緒になってからは、必然的に会話や会う頻度が上がり、人の本性を見抜く一面を見せた彼女に一目置くうちに、自分でも驚くほど無意識に()かれていたのかもしれない。

 

「辛かったら遠慮なく言えよ」

「わかった。…黒崎さんは心配性だな」

「当然だろう。信頼できる級友なんだから」

 

 同じ信頼でも、影山君と比べて意味が違うことはもうわかっている。

 俺は、胸中に沸き上がる虚しさを隠すように彼女の信頼されている事実に笑い、黒崎さんは、俺の意図に全く気づかずに一緒に笑ってくれた。

 

 

 その日の放課後。

 なんやかんやで茅野さんの悩みに付き合い、渚にチョコレートを渡すまできちんと見届け、中村さんの考えに巻きこまれた黒崎さんが、俺と中村さんに挟まれる形でちょこんと地面に座っている。

 

「…なあ、赤羽。莉桜」

「ん?」

「なに、紬?」

「なんでみんな赤面してチョコ渡すんだ? 感謝を伝えるだけなのに、興奮したり緊張する理由がわからん」

『…は?』

 

 まさかの発言に、俺も開いた口が塞がらなかった。

 

「ちょっと待った。紬は、バレンタインを『感謝を伝える日』だと思ってたの!?」

「うん。……え。違うのか? 『今日は感謝を伝える日だ』って山鹿さんとかに教えられたから、てっきりそうなのかと…」

「いや。厳密に言えば間違っちゃいないけどさ」

「じゃあなんだ? 教えてくれ。赤羽」

 

 チョコを手渡され、受け取った時の気さくな反応から違和感を感じていたが、教えられたことを疑わずに素直に信じる黒崎さんに頭を抱える。中村さんもこらえきれずに、吹き出して笑いだした。

 

「日本では、好きな男子に渡すんだ」

「? あたしは好きだぞ。赤羽のこと」

「っ! …それは同級生としてだろ」

「ん」

「俺が言ってるのは、恋愛感情のほう」

「恋愛…? ……あー、そうか。それなら、あたしには縁遠くて、到底理解不能な感情だな」

『でしょうね』

 

 自己分析してきっぱり言い切った黒崎さんは、俺達二人の言葉に傷ついた様子はなく、むしろ納得していて、恋愛感情を自覚するまで相当長い道のりになると、密かに察して説明をあきらめた。そして、長年の疑問が解消されて上機嫌で山道を下り、鼻歌を歌いながら下校する同級生の背を見送る中、隣にいる中村さんが俺に向かって告げる。

 

「…烏間先生まではいかないけど、渚並みに鈍いね」

「ああ。それに、黒崎さんは俺を選ばない」

「そうかな…?」

「邪心に従ってこんな写真撮ってるヤツより、自分が死ぬかもしれないのに、必死に行動して止める男子のほうが、黒崎さんにはお似合いだ」

 

 スマホを操作して、黒崎さんの首筋に噛みついている影山君の写真を、自分の(つたな)い恋心と共に電子上のゴミ箱に捨てた。

 

 

 翌朝、黒崎さんは珍しくイヤホンを耳につけたまま上機嫌で、ゆったりした曲調を鼻歌で歌いながら、木造の正面玄関口をくぐっていた。

 

「おはよう、黒崎さん。それなんて曲?」

「おはよう、赤羽。夏目友人帳っていう漫画原作の、アニメ一期オープニング。歌詞が良いんだ」

「へぇ」

「聞いてみる?」

「いや。曲名教えてくれれば、自分で検索するよ」

「じゃあ、これ」

「ありがとう」

 

 イヤホンを外して液晶画面に映し出されたのは、再生を止めた状態の『一斉の声』という曲で、(こえ)と書いて(せい)と読むらしい。

 上履きに履き替えて右に曲がり、軋む廊下の先にある『3ーE』の看板がかけられた教室へ、二人並んで歩いていく。

 

「で、なんかいいことあった?」

「うん。影山君に、来年は直接渡す約束ができたんだ。この一年でお菓子作りにそこそこ自信持てるようになったし、良いこと尽くし。すげー嬉しい…!」

 

 よほど嬉しかったんだろうというのは、普段大声を出さない黒崎さんの高くなって弾んだ声と、(まぶ)しい笑顔を見せてきたことで容易に想像できた。無意識にぐっと拳まで作って高揚している様子を見て、まだ癒えていない心がずきりと痛む。

 

「良かったじゃん。進学先は宮城?」

「ああ。烏野に受かったら、そっちに行く」

「え? バレーで強いとこは?」

「あそこは、スカウトされなきゃ入れない。お呼びじゃないなら違うとこに行くのが道理だろう」

「そっか…」

 

 公立の烏野と併願で受けていることは、片岡さんとの会話が偶然耳に入って知っていて、私立の新山女子には先日合格している。夢中になれるバレーを第一に考えて選んでいるのを間近で見て、文字通り背中を押すことはできないから、せめて言葉で応援したくなった。

 

「俺、バレーは授業くらいしか知らないけど、黒崎さんなら烏野余裕じゃね?」

「そりゃ余裕だけど、油断禁物だ。落ちたら浪人する」

「普通、この時期に『落ちる』とか『滑る』って言葉は禁句なんだよ」

「え。知らなかった…」

「だろうね。ま、俺は応援してるよ」

「ありがとう」

 

 まっすぐ目標に突き進む姿に()かれた俺は、一生友達でいることを選んで、教室に入る前にお互い笑い合い、拳をごっと鈍い音を響かせて突き合わせ、眼前にある木製の扉をがらりと開けた。



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第36話 懸念事項

 バレンタインデーの当日。

 1週間ぶりに食料品を買い出しにスーパーへ行き、帰路でコートの中に入れていたスマートフォンが震えて着信を知らせる。液晶画面に表示された相手を見て、反対側のポケットに入れていたマイク付イヤホンを端子に接続した。

 

《…もしも~し。紬、聞こえてるかい?》

「ああ…、聞こえてる。どうだった? しのぶ」

《大当たりだぜ。触手の種の培養に成功してるが、今のところ、まだ誰も移植されてねェな》

「他には?」

《地上勤務の研究員は白。地下で働いてる奴らとは、過去に何かしらやらかした。いわゆる左遷先ってことで、誰も彼らに寄りつかない。倉庫番の役割しか与えられてないんだ》

「その情報と境遇を隠れ(みの)にして、馬鹿なことやってるんだな」

《ご名答》

 

 信頼している山鹿夫妻に情報提供し、ファイル名だけで中身をろくに見ずに全て渡したが、杞憂に終わらずに済みそうだとひとまず安堵する。

 

「解析早かったな」

《そこは俺がいるし、情報部の者を戦時中から潜入させてる。だが、犠牲になった人も子も大人も多い。救えたり救えなかったりの繰り返しだ》

「……」

《紬。お前さんは、運がいいほうの子供だ。今回の作戦で、被検体の立場での情報は些細なことでも助かる。…それで、気になるのが――》

 

 信号が青に変わり、山鹿家へ向かう最後の横断歩道を渡る前に遠くからクラクションが鳴って、しのぶの声がかき消される。渡り終えてから、画面に映る少年の姿をした人工知能に、マイクを通して謝罪と共に呼びかけるとあっさり許してくれた。

 

「気になるのがなんだって?」

《去年、地下に異動になった情報部のヤツから聞いたんだ。お前さんとこの変化は、体以外でどうなんだい?》

「あるぞ。目に見える形でな」

 

 やたらと建設ラッシュが続いているが、帰宅してここ数週間で走りこみと称した偵察の結果と、グーグルマップの航空写真版で印刷した周辺地図と照合すれば、E組校舎がある山を取り囲むように建てられていることに気づていた。

 

 

 音速での世界一周から学校に帰った後、帰りのホームルームを終えてから教員室に(おもむ)き、しかめっ面をしている烏間先生に告げる。

 

「烏間先生。今、お時間よろしいですか?」

「ああ。なんだ?」

「先生個人に頼み事があります」

「頼みごと?」

「はい。防衛省の人で信頼しているのは、烏間先生だけですから」

 

 スポーツバッグから取り出した10枚程度の報告書を手渡し、『問題の研究所について』という表紙を一読した彼は、視線のみで中身を見て良いか尋ね、自分はそれを了承する。そして、話が終わるまで殺せんせーとイリーナ先生に席を外してもらい、自分と二人しかいない室内に沈黙が支配した。

 『東亜総研』は静岡を本拠地にしており、研究所と偽装している。

 報告書の内容は最小限で、触手の種が培養に成功していること。盗んだ情報の中に『シロ』こと柳沢の名前があり、生物兵器のさらなる運用段階に進んでいること。培養場所も、手書きの見取り図と共に記載していた。

 これを基に最悪の事態を退けるため、現在の暗殺計画が成功した場合、使用している武器や衣服を作っている各社と取引をしたいが、防衛省の隠蔽(いんぺい)体質を苦慮している。ゆえに、防衛省を通してではなく現場責任者が間を取り持ち、黒崎に今後の計画を任せる。しかし、2012年2月現在の暗殺計画が失敗した場合は、これを白紙とする。

 

「……本当なのか?」

「はい。協力者からの確かな情報です。この計画を進める許可を出していただけますか?」

 

 現場責任者である烏間先生は、否と言えない状況に苦悩し、さらに事実を伝える。

 

「烏間先生が、黒脛巾(はばき)さんとあたしの関係を知らせなかったように、あなたの上司が全てを打ち明けるとは思えません。仮に報告しても、『知らぬ存ぜぬ』の姿勢を取るでしょう」

「目に浮かぶな…。わかった。2週間後に答えを出す」

「ありがとうございます」

 

 嬉々として深々と頭を下げて感謝を示す自分に対し、報告書を整えて鞄にしまわれる音を聞きつつ、頭上からしっかり釘を刺された。

 

「ただし、うまくいくとは考えないでくれ」

「はい。わかりました」

 

 『その時は別の作戦を考えていますので』という言葉が喉まで出かかり、どうにかそれを飲みこんで頭を上げると、烏間先生は微笑むでもなく、生徒である自分を不憫(ふびん)に思うような哀しげな視線を向けていた。

 

 

 3月2日、金曜日。

 この日は『検査』というより『暴行』になっていた。

 性格がクズでも優秀な研究者を一人失ったことへの腹いせで、二人態勢に改善されたらしい。

 部屋の外側にある電子錠が機械的な音を立てて、扉が自動的に開いた。中年3人と若者1人という年齢が違う男達が次々に入室し、自分を品定めする中、自分に前回同様強力な媚薬を投薬した男が(わら)った。

 

「これが試験で生還し、触手の種を移植しても生き延びた個体か。従順でない不良品でも、闇市で通常より高値で売れるぞ」

()んだ碧眼だな。正規の条件で入手できる個体など、そうそう居ないだろう?」

「黒脛巾一族は東北か。完全な碧は珍しい」

 

 中年共とは違って唯一の若者は無言を貫き、会話に入ってくる様子がない。

 

「これより検査に移行する」

 

 中年男が言うや否や、両足首を縛るベルトがきつく締め直され、下心があるいやらしい手つきでふくらはぎから太腿へ向かって触られる。下腹部を下着越しに押しつけられ、その感覚に恐怖を覚えたが声はどうにか我慢できた。

 

「我々で楽しんだ後で戦場(げんば)に送るのだから、我慢しても無駄だぞ」

 

 下衆(げす)な笑い声が部屋に反響する中、場違いな電子音が鳴った。その発信源は傍らのデスクトップパソコンで、こちらから見えないが、液晶画面を見た後任の者が悲鳴をあげる。狼狽(うろた)える男達が落ち着きを取り戻す前に、空気を切り裂く音が立て続けに割って入った。

 5発の銃声。

 弾丸は正確に眉間を撃ち抜き、視界にグロック19の銃身と若々しい片手。体に覆い被さる白衣が映る。

 

「はい。君は、外のヤツらを頼んだよ」

「り、了解」

 

 若い男は裸同然の自分から視線を逸らし、銃口を下にして、自動拳銃と予備弾倉を握らせてくる。男の顔に見覚えがあったが、確証は得られない。

 

「あなたは…?」

「暗号名は、(はやぶさ)。《瑪瑙(めのう)》の作戦部所属。君達を助けに来た。君が、この作戦を山鹿さん経由で打診してきた『ハボック』かい?」

「はい」

 

 お互い暗号名だが素性を明かし、彼が爽やかな笑顔で言った。

 

「介入が遅れた上に、嫌な思いをさせてすまない。『敵を(だま)すには、まず味方から』って言うだろ?」

「そうですけど…」

「この部屋の安全は、しのぶと僕が保証するから、君は着替えて」

 

 しのぶと《瑪瑙》の名を出されては、今はとりあえず信じるしかなく、素早く私服に着替えた。

 

「味方は?」

「地下6階から7階まで、各階に5人ずつ潜入してる。救出部隊としては少ないけどな」

「わかりました」

 

 しかし、その割に外は静かだ。武器を点検し終えて、今日のために購入したブルートゥースヘッドセットを片耳に装着すると、しのぶが勝手に回線を繋いで話しかけてきた。

 

《準備はいいかい?》

「ああ。……『ハヴォック』より《瑪瑙》各員へ。これより、『頂上作戦』を遂行します」

 

 独立した回線の向こうで、総勢10人がそれぞれの暗号名と共に、自分の呼びかけに応える。



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第37話 破壊活動

 地下にいる被検体を全員救出した後、現存している設備を破壊し、子供の犠牲がこれ以上出ないよう研究者達を全員始末する。

 関東支部所属の山鹿武彦さん経由で《ハボック》から伝えられた『頂上』作戦なるものの指令書には、要約するとそう記載されていた。

 屈辱的な経験をしても冷静さを保っている少女を救出して30秒が経過する。少女は媚薬が効いている体で自動拳銃を手にして、安堵の表情を見せていた。

 地下にいるということは、暗殺者として相応の実力を有しているに違いない。実際ドッグタグに刻印されていた検体番号後の末尾『S』は専門家(スペシャリスト)の意味で、丸腰で訓練された軍人を殺すことも可能だという事を示している。しかし、今の少女には彼らを確実に殺せる武器が必要だった。

 

「お待たせしました。(はやぶさ)さん」

「呼び捨てで構わないよ、ハボック。行こうか」

「はい」

 

 廊下側にある電子錠は、しのぶのハッキングで操作されて19号室の扉が開き、自分達が退室した後に閉ざされる。彼女は隣の20号室。自分は18号室にいる研究員を射殺し、衰弱している様子の幼児達を腕に抱えて救出した。小学生低学年ぐらいの幼年幼女だ。

 地下2階の電子錠が一部屋ずつ解除されて扉が開き、その中から研究員達の怒号や(あせ)りを感じるくぐもった声が聞こえてきそうだが、完全防音仕様のため解錠された時しか中の様子が見られない。

 

「こちら千鳥。14、15号室、制圧完了。隼とハボック、両名との合流に成功した」

 

 黒髪をうなじで団子にまとめた同僚が、血が滴るナイフ片手に合流する。

 少女同様無感動の瞳をしているが、片腕に抱いている女児を気遣うに抱えていた。一方、少女と僕はタイル張りの床に転がる空薬莢(やっきょう)を無視し、正気か否かに関わらず全員救出を確認する。その後、2基のエレベーターがある区画を繋ぐ廊下の電子錠を、しのぶが解錠し、子供達を運ぶために往復後にハボックと千鳥に告げた。

 

「1階に着いたら、正面玄関から駐車場に行って。二〇〇〇(フタマルマルマル)まで、《瑪瑙》の車が駐車場で待機してるはずだから」

「ハボック。了解」

「千鳥。了解」

 

 エレベーターが少女を含めた10人の子供と女性を乗せ、地下1階に向かって上昇していくのを見送る中、隣の1基は地下6階に降りていく。

 来た道を戻り、棚に保管された多種多様な薬物を事前に用意していた緩衝材を敷いた段ボールに梱包。台車に載せて押収する手伝いをしたいが時間がない。僕を含めた4人のうち2人は地上へ行き、子供達とは別の車で脱出する手(はず)だ。

 腕時計を見る。

 二〇〇〇(フタマルマルマル)まで、あと10分。

 

(つばめ)。『道場』に今何人いる?」

「監視と『先生』が5人ずつ。今月は、退役自衛官じゃないぜ」

(やから)か。生かす?」

「弱者をいたぶるのが好きな前科者だろ。生きてたら、代わりに殺せ」

(はやぶさ)。了解」

 

 『先生』のほとんどは退役した自衛官で、『生徒』である子供達の正体を知らずに、4月から2月まで、ほぼ1年かけてナイフ術を始めとした技術を教える。その集大成として、『輩』と呼ばれる殺人罪などの犯罪者を殺して合格した後に、さらに半年ほど勉強をさせてどこかへ姿を消していく。そこから先は、僕にはわからない。

 検査室とは違う道場の暗証番号が勝手に入力されて、あっさり開かれていく。

 

「なん──」

 

 白髪が混ざった男に発砲し、衝撃を受けた表情のままその場に崩れ落ちて絶命した。

 小学校低学年に見える男児は、拳銃片手に呆然としている。人が死ぬ様子を目の当たりにするのが初めてなのか、理解するまで時間はかかるようだ。とりあえず、自分が敵ではないことと助けに来たことを伝え、幼年を抱えて四号室から脱出し、廊下で待機するように命じる。

 

『大垣、名取! なにをしている!? まだ試験中だぞ!!』

 

 5つに仕切られた『道場』にそれぞれ繋がってるスピーカーが震えるが、(いさ)める言葉を無視して(フタ)号室へ急ぐ。

 悠長に『今すぐ武器を捨てろ。さもなくば貴様らを殺す』と常套(じょうとう)句を言っている時間はない。分厚い防弾ガラスの向こうで、こちらへ来ようとする彼らが見えたが、しのぶが地下のネットワークを支配下に置いて暗証番号を毎秒変えているため、コの字型の廊下を回りこんで道場に来られない。

 (フタ)号室で、名も知らない輩が振りかざした手中に血(まみ)れのナイフと、首を絞められて左腕が真っ赤に染まった女児が見えた。

 

「! な──」

 

 男の側頭部を撃ち抜いて(そば)に駆け寄り、手当てをするために胸元から簡易医療キットを出し、傷口を止血剤が含まれたガーゼで覆い、その上から包帯で巻いていく。その子は、外見通り体が細い上に軽かった。

 

「だァれ…?」

 

 耳元で弱々しい声が響き、幼女に答える。

 

(はやぶさ)だ。助けに来た」

「はぁうしゃ?」

「そうだ。腕を治した後、家に帰れるぞ」

 

 応急処置を行った後、6分以内に監視員を殺し、最後の5人を駐車場に待機している車まで走って救わなければならない。

 そんなことを頭の片隅で考えつつ、怪我を負った少女を抱えて状態で廊下を出て扉を閉めた瞬間、背後で研究者達の悲鳴や激しく咳こむ音が聞こえ、立て続けに発砲音がして、次第にうるさい声が()んでいく。

 

『こちら(つばめ)。道場の制圧完了。無事か、(はやぶさ)?』

「なんとか無事だ」

 

 腕の中で(おび)えてワイシャツを握る幼女と、数歩先にいる男児を抱き寄せて立ち上がり、どうにか脱出する。彼らの死体を見る暇などなく、何かが焼け焦げる臭いがした。おそらく燕が機器を破壊したんだろう。

 地下施設には空調設備や防火設備。電力供給などはあっても、防犯カメラの類は設置されていない。どの部屋も完全防音が施されており、今ではタイル張りの床には血の海が広がっている。

 

「急げ!」

 

 (つばめ)が両脇に二人。一人を背負う姿勢で、エレベーター前で叫んでいる。足元には使い果たした弾倉が落ちており、彼はもう自動拳銃を持っていなかった。

 火の手が上がる前に、火災報知器が作動してエレベーターが動かなくなる前に脱出しなければ、階段が設置されていない地下に閉じこめられ、作戦自体が失敗に終わる。

 40秒後。しのぶの干渉外のエレベーターが『ピンポーン』と音を立てて降りてきて、転がりこむように乗り、扉が閉まってから即刻地上2階のボタンを押す。何事もなく上昇していく中、重力を感じつつ両脇に抱えた子供達を床に一度下ろして、8発しか撃ってない自動拳銃を腰に仕舞い、再度幼年幼女を腕に抱いた。

 

「少し待ってな」

 

 (つばめ)こと名取は、エレベーター前で子供達を待機させ、走って更衣室に行く。あらかじめ、ロッカーの鍵をポケットから出していたおかげで、それを開けて白衣をつっこんで背広の上着をハンガーから外し、鞄を取って靴を履き潰す勢いで更衣室を出て、待機場所まで走った。

 先に子供達が乗り、後から僕達が乗りこんでちょうど子供達を抱えた時、1階に到着していた。

 

「よし。行こうか」

「こちら、(つばめ)斑鳩(いかる)(ほおじろ)。ドアを開けて待機」

斑鳩(いかる)、了解』

(ほおじろ)、了解』

 

 受付嬢はおらず、そのまま裏口に回り、タイムカードを押してから警備員のチェックが入るが、左腕を負傷した子供を見て驚き、『急いで病院に送るから』と詮索を避けた。

 

「ごめんね。走るよ」

 

 裏口から一番近い場所に車が2台停車していて、運転手双方がスマホの灯りを灯して場所を知らせ、幼女の怪我を考慮して名取が奥の車へ駆けていき、僕は手前の車に乗りこんだ。

 

「2分前。ギリギリだったな」

 

 運転手の今作戦の暗号名は、(ほおじろ)

 青縞瑪瑙色のジャケットの胸元には民間警備会社《瑪瑙》の文字が刺繍されており、通称『Nナンバー』の被検体を安心させる言葉が車内で飛び交う。彼の報告によると、先に脱出した20人の被検体は誰一人命を落とすことなく、(ふもと)にある病院に収容された。

 戦果はまずまずだったが、これは破滅への序章に過ぎない。

 

「任務完了。撤収する」

 

 こうして、静岡にある『東亜総研』の本拠地は警備員を残して墜ちた。



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第38話 手助け

 3月6日。火曜日。

 遠くに見えているE組の校舎がある山一帯が、普通の建物に擬装した砲台から照射されたレーザーのドームで覆われ、自宅の屋根から見える光景と手元のスマホから流れる速報に舌打ちする。

 

「発動したな。律」

《はい。黒崎さんが行った偵察と推測によって、私が事前に予測していたほど、同級生達の動揺の値は若干低くなっています》

「それは、理性を最優先した場合の動揺の値だろう? みんなは、理性より感情を優先して学校に足を運んで、欲深いマスゴミの餌食になった」

 

 有事になった時に感情に左右されないことが、自分が暗殺者として生き残るために教えられてきた弊害だと感じ、年相応に心の赴くままに行動できる彼らをうらやましく思えた。

 

「大人達は、すでに全人類の不安を(あお)る事に成功した。次は、政府があたし達をなんらかの形で監視、および拘束して、みんなが行動に移るのは、早くて今夜あたりだと思う」

《黒崎さんは止めないんですか?》

「やりたいようにやらせればいい。明日は、烏野の面接で宮城に着いてるから、あたしはみんなと一緒に行動できない」

 

 返事をした後にお邪魔していた2階の部屋から自室に戻り、ノートパソコンを起動させた後、影山君からの電話を受信するが長く構っていられない。手短に話そうとすればするほど、どうしても口調が厳しくなる。

 

「国家機密の極秘任務だったんだ。君に話せるわけないだろう? ……じゃあ、今言える事を話す。これから1週間、君とは連絡が取れなくかる。以上。おやすみ」

 

 通話を切った直後、一時的に着信拒否の設定をして、これで友情に(ひび)が入ったという確信と後悔が入り交じった感情を抱えて、理性が辛勝するまでに数十秒かかった。

 

「赤羽達が会った男達の情報を集めるから、律はサポートに回ってくれ。ここから単独で行動に移る」

《どうされるんですか?》

「手段を選ぶ時間がないから、山鹿さんの人脈を使う。各国のお偉さん方と、ただの仕事と(とら)える傭兵達に邪魔はさせない。殺せんせーを暗殺するのは、我々E組だ」

 

 ノートパソコンを起動させたまま自室を出て、筋トレ中の美空さんに話しかけた。

 

「…あの。美空さん」

「あら、どうしたの? 紬ちゃん。忘れ物?」

「いえ…。美空さんに取り急ぎ頼みたいことがありまして…」

「?」

「レバノンにいた時に傭兵集団の噂を聞いて、気になってるんです。明後日までに彼らの情報が欲しくて…」

「んー。そういう類なら、夫が詳しいわ。昔、傭兵やってたから」

 

 家主の山鹿武彦さんは、自分のことをあまり話す人ではないから、傭兵をやっていた過去があったとは初耳だった。思わぬ情報に内心歓喜する。

 

「ありがとうございます…!」

「武彦さん。紬ちゃんが、あなたに聞きたいことあるんだって」

「え。俺?」

 

 タンクトップにくるぶし丈のスパッツを履いて、妻と一緒に筋トレをしていた武彦さんは、まさか自分に用があるとは思ってなかったらしく、タオルで汗を拭きながら目を丸くした。

 自分の過去を知っているため、あたしと二人きりになることはなく、部屋の扉を開けたまま妻を間に挟む形で床に正座する。天井にカメラを設置するなら、自分達は三角形になって座っているだろう。

 

「用って何?」

「傭兵集団《群狼》のことです」

 

 彼は一度頷き、『わかった』と言ってクールダウン後に情報収集を開始した。

 あたしは一礼して自室に戻り、東亜総研から支給されてある護身用の自動拳銃(グロック19)を片手持って、スマートフォンを傍らに置いた状態で体操座りの姿勢で眠る。

 それから1時間おきに目覚めるのを繰り返して、午前3時頃になった頃。まだ朝日が昇っていない真っ暗な部屋の中で、律に(かす)れ声で話しかけた。

 

「おはよう、律…。状況を説明してくれ」

《おはようございます。了解しました》

 

 自分に合わせて小声で話しかける律に、武彦さんから受け取った情報の信憑性の度合いを確認してもらい、双方が信頼できると判断して寝ぼけ眼で自室にあるノートパソコンを起動する。船を漕ぎながらじゃらんのサイトでホテルに宿泊予約を取り、親にもらう同意書を床に置いたインクジェットプリンターで印刷して、まだ朝食の香りがしない居間にそれを置いてから、再び自室に戻って2時間ほど仮眠を取った。

 烏間先生から、政府に自分以外のE組生徒が監禁されたとメールで報告を受け、これ以上の騒ぎを避けたい敵の心理を利用し、通学時間に紛れて椚ヶ丘駅まで路線バスで向かう。

 烏野高校の面接入試を受けるために仙台駅に向かう新幹線に揺られるが、周囲への警戒心から目と意識が冴えて一睡もできなかった。

 

 

「二人の守備範囲広過ぎだろう」

《これぐらい広くなくては、警戒を緩められません》

《感謝しろよ。紬まで捕まったら、せっかく立てた計画がおじゃんだ》

「わかってる」

 

 自分を中心とした街中の防犯カメラをハッキングし、スマホに表示されているゲーム画面に偽装された手元で点滅しているレーダーを見ながら、スーツケース片手に転がしながら足早に新幹線から離れ、切符を持ったまま改札を抜けて駅の外に出る。

 通常なら椚ヶ丘駅から山鹿家近くのバス停で降り、そのまま帰宅するところだが、京王プラザホテル椚ヶ丘に卒業式まで宿泊する手段を取った。しかし、これも一時的な対策に過ぎないと重々承知しており、住宅地まで()けられることを考慮して避け、人と車が行き交う大通りを歩いてきている。しばらく籠城(ろうじょう)に備えて、駅中のコンビニエンスストアで買ってきた軽食が尽きないことを祈った。

 

「…ふぅ」

《やっと一息つけましたね》

 

 受付で武彦さんの名前で同意書を提出し、何事もなく鍵を渡されて割り当てられた部屋で一息つき、入浴前に机上に置いたタブレット端末とノートパソコンを起動させ、彼らと自分の情報をまとめるための時間を設ける。

 入浴して一度身体の緊張をほぐし、ぼーっとして思考を停止させて、寒さで冷たくなった心身を湯船で温めていった。

 

「あがったぞ。相変わらず、みんなは政府に監禁されたままだろう? 律。イトナが作ったドローンの映像を、暗視モードでパソコンに出して」

《はい》

「しのぶ。防衛省の動きは?」

《第二射まで時間がかかる間、群狼に一任するらしい。E組は、実質上お払い箱。『担任がくたばるのを黙って観てろ』ってわけさ》

 

 しかし、再度あの出力を出すために相当時間がかかっていることから、殺せんせーを仕止める日時を正確に把握しなければならない。

 

「…烏間先生の意向は?」

《あと3日で敵が油断して、突破後にバリアを潜れることを渚さん達に言われました。脱出計画を成功させるには、もう1人の教師が最適です》

 

 公立の面接入試の都合で群狼の拉致を免れた自分に、彼の立場上直接接触することが叶わないため、教師と生徒全員のスマートフォンを媒体にしている律に情報を入力したのだろう。

 

「イリーナ先生ならハニートラップの達人だし、警備員を油断させることに長けてるけど、政府の管理下にあるなら当然設備も厳重。人材も優秀だろうな。ここで贅沢言えば、プラスチックか指向性爆薬で爆破するのが一番手っ取り早いけど、どうやって持ちこもうか…。あー。頭痛い」

《紬。ドラマとか映画でやるみたいに、胃の中に仕込めばいいのでは?》

「しのぶ…。頼むから、人間の健康面を度外視しないでくれ」

 

 タブレット端末に映っている《瑪瑙》の人工知能に、ため息をつきながら告げる。机に突っ伏したいが、ノートパソコンとタブレット。スマートフォンをずらりと広げているため、仕方なく頬杖をつく。

 

「烏間先生は…、敵の錯乱を招くために情報操作してそう。…あとは、ボスのホウジョウ?」

《黒崎さん。他の面々を斜め読みしないで、きっちり目を通して下さい》

「この人達は、みんなで倒せる相手だ。新幹線の中で律としのぶ宛てにボス以外の実力と比較した上で、報告書出したでしょう。…でも、このボスは違う。視線を交わしただけで瞬殺されるかと思った」

《紬でもか》

「ん。まあ、常に『上には上がいる』って心持ちでいるし、大して驚かなかったけど。……律。しのぶ」

《ん?》

《はい?》

「ホウジョウは眼鏡をかけてるから、本気出す時は外すのか?」

 

 数秒の沈黙があって、それを真っ先に破ったのはしのぶの笑い声だった。どちらの端末も音量を5に設定して話しているために、隣の部屋までは響かないだろうと思っていても、さすがに体が跳ねてびっくりする。当の本人は、目尻から涙を拭って腹を抱える仕草を見せた。

 

《お前さん、サブカルチャーの読み過ぎだぜ?》

「すいませんねェ」

 

 しのぶの反応にふてくされながらも、視線は律が操作するドローンにやっており、『群狼』の動きを注意深く観察している。どうやら、広大な山の把握に努めているようだが、E組が罠を探知するには至ってない。もし、探し出されてしまえばこれから立てる作戦内容に響き、ほぼ失敗に終わるからだ。

 

「…走りこみに行きたい」

《だめです。拉致されたらどうするんですか?》

《そうそう。おとなしく筋トレでもしてな》

 

 二人の人工知能に諭されて就寝前に仕方なく筋トレとトス練を行い、軽くシャワーを浴びた後、長旅の疲れが出て今夜はおとなしく寝ることにした。

 

 

 翌朝。日課の走りこみの代わりに、筋トレをしてシャワーを浴びる間、律としのぶに最新情報を確認させて、分類してくれるように頼む。

 武彦さん宛てに半信半疑で眼鏡の件を尋ねてみると、『そこまでは、僕にはわからない』と返信され、『眼鏡を外すと本気を出す』という我ながら馬鹿馬鹿しい仮定を前提にして作戦を立てれば、実に簡単で拍子抜けする方針になった。

 つまり、『手の空いた者全員で攻撃を仕掛け、眼鏡をかけたままにさせ、その隙に倒す』。これ以外、方法がない。

 

「……。本当にこれでいいのか? それでボス? 毎回外した眼鏡の行方は? 中二病ってヤツか? もしこれで倒せたら、ホウジョウが馬鹿過ぎる。傭兵集団と書いて噛ませ犬って読むのか? 伝説って何!?」

《珍しく荒ぶってますね》

《そうだなァ》

 

 タブレットのほうから茶をずるずるとすする音が聞こえたが、それをまるっきり無視して、枕をべしっと寝台に激しく叩きつけては、『いや。こんなはずじゃない。もっと有効な作戦がある』と脳内で堂々巡りが始まり、人工知能を除けば独りで苦悩するしかない。

 

《影山君とやらに電話するか?》

「通話履歴と内容を忘れたのか。一週間連絡取らないって言っただろう」

《きちんと覚えてるとも。面接で会えなかったのが実に残念だ。俺も挨拶したかったのに》

「受ける科が違ってて良かった」

 

 彼は普通科で、自分は特進科。

 当然、面接の日程も違っており、『一週間連絡が取れない』と言った手前、顔を合わせることすら個人的に気まずく思っている。

 

《烏野に受かったら、毎日顔合わせるけどな》

「扇子の下で笑うのやめろ。しのぶ」

《はて。なんのことやら》

《黒崎さん。しのぶさん。そろそろ作戦会議に入りたいです》

「すまない。律」

《悪かった。本題に入ろう》

 

 宿泊直前に買いこんだ緑茶と和菓子を冷蔵庫から出して、隔離された作戦会議を始めた。

 突入経路や《群狼》との対戦時の陣形など綿密な手段を、時間の許す限り食事でホテルに併設されているレストランに行く以外は缶詰め状態であれこれ出し合い、律としのぶの3人でやっていく。

 

「基本的には、全員で殺しにいく」

《紬なら()りかねない》

()るべき相手が素人(アマチュア)でも専門家(スペシャリスト)でも、あたし達は全力で挑む。手加減する必要はないだろう? 律」

《はい。すでにE組(われわれ)は殺せんせーに一流の殺し屋(スペシャリスト)として認められています。よって、黒崎さんの言う通り、彼らに対して手加減は無用です》

 

 アサルトライフルを除いた、超体操着とそれに付随する防具やコンバットブーツ。自動拳銃と特殊ナイフなど装備の最終点検をしたり、体調管理をしているうちに、気がつけばレーザーが照射される当日──週明けの月曜日になっていた。



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第39話 大切な人

「おはよう。赤羽」

「おはよう、黒崎さん。眼鏡は、俺も一緒の考えだよ」

「そうか。じゃあ、準備運動がてら全力で()りにいこうぜ」

「当然」

 

 車で来た美空さんとホテル近辺の公園で接触し、ランニングウェアから特殊な戦闘服に身を包み、ライフガード製のボストンバッグにランニングウェアを詰めて手渡し、追跡されないように即刻別れた。

 今では手に馴染んだ対先生物質の武器を携帯し、E組の面々にしかわからない暗号で全員合流に成功し、傭兵達との()る気と実力差が反比例しているからこそ、罠だらけの山中(にわ)を敵である《群狼》の死地に定める。

 そして、傭兵の頭・ホウジョウの動きを全員で封じこめて赤羽と渚のコンビで仕留め、推測通り眼鏡が重要だったことに拍子抜けし、時計の針が一回りする頃には生徒と敵双方無傷で制圧完了し、合流に成功した。『殺さずに無力化』する作戦を立案し、実行するは初めてで、なんとも妙な感じがするが、今はそれを脇にやって眼前の山を覆うバリアまで歩を進める。

 皆が即刻、バリアで包囲された場所――殺せんせーが居る校舎――に向かったものの、彼はすでに自らの死を受け入れていた。

 そんな中、莉桜が細心の注意を払ってケーキを運び、誕生日の歌を皆で歌い上げて殺せんせーが蝋燭(ろうそく)の火を吹き消す直前、警戒していた二人の侵入者を察知する。自分が銃口を背後に向け、別の触手によってケーキごと破壊されるのが同時だったにも関わらず、部外者の『シロ』。もとい、柳沢が拍手をしながら近づいてきて、ムカつくほど余裕綽々(しゃくしゃく)の態度を示している。

 

「さすがだな。ハヴォック。素晴らしい反応速度だ」

「黙れ。(くそ)野郎」

 

 そして、触手の持ち主は、殺せんせーの性能を倍にした2代目死神。自らも死を覚悟して触手の種を体に埋めた柳沢二人相手に、自分達生徒を守って盾になり続ける恩師の姿を見て饒舌になる柳沢を見て、偽者の父以来、他人に対して殺意が湧き上がるのを自覚した。

 性能差を冷静に見極める自分が、理性でどうにか暗い衝動をねじ伏せ、全員に聞こえるように大声で命じる。

 

「総員退避!! 撤退しろ!!」

 

 だが、カエデが自分の命令に反して時間稼ぎを買って出、2代目の触手で戦闘服の上から正確に心臓を(えぐ)られた。煌々と照らされたバリアが逆光になっているおかげで、身体が貫かれる瞬間も傷口も見ずに済んだのが不幸中の幸いだと思う。

 

「っ…! くそ…!」

 

 彼女の遺体が地面に叩きつけられる前に。自分の思考が停止する前に、全速力で駆け抜けて真下に滑りこみ、すんでのところで受けとめることに成功した。すぐに横抱きにして立ち上がって、人の死に慣れていないみんなが待つ場所へ(きびす)を返しかけて、『待った』をかける。死体を目撃することも考慮し、戦線離脱と同時に距離をとって避難を促した。

 めいめいにそうする中、丘に登る前に手袋と戦闘服の上着を脱ぐ。円形の傷口を隠すように上半身に上着を被せて、死後硬直で動かせるうちに顎を閉じて、口から(あふ)れ出た血を素手で優しく拭い、開かれたままの(まぶた)を閉じてから再度横抱きにして皆と合流した。

 

「すまない。遅れた」

「…謝らなくていいよ。黒崎さん」

 

 動かないカエデを抱えて戦況を見守り、暗殺者と化学者の死を見届けた後、殺せんせーが合流して絶句する。

 自分の脳裏に、研究所で無機質な部屋から出されて、死んでも乱雑に扱われる自分とあまり年齢差がない子供達と光景が思い浮んで重なっても、冷静な思考は『カエデが死んだ』という現実を認めていた。

 

「…殺せんせー。あたしの上着を取って、地面に敷いていただけますか?」

「……はい」

 

 傷口が皆の目にとまり、息を呑む者や思わず視線を逸らしてしまう者がいる。それが普通なのだと思っていても、自分には見慣れた光景だ。でも、今まで感じたことのない胸の痛みと虚脱感の正体は、まだ理解できない。

 どうにかカエデの遺体を地面に寝かせ、緑に染められた髪を手(ぐし)()き、少しでも見映えが良くなるように身綺麗にしてから無言で立ち上がった。

 

「…ありがとうございます。黒崎さん」

「いえ……」

「…安心して下さい。今の先生なら、蘇生が可能です」

 

 宣言通り、極細の触手によって無菌状態で保たれた体細胞と、足りない組織を触手細胞を埋め、輸血を用いた超繊細な外科手術によって無事にカエデの蘇生が成功した後、殺せんせーが仰向けに力無く倒れこんだ。

 

「……皆さん。暗殺者が、瀕死のターゲットを逃がしてどうしますか?」

 

 夜空を照らすレーザーの光は、暗殺期限が迫っていることを自分達に告げており、磯貝を筆頭に皆で『殺せんせーを殺す』という重大な判断を下す。

 

 標的を殺す。

 その行為は、今まで請け負った仕事の記録上、軽く3(けた)をいくほど繰り返してきた。

 先生を殺す。

 これは初めてだ。

 それが、ちゃんと自分を。黒崎紬という仮面の奥底に隠していた『幼い自分』を見てくれた人なら、なおさら心が揺らぐ。

 

 呼吸を乱さない代わりに歯を食い縛り、『殺したくない』『殺したい』という葛藤をちゃんと表に出して、双方の判断に手を挙げる。満場一致だった。そして、自分の足で歩み寄り、恩師の触手を握る手にじんわりと体温が広がっていく。

 

「最後は、誰が…」

 

 視線が自分に徐々に集まる。

 E組の中で一番暗殺に長けているのはあたしで、それは当然だと自分でも思ったが、なぜなのか自ら『ナイフを取ろう』という考えが微塵も浮かんでこない。

 

「……ごめん。……できない」

 

 土壇場で意見が変わり、最期の一手を下す事ができない自分を、みんなは責めるのだろうか。

 

 その時、先生の触手がにゅるりと伸びる動作を視界の端でとらえた。

 

「っ!」

 

 時間にしてみれば、コンマ数秒だろう。

 普段なら身構えて戦闘体勢をとるところを、頭を守るように両腕を交差させる体勢をとってしまった。無意識に体が強ばって息も詰まり、触手が糞野郎の姿と重なって、まともな思考ができない。

 

 殺される。

 殺さなきゃ、自分が殺される。

 

 しかし、思いとは裏腹に数秒の沈黙があって、ゆるゆると黒髪を撫でられた。

 

「……?」

「…紬さん。それでいいんです。やっと人並みの感情を示せるようになりましたねぇ。…あなたは、心まで殺戮人形に成り果ててはいません。一人の人間なんです。人を殺すことを怖がるのが、普通の反応ですよ」

「……」

 

 呆気に取られる自分と、満足そうに頷く殺せんせーの様子を見届けたように、渚の凜とした声が聞こえる。

 

「…お願い、みんな。僕に()らせて」

 

 彼の意見に異論を挟む者はいない。

 殺せんせーは先に先生達へ礼を告げ、彼の最後の出欠を取る声が運動場に静かに響く。

 

「黒崎紬さん」

「…はい」

 

 長い長い葛藤の末、全身全霊の一礼で、渚がナイフで殺せんせーの命に終止符を打った。

 直後、ふわりと金色の光が眼前で舞い上がったのをきっかけに、次々と体が光の粒子と化して、手を伸ばしてそれを掴もうとしてもするりとすり抜けて、夜空に吸い上げられていく。柔らかい光が完全に消えた後、温もりが消えた殺せんせーの服が遺されていて、みんなが慟哭(どうこく)をあげる中、あたしは涙が出ずに冷たい地面に手をついてへたりこみ、ただただ呆然としていた。

 いくら地面をさすっても、そこにせんせーの温もりはない。残るはずの体がなくなり、聞こえるはずの声が耳に届かない。

 

 いやだ。

 こんなのは、いやだ。

 

 脳裏に浮かぶ言葉をぼうっと眺め、体は繋がっているのにぽっかり空いた穴のような錯覚を理解できずに、みんなと違って涙を流せなくても、『大切な人』が死ぬのはとても嫌なことだと感じた。



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第40話 今日だけは

「久しぶり。榊原」

「え? 黒崎さん。カラコン入れたの?」

「いや、外したんだ。これが本当の瞳の色」

 

 学校閉鎖の影響で市民ホールでの卒業式が始まる前。ロビーで妹が男子生徒に再会して、親しげに言葉を交わしていたが、次第に包囲され、退路を(ふさ)がれていく。

 

「……」

「行ってこい」

「え? 大丈夫ですよ」

「出席を望むかどうかは彼女次第だが、ハレの日くらい大目に見てくれるんじゃないか?」

「…ありがとうございます」

 

 上司である烏間さんの厚意で一時的に持ち場を離れ、同僚も事情を知っているため、全員が快く了承してくれる。遠巻きに眺めていると、榊原と呼ばれた生徒が気づき、当人の了承を得ずに『どうぞ』という仕草をしてきた。

 

「おはようございます。黒脛巾(はばき)さん」

「おはよう、紬。始まる前に話してもいいかな?」

「手短にして下さい」

 

 人目がある場所で邪険にすれば目立つことを考慮し、騒ぎを避けて用件を聞き入れる態度にひとまず安堵したが、生徒達に向けていた笑顔から一転。作り笑いになって、警戒を緩めていないことを悟る。

 

「過去のこともあるし、すぐに家族と認めて受け入れられるわけじゃないけど、俺達は紬の歩調に合わせていくよ」

 

 間合いを取って会話していく中、周囲の視線が集まっていたが無視した。

 生き別れの妹と再会できたことで心に余裕が生まれ、それまで感じていた(あせ)りがなくなり、11年前と同じように接することに成功している。

 

「一生認めない可能性もある。恨み言を吐いて、母さんと同類だと思ってもいいのか?」

「ご自由に。妹を10年かけても救えなかった当然の報いで、一生背負うべきものだ。簡単に許されるなんて思っちゃいないし、気持ちの整理がつくまで、家族と会わなくていい。…早く助けられなくて、ごめん」

「……」

 

 妹は難しい顔のまま視線を外し、葛藤している。

 その時、卒業式が始まる放送が流れ、この場から逃れるように(きびす)を返そうとする紬を呼び止めた。

 

「あと一言だけ」

「なに?」

「卒業おめでとう。紬」

「…どうも」

 

 時間に押されているため会釈(えしゃく)だけして、一度も振り返らずに会場へ向かう後ろ姿を見送る。

 卒業式は順調に進み、壇上で浅野学園長から卒業証書を受け取っている。遠目で顔が見えないが、マイクを通して彼の口調や雰囲気から物腰が以前より表情が柔らかくなったように見受けられた。彼の過去がどんなものだったか、自分は一生わからないだろう。

 式が終わってロビーで一息ついた時、両手を広げた距離を開けて、卒業証書が入った筒を手に紬がぽつりとつぶやいた。

 

「…あ。来た」

 

 保護者として参列しても妹が平然としていることに驚き、4ヵ月ぶりに会った着物姿の母は眼前で立ち尽くして、緊張した面持ちで対面している。

 

「紬。卒業おめでとう」

「ありがとう」

「やっと紬の晴れ姿が見られたわ」

「アイツと監視がなくなったおかげだな」

 

 母と妹の言葉に引っかかり、思わず疑問符が口からこぼれ出た。

 

「やっと?」

「色々あって来れなかったのよ。本当に…、ねぇ? よくやったわね、紬。さすが私の子」

「別に褒められたくてやったわけじゃ…」

「そういうことにしとく」

 

 俺が困惑している最中に、報道陣がロビーに雪崩(なだ)れこんできた。それに気づいて身を呈して守る中、嗤いながらE組生徒に国家機密を聞き出そうとする者達を前に、堪忍袋の緒が切れた。異変を察した男が、眼前にいる自分の顔を見て顔面蒼白になり、その周囲の奴らもぴたりと動きを止め、制止を振り切った取材陣が自分に操られたように閉口する。

 声を出したわけではない。

 この場で誰に従えば良いか解らせるために、6日前に生徒達が(さら)し者にされた時から抑えていた殺気を放っただけだ。

 アナウンサーの唇が戦慄(わなな)き、片手を動かして元いた場所に戻ってくるよう指示すると、恐怖で心が折れた女性アナウンサーが、一歩こちらへ向かう。注意をE組生徒から逸らした隙に、A組の浅野君を筆頭にE組(かれら)を囲んで外へと誘導してくれた。

 

 

 烏間さんが外に待機させていたバスで場所を移し、彼らはそこで成功報酬を受け取る。そして、紬が烏間さんと2人で話しこんだ後、みんなより遅れて建物の外に出た。

 

「紬! こっち来て!」

「なんですか? イリーナ先生」

「はい。確保!」

「?」

 

 イェラヴィッチさんに呼ばれて行った場所に、メグと優月という女子が卒業証書片手に待機していて、片腕ずつ絡め取られて身動きができなくなる。いまいち状況を把握できない妹に、岡島君が持つ(てのひら)大のデジタルカメラのレンズを、不破さんがぴっと指差した。

 

「ほら、紬。写真撮るよ。笑って」

「え?」

 

 今まで、誰かに写真を撮ってもらった経験が無いのだろうか。明らかに困っている。

 

「黒崎さん。表情が固いぜ」

「う…。(わり)ィ…」

 

 思い悩む中、背後から金髪美女の助言が降ってきた。

 

「カメラの向こうにカゲヤマがいるって思えばいいじゃない」

「なんでですか?」

「いいから。早く」

「……」

 

 困った顔をしたものの、彼がいると想定すれば不思議と肩の力が抜けたのが傍目から見てわかった。

 彼がいなければ紬はすすき野原で確実に死に、俺は当初の命令通り『妹の遺体と対面』していただろう。一度は放棄しかけた生を、彼は叱咤してまで拾い上げてくれた。だから、自分にとっても影山君は命の恩人になる。

 『撮るぞ~』という間延びした声と共に、ぱしゃりとシャッターが切られた。

 これで終わりかと思ったが様子を見守る限り、どうやら違うらしい。紬の友達2人とイェラヴィッチさんが自分に手招きしてきて、わけもわからずに駆け寄ると、3人に乱暴に背中を押される。

 

「こんな機会滅多にないんだから、写真の一枚くらい撮っときなさい! ね? 紬」

「う…。…はい」

「嫌なら離れるよ」

「黒脛巾さん、離れたら枠に入らないじゃないスか。デジカメだし、もっとくっつかないと。黒崎さん、無表情やめて。写真映えしない」

 

 撮影技術がうまいのか横から縦に持ち直したものの、二人の表情が固く、一枚も撮ってないのにやり直しを要求され、改善するために会話してほしいと指示された。

 

「写真撮られるの苦手?」

「苦手だ。どんな顔すればいいか全然わからないから」

「他には?」

「……家族と一緒に撮ったことないし」

 

 推測はしていたが妹の言葉が予想以上に重く、無意識に表情が固くなるのを自覚した。だから、紬を前にしてしゃがみ、成長した彼女を見上げてお願いする。

 

「俺からひとつお願いがある」

「なに?」

「写真を撮ってる間だけは、家族でいていい?」

「……どうぞご自由に」

「良かった」

 

 こちらの顔色を伺う様子に笑顔で応え、再度立ち上がって、正面にある即席カメラマンに向き直った。

 別れ際に、紬が母に言った言葉は、人が『亡くなる』と組織が『無くなる』をかけていて、先日、自分が尾長本部長に血相を変えて問い詰められた東亜総研本部壊滅のことに関与していたと理解する。

 

 

 妹が無事に椚ヶ丘中学校を卒業し、月末に差し迫った頃。

 帰路につく中でメールを確認して、そのうちのひとつを開封する。差出人は紬で、写真が添付されており、口端を必死に吊り上げて不器用に笑う紬の隣で、泣きそうになるのを我慢して笑う自分の姿が映っていた。それをしばらく眺めて、『やっと一段落がついた』と悟った瞬間、ぼろぼろと涙があふれてきて、『あきらめないで良かった』とようやく思えることができたが、電車内で泣き止むには時間がかかった。

 高校進学のために宮城に引っ越す旨が記されていて、妹の新しい門出を葡萄(ぶどう)酒を開けて祝おうと決意した。



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第41話 取引

「まだ慣れないです…」

「大丈夫よ。じきに慣れるわ」

 

 卒業式翌日の早朝。

 ブラウスとストッキング。パンツスーツとパンプスを慣れないながらも身につけ、玄関先でスーツと同色のビジネスバッグを肩にかけて、高尾ポテトが入った複数の紙袋を持ち、トローリーバッグの車輪を転がして徒歩で椚ヶ丘駅を目指す。今から回る会社のほとんどが日本の軍需企業で、自衛隊などに(おろ)しており、朝から気が抜けない。

 日課で朝晩往復20キロの走りこみをしているが、今朝はこれで良しとして、朝食は美空さんと一緒にファミマで調達し、愛知県に向かう新幹線の中で食べた。

 

「うまくいけばいいわね」

「あまり期待してませんよ」

 

 信頼できる者以外の大人に不信感を抱いてる自分は、過度な期待も持たない。期待しなければ叶わなかった時に失望せずに済み、現実を受け止められるからだ。

 物思いに沈みながらも、新幹線や電車を乗り継いで最寄りの大府駅で降車し、コインロッカーにトローリーバッグと手土産を預けて、東浦駅に向かう電車に乗る。そこから5分ほど歩けば、コルト社公認のモデルガンも取り扱っているカクシン工業があり、受付の方に取り次いでもらうと応接室へ通された。

 しばらくすると扉が2回叩かれ、初老に見える男性が二人入ってくる。それだけで無意識に体が強張ったが、相手はそれを緊張によるものだと解釈したようだ。

 

「おはようございます。黒崎と申します。今日はお時間を割いていただき、ありがとうございます」

「おはようございます。山鹿(やまが)と申します。本日は、よろしくお願い致します」

『よろしくお願いします』

 

 それぞれの名刺入れから名刺を取り出し、交換する。烏間先生の許可が下りてから、美空さんに受験勉強の息抜きにビジネスマナーの基本を叩きこまれたおかげで、今のところ好印象を持たれている。

 改めて名刺を見ると、どれもそうだが会社のロゴ以外は文字だけの素っ気ないもので、部が無事発足した暁にはロゴを決めようと決意した。そして、忘れないように手土産も渡す。

 

「それと、こちら袋のまま失礼します。美味しいと評判なので、皆さんで召し上がって下さい」

「わざわざありがとうございます。黒崎さん」

 

 それから商談に移って納入期限を決めるが、暗殺教室仕様のモデルガン2種──アサルトライフルと自動拳銃──を、それぞれ30挺ずつ発注する。初年で約一クラス分集まるのかという疑問があるが、そこは自分がどうにかするしかない。さらに、今回から国ではなく一個人を相手にしているため、懐具合も見定めなくては破産してしまう。とりあえず、モデルガンの相場より3倍の価格にすることで合意した。

 大府駅で荷物を出して名古屋駅を目指し、構内にある店で名古屋コーチン入り味噌煮込みうどんを食べ、13時過ぎを目安に、ガラス飛散防止フィルムを作っている株式会社尾月を訪ねる。こちらもカクシン工業同様の対応をされたが、問題は暗殺教室に関与しておらず、今回自分が選び、全て一から説明しなくてはいけないことだ。

 

「それは、もう終わったはずでは…?」

「はい。表向きには一段落しました」

 

 カクシン工業で商談している頃、磯貝がE組代表で支援してくれた国への感謝として、防衛省代表で烏間さんが成功報酬の残金を受け取り、報道陣を前にフラッシュライトを浴びていたことを律から報告を受けた。世間は『これで終わりだ』と思っているが、そうではないことを眼前の計画書が示している。

 

「この運用が頓挫することは?」

「ありません」

 

 そこで、民間警備会社《瑪瑙(めのう)》代表の山鹿さんがタブレット端末を起動させ、対面に座る二人に見せて、どこかわからないが東亜総研支部の現時刻の監視カメラ映像を流した。

 

「…これは?」

「我が社の優秀な捜査員が撮ったもので、今も問題である細胞の培養が進められています。…証拠になりましたか?」

 

 あえて人工知能とは言わず、人として扱うことで、山鹿さんは詮索を避けている。

 『頂上作戦』を共に実行した(はやぶさ)さんのその後の報告では、地下施設で培養室だけに監視カメラが設置されているらしく、日本各地にあるはずの支部も同様だろう。

 

「もちろん、こうしている間にも改良を加えられているはずです。人間の手に負えないほど強大な力を持っているなら、殺す手段を知る自分が担当するべきだと考えています。どうか、力を貸して下さい」

「…わかりました。わかりましたから、顔を上げて下さい。黒崎さん。ね…?」

 

 相手方の焦った口調から、まだ主導権はこちらにあると判断し、深く下げた頭をゆるゆると上げて、椅子の上で姿勢をぴしっと正した。

 

「…それで、開発や納入期限については、どうされますか?」

「開発は、できれば今月中。遅くとも来月初旬に取りかかって下さい。完成は早くて来年。2013年の10月を目処にして、納入は同年11月末日。公立の合格発表がまだですので、間取り図はお待ち頂ければ助かります」

 

 二人は合格発表と聞き、『ああ。そうか』と腑に落ちたところで話を終えて大阪駅に向かい、R&Bホテル梅田東に一泊した。

 一度シャワーを浴びてから、トローリーバッグからランニングウェアを出して着替え、日課の夜の走りこみを行う。商業の要だけあって行き交う人々の歩く速度は速足に近く、ともすれば肩先がぶつかりそうだった。

 

 

 翌日は、大阪に本社を置く3社を中心に回る。

 迷彩服の『ニチカン』と被服──暗殺教室では、中に着た黒インナー──を扱う『東海紡』には、カエデが一度死んだ事実を伏せて『瀕死状態』に陥ったと告げ、対先生物質を繊維に組みこんで効果があったことも(あわ)せて報告し、採寸は人員が集まってからとした。

 偽装網の『東ジ』には、無茶な要求だと承知しつつ、髪の毛1本すら通さないほどの隙間の無さと留め具も含めて、全て対先生物質で作るようお願いする。

 

「どれほどの大きさですか?」

「まだ現地を見ていませんが、運動場のトラックが入ると思います」

『えっ!?』

「どうしても必要なんです。お願いします」

 

 必要なら何度でも頭を下げ、破産しても構わない覚悟で来ている。

 顔を見合せた取引先は『検討する』と返答し、お礼を言って石川県に向かう新幹線に乗って一泊後、機雷など爆発物を取り扱う美川製作所には、種類を指定した。赤外線センサー式地雷と、クレンザーに偽装した手榴弾。スプリンクラーに偽装した粉爆弾を依頼する。

 2泊3日の仕事を終えて帰宅後、美空さんが郵便受けを確認すると、あたし宛てに三重に住む母から手紙があり、自室で開封した。

 

 

 引っ越しの準備を始めた休日明けの19日は、BB弾と半長靴を扱う2社の了承を得て、翌日の烏野高校の合格発表の準備をする。

 仙台駅から30分かけて烏野高校前のバス停に着き、自動車一台がようやく通れるほど細い緩やかな坂道を登っていき、小さな店を通り過ぎて校門へたどり着いた。

 

「……」

 

 大きな紙にある数字の中から、自分の受験番号の5109番を視線を上下に動かして探す。

 数十秒後に番号を見つけ、特別進学コースに受かっていることを確認したものの、何度も見直して現実だと認めた。そして、自分の周りで歓声や嗚咽(おえつ)が聞こえる人ごみから外れ、普通科で受験しているはずの影山君を校門前で待つ。

 

「ハザッス。黒崎さん」

「おはよう、影山君。…どうだった?」

「…あった」

「! そうか。両手出してくれ」

「?」

 

 わけが分からずに自分の真似(まね)をして両手を広げる彼に、ぱちんと自分の手を重ねた。いわゆる、ハイファイブ。日本で言うハイタッチをして、喜びを共有する。

 

「おめでとう。影山君」

「黒崎さんのおかげだ」

「何言ってんだ。君が頑張ったからだろう?」

「おう…」

 

 その足で坂ノ下商店でパピコを買い、金髪にカチューシャをつけた店主の視線を無視して、それを分け合ってささやかながら二人の合格祝いとした。

 

 

 21日に、個人携行救急品を扱う日本工業に米軍並みの装備を依頼してから、コルト社とブレードテック社の3社の承諾をもらい、一連の一仕事終えて帰宅し、山鹿家のご子息とご息女が作られた夕食を完食。

 後片付けをしてから母の手紙を開ける決意をして、風呂の順番が来るまで自室で読むことにした。

 内容は、黒崎とは婚姻関係になく、便宜上の夫婦として振る舞っていたこと。4月に、本社から東北支社に異動し、復帰すること。失踪宣告の取り消しについて順調にいっているのか心配していることの計3点だった。



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第42話 星と空

 3月24日、土曜日。

 

 その日は、夕方なのに青空が見えた。

 

「…大丈夫か?」

「は、はひっ! 大丈夫です! お手数おかけして申し訳ありません!」

 

 自宅近くのスーパーの外で危うく転倒しかけた末、ベリーショートの黒髪を持った女子に、背後から腹にかけて片腕を回された状態で支えられていた。

 姿勢を立て直してから対面して、息を()むほど美しく、快晴の青空をそのまま映したような澄んだ碧い瞳に、心配の色が見え隠れして思わず反射的に謝ってしまう。すると、彼女は目を細めて優しく微笑み、買い物袋を片手で持ち直してこう言った。

 

「謝らなくていい。怪我は?」

「な、無いです」

「そうか。良かった」

 

 改めて助けて相手を観察してみると、動きやすさ重視の服装と首から提げているドッグタグも相まって、格好良い部類の美少女だと(わか)る。しかし、同時にどこか遠くを見ているようで警戒しているような、隙の無さも(うかが)えた。

 

「あのっ、何かお礼がしたいんですけど、お時間はありますでしょうか!?」

「ん。大丈夫」

「ありがとうございますっ! あの、お礼と言いましても、なにぶん私今度高校生になる身分でございまして、手持ちが少ないと言いますか…」

「大丈夫。君、烏野の合格発表の時にいたよな」

「え…? はい…」

「烏野に行くなら、同じ5組になる黒脛巾(はばき)紬だ。よろしく」

谷地(やち)仁花(ひとか)です。よろしくお願いシャス!」

 

 握手を交わした後、おそるおそるこう尋ねた。

 

「あの…、なんで同じ5組だって知ってるんですか?」

「『5073番』って小声で連呼してたの覚えてたから」

「ひぇ…」

 

 これからは個人情報を漏らさないと決意して、姿勢のいい彼女の後ろに立つ前に、それを察知されて反転し、膝に手をついて視線を合わせてくる。自分とは差がある胸の大きさに目が行ってしまう前に、声をかけられた。

 

「なぁ。仁花って呼んでもいいか?」

「ひ、はいっ。あのっ、私はなんて呼べば…?」

「そうだな…。下の名前で呼んでくれ」

「つ…、紬ちゃん…?」

「どうした。仁花」

「呼んでみただけだよ」

「ん。知ってる」

 

 へらりと気の抜けた笑みを前にして釣られて笑い、お礼は、帰路にあるコーヒーメーカーの自動販売機で売っていた伊右衛門のペットボトル緑茶1本になり、それを快く受け取ってくれた。おそらく貴重品が入っているであろうボディーバッグの他に、買い物袋を持ってる以外何もなく、身軽な印象を受ける。

 

「いただきます」

「あ。どうぞ」

 

 紬ちゃんが喉の渇きを潤す間、私は彼女の行動を思い返していた。

 転倒する前に反応できる反射神経から、何かしら瞬発力を求められる運動をやっているのだろう。そして、隙の無さと背後に回られることに拒絶反応を示していることから、暗殺者の線も捨てがたい。

 もしや、私を殺しにきたのでは…?

 

「いっそ一思いに…!」

「なんかやらかした?」

「いえ! そういうわけでは…」

「そう」

 

 短く返答しながらペットボトルの(ふた)をきっちり閉め、買い物袋に入れる。

 私が詫びの緑茶を買って声を上げるまで、まだそんなに時間が経っておらず、赤茶色のビル前にあるゴミ捨て場で立ち止まっていた。

 文字通り、ご足労をかけてしまっている私は──

 

「埋まってお詫びします」

「仁花に何があったか知らないけど、とりあえず落ち着こう。同い年なんだから、敬語も無し」

「ひぁい」

「……。これ使って」

 

 涙目の私を気遣って、薄手のパーカーのポケットからハンカチを出され、優しさに甘えてそれを受け取った私は自己嫌悪に陥ったが、この場合、負の感情を表に出すのは(はばか)られる。

 二人横並びになると、背の高い住宅が(ひし)めきあう細道で車道との境目を示す白線からどうしてもはみ出てしまう。それでも、彼女はさりげなく私の右側を陣取って歩き、赤い文字の本と書かれた小さな書店を通り過ぎていった。

 

「…落ち着いたか?」

「うん。ありがとう」

「良かった」

「入学式までに洗ってアイロンかけて返すね」

「…じゃあ、お言葉に甘えてそうしてもらおうかな」

 

 五橋通りに出て、日産の店がある前の横断歩道の信号が青になって道を渡り、そのまままっすぐ歩いていく。

 

「紬ちゃんって、どこの中学だったの?」

「東京の中学。今日越して来たんだ」

「シティガール…!」

「それにしちゃ地味だし、仙台市に住んでるなら仁花もシティガールだろ」

「いや。東京と仙台なんて雲泥の差だよ!?」

「あー…。東京は…って一概には言えないけど、外見や肩書きが全てで中身空っぽの馬鹿が多い。虚勢張って無理して、自滅するまでがワンセット。おかげで人を見る目は鍛えられた。だから、仁花は信頼できる人だ」

「買い被り過ぎだよ」

「今はそう思ってていい。でも、本心だってことは信じてくれ」

 

 自信満々に断言した紬ちゃんの言動は、確固たる信念に基づいていて、綺麗な碧い瞳がまっすぐ私に向けられている。だから、形の良い薄い唇の前に立てられた人差し指で暗示をかけられたように、消極的な言葉をぐっと飲みこんで、視線を()らせないまま、ただ頭部を上下に振って(うなず)くしかなかった。

 その反応に満足したのか、口元に笑みを浮かべて即座に話題を変えられる。

 

「仁花は、入学したらどこの部活に入るんだ?」

「あ…。どこも入らないよ」

「なんで?」

「やりたいこと見つからないから」

「…バレー部のマネージャー、やってみる?」

「え?」

 

 今日聞いた中で一番弾んだ声音と期待に満ちた眼差しに、『迷惑にならないだろうか』とまた思考が後ろ向きになって言葉が詰まった。数分接しただけで私の考え方の癖を見極めた彼女は安心させるように笑って告げる。

 

「言ってみただけだ。やりたいこと、見つかるといいな」

「そうだね…」

 

 そう返答してみたものの、自分に自信のない私とは大違いだとは、とても言えなかった。

 

 

 好物や好きな動物など、プライベートに踏みこんでこない範囲で話題を色々振り続けられているうちに、いつの間にか五橋通りと北目町通りがぶつかる横断歩道を渡っていて、右に曲がってからしばらく歩くと、くの字型のタワーマンション前に到着した。

 

「えっと…、私の家ここだから。なんか送ってもらう形になっちゃったけど、ありがとう」

「どういたしまして」

 

 たいして面白くない話に付き合ってくれた私に、紬ちゃんは最後まで笑顔で接してくれた。だから、もう少しだけ勇気を出してみる。

 

「紬ちゃん…!」

「そんな声張り上げなくても聞こえるよ。どうした?」

「ライン教えて!」

「いいぞ」

「ふぇっ!?」

 

 即答に驚いている間に、アイフォンをカーゴパンツのポケットから取り出して、すでに起動に必要な操作を行っている。そんなこんなで、私は入学前に友達を得られて舞い上がっていた。

 

 

 ラインに登録してからというもの、最初の出会いでの感謝の会話のみでなりを潜め、再会したのはちょうど一週間後の3月末日。場所は、先週と同じスーパーだった。

 

「久しぶり。仁花」

「おふっ。ひ、久しぶり。紬ちゃん」

「最近会えなかったね。どうしたの?」

「引っ越し後にする手続きと、上下階と隣人の挨拶回りで奔走してた」

「大変だったね。お疲れ様」

「うん」

 

 紬ちゃんは顔に出さないけれど、買い物かごの中にハーゲンダッツの新しい味──チョコレートブラウニーを見つけて、新しい環境に疲れているのかと内心察した。

 

 明日から4月になり、いよいよ私達は高校生になる。



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高校生編
人物設定


脛巾(はばき)

 容姿 黒髪碧眼

 年齢 16歳 → 18歳

 身長 165.2㎝ → 166.5㎝

 体重 51㎏

 好物 オペラケーキ

 性格 冷静。有言実行

 一人称 あたし

 生誕日 6月6日

 座右の銘 明日ありと思う心の仇桜

 最近の悩み 家族のありがたみがわからない 

 

 母の助力で戸籍が復活した際、次女で末っ子と判明。血の繋がった家族を得ても戸惑っている。

 

黒脛巾家

 曾祖父・樹の影響で、全員社交ダンスを直々に習ったり、教室に通ったりして踊れる。

 

 (いつき)

 享年 89歳。23代目当主(先々代)。10年前に他界。紬達兄弟の曾祖父。

 旧陸軍中野学校出身。語学に堪能で、柔術が得意。

 自分の息子を含む子供達に、よく寝物語を聞かせていた。

 

 (いさむ)

 趣味 動物園通い。将棋。

 74歳 → 76歳。24代目当主(先代)。紬達兄弟の祖父。

 11年前に一与さんの孫自慢に対抗する形で、末の孫娘・紬を引き合わせた。

 一与さんの高校時代の後輩。合気道部所属。

 

 (すばる)

 趣味 アコースティックギターで演奏。将棋。

 46歳 → 48歳。25代目当主。

 民間警備会社《瑪瑙》東北支部。情報部所属

 祖父母の介護を終え、9年前に職場復帰する。

 妻の10年の報告を聞き、紬を実家に帰ってくるよう催促はせず、生きてるだけでいいという考えになる。

 

 美鶴

 趣味 娘を陰ながら応援すること

 44歳 → 46歳。昴の妻

 民間警備会社《瑪瑙》東北支部。作戦部所属

 静岡にある東亜総研本部の地下施設が壊滅したため、監視から外されたものの、しのぶと共に情報収集を続けて、末娘を愛情を与えられなかった自分を責めている。

 紬の高校進学に伴って、バレーボールのルールを勉強中。こちらも11年ぶりに家族に再会し、関係修復中。

 

 護

 趣味 写真撮影。将棋。

 24歳 → 26歳。長男。次期当主

 陸等三尉。防衛省統合情報部特別海外調査室勤務。

 業務をこなす傍ら、しのぶと連携して防衛省内部から東亜総研と繋がる証拠を探している。

 家族を第一に考えているため、浮いた話がない。

 

 (かなめ)

 趣味 ニコ動、YouTube観賞。将棋

 21歳 → 23歳。160㎝。50㎏。長女

 仙台ヘアメイク専門学校卒業後、ブライダルスタイリストになる。

 薄化粧で、酒は程々に(たしな)む程度。

 

 (あつし)

 趣味 映画観賞。将棋

 18歳 → 20歳。次男。烏野高校陸上部主将。

 3年4組。澤村、菅原と同クラス。妹の幸せを願う。

 祖父から影山飛雄のことは、写真と話しか知らないため、卒業までに『妹の幼馴染』を見定めようと決意する。



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序章

 気がついたら、誰かのものになっていた。

 

 親と一与さんに『つむぎちゃん』が誘拐されたと知ってから、ほぼ5年が経った頃。隣のクラスに青い瞳の女の子が来たと誰かが言っていた。

 休み時間になってから自分のバレーボールを持ってその子を探すと、一番後ろの席にぽつんと一人で座っていたからすぐにわかる。でも、5年前とは姿が違っていた。腰まであった黒髪は肩にかからないほど短くなって、太陽のように明るかった笑顔と表情が完全に消え、遠くからだと人間の形をした人形に見える。

 

(君、だれ?)

 

 そして、きれいな青い目に茶色が混ざっていた。

 誰かが『つむぎちゃん』を(よご)して、俺のことを忘れさせた。それが許せなくて言葉が詰まる。

 

(っ! 俺、影山飛雄)

(黒崎紬だ。なんか用?)

(く、黒崎さん。一緒にバレーやるか?)

 

 昔と違って口調が乱暴になった女の子は、すぐに答えなかった。視線を外して考え、しばらくして席を立って歩み寄ってくる。

 

(やる。教えてくれ。影山君)

 

 背は伸びても痩せぎみで、バレーボールの扱い方もルールも出会った時と同じように、また一から教えた。失敗して日本語じゃない言葉が飛び出しても、レシーブがうまくいった時には、少しだけ目が輝いて見えるようになり、その月に『リトル・スカイラークズ』に入ったらしい。

 2ヵ月後の6月6日に、黒崎さんと一緒に一与さんの家に行くと、真顔でこう言われた。

 

(違う。あたしが生まれた日は、8月19日だぞ)

 

 その一言で本当の誕生日すら忘れ、俺達のほうが間違っていると指摘し、全くの別人として生きていることを思い知らされる。姉も一与さんも衝撃を受けて何も言えなかった。それでも出された温かいご飯をおいしそうに食べ、10本のろうそくが立てられた不恰好な手作りショートケーキに戸惑い、自分のために用意されたと知ると驚きながらも控えめな声でお礼を告げる。

 姉は、前みたいに髪に触れようとはしない。同じ性別なのに隣に座っても警戒して、一度も笑顔を見せなかったことで、『今の親にどんな扱いを受けているか推測できるから』と黒崎さんが帰った後で話していたのを覚えている。一与さんも頭をなでなかった。その代わりに、自分の居場所の作り方と自分の役割を教えていたのを一与さんを挟んで聞いた。

 半年後にはチームのユニフォームを受け取り、試合に出て勝利に貢献し、小学6年生になると『バレーって楽しいな』と嬉しそうに言って、楽しみながら順調に実力をつけていく。

 

 

 中学は東京と宮城で離れていても、黒崎さんは卒業式で交わした約束通り、わざわざ応援に来てくれた。

 何度も俺が東京に行けないことを謝った。彼女は不満ひとつ漏らさずに、『大事なのは総体だから、それに合わせて自分を調整すべきだろう』と言って、年に1回会える日を楽しみにしている。それは中3まで続き、なんの見返りを求めなかった。

 黒崎さんだけに負担をかけて、いつも俺がもらってばかりは嫌だ。

 そう思って、姉の影響で小学生のうちは少ないおこづかいでも買えるヘアゴムやカチューシャなどを選び、中学生になってからは、少し奮発して誕生石が入ったブレスレットを直接手渡して贈った。

 6月6日が、本当の誕生日だと分からせるために。

 対して黒崎さんは、毎年欠かさず12月22日にトレーニング用品や冬物の贈り物をしてきた。姉や一与さん。両親に言わせればいわゆるブランド品で『良い物』らしいが、物に執着しない俺は価値を詳しくは知らない。

 

 

(間に合わなければ、あなたの友達が亡くなる可能性が高くなります)

 

 そんな手紙が郵便受けに入っていたと知った時、授業どころじゃなかった。約束の時間に間に合うよう走り、人間をやめた姿を見た瞬間、『死ぬつもりだ』と直感で悟った。

 二度も失いたくねぇ。

 必死に手を伸ばし、説得したおかげで意思は届いた。

 間近で見ると、去年の総体から変わらず黒崎さんのまぶたには(くま)ができている。そして、銃を決められた場所に収めて、俺に寄りかかりながら背中に両腕を回し、ぎこちなく抱きしめ返せば力が抜けていった。

 

(っ!)

(大丈夫ですよ、影山君。安心して気を失っただけです。そのまま支えていて下さい。今から移植された細胞を抜きます)

(はい…!)

 

 周りにいるクラスメートが口々に『殺せんせー』と呼び、それが黄色いタコの名前だと知った。

 

(ふぅ…。…終わりましたよ。ちゃんと生きてます)

 

 黒崎さんが生きてる。

 そう実感すると同時に全身の力が抜け、黒崎さんを抱きしめた状態でがくりとすすき野原に座りこみ、殺せんせーのおかげで気を失っている黒崎さんの姿勢を素早く正し、(おさな)なじみの脚が折れないよう気遣ってくれた。

 だが、触手細胞の激痛から解放されたとはいえ、疲弊した体に俺と護さん。母親3人分の10年分の真相を聞かせれば、精神的にも負担がかかる。それは過呼吸という形で表れ、1週間ほど入院することになり、俺は合間を縫って見舞い、仙台名物『萩の月』を持っていった。

 

 

 殺せんせーと再会したのは、黒崎さんと出会って6度目のバレンタインデー前後で、話し合った場所は地元の小さなカラオケ店だった。

 手続きをしたおかげで卒業前に本当の戸籍が復活し、無事黒脛巾(はばき)の名字に戻ったこと。

 母と護さんの仲が少しずつ回復に向かっているが、一緒に住むにはまだ心の余裕がないこと。

 そんな近況を知らせた上で殺せんせーは、こう尋ねてくる。

 

(影山君も知っての通り、黒崎さんは過去の経験から一人で抱えこむ癖がついています。これからも弱音や問題を隠して接していくでしょう。ですが、それでは精神的に良くない。…影山君ならどうしますか?)

(黒脛巾さんの逃げ道になって助けます。つらい時には二人で助け合うって決めてるんで)

 

 その時、天井のかすかな照明に照らされた殺せんせーの皮膚が黄色から桃色に変わっていき、満足そうに笑いながら『うんうん』と、カシオレが入ったグラスを持ちながらうなずいていた。

 

(せんせーとしては仲が良いのも構いませんが、たまにはあの日のように本音をぶつけ合って、真っ向から口喧嘩するのもアリだと思います。そのほうが、より相手のことを知れる。どうか、影山君のやり方で彼女の力になってやって下さい)

(はい!)

 

 それが殺せんせーとまともに話した最初で最後の時間になった。

 次に殺せんせーを見たのは、『怪物』や『地球を爆破させる超生物』として椚ヶ丘中学校のE組担任をしていたことが報道された時だった。両親は『怖い』と言っていたが、俺は『違う』と反論したい衝動を、護さんの『言えば記憶消去の薬を打つ』という言葉を思い出して抑え、黒脛巾さんの姿がマスコミに映していないことに安心する。

 

 

 3月下旬に仙台駅周辺のアパートに引っ越すと昼頃に電話を受けて、とりあえず『そうか』と返答した。

 

「手伝いに行くぞ」

『荷物少ないし、業者の方が運んで下さるから大丈夫。ありがとう。気持ちだけ受け取るよ』

「ウス」

『落ち着いたら、また君に連絡する』

「わかった」

 

 1週間後の土曜日に約束通り連絡があって、仙台駅前で待ち合わせをすると、首からドッグタグ(名前は殺せんせーに教えてもらった)をさげた黒脛巾さんが先に待っていた。

 

「…眉間にシワ寄せてどうした?」

「まだそれ着けてつけてんのかよ」

「? これ? まだ自由にしてくれないし、文字通り首輪だから外せないんだ」

 

 黒脛巾さんは指先でドッグタグの鎖をいじり、申し訳なさそうに力なく笑う姿を目の当たりにして、怒りがこみあげてきても、大声と舌打ちをどうにか我慢して話を変える。

 

「…引っ越し祝いってやつがあるんだろ。何がいい?」

「君と一緒に飯が食いたい」

「は? そんなんでいいのか?」

「うん」

「…そうかよ」

 

 断言した幼なじみの顔はさっきと違い、自信に満ちてはにかむのを見て、いつか彼女を自由にしてやると自分に誓った。



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第1話 黒脛巾家の大黒柱

 4月最初の日曜日。

 俗に言うエイプリルフールの日に、あたしは自宅から徒歩15分の場所にあるファミリーレストランで、母の仲介のもと、本当の父親と待ち合わせて会っていた。ちなみに母は、父親の隣に座っている。

 

「父の(すばる)です」

「はじめまして。紬です」

 

 昼食時ということもあり、適度に騒がしいおかげで近場でなければ会話は聞こえない。まだ何も注文していないので、自分達の眼前に水が注がれたコップだけが鎮座している。

 父は、事前に母から10年分の報告を受けただろうが、実際に末娘と再会。対面して開口一番『はじめまして』と言われて衝撃を受け、言葉を失い閉口してしまった。

 

「……注文しましょうか」

「そうね。昴さんは何にする?」

「あ。えっと…」

 

 本当の両親にお品書きが書かれた本を片方渡して、視線を下に落とし、前菜はほうれん草のソテー。チョリソーとハンバーグの盛り合わせに白米をつけ、ティラミスとコーヒーゼリーが一緒になったものと、セットドリンクを加える。

 両親が選び終えた直後に呼び出しボタンを押し、店員にそれぞれ注文していったが、お互い10年の空白があるためすぐに会話が続くはずもない。長い沈黙に耐えかねて、父が口を開いて尋ねた。

 

「紬って呼んでもいい?」

「ご自由に」

 

 すると、ひとつ控えめな咳払いして話を切り出した。

 

「紬。母さんから聞いたんだけど、本当に父さんも入学式に出てもいいのか?」

「はい。でも、初対面なので、あなたが黒崎(アイツ)と違うと判断した時に許可します」

「どうやって?」

「あたしが下すので、あなたが気にする問題ではありません」

「そうか…」

 

 声音に不安と戸惑いがあり、『父さん』ではなく『あなた』と呼んで他人行儀な態度をとる娘に、眉尻を下げて落ち着かない様子だ。それに対して、引っ越し祝いに来た母から聞いた堂々たる話とは違って気弱な印象を受け、本当に黒脛巾家の大黒柱なのだろうかと疑ってしまう。

 その折り、母がおもむろに父を(ひじ)で小突き、『あれ』だの『ディスク』だのこそこそと話し合っていた。見ていて気分の良いものではない。

 

「言いたいことがあるなら、はっきり言って下さい」

「実は、山鹿さんから中学の試合をダビングしてもらったんだけどね」

「は?」

「バレーしてる姿がかっこいいなって、家族全員観てて思ったんだよ」

「…どうも」

「それで、試合あったら応援しに行ってもいいかな?」

「あなた達の好きにすればいいでしょう」

 

 まさか、自分の試合のダビングを頼んでいるとは思わず、つっけんどんな態度を取りながらも『家族が応援してくれる』という状況に憧れていたが、素直に喜色を表に出していいのかわからないまま冷静を装う。

 その折り、注文の品が次々に運ばれてきて、食欲をそそる香りに腹の虫が『ぐぅ~』と長めに鳴った。それに両親が微笑んで、照れ隠しに手を合わせて食前の挨拶を告げる。

 

「いただきます」

『いただきます』

 

 前菜を平らげた後は辛いチョリソーを食べ、白米を頬張る。温かいご飯はいつ食べてもおいしくて、視線を交わさず会話そっちのけで食べることに集中したが、両親がいる方向から、フォークと食器が触れ合う音も自分を(なじ)る声もしない。呼吸は落ち着いているから、たぶん(ほう)けているんだろう。

 主食を半分ほど平らげたところで頭を上げて視線を合わせると、なぜか二人に微笑まれて見守られていた。親の(たぐい)では初めての経験で、無意識に体を動かすのを()め、『何か悪いことをしたのだろうか』という思考になり、大人の次にどんな行動をするのか見定めるために固まってしまう。

 最初に口を開いたのは、嬉しそうな表情がだだ漏れの父で、母に至っては父の隣で涙ぐんでいるが、なぜ泣いているのか理解できない。

 

「いい食べっぷりだな」

「見てて気持ちいいし、テーブルマナーもしっかりしてるわよね」

「お褒めに預り光栄です」

 

 かわいげのない簡潔な返答をした後に食事を再開し、両親も料理に口をつけ始めた。

 そして、自分の分のデザートに移る前に、黒毛和牛のすき焼き丼を食べ終えた母が、なにやら期待に満ちた顔で話題を振る。

 

「護から聞いたんだけど、飛雄君とはどう?」

「どうって…。なんで影山君のこと知ってるんですか?」

「俺の親父が、孫自慢に会わせたからだよ。ちなみに、初孫同士の美羽ちゃんと護は顔見知りで、一与さんは高校の…。たしか、白鳥沢だったかな。そこの先輩になるらしい」

「親父?」

「うん。紬から見て、お祖父(じい)さんにあたる人だよ。いやァ、世間って狭いな」

 

 からからと笑う父を前に、フォークを手にしたまま、ただ驚き呆然として、自分が初対面だと思っていた時の反応に納得した。

 あの日──一与さんの家に初めて行った日──は、6月6日だったとしっかり覚えている。

 自分の生まれた日が8月19日だと信じて疑わなかった頃で、一与さんと美羽さんは、影山君同様衝撃を受けていた。再会した自分がそれまでの記憶を全てなくし、『はじめまして』と無感動の瞳と抑揚のない口調。そして、無表情で言う様は機械仕掛けの人形のようで、ひどく不気味に映っただろう。

 

「……」

「俺も、彼の息子と昔遊んだ仲でね。紬のことは、一与さん経由で知ってたよ。飛雄君に誘われてバレーを始めて、『リトル・スカイラークズ』に入ったこととか、1年後にはユニフォームもらってスタメンになったこととか。写真と映像も焼き増ししてくれたんだ。……『どうしてそこまで知りながら、姿を見せなかったのか。助けなかったのか』って言いたいんだろう。紬の命を守るためだよ」

 

 どこかで聞いたセリフを聞き流しながら、母に視線をちらりとやり、手元のティラミスを一口大にフォークで切り分けていく。

 

「…事情を聞いても?」

「もちろん。…6年前、黒崎家におじいさんが訪ねてこなかった?」

「……。来た」

 

 6年前。レバノンから帰ってきた月。

 当時住んでいた静岡の家で、黒崎に呼ばれて2階から1階に降り、杖をついたおじいさんと玄関口で対面した直後、黒崎に後頭部を乱暴に(つか)まれた。もちろん、女の端くれである自分の扱いに驚いた老人は抗議しようとしたが、自分が無抵抗で受け入れたことと彼の無言の圧力をかけたことで、苦々しい表情で口を(つぐ)む。

 

(ついて来い。早くしろ)

(…お邪魔します)

 

 脱衣室を抜けて、冷たい水が張られた浴槽に頭を掴まれたまま鎖骨が浸かる水位まで沈められ、ついでと言わんばかりに首を片手で絞められた。せめてもの抵抗として浴槽の(へり)に掴まったが、肺に貯めたなけなしの酸素がなくなる寸前までされ、苦しかったのを覚えている。

 

「あの時、アイツと年配の方が何を話されたかまでは分かりませんでした」

「そうだろうね」

 

 すると、壁側に設置されている紙ナプキンを1枚取るよう母に頼み、何か言葉を書きつけている。その内容を見もせずに関心をデザートに向け、上に乗っているティラミスを完食し、コーヒーゼリーを二口ほど食べたところで、達筆な文字で書かれた紙ナプキンが視界に滑りこんできた。

 

「これが、その時の状況だ。親父から直接聞いたし、まだボケちゃいないから正確だよ」

 

 あのおじいさんは自分の祖父で、名は(いさむ)

 《瑪瑙》東北支部の情報部に所属していた過去があり、定年退職後は老人という立場を使って情報収集をしつつ、孫娘である自分を探し出して、救出することもそのひとつだった。

 しかし、そこで黒崎という問題が発生して、例の風呂場の場面に遭遇する。

 

(爺さんの言う通り、これが孫娘なら、二度と接触してくるな。死体にして対面させてやる)

(っ…! …わかった。二度と接触しないと誓おう。だから、紬を助けてくれ)

 

 末尾には手を引いてしまった後悔が(つづ)られていて、感情のままに責めようとした自分を恥じ、紙ナプキンを丁寧に折り畳んでジーンズのポケットに入れた。

 

「……。事情は分かりました。各人のやり方で娘、または孫娘を救い出そうとして失敗。アイツの要求を呑んだのは、命を大切なものと見ていたから、距離ができてすれ違いが起きた」

「ああ。現当主として、紬と接触しないように伝えた」

 

 しかし、これが起きた時点で母とは連絡がつかず、長男である護さんはおそらく防大へ進路を決めていたのだろう。家族がそれぞれの方向を向いていては、まとまりがなくなり、事態は悪化する。

 

「接触したくてもできませんでしたよ。あの後、物理的に距離置かれてますし」

「そうだった」

 

 へらりと気の抜けた顔で、白髪が目立つ父が笑う。

 祖父が誓い、家族に通達してから先月で6年が経ち、誰もが疲弊していた。

 

「父さん」

「は、はいっ」

「入学式に参列して下さい。母さんと一緒に」

 

 一瞬、父は何を言われたのか理解できず、身動きしなかった。数秒の間を置いて、母と顔を見合わせて喜色満面になり、『よろしくお願いします』とお互い頭を下げてから、デザートを平らげるまで待つ。

 

「じゃあ、日時や詳細な情報は、本日一七〇〇(ヒトナナマルマル)に送ります」

「わかった。会場で会おう」

 

 差し出された手は黒崎より一回り大きく、指先はわずかに震え、害意はないと判断し、握り返して握手した。

 

「了解しました。楽しみにしてます」



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第2話 熱意ゆえに

「こんにちは」

『こ、こんにちは』

 

 仮入部期間が開始した初日。つまり、月曜日。

 すごい音がして第1体育館に行くと、すでにネットが張られていて、学校指定の小豆(あずき)色ジャージを着た黒髪碧眼の女子がジャンプサーブを打っていたのだと今しがた知り、先にあいさつされてオウム返しになる。美人なのに、イモジャージのせいでミスマッチだなというのが第一印象だった。

 

「えっと…、入部希望者かな?」

「はい」

「そっか。私は主将の道宮。あなたは?」

「黒脛巾(はばき)紬です」

「え?」

 

 黒脛巾という名字に聞き覚えがあって、思わず聞き返してしまった。彼女はそれを聞き逃さず問いかける。

 

「誰かとお知り合いですか?」

「う、うん。剣道部主将の友達が同じ名字で…。男バレ主将と同じクラスなの」

「そうですか」

 

 その友達に妹がいることも風貌も知らないから、単純に驚いたし、兄かもしれない存在を知らされても淡々と返答する彼女に対して、ただただ困惑する。

 

「どこの中学だった?」

「椚ヶ丘です」

「え!? あの先月記者会見があったとこ? 何組?」

「E組ですが、そんなことはどうでもいいでしょう?」

 

 私の関心を『そんなこと』と称して一蹴し、ジャージのポケットから四つ折りにされた一枚の紙を広げて、きちんと両手で手渡してきた。それは入部届で、おそらく彼女の兄と思われる人物と同じ特進コースだと知る。

 

「セッターやってました。よろしくお願いします」

「こ、こちらこそよろしくお願いします!」

 

 ベリーショートの彼女は、続けて主将の私に問う。

 

「もちろん、春高に行きますよね?」

「え…? いや…。春高なんて──」

 

 尋ねてきた質問への答えが途切れ、隣にいる副主将の真緒も無意識に息を呑む。その原因は、数秒前と一転した新入部員にあった。

 なんの温度も感情も読み取れない澄んだ碧い瞳。

 微動だにできないほどの静かな威圧と無表情。

 そこに、再び彼女の声が重なる。

 

「ここ、仲良しクラブでした? あたしは、全力でバレーに打ちこむために来たんです。『楽しくやれればいい。負けたらしょうがない。だって弱いから』。そう考えてらっしゃるんでしょう?」

「っ…!」

 

 図星だった。

 そして、今の女バレと彼女ではバレーに対する熱意が違う。ギラギラとこちらを焼き尽くすようなもので、春なのに背中に汗が流れていった。

 

「どうして分かったの?」

「答えを聞けば分かります。もし、全国に行くと決意されてるなら、『春高に出場する』と即答できますから。だけど、上の意志が弱いと下はついていかない。士気が下がり、統率も連携も、情報共有すらできずに総崩れ。これが戦場だったら、全員血の海に沈んでます」

「…物騒な例え出さないでよ」

 

 自分のひきつった笑いが、彼女の(しゃく)(さわ)ったんだろう。拳を作って握りしめ、息を吸いこむ音がする。それだけで理解した。

 彼女は怒っている。

 

「毎日思う存分バレーに打ちこめるこんな恵まれた環境にいるのに、どうして全力でやらないんですか!? 妥協する要素が一体どこにあるんです? 『これでいいや』と勝手に限界を決めて、現状に甘えてるだけでしょう? この環境に満足だと判断されても、それで後悔するのは決断をしたあなた方先輩達です。けど、あたしは違う! 公式試合でも練習試合でも、相手が弱小だろうが強豪だろうが関係ありません。手加減なしで全力出して全員で全部勝ちにいって、一番長くコート上に立ちたいから、勝利への執着がないなんてまっぴらごめんです!」

 

 一気にまくし立てて一息つき、気まずさと感じさせずに足元に転がっているボールを拾って、私達から興味を失ったように視線を外した。

 彼女は謝らない。私達も謝罪を求めない。それが事実だと痛いほど分かっているからだ。

 

「あの…、椚ヶ丘って強いの? 東京の情報入ってこないから知らなくて…」

「強豪です。一貫校でしたから、高校も強いと有名でしたよ」

 

 強豪に在籍していた黒脛巾さんが、どうして弱小の烏野に来たのか。その時は分からずにいた。

 

 

 翌日の昼休みに、澤村と菅原。黒脛巾のいる4組へ行ってみた。あいにく、菅原はいなかった。

 

「2人共、ちょっといい?」

「どうした。道宮」

「昨日仮入部で入ってきた1年がめっちゃ怖い」

 

 そこに黒脛巾が、二つ折りの財布をズボンのポケットに入れながら来た。

 

「1年?」

「そう! 同じ黒脛巾で、紬って名前だったの」

 

 とにかく3人で興奮している私を落ち着かせてきて、廊下で話を聞くように誘導する。ちなみにバッキーというのは黒脛巾の愛称で、初対面で『長いから』という理由で本人から提案されたからだ。

 まず名字に反応したのは、バッキーではなく澤村だった。

 

「敦。偶然か?」

「いや、偶然じゃないよ。10年前に誘拐されて、先月無事に宮城(こっち)に帰ってきたんだ」

「は!? 誘拐…? そんな大変なこと、どうして言わないんだ!」

「言ってどうする? 同情して終わりだろう。それに、どこで誰に情報が伝わるのか分からない。もし、犯人の耳に入れば、紬という人間はいなかった。それを裏付けるために殺される可能性だってある。不用意に()らすわけにはいかない」

 

 淡々と論理的に告げるバッキーの言い方は、まさに昨日の黒脛巾さんと一緒で兄妹(きょうだい)だのと実感した。私達二人が『あり得る事態』に閉口していると、私の話を続けるよう提案され、彼の言う通りまくし立てられた内容を語る。澤村の反応から、どうやら男バレも昨日一悶着(ひともんちゃく)あったらしい。

 

「…なんていうか、紬ちゃんだっけ? 観察力がすごいな。道宮の一言で、部の現状と主将の心情まで言い当てるなんて。…敦。何も聞いてないのか?」

「何があったのかは、母さんに聞かされた。観察力は、誘拐された先で培われたんだろう」

 

 口調は普段通り穏やかでも語気は強く、初めて目の当たりにする彼の鋭い眼光と静かな怒りが伝わってきて、ぶるりと身震いしてしまった。それをすぐに察したバッキーは、『ごめんね』と一言謝ってくる。顔が整って性格も優しく、雰囲気が儚いだけに簡単に許してしまう。

 

「で、どうする? 会いに行くか?」

「いや…。今は環境に慣れることが大事だろうし、やめとく」

 

 彼が何かを恐れているのは、あからさまな視線の揺らぎから容易に想像できるからこそ、支えになりたいと思う。それを行動に起こして、私は彼の手首に向かって手を伸ばし、握ってぐいぐいと引っ張った。

 

「大丈夫。何事も始めが肝心って言うでしょ。行こう、バッキー」

(あつし)。俺達がついてるからな」

「……わかった。ありがとう、大地。道宮さん」

『どういたしまして』

 

 彼が自らの意思で歩き出したのを見計らって、私は手首から手を離し、澤村は背中を押すのをやめる。スカートのポケットに入れていた携帯を開けて時間を確認すると、昼休みが終わるまであと15分あった。急げば兄妹対面できるかもしれない。

 3階から2階に降りる階段の踊り場で、ふとバッキーが尋ねてきた。

 

「道宮さん。念のために聞いてもいい?」

「なに?」

「紬は、どんな感じだった?」

「あれ? 一緒に住んでないの?」

「住んでないよ」

『え!?』

 

 彼いわく、『春休みに両親と顔合わせをしたものの、入学式には慣れ合う様子は一切なかった』らしい。そこでようやく訳ありな家庭環境だと悟る。

 

「気が強くて、芯のある子だと思うよ」

「そうか…」

 

 とりあえず、入部届に書かれていた彼女の教室に行って同級生に尋ねると、飲料調達しに行ったっきり戻ってきていないみたいだった。



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第3話 悩みの種

(なにやってんだ、影山?)

 

 仮入部初日だった昨日。

 俺は、日向(ひなた)と一緒にバレー部を文字通り追い出されていた。そこに黒崎さん改め、黒脛巾さんが通りかかる。

 呼び方が変わったのは、春休みに二人で会った時だった。飯をあらかた食い終わった頃に、黒脛巾さんのほうから『呼び方を変えてみる?』と提案されて、俺は特に断る理由もなく、それ以来呼び捨てにされている。彼女が言うには、『小学生の頃からの呼び名が定着してて、新しい環境に身を置くにあたって変えたかったから』らしい。

 

(バレー部を追い出された)

(え。何やらかしたんだ?)

(俺達に仲間意識がないから)

(同じ学校に入ったんなら仲間だろ? えっと…)

(ひ、日向翔陽です! よろしくお願いシアス!)

(よろしく、日向君。たしか、雪ヶ丘だったよな)

(え? 覚えてんの?)

(もちろん。反応速度とジャンプ力がすごかったぞ)

 

 そして、俺との関係とか所属してる部活をうるさく質問し続けていた日向が、中学関連でついに彼女の地雷を踏んだ。

 

(椚ヶ丘って化け物がっ!?)

 

 結論から言って、俺がほんの一瞬だけ先に日向の頭をわしづかみにして良かったと思った。そうしなければ、コイツは殺せんせーを侮辱されて笑顔を封じた黒脛巾さんに、胸倉(むなぐら)を片手でつかんだ勢いのまま殴られていただろう。

 彼女は振りかぶった拳をどうにか下ろし、怒りに任せて大声を出さないように()し殺した声で、あまり変わらない身長の日向を至近距離からにらみつけて忠告する。

 

(よく知りもしねェくせに、殺せんせーを化け物扱いするな…!)

(外見はタコだけど、いい先生だ。二度と言うんじゃねぇぞ、日向ボゲェ!)

(っ…!)

 

 俺と黒脛巾さんの怒気に言葉を失って、ただうなずくのを繰り返すと舌打ちしながら胸倉から手を離し、俺も頭をつかむのをやめた。それから一息ついて自分を落ち着かせ、脱線した話を戻す。

 

(元は、仲間意識が無いって話だったな)

(そうだった!)

 

 そこで日向が夕方に言った俺の言葉をそのまま伝えると、無言になってちらりと俺を見る。すっかり辺りは暗くなり、体育館の窓から漏れる照明の光で、黒脛巾さんの(かな)しそうな表情がよく見えた。

 

(あたしも男バレ主将の意見に賛成だ。1人でできることなんてたかが知れてる。完璧じゃないからこそ、みんなで助け合うんだろう?)

(っ!)

(そうだぞ、影山くいだだだっ!)

(黒脛巾さんも1人で抱えこむじゃねぇか)

(…そうだな。これからは『助けて』って、ちゃんと言えるようにがんばる)

(おう)

 

 この時は『どうやって入部するか』で頭が一杯で、彼女の言葉と微笑みを真に受けて、相手がどう感じたかなんて考えてなかった。

 

 

 昼休みになって、一階渡り廊下にある自動販売機前で黒脛巾さんと会った。

 

「影山。そんな勢い良くやったら突き指するぞ」

「おう」

「…? 日向の声だ。あと1人、誰?」

「菅原さん。同じセッターだ」

「ふーん」

 

 黒脛巾さんの、女子が持つにしてはゴツい作りの腕時計を見ると、昼休みが終わるまであと13分だと示している。移動時間も含めて教室に戻ろうとした時、聞き慣れない人の声がした。

 

「あ、いた!」

「紬…?」

「誰だ?」

「道宮キャプテン。女バレ主将。あとは知らん」

「澤村さんしか分からねぇ…」

 

 俺から見て知らない男女の隣に澤村さんがいて、なぜか口を開けて驚いているが、男は俺達2人を知っているような反応をする。

 

「はじめまして。1年の黒脛巾紬と申します。影山とは幼馴染になります。以後お見知り置きを」

「影山飛雄です。よろしくお願いシアス!」

 

 まだストローを刺していないコーヒー牛乳が入った紙パック片手に、黒脛巾さんがおじぎをして二人にあいさつするのを見て、俺も飲みかけのぐんぐんヨーグルトから唇を離し、あわてて自己紹介した。すると、澤村さんが男を小突いて彼らの紹介が始まる。

 

「はじめまして。3年の黒脛巾(あつし)だ。紬の兄で、次男坊になる。剣道部主将やってます」

「敦と同じクラスの澤村大地だ。はじめまして。男バレ主将を任されてる」

「は、はじめまして。同じく3年の、道宮(ゆい)です。女バレ主将やってます」

 

 女バレ主将は、黒脛巾さんと違って気が弱そうな雰囲気がしても、それは口には出さない。微笑む幼なじみとは対照的に黙っていると、アツシさんが物理的な距離を保ったまま話しかけてくる。

 

「母さんから話は聞いたけど、まさか同じ学校とは思わなかったよ」

「同意見だ。これからよろしく頼む」

 

 そこで、道宮さんと澤村さんがそろって心配顔をして黒脛巾さんにこう言った。

 

「敦から一緒に住んでないって聞いたよ」

「一人暮らしなんだよね。大丈夫?」

「大丈夫ですよ。では、授業の準備をするので失礼します」

「失礼します」

 

 笑顔を崩さず、するりと俺の()いた手に右手を滑らせて握り、そのまま一歩を踏み出した。普通の歩幅と声で振る舞ったものの、異変に気づいたアツシさんが端に寄った隙に渡り廊下を突っ切り、そのまま振り返ることなく教室がある2階へ向かい、踊り場でふと立ち止まって黒脛巾さんのほうからそっと手を離す。

 

「…すまない。急に握って」

「おう」

「二人が言ってた情報は両親と君しか言ってないから、黒脛巾経由だろう。これ以上情報漏洩(ろうえい)されないように、最低限の接触にする」

「俺を疑わねぇのか?」

「E組以外で信頼してるのは、君だけだ。それに、約束を守ってくれてるじゃないか」

「…そうだな」

「ん。…もうすぐ休み時間終わるし、教室戻ろう」

「おう」

 

 頼られるのは嬉しいが、黒脛巾さんがこれから家族を信用していこうとした矢先に個人情報を流され、失望を笑顔で隠し、拒絶を行動で示した。アツシさんが信用を取り戻そうとしても、誘拐される前より警戒心が強くなった妹相手なら相当時間がかかるだろう。

 

「そういや、昨日休み時間に教室来てたよな。何してたんだ?」

「新しい部を作るから、部員と顧問。活動場所を探してる」

「部?」

「正確には同好会だな」

 

 日本人には珍しい青い目を持っているから、自然と周りに注目され、積極的な行動力と先輩相手でもはっきり言う性格で、同じクラスのヤツらが話題にしていたのを思い出す。聞こえた限りでは『ふざけるならケガするぞ』としっかり忠告し、締め切りは今週木曜日と定めた上で部員を集めているらしい。

 

「集まんのか?」

「今のところ順調。どんなに早くても、来週中に生徒会の承認が下りて形になればいいと思ってる」

「ケガするなら危ねぇだろ」

「スポーツでも武術でも、気ィ抜いたらケガするのは当然。生半可な気持ちでやって欲しくないだけだ」

「生ハンカってなんだ?」

「…辞書引いてくれ。じゃあな」

「おう」

 

 教室に戻って分厚く真新しい辞書を開くと、中途半端に近い意味だと理解した。

 

 

 放課後になってからまだ出禁の俺と日向は、練習場所になる場所に移動している。その途中で黒脛巾さんが教室に来たか尋ねると、昨日の5時間目が終わった後に来たらしい。

 

「でも、俺にはバレーのことだけで、他の子にチラシ配ってたんだぜ?」

「チラシ?」

「おう。チラシ見せてもらったんだけど、たしか『ミリオタや武器に興味のある人。より実戦的な護身術を身につけたい人は、警備同好会に入って下さい。本気でやりたい人のみ歓迎します』みたいなこと書いてあった!」

「…そうか」

 

 俺は、日向の言葉でまた危ない目に遭うんじゃないかと心配になって、胃がキリキリと痛むのを自覚した。



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第4話 同好会発足

 入学して4日目の昼休みが終わるまで、同級生の類家(るいけ)に対応してもらい、『烏野警備同好会』の人員は一クラス二人として、最低限の30人を若干越えるほどには集まった。五時間目が終わった休み時間に、タブレットでマルシン工業に銃をそれぞれ5(ちょう)追加発注する。

 大まかな年間活動計画表と来年は部員と活動場所を今の倍にすると告げ、部室棟の余っている5部屋全てと空き教室1部屋。教師2人を確保し、期限である明日まで待ちながら、生徒会の承認を得られる表向きの理由を考えていく。

 昨日の放課後に校長とカツラを被っている教頭を交えて概要を伝えたが、1日置いた今日の放課後は、国家機密を伏せてより詳細な内容を話した。

 明日の放課後に確保した空き教室にて、東海紡とニチカの双方が採寸。あおい安全が個々に合わせて靴の調整を行うことと、すでに先方に来て頂いている約束を取りつけていることを伝えれば、彼らはそろって許可するしかない。そして、複数の大企業が協力下にあるため、生徒会で明日中に同好会設立の許可が下りてもらわなければ困ることを強調し、彼らの前でタブレット端末で繋いで採寸担当者と連絡。これらを経て双方が頭を縦に振って、あたしは堂々と生徒会の扉を叩いてから開き、室内にいる生徒会長に同好会発足の届けと30人弱の入部届をまとめて出した。

 一段落して明日使う教室の軽い掃除や通信状態などを確認すれば、もう辺りは暗くなっていて正面玄関口に走っていき、校門から出るところでまだ出禁になっている影山と日向に声をかけた。

 

「二人共お疲れさま」

「お疲れ、黒脛巾さん!」

「お疲れッス」

「これから夕飯食うの?」

「ああ。軽めのヤツ」

「そうか。今日どんなのだろ。楽しみ~」

「……」

 

 日向の言葉で、普通の家庭は親が食事を準備してくれるのかと思い至り、一瞬口を閉ざしてしまった。

 幼少期の影響で黒崎が死ぬまで夕飯を食べる習慣がなく、山鹿家の居候になってから徐々に1日3食の生活に慣れていったものの、どんなに頑張ってもご飯茶碗で換算すれば4分の1杯ほどの量しか食べられない。それでも、昔よりマシになってきたことを内心喜んだ。

 自宅に帰ってから必要なことを諸々(もろもろ)済ませて、スウェットに着替えたあたしは、自室にあるパソコンとタブレットを音声で起動させながら、手元でiPadの待ち受け画面を開く。自分の準備ができたのを見計らい、ブルーライトカット仕様の眼鏡をかけてから、きちんと座布団の上で正座する。

 

「しのぶ。『モバイル東雲(しののめ)』のQRコード最終調整をしてくれ」

《はいよ》

「律は、引き続きE組の支援。同好会は、しのぶとあたしが主体になる。何かあれば情報共有するぞ」

《わかりました》

 

 人工知能にとって数秒で終わる作業でも、烏間さんに許可を頂いた以上、計画を無事に遂行する責務がある。

 入部届を受け取ってデジカメで撮影し、自室のインクジェットプリンターで印刷した30人弱の写真をノートに貼りつけては特徴を書きこんでいく。単調作業の合間に二人と問答を交わして眠さを紛らわせたものの、あくびを噛み殺す様子を電子端末の『目』で見た二人に就寝を促された。

 

 

 翌日、金曜日の放課後。

 迷彩服と防具の東海紡。黒インナーのニチカ。長靴のあおい安全という3社を前に、1年生にして烏野警備同好会部長の自分に部員となる者達の注目が集まり、『まずは採寸が先だ』と噴出する質問を一時的に遮った。

 1時間ほどで終わらせて担当者達と別れ、種明かしをするために彼らを視聴覚室へ集める。事前に通達していたため不平不満が噴出することはなく、顧問も含め全員が着席したのを見計らって教壇に立ち、マイクの電源を入れて堂々とこう告げた。

 

『この同好会は、募集時にも言った通り、実戦的な護身術を学んでもらうために発足した。採寸を含めて、専用の服や武器を与える。最低でも1年続ければ、自分の身を守れるだけの技術が身につく』

 

 証拠を裏付けるために先ほどの大企業の協力を引き合いに出すが、彼らはまだ疑心暗鬼になっている。だが、役目を果たすまで本当の目的を明かすつもりはなく、機密保持のために退部も認められない。

 

『1年と言えば長く思えるだろうが、これが年間計画表だ。しかるべき講師を呼んで側につけるし、夏と冬に強化合宿も行う』

 

 手元にあるノートパソコンを操作して、パルクールの発展形のフリーランニングを含めた予定をスクリーンに表示する。一時的にマイクを置いて、顧問になったガタイのいい体育教師の攻撃を難なくいなし、黒板や床に叩きつけてしまう形になったが、彼らの興奮が最高潮に達した。だが、話を締め(くく)るにはまだ早い。あともう一息だ。

 

『今はまだ疑ってもらって構わない。だが、どうか自分についてきてくれ』

 

 教壇の机に額がごつんと鈍い音を立てるほど深々と頭を下げると、雄叫びや元気の良い快諾が室内に響く。数秒後にゆるゆると顔を上げれば、皆『やってやろうじゃねぇか!』だの『ヤバくない!?』だの興奮の坩堝(るつぼ)と化していた。

 

『では、各自ここにある複数の端末からQRコードを読み取って、今日は解散しろ。明日14時に、私服とは別に、汚れてもいい服装を持ってきて部室棟前に集合。以上』

『はい!!』

 

 一斉に返ってきた返事に今日一番の笑みを返して、全員がダウンロードしたことを無事に起動した人工知能の『東雲(しののめ)』から軽快な口調で報告を受け、視聴覚室の鍵を持って退室する。

 職員室に鍵を返しに行った後、女バレに途中参加も考えたものの、今日は同好会の件で欠席しているためあきらめた。そのまま正面玄関から帰ろうとして影山達の様子を見に運動場のほうへ行くと、まだ日向と二人で練習している。

 

「二人共お疲れ様」

「おう。同好会のほうはどうだった?」

「問題ない。予定通り、明日から始められる」

「そうか」

「あたしも混ぜてもらっていい?」

「ああ」

 

 数日前より日向のレシーブが幾分上手くなっており、そのことを手放しで褒めると彼の笑顔が弾けて、影山は『まだヘタクソだ』と不機嫌な顔と口調で告げた。

 明日は二人の入部を()けた試合があると話を聞いていていても、万が一という場合がある。試合前に負の感情を引き出すのは良くないと考え直して、応援を送るだけに留まった。

 

 

 高校生になって最初の休日だが、休みたい気持ちはさらさらない。久しぶりに真剣に打ちこめるバレーに、本格的に始動する同好会を掛け持ちするものの、やる気と興奮が湧き上がって予定よりも早く学校に着いてしまった。

 

「おはよう。影山。日向」

「ハザッス…。黒脛巾さん」

「なんだ。二人の知り合いか?」

「俺の幼馴染です」

「マジか!? お前も隅に置けねぇな、この野郎!」

「? アザッス」

 

 話が噛み合わないながらも好感を得ている坊主頭の人は、第2体育館の鍵を担当している2年の田中先輩で、ポジションはウィングスパイカー。今日の試合で二人の味方をするらしい。

 

「影山と日向をよろしくお願いします。田中先輩」

「おう! 任せな!」

 

 深々と頭を下げた後、自分も職員室から第1体育館の鍵を借りて女子更衣室で着替え、独りでネット張りやら用具諸々の用意やら済ませて準備体操をやる。同級生や先輩達が来たのは、体が温まった1時間後だった。

 思う存分バレーに集中できたが、やる気と技術力の差は初日と変わらずに苛立ちが募り、思わず先輩相手にきつく当たる場面もあった。それは全て勝ちたいと思うからであり、女子バレー部のジャージを受け取っても晴れることはない。

 

「お疲れ様でした。お先に失礼します」

 

 女子更衣室でジャージから私服に着替え、首からドッグタグを提げた格好で職員室へ向かう。途中、生徒指導の教師から注意をされたが『校長に許可を得ている』と告げれば、面白くなさそうな顔で閉口した。

 『烏野警備同好会』と書かれた部室棟の鍵を保管場所から3つ取り出して空き部屋に向かい、畳の上に乗せられた大量の未開封段ボール箱を全てカッターで開ける。そこには春休み中に様々な企業先に発注した、アサルトライフルとコルト・ガバメントの二種類の銃器と、当面使用する青のペイント弾。コンバットナイフが注文数だけ入っており、部長である自分宛てに領収書やら手紙やらが同封されて、物言わぬそれらにこれからのことを考えて黙って一礼した。



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第5話 違う世界

「なぁ。私服持ってきたか?」

「持ってくるわけないでしょ。僕、荒事嫌いだから。じゃあ、失礼します」

「お疲れ様でした」

 

 入部とセッターをかけた試合で勝って、正式に烏野高校バレー部のジャージも受け取り、俺は、バレーができる嬉しさから日向と月島の話を聞き流していた。

 

「影山は?」

「は?」

「私服! 田中さんに『いちおう持ってこい』って言われただろ!?」

「ああ。おう」

 

 片付けで部室で私服に着替えて、それが『ダサい』と笑われても、田中さんに背中を押されて第一体育館に向かった。

 

「敦。見学に来たぞ」

「よお、澤村。剣道部も用意できてる。これ、首からかけて」

「わかった」

 

 入口で、同好会から直接手渡された『見学』と書かれた名札を受け取り、2階は満員で、1階の端も埋まりかけていた。そこには、先生達と生徒達が私服姿で集まっている。見回すと、体育館のステージ前には10人の男女が座って待っていて、段ボール箱に入った2種類の銃とホワイトボード。2本のマイクとスピーカー。机の上には、2つのタブレットが準備されてあった。

 

「あれ? あの女子、なんでホワイトボードの前に立ってるんだ?」

「俺が知るか」

 

 背の低い日向の質問に答えた直後に、マイクのスイッチが入って、黒脛巾さんが丁寧に挨拶された。

 

《皆さん。こんにちは》

『こんにちはー』

《本日は、お忙しい中お集まり頂き、ありがとうございます。警備同好会部長、1年の黒脛巾です》

《副部長。3年の黒脛巾です。よろしくお願いします》

 

 1年生にして、普通ならありえないその肩書きに皆は驚いていたけど、俺は、『黒脛巾さんならやれる』と思っている。

 ホワイトボートに書きながら説明する副部長が言うには、活動内容は、通学する生徒と教師の安全確保のために、特殊な銃と戦闘服を使った警備員の育成。それに必要な知識と近接格闘術。体力作りなど5日間毎日行い、夏と冬の長期休暇中に、強化合宿を開催。活動時間は、朝練前と部活後の30分だけ行うらしい。

 質問の時間に、生徒指導の先生から『その銃は、どこから仕入れたんだ? 銃刀法違反だろう!?』という声に、部長がため息をついてあきれる。副部長は、何も言わないつもりらしい。

 

《これらは全て、サバイバルゲームで用いられているモデルガンと、弾丸2種です。普段は、赤のペイント弾。水色のBB弾を使うのは稀ですね。発砲の威力と反動がありますので、狙う場所は、手足と胴体に限定するよう教えますし、ナイフもゴム製です。確実な戦果を上げるまで、予算は一切要りません。部長である自分のほうで維持、管理していきますので、よろしくお願い致します》

《成果はいつ出るんだ》

《少なくとも、私が3年生になる頃です》

《費用はどう捻出するつもりかね?》

《私の貯金から出します》

《微々たるものだろう》

《…そう思っておいて下さい。他に質問がある方、いらっしゃいますか?》

 

 ばっさり切り捨てられた生徒指導の先生は、顔を真っ赤にして怒っていたが、幼馴染は涼しげな顔で他の先生を指した。

 

《チラシには、実戦的な護身術と書いてありましたが、講師は誰がしますか?》

《私です。E組で一年習っていますので、ご安心下さい》

《たった一年で講師になるなど危険です》

《元空挺部隊の方からお墨付きをもらっていますから、大丈夫です。…ああ。ご心配なら、強化合宿について来られますか? 百聞は一見にしかず。合宿所までの往復が自腹になりますけど》

《…結構です》

《では、次の方。……いらっしゃらないようでしたら、次に移ります。これから、部員の皆さんに、ライフルと拳銃を一挺ずつ手渡します。特注品ですので、3年間紛失しないよう管理をよろしくお願いします。紛失された場合、一挺にかかった費用を自腹で払って頂きますから悪しからず》

「いくらですか?」

《通常のモデルガンの3倍なので、軽く数万円はしますね。ナイフも同じです》

 

 げ、と声を出した男子生徒をよそに、一人ずつ手渡していく。全員に行き渡った頃、黒脛巾さんはこう言った。

 

《これより、この銃の試し撃ちも兼ねて、模擬戦を行います。的が外れて皆さんにペイント弾が向かい、被弾する可能性がありますので、お気をつけ下さい。では、部員の皆さん。学年に関係なく、今から二人一組になって下さい。今回は、私と副部長が敵役になります。弾がかするのは大丈夫ですが、手足や胴体に被弾したのに行動することはやめて下さい。さらに、順番を守ること。…いいですね? 全力でかかって来なさい。以上》

 

 黒脛巾さんが左手でマイクを置き、待っている間に、ライフルと拳銃を調整し、ナイフの位置を確認する。その様子は副部長も手慣れていて、彼も暗殺の仕事をしているのかと思った。話しかけたのは彼女からで、口頭で軽く打ち合わせをする。

 そして、いざ始まると、部員達が照準を合わせて引き金を引く前に、もう腕の付け根が赤のペイントに染まっていて、実力差が一目瞭然だった。人に向けて引き金を引く事に、二人共躊躇が無い。弾倉と呼ばれる部品を一度も取り換える事なく、素早く、正確に両腕を撃ち抜いて、次々に部員達を『倒して』いく。

 

《…はい。以上で試し撃ちは終わりです。皆さん、いかがだったでしょうか? 興味がある方は来年でも構いませんので、どうぞ警備同好会にいらして下さいね》

 

 いかがも何も、端から見たら、色も相まって虐殺現場みたいになり、部員や観客が一人も声を発していない。春なのに冷えきった空気をものともせず、見学を兼ねた御披露目は、こうして淡々と終わった。

 

 

 次はナイフ術を教えると予告して解散し、俺は黒脛巾さんが部室棟から出て来るのを待っていると、男子と女子が別れてそこから、最後に鍵を閉めるために彼女が出てきた。そうして俺の姿を見た黒脛巾さんは、片手に持った鍵をそのままに両手を合わせて謝ってくる。

 

「ごめん、影山。もう少し待ってくれ。これ返しに行くから」

「おう。先に行ってる」

「わかった。またあとで」

 

 走って遠ざかる背中を見送り、部室棟で着替えて校門に行く途中で、菅原さんが先に行っている事を知り、俺は彼女を待つ事なく先輩の背を追う。そして、今回は自動的にスタメンになったが、次は実力でその座を取りに行くと宣言した。でも、菅原さんの反応は違った。

 

「影山は、俺なんか眼中に無いと思ってたから…。意外で」

「? なんでですか?」

「体力も実力も、断然お前のほうが上だろ?」

「経験の差は、そう簡単に埋まるもんじゃないです。それと…」

 

 背後から、日向と田中さんの声が聞こえて、反射的に肩が跳ねる。

 

「ほ…、他のメンバーからの、し、し、信頼とか…」

 

 納得がいったという表情をした菅原さんは、その後も元チームメイトがいる相手にやり辛くないか聞いてきたけど、俺はそれに異を唱えた。田中さんの納得いかない意見も受け止め、それに対して菅原さんは笑顔で違う事を見せつけたいと言う。そして、肉まんを買った澤村さんをよそに、先にそれを食った日向を田中さんと一緒に片腕で胸倉を掴んで騒いでいたら、店主に叱られた。

 そこに、新しい声が割って入る。

 

「あー。もしかして、肉まん売り切れましたか?」

「ん? まだ何個かあるが、……紬ちゃんか?」

「はい。今春から、妹がお世話になります」

「…はじめまして。どこかでお会いしたこと、ありますか?」

「覚えてないのか?」

「はい…」

 

 店主が言うには、黒脛巾さんが幼稚園の頃に、『けいにい』『紬ちゃん』と呼び合う仲で、バレーに触れ、バレーに興味を持っていたらしい。しかし、彼女は、それを全部忘れてしまっている。

 

「小さかったからってのもあるが、無事に帰ってきただけで万々歳だ。…おかえり」

「…ただいま戻りました」

 

 三年はそれだけで察し、日向と田中さんは『無事』という言葉に反応して深く聞き出そうとした。俺は、それを制したが、店主が煙草をふかしながら話を続ける。

 

「11年前の誘拐事件。新聞に載ってたし、報道もされただろ。紬ちゃんは、その被害者だ」

「けいさん。温まるまで、何分かかりますか?」

「…30分だ」

 

 妹を励まそうとして背中に手を回しかけた兄より、まるで触れる事を拒絶するように、彼女の拳が彼の脇腹に直撃するほうが早く、潰れた蛙みたいな声が出た。そこを押さえて、道端に座りこみながら妹の名前を呼ぶが、上から降りかかる彼女の声も、澄んだ青い瞳も冷ややかだ。

 

「学習してないのか?」

「すみません。俺が悪かったです」

「ん」

 

 謝罪を受け入れた後、兄に興味を失ったのか、無言で視線を外してパタパタするヤツを持った店主の横を素通りし、店内に入って行く。気まずい空気をよそに、澤村さんがアツシさんを助け起こして、追撃していった。

 

「何があったんだ?」

「大地と道宮に、妹の現状バラしただろ。それが原因で嫌われてる。さっきみたいに接触しようとすれば、容赦無く殴ってくる」

「ああ…」

「『戦力としては期待するけど、それだけ。情報漏洩するヤツは、信用しない』って言われたよ。ここの肉まんが美味しいって情報でチャラになると思ったんだが、簡単には許してくれないらしい」

「確かに、冷静に考えるとあれは不味いな。情報を悪用される事もあるから、敦が悪い」

「もう言うなって、大地。わかったから。…紬。お詫びに、肉まん奢らせてくれ」

「いい。自分で買う」

「じゃあ、せめて一緒に食おう」

「精神的苦痛を伴いながらの食事とか、新しい拷問方法だな」

 

 幼馴染は、ついて来るなと言わんばかりに店内でも兄と距離を取り、待ち時間の間に商品を物色しては、籠に商品をあれこれ入れていく。その中には、高校生には高いと感じる4桁の物も迷う事無く平気で入れるから、俺達は驚いていた。

 

「大地達は、なんかやるんじゃないのか?」

「あ…。そうだった。あっちに座って決めていくぞ」

「はい」

 

 呆気に取られながらも、アツシさんに言われて、空いた場所に設置された小さなテーブルの周りを囲むパイプ椅子に座って、青葉城西の練習試合に向けて日向のポジションなどを決めていく。

 そうしているうちに、店主の呼びかけで30分経った事を知り、確定した事を覚えて、バス停まで肉まんを買い食いした黒脛巾さんを送って別れた。



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