あなたはこの日を忘れるけれど (緋色鈴)
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-1- A name is...
・・・窓から差し込む、朝日の光で目が覚めた。
瞼の裏から視覚を刺激してくる眩しさから逃れるために、寝返りを打つ。
しかしそれでは光の下に晒されるのが右目から左目に変わっただけで、何の解決にもならなかった。
シーツを手繰り寄せて頭まで被ってしまおうと、目を瞑ったまま片手で周囲をまさぐるも、何故か布らしき感触がない。
「ん、うぅ・・・」
仕方なく、身体をよじり、上体を起こす。
そして、寝ぼけ眼で周囲を見回す。
・・・そこで私はふと、違和感を覚えた。
「・・・・・・?」
質素ながらも清潔な感じのするベッドと、似たデザインの机が隅に置かれた、シンプルな寝室。
何故か皺だらけになってベッドの端に転がっているシーツの固まりは、察するに、寝ている私が跳ね除けてしまったものかもしれない。
そして窓から見える景色が高いので、どこかの建物の二階である、ということは分かる。
しかし、それ以外のことがさっぱり分からなかった。
部屋の内装どころか外の風景にも見覚えがなく、自分が何故ここで眠っていたのか、まるで思い出せない。
夢から覚めたような、それでもまだ夢の中にいるような、奇妙な感覚だった。
ここは何処だろう。
と、私がそうして茫然自失としているうちに聞き逃していたのか、単に遠かったのか。
私はふと、部屋の外から物音がすることに気がついた。
それは階下から人が階段を上ってくる・・・誰かの足音だった。
はっとしてそちらを見る。
寝起きの姿は恥ずかしい、というより誰だろう、いやそれ以前に、と混乱している間に、床板の軋む音は部屋の前まで辿り着いてしまう。
がちゃり、と音を立てて、ドアが開かれる。
そこに、一人の魔女が立っていた。
「あ、起きてたね」
齢十八・・・十九ぐらいの女性だろうか。
彼女は私と視線が合うと、ふっと笑みを浮かべて頷き、柔らかい声音でそう言った。
「おはよ」
「えっと・・・おはよう・・・ございます」
つられて朝の挨拶を交わした後で、私は彼女の出で立ちを上から下まで眺める。
服から髪に至るまでおんなじ色をした彼女の、羽織っている外套や、被っている三角帽子、そしてそこにぶら下がる星の形のブローチから見て、彼女が魔女である、ということは分かる。
しかし彼女が何者であるか、私は外見以上のことが分からなかった。
私を見つめ続け、何かを待っている様子の彼女に、私は戸惑いがちに問いかける。
「あの・・・あなた、誰ですか?」
「私の名前はセレナ」
胸に片手を当て、まるで用意していたかのように彼女は朗々と名乗ってみせた。
彼女は次いでその手を返し、私に向かって問いかける。
「君は?」
「セレナ・・・さん。えっと・・・私・・・わたしは・・・」
私は自分の名を告げようとして、言葉に詰まった。
そして、目が覚めてからずっと胸の奥でざわついていた、奇妙な違和感の正体に気がついた。
分からない。
自分が誰なのか、何故ここにいるのか、分からなかった。
名前も立場も、昨日のことだけではなく、自分がこれまで何をしてきたのか、その一切が、思い出せない。
「え・・・あれ・・・」
漠然としていた不安が、ゆっくりと湧き上がってくる。
大切なものが欠けていて、それが何なのかさえも分からない、不気味な感覚。
それが形をとっていくにつれて、混乱と、底知れぬ恐怖が押し寄せてくる。
自分が突然一人だけの迷子になったような。
誰も知らない異国に放り込まれたような。
額にあてた手に、冷たい汗が滲んでいくのが分かった。
「なんで・・・?」
どうしていいか分からないでいると、遠慮がちに声をかけられた。
「もしかして、自分の名前が分からないとか」
「・・・?」
縋るように視線を上げてしまう。
私の様子をじっと窺っていた彼女の表情に、驚きの色はなかった。
恐る恐る頷いてみせると、彼女は小首を傾げながら言う。
「記憶喪失って分かる?」
「・・・えっと・・・うん」
「君は自分の名前も、ここがどこかも分かってない。それが今の君の状態。合ってるよね?」
「・・・多分合ってる・・・私は・・・あなたは、私が誰か、知ってるの?」
彼女が言った内容に理解が追いつかないというより、深く考えるよりも先に、それを知りたかった。
そして彼女は少しだけ悩む素振りを見せたあとに、その名を告げた。
「君の名前は・・・そう、イレイナ」
「・・・イレイナ?」
「うん、そう」
それが自分の名前、と言われても、なんだかしっくりこなかった。
しかし、どんな名前を告げられても同様なのかもしれない。
そう思うと先ほどと同じ焦燥が一瞬だけ胸の奥を焼き、その後に、何にせよ今は受け入れるしかない、という諦念がじんわりとその跡を浸していった。
気味の悪い感覚だった。
「大丈夫。私は君の事を知っているから」
「・・・セレナさん」
彼女は私を安心させようとするように、微笑みながら頷いてみせた。
私は唇を引き結びながらその目を見つめ、何と言ったらいいか分からずに、いまだ鈍い思考を巡らせようとする。
しかし突然、ごぉん、と骨まで響く重たい音がして、私は飛び上がらんばかりに驚いた。
彼女の視線が窓の方を向いて、つられてそちらを見ると、もう一度、ごぉんと音を立てるものの正体が分かる。
それは二階からでも見上げるほどの高さまでそびえ立ち、鐘の音を鳴らして時刻を告げる、古い時計台だった。
もうこんな時間、と彼女が言ったのが鳴り響く重低音に紛れ、かろうじて聞こえた。
そして彼女が踵を返したのを見てとり、私は慌てる。
まだ聞きたいことがたくさんある。
しかし部屋のドアに手をかけたところで彼女は振り向いて、腰を浮かせかけた私を宥めるような仕草で手を振った。
「とりあえず着替えたら、下に降りてきて。あったかいお茶でも飲みながら説明してあげるから」
最後にそう言って、手をひらひらと振りながら彼女は部屋を出て行った。
私はベッドの上で座り込み、茫然とそれを見送るほかなかった。
そしてふと視線を動かし、もう一度時計台の方を見ようとすると、自分の姿が窓に映り込んでいるのに気がついた。
彼女と同じくらいの背丈と顔立ちをしている、自分。
その顔は、今にも泣きそうな顔で私を見つめ返していた。
セレナ、と名乗った彼女は、いったい誰なのだろう。
それよりも・・・自分は一体、誰なのだろう。
いくつもの疑問が湧いては積み重なり、またもやってきた不安に押しつぶされそうになって、深呼吸する。
いや、途方に暮れてはいけない。
まだ事情を知っていそうな人がいただけ、一人きりでいるより遥かにマシだ、と切り替えなくてはいけない。
鐘の音が止んで、静寂が戻ったことに気づいた私は、はっと我に返る。
私はぶんぶんと頭を振って、ベッド脇に置かれていた白い服と、その上にあったカチューシャを掴んで身に着ける。
そして私は、親を見つけた雛鳥のように、足早に階段を降りていくのだった。
「はいこれ。君がずっと持っていた物だよ」
やたらと大きなテーブルを挟んで、私はセレナさんの向かいに座っていた。
テーブルの上には、部屋いっぱいに広がる香りを漂わせている温かそうなハーブティーと、菓子が置かれている。
甘んじて頂く事にし、口をつけた瞬間に火傷しそうなその熱さに目を白黒させていたところで、渡されたのは一冊の本だった。
こぼさないようにティーカップを脇に置いてから、私は両手でそれを手に取る。
表紙には『朝起きたらこれを読みなさい』と、およそ題名とは思えない文言が綴られている。
私は特に疑うこともなく、不思議と手慣れた動作でそれを開き、最初に書かれている文章に目を通した。
そこで私は、私の知らない私がそこに書いたとおぼしき己の旅路と、その身に降りかかった呪いの内容を知った。
曰く、私は一日ごとに記憶を失ってしまうこと。
曰く、私の出身は信仰の都エストという場所であること。
曰く、私は記憶を幾度となく白紙に戻されながらも、旅を続けてきたこと。
きっと毎日、私はこれを読み、似たような感情を抱いてきたのだろう、とその時なんとなく思い当たった。
動揺はあっても取り乱す程の事はなく、自分でも意外なくらいに、その事実はすっと胸に沁み込んでしまったのだ。
自分の記憶がなくなってしまったことは分かった。
疑問に思ったのは一つだけ。
「あの・・・」
「ん」
私が読んでいる間、ハーブティーを啜りながら黙ってその様子を眺めていたセレナさんに、おずおずと問いかける。
「ここ、私の名前・・・アムネシアって書いてあるみたいなんですけど」
「あ、うん、そう。君の名前はアムネシア」
「???」
当たり前のように言われ、混乱するほかない。
さっきは違う名前を言っていなかったか、と私はセレナさんに怪訝そのものの表情を向ける。
彼女は苦笑しながらティーカップを置いて、何故か頭を下げながらこんなことを言った。
「ごめん、さっきのは嘘で、その日記に書いてあることがすべて本当のこと」
そして彼女は、私と自分がどのように知り合ったのかを語り始めた。
「君は私を頼ってこの町に来たの。失われた記憶について研究している魔女がいる、っていう噂を聞いた・・・と、自分の日記に書かれていたと言ってね」
「はあ」
伝聞形式の繰り返しで分かりにくいことこの上ないが、実際そのままの経緯なのだろう。
「それで、その症状について色々調べさせてもらおうって話になって、一昨日の君はそれを快諾・・・日を跨いだら、実際、君はその事を忘れちゃったけど」
「・・・ホントに?」
「本当に」
聞けば、彼女は魔女として国から依頼された仕事をこなしている一方、記憶について研究している天才魔女だそうで。
この町に来てそれを知った私は、藁にも縋る想いでここを訪ねたということらしい。
自分のことを他人に説明されるのは、なんだか奇妙にむず痒かった。
「ちなみに君と私が会ってから、今日で三日目の朝だよ」
「え」
「昨日は君のことをニケって呼んだけど、君はなんの疑いもなくそれに応じてた・・・今日みたいに、自分の名前だってね」
つまり目の前の彼女は記憶喪失の私を、二度、二日に渡って騙した、ということらしい。
「・・・趣味悪くない?」
「言い方・・・あのね、これは本当に君が記憶を毎日失ってしまうのかの確認だったの。そもそも君の提案だし」
「あ、そうなの・・・」
彼女の言葉に、何やってるんだろう自分、と思いながら嘆息した。
数日前の自分の行動さえ分からない、というのはこうも苦なのかと絶望しそうになる。
そうして肩を落としていると、うーん、と唸るような声がした。
顔を上げてみると、彼女は片眉を上げ、何か言いたげな顔でこちらを見ていた。
「・・・えっと、なに?」
問いかけられた彼女は、いくらか躊躇ったように口を引き結んだ後、結局それを口にする。
「昨日も思ったけど、君、ちょっと簡単に人を信じすぎじゃない?」
「へ?」
「だって、私は魔女だよ?君に返却したその日記だって、手間暇かければ捏造することは多分できなくもないし・・・もしかしたら、他ならぬ私が君の記憶を奪った張本人かもしれない・・・とか、思わない?」
はあ、と私の返事は気の抜けたものだった。
確かに今しがた教わったことは全て彼女から貰ったもので、彼女からすれば、記憶のない私は騙そうと思えばいくらでも騙せるだろう。
しかし私の感想は、言われてみればそうかも、という程度だった。
思いもしなかったと言えば確かにそうだが、そこまでお膳立てして私をどうこうする理由がある、というのも現実味がない。
何より。
「なんというか・・・悪い人じゃない気がして」
思ったままのことを口にすると、彼女はちょっと面食らったような顔をした。
何かおかしなことを言っただろうか、と首を傾げてみたものの、特に応えはなく。
頬を掻きつつ視線を泳がせていた彼女は、ふと視界に入った茶菓子をつまんで頬張りながら、もごもごと呟いていた。
「・・・ん、まあ・・・そう思うなら良いけど・・・」
と、彼女はそれを嚥下し、こほんと咳払いした後に真面目な顔をして言う。
「でも世の中良い人ばかりじゃないし、君には事の真偽を判断する材料がなにも無いんだから、今後気をつけてね」
「うん・・・書いとくね」
素直にこくりと頷く私に、彼女は再び微妙な顔をして。
結局、自嘲気味の笑みと共に、肩をすくめてみせるのだった。
イレイナさん出てきません。御免なさい。
一話目タイトルはアナグラムで「Amnesia」だったり。
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-2- Forgot Yester
そして私は彼女の、記憶に触れるという魔法の実験台になってみた。
それはもともと初日の私が期待していたことでもあり、彼女の研究の一環でもあるという。
とはいえ天才魔女を自称する彼女でも、記憶をひょいと戻せるような治療法はそうそう見つからず、今もそれを探している途中らしい。
昨日はどうだったのかと訊いてみると、彼女はちょっと苦笑いだった。
曰く、昨日の私・・・彼女からすれば初めて記憶を失った私に対して、彼女もどう接したものか手をこまねいていたらしく、そこまで話を進められなかったのだという。
今朝方の彼女が慣れた様子で説明してくれたのも、昨日の経験があったから、ということらしかった。
そんなことを聞いてしまっては、申し訳ないのか面目ないのか、私も似たような気持ちで苦笑を浮かべるほかない。
故にそれが、初めて私の記憶が戻る、あるいは失うことがなくなる一縷の望みがかかった試行だったのだが、しかし。
言われるままに椅子に座り、失うものは何もないというか、なるようになれの気持ちで身を任せてみたものの、彼女の魔法は身構えていたほどには激しいものではなかった。
そして幸か不幸か、効き目と呼べるような違和感も生じなかった。
色とりどりの煙や光にあてられて多少眩しい思いをした以外には、私には別段何の変化もなく、彼女の顔も段々と曇っていくばかりだった。
やがて、彼女が溜息とともに杖を下ろし、実験の終わりが告げられる。
結局、私の記憶は戻ることはなく、彼女から見ても芳しい結果を得ることはないようだった。
拍子抜けした節はあったものの、私はこの問題がそれほど難解なのだと知って悲しむよりも、仕方ない、と思う気持ちの方が強かった。
むしろ杖で自分の頭をとんとん小突いていた彼女の方が、手応えのなさに少し苛立っていたようにも見えたのが印象的だった。
ただそんな彼女には最後に、もしかしたらこの記憶喪失は貴方のせいではないかもしれない、と言われた。
「それってつまり、どういうこと?」
「・・・いや」
その時まで険しい顔をしていた彼女は、何度か迷ったような素振りで口を開きかけたものの、結局首を振る。
そして気を取り直したように笑顔を見せた彼女の口ぶりは、明るいものだった。
「やっぱりその日記に書かれている通り、信仰の都エストにその鍵があるかも、ってことかな」
「・・・そっか・・・」
何かを言い辛そうにしていたのが少し気になったものの、私はその返答に頷くことにした。
ごぉん、と何度目かの鐘の音が聞こえてくる。
少し休憩しようという彼女の提案に従って、テーブルに戻ることにした。
冷めてしまったハーブティーを淹れ直している彼女の後姿を見ながら、私は当惑していた。
期待していなかった、と言えば嘘になるが、記憶が戻らなかったことに、それほど落胆していない自分がいる。
何故なのかと己の心の内に問いかけようにも、困ったことにそれも当てにならないときている。
記憶喪失の身では、自分自身が何を理由に感情を左右しているのか、いまひとつ確信が持てないのだ。
・・・あるいは、彼女ならその正体も分かるかもしれない。
そう思い、私は気になっていたことを口にした。
「あの・・・あなたはなんで、記憶について詳しいの?」
「ん、ああ・・・」
振り向いた彼女は、そういえば、というような顔をした後で、薄く笑みを浮かべた。
湯気を立ち昇らせるカップを両手に、慣れた足取りでテーブルに歩み寄ってくる彼女の返答は、意外なものだった。
「言ってなかったっけ。実は私も記憶喪失なんだ」
「えっ」
「まあ君と違って、記憶を失ったのは少し前の一度だけ、それも恐らく一部なんだけどね」
はいおかわり、とティーカップを私の前にひとつ置き、もう片方を持って先程と同じ席に座ってから、彼女はなんということもないように言った。
驚きのあまり呆けていた私は、ふと我に返り、その後におずおずと問いかける。
「・・・えっと、質問ばかりで悪いんだけど・・・なんで分かるの?」
今朝の私は、自分が記憶を失った、ということなど自覚できなかった。
ある意味それは当然とも言えるのだろうが、彼女の場合は何故事情が異なるのだろう、と疑問が浮かんだ。
気づけば、勢い込んで前のめりになってしまっている。
対して彼女は落ち着き払った調子で、どう答えたものかと悩む仕草のように、持ったティーカップを軽く揺らしていた。
「んー・・・まあ・・・その時の私は、自分の名前も、そのほかのことも大半は覚えていた。その日に初めて会ったらしい人の名前もね」
「・・・じゃあ、一部って?」
「それまでの日常の大部分・・・私が何をしていたのか、かな」
聞けば彼女もまた、自分が何故そうなったのかは分からないらしい。
気がついた時には、ここ数年の記憶が所々不自然に欠けて穴あきチーズのようになるだけでなく、幼少期のことに至ってはほとんど思い出せなくなっていた、とのことだった。
そんなことを明かした彼女は、自分が記憶を失った時点からある程度の期間、どうしていたのかを語ってくれた。
「それ以外にも、自分が魔女だってことは分かるのに何故かろくに魔力は残ってないし・・・町の人に訊いても、よくわからなくて。聞いた限りだと仕事をしてない時は、ほとんど家に閉じこもってたとか」
公私を分けるタイプだったんだろうね、と他人事のように彼女は言う。
失ったのはそのうちの、私的に使っていた時間らしい。
ふと、少し目を細めて彼女は一つ付け加えるように言った。
「・・・セレナって人、に関わることらしいんだけどね」
「あれ、セレナって」
「ああゴメンそれも適当に名乗っただけ」
「・・・」
やっぱりこの人信用できないんじゃないかな、と一瞬思ってしまうが、それも私の提案と言われたら悲しいので閉口するしかなかった。
彼女の話は続く。
「そのとき事情を知っていそうな人が傍にいたんだけど、すぐに出て行っちゃったから聞くに聞けなかったというか・・・」
彼女は言いながら、遠い目をして天井を眺めている。
その時をできるだけ思い出そうとしている彼女の瞳は、まるで今し方それを失くしてしまったかのように、どことなく虚ろに見えた。
「机の上に大金は置いてあるし・・・もしかしたら私、自分の記憶をその人に売っちゃったんじゃないかなって思ったんだけど。それもどうにもしっくりこないというか、ね」
そう言って表情を取り戻した彼女は、困ったような笑みを浮かべると共に、肩をすくめてみせた。
失われた記憶を取り戻せないかと、今は空いた時間で記憶に関わる魔法の研究をしている。
成果は今のところ出てないけどね、と言って笑う。
それでおしまい、と言ってのけてしまう彼女の様子は、いっそ清々しいという風にさえ見えた。
そんな姿に、私はあまりに無遠慮な言葉と分かっていながら、訊かずにはいられなかった。
「なんで・・・そんなに落ち着いていられるの?」
彼女はきょとんとしてこちらを見つめ返した。
「それはまあ、もちろん、君の場合とは事情が違うから・・・」
「それでも・・・それでも何か、焦ったり、不安になったり・・・しないのかなって」
私の切羽詰まったような訊き方に、彼女も何かを感じたのか、ふと視線を逸らす。
少しの間考え込むように黙っていた彼女は、再び口を開いた。
「ん、まあ・・・そうだね。そうだとは思う」
先程とは違って、少し歯切れの悪い言い方だった。
「何か大切なものを失ったんじゃないのかって、思うこともあるよ」
言いながら彼女が何かを見つめていることに気がついて、私もそちらに目を向ける。
そこには壁に貼られた、何枚かの写真がある。
映っているのはいずれも、二人の小さな女の子が笑い合っている写真だった。
「でもね」
と言った彼女の言葉に、視線を戻す。
僅かな間、憂うような色を帯びていた彼女の表情は、どこか吹っ切れたような、涼しげな笑みに戻っていた。
「忘れたままでもいいのかな、って、思うこともあるんだ」
「・・・」
「どんなに大切な思い出も、時が経てば忘れてしまうことだってある。私の場合は、それが少し早く・・・大雑把に来てしまっただけなんだろうって、今は思うことにしてる」
間を置くようにハーブティーを一口飲んで、また冷めちゃったね、と彼女は肩をすくめてみせた。
「魔女としての仕事ぶりはどうも、記憶を失くす前より良くなったみたいだし・・・憑きものが落ちたみたいだ、とか言われたこともあってね」
まあそれは何故かちょっとカチンときたけど、と笑い話のように彼女は付け加える。
そして唖然としている私をちらりと見てから、苦笑いを浮かべた。
「・・・多分、忘れる前の私が聞いたら怒るだろうけどね」
溜息交じりに彼女はそう言った。
「あるいは、いつか思い出した私は、今の私が許せないかもしれない・・・それが怖いっていうのも、ちょっとある」
「・・・」
「だから私も分かる、なんて言ったら傲慢だろうけど・・・アムネシアさんも、それは同じじゃないかな」
「・・・・・・そうだと、思う」
怖い。
過去の自分と、過去を知ってしまった後の、未来の自分が怖い。
その言葉に、私は強く共感してしまっていた。
「これからのことが怖いのは当然。君の場合はもっと、だと思う・・・だから、というわけではないけれど」
飲み干して空になったティーカップを置いて、彼女は最後に、私に向かって言った。
「過去に怯える必要なんて本当は無いんだって、思って欲しい・・・少なくとも、今だけは」
「・・・・・・うん」
やや長い沈黙の後、私は相槌を打った。
必ずしも思い出す必要はない、と彼女は言っていた。
後ろが見えないのなら、いっそ前だけを向いてしまえと、そういう考え方もできるだろう。
・・・けれど、そんな彼女の言葉だって、明日の自分は忘れてしまうのだ。
「でも私・・・やっぱり、思い出したい」
自分がしてきたこと、辿ってきた道、知り合った人。
それを一日ごとに忘れてしまっては、どこにも居場所がないのと一緒だ。
たとえ自分が、今の自分が許せないだろう過去を残してきたのだとしても、今は、後悔することさえ出来ない。
それを知っている人に会いたい。
誰か。
私が知っている人に、会いたい。
「・・・そうだよね」
彼女はただ、ゆっくりと頷いていた。
そしてそれから、最後の足掻きにと彼女が提案し、いくつかの魔法を試してもらったものの、やはり効果はなかった。
それが恐らく彼女の力量どうこうという問題ではないのだろうということは、彼女の真剣さを見ていれば素人でも分かった。
私は彼女に礼を言って、今晩・・・日が変わる前にここを出発し、旅に戻ることを告げた。
彼女は、自身の事情は割り切っているのに、それがまるで自分のことのように悔しげに唇を噛んでいた。
「ごめん、何か助けになればと思ったけれど・・・私の魔法じゃ、君の記憶を取り戻すことはできないみたい」
「うん・・・こちらこそ、ごめんなさい。色々迷惑をかけちゃったみたいで」
「・・・そんなこともないけどね」
ふと、口を開きかける。
一緒にきてほしい、という言葉が喉まで出かかって、しかし、それを飲み込んだ。
信仰の都エストは、ここからだいぶ遠いところにあるらしい。
ここ数日で知り合ったばかりの、しかも此方から頼って訪問したという彼女に、そこまで頼めない。
彼女は国に仕える魔女で、旅人のように、ずっと自由に行動できるわけではないのだから。
「・・・ごめんね」
その葛藤を見透かしたかのように、彼女はもう一度そう言って、眉根を下げる。
私は強く頭を振ってみせたものの、それでも、それ以上何も言えずに黙ってしまう。
・・・やがて、気まずい沈黙を打ち払うように、殊更に明るい声で彼女は続きを口にした。
「でも、私は君を憶えてるよ。絶対に忘れない・・・たとえ気休めにしかならなくても、誓うからね」
「・・・うん」
「いつかまた会ったら・・・ああ。その時は君が憶えていなくても、また泊めてあげるよ」
「・・・うん」
彼女の冗談めかした台詞に、私はせいぜい苦笑して、心からの感謝を口にするほか、なかったのだった。
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-3- The stranger gift
それからというもの、私はせめてもの恩返しにと、家事やらなにやらの手伝いをしてその日を過ごすことにした。
国の仕事で普段は忙しい上、根っからの学者肌らしい彼女は空いている時間もほぼ魔法の研究に没頭しているらしく、家の中で客人に見せるような部屋は清潔に保たれているものの、そのほかの私的な空間は割とほったらかしにしているようだった。
何かできることはないかと家中を彷徨った私は、山積みの本や巨大な壺が埃を被っているのを見て、力仕事ならできる気がする、と腕をまくった。
好き勝手に部屋の片付けをしだした私に、恥ずかしいんだけど、と苦言を呈した彼女には、どうせ忘れるしと笑って済ませた。
口をぽかんと開けていた彼女もそのうち、仕方ない、と大袈裟に溜息をついてみせ、それからは私に付き合ってくれていた。
「機能美ってものが分からないかなあ。いちいち引っ張り出すのも面倒じゃない?」
「きちんと整頓すればそれも気にならな・・・ほら、このソファ、この皺くちゃの毛布の山!」
「それ、君が一昨日寝てたときのやつね」
「・・・・・・・・・ごめんなさい」
そのあと一段落して掃除を切り上げ、見違えるようになった部屋を見回して頷き合った私達。
・・・何故か前にもこんなことがあったような既視感が脳裏をよぎったが、結局その感覚はうまく形にならなかった。
その後は、彼女の勧めもあって、共にやや早めの夕食をとることにした。
果たして自分に料理ができるのかという難題があったが、その辺りは彼女が率先して指示してくれたので、私は単純な人手として活用される立場に甘んじた。
言われるままに手にした野菜を切っていたとき、刃物捌きが不思議なくらいに上手、と彼女には驚かれた。
人や出来事の記憶はないのに物の扱いについては覚えていて、不思議なものだと私はナイフをくるくる回しながら思う。
何故か妙に手に馴染むその感覚に、前は料理人だったのかも、と冗談交じりに笑い合ったものの・・・その後、大量の砂糖をスープに流し込みかけた私を止めた彼女に、神妙な表情でそれは否定されてしまった。
・・・などと、そんな一幕もあったものの。
久しぶりの贅沢な気がする、と呟いた彼女の言う通り、見たことがないくらい・・・私からすれば全て初見なのだが、それでもそうと思えるぐらい、そこには豪勢な食卓が出来上がっていた。
心にまで染み渡りそうなほど温かい野菜のスープを口に運び、私がその旨味に舌鼓を打っていた時、彼女が言った。
「なんだか、懐かしい感じがする」
「?」
顔を上げると、彼女はテーブルの上を眺め、何かに思い耽っている様子だった。
そこには穏やかな笑みが浮かんでいた。
「年の近い女の子とこうして何かを一緒にしたの、久しぶりな気がするんだ」
「・・・」
「・・・もしかしたら・・・・・・うん、ごめん、なんでもない」
そう言って首を振り、彼女は食事に戻った。
私は何も言わず、ただ頷くに留める。
・・・それが正解だと、雰囲気が物語っていた。
「これ美味しいね・・・ちょっと入っちゃった砂糖が意外と」
「うん・・・日記にレシピとか書いておこうかな」
その後にあったのは、何の他愛もない、談笑と一言で済ませられる程度のやり取りだった。
彼女の仕事の成果やら、その愚痴やらを聞いてみたり。
日記を元に、私自身も知らないその旅路の上に描かれた物語を、彼女に読み聞かせてみたり。
皿洗いは私が、いや客人にさせるなんて私が、いやいや掃除もしたし私が、などと、台所を前に食器を奪い合ってみたり。
きっと、楽しい一日だったと日記に書ける。そう思える時間。
ごぉん、ごぉんと一時間ごとに時を告げる鐘の音の度に、ふっと表情を失ってしまうのを、彼女に見られぬようにしながら。
一日の終わりが近づいてくることを知らせるその音に、耳を塞ぎたくなるのを我慢しながら。
私はそんな時を過ごしていた。
そして・・・旅立ちの時がやってきた。
私は自分の記憶を取り戻す手がかりのために、やはり、信仰の都エストを目指さなくてはならない。
そのためには、覚えはないにしても、三日も世話をしてもらったのだという彼女に再三の礼を言って、私はここを発つ必要がある。
しかし・・・どうしようもなく、躊躇いがあった。
ちらり、と視線を横に向ける。
荷物をまとめている私の後ろの方で、彼女は棚の上を漁り、何やら探し物をしている。
私にとってはたった一日の出会い。今日が初対面のはずの、知らない人。
それでも私にとっては唯一の、私を知っている人だ。
この人と別れてしまったら、私を知る人は・・・私が知っている私を知る人は、一人もいなくなってしまう。
今日に聞いた彼女の事も、彼女が口にした言葉も、全て私の中から消えてしまう。
途轍もなく恐ろしかった。
たとえ、旅の中で幾度となくこんな想いを繰り返してきたのだとしても。
そんな事は今の私は知らない。
明日になったら、私はどうなってしまうのだろう。
もしかしたら、性格から何から別人のようになってしまうのかもしれない。
いや、今の自分にとっては・・・どうであれ明日の私はもう、別人になるのと一緒だ。
もう、日は沈みかけている。
その時がもうすぐやってくる。
さっきまで誤魔化せていたはずの、不安が一気に蘇ってくる。
「日記に、今日のことは全部書いた?」
背後から声をかけられ、はっとして私は頷いた。
「えっと、うん」
「そう。身体の具合は大丈夫?」
「うん」
「忘れものはない?」
「うん」
「明日、ちゃんと起きられる?」
「・・・・・・・・・」
思わず口を引き結んでしまった。
きっと冗談で言ったのだろう彼女の台詞に、何か違う意味を感じてしまって。
気丈に振る舞うなど、とても出来なかった。
何かを察したのだろう彼女が、そっと歩み寄ってきたのが気配で分かる。
「ごめん。無神経だった」
彼女の手が私の肩に置かれ、それでようやく自分が震えていることに気がついた。
宥めるように肩をさすりながら、横に立った彼女は微笑んで言う。
「大丈夫。はじめて訪ねてきた時の君も今と全然変わらない、能天気・・・あー、明るい女の子だったよ」
「・・・そっか」
わざと言ったのだろうその言い方に、ようやく、ぎこちないながらも笑みを返すことが出来た。
彼女は私に正面を向かせて、身だしなみが整っているかを確かめるかのように上下に軽く眺めた後、うん、と頷いてみせる。
旅装は万全。
「あの・・・お世話になりました」
「それほどでもないかな」
彼女は涼しげな笑みと共にそう言った。
しばし、沈黙が下りる。
そして、私がまだ何か言おうと言葉を探していると、ぽん、と何か小さくて柔らかいものを手渡された。
「餞別。不安と不穏と不眠に効く、花の匂い袋」
「・・・あ、ありがとう」
少し顔を近づけて嗅いでみると、この家にも微かに漂っている香りを濃縮したような、爽やかな良い匂いがした。
彼女の言った通り、暗く重苦しかった胸の奥に、柔らかい風が吹き込んだような・・・少し、心が安らぐ感じがする。
この花の香りに、いつかまた感謝するのだろう、と漠然と思った。
何故それを持っているのか知らないまま。
それに視線を落としていた私の表情がまだ暗いものに見えたのか、それとも本当に顔を出てしまっていたのか。
彼女は何か悩むような素振りを見せた後で、こう言った。
「じゃあ、あとは最後に、魔法を掛けてあげようか」
「え・・・魔法って?」
「・・・あー・・・お別れが寂しくなくなる魔法、みたいな?」
照れ笑いのような顔で、彼女はそんなことを言った。
どんなことをするのか曖昧な言い方だし、何度か彼女には嘘を吹き込まれたりもした。
けれど・・・悪い魔女ではなく優しい人だと、そう信じてやっぱり良かったと、そう思う。
特に迷うこともなく、私は彼女の提案に首肯してみせた。
「お願い」
彼女は頷き返して、少しの間、止まる。
ほんの一瞬、わずかに寂しげな表情をしたように見えたものの、次に彼女が首を振って顔を上げたときには、いつもの笑みが浮かんでいた。
そしてそれ以上何も言わず・・・いつの間にか取り出していた杖を、私に触れさせた。
その瞬間、まるで計ったかのように、ごぉん、と外で時計台が鐘の音を鳴らし始めた。
日没の頃には鳴らすのを止めるのだという時計台の、今日の最後の仕事。
それはまるで、御伽噺に出てくる魔法の合図のようだった。
とん、と肩に乗せられた杖に視線を向けた直後、私はふらりと体が揺れたのを感じた。
そして突然、霞みがかったように視界がぼやけ、頭もうまく働かなくなっていく。
・・・抗う事すらできない、急激な眠気に見舞われたのだ。
そうと気づいた頃には、私は彼女に支えられ、全身の力が抜けていく感覚に身を任せるしかなくなっていた。
遠くで、鐘の音が鳴っている。
徐々にくぐもっていくように聞こえる音は、ゆっくりと眠りの淵に沈んでいく私の意識がそう感じさせているのか。
勝手に閉じていく瞼の隙間の先に、柔らかく微笑んで私を見下ろす顔がある。
これでお別れ? と目で問いかけると、まるで伝わったかのように彼女は頷いてみせる。
それを見て私は、なんとなく思った。
もしかしたら彼女は昨日も、一昨日も、こうして私を眠らせてくれたのかもしれない。
一日の終わりに、記憶を失う不安に苛まれることのないように。
・・・せめて、この恐怖が一瞬にして過ぎ去ってしまえるように。
そのことに、感謝を伝えたかった。
きっと、これでこの人とも会えなくなってしまう。
日記にはこの事を書いていない。お礼を言う理由さえ、次の日の私は忘れてしまう。
しかし彼女の魔法は包み込まれるような温かさと共に、口を開くことさえ億劫に感じるほどの、心地良い微睡みを誘う。
ふわりと体が浮くような、それでいてゆっくりと沈んでいくような感覚と共に、意識が薄れていく。
そして、もう真っ暗になった世界の向こうから、声がした。
・・・それは鐘の音と重なって、ちゃんと言葉として私の耳に入ったのかどうか、曖昧だった。
「 」
何故、彼女の方がそう言ったのだろう。
それ以上、考えるよりも先に・・・私は深い眠りに落ちていった。
私が目を覚ましたとき、そこは見知らぬ宿屋の一室だった。
知らない部屋。知らない町。知らない自分。
私は戸惑いながら辺りを見回し、傍に置いてあった日記に自然と手を伸ばし、己の名前と目的を知る。
次に最近、親切な魔女に出会ったらしいことを知って、その人に感謝しながらも、その所在や名前が書かれていないことに憤慨し、昨日の自分を詰った後で、仕方がないと本を閉じる。
そして最後に、その人が教えてくれたという此処から目的地への道筋を頼りに、旅の続きを始めることにする。
それが、記憶を失くした私が幾度となく繰り返してきたはずの、一日の始まり。
私は見知らぬ土地を歩き始める。
寄る辺のない心細さを胸に抱きながら。
・・・それを紛らわせようと深呼吸した拍子に、首に提げている、淡い菫色の布袋から感じた花の香りに、ふっと顔を綻ばせながら。
きっと毎日そうしていたように。
-end-
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-後書- 灰の魔女の覚書
・・・それは、私とアムネシアさんが出会うよりも前にあった一幕。
その出会いは彼女が書き留めた日記のどこかに書かれているはずで、今はもう、アムネシアさんの心のどこかにも残されているはずの出来事です。
その名を聞けば、そんなやり取りがあったことを知ることになれば、私は恐らく平静では居られないのでしょう。
そこに私は登場していなくとも、決して無関係であるとは言えなかったでしょう。
しかし私、イレイナは残念ながら、その出会いを知ることはありませんでした。
それを読む機会があったのは一度だけ。そして他人の日記を隅々まで勝手に読み漁る趣味を持ち合わせていなかった私は、そのページに目を止めることはなかったのです。
またアムネシアさんも、その人が記憶を失った瞬間に私が立ち会っていたことなど知りません。
彼女にとっては不思議な魔女に一人出会ったというだけであり、後にも先にも、それを私に語って聞かせるようなことはありませんでした。
故にそれは、彼女たちの記憶の中にだけ残された光景です。
そしてそれもそのうちに、そんな事もあったな、という思い出の中に消えていくのでしょう。
魔法など使わずとも、人は物事を忘れていくものです。
現にアムネシアさんがその時たった一度だけ聞いていた私の名前を忘れてしまっているように、繋がりのない事柄はより薄れやすくなります。
たとえそれが本人にとってどんなに大切なものであっても・・・当人が決して忘れまいと心に刻もうとも、その瞬間の感傷や感動というものは、いずれは色褪せて、その奥底に霞んでいってしまうものです。
その人が口にしたように、あるいは誰もが、色彩を失っていく自分の記憶と向き合い、折り合いをつけていかなければいけないのかもしれません。
そしてきっと、だからこそ、日記というものがあるのでしょう。
別れと共に再会を約束し、けれどやはり会えないのかもしれない人達への気持ちを、文字の中へと仕舞い込めるように。
いつかまたそのページを読み直して、そこに刻まれていた己の想いを、もう一度確かめることのできるように。
出会いは、記憶すること。
再会は、思い出すこと。
アムネシアさんがそうしていたように、日記にはこれまでの出会いを書き綴り、読み返すことで、記憶の中の人達ともう一度、心の中でだけでも出会える魔法が込められています。
忘れてしまうことが本当の別れならば、そうして心と記憶を繋ぎ止める術もまた、人は持ち合わせているのです。
故に私もまた、彼女たちの事を忘れないように・・・忘れてしまっても思い出せるように、その時の想いを書き記しています。
私のよく知る人物たちによって名付けられたこの本は、私自身にとってもまた、大切な記憶の一部と言えるでしょう。
・・・さて、丁度この一冊も最後の一頁。
これにて一区切りとすることに致しましょう。
私もたまにはこれを読み直し、自分の辿ってきた旅路を振り返ってみるとしましょうか。
白い紙に黒いインクの羅列で紡がれた、色彩豊かな情景を巡る回想の時間。
それもまた、一つの旅といえるかもしれません。
最後にもう一言を書き留めて、私はこれを表に返し、旅を再開してみることにしましょう。
・・・ここまで読んだ後で、恥ずかしさに身悶えする羽目になるかもしれませんけれども。
それでは。
やがてこの物語を忘れた貴方が、いつか再び私たちのことを思い出したその時に、またお会いしましょう。
『魔女の旅々』で。
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◆あとがき
以降は作者のあとがきになります。
先ず、ここ迄お読み頂き有難う御座いました。
原作より前の時間軸にあたるアムネシアが主人公の物語、如何でしたでしょうか。
アニメでも最後にほんの少しだけ登場した人物ですが、彼女とイレイナの出会いと別れが2期になったりするのでしょうか。是非して欲しいところですね。
この話は、時系列的には3.5巻とでも言えそうな時点を想像して書いたものです。
アムネシアの物語は一日単位でしか成り立たず、またその取り巻く環境は彼女の与り知らぬことばかり。
そんな中で事情を知る、そして似て非なる境遇をしたあの魔女と出会っていたら、というお話。
彼女が「きっと毎日こうだったはず」と思う日々のなかには、言葉にしろ物にしろ、こうしていくつもの贈り物があって、彼女はそれに助けられてきたんじゃないかな・・・そして、それに彼女はどうしても気づけないんだと思うと、切ない気持ちになります。
果たしてアムネシアがその過去にどう向き合うのかは、実例として地図を授けてくれた女性のショコラさんが居ますね。
4巻以降のそんなアムネシアももっと見てみたいのですが、その魅力はあるいは、こういう過去があってこそなのかなと思います。
ところでここで是非話したかったのが、アニメ1期のオープニング「リテラチュア」の歌詞について。
この歌詞・・・イレイナを歌ったものの筈だと思うのですが、読み返すとどこか、アムネシアの日々にも重ならないでしょうか。この物語を書き終えたときに聴いていて歌詞を読んだのですが、まるで歌う人まで変わって聞こえたかのような衝撃でした。「滲むインクをそっとなぞった」の辺りとか、えっ、と思いました。
あまりに感動してしまったのでつい共有と思い、此処に書き置かせて頂ければと思います。
それと関連してなのですが、前作「私の旅」にも実は、それを書く原動力となった曲があります。
曲としては魔女の旅々とは全く無関係なのですが、チャットモンチー様の「世界が終わる夜に」。
もちろん、これもまた本来は違う視点を歌っているはずですが・・・この歌詞がどうしても「遡る嘆き」の魔女の願い、そしてそれを見てきた「粗暴な私」の心の叫びのように聞こえてきて。
終わってしまった世界から取り戻そうとした、愛という名のお守りは空っぽだった。
砂漠で花が咲き、また不幸の種がなる。そしてそれから目を逸らす。
そんな情景から浮かんだ「もう悲劇を見たくない短髪の私」を切欠に、彼女たちの心情を想うにあたって、この曲のイメージが強く影響しています。
アニメ9話、12話、原作3巻が好きな方はぜひ、一度聴いてみて欲しいです。
あとのことはそう・・・あとがきに残したかった事は、この上でイレイナがほとんど語ってくれています。
キャラクターに作者の考えを代弁させるなというのはよく聞く文学のお約束ですが・・・「イレイナ自身が魔女の旅々の作者である」という背景もあることですし、重ねてしまうのもやむなしという事でご容赦を。どちらかと言えば私がイレイナの心情と被る、というぐらいの気持ちです。
願わくばそれと同じように、自身のことさえも全く分からなかったアムネシアの視点が、読者のそれとうまく重なっていたことを祈ります。
それでは改めまして、ここ迄お読みいただき本当に有難う御座いました。
いつかまた貴方が「魔女の旅々」を読み返し、そのついでに、たまにこの物語も思い出してくれれば嬉しいです。
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