異世界でパン屋をしたら英雄と呼ばれた件 (紅乃 晴@小説アカ)
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その男、パン職人につき

 

 

パン。

 

それは小麦粉やライ麦粉といった穀物粉に水、酵母、塩などを加え、練り上げた生地を発酵により膨張させた後に焼く事で完成する食品である。

 

果てしなく広い世界、その多くの地域で主食となっている人類の叡智が生み出した食べ物だ。

 

アジア圏、とくに日本人といえば主食は米というイメージがあるが主食として食べられる範囲は圧倒的に酵母で作られる膨化食品であるパンが多い。

 

米が主食である日本にはじめてパンが伝来したのは1543年のことだ。

 

航海中にたまたま種子島に漂着したポルトガル人によって、鉄砲とともにパンが伝わったことがはじまりとされている。

 

その後キリスト教の布教のために来日した西洋人により、広く日本でもパンが焼かれるようになっていった。

 

ちなみに世界的にはパンを「ブレッド」と呼ばれることが多い。

 

日本でパンと呼ばれるようになった理由は、布教のために訪れた西洋人の多くがポルトガル人であり、その語源もポルトガル語に由来してあるからだ。

 

その後は、江戸幕府の鎖国政策によって禁じられるようになったり、明治時代になって本格的にパンが全国に普及しはじめたり、学校給食にも登場するほどパンが普及したりと歴史を辿って今に至っている。

 

日本で「朝はご飯派」と「朝はパン派」が半々くらい居る理由がこう言った歴史があるからだ。

 

パンという食べ物はこの世で食を続ける以上、必ずと言っていいほど誰もが食べる食品なのだ。パンは偉大であり、パンに人は生かされ、パンによって人の人生は華やかになるのだ。

 

酵母菌ありがとう。我々はパンを作り上げた先人たちを敬い、崇めながら生きているのだ。

 

 

 

 

 

 

子供の頃に家の近所にあったパン屋で食べた食パンに感銘を受けた俺は、その人生のほとんどをパン作りに捧げてきたと言っても過言ではない。

 

小学生の段階で家でパンを作り、中学では酵母菌の研究をしつつパンを作り、酪農業を専攻できる農業高校へと入学。パン作りのための麦や穀類の勉強と、さらなる発酵菌の研究を行いつつ、パン屋でのアルバイトをして造詣を深めた。

 

そして大学に進み、パン作りの最先端技術を学び、培ってきた知識をもとに論文を発表。画期的な酵母菌の抽出や、発酵についての仕組みを唱え、パン作り業界に新たなる風を吹かせた。

 

そして現在、俺は修行のために都内のパン屋で職人として経験を積んでいる。

 

朝は早く、仕込みのために3時に起きることもあるし、夜は後片付けもあるので遅いが毎日がパンに携わることなので何の苦もない。

 

充実した日々だった。

 

朝日が登る頃には香ばしく焼けた出来立てのパンの匂いに包まれる。そして通勤時間には学生やサラリーマン、子供を送った帰りの主婦がパンを買って帰る。その姿を眺めてから昼の仕込み。そしてランチを狙ったサンドイッチや惣菜パンへ入れ替え、夜は日持ちが長いパンに入れ替えて夕飯の買い出しついでに来た主婦層が買ってゆく。

 

看板を下げて、店内の電気を消しても厨房の火は落とさない。新たなパンの開発や、まだ経験の浅い職人たちが残って試作パンを作ったりと、多くのパン職人が情熱を注いでいるのだ。

 

その日も、充足した日が終わった帰り道だった。後輩が自信作と言って作った菓子パン。それが入った袋をぶら下げながら職場から程近い場所に借りたアパートへと帰る。

 

距離にして5分ほど。

 

路地から大通りに出て、もう少しで家というところで…

 

俺は事故に遭った。

 

記憶はない。おそらく信号を無視したのか、前方を見てなかったのか、大型車に撥ねられて呆気なく死んだのだ。

 

悔いはある。やりたいこともまだまだあったし、試したいことも、追求したいこともあった。

 

けれど後悔はない。俺はパンに出会ってからずっと向き合い続けてきた。短い人生ではあったが、その全てをパン作りに捧ぐことができたと言っても良い。

 

それに、俺の作ったパンで笑顔になった人は確かに居たのだ。それだけで俺は満足だ。この短い人生にも確かな意味があったと確信できる。

 

ただ、ひとつ我儘を言えるのなら。

 

もう少し、パン作りと向き合う道を歩んでいきたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「知らなすぎる天井だ」

 

 

丸太が横たわる天井なんて見たことがない。

あれだ。海外ドラマとかで見る山奥にある小屋だ。木製のやつ。外輪を綺麗に処理された丸太が綺麗に天井に敷き詰められている。

 

なんだ。俺は死んだはずじゃないのか?確かに記憶はないが確信めいたものはある。あの衝撃と暗転。即死と言っても良いはずの事故だったのに。

 

ひょっとしてこれがあの世…。いやいや、こんなアメリカンツリーハウスがあの世の入り口のわけないだろ。

 

とりあえず状況整理だ。よっこらせと体を起き上がらせる。うむ、痛みがある。しかもかなり強く体を打ったようだ。節々が痛い。けど、不思議と体は動く。うむ、酷い筋肉痛のような鈍い痛みはあるけれど骨折などはしていないようだ。

 

 

「あ、起きた?」

 

 

体の調子を確認していると、ドアも付いていない入り口から見覚えのない女性が出てきた。手には桶と手拭い。桶の中には水が入っている。

 

 

「あ、貴女は…?」

 

「私はミューディー・カロスト。店の前で倒れてた貴方を助けた恩人よ?」

 

 

正直戸惑いしかない。えぇ、どういうこと?日本語…え、これは日本語なのか?とりあえず言葉が通じるのに、相手の名前が日本人離れしている上に、顔つきも全然日本人じゃないのだ。髪の色もめちゃ派手!けど似合ってるという不思議。

 

 

「ここは…どこですか?」

 

「アンゼの街よ。もしかして行き倒れ?」

 

「いや、アンゼの街とか…聞いたことが…ここは日本ですか?」

 

「日本?何言ってるのよ、ここはエヴロビ連邦内よ?え、もしかして貴方人攫いに遭ったとか?」

 

 

のぉおおお!!俺は彼女の言葉を聞き入ることができずに頭を抱えた。なんだ俺がおかしくなったのか?それとも夢を見てるのか?あれか?走馬灯か?こんなふざけた走馬灯なんて知らんぞ!!

 

なんだよエヴロビとかアンゼとか、ヨーロッパ圏の国の名前?知らん。少なくともそんな連邦名や町の名前なんて俺は聞いたことも見たこともない。

 

そもそも、俺はなんでこんなところにいる?やはり夢か?にしても感覚がリアルすぎる。匂いも感触も、いやにはっきりしているのだ。

 

俺は…確かに日本にいたはずなのに。ここはいったい何なんだ。そう思うと湧いてきたのは恐怖だった。得体や知れない状況に置かれてるのか、頭の中がパニック寸前だった。

 

 

「悩んでそうだけど、とりあえず元気ね?それに一日中寝てたんだから。ほら、私の店はベーカリーだから、これでも食べて落ち着きなさい」

 

 

そう言って彼女が差し出してきたのは小ぶりのパンだった。混乱する俺にとって、それがどんなパンなのかは判断できなかったが、慣れ親しんだ穀類の香りとパンの外見を見たら少し落ち着いたような気がした。

 

ミューディーという女性から差し出されたパンを手に取る。腹の虫が鳴った。どうやら空腹なのは確からしい。逞しい体だこと。

 

頭の混乱と別に欲望に正直な食欲に呆れながら、俺は受け取ったパンをひとかじり食べた。

 

その瞬間に、悩んでいた思考は吹き飛んだ。

 

 

「…な…な…なんだ…このパン…」

 

「ふふーん!美味しいでしょう?アンゼの街じゃ1番のベーカリーと言われてるんだから当ぜ」

 

「不味すぎる」

 

 

中身も皮も何もかもが最悪だ。こんなものパンとは呼ばない。酵母の発酵はあまいし、焼きも不十分。練りも足りないから生地はパサパサだし、皮は分厚い。まるで半生の不出来なフランスパンを齧ったようだ。ああ、パン作りに試行錯誤していた小学生の頃が思い出される。一般家庭用のオーブンでは火力が足りないという事実に打ちひしがれた小学生三年の夏……。

 

 

「な、なななな…なんですってぇ!?不味い!?私のベーカリーが!?もう一回言ってみなさいよ!!」

 

 

トリップしている俺に怒り爆発な彼女が掴みかかってくる。彼女はいわば恩人。夢の世界だろうが、泡沫の世界だろうが、生き倒れていた俺を看病した上に、パンまで出してくれたのだ。

 

故に俺には責任がある。どこか異常なまでに冷静な俺は、掴みかかる彼女の手を取ってその色鮮やかな青の眼を見つめた。

 

 

「な、なに…」

 

「すまないが厨房を貸してくれないか?それとパンの材料もだ。余り物でいい」

 

「は、は…?」

 

「パンを作るぞ!!!!!」

 

 

呆けた彼女の手を引いて俺はどこにあるかもわからない厨房を目指す。これが美味いパンだと!?ふざけるな!!俺が作ってやる!!美味いと呼ばれる、日本のパンを!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その男は、武勇に秀でるわけもなく、政治に秀でるわけでもなかった。

 

しかし、その男はたった一つの事で、散らばっていた周辺諸国をまとめ上げた。力で制するわけでも、知性で制するわけでもなく。人族にも魔族にも平等に。たったひとつのことで彼は偉業を成した。

 

後の世で、エヴロビ連邦の英雄と讃えられることになる。

 

だが、彼は最期の時までこう言った。

 

 

 

〝俺はただのパン職人〟と。

 

 

 

 

 

 

 



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異世界転生?そんなことよりパン作りだ!!

 

エヴロビ連邦。

 

連邦と呼ぶにはあまりにも脆弱な国家体質だったそれは、このアンゼのような街の経済面を回すためだけの存在として成り下がっていた。

 

今思えば、俺がアスレニア大国に迷い込まなくて良かったとは思う。あの国は自国民至上主義なので、ハタから見たら異国民でしかない俺はすぐに牢獄行きだっただろう。

 

おまけにこの世界には魔王や魔族もいるという。なんともファンタジーな世界に来てしまったものだ。これあれだ。いわゆる異世界転生ものじゃね?

 

そんな事実に気がついたのは、俺がアンゼの街にようやく慣れ始めた頃だった。

 

 

 

 

 

 

さて。今日もアンゼの街は穏やかな陽気に包まれている。ミューディーのベーカリーショップである住まいに転がり込んだ俺は、勝手知ったる何とやらと言った風に厨房の木製の窓を開いてゆく。

 

ガラス窓なんて高価なものはない。薄っぺらい木の板とつっかえ棒で開く古典的な窓だ。このアンゼという街の技術レベルは中世ヨーロッパ、もしくはそれに似たほどの物で、電子オーブンだとか、ミキサーなど、文明の叡智は存在しない。というか電気もガスも存在しない。

 

かまどは薪を使ってるし、灯りも油を使ったランプだ。しかしパンは作れる。それだけあれば充分だ。俺は諦めていたパン職人の道を再び歩み始めていた。

 

異世界という別の場所で。

 

 

 

 

まずは削り出した木製のボウルに強力粉・薄力粉・砂糖を入れる。塩とイーストは分けて入れるのがポイントだ。

 

このイーストと呼ばれるもの。パン酵母とも呼ばれる材料はパン作りの上で欠かせない代物だ。初めてミューディーに見せてもらったイーストだが、あれは酷いものだった。良い元種を作るには、しっかり強い酵母を起こす事が大切だというのに酵母が弱すぎたのだ。

 

まぁ冷蔵庫も電子レンジもない世界だ。粗悪品が出来るのも仕方がないことだが、パン作りの要であるイーストが絶望的なのは我慢ならない。

 

アンゼの街が北側にあったのが幸いだった。俺はミューディーに頼み込んで西側にあるイオニア山脈…めちゃくちゃ山が連なってる地域へと案内してもらった。そしたら運良く洞窟があり、その奥は夏場でもかなりヒヤリとしている温度なのだ。

 

俺はその洞窟の近くに板っぱりの小屋を作った。穀類の動向を見るために畑の近くに小屋を作って監視するなんてザラにあったので、こう言ったことも慣れてる。

 

そして準備が整ったので近くにある川から汲んだ水と持ち込んだ酵母液や強力粉、薄力粉などなどでイーストのタネを作り、洞窟内で保存。酵母が起きるまで試行錯誤を繰り返し、とりあえず納得できたイーストを作り上げることに成功した。

 

ボウルに入れたイーストめがけて新鮮な牛乳と水を投入。最初から手で混ぜると酷くくっつくので、木べらや削り出した箸を代用。

 

纏まったらボウルから取り出し、牛乳から作ったバターを練りこんでこねる。

 

更にひとまとめにしてから、ボウルに戻し乾かないよう布を被せて一次発酵。

 

目安時間45分。この一次発酵で生地の大きさは約2倍になる。初めて見た時のミューディーは自分の作ったパンと全然違うと驚いていたっけ。

 

膨らんだ生地から余分な空気を抜き、6等分にし休ませる。時間は15〜20分程度。休ませた生地を棒状に成型。

 

ここから二次発酵となる。目安は同じく45分だ。ミューディーのやり方ではこの時点でオーブンに入れていたらしい。どうりで発酵が足りないわけだ。

 

時間を置いたあとに、表面に薄く牛乳を塗り、予熱した170度のオーブンで、11分〜15分焼く。

 

タイマー?計量器?ねぇよ、そんなの。計量器は木から削り出した試作品を何個も作ってチャレンジしたし、タイマーは振り子時計をアンゼにいる技師のおっちゃんに作ってもらった。

 

しっかりと火を入れ、オーブンから取り出す。こんがりと焼かれたパンからは以前と変わらない香ばしい香りが立っている。うむ、いい出来具合だ。室内の温度管理なんて出来ないので、酵母の立ち具合も日によってまちまちだ。慣れては来たが、ダメな時もあるのが辛い。

 

今回作ったのはコッペパンだ。そのまま食べてよし、挟んでもよし、サンドしてもよしという優れもの。空いたオーブンに新しい種を突っ込んで、次に食パンの準備に取り掛かる。

 

 

「おはよぉ〜」

 

 

いつもそのタイミングで準備を終えたミューディーが厨房入りだ。出来上がったコッペパンを見て、彼女は倉庫から袋一杯のじゃがいもを持ってくる。

 

ふむ、今日はポテトサラダを挟む気でいるらしい。作り置きしていたマヨネーズを取り出して、ミューディーは手際よくコッペパンに挟む具材を調理していく。

 

このベーカリーで働くようになった当時は、ミューディーが調理場を仕切っていたのだが、今はパン作りに関しては俺が全て任せられている。

 

食パンの種にも薄く牛乳を塗り終えると同時に、コッペパン第二軍が焼き上がる。開店までもう少し。ペースを上げて俺はかまどに生地を入れていく。今日も忙しくなりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

アンゼの街というより、この世界のパンに関する技術はまだまだ拙い点が多い。ミューディーのベーカリーで売られてるパンが特別不味いわけではない。この味で街一番と言われているほど、技術水準が低いのだ。

 

そんな中で俺が現代のパン技術を用いたものを作ればどうなるか?当然、町の人々はミューディーの店に殺到し、他のパン屋は俺たちの稼ぎを羨む……ということにはならなかった。

 

イーストを完成させてから、俺はミューディーと話し合ってアンゼの街にあるパン屋全てを回ってパン作りの講義を行なったのだ。

 

まずは俺が試作で作ったパンを食べて貰い、納得して貰えば講義を、そうでなければ受けないという方向で。もちろん無償というわけではない。俺の教えたパン作り方法で作ったパンの売上の数%をもらうと言う約束付きだ。

 

タダで教えるほど安くはないし、タダほど怖いものはないというミューディー提案のもとだ。

 

なんでそんな技術の売り歩きをしたかというと、理由は街全体の利益のためだ。この世界のパン技術に対して、しっかりとしたイーストと製造法で作ったパンは圧倒的な力を見せる。それは街の象徴にもなるし、特産物にもなるだろう。

 

そんなものを俺やミューディーの店が独占なんてしてみろ。あっという間に人手が足りなくなるし、キャパオーバーでそれどころじゃなくなる。

 

そんなわけで緩やかにアンゼの街全体のパン技術の水準を上げることにしたのだ。それがなんとバカ売れ。町の人々は新たなパンを誇りにし、予想通りこの街はパン作りの聖地とまで言われるほどになった。今ではアスレニア大国の商人も買い付けに来るほどだ。

 

そんなこんなで異世界転生してどうなることかと思っていたが、パンを作れるという信念のもとここまで辿り着くことができた。やはり酵母菌は偉大なのだ。崇め奉れ。

 

忙しい日々を過ごし、アンゼの街での暮らしが二年目を迎えた頃。

 

 

 

なぜか俺は連邦政府の政庁に呼び出されていた。

 

え?俺はどうなるの?

 

 

 

 

 



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国家問題?うるせぇそれよりもパン作りだ!!

 

 

険しい山々が連なるイオニア山脈を超えた先には人とは違う種族が住んでいるとミューディーから聞いたことがある。

 

なんでもイオニア山脈という東西の分岐点は俺たちが住む大陸の中央に位置するらしく、そこから世界が分かれている。東と西、それこそ世界が違うというと言っても過言ではなく、西側の魔族と呼ばれる種族が住む地域は未だに人の調査が及んでいない新世界があるのだとか。

 

そんなこと言われてもイマイチぴんと来なかったし、アンゼの街でパンを焼けるのだから俺にとってはあまり興味のない事だった。

 

しかし、この大陸の北側を占めるアスレニア大国と、その南側に位置するエヴロビ連邦間の政治情勢は俺の想像よりも遥かに複雑で深刻な問題を抱えていた。

 

イオニア山脈を西側進出を目論むアスレニア大国は、近年になってイオニア山脈地下へ巨大な通路を掘り抜いたのだ。西側の魔族領土を人の手によって解放するとか名目を掲げるのは結構なのだが、それがエヴロビ連邦内で厄介なことになっているらしい。

 

第一、俺がエヴロビ連邦の政庁に呼ばれた理由がその問題にあった。

 

イオニア山脈の麓に俺はイースト菌の製造場を設けている。山脈内の洞窟で酵母菌を起こすためだ。それがアスレニア大国にバレたらしく、〝イオニア山脈の地下道を建造した我々には山脈の所有権があるので製造場を献上せよ〟と特使が言ってきたのだ。

 

ほぇー、かなり自分勝手な言い分だ事。圧倒的に国力が劣るエヴロビ連邦政府からすれば、反故にすれば争いの元になりかねないという弱腰姿勢。一部軍属の人間が抗議していたが結果的に俺が手放すことを了承して欲しいとのことだ。

 

んーいいっすよ。

 

そう返した俺の返答に全員がポカンとしていたのが印象的だった。

 

まぁいい環境でイーストを作れるメリットを捨てるようなもんなんだけど、それは年がら年中というメリットであって、こだわる必要はない。

 

酵母の起き方の傾向や、アンゼの町の秋から春にかけての気候や温度も大体把握できてるし、イーストの在庫もある程度あるので秋くらいになってからアンゼの街内でイースト製造を開始すればいい。秋から春までガンガン作れば一年分くらいのストックも貯まるっしょ!!

 

それに酵母は起こす環境よりも元となる穀類の方が重要。それはアンゼの街にある畑から取り寄せてるから別にイオニア山脈にある製造場にこれといったこだわりはないのだ。

 

どちらかと言うと最初の検証場所がそこだっただけで、行き来するのも距離あるし疲れるし、手放してアンゼの街内で作れるなら俺は特に文句はない。

 

ただイースト製造用の場所と、備蓄貯めるための保管庫だけ作ってね!と念押しをして政庁への呼び出しは終わった。

 

さて、あとはアンゼの街に帰るだけなのだが、帰りに俺はアスレニア大国の特使に待ち伏せされていた。なんだよ種作りとか色々あるんだから手短にな。

 

そう思いながら話を聞くと、大国側から「パンの革命を起こした男」として俺は睨まれてるらしく、特使が持ってきたのはアスレニア大国が俺のパンを真似て作ったものだった。

 

特使自身がパンへの造詣が深い職人らしいのだが、もうこれがひどい。

 

見た目からして不味さを感じるほど。

 

言われるがまま一口。アスレニア1番のベーカリーだと豪語する特使だが…うん。なんかデジャブだわ。パサパサだし生だし、発酵は足りないし酵母も弱い。

 

アスレニアのパン基準も相当低いぞコレあかんやつだ。

 

 

「おい!この政庁に厨房はあるか!?」

 

 

通りかかった近くの職員に詰め寄ってから、特使を引っ掴んで俺は厨房へと向かう。こんなことがあろうかとイーストとアンゼ産小麦粉類とパン作り機器セットは持ってきてるんだぜ!!

 

え?技術の秘匿?利益を投げ捨てる?うるせぇそんなことよりパン作りじゃ!!

 

戸惑う特使をよそに俺は材料を準備して作業を開始する。

 

まずはボウルに強力粉、イースト、塩、砂糖、牛乳を入れ混ぜ、さらに卵と人肌温度くらいのぬるま湯加えて更によく混ぜる。

 

ある程度纏まったら生地をボウルから取り、よくこね、生地にベタつきがなくなったらバターを入れ、さらにこね・たたむ・たたきつける作業を繰り返す。

 

しっかりとこね上げた生地に戻して一次発酵。

 

二倍ほどの大きさに膨らんだ生地からガスを抜き、ボウルに戻して、二次発酵。

 

程よく膨らんだ生地を手のひらで軽くたたいてガス抜きし、8頭分にし丸めなおし、乾かないように布をかぶせ、15~20分寝かせる。

 

今作っているのはクリームパンだ。コッペパンなどはここで牛乳を塗って焼き始めるのだが、クリームパンの中には名の通りクリームが入る。生地からクリームが溢れないように生地をしっかりさせるために寝かせる必要がある。

 

さて、寝かせている間にさっさとクリームを作る。ボウルに砂糖と薄力粉を入れ混ぜ、卵黄を加え、温めた牛乳を入れ、火にかけながら練り上げ、バットにとり冷ます。バニラエッセンスとかあれば甘い香りが付けれるが、そんなものこの世界に無いので省略。

 

寝かせた生地をめん棒で小判型にのばし、作っておいたクリームを生地の中心部より上半分にのせ、下半分の生地を合わせてたたむ。これでパンの中にしっかりとクリームが入るはずだ。

 

ここからついに焼くのか、と特使が言ってくるがまだその時では無い。さらにダメ押しでここから大きさが2倍ぐらいになるまで発酵させるのがポイントだ。パン作りは時間がかかる。その時に己を見つめ返す。パン作りとは己を写す鏡なのだ。我々は酵母菌によって生かされている。イーストを讃えよ。

 

特使が感銘を受けてるのを横目に、発酵したパンの表面に、溶き卵を塗り、190℃に熱したオーブンに入れて約7~10分焼く。コッペパンと比べると焼きの時間は短いが、なかのクリームの滑らかさを残すにはこれくらいが丁度いいのだ。

 

使い慣れた薪のオーブンから焼き上がったパンを取り出す。今まで見たことない焼き色に特使の目が輝いているのが見えた。うむうむ、そうであろう。ミューディーも最初は同じような目をしてたっけ?

 

出来立てのパンを手に取って特使に差し出す。ついでに厨房を貸してくれた調理師たちにも渡してクリームパンの試食会だ。

 

結果は絶賛の嵐だった。

 

特に特使は感動したように涙を流しながらクリームパンを頬張っていた。まぁアスレニアから商人が来るとはいえ、パンは日持ちしない食品だ。アンゼの街からアスレニア大国との国境まで数日はかかるし、どんなに工夫してもアスレニア大国の市街地に入る頃にはパンはカビだらけになってるだろう。

 

こんな美味いパンは初めて食べる。美味い美味いといって食べる様子を見て、俺は今までパン作りをしてきて良かったなという幸福感を感じていた。

 

その後、是非ともアスレニア大国に移住をと推されたが流石にそれは無理だ。

 

転がり込んできた上に右も左もわからなかった俺を親切にしてくれたミューディーには恩がある。彼女を置いて一人でアスレニア大国に行くのは俺が許せない。というわけで、アンゼの街から行ける酵母の製造場でパン作りの講習をやるから来てくれと伝えておいた。

 

どちらにしろ、あそこは大国に接収されるわけだしな!!

 

え?アンゼの街にある特産品の技術を他国に教えていいのかだって?馬鹿野郎、それじゃエヴロビとアスレニアの間でパンの技術格差が起こるじゃねぇか。

 

科学技術ならどうでもいいが、食の技術格差は貧しさに直結する。それにただで教えるわけもない。俺の教えたパン作りで出来た代物の代金の何%かは支払ってもらうつもりだ。

 

その程度でいいのか?と特使に言われたけど、その程度でいいんだよ。上を目指せば本気で上手く立ち回らないとあっという間に消されるぞマジで。

 

トンボ帰りしたエヴロビ連邦の政治家相手に熱弁する特使の言葉を聞き流しながら、俺はさっさとアンゼに帰ることだけを考えていた。

 

さっき作ったクリームパン、あれは売れるぞきっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二国のベーカリー協定。

 

後の世に伝わるその協定は、政治の考え方や主義の違いで諍いが絶えないアスレニア大国とエヴロビ連邦の間で唯一揺るぎない絆で結ばれている協定だ。

 

まず、二国間で流通するパンや食品に関する法外な関税を撤廃。パン作りに関する技術の共有や、二国の職人たちによるコミュニティはそれぞれの食文化に絶対的な発信力を有している。

 

また、パンを作る、パンの資源を製造する者には「カロスト基金」に売り上げの数%を献金することで税金が免除される制度があり、献金されたカロスト基金は恵まれない子供や、戦時中の孤児、難民にたいして無償でパンを提供するために役立てられている。

 

不仲である二国を結び、食に対する絶対的な安心を根付かせた男は英雄と呼ばれていたが、彼は頑なにその呼び名を嫌っていた。

 

彼は言う。自分はただのパン職人だと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後日、アンゼの街に戻った俺は約束通りアスレニア大国からきたパン職人たちに講義を行っていた。

 

やり方は変わらない。まずは俺の作ったパンを食べてもらい、納得してもらうことからスタートだ。納得できない者には無理強いはできないのでお帰り願うしかない。

 

アスレニア大国の職人たちは全員貪欲で、俺の教えるパン作りを隅から隅まで聞き入り、時には質問を繰り出し、自分たちで実践して感触を掴んでいた。いいぞいいぞ、いい感じだ。

 

アスレニアとエヴロビでは距離もあるし、エヴロビでしか食べれない美味しいパンなんて俺にとってはなんの魅力もない。二国のどこでパンを食べても美味しいと思えるのが正義なのだ。なので俺の講義にも熱が入る。

 

アスレニア大国から職人や特使たちを護衛してきた傭兵たちにも出来上がったパンを配る。最初はパンなんてと馬鹿にしていたが、一口食べたら態度は一変した。

 

そうだろう、そうだろう。美味いパンには顔が綻ぶし、美味いもんを食えば戦いなんて無意味だと悟る。うむ、やはりパンは至高だな、酵母菌を讃えろ。

 

心配そうにしていたミューディーだが、大丈夫さ。パンの前では人は真摯になるしかない。生地をこねる、すなわちこれは自分との戦い。自分の在り方を見返すことであるのだ。

 

そんな感じでイーストの作り方と、パン作りの基礎、そしてエヴロビ政府とアスレニア政府の間で設立された基金へ、俺の教えたやり方で作ったパンの売り上げを数%献金するという内容を伝え終えた俺は、そのままアンゼの街へと帰ることになっていた。

 

なっていたのだが…。

 

 

 

気がついたら傭兵部隊に拉致されていました。

 

しかも今から地下道を抜けて山脈の西側に侵攻するって、どういうこと!?俺どうなるの!?

 

 

 

 

 

 

 



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捕虜生活?うるせぇそれよりもパン作りだ!!

 

 

傭兵部隊に拉致、と聞けば相当酷い目に遭わされてるかと思うが、実際はかなり丁重というか、真摯に扱われていた。

 

逃げ出さないよう手枷とかはめられると思っていたのに、それどころか縄すらされずにいる。なんでも「神のパンを作る御仁を縛るなど滅相もない」とのこと。んじゃあ拉致なんてするなよ馬鹿。

 

傭兵部隊の隊長さんから聞いた話だが、なんでもアスレニア大国が俺のパン技術をどうしても手にしろと密書によるオーダーを受けていたようで俺を拉致したとか。

 

じゃあなんで地下道抜けて西側に出るの?って聞くと、西側に進出した軍の兵站でパンを焼いてくれとのことだった。西側に出たはいいが魔族との戦いで軍が疲弊してるのだと。後ろを見るとアスレニア産の小麦粉類や、果ては家畜も牽かれている。大国側は早々に魔族のいる西側に人族の拠点を設営したいようだった。

 

いやいや、なおさら俺いらなくね?それだったら酵母の製造所でアスレニア大国の職人一人引っ張って行けば良かったんじゃん。あ、大国の貴重な職人を戦地には送れない。弱小の連邦から拉致すればいいじゃないかというお偉いさんの考えっすか、そうですかクソが死ね!!

 

傭兵部隊側も、俺をそこまで高待遇するつもりはなく、脅して馬車馬のようにパンを作らせて働かせるつもりだったようだが、製造所で俺が配ったパンを食べて感動したようで、あんな神がかったパンを作る職人を奴隷のように扱えるか!と隊長が方針切り替えたのだ。うん、それなら拉致してくれなかった方がよかったかな!!!!あ、だめ?そう。

 

そんなこんなでむさ苦しい傭兵部隊と共にイオニア山脈の地下を穿つ坑道へ入った俺。あぁ、ミューディーすまない。こんなことになってしまうなんて。とりあえずレシピ本と種は保存してるから、レシピ本を見ながらパンを焼いてくれ…。

 

 

 

 

 

 

イオニア山脈。

 

東側から西側に抜けて数ヶ月。

 

俺は現地での兵站、とくにパンという主食担当を任され、朝から晩までせかせかとパンを焼き続けていた。なんでも、この辺りはラーニエ地区と呼ばれているらしく、人の外観に近い、エルフやドラフという魔族が住む地区らしい。

 

俺はずっと後方にある兵站拠点の厨房に押し込められてるからどんな外観なのか一切知らんけどな!!今日も今日とてパン作り。最初は反抗心もあったし、反骨精神もあったけど、今はこの状況を活かせる方向に精神を持っていっている。だって食料は豊富だし、小麦や卵、牛乳も揃ってるんだもん。試作品作り放題やで!!

 

かまども大国の最新式なので、今まで出なかった高温の調理も可能になったので、この際だからクッキー生地を使ったメロンパンや、クロワッサンの製作にも着手。最初の頃はコッペパンや食パン、クリームパンや、なんちゃってチョコパン、ジャムパンなどで回していたけど、今はもっと豊富なバリエーションがあるし、戦線で戦う大国兵たちにも人気は上々だ。

 

まぁ拉致されてる上で、いつ解放されるかもわかんねぇと言った不安は付き纏っているが、逃げてもアンゼの街に帰れるか分からんし、下手すると俺は死んだことになってるかもしれん。

 

ミューディーには悪いが、今俺が感情的に逃げても迷惑が掛かるのはアンゼの街とミューディーだ。あの人の良い街を大国軍の手で穢させるわけにはいかない。だから、俺は黙ってパンを焼き続けている。

 

そんなある日、兵站拠点のすぐ横にある拠点に捕虜が収監されたと聞いた。なんでも前線で戦いていた兵たちが捕まえたらしく、ひどく痛めつけられた上で連れてこられたとか。

 

噂で聞いた話では、ドラフやエルフの雌は人間の女性のような外観でとても美しく、逆に雄は筋骨隆々か、壮麗な外観をしてるだとか。そんな外見をした者が前線の兵たちにどんな目に遭わされたのか考えるまでもなく。

 

兵站拠点や、パンを輸送する人間たちに顔がきく俺はその捕虜が囚われている拠点へと向かった。兵たちが監視する檻の中にはぐったりとしたエルフの女性が虚な目で俺を見つめていた。

 

こりゃ…ひどいな…。

 

水浴びもさせてもらえてないようで体はぼろぼろ。衣服も剥ぎ取られ、汚い布切れを乱雑に縫い合わせたような囚人服が着せられていた。

 

 

「少し外してくれ。捕虜に飯を持ってきた」

 

 

そう言って近くにいる監視の兵たちを俺は睨み付ける。最初はあーだこーだと退く気がなかったようだが、それ以上ごねるならパン作りをしないと言うと慌てて牢のある小屋から出ていった。うむ、素直に人の言うことを聞くもんだぞ。

 

人払いが済んだところで、俺は外側にあるかんぬきを外してエルフのいる牢へと入る。うむ、ひどい匂いだ。鼻を刺すような酸性の香りは女性の隅々から漂ってきている。

 

俺は食料の他に持ってきた川の水と布を先に差し出した。

 

 

「酷いもんだな」

 

「…私に触れるな…汚い人間め」

 

 

虚な顔でそう言ってくるが抵抗する気力すらないのか、身動きひとつしない。俺は水で冷やした布を絞って、ドロドロになったエルフの顔を拭う。あーもう、こんなになってまで…。こんな目を俺はこの世界に来てから何度も見てきた。

 

アンゼの街ですらあったのだ。細い路地で細くなった子供が倒れている姿も見た。この世界はまさに技術力が圧倒的に低い。だから治安も悪い。

 

それを見て、俺は我慢ならなかった。

 

だからパン作りに拘っているのかもしれない。少なくとも、俺が見える範囲でそういった子供たちは少なくなっている。朝と昼、そして夜のサイクルの中で、売れ残ったパンを恵まれない子供達に配っているのだ。

 

最初は襲われそうになったりもしたけど、次第に子供たちは俺に慣れてくれた。俺はパン作り以外に何の能もない男だ。金もないし、あるのは体と命、そして両手で抱えたカゴいっぱいのパンだ。

 

だから、ここでもそれは変わらない。こんな姿になってしまった捕虜のエルフを俺は見過ごすことができなかった。

 

見える範囲で体を綺麗にしたあと、俺は焼いたばかりのパンをエルフに差し出す。

 

 

「…っ!!いらん!!人間の施しなど受けない!!私は生きていたくない…このまま…どうか殺してくれ…!!」

 

 

喉を鳴らしたあと、顔を背けてそう言うエルフの目には涙が浮かんでいた。きっと死んだ方がマシな目にも遭わされたのだろう。

 

 

「安心しろ、俺もまぁ…アンタと同じように捕まってる身でな。パンを作れると言う能のおかげで生きながらえてるんだ」

 

 

にっと笑って言う俺に、彼女は顔を背けたまま。その後ろで俺は持ってきたふっくらしたコッペパンを二つに割る。香ばしい香りが立ち上る。その香りは顔を背けるエルフの嗅覚にもしっかりと入り込んだ。

 

 

「きっと…死んだ方がいいと思う目に遭わされたんだと思う。けど、アンタはまだ生きている。生きながらえている。だから…生きてこそ見える、明日っていうのもあるんじゃないか?」

 

 

そう告げて、俺は改めてパンを差し出した。

エルフは顔を背けたままだったが、震える手でパンを受け取るとこちらに顔を向けないまま頬張った。

 

 

「……もぐっ…もぐ…」

 

 

パンを咀嚼する音が聞こえる。俺は黙ったままパンをちぎってはエルフに差し出した。彼女は相変わらずこちらを見ないまま、差し出したパンを手に取って食べている。

 

 

「美味いな……生かされている理由がよくわかる……」

 

「だろ?」

 

「ああ…美味いな…本当に…」

 

 

その言葉を最後に彼女は持ってきたパンに齧り付く。彼女の肩が震えているのを俺は気付かないフリをして牢を静かに後にした。

 

きっと、彼女が受けた傷は浅くはないだろう。けれどここにいる間だけは、どうか安らかな時を過ごしてほしいと心から願う。

 

さて、俺も明日の仕込みがあるから兵站拠点に戻るか!!

 

 

 

 

 

 

そして俺が拠点に戻る最中、捕虜となった仲間を救うべく奇襲をかけてきたエルフ軍により拠点は壊滅。たまたま拠点間を移動していた俺はエルフの兵士に見つかり、そのまま捕虜となって捕まるのだった。

 

えー、また捕虜とですかやだー。

 

そんな冗談を胸中で呟いてる間に麻袋を被されて俺の視界は闇に包まれた。

 

ほんと俺どうなんですかね!?

 

 

 

 

 

 

 



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異種族に捕虜として拉致?そんなことよりパン作りだ!!

 

 

ライ麦。

 

それはイネ科に属する一年草。

 

豊富な栄養を含んでおり、もともとは小麦粉の代わりに育てられた穀物だ。充分な栄養がない痩せた土や、小麦を育てるのが難しい気候が寒い地域で栽培することができる。

 

しかし、代替品として甘く見てはならない。

 

麦には豊富なグルテンが含まれているが、ライ麦にはグルテンの代わりに粘りのあるタンパク質が多く含まれている。こねれば粘りも強く、パンの種としても代用が効くのだ。

 

小麦からパンを作るときは、発酵にイーストを使うのが主流だが、ライ麦で作るパンの発酵源がタンパク質のため、グルテンと化学反応を起こして発酵するイーストでは発酵ができない。

 

そのため、ライ麦パンではイーストではなく、ライ麦粉と水を混ぜて酵母を起こすサワードウを使う。

 

ライ麦パンは、小麦のパンより膨らみが悪いが、その分硬くて密度が高く、ライ麦の濃厚な旨みを味わえ、噛みごたえや食べごたえがあり腹持ちがいい。それに小麦のパンよりビタミン、ミネラル、食物繊維が多く含まれていのだ。

 

黒パンだと言ってバカにすると栄養価でぶん殴られるぞ。

 

ただし、小麦よりも生産量が少ないライ麦では、原価格的にも小麦のパンより高くなってしまうのが頭が痛いところだ。

 

 

ライ麦粉、強力粉をボウルに入れ、砂糖を加えて混ぜ合わせる。ぬるま湯で溶いたサワードウを加え、塩、牛乳、レモン汁を加えて更に混ぜ合わせる。

 

乳酸菌主体の酵母であるサワードウを使うと生地に酸味が出てしまうので、レモン汁を更に追加することで後味がさっぱりかつ、ライ麦の旨みを活かすことができる。

 

生地が手で持てる様になれば台の上に取り出し、全体がなめらかになればバターを加えこねる。

 

纏まれば、生地を丸め薄く油を塗ったボウルに戻し、あたたかい場所で一次発酵を待つ。

 

倍程度に膨らんだ生地からガス抜きをして、丸め直して二次発酵。

 

そして生地を軽く押してガスを抜き、折りたたむ。台の上に打ち粉をして生地を置き、生地の上にも少量打ち粉を振る。

 

手の平で押さえて成形し、布巾をかけて約40分間、じっくりと二次発酵させる。

 

発酵が終われば、生地にナイフで斜めに3本ほど浅く切り目を入れる。生地が重いので中によく火を通すためだ。そして表面にライ麦粉を振り掛け、焼く直前に少量の水を吹きかける。

 

オーブンの温度は高めの220℃。

 

そこに生地を入れ、10分焼き、180℃に下げて温めておいたオーブンでさらに15分焼く。取り出して、粗熱を取れば完成だ。

 

黒い皮の色となるライ麦パンをばりっと折れば、香ばしいライ麦粉の香りが立ち上る。うむ、今日もうまくパンが焼けた。

 

今日も今日とて太陽は登る。

 

朝から仕込みを行い、焼き上がったパンたち。草木を暖か照らし、燦々と降り注ぐ光は綺麗で、窓を開けてつっかえ棒を置いた俺はウンと体を伸ばした。

 

 

「さて、今日もパンを焼くか!!」

 

 

 

俺がいるのは自然豊かなエルフによる、エルフのために作られた国。傭兵に拉致られパンを作り、そしてエルフに拉致られて今も俺はパンを焼き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イオニア山脈の西側、ラーニエ地区と呼ばれる場所。

 

そこにあるエルフ国は穏やかな気候性の内陸地で、主食となる穀類は麦ではなくライ麦だった。

 

西側へと進出したアスレニア大国軍の兵站拠点がエルフとダークエルフの混成部隊によって奇襲を受けた際、たまたま傭兵に拉致されていた俺はエルフたちによって捕らえられ、そのまま捕虜としてエルフ国へと連行されたのだ。

 

特徴的な耳と、透き通るような肌、そして俺にとっては目に毒と言えるほど露出度の高い民族衣装を身につけるエルフたちに取り囲まれ、俺の処遇をどうするか頭上で議論が飛び交っていた。

 

人族の侵攻を食い止めるための供物として打ち首にして晒そうという意見が纏まりそうになる中、それに待ったをかけたエルフがいた。

 

俺を助けてくれたのは、アスレニア大国軍に捕虜にされていたエルフだった。

 

俺の差し出したパンを食べたことで生きながらえることができたし、諦めない勇気をもらうこともできたこと。そして俺も彼女と同じく人族によって不当に拉致された被害者であることを熱弁した彼女の計らいによって、俺の命はなんとか取り止めることができた。

 

しかし、いくら不当な扱いでここにいるとしても俺は人族だ。

 

大国軍によって多くの同胞が殺されているエルフ族に取っては憎き種族でしかないため、俺はそのまま牢屋に直行。手枷をはめられ牢屋に放り込まれた。

 

その後、俺を擁護してくれたエルフの女性が俺の元へとやってくる。

 

なんでも食事を運んできてくれたらしい。

 

王族の護衛を務めていた彼女は、王女を逃すために囮となったところを捕らえられたようで、あの拠点に連れてこられた時には夜には死のうと考えていたようだ。

 

そんなタイミングで俺がパンを持って現れたことが救いだったと感謝を述べてくれる。あのパンが無ければ、仲間が助けに来てくれることも知らずに舌を噛み切って自害していた、と。

 

素直に嬉しい。

 

俺のパンのおかげで生きようという希望を持った彼女の姿こそが、俺にとって「パンを作り続けてきた意味」だと思える。

 

彼女のような感謝があるからこそ、俺はパンを焼き続けることができたんだとも感じる。

 

そんな感慨深い感情を味わいながら、俺は彼女が持ってきてくれた食事に手をつける。

 

ずっしりと重い黒パン。

 

麦のパンとも違うそれだから油断した。

 

食べてみて、数回の咀嚼。

 

 

「まっず……」

 

 

俺はすぐに座っていた体を起こした。

 

 

「おい!!ここに厨房はあるか!!」

 

「な、何をいってるんだ!?」

 

「主穀類はライ麦だな!?材料は余り物でも良い!!俺に厨房を貸せ!!」

 

「い、いや…それは無茶な…」

 

「監視なんてクソほど付けていい!!怪しい動きをしたらすぐに俺の首を刎ねろ!!」

 

「えぇ…」

 

「とにかく我慢ならん!!パンを作るぞ!!!!!」

 

 

囚われの身?捕虜?うるせぇ、そんなことよりパン作りだ!!

 

そして俺はパンを作った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルフ国では空前のパンブームが起こった。

 

ハーブなどを主食にする長齢のエルフにとって食事はあまり関心のないものであったが、人族との諍いの最中、その男は囚われの身であるエルフを助けに現れた。

 

彼がもたらしたパンと呼ばれる代物は、エルフが生み出したミッシュブロード(ライ麦を使った食材)とは比べものにならないほど美味であり、そして栄養も豊富だった。

 

食事による栄養補給という知識がなかったエルフたちにとって、その男がもたらしたパンというものは栄養と繁栄の活力となり、ラーニエ地区で弱小の種族であったエルフ国が確固たる国としての地位を確立する要因となったのだ。

 

エルフ国は彼との出会いを讃え、人族との共存を掲げる。そして長きにわたり未知の地であったイオニア山脈の西側が開かれ、ラーニエ地区は人族との交易起点として発展してゆく。

 

エルフ族も人族も、異種族間の交流土台を作った彼を英雄として讃えたが、彼はその賞賛を受けようとはしなかった。

 

彼は言う。

 

俺はただのパン職人だと。

 

 

 

 



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え、帰れる?そんなことよりパン…

 

 

連作障害という言葉を知っているだろうか?

 

同じ場所に同じ品種を繰り返し育てる際に発生する現象で、土の栄養バランスが崩れることで病気が発生したり、特定の害虫の被害が大きくなったり、発芽しても収穫量が激減したり、奇形の収穫物が多くなったりしてしまうと言うやつだ。

 

小麦などの穀類はその連作障害が発生しやすい特性を持っている。

 

故に一度小麦を作った畑はしばらく間隔を置かなければならない。米を作っている農家が冬場は田んぼに何も植えないというのも、畑を休ませているからだ。

 

エルフ国でライ麦の収穫量が少ない問題は、まさに連作障害だった。

 

そのため、エルフ国では栄養が偏っていたり、十分な食事が摂れないままだったが、長寿であるが故にある程度の栄養失調などは問題視されていなかったのだ。

 

なんと出生率も悪く、幼い年齢…エルフでいうと、0歳から100歳までの死亡率もかなり高いものとなっていた。

 

そんなエルフの食や栄養に対する無頓着さを解消するべく、俺はパンを通じて仲良くなったエルフの女戦士「フローリア」と共に行動を開始。

 

まずは連作障害で痩せ細った畑を放置し、新しい土地を開墾。ライ麦を植える場所を耕した。

 

パンを作る上で重要なのは酵母もそうであるが穀類の材料が重要になってくる。

 

穀類の栄養価次第で甘味や渋み、生地の弾力や硬さ、焼き上がりの香りまでも変わってくる。現代のように安定した小麦粉の供給が有ればさほど気にならないが、異世界ではそうはいかない。

 

アンゼの街にある麦畑も俺がかなり手を加えていた。

 

農業高校や大学で専攻したのはパンの酵母培養と穀類の性質だ。

 

畑にも学校の伝で何度か行ったし、夏には畑を借りて自分で土を作ったり開墾などの手伝いもしてきた。その経験が今になって役に立つとは思わなかったけど。

 

エルフ国でも、土地が死んで耕作放棄されていたスペースが多くあった。

 

雑草や葛の根っこが張り巡らされている土地を耕し、開墾した土地に牛ふん堆肥や草木堆肥、雑草を燃やした草木灰を入れて土作り。

 

油粕や、パン粉、鶏糞などで作った有機肥料もダメ押しで入れ、栄養分を調節。

 

畑を耕し終わったら浅い溝を掘り、ライ麦を等間隔に蒔く。

 

ちなみにライ麦の種まきの時期は春と秋がある。

 

麦とは違い、冬の寒さにも耐性があるからだ。

 

畑を分けることによって春播種用、秋播種用と分けることができるので効率よく収穫できるのだ。

 

収穫までの期間はおおよそ7ヶ月ほどで、春に種を撒けば冬に、秋なら夏本番の前には収穫できる。

 

あとは麦の成長を抑えるために麦踏みをしたりとか、細かい注意点などは多々あるが割愛。そこら辺は農業を営むエルフたちに教えながら進めていった。

 

 

 

当然、パン作りと農業の二足の草鞋状態なのでめちゃくちゃ忙しい。

 

 

 

朝は仕込みがあるから早いし、朝の分の焼き上がりが終わればそのまま農家のあるエリアへ直行。草抜きや害虫駆除、麦の状態を見るといった作業をしてから昼前に戻ってきて朝に仕込んでおいたパンを焼き、そして昼が終われば再び農業へといった具合だ。

 

最初の方は俺の監視でエルフの戦士などもついて来ていたが、三日と持たずに悲鳴を上げて逃げてしまった。

 

今では手伝ってくれるフローリアが一緒にいてくれるくらいだ。

 

エルフの国に住み始めて二年。

 

ライ麦の収穫量も軌道に乗り、ライ麦パンの製造方法も多くのエルフの職人や女性たちに知られるようになった。

 

エルフ国の王家からは感謝され、名誉エルフ族にしてもらい、気がつけば俺はエルフ族の一員となっていた。

 

そんなある日のことだ。

 

 

 

〝お前は人族の国に帰らなくていいのか?〟

 

 

 

そう王族のエルフに言われたのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「入っていいか?」

 

 

厨房の片付けをしていたところ、木製のドアをノックしてフローリアが入ってきた。

 

道具や食材、ライ麦粉が入った袋なども綺麗に整理されている厨房を眺めて、彼女は息をつく。普段通りの片付けたあと。明日もまたパンを焼いて、香ばしい香りが厨房中に広がるだろう。

 

だが、そのパンを焼くのは俺じゃない。

 

 

「本当に…お前は帰るのか?」

 

 

フローリアが小さく言う。

 

そう。

 

俺は明日になれば元いたエヴロビ連邦のアンゼへ帰るのだ。

 

この厨房は元の持ち主である職人の手に戻ることになるし、パンの作り方は一から十まで全て伝えてある。この最近は俺は手を入れず、ずっと職人に任せていたが申し分ないパンを作る技量を教えることができた。

 

ライ麦の農場も春と秋のサイクルで収穫量を安定化させたし、農場の管理もエルフたちがしっかりとできるようになっている。

 

だから、俺が居なくなっても何一つとして困ることはない。

 

 

「ダメなんだ!!」

 

 

フローリアはそう叫んだ。

 

 

「お前の作ったパンじゃなきゃダメなんだ。私が好きなのは…お前がここで、朝からこねあげて作ったパンなんだ…他の誰かが作ったパンでも…全く同じ出来のパンでもダメなんだ…」

 

 

俺と彼女の間には並々ならぬ思いがあった。アスレニア大国に捕虜にされた彼女に食事を渡した時から、エルフ国にきて俺のパン作りでとんでもない行動力を発揮しても彼女だけは着いてきてくれた。

 

故に恩はある。エルフ国で俺が割と自由に生きられたことも、異種族の国でもパンを作り続けることができたのも、そしてこうやってアンゼの街に帰ることができるきっかけをくれたのも、すべてフローリアというエルフの女性のおかげだ。

 

だからこそ、俺はアンゼの街に帰らなければならない。

 

 

「フローリア、俺は帰らなきゃならないんだ」

 

「そんなことない!!ここでパンを焼き続ければ良い!仲間たちも皆、お前のことを…!!」

 

「俺は俺の持てる技術をここにいる職人たちに伝えることができた。それに俺は人だ。エルフと俺じゃ…生きる世界が違いすぎるんだ」

 

 

俺はそう思って、俺の持てる技術のほとんどをエルフ族へ伝えた。技術は〝死なない〟し、〝邪魔にもならない〟からだ。俺の伝えたパン作りの製法や、畑の耕し方、肥料の作り仕方、酵母の起こし方は後の世に伝えることができる実りあることだ。

 

だが、俺が残れば〝死ぬ〟し、老いて〝邪魔にもなる〟のだ。気のいいエルフや、パン作りに熱中してくれる職人たちの邪魔にはなりたくない。

 

それに、目の前にいる彼女の邪魔にも。

 

 

「フローリア、君のおかげで俺はこうやって伝えることができた。礼を言うよ。だから…俺が伝えたことで幸せになってくれ」

 

 

あの日、俺が彼女にパンを渡したことで、彼女が救われた時と同じように。些細なことかもしれないし、意味のないことかもしれない。それでも、そうやって小さな事で幸せになれることもあるということを、どうか伝えていってほしい。

 

 

「…無理だ。私はお前が生きている間は…きっと幸せになんかなれない」

 

 

だから、ここで一生分の幸せをもらう。そういった彼女は俺の言葉を聞く事なく身を寄せた。

 

月夜が照らす中、俺と彼女の影が重なる。

 

それが俺とフローリアの最後の思い出だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝、俺はエルフの魔道士によってアンゼの街へとテレポートさせられたのだった。

 

 

 

 

 

 

 



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帰る場所がなくてもパン作りだ!!

 

 

傭兵に拉致られ、エルフと人の戦いに巻き込まれ、そしてエルフ国で過ごして五年と少し。

 

 

 

俺はついにアンゼの街に帰ってきた。

 

 

 

だが、五年は人にとっては長すぎたらしい。

 

俺を最初に助けてくれたミューディーは、街で名を挙げ始めたパン職人と結婚しており、すでに一児の母となっていた。

 

ミューディーのベーカリーは旦那のパン職人が受け継ぎ、順風満帆に人生を謳歌していた。

 

そんな中、五年間も行方不明だった俺が突然帰ってきても戸惑いしかない。

 

再会にアンゼの街の住人や、ミューディーも喜んでくれたが、五年間で培ったアンゼの街には新たな暮らしや形式があって。取り残された俺にはもうこの街に居場所はなかった。アンゼの街にはすでに俺のパン技術が行き渡っており、どこのパン屋に行っても高水準のパンを食することができるようになっていた。

 

俺はもう、街にとっては過去の人となっていたようだ。

 

ご丁寧に墓まで作られていたが、まぁパン技術が普及したので良しとしよう。

 

街の役人が俺を政府関係者として迎え入れようとしてくれたが、それは役人という名の幽閉状態で、俺のことを隔離しようとしたらしい。聞いた話によると、アンゼの街の特産物となったパン技術を他所へと伝播する俺は厄介者だったようだ。

 

教えてくれたのはミューディーで、彼女と夫の協力のもと、俺は追っ手を掻い潜ってアンゼの街から逃げることができた。

 

 

「生きていてくれたことは嬉しい。けど、私はもう貴方を助けることはできないの。私には、私の生活がある。五年間は…長すぎたわ」

 

 

悲しげな顔をして、ミューディーはそう言った。

 

彼女は今まで預かっていたという俺のパン屋としての報酬を渡して旦那と共に去っていった。

 

そうして、俺はやっとの思いで帰ってきた人の世界で、ひとりぼっちになった。

 

 

 

 

俺はこの世界を旅することにした。

 

 

 

 

最初はどこかの街で根を下ろそうかとも考えたが、どうにも馴染むことができないままで。

 

さすらいのパン職人とは面白いものだった。

 

俺を拉致した傭兵団とも再会し、しばらくその傭兵部隊のもとでパン職人として腕を振るったし、地方政府のクーデターに巻き込まれたりもした。そこから離れ、エヴロビ連邦内の多くの街を回った。そしてアスレニア大国にも足を伸ばして見たこともない大都市に圧倒された。

 

そんな旅の中で、大勢のパン職人と出会った。

 

ある時は教えを伝え、ある時はパン技術を競い合い、そして友情が生まれ、ライバルと技術を高めあい、多くの出来事を体験できた。

 

そして、アンゼの街を出て十年後。

 

イオニア山脈に沿って足を伸ばし始めた頃だ。

 

 

 

魔王が復活したと言う噂を聞いた。

 

 

 

魔王?こんな世界に魔王がいるのか?

 

現代世界よりもこっちの生活のほうが長くなった故か、最初はそんな話などと信じられなかったが、魔族という存在がいるのだ。魔王がいてもおかしくないということに気づく。

 

そう言われれば、最近イオニア山脈の森も雑魔族で騒がしいし、ゴブリンやコボルトたちも妙に警戒心が強いのも魔王復活に起因するのだろうか。

 

ちなみにゴブリンやコボルトたちは俺の携帯用…まぁ石積みなどはしなきゃならないが、簡易的な窯で焼いたパンを渡したらおとなしくしてくれた。害が出ると言うゴブリンは大人しくパンを食べて引き上げていくが、コボルトはお返しに山の果実やハーブを送ってくれる。

 

うむ、言葉は通じないが誠意は伝わるぞ!やはり酵母菌は偉大だな!トーストにひれ伏せ。

 

そんな噂を聞きつつも旅を続けた俺は、奇妙なパーティーとも遭遇した。オーガーたちに取り囲まれている奴らで、大層立派な武器を持つ者たちだったが、技量は火を見るよりも明らかで。

 

あわや全滅と言うところで通りかかった俺が、オーガーたちにパンを焼くことで撤退してもらうことに成功。どうやら縄張りに不用心に踏み入ったということで、パンを準備しながら傷の手当てをする一行に軽く説教をしておいた。

 

オーガー族は知能は低いが仲間意識と縄張りに警戒心を持ってる。現代で言うところのゴリラに近い生態ゆえ、無闇やたらと近付くものじゃない。

 

オーガーたちを追っ払った後、すっかりお通夜状態となった彼らを見捨てることもできず、俺は余った食材でパンを焼き、彼らに配った。

 

金?そんなものいらん。そう断ってさっさと食べろと催促する。リーダーの男の子が齧り付くと暗い表情がみるみる明るくなった。他のメンバーも見習うように食べ始め、あっという間に笑顔が広がる。うむ、やはりうまいものを食べると元気が出るもんだ。

 

焚き火を囲みながら食事がひと段落したところで、彼らが噂に聞く〝勇者一行〟だと初めて聞いた。

 

どうやらイオニア山脈の地下道から東側に帰ってきたばかりだったようで、食料も薬も尽きかけていたらしい。どうりで疲弊しているわけだ。とりあえず、ここから北へしばらく行けば最寄りの街があるので、ひとまず火守りをしながら夜が明けるのを待つ方がいいと忠告する。

 

夜になれば活発になる魔族もいるしな。

 

勇者一行から聞く話は愉快で、西側に抜けた先にあるさまざまな魔族の生活を聞くことができた。中でも良かったのがエルフの国だったらしく、そこで焼かれている黒パンはほっぺが落ちるほど美味しかったようだ。

 

痛快な冒険譚をつまみに葡萄酒を飲んで夜を明かす。

 

メンバーのほとんどが疲れ切ったように眠る中、リーダーである勇者は俺に問いかけた。

 

 

「貴方はなぜ、魔族にも分け隔てなくパンを焼くのですか?」

 

 

さっきのオーガーたちとのやり取りを見て思ったことか。そうだな…。

 

 

「うまいパンを食べれば、諍いなんて下らないと笑い飛ばせるから、かな」

 

 

俺の生き方がそれだった。傭兵に拉致られても、大国に睨まれても、魔族に攫われても。俺はパンを焼き続けることで切り抜けてきた。

 

故に、俺の武器は剣でもなんでもなく、パンであると言うことだけだ。

 

そう答えると、勇者は少し羨ましそうにわらった。

 

 

「貴方のその想い。どうか忘れないでくださいね」

 

 

言われるまでもないさ。歳下なんだからさっさと寝ろと寝床に押しやって、俺は火守りをしながら夜空を見上げた。

 

そうか、エルフの国もパンを焼き続けているんだな。それだけ分かれば、俺が過ごした五年と言う月日は、何も無駄になんかなって無かったと安心できる。

 

立ち上った火の粉が弾ける。

 

余った葡萄酒を煽って俺は一人、そんなことを思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、人族と友好関係であったエルフ国は、魔族に対する蛮行に反旗を翻し、魔族への参加と、人族が住むフェルデニア大陸東側への侵攻に参加する声明を発表した。

 

 

 

 

 

 



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それしかできない。けれどそれができるから。

 

 

 

それは凶報だった。

 

アスレニア大国がイオニア山脈地下道を建造し、山脈の西側であるラーニエ地区との陸路が繋がった当初から、人族と近いエルフ族やドラフ族は、西側でしか自生しないハーブやスパイスを元に貿易を行なっていた。

 

それが近年、軍備化に突き進むアスレニア大国の強行な侵略行為が進み、親人族派だったエルフ族やドラフ族からも人族に対する不満や疑心は生まれつつあった。

 

現にエルフ国は数回、アスレニア大国軍からの侵略行為を受けているし、俺が捕まった時も戦時中で休戦協定が結ばれたのは一年後だった。

 

魔王が復活し、アスレニア大国とエヴロビ連邦が共同戦線を構築。エルフ族も親人族派として自国を経由して西側へと入ることを許可していたわけだが、両国の粗暴な態度についに不満が爆発。

 

エルフ国は突如として…いや、積もり積もった恨みつらみを爆発させ、両国軍の退路である地下道への道を封鎖。

 

魔王軍との戦争状態にある軍を後方から奇襲したのだ。結果、エルフ族の裏切りにより戦線は崩壊。魔王軍によって両国の精鋭軍は瞬く間のうちに制圧されてしまった。

 

魔王討伐のために勇者が西側に入ったという話も聞いたが、魔族の大群を率いる魔王軍が地下道を抜け、アスレニア大国やエヴロビ連邦の市街地に侵攻してくる方が圧倒的に早い。

 

地下道を守るための防衛戦は全滅。魔王軍はイオニア山脈という人と魔族を隔てる敷居を越えて、人側への侵攻を開始した。

 

 

 

 

アンゼの街は、イオニア山脈から近く。そして巨大な地下道からもすぐに向かうことができるエヴロビ連邦の入り口とも言える市街地だ。

 

魔王軍が決めた行先がまさにアンゼの街だった。連邦内でパンの生産のほとんどを担う街でもあるし、その物資はアスレニア大国側にも多く輸出されている。

 

まずは敵の兵站拠点を押さえ、そこを橋頭堡としてエヴロビ連邦を制圧し、続いてアスレニア大国へと駒を進めるのが軍師として利口な選択だった。

 

つまり、アンゼの街を魔王軍に落とされれば終わりというわけだ。

 

仮に勇者が魔王を討伐したとしても、東側を制圧した魔族の対応は間に合わなくなるし、街の市民たちが犠牲になるのは明白。

 

アンゼの街をとにかく死守できるかどうかが、この均衡の行先を担う重要な要素となるはずなのだが…。

 

エヴロビ連邦には数万以上に膨れ上がった魔族の大群を凌ぐ軍事力など残っていない。

 

そしてアスレニア大国からの増援もまったくもって期待できなかった。大国は首都防衛で軍備を割き過ぎている。彼らからの援軍支援の申し入れもない状況だった。

 

迫り来る魔王軍を前に人族の重要拠点であるはずのアンゼの街は、あまりにも無防備だった。

 

誰も助けてはくれない。

 

そんな恐怖心からか、街の人々は逃げ支度を進めていた。かつては「フェルデニア最高のパンの街」と謳われていた栄光は見る影もなく、家も店も土地も、そして愛していたはずの街すら捨てて人々は逃げようとしている。

 

逃げても、どこにも平和も、あの頃のような豊かな日々もないというのに。

 

 

 

 

真っ暗な雲が空を覆う。

 

人々が暗澹たる思いで逃げる支度をしている。

 

 

 

 

だからこそ、俺は敢えて戻ってきた。

 

 

 

 

 

「パンを焼くぞ」

 

 

 

アンゼの街、俺が唯一知る変わらない店。ミューディーのベーカリー。その扉を開いた俺は、驚いた顔をするミューディー、そして大きくなった彼女の娘を見つめたまま、そう言った。

 

アンゼの街にいるのは女と子供と老人。多くの男たちは魔王軍との戦いに駆り出されていた。

 

 

「な、何をいってるの!?すぐそこに魔王軍が来てるのに…」

 

「だからだよ、ミューディー。俺はパン職人だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 

 

持ち込んだのはフェルデニア大陸の至る所から集めてきた材料だ。小麦もライ麦もなんでもあるし、オーブンも移動式のものがある。ここに身を寄せていた当時では作れなかったものが、今じゃなんでも作れる。

 

 

「ここで逃げる。それもいい。だがここで逃げれば俺は何もかもからも逃げることになる気がするんだ」

 

 

長年使い込んだエプロンを身につけて俺はミューディーに言う。

 

結局、俺はアンゼの街から逃げた。

 

多くの国からも。馴染めないままで、ずっとさすらってきた。パンを作るということだけにここで生きた全てを捧げてきた。

 

 

「俺はこの時のために歩んできたんだよ、その瞬間にパンを焼くために」

 

 

誰に言われることもなく、誰に命じられることもなく、俺は俺が信じるがままに、俺が望んだままに焼き続けてきた。だから今ならわかる。俺がなぜ、この世界で再びパンを焼き続けることができたのかが。

 

 

「意味がないのかもしれない。もしかすると死ぬかもしれない。だが、そんなことよりも…俺はパンを作る」

 

 

迫り来る魔王軍。迎え撃つ軍勢も、打ち払う武器もない。だが、俺にはパンがある。魔王軍の軍勢?そんなことよりもパン作りだ。

 

生地の整形に入った俺は、魔王軍に向けてパンを焼く。それしか俺にはできない。けれど、それが俺にできることだと思えるから。

 

気がつくと、俺が準備したパンをミューディーが釜に入れ始めていた。もうすっかり老いたかつてのパン職人たち、そして残された子供たちも俺のパン作りに感化されたのか、次々と手伝いに加わってゆく。

 

それはまるで、俺がアンゼの街に来たばかりの頃のような光景だった。

 

 

「私は、一人のパン職人として、貴方を尊敬していた」

 

 

ミューディーは生地をたたみ、こねながら呟く。彼女は気付いてなかった。その憧れに自分がどう思っていたのか。恋なのか、愛なのか、それもわからないまま、はちゃめちゃにパンを作ってゆく俺の姿を見ていたのかもしれない。

 

 

「けど、やっとわかった。私は貴方に認められたかったんだ」

 

 

 

 

 

 

〝…な…な…なんだ…このパン…〟

 

〝ふふーん!美味しいでしょう?アンゼの街じゃ1番のベーカリーと言われてるんだから当ぜ〟

 

〝不味すぎる〟

 

〝な、なななな…なんですってぇ!?不味い!?私のベーカリーが!?もう一回言ってみなさいよ!!〟

 

〝すまないが厨房を貸してくれないか?それとパンの材料もだ。余り物でいい〟

 

〝は、は…?〟

 

 

 

 

 

 

「パンを作るぞ!!!!!」

 

 

 

 

 

きっと、あの瞬間から。

 

ミューディーの心に灯ったのだ。

 

アンゼの街のパン職人として、必ず見返してやると言う職人としての意地が。その技量や、全く新しい知識に圧倒され続けたけれど、それでも見返してやりたかった。

 

五年と言う空白の月日が、彼女の中で輝いていた職人としての魂を曇らせたのかもしれない。それを今になって思い知るなんて、遅すぎるし、酷だとも思った。

 

けれど……それでも。

 

 

「どう?私も立派な職人になったでしょ?」

 

「ああ、お前は立派なパン職人だよ、ミューディー」

 

 

その言葉が聞けただけで、彼女の中に長年あった陰りは綺麗に消えて無くなったのだった。

 

 

 

 

 

 

 



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魔族の侵攻?そんなことよりパンを食べろ

 

 

ついに、イオニア山脈の地下通路を抜けた魔王軍が侵攻を開始した。目標はエヴロビ連邦の玄関口であるアンゼの街だ。

 

魔王軍の士気は高く、イオニア山脈の地下通路出口で待ち構えていた大国と連邦の兵士を瞬く間のうちに制圧し、その日の内には地下通路出口に野営地が敷かれることになったようだ。

 

その情報を聞いた連邦政府の政治家にとってこの事態は絶望的な状況だった。アンゼの街がこのまま侵略されれば、連邦内有数の穀倉地帯が魔王軍の手に落ちることになる。それは連邦内の兵站の激減、およびアスレニア大国へ輸出する穀物類が敵に押さえられることを意味していた。

 

すでに街道沿いに設置された軍の野営地も役に立たず、負け戦と知った両国の兵たちの間では勝手に撤退する者も出てきている。もはや、最終防衛などという綺麗事すら言えない状態だ。

 

だが、不思議なこともあった。

 

アンゼの街から脱出しようとしていた者たちの動きが、ぴたりと止まったのだ。

 

特に穀倉地帯ゆえに盛んだったパン工房の職人たちが率先して街に残る選択を選んだ。今更街から避難しても魔王軍の進行速度の方が早い上に、軍の統制も取れていない。生存の可能性は風前の灯火だというのに、なぜ彼らはアンゼの街に留まるのか?

 

彼が事態を飲み込んだのは、緊張に包まれた翌朝。早馬に乗った連絡兵からの報告を聞いてからであった。

 

 

 

 

 

 

「やぁ、よくきたな。魔王軍の兵隊さんたち。焼きたてのパンはいかがかな?」

 

 

魔王の軍勢がアンゼの街の目と鼻の先に迫っていた。

 

街の質素な城壁の上から見える夥しい量の魔王軍の野営地を眺めて、俺は朝日が登る前に大量の荷馬車を引き連れて、彼らが陣取る野営地へと足を踏み入れた。

 

荷馬車を率いてくれたアンゼの町人たちは軍の見張りが立つ位置の手前で街に引き返してもらっている。馬の手綱を数珠繋ぎにして彼らの陣営に入ったのは正真正銘、俺一人だけだ。

 

殺気立つ相手にお構いなく、俺は荷馬車いっぱいに積んだ荷物を覆う布を取り外してゆく。積んできたのは他でもないパン、パン、パンだ。

 

保存が利くフランスパンや、柔らかさが特徴の食パン、旨味がある肉類を挟んだパンや、甘さが特徴な菓子パンなどなど。俺がさまざまな土地で発見し、開発し、手に入れてきたパン技術の全てを注ぎ込んだパンだけの荷馬車である。

 

武器を手に俺を取り囲む彼らには戸惑いがあったし、なにより空腹に苛まれた気配があった。それもそうだろう。エルフの後押しを得た魔王軍が破竹の勢いで人族の勢力に踏み込んできたのだ。電撃的な侵攻は速度が命。立ち止まってまともな食事をする暇もないし、エルフ族からの黒パンの供給といっても限度があったはずだ。

 

当然、最前線にいる魔族の多くが飢えと渇きに苦しんでいる。

 

アンゼの街を一直線に狙ってきたのは、連邦、帝国の兵站を制圧するのも目的だっただろうが、腹を空かせた彼らの腹を満たす狙いもあったのだろう。

 

俺の読みは見事に当たった。人族である俺を取り囲む武器を構えた魔族の兵たちは、俺の言葉を受けるまま荷台に積まれたパンを手に取った。

 

 

「待て、毒が仕掛けられているかもしれんぞ……」

 

 

今にも齧り付きそうな顔をしながら青い肌を持つ魔神族の男がそう言うと、伸びていた手が一斉に引かれた。

 

あぁ、まずいな。このままじゃパンを食べられる前に燃やされて消し炭にされる方が早いかもしれん。空腹を使命感でねじ伏せながら松明を片手に荷車に近づいてゆく魔王軍。持ってきた当人である俺がとやかく言っても何にもならないだろう。

 

クソが、読みは当たったって言うのにこんな終わりなんて……。

 

 

「その人族は下劣な真似はしない」

 

 

あわや放火というところで、魔族の中をかき分けて出てきたのは俺の見知った相手だった。特徴的な耳と透き通るような金色の髪、そして整った顔立ち。見間違えることない旧友がそこに居た。

 

 

「お前がここに来ることは……わかっていたような気がする」

 

 

戦装束に身を包んだエルフの女戦士「フローリア」がそこに居た。

 

懐かしそうに、どこか苦しげで、悲しみを込めた目で俺を見てくる。まだ魔神族の兵隊が信用できないと反論する中、彼女は足早に荷車の方へと歩いてゆき、積み上げられたパンを一つ取り上げて、躊躇うことなくかじりついた。

 

 

「変わらずに……美味しい味だ」

 

 

フローリアが取ったのは、奇しくも彼女が捕虜であった時、俺がちぎって渡したパンと同じものだった。真っ白でふっくらとしたパン生地と、小麦色の焼き目がついた皮。味も豊かでエルフ族の国で生産させる黒パンとは違った味わいを持つそれは、生を諦めていた彼女に生きる原動力を与えたのだ。

 

フローリアの姿を見て、他の魔族も荷車に乗るパンへと手を伸ばす。一人、また一人と恐る恐る食べていた手は次第に早くなり、気がつけば魔神族の兵たちもパンへと手を伸ばし、かじりついていた。

 

美味い、美味いと声が聞こえる。腹が減ってどうにかなるかと思った、と。助かった、と。美味いという魔族の兵たちの合唱が聞こえた。

 

 

「やはり変わらないな。お前は変わらずにパンを作り続けている」

 

 

美味いパンに喜びを。魔族たちが群がる荷車を眺めるフローリアは、拘束されたままの俺の隣に立ってそう言った。エルフたちが初めて黒パンを食べた時も同じような景色が俺たちの前に広がっていた。

 

美味いものを食べる。たったそれだけで暗かった気持ちや、こわばっていた心がほぐれることもあるのだ。

 

 

「お前は……なぜここにやってきたんだ?」

 

「うまいパンを食べれば、諍いなんて下らないと笑い飛ばせるから、かな」

 

 

アンゼの街に留まってわざわざパンを焼いたのは、破竹の進軍をする魔王軍が飢えていることを狙ったところもあるが、それはあくまで口実だ。腹が満たされれば再び彼らは進軍を開始するだろう。そうすればアンゼの街は蹂躙の限りを尽くされる。人族が魔族に行ったようにだ。

 

 

「……無理を承知で言う。私たちと共に人族を討ってくれないか」

 

「断る」

 

 

フローリアの言葉に俺は即答した。だめなんだよ、それじゃあ何も変えられない。俺が焼いたパンも、こうやって持ってきた意味も何もかもが無駄になってしまう。俺の答えにフローリアの顔つきは険しくなった。

 

 

「わかっているのか!?こんな場所まで来てただパンを焼くなど……自殺行為だ!!我々は人族の領土を侵略するために……」

 

「わかってるよ、フローリア。だからこそ、俺はここにきた」

 

 

ガシャリ、と音が聞こえる。俺が見つめる先、その視線に気付いたフローリアも目を向けた。

 

そこには漆黒の甲冑を身に纏った一人の騎士が立っていた。

 

人族を屠るために動く魔王軍。

 

それを率いる最強戦力である幹部。

 

名を黒騎士。

 

流浪の旅の最中に出会った勇者の話では、黒騎士が有する力のみで戦場のパワーバランスをひっくり返すことができると言われるほどの大物だ。俺はその存在に賭けた。まさに命をかけた大博打。パン職人がするやり方ではない。

 

黒騎士の手には俺が焼いたパンが握られていた。かじったような跡があるからして、黒騎士も食事を必要とする生き物なのだと安堵する。食事を必要としない魔族もいるらしく、もし黒騎士がその魔族なら、俺の仕掛けた博打はこの時点で終わっていた。

 

 

「これほどものを作れるというなら、なぜ我が軍門に降らぬ」

 

 

フローリアと俺の会話を聞いていたのか、黒騎士は甲冑越しにそう言ってきた。

 

ここに持ってきたのはイオニア山脈よりも西側、魔族の領地では取れない……というより加工方法を知らないと言った方がいい。その麦を使ったパンだ。栄養価は高いが硬く味も麦よりは落ちる物を食べてきた彼らにとって、そのパンを最大に活かせる技量が俺にはある。いっそのこと、フローリアや黒騎士が言うように魔族の軍門に降れば命は保障されるし、パン作りという人生の本懐に挑み続けることもできるだろう。

 

だが、それじゃあダメなんだ。

 

 

「……黒騎士様。俺は人間だとか、魔族だと言って差別するのはごめんだからだ。俺の作ったパンを食べて美味い美味いという奴は誰だろうと関係はないのさ。たとえそれが、魔王でも……勇者でもな」

 

 

流浪の旅の中で多くの出会いと別れがあった。その全てが俺を形作っているし、その全てがここに俺を導くための道であったとも思える。黒騎士は俺の本心を察したように小さく息をついた。

 

 

「なるほど。それが貴様の殉ずる理か」

 

 

その言葉にフローリアが目を見開いた。そう、俺が挑んだ博打の舞台が整ったのだ。

 

ことパン作りで魔族も降れと要求してくる腕を持つ俺の命と引き換えに引き返せという交渉を持ちかける。それが俺の選んだ道だった。

 

さっきまで美味い美味いと騒いできた魔族や兵士たちも黙って黒騎士の前に跪く俺を見つめていた。

 

 

「ば、馬鹿なことをいうな!!死んだら終わりだぞ!?お前の好きなパン作りも……もう出来なくなるのだぞ!?」

 

 

沈黙の中で響いたフローリアの声が深く胸に突き刺さる。たしかに未練はあるし、欲を言えばもっと世界を見て回ってパン作りにこの第二の生涯を捧げたい想いもあった。だが、それじゃあだめだ。そんなことをして生き残ってしまえば、俺が積み上げてきたものが無意味になる。

 

 

「貴様は、命や財ではなく、知を人々へ分け与え、それを根付かせたのだな」

 

 

黒騎士の言葉に思わず笑ってしまう。どうやら想像していたよりもずっと頭は良いらしい。俺は自分の利益や国の利益なんてお構いなく、その技術を存分に振るい、多くの人に教えてきた。その積み重ねの結果がアンゼのパン職人たちであるし、エウロビ連邦やアスレニア帝国でも美味いパンが食えるようになったのだから。

 

 

「あぁ、随分と長いこと生きてきたもんだ。俺が居なくなっても良いのさ。それだけのものを、俺はこの世界に残せた。きっと根無し草だった流浪の旅も、この時のために必要だった道なんだろう」

 

 

だから、その命をここで張りにきたのだ。俺は真っ直ぐに魔剣を手に持つ黒騎士を見据えた。俺という存在に価値はない。俺を殺したところで、彼らは止まらないかもしれない。それがどう転ぶかは、後世の歴史が証明してくれるはずだ。

 

だけど、今俺はそのためにいる。パン作りの本懐を賭けて、魔族の侵攻を止めるためにいる。

 

黒騎士はゆらりと剣をあげて囁いた。

 

 

「勇者でもない……人類史の英雄よ。貴様の働きはまさに……見事であったぞ」

 

「約束、だからな」

 

「しかと……聞き入れよう」

 

 

ブンっと風が切り裂かれる音が響いたと同時。俺の意識はプツリと黒色に染まった。

 

 

 

 

 

 



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今日も今日とてパン作りだ!!(最終回)

 

 

 

フェルデニア大陸。

 

中央を隔てるように聳えるイオニア山脈から東側に位置する人族の領土に訪れた最大の危機は、西側からイオニア山脈を超えて東側へ侵攻してきた魔王軍が進軍を停止し、急遽撤退を開始したことにより終局を迎えた。

 

この早馬の連絡は領土を侵略される一歩手前であったエヴロビ連邦と、その北側に位置するアスレニア大国を大いに揺さぶった。

 

勇者による魔王討伐の面も大きく作用したのだろうが、分岐点となったのは間違い無くこの出来事である。

 

政庁で政を仕切る政治家や陰謀屋たちは、魔王軍の転進に驚きと驚愕を隠せず、侵略による物的な被害の解消に安堵の様相を浮かべていたようだ。

 

パンで世界を救った英雄。

 

後世で語られる歴史の真実は、持って余るほどのパンと身一つで侵攻する魔王軍へ撤退交渉に赴いた一人の男によってもたらされたのだ。

 

その男は、武勇に秀でるわけもなく、政治に秀でるわけでもなかった。どちらかと言えば、政治を司る者たちにとって悩みの種。利益や利権を簡単に手放してしまう無欲な男であった。

 

しかし、その男はたった一つの事で、散らばっていた国をまとめ上げた。領土問題などで頻繁に対立するアスレニア大国とエヴロビ連邦の間で唯一無二、揺らぎのない文化協定を締結させ、その二国の食文化に多大なる進歩と影響を与えたのだ。

 

力で制するわけでも、知性で制するわけでもなく。人族にも魔族にも平等に。

 

彼はパンを作り続けるという、たったひとつのことで彼は偉業を成した。

 

その功績は、アスレニア大国、エヴロビ連邦はもちろん、西側に住む多くの魔族からも英雄として語り継がれている

 

パンを作り、パンを伝え、そしてパンで世界を救った。後の世で、英雄と讃えられる男。

 

彼の最期は自らの命を引き換えにしたもので、黒騎士に斬られながらも、俺の生み出したパンを食って笑えと言い、この世を去った。

 

彼がパンの聖地であるアンゼの街で三日間に渡って作り続けられたパンを食した魔王軍は、彼の残した功績と信念に敬意を払って撤退したとも伝えられている。

 

今でも、アンゼの街では年に一度、春のパン祭りとして三日間に渡りパンが作り続けられるというしきたりが残り続けている。

 

そんな歴史的な英雄である彼は常々、そして最期の時までこう言った。

 

 

 

〝俺はただのパン職人である〟、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

穏やかな風が夜明け前の厨房へと流れ込んでくる。石積みの立派なオーブンは充分に火が灯っていて、二階建ての家屋の一階から飛び出た形で作られた厨房の煙突から白い煙が緩やかに上がっている。

 

板っぱりの窓を開けてつっかえ棒を置く。ガラス窓も勧められたが、この窓に慣れてしまった。風通しもよく、湿度も良好。

 

今日も絶好のパン作り日和だ。

 

土壌の問題で小麦の収穫は困難とされていた土地であるが、焼畑による灰を土と混ぜ合わせたり、西側に住む家畜動物の糞尿から生成した肥料を撒いたり、まずは土の影響を受けにくい根菜類から作って土の栄養サイクルを回したりと試行錯誤をした結果、小麦の栽培になんとか成功できる土の確保に成功した。

 

と言っても、まだまだ改良の余地がある上に、開墾面積も少ない。ライ麦畑の一角に小麦畑がある状態。小麦粉として収穫しても一回の収穫で作れる小麦パンは一ヶ月分程度しか確保はできない。

 

よって、小麦パンは催事の時または王家などの献上品として用意される時くらいしか焼かないようにしている。将来的にはライ麦と同じ程度の生産体制を整えたいところだが、まだまだ問題は山積みだ。

 

朝日が登り始めた頃合いで、すでに発酵を終えたライ麦生地をオーブンへと投入。続いて、ほかのパンの準備に取り掛かって行く。

 

といっても、ライ麦パンは店に買いに来るお客さん向けの代物。

 

今から作るものはいわゆる特注品。

 

試行錯誤の末に顧客にも満足してもらえる出来になった代物で、俺がこのパン屋を経営する上で不可欠な商品でもある。

 

岩パン。その名前の時点で人族やエルフなど、食文化が人族のそれと似通ってる者達にとって無機物扱いのものだ。

 

バケツに濾過した水、そして調達した鉱石種を投入。沈殿した質量が重い鉱石のみを使用し、上部は再利用するために分別する。

 

酵母の発酵もへったくれもないのだが、これがなかなかに難しい。水と鉱石種の配分を間違えれば顧客先であるゴーレム族や岩鬼族からの即座にクレームが飛んでくる。

 

彼らは岩石を主食とするのだが、その舌はかなり肥えている。そして彼らの食文化の影響で、食用とされる鉱石が不足し、西側にいる魔族にとっては一種の社会問題にまで発展しているのだ。そこに目をつけた魔族の長たちが俺に岩鬼族やゴーレム族が満足する且つ、安価で材料も仕入れやすいパンを作って欲しいと依頼が来たのだ。

 

このパンの開発は物凄く難航した。当事者である二種族の美食家に集まってもらい、何度も何度もトライアンドエラーを繰り返した後に出来上がった無機質パンなのである。パンという概念が新たなる可能性の扉を開いたのだ。パンという存在に跪くがいい。

 

さて、作り方はかなり簡略化している。

 

まずは種を二種類用意するところからだ。

 

比較的軽い硬質性を持つ種を練り、そこへ馬鈴薯を収穫した後に取れた豊富な栄養素を含んだ土を投入。ひとまとまりになるまでこねあげて成形し乾かないよう濡れた布を被せて暗所で休ませる。

 

次にもう一つの鉱石種。中身よりも硬度が高いものを使用し、こちらも同じように土を投入、さらにイオニア山脈の麓で取れた粘土も加えてこねる。ある程度整えば綿棒で平たく伸ばし、楕円状に形を整えてゆく。

 

ここで注意しなければならないのがなるべく手早く整形すること。乾き始めると鉱石種が固着し固形化するからだ。

 

さっさと生地を成形して、寝かしておいた軽硬度の生地を包むように丸めてゆく。

 

準備ができたら250度程度の高温オーブンで一時間程度焼く。これで岩パンは完成。香ばしい焼きたてのレンガの香りが漂う。最近、この匂いを嗅いで美味しく焼けたなと思うあたり俺も相当毒されてるように思えてちょっと悲しかったりする。

 

今日依頼が入っているのは、この岩パンだけであるが、多種族から成り立つ魔族向けに用意したパンは他にもたくさんある。

 

ゴースト系の種族には霊気パンに始まり、火酒を好むドワーフ種族にはアルコール度数がカンストしている酒パン。あとは火山に住処を置く火炎龍族に溶岩パンや、氷の精霊族には氷パンなどなど……作り方には癖どころじゃないものがゴロゴロとあるが、それを美味しい美味しいと言って食べてもらえるのだから、研究して制作した甲斐もあったというものだ。

 

……さて、俺は相変わらずパンを作り続けている。

 

場所はフェルデニア大陸の西側、魔族がいる地域。

 

なぜ生きているのか?おめおめと生き延びたのか?そう聞かれたら答えはNOだ。

 

俺は確かにあの時、黒騎士によって殺された。だが、魂は死んでおらず……というより、ショック療法に近い。体は間違いなく死んでいたが、その魂を黒騎士が縛り、そして目が覚めたら俺は魔王の眷属となってしまっていたのだ。

 

魔王の眷属とは、黒騎士や四天王と呼ばれる魔王軍幹部クラスの者たちを指す俗称みたいなものだと、黒騎士からふんわりとした説明をされただけだったが、目覚めた時に隣にいたエルフの女戦士であるフローリアはとんでもない顔をして驚いていた。

 

姿も人間のものとは異なり、年齢を重ねてできた老いは消え、代わりに若かりし日の肌と胆力、そして耳はエルフ特有の尖ったモノになっていた。

 

黒騎士いわく、エルフ王族からの嘆願があり、眷属として俺の体を再構築する際にエルフの性質に寄せたらしい。

 

おかげで老いが悠久のものとなり、外的要因がなければ向こう一千年はピンピン生きられる。それを聞いた時は思わず卒倒しそうになったが。

 

意識をなんとか繋ぎ止めて、俺は黒騎士に問いただした。なぜ俺を魔王の眷属にしたのか、と。魔族に従って人間に反旗を翻すなどまっぴらごめんだと言ったが、黒騎士は悪びれる様子もなくこう返した。

 

 

「たしかに貴様は人族の領内でパン食の技法を広めた訳だが、魔族の領内での技法伝搬はまだであろう?それでは不公正だ。それだと貴様の理に反するのではないか?」

 

 

うむ確かにそうだな、と俺はすぐに納得した。

 

俺がパン技術を伝えて渡り歩いたのはあくまでフェルデニア大陸の東側のみ。西側でやった事といえば、エルフ国内でライ麦の生産安定化と、黒パンの布教くらいだ。そう言われれば俺の信念上、西側の魔族各々にもパンについて伝えて回るのが道理とも言える。

 

そして更に付け加えられた黒騎士の言葉で俺の今後の運命は決定つけられた。

 

 

「それに、魔王は貴様のパンを食して美味いと言っておらんぞ」

 

 

ちなみに、その魔王様は勇者によって討伐され三百年に渡る長き眠りについたらしい。黒騎士や、魔王軍の四天王たちも役目を終えたと言わんばかりにフェルデニア大陸から去っていったようで、取り残された魔王の眷属である俺は再び根無草となってしまった……。

 

というわけにはならず、自由の身となった俺はエルフの女戦士であるフローリアに捕まってそのままエルフ国内に持ち帰られたのだ。

 

正真正銘の同族となったことと、俺の過去の実績からエルフ王家はパン作りについて俺を全面バックアップしてくれることを約束。

 

結果、俺は西側の奥地でパン屋を構えることとなったのだった。

 

 

「む、この焼きたてのレンガのような香り……岩パンができあがったようだな」

 

 

木材のドアを開けて入ってきたのは、女戦士の装束よりも農作業用エプロンが似合うようになったフローリアだった。その手にあるカゴの中には裏の畑で取れた新鮮な葉野菜がこんもりと乗っていた。今日はそれを使って黒パンのサンドイッチを作るらしい。

 

彼女とこの土地に来て、土地を開墾し始めて五十年。

 

フローリアは故郷であるエルフの国を旅立って共に汗水を垂らして、この店を盛り上げてくれた。

 

もともとこの地も種族間の争いで土地が荒れ果てていたのだが、俺が魔王の眷属という立場をフル活用した上に、パンを持って種族の間の問題を取りまとめたのが功を奏して、今では平和条約まで締結される安定した治安となったのだ。やはりパンは偉大なのである。酵母菌が魔王を上回る日も遠くはない。

 

そんな激動の五十年間。

 

フローリアがいたおかげで、俺は魔王の眷属になったという非現実的な事実に思い悩むことなく、あらゆる種族が望むパン作りに没頭できたし、そのサポートがあったからこそ、店の営業もようやく軌道に乗り始めたのだ。

 

今までパンという存在を毛嫌いしていた種族も、この店の常連になってくれているし、毎朝出来立てのパンを求めにやってくる人もいてくれる。

 

オーブンからは香ばしいライ麦粉の香りが立ち上る。蓋を開けて焼き上がったパンを取り出して見た目を確認。うむ、今日もうまくパンが焼けた。

 

今日も今日とて太陽は登る。

 

朝から仕込みを行い、焼き上がったパンたち。これを求めて多くの人がやってくる。西側でも、そして俺がいなくなった人族の世界でも。パンは人々に愛されて、食されてゆくのだろう。

 

 

「さて、今日も元気にパンを焼くか!!」

 

 

 

異世界に転生しパンを作り、傭兵に拉致られパンを作り、そしてエルフに拉致られパンを作り、黒騎士相手にパンを作り続けた俺は、今も元気にパンを焼き続けていく。

 

次の目標は、二百五十年後に目覚めるとされる魔王にブレックファーストと言ってパンを食べさせ、美味いと言わせるところだ!

 

 

 

 

 

 

 

異世界でパン屋をしたら英雄と呼ばれた件

 

end

 

 

 

 



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番外編
政治抗争?そんなことよりパン作りだ!!


番外編は、主人公がアンゼの街から旅立った先で起こった出来事を書いていく予定です。もうしばらくお付き合いのほどよろしくお願いします。

※感想でガチパン職人さんからの指摘がありましたので修正しました。霧吹きなんていう便利なものがないのでとりあえず蒸気を出せる感じを!!パンはいいぞ!!


 

 

その土地から発祥したパンは、その土地の性質と強く結びついている。それが俺の持論だ。

 

日本で言えば、パンと言ったら食パンやコッペパン。そういった風にパンと言えば慣れ親しんだものが頭をよぎる。

 

このアスレニア大国の南側に位置するランベルト領で連想されるパンの代名詞はトラディショネルだった。

 

トラディショネル。

別名、フランスパン。

 

ランベルト領内ではザックバーヤー、アスレニア大国首都ではショネルバッハーなど……俗称で呼ばれることもあるし、バゲットやバタール、カンパーニュといった種別の名で呼ばれ親しまれている。

 

フランスパンと言うものは、日本で親しまれている食パンやコッペパンなどとは異なり、皮は硬く、その生地ももっちりとした食感というよりはサクサクとした本質的な穀物類の焼成品目に近い口当たりをしている。

 

これは、欧州諸国の土壌や気候の関係から、生産される小麦の品質に関わりがある。

 

栄養価の低い土壌で育てられた小麦はグルテンが乏しく、欧州諸国のパンは日本やアメリカで生産される物のようにふっくらとしたものを作ることが難しかった。

 

そのため、フランスでは粘り気の少ない生地を使ったパンが主流。硬い外皮とサクサクした中身を持つ独特のパンが定着したのだ。

 

もっといえば、原始的なフランスパンはイースト菌のようなパン酵母を用いず生地を一度に混ぜて直火焼きしたものだった。

 

グルテンが不足した小麦で作るパンだ。そもそも発酵という工程にあまり重きがないという理由がある。

 

発酵とはパン酵母が生地内の糖分を分解し、炭酸ガスやアルコールを生じさせる現象であり、その時発生した炭酸ガスがグルテン組織に入って生地が膨らんで行く性質を待っている。

 

この発酵を一次、二次と行うことでふっくらとしたパンができあがるのだが、グルテン不足の小麦で発酵させても十全にふっくらとした食感を出すのは難しく、中途半端な生地になってしまうのだ。

 

ならいっそ、発酵による食感の柔らかさを捨て、サクサクとした食感を追求した方がいいんじゃないか?という結論に至ったのがフランスパンなのである。

 

フランスパンが現在のような形になったのは19世紀。

 

陸路と海路による交易が盛んとなったことと産業革命の影響もあって、酵母菌や製粉技術などの向上により、この頃から今日見られる多彩なフランスパンが作られるようになった。

 

ちなみに、もっとも知られるフランスパン種目の一つであるバゲットが普及したのは20世紀になってからだったりする。

 

さて、作り方だが材料はそこまで多くはない、

 

まずは強力粉、薄力粉を7対3の割合で塩と共に混ぜておく。

 

つぎに30度から35度程度のぬるま湯に砂糖を溶かして、さらにイーストを混ぜふやかしておく。

 

このイーストが厄介。

 

アンゼの街で使っているようなイーストだとこの土地の小麦に酵母割合が多すぎる。よって、若干量を減らして使うか、この土地で取れた小麦を原料に新たな酵母を起こすのが無難だろう。今回はテスト的に量を減らして扱う。

 

塩と混ぜ合わせた粉へ、イーストをふやかしたぬるま湯をまんべんなくかけ、切るように混ぜる。数回に分けてやるほうがダマも少なくまとまりも良くなる。

 

ある程度形になったら濡れた布巾をかけて暖かい場所に放置、一次発酵を待つ。成形した生地の大きさが2倍ほどになるのが目安だ。

 

膨らんだら生地全体を押してガスを抜き、二つに切って細長の楕円形にめん棒などで形を整えたら、布を畳むように折り込み、さらに縦へ半分に折って細長い形状にする。

 

ここで二次発酵。1.5倍程度に膨らむまで待って包丁へ油をつけクープ(フランスパン表面の切り込み)を縦方向で深めに入れる。

 

230℃から250℃程度に加熱したオーブンへ投入し、共に熱していた鉄鍋に水を投入。これで蒸気を打ち10分から15分加熱。そこから前後を入れ替え200℃くらいに火力を落とし更に10から20分ほど焼成。焼き上がったら粗熱を取って完成だ。

 

俺が今オーブンから取り出したものがフランスパン試作品5号目。

 

最初の1号は現地の住人から柔らかすぎると不評を買い、2から4号まで微調整しながらフランスパンらしくサクサク感と皮の旨みを追求してきた。

 

淡い狐色に焼き上がったパンを抱えて受取人が待つ部屋に入る。

 

 

「おおっ、待っておりましたよ。パン職人どの……では、議会を始めましょう」

 

 

俺がパンを持ち込んだのはランベルト領内の政庁。そしてそのパンをめぐり……今まさに空前絶後のクーデターが始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

この話は、俺がアンゼの街を発って一人旅を始めた頃に遡る。当初は行く当てもなくただ街道沿いに向かって北へと進路を向けていたのだが、道中で懐かしい連中と再会を果たした。

 

俺を拉致して西側の魔族領内に連れ込んだ原因である傭兵集団だ。

 

彼らもアスレニア大国から雇われた兵隊たちであり、俺の拉致は大国の使者から提案された話だとは以前聞いていたので別段恨みを持ってるわけではないが、こんなところで再会するのは予想外であった。

 

なんでもエルフ族の襲撃により拠点が崩壊した後、アスレニア大国からの資金振りが悪くなって西側から撤退したのだとか。

 

ここで会ったのも何かの縁だったので、俺は彼らの拠点に赴きパンを振る舞った。久しぶりに食べる出来立てのパンに彼らも嬉しそうに齧り付いていて、互いの近況や状況を話しながら夜が更けていった。

 

そんな中で俺はなんとかなく聞いた。なぜアスレニア大国で雇われていたアンタたちがエヴロビ連邦内にいるのか?と。

 

すると、傭兵集団のリーダーの顔が険しくなった。他のメンバーたちが事情を話させまいとあれこれ話題をすげ替えようとしたが、リーダーが「お前は信頼できる.すべて話そう」と言って事情を説明し始めた。

 

簡潔に言うと、傭兵集団は元々アスレニア大国のランベルト領に仕えていた騎士団であり、そのリーダーはなんとランベルト領を取りまとめてる貴族、ブッケンハイム家の跡取りだったのだ。

 

ブッケンハイム家のお家騒動で家長の座を狙っていた弟の謀反に遭い、命からがらランベルト領を脱して、着いてきてくれた騎士団を率いて傭兵稼業をはじめたらしい。

 

その話を聞いて驚きよりも納得の方が早かった。彼らは騎士甲冑を脱ぎ去った兵士なのだから、通りでメンバーの顔つきに粗暴さがなかったわけだ。

 

そんなわけでお家の規律に縛られない気ままな傭兵稼業を続けていたらしいが、最近どうにもランベルト領がきな臭くなっているという情報を入手したのだ。

 

ランベルト領はエヴロビ連邦とアスレニア大国の国境にある領土で、もしエヴロビ連邦が軍を放った場合、アスレニア大国の水際となる重要な拠点でもあり、同時に国境に面しているため交易も盛んで、ランベルト領を治めるブッケンハイム家も交易商人として財を成した貴族でもあった。

 

そんな交易と防壁として機能するランベルト領で進められている政策が、市民からの反感を買って今にも反乱が起こりそうなほど領内の治安が悪化しているらしい。

 

事実の確認のための帰国と共に、弟の政治不信による転落を狙ったクーデターの話まで聞かされた所で俺は待ったをかける。

 

しがない流浪のパン職人にそんな話を聞かせてもしょうがないだろう?そう言うと、傭兵のリーダーであり、これからクーデターを起こそうとしている彼は穏やかな笑みを浮かべて言った。

 

 

「実はこの政治不安、ランベルト領とエヴロビ連邦から輸入される小麦が原因らしいんですよ」

 

 

その言葉を聞いて、思わず固まる。

 

元々痩せた地であったランベルト領で栽培される小麦では、アンゼの街で作られる柔らかな食感のパンを作ることはできず、必然的にサクサクとしたフランスパンといったグルテンを必要としないパン類が主流だった。

 

そこへ持ち込まれたアンゼの街で俺が改善に改善を重ねた結果生み出された高品質小麦が輸入され、パン食文化に多大なる影響を及ぼしたのだ。

 

しかし、輸入小麦は当然高い。農家や一般家庭が食べるパンはフランスパンであるが、貴族や上流階級の人間はこぞってアンゼの小麦で作った柔らかなパンを求めた。

 

結果、小麦の生産は輸入に頼って、ランベルト領では畑を潰して金物や武器の製造工場を建てようと言う貴族が出てきた上に、領主がその計画を承諾したと言うのだ。

 

結果、輸入小麦を使った高価なパンに手が届かない農家や市民が激怒。工場建設の撤回を求めて貴族との争いにまで発展していると……。

 

がっつり俺が戦犯じゃねーか!!

 

アンゼの街での小麦作りに本気を出しすぎた結果、知らぬ土地で争いが……それもフランスパンとコッペパンをめぐる争いが起きているというなら無関係ではいられない。

 

俺はこれからランベルトに向かう傭兵集団に同行を申し出るのだった。

 

フランスパンはフランスパンで美味しいと言うことを教えてやる!!

 

 

 

 

 

 

 



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