教えて、バイトリーダー! (イーベル)
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君はあの日見た花火を覚えているだろうか。
00
憧れのクラスメイト、
腰まで伸ばしている黒髪が特徴的な優等生。容姿端麗頭脳明晰。彼女以上にこの言葉が似合う人間を僕は同世代で見たことがなかった。勉学では上位一桁から退いたことがない。夏までは水泳部で、休み明けの朝礼では少し気だるそうに表彰台に上っていた。顔立ちも整っていて、少し鋭い目つき、すらりとした鼻と柔らかそうな唇。この間読んだ雑誌のグラビアに混ざっても決して見劣りしない。
強いて文句の付けるとすれば授業態度が悪いぐらいで、よく窓際の席でばれないように居眠りをする。目を閉じて静かに呼吸をする。ただそれだけなのに、黛玲子がすると絵になってしまう。よく思わないのは教師ぐらいだ。逆に僕はそういう瞬間を何気なく目にすると、なんだか得をしたような気分になる。
そんな断片的な情報ぐらいだった。好きな食べ物とか、音楽だとか趣味だとか彼女のパーソナルな部分はなかなか見えてこない。
それは同じ部活の水泳部に所属していた人間でも同じようだった。比較的距離が近い人間ですら箸にも棒にも掛からないようなら、僕なんかは余計にノーチャンスだ。このまま彼女のことを知る機会を与えられないままなのだろう。眠い目をこすって授業中にチラ見する程度の距離感のままなのだろう。そういう覚悟はできていた。
だから今、バイト先のダグアウトで彼女らしい後姿を見た瞬間、こんなに動揺している。別に話したわけでもない。正面から見たわけでもないけれど、制服のポケットに入れた手が湿っているのがはっきりと分かった。
やけに響く店長の声。いくつか質問をしているのが分かった。多分採用面接をしている。
でも彼女はアルバイトなんてしなくてもいい人間のはずだ。両親が何をしている人なのかは知らないけれど、噂では大きな家に住んでいて、使用人だって雇っていると聞いた。だから俺みたいにその日暮らしのために働く必要なんてないし、お小遣いのためになんて俗っぽい理由もあまり考えられなかった。
つまり、さっき見た人影は疲れのあまりに見てしまった幻覚だ。そう信じて、僕はプラスチックのトレーを持ってホールへと足を向ける。その途中でピンポーンと呼び出し音がした。
他の店員に目配せをして自分がそのままテーブルへ向かう。尻ポケットから注文を受け付けるハンディ端末を手にお客様と目を合わせた。
「お待たせいたしました。ご注文をお伺いいたします」
マニュアルをなぞる薄っぺらい言葉と機械的な笑顔を張り付けて、今日もモノクロな一日が過ぎていく。このまま週の過半数をバイトに費やし、妹たちのわがままに答えて、帰ってきた母の愚痴を聞いて……多分、惰性で就職をする。きっとつまらない大人になっていく。そんな人生の設計をぶっ壊してくれる何かを期待するけれど、そんなことはあるはずもないって、時間が過ぎるほど、そんな風に確信する。
「ご注文は以上でしょうか?」
お客様にそう確認して、僕はハンディ端末を閉じた。
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01
机に上半身を預けて、うとうとしながら朝礼が始まるのを待っている。徐々に人が集まってざわめき始める教室。この時間は思う存分に気が抜けて僕は好きだった。けれど、平穏はいつの時代も長く続かないもので、自分の前髪が何者かにかき上げられる。日光が当たって顔をしかめた。こんな悪戯をしてくる奴は一人しか思いつかない。うっとおしいと思いながら目を開けた。
「ひっでぇ目つき、今日も相変わらず眠そうだな。ケイ」
「ヨッ」と陽気な声の直後に椅子を引く音がした。バスケ部所属の坊主頭。筋肉質で羨ましいほどの背
丈を持つ。常に女子から熱い視線を送られる男だった。
眠い目をこすって上半身を起こす。こいつが来たということは朝練を切り上げた後で朝礼まであと少しだろう。伸びをしてから彼の顔を見た。
「まあな。昨日もバイトもあったし」
「ここんところずっとだな。そんなに稼いで何が欲しいんだ?」
「別に。うちは貧乏だからな。小遣い出ないんだよ」
ついでに言うなら生活費も怪しい。うちは母一人、子三人の火の車で絶賛回転中だ。わがままな双子の妹は中学に上がったばかりだし、母も会社員をしているとはいえ、無理は効かない。自分だって立派なバイト戦士として立ち回らなければならない。眠気はその代償と言えた。
「そっか、大変だな。俺も冬に短期バイトしないと」
「なんか欲しいものでもあんのか? お前は小遣い貰ってただろ」
確かそれなりに家から支給されていると聞いたはずだ。正直、すごく羨ましい。自分が思春期の数時間を生贄にして手にした賃金を身内だからと言って簡単にポンと渡される環境が。無いものをねだっても仕方がないことは分かっているのだけれど、そう簡単に割り切れない。
「んや、交通費と食費にほとんど消えてな」
「交通費はともかく、食費って……あの家から持ってきてるデカい弁当箱はどうしたよ。ごはん数リットルとおがずがアホみたいに敷き詰められてる奴」
身体作りの一環として彼らバスケ部にはタッパーが部活から支給される。それに大量の米とおかずを敷きつめることが義務なのだ。あれを食べきるのはなかなかに骨が折れそうだった。
五十嵐はぺろりと舌を出して親指を口元に添え、どや顔を決めてこう続けた。
「ああ、あれは……早弁で消える」
「一日何カロリー摂取してんだお前は」
「今更数える気にもならないな」
こいつと同じ家計簿をつけるのは絶対に遠慮したい。多分ハゲる。食費だけでいくらかかるんだろうな。
そんなことを考えていると、がらりと教室の扉が開く音がした。時間は八時二十五分。朝礼きっかり五分前。この時間に規則的に表れるのが彼女、黛玲子の特徴だった。一年、二年と同じクラスだけれど、記憶にある限りではこの時間を逃したことはない。
黛は誰にも目をくれることなく真っ直ぐに自分の席へと向かう。クラスの男子がほとんど彼女に目を奪われている。このまま視線を「どうでもいい」と言わんばかりに受け流して、席について気だるそうに窓の外を眺める。それが彼女のルーティンだった。
でも今日はそれが乱れた。波形にノイズが入ったみたいに一部分だけ行動が変わった。ちらりと、
「ケイ、じろじろ見すぎ」
軽く頭にチョップが入った。五十嵐がにやにやと僕を見下ろしている。こいつには僕が黛のことが気になっているのは知られていた。彼と過ごしたのは高校に入ってからのたかだか一年強だが、それだけ僕は隠し事をできないタイプだった。
「相変わらず好きだよな。お前」
「……悪いかよ」
「別に。ただ、怪しまれても知らねーぞってだけ」
「それは、まあ……確かにそうだな」
妙に納得してしまう。彼女の視線は自分に対する警戒の表れだとしたら頷けるものがあった。そうでなければ彼女の行動に説明がつかな──いや、俺の視線を感じ取って警戒って、エスパーかよ。余計説明できない。
ため息を一つして、自分の脳内での審議に決着をつけた。それから入ってきた担任の話を聞き流していると限界を迎えた。意識がゆっくりと落ちていく。
▼
「おい、起きろ。入江! おーきーろ!」
机が揺さぶられる。意識がはっきりとする。その声は普段もっと遠くから聞こえてくるからだ。数学の先生が近くで直々に僕を起こしに来ていた。
バッと体を起こして先生と向き合う。小太りの中年体系の彼は意地の悪い笑みを浮かべていた。こういう時はたいていろくでもないことを考えている。それは他の生徒が彼の餌食になっているのを見て把握していた。よりにもよって数学で寝たらダメだろうに……。
「ようやく起きたな。昨日はさぞ熱心に夜中まで予習をしていたと見える」
してない。ギリギリまでバイトをしていた。というかそれを知っていて言っているのだろう。まあ教師になるような人間からすれば学生の本分である勉強を放ってバイトをする、なんて行動が許せないのだろう。いや、単純に僕のことが気に食わないだけかもしれない。
「でも、それで授業中寝てしまっては駄目だろう。ちゃんと成果を発揮してもらわなければな」
「はぁ……」
「黒板に書いてある問いの二番をお前に解いてもらおう。いいな! ……ったく今日は居眠りが多くて困る」
そう言って黒板の近くへ戻るとパイプ椅子に腰を掛けた。軋む音が派手で、怒っていることをそこまでわざとらしく表現したいのかと腹が立つ。まあ、寝ていた俺が悪い。全面的に。
仕方がなく席を立ち、ひそひそと話を続ける同級生の間を縫って黒板の前に向かう。問一の場所には既に生徒がいて、それが黛であることは一瞬で分かった。ほんの少し足を止める。
別に気まずいとかそういったことはない。けれど、彼女と意図的に近づくというのは初めての試みだった。多分初めてアイドルの握手会に行く感覚に近い緊張感が僕の中にはあった。
「どうした? 入江、早くやらんか」
「は、はい」
先生に促されて、前に出た。自分のした失態と、黛の近くにいるという緊張感がごちゃ混ぜになって訳が分からなくなる。とりあえず、問題。問題を解かないと。
僕は白のチョークを手に取ろうとして、自分の近くにはないことに気が付いた。全てが黛の近くにある。彼女は今背伸びをしながら書いているから、黒板と体の隙間はあまりない。
手を伸ばせば接触することは間違いない。無言で取るのは気が引けた。でも、声をかけるの? あの黛玲子に? 俺が?
悩んでいると彼女が背伸びをしながら俺の方を見た。近くで見るとまつ毛が長かった。
「何?」
他の人すべてを突き放すような冷たい声色だった。キッと睨む目つきに気圧される。まあ、そうか。問題も解かないで自分のことをじっと見られていたら誰だっていい気はしない。
だからその理由をきっちりと話すことにした。失敗しないように一呼吸を置いて、彼女を見る。
「ごめん、いや、あの、その……えーと、チョーク、チョークが取りたくてさ」
いや、そこまでどもることないだろ。バイト先でもここまで緊張して言葉が出てこないなんてことはないのに。これじゃ日本語ネイティブかどうか疑われる。
けれど、黛はそんなことを気にしていないようだった。
「チョーク……ああ、なるほどね」
彼女がちらりと視線を落として三本まとまっているチョークを見た。そのうちの一つを引き抜いて僕に手渡した。
「ん」
「どうも」
軽くお辞儀をして受け取った。問題に目を向ける前に先生の貧乏揺すりが目に入った。そんなにプレッシャーをかけないでくれよ。頼むから。そんなに俺が賢いわけじゃないって先生だってわかっているでしょ? 時間をくれ、時間を。
えーと。これはどうやって解くんだ? 予習なんてしてないし、授業も聞いてなかったんだから分かるわけもない。「わかりません」とも言いにくいしな……。
どうしたものかと、左手で頭をかいた。仕方がない。わからないものはわからないんだから怒られてでも素直に──
「入江君」
ぼそっと黛がつぶやく。目線は黒板のまま、考えるふりをして僕にだけ聞こえるようにしてくれている。聞き逃さないようにチョークを手に持ったまま意識を向けた。
「私のが例題の復習。解き方の参考にして。それと、六乗は三乗の二乗だから。それじゃ」
一行の問題に一行の回答。その言葉を残して彼女は立ち去っていく。いや、情報量少な。そりゃあ六乗は三条の二乗だろうけどさ。で、肝心の問題は……
(1)x3-8
=(x-2)(x2+2x+4)
これも情報量が少ないけど、とりあえず因数分解をしているのは分かった。黛の口ぶりからして俺の問題も因数分解。で、僕の問題は?
(2)a6-b6
……いや、6ってなんだよ。2までならわかるよ。中学レベルだしさ。6? 6って6でしょ? 本当に因数分解できんのかこれ? 貧乏揺すりの音が激しくなってきたしさ……本格的にまずいぞ、これは。
どうする? 諦めるか? いや、待て。さっき黛はなんって言ったっけ? 「六乗は三乗の二乗」だろ? あのときは理解できなかったけれど、黛が無意味なことをいうわけがない。きっとこれもヒントなんだ。とりあえず変換してみるか。
(2)a6-b6
=(a3)2-(b3)2
……ああ、分かった。これ、中学レベルだったのか。やっと黛が言っていたアドバイスを理解できた。確かに一言で言うなら「六乗は三乗の二乗」だな。答えは、
=(a3+b3)(a3- b3)だ。
チョークで解答を書き終えて席に戻る。わずかに舌打ちが聞こえて、そのあとに解説が始った。首の皮一枚で乗り切ったことにホッとして、黛の方を見る。彼女も僕を見ていた。目が合ったのはこれが三度目、微笑んでいるのを見たのは初めてだった。
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02
購買で丸ごとソーセージ、それから自動販売機でコーヒーを二つ買った。一つは微糖でもう一つはブラック。僕はコーヒーをブラックで飲むことはほとんどないけれど、黛は食後に好んで口にしていた。僕はこの昼休みに彼女に話しかけるつもりだった。
さっきまで緊張に緊張を上塗りしたみたいな態度だったのにいったいどんな風の吹き回しだと、五十嵐は笑うかもしれない。けれど、これはちょっとしたけじめみたいなものだ。本当に自分が困ったときに助けてもらったのだから、何かしら対価があってしかるべきだと僕は思う。テレビの中の正義のヒーローだとかはそんなものを求めないだろうけれど、彼女は一般の、どこにでもはいないが女子高生だ。ちょっとしたご褒美ぐらいあってもいいと思う。
……なんて、それっぽい理由を並べてみたけれど、本音を言ってしまえば僕は修正をしたい。彼女にとっての自分の印象を最悪なままにしておきたくなかった。ほとんど話したことのない僕たちだけれど、このままかかわることなく消えてしまう関係性かもしれないけれど、それでもほんの少しでもいい思い出にしておきたかった。誰だって最後の思い出が自分の失態だなんて嫌だろう? 少なくとも僕はそうだ。
さっきはテンパっていただけ。本気を出せば俺だってもう少しまともに話せるんだから。そう自分を奮い立たせて階段を上り、まばらな人影の隙間を縫って自分の教室へと足を踏み入れた。窓際では今日も彼女が小さな弁当箱を広げている。
今朝の彼女の足取りをトレースしながら、最初の一言を考える。なるべくスマートにコーヒーを渡せて、なるべくかっこよく、そのままスムーズにお礼が言えそうな言葉……となれば言うべきことは一つだ。缶コーヒーをテーブルに置いて、彼女を見る。
黛はなめらかな黒髪を揺らしながら不思議そうに僕の方を見た。近くで見ると肌がきめ細やかで綺麗だった。正装が必要な場所にジャージで入ってしまったような緊張感が僕を支配して、つい早々と口を動かしてしまう。
「お嬢さん、食後のコーヒーはいかがですか?」
いや、まだ飯食ってんだよ! この馬鹿!!
かつてないスピードで脳内からバッシングがフィードバックした。正直、さっきの黒板にいた時よりも冷や汗がすごい。今すぐ背中を見たい。たぶん汗でぐっしょりでインナーが透けて見えるだろう。
彼女のきょとんと、呆気にとられたような表情。それが僕のメンタルにダメージを与える。心をサンドペーパーで削られているみたいな気分になった。
「おっ、なんだ? ケイの奴とうとう自爆特攻したか」
五十嵐、聞こえてるぞ。お前後で覚えてろよ。いや……分かってる。悪いのは俺だ。全部俺が悪い。五十嵐の言いたいことも分からなくはない。許せないけれど。
ああ、性に合わないことをするものではないな、ホント。人生はチャレンジだって言ってる奴のこと一生信用できなくなったわ。
周囲がざわめき出す。黛が昼休みに今まで誰かに誘われたことは一度もなかった。人気が合ないからではない。誰もが遠慮するというか、高嶺の花すぎて近寄りがたいのだ。故に周囲の驚きは当然のだった。……まあそれ以上に俺のアプローチが斜め上過ぎて飽きられているというのもある。というかそれで間違いない。
もういい。ここまで来るともう印象の修正は不可能だ。俺と黛だけの貸し借りの清算だけでいい。缶コーヒーを手放すと机と缶がこすれる音がした。
「……さっきのは、その、忘れてくれ。それと、一限の数学は助かった。ありがとう」
もうまともに黛の顔を見ることができない。あの無垢な表情が自分への嫌悪を現すものに変わっているのを見たくなかった。
一方的に言うだけ言って、自分の席へ向かった。伏せていた視線を上げると自分の席の隣で五十嵐がニヤニヤとしているのが見えた。ああ、これはしばらくネタにされること間違いなしって感じの雰囲気だった。憂鬱な気分のまま、タイル一枚分進む。これが自分の出した勇気にふさわしい結末なのだと噛み締めた。ほんのちょっと泣きそうになる。
そしてブレザーの裾が引っかかったようにその場にとどまって、五十嵐をはじめとしたクラスメイトの表情が変わった。
「待って」
誰の物かわからない「馬鹿な、ありえない……」というつぶやきを僕は鮮明に記憶した。自分の気持ちをそのまま引き出したみたいなセリフだったからだ。
裾を掴む手は普段は机上を超えて動くことはない。昼休みにあの声を聴くことはない。そのすべてが自分に向くことは絶対にない。自分が世界に勝手に置いていた仮定。それがすべてぶち壊された。
その振り返ると黛は僕の顔をなめるように眺めて、それから頷いた。何に納得したんだよ。
「入江君、お昼一緒にどうかな? これからでしょ?」
彼女が一瞬何を言っているのか分からなかった。字幕が全部カタカナで再生されたみたいだった。数秒の間を置いてようやく彼女の言葉を理解する。
そして、混乱して気を配れなかった周囲の目線も感じ取れるようになった。男女入り乱れて鋭く突きさすような目線が突き刺さる。
「せっかくだし、食後のコーヒーに付き合ってもらえるかな」
そんな周囲を気にも留めないで彼女は僕に返事を急かした。冷えた缶を手首のスナップでフリフリとして今か今かと待っている。
「そりゃあ、もちろん。願ってもないけれど……いいの?」
「いいって、何が?」
「いつも一人で食べてるからさ」
多分これは誰もが聞きたかっただろう。さっきまで針のむしろだった周囲の空気が弛緩する。
「今日は機嫌がいいからね。たまにはこういうのだって悪くはないよ」
逆に機嫌が悪い日は一緒に食事をしないわけか。ということは普段は年中機嫌悪いのだろうか。ちょっと心配になる。
「じゃあ、決まりだね。そこ座りなよ」
空いていた椅子に腰を掛け、ビニール袋から丸ごとソーセージを取り出して封を切った。中身を一口かじって、微糖の缶コーヒーを口にした。それ以外に何をしていいのか分からない。そんな僕を見かねてなのか彼女が先に口を開いた。
「入江君はコーヒーが好きなの?」
「まあ、それなりに。微糖しか飲めないけど」
「そうなんだ。意外だね。何となく、見栄張ってブラックとか飲んでそうな気がしたんだけど」
口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになるのをぐっとこらえて、そっぽを向いて咳き込んだ。確かにそんなことをしていた時期はあった。小学生ぐらいのことだが、あの時の自分は何よりも大人に憧れていて、早く大人になりたくて、ガキのくせにブラックを買ってそのたびに中途半端に残したものだ。思い出したくなかった記憶だった。
「おっと、大丈夫かい」
「大丈夫、少しびっくりしただけ」
「そっか」
一足先に弁当を食べていた彼女は昼食を終えて、弁当箱を重ねて片付ける。それから僕が置いた缶コーヒーのプルタブを起こした。
「逆に聞くけど、黛は見栄を張っていつもブラックなのか?」
「そういう風に見える?」
「いや、そうは見えないけど」
「けど?」
「聞いてくる奴の大抵は見栄張って飲んでるくせに他人の見栄を暴きたい……みたいな。そんな気がする」
この会話のタイムラグ。虎の尾を踏んでしまった感じ。自分のミスを感じた瞬間だった。せっかく窮地から脱したのに、僕って奴は……。恐る恐る黛の顔を覗く。でも彼女の表情は自分の想定とずれていた。
「……あたり。ちょっとビックリしちゃった」
驚きと関心が入り混じったような感じ。帰ってきた言葉の温度に安心感を覚える。どうやら虎の尾は踏んでいなかったらしい。
「最初は、見栄だったし。今は……味と見栄が半々かな」
「意外と子供っぽいところもあるんだな。黛も」
「何それ。私たち未成年だし。別に子供っぽくていいんじゃないかな」
「それもそうか」
でも、そういう考え方はなんとなく大人っぽいなと僕は思った。子供だから子供らしく、大人だから大人らしく。僕にはない思想だ。どうしても背伸びがしたくなってしまう僕からすれば考えられなかった。
「やっぱり黛は、しっかりしてるな」
「そうかい? そんなことはないと思うけれど、どうしてそう思うのかな」
「どんなことにもちゃんと、答えを自分なりに創ってる気がする。それこそ数学みたいに」
さっき助けてもらった時の事を思い出しながら彼女のことを表現する。彼女は自分と明らかに違う。常に芯が入っているように、行動指針がぶれない気がする。そんな真っすぐさに僕は心打たれていた。……今日はなんだかブレまくりなきがするけれど。
黛が缶コーヒーを一口含んで目を閉じる。十秒と少し間を取った。会話の間に挟むにしてはずいぶんと長い間だった。再び彼女と目が合う。
「……理由がないことは嫌いだからだよ。曖昧なものは好きじゃない。だから自分の中はなるべく具体的にしておきたいってだけ」
彼女の言葉をかみ砕く間もないままチャイムが鳴った。「そろそろ準備しなきゃ」と呟く。気まぐれで起きた最初で最後のチャンス。それがもうすぐ終わりを告げる。その前に、聞いておきたいことが一つあった。
「黛」と彼女の名前を呼ぶ、彼女は「なに?」と振り返る。
「じゃあ、さっきは、どうして助けてくれたんだよ」
「さあ、どうしてでしょう」
おとぼけたように彼女は言う。意外と悪ふざけもできるたちらしい。彼女のこれまでの振舞いからすればありえないことだが、今日だけで彼女の印象がどんどん変わっていく。
「……勿体ぶるんだな」
「そのうち分かることだから別に焦ることないよ」
「そのうちって具体的には?」
「内緒」
シーって自分の唇に人差し指を当てて、黛は自分のロッカーへ向かった。その背中を追いかけることは時間的にできそうにない。周囲の目線に耐え、自分の支度をして迎えた残りの五限と六限。その間ずっと、彼女に伏せられてしまった理由を考えていた。
かみんぐすーん
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03
「おい、入江どういうことだよ」
クラスメイトの一人が声をかけてきた。夏休みが開けたというのに彼の名前を未だに憶えられていないことが申し訳なかった。
「どういうことって、何がだよ」
「昼のあれ! 黛に話しかけてたじゃないか」
それは僕が理由が聞きたい。あれだけ会話にbadが付きそうなミスをかましておいておきながら、結果として彼女と楽しく会話をできてしまった。それが不可解でならない。
彼を皮切りに、他のクラスメイト達が男女入り乱れて近寄ってくる。したことがない体験にうろたえて、ヘルプを五十嵐に求めようとしたけれど彼は部活に一直線。もう教室には居ないことを失念していた。
「何か弱みを握ったのか?」
「握ってない!」
「私にも紹介して」
「紹介できるほど仲良くない!」
「じゃあいったいいくら貢んだんだよ」
そうだそうだと詰め寄るクラスメイト達を目線で制した。俺をなんだと思ってやがる。バイトをしているからと言ってお金持ちってわけではない。何なら俺よりもお前達の方が黛に貢げる環境下にいる。それに、俺の稼いだ金はそんなつまらないことに使われていると想像されたことに腹が立った。
周囲の反応が芳しくないことを察する。ああ、やっちまった。接客業に従事する人間としては失格の反応だった。落ち着けば冗談の類だと分かるだろう。店長が見ていたら間違いなくどやされる。一呼吸して気持ちを落ち着かせた。
……俺の時間だって無限じゃない。当然のことながら限りがある。出勤時間までのカウントダウンはもう始まっている。だから適当なことを言ってこの場から逃げることにした。修正するのも面倒だし。どのみち彼彼女らの望む答えは持ち合わせてない。
「悪い。今のは無し」
「強いて言うなら?」
「強いて言うなら、貢ぎ先は学校近くの山の上の寺。賽銭箱に五円。ゲン担ぎも案外馬鹿にできないな」
「それじゃ」と歩き始める。
何か言いたそうな声を漏らすクラスメイト達だったけれど、僕が一クラス分程度に離れるともう追ってくる気配はなくなっていた。
階段を下って、下駄箱のスニーカーを手に取る。つま先で床を二度叩いて、校舎から出た。ブレザーのポケットに入れていたスマホが振動する。
出勤直前の連絡は確認しないと面倒なことが多い。客の入り方によっては急がなければいけないことだってある。念のため足を止めて電源ボタンを押した。
『駐輪場で待つ』 黛
黛、僕の記憶にある限りでは一人しかもっていない苗字だった。でも僕は彼女に連絡先を教えていない。クラスのグループにも彼女は誘われていなかった。
名前だけ変えたクラスメイトのいたずらか、はたまた、今日の昼の光景を見た何者かによる逆恨みからの報復か。どちらかはわからないけれど、用心するに越したことはない。ただでさえうちの学校では自転車に張るステッカーに本名を書くことを義務付けられている。特定は容易なのだ。今のご時世ではこの校則に疑問を抱くけれど、修正には至っていない。
屋根の下の駐輪場。自分の自転車を陰から眺める。そこには荷台に腰を掛けて、退屈そうに両足をぶらぶらとさせている黛の姿があった。まさかの本人であるとは流石に予想していない。今日はエンカウント率が明らかにアップしている。それこそ世界に修正が入ったみたいだった。
彼女がこちらに気が付いた。
「遅い」
淡白に彼女は心情を吐露した。彼女にしては分かりやすく、少し眉間にしわが寄っていた。それを収めるために落ちいて接する。
「ちょっと捕まってたんだ。それに約束なんてしてなかったし、連絡に気が付いたのはついさっきだ」「じゃあ隠れてたのは?」
「……果し状が送られてきたのかと思ったから」
不思議そうな顔をして、ポケットからスマホを取り出してちらりと見た。
「……流石に手短に打ちすぎたね。これは私が悪かった」
彼女が荷台から降りて、僕のママチャリが晴れて自由になる。このままバイトに直行したいところだけれど、僕は彼女に呼びつけられている。このままサヨナラというわけにもいかないだろう。
「それで、何の用事?」
「答え合わせをしようと思って」
「答え合わせ? 何の?」
「私が内緒にした話」
彼女が内緒にしたこと。僕が五と六限を費やした問いかけ。理由のないことが嫌いな彼女が理由もなく自分を授業中に助けた理由。僕はまだその解を導くことができていなかった。正直気になっている。僕以外のクラスメイトも聞きたがっているに違いない。
「ちなみに、正解すると私が貰えます」
「冗談でも他の奴にそんな言い方をするなよ。後悔するぞ」
「入江君に言ったから後悔はさせないってこと?」
「そういう言葉遊びは今してない」
黛は頭の中が愉快なんだな。話してみるまで分からなかったが外面とのギャップがものすごい。そんなところを知っているのはたぶん自分だけだと思うと得をした気分にはなる。……頭は痛くなるけど。
バイトにまで歩いていける程度には余裕がある。ちょっとぐらいは付き合ってもいい。
「まあ、良いよ。答え合わせしようか」
「それじゃあ本題にさっさと行こう。問い:私はなんで入江君に話しかけたでしょうか」
「さっぱりわからない」
「答え合わせをしようとか言っておいて、諦めが早すぎないかな?」
「別に早くない。そうだな……黛は条件の出ていない証明問題を解ける? 僕から見れば黛の考え方は難しいよ。ほとんど話したことだってないんだから」
彼女について僕が知っていることは外面と内面の差があまりにも激しいことぐらい。それだって決定打にならない。何ならむしろ混乱してしまっている。
「そう……じゃあ、条件を追加していこうか」
「……条件ね」
なんだか話が長くなりそうだ。
「歩きながらでいいか? この後用事があるんだ」
「それは構わないよ」
彼女は頷いてそれから隣で人差し指を立てた。
「条件
「なきゃ問題にならないだろ」
一発目から突っ込みどころが満載だ。まともに解かせる気はあるのだろうか。こっちはそれなりに気になっている。おちょくられただけとかだったらしばらく立ち直れそうにない。
「次は?」
「そうだね……条件二、動機は昨日生まれている」
心当たりがない。昨日はバイトで誰にも会っていない。
「まだ駄目だ。次」
「それでは条件三、私は連絡先を……おっと、これは答えになっちゃうね。やっぱりなしで」
彼女は濁したけれどその先は予測できる。連絡先を入手した方法だろう。気になっていたことだ。彼女はいったいどうやって僕の連絡先を知ったのだろうか。しかもそれは、今回の彼女が僕に係ることに決めたことに直結しているらしい。
校門を跨ぐ。ついでに黛に尋ねる。
「黛、家はどっちだ?」
「家にはまだ帰らないから大丈夫。しばらくはついていくよ」
「そうか。じゃあ次の条件」
「はいはい。続いて条件四──」
彼女の告げる条件が数を増していく。そのどれも気になるところをギリギリよけるもので彼女の言う理由にいまいち結びつかない。
その間に学校前の坂を下って、橋を渡って、砂利道を歩いて、条件が九つを数えたあたりで目的地の喫茶店『三島コーヒー』が見えてきた。入り組んだ住宅地に潜むこの店は、近くの人間からはそこそこの需要がある。結局、彼女の問いの答えがわからないまま、店の目の前についてしまった。
「ごめん、俺はここで。バイトだからさ。続きはまた……」
「うん時間切れだね。じゃあ、最後にもう一つだけ」
彼女が俺の勤務先の喫茶店を指す。
「条件十、私たちは同じ場所に向かっている」
彼女の言葉は自分が昨日見た人影が幻でないことを意味していた。昨日の面接は幻じゃなかった。彼女が朝、ちらりと僕を見たのは気のせいではなかった。自分の想定にすべてチェックマークが付けられていくようだった。
「ということで、今日から同じバイトとして働くことになりました~」
「嘘だろ……」
「嘘じゃないって。ほら、バイト先のグループにも入ってるし……って聞いてる?」
カメラ越しに話しかけるみたいに彼女が手を振った。まるで現実が画面の向こうに行ってしまったみたいだった。この戸惑いに折り合いをつけることができるのはたぶん相当先になる。そう確信した。
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04
混乱したままの脳内ではあったが、更衣室に入ると自然と体が覚えている動きをしていた。制服からロッカーに入れておいた制服に着替えて、それから入れっぱなしのワックスで自分の前髪をどかした。朝は整える時間がないからそのままだけれど、バイトの時は多少手間だがこうすることにしている。目が隠れたままというのは接客をするうえであまりよくは思われないし、コンプレックスの一つである鋭い目つきだってここではメリットだ。なんて言ったって変な客に絡まれなくて済むからな。
小さな鏡で出来栄えを確認してから、ロッカーのカギを閉めてそれからダグアウトに顔を出した。店長が事前に言ってあったのか、何人か人が集まっている。その中心にはもちろん黛がいて、バイト用なのか髪を後ろで縛ってポニーテイルにしていた。「お疲れ様でーす」と適当に挨拶をすると形式通りの『お疲れ様です』が返ってくる。
「うん、じゃあこれで今日はこれで全員だね」
店長こと三島さんが頷く。誰よりもここの制服が馴染んだおじさまといった風情の男性だ。
ここにいるのは黛を入れて四人。どうやら僕が最後だったらしい。この店はそれほど広いわけじゃない。平日にこれだけの人数がいれば十分に回ってしまう。むしろ黛が新しく入ったからそれだけ余裕を持っているのだろう。
「今日から新しく入ってもらう黛さん。軽く挨拶をよろしく」
「はい。黛玲子です。入江君と同じ高校で、クラスメイトです。精一杯やりますが、初めてのバイトで、わからないことだらけなので、いろいろと教えてください」
よろしくお願いしますと頭を下げる黛。僕ともう一人のアルバイト、山川はぱちぱちと軽い拍手をした。彼女は我先にと手を挙げる。
「じゃあ入江は放って置いてもいいね。私、山川! 下の名前は美しい海と書いて
バッと明るく自己紹介。眼鏡とお下げが特徴の山川は僕らと同じ高校二年生。通う高校こそ違えど年が同じだから比較的やりやすい部分があった。
「よろしく、山川さん」
「おっと、つれないか。芯の強い女を連れてきたな、リーダー」
山川が肩に手を置いてくる。僕は「いいや」と首を振った。
「連れてきてないよ。僕だってさっき聞いたんだ」
「へえ、それは運がいいのやら悪いのやら……」
含みのある言い方をする山川に「どうして?」と黛が問う。
「だってこんな見つけにくい場所で働くのって、見つかりたくないか、サボりたいかのどっちかでしょ?」
「……山川君? 後でちょっと話があるんだけど」
「おっと、いっけね。店長、冗談です。三島カフェジョークだから、これ」
「……ならいいけどね」
店長がふとため息をつく。山川はそれなりに要領がいいけど、そういうところがある。店長も手を焼いているのだろう。
「話を戻すけど、知り合いがいる方が楽って人もいるし、逆もまたあるじゃない? レイちゃんはどっちよ」
人差し指で黛を指さした。客の前でもやりそうだなとちょっとひやひやする。てかレイちゃん? いきなりあだ名かよ。クラスでの黛を見ていないからできる芸当だ。黛との距離の詰め方グランプリ初代王者んに輝ける速度だった。
普段の黛は奥手。こういうタイプは苦手かと思った。心配ではあったが、特に気にした様子はない。普段通りの彼女は顎に指を添えて少し考えて、それから発言をする。
「んーどっちもどっちかな。でも、入江君が前髪を上げてるのを見れたのは良かったかも」
「ん? どういうこと?」
山川が僕を見る。自分のだらしない部分だから、あまり積極的に言いたくはない。けれど別に隠すことでもないから答えることにした。
「学校だと前髪下ろしてるんだよ。昔から朝はダメでな。準備できないんだよ」
「へぇー、意外。夜だとしっかりしてるのに」
「だからこっちに来てビックリしたの。学校でもそうしておけばいいのに」
「早起きができたら考えておくよ」
適当に返事をした。多分、考えることは一度もない。間違いなく早起きできないからな。
話が一区切りしたところで店長が二回手を叩いた。そろそろ仕事を始める意思表示だろう。
「じゃあ仕事をしようか、山川君はホール。入江君は黛さんに簡単に仕事を教えてあげて」
「教えるのは店長じゃなくていいんですか?」
「入江君なら大丈夫だ。山川君が教えるならともかくね」
「そのいい方は山川が傷つきますよ~」
「山川がそうやって自分で言ってるうちは大丈夫だな」
「ぶー」
山川はふてくされながらズカズカとホールへ向かっていった。店長も厨房へ引き上げていく。それから僕は簡単なことから黛に教えた。注文の取り方、お客さんとの接し方。店長へのオーダー伝達、その他もろもろ。彼女はやっぱり呑み込みが早くて、二週間もすれば僕と同じぐらい仕事ができるようになるように見えた。
客が掃けて、バイトも終わりに近づいた頃。僕たちは皿洗いを終えて、食器を拭いていた。厨房には二人だけ。店長と山川がホールへ出ていて、やけに静かに感じた。
沈黙に押しつぶされそうで、少し苦しい。僕は耐えきれなくて、打開策をとして気になっていたことを一つ彼女に聞いてみることにした。
「あのさ、黛はどうしてバイトをしようと思ったんだ」
「どういうこと?」
「志望動機だよ。店長になんて言ったのかなってさ」
黛がバイトをする理由。昨日、面接をしていた彼女を幻と断定していたのはそれが思いつかなかったからだ。仕事をしている間、自分の中にずっとあった引っかかりを解消しておきたかった。
黛は少し言いにくそうにそっぽを向いた。てっきり話してくれないと思った。皿を拭くこと二枚分のインターバルを挟んで、彼女は一度深呼吸をした。
「……私、苦手なんだよね。人と話すの」
「そんなようには見えなかったけどな」
「気を使わなくてもいいよ。学校だといつもそうでしょ?」
確かに、普段の黛は無口だ。今日だけで去年聞いたセリフの文量をはるかに超えている。そう思うと彼女は今無理をしているのかもしれない。
「いけないとは思ってたんだけどね。なかなか、治せなくて」
「それで、バイト?」
「まあ……そんなところ」
うしろめたさがあったのかゆっくりとした声だった。
「すごいな。黛は。俺だったらずっと隠し通すよ。治したいだなんて思えないと思う」
普段下ろしている前髪と隠している目つきのことを思いながら、僕は言う。
「頑張れよ」
「そうだね、まずはお客さんとちゃんと話せるようになりたいな。ちょっと失敗しちゃったし」
確かに注文確認で噛みまくってたのを見たな。でも僕の方がもっとひどかった気がする。かっこ悪すぎて言えないけれど。
「その点入江君はすごいよね。注文もばっちりだし。なんだろうね。物怖じしないというか、胆力があるというか……。ほら、今日の昼なんかも──」
「頼むからそれだけは忘れてくれ」
そのまま二度と思い出さないで欲しい。黛は首を傾げた。
「なんで? 参考にできると思うけれど」
「あれは参考にしたら絶対にダメだ。悪い例の筆頭だよ。ちゃんとしたもの見たほうがいい。ほら、店長なんかはいい例だ」
あの落ち着いた佇まい。この店が変な立地でも持っているのはあの人が成す人徳のおかげといってもいい。黛に抱く憧れとは違う憧れが、あの人にはあった。
でも黛は首を横に振る。長い黒髪が揺れた。
「確かに店長さんは良い人だとは思うけれど、レベルが高すぎてちょっと」
「まあ、それもそうか」
「だから、私は入江君がいいの」
彼女が今朝、数学の授業中に見せたような笑みを浮かべる。今日はやけに目があう日だった。自分とは対照的なきれいで、大きくて引き込まれるようなそれに僕はすっかり魅了されてしまったと言ってもいい。
食器をしまい終えたタイミングで差し出された手。それに触れるかどうかすごく迷った。けれど比較的あっさりと下心に負けた。暖かくて柔らかい、仕事をあまりしていない手だった。
「だから、これから私にいろいろ教えてね。リーダー」
「勿論。頑張ろうな、研修生」
プロローグ、了
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00-XX
昔の夢を見た。初めて家出をした日のことだった。きっかけはあまり覚えていない。自分にとって何か耐え難いことが起きたのだとは思う。
九月三十日。夏休みも明けて
二階の自室から見た楽しそうな人たち。それが今の自分とは対照的で、自分もそうなりたいと思った。だから貯金箱の中身を財布に詰めて、ベランダに置いてあったサンダルを履いて、二階の窓からこっそりと外に飛び出す。
最初のうちは周りの雰囲気に
どこまでも続くように思えた横並びの屋台を進んで、私は綿菓子を探す。けれど、それがすぐに見つかることはなかった。私は次第にムキになって走り出す。ペタペタと音が鳴るサンダルが装備として頼りなかった。
結論を言ってしまえば、私はどれだけ奥に行っても綿菓子を買うことができなかった。それどころか、人がいた場所から外れ、ただ風が吹く音がする暗がりへ移動していた。
少し離れた場所にもあるかもと深堀し過ぎたことにその時になって気が付いた。さーっと体温が急激に下がっていく。
能動的に自分の家から出ることがなかった私にとって夜は不安の象徴だった。暗い場所は怖い。自分がどこにいるのかもわからない。そういった自分ではどうにもならない無力感が幼い私を支配していく。
サンダルが石ころに引っかかった。バランスを崩して、私は思いっきり転んだ。
こんなことなら家出なんてしなければ良かった。自分はさっきまでいた人達に近づきたかっただけだった。自分とは対極で常に楽しそうにしている人たちの真似をしたかった。そんな小さな望みさえ叶わなかったという事実に耐えられなかった。私は、久々に泣いた。
「おい。大丈夫か? 随分と派手に転んでいたみたいだったけれど」
やや高い、学校でも聞くような幼い声。その声につられて顔を上げるとヒーローのお面を少しずらして被った男の子が私のことを見ていた。立っている場所から見て自分とは反対側方向から来たみたいだった。
「……へーき」
「んな泣きそうな声で……いや、泣いてるな」
「泣いてない」
裾で雫をぬぐった。強がって彼を睨んだ。きっと彼は反論する。小学生は何かにつけて白黒つけたがる。ついでに言うなら、自分の思っていることがすべて正しいように押し付けがちだ。そういうところが苦手で私はクラスに馴染めていなかった。
「じゃあ我慢できたんだな。多分俺なら泣いてる」
だから彼の言葉が染み入るようだった。私が求めているものに近かったのだと思う。少年は自分よりも随分と大人に見えた。立ち上がると右膝がじりじりと燃えるように痛む。私は表情を崩して、彼はその意図を汲んだ。
「どっか擦りむいたか? 絆創膏あるからさ。見せてみろよ」
「……膝がちょっと」
「そうか、じゃあそそこにちょっと座れよ」
彼に促されたとおりに近くにあったベンチに腰を掛けた。青色のプラスチックが軋んだ。彼は背負っていたザックからプラスチックのケースを取り出して、私の傷を見るや否やいきなり消毒液を浴びせた。私は思わず声を漏らす。
「っ……痛いんだけど」
「ごめんごめん、もう終わるから」
そう言って彼は消毒液をコットンでふき取って大きめの絆創膏を私の膝に張り付ける。テレビで放送されている魔法少女の柄だった。
「うっし、おっけー。よく頑張ったじゃん」
「……別に」
「そっぽ向くなよ。いきなりやったのは確かに悪かったよ。機嫌治せって……あーそうだ。綿菓子食べるか?」
ほら、と彼がザックから取り出した。またしても魔法少女物のパッケージ。彼のチョイスは謎だったけれど、私はそれに釘付けになってしまう。
何せそれは自分が探しても探しても見つけることができなくて、途方に暮れて諦めようとしていたものだったから。
「おっ、反応いいな。じゃあ一緒に食べようぜ」
「……いいの?」
「俺がいいって言ってるからいいの」
彼は袋を開けて自分が先にちぎって綿菓子を口にした。それから私に袋を差し出す。私は彼に倣って袋の中の綿菓子をちぎって食べた。
夢にまで見たそれは、俗っぽいチープな塊だったけれど、今まで食べた何よりもおいしい気がした。
「これでお前も共犯だな」
「共犯?」
「これ、妹用のお土産だったからさ」
「……じゃあ食べちゃダメじゃない?」
「そ、だから絶対に誰にも言っちゃダメだ。約束だぞ」
「わかった」
私が頷くと、大きな破裂音がした。暗かった周囲が月明かり以外のもので照らされる。彼の笑顔が薄くピンクに光った。視線を空に向けると、光の束がばらまかれているのが見えた。
「ここからでも花火見れたんだな。知らなかった」
「私も」
自分がどこにいるのか分からない癖に彼に頷いた。さっきまでの気分が嘘みたいに消えてなくなって、じんわりと暖かなものへと変わった。私はその温もりを忘れられない。見知らぬ少年と見ながら食べた綿菓子の味を忘れられない。たぶんあの体験は私にとって本当に必要なものだった。あの時、彼に貰ったやさしさで、今の私ができている。
だから、夢に見るたびに思う。いつか、あの嫌いな両親に頼らなくてもよくなったら。自分を、自分自身で保てるようになったら。もう一度だけ彼に会いたい。そして綿菓子を半分に分けて、あの景色を眺めるのだ。
自己満足で、無謀であることは十分に理解している。けれどそれが十七歳の私が抱く、進路よりも大事な夢だった。
充電中
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05
黛がバイトに来るのは今日が二回目だった。彼女が自分のバイト先の制服を着ているのには未だに慣れることはない。名札の横には若葉マークが添えられていて、でかでかと『研修中』の文字が躍っている。休憩中の店員が控えるダグアウト。机の対面に座って、じっとこちらを見る黛はやはり学校とは少し雰囲気が異なる。それだけ彼女が精力的に仕事に取り組もうとしているということなのだろう。
そんな彼女に僕は職場の先輩として、一応は教育係として、苦手分野である接客について教えることになっていた。
「さて、黛。じゃあ早速だけれど、店員として一番大事なのはなんだと思う?」
「大事なこと……うーん。愛想の良さとか?」
それも大事なことだろう。あるに越したことはない。ただ、それが一番かと言われると少し違うと僕は思っている。
「悪くない答えだと思う。確かに愛想の良さは武器だよ。山川を見ていると良く分かる」
机の上でぐでーっと伸びていた山川はこの話を聞いた途端に背筋を伸ばす。それからキリッと表情を凛々しくして見せる。なんだか少し腹が立った。ちょっと鼻をへし折っておこう。
「見ての通り、軽薄なふるまい、適当な仕事ぶり、距離感の近さなら店内一だ」
「ちょっと、ちょっと! そんなこと言わないで! 真面目印の山川で売ってるんだから!」
「ついでに取り繕うのも上手いとついかしておいてくれ」
「わかった」
「わからないで~」
山川は再び上半身を机に預けると憎らし気に僕を見た。そんなににらんだってお前のサボり癖への抗議はやめる気はないぞ。僕はどれだけフォローに回ったか覚えてないからな。
「いきなり休憩時間に何を始めるのかと思いきや山川弄りですか~? おいおい、すねるぞ!」
「めん……いや、悪かった」
「今めんどいって言いかけたよね!?」
そういうところだぞ、山川。お前の面倒な所は。ただ、このまま放って置くのはもっと面倒なので適当な所でフォローを入れることにする。
「冗談はさておき、山川は愛想がいい。明るい接客は客としても悪い気はしないし、とげとげしい態度の相手を丸め込めたりする。仕事ぶりには見ていて安心感がある。この店における愛想の良さの見本だな」
山川が胸を張る。ちょろいなこいつ。横目で見て、黛は僕に問う。
「じゃあそんな風に愛想をよくするためにはどうしたらいいのかな?」
「いや、僕は別に黛に愛想良くなって欲しい訳じゃないぞ」
手を横に振って否定する。黛と山川は首を傾げると「何を言ってるんだろうね」と言いたげに目を合わせた。まあ確かにこれだと伝わらないか。言葉を付け加えることにした。
「愛想の良さって結構ハードルが高いんだ。できる奴はできるけど、できない奴はいつまでたってもできない。僕も別に愛想がいいかって言われると、そうでもない。むしろ悪い部類に入る」
「そうだね。リーダーは時折人を殺す目で客見てるもんね」
にやにやと笑いながら山川が仕返ししてくる。まあ、さっき弄ったからな。報復は仕方がない。ただ……そんな風に見られてるんだ、僕。そこまで言われるとちょっとへこむな。
すんなりと受け流すことは難しいが、何とか話を継続させる。
「……そんなこともあって愛想の良さ以前に求められるものが、この仕事にはある」
「愛想の良さ以前……それは?」
「挨拶、それから真摯な受け答えだな」
なんだか拍子抜けしたみたいに二人がこちらを見た。なんだよ、本当に大事なんだぞ、これは。先代のバイトリーダーも口酸っぱくして言ってたからな。
「意外とこれができない奴が多い。特に初めてだとな。愛想良く、とか。いろいろと考えすぎて、ハードル勝手に上げて緊張して、全部ダメになるのが一番良くない。初日の黛はそんな感じだったよな」
「……そう、ですね」
「なんで敬語?」
「思い返して反省してる」
しょぼんとする黛を見るとなんだか傷口に塩を塗っているみたいな気分になる。意外とそういうの気にするのか。たぶん会話に失敗したら脳内で反省会開くタイプだな。
「喫茶店での接客にそこまでは求められていない。さっき言ったことと、注文通りに商品を運んでくること。それさえできていればホールで働くスタッフとしては上々」
「そういうもの?」
「そういうもの。慣れたら徐々に愛想の良さとかにも気を配ると良い。逆に慣れるまでは配るな。多分どっちつかずになるから」
「わかったよ」
黛が頷く。ぐっと握った拳がかわいらしい。気合は十分なようだ。
「これで九割九分のお客様はこれで対応が効くからさ。じっくり物にしていこう。幸いここは人も少ない職場だ。たぶんクビにはならない。ここまでで何か質問は?」
はい、と静かに黛が手を挙げる。俺は「どうぞ」と手を出して許可を出した。
「ちなみに残りの一
「まあ、具体例を挙げれば、面倒なクレーマー、あるいは日本語が通用しないやばい奴だな。お客様は神様とも言うけれど、あいつらは祟り神だ。そういうのに関しては俺や、山川を呼べ」
「呼んでどうするの?」
「気に触れないようになだめるか、最悪、さっさと祓う」
「いやリーダー言い方……まあ、そういうところあるけどさ……」
ため息をつく僕と山川。お互い祟り神には良い思い出がない。思い返すだけで呪いの本が一冊書けるだろう。書きたくないけれど。
入店を知らせるチャイムが鳴った。誰が行くかと目配せをする。
「山川はまだきゅーけーちゅーでーす」
ひらひらと手を振る。まあこいつが一番休憩に入るのが遅かったのは確かだった。僕はハンディ端末をポケットに刺して、席を立つ。
「わかった。なら僕が行く。黛、見本を見せるから、しっかり見てて」
ダグアウトから出て店の入り口へ早足で移動する。人が少ない店内を歩き。その途中で見たボブカットとポニーテールの二人組を見た。見慣れ慣れていたシルエット。他人の空似と思いたかった。けれど、ギラリと死神の持つ鎌のように上がる口元で僕は確信する。中学二年と三年のじゃじゃ馬姉妹が家庭だけでなく職場にも押し寄せてきたのだと。
舐められたら終わる。いや、このくそ生意気な二人に対して小さなプライドが頭を下げることを許さなかった。気が付けば僕は反射的に口を動かしていた。
「いらっしゃいませ、お客様二名ですね。店外へどうぞ~」
「入江君!?」
あっ、いっけね。
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