ラストスタリオン (水月一人)
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第一章・俺は異世界に種馬として召喚されたはずが、いつの間にかゲイと駆け落ちしていた
終わる世界①


 ウォール街のジョークにこんな話がある。とあるアメリカのビジネスマンがコスタリカの漁村を訪れた。彼が村一番の漁師の船を覗き込むと、そこには大きなキハダマグロが何匹も釣り上げられていた。

 

「凄い! これだけ釣り上げるのに、いったいどれくらいの時間がかかるんだい?」

「なあに、ほんのちょっとさ」

 

 漁師は得意げに言った。日の出前に起き出して、船を漕ぎ、沖に出て、夜が明けるまでのほんのひととき、釣り糸を垂らすだけだと。

 

「それ以外の時間は何をしてるんだい?」

「帰ったら二度寝して昼過ぎに起きるんだ。ご飯を食べて子供たちの相手をして、明日の漁の準備をちょっとして、女房と昼寝をしたら、夜はワインを片手に友達とギターを弾いてるんだ。毎日忙しくて大変だよ」

 

 ビジネスマンはあざ笑った。

 

「なんてもったいない。これだけの腕があるなら、いくらでもビジネスチャンスが転がっているじゃないか。君はもっと長い時間働いた方がいい」

「そうかな?」

「ああ! そしてお金を貯めて大きな船を買い、ウェブに広告を出して人を雇い、漁獲量を増やすんだ。魚も中間問屋に売るんじゃなくて、直接加工業者に持ち込んだ方がいい。そしてゆくゆくは自前で工場を建てるんだ。加工品も地元に卸すんじゃなくて、ニューヨークのような大都市に直接売りつければもっと稼げる。きっと上手くいくぞ。なんなら僕が手伝ってもいいよ」

「それにはどのくらいの時間がかかるんだ?」

「そうだな。15年から20年といったところか」

 

 漁師は首を振る。

 

「冗談じゃない! そんなに働いたら死んじゃうよ!」

 

 ビジネスマンは食い下がる。

 

「おいおい、長い人生のほんの一時のことじゃないか。それさえ我慢したらバラ色の人生が待ってるんだぞ」

「……本当に?」

「ああ、時がきたら上場して、企業の株を売ればいい。そしたら君は億万長者だ」

「それで?」

「売ったお金で引退して、あとは遊んで暮せばいいじゃないか。毎日、遅くまで寝て、自由気ままに釣りをして、子供たちの相手をしたあとは女房と昼寝でもして、夜はワインを片手にギターを弾いて、友達とホームパーティーだ。なんて素晴らしい毎日だろう」

「それは今とどこが違うの?」

 

 おかしなもので、行き過ぎた資本主義の果てに、ウォール街のビジネスマンは田舎暮らしの夢を見るのだ。YouTubeで漁村の風景を見ながら、あいつらが羨ましい、あんな生活をしてみたい、そんな風に思っているのだ。それでいて彼らは何故か漁師のことを見下しており、自分たちのやり方のほうが正しいと思いこんでいる。

 

 逆に漁師は漁師で、都市生活者(ビジネスマン)のことを、上手くやりやがってこんちくしょうと憎んでいるのだ。大して肉体労働せず机にかじりついているだけで、彼らは自分の何倍もの年収を稼ぐ。いつも都会の洗練された文化に囲まれてて、人を食ったようなナンセンスなジョークと、アメリカのホームドラマみたいな生活をエンジョイしてるんだろうなと。

 

 もちろん、それはどっちも間違いだ。都市生活者の殆どは、洗練された生活など送ってはおらず、スーパーの惣菜をつつきながら、過酷な労働時間に耐えているのが関の山だろう。そして漁村には、彼らが羨むようなお気楽な漁師なんてものは存在せず、嫁不足と安定しない収入に頭を抱えている男がいるだけだ。

 

 事実、ウォール街のジョークでも漁師はこう言っているではないか、「毎日忙しくて大変だよ」と。

 

 我々は、自分の不幸を感じることは出来るが、他人の不幸を感じることは出来ない。ビジネスマンにとって漁師の生活は幸せそうに見えても、漁師にとってはそうじゃない。漁師は漁師で悩みがある。どんなにお気楽そうに思えても、彼が不幸だと思えばそれは不幸だ。

 

 何が不幸で何が幸福なのか、それは自分にしか分からない。このように、自分にしか分からない感覚の機微のことを、心理学用語でクオリアという。

 

 我々は例えば、同じ赤い風船を見てても、実は同じものを見ているとは限らない。他人の不幸が分からないように、私が見ている赤の赤さと、あなたの見ている赤の赤さは、もしかしたら違ってるかも知れないからだ。

 

 そんなわけなかろうと言うのなら、色盲を思い浮かべてみればいい。彼らは特定の色が見えず、灰色の濃淡の違いにしか感じられないらしい。それがどんな感覚かは想像しづらいが、少なくともあなたが見ている赤の赤さとは明らかに違うのではないか。

 

 一人ひとりの不幸が違って見えるように、私達が見ている赤色という色は、実はみんな違って見えてるかも知れないのだ。

 

 ところが、我々はその赤の赤さを言葉で表現できないから、それを確かめようがない。あなたにとって赤がどんな色なのか、それは私があなたにならない限り、絶対にわかりっこないというわけだ。

 

 詰まるところ……

 

 我々は同じ地球上で暮らし、同じものを見て、同じ風に感じているはずのに、実は全く別の世界を生きているかも知れないというわけだ。我々は一度脳を通してしか世界を見れないのだから、その脳の処理の仕方によって、世界の見え方が変わってしまう。

 

 私の見ている世界は私にしか見えず、あなたの見ている世界は私には見えない。つまり私が今感じている、この"わたし"という感覚こそが、クオリアそのものなのである。この肉体はただのクオリアの容れ物であって、肉体が朽ちてしまえばそこにはクオリアだけが残るのだ。

 

 そのクオリアを、もし他人の体に乗せ換えることが出来たら、どうなるんだろうか?

 

 人類は未だその方法を見つけていないが、もしかするとやり方さえ分かってしまえば、今とはまったく違う別の人生を送るなんてことは、本当は容易いことなのかも知れない。

 

********************************

 

 月明かりを遮るように、巨大な影が過ぎっていった。

 

 それを指を咥えて見上げるしかない人間たちをあざ笑うかのように、上空を旋回するそいつが羽ばたく度に、下界では竜巻のような旋風がいくつもいくつも立ち昇った。騎士達は逃げ惑いながら、忌々しそうに上空を見上げた。それの持つコウモリみたいな羽は、巨体を支えるには不釣り合いなほど小さくて、まるでだまし絵でも見ているような気分になった。

 

「GIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII!!」

 

 化け物の奇妙な唸り声が辺りに鳴り響く。まるで剣山でガリガリと背中を引っかかれるような、鋭く神経をかき乱す悪寒が背筋を走っていった。痛みでのたうち回るというよりは、違和感に体がネジ曲がってしまうような、なんとも形容のし難い感覚だった。騎士達は必死になって耳を塞いだ。

 

 それにしても一体どこからそんな声を出しているんだろう。蛇のようにニョロニョロと伸びる首の先には、げっ歯類みたいな鋭い出っ歯が光っている。顔の半分を占める大きな目には黒目がなく、その目の周りにイボみたいな複眼がびっしりと並んでいて、まるで呼吸するかのように、周期的に開いたり閉じたり繰り返していた。

 

 トカゲみたいな細長い胴体は、竜のような硬い鱗で覆われていて、短い腕の先には鋭い爪が伸びており、ムチのようにしなやかな尻尾が左右に振れると、バチンバチンと音を立てて衝撃波が飛んできた。

 

 魔獣ジャバウォック……

 

 進化論を愚弄するようなその出鱈目な姿は、見るからに魔獣の名がふさわしい。

 

「ぎゃあっ!」

 

 幾度かの旋回の後、魔獣の長い尻尾の餌食になった騎士の一人が、もんどり打って倒れた。転げると言うよりは吹き飛ぶといった感じで、壁に叩きつけられた騎士はそのまま絶命し、肉体が光の礫となって消えていく。

 

 直撃を喰らえば、高ヒットポイントを誇る騎士でも一撃死がありえるのだ。次は自分の番かと、動揺するパーティーからどよめきが起きる。

 

 彼らはレイドボスに挑むにはレベルが低すぎる、初心者パーティーの一行だった。今日はサーバー全体がお祭り騒ぎであったため、それに乗り遅れまいと無理をしてこんなところまでやってきたのだ。

 

 だがやはり、手合違いだったようだ。タンクの騎士が殺られた段階で、パーティーは魔獣討伐を断念せざるを得なかった。撤収撤収と誰かが叫ぶ。しかし魔獣の攻撃が容赦なく飛んでくる。彼らはそれを避けようともせず、早く楽にしてくれと言わんばかりに諦め顔で受け入れた。

 

 と、そんな時、それを制するかのように凛とした声が辺りに響いた。

 

「みんな諦めないでっ! 敵の動きは単調だから、当たらなければなんてことないわよっ!」

 

 その声にハッとなった一行が我に返る。

 

 振り返れば彼らの後ろには、純白の鎧を纏った金髪のエルフ戦士が立っていた。手にするのは魔剣フィエルボワ、サーバーに一振りしか無いという伝説のユニーク武器だ。刀身は燐光を帯びて淡く光っており、その鋭さを誇示しているかのようだった。

 

 背後に翻るマントには踊躍(ようやく)するペンギンの刺繍が施されている。それはサーバー内最強と謳われるギルド『荒ぶるペンギンの団』の所属メンバーであることを示していた。更にはそんな彼女の頭上に、最高ランクを意味する堂々たるクラウンのアイコンと、『†ジャンヌ☆ダルク†』の文字列が燦然と輝いていた。

 

「ジャンヌさん!」「きた!盾きた!」「メイン盾きた!」「これで勝つる!」

 

 ジャンヌの登場で息を吹き返す一同。先程まで絶望に沈んでいた表情が、今はパーッと明るく光る。彼女はそんなパーティーメンバーの前に躍り出ると、

 

「ここは私が引き受けるわ! プロテクション!」

 

 彼女が叫ぶや否や、前方に薄っすらとした光の盾が展開し、ジャバウォックの攻撃を完璧に弾き返した。魔獣の攻撃に為すすべもなかったパーティーは目を白黒させる。

 

「すげえ……」「俺達じゃ、ああはいかない」「マジパねえっす」

「おい! いつまでぼーっと突っ立ってんだ。退くこと覚えろカス」

 

 棒立ちでジャンヌの勇姿を眺めていたプレーヤーたちに、背後から苛立たしげな声がかかった。青年……デジャネイロ飛鳥(あすか)の不機嫌を隠そうともしない顔を見つけて、彼らはさらに色めきだった。

 

「あ、あなたは! デジャネイロ飛鳥!?」「大賢者飛鳥か! サーバー最強の魔法使い!」「バカ! 飛鳥さんは今年40歳になって、大魔道に昇進したんだぞ!?」「マジっすか? 40歳童貞マジっすか?」

 

 飛鳥は頬を引きつらせながら、

 

「誰が童貞だ、誰が! いいからお前らも黙って働けよ! 魔獣討伐に来たんだろ?」

「「「はいっ!」」」

「返事だけはいっちょ前だな。ったく……いいかお前ら? 奴に的を絞らせるな。散開してチクチク攻撃するんだ。一箇所に固まってると、一網打尽だぜ」

「「「わかりましたっ!」」」

 

 飛鳥の指示であちこちに散らばっていくプレーヤーたち。そんな仲間を見送るようにして、さっきジャバウォックの攻撃を受けて死んでしまったタンクの騎士が、霊体のまま申し訳無さそうにうろうろしている。

 

「動き理解した? リザレクション」

 

 そんな霊体に、突如、優しい光が降り注ぐ。たちまち失ったばかりの肉体を取り戻し、騎士は驚き振り返る。

 

「あ、あなたは! ゲーム最強のヴァンパイアプリースト、『灼眼のソフィア』!!」

 

 ソフィアは眉一つ動かさぬ無表情のまま蘇生魔法をかけ終えると、感激して礼を言う騎士をガン無視して前線へとテクテク歩いていった。その足取りがあまりにも無防備だから勘違いしそうになるが、今は最強レイドボスとの死闘の真っ最中だ。ソフィアにもバシバシ攻撃が飛んでくる。なのに平気でいられるのは、彼女が文字通り最強の回復術師であり、その回復速度が敵の攻撃速度を上回っているからだった。

 

 さっきからたった一人で魔獣の猛攻を受けきっているジャンヌの横にソフィアが並ぶ。二人の見目麗しき乙女が盾となり味方を守る戦場は、まるで遊園地のアトラクションでも見ているかのような奇妙な違和感を感じさせた。

 

「俺たちも行くぞ、抗議デモだよ」

 

 ペンギンの団の最強軍師にして器用な魔剣士『カズヤ』が騎士の肩を叩く。

 

「肉壷わっしょい」「やめなよ」

 

 遊撃兼にぎやかし役の暗殺者『Avirl』と剣士『クラウド』がチクチクとした遠距離攻撃で続く。

 

「リロオオオオオオオオイ・ジェェェンキイイイィィィンスゥゥゥ!!」

 

 その二人の間を割るように、異常なテンションで自分の名前を叫びながら、無茶苦茶に特攻していくバーサーカー。『リロイ・ジェンキンス』は作戦を聞かないことにかけては、世界でも右に出るものはいないだろう。

 

 綺羅星のような有名プレイヤーの勢揃いを前に、さっきまで死んでいた騎士の目は、まるで子供のように輝いた。

 

「す、凄い……これなら勝てる。俺たち、あの最強レイドボスに勝てるんだ!!」

 

 騎士は紅潮する顔に満面の笑みを浮かべながら、リロイの後を追いかけていった。彼にはもうボスに対する恐怖など微塵もなかった。あの調子では、また死ぬのも時間の問題だろう。

 

「最強つっても、あれしかいないんだがな……インコグニション!」

 

 そんなプレイヤーたちを少し離れたところで見守っていた飛鳥は、全員が魔獣との戦闘を開始したところで、隠密スキルを発動した。コソコソと一人だけ逃げ回るつもりではなく、単に隠密状態からの不意打ちを決めると、全ての攻撃スキルの威力に1.5倍のボーナスがかかるからだった。

 

「エンチャント・ウェポン!」「スリープ・クラウド!」「エナジーフォース!」

 

 魔獣と戦うプレイヤーたちの絶叫が戦場に轟く。技名を叫べばスキルが発動するシステムだった。直感的で慣れれば非常に楽だが、最初の気恥ずかしさから敬遠する者も多かったという。

 

 因みに飛鳥もその口だったが、とある事情のために仕方なくゲームを続けていたら、そのうち慣れた。慣れざるを得なかった。高ランクスキルは名称を正確に発音するだけでなく、集中力も必要なのだ。

 

「集中しろ……集中……」

 

 研ぎ澄まされた心の中で、青白い光をイメージする。それは彼の目の前に現れ、やがて高温の火球となった。

 

 前線ではまだジャンヌ、ソフィアの二大タンクが魔獣の攻撃を受け止めている。その周りを飛び回りながら、味方プレイヤーたちが攻撃していたが、魔獣のHPを削り切るにはまだまだ火力不足だった。

 

 特に魔獣のHPが10%を切った後のいわゆる発狂モードでは、攻撃力と防御力が跳ね上がり、更にHPが自動回復するという仕様で、これを一気に削り切るだけの大火力が求められる。飛鳥の役目はそれである。

 

 火球が発するその圧倒的な熱量に気づいたジャンヌが、一瞬だけこちらに目配せをした。飛鳥が頷き返すと彼女はソフィアに声をかけてから一歩後退し、

 

「バインドトラップ!」

 

 行きがけの駄賃でソフィアのスキルが発動するや、魔獣ジャバウォックの動きが止まった。まるで金縛りにあったかのように微動だにしないが、状態異常が続くのは良くて一瞬だ。

 

 飛鳥は魔獣が止まるや否や、間髪入れずに大魔法を打ち込んだ。

 

「轟け、神の雷鳴! ついでに爆発しろ、リア充! ディスインテグレーション!!」

 

 飛鳥の心からの怒りを乗せた光球が、等速運動で一直線に魔獣に向かって放たれる。火球が通り過ぎたあとの地面が真っ黒く焦げ付いている。その異常な高温の接近に、背を向けていたプレイヤーたちも気づいて、まるでモーセの奇跡みたいに左右に飛び退き、まもなくそれは魔獣に到達した。哀れな獣は状態異常が解けた最後の一瞬だけ抗おうと試みたようだが、もはや無駄な抵抗だった。

 

 光球が魔獣に触れるやいなや、その中心に集中していた熱量が一気に解放される。瞬間、耳をつんざく轟音と共に、焼け付く炎の嵐が吹き荒れた。眩しい光りに包まれたプレイヤーたちが、目を細めながら地面に伏せる。耳を塞ぐもの、目を塞ぐもの、逃れるように岩陰に隠れるもの。開発者が設定を間違えたんじゃないかと言わんばかりの大音響と光の暴力にみんな苦しんでいたが、その中心にいる魔獣に比べれば遥かにマシだった。

 

 高温に焼かれ、身を裂かれた獣はギィギィと情けない悲鳴をあげて、やがて力なく地面に落下した。そして核爆発のエフェクトが収まると同時に、どこからともなく地響きのような音が聞こえてきて、魔獣はシャボンのような光を放ちながら崩れ去っていった。

 

 その悪夢のような強さに何度も挫けそうになっていた初心者プレイヤーたちは、しばし呆然となってその姿を見守っていたが、やがて自分たちが勝利したのだと気づくと、打って変わって歓喜の声を上げた。

 

「やった……やった! 初めてジャバウォックに勝ったんだ!!」

 

 一人の叫び声に呼応するように、彼の仲間たちが輪になって喜びを爆発させる。飛鳥は遠くからそんな初々しいプレイヤーたちの姿を眺めていた。荒ぶるペンギンの団の面々が近寄ってきて、まるで昔の自分たちを見ているような気恥ずかしげな表情で、同じように彼らの姿を見守っていた。

 

 と、その時、飛鳥は視界の片隅で、無機質なデジタル時計が23時を刻むのを見た。戦闘中はまったく気づくことがなかったが、どうやらもうすぐ日付が変わろうとしているようだ。

 

 それは普段なら、朝までゲームをしている廃人プレイヤー共には何の意味もない数字だったが……今日に限ってはそうは言っていられなかった。何故なら今日は彼らが遊んでいるオンラインゲームの最終日……日付が変わることは、仲間たちとの別れを意味していたからだ。

 



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終わる世界②

 フォーンリアファル・オンライン。通称ほにゃららは、今から15年前に発売された、世界初のフルダイブ型VRMMOである。

 

 VRMMO全盛期に、五感をゲーム内で再現することを売りに開発が始まったこのゲームは、期待感の大きさから誰もがその名前だけは知っているという超有名オンラインゲームなのであるが……今となっては当たり前の技術であるフルダイブ技術は、当時あまりにも革新的過ぎて、そもそもハードが行き届いておらず、おまけに開発費用を回収しようと躍起になった運営が無茶な課金体制を敷いたために見事に爆死し、あれよあれよという間に乱造された後発ゲームにその地位を奪われたという、曰く付きのゲームであった。

 

 ゲームシステムはよくあるハクスラ系RPGで、誰でも直感的に遊べるのが売りであったが、スキルを発動するためには技名を叫ばなければならないというのがこれまたネックとなって、知名度の割には全然売れなかったという経緯もあった。

 

 普段からロールプレイを楽しんでいる廃人ゲーマーならばともかく、やはり一般人には『流し斬り!』とか『やり逃げダイナミック!』とか技名を叫ぶのは、あまりにもハードルが高かったのだ。

 

 どうせ周りがみんな同じことをしてるんだから、恥ずかしくないんじゃないか……と思う向きもあるかも知れないが、考えてみて欲しい、フルダイブは五感の再現が売りなもんだから、技名を叫ぶたびについつい現実の方でも叫んでしまう危険性があるのだ。

 

 おまけに、ゲーム機本体が高価すぎてよほどの物好きでもなければ手が出せず、所有者が独身サラリーマンに偏っていたのも問題だった。普通、それくらいの年齢にもなれば中二病はとっくに卒業していて、MMOよりはFPSとかボイチャとかエロチャとかそっち方面に興味が向くものである。

 

 終いには五感の再現を売りにした『セックスが出来るVRゲーム』が発売されると、ますます一般人からは遠ざけられた。ハードの所有者はすなわちエロと見做されてしまうからである。こうなってしまうと、いくら本人が釈明しても、誰も信じちゃくれない。友達を誘ってVRMMOなんて夢のまた夢である。

 

 そんな中、ほにゃららは最古参タイトルとしての地位のお陰か、辛うじてサービス終了を免れ、細々とは言え15年もの長きに渡って続いてきたのだ。尤も、その実態はとんでもない自転車操業で、開発費用の捻出のために事あるごとにユーザーに課金を強いたせいで、いつしか課金豚オンライン、屠畜街道、狂ったマネーゲームと叩かれる始末であったのだが……

 

 ともあれ、新規に厳しくお財布にも厳しい、何が楽しくてそんなのを続けているのだと世界中から蔑まれたほにゃららも、15年という歳月には勝てず、ついにサービス終了の憂き目を迎えることとなった。今日はその最終日……あと1時間で、ほにゃららはこの世界からサーバーごと無くなってしまう、今は正にその瞬間だったのだ。

 

***************************

 

 耳障りな奇声を発しながら、ほにゃらら最強のレイドボス・魔獣ジャバウォックは光に包まれ消えていった。粉々に砕け散った体は燐光となって大気に散らばり、まるで星が降るような幻想的な光景を醸し出していた。

 

 殆ど役立たずであったとは言え、死闘を戦い抜いた初心者プレイヤーたちが歓声を上げる。彼らは今日、本サービスの最終日、最後の最後でこのゲームの最強ボスを倒したのだ。その喜びはひとしおだろう。

 

 雄叫びをあげるもの、荒ぶるペンギンの団の仲間とハイタッチを交わすもの、様々なプレイヤーがいたが、共通するのはみんな笑顔なことだった。

 

 初心者たちは、最後まで彼らの盾となって守り抜いた『†ジャンヌ☆ダルク†』にお礼を言っていた。その美貌のせいで、一見してとっつき悪そうに見られてしまうジャンヌであったが、意外にもその内面は気さくで世話好きなお姉さんであった。

 

 ゲーム内では率先して初心者の面倒を見てくれるので、あちこちに知り合いのいる、団の頼れるメンバーである。因みに、飛鳥も彼女にギルドに引っ張られた口だった。いつもサーバー内にいて何かやっているイメージがあるが、サービス終了した後はどうするのだろうか。

 

 そんなことを考えながらぼんやりと仲間のやり取りを見ていると、初心者プレイヤーたちが一人、また一人とログアウトしていった。最後までお礼を言っていた騎士に笑顔で手を振り、ギルドメンバーだけが残ると、途端にしんみりとした雰囲気になった。

 

「終わったわ。これで最後ね……」

 

 ジャンヌが誰ともなしに呟く。その呟きに呼応するかのように、ギルメンの数名からため息が漏れた。飛鳥と同じく、みんなのやり取りを遠巻きに見ていた『灼眼のソフィア』も、珍しく眉根に皺を寄せている。場の空気を察してか、ジャンヌは取り繕うように慌てて続けた。

 

「あらやだ。しんみりしちゃったわね。そんなつもりは無かったのよ。ただ、レイドボス戦もこれで打ち止めかなって思ってね」

「ああ、そういう意味ですか、ジャンヌさん」

 

 仕切り屋の『カズヤ』が合いの手を入れる。ジャンヌの言う打ち止めとはどういうことかと言えば、つまり以下の通りである。

 

 ほにゃらら最終日の今日、荒ぶるペンギンの団のメンバーは彼らが本拠地としているギルド砦に集まり、最後の瞬間を一緒に迎える約束をしていた。そんな彼らは夕方頃にログインすると、今までに溜め込んでいたアイテムやらお宝やらを、どうせ最後だからと盛大に無駄遣いした後、こっちも最後だからと言ってゲーム内最強のボスであるジャバウォック討伐にやってきた。

 

 ところが、いざボス戦に挑もうと思えばそこには既に先客がおり、見れば到底敵いっこないレベルの初心者だらけ。それを見るに見かねて、ジャンヌが手助けを始め、なし崩しにみんなで手伝う流れになっていったのである。

 

 ジャバウォックはゲーム内最強と言われているだけあって、もちろん初心者が気軽に戦えるような相手じゃない。普段ならどうしてこんな場所に迷いこんだんだろうと首を傾げるところだったが、これもサービス最終日の習わしというやつか、彼らも自分たち同様、どうせ最後だからと無理して遊びに来たのだろう。

 

 そう思って周りをよく見てみれば、レイドボス戦を遠巻きに観戦しているグループがちらほら見える。普段は過疎っている高ランク狩場に、こんなに大勢人がいるのは珍しい。おそらく彼らも目の前の初心者たちと同じ口なのだろう。

 

 案の定、最初のグループの手助けを終えて、最初で最後の出会いを記念し、スクショを撮ったり、和気あいあいと会話をしていたところ、さっきまで遠巻きに見ていた別のグループがおずおずと話しかけてきた。曰く、自分達も記念にボス討伐してみたい。

 

 こうなりゃ一人助けるのも何人助けるのも同じである。そんなわけ次々やってくる初心者たちの手助けをしながら、気がつけば日付が変わりそうな時間になるまで、彼らはずっとレイドボスを狩り続けていたのである。

 

「ちょっとサービスしすぎたかな。本当なら、ギルメン水入らずでもっと色んな場所を回るつもりだったのに」

 

 誰かの愚痴が聞こえてくる。とは言え、それじゃレイドボス戦以外に何をしていたら不満がなかったのかと言えば、長いこと遊んできたゲームとは言え、特に思いつかなかった。というか、思いつかないくらいだからサービス終了するわけで、愚痴は言っても誰も後悔はしている様子はなかった。

 

「ま、これはこれで俺たちらしいか」

 

 そんな言葉に、誰も彼もが苦笑いを漏らす。思い返せば最後の最後まで、よく遊んだものである。もし明日があるなら……そんな気持ちを押し殺しながら、祭りの余韻に浸るようなどこか物憂げな声が聞こえてくる。

 

「結局、レヴィアタンもベヒモスも実装されなかったな」「サービス初期から実装予定だったくせに」「やるやる詐欺だ」「どうする? 最後にもう一戦やってく?」「いや、ジャバは流石にもういいっしょ」「それより、最後だからメアド交換しないか?」「おまえ、これが終わったら次はどのゲームに行くの?」「俺は最近流行りの……」

 

 魔獣討伐も終わり、周りにギルメン以外の人も居なくなって、静けさに包まれた月明かりの草原で彼らが最後の余韻に浸っている……みんなこれで最後だと思うと、名残惜しくてなかなかこの場を離れられない。

 

 ところが、その時、そんな男どもを遠巻きに見ていたソフィアがスッと立ち上がり、いつもと変わらぬ無表情で、

 

「……それじゃ私、用事あるから」

 

 驚いたことに彼女はそう言うや否や、ギルメンの返事も待たずにさっさとログアウトしてしまった。まるで今日が最終日だと気づいていないかのように、普段どおりの行いに一同が唖然と見送る。

 

 え? 本当にこれで最後なの? 呆れるような寂しいような、そんな顔でカズヤが呟く。

 

「やれやれ、あいつ最後まで平常運転だったな。そりゃまあ、いきなり性格変わられてもビビるけどよ」

 

 あっけない別れに、みんななんて言っていいか分からずまごついていると……

 

『ほにゃらら運営チームです。ユーザーの皆様に置かれましては、当ゲームをご愛顧いただき誠にありがとうございました』

 

 オープンチャットでいわゆる天の声が聞こえてきた。時計を見れば23時30分を回っている。いよいよ、15年続いてきたゲームの終焉が訪れたようだ。みんなほんの少しばかり陰りのある表情で、黙ってそれを聞いていた。

 

 運営は一通り謝辞を述べたあと、ユーザーにログアウトするように促した。どうせ最後だからデータの破損など気にする必要もないのだが、実はフルダイブの性質上、正規のログアウト方法を使わずに落とされると、吐き気がするとか頭が痛くなるなどといった弊害があった。

 

 だから運営がサーバーをシャットダウンする前に自発的にログアウトするほうがいいのだが……そうは言っても、なかなか自分から落ちるとは言い出しづらい。

 

 こうなったら吐き気上等で最後までいようかな? そんな雰囲気が辺りを支配する中、飛鳥は一人、バツが悪そうに口を開いた。

 

「えーっと……ごめん、みんな。俺も明日仕事早いからお先に」

 

 飛鳥が苦笑しながら申し訳無さそうにそう言うと、意外そうなみんなを代表してジャンヌが話しかけてきた。

 

「あら、飛鳥君。あとたった30分じゃない、どうせなら最後まで居たら?」

「ごめん、ログアウトしないでバステ食らったら、仕事に支障が出ちゃうから」

 

 バステとは強制切断時の気分の悪さのことだ。人によっては翌日まで引きずるので、意外と馬鹿に出来ないのである。みんなそれは重々承知だから、

 

「そう……仕事じゃあ仕方ないわね」

 

 と、ジャンヌもあっさりと引き下がった。

 

「名残惜しいけど、それじゃこれでお別れね」「またな、飛鳥。おまえと旅した冒険は楽しかったよ」「次のゲームでもよろしくな」「メールするから」

 

 ギルメン一人ひとりと別れの挨拶を交わしたあと、飛鳥は自分にしか見えないメニュー画面からログアウトボタンを押した。名残惜しそうに手をふるジャンヌに手を振り返す。

 

 そうこうしていると映画館で上映後に照明がついたときのように、世界がどこか薄ぼんやりとした色合いになっていき……やがてギルメンたちの姿が消え、目に映る全てが真っ白に染まった。

 

 そして今度はズンッと重力に押さえつけられるような感覚がして……次の瞬間、彼はリアル世界の自分の部屋のベッドの上に戻っていた。

 

 防音を施した部屋の中は静まり返っており、耳鳴りがするくらいだった。部屋のドアに鍵はかかっていたが、かかってなくても誰も入っては来ないだろう。家族は居ない。ゲームの邪魔をされないように、だいぶ前に家を出たからだ。

 

 ベッドの上に横たわっていた彼は被っていたヘッドギアを取り外すと、ふぅ~っとため息を吐いてから、首をポキポキ鳴らして起き上がった。ヘッドギアから伸びるケーブルの先にはパソコンデスクがあり、そのモニター上にほにゃららのログイン画面が今も映し出されている。

 

 彼はヘッドギアを置いてデスクに向かうと、パソコンを操作して、ログイン画面から新規キャラクタークリエイトのボタンを押した。

 

 終了ではない、新規スタートである。

 

 ほにゃららはフルダイブ型VRMMOであるが、操作するキャラクターは自分の姿ではない。キャラクリで予め用意しておいたキャラクターを選んで操作する……つまり、今彼は新たなキャラクターを作って、再度ゲームにログインし直そうとしていたのだ。

 

 新規キャラクターの名前は『(おおとり)(つくも)』。変わった名前だが、れっきとした本名である。

 

 デフォルトで用意された無個性なキャラクターに自分の名前をつけると、彼は再度ヘッドギアを被ってベッドに寝そべった。HMDに睡眠導入画面が映し出され、ヘッドホンから流れる音楽が徐々に彼の意識を奪っていく……

 

 特殊な機械であるから、人によってはログインするまでに時間がかかる。だが今はそんな悠長なことは言ってられない。何しろサービス終了まで30分も残ってないのだ。彼はあまり意識を集中しないようにと集中して、精神が機械と早くリンクするように努めた。

 

 相手をあまり待たせてはいけない。何しろサービスの終了と同時に、彼女との関係も終わってしまうかも知れないからだ。

 

 先程、ギルメンたちと別れる前、用事があると言って飛鳥より先にログアウトした『灼眼のソフィア』……彼女が言っていたその用事とは、実はギルメン抜きで彼と二人きりで会うことだったのだ。

 

 いや、その時、自分はもう魔法使い・デジャネイロ飛鳥ではない。鳳白だ。

 

 彼はそんなことを考えるともなく考えながら、またあの世界へとダイブしていった。

 

 鳳は彼女に伝えるつもりだった。実は自分達はゲームで出会う前からの知り合いだったことを。自分がリアルでは鳳白という名前であること。そしてずっと一緒に戦ってきた彼女のことを、自分がどんな風に想っているかを……

 



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終わる世界③

 フルダイブ・ログイン特有のふわふわした感覚が収まってくると、やがて真っ白な視界の中から、徐々に建物の輪郭が見えてきた。ほにゃららに再度ログインしてきた(おおとり)(つくも)は雲の上にある空中神殿の前に居た。

 

 昔、デジャネイロ飛鳥としてゲームを始めたときは、いきなり草原に放り出されたはずだった。今は新規に始めると、こんなチュートリアルが始まるのか……その分の開発費を他に回していれば、寿命ももう少し伸びただろうに……そんなことを考えながら、彼は神殿の中に入っていった。

 

『ほにゃららにようこそ。ここは剣と魔法が支配するファンタジー世界』

 

 神殿に入ると神官らしきNPCの女性が、何もしていないのに勝手に話しかけてきた。チュートリアルを始める気がない彼はNPCを無視して神殿内を探ってみたが、どうやって先に進めばいいのかが分からない。

 

「なあ、そんな話はどうでもいいから、さっさと街に飛ばしてくれないか?」

 

 仕方なくNPCに話しかけるも返事がない。まさかチュートリアルを進めなければ、ゲームが始められないなんて知らなかった。でも、こんなところで足止めを食っていたら、日付が変わってしまう……

 

 青ざめながら時計を確認していると、

 

「……あ……」

 

 神殿に別のプレイヤーが入ってきた。

 

 こんなサービス終了間際に新規スタートするなんて、物好きな奴もいたもんである……

 

 なんとなくバツが悪くて、早く先に言ってくれよと思いつつ、お互いにそっぽを向いていると、後から入ってきた新規プレイヤーは、神殿の片隅にある何やらオベリスクみたいなオブジェの前でごちゃごちゃやって、パッと居なくなってしまった。どうやらあれでチュートリアルを飛ばせるらしい。

 

 それを横目で見ていた鳳は、慌ててオベリスクに駆け寄ると、見様見真似で動かしてみた。仕組みは簡単だった。親切心過剰な注意書きで満たされたメニューが表示され、これに従っていけばどうやらゲーム内の主要都市なら、どこでも好きに転送してくれるらしい。彼は見知らぬプレイヤーに感謝すると、待ち合わせ場所に一番近い街への転送スイッチを押した。

 

 転送装置から降りて、慌てて街を駆け抜ける。待ち合わせ場所の丘の上に人影はなく、まだ彼女は来ていないようだった。ソフィアは先にログアウトしたのに、どこかで道草でも食ってるのだろうか?

 

 鳳は待ち合わせ場所にあったベンチに座ると、風に吹かれながら、眼下に広がる大草原を見下ろすように眺めた。

 

**********************************

 

 『灼眼のソフィア』こと、本名エミリア・グランチェスターと鳳白は、実はリアルでも知り合いだった。出会いは今から8年前。彼が通っていた小学校に、彼女が転校してきたのが切っ掛けである。

 

 それ以来、色々あって仲良くなった二人は、同級生たちの嫉妬の混じったからかいにも耐えながら、お互いの友情を育んできたのであるが……そんな日々はいつまでも続かなかった。やがて手足が伸び切って男女として意識し始める頃には、二人は段々疎遠となり、いつしか別々の友達と遊ぶようになっていったのである。

 

 なんやかや言っても二人は異性同士、いつまでも一緒には居られなかった。それは仕方ないし、それでいいと思った。鳳も男友達とつるんでる方が気楽だったし、彼女も女友達と遊んでいた方が楽しいだろうと思っていた。

 

 だが、それは間違いだった。

 

 鳳と遊ばなくなったあと、エミリアはどうやらイジメられていたらしいのだ。

 

 その名が示すとおり、欧州人である彼女は金髪碧眼でとても目立っていた。それが意地悪な連中の目について、彼女は居場所を失っていった。

 

 やがて、馬鹿な鳳が気づいた時には、もう彼女は学校に来なくなっていた。不登校の彼女は両親が心配するほど部屋に引きこもってしまって、いつまでも外に出れずにいるらしい。

 

 鳳はそんな彼女に何かしてやれないかと手を尽くした。でも何も出来なかった。家に行っても彼女には会えず、いつしか彼女の家族からも、エミリアを刺激するから来ないでくれと言われるようになってしまった。彼は彼女にとって、もはや重荷でしかなかったのだ。

 

 転機が訪れたのは今から4年前、風の便りで彼女がほにゃららをプレイしていると聞いたことだった。これなら部屋から出ないでも遊べるし、ゲームとは言え外の世界とつながる切っ掛けにもなるから、両親が買い与えても不思議じゃないだろう。鳳もダメ元でゲームを手に入れ、ほにゃららを始めた。

 

 そして見つけた。灼眼のソフィア……カスタマイズされたアバターは彼女と似ても似つかなかったし、エミリアという名前ですらなかったが、彼にはすぐにそれが彼女だと分かった。そのソフィアというキャラクターが、いかにも彼女らしかったのだ。

 

 こうしてオンラインゲームの中で彼女を見つけた鳳は、自分とは悟られないようにキャラクターを作って、彼女と同じギルドのメンバーとして過ごしてきたのだ。もし彼女に悩みがあるなら、相談できる相手になろうとして。いつかまた彼女が元気になった時、もう一度会えると信じて。

 

 でももうそれも終わりだ。仮に彼女が受け入れてくれなくても、時間のほうが待ってくれない。ほにゃららは今日終わるのだ。そうしたらもう、オンラインでも彼女に会える方法がない。

 

 だから最後の最後にこうして彼女の前に現れ、ずっと隠していたけれど、今まで一緒に居たのは鳳白だったのだと。中学時代に疎遠になってしまったけれど、ずっと心配していたのだと。今日はそれを伝えようと……彼はそう思ってここまで来たというわけである。

 

『ほにゃらら運営チームです。ユーザーの皆様に置かれましては、今まで当ゲームをご愛顧いただき誠にありがとうございました。間もなく当ゲームは15年の幕を閉じて……』

 

 サーバー内にアナウンスが流れる。ぼんやりと景色を眺めていた鳳は、その声にハッと我に返って、慌てて時計を見る。無機質なデジタル時計の表記は23時55分……

 

「……俺は、フラレたのか……?」

 

 鳳は立ち上がってぐるりと辺りを見回した。待ち合わせの丘には人の気配はない。動くものなんて、せいぜい、遠くの方でモンスターが見えるくらいだった。木陰にも、ベンチの下にも、建物の中にも彼女の姿は見つからなかった。彼は呆然と立ち尽くした。

 

 ゴーン……ゴーン……

 

 っと、どこからともなく鐘の音が聞こえる。毎晩0時を迎えた時に運営が鳴らす、時報の鐘だ。

 

『ほにゃらら運営チームです。まもなく、当ゲームはサービスを終了させていただきます。今までご愛顧くださった皆様に置かれまして、どうかご自分の健康をお考えの上、自発的なログアウトをお願いしたく……』

 

 呆然と立ち尽くす彼の耳にそんな声が聞こえてくる。どうやら、サービス終了時間が過ぎてもなかなかログアウトしないユーザーを心配して、運営が時間を延長しているみたいだった。

 

 ゲームはまだ終わっていない。とは言え、ここで待っていてもソフィアはもうやってこないだろう。

 

 鳳は目眩がするのを堪えながら、フラフラした足取りで待ち合わせの丘から離れた。もう、こんな場所にはいたくなかった。かと言って、ログアウトもしたくなかった。

 

 もしかして何かの行き違いで彼女はまだここにたどり着いていないだけじゃないのか? ログアウトせずに残っていたら、彼女がウィスパー通信で話しかけてくるんじゃないか? そうだ! もしかしたら入れ違いでギルドの方に顔を出しているかも知れない。

 

 そんなことを夢想しながら、彼は駆け足に近い速度でギルド砦へと向かった。行く宛なんて、他にどこにもなかった。彼女がいるとしたら、もうそれくらいしか思いつかなかったからだ。

 

 と、その時……ギルド砦のある街角に差し掛かった彼の耳に、聞き慣れた声が聞こえてきた。ハッとして振り返ると、街の広場にギルドの面々が集っている。ジャンヌ、カズヤ、リロイにAVIRLにクラウド。見慣れた面々の姿に、何故か安堵する。

 

 その中には、残念ながらソフィアの姿は見当たらなかったが、何故か勇気を貰ったような気がした鳳は、彼らに近寄っていくと、

 

「おーい、みんな! ちょうど良かった」

 

 と話しかけた。しかし、どこか焦った様子を見せる鳳が近寄ってくると、ギルドの面々は怪訝な表情をしてみせた。それがまるで知らない者を見るような目であったから、思わずどきりとしたが……

 

「……誰だ、あんた?」

 

 そう言われて思い出す。そう言えば今、鳳はギルドの魔法使い飛鳥ではないのだ。

 

「あ、すみません! 間違えました」

 

 血の気が引くような思いがして、鳳は咄嗟に初対面の振りをした。もちろん、自分がデジャネイロ飛鳥の別アバターだと言うのは簡単だ。しかし今、アバターに付けてる名前が問題だった。何しろこれは本名なのだ。付き合いが長いとは言え、いきなり身バレはしたくなかった。それに、さっき別れたばかりなのに、別キャラを作って何をしてるんだ? と言われてもバツが悪かった。

 

 胡散臭そうな目つきのギルメンたちから逃れるように、彼は回れ右してすぐ近くの建物の影に身を潜めた。はっきり言って隠れているのはバレバレだったが、わざわざギルメン達が確かめにくることもないだろう。

 

 しかし、これからどうしたものか。ゲームサーバー内は相変わらずログアウトを促す運営のアナウンスが流れている。これで最後だと言いながら三回も延長しているから、まだ強制切断されることはないはずだ。

 

 だが、多分もうアバターを変えてここに戻ってくるほどの余裕はないだろう。ソフィアを探すならこの姿のままで何とかするしかない。やはりギルメンに正体を明かして手伝ってもらおうか……

 

「ギャハハハハハ!」

 

 と、その時だった。焦る鳳の耳にギルメンたちの下品な笑い声が聞こえてきた。笑い声から察するに、カズヤだろうか。何がそんなにおかしいのだろうかと耳を傾ける。

 

「にしても傑作だったな、飛鳥の顔。あれでバレてないと思ってるのかね」「ああ、あいつ、ソフィアに告りに行ったんだろ? 気合入りすぎて、鼻の穴ヒクヒクしてやがったな」「あははははは!」

 

 うっ……そうだったのか。

 

 鳳は顔から火が出るような熱を感じた。どうやら彼の想いはギルメンたちにはバレバレだったようである。自分としてはバレてないつもりだったのだが、やはりあの寡黙なキャラに必要以上に話しかけたり、色々と接触を持とうとしていたのが目についたのかも知れない。

 

 だったら今更恥ずかしがることもないだろう。こうなったら正体を明かして、みんなの知恵を貸してもらおうか……

 

 そんな風に彼が表に出ようかどうかと逡巡している時だった。

 

「でも今頃、あいつどうしてんだろうな」「どうって?」「いや、だってさ、待ち合わせ場所に行ったって、いつまで経ってもソフィアは来ないぜ?」

 

 ……え?

 

 鳳は目をパチクリさせる。

 

「ソフィアが来ないって、どうしてだ?」「実はよ。あいつが昨日、ソフィアを誘ってるの見かけて」「うん」「俺、待ち合わせ場所が変わったって、後でこっそり変更してやったんだよね」「なんでそんなことを?」「そりゃもちろん、面白いからに決まってんだろ!」「ギャハハハ! そりゃひでえ」

 

 ……なんだって?

 

 鳳は唐突な目眩に襲われた。膝がガクガク震えている。

 

「だからいつまで経っても来やしないよ。100%待ちぼうけだ」

 

 なんてことしやがんだ……

 

 鳳は怒りのあまり、頭から血の気が引いていくのを感じていた。脳みそでシナプスが暴れているのか、パリパリと静電気みたいなものが走っている。こみ上げてくる吐き気を抑えつつ、彼は千鳥足のようにフラフラよろけながら、建物の影から飛び出した。

 

「おまえ……なんてことしてくれんだ……」

 

 ギルメンたちは不思議そうな目で彼を見ている。鳳はあまりの怒りに血の気を失った真っ青な顔で、そんな彼らを睨みつけ、唸るように叫んだ。

 

「これで……最後だったんだぞ? もう、彼女に会えないかも知れないんだぞ……? どうしてそんな酷いこと、平気で出来るんだよ、てめえはっ!!!」

「はあ? おまえ、誰だよ?」

「ずっとずっと……今日のために頑張ってきたんだ! みんなのレベルについていくために、必死になってアルバイトで貯めた金をつぎ込んで、家族に呆れられても、彼女に会うためだけに部屋まで借りて……なのに……なのに……」

「もしかして、あなた……」

「ちくしょうっ!! ぶっ殺してやる!」

 

 怒り心頭の鳳が叫び声を上げると、流石にカズヤも焦ったようだった。突然現れた見知らぬ男に、いきなり殺意を向けられれば当然だろう。困惑する彼のもとへ拳を振り上げながら鳳が迫る。慌ててジャンヌが間に入って、彼を押し留めようと身構えるが……

 

 だが、その必要はなくなった。鳳の拳がカズヤに届くよりも、ジャンヌがそれを押し止めるよりも先に……

 

「な、なんだこれ!?」「あれえ? 体が動かない」

 

 突然、彼らの足元に光る謎の魔法陣が現れて、彼らの自由を奪ったのである。

 

 キラキラとした光に包まれ、体を拘束される。必死になってメニュー画面を開くが、それを操作することさえ覚束ない。唐突な出来事にパニックになる一同。その時、誰かが泡を食ったように叫んだ。

 

「も、もしかして運営が何かしたんじゃねえかな? 強制切断するとか」

 

 しかし、それを否定するようにまた誰かが叫ぶ。

 

「でも、こんなギミック今まで一度も見たことがないぞ? 最終日にいきなり実装するわけないだろう!」

「じゃあ、なんだよこれ!」

 

 彼らの足元に現れた魔法陣は、いつの間にか彼ら全体を包むように大きくなり、徐々に光量を増していった。やがてその光は周囲の景色をかき消し、すぐ隣にいる人の姿までもが見えなくなった。

 

 鳳はそんなまばゆい光の中で身動きも取れず、焦燥感に駆られながらも、必死にエミリアのことを考えていた。

 

 一体何が起きているかわからないが、ここに彼女がいなくてよかった……後になって考えても見れば、今生の別れだったかも知れないというのに。彼は最後までそんなことを考えていた。

 



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始まる世界

 世界は真っ白で、どうしようもなく眩しくて、目を瞑ってなければ網膜が焼ききれてしまいそうなくらいだった。耳をつんざく大音響が、痛いほど鼓膜を刺激する。三半規管が馬鹿になってしまったのか、上を向いているのか、下を向いているのか、自分がどこにいるのか、そもそも、自分なんてものが果たして本当に存在するのだろうか……そんな当たり前のことさえわからなくなってしまうくらいに、(おおとり)(つくも)は前後不覚に陥っていた。

 

 大声をあげて周囲に助けを求めてはみたが、果たして意味はあっただろうか、叫ぶ自分の声さえ耳に届かない。一体何が起きているのだろうか? 最後に覚えているのはゲーム内でカズヤに掴みかかろうとしたとき、不思議な魔法陣が現れて、その場に居たギルメン共々、包み込まれたことだった。

 

 あの後どうなったのか? 自分はまだあの場にいるんだろうか? 目を開けて確認できれば簡単かも知れないが、目を開けたところでどうせ何も見えなかっただろう。

 

 こうなってしまえばやれることは唯一つ……その場にうずくまってママーと叫ぶだけだ。もしかしたら最悪の選択かも知れないが、見境もなく大暴れするよりはマシに思える。鳳は耳を塞ぎ、目を閉じて尚も網膜を刺激する強烈な光に耐えながら、なんとかこの理不尽な嵐が去るのを待った。

 

 それからどれくらいの時間が流れただろうか……ほんの一瞬だったような気もするし、気が遠くなるくらい長い年月が過ぎたような気もする。ともかく、辛抱強く待っていると、やがて彼を容赦なく攻め立てていた大音響が収まってきて、ようやく目の奥を刺激する強烈な光が収まってきた。

 

 そして唐突に訪れる静けさ……さっきまでは何も聞こえてこなかったくせに、今は自分の心臓の音さえ聞こえてくる。危険は去ったのか? 恐る恐る目を開けてみれば、薄ぼんやりとした視界の先に、幾人かの人影が見えた。

 

「お?」「……ん?」「なんだったんだ……?」「終わったの?」

 

 力いっぱい目を瞑っていたせいか、貧血にも似た目眩がして、暫くはうまくピントが合わなかった。それがようやく落ちついてきたら、視界に映る人影は4つ。

 

 彼のすぐ目の前には自分と同じかほんのちょっぴり背の低い、吊り目がちでいわゆるしょうゆ顔の男がいる。そのすぐ背後には、背が低くメガネに出っ歯のトッチャン坊やみたいな男と、くたびれたダンガリーシャツにジーンズ姿の、シリコンバレーにでも居そうな白人男。そして鳳のすぐ隣には、筋骨隆々、剃り残しのヒゲが青々として、顎が2つに割れたマッチョの巨漢が立っていた。エレベーターの中とかで、あまり出会いたくない人物だ。その迫力に、思わず距離を取る。

 

 それにしても……目の前の男たちは誰ひとりとして見覚えがなかった。自分がどこにいるのか、何故彼らと一緒なのか、まるで見当もつかない。

 

 困惑しながら周囲を見渡せばそこは、石レンガを積み上げた壁に覆われており、明り取りの小さな窓から差し込む光だけが頼りの、殺風景な空間が広がっていた。石畳で出来た地面も同じく飾り気がなかったが、テラテラと光って見えるのは、何かの液体がぶちまけられているかのようだった。

 

 一体これはなんだろう? どす黒く汚れた地面の染みが何なのかは一見して分からなかったが、なんとなく嫌な感じがするそれを見ていたら、鉄分を含んだ血の臭いが鼻孔を刺激した。もしかしてこの染みは、血の跡なのか?

 

 何かおかしな儀式でもした後のような痕跡に怖気が走る。更によくよく見てみれば、その液体は何か幾何学的な模様を描いているようだ。

 

 鳳はなんとなく、それをどこかで見たことがあるような気がして、首を捻っていると……ようやく気づいた。

 

 これは魔法陣だ。細かいディテールまでは覚えちゃいないが、多分、ゲーム内で最後に自分達の足元に現れたやつだろう。それによく似ている気がする。

 

 そう考えてから、改めて男たちを眺めてみたら、彼らの位置関係はギルメンが魔法陣に巻き込まれる前に立っていた場所と一致していた。

 

 すると、目の前にいるこの男は……

 

「おまえ……カズヤか?」

「え? じゃあ、おまえはもしかして……飛鳥なのか?」

 

 ぽかんと口を半開きにして、鳳の顔をまじまじと見つめる男。間違いない。何故かいつものアバターとは姿形が変わってしまっているが、目の前にいるこのしょうゆ顔の男は、ギルメンのカズヤに違いなかった。

 

 その顔を見ていると腹の底にムカムカする感覚を覚えた。鳳はその胃のムカつきで、彼がここにくる直前に何をしたかを思い出し、目の前の男の胸ぐらを掴んだ。

 

「てめえカズヤ! ソフィアとの待ち合わせ場所を変更したって、一体どういうことなんだ!? 本当なのか!!」

「わっ! ちょっ! ちょっと待て!! やっぱおまえ、飛鳥なんだな!? とにかく落ち着け、こんなことしてる場合か」

「こんなことじゃねえよ! おまえ、俺がどんだけこの日に賭けてきたか……ふざけんじゃねえ、ちくしょうっ!!」

「わー! たんまたんまっっ!! 落ち着けよっ!」

 

 いよいよ怒り心頭の鳳が震える拳を振り上げる。そんな彼を刺激しないようにと思ったか、それともそれが持って生まれた性格なのか、カズヤの嘲るような憎たらしい苦笑を見て、鳳は寧ろ怒りを覚えた。

 

 もはや我慢の限界だ。彼は怒りに任せて上げた拳を振り下ろした。流石にやばいと思ったか、顔面蒼白のカズヤが防御するように腕をクロスする。

 

 しかし、二人がぶつかることはなかった。

 

「やめなよ」

 

 カズヤに殴りかかろうとする鳳の手首を、すぐ横で見ていたマッチョがはっしと掴んだ。

 

 未だ怒りが収まらない鳳は力任せにそれを振りほどこうとするが、丸太みたいなその腕はびくともしなかった。もみ合うように二人が押し合いへし合いしているそのすきに、カズヤは鳳から距離をとって、やり取りを見てあたふたしている男たちの背後に逃げてしまった。

 

 マッチョに羽交い締めされた鳳はそれを見ながら奥歯をギリギリと噛みしめると、ようやく力を抜いて吐き捨てるように言った。

 

「くそっ……わかったよ! わかったから離せよ!」

 

 マッチョは少し迷いを見せたが、すぐに彼を解放してくれた。鳳は乱暴にマッチョの腕を振りほどくと、真っ赤に血走った目でカズヤを睨んだ。そのカズヤは二人の男たちの影から軽薄そうな愛想笑いを向けながら、

 

「もう落ちついたか~?」

 

 と、また神経をかき乱すような声をかけてきた。

 

 ここまで無神経ならば、これはもうわざとと言うよりも、元々こういう人間だったとしか思えない。長年付き合ってきた人間の性質を思い知らされ、鳳は怒りを必死に抑えながら、舌打ちで返すと、ムスッとした表情でそっぽを向いた。

 

 実際、好き嫌いはともかくとして、カズヤの言う通り落ち着かなければならなかった。何しろ、状況が状況である。一体、自分達に何が起きたのか、ここがどこなのか、これから何をすればいいのか。何一つ分からない。

 

「取り敢えず、状況確認だけはしとこうぜ? お前が飛鳥だとすると……おまえはもしかして、AVIRLか?」

「そうでやんす」

 

 トッチャン坊やがおかしな返事をかえしてきた。ゲーム内ではそんなオタク丸出しじゃなかったと思ったが……人によってはネットとリアルで性格が違う者もいるし、彼もその口なのだろう。

 

 ところで彼がAVIRLだとすると、隣にいるダサいシリコンバレーは、

 

「リロイ……ジェンキンス……」

 

 こっちから尋ねる前に、シリコンバレーがそう言った。案の定、こいつはあのバーサーカーであるらしい。見た目と行動にギャップしか感じなかったが、らしいと言えばらしくもある。興奮すると妙に話が通じないと思っていたが、それは中身が外国人だったからなのだろうか。

 

 そして最後、鳳を羽交い締めにしたマッチョの男。これがクラウドだろう。クラウドはいつもパーティのみんなに気を配ったり、悪乗りするギルメンを嗜めたりと、ギルドの良心とも呼ぶべき紳士だった。なんというか他の3人と違ってイメージ通りである。

 

「あんたがクラウドか。さっきはみっともないとこ見せたな、ありがとう」

 

 鳳はまだムカムカしていたが、それでも気持ちを落ち着かせながら、暴力を止めてくれたマッチョに手を差し出した。あの時あのままカズヤを殴りつけても後悔はしなかっただろうが、その代わり惨めな気分になっていたかも知れない。それを止めてくれた相手に礼を言わないのも無礼だろうと、握手のつもりで差し出したのだが……

 

 ところが目の前のマッチョは何故か差し出された手を見ながら、戸惑うようにオロオロするばかりで、一向にその手を握り返そうとしない。どうしたんだろうかと首を捻っていると、マッチョではなくトッチャン坊やが、

 

「飛鳥氏、拙者は最後見たでやんすよ。クラウド氏はあの時、拙者たちと違って魔法陣の外にいたでやんす。だからここには居ないのではないでやんすか?」

「え? じゃあ、このマッチョって……?」

 

 キョトンとした表情でマッチョを見上げると、彼はほんの少し顔を赤らめ、巨体に似合わぬモジモジした仕草で、

 

「そ、そうよ……私はジャンヌ……†ジャンヌ☆ダルク†よ!!」

「えええええええ~~~~!!!!」

 

 トッチャン坊やを除く男三人の絶叫がハモる。鳳は目をパチクリさせながら、

 

「ジャンヌ……あんた、おっさんだったのか?」

「おおお、おっさん言うな!」

 

 ジャンヌは顔を真っ赤にして、肩をすくめ可愛らしい仕草をしながら声を張り上げた。なんというか、それがもし小柄な女性だったら可愛かったのだろうが、彼がやるとただ不気味であった。鳳はドン引きしながら、

 

「そ、そうか……アバターの性別を変えてプレイする人もいるけど、まさかジャンヌがそうだとは思わなかったよ」

「お墓まで持っていくつもりだったのにぃ~……!!!」

「ま、まあ気をしっかり持てよ……つかおまえ、見た目は、ジャンヌ・ダルクっていうより、呂布とかコマンドーって感じだよな」

「ううっ……私だって好きでこんな姿に生まれたんじゃないわっ!!」

「わっ! すみませんすみません!!」

 

 半泣きのジャンヌが血走った目で迫ってくる。丸太のようなその腕で殴られたら命の保証はなさそうだ。鳳は口を引きつらせながら謝罪の言葉を口にする。

 

 と、その時、二人の会話に割り込むように、カズヤが話しかけてきた。

 

「ところでさあ、さっきから俺たち当たり前のように会話してっけど、この見た目って……」

 

 彼のやったことを思い出すと腸が煮えくり返る思いがしたが、今はもう怒ってる場合ではない。鳳は彼に頷き返すと、

 

「ああ、鏡が無いから確かめらんないけど、多分俺たち、いま生身の姿なんだよな?」

 

 彼の言葉に、その場に居る全員がチラチラと周りの仲間たちに視線を配る。ゲーム内ではいつも一緒だったが、誰一人としてリアルでの付き合いはなかった。なんだか突然、心の準備もなく、無理やりオフ会に連れ出されたような気分である。

 

 ジャンヌは自分の顔をペタペタと触りながら、

 

「そうね、はっきりとはしないけど、多分これは私の顔よ。というか見慣れた筋肉が私だと雄弁に語っているわ……くっ」

 

 自分で自分の言葉に傷ついているようだ。彼はマッチョなのが相当嫌なのだろう。続けてトッチャン坊やがメガネを外しながら言う。

 

「拙者も自分の顔は見えないでやんすが、この眼鏡は自分の物だって断言出来るでやんす。着てる服も見覚えあるし……っていうか、今日着てた服でやんすよ?」

「リロイ・ジェンキンス!」

 

 シリコンバレーが同意するように頷いた。というか、彼はリアルでもそれで押し通すつもりなのだろうか……

 

 おまえはどうなの? と視線を送ると、カズヤも同意見であるのを示すかのように無言で頷いた。鳳も顔は見えないが、着てる服は自分のものだと確認した。ならおそらく、自分の体で間違いないだろう。

 

「どういうことだ? 鯖から強制切断されて、リアルに戻ったってことか?」

「だったら、自分の部屋に帰るだけだろ。どうしてみんな同じ場所にいるんだよ。瞬間移動したっていうのかよ」

「……強制切断されたと見せかけて、現実の姿を模したアバターに移し替えるドッキリとか?」

「運営にそんな技術があるなら、サービス終了してないわ」

「そりゃそうでやんすね……って、あれ?」

 

 トッチャン坊やが何かに気づいたらしく、変な声を上げた。どうかしたのかと促すと、

 

「いえその、さっきからメガネの度が合わないなと思ってたんでやんすが……メガネを外した方がよく見えるんでやんすよ」

「……どういうことだよ」

「拙者、ものすごく目が悪いんでやんす。だからメガネを外したら何も見えないんでやんすが、今は寧ろそっちの方がクリアっていうか……メガネを掛けるほうが見えにくくなるんでやんすよ」

「つまり……視力が回復したってこと?」

「そう考えるのが妥当でやんすかね?」

 

 メガネを着脱しながら、彼は不思議そうに呟いた。ゲームしてたら謎の魔法陣が現れて、どこかに飛ばされたと思ったら、生身の視力が回復していたというのだから、狐につままれたような話であろう。

 

「……やっぱまだゲーム内なんじゃないか? これ」

「そんな馬鹿な話があるか」

「現に馬鹿げたことが起きてるじゃないか。つーか、そもそもここはどこなんだよ」

「そうだ、ここはどこなんだ」

 

 一箇所に固まって顔を突き合わせて話し合っていた彼らは、自分達の言葉にハッとして改めて周囲を見渡した。最初に見たとおり、石壁に囲まれた殺風景な部屋だったが、心に余裕が出てきたことで、四方を囲む石壁の一つに、重そうな鉄扉で閉じられた出入り口らしきものが見えた。

 

「あ、なんだ、出口があるんじゃねえか」

 

 しかし、気づいた鳳が早速とばかりに近寄っていって扉を開けようとするが、

 

「ダメだ! 鍵がかかってやがる」

 

 ガチャガチャと開かない扉を鳴らしながら振り返ると、眉をひそめて険しい表情のジャンヌが近づいてきて、彼と同じように扉を調べ始めた。

 

「……本当だわ。私達、閉じ込められたってこと?」

「閉じ込められたって……一体誰に?」

「それはわからないけど……このお城の人じゃないかしら」

「お城? ここは城なのか?」

 

 鳳がそう聞き返すと、言った張本人が目をパチクリさせながら、

 

「え!? えーっと、そうね。お城じゃないかしら? って、なんとなくそう思ったんだけど……」

「どうしてそう思ったんだ?」

「それは……石壁とか、雰囲気で??」

 

 聞いているのはこっちなのだが……要領を得ないジャンヌの返事に、みんなの訝しげな視線が集中する。彼は困ったような愛想笑いを浮かべて小さくなった。

 

 と、その時だった。

 

「ステータス!」

 

 返答に詰まるジャンヌの顔をまじまじと見ていたシリコンバレーが、突然大声でそんなセリフを叫んだ。普段から話の通じないやつだったが、あまりに唐突すぎて面食らう。

 

 鳳が非難がましく睨みつけると、すると彼はほんの少し興奮気味に早口で、

 

「ほ、ほら! テンプレ。よくある小説、異世界転生ものとか、チートとか、ステータスがあるでしょう?」

 

 きっと母国語じゃないせいで、彼の頭の回転に言葉が追いついてこないのだろう。それは途切れ途切れで文としては意味が通じないものだったが、その場にいる全員が彼の言わんとしていることが分かった。

 

「ステータス!」「オープン・ウィンドウ」「メニュー画面、開く」「ボスが来たっ!」

 

 咄嗟にそんなセリフが飛び交う。

 

 そして彼らはお互いの顔を見つめ合った。

 

「見えるな……」「私も見えるわ」「まじかー……」

 

 彼らがゲーム中にステータス画面を呼ぶときの命令を声に出すと、目の前の空中に半透明の文字列が浮かび上がった。それはゲームのステータス画面とそっくりで、彼らのHPとかMPとかストレングスなどの各種基本ステータスと、スキルや所持品などの項目が見える。

 

 もしかして、スキルも使えるのでは……? そう思った鳳は、ステータス画面を操作し、自分が使えるスキルは無いかと探ってみたが……残念ながらスキルはおろか、アイテムなどの所持品も何も見当たらなかなった。

 

 そう上手くはいかないか……と落胆していると、ところが彼以外のメンバーは、

 

「へえ、スキルも使えるみたいだな」「ゲームと特に変わりないでやんすね」「リロイ・ジェンキンス」

 

 などと会話を交わしている。鳳が目を丸くして、

 

「え? おまえらはスキルが使えるの? 俺はスキルが見当たらないんだけど……」

「ああ……つっても、こんなのただの見かけだけで、本当に使えるかどうかわからないけどな」

 

 カズヤはそう言うと、腕を出入り口の扉の方へと腕をかざしながら、

 

「ファイヤーボール!」

 

 何の気なくそう言葉を走った瞬間だった。

 

 カズヤのかざした腕の先に、突如、小さな光が現れたかと思うと、それは徐々に大きくなって、やがて見事な火球となった。それをやった本人が一番驚いているのにも関わらず、その火球は自動的にカズヤの腕から飛び出すと、腕を差し伸ばしていた方向……つまり扉へと一直線に飛んでいった。

 

 ドドンッ!!!

 

 っと、鼓膜を突き破るような大音響が部屋内にこだまして、飛び散った炎のかけらが着弾点の近くで燃え上がる。途端に真っ黒な煤のような煙が室内に充満した。

 

「わああああ! やばいやばい!!」「火を消せ! 早くっ!!」

 

 鳳たちは上着を脱いで、バッサバッサと叩いて火を消した。火はあっさりと消えたが、扉には真っ黒に焼け焦げた痕が残り、その威力のほどが窺えた。一体、何を火種にして燃えていたのか分からないが、とにかくこれを人に向けて撃ったらやばいのは間違いないだろう。撃った張本人は、自分の手をためつすがめつしながら呆然としている。

 

 それにしても……これは現実に起きていることなのか? やっぱり最初に誰かが言っていたように、ゲームの運営会社のいたずらなんじゃないのか? そんな妄想が頭を過るが、それはその後すぐに否定された。

 

「そこに誰かいるのかっ!?」

 

 と、その時、扉の向こうから誰かが声を掛けてきた。つい今しがたまでギャースカ騒いでいた面々が、ピタリと黙った。

 

「誰か……いるのか……?」

 

 扉の向こうの声が、恐る恐ると言った感じで再度呼びかけてくる。鳳たちはお互いに目配せし合うと、頷いて、こちらも恐る恐るといった感じで返事をした。

 

「ああ、いる! あんた、ここの人なのか? 出来たらここを開けてくれないか?」

 

 すると外にいる人物の息を呑むような声が聞こえてきて、彼は泡を食ったように、

 

「わ、わかった! ちょっとまってくれ! 人を呼んでくる」

 

 ガッシャガッシャと鎧のような金属音を立てて、扉の向こうの人物はどこかへ去っていった。

 

 残された鳳たちはまたお互いに顔を見つめ合いながら、早まったかな? もう少し様子を見たほうが良かったのでは? と、胸中の不安を吐露しあったが……結局、何も出来ないから、彼が帰ってくるのをただ待つしかなかった。

 



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ここに勇者が現れた

 扉の向こうの男が帰ってきたのは間もなくだった。時間にしてせいぜい数分程度のことだったろうが、それを待ってる(おおとり)たちには、とんでもなく長く感じられた。しかし、戻ってくるまでは本当に戻ってきてくれるのかとヤキモキしたが、実際に戻ってくると、今度は部屋の外で動くガヤガヤとした気配がプレッシャーになった。

 

 どうやら彼が呼んできたのは一人や二人じゃないらしい。時折聞こえてくる金属の擦れるような音が不安を掻き立てる。さっきジャンヌが言った通り、ここがもし本当に城の中だとすると、向こう側にいる連中は衛兵か何かのはずだ。

 

 あれ? すると自分達は今、どういう立場なんだ? もしかして不法侵入なんじゃないか? 実は助けを呼ばない方が良かったんじゃないかと後悔しかけた時、炎で少し歪んでしまった扉がギシギシと音を立てて開いた。

 

 ぽっかりと口を開けた出入り口から、複数の甲冑を着込んだ男たちがなだれ込んでくる。その人数にも驚かされたが、それよりなにより、先頭の二人が構えている抜身の剣の方に驚かされた。鈍く光る刀身は如何にも重厚そうで、人を殺すために作られたものだと実感させられた。

 

 鳳たちが兵士の構える剣に恐れを為し無言で後退る。警戒する彼らを見て、兵隊の中からリーダーらしき者が慌てて飛び出してきて言った。

 

「剣を向けるご無礼をお許しください。どうか皆様には警戒しないでいただきたい。立場上仕方なくこうしておりますが、こちらから危害を加えるつもりは毛頭ございません」

 

 想像していたよりもずっと柔らかい物腰に、鳳たちは逆に警戒心が湧き上がってきた。こっちはどういう態度を取ればいいのだろうか。強気か弱気か。さっきみたいに魔法を使って、ここを突破するのがいいのだろうか……彼らの脳裏に様々な考えが浮かんだが、結局は無難な応答をするしか選択肢はなかった。

 

 鳳たちの中で最も体格の良いジャンヌが押し出されるようにして一歩前に出る。彼は冷や汗をかきながら、仕方なく兵士たちに向き合うと、

 

「わ、私達は何もしないわ。だから剣を下ろしてちょうだい」

「質問に答えていただければすぐにそういたします。あなた方はどこからどうやってこの中に入ってきたんですか?」

「どこからって言われても……」

 

 泣きそうな視線を仲間たちに向けるジャンヌ。どこと言われると困るものがあるが、ここは正直に答えるしかないだろう。

 

「どこからでもないわ。私達はただVRMMOのゲームをしていたら、気がついたらこの中に居ただけで……」

 

 彼の返答に兵士たちが動揺する。多分、VRMMOと言っても意味が通じてないのだろう。当たり前だ。このままだとあらぬ誤解をされかねないと思い、背後に隠れていた鳳が咄嗟に付け加えた。

 

「VRMMOってのは、魔獣を倒す訓練装置みたいなもんだ。俺たちはとある装置を使って、剣や魔法で魔獣を倒す訓練をしていた。すると突然、見たこともない魔法陣が現れて、俺達を包み込んだかと思ったら、次の瞬間にはここにいたんだ」

「訓練……装置? その装置というのは、一体どういう仕組みで?」

「知らないよ。道具は使い方さえわかれば、いちいちその仕組みまで知らなくてもいいだろう? それに多分、こっちの世界には存在しないだろう。異世界の装置なんだ」

「異世界!」

 

 その言葉に更に兵士たちがどよめく。鳳はまずいことを言ってしまったかなと内心冷や汗をかいたが、続く言葉はそれとは真逆のものだった。

 

「やはり……あなた方は異世界から召喚された勇者様なのですね?」

 

 鳳たちはその言葉を聞いて目配せし合った。さっきステータス画面を出したところで、薄々そうなんじゃないかと思ってはいたが……新たな情報を得て、それは確信に変わった。

 

 やはり、自分達は異世界召喚されたんだ……鳳たちの胸に言いようの知れない高揚感が広がってくる。

 

 ともあれ、まだまだこれまでの情報だけで、ハイそうですと言い切るわけにはもいかない。鳳は慎重に言葉を選んで続けた。

 

「もし、あんた達が異世界の住人を呼ぶ儀式なりなんなりをした覚えがあるなら、きっとそうだろう。俺たちは単に、謎の魔法陣に包まれて、気がついたらここに飛ばされていたんだ。それ以上のことはよくわからない」

 

 その言葉に兵士たちの間からどよめきが起きる。

 

「おお! やはりこの方々は……」「成功していたんですね」「すぐにお館様にお知らせせねば」

 

 抜身の剣を構えていた兵士たちは頷きあってから、慌てて剣を鞘に戻した。そして詫びるように握りこぶしを自分の胸に当てながら軽く頭を下げると、

 

「ご無礼をお許しください。あなた方がおっしゃるとおり、我々には身に覚えがございます。突然のことに混乱なさっておられるでしょうが、我が城主より状況をご説明させていただきますから、よろしければ謁見の間までご同行願えますか」

 

 丁寧でありながら有無を言わさぬ言葉にほんのちょっぴり尻込みする。だが、ここで拒否するという選択肢はないだろう……鳳たちはゴクリと生唾を飲み込むと、おっかなびっくり頷きかえした。

 

********************************

 

 一行は兵士に先導されて部屋を出た。途中、真っ黒に焼け焦げた扉のことを尋ねられて、カズヤが魔法を使ったことを詫びると、兵士たちの動揺はさらに大きくなった。魔法が使えるということが、彼らにはよほど重大事であったらしい。多分、それが鳳たちを異世界から召喚した証拠になるのだろう。

 

 彼らの言葉から察するに、どうやら召喚の儀式は失敗したと思われていたようだ。儀式をしたのはだいぶ前のことで、まさか時間差で成功するとは思ってもみなかったものだから、鳳たちが現れた時、部屋は無人の上に鍵までかかっていたのだ。

 

 その儀式がどういうもので、どうして自分達が呼び出されたのか、それ以上詳しいことは城主に聞いてくれとのことだった。彼らが儀式を行った張本人というわけじゃないから、一介の兵士ではこれが限界なのだろう。そりゃそうかと落胆しつつ、彼らの後をついて歩く。

 

 鳳たちが現れたあの殺風景な部屋は、どうやら城の地下にあったらしく、ジメジメとした暗い通路の奥には鉄格子の嵌った地下牢が見えた。多分、儀式を秘匿するために目立たない場所で行ったのだろうが、その薄暗い雰囲気には、このまま彼らについていっても平気なのかと緊張を覚える。

 

 しかし、地上に出ると一転して辺りは明るくなり、そこには様々な宝物で装飾された、目も眩むばかりの美しい世界が広がっていた。てっきり中世の要塞のような場所を想像していたから、そのギャップに驚かされる。

 

 通路の壁にはところどころニッチが施されて、そこに綺羅びやかな彫像が置かれている。アーチ状になった天井は圧迫感を感じさせないほど高く、いくつものシャンデリアがぶら下がっており、そのキラキラと光るガラス細工は見事の一言であった。どうやらこの世界には芸術を愛でるくらいの文化があるようだ。

 

 圧巻なのは通路に面し外壁をくり抜いた巨大な窓で、そこに嵌っていたのは曇り一つない透明なガラスであった。透明な一枚ガラスを作るのは言うまでもなく難しい。ここにはそれだけの物が作れる技術力があるのだ。更には、その見事なガラス窓の反対側の通路にも同じく窓を模した装飾が施されており、なんとそこには銀色に煌めく鏡がはめこまれていたのだ。

 

 外の風景を反射するその鏡によって、通路は見た目の倍以上に広く感じられ、シャンデリアで乱反射する光が通路を白く染め上げる。幻想的な光景にしばし見とれていると、なんだかどこかで見たことがあるような既視感を覚えたが、

 

「ヴェルサイユ宮殿みたいね」

 

 というジャンヌの言葉で思い出した。確かにこれはヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊にそっくりだ。実際に行ったことことがないからはっきりとは言えないが、この城を作った建築家は少なくともそれと同じような設計思想を持っていたのだろう。

 

 そんなことってあるのかな? と、不思議に思いながらそこを通り過ぎ、更に大きな吹き抜けの大広間を通って、二階へと続く階段を上る。

 

 二階は城主の居住区のようで、あちこちに待合用のソファが置かれており、一階にも増して見事な調度品の数々が目を楽しませてくれた。床には、おそらくビロードで出来ている、信じられないほど艷やかで柔らかな赤絨毯が敷かれており、それがつなぎ目もなく、どこまでもどこまでも続いている。

 

 極めつけ、謁見の間の前に用意された待合室は本当にすごかった。日本の家屋なら2階建てがすっぽりと入りそうな空間に、壁から天井に至るまで全てフレスコ画で彩られているのだ。陰影と遠近法で表現されたその精緻な絵画は、見るものが見なくても歴史的価値があるのが分かるくらい見事な代物だった。下手したら、ミケランジェロやラファエロにも劣らないのではなかろうか。

 

 鳳たちはため息を吐いた。なんというか大抵の場合、異世界転生ものの小説なり漫画なりでは、地球よりもずっと技術的に劣った世界に飛ばされるのが定番だが、少なくともこの世界は芸術の点では元の世界とタメを張れそうである。

 

 ここに来るまでに目にした調度品から推測するに、ざっとルネッサンスから啓蒙時代くらいの技術力はあるんじゃないか。もしかすると電気も存在するかも知れない。下手に知ったかぶって恥をかかないようにしておこう……

 

 口をあんぐり開けて天井画を見ていたら、謁見の間の扉が開かれ、宮廷衣装に身を包んだ慇懃丁寧な紳士たちが恭しく現れた。いよいよこの城の主とご対面のようである。

 

「勇者様御一行、おなーりー!!」

 

 そんなに大きな声を出さなくても聞こえるよと言いたくなるような大声に急かされ、鳳たちは謁見の間に足を踏み入れた。

 

 ここに来るまでに見せつけられた宝物の数々で、否応なく自分達の小ささを思い知らされた面々は、傍から見ればきっと小さく見えただろう。まあ、その方がいいだろう。少なくとも、不興を買うことはないだろうから。何しろ、目の前にずらりと居並ぶ人々がまた振るっているのである。

 

 鳳たちを出迎えてくれたのは、最初に地下に現れた兵士たちと同じ甲冑に身を包んだ近衛兵たちであったが、謁見の間にいた彼らは装備しているものが違った。左右に別れて立つ数十人からなる近衛兵たちは、捧げ銃のように手にしたライフルを天井に掲げて、続いてアーチ状にその銃剣を交差し、最後にまた捧げ銃をして脇に下ろし、回れ右をして白達に道を開けた。その一糸乱れぬ動きは彼らの練度の高さを窺わせる。まるで、お前ら変なことしたら蜂の巣だよ? と言っているようである。

 

 すっかり怖気づいてしまった一行に近衛兵達が道を譲ると、すると今度は、その先で一段高くなった場所に玉座があり、一人の男が鎮座していた。

 

 年の頃は、鳳と然程変わらぬかちょっと上くらい、せいぜい20代前半と言ったところか。金髪碧眼の細面で、秋葉原にでも居そうな感じもするが、どことなく気品も漂ってくる。勝ち気そうな生意気な面をしており、きっと子供の頃は相当やんちゃだっただろうと思わせる。遠目にも見事なのが分かる装飾がふんだんに施されたガウンを羽織り、下には金糸で様々な刺繍の入った衣装に身を包み、その頭には大きな金の王冠を乗せていた。多分、彼がこの城の主だろう。

 

 意外に若いその姿に驚きもしたが、それ以上に驚いたのは、彼の手前に並ぶ側近の男たちと、その男たちにかしずくようにして控える貴婦人たちの姿だった。

 

「おい、見ろ……エルフだ」

 

 鳳の隣に立っていたカズヤが、聞き取れないくらい小さな声で呟いた。本当に聞き取れないほどだったが、はっきりと聞こえたのは、多分この城に来て一番驚いた瞬間がこの時だったからかも知れない。

 

 目の前に、ファンタジー世界でお馴染みのエルフが立っていた。恐ろしく白い肌に端正な顔立ち、細長い耳が左右に垂れていて、まるで絵画から飛び出してきたような非現実感を漂わせている。

 

 例えば3Dモデルのように、人間に似せたCGを描いていると、それが人間に似れば似るほど気持ち悪く感じてくるという、不気味の谷現象というものがある。ところで、その谷を超えて更に人間に似せようとすると、ある時点を境に気持ち悪さは薄れて、今度は現実よりもずっと美しく神秘的に感じるようになる。目の前の彼らは、正にそんな感じの美しさを讃えていた。

 

 鳳たちが呆然と立ち尽くしていると、彼らをここまで案内してくれた兵士がこそこそと近寄ってきて、

 

「勇者様がた……さあ、どうぞ前へ」

 

 と言って、早く進むように促した。ハッと我に返った彼らは、促されるままに玉座の前まで進んだ。

 

 それで、これからどうしよう? 言われるままに城主のところまでやってきたは良いものの、これから先、何をしていいのかが分からなかった。

 

 台座の上に置かれた玉座には、城主がふてぶてしそうな表情で座り、鳳たちを睥睨している。周りには取り巻きらしきエルフたちが立ち並んでいて、その神秘的な眼差しでじっと異世界の闖入者たちを見つめている。こころなしかその表情が険しいように見えるのは、主君の前で無礼だと思っているのだろうか。

 

 どうする? 膝をついて何か格好いい口上とかを述べた方がいいのか? こういう時の作法がさっぱり分からない。パッと思いつくのはせいぜい、額を地面に擦り付けて土下座するくらいのものである。

 

 ジャンヌを始めとする仲間たちも似たようなものらしく、誰かが何とかしてくれないかと言った感じの視線をあちこちに飛ばしていた。鳳の背筋を冷や汗がスーッと流れ落ちていく。これは本気で土下座するしかないのだろうか。それとも昔見た映画の見様見真似で、きざったらしくお辞儀をしてみせようか?

 

「よく来た! 異世界の勇者たちよ」

 

 と、その時、冷や汗を垂らしてまごついてる異世界人たちを見かねたのか、玉座にいた城主らしき男が立ち上がり、両手を広げて彼らの元へと歩み寄ってきた。そして城主は見た目とは裏腹に、実にフレンドリーな様子で、一人ひとりをハグして回ったのである。

 

 背中をポンポンと叩かれて硬直する一同。驚いたのは鳳たちだけではなく、周りのエルフたちも同じようで、

 

「アイザック様! なりませんっ」「ヘルメス卿ともあろうお方が、そのようなことをなさっては沽券にかかわりますぞ」「もっとご自身の権威というものを大事になさってください」

 

 アイザックは城主の名前で、ヘルメス卿が役職かなにかか? 突然のハグにびっくりしながら、鳳がそんなことを考えていると、部下に窘められたアイザックが煙たそうな表情で彼らを振り返り、

 

「この期に及んで、権威もクソもあるか。もし、彼らが本物の勇者だとしたら、跪かなければならないのは我らの方だぞ」

「いかにも……しかし彼らが本物かどうか、まだ確かめておりません。それまではどうかご自身の立場をお忘れなく。皆が見ております故」

 

 そう言われてアイザックなる金髪の青年は憮然とした表情で押し黙り、やがて肩を竦めてから鳳たち、異世界人の方を向き直り、

 

「ご覧の通り、部下たちがうるさいのでこのままで失礼する。君たちは突然こんな場所に呼び出されて不安に思っているだろうに」

 

 アイザックは一行の中で一番リーダーっぽいジャンヌに向かって喋った。思いの外好意的な態度に、少し気が楽になった彼がそれに答える。

 

「は、はい。私達も何がなんだか。ここに来れば教えてもらえると聞いて来たんですけど……事情をお話していただけますか?」

「無論、そのために呼び出したのだ。しかし、その前に一つお願い出来ますかな。我々に、君たちが勇者であるという証拠を見せていただきたいのだ」

 

 突然の申し出に一行は戸惑った。そもそも、勝手に呼び出されて勇者だなんだと言われてるのはこっちの方である。証拠を見せろと言われても、何をやっていいのか分からない。彼らが困惑して表情を曇らせていると、若い城主はそれを察して助け舟を出した。

 

「もしも君たちが勇者であるなら、特別な力を持っているはずなのだ。それはきっと君等からすれば大したことでは無いかも知れないが、我々からすればとても特殊な、そういった類の力なんだが……例えば、そう、報告では、君たちの中で魔法を使った者がいると聞き及んでいるが」

 

 言われてカズヤがぽんと手を叩く。

 

「ああ、魔法を使えばいいのか……なら簡単ですよ」

 

 おお! っと謁見の間がどよめく。しかし、呪文を唱えようとしたカズヤは、すぐにバツが悪そうに表情を曇らせて、

 

「と言っても、実演しようにも、ここであんなのをぶっ放したら、大変なことになりますよ? 見たところ、貴重な品々が飾られているようだから、気が引けるんですが」

「なら、拙者のスキルでどうでやんすかね? 実はカズヤ氏が魔法を唱えた時から、拙者も試してみたかったんでやんす」

 

 カズヤがまごついていると、AVIRLが引き取ってそう告げた。彼のゲームでの職業はストーカー……もしもカズヤと同じなら、盗賊系のスキルが使えるはずだ。

 

「ハイディング!」

 

 そして彼がスキルの名前を叫ぶと、次の瞬間、AVIRLの姿が人々の前からパッと消えて見えなくなった。ハイディングは盗賊系スキルの基本中の基本で、姿を消すスキルだ。消えたまま移動することは出来ないから、最初に消えた場所を見られたら意味がないのであるが、ゲーム上では表示を消せばいいだけだから、見た目だけは完全に姿を消せるスキルだった。

 

 残念ながら現実では完全にとはいかないようだった。スキルを使ったAVIRLの姿は、光学迷彩みたいにうっすらと輪郭が見えるもので、注意深く見ればすぐにバレてしまうものだった。尤も、それでもこの世界の住人には十分驚きだったようで、

 

「馬鹿な!?」「こんな魔法は見たことがない!」「本当に勇者様なのか……?」「獣の使う妖術の類ではないか?」「いや、カインの者にこのような神技(セイクリッドアーツ)を使うものがいたはずだ」「神技だと? 彼は人間だろう!?」

 

 エルフたちは喧々諤々と会話をしている。セイクリッド・アーツとはまたえらい中二病的な名前が出てきたが、こちらではこの手のスキルをそう呼ぶのだろうか?

 

 AVIRLのスキルは見事に発動したが、こちらの世界では馴染みのない技だったようで、エルフたちの疑念を晴らすには至らなかったようである。彼は技を解くと、それじゃ他のスキルも使ってみようかと提案したが、同じことの繰り返しになるかも知れないと、ジャンヌに止められた。

 

 それよりも……とジャンヌが続ける。

 

「カズヤ。攻撃じゃなくて、補助魔法なら問題ないんじゃないかしら。実演してみせてあげて」

「あ、それもそうか……それじゃあ、ちょっとそこの兵士さん」

 

 言われた彼はぽんっと手を叩くと、近くにいた近衛兵を手招きし、

 

「エンチャント・ウェポン!」

 

 と、彼に向かって腕を振った。瞬間、彼が腰に佩いていた剣が突然鞘の中でカタカタと音を立て、鍔の部分からまばゆい光を発し始めた。驚いた彼が剣を鞘から抜くと、そこには刀身が光に包まれた剣があった。

 

「馬鹿な! 古代呪文(エンシェントスペル)だと!?」「人間の身で、ありえない!!」「しかし、あの光は古代呪文だ。私も使うから見間違えようもない」「試してみよう。おい! そこの兵士!」

 

 動揺するエルフは、カズヤの魔法は見覚えがあったようで、それが本物かを確かめるべく、これまた近くにいた兵士を手招きして、彼の佩いている剣を受け取った。エルフは剣を鞘から引き抜くと、光り輝く剣を握っている近衛兵に向かって、

 

「おい、ちょっとこれを切ってみろ」

 

 と言って剣を向けた。

 

 兵士が一礼をしてから、軽くその剣の切っ先をエルフの持つ剣に触れさせると……スーッと、まるでチーズでも切るかのように、その刀身が真っ二つになる。カランカランと、切り落とされた剣の先っぽが地面で弾けて、けたたましい金属音を立てた。

 

 謁見の間にいた全ての人物から、おおっというため息のような声が漏れた。愛剣を切られてしまった近衛兵が、地面に転がっている自分の剣の成れの果てを手にして、涙目で光の剣を見上げた。

 

「皆の者、見よ!」

 

 アイザックは興奮気味に、驚いている近衛兵の腕を掴み上げ、光の剣を高々と持ち上げた。

 

「間違いない。これぞ勇者の証。我々は勝利した。儀式は成功し、ここに勇者が現れたのだ!」

 

 そんな城主の宣言により、謁見の間の空気が瞬時に変わった。それまで胡散臭い者でも見るような目つきであったエルフたちが、今では好奇に満ちた熱視線を鳳たちに向けていた。誰が始めたか分からないが、兵士たちが次々と膝を折って、主君にかしずくように頭を垂れる。

 

 鳳たちはそんな光景に引きつった笑みを浮かべながら、ほんの少しばかり得意げな気分になり、そしてほんの少し不安も感じていた。

 

 勇者というものが、この世界の住人にとって、どのような意味を持つのか……その重みが分からないうちは、まだ手放しで喜べないだろう。ただ一つ確かなのは、これで命の危険だけは免れたということだ。わからないことだらけの現状で、それだけが唯一の救いだった。

 



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世界に魔王は存在しない

 それから暫くして、謁見の間の興奮が収まってくると、城主アイザックは鳳たち5人を含む数名を残して人払いをした。異様な数の兵士たちに囲まれプレッシャーを感じていた鳳たちは、これでようやく人心地がつけると、ほっと胸を撫で下ろす。すると、部屋に残ったアイザックの部下らしき男性が、立ち話では疲れるだろうと言って椅子を持ってきた。

 

 5人が勧められた椅子に並んで座ると、その対面に、いわゆるお見合い席みたいな格好で同数の椅子が並べられ、アイザックとその取り巻きが座った。玉座ではなく、同じ高さの椅子に座ることで、上下関係がないことを示しているのだろう。エルフの女性たちはそんな彼らの後ろで立っていた。

 

 思ったよりも、彼らは異世界人である鳳たちに気を使ってくれているらしい。横暴な為政者じゃなくて安心はしたが、尤も、それで全て納得するわけではない。自分達5人は何故この世界に呼び出されたのか、その理由をまだ聞いていないのだ。

 

「無論、それを説明するつもりで人払いをしたのだ。君たちの疑問には何でも答えよう。だが、まあ、まずは昔話からさせてくれ。君たちはまだ、この世界のことを何も知らないだろう?」

 

 鳳が何から話を聞こうかと考えていると、アイザックがそう提案してきた。どうやら歴史の講釈でもしてくれるらしい。

 

 右も左も分からない現状、それが必要なら黙って聞くより他ないだろう。先を促すと、アイザックではなく、その取り巻きの一人が話を始めた。こちらはエルフではなく、普通の耳をした白髪の老人であり、如何にも学者然とした顔つきから、国王の家庭教師とかなんかそんな感じだろうか。因みに、ここに残った者の中で、エルフでないのは彼とアイザックだけである。

 

「勇者様方におかれましてはお疲れのところ、私めの長話にお付き合いいただき恐縮に存じます。出来る限り、かいつまんでお話いたしましょう。我が国には建国神話がございまして、かつてこの世界には全てを破滅へと導く魔王が君臨しておりました。それを封印した真祖ソフィアが、ここを領地と定め、そんな彼女に(かしず)く5人の精霊が国を拓いたと言われております」

「ソフィア……!?」

 

 その名前を聞いた鳳が、素っ頓狂な声を上げる。いきなり話の腰を折られた老人が、キョトンとした顔を向けた。

 

「何か、気になる点でも?」

「い、いえ……すみません、続けてください」

 

 ソフィアと言っても、よくある名前の一つに過ぎない。自分達の仲間であった『灼眼のソフィア』とは関係ないだろう……鳳は若干気にはなったが、話の続きを聞くほうが先決だろうと思い、老人を促した。

 

「五精霊は自分達の眷属として神人を生み出し、その神人が国の基礎を作りました。更にその神人は労働力として、魔物に怯えて暮らしていた人間を捕らえ使役します」

 

 神人というのが目の前のエルフ、つまり耳長の長命種のことらしい。精霊によって力を与えられた彼らは基本的に非死とされ、怪我や病気をしない限りは、何千年も生きるそうである。

 

 そんな神人は、生まれながらにして人間よりも優秀な能力を持っていたため、為政者として人間社会のピラミッドの上に君臨していたというのが本当のところだろう。

 

 しかし、今見たところ、この城の主であるアイザックは人間で、彼の部下の方が神人である。多分、どこかでその力関係が逆転するような出来事があったのだろう。

 

「5つの国家はそれぞれの守護精霊の名を冠して、カイン・セト・ミトラ・オルフェウス、そして我々のヘルメス国と称します。お気づきかも知れませんが、アイザック様はヘルメス伯として、当地を治めるお方です。

 

 五精霊は国家が成立すると、その運営を神人に任せてお隠れになりました。隠れるとは文字通りの意味でございまして、不死である精霊は魔王復活の事態を想定し、力を蓄えるために眠りに就かれたのです」

 

「ソフィアはどうしたんですか?」

 

 五精霊は眠りに就いたそうだが、それを作った真祖とやらはどうしたのか。当然の疑問としてそんな声が上がるが、老人は黙って首を振ると、こう告げた。

 

「真祖ソフィアがその後どうなったかは、はっきりとしたことは分かっていないのです。魔王との戦いで負った傷が原因で命を落としたとも、実は五精霊に分裂したのだとも言われております。五大国を統べる神聖帝国(ホーリーエンパイア)は前者の立場を取っており、彼女の墓の上に作られたのが、現在の帝国の政庁であるアヤ・ソフィアです。ですが、我々はそこに真祖は眠っていないと考えております」

 

 老人の口ぶりからして、ここヘルメス国は帝国と仲が悪いようだ。もしかすると、白達はそんな帝国との争いに巻き込まれたのかも知れない……だとしたら面倒なことになったと思ったが、実は、話はもっと複雑なことになっていたようである。

 

「精霊がお隠れになってから、帝国は神人の統治の下で平和な時代を謳歌しておりました。非死である彼らは世事にはあまり関心を示さず、人間たちの国家運営に口を挟まなかったのが功を奏したのかも知れません」

 

 君臨すれども統治せずというやつか。

 

「最盛期の領土は、ここバルティカ大陸の半分にも及び、帝国は繁栄を続けてきました。ところが、今より300年ほど前、大陸南部を占める大森林・ワラキアに、突如として魔王ジャバウォックが出現したのです」

「ジャバウォックだって!?」

 

 これには鳳のみならず、仲間全員が驚きの声を上げた。その反応っぷりには、流石に老人もびっくりした様子で、

 

「は、はい。ジャバウォックでございます。ど、どうかされましたかな、勇者様方? 魔王の名に何か気になるものでもあったのでしょうか」

「えーっと……なんて説明したら良いのか……」

 

 まさか、異世界のゲームで毎日のように倒していたとは言いづらい……そもそも、こちらの魔王とあっちのレイドボスを同列に考えても良いのだろうか。しかし、その魔獣の名前には反応せざるを得なかったのだ。

 

 言うまでもなく、ジャバウォックはルイス・キャロルのおとぎ話に登場する魔獣の名前である。なんというか、言ってしまえばそれは決して有名ではなく、寧ろマイナーな部類のモンスターだ。知名度的にはラブクラフトの小説くらいのものだろうか。十分有名じゃないかと思うかも知れないが、ここが異世界であることを考えてみよう。どう考えてもおかしな話である。

 

「その名前に聞き覚えがないわけじゃないのよ。ただ、それが時空とか世界とかを超えてまで聞こえてくるようなものかと言うと、私達の世界ではそれほどでもなかったのよね。たまたま、私達は知っていたというか、そういったレベル……だから、あなたの口からその名前が出てきたのが驚きなのよ」

「左様でございましたか。やはりこうして呼び出されただけあって、勇者様方はこの世界と因縁があるのかも知れませんな」

 

 そう言われるとそんな気がしなくもないが、なんか腑に落ちない。先のソフィアといい、気にはなるが……しかし話の腰を折り続けても逆に混乱の種になるだけだろう。取り敢えず、これ以上は質問せず、今は話の続きを促すことにした。

 

「魔王の再来は、まず南部の森に住む部族社会(トライブ)に混乱をもたらしました。帝国とは違い、森の民は国家というものを知らず、ろくな武力も持たなかったため、彼らはあっという間に魔族に駆逐され、逃げるように帝国領内へとなだれ込んできたのです。

 

 部族社会の大移動で帝国領内は圧迫され、やがて深刻な被害が出はじめました。帝国は当初こそ彼らを追い返していましたが、払っても払っても湧いて出てくる人の群れを前に、ついにその膝を屈します。このまま、降りかかる火の粉を払っていても、元を断たねばどうにもならない。

 

 そこで五大国から選りすぐりの兵士たちを集めて、討伐隊が派遣されることになりました。武力、知力、魔力に優れた神人を中心とした討伐隊なら、事態を収束してくれると信じて送り出したのです。ところが……

 

 お察しの通り、討伐隊はあっさりと返り討ちに遭いました。この時点ではまだ、南の森に現れたのが古の魔王であると、誰も気づいていなかったのです。しかし、選りすぐりのエリート達が散々に打ち負かされ、ぼろぼろになって帰ってきたことで、ようやく自分達が対峙しているものが尋常ではないと気づきました。

 

 戻ってきた精鋭たちはたった数人で、もう戦えないほどボロボロです。おまけに、彼らは追われるようにして逃げ帰ってきたため、結果的に魔王が帝国領内へ侵入するための水先案内人になってしまいました。

 

 突如現れた魔王を前に、戦の準備をしていなかった帝国は慌てふためきます。魔王配下の魔族たちが、帝国領内を蹂躙するのを座して眺めるよりありません。

 

 もちろん帝国もすぐさま徴兵を開始したのですが、既に起きている災害を前に、民衆はすっかり怖気づいてしまって、ろくな戦力が集まらなかったのです。

 

 そうこうしているうちに魔王の軍勢は、ついに帝都アヤ・ソフィアへとたどり着きます。残っている戦力は神聖皇帝と一部の貴族だけ……正に万事休すです。

 

 ところがその時、奇跡は起こります。

 

 突然、どこからともなく伝説の五精霊が蘇り、魔王の前に立ちはだかったのです。

 

 来たるべき魔王との決戦のために姿を隠したと言われていた五精霊が、古の契約を守り、本当に人類のために復活したのです。

 

 これには全人類が色めき立ちました。これで勝てる、人類は救われた。誰もがそう思ったことでしょう。

 

 しかし、そうはなりませんでした。魔王の力とは、それほどまでに凄まじいものだったのです。

 

 蘇った五精霊は魔王と激しい攻防を繰り広げ、それは七日七晩続きました。神にも匹敵する精霊と魔王の戦いによって、帝国領内は麻のように乱れ、その首都は草木も生えることが出来ないほど荒れ果てました。

 

 このまま戦いが続けば、遅かれ早かれ人類は滅びてしまう……追い詰められた神聖皇帝は、最後の賭けに出ました。建国の真祖ソフィアが残したとされる秘技、勇者召喚を行ったのです。

 

 そうして皇帝により召喚された異世界の勇者は、人の身でありながら信じられない力を持っていました。彼の放つ魔法は天を穿ち地を落とすと言われ、召喚された時点ですでに五精霊に匹敵するか、それ以上の力を有していたのです。

 

 そんな彼は間もなく人心を掌握し、精霊を従えて、魔王に挑みました。そして長い戦いの末に、ついに魔王を討ち果たしたのです」

 

 物語を聞き終えた鳳たち一行は、自分達が何故この世界に呼び出されたのか、その理由を理解した。

 

 300年前に行われた勇者召喚……それは魔王の襲撃により滅亡の危機に立たされた人類が行った、最後の秘技だった。ならば今回、自分達が呼び出されたのもその時と同じはず。

 

 今、この世界に再び魔王が現れ、人類は劣勢に立たされているのだ。

 

 そして、鳳たちはその魔王を倒す救世主として呼び出されたのだ!

 

 武者震いで腕が震える……自分達の使命を察した5人は、お互いに目配せして頷きあった。あの暗い地下室で異世界召喚された事に気づいてから、きっとこうなる予感はしていた。

 

 異世界に勇者として召喚された現代人が、現実世界のゲームのようなチート能力を与えられて魔王と戦う。実に定番な話ではないか。ならば戦おう、異世界のために。俺たちの戦いはこれからだ。

 

「いや、違うぞ。現在、この世界に魔王は存在しない」

「え? そうなの?」

 

 5人がこれから起こるであろう冒険を勝手に夢想してると、その様子に気づいたアイザックが脇からツッコミを入れてきた。これから王道ファンタジーをやる気満々だった鳳たちは、肩透かしを食らってガクリと項垂れた。

 

 それじゃ、一体、自分達は何のためにこの世界に呼び出されたのだ? 首を捻っていると、話の腰を折られた格好の老人が、おほんと咳払いをしてから話を続けた。

 



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君たちにはこの世界の女をジャンジャン抱いて、バリバリ子供を作ってもらいたい

「勇者様の活躍により、魔王は倒されました。それで一件落着といけば良かったのですが、話はまだ終わっていなかったのです。

 

 魔王ジャバウォックとの戦いが終わると、五精霊は眠りに就くと言って、またどこかへ消えてしまいました。代わりに帝国民たちは勇者様を、五精霊に匹敵する英雄と祭り上げて、新たな帝国の象徴として迎え入れます。

 

 尤も、それは疲弊しきった帝国が復興を果たすまでの時間稼ぎ……魔族の侵入を阻むための防波堤のようなものでした。彼らは勇者様に領地は与えず、切り取り自由と言って、ワラキアの大森林を開拓するように命じ、そこにいた魔族の残党を狩るように仕向けたのです。

 

 本来ならば神聖皇帝の冠を外してでも、どこかの王として迎えねばならないはずの勇者様にそのような仕打ち……少しくらい怒ってもいいはずなのですが、ところが当の本人はまるで気にした素振りも見せず、淡々と残党狩りを行ったそうです。

 

 更に、魔族の残党を追い払い、そこにあった部族社会(トライブ)を助けると、彼は切り取り自由と言われていた森には一切手をつけず、領地を海に求めました。大陸の西に広がる遠浅の海を埋め立てて、そこを領地にしたのです。

 

 こうして行われた干拓事業には、彼に恩義を感じていた人々が駆けつけ、あっという間に西の海は埋め立てられました。そして出来た勇者領(ブレイブランド)は、彼を慕う神人、人間、そしてトライブの住人も加わって著しい発展を遂げたのです。

 

 人種を差別しない自由な街は人の往来が盛んで、特に商業で栄えます。そしておそらく、勇者様は始めからこれを意識して西に領地を求めたのでしょう。古来より、帝国の遙か東方の海に存在すると言われた、幻の大陸ローレンシアへの西側航路を発見し、新大陸に新たに都市を築いたのです。

 

 まるで復興が進まない帝国領内とは裏腹に、勇者領は低地国、新大陸、そしてトライブとの三角貿易によって大いに繁栄し、これによって世界経済の中心は、帝国首都アヤ・ソフィアから、大陸西部へと移っていったのです」

 

 つまり、領地を与えてもらえなかった勇者は、これみよがしに大森林の住人を助けて恩を売り、その労働力を使って西で干拓事業を始め、更にはコロンブスさながら大西洋(?)を渡り、魔王災害のせいで滞っていた経済を回し、復興で疲弊していたこの世界をまた救ったというわけである。

 

 鳳は勇者の人心掌握術に舌を巻いた。300年前に現れたと言われる勇者は、かなりのやり手のようである。

 

「ですが、そのような活躍を見せる勇者様のことを快く思わない者がいました。言うまでもなく、神聖帝国の貴族たちです。

 

 お気づきでしょうが神人である貴族は、人間である勇者様を心からは信用してはおらず、いつか自分達の座を奪うのではないかと警戒しておりました。神人は生まれついての身体能力ゆえに優越感を持っており、人間や魔族を見下しています。ところが、勇者様は人間の身でありながら、神人はおろか、彼らが神と崇めている精霊をも上回る能力を持っていた……優秀であるはずの自分達はとても勇者様に敵わない。そんな脛に傷を持つ者特有の悪感情が、勇者様への不信感となって現れたのです。

 

 更に間の悪いことに、帝国内の人間の殆どが、魔王を倒し人類を救った勇者様を支持し、それに比べて神人は役に立たなかったと、大っぴらに帝国を批判していました。帝国貴族からしてみれば、人間が神人を批判するなど絶対にあり得ないことです。ところが勇者様の存在がそれを可能にした。そんな風に人心を掌握し、経済力をも得た勇者様に、貴族達の恐怖心は日に日に募っていったのです。

 

 そこで、帝国貴族達は一計を案じました。ある日、彼らはこれまでの功績を表彰するからと言って、勇者様を帝国首都に呼び寄せました。まさか自分が救った帝国に危害を加えられるなどとは夢にも思わず、勇者様は無警戒で帝国にやってきます。

 

 そして、そんなお人好しともいえる勇者様のことを、帝国貴族たちは暗殺してしまったのです」

 

「暗殺!? ちょ、ちょっとまってよ……だって、勇者ってのは神にも匹敵する力を持っていたんでしょう?」

 

「はい。ですが、何べんも申しあげました通り、勇者様は強大な能力を持ちつつも、その身は人間でしかなかったのですよ。致命傷を負ったり、致死量の毒を盛られたりすれば、やはり普通の人間のように簡単に死んでしまいます。

 

 一説によると、勇者様は宴会の席で酩酊するまで酒を飲まされ、女を充てがわれて気分が良くなったところ、寝込みを襲われて亡くなられたとか」

 

 張飛かよ。なんというか、ものすごく生々しい……無警戒だったならそりゃ死ぬわ、と言った感じである。

 

「やり方は最低とは言え、こうして祖国を救ったはずの勇者様を亡き者にした帝国は、束の間の平和を享受します。勇者様を信奉していた人間たちからは、もちろん怨嗟の声が上がりましたが、彼無き今、大っぴらにそれを口に出来る者はおりませんでした。もしすれば、報復されることが目に見えていたからです。

 

 やがて復興も進み、荒れ果てていた帝国内にも平穏が戻ってくると、神人と人間の力関係は魔王登場以前にまで還ってしまいました。元々、この国は神人が人間を支配する国。勇者領はともかくとして、帝国領内でもはや勇者様の名を口にする者はいなくなっておりました。

 

 ところが、それから数年して新たな問題が起こります。実は、殺された勇者様には沢山の奥様が居らしたのですが……彼が亡き後、生まれてきたその子供たちの悉くが、神人だったのです」

 

 なんとなく違和感を感じた白が老人に尋ねる。

 

「……あれ? でも勇者は人間だったんでしょう? 相手が神人だったんですか?」

 

 神人たちは勇者を警戒していたはずだが、中には彼と付き合おうとする変わり種も居ただろう。例えば勇者はエルフマニアかなにかで、そういったハグレモノをありがたく食っていたとか……

 

 ゲスな考えも思い浮かぶが、実際の話しはもっと複雑怪奇であった。

 

「いいえ、そうではないのです。その中に神人が混じっていたのは確かですが、人種は関係ありませんでした。勇者様の子は、相手が誰であろうとも、全てが神人として生まれてきたのです。このような存在は、帝国の歴史上でも五精霊しか存在しません」

 

 確か、神人というのは、精霊が創り出した存在だった。生まれてくる子供が全て神人である勇者は、つまり精霊と同格なわけだ。

 

「ところで、話は変わりますが、非死である神人は繁殖力が弱く、例え神人同士であっても殆ど子供が作れません。なかなか妊娠出来ないのです。それに、彼らは何千年でも生きられますから、人間とは違って、あまり自分の子孫を残そうという気にはなれないそうなのです。

 

 おまけに、頑張って子供が出来たとしても、生まれてくる子供が神人であるとは限らず、多くの場合は人間として生まれてきます。そして彼らの性質上、人間を生んでしまった神人は半端者として差別されます。つまりまあ、子供を作りたがらないのです。

 

 そんなわけで、勇者様が現れるまで、帝国で生まれた神人は数えるほどしかおりませんでした。勇者様の子供たちは、まさに数十年ぶりの神人の誕生だったのです。

 

 この事実に、帝国は揺れました。

 

 自分達のつまらぬ嫉妬のために殺してしまった勇者様は、精霊と同格の存在だった。彼が生きていたら、帝国はさらなる発展が約束されていたはずです。自分達の行いを後悔した帝国貴族達は、慌てて勇者様の名誉を回復し、暗殺を無かったことにしようとします。

 

 しかしこのような歴史修正主義は、神人にも受け入れられませんでした。何より、勇者様の子供たちの恨みが、それで晴らされるわけがありません。彼らからしてみれば、父を殺した帝国貴族たちは、絶対に罰すべき悪なのです。

 

 こうして帝国は二分されます。昔ながらの神聖皇帝の権威にひれ伏す守旧派と、勇者様こそ帝国を統べる正当な後継者であると、皇帝の退位を求める勇者派(アフターブレイブ)です」

 

 勇者を亡き者にした帝国に不満を訴える動きなら、彼が殺された直後にもあった。しかし、その時、主体となっていたのは人間であり、それが人間vs神人という構図に置き換えられてしまって上手くいかなかった。

 

 ところが今度は少数とは言え、神人が帝国を糾弾しているのであり、その動きは皇帝であっても容易には潰すことが出来なかった。こうして帝国は派閥によって二分され、争いの火種が燻り始める。

 

「一部の神人が味方したとは言え、初期の勇者派は守旧派と比べ圧倒的に少数であり、衝突が起きるようなことはありませんでした。事態が急変したのは勇者様の孫の世代が生まれた頃のことです。

 

 生まれてきた子供の全てが神人であった勇者様とは違い、孫世代は全てがとは行きませんでした。それでも他の神人とは比べ物にはならないほど、勇者様の孫の世代にも神人は多く生まれてきたのです。そしてその人数がある程度に達した時、どうすれば神人が生まれてくるのか、その法則性が判明したのです。

 

 どうやら、勇者様の子供たちは、配偶者の種を子に伝えるという遺伝子を持っていたようなのです。つまり、配偶者が神人であれば神人が生まれ、人間であれば人間が生まれる。そういう傾向があったのです。これには多くの神人が心を動かされました。

 

 元々、子孫を残すということに積極的でない神人であっても、生まれてくる子が確実に神人であるなら興味が湧きます。特に貴族は家督を継がせるという目的がありますから、なおさら勇者様の血が欲しくなるでしょう。

 

 その結果、どっちつかずで守旧派についていた神人の多くが勇者派に鞍替えし、新旧のパワーバランスが崩れました。元々、人間の殆どは勇者派だったので、人口比だけで言えば、この時もう帝国内の勢力図は逆転していたのです。

 

 数の力を借りて、勇者派はいよいよ守旧派に対する不満をぶちまけます。皇帝の退位を求め、勇者暗殺に関与したと噂される多くの貴族を糾弾し、その勢いは留まるところを知りません。

 

 こうなってしまうと守旧派も黙っていることが出来ず、首都を中心に勇者派に対する弾圧が始まり、そしてついに両陣営による武力衝突が起こりました。

 

 初めは守旧派が優勢でした。数が多いとは言え、勇者派は人間が主体ですから、神人にかかれば物の数にもなりません。しかし守旧派にも弱点がありました。彼らは人間を使役することで国家を運営していたので、その人間を排除してしまったら生活が成り立たなくなってしまうのです。

 

 やがて攻守は逆転し、守旧派は守勢に回ります。守旧派は領内の勇者派を黙らせたいが、暴力を用いれば自分達の首を締めかねない。悔しくても手が出せない。その怒りの矛先は、存在だけで人間を煽ってしまう、勇者様の子孫へと向かいます。勇者派は逆に、帝国領内の人間を押さえつけている帝国貴族への憎悪を募らせ、戦いはいつしか人間たちから離れ、神人同士の対決へと変わっていきました。

 

 戦争は断続的に、百年以上続きました。有史以来、初めて行われた神人同士の戦争は、そのやめ時が誰にも分からなかったのです。一人ひとりが強大な魔力を持ち、数千年を生きる神人はちょっとやそっとでは死にません。そのせいでか、勝敗が決するたびに止まるどころか、寧ろ恨みが増大するという悪循環に陥り、戦闘は常に凄惨を極め、どちらかが再起不能になるまで続けられました。

 

 休戦の話し合いは何度も行われました。しかし、一度も成功したことはありませんでした。何故なら、勇者様の子供たちがいる限り、勇者派は戦力の供給が出来るのに対し、守旧派は確実に勢力を削がれていくからです。

 

 休戦したら最後、帝国は勇者様の子孫に乗っ取られる。彼らは子供たちを目の敵にし、何が何でも殺そうと躍起になります。かつて、魔王が現れた時、人類の危機を救った勇者様の命を奪っただけに留まらず、その子孫まで根絶やしにしようとする帝国に対し、勇者派の憎悪はもはや決して許すことが出来ないまでに増大します。

 

 こうして、お互いに引くに引けない戦いがいつまでもいつまでも続けられ、不老長寿であるはずの神人たちは次々と命を落としていきました。やがて、守旧派の目論見通り、勇者様の子孫が根絶やしにされると、その恨みつらみを爆発させた勇者派によって、ついに帝国首都は陥落、その攻防の際に皇帝は命を落とし、代替わりします。

 

 元を質せば、勇者派の目的は皇帝の退位のはずでしたが、このときにはもう、争いをやめようとする者は居なくなってしまっておりました。誰も彼もが戦争をやめたいと、心底そう願っているのに、相手が憎くてやめることが出来なかったのです。

 

 戦争はその後も散発的に長いこと続けられ……ようやく終わりを迎えた時には、かつて10万人以上いた神人は、数千までその数を減らしておりました。両陣営が戦争をやめた理由は要するに、兵力がなくなって戦線を維持することが出来なくなったからです。

 

 勇者様暗殺より始まった骨肉の争いは、こうして幕を閉じたのです」

 

 老人が歴史の講釈を終えた時、鳳たちは誰ひとりとして、口を開くものはいなかった。感想を述べようにも、どんな言葉も出てこない。戦争なんてものは、どれもこれもクソみたいな結末を迎えるものだが、これは度が過ぎている。

 

 まさか勇者の登場によって救われた世界が、その戦後処理によって結局滅亡の危機に瀕しているとは……その始まりがただの嫉妬だと考えると、救われた者なんて、結局は誰ひとりとして居なかったのではないか。

 

 それにしても、人間は生命の危険さえなければどこまでも寛容になれるのかと思いきや、ずっと生き続けるが故に相手を絶対に許せなくなってしまうとは、なんとも皮肉な話である。思い返せば元の世界でも、若者よりも年寄りの方がよほど強情だった。ずっと同じやり方で生きてきたせいで、簡単には生き方を変えられないのだ。

 

 一方、神人が終わりのない泥沼の殺し合いを続けている間、人間たちはその勢力を伸ばし続けていたようだ。鳳は、何故人間のアイザックが神人を従えているのだろうか? と疑問に思ったわけだが……要は長引く戦争のせいで、疲弊しきった神人と人間の立場が逆転してしまったのだろう。元々、貴族はみんな神人だったわけだが、後を継ぐ者がいなければ、いずれ全ての貴族が人間になる。単純な話だ。

 

 しかし……彼はふと思った。

 

 それじゃ、自分達は何故呼び出されたのだろうか? この世界に魔王は存在せず、戦争も終わっていて、チート能力を与えられた勇者を召喚したところで、戦う相手がいないではないか。内政チートを期待されても、正直なところ、鳳たちにそんな技術力はない。何しろ、あっちの世界では、日がな一日ゲームばかりしていたのだ。オンラインゲームのランカーなんだから、当たり前だろう。

 

 それなのに、なんで自分達は呼び出されたのだ?

 

 その疑問は鳳だけではなく、仲間たちも同様に思っていたようだ。歴史講釈が終わるやいなや、彼らは眉間に皺を寄せて、難しい顔をしながらチラチラと仲間の様子を窺っていた。おまえ、なんとか言えよというプレッシャーがチクチクと突き刺さるが、そんなこと言われてもどんな感想も思い浮かばない。

 

 だが、そんな心配はする必要がなかった。彼らがこの世界に召喚された理由……それは間もなく城主アイザックによってもたらされたのである。

 

「さて勇者諸君、長話に突き合わせて本当にすまなかった。見たところ大分疲れている様子だが、いま暫く辛抱して欲しい。それでは本題に入ろう。今までの説明で、この世界の神人が絶滅の危機に瀕していることは君たちにも理解できたと思う」

 

 鳳たちはお互いに目配せをしあってから頷いた。それと自分達と何か関係があるとは全く思わなかった。しかし、アイザックは満足そうに頷くと、

 

「君たちが呼び出された理由は、それだ」

「どういうことですか……?」

「今、この世界で神人は絶滅しかけている。新しい子供が生まれてこなければ、そうなってしまうのも時間の問題だろう。しかし神人は繁殖能力が弱く、いくら彼らが不老非死でも、これから劇的に神人が増えることはないだろう。だが、もしそれ以外の方法で神人を増やすことが出来たら?」

 

 その意味を瞬時に理解したらしき男たちが瞠目する。

 

「かつて、魔王討伐のために召喚された勇者の子供は全てが神人だった。ならば、同じ方法で呼び出された君たちの子供もまた、神人となる可能性が高いのではないか。そして君たちの子供がまた神人と子供を作れば、その子がまた神人となるかも知れないのだ。

 

 つまり君たちはこの世界で絶滅しかけている神人の繁殖のために呼び出されたのだ。種馬扱いされて不服かも知れない。だが、男ならば寧ろ役得と思わないだろうか?

 

 そう、我々の願いはこうだ。

 

 君たちにはこの世界の女をジャンジャン抱いて、バリバリ子供を作ってもらいたい。君たちはそのために呼び出されたのだ!」

 



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うひょー! 拙者、待ちきれないでやんす

「君たちにはこの世界の女をジャンジャン抱いて、バリバリ子供を作って欲しい!」

 

 アイザックのそのド直球な要求に、さしもの鳳たちもその意味を消化するのに暫くの時間がかかった。ようやく事情が飲み込めると、今度はその内容の美味しさに、男たちは自分達の鼻の下が際限なく伸びていくのを止めることが出来なくなった。

 

「え? 子供作れって……セックスっすか?」「え……? マジ? うそ? マジで?」「拙者たち、そんな理由で呼び出されたでやんすか?」「リロイ・ジェンキンス」

 

 何しろ、あっちの世界でも四六時中ゲームばっかりしていたような連中である。女っ気など、生まれてこの方ろくにあったためしがない。そんなDTメンバーに、目の前に鎮座するハリウッド女優もかくやと言わんばかりの神人(エルフ)と子作りをしろと言うのだから、これを喜ばずして何を喜ぼうか。

 

「話は分かったけど、私はごめんだわ。そんな動物園のサルみたいな扱い……」

 

 ただ一人だけ難色を示すジャンヌを除いて、男たちは身を乗り出すようにして、その鼻息荒い顔面をくっ付くくらいアイザックに近づけた。目は血走り、鼻の穴はヒクヒクと痙攣している。

 

 アイザックはその勢いに若干引きながら、

 

「もちろん、嫌だというならば無理強いはしないが……出来れば協力して欲しいのだ。もしそうしてくれるならば、君たちの生活の全てはこちらが保証しよう。悪い話ではないと思う」

 

 もちろん悪い話ではないが、その物言いからちょっと気になることが頭を過ぎった。ほんの少しばかり冷静になった鳳が、アイザックに尋ねる。

 

「ところで……生活の保証をしてくれるのはありがたいんですが、俺達はその……帰れるんですかね?」

 

 すると、アイザックの部下たちが、それだけは聞かれたくなかったといった感じで、険しい顔つきを見せた。その表情を見ているだけで答えは分かる。案の定、アイザックが申しわけなさそうに、

 

「うーむ……実は、呼びだす方法は分かっていても、還す方法はわからないのだ。300年前に呼び出された勇者様も、結果的にこの世界に残って命を落としたのだから、いまだかつて元の世界に戻ったものは居ないだろう」

 

 なんとなく予想はしていたが、やはりそうか……しかし、落胆する鳳やジャンヌとは対象的に、残りの三人は気楽な感じで、

 

「まあ、異世界召喚にはよくある話だよな。俺は全然構わないぜ」「拙者も、元の世界に未練はないでやんす」「リロイ・ジェンキンス」

 

 彼らはもうこっちの世界で生きていくつもりになっているらしい。流石にそこまで割り切れない鳳は、驚いてその決意のほどを確かめるが、

 

「おいおい、おまえら、本当にそれでいいのか?!」

「って言われても別になあ……おまえこそ、どうしても戻りたいってほど、あっちの世界が気に入ってたのかよ?」「その割には、ずーっとゲームにログインしてたでやんすね」「リロイ・ジェンキンス」

 

 逆にそう言われてしまうと、鳳だってソフィアのことを除けば何もなかった。そりゃ両親はそこそこ心配するだろうが、ゲームばっかりしていたせいか、良好な関係でもなかったので、個人的にはこっちの世界に留まりたいくらいだった。やはり、彼も所詮はゲーマーなのだ。

 

 同様にジャンヌも、廃人と呼ばれるような生活を送っていたくらいだから、あっちの世界には興味がなかったようで、最終的には渋々ながらこっちに残ることを認めた。

 

「分かったわよ……私も別に残るのは構わないわよ。ただ、あれとヤレ、これを抱けなんて、お猿の真似事しなさいって言われるのはゴメンだわ。だって私は人間よ。好きな相手は自分で決めたいじゃない」

「もちろん、我々もこっちのルールで君らを縛り付けるつもりはなく、結婚相手は自由に決めてくれて構わないのだぞ。我々はただ単に、遊びで女を抱いてくれればそれでいいのだが」

「だから、それが嫌だって言ってるんでしょうが!」

 

 ジャンヌのヒステリックな叫び声に、アイザックは目を白黒させた。きっと彼からすれば、据え膳を食わぬ男がいるだなんて思いもよらなかったのだろう。

 

 まあ、ジャンヌを男と言っていいのかどうか分からないが、この世界にジェンダーとか、そんな言葉はないだろうから仕方あるまい。

 

 アイザックはプリプリしてほっぺたを膨らませるジャンヌを、奇異なものを見るような目つきで見ながら、

 

「そ、そうか……ならば無理強いはすまい。ただ、それでも出来ればこの城に残ってくれ。異世界の勇者である君なら、そんじょそこらの兵士などよりよほど役に立つだろう。食客として迎えよう」

「それなら私も不満はないわ。それに……みんなと別れて、知らない世界に一人だなんて嫌だもの」

 

 ようやくジャンヌが納得した素振りを見せると、二人のやり取りを見ていたアイザックの部下達はホッとため息を吐いて、肩を撫で下ろすような仕草を見せた。その姿になんとなく違和感を感じた鳳は、少し冷静になって、何が気になるのか考えてみた。

 

 さて、なにが気になるのだろうか……?

 

 さっき、アイザックは鳳たちに、種馬になってくれるなら生活の保証はすると言っていた。ところが、ジャンヌには食客といえば聞こえがいいが、要するに何もしなくていいから城に残ってくれと要請したわけである。それじゃ辻褄が合わないではないか。もしかして、彼らの目的は、単に鳳たちをここに引き止めておくことなんじゃないか?

 

 そう考えると他にも気になることがある。少し探りを入れてみようか……彼はそう考え、アイザックに尋ねてみた。

 

「ところで、ちょっと気になることがあるんですけど」

「なんだ?」

「さっきの歴史講釈を聞いてて思ったんですけど、あなたたちは勇者派でしょう? どちらかと言えば、人間の味方みたいなものだ。そのあなた達が、どうして神人の行く末を気にしてるんですか? 勇者派からすれば、もう帝国なんて潰れてしまって、人間の時代が到来した方が都合がいいんじゃないですか。

 

 それとも……もしかしてあなた達は、今度こそ守旧派を根絶やしにすべく、勇者派の神人を増やそうとしてるんじゃないですかね?」

 

 鳳からしてみれば、相手の痛いところを突いたはずだった。勇者派が、神人を増やそうとする理由があるとすればそれくらいしかない。すると、自分達はスケベをしたいがために、理由も知らされずに戦争に加担することになる。だからアイザック達はそれを隠したのだと考えたのだ。

 

 しかし……鳳にそれを指摘されたことに、アイザック達は驚いてはいたようだが、それは痛いところを突かれたといったものではなく、よくそんなことに気づいたなといった感じの、どちらかと言えば感心した素振りであった。

 

 特に、鳳たちに歴史講釈をしてくれた老人は驚くと言うよりも喜ぶといった感じで、

 

「おや、きっと若い人には退屈であろうと覚悟しておりましたが、あなた様はこの老いぼれの話を熱心に聞いてくださっていたのですな。大変、嬉しゅうございます。

 

 はい、おっしゃる通り、私達は勇者派でございます。守旧派に対する恨みつらみは、異世界のあなた様方には想像もつかないほど、心の中に刻まれております。ですが、それで本当に帝国を滅ぼしたいかと問われれば、そこはまた別の問題があるのです。

 

 というのも……仮に帝国が無くなったとしても、大森林の魔族はいなくならないからです。帝国の外にはオーク、ゴブリン、トロルなどの凶悪な魔族が跳梁跋扈していて、いつ人間の世界に攻め込んでくるか分かりません。もしその時、帝国が存在しなかったら、果たして人間だけでこの脅威に太刀打ちできるか……正直なところ、それは未知数です」

 

「ああ、なるほど」

 

 そう言えば、300年前に勇者召喚が行われたのは、魔王が帝国領に侵入してきたからだった。鳳は穿った見方をし過ぎたかなと、ほんのり顔が赤くなるのを感じた。

 

「大森林のその先には、前人未到のネウロイという土地がございまして、300年前の魔王ジャバウォックはそこから出現したと言われています。その時は、帝国に10万人を超える神人と、五精霊がいましたが、果たして今度はどうなることか……

 

 この世界で生きるものとして、我々、勇者派も精霊を崇拝しておりますが、彼らからすれば、眷属である神人ではなく、人間に肩入れする理由はありますまい。そういった観点でも、守護精霊を祭り上げる神官として、やはり神人は必要なのです。

 

 そしてその大司祭が、皇帝なのです。精霊と同格である勇者を暗殺してしまった先代が執拗に退位を迫られたのは、そういった宗教的意味合いもあったのでございます」

 

 つまり、いつ現れるか分からない魔王への抑止力として、精霊の力は絶対に必要であるから、その眷属である神人がいなくなってしまうことは、回り回って人間にとっても都合が悪いということだ。

 

 だから、過去に色々あったが、それはもう水に流して、人間と神人はお互いに協力しあって生きていこうと……穿った見方をすれば、神人は生かさず殺さず、そこそこの数が生き残っててくれれば、それでいいというわけである。

 

 しかし神人は不老であるが不死ではない。寿命で死ぬことは無いが、戦争や事故、病気などで死ぬことはありうるのだ。その時、減った神人を供給する必要があるから、その保険として、鳳たちが異世界から召喚されたというわけである。

 

「ご納得いただけましたかな?」

 

 鳳は大きく頷きかえした。

 

「よくわかりました、疑うようなことを言ってすみませんでした。俺たちの世界では、美味い話には裏があるって格言があるもんで」

「ははははは! 君たちが疑いたくなる気持ちも分かるな。生活の心配もせず、好きなだけ女を抱いて暮らしてくれれば良いだなんて、男にとっては夢のような話だろう。ほっぺたを抓りたくなっても仕方ない。しかし、聞いての通り、こちらにもちゃんとメリットがあるから、君たちは何も心配せずに子作りに励んでくれたまえよ」

 

 子作りという言葉に反応した男たちが、いやらしい目つきでアイザックの後ろに控えていた貴婦人たちのことを舐め回すように見つめた。神人の女性たちは、とてもこの世のものとは思えないほど、作りめいた美しさを讃えている。

 

「と、ところでその……子作りと言うのは、そちらにいらっしゃる方々もその……対象になっていらっしゃるので?」

 

 すると神人の女性たちは妖艶な目つきで、

 

「あら、私達はそれほど安い女ではございませんのよ? でも、勇者様が男らしいところを見せてくだされば、もしかして考えなくなくないかも知れませんわね。うふふふふ」

 

 と言って、思わせぶりに目を伏せた。それは強引に迫ったらヤレますよ的な何かを醸し出していて、否が応でも男たちの期待感を膨らませた。彼らは合コンの二次会で女の子を連れ出そうと狙っている野獣のごとく血走った目つきで、女性たちに釘付けになってしまった。鼻息で竜巻が発生しそうな光景に、ジャンヌが心底嫌そうな表情をしていた。

 

 尤も、そんな状況に若干引いてしまったか、間もなく女性たちはうふふうふふと笑いながら、視線だけで妊娠しそうな目つきを避けるように部屋から出ていってしまった。

 

「ああ! ち、違うんですっ! お姉さんたちっ!」

 

 彼女らが去り際に見せた流し目にズキュンと胸を撃たれた男どもが、だらしなく呆けた顔を見せている。こんなのを勇者と呼ばなくてはならないアイザック達に少し同情するが……しかし、彼らの方は一切気にした素振りを見せずに、

 

「ははは! どうやら君たちは彼女らを気に入ったようだな。それは結構。もちろん、言うまでもなく彼女らもその対象だ。でなきゃ、この場に同席したりはしないだろう」

 

 おおっ! と歓声が漏れる。

 

「しかし、見ての通り神人は気位が高いのだ。彼女らはああ見えて貴族だから身持ちが固く、行きずりの関係というものを嫌う。つまり、結婚をしてからじゃなきゃダメってわけだ。まあ、あれはあれで、君たちの第一夫人の座を手に入れようとして、駆け引きをしているのだろうがね」

「第一夫人ですか……? それって、結婚しろってことっすよね……」

 

 結婚は人生の墓場という言葉が脳裏をよぎり、男たちの表情が若干曇る。しかし、そんな彼らの表情を吹き飛ばすかのように、アイザックは面白そうにこう続けた。

 

「ああ、そうだ。神人と子作りするなら結婚するのが早いだろう。だが、何を恐れることがある? 君たちはこれから、第一夫人、第二夫人、第三第四と、数え切れないほどの妻を娶らねばならんのだぞ。最終的には彼女らが輿入れの際に連れてくる親族や下女も含めて、千を超える女を従えるハーレムを作るのだ。たかだか一度や二度の結婚くらいで、いちいちビビっていては体が持たないぞ」

「ハ、ハーレムだって!?」

 

 その言葉の持つ響きは、男にはかなりくるものがあった。ジャンヌを除いた男たちは目を血走らせて、食い入るようにアイザックの言葉の続きを待った。

 

「そうだ。君たちはこれから数え切れないほどの女を抱いて、孕ませなければならない。ものすごい体力勝負だ。そのために、我々がバックアップするわけだが……しかし、現状、君たちは王侯貴族ではないから、まずは立場を手に入れなければならないだろう。それにはさっきの女達を娶るのが一番だろうと我々は考えている。さっきも言った通り、あれは国内有数の貴族でもあるから、彼女らと結婚して家督を継承すればいい」

「貴族……俺達はこの国で貴族になれるんですか?」

「もちろん、どこの国でも構わないが、爵位は手に入れた方が良いだろう。そんなわけで、君たちはこれから覚えることが沢山あるぞ。早く貴族の生活に慣れてもらわねばなるまい。そしてゆくゆくは、この国の宿将として働いてくれたまえ」

 

 男たちは目を輝かせた。まさか、いい女とセックス出来るだけじゃなくて、労せずして支配階級にまでしてくれるなんて……あっちの世界では取るに足らない引きこもりニートで、日がな一日ゲームばかりして、鬱屈した日々を過ごしてきた。そんな自分達が貴族だなんて! もちろん、そうなった暁にはアイザックの恩に報いるのは言うまでもないだろう。

 

「どうやら、我々の提案を受け入れてくれたようだな」

「もちろんです、アイザック様!」

 

 アイザックはキラキラとした視線で、自分を見つめてくる男たちを苦笑交じりに見返しながら、

 

「結構結構。それじゃあ、君たちは暫くこの城で暮らすことになるだろうから、案内が必要だろう。すぐに部屋付きのメイドを呼んで……いや、そうだ、その前に。君は確か、ジャンヌと言ったか?」

 

 彼は何かを思いついたようにジャンヌの方を見た。体が大きいからリーダー扱いされてはいたが、素は小心者の彼は、はっきりと名指しで指名されてドギマギしている。

 

「は、はい。なにかしら?」

「これから食客として滞在するんだ、練兵場で兵士達に紹介しよう。ついでと言っては何だが、勇者諸君にもその練兵場で実力を披露してもらえないか? 先程、魔法を実演して見せてはくれたが、持っている技はあれだけではあるまい」

 

 鳳たちは頷いた。

 

「そうですね。こっちに飛ばされて来てから、すぐここに連れてこられたから、実は自分達でもまだ試してなくて気になってたんです。一度みんなで何が出来るか確認してみましょう」「そうね、実は私も興味があったのよ」「拙者も拙者も」

 

 そうと決まれば話が早いと、アイザックは部屋の外に控えていた近衛兵に案内するように命じた。鳳たち5人とアイザック、そして二人の側近らしき神人が彼らの後に付き従った。

 

 アイザックは練兵場へ向かう道すがら、窓の外にさっきの貴婦人たちの姿を見つけるとそちらを指差しながら、

 

「彼女らにもこっそり様子を見るように伝えておこう。君たちの力を目の当たりにすれば、きっと今晩にも抱いてくれと忍んでくるはずだ。なんせ第一夫人の座は一つしか無いからな。もしやってきた女が気に入ったなら押し倒してやれ」

 

「マジですか!?」「うひょー! 拙者、待ちきれないでやんす」「おまえ、前かがみになるなよ」「リロイ・ジェンキンス」

 

 俄然やる気になった男たちがスキップするような足取りで先を急ぐ。その後ろに、うんざり顔のジャンヌが続いた。

 



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またオレ何かやっちゃいました?

 アイザックの城は中央に吹き抜けのホールを備えた大きな建物があって、その左右に広がるように2つの細長い区画が存在した。謁見の間はその一つ……便宜上、A館に存在するとしたら、鳳たちが最初に閉じ込められていた地下の部屋はB館にあり、練兵場はそのすぐ外側に設けられていた。最初に彼らを発見したのが兵士だったのは、その位置関係もあったのだろう。

 

 中央ホールの玄関から外に出ると、そこには運動場みたいな大きな広場があり、多分ここで閲兵式やら一般の祝賀式典やらで使われているのだろう。その広場の端っこに見える狭い通路を通り、手入れされた見事な藤棚をくぐり抜けると、やがてその先に練兵場が見えてきた。近づくに連れて、気合の入った大声が聞こえてくる。

 

 練兵場の鉄扉をくぐると、一群が50人くらいからなるグループが、一糸乱れぬ動きで剣を振るっていた。兵士たちは城主がやってきたことに気づいていただろうが、将校らしき数人が敬礼を返すだけで、誰一人として動きを止めるものはいなかった。その姿から察するに、練度はそこそこ高いようである。

 

 それにしても……謁見の間でライフルを見たはずだが、何故兵士たちは剣を振っているんだろう。鳳がそんな風に思っていると、

 

「本当に君は、妙なことばかりに興味を示すな」

 

 と、呆れながらも、アイザックが親切に教えてくれた。

 

 曰く、剣を使っているのは神人対策らしい。人間同士ならライフルの撃ち合いが有効なのだが、神人相手に銃撃を当ててもまず死ぬことがないから、位置を特定されるだけ逆に危険であるらしい。

 

 神人はほぼ全員が強力な魔力を持ち、人間は彼らの使う魔法を防ぎようがない。だから人間は、神人に気付かれないようにこっそりと近づいて、彼らが苦手とする銀の切っ先の剣で斬り付けるのが、現在広く伝わる対神人戦術なのだとか。

 

 銀が特攻とは、まるで吸血鬼みたいであるが……それなら銀の弾丸で撃ち抜いたらどうなんだ? と指摘してみたら、もちろんそれでも構わないと返ってきた。だが、何しろ銀だから大量にばら撒くことが出来ない。おまけに、ただでさえ高価なのに、それ故に兵士がちょろまかしてしまうという弊害があり、結果として現在の戦術が取られるようになったそうだ。なんというか、世知辛い世の中である。

 

「しかしまあ、銀の弾丸が有効なことは確かだから、個人レベルでは……例えば暗殺者などには使うのがいるらしいぞ。それはさておき……」

 

 アイザックはコホンと咳払いすると、

 

「ここへは雑談をしに来たわけではあるまい。早速だが君たちの能力を見せてくれ」

 

 待ちきれないとばかりに鳳たちをせっついた。そんなに急かされて期待はずれだったらどうしよう……という不安も拭えなかったが、鳳たちも自分の能力がどんなものなのか、実際のところを知りたかったので、素直に応じることにした。

 

「でも、能力を見せてって言われても、どうしたらいいのかしら? 謁見の間で実演したみたいに、持ってるスキルを使って見せればいいの?」

「まず、勇者様方は、ご自分のステータスを見ることは出来ますでしょうか?」

 

 するとアイザックの背後に控えていた神人たちが、主人の前に一歩踏み出して詳しいことを話し始めた。

 

 ステータスならこの世界に飛ばされて来てからすぐに試していて、あっちの世界と同じような半透明な画面が見えることを確認していた。しかし、そんなのは自分達特有のチート能力だと思っていたが、どうやらこっちの世界の住人も例外なく自分のステータスが見えるらしい。

 

「マジですか?」

「本当です。我々は、神人、人間、帝国、勇者領を問わず、全ての人類がステータスを見ることが可能です。おそらく、魔族もそうなんでしょうが、確認は取れていません。自分のステータスは見れますが、他人のは見れませんからね」

「確かに」

 

 その点は元の世界と同じだった。あっちでも、HPやMPのような簡単なステータスなら確認出来たが、見えるのはそれくらいだった……神人の説明が続く。

 

「ステータスにはSTR(ストレングス)AGI(アジリティ)などの六種の基本ステータスと、レベル、HP/MPなどの可変ステータスがあります。その他にその人の職業や個性などを示すプロパティが表示されているはずなのですが……」

「ええ、確かにその通りよ。私のステータスもそんな感じ」

 

 ジャンヌが頷き返す。

 

「基本ステータスはその人の体力を表す数値で、文字通り基本的には増減しません。尤も、生まれた時と現在とで体格が違うように、成長や訓練などで多少の増減はありますが。平均的な数値は10前後で、人間は大体この数値に収束します。訓練で上がるのは15までと言われてますが、それは本当に一握りの天才だけが到達出来るもので、それ以上の数値は聞いたことがありません。

 

 ところが、我々神人はその数値を軽く超えることが出来ます。神人の平均値は生まれながらにしておよそ15付近で、才能を持ち努力を怠らない貴族には18を超えるものも、しばしば存在すると言われております」

 

 と、目の前の神人が誇らしげに言った。歴史講釈の時には実感出来なかったが、やはり神人と人間にはまだわだかまりがあり、神人は元々が支配者だけあってエリート意識が強いようである。貴族を強調するのも、彼が貴族だからだろうか。

 

 しかし、相手が悪かったようである。自慢げな神人に嫌気が差したか、それともいい加減に説明が長いと感じたか、アイザックがイライラしながら、

 

「それで、君たちのステータスはどんなものなんだ。勇者召喚されたくらいだから、相当なものだと期待しているんだが……」

 

 彼はマッチョでデカいという理由から、ジャンヌの方を見ながら言った。

 

 急に話を向けられたジャンヌはオロオロと戸惑う表情を見せ、出来れば自分のことは避けてほしかったいった感じに、情けない表情で鳳たちの方を振り返った。その様子からして、あまり芳しくない数値なのだろうか? とも思ったが……

 

 やがて彼は諦めたように小さな声で、おずおずとその数値を口にした。

 

「えーっと……その……ストレングスが……23」

「にじゅうさんっっっ!!!!???」

 

 その数値が飛び出してくるまで、鼻高々でふんぞり返っていた神人たちが、目を剥き出しにして叫んだ。

 

「馬鹿なっ!! そんな数値ありえないっ!!」「20超えだなんて、伝説級……いや、精霊級と言っても過言じゃないぞ?!」「信じられん。しかし、彼らは勇者なのだから、あり得るのか……?」「おい、伝説の勇者の数値はいくらだ!? 誰かくわしいものはいないかっ!」

 

 ざわざわとざわつくアイザック達。気がつけば、さっきまで城主が居るにも関わらず訓練を続けていた兵士たちも動きが止まっている。

 

 練兵場のあちこちから、まるでモンスターでも見るような視線が飛んできて、それが突き刺さったジャンヌが中心で小さくなっていた。

 

「もうっ! そんなゴリマッチョでも見るような目で見ないでちょうだい。他の数値は普通なんだから」

 

 そう言って、顔を真っ赤にしながら彼が示してきた数値は、やはりこの世界の常識を遥かに超えたもののようだった。

 

----------------------------

†ジャンヌ☆ダルク†

 

STR 23       DEX 15

AGI 12       VIT 19

INT 10       CHA 15

 

LEVEL 99     EXP/NEXT 0/9999999

HP/MP 3188/191  AC 10  PL 0  PIE 0  SAN 10

JOB PRIEST Lv9

 

PER/ALI GOOD/NEUTRAL   BT A

----------------------------

 

 この他にサブメニューがあって、そこに彼が使えるスキルずらりと並んでいるらしい。

 

 これらの数値はアイザック達、この世界の住人には衝撃的なものだった。彼らはジャンヌから次の数値を聞くたびに口をあんぐりと開けて放心し、最後には顎が地面に着きそうなくらいになっていた。

 

「ね? ストレングス以外は普通の数値でしょう?」

「どこが普通だ! さっきも言っただろうが、普通の人間は15を超えたら天才だ。君は15超えが4つもあるではないかっっ」

 

 たまらずアイザックが大声で叫ぶと、城主の興奮した声に兵士たちが一斉にビクッと体を震わせ、取り繕うように慌てて訓練を再開した。しかし彼らの指揮官である将校たちは好奇心を抑えきれなかったらしく、部下に訓練を続けるように言って、続々とジャンヌの周りに近づいてきた。

 

 こんな大勢の鎧を来た兵士に囲まれる経験などなかなかないので、安全だと分かっていても緊張する。

 

 それにしてもジャンヌの基本ステータスは鳳たちからしてもかなりのものだった。特にSTRとVITの高さは元の世界で脳筋タンクだったからだろうか。INTの低さは馬鹿みたいに見えるが、普通の人間の平均が10だそうだから、他の数値が高すぎるが故のただの錯覚なのだろう。

 

 呆然としている神人たちに対し、ジャンヌが話題を変えようとして、おずおずと質問した。

 

「ところで、基本ステータスってSTRが筋力、AGIが敏捷さ、INTが知力、DEXが器用さ、VITが体力よね? CHAってのは何なの? 見慣れない数値だけど」

「ああ、それはカリスマ……他者に与える影響力のことです。この数値が高いと良い指揮官になれるので、我が国では将校の採用基準に利用しております」

 

 鳳はそれを聞いて驚いた。そんなものが数値として表されてるのも不思議なら、それが基本ステータス……つまり生まれ持っての数値だというのは想像しにくかった。

 

 これは元の世界で例えるなら、政治家やアイドルになるには遺伝子が重要で、見た目や努力は関係ないということになる。実際、二世だらけだったことを思えば、正しいと言えば正しいのかも知れないが、イマイチ受け入れにくい現実だろう。

 

 これが可変ステータスならまだ理解できるのだが……

 

 因みに、その可変ステータスも、ジャンヌのものは、アイザック達からすれば、理解し難いものらしかった。

 

「レベル99だと……? そんな人間が存在するのか?」

「こっちの世界の平均レベルはどうなんです?」

「一般人は10以下が普通だ。我々のような貴族……それから魔物専門のハンターには30超えも珍しくないが……いくらなんでも、99など数百年生きた神人であってもありえないぞ。どうやったらそんなレベルになれるんだ?」

「どうやったって言われても……」

 

 あっちの世界ではこれが普通だったとしか言いようがない。

 

 と言うかレベル補正があるせいで、これ以下ではジャバウォックを倒すのは不可能だったのだ。因みに99はいわゆるカウンターストップであり、経験値が無駄になるから、上限を上げてくれと散々運営にクレームをつけたくらいなので、まさかそんなレベルで驚かれるとは思わなかった。

 

 それよりも鳳たちが気になったのは、レベルの数字よりも寧ろその後で、

 

「ところで、EXP/NEXTってのは現在経験値と次レベルまでの必要経験値だろう? それがゼロってことは……」

「この世界ならレベル100を目指せるってことね。これは嬉しい誤算だわ」

 

 ジャンヌがそう言って喜んでいると、

 

「君たちはまだ上を目指そうというのか……?」

 

 と、アイザックが呆れていた。

 

 ジャンヌはさらに次の質問をぶつけてみた。

 

「ACはアーマークラスよね? 低いほど敵の攻撃を避けやすくなり、ダメージを受けにくくなる……その横のPLというのは?」

「ペイロードですな。例えば、荷物を持ちすぎたり、重い鎧を着ていたら動きが阻害されるでしょう。その阻害される割合です。そうですね……実際に試してみたらどうでしょうか? おい、誰か! 彼に合いそうな武具一式を用意せよ」

 

 神人の男がそう命じると、周りで見ていた将校の一人が敬礼をしてから駆けていき、すぐに鎧一式を持って帰ってきた。ジャンヌの体の大きさからして、そんな彼の体に合うような鎧は見るからに重そうだったが、

 

「……あら? 意外と軽いわ。どうしてかしら」

「見た目通りの重さのはずですが、勇者様はレベル補正が入っているのではないかと。ACやPLはどうなりましたか?」

 

 ジャンヌが自分のステータスを確認すると、先程まで10だったACが7に。PLは1になっていた。

 

「ACは説明の必要はありますまい。PLの1は1%の阻害率という意味で捕らえていただければ問題ないかと」

 

 説明の歯切れがなんとなく悪いのは、PLが100を超えても動くことが出来るからだそうだ。ただ、そんな状況では動くことは出来てもとても戦えないだろうから、戦闘を基準に考えれば、この数値はわりかし意味があるものだそうだ。

 

 因みにPIEはピエティ・信仰心のことで、精霊信仰を持たない白達異世界人がゼロなのは当然だろうとのことだった。それより気になるのは、

 

「ところで、このSANってのは……?」

「それは正気度です」

「おお! マジでSAN値なの!?」

 

 クトゥルフTRPGで使われるマイナーな数値だから、まさかそんなことは無いだろうと思ったが、本当に同じSAN値だと知って鳳たちは驚いた。

 

 SANはサニティ・正気の略で、一定値より下がってしまうと狂気に侵され、行動に制限がかかってしまう。そしてゼロになってしまうと完全に狂ってしまって死亡扱いという、非常にきついペナルティがある数値だった。

 

 もしかして、こっちでも似たような目に遭うのかと尋ねてみたら、

 

「いいえ、SANがゼロになっても死にはしません。その代わり、レベルが下がります」

「レベルが??」

「はい。結構ごっそり持っていかれるので、気をつけねばなりません」

 

 そりゃまた意外ではあったが、ペナルティとしては妥当なところだろうか。ところで、こんな数値があると言うことは、割とよくSANチェックが入るような状況があるのだろうか。

 

「人間の妖術使いがSANを下げる攻撃を仕掛けてきます。防ぐにはこれまた人間の祈祷師が必要なので、厄介極まりないんですよ」

 

 神人はそう言って忌々しそうに舌打ちをした。その様子から察するに、どうやら人間が神人に対抗するための技か何かがあるようだ。妖術とか祈祷とか、銀の装備のこともあるし……この世界で人間は一方的にやられるだけの存在なのかと思っていたが、そう単純な話でもないらしい。

 

「ところで、私の職業なんだけど……プリースト・僧侶ってどういうことなのかしら? 私はあっちでは騎士だったし、回復魔法なんて使えないわよ」

 

 ジャンヌは魔法が一切使えない脳筋タンクだった。一応、騎士の派生ジョブは多少の回復魔法が使えたが、彼自体はそうではなかったし、やはり騎士と僧侶は間違えようもないくらい、対極にある職業だと思うのだが……

 

 そんな風に違和感を感じる鳳たちと違って、こっちの世界の人々はそうは思わない様子で、

 

「我々の世界でプリーストは、神技を使って肉弾戦を得意とする職業です」

 

 と言って、逆に不思議そうな顔をしていた。どうやら僧侶と言っても、モンク僧みたいな扱いらしい。それより気になるのは、

 

「それに、回復魔法……ですか? そんな奇跡を使える者など、この世にはいませんよ」

 

 聞けば、この世界に回復魔法はないらしいのだ。怪我を負ったり病気になった人間は、自然治癒に任せるしかないらしい。魔法を使えるのは神人だけのようだが、その神人は回復力が早く必要なかったので、そういう魔法が生まれなかったのかも知れない。

 

「一応、復活呪文(リザレクション)という神の御業があると言われておりますが……そう言われるだけあって、その使い手はかつて存在したことがありません。じゃあ、なんでそんなものがあるのか? と言われてしまうと、我々も困ってしまうのですが……」

 

 どうも口伝でそう伝わっているだけらしい。もしかしたら、精霊か真祖ソフィアか、その辺の伝説の人物が使えたのかもしれない。それよりも彼らの言葉に、また聞き慣れない言葉が混じっていたので、鳳は尋ねてみることにした。

 

「ところで、その神技(セイクリッドアーツ)ってのは何ですか? 確か謁見の間でも言ってましたよね。AVIRLがハイディングしたとき」

神技(アーツ)は精霊の加護を受けた神人の体術です。剣、槍、斧、弓、体術、様々な武器にそれぞれ特有の技があります。例えば剣なら流し斬りとか、二段斬りとか」

「ああ、俺たちの世界で言うところのスキルのことですか」

 

 元の世界のゲームで言うところの、剣技や体術などのことだろう。例えば剣士なら特定の技を使えば攻撃力が2倍になるとか、波動拳みたいに腕から気弾飛んだりするような、そんなものだ。

 

 剣と魔法の世界ならそういうものもあるだろうと思ったが、神人しか使えないのはどうしてだろう? 何故、人間は使えないのだろうか。

 

「精霊の力を借りているから、人間には不可能なのです。神技を使う術者は、まず精霊への感謝の祈りを捧げ、それから術名を叫ぶと、自然と技が繰り出されるという仕組みになっています。正に、神の奇跡としか言えないから、神技と呼ばれる所以でして……」

「え、なんだって!?」

 

 神人が説明していると、その途中で鳳たちが驚きの声を上げた。その反応にびっくりして目を丸くしている神人に対し、鳳が、

 

「技名を叫ぶと自動で技が発動するんですか?」

「いかにも……勇者様方には心当たりが?」

「あるもなにも……」

 

 自分達があっちの世界で遊んでいたほにゃららのユーザーインターフェースそのものではないか。ゲームはその叫ぶというUIが嫌われたせいで、ユーザーに逃げられ、ついにサ終の憂き目にあってしまったのだ。

 

 因みに鳳たちは特に恥ずかしがらず、臆面もなく技名を叫ぶことが出来たから、だからこそサーバー最強と呼ばれたわけであるが……

 

「こっちの世界も同じシステムなのか。そう言えば、カズヤやAVIRLも自然と技名を叫んでたな」「そうだな。いつもやってたから気にも留めなかったが、たしかに変な話だ」「拙者、精霊なんて信仰してないでやんすよ。そもそもその存在自体知らなかったでやんすし」「だよなあ。今更やっぱりゲームの中でしたなんてことないよな?」「もしそうなら俺は運営に一生ついて行くぞ」

 

 鳳たちが難しい顔でディスカッションしていると、それを見ていたアイザックが、

 

「つまり君たちは、やはり神技が使えるということか?」

「同じ方法で発動しているので、多分そうじゃないかと……一応、試してみたほうが良いでしょうね。ジャンヌ! 適当になんかスキル使って見せてよ」

「いいわよ。何か標的になるものはないかしら?」

 

 ジャンヌがそう言うと、将校の一人が訓練用のダミー人形を持ってきた。丸太に鉄の前掛けみたいな防具をつけたものだ。鉄なんか叩いたら刃こぼれしてしまうので、普通は木刀かなにかを使って訓練するのだろうが、ジャンヌはそんなことお構いなしに、先程貸してもらった鎧一式についてた剣を腰だめに構えて……

 

「これ、居合スキルだから、直剣で使えるかわからないわね」

 

 と前置きしてから、おもむろに腰を下ろし、

 

紫電一閃(しでんいっせん)往葬襲華烈斬刃(おうそうしゅうかれつざんじん)……」

 

 中国人の霊でも乗り移ったかのような漢字だらけの技名を静かに、それでいて誰にでもはっきりと聞こえるように発音した。

 

 すると次の瞬間……

 

 スーッと……彼の姿がかき消え……かと思うと、突然、ゴッ!! っと何かがぶつかる音がして、一陣の風が練兵場に吹き荒れた。

 

 砂埃が舞い、猛烈な勢いで叩きつける風圧に目を細める。

 

 そんな視界不良の中で、ジャンヌはどこへ行った? とその姿を追えば、彼が消える前に立っていた場所とダミー人形を結ぶ延長線上に、抜身の剣を解き放ったジャンヌの姿が見えた。

 

 距離にしておよそ30メートル。そんな距離を一瞬で、瞬間移動でもしたのだろうか? アイザックたちから感嘆のため息が漏れる。

 

 しかし驚くべきはそこではなかった。よく見ればなんと、ダミー人形の上半分が跡形もなく無くなっているではないか。

 

 誰かの「あっ!」っという声に、ハッと空を見上げれば、空中で錐揉みするように舞っている鉄の塊が見える。

 

 それはやがて重力に負けて、一回転、二回転しながら地面へと落下し、ドスン!!っと大きな地響きの音を立てて練兵場に着地した。

 

「おおおおおおおぉぉぉぉぉぉ~~~~~!!!!」

 

 無残に転がるダミー人形の成れの果てを囲むようにして、兵士たちが歓声を上げた。彼らからしてみれば、鉄の前掛けをつけたダミーを真っ二つにたたっ斬る人間など見たことがなかったのだろう。その直前の瞬間移動といい、人間離れした技はまさに神技(かみわざ)の名にふさわしい。

 

 だが待てしばし、驚くのはまだ、ここでもなかったのだ。

 

 ジャンヌがその力の一端を見せたことに、アイザックは興奮し感嘆の声を上げた。

 

「凄いではないか。これは紛れもなく神技……」

 

 彼は鳳たちに話しかけようとして振り返る。しかしそこに異世界人たちは一人も居なかった。どこへ行ったのか? とその姿を探すと、彼らは何故か練兵場の端っこに退避していて、頭を守りながらこっちの方を見ている。

 

 何をしているんだ? あいつらは……とアイザックが首を捻った時だった。

 

 抜身の剣を構えたまま微動だにしなかったジャンヌの影がゆらりとゆれた。

 

 彼は手首を返すようにして、クイッと手にした剣の刀身を裏返すと、

 

「めくり……」

 

 と小さく呟いた。その瞬間……

 

 ドドドンッ!! っと耳をつんざく音が響いて、地面がグラグラ揺れたかと思うと、突然、ジャンヌが通り過ぎたライン上の地面がめくれ上がって、まるで噴水のように軽やかに土砂が吹き上がった。

 

 ゴゴゴゴゴゴゴ……

 

 っと、地震のような揺れが練兵場全体に伝わって、立っていられなくなった兵士たちが次々と尻もちをつく。

 

 震源地のすぐ近くに立っていたアイザックは、もちろん堪えきれるはずもなく……間もなく地面に突っ伏すと、彼を守ろうとしてあちこちから将校たちが飛んできた。

 

 その人壁に覆いかぶさられながら見上げた宙には、練兵場の固められた地面の下から飛び出してきた、土や砂や砂利や石やらが、スコールのように土砂降っていた。

 

 ベチベチと土砂が当たるたびに痛い痛いと悲鳴が上がる。そんな地獄絵図の中、震源地の方を見れば、抜身の剣を鞘に戻し、どことなくしっくりこない表情をしながら、

 

「まあ、こんなものかしらね……」

 

 と肩をすくめるジャンヌの姿が見えた。

 

「ハハハハハハハハハッッ!!」

 

 アイザックは思わず笑ってしまった。

 

 たった今見せつけられた神の奇跡を前にして、それでも納得がいかず首を捻っているジャンヌの姿を見て、

 

「これが勇者の力……これが、俺の手にした力なのかっ!!!」

 

 アイザックの哄笑が練兵場に響き渡り、彼の野心的な瞳がキラリと光った。しかし兵士たちも将校たちも、みんな混乱していて、その笑い声を気にする者は誰ひとりとしていなかった。

 



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オレはやんないよ

「やりすぎだ、馬鹿野郎!」

 

 剣を鞘に収めてから振り返ったジャンヌは、飛んできた鳳にポカリと頭を叩かれた。

 

「あいたぁ~! なによ、なんで叩くの??」

「周りを見ろ、周りを」

 

 振り返ったジャンヌは、竜巻が通り過ぎたあとのような無残な光景を見て絶句した。踏み固められた地面は抉れ、その下の粘土層が見えている。練兵場の至るところに砂利が散乱し、兵士たちはみんな泥だらけで、震源地に近いほど腰砕けになっていた。

 

「なにこれ!?」

「おまえの技の爪痕だよ。何の気なしにやったんだろうけど、ここがゲームの中じゃないことを思い出せ」

 

 ジャンヌはそう言われてハッと気づいた。彼の使う技の威力は変わらないように見えても、実際にそれが周囲に及ぼす影響は全然違ったのだ。

 

 例えば、ゲーム内なら地面がえぐれるような攻撃をしたとしても、実際にフィールドに穴が空くようなことはない。同様に、砂煙が舞っても目は痛くならないし、石つぶての雨が降っても誰も傷つかない。それはただのエフェクトなのだ。

 

 ゲーム上では彼が通り過ぎた後に起きる地割れに触れたモンスターもダメージを受けるのだが、そのエフェクトからちょっとでもズレていたらダメージは入らないはずだった。

 

 しかしそれを現実で行ったら、見た目通りの被害が残ってしまうというわけだ。ジャンヌは飛び散った石の破片で血だらけになった兵士たちを目の当たりにして、申し訳無さそうにシュンと項垂れた。

 

「いやはや、凄まじい威力だ! 勇者の力とは大したものだな」

 

 覆いかぶさる兵士たちの山の中から引っ張り出されたアイザックは、そんなジャンヌの肩を叩きながら、気にするなと言った。彼はすこぶる上機嫌で、ジャンヌが見せた神技(アーツ)の威力に満足しているようだった。

 

「でも、練兵場をこんなにしてしまったわ……」

「構わん構わん。こういう時のための練兵場、こんなのどうせ土を被せて踏み固めるだけだ。それよりも、他に神技があるなら見せてくれ。俄然興味が湧いてきたぞ」

 

 ジャンヌはブルブル首を振った。

 

「私はもう十分だわ。代わりに他の人がやってちょうだい」

「あ、それなら俺が……」

 

 それを聞いていた鳳は、嫌がるジャンヌの代わりに今度は自分が試そうと手を上げた。そしておもむろにステータス画面を開いたのであるが……

 

(え!? なんだこれ??)

 

 彼は自分のステータス画面を見て固まった。そこには彼の想定外のものが映っていたのだ。なにかの間違いでは? 自分のステータスを上から下まで何度も何度も見返して、彼は狼狽した。

 

(どうしてこんなことになってるだろう? これじゃ勇者というよりも……)

 

 狼狽えながら、彼は自分のステータスがおかしな理由を、アイザック達に尋ねようとしたのだが、

 

「あ、じゃあ、次は俺が試してもいいか?」

 

 そんな鳳の言葉を遮るように、カズヤが先にアイザックに向かって宣言してしまった。

 

「おお、次は君か。名はカズヤと言ったな。いいだろう、まずはステータスから見せてくれ」

 

 アイザックは嬉々として彼の提案を受け入れ、それ以外はもう眼中にないと言った感じである。今度はどんな凄いものを見せてくれるんだろう……? ジャンヌよりもっと凄いのかな? 期待に輝く彼の瞳を見ていると、鳳は何も言えなくなった。

 

 カズヤはそんなアイザックに向かって、

 

「俺はジャンヌみたいに凄いステータスじゃないみたいですけど」

 

----------------------------

カズヤ

STR 14       DEX 14

AGI 11       VIT 8

INT 19       CHA 18

 

LEVEL 99     EXP/NEXT 0/9999999

HP/MP 1087/999  AC 10  PL 0  PIE 0  SAN 10

JOB LORD Lv9

 

PER/ALI NEUTRAL/LIGHT   BT A

----------------------------

 

 カズヤのステータスはジャンヌみたいに極端に高い数値はなかったものの、それでもこの世界の住人からすると破格なものだった。

 

 特に知力とカリスマは神人であっても屈指の数値で、あっちの世界のゲームでは、パーティーの作戦参謀で補助術士だった彼の特徴をよく表していると言えた。さっきアイザックの部下たちは、カリスマは人を惹きつける度合いを意味していると言っていたから、つまり彼は指揮官に向いているというわけだ。

 

 彼の職業が補助術士ではなく、君主を表すロードであるのも、そういった理由からだろう。ところで、このロードと言う職業は、鳳たちが感じる以上に、この世界の住人からすると特別な響きがあったようである。

 

「な、なんですって!? あなたの職業はロードですとっっ!?」

「え? あ、ああ……そうだけど。ロードだと何かまずいんですか?」

 

 カズヤがロードであることを示唆すると、それまで黙って聞いていたアイザックの部下たちが、突然目を血走らせて食いついてきた。その反応にたじたじになったカズヤが及び腰になりながら返事する。

 

「とんでもございません! ロードとは伝説の職業のこと。全世界……いいえ、全人類の歴史を通じても、数名しか存在しないと言われる非常に稀有な職業なのです。因みに現在、確認されているロードは神聖皇帝ただ一人。実は、皇帝になるための条件の一つが、ロードであることなのですよ」

「そ、そうなの?」

「はい……尤も、皇帝がロードであるというのは、職業詐称なんじゃないかと専らの噂ですけどね」

 

 そう言って不快そうに顔を顰めるのは、彼らが勇者派だからだろうか。そんな神人たちを脇に追いやり、アイザックが待ちきれないといった素振りで続けた。

 

「それよりも、君はどんなことが出来るんだ? もっと詳しく教えてくれ」

「あ、はい。と言っても、俺はジャンヌみたいな派手なのは使えないんですけど。その代わり、スキル……つまり神技(セイクリッドアーツ)と魔法が使えます。謁見の間で見せたエンチャントウェポンとか、ファイヤーボールみたいな」

「なんと! 古代呪文(エンシェントスペル)でも上位とされる、ファイヤーボールを!?」

 

 神人たちが目を丸くして身を乗り出してくる。もはやスポーツ漫画のモブキャラみたいな反応だ。本当にこの世界の支配層なんだろうか……カズヤは首を捻りながら、

 

「上位だって……? 俺らの世界では中級魔法くらいだったんですけどね。俺はこの上のライトニングボルトまで使えます」

「馬鹿な! ライトニングボルトは我々の世界では、最上位に数えられる元素魔法ですぞ!? とても信じられない……」

 

 神人たちは悪夢でも見ているのかといった感じに狼狽していた。きっと、自分達の能力によほどの自信があったのだろう。それが目の前のぽっと出の異世界人に覆されてしまい、相当なショックを受けているようだ。

 

 そんな神人たちを尻目に、カズヤが魔法を披露してみせると、練兵場にいた兵士たちから歓声が上がった。炎、氷、雷、3つの魔法を使い分け、ダミー人形を粉々にして見せた彼は、先程のジャンヌと同じ轍を踏まないように、神技は地味なものを選んだ。

 

「流し斬りっ!」

 

 それをダミー人形ではなく、ゲームの世界ではタンクの役をやっていたジャンヌが体で受けてみると、

 

「いたたたた……流石に痛いけど、怪我をするほどじゃないわね。でもHPがちょっと減ってるみたい」

「さすがジャンヌ、VITお化けだな。ところで、STRはどうなってる?」

「STR? あらやだ……18になってるわ」

「やっぱり。デバフもちゃんと効くんだな。ゲームと同じだ」

「これ、ちゃんと元に戻るのかしら……」

「他にも色々試してみようぜ」

 

 ジャンヌ達のそんなやり取りを兵士たちが呆然と眺めている。流し斬りが完全に入ったのに……と、練兵場のあちこちから聞こえてきた。

 

「そろそろ拙者の技も披露させて欲しいでやんす」

 

 ジャンヌ達がステータス増減効果のあるスキルを試していると、それをうずうずしながら脇で見ていたAVIRLが口を挟んできた。その声に、二人のやり取りを呆然と見ていたアイザックが我を取り戻し、

 

「そ、そうだった。すまんが二人共、今は全員の能力を確認しておきたいのだ。相談は後にしてくれないか」

「すみません」

 

 カズヤ達が謝って引き下がるのを見てから、アイザックはコホンと咳払いし、

 

「えーっと、ではAVIRLよ。今度は君の能力を教えてくれたまえ」

「へい! 拙者のステータスはこの通りでやんす」

 

----------------------------

AVIRL

STR 11       DEX 16

AGI 20       VIT 10

INT 10       CHA 12

 

LEVEL 99     EXP/NEXT 0/9999999

HP/MP 1868/214  AC 5  PL 0  PIE 0  SAN 10

JOB THIEF Lv9

 

PER/ALI NEUTRAL/NEUTRAL   BT A

----------------------------

 

 待ってましたとばかりに元気よく公開しただけあり、AVIRLのステータスもなかなか目を瞠るところがあった。なんと言ってもそのAGIの高さ。20超えは伝説の域だ。更には、盗賊だけあって器用さもかなりのものがあり、その数値は人間の常識を超えている。

 

 極めつけはAC、アーマークラスである。彼一人だけ、何も装備していないのに、はじめから5という数字なのは、もしかして職業補正なのかなと思ったら、こちらの世界にもそんな人間は居ないとのことだった。

 

「これはもしかすると、前の世界の職業補正を引きずってるのかもな。AVIRLは前の世界ではストーカー。アサシンの上位職だったけど、こっちではそんな職業が無いから盗賊になっている。その分、ステータスにボーナスがかかったのかも知れない」

「それじゃチートすぎるんじゃないでやんすかね?」

「異世界召喚されてる時点で非常識だからな。そのくらいのことが起きても不思議じゃないんじゃないか。それより、スキルの方はどうなんだ? 何か変わったところは?」

「見た感じおかしなとこは無いでやんすが……」

 

 アイザックが会話に割り込んできた。

 

「君の神技は謁見の間でも見せて貰ったな。ここにいる神人たちは妖術の類ではないかと疑っていたが、何か心当たりはないのか?」

「そう言われても、神技も妖術も、拙者には馴染みがない名前でやんすからね……拙者の使うスキルは、主に暗殺の技だったでやんす」

「暗殺だと……?」

「実演してみせるのが一番でやんすよ。誰か実験台になってくれでやんす」

 

 AVIRLがそう言うと、アイザック達はうっと息を呑んで口をつぐんだ。暗殺の技と聞かされたのだから当たり前だろう。しかしこのままじゃ埒が明かないと思ったのか、アイザックが部下の神人を名指しし、可哀想な彼は真っ青になりながらAVIRLの前に立った。

 

 AVIRLは苦笑しながら、

 

「そんなに緊張しないでも平気でやんすよ。取り敢えず、そこに立って背中をこっちに向けてくれでやんす……そう……それでいいでやんす。シャドウ・ハイディング!」

 

 AVIRLに言われた神人が背中を向けて立つと、彼は神人の作る影の上に立ち、おもむろに技名を叫んだ。すると突然、その姿が自由落下するかのように、スッと神人の影の中に落ちて見えなくなった。驚いた神人が自分の影をまじまじと見つめていると、

 

「今、拙者は貴殿の影に隠れてるでやんすよ。こうなったら最後、もう決して振り切ることは出来ないでやんすから、試しに少し本気になって逃げようとしてみてくれないでやんすかね?」

 

 自分の影に話しかけられるという稀有な体験を生まれてはじめてした神人は少し面食らっていたようだが、すぐ言われたとおりにその声から逃れようと、練兵場の端っこまで全力で走っていった。

 

 その速さはさすが神人といった感じで、もし仮に姿が見えていたとしても、人間が追いつくのは絶対に不可能というくらいの速度だった。ところが、

 

「バックスタブ!」

 

 練兵場の端っこで、ゼイゼイと肩で息をしている神人の背後に、突然AVIRLが現れてその肩をポンと叩いた。絶対にそっちには居ないと思っていた方向から肩を叩かれ、神人がひゃーっと素っ頓狂な声を上げる。神人のそんな姿など滅多に見れるものじゃない。驚愕の光景を見せられた兵士たちが目を丸くしていた。

 

「こんな感じで、拙者、一度ターゲットにした相手は絶対に逃がすことはないでやんすよ。ハイディングの無敵属性と、バックスタブの不意打ちで、チクチク攻撃するのが得意でやんす」

 

 軽く言っているがとんでもないことである。こんな奴に命を狙われたらひとたまりもない。その場にいた兵士の全員が、その事実に背筋を凍らせていたが、

 

「素晴らしい!」

 

 ただ一人、アイザックだけは上機嫌でそんな言葉を口走った。

 

「君は暗殺の技術だと言うが、これなら護衛の役にも立つのではないか? 君は常に影から護衛対象を守ることが出来る。誰にも悟られず、敵地に潜入することだって可能だ。もし君が私の味方になってくれるなら、こんなに心強いことはない。君は我が国の救世主だ!」

 

 そんな風に手放しで褒められる経験があまりなかったからだろうか。AVIRLはアイザックにそう言われると、デレデレとした笑みを浮かべながら、

 

「拙者も、アイザック殿のお役に立てるならこれ以上嬉しいことはないでやんすよ」

 

 AVIRLはそう言ってアイザックとガッシリと握手を交わした。

 

 お次はリロイ・ジェンキンスの番である。これまで城の者たちの期待を遥かに上回るステータスを見せつけてきた異世界人一行である。さぞかし凄いステータスをしているに違いない。周囲の期待の視線が突き刺さる。そんな中、彼は浮かない表情で、

 

「リロイ・ジェンキンス……」

 

 と弱々しくつぶやきながら、自分のステータスを公開した。

 

----------------------------

リロイ・ジェンキンス

STR 17       DEX 16

AGI 16       VIT 17

INT 10       CHA 11

 

LEVEL 99     EXP/NEXT 0/9999999

HP/MP 2632/100  AC 10  PL 0  PIE 0  SAN10

JOB FIGHTER Lv9

 

PER/ALI NEUTRAL/NEUTRAL   BT B

----------------------------

 

 リロイのステータスは15超えが4種とかなりのものだったが、それまでの仲間たちと比べると若干見劣りするものだった。職業もあっちの世界と同じ戦士で、AVIRLみたいに職業補正が掛かっているとか、特に変わったところは見当たらない。

 

 だからちょっと気が引けたのだろうか。ステータスをみんなに公表するリロイの声は、ほんの少し元気がなかった。ジャンヌはそんな彼の気持ちを察してか、

 

「あらやだ。INT10なんて私と同じじゃない。脳筋だからって、失礼しちゃうわね」

 

 と、気遣うように接していた。リロイも有り難そうに弱々しく笑っていたが、

 

「ななな、なにぃぃぃぃーーっ!!! Blood Type・Bだって!!??」

 

 突然、アイザックの部下の神人たちが大声をあげて飛び上がった。

 

 一日に二度も三度も、神人が取り乱す姿を見れるなんて、思いもよらなかった兵士たちが仰天している。見ればアイザックも険しい表情で眉間に皺を寄せ、リロイの顔を覗き込むようにして、マジマジと見つめていた。

 

 何だこの反応は? と思いつつ、鳳が尋ねた。

 

「そ、そう言えば……PER/ALIとかBTとか流しちゃってたけど、これって何なんですか? BTって、Blood Type? 血液型のこと?」

「変ね。私、A型じゃないわよ?」

 

 ジャンヌの言葉を否定して、神人がブンブンと高速で首を横に振った。

 

「そういう意味ではありません……説明しましょう。まずPER/ALIはパーソナリティとアラインメント。個性と属性です。例えばジャンヌさんはGood/Neutral、善良にして中立、カズヤさんはNeutral/Light、中立にして光属性」

 

 ハクスラ系ではよくあるやつだ。鳳たちはすんなりとそれを受け入れた。

 

「続いてBTとはBloodType、種族のことです。そしてAは人間……Bは神人なのです!!」

 

 まるでお化けでも見ているかのような表情で神人たちはリロイに向かって叫んだ。

 

 鳳はリロイが神人だと言うことに驚きはしたが、今までの流れからそういうこともあるだろうと、大して気にも留めず、

 

「へえ、おまえ、神人だったんだ。ところで、BloodType・Cってなんなんですかね?」

 

 と尋ねてみた。ところが神人たちは彼の言葉など全く耳に入ってこない感じで、

 

「そんな人間いませんよ!」

 

 と一蹴してから、リロイに掴みかからんばかりににじり寄った。

 

「あなた……本当に神人なのですか? 見た目はどう見ても人間にしか見えないのに……確かに、一口に神人と言っても耳の長さは人それぞれ。見た目もバラバラ。ですが、ここまで人間そっくりなのは見たことがありません」

「リロイ・ジェンキンス……」

 

 そんなこと言われても彼にもわけがわからないだろう。リロイは助けを求めるように背後を振り返った。カズヤが彼の言葉を代弁するかのように後を引き継いだ。

 

「そんなこと、こいつに言っても仕方ないですよ。それより、神人かも知れないなら、それを確かめる方法は無いんですか? 例えば、神人にしかない特徴みたいな」

「まずは耳が長いこと。その他には人間と違って古代魔法と神技が使えるという特徴があるのですが……あなた方が冗談みたいにポンポン使った後では説得力がありませんよね。あなた方こそ、本当に人間なのですか?」

 

 神人は非難がましい視線を向けてきたが、ハッと気づいたように目を見開いて、

 

「そうだ。もう一つ、超回復があります」

「超回復?」

 

 とは、筋肉をつけたい時のあれとは違う。

 

「我々、神人は不老非死、それ故に怪我や病気をしてもすぐに治ってしまうという特徴があります。神人を傷つけるには、銀製の武器か、より強大な力で圧倒するしかありません。試しに体の一部を傷つけてみればすぐに分かりますよ」

 

 神人はそう言うと、自分の腰に挿していた短剣を抜いて、リロイに差し出した。彼はその鋭い切っ先を見ながら、

 

「え? 傷つけるってナイフで? やだよ……」

 

 と、いつものロールプレイを忘れて素でそう言った。意外とかわいい声だった。

 

 しかし、そんな彼も衆人環視の下、期待に満ちた視線に晒されていては、いつまでも抵抗することは出来なかった。彼は神人からナイフを受け取ると二の腕をまくり、恐る恐るといった感じに刃の部分を腕に乗せ……スーッと、撫でるように横に引いた。

 

 そんなんじゃ切れないだろうと思いきや、思いの外しっかり手入れがされていたナイフは、彼の腕の上を滑らしただけで見事にその役割を果たした。リロイの顔が苦痛に歪み、腕には赤い線のような血が躙んでいく。ところが……

 

「お?」

 

 彼が傷ついた腕からナイフを離すと、たった今、傷つけたばかりの傷口がピタッと閉じて、あっという間に血が止まってしまった。まさかと思ってその血を拭ってみると、そこには傷一つない綺麗な肌が見えるだけだった。

 

 驚いて2度3度と続けてみても結果は同じだった。だんだん慣れてきたらしい彼が、見てるほうが痛くなるくらい、結構ばっさりと切り刻んでも、その傷はあっという間に塞がった。

 

 鳳たちは感嘆の息を吐いた。まるで不死身の怪物みたいだ。と、その時、カズヤがなにかに気づいたように声を上げた。

 

「そうか! こいつはあっちの世界ではバーサーカー……常に突撃戦法を得意としてきた男だから、もしかしたらそれを再現しているんじゃないか? 回避が得意なAVIRLのACにボーナスがついていたように、いつも敵中にあって攻撃を受けやすいリロイは超回復を手に入れたってわけだ」

「なるほど、言われてみればそうかも知れないでやんすね」

「彼がこっちでもあの戦法を続けるなら、これくらいのチート能力が無ければ通用しないものね」

「え? ……そんなんでいいのか? 君たちはそれで納得するの?」

 

 何しろ異世界召喚なのだ。これくらいのチート能力があっても問題あるまいと、あっさりと受け入れるカズヤ達に対し、こちらの世界の住人であるアイザックは戸惑いを隠せないようだった。

 

 そんな中で、リロイはいくら切り刻んでも傷一つ残らない自分の腕をじっと見つめてから、何かを思いついたように、手にしたナイフを天に掲げながら、突然、猛烈な勢いで練兵場の中心目掛けて駆けていった。

 

「リローーーーイ・ジェンキィィーーーーンスッ!!」

 

 彼が飛び上がって、振りかぶったナイフを振り下ろすと、ドドドンッッ!! ……っとダンプカーでも突っ込できたような衝撃音を立てて、練兵所の地面に嘘みたいなクレーターが出来上がっていた。

 

 ナイフを使ってどうやったらそんな痕が出来るんだと突っ込む間もなく、

 

「地烈斬! ストーンインパクト! 乱れ斬りっ!!!」

 

 彼が次々と繰り出す技の前に、練兵所の地面はまるで幼稚園の砂場のごとく穴だらけにされていった。全方位に向けて次々と繰り出される狂ったような攻撃を前に、兵士たちが驚いて逃げ惑う。見た目はシリコンバレーのオタクのくせに、まさにバーサーカーと呼ぶにふさわしい暴れっぷりだった。

 

「うおおおおおぉぉぉぉーーーー!!!!」

 

 練兵場の中心で雄叫びを上げるリロイ・ジェンキンス。どうやら彼は、自分に与えられたステータス能力が気に入ったようだ。はじめは少しがっかりしていた彼が元気になったのは良いけれども、この練兵場は誰が片付けるのだろうか……

 

「いやはや……ジャンヌも凄かったが、彼の暴れっぷりはそれ以上のものがあるな。見ているだけで恐怖を覚えるくらいだ。しかし、味方だと思えばこれ以上に心強いことはない。きっと彼の子供たちはその能力を受け継いで、強い男に育つだろう」

 

 大暴れするリロイを遠巻きに眺めながら、アイザックは呆然とした表情でそう呟いていた。そう言えば、すっかり忘れてしまっていたが、自分達はこの世界に種馬として召喚されたのだ。

 

 それを思い出した彼らがハッと城の方を見上げてみたら、練兵場を見下ろす窓辺にちょこちょこと動く影が見える。どうやら、城に滞在する女達がこちらの様子を窺っているようだ。

 

 ここで強さをアピール出来れば、セックスだ。

 

 俄然、やる気が出てきたカズヤとAVIRLがこれみよがしに能力を誇示し始めた。すでに練兵場の中央で暴れていたリロイと三人で、つきあわされる兵士たちが可哀想になるくらい大暴れしている。

 

「いやあね。スケベな男たちは。汚らわしいわ」

 

 そんな男たちを軽蔑の眼差しで見つめるジャンヌ。鳳はその横に立って、彼に同調するようにうんうんと頷いた。能力がなんぼのもんだ。男はもっと内面で勝負するべきだ。

 

 鳳がそんなことを考えていると、するとそんな彼に気づいたアイザックが、部下の神人たちを引き連れ近づいてきて、

 

「やれやれ、練兵場を壊されなければ良いのだが。君は彼らと一緒にアピールしなくていいのか……? っと、そうだった。そう言えば、まだ君の能力を教えてもらってなかったな」

 

 アイザックがポンと手を叩きながらそう言った。鳳はギクリと肩を震わせた。

 

「これまでの勇者たちのステータスは、みんな素晴らしいものだった。君はなかなか切れる男のようだし、さぞかし興味深いステータスをしているんだろうな」

「いやいや、自分なんかはそんな……」

「謙遜などしなくていいんだぞ。いや、寧ろ謙遜などされてはこちらの立つ瀬がないではないか」

 

 彼の背後に立っていた神人たちがうんうんと頷く。鳳は口の端っこを引きつらせながら、

 

「いやいや、凄いステータスならもう十分に堪能したでしょう? 俺のちんけなステータスなんかもう見なくってもいいんじゃないですかね」

「何を言ってるんだ? 君は……」

 

 鳳がステータスの公開を渋ると、アイザックはキョトンとした表情で、マジマジと彼の顔を覗き込んできた。鳳はその視線を避けるように顔を背けた。

 

「どうしたの飛鳥。もったいぶることないじゃない。私もあなたのステータスに興味があるわ。アイザック様、彼はあっちでは世界屈指の魔法使いでした。きっと凄いものを見せてくれますわ」

「ほう、それは楽しみだ」

 

 ジャンヌがそう請け合い、アイザックは満足そうに頷いている。

 

 勝手にハードルを上げるんじゃない……鳳は突っ込みたいのをぐっと堪えながら、愛想笑いを浮かべた。そうしたいけど、そうするわけにはいかない。彼は冷や汗をかきながら、どうにかこの場を切り抜けられないものかと思案した。

 

 そう、彼は逃げたかったのだ。ステータスを晒すなどまっぴらごめん。誰にも気づかれずにこの場から去り、出来れば城からも逃げ出してしまいたかった。

 

 しかし、そうは問屋がおろさない。

 

「おおい、どうしたんだ? そんなところにみんなで集まって」「そう言えば、飛鳥氏のステータスはまだ確認してなかったでやんすね」「リロイ・ジェンキンス」

 

 ステータスを公開するように迫られ、鳳がまごついていると、その様子を遠くで眺めていたカズヤ達が戻ってきてしまった。彼らが散々暴れたせいで練兵場はボコボコになり、訓練にならなくなった兵士たちも一緒に集まってくる。

 

 360度、好奇の視線で囲まれてしまった鳳が、ダラダラと冷や汗を垂らす。こうなってしまったら、もう逃げられない。覚悟を決めるしかないだろう。

 

「どうしたのよ、飛鳥。みんな待ってるわ。早く見せなさいよ」

 

 ジャンヌが早くしろとせっつく。

 

 鳳はため息を吐いた。

 

 アイザック、その部下、カズヤにAVIRL、リロイ、そして兵士たちに囲まれた彼は、ついに観念し、ヤケクソになって叫んだ。

 

「わかった! わかったよ……俺のステータスが見たいんだって? ああ、いいだろう。きっとみんな驚くに違いない。これが俺のステータスだ! とくと見やがれっ」

 

----------------------------

鳳白

STR 10       DEX 10

AGI 10       VIT 10

INT 10       CHA 10

 

LEVEL 1     EXP/NEXT 0/100

HP/MP 100/0  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ?

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

----------------------------

 



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Blood Type C

----------------------------

鳳白

STR 10       DEX 10

AGI 10       VIT 10

INT 10       CHA 10

 

LEVEL 1     EXP/NEXT 0/100

HP/MP 100/0  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ?

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

----------------------------

 

 異世界召喚された鳳たちは、ジャンヌを皮切りに次々とそのチート能力を披露していった。彼らのステータスは軒並みこの世界の水準を大きく上回っており、そのステータスが明らかになるたびに、アイザック達は度肝を抜かれた。

 

 ところが、最後に残された(おおとり)(つくも)の番に異変は起きた。これまでの流れからして、さぞかし凄い能力を持っているだろうと期待された鳳であったが、彼が公開したステータスはびっくりするほど惨めなものだったのだ。

 

 ステータス画面は自分にしか見えないため、鳳はそのステータスを口頭で伝えるしかなかった。だから騙そうとすれば騙せたわけだが……彼がその数値の一つ一つを正直に伝えていくと、初めのうちはどよめきと苦笑で応えていた聴衆は、基本ステータスが全て10であることを知らされた瞬間、沈黙に変わった。

 

 続けて可変ステータスのレベル1、更には職業が不明であることを告げられた時、それを聞いていたアイザックの困惑はピークに達したようだった。

 

「おい、君。我々が分からないからって、からかってるんじゃないだろうな?」

 

 沈黙を破ってアイザックが冗談めかした口調でそう言った。白はそうならどんなに良かっただろうかと思いながら、

 

「どうせ騙すんなら良い方に騙しますよ。スキルの一つでも使えたら、そうしたかも知れない」

「君は神技(アーツ)古代呪文(スペル)は使えないのか」

「残念ながら一つも」

「なんてこった……どうして君一人だけ、こんなことになってるんだ?」

 

 アイザックは眉毛をピクピクさせながら、困ったように背後に控える部下たちを振り返った。主人の疑問の視線を受けても、神人たちは自分達に分かるわけがないだろうと言った感じに、黙って首を振った。分かるのであれば、他のメンバーのチート能力にいちいち驚いたりもしなかっただろう。

 

 答えの見えない疑問に場の雰囲気がどんよりと曇る。そんな時、あっと小さな声をあげて、ジャンヌが何かに気づいたように言った。

 

「そうだわ! 飛鳥、あなたこっちに召喚される直前に、別キャラでログインしてなかった? だから私達、最初はあなたが誰かわからなかったんだけど」

「あ! そうだったそうだった! そういや、ソフィアがどうのこうのと掴みかかられて、肝を冷やしたんだった」

 

 カズヤはその時のことを思いだし、ポンと手を打ったあと、すぐにバツが悪そうに顔を背けた。状況が状況だけに何も言うつもりはないが、彼がやったことを水に流したわけじゃない。鳳はギラリと睨むような視線をカズヤに向ける。

 

 しかしそんな恨みがましい顔をしている場合ではない。彼はすぐに気を取り直すと、

 

「確かにそうだ。俺はあの時、ソフィアに会いに行くつもりで、新規キャラクリエイトをしてサーバーに入っていた。そのままだと俺が現実の鳳白だと言うことを信じてもらえないかも知れないと思って……」

「鳳白って、飛鳥の本名なの? あらやだ、源氏名みたい。今度から(しろ)ちゃんって呼んでもいいかしら。つくもより可愛いわ」

「好きに呼べよ。みんなそう呼ぶよ。つーか話が脱線するから、少し黙れ」

 

 鳳が苛立たしげにジャンヌを睨みつけていると、カズヤがなにかに気がついたように続けた。

 

「あー、もしかして、これもゲームを再現しているってことじゃないのか? AVIRLの職業補正や、リロイの超回復みたいに。俺たちのステータスは、あの魔法陣が現れた時に使用していたキャラに合わせてあるんだよ」

「そのせいで、俺はレベル1でこっちに飛ばされたってのか?」

 

 鳳がうんざりした顔でそう嘆くと、カズヤはそんな彼の哀れな姿を見ながら、

 

「あはははははははっ!!」

「何がおかしい!」

 

 突然、他人の不幸を笑い出したカズヤに対して、鳳が激昂して掴みかかる。しかし、高レベルのカズヤに、レベル1の鳳がいくら攻撃したところで、子犬にじゃれつかれてるようなものであった。彼は苦笑交じりに攻撃を捌きながら、

 

「いや、だって、仲間たちがみんなチート能力持って召喚されてるのに、一人だけ無能だなんて、お約束すぎんだろ。どこの主人公だっつーの。おまえ、昔っからそういう美味しいとこ持ってくよな」

「くそが……これが自分のことじゃなきゃ笑ってられたかも知れないが、しかしこれは現実なんだ。俺はこれからどうしたらいいんだ?」

 

 鳳は力が抜けたようにへなへなと地面に両手をついた。いくら攻撃しても一向にダメージを与えられないことに疲れたのもあったが、これから先、どうやって生きていけば良いものか……将来を考えると、どっと肩に重い物がのしかかってくる。

 

 ジャンヌはそんな鳳の肩を叩き、

 

「まあまあ、白ちゃん。そう気を落とさないで。レベル1っていうのは逆に言えば、それだけ伸びしろがあるってことかも知れないわよ」

「そんな慰めいらねえよ。俺はいますぐ使える力が欲しかった」

 

 鳳が涙目で嘆いていると、それまで鳳たちのやり取りを呆然と見守っていたアイザックが話しかけてきた。

 

「つまり、どういうことなんだ……? さっきから、君たちが言っていることがいまいち理解できないんだが」

 

 異世界人の彼らには、ゲームだの別キャラだのログインだの、元の世界の言葉の意味が分からなかったのだろう。鳳は我が事ながら面倒くさくなって投げやりに、

 

「つまり、こいつらは成長しきった最強の姿でこっちに召喚されたのに、俺だけがうっかり生まれたばかりのステータスでこっちに飛ばされちゃったって感じです。生まれたばかりだから、何もかもが低レベルですし、職業も決まってないんですよ」

「君たちの世界には、職業が無い人間なんてものがいるのか……?」

 

 年越し派遣村とかに行ったらボコボコにされそうなセリフが飛び出してきた。鳳は逆にアイザックに尋ねてみた。

 

「そりゃ、普通、生まれたばかりの赤ん坊は職業にも就いてないでしょう? そういや、この世界ではどうやってジョブを決めるんですか?」

「いいや、普通の人間は何らかの職業を持った状態で生まれてくるぞ。戦士の子は戦士、盗賊の子は盗賊と言うだろ」

「なんですって?」

 

 まるで蛙の子は蛙みたいな口ぶりだが、実際、この世界ではそれが常識のようだった。職業選択の自由が存在する鳳たちには信じられない世界だったが、逆にアイザックからすれば、彼らの方が不思議な生き物に見えるのだろう。

 

「それじゃあ、君たちの世界では、職業はどうやって決まるのだ?」

 

 どうと言われると……普通なら学校行って就職活動をして、入社試験を受けて圧迫面接に耐えて……となるのだろうが、多分、アイザックの聞いてる職業はそういうのではなく、ゲーム上の職業のことだろう。

 

 鳳はキャラクリエイトの場面を思い出しながら、アイザックにも分かるように説明しようとしたが、

 

「えーっと、普通はキャラクリした直後にサイコロを振って……出た目の分だけ各ステータスにボーナスを割り振って、そうして決まった初期ステータスで、ある程度の職業が決まるん……ですけど」

 

 ちんぷんかんぷんなアイザックの代わりに、カズヤが食いついてきた。

 

「そうだったそうだった。そんで、強力な職業に就くには、ある程度サイコロを厳選しないといけないんだ。俺はそれで補助術士になった」

「私は騎士になったわ」「拙者は何も考えずに暗殺者にして、後で後悔したでやんすよ」「リロイ・ジェンキンス」

 

 アイザックがぽかんとした表情で言う。

 

「もしかして……まさか君たちは全員、好きに職業を選んだということか? 信じられない」

「いや、信じられない言われても。それが普通でしたから……あ、そうか!」

 

 その時、カズヤがなにかに気づいたように声を上げた。

 

「こいつが無職なのは、ステータスのせいだよ。サイコロボーナスは最低でも5は貰えるようになってたから、オール10なんてステータスは本来あり得ない。最も簡単な戦士になるにもSTRが11以上必要なんだ」

「あー、そういうことか……それじゃあ、俺もどれかのステータスが上がったら?」

「自動的に職業が決まるのかも知れないな。確か15までなら訓練で上げることが出来るんですよね?」

 

 カズヤが確認するようにアイザックの部下たちに尋ねると、彼らは呆気にとられながらも、

 

「は、はい。確かにそうです。ですが上がると言ってもほんの少しですよ?」

「もしかしたら勇者補正で上がりやすいかも知れないし、試してみろよ。無職よりマシだろう」

 

 カズヤにそう勧められ、鳳は渋々頷いた。

 

「やるしかないから、やるけどよ……なんで俺だけこんな目に」「そうふてくされるなよ。上手くステータスを上げれば、狙った職業に就けるかも知れないぞ?」「それはあるかも知れないわね。せっかくだから、白ちゃんも伝説のロードを目指してみたらどうかしら?」「そう上手くいくかなあ?」「わからんが、面白そうだから色々試してみようぜ」「他人事だと思ってよ」「カズヤのステータスの傾向からすると、ロードはSTRとDEX、INTとCHAが高いようね……ねえ、CHAってどうやったら上がるのかしら?」

 

 鳳たちは周りそっちのけで好き勝手に話を続けた。ゲーマー脳に侵されている異世界人の奇行を目の当たりにして絶句していたアイザックは、ようやくハッと我に返った。

 

「君たちは本気で職業は選べると思っているのか?」

「ええまあ。取り敢えずやっとけって感じですけど」

「ふーむ……それは面白そうだな。もし本当にそんな事が出来るというなら、我々も協力を惜しまないぞ。必要なことは何でも相談してくれたまえ」

「ありがとうございます」

 

 そう言って頭を下げた時、鳳はさっき気になったことを、ふと思い出した。

 

「そう言えば……ステータスのことで一つ聞きたいことあったんですけど」

「なにかね?」

「Aが人間、Bが神人なら、Blood Type Cってなんなんですか? どうして俺だけCなんだろうって、ずっと気になってたんですけど」

「え!?」

 

 するとアイザックと部下の神人全員が、一瞬だけ驚愕の表情を見せた。しかし、彼らはすぐに取り繕ったように平静を装うと、

 

「いいや……そのような人間は聞いたことがない。まさか君はCなのか??」

「え、ええ……そうなんですけど。これって……」

「それは不思議だ。どういうことなのか調べさせよう」

 

 アイザックがそう言って部下に命じると、彼らはお互いに頷きあってから練兵場を出ていった。それまでとは明らかに違う様子に不安になる。顔に出さないようにしているが、何かを隠しているのは間違いない。

 

 尤も、何を隠しているのかは何となく見当がついているのだが……

 

「ところでさあ、おまえの個性と属性ってなんだよ。善良にして闇属性って、どこの中二病だよ。超ウケるんですけど」

 

 鳳とアイザックがお互いに余所余所しい雰囲気で無言のやりとりを続けていると、空気を読まないカズヤがゲラゲラと笑いながらやってきた。個性はともかくとして、この光とか闇の属性の方も、いまいち何なのか分かっていなかった。アイザックに尋ねてみると、

 

「実は、我々にもよく分かっていないのだ。その者が持つ、生まれついての何かとしか言えないな。因みに、闇属性の人間はいくらでも存在するが、神人では見たことがない。その傾向からして、精霊に関係があるのではないかと思われているのだが」

「精霊の加護を受けてるかどうかの違いとか、そんな感じでしょうか? あれ? じゃあ、闇属性は何の加護を受けてるんだ……?」

「さあ、なんだろう」

 

 アイザックも分からないと言った感じに首を振る。カズヤはようやく二人の微妙な雰囲気に気づいたのか、変なことを聞いてしまったかなと、取り繕うような感じで後を続けた。

 

「そうだ。もしかすると、これも職業に関係あるのかもな」

「職業?」

「ああ。闇属性じゃないとなれない職業とかがあるんじゃないか。例えば忍者とか。ハクスラ系のRPGだと、割と定番だろ?」

「忍者! いいでやんすね! 拙者、本当は忍者になりたかったでやんすよ」

 

 その単語にAVIRLが食いついてきた。あっちの世界のゲームには、忍者という職業がなかったから、彼はそれに近い暗殺者を選んだのだそうである。だからもし、こっちの世界で忍者になれるんならなってみたいから、鳳にそれっぽいステータスを目指してくれと頼んできた。

 

 いや、おまえの欲望のために職業を決めるのは冗談じゃないと断っていると、それじゃあ何になりたいのかと詰め寄られ、その後は鳳の職業についての話題になっていった。本当はBloodTypeについて、もっと突っ込んだ話を聞きたかったのだが……

 

 アイザックは涼しい顔をして会話に加わっている。兵士たちは荒らされた練兵場の修復で忙しそうだ。きっと誰に尋ねたところで、もう答えてくれることはないだろう。だから鳳はそれ以上、無理に尋ねることはしなかった。

 

 尤も、聞くまでもなく、何となくそれは分かっていた。これまでに受けてきた歴史講釈では、この世界には3種類の人類が存在して、それぞれ、人間、神人、そして魔族と呼ばれていたはずである。

 

 闇の眷属、魔族……BloodType AでもBでもないなら、考えられるのはこれしか残っていないだろう。おあつらえ向きに彼の属性はDARKと来ている。

 

 これがこの城の住人達にとってどういうことを意味するのか……どうやら鳳は、自分の悲惨なステータス以上に気を配らなければならないことが出来たようだった。

 



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うらやまけしからん

「あー! ちっくしょう! むしゃくしゃすんなあ……」

 

 (おおとり)(つくも)は硬いベッドの上から枕をぶん投げた。それは天井に当たって、バサッと床に落っこちた。しんと静まり返る室内に、モクモクと埃が舞い上がる。この部屋に案内してくれた侍従は、突然の来客で部屋の用意が出来なかったと言い訳をしていたが……それでも普通、こんな埃っぽい部屋に通すだろうか? 鼻がムズムズする。心なしか部屋も狭い感じがするし……

 

 鳳は不貞腐れるように横になると壁を見つめた。

 

 それにしても酷い一日だった。

 

 サービス終了の決まったゲームで遊んでいたら、いつの間にか見知らぬ世界に飛ばされていて、ステータスを確認したらみんなはゲームと同じ最強のままなのに、自分だけレベル1なんて……

 

 あの後、練兵場で鳳のステータスについて話し合っていると、みんな急に思い出したかのように疲れが押し寄せてきて、そのままお開きという流れになったのだ。考えても見れば、あっちの世界でゲームで遊んでいた時すでに深夜だったから、鳳たちはかなり長い時間を起きたまま過ごしていたことになる。相当疲れが溜まっていたのだろう。

 

 その後、案内された食堂で食べ物を口にしたら、おっさんのジャンヌがもう限界といった感じで船を漕ぎ始めてしまい、みんなそれぞれの寝室に案内されたのだ。その際、白だけやたらと待たされたのだが……

 

「まさか……他の連中と差をつけたりしてないだろうなあ?」

 

 つぶやきが、虚しく部屋にこだました。

 

 それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだろうか……?

 

 そもそもの切っ掛けは鳳がソフィアに告るつもりで、待ち合わせの場所に行くためにキャラチェンしたことだった。

 

 あっちでレベル1のキャラを作った直後に勇者召喚されてしまい、ソフィアには告れず、仲間には差をつけられて、気がつけば一人だけお荷物扱いだ。こんな状態でこっちの世界に残っても、楽しいことなんて何も無さそうだし、戻れるもんならあっちに戻りたいものだが、アイザックの話ではそれは無理ということだった。

 

 呼び出しておきながら無責任な! と怒ったところで、元に戻してくれるわけじゃないし、生活の面倒も見てくれるというのだから、少なくとも暫くは大人しくしておくしかないのだが……もし本当にあっちの世界に戻れないのだとしたら、これから先どう生きていけばいいのだろうか?

 

 最初は、仮に自分一人だけが無能でも、仲間たちと城で面白おかしく暮らして行きゃ良いやと思いもしたが、最後の最後BloodType Cのステータスを知った直後のアイザック達の様子が気にかかる。鳳の予想では、BloodType Cとは魔族の証。つまり人類の敵かも知れないのだ。それを知られてしまった今、城に長く留まるのは自殺行為かも知れない。かと言って、彼のステータスでは、城を出たところで生きていけるかどうかもわからないのだが……

 

「まいったな。軽く詰んでないか、これ?」

 

 もっと慎重に行動するべきだった。女が抱けるとか言われて浮かれていたが、今となっては後悔しかない。好きな子がいるくせに、まったく何をやっているんだ。

 

 鳳はため息を吐いた。

 

 しかし、あんな美人とジャンジャンセックスして、バリバリ子作りしろなんて言われたら、健全な男であれば浮かれないわけにもいかないだろう。実際のところ、彼女らの姿を見ているだけで、チャームの魔法に掛かったかのように思考が停止してしまうのだ。元々、鳳に女っ気がないのも理由ではあるが、神人の女子というのは何もしてなくても男がそうなってしまうくらい奇跡的な美貌を備えているのだ。

 

 それが熱っぽい視線で舌なめずりしながら、自分のことを孕ませるオスを物色しているのだから、カズヤ達が発情期みたいに必死になってアピールしていたのを笑えないだろう。仮にスキルが使えたら、鳳も同じようなことをしていたに違いない。

 

 実際のところ、あの時、練兵場を見下ろしていた神人たちはどうしたんだろうか。

 

 アイザックの話では、彼女たちはヤル気満々なのだそうだが、本当にあの女神もかくやと言わんばかりの美女たちが忍んでくるというのだろうか。まあ、自分のところには来ないだろうが、もしかしたら今頃、カズヤ達の寝室を訪れて、くんずほぐれつ、めくるめく官能の世界が繰り広げられているのでは……

そう思うとチンチンもギンギンになる……

 

 トントン……

 

 と、その時、部屋のドアがノックされた。

 

 鳳はベッドの上で飛び上がった。

 

 え? なに? こんな時間に一体、誰? 今日はもう疲れてるから、話は明日にしようって、みんな言ってたじゃないか。だから、仲間達がこの部屋に訪ねてくるとは思えない。すると今、ドアの向こう側に居るのは城の人間に違いない。

 

 鳳はパンツに手を突っ込んでちんポジを直すと、引き抜いた手のひらを、クンッ……と一嗅ぎした。ちょっと酸っぱい臭いがする。さっきお風呂で一生懸命洗ったはずなのに。でもこれくらいならセーフだよね……

 

 鳳はドキドキと震える胸を抑えながら、出来るだけ平静を装いつつ、部屋のドアを開いた。

 

「あ! 白ちゃん。見つけた、ここに居たのね。探したわ」

 

 STRが23くらいありそうだ。

 

「チェンジ」

 

 鳳はドアをそっ閉じようとしたが、その膂力の前では無意味であった。

 

******************************

 

「なんだよ。俺もう寝ようと思ってたんだよ。話なら明日聞くよ。帰れよ」

「そんなこと言わずに入れてちょうだい。今わたし部屋に戻れないのよ」

 

 鳳はそんなこと知るもんかとグイグイ、ジャンヌを押し返そうとしたが、精霊をも凌駕すると言われた筋力を前にあっけなく敗れ去った。どすこいどすこいと、逆に部屋の奥まで押し込まれて、勢い壁ドンみたいな格好で覆いかぶさられる。

 

「ひっ! やめてっ! 私に乱暴するつもりでしょう!? ホモ漫画みたいに! ホモ漫画みたいに!」

「人聞きの悪いこと言わないでちょうだい! 襲ったりなんかしないわよ!」

 

 ジャンヌはプイッとそっぽを向いて、ほっぺたをぷくっと膨らませる可愛い(本人は可愛いと思っている)仕草で抗議した。

 

「寧ろ、私の方が襲われそうだから逃げてきたのよ。匿ってちょうだい」

「ああん? どういうことだよ?」

「それがね……私が部屋で気持ちよく眠ってたら、神人の女がやってきて」

 

 ジャンヌが言うには、神人女が話がある風を装って夜這いに来たらしい。その気がなかったジャンヌがびっくりして拒絶すると、まさか断られるとは思わなかった彼女が激昂し、衛兵が駆けつける騒ぎになってしまった。

 

 それをどうにかこうにか収めたまでは良かったものの、今度は別の女がやってきてジャンヌを誘惑しようとする。また騒がれてはたまらないからと、丁寧に追い返したらまた別の女がやってきて、追い返しても追い返しても次々とやってくる城の女どもを前に、眠気がピークに達していた彼はついに切れ、部屋にバリケードを築き上げると、また別のが来たら撃退してちょうだいと、部屋付きのメイドに断ってからベッドに入ったらしい。ところが……

 

「眠ってたらなんか腰の辺りで変な感じがしてね? 仕方なく起きて確かめたら、私の下半身にメイドがまとわりついているのよ。うっとりとした顔で、さも嬉しいでしょうと言わんばかりの目つきで……私のアレを咥えている姿を見つけた時……私はおぞましさに耐えきれず思いっきり彼女を蹴り飛ばして逃げ出したわっっ!!」

「うらやまけしからん……」

 

 思わず本音が先に出てしまったが、鳳はすぐに言い直した。

 

「そのメイドさん生きてるんだろうな? あっちの世界と違って、今のおまえって歩くダンプカーみたいなもんなんだぞ」

「知らないわよ……ああ、思い出しただけで下半身がムズムズしてくる!」

 

 ジャンヌはパンツに手を突っ込んでちんポジを直すと、引き抜いた手のひらを、クンッ……と一嗅ぎした。

 

「やだ、酸っぱい」

「おい、その手でこの部屋のものに触れるなよ!! 絶対に触れるなよ!!」

 

 鳳に怒鳴られたジャンヌは備え付けの水差しで手を洗った。鳳もなんとなく一緒に手を洗った。

 

「話は分かったよ。おまえが種馬になるのはゴメンだって意思表示をしていたことは、城の連中ならみんな知ってるはずなのにな」

 

 それでも、無理を承知でアプローチしてみようとするだけの魅力がジャンヌには……STR23にはあるのだろう。実際、彼の能力は凄まじく、たった一度しか試技をしてなくても、仲間内で最強なことは誰にでも分かるくらいだった。もし仮にジャンヌと結婚して子供が出来たら家名も安泰だと、貴族である彼女らが考えたとしても、それは仕方ないことかも知れない。

 

 それにしても……なんだか年収のことばかり気にしている婚活おばさんみたいで感じが悪い。昼間見た時はその美しさに圧倒されたが、今はものすごく薄っぺらく感じる。尤も、またあれに目の前に立たれたら、そんなこと考えられなくなってしまうのだろうが……

 

 鳳がそんなことをぼんやり考えていると、

 

「そんなわけで、今晩はここに泊めてちょうだい。部屋に帰っても眠れないから」

「はあ!? おおお、俺はそっちの趣味はないぞ! 断固拒否するっっ!!」

「失礼なっ! 襲ったりなんかしないわよ。私のこと何だと思ってるの!?」

「何って、ホモだけど……」

「ゲイに向かってホモって言わないでちょうだいっ!!」

 

 オカマとホモとゲイの違いって何なんだろう。鳳がジャンヌの勢いに圧されて縮こまっていると、彼はプンプンとほっぺたを膨らませながら、

 

「実際、本当に襲ったりしないわよ。私はその……いわゆるネコの方だから、ノンケを襲ったりなんてしないわ」

「えー……ホントかよ?」

 

 それでも鳳が訝しげな表情を向けると、

 

「私は愛されたいのよ。抱かれたいの。襲うんじゃなくて、寧ろ襲われたいのよ。白ちゃん、あんた私を抱ける? 私のこと見て勃起する? 私のシルクワームにイージスアショア出来るって言うの!?」

「おおお、おぞましいこと言うなよっ! 勃起どころか陥没するわいっ!」

「あなたが聞いてきたんじゃないっ! 男はいつもそうやってオカマを傷つけるのよっ!」

 

 オカマって面倒くせえ……鳳は溜息をつくと投げやりに、

 

「わーった。わーかったよ。ホントに泊めるだけだからな? 襲ってきたら舌かんで死ぬからな? ってかイージスアショアってなんだ」

「しつこいわね。絶対襲ったりしないわよ。もう……それじゃ、私はあっちの部屋で寝るから、おやすみ」

 

 ジャンヌはいつまでも警戒を解かない鳳に対し、ムスッとした顔でそう答えると、クローゼットのドアを開けて中に入っていった。何をやってんだろうと思ったら、すぐに中から出てきて、

 

「なにこれ? クローゼットじゃない。この部屋、一部屋しかないの?」

「当たり前じゃないか。おまえんとこは違うのか?」

「私の部屋は寝室とリビングとクローゼットと、お風呂とトイレと、ついでに淫乱メイドがついてたわ。他のみんなもそうだと思うけど」

「くっ……はっきり差をつけられている」

 

 これで確定した。鳳はこの城の者たちに、完全に警戒されているようだ。それは彼がレベル1だからか。それとも……

 

 さっきも考えたことだが、本気でこの城から脱出する方法を考えておいた方が良いかも知れない。なんなら、今すぐにでも逃げ出した方が良いのでは……

 

 そんなことを考えていると、一部屋しかないことを知って足を伸ばして眠ることを断念したジャンヌが、今日の寝床と決めたソファの上で膝を折り曲げ、愚痴るようにこう言った。

 

「それにしても……この部屋暗すぎるわね。どうして明かりをつけないの?」

「ファンタジー世界に電気があるかよ」

「ランプならそこにあるじゃない」

 

 あるけど火種がないと鳳が言いかけた時だった。ジャンヌはランプと一緒に置かれていた一枚の紙を、ひょいとつまみ上げ、

 

「ティンダー」

 

 彼がそう一言呟くと、突然、つまみ上げた紙に火が灯った。

 

 彼はその火種を使ってランプの芯に火を点けると、キュッキュッと音を立てて風防を閉じた。一連の動きに迷いがなくて見逃してしまいそうだったが、もちろん鳳は仰天した。

 

「何いまの!? おまえ、火魔法も使えたっけ!?」

「まさか。案内されたとき教えてもらわなかったの?」

 

 ジャンヌが言うには、これはこっちの世界のマジックアイテムだそうである。スクロールを手にして呪文を唱えれば、誰でも簡単な魔法が使えるらしい。これはティンダーのスクロールだとかで、どんな家庭にも置いてあるマッチみたいなものだとか。

 

 見た目は赤と青の同心円が描かれたただの紙切れにしか見えないが……

 

 鳳はその紙切れをためつすがめつした後、ジャンヌの真似をして火を点けてみた。発声と共に当然のように燃え広がる火を灰皿に落として、彼はそれが消えるまで呆然と見つめ続けた。

 

 昼間も感じたことだが、この豪奢な城といい、マジックアイテムといい、この世界の技術は思ったよりも確かだ。何のチート能力も持たない異世界人が一人で生きていくのは、想像以上に難しいだろう。この城に滞在している間に、どうにかしてその方法を見つけなければいけないが……

 

 彼が黙って火を見つめていると、ジャンヌがまた愚痴るように呟いた。

 

「本当にファンタジー世界なのよね、ここ。魔法一つとってもこれだもん。きっと、まだ見たことがない冒険が待っているはずよ。それに思いを馳せるとワクワクするけど。でも……あーあー……こんなことなら、もう元の世界に帰りたいわ。あっちだって暮らしにくかったけど、少なくともLGBTに理解はあったもの」

 

 最初はファンタジー世界に召喚されたことをジャンヌも喜んでいたようだったが、その目的が異世界人の繁殖の手伝いだと知って、既に心は離れつつあるようだった。もし、彼が城から逃げ出す手助けをしてくれるなら心強いが……

 

「……俺も同感だが。アイザック達が元の世界には戻れないって言ってたのを覚えているか。多分、本当のことだろう」

「そうねえ……でも、本当に帰る方法が無いのか、探すくらいはしてみてもいいんじゃないかしら」

「そうだな。もし、おまえが本気でその方法を探すっていうなら、俺も協力するよ。出来れば俺も、帰れるものなら帰りたいと思ってるんだ」

「あら? 意外ね。白ちゃんはこっちの方が気に入ってるんだと思ってたけど」

 

 寝転がっていたジャンヌが意外そうにソファから身を乗り出して鳳を仰ぎ見る。彼はベッドの上であぐらをかき、腕組みをしながら言った。

 

「この待遇の差を見ろよ? これって俺だけがレベル1の無能だからだろ。今日明日くらいはなんとかなるが、きっとそのうちここを追い出されるんじゃないかと思ってる」

「そうかしら? たまたま部屋が足りなかったからじゃないの? 明日になったらもっといい部屋に案内してくれるわよ、きっと」

「仮にそうだとしたら、今日は部屋が汚いだけで、淫乱メイドはついてきたはずだろ」

「……確かに」

 

 決して淫乱メイドが居ないことが悔しいわけじゃない。状況確認の際に、一つ一つ可能性を潰していったら、自分にもメイドが付けられていないのは不自然だと、気づいただけである。本当だよ?

 

「それにまあ、冷静になって考えてみるとだな、種馬生活ってもんは言うほど楽しくないんじゃないかって、そう思うようになってきたんだよ。

 

 そりゃ、最初の内はめちゃくちゃ嬉しいだろうし、満たされた気分になるだろうけど、それも毎日となると単にしんどいだけだろう? 美人は3日で飽きるっつーし、別の女を次々抱いたところで、刺激は後になるほど薄れるはずだ。そうなってしまったら、もう作業じゃん。

 

 そんなことを、この城に縛り付けられながら、一生続けなきゃならないなんて、軽く悪夢だぜ。いや、別に、俺だけのけ者だからってディスってるわけじゃないぞ。そこんとこちゃんと分かってくれよな?」

 

 ジャンヌは勢いよく餌に食いつく鳩みたいにブンブンと首を縦に振った。

 

「うんうん、分かるわ! 私もそう思ったのよ。でも、みんなが嬉しそうにしてるとそんなこと言い出せないし……自分だけ城から出てくのも不安だったんだわ。でも、もし出来るなら、城を飛び出して、この世界を旅してみたいわよね。きっと素敵な冒険が待っているはずだわ」

「そうだな、きっとそっちの方が断然楽しいはずだよな。おまえのチート能力だって、ここにいるより活かせるだろうし」

「確かに……そう考えると、いつまでもここにいるのがもったいない気がしてきたわ。早く自立しなきゃ」

「……どうだろう。それなら俺と一緒に城を出ないか? 俺は役立たずかも知れないが、荷物持ちくらいにはなるからさ。俺はあっちの世界で会計と経理を学んでいたから金勘定は得意だぞ。料理だって簡単なものなら作れるぞ。よく口がうまい……ゲフンゲフン、交渉力に長けてるとも言われるし、おまえは安心して冒険だけしてくれてれば良いから」

「本当? ……じゃあ、お願いしちゃおうかな。あなたがついてきてくれたら心強いし、そのほうがずっと楽しそうだわ」

「いいともいいとも」

 

 計画通り……鳳はニヤリとほくそ笑んだ。これで財布と用心棒をゲットだぜ。一人で生きていくのは不可能だが、このオカマがいれば百人力だ。正直、城から出ていっても、どうやって金を稼ぐかが一番の頭痛の種だったが、ジャンヌのチート能力があれば、少なくとも食うには困らないはずだ。

 

 なんならどこぞのドラゴンスレイヤーでも見習って、この辺の盗賊を一掃してみてはどうだろうか。奴らに人権はないそうだから、お宝奪い放題だ。ついでに退治した盗賊を手下にすれば、自分の手駒も増えて一石二鳥だ。そうしたらジャンヌに頼らないでも生きていけるし、ゆくゆくは勢力を拡大してどっかの城を落とすのもいいだろう。

 

 そして王になったらハーレムだ! 美人の姉ちゃん達を侍らして、ジャンジャンバリバリ子作りだ! アイザック達の説が正しければ、自分はともかく、自分の子供達は優秀かも知れないから、生まれてきた子供たちを支配して、世界征服してやろう。胸が躍るぞ、くっくっく……

 

 鳳がだらし無い顔で、そんな邪悪な妄想をしていると、

 

「それじゃあ、共闘が決まったところで、私もそっちのベッドに入れてちょうだい?」

「……は? おまえ、何言ってんの?」

「何って……これから一緒に冒険するんでしょう? そしたらこういうことだってあるわよ。宿代を節約するために、同じ部屋に泊まるんだし。野宿で身を寄せ合って寝ることだって、きっとあるわよ。早く慣れてもらわなきゃ……あたたたたた、ソファなんかで丸まってたせいで、腰が痛いわ」

 

 ジャンヌは鳳の返事を待たずにズリズリと這いずりながら、ベッドによじ登ってきた。仰け反った鳳がベッドから転げ落ちる。

 

「いやいやいや、そういう状況になったんならわかるが、どうして今おまえと同衾せにゃならんのだ!」

「恥ずかしがらないでよ。さっきも言ったでしょ? 私がゲイだからって、別に白ちゃんのことを襲ったりはしないわよ……でももし、白ちゃんが私のことを欲しいっていうなら、構わないけど……ポッ」

 

 ジャンヌは品を作って顔を赤らめた。鳳の全身にポツポツとじん麻疹が現れた。

 

「ポッ! じゃねえよ、ポッじゃ! 冗談じゃないわ! 俺にそんな趣味はねえ!」

「だから、安心して寝なさいよ。私から襲うことはないんだから……ふぁ~あ~……いい加減眠くなってきたわ。それじゃ、私は先に寝るわよ。おやすみ」

 

 ジャンヌはそう言うと、鳳の返事を待たずにさっさと布団にくるまって眠ってしまった。彼が入ってこれるように、ベッドと枕の半分がわざとらしく開けてある。

 

「おい、こら。冗談はよせ。そこは俺の寝床だぞ!?」

「グーグー……」

 

 鳳は眠っているジャンヌの肩をユッサユッサと揺さぶったが、STR23はビクともしないで寝息を立てていた。そんなに寝付きの良い人間などいないから絶対狸寝入りなのだが、もはや何をしてもここを退かないという意思表示だろう。

 

「ちくしょう……」

 

 鳳は涙目になりながら、さっきまでジャンヌが寝そべっていたソファで横になった。ジャンヌが膝を抱えて眠っていたソファは、彼にはぴったりサイズだった。

 

 仰向けになって天井を見上げる。天井の片隅で、蜘蛛の巣が獲物を狙っていた。舞い散る埃が、ランプの炎に炙られ、焦げ臭いにおいがしている。

 

 ジャンヌを誘ったのは、もしかしたら早まったかも知れない。そっちの趣味がない鳳にとって、彼との生活はきっとストレスになるだろう。だが、この部屋のみすぼらしさを見る限り、この城で厄介者として生きていくのも、彼にとっては苦痛に違いなかった。

 

 果たしてどっちが正解なのだろうか……鳳はキュッとお尻の穴をすぼめながら、いつまでも寝付けない夜を過ごすのだった。

 



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ビビりすぎなんだよ

 翌朝、鳳の目の下には立派なクマが出来ていた。

 

 結局、昨晩は隣で寝ているホモに恐れをなして、明け方まで浅い眠りと覚醒を繰り返していた。ついに力尽きて眠りに落ちたのは数刻前だろうが、そんなことともつゆ知らず、先に起きていたジャンヌに、いい加減そろそろ朝食にしようと起こされ、鳳はいやいや体を起こした。

 

 多分、悩みが解消されたからだろう、やけにスッキリした表情のオカマを見ていると顔面パンチしたい衝動に駆られたが、下手にSTR23の不興を買って反撃されたら内臓が飛び出してもおかしくない。

 

 本当に、こいつと城を出ていくという選択肢は正しいんだろうか……? 不安を覚えつつ、フラフラする足取りで部屋を出る。

 

 洗面所がないので洗面器を借りて、井戸の周りでバシャバシャやっていると、急な差し込みがきて、慌ててトイレに駆け込んだ。毎朝のお通じという感じじゃなくて、こっちの世界に来たストレスのせいか、少し下痢気味のようだった。

 

 ゴロゴロ言うお腹を擦りつつ、取り敢えず、お尻に違和感がないか? うんちに血は混じってないかと気にしながら、柔らかいトイレットペーパーで尻を拭いた。どこぞの異世界転生者は紙がないと大騒ぎしたそうだが、この世界ではそんな無様な真似はしなくて済みそうだった。

 

 なにはともあれ、用を足したあとの便器を見ながら、このあとどうしたらいいんだろうかと途方に暮れていたら、メイドさんが澄ました顔でやってきて、おまるを持って去っていった。今、オレのうんちをメイドさんが抱えているという現実が疲れマラを直撃したが、

 

「あ、いたいた、白ちゃん。みんなが待ってるから早くご飯にしましょう」

 

 すれ違いざまにやってきたジャンヌのおかげで事なきを得た。お前が居てよかったという鳳の後を、目をパチクリさせながらジャンヌが続く。

 

 遅い朝食をとってから練兵場に行くと、既に仲間たちがいて、昨日と同じように自分達のスキルをあれこれ試していた。カズヤ、AVIRL、リロイ・ジェンキンス……3人ともどこか清々しい表情をしているのは何故だろう。

 

 彼らは遅れてやってきたゾンビみたいな顔をした鳳を見かけると、すぐに試技を中止して駆け寄ってきた。

 

 カズヤがニヤニヤしながら話しかけてくる。

 

「よう大将、お疲れのようだな」

「まあな」

「昨晩はどうだった?」

「昨晩って?」

「みなまで言わせるなよ。目の下にクマが出来ちゃうくらい……ヤリまくったんだろう?」

 

 ニヤ~っと笑うカズヤの目つきは完全におかめのそれである。何でそんなに上機嫌なんだ? 気がつけばAVIRLとリロイも近寄ってきて、抑えきれないといった感じに、ニヤニヤ笑いを浮かべながら、

 

「いやあ~! 肉壷わっしょいしたら世界が変わるって聞いてたでやんすが……世界……変えちゃったかな、拙者も」「リロイ・ジェンキンス」「神人、あんな貞淑そうに見えて、凄いド淫乱……さすが何百年も生きてるって感じ。搾り取られるかと思った~! で、どうだったんだよ、おまえの方は?」

 

 ああ、そういう……鳳はギリギリと奥歯を噛み締めながら返答した。

 

「なんもねえよ。俺んとこにはマッチョのオカマしか来なかったよ。ちくしょうめ」

「誰がオカマよ、失礼しちゃうわねっ!!」

 

 鳳とジャンヌがギャンギャンといがみ合ってると、神人の部下を引き連れたアイザックが練兵場にやってきた。

 

「勇者諸君! おはよう! 昨日は良く……眠れなかったようだな。はっはっは!」

 

 何がはっはっはっだ。鳳はいきり立った。昨晩、明らかに自分の部屋だけ差別したくせに、よくも涼しい顔をして出てこれたものである。そりゃ、こっちは無能のレベル1かも知れないが、だからって差別されて黙っているわけにもいかないだろう。他の連中はセックスしてるのに! 他の連中はセックスしてるのに!

 

 幸い、ジャンヌと二人で城を出ていく算段はついている。文明人としてこんな野蛮人にコケにされたままでは沽券に関わる。鳳は抗議してやろうと腕まくりしながら、アイザックの前に進み出た。

 

「おお! (おおとり)(つくも)と言ったか。昨日は君のステータスについて話し合っているところで解散したんだったな。今日は昨日出た意見を試してみようと思って、君のために色々と用意してきた」

「……え? 俺のために?」

 

 鳳はちょっと機嫌を直した。

 

「うむ。レベルが低いなら上げちゃえばいいじゃないと言う意見があっただろう。我々も一晩検討した結果、異世界から召喚された勇者ならば、もしかすると我々の想像もつかない現象が起きるかも知れないと考えたのだ」

 

 この領主様は領主様なりに、鳳のことも考えてくれていたようだ。文句を言ってやろうと思っていたが、一応、話だけは聞いてやろうと彼は思い直した。それが文明人というやつである。

 

 鳳が矛を収めて退くと、神人が進み出て話し始めた。

 

「正直に申し上げますと……鳳様のレベルが1ということで、我々もどう接して良いものか悩んでおりました。お城の女性陣に至っては眼中にないといった感じで……ですが、古い文献をあたってみたところ、なんと伝説の勇者様はレベルが200以上あったと書かれていたのです。

 

 もしそれが本当だとすると、現在の勇者様方のレベル99だって通過点でしかなく、レベル1も99も変わらないかも知れないんですよ……もちろん、我々からすれば途方も無い数値なのですけどね。

 

 ともあれ、異世界から召喚された鳳様なら、もしかすると我々の想像を絶するような成長を遂げるかも知れない。そんなわけで、今日は鳳様に経験値稼ぎをしていただこうと、色々と用意してきたのです」

 

 鳳はフンフンと鼻息を鳴らしながら神人たちの言葉に聞き入っていた。そんな彼の様子を見て、不安そうに背後からジャンヌがそっと耳打ちしてきた。

 

「……ねえ、私達、この城から出ていくんじゃなかったの? その話を切り出さなくってもいいのかしら」

「あ、ああ、そうだった。でも、そんなに急がなくたっていいだろう? なんか、俺のレベリング手伝ってくれるって言ってるし」

「そうねえ……レベル上げは私も興味あるけど」

 

 結局、城から出ていったとしても、鳳の経験値稼ぎやステータスアップの方法は探さなきゃならないのだ。そんなわけで今日はアイザックの好意に甘えることにした。ジャンヌはさっさと冒険の旅に出たがっていたが、低レベルの鳳にしてみれば死活問題なのだから我慢してもらう。

 

「それで、具体的に、この世界ではどうしたら経験値が増やせるんですか? 俺たちの世界のゲームでは、そのへん歩いてる雑魚モンスターを倒せばよかったんですけど」

「おそらく、その認識であってます。我々の世界のあちこちに棲息している魔物……これを狩ることで、この世界の人間は経験値が増え、レベルが上っていきます」

 

 そんなとこまでゲームと同じなのか……鳳は本当に不思議な世界だなと思いつつも、やり方が同じなら割とあっさり経験値稼ぎが出来るんじゃないかと安堵した。昔取った杵柄だ。しかし……

 

「それでは早速試してみましょう。今朝、近くの森であらかじめ魔物を捕らえておきました。鳳様には檻の外からそれに止めを刺してもらいます」

 

 そう言って兵士に運ばれてきた檻を前にした瞬間、鳳は自分の考えが甘かったことを思い知らされた。

 

 檻の中にはあっちの世界のゲームでも見たことがあるモンスターが捕らえられていた。ゴブリン……いわゆる子鬼と言うやつで、小さい体に緑色の肌で集団で活動し人間を襲う。特徴的なのは二足歩行の人型で、道具を使うことだ。だが、今目の前にいるゴブリンは何も手にしていない。

 

「さあ、勇者どの、これを……」

 

 鳳が口を半開きにして呆然と檻の中を覗いていると、兵士が近寄ってきて剣を手渡してきた。刃渡りは50~60センチほどで反りは無い。刀身は細く、切るより突くことに特化した剣のようだった。兵士もそのつもりで渡したのだろう。

 

「檻の隙間から突き刺せば、やつは抵抗できません。急所を外すと暴れますから、出来るだけ心臓を狙ってください」

 

 解説どうもありがとう、とでも言ったほうが良いのだろうか。鳳は細剣を手にしたまま、檻の前で呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 

 額から汗がにじみ出る。手にした剣がやけに重く感じられる。そりゃ、経験値を得るにはモンスターを倒さねばならないのは分かってはいたが、いきなり人型はハードルが高かった。これが表情のない魚類か、せめて鳥類だったらまだ抵抗も少なかっただろうに。

 

 檻の中のゴブリンは、いかにも邪悪な鬼といった容貌で、見ててもあまり憐憫の情は湧いてこなかった。ぶっちゃけ、これと全く同じグラフィックのモンスターを、鳳は元の世界のゲームの中で、何度も倒したことがある。だから、殺れと言われたらやれそうな気もするのだが、どうにも体が動かなかった。

 

 なんというか、いくら現実そっくりでも、ゲームではモンスターを倒すという感覚しかなかったのだが、今目の前のこれは全然違うのだ。命を獲るというプレッシャーが半端ないのである。

 

 鳳がぼーっと突っ立ったまま、いつまでも動かないせいか、周囲に微妙な空気が漂い始めた。アイザックが眉間に皺を寄せて厳しい表情で見つめてくる。兵士たちも何やってんだこいつと呆れた表情だ。鳳はダラダラと流れてくる額の汗を拭って、早くしなきゃと焦り始めた。

 

 と、その時……檻の中のゴブリンが突然暴れだした。鳳が剣を持って突っ立ってるのを見て、いよいよ殺されると悟ったのだろう。ギャアギャア! っと、突然もの凄い叫び声をあげて、狭い檻の中を転げ回り始めた。

 

 ガシャンガシャンと音を立てて檻が揺れた。ゴブリンが鉄格子に体当たりするたびにその肌が裂けて、血が吹き出しているようだった。いくら魔物だって死にたくない感情は同じなのだ。その哀れな姿を見せつけられて、鳳はいよいよ目の前のゴブリンを殺す覚悟を失ってしまった。

 

 しかし彼が臆病風に吹かれ、自分の使命を放棄しようとした、正にその時だった。

 

 ガシャンガシャンとゴブリンがめちゃくちゃに体当たりして、大きな音を立てていた鉄格子の一本が、その時、ガキンッッ!! っと、金属が弾け飛ぶような音を立てて外れた。そして、その隙間をこじ開けるようにして、血走った目をしたゴブリンが檻から飛び出してきたのである。

 

 鳳は驚いて固まった。彼に武器を渡した兵士は、邪魔にならないようにその場から離れてしまっていた。アイザックもその部下も、鳳の仲間たちも、檻の向こう側から遠巻きにこっちを見ている状況だった。

 

 やばい……頭では理解してるのだが、こういう時、どう動けば良いのか皆目見当がつかない。

 

 鳳が恐慌状態に陥りまごついていると、ゴブリンと目があった。魔物はこの窮地を脱するための最初の手段として、剣を手にしたまま何も出来ない臆病な男をターゲットにしたようだった。ギラギラと光る眼光で睨みつけながら、その姿どおりの俊敏な動きで迫ってくる。

 

「ひぃっ!!」

 

 鳳は迫りくるゴブリンに恐れをなして、情けない悲鳴をあげた。殺される! ……という恐怖に全身が硬直し、まるで自分の体じゃないようだった。

 

 ところが……

 

「ギャンッ!!」

 

 鳳とゴブリンが交差した時、次に悲鳴をあげたのはゴブリンの方だった。彼が無意識に突き出した剣が、飛びかかってきた魔物の肩を貫いたのである。

 

 これには、やった本人が一番驚いた。完全にパニクって無防備だったはずなのに、どうやら体が勝手に動いたようなのだ。おそらく、ゲームで似たような修羅場を何度もくぐってきた経験が、功を奏したのだろう。所詮、リアルに似せたゲームとはいえ、訓練にはなっていたようだ。鳳は自分の咄嗟の行動に驚いた。

 

 だが、リアルとゲームが似ていたのはここまでだった。片手に握った剣でゴブリンの全体重を受け切った手首に激痛が走り、鳳は痛みに耐えかねて剣を手放してしまった。

 

「ヒギャアアアアーー!! ギィィィイイイイーーー!!」

 

 剣を肩に突き刺したままのゴブリンが、痛みにのたうち回り恐怖に泣き叫ぶ。しかしそれも束の間、ゴブリンが自分の肩に刺さった剣に気づいた瞬間、その恐怖は怒りへと変わったようだった。

 

 邪悪な子鬼は自分の肩に突き刺さった剣を引き抜くと、射すくめられるような物凄い形相で鳳を睨みつけ、撃ち出される弾丸のようなスピードで彼に飛びかかってきた。

 

 殺られる……!

 

 絶体絶命のピンチを前に、鳳は今度こそ背筋が凍りついた。こっちは徒手空拳で、剣を受けるすべがない。せめて心臓だけでも守らなきゃ! そう思って、咄嗟に自分の腕をクロスさせた時だった。

 

「リローイ・ジェンキィィィーンスッッ!!!」

 

 突然、ドッカン! っと盛大な音を響かせて、さっきまでゴブリンが入っていた檻を吹き飛ばして、リロイ・ジェンキンスが突撃してきた。

 

 少なくとも百キロ以上はありそうな鋼鉄の檻ごとぶつかられたゴブリンは、剣を鳳に突き立てる前に遠くまで弾き飛ばされた。

 

「影縫いっ!」

 

 放物線を描いて飛んでいったゴブリンが、空中のあり得ない場所で、突然ピタッと動きを止めた。まるで杭でも打ち込まれように、垂直に落下するゴブリンに向かって、さらに追撃が加えられる。

 

「ライトニングボルト!」

 

 練兵場にいた全ての人間の目を眩ませながら、カズヤの手にした杖の先から青白い閃光が迸った。

 

 ドンッ!! っと、音を立てて、ゴブリンに雷撃が突き刺さる。オゾン臭の形容し難い臭いと、肉が焼け焦げるような臭いが辺りに充満した。

 

 閃光で脳がくらくらする。眩んだ視界が何とか平常に戻ってくると、鳳の視界の片隅に、炭化した人型の物体が転がっているのが見えた。

 

 鳳はよろめきながらそれに近づくと、炭化した腕が握っていた剣を抜き取ろうとして、その熱さに飛び上がった。きっと避雷針代わりとなってここに雷が直撃したのだろう。根本から変な方向に折れ曲がった刀身が、虹色に煌めいている。

 

「おおい、大丈夫か?」

 

 鳳が呆然とその剣を眺めていると、彼を救った仲間たちが駆け寄ってきた。彼ははっとして振り返ると、その頼もしい仲間たちに向かって深々と頭を下げた。

 

「あ、ありがとう。助かった」

 

 その普段は見せたことがないような殊勝な姿に、仲間たちが目をパチクリさせていた。彼らは照れくさそうに鼻の舌を指でこすると、

 

「おまえ、ビビりすぎなんだよ」

 

 半笑いしながらそういう彼らの言葉に、鳳は何も言い返せなかった。

 

 彼らが助けてくれなかったら死んでいたかも知れない。いや、今自分は確実に死んでいた……彼はその事実に戦慄し、額から吹き出る汗を拭いながら、相手が人型だからといって躊躇っていた自分を恥じた。

 

 ここはもう、かつて鳳たちが住んでいた平和な世界じゃないのだ。殺らなきゃ殺られる世界なのだ。気を引き締めて掛からなければ、いつ死んでもおかしくないのだ……

 

 彼はそう肝に銘じて、もう決して失敗はしないと気を引き締めた。

 

 そのはずだった。

 



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人生には大切なものが3つある…愛と友情だ!

「おまえ、ビビりすぎなんだよ」

 

 カズヤの魔法によって炭化したゴブリンの死体を、呆然見つめていた鳳の下に、仲間たちが駆け寄ってきた。鳳は彼らに改めて礼を言うと、

 

「すまん……どうやら俺は魔物とは言え生き物を殺すことに、思った以上に抵抗感があったみたいだ。でも、もう大丈夫。流石に今ので覚悟が決まったよ。しかしおまえら凄えな。いきなり躊躇なく殺れるなんて」

「そうか? まあ、咄嗟だったし、躊躇してたらお前やばかったし。あんま抵抗感無かったなあ……」

 

 カズヤは褒められたことが照れくさそうにおどけた調子で、

 

「もしかすっと、昨日パツイチ決めたのが効いたのかも知れねえな。女の前で格好悪いとこ見せらんねえからな。ははっ! おまえもさっさとレベル上げて、姉ちゃんに度胸つけてもらえよ」

 

 彼はゲスいニヤケ笑いを浮かべながら、親指と人差指で作った穴に、別の指をスポスポと抜き差ししてみせた。多分、さっきまでなら腹がたったかも知れないが、今は全くそんな気がしなかった。鳳は素直に頷いた。

 

「しかし……分かっちゃいたけど、死体が残るんだな」

 

 鳳の反応が素直なので興が削がれたのか、カズヤは真顔になると、足元に転がっていたまっ黒焦げの死体を前にそうつぶやいた。AVIRLがその横に並んで続ける。

 

「あっちじゃ、単にキラキラしたエフェクトが出るだけだし、臭いもしなかったでやんすからね……そう考えると、エグいでやんすね」

「早く慣れねえとな」

 

 鳳たちが死体を見下ろしながらそんな話をしていると、仲間たちに出遅れたジャンヌが申し訳無さそうな素振りでやってきた。その背後にはアイザックが続いている。

 

「ごめんなさい! 白ちゃん。私、あなたが危ない時に、一歩も動けなかったの。頭では分かっていても、怖くて体が動かなかったわ」

「いや、俺も同じようなもんだから気にするなよ。結果的に助かったんだし」

「それで、君のステータスはどうなったかね。経験値は入ったのか?」

 

 鳳とジャンヌがお互いに傷を舐めあっていると、ほんの少し不機嫌そうな顔つきのアイザックが、急かすような口調でそう聞いてきた。彼からしてみれば、鳳の体たらくは無様すぎて見るに耐えなかったし、最強のはずのジャンヌが、たかがゴブリンごときにビビってしまったことにも失望していたのだろう。

 

 確かに自分でも情けなくて穴があったら入りたいくらいだが、こちとら穢れを知らぬ現代人なのだから、多少忖度して欲しいものである。

 

 ともあれ、彼も言う通り、今は経験値のほうが気になる。鳳はアイザックに頷き返すと、急いでステータスメニューを表示してみた。しかし……

 

「……あれ? 何も変わってないぞ?」

「なんだって? レベルが上がらなかった……とかじゃなくて、経験値も入っていないのか??」

 

 カズヤの問いに鳳が頷く。彼のステータスは、昨日見た通りのまま、何一つ変化していなかった。

 

----------------------------

鳳白

STR 10       DEX 10

AGI 10       VIT 10

INT 10       CHA 10

 

LEVEL 1     EXP/NEXT 0/100

HP/MP 100/0  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ?

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

----------------------------

 

 せめて1でも入ってくれていれば希望も見えてきたのだが、いくら見返しても経験値はゼロのままだった。

 

「どういうことだ。攻撃判定がされなかったんだろうか?」「いや、結構ザックリいってたろ。あれでダメージが入らなかったとは思えない」「もしかして、ファイナルアタックを取らなきゃダメとか?」「最後に攻撃したの誰だよ?」「俺だ」

 

 カズヤが手を上げて、自分のステータスを見てみる。すると……

 

「お、入ってる入ってる経験値。100も入ってるぞ!」

 

 なんだって? 鳳は目を瞬かせた。それだけ入っていたら、自分ならレベルが上っていたはずなのに……そう思ってがっかりしていると、更に追い打ちをかけるような事実が判明した。

 

「あれ? 拙者も経験値入ってるでやんすよ」「リロイ・ジェンキンス」

 

 なんと、とどめを刺したカズヤだけではなく、他の二人にもきっちり経験値が入っていたようである。しかも、二人に割り振られた経験値も100ずつ。別にFAを取ろうが取るまいが、攻撃に参加すれば入っているように思える。

 

「どうして俺だけ入ってないんだろう?」「もしかして……与ダメで入る経験値が変わるとか?」「それなら、拙者も経験値が入ってないはずでやんすよ」「そういやそうだな。しかし、他に何も思いつかないぞ」

 

 鳳たちが額を突き合わせて喧々諤々やっていると、難しそうな表情でそれを見ていたアイザックが割り込んで言った。

 

「ならもう一度やってみたらどうだ? 今度は仲間の手を借りずに。君もこのまま引き下がる気にはなれないだろう? もちろん無理にとは言わないが」

 

 鳳は頷いた。仲間たちに助けてもらった手前、流石にもう城の連中に無様な姿は見せられない。

 

 彼の真剣な眼差しを受けて、アイザックは少し考える素振りを見せた後、あまり期待していないと言った口調で部下に指示を出した。間もなく、兵士がまた別の魔物を入れた檻を運んでくる。

 

「どうやら君は、人型のモンスターを殺すことに抵抗があるようだな。まあ、気持ちはわからなくもない……今度は四足の獣を用意したから、上手くやってくれよ?」

 

 そう言ってアイザックが指し示した檻の中には、今度は牛型の大きな獣が入っていた。これも前の世界のゲームで見たことがある。あっちでは暴れ牛鬼とかそんな名前がついていたが、こっちでは単に牛と呼ばれているらしい。簡単に言えば人面の大型牛である。

 

 檻の中に繋がれた牛は、周囲を人間に囲まれているせいで多少興奮しているようだが、身動きが取れないために比較的大人しく見えた。ゴブリンと違って知恵はないので、これから自分が何をされるかまでは、考えが及ばないのだろう。

 

 これなら死角から狙えば自分でも殺れるんじゃないかと考えていると、牛を連れてきた兵士が渋々と言った感じで、小声で囁いた。

 

「本当はゴブリンみたいな小さい魔物をお勧めしますがね……アイザック様の命令ですからあなたにお任せします。しかし、気をつけてくださいよ。大型獣は力がもの凄いから、失敗したときの危険は、さっきの比ではありません」

「そ、そうですか……肝に銘じます」

「本来なら眉間を一撃し、脳死を狙うんですが……熟練してないと不可能でしょう。だから今回は、横隔膜の下から心臓を狙います。的は大きいんで外す心配はないでしょうが、かなり力が必要です。さっきみたいに躊躇したら必ず失敗します。殺らなきゃ殺られるつもりで、本気でやってください」

「わ、わかりました……」

 

 兵士に何度も念を押されて、流石に冷や汗をかいてきた。さっきまでは無様を晒した名誉回復のことしか考えてなかったが、今はそんな甘い考えなど吹き飛んでしまった。

 

 鳳は兵士から槍を貸してもらうと、手のひらの汗を拭い、緊張を解すように、一度大きく深呼吸した。脳に酸素が運ばれて、パリパリと思考が再起動するような感じがした。どうやら緊張しすぎて呼吸すら忘れていたらしい。

 

 手にした槍は鋭く研がれていて、獲物に刺さらないということはないだろう。とにかくビビるな。可哀想だと思うな。自分は毎日のように肉を食っていたではないか。人類がこうやって肉を手にしてきたことを思えば、そんな考えなど思いつきもしないはずだ。

 

 鳳はそう何度も何度も自分に言い聞かせた。

 

「いいですか? あそこに浮き出ている肋骨の下あたりから、あっちの方に思いきり突いてください。手だけで刺そうとしないで、腰だめに構えて、下半身全体で突くような感じで、思いっきり。絶対に躊躇するなよ!?」

 

 兵士が心配そうに口を酸っぱくして説明してくれる。鳳はその言葉を真剣に受け入れると、気合を入れるためにほっぺたをパチンッと叩いてから、腰だめに構えた槍を渾身の力を込めて思いっきり突き出した。

 

「うおおおおおおおぉぉぉぉぉ~~~~~っっっ!!!」

 

 最初はドンッと壁にぶつかるような感覚がして腕がしびれた。もしかして骨に当たってしまったのだろうか? だが槍を引き抜いているような余裕はない。鳳はここで退いたら殺されるという思いで、力任せに腰に構えた槍を突きあげた。

 

 ズルッと滑るような感覚がして体の奥に槍が到達すると、魔物の体がビクリと震えて、ジタバタともの凄い力で暴れだした。失敗したか!? と血の気が引く思いをしたが、魔物はすぐに大人しくなった。どうやら、絶命の際の反射だったらしい。ドッと地響きを立てて魔物が地面に転がった。

 

 うつろな瞳がじっと鳳の顔を見上げている。もうその瞳に光が差すことはないだろう。彼はぷはぁ~っ! っと止めていた息を吐き出した。ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、額から汗が吹き出し、肩で息をしていた。兵士が魔物の死体を確認しながら、今度は肉が取れるぞと嬉しそうな顔を見せた。

 

 そうか、彼はこれを食うつもりなのか。今度はっていうと、もしかしてさっきのゴブリンも食うつもりだったのだろうか。兵士に笑顔を返しながら、それは御免被りたいなと鳳は思った。

 

 鳳よりも大きな魔物の死骸が彼の足元に転がっていた。充足感はまったくなかった。そんなものより、どうして自分は異世界まで来て牛の屠殺をしてるんだろうかと言う、わけのわからない考えが頭を支配していた。と言うか、なんで自分はこんなことをしてるんだ? そう言えば銃があるはずなのに、それで撃つんじゃ駄目だったのか?

 

「それで、今度はどうだ? 経験値は入ったのか?」

 

 そんなアイザックの声が聞こえてきて、鳳はようやく我に返った。そういえばそうだった。自分は経験値稼ぎをしているんだった……いつの間にか頭が、命に感謝して目の前の人面牛を食べるモードに切り替わっていた。いや、それはそれでいいのだけれど。

 

 あとで兵士にこっそり肉を分けてくれと頼んでみよう。そんなことを考えながら、彼は自分のステータスを開いてみた。ところが、

 

「……あ、あれ!? 何も変わってないぞ??」

 

 鳳の言葉に、アイザックと仲間たちの表情が曇る。困惑気味にカズヤが、

 

「見間違いじゃないか? レベルが上ったせいで経験値がゼロってことは?」

「いいや、レベルも相変わらず1のままだ。他のステータスもそのままだし」

 

 何しろオール10だから覚えやすいのだ。しかし、それでは何故経験値は入ってこなかったのだろうか。もしかして、モンスター討伐じゃなくて屠殺っぽかったからだろうか?

 

「いいや。それでも経験値は入るはず、それは兵士たちで確認済みだ」

 

 それを否定するアイザックの目つきがいよいよ厳しくなってきた。やはりこいつはお荷物だと、その目が語っているようだ。自業自得だし、それならそれで構わないのだが……しかし、何をやっても経験値が入らないのだとしたら、結局、城から出ていったあと困ってしまう。

 

 鳳は自分だけに起きている理不尽な現象に頭を悩ませた。そんな彼に同情した仲間たちも、一緒に知恵を絞ってくれる。

 

「もしかして、スキルを使わないと駄目なんじゃ? 拙者たちはスキルを使って攻撃したでやんしょ?」

「そうだな。おい、飛鳥、お前なにかスキルは使えないのか?」

「無理だ。スキルの欄には何もない」

「本当に使えんやつだなあ……何でもいいから職を得て、スキルを覚えてみろよ……って、そうか!」

「どうした」

 

 カズヤが言う。

 

「もしかしておまえがジョブに就いてないのが悪いんじゃないか? ほら、経験値って、ベースレベルの他に、ジョブにも入るだろう。俺たちジョブレベルを上げて新スキルを覚えるわけだし」

「あ、そうか。じゃあ、先に何かのジョブに就けばいいってことか。しかし、職を得るって言っても、どうやりゃいいんだ? ここにはダーマ神殿もギルガメッシュの酒場もないぞ」

「それは昨日も言ってたじゃないか。きっとステータスを上げれば、なれる職業が決まってくるんじゃないかって」

 

 鳳たちがそんな話をしていると、それを周りで見ていたアイザックが、話はまとまったかと言った感じに口を挟んできた。

 

「ふむ、つまり今度はステータスを上げてみようってことだな? しかし、ステータスを上げると言っても一朝一夕では上がらないぞ。特に筋力は、君の体脂肪では半年はかかるだろう」

「うっ……そんなに?」

 

 その口ぶりから察するに、体脂肪を燃やして筋肉をつけろってことだろうか。変なところで現実感を出すのはやめて欲しい。鳳の顔がひきつっていく。しかし、器用さや敏捷さなんてもっと上げにくそうだし、地道に筋トレをしていくしかないのでは……?

 

 彼が絶望感に駆られていると、

 

「しかし、君は元々魔法使いだったんだよな? ならもしかすると、魔力を得ればINTなら簡単に上がるかも知れないぞ」

「え? INTですか?」

 

 INT……つまり知力なんて一番上がりにくそうなのに、アイザックはそれが一番簡単だと言う。どういうことかと詳しく尋ねてみたら、

 

「この世界でINTは魔法の威力に関わってくる。だからだろうか、魔法を使う職業の者は軒並みINTが高い傾向にあるんだ。つまりだ、INTというものは、地頭の良さとはあまり関係がないんだな」

「そ、そうだったんですか……?」

 

 INT19のカズヤが、がっかりというかやっぱりというか、なんとも言えない複雑そうな表情で項垂れた。アイザックは彼に頷き返してから、

 

「まあ、そんなわけか、後々魔法系の職に就くものは、子供の頃から魔力も高く、INTが上がりやすい傾向があるんだ。見たところ、君はまだ魔力に目覚めてないようだが、魔力さえ手に入れれば、案外簡単にINTが上がっていくかも知れない」

 

 なるほど、そんな方法があるなら試してみたい。鳳はアイザックに向かって言った。

 

「しかし、魔力を得ると言っても、具体的にどうしたらいいんですか? 瞑想したり、どっかの山奥で修行したりするんでしょうか?」

「まさか、そんなことしなくてもMPポーションを飲めばいいんだ」

「MPポーション?」

 

 またお手軽ファンタジー物質が出てきて、鳳たちは面食らった。

 

 アイザック曰く、MPポーションとは読んで字の如し、MPが減ったときにそれを回復するためのポーションらしい。ファイナルファンタジーならエーテル、ドラクエならエルフののみぐすりだろうか。もちろん、鳳たちが遊んでいたゲームにも存在し、お手軽回復アイテムとして彼も常備していたものだが……

 

 あれはゲームならではのお手軽アイテムであって、まさか現実に存在するとは思わなかった。同じ魔法職として興味があるのか、カズヤが目を丸くしながらアイザックに尋ねる。

 

「まさか、あるんですか? MPポーション」

「もちろん、あるぞ。君らの世界には無かったのか?」

「いや、あるにはあったんですけど……因みに、それを飲めば俺のMPも回復するんでしょうか?」

「ふむ……試してみるか?」

 

 アイザックがそばに控えていた神人の部下に命じると、彼は腰のベルトに差していた道具入れの中から、青みがかった半透明の瓶を取り出した。中にはドロッとした液体が入っている。

 

 カズヤはそれを受け取ると、流石にいきなり飲む気にはなれなかったのか、一旦、ほんの少しばかり中身を自分の手のひらに注いでみた。色は緑色で、なんとなく青汁っぽい感じの液体である。実際、ぺろりと舐めてみたカズヤの顔が、渋柿でも噛んでしまったように歪んでいたので、相当苦いのは間違いないようだ。

 

 ともあれ、カズヤはそれで飲めなくもないと判断したのか、もう一度クンクンと臭いを嗅いだ後、一気にそれを飲み干した。

 

「まず~い……もういっぱい!」

 

 お約束のセリフに慌てて神人が二本目を差し出すが、彼はそれを断って自分のステータスを確かめてみた。

 

「……本当だ! MPが回復してるぞ」

「本当でやんすか? ならば拙者も」

 

 スキル発動の際にMPを消費したAVIRLが興味を示すと、神人がすぐに新しいポーションを差し出した。やはり飲みにくそうにしていたが、どうにかそれを飲み干した彼がステータスを確認すると、

 

「おお! 拙者のMPも全快したでやんす。なかなか自然回復しないから不安だったでやんすが、これなら技を使い放題でやんすね」

「せっかくだから試し撃ちしてみたらどうか。おい、誰か。この城にあるポーションをありったけもってこい。今朝捕まえた魔物もだ。せっかくだから勇者たちの的にしよう。多少でも経験値になるからな」

 

 アイザックの言葉に、練兵場に詰めていた兵士たちが忙しそうに動き出した。

 

 生きた魔物を的にすると聞くと、魔物とは言え無抵抗の相手を痛めつけるのはゴメンだとジャンヌは嫌がったが、他の三人は割とあっさり受け入れた。先程、ゴブリンを倒したときに経験値が入っていたから、その先が気になっているようである。

 

「ゴブリンで100なら、他の魔物だとどのくらい入るんだろう」「拙者たち、次レベルまで100万でやんすが、狩りの目安にしたいでやんすね」「リロイ・ジェンキンス」

 

 鳳は一頭倒しただけで、心身ともにフラフラになったというのに、仲間たちは気楽なものである。やはり、スキルで簡単に倒せるから、抵抗感が薄れるんだろうか。それが良いとは言えないが、少なくとも今はスキルが使える彼らのことが羨ましかった。

 

 カズヤ達は練兵場の中心に集められた魔物の入った檻を前にすると、始めのうちは鳳と同じように一頭ずつ外から攻撃していたのだが、そのうちまどろっこしくなったのか、アイザックが兵士に命じて中身を練兵場に放つように言いだした。

 

 兵士たちは驚いていたようだが、どんな魔物も一撃で倒してしまう彼らを見ては文句などつけようもない。間もなく、アイザックの命じる通り、連れてきたモンスターが練兵場に解き放たれて、逃げ惑うそれをカズヤ達は面白そうに追い立て始めた。

 

 肉片が飛び散り、血しぶきが舞う。

 

 その凄惨な光景にジャンヌは目を伏せたが、考えても見れば前の世界のゲームの中で、鳳たちが毎日のようにやっていたのは、今目の前に繰り広げられている光景そのものだ。死体が残るか、残らないか。サーバー上のデータか、そうでないか。突き詰めればその違いでしかないのに、どうしてこうも自分達は忌避感を感じるのだろうか。

 

 鳳がそんなことを考えていると、カズヤ達の強さを見て多少気が晴れたのか、ごきげんな様子のアイザックがやってきて、彼に言った。

 

「さて、君の方はまずMPポーションを試してみたまえ。何か変化があるかも知れない」

「はあ……それじゃあ、一つ」

 

 鳳はポーションを受け取ると、カズヤと同じようにまずはその中身を手のひらに垂らしてぺろりと舐めてみた。見た目といい、苦さといい、やはり青汁にそっくりである。実際、何かの薬草を煎じて煮詰めたかどうかしたんじゃないだろうか。まあ、さっき仲間たちが飲んでいたのだから、そんなに警戒しても意味ないだろう。そう思い、彼は思い切って中身を飲み干した。

 

 匂いは青臭く、何というか草っぽかった。独特の苦味があり、少々飲みにくくはあったが、市販の青汁と感覚は似ていたので、特に抵抗感なくスムーズに嚥下できた。口の中に残った苦味を唾液で撹拌していると、なんとなく胃の中がカッカと燃え上がるような感覚がしてきて、鳳は驚いた。そう言えば、カズヤ達は飲んだん瞬間MPが回復していたから、こんな見た目でも即効性の成分が含まれているのだろう。

 

 その成分が魔力とやらを回復してくれるのだろうかと、じーっと効果を待っていたら、胃の中だけだった熱さがだんだんと全身に広がっていくような感じがして、間もなく心臓がバクバクと音を立て始めた。

 

 汗が吹き出て、貧血のような目眩がしてきて、ふらつきながら地面にしゃがむと、遠くの方からジャンヌの大丈夫かと問う声が聞こえた。どうしてそんな遠くの方から囁くような声で喋るんだ? と思ったら、いつの間にかジャンヌはすぐ側で鳳のことを覗き込んでいて、驚いて仰け反ったら、世界がぐるぐると回りだして、かと思ったら、今度は何も見えなくなった。

 

 こりゃやばい……世界がおかしい……というか、自分がおかしくなっていないか?

 

 鳳は足腰に力が入らなくなり、四つん這いになってどうにか姿勢を保とうとしたが、三半規管が馬鹿になってるのか上下の区別もつかなくなっていた。諦めて地面にぺたりと腰を下ろし、打ち上げられた魚みたいにはあはあと息を荒げた。

 

 しかし、それでいて苦しいのか言えば全く逆で、彼は今、言いようの知れぬ高揚感みたいなものを感じていた。思考は驚くほどクリアで、全身の血液が脳に集中しているかのようだった。やがて視界が戻ってくると、世界がスローモーションのように流れて見え、どうやら彼の思考に現実のほうが追いついていないようだった。今ならなんでも出来てしまいそうな、そんな気分だ。

 

 鳳はフラフラとよろめきながら上体を起こした。

 

 見上げる空がものすっごいキラキラしている。

 

 キラキラ……キラキラ……!

 

 神よ、感謝します! ああ、なんてこの世界は美しいのか!

 

 今の俺は無敵だ!

 

「白ちゃん! 白ちゃん、大丈夫!?」

 

 彼の様子がおかしいことに気づいたジャンヌは、彼が地面に倒れ伏した時からずっと、必死になって呼びかけていた。しかし、鳳はゾンビみたいに、視点の定まらない目つきでぼんやりとしながら、碧いうさぎがどうとか、もう恋なんてしないとか妙なことを口走るだけで、まったく要領を得なかった。

 

 そんな彼は突然フラフラと立ち上がったかと思うと、今度は子供みたいにキラキラした瞳で、何もない空中を見つめながら何やらつぶやき始めた。その様子がまるで宗教じみていて……一体、どうしちゃったんだろうと、ジャンヌが不安にかられていると、バツが悪そうな顔をしたアイザックが近づいてきて言った。

 

「これは、魔力酔いをしたな……」

「魔力酔い?」

「うむ……魔力がない者に無理やり魔力を注ぐと、酒で酩酊したようになることがあるのだ。やれやれ、どうやら彼は魔法の才能もなかったらしいな」

「お酒っていうか……完全にラリってるじゃないのよ。彼は元に戻るの?」

「放っておけばそのうちな。しかし、それまでおかしな行動をしたり、暴れたりするから厄介なのだ。おとなしくなるまで、拘束しといたほうがいいだろう。おい、誰か! 彼を取り押さえろ」

 

 アイザックの命令に従って兵士達が鳳を取り押さえようとすると、突然自分の体を押さえつけようとする相手に驚き、大暴れし始めた。見た目からしてひょろい鳳であったが、薬の効果だろうか、どこからそんな力が出てくるんかといった感じの暴れっぷりに、兵士たちもタジタジである。

 

 鳳と兵士たちの格闘は数分続き、これじゃ埒が明かないとジャンヌが焦りだした頃だった。練兵場の中央で、魔物を相手に実践訓練を行っていたカズヤ達の方から大きな爆音が聞こえてきた。

 

 どうやら、一通りスキルを試し終えた彼らが、いよいよ本気になって魔物の群れと戦い始めたらしい。多分、腕試しのつもりだろうが、尋常でない数の魔物に囲まれた仲間たちを見て、ジャンヌは不安に駆られた。

 

 あんなに一度に相手して、彼らは平気なのだろうか? こんなことしてないで、自分も加勢した方が良いんじゃないか?

 

 そう思ったのは、彼だけではなかった。

 

「みんな! 大丈夫か!? こうしちゃいられん!!」

 

 突然、大暴れしていた鳳が大声を上げて立ち止まった。そのすきを見逃さず兵士たちが飛びかかるが、彼は意に介せずそれをかいくぐり、仲間たちの方へ駆けていった。

 

 どうやらカズヤたちが魔物に襲われていると勘違いしたらしき鳳が、加勢しようとしているらしい。唖然としているジャンヌを尻目に、彼はリロイ顔負けの速度で、あっという間に魔物ひしめく戦場へとたどり着いてしまった。

 

「え!? デジャネイロ飛鳥氏!!!?」

 

 徒手空拳の鳳が突然乱入してくるとは思いもよらず、AVIRLが驚きの叫び声をあげた。突撃しようとしていたリロイ・ジェンキンスが彼を避けようとして、明後日の方へ吹き飛んでいった。

 

「バカッ! 避けろっっ!!」

 

 詠唱を完了していたカズヤが必死になって叫ぶ。彼の杖の先からは高温の火の玉が今まさに飛び出そうとしていた。

 

 ゴオオオオオーーーーーッッ!

 

 っと、音を立てて、巨大な火球が迫ってくる。鳳は魔物の群れの真ん中でそれを見ながら、呆然と立ち尽くしていた。

 

 あれ? これヤバいんじゃね?

 

 高温の火球が直撃するのを、鳳はまるで他人事みたいに考えていた。彼もろとも、容赦なく炎が魔物の群れを包み込む。

 

「白ちゃあああーーーーんっっ!!!」

 

 ジャンヌの声が耳に届いたが、それは間もなく聞こえなくなった。鼓膜が破けたか、焼かれてしまったかしたのだろう。

 

 ドカンッ!! っともの凄い衝撃が走り、鳳の体が吹っ飛んだ。高温の火球に焼かれた彼の体は一瞬で真っ黒に焼け焦げながら、錐揉みして笑えるくらい空高く舞い上がった。

 

 半分焼け焦げた彼の体がボトリと落下すると、同じように焼かれた魔物の肉片がパラパラと周囲に散乱した。それが香ばしい匂いを漂わせて、なんとも胃を刺激した。でももう、焼き肉など味わうことは出来ないだろう。何しろ彼の体は真っ黒に焼け焦げていたし、足の関節は逆方向に曲がり、炭化した腕などちぎれ飛んでいたのだ!

 

 どうしてこうなった……

 

 自分は何故こんなことを続けていたんだっけ?

 

 たかが、ゲームのはずなのに……

 

 もはや死を悟り、痛覚が遮断された思考の中で、鳳は考えていた。

 

 本当はただエミリアにもう一度会いたかっただけなのだ。あの時、勇気が持てなかった自分と決別したくて……彼女に許されたくてゲームを始めただけなのだ。サービス終了が決まったあの日、本当なら彼女は待ち合わせ場所に来てくれていたのだろうか。彼女は本当に、この世界にいないのだろうか……

 

 エミリア……彼女にもう一度会いたい。会ったら謝りたいんだ。薄れゆく思考の中で、鳳はただ一心不乱に彼女のことを考え続け……

 

 間もなく闇に落ちていった。

 



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シーキューシーキュー

 灼眼のソフィアこと、本名エミリア・グランチェスターと(おおとり)(つくも)が出会ったのは今から8年前。彼が通っていた小学校に彼女が転校してきたのが切っ掛けだった。

 

 名前の通り、エミリアは外国生まれの外国育ちで、引っ越してきた当初は日本語が喋れなかった。髪の毛は金色で目は青く、まるで絵本の中から飛び出してきた、外国のお姫様みたいな容貌をしていた。黒目黒髪の日本人だらけの学校では、かなり異質な存在だった。

 

 彼女はあっという間に孤立した。話しかけても言葉が通じず、その恵まれた容姿は男子には憧れの的に、女子には嫉妬の対象になった。話し相手は教師しかおらず、当時の彼女の気持ちは想像するしかないが、かなりの孤独感を感じていたことだろう。

 

 ところで鳳白は中国人みたいな名前をしているが、両親ともに歴とした日本人である。ただし、父方の祖母が海外出身であり、鳳はたまたま隔世遺伝で髪の毛がほんの少し明るい色をしていた。だからエミリアは勘違いしたのだろう。ある日の放課後、彼女は彼に英語で話しかけてきたのである。

 

 いつまで経っても学校に馴染めない、彼女にしてみれば藁にもすがる思いだったろう。その切羽詰まった表情を見るだけで、鳳にも彼女の気持ちがヒシヒシと伝わってきた。とは言え、彼は英語なんて喋ったことも無ければ、ローマ字を書くことすら覚束ない。何を言われても、あーとかうーとか返すのが関の山である。間もなく、エミリアは自分の勘違いに気づいたのか、ため息を吐いて背中を向けた。英語が喋れない彼はこれでホッと一安心だ。ところがその時、彼は落胆する彼女の背中を思わず引き止めていたのである。

 

 下心が無かったと言えば嘘になる。だが、それ以上に、なんだかその時の彼女はほっとけなかったのだ。もし今ここで引き止め無ければ、彼女とはもう会えないんじゃないだろうか……なんとなくそんな気がしたのである。実際、この時の彼女は学校生活にだいぶ行き詰まっていて、学校を変えようと思っていたそうである。

 

 そんなこととは露知らず、彼女を引き止めた鳳は辞書を片手に、片言の英語で彼女に話しかけた。一体何の用事だと。すると彼女は暫く沈黙したあと、黙って彼のスマホを指差した。

 

 小学校はスマホの持ち込みが禁止だった。一部の生徒が家庭の事情で持ってくるのは許可されていたが、もちろん鳳はそんなことはなく、ゲームをするためにこっそりと持ち込んでいたのである。きっとそれを見咎められたに違いない。彼はアワアワと言い訳しようとしたが、英語じゃ釈明のしようもなく、あっという間に行き詰まった。

 

 ところが、そんなしどろもどろな彼の姿を見て、エミリアの方も慌てだした。彼女は別にスマホを持ってきた彼を咎めるつもりはなかったのだが、彼が勘違いして慌てていることは分かったので、そうじゃないことを伝えようとしたが、彼同様に言葉が通じないせいでにっちもさっちも行かなくなってしまったのだ。

 

 奇妙なお見合いが数秒続く。

 

 エミリアはとにかく彼の勘違いを解こうとして、何度も何度もスマホを指差した。鳳は鳳で、彼女のジェスチャーを解釈しようとして、何度も何度も、彼女の指差すスマホを見た。

 

 よくあるデザインで、何か特徴があるわけでもない。特に高級でもなく、人に自慢できるような代物でもない。ただ一つ目立った物があるとするなら、落とさないようにストラップを付けていることくらいだ。鳳はそのストラップを見てピンときた。そのストラップの先っぽには、姉が修学旅行で買ってきた、土産の千代紙で出来た小さな折り鶴がついていたのだ。

 

 もしかしてこれだろうか? 外国には折り紙の文化がないから、折り鶴を見ると大変驚くと聞いたことがあった。彼はそれを思い出すと、オーケーオーケーと、一般的な日本人らしい生返事を返しながら、図工で使うために持っていたケント紙を使って鶴の折り方を実演して見せた。

 

 エミリアは別にそんなつもりだったわけではなかったのだが、訂正しようにもそうするだけの語学力もないし、彼が落ちついたようだから別にいいやと、彼が折り鶴を折るに任せていた。

 

 やがて、鶴を折り終えた彼がケント紙を差し出して、お前もやってみろと言っているようなので、エミリアも見様見真似でやってみた。やってみたら意外と難しく、何度も失敗しているうちに、いつの間にか二人は折り鶴を折るのに夢中になっていた。

 

 下校のチャイムが鳴り響き、先生が教室のドアを閉めに来た時、二人は電気もつけずにモクモクと折り鶴を折っていた。なかなか友達が出来なかったエミリアに友達が出来てホッとしたのか、先生は鳳が男の子であるにも関わらず、彼女を家まで送ってあげなさい、友達なんだからと言ってきた。鳳はまさかそんなことを言われるとは思いもよらずドキッとしたが、何となく誇らしい気持ちになって素直にそれに応じた。帰り道、二人はもちろん一言も言葉を交わさなかった。

 

 翌日……放課後になるとエミリアが近づいてきて、禁止されてるはずのスマホをこっそりと鳳に見せた。そこには昨日彼が遊んでいたゲームの画面が映し出されていて、その瞬間、彼は昨日エミリアが何を言おうとしていたのかを悟るのだった。

 

 以来、彼らは先生に見つからないように時間を気にしながら、放課後に対戦ゲームをする仲になった。

 

 彼女はクラスのゲーマーにすぐ馴染んだ。言葉は通じなくてもゲームの面白さは万国共通だからだ。ゲームをやってるうちにどんどん友達は増えていった。そのうち、ネットスラングから派生して日本語もどんどん覚えていった。

 

 そして彼女が日常会話に困らないくらいになった時、しかし彼女は孤立していた。ゲーマーは殆どが男子だったため、彼女は女子から嫌われたのだ。更に時期が悪かった。小学校から中学校に上がると、彼女はますます孤立した。彼女は中学生の男女が意識せずにはいられないほど、どうしようもなく美しかったのだ。

 

 日本人では絶対手に入らない美しいブロンドに、スラリと伸びた手足。彼女がいるせいでカラーコンタクトなどをつけるのが馬鹿らしくなり、ギャル系の先輩たちから何もしてないのに総スカンを食っていた。友達は相変わらずオタクしかいなくて、それが彼女らの怒りに拍車をかけた。

 

 鳳は彼女の友達として色眼鏡で見られるのが嫌だった。彼女のことを意識していたのも確かだったが、それ以上にチャラい系の先輩たちに目をつけられるのが怖かったのだ。中学生は1年と3年では大人と子供くらい体格が違う。そんな連中がエミリアを狙って、鳳に剥き出しの悪意を見せてくるのだ。

 

 そして彼は最大の間違いを犯したのである。ある日、部活の先輩に彼女を紹介してくれと頼まれた。部活の上下関係は厳しく断りづらかった。なにより断ったら何をされるか分からなかった。それに先輩は、ただ彼女と友だちになりたいだけだからと言っていたので、彼はそれを信じてしまった。

 

 ある日の放課後、二人で遊ぶつもりで呼び出されたエミリアは、そこに知らない男がいたことにショックを受けていたようだった。鳳は部活の先輩で悪い人じゃないからと彼女に言った。彼女はそれを黙って聞いていた。先輩はエミリアに執拗に話しかけ、そのうち鳳のことを邪魔者扱いし始めた。彼は空気が読める男だったから、先輩の邪魔をしないように帰った。多分、帰ってなかったら、ひどいことになっていたと思う。

 

 エミリアの悪い噂を聞くようになったのは、それから暫くたってからだった。あれ以来、先輩は鳳のことを露骨に無視するようになっていた。鳳は部活に行きづらくなり、間もなく彼との接点はなくなった。と同時に、エミリアとも接点がなくなってしまっていた。彼は彼女のことが心配だったが、自分から会いに行く勇気が持てなかったし、彼女の方から彼に会いに来ることもついになかった。

 

 気がつけば一学期が終わり、部活もない、エミリアもいない夏休みがただ漫然と過ぎていく……そして二学期が始まった時、エミリアは学校に来なくなっていた。

 

*******************************

 

「ふんぬらばげらっちょっ!!」

 

 意味不明の奇声を発しながら目を覚ました鳳は、手足をばたつかせながら飛び起きようとした弾みで手首を地面に強打し、その痛みのせいで結局また地面に這いつくばった。

 

「つぉぉぉおおお~~~おおぉお~おお~~~……」

 

 うめき声を漏らし、ゴロゴロ地面を転げ回る。ようやく痛みが退いてきたので、涙目になりながら慎重に体を起こそうと地面に腕をついたとき、カサっと音がして、何かが手に触れた。なんだろう? と触れた指先を見てみれば、

 

「……千代紙? なんでこんなもんが、こんなとこに……」

 

 鳳は美しい模様の描かれた和紙を拾い上げて、ためつすがめつしてみた。表には綺麗な模様がプリントされているが、裏は無地のよくある量産品の折り紙のようだった。薄っぺらくて安っぽかったが、それが返って現代技術で作られた工業品のようにも思える。と言うか、多分そうだろう。本当になんでこんものがあるんだろうか? こういうのも場違いな出土品(オーパーツ)というのだろうか? と困惑しながら、鳳は折り紙を半分に折って胸ポケットにしまうと、辺りをぐるりと見回した。

 

 そこはさっきまでいた場所と変わらず、練兵場のど真ん中であった。しかし、何故か周囲に人の気配はなくしんと静まり返っている。焼け焦げた土と衝撃で掘り返された地面が、そこで激しい戦闘が行われていたことを生々しく語っていた。あれだけ沢山いた兵士たちはどこへ行ったのだろうか? 鉄扉で閉じられた練兵場の出入り口の方を見ると、その脇に粉々になった鉄の檻が積み重ねられているのが見えて、鳳はハッと思い出した。

 

「そ、そう言えばさっき、俺は魔法で吹き飛んだんじゃ!?」

 

 気を失う直前に彼に向かって飛んできた火球。その大きさと熱を思い出して、鳳は身震いした。確か、あれが直撃して、自分はひどい怪我を負ったはずだ。

 

 しかし、慌てて体を確かめてみても、彼の体はピンピンしていて、怪我の一つも見当たらなければ、手足もちぎれ飛んだりもしていなかった。洋服もそのままで新品みたいにさっぱりしていて、とてもそんな事故が置きたようには思えなかった。

 

「おっかしいなあ……夢でも見ていたのかな??」

 

 そう言えば、事故が起きる前後の記憶が曖昧だった。あの時、鳳は魔力を得ようとしてMPポーションを飲んでいたのだが……あれを飲んだ直後から、異常なくらい気分が高揚してきて、何でも出来そうな気分になったのだ。体の底からパワーが漲り、なんだか自分じゃなくなったみたいなような気がして、事実、色々とおかしな行動を取っていたように思うのだが、何をやっていたかはよく思い出せなかった。

 

 何かと戦っていたような気もする。落ち窪んでギラついた目をした碧いうさぎが21球でこの支配から卒業したような……なんだそれは?

 

「やっぱ……夢だったか??」

 

 自分としては確かに、カズヤの魔法を食らって手足が吹き飛んじゃったような気がするのだが、荒唐無稽な幻覚と混ざってしまって、どっちが本当の記憶なのか、よくわからなくなってしまった。

 

 鳳はため息を吐くと、自分に言い聞かせた。少し、冷静になろう。

 

 普通に考えて、こんな何もない場所に怪我人を放置したままはあり得ないだろう。アイザックは、無能の鳳にもう期待をしていなかったようだが、いくら彼でも怪我の治療くらいはするはずだ。もしそうしなければ、少なくともジャンヌは怒るだろうし、カズヤたちへの印象も悪くなる。

 

 とすると、さっきまでのあれは全部夢で、鳳は練兵場のど真ん中でぐーすかいびきを立てていたことになる。しかし、それはそれで妙な話だった。朝、仲間たちがこの練兵場に集まった時、ここには兵士たちが沢山いたはずだ。もし、鳳がそのど真ん中で寝転がっていたら邪魔で仕方ないだろうから、せめて端っこに避けるくらいはするだろう。

 

 一体、どこからが夢で、どこまでが現実なのだ?

 

 彼は首を捻って空を見上げた。セピア色に見えるのは、黄昏時だからだろうか? だとしたら、朝この場所に来てから半日が過ぎたことになる。いくらなんでも、そんなに長い間、誰にも見咎められずに、こんなだだっ広い場所のど真ん中で、ずっと寝ていられるとは思えない。

 

 というか、今は何時頃なんだろう? そう思って鳳はステータス画面を開いた。

 

「お、おや~……?」

 

----------------------------

鳳白

STR 10       DEX 10

AGI 10       VIT 10

INT 10       CHA 10

 

LEVEL 2     EXP/NEXT 0/200

HP/MP 100/0  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ?

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 100

鳳白          ↑LVUP

†ジャンヌ☆ダルク†  ↑LVUP

----------------------------

 

 鳳は自分の目をゴシゴシと擦った。彼がステータスを何げなく開いたのは、つい、前の世界の習慣で、画面に表示される時刻を見ようとしたからだったのだが……もちろん、こっちでは現在時刻など調べられなかったのだが、その代わりに、彼は別のものを見つけてしまった。

 

 まず目についたのはステータスの最下段に、PARTYという項目が追加していることだった。メンバーは自分とジャンヌの二人。ついでにEXPという文字が見えるのは、パーティーにもレベルがあるとかそんな意味だろうか?

 

 そして一見するとステータスに変化がないから見逃してしまいそうになるが、よく見ると自分のレベルが2になっていることにも彼は驚いた。何をやっても経験値が入らなかったのに、一体どのタイミングでレベルが上ったのだろうか? 尤も、レベルが上ったところで、ステータスが上がったわけでもないようなので、どうでもいいといえばどうでもいいのであるが……

 

 それより気になるのは、パーティー欄の名前の横に見える『↑LVUP』だ。自分だけじゃなくて、ジャンヌにもついている。これは彼らがレベルアップをしたという意味だろうか? それともこれをボタンみたいに押せばレベルが上がるということだろうか? 下手にいじると取り返しがつかないことが起きるかも知れないから、まだ押さないでおくが、非常に気になるところだ……

 

 ともあれ、パーティーという概念が追加されたことには身に覚えがあった。これは推測であるが、昨晩、二人でこの城を出ていこうと話し合ったことで、パーティーが結成されたのではなかろうか。それを裏付けるように、カズヤ、AVIRL、リロイ・ジェンキンスの名前は見当たらない。もし、彼らにも城を出ていこうと誘ってみて、その話に乗ったとしたら、ここに表示されるんじゃないだろうか。

 

 ところで、こっちの世界に飛ばされた興奮やなんかで、すっかりその存在自体を忘れてしまっていたが、元の世界のゲームではパーティーで行動するのが常だった。ステータスを表示するメニュー画面から、パーティーやフレンドの検索が出来るのは当たり前で、初心者はパーティーを結成して高レベルプレイヤーに引率してもらうのがレベルアップの近道だった。

 

 なのに、鳳がレベルアップをしようとした時、アイザックがパーティーを組めと勧めなかったのはおかしな話ではないか。レベル1の鳳が死にそうになりながら牛を屠殺するよりも、高レベルの仲間に魔物を倒してもらった方が、遥かに簡単なのは誰だって分かるはずだ。

 

 ところが、そうしなかったのは、もしかして、こっちの世界にパーティーという概念がないからではないか?

 

 と言うか、恐らくそうなんだろう。何故なら、パーティー機能は便利すぎるからだ。経験値の共有はもちろん、ログインしている仲間の居場所はすぐ分かるし、遠く離れていてもパーティーチャットで会話も出来てしまう。もしこんなのが現実に使えたら、今頃人類はテレパシーで会話をし、お金持ちは傭兵を雇って、自分のレベル上げを肩代わりさせているはずだ。少なくとも、アイザック達にそんな素振りは見えなかった。

 

 だからきっと鳳のステータス画面に映るこのパーティーリストも、おそらくはただの見せかけだけで、意味のないものなのだろう。

 

 彼はそう考え、何となくジャンヌの名前を指で差しながら、いつもあっちの世界でやっていたようにパーティーチャットで話しかけてみた。

 

「えーっと、シーキューシーキュー……聞こえるか? ジャンヌ」

『え!? 誰……? 誰なの!?』

 

 ところが、意に反して、返事はあっさりと返ってきた。鳳はびっくりして目をぱちくりさせながら、

 

「あ、あれ……? マジ、聞こえるの?」

『幻聴……? 変ね。私、疲れてるのかしら』

「いや、幻聴じゃないぞ。俺だよオレオレ、孫のたかし」

『まだ孫がいるような年齢じゃないわよっ!! ……って、白ちゃん?』

「ああ。なんか気がついたら周囲に誰もいなくなってたんだけど。みんなどうしたの。つか、おまえ今どこ居るの?」

『それはこっちのセリフよっっっっ!!!!!!』

 

 耳がキンキンとなった。鳳としては何の気無しに尋ねたつもりだったが、どうやらあちらでは何か大変なことでもあったらしい。突然の大声に目を白黒させながら、

 

「い、いきなり怒鳴るなよ! びっくりしたじゃねえか……」

『びっくりしたのはこっちの方よ。とにかく、あなた今どこにいるの? っていうか、私達どうやって話してるの、これ?』

「どこって、まだ練兵場にいるよ。どうやってってのは、パーティーチャットだけど。そうそう、なんかこれ、使えるらしいぞ?」

『パーティー……チャット? 練兵場……って……そんなわけ……私達も練兵……だけど……』

「あん? なんか聞き取りづらいんだけど」

『本当……どこ!? ……私達は練兵場に……白ちゃん……』

「おーい、ジャンヌ~?」

 

 それきりジャンヌの声は聞こえなくなってしまった。

 

「どうしたんだろ……磁気嵐でも通り過ぎたのかねえ」

 

 最後に聞こえたジャンヌの声はぶつ切れで、何というか電波が届かなくなった時の携帯電話みたいな感じだった。もちろん、携帯の基地局なんかがあるわけがないので、他に理由はあるのだろうが……いくら考えてもそんなものは何も思い浮かばなかった。

 

 取り敢えず気になることは、

 

「あいつ最後に妙なこと言ってたよな。自分らも練兵場に居るって……練兵場って……ここのことだよなあ?」

 

 鳳の知らない第2練兵場とか、第3練兵場とかがあるならともかく、そんなことはないだろう。では、どうして彼はそんなあり得ないことを口走ったのだろうか?

 

 鳳はじっと空を見上げた。

 

 あり得ないといえば、こんなセピアセピアした空の色もなんだか様子がおかしいような……黄昏時と言えばそれっぽいが、何かが足りないような違和感を感じる。なんとなく、写真を見ているようなのっぺりとした感じを受けるのだ。

 

 それがどうしてだろうと考えているときに、ようやくその理由に気づいた。グラデーションが無いのだ。普通、夕暮れ時なら西の空が明るく東の空が暗い。真上を見上げたら丁度その中間と言った感じに、徐々に空の色が変わっていくはずだ。ところが今の空はセピア一色でそれがない。

 

 そう思って見てみると、おかしなことは他にもあった。夕暮れ時なら星の1つくらい見えてもいいのに、まったく見えない。もちろん、月や雲ひとつ見当たらない。さっきからやけにしんと静まり返っていると思っていたが、そうして意識してみたら驚くほど風が凪いでいるのが分かる。

 

 人の気配がしないのは練兵場だけではなく、ここから見える城の廊下もそうだった。普通なら一人二人は歩いているはずだろう。そう言えば、城の外は城下町に繋がっているはずなのに、街の喧騒すら聞こえなかった。

 

 これはいくらなんでもおかしいんじゃないか。

 

 鳳はようやく、自分の置かれた立場に緊張感を持った。どうやら自分はおかしなことに巻き込まれているらしい。

 

 しかし、おかしいと言えば異世界召喚されたこと自体がおかしいのだ。今更この程度のことでいちいち驚いてもいられないだろう。鳳もジャンヌも同じ練兵場にいるというなら、ここは次元が違うか、タイムスリップでもしたのか、もしかしたら本当に夢の中かも知れない。何が起きたかはわからないが、少なくともこの場でぼーっとしていても、原因は見つからないだろう。

 

 取り敢えずやれることは1つ。ここから元の場所に戻る方法を探すことだ。彼はそう結論づけると、まずは練兵場を出て城の中へと入ってみることにした。

 



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人間一人を呼び出すための代償とはなにか?

 練兵場の重い鉄扉を押し開けて、藤棚のある狭い通路へと歩み出た。物理的に開くということは、少なくとも時間が止まってるということは無いのだろう。鳳は通路に落ちていた、いい感じの木の棒を拾い上げると、カンカンとわざと音を立てながら、城の大広間に続く勝手口に向かった。

 

 城の中央にある吹き抜けの大広間は、最初に通ったときにはその壮大さと美麗さに目を見張ったが、今はただただ不気味にしか思えなかった。理由は単純明快、照明がひとつも灯っていないからだ。

 

 広間の中央には天井から巨大なシャンデリアがかけられており、壁にはいくつもの装飾を施した燭台が飾られていた。本来ならその全てにろうそくが灯り、光が乱反射する美しい光景が広がっているはずなのだが、今は返ってその美しさが、言いようの知れぬ寂寥感のようなものを醸し出していて薄気味悪かった。

 

 何と言うか、打ち捨てられた廃墟のような感じである。人が居なくなって何百年も経っているような、そんな感じだ。なまじ、ついさっきまで、ここで人が行き交う光景を見ていたから尚更だった。みんなどこへ行ってしまったのだろうか。

 

「誰か、居ませんか~……」

 

 返事は返ってこない。もちろん、期待していたわけではないのだが、妙な焦りを感じるのは何故だろう。城の奥は薄暗すぎて、足を踏み入れるのを躊躇するレベルだった。所々に置かれている装飾品が今にも動きそうで、何というか、テレビゲームの裏ステージにでも入ったような気分になった。

 

 どこかの壁にカモフラージュした回転扉でもないかなと、壁を注意深く見ながら進んだが、そんなものはもちろん見つからなかった。取り敢えず他に思いつく場所がなかったから、謁見の間と自分の部屋だけは行ってみたが、中に入っても取り立てて何かあるということもなかった。

 

 というか、これで確定したが、この城は無人だ。人っ子一人居ないようだ。となると、出口を見つけるには自力でなんとかするしかないが、異常な部屋数を誇るこの城を調べ尽くすのには、一体どれくらいの時間がかかるだろうか……考えるだけで気が遠くなりそうだった。

 

 鳳は大広間まで戻ってくると、姿見の前にあるベンチに腰掛けた。鏡に手をついたら、向こう側に行けたりしないだろうか? などとメルヘンチックなことを考えながら、彼は今後の方針を検討した。

 

 とは言っても、やれることは限られている。とにかくあちこち歩き回って手がかりを探すだけだ。あとは、さっき一瞬だけジャンヌに連絡が取れたから、定期的に彼に話しかけてみるくらいか。

 

 しかし、探すにしてもどこから手を付ければいいものか。手がかりを探すための手がかりすらない状況では、ため息しか出てこなかった。結局、城にある部屋を片っ端から調べるしかないのだろうが、それで何かが見つかればいいが、もし見つからなかった場合を考えると気が進まなかった。

 

 城の外には練兵場もあれば、兵士の詰め所もあれば庭園もある。城門の外には城下町が広がっている。もし、出口がその城下町や、更に遠くにあったらもうお手上げではないか。鳳はまだ外の世界のことは右も左も分からないのだ。やはり、行動するにしても当てずっぽうは良くないだろう。まずは何でもいいから、手がかりを見つけてから慎重に行動したほうがいい……

 

 手がかりがあるとしたら、一番怪しいのは目覚めたときにいた練兵場だが、もう一度あそこに戻ってみようか? と言うか、どうして自分はあの場所で倒れていたんだろうか? やっぱり、目覚める前の記憶は正しくて、自分はカズヤの魔法で命を落とし、実はここは天国なんじゃないだろうか……

 

 本当にどこも怪我をしていないのかと、鏡に映る自分の姿をマジマジと見つめていた時だった……

 

 彼の視線が、胸ポケットに差してあるもので止まった。

 

「これって……千代紙だよな?」

 

 そう言えば、目覚めてすぐに拾ったのだ。なんでこんな物が落ちていたのか。あの時はまだ状況がよく分かってなかったからスルーしてしまったが、今にして思えば妙な話である。

 

 これは恐らく、こっちの世界の物ではない。昨晩、ティンダーの魔法で見たとおり、この世界にも紙は存在するが、何というか造りが雑なのだ。ところが今、鳳が手にしているそれに描かれている綺麗な模様と寸分たがわぬ正方形は、どう考えても日本の工業品としか思えなかった。

 

 それじゃ何故こんなものがあるのかと考えると理解に苦しむが……

 

「そう言えば目覚める直前に、夢を見てたような……」

 

 子供の頃の苦い思い出だ。灼眼のソフィアこと、エミリアとの出会いと別れ。自分の間違いが、彼女を追い込んでしまったこと。それを思い出すと胸が苦しくなるが……しかし、多分、いま考えなきゃならないことは、出会いの場面の方だろう。

 

 出会いと言うか、エミリアと初めて喋った日のことだが、鳳は彼女と二人で黙々と折り鶴を折っていた。あの時使っていたのはケント紙だったが、この千代紙はメタファーとしては、より折り紙を匂わせる。

 

「うーん……まあ、物は試しか」

 

 鳳はベンチから降りると、それを机代わりにして千代紙を折り始めた。折り鶴など何年ぶりかわからなかったが、驚くくらい自然に折れた。多分、自転車の乗り方みたいに体が覚えているものなのだろう。

 

 伸ばした首の先っぽを折ってクチバシを作ると、最後に彼は翼を開こうとして……

 

「……? エミリア!?」

 

 顔を上げたときに、視界の隅っこで何かが動いたような気がした。咄嗟にそちらを見ると鏡の中で金色の髪をした少女が駆けていく姿が見えた。驚いて振り返るが、その時にはもう鏡に写った少女の姿はどこにも見えなかった。

 

 姿を見たのはほんの一瞬で、それが誰だか分からない。もしかしたら幻覚だったのかも知れない。しかし鳳にはそれがエミリアのような気がしてならなかった。と言うか、夢の内容とか折り紙とか、ここまでお膳立てされてもし違ったら、その時は責任者を呼ぶレベルだろう。鳳は鼻息荒く立ち上がると、慌てて少女が消えた方へと駆け寄った。

 

 少女が消えたと思われる曲がり角まで来ると、鳳はその先にぼーっと光るものが見えることに気がついた。城に2つある居住区のうち、謁見の間とは逆の方、鏡の間がある方角だった。最初に鳳たちがこの世界で目覚めた地下室や、兵士の詰め所、それに牢屋みたいな場所がある区画だ。

 

 手がかりを探してた時にはすっぱり頭から抜け落ちてしまっていたが、考えてもみれば最初にこの世界で訪れた場所なんて、いかにも臭いだろう。この先に多分、いや、絶対何かある。

 

「シーキューシーキュー、聞こえるか、ジャンヌ?」

 

 鳳はジャンヌに声をかけてみたが、相変わらずパーティーチャットは繋がらなかった。正直、連絡が取れないまま先を行くのは腰が引けたが、かと言って他に行く宛もないので先に進んだ。

 

 ぼーっと見える光を追いかけるようにして鏡の間へとやってくる。いくつも吊り下げられているシャンデリアと大きな窓、対面にその窓と同じ大きさの鏡が並んでいる通路は、最初に訪れた時は見惚れるくらい美しかったが、光が差し込まない今は、まるでのっぺりとしたコンクリートの壁みたいだった。

 

 進行方向からすると右手が窓のはずだが、左のほうが窓のような錯覚を覚える。本当にこっちが窓だったっけ? と思ってじっと目を凝らしてみると、なんだか鏡のような気がしてきて、おかしいなと思って反対側を見てみれば、やっぱりこっちの方が鏡である。どっちも鏡じゃ変なので、また反対方向を見たら、やっぱりちゃんと窓だったので、ホッとしてまた前を向き先を進もうとすると、今度は右も左も窓のような気がしてくる……

 

 自分は今、前に進んでいるのか後ろに進んでいるのか。右が左で左が右か。もし進行方向からぼーっとした光が差してこなければ、きっと今頃、鳳は同じ場所をぐるぐると回っていただろう。

 

 そう考えると道案内みたいなその光が頼もしくも思えるが、食虫植物は良い匂いで獲物をおびき寄せると言うから、本当にこのまま先に進んでもいいものか、不安にもなってくる。しかし、振り返った先の暗闇は、いつの間にか濃く閉ざされていて、足を踏み入れたら二度と元には戻れないような、そんな気持ちにさせるのだった。

 

 結局、行っても戻っても不安にしかならないなら、先に進むよりないだろう。鳳はそう思って、それ以上深く考えずに、光が差す方へと歩いていった。

 

「シーキューシーキュー」

 

 時折、ジャンヌに連絡を取ろうとしたが、やっぱりチャットは繋がらなかった。

 

 やがて鏡の間を抜け、兵士の詰め所を通り過ぎ、地下へ続く階段へとたどり着く。案の定、光はそこから差しているのだが、下へと降りていって良いものかと、流石にちょっと躊躇した。

 

 というのも、さっきから1つも、明かりが灯っている燭台を見かけないのだ。なら、窓のない地下なんかに降りてしまっては、何も見えなくなってしまうのではないだろうか。彼はそう思ったのだが、しかしそれはすぐに杞憂と分かった。

 

 壁にしっかりと手をつきながら、おっかなびっくり降りて行った地下室は、何故か隅々まではっきり目に見えた。どこを見ても燭台は灯っていないはずなのに、どう考えても、地上も地下も同じ明るさだったのだ。

 

 おかしな現象が続いているから、今更驚きはしないが、これは一体どういうことなのだろうか。

 

 灯りがないせいで、ずっと暗い暗いと思っていたが、もしかするとさっきから鳳が目にしていたのは、この世界の色だったのかも知れない。普通は物体が光を反射して色を見せるのだが、この世界では物質自体が色を発しているのだ。だから明るい場所は暗く、暗い場所は明るく感じるのだろう。

 

 しかしそれじゃあ、あの案内するかのようにぼーっと光って見える物は何なんだ? そんなことを考えながら、それを追いかけて地下室を進む。

 

 行きつく先は、ここに来る前からなんとなく予想していた。光がこっちの建物を指し示した時点で、多分、鳳が最初に気がついたあの部屋に続いているんじゃないかと思っていた。ここまで来た今、確信に近い気持ちでいたのだが……

 

 ところが意外にも、光が続く先はあの部屋ではなかった。あの部屋の前を通り過ぎても、光はまだ先の方からぼーっと見えたのだ。

 

 なんだか狐につままれたような気分になったが、まあ、元々ただの予想でしかなかったし、間違ったところで何も変わらないだろうと気を取り直し、彼は先を進もうとした。

 

 だがその時、ふと思いついて、

 

「そういや、俺達が最初に目覚めた部屋って、今はどうなってんだろ」

 

 そう思って、何となく。本当に、何気なく、その扉を開いた。今度はそこに何かがあると予想したわけではない。寧ろ何もないだろうと考えて、それを確かめるつもりで、彼はその扉を開き……

 

 そして彼は後悔した。

 

「えっ……な、なんだこれ……」

 

 扉を開いた瞬間、彼はなんとなくツンと来るような、獣の臭いのようなものを感じた。動物の飼育小屋などから漂う、糞尿の入り混じった動物自体が発する独特な臭いだ。その臭いを嗅いだ時、鳳はなんとなく嫌な感じがして、扉を開けるのをちょっとだけ躊躇した。しかし、ここまで来たんだという結果と好奇心がそれを跳ね除け、結局、彼はその扉を開いてしまった。

 

 何かが扉にもたれ掛かっているつっかえるような感触がして、ぐいと押し込むようにしながら扉を開くと、その衝撃で何かがドサッと倒れる音と、カランカランと地面を転がる音がした。

 

 コロコロと転がる丸い物体を目で追いかける……すると、その物体には2つずつならんだ大きな穴と小さな穴、そしてずらりと並んだ、真っ白な歯がついているのが見えた。

 

 鳳はゴクリとつばを飲み込んだ。

 

「嘘だろ……」

 

 それは頭蓋骨だった。大きさからして多分人間のものだろう。上顎だけで下顎がなかったが、残りもすぐに見つかった。鳳が押しのけた扉の反対側に、それはあった。

 

 それは理科室の骨格標本で見たことがある、人間の白骨死体そのものだった。いや、あるのはそれだけではない。その隣にも、その隣にも、同じような人間の骨が並んでいる。大きさはマチマチで男性女性が入り混じっているような……白骨化しているから相当古い物のようにも思えるが、死体が着ていた服と髪の毛がまだ綺麗に残っていることから、実はそんなに時間が経っていないようにも思えた。

 

 解剖学に詳しいわけではないから、確実とは言えないが、頭蓋骨の数から死体は5体。外傷は見当たらない。整然と並んでいるのは、運び込まれた時から死体だったか、ここで殺されたとしても抵抗がなかったからではないか。例えばガスとか……魔法とか?

 

 鳳はこみ上げてくる吐き気を我慢し、口に手を当てながら、部屋から出て扉を閉めた。その途端、猛烈な息苦しさを感じて、彼は酸欠の鯉みたいにハアハアと荒い息を吐いた。どうやら気づかぬうちに呼吸を止めていたらしい。やけにうるさい音が聞こえると思ったら、それは自分の心臓の鼓動だった。

 

 びっしょりと額に浮き出た玉のような汗を拭い、彼は逃げるように部屋から離れると、壁にもたれかかるようにして、地面に腰を下ろした。

 

「白骨死体は5体……俺たちは5人……」

 

 確信は持てないが、ただの偶然とも思えなかった。そもそも勇者召喚というのはどうやってするのだろうか。その方法については全く聞いていない。

 

 人間一人を呼び出すための代償とはなにか?

 

 もしかしてもしかしなくとも、自分は見てはいけないものを見つけてしまったのではないか……

 

 ここは城の中……かどうか分からないが、城主であるアイザックがこのことを知らないとは思えない。聞いたところでしらばっくれるだけだろうし、下手したら命の危険があるかも知れないから、無邪気に何か言うつもりはないが……

 

 やはり、この城からはさっさと退散したほうがいいだろう。ジャンヌはともかく、他の3人にもそれとなく伝えねばなるまい。しかし、改めて思うのだが、もし鳳たちが城を出たいと言ったとき、アイザックがどういう行動に出るか……

 

「まあ、その前にこの謎空間から出れなきゃ、お話にならないか」

 

 鳳は大きく深呼吸すると、弛緩する太ももをバシッと叩いて立ち上がった。流石にショッキングな出来事だったが、いつまでもこうしてはいられない。ある程度、気分が落ち着くと、彼はまた歩き出した。

 

 尤も、終着点はそれからすぐだった。先程の白骨死体のある部屋から突き当りを二度曲がった先に、地下牢らしき鉄格子の嵌った檻が並ぶ区画があったのだが、その牢屋の1つから異常な光が発しているのが見えた。

 

 近づいて中を覗き込んでみると、その中身は他の牢屋と同じ大きさの殺風景な石壁に囲まれた空間だったが、部屋の一番奥の壁だけが明らかに違っていた。いや、本当なら他の牢屋同様にカモフラージュされているのだろうが、今は壁の中央部分が四角くくり抜かれるように光で縁取られているのだ。何というか、いかにもここに隠し扉がありますよと、強く訴えかけているようだった。

 

 鳳は取り敢えず危険は無いかと周囲を軽く探索してから、問題の牢屋の中に入った。もしかしたら牢に鍵がかかってるかも知れないと思ったが、そんなものはなく、あっさりと中に入れてしまった。

 

 問題の壁の前に立つと、彼は恐る恐る指先をその光の中に突き刺してみた。すると、当然そこにあると思われた壁を突き抜けて、指が向こう側へとズブズブ入っていく。どうやら、ここに見た目通りの壁はないらしい。どうなってるのか興味はあったが、魔法なんて理不尽なものを理屈っぽく考えても仕方ないだろう。

 

 ともあれ、やれることはただ1つ……このいかにもな光の扉の向こう側へ進むだけだ。引き返すなんて選択肢はもうないだろう。結局、城の中をぐるぐると回って、ここに帰ってくるのが落ちだから。

 

 ならばもう迷うことなく突き進むしかあるまい。ここを抜ければ、この謎空間からおさらばできるとも限らない。だが、鳳は不思議となんとかなるんじゃないかと楽観していた。彼の胸ポケットには千代紙で出来た折り鶴が刺さっている。

 

 何となく、こいつが自分を導いてくれるような、鳳は何故かそんな気がしていた。

 



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なんていんちきくさい名前だ

 光の中に足を踏み入れ、思い切って通過する。

 

 真っ白な光りに包まれ視界ゼロの中、踏みしめる地面は柔らかく、グラグラと揺れるような感じがしていた。光の扉を通り過ぎる瞬間、鳳の脳内でカチッとスイッチが入ったような、ブラウン管テレビがブンと音を立てるような、そんな感じの耳鳴りがして、クラクラとする目眩と何かが頭の中で切り替わったような、そんな錯覚に襲われた。

 

 気分は悪くない。だが、いかんせん、何も見えない。フラつきながら光の扉を潜り抜けた鳳は、たたらを踏んで立ち止まる。

 

 と、その瞬間、ふっと彼の頬に風が吹き付けて、遠くの方から喧騒の声が聞こえてきた。

 

 立ちくらみに耐えながら、彼は顔を上げて周囲を見回した。

 

 そこには、さっきまでの色のない世界が嘘のような、色鮮やかな世界が広がっていた。人の背丈くらいある生け垣には色とりどりのバラが咲き誇り、美しく手入れされた刺繍花壇の中央では噴水が小さな水音を立てていた。空を見上げれば真っ青なスカイブルーが広がり、庭園に集まる小鳥たちが、渡り鳥のように群れをなしている。

 

 さっきから聞こえてくるざわめき声の方を振り返ると、かなり遠くに城が見えた。建物の雰囲気に若干の違和感を感じるのは、それがさっきから何度も見ていた正面ではなく、裏側だったせいではなかろうか。どうやらここは、アイザックの城の裏に広がる大庭園の中のようだ。

 

 城まで1キロ弱はあるだろうか。かなりの距離だ。つい今しがたまで城の地下にいたとは思えない。鳳は妙な違和感というか、胸騒ぎと言うか、自分がどこにいるかわからないような、そわそわした感覚に見舞われた。何というか、空間座標がずれている。いてはいけない場所にいるような気がする。どういう経路を辿ってここまで来たんだ? あの世界はなんだったんだ?

 

 そこまで考えたとき、ハッとして振り返ると、自分が通ってきたはずの隠し扉は消えていた。いや、始めからここに扉の出口なんて無かったのではなかろうか。あの場所とこの場所は一方通行なのでは……

 

 鳳の頭は疑問でいっぱいになったが、多分、考えても何もわからないだろう。そう自分に言い聞かせて、彼は一旦考えるのをやめることにした。

 

 そんなことより、他に考えなきゃならないことがいっぱいあるだろう。彼は大庭園へ出てくるや否や、すぐにジャンヌに声をかけた。

 

『シーキューシーキュー。ジャンヌ、聞こえるか?』

『あ! 白ちゃん。良かった、無事だったのね!?』

 

 何となく予想していたが、案の定、彼とはすぐに連絡が取れた。さっきまで、いくらやっても連絡がつかなかったのは、文字通り電波が繋がらなかったのだ。あの空がセピア色の世界と、このブルーの世界の間には、光が通過できない次元の断層みたいなものが横たわっているに違いない。

 

 彼がそんなことを考えていると、ジャンヌが焦れたように、

 

『それで白ちゃん、どこにいるの!? 突然連絡がつかなくなって、みんな大騒ぎよ』

『あ、ああ、今俺は……いや待てよ』

 

 鳳は自分の居場所を伝えようとしたが、すぐに思い直した。

 

『……みんな大騒ぎってことは、今、城の連中は俺のことを探してるのか?』

『当たり前でしょう』

『一応、確認なんだけど。今朝、俺達は練兵場で経験値稼ぎにモンスターを狩っていた。その時、俺は事故ってカズヤの魔法に巻き込まれた。そうだな?』

『え? ええ、そうね……どうしてそんなこと聞くの?』

『俺はあの後どうなったんだ? 死んだのか?』

『違うわよ! 死んだと思ってたら、あなたから連絡が来たんじゃない。それで今、みんなで探している真っ最中だったのよ』

 

 鳳は舌打ちした。案の定、あっちの城でジャンヌと会話をした直後、彼はみんなに鳳が生きていることを伝えてしまっていたらしい。どうりで、かなり距離があるというのに、城が騒がしいと思ったのだ。状況的にジャンヌを責めることは出来ないが、出来ればまだ、自分が生きていることは隠しておいてほしかった。

 

 今、あの城ではアイザック達が血眼になって鳳を探していると言うわけだ。そこへ出ていってもすぐに何かが起きることはないだろうが……城の地下室であれを見てしまった後では、アイザックとどんな顔をして会話をすればいいのか分からなかった。向こうも多分、鳳が何故消えたのか? 消えていた間にどこへ行っていたのか、警戒しているのは間違いないだろう。

 

『ジャンヌ。今、おまえの周りに誰か居るのか?』

『え? いないわよ。誰か呼んできた方が良いかしら。そうね、あなたが無事だってこと、みんなに伝えなきゃ』

『馬鹿! 逆だ逆! 周りに誰もいないなら好都合だ。そのまま誰にも見つからずに、こっそり城から出てこれないか?』

『え……? どういうこと?』

『実はさっき、城の中でヤバいもんを見つけちまったんだよ。だからアイザックに見つかる前に、お前と話し合っておきたいんだけど』

 

 ジャンヌは声を潜めているのか、少し掠れた囁くような声色で、

 

『……ヤバいって、何を見たの?』

『それは落ち合ってから話すよ。聞いたら驚くだろうし、こうしてお前が独り言をしゃべってるのを聞かれるのもまずい』

『そ、そう……』

『一旦、チャットは切ろう。とにかく、人に見つからないように、城の裏手にある庭園まで出てきてくれ。そしたら誘導するから、準備ができたらまたチャットで呼びかけて欲しい』

『分かったわ』

 

 短い返事のあと、ジャンヌとの会話は途切れた。恐らく今頃は指示されたとおり、城から抜け出そうとこそこそ移動しているはずだ。ジャンヌはステータスは高いが隠密スキルが皆無なので、多少時間がかかるかも知れない。その間に、落ち合う場所を決めておいた方がいいだろう。

 

 鳳はキョロキョロと周りを見回した。今いる場所でも悪くないのだが、ここに来て欲しいと言おうにも、相手を誘導できる自信がない。ここは城から大分離れているし、そもそも、自分は地下室の隠し扉を抜けたらここにいたわけで、はっきりした場所は自分でもよく分かっていないのだ。

 

 ジャンヌが一発で分かるような目印のようなものは無いだろうか。そう思って探してみると、城から少し離れたところに別の大きな建物が見えた。本城に劣らぬ壮大な建物で、造りが似通っているから、多分、離宮かなにかだろう。普段使いでないなら人は少ないかも知れないし、何より目立つから落ち合うには都合がいい。

 

 鳳はそう考えると、とにかく近くまで行ってみようと歩き出した。

 

 庭園は迷路みたいに入り組んでいて、なかなか目的地には着けなかった。実際、ここは迷路なのかも知れない。ヨーロッパの城の中には、そうやって庭園を見にくる来客を楽しませたのもあると聞いたことがある。庭園を形作る生け垣は人の背丈よりも高く、緑が生い茂っていて視界を遮っている。

 

 垣根を強引に抜けようとしても、針金みたいな蔦がビッシリと絡まっていて、とてもじゃないが抜けられなかった。上を乗り越えるのも一度や二度ならともかく、それで迷路自体が抜けられるわけじゃないから、結局、我慢して迷路を攻略するほうがよほど早そうだった。

 

 イライラしながら闇雲に通路を進む。目的地がずっと見えているせいで、余計に気が急いてしまい、それが道を間違える要因になった。さっきから同じ場所をぐるぐると回り続けているような気がしてならない。方角だけは確かめながら歩いているつもりだが、一向に近づく気配がないので堪らない。

 

 鳳は舌打ちした。裏庭で遭難なんてシャレにならないぞ。本当にここから抜け出せる道はあるんだろうか。もしかして、また何か不思議な力に惑わされてるんじゃなかろうか……

 

 不思議な力?

 

 と、考えたときに、はたと気づいた。そう言えばさっきから、視界の先でチラチラと何かが動いているような感じがする。ただの陰影が作り出す錯覚だと思っていたが、目を凝らしてよく見れば、分かれ道に来る度に、明るい方と暗い方があるような……

 

 これはもしや、あの時の光では? 城の中と比べて、明かりのある外では気づき難かったが、よくよく見れば明暗ははっきりと分かれている。それ確かめるべく明るい方へ進んでみると、その先もまた同じように、通路の先のコントラストがくっきりと別れていた。逆に振り返って見れば道はほんのりと薄暗く見え……これはまたもや、何かが鳳を導いているんじゃないかと、彼はそう確信した。

 

 それにしても、この光はなんなんだろう……?

 

 最初に気づいたのはあの真っ暗な城の中だった。鏡越しにエミリアの姿が見えたような気がして、びっくりして後を追いかけていったら、そこに光が続いていた。鳳はそうやって光に導かれ、地下室の部屋で白骨死体をみつけたわけだが……

 

「いや、違うな。光の行き先はあの部屋じゃなかった。あれは単に、俺が寄り道をしただけだ」

 

 地下室で白骨化して散らばっていた死体の数々……自分がこの世界で最初に訪れた場所にそれがあったのだから、かなりショッキングな出来事ではある。だが、光はあの部屋を指し示してはいなかった。そこを通り過ぎて、更に奥にあった牢屋の中に隠し扉があることが示されていて、それをくぐり抜けたらこうして外に出られたのだ。

 

 外に出たことで光の役目は終わったのだと勝手に思っていたが、また現れたところを見ると、もしかすると光が導こうとしていたのは、初めから城の外ではなかったのかも知れない。実はまだ、光は鳳を導いている途中だったというわけだ。

 

 でも一体、どこに?

 

 そう思って光の進む先を遠くまで眺めてみると、生け垣の迷路の向こうに、いつの間にか大きな木が生えているのが見えた。

 

「え? いつの間に……」

 

 鳳は思わずぽかんとしてしまった。その木は背丈の低い低木からなる庭園の中ではかなり大きくて、遠くからでもよく目立つはずだった。なのに、さっきまでそこにそんなものがあることなんて、全く気づかなかった。もし気づいていたら、ここをジャンヌとの待ち合わせにしたのに……

 

 そう思ったときに、鳳はまたハッとした。そう言えばさっきから光を追いかけることに夢中になって、周りをよく見ていなかった。元々、彼は光を追いかけていたのではなく、ジャンヌと落ち合うために、離宮らしき建物を目指していたのだ。あれはどっちの方角だ。

 

 ところが、ぐるりと360度見回してみても、離宮はどこにも見当たらなかった。さっきまですぐそこにあったはずなのに……もしかして角度の問題か? と思って飛び跳ねながら遠くを見渡しても、離宮はやっぱり見つからなかった。それどころか、本城の方も見当たらないのだ。

 

 どう考えてもこれはおかしい。さっきまで見えていたものが見えなくなって、見えなかったものが見えている。もしかして、また謎空間に迷い込んでしまったのか?

 

 彼は、はぁ~……っと盛大なため息を吐いた。ジャンヌと合流するため、こんなことをしている場合じゃないのだが、こうなったらとことん付き合うしか無いだろう。幸いなことに、光の指し示す先には例の大木があって、今度こそそこが終着点である可能性は高かった。

 

 彼は鼻息荒く木を睨みつけると、光の指す方へ向かって再度歩き始めた。

 

 終点にはすぐ到達した。それから曲がり角を2つ3つ曲がった先だった。それまで視界を遮っていた、忌々しい生け垣の迷路が唐突に終わって、そこに広場が広がっていた。

 

 そこは、さっきの刺繍花壇で彩られたような可愛い庭園ではなくて、土の地面が剥き出しの、雑草で覆われた殺風景な広場だった。端っこには、家庭菜園みたいな畑があって、そこにトマトが成っていた。そのすぐ脇には、大きめのウッドテーブルが置かれていて、その周りに木の切り株みたいな椅子が並んでいる。テーブルの上に白磁の食器と、紅茶のポッドが置かれていることから推察して、どうやら頻繁に人が訪れているようだ。

 

 いや、寧ろここに住んでいるのでは? 広場の中央にある大木を見上げると、なんとその中腹に小さな家が建ててあった。何というか、アメリカのお父さんたちが、子供のために日曜大工で庭に作っちゃったような、映画ホーム・アローンでマコーレー・カルキンが遊んでいたような、あんな感じのツリーハウスである。

 

 それにしても大きな木である。一体何の木だろうか? 見ればところどころに赤い果実が成っているのが見えた。まさかとは思うが、あれはりんごだろうか? いや、しかし、こんな大きさのりんごの木なんてありえるのだろうか……? 明らかに、現実のものとは思えない。

 

 鳳はあんぐりと口を開いてそれを見上げた。なんでこんなものがあるのだろうか? ここは城の中だろう? 正確には城の敷地内であるが。

 

「いやしかし、肝心の城がどこにも見えないんだから、ここは城の外なのか?」

 

 鳳は頭痛がしてきた。あの真っ暗な城といい、この謎のツリーハウスといい、空間や時間や常識までもがねじ曲がってしまっていて、頭がこんがらがってきた。

 

 自分は一体、何を見せられているのだろう。どうしてこんな場所に連れてこられたのだろう。連れてこられた……? 言い得て妙だ。そう、あの光は一体自分に何をして欲しいのだろうか?

 

「誰かいるの?」

 

 と、その時、鳳が難しい顔をしてツリーハウスを見上げていると、いかにもその家の主にふさわしい子供の声が聞こえてきた。どうやら中に人が居て、鳳の独り言に反応したらしい。

 

 本当に人が住んでいたのか……

 

 彼は警戒しつつも、相手の声にどことなく聞き覚えがあるような気がして、そのままその場で突っ立っていた。こんな謎空間で初めて出会った先客である。怪しさマッハだが、少なくとも敵意は感じられない。それよりも早く、相手が何者か確かめたい。そんな気持ちが勝った。

 

 そして家の主は間もなく現れた。

 

 向こうも侵入者なんて全く警戒していなかったらしい。

 

 ツリーハウスの扉を開けてひょっこりと現れたのは、金髪を二つ結びにした少女だった。少々吊り目がちの大きな瞳は印象的な紫色に輝いていて、ブカブカのポンチョを羽織り、七分丈のズボンの裾から覗く足は靴を履かずに素足である。髪は頭の横で結んでなおもお尻が隠れるくらいに長く、彼女が動く度にポンチョの隙間から見える、スラリと伸びた手足は病的なくらい真っ白で、血管が浮き出て見えそうなくらいだった。

 

 暗い場所から出てきたばかりで眩しいのか、目鼻立ちの整った顔を顰めて見つめるその表情は、それすら人を惹きつけるほどの魅力があった。と言うか、鳳はその顔に釘付けになった。もちろん、彼女の可愛らしさもその原因の1つだったが……驚いたことに、彼はその顔に見覚えがあったのだ。

 

「エミリアっ!!」

 

 鳳のそんな絶叫にも似た驚愕の声に、ツリーハウスから出てきた少女は一瞬だけ虚を突かれたような顔を見せたが、すぐにまた眉間に皺を寄せたしかめっ面をして見せると、まるで不審者を見るよう目つきで彼のことを睨みつけた。

 

 彼女がハシゴを使わずにツリーハウスから飛び降りると、まるで羽でも生えているかのように、音を立てずに着地した。

 

 そしてその場で腰を抜かしそうな顔をして彼女のことを見つめていた鳳の顔を覗き込むようにしながら、

 

「あんた誰よ」

 

 と不機嫌そうに言った。

 

「誰って……エミリア。俺だよ、俺。鳳白だ。覚えてるだろう?」

「……? だから誰よ。どうしてここにいるの?」

「どうしてって言われても……っていうか、エミリア。俺がわからないのか?」

「知らない」

 

 まさか数年ぶりに間近に見ることが出来た彼女が自分のことを覚えていなかったなんて……彼は一瞬ショックを受けたが、すぐに数年ぶりだということを思い出し、冷や汗をかきながら言った。

 

「そ、そうか……中学以来だもんな。俺はあれから声変わりもしたし背も伸びたし、別人みたいなもんだよな……つまりその、あれだ、俺はほら、実はおまえと……ソフィアとずっと一緒に冒険していた、デジャネイロ飛鳥なんだよ。それなら、わかるだろう?」

「ソフィア? なに? 今度は真祖さま? 本当にあんたなんなのよ、あんたなんか知らないってば」

「……マジ? いや、だって、ずっと一緒にいただろう? 子供の頃も、ゲームの中でも。なのに俺のこと覚えていないと言うのかい??」

「だから知らないってば。気持ち悪いやつ」

 

 しかし少女の返事は冷ややかなものだった。鳳は心臓がえぐり取られるようなショックを受けた。ずっと会いたかった彼女から、まさか拒絶の言葉が出てくるなんて……並の男ならそうなるのも仕方ないだろう。彼は真っ青を通り越して、真っ白になった。貧血にも似た目眩がして、彼はその場にへなへなと腰を下ろす。

 

 少女はそんな鳳の姿を見て、不思議そうな表情を浮かべながら、

 

「っていうか、さっきからなんで私のことを神様みたいに言うの? レディの名前を間違えるなんて、失礼だと思わない? ま、悪い気はしないけどさあ」

「……は?」

「そりゃあ、私は女神様みたいに美しいから、あんたが間違えるのも仕方ないかも知れないわね。だから許してあげるわ。感謝なさい。ふふん」

 

 そう言って得意げに胸を張る少女を見上げて、鳳は強烈な違和感を感じた。その行為があまりにもエミリアと似つかわしくなかったのだ。

 

 彼女はどちらかと言えば寡黙で、しゃべる時は必要最低限のことしか言わなかった。それに、その恵まれた容姿のせいでイジメられていたから、自分のことを美しいなんて口が裂けても言うわけがなかった。

 

 そう考えると、目の前にいる少女はエミリアに見えてそうじゃないような気がしてきた。というか、さっき自分でも言ったことだが、二人は数年ぶりに再会したのだ。最後に会ったのは中学一年の一学期、ほとんど小学生みたいなものだ。あの時と比べて、鳳は脱皮したんじゃないかと言うくらい変わっている。ならエミリアだって、いくら女性とは言え、見違えるくらい変わってなければおかしいのではないか?

 

 なのに今、目の前にいる少女は鳳の記憶の中の姿のままだった。寧ろ、出会ったばかりの頃、小学生のイメージに近い。だからこそ、彼女を一目見るなり、エミリアと勘違いしたわけだが……

 

 勘違い?

 

 そう、鳳はもう、目の前の少女とエミリアを違う人物として認識していた。彼女はエミリアに似ているがエミリアではない。そう意識した瞬間、彼はそれまで全く気づかなかった、決定的な違いを見つけてしまった。

 

 彼女の顔の両側の二つ結びの髪の毛にかぶさるように、横に伸びた長い耳がぴょこぴょこと動いていたのだ。それはいわゆるエルフ耳……神人の特徴である。

 

「おまえ……誰だ?」

 

 茫然自失の鳳が呟くようにそう言った。

 

 その言葉を聞いた少女は癇癪を起こしたように地団駄を踏みながら言い返す。

 

「むかー! 何よそれ! 自分から間違えといて、今度は知らんぷり!? こんな失礼なやつ、初めて見たわっ! こんな……いいや……はっ!? もしかして、これはノリツッコミ? 有名なノリツッコミってやつなのね? なんて高等なテクニック! あんた、なかなかやるじゃない!!」

 

 何言ってるんだこいつは……ぽかんとして固まっている鳳とは対象的に、一人で怒ったり納得したり忙しそうにしていた少女が、コホンと咳払いをしてから言った。

 

「そうね、自己紹介がまだだったわね。私の名前はメアリー・スー。メアリーが名前で、スーがお母さんの名前よ。あんたは特別にメアリー様と呼ぶことを許してあげるわ。えーっと、おおと……も? おおと……変な名前の人!」

 

 流れの中で先に名乗っていた鳳の名前を覚えきれなかった彼女は、言うに事欠いて変なやつ呼ばわりしてきた。わからないならもう一度聞いてくれればいいのに……彼は彼女の名前をつぶやき返しながら、

 

「メアリー……スー……?」

 

 なんていんちきくさい名前だ。彼はそう思っていた。

 



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あはははははは!!

 城内で迷子になりながら、鳳が謎空間をさまよい歩いていると、やがて大きな木に建てられたツリーハウスの前に出た。そこから出てきたエミリアに似た少女は、鳳の幼馴染とは関係がない、メアリーという名前の少女だった。

 

「つーか、メアリー・スーだって?」

 

 彼は胡散臭いものでも見るような目つきで少女のことを見た。メアリー・スーとは、スター・トレックの二次創作に登場するキャラクターのことで、その異常なまでにハイスペックな能力で原作の主人公達を助け、彼らに超絶感謝されるという、アイタタタな展開をやらかし、原作ファンを激怒させたという曰く付きの少女の名前である。

 

 そのチート能力やご都合主義な物語の展開が、いかにも中二病患者にありがちなパターンを踏襲していたため、日本の二次創作界隈でも駄目な二次創作キャラの典型として忌み嫌われている。要するに俺tueeのパイオニアみたいなキャラクターであるが……

 

 そんな名前の少女が、幼馴染と同じ顔をして、目の前に現れたのである。しかもエルフ耳で。こんな偶然があってたまるか? 鳳は呆れるような口調で、

 

「それ……ホントに本名か? もしかして、俺のこと騙してない?」

「むきー! なんでさ! 騙してなんかいないわよっ!」

「いや、だって変じゃん……おまえのその名前」

「はあ!? オオトモの方が変なのに! 変なやつに変って言われたくないわ!」

「オオトモじゃなくて、オオトリな……あと、ツクモでいいよ、そっちの方が名前だから」

「ツクモ! 変な名前変な名前変な名前変な名前変な名前!!」

 

 鳳が間違いを訂正すると、よほど悔しかったのかメアリーは変な名前を連呼した。まるでガキみたいな反応に辟易したが、考えても見れば、いくらエミリアに似ているからと言っても、彼女は見た目通りのガキなのだ。鳳は大人気なかったと反省する。

 

「分かった、分かった! 悪かったよ。おまえの名前は変じゃないよ……その、知り合い? に、同じ名前のがいるんだよ。だからもしかして、おまえがそれを知ってて、俺のことをからかってるんじゃないかって思ったんだ」

 

 すると彼女の瞳がパーッと輝いて、

 

「ツクモの友達!? 同じ名前なの!? あはははははは!!」

 

 突然笑い出すメアリーに面食らい、鳳がぽかんとした表情で問い返す。

 

「……何がおかしいんだ?」

「何もおかしくないよ! 同じ名前の人がいるなんて、凄いびっくりだわ! あはははははは!! おんなじ名前! おんなじ! あははははははは!!」

 

 最初はその反応がさっぱり分からなかったが、しばらく見ているうちに、どうやら彼女は自分と同じ名前の人がいることが、単純に嬉しいのだと分かってきた。感情表現とかテンションがおかしいのは見た目通り、彼女がガキだからであろうか。

 

 見た目はドキッとするくらいエミリアそっくりなのだが、中身はまったくの別人のようだ。一体、この子はなんなんだろうか……

 

 鳳は彼女が落ち着くのを待ってから、彼女が一体何者なのか、エミリアとは関係がないのか、慎重に質問してみた。

 

「ところでメアリー。おまえ、ここで何してるんだ? ここはおまえの家なのか?」

「そうだよ? 見て分かるでしょ」

「いや、わからないが。そうか……ここで暮らしてるのか。一応聞くけど、いつからだ? 最近、異世界から飛ばされてきたとか、そんな体験があったりしないか?」

「異世界? なにそれ。あはははははは! 異世界だって、あはははははは!!」

「そそそ、そうですよね!? 普通、異世界なんて言い出したら、そういう反応しますよねっ! ちくしょう!!」

 

 ゲラゲラと笑い袋と化したメアリーに対し、鳳は顔を真っ赤にしながら言い訳した。実際、ホントのことなのに、どうしてこんな辱めを受けねばならないのだろうか。メアリーはひとしきり笑ったあと、

 

「ひぃひぃ……私は子供の頃からずっとここに住んでるわよ」

「ああそう。今も子供みたいなくせに……ところで、ここはどこなんだ?」

「どこって、お城の中だよ? 知ってるでしょう?」

「いや、そんな不思議そうな目で見られても……城の中ってのはわかるよ。でも周りを見てみろよ、なにもないだろう? 一体、この空間はなんだって聞いてるんだよ」

「知らないわよ」

「……知らない?」

 

 こんなにあっさりと否定の言葉が返ってくるとは思わず、鳳は面食らってしまった。

 

「いや、だって、おまえ、ここに住んでるんだろ? どうして自分の住んでる場所のことがわからないんだ」

「知らないものは知らないよ。ツクモこそ、どうやって中に入ってきたの? 入ってきたんなら、ここがどんな場所なのか分かるでしょ」

「いや、それが分からないんだが……」

「あたしも分からないわよ」

 

 なんだか会話がすれ違ってるような……と、その時、鳳は彼女の言葉の中に、ちょっと聞き捨てならないものがあることに気づいた。

 

「いや、ちょっと待て! おまえさっき、ずっとこの中で暮らしてるって言ってたな? ずっとって、どのくらいずっとだ?」

「ずっとはずっとよ」

「1年より長く……?」

「うん」

「2年よりも?」

「もっとずーっとよ」

 

 鳳は少々頭が痛くなってきた。謎空間か裏ステージか分からないが、明らかに普通じゃない場所に、この少女は何年も閉じ込められているというのか? そう言われてみると、家庭菜園とかウッドテーブルに並んだ食器の数々とか、生活臭がするものがあちこちにあることに気付かされる。

 

 何も、城の中でこんな生活をしなくてもいいではないか。見すぼらしいポンチョじゃなくてドレスを着飾ったって、素足じゃなくてガラスの靴を履いていたって。アイザックは何を考えているんだろうか?

 

「えーっと……例えばここは城の中だって、おまえは知ってるんだよな? どうして城じゃなくって、こんなツリーハウスで暮らしてるんだ?」

「人のお家を、こんなとは失礼ね!」

「そりゃ悪かったけど……でもここじゃなくても、城の一室でも貸してもらえばいいじゃないか。あっちには部屋がいっぱい余ってるぞ。なんなら俺から城主のアイザックに頼んでやってもいいけど」

「そうなんだ。でも無理よ」

「なんで?」

 

 すると彼女は少し機嫌を損ねてしまったのか、唇を尖らせながら言った。

 

「だってアイザックが言ったんだもの」

「アイザックが? なんて?」

「外は危険がいっぱいだから、見つからないようにここに隠れてろって」

「危険?」

「じゃないと魔王が来て食べられちゃうからって」

 

 なんだそれは……? アイザック達の話によると、魔王は300年前に倒されて、もうこの世に居ないはずだ。要するにこれは、いたずらっ子を諭すために吐く嘘のようなものだろうか。雷様におへそを取られるとか、嘘を付くと河童に尻子玉を抜かれるとか。

 

 それじゃあ、アイザックは子供をだまくらかして、いつまでもいつまでも、こんな謎空間に閉じ込めてるということか? 地下室で白骨死体を見つけた時から、あいつのことは信用ならないと思っていたが、まさか幼女監禁にまで手を出していたなんて……

 

 何しろいきなり飛ばされてきた異世界である。右も左も分からないから、無意識的にここが安全だと思ってしまっていたが、その前提は崩されつつあった。もはや一刻の猶予もない、さっさとここから出ていった方がいいだろう。

 

 義憤に駆られながら、鳳は少々怒り気味に言った。

 

「よく聞け、メアリー。魔王はもういないんだ。300年も前に勇者に倒されてしまったらしいから。もう外は危険なんかじゃないんだ。だからおまえも、いつまでもこんな場所に隠れてないで、さっさと外の世界に出ていった方がいい。アイザックは嘘を吐いているんだよ」

 

 しかし、メアリーは彼の言葉に首を振って、

 

「ううん。魔王が滅んだことなら知ってるよ」

「知ってる?」

「だって、魔王を倒したのはアイザックだもん」

「はあ!? あいつが魔王を倒したわけがないだろう?」

 

 一体彼女は何を言ってるのだ? 鳳は頭が痛くなってきた。

 

 アイザックはメアリーに、大人しくしないと魔王に食べられちゃうと脅かしたかと思えば、今度は自分が魔王を倒したなんて大ぼらを吹いている。そしてメアリーはメアリーで、そんな子供でも分かる嘘を受け入れている。

 

 話がどうこじれたらこんなことになるのだろうか? その理由は間もなく、彼女の口によって明かされた。

 

「ツクモが言ってるのは、今のアイザックのことね。違う違う。あたしに魔王の話をしてくれたのは、もっとずっと昔のアイザックだよ」

「……昔の?」

「うん。アイザックのお祖父ちゃんのお祖父ちゃんの、そのまたお祖父ちゃんの、もっとお祖父ちゃんのアイザック」

 

 なるほど。鳳はピンときた。海外の貴族なんかは、後継者に自分と同じ名前を名乗らせていたりするものだ。つまり、鳳の知っているあのアイザックは、正式にはアイザック5世とか6世とか、そういう代目がついているということだろう。

 

「つまり……大昔のアイザックの先祖が、魔王を倒したってことか?」

「そう」

 

 なるほど、それなら合点がいく。鳳は一番最初に、アイザックがヘルメス卿と呼ばれていたことを思い出した。

 

 確かヘルメスとは帝国を守護する精霊の一体で、国名でもあったはずだ。多分、アイザックのご先祖様が、魔王討伐で勲功を上げて、この国を治める領主となったんだろう。もしくは、領主だったから、勇者についていったのか。

 

 どちらにしろ、そういう縁があったために、この国は勇者派の首領として君臨し、と同時に苦境にも立たされているのだろう。もちろん、アイザック達が言っていたことが全て本当ならの話であるが……

 

 ともあれ、魔王の脅威が去った今、その脅威から隠すために作ったこの空間に、いつまでもメアリーを閉じ込めている必要はないだろう。やっぱりどうにかアイザックを騙すか説得するかして、彼女は外に出るべきだ。

 

 そう結論づけようとした時、鳳は話の中に潜んでいる異常さに気がついた。

 

「ちょ、ちょっと待て、メアリー。おまえ、アイザックに言われて隠れてるって言ってたよな?」

「うん」

「そのアイザックってのは今のアイザックのご先祖様。魔王を討伐したアイザックってことだよな? それじゃおまえ、一体、何年この中に閉じ込められてるってんだ?」

「何年って、知ってるでしょ。300年だよ」

 

 頭の中でチリチリと音がしたような気がした。もの凄い勢いでニューロンが活性化されて、おかしな電圧でも発生しているかのようだ。

 

 300年……300年って、何年だ?

 

 そんな頭の悪い感想しか出てこなかった。呆然と見つめた彼女の頭には、横に突き出るように伸びているエルフ耳があった。そうだ、彼女は見た目通りの年齢ではない。神人は不老非死。何事も無ければ、何千年だって生きられるのだ。

 

 100年も生きられない人間からしてみれば羨ましいことだと思っていた……だがそれは、こんな場所にずっと閉じ込められているのでなければの話だ。

 

「300年前、魔王が帝国に侵入したとき、アイザックはあたしをここに隠したんだ。そして魔王を倒して帰ってきたあと、あたしにお帰りのチューをしてちょうだいなんて言ったのよ。

 

 だからあたしは言ったんだ。げえ、気持ち悪~い! って。そしたら、そんな奴は外に出してやら~ん! って、そのままあたしは閉じ込められちゃった。アイザックって大人気なかったんだよね。

 

 それでもすぐ出してくれると思ってたんだけど、アイザックはしつこかったのよ。それであたしも意地になっちゃって、絶対アイザックにキスなんかしてやらないって……でも、それから暫くして、アイザックが死んじゃったのよね」

 

「……死んだ?」

 

「うん。こんなことになるなら、ほっぺにチューくらいしてやれば良かったわよ。お城の人たちは、あたしを外に出そうとして色々してくれたけど、全然駄目だった。それでずーっとここにいるのよね」

 

 メアリーは軽い調子で喋っていたが、内容はかなりヘヴィーなものだった。考えようによっちゃ、自分の恩人に素直になれなくて、すれ違ってるうちに相手が死んでしまった。挙句の果てに300年もこんなところに閉じ込められているのだ。

 

 いや、単に考えないようにしてるだけかも知れない。そりゃそうだ。人間、鬱々と300年も暗いことばかり考えていたら死んでしまう。だから彼女はいつしか考えることをやめたのだろう……そのうつむき加減の幼馴染にそっくりな顔を見ていて、そう思った。

 

 鳳はすっかり暗くなってしまった空気を払おうと、話題を変えた。

 

「……ところで、話は変わるが、エミリアとかソフィアって名前に聞き覚えはないか? 具体的には、おまえの親戚にそんな名前の人がいたりしないか。お母さんの名前は?」

「ママの名前はスーだよ。さっきそう言ったじゃん。ソフィアは真祖様の名前でしょう。それにエミリアは神様だよ」

「ああ、そうか……スーって名字じゃなかったんだな」

 

 それなら彼女も、メアリー・スー・田中とか、そんな感じの名字が別にあるんだろうか?

 

 鳳は改めて名字を尋ねようとしたのだが、その言葉が口をついて出るより先に、それ以上に気になることを発見してしまった。

 

「エミリアは……神様? そう言えばおまえ、さっきもそんなこと言ってたな。この世界にはエミリアって名前の神様がいるのか?」

「うん、ツクモは知らないの?」

「ああ、歴史講釈でもそんな話は聞いてないが……どんな神様なんだ?」

「ふーん。なら、あたしが教えてあげる。真祖ソフィアは、エミリアの化身なのよ」

「……え?」

 

 鳳は驚いた。てっきりエミリアとソフィアと言っても、それぞれ無関係な名前だと思っていたのが、まさかその2つに共通点があるなんて……しかも、ソフィアがエミリアの化身(アバター)なんて、鳳の住んでいたあっちの世界と全く同じではないか。

 

 エミリアとソフィアが同一人物で、目の前にはそのエミリアにそっくりな少女がいる……こんな偶然があってたまるか。

 

「昔々、人類が誕生するよりもずーっと昔、この世界は魔王によって支配されていました。魔王は命という命を刈り取り、地上は火と毒で荒れ果て、草木が芽吹く隙間もありませんでした。天に住まうエミリアは地上の惨状を憂えて、魔王を滅ぼす決意をしました。でも、天上の神と地上の魔王では住んでいる世界が違います。だから、エミリアは自分の化身を創って地上に遣わせました。それが真祖ソフィアです。地上に降り立った真祖ソフィアは、魔王と戦うために五精霊を生み出しました。最強の矛である真祖ソフィアを、最強の盾である五精霊が守り、そして見事魔王を討ち滅ぼしたのです」

 

 メアリーは昔話を終えると、少し懐かしそうな顔をして、

 

「だからエミリアとソフィアと精霊は三位一体なんだって、アイザックはそう言ってよく笑ってたのよね。何がそんなにおかしかったのか、わかんなかったけど……何がそんなにおかしかったんだろうね? ツクモには分かる?」

 

 それは多分、キリスト教の三位一体説となぞらえて面白がっていたのだろうが……確かに、こちらの人からしてみれば、わけがわからないだろう。そう考えた時、鳳はまた違和感に気づいた。

 

 あれ? それじゃあアイザックは何故笑ったんだ?

 

 アイザックはこっちの世界の住人ではなかったのだろうか。もしかして彼も、鳳たちみたいに異世界から呼び出されたのではなかろうか。考えても見れば勇者召喚されたのが、勇者だけとは限らない。鳳たちだって5人もいるではないか。

 

 いや、そろどころか、実はアイザックの先祖が勇者その人だったんじゃなかろうか。彼はそう思って尋ねてみたが、

 

「なあ、もしかして、アイザックと勇者って同一人物だったのか?」

「え? 違うよ?」

 

 アイザック勇者説はあっさりと否定された。そりゃそうか。もし、自分の祖先が勇者だったら、今のアイザックが自慢しないわけがない。でも、それならなおさら勇者とは何者だったのか気になるところだ。思えば歴史講釈をしてくれた老人も、勇者の名前はついに一度も口にしなかった。

 

「そ、そうか……じゃあ、勇者の名前ってなんなんだ?」

「さあ、知らない」

「はい? 有名人なんだから、当然知ってるだろう?」

 

 するとメアリーはムスッとした表情で、

 

「知らないものは知らないよ。勇者は勇者としか聞いたことがないもん。もしかして名前がなかったんじゃないかな」

「そんな馬鹿な」

 

 勇者の名前を彼女は知らないという。嘘をつく理由もないし、かなり妙な話だが、彼女には勇者の名前が伝えられてないということだろうか……いや、そうではない。歴史講釈の老人も知らなかったのだ。何故か分からないが、勇者の名前は後世に伝わっていないのだ。どうしてそんなことになっているのだろうか?

 

 勇者派と守旧派で争っているうちに、歴史から抹消されてしまったのだろうか? 彼女の言う通り、本当に名前が無かったということだろうか? もしも名前があるのなら、勇者ロトなりヨシヒコなり、現代に伝わってなきゃおかしいだろう。なんせ相手は、世界を救った勇者なんだぞ。

 

「じいいいーーーーー……」

 

 そんな具合に名無しの勇者について鳳が考え込んでいると、いつの間にかメアリーが近づいてきて、彼の胸のあたりをじっと見つめたいた。わざとらしく、じいー……なんて声を出しながら。

 

 一体何を見ているんだろう? と、視線の先を辿ってみれば、胸ポケットの中から折り鶴のしっぽが突き出していた。彼はそれを取り出して、

 

「これか?」

「うん。それはなに?」

「これは鶴だよ。紙で作った折り鶴だ」

「ツル……ツルってなに?」

「え? ツルを知らないの??」

 

 と言っても、鳳もよく知らなかった。北の方にいる渡り鳥で、かなり体が大きくて、コウノトリに似てるくらいしか分からないが……

 

「コウノトリ?」

 

 案の定、彼女はそっちの方も知らないようだった。そりゃそうだろう。300年もこんなところに閉じ込められていたんじゃ。

 

 鳳は仕方ないので身振り手振りで、どうにか伝えようと頑張った。

 

「えーっと、白黒の大っきな鳥で、主に寒い地方で暮らしてて、こう、ばさばさーって飛ぶんだ。ばさばさーって」

「ふーん……こんな鳥がいるんだ。変なのー……あはははははははは!!」

 

 メアリーは笑い転げた。最初の方でもちょっと思ったが、恐ろしく笑いのハードルが低い女だ。界王なみである。他に楽しみがないと、人間ってこうなっちゃうのだろうかと思うと、腹が立つどころか寧ろ可哀想になってくるが……

 

 彼女はひとしきり笑った後、

 

「ひぃひぃ……本当にこんなのが、パタパターって空を飛んでるの? こんな鳥、見たこと無いよ」

 

 メアリーは折り鶴を不思議そうに見つめている。

 

「え? そうだな……言われてみると、全然似てないな。折り鶴ってどのへんが鶴っぽいんだろうか。しっぽはこんなに長くないし、足もないし」

「足のない鳥がいるの?」

「いやいや、実物にはフラミンゴみたいに細い足がちゃんとあるんだけど」

「フラミンゴ?」

「ですよね」

 

 鳳は参ってしまった。まるで小さい子供に言葉を教えているような気分だった。図鑑なりなんなりがあればいいのだが、残念ながらそんなものはここにはない。出来れば実物を見せてやりたいところだが……300年も閉じ込められているという彼女にそんなことを言うのは、かえって酷だろう。

 

 鳳は食い入るように折り鶴をじーっと見つめているメアリーに、それを差し出した。

 

「やるよ」

「え? くれるの?」

「ああ。多分、もう、必要ないだろうし」

 

 なんで千代紙なんかを握っていたのかもわからないし、あの光がなんだったのかもよくわからないが、多分、ここでメアリーに会うためだったのだろうと、鳳はなんとなくそう思った。

 

 なんせ、彼女はエミリアにそっくりだし、折り鶴はそのエミリアとの思い出の品だから、きっと単なる偶然じゃないのだろう。

 

 それに……

 

「ありがとう! 宝物にするね!!」

 

 そう言って、ウキウキしながらそれを大事そうに抱えるメアリーを見ていたら、ここであげないなんて選択肢はないだろう。

 

 彼女は折り鶴を両手に抱えてくるくると回ると、

 

「しまってくるー!」

 

 と言って、ツリーハウスのハシゴを一目散に昇っていった。

 

 そんなに嬉しいものなのだろうか。いや、嬉しいのだろう。ここは彼女がそんなになってしまうくらい、あまりに刺激がないのだ。

 

 異世界に召喚されていないはずのエミリア、その彼女にそっくりなメアリー。この世界にはエミリアの名を冠した神が存在し、その化身が帝国の始祖ソフィア。かつて世界を救った勇者には名前がなく、今回呼ばれた勇者たちは種馬としての能力だけを期待されている……

 

 これらの事実はどう繋がるのだ? エミリアは本当にこの世界にいないのだろうか。とてもそうは思えない。もう一度、落ちついて状況を整理したほうが良いだろう。これじゃ何がなんだかわからないから。

 

 でも、その前に、ジャンヌと合流しなければ……すっかり忘れていたが、彼はどうしているのだろうか。外に出れたら連絡してくれと言ったはずなのに、一向に連絡してこない……

 

「そこで何をしているっっ!!」

 

 その時、この殺風景な広場に怒声が響き渡った。

 

 ハシゴを昇っていたメアリーが振り返り、鳳は冷や汗をかいて凍りついた。

 

 振り返れば、神人を引き連れたアイザックがギラギラとした瞳でこちらを睨みつけていた。

 

 しまった……忘れていたのはジャンヌだけではなかった……

 

 鳳は自分の迂闊さを呪ったが、もはや後の祭りであった。

 



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勝手にしやがれ!

「そこで何をしているっっ!!」

 

 激昂するアイザックの声が広場に響き渡った。そのあまりの剣幕に、ハシゴを昇っていたメアリーが驚き、段を踏み外して目を丸くしている。

 

 鳳は背筋に冷や汗をかきつつ、愛想笑いを浮かべながら振り返った。アイザックの表情は、初めて会った時の自信に満ちた貴公子然としたものとはもはやかけ離れており、その瞳はまるで地獄の餓鬼のように爛々と怪しい光を灯していた。

 

 どうやら彼は、この場所に鳳がいることが気に入らないようだ。そりゃそうだろう。こんな場所、誰かに案内でもされない限り、絶対に入ることは出来ない。彼は隠しておきたかったのだ。なのにそんな場所に得体の知れないBloodTypeCが紛れ込んでいたのだから、不信感マックスなのは当然だ。

 

 でもそれは、逆に好都合かも知れない。普通誰も入れない場所なら、偶然に入ってしまったことを強調すれば、そっちのほうが気になって、地下で見たあれに気づいていない振りを決め込めるかも知れない。

 

 鳳はそう思って満面に笑みを讃えながら、

 

「やあ、アイザック様。丁度良かった。実は道に迷って困っていたんですよ。一体ここはどこなんです? みんなのところに帰りたいんで、連れてってくれませんか」

「貴様、ここへどうやって入ってきたんだ!」

「さあ、俺もよく分からなくて。なんか生け垣で出来た迷路みたいな場所に出たと思ったら、変な光がふわふわしてて、それを追いかけていたら、ここに着いたんですよ。あの光は何だったんですかね?」

「嘘をつけ! どうやって入ったのかと聞いている!」

「いやいや、本当なんですって」

 

 実際、半分本当のことなのだが、アイザックは聞く耳持たない様子だった。奥歯をギリギリと噛み締めて、鳳のことを睨みつける目が血走っている。彼の後ろに控える神人二人も同じように、鳳に鋭い視線を浴びせて警戒していた。

 

 こりゃ、しらばっくれるのは無理かな……どうやら相手の方がよっぽど余裕が無かったらしい。取り敢えず、地下室の秘密さえ気づいてない振りをすれば、なんとかなるかも知れない。鳳はそう思ったが……

 

「そんなことよりも、おまえは死んだんじゃないのか!? 何故、おまえは生きている!?」

「えーっと、そんなこと言われましても」

 

 実は自分も死んだと思ったけど生きてました……なんて言ったら火に油を注ぐだけだろう。なんと言い返したものかと逡巡していると、その時、アイザックが思わぬことを口走った。

 

「おまえは死んだはずだ! 手は千切れて足はねじ曲がり、全身黒焦げだった。レベル上げの手伝いだと誤魔化し、上手く始末できたと思ったが……何故おまえは死なない!? どうやってあそこから復活したんだ!?」

「……は??」

 

 誤魔化し? 始末? 今、なんて言ったんだ、この男は……

 

 その瞬間、鳳の脳裏に今朝の出来事が次々と過ぎっていった。

 

 ゴブリンの檻が壊れたこと、MPポーションでラリったこと……考えても見れば、あんな狙ったようなタイミングで鉄格子の檻があっさり壊れるのはおかしいだろう。そして鳳がMPポーションでラリって居た時、アイザックは仲間たちに強引に捕まえた魔物を倒すよう勧めていた……

 

 昨日、鳳がレベル1のBloodTypeCと知った時のつれない態度を思い出す。あの時はそこまで露骨じゃなかったが、今やアイザックは憎悪を隠すことなく、鳳を睨みつけていた。

 

「殺した奴が消えて無くなる……そんな異常事態に驚いていれば、まさか結界を破ってこの中に侵入していたなんて……貴様、本当に何者だ? 魔王の手先なのか……? いや、もはやそんなことどうでもいい。おまえは危険すぎる」

「な、何を勝手なことを言ってやがる」

 

 自分は殺されかけたのだ……その事実に、鳳も流石に怒りを感じた。こいつ、殴ってやろうかと、当初の目論見などすっかり忘れてアイザックに飛びかかろうとしたが、

 

「アイザック様、ここは私達が」

 

 そのアイザックをかばうように、神人達が立ちはだかる。彼らは腰に佩いていたサーベルを抜き放った。ギラギラと鈍く反射する光を見て、頭に血が昇っていた鳳は瞬時に冷静になった。

 

 ゴクリ……嚥下した唾液が喉を通ると、寒くもないのに体が勝手にブルブルと震えだした。

 

「ちょ、ちょっと待てちょっと待て!! 一体なんのつもりだ!? 俺が何をしたっていうんだ?」

「黙れ! もはや貴様の言葉など聞く耳持たない。初めからおかしかったのだ。おまえは他の勇者たちと違う、一人だけ闇の眷属で、しかも魔族だ」

「うっは! やっぱ魔族だったの俺!?」

 

 自分でもそうじゃないかなと思ってはいたが、思うのと実際言われるのとでは全然違う。鳳は結構なショックを受けたが、この状況が落胆する暇も与えてくれそうになかった。

 

 抜身のサーベルを構えた神人2人が、じりじりと距離を詰めてくる。怯えた目つきでその剣先を見つめながら、鳳もジリジリと後退する。

 

「勇者召喚は禁断の秘技……何が起こるか分からなかったとは言え、まさか魔族を召喚してしまうとはな。お前を生かしておいたら禍根を残す。どうせみんな死んだと思っているのだ、悪いがお前にはここで死んでもらうぞ」

「悪いと思ってるならやめてくれっっ!!」

 

 鳳がどんなに必死になって叫んでも、神人達が剣を引く気配はない。突然のピンチにうろたえた彼を流石に可愛そうと思ったのか、それまで小さくなって状況を見守っていたメアリーが、神人達の前に飛び出した。

 

「アイザック! やめなさい。何があったか知らないけど、虐めちゃ可愛そうよ」

「分からないなら退いて下さい、メアリー! そいつは危険なんです!」

「ううん。ツクモは危険じゃないよ。さっきまでお話してたけど、特に何も無かったし、全然優しかったわよ」

「そんなのは今だけのことに過ぎません。なんせそいつは闇の眷属、魔族なんですよ。もしかしたら、君を殺しに来た魔王の手先かも知れない」

「そ、そうなの?」

 

 メアリーが不安そうに振り返る。鳳はブルブルと首を振って、

 

「そんなわけあるかっ! さっきのこいつとの会話を聞いてただろ? 俺はこいつに勇者召喚で呼び出されたんだぞ。それまではただの人間だった」

 

 アイザックはそんな鳳の声を遮るように、

 

「話を聞いていたならわかるでしょう。そいつはBloodTypeCなんですよ。他ならぬ、彼自身がそう言い切ったんだ。間違いない!」

「そ、そうなんだ……」

 

 その言葉を聞いたメアリーは、申し訳無さそうな表情で、おずおずと神人達に道を譲った。

 

 ちょっと待て、BloodTypeCってそんなにまずいものなのか? そうと知っていたら、絶対誰にも言わなかったのに……しかし今更後悔しても後の祭りである。

 

「お前たち、レベル1の魔族とは言え、相手は勇者だ。何が起きるかわからん、慎重にやるんだぞ」

 

 主人の言葉に呼応するかのように、神人達がサーベルを構え直し気合を入れる。鳳はすかさず叫んだ。

 

「ば、馬鹿め! 俺はもうレベル1じゃない! お前らには負けないぞ!!」

「な、なにっ、それは本当か!?」

 

 神人達はその言葉に動揺し、後退る。ステータスは全く上がってないしレベル2なのだが……嘘はついてないぞと、鳳は胸を張った。すると、神人たちは緊張気味に、

 

「ならば手加減はせぬ。ここは万全を期して本気でいかせてもらうぞ」

「うわー! やぶ蛇! うそうそ、俺ホントに弱いから!」

 

 鳳がそう叫んでも、もはや神人達に手を抜くつもりは無かったようだ。彼らは鳳を取り囲むように間合いを詰めると、片方がサーベルで牽制し、もう片方が杖を握って何やら呪文を唱え始める。

 

「スタン・クラウド!」

 

 その呪文には聞き覚えがあった。というか、そのまんまである。前の世界のゲームの中の初歩魔法で、この魔法で生成された雲に触れたら体がしびれて動けなくなるのだ。

 

 やばい……

 

 鳳は慌ててその場から飛び退いた。しかし、そのときにはもう周囲は魔法の雲に取り囲まれており、どこにも逃げ場はなかった。突然、全身から力が抜け、膝がガクンと折れ曲がる。

 

 彼は神人達に背を向けて、倒れまいとたたらを踏みながらドスドスと広場を駆けたが、間もなく最後の抵抗も虚しく、地面に倒れ伏した。鳳は殺虫スプレーを吹き付けられたゴキブリみたにビクビクとのたうち回っている。

 

 その光景があまりに無様過ぎたからか、攻撃してるはずの本人達も気まずそうな表情で、

 

「悪く思うなよ……」

 

 と言いながら、抜身のサーベルを手にして近づいてきた。

 

 やばい、やばい、やばい!!

 

 鳳は芋虫みたいに蠕動(ぜんどう)運動するように、必死になって地面を転げ回った。この状況を打破する方法はないのか? 言葉はもう通じないのか? こっちに召喚された自分が、デジャネイロ飛鳥のステータスを継承していれば、絶対にこんなことにはならなかったのに。彼の魔法耐性は100%を超えていて、絶対に状態異常にはかからなかった。せめて回復魔法でも使えないか? クリアヒールなんて、あっちの世界じゃ初心者魔法だったと言うのに……

 

「ステータス!」

 

 鳳は何か新しい魔法でも覚えてないかと、慌てて自分のステータスを開いてみた。震える手で画面を操作し、スキルメニューを覗いてみるが、そこは綺麗サッパリ空欄が並んでいるだけだった。

 

 なんで自分ばっかり、こんな目に遭わなきゃならないんだ!

 

 仲間はみんな、レベル99のチートスキル持ちなのに、どうして自分ばっかり!! 涙目になりながら、上手く動かない指先で白はメニュー画面を再度開く。何かないか? 何かないか?

 

 と、その時……彼の視線の先で、†ジャンヌ☆ダルク†の文字が光った。ひと目見ておっさん丸出しの痛い名前であったが、それが今は救世主に見える。

 

----------------------------

鳳白

STR 10       DEX 10

AGI 10       VIT 10

INT 10       CHA 10

 

LEVEL 2     EXP/NEXT 0/200

HP/MP 100/0  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ?

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 100

鳳白          ↑LVUP

†ジャンヌ☆ダルク†  ↑LVUP

----------------------------

 

 鳳は咄嗟にジャンヌの横の↑LVUPの文字列を震える指先で16連射しながら、

 

「ジャンヌ! ジャンヌ! 聞こえるかジャンヌ! 助けてくれええ!!!」

 

 っと叫んだ。

 

 そもそもここがどこなのか、呼び出したはいいものの、果たして彼が来れるのか分からないが、そんなの考えている余裕があるはずもなく、彼はただ一心不乱にジャンヌの名前を叫んだ。

 

 彼が何をしているのか分からない神人達が、哀れなものでも見るような目つきで見下している。しかし……

 

『……白ちゃん? キャッ! 何よこの光?? 白ちゃん?』

 

 鳳の耳には、そんな救世主の声がちゃんと届いていたのだ。

 

「ジャンヌ!! 良かった、俺の声が聞こえるんだな!?」

『え、ええ……聞こえるけど。わあ、なにこれ。白ちゃん何をしたの? さっきから白ちゃんに呼びかけていたのに全然通じないと思ったら、突然光が現れて……』

「いいからとにかくこっちに来てくれ! 殺されるっ!!」

『ええ!? 一体、どうしたってのよ……?』

「アイザックに襲われてるんだ! 奴ら本気だ、助けてくれっっ!!」

 

 ジャンヌの息を呑む声が聞こえてきた。鳳の言葉は要領を得なかったが、その切羽詰まった声から状況を察してくれたらしい。

 

 しかし、ジャンヌが返事をする前に神人達の方が先に動いた。

 

「恐怖で気が触れでもしたのか……さっきから一人でギャアギャアと」

「早く楽にしてやれ。せめてもの情けだ」

 

 神人がサーベルを振り上げる。地面に這いつくばっている鳳は体がしびれて動けない。ヤバい……殺られる! 彼が自分の運命に絶望したその時……

 

 ガキンッッ!!

 

 っと、神人が振り下ろしたサーベルが、突然、どこからともなく現れた剣によって阻止された。

 

「な……なに!?」

 

 突然の横槍に体勢を崩しながら驚愕する神人の視線の先には、人工物のような四角い形をした光が宙に浮いていた。その形は何というか、扉を縁取ったような、そんな感じである。

 

 鳳はそれをつい最近見たことがあった。あの真っ暗な城の地下室から出てくる時、牢屋の奥にあった光の扉……そこからニュッと、ごっつい腕が出てきて……続いてSTRが23くらいありそうなゴリマッチョのおっさんが、鋭い睨みを利かせながら、ずずずいと這い出てきた。

 

 その瞬間、神人達は真っ青な顔をしてその場から飛び退き、鳳は感涙に咽び泣いた。

 

「ジャンヌーッッ!!!」

「……白ちゃん。よかった、無事ね? アイザック様、一体どういうつもり?」

 

 光の扉から出てきたジャンヌは、地面に這いつくばっている鳳を目だけでちらりと確認すると、彼のことを襲っていた神人達を真っ向に見据えながら、脇の方で泡を食っているアイザックに問いかけた。

 

 しかしアイザックはその言葉に答えることなく、ただただ唖然とした驚愕の表情を湛えたまま、

 

「ば、馬鹿な……ポータルだと? いや、これがサモン・サーヴァントなのか……? こんな伝説級の古代呪文……ありえんっ!!」

 

 どうやらアイザックは、光の扉を鳳が呼び出したと思っているらしい。もちろん、鳳にはそんなことをした覚えは無かったが……勝手に勘違いしたアイザックは、ワナワナと震える指先で彼のことを指差すと、

 

「刺し違えてでもその男を始末するんだ! 怯むな!」

 

 主人のその言葉に真っ青になっていた神人達がハッと我を取り戻す。彼らはサーベルを抜いて未だ動けない鳳に飛びかかってきた。

 

「そうはさせないわっ!」

 

 しかし、その行方を阻むようにジャンヌが飛び出し、

 

「紫電一閃! 春塵荒波風破斬(しゅんじんこうはふうはざん)!!」

 

 腰だめに構えていた剣を横薙ぎにすると、その剣圧で神人達が吹っ飛ぶ。彼はそのまま返す刀を地面に叩きつけるように振り下ろし、

 

「全てを打ち砕く神の雷! 快刀乱麻(かいとうらんま)っ!」

 

 ズシンッ! ……っと、まるで地震のごとく地面がグラグラと揺れ、彼の振り下ろした剣先の地面がぱっくりと地割れを起こした。

 

「ば、化け物め……」

「だが我らは二人だ。2対1で、人間が勝てると思うなよっ!」

「誰が化け物ですって、人聞きの悪い……いいわよ、かかってらっしゃい」

 

 屈辱的にも尻もちをつかされた神人たちは、土をつけたジャンヌのことをいよいよ敵と認定したようだった。

 

 ギラギラとした眼光を光らせ、神人達がジャンヌに躍りかかる。神人という生まれながらにして恵まれた身体能力、そして長年の相棒でもある二人から繰り出される技は、実際に鳳の目では追えないくらいの速さだった。

 

 だが、そんな神人の猛攻を前にしてもジャンヌの優位は覆らなかった。彼の剣技は神人達のそれよりも速くて重い。まるで子供の相手でもしているかのように、悠々と剣を捌くジャンヌが、徐々に二人を押し返していく。

 

「くそがあああああ!!!」

 

 激昂する神人達の叫びと、キンッ! キンッ! ……っと、金属がぶつかる音が広場に鳴り響く。

 

 ジャンヌ達が戦っている間、徐々にしびれが取れてきた鳳は、匍匐前進して必死に距離を取ると、震える膝に手をつきながらどうにか上体を起こした。

 

 額の汗が目に染みる。それを拭おうとした、その時……

 

「あっ! あぶねっ!!」

 

 ブオンッッ……! っと、鳳のすぐ横っ面をサーベルの剣先が薙いでいった。彼は咄嗟に倒れるように飛び退くと、地面に肩を強かにぶつけて着地した。

 

 肩に激痛が走り、ズキズキとした痛みに顔を歪める。と、またも鳳が体を起こそうとする瞬間、その起き上がり際を狙って剣が飛んできた。

 

「死ねっ!」

 

 鳳はまたも必死に体を捻ってその剣を躱すと、今度は前転受け身の要領で着地した。そんな彼の起き上がりこぼしを再度アイザックが狙ってくる。

 

「死ねっ死ねっ死ねっ!!」

「うわっっとっとっ!」

 

 次から次へと振り下ろされる剣を、右へ左へと必死に避ける。アイザックは決して剣が得意と言えなかったが、それでもそこそこの腕前はある。なのに鳳の動きの方が凌駕していたのは、きっと死の恐怖が彼を突き動かしていたからであろう。

 

 ひらりひらりと避ける姿は、まるで五条大橋の義経を思わせる……だが、そんな付け焼き刃はいつまでも続かなかった。彼は間もなく、まだ残っていたしびれのせいで足がもつれ、剣を避けた勢いのまま、思いっきり地面に顔から倒れ込んでしまった。

 

 脳を揺さぶられ目眩がする。打ちどころが悪かったのか、脳震盪でも起こしたのか、必死になって命令しても、鳳の体は動かない。

 

 背筋を滝のように冷たい汗が流れていく。おかげで頭はこれまでにないくらい冴えているというのに、体の方は言うことを聞いてくれない。万事休す。そんな鳳に向けて、アイザックの剣が、今まさに振り下ろされようとしていた。

 

 しかし、その時……

 

「だめえええーーーっっ!!」

 

 振り下ろされようとしていたアイザックの剣の前に、小さな金髪ツインテールが立ちはだかった。ブオンッ……っと風切り音がして、風圧がメアリーの肩越しから鳳に届いた。

 

 アイザックはフクロウみたいにまん丸の目をしながら、メアリーを凝視し硬直していた。彼の剣はあと数ミリで彼女に到達する、すんでのところで止まっていた。

 

 ハラリと、彼女の前髪が数本抜け落ちる。

 

 ぷはぁ~! っと、アイザックは止めていた息を盛大に吐いた。

 

「な、な、な、何をしてるんですか、メアリー! そこを退いてくださいっっ!」

「どかない。もうやめなさい、アイザック」

「何故、そいつを庇う!! そいつは魔族ですよ? 放っておけば、いずれそいつが魔王を連れて戻ってくるかも知れない。ここで殺すしかないんです」

 

 メアリーの向こう側にいるアイザックはどこか切羽詰まったような感じだった。鳳は元々、彼女は魔王から隠れるためにこの空間に入り、そして閉じ込められてしまったことを思い出した。

 

 そう考えると、アイザックが彼女の居場所を魔族に知られることを恐れる理由も分かるが……

 

「でも、アイザック。気づいてるでしょ? ツクモからは魔力を感じないわ。あのポータルだって、ツクモが出したんじゃないわよ、きっと」

「それは……きっと今だけのことです。いずれこの男は魔力を得て、我々の前に立ちはだかるに違いない。その時、殺されるのはあなたですよ!?」

「そうかなあ……とてもそうは思えないわ。ツクモはなんか間抜けだし、能力も低いし、基本的に善人っぽいし」

 

 酷い言われようである。

 

「それに魔族だとしても、全ての魔族が悪ではないことくらい、あなただって分かっているでしょう」

 

 全ての魔族は悪ではない……? てっきり魔族と、人間と神人のグループが古代からずっと争い続けてるのかと思っていたが、案外そうでもないらしい。その辺詳しく聞きたいところだが……

 

「だが、善であるとも限らない。可能性があるなら、断っておかなければならない。さあ、わがままは言わず、そこをどいてください」

「だめよ、可哀想よ」

「いい加減にあきらめてください! そいつは殺しておくべきなんだ」

「いいえ、諦めるのはあなたの方よ、アイザック」

 

 アイザックがしびれを切らしてメアリーのことを押しのけようとした時だった。彼の背後から、押し殺したような、殺伐とした声が聞こえてきた。

 

 彼がドキリとして振り返る……そこには、

 

「……は、はは、ははは……神人二人を相手に無傷か。この化け物め」

 

 振り返ると、そこには足元に倒れた神人に剣を突き立て、こちらを藪睨みしているジャンヌが立っていた。神人たちはボロボロで、手足はおかしな方向にねじ曲がり、白目をむいて気絶している。アイザックはゴクリとつばを飲み込むと、

 

「……殺したのか?」

「死んではないわよ。こうしなければ止まらなかったの。神人の超回復ってのは、やっかいね……」

 

 そう言うジャンヌの声は震えていた。基本的に平和主義者の彼は、相手をここまで痛めつけなければならなかったことに傷ついているらしい。その気になれば殺すことは出来た、いや、いっそ殺したほうが彼らも楽だったかも知れない。なのに自分は殺すことが出来なかった。その事実がジャンヌを苛んでいるようだった。

 

 だからだろうか、

 

「さあ、アイザック。剣を引きなさい」

 

 そう淡々と言い放つジャンヌの言葉には、言いようの知れぬ迫力があった。

 

 アイザックはそんな彼をじっと見つめたまま暫く動かなかったが……

 

 やがて、大きくため息を吐くと、剣を下ろした。もうジャンヌが引くことはないだろう。それを理解した彼は、悔しそうに舌打ちをし、それからフラフラとした足取りでウッドテーブルのところまで歩いていくと、切り株の椅子にどっかと座って、両腕で頭を抱えるようにしてテーブルに突っ伏した。

 

 ため息が広場に響く……鳳はそんなアイザックが哀れに思えてきて、

 

「なあ、俺が魔族だとして、何がそんなにまずいんだ。俺はきっと魔王の手先なんかにはならないぞ。そもそも、そんな自覚は無いし、あっちの世界じゃ普通の人間だったんだよ。大体、おまえが言ったんだぞ、この世界に魔王は居ないと……まさか、それは嘘だったのか?」

 

 アイザックは声を出さず、ただ首を振ってそれに答えた。つまり、魔王なんていないってことだろう。

 

「なら、そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。俺は何もしないよ、つーか、出来ない。能力が無いことは、おまえだって知っていただろうに。無い物ねだりはしないし、普通の生活さえ出来りゃそれで良いんだが……」

 

 するとアイザックは不機嫌そうな顔を隠さず、横目でじろりと睨みつけるような格好で言った。

 

「だが、おまえが危険ではないと誰が証明できる? おまえが悪に染まらないと。魔王とは何も関係がないと……」

「そんなこと言われても……」

 

 鳳は口ごもった。自分は危険ではないし悪でもないし、魔王なんて知りもしない。だからそんなものに染まるなんてことは、絶対にないと言い切れる。だが、それを証明しろと言われると案外困るのだ。

 

 自分の正当性を口でアピールすることは出来る。だが、自分は善人ですと言ってる人間の言葉を、そのまま受け取る人間がどこにいる? ただの胡散臭いやつじゃないか。

 

 逆の立場になって考えてみよう。例えばここが地球の日本で、自分は内閣総理大臣だとしよう。ある日総理が勇者召喚してみたら、5人の人間が出てきたが、そのうち1人がチンパンジーだったとしよう。

 

 その時、そのチンパンジーを大事にするだろうか? 他の4人と同列に扱うだろうか? 排除しようとするんじゃないか。得体が知れないからと、殺そうとしても不思議じゃないだろう。

 

 BloodTypeC……種族が違うというのは、要するにそういうことなのだ。

 

 鳳は、アイザックと自分は絶対に相容れないことを理解した。同時に、もはやアイザックのことは絶対に信用できないと悟った。

 

「そうかい……じゃあ、もう俺はここには居られない。出ていくよ」

 

 アイザックは何も答えなかった。

 

「私も彼に同行するわ。何がハーレムよ……何が勇者よ。こんなところで種馬人生だなんて、まっぴらごめんよ!」

 

 ジャンヌも鳳に同調する。アイザックは彼の言葉に一瞬だけショックを受けたような顔をしたが、すぐにまた不機嫌な表情に戻ると、

 

「勝手にしろ! だが、ここのことを話したら、二人ともタダじゃすまないと思え!」

 

 鳳は彼に背を向けながら、

 

「ここのことって、メアリーのことか? それとも……地下室の死体のことか?」

「……この城で見たこと、聞いたこと全てだ!!」

 

 鳳はその返事を待ってから歩き出した。すぐその後をジャンヌが続く。

 

 メアリーの横を通り過ぎた時、彼女は控えめに小さく手を振ってくれた。彼女はこれからどうなるのだろうか。もう300年も閉じ込められたのだ、これからまた何百年も、ここでこうして暮らしているのだろうか……

 

 広間から出ると、いつの間にかあの大きな木は見えなくなっていて、鳳たちは城の裏庭の迷路の中に居た。入る時は散々迷ったのに、出る時はやけにあっさりだった。

 

 二人はそのまま城には戻らず、逃げるように城外へ急いだ。城にはカズヤ達、仲間がまだ残っているのは分かっていたが、声をかけることはもはや出来ないだろう。

 

 こうして二人は後ろ髪を惹かれる思いを残したまま、未知なる世界へと出ていったのである。

 



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キラキラ

 ヘルメス卿の居城を臨む丘の上に、一人の老人が佇んでいた。

 

 頭頂が禿げ上がり、側頭部には真っ白なカリフラワーみたいな白髪がゴワゴワと生え揃っている。胸の辺りまで伸ばした長い白ひげが風が吹く度に靡いている。白いローブを着込み、サンダル履き、杖をついているのは、足腰が弱いからではなく、彼が魔法使いだからだった。

 

 その丘は周囲の平原の中では一際高く、その稜線が国境のような役割を果たしていた。峠の上には大きな樫の一本木が生えており、老人はその太い幹にもたれ掛かるようにして、眼下に広がる城下町を見下ろしていた。

 

 城の南側にある広場を起点として放射状に伸びた美しい街並みは、どこまでも広がる平原の中でオアシスのような彩りを添えていた。その中で暮らしている人々は、神人、人間を問わずみな笑顔が絶えず、幸福そうな笑い声が、この遠く離れた丘の上まで聞こえてきそうなほどだった。

 

 その美しい城下町から伸びる街道は、丘を避けるように弧を描き、反対側まで続いている。その道を目で追って、ぐるりと稜線の反対側を見やれば、城と丘とを結ぶ延長線上にまた別の街が見えた。

 

 日中でありながら夜と見間違うくらい、上空には煙突から漏れ出た黒煙が広がり、バラック小屋のトタン屋根は、どれもこれも酸性雨で赤茶色をしていた。道を覆う石畳はところどころ剥がれてしまっており、下から覗く地面の茶色と雑草の緑がまるでモザイクのような模様を描いていた。

 

 行き交う人々の顔はみな真っ黒く煤けており、ボロボロの服を羽織り、中には素足で歩いている者もいた。人の往来は激しく、街道を進む人々は馬車を使っていたが、道路事情が最悪のせいか、街内に乗り入れることは嫌って、みんな自分の背丈ほどもありそうな大きな荷物を背負っていた。

 

 とその時、積み荷を下ろしていた人足の一人が、盛大に荷物を地面に落としてしまった。ズシンという大きな音と共に砂埃が舞う。御者が駆けつけてきて、その男をムチで叩くと、彼は悲鳴を上げてからペコペコと謝った。そしてまた虚ろな瞳で巨大な荷物を背負うと、仲間たちの列に混じって街内へと歩いていった。

 

 その顔は毛でビッシリと覆われ、前方に突き出した口からは牙が覗いている。頭の上では大きな獣の耳がぴょこぴょこと動いており、上半身裸の胸板は毛むくじゃらだった。獣人を従えた御者がムチを地面に叩きつけながら何かを怒鳴ると、彼らは怯えるような表情でその後に続いた。

 

 老人はその光景を見ながら、やれやれと肩をすくめると、また綺麗な城下町の方へと眼差しを向けた。あの美しい街で暮らす人々は、この黒煙の上がる蒸気の街のことを何も知らない。あの街に獣人が入ることは禁じられているからだ。

 

 嘆かわしいことである。

 

 老人はため息を吐くと、くるりと方向転換し、みすぼらしくて猥雑な街の方へと足を向けた。一陣の風が舞い、穀倉地帯の麦穂を揺らす。風の匂いは鉄の香りがした。

 

********************************

 

 石炭が燃える黒煙と蒸気で、まだ昼だというのに街は薄暗かった。道行く人々はみんな目を細め、伏し目がちに歩いていた。街のあちこちで肩がぶつかったの何なのと喧嘩が起きる。たまに女が通りかかると卑猥な罵声が飛び交ったが、まるで耳がついていないかのように彼女は素通りした。

 

 誰も彼もがこの街では、他人のことなど気にしない。もしする時があれば、それは相手の悪口を言うときくらいのものだろう。そこは辺境の村のくせに、大都会みたいに孤独な街だった。

 

 そんな街の片隅にひっそりとその安宿はあった。素泊まり銭貨10枚……数百円程度の、閑古鳥がアクビするような場末の宿屋だ。たまに街に商隊が訪れるかなんかして、行き場を失ったはぐれものが転がり込む、穴蔵みたいな宿である。

 

 もちろん、食事など出すはずもなく、チェックイン以外で宿主が近づくこともない、風が吹くたびグラグラと揺れる、ブルーシートハウスの方がまだマシであろう、そんな姉歯建築も真っ青な建物の戸口から、筋骨隆々な偉丈夫がひょっこりと現れた。

 

 そのガチガチに固めた鉄板みたいに暑い胸板、女子供の腰回りくらいあるんじゃないかと思わせる二の腕、一度駆け出せば目にも留まらぬ速さで敵を屠るその足腰、STR23と聞いては誰もが逃げ出す、†ジャンヌ☆ダルク†である。

 

 彼は安宿から一歩外に出ると、うんと背伸びをして汚い空気を胸いっぱい吸い込んでは、ゲホゲホと咳き込んだ。ついうっかり深呼吸なんかしてしまうとこうなることを思い出し、げんなりと項垂れる。

 

 と、戸口からもう一人、鳳白が出てきて黙って彼の背中を擦った。ジャンヌはそんな鳳に向かって苦笑いすると、懐から給料袋を取り出し、

 

「ありがとう、白ちゃん。はい、これ今日のお小遣いよ」

「いつもすまないねえ……ジャンヌ。俺が役立たずなばっかりに……」

「気にしないで。こんなの今だけの話じゃない。私、きっとあなたなら、いつか前世みたいに、世界に名を轟かす大魔法使いになれるって信じてるわ」

「お世辞でもそんな風に言ってくれるのはジャンヌだけだよ。俺、嬉しいよ」

「ううん! お世辞なんかじゃない。女の勘は当たるのよ。男だけど」

 

 キラキラとした瞳で鳳を見つめるジャンヌ。彼はそんなジャンヌの瞳を真剣な目で受け止めると、

 

「期待に応えられるように努力するよ。俺……ジャンヌが女だったら、きっと好きになってたと思う」

「いやん! 白ちゃんったら、そんな風に言ってくれるなんて、お世辞でも嬉しいわっ!!」

 

 ジャンヌは顔を真っ赤にして腰をくねくねしている。彼はひとしきり照れた後、むんっ! っと気合を入れて、

 

「さあ、今日もジャンジャンバリバリ働いて、白ちゃんのためにお給料いっぱい稼いでくるわ。期待しててね」

「無理はしないでよ。俺は君が元気で帰ってきてくれたらそれでいいんだ。今日もジャンヌが好きなビーフ・ストロガノフ作って待ってるからさ」

「嬉しい! その言葉だけで元気が出るわ。今日は何でも成功しそうな気分よ。それじゃ行ってくるから、白ちゃんも訓練頑張ってね」

「ああ、今日こそステータスアップしてみせるさ。そっちも頑張って」

「あなたなら出来るわ~!」

 

 ジャンヌは満面に笑みを浮かべて、腕をブンブンと振りながら往来を駆けていった。何度も何度も振り返る笑顔が眩しい。方や、鳳は手を振り返しながら、そんなジャンヌ後ろ姿をじーっと見守り続け……

 

 角を曲がったジャンヌの姿が消えるや否や、

 

「ペーッ! ペッペッペッ!! 糞がっ、何が俺、君が女だったらきっと好きになってたと思う……だっ!! 気持ち悪いんじゃあああああ!!」

 

 自分で言ったセリフでダメージを受けた鳳は、自分の首を締めながら地面をのたうち回った。そんな毎朝の光景を、宿屋の前で寝起きしていた浮浪者が能面みたいな無表情でじっと見ている。

 

 鳳は背筋に走る悪寒を擦り付けるように、気の済むまでゴロゴロと地面を転がってから、はあはあ言いながら壁に手をつき立ち上がった。彼は手にした給料袋を逆さまにし、出てきた2枚の銀貨を手のひらで転がしながら、

 

「ちっ……たった2枚か。これじゃあ酒代にもならないぜ」

 

 と、うそぶきながら宿屋の戸口を閉めると、さっきまで無表情だった浮浪者が何かを期待するような目つきで見上げているのをガン無視して、ジャンヌとは反対方向へ歩き始めた。

 

 その萎びた背中は、まるで新橋のガード下辺りでゲロを吐いてるサラリーマンみたいにやさぐれていた。口をついて出てくる言葉は、ほとんどが相棒に対する悪口ばかりで、一言の感謝もなかったが、

 

「あいつばっか、毎日充実してて羨ましい」

 

 本音は、ジャンヌに頼らないと生きていけない無能な自分を直視しないための、代償行為であることに彼は気づいていなかった……

 

 ……アイザックの城から逃げ出してから二か月が経過していた。

 

 その間、いろんなことがあったのだが、とにもかくにも二人は城からほど近い、この黒煙に巻かれた街の安宿に棲息していた。

 

 ジャンヌは冒険者として身を立てて……鳳はそんなジャンヌに養われながら、ステータスアップをするために職安……もとい、訓練所に通っていた。

 

 彼には相変わらず職業が無く、そのせいでジャンヌみたいに冒険者になれなかったから、まずはオール10のステータスをどうにかしようと、街の訓練所に通ってステータス向上を目指していたのである。

 

 城でも話題になったとおり、この世界では職業がない者は居ないらしい。考えてもみればオークやトロルのような魔族に職業なんて無いだろうから、彼が無職だったのも仕方ないことかも知れないが、このままでは人間社会で暮らしていくのに不都合が出る。

 

 そのため、早めになんらかの職業につこうと努力していたのであるが、この2ヶ月間訓練所に通い続けても、彼のステータスは一向に上がる気配はなかった。

 

 彼はため息を吐きながら大通りを進んで街の中心にやってきた。この街はほとんどの店が街の中心に集中しており、その近辺は人でごった返していた。

 

 外からやってきた出稼ぎの労働者たちや、その男たちに品を作る客引きの売春婦、行商人が道端に商売道具を所狭しと並べ、それを相手に値切り交渉する人や、軽食を売り歩く売り子の声、スリや喧嘩もあちこちで発生していて、とにかく落ち着く暇がない。

 

 通り沿いには酒場や食堂、商店がずらりと並び、武器屋の軒先には鈍い光を反射する剣や鎧が展示されている。そんな商店街の一角には、一際大きな建物があり、それが街で唯一の訓練所だった。中からはダミー人形を叩く木剣の音や、授業中の教官が黒板にチョークを叩きつける音などが聞こえてくる。

 

 鳳はその訓練所の玄関を通り過ぎ(・・・・)、隣にある酒場の角を曲がってから、目つきが悪い男たちが無遠慮な視線をジロジロと向けてくる路地へと足を踏み入れた。殺伐とした視線を隠そうともしない男たちの目をうっかりと見てしまわないように、真っ直ぐ前を見たまま路地を通り抜け、そして裏通りに入ってすぐ正面にあった魔法具屋に、彼は吸い込まれるように入っていった。

 

「いらっしゃい……って、デジャネイロ飛鳥の旦那じゃありませんか! 今日はお早いお越しで」

「よう、店主。今日はこれで、いいとこを見繕ってくれないか」

 

 揉み手をしながらフレンドリーに近づいてきた店主に向けて、鳳は銀貨を一枚弾いてよこした。店主はそれをお手玉するようにキャッチすると、

 

「いつもありがとうごぜーやす、旦那! 旦那のために、今日も上物を用意しておりやすぜ」

 

 彼はゲヒゲヒと下卑た笑みを浮かべながら店の奥に引っ込むと、すぐに大事そうにビンを1つ抱えて帰ってきた。ビンの中には乳白色の錠剤のような結晶が詰め込まれており、白はその1つを取り出すと、おもむろに持っていた千代紙の上で、手にしたハンマーでガンガンと叩き割った。

 

 そして彼は粉状になった結晶でラインを作ると、懐の中に忍ばせていたストロー(麦わら)を取り出して徐に鼻の穴に突っ込み……

 

 スーッ……

 

 っと、鼻から結晶の粉を吸い込んだ。

 

「お? お? お?」

 

 それが鼻の粘膜を通して体内に吸収されると、視界がぼーっと狭まってきて、異様に神経が研ぎ澄まされてきた。見るものの輪郭が全てマジックインキで描かれたように太く見え、脳に直接刻まれているような錯覚を覚える。突然、虹のような光がチカチカと乱反射しはじめ、母の腕に抱かれているような幸福感が体中を支配した。

 

「あ、あ、あ! キラキラ、キラキラするよ! すっごくする! あ~……きもちぃんじゃぁ~……」

「へへへ、どうです旦那? なかなかのもんでしょ?」

「すっごい、すっごいよ、このクスリ! 今までのと全然違うっ!!」

「旦那の教えてくれた製法で、薬効成分だけを抽出した結晶ですぜ。いつもとキマり方が違うでげしょ」

 

 そう言う店主の表情も恍惚にとろけ、口の端っこからよだれが垂れている。

 

 実は今、二人は魔力が無い者はラリってしまうという事実を逆手に取って、MPポーションをキメているのだった。

 

 アイザックの城でMPポーションを飲まされた時、鳳はそのせいでラリってしまい、危うく死にかけた。だが、後になって思い返してみれば、あの時の気分は寧ろ爽快で悪くないものだった。なんというか、キマっていたのだ。だから、もし可能なら、彼はもう一度やってみたいと密かに考えていた。

 

 そして城から追い出されてこの街に来た彼は、MPポーションが普通に売られているのを見つけると、早速とばかりにそれを手に入れ試してみたのだが……いかんせん、その青汁みたいな味は罰ゲームといって過言じゃないほど酷い代物だったのだ。

 

 こんなんじゃ、気持ちよくキマれない!

 

 そう思った彼は行きつけの魔法具屋の店主に直談判すると、その材料から薬効だけを抽出する方法を編み出したのだ。

 

「旦那の編み出した、この高純度結晶……今この界隈じゃちょっとしたブームですぜ」

「そうだろそうだろ。MPポーションって飲みにくいと思ってたんだよね」

「効き目は確かですし、これが流通に乗れば、我々が天下を取るのも時間の問題でげす、ふひひひひ」

「うむうむ。そのためにももう少し純度を上げて、他社の追随を許さないように足場を固めなければ」

「純度が上がれば、もっと気持ちよくなれますし、やりがいありますしね」

「馬鹿、俺は純粋に使用者のためを思ってそう言ってるんだ……でも、その前に、もう一本いっとく?」

「へへへ、旦那も好きでげすね~」

「あー! きもちぃんじゃぁ~ キラキラ~キラキラ~」

「キラキラ~! キラキラ~!」

「キラキラ~! キラキラ~!」

「キラキラ~じゃなああああああーいっっ!!!」

 

 ゴチンッ……っと、音がして、頭の中で本当にキラキラと火花が飛んだ。鳳は突然、脳天を思いっきり殴られ、脳みそをグラグラと揺さぶられた。

 

「うっぎゃああああー! いったい、いたあーいっ!!」

 

 鳳が痛みと目眩で地面をのたうち回っていると、容赦なく追撃が飛んできた。みぞおちを蹴られてゴロゴロと転がり、涙目になりながら攻撃者を見上げると、そこには小さな少年が立っていた。

 

 金髪の長い髪を無造作に束ねたお下げが背中で揺れている。オーバーオールのツナギの裾を安全靴に突っ込んでいる。身長は160にちょっと足りないくらい。半ズボンが似合いそうな年頃で、見るからに生意気そうな面構えをしていた。

 

 少年は地面に這いつくばっている鳳を、まるで汚物でも見るような目つきで見下すと、

 

「ここんとこ訓練所で見かけないから、どこで油を売ってやがると思っていたら……まさかこんなところでヤクにおぼれてやがったとは」

「ヤクじゃない、MPポーションだ」

「俺はMPポーションをこんな使い方してるやつ初めて見たよっっ!!」

「そうだろそうだろ。俺はこれをアンナカと称して売り出そうと思ってる」

「まったく悪びれた様子がないとこが、逆に清々しいなっ!」

 

 少年がキレのある突っ込みでバシバシと鳳の頭を叩いていると、見かねた店主が間に入ってきた。

 

「これこれ、少年。そうポンポン頭を叩くんじゃありません。旦那の脳には、俺たちには及びもつかない、夢がいっぱい詰まってるんだ。この金のなる木……もとい、全人類の救世主を、もっと丁重に……うひっ!?」

「黙れ三下」

 

 どこから取り出したのか分からないピストルを鼻先に突きつけられると、店主は顔を引きつらせて手を上げた。少年がそんな店主を尚も睨みつけると、彼はおずおずと手を上げたまま後退していく。

 

 少年はフンッと鼻を鳴らし、未だに地面で這いつくばってる鳳を乱暴に引っ張り起こすと、

 

「ほら立てっ、訓練所に行くぞ」

「え~……いやだよぉ~」

「登校拒否児かよ、おめえは。いいから立て。こんなこと知ったら、ジャンヌが泣くぞ」

 

 鳳は少年にズルズルと引きずられながら店から外に連れ出された。店主がそんな彼のことをドナドナ言いながら見送っている。鳳を引きずる少年の力は強く、抵抗しても無駄のようだった。この世界はステータスが物を言うから、見た目では判断出来ないのだ。

 

 この少年……ギヨームと出会ったのは二か月前。鳳とジャンヌが城から逃れて、この街にたどり着いたその日だった。以来、彼は冒険者稼業に忙しいジャンヌと共に、鳳の面倒を見てくれていた。

 

 どうしてこうなったのか……物語は二か月前、二人が城から追い出された日に遡る。

 



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いい年こいたwwおっさんがwww冒険者ギルドとかwwwwww

 どこへ行くなり好きにしろ……

 

 アイザックと決別した鳳とジャンヌは、メアリーの住んでいた謎空間から脱出し、城の裏にある大庭園に戻ってきた。彼らは一度城に戻って仲間たちに事の経緯を伝えようと思ったが、それより早く、二人が裏切ったことが城に知れ渡っていたらしく、中から彼らを探す兵士たちの声が聞こえてきたので、断念せざるを得なかった。

 

 なんとなくアイザックは邪魔をしないだろうと勝手に思っていたが、やはり他の仲間達を連れて行かれるのは嫌だったのかも知れない。もしくは、ジャンヌにけちょんけちょんにやられた神人が、復讐心から勝手に行動したのか……どっちにしろ、何も知らない兵士と戦うわけにもいかず、二人は隠れるように裏庭から森林を通り、城を取り囲む運河を渡って城下町とは反対の方へと逃れたのだった。

 

 パーティーチャットで仲間たちと連絡を取れないかと考えもしたが駄目だった。会話機能があることに気づいてないのか、もしくはもう、彼らも鳳たちを仲間だと思ってないのか……穀倉地帯の麦穂の間に隠れながら城の様子を窺っていると、段々と考えが暗くなってきた。

 

 それも仕方ないだろう。勢いで出てきてしまったが、これからどう生きていけばいいのか、二人は全く何も考えていなかったのだ。

 

 勝手がわからぬ異世界で、元の世界に帰れるあてもなく、本当なら城下町で情報を得たり武器を買ったり、準備くらいはした方がいいだろうに、もはやそれも叶うまい。ロールプレイングゲームで言えば、こんぼうも50ゴールドも与えられずに、いきなり城外に放り出されたようなものだろうか。ゲームならどんだけケチなんだ、この王様はと笑ってられるが、いざ自分が同じ状況にハマったらため息しか出なかった。

 

 とはいえ、

 

「いつまでも、ここでこうしてても仕方ない。とにかく街を見つけようぜ」

 

 鳳がそう提案し、ジャンヌがコクリと頷いた。

 

 城下町の外には穀倉地帯が広がっていたから、もしかすると探せば農夫なり猟師なりが住む集落が近くにあるかも知れない。地平線が見えるほど遠くまで広がる平原には、見たところそれらしき集落は見えなかったが、幸いにも近くの丘の向こう側まで街道が伸びているのは確認出来たから、街道を辿っていけばいずれどこかの街に辿り着くだろう。

 

 鳳たちは街道を遠目に見ながら、まずは丘の上を目指した。直接、街道を進んだほうが良いのだろうが、万が一、城から追っ手が出てきたとしたら、漫然と街道を行くのは危険かも知れないと思ったのだ。尤も、後からしてみれば考えすぎでしかなかったのだが。

 

 遮蔽物のない平原を強い向かい風に逆らいながら歩いていると、鳳の前を進んでいたジャンヌが立ち止まり、遠くの方を指差した。

 

 指先を目で追ってみると、そこには数頭の牛がノシノシ歩いているのが見えた。もしかして、練兵場で鳳が仕留めた牛モンスターではないか? と思っていたら、突然、その牛の群れを取り囲むように、複数の人影が躍り出て戦闘が始まった。

 

 ピカピカと閃光が走り、炎が上がる。牛モンスターと戦っている連中は狩りに慣れているらしく、大きな牛の群れを圧倒している。逃げ惑う牛を容赦なく剣士が襲い、血しぶきが舞い散った。かなりの使い手だ。きっと手練の冒険者なのだろう……冒険者? 自然とそう思ってしまったが、本当にそんなものがいるのかな……とぼんやり考えていると、

 

「ゲームで見慣れた光景だから勘違いしちゃうけど、やっぱり異世界なのね。この世界では普通に、その辺りを魔物が跋扈してるんだわ……もっと気をつけなきゃ」

 

 というジャンヌの言葉にハッと我に返った。

 

 そうだった。ここはもうゲームの世界ではない。夢みたいな話であるが、これが現実なのだ。今、モンスターに襲われても、戦えるのはジャンヌだけ。鳳はせいぜい怪我をしないように逃げ惑うしかない。そう考えると、街道を外れて歩いていることが、ものすごく不安に思えてきた。

 

 二人は慎重かつ足早に先を急いだ。それでも街道を進まなかったのは、丘の上という高所を目指したほうが、結局は街を見つけるのに都合がいいと思ったからだ。

 

 その丘は遠くから見ると小さく見えたが、実際に登ってみると結構な高さがあった。城下町から峠までは約5キロほどの距離があり、意識しなければ気づかないくらいの、なだらかな斜面が1キロ以上続いていた。

 

 その斜面を滑り降りるように風が吹き付け、体を押し返すものだから遅々として進まない。それでも一歩一歩進んでいくと、峠にあった樫の大木の下までたどり着いたら、そこは素晴らしい絶景だった。

 

 眼下に広がる穀倉地帯の麦穂が、風に揺れる度にキラキラと輝き、まるで金の絨毯みたいだった。遥かに臨むアイザックの城の城下町は、放射状に伸びる道路で綺麗に区画整理されており、外の田園風景と併せてヨーロッパの町並みを思わせた。

 

 しかし二人を喜ばせたのはそんな景色ではなく、丘を登りきった先に街を見つけたことだった。

 

「見て、白ちゃん。あそこに街があるわよ」

 

 遠目にもはっきりと見えるくらい濃い黒煙が立ち上り、長い煙突が何本も天に伸びている。街道にはひっきりなしに馬車が行き交い、まだ街までかなりの距離があったが、往来の雑踏が手に取るように分かるくらい、かなりの人口を抱えた街のようだ。

 

 丘を挟んで反対側に見える城下町とそう距離は変わらないように見えたから、両者の間は10キロくらいだろうか。そこへ辿り着くにはまだまだ大分歩かなければならなかったが、目標が見えている分だけ気楽になったらしく、街へ到着したのはそれからあっという間だった。

 

 何が書いてあるのかさっぱり分からない汚いゲートをくぐって、ところどころ石畳が剥げた街路を突き進む。喧騒と人混みはかなりのもので、地球の大都市を思わせるくらいの賑わいだった。

 

 行き交う人波に揉まれていると、なんだか歩き慣れた日本の雑踏を思い出して懐かしくなる。まだ異世界に召喚されて2日しか経っていないはずなのに、それがものすごく昔のことのように思えた。

 

 街の中がゴミゴミしているせいか、馬車は街の中まで入っては来ず、町の入口を表すゲートの外側に停まって、そこで荷物を下ろしているようだった。大きな荷物を背負った人々が列をなして街の広場へと向かい、そこで積み荷を広げて商売している。

 

 露店を開くのに、特にルールとかは無いのかな? と思いながら、商品を眺めつつ歩いていると、そんな露天商の中に大きな獣耳をつけた人影を見つけた。あれは多分、カチューシャとかそんなんじゃない。

 

「なあ、あれはもしかして、獣人か?」

「やだ、可愛い! 私、ケモミミに目がないのよ」

 

 ジャンヌがオカメみたいに目尻を下げていたが、見たところ獣人達の境遇はあまりよくない感じだった。

 

 露天商の何人かは人足として獣人を連れているようだが、その扱いはムチで叩かれたり、頭ごなしに怒鳴られたりと散々なものだった。その逆は見かけないから、多分、この世界では基本的に人間>獣人の図式が成り立っているのではないだろうか。神人が人間を見下していたように、人間もまた獣人を見下しているのだろう。なんというか、救われない話である。

 

「みんな、元気が無くて可哀相……ペットじゃないのは分かってるんだけど……」

 

 獣人のそんな扱いを見ていると、案の定、動物好きらしいジャンヌがしょげ返っていた。鳳はジャンヌほどのショックは受けなかったが、代わりに自分のステータスBloodTypeCを思い出し、そっちのほうが気になった。

 

 もしかして、BloodTypeCとは、彼らのことなのではないか? 思い返せば、アイザック達が鳳に向けていた視線が、露天商が獣人に向ける目つきと被っているような気がする。いずれどこかで確かめねばならないが、その時までBTのことは誰にも話さないほうが良いだろう。彼は心のなかでそう決めた。

 

 そんなこんなで露店を覗いたり、街の様子を眺めているうちに、気がつけば太陽は傾き、西の空が大分赤くなってきていた。心なしか人通りも少なくなり、人混みの間から吹き付ける風が冷たく感じる。

 

 そろそろ今日の寝ぐらを決めねばならないが、しかし困ったことに二人には先立つ物がなかった。

 

「まいったなあ……宿を取ろうにも金がなきゃどうしようもない」

「どさくさに紛れて、お城の兵隊さんから借りた剣を持ってきちゃったけど、これ、売れないかしら?」

「ナイスだ、ジャンヌ。でも、それを売っちゃったら本当に何も出来なくなるから、最終手段だな」

「そうね。なら今日は野宿かしら。一日二日なら、屋根がなくても我慢できるわ。その間にどうするか考えなきゃ……」

「いや、出来れば一日でも野宿は避けたい。どっかにダンボールとか新聞紙でも落ちてるならともかく」

「そんなのあるわけないでしょう」

 

 野宿するにあたって怖いのは、夏の暑さや冬の寒さだけではない。ノミやダニなどの見えない生物が一番やっかいなのだ。特にここは異世界であるし、何が地面を這っているかわかったもんじゃない。マラリアなどの病気を媒介する蚊などもいるかも知れないし、その手の病原体対策をしておかないと、病気に罹ってからでは遅すぎる。

 

「白ちゃん……なんか手慣れてるわね。一体、どういう生活してきたらそんな発想になるのかしら?」

「別に、こんなの常識だろう?」

「そんなことないと思うけど……でも、それじゃあ、どうするの? 野宿が駄目ならどこか屋根があるところに泊まるってことだけど」

「そうだなあ……」

 

 二人が今日の宿を探して、ああでもないこうでもないと話し合ってる時だった。そんな二人のことを遠巻きに見ていた男が近づいてきて、

 

「おまえら仕事を探してるのか? 金稼ぎたいならうちにこないか」

「……あなたは?」

 

 突然話しかけてきた男を警戒しつつ、鳳が何者かと尋ねてみると、彼は手にしていた鉄のヘルメットをカンカン叩きながら、

 

「俺はあの山で炭鉱を開いてる者だ。街に入って煙突を見たならわかるだろう? この街は鉄材の生産地で、かなりの石炭需要があるんだ。で、俺は炭鉱で石炭を掘り出して、この街に運ぶ商売をしているって寸法さ。見たとこそっちのおまえさんは、すげえガタイが良いから、いい坑夫になると思うな。うちは歩合制で能力とやる気さえあれば、いくらでも稼げるから。だからどうだい? うちに来たら」

 

 男は会話をしていた鳳ではなく、主にその後ろにいたジャンヌに向かって話した。無視されるのは少々傷ついたが、まあ、話の内容からそうなるのも無理はない。確かにSTR23のパワーがあれば、炭鉱のような力仕事は天職と言えるだろう。どうせ何かで金を稼がなきゃならないのだし、悪い選択ではないのではなかろうか。

 

 しかし、当のジャンヌは、

 

「冗談じゃないわ炭鉱夫なんて、可愛くない! か弱い私には似合わないわよ」

 

 男はどこがか弱いんだと言いたいのをぐっと堪えながら、

 

「そうかい? ……まあ、無理にとは言わないけどよ。おまえさんなら即戦力になると思うんだがな。もし気が向いたらあっちの事務所を訪ねてくれよ。うちは全寮制で、朝晩の食事付き、給料から天引きしたりもしないし、こんな恵まれた現場、大陸中探してもなかなかないんだぜ」

 

 彼は自慢げに胸を張ってそう言った。確かにそれが本当なら、労働基準法もないようなこの異世界では破格だろう。無一文の今、当面の生活資金を稼ぐためにも、暫く厄介になるのも悪くないかも知れない。

 

 鳳の方は割と乗り気なことに気づいたのか、男は改めて彼の方に向き直ると、

 

「兄ちゃんも興味あるなら来てくれよ。仕事ならいくらでもあるからさ」

「はい。考えときます」

 

 男はもう一度ジャンヌに声をかけてから去っていった。

 

 鳳がそんな男を愛想よく見送っていると、全く乗り気じゃないジャンヌがジト目で話しかけてきた。

 

「白ちゃん、あんたまさか行くつもりなの?」

「まあな。俺はなかなか悪くない選択肢だと思うけど」

 

 彼が頷くと、ジャンヌは信じられないといった感じで、

 

「私はごめんよ? 行くなら一人で行ってちょうだいね」

「そうは言うがジャンヌ、他に行くあてがあるのかよ?」

「それは……」

「全寮制って言ってたし、雨風しのげて飯も食える、無一文の今、乗らない手はないんじゃないか? 何も一生炭鉱夫やろうってんじゃないんだ。取り合えず、最初は彼にお世話になって、金が溜まったら改めて別の仕事につけばいいって話じゃないか」

「……でも、炭鉱よ? 多分、あなたが考えてるよりずっときつい仕事だし、命の危険だってあるんじゃないの。ちゃんとそういうリスクまで考えて決めたの?」

 

 言われてみると確かに……他にやれそうなことがないから飛びついてしまったが、リスクについては全く考慮してなかった。バツが悪くなった彼は、自分の浅はかさを気づかれないように、質問を質問で返した。

 

「そうは言っても、ジャンヌさんよ。俺たちにやれる仕事なんて他にないだろうし、大体、こっちの世界に来たばかりで、まだ何かやりたいってわけでもないだろう?」

「まあ……そうだけど」

「なら、他に選択肢はないじゃないか。それともジャンヌはやりたいことでもあるってのかよ」

 

 もちろん、意地悪するつもりで聞いたわけじゃない。寧ろ、本当に他にやれることがあるなら聞いてみたいという気持ちが強かった。

 

 その言葉に、ジャンヌはウンウン唸りながら考え込んでいたが、突然、巨体に似合わないもじもじした仕草を見せながら、

 

「……やっぱり異世界って言ったら、あれじゃない? 冒険者ギルドで冒険者登録して、ファンタジー世界を股にかける大冒険をするのが定番なんじゃない?」

 

 鳳は嘲笑った。

 

「はっはっは! いい年こいたおっさんが、何バカなこと言ってやがんだ。もう一度、周りを見てから物を言えよ。この街の露天商達は地に足をついた商売をしてるし、炭鉱経営者が地方労働者を雇って鉄鋼業を行ってるような世界なんだぜ。そんなゲームみたいな施設があってたまるかよ」

「なによ~……ゲームみたいな世界なんだから、冒険者ギルドがあったっていいじゃない」

「現実を見ろ現実を……さあ、馬鹿なこと言ってないで、さっきのおっさんに頭下げて今日の飯にありつこうぜ」

「まだ無いと決まったわけじゃないでしょ。取り敢えず誰かに聞いてみましょ。ちょっと、そこいくお兄さん!」

「おーい、恥ずかしいからやめろよ……」

 

 鳳に馬鹿にされたジャンヌは引っ込みがつかなくなったのか、顔を真っ赤にしながら通行人を捕まえて道を尋ねた。巨漢のゴリマッチョに突然からまれ通行人がビビっている。鳳はそんな可哀想な通行人を助けようと間に入ろうとしたが、

 

「へえ、冒険者ギルドならそこでっせ」

「あんのかよっ!!」

 

 助けるつもりが裏拳でビシッと突っ込みを入れる鳳のことを、奇異な表情で見つめながら通行人は去っていった。

 

 口を引きつらせながらそれを見送っていると、勝ち誇った表情のジャンヌが言った。

 

「ほれ見なさい、何事もチャレンジせず、すぐに諦めてしまうのが今の若い子の悪いところよ。文句を言うのは、まずはぶつかってからしなさいよね」

「う、うっせえな。だって、普通あると思わないだろ?」

「でも残念、あったのよ。ほら、いつまでもうじうじしてないで、ちゃっちゃと冒険者ギルドに向かうわよ。私達のチート能力があれば、きっとどうにかなるわよ」

 

 ジャンヌは不貞腐れるようにその場でへたり込んでいる鳳の首根っこを掴んで、ズルズルと引っ張っていった。

 



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悪魔の紙片

 街の中央広場沿いの目立つところに冒険者ギルドはあった。実はさっきから目の前を何度も通り過ぎていたのだが、見た目が完全に酒場であったから気づかなかったようだ。入り口には腕相撲みたいに手と手を握り合う絵の看板が掲げられており、どうやらそれがギルドのトレードマークらしい。見ようによっては揉み手に見えなくもないなと、鳳はまだ遠くにある店を見ながら要らんことを考えていた。

 

 店の外にはオープンテラスの円卓が四脚ほど並べられてあったが、今は無人である。中から酔っ払い特有のねっとりとした笑い声が聞こえてくるから、恐らく酒場を兼任しているのだろう。もしくは酒場から発展したのだろうか。見た目はよくある冒険者の酒場といった趣きである。

 

 西部劇に出てきそうな両開きの扉を押し開けて中に入ると、まだ日が暮れて間もないというのに、もう出来上がってしまっている赤ら顔の男たちが、二人をじろりと睨んできた。絡まれたりしないだろうなと思いながら、おっかなびっくり奥に進むと、別のテーブルでは、タバコを吹かし足をテーブルに乗せ、賭けポーカーを楽しんでいる強面の男たちの姿が見えた。

 

 いや、強面と言っていいのだろうか? その鋭く光る眼光は完全に獣そのものである。たとえ頭部に目立つ大きな獣耳に気づかなくても、突き出た口から剥き出している牙を見れば、一見して人間じゃないことが分かるだろう。あれはもしや狼男(ウェアウルフ)というやつだろうか? 気づかれないように横目でチラチラ見ながら通り過ぎる。

 

 酒場をぐるりと見回してみると、一番奥にはグラスを磨いているダンディな紳士が接客しているカウンター席があり、その右手側奥の方に、無理やりねじ込んだ宝くじ売り場みたいなスペースがあり、そこに道祖神みたいに無表情で収まっている女性が見えた。

 

 ここが冒険者ギルドの受付だろうか?

 

 彼女の隣の壁に掛けられた掲示板には、所狭しとメモやビラがピン留めされている。その前にはいかにも初心者冒険者といった風体の若者二人が、手にしたノートに必死にメモを書き写していた。背後に回って掲示内容を確かめてみれば、やれ遺失物捜索だの、商隊の護衛だの、いかにもな内容が書かれているのが見えた。

 

「これよこれよ。こういうのがやりたかったのよ」

 

 突然、背後からオネエ言葉のゴリマッチョに囁かれて、若者たちがビビっていた。やりたいと言ってもそういう意味ではないから安心しろと言ってやりたい……ジャンヌはそんな彼らのことなど気にもとめず、いそいそとカウンターへ歩いていく。

 

「冒険者ギルドへようこそ。ご依頼でしょうか? モンスター退治? それとも、護衛? 採集や配達のご依頼も随時受付中です。お客様のご要望をなんなりとお聞かせ下さい。因みに、酒場のカウンターならあちらにございます」

 

 ジャンヌが近寄っていくと、さっきまで能面みたいだった受付のお姉さんの表情がくるくると変わった。彼女はこれ以上無いくらい魅力的な営業スマイルで、ジャンヌに応対する。彼はそんなお姉さんに向かって首を振ると、

 

「ううん、違うの、依頼じゃなくて、私達冒険者として働きたくてここに来たのよ。あなた、ギルドの方よね。良ければお話を聞かせてくれる?」

「なんだ、冒険者志望の方ですか」

 

 やってきたのが冒険者志願者だと知ると、お姉さんはまた道祖神みたいに無表情になった。鳳は仕事内容よりもお姉さんの表情筋の方が気になった。彼女はため息を吐きながらかったるそうに、

 

「っていっても、うちって結構ハードですよ。依頼は基本、モンスター退治とか盗賊退治とか荒事(あらごと)中心ですし、怪我をしても自己責任、死んでも年金出ませんし、採集や配達なんかぶっちゃけ配送料ケチるような依頼人の仕事だから、割りに合わないのだらけですし。大丈夫ですか?」

「もちろんよ、そういうのを待っていたの」

「ふーん……やる気があるなら止めはしませんが。ま、たまにはいい依頼もありますしね。個人的におすすめなのは、農繁期の刈り入れのお手伝いでしょうか。これは本当に実入りがいいですよ、収穫物分けてくれたりもするし、永久就職の口も紹介してくれるし、私の前任者の子なんですけどね、地主の家に嫁いだんですよ。羨ましい。マジ、おすすめ」

 

 夢も希望もありゃしない……掲示板の前で必死にメモっていた冒険者がプルプルと震えている。対してジャンヌは一向に気にした素振りを見せずに。

 

「あら、いいわね、そういうのも楽しそう。でも、どうせやるなら私はモンスター退治の方がいいわ。そっちの方はどうなのかしら」

「そりゃあ、この仕事、稼ぐんなら圧倒的に討伐系ですけど……そうですか。あなた、相当腕に覚えがありそうですね」

 

 お姉さんはジャンヌが冷やかしでないと見て取ると、姿勢を正して改めて彼の方をまっすぐと見据えて、

 

「冒険者ギルドへようこそ。我々はあなたのような強者を歓迎しております。申し遅れました、私は当ギルドの案内係のミーティアと申します」

 

 お姉さんことミーティアはそう言って深々と頭を下げた。ジャンヌが慌ててお辞儀を仕返し、

 

「あら、これはご丁寧に。私はジャンヌ。ジャンヌ・ダルクよ」

「ジャンヌ……?」

 

 どっからどう見てもゴリマッチョのおっさんが女性名を名乗ってきたから、ミーティアは一瞬だけ怪訝そうな表情を見せたが、すぐに気を取り直したように無表情に戻ると、握手を求めて手を差し出した。こだわらない人である。

 

 彼女はジャンヌと握手を交わすと、すぐ後ろでやり取りを見守っていた鳳の方を見ながら言った。

 

「ところで、お連れ様も冒険者志望で?」

「俺? ええ、まあ」

「そうですか。なら、あなたも一緒に聞いてください。ギルドのルールをご説明しましょう」

 

 ミーティアはコホンと咳払いをしてから、

 

「と言っても、ギルドの仕組みは簡単です。普通の依頼はそこの掲示板に貼られたメモを、そのメモに書かれた通りにこなせば完了です。特にルールもございませんので、気楽に受けちゃってください。報酬はここで私から受け取れますが、その際に依頼をちゃんと達成出来たか確認させていただきます。

 

 ただし、これは誰にでも出来る簡単な依頼の話でして、高難度の依頼に関しては手続きが変わります。具体的に申し上げますと、高難度依頼は、我々が信頼する冒険者の方々に、こちらからお願いするという形を取らせていただいております。

 

 と言いますのも、例えば討伐依頼のような緊急性の高い依頼は、みんなが好き勝手に受けて、失敗されては困るのですよ。それで冒険者が死のうがどうしようが知ったこっちゃありませんが、魔物の被害に遭っている依頼主からしてみれば何の問題解決にもなってませんし、我々の沽券にも関わります。

 

 冒険者ギルドに依頼をしても、失敗続きじゃそのうち依頼人がいなくなってしまいますし、我々としては失敗するような冒険者を向かわせるわけにはいかないのです。

 

 ですので、ジャンヌさんが討伐依頼を受けたいのであれば、まずは当ギルドで冒険者登録し、試験を受けて最低ランクの格付けを得て、最初は私からの斡旋を待ってもらうことになります」

 

「わかったわ。ランク付けがあるのね」

「話が早くて助かります」

「それで、試験ってのは何をすればいいのかしら?」

 

 ミーティアはゴソゴソとカウンターの中を探りながら、

 

「簡単です。こちらのシートに、ご自身のステータスを記入していただけばそれで終わりです」

「え? そんな簡単なの??」

 

 彼女はこっくりと頷いて、じっとジャンヌの目を見ながら言った。

 

「ええ、能力なんてものは、その人のレベルとステータスが分かれば、ある程度把握できちゃいますからね。レベルやステータスが高い人は押しなべて能力も高いですし、その逆もまた然りです。

 

 ですが……ステータスはあくまで自己申告。必ず誇大申告する者が出てきてしまうんですよね。それで依頼失敗なんてことになったら目も当てられませんので、こちらとしては慎重にならざるを得ません。

 

 そこで、このエントリーシートを使います。この魔法の紙に書かれた文字は、それが真実であれば残りますが、偽りであれば消えてしまいます。これによって志望者は嘘を書けなくなりますから、我々は安心して採用できるわけです。大企業なら必ず利用している方法ですけど……って、どうしましたか? 背中が痒そうな格好で仰け反ったりなんかして」

 

「やめてやめて! その名前を口にしないで!!」

 

 エントリーシートという言葉が彼の過去の傷をほじくり返したのか、ジャンヌが悶絶していた。ミーティアは小首を傾げながら、

 

「エントリーシートという名前が嫌なら、履歴書でも構いませんが」

「ひぃっ、もっとやめて!! ……200社よ……200社……送っても送っても不採用通知と共に送り返されてくる悪魔の紙片。こんなので私の何がわかるってのよ!!」

 

 ジャンヌは地面に両手をついて泣きじゃくっている。ミーティアはその姿にドン引きしながら、こいつと話していては埒が明かないと思ったのか、その隣で二人の会話をボケーッとしながら聞いていた鳳に向かって話を続けた。

 

「……こほん。とまあ、そんなわけで、冒険者登録するなら必ずこの紙にステータスを記入してもらいます。あなたも志望者なら書いて下さい」

 

 彼女はそう言って鳳に紙を差し出した。BloodTypeCも書かなきゃいけないんだろうか……彼はそれを受け取りつつ、

 

「……これってステータス全部書かないといけないの? プライベートなこととか、あんま人に知られたくないんだけど」

「氏名年齢、レベルと基本ステータスは必須事項なので、それさえ書いていただければ後は構いませんよ……そうですね、なんなら試しに偽りを混ぜて書いてみてください。その部分が消えるのが見てわかりますから」

 

 言われるままに鳳は大嘘を書きなぐった。レベル256、ステータスはオール20、種族は神人。すると彼が書いた文字が次々と、インクが蒸発するみたいに、紙の上から消え去ってしまった。

 

 なるほど、こうなるのか……鳳が感心しながら空気中に溶けるように消え去っていくインクを眺めていると、ミーティアがどんなもんだいと自慢げな表情で胸を張っていた。別に彼女の力でもないだろうに……本当にあの表情筋はどうなってんだろうと思いつつ、鳳は今度は正直にステータスを紙に書いていく。

 

 レベル2、オール10。すると、それを見ていたミーティアが呆れた素振りで、

 

「よくもまあ、それだけ嘘八百並べ立てられますね。普通、二度目なら少しは真実を混ぜるものですけど……」

「え? そうだね……」

 

 鳳がぽかんとした表情でそう返す。ミーティアが真顔で見返す。なんとなく気まずい沈黙が続き、二人は暫くにらめっこのように見つめ合ったあと、突然、ミーティアがそれまでの無表情が嘘みたいに狼狽し始め、

 

「……え!? あれ?! レベル2? オール10? どうしてこんな嘘としか思えない数字が消えないの……紙が湿気ってるのかな? 申し訳ありませんが、こちらの用紙に、もう一度同じことを書いていただけませんか?」

「え? ……いやまあ、いいけど……結果は変わらないと思うよ」

 

 彼はバツが悪くなりながらも、言われるままに自分のステータスを再度紙に書いた。すると、今度も消えない文字を見て、ミーティアはガタガタと椅子から転げ落ちると、

 

「ひっ、ひえぇ~~! レベル2? オール10ですって!? そんな人間あり得ない! 最近は幼児だってもう少しレベルが高いですよ。一体、どういう生活を送ってきたら、そんな見すぼらしいステータスのまま、生きてこれたと言うんですか!? はぁーはぁーはぁっ!」

 

 そんな高菜食べてしまったんですかと言わんばかりに驚かなくても……鳳は彼女の醜態に若干傷ついた。

 

 しかし、どうやら彼のステータスはそれくらい酷いものらしい。気がつけばその様子を眺めていた酒場の客たちもが、こっちを驚愕の表情で見ながらどよめいている。レベル2? とか、オール10だってよ……とか、そんな言葉があちこちから聞こえてくる。

 

 マジでそんなにヤバいのか……鳳は突きつけられたくない真実を突きつけられて、この世界に来て初めて心の底から落胆した。いやまあ、アイザック達の様子からして、もしかしてそうなんじゃないかと思ってはいたが……突き刺さる視線が痛い。穴があったら入りたい。

 

 そんな鳳達のやり取りを見ている間に立ち直ったジャンヌが、屈辱に震える彼の肩を抱きながら言った。

 

「白ちゃん、こんなの気にしちゃ駄目よ。あなたはまだまだ伸び盛り、人生これからじゃない」

「黙れ、ホモ」

 

 高レベルチート野郎にだけは言われたくない。鳳がドスの利いた声で涙目になって睨みつけると、ジャンヌはその気迫だけで倒れそうなくらい狼狽していた。

 

 そんな二人の様子を見ていたミーティアが、さもがっかりした調子でジャンヌに用紙を突きつけながら、

 

「はぁ~……この様子じゃ、あなたも期待できそうにありませんね。取り敢えず、流れは理解してもらえたと思いますから、このシートに記入していただけますか?」

「わかったわ。レベルと基本ステータスだけでいいのね」

 

 ジャンヌはスラスラと自分のステータスを書き始めた。レベル101、STR23……あれ? レベル99じゃなかったっけ? もしかしてさっきの会話を聞いていたから、まずは嘘を書いてみようと思ったのだろうか。そんなとこまで踏襲しなくてもいいだろうに……

 

 ミーティアも同じことを考えたのか、

 

「あの……そんな天丼しなくてもいいですから。本当のステータスを書いてくれませんか?」

「え? そうね……」

 

 ジャンヌがぽかんとした表情で返す。ミーティアは真顔で見つめる。にらめっこが続き、耐えられなくなったジャンヌが先に視線を逸らすと、勝ったと言わんばかりの表情でミーティアが鼻息を鳴らしながら、エントリーシートを彼に突き返そうとして、

 

「……え!? あれ?! レベル101? STR23? どうしてこんな嘘としか思えない数字が消えないの……紙が湿気ってるのかな? 申し訳ありませんが、こちらの用紙に、もう一度同じことを書いていただけませんか?」

「え? いいけど……あなたも天丼じゃない」

 

 不満げにブツブツ文句を垂れながら、ジャンヌが大人しくステータスを再記入する。すると、またもや消えることのない文字列を見て、ミーティアは生まれたての子鹿みたいにプルプルと震えながら、

 

「ひっ、ひえぇ~~! レベル101? STR23ですって!? そんな人間あり得ない! もしかしたら精霊様より高いんじゃないですか!? 一体、どんだけ殺したら、そんな軍隊だって一人で退けられちゃいそうなステータスになれるって言うんですか!? はぁーはぁーはぁっ!」

 

 そんな高菜食べて以下略。

 

 ミーティアの動揺は伝染病のように店内に広がっていった。流石に嘘だろうと思ったのか、不届き者を懲らしめてやろうと睨みつけてきたウェアウルフが、ジャンヌの姿を一目見るなり、子犬のようにしっぽを丸めて大人しくなった。本当にそんな人間がいるのか? と店内がざわついている。

 

 ミーティアの視線はシートとジャンヌの顔を何度も何度も往復した後、やがて傍観していた鳳の顔で止まった。これってホント? とその目が言っている。彼が仕方なくウンウンと二度頷くと、彼女はゴクリとつばを飲み込んでから、

 

「こ、こんな凄いステータスの人間、初めてみましたよ。あなたならすぐにでもA級冒険者に……ううん、きっと伝説のS級冒険者にだってなれちゃいますよ! 素晴らしい! 是非、冒険者登録していってください。そうだ! なんならうちと専属契約を結びませんか? この辺りの美味しい仕事は、優先的に回させていただきますから」

「え? そ、そうね……そうしてくれると嬉しいけど」

「でしたら事務所の方までお越しください。ギルド長に紹介しますから。さあさあ、どうぞ奥までずずずいと」

 

 ミーティアはあの無表情からは想像できないくらい満面に笑みを浮かべると、ジャンヌの背中をドスコイドスコイと店の奥まで突っ張って行った。就活でこんなに自分の能力を認められたことがなかったジャンヌは、満更でもない顔でモジモジしながら為されるがままに連れて行かれる。

 

 鳳は、ヤレヤレ……と言った感じで肩を竦めながら、そんな二人の後を着いていこうとしたが、奥に続く通路に差し掛かると、

 

「あ、ここから先は従業員専用なので」

 

 と言われて止められた。

 

「え? じゃあ俺どうすんの」

「適当にその辺で時間つぶしててくださいよ。掲示板の依頼でも見てたらどうですか。レベル2じゃ大変かも知れませんが、プークスクス」

「なんだと!」

 

 鳳はギリギリといきり立ったが、ミーティアの誰にも真似できない魅力的な笑顔の前に敢え無く屈した。そんな顔をされたら怒るに怒れないだろう、鳳は肩を落としながら、意気揚々と店の奥に消えてく二人を見送った。

 

 城の中でも外でも、結局自分は味噌っかすでしかないのか。自然と漏れるため息が虚しく店内に響いた。

 



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レベル2ですけど、なにか?

 冒険者ギルドの受付嬢ミーティアはジャンヌを連れて店の奥に行ってしまった。その辺をブラブラしていろと言われたが、勝手の分からぬ異世界の酒場、おまけに強面の獣人達がジロジロと無遠慮な視線を投げかけてくる中では落ち着かない。仕方ないので掲示板を熱心に見ている振りをしてみたが、依頼の数にも限りがあるから、あっという間に手持ち無沙汰になってしまった。

 

 ジャンヌ、早く帰ってこないだろうか……せめてミーティアだけでも戻ってきてくれればいいのに、客をほったらかすとは不届き千万な受付嬢である。ところでなし崩しになってしまったが、自分もちゃんと冒険者登録されてるんだろうか。言われるままにエントリーシートを書いてはみたが……

 

 ふとカウンターを覗き込んで見れば、そのシートが無造作にほっぽり出されていた。ジャンヌの紙は見当たらないから、明らかに鳳の分だけ捨てられたのだ。ちくしょう、客を差別するなんて……彼はエントリーシートをひったくると、余白に『鳳白は将来性抜群。一考の価値あり』と書き殴った。

 

 瞬間、インクが紙の上からふわりと浮いて、彼の落書きは雲散霧消してしまった。無機物にまで将来性を否定されなきゃいけないのか。鳳がギリギリと涙を噛み締めていると、そんな彼を哀れに思ったのか、酒場のマスターがこっちへおいでよと手招きをしているのが見えた。

 

 ダンディといえば聞こえがいいが、見た目は完全に海坊主(ファルコン)っぽい。どうしよう……行ったほうがいいのかな? ジャンヌ達はまだ帰ってこないし……躊躇しているとウェイトレスが近づいてきて、

 

「ほらほら、そんなところに突っ立ってないで、こっち来なさいよ」

 

 と言って鳳の腕を引っ張った。

 

「でも、お金ないし……悪いし……」

「そんなの誰も期待しちゃいないわよ。レベル2のくせに遠慮しないの」

 

 レベル2ってやっぱりそういう扱いなんだろうか……なんだかグイグイとくるウェイトレスに腕を掴まれて、鳳はカウンター席まで連れてこられた。ミーティアとは感じが違うが、これまた笑顔が目映い女の子だった。

 

 年の頃は10代後半から20代前半、鳳と然程変わらないくらいだろうか。アキバのメイドさんみたいな格好ではなく、ドイツのオクトーバーフェストにでもいそうな感じの服を着ていた。こっちの世界ではこれが普通なのだろうか。

 

「私はルーシー、よろしくね」

「はあ……鳳白っす」

「鳳くんね。ほら、そんな背中丸めてないで、しゃんとしなさいよ。ミーさんも言ってた通り、登録しなくても出来るお仕事だってあるんだからさ」

「はあ、こんな俺でも出来るんでしょうか」

「大丈夫だよ。私にだって出来るくらいよ。だから元気出して」

「はあ……」

「こらっ! ため息ばっかり吐かないの!」

 

 人の情けが身にしみる。なんか、こっちの世界にきてから初めて優しくされたような気がする。ルーシーは鳳の背中をバンバン叩くと、他の客に呼ばれて去っていった。途中で何度も振り返っては笑顔で手を振る姿が可愛らしい。鳳を見つめる瞳がどことなく潤んで見える。

 

 もしかして俺のこと好きなのかしら……モッコリしてきた。などと鳳が思っていると、

 

「おい……あの子が優しいからって勘違いするなよ」

 

 と、彼女に聞こえないくらいの声で、マスターがボソッと呟いた。もしかして、マスターも彼女のことを狙っているのだろうか。残念だったな、彼女は俺に夢中だぜ、フフンっ……とか思っていたら、ルーシーが呼び出された客の注文を取りながら、ベチベチと親しげにその背中を叩いているのが見えた。

 

 遠くて聞き取れないから何を喋ってるかは分からないが、顔を真っ赤にしながら掴みかかった背中に胸をグイグイ押し付けている姿を見るに、相当話が弾んでいるようである。なんだあれは、俺の女に手を出しやがって、あの客、後で覚えてやがれよ……懲りない鳳がそんなことを考えていると、

 

「見ての通り、彼女は誰にでもああだから、凄い人気者なんだ。女性との一次接触に慣れてない童貞じゃコロッといっちまう。でも、勘違いして馴れ馴れしくしてると、店から出た途端にズドンだぞ。それで店に来なくなった客が何人もいる。お前も誰に闇討ちされるか分からないから、絶対手を出すなよ」

「天然トラップかよ! おっそろしいなあ……」

 

 もう一度こっちに来たら尻を触ってやろうと思っていたが、危ないところだった。鳳が額に吹き出た汗を拭っていると、彼の目の前にスーッと音もなくグラスが滑り込んできた。八合目くらいまで注がれた透明な液体がシュワシュワと泡立っている。マスターに、注文はしてないし、お金もないことを告げると、

 

「この街のルーキーにお祝いだ。遠慮せず飲んでくれよ」

 

 とのことだった。この店の従業員はとても親切だ。もしくはこの世界の住人がそうなのか。あまり文明の発達していない異世界だから、もっと殺伐としてるかと思いきや、意外と道徳的である。

 

 匂いを嗅いでから口に含むと、炭酸水に溶けたレモンとはちみつの爽やかな風味が口いっぱいに広がった。ほんのちょっぴりアルコールが入っているようなので、ジンフィズというやつだろうか。頭の中でレシピを思い浮かべるが、他はともかく炭酸水が手に入るのは意外だった。

 

 その辺で天然の(ペリエ)が汲めるのか、それともビール工場か何かで生産してるのだろうか……そんなことを考えていると、注文の小料理を仕上げてから皿を拭いていたマスターがポツリと、

 

「……レベル2なの?」

「ええ、まあ……レベル2ですけど、なにか?」

「……きっと良いことあるよ」

 

 なんか慰められた。彼は話題を変えるように、

 

「連れの、あの……筋肉だるま?」

「ええ、はい、筋肉だるまがなんでしょうか」

「あの人、レベル101って本当? STR23なんて……そんな人間がいるなんて、信じられないが」

 

 人間じゃなきゃ居るのかな? と思いつつ、マスターに本当だと返事している時、彼は自分にもちょっと不可解なものがあることに気がついた。

 

 確かジャンヌはレベル99だったはずだ。元の世界でそうだったし、昨日そう言っていたし、今朝方、アイザックに陰謀で行われていたレベリングにも参加していないから間違いない。なのにいきなりレベルが上っているのはどうしてだろうか。

 

----------------------------

鳳白

STR 10       DEX 10

AGI 10       VIT 10

INT 10       CHA 10

 

LEVEL 2     EXP/NEXT 0/200

HP/MP 100/0  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ?

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 0

鳳白

†ジャンヌ☆ダルク†

----------------------------

 

 鳳は自分のステータスを確認してみた。すると、昼間はあったはずのパーティー経験値が無くなっていて、名前の横のレベルアップの文字も消えていた。考えられるのはこれしかない。アイザックの部下に襲われていた時、藁にもすがる思いでジャンヌの名前を連打したのだが……もしかして、ジャンヌはその時レベルアップしたのでは?

 

 思い返してみると、あの時、パーティーチャットの向こう側で彼は妙に慌てていた。その後の出来事が色々ありすぎたせいでなし崩しになってしまったが、あとで話を聞いておいた方が良いだろう。

 

 仮にもし鳳の予想が正しいとすると、これはパーティーの共有経験値ということになる。なら、今後まずはジャンヌに経験値を稼いでもらって、それで鳳のレベルを上げて、行く行くは一緒に冒険者としてやっていくというのも有りかも知れない……

 

「よう、兄ちゃん。おまえ、さっきの筋肉の連れなんだろ?」

 

 そんなことを考えていたら、誰かが声をかけてきた。

 

 振り返るとそこに狼の大きな口があって、彼は思わず仰け反った。そんな彼の姿を見て狼男(ウェアウルフ)はゲラゲラと笑っている。

 

「おいおい、レベル2だからってビビり過ぎだぜ。獣人(リカントロープ)を見るのは初めてか?」

「え、ええ……まあ……」

「そうだろそうだろ。あっちの街で暮らしてたんなら、俺達のことを見る機会はないだろうからな」

 

 狼男は一人で納得していた。あっちの街とはアイザックの城下町のことだろうか……つい迫力に圧されて喋ってしまったが、まだこの世界のことがわからないうちは、あまり情報を漏らさないように気をつけたほうが良いだろう。

 

 鳳がそんな決意をしている間も、狼男は構わず色々と聞いてきた。

 

「さっきの筋肉だるま、レベル101ってのは本当なのか? もし本当ならもの凄い手練だ。俺たちもこの辺で冒険者をしてるんだが、そんな奴は見たことがない。もしかすると今後彼に世話になるかも知れないから、覚えておいて貰えると助かるよ。だから兄ちゃんも、仲良くしてくれよな」

「は、はあ……」

「そう警戒するなよ。俺の顔が怖いのは、俺のせいじゃないんだからよ」

「そ、そっすね。人を見かけで判断しちゃあいけませんね」

 

 鳳がおっかなびっくりそう返すと、狼男は、お? 分かってるな、とでも言いたげにしっぽをパタパタさせながら、

 

「こうして出会ったのも何かの縁だ。良かったら俺たちのテーブルに来て一緒にカードをやらないか? おまえ、置いてかれて暇してるんだろ」

「カード、ですか……?」

 

 狼男が指差す方を見てみると、中央のテーブルを囲んでカードをしていた狼男の一団が、手を振ってそれに応えた。店に入ってきた時にも目立っていた連中だ。群れをなす狼とはなんとなく怖いイメージがつきまとう。

 

 この狼男は感じが良さそうだが、あまり関わり合いにならないほうが良いだろう……彼はそう思って断ろうとしたが、その時、ふと彼らが持っているカードが気になって、

 

「カードって、ありゃトランプですか? 1スート13枚で、スペードとかクラブとかのマークが描いてあるやつ?」

「そりゃカードって言ったら、それしかないだろう」

 

 狼男は何を当たり前のことをと言いたげにしていたが、鳳からしてみれば不可解な話である。世界が変わっても似たようなカードゲームなら存在するかも知れないが、自分の知っているトランプと同じものがあるとは思わなかったのだ。

 

 さらに詳しく聞いてみれば、彼らがやってるゲームの名前はポーカーだという。これも彼が知ってる地球のポーカーと同じだとしたら、どうしてこんな偶然が起きているというのだろうか……?

 

 鳳がそんなことを考えていると、ウェイトレスのルーシーがやってきて、

 

「やめときなよ、カモにされちゃうよ」

「そんなことしねえよ、失礼な姉ちゃんだなあ」

 

 鳳を止めようとするルーシーと狼男がやり合っている。彼女の助言を聞いて断る方がいいのだろうが……

 

 結局、鳳はトランプのことが気になってしまい、確認のつもりで狼男達の囲んでいるテーブルへと行くことにしてしまった。

 

 背後でルーシーが不安そうな表情でこちらを見ている。彼女にしてみれば純粋に親切での行為だったろうから、あとで謝っておいたほうがいいだろう。彼は狼男達がたむろするテーブルに着きながらそんな事を考えていた。

 



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ストレートフラッシュ

 カードに誘われた鳳がテーブルに着くと、軽く自己紹介が始まった。狼男達は顔は怖いが意外とフレンドリーらしく、目を瞑っていればそんなに怖くはなかった。ただ口が大きい上に肉食だからか、思ったよりも口臭がきつかった。

 

 タバコの煙とアルコールの匂いに巻かれながらルール説明を受けてみれば、やはり彼らがやっているのは鳳も知っているポーカーだった。

 

 プレイヤーに5枚ずつカードが配られて1回だけドローが許される。ツーペアやフルハウスのような役を作り、レイズして掛け金を釣り上げる。一番強い役を出した者が勝ちだが、掛け金を釣り上げて相手を降りさせるのもテクニックの一つだ。

 

 細かいルールの違いはあるが、基本は大体こんな感じだろう。狼男たちがやっていたゲームも、オーソドックスなものだった。

 

 鳳はこれなら自分も出来ると思ったが、残念なことに掛け金がない。するとそれを見ていた最初に話しかけてきた狼男が、

 

「最初だから奢ってやるよ。もしも儲けたら返してくれよな」

 

 そう言って十枚ばかしコインを投げてよこした。レートはコイン一枚は銭貨一枚と交換出来るそうである。因みに銭貨一枚は百円にちょっと足りないくらいの価値らしい。レートが高いのか低いのか分からなかったが、どうせ他人の金だから、それが無くなるまで付き合っておけばいいだろう。

 

 第一ゲームは全員がブタで流れてしまったが、第二ゲームで鳳はいきなり勝った。たまたまフルハウスを引いたので自信を持ってレイズしたら、それをハッタリと見た狼男達がまんまと掛け金を釣り上げ、思わぬ収入が転がり込んできてしまった。早速、貸してもらったコインを返してゲームを続ける。

 

 それから第三第四とゲームが続き、勝ち負けを繰り返しながら、鳳は着実にコインを増やしていった。始めはビギナーズラックと揶揄していた狼男たちも、ゲームが進むにつれて段々口数が少なくなってきた。

 

 狼男達は顔が動物だけあって、本当に表情が読めなかった。怒ってるんだか、笑ってるんだか、苛ついてるんだか、青ざめているのか、後で突然激昂して襲われたりしないだろうな……と思いながら、おっかなびっくりゲームを続けていると……

 

 カランカラン……

 

 ドアを開く音が聞こえて誰かが店に入ってきた。しかし、ちらりと横目で見た出入り口には誰の姿も認められない。あれ? っと思って目を凝らしてみれば、なんてことない、背の小さな少年が扉を押し開けて入ってきたのだ。

 

「おいおい、ミルクが飲みたいなら入る店を間違ってるぜ」

 

 途端にあちこちからそんなヤジが飛んでくる。

 

 少年はそんな連中の言葉にもまるで気にした素振りを見せずに、ニヤニヤとした人懐こい笑みを浮かべながらテーブルの間を進み、マスターに向かって軽く手を上げた。すると、ルーシーが近づいていき、何やら親しげに会話を交わしはじめた。その様子は他の客とは明らかに違って、家族みたいに親密だ。

 

 あの二人、知り合いなのかな……と、ぼんやりそのやり取りを眺めていたら、

 

「おい、兄ちゃん。よそ見してないで早く続きやろうぜ」

 

 と、狼男に急かされた。慌ててテーブルに向き直る。

 

 そして再開して最初のゲームで、鳳はこの日最大のチャンスを迎えた。

 

 もう何回ゲームを続けているか分からないが、大分慣れてきた彼はちらりと見た手札を流れるように2枚捨て、場から2枚引いてきた。

 

 パッと見、ストレートかフラッシュが狙いやすそうだと思い、あまり考えずにカードを捨てたのだが……引いてきたカードはまさにその2つを同時に満たすものだったのだ。

 

 ストレートフラッシュ。

 

 彼は引いてきたカードを手札に入れて並べ、その大役が出来ていることに気がついた瞬間、思わず声を上げそうになった。

 

 その声をなんとか飲み込み、狼男達に気づかれないように表情を隠すと、彼は悩んでいる振りをしながら、警戒されない程度に最大限までコインを釣り上げる。

 

「レイズ」

 

 その強気な姿勢に狼男達が動揺した。鳳は自信があるらしい、降りたほうが良いだろうか? 彼らはそんな弱気な態度を見せるが……しかし彼らにも意地があるのか、それともビギナーズラックなんていつまでも続かないと踏んだのだろうか、最終的には次々と掛け金を釣り上げ始めた。

 

 レイズ、レイズ、レイズ……誰一人として降りる者が出ない中、一周して鳳の番が回ってきた。彼に許されているのはコールかドロップだけであるが……

 

 積み上がったコインを数えて、彼はゴクリとつばを飲み込んだ。正直、こんな場末の酒場で賭けるような金額じゃない。勝っても負けても禍根を残すのは間違いないだろう。よく見れば、コールしようにも彼の手持ちのコインでは足りなかった。

 

 普通なら地団駄を踏みそうな場面であるが、彼は寧ろホッとした。残念ではあるが、ここは降りた方が懸命だろうか……

 

「どうした? コインが足りないのか? 自信があるなら貸してやってもいいぞ」

 

 鳳が悩んでいると、隣の狼男が話しかけてきた。彼はもうカードをテーブルに伏せていて、どうやら次で降りるつもりでいるらしい。このゲームで勝てば、借りた金はすぐ返せるだろう。その時、お礼だと言って多めに渡せば、彼の顔も立って他の連中も手を出しにくいかも知れない。

 

 しかし、本当に勝負していいのか?

 

 テーブルを囲む狼男達の表情は相変わらず読めない。もしかしたら凄い手札を握っているのかも知れない。だが自分の手札はストレートフラッシュだ。そう簡単に負けるはずがない。なんせこれより強い役は二つしか残されていないのだ。ここは強気に行くべきだ。

 

 いや……しかし、彼の手札はハートのストレートフラッシュだった。もし、この場の誰かがスペードのそれを持っていたら、負けである。そんな可能性なんて万に一つもあり得ないと思うのだが……まったく表情を読めない狼男達の顔を見ていると自信が無くなってくる。

 

 やっぱり、降りたほうがいいだろうか。別に金を稼ぎたくてやってるわけじゃないのだし……変に恨みを買うのも良くないし……頭の中でぐるぐると様々な言い訳が飛び交う。

 

 と、その時、

 

「あっ!」

 

 鳳が突然上げた声に、テーブルを囲む狼男達がビクッと震えた。

 

「どうした?」

「あ、いや……すんません、何でもないです」

 

 彼はペコペコと頭を下げると、真っ赤になった顔を隠すように、自分の顔の前で手札を広げた。その時、彼は気づいてしまったのだ。

 

 これまでずっとそうしていたから、まったく気にしてなかったのだが……普通、ポーカーでは手札を捨てる時、カードを伏せて捨てるはずだ。ところが、ここの狼男たちはカードを表にして捨てていた。つまり、今、鳳の目の前に、このゲームで捨てられたカードが表のままで積み上がっていたのだ。

 

 その捨札を注意深く観察してみると、スペードのカードは五枚……そして、そのバラバラの五枚を抜くと、残った数字では決してストレートを作ることは出来ないのだ!

 

 つまり、狼男たちの中にスペードのストレートフラッシュを持つ者はいない。鳳は勝利を確信した。

 

「すんません、借ります」

 

 彼は隣の狼男に頭を下げると、彼の差し出したコインを掴み、自分の掛け金の上に乗せた。そしてそれをテーブルの中央に突き出し、いざ尋常に勝負! とコールしようとした時だった……

 

「やめとけ」

 

 ガシッ! ……っと、コインを差し出す鳳の手首が誰かに掴まれた。

 

 驚いて振り返ると、さっき店に入ってきたばかりの少年が、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、鳳の腕を掴んでいた。

 

 なんだこいつは? 鳳が小首をかしげる。もしかして、心配してくれてるのだろうか。その気持ちはありがたいが、でも今は負ける気がしない。

 

 鳳は少年を諭そうとして口を開きかけた。ところが、その時……突然、鳳よりも先に、何故か狼男たちの方が苛立たしそうに一斉に立ち上がったのである。

 

「なんだガキ! 邪魔するんじゃねえよ!! そいつの手を離しなっ!!!」

 

 その勢いがあまりにもわざとらしくて、鳳は思わず目を白黒させた。どうして彼らはそんなに鳳に勝負をさせたがるんだろうか? まるで勝利を確信しているかのように……

 

 少年はそんな彼らをあざ笑うかのように、

 

「そんなムキになるなよ。まるでイカサマしてるって白状してるみたいだぜ」

「イカサマ!?」

 

 その言葉にギョッとした鳳が少年に聞き返すと、彼は相変わらずニヤニヤとした人懐っこい笑みをしたまま、親指を立てて背後を指差し、

 

「さっきからこいつがお前の手札を見て、合図を送っていたのさ」

 

 振り返ると、鳳たちとは別のテーブルに座っていた冒険者風の男がギクッとした表情で肩を震わせた。まさかと思って鳳が目をぱちくりさせていると、いきり立った狼男たちが、

 

「証拠は!?」

「目撃者が居る」

 

 少年がそう言うと、それを遠巻きに見ていたルーシーがニコニコしながら手を振った。

 

「ここんとこギルドに顔を出さなくなった冒険者が増えてよ、調べてみたらみんな借金抱えて鉱山に飛ばされてるじゃねえか。そんでお前らが怪しいと内偵してたのさ……なあ、お前ら、冒険者ギルドに楯突いたらどうなるか、覚悟の上なんだろうな」

 

 声変わり前の少年の声は甲高くて、しんと静まり返る店内でよく通った。だが、その可愛らしい声には妙な迫力があった。鳳はなんだか喉元に刃物を突きつけられているような、得も言われぬプレッシャーを感じた。

 

 狼男たちもそうだったのか、彼らは獣人特有の不思議な表情で顔を歪めると、びっしょりと鼻の頭に汗をかきながら、尚もしらばっくれ、

 

「それは誤解だ。俺たちは確かにギルドの仲間とカードをしていたが、それだけだぜ? 借金をこさえたのは連中に運がなかっただけだ。イカサマなんてしていない、そっちのテーブルのやつなんか知らないし、ウェイトレスの見間違いだろう?」

「嘘だよ、私ちゃんと見たもん」

「嘘つき女はすっこんでろっ!!!」

 

 狼男が怒鳴り返すと、ルーシーは怯えるように顔を歪めてすごすごと引っ込んだ。常連客の何人かが、それを見て一瞬険しい顔をしてみせたが、残念ながらそれで男気を見せるような者はいなかった。

 

 いや、一人だけいた……

 

「おい、俺の前で女をイジメるなよ」

 

 少年はそう言うと、威圧するように胸を張って、彼女を恫喝した狼男の前に歩み出た。狼男を見上げる少年の顔が、あざ笑うかのように軽薄に歪んでいる……その笑顔にさっきから妙なプレッシャーを感じるのは何故だろうか。どうもこの少年の笑顔は、そのままの意味で受け取ってはいけないようだ。

 

 とは言え、体格差は文字通り大人と子供。狼男はそんな少年の滑稽な姿を見下しながら、

 

「おいおい、僕ちゃん。こいつは濡れ衣だ。俺たちはただカードを楽しんでいただけだ。あの女は俺たちに悪感情を抱いていて、嵌めるために嘘ついてるんだ。分かるな? 今日はこれで許してやるから、おまえは家に帰って母ちゃんのおっぱいでもしゃぶってな。それでもしつこく俺たちが悪いっていうんなら、こっちにも考えがあるぞ?」

 

 しかし少年はそんな連中の言葉にもまるで怯んだ様子を見せず、ニヤニヤとした笑みを一切崩すことなく狼男の懐に入り込むと、

 

「じゃあ、こいつはなんだ」

 

 と言って、鳳の隣に座っていた狼男が伏せたカードをパタパタとひっくり返した。

 

 鳳はそれを見てギョッとした。そこに並んでいた数字は10・J・Q・K・A。しかもその全てにクラブのマークがついている。

 

「ロイヤルストレートフラッシュ!」

 

 彼が素っ頓狂な声を上げた瞬間だった。

 

 突然、鳳のすぐ頭の上から、ブオンッ! っと空気を切り裂く音が鳴り、もの凄い速さで獣人の腕が、少年に向かって振り下ろされた。鳳はその風を顔に受けて、当たってもないのによろよろと尻もちをついた。

 

 先程までトランプを握っていた狼男の指先に、いつの間にか鋭い爪が伸びている。その爪に切り刻まれたら人間の肌など一瞬でズタズタにされるに違いない。さっきまで軽口を叩いていた口からは、鋭い牙がむき出しになっていて、目は異様な光を讃えていた。

 

 狼男が突然、ウオオオオーン!! っと遠吠えのような雄叫びをあげると、鼓膜がビリビリと震えて平衡感覚が失われた。明らかに戦闘モードといった感じの狼男を前にして、鳳はおしっこをちびってしまいそうなくらい恐怖を感じていた。

 

 やばい……さっきまではやけにフレンドリーだったからそんな風に思わなかったのに、こんなのもう魔物と変わりないじゃないか。自分は一体何とポーカーをしていたんだろう。彼は自分の浅はかさを呪った。

 

 しかし、対する少年は、一切動じることがなかった。

 

 いつの間に距離を取っていたのか、振り下ろされた狼男の腕が空を切る。見れば少年は遠く離れたところでポケットに手を突っ込みながら、あくびを噛み殺したような仕草をしていた。

 

 その挑発的な態度に腹を立てた他の狼男たちが加勢に入るも、少年は一向に焦る素振りは見せずに、逆に狼男たちの間合いの中に詰め寄ると、

 

「なあ、おい。これはもう、俺たちはイカサマしてましたって白状してると見なしていいんだよな? 抵抗するなら反撃しても構わないんだよな? 俺は割と辛抱強い方なんだ。反省してるんなら許してやらないこともないんだが……」

「ざけんな、ガキがっ!!」

 

 軽口に激昂した狼男たちが一斉に少年に飛びかかる。その速さは弾丸もかくやと言わんばかりで、少年の悲惨な結末を見て取った鳳は、思わず顔を歪めて目を伏せた。

 

 しかし、そんな光景はついにやってくることはなかった。

 

 少年に飛びかかった狼男が、まさに彼にその鋭い爪を振り下ろそうとした瞬間だった。少年は目にも留まらぬ速さでその腕をかいくぐり、狼男の懐に入り込むと、その腹に向かって腕を突き出した。

 

 するとその瞬間、パンッ! っと、どこからともなく乾いた音が鳴って、飛びかかっていった狼男が、突然、糸の切れた人形のようにその場に転がった。

 

 何が起きたんだ? ……それを確かめるより先に、仲間がやられた狼男たちが激昂し、次々と少年に飛びかかっていく。しかし、そんな彼らの結末もまた、最初と同じ無様なものだったのである。

 

 少年は迫りくる狼男たちの攻撃をひらりひらりと掻い潜りながら、彼らの攻撃とすれ違うタイミングで、腕を突き出し、パンッ! パンッ! っと、その腹に拳を突き刺していく。すると狼男たちは面白いように体勢を崩して、その勢いのままゴロゴロと床を転がっていった……

 

 最初は、少年が何をやっているのか、どうして屈強そうな狼男たちが、少年の細腕ごときで次々と倒れ伏すのか分からなかった。

 

 だが、交差する瞬間、一瞬だけ光る少年の拳と……全員が制圧された後に、中心で佇んでいる少年の両腕に握られていた小さな銃を見て、鳳はようやく彼が何をしていたのかを理解した。

 

 少年は隠し持っていたピストルを使い、目にも留まらぬ早撃ちで、狼男たちを至近距離から撃ち抜いていたのである。

 

 このファンタジー世界……そんなものにお目にかかれるとは思いもよらず、鳳は目を丸くした。狼男たちも同じく、床に這いつくばったまま驚愕の表情で少年の顔を見上げている。少年はそんな狼男たちにニヤニヤしながら近づいていくと……

 

 彼はその日初めて笑顔をやめて、真顔で、透き通った瞳で、狼男たちの顔を見つめながら、ゆっくりと、言い含めるように、

 

「なあ、おい、痛いか? 急所は外してあるから死にゃあしねえよ。分かるだろ? 外してやってるんだよ。だがまだやるってんなら、今度はおまえのそこでドクドク言ってる動脈ぶち抜くぞ。痛いぞ、きっと。大抵の男は泣き叫ぶからな。なあ、おい、試してみるか?」

 

 甲高い声の小柄な少年が、大きな獣人を足蹴にしながら凄んでいるさまは、まるで映画でも見ているみたいにアベコベで滑稽だった。しかし狼男たちの方はもうそんなことを感じる余裕もなかったらしい。

 

 始めこそ虚勢を張って少年を睨みつけていた狼男も、少年に銃を向けられ、容赦なくガンガン傷口を蹴り上げられるうちに、キャンキャンとまるで犬みたいな鳴き声を漏らし、ついに屈服してしまった。

 

「わかった! わかったから! 俺が悪かったっ! やめてくれっ!!」

 

 一人の狼男が降参すると、それを見ていた周りの連中も大人しくなった。さっきまでピンと張っていた耳が、今は萎れて伏せている。その姿はまるで子犬のようである。

 

 少年はそんな狼男に、最後に思っきり蹴りを入れると、

 

「なら、とっととこの街から消えやがれ! もし次に見かけた時は、おまえらはもう狩られる側だと肝に銘じろ!」

 

 少年がピストルをぶっ放しながら威圧すると、狼男たちは文字通り尻尾を巻いて逃げていった。去り際に覚えていろと悪役っぽいセリフを吐き捨てて言ったが、大抵、このセリフを言うやつはその後出てきた試しはない。

 

 酒場の床には狼男たちの血と、ばらまかれたトランプと、割れたガラスの破片が散乱していた。

 

 さっきまであんなに楽しく遊んでいたのに……西部劇の世界にでも放り込まれたような一連の出来事に、鳳は改めて自分の立場を思い知った。ここは元の世界と違って、気を抜いたら簡単に身ぐるみ剥がされていても、おかしくない世界なのだ。

 

 もしこの少年がいなかったら、今頃どうなっていたことか……

 

「よう、大丈夫だったか?」

 

 鳳はそんな少年にお礼をしようと立ち上がろうとしたが、腰が抜けて立てなかった。そんな彼の無様な姿を見かねたのか、少年の方から近寄ってきて、彼に手を差し伸べた。

 

 だがその手の先にはピストルが握られている。銃口を向けられた鳳が反射的に手を挙げると、少年はようやくそれを思い出したかのように、

 

「おっと、いけねえ」

 

 と言って、指先でピストルをくるくる回して、手慣れた手付きで腰のホルダーにそれを収める……のではなく、まるで腰にある見えないホルダーに入れるかのような仕草だけをしてみせた。

 

 すると、その瞬間、彼の指先でくるくると回転していたピストルが、キラキラとした光の礫を撒き散らしながら、鳳の目の前で虚空に消えてしまったのである。

 

 それはまるで、元の世界のゲームで倒したモンスターが消えるエフェクトのように見えて……鳳は素っ頓狂な声を上げた。

 

「え! なにこれ!? 今の、どうやったの?」

 

 彼はさっきまでピストルを握っていた少年の手のひらを、まるで手相でも見るような格好で覗き込んだ。しかしその手を穴が空くほど眺めてみても、ピストルはどこにも見つからない。本当に、痕跡一つ残さず空中に消えてしまったのだ。

 

 手品でも見せられているのだろうか? それとも、夢でも見ているのだろうか?

 

 少年は鳳の手を振り払うと、迷惑そうに答えた。

 

「どうって、こんなのはただの現代魔法(モダンマジック)だ。それくらい知ってるだろ?」

 

 当たり前のように少年はそう言ったが、もちろん、鳳にはなんのことだかさっぱり意味不明だった。ポカンとしている鳳を見ながら、少年はガリガリと後頭部を引っ掻いた。

 

 親切心で助けてやったが、どうも面倒くさいやつに絡まれてしまったらしい、その顔がそんなセリフを雄弁に語っていた。

 



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バガボンド

 カードでカモにされかけていた鳳は、ふらりと店に入ってきた少年によって窮地を救われた。少年の目にも留まらぬ早撃ちで、狼男たちは文字通り尻尾を巻いて逃げていった。その時、少年が手にしていたピストルが、まるで元の世界のゲームの中みたいに、光の礫になって消えていく光景を目にして、鳳は腰が抜けるほど驚いた。

 

 何だこれは? 一体どうやったんだ? と目を丸くする鳳に、

 

「何って、ただの現代魔法(モダンマジック)だろうが」

 

 さも当然であるかのように少年は言った。

 

現代魔法(モダンマジック)……? 古代(エンシェント)があるならモダンもあるのかよって思ってはいたが、本当にそんなもんがあったのか」

「はあ? 何当たり前のこと聞いてんだ? 今どき、そんなことも知らないやつがいるか。どんなド田舎から出てきたんだよ」

「レベル2なんだよね」

 

 呆れ返る少年とポカンとした顔の鳳がお見合いしてると、バケツとモップを抱えたウェイトレスのルーシーがやってきて、ニコニコしながらそう告げた。彼女はまるで何事もなかったかのように、狼男たちの血で汚れた床を掃除し始める。

 

 見れば、騒ぎの間、皿を抱えて退避していた客たちが、おのおの自分のテーブルに戻っていた。ここではこれが日常茶飯事なのだろうか? 阿吽の呼吸で平然としている客たちに、鳳は呆れるしかなかった。

 

 ルーシーの言葉を聞いて、今度は少年の方が素っ頓狂な声を上げた。

 

「レベル2!? 嘘だろっ!? 一体、どういう生き方してたらそんなんなるんだよ、逆に凄いわ!」

「ううう、うっさいわい。誰も好き好んでレベル2なんじゃないやい」

「レベルを上げない苦行でもしてるのかよ……つか、なんでそんな奴がこんな場所に居るんだ? ミルクが飲みてえなら、入る店間違えてんぞ」

「お前に言われたくないわっ!」

 

 鳳が涙目でそう返す。すると彼らの周囲で床をゴシゴシモップがけしていたルーシーが、

 

「お兄さんと一緒に、冒険者登録に来たんだよね。お兄さんの方は、さっきミーさんに連れてかれたよ」

「じゃあ同業者か」

「いや、兄弟じゃないんだけどね」

 

 二人はルーシーを手伝い、床に転がっていたテーブルと椅子を元に戻してから、そこに座った。少年は珍しいもので見ているような目つきで鳳の顔をマジマジと見ながら、

 

「ふーん……お前、もしかしてあっちの街から来たんだろ」

「え? いや、その……分かるのか?」

「まあな。現代魔法は知らないわ、レベル2だわ、初対面の獣人(リカント)とカードなんかしてるわ、そんな世間知らず、なかなかお目にかかれねえよ。よっぽど大事に育てられたんだろう」

 

 そう言って少年は一人で納得していた。もちろん、鳳は箱入り息子というわけではないのだが、事情をどこまで話して良いのか分からなかったので、勘違いしてるならそのままにしておこうと黙っていた。

 

 それよりも、狼男たちの件で、まだお礼を言っていなかった。鳳は改めて少年に頭を下げると、

 

「そういや礼がまだだったな。助けてくれてありがとう。あのまま負けてたらどうなってたことか……おまえ、子供のくせにマジすげえな」

「子供のくせにってのは余計だ」

「ギヨーム君はこう見えて、ギルドでも指折りの腕利き冒険者なんだよ」

 

 鳳たちのテーブルの周りをモップがけしながら、ルーシーがえっへんと胸を張って教えてくれた。ギヨームというのが少年の名前だろうか。不服を申し立てながらもニヤニヤ笑いが絶えないのは、どうやら彼の笑顔は顔に張り付いているらしい。

 

 そう言えば狼男たちとやり合ってる時も、この顔でギルドを舐めたらどうなるかとか啖呵を切っていた。笑顔のくせに妙な迫力を感じると思ったが……ギルドの主要メンバーなのか、ルーシーの雰囲気からしても、かなり頼られているようだ。ぶっちゃけ、ただの小学生にしか見えないのだが、やはりこの世界では見た目で人を判断しちゃいけないのだろう。

 

「それで、現代魔法だったな」

「え?」

「おまえが聞いてきたんだろう。現代魔法ってなんだって」

 

 ギヨームは不服そうな声でそう言った。鳳はまさか教えてくれるとは思ってなかったのでちょっと戸惑ったが、素直に教えてくれと頭を下げた。モップがけをしていたルーシーがお盆に飲み物を乗せてやってきて、鳳たちの前に置いた。どうやらサービスしてくれるらしい。カウンターにいるマスターに目礼すると、皿を拭きながら無言で頷いた。気がつけば他の客たちもみんなテーブルに戻っていて、店内は何事も無かったかのようにざわついている。

 

「それで、お前は魔法についてどれくらい知ってる?」

 

 どれくらいと言われると困ってしまうが、鳳は城でアイザック達が話していたことを思い出しながら、

 

「確か……ファイヤーボールとかライトニングボルトのことを古代呪文(エンシェントスペル)っていうんだろ。んで、流し斬りとか二段斬りとか叫ぶのが神技(セイクリッドアーツ)

 

 元の世界のゲームと同じで、技名を叫べば自動的に発動するはずだ。その旨も話してみたら、彼はあっさりと肯定した。尤も……

 

「まあ、俺は使えないから本当かどうか分からないがな。大昔からそう言われてるから、多分そうなんだろう」

「ふーん」

「その2つがいわゆるエンシェントってやつだ。これらはなんでか知らないが神人しか使えねえ。んで、それ以外のもんが現代魔法(モダンマジック)ってわけだ。おまえだって、ティンダーのスクロールを使ったことくらいあるだろ」

 

 鳳はコクコクと何度も頷いた。城の部屋で、模様の描かれた紙をマッチみたいに使っていたが、あれが現代魔法だったのか。そう考えると、さっきのエントリーシートもそうなのだろうか。

 

「大昔は古代魔法(エンシェント)を使う神人しか居なかった。ところが300年前に魔王に攻め込まれた時、人間が身を守るために編み出したのが現代魔法ってやつだ。必要は発明の母とはよく言ったもんだな。これらは訓練次第では誰にでも使えると言われてて、基本的にMPを消費しないのが特徴だ」

「MPを消費しない? じゃあ、俺にも使えるのかな?」

 

 ギヨームを肩を竦めながら、

 

「あくまでそう言われてるだけで、才能が無ければやっぱり使えねえよ。興味があるなら訓練所に行けば教えてくれるが、それで才能が開花するやつはごく僅かだ」

「そうなんだ……」

 

 世の中そんなに甘くは無いらしい。鳳はがっくりと項垂れた。そんな彼のこと眺めながら、少年は珍しいものでも見るような目つきで、

 

「本当に何も知らないんだな……まあ現代魔法は神人には無用のものだから、帝国の奥に行けば行くほど認知度は低いらしいが……おまえ、本当にどこから来たんだ?」

「えーっと……」

 

 城に仲間を残してきた手前、正直に話して良いものか……せめてジャンヌと話し合ってから決めたほうが良いだろう。鳳がモゴモゴと口ごもっていると、ジャンヌを連れて奥に引っ込んでいた受付嬢のミーティアが戻ってきて、

 

「お客様の中にレベル2の方はいらっしゃいませんか~? お客様の中にレベル2の方はいらっしゃいませんか~?」

「お医者様みたいに呼ぶんじゃないっ!」

 

 堪らず鳳が叫び返すと、店内がどっと湧いた。会話したこともない客にまで笑われているのは、なんかもう、彼はそんな扱いになっているからだろう。

 

 ミーティアは店のど真ん中の席に陣取って、古参冒険者たちの間にもう馴染んでる鳳を見つけると、ほんの少し驚いた表情をしながら近づいてきて、

 

「この短期間でもう仲良くなってるんですか。ある意味才能ですね」

「知らん。周りの連中が一方的に俺のことを知ってるだけだ」

 

 鳳のことというよりか、レベル2であることの方であるが……ミーティアはそんな彼の前に座っているのがギヨームであることに気づくと、

 

「あら、ギヨームさん、いらしてたんですか」

「ああ。例の内偵が終わったから、これから報告に行こうと思ってたんだが」

「ならちょうど良かった。今、探しに行こうとしていたところなんですよ」

「そうなのか?」

「はい。ギヨームさんと、それからレベル2の……なんだっけ」

「鳳だ!」

 

 ミーティアはコホンと咳払いしてから、

 

「鳳さん、ギヨームさん、お二人のことをギルド長がお呼びです。よろしければご同行願えますか?」

 

 鳳たちは顔を見合わせた。ついさっき知り合ったばかりだと言うのに、どうしてそれを知らないギルド長のところへ、同時に呼ばれたのだろうか? 二人は首を捻りながらミーティアの後についていった。

 

***********************************

 

 冒険者ギルドのカウンター横の扉をくぐると、酒場の裏庭に出た。ギルド長の執務室は同じ建物には無く、裏庭を挟んだ離れにあるらしい。そりゃ酒場なんかが同居していたら仕事にならないだろうから、当然と言えば当然だろう。

 

 酒場の二階は宿屋になってて、その二階から渡り廊下が伸びているのが見えた。剥き出しの地面を踏み、廊下の真下を辿っていくと、酒場の玄関でも見たギルドの小さな看板が掛けられていて、そこがギルド長の執務室であることを示していた。

 

 ミーティアが扉をノックして開けると、酒場より少し照明が利いた部屋の奥には、いかにも社長机といった感じの光沢のある大きな机が置かれてあり、その前方にはクッションの利いてそうな応接セットがあった。

 

 上座に座っていた長身痩躯でロマンスグレーの男性が立ち上がる。おそらく彼がギルド長だろう。慇懃に挨拶をする彼に向かって、これまたバカ丁寧にお辞儀をし返すと、彼はどうぞ座ってくださいと、先に来ていたゴリラの隣を指差した。

 

 鳳は大人しくそこへ座ったが、ギヨームは勧めには従わず、当たり前のように入口近くの壁にもたれて立っていた。部屋の人口が増えて気を利かせたのか、ミーティアがお辞儀をして去っていく。

 

 はて、なんで呼ばれたんだろうか? と、隣に座るジャンヌの顔をチラ見したら、彼は見るからに顔面蒼白でオロオロしながら応接セットの机を凝視していた。何かまずい事でもやらかしたのか……警戒していると、その理由はすぐに判明した。

 

「突然呼び出して申し訳ない。私はこの支部を任されているフィリップという。そこのジャンヌ君と話をしていて、少々気になることがあってね……尋ねてたんだが。彼はどうしても君と一緒じゃなきゃ話せないと言うので来てもらったんだよ」

「えーっと、何でしょうか?」

「単刀直入に聞こう。君たちは何者で、どこから来たんだ?」

 

 もう少し心の準備をさせてくれれば上手く誤魔化せたかも知れないが、いきなり過ぎて、鳳は表情を取り繕うことさえ出来なかった。ギョッとして助けを求めるように隣のジャンヌを見たら、彼は申し訳無さそうに顔の前で手を合わせていた。もうこの態度だけで何かやらかしたのは明白だろう。ギルド長は事の経緯をかいつまんで話してくれた。

 

「ミーティア君が期待の新人だと言って連れてきたから話を聞いていたんだけどね、するとこのジャンヌ君が神技(アーツ)を使えると言うじゃないか。神技は神人しか使えない古代魔法のはずだ。まさかとは思ったがエントリーシートには嘘は書けない。STR23なんてのも尋常じゃないし、これは何かあるなと詳しいことを尋ねてみたんだが……彼は君と相談しないと話せないの一点張りでね」

「あー……なるほど」

 

 鳳は引きつった愛想笑いを返しつつ、ジャンヌに顔を寄せ小声で話した。

 

「おい、どうすんだよ」

「ごめん、白ちゃん。出来るだけ話さないように意識していたんだけど……」

「おまえ、そういう腹芸苦手そうだもんな。仕方ない」

 

 鳳はため息を吐くと、どこまで話して良いものか考え始めた。

 

 正直、右も左も分からないこの異世界で生きていくことを考えたら、これから世話になろうとしているギルドに、事情を話しておくのは悪い選択じゃないだろう。しかしまだ、この人たちがどれくらい信用出来るかわからない状況では、全てを話すわけにもいかなかった。

 

 城を出る際、アイザックはここでの事を話したらタダじゃ済まないと言っていた。具体的に何をされるかは分からないが、仲間がまだ城に残っている現状では、下手に漏らして怒りを買うのは避けたほうがいいだろう。

 

 だから話すとしても自分達のことだけ……異世界のゲームで遊んでいたら、知らぬうちにこっちの世界に迷い込んでしまったということだけなのだが……こんな話、一体誰が信じるというのだろうか。

 

 しかし鳳がダメ元でそのまま話してみると、

 

「やはり、君たちは異世界からやってきた放浪者(バガボンド)だったか」

 

 意外にも、ギルド長はあっさり鳳の話を受け入れてしまった。これには逆に鳳たちの方が驚いた。

 

「ええ!? 信じてくれるんですか??」

「ああ、放浪者は昔からたまに現れるんだ。そこまで珍しくはない」

「放浪者?」

 

 ギルド長は軽く頷いてから、

 

「この世界の住人の中には、君たちのように異世界の記憶を持って生まれた子供や、ある日突然前世の記憶に目覚める者がいるんだ。そういった人物は大抵の場合、能力に恵まれており、突出した才能を見せたりする。恐らくだが、君たちはここよりもずっと進んだ文明のある星からやってきたんじゃないか?」

 

 鳳とジャンヌが顔を見合わせてから頷くと、ギルド長はさもありなんと言わんばかりの納得顔で続けた。

 

「それならジャンヌ君のSTRが異常に高いことや、神技が使える理由もわかる。放浪者は優れた前世の記憶を持ち、この世界に貢献してくれることが多いんだ。かつての勇者パーティーとか、現代魔法の創始者たちもそうだったんだよ」

「勇者パーティー……じゃあ、もしかして勇者召喚ってのは、その放浪者を呼び出す儀式なんですか?」

 

 鳳が探りを入れるつもりでそう尋ねてみると、ギルド長は首を振って、

 

「いや、それは帝国に伝わる、真祖ソフィア復活のための儀式のことだ。元々はソフィアを呼び出すつもりが、何故か分からないが勇者が誕生してしまったので、今日では勇者召喚と呼ばれているだけさ。君は勇者に興味があるのか?」

「いえ、もしかして、俺たちもそれで召喚されたのかなあ~って……」

「あっはっはっは!!」

 

 ギルド長は大声で笑った。

 

「それはない。それは皇帝位を持つものにだけ許された禁断の秘技、300年前に一度だけ行われたと言われる禁呪だよ。先代皇帝が死んだ今となっては、使える者なんていないのではないかな」

 

 それじゃアイザックたちは一体、何をやったのだろうか……? 彼らは鳳たちのことを勇者と呼んだ。それに、地下室で見つけた5つの白骨死体……気にはなったが、下手につついてやぶ蛇になっては元も子もないだろう。鳳は勇者召喚のことについては、まだ黙っておくことにした。

 

 ともあれ、この世界で異世界の記憶を持っていると言っても、それほど不思議がられることもないようだ。それなら今後は、ある日突然、前世の記憶に目覚めたことにしておこう。鳳がそんなことを考えていると、ギルド長は壁にもたれ掛かっているギヨームを指差しながら、

 

「因みに、そこの彼も放浪者だ。君たちの先輩だな」

「え!? そうだったの??」

 

 びっくりして鳳が振り返ると、壁で腕組みをしていたギヨームは珍しくニヤニヤ笑いをやめて斜め上の方を見ながら、

 

「……ニューメキシコのド田舎で暮らしていたんだ。牧畜以外に、何の取り柄もない土地さ」

「へえ、アメリカ人だったんだ?」

「まあな」

 

 口数が少ないのは、あまり前世のことに触れてほしくないからだろうか。ならばこちらもスネに傷がある手前、黙っておくのが賢明だろう。二人がそんな具合に微妙な空気を醸し出していると、それを察したギルド長が話題を変えた。

 

「まあ、そういうことなら、君たちのことを歓迎しよう。ジャンヌ君があまりにも得体が知れないから警戒していたが、放浪者と判明した今なら拒絶する理由もない。寧ろ、ジャンヌ君ほどの能力持ちなら即戦力間違いなしだ。是非、うちに冒険者登録して活躍して欲しいくらいだ」

「あ、ありがとうございます!」

 

 ジャンヌはホッとした表情で礼を言っていた。受付でエントリーシートを書く時も様子がおかしかったが、よほど就職活動に嫌な思い出があるのだろう。

 

 ギルド長はそんなジャンヌにニコニコ笑いかけながら、

 

「始めのうち、分からないことがあったらそこのギヨームに聞いてくれ。彼はこう見えて、このギルドで最も頼りになる冒険者だ。同じ放浪者でもあるし、気が合うかも知れない」

 

 突然話を振られたギヨームは一瞬面倒くさそうに眉を顰めたが、すぐに思い直したようにいつものニヤニヤ笑いを作ると手を差し出し、

 

「ギヨームだ。討伐をメインにやってるが、潜入や探索も得意だ。討伐隊(パーティー)を組む際は一緒になるだろうから、その時はよろしく頼む」

「よろよろ……よろしくお願いするわ」

 

 ジャンヌは立ち上がって彼の手を握り返すと、その小さな脳天を見下ろしながら、本当にこいつが先輩なのか? といった感じの表情を見せた。まあ、そう思うのも仕方ないだろう。ギヨームは見た目は小学生……せいぜい高学年といったところなのだ。しかし、その実力は折り紙付きである。

 

「ジャンヌ、この世界では人を見かけで判断しないほうが良いぞ。おまえだってそうだろ? そいつにはさっき危ないところを助けてもらったという実績があるんだ」

「そ、そうだったの? それは失礼したわ。改めてよろしく」

「ああ、せいぜい役に立ってくれ」

 

 ギヨームがぶっきら棒に挨拶を返すと、ギルド長が何やら書類を持って二人の間に入ってきた。

 

「それじゃ、ジャンヌ君。形式上だが書類にサインを頼むよ。文字が書けないなら拇印でもいい」

「いいえ、文字の読み書きは出来るみたいよ。考えてみれば不思議な話ね。一体、どうなってるのかしら?」

「さあな、考えても仕方ない。便利ならそれでいいだろう」

 

 三人が和気あいあいと話を進めている。鳳はそれを蚊帳の外で眺めながら、

 

「因みに、俺の分は?」

 

 自分も冒険者登録をしてくれないかと尋ねてみたら、ギルド長はギクリと肩を震わせ目を逸した。この様子からして、ミーティアから報告を受けているのだろう。

 

 彼は今までにないほど余所余所しい態度で、しどろもどろに、

 

「あ~……君は正直、登録しても回せる仕事がないと思う……簡単なものなら受付にあるから、ミーティア君に聞いてくれればいいんだが」

「うん、知ってた。そうなるんじゃないかと思ってた」

 

 鳳が不貞腐れてみせると、ギルド長は期待の新人がいる手前で、その仲間をあまり無下には出来ないと思ったのか、苦笑交じりに冷や汗をかいていた。しかし突然、何かを閃いたといった感じで、ポンと手を叩いたかと思えば、

 

「そうだ! ギヨーム、彼のことも面倒をみてやってくれないか?」

「はあ!? なんで俺が」

 

 その言葉に、ギヨームが露骨に嫌そうな顔をする。

 

「今後、ジャンヌ君と行動を共にするなら、彼ともしょっちゅう会うことになるだろう。それに、考えてみれば彼だって放浪者なんだ。磨けば光る玉かも知れない」

「レベル2なのに?」

「レベル2でもだ」

「おいこら、あまりレベル2を連呼しないでくれないかっ!」

 

 堪らず鳳が抗議の声を上げると、ギルド長はまあまあ抑えて……といった感じに胸の前で両手のひらを見せながら、面倒くさそうな素振りでいるギヨームに向かって、

 

「なら、面倒見てくれたらボーナスあげるから」

「……具体的には?」

「そうだな。彼が使い物になるんなら、これこれ、こんな具合に……」

 

 ギルド長とギヨームは額を突き合わせてソロバンを弾き始めた。ギルド長が出す条件に対し、途中、何度もギヨームは口を挟んで訂正したが、やがて諦めたようにため息を吐くと、

 

「わかったよ。それで手を打とう。しかし期待はするなよ? ただでさえ低レベルなくせに、放浪者ときている」

「それでいい。だが手を抜くなよ?」

 

 ギルド長との話し合いがまとまると、ギヨームは面倒くさそうにポリポリと後頭部をかきむしりながら、今度は鳳に向かって手を差し出しながら、

 

「それじゃ、見ての通りお前の教育係を任された。知ってると思うがギヨームだ」

 

 鳳はその手を握り返しながら、

 

「ああ、よろしく頼むよ」

 

 鳳とジャンヌ、二人の異世界生活はこうして始まった。まだ右も左も分からない異世界で、これからどうやって生きていけばいいのかと悩んでいたが、こんなにも早く行き場が見つかったことは幸運だったと言えよう。

 

 冒険者ギルドなんて鳳ひとりだったら思いつきもしなかっただろうから、ジャンヌという仲間の存在はそのステータス以上に心強かった。逆を言えば今の所、鳳は何の役にも立っていないから、早く自分の立場というものを確立していかなければ、この世界で埋没するどころか、いつ野垂れ死んでしまってもおかしくないだろう。

 

 そんなプレッシャーを隠しつつ……鳳はまだ見ぬ冒険に思いを馳せていた。

 



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よくわかる現代魔法①

 異世界に召喚されてからたったの二日で、城から追い出されて行き場を失った鳳とジャンヌは、城からほど近くの街(それでも10キロくらいは離れてる)で生活を始めた。当初は二人で魔物退治などのクエストをこなすつもりだったが、鳳があまりにも無能であるため、現在はジャンヌ一人が冒険者として街周辺の魔物退治を行っている。

 

 冒険者稼業を始めたジャンヌは、やはりと言うべきか、驚くほどの活躍を見せギルド長を喜ばせていた。最初こそ、モンスターを殺すことを躊躇って教育係のギヨームを苛つかせていたが、一度経験してしまえば、廃課金と同じで罪悪感もなくなってしまったとかなんとか言っていた。

 

 例えはあれだがわかりやすい。元々、中二病を拗らせて女騎士ロールプレイまでしていた中年男性であるから、案外、こういうマタギ生活みたいなことが向いていたのかも知れない。今ではギルドのエースと呼ばれるほどにまで成長している。

 

 因みに鳳の方は、それを指を咥えて見ているだけで、たまに掲示板に張り出されるお使いクエストをこなして、小遣い稼ぎをするのが関の山だった。小遣い稼ぎと言うだけあって、本当に子供にも出来てしまうから、近所の子供と競争することもしばしばあり、気がつけばギルドの連中よりも、そんな子供たちと一緒にいることが多い始末である。

 

 冒険者ギルドはそんな具合に、街のお使いから魔物討伐まで幅広くやる、なんでも屋みたいなものだった。支部は勇者領を中心に世界各地にあるそうだが、通信技術が発達していないから、支部間の連携はあまり無いらしい。

 

 ただし、隣り合う支部は依頼内容次第で交流があるから、活躍すれば知名度もじわじわ浸透していくそうで、エースクラスは通り名で呼ばれ、世界を股にかける冒険者も中にはいるようだ。ところで意外……でもないかも知れないが、ギヨームも『ザ・キッド』の通り名で呼ばれる、割と知られた冒険者であるらしい。何というか、見た目そのままの名前である。

 

 因みに冒険者には達成した依頼の難易度でランク付けがされるのだが、彼は数少ないAランク冒険者の一人だそうだ。そんな彼は、元々は勇者領で活動をしていたそうだが、目立つことを嫌ってこっちの支部に移ってきたそうである。ギルド長は拾い物をしたと単純に喜んでいるようだが、ただの小学生にしか見えない彼が、たった一人でこんなガラの悪い街で暮らしているのは、なんだか腑に落ちない感じがした。

 

 両親はどうしているのだろうか? 異世界チート転生のお約束で、放浪者も見た目と違い中身は大人のようだから、自活していても不思議ではないのだが、彼はそういうプライベートな話はあまりしたがらなかった。

 

 さて……鳳がやれるような簡単な仕事を除けば、冒険者ギルドの依頼は主に3つに分類される。モンスター討伐、護衛、それから探索だ。

 

 まずはじめに、モンスター討伐は言わずもがな、人々に依頼されて人里に現れた魔物(モンスター)を狩る仕事である。

 

 この辺は帝国の食料庫と呼べるくらい穀倉地帯が広がっているのだが、すぐ南にはワラキアと呼ばれる大森林があって、そこから魔物がちょくちょくやってきては畑を荒らすらしい。国がなんとかしてくれればいいのだが、そんなのは現代人だから言えることで、こちらの農家は自分達で対処するしかない。しかし、魔物は全て猛獣だから、自警団のようなものを作っても限度がある。

 

 そんなわけでギルドは農家から依頼を受けて冒険者を派遣し魔物を退治する……まんま現代のハンターみたいな仕事だが、これが一番実入りも良くて依頼数も多い、ギルドの花形の依頼だそうだ。

 

 続いて護衛は、主に街から街へ渡り歩く商隊(キャラバン)を、目的地まで安全に送り届けるのが仕事である。たまに貴族なんかが、個人的に護衛を雇うこともあるそうだが、基本的に商隊相手だと思っていい。

 

 この街はヘルメス国の国境で勇者領へと続く街道が通っている。しかし勇者領へは森の中を通らなければいけない。森は魔物が棲息しているだけではなく、盗賊なんかも潜んでいるから、護衛の需要は割とあるらしい。

 

 何事も起こらなければこれほど楽な仕事はないのだが、難点は敵が出たとして相手を選べないことと、とにかく日数がかかることだそうだ。特に護衛は往復ではなく片道のことが多いから、行ったはいいが帰りは徒歩でとなりやすく、その間、別の依頼を受けたほうが結局は実入りが良かったということも多いらしい。だったら始めから商隊付きの傭兵になればいいやと、そのまま雇われる冒険者もいるらしく、需要が多い割に、なり手がすくない仕事のようだ。

 

 そして最後は探索……これには大雑把に二種類のものがある。

 

 まず一つは、魔物の巣を発見すること。この街は討伐依頼が頻発するくらい魔物がちょくちょく出没するわけだが、中には人里近くに巣を張って定期的に人を襲うような知恵のある魔物もいるらしい。鳳が城で殺されかけたゴブリンなんかがその典型である。

 

 冒険者ギルドでは集落からの依頼を受けて周辺を探索し、魔物の生息地を発見しては、駆逐するという仕事を請け負っているそうである。元々判明している巣を襲撃するのではなく、発見から駆除までするわけだから、かなりの経験と勘が試されるわけだが、ギヨームはこれが得意らしく、その相方としてジャンヌは主にこの仕事を受けているようだ。

 

 そしてもう一つの探索とは、文字通り遺跡(ルインズ)迷宮(ラビリンス)の探索である。この世界にはなんと、ゲームみたいな不思議なダンジョンがあちこちに点在するらしいのだ。

 

 ギルド長からのレクチャーでは……この世界の歴史は、記録に残っているのはせいぜい300年前からで、それ以前のことは口伝でしか伝わっていない。各地にある迷宮はその先史時代のものではないか? とのことだった。

 

 曰く、この世界には創世神話があり、それによると世界は四人の神様によって創られたのだとか。四人はそれぞれ、エミリア・デイビド・リュカ・ラシャと呼ばれ、万物の根源をなす四元素を司っていた。そう……エミリアである。メアリー・スーが、この世界の神様の名前だと言っていたのは、どうも本当のことらしい。

 

 四柱(よはしら)の神は仲良く世界を創ったまではいいものの、それを統治する人間のあり方で揉めて喧嘩を始めた。結果、ラシャはリュカを殺し、デイビドは逃げ出し、エミリアは閉じこもった。世界はラシャの生み出した魔王によって火に包まれたのだが……ここから先は、城で聞いた創世神話と同じである。

 

 エミリアは魔王を倒すべくソフィアという名の化身(アバター)を地上に遣わし、彼女が五精霊を生み出して魔王を倒した。その後ソフィアは行方不明となったが、五精霊は各国の守護精霊として実在している。300年前、本当に現れたことが記録として残っているのだ。

 

 そんなわけで、エミリアは神の中の神と呼ばれ、この世界で最も偉大なる神として崇拝されている。メアリーの言葉を借りれば、エミリアとソフィアと精霊は三位一体……その精霊に創られた神人たちは神の子孫であることを誇りに思っており、そうではない人間や獣人(リカント)のことを蔑んでいるそうだ。

 

 故に神聖帝国の正式名称は『神の神たる(デウス・)エミリアの治める(エスト・)聖なる帝国(エミリア)』と呼ぶ。彼らにとってエミリアは国であり神であるというわけだ。

 

 続いて、遺跡や迷宮は、ソフィアが魔王と戦った、神話時代のものと考えられている。

 

 迷宮(ラビリンス)と言うだけあって、その構造は人間の常識を超えており、トラップや謎解きはもちろん、奥に進んでるはずなのにいつの間にか外に出ていたとか、狐につままれたような出来事が当たり前のように起こるらしい。しかしその迷宮を攻略して得られるお宝もまた常識外れで、手に入れることが出来れば巨万の富を得ることもあり得ると言われている。

 

 具体的には、大昔、スクロール魔法を完成させた先駆者は、迷宮で得た宝を使用したのだと言われている。ティンダーの魔法を思い出せば分かるだろうが、あれに特許料が入ってくると思えば、迷宮がどれほどの富を生み出すかわかるだろう。要はそういう力が手に入るのだ。

 

 そんなわけで、迷宮探索はギルドでも最大目標の一つなのだとか。コツコツと知名度を上げてきたジャンヌは、今後迷宮にチャレンジする機会があるかも知れないと嬉しそうに語っていた。羨ましい限りである。

 

 さて、そんな具合に冒険者として着実に出世街道を歩いているジャンヌと対象的に、鳳の方はいつまで経っても街の中で燻っていた。彼が何をやっているのかと言えば、とにかく訓練所通いである。

 

 鳳は才能が無いだけではなくジョブもない。恐らく、このままじゃスキルを覚えることすら出来ないだろうから、訓練所でステータスアップするよう、教育係(ギヨーム)に命じられていたのだ。

 

 城でも言われたとおり、基本ステータスは地道な鍛錬で上げることが出来るから、ステータスの変動があれば何らかの職業に就くことが出来るかも知れない。訓練所では、木剣を使っての戦闘訓練のような実技の他、魔法の基礎を教えてくれる座学があり、鳳はどちらかと言えば後者の方で、知識を蓄積することを好んで行っていた。

 

 やはり、元の世界で魔法系ジョブに就いていたくらいだから、こっちの方に興味があったのだ。

 

 以前、ギヨームも話してくれたが、この世界の魔法は大まかに二種類が存在する。神人が使う古代魔法(エンシェント)と、人間が使う現代魔法(モダンマジック)である。

 

 そのうち古代魔法は、鳳たちがよく知る元の世界のゲームと殆ど同じものだった。どうしてそんなものがこの異世界に存在しているのかは分からないが、女神様の名前から察するに、彼女(エミリア)に何か関係があるのは間違いないだろう。

 

 古代呪文(エンシェントスペル)は、元の世界のゲームの魔法使い系ジョブが覚える魔法そのものであり、覚えられる種類が厳格に定められている。具体的にはゲームで魔法使いはジョブレベルが上がるごとに新しい魔法を覚えていくのであるが、こちらの世界でもそれを踏襲しているのだ。

 

 例えば、こっちの世界で魔法使い(メイジ)として生まれた子供は、生まれつき魔法レベル1のエナジーフォースを使うことが出来、成長して魔法レベルが2に上がったら、エンチャント・ウェポンやディスペル・マジックを覚えると言う寸法だ。

 

 因みにこの後、

 

レベル3 スリープクラウド・スタンクラウド

レベル4 ファイヤーボール・ブリザード

レベル5 ライトニングボルト

レベル6 レビテーション(・タウンポータル)

レベル7 ディスインテグレーション(・サモンサーヴァント)

レベル8 メテオストライク(・リザレクション)

 

 の順番で次々と覚えていくのだが、この世界の魔法使いは最大でもレベル5までしか存在しないらしい。じゃあ、なんでレベル8までしっかり定義してあるのかと言えば、真祖ソフィアが使っていたという伝説が残っているからだとか。

 

 因みに、カッコ内はゲームでは存在したのだが、こちらの世界では失われた禁呪と言われており、真祖ですら使うことが出来なかった魔法である。まあ、瞬間移動に召喚に復活と、その内容を考えれば理由も分かるような気がするが……

 

 ところで、鳳は神人に襲われた時にジャンヌをポータルで呼び出したことがあった。魔法どころかあらゆるスキルに対して無能である鳳が、何故あの時、都合よくポータルを作り出すことが出来たのか不思議ではあるが……今は考えても無駄だろう。エミリアのことも含め、もう少しこの世界のことが分かってから総括した方がいいだろう。

 

 続いて、神技(アーツ)である。これは元の世界のゲームでいえば、近接戦闘スキルに当たる。流し斬りとか、高速ナブラみたいなものだ。これは僧侶(プリースト)が主に使うものだそうである。

 

 古代呪文(スペル)がレベル5までしか使えないように、こちらもそれほど複雑な物は伝わっていないようだ。聞いた話では、流し斬りとか二段斬りとかパリィとか、元の世界では基本技と呼ばれるものしか存在せず、ジャンヌの使う紫電一閃とか快刀乱麻みたいな大技はないらしい。

 

 とは言え、それじゃ使い物にならないのかと言えばとんでもなく、技によってはバフやデバフ、ステータス異常を引き起こすようなものがあるのだ。

 

 例えばジャンヌとカズヤが試していたように、流し斬りが完全に入れば一時的にSTRが5減って行動が阻害される。いや、ジャンヌみたいな化け物なら阻害で済むかも知れないが、STRが10しかない鳳が食らえば半減だ。ただで済むとは思えない。ド派手な演出の大技よりも、実はこういった地味な技のほうが有用だったりするからわからないものである。

 

 尤も、これら古代魔法(エンシェント)はジャンヌのような例外を除けば、基本的に神人しか使えない。だから相手を選べば避けることが出来るが……現代魔法はそうはいかない。

 

 見た目、ただの小学生でしかないギヨームが、虚空からピストルを抜き出したように、その使い手はどこに存在するか分からない。おまけに、職業に左右されず、基本的にはMPを消費しないというのが現代魔法の特徴であるから、使用者によっては神人よりもよほど性質が悪かった。

 

 現代魔法はMPを使わないという性質上、もしかしたら鳳にも使うことが出来るかも知れない。故に彼は訓練所で主に座学を中心に受けていたのだが、この現代魔法(モダンマジック)なるものも古代魔法(エンシェント)同様に、いくつかにカテゴライズされていた。

 



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よくわかる現代魔法②

 現代魔法(モダンマジック)は、300年前、魔王と戦うために勇者と共に立ち上がった、人間が編み出した技術である。

 

 これまで何度も言及したとおり、この世界には魔王を倒した勇者が存在するが……その影に隠れて目立たないが、彼は決して一人で魔王に挑んだわけではなく、ちゃんと仲間が居たのだ。それが現代魔法の創始者たちであるらしい。

 

 仲間達は現代魔法で勇者をサポートし、魔王討伐後はそれを体系化して後世に伝えた。お陰で今では、現代魔法は街の訓練所でも習得できるスキルとなっている。ただし、それで本当に使えるようになるかどうかは、また別の話であるが……

 

 ともあれ、今度は現代魔法(モダン)の話をしよう。現代魔法も古代魔法(エンシェント)と同じように、大別すると二つのカテゴリーに別れている。

 

 まず一つ目は、利己的な共振(エゴイスティック・レゾナンス)と呼ばれる魔法体系である。これは一般には共振魔法と呼ばれており、学校や街の訓練所などで習うことが出来るのだが……どういうものか簡単に言えば、これは歌や演奏のような『音』に魔力を乗せて、対象の心理に強制的に働きかけるものである。

 

 例えばラグビーのハカのように、自分達の戦意を高揚し逆に相手の戦意を挫く儀式(セレモニー)が存在するが、共振魔法は正にそのような効果を現実にしたものらしい。

 

 思い出してほしいのは、鳳たちのステータスにはSAN値が存在することだ。神人たちが言うには、ゼロになっても死にはしないがレベルが下がってしまうとぼやいていた。

 

 共振魔法(レゾナンス)には、SAN値を下げるインサニティ、それを防ぐサニティという魔法があり、人間同士の戦闘の際には、まずその魔法をお互いに掛け合ったりするそうである。感覚的には、大昔の呪術合戦みたいなものだろうか。

 

 因みに神人や魔族にはそれを返す術がないらしく、銀の武器同様、使用者のことを避けて通るらしい。その点だけとっても、現代魔法は弱い人間が、より強い人種に対抗する有効な手段と言える。

 

 他にもSTRが上昇するバトルソング、HPとVITが上がるプロテクション、AGIが増減するヘイストやスロウ、一時的にレベルが上昇し狂戦士化するブレイブソウルなどが存在するらしい。

 

 共振魔法は精神に働きかけるものばかりだから、ただの気のせいじゃないかと思うかも知れないが、実際にステータスが増減するそうだから、もしかすると神人の使う神技(アーツ)と同じような仕組みなのかも知れない。

 

 こんな具合に、非常に使い勝手のいい魔法体系であるが……ただし、使い手は非常に選ぶ。

 

 共振魔法が、誰にでも使える可能性があるのは確かだが……鳳も興味を持って訓練所で習ってみようとしたのだが、最初の訓練でピアノの前で延々と発声練習をさせられたことからしても、血のにじむような努力と、天才演奏家(マエストロ)クラスの才能が要求されることが分かるだろう。世の中、そんなに美味い話はないわけだ。

 

 続いて、もう一つの現代魔法は、幻想具現化(ファンタジック・ビジョン)と呼ばれている魔法体系である。

 

 これは別名スクロール魔法と呼ばれているものだが、やはり相当の才能がなくては使えない。ティンダーやウォーターのスクロールのような、紙や道具に魔法を施す、マジックアイテムを作る魔法と考えればいいだろう。

 

 因みに、例のティンダーのスクロールには、赤や青の同心円が描かれているのだが、実はかなり抽象化されているが、あれは炎を描いたものらしい。同じように、ウォーターのスクロールには、青い水玉模様がちょこちょこ描かれていたりする。

 

 幻想具現化は、かつて勇者の仲間だった天才画家が、キャンバスに描いた物体を、絵画から取り出したのが始まりだった。彼は自分の内なる世界(ミクロコスモス)から、思いつく限りあらゆる兵器を取り出し、魔族との戦いに投入した。実は城で兵士たちが装備してたライフルも、この天才画家が最初にこの世に具現化したものが、後に現実でも製造されるようになったものだそうである。科学ではなく、魔法が先だと言うから驚きだ。

 

 魔王討伐後、画家は今度は兵器ではなく生活に役立ちそうな絵画を次々生み出し、そのスクロールを誰にでも使えるように抽象化、大量印刷することに成功した。これが現在世界中で利用されているティンダーやウォーターのスクロールなのだそうである。

 

 彼はその利権で巨万の富を得て、引退後は悠々自適の生活を送ったそうだ。今では、現代魔法を志す魔術師たちのあこがれの的である。

 

 因みに、ギヨームが使っているのも幻想具現化の一種なのだとか。一種と言うからには、完全に同じものであるわけではない。彼の魔法を、便宜上クオリアと呼ぶが……

 

 クオリアとは、例えば、人間は火という言葉を聞くと、頭の中で瞬時でそれを思い浮かべることが出来る。熱い、明るい、危険。水と聞けば、それが冷たいとか、形がないとか、透明とか……言葉にすると難しいが、頭の中で火や水の映像(イメージ)を作り出すのは容易いことだ。

 

 こんな具合に人間は、頭の中でなら、自由に物を創ったり壊したり出来る。この時、頭の中で思い浮かべている空想の産物のことをクオリアと呼ぶ。

 

 つまりスクロール魔法とは、クオリアを絵に投影し、それに魔力を込めて現実化していると考えられるわけだが……何故かギヨームは、絵に描くという工程をすっ飛ばして、いきなり空想(クオリア)を取り出すことが出来るらしいのだ。

 

 やってることは幻想具現化(ファンタジック・ビジョン)と同じことなのだが、その過程は著しく省略されて、もはや別物と言っていい。さらにギヨームのそれ(クオリア)は、現代魔法であるにも関わらずMPを消費するので、もしかすると古代魔法と仕組みが似ているのかも知れない。しかし現在のところ、その発動条件はよくわかっていない。

 

 クオリアの使い手は非常に稀で、使えればそれだけで価値がある。例えば、ギヨームがある日突然、絵的才能に目覚めたら、ピストルを作り出すスクロールを量産できる可能性があるわけだ。残念ながら彼に画才は無かったものの、その可能性だけで彼に投資する価値があるのが分かるだろう。

 

 例えピストルが作り出せなくても、銃撃をするスクロールがあれば、その使いみちが山程あることは誰にだって想像できるはずだ。もしかすると、彼が人を避けてこの街に流れ着いたのも、それが理由かも知れない。もし自分の子供にその才能があったら、両親は彼のやりたいこと、したいことを無視して絵を描けと言うだろう。まあ、彼がそれで傷つくような玉とは思えないが……

 

 話を戻そう。クオリアの才能には先天的なものと後天的なものが存在し、ギヨームは生まれつきクオリアが使えたそうである。尤も、彼は放浪者(バガボンド)だから、前世の記憶に目覚めた瞬間……と言ったほうがいいだろうか。

 

 逆に後天的なものとはどんなものかと言えば、遺跡(ルインズ)迷宮(ラビリンス)から発掘される、マジックアイテムを使用することで得られる力のことである。迷宮には必ずと言って良いほど、お宝が隠されているのだが、そのお宝を使用することで、なんとクオリアを獲得することが出来るらしいのだ。

 

 迷宮は先史文明の遺産と考えられているが、何故このようなものが地上のあちこちにあるのかは良く分かっていない。だが、そこに隠されているマジックアイテムが、巨万の富を生み出すことだけは分かっているので、世界中の資産家がこれを求め、冒険者ギルドとしても迷宮攻略は最大の目標の一つとなっている。

 

 さて……

 

 このように、誰もが血眼になって探し求めるマジックアイテム。それを使用することで得られるクオリアであるが……

 

 意外にも、鳳にもその才能があるかも知れないのだ。

 

 クオリアの使い手であるギヨームが言うには、先天的にその能力を有する者は、確固たる自分の世界(ミクロコスモス)を持っているものらしい。自分の世界とは要するに、これだけは譲れないという個人の(こだわ)りみたいなものである。

 

 ギヨームは自分のことをあまり話したがらないからはっきりとは分からないが、彼はあっちの世界で自分の身を守るために、いつもピストルを携帯していたらしい。これが無ければ死んでしまう、日常的にそういう状況に追い込まれていた。まさに自分の命と言っていいほど思い入れがあったから、こっちの世界のクオリアとして現れたのではないか……

 

 故にある日、鳳は彼に言われた。

 

「もし自分の命よりも大事なものがあるというなら、それを想像してみろ。おまえに才能があるなら、心の中に浮かんだそれが、形となって現れるはずだ」

 

 そう言われて鳳は、自分にも何か大切なものがなにかと考えてみた。

 

 とはいえ、元の世界に戻れないと聞いてもそれほど動揺しなかったくらい、鳳はあっちの世界に未練がない。だから大事なものと言われてもすぐには何も思いつかなかった。

 

 逆に後悔ならすぐに思い浮かんだ。もしもあの時、エミリアに告ろうとしてアバターを変えたりしなかったら、今頃こんな苦労をすることは無かったのに。うっかり初期ステータスの新キャラなんかをクリエイトしてしまったばっかりに、自分は未だにレベル2なのだ。

 

 それに今となっては、あの時いくら待っても彼女が待ち合わせ場所に来なかったことは判明しているわけだし、ただこっちの世界で生きづらくなるだけの行為に、なんの意味があっただろうか。

 

 そもそも、あんなゲームの中で告ろうとしたこと自体が間違いだったのだ。エミリアは実在の人間なんだから、始めからリアルで接触する方法を考えるべきだった。ゲームの中で声をかけること自体は悪いアイディアじゃなかったとしても、何もあんなギリギリになるまで引き伸ばす必要は無かったではないか。もっと早く声をかけりゃよかったではないか。

 

 単純に、鳳の勇気が足りなかったのが原因だが、そのせいで現在死ぬほど苦労させられているのだからやってられない。他の連中はゲームのステータスを継承してお姉ちゃんたちとよろしくやってると言うのに、ジャンヌだって冒険者として楽しくやってるのに、自分だけが近所のお使いクエストで小遣い稼ぎしか出来ないなんて、どう考えても割に合わないだろう。

 

 せめて、当初の目的通りエミリアに告れたならともかく……最悪、フラれたとしてもまだ納得行くだろうが、何も出来ずにただレベル2で異世界に放り出されるなんて、自分が何をしたというのだ。そりゃ、中学の時のあれは悪かったと思う。だが、それならそれで相談くらいしてくれたらいいのに、勝手に引きこもった挙げ句に、何度家に通っても会ってくれずに、終いには家族にまで煙たがられたんじゃ、どうしようもないじゃないか。

 

 鳳は考えているうちに段々ムカムカしてきた。

 

 頭の中はエミリアのことで一杯だった。

 

 だからだろうか……

 

「おい、おまえ……それどうやったんだ!?」

 

 突然、血相を変えたギヨームにそう言われて、鳳はハッと我に返った。

 

 つい自分の回想に熱くなってしまったが、今は会話の最中だった。彼は苦笑しながら自分のほっぺたをポリポリやろうとして、

 

「……おや?」

 

 その手に一枚の紙が握られていることに気がついた。

 

 広げてみればそれは和風な絵柄が描かれた千代紙……多分、真っ暗な城で目覚めた時に手にしていて、後で作った折り鶴をメアリーにあげたものと同じではなかろうか。あの時は、落ちていた物を拾ったと思っていたが、

 

「もしかして、これって俺が創り出したのか?」

 

 ポカンとしながら目の前にいたギヨームに尋ねてみるも、

 

「俺が知るか。いま自分が出したっていう感触は無かったのか? 俺には突然、おまえがそいつをどっかから引き出したように見えたが」

「いや、全く。別のことを考えてて、何も覚えちゃいないんだけど……」

 

 何を考えていたかと言えばエミリアのことだが……折り鶴は彼女との思い出に深く関係してて、それをあげたメアリーは彼女そっくりで、エミリアはこの世界の神であって、彼女があっちの世界で作ったゲームのキャラクターがこっちの世界じゃ真祖で……

 

 そういうことなのか? 彼女に対して思い入れがあると言えば、そりゃもちろんあるが……

 

「とにかくもう一度試してみろよ」

 

 ギヨームに促されて、鳳はエミリアとの思い出を一生懸命思い出そうとした。しかし、今度はいくら考えても千代紙は現れなかった。というか、千代紙を出すという行為と、彼女のことを考えるという行為が、イメージとして結びつかないのだ。彼女のことをどう考えれば、千代紙に繋がるというのだろうか?

 

 その顔を思いだせばそれでいいのか。彼女のことを愛していると切に想えばいいのか。逆にもう会えない彼女に対して怒ればいいのか。大体、子供の頃と最近とでは、彼女に対する印象も違う。今となっては小学生のころの記憶は薄れ、ゲームの中でのソフィアのイメージの方がよほど強い。ならもしかして、思い出すのはエミリアではなく、ソフィアの方にすればいいのだろうか? いや、もう一人いる。あの城の謎空間で出会ったメアリー。あの時、現れた光の行く先は、彼女のいる場所を示していた。それにこの世界にはエミリアという神様が居て、その化身の真祖ソフィアが存在する……

 

 鳳の彼女に対して持っているイメージはそんな具合に分裂していて、上手くまとまらなかった。それもそのはず、彼女と会ったのは中学一年の一学期が最後で、現実ではもう何年も前の話なのだ。

 

 だから何を考えても彼女の現在には繋がらず、その後いくら試しても千代紙は一向に現れなかった。

 



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このバカチンがー!

 それから二ヶ月の時が流れた。

 

 鳳たちがアイザックの城から抜け出して、たどり着いた名もなき宿場町は、今となっては二人のホームグラウンドとなっている。この街に名前がないのは、そもそもここが街として認められていないからだった。

 

 この街はヘルメス国と勇者領を繋ぐ街道の国境付近に位置し、ヘルメス国のまさに玄関口になっていた。勇者派であるヘルメス国は勇者の死後、勇者領との連携を考慮して、両国を結ぶ街道を作った。そして両国は通商協定を妥結し、商人たちのキャラバンは自由に往来できるようになったのだが……ヘルメス国は商人の通行を認めはしても、獣人(リカント)の入国は認めなかった。

 

 そのためキャラバンはヘルメス入国に際し、国境付近に獣人達を置いてから入国するようになったのだが、こうしてキャラバンに置いてかれた獣人たちが共同生活するようになったのが、いつしか街にまで発展したわけである。

 

 しかし、ここが仕方なく出来たゴミ溜めみたいな街だと思ったら見当違いである。江戸四宿に匹敵すると言ったら言い過ぎかも知れないが、この街はそのくらいのポテンシャルを秘めている。街の成立の仕方がそれと似ているからだ。

 

 江戸四宿とは幕府成立後に整備された千住、板橋、品川、後に甲州街道の内藤新宿を加えた四宿で、どれも現代でも栄えている街ばかりだ。

 

 しかし、その位置を地図で確認してみればわかるが、どうしてそんな場所に宿場街を作ったのだと言わんばかりに、これらは江戸城の目と鼻の先にある。何もこんな場所に泊らないでも、さっさと江戸に入ればいいではないか。で、何故なのか? と言えば、それが先の理由の通りなのである。

 

 江戸時代、諸大名は参勤交代で二年ごとに江戸に来なければならなかったが、その際の大名行列は、大名家が大きければ大きいほど盛大なものとなった。加賀前田家では最大で4000人が参列し、街道を練り歩いたと言うから大したものであるが、しかし、もしそれが江戸に入ってきたら、どこに泊まれば良いだろうか?

 

 大名は前田家だけではない。250カ国もあって、それぞれが派手な行列を従えてくるわけだから、流石に全員は面倒見きれない。そのため、江戸に入る前に大名は行列を切り離し、側近だけで江戸に入ってきた。その際、大名行列が最後に泊まったのが江戸四宿というわけである。

 

 参勤交代は2年毎だから、宿場町にはそんな大名行列が毎年沢山やってくる。多くはそのまま国に帰るが、中にはその近辺に留まる武士もいた。しかし、妻も子供も国に残して江戸に詰めている武士は可哀想だ。幕府もそういう事情を知っていたから、四宿には特権を与えて遊郭を置くことを許した。

 

 で、遊郭があるからますます江戸やその周辺から人が集まってきたため、四宿は大いに栄え、現代でも大きな繁華街として名残があるわけである。

 

 ヘルメス国のこの名もなき街も同じように、最初は取り残された獣人や下男を相手にする、商人や娼婦が集まってきて市場が出来た。それがそのうち評判になって、やってくるキャラバンもどんどん大きくなっていき、そこに街が形成されていった。

 

 歴代ヘルメス卿も、そういった理由を知っていたからか、城の目と鼻の先という立地にもかかわらず、特に規制もせずに国境の外なら勝手にやってよと放置した。そんなわけで、街は思いのほか発展しており、下手するとアイザックの城下町よりも人口が多いくらいだった。街には何でも揃っており、娼婦や危ないクスリなんかも手に入ることから、帝国の中からこっそりと遊びに来るものもちらほら居る。

 

 そんな街だから治安と衛生状況は最悪だったが、しかし住めば都の言葉通り、一週間もしたらすぐに慣れてしまった。今となっては鳳もジャンヌも、この街の昔ながらの住人と変わらないくらいに馴染んでいる。

 

 さて……

 

 ジャンヌが冒険者登録をした後、二人はギヨームに世話をされて安宿に転がり込み、以来、そこを拠点として活動していた。

 

 ジャンヌは冒険者として働き、そして鳳は冒険者見習いと言う名目で訓練所通いをしていた。ぶっちゃけ、鳳はろくに稼げないから、宿代はすべてジャンヌが支払っている。それどころか生活費も何もかも、全てジャンヌ持ちだから、鳳は彼に足を向けて寝られない日々が続いていた。

 

 そんなわけで今日も毎朝のように、ジャンヌはクエストを受けにギルドへ向かい、鳳は彼から小遣いを受け取りながら、

 

「うっひょー! いつもすまないねえ。ジャンヌ、愛してるよ~!」

 

 などとリップサービスに努め、それが分かっているのかジャンヌも、

 

「いやん、嬉しいわ! あなたにそう言って貰えると、今日も一日頑張れるわ」

 

 と、お約束で返してから意気揚々と出掛けていき……鳳はその背中が消えるまで見送り、悪態を吐いてから、自分も出かける準備をして宿を出る。というルーチンを繰り返していたのだ。

 

 鳳の行き先は訓練所……ということになっているが、しかし最近は訓練所には行かず、魔法具屋に入り浸る毎日だった。

 

 というのも、実はもう諦めているからだった。思いがけず現代魔法の片鱗を見せた鳳は、ギヨームのすすめで訓練所に通うことになったのだが、しかし通い始めた頃は結構真面目にやっていたのだが、すぐに挫折した。何故なら、経験値が入らないのだ。

 

 城でアイザックたちと試した時と同じように、鳳は訓練所でも相変わらず経験値が入らなかった。教官たちと模擬戦闘しても、魔物を倒してみても、訓練用ダミー人形を叩いてみても、何をしても鳳の経験値は1も上がらなかったのだ。

 

 こんな事態は初めてだと言う教官たちは、当初こそは戸惑うどころか寧ろ面白がって、彼の経験値アップに力を貸してくれたが……いくらやっても、なにをやっても、うんともすんとも言わない鳳を前に、最近ではどんどん余所余所しくなり、彼を持て余しているようだった。

 

 一応、月謝を払っているから行けば訓練させてくれるだろうが、多分、いくらダミー人形を模擬刀で叩いてみても、鳳の経験値は上がらないだろう。それでもめげずに叩いていれば、いつかはステータス(というか筋力)が上がるかも知れないから、全く意味がないことはないだろうが……ぶっちゃけ、そんなことするくらいなら、タンパク質を摂って、その辺の草っ原を走り回った方がマシであろう。

 

 しかし……どうして鳳のレベルは上がらないのだろうか?

 

 いや寧ろ……どうしてあの時、レベルが上ったのだろうか?

 

 鳳はこの世界に飛ばされてきた時、あっちの世界のキャラクリ直後だったせいでレベルが1だった。ところが、城でカズヤの魔法で焼かれた後、真っ暗な城の中で目覚めた時にはレベルが2に上がっていた。

 

 レベルが上ったのは、あの時一度きりだが、何が条件で上がったのだろうか。それはまだ判明していない。

 

 それからパーティー経験値である。鳳のステータス画面から見えるパーティーリストにだけ添えられたEXPの文字。あとでジャンヌに聞いてみたところ、彼のステータス画面には経験値はおろか、パーティーリストもないらしい。

 

 城で死にかけて目覚めたときにいきなり現れ、最初は100EXPあったのだが……メアリーの木の前で神人に襲われ、ジャンヌを呼び出した後はゼロになり、代わりに彼のレベルが上がっていた。

 

 これは鳳の固有スキルかなんかなのだろうか? もしかすると、これを使えば彼のレベルも上がるのかも知れないが……これまた鳳個人の経験値と同様、どうすれば入るのかちんぷんかんぷんだった。

 

 本当にパーティーの共有経験値なら、ジャンヌが敵を倒したら入ってきても良さそうなのだが、そんな美味い話は全くなく……かと言って訓練所で鳳が模擬戦闘しても、魔物を倒しても、他にも色々試してみても、有効な手段は何一つとして見つからなかった。

 

 それじゃ、最初の時の状況再現をしたらどうだろうかと思ってはみたものの、まさかまたファイヤーボールに焼かれるわけにはいかなかった。もし本当に、サイヤ人みたいに死にかけるのが条件だったら、たまったもんじゃない。

 

 しかし、他に方法も無いなら、試してみるしかないのだろうか。そもそも、あんな不思議な体験、普通にやってるだけじゃ駄目だろう。だから最近では、破れかぶれでそうするのも有りなんじゃないかと思えてきた。

 

 何しろ、今の鳳はジャンヌにおんぶに抱っこで、一人じゃ何も出来ないのだ。城を抜け出し、一緒に冒険者になろうと言ったは良いものの、未だに二人でクエストを受注したことは一度もない。それもこれも、鳳がレベル2のせいだ。

 

 もしこのまま、レベル2のまま一生レベルが上がらなかったとしたら、鳳はどうなってしまうのだろうか? ジャンヌだって、いつまでも彼の面倒を見続けてくるわけじゃないだろう。いずれどこかで捨てられて、一人で生きていかなきゃいけなくなる。その時、自分には何が残されているのだろうか……

 

 こんな右も左も分からない異世界に一人取り残されて、誰に頼ることも出来ず、この世界の住人にすら笑われちゃうようなレベルの自分に、一体何が出来るというのか。このままじゃ、いたずらに死期を伸ばしているだけなんじゃないのか? だったらいっそのこと、文字通り死ぬ覚悟で最後の賭けに出るのも悪くないじゃないか……?

 

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか、いつもの魔法具屋の前に来ていた。最近は、一人でいると際限なく落ち込んできて、おかしなことを考え始めてしまう……

 

 このままじゃいけない。考えないようにしようと思っても、そうやって目をそらしてる間も、いけない状況は続いているわけで……まさに鬱のスパイラルである。そろそろ、根本的な解決策を見つけなければ、精神的にもヤバいだろう。

 

 カランカランとドアベルを鳴らして、鳳は魔法具屋へと入っていった。

 

「ちわーっす、店主。来たよ~」

「あ! デジャネイロさん、いらっしゃい。いつものやつで?」

「うん、いいとこ見繕ってくれる? はい、これ今日の小遣い」

「もちろんですとも、デジャネイロさんのために、今日一番のネタを用意させてもらいました。ぐふふふふ」

「ぐふふふふ」

 

 鳳と店主はお互いの目を見つめ合い、ニヤニヤとしただらしない笑みで頷きあった。鳳は店主が持ってきた薬瓶の中から、チョコレートみたいな樹脂をひとつまみ取り出すと、網の上に置いて徐にアルコールランプで炙り始めた。

 

 暫くして上がってきた煙を逃さないように、スーッと鼻から吸い込むと、肺に染み渡るように甘く幸福感に満ちた感覚が広がっていく。首筋に雷が落ちたようなビリっとした感覚がして、続いて脳みそがバチバチとなった。

 

「あー、これだよ、これこれ。生きている感じがする」

 

 さっきまでの嫌な気分などもう吹っ飛んでいた。

 

 こうやってる時が一番落ち着く……

 

 鳳は地面に落っこちていきそうな、ふわふわとした浮遊感に身を任せて、椅子の背もたれにどっともたれかかった。

 

 同じく煙を吸っていた店主のだらしなく半開いた口から、よだれがだらだらと垂れ落ちている。

 

 汚えなあ……まるで滝みたいだ。ピエールの滝と名付けよう。そんなことを考えながら、流れ落ちるよだれを見ていると、ポタポタと落ちるよだれはやがて地面いっぱいに広がって、店の中に徐々に徐々にたまり始めた。

 

 鳳の足首までよだれが上がってくると、それはもの凄い勢いで店を覆い尽くし、あっという間に鳳の首まで水位が上がってきた。やばいと思ったときにはもう店はよだれでいっぱいになっていて、鳳は魚みたいにその中をプカプカ泳いでいるのだった。

 

 赤青黄色、色とりどりの魚があちこちで泳いでいる。水は虹みたいにキラキラ輝いてて、それに見とれていたらどこからともなく歌が聞こえてきて、見ればそれは泳ぐたい焼きだった。桃色珊瑚が手を振って、鳳の泳ぎを眺めている。

 

 あれ? なんだろう、これ、すっごくふわふわして楽しい……なんだか一生、こうしていたい気分だ。

 

 鳳は今朝までのことを思い出した。いつまで経っても上がらないレベル。相手に依存するしかないジャンヌとの関係。子供にまでバカにされる己の無力感……

 

 そんなもの、もうどうでもいい気分だった。このままずっと、虹色の海の中でぷかぷかしながら、一生を魚みたいに泳いで暮らしたい。

 

 そしてそれは可能なのだ。おクスリさえあれば。おクスリさえあれば。

 

 鳳はにへら~……っと笑いながら、店の中を泳いでいった。自分にはそう、翼がある。もう何も怖くない。店主が恍惚とした表情でビクビクしている。こんな状態、お客には見せられないなと思ってヘラヘラしていると……

 

 と、その時、突然、カランカランと店のドアベルが鳴って、

 

「こんの~……バカチンがあああああーーーーっっ!!!!」

 

 外から入ってきたギヨームが、鬼の形相で鳳の頭に一発げんこつをお見舞いした。

 

 バチンッ! っと音が鳴って、文字通り目から火花が出た。

 

「ぎゃあああああー!! 痛いっ! 痛いよっ! 今、バチッとなった! バチッとなったよ!? おクスリのバチバチと違って、とんでもなく痛いバチバチだった!」

「おまえが何言ってるかわかんねえよスカポンタン」

 

 ギヨームは、脳天を抑えながらゴロゴロ地面を転がっている鳳のことを、ゲシゲシと足蹴にしながら、

 

「おまえ、今日も訓練所にいやがらねえと思ったら、またこんなところで油売りくさりやがって、何度言ったらわかるんだっっ!!」

「ちっ、うっせーな。反省してま~す」

 

 鳳が不貞腐れた表情で言うと、バチンと平手が飛んできた。痛い。

 

「お前の口から反省なんて言葉は聞きたくないわいっ! とにかく、俺もギルド長に頼まれている手前、お前にこんなことされたら困るんだ。観念してお縄につきやがれ」

「あー! 痛い痛い、引っ張らないで」

 

 鳳はギヨームに首根っこを掴まれると、そのまま地面をズルズルと引きずられていった。腰ばきしていたズボンがずり落ちそうになっても、お構いなしである。

 

「またのご来店、お待ちしております~」

 

 ドナドナされる鳳のことを、店主が手を振り見送っている。ここんところ毎日だから、もはや手慣れたものである。見た目と違ってギヨームが怖いことを知っているから、もう止めようなんてことはしない。役に立たないやつである。ギヨームはそんな店主を振り返り、

 

「またこの馬鹿が来たら、今度は俺に連絡しろ!」

 

 と言って、首を絞められて顔が赤から青に変わろうとしている鳳を引きずりながら、地面をドスドス音を立てて去っていった。

 



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俺には才能なんか無いと思うよ……

 街の裏通りに面した魔法具屋から騒がしい二人が出てきた。少年ギヨームに首ねっこを掴まれた鳳が、痛い痛いと泣き叫びながら引きづられていても、道行く人々はちらりとそれを見るだけで、誰も足を止めるようなことはしなかった。こんな光景、日常茶飯事なのである。

 

 鳳は首が締まらないように、どうにかこうにか体勢を整えると、四つん這いになりながらギヨームの後ろについていった。体勢が体勢だけに、速度を合わせるのが難しい。そんな必死な鳳に対し、ギヨームは頭の上からコンコンと説教をし始めた。

 

「おまえなあ……自分で稼いだ金じゃなく、ジャンヌの金で遊びなんか覚えやがって……こんな三田佳子の次男みたいな生活、いつまでも続けてはいられないんだぞっっ!!!」

「やめてやめてっ! どこでそんな酷い慣用表現覚えたの!?」

 

 鳳は心をザクザクと切り刻む言葉に耐えきれず耳を塞いだ。ギヨームはそんな彼の指をスポンと引き抜きながら、

 

「こんなんで将来どうすんだよ! おまえ、このままじゃヒモまっしぐらじゃねえか。情けないと思わないのか!?」

「そんなこと言われたって……」

「いや、ヒモだって肉体奉仕という仕事をしてんだぞ? おまえは何もやってないじゃん。おまえヒモ以下じゃん」

「わー! 何もそこまで言わなくたっていいじゃないかっ!」

「じゃあ、おまえジャンヌ抱けんの? 肉体奉仕出来んの? ノンケだって食っちまえんだなっ!?」

 

 鳳はブーメランパンツ一丁でダブルバイセップスしながらウインクしているジャンヌの姿を想像し、一瞬にして心が折れた。

 

「あ、無理です……すみません。勘弁して下さい」

「だろう!? ヒモってのは、そんなちんこも立たねえような相手でさえも、満足させられる男がなるようなもんなんだよ。口だけじゃねえんだよ! 尻もなんだよ! おまえにその覚悟があんのかよ!?」

「すんません。ホント、すんませんでした……つかキレッキレっすね」

「うっせえな。大体、謝るんならジャンヌに謝れよ。あいつ、お前と冒険するのすげえ楽しみにしてるんだぞ? こないだ一緒に仕事した時も、もっと高レベルの依頼も受けられるのにどうして受けないのかって聞いたら、いつかお前が追いついてきたとき困らないように、まずは簡単な依頼から慣れておくんだって言ってたよ」

「え? マジで?」

「ああ、本当だよ。分かったんなら、訓練所行ってしっかり訓練してこい」

 

 ギヨームはそう言って鳳の背中をバンと叩いた。鳳がたたらを踏んで止まると、通い慣れた訓練所の大きな門と看板が目に飛び込んできた。

 

 彼は立ち止まって看板を見上げながら、小さくため息を吐いた。そしてポリポリと後頭部を指で引っ掻いて、最初は左を向いて、それから改めて右にくるりと回れ右して、背後を振り返ると、

 

「あー……それなんだけどさ。やっぱ行かなきゃ駄目?」

「はあ~!? おまえ、この期に及んで何言ってんの??」

 

 ギヨームは校門の前まで来て登校拒否をするような往生際の悪い態度にびっくりして、思わず鳳の頭を引っ叩いてやろうと腕まくりをしたが……その表情がどうにも虚ろで、目なんかは焦点が合わなくて、こっちをまっすぐ見ようとはせず、あっちこっち動き回ってるのを見て、彼は態度を改めることにした。

 

「……どうしたんだよ、おまえ?」

「実はその……もう冒険者は諦めようかと思ってて。ジャンヌには悪いとは思うんだけど……」

 

 胸につかえたものを吐き出すようにそう呟く鳳の声が深刻そうで、ギヨームは取り敢えず話だけは聞いてやろうと、場所を変えることにした。

 

******************************

 

 二人は通りから少し離れた営業時間外の小料理屋にやってきた。冒険者ギルドに行こうとしたら、こんな姿を知り合いに見られるのはちょっと……と鳳が嫌がったので、ギヨームの伝をつかって貸してもらったのだ。

 

 店主は気を利かせて外に出ており、店内には誰も居ない。相変わらず通りの声がうるさいが、誰かに聞かれる心配はないだろう。

 

 店に入って水の代わりに酒を汲み、チーズをちびちびつまみながら、あまり話したがらない鳳のことを辛抱強く待っていたら、やがて彼はポツポツと喋り始めた。

 

 ギヨームはそんな彼の話を聞いてため息を吐いた。

 

「……そこまでしても経験値が上がらないのか?」

 

 鳳はコクリと頷いた。

 

「まったく駄目だ。訓練所でも魔物を無理やり倒したりとか、教官と模擬戦したりとか、色々やってみたんだけど……あまりにも手応えがないから段々気が滅入ってきて、訓練にも身が入らないし、教官たちも最近は腫れ物でも触るような感じで余所余所しくてさ」

「そうか……」

「行きゃ訓練させてくれるけど、それやってて何になるの? って考えちゃうんだよ。もちろん、教官にも相談してみたけど、向こうだってこんなケース初めてだから何も答えられなくて、とにかく続けてれば好転するかも知れないからって……その一点張りだよ。こんなんじゃ、お互い続けてても不幸にしかならないだろ?」

 

 何一つ成果が上がらないのだから、正直もう彼らのことを信用してはいないし、向こうもそれが分かっているだろう。鳳はそんな状況で空々しい会話を続けているのに飽いてしまっていた。だから訓練所にはもう行きたくない……彼はそう言うのだ。

 

 ギヨームは思った以上に深刻だったんだなと、難しい顔をしながら腕組みをし、

 

「しかし、お前には才能があると思うんだけどな……ほら、一度、紙を創り出してみせたことがあっただろう? あれは多分、お前に秘められた能力なんだと思うぜ」

「そうは言うが、俺にもどうやったのかわからないんだ……それに、あれがお前の言うクオリアってやつなら、MPを消費するはずなんだろ? だけど、俺のMPは相変わらずゼロのままだし……」

「いや、俺が消費するってだけかも知れないし、もしかしたら違うのかも……」

「どっちにしろ……!」

 

 鳳は遮るように、

 

「俺には才能なんか無いと思うよ……お前に言われてその気になってさ、せめてMPだけでも獲得できないかって色々試してみたけれど、いくらMPポーションを飲んでも気持ちよくなるだけでMPが上がる気配なんて無かったんだ。気持ちよくなるだけで」

「どうして二度言った」

「そんなわけで、筋トレは続けるけどもう訓練所はやめようかなって。通うだけ金の無駄だと思うんだ。そんなことするよりも、空いた時間で好きなことしてたほうがいいだろう?」

「そりゃまあ……そうかもなあ」

 

 どうやら鳳の決意は固いようだ。ギヨームはそれ以上説得するのはやめておこうと思った。こうやって相手が落ち込んでいる時は、無責任に頑張れなんて言わないほうがいいだろう。それよりも、嫌なことはさっさと忘れて、楽しいことを考えるべきだ。

 

「話は分かった。それじゃお前これからどうする? まあ、すぐ決めることはないけど、時間もたっぷりあることだし、やりたいこととか探しておけよ。協力するからよ」

「それなんだけどさあ……」

「なんだ、もうあるのか?」

 

 鳳は頷いた。

 

「実は、小屋を建てようかと思ってて」

「小屋ぁ~……? どうしてまた」

「いくら安宿とは言え、今のままじゃ宿代がもったいないだろう? 払ってるのはジャンヌだし。そういうの気兼ねなくいられる、自分だけの空間が欲しいんだ……」

「なるほど、いいんじゃないか。やりなさいやりなさい」

「……そして行く行くはおクスリ工房を作ろうかと」

 

 ギヨームは、ブゥーッ! ……っと鼻水を吹き出した。

 

「おまっ……何、夢みたいなこと言ってんだ!」

「夢じゃねえよ、俺は結構マジなんだぞ?」

「いや、おまえねえ……」

 

 ギヨームは呆れるように盛大な溜め息を漏らすと、

 

「そりゃ、好きなことしろとは言ったが、クスリはねえだろ、クスリは。大体、小屋建てるっつったって、その金どうすんだよ? またジャンヌにたかるのか? ジャンヌの迷惑になりたくないから出ていこうってのに、それじゃ本末転倒じゃねえのか」

 

 彼は鳳の凶行を止めようとして、滅入ってるところ少々可哀想に思いつつも、もっと真面目な仕事を探せと諭した。ところが、鳳はそんな彼に対して自信満々に言い返した。

 

「いいや、金ならある」

「はあ? どうして? おまえ、ギルドでろくな依頼受けてないだろう」

「ギルドじゃない。実はさ……?」

「うん」

「MPポーションの高純度結晶が飛ぶように売れて……」

「はあ~!?」

 

 ギヨームは頭がくらくらして目眩がしてきた。彼は手のひらを額に当てながら、

 

「あの……おまえが鼻から吸ってたやつ?」

「うん」

「麻薬みたいな白い粉……つーか、まんまクスリだけど、あれ?」

「あれ」

「ぎゃふん」

 

 頬杖を突いて椅子に座っていたギヨームは、脱力して机に突っ伏した。

 

 魔法具屋の店主と仲良くなって分かったことがある。MPポーションはマジで麻薬だった。

 

 ギヨームに、お前は魔法の才能があるかも知れないと言われた鳳は、その気になって最初は訓練所でも魔法技能を伸ばそうと頑張っていた。しかし一向に経験値が入らない、ステータスもあがらない、ついでにMPの無い彼は、いくら現代魔法でもMPが無いなら才能もないんじゃんないか? と言われて、なんとかMPを獲得できないかとその方法を探しはじめた。

 

 そして城で試したように、まずはMPポーションを浴びるように飲んでみようと魔法具屋へとやってきたのだが……店主に出された不味いMPポーションを鼻を抓みながら飲んでも、気持ちよくなるだけで一向にMPが上がる気配はなかった。気持ちよくなるだけで。

 

 しかし他に方法を思いつくこともなく、仕方なくそれを繰り返しているうちに(決して気持ちいいからではない)、鳳は段々その成分を疑うようになってきた。

 

 そして、

 

「これちょっとおかしいんじゃないの? 紛い物とか混ぜてない?」

 

 と疑った彼が、怒った店主にもってこさせた原材料が……なんと、見た目どころか、まんま大麻だったのである。

 

「嘘だろ? そりゃ気持ちよくなるわけだ……」

 

 まさかMPポーションの正体が大麻だったなんて……唖然としながら、その製造方法を確認してみたら、店主はそれを乳鉢で擦って水に溶かし、青汁にして売っていた。

 

 そのままだと沈殿しちゃうので、飲む前によく振ってから、ドロドロの液体を流し込むのがこの世界のスタンダードなやり方なのだそうである。

 

 良薬口に苦しというが、いくらなんでも効率が悪すぎるだろう。鳳はそれを見るなり、

 

「ざけんなっ! こんな不味いもん飲めるかっ!」

 

 と言って、原材料から花の部分(バッズ)を取り出し、それを乾燥して紙に巻いてから、タバコのように吸って見せた。するとなんか店主に気に入られて、それに気を良くして、今度は茎の部分を圧搾して樹脂(ハシシ)を取り出し、炙ってみせたら、こいつは最高だぜと褒められた。

 

 思えばこの世界に来てから褒められたことなんか一度も無かった……

 

 そして鳳は水を得た魚のように、同じMPゼロの店主とポーションをキメていたら、だんだん意気投合してきて……そんな二人であれこれと新しい方法を試しているうちに、出来てしまったのがあの高純度結晶だったのである。

 

 しかし、不純な動機で作られたとしても、これは決して馬鹿にしたものではなかった。最初に飲んでいた青汁と比べれば、千倍(当社比)の効き目があるこの結晶は、単に気持ちよくなるだけではなく、MPの回復効率も劇的に改善されていたのである。

 

 ところで、神人はMPを消費していわゆる古代魔法を使うわけだが、この回復力が上がるとはどういうことか言うまでもないだろう。

 

 気がつけば客層はこの街の住人に留まらず、アイザックの城下町はおろか、今となっては帝国中に幅広く行き渡っていて、神人の買付人までやってくるようになっているのだ。

 

「そんなわけでさ、今は材料費は店主持ちだけど、アイディア料っつーか特許料で、結構な収入が入ってきてるんだ。お前を信用して打ち明けているんだから、製法が外に漏れると困るから、絶対誰にも話さないでくれよな?」

「お前……ホント、転んでもタダじゃ起き上がらないよな……」

「でさあ、行く行くは栽培にも手を出そうかと思ってる。そしたら拠点が必要だろう? それに材料だって大麻ばっかじゃない。考えても見りゃ、この世界はマジックマッシュルームなんかも合法なんだ。南の大森林を探せば見つかるかも知れないし、その時はギルドに依頼するかも知れないから、よろしく頼むな。お前、探索とか得意だったろ?」

 

 ギヨームは呆れ果てて何も言えなくなった。放浪者(バガボンド)はその性質上、この世界に新技術をもたらすことが多いわけだが……こんな放浪者見たことも聞いたこともない。

 

 落ち込んでいるようだから慰めてやろうかと思っていたが……そんな必要は欠片もなかったようである。ギヨームは溜め息を吐くと、嬉々として己のビジョンを語る鳳のことを黙って眺め続けていた。

 



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現代人の常識

 そんなこんなで、鳳の壮大なビジョンを聞いてぐったりしているギヨームを残して、彼は小料理屋から外へ出ると、人の流れが激しい雑踏へと入っていった。こう見えてもそこそこ都会の街であるから、みんなせかせかと早足で歩いていて、その流れに身を任せていたらだんだん息が上がってくる。

 

 息苦しいのはそのせいだけじゃない。この街のあちこちから上がる黒煙が、空気中に細かい粒子を撒き散らしているからだ。きっとここにずっと住んでいたら、そのうち喘息になってしまうだろう。

 

 だからもし小屋を建てるなら、街から少し離れた場所にしたほうが良いだろう。行く行くは栽培もと考えてるなら尚更だ。この街の土壌はとても植物が育つような環境じゃない。なんなら森に拠点を構えるのもいいが、流石にそれは魔物が怖いし……

 

 ジャンヌがいればそんなこと気にする必要もないだろうが、ギヨームも言っていたように、いつまでも彼の甘えているわけにもいかないだろう。ジャンヌは気にするなと言うだろうが、鳳にだってプライドがあるからそうもいくまい。プライドなんて生きていく上で不要なもの、かなぐり捨ててしまえばいいと思うかも知れないが、かと言って、冗談でもヒモになるなんて言おうものなら、その瞬間に友情は破綻するだろう。だから一日でも早く自立しなければならない。自分は今、試されているのだ。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、ギルドの小遣い稼ぎで知り合った娼婦が手を振ってきた。やはり自分で稼いだ金を持っていると気分がいい。これまではジャンヌに気が引けて彼女たちの前を素通りしていたが、今はその気になればいつだって買うことが出来るのだ。

 

 城で見た神人ほどでは無いが、この街の女もレベルが高い。まだ知り合って間もない頃、商売モードで押し付けられたおっぱいの柔らかさを思い出したらムラムラしてきた。いつも鳳のことをレベル2だと言って馬鹿にしてくるが、股間のマグナムはレベル2じゃないところを見せつけてやろうか?

 

 じゅるり……

 

 おっといけない。

 

 鳳はだらだらと垂れ落ちるよだれを拭った。これから土地を探して小屋を建てるつもりなのだ。今は何かと入用だ。こんなところで無駄遣いしている場合じゃない。鳳は娼婦たちに手を振り返すとニヤニヤしながら、街の外まで歩いていった。決して怖気づいたわけじゃないぞ……

 

 さて、現代ならば土地探しと言えば不動産屋めぐりをするところだろうが、この世界にはもちろんそんなものは存在しなかった。

 

 じゃあみんなどうしてるのか? といえば、住みたい土地の村長にお願いして認められれば、あとは人頭税を払えばそれでいいらしい。なんというか、非常にアバウトであるが、そもそもろくな税制もない時代なんてこんなもんだろう。

 

 この世界はエミリアから連なる神人による王権神授説が信じられているから、言うなればこの辺の土地はみんなヘルメス卿アイザックのものである。周辺の村の村長は、要するに徴税人の役割を担っており、村人は村長に年貢を支払う。代わりに村長は村人の面倒を見るが、村に人を養うだけの余裕が無ければ、断られてそれまでだ。

 

 村に住むのを断られたり、税金を払うのが嫌だというなら、どこか人里離れた場所に住むのは勝手である。ただし、その場合、野盗や魔物に襲われても文句は言えない。国家権力はそこまで及んでいないのだ。

 

 なにしろ、この世界には国民国家がない。勇者領がそうだと言えばそうだが、こちらは商人ギルドが牛耳っていて、まだ国家と呼べるような感じではないらしい。軍事力は傭兵に頼っていて、ここ数十年は戦争が無かったから、経済的に栄えていても、有事の際に帝国と戦える戦力はないだろうと言われている。

 

 何というか、科学的にはそこそこ発展しているというのに、本当にアンバランスな世界である。

 

 ついでだから、最近知り合った人たちから聞いたこの世界の話をしよう。それによると、大陸はこんな形をしているらしい。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 かつてソフィアが建国したとされる神聖帝国は、ここバルティカ大陸の北部のおよそ半分を占めており、帝都の周りを五カ国が取り囲んでいる。それぞれの国家は五精霊の一人を守護精霊としてその名を冠し、便宜上対等の付き合いをしていることになっているが、実態は違うということは以前に述べたとおりである。

 

 その一つ、ヘルメス国は帝国の南西部に位置し、南を大森林に接している。帝国唯一の勇者派で、勇者領とは同盟関係にあるが、しかし二国を繋ぐ連絡線である街道は大森林の中を通っているから、交通の便は非常に心許ない。

 

 鳳たちが住む名もなき街はこの街道の出入り口に位置し、すぐ近くにアイザックの居城もある。こんな僻地にヘルメス卿の城があるのは、勇者領と連携が取りやすいからだろう。お互いの街には絶えず商人のキャラバンが行き交っており、物流は盛んであるが、城下町に獣人や他国の人間は入れないことになっているから、人の出入りは少ない。

 

 その代わり、手前の街に人が集まるから、鳳たちの住む街は意外と栄えてもいるが、治安の悪さも折り紙付きである。冒険者ギルドはそんな環境で発生する様々なトラブルに対処するという、ニッチな需要を満たしているようだ。

 

 南部の大森林はワラキアと呼ばれ、かつては部族社会(トライブ)がヒャッハーしあう未開の地であったが、前回の魔王襲来で懲りた部族同士が結束して、現在は共和国(コモンウェルス)となっている。しかし実態は相変わらず部族社会の集合体だから、国家としては非常に脆い。

 

 大森林には魔物が跳梁跋扈し、本来ならとても人が住めるような土地では無いが、逆に言えばそれさえなんとかしてしまえば食べ物には困らないわけである。部族社会は、魔物を追いかけて捕食する人々が、食べるものが無くなったら移動するということを繰り返しているうちに、自然発生的に形成されたものである。

 

 そのため縄張り意識が強く、かつては部族間で激しい抗争を繰り広げていたわけだが、現在はお互いに魔物や魔族の情報を融通しあって、上手くやっているらしい。大森林は全ての部族を養えるくらい十分に広く、また、南半球にはネウロイという魔族が住む土地があり、そこからやってくる強力な魔族と戦うには、喧嘩するよりも仲良くしたほうがメリットが多いことに気づいたのだ。

 

 部族社会には人間系と獣人系のそれぞれの部族が存在するのだが、帝国が獣人を差別するため、共和国は勇者領とだけ国交を結んでいる。共和国は森では手に入らない物資を、勇者領は魔族の動向を知るために、お互いのことを重宝しているから、関係は良好のようである。

 

 また大陸北西部にも、帝国五カ国に属さない人間の国がある。南が大森林ならこちらは山岳地帯で、この一帯には鉱山が集中しており、それを経営する炭鉱夫による自治が行われている。一応、帝国に従属してはいるが、支配が及びにくい土地で独立心が強く、勇者領とも接しているため、度々、神人に対する不満を漏らしては帝国を怒らせているようだ。

 

 ここから産出される資源は全て帝国の物であり、北部のセト国を通って帝都に運ばれるはずなのだが、最近は勇者領に横流しするものがいるらしく、帝国はピリピリしている。因みに、そっちに流すのは、単純に高く買ってくれるからだ。

 

 資源の運搬には海路か、湖を通る水路を利用するのだが、ヘルメス国には一切入らないルートを取っているらしい。それだけみても、帝国が勇者派を非常に警戒していることが窺えるだろう。

 

 ところで、ヘルメス国だけが爪弾きにされているのかと思いきや、案外そうでもないらしい。帝国領内は守護精霊ごとに五カ国に分かれているが、分かれているくらいだから、そもそもあまり仲がよろしくない。元からそっぽを向いているのだ。

 

 一応、精霊に上下関係はなく、各国は対等ということになっているが、実際には国の方には格付けが有り、昔からカイン国がリーダー的な存在と目されてきたそうである。

 

 そしてアイザックの話では、魔王討伐後、勇者の台頭に苛立ったカイン国が主犯となって勇者を殺してしまい、それに怒ったヘルメス卿が勇者派となって、帝国の分裂が始まったとされているわけだが……

 

 それだけ聞くと、カイン国はとんでもなく傲慢な国家だと思われそうだが、ところが、城を出てからギルド長など、勇者領の人たちから聞いた話では、ちょっとニュアンスが違うのである。

 

 それによると、カイン国が勇者を殺したのは、自分達のプライドのためというよりは、実は勇者の浮気が原因だと言うのだ。

 

 どういうことか簡単に説明すると、勇者は魔王を討伐した英雄だからすっごくモテた。そりゃもう、あちこちに愛人が居て、どこでも誰とでもやり放題なくらいだった。そして英雄色を好むの格言通り、あちこちに子供を作った。その中には帝国貴族も大勢いたわけだが……勇者はその上下関係にまったく無頓着だったのだ。

 

 勇者が手を出した女の中には、カイン国の有力貴族の娘も数多くいたのだが、彼は貴族間の力関係を無視して全ての女を同列に扱ってしまったのだ。これはカイン国の貴族には耐えられないことで、当然、彼らは勇者に、形の上だけでも娘たちを尊重するようにと釘を刺した。

 

 ところが勇者は言うことを聞くどころか、そんな面倒な女はいらないと逆に遠ざけてしまったのだ。挙句の果てに、彼は神人が見下している獣人の女ともよろしくやっていて、彼女らをとても可愛がった。神人からしてみれば、おまえ達はペットや家畜と同類であると、挑発されているようなものであろう。

 

 勇者は恐らく現代人らしいフェミニストだったのだろうが、あっちの世界の常識をこっちの世界に持ち込みすぎたのだ。郷に入りては郷に従え。ワンマン経営者にありがちな失敗である。だから、いきなり殺されたとしても、そりゃ勇者の自業自得だとギルド長らは言うわけだ。

 

 どうやら同じ勇者派でも、ヘルメス国と勇者領、神人と人間とで、結構意識の差があるらしい。アイザックは決して勇者を悪く言わなかったが、人間たちは勇者の泥臭い面もそれはそれで愛しているようだ。まあ、ヘルメス卿の立場からすれば、もう引き返せないから、勇者を盲目的に崇拝するのも仕方ないのだろう。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか件の城が見える丘までやってきていた。峠には樫の大木が聳えており、風が吹く度に葉っぱがざあざあと騒がしくざわめいた。

 

 鳳は丘に登ると、その木陰に立って街を見下ろした。いつ見ても美しい街並みである。二か月前に出てきたばかりの城はまるで馴染みがなく、観光旅行にでも来たような気分になった。

 

 だが、忘れてはいけない、あそこが全ての始まりなのだ。二か月前、あそこでアイザック達に異世界召喚され、鳳たちは元の世界に帰れなくなった。人の気配がしない真っ暗な城の中には白骨死体が転がっており、300年も閉じ込められている女の子までいて、そんなところに仲間たちは今もいるはずなのだ。

 

 鳳たちが城を出てから、彼らの消息はまったく分からないが、今頃何をしているのだろうか。元気にしてればいいのだが、もしかして出来るかなと思ってオープンチャットで呼びかけてもみたが、反応はなかった。

 

 出てくる直前は、城の美女たちを抱いて上機嫌だったが、二ヶ月も経ったら流石に飽きも来ているんじゃなかろうか。彼らは今、どう思っているんだろうか。出来れば直接話してみたいが、城に近づくわけにもいかなかった。多分、アイザックたちは城から出ていった鳳たちを絶対に近づけようとはしないだろう。城に残った仲間たちまで出ていってしまったら困るだろうから。

 

 それに鳳には、アイザックが隠したくて仕方なかった、メアリーを見つけてしまったという前科がある。絶対に口外無用と言った目つきは本物だった。あの場は彼女の取りなしでなんとか凌げたが、今度はそうはいかないだろう。

 

 それにしても……どう見てもエミリアにしか見えない謎の少女メアリー。彼女は本当に、何者だったのだろうか? 仲間たちのことも気がかりだが、彼女のことも気になった。出来ることならもう一度接触を試みてみたいが……

 

 こうして見下ろしてみるアイザックの城は無防備そうで、忍び込むことは不可能じゃないように思えた。鳳はなんとか城内に忍び込めないかと、その城を眺めながら、メアリーのことを考えていた。

 



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勇者には3人の仲間がいた

 あの城の中の謎空間で出会った少女メアリー。彼女は鳳の幼馴染エミリアにそっくりな神人だった。彼女が言うには、あそこに居たのは、魔王襲来時に身を隠すためだったそうである。ところがその後、彼女をあの空間に隠した術者が死んでしまい、出るに出れなくなってしまった彼女は、なんとそれ以来300年間もあの中に閉じ込められてしまっているというのだ。

 

 神人という種族が、時間の流れをどんな風に感じているのか分からないからなんとも言えないが、それだけ長い時間を無為に過ごさざるを得なかった彼女には同情を禁じえない。

 

 因みに当代のアイザックとは面識があり、関係は良好のようである。アイザックの口調が丁寧だったのは、姿かたちを見ればアベコベに感じるが、本当は彼女のほうがずっと年長者だからだろう。

 

 恐らく彼は幼い頃から、彼女のところによく遊びに行っていたのではなかろうか。そして他に遊び相手もいない彼女に、きっと可愛がられていたのだろう。そう思うと、なんだか自分の幼馴染を取られたような気分になって、鳳は複雑な心境になった。

 

 それにしてもメアリー・スーとは……チート主人公の代表格みたいな名前をした少女が、幼馴染と同じ顔をしてこっちの世界にいるだなんて、何の冗談だろうか。他にも、この世界にはエミリアという名の神様が居たり、その化身が神聖帝国建国の真祖ソフィアだったというのだから、これがただの偶然なわけがない。

 

 鳳たちが勇者召喚をされた時、その場に『灼眼のソフィア』は居なかった。だが、実は気づいていないだけで、本当はあの時彼女も巻き込まれていたのではないか? もしくは、別の場所にいたけれどもやっぱり勇者召喚されたとか……何が起きたかは分からないが、彼女の身にも何かが起きたことは確実である。

 

 もし、彼女もこの世界にいるというなら、すぐにでも探しに行きたいところであるが……しかし、こうして創世神話なり建国神話なりが残っている事実からすると、彼女が同じ時代に召喚されたとは考えにくい。恐らく彼女は、鳳たちがいる現在よりも、ずっと大昔のこの世界に召喚されたのではなかろうか。

 

 そしてもしかしたら、先に呼び出された彼女が、何か助けを必要としていて、ゲーム上の仲間を呼び出したと考えれば、自分達がこの世界にいるということの辻褄も合うのではないか。鳳はそんな風にも考えてみたのだが……しかし、どうにもこれは決め手に欠けるようだった。

 

 というのも、アイザック達が語った勇者召喚の理由……鳳たちに種馬として期待しているやつの方が、ずっと説得力があるからだ。

 

 後でギルド長達にも確認したのであるが、この世界の神人が絶滅の危機に瀕していることは本当らしい。そして、この世界の住人全てが、もしも神人を増やす方法があるなら、喉から手が出るほど欲しがっていることもだ。だからもし、それを解決する方法があれば、それをやらない理由はないだろう。

 

 だが、これには不審な点もある。これまたギルド長たちと話していた時に出た話題であるが、そもそも勇者召喚とは300年前に一度だけ行われた禁呪なのだ。術者は皇帝ただ一人とされ、アイザックの周りに勇者召喚の方法を知るものはいないはずなのだ。

 

 それでも、鳳たちは身に覚えがあったから、本当に勇者召喚は不可能なのかと食い下がった。もし異世界から召喚した勇者が神人を産むのなら、また召喚して子供を作らせればいいじゃないかと、ずばり聞いてみた。

 

 だが、それこそが勇者召喚が無理な証拠だと彼らは言った。もし可能ならば、今代の皇帝が神人を増やそうとしてとっくにやっているだろうし、そんな話を聞かない時点で無理だとわかる。

 

 やはり勇者召喚は失われた技術であることは間違いない。つまり、それだけ難しいことを、アイザックはやったと言うことになる……それはどうにも説得力がないだろう。

 

 彼らがやったのは、本当に勇者召喚だったのか?

 

 地下室に転がっていた5つの死体。あれはなんだ?

 

 いや、そもそも勇者召喚とは何なのだ?

 

 わからないことだらけであるが……

 

 あの城にはまだまだ秘密がありそうだ。出来ればまたあそこへ行って、仲間たちと会って話をしたい……メアリーのことだって気になるし、どうにかして忍び込めないものだろうか?

 

 そんな具合に、自分の考えに没頭していたせいだろうか、

 

「見た感じ、完全に無防備な城だよなあ……その気になれば、楽に忍び込めそうだが」

 

 鳳は気づかぬうちに、そんなセリフを口に出していた。その言葉は本来なら、誰も居ない峠道では、風にさらわれてどこかに消えてしまうはずだった。

 

 ところが、

 

「ふむ、ではお主ならあの城をどう攻略する?」

 

 鳳がぼけっとしていると、いつの間にか背後に近づいていた老人が、いきなりそんな声を掛けてきた。

 

 ドキリとして振り返る。

 

 その老人は禿げ上がった頭の両サイドにカリフラワーみたいなモコモコした白髪を生やし、胸まで伸びる上等なヒゲを蓄えていた。服は古代ローマ人の着ているトーガみたいなあっさりしたもので、足元はサンダル履き、どことなくインドの修行僧を思わせるような、そんな出で立ちである。

 

 独り言を聞かれてしまうとは恥ずかしい……鳳はポリポリとほっぺたをひっかきながら、老人に向かって言い訳するように言った。

 

「いや、これは言葉の綾で、ホントに忍び込んだりはしないよ?」

「ふむ。そりゃそうじゃろうて。儂もそんなことは思っとらんわい。これはただの思考実験じゃ。もしお主に一軍を預けたとしたら、あの城をどう攻略する?」

「えー……? どうもこうもないだろう」

 

 変なのに絡まれちゃったなと思いながら、鳳は再度城の方を振り返ると、改めてその構造を眺めてみた。

 

 アイザックの城は東西に長い長方形をしていて、南側中央には式典用の大きな広場があり、その左右には大きな別棟が建っていてキルゾーンを形成している。更には、正門から放射状に広がる城下町は、いかにも石造りで頑丈であるから、市街戦になったら第二次上田合戦よろしく、大軍であるほど不利になるだろう。つまり、南側から攻めるのは馬鹿のやることだ。

 

 対して、城の北側は広大な庭園が広がっているばかりで、人の気配がなく完全に無防備である。庭園は生け垣の迷路になっていて、鳳は迷子になりかけたわけだが、そんなの軍隊には関係ない。焼き払ってそこに軍を進めてしまえば、無防備な城の背後を突かれたアイザックはひとたまりもないだろう。

 

 しかし、

 

「そんなの北から攻めれば……」

 

 そう言いかけたところで、何故か彼は口ごもってしまった。

 

 本当に、そんなに簡単に落ちるのか?

 

 仮にも城なんだぞ?

 

 そう考えると、かえってこの無防備さが罠のように思えてきて……彼はもう一度よく考えてみることにした。

 

 城の南の市街地は戦闘に向かない、これは間違いない。だから当然、誰もが北の庭園に軍を進めようと考えるだろうが……さて、実際にそうしようとしたら、どんな問題が生じるだろうか?

 

 城の北側には川が流れているのだが、これが半円を描くようにしてアイザックの城を囲んでいる。その円弧の内側には鬱蒼と茂る森があり、更にその内側に庭園とアイザックの離宮が建ててある。

 

 つまり、北の庭園に軍を進めるには渡河の必要があるのだが、仮に川を渡れたとしても、今度は森に阻まれて大軍を動かしにくい。渡河を避けて城の東西の平地から侵入しようとすると、隘路であるゆえに隊列が伸びて分断されやすい。

 

 それらの難関を突破して、実際に北部の庭園へ軍を進めたとしても、今度は離宮の存在が邪魔になってくる。離宮を無視して本城を攻めれば、離宮から側面後背を急襲される恐れがあるし、逆に離宮を攻めれば本城から狙われる。おまけに、この2つの城の間には連絡用の人工運河が作られていて、これを埋めない限りは、どちらか片方を包囲するということさえ難しかった。

 

「なるほど……無防備そうに見えて、案外考えられてるんだな。結局、正解なんてものはないのかも知れない」

 

 鳳が腕組みをしながらそう言うと、老人は愉快そうに笑い声をあげて、

 

「ふぉっふぉっふぉ……そうじゃのう。お主が最初に感じたように、普通は無防備な城だと思うのが関の山じゃろう。しかし、そう思って十分でない兵力で攻めればしっぺ返しを食らう。結局は、3倍の兵力を集めて力押しをするのが一番マシじゃろうて」

 

 すると市街戦か……あそこに3万が籠もるとしたら、確かに10万くらいの兵力は必要かも知れない。

 

「しかし、それだと市街戦を仕掛けてる間に逃げられるんじゃないか」

 

 鳳は老人の言うことを認めるしかないと結論したが、最初に無防備だと言ってしまったことが悔しくて、名誉挽回のためになんとなく気の利いたことを言わなきゃと、ぱっと思いついた言葉を口にした。

 

 老人はおや? っとした目つきでマジマジと鳳のことを見ると、

 

「どうしてそう思うんじゃ?」

「ほら、あの離宮の配置からして、どこかに隠し通路があるはずだ。じゃなきゃ、連携が取れないだろう?」

「ふむ……」

「それにいくら防備を固めたところで平城(ひらじろ)は籠城に向かない。勝てないと踏んだのならさっさと捨てて、要害城へ逃げ込んで再起を図った方が良いだろう。このへんだと、あっちの山岳地帯や、森へ逃げるのも悪くない。時期さえ待てば、敵は10万の兵力を維持し続けることは困難となり、必ずすきが生じる。そしたら反転攻勢だ」

「なるほどのう……そうじゃったそうじゃった。確かにお主の言う通りじゃわい」

 

 老人はポンと手を打つと、突然、鳳の腕を取ってそれを前方に突き出すように持ち上げた。

 

「何すんだよ」

「いいから、お主の腕の先をよく見てみよ。あそこに三本の大きな木があるじゃろ?」

 

 鳳が抗議の声を上げるも、老人は意に介さず、片目をつぶって遠くの方を指差しながらそう言った。不満に思いつつも、老人の言うとおりに、自分の腕の延長線上を見てみると、確かに、庭園の中に三本の一際大きな木が見えた。

 

「あの真ん中に、庭園迷路の生け垣にカモフラージュした抜け道がある」

「なんでそんなこと言い切れるの?」

 

 鳳が目を丸くして尋ねると、老人はさも当然と言わんばかりに、

 

「昔、儂はあそこで暮らしておったんじゃよ。それはもう昔のこと故、すっかり忘れておったわい」

「暮らしてた……?」

「うむ。儂はあそこの城主と仲良しじゃったんじゃ。しかし、今のとは仲が悪いでの、訪ねていっても門を開けてくれんで、困っておったところじゃ。お主のお陰で、抜け道のことを思い出せた。これで楽に忍び込めるわい。ありがとう、ありがとう」

 

 老人はそう言うと、まるで悪巧みをしてる悪代官みたいな顔をしながら、

 

「なんなら、お主も一緒にどうじゃ? 道案内くらいならしてやらんでもないぞ」

「ははっ! アホらし。さっきのは言葉の綾だって言っただろ」

 

 鳳は苦笑しながら一蹴した。どう考えても、この老人は胡散臭い。突然現れて、城を攻めるならどうするかと尋ねてきたかと思えば、城への抜け道があるなどと言い出す……それが本当かどうかは分からないが……鳳のことをからかっていると言うよりも、何か試しているような、そんな感じがする。

 

 この老人は何者なんだろうか? あの城に害をなす危険はあるんだろうか? もし、他国のスパイかなにかで、敵情視察をしているとかなら、鳳はまずいことを言ってしまったのではなかろうか……大丈夫だとは思うが、あそこには仲間もいるのだ。もっと慎重に行動すべきだった。

 

 彼は反省しつつ、老人の真意を探ろうとして話を続けた。

 

「どうして城に忍び込みたいんだ? 正面から入れないのは分かるが、それなら代理人を立てるとか、他にやり方があるんじゃないのか」

「それではいかんのじゃ。儂は別に城主とお茶を飲みたいわけじゃない。もっと他の目的がある……」

「何がしたいんだ?」

「なに……ちょっとした人探しじゃよ」

 

 老人はそう言ってから、手にしていた杖をズイッと城に向けて突き出し、

 

「今から数ヶ月前のことじゃ。勇者領(ブレイブランド)の重鎮が、帝国首都アヤ・ソフィアへ向かったまま帰ってこなかった。彼らは勇者領建国当時からの商人貴族で、勇者の子孫に当たる。つまり帝国と敵対している勢力なのじゃが……しかしここ数十年、両国の間にこれといった戦はなく、平和が続いておったがゆえに、もう帝国との争いは忘れて国交を正常化しようという機運が起きていた。勇者領はヘルメス国を通じてしか帝国との国交がない。商人である彼らはその販路を帝国全域にまで拡大しようと考えたのじゃ。彼らはその交渉のために帝国首都へと向かったのじゃが……」

「帰ってこなかったのか」

「そうじゃ。行方不明になった彼らの足取りを辿ってみると、どうもこのヘルメス国に入ったあたりで途切れてしまう。つまり……目の前にあるあの城じゃな。無論、儂らはヘルメス卿に彼らのことを知らぬかと尋ねてみた。しかし返事はつれないものじゃった。では、彼らは一体どこへ消えたというのじゃろうか……? お主は何か知らんかの?」

「俺が何か知ってるわけないだろう?」

「5人なんじゃが……知らんか?」

「……わからないな」

 

 5人って……あの地下室の?

 

 鳳は真っ先にそのことを思い出したが、そう気取られないように黙っていた。目の前の老人が何者であるのか、はっきりしたことが分からないからだ。下手なことを言って、おかしなことに巻き込まれたらたまらない。それに、あの城にはまだ仲間たちがいる。彼らに迷惑がかかるようなことは、なるべくなら言いたくなかった。

 

 老人は城を指していた杖を下ろすと、両手をその頭に乗せて、仕方ないと言った感じに肩を竦めた。とても高齢に見えるが、背筋はピンと伸びていて、まだまだ足腰はしっかりしていそうだった。

 

 ビューっと風が吹き抜けて、老人のカリフラワーみたいな白髪を揺らした。耳は短くて、神人でも獣人でもない、こうして見ているとただの老人のようである。しかしその得体の知れなさは警戒を抱かずに居られなかった。

 

 微妙な空気が流れているのを感じて、鳳は話題を変えることにした。さっさとこの場を後にしてしまえば良かったろうに、なんとなく、この老人の正体が気になったのだ。彼は微動だにせずじっと城を見つめている老人に向かって何気ない素振りで尋ねた。

 

「そう言えば爺さんはあの城の中に入ったことがあるんだっけか」

「ふむ? ああ、そうじゃが」

「なら、謁見の間の前にあるフレスコ画は見たか? あれは見事なもんだった」

「そうか? そうかのう……まあ、それを聞いたら、あれを描いたやつも喜ぶじゃろうて」

「それにあの、鏡の間もすごかったよな。シャンデリアがこれでもかってくらい吊り下げられてて、外の景色が鏡に反射して、どっちに向かって歩いてるのか、だんだんわかんなくなってくるんだ。友達が言うにはヴェルサイユ宮殿みたいだって。きっと、ああいう発想を持った人間が、こっちの世界にもいたってことなんだろうけど……」

 

 鳳はそこまで言ってから、この老人にあっちの世界とかこっちの世界と言っても通じないことを思い出し、慌てて話題を変えようとしたが、

 

「そうじゃの、確かにあれはヴェルサイユ宮殿じゃ」

 

 老人はまるで意に介さずに、当たり前のようにそう返してきた。

 

 その瞬間まで話題を変えようとしていた鳳は言葉を飲み込んだ。

 

「……は?」

「さては、気づいておらんかったな? お主の言う通りじゃよ。あれは初代ヘルメス卿がヴェルサイユを真似して作った代物じゃわい」

「まさか、そんなはずは……爺さん、嘘ついてるんだろ?」

「失礼な男じゃのう……お主が言い出したことじゃろうて。鏡の間、それが答えじゃよ。よく見よ、とても有名な城じゃ。お主もあの外観に、見覚えがあるのではないか?」

 

 老人は改めて杖を突き出し、城の方角を指し示した。鳳は呆然としながらその先を目で追った。外国の城だから、はっきりそうだとは言えない。だが、言われてみると確かに、その外観はどこかで見た覚えがあるような……そんな気がした。

 

「本当に……ヴェルサイユ宮殿なのか? でも、どうしてこんなところに前の世界の建物が……」

 

 ……そう驚いている時、彼はハッと思い出した。

 

 放浪者(バガボンド)……

 

 ギルド長が言うには、この世界にはたまに異世界の記憶を持ったまま紛れ込んでくる者がいる。他ならぬ自分自身がそうであったし、ジャンヌも、そしてギヨームもそうだと言っていた。

 

「つまり……この城を建てた初代も放浪者だったのか??」

 

 老人は驚き戸惑う鳳に向かってゆっくりと頷いた。鳳はその事実に驚いたし、これ以上ないほど狼狽してもいた。まさかこんなところにまで、前世の影響が見て取れるなんて……

 

 しかし、驚かされるのはこれだけでは済まなかった。老人が続けて口にした言葉は、鳳を思考停止させるには十分なものだった。

 

「いかにも……勇者には3人の仲間がおった。おそらく、名前くらいは聞いたことがあるじゃろう。一人はレオナルド・ダ・ヴィンチ」

「……はあ? それって……あの?」

 

 ルネッサンス期に生まれた巨匠で、あらゆる分野に精通し、万能人間と呼ばれ、後の歴史に多大な影響を与えたという……

 

「もう一人はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」

 

 鳳が老人を問いただすよりも先に、彼の口から出てきた名前は、鳳を更に混乱させるに十分なものだった。

 

 モーツァルト? モーツァルトが勇者の仲間だって? どうして音楽の天才の名前がここに出てくるのだろうか……そう考えた時、彼の脳裏に稲妻のような閃きが走った。

 

 利己的な共振(エゴイスティック・レゾナンス)……現代魔法を習得しようとして、鳳は訓練所で何をやらされた?

 

 そして老人は、酸欠の鯉みたいに口をパクパクさせている鳳に向かって、更に驚きの事実を口にするのだった。

 

「そして最後はアイザック……アイザック・ニュートン」

 

 その名前には聞き覚えがあった……いや、現代人ならば彼の名前を知らない者など居ないだろう。そうではなくて、こっちの世界で聞いた、今目の前にある城の主の名前は……

 

「もしかして……あの城にいるアイザックってのは?」

 

 老人は首肯した。

 

「そうじゃ。あれはアイザック・ニュートン……確か、11世くらいじゃったか」

 

 ヘルメス卿アイザック……その初代とは、なんと鳳もよく知る世界の偉人、アイザック・ニュートンだった。

 

 まったく予想外の事実に衝撃を受けて、鳳はついに言葉を失った。開いた口が塞がらないとはこのことで、様々な疑問が頭の中を忙しく駆け巡っているというのに、何一つ言葉として現れてはこなかった。

 

 老人は完全に思考停止状態に陥ったの鳳を愉快そうに眺めた後、何も言わずに踵を返して、街の方へと歩き去ってしまった。

 

 一体、この世界に何が起きているのだろうか?

 

 その疑問に答えてくれるとしたら、きっと目の前の老人しかいないだろうに……その背中が小さくなるまで、鳳は呆然と見送るより他なかった。

 



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おい、見ろ。戦争だってよ……

 300年前の魔王襲来時、伝説の五精霊が復活したにもかかわらず劣勢に立たされていた帝国は、最後の賭けに出た。古の禁呪、勇者召喚によって異世界から勇者を呼び出したのだ。彼は人々の期待に応え見事に魔王を討ち滅ぼし、そしてこの世界に平和が訪れた。

 

 そんな勇者には3人の仲間が居た。一人はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。現在ではオルフェウス卿アマデウスの名で呼ばれた彼こそが、最初は救世主だと思われていたそうである。

 

 魔王が襲来し、魔族が無差別に人々を襲うという時代、彼の生み出す歌と音楽は人々を勇気づけた。彼の音楽に触れていると、何故か力が湧いてきて、人々は神人に頼らずとも魔族と戦えるんじゃないかという気持ちになれた。それは正に魔法だったのだ。

 

 現在では共振魔法(レゾナンス)と呼ばれ、広く認識されている現代魔法(モダンマジック)は、こうして彼の手により生み出された。人々は陽気な彼を慕って集い、それがいつしか一大勢力にまで成長し、帝国に侵入しようとする魔族と最前線で戦い始めたのである。

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチはそんな人々の中に現れた稀有な人材だった。彼は人間にも関わらず、なんと古代魔法(エンシェント)を使う魔法使いだったのだ。それだけを聞けばジャンヌ達と変わらないが、彼が違ったのは幻想具現化(ファンタジックヴィジョン)を生み出したことだ。

 

 彼の描く絵画には魔が宿り、それが現実のものとして取り出せた。彼はこの力を使ってこの世界には存在しなかった兵器、銃や大砲を創り出して、人類が魔族と戦うための足がかりとした。

 

 ヘルメス卿アイザック・ニュートンは前者二人とは違って、これといった特技らしい特技はなかった。しかし彼はそんなものは関係ないくらいの、いわゆる知識チーターだった。レオナルドが創り出したライフルを量産したのも彼だった。その他、彼の持つ力学の知識をフル活用し、砲術の基礎をまとめ、要塞の強度設計の見直しなど建築関係にも力を注いだ。

 

 アイザックが最も優れていたのはその政治力だった。彼は帝国の貴族と渡り合い、人類を魔族と戦う対等のパートナーとして認めさせた。また戦後は、前世で造幣局長だった経験を活かし、通貨改革を敢行して、混乱していた帝国経済を見事に立て直した。彼はその功績を讃えられ、当時空位だったヘルメス伯の地位を授けられ、帝国貴族となった。

 

 オルフェウス卿アマデウスも同じく帝国貴族に叙されたが、こちらはアイザックとは違って、単なる名誉職みたいなものだった。彼もまた、勇者と同様に領地は与えられず、戦後は勇者に従って大森林の魔族の残党狩りへ向かい、その後、歴史に彼の名前は登場しない。

 

 レオナルドは他の仲間達とは違い、戦後は一線を退いて隠居生活に入ったそうだ。彼は自分が編み出した現代魔法、幻想具現化を改良し、新たにスクロール魔法を作った。そしてティンダーやウォーターなどの便利なスクロールを量産し、巨万の富を得たそうだから、きっと悠々自適な毎日を送っていたことだろう。

 

 そしてヘルメス卿アイザックは荒れ果てた領内を統治し、帝国貴族としてその末席に連なっていたわけだが……そんな時に勇者が殺されるという事件が起きる。この時、ヘルメス卿には帝国に恭順するという選択肢もあったが……結局、彼は友人である勇者を討った帝国と敵対する道を選んだようである。

 

 ここに帝国守旧派と勇者派による300年近くにも及ぶ戦いの火蓋が切って落とされたわけだ。初代ヘルメス卿は戦争が始まるや、間もなくその戦闘によって命を落とすことになる。以来、代々のヘルメス伯は勇者派の首魁として、帝国との戦争の矢面に立ち続けているわけだが……

 

 さて……城の中にあった謎の空間で出会った少女、メアリー・スーはこの初代アイザックによって城の結界(?)の中に閉じ込められたようであるが、ここに矛盾が存在する。

 

 というのも、彼女はあの空間に、魔王から逃れるために入ったと言っていた。しかし、歴史を紐解いてみれば、アイザック・ニュートンがヘルメス卿となったのは、魔王討伐後。つまり、魔王がいる間は、まだあのヴェルサイユ宮殿を模した城は存在していなかったのである。

 

 じゃあ、何故、彼女はあそこにいるのだろうか。嘘をつかれてまで。

 

 そして、何故、彼女は幼馴染(エミリア)にそっくりなのだろうか。

 

 何故、この世界にはエミリアという名の神様が居て、その化身(アバター)がソフィアなのか……

 

 この世界のいわゆる古代魔法(エンシェントマジック)は、鳳たちの世界のゲームシステムをそのまま踏襲していて、ソフィアが生み出したと言われる神人のみが使えるものだった。

 

 ところが300年前、二人の天才が現れて、現代魔法(モダンマジック)という新しい魔法系統を作り上げ、そして現在、世界には2系統の魔法が存在している。これにより浮き彫りになるのは、古代魔法とはエミリアの存在が前提とされる、エミリアの魔法だったということだ。

 

 この世界は、エミリアがいなければ、神人も、魔法も、勇者召喚もありえなかった。

 

 この世界には創世神話があるようだが、冗談抜きで、この世界はエミリアから始まっているのである。

 

 一体、幼馴染(エミリア)に何がおきたんだ?

 

 それを知るには、300年前にブレイクスルーを起こした3人の天才のことを知る人物……そして自分の幼馴染にそっくりな少女……メアリー・スーにもう一度会ってみたいと、鳳は考えた。

 

*********************************

 

 月のない晩のこと、闇夜に乗じて、アイザックの居城の庭園の中を、不審な影が蠢いていた。ジャンヌは人気のない庭園に忍び込むと、コソコソと周囲を気にしながら、鳳に指示された通りの場所を目指していた。

 

 街外れの丘から城を眺めてみると、庭園に3本の大きな木が見える。その真ん中に隠し通路があると言うのだ。そして、ジャンヌが言われた通りの場所を調べてみたところ、その通路は実在した。彼はそれを発見するや、パーティーチャットで鳳に話しかけた。

 

『白ちゃん白ちゃん……聞こえますか?』

『ああ、感度良好だ。どうだった?』

『うん、あなたの言ったとおりの場所に隠し通路があったわ。茂みの奥をかき分けたら、枯井戸に偽装してるけど、その中は通路になってるみたい』

『そうか……じゃあ、あの爺さんの言ってたことは全部本当とみて良さそうだな……』

 

 彼が昔、あの城で暮らしていたことも、そして、勇者領の重鎮5人が行方不明になってることも……5人と聞いて思い出すのは、やはりあの城の地下で見た5つの死体だ。アイザックはあれを使って、何をやったというのだろうか……あの死体と、自分達との関係は? 無いとはとても思えない。

 

『どうする? この先も確かめてみる?』

『いや、見つかったら元も子もない。これ以上深入りするのはやめとこう』

『わかったわ』

 

 ジャンヌは踵を返すと、身を屈めてもと来た道を戻り始めた。本城から少し離れているとは言え、ここも一応城の中のはずだが、ここに来るまで歩哨の気配は皆無だった。もし隠し通路の存在を知っているなら、こんなに無防備なはずはないから、もしかしたら城の人間も知らないような通路なのかも知れない。なら、下手なことをして気づかれるより、今は大人しく引いておいたほうが無難だろう。

 

 そう考えると、それを知っていたあの老人の正体が余計に気になった。彼は本当に、かつてこの城に住んでいたのだ。この城を攻めるならどうする? なんて言っていたが、多分、ヘルメス卿の敵と言うよりは味方なのだろう。じゃなければ、こんな情報知るはずもない。

 

『本当に、その老人は何者だったのかしらね……』

『そうだな。こんな情報を知っていたことも胡散臭いが、それをわざわざ俺に教えたのも胡散臭い。これってつまり……俺たちが何者か、勘付いてるってことだろう?』

『そうかも知れないわね……それに、5人でしたっけ? 勇者領から消えた重鎮の数は。それが、城の地下室にあった死体の数と一致する。そして同じ空間に閉じ込められた女の子が……ソフィアにそっくりだったと』

『ああ、そうだ』

『うーん……おかしなことだらけね。ところでソフィアって、どんな子だったの?』

『え?』

 

 不意打ち気味の言葉に鳳は面食らった。ジャンヌはいかにも素朴な疑問を尋ねてるといった感じに続けた。

 

『今までの話を総合すると、この世界にソフィアが居たことは間違いないでしょう。そして私が使える神技にも彼女の影響が見えるわ。だからこの際、彼女がどうやったのかは置いておいて、どうしてこんなことをしたのか……それを探るためにも、彼女の気質とか性格とかを知っておいた方が良いわよね』

『なるほど、それもそうか……と言っても、取り立てて目立つような性格はしてなかったんだよ。寧ろ陰キャとかオタクとか、クラスの目立たない連中の特徴を、まとめて体現してたのがエミリアだった……テストはいつも平均点。身長も真ん中くらい。運動神経は無くて、大概の競技でドベだった。

 

 ただ……とんでもなく、あれだ、美少女だったんだよ。それが、アニメとか漫画とか、そっち方面にばっかり興味を示すから、下手に目立ってしまったんだ。ほら、日本人って何故かオタクのことを軽蔑してるだろう? 見下してもいいって雰囲気さえある』

『そうね……そうだったわ』

 

 ジャンヌはげっそりとした感じでそう返した。

 

『仲良くなったあとに知ったことだけど、エミリアのお父さんは欧州の某有名ゲームデザイナーだったんだって。彼は子供の頃から日本のテレビゲームをやって育ったから、日本に憧れを持っていて、会社が日本に拠点を構える事になった時、自ら進んで転勤を志願したそうだ。

 

 エミリアはそんなお父さんの話を聞いていたから、きっと包容力のある素敵な国なんだって、日本に幻想を抱いてたそうだよ。でも実際に来てみたらオタクは常に肩身の狭い思いをしていて、何もしていないのに性犯罪者みたいな目で見られる。それで大分幻滅していたみたいだ。だから俺が話しかけなければ……欧州に帰っていたかも知れない』

 

 振り返ってみればあれは間違いだったと、彼は確信を持ってそう言えた。あの時無理して話しかけなければ、きっとその後、彼女が傷つくこともなかったろうし、鳳も今ここでこんなことをしていなかったはずだ。

 

 だが……もしそうしていたら、彼は彼女のことを好きになることは無かっただろう。楽しかった思い出だって、ちゃんとあるのだ。放課後の学校で先生に隠れて、二人仲良く肩を並べて、RPGのボスを攻略したことも。限定トレカを手に入れるために、隣町に出張したことも。禁止されてるゲーセンで、大昔のレトロゲームに、10円で何度も何度も挑戦したことも。それが間違いだったとは思えなかった。

 

『そう……白ちゃんはやっぱり、本当にソフィアのことが好きだったのね?』

『え?』

 

 ジャンヌがポツリと呟くように言った。

 

 鳳は反射的にそんなことはない……と言いかけたが、今更隠してもしょうがないと思い、どこか突き放すような投げやりな感じで続けた。

 

『ああ、好きだったよ。でもそれに気づくのはいつも失ってからだ。あいつといられたのは本当に短い時間でしかなかったけれど……俺はその貴重な時間の中で、彼女のことよりも周りの目ばかり気にしていたよ』

 

 彼女と居ると、いつもチャラい連中に睨まれた。オタクでしかない鳳は、自分よりも体が大きくて威圧的な先輩たちに、いつも怯えていた。おまえに彼女は似合わないと言われたら、おっしゃる通りだと同意していた。だから、いつしか彼女と一緒にいるよりも、彼女をいかに遠ざけるかと、そんな事ばかり考えていた。

 

 中学に入ってから、慣れない運動系の部活に入ったのもそうだし、先輩に彼女を差し出したのもそうだった。勇気が持てなかったのだ。しかし、当時の鳳に勇気を出せと言ったって、それは無理な話だろう。彼女はいつもそばに居た。居なくなって初めてそれが永遠じゃないと気づくのだ。

 

 そんな初恋の失敗談を話していると、だんだんと空気が重くなってきた。鳳は努めて明るく振る舞うと、ジャンヌに向かってお返しとばかりに尋ねた。

 

『つーか、ジャンヌはどうなの? あっちに、好きな人っていたのか?』

『え!? えええ~!? い、いないわよ、そんなの』

『おい、今更隠し事なんかするなよ、俺だけ話したんじゃ不公平だろ』

『そそそ、そんなこと言われても……年上をからかうもんじゃないわ』

『都合のいいときだけおじさんぶるなよ。そういや、おまえの好みってどんなの? ホモになった切っ掛けってやっぱあるの?』

『ないない、ないってば! 私は今まで人を好きになったことなんてないってば』

『そうなの……? まあ、いいけどよ』

 

 もし誰かを好きにならなければ、ホモになんかならないはずだ。でもどうしても話したくないなら、無理に聞くようなことじゃないだろう。きっと忘れたい過去があるのだ。自分だってそうだ。傷を舐めあったところで虚しくなるだけだ。

 

**********************************

 

 それからおよそ一ヶ月が経過した。

 

 鳳たちはこの街にやってきてからずっと世話になっていた安宿を出て、新たに建てた小屋へと引っ越した。最初は鳳が一人で引っ越すつもりだったのだが、ジャンヌがどうしても自分もついていくと言って聞かないので、結局二人で住むことになった。

 

 鳳としては、いつまでもジャンヌに頼り切りってわけにもいかないからと思っての行動だったが、そのことを彼に話してみたら、頼っているのは鳳ではなく、寧ろ自分の方だと反論された。

 

 考えても見れば、右も左もわからない土地に放り出されて、同郷のものがいるだけでどれだけ心強いだろうか。海外留学なんかでも、日本人は日本人、同郷ばかりで集まっているではないか。要はそういうことだと言われて妙に納得した。

 

 そんなわけで、二人は改めて対等なパートナーとして、この世界でやっていくことに決めた。鳳が挫折して冒険者をやめたことも、ある意味では功を奏した。鳳は薬屋として、ジャンヌは引き続き冒険者として、別々のことをやっていれば、不用意にお互いの生活に踏み込むことがなくなるからだ。

 

 小屋を建てる際にはギヨームが駆けつけ、色々と世話をしてくれた。もはや彼のほうが、よっぽどジャンヌの相棒としてふさわしいような気がしていた。その旨を伝えてみたら、心の底からやめてくれと真顔で返されたが……

 

 建築にはツーバイフォー材が非常に活躍した。まさかそんな規格が存在するとは思いもよらなかったが、小屋を建てようとして材木屋に行ったら、どこもかしこも当たり前のように置いてあったのでびっくりした。

 

 元の世界でもツーバイフォー建築は、アメリカの開拓時代に流行したのが始まりだったそうだから、こっちの世界でも新大陸への移民ラッシュの際に自然と規格が出来上がったのだろう。もしくは、これにも放浪者が関わっているのかも知れない。

 

 トタン屋根も、外壁材に染み込ませるためのクレオソートやコールタールも簡単に手に入った。何しろ、貧乏人が集まって出来た街だから、この辺では家を自分で建てるのが当たり前らしく、新築を建てていたらあちこちから人が集まってきて、頼んでもいないのに色々とアドバイスしてくれた。お陰で思ったよりも立派な小屋が建ち、家具まで一式揃ってしまった。間取りとしては鳳のおクスリ工房を中央に建てて、その左右にそれぞれの寝室を設けた格好である。

 

 竣工お披露目パーティーには、魔法具屋の店主やギルドで知り合ったメンツも集まってきて、思ったよりも賑やかになった。これでもし城の仲間と連絡が取れれば最高だったが、残念ながらパーティーチャットも繋がらないし、城には近づけないので断念せざるを得なかった。

 

 いつかほとぼりが冷めたら会いに行きたいところだが、一体いつになることやら……

 

 しかし、そのいつかは割とすぐにやってきた。

 

 そして、二人の新しい生活も、いつまでも順風満帆とはいかなかった。

 

 ある日、アイザックの城から兵士が大勢やってきて、街の広場に何かを建て始めた。最初、鳳たちは自分達を探しに来たんじゃないかと、気が気じゃなかったが、どうやらそれは取り越し苦労のようであった。しかし、兵士たちがこの街にやってきた用向きは、それよりもっと深刻なものだった。

 

 兵士たちが城へ帰っていくと、広場には一枚の大きな看板が残されていた。街の人達がその周りを取り囲んで喧々諤々としている。兵士に見つからないように遠巻きに見ていた鳳は、何があったんだろうかと近づいていくと……

 

 その途中で飛び込んできた街の人たちの会話を耳にして、彼は思わず立ち止まった。

 

「おい、見ろ。戦争だってよ……」

 

 ギョッとして見上げた看板には、募兵の二文字が踊っている。鳳は、突然、自分の身に降り掛かってきた危機をすぐには認識できず、ただその場で立ち尽くすばかりだった。

 



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我々は、何者でもないのだよ

 戦争が始まる。その噂はあっという間に街中に広まっていった。

 

 ある日突然城からやってきた兵士が立てた看板には、募兵の詳細が書かれていた。曰く、帝国から不当な嫌疑をかけられ、我がヘルメス領は侵攻の危機に晒されていること。曰く、それを跳ね返すだけの兵力は十分にあるが、万全を期すために勇気ある兵士を募っていること。曰く、恩賞には十分報いるつもりであること。

 

 立て看板に細かく提示された支度金、報奨金の額は破格であった。正直なところ、この貧乏な街の住人であるなら、それだけで一生暮らしていけそうな額だった。それ故に、ヘルメス卿の劣勢は誰にでも簡単に予想が出来た。もし、看板に書かれている通り、十分に跳ね返せるだけの兵力があるなら、こんな額を支払って兵をかき集める必要などないのだ。

 

 それから数日間は、てんやわんやの大騒ぎだった。募兵に応じて一攫千金を狙おうとするもの、取り敢えず様子見を決め込むもの、さっさと逃げだそうと荷物をまとめるもの、みんなそれぞれがこの国で今起きていることの情報を欲していたが、入ってくるのはどれもこれもみな信憑性に乏しいものばかりだった。

 

 例えば勇者派であるヘルメス卿は、帝国への憎悪を募らせ、ついに悪魔に魂を売り渡したとか、例えば守旧派の切り崩しを画策し、勇者領の商人を使って帝国内をかき回そうとしていたとか、例えばヘルメス卿は変態で、男たちを侍らせて毎夜酒池肉林の宴を繰り広げているとか、ヘルメス卿は嫉妬から優秀な部下を次々と殺してしまったとか。

 

 ただし、中には信憑性のあるものもあった。例えば、ヘルメス卿は乱心して、夜な夜な街の娘をさらってはその生き血を啜っているとか、勇者領からひっきりなしに人がやってくるのだが、出ていったのは皆無だとか……

 

 これらの噂の出どころはなんとなく想像がついた。アイザックは城に残った仲間たちに女を充てがっているわけだが、その醜聞はいくら隠しても隠しきれないだろう。そして、消えた5人の勇者領の重鎮の噂も……

 

 ともあれ、そんな具合に玉石混交の情報を集めてみたはいいものの、結局の所、このテレビも電話もない世界では、帝国が何故ヘルメス国へ攻め込んでくるのか、その正確な理由は何も分からなかった。現代人ならこんなときネットで調べてSNSに愚痴でも書いているところなのだろうが、新聞すらないこの世界では、正確な情報を掴むのも、投書欄に意見することすら出来ない。分かるのは、アイザックが何かをしてしまったことと、そして帝国が彼を排除したがってることだけだった。

 

 ところでどのくらいの兵力が、ここヘルメス領へ攻め込もうとしているのか……その正確な数字もはっきりしなかったが、ただ、それでもあちこちから駆け込んでくる早馬の情報を総合すれば、帝国がヘルメスを除く四精霊国、全ての国から兵をかき集めており、その数は10万を下らないだろうとのことである。

 

 対して、ヘルメス卿は2万を集められるかどうか……噂では、ヘルメス領北部はとっくに帝国に屈服し、その兵力は当てに出来ないようだ。

 

 それどころか、ヘルメス卿の味方はどこにいるのか……勇者領にも疑心暗鬼を生じている今、探しても見つけられないくらい、彼は窮地に立たされていた。

 

******************************

 

「はぁ~……本当に、戦争になっちゃうのかなあ?」

 

 ギルド酒場で、ウェイトレスのルーシーがため息を吐いていた。このところ冒険者ギルドは、入ってくるよりも外に出ていく人が増えたせいで閑古鳥が鳴いていた。酒場のカウンターの対面にあるギルド受付では、ミーティアが忙しそうにしていたが、仕事の殆どは国外へ逃げ出そうとする人たちの護衛の依頼だった。

 

「そうなって欲しくないけど、期待しても無駄だろうな」

 

 カウンター席に座っていた鳳は、真っ昼間っからビールをちびちびやりながら、彼女と同じように嘆いていた。せっかく独り立ちしておクスリ工房を立ち上げたばかりだと言うのに、このところの騒ぎのせいで商売どころじゃなくなってしまったのだ。

 

 店の外に目をやれば、大きな荷物を抱えた不安げな表情の人々の列が見える。城下町から続く街道には人が溢れ、それが森の前で渋滞を起こしていた。無防備なまま森に入れば魔物に襲われるかも知れない。だが、護衛の数が圧倒的に足りないから、彼らは護衛の手が空くまで待っているのだ。

 

 尤も、仮に空いても彼らに冒険者を雇うような金は無かっただろう。今や護衛依頼は需要に供給が追いついておらず、依頼料もうなぎ登りだったのだ。ここに来るまでに持ってきた財産を売り払えば、もしかしたら護衛を雇えるかも知れないが、しかし身一つで勇者領に逃げ込んだところで、彼らに待ち受けているのは過酷な生活しかないだろう。命あっての物種とは言うが、そこまで割り切れる人間も中々おらず、森を目前に足止めを食っている人の群れは、どんどん町の外に広がっていった。

 

 勇者領に続く大森林を貫く街道は、馬車を使っても野営が必要なくらい距離があった。それを徒歩で大量の荷物を抱えてとなると、片道4日は必要だろう。その間、一度も魔物に襲われないという保証はなく、多大な危険を伴うのだ。かと言って、ヘルメス卿が全方位から攻撃されている今、他国に逃げようとしてその途中で軍隊に行き合いでもしたら、容赦なく襲われるのは必至である。

 

 戦争において、略奪は兵士の権利なのだ。それを止められる程の力をもった国家は、まだこの世界には存在しない。難民はただ奪われるだけだ。

 

「ミーティア君、中止だ中止。今やってる仕事、もう片付けちゃって」

「え? どうしてですか?」

 

 鳳たちがカウンターで溜め息を吐いていると、酒場の裏口からギルド長のフィリップが難しい顔をしながら入ってきた。彼は理由を尋ねるミーティアを無視してカウンター席にどっかと座ると、マスターに軽食を注文した。

 

「朝から何も食べてないんだよ」

 

 ギルド長はたまたまカウンターにいた鳳を見つけると、後ろめたい気持ちを誤魔化すような苦笑を向けつつサンドイッチにかぶりついた。その目の下には真っ黒なクマがついていて、このところの忙しさを物語っていた。どことなくイライラして見えるのは、疲労困憊のせいだろう。だが、それはミーティアも同じだった。彼女はカウンターに座るギルド長の背後に立つと、恨めしそうにその頭を睨みつけ、不満たらたらの表情で彼に詰め寄った。

 

「食べながらでいいから理由を聞かせて下さい。護衛依頼はまだ沢山来てるんですよ?」

「その護衛が成立しなくなったんだ。現場の方からクレームが入ってね。もうこれ以上はタダ働き出来ないと……」

「タダ働き? そんなはずはありませんよ。頂いた依頼料は公平に分配するように手配してあります。実績のある冒険者には前金も渡しているはずですが……」

「そうじゃない、金の問題じゃないんだ。いや、金の問題でもあるんだが。まあ、聞きたまえ」

 

 ギルド長はうんざりした様子で手にしたサンドイッチを一気に頬張ると、それをコーヒーで流し込み、そして今起きてるトラブルの全貌を話し始めた。

 

 このところの戦争余波で発生した難民が、ヘルメス領から勇者領への護衛を依頼していたのは前述の通りである。依頼を受けた冒険者ギルドは書き入れ時とばかりに冒険者を集めてそれに対応していたが、それでも回しきれないくらい、護衛依頼はひっきりなしに舞い込み続け、圧倒的に人手不足な状態が続いていた。

 

 人手不足の一番の原因は、護衛にかかる時間の問題だった。普段でも片道二日、帰りは早馬を使って一日でも、計三日はかかるこの距離を、今回の護衛では徒歩で大きな荷物を抱えた難民を連れていかなければならないのだ。すると最低でも五日、長くて一週間以上の日数がかかり、それだけの時間を拘束されては、冒険者がいくらいても足りなくなるのは必然だろう。

 

 そこでギルド長はやり方を変えることにした。勇者領のギルドと連携して、街道のあちこちに冒険者を予め配備し、駅伝方式を採用したのだ。これなら冒険者が護衛する距離は極小で済み、次から次へとやってくる難民の護衛を少ない数で回すことが出来る。

 

 この方法は最初は上手くいった。ところが間もなく問題が発生した。フリーライダーが現れたのだ。

 

 街道を歩いて移動していたのは、護衛をつけた難民だけではない。中には危険を承知で身一つで勇者領に向かっていた者たちもいた。そのうち彼らは街道のあちこちに冒険者がいて、彼らの後についていけば安全だということに気がついた。するとその噂はどんどん伝播していき、やがて依頼料を払ってない難民が、護衛のあとを付け回すようになったのである。

 

 それが少数のうちはまだ誰も気にしなかった。それがどんどん増え、やがて護衛する数よりも多くなると、依頼料を払ったものから不満があがりはじめた。自分達は金を払っているのに、何も払ってない連中まで助けるのはどういう了見か。

 

 だが、ついてくるなと言っても彼らが言うことを聞くはずがない。なら、襲われてるところを見捨てればいいかと言えば、それも寝覚めが悪い。助ければ正規の料金を払った依頼者が不満を持ち、助けなければ人が死ぬ。仮に生き残っても、逆恨みされる。

 

 そんなことが続いているうちに、ついに冒険者の一人の堪忍袋の緒が切れた。何しろ、危険な森の中で何日も過ごしているのだ。それだけでも相当なストレスなのに、クレーム処理までさせられたのでは堪らないだろう。

 

 しかし彼が抜けた穴は誰かが埋めなければならない。するとその周囲にしわ寄せが行き、その中からまた不満を爆発させるものが現れる……いたちごっこだ。

 

「そんな感じで駅伝方式にも限界が来てしまったんだよ。これ以上続けては、現場で体を張っている冒険者に危険が及ぶのも時間の問題だろう。だからもう、すっぱりと諦めるしかない」

 

 話を聞いていたミーティアはよろよろと、腰が抜けたかのようにカウンターに突っ伏した。

 

「そんな……それじゃ、私の今までの苦労は一体……」

「それは違うぞミーティア君。今までのは前哨戦に過ぎない、これから我々は既に料金を支払ってくれた依頼者に、護衛が出来なくなったことを伝えねばならないんだ。我々の戦いはまだはじまったばかりだぞ」

「嫌だー! 死ぬ! 死んでしまう!! わ、わかりました。私も職場放棄します。お給金はいりません。今までお世話になりました。あとはギルド長一人でなんとかしてください」

「別に私はそれでも構わないけどね……それで君、これからどこいくの? 勇者領に帰っても、職場放棄したなら仕事はないよ? 大体、護衛もつけずに、一人であの街道を歩いていけるのかい。こっちに残っても行くとこある? 兵隊に捕まったら、レイプされるよきっと」

「くっ……鬼! 悪魔! 人でなし!」

「……腹ごしらえしたら、君も職場に戻ってくれ。またこれから数日、寝る暇もないくらい忙しくなるからな」

 

 ギルド長とミーティアの絶望的なやり取りを横目で見ていた鳳は、複雑そうな表情で彼に向かって聞いてみた。

 

「……護衛の仕事をもう受けないなら、森の前に溜まってる難民キャンプは、あれはどうなるんですか?」

「見捨てるしかないだろう」

 

 ギルド長は当たり前のように言い切った。

 

「彼らは兵士に捕まって略奪されるか、一か八か、街道を通って勇者領へ向かうしかないだろうな。帝国軍の軍規がどれくらい行き届いているかわからないが、まあ、まず見つかったらタダじゃすまないだろう」

「助けることは出来ないんですか? この街で匿ったりとか……」

「匿う? どこに? 外壁もないような吹きっ晒しの街だぞ? こんな場所、軍に攻められたらひとたまりもないだろう」

「それじゃ、一戦もせずにこの街を明け渡すんですか?」

「そりゃそうだろう。そもそも、ここは街として認められていないんだ。街道の途中に出来た、ただのキャンプという扱いだぞ。我々はここを放棄して勇者領へ帰るよ。鳳くんも、これからどこへ行くか分からないが、身の振り方を考えておきたまえよ……まあ、君にはジャンヌ君がいるから平気だろうけどね」

 

 鳳はぐうの音も出ず、黙りこくるしかなかった。考えても見ればこの街には町長もおらず、ヘルメス国にも従属していないのだから、ここを防衛しようなどという変わり者はいないのだ。やはり、放棄して逃げるしかないのだろうか。せっかく、新しく小屋を立てて、生活の基盤が出来てきたというのに。これから街を出て勇者領へ向かったとしても、また1からやり直さなければならない。

 

 しかし、鳳にはまだ気がかりがあった。自分がここを捨てて逃げるのはいいけれども……城に残っている仲間たちはどうするつもりなんだろうか。アイザックの城が落ちたら、あのメアリーはどうなってしまうんだろうか……彼らの去就は気がかりだった。もし一緒に逃げることが出来たらそうしたいところだが……

 

「鳳くんは、勇者領へ行くのかい?」

 

 鳳がそんなことを考えていると、黙って食器を拭いていた酒場のマスターが話しかけてきた。

 

「そうですねえ……ジャンヌが帰ってきたら話し合わなきゃだけど、多分、そうなるんじゃないかと」

「そうか……なら、一つ頼まれてくれないか?」

「頼み?」

 

 マスターはこっくりと頷いて言った。

 

「一緒にルーシーを連れてってくれないか。ここが無くなったら、僕も彼女も行くところがないんだ。僕は男だし、故郷に帰ればまだなんとかなるが……彼女は孤児でね」

 

 そうだったのか……? 驚いて彼女の方を振り返ったら、ルーシーはバツが悪そうな顔をして、

 

「たはははは……お恥ずかしながら。でもマスター、そんなの気にしないでいいですよ。自分だけ助けてもらうんじゃ、子供たちに悪いですしね。私だけなら、娼婦のお姉さんたちに仕事を教えてもらえば生きてけるんじゃないかな」

 

 彼女は冗談めかしてそう言ったが、正直まったく笑えなかった。子供たちに悪いと言ってるのは、鳳が依頼を取り合った子供たちのことだろうか。そういえば、よくこの辺をうろついる子供たちがいたが、彼らに親がいるとは思えなかった。

 

 戦争が起きたら、彼らはどうなってしまうんだろうか……ちゃんとご飯を食べていけるんだろうか。下手に盗みなんか働いて、兵隊に殺されたりしないだろうか。なんだか、体を売れば生きていけるというルーシーの方がマシに思えてきた。少なくとも食いっぱぐれることはないのだ。

 

 そうだ、これは戦争なのだ……甘いことを言っていても始まらない。

 

 だが……鳳はどうにも割り切れなくて、散々悩んだ末に、腹に食べ物を入れてウトウトとしているギルド長に向かって言った。

 

「やっぱり、なんとか助けることは出来ませんか。あの森の前の難民キャンプも。この街に残る人たちのことも……」

「……それが夢物語なのは、君にだってわかっているだろう?」

「でも、冒険者が集まれば、なんとかなるんじゃないですか? ギヨームも、ジャンヌも、冒険者一人ひとりは、軍人よりも強いですよね」

「そりゃ、傭兵みたいなものだからね。でも相手は軍隊、元の数が違うんだ。絶対に勝てるわけがないよ」

「いや、勝つ必要はないでしょう」

 

 鳳がはっきりそう言い切ると、ギルド長は少し興味を示した。

 

「寧ろ勝っちゃいけませんよ。どっちかっつーと、上手く負けなきゃならない」

「どういうことだ?」

「相手が略奪に来るのは、こっちが弱いからですよね? 無抵抗な相手からは、奪っても殺しても、何をやってもいいと思ってやってくる。でも、弱いと思っていた街の人達が抵抗して、不用意に手を出したらタダじゃ済まないと思わせたところで、交渉を持ちかけたらどうでしょうか? 我々には街を開放する用意がある。その代わり、命は助けてくれと下手(したて)に出たら」

「……なるほど。少なくとも金で解決することくらいは出来そうだな」

「そうでしょう?」

「しかし、その金はどこから出るんだ?」

「え? ……それは、街の外にいる人達に頼んでかき集めれば……」

 

 ギルド長は椅子に深く腰掛け直すと、真剣な表情で鳳の目を真っ直ぐ見ながら言った。

 

「それを君は一人で出来るか? 今の話を難民たちにして、信じさせることが出来るか? 一人二人くらいなら話を聞いてくれるかも知れない、だが彼らは命を賭して戦うことも、全財産をなげうつこともしないだろう。例え、そうしなければ死ぬと分かっていてもね」

「そうでしょうか……」

「我々は、何者でもないのだよ。我々が何を言ったところで、それは夢物語にしかならない。誰も話を聞いちゃくれない。それを覆すための実績もカリスマもないからだ。だから、君の作戦を実行するには、まず金が必要なんだ。そう、世の中金で回ってる。金さえあれば、冒険者を募ることも出来るだろうし、外の難民たちも話を聞く気になるだろう。君の話は、つまり順序が逆なんだよ」

「なら、金さえあればなんとかしてくれるんだな?」

 

 鳳とギルド長が話し合っていると、突然、そんな横やりが入った。

 

 二人の会話に割って入った声の方を振り返ると、酒場の入り口でやけに重そうな荷物を抱えたギヨームとジャンヌが立っていた。

 

 二人は汗だくになりながら、手にした袋をカウンターの前まで持ってくると、その中身をぶちまけるように、ギルド長の前に投げてよこした。するとその袋の中から、ジャラジャラと、盛大な音を立てながら、大量の銀貨が転がりだしてきた。

 

「こ、これは……」

「見てのとおり、金だよ、金。重いのなんの、ここまで運んでくるの苦労したぜ……魔物退治の方がよっぽど楽だ」

 

 ギヨームはそう言いながら、トントンと自分の肩を叩いた。彼よりも大きな荷物をしょっていたジャンヌはクタクタと地面に突っ伏している。

 

 ギルド長は転がりでた銀貨を数えてニヤニヤしているミーティアを押しのけて、その袋の中身を確かめながら、

 

「何故、こんなものを君たちが?」

「俺たちが護衛の仕事を終えて引き上げようとした時、リレー相手の冒険者から渡されたんだ。本店からの救援物資だそうだぜ」

「救援物資?」

 

 ギヨームは頷くと、

 

「ああ、タイクーンはここを守るように指令を下した。戦争に加担することはない、ただし、街と難民を守れとのお達しだ」

大君(タイクーン)が!?」

 

 大君とはなんだ? 鳳が首を捻っていると、ジャンヌが冒険者ギルドの一番えらい人だと教えてくれた。冒険者ギルドは支部ごとに独立しているが、一応それを束ねる組織が存在する。要するに持株会社みたいなものらしいが、支部長はみんなこの組織に所属しているから、大君とはつまり社長のことで、命令には絶対逆らえないらしい。

 

 ギルド長は大量の銀貨を前に目を白黒させながら、

 

「何故、ここを守る必要があるんだ? 街がどうなろうと我々には関係ないだろう」

「俺に聞かれても困るよ……つかそのセリフ、街の住人の前で言うなよ」

 

 ルーシーと酒場のマスターの視線が突き刺さる。ギルド長は口の前で手を併せて謝罪の意を示した。ギヨームはそんな彼を見ながら、

 

「とにかく、救援物資は渡したぜ? 詳しいことはあとから来る連中に聞けばいいよ」

「あとから来るって?」

「勇者領の方から腕利きを派遣してくれたらしいぞ。あとはそいつらと相談して防衛計画を立てればいいさ……それから鳳、大君からおまえに伝言だ」

「は? なんで俺……??」

 

 鳳は目をパチクリさせた。何故この流れで、突然自分に話が振られるのだろうか? ギヨームはちらりとジャンヌを見てから、

 

「俺もよく知らないが……とにかく伝言だ。隠し通路は見つかったか?」

「……あ!」

 

 鳳はその一言で相手が誰か悟った。あの時、城の見える丘の上で出会った老人……あれが大君だったのだ。何故、彼があの場所にいたのか。どうして鳳に話しかけてきたのか。それは分からなかったが……

 

 ギヨームは続けて言った。

 

「忍び込む気があるなら、ギルドに依頼を出せってよ。なあ、おまえ、一体なにやったの? 面白そうだから、俺にも一枚噛ませろよ」

 



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潜入

 それからの数日間は寝る間もないほど忙しかった。

 

 ギルド長フィリップは、まさか自分が最前線の指揮官にされるとは思ってもおらず、真っ青になりながら防衛策を練らなければならなくなった。それにしても、憲兵もいないようなこの無法地帯でどう街を守れというのだろうか。いくら金があるとは言え、兵力を雇おうとしても、それは既にアイザックがやってしまっている。それ以上の金で釣ることは、まあ、出来なくもないが、それで本城の防衛に支障をきたしては元も子もないだろう。

 

 だから何か発想の転換が必要なのだ。彼は何かアイディアは無いかと広く募り……そして鳳の策が採用された。

 

 街を守るというのは何も敵を撃退するということではない。負けても略奪を受けずに済む方法を考えるのだ。それには、攻めるよりも話し合いで解決したほうが良いと、相手に思わせる必要がある。攻めればそれなりの被害が出るが、しかしこっちが恭順の意思を示しているなら、それでいいと思わせるのだ。

 

 それにはまず何をすればいいか。とにかく、ここは街道に自然発生した街だから、防備らしい防備が全く無い。最低限、外壁で囲まれていてほしいのだが、無いものをねだっても仕方ないだろう。今から敵の大軍を防げるだけのバリケードを作るのはとても間に合わない。というわけで、代わりに堀をめぐらすことになった。

 

 深さは特に必要ない。幅もそんなに必要ない。取り敢えず人の背丈程度の深さまで掘って、内側に掘った土を土嚢にして積み上げ、さらに戸板で補強すれば、それなりの外壁が完成する。こんなのはその気になれば簡単に乗り越えられるだろうが、要はここを乗り越える時に足が止まることが重要なのだ。動いている敵は攻めにくいが、止まっていればただの的だ。おあつらえ向きに、この世界の主力兵器は銃である。

 

 あとはこれだけの大仕事をするための人員確保が必要だが、そこはギルド長の腕の見せ所だった。今、町の外にいる難民たちはリーダーを欠いている。頼れるのは冒険者ギルドの護衛だけだ。ところがその護衛が居なくなったせいで彼らは動揺している。良かれ悪しかれ、この動揺を抑えられるのは、今はギルド長だけだった。

 

 民衆とは複雑な問題は間違うが、一つ一つの簡単な選択ならほぼ間違えない。無知であっても真実を見抜く目は持っているのだ。だから真実を告げれば、意外と容易に説得されるものである。

 

 ギルド長は言った。

 

「今、ヘルメス領から勇者領へと逃れようとしている難民には護衛が必要だ。だが護衛の数には限りがあって、全ての難民を救うことは出来ない。難民を見捨てて逃げるしかない……だが冒険者ギルドはこの街と難民を死守することを決定した。敵と交渉し、時間を稼げば、全ての難民を逃がすことが出来るだろう。そのためには、多くの人手が必要だ。街の防衛網を築き上げ、敵に手を出すのは割に合わないと思わせるだけの戦力が必要なのだ。だからみんな協力して欲しい」

 

 ギルド長がその旨を伝えると、始めは無理だと頭から否定していた者たちも、段々と意見を変え始めた。特に護衛依頼をキャンセルされた人たちは、最初こそ不満を爆発させていたが、意見表明後はクレームもピタリと止んだ。みんな、やらなきゃやられることが分かっているのだ。

 

 こうして嫌々ながらも街の防衛網が作られ始めたら風向きも変わってきた。難民の間に、逃げるよりも戦おうという意識が芽生え始めたお陰で、さっさととんずらを決め込んでいた近隣の炭鉱夫たちも協力してくれるようになったのだ。彼らだってここを失えば、販路を一つ失うことになる。新天地を開拓するより、ここに残っていて欲しいのだ。

 

 穴掘りの本職が加わったお陰で、街を取り巻く塹壕は想定以上のスピードで構築されていった。(ほり)はより幅広く、(へい)はより堅固に、鉄板で補強された遮蔽板は、少しくらいなら鉄砲の弾もはじくだろう。ギルドから送られた救援物資の金は、武器と弾薬、鉄条網などに変わっていった。

 

 そして街の防衛網が思ったより強固に仕上がった頃、地平線の向こうから帝国軍の大軍がやってきた。それは黒い波となって、アイザックの城下町を包み込むように進軍した。

 

 あちこちから警笛のようなラッパの音が聞こえてくる。威嚇射撃の発砲音と、硝煙で上空は白く煙った。鬨の声とそれを取り囲む大軍のせいで、あれだけ大きく見えた城が今は小さく感じた。

 

**********************************

 

 鳳たちは闇に紛れてコソコソと城に近づいていた。月明かりのせいで大胆な行動は取れなかったが、北部の川沿いは思ったよりも人影が少なく、身を屈めていれば見咎められる心配は少なかった。

 

 こちらに人が少ないのは言わずもがな、主戦場が南だからだ。帝国の大軍は、南の城下町を取り囲むように布陣していた。前に丘の上で老人と議論した時のように、彼らも渡河をして北部から攻めるのを嫌ったのだろう。

 

 帝国軍は30万と号する大軍だったが、実際には10万強くらいだろうか。鎖帷子を着込んだ騎兵隊や、槍や銃剣で武装した兵士が整然と並ぶ姿は壮観だったが、それを丘から見下ろした時は、こんなものかと物足りないものを感じた。

 

 考えても見れば10万という数字も、せいぜい東京ドーム2個分に過ぎないのだ。人混みに慣れている現代人からすると、案外こんなものかも知れない。帝国が戦力を分散せずに南に集中しているのも、意外と余裕が無いからだけなのかも知れない。

 

 だがあれが全て人殺しだと聞くと薄ら寒い思いがした。人間とは、何故こんな愚かなことをしてしまうのか? 地上で最も繁栄した種族の生存戦略に同族殺しがセットされているのだと思うと、なんとも不思議なものを感じる。

 

 首までどっぷりと水に浸かりながら川を渡った。川幅が狭い場所を選んでは、見つけてくださいと言ってるようなものだから、比較的長い距離を泳ぐ羽目になった。先頭をギヨームが進み、その後ろに鳳とジャンヌが続く。隠密スキルの無い二人の代わりに、ギヨームが先行している格好だ。

 

 開戦前に、なんとか城に侵入したいと言い出したのは鳳だった。仲間たちがもし、にっちもさっちも行かない状況に陥ってるなら救ってやりたかったし、謎の空間に閉じ込められたメアリーのことも気になった。だが、無能の鳳や脳筋のジャンヌでは、いくら隠し通路を知っていても、城に忍び込むなんて不可能だった。そこでギヨームに相談してみたところ、彼は意外とあっさり協力を約束してくれたのだ。

 

 どうにかこうにか対岸に渡り、庭園の外側にある森にまでたどり着いたが、流石にここまで来たら衛兵が警戒していることは間違いないだろう。恐らく今、兵士に見つかったら、問答無用で襲いかかってくるはずだ。そしたら城内に侵入なんて出来なくなる。だから絶対に見つかってはいけないのだが、ギヨームはほとんど無警戒かと言わんばかりの自然体でどんどん先に進んでいく。

 

 そんなんで大丈夫なのか? と再三注意したが、彼は平気と返すばかりだった。実際、道中一度として危険な目に遭わなかった。何度か近くに誰か居るような気配は感じたが、それで衛兵と鉢合わせするなんてことは一切なかった。探索や潜入が得意と聞いていたが、どうやら踏んできた場数が違いそうだ。鳳たちだけだったら目的地に辿り着くことさえ出来なかったろう。

 

 だが、そんなギヨームも最後の最後、目的地の目印の大木の間近まで来たところで、突然、しーっと指を唇に当ててから、警戒するように身を屈めた。どうしたんだろう? と思ったら、どうやら目的地に誰かの気配を感じるらしい。

 

 彼は自分の魔法(クオリア)でピストルを作り出すと、慎重に歩を進めて曲がり角から先を覗き込んだが……次の瞬間、警戒を解いて武装を解除すると、背後でそれを見守っていた鳳たちを手招きした。

 

 何を見つけたんだろう……? 曲がり角を曲がったら、例の隠し通路に繋がる大木の陰に、いつかあの丘の上で見た老人が佇んでいた。

 

「爺さん、あんたどうしてここに……?」

「やれやれ、せっかちな男じゃのう。忍び込むならギルドに依頼しろと言ったじゃろうに。危うく置いていかれるところじゃったわい」

「そうか。それじゃやっぱり、あんたが大君(タイクーン)だったのか?」

「いかにも」

 

 老人はこっくりと頷くと、鳳の隣にいたギヨームに向かって何かの袋を投げてよこした。ギヨームは袋を受け取ると、中にずっしりと収められていた金貨を一枚取り出し、

 

「悪く思うなよ」

「おまえが情報を流したのか?」

 

 鳳が彼のことを非難すると、大君が間を取り持つように言った。

 

「鈴をつけさせてもらったんじゃよ。お主らだけで行動されて、失敗されては元も子もないからのう」

「まあ、実際、こいつが居なければここまで来れなかったから、その点は感謝するけど……爺さん、あんたの目的はなんだ? どうして俺たちに協力するの?」

「お主、メアリー・スーに会ったじゃろう?」

 

 鳳は老人のそのものズバリの言葉に、咄嗟に返事が出来なかった。知らないというのは簡単だが、今更、ここまで来てしらばっくれることもないだろう。彼は観念してそれを認めた。

 

「ああ、どうしてそれが分かった?」

「精霊が騒いでおったからじゃ」

「……精霊が??」

 

 一見するとボケ老人が不思議ちゃんみたいなセリフを吐いてるように見えるが、そもそもここはファンタジーな世界だった。多分、彼の言うそれは、そのままの意味なのだろう。

 

「この世界と精霊(アストラル)界は繋がっておる。儂ら人間はそこから力を得て魔を操る。あの子は五精霊に祝福されておるんじゃよ。それは間違いない。じゃからお主があの子と会った時、精霊がざわついたのじゃよ」

「はぁ……よくわかんないけど、なんか不思議な力でわかっちゃったんだな?」

 

 それは信じるしかないけれど、

 

「っていうか、爺さん、あいつと知り合いだったのか?」

「まあな。正確には、あの子の父親とじゃが」

「父親と……?」

「ああ、彼に娘のことを託されたのじゃ。ところがこの城の主が猜疑心の強い男でのう……儂が彼女のことを利用するんじゃないかと、ある日突然城から追い出して、以来一度も近づけようとしなかったのじゃ」

 

 彼女の父親なら300年以上前の人物ということになるが、目の前の爺さんはその頃から生きているとでも言うつもりだろうか……?

 

 鳳は一瞬、そんな疑問が湧いて出たが、すぐに父親が神人なら今も生きているのだから有り得る話だと思い直し、つまらないことを考えるより先を続けようと、大君に尋ねた。

 

「……爺さんは、あいつのことをどうするつもりなんだ?」

 

 すると彼は鳳の目を真っ直ぐ見ながら、

 

「そうじゃのう……逆に問おう。お主はあの子に会って、何をするつもりじゃった?」

「それは……俺は何も」

 

 そう返されると何も言い返せなかった。鳳は彼女に会いたいとは思っても、その先は何も考えていなかった。何故なら、

 

「つーか、あいつのことどうこうしようにも、俺にはどうしようも出来ないだろう? 何か不思議な空間に捕らわれているから」

 

 すると老人はいかにもそのセリフを待っていたと言わんばかりに、

 

「儂ならあの子を外に連れ出せると言ったら?」

「え……? 出来るのか?」

 

 老人は当然のごとく頷いてから、

 

「ここの城主が儂を近づけなかったのはそれが理由じゃ。城主は、あの子に危険が及ばないように、結界に封じ込めたわけじゃが、儂にはそれを解放する力がある。そして外に出た彼女は、誰に利用されるか分かったもんじゃない」

「解放……? 利用……? なあ、あいつは一体何者なんだ。どうしてあんな場所にずっと閉じ込められていたんだ」

「それを知ったら引き返せなくなるが、お主にその覚悟があるのかの?」

「え? 覚悟っつわれても……」

「今、何故戦争が起こっているのか……その真の理由が分かっておるか?」

 

 老人にそう迫られては言葉を飲み込むしかなかった。まさか、この戦争とメアリーは関係があるというのか? 正直、それは信じられなかったが、かと言って、本当の理由もよく分かっていなかった。

 

 この世界にはテレビもない、新聞もない。入ってくる情報は、全てプロパガンダされた為政者にとって都合のいいものだけだ。噂では、単にアイザックが帝国に弓を引くために大量破壊兵器を隠し持ってるとか、夜な夜な女を慰み者にしているとか、そういう醜聞ばかりだ。だから多分、彼が勇者召喚をしたことがバレたんじゃないかと思ったのだが……

 

「それも一つの理由じゃろう。じゃがそれだけではない。帝国はメアリーを捕らえようとしている。儂はそれを阻止したいだけじゃ」

「もしかして……爺さんは、俺たちがどこから来たのか知っていたのか?」

「まあな。じゃが、お主らがこの世界でどう生きようと、儂はそれを留め立てするつもりは毛頭ないぞ」

「そうか……」

 

 鳳は少し考えてみた。城に忍び込んで何をやりたかったのか……彼の目的は、昔の仲間達に脱走の手引をすること。そしてメアリーに会うことだった。会って、どうして彼女が自分の幼馴染とそっくりなのか、率直なことを聞いてみたいと、そう思っていただけだった。だから彼女のことを連れ出そうとか、そんなことは考えてもなかったのだが……

 

 もしそれが可能だと言うなら、それは魅力的な提案に思えた。今、この城は大軍に囲まれて、恐らく数日も経たず落城するのは必至だろう。その後、あの謎の空間に閉じ込められていた彼女がどうなってしまうのか……それは鳳も気がかりだったのだ。

 

 老人が、彼女のことを助けたいというのならそれも悪くないかも知れない。問題は、彼が信用のおける人物かどうかだが……ギヨームやギルド長たちが彼の部下だと言うのなら、信じるのはそれほど悪い賭けでもないと鳳は思った。

 

「わかったよ。じゃあ一緒にいこうぜ、爺さん」

「もとよりそのつもりじゃ。どうせこの先はお主らも初めてなのじゃろう?」

「ああ、そうだけど」

「ならばついてこい。儂が道案内しよう。その代わり、お主は儂をメアリーの元まで案内せよ。恐らく、あの空間に誰にも気づかれずに入り込めるのは、お主だけに違いない……」

「そうなのか?」

「身に覚えがあるのじゃろう?」

 

 言われてみれば確かにそうかも知れない。あの謎空間に迷い込んだのは、ただの偶然じゃない。不思議な光に導かれたからだった。恐らくあれは、今度も鳳のことを導いてくれるのではなかろうか?

 

 鳳が返事をすると、老人は満足げに頷いてから、枯井戸に偽装した隠し通路へと入っていった。その後をジャンヌ、鳳と続き、殿をギヨームが務めた。

 



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タイクーン

 枯井戸の中の隠し通路は地下まで続いており、何一つ光源のない状況では一寸先すら見えなかった。鳳たちはそんな真っ暗闇の中をジェンカを踊るように、前の人の肩を掴みながら進んでいた。

 

 あちこちからぴちゃんぴちゃんと地下水が滴る音が鳴り響き、時折頭上や首筋などに水滴が落ちる度に、心臓が飛び出るんじゃないかと思うくらいに驚いた。足元はぬかるんでいて気を抜いたら転んでしまいそうだった。思った以上に緊張しているのだろうか、息苦しく感じるのは、ここが狭い地下通路であるせいだけじゃなさそうだ。

 

 足元すら覚束ない鳳は、一歩進むにも相当勇気を持って足を踏み出さなければならなかったが、そんな状況にも関わらず先頭を進む大君(タイクーン)は、一度も立ち止まることもなく、ずんずん進み続けていた。その足取りの確かさはまるで周りが見えているかのようだった。

 

 もしかして魔法でも使ってるんじゃないかと疑っていたら、

 

「人間は目に見える情報に頼りやすいが、外部からの情報はただ視覚からのみ得ているわけではあるまい。例えばコウモリは自分の発した超音波によって空間把握をしている。目の見えぬ人物なら、暗闇を歩くことなど造作もない。人間もコウモリも同じように、神経を研ぎ澄ませれば、音だけで空間把握することは可能なわけじゃ」

「へえ、それじゃ爺さんは音だけで周囲の状況を確認していたのか。すげえな」

「音だけではないぞ。重力や肌に触れる風や、匂いなんかもそうじゃな。人間はその記憶を映像として脳に刻み込んでいる……と勘違いしておる。故に視覚情報に頼り切り、目に映るものが全てだと思いこんでいるものじゃが、実際には自然からより多くの情報を受けているものじゃ。その全てをありのまま受け入れれば、己の空間座標がポンと心の中に浮かび上がるように、自然と自分の立脚する、足場というものが固まってくるものじゃ。さすればもう迷うことなどない」

 

 なんじゃそりゃ、精神論か……?

 

「よくわからないけど……とにかく魔法じゃないんだな?」

「それはどうかのう。ある意味これこそが魔法と呼べるのかも知れぬぞ。例えばお主は160キロを超える豪速球を、針の穴を通すようなコントロールで投げられるか? 見ているものが今にも動き出しそうだと勘違いするほど、精巧な絵画を描く事が出来るか? 聞いただけで涙が溢れてくるような、そんな歌を作ることが出来るか? そしてそれらは、訓練だけで実現可能だと、本気でそう信じられるか?」

「いや、そう言われると……全然自信ないけど」

「儂ら人間は、割としょっちゅう奇跡を目撃しておるものじゃ。しかし、誰もそれが魔法だと思わない。何故か? 実は奴らは魔法使いかも知れんぞ。しかし、そう言ったら皆は笑うじゃろう。それはあり得ないと。彼らは努力したからあれが出来るようになったのであって、努力すれば大抵のことは出来るものだと……たった今、それを否定したばかりなのにのう」

 

 言われてみれば確かに。やってみなければわからないというのは優等生の答えだろうが、実際問題どんなに頑張っても、多分、鳳に160キロの豪速球は投げられないだろう。大人になってしまった今更だから投げられないんじゃなくて、きっと生まれたときからプロ野球選手になろうと努力していたとしても、投げられなかったんじゃなかろうか……

 

 だが、現実に160キロを投げる投手は存在するし、誰一人としてそれを魔法と呼ぶものはいない。しかし今、唐突に、鳳が160キロの球を投げたら、それは魔法と呼ばれるだろう。この差はなんだ。

 

 不可能を可能にしたものだけが魔法と呼ばれるなら、じゃあ現実の160キロ投手は、不可能を可能にしたとは言えないのだろうか。

 

「魔法とは存外そんなものかも知れぬ。人間は常識という枷に自分をはめ込もうとするが、魔法とはその埒外にあるものじゃ。それは決して手に入れることが出来ないように思えるが、現実にはそれに触れている者はいくらでもおる。自然をありのまま受け入れよ。目で見えることが全てと思うな。目が見えぬ者が耳を研ぎ澄ますように、可能性は既に、手が届く範囲に転がっているのかも知れぬぞ」

「なんか禅問答みたいなことを言う爺さんだな……」

 

 鳳が更に話を続けようとしていると、すぐ後ろを歩いていたギヨームが彼の肩を叩きながら、

 

「おしゃべりはそこまでだ、そろそろ、城の地下に到達したみたいだぞ」

 

 その言葉にハッとなって目を凝らしてみると、進行方向の先がほんの少し見えるような気がした。恐らく、出口から漏れる城の灯りのせいだろう。鳳は口をつぐむと、黙って老人の後に続いた。

 

 やがて出口が近づいてくると、鳳にもはっきりと地面が見えるようになった。四角く縁取りされた隠し扉の向こう側から、城の光が漏れ出していた。到着するや、一番うしろを歩いていたギヨームが先頭に躍り出て、壁に耳を当てたり手で触ったりして、慎重に扉周辺を調べ始める。恐らく、罠がないか調べているのだろう。

 

 やがて満足したギヨームが壁をトントンと叩くと、四角く縁取られていた扉がくるりと回転して、向こう側の景色が飛び込んできた。

 

 そこは城の内部、謁見の間や鳳たちがいた居住区などがある西館の地下だった。どうやら武器庫になっているらしく、火薬と埃の入り混じったツンとした空気が鼻を突いた。しかし今は、戦争のせいで部屋の中の武器は軒並み運び出された後らしく、殺風景な空間が広がっていた。

 

 鳳たちはそんな武器庫の端っこの、こんなの誰が着るんだ? ……と言いたくなるような、分厚い鉄板のプレートメイルが飾ってある裏側に出た。多分、使いみちがないから、隠し扉のカモフラージュとしてふさわしかったのだろう。

 

 そんなことを考えながら、先に出ていたジャンヌに引っ張られるようにして武器庫の中に這い出ると、先行偵察で既に部屋の出入り口辺りまで行っていたギヨームが人差し指を立てて、静かにしろというジェスチャーを見せた。すると部屋の外から、

 

 コツ……コツ……

 

 っと、誰かの足音が聞こえてきた。恐らく、見回りの兵士だろう。現在、この城は厳戒体制中である。見つかったら大騒ぎになるからと、鳳は息を止めてその足音が遠ざかるのを待ったが……その時、

 

 ぴゅいぴゅいぴゅい……ぴゅーい……

 

 っと、突然、大君が口笛を吹き始めた。呆気にとられた鳳がびっくりして、

 

「お、おい! 爺さ……」

 

 老人を止めようとした瞬間、血相を変えたギヨームが飛びかかってきて彼の口を塞ぎ、ついでにすぐ隣にいたジャンヌに羽交い締めにされた。どうしてこっちを止めるんだと、モガモガと言葉にならない抗議をしていると、コツコツという足音はどんどんこの部屋に近づいてくる。そして、

 

 バタンッ!!

 

 と、音が鳴って、部屋の扉が開かれた。揃いの鎧を来た衛兵が二人、扉を開けて中に入ってくる。それでも老人はその場に立ち尽くし、ぴゅいぴゅいと口笛を吹いていた。扉を開けて、いきなりそんなのが立っていたら、すぐに見咎められるはずだ。

 

 ところが、兵士たちは部屋の中に入ってくると、口笛を吹く老人の横を素通りして、部屋の奥までキョロキョロしながら進んでいき……途中、羽交い締めされている鳳のことも、確実にその視界に捕らえていたというのに、結局、彼らのことを全く無視して、そのまま部屋から出ていってしまった。

 

 パタリと音がしてドアが閉じる。瞬間、羽交い締めにしていたジャンヌの腕が弱まり、鳳はハアハアと止めていた息を吸い込んだ。

 

「どういうこっちゃ? どうして、あいつら、俺たちに気づかなかったんだ? まるで何も見えなかったかのように……」

「実際、何も見えなかったのよ。今のは認識阻害(インビジブル)共振魔法(レゾナンス)の一種よ」

「今のが!? 訓練所で習ったのと全然違うぞ? もっとこう、あーあーあーって発声練習とかしたんだけど……」

 

 すると口笛を吹いていた大君が愉快そうに笑い、

 

「楽器を使う者もおれば、歌を歌うのもいる。つまるところ、魔法が発動すればいいのじゃ。実際の現代魔法に型はない。そんなことをしておったら、戦闘では使えんからのう」

「そ、そうだったのか……」

「方法は千差万別、自分のやり方は自分で見つけるしかないのう。まあ、切っ掛けくらいは与えてやれるから、訓練所ではそういうやり方をしておるのじゃろう」

 

 彼はそう言うと、まるで自分の家にいるかのように、自由に城を歩き始めた。

 

 先頭を行く老人の後を歩いていれば、すれ違う城の衛兵たちがまるで何も無かったかのように素通りしていく。中には勘のいいのもいて、一瞬だけこちらの方をじっと見つめるような素振りを見せるのもいたが、すぐに思い直したように首を振るとどこかへ行ってしまった。察するに、どうやら見えていないわけではなく、文字通り認識が阻害されているようである。

 

 例えば人間は雑踏の中を歩いている時、そこにどんな人物がいるとか、何人いたとか、まるで気にならないものである。そこにいるのが当たり前と思えば意識してそれを見ることはない。記憶に残らなければ、いてもいなくても同じことだ。

 

 ただし、この魔法は一人ひとりにしか効果がなく、

 

「一度に大勢はかけられんから、そういう時はこうするんじゃ」

 

 城の中央の大広間までやってくると、大君は持っていた杖の石突きをコツンと地面に当てた。すると水面に波紋が広がっていくかのように、空気の断層みたいな透明の線が、大広間全体に広がっていった。そして一瞬だけ重苦しい空気が辺りに充満したかと思うと、突然、広場に居た全ての人々がピタリと行動を止めて動かなくなった。まるで時間が止まってしまったかのようである。

 

「ほれ、急げ、長くはもたんぞ」

 

 彼の言葉に従って四人は大広場を突っ切り、鏡の間まで駆け込んだ。次の瞬間、暗闇でフッとロウソクに息を吹きかけるように一瞬だけ目の前が真っ暗になったかと思うと、背後からまた喧騒が聞こえてきて、場面が切り替わるように何事もなく周囲の時間が動き出した。

 

「人間の思考とは突き詰めれば電子の流れじゃから、それをせき止めてしまえばこの通りじゃ。奴らは自分達の時間が一瞬止まっていたことに気づけぬ。スタンクラウドという古代呪文(スペル)があるじゃろう? あの応用じゃ。やり方さえわかれば、誰にでも出来る」

「そんなこと出来るのは爺さんだけだよ」

 

 ギヨームが呆れるような表情でぼやいた。この老人、只者ではないとは思っていたが、これまでの奇跡の数々に鳳は舌を巻いた。もしかして、自分達などいなくても、この老人なら一人でメアリーのところまで行けたのではないか?

 

「もし足手まといなら、言ってくれれば外で待っていたのに」

 

 鳳がため息交じりにそう言うと、

 

「儂ではあの子のいる空間にはいけないと言ったじゃろう。もし、城主の目を盗んであそこまでたどり着けるとしたらお主だけじゃ」

「あ、そうか」

「道案内は任せたぞ。ここから先、どっちへ行けば良いのか?」

「それなら、こっちだ」

 

 鳳はそう言うと、みんなを導くように先を急いだ。行き先は鳳たちが最初にこの世界にやってきた地下室……ではなく、その先にある牢屋である。以前、鳳は無人の城の中で光にあそこへと誘われた。だから考えられるのはそこしかないと思ってのことだったが……

 

 鏡の間を抜け、兵士たちの詰め所を通り過ぎ地下へ降りると、それまで行き交う人々でバタバタしていた城内が一気に静かになった。この区画はやはり犯罪者などを収容する施設なのだろうか、今の状況では用がないため、誰も近づかないようである。きっと牢屋に入っていた者も、恩赦で外へ逃れたのだろう。

 

 鳳は記憶を頼りに、そんな無人の牢屋の一つの前までやってくると、

 

「確かここだ。この奥の壁が、隠し通路になっていたんだ」

 

 そう言って指差すと、早速とばかりにギヨームが中に入っていって壁をペタペタと触り始めた。最初は慎重だった手付きが、段々と雑になってくる。

 

「おい、本当にここか? 何もないみたいだが」

「え? そんなはずは……もしかして、間違えたのかも。見た目はみんな同じだし、他の牢も探してみよう」

「いや、恐らくここで間違いないじゃろう。精霊もそう言っておる」

 

 鳳が別の牢を見に行こうとすると、大君がそう言って止めた。案内した本人が自信が無いと言っているのに、どうしてそう言い切れるのだろうか。精霊が言っているとはどういう意味なのかと尋ねると、

 

「感覚の問題じゃ。ここに霊的な痕跡がある。魔術の残滓と言っても良い。何かあるのは間違いないのう」

「しかし爺さん、俺には何も見つけられなかったぜ?」

 

 ギヨームが非難がましくそう言うと、大君は分かってると言わんばかりに頷きながら、

 

「それは物理的な方法で閉じられておるのではないからじゃろう。きっと、ここを抜けるには鍵のようなものが必要なんじゃ。お主、何か心当たりはないかの?」

「鍵……あ、もしかして」

 

 あの折り鶴ではないだろうか……鳳がそう思った瞬間だった。

 

 バサバサ……っと、音がして、見れば彼の足元に数枚の千代紙が落ちていた。あの謎空間で目覚めた時に手にしていた折り紙で、ギヨームと魔法について話していた時も一度出したことがあった。あれからどうやっても出すことが出来なかったそれが、今、何枚も地面に転がっている。

 

 唖然とする鳳の横から、ひょいっと大君が屈んで地面に落ちたそれを一枚拾い上げた。彼はためつすがめつそれを眺めてから……

 

「ふむ……これはお主が造り出したのか。物質としてかなり安定しておるな……これを虚空から生み出すとは、儂などよりお主のほうがよっぽど化け物ではないか」

「そんなこと言われても……それって凄いのか?」

 

 すると老人はその自覚も無かったのかと言いたげな非難がましい目つきで、

 

「この世の物質は全て、突き詰めればエネルギーの塊じゃ。これは1グラムにも満たない紙きれとは言え、生成するためのエネルギーは莫大じゃ。それをお主は一体どこから出してきたと言うのかのう」

「いや、そんなこと言ったらギヨームの方が凄いじゃないか。あいつはピストルを作り出すぞ」

「しかし用が済んだら消えるじゃろう。お主のこれは消えん」

 

 言われてみれば確かに。痩せても枯れても現代人、鳳はなんだか自分がとんでもないことをしでかしているような気がしてきた。彼は落ちていた別の紙を拾い上げると、どうして消えないのだろうかと冷や汗を垂らした。

 

 いきなり爆発したりしないだろうな? そんなことを考えているとギヨームが、

 

「なあ、俺には何が凄いかさっぱりだが、そろそろ先に進まねえか? ここも城の中には代わりねえ、いつまでもゆっくりはしてらんないぜ」

「そうじゃった……どれ、この紙を壁に当てればよいのか?」

 

 大君はそう言って紙をペタペタと壁に擦りつける。

 

「そうじゃない。これはこうして……」

 

 鳳が地面にしゃがんで折り鶴を折って見せると、それを上から見ていた大君が珍しいものを見たと愉快そうに笑いながら言った。

 

「それは紙を折って動物を形作っておるのか」

「ああ、これは鶴だよ。見たことある?」

「ある……しかし、日本人とは本当に面白いことを考えるのう。利休や北斎のような稀有な人材が時折現れ、驚かしてくれる」

「へえ、爺さん、千利休なんて知ってるの?」

「知っている。会ったこともあるぞ」

 

 何を言ってるんだこの爺さんは……もしかしてボケちゃったのか? と鳳は思ったが、考えても見ればおかしな話である。利休も北斎も、鳳たちがいた世界の歴史上の人物である。こっちの世界の人間が知るはずがない。

 

 思い返せばこの老人からは、この城の持ち主が、アイザック・ニュートンであったことも聞いていた……もしかして、この老人も放浪者(バガボンド)なのだろうか?

 

 鳳がそのことを尋ねようとした時だった。

 

「あ、おい!」

 

 ギヨームの声に呼応するかのように、突然、鳳が折ったばかりの折り鶴が光を発し始めた。

 

 驚いたことにそれは翼を広げ、パタパタと羽ばたき始めたかと思えば、そのまま目の前の壁の中へと飛び去ってしまった。そうして光る折り鶴が消えた先には、四角くくり抜かれた形の光の扉が残されていた。それは以前、この場所で鳳が見たものと同じだった。

 

「これ、私が白ちゃんに呼び出された時にも現れたものだわ」

 

 ジャンヌがそう付け加える。メアリーの住む大きな木の下でアイザックに襲われた時、鳳は無我夢中でジャンヌに話しかけた。彼はその後、ポータルを使ってあの空間に現れたわけだが、その時に使ったポータルがどうやら目の前のそれであるようだ。

 

「どうやら、ここで間違いなかったようだな」

 

 ギヨームはそう言うと、立ち上がって光の扉を調べ始めた。手を触れると、指が壁の向こう側に突き抜ける。彼はびっくりして一旦その指を引っ込めたが、すぐに気を取り直すと、再度腕をその先に突っ込んでみせ、

 

「通り抜けられるようだな……一体どうなってんだ、これ。迷宮(ラビリンス)みたいなものか?」

「行こう、この先でメアリーが待っておる」

 

 その光の仕組みに首を捻っているギヨームの横で、大君がそう宣言した。鳳たちはお互いに頷きあうと、その光る扉を抜けて先に進んだ。

 



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脱出

 光の扉を抜けた先には、見上げるほど巨大な一本のリンゴの木が立っていた。その中間には小さな小屋が、麓は広場になっていて、そこにウッドテーブルと家庭菜園が見える。以前は城の裏庭に続いていたはずが、今回はいきなりメアリーの住むツリーハウスの目の前に出てきてしまい、鳳は少々面食らった。

 

 だが、思い返してみれば、あの時は城の裏ステージみたいな不思議な空間から移動したはずだから、今回とはまた条件が違った。ここがどこにあるのか分からないが、城の外に陣取る帝国軍が発する威嚇射撃や鬨の声は聞こえてくるから、これらの空間がどんな風に繋がってるのかは、多分考えるだけ無駄だろう。

 

 ウッドテーブルではランプが灯っており、その仄暗い明かりがテーブルの上に並べられていた料理を照らしていた。さっきまで食事をしていたのだろうか? 冷え切ったシチューと食べかけのパンが転がっている。見れば料理皿は二組あり、もしかしてアイザックと鉢合わせてしまったかと警戒したが、幸い周囲にはもう彼の姿は認められなかった。

 

 緊張を解いて広場の中ほどに進んでいくと、頭上のツリーハウスからゴソゴソと誰かが動く気配がした。

 

「誰かいるの……?」

 

 鳳たち4人が近づいていくと、ツリーハウスからひょっこりとメアリーが顔を覗かせた。二つ結びの金色の髪の毛が、まるでシルクのように重力によってサラサラと滑り落ちる。その神秘的な紫の瞳は、この暗がりでは真っ黒に見えた。ぼーっと浮かぶ白い顔は緊張感からか強張っており、もし彼女と知らずに突然出くわしてしまったら幽霊と見間違えたかも知れない。

 

「俺だ、メアリー。鳳白だ。覚えているか?」

 

 鳳は彼女の姿を確かめると、はしごの下まで駆け寄って声をかけた。

 

 覚えているか? と聞いてはみるが、会ったのはたった一度きり、あれから三ヶ月も経っているのであまり期待できないと思っていたが、

 

「あー! ツクモだツクモだ!」

 

 メアリーは木の下にいるのが鳳であるとすぐ気がつくと、強張っていた表情をほころばせ嬉しそうに、ハシゴを使わずぴょんと飛び降りてきた。そしていきなり飛び降りて来てびっくりしている鳳の胸に飛び込むと、背中に手を回してギュッと彼のことを抱きしめた。

 

「また会えたわね。今日はどうしたの?」

 

 彼女はそう言って、彼を見上げながら、これ以上ないくらいの笑顔を見せた。

 

「良かった。俺のこと覚えててくれたようだな。忘れてたらどうしようかと」

「当たり前よ。つい最近のことじゃない。そんなに物忘れはひどくないわ」

 

 どうやら、メアリーは鳳のことをはっきりと覚えていたらしい。それにしても懐きすぎなのは、彼女の日常がそれくらい刺激に乏しいからだろう。三ヶ月と言えば鳳からしてみれば結構な時間に思えるが、考えても見れば、彼女はこの中に300年も閉じ込められているのだ。ほんのついさっきと言っても過言ではない。

 

 しかし相手が小学生みたいだとは言え、好きになった相手と同じ顔をした少女である。鳳はほんのりと顔を赤らめながら、彼女の視線から逃れるように顔を背けた。するとそんな二人の密着具合に嫉妬するようにジャンヌが二人の間に割って入ると、

 

「もうっ、女の子がはしたないわよ。離れなさいっ!」

 

 っと言って、メアリーのことを引き剥がした。するとメアリーはそんなジャンヌのことを見て、怯えるような目つきに戻ると、鳳の背中に隠れながら、

 

「あ、あの時の怖い人も一緒だ……」

「誰が怖い人よっ! 失礼しちゃうわね」

 

 ジャンヌはプンプンと怒りながら、反射的にそう答えたが、すぐにあの時自分が何をしていたかを思い出し、

 

「ああ、そう言えばそうだったわね……でも、あの時は仕方なかったのよ。神人を倒さなきゃ、白ちゃんが殺されちゃいそうだったし……私も必死だったから」

「メアリー、このおじさんは顔は不気味だけど、怖いおじさんじゃないんだよ」

「誰が不気味よっ!」

 

 鳳がフォローになってないフォローを入れると、おっかなびっくりといった感じではあったが、メアリーはおずおずと彼の背中から出てきた。

 

「そ、そう……そうよね。ならいいんだけども……私もちょっとナーバスになってたから……きゃあっ!!」

 

 彼女がそう言って相好を崩した時だった。

 

 突然、遠くの方から、ドンッ!! っと大きな爆発音が響いてきた。鼓膜がビリビリと震え、腹の底から響くような振動が、ズンと体を突き上げた。

 

 すわ、攻撃が始まったのか!? とも思ったが、続けて聞こえてきた兵士たちの鬨の声がすぐに収まったところからすると、まだ戦端が開かれたわけではないようだ。恐らく威嚇射撃だろう。

 

 メアリーはその音に驚いて、まるで雷を怖がる子供のように耳を塞いで地面に座り込んだ。その怖がり方が尋常じゃないからどうしたのかと思ったら、彼女はしゃがんだままの姿勢で鳳の裾を引っ張りながら、

 

「ねえ……さっきから一体、外で何が起きてるの? 今日は朝からずっと大きな音が聞こえてくるけど……」

「君は何も聞かされてないのか?」

 

 メアリーはコクリと頷いた。鳳はチラリとウッドテーブルの食器に目をやった。食事は二人分……きっとさっきまでアイザックが居たんだろうに、彼は何も言わなかったのだろうか。その無神経さに腹が立った。

 

「アイザックはなんて?」

「特に何も……ちょっと城下でトラブルがあって大騒ぎになってるけど、演習みたいなものだって。ここにいれば安全だって……でも、そんなこと言いながら、すごく寂しそうな顔してたから、気になっちゃって……ツクモは何か知ってるの? きゃあっ!」

 

 話の途中でまた大きな音が鳴って、彼女は耳を塞いでうずくまった。彼女は怯えきった表情で、

 

「ねえ、もしかして……この城に魔王が攻めてきたのかな? だったら隠れなきゃ」

 

 そんなセリフをつぶやきながら真っ青になっていた。

 

 まさか、魔王なんているわけないのに、ここまで怯えてしまうのは、きっとこの空間から出られないせいだろう。考えても見れば、外の音だけが聞こえて、何が起きているのかわからないのはとんでもなく怖いことだ。

 

 鳳はすぐに彼女に何が起きているか話そうとした。しかし、外で戦争が起きようとしていると言いかけたところで、その言葉を飲み込んでしまった。ここから出れない彼女に、そんなことを言ってどうなるんだ? 余計に不安がらせるだけじゃないか。

 

 多分、アイザックもそう思って何も言えなかったのだろう。外の世界を知らない籠の鳥に、自由を教えて何になるのか。きっと彼女は外の話を聞く度に、その冒険に思いを馳せると共に、傷ついてもいたはずだ。鳳は歯がゆくて奥歯を噛み締めた。

 

 と、その時、メアリーはそんな鳳の背後にいる残りの二人を見ながら、

 

「ところで、そちらの二人は? さっきから見かけない顔だなって思ってたけど」

 

 メアリーがそう言って二人の方を指差すと、鳳が説明するよりも先に大君(タイクーン)が一歩踏み出し、彼女の目線の高さに合わせて腰を曲げると、

 

「久しいのう、メアリー。儂のことをまだ覚えておるか?」

「え……? だあれ、あんた……あたし、知らないわよ?」

 

 すると老人は少し残念そうな、それでいて穏やかな慈しむような表情で、

 

「覚えておらぬか。そうか……そうかも知れん。お主と最後に会ったのは、それはもう随分と昔の話じゃ。お主はまだ幼く、儂もまだフサフサじゃった。お主は儂のヒゲを気に入って、よくブチブチと引き抜いておった。お陰で暫く化膿して痛かったわい」

「そ、そうなの……? ごめんね。1年や2年前のことなら覚えてられるけど……」

「よいのじゃ。それよりもメアリーよ。お主は外の世界のことを知りたいと言ったが、その言葉に偽りはないか?」

 

 大君に突然そんなことを言われてメアリーは戸惑った。しかし彼女は確かに、外で何が起きているのか知りたかった。だから特に何の気もなくこう返した。

 

「ええ、もちろん知りたいわ。教えてくれるの?」

「いやそうではない」

 

 老人はそんな彼女に首を振ると、

 

「儂はお主に外の世界のことを教えに来たわけではない。実はお主のことを、外に連れ出しに来たのじゃ。昔、お主の父君に頼まれてのう……」

「え……? あたしのお父さんに??」

 

 メアリーは目をパチクリさせて、隣に佇んでいた鳳の顔をマジマジと見つめた。恐らく、それが嘘か本当か聞きたいのだろうが、鳳にはそれが分からない。肩を竦めてみせると、彼女は眉をひそめて複雑そうな顔をしながら、

 

「あたしはお父さんのことを何も知らないわ。あなたが知ってるというのなら、どういう人なのか聞かせて。今、何をしているの?」

 

 すると大君はほんの少し困ったような表情をしてから、

 

「死んだ……」

 

 と簡単に一言返した。

 

「そう……」

「だいぶ前の話じゃ。父君は、お主がここに閉じ込められていることを気に病んでおった。出来れば外に出してやりたいと。同時にヘルメス卿がお主をここに封じた理由も理解しておった。故に、儂に言ったのじゃよ。もし、お主が望むのであれば外に出してやれと……」

「本当に……外に出してくれるの?」

「ああ、もちろんじゃとも」

 

 大君がそう請け合うと、メアリーは一瞬だけパーッと瞳を輝かせた。だが、すぐにその表情が曇ったかと思うと、どこか後ろめたそうな顔をしながら、鳳、ジャンヌ、ついでにギヨームの顔色を窺うような目つきで見えてから、

 

「でも、勝手に出てっちゃっていいのかな? アイザックに何も言わずに行くのは悪い気がするわ」

「彼に言えば必ず止められるじゃろう。彼に言われて考えを改めるのであれば、ここに残るのが良いじゃろう」

 

 家督を継ぐということは、その意思を継ぐということだ。立場上、アイザックが彼女を自由にすることはないはずだ。

 

 大君の言葉にメアリーは眉根を寄せて押し黙った。きっと後ろめたいだけではなく、ここから出るということに不安も抱いているのだろう。彼女の視線が鳳の視線と交錯する。彼は何か切っ掛けになるような言葉を掛けてやりたかったが、すぐには何も思い浮かばなかった。

 

 と、その時、蚊帳の外だったギヨームが、

 

「おい、爺さん」

 

 と言って何かの袋を放り投げた。大君がそれを受け取り中を開けると、ズシリとした袋の中からジャラジャラと銀貨が転がり出てきた。

 

「テーブルの上に置いてあった。多分、路銀のつもりだろう」

「左様か……」

 

 メアリーは老人からその袋を受け取りながら、

 

「これは、アイザックが置いていったの……?」

「じゃろうな。ヘルメス卿は儂が来ることを、ある程度予見しておったのじゃろう……そして、お主が出ていくことも」

「そう……アイザックは、もうここには来ないつもりだったのね」

 

 鳳たちがここに来る前に、彼女はアイザックと一緒に居た。きっとその時、いつもとは様子が違うことに彼女も気づいていたのだろう。アイザックは外の様子を何一つ彼女に話さなかったようだが、これだけ盛大に色んな音が聞こえてきていては、何が起きているかは彼女だってある程度想像がついているだろう。

 

 鳳はなおも迷っているメアリーに向かって言った。

 

「いこう、メアリー。多分、次にここを訪れる者がいるとすれば、それはアイザックでも俺たちでもない。きっと魔王の手下に違いない」

 

 魔王じゃなくて、本当は外にいる帝国兵の誰かだろうが……彼女に危害を加えるだろうという点では、どちらも変わらないだろう。だから今、彼女を連れ出すしかないのだ。鳳は腹が決まった。彼女を助けたい、そう思った。

 

 彼がそう言うと、メアリーはほんの少し考えるような素振りをしてから、

 

「……わかったわ。多分、もうここにいるのは危険なのね」

「そうかもな」

「なら、私を外に連れてって。本当は……ずっと外の世界に憧れてたの」

 

 彼女のその言葉を待っていたかのように、老人は手にした杖を高々と掲げると、まるで天の神様に向かって祈祷を捧げているかのように、厳かな声で高らかに宣言した。

 

「理非曲直。理は有限、時は無限。永劫回帰。始まりは終わり、終わりは始まり。マイトレーヤよ、我は願う、永劫の未来においてこの楔を断ち切り給え」

 

 その時……鳳たちのいる空間を、何かが通り過ぎた。

 

 水槽の中で断層のように泡が立ち上るように、地震が起きて津波が発生する時のように、あちら側とこちら側を分ける線のような何かが空間を走査していった。誰もがぼんやりと何も考えず沈黙を保っているとき、天使が通り過ぎたと形容することがあるが、そんな感覚が鳳たちの胸に去来し、それが過ぎ去った後には、彼らは根こそぎ体力を奪われたような虚無感に襲われた。

 

 目眩がして視界が暗転する。貧血にでもなってしまったのだろうか?

 

 まるで自分のじゃなくなったみたいに膝がガクガクし、よろめきながら何とか体勢を立て直すと、鳳はついさっきまでいた大きなりんごの木の下ではなく、薄暗い地下牢の中に立っていることに気がついた。

 

 無論、そこには見覚えがあった。メアリーに会うために開いた、あの光の扉があった牢屋だった。

 

 どうやら老人が何かをした瞬間、あの空間から元の場所に戻されたらしい。それも一瞬で。周囲を見渡すと、ジャンヌにギヨーム、老人、そしてメアリーが居た。

 

 老人は、彼女をあの場所から連れ出すことに成功したのだ。

 

「時間を無限に加速することで、結界が張られる以前の状態に戻したのじゃ。今はもう、あの空間に繋がる扉は存在しない」

 

 もう元には戻れないと聞いて、メアリーはほんの少し寂しそうな顔をした。

 

「そう……でも、仕方ないわね。本当は持ち出したい物もあったんだけど」

「それは申し訳ないのう。儂も少し気が急いていたようじゃ……」

 

 老人のその言葉はどうやら本当らしかった。どれくらい今回のチャンスを待ちわびていたか知らないが、それが成就した今、彼はほんの少しばかり気もそぞろになっていたようだ。

 

 牢屋の周辺はしんと静まり返って薄暗く、鳳たちは完全に油断していた。しかし、トラブルはそんな油断した時にこそ起こるものである。

 

「そこに誰かいるのか!?」

 

 鳳たちは元の牢屋に戻ってきた時、そこが城の中であることを完全に忘れて安心しきっていた。そんな弛緩した雰囲気の彼らに、何者かの誰何(すいか)の声がかけられる。

 

 本来なら敵の接近など許すはずもないギヨームは舌打ちすると、身を屈めて空中からピストルを生成した。老人は慌ててピュイピュイピュイっと口笛を吹き始める。

 

 だが、その術式が完成するより先に、鳳たちのいる場所に繋がる通路の先から人影がひょっこりと現れた。人影はまさかこんな場所に誰かが潜んでいるとは思いもよらなかったのか、ビクリと体を震わせ、腰に佩いた剣に手をやった。

 

 その瞬間……人影の機先を制するようにギヨームが飛び出したのだが、

 

「待って!」

 

 そんな彼を押し止めるように、ジャンヌが一瞬だけ早く彼の前に躍り出た。

 

 突然、進路を絶たれたギヨームがバランスを崩してたたらを踏む。

 

 カンカンカン!! っと盛大な足音が牢屋全体に響き渡って、老人の認識阻害の魔法は完全に無駄に終わってしまった。

 

 万事休す。人影の向こう側から、バタバタと数人の足音が近づいてくる。

 

「勇者様! どうかされましたか!?」

 

 見えない壁の向こう側から、兵士たちの声が聞こえてきた。

 

 しかし、鳳たちの前に現れた勇者と呼ばれた人影……カズヤはその声に答えるために振り返ると、

 

「なんでもない! ちょっと足を踏み外しただけだ」

「大丈夫ですか? 怪我はございませんか?」

「ああ、ありがとう。こっちは異常なしのようだ。お前達は引き続き、城内の警戒に当たれ!」

「かしこまりました」

 

 カズヤに命令された兵士たちはそう返事して去っていった。彼はその後姿を敬礼しながら見送った後、ゆっくりと鳳たちの方へと向き直った。

 

 目の前に、3か月前に別れてそれきりだった仲間がいる。久しぶりに再会した彼はどこか草臥れて見えたが……その顔つきは、精悍な大人のそれに変わっていた。

 



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別離

 メアリーとの再会を果たした鳳たちは、彼女を結界の外に連れ出すことに成功した。しかし、そうして結界から出てきた瞬間、気が緩んでいた彼らは運の悪いことに、城を巡回していたカズヤに見つかってしまった。

 

 このままでは騒ぎになる……と鳳たちは焦ったが、彼らを見つけたカズヤは慌てること無く、同じ巡回の兵士に異常がないと偽りを告げ、兵士たちを遠ざけてくれた。コツコツと兵士たちの足音が遠ざかっていく。その音がやがて聞こえなくなると、鳳は無意識に止めていた呼吸を一気に吐き出した。

 

 緊張が解けて、ジャンヌやギヨームが脱力したかのようにその場にへたり込む。同じく腰を抜かして地べたに座り込んでいた鳳は、そんな彼のことを穏やかな視線で見つめているカズヤに向かって言った。

 

「久しぶり……だな」

「ああ、久しぶり。三ヶ月ぶりか」

「どうしてた? AVIRLやリロイは?」

「元気だ。何とか連絡を取ろうとしたんだが、まさかそっちから忍び込んでくるとはな……驚いたよ」

「そうか。実は俺たちも連絡取ろうとして、何度かこの城に忍び込もうとしてたんだが……上手く行かなくてさ、こんなギリギリになっちまったよ」

「おいおい、発見したのが俺じゃなかったらやばかったぜ?」

「助かったよ……おまえ、なんか雰囲気が変わったな?」

 

 鳳がそう言うと、カズヤは一瞬だけ虚を突かれたようにキョトンとした表情を見せたが、すぐにまたどこか落ちついた大人びた顔に戻ると、

 

「そうか? 自分じゃわからないが……おまえはあんま変わらないな。ジャンヌの方は何か精悍な顔つきになったというか、見違えたけど」

「ほっとけ……ジャンヌは今冒険者をしてるんだよ」

「冒険者……?」

 

 その単語にカズヤが興味を示したと見たか、ジャンヌが鳳を押しのけるように、

 

「そうなの。この世界には冒険者ギルドがあったのよ。こちらはギルドのお仲間さんたちよ。実はそのことで、何度もあなた達と連絡を取ろうと試みていたのよ。ここから逃げても、外でもちゃんとやってけるから、だからあなた達ももうこんな城からは逃げ出して、一緒に冒険者をやらない?」

「そうか」

「あなただって、そういう冒険がしたかったんでしょう? 望めばそれが出来るのよ。魅力的だと思わない?」

「ふーん……」

 

 カズヤはあまり興味が無さそうだった。彼は一緒に逃げようと言うジャンヌとは、決して視線を合わそうとはせずに、生返事ばかりしていた。その態度からして、返事は期待できそうもない。それが分かるからか、城からの退去を勧めるジャンヌはより多弁になっていった。

 

 そんなジャンヌとは対象的に、カズヤは静かに佇んで、その必死な言葉には耳を貸さずに、背後にいる仲間のことを見回していた。そしてギヨーム、老人と来て、メアリーを見つけたところで、ふと、彼の視線が止まった。

 

「へえ、エミリアにそっくりだ……そうか。アイザックはこれを隠してたんだな」

 

 カズヤはそう言ってメアリーの顔をマジマジと見つめた。驚いた彼女が老人の背後に隠れる。会話の最中に突然出てきた呟きに、鳳はぎょっとした。どうしてその名前がカズヤの口から出てくるのか? そんな鳳の動揺に気づかず、彼は尚も独りごちた。

 

「いや、でも彼は俺たちの仲間(ソフィア)のことまでは知らないはずだ……じゃあ、どうして隠す必要があったんだ? エミリアとソフィアの関係性はこの世界では伝説でしかないのだし、その顔までは誰にも分からないはずなのに……」

「ちょ、ちょ、ちょっと待て!」

 

 口角に泡を飛ばしながら、鳳は慌てて突っ込んだ。

 

「どうしておまえの口からエミリアの名前が出てくるんだ!? おまえはゲームの中のソフィアのことしか知らないはずだ。なのに、どうして俺の幼馴染の名前を……」

 

 するとカズヤは、はぁ~……っと長い溜め息を吐くと、鳳の真ん前まで歩いてきて立ち止まり、じっと彼の目を覗き込むように言った。

 

「やっぱりおまえ、覚えていないんだな……よく見ろ、飛鳥。いや、鳳白。俺の素顔を見ても、まだ思い出せないか? 実は俺たち、小中学と同じだったんだぜ?」

「え……!?」

 

 鳳は驚いてカズヤの顔をじっと観察してみた。考えても見れば、ゲームの中では毎日のように一緒だったのに、こうして彼の素顔を間近に見るのは初めてだった。鳳は彼に言われた通り、記憶の中を探ってみた。すると小学校の頃のゲーム仲間の中に、なんとなく、彼の面影がある少年がいたことを思い出した。確か名前は……

 

「おまえ、まさか……」

「ああ、お前とエミリアと、それから他の数人で、良く学校帰りにゲームして遊んでただろう」

「カズヤって……あのカズヤだったのか」

 

 鳳は唖然とした。カズヤなんてよくある名前だし、それが自分の知人だなんて思いもよらなかった。ネット上の付き合いは嘘みたいに希薄だとはよく言われるが、まさかこれまでずっと一緒に遊んでいた相手が、子供の頃もずっと一緒の幼馴染だったなんて……

 

 しかもどうやら、相手の方はそれを知っていながら黙っていたようなのだ。どうして一声掛けてくれなかったのか、鳳がそのことを非難がましく抗議しようと思ったら、それを制する格好でカズヤの方が先に謝罪の言葉を口にした。

 

「悪かったな、ずっと黙ってて」

「本当だよ。どうして言ってくれなかったんだ?」

「それは……」

 

 彼は鳳のその言葉にほんの少し口ごもると、バツが悪そうに視線を逸してから口を結び……暫く何か考え込んでいるのか、目に被さるように垂れた前髪を指で弄んでから、やがて何かを決心したように顔を上げると、

 

「悪かったな、鳳……」

「……なにが?」

「あっちの世界の最後の日のことだけどさ……ソフィアに嘘の待ち合わせ場所を教えて、おまえと会えなくしちまっただろう?」

「ああ、あれか。そんなのもう気にしてねえよ」

「おまえはそう言うかも知れないけど、俺はずっと気にしてたんだよ。本当は、あの時すぐに謝れば良かったんだけど、おまえは居なくなっちまうし、探しても見つからないし……こんな遅くなっちまったけど。本当に悪かった」

「いいさ」

 

 今更、彼を責める気にはならず、鳳はそう言って彼を許してやることにした。いくら彼を責めたところで、もうあの時は帰ってこないのだ。しかし、どうしてあんなことをしたんだろう。イタズラにしても度が過ぎていると思っていると……彼はもう一度バツが悪そうに頭を掻きながら、

 

「エミリアのことが好きだったんだよ……」

 

 と彼は言った。

 

「おまえが彼女を呼び出したことを知って、つい、魔が差しちまったんだ……悪いことしてるって自覚はあったし、本当は、あとでちゃんとフォローするつもりだったんだよ。でも、こんなことになっちまって、もう取り返しもつかないし……」

「……そうだったのか」

「本当にすまなかった」

 

 そう言って彼は頭を下げた。その姿が、なんだかとても余所余所しくて、他人みたいで切なかった。ずっと一緒にいたはずの仲間が、幼馴染がどっかに行ってしまったみたいで、鳳は慌てて彼に近寄ると、頭を上げてくれと促しながら、

 

「いつから気づいてたんだ?」

 

 自分のことが小中学の幼馴染だってことに、いつ気づいたのかと彼は尋ねてみた。カズヤは鳳に引き起こされながら申し訳無さそうに、

 

「……結構前から。おまえとゲームの中で再会したのはただの偶然だ。最初はデジャネイロ飛鳥が誰かなんて分からなかった。それが分かったのは、隣にソフィアが居たからだ。おまえもそうだろう? あの灼眼のソフィアって名前を見て、あ! こいつ、エミリアじゃないか? って、そう思ったんだろう」

 

 鳳は頷いた。

 

「ああ、その通りだ」

 

 何故なら、『灼眼のソフィア』というのは、小学生の頃のエミリアが考えた、TRPG用のキャラクターなのだ。当時、彼女が夢中になっていたラノベのキャラクターから名前を拝借し、普段は青い目をしてるが本気を出すと赤い目に変わるという、痛いロールプレイをしていた。ほにゃららの種族・吸血鬼は血を吸うと目が赤くなるという特徴があり、そのギミックを利用して、TRPGキャラと同じロールプレイをしていたのが、ソフィアだったのだ。

 

 鳳は、風のうわさでエミリアがほにゃららをやっていると聞いて、ゲームにログインしてからすぐに、灼眼のソフィアというキャラクターを見つけた。そして彼女がジャンヌの作ったギルド、荒ぶるペンギンの団に所属していることを知り、近づいた。

 

「俺も同じだったんだよ。サーバー内でソフィアを見かけて、もしかして? って思ってギルドに入って、そこでおまえを見つけたんだ。最初は誰か分からなかったけど、ソフィアに対する態度や、二人の会話からすぐに気づいた。あれ? こいつ、鳳じゃないかって……おまえは隠してたつもりだろうけど、お前がソフィアに対する態度ってバレバレだったからさ。

 

 すぐに正体を明かせばよかったんだろうけど……おまえら仲が良かったから、なんか疎外感を感じてさ。時間が経つにつれてどんどん言い出しづらくなってそれっきり……そして最終日、おまえがソフィアを呼び出したことを、当の本人から聞いちゃってさ……それで……」

 

「そう……だったのか……」

 

「すまなかった」

 

 カズヤはそう言って遠くを見つめた。その視線の先はすぐに地下牢の分厚い壁にぶつかってしまって、きっとその目には何も映っていなかったろうが、しかし彼の目には見えないあちら側の世界が見えているのだろう……そんな気にさせる目だった。

 

 彼は下唇を噛み、それを後悔していることを告げながら、

 

「本当は、言わないほうが良かったのかも知れない。でも、おまえと会うのもこれで最後になるかも知れないと思ったら、やっぱ言っておいた方がいいかなって……」

「最後だなんて、寂しいこと言わないでちょうだい……!」

 

 たまらずジャンヌが叫び声を上げるが、潜伏中のいま、そんなことが許されるはずもなく、すぐにギヨームによって口を封じられた。涙目のジャンヌがもがもがと尚も何かを訴えかけている。

 

 鳳はそんな彼に代わって、

 

「なあカズヤ、ジャンヌの言うとおりだ。おまえならこの世界で楽しくやっていける。ヤバい橋を渡るくらいなら、一緒に逃げちまおうぜ? 俺ならもう気にしてないから、絶対、そうした方がいいよ」

「それは出来ない」

「どうして? アイザックに義理立てする必要なんかもないんだぞ。おまえは知らないだろうが、実はあいつは俺のことを殺そうとしてたんだ。召喚したのは失敗だったって。その召喚だって、実は誰かの命を犠牲にして行われた儀式だったんだ。俺はこの城の地下で無残に殺された人たちの死体を見た。だから、アイザックは俺を殺そうとしたんだよ」

 

 鳳としてはこの話はカズヤを改心させる切り札のつもりだった。しかし、彼はそれを聞いても表情をほとんど変えずに微笑を浮かべると、

 

「そのことなら知ってるよ」

「え?」

「アイザックが、俺たちを利用しようとしているだけだってことも……」

「だったら……!」

「まあ、聞けよ。おまえらが外の世界でよろしくやっていたこの三ヶ月、俺たちだって何もしてなかったわけじゃない、色々と調べていたんだよ。特に、俺たちは本当に勇者なのかってことをさ……」

 

 城に残った仲間たちの日常は、充てがわれた女を抱くこと以外は比較的自由だったようである。そんな中で、彼らは自分達のレベルを上げたり、抱いた女とデートしたり、色々していたようだが……やがてそれに飽きた彼らは、自分達のことを調べ始めた。

 

「始めのうちはとっかえひっかえ女が抱けることを喜んでいたんだよ、でもそのうち、心から俺に抱かれたがってる女なんていないことに気づいた。中には、親に命令されてイヤイヤ俺のとこに来た女もいた。そういうのを抱かずに帰しても、それはそれで問題が起きても困るから、一晩中泣いてる女の隣で寝たりしてさ……

 

 そんなことを続けていたら、思うわけよ。こいつらは俺が勇者だから抱かれている。俺が勇者じゃなかったら何もやらせちゃくれない。相手は俺じゃなくても誰だっていいんだ。いや、そもそも、俺は本当に勇者なのか? って……

 

 そうやって考えてみると、おかしいじゃねえか。俺もおまえも、元の世界じゃ取り立てて凄い人間じゃない。特に選ばれてこっちの世界に来るような理由はない。すると、最初はお気楽な成り上がり小説みたいだなって思って、気にも留めなかったことがどんどん気になってくる。俺がこの世界に呼び出された理由ってのを探したくなる。

 

 おあつらえ向きに、この世界にはエミリアやソフィアの名前がちらほら聞こえてくる。ああ、これだなって……きっと俺が呼び出された理由は、これを調べていくうちに見つかるんじゃないか。そう思って調べ始めてみたら、すぐに勇者召喚についての噂に行き当たったんだよ。

 

 帝国には元々、勇者召喚の噂があったんだ。実は皇帝はこの300年間、何度も勇者召喚を試しては失敗していたんだよ。当たり前だよな? もし成功したら、アイザックが言う通り、絶滅しようとしている神人を救うことが出来るんだから、やらないわけがない。

 

 でもそれは全部失敗だった。呼び出した勇者は全部、俺たちと同じように能力は高かったけど、普通の人間だった。彼らが子孫を残しても、神人は産まれてこなかったんだよ。

 

 つまり……俺たちも同じ運命を辿るんだろう……

 

 そうやって調べ始めてみたら、矛盾がいくつも見つかったよ。勇者召喚の方法ってのもすぐにわかった。勇者召喚には、必ず犠牲が必要だったんだ。それも神人か、勇者の子孫である必要がある。俺たちを呼び出した時に使った生贄もそうだったんじゃないか?」

 

 カズヤの言葉に戸惑っていると、それを聞いていた老人が黙って頷いた。そう言えば、消えた五人は勇者領の重鎮たち……勇者の子孫だったはずだ。

 

「だから俺たちは、ある日アイザックを捕まえて問いただしたんだ。そしたら、あいつはあっさりとそれを認めた。俺たちは怒った。どうして嘘を吐いていたんだって? 理由は単純明快だった。そうしなきゃ体制が保てないくらい、現在の勇者派が弱くなっていたからだったんだ」

 

 その話なら以前にも老人から聞いていた。実は、犠牲になった五人は勇者派から守旧派へ鞍替えしようとしていた商人達で、ここを通したら勇者領はヘルメス領から離れ、アイザックは孤立してしまうところだったらしい。

 

 それで彼は五人を殺し……その隠蔽のためにメアリーのいる結界に死体を隠した。それから駄目で元々だと思いつつ勇者召喚を行ってみたのだろう。その証拠に、鳳たちがこの世界に呼び出された時、周囲には誰も居らず、兵士たちが泡を食って集まってきたくらいだ。それが真相だったのだ……

 

 鳳は頭を振りながら言った。

 

「そこまで分かってるなら、尚更、義理立てする必要なんてないだろう。アイザックは俺たちの能力を利用しようとしただけだったんだ。女をあてがったのは、ここから逃げ出さないよう、自分達の言うことを聞かせるようにするためだったんだろう。ならもういいじゃないか。さっさとこのヤバい城からは逃げ出して、俺たちと面白おかしい異世界ライフを始めようぜ?」

 

 するとカズヤは乾いた笑い声をあげながら、

 

「あはは、だから駄目なんだって」

「どうして!?」

「……子供が生まれるんだよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、周囲の空気が変わったような、重苦しい沈黙が流れた。鳳は絶句して何も言えなくなり、代わりにジャンヌがなにかを言いかけたのだが、結局、何も言えずに口をつぐんだ。

 

 カズヤはそんな二人の態度を見て、バツが悪そうにほっぺたをポリポリしながら、

 

「そりゃ、やることやってりゃそうなるわな……あの日、初めてを俺たちに捧げた神人の女達は、俺たちのことを勇者だと本気で信じてるんだ……他にも、俺たちに身を任せて妊娠した女が大勢いる。でも俺たちは勇者じゃない。生まれてくる子供たちも、きっと普通の子供だろう。母親は、苦労するだろう……なのにさ……もし、子供が大きくなった時、父親が逃げたと知ったらどう思うだろうか?」

 

 それはアイザックが悪いんだから……そう言いかけた言葉を鳳は飲み込んだ。そんなことを言って何になると言うんだ。きっと大きくなったら子供たちだって事情を汲み取ることは出来るだろう。だが、それで父親を恨まずにいられるとは限らない。

 

 カズヤはどこか他人事のように素っ気なく言った。

 

「……ぶっちゃけ、この世界に来たときから、ろくな死に方はしないと思ってたんだよ。こんな物語みたいな世界なんて、ありえないって……その通りだな。ここは現代じゃない。コンビニもない、テレビもない、入ってくる情報が少なすぎる。生きていても不自由だし、苦労も多い。力を使えば、恨みも買う……俺たちは無邪気に力を振るい過ぎた。

 

 でも、だからって死を恐れて何もしなければ、あっちの世界で燻っていた日々とどこが違うんだ? 逃げ出して、どこかで隠れて暮らすよりも、これはこれでいい人生だったんじゃないかって、俺はそう思うんだよ。

 

 なあ、おまえにも分かるだろう?」

 

「わからねえよ」

 

 鳳は反射的にそう答えたが、本当はその気持ちが少し分かる気がした。

 

 人生に意味なんてない。やりたいことやって生きていける人間なんて、ごく一部の恵まれた人だけだ。目標があるとすれば、それは普通に生きていくことだけで、みんなどこか諦めながら暮らしている。そんなのより、いっそパーッと花火みたいに、戦って散っていくのも、それはそれでありなんじゃないか……

 

 彼に分かっていることは、今逃げ出せば、確実に後悔することだけだった。

 

「多分、俺は死ぬだろうが、生きながらに死ぬよりは、ずっといい人生だったと思うよ」

 

 カズヤがそう独りごちた時、

 

「カズヤ様! どちらにおられますか、カズヤ様!」

 

 彼を呼ぶ兵士の声が聞こえてきた。カズヤはその声に返事をしてから、

 

「どうやら、おしゃべりしすぎたようだな。そろそろ戻らなきゃ兵士たちが動揺する。本当なら、おまえらを安全なとこまで送っていってやりたいとこなんだが……」

「それなら平気だ。入ってきた時の隠し通路がある」

「ふーん、そうか……一応、その場所を聞いても構わないか? 警備上の問題があるから」

 

 鳳が老人の方を振り返ると、彼は黙って首肯した。カズヤはそんな場所があったのかと関心しながらメモを取り、改めて鳳とジャンヌの方に向き直ると、

 

「それじゃ、俺は行くよ……AVRILとリロイになにか伝言あるか?」

「もし、彼らが逃げるっていうなら、私のとこへ来てって伝えてちょうだい。全力でサポートするわ」

「ああ、確かに伝えよう」

 

 カズヤはどこか清々しい表情で請け合った。きっといくら言っても、もはや彼の決意を覆すことは出来ないだろう。

 

 カズヤは鳳の顔をまっすぐ見ている。幼馴染のその大人びた表情を前に、鳳はこれ以上決意を鈍らせるような事を言うのは蛇足だろうと思い、当たり障りのない、いつものような軽口を叩いた。

 

「そうだな。リロイには、退くこと覚えろカスって伝えてくれ。あと、AVIRLにおまえの名前なんて読むの? って」

「いまさらかよ」

 

 カズヤはそう言いながら、声を一切立てずに笑った。ヒューヒューと、おかしそうに、息を吸い込む音だけが響いている。鳳はそんな彼をぼんやりと眺めながら、とてもいい笑顔だなあと、その顔を心に刻み込んだ。

 

 それから彼らは短い別れの挨拶を交わした後、二手に分かれてその場から離れた。先にカズヤが行って兵士たちをひきつけ、そのすきに鳳たちが地下牢から抜け出た。

 

 城の中は相変わらず兵士でごった返していたが、老人の魔法のお陰で見咎められることは無かった。一行はあっさりと城から抜け出すと、東の空が明るくなる前に、急いで城から離れた。

 

 早朝の城下町はしんと静まり返っていて、とても戦争が起きるような気配は感じられなかった。しかし、嵐の前の静けさとはこういうものを言うのだろう。やがて日が昇るや否や、城下を取り囲む10万の大群が一斉に声を上げると、ヘルメス卿の居城をめぐる戦闘が始まった。それは後の歴史家に、勇者派の敗北を決定づけた最後の戦いであったと言われている。

 

 戦争は早朝に始まり、それから三日三晩断続的に続けられた。帝国軍は搦手を使うことなく、ヘルメス卿に籠城も許さず、大群を活かした正攻法で押し切るつもりのようだった。迎え撃つ勇者派は市街地での奇襲を軸に、城からの遠距離攻撃を中心に応戦した。やはり籠城側の抵抗が激しく、戦闘は間もなく膠着状態に陥ったが、勇者派は徐々に劣勢に立たされていった。その理由は単純明快、数が違いすぎたのだ。

 

 そんな中、三倍する敵を前に敢然と立ち向かう者たちがいた。その三人は居並ぶ大軍を物ともせずに蹴散らすと、一時は帝国軍が城外に撤退せざるを得なくなるほどの、古今無双の活躍を見せた。あまりの強さに神人ではないか? と噂されたが、それが人間であったことが帝国軍の混乱に拍車をかけた。

 

 そして帝国軍の神人に犠牲者が出たことから、一時期は休戦が検討されるまでに至ったのだが……逆にその犠牲が帝国軍に火をつけたらしい。一転して攻勢に出た帝国軍が、もはや犠牲を恐れずなりふり構わぬ攻撃をし始めると、多勢に無勢の勇者派は前線を支えきれず、ついに無類の活躍を見せていた一角が崩れると、あとは一方的だった。

 

 最後まで抵抗を見せていた勇者たちは、一人、また一人と倒れ、ついに帝国軍は城門にたどり着き、あっけなくヘルメス卿の居城は陥落。将として兵を率いていた者たちの死体が晒される中、首謀者アイザックは落ち延びたらしい。多分、鳳たちが通った抜け道を使ったのだろう。

 

 カズヤに、その抜け道のことを教えておいたのは、良かったのか悪かったのか……そんな状況下、帝国軍は、城に最も近い場所にあった宿場町にも、当然攻撃を仕掛けてきた。鳳たちは仲間が戦死したショックを未だに引きずっている中で、大軍を相手に一世一代の大博打を打たねばならなかったのである。

 



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軍師

 ヘルメス卿の居城は燃えていた。あの白く美しかった城は煤で真っ黒く覆われ、ところどころ剥がれ落ちた外壁と、大砲で空けられた穴とで、見るも無残なものだった。城を最後まで守っていた近衛兵たちは、かつて練兵場と呼ばれた広場に集められ、容赦なく処刑されていった。悲鳴が轟き血しぶきが舞う。いくつもの頭が転がり、賽の河原みたいに積み上げられていた。

 

 あまりの凄惨な光景に耐えきれず、新兵が練兵場の隅で胃の中身をぶちまけている。帝国軍総司令官ヴァルトシュタインはそれを見ながら忌々しそうに舌打ちした。死んだのは敵兵だけじゃない。味方も大勢死んだのだ。おまけに、ここまで犠牲を払ったにも関わらず、敵の総大将ヘルメス卿に逃げられたのは痛恨だった。

 

 勇者派との最終戦争から、かれこれ数十年。平和に慣れ親しみ過ぎて戦乱を忘れてしまった将兵に代わって、帝国軍総司令官として抜擢された彼は、大勢の神人を従えて行軍していた。しかし神人はプライドが高く、その上全員がヴァルトシュタインよりも爵位が高いせいで言うことを聞かず、いざ決戦となった時、まともな戦力として機能しなかったのだ。

 

 あの役立たずの神人どもは人間を見下しきっていて、いくら人間を倒しても誉れにならないなどと言い、戦おうとしないのだ。本陣が脅かされたことで渋々腰を上げたはいいものの、散々文句を言った挙句の果てにその人間に殺されているのだから始末に負えないだろう。お陰でヘルメス卿との市街戦は、農民出身の新兵を中心に戦わねばならなくなり、おまけに神人が殺られたせいで士気が下がりきっていて、幾度も潰走させられた。

 

 相手も寄せ集めの農兵が多かったことと、何よりも彼我の兵力差でどうにか押し切ることが出来たが、何度も本陣を脅かされてヴァルトシュタインも生きた心地がしなかった。なにか一つでも歯車が噛み合わなかったら、彼も今頃戦死を遂げていたかも知れない。終わりよければ全てよしなんて言えっこない。正に薄氷の勝利だった。

 

 それにしても勇者と呼ばれていたあの三人の戦士……あれは凄かった。

 

 尋常でない能力の持ち主であることもさることながら、何というか、戦い慣れていた。

 

 実は今回の戦争は、彼らの抹殺がその使命の一つであったのだが……帝国情報部の話では、対神人用に異世界から勇者召喚されたという彼らは、ここぞという場面で本当にその神人を破り、帝国軍の動揺を誘った。

 

 勇者召喚とは、放浪者(バガボンド)を無理やり呼び出す儀式のことのようだが……彼らは人間であるにも関わらず、神技にそっくりな魔法を操り、驚き戸惑っている神人を次々と屠っていったのだ。

 

 もしこのような人材を自由に呼び出せるのだとしたら、確かに、戦争を起こしてでも食い止めねばならないだろう。

 

 一人は激戦地に飛び込んでいくや、銃弾の雨あられを物ともせずに獅子奮迅の活躍をし、一人はどこからともなく現れては、こちらの指揮官クラスを的確に暗殺していく……そして最後の一人は、なんと魔法レベル5のライトニングボルトを連発するのだ。人間が古代呪文を使うなんて聞いたこともなければ、その魔法の威力たるや、あの神人すらも一撃で焼き殺すのである。こんな連中にどうやったら勝てるというのか?

 

 ところが、寄せ集めでは到底太刀打ちできないと思った彼らも、軍師の勧めで銀製の武器を使ってみたら、思わぬ形でその一角が崩れ、一人が死んだらあとはあっけないものだった。

 

 その直前までは、死を恐れない敵だと評していたはずの彼らが、たった一人の仲間が死んだだけで動揺し、突然崩れるのだから分からないものである。一体、彼らは何者だったのだろうか……?

 

 ともあれ、今回の戦争の目的は一応達成したが被害は甚大、ヘルメス卿にも逃げられ、戦果は最悪としか言えない。自分を売り込むつもりで引き受けた戦だったが……これでは帝国に帰っても芳しい評価は得られないだろう。忸怩たる思いだ。

 

 幸い、今回の戦でいくらかの知己を得た。これらの戦力を結集して、またどこかで一旗揚げられればいいのだが……

 

「伝令! 総司令官殿にご報告申し上げます!」

 

 そんな取らぬ狸の皮算用をしていると、彼のもとに一人の伝令の兵士が駆け込んできた。ヴァルトシュタインが不機嫌と見て取ったか、兵士は彼と目を合わさないように、わざとらしく気をつけをして空を見上げていた。

 

「なんだ?」

 

 ヴァルトシュタインが不機嫌を隠そうとせずに短く答えると、伝令の兵士はさっと敬礼をしてから、

 

「はっ! 現在周辺を警戒中の警備部隊によりますと、ここより10キロ先、近隣の街を落としにいった分隊が、街を占拠する難民から思わぬ抵抗を受けており、未だ落とせず苦戦しているとのことです! 分隊指揮官がおっしゃるには、落城まで今暫くかかりますが増援は無用とのことであります!」

「これ以上俺に恥をかかせるなよ……」

 

 彼が忌々しそうに手近にあった石を蹴飛ばすと、伝令の顔の横あたりをかすめて飛んでいった。それでも彼は微動だにせず、直立不動の姿勢で相変わらず空を見上げていた。見上げた胆力である。

 

 ヴァルトシュタインはすれ違いざまにその彼の肩を叩き、

 

「ご苦労さん……おまえはここで待機していろ」

「はっ!」

「軍師殿! 軍師殿はいるかっ!!」

 

 彼は陰気臭い練兵場から出ると、瓦礫の山と化した城前広場まで歩いていった。落城後は、戦後処理のための本陣を置いていたのだが、その天幕の直ぐ側に、瓦礫で作ったベンチに腰掛けながら、独特の黒い茶器で茶を飲んでいる男がいた。

 

 傍らでは彼の黒い愛馬が草を食んでいる。ここは戦場のど真ん中だと言うのに、何故かこの一体の空気だけが一変して見えるのは、その男の持つ雰囲気のせいだろうか。

 

 ヴァルトシュタインが総司令官として軍勢を預けられた時、軍師……というか監視役としてつけられた男である。総司令官に声をかけられるとその男は手にしていた茶をぐいっと飲み干し、手早く茶器をしまうと、彼が近づいてくる前にベンチから立ち上がり、背筋をピンと伸ばした姿勢で、軽くお辞儀をしてみせた。その動きは緩慢で決して素早くはないのだが、見る者を少しも苛立たせないのは、きっとその流れるような一連の所作が洗練されて見えるからだろう。

 

 黒尽くめの服を来て、目も頭髪も真っ黒。年の頃は30半ばと比較的若いはずだが、異様に貫禄があるというか、迫力があるというか、落ち着き払っている姿は、老練の武術家を思わせ妙に近寄りがたい。噂では皇帝の相談役として、唯一、一対一で対面が許された『放浪者』であるそうだが……

 

 その性質から、恐らく中身は見た目通りの歳ではないのだろう。名前はなんと言ったか……確か、そう、利休宗易(りきゅうそうえき)

 

「軍師殿! よろしいか?」

「……あちらの街のことですかな」

「話が早くて助かるよ。それを落としに行った馬鹿が、未だに手間取っているらしい。増援は要らんと言っているそうだが、現場を見なければ話にならんよ。大体、足りんから苦戦してるんだろう。これからひとっ走りするから、ついてきてくれないか」

「御意に」

 

 軍師と呼ばれた男……利休は愛馬の手綱を引いて、ヴァルトシュタインのあとをついていった。

 

*********************************

 

 城からほど近く、峠に樫の大木があり、だいたい街との中間点にあるその小高い丘の上に、側近の兵隊およそ100騎を引き連れたヴァルトシュタインが現れた。隣には黒鹿毛の愛馬にまたがった利休がおり、彼らは馬上から遠くに見える街の様子を観察していた。

 

 街の広さはおよそ10町歩、外周1キロ強といった範囲に、トタン屋根のバラック小屋がすし詰めにされている。中には長い煙突が伸びている建物もあることから、鉄の精錬なども行われていたのだろう。ヘルメス卿の城下町とは対象的に薄汚い街だった。

 

 遠目から臨む街の中には着の身着のままの難民たちがひしめき合い、かなりの人数があの中で立ち往生しているようだった。恐らく、戦争が始まるや否や逃げ出した近隣の住人が、森を前にして行き場を失い、あそこに集まったのだろう。

 

 人数は目測で1万くらいだろうか。対する帝国軍分隊は3千と、人数の上では負けているが、ろくな装備もない難民相手に苦戦するような数ではない。

 

 街の周囲は、恐らく外壁を引っ剥がして作った即席の木の防壁で覆われており、その前方には比較的浅い塹壕が掘られていた。防備らしい防備は他には見当たらず、何故あんなものに手こずっているのかと首を捻っていると、その街の方から数騎の兵隊が飛んできて、ヴァルトシュタインの前に滑り込んできた。

 

「こここ、これは司令官様! このようなみすぼらしい場所に何の御用向きで!?」

 

 彼の前に、片目で出っ歯の小太りな男が揉み手をしながら現れた。

 

 盗賊上がりの傭兵隊長で、連れている兵隊の質はそこそこだった。ただし、始めから略奪を目的として従軍しているのは明白だったので、重用する気にはなれなかったのだが……決戦前、周辺の街を無力化しておいたほうが良いと具申してきたので、汚い仕事は薄汚い連中にやらせておけばいいと任せてみたのが、この有様である。

 

 ヴァルトシュタインはギリギリと歯をむき出しにしながら怒鳴り散らした。

 

「おい! いつまで手こずってるんだ!? お前、大口を叩いた割には、たかがあれしきの街一つ落とせないのか!!?」

 

 未だ何一つ戦果を挙げられていない彼は青ざめながら言い訳の言葉を口にした。

 

「ももも、申し訳ございません! 私も必死にやっているのですが、敵の反撃が思ったよりも堅固で。おまけに、街の中に潜んでいた神人が大暴れしていて、中々近づけないのです」

「言い訳は聞きたくない! おまえは俺に周囲の脅威は全て自分が払ってみせると言ったんだ! なのに、おまえは未だにこんなところでお遊戯してやがる。見ろ! おまえがまごついている間に、本体の方はとっくに片付いているんだぞ!? つまりおまえは、俺たちの背後を守ると言いながら、何一つ役に立っていなかったんだ! これは軍法会議もんだよなあ!?」

 

 総司令官が当たり散らすと、彼の部下たちが分隊長を取り囲むように馬を進めた。その迫力に圧迫された分隊長は冷や汗を垂らしながら土下座の格好で地面に這いつくばる。

 

「なにとぞ! なにとぞ、お許しを~!!」

 

 その哀れな姿を見下ろしながら、ヴァルトシュタインはチッと舌打ちをした。プライドがあるならこんな真似は絶対に出来ない。これが出来るから、こ汚い連中というのは始末に負えないのだ。生き残るためにプライドをかなぐり捨てられては、こちらはもう何も出来ないではないか。

 

 彼は腹立たしげにぼやいた。

 

「クソったれ……たかがこれしきの仕事も出来ずに、俺に尻拭いなんかさせやがって……大体、あんなのは手持ちの兵力で突撃してったら一発だろう? 何を躊躇してやがるんだ。防壁だってあんなに薄くて、軽く小突いたら倒れてしまいそうじゃねえか。塹壕も浅くて子供にだって乗り越えられる……なのにお前は何をやってる? あんなの、誰がどう見たって無防備じゃねえか……?」

 

 無防備……? ヴァルトシュタインは自分の言葉を反芻して、はたと気づいた。

 

 そうだ。いくらなんでも無防備すぎる。まるで突撃してくれと言ってるようなものじゃないか。塹壕は浅くてせいぜい3メートルくらい。街を取り巻く壁は薄くて、銃弾は突き抜けてしまう。あれじゃ視線を切るための遮蔽物にしかならないだろう。本当に、子供にだって簡単に乗り越えられるはずだ。

 

 だが、あそこに大群で押し寄せていったらどうなる? あの塹壕は、簡単によじ登れるが、駆け抜けられるほどには低くない。つまり、必ずあの前で渋滞を起こす……

 

「ありゃあ……ザルだな」

 

 ヴァルトシュタインがそうポツリと呟くと、もはや彼の言葉をオウムのように繰り返すしか出来なくなった分隊長が、

 

「おっしゃるとおりで。そうです、あんなのはザルです。すぐに、この私はどうにかしてみせましょう。だからどうか総司令官様、もう一度私に突撃命令を……」

「馬鹿野郎!!」

 

 ヴァルトシュタインが癇癪を起こしたように怒鳴り散らすと、分隊長はついに丸くなって縮こまった。その哀れな姿に周囲から失笑が漏れる。しかし、総司令官はそんな物などすでに目に映らなくなっていた。

 

 あの目の前に立ちはだかる壁は、文字通りザルだ。小さな粒なら簡単に通すが、大きな物は引っかかって通れない。人間で言えば、少人数ならすきを見てそれこそ子供でも突破できるが、軍隊は基本的に数十人という大人数で動く。すると、あの手前の塹壕で必ず足を止めねばならず、そこを狙い撃ちにされて近づけないのだ。

 

 あれは無防備に見えて、意外にも理にかなった備えなのだ。

 

「あれは惣構(そうがま)えですな」

 

 ヴァルトシュタインが街の周囲を取り巻く防壁を見て唸っていると、そんな彼の横に馬を寄せてきた軍師がそう発言した。

 

「……知ってるのか?」

「はい。あれは我が国独特の城郭であります故、大陸の方には馴染みがないのでしょう。総構え、総曲輪(くるわ)とも申します。我が祖国は山がちで平地が少なく、昔から山に依って戦う戦術が発達してきました。山の切り立った断崖の上に土塁を乗せ壁で囲う。こうすれば上から一方的に攻撃が出来ます。この陣地のことを(くるわ)と申しました。それが平和な時代が続くようになり、為政者が平地に降りてくると、だんだん形を変えてあのような構えになっていったのでございます」

 

 惣構えは利休の住んでいた堺の街が有名で、昔は街の外周を取り巻くように堀が張り巡らされていたが、織田信長が上洛すると埋められた。

 

「ふーん……そんなものがあると言うことは、あそこにあんたと同郷(バガボンド)がいるかも知れないわけだ」

 

 城の捕虜を尋問して聞いた話では、あの勇者と呼ばれる連中の一人が逃げ出したと言っていた。それにさっき、この分隊長は街の中で神人が一人大暴れしてるとも……

 

 つまり、あの中に、あの勇者と同格の人間がいるかも知れないというわけだ。

 

 ヴァルトシュタインは低い唸り声を上げた。

 

「攻めるのは簡単だ、数を揃えればいい。だが落とすのは容易ではない、必ず犠牲が出るだろう……そんな犠牲を払って手に入るのが、あのゴミ溜めみたいな街じゃあ割に合わねえよなあ」

「兵糧攻めはいかかでしょうか。見ての通り、あの街は多くの難民を抱えております。糧食もそう長くは持ちますまい。このまま街を包囲し、投降を呼びかけるのがよろしいかと……いや、その必要もなくなりましたか」

 

 軍師の言葉に促され、街の方を見ると、街の中心にある大きな建物の上で白旗が翻っていた。

 

「どうやら、先方は話し合いを所望のようですな」

「受けるべきか拒否するべきか……どう思う?」

「受容するのがよろしいかと」

 

 ヴァルトシュタインは溜め息を吐くと、

 

「城攻めでは虎の子の神人を失い、町の外じゃ難民に舐められる……踏んだり蹴ったりだな。俺のキャリアはボロボロだよ。受け入れよう。話し合いの席を設けろ」

 

 総司令官がそう命令すると、彼の子飼いの部下たちが忙しそうに散っていった。彼はその姿を見送ると、未だに地面に這いつくばってる分隊長の尻を蹴り上げ、

 

「命拾いしたな、おい」

 

 と言って、悔しそうに街を睨みつけた。

 



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休戦交渉

 銃声が轟き街のあちこちで喚声が上がった。銃弾が足りない、負傷者はこっちだ、怒号が飛び交い、ひっきりなしに衛生兵が駆けていく。みんな火薬の噴射のせいで顔の半分が真っ黒で、充血する目からはとめどなく涙が溢れていた。

 

 人々は街の外周に作った土塁の影に隠れ、街を取り巻く板塀の隙間から近づいてくる帝国兵に銃撃を浴びせかけていた。ここを抜かれたらもう後がない。殺るか、殺られるか、選択肢は二つに一つ。その事実が戦争を知らないただの難民たちを屈強な兵士に変えていた。背水の陣である。

 

 そんな目を血走らせた男たちに混じって、鳳も慣れないライフルを構えては、壁の向こう側にむけて当てずっぽうに引き金を引き続けていた。銃撃は向こうからも飛んでくるから、狙いなんてつけられるはずもない。だから殆ど当たらないだろうが、きっと何人かは鳳の銃撃によって死んだんじゃないかと思っていた。何しろ、彼の被る鉄兜だって、この数時間で何度も甲高い金属音を上げているからだ。もし、これを被って無ければ、鳳はこれまでに8度は死んでいた。

 

 だから鳳の放った銃弾も、きっと見知らぬ誰かに当たっていることだろう。だが人を殺したという実感は欠片もなかった。大勢の味方に囲まれて、無我夢中で撃ち続けていたら、そんなことを考える余裕もないのだ。剣や槍で戦っていたときよりも、銃が出来てからの方が、戦争はより凄惨になっていったと言うが、その理由が分かる気がした。

 

 鳳は弾を撃ち尽くしてしまったことに気づくと、前線を後続に譲って転げるように後退した。土塁を離れて安全なところまで来ると、思った以上に緊張していたらしく、膝がガクガクと震え地面に倒れそうになった。全身から汗が吹き出し、ゼエゼエと呼吸が乱れている。まさか異世界にまで来て戦争の真似事をやらされるとは思わなかった。

 

 ……いや、真似事ではない。まるで他人事のように感じるが、これはまさしく戦争だった。

 

 そっと手のひらを見る。血の染まるなんて言うが、実際には真っ黒で、火薬と埃と鉄の臭いしかしてこなかった。

 

 喉の乾きを覚えた彼は、水と弾薬を求めて街の中心部にある冒険者ギルドまでやってきた。今回の籠城戦の言い出しっぺが、幸か不幸かギルド長だったので、冒険者ギルドが本陣兼補給所になっていた。

 

 ギルドの両開きの扉をくぐると、中で忙しなく走り回っていたルーシーが彼のことを見つけて、

 

「あ、鳳くん! おかえりなさいっ!」

 

 と声をかけてきた。

 

 補給所にいた全員の目が一斉に彼に突き刺さる。人好きのする彼女は、どうやら既にこの街のナイチンゲールになっているようだ。名前を呼ばれただけの鳳に敵意を剥き出しの視線を向けてくるのもいるから、おまえら今戦争中なんだぞと叫びたくなった。

 

 鳳はそんな針のむしろのような視線を掻い潜り、店の奥のカウンターまでやってきた。普段はマスターが黙々とグラスを磨いている場所だが、今は補給物資の置き場になっている。

 

 彼はその中から弾薬と包帯、代えの手ぬぐいとMPポーションを取り出すと、その高純度結晶をハンマーでガンガンと叩き割り、粉状になった白い粉末を取り出した紙の上で一直線になるようにラインを引き、懐から取り出したストロー(麦わら)を鼻の穴に突っ込んでおもむろにそれを吸い込もうと深呼吸した時……

 

「シリアスな顔して何やってんだ、馬鹿野郎!」

 

 突然、後頭部を思いっきりぶっ叩かれて、鼻の穴に突っ込んでいたストローが奥に刺さり、鳳は吸い込もうとしていた息を強制的に吐き出させられた。

 

「げほごほげほげほ……ちょ!? これ、高いんだぞ!? いきなり、なにしてくれるんだよ、このスットコドッコイ!?」

「スットコドッコイはおめえだっつーの! みんな死ぬ気で戦ってる最中だっつーのに、おまえは何してやがんだ、このボケ!」

 

 鳳の背後にいつの間にか立っていたギヨームは、容赦なく彼の後頭部を連打した。痛い痛いと抗議しながら、鳳は頭を保護するように鉄兜を被る。

 

「そんなポンポン叩くなよ! 俺だって真面目にやってるよ。ここには補給に来ただけじゃないか」

「おめえには補給するようなMPなんかねえだろうが」

「別にMPが無くっても構わないじゃないか。ていうか、これが本来の使い方なんだぞ? 戦場で少しでも恐怖を和らげるようにって」

「知るか。とにかくこれは没収だ」

「横暴だ!」

「やかましい! おまえがこんなもんを広めちまうから……見ろ!」

 

 ギヨームは忌々しそうにギルド酒場に屯する歴戦の冒険者達を指差した。

 

 獣王ガルガンチュア……大森林の部族の長で、かつて勇者に救われた恩を忘れず、代々冒険者として勇者領に貢献している狼男。部族で一番強い者が獣王の名を受け継ぎ、同時に長になる。冒険者ギルドの最高ランク、A級冒険者の一人である。

 

 金剛力士サムソン。子供の頃から怪力と知られ、郷土相撲では無敗を誇った。人間でありながら、なんとSTR19、VIT19という伝説級の鋼の肉体を持ち、その強靭な膂力はあまねく人に知られている怪力無双の豪傑だったが、そんな彼もSTR23のジャンヌの登場にショックを受けているようである。

 

 指揮者スカーサハ。齢300歳を超える神人でありながら現代魔法を修得したという稀代の戦術家。神人らしからぬ好奇心旺盛な人物で、帝国を飛び出し、現在は新大陸で暮らしている。大君とは昔なじみで彼のことを師匠と呼んでいる。その縁で今回は彼の呼びかけに応えて、新大陸から馳せ参じた。

 

 その他、パン屋の倅とか、大工の息子とか、童貞とか、クソムシとか……冒険者の二つ名ってどうしてこんな酷いものばかりなんだろう……? と首を捻りたくなるような名前がずらりと並ぶが、そんな名前でもみんな百戦錬磨の強者ばかりだ。

 

 その冒険者ギルド自慢の強者達が今、補給所と化したギルド酒場で、鼻の穴にストローを突っ込みながら、

 

「あ~……キクキク。これキクよ~」「いいわー、これ。今までとぜんぜん違う」「マジ生き返るって感じ」「すっごい……こんなの初めて」「神よ……」

 

 どこか恍惚とした表情を浮かべながらMPポーションをキメていた。別にラリってるわけではない。いつもよりずっと回復が早いから、そのぶん充足感に満たされているからだろう。多分……

 

 ギヨームはそんな冒険者たちの姿を見ながら嘆かわしそうに、

 

「おまえのせいで、まるでギルドが阿片窟じゃねえか!?」

「いや~、自分でもまさかここまで評判になるとは思わなかった……照れるなあ」

「褒めてねえし!」

「でも、MP回復が必要な人が喜んでるのは確かだろ?」

「そりゃ確かにそうだけど……」

 

 どうしてこうなった……ギヨームは額に手を当ててヤレヤレと首を振っている。鳳はそんな彼が居る間はキメられそうもないと諦めて、ギヨームに飲み物を差し出しながら、話題を変えるように、

 

「ところで、城の様子はどうだった? 偵察に行ってきたんだろ」

「ん? ああ、そうだった……城の方は、まあ、大方の予想通り、全滅だ。他に言葉が見つからねえ」

 

 ギヨームは飲み物を受け取りながら、周りに聞かれないようにほんの少しトーンを下げて続けた。もし聞かれたら、士気が下がること請け合いだ。

 

「……城下町はどこもかしこも穴だらけで瓦礫の山だ。城は焼け落ちて真っ黒な煤で覆われていた。非戦闘員は街の外に作られた収容所に詰め込まれている。多分、奴隷送りだろう。でも生きているだけマシかもな。戦闘員の方は容赦なしって感じで、一箇所に集められて次々と首をハネられていた」

「そうか……」

「それから、おまえの仲間なんだけど……」

 

 ギヨームはチラリと鳳の表情を窺ってから、

 

「カズヤって言ったか? あの、城に忍び込んだ日に会ったやつだが……大罪人として晒されていた。一緒に並べられていたのが、恐らくおまえの仲間たちなんだと思うが」

「……二人いたか? トッチャン坊やと、オタクっぽいやつなんだけど」

「どうかな。多分そうだと思うが……」

「わかった。報告ありがとう」

 

 鳳は返事すると持っていたタンブラーをぐいっと傾けた。アルコールが胃に染み渡り、胸のもやもやを払ってくれる。ギヨームはそんな彼の顔を見ながら、

 

「意外と冷静だな。もっと取り乱すかと思ったんだが」

「全然冷静じゃないよ。ショックがデカすぎて実感が湧かないんじゃないかな。それに……相方が荒れてるからなあ……」

 

 戦闘が始まってからジャンヌは殆ど休みなく前線で戦い続けていた。この世界にやってきた始めの頃は、魔物を殺すのも躊躇していたはずの彼が、人間を相手に一切の躊躇を見せずに敵を斬り伏せ無力化していた。彼が通り過ぎた後には血しぶきが舞い、戦況は確実に一変する。

 

 その鬼神の如き戦いぶりは敵味方問わず惜しみない賛辞を送られていたが、彼の耳にはそんな言葉は届いていなかっただろう。何というか、まるで罰を受けているかのように彼は敵を殺し続けていた。きっと、仲間を助けに行けなかったという後悔が、彼を変えてしまったのだろう。

 

 この世界は殺るか殺られるか、甘いことを言っていたら殺されるだけだ。鳳は握りしめた自分のライフルを見つめながら、そう肝に銘じていた。

 

「あ、ギヨームさん、鳳さん」

 

 二人がカウンターで会話を続けていると、ギルド長の執務室へ続く裏口からミーティアがひょっこりと顔を出した。彼女は酒場の中に二人の姿を見つけると手招きし、

 

「見張り番が近くの丘に将校らしき身形の良い兵士の一団を発見しました。確認してみたところ、帝国軍の将兵で間違いないようです」

「それで?」

「ギルド長が白旗を上げて交渉を呼びかけてます。相手方からの攻撃が止んだので、恐らく応じてくるんじゃないかと」

「はぁ~……やっと終わったか」

 

 その言葉を聞いて、酒場に居合わせた人々から溜め息が漏れる。早速とばかりにみんなに知らせようと街に駆けていく者がいたが、ぬか喜びにならなければいいのだが……

 

 ミーティアはそんな人々を止めようとしたが、多分言っても無駄だろうと思い直し、鳳たちの方へ向き直ると、

 

「とりあえず、お二人にもギルド長の執務室に集まっててもらえませんか? 今後の方針を決める際に意見が欲しいと、大君もお呼びです」

「わかった、いこう」

「俺もいいの?」

 

 鳳が自分のことを指差しながら意外そうにそう言うと、ミーティアは何を当たり前なと言った感じに、

 

「鳳さんもジャンヌさんに負けず劣らず、今やこの街の顔じゃないですか。今回の作戦だって、お一人で考えられたんでしょう?」

「いや、俺は聞かれたから答えただけで、そんなことはないと思うけど……」

 

 鳳はそう言いかけたところで、今、謙遜したところで何にもならないと思い直し、素直に応じることにした。正直、相方のバーター感しかなかったが……

 

「ジャンヌも呼ばれてるの?」

「ええ」

「なら行くよ。戦闘が始まってから全然会ってないから、労ってやろう」

 

 彼はそう言うと、ギヨームと一緒にギルドの裏手へ続く扉をくぐった。

 

************************************

 

 ギルド長の執務室に入ると、その部屋の主が忙しそうに動き回っていた。たった今、敵が交渉に応じると伝えてきたので、責任者として会談に赴くところのようである。彼は入ってきた来訪者の中にミーティアの姿を見つけると、

 

「あ、ミーティア君。ちょうど良かった。君も来てくれ」

「げ……どうして私が?」

「一人で会談に臨むわけにもいくまい。かといって、冒険者を同行させるわけにもいかないから、職員である君が適任なんだよ」

「大君がいらっしゃるじゃないですか」

「逆だ、彼が出ていっては、かえって大事になってしまう。今回の件は、ここの冒険者ギルドが単独で起こしたことだと強調しなくちゃなんないんだよ」

「すまんのう、お嬢さん」

 

 その大君は鼻からMPポーションの高純度結晶を吸い込んで、フガフガ言っている。お年寄りのそんな姿を見るのは何だかショッキングだったが、それはMPを回復しているだけなのだから、勘違いしてはいけない。

 

「そんなあ~……もう勘弁してくださいよ。私、楽だからこの仕事に応募したんですよ?」

「世の中そんなに甘くないのだよ。私だってババを引かされたと嘆きたいところさ。覚悟を決めてついてきたまえ」

 

 哀れなミーティアはギルド長にズルズルと引きずられていった。鳳は合掌してそれを見送った。

 

 部屋に入ると先客が3人いた。そのうち二人は大君とメアリー、もう一人は指揮者スカーサハと呼ばれる神人だった。

 

 噂では大君の弟子だそうだが、何百年も生きた神人に師匠と呼ばせるのだから恐れ入る。現代魔法を教えたということなんだろうが、本当に謎の多い爺である。まさか愛人なんてことはないだろうな……とゲスな勘ぐりをしていたら、件の神人が近寄ってきて、

 

「あなたがツクモね。あの、改良型MPポーションを作ったという。素晴らしい! あれのお陰で、私達はMPの消費量を気にせずに戦うことが出来ました。もしあれが無かったら、今の勝利はあり得なかったはずだわ。正にマジック革命。あなたは街の救世主よ」

「ほら見ろ大絶賛じゃねえか」

 

 鳳がスカーサハの熱烈な歓迎を受けながらギヨームの方を睨みつけると、彼は明後日の方を向けて口笛を吹いていた。いやまあ、納得行かない気持ちもわからないではないのだが……

 

 続いて、戦闘中ずっと部屋の中で縮こまっていたメアリーが駆け寄ってきた。

 

「ツクモ。外はもう平気になった?」

 

 メアリーが震える声で尋ねてくる。どうやら戦闘が始まってから、ずっとこの部屋の中で耳を塞いでブルブル震えていたらしい。兵士たちの声に怯えて結界から外に出たはずが、その出た先でも戦争に怯えなくてならなかったのだから、彼女にしてみれば話が違うと言いたいところだろう。

 

「ああ。もう大丈夫だろう。これからギルド長が交渉しに行って、金を払えばそれで終わりだ」

「本当?」

「多分な。この街を潰すにはかなりの戦力が必要だって分かったろうし、向こうにももう戦う理由もないだろうから」

 

 鳳がメアリーにそう説明していると、部屋の扉がノックされて、外からジャンヌが入ってきた。並み居る冒険者ギルドの強者達を押しのけて、勲功第一の大活躍である。鳳はそれを労ってやろうと思い、手を上げて声をかけようとしたが、

 

「あ、白ちゃん……いたんだ」

 

 ジャンヌは部屋の中に鳳がいることに気づくと、一瞬だけビクッとしてから、気まずそうに視線を逸した。鳳は、なにか嫌われることでもしたかな? と思ったが、理由はそんな些細なことじゃないだろう。

 

 最前線で敵と戦い続けていたジャンヌは、鳳と違って手応えがはっきりと分かっているのだ。戦闘中はアドレナリン全開で無我夢中に戦ってればいいだろうが、一度落ち着いてしまえば、襲ってくるのは人を殺したという重苦しい事実だけだ。彼の気持ちを慮ると、下手な慰めの言葉は返って傷つけてしまうだろう。

 

 鳳が何も言えずにまごついていると、代わりにギヨームが近寄っていって、軽い労いの声をかけていた。こういう時、戦友がいればどれだけ心強いだろうか。この時、鳳はこの世界に来て最も自分の無能を恨んだ。こんなことで、そんな気持ちを味わわなければならないなんて、とても馬鹿げたことだ。

 

 それから暫く、部屋の中はしんと静まり返ってしまった。みんな何を話して良いのか分からず、ただ時間が過ぎていくのを待っているといった感じだった。

 

 交渉は上手くいっているのだろうか? 金だけじゃなくて、なにか他の要求をされるのだろうか? まさか戦闘再開なんてことはあるまい……

 

 話し合いたいことはいくらでもあったが、結局は交渉に行った二人が帰ってくるまで憶測を言い合っても仕方ないから、誰も口を開かなかった。

 

 そして小一時間の時が流れた。その間、執務室にあつまった面々は、重苦しい空気を紛らわせるように、時折思い出したかのように会話を交わしたが、身のある話は何も出てこなかった。

 

 やがて、そんな空気を引き裂くような大きな音を立てて扉が開き、ギルド長たちが戻ってきた。鳳たちは、ようやくこの重苦しい状況から解放されるとホッとしたが……それも束の間、帰ってきた二人の顔を見れば、どうやら交渉は芳しくない結果に終わったことを物語っているようだった。

 

 一体何があったのだろうか? 不穏な空気が場を支配する中で、ギヨームが代表して尋ねると、執務椅子にぐったりと体を預けたギルド長が、消耗した様子でこう言った。

 

「先方はこの街への攻撃を中止すると言っている。ただ、条件を出されて……」

「条件? どんな?」

「ああ、条件は二つ。一つ目は、ジャンヌ君……勇者の仲間である君を引き渡せというものだった。先方は……君がヘルメス卿の残党だと決めつけて、一歩も引かない構えだ」

 

 その場にいた全員の目が、一斉にジャンヌに向いた。彼は驚愕の表情を浮かべ、その場でヘナヘナと、力なくしゃがみ込んだ。

 



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俺は異世界に種馬として召喚されたはずが、いつの間にかゲイと駆け落ちしていた

 冒険者ギルドが中心となって挑んだ街の攻防戦は、敵軍の将軍が出てきてようやく休戦の運びとなった。鳳たちは、後は金さえ支払えば、この窮地を乗り切れると思っていたのだが……ところが、帝国軍との交渉に臨んだギルド長が帰ってきたところ、彼は苦々しげに相手方に二つの要求を突きつけられたと語った。

 

 一つ目は、ジャンヌの引き渡し。

 

 城下町での攻防戦で一騎当千の活躍を見せた勇者と呼ばれる異世界人。その一人がこの街に逃げ込んだという情報を掴んでいた帝国軍は、この街の攻防でも一際目を引く活躍をしていた彼を差し出せと要求してきたのだ。

 

 曰く、帝国の今回の挙兵は、世界平和を維持するために、ヘルメス卿がその野心により呼び出した違法な勇者召喚者を排除するためのものだった。故に、この残党が残っている限り、彼らがこの街から手を引くことはあり得ないというのだ。

 

 この時、ギルドの面々は初めてジャンヌの正体を知り、特に相棒として何度も一緒に依頼を受けていたギヨームは驚き、

 

「ジャンヌ……帝国軍が言ってることは本当なのか?」

 

 ジャンヌは苦しげに答えた。

 

「……絶滅の危機に瀕している神人を保護するため、勇者召喚をした。呼び出された日、ヘルメス卿はそう言っていたわ。私達はそれを無邪気に信じていたんだけど、話はそんな単純なものじゃなかったみたいよ」

「どうして隠してたんだ」

 

 ギルド長が不満げに言う。これには鳳が答えた。

 

「城に仲間が残っていたからです。あそこから出てくる時、アイザックは俺たちに城での出来事を口止めした……実際、今回の戦が勇者召喚にあるなら、俺たちが自分達の素性を吹聴していたら、戦争はもっと早まったかも知れない」

「うーむ……信じられない。勇者召喚なんておとぎ話じゃなかったのか?」

「いや、事実じゃ」

 

 大君が横から口を挟む。

 

「勇者召喚が禁断の秘術とされているのには理由がある。勇者を呼び出すための代償に、神人の生贄が必要だったんじゃ。故に、神人の長である皇帝がおいそれと勇者召喚するわけにはいかんかった。神人を助けるために、神人を犠牲にしておっては元も子もないからのう……もう1つ、生贄は勇者の子孫であっても構わない。今回、こやつらを呼び出す時に使われたのはそっちの方じゃな」

 

 勇者派の中枢が帝国に鞍替えしようとしていた。ヘルメス卿が凶行に及んだのは、それを止めようとしたからだ。しかし、それだけの大物が消えれば当然騒ぎになる。大君が探りに来たように、帝国も密偵を送りあの城を調べていたのだろう。そして帝国は、カズヤ達、異世界から召喚された勇者がいることに気がついた。

 

 鳳は悔しそうに唸り声を上げた。

 

 それじゃ今回の戦争は、鳳たちを殺そうとして始まったのか。たったそれだけのことで、これだけ多くの犠牲が生まれてしまったと思うと、いくらなんでもやりきれない。

 

「いや、開戦理由はそれだけではなかろう。どちらかと言えば、もう一つの方が肝心じゃ」

「もう一つ?」

「敵の突きつけてきた要求は二つあったのじゃろう?」

 

 大君がそう促すと、それまで深刻そうな表情で机を見つめていたギルド長がハッと我を取り戻して、

 

「そうでした、敵軍の要求はもう一つ……メアリー・スーの捜索と引き渡しです」

「やはりな」

 

 その要求が意外すぎてミーティアや指揮者、当の本人すらも目をパチクリさせて首をひねっていた。しかし、例の結界の存在を知っている鳳たちは、彼らがメアリーを引き渡せという理由が分かる気がした。何しろメアリーは300年前の英雄、初代アイザックが密かに匿っていた人物だ。

 

 大君はギルド長に向かって、

 

「それで、お主はご丁寧にメアリーがここにいることを教えてしまったのか?」

「御冗談を。そんな名前の人など知らないと、しらばっくれておきましたよ。かなりしつこく聞かれましたが、最終的に引いたところを見ると、敵はまだ彼女の行方を知らないようですな。私達に要求したのは、たまたまここにいたら儲けものだと……その程度のことじゃないかと思われます」

「そうか。それは重畳じゃった」

「……多分、知らんぷりしておいたほうがいいだろうと判断したのですが……それで一体、彼女は何者なんですか?」

 

 ギルド長がそう言うと、同じ疑問を持っていた鳳たちの視線が大君に集中した。彼はその浴びせかけられる視線を無視するように、手にしていた杖に顎を乗せながら、

 

「それを知れば面倒事に巻き込まれることになる。話せば長くなるし、お主らはまだ知らないほうが良い。今はそんなことをしている場合でも無いじゃろうて」

 

 大君がそう言うと、壁に寄りかかっていたギヨームが不快げな表情を隠そうともせずに、少々ドスの利いた声で、

 

「今更隠すこともねえだろ。巻き込まれるってんなら、こちとらとっくに巻き込まれてんだよ。まあ、爺さんが俺たちのことをどうしても信用出来ないってんなら仕方ねえが……どうなんだ、おい!?」

「やれやれ……」

 

 ギヨームの辛辣な言葉を受けて、鋭い視線が更に白髪の老人に集中した。大君は苦笑気味に溜息をつくと、喧嘩でも始まるのかとおっかなびっくり周りを見回していたメアリーの方をチラリと見てから、

 

「本人も知らぬから……本当なら、落ち着いてから話そうと思っておったのじゃが」

 

 彼はそう前置きすると、

 

「実は簡単な話なんじゃよ。メアリーは勇者の娘……その最後の生き残りじゃ」

 

 その事実は意外な物だった。大君が執拗に隠そうとした理由もうなずける。だが、一体どんなとんでもない秘密が飛び出してくるのかと思っていたギヨームにとっては、意外と大したことのない事実に思えた。もちろん、勇者の娘というのは凄いことではあるが……

 

「へえ! こいつ、勇者の子供だったのか……道理で、ヘルメス卿がコソコソ匿っていたわけだな。勇者派にとって、彼女はお姫様みたいなものか」

 

 ギヨームがそんな小学生並みの感想を述べるが、鳳はそんな風に無邪気に笑っては居られなかった。彼はまだ気づいていないのだ。勇者の娘という、その意味を。

 

「ギヨーム、これはそんな単純な話じゃないぞ」

「あん?」

「勇者の娘ってことは、あれだ……彼女は神人の子供を産む可能性がある」

「……ああ」

 

 ギヨームはその言葉がすぐには飲み込めず、一瞬だけポカンとした表情をしてみせたが、やがてその意味を理解すると、徐々に深刻な表情に変わっていき、

 

「そうか……こいつは、金の卵を産むガチョウってわけか」

 

 勇者の子供は全てが神人だった。鳳たちも、その勇者の能力を受け継いでいると言われていたが、それは嘘だった。

 

 だが、メアリーは本物だ。勇者の子供から生まれる子供……つまり勇者の孫は全てが神人ではなかったが、それでもかなりの数が生まれてきた。その条件は単純明快、勇者の子供は、伴侶の種族遺伝子を孫の世代に伝えるのだ。

 

 つまり、メアリーが神人と子供を作れば、それは必ず神人になる。

 

「帝国はその繁殖能力を恐れて、勇者の子孫を根絶やしにした。しかし、現実に神人が絶滅の危機に瀕している今、その能力は帝国こそが喉から手が出るほど欲しいのじゃ。対する勇者派は、今や勇者への恩は忘れ、経済的な利益だけを追求するようになっておる。帝国と敵対するよりも、交易相手として付き合ったほうがいいと考えるようになっていたわけじゃ」

 

 ここに双方の利害が一致した。

 

「ヘルメス国と勇者領は何しろ長い付き合いじゃ。上層部は婚姻関係を結ぶなど、家族ぐるみの付き合いをしておる。故に、勇者派の重鎮の一部は、メアリーの存在を知っておったのじゃよ。彼らはそれを手土産に帝国に近づいた。そして、その野心がバレているとも知らず、ヘルメス国に不用意に近づき殺された……」

 

 帝国は、約束をしていた勇者派の裏切り者たちが消え、代わりにヘルメス国に勇者が現れたことで、それをヘルメス卿の帝国に対する挑戦と捉え、今回の開戦となった。だが、その本当の目的は、メアリーを捕らえることだったのだ。

 

「そういうわけじゃ。帝国は、メアリーを引き渡せばそれで退くじゃろう。じゃが、儂にこの子を渡す気は毛頭ない。もし引き渡せば、この子がどうなるか、誰でも簡単に想像できるじゃろう?」

 

 恐らく彼女は帝国のどこかに幽閉されて、延々と好きでもない男たちに孕まされ続けることになるだろう。それも一回二回じゃ済まない。何しろ彼女は神人だ。何百年だって生き続けることが出来る。

 

 たかが、年間1人の神人を増やすためだけに、この幼馴染に似た少女がそんな酷い目に遭わされるなんて……

 

 鳳の中でチリチリと炎のような何かが燃えだした。炎は彼の内で燃え広がり、今や一つの大火となりつつあった。その炎は決して外に漏れることはなく、彼の内だけで燃え続けている。考えろ……考えろ……何か手はあるはずだ。

 

「なら……私が出頭するわ」

 

 その時、沈黙を破ってジャンヌがそう呟いた。何を言い出すのだろうか? と、ギルド長たちの視線が集まる中で、彼は苦渋に眉をひそめながら吐き捨てるように言った。

 

「相手の目的の一つが私なら、私が出ていけばそれで済むはずだわ。メアリーちゃんのことは向こうにだってまだ知らないわけだし、私を捕まえたことに満足して兵を退くはずよ……メアリーちゃんは、その後で、難民に混じってここから逃げ出せばいい」

「馬鹿を言え。おまえにだけババを引かせるなんてこと出来るかよ!?」

 

 ギヨームが不満たらたらに反対する。しかしジャンヌは彼の言葉を遮って、

 

「思い出して? この街は今、一万人以上の難民を匿っているのよ。私一人がごね続けている間も、彼らはずっと帝国軍の銃口に晒されている。もし交渉が決裂して戦闘再開なんてことになったら、今度こそ彼らの命の保証はないわ。なにせ、相手は10万人……寄せ集めとは言え、その全てが兵隊だっていうのに、こっちで戦えるのはせいぜい千人にも満たないわ。到底勝ち目なんかない。

 

 だったら……一万人を救うために、たった一人の犠牲で済むならそれを選ぶべきよ。本当は、私だって嫌よ。死ぬのは誰だって怖いわよ……でもね、もう疲れたのよ。この、不思議な世界に来て、最初はファンタジー最高なんて喜んでいたわ。でも今起きてるこれは何? どこかの誰かの思惑のために、勝手に呼び出されて、繁殖馬みたいに扱われて、仲間は惨殺され、挙句の果てに私は人殺しになった。

 

 何も楽しくない。来るんじゃなかったって後悔しかない。どこかの誰かの恨みを買ってまで、こんな世界で生きていたいとは思えないのよ。死んだほうがマシよ! ……ならいっそ、私の命なんかもうを差し出して、一万人の命を救った方がいいじゃない。それがきっと一番冴えたやり方だわ」

 

 そういうジャンヌの顔は青ざめて、本当に疲れ切っていた。目は落ちくぼみ充血していて、鼻の穴がピクピクと動いている。誰ともなく啖呵を切った声は弱々しく、殆ど生気が感じられない。どこか他人事みたいに響いていた。覚悟が決まっている……そんな感じだ。

 

 だが……それでいいのか? ジャンヌ一人が犠牲になることで、確かに1万人の命は救われるだろう。それで万事解決、全ての幕を引いてしまって……そんな終わり方でいいのか? カズヤたちみたいに、また目の前で友達が死んでいくのを、ただ黙ってみているだけで、本当にそんなんでいいのか?

 

 鳳はジャンヌの前に歩み寄ると、思いっきりグーで引っ叩いた。

 

「アホたれ」

 

 ガツンッ! っと乾いた音が部屋に鳴り響いて、すぐさまジャンヌの悲鳴が上がった。

 

「痛っ! いったあ~い~~!!」

「痛いもんか、このVITお化けめ」

 

 鳳はジンジンとする拳をさすりながら、涙目で彼のことを見上げているマッチョのおっさんのことを睨みつけた。

 

「おまえの悲壮な決意はわかったよ。だが先走るな。いいか? 俺たちは別に負けたわけじゃない。今はまだ交渉の最中なんだよ。おまえのそれはただの譲歩で、交渉じゃない。大体……相手がおまえのことを出せと言ってるのは、おまえが勇者だからじゃないぞ。単におまえが怖いからなんだよ」

「……え?」

「考えても見ろ? 敵はおまえのことを勇者だと言ってるが、どこにそんな証拠があるんだ? この話を持って帰ってきたギルド長でさえ、たった今知ったばかりなんだぞ」

「言われてみれば確かに」

 

 そのギルド長がポンと手を叩いた。鳳は苦々しげに続けた。

 

「敵は単にカマをかけてきただけなんだよ。おまえのことは滅法強いただの冒険者だって突っ張れば、それで通る話なんだ。要するに、敵は今この状況で、どのくらいこっちが消耗しているのか探ってるんだ。なのに、はいどうぞって勲功第一のおまえを差し出してみろ。こっちが相当弱気だと踏んで、相手は更に難癖つけてくるぞ」

 

 鳳が苛立たしげにそうまくしたてると、執務室に集まっていた人々は動揺してお互いに顔を見合わせた。彼の言ってることは妥当なのかどうか……そんな中、黙って彼の話を聞いていた指揮者スカーサハが、

 

「確かに、あなたの言うとおりね」

 

 と同意すると、一同はホッとした表情を見せた。鳳は悔しそうに、

 

「ちくしょう! 俺の意見じゃ不安なのかよ……」

「でも、ツクモ。そうしてジャンヌを差し出すことを拒んで交渉を続けたとしても、どこに落とし所を見つけるのかしら? なにせ、相手は10万よ。その気になれば話し合いなどせず、私達など一捻りに出来る。あまり交渉を長引かせすぎると、最悪の場合、力づくという結果を招いてしまうかも知れない」

「そうですね」

「なのに、ジャンヌは渡さない、メアリーはいないじゃ、向こうに引くメリットは何もないわ。冷たい言い方かも知れないけれど、ジャンヌを引き渡さずに済む方法があるかどうか、私にはわからないわ。もしかして、あなたに何かアイディアがあるのかしら?」

 

 すると鳳は二人のやり取りをぼんやりと見ていたギルド長に向かって、

 

「相手はジャンヌの引き渡しに応じれば兵を退くって言ってるんですね?」

「え!? ……ああ、そうだが」

「なら、引き渡しに応じよう」

 

 鳳の熱い手のひら返しに、堪らずギヨームがツッコミを入れる。

 

「おいこらっ! おまえ、さっきと言ってることが真逆じゃねえか!」

「まあ聞け」

 

 しかし、鳳はそんなギヨームを手で制すと、

 

「敵はこっちに勇者が居るか半信半疑だ。ジャンヌのことを疑っているが、確証はない。なら、こいつは正真正銘、本物の勇者だと教えてやれ。しかも、STR23の化け物で、その強さは城にいた連中の比ではないと言えば、敵はこれを絶対に無視出来なくなる」

「……それじゃ逆効果じゃないか?」

「寧ろそれが狙いだ。ここにあの化け物みたいな勇者の仲間が居ると知ったら、敵は驚いて他のことなんて考えられなくなるぞ。何しろ、皇帝に命じられた目標の一つなんだから、確実に排除しなければならない。なら、そいつを逆手にとって高く売りつけてやればいい。こっちがジャンヌという街の救世主を差し出す代わりに、帝国は何をしてくれるのか? じゃんじゃん譲歩を引き出してやれ」

 

 鳳はポカンとしているギルド長に向かって、

 

「最低でも、難民の安全保障、賠償金の減額、それからこの街での徴発の回避は絶対引き出して下さい。後はこちらの武装解除と引き換えに憲兵を要求しましょうか。大体、その辺を基本線にして、思いつく限り搾れるだけ搾り取ってやりましょう。相手は渋るかも知れませんが、無傷で勇者を捕まえることが出来るというなら、お安い御用だ」

「あ、ああ……やるだけやってみるが……しかし、鳳くん。それで実際にジャンヌ君を引き渡すことになったら、どうすりゃいいんだね?」

「そしたら街に火をつけます」

「はあ?」

 

 ギルド長は素っ頓狂な声を上げた。たった今、必死に守ろうとしていた街に、火をつける……? その場にいた全員が、気でも狂ったのかと言いたげに鳳のことを見つめていた。

 

 しかし、彼は自信満々に、

 

「街を守った英雄を引き渡すっていうんですからね、そりゃムカつきますよね? 中には、彼を助けようとする輩が出てくるかも知れない。つまり、俺です。ジャンヌも死にたくないから暴れます。

 

 何も知らない難民たちは、突然の大火に驚いて街から逃げ出すでしょう。すると、外にいる帝国兵はどうします? 今は交渉の最中で、手出しは無用と言われている。そんな相手から助けを求められたら……? 恐らく彼らは難民を保護するでしょう。

 

 そして一度守ると決めたら人間ってものはそう簡単に態度を覆すことはないんですよ。人間ってのは意外と名誉を重んじます。ついさっきまで、相手から略奪してやろうと思ってたはずなのにね。

 

 きっと彼らは騒ぎの中心になってる俺たちを制圧しようとするでしょう。英雄なんてとんでもない、あいつらは悪人だ。ぶっ殺せ。そして、俺たちはそのどさくさに紛れて逃げ出すって寸法です。これなら、ジャンヌを逃したのは帝国の責任でしょう? 街のせいじゃない」

 

 あっけらかんとそう言い放つ鳳に対して、一同は声を失っていた。彼はそんな人々の反応など見向きもせずに、

 

「問題はそうなった時、ジャンヌ一人で敵の包囲を突破できるかどうかだけど……どうせ死のうと思ってたんだ。もちろん、それくらいやれるよなあ?」

 

 鳳が煽るようにそう言ってジャンヌを見ると、彼は呆気にとられた様子で固まっていたが、すぐに気を取り直して笑顔を作り、

 

「もちろん、やれるわよ。人を殺すことに比べれば、造作もないことだわ」

 

 さっきまで悲壮感に満ちていた表情は、今は希望の色に染まっていた。

 

 そんな二人のやり取りを見ていた大君が二人の間に歩み出る。

 

「なら、儂も手伝おう。悪者も大勢のほうが様になろう」

「いいのか? 爺さん」

「敵の要求はメアリーもじゃ。儂らも一緒に行くのが筋じゃろうて」

 

 老人の服の裾を掴んでいたメアリーもおずおずと頷く。

 

「もちろん、俺も乗るぜ」

 

 とギヨームが続く。ジャンヌが慌てて、

 

「いいの? 一緒に来れば、きっとお尋ね者になるわよ?」

「大したことじゃねえよ。そんなことより、ここでお前らを見捨てることの方がよっぽど屈辱的だ」

 

 彼が加わり、悪巧みには5人が乗ることに決まった。鳳、ジャンヌ、ギヨーム、大君、そしてメアリー。ギルド長と指揮者が話し合い、そんな彼らをサポートすることを約束する。

 

 こうして一世一代の大博打が始まった。

 

 ジャンヌ一人を守るために、街を一つ犠牲にして、鳳たちはきっと世紀の大悪人として人々の記憶に残るだろう。冗談抜きで、一生お尋ね者になるかも知れない。こんな右も左もわからない異世界で、ただ生きていくだけでも困難だと言うのに、今度は更に追っ手までつくのだ。

 

 だが、きっとなんとかなるだろうと、誰一人として悲壮感の欠片も持ち合わせてはいなかった。それぞれの役割を果たすべく、そして彼らは動き出した。

 



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ガンスミスのお気に入り

 交渉は二日間に渡って続いた。交渉窓口を受け持つ冒険者ギルドの男は意外とタフなネゴシエーターで、当初、軽く脅しつければすぐに屈すると思っていた目論見が外れた。所詮は他人事のはずなのに、彼は街の解放に当たって難民たちを守る姿勢を一歩も崩さず、ついには交渉に当たっていた文官たちの尊敬を勝ち得ていた。

 

 帝国軍総司令官ヴァルトシュタインとしては、もうこんな面倒くさい街のことなど部下に任せて帰ってしまいたいところだったが、困ったことに、本当に勇者召喚者が街の中にいることが判明してしまい、引くに引けなくなってしまった。

 

 挙兵に当たって皇帝が下賜した命令は二つあったが、そのうちの一つが勇者の捕獲だったので、現場放棄をするわけにはいかなかったのだ。

 

 交渉人はそのことを知ってか知らずか、勇者を引き渡すに当たって難民の安全のみならず、その他諸々の条件をねじ込んできた。やれ、難民の財産を奪うなだの、賠償金を減額しろだの、街の徴発禁止だの、今後撤兵するまで帝国軍が街の治安維持をしろだの……

 

 普通なら一蹴してしまうところなのだが、条件として勇者を騙して引き渡してもいい、と言われると踏ん切りがつかなくなった。こんな街など一息で踏み潰してしまえるくらいの戦力はあるのだが、それで肝心の勇者に逃げられては元も子もない。一応、刺客を放ってもみたが、一瞬で発見されて逆に相手の交渉材料にされてしまった。この手のスタンドプレーこそ、冒険者の得意分野なのだ。それ以降は下手な小細工はせずに地道な交渉を続けていた。

 

 そして交渉が始まってから丸二日。長い時間をかけてようやく交渉はまとまった。結局、相手には最初の条件と、街の治安維持の約束をさせられた。それを例の傭兵隊長に命じたら、ポカンとして固まっていた。略奪に来たはずだったのが、逆にこの街を守れと言われるのだから、世の中わからないものである。

 

 ともあれ、これで冒険者ギルドの長は、勇者を裏切って差し出すことを約束したのだ。あの、街のために必死になっていた彼が嘘を吐くとは思えない。きっと今頃は勇者を騙してふん縛っている頃であろう。問題は、あれだけの大立ち回りを見せた勇者を、本当に冒険者ギルドだけで捕らえることが出来るかどうかだが……

 

 ヴァルトシュタインが街の外で気を揉んでいると……その時、街の中心部から爆発音と共に黒煙が上がった。

 

「なんだ? 何が起きた?」

 

 突然の出来事に戸惑っていると、勇者の引き渡しのために街中へ行っていた兵士の一人が大慌てで戻ってきて、

 

「申し上げます! 引き渡し予定だった敵兵が逃げました!」

「なんだって?」

 

 総司令官は白目を剥いた。しかしこれじゃ何がなんだかわからない。

 

「もっと分かりやすく話さんか! 何があったんだ!?」

「はっ! 敵交渉人はこちらとの約束通り、問題の戦士を捕らえて現れました。しかし、その引き渡しの最中に、それを快く思わない連中の襲撃を受けて問題の戦士が逃亡。それを追う兵士と現在交戦状態となっております!」

 

 その言葉を言い終わるや否や、街の中心部でさらなる爆発が、ドン! ドン! っと二発三発と次々続いた。あっという間に空は黒煙で覆われ、街の中から悲鳴が轟く。木造の家屋から火の手が上がると、防火の防の字も知らない街のあちこちに飛び火して、遠くからでもメラメラと炎が燃え盛っているのが見えるくらいだった。

 

 すると間もなく、突然の大火に驚いた難民たちが蜘蛛の子を散らすように街から飛び出してきた。みんな恐怖に戦いた表情を煤で真っ黒にして、中には火傷を負って目を血走らせた者が、助けを求めて町の外を取り囲んでいた帝国兵に縋り付いてくる。

 

 何しろつい二日前まで銃口を向けあっていた仲である。兵士たちは一瞬虚を突かれてそれを攻撃しようとしたが、すぐに今は交渉中で手出し厳禁と言われていたことを思い出し、逡巡の末に結局その難民たちを受け入れた。すると、一人が助かったのを見て、別の難民たちが大挙して押し寄せ、あれよあれよという間に、町の外は兵士と難民が入り混じって大混乱に陥ってしまった。

 

「ええい! 何をやってるんだ。とにかく、逃げた兵士を追うぞ。手の空いている者はついてこい!」

 

 ヴァルトシュタインは腹立たしげにそう怒鳴り散らすと、着剣して自分の愛馬に飛び乗った。すぐさま彼を取り巻く衛兵たちも乗馬し、彼らは燃え盛る街の中へ突撃しようと手綱を握りしめたのだが、

 

「お待ちくだされ」

 

 と、その時、勢いよく飛び出そうとしていたヴァルトシュタインの前に、真っ黒な馬に乗った長身の男が立ちはだかった。全身黒ずくめのその男は、皇帝が彼の監視役につけた軍師・利休宗易である。

 

「なんだ! この忙しい時に」

「闇雲に追いかけてもこの混乱の中、敵に追いつけるとは限りますまい。こういう時こそ落ち着いて、一手二手先を考えて行動するのがよろしいかと」

 

 ヴァルトシュタインは軍師ののんびりとした口調に、一瞬だけ瞬間湯沸かし器のように頭に血が上ったが……すぐに彼の言うことも一理あると冷静さを取り戻すと、

 

「なら、おまえならどうすると言うんだ?」

「私が敵であれば、この混乱に乗じてここを逃げ出すことを考えるでしょう。すると、行き先は我々の待ち構えているこちらではなく、逆方向……逃走しやすさも考えて、森に面した方角に向かうかと」

「なるほど……」

 

 ヴァルトシュタインは少し考えるようにあごひげを指で擦っていたが、すぐに納得したように頭をガリガリと引っ掻いてから、

 

「包囲を固めよ! 特に森に向かう道は厳重に。難民に構うな、勇者が出てきたら、それだけを狙うよう兵士に指示しろ」

 

 総司令官の命令に応じて、部下の兵士たちが散り散りの駆けていく。ヴァルトシュタインはその姿を見送った後、忌々しそうに街の方を睨みながら、

 

「それにしても火勢が強いな……敵が飛び出てくるのは間違いない。軍師殿の言う通りだ」

 

 彼はそう自分に言い聞かせるように呟いて、溜飲を下げているようだったが、その言葉を聞いて軍師は逆に少し考えてしまった。

 

 確かに、いくら燃えやすい家屋が多いとは言え、火の勢いが強すぎる。まるで用意していたかのようだ。しかし、あれだけ交渉人が必死に守ろうとしていた街を、こうもあっさりと燃やしてしまえるものだろうか? いや、そう思わせるのが策なのか? これがもし全て敵の計略だったとしたら?

 

 思えばこんな無防備な街が帝国軍と対等に渡り合っているだけでも奇跡なのだ。これだけのことをしておいて、尚もこの包囲を突破し逃げ出すことが出来る人間がいるとするなら……もしそんな人物がいるというなら、是非お目にかかりたいものである。

 

 彼は燃え盛る街の炎を眺めながら、そんなことを考えていた。

 

************************************

 

 火の勢いは留まるところを知らず、街はいよいよ火の海になっていた。鳳たちは予定通り、ジャンヌの引き渡し場所で大立ち回りを演じると、敵に自分たちがテロリストであることを印象づけてから、すたこらさっさと逃げ出した。

 

 振り返ればギルド長がこの人でなし! と泣き叫びながら石を投げていた。実はより信憑性を増すために、彼には内緒で冒険者ギルドからぶっ放してやったのだ。ギルドは攻防戦の最中に武器庫になっていたからよく燃えた。それはもう盛大に燃えたものだから、思わず爆笑してしまうほどだった。ギルド長はそんな鳳の憎たらしい顔を見て、顔を真っ赤にして地団駄を踏んでいた。

 

 そんなこんなでジャンヌを奪還した鳳とギヨームは、三人並んで燃え盛る街の中を駆け抜けた。遠目から眺めると街は無茶苦茶に燃えているように見えるが、実は予め逃走経路を計算に入れて、火の弱い場所をちゃんと残しておいたのだ。

 

 着火にはティンダーのスクロールを使ったのだが、裁断される前のトイレットロールみたいに繋がっている紙は、そのまま導火線として扱え、おまけに匂いもしないので隠蔽するのに役立った。と言うか、そのあまりの利便性に、これを作ったやつはきっと放火魔に違いないと軽口を叩いていたら、それを用意してくれた指揮者が複雑そうな顔をしていた。

 

「白ちゃん、あっち!」

 

 街の外縁部まで逃げてくると、先行するジャンヌが前方を指差した。外壁にそって半円を描くようにぽっかりと出来た炎の隙間に複数の人影が見える。予め逃走用の馬を用意しておいた、大君とメアリー、それから指揮者スカーサハである。

 

 大君は鳳たちが駆け込んでくると、

 

「やっと来おったか、待ちくたびれたわい。それにしても景気よく燃やしたもんじゃのう……あれだけ街の住人や難民の財産を守ろうとしておったくせに、彼らはこの大火で相当のものを失ったのではないか?」

「ボヤ騒ぎ程度じゃ難民が街の外まで逃げてくれるかわからないからな。どうせ俺たちは大罪人、恨まれたところで痛くもないさ」

 

 それに、あれだけやっとおけば、この大火に冒険者ギルドが一枚噛んでいたとは帝国軍も思わないだろう。ギルド長は今頃本気で鳳のことを恨んでいるはずだ。

 

「こちらをどうぞ」

 

 鳳たちは指揮者に差し出された馬に跨った。隊列はジャンヌ、ギヨームが先行して、中央にメアリーを乗せた大君、殿に鳳が続くことになった。鳳がどうにかこうにか馬に背負われるような格好で跨り、こんなことならもっと真面目に訓練所に通っていれば良かったと悔やんでいると……馬の逃げ道を作ろうと外壁の一部を外しに向かったギヨームが緊迫した声を上げた。

 

「おいっ! ちょっと待ってくれ、いつの間にか敵に囲まれてるぞ!?」

 

 その言葉に驚いた指揮者とジャンヌが近づいていって、壁の隙間からコソコソと外を覗き込んだ。すると、ギヨームの言う通り、壁の向こう側の平原に、いつの間にか二重三重の包囲が敷かれているのが見えた。

 

 ギヨームは眉をひそめて険しい表情を作りながら、

 

「おかしい……今朝調べた時は、街の裏側は手薄だったはずだ」

「ええ、私がついさっき見た時も、こんなに兵士はいませんでした」

 

 困惑気味に指揮者が同意する。そんな二人に対し、大君がのんびりとした口調で言った。

 

「どうやら敵の中にも、頭の回る者がおったようじゃの。先回りされたようじゃわい」

「どうする? ここが無理なら、また手薄な場所を探さなきゃならないが……」

 

 ギヨームが悔しそうに提案する。しかし、そうするには火の勢いが強すぎて、計画を変更するのはもはや不可能のようだった。

 

 ジャンヌは悲壮な決意を秘めた表情でみんなの前に進み出ると、

 

「それなら……私が突破口を作るわ。あれだけの人数、やれるかどうか分からないけど、みんなは私の突撃で空いた隙間を通って森まで駆け抜けてちょうだい」

「おまえはどうするんだ?」

「みんなが通り過ぎたあと、なんとか逃げ延びてみせるわよ」

「そんな行きあたりばったりの策があるかよ!?」

「でも、他に方法がないじゃない!」

 

 鳳とジャンヌが口論を交わしていると、二人の喧嘩を怖怖と見つめているメアリーを背中に従えた大君が、馬を進めて彼らの前に歩み出ると、

 

「これこれ、こんな時に仲違いするでない。隙なら儂が作ってやるわい」

「爺さんに出来るのか?」

 

 老人はニヤリと笑うと、手にした杖で外壁を指し示し、

 

「どれ、壁を馬が通り抜けるくらい少し開いておくれ」

 

 そう言われた指揮者が鉄板で補強された立板の釘を外すと、その部分だけの壁が崩れてぽっかりと穴が空いた。外で街を包囲していた兵士たちは、突然空いた隙間に驚いて一斉に銃口をこちらへ向けた。

 

 大君はそんな無数の銃口が待ち構えている場所に向かって、まるで散歩でもするような足取りでパカパカと馬を進めると、

 

「さて、ようやっと儂の見せ場じゃわい……」

「ご武運を。後のことはお任せ下さい」

 

 大君は恭しく敬礼する指揮者の横を通り過ぎて壁に空けられた穴から外に出ると、老人と少女という謎の組み合わせを銃撃していいかどうか戸惑っている兵隊たちに向けて、ズイッと手にした杖を構えた。

 

「万物の根源たる粒子。光となりてその力を解き放て。陰は陽、陽は陰。崩壊せし物質は流転し、新たなる世界を生み出さん。原子崩壊(ディスインテグレーション)

 

 ディスインテグレーション?

 

 鳳は自分の耳がイカれてしまったのかと思った。というのも、その呪文は前の世界で、まだ彼がデジャネイロ飛鳥だったころの得意技だったからだ。

 

 彼は前世で高位の魔法使いだった。この世界の古代呪文(エンシェントスペル)は前世のゲームシステムをそのまま踏襲しているから、その魔法自体が存在してもおかしくはない。

 

 しかし、問題なのはそれを神人ではない大君が使っていること。聞き慣れない詠唱を伴っていること。そして、その古代呪文が、こっちの世界では禁呪として伝わっていないはずだということだ。

 

 大君の詠唱に応じて杖の先に小さな光の礫が現れた。それはまるで小さな太陽のようなまばゆい光を放ちながら、徐々に大きくなっていく。やがて光球は拳大にまで膨れ上がると、膨張を止め、今度は一直線に敵に向かって飛んでいった。

 

 何が起きているのかわからない帝国兵が呆然とそれを見送る。すると光球はそんな兵士たちの中心で地面に触れたかと思うと、途端にその地面を中心に巨大な火柱が立ち上がったかと思うと……

 

 ゴオオオオオオオオーーーー!!!

 

 っと、鼓膜を破らんばかりの爆炎を轟かせながら、天にまで届きそうな炎を撒き散らした。それは前世のゲームで見た魔法そのままだ。違うのはその業火が過ぎ去った後に死体が散らばっていることだけだった。

 

 炎獄に晒された地面は真っ黒に焼け焦げ、ところどころ塩の柱みたいに真っ黒に炭化した人型の物体が立っていた。それが風に吹かれてサラサラと崩れ去ると、その場にはもう何も残されていなかった。

 

 あまりに凄惨な光景に、敵味方問わず沈黙が場を支配する。

 

 そんな中で唯一人、大君だけがいつもの飄々とした声で、

 

「何をしておる。隙が出来たぞ、さっさと逃げんかい」

「あ、ああ……おい、鳳!」

 

 ギヨームの叫び声にハッとなって、鳳は慌てて馬の腹を蹴飛ばすと、一瞬にして味方を失い、未だに唖然としている帝国兵たちの隙間を縫って駆け抜けた。

 

「な、何をしている! 追え! 追えーーーっ!!!」

 

 彼らの馬が通り過ぎると、流石に帝国兵たちも我を取り戻し、慌てて鳳たちの後を追いかけ始めた。しかし、包囲するため辺りにいたのは殆どが歩兵で、馬で逃げる彼らには追いつけない。まんまと逃げ出すことに成功した鳳は、冷や汗をかきながら前を行く老人の馬に自分の馬を寄せると、

 

「……なんで爺さんが古代呪文を使えるの!?」

 

 大君はそんな鳳に向かって息も絶え絶え、

 

「お主の仲間だって使えたじゃろう……それより、儂はMPを使い果たしてしまったわい。露払いは任せたぞ」

「露払いって……」

 

 彼がそう言いかけた瞬間、その彼の前髪を掠めてヒュンッ……っと銃弾が飛んでいった。慌てて背後を振り返ると、帝国騎兵が数人追いすがっているのが見えた。

 

 パンパンッ! っと乾いた銃声が轟き、追っ手から次々と銃弾が撃ち込まれる。手にしたライフルは銃身が切り詰められて、馬上でも扱いやすくしてあるようだった。その銃身の短さから狙いはバラついているようだが、この世界の銃はライフリングが施されているから意外と正確だ。近づかれたら一巻の終わりだろう。鳳は慌てて馬の速度を上げた。

 

 先頭を走っていたギヨームが下がってきて、ピストルで応戦するが、馬上であるうえに背後を振り返るという無理な体勢のせいで、いつもの正確な射撃が出来ない。それでもなんとか追いすがる敵の2頭を牽制して下がらせることに成功すると、

 

「ジャンヌ! おまえでなんとか出来ないか?」

「難しいわ! 私の技は馬上じゃ扱えないの」

 

 ジャンヌは元々がタンク騎士だ。扱う技の殆どが剣技で、この状況ではどうしようもなかった。馬を降りればこんな追っ手など、あっという間に片付けてしまえるだろうが、そんなことをしていたら、せっかく振り切った歩兵にまた取り囲まれてしまう。

 

 唯一の戦力がギヨームだけだと感づくと、帝国騎兵たちは彼から距離を取るように散開し、鳳たちの隊列を取り囲むように馬を進めた。左右後方の三方向から銃撃をされては、さすがのギヨームも対応しきれない。彼らは徐々に包囲を狭められ、いよいよ帝国兵の弾も届きそうなくらいにまで肉薄されてしまった。

 

 と、その時……このままじゃ撃たれるのは時間の問題だと焦っていた鳳の体が、突然重力を失って宙に浮いた。いや、浮いたのではない。鳳が乗っていた馬が、運悪く帝国兵の銃撃に当たり、バランスを崩して倒れてしまったのだ。

 

 馬から投げ出された体が宙を飛び、やがて重力に引っ張られて高度を落としていく。目の前に地面が迫り、なすすべのない彼は落馬を覚悟して身をすくめた。

 

 ところが……その時、彼の腕が抜けるんじゃないかと言わんばかりのもの凄い力で引っ張られて、正に地面にぶつかりそうになっていた鳳の体を引き上げた。

 

 そのもの凄い力に驚いて、きっと犯人はジャンヌだと思ったが、意外にも彼を引っ張り上げたのはギヨームだった。小柄な小学生にしか見えないが、やはりこの世界は見た目で判断してはいけない。

 

「気をつけろ、馬鹿野郎!」

「あ、危なかったありがとう」

「大丈夫? 白ちゃん……やっぱり私が降りて敵を惹きつけるわ」

 

 いよいよ追い詰められたジャンヌがそう提案する。

 

「駄目だ、おまえを置いていったら、回収する見込みがない」

「でも、このままじゃジリ貧よ! せめて、あの時みたいにポータルが使えたら……」

 

 焦燥に駆られたジャンヌは真っ青になりながら、ボソッと呟いた。その言葉を聞いた瞬間、鳳の頭に電撃のような衝撃が走り、

 

「それだよ、ジャンヌ! ステータス!!」

 

 鳳はたった今までその存在をすっかり忘れてしまっていた自分のステータス画面を表示してみた。

 

----------------------------

鳳白

STR 10↑      DEX 10↑

AGI 10↑      VIT 10↑

INT 10↑      CHA 10↑

 

BONUS 1

 

LEVEL 3     EXP/NEXT 75/300

HP/MP 100↑/0↑  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 100

鳳白           ↑LVUP

†ジャンヌ☆ダルク†

Mary Sue         ↑LVUP

William Henry Bonney   ↑LVUP

----------------------------

 

「うおおおおぉぉぉーーーーっっ!!!」

 

 鳳は自分のステータスがなんか色々と上がっているのを見て、こんな状況にも関わらず思わず叫び声を上げてしまった。何しろ、さっぱり経験値が上がらないので、最近では見るのも嫌になり、すっかりその存在を忘れてしまっていたのだ。

 

 しかし、これだけのことをやって、戦争で人殺しの真似事までやらされたことで、もしかしたら自分の経験値も上がってるんじゃないか……と思ったら、案の定、今回ばかりは彼の予想は正しかったようである。

 

 それにしても……あれだけやって未だにレベル3なのは泣けてくるが、いろんな数値が増えているのを見ると、思わず顔がにやけてしまう。見たことのないジョブ、それもアルケミストとは、自分らしいといえば自分らしいが……今はそんなことを気にしている場合ではないだろう。

 

 とにかく今はこの場を切り抜けることを考えねば、自分のステータスを見てニヤニヤすることすら出来なくなる。鳳は自分のステータスから目を逸して、パーティー経験値の方へと目を移した。するとやはり、こちらにも新たに経験値が割り当てられていたが……

 

「ちくしょう! ジャンヌのレベルは上がらないのか!? それに……なんだ、この見慣れない名前は……」

 

 パーティーメンバーの一覧を見れば、以前はジャンヌの横にもあった『↑LVUP』の文字が無くなっていた。鳳の方は相変わらずだから、ジャンヌは元のレベルが高すぎるのか、二回目はもっと経験値が必要とかそんな理由ではなかろうか。

 

 それよりも気になるのはパーティーメンバーの名前だ。今までは鳳とジャンヌの二人パーティーだったのに、今見たら4人に増えている。一人はMary Sueだから、恐らくメアリー・スーで間違いないだろう。だがもうひとりの見慣れぬ名前はなんだろう……

 

「うぃりあむ……へんりー、ぼんねい……ボニー、かな? なんだこれは」

 

 鳳が首を捻っていると、彼の前で馬の手綱を操りながら、必死に後続の帝国騎兵にピストルを撃ち続けていたギヨームが苛立たしそうに、

 

「なんだ!?」

「……え?」

「だからなんだって言ってんだ! いま俺の名前を呼んだろう。何の用だ?」

 

 ギヨームは余裕のない表情でピストルを撃ち続けている。彼の名前なんて呼んだつもりのなかった鳳は、それを否定しようとしたが……と、その時、

 

「……あ!」

 

 鳳はギヨームという名前が、ウィリアムのフランス語読みであることに思い至って、すぐにピンときた。ギヨームはかつて放浪者だと判明した時に、出身地がニューメキシコの田舎街だと言っていた。つまり、彼はアメリカ人なのだ。なのにフランス語名を名乗っていたのは、それが偽名だったから……なんらかの事情で勇者領から流れてきた彼は、こっちでずっと偽名を使っていたのだ。

 

「ギヨーム、後は任せた!」

 

 鳳はその事実に気づいた瞬間、ステータス画面に表示されていた彼の名前を連打していた。すると突然、鳳の前で手綱を握っていたギヨームの体が光りだし……

 

「うお? あ!? なんじゃこりゃ!!?」

 

 ギヨームは突然の出来事にパニックになりかけた。鳳は慌てて彼に覆いかぶさるようにして手綱を引っ張ると、明後日の方向に駆けていきそうだった馬をなだめながら、

 

「おまえのレベルを強制的に上げた! 多分、ステータスがガンガン上がってるところだろう。これで、なんとかしてくれ!!」

「おまえ何言って……って、マジかよ?」

 

 自分のステータスを見たギヨームは、いま正に自分のレベルがもの凄い勢いで上がり続けている光景を見て目を丸くした。何もしていないのに経験値がぐんぐんと上がり続け、レベルが上っても上がっても加速するように、更に経験値は上がり続ける。気がつけば、見たこともない数字に膨れ上がっている自分のHPとMPに、ボーナスが乗りまくって、わけがわからなくなったステータスの数値が彼の常識に追い打ちをかけた。

 

 彼は目を剥いて馬から転げ落ちそうになった。そんなギヨームを、今度は慌てて鳳が引っ張り上げる。バタバタと手を回しながら、馬上でなんとかバランスを取り戻したギヨームが、まるで荷物のように馬の背に持たれていると、すると、放心する彼の目の前に、光る拳銃が二丁現れた。

 

「……コルトM1877ライトニング……いや、サンダラーか。懐かしいな」

 

 往年の名拳銃コルトS・A・Aの後継として開発されたダブルアクションの拳銃。黎明期ゆえのおかしな構造から、ガンスミスのお気に入りと揶揄されるほど壊れやすい拳銃だったが、シングルアクションとして扱えば非常に頑丈だったお陰で、意外なベストセラーとして西部開拓時代の西海岸で長く生産された。

 

 彼はかつてその拳銃と共に、いくつもの死線を掻い潜り、そして生き延びてきた。彼が死んだのは、風呂上がりでたまたま手元にそいつが無かったからだ。それを思い出して……ほんの少し感傷に浸りながら、彼は迷わずその二丁の拳銃を手にすると、鳳に引っ張り上げられたばかりの馬の背からぴょんと飛び降りてしまった。

 

「おいっ! ギヨームッッ!!!」

「いいから迷わず森に走れ! ……こんなのは、日常茶飯事だったんだよ」

 

 走る馬から飛び降りた反動で、地面をゴロゴロと転がったギヨームは、やがて迫りくる帝国騎兵の目の前で跳ね上がるように体を起こすと、パンパンッ! っと、乾いた銃声を轟かせて、迫りくる馬を射抜いた。

 

 先頭を走っていた騎馬が突然崩れると、後続の馬たちはそれに巻き込まれまいとして、飛び跳ねるようにバランスを崩した。重いチェインメイルを着ていた騎兵の何人かが、その反動で馬から投げ出され、他の何人かは馬ごと横転して悲鳴を上げた。

 

 それをなんとか躱した騎馬も、棒立ちのまま二丁拳銃を突き出すように構えているギヨームの正確な射撃によって、次々と打ち倒されていく。馬を狙われて落馬する者、眉間を撃ち抜かれてそのまま絶命する者、その最期はそれぞれだったが、ただ一つ確実に言えることは、それを行うギヨームの射撃が、全て一発で相手を行動不能にしていることだった。

 

 右と左、交互に撃ち出されるピストルの弾丸が、面白いように敵兵の急所に吸い込まれていく。パン……パン……と、乾いた音が鳴る度に、味方の誰かが死んでいくのだから、追随する騎兵たちはいつまでも平静では居られなかった。

 

 敵騎兵だって何もしていないわけじゃない。馬上からカービン銃で、可能な限りの銃撃を続けている。しかし、それはギヨームに一発も掠ることなく、見当外れの方向に飛んでいく。いや、中には正確にギヨームを捕らえる射線を描く銃弾もあった。だが、それが彼に届く寸前に、赤い火花が散って銃弾が逸れてしまっていたのだ。

 

 一度や二度なら偶然だろう。しかし、それが何度も続けば認めるしかない。ギヨームは、その正確な射撃で、相手の銃弾をも撃ち落としていたのだ。

 

「うわああああー!」

 

 神懸かり的な射撃の名手を前にして、ついに恐慌を来した兵士が叫び声を上げる。敵前逃亡しようとする騎兵の背中にも、容赦なく銃撃が加えられ、恐れおののく兵士が彼の背後に回り込もうとするも、彼は一瞥もすることなく背中越しに銃撃を叩き込んだ。

 

「化け物め!」

 

 いよいよ後のなくなった帝国騎兵がバラバラに攻撃しては的になるだけと、前後左右から挟み撃ちにしようと馬を走らせるも……ギヨームはその中心でくるりと一回転すると、次の瞬間、突撃しようとしていた全ての騎馬の眉間に穴が空いて、絶命した馬がそのまま彼のいた場所で衝突し、乗っていた騎士たちは宙に舞った。

 

 重いチェインメイルに身を包んでいた騎士たちは、落下の衝撃で手足がおかしな方へ向いている。うめき声を漏らし、もはや戦意がないのを見届けると、ギヨームはピーッ! っと指笛を鳴らした。

 

 すると、主を失った騎馬が一頭、まるで初めから彼のことを主人であると認めていたかのように近づいてきた。ギヨームはその馬の背中に飛び乗り、手綱を取って一目散に駆け出した。

 

 取り残された騎兵が数騎、呆然とこちらを眺めている。だがもう、彼らに追撃する気力は残されていないだろう。やがて追いついた歩兵達が、死屍累々たるこの現場を見たら、どう思うだろうか。きっと、目撃者の言葉など、まるで信じないのではなかろうか。

 

「すげえな、おまえ」

 

 敵の騎馬を奪って追いついてきたギヨームが隣に並ぶと、鳳は自然とそんな言葉を口にした。しかしギヨームは面倒くさそうに首を振ると、

 

「俺が凄いって? 俺なんかより、おまえの能力のほうがよっぽどキテるだろうが」

「そうか?」

「詳しく聞きたいとこだが、今はとにかく逃げるが勝ちだ」

 

 ギヨームの言葉にうなずくと、鳳たちはもはや言葉を交わさずに森に向かって一目散に馬を走らせ続けた。追っ手は既に彼らを追いかけることを諦めて、遙か後方でこちらの方を眺めている。もはや捕まる心配はないだろう。

 

 やがて彼らは森の中に飛び込み、真っ直ぐに奥へと馬を走らせ姿を消した。追いかける帝国兵たちはだいぶ後になって追いついたが、その後いくら森の中を探しても、彼らを見つけることは出来なかった。

 



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俺たちの戦いはこれからだ!

 神聖帝国南部に広がる大森林ワラキア。鳳たちは森に入ってから丸一日、昼夜を問わず、ほぼ休みなく移動し続けていた。最初は森の(ふち)に潜伏して、ほとぼりが冷めたところで出ていくつもりだった。ところが、思いのほか帝国軍の追撃が厳しく、捜索が広範囲に及んだため、追われるように森の奥へ奥へと進んでいるうちに、元の場所に戻ろうなどという考えはなくなってしまった。

 

 帝国軍の追っ手はしつこく、少しでも休憩していると、背後から声が迫ってくる。どうやら相手にも追跡のプロがいるらしく、鳳たちの乗っている馬の足跡を追って来ているようだった。

 

 それじゃ馬から降りればいいかと言えば、そんなことしても今度は人間の足跡を追ってくるだけだから、結局の所、彼らがやれることはとにかく移動し続けることだけだった。

 

 疲労はどんどん蓄積していくのに、休憩の間隔はどんどん長くなっていく。無言で森の中を進み続けていると、やがて森のざわめきや鳥の声までが、追っ手の声のように聞こえてくるから、気が滅入ってきた。

 

 それでも、日が暮れても周囲に松明の灯りなどが見えなかったことから、どうやら夜までには追っ手を振り切っていたようだった。逃避行中は、ギヨームがリーダーになって、足跡を偽装したり、方向転換したりと、鳳たちではわからない工作を色々やっていたのだが、それが功を奏したらしい。ただ、どのくらい引き離したかはわからないことから止まる気にはなれず、結局は夜通し移動し続ける羽目になった。

 

 深い森の中は低い草木が少ないことから、想像していたよりも移動しやすかったが、それでも松明の灯りをだけを頼りに進むのは、体力的にも精神的にもかなりきつかった。

 

 そんな過酷な状況下で方位磁石を頼りに南へ南へと歩き続けて丸一日、脳天を太陽が通り過ぎて小一時間ほど進んだところ、小川のほとりでついに鳳が音を上げた。

 

「もう限界だ! いい加減に休憩しないか?」

 

 ギヨームはすぐに弱音を吐く鳳に、ついいつもの調子で反対しようと口を開きかけたが、すぐに思い直したように、

 

「……そうだな。こいつの疲労はともかく、馬の方はそろそろ限界だ。こんな森の中で馬を失ったら、どうしようもなくなるし、今日はここで野宿しよう」

 

 彼がそう宣言すると、一同から溜め息が漏れた。

 

「やっと休憩か。流石に儂も疲れておったで助かるわい」

 

 老人はやれやれといった感じで馬から降りると、後に続いて馬の背から降りようとしていたメアリーの脇を抱えて地面に降ろしてやった。彼女は地面に降りるや、

 

「薪集めしてくるよー!」

 

 と言って、ニコニコしながら元気に駆けていった。どうやら、こうしてみんなで馬に乗って、見知らぬ土地を歩いているだけでも楽しくて仕方ないらしい。

 

 考えても見れば300年も同じ場所に閉じ込められていたのだ。今は何を見ても新鮮で、興味を惹かれるのだろう。思い返せば、これまでの短い休憩の間も、彼女だけが好奇心旺盛にあちこちうろつき回っては、あれはなんだ? これはなんだ? と質問攻めにしてギヨームを苛立たせていた。

 

「子供の体力は底なしねー」

 

 と、体力お化けのジャンヌもくたびれた様子で馬の背から荷物を降ろしている。子供と言っているが、多分、メアリーはこの中で最も年長だ。そう見えないから仕方ないのだが。

 

 そんなこんなで、約二日ぶりにまともな休息を取った一行は、日が暮れる頃にはテントの設営も終えて、キャンプファイヤーを囲んでウトウトしていた。あれだけはしゃいでいたメアリーは、食べ物を摂取したら、まるで電池が切れたみたいにバタンキューと寝てしまった。そんなところまで子供みたいだなと思っていると、同じ事を考えていたらしきギヨームが、

 

「それにしても……勇者の子供か。まさか、そんなのが生き残っていたとはな。俺からしてみりゃ、勇者もその子供も、おとぎ話の登場人物でしかなかったんだが……しかし、こうして見てると、ただのガキにしか見えねえな」

 

 彼はメアリーの寝顔をマジマジと見ながら、そんな感想を述べていた。鳳からしても、それは幼馴染の顔にしか見えず、勇者だのなんだのと、そんな大層なものとは思えないのだが、他の人達からしても同じことらしい。

 

 こんな何も知らない少女に、守旧派だの勇者派だのが群がって、自分たちの都合で振り回そうとしているのだから、滑稽な話である。彼女は確かに神人を産むかも知れないが、それで10万も居た神人の人口がどれだけ回復するかなんて、知れたことだろうに……

 

「それで爺さん。彼女をあそこから連れ出したはいいが、これからどうするつもりなんだ? あの時は連れ出すのが先決だと思って何も聞かなかったが……あんた勇者領に住んでる勇者派なんだろ? もし、利用しようとしてるんなら、俺はあんたを止めなきゃならないが……」

 

 鳳がそんな風に決めつけたように言うと、大君は心外だと言わん素振りで、

 

「派閥争いなぞバカバカしい。儂は何もせんよ。ただ、彼女の父親に頼まれただけじゃ……あの子が出たがったら外に出してくれとな」

 

 彼は棒っ切れで焚き火の炎をかき回しながら、

 

「ヘルメス伯がその地位を追われた今、勇者派は有名無実化したようなものじゃ。これ以上引っ掻き回しても、要らぬ犠牲を増やすだけじゃろう。もはやそんなこと、誰も望んではおらん。儂はメアリーが普通の人生を歩んでくれればそれでいいと思っておる。スカーサハという神人がおったろう? 彼女のように、旧大陸の派閥争いに飽いて新大陸へ逃れた神人もおるゆえ、メアリーもそうしたらどうかと提案してみるつもりじゃ」

「そうか……」

「どちらにせよ、メアリーの決めることじゃわい。儂はこの子に何かを強制するつもりなぞない」

 

 鳳は気分を害してしまった大君に向かって頭を下げた。彼としても、メアリーのことを思っての牽制だったから、それは分かっていると老人は返した。

 

 そんな二人のやり取りを見ていたギヨームが、

 

「ところで、気になることと言えば……おまえだ、鳳」

「俺?」

「おまえ、逃げる時に俺に何をやったんだ? 突然、不思議な光に包まれたと思ったら、ギュンギュンレベルが上がっててビビったぞ」

「ああ、あれか……」

 

 鳳はポンと手を叩いた。と言っても、自分でも自分がなにかしたかはよく分かっていない。ただあの時は、以前も城から逃げる時にジャンヌを強化したことがあったことを思い出して、同じことが出来ないかと考えただけなのだ。彼はその時の状況と、自分がステータス画面で何をしたのかを語った。

 

「……共有経験値?」

 

「ああ。この世界で育った人たちには想像しにくいことかも知れないんだけど、実はこの世界って、俺たちの世界のゲームにそっくりなんだよ。俺のやってたゲームにも、古代呪文や神技があって、モンスターを倒すことで経験値を獲得することが出来たんだ……

 

 ただし、経験値の獲得方法がモンスターを倒すことだけじゃ、例えば回復職や生産職は経験値を得ることが難しいだろう? だから、ゲームでは個人だけではなくて、パーティーで行動するのが基本だったんだ。こうしておいて、モンスターを倒した時、パーティー全員に公平に経験値が分配されるようにすれば、戦闘が苦手な職業も問題なくレベルアップが出来るから」

 

「ふーん……でも、あの時は誰も経験値を得るような行動をしてなかったはずだぜ?」

 

 鳳は頷いた。

 

「実はそれがネックで前に一度、この考えを捨てたんだ。でも、今回、同じことが起きて……それで改めて考え直したんだが、共有経験値って考え方は正しいんだけど、これはコンピュータゲームのそれではなくて、TRPG方式なんじゃないかって」

「あ、なるほど。クエストのクリア報酬を、貯めておけるわけね?」

 

 鳳の簡単な説明だけで、ジャンヌはすぐさまそれを理解したようだったが、もちろん、他の二人がそれで分かるわけもなく、鳳は彼らにも分かるように、かいつまんでルールを説明した。

 

 TRPGはゲームマスターが用意したシナリオをなぞるだけでなく、即興劇をも楽しむものだが、その自由度のせいで経験値の取り扱いで苦労する。

 

 経験値を得られる手段がGMの用意したクエストだけでは、GMの権限が大きくなりすぎて自由度が損なわれる。かと言って、フリークエストを用意して好きなだけ経験値を得られるようにすると、ゲームそっちのけで延々と経験値稼ぎやお宝集めをしだすプレイヤーが出てくる。いわゆる、ハックアンドスラッシュというやつだ。

 

 これはこれで面白いから、ハクスラはその後コンピュータRPGとして発展し、日本でRPGといえばハクスラがその代名詞となったのだが、本家の方では一人のプレイヤーが延々と経験値稼ぎをし続けてしまってはストーリーが進まないから、クエストで貰える報酬の方を大きくしてバランス調整がされるようになった。敵を倒すよりも、クエストを進めた方が割を良くしたのだ。

 

 因みに、このクエスト経験値は、パーティー全員の共有物であり、もちろん全員に公平に分配してもいいのだが、その後の展開を考えて、誰か一人だけを大幅にパワーアップするなどというプレイスタイルも可能なわけだ。

 

「つまり、俺はクエスト報酬を溜め込んでおいて、あの瞬間、おまえに経験値として注ぎ込んだんだよ。それで一気にレベルが上って、新たな能力を修得したわけだ」

 

 そう考えると、鳳はいつの間にかクエストをクリアしていたわけだが……恐らく、仲間と共にモンスターを倒したとか、メアリーの隠し部屋を見つけたとか、街を防衛したとか、その辺がカウントされたのだろう。得られた経験値は100程度と少ないが、それを個人に注ぎ込んだら莫大な経験値に変わるのも、いかにもありがちなシステムだ。

 

 いまいちイメージが掴めないまま話を聞いていた大君は、鳳の能力をようやく理解して感嘆の息を吐いた。

 

「なるほどのう……勇者召喚者は大概なんというか凄い、いわゆるチート能力を持って召喚されるわけじゃが、お主のは別格じゃな。そんな力、見たことも聞いたこともない」

「俺もそう思うよ。ただ考えようによっちゃ、他人を強くする力なわけだから、俺には何の得にもなってないんだけどな……」

 

 この能力で今までにやってきたことは、ジャンヌとギヨームのレベルを上げたことだけだ。おまけにモンスターを倒しても経験値が入らないのも、恐らくこの能力の弊害だろう。大君はそんな鳳の気など知ってか知らずか愉快そうに笑いながら、

 

「お主はよっぽど神に愛されてるのかも知れんのう」

 

 その神とやらがエミリアであるのなら、笑い話にもならないのだが……鳳は老人にもたれ掛かって眠っているメアリーを見つめながら、

 

「そう言えば爺さん。あんたは俺のパーティーに加わってないんだな。そこのメアリーと、ギヨームは、リストに入ってたんだけど、あんたの名前は見当たらなかった」

「そうなのか? ふむ……儂の場合、いまさら他の誰かとパーティーは組めない、ということかも知れん」

 

 そう言って老人は遠い目をしてみせた。どうやら彼には昔なじみのパーティーがあるらしい。長いことゲームをしているプレーヤーに招待を送っても、今のパーティーが気に入ってるからと言って断られるような感じだろうか。

 

 鳳はそう言えば、みんな大君(タイクーン)と呼んでるから気にしてなかったが、大君は肩書であって名前じゃない。本当の名前は何て言うんだろうか? と思ったが、その哀愁に満ちた目を見ていると、今聞くのは無粋かなと思い、話題を変えるつもりで、

 

「そう言えば、ギヨーム。おまえ、ずっと偽名を使ってたんだな。全然気づかなかったよ」

「別に、偽名ってほどでもないだろう」

「まあ、そうかも知れないが。どうして隠してたんだ?」

 

 英語名のウィリアムを、フランス名のギヨームと名乗っていたのだから、厳密には偽名というわけじゃないだろう。それにしてもわざわざ名前を変える必要もないだろうから、どうしてなんだろうかと聞いてみたら、ギヨームではなくてジャンヌの方が食いついた。

 

「あら? ギヨームって本名じゃなかったの?」

「いいや、本名だが……いや、本名も偽名だから……あー! 面倒くさいな」

 

 憮然とするギヨームに代わって、鳳が答える。

 

「そいつの名前はウィリアムっていうんだよ。ギヨームはフランス名。ほら、最初にアメリカ人だって言ってただろう? 本名はウィリアム・ヘンリー・ボニー」

「……え? ウィリアム・ヘンリー・ボニー……? どこかで聞いたことがあるような……ウィリアムって、確か愛称ビリーよね? じゃあ、『ザ・キッド』ってのは……」

 

 するとジャンヌはまるでお化けでも見たような表情を作り、そんな言葉を呟いて固まってしまった。それもそのはず……

 

 『ザ・キッド』

 

 ……ギヨームに付けられたその二つ名を思い出した時、鳳もその名前の意味に気づいたくらいなのだから。

 

「だから、この世界にはわりと放浪者がいるって言っただろう?」

 

 ビリー・ザ・キッド……本名ヘンリー・アントリム。西部開拓時代、ニューメキシコ周辺で活動していた伝説のアウトローの愛称である。

 

 12歳の時に母親を侮辱した相手を射殺し逃亡、以来、馬泥棒や殺人を繰り返しながら各地を転々とし、リンカーン郡の抗争で名を挙げた。生涯で21人を殺害したと言われているが、インディアンやスペイン人は含まないから、実際の数はそんなものでは済まないだろう。

 

 両利きで、両手(ダブルハンド)から放たれる射撃は、左右どちらからでも針の穴を通すほどの正確さだったという。アウトローらしからぬ人懐っこさで明るく、大勢の仲間に囲まれていた。最期はかつて仲間だった保安官パット・ギャレットによって射殺されたと言われている。

 

「……パットに撃たれたと思ったら、いつの間にかこんなわけのわからない世界に居たのさ。俺としては自分が有名人だなんて思わないから、最初はいつもどおり名乗っていたんだが……どこかの誰かが『ザ・キッド』なんてあだ名で呼び始めてから、どこへ行っても英雄扱いで……嫌気が差してヘルメスに逃げてきたのさ」

「それで、ギヨームって名乗ってたのね……」

 

 ジャンヌは目をキラキラさせながら、ギヨームに握手してくれるように手を差し伸ばし、

 

「びっくりだわ。あなたがあのビリー・ザ・キッドだったなんて……私、あなたの映画を見たことがあるのよ」

「そうかい……後世の連中は、よっぽど物好きだったと見える」

 

 ギヨームは照れくさそうに差し出されたジャンヌの手を払うと、少しほっぺたを赤くしながら、いつものニヤニヤとした笑顔をポリポリとかきながら、

 

「大体、俺なんか英雄視しても仕方ねえぞ。そんなのより、もっと大物がそこにいるだろうに」

「そこって?」

 

 ギヨームが指差す方を見たら、そんな三人の若者の会話を楽しそうに眺めていた大君が、突然注目を浴びて苦笑気味に肩をすくめた。

 

「そのジジイの名前は、レオナルド・ダ・ビンチだ」

 

 300年前、この世に現れた魔王を倒すべく、真祖ソフィアを開祖とする神聖帝国は、異世界から勇者を召喚した。

 

 その勇者と共に立ち上がった三人の仲間、モーツァルト、ニュートン、そしてレオナルド・ダ・ビンチ。放浪者(バガボンド)と呼ばれる彼らは、かつて鳳たちの住んでいた前の世界『地球』の偉人たちであった。

 

 同じく、地球由来の英雄、ビリー・ザ・キッドに千利休。更に、この世界にはエミリアという名の神様がいて、その幼馴染(エミリア)そっくりな少女メアリー・スーがいる。勇者の娘と言われる彼女は、絶滅の危機に瀕している神人の聖母になると目されており、帝国守旧派、勇者派の双方からつけ狙われていた。

 

 そんな世界に召喚された鳳とジャンヌは、かつて幼馴染(エミリア)と共に遊んでいたオンラインゲームと同じルールを駆使しながら、狙われたメアリーを救うべく、共に戦う道を選んだのだ。

 

 何だこれは、わけがわからない。一体、この世界はなんなんだ?

 

 ただ一つ分かることは、目の前の老人に頼めば、案外気さくにサインが貰えそうだということだけだった。鳳はいつの間にか手にしていた千代紙を差し出しながら、ペンはどこにしまったっけと、どうでもいいことを考えていた。

 

 見上げれば満月。パチパチと爆ぜるキャンプファイヤーを囲みながら、時代も場所も世界さえもバラバラの、五人の冒険が始まろうとしていた。

 

(第一章・了)

 



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第二章・大森林に幻のマジックマッシュルームを追え
思い出と記憶違いに関する考察


 歳を取ると物忘れが激しくなる。ついさっきやったことすら思い出せなくなる。高齢者がそれを深刻に捉えて、しょんぼりしている姿を、誰しも一度くらいは見たことがあるだろう。歳を取ったのだから仕方ないと言ったところで、彼らには何の慰めにもならない。

 

 ところが、話題を変えるつもりで子供の頃の思い出について尋ねてみると、途端に彼らは生き生きと語りだす。何十年も昔の話を、まるで昨日の出来事みたいに、事細かに話してくれるのだ。

 

 不思議なもので、高齢者達はついさっきの出来事を思い出すのにも苦労していると言うのに、昔あった事ならいくらでも思い出すことが出来るらしい。本当にそんなに詳しいことまで覚えているのか? と、驚異的な記憶力には舌を巻いてしまうが、彼らはまるで映画でも見ているかのように、当時の状況をありありと思い出すことが出来ると言うのだ。

 

 そして、それを聞いた我々は、無条件にその話を信じてしまう。なぜなら、自分たちも何となく身に覚えがあるからだ。

 

 高齢者と比べれば、我々はまだ人生の入り口に差し掛かった程度の年齢に過ぎないかも知れないが、それでも、そんな我々だってつい最近の出来事よりも、子供の頃の出来事の方を、よく覚えているものだ。

 

 無論、他愛もない日常の出来事は覚えていないが、例えば交通事故に遭ったとか、受験に合格したとか、好きな子から告白されたとかとか……そういう人生の節目と呼べるような一大イベントのことは、まるでビデオ映像が脳内で再生されているかのように、鮮明に思い出すことが出来るだろう。

 

 こういう一大事の記憶を、フラッシュバルブ記憶と呼ぶ。トイレのバルブのことではなくて、写真のフラッシュを焚いた時のように鮮明な記憶という意味なのだが……我々は記憶を映像として脳に保管しており、好きな時に再生したり巻き戻したり出来ると思っている。そしてこうして定着した記憶は強固であり、歳をとって、それこそボケてしまっても忘れないと考えているのだ。

 

 でも本当にそうか? 高齢者の昔話なんて、今となっては誰も確かめることが出来ないものだ。なのに彼らが言ってることを、鵜呑みにしてもいいんだろうか?

 

 フラッシュバルブ記憶は、我々が絶対に忘れることが出来ない正確な記憶であり、そこに間違いなど存在しないと思いがちである。映像を再生するように、当時の状況をありありと思い出せるのだから、そこに間違いが潜んでいるなんて、誰も思いもよらないからだ。

 

 しかし、この先入観こそが、とんでもない間違いなのだ。我々が映像として持っている、その強固な記憶というものは、実は全然あてにならないものなのである。

 

 あなたが今すぐにでも思い出すことが出来る、人生の一大事の記憶だって、実は嘘が混じっているかも知れないのだ。

 

 2011年9月、とある心理学者が研究室で仕事をしていると、テレビで報道特番が流れ出した。今から丁度10年前の9月11日、あの忌まわしいアメリカ同時多発テロが起きたのだとニュースキャスターは言った。

 

 あの日も研究室で仕事をしていた学者は、同じく仕事をしていた同僚に当時のことを覚えているかと尋ねてみた。米国人にとって同時多発テロ事件は、言うまでもなく人生の一大事であり、忘れたくても忘れられない出来事だ。当然、同僚も昨日のことのように覚えていると返した。ところが、そんな二人が当日のことを思い出しながら会話していると、どうにも話が噛み合わないのだ。

 

 二人の当日の行動を大雑把に説明すると……研究室で仕事をしていると、大学院生のAが駆け込んできて、大変なことになったと第一報を伝えた。驚いてネットで情報を集めていると、二機目がビルに突っ込んだと聞いて慌ててテレビをつけた。そして、研究室で学生たちと一緒にテレビを見た後、今日はもう仕事にならないからと、学生たちを家に帰し、自分たちも帰途についた。

 

 二人共あの日の出来事はこのような流れで間違いないと大筋では意見が一致していたのだが、ところが細かいディテールが違った。例えば事件の第一報は伝えた院生Aは、研究室に駆け込んできたんじゃなくて、別の部屋で叫び声を上げたのだと記憶していたり……ネットで情報を調べていたら飛行機が突っ込んだのではなく、テレビで飛行機が突っ込んだ場面を学生たちと一緒に見たのだと思っていたり……家に帰ったのは全員ではなく、何人かは夜まで研究室に残っていたと主張したりと、どうしても噛み合わない部分がいくつも存在したのだ。

 

 これは妙なことになったと考えた学者は、出来るだけ正確に事件のことを思い出し、それを書いたメールを当時の教え子たちに送った。

 

「君たちはあの日のことを覚えてるだろうか?」

 

 すると返ってきたメールの中身は、てんでバラバラであり、おまけに誰も彼もが自分の記憶こそが正しいと主張したのだ。

 

「先生はそうおっしゃるかも知れませんが、私は当日の出来事を映画を見るように思い出すことが出来ます」

 

 彼らの意見が一致しないのは、その映画のように思い出すことが出来る記憶が間違っている、ということに他ならない。つまり、彼らは間違った出来事を、あたかも現実に起きた出来事のように、脳内に映像として保存しているのだ。

 

 これは何もこの研究室の人々が、特別愚かだったというわけじゃない。実は多くのアメリカ人が、あの911の出来事を間違って記憶している。

 

 例えば、サラリーマンBの場合。彼は2001年9月11日の朝、マンハッタン島から遠く離れた通勤電車の中にいた。すると突然、周りの乗客が騒ぎ出し、誰かがたった今WTCビルにジャンボジェットが突っ込んだと言い出したのだ。まさかと思って携帯電話でニュースを検索していると、今度はなんと二機目が突入したと言うではないか、彼はショックでその日は仕事に行けなかった。

 

 例えば、主婦Cの場合。彼女は3人の食べざかりの子供たちを学校へ見送った後、朝食の残りをつまみながらテレビをつけた。するとニュースキャスターが、WTCに旅客機が突っ込んだ、どうやらテロらしいと告げ、例のビルに旅客機が吸い込まれていくCGみたいな映像が何度も何度も流れた。あまりに非現実的な出来事に、もしかして騙されてるんじゃないかと思っていると、間もなくニュース番組は現場の映像に切り替わり、なんと二機目の旅客機がビルに突撃したではないか。これはとんでもないことが起きたと思った彼女は、崩れ行くビルを見ながら、一日中あちこちに電話をかけて、身内の無事を確かめることに費やした。

 

 もしかすると、この話を読んでいる間に、あなたも同じように、当日のことを思い出していたかも知れない。ところで、この話にはすでにいくつかの間違いが紛れ込んでいることに気づいただろうか。

 

 まず第一に、WTCビルに一機目の旅客機が突っ込んだ時、サラリーマンが乗っていた通勤電車の乗客が騒ぎ出したと言っているが、実は一機目が突入した時点では、世界はおろかアメリカ人も殆ど騒いじゃいなかった。

 

 というのも、一機目が飛び込んだ直後は、まだ誰も何が起きたかわかっておらず、情報自体が少なかった。現場に駆けつけたマスコミも、WTCで何かあった、くらいにしか情報が入っていなかったのだ。

 

 おまけに、以前からWTCでは爆弾テロ騒ぎなんかもあって、あそこで事件が起きたとしても、みんな深刻には捉えていなかったのだ。飛行機が突っ込んだという正確な情報もちゃんと流れていたが、まさかそれが『乗客が乗ったジャンボジェット』だなんて思いもよらず、殆どの人が、操縦ミスした小型セスナが突っ込んだくらいにしか思っていなかった。騒ぎ出したのは、二機目が突入した後、あの有名な映像が全世界に流された後なのだ。

 

 と言うわけで、二人目の主婦が見たというニュース、これも大嘘だ。というのも、実は一機目がビルに激突する映像は、事件当日には存在しなかったからだ。

 

 そんなことはない、自分は確かに一機目がビルに直撃する映像を見たことがあるという人もいるだろうが、それは事件が起きてから何週間か経った後に見つかった映像のはずだ。当日、それを見たという事が間違いなのだ。

 

 考えてみれば当たり前の話だろう。もしも誰かが狙って一機目を映像に収めようとするなら、テロリストが飛行機をハイジャックし、ビルに突っ込もうとしていることを予め知っていなきゃならない。そんなことを知っているのは実行犯とビンラディンしか居ないのだから、映像があるとするなら(現にあるのだが)それは偶然撮られたものに違いない。そんなものを、あの大混乱する現場でマスコミが手に入れることは不可能だった。

 

 そんなわけで、一機目がビルに突入した映像は当日にはどこにも存在しなかった。

 

 ところが、多くのアメリカ人が、事件当日、その映像を見たと記憶違いしているのだ。あの日、テレビを見ていたら、突然WTCに飛行機が激突したというニュース特番が始まって、一機目がビルに激突する映像が繰り返し流されているところで、リアルタイムで二機目が突っ込んだのだと……なんと、あのブッシュ大統領までそう思っている。

 

 アメリカ人は当事者であり被害者だ。忘れたくても忘れられない出来事だ。なのに何故、こんなあり得ない記憶違いをするのだろうか?

 

 それは彼らの記憶が間違っていたとしても、そこで語られる出来事は真実だからだ。

 

 アメリカ同時多発テロ事件は、起きた当日に全てが終わったわけじゃない。その後、犯人探しが始まり、現場検証が行われ、アフガン戦争が起きたりして、一年くらいは事あるごとにあの映像が流れ続けた。その中で一機目の映像も発見され、世界中の人々は、あの日の出来事を、時系列順に、正確に知ることが出来るようになった。

 

 この状況で当日の出来事を思い出そうとすると、すでに判明している情報と本当の記憶とでごっちゃになる。どっちの記憶が本当だったっけ? と考えた時、人間は時系列がバラバラの記憶よりも、整合性の取れた情報の方を真実と思い込む。そして多くの人達が、繰り返し報道を見聞きしているうちに、それが事件当日に起きた出来事だとして、自分の記憶をアップデートしてしまったのだ。

 

 そんなバカな。自分はあの日のことをありありと思い浮かべることが出来る、この記憶が間違っているわけがないと言うむきは、あの心理学者の研究室で起きた出来事を思い出して欲しい。彼らは当日、同じ研究室にいて、同じことをしていたはずなのに、その記憶はてんでバラバラだった。なのに、みんな自信満々に、自分が正しいと言いきった。全員がフラッシュバルブ記憶を持っていたのだ。

 

 もう一度言おう。映像のように生き生きと当時のことを思い出すことの出来るフラッシュバルブ記憶であっても、人間の記憶と言うものは当てにならない。

 

 考えても見れば、それは当たり前のことではないか。誰だって、テストのために一夜漬けをした経験くらいあるだろう。我々は短期記憶にあれだけ苦労しているというのに、どうして長期記憶のほうが楽に思い出せるなんて思うのだろうか。

 

 我々の記憶は例えそれがどれだけ鮮明であっても正しいとは限らない。どうやら記憶というものは、脳内にデジタルデータの如く、何から何まで正確に刻まれているのではなくて、断片的な情報があちこちに散りばめられているだけのようなのだ。

 

 それはせいぜい、腹が減った、飯を食った、美味かった、程度のものらしい。

 

 そして記憶を再生する時に、脳がその不完全な記憶(データ)を繋ぎあわせて、一つの整合性のある物語を作り出し、そのつど状況再現しているらしいのだ。

 

 言い換えれば、脳にはクオリアという役者が住んでいて、それが記憶という台本を渡されると、その都度、情感を込めた舞台を演じているのだ。

 

 我々には、それが脳内のスクリーンに、映像となって現れる。そしてその映像があまりにも生々しいから、そこに間違いが潜んでいるなんて思わないのだ。しかしそれは、ひとりひとりの物の見方が違うように、人によっててんでバラバラなのである。

 

 誰が言ったか知らないが、人生とはあなたという役者が演じている映画みたいなものである。それはあながち間違いではないかも知れない。同じ出来事であっても、人によって処理の仕方は違い、そしてそれは時と共に変化してしまう。すると最後には、全員が別々の記憶を持つことになってしまう。

 

 そんな、ひとりひとりの記憶を、誰が正しいとか誰が間違っているとか言っても、結論なんて出ないのではないか。それこそ、当日の映像でも残ってない限りは。

 

 思えば、高齢者が子供の頃の記憶をいつまでも覚えているのは、実はこうして思い出をアップデートし続けているからなのだろう。その証拠に、彼らはいつも、昔はよかったと言っているではないか。

 

 思い出がいつも美しいのは、人が忘れてしまう生き物だからだ。我々は自分に都合のいい記憶だけを残して、嫌なことは忘れてしまう生き物なのだ。もしも逆なら、今頃生きてはいられないだろう?

 

 そんな我々の不完全な記憶を、クオリアは整合性のある物語に変えて再生している。私という個性は、こうして生まれたわけである。

 

 もし、私のクオリアを別の人のクオリアと入れ替えたら、そのクオリアは私の脳の記憶から、また別の経験を作り出すはずである。つまり、同じ経験をしながら、まるで違った記憶を持った別人が生まれるわけだ。

 

 私という人間は、これまで生きてきた記憶が作り出したのではなく、クオリアがたった今作り出しているのである。

 

 人間は記憶を大事にする生き物だから、そう言われてもまだしっくり来ないかも知れない。だが、記憶喪失の人を思い浮かべたらなんとなく分かるのではないか。彼らは記憶を失っても、個性までは失わないだろう。私達の記憶は、実は個性に左右されているのだ。

 

 果たして、私の中にあるこの記憶は、他の誰かが覗いたら、一体どんな風に見えるのだろうか。その時、私はどこへ消えてしまうのだろうか。

 

 もし、私の中に私とは違う2つ目のクオリアがあったとしたら……私は私なんだろうか。それとも、別の何かになるのだろうか……私は……私は……

 



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レベル3

 ガクリ……

 

 体勢が崩れて目を覚ました。よろける体を慌てて立て直し、暫し呆然とする。小川のせせらぎの音が心地よくて、ついうたた寝してしまったらしい。一枚岩の上から転げ落ちていたら、今頃その中にドボンだった。心臓がバクバク鳴っている。まだぼやけている目蓋をゴシゴシ擦ると、水面の照り返しがキラリと光った。

 

 太陽は中天に差し掛かり、そろそろお昼の時間のようだ。そう考えたら何だかお腹が空いてきてしまい、現金な胃袋がグ~と鳴った。そのお腹に押し付けるようにして立てていた釣り竿の先を見たら、釣り糸が風にゆらゆらと揺れていた。どうやら眠っている間に餌だけ持っていかれてしまったらしい。がっかりしながら針を引き上げて、改めて餌を付け直して放り込む。

 

 餌は一昨日食べた謎生物の肉……を、放置してたら湧いた蛆である。そう言うと普通の人はギョッとするかも知れないが、釣り餌としては割りとメジャーなもので、サバムシとかサシという名で釣具店で普通に売っている。ハエの幼虫のことなのだが、生き物が生きているうちはまったく姿形も見せないくせに、死んだら一日もしないで湧いて出てくるのだから、不思議なものである。一体、こいつらはどこに居たんだろう?

 

 そんなことを考えていたら、釣り針にツンツンと何かが触れる感触がした。竿の尖端が不規則に揺れる。どうやら獲物のお出ましのようである。慌てず騒がずじっと獲物が食いつくのを待ってから、鳳が釣り竿をパッと引き上げると、パシャンと水音を立てて水面から魚が飛び出した。

 

 体長は20センチくらい。黒い斑点と黄色い縞模様があり、ヤマメに似ているが、見たことのない種類である。この川では他にピラニアみたいな魚も釣れるが、味はどっちもどっちである。ヤマメのほうが若干泥臭く、ピラニアの方は肉がパサパサしている。しかしまあ、とにかく食えれば良いので、味の方はあんまり気にしないことにしていた。

 

 鳳は釣り針から魚を外すと、中洲に穴を掘って作った生簀に魚を放り込んだ。生簀の中には先客が4匹、いまのと併せて人数分を確保したから、そろそろ釣りはおしまいだ。後は川べりを散策して山菜でも見つければ、今日の献立はより豪華になるだろう。

 

 そう言えば、ここに来る前に土手で自然薯……いわゆる山芋を見つけたのだった。山芋は地下茎が深くて掘り出すのが大変だが、斜面に生えているなら話は別だ。仲間が帰ってきたら手伝わせようと思っていたが、時間も余ったし、今から手を付けておこうかな……そんなことを考えつつ、生簀の魚を捌いていると、

 

「ツクモー!! いま帰ったわよー!!」

 

 川の向こう岸からキンキラの髪の毛がひょっこりと現れた。勇者の娘にして、鳳の幼馴染にそっくりな神人、メアリーである。彼女は鳳が釣りをしている間、ギヨームと共に森林で狩りをしているはずだった。

 

 森の中には鳥や爬虫類を筆頭に、その他あらゆる野生動物が棲息しており、うまくすれば鹿や猪などの獲物にありつける可能性があった。ギヨームは元カウボーイだから動物を追うことに慣れており、更に武器が銃であるから釣りをするよりもこっちの方が向いていると役割分担しているのだ。

 

 因みに、野生動物を狩るという性質上、必ずしも毎日獲物が取れるとは限らないのだが……

 

 戻ってきたメアリーはその可愛らしい顔のあちこちに乾いた泥をひっ付けたまま、真っ黒になった手を無邪気にブンブン振り回し、満面に笑みを浮かべていた。その様子を見るからに、どうやら今日は上手くいったようである。間もなく、そんな上機嫌なメアリーの後ろから、

 

「おい、鳳。解体するから手伝え」

 

 と、ギヨームが顔を覗かせた。

 

「鹿か? やるじゃないか」

「まあな。これでもう暫くは飯に困らないぜ」

 

 二人は前後になって、丸太を肩に渡し、モッコみたいに担いでいた。その中央にはギヨームが仕留めたらしき子鹿が前後の足を縛られて吊り下げられている。因みに子鹿と言っているが、実際には鹿っぽい何かであり、きっと別の名前があるのだろうが、見た目も生態も似たようなものだから、面倒くさいので鹿と呼んでいる。

 

 吊り下げられた鹿は子供で体長は1メートル弱くらい。角がないから生まれてまだ半年かそこらだろう。きっとそばに親鹿もいただろうが、ギヨームがわざわざこっちを仕留めたのにはわけがある。純粋にこの人数では食べきれないのと、解体が大変だからだ。

 

 二人は鳳のいる中洲まで子鹿を担いでくると、彼が魚を捌いている横に獲物をどっかと下ろした。下ろす瞬間、ビクリと体をよじらせたところを見るからに、子鹿はまだ死んでいないようだ。しかし、つぶらな瞳に力なく、絶命寸前といったところだろうか。

 

 鳳は横たわった子鹿に近づいていくと、すきを見計らってその後ろ足の付け根辺りに全体重を乗せてギュッと押さえつけた。すでに前足にはギヨームが同じように体重を乗せており、つまり、二人がかりで暴れないように押さえつけているのだ。

 

 鳳たちが鹿を押さえつけたのを見ると、今度はメアリーが小刀を手に獲物に近づいていった。野生の勘だろうか? 何をされるか悟った子鹿は、最後のあがきとバタバタと暴れようとしたが、そこは二人がかりでしっかりと押さえつけられてて身動きが取れない。そしてメアリーは、そんな哀れな鹿の眉間に小刀の尖端をしっかり当てると、持っていた木槌で、コーン……っと叩き、額に穴を開けたのだった。

 

 眉間を穿たれた子鹿は一瞬だけビクビクと全身を震わせてから動かなくなった。脳をやられた鹿はこれで絶命したわけだが、体を押さえつけている鳳たちはまだその力を緩めなかった。何故なら本番はこれからなのだ。

 

 メアリーは鹿が動かなくなったことを確認してから、今度はその首に刃を当てて、動脈を狙って体の奥まで一気にそれを突き立てた。すると、まるで蛇口をひねるかのように血液がドバドバと溢れ出し、次の瞬間、驚いたことに死んだはずの子鹿がビクンビクンと暴れだしたのだ。

 

 その力は凄まじく、鳳とギヨームは顔を真っ赤にしながら、子鹿の体を押さえつけるので精一杯になった。やがてその動きが止まったときには、二人は全身汗でびっしょりになっていた。子鹿の目は閉じられて力はなく、鳳たちはこれ以上は流石にもう動かないだろうと判断すると、ゆっくりとその体から離れて、地面に大の字に寝っ転がった。

 

「美味しいお肉のためとは言え、めちゃくちゃ疲れるな」

「こういう力仕事はジャンヌが手伝ってくれれば助かるんだが」

 

 ゼエゼエと荒い息を吐きながら二人が会話を交わしている間も、子鹿の首からは相変わらず血がダラダラと流れ続けており、それは全身の血が抜けるまで続くように思われた。メアリーはその様子をしげしげと好奇心一杯の目で眺めていた。

 

 三人がたった今やっていたのは言うまでもない、血抜きである。

 

 血のついた肉は臭いし不味い。だから焼く前に血抜きが必要だ。しかし、お肉になってしまえば牛乳にさらすだけで済むかも知れないが、まだ全身の血管に血液が流れてる生きた獲物ではそうはいかない。この血をすべて抜くには工夫が必要である。

 

 具体的には、全ての動物は心臓のポンプで血液を循環させているのだから、これを利用して血管から血だけを排出させてしまえばいい。しかし、生きた獲物の動脈を傷つけたりなんかしたら、大暴れして大変なことになるから、なんらかの方法で動けなくしなければならない。

 

 そこで普通は脳死を狙う。眉間から刃物を脳に突き刺して出血死させ、いわゆる植物状態にしてしまうのだ。

 

 こうして脳が傷つけられた生き物は、もう生き物としての生命を終えているわけだが、体の機能はまだ少しの間動き続ける。人間だってそうだが、心臓は意識して動かしているわけじゃなく、オートマチックに動いているからだ。

 

 脳死した動物なら動脈を傷つけても暴れることがないから、安全に血抜きが可能である。そんなわけで現代の屠畜場でも電気ショックでそうしているわけだが……ところが、これでもまだ完全とは言えないのだ。

 

 というのも、脳死したばかりの生き物は、まだ心臓も動けば神経も繋がっているので、反射で動き出すことがあるのだ。反射とは、死んだカエルに電気ショックを与えると、ビクビクと動き出す、あれである。この時に発揮される力は、意志の力ではなく筋肉の反射であるからか、思った以上に強力だったりするのだ。

 

 生きているときよりも、死んだあとの方が強い力を発揮するとは皮肉な話であるが、大型の獣の場合、人間を一撃死させるくらいの力を発揮する可能性があるから、生きているときよりも寧ろ気をつけねばならないのは死んだ後なのだ。

 

 因みに、本来ならそうならないように、脊髄にワイヤーを通す、いわゆる神経締めという手順を踏むのであるが……追われるようにして森に逃げてきた鳳たちが、そんな道具を都合よく持っているわけもないから、ギヨームは可能な限り小さな獲物を狙っていたというわけである。

 

 そりゃ出来れば子鹿なんかじゃなくて、もっと大きな獲物を倒して、逃げる子供たちに向かって、大きくなって帰ってこいなんて言えれば格好いいだろうが、背に腹は代えられない。

 

 そんなこんなで血抜きを行ったギヨームは、その場でさっさと解体を始めてしまった。もう昼過ぎだし、ジャンヌたちも待ってるから、帰ってからにすればいいと思いもするが、動物の皮は時間が経つほど剥きにくくなるそうだから、そういうわけにも行かないらしい。肉を駄目にしたらもったいないから、素直に応じることにする。

 

 鳳はその間、目をつけていた自然薯を掘りに行くことにした。食材は沢山手に入ったのだから、これ以上は不要なのだが、山菜は保存が利くからあるだけあった方が良いだろう。そんな鳳の後をメアリーがフラフラとくっついてくる。彼女は解体の方にも興味があったようだったが、山菜集めも気になるようだ。

 

 300年もの間、結界の中に閉じ込められていたメアリーは、解き放たれた反動からか、まるで子供のようにやたら好奇心旺盛な姿を見せていた。普通の女子なら嫌がりそうな狩りや動物の解体にも嫌がること無く挑戦し、今日もギヨームと共に森を駆けずり回り、鹿を仕留めて屠畜まで手伝っていた。

 

 本来ならこんな力仕事はSTR23がやった方が効率がいいのだが、ジャンヌは生き物を殺すことは出来ても、解体の方は駄目らしい。ギヨームが獲物の首をかき切って、皮をベリベリ剥がしていたら、それを見ただけで気分が悪くなって、げえげえと吐いてしまうのだ。

 

 だもんで、使えないオカマは馬と老人の世話をさせておいて、鳳とギヨームとメアリーの三人で食料の調達をしているわけである。

 

 ところで、力も弱くて戦闘スキルの無い鳳が居ても、役に立たないと思うかも知れないが……

 

「……ツクモー? これは食べられる?」

「ああ、それはヘビイチゴだな。食べられなくはないが味がしない。見た目が似ている木苺の方は美味しいんだけど」

「じゃあ、これは?」

「それはヤマゴボウ。見た目はぶどうみたいだけどヤマゴボウ。食べられそうな気がするけど猛毒だ。最悪の場合死ぬぞ」

「そ、そうなんだ……じゃあこっちの可愛い花は? これも食べられないの?」

「それはハルジオン、そっちのはタンポポだな。どっちもアク抜きすれば食べられるぞ。花が咲いているってことは、今が春先だってことだ。他の植物が繁茂している夏の間は種で過ごし、秋になるとまた咲くんだよ」

「ふーん……他に食べられそうな草はある?」

「そうだな。そこにあるのはドクダミだ。別名十薬と言う万能薬だぞ。いくつか摘んで帰ろう。そっちはヨモギ。これも薬草だが、そのまま食べても美味い。汁に入れて食べよう」

「わかったわ……あれ? このしわしわした変な草は見たことがあるわね」

「それはスギナ、草じゃなくてシダ植物だ。そいつは美味くないが、胞子体の方はツクシと言って、山菜の代表格だな。地下茎で繋がってるから、すぐ近くに生えてるはずだ。美味いぞ」

「つくしって……あのつくしんぼ?」

 

 メアリーは地面をキョロキョロ、草の根をかき分け山菜を探した。やがて目的のものが見つかるや、パーッと輝くような笑顔を見せた。その笑顔が幼馴染の顔とダブり、鳳はなんだか切なくなった。しかし、彼女はこんな顔をしていただろうか? いつも他人の顔ばかり気にしていた幼馴染の顔をいくら思い出そうとしても、どうにも上手く思い出せなかった。

 

 もし、あの時の彼女も何のしがらみも無かったのなら、こんな風に笑っていたのだろうか……

 

 鳳たちがそんな具合に山菜採りをしていると、鹿の解体を終えたギヨームが、血の臭いをプンプンさせながらやってきた。こんな生活をしている以上、慣れるしかないが、その独特な死の匂いはなかなか慣れない。

 

 鳳が鼻をつまんで出迎えると、ギヨームは彼の頭をひっぱたきながら、メアリーの持っている竹ひごで作ったザルいっぱいに乗せられた山菜を見て、

 

「……これ全部食えるのか? すげえな」

「まあな」

「こっちの方はさっぱりだから助かったぜ。正直、意外だったけど、おまえどうしてこんなに食べられる草に詳しいんだ?」

 

 鳳の意外な特技を見たギヨームがそんな疑問を呈すると、彼はほんのちょっぴりバツが悪そうな顔をしてから、手近にあった葉っぱをちぎりブーブーと草笛を鳴らし、

 

「……昔、親に追い出されて路上生活してた時期があったんだよ。その時に必要だから覚えちまった」

「何やってんだ、おまえ?」

 

 思いがけない言葉に半ば呆れつつギヨームがそう返すと、鳳は草笛のやり方を教えてくれというメアリーの相手をしつつ、

 

「死んでも謝りたくなかったんだよ。親父に頭を下げるくらいなら、草食って死んだほうがマシだって。でも、いざやってみたら案外食えたんでさあ」

「ふーん……そうか。何があったか知らないが、お陰で今こうして助かってんだから別に良いか。そろそろ帰ろうぜ、腹減ったよ」

 

 自分から聞いてきたくせに、ギヨームはそれ以上突っ込むことなくあっさりと引くと、メアリーからザルを受け取って来た道を戻り始めた。ジャンヌに聞いた話だが、彼も家出をしてアウトローになったらしいから……鳳の話にも共感するところがあったのだろうか。

 

 尤も、彼の場合、母親を侮辱したやつを射殺したのが家出の原因らしいが……

 

「それにしても、妙な話だよな」

 

 そんなギヨームの後に続いて歩いていると、彼が誰ともなしにつぶやいた。

 

「何が?」

 

 鳳が尋ねてみると、

 

「おまえに言われるまで気づかなかったけど、この世界の生き物はどいつもこいつも見慣れないもんばかりだ。なのに、植物の方は地球とほとんど同じと来ている……」

「ああ……」

「これってなんか意味があんのか?」

「さあ。意味があると言えばあるのかも知れないけど、自然界のことだからなあ……あの爺さんにも分からないことが、俺に分かるとも思えないし」

「違いない」

 

 ヘルメス領から逃げて来て1ヶ月。鳳たちは大森林の中で潜伏していた。当初はすぐにでも新大陸へ向かうつもりだったのだが、思ったよりも帝国の追撃が厳しくて、ほとぼりが冷めるのを待っていたら、こんなに時間が過ぎていた。

 

 その間、少ない物資でどうにかこうにかサバイバル生活をしなければならなくなったのだが、敏腕冒険者のギヨームはともかく……

 

 世間知らずの神人、300歳を超える老人、オカマ、レベル3という役立たず4人を抱えていては、そう長くは持ちこたえられないだろうと、ギヨームは頭を抱えていたのだが……

 

 蓋を開けてみればそのレベル3は、役立たずどころか、誰も知らないような知識が豊富で、日々の生活のサポートをしてみせたのだった。

 

 彼は何故か山菜の知識が豊富で、火の起こし方も知っており、木の皮や枯れ枝なんかで即席のテントをこしらえてみせた。蔦植物から繊維を取り出し、より糸を作ったり、手持ちの鉛を叩いて伸ばして釣り針を作ったり、魚も捌けば小動物の解体まで、とにかく何でも器用にこなした。

 

 お陰で、当初は3日も稼げればいい方だと考えていたサバイバル生活は、気がつけばその十倍の日数が経過していた。生活は思った以上に安定しており、現代人のジャンヌ以外からは、少しも文句が上がっていない。

 

 元々、新大陸を目指しているのは、メアリーを帝国の魔の手から逃がすためだったが、そのメアリーは寧ろ現在の生活をエンジョイしており、いっそこのまま暮らしていてもいいとすら思えてくるのだが……

 

 ギヨームがそう思ってしまうくらい、快適な生活が続いていたが、流石にいつまでもこうしてはいられないだろう。森に潜伏して一ヶ月、その間の帝国の動向も全くつかめていない。相手がまだ探しているにしろ、もうとっくに追跡を諦めているにしろ、何の情報もないのでは落ち着かない。

 

 せめてそれが分かる程度には、ぼちぼち人里に近づいてもいいだろう。そんなことを考えつつ、ギヨームは、まだ熱の残る生肉を背負いながら森の中を進んでいった。

 



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言っておきたいことがある

 川べりの鬱蒼と茂る雑草をかき分けて、森の奥へ入ってくると、身の丈ほどもあった草がどんどん低くなってくる。雑草は言わば日照権の取り合いで上へ上へと伸びるのだが、森林の中ではどれだけ伸びても結局大木の影に隠れてしまうから、はじめから生えてこないのだ。そんなわけで、森の中は意外と歩きやすかった。

 

 小鳥のさえずりの大合唱の中、数少ない木漏れ日を奪い合うようにして咲く花を愛でながら、のんびり獣道を歩いていると、やがて前方の方からパチパチと火が爆ぜる音が聞こえてきて、焚き火の匂いが鼻をくすぐった。

 

 大木から拝借した蔦をロープ代わりにして、木の皮をかぶせて作ったテントの前で、齢300歳のレオナルドが火に焚き木をくべていた。彼は鳳たちが帰ってきたのに気がつくと、焚き火にかけた鉄鍋をカンカン叩きながら、

 

「待ちくたびれたわい。狩りの調子はどうじゃった? ほほう、これは中々、大漁じゃないか」

「ああ、これを捌いてたら時間を食ったんだ。すぐ飯にしよう」

 

 鉄鍋の中ではすでにお湯が沸いており、野生のシメジでじっくり出汁が取ってあった。ギヨームはその中に、取ってきたばかりの鹿肉を投入して塩をパラパラと抓み入れた。これだけでも既に十分美味そうだが、肉に火が通った頃を見計らって、更に下処理した山菜を投入する。最後に数滴酒を垂らしてアルコールを飛ばしたら完成だ。

 

 鳳はその間、釣った川魚に塩をすり込み、木を削って作った串に突き刺して、焚き火に当たるように地面に突き立てた。そうして両面をじっくり焼き上げると、表面の皮がこんがりとしてきて、香ばしい匂いが立ち込める。

 

 そんな匂いに釣られたのか、暫くすると馬を引き連れたジャンヌが、お腹をグーグー鳴らしながら帰ってきた。彼は鳳たちが食料調達をしている間、馬の放牧をしていたのだ。

 

 森の中は食料が豊富とは言え、草食動物の食欲は旺盛だから、キャンプ周りの草はとっくに食べ尽くしていた。だから遠出をしなければならないのだが、森には猛獣も潜んでいるから、放し飼いをするわけにはいかない。その点、ジャンヌは猛獣相手でも遅れを取らないから、馬の世話をするにはもってこいだった。

 

 向こうから寄ってくるから、ジャンヌもたまに獲物を狩って帰ってくることがあったが、彼は解体が出来ないので、いつも戻ってくる頃には肉が固くなっていた。ギヨームがそれを手斧で解体するのだが、肉に皮が張り付き、毛や血が取り切れないので、焼いてもあまり美味くない。それで結局、獣脂を取ったあとに放置され、森の昆虫や小動物に食べられた挙げ句、鳳に魚の餌にされるのが常だった。もったいないような気もするが、なんやかんや何一つ無駄になっていないから、食物連鎖とはかくも偉大なものである。

 

 残念ながら今日は獲物がないようだが、馬の方はたらふく飯が食えたのか、見るからに元気いっぱいの様子である。適度な運動も出来て、危険もないから、馬にとっては快適な環境なのだろう。いつの間にかジャンヌに懐いている姿を見ると、彼のことをリーダーと思っているのではなかろうか。

 

「あら、美味しそう。今日はお野菜もあるのね。これはメアリーちゃんが摘んでくれたの?」

「うん」

 

 馬から鞍を下ろしたら、彼はキャンプファイヤーを囲んでいたメアリーの隣に、当たり前のように腰掛けた。メアリーはジャンヌがやってくると、火の番をしているレオが暇にかまけて木材をくり抜いて作ったお椀にスープをよそって差し出した。

 

 ジャンヌは受け取ったお椀に鼻を突っ込み、その匂いを堪能した後、スープを一口飲んで、にっこりとメアリーに笑いかけた。すると彼女もニコニコと笑顔を返す。それを見ていると、まるで本物の兄妹のように見えた。まあ、見た目と年齢は逆なのだが……

 

 出会いが最悪だったから、最初はジャンヌのことを恐れていたメアリーも、この生活をしているうちにどんどん仲良くなっていった。男やもめの中で、心の中だけは女性のジャンヌが最も人当たりも良かったからか、紅一点のメアリーも安心したのだろう。最近、キャンプでは一緒にいることが多く、寝るときも彼が壁になってくれるから、意識しないで済んでいる。

 

 そんな感じで、何不自由なく、思った以上に快適な暮らしを続けていた一行であったが……

 

 その日、食事を終えた後、残った鹿肉で燻製肉を作りながらギヨームが突然言いだした。

 

「ところで提案なんだが、そろそろここから離れたいと思うんだ」

 

 その言葉が意外だったのか、ジャンヌと遊んでいたメアリーが驚いて声を上げる。

 

「え? なんで? まだ来たばかりじゃない。私はもう暫くここで遊んでいたいけれど……」

 

 ギヨームはそんなメアリーを手で制しながら、

 

「神人の時間感覚で言わないでくれ。一ヶ月ってのは俺たち人間にとっては結構な時間なんだよ。そろそろほとぼりも冷めた頃だし、当初の予定通り、新大陸に向けて移動したいと思うんだが」

「そうね。確かにいつまでもこうしてはいられないわ。メアリーちゃん、人間はやっぱり人の街で暮らした方がいいと思うの。私も冒険者稼業に戻りたいところだし」

「そ、そう……ジャンヌもそう言うなら」

 

 ジャンヌが追随すると、最近仲良くなったメアリーも、彼も言うなら仕方ないのかなといった感じで同意した。本当はもう暫くここで暮らしていたいのだろうが、我儘を言ったところで、まだ一人で生きていけるほど、彼女に生活力はなかった。

 

 もしかすると、新生活に対する不安もあるのかも知れない。レオナルドがそれを見越してか、

 

「なあに、新大陸でも森の生活は続けられるわい。あっちにはお主を傷つけようとする輩もおらぬし、儂らもずっと一緒におるから、何も心配ないぞ。メアリーもすぐに慣れるじゃろう」

「本当?」

「もちろんよ……そうだわ! あなたさえ良ければ、私と一緒に冒険者をやらない? 新大陸にもギルドがあるそうだから、神人のあなたなら、きっと引っ張りだこよ」

「そうね。みんながそうしたいなら、私もそうしたくなってきたわ。冒険者っていうものにも少し興味が湧いてきたし」

 

 二人にそう言われて安心したのか、メアリーはそれ以上特に何も言わずにギヨームの提案を受け入れたようだった。どうせいつかはここを離れなければならない。それが遅いか早いかの違いでしか無いなら、新生活の不安を抱えているよりも、さっさと行動したほうがいいと彼女も思ったのだろう。

 

「それじゃあ、明日から移動のための準備をしよう。幸い、今日狩った獲物もあるから、数日は飯の心配をしなくて済むが、問題はそれが無くなったあとだな。水の確保も必要だから、俺は出来るだけ川沿いを移動したほうがいいと思ってるんだが……」

「いや、ちょっと待ってくれ」

 

 そんな感じで話が決まったとばかりに、ギヨームが今後の方針について提案しはじめた時だった。それまで何も言わずに黙って聞いていた鳳が、意外なことに待ったをかけた。元々、ジャンヌを逃がす作戦を考えたのは彼だし、前世の縁からメアリーのことを気にしてもいたから、誰も彼が反対をするとは思っていなかったのだが……

 

 ギヨームは一瞬虚を突かれたようにポカンとしてから、

 

「……どうした? 何か気になることでもあんのか?」

 

 すると鳳は珍しく深刻そうな顔をして、

 

「実は移動をする前にみんなに言っておかなきゃならないことがある……本当はずっと黙っていようと思っていたんだが、この一月、一緒に暮らした仲間を騙すような真似はしたくないから、ここらで一度、ちゃんと話しておこうと思ってさ」

 

 突然の鳳の告白に驚いて、その場にいたみんなはきょろきょろとお互いに目配せをしていた。その仕草から察するに、誰も鳳が何を言おうとしているか見当がついていないらしい。

 

「あ、ああ……なんだよ?」

 

 一体何を言い出すつもりだろうか……ギヨームが少し困惑気味に話の続きを促すと、鳳はほんの一瞬だけ躊躇してから、言いづらそうに先の言葉を続けた。

 

「実は……俺は人間じゃないらしいんだ」

 

 鳳は彼がこの世界に召喚されたときの出来事を仲間に言って聞かせた。

 

 曰く、異世界召喚されるまえ、自分一人だけがキャラクリ直後でレベル1だったこと。適当に作ったキャラだからろくにステ振りしておらず、それがそのまま適用されてしまったこと。最近まで無職だったこと。そしてなによりも深刻なのは……

 

「BloodTypeCだって?」

 

 ギヨームが目をパチクリさせながらそう聞き返すと、鳳は複雑そうに眉間に皺を寄せながら頷いて、

 

「ああ。俺は最初その意味が分からずに、ヘルメス卿に正直に話してしまったんだ。お陰で一度殺されかけたことがあって、もしその時ジャンヌやメアリーがいなかったら、今頃この世にいなかったかも知れない」

 

 メアリーは鳳の話を聞いて、ああ、あの時のことかと言った感じにふんふんと鼻を鳴らして首肯していた。鳳はそんな彼女に頷きかえしながら、

 

「だから、俺がメアリーを助けるのは当たり前のことだし、これから先もそうしていくつもりだが……ギヨームたちがそれに付き合う必要はないだろう? だからここらで一度ちゃんと話しておこうと思ったんだ。もし、元の生活に戻りたいんであれば、そうしてくれて構わない。なんなら、俺をこのパーティーから排除してくれても構わない。俺みたいに得体の知れない奴といるより、そうした方がいいんじゃないかと思って」

 

 以前までの鳳だったら、こんなこと正直に話したりせず、取り敢えず生活が落ち着くまで黙っていただろう。だが、人里離れた大森林の暮らしは一蓮托生、誰かが失敗すればあっという間にパーティーごとジリ貧になりかねない。そんな時に、自分の都合だけ考えて、黙っているのは心苦しかったのだ。

 

 そんなわけで、自分の身が危険に晒される可能性もありながら、彼はパーティーメンバーに自分の秘密をカミングアウトしたのであるが……その反応は彼が思っているほど深刻なものではなかった。

 

 思い返せば、ジャンヌとメアリーははじめから知っていたことである。何も知らなかったギヨーム一人だけがほんの少し眉をひそめていたが、レオナルドに至っては困惑すると言うよりも、寧ろ珍しいものでも見たかのように目を丸くしながら、

 

「ほう……やはりのう。お主は色々とおかしな力を持っておるから、ただの人間ではないと思っておったが……まだ隠し玉があったか。人間ですら無かったとは。こりゃ驚いたのう」

「ああ、だから爺さん。俺みたいなのと一緒に居たくないなら、そう言ってくれて構わないんだぜ」

 

 本人としてはよほど後ろめたいのだろうか、鳳がそんな思いつめたような言葉を吐くと、老人は少々困ったように苦笑いしながら、

 

「まあまあ、待て待て。そう先走るでない。お主はおそらく、自分が魔族なんじゃないかと思って、そんな卑屈なことを言っておるのじゃろう……?」

「あ、ああ……少なくとも、その可能性があるんじゃないかと思って」

「そうじゃの、無くはないじゃろうが……その可能性は限りなく低いと思うぞ?」

「……そうなの?」

「うむ」

 

 レオナルドはポカンとした表情の鳳に向かって頷くと、何から話せばいいだろうと言った感じに言葉を選びながら、

 

「その、BloodTypeというステータスは、非常にあいまいな物なのじゃよ。というか、そもそも人間の能力を、数値で表すこと自体が間違っておるのかも知れぬ。そのステータスとやらは、お主ら人間や神人たちが考えているほど重要なものではない。現に、ステータスの高い神人は絶滅の危機に瀕しており、低い人間の方が繁栄しておるではないか……そうじゃのう。何から話そうかのう……? まずはお主が一番気にしているであろう、BloodTypeCというステータスが何を意味するのかを明らかにしたほうが早いか」

「あ、ああ……これって俺が魔族だって意味なんじゃなかったの?」

「そうではない。まず、儂の知っておるBloodTypeCの種族には、獣人がおる。しかし、獣人と一口に言っても、どのくらいの種族がいるか、お主は気づいておるか?」

 

 そう問われて鳳は首を振った。言われてみれば、種族なんてものは気にしたこともなかった。以前、ギルド酒場で狼男に詐欺られそうになったことがあるが、街に住んでいたのは彼らだけではない。商人が連れている奴隷の中には、猫型や兎型の獣人もちらほら見かけた。

 

「まず、人間の街でも会うことが出来る狼人(ウェアウルフ)猫人(キャットピープル)、お主はまだ見たことがないじゃろうが、蜥蜴人(リザードマン)は商人が多く、勇者領では頻繁に出会うことが出来る。兎人(ヴォーパルバニー)は臆病で、森の奥でひっそりと暮らしておるから、人間の領域で見かけることは滅多にない。そして新大陸には翼人(バードマン)という、こちらの大陸では見かけない獣人が住んでおる。

 

 このように、一口に獣人と言っても、そこには多くの種族が存在するのじゃ。ところがステータスを見ると、これらはみんな一緒くたにBloodTypeCと来ておる。こんな乱暴な話はないじゃろう? 彼らは獣人という一つの種族ではなくて、それぞれ違った種族じゃ。なのに、全てが同じと言うなら、考えられることはステータスの方が曖昧ということじゃろう。つまり、あのBloodTypeというものは、人間と神人とそれ以外を分ける指標でしかないということじゃ」

 

 理路整然としたレオナルドの説明に、鳳はだいぶ救われた気がした。確かに老人の言う通り、それなら鳳のBloodTypeがなんだろうとも、そんなに深刻に考えないで良いのだろう。しかし、それじゃあ、どうして彼だけが他のみんなと違っているのか? 未だにそれがネックとなり、鳳は続けざまに疑問をぶつけてみた。

 

「そ、そうだったのか……じゃあ、俺のBloodTypeCってのも、魔族とは限らないってことなんだな?」

「左様……というか、魔族のBloodTypeが何なのかなんて確かめようが無いからのう。案外、BloodTypeAやBかも知れぬし、未知のDやEという可能性もある。そんなの気にするだけ馬鹿馬鹿しいじゃろう」

「でも、それじゃあ、俺って何なんだ? 俺も獣人なのかな?」

「いや、お主は見るからに人間じゃ。儂の知る限り、どの獣人にも似ても似つかぬ。無論、魔族でもない。儂らと食べるものも同じなら、神人の耳のような特に変わった特徴も無い。お主は誰がどう見てもただの人間じゃ。現に、これまで人の街で暮らしていて、お主のことを人間じゃないなどと言って騒ぎ立てる者などおらんかったじゃろう?」

「そうだけど……それじゃあ、なんで俺だけみんなとBloodTypeが違ったんだろうか。違うというなら、そこに何か理由が存在するはずだろう? それが身体的な特徴じゃないとするなら、一体何なんだ」

「それならば、大方予想はついておる」

「え!? 爺さんにはその理由が分かるのか?」

「うむ……」

 

 自分が人間ではないかも知れない……この世界に来たときから絶えず付き纏っていた問題を、レオナルドはまるで問題ではないかのように言い切った。まさかこんなところで、懸案事項が解決するとは思いもよらず、鳳は思わず耳をそばだてるようにして身を乗り出したが、ところが、そんな老人から返ってきたのは、思いも寄らない言葉だった。

 

「お主と他の人間との違い……それは信じる神の違いじゃろう」

「か……神……? 神だって?」

 

 それほど長くは生きちゃいないが、それでも生まれてこの方一度として神の存在など信じたことなかった鳳は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

 この老人……一体何を言い出すんだ? まじまじと見つめる彼の視線は、まるで珍しい生き物でも見るかのように、胡散臭げに歪んでいた。

 

 しかしそんな感じの悪い態度を前にしても、レオナルドは表情を一切変えずに、黙って透き通った目で鳳を見つめ返していた。どうやら彼はふざけているわけでもなく、その言葉に確固たる自信を持っているらしい。

 

 鳳は正直戸惑っていたが、自分から尋ねておいて頭から否定することも無いだろうと、黙って老人に話の続きを促した。

 



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異常なのはお前の方だろうが

 小骨が喉に引っかかるかのように、異世界召喚された日からずっと気になっていたBloodTypeC問題……ギヨームとレオナルド、メアリーという新たな仲間を得た鳳は、いつまでも彼らに内緒にしておくのは不誠実だと思い、思い切ってカミングアウトしてみたのだが……

 

 それを聞いたレオナルドは、くよくよと考えていた鳳とは対象的にあっけらかんとその事実を受け入れ、おまけに彼は人間であると宣言してくれた。

 

 その言葉に内心ほっとしていた鳳であったが……それじゃあ、自分は一体何なんだ? 何故、一人だけがみんなと違うのだろうか? そんな疑問が拭えない。

 

 そんなわけで、今度はそれは何故かと尋ねてみたら……すると老人は信じている神の違いだと言いだした。

 

「神……? 神だって? いや、ちょっと待ってくれよ。俺は生まれてこの方、神様なんて信じたことがないんだが?」

「それは奇遇じゃのう。儂も信じたことなど一度もないぞ。じゃのにあの忌々しいフランス人どもめ……今際の際に、次から次へと神父を寄越しおって。無理やり懺悔させられた屈辱は、今思い出しても腸が煮えくり返るわい……」

 

 レオナルドは彼にしては珍しく感情的に舌打ちをしてみせた。しかし、それじゃなおさら彼が、神がどうとか言いだした理由が分からない。一体全体、どういう意味で神なんて言葉を持ち出してきたのだろうか。

 

「信じる信じないという話ではないのじゃよ。この世界の人間はおそらく全て、誰も彼もがなんらかの神の影響を受けておる。ところでお主は、この世界の創世神話を知っておるか?」

「それって、エミリアが受肉してソフィアになり、そのソフィアが精霊を創り出したってやつ?」

 

 鳳がうろ覚えの話をすると、レオナルドはすぐさま否定するように首を振って、

 

「それよりもう少し前の話じゃ。この世界には四柱の神がおって、それぞれエミリア・デイビド・リュカ・ラシャと呼んだ」

「ああ、それならギルド長から聞いた覚えがある……」

 

 確か、この世界には元々4人の神様がいて、四元素を司っていた。四柱の神は仲良く世界を創造したが、その世界を統治する人間のあり方で意見が食い違い、争いを始めた。

 

 その結果、ラシャがリュカを殺し、驚いたデイビドは逃げ出し、エミリアは引きこもってしまった。そして世界はラシャが創り出した魔族によって支配されていたが……このままではいけないと思ったエミリアが、ある日一念発起して、自分の分身ソフィアを地上に遣わし、ついに魔族との戦いに勝利したのだ。

 

「つまり元々、人間とは四柱の神の創造物だったのじゃよ。神話では、その出来が気に入らないラシャが魔族を作って他種族を追い出してしまったわけじゃが……大方、昔は魔族が優勢だったと言う程度の意味なんじゃなかろうか。やがて時が経ち、今度は神人が勢力を増してきて現在に至るわけじゃ……つまり、魔族とはラシャの作った人間、そして神人はエミリアが作った人間……」

「じゃあ、もしかして獣人ってのは?」

 

 レオナルドはうんうんと頷きながら、

 

「獣人はリュカの子孫だと言われておる。彼らにも創世神話があるんじゃが、それは神人たちの伝えるエミリアの神話とは似ても似つかない。四柱の神の間で諍いはあったが、最終的にはリュカが勝ったというような内容じゃ。故に、神人どもは獣人を嫌うのじゃよ。彼らからしてみれば、獣人は自分たちの神を信じない不届き者……つまり悪魔というわけじゃな。それが帝国での獣人たちの粗末な扱いに繋がっているわけじゃ」

「なるほど……そんな理由があったのか」

 

 思えば、あの国境沿いの街に初めてたどり着いた時、そこで見た獣人はどれもこれも奴隷扱いを受けて可愛そうだった。そのうち慣れてしまったから気づかなかったが、考えても見れば、あの街で普通の暮らしをしている獣人は一人も居なかったような気がする。

 

 見かける獣人はほとんどが奴隷か、せいぜい冒険者くずれの輩っぽい連中ばかりで、誰も彼も暮らしぶりはあまり良さそうに思えなかった。

 

「何故それが見えるのかは分からんが、儂らが見ているステータスというものは、どうやらエミリアが創り出したシステムのようじゃろう? そこで示される数値の殆どは、神人ばかりが優遇されておって、他の種族は軒並み低いのじゃ。他にも例えばINTというステータスは、神人が使う古代呪文(エンシェントスペル)の威力に関わるわけじゃが、呪文を使える種族なんて神人しかおらんのじゃから、人間や獣人にとってその数値はなんの意味もないではないか。つまり、あれで見えるのは神人本位の数字なのじゃ。故に、BloodTypeのようなものは、人間と神人、それ以外などといういい加減な区別しかつけていないのじゃろうな」

「はあ……そうだったのか。それじゃあ、このステータスってのは、あんまり気にしないでいいのかな? 実は、まだ気になることがあるんだけど」

「なんじゃ? 言うてみい」

「うん、実はこれが今の俺のステータスなんだけど……」

 

----------------------------

鳳白

STR 10↑      DEX 10↑

AGI 10↑      VIT 10↑

INT 10↑      CHA 10↑

 

BONUS 1

 

LEVEL 3     EXP/NEXT 75/300

HP/MP 100↑/0↑  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 0

鳳白

†ジャンヌ☆ダルク†

Mary Sue

William Henry Bonney

----------------------------

 

「基本ステータスっていうのか? STRとかDEXみたいなやつの横に、押せばいかにも上がりますって感じの矢印と、ボーナスの文字が見えるんだけど……あ、あとHPとMPも上げられそう」

 

 鳳が自分にしか見えないステータス画面のことを話して聞かせると、レオナルドのみならず、その場に居た全員が唖然とした表情をしてみせた。それまで黙って話を聞いていたギヨームは、はぁ~……っとため息を吐いてから、

 

「おまえは、またおかしな現象を起こしてやがんな。こないだの、俺のレベルを上げた共有経験値だったっけ? あれにも驚かされたが……」

「爺さん、これが何か知らないか? 押して良いものかどうか分からなくて、ずっと放置してたんだけど……」

 

 すると流石の老人も、こんなこと見たことも聞いたことも無かったらしく、彼は嘆くように天を仰いだ後に、

 

「いや……儂にも分からん。まさかこんな不思議なことになってるとは思わんで、得意げに語っていたのが馬鹿みたいではないか……」

「そりゃ、悪かった……」

「しかし、もしかすれば、これがBloodTypeCである所以かのう。お主はどうみても人間としか思えぬが、人間でも神人でもない、特殊な成長の仕方をしおる。となれば答えは一つ。お主はエミリアの眷属ではなく、別の神の眷属なのじゃろう」

 

 となると、リュカでもラシャでもないならば、

 

「デイビドに関係があるかも知れないってこと?」

「かも知れん」

「ふーん……その、デイビドってのはどんな神様なんだい。今までも何度か話に上っていたけれど、いまいちピンとこないんだ」

「さあ、儂にも分からん」

 

 鳳は、300年も生きているこの老人なら当然知っているだろうと思っていたから面食らってしまった。彼は目をパチクリさせながら、

 

「分からない?」

「うむ。デイビドは創世神話に現れるが、リュカが殺されて逃げ出した後、その行方ははっきりしない。ラシャに殺されたか、もしくはこの星から出ていってしまったのか……そもそも、神話なんてものはそれ自体、鵜呑みにしていいものではないじゃろう。神人と獣人の神話が違うことからしても、それが正しく後世に伝わっておるかは誰にも分からないんじゃから」

「確かに……」

「お主はデイビドの眷属の可能性もあれば、他の三神から複合的な影響を受けているやも知れぬ。はたまた、まだ誰も知らぬ未知の神の影響もあるかも知れんし、もしかするとお主自身が神という可能性もあるぞ」

 

 真面目な話をしていると思ったら、いきなり神だなんて言い出すとは……その言葉がおかしくて、鳳は思わず吹き出した。

 

「ははは。俺が神様だなんて、そんなのありえないよ。もしそうなら、こんな苦労をしているはずがないだろ」

「そうか? 聞けばお主の能力は神に匹敵する破格なものではないか。能力が低いと口では言っておきながら、お主はこれまで多くの危機を乗り越えてきた。今となってはこうして多くの仲間も得たのに、男ならば神を目指さぬ道理はあるまい」

「……本気で言ってるのか?」

 

 するとレオナルドは肩をすくめて、

 

「それほど意外なことかのう。例えば神人の魔法のように、お主は既にいくつもの奇跡を起こしておるではないか。その延長線上に、神がいてもなんの不思議もあるまい?」

「そりゃ……そうかも知れないけど。でも俺が神なんてことはないだろう」

「ふむ。古代中国には仙道があって、当たり前のように仙人を目指す者がおったではないか。お主の国の仏教は、誰もが仏になれると考えておるのじゃろう? 儂がフィレンツェで修行していた頃は、本気で神を目指している者がいっぱいおったぞ。結局は教会の力に屈し、口に出すことも憚られたが……お主は、なれるならなってみたいとは思わんのか」

 

 どうやら老人は、割と本気で言ってるらしい。鳳は少々面食らった。ルネッサンスの時代を生きた人のことはよく知らないが、考えても見れば中世にほんの少しばかり毛が生えた程度の時代である。鳳の時代とは考え方、そのものが違うのかも知れない。

 

 ともあれ、鳳にとって神などどうでもいいことである。さしあたって気になることは、それこそ目に見える問題にあった。

 

「まあ、魔族じゃないってんなら、俺の正体についてはもういいや。それより、ステータスの話に戻そうぜ。これって押しちゃっていいものなのかな?」

「ふむ……それは儂にもさっぱりじゃ。押して見なければ分からないとしか言えんのう」

「そうだよなあ……実はボーナスポイントが1しかないんだよ。だから、どれを上げたらいいか、正直なところ迷ってるんだが……」

 

 痛いのは嫌だからVITに極振りすれば良いようにも思うが、しかし、ボーナスポイントなんて、次はいつ貰えるかわかったもんじゃないから、そんな気軽に試すわけにもいかなかった。

 

 出来ればこの1ポイントを使って最大の効果を得たいところだが、攻略サイトがあるわけでもないし、どれに振れば一番効率が良いのかはまるで見当がつかない。

 

 自分のアルケミストという職業を考えれば、INTを上げていけばいいような気もするのだが……さっき聞いた話ではINTは神人でもなければ殆ど意味がないと言う。かといって、それじゃ他に何を上げればアルケミストっぽいのか? と問われれば、どれという感じもしない。辛うじて、DEXがそれっぽいだろうか?

 

 鳳がそんなことを考えながら頭を抱えてウンウンと唸っていると、それまで黙って二人のやり取りを見ていたギヨームが、割って入ってきた。

 

「レオ。話の最中に悪いんだけど、ちょっと良いか? ステータスのことについて、俺も聞きたいことがあるんだが」

「なんじゃ? まさかお主もおかしなボタンがあるとか言い出さんじゃろうな?」

「そこの変態と一緒にしないでくれ……いや、もしかすると関係あるかも知れないから言うんだが……実は、このところ、異常なくらい俺のステータスが上がっているんだ。具体的に言うと、全ステータスが1から2底上げされている」

「なんだって!? ずるい! 俺は一個のステータスを上げるのにも、こんなに苦労しているというのに……どうしてすぐ言わないんだよ!!」

 

 その話を横で聞いていた鳳が非難がましく叫び声を上げた。ギヨームはそれを面倒くさそうに手で追い払いながら、

 

「見てくれで分かるだろうが、俺は成長期なんだよ。身長も体重も去年に比べてぐんぐん伸びてる。だから、こういうこともあるのかと思って、気にしていなかったんだが……改めて考えてみると、少し成長し過ぎなような気がする」

 

 彼はそう言って自分のことを指差した。放浪者(バガボンド)の精神年齢が高いせいで忘れてしまいそうになるが、ギヨームの見た目はまだ小学校の高学年くらい……せいぜい12歳程度でしかないのだ。因みにステータスは以下の通りらしい。何度も言うが、基本ステータス15以上は、普通の人間の限界を超えている。

 

----------------------------

William Henry Bonney

STR 13        DEX 17

AGI 17        VIT 12

INT 13        CHA 15

 

LEVEL 53     EXP/NEXT 18600/250000

HP/MP 1580/75  AC 10  PL 0  PIE 0  SAN 10

JOB Thief Lv6

 

PER/ALI NEUTRAL/NEUTRAL   BT A

----------------------------

 

「俺たち人間の子供は、体が大きくなるにつれてステータスも釣られて上がっていく。でも、俺はこの一ヶ月、一気に背が伸びたとか筋肉がついたとか、体の変化があったとは思えない。ところがステータスだけがガンガン上がってるような気がするんだ」

「なるほどのう……しかしお主、その原因に既に心当たりがあるのではないか?」

 

 老人がそう返すとギヨームは頷きながら、

 

「ある。一ヶ月前、帝国兵から逃げる途中、俺はこいつの能力でレベルが上った。それも普通では考えられないくらい一気に。具体的には、元は30代だったレベルが50代にまで上がっているんだ」

「え? そんなに上がってたの??」

「ああ、おまけに俺が元々持っていたスキルまで変化するというおまけ付きだ。だからおまえの能力は、変だ、チートだ、って何度も言ってるわけだが……俺たちの常識では、レベルが上昇してもHPやMPが上昇するだけで、ステータスには特に影響がないと思われている。だが現実問題、レベル30代になるような連中は軒並み普通の人間よりもステータスが高い。それは元々ステータスが高い人間が、レベルが上がりやすいからだと思われてきたわけだが……改めて思うんだが、もしかして、これは逆だったんじゃないのか? なあ、爺さんはどう思うよ」

 

 ギヨームにそう言われたレオナルドは、少し考えるような仕草をしてから、

 

「ふむ……お主のようなレベルの上がり方をした者など知らぬから、儂もはっきりとは分からんが……しかし、そう考えれば、ジャンヌや召喚者達のステータスが軒並み高かった理由にもなるのう」

「やっぱりそう思うよな」

「うむ、しかし確かめようがないぞ。そもそも、神人とは違って、人間には高レベルの者が殆ど存在しないからの」

 

 その言葉に鳳が首を傾げて、

 

「そういや、ギルド長もそんなこと言ってたな。でも、どうしてだ? ギヨームはレベル50を超えてるんだろ? ジャンヌは今や102だし、レベルキャップがあるわけでもなさそうだけど……?」

 

 するとレオナルドはさもありなんと言わんばかりに、

 

「簡単な話じゃ。レベルを上げるには、魔物を倒さねばならん……実際は、魔物でなくても、獣人でも同じ種族の人間でも、敵を倒せば経験値が得られるわけじゃが……例えば、ジャンヌよ。お主は次のレベルまで、あとどのくらいの経験値が必要じゃ?」

「え? 私……? えーっと……100万飛んで少しだけど」

「すると、ゴブリン換算では1万匹くらいというわけじゃが……そんな数、一体どこにいると言うんじゃ?」

「……ああ」

 

 鳳はそう言われて目からウロコが落ちるような気分になった。

 

 確かにそうだ。これがゲームなら、MOBは時間が経てばいくらでも湧いて出てくるが、現実はそうはいかない。1万の大群なんて、戦争でも起きない限り、一生お目にかかることが出来ないだろう。

 

 しかも、その戦争だって100人も殺せば英雄だ。ところが、その程度ではジャンヌはレベルが一つも上がらないのだ。

 

「そう考えると、ジャンヌのレベル102って異常だな……実際にそこまで上げようと思ったら、全人類を相手にしてもまだ経験値が足りないんじゃないか? 凄い凄いと思ってはいたけれど……おまえばっかり恵まれた能力で召喚されやがって、羨ましいったらありゃしない」

 

 鳳がそんな具合に感嘆の息を吐いていたら……気がつけば、いつの間にかそんな彼のことを、その場にいる全員がジトーっとした目つきで見つめていた。鳳は、何かしてしまったのかと戸惑っていると、

 

「異常なのはお前の方だろうが。俺もジャンヌも、上げようとしてもレベルを上げることなんてまず不可能だった。それをおまえが可能にした。レオが神がどうとか言っていたが、俺もあながちそれは間違いじゃないような気がしてきたぞ」

「ええ? しかしそう言われても、俺には何の恩恵もないんだぞ?」

 

 鳳はそう言って嘆いているが、ギヨームは内心で、今だけはな……と思っていた。

 

 今までやってこなかっただけで、鳳の能力は本人のレベルも上げることが出来たはずだ。彼が共有経験値を自分に割り振った時、果たして何が起こるのだろうか……そしてアルケミストなる未知なる職業と、新たに見せたステータスの異常さも考えると、これからこの男がどれだけ成長するか、非常に興味深いところである。

 

 最初は相棒(ジャンヌ)が巻き込まれたから、なし崩しにくっついて来ただけのつもりだったが……今となっては、この男についていくのも悪くないとギヨームは考えていた。少なくとも、彼と一緒にいれば、楽してレベルアップ出来る可能性があるのだ。別段、高レベルになって何がしたいというわけでもないが、この分けの分からない世界で今後も生きていくなら、レベルが高いにこしたことはないだろう。

 

 なにはともあれ、こいつについていけば退屈しないで済むのは間違いないはずだ。彼は自分のステータスを見ながら、そんなことを考えていた。

 



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はじめてのスキル

「しかし、レベルが上がればステータスも上がるってんなら、俺のステータスの横に現れた矢印は何なんだろう。押せばいかにもステータスが上がりますって感じだけど、レベルが上がれば結局同じことになるなら、意味ないよな」

 

 鳳のステータスの話をしていたら、思わぬ形でそれらに関する新事実にぶつかってしまった。ギヨームによると、最近、急激にレベルアップした結果、彼のステータスも上がっているらしい。もしかすると、人間とは元々レベルが上がればステータスが上がる生き物だったのかも知れないというのだ。

 

 すると結局、レベルが上がればステータスも上がっていくと言うなら、鳳が自由に好きなステータスを上げられたとしても、そんなのは一時の事でしかない。上げても上げなくても結果が変わらないのでは、こんな能力があっても意味がないではないか。

 

 鳳がそんな疑問を呈すると、レオナルドが慌ててそれを否定した。

 

「いいや、それは分からぬぞ。確かにギヨームの成長はレベルとステータスの連動を示唆しておるが、今の所、それを裏付ける証拠はない。それに、お主が最初に言っておったではないか。自分は人間ではないかも知れないと。そのお主が普通の人間と同じような成長をするとは限らない……寧ろ、今までの話から考えると、そうでない可能性のほうが高いじゃろう」

「そ、そうか……そうだよな。しかし、そう考えると、ますます分からないんだけど、ステータスって結局何なんだ? 魔物を倒せばレベルが上がる。レベルが上がれば筋力や知力が増える。普通、人間ってこういう成長の仕方はしないよな。筋トレなんかの鍛錬をして、素振りするなど反復練習をして、そういうものの積み重ねで成長してくものだろう? もちろん、実践が大事なのは言うまでもないけども」

 

 すると老人は鳳の意見に同意して、

 

「お主の言うとおりじゃな。儂らの常識では、普通の人間はそうやって成長する。しかし、現実にこの世界ではレベルという概念が存在し、魔物を狩ることによって上がっておるわけじゃ……ところでジャンヌよ。お主はあそこにある大木をその剣で叩き切ることが出来るかの?」

「え? 私!?」

 

 鳳たちの議論を黙って横で聞いていたジャンヌは、突然話を振られて驚きながら、

 

「そ、そうね……出来ると思うわ。試してみましょうか?」

「いいや、結構。ところで、お主。ここが地球であったら、あの大木を同じように切ることが出来たかの?」

「そんなの絶対無理よ!」

 

 ジャンヌが思いっきり否定すると、老人はさもありなんと頷いてから、

 

「この通り、地球では出来なかったことが、この世界では出来ると言うわけじゃ。おそらくジャンヌは、ここに来る前もこっちに来てからも、見た目や能力は大して変わっとらんはずじゃ。なのに、地球では出来なかったことが出来るということは、そこになんらかの人為的な……もしくは神為的な力が介在しておると言うことじゃろう? それがステータスには反映されておるわけじゃな」

「神……神か……」

 

 なんとなく現代人の常識として、話半分に流してしまっていたが、少なくともこっちの世界では神の存在は簡単には否定出来ないもののようである。それが例え何者であろうが……例え幼馴染であったとしても、鳳たちに力を貸している存在は確かにいるらしい。

 

「それが人間や神人の間では、四柱の一柱エミリアだと考えられておる。ところが、お主はそのエミリアの眷属たちとは違った成長の仕方をしておる。とすれば、今後お主のレベルが上っても、ギヨームのようにステータスが上がっていくとは限らないじゃろう」

「なるほど、俺はエミリアの眷属とは違うルールで成長していく可能性があるのか……そう考えると、よっぽど、あのボーナスポイントは大事だって言うわけだ」

 

 鳳は今までステータスの低さを嘆いていたわけだが、自分が貧弱だったのではなくて、この世界に住む人々が、元々チート能力者だったと考えれば納得がいく。神の恩恵を受けた者と、そうでない者とで、能力に差があってもそりゃ当然だろう。

 

 今後は鳳も自分でステータスを上げていけるわけだが、しかし現在手にしているボーナスポイントはたったの1。どのステータスに割り振るかは、ますます重要になったと言えるだろう。

 

「何から上げてきゃいいのかな。INTはあり得ないだろうし……」

「いや、分からんぞ。お主は未知の神の恩恵を受けておる。もしかすると神人と同じように、INTの影響を受ける魔法のような力が使えるやも知れぬぞ」

「ええ!? ……それじゃ、ますます選択肢が増えて決めきれないじゃないか」

 

 鳳がそんな風に嘆いているときだった。彼はふと、レオナルドの言葉の中に違和感を覚えた。

 

「あれ……? そういえば、INTってのは神人の魔法にしか影響がないんだよな?」

「うむ。実際には現代魔法(モダンマジック)にも多少の影響を与えておるが、微々たるものじゃ」

「それっておかしくねえか? 人間も神人も、エミリアの眷属なんだよな? なのに、エミリアは明らかに神人の方を優遇しているじゃないか。これってどうしてだ? もしかして、人間ってのはエミリアの眷属じゃないんじゃないか?」

 

 鳳がそんな疑問を呈すると、老人はほんの少し苦笑いしながら、

 

「ふむ……お主は中々痛いところを突いてくるのう……共存している手前、口には出さんが、多くの神人もお主と同じように考えておるようじゃ。しかし、儂の見立てでは、おそらく、人間もエミリアの眷属で間違いないじゃろう」

「どうしてそう思うんだ」

「お主も気にしておったBloodTypeを思い出してみよ」

 

 あれが何か関係あるのだろうか……?

 

 鳳は言われたとおりに例のステータスのことを思い出した。確かあれはBloodTypeAが人間を表しており、Bが神人、Cがそれ以外という大雑把なものだった。

 

 彼はそこまで思い出したところで、

 

「……ん? Aが人間?」

 

「左様。Aが人間、Bが神人じゃ。普通、こういった序列はどういう風につけるかの? 本人の見せたい順、つまり優遇している順番につけるか、もしくは、時系列順のように意思を避けたつけかたをするじゃろう。

 

 そこで創世神話をもう一度思い出してみよ。四柱の神はまずはじめに人間を作った。その出来に納得がいかなかったラシャが魔族を創り出し、それが地上を支配しようとした時、このままではいけないとエミリアが神人を作って食い止めた……

 

 これを踏まえると、人間とは元々四柱の神が作ったもので、エミリアはそれを守ろうとして神人を創り出したと考えられるわけじゃ」

 

「なるほど、そうだったのか……」

 

「まあ、これは儂の推測に過ぎんのじゃがの……こんなことを言い出せば、あのプライドの塊みたいな神人共が騒ぎ出すに決まっておるから、誰にも言えんのじゃ。故に、もしかしたら違うのかも知れない」

 

「いや、俺はそれで納得したよ。俺も爺さんの考えに賛同する」

 

 鳳がそう言うと、レオナルドは少しホッとしたように肩を回し、

 

「まあ、お主が疑ってしまったように、確かに人間と神人では人類としての完成度が違いすぎるからのう。なんと言うか、神人は種として完成されすぎておるのじゃよ。例えば、ステータス一つとっても神人と人間ではそのあり方が違う。高い低いという違いだけではなく、まず神人という種族はステータスが変わらない」

 

「変わらない……まったく増減しないのか?」

 

「そうじゃ。神人という種族は、生まれてから成長が止まるまでの十数年間は人間と同じように成長するが、それ以降はピタリと成長が止まってステータスが変動することはない。いや、CHRだけは増減するのじゃが、何しろカリスマじゃからのう……その他は何百年でも同じままじゃ。

 

 対して人間の方は大人になってからも頻繁に増減する。例えば、アスリートが記録を更新し続けるように、大体30歳くらいまではSTRやAGIなどの体力的な数値が上がりやすい。じゃが、それをすぎると今度は逆に数値が減りやすくなる。いわゆる老化現象と言うやつじゃな」

 

「ああ、そうだったんだ」

 

「具体的に、STR,DEX,AGIは運動で伸びやすく、VIT,INT,CHRは生まれに左右されやすいと言われておる。そしてSTRが上がるとDEX,AGIが下がりやすいという相関関係がある。

 

 まあ、考えても見れば当然じゃな。STRというのは筋力を表しておるわけじゃが、例えば力いっぱい剣を振っている最中に細かい作業を行ったり、全力で走っている最中に急激に方向転換したりは出来ないじゃろう。ステータスで表示されるのは、能力の最大値じゃから、STRが高い者は他が低くてもそれほど悲観することはないと言うわけじゃ。

 

 実は儂も若い頃はSTRが高かったのじゃが、歳をとってからはめっきり下がってしまってのう……今となっては鳳、お主よりも低い一桁数字じゃわい。その代わりDEXとAGIが上がって、特にDEXは他の人間よりも高い15をキープしておる」

 

 この老人のことだから、ジャンヌみたいに20とか30とか言い出すんじゃないかと思って身構えていたが、案外普通で安心した。鳳は彼の説明を噛みしめるように吟味すると、思いついたことを言ってみた。

 

「ふーん……それじゃあ、例えば俺がSTRを上げておいて、その後運動しないで怠けていたら、老化現象が起きてDEXとAGIが上がる可能性があるかも知れないんだな? ボーナスポイント1で、二つのステータスが上がるとしたらお得じゃん。だったらSTRをあげてみようかな……」

「またお主は、システムの穴を突くようなことを言い出しおって……さっきも言ったが、お主は他の人間とは成長の仕方がまるで違うんじゃから、そう狙ったようになるとは限らんぞ」

 

 老人がそんな鳳を窘めていると、それまで二人のやり取りを横で聞いていたギヨームが、割って入るように言った。

 

「それなら鳳、MPを上げてみたらどうか」

「MP? どうして?」

「お前も、いつまでもMPポーションで酔っ払ってる場合じゃないだろ。それに、そのボーナスポイントとやらで、HPやMPがどのくらい上がるのかちょっと興味がある。他のステータスと違って、まさか1ってこともないだろう。もしかすると、何かスキルを覚えるかも知れないし」

「む、むむむ……確かに。あの気持ちいいトリップが出来なくなるかも知れないのは残念だけど……どうせ今はMPポーションを手に入れるあてもないしな。もしも新スキルを覚えたら、俺も役立たず脱却だ。悪くない賭けかも知れない……」

 

 それに、鳳の職業アルケミストというのは、いかにもテクニカル系の職業っぽい。剣を握って前線で戦うよりも、なんかそれっぽいスキルを使って後方で援護するようなイメージが有る。

 

 なら、体育会系の能力を上げていくよりは、INTやMPなどのインテリっぽいステータスを上げてくほうがいいのでは……

 

「ガチャ……ガチャだと思えば……」

「あいつは何を言ってるんだ?」「そっとしてあげてちょうだい。あれが現代人の、サガなのよ……」

 

 鳳が苦悶の表情を浮かべている横で、ギヨームとジャンヌがそんな会話をしていた。鳳はそれから数分間、身を捩らせながら散々悩んだ挙げ句、ついに……

 

「ええいっ! どうせボーナスは1しかないんだ。何をやっても賭けにしかならんのなら、乗ってやろうじゃないか、この大博打に。ほれ、ポチーっとなっ!!」

 

 鳳をそんなセリフを吐きながら、自分のステータス画面に見えるMPの横にあった矢印を指で押した。

 

 その瞬間……彼の体の中で何かが変わっていくような、ゾワゾワとした感触がして……

 

 続いて寝起きみたいに妙に頭がスッキリしたかと思ったら、その後にまるで脳内に響くかのように、ポーン……っとエレベーターの到着音みたいな音がして、

 

『スキル・アルカロイド探知 を覚えました』

『スキル・博物図書館(ライブラリー) を覚えました』

 

 鳳の脳内に機械的なナレーションが聞こえてきたと思ったら、新スキルを覚えたというような、そんなセリフを告げられた。

 

「お? お? おおお!? うおおおおぉぉぉーーーっっ!! なんか覚えた、マジでなんか覚えたっぽいぞ!? アルカロイド探知に、ライブラリーだって!」

「マジか!? ダメ元だと思っていたのに……それで、鳳、どんなスキルを覚えたんだ?」

「分からん。スキルってどうやって試せば良いんだ? 名前を叫べばいいのか? アルカロイド探知ーっっ!! って……ん?」

 

 鳳がそう言って周囲をキョロキョロと見回した時だった。視界の片隅で、何かキラキラしたものが光ったと思い、目を凝らしてみてみると、それは木の根っこにこっそりと生えていた見慣れぬキノコが発しているのだった。

 

 彼がなんだろう? と思い、キノコを手に取り、じっとそれに焦点を合わせた時……すると突然、ステータス画面が現れるときのように、目の前に半透明のウィンドウが現れ、

 

『マジックマッシュルーム……シロシビン0.4%含有……有毒』

 

 と書かれていた。鳳は思わずのけぞった。

 

「こ、これは……もしやあの幻のマジックマッシュルーム……!?」

 

 その事実に驚愕しながら、ハッとして周囲を眺めてみたが、鳳の視界のあちこちで同じようにキラキラと光る植物が見つかった。彼はまるで誘蛾灯のごとく、フラフラとその光に近づいていくと、

 

「ふおおおぉぉーーーっ! 見える見えるぞ、俺には見えるっ!!」

「はあ? 一体何が??」

 

 いきなり立ち上がってフラフラしたかと思うと、そこら中に生えてるキノコを引き抜きながら突然叫び声を上げた鳳に対し、ギヨームが汚物でも見るような目つきで尋ねると、鳳は目をキラキラさせながら、

 

「俺には分かる! すべての植物の毒性が!! 俺はどの植物が温かいやつで、どれが冷たいやつかが、見ただけで瞬時に分かるスキルを手に入れたのだ!」

 

 そう言って、鳳は嬉々としながらそこら中の草木から葉っぱやキノコをむしり始めた。最初は彼が何を言っているのかイマイチ分からなかったギヨームたちは、暫しその姿を呆然と眺めていたが、そのうち、彼が何をそんなに喜んでいるのかがわかってきて……

 

「駄目だこりゃ……」

 

 まさか、こっちの世界に来て初めて覚えたスキルが、麻薬生成のためのスキルだったなんて……

 

 鳳の新スキルは、実際、凄いものなのだろうが、この男がまともな使い方をしないことだけは何となくわかってしまったから、その場に居た人々は頭を抱えてしまった。

 



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獣王

 鳳が、もしかすると自分は人間じゃないかも知れない……と言いだしたことから始まったステータス論議。途中、ギヨームのレベルアップの結果などから、どうやら人間は巷間で考えられているような、貧弱なだけの種族ではなさそうだと言うことがわかってきた。

 

 レオナルドの推測では、この世界の最初の人類こそが人間であり、彼らはエミリアの加護を受けている。故に、神人と比べれば微々たるものだが、それでもなんらかのチート能力を得ており、それはレベルによって増減しそうである。そんなことが判明したわけだが……

 

 それはさておき、最終的に鳳のステータスのボーナスポイントを何に使うかと言う話になって、MPを上げてみたところ、彼はアルカロイド検知なる、なんか使えるんだか使えないんだかよく分からないスキルを覚えたのだった。

 

 その後、新スキルを覚えたばかりの鳳が大喜びでそれを試している間、退屈をしていたメアリーがいつの間にか寝てしまっていたので、その日はそれでお開きになった。

 

 明けて翌日。

 

 一行はこれまで一ヶ月間お世話になったキャンプを畳んで、移動を開始するための準備を始めた。鳳のステータスの話で後回しになってしまっていたが、元々、昨夜の話し合いはギヨームが、そろそろ新大陸を目指そうと提案したのが発端だったのだ。

 

 改めて話を進めたところ、鳳もジャンヌもレオナルドも移動することには異存無く、メアリーを説得した今、懸念材料も無くなったので、彼らは特に揉めることもなく移動を開始することになった。

 

 幸い、ここ一ヶ月のサバイバル生活で集めた食料があったお陰で、一週間くらいなら食べ物に困らないで済みそうだった。荷物も馬が運んでくれるので余裕があり、後はどういう経路で新大陸を目指すかと言う問題だけである。しかし、それが中々厄介だった。

 

 そもそも、一ヶ月前に大森林に逃げ込んできた鳳たちは、自分たちが大森林のどの辺りにいるのか見当がつかず、移動しようにもこれといった目標もなかったのだ。

 

 大森林にはこれと言った街はなく、目印になりそうなのは北方を掠めるように通っている勇者領とヘルメス領を繋ぐ街道だけなのだが……一ヶ月が経っているとは言え、いかにも追っ手が待ち構えていそうな場所には、流石にまだ近づきたいとは思えず、それならいっそ直接勇者領を目指したほうがマシだろうと言う話になった。

 

 ただ、理論上は方位磁針の指す方向に従って、西へ西へと進んでいけば、いつかはたどり着けるはずなのではあるが、何しろ森の中だから何が起きるかわからない。出来れば道案内くらいは欲しいところである……

 

 そこで、まずは集落を探そうという話になった。

 

 大森林には様々な部族(トライブ)が集落を作っており、主に狩猟をして暮らしている。それぞれの部族のテリトリーは広範囲であるから、そんな中から集落を見つけるのは至難の業と言われているが、獣人も生き物であるから水がなければ生きてはいけない。ならば、水場を探していれば、いずれ集落にたどり着くはずだ。

 

 というわけで、丁度、鳳たちがキャンプをしていたのも川沿いだったので、これを辿っていこうということになった。方角的には西でも北でもなく、南へ向かってしまうのだが、必要な回り道だと思って気にしないことにした。

 

 そんなこんなで、出発してから2日が経過した。初日は移動に慣れていないことも考えて、日が暮れる前に早めにキャンプをしたせいでそれほど進めなかったが、二日目は早朝から移動をはじめて結構な距離を稼ぐことが出来た。最初の拠点から直線距離で40キロと言ったところだろうか。あまり進んでないように思うかも知れないが、道のない森林のうえ、日が暮れるのも早いから、案外こんなもんである。

 

 それに、移動が遅くなる原因もあった。スキルを覚えたばかりの鳳が、森で何かを見つけるたびに、いちいち立ち止まって調べようとしてしまうのだ。他の人にはただの草木にしか見えないものが、彼には宝の山に見えるのだ。

 

「おいっ! いいかげんにしろよ。どんだけ人を待たせりゃ気が済むんだ!」

 

 そんなわけで3日目の今日も、歩き始めて半刻もしないうちに鳳が立ち止まってしまったから、先頭を進んでいたギヨームがついにキレた。

 

「まあまあ、そんなに急いだところで、都合よく集落が見つかるわけでもないだろ。ここは気長に周囲を探索しながら進んだ方が、後々のためにもなるんじゃないか」

 

 鳳がそんな火に油を注ぐような事を言うと、ギヨームはいよいよ怒り心頭と言った感じに乗っていた馬から飛び降り、鳳の頭をポカンと一発引っ叩いて、

 

「やかましいっ! ジジイじゃあるまいし、呑気なこと言ってんじゃねえよ。まだ食料に余裕はあるとは言え、これだっていつまでももつようなもんじゃないんだぞ。早めに集落を見つけなければ、また野宿生活に後戻りだ。そんなこと繰り返してたら、いつまで経っても新大陸なんかたどり着けやしないだろうが」

「つってもなあ……こうして見てみると、薬草って結構貴重なんだぜ? そりゃ、民間療法程度のもんなら、その辺にいくらでも生えてるんだけど、劇的なのは中々お目にかかれないんだ」

「そんなの知らねえよ。夜になってから一人で勝手に探せばいいだろう? 俺たちまで巻き込むなよ」

「夜は夜で、摘んできた草を処理するのに時間を食うんだよ。ほら、MPポーションも結晶にした方が効果が高かっただろう?」

「それこそ、街に戻ってからやってくれ! 今はこの状況を打破するのが先決だろうが」

「う、うーん……仕方ないなあ……」

 

 鳳はそれでもまだ後ろ髪を惹かれるようにチラチラと背後を見ながらも、ギヨームに押されるような格好で隊列に戻った。

 

 パカパカと蹄の音を立てながら、三頭の馬が歩いていく。大きな荷物を乗せた先頭の馬をギヨームが引き、その後にレオナルドを乗せた馬の手綱を引く鳳が続いた。最後尾の馬にはメアリーが乗り、その横にはジャンヌが歩いている。どうせ馬の手綱を引くなら爺さんよりも女の子を乗せた方が良いのだが、ジャンヌのほうがメアリーと仲が良いので自然とこうなった。

 

 キャアキャアと楽しそうな女の子(?)同士の会話を横目に、じじいを乗せた馬を引っ張りながら、さっき摘んできた草を喰んでいると、上の方からそれをじーっと見ていた老人と目があった。

 

「食うか? MPが少し回復するぞ」

 

 と差し出すと、老人は受け取った草の匂いをクンクンと嗅いでから口の中に放り込み、

 

「ふむ……確かに回復しておるようじゃ。それになんだか甘いのう」

「花の付け根に蜜を蓄えているみたいだな。花弁は蜂だけが入れる構造になってて、その他の虫に食われないように毒で覆われている。良薬口に苦しって言うだろ? 俺たちはその毒でMPを回復してるわけだが……養蜂にも使えそうだし、出来れば何株か持って帰れりゃいいんだけど……」

「そういうのも、お主のスキルで分かるのか?」

「まあな。アルカロイド探知で薬物のある場所が分かって、ライブラリーでその種類が分かるって感じだ。後はそれを上手く処理できるスキルがあればいいんだけど、神様もそこまではサービスしてくれなかったようだよ」

「ふーむ、そりゃ便利じゃのう……しかし、儂も長いこと生きておるが、お主のような不思議な放浪者(バガボンド)は初めてじゃ。放浪者は大抵凄い能力持ちじゃが、お主は少し度を越してる気がするぞい」

「何度も言ってるけど、俺には何の得にもならんのだけどね……」

 

 鳳は苦笑いしながらそう言ったあと、ふと思いついて、

 

「そういや爺さん。あんた300年生きてるんだよな? 神人でもないあんたが、どうやってそんなに長く生きられたんだ? あんたも放浪者だけど、それと関係あるの?」

「ふむ、そうじゃのう。そうかも知れんが。儂にも分からん」

 

 鳳はがっくりと項垂れた。

 

「自分のことだろう?」

「鳳よ。では神人はどうして何百年も生きられるんじゃ? お主にその理由が分かるかいのう?」

「え?? そりゃ……わからないけど」

「それと同じことじゃ。神人は神人だから長生きする。儂も儂だから長生きする……としか言いようがない。お主はテセウスの船という話を知っておるか?」

「ん……? ああ」

 

 ギリシャ神話の英雄テセウスが、ミノタウロスを倒して凱旋した時に乗っていたとされる船が、アテネに後世まで保存されていた。ところが船は木製だから、時が経てば朽ちてしまう。そのため、何度も修理したりパーツを交換したりしていたのだが、ついには全ての部品が別のものと入れ替わってしまった。

 

 この時、全てのパーツが入れ替わった船は果たしてテセウスの船と呼べるのだろうか。もしも、腐ってしまった元のパーツを無理矢理にでもつなぎ合わせたら、それもやっぱりテセウスの船と呼べるのだろうか。

 

「儂ら人間も新陳代謝で日々細胞が入れ替わっておる。大人になった時には、もう生まれた時の細胞は殆ど残っていない。しかし、脳や一部器官の細胞は、生まれてから一生入れ替わらないと思われており、それ故に人間は老いて死ぬ定めにあるわけじゃが……

 

 ところで、もし脳細胞や一部器官の細胞までもが日々新しい細胞に生まれ変わっていたとしたらどうじゃろうか。常に新品の細胞に入れ替わっていたら、その人には老化も死も訪れぬかも知れん」

「つまり、神人や爺さんがそうだと?」

「かも知れん。と言うておるじゃろう。自分の体の細胞分裂なんて意識することも出来ぬから、それは誰にも分からぬよ。可能性の話じゃ」

「ふーん……」

 

 もしそうだとしたら、レオナルドは300年前のレオナルドと同一人物と言っていいのだろうか。いや、そもそも、この世界のレオナルド・ダ・ヴィンチは、地球の16世紀ごろに活躍したレオナルドとは、文字通り細胞一つの共通点もない。なのに、彼をレオナルドと言ってもいいのだろうか?

 

 鳳たちがそんな禅問答みたいな話をしていると、先頭を歩いていたギヨームが突然立ち止まって言った。

 

「なあ! あっちの方なんだけどよ、かなり光って見えないか?」

 

 彼がそう言って指差す方角を見てみると、確かに森の奥のほうが他よりも明るく光って見えた。それは何かが発光しているという感じではなく、そこだけ陽が差しているといった感じの明るさである。

 

 川が近いから、もしかしたら池や沼かも知れないが、そこが集落か広場になってる可能性も捨てがたい。川べりからは距離があり、少々遠回りになるが、一行はその場所を目指してみることにした。

 

******************************

 

 森の中に差し込む光に歩いていくと、そこに人工物らしき建物のシルエットが見えてきて、一行は色めきだった。

 

 しかし実際にその場所までやってきてみたら、そこには集落なんかは無くて、打ち捨てられた小屋が建ち並ぶ空き地が広がっているだけだった。もっと正確に言えば、既に小屋と呼べるような物は一つもなく、高床式の土台があちこちに残されているだけである。

 

 空き地はどこもかしこも胸の高さくらいある雑草だらけで、足を踏み入れることを躊躇するほどだった。唯一、中央付近だけはぽっかりと地面の土が見えていて、在りし日にそこを頻繁に人が往来していたことを思わせた。

 

 その空き地をぐるりと歩いてみると、家が立ち並んでいる広場から少し離れた場所に、大きな穴がぽっかりと空いており、そこだけは他の地面とは土の成分が違っている感じがした。おそらく村の便所として使われていたからではなかろうか。今もあまり草木が生え揃わないその大穴の隣には、よく見れば柵で囲ってあるスペースがあり、そっちは逆に旺盛に雑草が茂っているようだった。

 

 その雑草を掻き分けて地面を探ると、錆びついた農具のようなものが落ちていたり、明らかにここで人が暮らしていた形跡が窺えた。道具が残されているのは、慌てて出ていったからだろうか。更によく見れば、あちこちに積み上げられた石があり、もしかするとそれは墓標だったのかも知れない。

 

 居なくなってから、どれくらいの時間が経過したのだろう。生えている草木の様子から察するに、さほど時間は経っていないようだ。となると、どうしてこの集落の人達が、ここを捨てて出ていったのかが気にかかるところであるが……

 

「ツクモ、何かわかった?」

 

 地面に顔を近づけて、じっと雑草を観察していたら、メアリーが近づいてきた。中央の広場を見れば、ギヨームが馬から荷物を下ろしている。多分、休憩がてらこの周辺を調べてみるつもりなのだろう、メアリーたちが乗っていた馬は、もう仲良く並んでその辺の雑草をむしゃむしゃと食べていた。

 

「多分、人が居なくなってから半年かそこら……長くて1年といったところかな」

「どうして分かるの?」

 

 鳳は雑草を指差して、

 

「ここに生えているのは、どれもこれも冬には枯れちゃう草花ばかりなんだよ。人が住んでいると、雑草はすぐに抜かれてしまうから、そういう草しか生えなくなるんだ。森の木々は冬になっても枯れたりしないで、何年もそのまま立ってるだろう?」

「へえ、そうなの。知らなかったわ」

「だから、つい最近まで人が住んでいたのは間違いない。問題は、どうしてその人達がここを出ていってしまったのかってことだけど……」

 

 二人でそんな会話を交わしていたら、ギヨームが近寄ってきた。

 

「鳳。今日はまだ早いけど、ここにキャンプを張って周辺を探索しようかと思う。ここに村人は居ないようだけど、獣道くらいは残ってるかも知れない」

「ここの人たちはどうして出ていってしまったのかな?」

「さあ、分からねえ。ただ、レオが言うには、部族社会(トライブ)の連中は、狩場の動物を狩り尽くさないように、数年ごとに移動を繰り返すそうだ。だもんで、案外、近くにいるかも知れないから、ここを拠点に探すのも有りかも知れないってさ」

「ああ、そういう可能性もあるのか……それじゃ、すぐには離れない方が良さそうだな」

「取り敢えず、今日明日と周辺を探ってみようかと思う。一応、食料確保に獲物がいたら狩るつもりだけど、問題の部族の縄張りだとしたら、怒られたりしねえかな?」

「緊急避難的に許されるとは思うけど……どんな相手かわからないのが困るな。出来るだけ川魚で済ませたいところだが……」

「しーっ……!」

 

 二人がこれからの予定を話し合っている時だった。突然、ギヨームがピクリと眉毛を動かしたかと思うと、人差し指を唇に当てるジェスチャーをしてみせた。

 

 どうしたんだろう? とポカンとしていると、彼は棒立ちでいる鳳たちをグイグイと引っ張りしゃがませて、

 

「何かがいる……しまったな。ここまで近づかせてしまうなんて」

「魔物か?」

「いや、人間だ……10……20……いや、もっとか。隠れてこっちの様子を窺っているようだ。ここの集落の人間……ってわけじゃなさそうだな」

 

 ギヨームはそこまで言うと、もはや隠れていても意味がないと思ったのだろうか、クオリアで光る銃を作り出しそれを構えながら、離れた場所にいるジャンヌたちにも聞こえるような大きな声で叫んだ。

 

「誰だっ! 俺たちに用事があるなら、隠れてないで出てこいよっっ!!」

 

 その声に驚いたのか、退屈そうに剣で雑草を刈っていたジャンヌがハッとして身構えた。少し遅れて、レオナルドも手にした杖を片手に立ち上がると、何やらブツブツと唱え始めた。遠くて聞こえないが、多分共振魔法(レゾナンス)の一種だろう。

 

 手持ち無沙汰の鳳は、同じく武器を持たないメアリーを背中に隠しながら、中腰になって辺りを警戒した。ギヨームは敵の場所が分かっているようだが、戦闘経験の少ない鳳にはそれがさっぱりわからなかった。

 

 広場の中央に下ろした荷物にライフルがあるから、出来れば取りに行きたいところだが、相手が弓や銃でこっちを狙ってないとも限らないので、下手に動けなかった。ダッシュして取りに行くことも出来なくはないが、それで敵の攻撃を誘発しては元も子もない。やれることは、だた身を低くして、家の土台の影に隠れるだけだ。

 

 鳳はバクバクと鳴る胸の鼓動を抑えながら、いざとなったらメアリーだけでも逃さなければと考えていた。実際には、神人のメアリーを守る必要なんかなく、一目散に逃げなきゃいけないのは鳳の方だったろうが、突然の事態に頭が上手く回らなかった。

 

 だからもし、このまま戦闘になっていたなら、怪我をするか最悪、無駄死にしていただろう。ギヨームたちは手練ではあるが、流石にこの人数を相手にしながら足手まといは守れなかったはずだ。しかし、そんな不安は杞憂に終わった。

 

 鳳たちが警戒して身構えていると、その時、広場を取り囲む森の中から、一人の偉丈夫がぬぅ~っと姿を現した。

 

 身長2メートルは優に超える大男で、ジャンヌに勝るとも劣らない筋肉質の体が、見る者をそれだけで威圧した。上半身は裸で、服と言えば粗末な腰巻きをつけているだけだったが、寒そうに見えないのは、その体が毛皮のような体毛で覆われているからだろう。

 

 下半身の尾骨の辺りからは、長い毛並みのいいしっぽが垂れ下がっており、風がないのにパタパタ揺れているのは、それが作り物ではない証拠だった。そして首から上には、人間のものとは似ても似つかない、狼そのものの頭が乗っかっていた。獣人である。

 

「おいおいっ!! それ以上近づくなよ、そこで止まれっ!」

 

 その堂々とした姿にあっけに取られつつも、ギヨームは手にした銃を獣人に向けたまま、威嚇するように叫んだ。獣人はそんな彼に一瞬だけチラリと視線を向けると、こちらには敵意が無いと言わんばかりに、片手を上げてそれを制しつつ、ギヨームではなく広場の中央にいるジャンヌと老人の方に顔を向けた。

 

 見た目小学生にしか見えない彼よりも、そっちの二人の方がリーダーっぽく見えたからだろうか。ギヨームからすれば不快な行動でしかなかったろうが、それが嫌味に思えないのは、その男の威風堂々たる姿があるからこそだ。

 

 その時、脳裏を何かが弾けるように過ぎっていった。鳳は、なんとなく、その男の顔に見覚えがあるような気がしたのだ。正直、獣人の顔なんて殆ど見分けがつかなかったのだが、何故かその顔は、つい最近どこかで見かけたたような気がするのだ。

 

 鳳が、どうしてだろう? とその記憶を辿っていると、ギヨームに銃を向けられたままの男は、獣人らしい、表情があってないような表情で、

 

「問おう。そこに居るのは大君(タイクーン)レオナルドと見たが、違ったか」

 

 男がそう言うやいなや、杖を構えていたレオナルドは眉毛を釣り上げて目を丸くしながら、

 

「如何にも。そういうお主は……おお! 一ヶ月前の攻防戦の時以来だな、獣王(ビーストキング)よ」

 

 その通り名を聞いた瞬間、鳳の頭の中にもパッとその名前が蘇った。

 

 獣王ガルガンチュア。あの名もなき街を守る際、レオナルドの呼びかけによって、各地のギルドから集まってきた一人である。攻防戦の際には、ジャンヌと並んで、その膂力のみで多くの帝国兵を退けてきた強者だ。MPを消費しないから鳳とは縁が無かったが、ギルド酒場で補給している時に何度かお目に掛かった覚えがあった。

 

 ガルガンチュアは、未だに銃口を向けたままのギヨームに軽く会釈するように頷くと、手を差し出したままレオナルドの方へと歩いていった。そんな二人ががっしりと握手を交わしたところで、それを合図にギヨームが銃を下ろし、そして森の中から続々と獣人たちが姿を現した。

 

 その数はギヨームが言った通り、30は下らなかった。偵察や探索技術が高いギヨームが、こうもやすやすと近づかれてしまうのだから恐れ入る。獣人というのは、天性の狩人と言っていい、きっとそんな種族なのだろう。

 

 これがもし敵だったら今頃どうなっていたことだろうか……鳳はそんなことを考えて身震いすると同時に、新たに合流した獣王の仲間たちの勇姿を、心強く思っていた。

 



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魚人族

 大森林から抜け出そうと移動を開始して三日目。打ち捨てられた集落を発見した一行がそこを調べていると、偶然、一ヶ月前の攻防戦の際に縁があった獣人の集団が現れた。

 

 獣王ガルガンチュア。バルティカ大陸南部に広がるワラキアの森を仕切る獣人の部族の長の一人。その恵まれた体躯から繰り出される技の数々は獣王(ビーストキング)の名に相応しく、あらゆる獣、魔獣、そして魔族を屠ってきた歴戦の兵である。

 

 獣人と言うとどことなく未開の野蛮人を想像しがちだが、そんな中でも狼人(ウェアウルフ)という種族は、協調性が高く、集団で行動し、恩義に厚い。生まれ持った性質から、最も人間と友好的な種族と言われていた。

 

 特にガルガンチュアの部族は、300年前の魔王襲来時、勇者に助けられたことを恩に感じて、それ以来勇者領との交友関係を維持し続けており、部族長のガルガンチュアは冒険者ギルドに登録している冒険者でもあった。

 

 ギルドはその誼を通じて、人の手が届かないワラキアの大森林で依頼を受ける窓口として、彼らの部族を利用しており、そんなわけでギルドの長であるレオナルドと、ガルガンチュアは顔馴染みであったようである。

 

「久しぶりだ、大君。ひと月前、戦場で会って以来だ。元気だったか」

「うむ。これと言って病もなく、ピンピンしとるわい。お主は相変わらず真っ裸じゃのう。風邪をひかんか心配になるぞ」

「行方不明と聞いていたが、何をしていたんだ?」

「帝国兵に目をつけられて、仕方ないので森で潜伏しておった。そろそろ勇者領(ブレイブランド)へ移動しようかと思い、集落を探しておったのじゃが……お主と出会えたのは幸運じゃった。どれ、一つ道案内を頼めぬかの?」

「大君の頼みであれば断る理由はない。だが、少し待って欲しい」

 

 ガルガンチュアはそう言ってから、彼の背後に整然と並ぶ、部族の男たちの方をチラリと見た。屈強な獣人たちは、その表情からは何を考えているか窺えない。少なくとも、敵意が無いのはわかるのだが、その牙が剥き出しの大きな口と、眼光だけで人を殺せそうな目つきを見ていると、本能的に恐怖を感じると言うか、無駄に身構えてしまうから困ってしまう。

 

「大所帯のようじゃが、何かあったのかのう? ただの狩り……という感じではなさそうじゃが」

 

 するとガルガンチュアは頷いて、

 

「ここを調べたなら気づいたか? ここは放棄されてからまだ間もない。ここに住んでいた部族は、魔族に追い出されたのだ。俺たちはそれを倒しに来た」

「なんじゃと? しかしここは大森林でも北部の方じゃろう。こんなところまで魔族が侵入してきたというのか……?」

「そうだ。このところ、南からの魔族の侵入が激しいようだ。やられた部族の話では、侵入した魔族は全部魚人族(オアンネス)だ。ネウロイで何かあったのかも知れない」

「ふむ……大移動の兆候でなければ良いのじゃが……」

 

 レオナルドは誰ともなしに呟いた。見ればこの老人には珍しく深刻そうな顔をしている。話が見えない鳳が、何がそんなに気になるのだろうかと尋ねてみると、

 

「お主もこの世界の歴史を聞いたことがあれば覚えてはおらぬか。300年前の魔王襲来前、まずはここワラキアの森に魔族の大量流入が起きたことを」

「まさか、魔王襲来の予兆ってこと?」

「それはまだ分からぬ。魔族は常に人間のテリトリーを狙っておるから、たまたまという可能性の方が高いじゃろうが……しかし、こんな人里近くまで魔族が進出してくるのは、かなり珍しいことじゃ」

 

 そう言って眉間に皺を寄せる老人に向かって、獣王が言った。

 

「我らは奪われた土地を取り返しにいく。大君たちはここで待っていろ。すぐに戻る」

 

 この獣人、口数が少ないから分かりにくいが、多分戻ってきたら案内してやるという意味だろう。その申し出は有り難かったが、ここまで話を聞いておいては黙っていられるわけもなく、

 

「いいや、儂らも共に行こう。少々気になるでな……ジャンヌ! ギヨーム! すまぬが頼まれてくれるか?」

 

 二人には戦力として期待しているということだろう。ギヨームは黙って頷き、ジャンヌは獣王の元へ歩み寄ると、

 

「ええ、分かったわ。お久しぶりね、あなたと一緒に戦うのはこれで二回目よ。覚えているかしら?」

「お前の実力は知っている。ついてくるなら心強い。頼りにしているぞ」

 

 二人がそう言ってガッチリと握手を交わすと、事情を知らない獣人たちが意外そうに目を丸くしていた。おそらく、所詮人間だから役に立たないと思っていたところ、彼らのリーダーの評価が思ったよりも高かったから驚いているのだろう。

 

 実際、ジャンヌの強さはこの中でも最強に違いなかった。しかし、その強さは鍛えすぎた鋼のように、脆さも併せ持っていた。

 

***************************

 

 半魚人であるオアンネス族は、水場にコロニーを作り、その周辺のあらゆる動物を狩り尽くしてしまうという特徴の魔族であった。

 

 言うまでもなく生き物は水が無ければ生きられないから、一日一度は必ずどこかの水場に姿を現す。オアンネスはそこへ巣を張り、まるで獲物がかかるのを待つ蜘蛛のように、水の中に潜んで動物を襲うのだ。

 

 やがて水場にやってくる動物が少なくなってきたら、また別の水場に移動し、次々とコロニーを変えながら、ついにはその水域の動物を全部狩り尽くしてしまうという。水陸両生で、海水でも淡水でも、地上ですら問題なく適応するため、その生息範囲は広く、早めに対処しないとどんどん増えてしまうという、シロアリみたいな連中であった。

 

 しかも、魔族というのは魔物と違って知恵があるから、始末に負えない。

 

 鳳たちが見つけた無人の集落は、生活用水に利用していた水場にオアンネス族が入り込み、一網打尽にされてしまったらしいのだが……奴らは水場にやってきた集落の住人を捕らえると、拷問して村の場所を聞き出し、準備万端で襲って来たそうである。

 

 突然の出来事に村人たちは対応することが出来ず、散り散りになって逃げるのが精一杯だった。野生動物や魔物と違って、魔族が厄介なのはこの点にある。奴らは会話し、情報交換し、人間のように襲ってくるのだ。

 

 しかし、この厄介な連中を見つけるのは、ある程度の被害が出た後なら、さほど難しくはない。奴らは水場に棲息し、必ず川に沿って移動をするから、上流に向かって虱潰しに探していけば、いずれどこかで見つかるはずだ。

 

 ところで、鳳たちは集落を探して川沿いを歩いていたわけだが……もしもあのまま、集落を見つけられずにまっすぐ川を遡っていたら、知らず識らずの内に魚人のテリトリーに入り込んでいたかも知れなかった。

 

 鳳はそれを聞いてぞっとした。もし何も知らず、無防備にそんな連中と出くわしていたら、ジャンヌやギヨームはともかく、今頃自分は殺られてしまっていただろう。

 

 ガルガンチュアの部族と合流した鳳たちは、彼らに協力してオアンネス族を追うことにした。森は広く、川も長いから、難航するかと思われたが、それは意外とすぐに見つかった。

 

 彼らが村を出てから半日が過ぎ、そろそろ本日のキャンプをしようかという段になったころ、先行偵察に出ていた狼人の一人が目標を見つけた。狼人の、犬並みの嗅覚が、水の匂いと混じった、奴らの生臭い独特の悪臭を嗅ぎ分けたのだ。

 

 日は傾いてすでに森の中は薄暗く、人間では足元もおぼつかないような状況だったが、朝を待たずにすぐに襲撃を開始しようという話になった。

 

 逢魔が刻と言うが、オアンネスは元が水中生物であるせいか、他の魔族と違って闇には弱い。陸上では目も鼻もあまり利かないので、奇襲をかけるなら今が最善なのだそうだ。

 

 そんなわけで慌ただしくはあったが、一行はすぐに襲撃の準備に取り掛かった。

 

 斥候によると敵の数はこちらを大きく上回り100体に近くを確認したという。対するこちらはガルガンチュアの部族が30人に、鳳たちの5人を加えて35人。内、二人は役立たずだから数の上では完全に負けていた。

 

 普通に考えれば、この人数差で勝負を仕掛けるのは無謀だ。しかし、出直そうにも、その間にオアンネス族がどこまで増えるか分からない上に、助っ人を呼ぼうにもこの大森林では他の部族と連絡が取りづらくて、とてもそんなことはしていられないそうである。

 

 だから無理を承知で奇襲を仕掛けるのだと、重苦しい口調でガルガンチュアは言ったが……鳳は獣人たちの悲壮な決意を目の当たりしても、なんとかなるんじゃないかと漠然と思っていた。何しろこちらにはジャンヌがいるのだ。

 

 襲撃は、そのジャンヌが切り込み隊長を務めることになった。ガルガンチュアは部族長の面子もあったが、適正を考えて彼に先鋒を譲った。その決定に、何も知らない獣人たちは難色を示したが、族長の決定だからと最終的には折れた。無論、彼らの不安が杞憂であったことは言うまでもない。

 

 そして間もなく、対決の時が訪れた。

 

 日が陰り、薄ぼんやりした紫色で視界が満たされた頃、獣人たちは切り込み隊長のジャンヌを中心に、半包囲を仕掛ける形で左右に広がった。

 

 鳳は攻撃に加わらないため、少し離れた場所でメアリーとともに味方を見守っていた。遠くてよく見えないが、河原には無数の打ち上げられたマグロみたいなシルエットが見える。一瞬だけ、月明かりに光って見えたその姿は、正に異形の一言で、ぎょろりとした大きな魚の眼が動くたび、本当にこっちが見えていないのかと不安になった。

 

 その生態はよく分かっていないが、魔族も哺乳類であるらしく、肺呼吸だから寝るときは陸に上がってくるらしい。川に入られてしまったら勝ち目がないから、出来れば陸上にいるうちにケリを付けたい……

 

 一匹も川に逃がすな。そういうガルガンチュアの合図を皮切りに、いよいよ攻撃が開始された。

 

「紫電一閃……桜花襲双列斬刃っっ!!」

 

 攻撃が開始されるやいなや、ジャンヌが叫びながら河原に躍り出た。彼は手にした剣を握りしめ、魔族たちが密集するコロニーの中央に突っ込んでいく。その彼の剣が振り下ろされた瞬間……

 

 ザンッ! っと、風を切る音がして、河原のど真ん中に血の花が咲いた。

 

 寝入りっぱなを突然襲われた魚人たちが逃げ出そうとして、慌てふためいて立ち上がる。

 

「逃がすな! 食いつけっ!!」

 

 ガルガンチュアの声を受けて、獣人たちが地面を蹴って魔族の群れに飛び込んでいった。彼らは獰猛な唸り声を上げながら、逃げ出そうとしていた魚人の背中を鋭い爪で切り裂き、驚いて硬直している者の喉笛を噛み切っていく。不意を突かれた魔族たちは、為すすべもなく次々と倒れていった。

 

 勢いは完全にこちらが押している。だが、数の上では負けている獣人たちのすきを突いて、何人かの魚人が包囲を抜けて川に逃げ出そうとしていた。

 

「ほれ、眠れ眠れ、スリープクラウドじゃ」

 

 しかし、次の瞬間、河原にドライアイスのような霧が立ち込めて、それに触れた魚人がバッタバッタと倒れていった。

 

 パンパンと乾いた音がして、それでも逃げ出そうとする魚人の眉間に、銃弾が次々と撃ち込まれる。

 

 ギヨームの操るピストルから閃光が発するたびに、まるで連続写真のように周囲の光景が浮かび上がった。スローモーションのように流れていく光景は、映画でも見ているかのようだ。

 

「打ち砕けっ! 快刀乱麻!!」

 

 ナマス切りのように、次々と魚人を捌いていたジャンヌが、追い打ちとばかりに大技をかける。

 

 ズシンッ! と、地震が起きたみたいに地面が揺れて、魚人たちが紙切れのように吹き飛んでいった。

 

 これが致命打となって、敵のコロニーは完全に制圧された。残った魚人は川に逃げるのを諦めて森へ向かおうとするが、陸上では獣人たちの足に敵うはずもなく、次々とその生命をちらしていった。

 

 その時……

 

「きゃああああああーーーーっっっ!!!」

 

 っと、女性の金切り声のような声が聞こえて、鳳はギョッとして固まってしまった。

 

 驚き隣を確認すると、メアリーがポカンとした顔で戦場を見つめている。この場の女性は彼女一人だけのはずだ……それじゃあの声は誰が発したものなんだろうか……

 

 そう思った瞬間、その声の発生源がオアンネスだと気がついた。奇妙な話であるが、相手は魚の頭をしているが、二足歩行の哺乳類なのだ。そして彼は、魔族が人語を解すると言っていたガルガンチュアの言葉を思い出した。

 

 あの異形は、人の言葉を喋るのだ。

 

「ジャンヌッッッ!!!」

 

 と、その時、今度はギヨームの悲鳴にも似た叫び声が辺りにこだました。

 

 驚いた鳳が河原に目を戻すと、さっきまで敵を圧倒していたはずのジャンヌが、何故かその敵のど真ん中で棒立ちになっていた。彼はなにかに気を取られたように身動き一つせず、背後から迫りくる敵の攻撃にまるで気づいてないようだった。

 

「きゃあっ!」

 

 そのジャンヌの背中に、オアンネスの鋭い爪が振り下ろされる。切り裂かれた彼の背中から鮮血が飛び散り、パシャパシャと雨のように降り注いだ。

 

「うおおおおぉぉぉーーーー……ふんっっっ!」

 

 切り込み隊長がやられたことに気がついたガルガンチュアが、援護に回って敵をパンチで吹き飛ばした。そこにギヨームの追い打ちが入り、ジャンヌに一撃を入れた魚人はあっという間に絶命した。

 

 ジャンヌは二人に助けられたことに気がつくと、ハッと我を取り戻したかのように、

 

「これしきの傷、大丈夫よ!」

 

 と言って、またオアンネスの追撃に戻った。

 

 味方に心配をかけたことを恥じたのか、その後のジャンヌの獅子奮迅の活躍があって、戦闘は間もなく、こちら側の圧勝で終わったのだった……

 

*****************************

 

 河原は死屍累々だった。

 

 月明かりを浴びて地面が黒光りして見えるのは、きっと川の水が反射しているのではなく、おびただしい血液が河原にぶちまけられているからだろう。

 

 鳳は死体が山積みになった河原に足を踏み入れて、そのムッとする臭気に吐き気をもよおした。死の匂いというか、鉄分を含んだ血の匂いだけではなく、鼻がひん曲がりそうな臭いが混じっている。多分、糞便のような汚物も一緒に垂れ流されているからだろう。鼻のいい狼男たちが、そんな悪臭の入り混じる中、死にそうなくらい顔を歪ませながら地面に転がる魚人の腹を槍で突いて回っていた。

 

「……ひどい光景だわ。外は楽しいだけじゃないのね」

 

 そんな凄惨な光景を前に、メアリーが簡潔な感想をポツリと漏らした。女の子にしてはかなりドライな反応だったが、泣いたり喚いたり大騒ぎされるくらいなら、こっちの方が気が楽だった。これまでも、獲物を狩って捌いたり、彼女は命を取ることにそれほど嫌悪感を持たないらしい。それは多分、人間はそうやって生きているのだということを、ちゃんと理解しているからだろう。あんな場所にずっと閉じ込められていたのに不思議なものだ。

 

 そんなことを思いつつ、鳳は大岩に腰掛けて呆然としているジャンヌの元へと近寄っていった。

 

「ジャンヌ! 平気か? 傷見せてみろよ」

「あら、白ちゃん。心配してくれてありがと。これくらい平気よ。情けないところを見せちゃったわね」

「いいから見せろよ、感染症とかになったらどうすんだ」

 

 鳳はそう言って多少強引にジャンヌの腕を引っ張って背中を向けさせた。ヌラヌラと光る傷口は広範囲に渡っていたが、彼の言う通り、傷自体はそれほど深くないようだった。しかし、わけのわからないものに傷を負わされたのだから油断は禁物だろう。鳳は切り裂かれてボロボロになった服をちぎると、煮沸消毒してある水筒の水で傷を洗い、薬を塗った。

 

「あいたたたた……染みる! 染みるわっ……魔族の攻撃より痛いわね」

 

 数日前摘んでおいたドクダミとヨモギが役に立った。ドクダミには殺菌効果、ヨモギには傷を癒やす効果がある。あの時はなんとなく摘んでみせただけだったが、こんなに緊急に必要になるとは思わなかった。なんでもストックしておくものだ。

 

「それにしても、おまえがやられるなんてな。あの時、油断してたみたいだけど、何か気になるもんでもあったのか?」

 

 鳳は薬を塗った後、傷口に布きれを当てて包帯でぐるぐる巻きにすると、涙目になっている彼にそう尋ねてみた。

 

「……れたのよ……」

「え? なんだって? 聞こえねえよ」

 

 すると、ジャンヌは殆ど聞き取れない、絞り出すような声でボソボソと何かを呟いた。

 

 傷が染みるんだと、大げさにアピールしているつもりだろうか? 戦闘中は悪魔も逃げ出すような強さのくせに、普段はいちいち乙女……というかおばさん臭いな、このおじさんは……などと気楽なことを考えていたのだが、次の瞬間、そんなおじさんの口から発せられた言葉に、鳳は唖然と固まってしまった。

 

「……助けて、お腹の中に赤ちゃんがいるって言われたのよ」

「え……?」

 

 ジャンヌはその辺の地面に転がっている、魔族の死体を指差しながら、

 

「せめて子供だけでも助けてって言われたら、頭の中が真っ白になっちゃったのよ。その隙を突かれたの……人の言葉を喋るって聞いていたけど……まさか、こんなこと言うなんて思わなくって」

 

 そう言われた鳳は、ハッとして彼の指差す先を見た。魔族なんて見たことが無かったから、そういう体型なんだとしか思っていなかった。だが、言われてみると、ここに転がる死体はどれもこれも、下腹部がボッコリと膨らんでいるように見える。

 

 まさかと思い、目を凝らした時、たまたま通りがかった獣人の一人が、手にした槍で死体の腹を思い切り突き刺した。

 

 突き刺した槍でお腹の中をグリグリとかき回したあと、切り裂かれた腹から引き抜かれたその穂先には、なにか妙な物体が突き刺さっている。

 

 獣人はそれを確認すると、汚いものでも見るような目つきで顔を背けてから、槍を振り下ろすようにしてその切っ先に刺さった物を飛ばした。

 

 点々と転がるその物体が、鳳の足元ではたと止まった。

 

 嫌な予感を覚えつつ、それでも目を背けられなくて……目を凝らしてよく見れば、それはヒレの代わりに小さな手足のついた、魚の形をしたなにかだった。

 

 その、真っ黒い穴のような魚眼に見つめられた時、鳳の背筋に痺れるような怖気が走っていった。一歩二歩と、本人の意思に反し、勝手に足が後退する。そこに転がっていたのは、紛れもなく魔族の子供……魚の形をした胎児に他ならなかった。

 



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ここで遭ったが地獄の三丁目!

 河原に積み上げられた死体は100体は下らなかった。人間のような手足を持つ二足歩行の動物を相手に、虐殺と言っていい数字であったが、それでも殆ど罪悪感を感じないのは、相手が異形だからだろうか。

 

 頭部から背中にかけてびっしりと生えた鱗と、魚にしか見えない顔。目蓋が無く透明の膜の張った目はぎょろりと大きくて、死んでもまだ動きそうな存在感があった。臀部(でんぶ)には尾びれのようなしっぽが生えており、よく見ると手足の指の間にヒレがついている。戦闘で鱗が剥がれ落ちたのであろう。背中のあちこちに抉れるような穴がぼこぼこと空いており、それが蓮コラみたいに見えてメチャクチャ気持ち悪かった。

 

 見ているだけで恐怖を煽ると言うなら成功と言えるが、徹頭徹尾不快な造形は、どうしてこんなものを創り出したのだろうかと、神の良識を疑いたくなった。そう言えば、神と言うと形而上の漠然とした概念のように思えるが、この世界にはれっきとした神様が存在し、確か魔族はラシャが作り上げたものだったはずである。

 

 するとラシャは、我々人間を否定して、こんな異形を作りたかったのか? 人間と比べて、これのどこが優れていると言うのだろうか。いきなりリュカを殺してしまったり、どうもこの荒ぶる神は、一筋縄ではいきそうもない存在のようだ。

 

 そんなことを考えていると、レオナルドが寄ってきて、

 

「そう言えばお主、この間、自分が魔族かも知れぬと悩んでおったようじゃが……これを見た今はどう思っておる?」

「あ、ああ……そうだな」

 

 自分は魔族じゃない。見るからに人間である。鳳は老人に返事を返そうとしたが、すぐには言葉が出てこなかった。

 

 確かに、自分がこれと一緒だとは思えない。手足が二本、頭が一つで二足歩行という共通点を除けば、人間とは似ても似つかない魚人と、鳳が同じ種族だと到底考えられなかった。そして獣人とも違う、神人とも違うとなれば、自分はやっぱり人間なのだろう。

 

 しかし、人間とはなんだ?

 

 この世界には、様々な種族がいて、それぞれ信じている神様が違ってて、どうも色んな人の話を聞く限り、そんな多種多様な種族全部をひっくるめて人類だと言う。

 

 そんな中に人間が……鳳の知る地球という惑星に君臨していた、霊長類ヒト科のホモ・サピエンスにそっくりな人間と言う種族もいるわけだが、見た目は自分と同じでも、BloodTypeが違う彼らは、果たして同じ人間と呼んでも良いのだろうか。

 

 例えば、人間の限界を軽々と凌駕するジャンヌの力。

 

 なにもない虚空から銃を取り出すギヨームの力。

 

 彼らが人間なのか、それとも、自分が人間なのか。

 

 本物の魔族というものを見て、鳳はますます分からなくなってきた。

 

「戦士よ。一発もらっていたが、大丈夫か」

 

 鳳たちが会話をしていると、そこにガルガンチュアがやってきた。彼はジャンヌの背中の傷を見ながら鼻をヒクヒクさせている。多分、ドクダミの臭いが気になるのだろう。

 

「心配してくれるの? でも平気よ。私はHPもVITも高いから、そんなにダメージは受けないみたい」

「おまえは強いな。おまえが居てくれて助かった。俺たちだけでは、負けはしなかったろうが、倒しきれなかっただろう。感謝する」

 

 ガルガンチュアが礼を言うと、彼の部族の男たちが珍しいものを見たように立ち止まった。彼らもジャンヌの戦いっぷりを目の当たりにしたのだから、その強さに異論は無いのだろうが、それでも族長が頭を下げるという行為には抵抗があるのだろう。

 

 そんな空気を察したのか、ジャンヌが慌てて謙遜をする。

 

「お礼なんてとんでもない。あなたが援護してくれたから、私もこの程度の怪我で済んだのよ。こちらこそお礼を言わせて頂戴。ありがとう」

 

 まるで止まっていた時が動き出したかのように、獣人たちは元の作業に戻っていった。未開の部族ルールなど知らないが、面子みたいなものがあるのかも知れない。人間社会などどこまで言っても面倒くさいものである。

 

 そんなことを考えながら獣人たちの作業を見守っていると、彼らは河原に転がっていた魔族の生死の確認を終えたあと、今度はそれを一箇所に集め始めた。

 

 何をするんだろうと思っていると、周辺の探索に出ていた別の獣人のグループが大量の焚き木を抱えて戻ってきて、河原の真ん中でいくつもいくつもキャンプファイヤーをはじめた。

 

 それだけ見たらもう言わずともわかる。しかし、これだけの死体を焚き火で焼こうなんて本気なのだろうか。それとも、魔族は見た目が魚だし、まさか食べるつもりじゃないだろうな……と考えていると、うっかりそれを口に出してしまっていたのか、

 

「少年よ。我らはそんなことはしないぞ。魔族の肉なんて固くて食えんからな」

 

 いつの間にか背後にいたガルガンチュアが、ギロリと睨みながらそう言ってきた。

 

 やばい。怒らせてしまっただろうか……

 

 鳳が冷や汗をかいてドギマギしていると、そんな彼を見て獣王はニヤリと笑った。どうやら、彼流のジョークだったらしい。そりゃそうだろう、いくらなんでもこんな不気味なものを食べようなんて、まともな神経をしていたら思わない……鳳は胸をホッとなでおろしたが、

 

「こんなものを食べるのは人間だけだ」

 

 付け加えるようにポツリと漏らしたガルガンチュアの言葉に、鳳の心臓がどきりと鳴った。

 

 そう言えば、城でゴブリンを倒した時、兵士たちが肉がどうこう言っていたのを思い出した。あの時は本当かどうか確認を取らなかったが……本当に、人間はこんな不気味な生物を食べてしまうというのだろうか? もしもそうなら、一体、どちらの方が化け物だと言うのか。

 

 そんなことを考えていたら、キャンプファイヤーに焼かれた魚人の死体が、ジュージューと音を立てて焼け始めた。すると河原全体に焼き魚のような香ばしい匂いが立ち込めてきて、彼の胃酸を刺激した。

 

 その瞬間、鳳はその日最も激しい吐き気を覚えた。

 

********************************

 

 獣人達による死体の焼却は一晩中続けられた。放って置いてもそのうち微生物が綺麗サッパリ片付けてくれるはずだが、そのままでは土壌が汚染されてしまって、暫く河川に影響が出るらしいのだ。なので最低でも内蔵を処理し、焼いて置かなければならないそうである。生きてても死んでからも、魔族は獣人たちにとって厄介な存在であるようだ。

 

 鳳たちはその作業が終わるまで付き合おうと思っていたが、その気が滅入るような作業を見ていたら、段々目眩がしてきてしまい、結局立ち去ることにした。夜中に森を移動するわけにもいかないから、すぐ近くに野営しているだけなのだが、せめてそれが見えないところにいなければ、正気を保っていられなかったのだ。

 

 内臓処理と一口に言っても、それは要するに腹の中身を全部かき出してキャンプファイヤーにぶち込むわけである。しかも、二足歩行の人間に近いシルエットのものから、内臓を引きずり出してる光景だけでも、かなりくるものがあったが、おまけにそれが全部妊婦だったのだ。

 

 ジャンヌが戦闘中に命乞いをされて意表を突かれたと言っていたが、レオナルドがその死体の一つひとつを確認したところ、どうもあのオアンネスなる魔族は、全て妊娠中のメスだったらしい。どうやら奴らは、出産をするためにこの川までやってきたようなのだ。

 

 しかし、それは少し考えにくいと、老人は険しい顔をしてみせた。

 

 魚人(オアンネス)は見てくれの通り、基本的に水辺に棲息する魔族である。淡水海水を問わないため、海に棲息しているか、大森林なら河川の周辺に集まるわけだが……ところが魔族の住むネウロイのある南半球と、神聖帝国のある北半球とでは、大森林の河川はそれぞれ独立しており、上流は繋がっていないのだ。

 

 とすると、オアンネスがここ北半球に居たということは、海を通って河口から侵入したと考えられるわけだが……この河川の下流はブレイブランドに繋がっており、その周辺を魔族が通ったならば、人間の漁師が気づいて騒ぎになっているはずなのだ。

 

 オアンネスが現れたのは半年くらい前であるから、勇者領で暮らしていたレオナルドが気づかないわけがない。ならば、この魔族はどこから侵入してきたというのだろうか……?

 

 100体程度なら、たまたま見逃したという可能性もある。だが、それならそれで、こんな上流ではなく、もっと下流の方で魔族の侵入騒ぎが起きていなければおかしいだろう。

 

 そうなると最終的に考えられるのは、この魚人族が陸路を使って北半球に侵入したということであるが……魚人がまったく陸上を移動しないというわけでもないので、その可能性も否定できなかったが、北半球の河川と南半球の河川は、知られている限りでは、最も近い場所でも数百キロは離れているそうである。そんな距離を、ヒレのついたベタベタの手足で、この魔族が歩いて踏破したとは少々考えにくかった。

 

「じゃが、他に可能性がないなら、そう考えるしかあるまいて……問題は、何故奴らがそうまでして、こっちにやってきたかと言うことじゃが。こんな前例、聞いたことがないで、まるでわからんのじゃわい」

「例えば魚人は出産のために、安全な場所でメスだけのコロニーを作るとか、そういった習性はないの? 安全な場所を探していたら、偶然こっちにたどり着いてしまったとか」

「ふむ……お主の言う通り、どいつもこいつも妊婦であるなら、出産のためにこちらへやってきたと考えるのが妥当じゃが……しかし、はっきりそうとは言い切れん。魔族の習性は謎に包まれておる。危険を犯してまで、わざわざ調べようとする物好きはおらんからのう……一度、ギルドに戻って調査依頼を出してみたいが」

「それじゃ出来るだけ早く勇者領に行きたいところだな」

「いや、そう慌てる必要もない」

 

 鳳が移動の急を提言するも、それを老人が否定した。

 

「ガルガンチュアの部族は、冒険者ギルドの窓口になっておるのじゃ。村の近くに駐在所があるから、そこへやってきた連絡員に依頼する方が効率が良いじゃろう。出来れば自分の目で確かめたくもあるしのう。そんなわけで、お主らには悪いが、もう暫くこの老人に付き合ってくれんか」

「俺たちで、南半球まで行って調べようってことか?」

 

 そんな気が遠くなるようなことはしたくないぞと言わんばかりに、ギヨームが確認を取ると、レオナルドは首を振って、

 

「そこまで本格的なのはギルドに任せよう。儂は被害に遭った部族などから情報を得たいのじゃが、どうじゃろう」

「わかった。急ぐ旅でもあるまいし、俺は構わないぜ」

 

 無論、鳳やジャンヌに文句があるわけもなく、メアリーに至ってはもう暫く森の暮らしが出来るとあって、逆に喜んでいる様子だった。

 

 そんなこんなで、翌朝。

 

 魔族の始末を終えたガルガンチュアの部族と合流した一行は、一路彼らの集落を目指して森を歩き始めた。目的が変わり、暫く森に残って魔族の動向を探りたいと言うと、獣王はそれなら丁度、駐在所に連絡員が滞在していると教えてくれた。

 

 出かける時、わけあって暫く滞在すると言っていたから、帰ったらまだいるかも知れない。オアンネスの調査をしたいと伝えると、自分たちも気になっているから、依頼をするなら協力しようと約束してくれた。

 

 そんなわけで、連絡員と入れ違いにならないように先を急ぐことにした。ガルガンチュアによると、彼の村はこのすぐそばで、急げば一日で到着すると言っていたのだが、この一ヶ月の潜伏でだいぶ慣れたと思っていたのに、獣人たちと比べると、鳳たちの森での移動速度はまだまだ遅かったらしく、結局、到着までに一度の夜営を挟んで二日かかってしまった。

 

 獣人たちの言葉を信じて、無理をして先を急いだつもりだったが、交代で馬を乗り継いで、肩で息をするほど頑張っても、鳳の足は獣人の速度の半分にも満たなかった。ジャンヌですらついていくのがやっとだというのに、獣人たちは森歩きに慣れているらしく、まだまだ余裕があるようだった。

 

 結局一日で帰ることを諦め、みんなで野営をしている最中、一人ぶっ倒れていた鳳の姿を、獣人たちが鼻で笑っていた。人間は軟弱でだらしないと言われても、悔しいが本当のことだから何も言い返せなかった。

 

 実際、彼ら獣人は誰も彼もが屈強な戦士だった。素手で魔族に立ち向かうなんてことは、人間には到底不可能で、そう考えると彼らと神人は身体能力だけを見れば対等なのか知れない。

 

 しかしそう考えると不可解なことがある。

 

 人間よりもずっと強い獣人が、こんな森の奥で未開人のような生活を送っており、おまけに人里で見かけた獣人は、みんな人間の奴隷だったのだ……どうしてなんだろう? 不思議でならなかったが、そんなこと本人たちに面と向かって聞けるわけもなく、移動疲れで爆睡した翌日には、もう忘れてしまっていた。

 

 翌朝、早朝に出発したのに、村についたのは太陽が中天を通り過ぎた後だった。予想に反してガルガンチュアの村は川沿いではなく、深い森の中にあった。

 

 川から離れ、昼間なのに夜みたいに暗い森に入り、まるで飛び石のように沼が散らばる湿地帯を抜けると、50メートルを超える巨木が立ち並ぶ、地面がコケ類とシダ類で覆われ緑の絨毯みたいになっている場所に出た。見上げれば天使の梯子みたいな木漏れ日が差し込み、ところどころに立っているマングローブみたいな木々が、その光を反射して輝いて見えた。

 

 見渡す限り、膝丈以上の草木は生えておらず、森の中だと言うのに異常なくらい視界が開けている。そんな幻想的な場所を通り過ぎると、突然、緑の雲にぽっかりと穴が空いたように光が差す広場が現れて、ガルガンチュアの集落はそこにあった。

 

 広場の中心には、この辺一帯で最も幹が太く100メートルはあろうかという大木が立っていた。多分、元々あったその巨木の周りの木を切り倒して作られた広場なのだろう、それを取り囲むように家々が立ち並んでいる。家はどれも簡素な作りで、高床式の土台の上に、藤棚みたいな屋根が乗っていて、最低限の壁しかない家は、プライバシーの概念などどこかに捨ててきてしまったかのようであった。

 

 それぞれの家は板を渡しただけの、簡易な橋のような廊下で繋がっており、それを伝って村中どこでも遊びに行くことが出来るようだが、それはすなわち自分の家が往来になることを意味していた。多分、雨に濡れずに済むという、機能性だけを考えて作られたのだろう。もしかすると、雨季にはこの辺は湖みたいになるのかも知れない。

 

 村には家畜がいるらしく、ガルガンチュアたちが帰ってきたことに最初に気づいたのはその豚だった。柵で仕切られただけの豚舎でブヒブヒと大合唱が起きると、その声に気づいた村の子供たちが飛び出してきて、まだ遠くにいる父親たちに向かって手を振った。

 

 その瞬間、それまでずっと厳つい顔をしていた獣人たちの顔が綻び、風もないのにしっぽがゆらゆら揺れ始めて、集団の雰囲気がガラリと変わった。そんな風にソワソワしている獣人たちを見て、もはや規律もないだろうと思ったのか、族長のガルガンチュアがもう自由にしていいぞと言うと、彼らは村へと一直線に駆けていってしまった。こうして見ていると、ただの犬ころである。

 

 こうして村に到着した鳳たち一行は、休憩もそこそこ、すぐまたギルドの連絡員と会うために腰をあげた。

 

 話によれば、ギルドの連絡員は村に滞在していると言っても、少し離れた場所に小屋を建てて駐留しているのだそうである。獣人たちの村はプライバシーもへったくれもないから、街の住人にはきついものがある。このままだと連絡員が来たがらないから、ギルドと話し合った結果、宿舎を建てて、それをガルガンチュアが管理しているのだそうだ。

 

 突然の来客に好奇心を抑えられない子供たちの視線を掻い潜り、ガルガンチュアに案内されて村外れから再度森に入り、ほんの数分歩いた場所に小屋はあった。周囲と違って少し高台になっているのか、地面が乾いていて他と違って歩きやすい。地盤が家を建てるにも適しているのか、思ったよりも大きな建物の出現に、もっと小さな小屋をイメージしていた鳳は少々驚いた。

 

 大きさとしては例のギルド酒場くらいはあるんじゃなかろうか……? 久しぶりに人間の住処らしい住処を見て、何故か妙に安心する。レオナルドは森に暫く滞在すると言っていたが、ここを貸してもらえるなら割と快適に暮らせそうだ……

 

 そんなことを考えていると、ガルガンチュアが家の前に立ち大声で、

 

「御免! 駐在員はいるか!」

 

 彼が叫ぶと間もなく家の中でドタバタと音がした。足音は複数、三人くらいいるのだろうか。そこまで広くはない建物のあちこちから、お前が行けとか、そっちが出ろとか、怒鳴り合う声が聞こえてくることからして、どうも駐在員たちの仲はあまり良くないらしい。

 

 しかし、それがなんだかどこかで聞いたことのあるような気がして……はて、どうしてだろう? と思っていたら、怒鳴り合う二人の間を取り持つような声が聞こえてきて、最終的にその声が押し出されるような格好で入り口の方に近づいてきた。

 

「はいはい、いま出ますよー」

 

 扉の中から聞こえる声は、やっぱりどこかで聞いたことがある。ふと隣を見れば、ジャンヌとギヨームも首を傾げていて、どうやら彼らも鳳と同じ印象を持っていたようだった。

 

 その理由は間もなく判明した。ガチャリと音がして扉が開くと、中から一人の女性がひょっこりと顔を出し、

 

「え?」「あれ……?」「なんでおまえがここに……」

 

 それを見た鳳たちは、三者三様に驚きの声をあげるのだった。

 

 その感想は、出てきた女性も同じだったらしく、彼女はそこにいる鳳たちの顔を見て目を丸くすると、素っ頓狂な声を上げた。

 

「ええ!? ギヨーム君? ジャンヌさんに、鳳くんも……」

 

 目の前に、あのギルド酒場のルーシーが居た。

 

 いつものオクトーバーフェストみたいなお仕着せを着て、相変わらず人好きのする笑顔を見せて。どうして彼女がここにいるのだろうか……? それは分からなかったが、ここに彼女がいるということは、奥にいる他の二人はもしかして……

 

 鳳がそんなことを考えていると、件の人物たちが家の奥から大声で、

 

「なに!? 鳳っ!? ああああーーーっっ!! てめえ、この野郎! ここで遭ったが地獄の三丁目!!」

 

 そんなセリフを口走りながら、ギルド長フィリップと従業員のミーティアが、血相を変えて飛び出してきた。

 

 彼らは鳳の姿を見つけるや、眉を釣り上げ、目を血走らせ、腕まくりして、一目散に鳳に向かって突き進んでくる。

 

「なんで? どうして?」

 

 そのあまりの迫力に気圧されて、鳳は即座に回れ右して逃げ出そうとしたが、その試みは怒りに駆られた二人の前にはあまりに無力だった。

 

 彼は間もなく取り押さえられて、二人にボコボコにされた。遠巻きにそれを見ていたルーシーだけが、そんな彼らを止めようとしてくれていたが、割と普通に無視されていて、物の役にも立たなかった。

 



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指名手配

 考えつく限りあらゆる暴力を使って、鳳はボコボコにされた。泣きながら地べたを這いつくばる彼の姿を見て、ようやく溜飲を下げたギルド長とミーティアは、ぺっと痰を吐き捨ててから、ようやく周囲の様子に気がついた。

 

「あれ……? 大君(タイクーン)。何故あなたがここに?」

「ギルドと連絡を取ろうと思い、ガルガンチュアに連れてきてもらったんじゃがのう……お主らこそ、何故ここにおる。ヘルメス支部の方はどうしたんじゃ?」

 

 仲間がボロ雑巾に変えられていると言うのに、まるで顔色一つ変えないレオナルドがそう問いかけると、ギルド長フィリップはみるみるうちに顔が真っ赤になっていき、キィキィという金切り声を上げながら、

 

「ここにいる鳳が爆破してしまったんじゃないですか! 最初の爆発で武器庫を兼ねていたギルド酒場は木っ端微塵になり、再建不能になってしまいましたよ。私が長い年月をかけて作り上げたあの支部が……思い出がいっぱい詰まったあの酒場が……思い出しただけで目頭が熱くなってくる。この鬼! 悪魔! 鳳!」

 

 鳳は背中を踏んづけられながら、

 

「いや、散々な言われようですが、ギルド長も街に火を付けるのは賛同してくれたじゃないですか」

「ギルドまで燃やすとは聞いてない!」

「そりゃ、言ったら反対したでしょう?」

「あったりまえだ! やっぱり確信犯だったな!?」

「街が燃えてるのにギルドだけが無事に残っていたら、交渉相手にグルだと感づかれてしまうでしょう? ギルド長は相手と頻繁に顔を合わせていたし、仕方なかったんですってば」

「それでも一言あって然るべきだ。君は頭は回るのかも知れないが、情というものを知らなすぎる!」

 

 まあ……察しろというのは都合がいい話だろうか。鳳も、恨まれるのも致し方なし(どうせ二度と会わないだろうし)と思ってやったことだったから、自業自得と諦めるしか無い。それにしてもいきなりダブルラリアットを食らうとは思わなかった。

 

 ギルド長は地団駄を踏みながら、レオナルドに向かって報告を続けた。

 

「あの後、街が崩壊してしまったから、交渉もなし崩しになってしまったんです。それで改めてやり直そうという話になって、そこまでは計算通りだったんで異存はありませんでしたが、相手方の総司令官がそれなら誰かが責任を取らなきゃいけないって言い出して……私がババを引かされたんですよ。今はスカーサハ先生が引き継いで、街の復興に従事してくれてると思います」

「多分、燃え落ちるギルドを前に泣き崩れているギルド長を見て、これじゃ交渉にならないと思って、先方が気を利かせてくれたんだと思います」

 

 ミーティアがそんなことをボソッと呟いた。鳳は、やっぱ燃やして正解じゃんと思ったが、言わぬが花であろう。

 

 あのあと、大火に追われるように難民が町の外に溢れ出してしまったわけだが、そこは狙い通り、帝国はもう彼らを攻撃しようとはしなかったようである。難民たちは一箇所に集められ、キャンプ生活を送っているそうだが、帝国兵がいるため治安はすこぶる良いらしい。

 

 後を引き継いだスカーサハは基本的になんでも金銭で解決したらしいが、略奪の憂き目に遭うかも知れなかったことを考えれば安いものだからか、難民たちからの寄付金が相次ぎ、特に問題は起きなかったようである。街は現在、近隣の炭鉱夫が中心になって復興する計画になっており、完了すれば元通り……より、ちょっと帝国贔屓な街が出来上がるはずだろうと思われた。

 

 帝国司令官ヴァルトシュタインは、交渉を終えると約束を守り、難民を丁寧に扱って、勇者領へ行きたいものは護衛をつけて送り出し、残った者も特に危害を加えることは無かったようだ。

 

 ただし、それで難民問題が片付いたのかと言えば、ギルド長に言わせればそうでもないらしく、

 

「そんなわけで色々あって、私は責任を取る形で街を出ることになったんですが、去り際に帝国から早馬が駆けてきて、総司令官と何やら揉めているのを目撃しました。どうもあのヴァルトシュタインなる司令官は、ヘルメス卿を逃したせいで帝国内での立場が悪くなっているようです。そのうち解任されるんじゃないかと……」

「ふむ……そうなると難民はどうなる? また交渉のやり直しかのう」

「まあ、帝国も今更助けた難民をどうこうしようとは思わないでしょうが、確実に扱いは悪くなると思われます。そして、冒険者ギルドへの風当たりも強くなるはずです。スカーサハ先生はそれを見越して、難民を勇者領へ逃がすことを急いでいるところです。それで暫く本部は人手不足になるでしょうから、手の空いてる我々が大森林(コモンウェルス)にやってきたわけですよ……どうせ、今あっちに行ったところで、我々も行き場がないですからね」

「左様か。苦労をかけたのう」

「いえいえ滅相もない……あ! それから先生は、おそらくこちらに潜伏しているであろう大君に、いち早く伝えようと……これを私に託したのです」

「なんじゃこれは?」

「あなたがたの手配書です」

 

 そう言ってギルド長が出してきたのは、鳳たちの似顔絵付きの手配書だった。いい加減、ほとぼりが冷めただろうと思って出てきたつもりだったが、どうやら帝国はメアリーのことをまだ諦めていなかったらしい。

 

 手配書はきっちり5枚、生死は問わないという文言と一緒に、懸賞金がかけられていた。それぞれ、下手くそな人相書きと、箇条書きの特徴が書かれていたが、内容はいい加減でこんなもので捕まるとは思えなかった。しかし、こんないい加減なものでも、自分がお尋ね者になってしまったんだなと思うと、なんとも言えない気分になった。

 

 中でもメアリーの人相書きだけは事細かで、帝国の本気が窺えた。

 

 逆に、レオナルドの方は、明らかに誰か分かっているだろうに、わざとぼかして書かれており、手配する側の腰が引けていることが文面からも伝わってきた。

 

 その昔、帝国が勇者を殺してしまった結果、どうなったかを考えれば、先の大戦の英雄である彼を大っぴらに非難するようなことは避けたいのだろう。

 

 そのためか、この老人が一番の大物だろうに、懸賞金の額は一番低かった。そして意外なことに、メアリーに次いで高かったのは、何故か鳳だったのである。

 

「なんで俺が? こん中じゃ一番小物だろうに……」

 

 逆に小物過ぎて見つけやすいと思われてるのだろうか。鳳を捕まえれば、芋づる式にメアリーの居場所もわかるだろうから、追跡者たちのやる気を引き出すために敢えてそうしているのかも知れない。鳳はそんな風に考えたのだが、実際の理由はもっと単純だった。

 

「いや、鳳くん。あの街の攻防戦で、作戦指揮をしていたのが君だってことがバレてるんだよ」

 

 ギルド長のそんな突っ込みに、鳳はむせ返りながら、

 

「はあ!? 指揮してたのは俺じゃなくてギルド長でしょう?」

「いいや、作戦を立てたのは君だろう」

「そうだとしても、俺は一言も命令を下してはいませんし」

「それなら私もしていないんだよ。君に言われたとおり、作戦を周知する以外はな。みんな、君の作戦を合理的と考え実行したんだ。そしたら、帝国兵に尋問されたらみんなそう答えるしかないじゃないか。それに、帝国側もどうやら君の存在には気づいていたようだよ。相手の軍師に言われたよ、バガボンドがいるだろう……って」

 

 鳳は舌打ちした。目立つつもりはなかったのだが、見る人が見ればあの野戦築城は目立ち過ぎていたのだろう。

 

「君は自己評価が低いようだが、思ってるほど周りは君を見下してはいないんだよ。特に敵方である帝国にしてみれば、確実に勝てる戦を引き分けに持ち込まれたんだ……間違いなく、今彼らのヘイトを一身に浴びているのは君だよ。ついでに私とミーティア君もだがなっ!」

「そうですよ。何が悲しくてか弱い乙女が、こんなジャングルの奥地で中年男性と獣に囲まれ、サバイバル生活を送らなければならないんですか。本当なら今頃、ヘルメス貴族の玉の輿に乗っているか、勇者領の金持ちに見初められていたはずだったのに……私の人生計画台無しにしやがって、こん畜生!!」

「す、すみませんてば……」

 

 ミーティアに詰め寄られ、鳳は小さくなって謝罪した。そんな情けない姿を見て、ルーシーが苦笑いを浮かべていた。彼女は特に鳳を恨んでいないようだが、巻き込んでしまったのなら、折を見て謝っておいたほうが良いだろう。

 

 ギルド長が続けた。

 

「そんなわけで大君、帝国はあなた方の先回りをして、この手配書を勇者領にばらまいています。無防備に向かえば懸賞金に釣られたごろつきに狙われるかも知れませんから、新大陸へ向かうのならばお気をつけて……」

「報告ご苦労。しかし、それならちょうど良かった。儂らはまだ新大陸には向かわずに、もう暫くここに滞在するつもりだったのじゃ」

「え? そうだったんですか?」

「うむ。実は、気がかりなことが出来てのう……」

 

 レオナルドはそう言って、ガルガンチュア達と一緒に退治した魔族の話をした。魔族がこの近くまでやってくること自体は珍しくはないが、その種族や様子がおかしいのだ。

 

「もしかすると、南方(ネウロイ)で何か起きているのやも知れぬ。あまり考えたくないが、魔王誕生の兆候だとしたら一大事じゃ。儂はそれを調査したいと思っておったのじゃが……しかし、本部から助っ人を呼びたくても、あっちはあっちで忙しそうじゃの」

「はい、今は難民の移送で手一杯だと思います」

「それなら仕方あるまい。本格的な調査はあちらが落ち着くのを待つとして、それまでは獣人達の噂話でも集めておくかの。何か分かるやも知れぬ」

「分かりました。それならギルドの依頼として、各集落へ周知してみましょう」

 

 ギルド長はそう言ってミーティアに指示をすると、彼女がテキパキとした様子で棚から書類を取り出してきて、二人は忙しそうに働き始めた。左遷だ都落ちだと散々悪態をついていたが、こうした書類の用意があるところからして、案外ここにも仕事は沢山転がっているようだ。

 

 はっきり言って、最初はこんな大森林のど真ん中にギルドの連絡員がいると聞いても、本当に冒険者ギルドの依頼なんてあるのかなと思ったが、どうもそれなりに方法はあるらしい。ガルガンチュアが冒険者ギルドに登録した冒険者であるように、各部族にもそれぞれ冒険者がいるのかも知れない。

 

 そんな風に、依頼のための書類を認めているギルド長たちを手持ち無沙汰に眺めていると、彼らが退屈そうにしていることに気づいたルーシーが声を掛けてきた。

 

「ねえ、ギヨーム君たちは、暫くこっちに滞在するんだよね? 住む場所は決まってるの?」

「ああ、それなら、ガルガンチュアの集落の世話になるつもりだが」

 

 ギヨームがそう返事すると、ギルド長は書類からパッと顔を上げて、

 

「これは気づきませんでした。大君、こちらに滞在するのであれば、是非この家を使ってください。食料の備蓄もありますし、部屋も余っていますから」

「よいのか?」

「もちろん、冒険者ギルドはあなたの家ですよ」

「ならばそうさせてもらおうかのう……老骨に野宿は堪える。久々にベッドで眠れるわい。どれ、ジャンヌ。荷物を運ぶのを手伝ってくれんか」

 

 ジャンヌが老人の言葉に頷いて荷物を持ち上げると、ギルド長が部屋に案内しようとそそくさと立ち上がり、彼らを先導して家の奥へと歩き始めた。ギヨームとメアリーがその後に続き、最後に鳳がついていこうとすると、

 

「なに当たり前のようにくっついてってるんですか」

 

 突然、グイッと首根っこをひっつかまれて、ミーティアに行く手を阻まれた。首がしまってゲホゲホと咽返りながら、

 

「ちょっ、何すんの!?」

「あれだけのことをしといて、泊めて貰えると思ってるんですか? 厚かましいったらありゃしませんね」

「え!? マジで? 本気で言ってるの?」

「あなたはこっちです」

 

 鳳はミーティアにドスコイドスコイと張り手されながら玄関まで押し返された。彼女はドアを開け放つと、そのまま鳳を突き飛ばし、尻もちをつく鳳に向かって、玄関の横にあった犬小屋を指差しながら、

 

「あなたに貸してやれる部屋なんて、それだけですよーだ。どうしてもって言うなら、軒下なら雨露くらいは凌げるでしょう。震えて眠れ。おやすみなさい。ぺっぺっぺー!」

 

 ミーティアはツンケンしながらそう言い放つと、玄関のドアをバタリと閉めた。ガチャリと鍵を掛ける無慈悲な音が鳴り響く。慌てて玄関に縋り付いたが、もうドアは開くことはなかった。

 

 鳳は涙目になってドンドンとドアを叩きながら、

 

「おーい! 開けてよ! 悪かったから! 謝るから! 俺だけ野宿はあんまりじゃんかー!」

 

 鳳がそんな無様な姿を晒していると、ここまで案内をしてくれたガルガンチュアが、まだ外で待っていたらしく、

 

「どうした、少年」

「実は、かくかくしかじか」

 

 家を追い出された経緯を話すと、彼は少し考え込むような仕草をしてから、

 

「ならば我が村に来い。歓迎しよう」

「いいんですか?」

「いい。ついてこい」

 

 そう言って返事を待たずに歩き出した獣王の後を、鳳は捨てられた子犬みたいにしっぽを振りながらついていった。

 

 仲間に何の断りも入れないで行くのはまずいかなとも思ったが、どうせ村は目と鼻の先であるし、特に問題はないだろう。それにどうせ明日になれば、その仲間が迎えに来てくれるだろう。そしたらここに戻ってくればいいじゃないか……

 

 鳳はそう思って気楽についていったのだが……その後、仲間が彼を迎えに来ることはなかった。ギルド長たちは相変わらず怒っているし、一日世話になったなら、なんかもうそのままでも良いじゃんという雰囲気になってしまったのだ。

 

 レオナルドは暫くは情報集めだけで、直接あちこちに出向くつもりはないらしい。移動する時は呼びに来るという。その言葉を信じて、仕方ないので鳳は、それまで獣の集落で暮らしながら、のんびり待つことにした。もしかしたら、いい経験になるかも知れないし……

 

 しかし、そんな風に考えなしというか、無防備な時にこそ、得てして事故というものは起きるのである。冒険者ギルドが、わざわざ村から離れた場所に建てられた意味を、もっとよく考えておくべきだった。人間が、獣に混じって生きていくというのは、当たり前だがとても難しいことなのだ。

 

 鳳は間もなく、それを痛感することになるのであるが……この時の彼は、まだ何もわかっちゃいなかった。

 



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ハチとマニ

 樹齢数百年……もしかしたら数千年はあるかも知れない巨木の根本から、同心円を描くように集落の家々は立ち並んでいた。ガルガンチュアの村の家は、どれも同じ作りをしていたが、その並び順にはランクがあるらしく、巨木の幹に近いほど族長とか、長老とか、村の偉い人たちの家があるようだった。

 

 巨木の高さは100メートル、幹周りは数十メートルはありそうなほど大きく、村はその巨大な傘の下にすっぽりと収まる感じに広がっていた。どの家も藤棚みたいな、天井に蔦植物を生やしてるだけの簡素な屋根であったが、どんなに土砂降りでも雨に濡れずに済むのは、その巨木が雨を弾くお陰だった。こうして見てみると、まるで村の守り神のようである。

 

 鳳の家はその村の外縁部に存在し、両隣はどちらも若い夫婦者が住んでいた。家の場所から分かる通り、鳳は村の最下層の住人という位置づけのようである。滞在している間、特に仕事をしろだのなんだの言われなかったが、それは鳳が客だからというわけじゃなくて、何も出来ない人だからといった解釈だったらしい。

 

 ガルガンチュアに誘われた時は客人として良い家に住まわせてくれるのかなと思いきや、当たり前のように端っこの家を紹介されたので、なんというか肩透かしを食った格好である。扱いは正に村のお荷物といったところだろうか。

 

 尤も、考えても見れば今までもそんな扱いだったのだから、開き直ってしまえばどうということもない。

 

 それよりも困ったのは、家の壁が薄いことだ。いや、薄いのではなく、無いと言っても過言じゃない。木の板で囲うとか、漆喰で塗り固めるなんて概念はなく、どの家も草で編んだ布切れが天井からぶら下がってるだけだから、風が吹くと隣の家の人と目が会ってしまうくらいである。

 

 そんなプライバシーもへったくれもない状態なのに、隣の奥さんがおっぱいをベロンと出して赤ちゃんにお乳をあげているものだから、最初のうちは目のやり場に困った。

 

 しかも暗くなれば人目を気にせずに済むかと言えばそうでもなく、夜は夜で獣のような声があちこちから聞こえてきて非常に困った。パンパンと肉がぶつかるような音と、女性のあえぐような声である。何をしているかは一目瞭然……いや、一聴瞭然? なのだが、何も見えないから返って妄想を掻き立てられて困ってしまう。

 

 しかしムクムクと欲望がかま首をもたげてきたとしても何も出来ない。なんせ相手は(ビースト)だから、こっちが見えなくても向こうは見えているかも知れない。隣の家の出歯亀をしながら、一人でせっせと右手を動かしている姿を、もし誰かに見られて吹聴されたら、死んだほうがマシである。

 

 そんなわけで最初のうちは夜が来るたびに憂鬱になったが、そのうちなんとも思わなくなってきた。考えてもみたら、狼人たちは見た目からして狼なのだ。セックスと考えるからエロく思うのであって、犬の交尾だと思えばなんとも思わない。そう考えれば、授乳なんかも微笑ましいものである。

 

 ケモナーじゃなくて良かった。ノーマルな性癖に生まれてきて本当に良かった。鳳は生まれてはじめて神に感謝した。

 

 ともあれ、そんな始末であるから、村の衛生状態は言うまでもなく最悪である。

 

 最初の日の翌朝、目が覚めたら自分が使っていた寝床というか(むしろ)に、蛆が湧いていることに気づいて思わず悲鳴を上げてしまった。獣人たちはそれを見て笑っていたが、こっちとしては笑いごっちゃない。どこにどんな病原菌が潜んでいるかわからないから、その日は一日掃除で潰した。

 

 更にはトイレが物凄い。きっとこんな未開の地だから垂れ流しなんだろうなと思いきや、実態は想像の遥か上を行っていた。この村のトイレは豚舎なのである。豚舎の中にあるのではなく、豚舎そのものがトイレなのだ。

 

 豚を囲っている柵の一部には、何故か一段高くなっている場所があって、その上にU字型の足場が置かれている。そこに立ってお尻をペロンと出すと豚が寄ってくるから、その上にブリブリとひり出すのだ。

 

 当然、うんこが豚にかかるが、そんなの関係ねえと言わんばかりに、奴らはうんこをガツガツ食う。実に美味そうに食べるから、俺のうんこってそんなに美味いのかな? と誇らしい気分になってしまうくらいである。もし、うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、食べるならどっち? と聞いたら、きっとこの豚どもは、うんこ味のうんこと答えるに違いない。

 

 因みに、うんこを食ってるからと言って、豚がうんこをしないわけではないから、豚舎の中は豚のうんこだらけである。当たり前だが、豚も自分のうんこは食べないのだ。それじゃそのうんこはどこへ行くのか? と思いきや、溜まってきたら村の住人がかき集めて、近くにある畑の肥溜めに持っていく。

 

 だったら最初からダイレクトに肥溜めに持ってくりゃ良いじゃないかと思うのだが、栄養効率と言おうか、エネルギー効率的には理に適っているのでなんとも言えない。しかもこうして育った野菜がまた美味いのだ。

 

 村に来た最初の晩、ガルガンチュアがささやかながら歓迎の宴を開いてくれた。せっかくのお祭りだからと豚を一頭絞めたのだが、鳳はその時、その豚がどうやって育ったのかをまったく知らなかったから、何の先入観もなく美味しくいただいた。

 

 本当に美味かった。

 

 それがどんな味かと言えば普通の豚の味だった。日本の畜産農家が育てている食肉用に改良された品種の豚と比べれば、そりゃ味は数段落ちたが、それでもいつも食べていた懐かしい豚肉の味で間違いなかった。少なくとも、うんこの味はしなかった……いや、食べたことがないからうんこの味は分からないが、やはりそれは豚の味をした豚だった。

 

 なんかもう何を言っているか分からなくなってくるが、一緒に出された採れたて野菜も瑞々しく、今まで生きてきた中で一番美味かったと言っても過言ではない出来であった。思わず、これどうやって育てたのと聞いてしまったくらいである。

 

 その時は、ガルガンチュアの口下手もあって、なにを言ってるのかイマイチ理解出来なかったのだが……あとでカラクリを知った時には、食物連鎖について非常に考えさせられたものである。

 

 人間は愚かしくも、万物の霊長であるとか、最終捕食者であるとか自称しているわけだが、悔い改めねばなるまい。食物連鎖の頂点に立つのは人間ではなく微生物である。一度、自分のうんこを行き着く先まで追いかけてみればいい。うんこを覗き込むとき、うんこもまたこちらを覗いているのだ。

 

 集落の生活はそんな具合に自給自足で成り立っているわけだが、やはり畑と家畜だけでは全ての住人の腹を満たせるわけもなく、日々の糧はもっぱら男たちが狩ってくる獲物に頼っていた。故に、狩りが出来ない男は尊敬されず、鳳も最初のうちは客人として丁寧に扱われていたが、暫くすると半人前として馬鹿にされ始めた。この集落では獲物を獲ってこれない男は大人じゃないのだ。

 

 代わりに、鳳はスキルが採集に向いていたから、近場の山菜を集めている内に、集落の女とどんどん仲良くなっていった。意外なのだが、獣人たちはこんな生活をしているくせに、特定の木の実ばかりを採っていて、あまり山菜に詳しくないのだ。そのため、その価値が分かる女性に頼られていたのだが……

 

 半人前が女にモテるせいか嫉妬を買って、ますます男たちからの風当たりは強くなっていく。それが子供たちに伝染しはじめ、気がつけば彼は子供たちからも軽く扱われるようになっていった。

 

 しかしそれは悪いことでもない。子供からすれば、見下してもいい大人がいるというのは、物凄い優越感なのだろう。彼らは嬉しくて仕方ないと言った感じに、事あるごとにちょっかいを掛けてくるので、なんだかそのうち懐かれてしまった。

 

 考えようによっちゃ、何を言っても怒らない鳳は安心して甘えられる大人でもあるから、子供たちからすれば良い遊び相手なのだ。

 

 そんな感じで、女子供と仲良くなっていった鳳は、気がつけば集落でも微妙なポジションに立っていた。新参者のくせに妙に目立つから、人によっては煙たくて仕方がない存在なのだろう。しかし、そもそも種族が違うし、放っておけばそのうち出ていくわけだし、ガルガンチュアの客でもあるから、おおっぴらに痛めつけるわけにもいかない。そんなわけで、集落の男たちの多くは、彼を無視するようになっていった。鳳としては、出来れば仲良くしたいところなのだが、なんでこんなことになってしまうのだろうか……

 

********************************

 

 ハチとマニという少年たちに出会ったのはこの頃だった。

 

 獣人の成長は早く、ハチもマニも9歳という年齢だったが、見た目は人間なら15歳くらいの大人と子供中間の年頃で、まだ獲物を上手く狩ることが出来ないから、鳳同様に半人前として扱われている、そんな少年たちだった。

 

 しかし手足は伸び切り体力もあったから、ハチはいわゆるガキ大将として子供たちの上に君臨していた。そんなところに、よそ者がやってきて波風を立ててしまったのである。

 

 鳳は、年齢だけで言えば、彼らよりずっと大人である。しかし、なよっとしていて狩りが出来ず、いつも女に混じって採取ばかりしている。周りの大人達もあいつは駄目だと言っているのに、ところが子供たちは彼に懐き、ガキ大将の言うことを聞かなくなってしまった。

 

 それは彼にとって非常に不愉快な出来事だった。だが、鳳を排除したくても、族長の客人であるからおいそれと手は出せない。だから、彼は事あるごとに、鳳にちょっかいを掛けて、その優劣を決めようとした。

 

 例えば、彼は狩りは下手くそだが、決してで出来ないわけではないから、野うさぎなどを捕まえてきては、

 

「おい、人間。お前は赤ちゃんか。大人は自分で獲物を捕るものだ。それが村の掟。出来ないお前はさっさと出てけ」

 

 と言っては村から追い出そうとしたり、

 

「おい、人間。女のケツばかり追いかけて、ママのおっぱいが恋しいのか。お前が女を惑わすから、村のみんなが迷惑している。みんなお前を殺したがってる」

 

 と挑発してみせたり、突然、すれ違いざまに鳳の顔にパンチを入れるふりをして、

 

「おいおい、人間。ビビるなよ。ハエがついてたんだ。間抜けな顔をして、恥ずかしい奴め」

 

 などと露骨に嫌がらせをしてきた。

 

 こんなこと、どれもこれも子供だましで大したダメージにならなかったが、だからと言って腹が立たないわけでもない。こっちだって慣れない村の生活で気が張っているのに……そして鳳は半人前扱いされている通り、大人気なかったものだから、

 

「はあ? 大人ならみんなと一緒に狩りに出掛けたら? 君はどうしてお留守番してるんですかね。近場の兎を罠に掛けたら一人前だなんて、この村の大人ってのはレベルが低いっすね。ご自分が出ていかれたらよろしいんじゃないですか? げらげら」

 

 とか、

 

「はあ? 女性を見れば、誰も彼もがスケベなことばかり考えると思ってるんですか? それってもしかして自分のことなんじゃないですかね? いつもそんないやらしい目つきで見ているなんて、村のみんなが知ったらどう思いますかね?」

 

 とか、

 

「はあ? ただの防御反応を見てビビるだなんて、普通はそんな発想出てきませんよ。もしかしてあなたが誰かにやられたことあるからそう思ったんじゃないですか? ねえ? 誰にやられたんですか? ねえ? ビビっちゃったんですか? ねえ? ビビっちゃったんですか?」

 

 てな具合に、彼は言われたらその倍は言い返してやったのだった。

 

 元々、こういうちょっかいを掛けてくる連中は、反撃されることを想定していない上に、獣人はみんな口下手だったから、ハチは何も言い返せず地団駄を踏むと、真っ赤になって去っていくことしか出来なかった。

 

 鳳はそれで溜飲を下げたまでは良かったのであるが……しかし、この行動がある意味裏目に出てしまった。

 

 鳳に言い返されたからと言って、ハチの攻撃が止むことはなく、彼はまたすぐに嫌がらせを思いつくと、事あるごとに鳳にちょっかいを掛けてきた。そして鳳はその都度、彼を撃退していたわけだが、こうしている内にどんどんとハチのストレスが溜まっていき、それがピークに達したとき、彼はその代償行為として別のことを思いついたのである。

 

 話が前後するが、鳳が村で暮らし始めてから暫くして、彼は奇妙な事に気がついた。

 

 子供たちに懐かれていた彼は、女達から頼まれて、よく子供の面倒を見るようになっていたのだが、その中にたった一人だけ、兎人(ヴォーパルバニー)の子供が混じっていたのである。

 

 兎人の名前はマニと言って、見た目はやはり15歳くらい、大人と子供の中間の年齢だった。この集落は狼人(ウェアウルフ)の集落で、大人はみんな狼人だったから、捨て子を拾ってきたのか、はたまた他の集落の子供を預かっているのか、彼には何か事情がありそうだった。

 

 その証拠に、彼はいつも孤立していた。

 

 狼人たちは老いも若きも、みんな子供の面倒をよく見ており、とても子供を大事にする部族なんだなと思っていた。しかしそんな住人たちも、マニには決して近づこうとはしないのだ。そしてマニの方も、そんな集落の人達に気を使ってか、遠くから見ているだけで、こっちへ近づいてこようとはしなかった。

 

 あの子は一体なんなんだろう? 気になった鳳は村の女達に尋ねてみたが、彼女らは誰も彼もがマニの話になるとバツが悪そうに視線を逸らし、それでもしつこく尋ねたら、あれはガルガンチュアの子だから……と言って、それ以上は教えてくれなかった。

 

 ガルガンチュアの子とはつまり、族長の彼が連れてきた子供だと言う意味だろう。どうしてだろうと思いはしたが、大人たちがみんな嫌そうな顔をするから、これ以上の詮索はしないほうが良いだろう。

 

 子供たちもそんな大人たちの空気を察してか、マニには近づこうとしなかった。集落の人々は、彼を居ないものとして扱っていたのである。だから彼はいつも孤独で、そして兎人という狩りの下手な種族故に、集落の誰からも見下されていた。

 

 ハチはそんなマニに目をつけたのだ。

 

 ある日、鳳がいつものように子供たちの相手をしようと村の広場に向かったところ、いつもなら隅っこで目立たないように座っているマニの姿が見えなかった。元々、マニは子供たちの輪に入ることはなく、迷子になるような歳でもないから、いなくても差し支えなかったのであるが……鳳はハチの姿も見えないことに気づき、何となく嫌な予感がして、彼らを探すことにした。

 

 そして村の女達に話を聞きながら二人の行方を追っていると、彼は村から少し離れた林の中で、ハチに殴られているマニを見つけたのだ。

 

「この! この! 役立たず!」

 

 ハチはなにかに憑かれたように、目を血走らせながら黙々とマニの顔面を殴り続けている。

 

「やめて……やめてよう……」

 

 マニはそんなハチの凶行に抗えず、両腕で必死に防御態勢を取りながら、殴られるにまかせている。狼人と兎人……捕食者と被食者の絶対的な差があるのだろうか、彼はどんなにひどく痛めつけられても、歯向かおうとはしなかった。

 

「おいっ! なにやってんだっっ!!」

 

 鳳はそんな現場に飛び込んでいくと、取り憑かれているかのように腕を振り続けるハチを怒鳴りつけた。彼はその大声に一瞬だけ腕を止めたが、すぐにやってきたのが鳳だと気づくと、まるで不倶戴天の敵でも見るかのような憎悪に満ちた目つきで、

 

「おまえが悪いんだ!! おまえが出ていかないのが、悪いんだ!!」

「何言ってやがる。俺は関係ないだろう!?」

「狩りが出来ないやつは役立たず。役立たずは村から出ていく。それが村の掟だ。なのに、おまえは出ていかない! ずるい! 村の掟を破るのはみんな出ていけ! おまえも出ていけ!! マニも出ていけ!!」

 

 そんなことを叫びつつ目を血走らせながらマニを殴り続けるハチに対し、鳳はもう何を言っても無駄だろうと思い、

 

「いいかげんにしろ! 馬鹿野郎!」

 

 彼はハチに体当たりをすると、フラフラになって地面に突っ伏したマニを抱え上げた。マニは顔中血だらけで、元の顔が思い出せないくらい目の下が腫れ上がっていた。もしかしたら骨折しているのかも知れない。鳳は慌てて、いつも腰にぶら下げていた薬入れに手をやったが、今日に限って持ってきていない事に気がついて、ちっと舌打ちした。

 

「おい、大丈夫か? いま村まで運んでやるから」

「僕はいいから……逃げてください……」

 

 しかし、マニは首を振って鳳のことを突き飛ばす。もうそんな余力もないだろうに、人を気遣ってる場合かと思い、もう一度彼を抱えあげようと近づいた時だった。

 

 ザックリと……何かが突き刺さるような感触がして、鳳の背中に激痛が走った。

 

「か……は……?」

 

 肺の中から空気が全て抜けていくような声が、自然と自分の口から漏れ出した。鳳は苦痛に顔を歪めながら、何が起きたのかを確認しようと背後を振り返った。

 

 するとそこに、目を吊り上げて、憎悪をむき出しにしたハチが立っていた。人の頭を丸ごとかじれそうなくらい大きな口からは犬歯が剥き出しになっていて、いつの間にか彼の指先に伸びていた鋭い爪は、鮮血に染まり真っ赤だった。

 

 背中は見えないが、もしかしてあれにやられたのか? ゾッとしながら自分の背中に手を回すと、激痛と共に、何かベタベタしたものが手に触れた。腕を戻して手を開くと、そこに信じられないくらい色鮮やかな血がべっとりとついているのが見えた……

 

 やばい……自分の血を見た瞬間、気が遠くなってきた鳳の頭上で、犬の唸り声のような音が聞こえる。

 

「お前が先に手を出した……お前が先に手を出した……」

 

 見上げると、ハチが焦点の合わないうつろな瞳で、鳳のことを見つめていた。そんな彼が腕を振りかぶる。鳳はとっさに両腕をクロスして、頭を守るように身を縮ませた。

 

 ザシュッ! ザシュッ! ザシュッ!

 

 っと、執拗に振り下ろされる爪が過ぎるたびに、鮮血が飛び散った。鳳の腕はずたずたに切り裂かれ、ベタベタするペンキみたいに真っ赤な血が光沢を放っていた。

 

 それを見た瞬間、鳳の脳内にアドレナリンが吹き出した。視界が真っ赤に染まり、ドクドクと心臓が早鐘を打ち始める。鳳は尚も攻撃を続けるハチの腕をかいくぐると、握りしめた拳を思いっきりハチに向けて突き出した。

 

「いいかげんにしろ!この野郎っっ!!」

 

 それがクロスカウンターになって、彼の顔面に命中した。突然の反撃に、ハチはキャンと子犬のような悲鳴を上げて後退する。鳳はそんなハチを逃すまいと、体当たりするような勢いで飛びかかっていった。

 

 攻守が逆転し、先程までの鳳みたいに、今度はハチが両腕を使って防御姿勢をとる。しかし鳳はそんな彼の防御の隙間を縫って、的確に急所に拳を打ち込んでいった。それが肝臓を捕らえた時、全身の力を根こそぎ奪われたかのように、膝がガクッと曲がり、ハチは目を丸くしながら地面に倒れ伏した。

 

 こんなはずはない。人間なんかにやられるわけがない。その驚愕にプルプルと震える瞳が、そう物語っているようだった。鳳はそんなハチに馬乗りになって、とどめを刺すつもりで拳を振り上げた。

 

 ヒィッ……っと小さく悲鳴を上げてから、ハチは頭を庇おうと両腕を顔の前でクロスした。

 

 と……その時だった。

 

 鳳の体が、腕を振り上げた姿勢のままで固まった。もはや大勢は決したから、敢えて止めたというわけではない。彼の意思は相変わらずハチを攻撃しようとしているのだが、まるで何かに手首を掴まれているかのように、何故かその腕がびくともしないのだ。

 

 鳳は体を左右に振って、必死に腕を動かそうとした。しかし、その腕はまるでパントマイムでもしているかのように、彼の意思とは全然違う方向に勝手にいってしまう。焦った鳳は震える右手を左手で掴み、動け動けと言わんばかりに、グイグイと引っ張った。

 

 下敷きになっているハチがその隙きを見逃すはずもなかった。何が起きたか分からないが、突然、鳳が攻撃する手を止めたのを見ると、彼はすかさず全身をムチのようにしならせて、上に乗っかる鳳のことを跳ね飛ばした。

 

 左手で右手を掴むという、おかしな格好をしていた鳳は簡単にバランスを崩し、ハチに跳ね飛ばされて地面に転がった。そこにすかさず飛びついて、今度はハチがマウントポジションを取った。攻守逆転、さっきまで負けを覚悟していたハチの頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。彼は牙を剥き出し、憎悪で真っ赤に染まる目を鳳に向けると、鋭い爪が突き出した腕を振り下ろした。

 

 ハチは狂ったように鳳の頭を狙って腕を振り下ろす。鳳はそれを必死にガードしながら、なんとか逃げ出そうと試みるが、完全にマウントを取られた状態で、獣人との身体能力の差もあって、まるで上手く行かなかった。

 

 マニがそんな二人を止めようとして、必死にハチを羽交い締めにしようとするが、ハチはそんなマニを突き飛ばして、さらに鳳を攻撃し続けた。

 

 皮膚が裂け、血しぶきが舞う。あまりにも血が流れすぎて、もはや痛みは感じなかった。その代わりひどく目眩がして、鳳の抵抗する気力をどんどん奪っていった。目の前がチカチカと点滅して、世界が黒と白に変わってくる。やばいと思った時にはもうガードする腕も下がってきていて、ハチの爪はそんな無防備な鳳の頭や首に突き刺さった。

 

 意識がどんどん遠のいていく。頭がガンガンと痛んで、思考力を奪っていく。自分は、こんなところで死んでしまうのか? それも子供に、素手で、殺されるのか? なんて貧弱な存在なんだろう……

 

 そんな他人事みたいな感想が脳裏をよぎり、それきり彼の意識は途切れた。

 

 ぐったりとして動かない鳳の体に、尚も執拗な攻撃が加えられる。マニが必死になって止めようとしてくれなければ、きっと彼はそのまま死んでいたことだろう。

 

 その後、騒ぎを聞きつけた大人が駆けつけて来るまで、ハチの攻撃は続いた。発見された時、鳳の意識はなく、彼は生死の境を彷徨い続けていた。

 



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あなたも大概おかしな人ですね

 真っ暗闇を歩いていた。視界は限りなくゼロに近く、自分がどこを向いているのかさえ分からない。東西南北、前後左右……もしかすると、上や下を見ているのかも知れない。

 

 自分が歩いている場所は何なのか、道なのか、広場なのか、運動場のような開けた場所なのか、登っているのか降っているのか、それすらよく分からない。意識して、重力の方向を確かめないと、いつの間にか宙に浮いててもおかしくないような、それくらい何もない空間だった。

 

 と、その時、彼の視界の中央付近に、白い点のようなものが見えた。目を凝らして見て見れば、それは一筋の光のように見える。もっと近づいて確かめようと、重い足を引きずりながら歩いていくと、やがてそれがトンネルの出口から差し込む光であることに気がついた。なんてことない。ここはトンネルの中だったのだ。

 

 目的地があれば足取りも軽く、彼は意気揚々とその光に向かって歩き始めた。しかし、行けども行けども、トンネルの出口にはたどり着けない。まるで彼が歩くのと同じ速さで、出口が遠ざかっているかのようだ。次第に焦り始めた彼は早足になる。やがてトンネルの出口がほんの少し大きくなってきたとき、彼はそこにまた別のものを見つけた。

 

 トンネルの出口に、エミリアが横たわっていた。彼女の顔は歪んでとても苦しんでいるように見えた。呼びかけても返事がないのは、彼女の意識がないからだろう。彼女は地面に力なく倒れており、つぶったままの目は光を通さなかった。

 

 彼は驚いて走り始めた。彼女は苦しんでいる。一刻も早く、彼女を抱き起こしてあげたい。そんな気持ちで一杯で、一心不乱に走り始めた。その時、彼は足元のなにかに躓き、たたらを踏んだ挙げ句に、地面に転がってしまった。倒れた拍子に擦りむいてしまったのだろうか、ズキズキと痛む膝小僧を覗き込もうとしたとき、どこからともなく声が聞こえた。

 

『何故、仕留めそこなった』

 

 ドキリとして周囲を見渡す。不吉な声は、なおも言った。

 

『どうして、殺さなかったんだ』

 

 視界は相変わらずの真っ暗闇で、その声がどこから聞こえてくるのかはわからない。音が反響してあちこちから聞こえてくるせいで、声の主が近くにいるのか遠くにいるのか、距離感もつかめない。ただ、ここにいては行けないと思った彼は、慌てて立ち上がると、またトンネルの出口に向かって歩き始めた。

 

 そうだ、エミリアを助けなきゃ……トンネルの出口では、まだエミリアが横たわっている。時折、何かを訴えかけるように、その顔が苦痛に歪んで見える。彼は早く助けてあげなければと足を早めた。しかし、いくら歩き続けても、いつまで経っても、彼が出口にたどり着くことはなかった。

 

 そんな真っ暗闇の中を、一体どれくらい歩き続けているのだろうか。空腹と喉の乾きに目が霞み、もはや時間の感覚はない。だいぶ前に痛めた膝はガクガクと震え、一歩歩くたびに激痛が走る。そんな酷い有様だと言うのに、他にやれることは何もないから、彼はただひたすらに歩き続けていた。

 

 目の前に、エミリアが倒れているのだ。あそこまで行けば、彼女を救えるのだ。だから行くのが当然なのだ。それに、立ち止まればまたあの声が聞こえてくるはずだから。『何故、仕留めそこなった』『どうして、殺さなかったんだ』。そんな言葉が、彼を責めさいなむ刃となって襲ってくるのだ。

 

 頭の中に直接響いてくる、それは誰の声だろう。そうだ、これは父の声だ。懐かしい父の声……思い出したくもない、あの最低な父親の……

 

 それを思い出した時、彼は寒くもないのにブルブルと体が震えてきた。それは怒りと怯えが綯い交ぜとなった、言いようの知れぬ不快感が原因だった。頭の中で、何匹ものゴキブリが這いずり回っているようだ。時折、鼓膜を引っ掻いて、ザーザーと音が鳴る。あまりの痛みと嫌悪感で、彼は悲しくもないのに涙が出てきた。

 

 だから歩こう。歩き続ければその痛みは和らぐから、だから彼は歩き続けた。歩き続ければ、過去は遠ざかっていくのだから。どうせ、人間は歩き続けねばならないのだから。

 

 しかし、どんなに歩き続けても、彼はエミリアの下へはたどり着けなかった。トンネルの出口は、ずっと前から同じ場所にある。彼女はずっとそこに倒れている。目の前にいるというのに、手を伸ばせば届きそうなのに、しかしいくら歩いても、彼は彼女に少しも近づけないのだ。

 

 それからどれくらいの時間が流れただろうか。それでも、彼は歩くことをやめなかった。俯きながら、ただ自分の足元だけを見て歩き続けた。

 

 目を上げれば、エミリアはそこにいる。でもどんなに歩き続けても、そこにはたどり着けない。しかし、諦めて足を止めれば、またあの声が聞こえてくる。彼を責めさいなむ刃となって、彼の胸をザクザクとえぐり刻むのだ。

 

 彼はわからなくなってきた。

 

 どうせもう、どんなに歩いても彼女のところへたどり着けないことはわかっているのに、それでも歩き続けているのは何故なんだろうか。

 

 それは立ち止まれば、あの声に責められるからじゃないのか。

 

『何故、仕留めそこなった』

 

 エミリアを助けたいと言いながら、本当は彼女に縋ろうとして歩き続けているんじゃないのか。

 

『どうして、殺さなかったんだ』

 

 どうして人は、歩き続けなければならないのか……

 

 彼はもう楽になりたかった。道半ばに倒れたとしても、それで楽になれるのなら、それでもういいんじゃないか。

 

 どうせエミリアを救えないのなら……どうせエミリアが救ってくれないのなら……ここで倒れても同じじゃないか。

 

 だからもう、楽になれと誰かに言って欲しかった。もう歩き続ける必要はないんだと、もう何もしなくていいんだと、言ってほしかった。

 

 だからきっと願いが叶ったのだ。彼が精も根も尽き果てて倒れた時、それは父親の声をしていた……

 

『お前には失望した。もう、何もしなくていい』

 

*********************************

 

「うわああああああああああぁぁぁーーーーーっっ!!!!」

 

 布団を蹴り上げ、鳳は飛び上がった。バタバタと振った手首がベッドの足にあたって、物凄い音が鳴った。手首に激痛が走り、起きたばかりだというのに、また意識が飛びそうになった。額から流れる汗が目に染みる。汗でびっしょりの背中がスースーとして、凍えるような寒気を感じた。

 

「ちょ、ちょっと、大丈夫?」

 

 はあはあと息を荒げて、呆然と自分の手のひらを見つめていると、耳元で人の声がした。ドキリとして横を見ると、そこにエミリアの顔があって、鳳は心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うくらい驚いた。

 

「エミリア! 良かった……良かった! 無事だったんだな」

 

 感極まった彼が思わず彼女に抱きつくと、いきなりガバっと抱きつかれた彼女は目を丸くしながら体をくねらせて、

 

「わ! わ! ツクモ!? 何? 寝ぼけてるの? しっかりしてよ」

 

 彼女は鳳を突き飛ばすようにして離れると、顔を真っ赤にして距離を取った。非難がましい視線が突き刺さる。自分の好きな女の子にそんな目を向けられて傷つかない男はいないだろう。

 

「ご、ごめん、つい……夢見が悪くって」

 

 感極まって抱きついてしまったが、確かに自分らしからぬ行為だったと反省しつつ、鳳は面目ないと頭を下げた。そしてその夢の内容をかいつまんで説明しようと口を開きかけたとき、ようやくその違和感に気がついた。

 

 今、自分が抱きついてしまった相手……目の前にいる少女はメアリーだ。エミリアではない。ここは異世界で、彼女はよくわからないけど、神になってしまったのだ。

 

「……何をやってるんだ、俺は?」

 

 呆然としながら、鳳はそんなことを口走ると、

 

「それはこっちのセリフじゃないの」

 

 不服そうにメアリーが口を尖らせていた。その通り。まったくもって言い返せない。大体、何をやっている……ではなく、何をやっていた? が正しいであろう。鳳は額に手を当てて天井を見上げた。

 

 ここは一体どこだろうか? 周囲を見回せば、彼は見知らぬ壁と天井に囲まれていた。飾ってある調度品にも全く見覚えがない、質素な部屋の壁際にベッドが置かれていて、彼はその上に寝かされていたようだ。妙に体が軽く、フラフラするのは空腹だからだろうか? 目眩がして手をつくと、ベッド脇に置かれていたサイドテーブルに、水の入った洗面器と血のついた包帯がいくつも転がっているのが見えた。

 

 鳳はそれを見て、ここに来る前に何をやっていたかを思い出した。

 

「そうだ、ハチ! あいつにやられて、大怪我したんじゃないっけ?」

 

 ハッとして鳳は自分の腕を布団の中から引き出してみた。しかし、それをいくら矯めつ眇めつ眺めてみても、彼の両腕には大した傷も見当たらない。おかしいと思って、顔をペタペタ触ってみるも、やはりどこにも傷を負っている感じはなかった。

 

 もしかして、あの傷が治ってしまうくらい、長い間寝こけてしまっていたのだろうか。それって一体何日くらいだ? いくらなんでもあり得ないだろう。その間、飯はどうしたというのだ。

 

 そんな具合に鳳がパニクっていると、部屋のドアがバタンと音を立てて開き、外から冒険者ギルドの受付嬢、ミーティアが入ってきた。

 

「今、誰か大声で叫んでたように聞こえたのですが……あ! 鳳さん、目が覚めたんですか?」

 

 彼女は部屋に入ってきて鳳の顔を確認するなり、ホッとため息を吐いて脱力するようにその場にしゃがみこんだ。床に寝そべっていたらきっと見えるものが見えただろうに、ベッドの上からじゃ確認出来ない……そんな不埒なことを考えていると、自分の格好に気づいたミーティアが、スカートの裾を押さえながら立ち上がり、

 

「どこか痛いところありませんか? 体の不調は? おかしなことがあったら言ってください。あ、水! のどが渇いたでしょう、水を持ってきますよ。他に欲しい物があれば持ってきますけど、ありますか?」

 

 ミーティアはいつになく優しく、パンツを覗こうとしていたのが申し訳ないくらいだった。さっきから異様な空腹を覚えているが、それ以外にこれと言った不調は思いつかない。鳳は少々戸惑ったが、まずは状況の確認が先決だと思い、

 

「水と食べ物が欲しいけど……その前に、ここはどこなの? ミーティアさんがいるってことは、ギルドの駐在所なのかな? 俺はどうしてこんなとこで寝てるんだ?」

「覚えてないんですか? あなた、血だらけで運び込まれたんですよ」

 

 やっぱりそうか……鳳はその言葉を聞いて、ハチに襲われたのは夢じゃなかったと確認した。

 

「あれからどのくらい経っちゃったの? なんか傷が殆ど治っちゃってて、夢でも見てたんじゃないかと思ってたんだけど……」

「それも覚えていないんですか。あなたが運び込まれてから、まだ半日も経っちゃいませんよ」

「半日だって……!?」

 

 鳳は耳を疑った。記憶の中で、彼は結構ざっくりやられていたはずだ。仮にそれが間違いで、引っかき傷程度のものだったとしても、あれだけ血を流しておいて、半日程度で傷口が塞がるとは思えない。

 

 鳳が目をパチクリさせていると、

 

「私達も驚いているんですよ。あなたがここに運び込まれた時は、全身血だらけで意識がなく、生死の境を彷徨っている状態でした。すぐに私達で傷の手当を始めたんですが……驚いたことに、手当しているそばから次々とあなたの傷が塞がっていくんです。まるで神人みたいに……いえ、神人と比べればやはり遅いのですが、それでも普通の人とは比較にならないくらい、異常なほど傷の治りが早かったんです」

「そ、そうなの?」

「大君もどんなカラクリと驚いておりました。一体、あなたの体はどういう作りをしてるんです?」

「いや、そんなこと言われても、俺にもさっぱり……」

 

 彼の思いつく限り、傷の治りが早くなるような理由はなかった。思い当たる節があるとすれば、そういえば、元の世界からやってきた仲間のリロイ・ジェンキンスはステータス的には神人だったせいか、傷の治りが早かった。もしかして、鳳にもそういう隠しステータス的な何かがあったのだろうか?

 

 そうやって昔の仲間のことを考えていた時、彼はかつてカズヤの一撃で、練兵場で死にかけたことがあったのことを思い出した。あの時の自分は腕が引きちぎれ、完全に死んだと思っていた……ところが、次に目が覚めたら例の空間にいて、体は傷一つ負っていなかったのだ。

 

 だからあの時も、今みたいに夢だったんじゃないかと思っていたのだが……BloodTypeCのことといい、もしかしたら鳳のステータスにはまだ何か隠されているのかも知れない。

 

 彼はふと思い立ち、ステータスとつぶやいてみた。

 

----------------------------

鳳白

STR 10↑       DEX 10↑

AGI 10↑       VIT 10↑

INT 10↑       CHA 10↑

 

BONUS 1

 

LEVEL 4     EXP/NEXT 45/400

HP/MP 100↑/50↑  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 0

鳳白

†ジャンヌ☆ダルク†

Mary Sue

William Henry Bonney

----------------------------

 

「おっ……やっぱり」

 

 本当になんとなく思い立ったのだが、案の定というか、彼のレベルは上がっていた。以前、城で死にかけた時も、目が覚めたらレベルが上っていたから、もしかしてと思ったのだが……

 

 今回はあの時と違ってパーティー経験値は入っていないようである。それは最近、鳳一人だけが離れて暮らしていて、パーティーで行動していなかったからだろうか。レベルが上った理由も、あの時みたいに死にかけたのが原因だとするなら、正直ぞっとしない話である。

 

 出来ればレオナルドと話をしたいと思い、あの老人がどこにいるのか尋ねてみると、

 

「今はここに居ないんですよ」

「ありゃ、出掛けちゃってるのか。いつごろ戻ってくるの?」

 

 そんな鳳の言葉にミーティアはバツが悪そうに表情を曇らせながら、

 

「それが……実は、傷だらけのあなたがここに運び込まれた後、ジャンヌさんが怒って集落の方に殴り込みに行っちゃったんですよ」

「殴り込み……? 殴り込みだって??」

 

 それはまた、ジャンヌらしくない。鳳は冗談だろうと目をパチクリさせたが、どうやら本当のことらしい。

 

「ジャンヌさんは、鳳さんを半殺しにした犯人を出せと言って獣王に迫ったのですが、子供同士の喧嘩だからと断られてしまったんです。それで興奮するジャンヌさんと村の人達が喧嘩になりそうだったものですから、慌ててギルド長が仲裁に行って……それでも収まらないから、今は大君とギヨームさんも助っ人に行ってるんですよ」

「そりゃ穏やかじゃないなあ」

「だから、ジャンヌさんの気が済むまで、ここには誰も帰ってこないんじゃないかと」

 

 鳳はため息を吐いた。自分のことで怒ってくれることは嬉しいが、ギルドの仲間も巻き込んで、下手に村を刺激しないほうがいいだろう。きっと今頃、ギルド長も困っていることだろうし、ヘルメス領での汚名を雪ぐためにも、ここは一つ、行って止めたほうがいい。

 

 鳳がベッドから立ち上がろうとすると、ミーティアが慌てて駆け寄ってきて、

 

「ちょっと、ちょっと。何やってるんですか? 立ち上がって平気なんですか?」

「問題ない。少し血が足りなくて、体がスースーするけども」

「……あなたも大概おかしな人ですね……初めて会ったときは、ジャンヌさんのおまけにしか思っていませんでしたが」

「一言余計だっつーの」

 

 ミーティアはそう言って肩を貸してくれた。正直、必要なかったのだが、厚意を無碍に断るのもどうかと思い、そのまま甘えることにした。

 

「それより、ジャンヌを止めに行こう。見ての通り俺はもうピンピンしてるんだから、姿を見せりゃ落ち着くだろうよ」

「だと良いんですが……」

 

 二人は会話しながら部屋を出ると、ガルガンチュアの集落へと急いだ。

 



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ゲイ、怒る

 冒険者ギルドを出て、鳳たちは集落へと急いだ。駐在所を空にするわけにはいかないので留守番にルーシーを残し、玄関を出て森へ入ると、特に何も言ってないのにメアリーもついてきて、黙って鳳に肩を貸してくれた。

 

 反対側にはミーティアも居て、相変わらず体を支えてくれている。彼は、両手に花だな……と最初は気分良く思っていたのだが、このままじゃ歩きにくくて仕方ないので、結局は二人に離れてくれと断って一人で歩き出した。

 

「……申し訳ございませんでした」

 

 とは言え、病み上がりにこの未舗装路はきつい。ゼエゼエと荒い息を吐きながら、先行するメアリーの後に続いてデコボコの道を歩いていると、相変わらず心配そうな顔をしていたミーティアが、彼の背後で呟くように言った。

 

 何か申し訳ないことされたっけ……? 鳳は振り返って首を捻った。すると彼女は両手の親指と人差し指を合わせてモジモジしながら、

 

「私が追い出してしまったせいで、まさかこんなことになるなんて」

 

 彼は一瞬、ミーティアが何を言っているのか分からなかったが、そう言えばこのギルドの駐在所に来た初日、部屋を案内するギルド長についていこうとしたら、彼女に追い出されてしまったのだ。多分、そのことを言っているのだろう。

 

「ははあ……なんか妙にしおらしいなと思っていたら、そんなこと気にしてたの?」

「そりゃあ、気にしますよ。私があの時、意地悪しなければ、鳳さんは怪我をしないで済んだでしょうに……」

 

 正直なところ、どう考えても彼女のせいじゃないのは明らかなのだが、結果的にそうなってしまったので気がひけるのだろう。それにしてもこんな事を気にしていただなんて、いつも飄々としているくせに、意外と繊細な性格をしていたようである。案外、普段のあの態度は、その裏返しだったのかも知れない。

 

 ぶっちゃけ、若い身空でこんな僻地に飛ばされてしまったのは鳳のせいなんだから、自業自得だと言って笑ってくれた方が気楽なのであるが……下手な慰めを言えば、かえって傷つけてしまいそうだ。

 

 鳳は面倒なことになったなと思いつつ、慎重に言葉を選びながら言った。

 

「いや、ミーティアさんのせいじゃないよ。あの時、俺が土下座でもして入れてくださいって頼んだら、多分あなた入れてくれたでしょう?」

「…………」

「そうはしないで、誘われるままに族長(ガルガンチュア)についていったのは俺の意志なんだから、俺が悪いよ。あの後も村に残らないで、ギルド長に泣きついたり、なんならどっかで野宿しても良かったんだ。なのにあそこに残っていたのは、なんやかんやあそこが居心地良かったからなんだよね」

「……そうなんですか?」

「日がな一日食っちゃ寝して、子供の面倒見てればいいんだもん。でも、そうやっていつまでもお客さん気分で居るもんだから、そういうわけにもいかない若いのを苛立たせちゃったんだろうね。子供っつっても、相手は俺より体力あるのに、舐めすぎていたかも知れない。だからまあ、自業自得だ。あなたが気にすることはない」

「うーん……そうですか。そう言ってくれると助かりますが。でもやっぱり、私も悪かったと思います。何か償いが出来ればいいのですが」

「ならおっぱい揉ませて?」

「殴るぞこの野郎」

 

 ミーティアは反射的にそう言って、鳳の背中をぶっ叩いた。意外としおらしい性格だと思ったが、やはり素はこんなもんらしい。鳳は、いてててて……と涙目になりながら、

 

「甘いな。俺は女性に殴られることでも興奮する」

「くっ……こんなやつ、心配して損した」

 

 二人がそんなしょうもないやり取りを続けていると、退屈そうに先をグングンと進んでいたメアリーが突然飛び上がり、泡を食って駆け戻ってきて、

 

「わー! 大変大変、ツクモ、大変だよっ!」

「大変って、何が?」

「いいから早く来て! ジャンヌを止めて」

 

 メアリーは事情を飲み込めずぽかんとしている鳳の腕をグイグイと引っ張った。

 

 彼は隣のミーティアと顔を見合わせた後、メアリーに引きずられるように小走りになって先を急いだ。

 

***********************************

 

「だから、そのクソガキを出せっつってんだろうがクソダボがっ!! 耳くそで耳ぃ塞がってんのか死ね、ぶっ殺してやるっ!!」

 

 メアリーに引っ張られながら、ガルガンチュアの集落までやってきた鳳たちは、広場が見える曲がり角まで差し掛かったところで、突然そんなヤクザみたいな恫喝が耳に飛び込んできて、ビクリとなった。腹の底に響くようなその大声に、巨大生物の咆哮でも聞いているような恐怖を覚えた。

 

 ギンギンと耳朶を打つダミ声におののいて、ミーティアとメアリーが小さくなっている。村に借金取りでも来てるのか。鳳はドキドキしながらも何が起きたんだろうか? と、慌てて村の広場に駆け込んだ。

 

「むむ……おお! 鳳! お主、怪我はもう良いのか?」

 

 広場にやってくると祭りの時くらいしかお目にかかれないような、物凄い人だかりが出来ていて、その人垣に追い出されたのか、少し離れた岩にレオナルドが腰掛けていた。彼は鳳を見つけるなり、手にした杖を振りながら手招きする。

 

 鳳は老人の下へ駆け寄ると、

 

「もうすっかり平気だよ。世話かけたな」

「本当に、お主の体はどうなっておるんじゃろうか……それよりちょうど良かった。ジャンヌを止めてくれ」

「ジャンヌ……? 一体何があったんだ」

「血だらけのお主がギルドに運び込まれると、ジャンヌはお主を一目見るなり激怒して、怪我を負わせた者を出せとガルガンチュアに詰め寄ったのじゃ。獣王は、私闘ゆえ村の掟では罰せられんと突っぱねたのじゃが、それでは収まらんジャンヌが大暴れしておるというわけじゃ」

「え? それじゃさっきから聞こえてくる、ヤクザみたいな声はジャンヌなの?」

 

 鳳が仰天して、ぴょんぴょん跳ねながら広場の中央を覗き込んでみたら、確かにジャンヌと獣王が揉めているようだった。素手で人を殺せそうな大男たちが、掴み合い怒鳴り合ってる姿は傍から見ているだけでも恐ろしかった。

 

 しかし、あまりにもイメージとかけ離れていたせいで、まさかそれがジャンヌの物とは思いもよらなかった……オカマが激怒すると急にオスに戻るあれはなんなんだろう。普段抑えられている分、こういうときにテストステロンとかがドバドバ分泌されでもするんだろうか。そのむき出しの歯と血走った目を見ていると、どっちが『獣王』なのかわからないくらいだ。

 

 ジャンヌの腰のあたりを見れば、ギルド長とギヨームが必死にしがみついていて、彼を止めようとしているようだが、ほとんど意味はなさそうだった。族長がやられそうだからか、村人たちも興奮していて、このまま放っておいたら何が起きるかわからない。

 

「お主が異常な速度で回復していると伝えたのじゃが聞く耳持たん。というわけで頼んだぞ、鳳。あれを止められるのは、お主だけじゃ」

「マジか……あんなか入ってかなきゃなんないの? 仕方ない。すぐに落ち着いてくれりゃいいんだけど」

 

 鳳は殺気立つ村人たちをかき分け、もみくちゃにされながら広場の中央まで進んでいった。

 

「お前の言うことは聞けない。我が子ハチは尋常の勝負をして勝った。負けた奴の敵討ちは駄目だ。いつまでも決闘が終わらないからだ」

「だから、白ちゃんがそんな勝負をするわけないって言ってんだろうがっ! どうせお前んとこのダボが嘘ついてんだから、いいから出せよ!」

「駄目だ。決闘は終わった。我らは村の掟を守る」

「そんなの知ったこっちゃねえっつってんだろ!」

 

 冷静なガルガンチュアに掴みかかりながら、ジャンヌは顔を真っ赤にして唾液を飛ばしていた。一言一言が腹にズシンと来るほどの大音量で、どこからそんな声を出しているのかと閉口する。

 

「おい、そんなに喧嘩腰になるなよ、おまえらしくない」「ジャンヌ君、まずは冷静になるんだ」

 

 ギルド長とギヨームがそう言ってジャンヌを宥めようとするが、彼は聞く耳持たないようだった。そのあまりのしつこさに村人たちの怒りがピークに達したのか、ついに堪えきれずに誰かが叫んだ。

 

「よそ者がいい加減にしろ! これ以上は黙っていないぞ! 族長の敵は我らの敵! 村の掟を破るものには死を!」

 

 しかし、そんな村人の声にも臆することなく、

 

「上等じゃねえか! 文句ある奴ぁかかってこい! 全員まとめてぶっ殺してやらあ!!」

「おい、だからよせって! みんなも落ち着けよ!」

 

 その言葉に村人たちがいきり立ち、ジャンヌに詰め寄ろうとする。ギヨームが慌てて彼らの間に入り、必死に叫んで止めようとする。ギルド長に至っては、顔面蒼白になっている。このままではせっかくの友好関係が台無しだ。

 

 これはまずいことになった。鳳はもはや躊躇している場合じゃないと、騒ぎの中心であるジャンヌとガルガンチュアの間に割り込むように飛び込んでいって、

 

「ちょちょちょ、ちょっと待った! この勝負、俺が預かった! ジャンヌ! ギヨームの言うとおりだ、まずはお前が落ち着けよっっ!!」

「白ちゃんは黙ってて! ここで引いたらオカマの名折れよっ! 仲間が……いいえ、白ちゃんがやられたっていうのに、引き下がれるもんですかっ! 全員まとめて八つ裂きにしてやるっっ!!」

「いや、だから、まだ俺は死んじゃいないんだから、落ち着けって。俺のために怒ってくれるのは嬉しいが、そういうのは俺が死んでからにしてくれよ、な?」

「駄目よっ!! 死んでからじゃ遅いでしょ!? いくら白ちゃんに頼まれても……あれ? って、白ちゃん?」

 

 興奮するジャンヌは、初めこそ仲裁に飛び込んできた相手が眼中になかったようだが、話しているうちにそれが誰だか分かってきたようで……みるみるうちに信号機みたいに顔色が変わったかと思いきや、今度は目を白黒させたりしてから、何が起きてるかわからないと言った感じに、暫し呆然とした目つきで鳳の顔を見つめていたかと思ったら、最後は突然、両手をガバーっと広げて彼に抱きつき、

 

「白ちゃ~~~~んっっ!! 白ちゃん! 白ちゃん! あんた、無事だったのねえっ!!?」

「ぎゃああああああーーーーっっ!!! 潰れるっ!! 潰れるっ!!」

 

 鳳はあんこが飛び出そうなくらいに締め付けられた。人類最強に本気で抱きしめられるくらいなら、万力で頭をギリギリやられたほうがマシである。その悲痛な叫びに、ジャンヌを取り囲んでいた村人たちも恐怖を覚え、怒りも若干引いてきたようである。

 

「鳳、無事だったのか!?」「あれだけの怪我が、嘘みたいだ……」

 

 ギヨームたちが目をパチクリさせている。その気持ちはわかるが、出来れば見てないで助けてほしい。

 

 チアノーゼみたいに顔面が紫色になった鳳が、必死にジャンヌの肩をタップすると、彼はようやく鳳が死にそうになってる様子に気づいたようで、ぱっとその腕を離し、

 

「ご、ごめん。つい嬉しくて、全力でハグしちゃったわ。大丈夫?」

「なにがハグだ! サバ折りっつーんだっ!! 死ぬかと思ったわっ!」

「で、でも白ちゃん、どうしてここに? あんた、血だらけで死にそうだったじゃない……だから私てっきり……」

「殺すなって。俺はピンピンしてんだからよ……」

 

 鳳がそう言って恨みがましそうにジャンヌを睨むと、それを見ていたガルガンチュアも不思議そうな顔をして、

 

「少年よ。どうしてここにいる。おまえは死にそうだった。俺も見た」

「ええ、俺も死ぬんじゃないかと思ったんですけど、なんとか無事だったんです。話すとややこしいんですが……」

 

 正直、自分でも説明しづらいことを、何も知らない獣人たちに説明するのは面倒だ。出来れば聞いてほしくないという鳳の空気を察してか、それとも元々会話が不得意だからか、獣王はそれ以上聞かなかった。代わりに彼はジャンヌを指差し、

 

「ならば少年。おまえが決闘で破れたことを、ジャンヌに教えてやれ。本人の口から聞けば、ジャンヌも退くだろう」

 

 しかし、鳳はそんな話は初耳だったので、

 

「決闘? いや、俺は決闘なんてしてないですよ……?」

「ほら見なさい! やっぱり、白ちゃんがそんなことするわけないのよっ! なのにこいつらが、悪いのは白ちゃんだって言うから……加害者がいけしゃあしゃあと、ふざけるんじゃないわよっっ!!!」

「わー! 待て待て! だから落ち着けって!!! すみません。どういうことか話してもらえます?」

 

 また興奮しそうなジャンヌを押し留めつつ、鳳はどうしてこんな話になっているのかと詳しいことを聞いてみた。

 

 ガルガンチュアが家で狩りの準備をしていたら、村の外から血だらけの鳳が運び込まれた。聞けば、村の子供ハチが彼を傷つけてしまったらしい。彼は急いで冒険者ギルドに遣いを出してから、ハチに何故こんなことをしたと問い詰めた。村の客人に手を出すことはご法度で、場合によっては厳しい罰を与えなくてはならないからだ。

 

 すると、連れてこられたハチは、鳳に決闘を挑まれたからそれに応じただけだと言った。もしそれが本当なら、鳳は返り討ちにされただけなんだから、彼を罰する必要はないだろう。しかし、それでは気が収まらないジャンヌが、ハチを罰しろと言って聞かないのだと、獣王は言った。

 

「ハチはツクモが先に手を出したと言っている。理由もなく攻撃された者は、名誉のために戦わねばならない。それが村の掟だ。決闘だ。どちらかが死んだとしても、勝ったものは悪くない」

「な、なるほど……しかし、俺は身に覚えがないんですが」

「証人がいる」

「証人?」

 

 ガルガンチュアは頷いて、人垣の中にいる一人を指差して言った。

 

「マニは鳳が先に攻撃したのを見たと言っている。二人が同じことを言ったから、俺は信じた」

 

 鳳がハッとして振り返ると、獣王の指し示した方向にマニが居た。この狼人の村の中で、たった一人だけ兎人の彼はとても目立った。鳳が彼の姿を捕らえると、マニはその視線を浴びてバツが悪そうにドギマギしてから、避けるように目を伏せた。それはどう見ても罪悪感のある者がする行為である。鳳はそれを見て何が起きたのかを理解した。

 

 鳳が怪我をする直前……彼はハチがマニをいじめている現場を目撃し、それを止めようとしてハチを突き飛ばしたのだ。するとハチが逆上し、鳳に攻撃をし始めた。その時、彼が執拗に「おまえが先に手を出した」と言っていたのは、それが決闘だということを強調するためだったのだ。

 

 しかし……結果的に手を出すことになってしまったが、それはマニを助けるためだった。鳳に攻撃の意志はなく、それはマニにも分かっているはずだ。だから彼がそれを証言してくれれば、それで済んだ話だったのだが……

 

 マニは助けようとした鳳ではなく、いじめていたハチの味方をしたようだ。それはきっと怖いからとかそういう理由ではなく、同じ村の仲間と、たまたま村に滞在しているよそ者とでは、前者を助けようという気持ちが勝ったからだろう。

 

 結局、鳳はいつかは居なくなるのだ。これからもずっと一緒のハチに味方するほうが自然ではないか。

 

 鳳は、はぁ~……と、長いため息を吐いた。彼の気まぐれな善意は、単に、そんな二人の関係に波風を立てようとしていたに過ぎなかったのだ。

 

「ああ、確かに、俺が先に手を出しましたね」

 

 鳳がそれを認めると、彼らを取り囲んでいた人垣が『おお~っ』とどよめいた。そんな中で一人だけ、マニが驚いたように目を丸くする。

 

「え!? そ、そんな……本当なの、白ちゃん?」

 

 隣にいたジャンヌが驚いて彼に確認を求める。そりゃそうであろう。彼は鳳に非がないことを信じて、村に乗り込んできたのだ。下手したら喧嘩になっていたかも知れない。これだけの人数を相手に、もしかすると命を落としていたかも知れない。それでも彼は一歩も退くことなく、鳳の潔白を信じて堂々と犯人を出せと要求したのだ。

 

 何故なら、それは鳳が死にそうな目にあったからだ。仲間が、また殺られそうになったのだ。彼が激怒するのは当たり前だ。なのにその鳳があっさりと自分の非を認めてしまっては、彼の立場がないだろう。

 

 ここは絶対に非を認めちゃいけない場面だ。それは分かっている。しかし、鳳はそんなジャンヌを手で制して、ガルガンチュアに向かってこう言った。

 

「でも、俺はそれが決闘になる行為だとは知らなかったんです。ほんの些細な喧嘩に過ぎないと思っていた。だから、ハチに殴られても抵抗はせず、やられっぱなしになっていたんだ。知っていれば抵抗していたはずなのに」

「なんだと? 知っていたなら結果は違ったと言うのか?」

「ええ、そう言ってるんです」

 

 鳳がそう言うと、村人たちが鼻で笑った。まあ、その気持ちは分からなくもない。ここ数日、この村で暮らしていたから、彼らは普段の鳳を知っているのだ。そんな彼が、獣人に体力で勝てるわけがない。たとえ相手が子供であっても。

 

 その通りだろう。鳳が普通に戦ったら勝ち目はない。下手したら今度こそ殺されてしまうかも知れない。だがそれは、獣人と素手で戦った場合だ。

 

「なら、どうする、少年。我らの立ち会いの下、また決闘をしたいのか?」

「はい。でも、また同じように素手で殴り合ったとしても、俺は負けるでしょう」

「そうだろう。やるだけ無駄だ。やめておくんだな」

「いいえ、だから今度はお互いに納得の行くルールで決着をつけようって言ってるんです」

「ルールだと?」

「人間は、よほどの物好きでもない限り、素手での殴り合いなんてしないんですよ」

 

 マニが大事なことを隠していると、ここで彼を糾弾したところで何になるだろうか。

 

 例えば鳳が、マニがいじめられていたから止めたのだと言えば、恐らく村の人々は信じるだろう。何故なら、狼人の村の中で、たった一人の兎人である彼が仲間はずれになっていることは、みんな知っているからだ。

 

 結果、マニはどうして嘘を吐いたんだと怒られ、ハチは大人たちに罰を受け、鳳の名誉は回復するだろう。村で不自由な生活を送っていた鳳は冒険者ギルドに戻って、ギルドと村の関係も元通りになるだろう。

 

 だが、それでいいのか?

 

 先に手を出したのは鳳だというハチの言葉は真実だ。彼らのテリトリーに勝手に入ったという意味でなら……そのくせ、鳳は客人である、人間であるということを理由に、村の掟を守らない。獲物をとってくるのは、村の男の仕事なのに、彼はしなくても許されるのだ。ハチはそれが気に食わなかった。

 

「この村では、一人で獲物を取ってこれなければ、一人前にはなれないんですよね」

「ああ、そうだ」

「なら、狩りで勝負しましょう。俺とハチとで別々に森に入って、より大きな獲物を狩ってきたほうが勝ち。そんなルールでどうですか」

 

 ハチは言った。獲物が取れない奴は出ていけ。それが村の掟だと。ならば、そのルールに則って勝負してやろうじゃないか。出来ないものは去れ。それがルールだ。

 



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そうする必要があったんだろうよ、システム的に

 タンッ! タンッ! タンッ!

 

 大森林の奥地で銃声がリズミカルに轟いていた。ギルド駐在所の前に作られた即席の射撃訓練場で、鳳が愛用のライフルを構えては、百メートルほど先の標的に向かって淡々と射撃を続けていた。ハチに大怪我を負わされた翌日、彼は来たるべき決闘のための準備をしていたのだ。

 

 彼が手にするのは、あの街での攻防戦で支給され、逃げる時にどさくさに紛れて持ってきてしまった銃だったが、今では鳳の使える唯一の武器として活躍していた。5連装ボルトアクション式のライフルで、ただ撃つぶんには素人にも問題なく扱えたが、ただし鳳はメンテナンスが出来ないのでそのうち使えなくなってしまうのかな……と思っていたのだが、そこはたまたまギヨームという銃のエキスパートがいたことから事なきを得ていた。

 

 ギヨームは、さすが西部開拓時代を生きていただけあって、銃を分解したり、火薬を調達したり、空薬莢から弾を再生するなど、銃にまつわることはなんでもやれた。おかげで鳳は何もすることがなく、それを少々申し訳なく思っていたが、彼自身は魔法の銃を使用するため、鳳の銃を弄るのが気晴らしにもなるから良いらしい。

 

 ギルドに到着してからは、部品を注文したり、新しい銃を組み立てたり。今回も射撃の訓練をしたいと言ったら、すぐにこうして即席の射撃場を拵えてくれるところからしても、どうやら彼は銃を触っているのが単純に楽しいようである。

 

 それならば、魔法を使わずにいつも銃を持ち歩いていたら? と言ってみたのだが、そこはそれ、実物を携帯しているとその重量で動きが阻害されるから、今のスタイルのほうがいいそうである。アメリカ人らしい、なんとも合理的な考えである。

 

 鳳が装填されていた5発の銃弾を撃ち尽くし、地面に転がっていた空薬莢を回収していると、それを脇に寄って見ていたジャンヌが近づいてきた。

 

「経緯は理解したわ。でも、白ちゃん。それじゃどうしてあんな勝負を挑んだのかしら? 本当のことを言えば、彼は罰せられたはずよ」

 

 村の広場での騒動は、大怪我をしたはずの鳳が出ていって、ジャンヌを宥めることで収束した。しかし、ギルドに帰ってきてから、鳳に事の顛末を聞かされたジャンヌは、鳳が怪我をしたきっかけが、イジメを仲裁しようとしたこと、その相手に逆恨みされたこと、その結果、彼は死にそうになったというのに、事実を公表しないことを不思議がった。

 

 言えば、あの状況では誰もが鳳が嘘を言ってないことを理解しただろう。ハチをかばったマニも、鳳が先に手を出したということを肯定しただけで、それ以前にハチに虐められていたことを突っ込まれたら白状したはずだ。

 

 なのに、鳳はそのことを一切口にせず、単にハチとの勝負をやり直そうと言うのだ。何故そんな七面倒臭いことを言い出すのか、ジャンヌには理解できなかった。

 

「多分、そうだろうな」

「だったら……」

「でも、それだけだ」

 

 鳳の言葉に、ジャンヌは怪訝な顔をして首を傾げた。

 

「あそこで俺が本当のことを言えば、村人たちは信じただろう。マニが虐められていたことは誰でも知っていた。ハチが癇癪を起こしやすい性格なのも分かっていただろう。だから、言えば気の弱いマニは本当のことを話しただろうし、ガルガンチュアはハチを罰して俺に謝罪しただろう。でも、本当にそれで良かったんだろうか?」

「どういうこと……?」

「俺がここに運び込まれた時、見るからに死にそうだったから、おまえは頭にきて村に殴り込みに行ったんだろ? もし、本当に俺が死んでいたら、今頃おまえはどうしていただろうか?」

「それは……」

 

 ジャンヌは想像の中でよほど腹を立てたのだろう。みるみる顔が赤くなってきた。

 

「絶対に許さない。例え刺し違えたとしても、あの連中と一戦交えているはずよ」

「そうだろう。ところが幸か不幸か俺の怪我は治ってしまったんだよ。それが神の御加護か、俺の異常体質かはわからないけど、綺麗サッパリ何事も無かったようにね。だから、あの時、本当のことを言ってハチが罰せられたとしても、多分、大して問題にはならなかった。誰も事態の重要性を理解できなかった。もしかしたら、俺は死んでたかも知れないのに……なのに、何もなかったから良かったでは済ませられないと思ったんだよ」

「そうね。その通り……あなたの言うとおりよ」

「それに、どうせああ言う奴は他人に罰せられたら逆恨みするだろう。一時しのぎにしかならないなら、勝負して白黒つけたほうが良い。今後、ここで生活していく上でハチには、俺に負けた、俺には敵わない、って気持ちを味わってもらわなきゃ困るんだ」

 

 鳳がそう言って、拾った薬莢をギヨームに手渡すと、それを受け取りながら彼は感嘆の息を吐き、

 

「おまえ、あの場面でそんなことまで考えてたわけ? ホント、そういうところだけは、頭が回るっつーか、素直に感心するぜ」

「あんがとよ」

「けどなあ……それで狩り勝負ってのは、いくらなんでも舐めすぎじゃねえか? 相手は子供とは言え獣人だ。どう考えても分が悪すぎるだろう? 狩猟本能のままに生きてるような連中を相手に、おまえなんかじゃ勝負にならねえぞ」

 

 鳳は苦笑しながら、

 

「そうだな、そうかも知れないな」

「本当に分かってるのか? おまえは兎とか鹿みたいな、弱い草食動物なら自分にも狩れると勘違いしてるのかも知れないが、実はそういった奴らのほうが難しいんだぞ。奴らは信じられないくらい警戒心が強い。数百メートル先の些細な音でも聞き分けて、パッと逃げやがる。無警戒のおまえなんかじゃ、多分、近づくことも出来ないはずだ」

「かもな。でも、そこはそれ、人間には人間のやり方ってもんがあるだろう」

「……どういう意味だ?」

 

 鳳は含みのある笑みを浮かべながら、

 

「まず今回の勝負は、より大きな獲物を取ってきた方が勝ちだ。だからそもそも、兎なんか捕まえてきても勝負にならないんだよ。もっと大物を狙わなきゃ」

「ああ……そうだな」

「そして狩り方は問わない。罠猟でも追い込み漁でもなんでも、最終的に獲物が取れればなんでもいい。俺はもちろん、銃を使っていいことになっている」

「そうしないと勝負にならないからな」

「そしたら後は、あいつに勝てるだけの大きな獲物を見つければそれで済む話じゃないか。そして俺は、その獲物の場所を知っている」

「なんだと?」

 

 ギヨームは眉根を顰めた。

 

「獲物を探すのが大変なら、向こうの方から狩りに来て貰えばいいのさ。冒険者ギルドには、いつも討伐依頼が舞い込んでいるだろう。その中で、適当な依頼を受ければ良い。何しろ、大森林の獣人が討伐依頼をするような獲物だ。きっと俺みたいに美味そうな人間がうろついてたら、向こうの方から喜んで駆けつけてくれるはずさ」

「え? ……いや、でも、それって……いいのか??」

 

 ギヨームは頭を抱えた。普通なら、狩りといえば、まずは獲物を発見するところから始めるはずだが、今回の勝負はそもそも方法が問われていない。それに、大物を狙うのであれば、普通のハンティングでも下調べくらいはするはずだ。例えば、山にクジラを探しに行くバカはいない。どの辺に何がいるかくらいは調べてから行くのが普通である。

 

 鳳は、その情報の仕入れ先として、冒険者ギルドの掲示板を利用しようと言ってるのだ。ギルドには常に一つや二つの討伐依頼があり、しかも大抵の場合、それは大物の討伐である。危険だから依頼されるわけで、問題の獲物が目撃された場所へいけば、鳳の言う通り、向こうの方からこっちを見つけてくれるだろう。

 

 しかし、これは狩りと言えるのだろうか……

 

 もちろん、言えるだろう。

 

 ギヨームだって、討伐依頼のことを狩りと表現することはある。しかも、成功しても失敗しても誰も損をしないのだから、最高の狩りと言えるかも知れない。

 

「う、うーん……考えたな。いや、しかし! おまえ、討伐依頼を受けるっつっても、それこそ本当にやれるのか? おまえ、討伐経験ないじゃないか」

「まあね。でも、そこはおまえの腕次第だ」

「あん? どういう意味だよ」

「おまえの言う通り、俺は討伐の経験がない。ついでに言うと狩猟の経験も殆どない。だから、おまえの知恵と経験に頼りたい。具体的には、これなら俺でもやれるかもって依頼と、武器と弾薬を用意して欲しいんだ」

「はあ、俺にお膳立てしろって? ……まあ、それくらいはもちろんやるけど、それでも、まだ危険だと思うぞ。冒険者ギルドに依頼されるようなのは、失敗したら死ぬ可能性があるような猛獣ばかりだ。ただでさえ、そんな危険な相手なのに、おまえ、動く的を撃ったことがないだろう? 本当にやれると思ってるのか?」

「それについてなら、少し考えがあるんだよ。ギヨーム、さっきの俺の射撃を見てどう思った?」

「どうって……まあ、素人にしては中々やる方なんじゃないか。俺の足元にも及ばないがな」

「そうかい。それじゃ、今からもう一度あの的を撃つから、それを見てまた判断してくれないか?」

「どういうことだ?」

「見りゃわかるよ」

 

 鳳はそう言うと、ギヨームから新しい銃弾を受け取り、ライフルに込めて先ほどと同じように百メートル先の的に向かって射撃を初めた。

 

 タンッ! タンッ! タンッ!

 

 リズミカルな銃声が周囲に轟き、轟く度に的から砂煙が舞い上がった。全弾命中……この距離で、ましてやギヨームがメンテナンスした銃であるなら、決して難しいことではないが……

 

 ギヨームはその射撃を見て思わず目を疑った。彼は瞼をゴシゴシと擦り、それから気難しそうに眉間に皺を寄せて、

 

「すまねえが、もう一度やってみてくれるか? 今度はちゃんと見てるからよ」

「いいよ」

 

 鳳は肩を竦めると、また弾を込め直して、的に向かって銃撃を開始した。

 

 タンッ! タンッ! タンッ!

 

 今日は幾度となく聞かされた銃声が、また森の中に響き渡る。ギヨームは、鳳が射撃を終えるのを見届けると、これ以上撃つなよと手で制してから、わざわざ的まで走っていって確認した。

 

 そして難しそうな顔で腕組みをしながら帰ってくると、

 

「どういうことだ……? 明らかに集弾率が上がっている。おまえ、さっきまでは手を抜いていたのか?」

「まさか、さっきも今も本気だよ」

「じゃあ、どうしてこんなに突然射撃の腕が上がってるんだ? まるでさっきとは別人みたいだぞ」

「やっぱりね。まあ、俺もここまで劇的に変わるとは思ってなかったんだけど」

「何をしたんだ?」

「実はさっきと今とでは、俺のステータスが違うんだ。具体的にはDEXだ」

「DEX?」

 

 鳳は首を傾げているギヨームに説明しはじめた。

 

 昨日、ハチにボコボコにされてギルドに運び込まれた後、鳳がふと思い立ってステータスを確認してみたら、レベルが上っていた。残念ながらパーティー経験値は入っていなかったが、その代わりにボーナスポイントが入っていたから、彼はちょっと試してみようと思ったのだ。

 

「ほら、以前お前らと、人間のステータスについて話しあったことがあるだろう? その時、ジャンヌはSTRが23もあって、大木を一刀両断出来る技量もあるけど、元々いた世界……地球ではそんなことは出来なかったと言っていた。で、思ったんだよ。もしかして、このSTRって数値は、ジャンヌの本来の能力に下駄を履かせた数字だってことじゃないかって」

「うん……? どういう意味だ? よくわからんが」

「ジャンヌが大木を一刀両断出来るのは、彼が元々持っている能力ではなくて、神からのギフトみたいなものじゃないかと考えたんだよ。彼は本当なら大木を切る能力はない、なのにそれが出来るのは、神の力……魔法の力でもなんでもいいけど、そういう力が働いているからじゃないかと思ったのさ。

 

 で、とりあえず、そういう視点で考えてみるとさ、俺ってステータスがオール10だったわけだけど……

 

 あの街での攻防戦の時、俺は生まれて始めてライフルってものを撃ったんだけど、あの日以来、今日まで何度も射撃をする機会があって、そんで最近は100メートルくらいの距離なら的を外さないってくらい上手くなったなと思っていたんだ……ところが、俺のDEXは相変わらず10なんだよね。

 

 これってなんかおかしくないか? DEXがその人の器用さを表す数値なら、銃を撃ったことすらない人より、素人にしてはそこそこな腕前である俺の方が、DEXが高くなきゃ変だろう。

 

 でもこれは当たり前のことなんだ。器用さと言う言葉は、射撃の上手い下手だけではなく、例えば針仕事の巧拙を表現することにも使われる。ケースバイケースなんだ。前者の場合は、俺は確かに器用と言えるかも知れない。でも後者の場合は全く駄目だ。

 

 そう考えると、このDEXってステータスは、その人の素の器用さを表しているんじゃなくって、もっと別の何かを表している数字のはずなんだよ」

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。それじゃ何か? 俺たちが普段から見ている、このステータスってのは、ただの見せかけで意味がないって言いたいのか?」

 

 ギヨームは、あまりにも常識とかけ離れたことを言われて混乱し、即座にそれを否定しようとした。

 

「そんなわけないだろう。俺が今まで会ってきた奴らはみんな、力が強いやつはSTRが高かったし、器用な奴はDEXが高かった。例外はない」

「だから、そこには後付けか、先付けかの違いがあるんだ」

「……どういう意味だ」

「話を戻すけど……ジャンヌのSTRのことを思い出してくれ。ジャンヌは大木を一刀両断出来るが、元の世界じゃ出来なかった。ジャンヌはこっちの世界に来て、後天的にその能力を授かったんだ。逆に、もし今、彼が元の世界に戻ったらどうなるか? 多分、大木を一刀両断する能力は失われるだろう。

 

 んで、そう考えた時、俺は気づいたんだよ。もしかして、このステータスって、能力値じゃなくって補正値を表してるんじゃないかって」

「補正値……?」

「そう、実はジャンヌはこっちの世界に来る前から、見た目も能力も変わってないんだ。変わったのは、ステータスという概念が取り入れられたこと。彼はこっちに来て、STR23という補正値を得たことで、あっちの世界では出来なかったパワフルな技が色々と使えるようになった」

 

 鳳がそこまで説明すると、それを黙って聞いてたジャンヌが手を打ってから、

 

「ああ、わかったわ……例えば、STR23なら、筋力に2.3倍の永続バフがかかるとか、そういうことね?」

 

 流石ゲーム脳、話が早い。ジャンヌは概ね理解したようだが、ギヨームはまだちんぷんかんぷんといった感じで首を捻っている。鳳は苦笑交じりに続けた。

 

「それで、試してみたんだよ。もし、俺の考えが正しければ、DEXを上げれば射撃の能力が上がるんじゃないかと……結果は大当たり。初め、俺はDEX10のままで射撃してたんだけど、おまえによく見てくれと宣言してからは、DEXを11に上げた状態で撃っていた。それが、人が変わったように上達した理由だ」

「マジかよ……たかだかDEXが1違うだけで、こんなに劇的に変わるもんなのか……」

 

 ギヨームは少しショックを受けているようだった。今まで当たり前と思っていたステータスの概念が、唐突に崩れ去ってしまったのだから仕方ないだろう。しかもそれは、自分たちの能力を示しているのではなく、自分たちに力を与えている魔法の数字だった。

 

 だが、多分、彼はまだその意味を半分くらいしか理解していない。驚くのはこれからなのだ。

 

「そう、ここまで劇的に変わるんだ。俺は何も変わっちゃいないのにね。俺の実際の腕前は、最初に見せたとおりだ。100メートルの距離なら、的を外すことは無いが、着弾点にばらつきはあるし、そもそも落ち着いて狙わなきゃまず当たらない。

 

 ところが今度からは、緊張していていても、何ならわざと外そうとしても、多少ならば狙ったところに収束するように補正がかかるんだ。なんというか、DEX11くらいに」

 

「つまり、白ちゃんが銃を撃とうとしたら、オートフォーカスとか手ブレ防止機能みたいなのが、勝手に働くってわけね? システム的に」

 

 相変わらず、現代人のジャンヌの理解は早い。対してギヨームの方は理解に苦心しているようだったが、実物を見た後だから結局は理解してくれたようだった。彼はどことなく放心状態で、

 

「そうか……なるほど……なんとなくは理解したよ。だからおまえ、やったこともない討伐依頼でも、なんとかなるんじゃないかって自信があったんだな?」

「そう。今、俺の射撃は狙ったところに勝手に収束するようになってるんだ。不意を突かれない限り、落ち着いて、あそこに当てたいと意識さえすれば、勝手に手ブレが抑えられて、そこそこ狙った場所に当たるようになってる。神様か何だかよく知らないが、このステータスとやらを見せてくれてる奴が、そういう風に補正してくれるんだよ」

「でも不思議よね。そんなことして、神様に何の得があるって言うのかしら?」

 

 ジャンヌが小首を傾げている。

 

「得があるかどうかはわからないが、そうする必要があったんだろうよ」

「どういう意味?」

「そうでもしなきゃ、人間が魔王に勝てるわけがないだろう?」

 

 あの魚人を倒すだけでも、相当の被害が出ていたのだ。それが魔王となったら、果たして今のジャンヌでも勝ち目があるかどうか。

 

 この世界には神がいる。エミリア・デイビド・リュカ・ラシャ。それはどうやら本物らしい。今まで見てきた数々の奇跡、そしてたった今実験で確証を得たステータスの秘密……

 

「なんとなくだけど。もし、俺の幼馴染だったら、こういうゲームを作るんじゃないかって思えるんだよ……ここが現実なのか、ゲームなのかはよくわからないけどな。ただ少なくとも、エミリアは本当にここにいたんじゃないか……」

「灼眼のソフィアね……ええ、ここは私達がやってたゲームに似すぎてるものね」

 

 鳳は頷いて、

 

「だからこれからは、もう少しレベルとかステータスとか、そういうのに気をつけてこうかと思うよ。彼女が本当にこんな世界を作ったのだとしたら、レベルを上げることに何か意味があるはずだ」

 

 彼はそう独りごちるように呟くと、ライフルを構えて、また的に向かって引き金を引いた。それは彼が殆ど意識することなく、正確に的を貫いた。

 



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決闘

 2日連続してギルドに泊まった鳳は、まだ日が昇って間もない早朝に、レオナルドと一緒に駐在所を出た。鳳とハチとの狩猟対決を見届けるため、彼は人間であるが、過去の大戦の英雄なので、立会人を頼まれたのだ。

 

 レオナルドは大あくびをしながら、いつも手にしている杖でカツンカツンと地面を鳴らして、実に面倒くさそうに鳳の前を歩いていた。老人のくせに朝に弱い彼は、普段ならまだベッドの上なのだ。

 

 鳳はそんな老人が歩きながら眠ってしまわないように、その背中を見守りつつ、ここ数日で気がついたことを尋ねてみた。

 

「ほう……あのステータスにそんなカラクリがあったとはのう……良く気づいたもんじゃわい」

「制限があるとはいえ、ステータスの増減を直接いじれる俺じゃなきゃ気づかないだろうな。人間は、ステータスが上がったとしても緩やかだし、神人はそもそも数字が変わらない。見たところ上がるステータスも、体格に恵まれてる人はSTRやVIT、そうじゃなければDEXやAGI、他にもINTが上がる傾向が強いみたいだな」

「なるほどのう……では今後お主は、ステータスを上げるだけではなく、素の能力も意識して鍛えていかねばならんのう。せっかくSTRが上がっても、素の筋力が貧弱では元も子もないわけじゃ」

「STRを上げてから積極的にさぼって、DEXとAGIを上げようってのは夢だったな。多分、STRが下がると他が上がるのは爺さんが言ってた通り最大値の問題だ。年を取ると、STRの高さは体への負担につながる。だからSTRが下がって、代わりのステータスが上がるんだろう。そうすれば、ボーナス的には変わらないから」

「ボーナス……な。お主ら、未来人の感覚は独特じゃな」

 

 老人はそうため息交じりにつぶやいて肩をすくめた。この手の話は、ジャンヌにはすんなりと受け入れられるのだが、昨日ギヨームも苦労していたように、そもそもコンピュータゲームを知らない人にはよく分からないものらしい。

 

 それから、鳳の経験値の問題もある。

 

「ふむ……獣人の子供にやられて、生死の境を彷徨ったら、またレベルが上っておったのか……それも二回目となると、恐らくお主は、普通の人間とは違って、失敗をしたほうが経験値が上がるんじゃろうな」

「やっぱ、そうなるよな」

 

 老人はゆっくりと大きく頷いて、

 

「それに、その方がしっくりくる。普通、成功体験からは殆ど経験を得られないもんじゃ。そもそも人は経験があるから成功をするのではないか。

 

 例えば、儂は絵を描くが、描いた絵が下手くそじゃから、次はああしようこうしようと試行錯誤するわけじゃ。その試行錯誤が経験となって、いつか成功にたどり着く。

 

 なのに現実は魔物を倒すなど、成功をしなければ経験値が入らないのでは、本末転倒じゃろう。それこそ、お主らの言う通り経験値ではなく、討伐ボーナスとでも呼んだほうが良いじゃろうな。

 

 そしてその、討伐ボーナスを得たからといって、何故レベルが上がるのか……これもよくわからぬ」

 

「まあ、その辺は、いかにもRPG的で、俺にはわかりやすいんだけどね」

 

「また、お主らの言う、コンピュータゲームとやらか……ふむ。儂はお主らと知り合って、エミリアという神への印象が大分変わったぞ」

 

 レオナルドは何か塩っぱいものでも舐めたような顔をしている。まあ、その気持ちは分からなくもない。エミリアは……あれは相当のオタクだ。それも『灼眼のソフィア』なんてロールプレイをしてしまうくらい、痛いオタクなのだ。現代日本を知らない昔の人たちには、理解不能だろう。

 

「それはともかく、お主がエミリアの影響を受けていないというのは、これで確実となったな。エミリアの眷属である神人とは、お主はまるで違うルールで生きておる。儂ら、人間ともどうやら違う。傷の治りが早いのは、その影響じゃろう」

「俺が失敗を糧に成長するってのはわかったけど、それじゃ共有経験値はどうなんだろうか。これは決して失敗したから上がったって感じじゃないぞ。特に今回は全く経験値が入ってないんだし」

「そうじゃのう……どれ、一つ、今までにその共有経験値が入ったときの状況を思い返してみよ」

 

 鳳はこめかみを両手の人差し指でグリグリとしながら、

 

「えーっと……最初は練兵場でカズヤのファイヤーボールで焼かれたときだ。目覚めた時になんか勝手に入ってた。次は、あの街から脱出する時だったな。この時は、何かを失敗したとは思えない。むしろ、上手くやれたと自画自賛に思ってたくらいなんだけど……」

「ふむ……これだけでは分からぬな。サンプルが少なすぎる。しかし、やはりパーティーの共有経験値というだけあって、大勢で何かを成し遂げた時に入るのではないか? 最初のは分からぬが、二回目はお主の言う通り、帝国軍の撃退に成功したからと考えるのが妥当じゃろう」

「そうだなあ……となると、これからは出来るだけパーティーメンバーと一緒に行動してみるのが吉か。なんかやってたら、いつか経験値が入るかも知れないし」

 

 鳳がそう返事をした時だった。少し先を歩いていたレオナルドが突然、杖を地面に突き刺して止まった。彼は杖の頭に両手を乗せて、休めの体勢を取りながら、道の脇にある雑木林の木陰に向かって声をかけた。

 

「そこにおるのは誰じゃ? 儂らに何か用か」

 

 誰か居るのだろうか? 鳳は老人の視線の先を探った。すると、雑木林の中からガサガサと雑草をかき分ける音がして、ひょっこりと一人の獣人が現れた。頭の上には兎みたいな耳が生え、他の獣人たちとは違って顔はより人間に近い。狼人の集落の中で、たった一人兎人であることでやけに目立っていた、マニである。

 

 こんな早朝に、こんな村はずれの雑木林に、用事も何もないだろう。明らかに鳳たちがやってくるのを待っていたに違いない。一体何の用だろうと、彼の出方を待っていると、マニはおどおどとした上目遣いをしながら、実に足取り重く嫌そうに鳳の前までやってきて、

 

「あの……その……村に行くんですか」

 

 鳳とレオナルドは顔を見合わせた。

 

「そりゃあ、この先にはおまえんとこの村しかないからな」

「……どうして、本当のことを言わなかったんですか?」

「本当のこと……?」

 

 鳳がわけがわからないと言った感じで首を傾げていると、マニは少し苛立たしそうな様子で、

 

「お兄さんは、ハチ君に不意打ちなんてしてなかったじゃないですか。あの時、本当のことを言えば、ハチ君と決闘なんかしなくてよかったはずなのに……どうして、そうしなかったんですか?」

 

 まだ少し理解が難しかったが、決闘がどうこう言ってることから、恐らく彼は鳳がジャンヌを止めに行った時のことを言っているのだろう。

 

 あの時、ガルガンチュアがジャンヌの要求を拒否していたのは、ハチが鳳の方が先に手を出してきたからだと言っていたからだ。しかし、鳳はマニが虐められているのを止めようとしていただけなんだから、本当のことを言えばあの場は丸く収まったはずだと、彼はそう言っているのだろう。

 

 鳳はその言葉を聞いて、なんだかむかっ腹が立ってきた。だったらあの時、マニがあの場でそう言えば良かったのではないか。なんで今頃になって、しかも鳳に言ってくるのだ。

 

「いや、俺は本当のことしか言ってないと思う。先に手を出したのは本当だ。俺はあいつのことを突き飛ばした」

「それは僕を助けようとしたからじゃ……」

「でも、おまえは言わなかったじゃないか」

 

 鳳はマニの言葉を遮るようにピシャリと言った。

 

「俺がおまえを助けようとしたことを、おまえはあの場で言わなかったじゃないか。なのに、後からやってきた俺が、実はマニ君を助けようとしたんですって言っても、何の意味があったというんだ? 本人が否定しているっていうのに」

「それは……」

「ハチとの決闘なら気にすんな。遅かれ早かれ、あいつとはぶつかってたと思うよ」

 

 鳳は大きくため息を吐くと、これ以上は時間の無駄だと言った感じに、返す言葉もなく俯いているマニの横を通り過ぎた。彼はそのすれ違いざまに、

 

「罪悪感を感じているなら、俺なんかにこそこそ言ってないで、ガルガンチュアに言うんだな。真実はおまえの中にしかない。本当のことを言えるのはおまえだけなんだ」

 

 鳳の言葉をマニはプルプル震えながら聞いていた。その顔が、自分だって言えるんならそうしてると言っているかのようだった。レオナルドは先を進む鳳に追いつくと、

 

「手厳しいのう。相手はまだ子供ではないか」

「そうはいっても、俺はそれで死にかけたんだぞ?」

 

 そう言われては何も言い返せない。老人はやれやれと言った感じに肩を竦めた。

 

「それに、優しくしてやったところで、どうせ俺はいつか居なくなるんだ。彼自身が虐められているという現状を変えたいと思わない限りは、結局何も変わらないだろうよ」

「かも知れぬが……それが出来ぬから虐められているのじゃろうて。何の因果か彼はこの集落でただ一人の兎人であるし、そう突き放さずとも……はて? そう言えば、あの子はどうして、この集落にあって一人だけ種族が違うんかのう?」

「さあ……俺も気になってたんだけど、よく分かんないんだよね」

 

 振り返るとマニはさっきと同じ場所で佇んでいる。二人は首を傾げると、それ以上は会話せず、村の広場へと急いだ。

 

*********************************

 

 早朝にも関わらず、村の広場には既に集落のほぼ全員が集まっていた。楽しいことが何もない大森林の奥地では、他人の決闘であってもお祭りみたいな娯楽になるのだろう。鳳が姿を現すと、人垣から好奇に満ちたどよめきが起こった。

 

 中央では族長のガルガンチュアと長老の男が待っており、そのすぐ横にハチが居て、鳳の姿を見るや敵意むき出しの視線を向けてきた。ガルルルル……っと唸り声が聞こえてきそうな勢いである。鳳はそんなハチの威嚇を涼しい顔で受け流すと、レオナルドと一緒にガルガンチュアの前へ歩み出た。

 

 長老がレオナルドに椅子を勧め、下手くそな美辞麗句を並べてから着席する。ガルガンチュアはそれを見届けると、鳳とハチの手を掴んで彼の両脇に並べ、村人たちに宣言するようにその手をぐいっと引っ張り上げた。

 

「これより、我が子ハチと、人間ツクモの決闘を行う」

 

 オオオオーッ! っと、広場に集まっていた村人たちから歓声が上がった。彼らは待ちきれないと言わんばかりに、やんやと手足を打っては進行役のガルガンチュアを急かす。

 

 ガルガンチュアがハチを我が子と呼んだのは、血縁関係があるからではなく、この村の住人すべてが家族だという意味だろう。きっと彼らは全員で一つの家族という意識で暮らしているのだ。その証拠に彼らの声を聞いていると、ハチへの声援はあっても、鳳へのものは一つもない。完全アウェーである。

 

 ガルガンチュアはそんな“家族”に向かって静まれ静まれ! っと叫び、彼らが落ち着くのを待ってから、ゆっくりと今回の勝負の方法について話し始めた。

 

「決闘は狩猟で行う。期間は今から明日の日没まで。方法は自由だ。ハチもツクモも銃を使っていい。罠を使っても良い。ただし、獲物を他人から貰ったり、奪ったりするのは駄目だ。必ず自分の手で捕まえること。

 

 獲物の種類は何でも良い。魚でも鳥でも、イノシシでもヒヒでもいい。相手より大きな獲物を捕まえて来た方が勝ちだ。例えそれが兎や鹿でも、相手が獲ってきた熊よりも大きかったら勝ちだ。

 

 二人共、この条件で良いな?」

 

 獣王は二人と、集まった大勢の村人たちに確認してから、続けた。

 

「ならば、獣王ガルガンチュアの名において、勝者は敗者に言うことを聞かせる権利をくれてやる。二人共、相手に何をどうするか、ここで宣言しろ」

 

 するとハチは一歩前に進み出て、鳳に対して敵意むき出しの視線を浴びせながら、大きな声で叫ぶように言った。

 

「俺が勝ったら人間は出てけ! 俺の前からいなくなれ!!」

 

 ギャラリーからヤンヤヤンヤの歓声が上がる。ハチはその声を受けて気持ちよさそうに鼻をひくつかせていた。どうやら自分が注目を浴びることで、自尊心が満たされているらしい。

 

 対する鳳は思わずぽかんとしてしまった。ぶっちゃけ、一度死にかけて、ここまで話がこじれて、ついには決闘にまでなってしまったのだ。当然、死ねとか、くたばれとか、息をするな吐くなとか、もっとキツイ要求をされるんだと思っていたのだが、拍子抜けも甚だしい。

 

「……どうした、少年。おまえの番だ」

 

 鳳が肩透かしを食らって固まっていると、ガルガンチュアが怪訝な表情で声をかけてきた。彼はハッと我を取り戻すと、

 

「あー……俺は特に要求とかないです。どうせ負けるわけないし、さっさと始めましょう」

 

 するとそれを聞いた村人たちが、それを挑発と受け取ったのか、

 

「なんだと!」「我らをバカにするな!」「勝負を逃げる気か!」

 

 などなど、思い思いに鳳に怒りの言葉をぶつけ始めた。もちろん、彼にそんなつもりは無かったのだが、どうやらハチ=家族が馬鹿にされたから、自分たちも馬鹿にされたと思ったらしい。

 

 鳳へのブーイングで広場は騒然となり、その大音量で耳がおかしくなりそうだった。レオナルドも長老も、耳を塞いで迷惑そうに眉を顰めている。堪らずガルガンチュアが近寄ってきて、怒鳴るように鳳の耳に向かって叫んだ。

 

「何でも良いからさっさと決めろ! 村人たちを刺激するな!」

「あー、はいはい! わかりましたよ……まいったなあ」

 

 鳳は後頭部をボリボリとひっかくと、何か良い要求はないかと頭を捻った。真っ先に思いついたのは、同じく、村から出てけというものだったが、実際問題、ハチがこの森で一人で生きていけるとは思えない。そんなことになったら寝覚めが悪い。かと言って、他に特にこれと言った要求も思い浮かばない。舎弟になれと言ったところで、こんな癇癪持ちに付きまとわれても面倒くさいだけだし、死ねとか腹をかっさばいて詫びろというのも大人げない。

 

 それで結局困ってしまった鳳は、キャンキャンと吠える犬みたいな村人たちの姿を見て、ふと思い立ち、

 

「それじゃあ、俺が勝ったら負け犬みたいに、ハチには腹を出して謝罪してもらおう」

 

 それだけで良いと、鳳としては寛大な要求のつもりだったのだが……

 

 ところが彼がその言葉を口にした途端、それまでギャースカうるさく吠えていた村人たちが、突然しんと静まり返り……みるみるうちに顔面が紅潮してきたかと思うと、今まで以上に敵意のこもった目つきで鳳のことを睨んできた。

 

 次の瞬間、怒号が轟き、さっきとは比べ物にならないくらいの騒ぎが広場を包んだ。鳳としては何の気もない要求が、どうやらシャレにならないくらいやばい行為だったらしい。

 

 この雰囲気は流石にまずいと思ったのか、レオナルドが慌てて鳳に駆け寄ってくる。

 

「これ、鳳。これ以上、彼奴らを刺激するでない。今ならまだ変えられるじゃろうから、すぐに撤回するのだ」

「あ、ああ、そうしよう……」

 

 そう言われて、鳳も慌ててガルガンチュアに訂正しようとしたときだった。

 

「みんな静まれ! 静まれ! 俺はこの要求を飲む!」

 

 興奮する村人たちの前にハチが颯爽と飛び出して、まるで族長にでもなったかのように高らかと宣言した。

 

「俺は負けない! だから何を要求されても同じ! みんな心配するな!」

 

 きっと、さっきから応援してもらってるせいで気が大きくなっているのだろう。自信満々に言ってのけるハチに対し、怒っていた村人たちは溜飲を下げると、その寛大で勇敢な行為を褒め称えて喝采をあげた。

 

 村のあちこちから、ハチを称える声援が聞こえる。あんなのに負けるなと叫ぶ村人たち。鳳は完全に彼らを敵に回してしまったようである。

 

 そんな完全アウェーな状況の中で、ガルガンチュアが村人たちに負けじと声を張り上げる。

 

「では! 決闘はこの条件で行う! 不正がないように、二人には見張りをつけることにする! ハチ! ツクモ! それぞれ、見張りを指名しろ!」

 

 どうやら公平な見届人を選ぶために、決闘の張本人達に選ばせてくれるらしい。だったら誰にしようかなと鳳が考えていると、先にハチが進み出て、

 

「ガルガンチュアに見張ってほしい! 族長なら絶対不正を見逃さない!」

 

 ハチがそう声を張り上げると、彼を応援する村人たち全員が、賛成賛成! とそれに追随した。この集落で一番信用が置けるのは族長において他にはいない。

 

 ガルガンチュアは族長の仕事もある手前、まさか自分が選ばれるとは思っていなかったようだが、結局は村人たちの声に押されて受諾した。それから、面倒なことを押し付けられてしまったと言った感じに鳳の方へ向き直り、

 

「ツクモよ、おまえはどうする!」

 

 頼みやすいのはジャンヌだが、あれだけ怒っていた彼を、二人で行かせたらギスギスしそうだ。ここはギヨームに頭を下げてお願いするのが無難だろうか……鳳がそう考えて指名しようとしたときだった。

 

 広場の人だかりの後ろの方で、ひょこひょこと動くうさ耳が見えた。遅れてやってきたマニが、中に入れなくて周りをうろうろしているらしい。鳳はそのよく動く、白く大きな耳を見て、何となく思い立った。

 

「マニがいい。ハチの見張りには、マニを指名する」

 

 鳳がそう宣言した瞬間、人だかりの中からどよめきが起こった。そこにいる誰一人として、鳳がマニを選ぶとは思わなかったのだ。突然自分が注目され、やってきたばかりのマニがきょとんとしている。

 

 鳳としては、罪悪感を持っているマニに仕事を与えることで、その気持ちを払拭する切っ掛けになればいいんじゃないか……その程度のつもりであったが、ガルガンチュアは困惑気味に聞き返す。

 

「マニだと? しかし、マニはまだ子供だ。子供だけで森に入るのは危険だ。誰か他の大人にしたほうが良い」

 

 しかし鳳は首を振って、

 

「だからいいんです。子供二人なら不正のしようがないでしょう? もし、他の大人をつけたら、獲物を狩れないハチをかわいそうに思って、代わりに獲物を狩ってしまうかも知れない」

 

 その言葉に村人たちから怒声が上がった。我らはそんな卑怯な真似はしない。侮辱だ。訂正しろ。鳳は興奮する村人たちの声を無視して、

 

「それに、獲物が取れなければ、そもそもこの勝負は成立しない。ハチはもう大人なんだ。それでも心配だと言うなら、あなたが止めて下さい」

 

 ガルガンチュアは、ぐうの音も出ずに渋い表情で押し黙った。そんな族長に代わって、村人たちが問題ない、二人で行かせろとシュプレヒコールを上げる。こうなっては仕方がない。ガルガンチュアとしてはまだ不安だったが、結局、村人たちの熱意に押されてそれを受諾せざるを得なかった。

 

「それでは、この条件で決闘を行う! 二人共、ここに己の名誉と誇りを賭け、正々堂々と勝負することを誓え」

「誓います」「誓うぞ!」

 

 ガルガンチュアの宣言に、鳳とハチが応えてうなずく。村人たちは二人に向かってやんやと声援を送る。二人への応援の数は大体9対1……いや、99対1の割合だろうか。どっちが多いかは言うまでも無い。

 

 興奮する村人たちの後ろの方で、まだ事情がよく飲み込めてないマニが怪訝な表情でこちらを見ている。鳳は彼の視線を受け流すように、肩を竦めてみせた。

 

 こうして二日間に渡る決闘の幕が開いた。鳳とハチ、どちらが勝つか。無責任に賭けをする声が、いつまでも広場に響いていた。

 



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番犬

 真っ暗な森の中を、鳳は迷いもなくずんずんと進んでいた。

 

 高さ50メートルは下らない巨木の森は、はるか上空で鬱蒼と茂る葉に遮られて光を殆ど通さなかった。光合成が出来ないせいで下草は殆ど生えず、地面はシダ類とコケ類に覆われている。お陰で非常に歩きやすくはあったが、草が生えないと言うことは土壌がゆるいということだから、ところどころに水たまりのような泥濘が発生しており、森の暗さも相俟って、時折足を取られることもあった。

 

 土壌の弱さや雨季の影響からか、中には長い年月の末に根っこがマングローブみたいに露出している木々もあり、そんな巨木の一本がある日突然耐えきれなくなって倒壊し、行く手を遮るように横たわってる場面にしばしば遭遇した。外周10数メートルはあろうかという巨木が倒れている姿は圧巻であったが、それより驚くのは、その巨木が倒れたことによって出来た陽だまりに、競うように密集して生える雑草たちだ。

 

 一体、これだけの種子がどこに埋まっていたのだろうかと呆れるくらい競り合うように伸びた雑草は、倒れた巨木の上にまで根を張っている。その花の蜜を吸うために昆虫が集まり、鳥がさえずる。雑草の密集地だけが周囲に比べて一段高い位置にあるのは、これらの根っこのお陰で土壌が流されないからだろう。それはまるで動物の死に群がる微生物のようで、植物も動物も変わらない、生命の神秘というものを感じさせた。

 

 しかし、こうしてシダ類コケ類を駆逐し、倒れた巨木までをも栄養として力強く生える雑草たちも、やがて時が過ぎて上空の穴が塞がったら、またいずこともなく消え去ってしまうのだ。まるで沸騰する水の気泡のように、現れては消え、消えては現れる。生命はその閉じた円環の中で、何もないところから生まれ、また何もないところへ還っていくのだ。

 

 そんな自然の摂理をぼんやりと考えつつ、時折見つかるキノコや薬草を摘みながら森の中をずんずんと進んでいると、背後からガルガンチュアが声をかけてきた。

 

「少年……おまえは狩りに慣れているのか?」

「え? いや、全然」

 

 すっかり彼の存在を忘れていた鳳は、突然の声に慌てて首を振った。ついアルカロイドの匂いに釣られて忘れてしまっていたが、今はハチとの狩り勝負の真っ最中で、ガルガンチュアが同行しているんだった。獣王は迷いなく進む鳳の姿を見て勘違いしたようだ。

 

 鳳が否定すると獣王は首を傾げて、

 

「その割には歩き慣れているように見える」

「それは、山菜摘みに慣れてるからですよ」

「そうか。だが、動物を狩るのは草木を取るのとは違う。気をつけないと、逃げられてしまうぞ」

 

 相変わらず必要最小限しか喋らない男であるが……要は、もっと慎重に行動しないと、獲物が逃げてしまうと窘めているのだろう。鳳があんまりにも無警戒にあちこち歩き回るから、それじゃ駄目だと助言をしてくれてるのだ。

 

 鳳はそれに感謝しつつも、

 

「いや、いいんです。今はまだポイントまで移動しているだけで、獲物を探しているわけじゃないんですよ」

「なに?」

「この勝負、出来るだけ大きな獲物を獲ってこないといけないわけでしょ?」

「そうだが……どうするつもりだ?」

 

 鳳は少し迷ってから、どうせいつかは説明しなきゃならないのだからと思い直し、カラクリを披露することにした。鳳は獲物を探す手間を省き、ギルドの依頼を利用しようとしているのだ。ガルガンチュアは少々戸惑いながら、

 

「それは、ズルではないのか?」

「獲物を見つけるところから競い合う勝負ならそうですが、そう言うルールではなかったでしょう? それに、獲物の種類も問わないって言うなら、出来るだけ大物がいる場所を事前に調べてから向かうのは普通のことじゃないですか」

「……そうかも知れない」

「もし、それでもズルだと言うなら、今すぐ戻ってハチにも同じ方法を取るように助言してもいいですよ」

「むぅ……」

 

 ガルガンチュアは言葉を失った。確かにそれなら公平だが、実際にそうしたら、ハチは鳳への対抗心から、間違いなく依頼を受けて無謀な狩猟を行おうとするだろう。しかし、今のハチではそんな獲物を狩ることなど出来るはずもなく、失敗するだけならともかく、最悪の場合、死んでしまう可能性だってある。それはいくらなんでも寝覚めが悪い。

 

「だからここに来るまで、狩りの仕方は言いませんでした。しかし、獣王。これが人間の狩りなんですよ」

「……分かった。おまえのやり方を認めよう」

 

 ガルガンチュアは鳳の方法を認めざるを得なかった。しかし、それならそれでまた別の疑問が浮かぶ……

 

「しかし、少年。おまえなら、そんな獲物が狩れるというのか?」

 

 その質問に答えずに先を進む鳳は、相変わらず道草ばっかり食っている。狩猟経験が無い、つい最近まで街で暮らしていた彼はいかにも貧弱で、いくら森を歩き慣れていると言っても、とても猛獣を狩れるようには思えなかった。

 

 自身も冒険者であるガルガンチュアは、ギルドの討伐依頼の凶悪さをよく知っている。そもそも、森での依頼は獣人でさえ危険に思うから回ってくるのだ。ベテラン冒険者である彼でも苦戦するような相手を、初心者である鳳が倒せるわけがないだろう。

 

 仕方ない……ガルガンチュアはため息を吐いた。もしも失敗した場合、自分が代わりとなって依頼の獣を倒すしかないだろう。彼はそう決心し、のんきに鼻歌なんかを歌いながら先を歩く鳳の後を黙ってついていった。

 

***************************

 

 そんなこんなで鳳たちは、彼らの村から川を挟んだ隣村までやってきた。そこは獣人の足なら、小一時間しかかからない距離にあったが、ただでさえ足がのろい鳳が、道草ばっかり食っていたせいで、到着したときには日は大分傾いてしまっていた。

 

 早朝に出発したというのに、初日からこんなのんきで大丈夫なんだろうか……

 

 獣王が不安に思っていると、依頼した村の族長が出迎えにやってきて、そこにいる彼の姿を見つけて目を丸くした。

 

「むむむ! ガルガンチュアだと? 何故、貴様がここにいる」

 

 この村はガルガンチュアの集落と隣同士だけあって、普段から交流がある。だが、交流があるからと言って仲が良いわけではない。すぐ隣にあるということは、縄張りが被ることもあるということだ。おまけに同じ狼人で対抗心が強い。

 

 そのため、この村からギルドに依頼があったとしても、普段ならガルガンチュアが応じることはない。その逆もまた然りなのだが……今日は何故かライバルであるはずの彼が居るのだ。隣村の長が不審がるのは当然だろう。

 

 獣王は少し面倒くさそうにそっぽを向いて言った。

 

「俺は依頼を受けない。受けたのはこの少年だ」

「少年……だと……?」

 

 隣村の長はそう言われてはじめて獣王の隣に鳳がいることに気がついた。長年のライバルにばかり目が行っていて、そこにひ弱な人間がいても目に入らなかったのだ。しかし、依頼を受けたのはその人間だと言う。彼はなにかの間違いじゃないかと思いつつ、

 

「人間よ。おまえが依頼を受けたというのは本当か?」

「はい。それで早速、ご依頼の魔獣がどこにいるのか教えてほしいんですけど」

 

 族長は眉を顰めて、

 

「う、うーん……おまえは全然冒険者に見えないが、ガルガンチュアも居るなら大丈夫か」

 

 隣村同士、対抗意識はあるが、なんやかんや獣王の実力は買っているのだろう。隣村の長は鳳だけでは不安だが、最悪の場合、ガルガンチュアが倒してくれるだろうと思って依頼内容を話すことにした。

 

「なに……グリズリーだと!?」

 

 討伐対象はグリズリー……の愛称で知られている、この世界固有のクマらしい。正式名称はハイイロドウクツクマ。大陸中央部にそびえる高山に住んでいる巨大クマで、体長は大きい個体で3メートルを超えるらしい。雑食で昼行性、現在は冬眠から目覚めたばかりで、かなり食欲が旺盛な時期と考えられる。

 

 生息域が高山であるから、普通ならばこんな低地の森の中に現れるわけはないのだが、なんらかの事情で食料が足りない場合は、山から降りてきて里を荒らすこともあるらしい……だが、それでもこんな北部にまでやってくるのは相当珍しいことだそうである。

 

 隣村では、縄張りにクマが住み着いてしまってその対処に困っているようだ。村人にこれほどの巨大クマと戦えるほどの力を持つ者はおらず、大勢で戦えば勝てるだろうが無傷とはいかず、非常にリスクが高い。かといって、狩場をクマに奪われたままでは、いずれ食料が不足して犠牲者は出るだろう。

 

 そこで彼らはギルドに依頼し、遠方から凄腕の助っ人を頼もうと思ったのだが……思いもよらず隣村の高ランク冒険者が来てしまって、隣村の長は面食らっているようだ。

 

「村の恥を晒すのは悔しいが、おまえなら大丈夫だろう。さっさと倒して、さっさと帰ってくれ」

 

 なんやかんやライバルを信頼しているらしい隣村の長が、ツンデレみたいに、ふいっと横を向きながら、そんなセリフを口走った。ガルガンチュアも不機嫌そうな顔を隠そうともせずに、

 

「元より、そのつもりだ」

 

 と返した。しかし、慌てて鳳がツッコミを入れる。

 

「ちょっとちょっと、勝手に二人で話を進めないでくださいよ。依頼を受けたのは俺でしょう? ガルガンチュアさんは、絶対に手を出さないでくださいよ」

「しかし少年。被害が出てるから、早く駆除しなければ」

「だからそれを俺がやるって言ってるんじゃないですか。ガルガンチュアさん。これは俺の獲物です。ハチとの勝負に勝つために、俺はこいつを一人で倒さなきゃならない。あなたが手を出してしまったら不正になってしまうでしょう?」

「う、むぅ……しかし」

「しかしもかかしもないですよ。けどまあ、心配なのはわかります……だからもし、俺が殺られそうになったら手を出してもいいですけど、それまでは我慢してください」

「……おまえがそこまで言うのなら。だが、本当に平気なのか?」

「大丈夫ですってば。まずそんなことにはならないと思いますね」

 

 鳳が自信満々にそう言うと、隣村の長は少し興味を持ったらしく、

 

「おまえは自信がありそうだ。何か秘策でもあるのか?」

 

 鳳は頷いて、

 

「秘策ってほどじゃないですけど、俺にはこのライフルがある……それに、番犬もいますからね」

「番犬?」

 

 ガルガンチュアが、そんなものどこに居る? と言いたげに首を捻っていた。鳳は内心で、おまえのことだよ……と思っていたが、もちろん口に出すことはしなかった。

 



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ガイド付き狩猟ツアー

 その後、二人は隣村の長に聞いたクマの出没地点を歩いて回った。

 

 クマの棲家は分かっていなかったが、ハイイロ『ドウクツ』クマの名前通り、それは崖に横穴を掘ったり、自然に出来た洞穴を巣穴にするらしい。この近辺は川が蛇行していて、侵食で出来た崖がずっと続いていた。いるとしたらその辺だろうと当たりをつけ、二人は周辺を探索した。

 

 しかし、ここに来るまでに、だいぶ道草を食っていたせいで、始めた時にはもう日は大分傾いてしまっており、仕方なく鳳たちは探索を早く切り上げることにした。

 

 森の夜は早く、日が陰ってくると、あっという間に周囲は真っ暗闇になる。鳳たちはとりあえず、今日のキャンプ地として河原を選び、石でかまどを作って焚き火を起こすと、周辺の雑草を刈って見通しを良くしておいた。こうしておけば、不意の襲撃に慌てずに済むだろうとの配慮である。

 

 二人は一応、食料を持参してきたのだが、おかずが足りないと思った鳳は、川で釣りをし、首尾よく魚を捕まえてから、鍋にぶっこんで一品作って振る舞うと、ガルガンチュアがお礼にと言って鳥を一羽捕まえてきた。

 

 これも早速さばいて、空いた鍋でガラを取り、皮を油であげたものと一緒にグツグツ煮込んで、残った肉は香草焼きにして食べたら、ガルガンチュアがしきりに感心していた。

 

「少年。料理が得意なのか?」

「いや、そうでもないですけど……ここ最近、やる機会が多かったんで、慣れちゃったのかな」

 

 寧ろ、料理というより獲物の捌き方なのだが……正直、鳥の首を刎ねて羽毛をブチブチ引き抜くことに、なんの抵抗もなくなる日が来るとは思わなかった。ガルガンチュアは出された料理を実に美味そうに頬張りながら、

 

「そうか。村でやったら、きっとみんな喜ぶ。いつか頼む」

「いいですけど……」

 

 万が一、ハチに負けて追い出されたりしなければね……そんなことを考えつつ、鳳はふと村での食事風景を思い出して、疑問に思っていたことを尋ねてみた。

 

「そう言えば、村で料理する人ってあんまり見かけませんね? 初日に豚をさばいた時に、みんなでバーベキューやりましたけど……考えても見りゃ、あれはただ焼くだけだし、普段、飯時に煙が上がることないですよね」

 

 自分で言いながら、鳳はその奇妙な事実に首を傾げてしまった。それじゃ村人たちは普段何を食べているのかと言えば、要は生肉を食べているのだ。獲ってきた獲物も生、とれたての野菜も生。たまに丸焼きにしているところを見るが、野菜に至っては火を通してるところも、手のこんだ料理を作ってる姿も、一度も見たことがなかった。

 

 というか、村には壁という概念が無いから、隣近所の様子など、すべて筒抜けなのだ。だから台所があれば、そこで料理を作る人の姿を見ることも出来るはずだが……数日間とは言え、あの集落で暮らしていたのに、そんな姿を見た記憶がない。

 

 これはどういうことだ? 獣人だから生肉が好きなのかも知れないが、今目の前で鳳の料理を美味しそうに頬張るガルガンチュアを見ていたら、それしか食べないなんてことはないように思える。

 

 鳳が困惑していると、ガルガンチュアが彼の疑問を肯定するように、

 

「そうだ、村の女は料理をしない。俺も料理の仕方がわからない」

「……狼人は料理をする習慣がないということですか?」

「そうだ。そのまま食う。料理がわからないからな」

 

 なんだかいまいち噛み合ってないような気がするが、とにかく料理をするよりも生で食べることの方が多いようだ。面倒だからか、不器用だからか、はたまた人間と違って、寄生虫や病原菌に気をつけなくてもいいからだろうか……?

 

 そう言えば、一緒に暮らしているとつい忘れがちになるが、人間と獣人は文字通り種族が違うのだ。人間とチンパンジーほど遠くはないだろうが、見た目的にもDNAに相当な違いがあるのは間違いない。

 

 鳳は好奇心から尋ねてみた。

 

「そう言えば、ガルガンチュアさんのレベルってどんなもんなんですか?」

「何故、そんなことを聞く?」

 

 実は以前、レオナルドに神の話を聞いたときから気になっていたのだ。獣人は、人間や神人と違って信じる神が違う。なら、自分たちみたいにステータス画面が見えるのだろうか? 仮に見えたとして、そこに表示されるステータスは、同じなのだろうか……

 

 鳳がその旨を伝えると、彼はそんなことが気になるのかと言わんばかりに、

 

「俺もステータスは見える。それはお前たちと同じものだ。お前は俺たちがエミリアを信じないと思ってるが、俺たちもエミリアを信じる。リュカの方がもっと大事なだけだ」

「こりゃ失礼。そうだったんですか」

「300年前、エミリアは俺たちを助けてくれた。俺たち部族はその恩を忘れていない」

 

 それは300年前の魔王襲来時、追い立てられて神聖帝国に逃げ込んだ獣人たちを助けてくれたのが、帝国が呼び出した勇者と精霊だったということだろう。確かガルガンチュアの部族はそのことに恩義を感じ、以来、代々の族長が冒険者ギルドの冒険者となって、レオナルドの手助けをしたり、ここワラキアの大森林で起こる事件を解決してるという話だった。

 

「それじゃ、獣人も人間みたいに、やっぱり魔族や魔獣を倒すことによって経験値が入り、レベルが上っていくんですか?」

「そうだ」

 

 ガルガンチュアは力強く肯定したが、それには続きがあった。

 

「しかし、上限がある」

「上限……? もしかしてレベルキャップがあるんですか?」

「そうだ……俺たちは大人になると沢山狩りをする。だからレベルはどんどん上がる。だが、ある時それがピタッと止まる。そのレベルは人によって違う。俺は38になった時、次のレベルが見えなくなった」

 

 それは次のレベルに上がるまでに必要なNEXT EXPというやつだろう。これが見えなくなると言うことは、それ以上いくら魔物を倒して経験値を得ても、レベルが上がらないということだ。

 

 それは上限がない人間に対して、とんでもないハンデのように思えるが……その代わり、獣人はレベルが上がるのが早くて、大体どの個体もSTRが15以上になるそうである。15というのは人間であればトップアスリートクラスであるから、決して悲観するような数字ではないし、どうせこの世界の人はレベルが30くらいで打ち止めになってしまうのだから、レベルキャップがあっても特に問題にはならないそうである。

 

 その他、獣人はSTR,DEX,AGIはガンガン上がるが、VIT,INT,CHRは10のまま上がることがないらしい。VITが上がらないというのは少し意外だったが、この数値が絶対値ではなくて、補正値であることが分かっている今、さほど不思議な話でもないかも知れない。

 

 因みにこの上限は、両親のレベルの高さがそのまま子供に伝わるそうなので、獣人は出来るだけ高レベル同士で子供を作りたがる。逆に言えば、高レベルの女子の多さが、そのまま部族の強さに直結するから、だからガルガンチュアの村と隣村のように、同じ種族の村同士は仲が悪いのだそうだ。

 

「俺の父母もそうだった。父が33で母が30」

「ガルガンチュアさんが38なら、割と上振れがあるんですね」

「そうでもない。兄は25までしか上がらなかった。母は35だったが」

 

 ガルガンチュアより条件がいいはずなのに、レベルは13も開きがある。つまり、上下に相当なぶれがあるということだ。

 

 なら、高レベル同士で結婚しようなど考えなくても良さそうだが、それでもレベル1同士が結婚したところで、レベル30の子供は生まれないだろうから、出来るだけ高レベルの確率を上げるために、高レベル同士で結婚するのが現状のようだ。

 

 ガルガンチュアは村で一番高レベルだから、そんなわけで村の高レベル女子を独占してるらしい。因みに一夫多妻だから、何人も奥さんがいるそうだ。村のしきたりとかで将来が決まるのは、いかにも未開の部族らしい。怒りっぽくてあまり好きにはなれなかったが、あの村の連中も相当窮屈な生活を強いられているんだなと思うと、多少は同情する気分になれた。

 

 ところで……鳳はふと疑問に思ったことを尋ねてみた。

 

「ガルガンチュアさんは、お子さんはまだなんですか?」

 

 頼まれて村の子供達の面倒を見ていた時、その中に族長の子供はいなかった。全員の素性を確かめたわけじゃないからたまたまかも知れないが、居たら相当目立つだろうし、気づかないとは思えないのだが……

 

 ガルガンチュアは鳳の疑問に返事をかえさず、ぼーっと焚き火の炎を眺めていた。鳳は、もしかして本当に子宝に恵まれていないとしたら、無神経だったかなと思い、慌てて訂正しようとしたのだが、

 

「いや、いる」

「え……? いたんですか? お子さん」

「ああ、いる」

 

 誰だろう? 鳳は村の子供達の顔を思い出してみたが、やはりその中にガルガンチュアの子がいたようには思えなかった。

 

 獣王はそれきり黙りこくってしまい、無理に聞き出すようなことでもなかったので、話はそれで終わってしまった。二人はその晩、交代で火の番をしながら、夜が明けるのを待った。

 

*********************************

 

 あくびを噛み殺しながら薪を火に焚べていると、徐々に空が白んできた。

 

 ようやく夜が明けたのか……鳳は立ち上がって背伸びをし、川に顔を洗いに向かった。

 

 焚き火でほてった頬に水がひんやりとして気持ちいい。じゃぶじゃぶと顔を洗って口をゆすいでから、一夜干しにしておいた魚を回収してキャンプに戻る。今日はこれで出汁を取り、汁物を一品作るとしよう。水を入れた鍋を火にかけて、これだけじゃ寂しいから、適当に山菜を摘みにいく。

 

 河原は高木が生えず日が照るから、いろんな草が生えていた。セリにナズナ、いわゆる春の七草に、時期的にアブラナなどの菜の花もあちこちで咲いていた。少々苦味(あく)が強いが、それでもこの森ではかなりのごちそうである。灰汁(あく)でしっかりアクをとってから、お吸い物に投入しよう。

 

 頭の中でそんな当て字を変換しながら、ふふふと笑いながら草を摘んでいる時だった、

 

「しぃぃ~~~~……」

 

 いつの間にか背後にいたガルガンチュアが、鳳の口を塞ぎながら、人差し指を立てる沈黙のジェスチャーをしてみせた。

 

 突然のことにドキドキしながら、鳳がコクコクと頷くと、彼は鳳の口を塞いでいた手を離してから、

 

「あっちにいる。気配から、目的のクマかも知れん」

「え!?」

 

 全く気づかなかった……

 

 驚いてガルガンチュアが指差す方向を見るが、大分空が白んできたとは言え、森の中はまだ真っ暗で何も見えなかった。鳳にはその姿が確認出来なかったが、それでもこの獣王が嘘を吐くはずがないだろう。彼は摘んでいた山菜を放棄すると、急いでキャンプまで取って返した。

 

 ガルガンチュアがいて、本当に良かった。行李袋から愛用のライフルを取り出し、大急ぎで装填を開始する。昨日、出かける前にギヨームにメンテナンスしてもらったから、照準に狂いはないだろう。モンロー効果だのホローポイントだの、よくわからないが、大物狙いのための銃弾も用意してもらった。後は己の腕次第である。

 

「少年。来るぞ、準備はいいか?」

 

 ガルガンチュアが少々緊張を孕んだ声を上げた。おまえがやれないなら俺がやるぞと言わんばかりだ。鳳はその声に、黙って森へ銃口を向けることで答えた。コッキングレバーを引いてチャンバーに弾を送る。

 

 目を凝らしてじっと森を見つめるも、相変わらず目標は見えなかった。恐らく、人間の目では森から出てこない限り見つけることは不可能だろう。昨日、暗くなる前に雑草を刈っておいて良かった。お陰で森の方角は見通しが良く、もし獲物が飛び出してきても、ある程度余裕を持って迎え撃つことが出来るだろう。

 

 森まで距離は150から200メートルほどはあり、河原であるから非常にフラットで上下の射角はない。さっきから川のせせらぎが聞こえないのは、完全に耳が音をシャットアウトしているからだ。鳳の耳には森のざわめきだけが聞こえ、集中力が増していくにつれ、次第にそれが大きくなっていった。

 

 ザアザアと風が吹き、草原のように森の木々が揺れる。じっと耳を澄ませるとそこに、ブヒブヒと、何だか豚のような鳴き声が混じっていることに気づいて、彼は肩に食い込むくらい銃床を引き付け、照門を覗き込んだ。

 

 次の瞬間、森の中から黒い大きな毛玉のような生き物が飛び出してきた。

 

 まだ200メートルは距離があるはずなのに、遠近感が狂いそうなその巨体は、優に3メートルはあるだろう。それがまるでトラックみたいな速度で、一直線にこっちに向かってくるのだ。

 

 鳳はゴクリと唾液を飲み込んだ。もし、あのままのんきに山菜を摘んでたら、今頃きっとお陀仏だ。その巨体、その速度……あんなのからは逃げられっこない。彼は、獣の接近を知らせてくれたガルガンチュアに感謝しつつ、引き金を引いた。

 

 タァーーーーンッッッ!

 

 銃声が轟く。第一射……命中。鳳の撃った弾は走ってくるクマの体に当たり、直撃を受けた獣は一瞬怯んだように左右に体を揺さぶった。まだ全然余裕がありそうな憎たらしい姿を見るからに、内臓にまでは達していないようだ。もっと上を……頭を狙ったつもりだったが、まだそれなりに距離があり、銃弾が重力に引かれてしまったのだろう。

 

 クマは突然の痛みに咆哮を上げ、ほんの少しだけスピードを落としたが、すぐにまた加速して二人の方へと向かってきた。その動きが真っ直ぐではなく、左右にブレてみえるのは、最初の一撃の影響だろうか。コッキングレバーを引き、二発目をチャンバーに送る。

 

 タァーーーーンッッッ!

 

 第二射……命中。どこにいるのかわからない神ではなく、ギヨームに感謝する。照準には寸分の狂いもない。弾丸はクマの顔面に命中し血しぶきが舞った。しかし、クマはそれでも走る速度を落とさなかった。タフと言うより、もはや化け物だ。

 

 鳳はふぅ~……と息を吐き、そしてすぅ~……と一気に空気を吸い込んだ。落ち着け、クマとの距離はまだ100メートルはある。ここへ到着するまで最低でも10秒は猶予があるだろう。対して、この五連装銃は落ち着いてさえいれば、再装填に一秒もかからない。

 

 次の一射で決める……鳳は決意を秘め、コッキングレバーを引いた。

 

 タァーーーーンッッッ!

 

 第三射……命中。目標との距離は50メートルにまで近づいており、もはやこの距離では外すほうが難しかった……撃った弾は一直線にクマ目掛けて飛び、当たった瞬間、弾が貫通した後頭部から何かが吹き飛んだのが鳳の目にも映った。さしもの怪物もそれで意識を完全に失い、右に傾きながらドドドドドッと……それでも数メートル走ってから、ザーッと河原の石を撒き散らしながら地面に横たわった。

 

「やったかっ!?」

 

 ガルガンチュアの興奮した声が聞こえてくる。

 

 鳳はそれでも弓道の残心のようにライフルをクマに向けたまま固まっていた。もしかして、また動き出すのではないか……警戒しながら数秒間、息を殺してクマの姿を見つめ続け……ようやく、その死を確信した瞬間、全身からどっと汗が吹き出してきた。

 

 構えていた銃を下ろすと、腕がブルブルと震えた。さっきまでは重さを感じなかったのに、今はその鉄の筒が重くて仕方ない。彼は額にびっしょりとかいた汗を拭うと、フラフラとした足取りでクマの元まで歩いていった。

 

 まさか、死んだふりなんてしてないだろうな……と、おっかなびっくりその死体を覗き込んでると、ガルガンチュアが彼を追い越し、まるで鼻歌を歌うような気安さで、獲物の首の辺りに鋭い爪をぐいっと突き刺した。

 

 その爪が引き抜かれると、突然、クマの体がビクンビクンと脈動し、首筋からワイン樽でも開けたかのように、ドバドバと血が吹き出してきた。多分、頸動脈でも引きちぎったのだろう。そうか……こんな状態でも、まだ心臓は動いているのか……鳳がその光景を呆然としながら眺めていると、

 

「やるじゃないか、少年。見直したぞ」

 

 ウキウキとしたガルガンチュアの声が聞こえてくる。相変わらず、獣人の表情はよくわからなかったが、彼が上機嫌で笑っていることはなんとなく分かった。

 

 鳳は力なくその笑顔に笑い返すと、まだ死んだばかりで湯気がたっているクマの死体に近づいていって、その足元を観察した。

 

 絶命した瞬間、クソでも漏らしたのか、物凄い悪臭がしている。血と、獣の匂いと、その悪臭とで鼻がひん曲がりそうだった。そんな中、鳳はクマの右足に真新しい傷跡を見つけて指差した。

 

「手負いだったか。気づかなかった」

 

 ガルガンチュアがそれを確認し、よく気がついたなと感嘆の声をあげる。

 

「走ってくる時、動きがおかしかったんで、もしかしたらと思って……どこでやられたんでしょうかね、これ」

 

 ギルドに依頼を出すくらいだから、ここの部族がやったとは思えない。すると、山で食料の争奪戦に負けた時か、それとももっと別の何かにやられたのか……

 

「おまえは凄いな」

 

 鳳がクマの死体を検分していると、背後でガルガンチュアがそんなことを言いはじめた。突然なにを言い出すのか……鳳はそんなわけないと謙遜したが、

 

「正直、大物狩りは初めてだと聞いた時、無理だと思った。おまえの代わりに、いつ飛び出そうかと、ずっと考えていた。だが、その必要はなかった。おまえは最後まで冷静で、一発も外さなかった。俺が気づかなかった怪我にも気づいていた。びっくりした。どうしてそこまで落ち着いていられるんだ?」

「はっはっは、どうしてでしょうかね」

 

 この獣人にしては長いセリフである。どうやら本気で感心しているらしい。鳳は苦笑しながら、そりゃ番犬がいるからだと言いかけたが……言わぬが花だろうと思い直し、曖昧な返事しか返さなかった。

 

 何も特別な話じゃない。実のところ、ガルガンチュアが同行していた時点で、この勝負は鳳の勝ちだったのだ。

 

 彼はDEXを上げて、それが銃の狙いを修正してくれることに気づいたことで、射撃にはそこそこ自信を持っていた。だが、狩りは射撃の腕だけで決まるわけじゃない。獲物を発見し、相手に逃げられるか、もしくは襲われる前に、絶対に先制攻撃をしなければならないのだ。

 

 これがギヨームなら、獲物に気づかれる前に接近し、不意打ちを食らわすことが出来るだろう。ジャンヌなら、相手に先に気づかれたとしても、返り討ちにするだけの力がある。ところが、鳳にはそのどちらも無かった。

 

 だから、決闘の際にはどうやってそれを克服するか考えていたのであるが……思いがけず、ハチがガルガンチュアを見張りにつけると言い出したことで、その必要がなくなってしまったのだ。

 

 ガルガンチュアは高レベルな獣人だけあって、ギヨームと同等の索敵能力があり、ジャンヌには劣るだろうが、素手でモンスターと戦えるだけの力があった。その彼が同行してくれるのだから、鳳に何の心配があるというのだろうか。

 

 そりゃ、手を出したら失格になるから、ガルガンチュアは鳳の手助けしてくれないだろう。だが、実際問題、目の前で誰かが殺されそうになっていて、自分なら助けられるのに、それを黙って見ていられるような薄情な人間などいないはずだ。

 

 案の定、鳳がのんきに草なんかを摘んでいると、敵の接近に気づいたガルガンチュアが頼んでもないのに知らせてくれた。そして鳳がライフルを構えてクマを狙ってる最中も、彼は隣りにいて飛び出すタイミングを測っていたのだ。

 

 この状況のどこに不安な要素があるだろうか。例えるなら、ガイド付きで狩猟ツアーしているようなものである。あとは度胸の問題だが、これだけお膳立てしてもらっておいて、やれないような奴は、最初から尻尾巻いて逃げ出したほうがマシだろう。

 

 ともあれ、これで勝負は鳳の勝ちだ……ハチにはこれ以上の獲物を狩れるとは思えないし、あとはこの巨大な獲物を、どうやって村まで運ぶかなのだが、

 

「これだけの大物を一度に運ぶの無理ですね。ここで解体して、何個かに切り分けて持って帰るしかないかな……」

「必要ない」

 

 ところが鳳のそんな提案に、獣王はすぐさま首を振った。じゃあ、どうするんだろう? と思っていたら、彼はおもむろにクマの死体に近づくと、その足をひょいと持ち上げ、ズルズルと川の中まで引きずっていってしまったのだった。

 

 まるでその下に車輪でもついているかのように軽々と運んでいくが、クマの重量はざっと見ただけでも300キロは下らない……いや、下手したら500キロ以上あるんじゃなかろうか。昔見たサラブレッドの大きさと比較しても、これはそれよりも大きく見える。

 

 唖然とする鳳を尻目に、獣王は川のど真ん中でクマの血を洗い流すと、嬉しそうに腸を引きずり出してその中身を洗い始めた。

 

 訂正。あれは番犬なんて生易しいもんじゃない。例えるなら装甲車だ。

 

 鳳は半ば呆れながら、まだ冷たい川に足を踏み入れると、クマを解体する獣王の手伝いをするのだった。日はまだ昇り始めたばかりで、夕方までには十分村に帰れるだろう。これだけの大物を持ち帰ったら、村人たちはどんな顔をするだろうか。

 

 今夜は焼肉パーティーだ! 二人は自然にこみ上げてくる笑みを噛み殺しながら、黙々と作業を続けた。

 



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決着

 鳳たちがクマを仕留めた頃から、遡ること1日前。決闘相手のハチは獲物を捕らえるために、当て所もなく森の中を駆けずり回っていた。

 

 ハチは獲物が取れなくて焦っていた。よそ者をやっつけたせいで、思いがけず狩猟勝負なんてことになってしまったが、まだ大人と子供の中間であるハチは一人で狩猟した経験がなく、どうしていいか勝手がつかめなかったのだ。

 

 それでも自分の身体能力に自信があった彼は、鹿や兎だったら簡単に捕まえられるだろうと、考えなしに動物を追いかけては逃げられ続け、また、村から遠出するという経験も無かったため、準備不足で夕方には力尽きガス欠になってしまった。

 

 日没前、ハチは木陰に敷布を敷いて、ぐったり横たわっていた。まだ日が暮れてないのに、もうこんなに疲弊しきってしまっているのは何故だろうか……体が火照って動きたくても動けない。こころなしか頭もガンガンしてきたような……

 

 夜目が利くからまだ狩りは出来るが、いかんせん、体が動かなければどうしようもない。体を休めているはずなのに、一向に回復しないことに焦っていると、そんな彼の元へ、監視役のマニが戻ってきた。

 

「ハチくん。大丈夫かい? これ、食べる元気があるだろうか……」

 

 そんなマニの手元を見れば、捕まえたばかりの兎が必死に逃げようと暴れていた。兎人が兎を捕まえてくるとはなんとも滑稽な話であるが、そんなことを考えている余裕もないハチは、ただ目の前の美味そうな肉を見るや、引ったくるようにマニから奪ってその首にかじりつき、ごくごくとその生き血を飲み始めた。

 

 まだ温かい血液が喉を潤すと、ハチはみるみる力が湧いてきた。脱水症状が緩和された彼は食欲も湧いてきて、そのままウサギの皮を剥ぎ、獣のように貪り食った。ようやく落ち着いてきたハチは、口の周りを血でドロドロにしながら、

 

「これ、どうした?」

 

 村から食料を取ってきたのかと思ったが、マニが持ってきた兎はまだ生きていた。となると、その辺で捕まえたことになるが、一日中、ハチが必死になって追いかけても捕まらなかった獲物を、マニごときが捕まえられるとは彼には思えなかった。だからどうした? という意味で尋ねたのだが、

 

「ああ、ハチくんの様子からして、もしかして熱中症かもって思ったんだ。こういう時、水分と塩分を取らないといけないんだって。それを覚えてたから……」

「違う!」

 

 ハチはマニの声を遮った。何を言ってるかわからないが、聞きたいのはそんなことじゃない。彼はイライラしながら、

 

「これ、どうやって捕まえたんだ?」

「え? あ、ああ……それなら、罠で捕まえたんだよ」

「罠……?」

 

 ハチは思い出した。マニは時折、自分で撚った紐を使って、近場の獲物を罠にかけていた。大人たちはそんなマニのやり方を卑怯だと言ってあざ笑っていたが、それでかかる獲物の味が落ちるわけでもないので、ハチはよくマニが獲ってきた兎を、大人たちに隠れてこっそり食べたりしていた。

 

 そんな時、マニは自分が取ってきた獲物を半分取られているというのに、嬉しそうにしているのは何故だろうと思っていたのだが……今はそんなことはどうでもいい。

 

「おい、マニ。やり方を教えろ。それなら俺にも出来る気がする」

「え? ハチくんも罠猟をやってみたいの? もちろんいいよ」

 

 マニは喜んでハチに作り方を教えてやることにした。ハチの言う通り、村の大人たちは罠を使うことを馬鹿にしており、罠猟をする者は皆無だったのだ。

 

 実を言えば、マニは本当に小さい頃から、それこそ人間だったら自分で立って歩けるようになった頃から、罠を使って獲物を取っていた。たまたまギルドに来ていた冒険者に教えてもらって、きっと村人達に褒めてもらえると思って、彼は罠猟の仕方を覚えた。

 

 ところが結果は、子供のくせに生意気だとか、罠を使うのは卑怯だとか、男なら素手で捕まえないとな……などと言って、大人たちはまったく彼のことを評価してくれなかったのだ。彼はそれで非常に悔しい思いをしていたのだが……

 

 もしも友達であるハチが一緒に罠猟をしてくれたら、大人たちの見方も変わるかも知れない。それにこの方法なら、まだ獲物が上手に取れない小さな子どもたちも、大人たちに混じって狩猟を行えるかも知れないのだ。そうしたら村への貢献にもなる。

 

 マニは、勢い込んでハチに罠の作り方を教え始めた。ところが……

 

 日も暮れて、夜の森を歩くのは危険だった。罠を作るには丁度いい時間帯だった。だからマニは、最初はツタの繊維を使ってより糸を作るところから教えてあげようと思ったのだが……ところが、繊維の取り出し方や糸を撚る方法を何度教えても、ハチは一向にそれを理解してくれないのだ。

 

 2本の繊維糸を重ねて、くるくるして撚り合わせるだけだよと言っても、最初のうちは言われた通りにやるのだが、暫くするとまるで飽きたかのようにそれをポイと捨てて、他のことをやり始めてしまう。その点を指摘して、とにかく最後まで頑張ろうと言って、何度も同じことをやらせてみたのだが、結局ハチは一度として、最後まで糸を撚り合わせようとはしてくれなかった。

 

 挙句の果てに、マニがあまりにもしつこく言うものだから、ハチは癇癪を起こして暴れだし、結局、より糸作りは断念せざるを得なくなってしまった。しかしまあ、予め作っておいた紐を使って罠を作っても、それはそれでいいだろう。ハチはきっと、面倒くさい作業をしたくないのだ。罠を設置するだけなら出来るはず……マニは気を取り直して、続きを教えることにした。

 

 しかし、そう思って今度は罠の設置方法を教えても、ハチはどうしてもそのやり方を理解してくれなかった。罠は紐の先に輪っかを作り、餌を取ろうとした獲物がそこに足を入れると、木のしなりを利用して足を引っ張りあげるというものだった。初心者にも作れる、簡単なくくり罠だ。

 

 ところがマニがいくら懇切丁寧に教えても、ハチは罠を設置するどころか、そもそも紐の結び方からして覚えることが出来ないのだ。どうしてこんなに物覚えが悪いんだろう……半ば呆れながら何度も説明したのだが、結局、ハチがそれを理解することはついに無かった。

 

「痛いっ! 痛いっ! やめてよっ!!」

「うるさいっ!! おまえはおかしいことばっか言う!」

 

 そんなことを続けていると、最終的にハチはまた癇癪を起こして、マニのことを殴り始めた。鳳が死にかけたことから分かる通り、この男が怒り出すと手がつけられない。マニはどうして自分が殴られなきゃならないんだろうと理不尽に思いつつ、ハチの攻撃を必死に受け流し続けた。

 

「もういい! 罠なんて卑怯者がやることだっ!」

「え!? でも、獲物を捕らえないと、勝負に負けちゃうよ……?」

「ううぅぅー……うるさいっ! だったらお前がやれ! そうだ! マニが罠を仕掛ければいいっ! そして俺が獲物を捕まえればいいっ!」

「ええ!? でも、それってズルなんじゃ……」

「うるさいうるさいうるさいっ!!」

 

 癇癪を起こしたハチには、もう何を言っても無駄のようだった。マニが仕掛けた罠に嵌った獲物を、ハチが取るのは不正なんじゃなかろうか……彼はそう思ったが、とはいえ、このままでは自分の身が危ない。

 

 どうせ、自分の罠にかかるのは兎くらいのものなんだし、それなら明日一日必死に探せば、ハチにも普通に捕まえられるはずなのだ。そう、ハチに捕まえられる獲物がかかる分には、罪悪感も少ない。彼はそう自分に言い聞かせて、ハチに言われるままに、森のあちこちに罠を仕掛けていった。

 

 ……しかし、得てしてこういうときこそ予想外の事態と言うものは起きるのである。

 

 翌朝。子供だけの不安な夜を過ごした二人は、かなり日が昇ってから、ようやく起き出してきた。火の起こし方も知らなかった二人は、夜中に蠢く獣の気配で何度も目を覚ましてしまい、ろくに眠れなかったのだ。

 

 だが、中途半端に覚醒した寝ぼけ眼で、昨日仕掛けた罠を見に来た二人は、そこに掛かっていた獲物を見て、一気に目が覚めた。

 

 なんとそこには、体長1メートルはある、大きな鹿がかかっていたのだ。恐らく罠にかかった鹿の子供だったのだろう、その周りには小さな鹿もいて、ハチとマニの姿を見るや、ピューッと遠くへ逃げていった。

 

 捕らわれた鹿も同じように走りかけたが、すぐに足に食い込んだ紐に引っ張られて地面に転がった。バタバタと前後の足を動かしながら、横倒しになった鹿が地面をぐるぐる回っている。

 

「やった! やった!」

 

 ハチはその哀れな姿を見るなり、手を叩いて喜びの雄叫びを上げた。彼は勢いよく獲物に飛びかかると、その鋭い爪と牙で、あっという間に鹿を殺してしまった。

 

 何もこんな時に、こんな大物が掛からなくてもいいのに……

 

 罪悪感に駆られるマニを尻目に、ハチはぐったりとした鹿の首を片手で持ち上げ、まるですべてが自分の手柄であるかのように、その死体をマニに見せつけた。

 

「どうだ! 俺が仕留めたんだぞ?」

「で、でも、ハチくん……罠を仕掛けたのは僕だよ? これは不正なんじゃ……」

「黙れっ!」

 

 不正と言われたハチがギラギラとした怒りの目でマニを睨みつける。

 

「これは俺が殺した! おまえじゃ殺せなかった! だから俺が狩ったんだ! そうだろう!?」

「う、うん……」

「なら、やっぱりこれは俺の獲物。おまえじゃない。俺が狩ったんだ!」

 

 こうして首尾よく大きな鹿を狩ることに成功したハチは、手近に落ちていた木の棒に鹿の足をくくりつけると、反対側をマニに持たせて村まで運び始めた。凱旋気分のハチが鼻歌を歌う後ろを、マニは死刑の執行台に登るような心境でついていった。

 

 やっぱり、これは不正じゃないか? 罠を作ったのも、罠を仕掛けたのも、マニなのだ。ハチは自分じゃなければ仕留められなかったと言うが、そもそも、罠がなければ彼は鹿に近づくことすら出来なかったはずだ。

 

 それに、マニだって武器を使えば鹿を殺すことは出来ただろう。それどころか、自分なら獲物をこんなにズタズタに引き裂くような、下手くそな絞め方はしなかったはずだ。なのに、全てを自分の手柄みたいに言うハチは卑怯なんじゃないか……

 

 ああ、そうか……マニは意気揚々と先を進む友達の背中を恨めしそうに見つめながらため息を吐いた。

 

 本当は、不正だとか、勝負だとかはどうでもいいのだ。ただ、自分が捕まえた獲物を、何もしてないやつに横から掻っ攫われたのが悔しいのだ。本当なら自分の手柄なのに、その手柄を横取りしたやつに従っている自分が許せないのだ。でも、だからといって、その獲物は自分のだから返せとも言えない。この癇癪持ちの友達は、そう言えばまた大暴れするだろう。

 

 自分は、いつまでこんなことを続けなくちゃいけないんだろうか……

 

 どうして、自分一人だけ別の種族なんだろうか……

 

 陰と陽、プラスとマイナスみたいな二人は、同じ鹿を担いで森を歩いた。

 

 それから何時間もかけて、ようやく二人は自分たちの村まで帰ってきた。昼間なのに真っ暗な森を抜け、マングローブみたいな巨木が生えた苔の大地を踏み越えて、大森林の中にぽっかりと空いた陽だまりの中にある、小さな村である。

 

 その中央に生えている巨木が見えてくると、ハチはどんどん上機嫌になっていった。肩に食い込む木の棒の感触が、これだけの大物を取ってきた彼の勝ちを保証してくれてるようだった。きっと村の人達は、まだ子供であるハチがこんな大物を取ってきたことに仰天し、口々に彼のことを褒めそやすだろう。彼はそんな未来を夢想して悦に入っていた。

 

 しかし、現実は過酷である。

 

 人間は、どこまでいっても自分に甘くて他人に厳しい生き物である。だから、自分に都合のいい未来しか想像できない。ハチは自分の勝利を微塵も疑っていなかった。鳳が、これよりも大きな獲物を捕まえてくるなんて、夢にも思っていなかったのだ。

 

 村に近づくにつれ、ハチとマニはその村が今日はやけに騒がしいことに気がついた。ハチはもしかして彼の帰りを待ちきれない大人たちが、祭りの準備でもしてるのかと思ったが、しかしどうも様子が違う。

 

 見れば、村の中には見知らぬ大人がたくさんいて、村人たちと親しげに話している。風にのって届いたその会話に耳を傾ければ、なんと既に鳳が数百キロもある巨大なクマを仕留めて帰ってきているという声が聞こえてきた。

 

 見知らぬ大人たちは、その害獣を倒した鳳への礼を兼ねて、酒を持って駆けつけた隣村の人たちだった。まさかと思って見てみれば、村の中央の木に、まだ剥いだばかりの熊の毛皮が誇らしげに干されていた。

 

 ハチの負けは確実だ。

 

 彼は気が抜けたように、肩に担いでいた棒をどさっと地面に落っことした。せっかく捕らえた大物の鹿が地面に叩きつけられ、慌ててマニが獲物の状態を確かめる。獲物に傷などはついておらず、安堵すると同時に、彼は別の意味でもホッとしていた。

 

 不正にならなくて良かった。もし、このままハチの勝ちが決まっていたら、自分は一生その秘密を抱えて生きていかなきゃならなかった。鳳なんて一時的に滞在しているだけの旅人なんだから、そこまで負い目を感じることはないだろう。だが、自分が不正をした……それもハチに逆らえなくて、という記憶は一生残るのだ。

 

 そうならなくて、ハチが負けて、本当に良かった。マニは友達に対するそんな暗い気持ちを隠しながら、まだ呆然と立ち尽くしているハチに残念だったねと声をかけようとした。

 

 と、その時だった。

 

「痛い……痛い……痛い痛い痛い!」

 

 突然、ハチがお腹を抱えて地面に転がり、足をバタつかせてわめき始めた。

 

「だ、大丈夫? ハチくん」

「痛い痛い痛い! お腹痛い! おうちに帰る! 帰る!」

 

 それは子供が母親に向かってダダを捏ねるようなものだった。ハチは泣きながらお腹を抱えてジタバタと暴れまわり、家に帰ると繰り返した。恐らく、このまま村の中に入っていって、負けを認めるのが嫌なのだろう。

 

 ハチは大丈夫? と聞くマニの手を払って、帰る帰ると喚き散らした。往生際が悪いとか卑怯だとかそんな意識はないだろう、きっと彼はこういう処世術しか持ち合わせていないのだ。

 

 騒ぎに気づいた村の大人が、二人の元へと駆け寄ってくる。マニはお腹が痛いふりをしているハチを見ながら、大人たちにどう説明すればいいんだろうかと途方に暮れてしまった。

 

**********************************

 

 クマを倒し、川で内臓を処理した後、鳳とガルガンチュアの二人は報告も兼ねて依頼人の村へと戻った。驚異を排除したので安心して欲しいと伝えたかったのと、そのクマの肉をおすそ分けしたかったからだ。

 

 内臓を捨てたとは言え、クマの死体はまだまだ重くて、とてもじゃないが人間に運べるような物じゃなかった。ガルガンチュアは引きずってけば問題ないと言っていたが、そんなんじゃ村につくまでに肉が駄目になってしまう。だから自分たちの持てるぶんだけ持って帰って、後は依頼人に分けようと言ったのだ。

 

 隣村と仲が悪いからか、ガルガンチュアは少し渋ったが、結局は鳳が倒した獲物なんだから好きにしろと承諾した。ところが、二人が村に戻って事情を話すと、依頼人はとんでもないと言って獲物を受け取ろうとはしなかった。

 

 彼らが言うには、隣村から施しを受けるような真似はしたくないのと、依頼を完遂した冒険者に、寧ろ感謝の意として酒を振る舞おうと思っていたくらいなのだ。なのにこれは受け取れない。彼らはそう言って、予め用意していた報酬の酒樽をこっちに押し付けてきたのである。

 

 荷物を減らすどころか逆に増えてしまい、鳳は進退窮まった。依頼を受けたのはハチとの決闘のためであり、感謝してくれるのは嬉しいが、今日中に村に帰れなきゃ自動的に負けてしまうのだ。

 

 そんなことには絶対なりたくない鳳は、困った挙げ句に依頼人に向かって、村についたら肉を振る舞うから荷物運びを手伝ってくれと提案した。

 

 ガルガンチュアの集落と隣村は、仲が悪いが全く交流がないわけではない。丁度、族長が雁首揃えているのだし、それじゃ久しぶりに交流会でもしようかと言う話になって、隣村の男たちが数人、荷物持ちとして同行してくれることになった。

 

 そんなこんなで、行きは二人で出掛けたはずの鳳が、帰りに大所帯となって戻ってきたものだから、村人たちは最初は隣村が喧嘩でもふっかけに来たのかと大層驚いたらしい。しかし、その中にガルガンチュアの姿を見つけた彼らは、すぐに鳳が大物を取ってきたことを知ると、焼肉パーティーだと言って浮かれ始めた。

 

 クマの肉は部位を問わなければ全部で200キロ以上もあり、食欲旺盛な村人全員がかりでも、一日では食べきれないほどの量だった。ついでに隣村が差し入れた酒樽も大量にあって、村人たちの胃は煮えたぎる鍋のように刺激されていた。

 

 ハチがまだ帰ってきていないから勝負はついていなかったが、これはもう鳳の勝ちで間違いないだろう。大量の肉を前にして、その魅力に抗えなかった村人たちは、そう言い訳して、ついに勝手に宴会を始めてしまった。昼間っから酒を酌み交わし、普段は仲が悪い隣村の者たちとで肩を組み合い歌を歌う。

 

 食べても食べても減らない肉を前にみんな上機嫌となり、それを隣村の人々が、酒を振る舞いながら褒めちぎり、ガルガンチュアの村人たちも、まさか舐めていた鳳がこんな大物を仕留めてくるとは思わず、見直したとばかりに頻りに称賛の声をあげた。

 

 鳳は、いいのかな? ……と思いつつも、宴会の主役であるから、広場の中央に引っ張ってこられて、次々とやってくる村人たちの祝福の言葉を聞きながら、御酌される酒を機械的に飲み続けていた。

 

「おお、マニ! 帰ってきたかっ!」

 

 決闘の相手が帰ってきたのはそんな時だった。

 

 宴もたけなわ、村人たちがすっかり出来上がってしまった頃だった。いや、帰ってきたのは決闘相手ではなく、その見張り役だったが……この狼人の集落にいてただ一人、小柄な兎人の少年は、自分の体重よりも重そうな鹿を引きずりながら、宴会で賑わう村の中央広場にやってきた。

 

 その姿を見つけたガルガンチュアが、目を丸くして駆け寄っていく。彼は獲物の状態を確認し、彼を見上げるマニに向かって、

 

「これはハチが獲ったのか?」

 

 マニはほんの少し逡巡した後、

 

「そうです」

 

 と頷いた。途端にヤンヤヤンヤと村人たちが喝采をあげる。

 

「やるじゃないか」「これをハチが……」「初めてにしては上出来だ」「だが、負けは負けだ」

 

 ガルガンチュアはそんな村人たちの声を聞き流し、じっと彼のことを見上げているマニに尋ねた。

 

「ハチはどうした?」

「ハチくんは……怪我をしたから家で寝ています」

 

 怪我をしたと聞いたガルガンチュアが驚いて容態を尋ねようとすると、帰ってきた彼らを見つけて事情を知っている村人がニヤニヤしながら言った。

 

「ハチは怪我してない。負けるのが嫌だから、お腹が痛いと言ってるんだ」

「なにぃ!?」

「赤ちゃんみたいにキャンキャン泣いている。情けないやつ。馬鹿なやつ」

 

 その言葉に追随するかのように、他の村人たちも口々に不満の声を上げる。

 

「負けたからって逃げるのは卑怯だ!」「引きずってでも連れてこい!」「ちゃんとツクモに謝らせるんだ」

 

 せっかくの宴会に水を差すような村人たちの不満の声が広場に轟いた。ガルガンチュアはそんな村人たちに押され、無理矢理にでもハチを連れてくるかの決断を迫られた。やいのやいのと敗者をなじる村人たちの声を聞いていた鳳は、なんだかむしゃくしゃしてきた。みんな自分勝手なことを言って、これじゃまるでリンチじゃないか。

 

「来たくないなら別にいいじゃないですか」

「なに!? でも、決闘は絶対だ。敗者は勝者の言うことを聞く」

「だから、その勝者の俺がどうでもいいって言ってるんですよ」

 

 鳳はぶつくさと文句を言う村人たちに向かい、少し語気を強めて言った。

 

「元々、俺は負けるつもりは無いから、何の要求もしないって最初に断ったでしょう。それを無理にでも何か決めろと迫ったのはあんたたちだ。そのせいで、本当ならしなくても良かった謝罪を、ハチはしなくてはならなくなった。そんなあんたらにハチを責める資格なんてないでしょう」

 

 鳳のそんな言葉がよほど意外だったのか、村人たちは最初きょとんとした表情で彼のことを見ていたが、次第に自分たちが批判されてると思ったのか、段々と目がつり上がってくる。このままじゃ、鳳と村人とで衝突が起こる。族長であるガルガンチュアは、慌ててそれを収めようと焦ったが……

 

 しかし、せっかくの宴会気分が台無しだ。だが、そう思ったのは鳳だけじゃなかったようである。

 

「おお、皆のもの。ツクモの寛大な言葉に感謝しろ。ツクモはハチの……村の仲間の名誉を守った。おまえたちが怒るのはおかしい」

 

 鳳と一緒に広場の中央で酒を飲んでいた長老が立ち上がってそう言うと、村人たちはまるで母親に諭された子供みたいに大人しくなった。考えてみれば、ハチが謝ろうが謝るまいが、自分たちには関係ないのだ。村人たちはそう結論すると、

 

「そうだ、ツクモに感謝しよう」「ツクモは寛大。とても偉い」「ハチのことは忘れよう。せっかくの酒がまずくなる」「宴じゃ宴じゃ」

 

 そんな感じに、長老の機転で一触即発の雰囲気は収まってしまった。宴会を再開した村人たちは、もうすっかりハチのことなんか忘れて、ただ酒池肉林の大騒ぎに浮かれていた。ガルガンチュアはホッとすると、長老に感謝し、その中に入っていった。

 

*************************************

 

 日が暮れて、外は真っ暗になった。宴会は続き、酒を酌み交わす酔っぱらいたちの楽しげな声が、いつまでもいつまでも村中に響き渡っていた。肉を焼くジュウジュウという音と、香ばしい香りが辺りを包む。キャンプファイヤーを囲んで、大人も子供も輪になって踊っていた。

 

 そんな光景を、マニは一人、輪から離れて遠巻きに眺めていた。宴が始まってから、彼は一度もその輪の中に入ろうとはしなかった。誰もそんな彼を呼びには来なかったし、彼も自分から入ろうとは思わなかった。彼が獲ってきた鹿が解体されて、勝手に肉にされて焼かれても、彼には何の感慨も浮かんではこなかった。

 

 まるで他人事のようだ。自分の体はどこか別のところにあって、それを他人の目を通して眺めているような、そんな気分だった。

 

 この中に、自分の居場所はあるんだろうか? どうして自分はこの村にいるんだろうか? いつまでも村に馴染めないのは、きっと自分が一人だけ別種族だからなんだと思っていた……

 

 でも今、目の前にいる鳳を見て、彼は改めて思った。種族の違いは関係ない。自分が村で浮いているのはなんてことない。この村の連中が嫌いだからだ。

 

 宴はいつまでも続いている。彼にはその村人たちの楽しげな声が、まるで魔王の咆哮のように禍々しく聞こえた。

 



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レベルアップのファンファーレ

 ハチとの決闘後、村での鳳のヒエラルキーは上がった。

 

 獣人の集落で暮らすようになってまだ一月も経っていないが、彼らの習性というか性質というか、そういうものがだいぶ分かってきた。獣人はとにかく強ければ偉い。逆に弱ければ何をされても仕方がない。非常にシンプルなルールで動いているが、それだと集落が維持できないから、結局のところ、集落のリーダーが弱い者を保護することで集団が成り立っている。まるでサル山のサルみたいだが、未開の部族なんてものは、どれもこんなもんなんだろう。

 

 そんなわけで、あの決闘で巨大クマを倒すという快挙を成し遂げた鳳は、村での中堅どころの尊敬を集めて、いつの間にか村のヒエラルキーの上位グループと見做されるようになっていた。

 

 隣村が依頼を出すくらいだから、あのクマはこの村の連中でも倒すのは難しく(そりゃ素手だから……)、出来るのはガルガンチュアくらいのものだと思われていた。それを倒したわけだから、鳳は族長に準ずるくらいの力があると村人たちは思っているようだ。

 

 実際には、そこには人に言えないカラクリがあったわけだが……意地悪な者ならすぐに気づきそうなものを、獣人はあまり頭がよろしくないから、思いつきもしないようである。

 

 ともあれ、それで具体的に鳳の村での待遇がどう変わったのかと言えば……

 

 まずは、ある日突然、鳳の家にいきなり長老がやってきて、鳳に妻帯と10人の家族を養うことを許すと宣言して去っていった。そんなこと突然言われても困るのだが……なんのこっちゃと首を捻っていると、近所の人が教えてくれた。どうやらこの集落では、住人が勝手に妻帯したり、子供を産んだりしてはいけないらしい。それには必ず族長の許可がいる。

 

 クマ退治の時にガルガンチュアも話してくれたが、獣人の生まれつきの能力は、両親のレベルに依拠している。獣人にはレベルキャップがあり、成長に限界がある。高レベル同士の両親からは高レベルの子供が生まれやすいが、もし両親のどちらかのレベルが低かったら、思いもよらない低レベルの子供が生まれてくる可能性がある。だから彼らは結婚には細心の注意を払うのだ。

 

 そして当然、生まれてくる子供の数にも制限がかかる。高レベルの子供ならいくら生まれてきても良いが、低レベルな子供はいるだけ邪魔なのだ。要は平均値の問題で、村全体のレベル平均が高ければ高いほど、次世代の平均値も高くなるのだから、可能な限り低レベルが生まれるようなことは避けたいわけである。

 

 そう言うわけで、長老は鳳に妻帯の許可と家族の数なんてものを伝えてきたのだ。尤も、そもそも鳳は獣人ではないし、レベル上限も(多分)ないから、これは形式的なものでしかないのだが……恐らく長老たちは、鳳も村の仲間になったんだよと言いたかったのだろう。その気持ちはありがたいので、素直に受け取っておく。

 

 それからもう一つ。家を引っ越すことになった。

 

 以前にも言及した通り、この集落は樹齢千年くらいありそうな巨木の陰にすっぽりと収まるように広がっているのだが、御神木的なその木の根っこに近いほどヒエラルキー上位の家族が暮らしている。鳳は今までよそ者で、狩りも出来ない役立たずと思われていたから、村の外縁部にゲストハウスを与えられていたわけだが、今回の件で序列が上がったために、村の中央付近へと引っ越すように言われたのだ。

 

 しかし、いきなり引っ越せと言われても、村の中央部は既に他の家族で埋まっている……どうするんだろう? と思っていたら、なんてことない、村のみんなが一つずつ家をずらすことで、まるまる一軒空けてしまった。この集落の家は、族長の家を除いてどれもこれも似たような作りで、土台と簡単な屋根がついてるだけで、壁らしい壁もなく、違いは広さくらいのもんだから、みんな自分の家に愛着を持ってないのだ。

 

 ギルド長が駐在所に誘ってくれていたし、正直、この集落にそこまで長居するつもりは無かったのだが……鳳が断る前に村人たちが引っ越してしまっていたので、そんな理由で、なし崩しにそのまま居候することになった。

 

 新しい家は、前に住んでいた外縁部の掘っ立て小屋と違って、手入れが行き届いていて、掃除の必要は無かった。床面積も三倍くらいあったが、相変わらず壁という概念が無いものだから、隣近所から丸見えなのは本当にどうにかして欲しいものである。とりあえず、寝床の周辺だけでも、タープを蚊帳みたいに吊ってプライバシーを確保する。

 

 さて、そんなこんなで思いがけず広い家を手に入れてしまった鳳であったが、家族を増やしてもいいという言葉に釣られたのか、間もなく新居にジャンヌとメアリーが引っ越してきた。

 

 別に頼んだわけじゃないのだが、例の騒ぎで鳳が死にかけたこともあって、ジャンヌは純粋に彼のことを心配していたようである。プライバシーもクソもないような村だから、無理しなくてもいいと言ったのだが、ジャンヌの決意は固いようだった。まあ別に今更ホモがどうこう言うつもりもないので、その厚意を素直に受け取っておく。

 

 対して、メアリーはそんなジャンヌにくっついて、と言うか、単純に村の方が楽しそうだからと言う理由だった。元々、300年も結界の中に閉じ込められていた彼女は、逃避行の最中の、森での生活もエンジョイしてしまうくらい、外での刺激に飢えていた。

 

 ギルドの駐在所に居候するようになってからは、寝床の心配をしなくて済むようになったのだが、それが返って物足りなかったようである。鳳が村で生活しているのを密かに羨ましく思っていたらしく、この機会にやってきたというわけである。

 

 ところで、神人がやってきたということで、村は一時騒然となった。神人と獣人は仲が悪いからかな? と思ったら全くの逆で、獣人からしてみると、神人は神様みたいなものであるらしい。

 

 300年前、森を追われた彼らが結果的に神人の帝国に助けられたという歴史もさることながら、やはり神人が使う魔法が、獣人たちには神の奇跡に見えるのだそうだ。獣人は、人間と違って現代魔法も使えないから、神人が使う異能の力を畏れているというわけだ。対する神人は自分たちの神を信じない獣人のことを見下しているそうだから、なんとも皮肉な話である。

 

 なにはともあれ、そんな感じに鳳の新生活は始まった。

 

***************************

 

 ガルガンチュアの集落での一日は、鳥の大合唱で始まる。日が昇るや、村の神木である巨木に巣を作った鳥たちが一斉に目を覚まし、ピーチクパーチクさえずるのだ。その大音量は唖然の一言で、村に来た初日はダンプカーでも突っ込んできたのかと勘違いするほどだった。今ではもう慣れたものだが、それでもどんなに疲れていても、毎朝定刻に起きてしまうくらいの騒がしさである。

 

 引っ越してきて一番変わったことは、その鳥の糞害が減ったことだった。木の下にある集落だから、中央に行くほど被害は増しそうに思えるが、木があまりに巨大だから、鳥はアクセスのしやすい外側に巣を作って、かえって中央の方は少ないようなのだ。ヒエラルキーの高い家族が、村の中心に家を作るのは、そういう理由もあるのだろう。

 

 今日も鳥の大合唱で目を覚ました鳳は、先に起きていた二人と一緒に、村で唯一の炊事場でご飯を作り、今日の予定を話しながら、のんびりとした朝食の時間を過ごしていた。

 

 ジャンヌは例の殴り込み事件のことを気にしてか、村に引っ越してきてからは積極的に近所を回って関係改善を試みていた。とは言え獣人社会のルールなんて、力こそパワーを地で行くようなものだから、村人たちは既に何も気にしちゃいないのだが、彼としては何かしないと落ち着かないようだった。今日もガルガンチュアの家へ行って、一緒に狩りに行く予定だそうである。

 

 メアリーは鳳に代わって子どもたちと遊んでいる。彼女は村人たちに神人として畏れられていたが、そんなの子供には関係ないので、気がつけばいつの間にか子どもたちの人気者になっていた。今までは村の子供達の面倒を見るのは鳳の役目だったから、それはそれで少し寂しくもあったが、まあ、彼女が楽しんでくれてるなら良いだろう。

 

 子供たちは現金だから、とにかくメアリーの古代呪文を見たがった。見たって特に何がどうというものでもないのだが、大人たちが恐れるくらいだから、きっと凄いものだという感覚なのだろう。今日も村の隅っこの方で、メアリーは子どもたちにねだられるまま、エナジーボルトで何かを吹き飛ばしていた。

 

 さて、鳳はそんな村の光景を眺めながら、ごろりと横になって自分のステータスを確認していた。何故そんなことをしているのかは言わずもがな、レベルが上ったからである。

 

 ハチとの決闘後、宴会も終わって村が落ち着いた頃、ふと思い立ってステータスを確認してみた鳳は、また自分のレベルが上っていることに気がついた。ついでに今回は、鳳のレベルだけではなく、共有経験値も入るというおまけ付きだったのだ。

 

----------------------------

鳳白

STR 10↑       DEX 11↑

AGI 10↑       VIT 10↑

INT 10↑       CHA 10↑

 

BONUS 1

 

LEVEL 5     EXP/NEXT 330/500

HP/MP 100↑/50↑  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 100

鳳白           ↑LVUP

†ジャンヌ☆ダルク†

Mary Sue         ↑LVUP

William Henry Bonney   ↑LVUP

----------------------------

 

 これには正直驚かされた。というのも、鳳は決闘に行く前レオナルドと話した際に、自分は失敗した時に経験値が入るんじゃないかという仮説を立てていたからだ。なのに、今回は失敗らしい失敗は何もしていないのに、レベルが上っているだけではなく、共有経験値まで入っていたのだ。

 

 これは一体どうしてだろう?

 

 考えられることは、今回は前回と違って、冒険者ギルドで正式に依頼を受けたということだ。この共有経験値とやらがTRPGで言うところのクエスト経験値であるなら、ギルドの依頼というのはいかにも大義名分になりそうな感じがする。

 

 他にも、鳳一人だけじゃなく、パーティーを組んで依頼を受けたというのもあるかも知れない。

 

 今回の事件……と言うかクエストは、ガルガンチュアが居なければクリアすることは不可能だった。本人は気づいてもいないし、そもそもパーティーメンバーですらないのだが……まあ、ゲストメンバーもありだと考えれば辻褄は合うだろう。

 

 そんな馬鹿な。現実はゲームじゃないんだぞ。大体、TRPGだというならゲームマスターはどこにいるんだ? と言われると、困るどころか、いかにもそれっぽい『神』というのが存在するから性質(たち)が悪い。常識に捕らわれていても、何もわからないことに変わりはないのだ。そもそも、ステータス画面が見えている時点でお察しである。

 

 ともあれ、とりあえずはこの共有経験値をどうしようか……?

 

 何も考えずに自分につぎ込めるような性格だったら良かったのだが、幾度となくガチャ死をしてきた現代人のSAGAが、そんなギャンブルを躊躇させる。確実に強くなるのが分かっているギヨームに突っ込んだほうがいいんじゃないか? いっそ、メアリーというのも手かも知れない。

 

 鳳がそんな具合に、あれこれ考えて悶絶していると、件のメアリーが帰ってきた。

 

「ひゃ~……MPが空っぽだわ。子どもたちが中々離してくれなくて。まいっちゃった」

「ほらよ、草でも食っとけ」

 

 鳳が近所で摘んだ草を投げると、彼女はハムハムとかじり始めた。一応、MP回復能力のある薬草だが、鳳が街で作った高純度結晶には遠く及ばない。今後のことを考えて、出来ればまたいくつか手にいれたいのだが、こんな大森林のど真ん中ではそれも難しい。どこかにケシでも生えてればいいのだが……そうではないのだから、MPの無駄遣いは控えて欲しいものである。

 

 そんなことを考えつつ、鳳はふと思い立って尋ねてみた。

 

「そういやあ、メアリーってレベルいくつなの?」

「私……? レベル1よ」

「ふーん……って、レベル1~っっ!!??」

 

 頬杖をついていた腕が外れて頭がゴチンと床にぶつかった。鳳はくらくらする頭を抱えながら、素っ頓狂な声を上げてしまった。レベル1? まさか、そんな人間が、自分以外にも居たなんて……しかも、ずっと一緒に行動していたのに、今まで気づきもしなかったなんて……

 

 鳳が予想外の出来事に目を白黒させていると、メアリーは憮然とした表情で、

 

「なによ。だって仕方ないじゃない。あそこから外に出たことがなかったんだもん」

「ああ、そうか……あそこには外敵なんて居なかったもんな。それじゃレベルを上げる機会が無かったんだ」

「そうよ。なのにそれを笑うなんて、ツクモってば嫌なやつね」

「すまん、すまん」

 

 鳳はすぐに頭を下げた。何しろ、自分だって他人のことは言えないのだ。

 

「俺以上に、低レベルの人間の気持ちがわかる人間もいないのにな。つい驚いて、無神経なことを言っちまった。すまない」

「……別にいいわよ。悪気がないのは分かってるもの」

「そういや、お前が戦闘している姿って見たことなかったな。古代呪文も使えるようだから、てっきり高レベルだと思ってたんだけど」

「神人は生まれつきエナジーボルトなら誰でも使えるのよ」

「ふーん……因みに、ステータスってどんななの?」

 

----------------------------

Mary Sue

STR 15        DEX 16

AGI 17        VIT 15

INT 16        CHA 18

 

LEVEL 1     EXP/NEXT 0/1000

HP/MP 750/300  AC 10  PL 0  PIE 10  SAN 10

JOB MAGE Lv1

 

PER/ALI GOOD/LIGHT   BT B

----------------------------

 

 メアリーのステータスはなんというか、以前に聞いたリロイ・ジェンキンスのものと良く似ていた。普通の人間と比べたら大したものなのだが、ジャンヌみたいな華には欠ける。何というか、可もなく不可もなくと言った感じの数値である。

 

 だが、それが補正値だと判明した今、これはそう捨てたもんでもないだろう。神人という種族は、例えるなら、あらゆる行動に常時何倍かのバフが掛かっていて、人間には使えない特殊な魔法を使えるユニットなのだ。おまけにレベル1にも関わらず、高HPとMPを誇っており、自己回復能力まで備えている。

 

 メアリーはエナジーボルトしか使えないが、確か以前に城で聞いた話では、神人はレベルが上がればHPとMPが上がり、新しい魔法を覚えていくはずだった。となると、もう、やることは一つっきゃない。

 

「なあ、メアリー。そんならおまえ、レベル上げたくないか?」

「え? そうね。いつまでもみんなに頼り切りなのは癪だし、私もツクモみたいに大物を狩って、村の人達に自慢したいわ」

「俺は自慢なんてしてないけどね……そうか、それじゃレベル上げるか」

「うん。でもどうするの? ジャンヌと3人で狩りにいく?」

「いや、そんなことしなくて良いんだ。もっと効率のいい方法があるから」

 

 鳳はそう言って、自分のステータス画面に見える、メアリーの名前の横のレベルアップの文字をポンと指先で叩いた。するとさっきまであった共有経験値がみるみるうちに減っていき、最後はゼロになってしまった。

 

 きっとこれで、メアリーに大量の経験値が入ったことだろう。神人のレベルを上げるのは初めてだが、レベル30代のギヨームが50代まで上がった実績があるのだ。きっと劇的な変化が起こるに違いない。

 

 鳳がそんなふうに思ってワクワクしていると、

 

「……きゃああああああぁぁぁぁぁーーーーーーーっ!!!」

 

 突然、メアリがー悲鳴を上げてその場にしゃがみこんでしまった。

 

 その思わぬ行動に、鳳は飛び上がった。

 

 メアリーのことを神人様と言って崇めていた村人たちが、何事かとギョッとして、家々から顔を覗かせた。

 

 そしてガルガンチュアの家からは、その声を聞きつけたジャンヌが飛び出してきて、その風圧だけで人を轢き殺せるんじゃないかと言わんばかりのスピードで、家の中に飛び込んできた。

 

「どどど、どうしたのっ!? メアリーちゃん!? 白ちゃんに何かされたの!?」

「おいこらっ! お前が普段、俺のことどういう目で見てるかわかったぞっ!!」

「え!? それじゃ白ちゃん、何もやってないのね?」

「……いや、やったけど」

 

 ジャンヌは険しい表情でじろりと睨んだ。ただでさえ存在自体が凶器みたいな男にそんな風に睨まれたらちびりそうになってしまう。鳳は真っ青になりながら言い訳した。

 

「いや、やったっつっても、特別なことはしていない。いや、特別かも知れねえけど……あー! もう、面倒くせえな! メアリーのレベルを上げてたんだよ」

「レベル?」

「いつぞや、お前のレベルも上げたことがあっただろう? あの方法で」

 

 鳳が釈明していると、悲鳴を上げていたメアリーが頭を抱えながらゴロゴロと床を転がりだした。

 

「あああああ、頭が……頭があ……」

「どうしたの? メアリーちゃん。頭が痛いの?」

「頭の中で変な音がするよー!」

 

 もしかして頭が痛いのかと思いきや、どうやら痛いわけではないらしい。それはともかく、

 

「変な音?」

「うん、さっきから、ずっと同じ、耳障りな音が頭の中で流れてるの。耳をふさいでも聞こえてくる。これってどういうこと? 私、おかしくなっちゃったの? もしかして、一生このままなの!?」

 

 彼女は自分で立てた仮説に青ざめている。そんなことは無いと言えたら良いのだが、原因がはっきりしないことには気休めも言えない。とりあえず、

 

「それってどんな音なんだ?」

 

 と鳳が尋ねてみると、

 

「えーっと、えーっと……ちゃらららんちゃんちゃんちゃーん! ちゃらららんちゃんちゃんちゃーん!」

 

 メアリーが必死に伝えようとするその旋律を聞いて、鳳とジャンヌは目を見開いた。

 

「ちゃらららんちゃんちゃんちゃーん! って同じ音が繰り返し繰り返し流れてきて……あ、止まった……なんなのこれ!?」

 

 困惑するメアリーが、涙目で鳳たちの顔を見上げていた。対する彼らも同じように困惑した表情でメアリーのことを見つめていた。困惑するのも無理はない。何しろそれには聞き覚えがあったのだ。

 

「これって……あれよね?」

「ああ、ドラクエだ」

 

 メアリーが必死に伝えてきたそれは、ドラクエのレベルアップの時になるファンファーレだった。要するに、たった今メアリーの頭の中では、はぐれメタルを倒したときのようにファンファーレが鳴り続けていたのだ。

 

 そりゃ知らなかったらびっくりするかも知れない。耳をふさいでも聞こえてくるから、彼女は自分の頭がおかしくなったんじゃないかと焦ったのだろう。しかし、それを知っている者からすればお笑いだ。

 

 どうやら神人は、レベルアップをするとファンファーレが鳴るらしい。いや、もしかするとメアリーだけかも知れないが……ただ一つ言えることは、これでほぼ確実に、この世界には、鳳と同じ時代を生きた人間が関与していた可能性があるということだった。

 

 鳳たちはこんなしょうもない現象で、その形跡を見つけてしまったのである。

 



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魚人族の侵入

 レベルアップした神人の頭の中ではファンファーレが鳴っている……そんな、どうでもいいトリビアが判明したのは一先ず置いといて、メアリーのレベルである。

 

 鳳の共有経験値をつぎ込んだメアリーは、恐らくいま猛烈な勢いでレベルが上っているだろう。レベル99のジャンヌが102になるくらいだから、レベル1のメアリーなら一体どこまで上がるだろうか? 期待に胸が膨らむと言うものである。

 

 ところが、騒ぎが収まり、メアリーが落ち着いたのを見計らって尋ねてみるも、それはまた意外な結果だった。

 

「レベル……? あ、そうだった。レベルの話をしてたのよね」

「うん、で、レベルいくつになった?」

「なによ急に……」

 

 事前にちゃんと説明しなかったからか、メアリーはレベルが上っていることにまだ気づいていないようだった。彼女が自分のステータスを確認すると、その顔がみるみるうちに驚愕の表情に変わっていき、

 

「わ! わ! なんか知らないけどレベルが上ってるわ!? どうして? 不思議!」

「それで、いくつなんだよ」

「え? うん、15になってるわ! これって本当に、私のレベルが上がったの?」

「15……?」

 

 そんなものか? 予想では30以上になってるんじゃないかと思っていたのだが、期待が大きすぎた分だけ、鳳はがっかりしてしまった。何でこんなに低いのだろうか。もしかすると、神人は人間よりもレベルが上がりにくいのかも……

 

 ともあれ、レベルが上って喜んでるメアリーを腐すのもバカバカしいので、鳳は頭を切り替えて、今度は彼女のステータスの変化について尋ねてみた。

 

 彼女は神人であるから、レベルが上ってもSTRなどの基本ステータスに変化は無いようだが、HPとMPはばっちり上がってるようだった。最初750/300だったのが、今は1450/330あるらしい。HPが倍近く上がったのに比べてMPの伸びが極端に悪いのは、ステータス的にMPの方が貴重ということだろう。まあ、神人に限って言えは、MPの多さが魔法が使える回数に直結してるのだから、当然といえば当然かも知れない。

 

 それからもう一つ、

 

「わーい! Mage Lvが3になったわ! これで私も中級魔法使いの仲間入りね」

 

 この世界の人々には生まれつきの職業の他に、その職業のレベルが存在する。ぶっちゃけ、人間には殆ど意味のない数値であるが、神人のメアリーにとっては意味がある。おさらいになるが、神人の魔法使いは職業レベルが上がるにつれて……

 

レベル1  エナジーフォース

レベル2  エンチャントウェポン・ディスペルマジック

レベル3  スリープクラウド・スタンクラウド

レベル4  ファイヤーボール・ブリザード

レベル5  ライトニングボルト・プロテクション

レベル6  レビテーション(・タウンポータル)

レベル7  ディスインテグレーション(・サモン・サーヴァント)

レベル8  メテオストライク(・リザレクション)

 

 ……と、使える呪文が増えていく。メアリーはレベル3だから、スリープクラウド・スタンクラウドまで使えるようになったというわけだ。

 

 因みに、中級魔法使いと言ってるのは、文字通りレベル3が中間に位置しているからだ。この世界の神人は、最高位でもレベル5のライトニングボルトまでしか使えないらしい。この世界のと断ってるのは、無論、あっちの世界のゲームと比較してであるが……かえってややこしくなるから、もう分けて考えない方がいいかも知れない。この世界は、とにかくゲームにそっくりなところがあるのだ。

 

 さて、メアリーはレベル15で職業レベルが3に上がったわけだが、今までに何度も聞いてきたように、この世界の人達はだいたいレベル30くらいで打ち止めになる。となると、彼女が言う上級魔法使いのレベルも30付近と考えられるわけである。それくらいなら、あと何回か共有経験値を注ぎ込んだら上がりそうだし、攻撃魔法も覚えてくれるなら、狙ってみるのも悪くないかも知れない。

 

 忘れてしまいそうになるが、鳳たちは彼女を新大陸へ逃がそうとしている最中なのだ。彼女は帝国からの追っ手に追われていて、いつ捕まるかもわからない。そんな時、彼女自身に戦うすべがあった方が、護衛する方もやりやすいだろう。

 

「ツクモ、ジャンヌ! せっかく覚えた呪文を早速使ってみたいんだけど……実験台になってくれる?」

「いや、お前が覚えた呪文って、人に使うと洒落にならないもんばっかだろう。流石にそれは自重しろ。村の中でも使うなよ?」

「ちぇー……」

 

 メアリーは口を尖らせて不満そうにしている。ジャンヌはそんな彼女を見て、

 

「それじゃあ、メアリーちゃん。私と一緒に狩りにいかない? 族長と約束してるんだけど、魔物相手だったら好きなだけ使ってもいいから」

「本当? 足手まといにならないかな……」

 

 メアリーはモジモジしながらも、一緒についていく気満々のようだ。鳳はそんな二人に割って入るように、

 

「それなら俺もついていくよ。どうせなら、ギルドで依頼を受けないか?」

「依頼……?」

「ああ。今回、メアリーのレベルを上げた共有経験値って、決闘のあとに入ってたものなんだよ。あの時、俺はギルドで依頼(クエスト)を受けていた。もしクエストを受けて、それをクリアすることで経験値が入ったんだとしたら、また試してみたいんだよね」

「決闘で勝ったから入ったんじゃないの?」

「かも知れない。でも試す価値はあるだろう?」

「そうね……なら族長に聞いてみるわ」

 

 ジャンヌは先約のガルガンチュアを誘いに、族長の家へと向かっていった。

 

******************************

 

 事情を話したところ、ガルガンチュアは特に文句も言わずに承諾してくれた。元々、関係改善のためにジャンヌが誘ったのだから、どこへ行くのもそっちが好きに決めればいいさと言った感じである。

 

 そんなわけで4人連れ立ってギルドに向かっていると、あちこちの家々から人が飛び出してきて、バカ丁寧に挨拶をしてきた。考えても見ればガルガンチュアは族長だし、ジャンヌはその族長に匹敵する強者であり、そしてメアリーは彼らが神と崇める神人なのだ。鳳だって、例の件以来株が上がっているわけだし、今一番ホットな話題の4人組と言っても過言じゃないのかも知れない。ほんの少し前まではお荷物扱いだったのに、人の評判なんて当てにならないという言うか、どいつもこいつも現金なものである。

 

 そんなことを考えつつ、村を出て、林道を抜けて、冒険者ギルドの駐在所までやってきた。ずっと村で暮らしているせいだろうか、やっぱりちゃんとした屋根がある家を見るとホッとする。

 

 ギルドの前には物干しスペースがあって、ルーシーがせっせと洗濯物を干していた。鳳たちが来るのを見つけると、愛嬌たっぷりな笑顔で駆け寄ってきて、エプロンの前掛けで濡れた手を拭いながら、

 

「わー、鳳くん久しぶり。今日は大所帯だね。みんなでどうしたの?」

「ギルドでクエストを受けようと思って。なんか良い依頼入ってない?」

「私じゃわかんないよ。ミーさん呼んでくるから中に入って待ってて」

 

 ルーシーがそう言って玄関に4人を招き入れると、件のミーティアが入ってすぐの応接室のソファに寝そべって、足をパタパタさせていた。どうせこんな場所に依頼人なんか来ないと高をくくっていたのだろうか、仕事をサボって良いご身分である。

 

 完全に油断していた彼女はやってきたのが鳳だと気づくと、めくれそうになっていたスカートの裾を慌てて直して、

 

「な、なんですか、いきなり。入る時はノックして下さいって言ったでしょう」

「おまえんちかっ!」

 

 と言うか、案内されて玄関から入ってきた客に言うセリフだろうか。鳳は呆れながら、依頼を受けに来たことを伝えた。

 

「依頼ですか? そりゃ、こんな森の中でも依頼はありますが……鳳さん、また喧嘩を吹っかけられでもしたんですか?」

「してないしてない、江戸っ子じゃないんだから。実は、メアリーがレベル上がって魔法覚えたからさ、その試し打ちしたくって」

「魔法って、古代呪文ですよね? 即戦力じゃないですか。それならいくらでも討伐依頼がありますよ。ちょっと待ってて下さい。良さそうなの探してみますから」

 

 ミーティアはそう言って、依頼のファイルを取りにいそいそと奥へ行ってしまった。時間が掛かるかなと思い、彼女が寝そべっていたソファに座ろうとした時、たった今ミーティアが出ていったばかりのドアがガチャリと開いて、ギルド長が顔を覗かせた。

 

「鳳くん、来てたのか。ちょうど良かった」

「なんすか?」

「今、タイクーンとギヨームと三人で、オアンネスの動向を協議していたところなんだ。第三者の意見も欲しいから、来てくれないか?」

「俺でよければ……ガルガンチュアさん、すみません。時間かかりそうだったら、ジャンヌと二人で行っちゃってください」

 

 鳳がそう言うと、ギルド長が慌てて、

 

「いや待ってくれ。ジャンヌもガルガンチュアも来て欲しい。出来れば大森林に住む部族長や、冒険者にも周知しておきたいんだ」

 

 その口ぶりからして何だか大事っぽい感じがする。鳳たちは顔を見合わせて、ギルド長の後についていった。

 

 奥へ続く扉をくぐると、短い廊下を抜けて、十畳くらいの広さの部屋に繋がっていた。普段はリビング兼ダイニングにでも使ってるのだろうか、食卓らしきでっかいテーブルが中央やや右手にあり、その周りにギヨームとレオナルドが立っていた。

 

 テーブルの上には紙を何枚もつなげた大きな地図が載せられており、見た感じそれは大森林のようだった。とは言え、道らしい道のない大森林であるから、そこに記されているのは細くて曖昧な獣道と、獣人たちの集落の場所と、山や川など目印になりそうなオブジェクトばかりだったから、果たしてこれを地図と呼んでいいのか疑わしい。

 

 ギルド長たちはこんなものを囲んで何をにらめっこしているのかと思っていたら、よく見ればその地図の所々にバツ印みたいな書き込みがある。自分が何のためにここに呼ばれたのかを思い返せば、考えられることは一つしかない。

 

「これってもしかして、全部、オアンネスが目撃された場所?」

「そうじゃ」

 

 レオナルドは部屋に入ってきた鳳たちに、挨拶ついでにそう返事した。

 

 この老人とギヨームは、ギルド駐在所に辿り着いた翌日から、鳳がガルガンチュアの集落で子供と遊んでたり、ハチと決闘をしている間もずっと、あの魚人族の動向を探っていたようだった。

 

 とは言ってもワラキアの大森林は広いので、直接出向いたりは出来ないから、伝手を頼って情報を集めていたという感じである。こんな大森林の中でも獣人が住んでいる以上、人の往来がまったくないわけではない。近隣の住人同士の情報交換くらいはある。どうやらそういう情報ネットワークみたいなものを、この老人は確保しているようだ。亀の甲より年の功というやつだろうか。

 

「これは大森林の最北、勇者領とヘルメス領の間の大まかな地図じゃ。広大な大森林のほんの端っこ、広さにして10分の1程度に過ぎん。魔族が住むネウロイという土地の対角線上にある地域なのじゃが、それでもこれだけの目撃情報がある」

 

 勇者領とヘルメス領の間には、街道の他に河川も流れている。それは大陸中央部の山岳地帯から流れてきているのだが、目撃情報はその流域に分布しているようだった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「見ての通り、大陸はこの中央の山脈によって南北に分断されておる。魔族が住むネウロイから、儂らがいる北西の地域へ至るには、比較的勾配が緩やかな西側の沿岸部を通るのが最善じゃろう。しかし、こちら側は住みやすいから、獣人の集落が網の目のように存在し、海は海で勇者領の漁師たちによって見張られている。従って、これだけの数のオアンネス族が通過したなら、誰も気づかないなんてことがあるわけがないんじゃ」

 

 とすると、考えにくいことではあるが、あの魚人共が山を超えてやってきたということになる。あの手足にヒレのついたエラ呼吸をしそうな連中が……実際には肺呼吸してるから、陸路を通ることは十分に可能なのであるが、しかし、それでも山越えとなると中々想像がつかない。

 

「大陸東側の海を通って侵入したってことは無いの?」

「可能性は無くもないが、はっきりしたことは分からぬ。実は戦争のせいで、一時的にオルフェウス領からの情報が入ってこなくなっておるのじゃ。しかし、仮にそうだとすると、今度は大陸を横断してきたことになるしのう……」

「目撃情報が東側に集中してるならともかく、それも考えにくいか」

「山越えをしてきていると仮定して、どうすればそれを食い止められるのか、何かいいアイディアがあれば良いのじゃが……」

 

 それで鳳たちにも意見を聞いてみようと思ったのだろう。しかし、そんなことを言われても、すぐにはアイディアが浮かんでこなかった。

 

 真っ先に思い浮かぶのは登山家を雇って、魔族が侵入するルートを突き止めるくらいだが、しかしこの世界には整備された登山道なんてものは無い。高くてもせいぜい1000m程度とは言え、どこに猛獣が潜んでるかもわからない前人未到の山々を渡り歩いて、あるかどうかも分からないルートを発見する。そんな都合のいいスーパー登山家などいるはずもなく、考えるだけ無駄だろう。

 

 というか、仮に人工衛星があったとしても、こんな大森林の中の人の移動を把握しようとすること自体が無理な話だ。何度も言っているように、この森は昼間でも真っ暗になるくらい木々が生い茂っている。上空から見たところで、その下を歩いている人間の姿など捕らえられないだろう。

 

「正確なルートを発見するのは不可能だろうね。しかし、山越えが確かなら、上流に絞って魚人族を狩り続ければ、いずれ侵入は止まるはずだ。水際作戦ならぬ、山際作戦って感じで。それでサンプルが集まれば、ある程度、経路は絞れるんじゃないか」

「それが難しい。川は無数に存在するが、冒険者には限りがある。相手が大河のみを移動するわけじゃない時点でお手上げなのじゃよ」

「だったらやっぱり、まずはどうして魚人共が北上しているのか、その原因を探らないことには、どうしようもないと思うぞ。でも、そんな死地に赴くようなクレイジーな冒険者なんていないだろうし……現状では、オアンネスの侵入を防ぐのは難しいだろうね」

「……やはり、今やれることは地道に駆除し続けることくらいかのう」

 

 老人は肩を落として、もう疲れたと言わんばかりに目頭を指で揉んでいた。そんなにがっかりされると罪悪感がわいてくるが、鳳だって四六時中おかしなことばかり考えているわけでもない。期待されても困るというものである。

 

 それにしても、魔王の復活か……

 

 レオナルドは今回の事件に、最悪の事態を想定して動いているらしい。今のところ復活を示す根拠は何も見つかってないが、これだけ魔族が大移動しているとなると、流石に鳳でも不安になってくる。

 

 彼は、テーブルの上に広げられた地図を見ながら、

 

「ところで、このオアンネスの駆除だけど、ギルドのクエスト扱いなの?」

「ん? ……ああ、一応そのつもりなんだが、何しろ森の中のことだから、狩っても誰も得をしないんで、報酬が殆ど出ないんだ。だから冒険者の応援は期待できないし、各部族に周知するに留まっているのが現状だ。獣人たちが連携して、金を出し合って、外部から応援を呼んでくれれば良いんだが、彼らにそれを納得させるのは難しい。このままでは、大変なことになるかも知れないのに……」

 

 ギルド長がそう答えてため息を吐いた。どうも大森林の獣人たちは、自分たちの縄張りを荒らされるのを嫌うせいか、積極的に魚人を討伐したり、外部に頼ったりはしたがらないらしい。ついでに言うと、お金もない。だから基本的に放置気味のようである。

 

 考えても見れば、ここに来たのも、放棄された集落を発見したのが切っ掛けだった。もしかして今、そういう集落が増えているんだろうか? だとしたら由々しき事態だが……せめて近場の魚人だけでも排除しておいた方がいいかも知れない。

 

 鳳がそんなことを考えながら、地図を眺めていると、

 

「……あれ? これってもしかして、こないだ俺が依頼を受けた村の近く?」

 

 鳳は、ガルガンチュアの集落から一番近い場所にあったバツ印を指差していった。

 

「ああ、つい今朝方、隣村の住人が発見を知らせにきてくれたんだ。いつもなら、よほどの用事でもない限りここには近づかないんだが、前回のことで信用を得たんだろう」

「じゃあ発見したのはここ数日ってことか」

 

 もしかすると前回のクマは、ここの魚人族に襲われて逃げてきたのかも知れない。死体についていた傷跡のことを思い出しながら、鳳はそんなことを考えた。

 

 ともあれ、よしみのある部族が困っているなら、これを無視するなんてことはないだろう。

 

「ガルガンチュアさん、ジャンヌ、もしよかったらなんだけど……」

「このオアンネス族を駆除しに行こうってのね。私はもちろんいいわよ」

 

 鳳がガルガンチュアの顔を覗き込むと、彼もゆっくりと頷き、

 

「ここは俺の村にも近い。どうせそのうち、やらなければならないだろう」

 

 話は決まった。鳳はギルド長にそう伝えると、正式なギルドの依頼として受けさせてもらうことにした。

 



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蜥蜴人は敵じゃない

 オアンネス族の駆除依頼を受けた鳳たちは、早速とばかりに森へ入った。メアリーが一緒についていくことを知ったレオナルドは驚いていたが、共有経験値の話をしたら、なるほどと首肯し、特に反対もしなかった。とは言え、やはり心配だったのか、出発間近になってギヨームが同行することになり、結局は、鳳、ジャンヌ、メアリーにガルガンチュアを加えた5人で隣村へと向かうことになった。

 

 駆除依頼といっても、何から何まで全部やれというわけではない。基本的に大森林の獣人たちは、外敵が現れても自分たちだけでなんとかする能力を持ち合わせている。それでも人手が足りない時に、助っ人を呼ぶつもりで依頼を出すのだ。だから今回は単独ではなく、隣村と協力して魔物討伐することになる。要するに冒険者ギルドは、殆ど交流のない部族同士の、回覧板みたいな役割をしているわけである。

 

 一度往復したことのある道だから、既にどこに何が生えているか分かっているので、鳳が道草を食うこともなかったお陰で、隣村へは割とすぐに到着した。

 

 隣村の長は、つい最近会ったばかりのライバル村の族長(ガルガンチュア)が、立て続けに二度もやってきたのを見て面食らっていたが、その横に鳳の姿もあることを見て態度が変わった。

 

「おお! ツクモ! 我が村の英雄よ! どうした? また狩りに来たか?」

 

 英雄などと呼ばれると面映いが、前回のクマ退治で鳳は、隣村ではすっかり凄腕冒険者と思われているようである。本当は、冒険者登録を拒否されるくらい低レベルの異邦人なのだが、もちろんそんなことはお首にも出さずに、

 

「こんにちわ! 今日も冒険者ギルドの依頼で来ました。先日、魔族が近辺に現れたとギルド支部に報告にあがったようですが……?」

「なに!? 昨日だぞ? もう来てくれたというのか?」

 

 隣村の長は感激してガバっと鳳に抱きついた。獣臭いのとギューギュー締め付けられるのとで、窒息しそうになった。鳳はほうほうの体で、どうにかそれから逃れると、被害状況について確認した。

 

 オアンネス族を発見したのは3日くらい前のことらしい。このところ村近辺の獲物が少なくなっており、例のクマのせいだろうと思っていたそうだが、獲物を追って遠出をした村人の一人が沢の途中に魚人のコロニーを発見した。

 

 位置的に山の近くにあるそうだから、やはりあのクマは、魚人族に追われて棲家を失ったのだろう。彼らを放っておくと周辺の獲物を狩り尽くしてしまうから、出来るだけ早めに対処しないといけない。それでギルドに助っ人を頼んだのだそうである。

 

 因みに報酬はこの間も貰ったお酒とのこと。量があるということは、もしかしてこの村の特産品なのかな? と思ったら、動物の毛皮と交換で、行商人から仕入れているそうだ。ガルガンチュアの集落ではまだ見たことがなかったが、大森林には意外と行商人が来ているらしい。しかし、その日暮しの村人たちが、一体何と物々交換してるんだろうか? と考えた時、うんこ豚のことを思い出した。知らぬが仏というやつである。

 

 助っ人の到着を受けて、隣村で臨時の討伐隊が組織され、すぐに現場へ向かうことになった。獣人、特に狼人は鋭い爪と牙を持つため、準備が殆どいらず身軽のようだ。明日を待つより、今から向かえば夕方には間に合うだろうから、襲撃するチャンスを逃すまいといった感じである。

 

 集まった村人たちは、ガルガンチュアがいることにも驚いていたが、そこに神人(メアリー)が混じっていることにはもっと驚いていた。あっちの村同様、こっちの村でも神人は神と崇められているようである。神様が味方してくれるならばと、士気は否が応でも上がっていった。

 

 襲撃では、その神様が一番活躍した。

 

 村を出てから2時間後くらい、先行偵察していた村人が問題のコロニーを発見した。隠密スキルのあるギヨームが更に詳しく確認したところ、敵の数はおよそ80体。前回同様に目視でも身重の個体が目立つようである。そんな妊婦の集団が沢に棲家を作り、周辺の野生動物を狩って暮らしていたのだ。

 

 これではっきりした。魚人共はどうやら出産のために北部へとやってきているらしい。今までそんなことは無かったらしいから、南部で一体何が起きているのか気になるところだ。

 

 ともあれ、既に被害が出ている以上、早急に駆逐しなければならない。敵の数と比べてこちらは20人と少なく、尋常の勝負では勝てないだろう。討伐隊は奇襲をかけるべく、日が暮れるのを待ってから、半包囲陣形に散らばって行動を開始した。

 

「スタンクラウド!」

 

 夕暮れ時、視界が最も暗くなる時間に、まずはジャンヌに護衛されたメアリーが先行して、古代呪文による一撃を浴びせた。神人による不意打ちを食らった魚人共は、突然の奇襲に慌てながらも、すぐに応戦するために立ち上がり、メアリーに襲いかかってくる。

 

「紫電一閃っっ!!」

 

 しかし、初撃のスタンクラウドで半数以上が無力化されていた魚人共は、バラバラとした攻撃しか行うことが出来ず、すぐにジャンヌからの返り討ちにあった。間違いなく現人類最強であろうゴリラを前に、魚人たちが次々と倒されていく……

 

 自分たちの劣勢を悟った別の個体が背を向けて逃げ出そうとするも、

 

「スタンクラウド!」

 

 追い打ちの古代呪文によって体の自由を奪われた魚人は、逃げようと川に入ったところで力尽き、川の中央でもがき苦しんでいた。魚の顔をした連中が溺れている姿は滑稽ではあったが、それを見て哀れんでいる余裕もない。

 

「転がってる奴は後回しだ! 動いてる奴から狙えっ!」

 

 隣村の長の声に答えて、獣人たちが一斉に駆けていく。二度のスタンクラウドとジャンヌの攻撃を免れた魚人たちも、逃げようとするその背中を切り裂かれて、血しぶきと不気味な叫び声を上げて続々と倒れていった。

 

「一匹も逃がすなっ!!」

 

 その攻撃をも逃げ切った幸運な魚人が川向うの森に逃げ込み、それを追って隣村の連中が大捕物を繰り広げている。

 

 現場に残った鳳、ギヨーム、ガルガンチュアが河原に足を踏み入れると、まだ意識がある魚人族があちこちに転がっていた。魚人共はまだ死んでおらず、スタンクラウドで無力化されているだけである。このまま放っておけば、魔法が切れた個体から動き出してしまうから、やることはもう決まりきっていた。

 

「うへえ……これ、全部やるのか」

「時間が惜しい。黙って作業しろ。ガルガンチュアっ! 川の中のやつを頼む。引きずり出せるのはお前だけだ」

「分かった」

 

 ガルガンチュアがじゃぶじゃぶと川に入っていった。放っておいても肺呼吸する連中なら窒息死しそうであるが、魚人族というだけあって、もしかしたら息が長いのかも知れない。するとスタンから回復した時に一番やばいのは、正に水を得た魚だろう。

 

 自分も何か手伝うことがあるか? というメアリーを制して、鳳は倒れている魚人族にとどめを刺す作業に取り掛かった。

 

 それが簡単な仕事であればあるほど、心理的な抵抗感が増すのは何故なんだろう。地面に転がりピクピクしている魚の眼をした連中の喉に銃口を突きつけ引き金を引く度に、体の中から気力のような何かが、どっと抜けていくような感じがした。

 

 これが本当に魚の形をしている化け物なら、これほど嫌な思いはせずに済んだのだろうが、二足歩行する人間と同じ体の構造をしている連中を見ていると、神がいるならどうして彼らを人間に似せて作ったのかと、小一時間問い詰めたい気分になった。

 

「すけ……助けてください。お願いします。助けて……」

 

 と、その時、地面に転がる魚人族の中から声が聞こえた。

 

「お腹の中に赤ちゃんがいるんです。ねえ、分かるでしょう? もうじき生まれるんです。私はどうなってもいい、せめて赤ちゃんだけでも助けてくれませんか。お願いします。何でもしますから、助けて下さい」

 

 ドキン……と心臓が跳ね上がった。暑くもないのに全身から汗が吹き出し、心臓がどくどくと早鐘を打っている。

 

 聞こえてくるのは、流暢で淀みない、正に人間の女性の声だった。どこか幼ささえ感じさせるその声は悲痛で、聞いているだけで神経が揺さぶられるようだった。濁った魚の目から、ドロッとした涙が溢れ出してくる。その哀れな姿を見ていたら、何も殺さなくても良いんじゃないかと気が萎えてくる……

 

「鳳……惑わされるな」

「わかってる」

 

 鳳がほんの少しの躊躇を見せると、すかさずギヨームがやってきて、そんな彼の頭を叩いて言った。

 

 ギヨームの声が耳に届くと、鳳は首をブンブンと振ってから、愛銃の銃口を魚人に向けた。こうするしかない。わかっているはずだ。躊躇わずに引き金を引け……すると、鳳のそんな決意が目に宿ったのか、魚人は今度は打って変わって、

 

「ちくしょう! 矮小な人間風情がっ! おまえに殺されたことを、俺は死んでも忘れない。来たるべき時、地獄から蘇り、必ずおまえを害してやる! おまえだけじゃない。おまえの家族も、恋人も、子供も、母親も、その全ての皮をはぎ、爪を剥がし、歯を抜き取り、性器をえぐり出して、腸を引きずり出し、苦しむお前の大切な人々を踏みにじり、汚物とまとめて虫の餌にしてくれるわっ!」

 

 先程までの可愛い声とは一転し、どこから出しているのか不安になるような悪意に満ちたそのだみ声を聞いていると、鳳は神経がすり減っていくような気分になった。

 

「そしておまえは殺さない。おまえの大切な人々が傷つき、命乞いをし、もがき苦しみ死んでいく様を見せつけ、自から死を懇願するまで、四肢を切り落とし、舌を切断し、血の一滴まで搾り取って、生まれてきたことを、そして生まれ変わることを後悔するまで、未来永劫、来世まで、魂魄のひとかけらすら残らず消え去るまで、お前のことを呪って呪って呪って……」

 

 鳳は魔族を黙らせるために、その口に銃口を押し込むと、今度こそ躊躇いなく引き金を引いた。

 

*********************************

 

 その一件があってから、魚人族を殺すことへの罪悪感は無くなった。ただとんでもない後味の悪さだけは、いつまでもつきまとい、全ての魚人族を殺し尽くした頃には、鳳はヘトヘトになっていた。途中で隣村の連中が帰ってきて手伝ってくれなかったら、精神がおかしくなっていたかも知れない。

 

 獣人たちは死体の数を数えて打ち漏らしがないことを確認すると、一箇所に集めてその死体を燃やし始めた。ガルガンチュアの部族と同じように、魔族の死体を放置していると土地が汚れるという考えがあるのだろう。

 

 ガルガンチュアが言うには、人間は魔族を食うらしいから、実際問題、放置しておいても何も起こらないと思うのだが……恐らく獣人たちがその迷信を信じているのは、魔族が最後に見せたあの呪詛が原因なんじゃなかろうか。

 

 相変わらず、魚の焼ける香ばしい匂いが辺りに立ち込め、食欲と吐き気を同時に刺激する。今回はギルドから正式な依頼を受けてきたので最後まで付き合ったが、これから先、何度もこれを繰り返すのかと思うと気が滅入ってきた。

 

 テーブルの上に広げられた地図には、まだまだ沢山のバツ印がついていたはずだ。これから先もまだ増えていくことを考えると、魔王復活とかどうでもいいから、とにかくこいつらだけでもなんとかしたいと切に思った。

 

「白ちゃん、ギヨーム、お疲れさま」

 

 死体の焼却に一段落がつくと、鳳たちは河原から少し離れたキャンプ地へと戻った。メアリーの護衛を兼ねて、先に寝床の確保をしていたジャンヌが出迎える。

 

 殊勲のメアリーは移動の疲れもあってか、既にすやすや寝息を立てていた。彼女のレベルを上げておいて本当に良かった。今回の件で改めて思ったが、やはり神人という種族は強力であり、ガルガンチュアたち獣人が神と崇める理由も分かる気がした。

 

「村から頂いた干し肉と、お酒が少しあるわよ。食欲があるなら、明日のためにも食べておいたほうが良いと思うけど」

「ああ、食べるよ。それにしても、魔族の討伐は気が滅入るな。頭は魚でも、体は人間そのものだから、焼いてしまえばほとんど区別がつかない」

「うっかり鳳を焼いちまっても、誰も気づかねえかも知んねえな」

「ははっ! 違いない」

 

 ギヨームがそんな軽口を叩く。それに笑いを返せるくらいには、この殺伐とした世界にも慣れてきていた。

 

 それにしても本当に、神様がいるなら、どうして魔族をあんな姿に作ってしまったのだろうか。創世神話では四柱の神は人間の作り方で揉めて、魔族と獣人と人間とに別れたはずだった。

 

 するとラシャは魔族を最初からあんな風に作ったわけだが……あの醜い姿形と、平気で嘘を吐いて命乞いする様と、最後の気味の悪い呪詛を思い返すと、あんなものを良かれと思って作る神がいるなど、到底信じられなかった……

 

 創世神話を本物と考えて神を断じるなんてバカバカしいが、エミリアという無視できないファクターがある以上、このラシャなる神についても本物と思って警戒していた方が良いのだろうが……

 

 鳳がそんなことを考えている時だった。

 

「……どうやら、お客さんのお出ましのようだぜ」

 

 固い干し肉を噛みちぎっていたギヨームが、クチャクチャやりながら森の奥を指差した。手には既に光る拳銃が握られており、いつでも引き金を引ける状態だった。鳳も慌てて自分の愛銃を取り出すと、弾を込めてレバーを引いた。ジャンヌが眠ってるメアリーを庇うように前に出て、剣を抜き放つ。

 

「誰だ! 敵意が無いなら手を上げて前に出ろ。下手な動きをしたら、命がないと思えよ」

 

 ギヨームが誰何する。

 

 鳳たちにはまだ何も見えなかったが、彼がわざわざそんなセリフを言ったということは、相手は人間なのだろうか。てっきり魚の焼ける匂いに釣られて、野生動物でも近づいてきたのかと思ったのだが……

 

「撃たないで下さい。こちらに敵意はございませんから」

 

 鳳が緊張しながら銃を構えていると、森の奥からそんな声が聞こえてきた。相手はそう言っているが、魔族は嘘をつくということを、身をもって体験したばかりである。とても銃口を下げる気にはならず、そのままじっと待っていると、やがて森の奥の人物は、諦めたのか手を上げながらゆっくりと近づいてきた。

 

 パキッと小枝を踏む音が徐々にこちらに近づいてくる。やがて焚き火の炎に照らされて、そのシルエットが浮かび上がった時、鳳は思わず悲鳴をあげそうになった。

 

 薄い膜のような瞼に覆われたギョロ目。口は人間の頭がすっぽり入ってしまいそうなくらい大きく、むき出しの牙が覗いている。時折、チロチロと飛び出す舌先は二つに割れており、両手を上げたその指先からは鋭い爪が伸びていた。そして全身は緑色の鱗に覆われ、焚き火の炎を反射してヌルヌルと光っていた。

 

 そこに立っていたのは巨大なトカゲだった。爬虫類らしい無表情で、何を考えているかわからない目がこちらをじっと凝視している。鳳がびっくりして、引き金を引こうとした時、

 

「馬鹿っ! やめろ! 蜥蜴人(リザードマン)は敵じゃない!!」

 

 慌ててギヨームが鳳のライフルの銃身を引ったくるようにして狙いを外した。その拍子に引き金が引かれ、パンッ! っと乾いた銃声が真っ暗な森に響き渡った。

 

 蜥蜴人はその瞬間、ビクッと体を震わせてその場にしゃがみ込み、大きな口をあんぐりと開けて、ひゃー! っと悲鳴を上げた。その悲鳴が思いのほか可愛かったものだから、毒気を抜かれた鳳がどっと地面に尻餅をつくと、蜥蜴人は両手を頭に乗せて、おっかなびっくりと言った感じでこちらの様子を窺いながら、

 

「村へ立ち寄ったら、ちょうど腕利きの冒険者が来ていると聞きまして……依頼をお願いしたく、こうして追いかけてきたのですが、お邪魔でしたかな?」

 

 彼がそう言うと、彼の背後から、同じような蜥蜴人が数人と、大きな荷物を背負った狼人や猫人、兎人などが現れた。このように種族がバラバラの獣人の集団は、かつて街で見かけたことがある。商人のキャラバンである。

 

 こんなところにキャラバンが? ……まさかと思って鳳が呆然として見ていると、最初の蜥蜴人が一歩前に進み出て言った。

 

「申し遅れました。私、勇者領(ブレイブランド)で商人をしております、トカゲ族のゲッコーと申します……」

 

 彼はそう言って、まるで王侯貴族にするように、恭しく頭を下げるのだった。

 



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荒ぶるペンギンの団

 オアンネス族のコロニーを制圧した後、鳳たちが焚き火を囲んでいると、そこに現れたのは蜥蜴人(リザードマン)の商人だった。ゲッコーと名乗る商人は行商で村に寄った際、たまたま鳳たち冒険者が来ていることを知って、依頼を頼みたくて追っかけてきたそうである。

 

 ここまでして頼みに来るくらいだから、きっと緊急な問題に違いない。鳳たちは取り敢えず話だけは聞くからと、冒険者ギルドまで一緒に帰ることにした。

 

 翌朝。後片付けを隣村の族長に任せて、急いで村に戻った彼らを出迎えたのは、商人の到着を待ちきれずにいたガルガンチュアの村の獣人たちだった。キャラバンが隣村に到着した段階で、次は自分たちの村に来ることを知っていた彼らは、昨日から心待ちにしていたらしい。

 

 いつもみんなが集まっていた村の中央広場に商品が並べられると、どこに溜め込んでいたのだろうか、村人たちが動物の毛皮や木の実なんかを持ってやってきて、即席のバザーで物々交換を始めた。普段は見ることの出来ない品々を前にして、村人たちの目がキラキラと輝いている。通貨が流通していないために、殆ど全ての商品で物々交換を行うから、良いものを手に入れるには交渉力が必要となる。あちこちでそんな人々の、威勢のいい声が響いていた。

 

 その光景は微笑ましかったが、鳳たちは喧騒を避けて、ゲッコーを連れてギルド駐在所までやってきた。

 

 駐在所に入るとギルド長が飛んできて、ゲッコーを親しげにもてなしていた。大森林の行商人は貴重な情報源だから、冒険者ギルドでは彼らを重用しているようだ。実際、ゲッコーがもたらした情報は、レオナルドの興味を引いた。普段、オルフェウス領を中心に活動しているこの行商人は、大陸東部の魔族による被害状況を持ってきたのだ。

 

「ヘルメスがあの通りで街道が使えず、勇者領と連絡がつかずに困っていたのですよ。こんなところで大君(タイクーン)に会えたのは行幸でした。実は、大陸東部の森でも、あちこちで魚人族の侵入が確認されていまして……」

「つまり、あの魔族は別にどこかを目指しているわけではなくて、単純に南から北へ押し上げられているわけか」

 

 商人が持ち込んだ情報を元に、地図にオアンネス族の分布を書き込んだレオナルドは、それを見ながら唸り声を上げた。思った以上に広範囲に渡る侵入の事実に、もはや南半球で何かが起きているのは疑いようがないだろう。

 

 それにしても、この300歳を超える老人と、蜥蜴人が顔を突き合わせている光景はインパクトが強く、まるでファンタジー映画の一コマを見ているようだった。

 

 蜥蜴人は全身が緑色の鱗に覆われた水陸両生の種族で、見た目は人間よりもずっとトカゲに近かった。もしあの時ギヨームが止めてくれなかったら、うっかり殺してしまっていたかも知れない。

 

 同じ全身が鱗に覆われた水陸両生のオアンネス族は魔族で、この蜥蜴人は獣人扱いなのは、なんとも理解し難いものを感じるが、両者を分けるのはその理性のようである。蜥蜴人はとても理性的で、人間に近い考え方をするらしく、魔族のように人を襲ったりはしないのだ。

 

 因みに水陸両生の蜥蜴人が水辺で暮らしているのは、魚を獲るためではなくて、暑さと乾燥に弱いためらしい。主食は昆虫食だが、雑食のため、蛆の湧いている腐肉でも問題なく食してしまう。そのため、他の種族が食べられなくなった腐肉を交換するなどしているうちに、森の商人として活躍するようになったそうだ。

 

 顔が爬虫類ゆえに表情が読めず、何を考えているかわからないが、性格は穏やかで協調性が高く、どの種族とも上手くやっている。ガルガンチュアなど、他の獣人は会話が苦手であるが、蜥蜴人は非常に流暢に言葉を操る。

 

 理知的で話をしていて楽しい相手だが、話の最中にやたらペロペロと舌を出すので、おかしな癖だなと思って尋ねてみたら、爬虫類だから目の前を昆虫が通ると、本能的に捕食してしまうらしい。条件反射で自分でも止められないから、気にしないで欲しいと言われた時は、思わず笑ってしまった。

 

 戦闘能力も高く、その鱗は剣を弾き、ある程度なら魔法も防ぐそうだが、性格的に戦闘向きではないらしい。昔は大森林の住人であったが、今では殆どの部族が勇者領で暮らしており、新大陸にもかなりの数が渡っているそうである。

 

 そんな見た目と違って都会的な蜥蜴人のゲッコーが、一体ギルドにどんな依頼をしに来たのかと言えば、

 

「うーむ……やはり、実際に南に行って、何が起きているのかを確かめねばならんかのう……」

「おや、大君も南に行かれるおつもりで?」

 

 蜥蜴人は怪訝そうに首を傾げた。無表情だからわかりにくいが、その口調には何か含むところがあるようだ。『大君も』とはどういう意味だろうか。

 

「実は、今回みなさんに依頼をしようとしていたのは、その南へ行って欲しいからなのです。先日の戦争以来、帝国では物流が滞ってしまって、色々と調達しづらい商品が発生しておりました。私はそれら不足品を集めて、オルフェウス領へ運ぶ仕事をしているのですが、その中にまだまだ足りない商品があるのです。胡椒です」

「胡椒?」

「はい」

 

 胡椒はかつて大森林を冒険した勇者が持ち帰った、今となっては人間社会になくてはならない香辛料である。そんなに貴重なら畑で育てられれば良いのだが、胡椒は気候などの栽培条件が厳しくて、供給は今も大森林の部族頼みとなっていた。

 

 ところが、最近その供給元となっている部族と連絡が取れなくなってしまい、北部の商人連中はてんやわんやになっているらしい。胡椒の備蓄はまだあるが、もしもこのまま手に入らなくなったら、食卓の会話まで失われかねない。

 

 しかし、冒険者ギルドに依頼しても、大森林の更に奥地までいって、消息不明の部族を探すなんてものは、高難度過ぎて誰も引き受けてくれない。そこで依頼料を引き上げた上で、なんとか引き受けてくれる冒険者を、こうして大森林の支部にまで探しに来たのだそうである。

 

「私は大森林のクエストで実績のあるガルガンチュアに頼もうと思っていたのですが、そんな時にみなさんの噂をお聞きして、追いかけてきたのです。そこにガルガンチュアや大君まで居たのは幸運でした。依頼を受けていただけたらありがたいのですが、どうでしょうか。報酬はもちろんはずませていただきますよ」

 

 魔族がいるかも知れない大森林の南部を旅するのは、普通に考えれば危険な行為でしかない。しかし、ここ数ヶ月で森での生活にも大分慣れてきたし、そろそろ飽きも来ていたところだった。何より自分たちを信頼してこうして依頼を持ってきた相手を無碍に断るのも気がひけるだろう。

 

 鳳は依頼を引き受けることにした。とはいえ、彼一人だけでこの難事業を乗り越えることはもちろん不可能である。

 

「俺は受けてもいいと思うけど、ジャンヌはどうする?」

「もちろん行くわ。困った時はお互い様だもの。それに、胡椒が切れちゃったら大変よ。お肉だけじゃなく、サラダのドレッシングも作れなくなっちゃうわ」

「じゃあ、決まりだな」

「引き受けていただけますか。ありがとうございます。これで肩の荷が下りました」

 

 ゲッコーは、鳳とジャンヌに向かって、ホッとした感じで頭を下げる。鳳はまだ成功したわけでもないからと断りつつ、

 

「メアリーはどうする? 結構な長旅になると思うから、家で待ってるか?」

「私も行くわよ。村の生活も魅力的だけど、あなた達と旅する方がずっと楽しいわ」

「何? メアリーも行くのか……では今回は儂も同行することにしようかのう。実際問題、南部の様子はこの目で確かめてみたいところじゃった」

 

 メアリーが行くと宣言し、レオナルドがそれに追随する。いつものように端っこの方で腕組みをしているギヨームに目をやったら、何を決まりきったことをといった感じで肩を竦めてみせた。

 

 これで遠征メンバーは決まった。ガルガンチュアはどうするか聞いてみなければわからないが、無理に村を開けてまで参加してもらわなくても、今回は大丈夫だろう。その旨を伝え、正式な依頼を交わすつもりで玄関脇の応接室へと移動する。

 

 ミーティアが書類を作成し、依頼人の名前を書いた横のスペースに、今回はパーティーで行動するからパーティー名を決めてくれと言われたので、迷わず『荒ぶるペンギンの団』とサインして拇印を押した。この名前を使うのは前世以来であるが、これ以外の名前は思いつかなかった。

 

 そんな感じで鳳たちが書面で契約を交わしていると、ルーシーがお茶を持ってきてくれた。ゲッコーは尖った指先で器用に湯呑を持ち、一口飲んで美味しいですと声をかけていた。こういう人間社会らしいやりとりは久しぶりだなと思いつつ、鳳も一口飲んで会釈を返す。

 

 ルーシーは二人に笑顔を返すと、お盆を胸に押し付けるようにして持ちながら、入口付近で立っていた。多分、何かあったら対応できるように控えているのだろう。元々酒場のウエイトレスだったわけだが、こっちでは仕事がないから、代わりにギルドの雑用をさせられているのだろうか。鳳はその辺のことを聞いてみた。

 

「そういやルーシーってこっち来て何やってんの?」

「えーっと……元々ギルドの職員ってわけじゃないから、やれることは少ないんだ。日常の細々したことや、お爺ちゃんのお世話係しているけど、お料理もお洗濯もお掃除も、ミーさんの方が上手だから」

「こんなジャングルの奥地に、一緒に居てくれるだけでありがたいですよ」

 

 すかさずミーティアがフォローを入れるが、肩身の狭い思いをしているのはほぼ間違いないようだ。それもこれも、鳳がギルド酒場を燃やしてしまったのが原因だと考えると、流石に罪悪感が湧いてきた。彼はふと思い立って、

 

「ふーん……暇してんなら、今度の遠征、一緒に行く?」

「え? いいの?」

 

 本当に何となくだったが、ルーシーは意外と乗り気らしい。目をキラキラ輝かして、耳をそばだててる姿を見てると、どうしても連れて行きたくなった。

 

「ああ、人手はあればあるだけ助かるからな。荷物持ちの他にも、焚き火の交代番や、料理や、山菜摘みや、やることはいくらでもある。来てくれるなら大助かりだよ。ギルドの職員じゃないなら別に構わないよね、ミーティアさん?」

 

 鳳に話を向けられると、ミーティアはこっくりと頷いて、

 

「良い気分転換になるでしょう。大君もご一緒なら、お世話する人も必要でしょうし」

「おいおい、ちょっと待て、何勝手に決めてるんだよ」

 

 それまで鳳たちの会話を黙って聞いていたギヨームが、ルーシーの同行が決まりそうになった瞬間、慌てて口を挟んできた。

 

「足手まといを、ここよりやばい土地に連れていけるわけねえだろ。常識で考えろよ」

「メアリーも戦力になったんだし、一人くらい平気だろう? 足手まといつったら、俺だって相当なお荷物だぜ。だけどなんとかなってるじゃねえか」

「だから、お前は言うほど筋は悪くねえんだよ。よく分からん能力も使えるし、銃も使える。対してルーシーに何が出来る? てめえの身すらてめえで守れねえやつを、連れてくのはリスクにしかならねえよ」

「やっぱ駄目かあ……」

 

 ルーシーががっくりと肩を落とす。落胆するその姿は可愛そうではあったが、ギヨームの言うことも尤もなので、鳳はまあ仕方ないかと諦めようと思ったのだが、それを見ていたミーティアが、まるでギヨームを挑発するかのように、

 

「それならあなたが守ってあげればいいじゃないですか」

「はあ!? なんで俺が……」

「女ひとり守れないで、リスクがどうとか語っても格好悪いだけですよ。こんなに落胆させちゃって、俺が守ってやるくらいの気概を見せたらどうですか。ああ、そうだ、そんなに責任を取りたくないなら、放っておけばいいんじゃないですか。鳳さんは良いって言ってるんだし、彼が守ってくれますよ」

「え? 俺?」

 

 いきなり話を振られても、そんなの鳳じゃ無理な話なのだが……ルーシーの期待に満ちた目と、ミーティアの分かってるだろうなと言わんばかりの視線に晒されていると、何も言えなくなった。

 

 まあ、鳳が無理でもジャンヌがなんとかしてくれるだろう。ギヨームだって、こんなこと言っておきながら、いざとなったら助けてくれるに違いない。鳳は圧に負けて、

 

「あー……えーっと……ギヨーム、どうだろう? 出来るだけ、彼女から目を離さないようにするからさ」

 

 ギヨームはなにか言いたげに口をパクパクしていたが、やがて何を言っても無駄だろうと悟ったのか。頭をフリフリお手上げのポーズをして、

 

「勝手にしろ。俺は知らねえからな」

 

 と言って、ぷいっと居なくなってしまった。

 

「あ! ギヨーム君、待って」

 

 ルーシーが慌てて追いかけていったが、多分、もうついて来るなとは言わないだろう。実際、人手が多いにこしたことないのは本当なのだ。ギヨームは、どこかフェミニストっぽいところがあるから、純粋に彼女のことを心配しているのだ。なら、なんとかなるんじゃなかろうか。

 

 ミーティアは返事も待たず、パーティーメンバーの中にルーシーの名前も書き入れて、さっさと判を押してしまった。

 

 こうして南部への遠征メンバーが決まった。赤道を越えた南半球で何が起きているのだろうか……鳳たちの新たな旅が、また始まろうとしていた。

 



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南へ

 大森林の行商人、蜥蜴人(リザードマン)のゲッコーから依頼されたのは、胡椒を供給していた村の捜索だった。

 

 バルティカ大陸には、西側の海に流れ出る大きな河川が二つあるのだが、ガルガンチュアたちの住む集落は北の流域にあり、問題の村は南の流域にあるらしい。普段、商人たちは一週間おきに、その川の河口にバザールを張って、獣人たちと取引をしている。その際、胡椒の受け渡しもしているそうだが、ここ数ヶ月音信不通で、いつまでたっても現れなかったそうである。

 

 川を遡上して確かめたくても、大森林の奥地は危険で誰も行きたがらないため、鳳たちにお鉢が回ってきた格好だ。何があったかわからないが、大森林ではこのところ、魔族の侵入が相次いで確認されているから、最悪の事態も想定しなければならない。

 

 と、まあ……そんな難しいクエストに、ド素人のルーシーを誘ったもんだから、ギヨームが機嫌を損ねてしまったのだが……この選択は、後々決して無駄では無かったと思い直すことになる。

 

----------------------------

鳳白

STR 10↑       DEX 11↑

AGI 10↑       VIT 10↑

INT 10↑       CHA 10↑

 

BONUS 1

 

LEVEL 5     EXP/NEXT 430/500

HP/MP 100↑/50↑  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 100

鳳白           ↑LVUP

ジャンヌ

メアリー         ↑LVUP

ギヨーム         ↑LVUP

ルーシー         ↑LVUP

----------------------------

 

 南部遠征が決まり、その準備に追われている時、鳳はギルド長に呼ばれて、魚人駆除の報酬を貰った。報酬の殆どは隣村のお酒で、金銭的には微々たるものだったが、初めてパーティーで受けた正式な依頼だったから、中々感慨深いものがあった。

 

 鳳はギルド長から報酬を受け取ると、元々どうして依頼を受けたのかを思い出し、自分のステータスを確認してみた。すると狙い通り、今回のクエスト達成の報酬として、共有経験値が入っているようだった。

 

 どうやらパーティーで何か一つのことを達成すれば、共有経験値が入るという仮説は当たっていたらしい。

 

 残念ながら、自分のレベルはまだ上がっていなかったが、早速、この共有経験値を誰かに割り振ろうと考えていると、彼はパーティーメンバーの中にルーシーの名前を見つけた。

 

「なに? ルーシーの名前が?」

「ああ、おまえかメアリーのどっちかに経験値振っとこうと思って開いたら、ルーシーを見つけて驚いたんだ」

 

 鳳がギヨームにこのことを伝えると、彼は難しい顔をしながら、

 

「あいっかわらず、お前のその能力は唐突だな……どういう人間がパーティーメンバーとして選ばれるんだ? 一緒に行動していたレオやガルガンチュアは入ってないんだろ」

「二人共、ギルドや部族のリーダーだから、俺のパーティーには入れないとか、そんな感じじゃないか。案外、二人がそんなしがらみを捨ててフリーになったら、ここに名前が浮かび上がってくるのかも」

「それは試してみるわけにもいかねえな……それよりルーシーだ。名前があるってことは、あいつもレベルを上げることが出来るってことだよな?」

「うん。どうする? レベルを上げたら、もしかすると自分で自分の身を守れるくらいにはなるかもよ」

 

 鳳がそう提案すると、ギヨームは少々長考した挙げ句に、何かを吹っ切るように首を振って、

 

「いや、今はそんな賭けに出ている場合じゃないだろう。ミーティアの言う通り、あいつのことは俺やお前が守ればいいのさ。それよりも、確実に強くなるやつに経験値を割り振った方が良い」

「そうか。じゃあ、お前に入れとくか?」

「いいや、ここはメアリーだろう」

 

 二回連続になるから不公平かなと思っていたのだが、ギヨームはメアリーを推してきた。

 

「神人はなんだかんだ強力な種族だ。レベルを上げて損することは絶対ない。それにあいつは今、Mageレベル3で、もう一つ上がったら攻撃呪文を覚えるはずだろう? 俺はその可能性に賭けたいね」

「なるほど。それもそうだな」

 

 ファイアーボールには一度殺されかけた経験があるから、その威力のほどはよく知っている。

 

「それじゃあ、メアリーに経験値を振るぜ?」

「ああ、やっちまえ」

 

 鳳が頷いて、ステータス画面の名前をポチッと押すと、遠くの方でメアリーの悲鳴が上がった。

 

*********************************

 

「もう! レベルを上げるなら上げるって、先に言ってよね! あれ、すっごいびっくりするんだからね!」

 

 ガルガンチュアの集落を出発してから小一時間、結構な距離を歩いたというのに、メアリーはまだお冠だった。神人はレベルアップする時、頭の中でファンファーレが鳴っている……そんなトリビアをすっかり忘れていた鳳は、うっかり彼女に何も告げずに共有経験値を割り振ってしまったから、突然のファンファーレに驚いたメアリーがみんなの前で大恥をかいてしまったのだ。

 

 たまたまその姿を目撃した村人たちは、神様と思っていたメアリーの滑稽な姿を見て、彼女も愛嬌があるんだなと笑っていたようだが、要らぬ恥をかかされたメアリーがそれで許してくれるはずもなく、鳳とギヨームの二人は馬に乗せてもらえずに、地べたを歩かされるはめになった。

 

「なんで俺まで……」

 

 と、ギヨームはぶつくさ言っていたが、経験値をメアリーに入れようと言い出したのは彼なのだから連帯責任である。因みにメアリーのレベルは、今回の投入で23まで上がり、首尾よく攻撃呪文も覚えてくれた。

 

 Mageレベル4で覚える二つの呪文、まず1つ目、ファイアーボールは鳳が一度殺されかけた火炎魔法だ。攻撃者から放たれる火球が対象に衝突すると炸裂し、炎を吹き上げて燃やし尽くす。以前、一体何が燃えているのか? と疑問に思っていたのだが、どうやら攻撃対象の体内にある脂質がその火種らしく、体の中から破壊されるため、直撃するとまず助からない。逆に範囲魔法のつもりで地面を対象にしても殆ど威力がなく、もしかしたら火傷するかもといった程度である。

 

 対して2つ目、ブリザードは猛烈な吹雪を発生させて、対象を吹き飛ばす範囲魔法だ。その威力は凄まじく、2階建ての家くらいなら吹き飛ばしてしまうほどで、その冷気に至っては数秒触れているだけでも、体内の血を凍らせ凍傷を起こすほどだが、残念ながらそれで対象がすぐ死ぬわけではない。複数の敵に囲まれた時に、相手を近づけさせないために使う魔法といった感じである。

 

 尤も、数秒で凍傷を起こすなら、一分もあれば凍死するわけで、例えばスタンクラウドなりのクラウド系魔法と合わせると、非常に悪質な攻撃が可能だと推察できる。次にオアンネス族のコロニーを襲撃する時にでも試したいところだ。そんなことを言っていたら、ギヨームに、「おまえって、本当にエグいこと平気で思いつくな」と褒められた。

 

 そのチャンスは意外とすぐにやってきた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 南部への遠征にあたっては、二つのルートが計画された。

 

 一つは、商人たちがいつも物々交換のときの待ち合わせに使っているという河口から、川を遡上するルート。これは一度、大陸西部の海に出るということだから、非常に遠回りに思えるが、水路を使えるぶん、実は徒歩よりよっぽど早く目的地にたどり着くことが可能と思われた。しかし、昨今のオアンネス族の侵入を考えると、この水路を通るというのがネックで断念せざるを得なかった。

 

 もう一つは、出来るだけ川を通らずにまっすぐ徒歩で南下するルート。言うまでもなく、道なき道を進むこのルートは難航が予想されるが、しかし、大森林にはあちこちには種族間ごとの部族社会(トライブ)が形成されており、それら獣人の集落を辿っていけば、少なくとも補給の心配はなくなる。今回は、商人ギルドの正式な依頼なため、経費の心配もしなくていいから、時間さえ気にしなければ、こちらを通ったほうが安全だと考えられた。

 

 問題の集落はガルガンチュアの村からは、真南に進んでおよそ500キロ程度の距離にあるらしい。東京大阪間くらいの距離であるが、森の中を通るから、馬に乗っていても片道2週間くらいの行程が予想される。しかし、安全に関しては背に腹は代えられないので、鳳たちはこちらのルートを選ぶことにした。

 

 ところが安全のために選んだはずのルートでも、彼らは魔族に悩まされることになった。補給のために立ち寄った集落のどれもこれもが、近場にオアンネス族のコロニーを作られてしまって困っていたのだ。

 

 自分たちだけで対処が出来るガルガンチュアのような強い部族ならともかく、殆どの部族社会は魔族に対して劣勢に立たされている。もしそうでないなら、人類はもっと大陸の南まで進出しているはずだし、今回のような依頼が来るわけがないのだ。

 

 そんなわけで、鳳たちが村に立ち寄る度に、彼らは魔族駆除のための助っ人を頼まれた。

 

 補給をお願いする手前、そしてもちろん、困ってる人たちを無視することも出来ないために、鳳たちは助っ人を買って出た。そうして、否応なしにオアンネス族と戦っているうちに気づいたのは、南に行けば行くほど、その数が増えていくということだった。

 

 出発してから二週間はとっくに過ぎ、あと一日で南の大河の流域へと入るという頃には、一日に二度のコロニー潰しを依頼されるにまでなっていた。魔族の数は増える一方であり、彼らの故郷ネウロイが前人未到の地であるという理由がよくわかった。とにかく数が凄いのだ。

 

 そしてこれだけの戦闘をこなしていると、当然問題も出てくる。メアリーのMPが尽きてしまったのだ。

 

 オアンネス族のコロニーを襲撃するうちに、だんだん戦闘がルーチン化してきたのだが、その際の主力は言うまでもなくメアリーだった。手順は以下の通りである。

 

 まず、奇襲をするために夕暮れを待っていたら時間がいくらあっても足りないから、レオナルドの現代魔法で認識阻害をしながら近づき、メアリーがスタンクラウドをお見舞いする。打ち漏らした連中をジャンヌとギヨーム、それから村人たちが飛び出して追撃し、その間にメアリーは無力化した魚人たちをブリザードで凍らせる。

 

 以上。非常にシンプルだが、コロニーさえ発見できればこの方法で殆どが駆除できた。昼間だから、獲物を狩りに出掛けている魚人もいるだろうが、そこまでは面倒見きれないから、あとは山狩りでもしてくれと言って、鳳たちは次の集落へと向かっていた。だが大抵、次の集落でも同じことをやらされるわけである。

 

 こうして連続戦闘が続くと、メアリーのMPを回復する暇がない。大体、一回の戦闘でどのくらいのMPを消費するのかと言うと、魔法を二回使って30程度の消費があるらしい。ところが、彼女が一日に自然回復するMPは10程度なのだ。

 

 メアリーの最大MPはレベル23の時点で360ほどだった。戦闘を続けているうちに経験値が入ったお陰でレベルが上がり、現在レベル24なのだが、それでも365しかない。

 

 HPは2000を優に越えてるのに、どうしてMPはこんなに少ないんだと歯がゆくなるが、元々、MPの最大値は999なのだ。これは前の世界のゲームの仕様がそうだったし、こっちに来てからもカズヤのMPがそれを証明していた。従って、決して彼女のMPが少ないわけじゃないのだ。

 

 問題は消費量……これを減らせないのであれば、あとは回復力を上げるしかない。もしここにMPポーションの高純度結晶があれば、全くなんの心配も要らなかったのだが、ヘルメスから逃げてくる時に全部置いてきてしまった。自分で楽しむ分だけでも持ってくればよかったのにと後悔したが、後の祭りである。

 

 そんなわけで、あと1日で調査対象の村(もしあればの話であるが)までいけると言う距離まで来たというのに、一行はメアリーのMP回復待ちで足止めを食っていた。ここから先も、当然オアンネスとの戦闘が予想されるので、必要な停滞である。

 

 戦闘続きで疲弊気味のメアリーやジャンヌの気晴らしにもなるだろう。後は少しでもMPの足しになるような、アルカロイドを含んだ薬草が見つかればいいのであるが……

 

 鳳はこの休憩中に、獣人たちの情報と自分のスキルを使って、何かないかと周辺を探索して回っていた。

 




今回からパーティーメンバーリストは日本語にします


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鳳くんは凄いね……

 鳳は最後の補給で立ち寄った村の獣人から、近場にケシのような植物が生えているという情報を聞きつけ、キャンプを離れて探しに来ていた。しかし残念なことに、それは彼らが欲する目的のものでは無かった。彼らは森の切れ間の雑草の生い茂る広場をかき分け、問題の植物を探し当てたのだが、

 

「どうだ、鳳? 使えそうか?」

「いや、残念だけど……ケシはケシでも、これはオニゲシだ。薬効成分がない」

 

 鳳が首を振ると、ギヨームはその場にしゃがみこんでため息をついた。

 

「そうか~……ここまできて、まさかあの薬が必要になるとはなあ。最初、おまえに相談された時、ふざけんじゃねえよって馬鹿にしてたけど、今にして思えば俺のほうがよっぽど馬鹿だったぜ」

「いや、あれはぶっちゃけシャブだから、おまえの反応のほうが正しいんだ。ただ、ここは異世界なんだってことを、俺もおまえも、時折思い出さなきゃなんねえな」

「そうだな。肝に銘じておくよ」

 

 ギヨームはそう言うと、馬に乗って去っていった。多分、周辺に驚異がないか偵察に行ったのだろう。鳳は、せっかくここまで来たのだから、少しでも役立ちそうな薬草を摘んで帰ろうと、地面を見ながらウロウロしていた。すると、すぐ側でガサガサと音が鳴って、

 

「鳳くん。これ、いつも鳳くんが摘んでるのかな?」

 

 雑草をかき分けてルーシーがひょっこりと顔を覗かせた。鳳は彼女が手にした草を見ながら、

 

「お、ナイス! それにはMP回復効果があるんだ。どこにあった?」

「あっちの方にいっぱい生えてたよ」

「そうかそうか、他にもありそうだから、そっちの収穫は任せたよ」

「わかった!」

「ああ、あと、こっちのこの草と……この、花がまだ咲いてない蕾の部分も探してくれないかな」

「これと、これだね……? わかったよ」

 

 ルーシーは返事すると元気に走っていった。

 

 この南部遠征の間、彼女は足手まといにならないようにと、必要以上に気張っているようだった。最初はちょっとした小旅行と思っていたものが、思った以上に過酷な戦闘続きで、非戦闘員である彼女は肩身が狭く感じているのだろう。

 

 そのため、寝ずの番に荷物持ち、薬草摘みなど、自分の出来ることを一生懸命頑張っているようだった。鳳も似たようなものなんだから気にするなと言っているのだが、それじゃ彼女の気が収まらないらしい。

 

 そんな具合に森の広場で小一時間ほど薬草を摘んでいると、ギヨームがそろそろ日が暮れてしまうと言いだし、撤収することになった。鳳が摘んできた草を選り分けて袋に詰めていると、ルーシーが戻ってきて収穫物を差し出した。それを受け取り、袋に詰めようとした時……彼はルーシーの指先に泥がへばりつき、ところどころ赤ぎれて血が滲んでいることに気がついた。

 

 見れば、彼女の手足のあちこちは切り傷だらけで、足首の辺りは真っ赤な血で染まっている。見るからに痛そうだ。

 

「わっ! ちょっと、それどうしたの!?」

「えへへ、夢中になっちゃって……」

 

 彼女はそう言うが、こんなになってて痛くないわけがない。きっと我慢して草取りを続けていたのだろう。

 

 鳳はため息を吐くとギヨームを呼んで、背嚢から水筒と薬箱を取り出し、泥で汚れているルーシーの傷口を洗った。そして予め摘んでおいた薬草を細かく刻み、水でふやかして傷口に塗り込むと、布切れをガーゼのようにあてて包帯で固定した。

 

 その手並みを見てルーシーは感嘆の息を吐く。

 

「はぁ~……そういうのってどこで覚えてくるの?」

 

 そういうのとは薬草の知識のことだろうか。半分はMPを上げた際に覚えたスキルのお陰だが、

 

「この程度のことはすぐに誰でも覚えるよ。こんな生活していると、傷は絶えないし、ジャンヌも近接職だから、よく怪我してくるしね。ルーシーも、ここ数日で色々覚えたでしょう」

「う、うん……全部鳳くんの受け売りだけど……あたたっ」

 

 傷が染みるのか、ルーシーは声を上げて腕を引っ込めた。彼女の痛みが引くのを待っていると、彼女はおっかなびっくり、また腕を差し出しながら、

 

「鳳くんは凄いね……最初、レベル2だって聞いた時は、この人大丈夫かなって思ったのに……気がつけばみんな鳳くんについてきている。何をするにいつも君が中心にいて、みんな信頼してるのが分かるんだ」

 

 そんな風に言われるとこそばゆいが……鳳は努めて平静を装って、ルーシーの傷の手当をしながら言った。

 

「別にそんなことないと思うけど。俺は自分が出来ることをやってるだけだ。ルーシーと何も変わらないよ」

「そうかな……」

 

 珍しく弱気だな……鳳はそう思って、ちらりとルーシーの顔を覗き込んだ。すると彼女は自分の傷をじっと見つめながら、やけに憔悴した顔をしていた。それを見て、鳳は内心舌打ちした。戦闘員であるメアリーやジャンヌを休ませているくせに、ルーシーのことはすっかり忘れていた。一番疲れているのは彼女だ。こういうことに慣れてないんだから、あたり前のことじゃないか。

 

 鳳は何か気の利いたことでも言って元気づけなければならないと思ったが、すぐには何も思い浮かばなかった。沈黙が場を支配して、だんだん空気が重くなってくる。彼はそんな彼女の傷を手当しながら、ふと思い出していた。

 

 そう言えば、ギルド酒場のマスターにお願いされたことがあった。帝国軍にあの街が落とされそうになった時、田舎に帰るというマスターは、ルーシーを鳳とジャンヌに預けられないかと言っていた。出会ったばかりの人間に何を言ってるんだと思ったが、彼女は孤児で、あそこがなくなったら行き場が無かったのだ。

 

 ルーシーが今ここにいるのは、鳳がギルドを燃やしてしまったからだ。彼女は冗談めかして娼婦にでもなるから平気と言っていたが、そうならなかったのは、きっとミーティア辺りが可哀想に思って連れてきたのだろう。そんな大事なことを忘れて、自分は今まで何をやっていたんだ?

 

 鳳は、ここで掛ける言葉は気休めなんかじゃないと思った。

 

「訂正するよ。別に俺は率先して、出来ることをしてるわけじゃないんだ。寧ろ、出来ないことだらけだから、嫌々やってるに過ぎない。みんなが俺についてきてるように見えるのは、単に、俺が何も出来ないから、みんながフォローしてくれてるだけなんだよ」

 

 うつむいていたルーシーの顔が上がった。その表情が、そんなことは無いと言っているようだった。鳳はその言葉を制するように矢継ぎ早に続けた。

 

「そりゃ君からしたら、確かに俺は出来ることが沢山あるように思えるかも知れない。だけど、それは始めからそうだったわけじゃないんだ。自分がこれまで生きてこれたのは、単に仲間が優秀だったからだ。

 

 ジャンヌが居なければ俺はとっくに死んでいたし、そのジャンヌだってギヨームが居なければ、俺と二人で野垂れ死にしてただろう。レオの爺さんが色々道を指し示してくれたのは、メアリーを救うという縁があったからだ。そのメアリーが、いま俺たちのパーティーで重要な役目を負っている。

 

 そうやって、出来ないことをみんなでフォローしあっていたら、いつの間にかパーティーになっていたんだよ。俺が中心にいるように見えるのは、やっぱり俺が一番足手まといだからさ。俺は仲間に恵まれただけ、単に幸運だっただけなんだよ」

 

 ルーシーはその言葉に何か言おうとして口を開きかけたが、そのまま暫く逡巡した後、結局何も言わずに口を閉じた。本当は色々と言いたいのだが、うまく言葉が出てこないのだろう。だからだろうか、彼女は代わりに鳳の手を握ると、何故かその手のひらを指圧しながら、少し寂しげな表情でこういった。

 

「私にも、そういう仲間がいたら良かったのにな……」

「いるじゃないか」

 

 鳳は即答した。

 

「俺もジャンヌも、ギヨームも、メアリーも、爺さんも。みんな仲間だ。俺はともかくとして、あいつらは凄いよ。凄い仲間に囲まれてるんだから、安心して自分のやりたいことをやりゃいいよ。

 

 ぶっちゃけ俺だって、好き勝手やってただけなんだぜ? MPポーションキメたら気持ちよかったから、ジャンヌに日銭せびって遊んでたら、いつの間にかこんなことになってたんだ。君は凄いって言うけれど、実際こんなもんなんだ。今だって、大森林でバッタバッタと魔族を倒しているけれど、考えみりゃこれもただの都落ちじゃんか。

 

 だから君もそんな卑屈にならないで、自分のやりたいことをやってりゃいいよ。どうせ自分に出来ることなんて、限られてるんだから。結果はあとから付いてくる。そう思ってれば、何も難しくないでしょう」

 

 ルーシーは照れくさそうに鳳の手をニギニギと握っていた。そう言えば、出会った頃も似たようなことをしていたのを思い出す。あの時は、もしかして自分のことが好きなんじゃないかと思ってドキドキしたものだが……

 

 しかし……鳳はふと思った。そう言えば、どうしてマスターはルーシーを自分に託したんだろうか。はっきり言って、あの頃の鳳はそれほどギルドに貢献していたわけじゃない。なのに自分に託したのは、もしかして、ルーシーが鳳のことを好きだということを知っていたのでは?

 

 もしかするとルーシーは、事あるごとにマスターに、あの人格好いいわとか、素敵だわとか言ってたのかも知れないじゃないか。マスターはいつもそう聞かされていたから、あの時、鳳に彼女を託そうと思ったのだ。きっとそうに違いない。(決してジャンヌが最優秀な冒険者だからではなく)

 

 そう思うと目の前の女の子がとんでもなく魅力的に見えてきた。え? 嘘? こんな可愛い子が、俺のこと好きなの? 鳳は下半身が妙にむずむずしてきた。これはもう確かめるっきゃない。

 

 彼は未だに彼の手のひらをニギニギと指圧しているルーシーに向かって尋ねてみた。

 

「も、もしかして……ルーシーって、俺のこと……好きなの?」

「……え?」

 

 するとルーシーは、一瞬きょとんとした顔をしてから、その視線を鳳の手のひらと顔とに交互に往復させ、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていったと思ったら、パッとその手を放した勢いで、思いっきり腕を振りかぶると、

 

「ちっ、ちっ、違うってっ!」

 

 バッチーーーンッッッ!!! ……っと、鳳の背中に思いっきりモミジを押し付けた。

 

「いったっ! いたぁあぁっ!! いっったああぁぁぁーーーっ!!!!」

 

 背中がジンジンとして鳳が飛び上がる。

 

「もう! せっかくちょっと感動してたのに。鳳くんって、そう言うところが駄目だと思うなっ!」

 

 ルーシーはそう言い捨てると、ぷんすかしながらどっか行ってしまった。

 

「……アホなことやってないでさっさと帰ろうぜ」

 

 ギヨームがその背中を見失わないように、さっさと馬に乗って追いかけていった。

 

「つーか、見てたんならおまえもフォロー入れんかいっ!!」

 

 鳳は背中に手を伸ばしてのけぞりながら、涙目でギヨームに抗議したが、彼はいつものニヤニヤ笑いをしたまま、何も言わずに去っていった。鳳は、ちっと舌打ちをしたものの、まあ、良い落ちがついたと思って、諦めてその後に続くのだった。

 



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胡椒の木

 翌日。どうにかこうにか1戦闘分のMPまで回復した一行は、いよいよ南部の河川流域に入った。補給のために立ち寄った最後の村で聞いた限りでは、ここから先は集落もまばらで、一つ所にとどまらず遊牧的に移動し続ける部族しかいないそうである。

 

 理由は、大河を境にして南北で、獣人と魔族の棲息圏が重なるからで、常にこの流域では魔族との遭遇を想定して行動しなければならない。村なんか作っても、いつ襲撃されるかわからないから、この辺の部族は集落を作らず、あちこちに移動しながら暮らしているそうである。

 

 それじゃ問題の部族は絶対見つからないじゃないか……と焦ったのだが、胡椒を供給している部族はこの辺では有名で、大体どの部族もよく知っているそうだった。部族は商人たちと交易しているから羽振りがいい。羽振りがいいから他の部族との交流も盛んである。そんな感じでこの辺の経済はその問題の部族を中心に回っているため、みんな知っているわけである。

 

 そんなわけで、最後の補給で訪れた村人たちも、問題の部族のことは知っており、商人たちが困っているから探しに来たと告げると、大体の場所は知っているから行ってみると良いと送り出してくれた。

 

 あとはその部族が魔族に襲撃されて全滅してたりしなければいいのだが、もう何ヶ月も前から勇者領の商人たちが探しても見つからなかったくらいだから、期待は薄いのではないかと覚悟していたのであるが……意外なことにその部族はあっさり見つかった。

 

「人間さん。遠いとこからよく来たね。ゆっくりしてくといいよ」

 

 問題の部族は兎人の集団で、白や斑や茶色や黒の大きな耳をぴょこぴょこさせた小柄な兎人が、小さな竪穴式住居を作って暮らしていた。深く掘った穴の上に、枯れ枝や木の葉の屋根をかぶせた簡単な作りで、遠目からではそこが集落だとは中々気づかない。彼らはこうしてカモフラージュして暮らしているのだ。

 

 それにしても、獣人と魔族の激戦区と聞いていたので、てっきりガルガンチュアみたいな屈強な獣人がゴロゴロと出てくるのだと思ったら、意外にも戦闘能力が低い兎人の部族だったので驚いた。魔族と戦ってもどうせ勝てないから、逃げに特化した集団なのだろう。実際、話をしてみるとそんな感じだった。

 

「こんにちは、冒険者ギルドから来ました。商人たちに頼まれて、あなたがた部族の様子を見に来たんです。勇者領では胡椒の供給が滞っていて、仕入先であるあなたがたと連絡が取れないことで困っているんです。何か事情があって、連絡が取れないでいるんでしょうか?」

 

 すると応対に出てきた兎人はぽかんとした表情をしてから、その辺を歩いてる別の兎人を捕まえて、

 

「胡椒? おーい、人間さんが胡椒ない言ってるよ」「ほんとおー? 誰だっけ? 当番」「あー、ワンさんじゃなかったか。最近見ないね」「それなー」「ワンさん? こないだ死んじゃったよ」「えー? 死んだのー?」「死んだ死んだー」

 

 また別の兎人が通りすがりにそう呟いて去っていった。鳳はその言葉にぎょっとしてお悔やみを申し上げようとしたが、当の兎人たちは軽い調子で、

 

「そっかー。じゃあ仕方ないね。人間さん、そういうことだから」

「……え? あ、はい……えーっと、この度はどうもご愁傷さまで……」

「いいよいいよ。割とよくあることだから。胡椒欲しいなら分けてあげる。ついてきてー」

 

 兎人は鳳たちの返事も待たずに、何故か嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねていってしまった。同じ部族の仲間が死んだと言うのに、どうしてこんなに適当なんだろうと若干引きつつ、鳳たちはその後に従った。

 

 案内をしてくれた兎人の話によれば、どうやら商人たちと取引をする当番が、魔族に殺されてしまったらしい。胡椒の収穫のため村から離れた密生地に行く間に、運が悪いと見つかって殺されてしまうらしいのだ。

 

 その、胡椒が生えている土地は川の南側で、北側よりもずっと魔族が多い。そんな場所まで収穫に行けるのは、ひとえに彼らの耳が良いかららしい。彼らはその大きな耳で、近づいてくる魔族や猛獣の足音を聞き分け、スタコラサッサと逃げてしまう。

 

 それでも、たまに魔族に追いかけられたり、運悪く猛獣に待ち伏せされたりで、事故死する者は後をたたないらしい。何か対策を講じるか、もっと安全な場所で暮せばいいのにと言ったら、殺されてもまた産めば一緒じゃんと、ものすごく適当に言い返された。

 

 不思議な感じがするが、仲間が死んだと言うのに、彼らには悲壮感というものが全くなかった。常に死と隣り合わせだから、達観してしまっているのだろうか。自分たちが食物連鎖の中に入っているということを、彼らは当然のように受け止めていて、抗おうという気がないようだった。

 

 意外なことに、危険地帯であるはずの大河の土手は、逆に動植物の宝庫だった。あっちこっちで小動物が跳ね回り、木の実や山菜が豊富である。

 

 日が照りつける河原は背の高い雑草が生い茂って、隠れる場所が沢山あるうえ、川を挟んだ南北で、獣人と魔族がお互いに牽制しあっているから、逆に川のど真ん中のほうが見つかりにくいのかも知れない。

 

 草むらからうさ耳を出して周囲の音に耳を澄ませ、誰もいないのを確認してから川を渡って南岸へ渡る。渡った先の河原でもまた草むらに隠れて、慎重に辺りの様子を窺ってから、兎人はそろそろと土手を登り、少し行った先で止まった。

 

「これこれ」

 

 大きな木にしがみつくようにツルが伸び、そこから緑色のつぶつぶの実が沢山ぶら下がっていた。収穫後の乾燥した姿しか見たことがなかったが、生胡椒は綺麗な緑色の房をつけた植物だった。

 

 兎人はその房をポッキリと折って、鳳に差し出した。それを受け取った瞬間、ふっと頭の中で、彼の知らない胡椒の情報がよぎって行った。驚いて目をパチクリさせると、よく見れば木から生っている胡椒の実が薄っすらと発光して見える。

 

 どうやら、鳳のスキル“アルカロイド探知”が発動しているらしい。考えても見れば、胡椒の辛味もアルカロイドだ。そして彼が植物を手に取れば、自動的にスキル“博物図鑑(ライブラリー)”が発動する。たった今、胡椒の情報が頭をよぎったのは、多分そのせいだろう。

 

 ともあれ、鳳はたまたまスキルのお陰で、胡椒の木が割と簡単に増やせることを知った。成長するまで時間はかかるが、いつまでもこんな危険な場所に生えてるのを収穫にくるよりも、彼らの住む川の北側に植え直したほうがいいだろう。鳳はそう思い、

 

「兎さん。この胡椒の木だけど、川の向こう側に持ってっちゃいませんか?」

「えー? どういうことー?」

「どうやら挿し木をすれば、簡単に増やせそうなんですよ。胡椒の木をよく見て下さい。ここ……節の部分から付着根ってツルが伸びてて、こっちの大木にしがみついてるでしょう? まだツルが伸びてない節の部分を切り取って地面に植え直せば、そこから根が出て、また新しく胡椒の木が成長するはずなんです」

「うーん……」

 

 兎人は首をひねっている。どうも口だけでは、いまいち伝わらないようである。彼は雑嚢からナイフを取り出すと、さっき言ったように節の部分を切り取り葉っぱを一枚だけ残し、

 

「こんな感じに切り取ったのを、別の場所に植え直すんです」

「これが木になるの?」

「そうです」

「へえ、すっごーい……これってどこから持ってきたの?」

 

 鳳はずっこけそうになりながら、たった今やったことをもう一度やって見せ、

 

「こんな風に、節の部分を残して切り取るんです。良かったらやってみませんか」

「え? うん……どうやるの?」

 

 鳳は兎人にナイフを渡すと、胡椒の木の節の部分を指差し、ここを切るんですとレクチャーした。兎人は暫しぽかんとしていたが、とにかくここを切れば良いんだなといった感じに切り取って、言われたとおりに葉っぱを一枚残して挿し木を作った。

 

 やれば出来るじゃん……と思っていたら、彼は右手にナイフ、左手に挿し木を持って、どうして自分はこんなことしてるんだろう? と言わんばかりの表情で呆然としている。鳳はその姿を見て、もしかしてまだちゃんと伝わってないのかな? と思いつつ、

 

「それじゃ同じことをもう一度やってみましょう。今度はこっちの木を使って」

 

 と言って兎人を促したが、彼は木を見るだけでポカーンとしていた。やはりまだ伝わってなかったのかとがっかりしながら、それでも鳳は根気よくやり方を伝えようと頑張ったのだが……それから何度も何度もやってみたものの、ついに兎人が理解することは無かった。

 

 ものすごく物覚えが悪いのか、それとも単純に興味がないのかよくわからないが、いつまでもこんな危険な場所でグズグズしているわけにもいかず、鳳たちはそれから暫くしてまた川の北側へと戻った。

 

 兎人に教えるために、思いのほか沢山の挿し木を作ってしまった。仕方ないのでこれらを全部、北側の目立つ場所に植え直した。意外にも直射日光に弱いそうだから、出来るだけ木陰になるところ探して穴を掘り木を植えていると、兎人がどうしてそんなことをしているの? といった目つきでこっちを見ていた。

 

 なんでも何もついさっき口を酸っぱくして説明したはずなのに……話を聞いてなかったのか、それとも、本当に忘れてしまったのか……? なんだかその目が、ガラス細工でも見ているような違和感を感じる。なんなんだろう、この妙な噛み合わなさは……

 

 その後、部族の隠れ家に帰る途中、兎人が自慢の耳で大きな獲物を発見した。するとまだ数百メートルはありそうなその距離を物ともせずに、ギヨームが一撃でそれを仕留めてしまった。ピストルでこの距離は曲芸の域に達しているが、射線さえ通っていれば、彼はもはや絶対に外すことは無いらしい。このところメアリーにばかり美味しいところを持っていかれていたが、ベテラン冒険者の面目躍如である。

 

 兎人はでっかい獲物を仕留めたことでたいそう喜んでいた。兎というと草食動物のイメージが強いが、彼らは半分は人間であるため雑食で、肉でも何でも食べるらしい。兎だって食べてしまうそうだ。しかし、やはり半分兎だから、狩りが下手くそで肉は滅多に食べられない。

 

 そんなわけで獲物を隠れ家に持ち帰ったら、部族全員がぴょんぴょん飛び跳ねて大喜びしていた。

 

 獲物を切り分け、全員に配ると、一人ひとりが嬉しそうにお礼を言ってから家に持ち帰っていた。狼人みたいに生肉を食べるのかなと思いきや、意外にも彼らは器用に火をおこして肉を焼いている。熱した石の上に獣脂を塗り、その上に胡椒をまぶした肉を置いて焼き肉にするのだ。その手並みを見ていると、普段から彼らが料理している姿が窺えた。

 

 胡椒は言うまでもなく、大航海時代の貴重な香辛料だ。原産地のインドでしか育たず、また製法が秘匿されていたから、手に入れるにはアラビアの商人を通じるしか無く、欧州にたどり着く頃には付加価値が乗せられて非常に高価になってしまっていた。

 

 ヨーロッパの冬は寒く厳しく、全ての家畜が冬を越すことが出来ないから、彼らは冬が来る前に家畜を潰した。そうして否応なく屠畜された肉は、そのままだと腐ってしまうから、燻製にしたり干し肉にしたりしたわけだが、それでも春を迎える頃には、ほとんどの肉は食べられなくなってしまう。ところが、この腐敗した肉に胡椒をかけて焼けば、嘘みたいに臭みが取れて食べられるようになったから、彼らにとって胡椒は魔法の粉だったわけである。

 

 兎人たちにとってもそれは同じことで、彼らは弱いから肉を手に入れることが滅多にない。自分たちでも狩れる小動物を狩るか、他の部族と物々交換で手に入れるくらいしか機会がないため、せっかく手に入れた肉を長く楽しみたいわけだ。そこで活躍するのが胡椒というわけである。

 

 確か、蜥蜴人のゲッコーの話では、胡椒を発見したのは勇者のはずだった。とすると、300年前、勇者もここに来たのかも知れない。

 

 その時、彼は兎人と出会って胡椒のことを教えてもらったのか。それとも、兎人達に胡椒の使い方を教えてあげたのか……彼の仲間だったレオナルドなら知っているかも知れない。あとで聞いてみようと思いつつ、彼は塩コショウで味付けされた肉を美味しそうに頬張った。

 



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人間と獣人を分けたのは何か?

 胡椒を供給しているという兎人の部族を発見した晩、鳳たちは歓迎の宴を終えた後、彼らの隠れ家から少し離れたところにキャンプを張った。兎人たちの家が狭すぎて泊まれそうもなかったというのも理由だが、宴会後、族長と今後のことについて会話をしている間にも、あっちでチュッチュ、こっちでチュッチュと兎人たちが盛りだしてしまって、とてもじゃないが長居しづらかったのだ。

 

 食欲を満たしたら今度は性欲とは、兎が性欲が強いというのはどうやら本当のことのようである。昼間、胡椒の木のところまで案内してくれた兎人が軽い調子で言っていたが、死んだらまた増やせばいいというのは、もしかするとこの部族では当たり前の感覚なのかも知れない。

 

 考えても見れば、仲間の死を悲しむ動物というのは、哺乳類でも一握りでしかない。他の生物はもっとドライに生きている、例えば猛獣に襲われたら、群れの一部を犠牲にして全体を助けるとか。そういう判断は人間にも出来るが、そこには常に苦渋の選択がつきまとう。兎人はそれを本能的、自動的に行う。違いはそれしかないのである。

 

 人間の豊かな感情は選択の幅を広げるが、間違いを犯す原因にもなる。そんな当たり前のことを再確認したような気分になった。

 

 取り敢えず、勇者領の商人たちと連絡を取り合うように言って、鳳たちは兎人たちと別れた。彼らはまた別の当番を決めて対応すると言っていたが、死んだらまた忘れてしまいそうだから、帰りがけに近隣の部族に相談しておくのもいいだろう。

 

 そのつもりで最後の補給を行った集落を目指し、もう間もなく日が暮れるという時間帯になってからキャンプを張った。兎人の集落からはそれほど離れていないので、一体何をやってるんだと言う感じではあるが、それはそれである。野営のために火をおこし、ギヨームとジャンヌの二人で周囲1キロばかりを巡回してから、その晩は何もない森のど真ん中にテントを張った。

 

 深夜……

 

 このところの移動疲れからか、はたまた、目的を達したことでホッとしたのか、寝床についた瞬間、泥のような眠りに落ちていた鳳は、まだ周囲が静かな時間帯にハッと目を覚ました。

 

 うっかり何も言わずに寝こけてしまったが、キャンプ中は寝ずの番が回ってくるはずだった。彼は慌てて飛び起きると、テントから出ようとして手探りで進んだ。

 

 テントの中が真っ暗なのは、まだ夜が明ける前だからだろう。眠るのが早すぎたから、意外と早く目が覚めたのかも知れない。時計がないから確認のしようがないが、一体どのくらい眠ってしまったのだろうか……もしかしたらみんなに迷惑をかけているかも知れないと思った時、ふと、テントの外から声が聞こえてきた。

 

「……元々、魔族が多かったこの地域にはオアンネスはいなかった。すると彼奴らは他の魔族を避けて北上してきたわけじゃ。考えられる理由は何か? 激戦区を避けていることからして、彼奴らは南部の弱者であるのではなかろうか。人間が新天地を求める場合を考えよ。人間が移動するのは、例えば食料が尽きた時、仕事がなくなったときと考えても良い。それから天変地異で住む場所がなくなった時。それから戦争などで敵から害される危険がある時じゃ。もし、南半球の食料が少なくなっておるなら、北上してくる魔族はオアンネスだけに限らない。同じく、天変地異でも他の種族がまんべんなくやってくるじゃろう。つまり、彼奴らは難民なのじゃ。南半球で何か争いごとが起きて、オアンネスだけが北へと追いやられている……こう考えれば、この激戦区とも呼べる地域に魚人が少ない理由になるのではないか」

 

 聞こえてくる声はレオナルドのようだ。どうやら彼は、今回の遠征の総括を誰かと話しているらしい。魚人共が難民だと言う仮説は、鳳も中々説得力があると思った。元々危険に晒されている難民であるなら、危険な山越えルートを選ぶ理由にもなるし、この南部流域のような紛争地帯を避けて通る理由もわかる。しかし、そうするとやってくるのが妊婦だらけなのは何でなんだろう?

 

 それにしても……気になるのは老人の声は聞こえてくれど、相手の声がまるでしないことだった。一体誰と話をしているんだろう? そう思いながらテントを出ると、レオナルドは一人で焚き火にあたりながら、退屈そうに火かき棒でかき混ぜていた。周囲には彼以外の誰の姿も見当たらない。

 

 どうしたんだろう。まさかボケちまったんだろうか……そんな失礼なことを考えていると、テントから出てきたその不届き者の姿を見つけたレオナルドが声をかけてきた。

 

「おや、鳳よ。起きたか。いや、起こしてしまったかいのう?」

「いや、別にそんなことないと思うけど……すまねえ、つい何も言わずに寝こけちまったけど、火の番は大丈夫だったろうか」

 

 すると老人は傍らにあった砂時計をトントンと叩きながら、

 

「儂の番が過ぎたら起こすつもりじゃった。もう暫く寝ておって構わんぞ」

「いや、それならもう起きてるよ」

 

 鳳は、誰にも迷惑をかけずに済んで良かったとホッとしながら、焚き火にあたりに出ていくと、

 

「……今、誰かと話してなかったか? 俺の気のせいだろうか」

「ふむ。気のせいではないぞ。儂は確かに話をしておった」

 

 それにしては誰の姿も見当たらない。もしかして独り言をしゃべっていたと言うことだろうか。鳳がそう思っていると、

 

「精霊じゃ」

「……精霊?」

 

 レオナルドは独り言ではなく、精霊と交信していたと言う。

 

「本当かよ……?」

「うむ。見えなければいないのと変わらん。信じないならそれも良いじゃろう」

「いや、そんなつもりはないんだけど……」

 

 とはいえ、実際問題、見えないものを信じろと言われても、見えないんだからどうしようもない。老人のアドバイスは的確だと悟った鳳は肩を竦めて、

 

「……精霊って、あの五精霊ってやつ?」

「左様。儂がいま話しておったのはマイトレーヤ……俗にミトラと呼ばれるものじゃ」

「ふーん……それがいま、ここにいるの?」

 

 老人はそれは違うと頭を振って、

 

「精霊はどこにでもおる。単に人間がそれに気づかないだけじゃ。それに気づけば、お主にも見えるようになるじゃろう。ほれ、お主の後ろにも……」

 

 レオナルドはそう言って、ぼーっとして焦点の合わない視線を鳳の背後に投げかけた。彼が振り返ってそちらを見ても、そこには暗闇が広がっているだけで何も見えない。ただ、そう言われてしまうとその暗闇から何かが出てきそうで……

 

 鳳はブルブルと震えると、老人の言う通り、見えないものは居ないと考えたほうが賢明だと、話題を変えた。

 

「爺さんは、南の方で魔族の戦争みたいなことが起きてるって考えてるのか?」

「……聞いておったのか? まあ、それに近いことを考えておるが……お主は違うと思うか?」

 

 すると鳳は首を振って、

 

「概ね同意だけど……南の方で、オアンネス族だけを追い立てる何かが起きていることは確かだと思う。けど、それが戦争とは限らないと思ってる」

「ほう……では、お主はなんじゃと?」

「それはわからないけど……ただ、逃げてくるのが妊婦だけってのが不可解でね……普通、難民と一口に言っても、老若男女が揃っているものだろう? 戦争してるなら若い男は少ないかも知れないけど、子供は絶対にいるはずだ。それが見当たらない」

「……なるほど」

「だからそうなる理由があるんだと思うけど……魔族って、南半球でどういう生活をしてるんだろうか? そういう生態学みたいなものってあるの?」

「無いのう……魔族を研究しようなどといって、南半球に行くような無謀なものは……この300年間はいなかったじゃろう」

 

 鳳は、老人が一瞬見せた間が気になって、

 

「300年前ならいたのかよ?」

「おった……オルフェウス卿アマデウスじゃ」

 

 オルフェウス卿とは、確かモーツァルトのことか……あの大音楽家(マエストロ)が、まさかそんな大胆な冒険をしてるとは思わず、鳳はびっくりしてしまった。

 

「元々、旅芸人であった彼は未知なる世界への冒険を好んでおった。それで戦後、切り取り自由と言われた勇者がワラキアを調査する際、一緒についていって、南半球の様子を確かめにいったのじゃ。やつは、魔族の故郷ネウロイに興味があったようで、そこで何が起きているのか、どうしても確かめたかったのじゃな」

「それで、どうだったんだ?」

 

 すると老人は目をつぶり、ゆっくりと首を振って。

 

「分からぬ」

「分からない……? どうして?」

「あやつは帰ってこなかったからじゃ」

 

 ネウロイは魔族発祥の地と言われている。現に、鳳たちはこうして南に下るにつれて、魔族が増えていくのを肌で感じていた。

 

「……殺されたのか?」

「そう考えるのが妥当じゃろう。商人たちが言っておったように、勇者はこのあたりまで来て、胡椒を発見してから北へ戻った。ところが、戻ってきた勇者の隣にはもう、オルフェウス卿はいなかった。勇者の目的はあくまでワラキアの調査。ネウロイではない。じゃから、途中で別れたのじゃな。勇者は彼が殺されるとは考えていなかったようで、最後まで、そのうちひょっこり帰ってくるんじゃないかと言っておったが、今となってはそれももう望みはなかろう」

「どうしてそんな、勇者でさえ躊躇するような危険地帯にわざわざ行くような真似をしたんだ?」

「それはもう、個性としか言いようがない。カリギュラという言葉を知っておるか?」

 

 鳳は頷いた。親や教師など目上の者に、やってはいけないと言われることほど、やりたくなるという心境のことだ。暴君と呼ばれた古代ローマ皇帝カリギュラの名前をとって、そう名付けられた。

 

 オルフェウス卿は好奇心旺盛で、特に冒険心に満ちていた。若くして死に、死後に自分がどのように評価されたかも知らず、父親に最後まで小言を言われていた反動があったのかも知れない。一説によると、彼は友達に借りた部屋の壁一面にうんこを塗りたくって返したと言われている。まあ、そのくらい無茶なところがなければ、あの壮大な音楽性にはたどり着けなかったのだろう。

 

 きっと彼は、見に行きたいという好奇心に勝てなかったのだ。

 

「今、人類が分かっている世界は、この南の河川流域までじゃ。ここから先の土地で、魔族たちがどのような世界を作っているかは断片的なことしかわからぬ。お主の言う通り、戦争以外の何かが起きているとしても、想像するしか無いのじゃ」

「ここが人類の最前線ってわけか……」

 

 鳳はふと疑問に思って、

 

「なあ? ぶっちゃけそんな場所に、兎人のような弱い部族が暮らしているのはおかしな話だよな……? もっと北の安全な場所で暮せばいいのに、どうしてあいつらはこんな危険地帯に、わざわざ隠れるようにして暮らしているんだろうか」

「それは逆転の発想じゃな」

 

 鳳の疑問に、老人は間髪入れずにそう言った。

 

「北部と南部では魔族と獣人の生息域の隙間(ニッチ)がある。丁度、この河川流域がそれに当たる。もし、この流域に北部の獣人が住み着こうとすれば、南部の魔族たちがやってきて追い散らし、逆に魔族がこの流域を支配すれば、北部の獣人たちが結集して奴らを撃退するじゃろう。じゃが、兎人のような弱い部族がそこに居たとしても、誰も気にしない。

 

 しかし兎人の視点に立ってみれば、見方はガラリと変わる。彼らはここから南へ行けば魔族に捕食され、北へ向かえば他の部族に獲物を奪われる。丁度その中間点に居たほうが、生きていく上では都合がいいのじゃ」

「なら、人間の生息域に行けばいいじゃないか。勇者領なら獣人を差別することは無いだろう?」

「しかし、奴隷にされる」

 

 レオナルドにピシャリと言われて、鳳はウッと言葉を飲み込んだ。言われてみれば確かに、人間の生息域に住んでいた獣人たちは、みんな粗末な扱いを受けていた。蜥蜴人の商人ゲッコーも、人足として他種族の獣人を連れていた。逆に、狼人の農場主が人間を働かせていたり、猫人の商店が繁盛したりといった光景はお目にかかったことがない。

 

 どうして彼らは粗末な扱いばかり受けるのだろうか? 新規参入を人間が阻んでいるからだろうか? ……そう考えた時、鳳はハッと昼間の光景を思い出した。

 

 昼間、胡椒の木を挿し木で増やそうと提案した時、兎人は何度教えてもその方法を覚えることが出来なかった。こちらとしては、ことさら難しい言葉を使ったり、意地悪した覚えはない。やってることも非常に簡単だったはずだ。なのに、あの兎人は何回言ってもその簡単なことが覚えられなかったので、鳳も段々頭がカッカッとしてきて、こいつは馬鹿なんじゃないのかと内心思っていたのだが……

 

「なるほど……獣人が人間の世界で奴隷をやらされている理由が分かったよ」

 

 鳳は言った。

 

「彼らは根本的に頭が悪いんだ。それは学力が低いとかそういう意味じゃなくって、純粋に、単純に、人間と獣人では脳の作りが違うんだ。だから彼らは、人間が当たり前にやれることが出来ない」

 

 鳳のその言葉を引き継ぐように、レオナルドは大きく頷いてから、

 

「左様。実を言えば、勇者は神聖皇帝にワラキアの大森林を切り取り自由と言われた時、最初は南部の獣人たちを教化しようと考えた。しかし無理じゃった。お主も感じた通り、獣人たちは創造性というものが欠如しておる。

 

 獣人は村を作り、畑をやり、家畜も飼うが、料理を作ったり、家を作ったり、芸術品を作ったり、そういう加工品を作ることが出来ないのじゃ。とてもではないが、そんな連中に人間社会の複雑な経済の仕組みなぞ、理解出来ようはずがない。

 

 じゃから勇者はワラキアから手を引いたのじゃよ。それでも無理矢理にでも大森林を開墾したら、行き場を失った獣人たちがどうなっていたことか……そして獣人社会を失った大森林で、魔族がどんな伸長をしたかは未知数じゃが、ただで済んだとは思えんじゃろう」

 

「それで、勇者は干拓事業に切り替えたのか。神聖帝国に対する当てつけではなく」

 

「いかにも。そして勇者が干拓事業を始めたら、そこに大森林の生存競争に破れた獣人たちが集まってきた。しかし、彼らは人間と混じっても通用せんから、唯一、生き残る方法として奴隷を選んだ。荷物持ちや単純作業のような、言われたことだけをするなら、獣人にも出来るからのう。それが今でも続いておるのじゃ」

 

 勇者領(ブレイブランド)を作る際に、獣人たちが集まってきたのは、多分、勇者を慕っていたからじゃない。元々、大森林の生存競争に破れた獣人たちが、生き残りをかけて勇者のもとに集ったのだ。

 

 勇者のところへ行って、人間の言うことを聞いていれば飯は食える。神人とは違って、そこまで粗末な扱いは受けない、そして何より何も考えないでいいから楽だ。しかし部族の誇りはどこへ行ったのか。それじゃまるで家畜ではないか……

 

 鳳は思った。

 

 いや……そんな人間、いくらでもいたではないか。言われたことしか出来ない指示待ち人間など、自分が生きていた前の世界で、嫌というほど見てきたはずだ。そんな人間は、獣人たちとどこが違う? 一体、人間と家畜を分けたのはなんだったのか?

 

「人間と獣人、それを分けたのは創造性じゃ。人間は何もないところから物を創造し、未来を作ることが出来る。そしてついには世界を変えてしまったのじゃ。儂はそれを、幻想具現化(ファンタジックヴィジョン)と呼んでいる……」

 



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神が人間を作り出したのか。人間が神を作り出したのか

 およそ700万年前。アフリカ東部に二足歩行の人類の祖先、サヘラントロプス・チャデンシスが出現した。

 

 この人類の祖先の発見当初は、この頃に起きた地殻変動によって東アフリカに閉じ込められた人類が、否応なく草原に出ていかざるを得なくなり、急激に脳を発達させ、現生人類のように道具を使い始めたというシナリオが信じられていたが……後にアフリカ南部でも同じ化石が次々と発見されたことで、その仮説は否定されることとなる。

 

 現在では、元々森で暮らしていた人類の祖先は、乾燥化が進むアフリカの大森林での生存競争に敗れて、外縁部に押しやられたのが実態と思われている。木登りがあまり得意で無かった人類の祖先が、森では他の動物に食料を奪われてしまうから、仕方なく森の外縁部の疎林へとやってきたのだ。

 

 森の外に広がる草原には獰猛な肉食獣が闊歩していて、それらに人類の祖先は到底敵わなかった。だから普段は木の上で生活し、猛獣が居なくなったのを見計らって草原へ下りていき、猛獣が食べ残した屍肉を漁って、また夜には木の上に戻って眠っていたらしい。二足歩行が発達したのは、こういう生活をしていく上で、親が子供に餌を持ち帰るためだったと考えられている。

 

 約440万年前。最古の人類と呼ばれたアウストラロピテクスが誕生する。相変わらず森林の外縁部で暮らしていた人類であったが、この頃になると地上で生活するほうが優勢になってきたようである。タンザニアのラエトリで発見された足跡の化石では、27メートルに渡って大人と子供が並んで歩いている痕跡が見つかった。これはつまり、人類はこの頃になると、樹上に隠れ住むのではなく、群れで行動するようになっていたということだ。

 

 しかし群れで行動するからと言って、個々の人間が強くなったわけではない。相変わらず猛獣に襲われたらひとたまりも無かっただろう。人間たちはそれでも地上で行動できたのは、誰かが犠牲になって食べられてる間に、他の個体が逃げることが出来たからだ。そして減ったからには増やせばいいとばかりに、人間はこの頃、他の類人猿よりもずっと多産の傾向を持つようになる。

 

 人間は発情期がなく、適齢期にはほぼ毎年のように子供を産み続けることが出来る。多産で知られるマリアテレジアは16人の子供を産んだそうだし、明治時代以前の日本でも、10人兄弟などという家族はざらだった。

 

 こうして人類は数を増やすことで、他種族による捕食を耐え忍んでいたわけであるが……

 

 転機が訪れたのはおよそ250万年前。この頃ホモ属が誕生したと言われている。ホモ属が画期的だったのは、石器を使うようになったことである。実際には、最初に石器を使い始めたのは、アウストラロピテクス・ガルヒのようだが、この頃に生きていた何者かが石器を使い始めると、それはまたたく間に人類全体に広まっていったらしい。

 

 前人類アウストラロピテクスと、現生人類ホモ属との違いは、特に脳の大きさだ。人類は、石器を使うようになって、急速に脳が肥大化していった。そして頑丈だが頭が悪い旧人類は淘汰され、華奢だが知恵が回る新人類が生き残っていった。

 

 人間が使い始めた最初の石器は、打製石器と呼ばれる非常にシンプルなものだった。作り方は簡単で、適当に拾ってきた石を他の石とぶつけると半分に割れるが、その半分に割れた石がそれである。

 

 半分に割れた石は、割れた面のエッジの部分が尖っている。それを例えば動物の死骸の関節部分に当てて、グッと体重を使って押し込めば、骨を断つことが可能である。最初の石器、打製石器とは正にこの半分に割った石のことであり、オルドワン石器の別名でも呼ばれている。

 

 この頃の人類は、石器を使うことによって動物の骨を割り、その中身を啜ることによって食糧事情が急激に改善していった。硬い骨はハイエナのようなサバンナの掃除屋でも、食べることが出来ずにそのまま放置されていた。人間は石器を手にすることによって、それを誰も居なくなった後、安全に手に入れることが出来るようになったわけである。

 

 こうして食糧事情が改善した人類は暇を持て余し、石器を改良し始めた。石を幾つかに割った破片を研磨したり、より鋭く尖らせた磨製石器(アシュール石器)を作り出したのである。はじめ人間ギャートルズの主人公家族が持っているような、涙滴形に加工した石を、木や骨の柄で挟んだハンドアックスなどがそれに当たる。

 

 ここまでくれば武器と呼んで良いくらいで、実際に人類は、徒党を組んで大型の肉食獣を狩るようになっていった。そして火を発見し、定住して農業を始め、銅器や青銅器、鉄器で武器や農耕具を作ったり……ついには蒸気機関や電気を使い始め、現代ではコンピュータのような思考補助機械まで作り出すようになったのである。

 

 だいぶ端折ったが、こうして進化してきた人類と、チンパンジーやゴリラのような類人猿との違いは何なのだろうか。

 

 2000年代。人類はコンピュータを更に進化させて、片手で持ち運べるスマートホンを作り出した。直感的な操作で使いやすいそれは、チンパンジーやオランウータンにも操作が可能だ。スマホの中に、餌がもらえるアプリがあれば、彼らはそのうちそのアプリの使い方を覚えてしまう。

 

 現実に、スマホを操作するサルの映像は広く公開され、まるで人間のようにスマホを操る猿の姿を見せられた人々からは、いつか猿の惑星のように、人間は彼らに取って代わられるんじゃないかと危機感を覚える声が続出した。

 

 しかしそれは絶対にありえないのだ。

 

 何故なら、類人猿は道具が作れないからである。

 

 最初の石器、オルドワン石器は要は半分に割れた石ころだ。こんなのは石を拾って他の石にぶつければ良いだけなのに、たったこれだけのことを、いくら教えても類人猿は覚えられない。

 

 野生の類人猿だって、木の枝を使って木の穴をほじくり返したり、石を使ってナッツの殻を割ったり、道具を使うことがあると言うのに……ところが、その石を半分に割って使うという発想が、類人猿にはどうしても出来ないのだ。

 

「15世紀末のことじゃ。コロンブスが新大陸を発見し、経済の中心地が地中海から大西洋へと移り変わる。相次ぐ聖職者による反乱と、北方ではルターによる教会の大批判が行われ……ルネッサンスが終わろうとしていた頃じゃった。

 

 フィレンツェの市庁舎であったヴェッキオ宮殿には、巨大な大理石が転がっておった。大芸術家ドナテッロによる12体の大理石像を作る計画が頓挫し、その後を受け継いだ弟子が契約を放棄したために、25年以上も吹きさらしのまま放置されたものじゃった。

 

 その間、フィレンツェはメディチ家による支配、サヴォナローラによる神権政治、ソデリーニによる共和制と、続く政変によって大いに混乱しておった。そんな折、市民による共和制を掲げたフィレンツェ市は、メディチ家支配への決別と、周囲を取り囲むロマーニャ公の圧力に抗するため、市民を奮い立たせるつもりで古の英雄ダビデ像の制作を依頼することにした。

 

 当時、世話になっていたミラノ公国がフランスに攻められ、仕方なくフィレンツェに帰郷しておった儂は、ソデリーニ政権に請われて市政に参加しておった。そしてダビデ像の制作を打診されたのじゃが……市庁舎に25年も放置されとった大理石は傷だらけで、おまけに前任者の下絵まで書かれており、状態が悪すぎるからと言って断ったんじゃ。

 

 ところが、その儂が断った仕事をミケランジェロの若造が請け負ったのじゃ。小僧は儂に言いおった。あの傷だらけの大理石を一目見た瞬間、その中にダビデ像が埋まっている姿が見えたのだと……そして出来上がった像の出来栄えたるや、今思い返しても腸が煮えくり返る思いじゃわい。

 

 まあ、あの憎たらしい若造のことは置いておいてじゃな……彫刻家という人種は、そもそも材料を削って形を整えるという発想を持っておらん。その中に彫刻が埋まっているから、それを掘り出していると言うわけじゃ。画家も建築家も音楽家も、こと美術を志す職業者は、みな同じじゃ。まず完成図を想像して、それを材料の中に投影する。

 

 この、完成をイメージするという創造性が、どうやら人間固有の能力のようなのじゃよ……」

 

 石を半分に割ったら、そこに二つの尖った石が生まれる。大理石の中にはダビデ像が埋まっている。他の動物には決してそれが想像出来ない。人間はいつ、どうやって、頭の中に完成をイメージするという機能を手に入れたのだろうか……?

 

 20万年前、東アフリカに現生人類ホモ・サピエンスが誕生する。この時代はまだ、前人類ネアンデルタール人やデニソワ人、北京原人ことホモ・エレクトゥスが存在しており、現生人類はその勢力に太刀打ち出来ず、東アフリカの狭い範囲でほそぼそと暮らしていたらしい。

 

 北京原人の名前が示す通り、このころホモ・エレクトゥスがユーラシア全体に進出しており、ホモ・サピエンスは少数派だったのだ。

 

 それが爆発的に増えていったのは、最初のホモ・サピエンスが誕生してから10万年後……今から10万年くらい前に、人類は突然東アフリカからコーカサス地方へ出て、そこから世界中にまたたく間に広がっていった。

 

 西は地中海北部ヨーロッパ、南はインドからインドネシア、ポリネシアへ。東は中央アジアからシベリアを通り、ついに南北アメリカ大陸にまで進出する。そして、ホモ・サピエンスが勢力を増していくに従って、それまで優勢だった前人類が徐々に姿を消していき、ついに絶滅するのである。

 

 10万年前、ホモ・サピエンスに何が起きたのだろうか?

 

 何しろ頭の中の出来事だから、証拠は何処にも残されていないのだが、大方の意見は一致している。この時期、人間は神を発見したのだ。

 

 人類が爆発的に数を増やすには、農耕と定住が必要だった。食料を狩猟と採集だけに頼っていると、それを取り尽くさないように移動し続けなければならない。農耕を始めて毎年一定量の収穫が見込めれば、飢える可能性は低くなる。その代わりに、作物の面倒を見なければならないから、今度は移動が出来なくなり、人間は定住するようになる。

 

 農耕を始めて移動をしなくなった人類がどんな生活をするようになったか、想像するのは容易いだろう。獲物を探して森を歩くことは少なくなり、代わりに天気を気にするようになる。

 

 きっと彼らは星空を見上げて、そこに神を見つけたはずだ。あたかも、ミケランジェロがダビデ像を発掘したように、星々を結んで神を作り出したのだ。稲妻が光れば神が怒り、雨が降れば神が泣き、雪が降れば神がフケを落としたと考えた。

 

 そして神のもとに一致団結した人々は、より大きな集団になっていった。同じ神を信じるもの同士で協力しあい、畑の作付面積はどんどん大きくなっていく。逆に、違う神を信じている相手なら、飢饉の時に襲っても胸が傷まなかった。

 

 こうして人類は神のもとに一つになっていった。今では全人類70億の半数以上が、同じ神を信じている。

 

「人類は神を創造することによって、国家を形成し、一人では決して成し得ない事業をどんどん行うことが出来るようになった。人が集まるところに都市が生まれ、経済が発展し、科学が生まれた。その科学の力で人類はついに月へたどり着くまでの能力を得たのじゃ。

 

 それと同じことを、儂はこの世界で神と錬金術の力で行っておる。この世界には神が実在し、全ての人類がその恩恵を受けておる……人間が持つ想像力、言い換えれば未来実現能力……幻想具現化(ファンタジックヴィジョン)とは、この想像力のことじゃ。

 

 10万年前、人間の想像力が神を生み出した瞬間、人類は宇宙へ飛び出す約束を得た。旧約聖書に書かれたエクソダスとは、人間がこの創造する力を得たことを意味しているのかも知れぬ。儂らはこの力を得たことで、望みさえすればどこへでも行けるようになった。約束の地(カナン)へと辿り着いたのじゃ。

 

 しかし、そう考えると解せぬことがある。それは、人間の想像力が神を作り出したのか。それとも、神が人間にこの想像力を与えたのか……

 

 人間が他に類を見ない創造性を発揮するようになったのは、ダーウィンの言う偶然の産物だったのか、それとも、神による仕組まれた進化(インテリジェントデザイン)だったのか。儂は未だ分からぬ」

 



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勇者とは、何者だったのか?

 人間と獣人を分ける最大の障壁は、人間のみが持つ創造性にあった。300年前、勇者はその壁にぶち当たり、獣人を教化することを断念した。代わりにブレイブランドの干拓事業へと切り替えたわけだが、しかしレオナルドに言わせれば、彼はいきなり干拓を始めたわけではなかったらしい。

 

 勇者は干拓事業を始める前に、実はもう一ステップを挟んでいた。それが何かと尋ねたら、なんと冒険者ギルドの設立だった。

 

「冒険者ギルドを作ったのは、勇者だったんだ」

「左様。儂は創立メンバーでもあるが、元々はいわゆるパトロンというやつじゃった。どんな事業を始めるにあたっても、何はともあれ金が必要じゃ。儂はその頃、スクロール魔法を世に産み出し、巨万の富を持て余しておった。それで次の投資先を探していたところ、勇者が話を持ちかけてきたのじゃ。あやつの人類に対する貢献度を考えれば、乗らない手はないじゃろう?」

「確かにそう思うけど……どうして冒険者ギルドだったんだ? あんま儲かりそうには思えないんだけど」

「お主の言う通り、公共事業的な側面はあった。しかし何よりもその頃の世界には、冒険者ギルドを作って、それを維持していくことが出来るだけの需要があったのじゃ」

 

 魔王が襲来するまでは、神聖帝国には小競り合い程度の争いはあったが、国軍を組織して戦うような大戦争は存在しなかった。そのため、魔王が帝国領内に侵入した時、神人たちは泡を食って兵隊をかき集め始めた。

 

 そうして集められた軍隊を、帝国は魔王討伐後に何の保証もせずに解散する。このような軍隊がその後どうなるかは推して知るべしであろう。

 

 国民国家でもない限り、徴兵は強制出来るものではない。元々、徴兵に応じるような人間は農奴だったり、次男や三男などの家督相続には関係なかったり、一攫千金を狙う荒くれ者だったりと、そういう食い詰めた男子ばかりだった。

 

 彼らは戦争が終わって家に帰ってもやることがないわけで、そんな彼らが武器を持って野に放たれたら、野盗に転身するのは時間の問題である。

 

 勇者の活躍により魔王が討伐され、驚異が去ったにも関わらず、帝国内では野盗が横行し、魔王襲来時なんかよりも、もっと胸糞が悪い事件が多発するようになっていた。

 

 人間社会ではこんな時、野盗を取り締まるための傭兵が誕生するものである。例えば、英仏百年戦争の大元帥ゲクラン、ドイツ30年戦争の傭兵王ヴァレンシュタイン。彼らは食い詰めた野盗を束ねて、その野盗から国を守る傭兵として自分たちを売り込んだ。こうして彼らが作り上げた軍隊は、やがて国軍として組織されるようになり、中世の軍隊から近代国家の軍隊へと変わる礎となっていく。

 

 しかし、言うまでもなくこの方法には問題がある。野盗がいる間はともかく、いなくなってしまったら、今度は食い詰めた傭兵が野盗になってしまいかねない。そうならないためには、傭兵が働く職場、つまり戦場が必要となる。

 

 するとおかしなことが起きてくる。戦争が起きて傭兵を雇っても、傭兵たちが談合して働かなくなるのだ。傭兵たちは狭い業界でみんな顔見知りだから、敵味方に別れてもお互いに傷つけ合わずに、戦争を長引かせようとするのだ。このような姿勢を、マキャベリはその著書の中で痛烈に批判している。

 

 結局、有事の際に国が滅びないためには、国家が軍隊を組織していくしかないのであるが、しかし、言うまでもなく軍隊を維持するには金がかかる。300年前、神聖帝国は中世に毛が生えた程度の文化レベルしか保持しておらず、そんなお金は荒廃した世界のどこにも存在しなかった。

 

 勇者はその現状を変えるために、冒険者ギルドを作った。

 

 誰だって最初は野盗になりたくてなったわけじゃない。もちろん、中にはそういう不届きな連中もいるだろうが、殆どの場合は食い詰めた人間が仕方なく野盗に身を転じるのだ。そんな彼らに、ちゃんと働く場を与えてやれば、悲しい事件が起きずに済むのではないか。

 

 幸い……と言っていいか分からないが、魔王は討伐されても、どさくさに紛れて侵入してきた魔族が、まだ神聖帝国のあちこちで暴れていた。また、帝国の南にはワラキアの大森林が広がっており、その鬱蒼と茂る森の中には、今後いつまた帝国を脅かすかわからない魔族が潜んでいた。そして、そのせいで玉突き事故のように、大森林の獣人が帝国へ逃れてきており、彼ら難民が元の生活に戻れる保証はどこにもなかった。

 

 これら全てを一挙に解決する方法が、勇者による傭兵組織、冒険者ギルドの設立だったわけである。

 

 彼はレオナルドからの投資を受けると、まずはその金で傭兵を雇い、野盗や魔族を倒すための組織として冒険者ギルドを発足した。そしてその傭兵がまた野盗に転落しないように、職業安定所の役目を果たすべく、各地にギルド支部を設置していった。

 

 そしてその支部を中心としたネットワークを作り、情報を共有し、誰でも自由に依頼を受けることが出来る、掲示板のシステムを作り上げた。こうして帝国内での野盗の発生を抑えつつ、彼は魔族の駆逐に成功したのである。

 

 やがて、帝国貴族として迎えられていた、かつての勇者パーティーの一員であるヘルメス卿とオルフェウス卿の二人が協力を申し出て、大森林の魔族を一掃するキャンペーンが始まり、そして彼の作った冒険者ギルドは、民間企業であるにも関わらず、帝国に無くてはならない組織になっていく。

 

 しかし、そうして組織が大きくなっていくと、勇者にかかる責任も重くなっていく。彼は魔族の一掃後を見据え、冒険者達が食いっぱぐれないように、新たなる“戦場”を用意しなければならなくなった。

 

 そのために、彼は大陸西部の干拓事業と、新大陸への冒険航海を始めたのだ。

 

「それじゃあ、勇者はワラキアの切り取り自由と言った帝国への当てつけで、干拓事業を始めたわけじゃなかったのか?」

「いかにも。あやつはそもそも、国を作ろうだとか、大企業を組織しようだとか、そんなことは少しも考えてはおらんかった。ただ単に、人々が野盗や魔族に苦しめられておったから、それをなんとかしようとしただけじゃ。それがどんどん大きくなっていって、気がつけば勇者領(ブレイブランド)なる国が出来上がっていたのじゃ」

 

 ワラキアの大森林に手を付けなかったのは、獣人をそっとしておくためだった。新大陸航路の開拓も、戦争難民となった人たちに生きていくための土地を見つけてやるためだった。

 

 まるで私利私欲のない、その聖人のような姿は、なんだか今まで聞いてきた勇者像とはガラリと違った。そんな彼が、どうしてあんな末路を辿ることになってしまったのだろうか……

 

「勇者ってのは、一体、何者だったんだ? 冒険者ギルドなんてものを作ろうとしたところからすると、俺達と同じ放浪者(バガボンド)だったんだろうか?」

 

 するとレオナルドは炎を見つめたまま黙って首を振って、

 

「さあのう……それは儂にもわからぬ」

「わからない……? 彼がどこから来た何者か、爺さんは気にならなかったのか? そういや、勇者勇者ってみんな言うけど、肝心のその勇者の名前ってなんていうんだ?」

「それもわからぬ」

「わからないって、どういうことだ……?」

 

 以前、メアリーに同じ質問をしたところ、彼女も勇者の名前は知らないと言っていた。彼女は勇者の名前が後世に伝わってないと言うのだ。その時は、まあそんなもんかと思ったが、いくらなんでも、伝説の勇者パーティーの一員が知らないなんて言い出すとは思いもよらなかった。

 

 そんなわけはないだろう。何かよっぽど言いたくない理由があって、はぐらかされているんだろうか? 鳳は最初そう思ったのだが、どうやらこの老人は本当のことを言ってるらしかった。

 

「儂らは勇者の名前を聞いたことがない。というのも、恐らく勇者自身が自分の名前を覚えていなかったからじゃ。あやつは、この世界に召喚された時点で、記憶を失っていた」

「記憶喪失だったってのか?」

「そのようじゃ……あやつは魔王と戦うために召喚され、そしてなんらかの方法で神に匹敵する力を得た。おそらく、その後遺症ではないかと儂は思っておる」

「後遺症……どうしてそう思うんだ?」

 

 すると老人は難しい顔をして、

 

「例えば鳳よ。これは儂の体じゃが……その前は誰のものだったのじゃろうか?」

「……え? いや、あんたの体はあんたの物だろう? まさか、お父さんお母さんの物なんて言い出すんじゃないだろうな」

 

 鳳がそう言うと、レオナルドは何がそんなにおかしいのか、暫しの間、クツクツと腹を抱えて笑ったあと、涙目になりながら、

 

「そうではない。儂らは放浪者じゃろう? 儂ら放浪者はある日突然、前世の記憶に目覚めるわけじゃが……実はそうなる前の記憶もちゃんと持っておる。名前もあるが、ややこしくなるから彼と呼ぶことにするが……儂は、儂になるまでは、彼としてこの世界で生活しておった。それがある日突然、地球の、フィレンツェの、ヴィンチ村で生まれたレオナルドの記憶に置き換えられて、今のこの儂として生まれ変わったわけじゃ。するとこの体は誰のものなんじゃろうか。儂じゃろうか。彼じゃろうか」

「それは……」

 

 鳳は返答に窮して押し黙った。

 

「言うまでもなく、儂は儂じゃ。彼の記憶はあっても、それが自分であったという自覚はない。つまり、彼の体の中に、儂の精神が乗っかってるというのが正しい認識じゃろう。すると、彼の精神はどこへ行ってしまったのじゃろうか……彼の人生は、そこで終わったと考えられないか? つまり儂ら放浪者は、誰かの人生を奪ったから存在するわけじゃよ」

 

 鳳はレオナルドと違って、普通に暮らしていた人が、ある日突然、前世の記憶に目覚めたわけじゃない。しかし、勇者召喚のために、誰かが犠牲になったというところは同じである。

 

「勇者も同じようなことだったんじゃろう。あやつは神の力を得る代わりに、何かを奪われた……おそらく、儂はそれが記憶だったんじゃないかと思っておる」

「どうしてそう思うんだ?」

 

 鳳が尋ねると、レオナルドは一瞬だけ昔を懐かしむような優しい目をしたかと思うと、すぐに悲しげに首を振って、

 

「何故なら、いつからか、勇者は性格がどんどん変わっていってしまったんじゃよ。初めて会った時、あやつはなんというか、バンカラな男じゃった。女にはモテるが、鈍いと言うか、粗野と言うか、女性にアプローチを掛けられてもさっぱり気づかない。え? なんだって? ってなもんじゃ」

 

 いわゆる難聴系主人公みたいなものだろうか。

 

「しかも、それはわざとじゃない。あやつは本気で自分が女にモテるだなんて思ってもいないようじゃった。良く言えば硬派な男、悪く言えば……まあ、初心(うぶ)じゃったんじゃな。

 

 ところが、勇者領を作り、冒険者ギルドも軌道に乗ってくると、その性格が逆転してしまった。いつ頃からか、あやつは女を取っ替え引っ替えしだし、あちこちに子供を作り始めた。明らかにおかしくなっていたわけじゃが……あやつの人類に対する貢献度を考えれば、欲に溺れるのも悪くないと、誰も何も言わなかった。

 

 しかし、見るものが見ればおかしくなっていることは明白じゃった。儂はある日、あやつをとっ捕まえて小言を言ったことがある。昔のおまえはもっと真面目じゃった。初心(しょしん)を忘れずやり直せと。

 

 するとあやつは目を泳がせて言い訳を始めた。自分は女を求めていない、女が自分を求めるのだと。断りたくとも、求められてしまったら断れない。そしてあやつは苦しそうに、女を抱いていないと耐えられないんだとも言っておった。

 

 儂はそれをバカバカしいと一蹴してしまったのじゃが……その後のことを考えると、もっと真剣に聞いてやれば良かったと後悔しておる。恐らく、勇者が言ったことは半分本当じゃったんじゃろう。今にして思えば、あれは明らかにセックス依存症じゃった。儂は、あやつがおかしくなっていたことに、気づいてやれなかったんじゃ……」

 

 レオナルドはその時のことを思い出しているのか、青ざめた顔をして俯いていた。

 

 彼の言う通り、その後の勇者の転落ぶりを考えると、この老人が後悔するのも仕方ないことだろう。勇者は晩年、あちこちに子供を作りまくり、帝国貴族の恨みを買った。そしてそれが切っ掛けで暗殺されてしまったわけである。

 

 鳳は初めてそれを聞いた時、割としょうもない人物だったんだなと感想を得たのだが、もしもその原因が、人類を救うために、神の力を得たための代償だったのだとしたら、見方は180度逆転する。

 

 おまけに彼の死後、その落とし胤は蛇蝎のごとく嫌われて、ついには根絶やしにされてしまったのだ。これでは、彼の仲間であったヘルメス卿が、帝国に反旗を翻すのも無理ないだろう。せめて、勇者の名誉だけでも回復してやることは出来ないだろうか。

 

 いや、根絶やしではなかったか……鳳は、そのヘルメス卿が匿っていたメアリーのことを思い出して、言った。

 

「そう言えば、メアリーは? 勇者が沢山の子供を作ったという話は聞いたけど、メアリーの母親のことは聞いたことがなかった。彼女は誰の子供だったんだ? もし、親戚が生き残ってるのなら、協力することは出来ないんだろうか」

 

 するとレオナルドは、今日何度目かの同じセリフを言った。

 

「わからぬ……」

 

 鳳は、まさかそれもわからないと返ってくるとは思わず、

 

「わからない? 母親が誰かわからないんじゃ、メアリーが本当に勇者の子供かどうかもわからないじゃないか。それなのに、どうして彼女が勇者の子供だって信じてるんだ? もしかして、爺さんは知らなくて、初代ヘルメス卿だけが知ってることがあるとか?」

「いや、そうではない。実はメアリーは、あやつがおかしくなる前のこどもなんじゃ」

「……どういうことだ?」

 

 レオナルドに言わせるとこういうことらしい。

 

 魔王討伐が成功し、帝国がその開放感からお祭り騒ぎをはじめ、人類がようやく落ち着きを取り戻そうとしていた頃、勇者はふらりとどこかへと消えてしまった。お陰で仲間たちは突然の失踪に、右往左往する羽目になったのだが……そんな彼が、ある日突然、ふらりと帰ってきた時に連れていたのが、メアリーだったのだ。

 

 メアリーはまだ小さく、生まれて間もない赤ん坊だった。神人の子というだけでも珍しいのに、それが勇者の子供だと言うので、仲間たちは突然いなくなった彼を責めるのも忘れて喜んだ。

 

 もちろん、その母親が誰かは気になったが、彼は勇者召喚で呼び出された手前、皇帝一族と仲が良かったから、てっきり皇族の誰かの子供だと思い、誰もそのことを追求しなかったのだそうだ。

 

「しかし、その後の展開を考えると、どうやらそうではなかったようじゃのう。もしも、皇族の血を受け継いでいるとしたら、神聖帝国は何が何でもその血を根絶やしにしようとしたじゃろう。しかし、奴らはメアリーの存在をつい最近まで知らなかったようじゃ」

「それじゃ結局、母親が誰か分からずじまいか……勇者は一体、誰との間に子供を作ったんだろうか……」

 

 そう呟いたところで、鳳は首を大きく振った。

 

「いや、そうじゃないだろう。さっきも言った通り、メアリーは本当に勇者の子供なのか? 爺さんが言うには、おかしくなる前の勇者は童貞チキン野郎だった。そんなやつが、ある日突然、子供が生まれたなんて連れてくるのはおかしいだろ」

「かも知れん」

「だったら! 帝国にそう教えてやればいいんじゃないか? メアリーは勇者の娘じゃない可能性が高いんだから、もう追っ掛けるなって」

 

 するとレオナルドは言った。

 

「それで帝国の追求を交わしたとして、メアリーに何と伝える?」

「え……?」

「お主は勇者の娘ではない。母親も分からぬ。しかし、ヘルメス卿が300年も閉じ込めていたから、儂らが助けてやる……とでも言うかの?」

 

 鳳は黙るしかなかった。老人はそんな彼に向かって、少し意地悪だったかといった感じに苦笑しながら、

 

「勇者が自分の娘だと言ったのじゃから、メアリーは勇者の娘じゃよ。少なくとも、儂はそう思っておる。あやつは晩年、どんどんおかしくなっていったが、それでもメアリーのことは気にかけておった。暗殺される前、最後に会った時、あやつは言った。アイザックが見つからないように娘のことを隠してしまったが、もしも将来彼女が望むなら、おまえが助けてやってくれと。儂はそれを遺言と受け取り、こうして今ここにおる。その約束を違える気はない」

 

 気がつけばいつの間にか、空が白み始めていた。レオナルドは、うっかり眠りそこねたとあくびを噛み殺していたが、今日はもう寝床につくつもりはないらしく、鳳の前で焚き火の炎をかき混ぜていた。

 

 メアリーは本当に勇者の娘なのだろうか。もし違うなら、それじゃ誰の子なのだろうか。しかし、レオナルドが言う通り、仮に違ったとしても、それで何かが変わるわけでもないのだ。聞きたいことはまだまだあったが、彼女が起きてしまわないように、二人は黙って夜が明けるのを待った。

 



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嫌われちゃったのかな

 翌日。出立する前に兎人の隠れ家を再訪した一行は、胡椒の件をくれぐれもよろしくと念を押してから帰還の途についた。兎人たちは新しい当番を作ったから大丈夫大丈夫と請け合っていたが、その軽いと言うか、イージーと言うか、高田純次みたいな態度には不安しか覚えなかった。

 

 当番と言っても、複数人によるローテーション制などを取ってくれれば安心なのだが、相変わらず一人しかおらず、その点を口を酸っぱくして言っても理解してもらえないからどうしようもなかった。聞けば今までのやり方は、一人が適当に川の向こうで胡椒を集めて、適当に沢山集まったら、適当に川を下って、適当に商人に渡して帰ってきたら、適当な誰かに役割を交代してもらう。今まで上手く行っていたのが奇跡みたいな方法だった。

 

 そんなわけで帰り際、兎人たちの隠れ家に近い集落に立ち寄った鳳たちは、今後は兎人たちと連絡が取れなくなったら、ギルドに報せてくれとお願いしておいた。彼らは約束を守らないわけではないが、当たり前のように忘れてしまう(責任者が死んでしまうため)欠点が浮き彫りになってしまったから、応急処置である。

 

 そんなこんなで……帰りも行きと同じように、補給のために点在する部族の集落を巡りながら北へと向かった。行きにオアンネスのコロニーを潰して回っていたから、帰りは殆ど魚人共に悩まされずに済んだが、それでも、行きに潰したはずのコロニーが帰りがけに復活していたり、中には補給に立ち寄った村がオアンネスの侵出によって全滅していたりと、南部の魔族による被害はやはり相当深刻なものがあるようだった。

 

 そして、およそ一ヶ月半に渡る南部遠征を追えた鳳たちは、懐かしのガルガンチュアの集落へと帰ってきた。思えばこの遠征中、ずっと戦闘ばかりしていた気がする。メアリーに至ってはレベルが23から26へと3つも上がり、高レベルになると倒す敵がいなくなって、レベルが上がりにくくなるという定説を覆していた。魔族は思った以上に数が多く好戦的で、倒しても倒して湧いてくる羽虫のようだった。その繁殖力、成長力、生活習慣など……ネウロイという土地がどうなっているのか、消えたオルフェウス卿じゃなくても気になるところだ。

 

 ガルガンチュアが出掛けていたので代わりに長老に挨拶し、ジャンヌとメアリーを久しぶりの我が家に残して、冒険者ギルドに報告へと向かったら、珍しく駐在所の前でミーティアが待っていて、ルーシーを見つけるなり駆け寄ってきて旅の無事を喜んでいた。南部遠征に行くにあたって、自分が焚き付けた手前、なんやかんや気になっていたらしい。

 

 単にクエストで長期出張していただけなのに、そんな大げさな……と思いもしたが、涙目で再会を喜び合っている二人を見ていると、野暮なことはいいっこなしだろうと、黙ってギルドの中に入った。

 

 元々、駐在所で暮らしているギヨームとレオナルドが長らく開けていた部屋を見に行ってしまったので、ギルド長への報告は鳳が請け合うことになった。そんなわけで彼の執務室へと向かっていたら、丁度来客だったらしく、ギィっと扉が開く音がして、中からマニが出てきた。

 

 狼人の村でただ一人の兎人のマニである。

 

 彼はやってきたのが鳳だと気づくと、一瞬だけギョッとした顔をしてみせたが、すぐに平静を取り繕うと、

 

「あ、お兄さん。帰ってきてたんですか。南の方はどうでしたか? 何か収穫ありましたか?」

「ああ、話すと長くなるけど……ギルドに報告する前じゃ、とにかく大変だったとだけしか言えないなあ」

「そうですか。それじゃ仕方ないですね。お疲れさまです。失礼します」

 

 マニはそう早口に言って去っていった。なんだか避けられているような気がする。ハチとの一件があって、嫌われてしまったのだろうか……

 

 それにしても、どうして彼がこんなところから出てきたんだろうか? と思いながらギルド長の執務室へと入ると、中にはギルド長とガルガンチュアが居て、

 

「おお、少年。帰ったか」

「あ、どうも、ガルガンチュアさん。来てたんですか? ギルド長と何か話でも? あー……お邪魔でしたかね? 出直してきましょうか」

「いや、いい。俺は行く。フィリップ、邪魔したな」

「いやいや、こちらこそお構いもせず。困ったことがあったら何でも相談してくれ。君にはいつもお世話になってるからな」

 

 ガルガンチュアは入り口に佇む鳳を押しのけるようにして去っていった。彼はその背中を見送ってから、

 

「……なんかあったんすか? マニも来てたみたいだけど」

「ああ、そのマニ君がね。勇者領へ留学したいと言い出して」

「留学!?」

 

 どうやら鳳たちが居ない間に、何か色々あったらしい。

 

 マニの留学も気になるとこだが……まずはハチが成人したらしい。

 

 鳳との決闘で力を示したハチは、獲物を取れるようになったのだからと、一人前の大人の仲間入りをしたらしい。外周部に家を与えられ、今後の活躍次第では妻帯も許されるからと、本人もやる気になって日々を過ごしているようだ。

 

 同い年のマニは、そんなハチに触発されたのか、自分も独り立ちをしようと奮起したらしい。かと言って、狼人とは違って牙も爪もない兎人では、他の大人みたいに獲物をとってくることが出来ないから、代わりに彼は村のために知恵をつけようと、勇者領への留学を決意したようだ。

 

 その相談をされたギルド長は、驚いて族長であるガルガンチュアに報告した。というのも、知っての通り、獣人は人間のような生活を送ることが困難なのだ。だから仮に勇者領へ行ったとしても、奴隷働きしかさせてもらえないだろうから、そんなことをして何になるのか? とギルド長は思ったのだ。

 

 マニはそれでも人間の社会に触れてみたいと、奴隷働き上等だと食い下がった。しかし、とてもじゃないがそんなこと勧められないギルド長は、族長が許してくれるならと言って、ガルガンチュアを呼び出した。

 

 話を聞いたガルガンチュアは当然反対の意見で、マニに馬鹿なことは考えるなと諭した。それでも納得できないマニとの間で暫く押し問答が続いたが、結局は族長命令に逆らえないマニが悔しそうに部屋を飛び出していったところに、鳳が偶然やって来たらしい。

 

「そっかあ……あのマニがねえ」

「同い年の友達が成人したから焦っているんだろう。そんなことより、鳳くん。よく無事に帰還した。南部は大変だったろう。早速だが、話を聞かせてもらってもいいか?」

「あ、はい」

 

 鳳はそれ以上マニのことは気にせず、南部遠征の報告をギルド長にした。

 

*********************************

 

 一通り旅の話をした後は、どうせ細かい事は今夜にでもレオナルドとするだろうからと言うことで、鳳は帰還の挨拶を済ませてから、すぐに駐在所を出た。

 

 去り際、ルーシーが駆け寄ってきて、今回は誘ってくれてありがとうと言っていた。結果的に大変な旅路になってしまったから、寧ろ誘ったことを申し訳なく思っていたのだが、見た感じ本心で言ってくれてるようだったから、素直に応じてギルドを後にする。

 

 帰る途中、村外れに差し掛かったら、帰ってきたばかりのメアリーが、もう子供たちに囲まれて遊んでいた。今回の冒険の武勇伝を話したり、覚えたばかりの魔法を実演してみせたりして、今や彼女の人気はうなぎ登りである。

 

 しかし、人に当たらなければ大した威力はないとはいえ、ファイヤーボールを地面にぶっ放しているのは流石に危険すぎるからやめろと言ったら、子供たちの不興を買ったらしく、背後に回りこんでいた子供に尻を蹴られた。

 

 同じ面倒を見てやった仲だと言うのに、メアリーと自分とでどうしてこうも扱いが違うのだろうか。ムキーッ! っと両手を上げて怒りを表明したら、子供たちはきゃあきゃあと笑いながらバラバラに逃げていった。メアリーも一緒になって駆けていく。まあ、楽しんでいるなら良いのだが、お陰ですっかりカミナリおじさんポジションである。

 

 そう言えば、子供たちの中にハチとマニの姿はもう見当たらなかった。ギルド長の話では成人したということらしいが、獣人は成長が早いから勘違いしそうになるが、実際には二人ともまだ9歳、人間にしてみれば小学校低学年のはずである。

 

 あいつら、本当に大丈夫なんだろうか……

 

 村に戻って話を聞けば、ハチは近場のうさぎのような小動物を狙って、毎日朝から出掛けているらしい。まだまだ狩りは苦手らしく、獲物をとれたりとれなかったりだから、よく腹を空かせているそうである。だったら見てないで助けてやればいいのにと思ったが、この村では大人はみんな自分のことは自分でやるのがルールであり、逆に手を出せば、大人の誇りを傷つけることになるから、しちゃいけないことらしい。

 

 鳳は腕組みしてうーんと唸った。どう考えてもお人好しとしか言いようがないのであるが、自分との決闘が原因でまだ子供のハチが無理をしているなら後味が悪い……彼はそう思い、ハチが居るだろうと思われる近所の森まで、散歩がてら様子を見に行くことにした。

 

 家に戻って愛用の銃に弾を込め、ジャンヌは旅の疲れからから爆睡していたので、起こさないようにそっと家を出た。最近、メアリーと仲が良い隣の妊婦に行き先を告げて、村外れから森へ入る。

 

 時間的には日が暮れるまで小一時間といったところで、行って帰ってくるくらいの余裕しか無い。まあ、狩りにいくわけではないのだから、それでも十分だろうと考えて、足を早めた。

 

 しかし、実際にハチと会ったらなんて声をかければいいのだろうか? よく考えれば、彼は鳳のことを恨んでいるだろうし、下手なことを言ったら逆上されかねない。また、あの時みたいに襲いかかってきたら、今度は助けてくれる大人もいない。その時は銃で撃つしかないんだろうか……いや、流石にそれは……ちょっと……などと考え、やっぱり行くのはやめとこうかなと思っていた時だった。

 

 視界の片隅にぴょこぴょこと動くうさ耳が見える。こんなところでそんなものが見えるとしたらマニしかいない。どうやら、ギルドですれ違ったあと、彼もハチのことが気になって様子を見に来たようである。

 

 ならば丁度よいとばかりに、鳳はマニに声をかけようとした。同い年で普段から仲がいい二人だから、もしかしたらハチの居場所を知っているかも知れない。そう思い、彼がマニの方へと足を向けた時だった。

 

 ガサガサと、そのマニの居る方から、草をかき分けて何か小動物でも暴れてるような音がする。おや? と思って彼の背後へ黙って近づいていくと、マニの前で罠にはまった小さなウサギが必死に逃げようとしているのが見えた。

 

 足首を縄が食い込むように締めあげていて、それが近くの木に結ばれてピンと張っていた。ウサギは身動きが取れなくて藻掻いている。恐らく、くくり罠だろう。

 

 へえ……こういう狩りもするんだなと感心していると、マニは罠に掛かったウサギを鷲掴みにして、その首を躊躇なくクイッと捻った。キキィッ! っと聞き慣れない悲鳴を上げて、ウサギは血を吐いて絶命した。

 

 兎人がウサギを絞めているという、なんとも言えない光景ではあるが、弱肉強食の世界でそれもないだろう。鳳は咳払いをして自分がいることをアピールしつつ、

 

「へえ、いつの間にこんな狩りの仕方覚えたんだ?」

「えっ!?」

 

 彼が近づいていくと、マニは文字通り飛び上がって驚きの声を上げた。手にしたウサギの死骸がボトッと落ちて地面で跳ねる。鳳はそんなに驚かなくてもいいじゃないかと思いながら、まだ生暖かいウサギの死骸を拾い上げ、マニに差し出した。

 

「成人になると一人で狩りをやらされるって聞いたから、大丈夫なのかと思ったけど、おまえの方は大丈夫そうだな」

「え!? いや、その……」

「ハチのことが気になって様子を見に来たんだけど、あいつしっかりやれてるの?」

「え? その……どうでしょう。大丈夫だと思いますけど」

「だと良いんだけど……この罠っておまえが作ったの? よかったら俺にも作り方を教えてくれないか?」

 

 するとマニはまるでブラウン運動みたいに黒目をあっちこっちに飛ばしながら、しどろもどろに腰が引けるような情けない声を出しつつ、

 

「いや、お兄さんは、僕なんかよりずっと上手に狩れるんだし、教わることなんてないでしょう。上手い人にはこういう小さい獲物は遠慮してもらわないと、僕みたいな弱い獣人が生きていけませんから」

「別におまえらの獲物を奪おうだなんて考えてないよ。単純にその構造が気になっただけだ。より糸から全部自分で作ってるのか?」

「いや、だから、僕はこういうのは別に得意というわけじゃなくて……すみません。失礼します!」

 

 マニは吐き捨てるようにそう言うと、文字通り脱兎のごとく駆けていってしまった。明らかに鳳のことを避けている印象である。彼はぽかんとしてその後姿を見送ると、

 

「……ハチのことで嫌われちゃったのかな」

 

 と独りごちた。

 

 考えても見れば鳳が来なければ、ハチとマニはまだあの子供たちと一緒に、日々のんきな生活を送っていられたはずだ。なのに、友達と決闘をしたり、あまつさえ、それを見張らせる役を押し付けたりと、マニからすればあまり良い印象はないのだろう。

 

 ハチだけではなく、マニにまで嫌われてしまうとは……鳳はがっくり項垂れると、もうハチを探す気力もなくなってしまい、もと来た道を戻り始めた。

 

 頭の中は、どうやったら挽回できるかと言うことで占められて、たった今マニが見せた……そこに転がっている違和感に、彼はまだ気づいていなかった。

 



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どこへなりとも立ち去るが良い

 今思えばマニという兎人は、初めからおかしかったのだ。鳳はつい最近まで別の世界で生きていたから、獣人(リカント)という亜人種について何も知らなかった。そのため、そこに転がっている違和感に、全く気づくことが出来なかった。

 

 いや、そもそも、この狼人だらけの集落にあって、たった一人の兎人が、ちょっと変わったことをしていても、それに気づかなかったとしても仕方ないことだろう。狼人と兎人は、生活習慣から死生観に至るまで、まるで別の種族なのだ。それは今回の南部遠征で、兎人に出会ったことでよくわかった。いや、よく分かったからこそ気づけたのだ。マニはどう考えても普通の兎人ではない。

 

 鳳がそのことをはっきり意識したのは、罠猟をしていたマニに避けられて、嫌われちゃったのかなと、がっくり肩を落としたすぐその後のことだった。

 

 鳳はマニに逃げられた後、もはやハチを探す気力もなくなり、さっさと集落に帰ろうと踵を返した。しかし、このまままっすぐ帰ればマニと鉢合わせしてしまい、それも気まずいと思ったので、いつものように道草を食って帰った。

 

 彼からしてみれば、森は宝の山なのだ。南部遠征で色々と摘んできた薬草や種もあるから、せっかくだから育ててみようかななどと思いつつ……ノロノロとした足取りでガルガンチュアの村まで帰り着いた時には、日が暮れそうになっていた。

 

 そう言えば、帰ってきたばかりで食料が厳しい。今日はどうしようか? ガルガンチュアにたかるか、ギルドに行って何か分けてもらおうかしら……などと思いつつ、村の外れに差し掛かった時だった。

 

「ふざけんじゃねえー! バカヤロー!!」

 

 キンキンと脳みそに響くような、甲高い怒鳴り声が鳳の鼓膜を刺激した。大人と子供の丁度中間点くらいの、そんな独特の声色である。小指で耳穴を塞いで目をパチクリさせながら、一体全体どうしたんだろうかと声のする方へと歩いていったら、人だかりが出来て、その中央でハチが暴れていた。

 

 また、あいつが癇癪を起こしたのか……半ば呆れながら、今度の相手は誰だろうかと近寄っていったら、ハチに踏みつけられるように地面に転がっているマニが見えた。

 

「馬鹿にすんな! 馬鹿にすんな!」

「痛いっ! 痛いっ!! やめてよっ、ハチくん! そんなつもりじゃ無いんだ。悪気は無かったんだ」

「ふざけるなっ! おまえは俺を馬鹿にした! 絶対絶対許さない!!」

 

 それは喧嘩なんて呼べるようなものじゃなく、マニが一方的に殴られているだけのようだった。傍目にはポカポカと音を立てるような可愛らしい攻撃にしか見えなかったが、ハチの指先には鋭い爪が生えている。それにざっくりとやられた経験があるから、鳳はこのままじゃまずいと思って飛び出していった。

 

「おいこら! なにやってんだ!? おまえら友達なんだろう?」

 

 ハチは突然飛び出してきた人影に一瞬気を取られてぽかんとしていたが、それが憎き鳳だと気づくと、途端にギラギラとした目つきに切り替わり、ブンッとその爪を振り回してきた。

 

「黙れっ! 黙れぇーっ!!」

 

 鳳はその攻撃を必死に避けながら、周囲でぼーっと見ている大人たちに向かって、

 

「あんたらも見てないで止めないか! このままじゃマニが死んじまう。決闘でもない私闘はご法度だろうがっ!」

 

 彼が叫ぶと、周りを取り囲んでいた村人たちは、ハッと我に返り、それもそうかと慌ててハチを羽交い締めにした。そして、もういいだろう? と言いながら彼のことを引きずっていく。ハチはそれでも離せ離せと大暴れしていたが、大人の力にはかなうはずもなく、声が遠ざかるにつれて、徐々にトーンダウンしていった。

 

 鳳はそんなハチのことを冷や汗を垂らしながら見送ると、血だらけになって地面に転がっていたマニの元へと駆け寄っていき、

 

「おい、大丈夫か? ひでえ怪我だな。一体何があったんだよ!?」

 

 しかし、マニはハァハァと息を荒げるだけで何も答えない。鳳はとにかく傷の手当が先決だと思い、彼の体を視診していると、ふと、マニの右手にさっき彼が獲ったウサギの死骸が握られていることに気がついた。

 

 なんでこんな物を後生大事に持ってるんだろうかと疑問に思っていると、

 

「マニがそれを施そうとしたんだ」

 

 騒ぎを遠巻きに眺めていた村人の一人が言った。

 

「ハチは半人前だ。狩りが下手。だから毎日お腹がグーグー鳴ってる」

 

 曰く、ハチの狩猟下手は深刻で、数日に一度食料にありつければ良いような有様だった。大人たちはまだハチに成人は早かったと思って、彼を子供に戻そうかと話し合っているくらいだった。

 

 マニはそんな彼のことを不憫に思い、こっそり獲ってきた獲物を分けてやろうとした。しかし、この村では獲物を取れることこそが大人の証である。なのに、大人であるハチが子供のはずのマニに施しを受けるなど、屈辱以外の何物でもなかった。

 

 故にハチはマニの厚意を侮辱と受け取り激怒した。村人たちはその理由を知っていたから、手を出していいかどうか分からず、遠巻きにそれを眺めていたらしい。マニは殴られても仕方ないことをしたという感覚なのだ。

 

 しかし、腹を空かせているのは確かだろう。武士は食わねど高楊枝と言うが、いくらなんでも闘争心が異常すぎる。例え餓死してでも他人の施しは受けないと言う、それが狼人という種族のプライドなのだろうが、それで助けてやろうとしている友達を拒絶するのでは、この部族の先行きは真っ暗だろう。本当に大丈夫なんだろうかと不安になる。

 

 もしかするとマニもそう思っているのだろう。だから彼は、無理を承知で勇者領へと留学させてくれと言い出したのかも知れない。何しろ彼は狼人ではなく、兎人なのだ。そんな彼に、狼人のようなアホみたいなプライドはないだろうから。

 

 マニは鳳の手を叩くようにして、治療を拒否して去っていった。ずるずると片足を引きずるその背中に、鳳は掛ける言葉が見つからなかった。

 

*********************************

 

 昼間にあんな騒ぎがあったというのに、夜にはもう、集落はいつも通りになっていた。気の荒い村人が多いせいか、小競り合いなど日常茶飯事で誰も気にしないのだ。問題は、殴り合いの喧嘩があったということじゃなくて、ハチが腹を空かせているということなのだが、その点もあんまり深刻には捉えられてはいないようだった。

 

 何しろ、当の本人が拒絶しているのだから、そんな相手に、おまえはまだ半人前だから子供に戻れと言っても、余計な怒りを買うだけだろう。だからもう少し様子をみようというのが、この村の大人たちの大方の意見のようだが……ことが起きてから対策を講じるようでは遅きに失する。だが、大抵の人間はそのことに気づかないものである。

 

 せめて、死なない程度に何か食料を与えられればいいのだが……また以前みたいに適当に騒ぎを起こして宴会でも始まれば、ハチも肉にありつくことが出来るかも知れないが、それでは根本的な解決にはならないだろう。毎日宴会をするわけにもいかないのだし、せめて友達のマニの厚意くらい、素直に受け取ればいいだろうに、どうしてあんなに頑固なのだろうか。

 

 それにしても、マニの方は大したものである。ハチと同い年だと言うのに、もう自分の将来のことを考えて、留学を決意したり、狼人の集落で負けじと自分の狩りの仕方を確立している。

 

 狼人と兎人という身体能力の差を子供の頃から突きつけられていたからこそ、そうやって自分のことを考えられるようになったのだろうか。彼には狼人のような狩りは不可能だから、色々考えてあのスタイルを編み出したのだろう。

 

 今は簡単なくくり罠しかやってないようだが……鳳は釣りをするから、いつか機会があったら教えてやろうと思った。考えても見れば、罠を使う獣人なんて居ないのだから、川にウケを仕掛けても、誰かに邪魔される心配もないし、入れ食いなのではなかろうか。早速明日にでも……

 

「罠を使う獣人は居ない?」

 

 鳳は寝転がっていた寝床からグイと上体を跳ね起こした。立て付けの悪い家全体がグラグラと揺れ、隣の部屋で寝ていたジャンヌが、う~んと唸り声を上げる。森の夜は早いから、今はもう深夜と呼べる時間帯だった。どこぞの家からは、野獣共がセックスに勤しむ喘ぎ声が聞こえてくるが、そいつらはともかく、ジャンヌたちを起こさないように静かにしなければならない。

 

 いや、そんなことより、マニである。

 

 昼間見かけた彼は、明らかに罠猟を行っていた。それは力の弱い彼が編み出した最善の策であることは認めよう。そうではなくて問題なのは、罠のような複雑な機能を持つ道具を、獣人である彼が作り出したと言うことだ。

 

 あの南部遠征中の夜にレオナルドと話し合った時、人間と獣人の違いについて彼は言った。それは創造性の有無だと。実際、鳳は兎人に散々挿し木の作り方を教えたのだが、彼らは最後までそれを理解することが出来なかった。勇者領で獣人たちが奴隷にされているのも、恐らくガルガンチュアの村の家がどれもこれも粗末なのもそれが原因だ。

 

 ところがマニは、獣人には出来ないはずの複雑な道具を作り出すことが出来るらしい。それは何故だ?

 

 思い返せば、この狼人の村にあって、彼一人だけが流暢に会話をしていた気がする。それは彼だけが兎人だから……きっと兎人というのは、狼人よりもコミュニケーション能力が高いからだと、勝手に勘違いしていたのだが、実際に南部で兎人たちと会った限りでは、全然そんなことはなかった。

 

 明らかに、マニは他と違っている。特別なのだ。

 

 彼は一体、何者なんだ? なんでこの集落に、たった一人で暮らしてるんだ?

 

「きゃあああああああああああーーーーーーーーーっ!!!!!」

 

 鳳がそんなことを考えてる時だった。突然、すぐ近くの家から悲鳴があがった。

 

 人が寝静まった深夜である。その物凄い声に飛び上がって驚いていると、同じくその声に起こされたらしきジャンヌとメアリーが、隣の部屋からなんだなんだ? とやってきた。

 

「どうしたの? なにかあったの?」「わからん。いきなり悲鳴が上がって」「どっちの方角かしら?」「あっちは……まさかガルガンチュアの家か?」「大変! 族長のところへ急ぎましょう」

 

 眠ってるところを無理やり起こされたからか、半覚醒状態のジャンヌがふらつきながら腰のものを取って立ち上がる。鳳たちはメアリーに家で待ってるように言って外へ出た。彼女はあまり興味がなかったらしく、すぐに自分の寝床に戻っていった。

 

 鳳たちが駆けつけた時にはもうガルガンチュアの家の周りには人垣が出来ていた。彼らがその輪の中に入った後からも、次から次へと村人たちが駆けつけてくる。ぎゅうぎゅうと押し出されそうになるのに抵抗しながら、どうにかこうにか前方を見やると、ガルガンチュアの家の前で複数の人影がもつれ合っているのが見えた。

 

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 

 キャンキャンと、子犬の鳴き声のような、誰かの謝罪の言葉と、

 

「駄目だ! おまえを絶対に許さない!」

 

 簡潔だが、それだけに胸に突き刺さるような重低音が耳朶を打つ。

 

 ぶるぶると空気を震わせているかのように、腹の底にズシンと響くような声が、その声の主の怒りの程を表しているようだった。狼人とはそもそも存在自体がオオカミそのものなのだ。聞いているだけで恐怖を覚えるようなその声に尻込みしつつ、一体何が起きているのか状況を確認しようと、鳳が人をかき分けて前に出ると、騒ぎの中心に居たのはなんとハチとガルガンチュアだった。

 

 族長のガルガンチュアが、物凄い形相で、まだあどけなさの残るハチのことを睨みつけている。問題児のハチが何かしたのは明白だったが、それよりも驚いたのは、普段の彼からは想像出来ないほど興奮し、怒りを顕にしているガルガンチュアの姿だった。

 

 あの2メートルを優に超える巨躯が容赦なしにハチのことを、鋭い爪で切りつけ、殴りつけ、蹴り上げる。その度にキャインキャインと情けない悲鳴が上がって、周囲を取り囲んだ人々が、ビクリと肩を震わせている。

 

 ガルガンチュアの攻撃は熾烈を極め、一振りごとに血しぶきが舞うほどだった。このままじゃハチが死んでしまうのは誰に目にも明らかだったが、族長が怖くて誰も止められないようだった。

 

「ぞ、族長さん! そこまでよ。それ以上やったら、彼、死んじゃうわ」

 

 それでも勇気を振り絞って、ジャンヌは一歩前に踏み出ると、興奮して手がつけられなくなっているガルガンチュアの腕を掴んで、彼のことを止めようとした。

 

 獣王は一度はその手を振りほどいて、再度ハチを殴りつけようとしたが、すぐにハッと我に返ると、彼を止めようと必死に腕を引っ張っているジャンヌの方を見て、次第に落ち着きを取り戻していった。

 

 多分、自分と同等以上の力を持つジャンヌだから出来たことだろう。きっと鳳や、他の村人たちが彼を止めても、こうはならなかったに違いない。周囲を取り囲む村人たちから、安堵のため息が漏れる。

 

 そんな空気の中で恐る恐るとジャンヌはガルガンチュアに尋ねた。

 

「それで一体、これは何の騒ぎ? 普段のあなたからは想像できないわ」

 

 ガルガンチュアは、グルルルーーーー……っと、大型犬の唸り声のような声を暫く上げた後、一言一言、絞り出すように言った。

 

「ハチが、俺の家に忍び込み、女に手を出そうとしたのだ」

「……え? 女……?」

 

 女とは、ガルガンチュアの複数いる嫁のことだろうか。子供が居ないからあまり目立たないが、族長の彼には何人もの妻がいる。簡単に言えばハーレムを形成しているわけだが……

 

「俺のフリをして、女に手をだそうとしていたのだ。妻帯が認められてない男が、子供を作るのは駄目だ。俺たちの村では、絶対に許されない行為。ハチは掟を破った」

 

 つまりハチが夜這いをかけたということか……つい最近まで子供だった彼に、うっかり寝取られかけたと考えれば、その怒りも分からなくもないが。それにしても、あの普段はどっしりと構えているガルガンチュアからは想像も出来ないほどの怒りようである。未遂だったんだし、なにもそこまで怒らなくても……と鳳は思ったのだが、

 

「なんだと!?」「ハチのやつめっ!」「やはり、こいつに成人は早すぎたのだ!」「そんなことはどうでもいい、死刑だ!」「殺せ! 殺せ!」「生かしておいては沽券に関わる、ガルガンチュア、やってしまえ!」「生かすな、殺せ!!」

 

 理由を知った瞬間、周囲の人垣から湧き上がった怒号に、鳳は面食らってしまった。獣人はセックスばっかりやってるイメージがあったから、夜這いを程度は頓着しないと思っていたが、大間違いだったらしい。どうやら、この集落で強姦は死罪に値する重罪のようだ。

 

 ボロボロになったハチが村人たちに引きずり出される。このままじゃ本当にリンチで死んでしまうと思った鳳は、慌てて彼らの間に入ろうと駆け寄ると、同じことを考えていたらしきマニが別の方向から駆け寄ってきて、彼に覆いかぶさるようにして村人たちに向かって言った。

 

「待って下さい! 死刑はいくらなんでもやりすぎです!」

「黙れマニ! そこをどけ!」「何故死刑囚を庇うんだ」「掟を守らぬなら、おまえも同罪だ!」

 

 しかし興奮する村人たちは聞く耳を持たない。ハチを守ろうと覆いかぶさるマニのことをグイグイと引き剥がそうとしている。鳳はそんな興奮する人々の間に割って入ると、

 

「まあまあ、ちょっと落ち着きましょうよ。死刑にするというのなら、その前に何があったのか、ちゃんと本人の弁明を聞いておかなきゃ不公平じゃないですか。それに、聞く限りでは、彼は手を出そうとしたところ拒否されて、事が露見したんでしょう? ってことは、まだ未遂じゃないですか。それなのに死刑にするってのは、流石にちょっと行き過ぎなのでは?」

「うるさい! 小難しいことをべらべらと。よそ者は引っ込んでろ!」

「いやいや、俺も妻帯を許された村の仲間でしょう? 意見するくらいはいいじゃないですか」

「なんだとっ!!?」

 

 鳳の言葉も興奮する村人たちには届かなかったらしく、彼らは小生意気な鳳にギラギラとした視線を向けてきた。どうやら怒りの矛先がこっちに向いてしまったっぽい。あ、こりゃやばい……と思った鳳は、かくなる上はジャンヌに頼ろうと目配せをしようとした時だった。

 

「静まれ! 静まれ! 戦士たちよ!!」

 

 キーーン! っと耳をつんざくような大喝が辺りにこだました。キンキンとする耳を指で塞いで、声のする方を見れば、ガルガンチュアと一緒に村の長老が口をフガフガさせながら立っていた。

 

 興奮していた村人たちは長老の姿を見ると、毒気を抜かれたかのようにシュンと項垂れ、今正に掴みかからんとしていた鳳をどんと突き飛ばして一歩引いた。長老は村人たちが静まって、自分に注目しているのを見計らうと、

 

「話は聞いた。ハチは村の掟を破った。強姦は死罪だが、ツクモの言う通り、ハチはまだやってない。だから殺さず、追放処分とする」

 

 長老がそう宣言すると、村人たちは互いに顔を見合いながら、それが妥当かどうか話し合っていた。やがて、長老の提案が受け入れられると、周囲のざわつきは収まっていき、人々の視線が今度は族長のガルガンチュアへと向いた。

 

 彼は村人たちの視線を受けて一歩踏み出すと、

 

狼人(ウェアウルフ)ハチよ。おまえはもう俺の子供じゃない。俺たちの仲間でもない。この村はおまえを受け入れない。どこへなりとも立ち去るが良い」

 

 ガルガンチュアのその言葉を受けて、マニに覆いかぶさられていたハチは、邪魔な友達をドンと突き飛ばし、怯えるような視線を周囲に投げかけてから、四つん這いになって、まるで本物のオオカミみたいに駆けていった。

 

 彼が通り過ぎたあとには血がボタボタとたれていて、そのままでは死んでしまうと思った鳳は、なんとか彼に追いつけやしないかとその後を追った。しかし血痕は森まで続いていて、夜の暗闇の中では、それ以上追うことは出来なかった。

 

 ガサリと木の葉を踏む音がして振り返ると、彼と同じくハチを追いかけてきたマニがいた。二人は森の中へ目を凝らしながら、周囲が明るくなるまで、じっと横に並んで佇んでいたが、ハチが帰ってくることはもう二度と無かった。

 



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それはさておき、共有経験値である

 ハチが追放されて一夜が明けた。ガルガンチュアの集落は平常通り、誰も彼が居なくなったことを気に掛けてる様子は窺えなかった。冷たいようだが、獣人……特に狼人は仲間意識が強いためか、だからこそ掟破りには容赦ないのだろう。鳳はこの集落に来てから、族長であるガルガンチュアがあんなに怒っている姿を見たのは初めてだった。

 

 それにしてもハチは何故、族長の女に手を出そうなんて無謀なことをしてしまったのだろうか。

 

 事件の翌朝、現場を調べていたガルガンチュアが言うには、家の食べ物がなくなっていたそうである。多分、ハチは空腹から食べ物を盗みに来て、首尾よく腹を満たした後、そこに女がいることに気づき、ついムラムラとして襲ってしまったのではないか……

 

 食欲の次は性欲とは、正に獣そのものの短絡的な思考であるが、動物はその欲求に抗えないのだ。

 

 ハチは成人と認められ、日々生きる糧を自分で得なくてはならなくなった。本当はそんな能力は無かったのに、その有り余るプライドのせいで引っ込みがつかず、誰かに頼ることが出来ずに、いつも腹を空かせていた。それに気づいていたマニは、彼に食料を与えようとして、かえってハチのことを傷つけてしまった。

 

 ハチのアイデンティティは誰かを見下すことで成り立っている。彼にとってマニは見下される対象でなくてはならないのだ。そのマニが、自分には取れない獲物を取ってきて、あまつさえ、それを施そうとするだなんて、到底許されることじゃなかった。

 

 ところが、そうやってマニを拒絶するハチを見て、周りの大人達は寧ろその闘争心を買ってしまった。実際のところ、ハチがまだまだ狩りが下手なことはみんな知っていた。だからそのうち音を上げるだろうと思っていたのではなかろうか。ところが、そんなハチがプライドを見せて、自分ひとりでやると宣言したのだ。狼人にとって誇りは命よりも代えがたいものである。ならば、もう少し様子を見てみようと思うのは仕方ないことだったかも知れない。

 

 だが、それでハチの狩りが上手になるわけもなく、彼の空腹が満たされることもなかった。ハチだって全く狩りが出来ないわけじゃなく、たまになら小動物を狩ることも出来ただろう。だが毎日ではない。それで食いつないでいたとしても、いずれ限界が来る。そしてついに、その限界が訪れた時、彼はふらふらと族長の家に忍び込んでしまったのだろう。

 

 そうして空腹を満たした後、彼は思ったはずだ。自分がこんなに苦労しているのは大人になったからなのだ。大人になったのだから、じゃあ女を抱いたっていいじゃないか。生意気なマニは、自分よりも上手に獲物を狩ることが出来る。だが、女を抱くのは自分の方が先だ。先に大人になった自分なのだ……

 

 本当は、まだまだ子供だった彼の成人を早めたのは、間違いなく鳳との決闘が切っ掛けだろう。彼はあの日、大きな鹿を狩って帰ってきたことで、成人を認められることとなったわけだが、あの鹿を狩ったのは実は彼じゃなかったことは、マニが罠を張っていたことで、鳳も薄々気づいていた。

 

 マニはハチが追放されたあの日以来、森でよく見かけるようになった。もしかすると、怪我を負ったハチがどこかで野垂れ死んでいないか気になっているのかも知れない。最近、森で見かける彼は、罠を仕掛けている姿を隠さなくなった。大人たちは罠を張る彼の狩猟法を、卑怯だなんだと揶揄していたが、彼はそんな言葉は意に介さずに、黙々と獲物を取っていた。

 

 知らなかったのだが、彼は少し前から自分の食事は自分で用意するようになっていて、大人たちの手を煩わせなくなっていたようだ。ある日、長老がいそいそと出掛けていく姿が見えたので、どうしたんだろうかとついていくと、彼はマニのところへ行って、いつぞやの鳳にしたように、彼の成人を認めていた。

 

 マニは誰に知られることもなく、一人で大人になったのだ。それは友達が居たからか、それとも友達が居なくなったからなのか。

 

 鳳はそんなマニを、ある日、釣りに誘ってみた。罠猟だけではなく、釣りも出来ればきっと生活の足しになるだろう。マニは鳳のことを少し苦手にしているのか、最初はちょっとだけ難色を示したが、すぐに新しいことを覚えられる利益が勝ち、彼の誘いに応じて一緒に川までやってきた。

 

 鳳は釣り糸の作り方、釣り針の加工法、仕掛けばりの作り方、鉛を叩いてスプーンを作る方法、そして実際の釣りのコツを教えてやった。マニは教えられたことをすぐにマスターし、自分用の釣具一式を自分で用意出来るようになった。

 

 ペンチやニッパーを使い、器用に釣り針を整形する彼を見ていると、そこに人間との違いは感じられなかった。しかし、獣人は本来こういう作業は苦手のはずだ。苦手というか、まるで出来ないはずなのだ。なのに、どうしてマニはこんなに上手に出来るのだろうか?

 

「……さあ。そんなこと言われても僕にもわかりませんけども」

「あと、その喋り方も、おまえだけ村の連中とは違うよな。なんつーか、テニヲハがしっかりしてるっつーか、一文が長いっつーか……普通の人間と話してるような感覚なんだ。どうしておまえだけが、この獣人の村に居て、なんつーか、そう、まともなんだ?」

「そんなの僕に言われても……村の人達みたいな方が、僕には喋りづらいからとしかいいようがないですよ。お兄さんだってそうでしょう? 今からあんな風に喋れって言われたら、困っちゃうでしょう?」

「……確かに」

 

 マニは少しうつむき加減に、誰ともなく呟く感じで、心境を吐露した。

 

「僕は、あんな風に、怒ってるんだか、笑ってるんだか、わからないような喋り方は出来ませんよ。不安になってしまう。みんなが何を考えてるんだかわからないから、だから僕の言葉は多くなる。一生懸命喋って、気持ちを伝えて、誰かが笑ってくれたら、それでようやくホッとするんです。お兄さんは、僕の方がまともだって言うけども……あの村で暮らしていると、僕のほうがずっと変なんじゃないかって。みんなの気持ちが分かってないんじゃないかって、そう思ってしまうんですよ」

 

 その気持ちは何となく分かった。狼人というのは、表情も言葉も少ないから、とにかく感情を読み取るのが難しいのだ。最近は、尻尾の動きや、声のトーンでなんとなく分かるようになってきたが……あんな無表情で感情表現を苦手とする人種に育てられた子供は、一体どんな風に育つんだろうか。

 

 ハチとマニは両極端だが、やはり同じ部族の子供なのだ。

 

「……なあ? おまえって、どうしてこの村で一人だけ、兎人なんだ?」

 

 鳳の言葉が聞こえなかったのか、それとも意図的に無視しているのか、マニはその問いに答えようとはしなかった。

 

********************************

 

 ハチの追放は一人の少年の心に深い傷を残したが、それで何かが変わるほど、世界は優しくもなんとも無かった。

 

 鳳たちが南部遠征から帰ってきてからも、オアンネス族の目撃情報は、続々と冒険者ギルドに入ってきていた。南部と比べればその数は全然マシと言えたが、それでも少しでも気を抜くと、空いた隙間を埋めるように、そこに魔族が侵入してくる。なんとかして根源を絶ちたいと思ってはいるが、北部の部族社会は、みんなそれぞれ自分たちの近くの驚異を排除するので手一杯といった感じで、まだ原因を特定するには至っていなかった。

 

 鳳たちはそんな状況下で、ガルガンチュアと協力して、近隣に侵入してきたオアンネス族を駆逐して回った。良い経験値稼ぎになると思っていたのだが、残念ながら鳳の共有経験値はさほど上がらなかった。

 

 そもそも、南部でも何度もオアンネスのコロニーを潰してきたはずなのに、ギルドに報告して得られた経験値はそれに見合ったものではなかった。恐らく共有経験値は、同じことをやっても、最初の一回は沢山入るが、二度目からは殆ど入らないようになってるのだろう。

 

 まあ、考えても見れば、以前、鳳がクマを退治した時にも共有経験値は入ったことがあるが、その程度のことで毎回入るなら、日常的に狩猟をするような生活を送っている今、レベルが数百とか数千とかまで上がっていても不思議ではない。そうならないためにも、最初の一回だけというルールは、ゲームシステム的にも妥当と思えた。

 

 ゲームシステム的に……言い得て妙だが、もし神様がいるというなら、今頃どんなサイコロを振っていることやら。鳳は自分の置かれた立場が、神の恩寵によるものなのか、それともマッドサイエンティストの実験台の上なのか……いつまでも判断できずに、もどかしく思っていた。

 

 それはさておき、共有経験値である。

 

----------------------------

鳳白

STR 10↑       DEX 11↑

AGI 10↑       VIT 10↑

INT 10↑       CHA 10↑

 

BONUS 2

 

LEVEL 6     EXP/NEXT 210/600

HP/MP 100↑/50↑  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 300

鳳白           ↑LVUP

ジャンヌ         ↑LVUP

メアリー         ↑LVUP

ギヨーム         ↑LVUP

ルーシー         ↑LVUP

----------------------------

 

 南部遠征から帰ってきて得られた共有経験値は、長期に渡る難易度の高いクエストだったからか、いつもよりも多めに入っていた。具体的にはいつもの三倍である。

 

 他にも、鳳のレベルが上がり、ボーナスポイントが割り振られたのだが、以前、使わずにおいたボーナスポイントと合わせて2になっていることから、この数値はどうやら溜め込むことが出来るようである。

 

 同じく、共有経験値も300と言う数字が表している通り、使わずに溜めておくことが出来そうだ。そうすることによって、何か得があるのかと言えばそれは分からないが、今後、考慮しておくにこしたことはないだろう。

 

 なにはともあれ、久々に得られた経験値をどう割り振るかを考えねばならない。鳳はある日、ギルドの応接室にパーティーメンバーを集めて、話し合うことにした。とは言え、ジャンヌは鳳に一任すると言うし、メアリーは興味がないらしく、ルーシーに至っては何が始まるのかすら分かっておらず、実質、ギヨームと二人でだったが……

 

「……でまあ、前回、前々回と二回続けてメアリーに振ったから、今回はギヨームに振ろうと思ってるんだが、そのあとどうするかで悩んでるんだ。久々にジャンヌの名前の横にもレベルアップの文字が見えるから、不公平感を無くすためにもジャンヌに振ってあげたいんだけど……多分、こいつのレベルを上げたら、経験値が200か、場合によったら300使っちゃうかも知れないだろう? しかも高レベルだから、上がるレベルも少ないだろうし。費用対効果を考えると中々踏ん切りがつかなくて」

「なるほどな……別に無理に公平感を出さなくていいんじゃねえの。俺も、レベルが上ったらラッキーくらいにしか思ってないし、気を使う必要はないぜ。それにパーティー全体の底上げという意味じゃ、神人に経験値を振らない理由もないだろう」

「でも、メアリーもレベルが上がりにくくなってるから、経験値振っても、今回は30をちょっと超える辺りで止まっちゃうかも知れないぞ?」

「それでも、新呪文を覚えるかも知れないなら悪くねえんじゃねえの。次、覚えるのは確か……」

「ライトニングボルトとプロテクションだ。防御魔法は有り難いかも知れないけど、攻撃呪文はもう間に合ってる感あるしなあ」

 

 するとギヨームはとんでもないと首を振って、

 

「待て待て、高位のライトニングボルトと下位のファイヤーボールを比べちゃなんねえぞ。単純に威力の点でも上なら、最近しょっちゅう戦ってる魚人に対しても電撃は特攻だ。今はスタンクラウドとブリザードの複合技で処理してるが、それがライトニングボルト一発になればMPの節約にもなる」

「なるほど……悪くないな」

「それでもまだ後ろめたいなら、今回は俺の経験値を放棄するから、メアリーに入れてやれ。そうするだけの価値がある」

「まあ、おまえがそこまで言うなら……それじゃあ、今回はメアリーとジャンヌでいいな?」

「ちょっと待ってちょうだい!」

 

 鳳が締めの言葉を口にすると、それまで黙って聞いてたジャンヌが慌てて割り込んできた。

 

「私のレベルを上げてくれるっていうのは純粋に嬉しいわ。でも、最初に白ちゃんが言ってた通り、今更私のレベルを1か2上げたところで、何かが劇的に変わるとは思えないわよ。パーティー全体の底上げって考えると、とてもおすすめできないわ」

「しかし、そんなこと言い出したら、おまえに経験値を振ってやれる機会なんて殆どないと思うぞ?」

「それこそ、みんなが私のレベルに追いついてからでいいじゃない」

「いや、そうは言ってもおまえのレベルって102じゃん……102なんてそうそう……いや、この方法なら案外いけるのか?」

 

 鳳が腕組みをして唸っていると、ジャンヌが諭すように言った。

 

「白ちゃん、思い出して。私達はいつもそうして来たじゃない」

 

 彼の言うそれは前の世界でのゲームでの話であるが……確かに、鳳たちは、ギルドメンバーの足並みを揃えるために、新人が入ったり、レベル差がついたら、みんなで協力してパワーレベリングをしてきた。強いプレイヤーが、弱いプレイヤーを引っ張り上げるほうが、ずっと効率が良かったからだ。

 

 それは確かに公平とは呼べないかも知れないが、長い目で見れば、ギルドメンバー全員に恩恵があった。だから誰も文句を言わずに、低級者のレベル上げに付き合っていたわけだが……この弱肉強食の現実で、そんな悠長なことをやってていいのだろうか?

 

「いや……寧ろそうすべきか。公平なんてこと考えて、パーティー全体が弱くなっちゃ元も子もない。俺はこっちに来て、既に何度か死にかけてるんだし……」

「そうでしょう?」

 

 鳳はジャンヌにうなずき返すと、

 

「そうだな。俺が間違っていた。これからは、単純に費用対効果(コスパ)だけを考えて経験値を割り振っていくことにするよ。取り敢えず、今回はメアリーが新呪文を覚えるまではメアリーに。そんで経験値が余ってたらギヨーム、それから俺の順に振っていこう」

「わかった。それでいいぜ」「私も異論無いわよ」「うう……また、あの変な音楽が鳴り響くのね」

 

 ギヨームとジャンヌが同意し、メアリーはレベルアップのファンファーレに備えて、耳を塞いで眉毛をハの字にしていた。

 

 ヒャー! ……という、メアリーのおなじみの悲鳴が応接室に轟いて、最初の経験値100が彼女に割り振られた。結果、メアリーはレベル24から30に上がり、首尾よく新呪文を覚えたらしい。

 

----------------------------

Mary Sue

STR 15        DEX 16

AGI 17        VIT 15

INT 16        CHA 18

 

LEVEL 30     EXP/NEXT 12000/300000

HP/MP 2200/390  AC 10  PL 0  PIE 10  SAN 10

JOB MAGE Lv6

 

PER/ALI GOOD/LIGHT   BT B

----------------------------

 

 共有経験値はまだ200余っている。鳳は続けてギヨームに割り振り、

 

----------------------------

William Henry Bonney

STR 13        DEX 18

AGI 17        VIT 12

INT 13        CHA 15

 

LEVEL 64     EXP/NEXT 241000/310000

HP/MP 1840/95  AC 10  PL 0  PIE 0  SAN 10

JOB Thief Lv6

 

PER/ALI NEUTRAL/NEUTRAL   BT A

----------------------------

 

 彼はレベル53から64へ。ステータス的にはDEXが1上がり、

 

「……どうやら、レベルが100に近づくにつれて、ステータスが20近辺に収束する傾向があるみたいだな」

「私のSTR23って数字は、ある意味妥当だったわけね」

 

 二人はそんな感想を述べあっていた。

 

 ともあれ、これでギヨームのDEXは18になった。たった1の補正でも、鳳という素人をそれなりに戦えるようにしたステータスが18である。ましてや、もともと射撃の腕前は百発百中と言っても過言ではないギヨームであるから、もはや的を外すのが不可能と言っていいレベルであろう。今でも1キロ先の獲物をピストルで狙撃出来るという、わけのわからない能力を発揮している彼が、今後どこまで成長するかは見ものである。

 

 さて、二人のレベルを上げ終えて、共有経験値はまだ100残っていた。鳳は最後に自分のレベルを上げようとしたのだが……

 

 その時、ふと、パーティーメンバーの一番下に、『ルーシー』の名前を見つけて、彼は自分の名前を選ぶのをやめて、尋ねてみた。

 

「……そう言えば、ルーシーって、レベルいくつなの?」

 

 それまで、どうして自分が応接室に呼ばれたのかよく分かっておらず、みんなの様子を暇そうにぼんやりと眺めていたルーシーが、突然声をかけられ素っ頓狂な声を上げた。

 

「ひぇ? えっ……レヴェル?」

「う、うむ……レヴェルだけど。きっと俺より高いよね?」

 

 すると彼女はこっくりと頷いて。

 

「そりゃ鳳くんよりは……えっと私はレベル8だよ。みんなと比べたら恥ずかしいくらいだけど、一般人ならこんなもんだよ」

「へえ、そっか。レベル8か……」

 

 となると、彼女に経験値を振ったらどうなるんだろうか? 確か、ギヨームは30代から50代まで上がったと言っていた。一桁の彼女なら、30以上まで一気にレベルが上がるんじゃなかろうか。

 

 鳳はそう考え、

 

「なあ、ギヨーム。ルーシーに経験値振るのはどうだろうか? 前も言った通り、彼女の名前もパーティーメンバーの中に入ってるんだよ。南部遠征を終えた今となっては俺たちの仲間で間違いないんだし、経験値を割り振る資格は十分にあると思うんだけど」

 

 ギヨームは鳳のその提案に、一瞬虚を突かれたような顔をしてみせたが、すぐに思い直したように、まだ髭も生えてない顎の下を指で擦りながら、

 

「ふーん……悪くないんじゃねえか? 多分、おまえの能力を使えば、一発でレベル30くらいまで上がるだろう。一端の冒険者クラスの仲間が増えると考えれば、やらない手はないだろう」

「やっぱそう思うよな?」

「だが、おまえはいいのか? せっかくのレベルアップのチャンスなのに」

「俺はボーナスポイントがあるから……」

 

 鳳がそう言って、ルーシーのレベルを上げようとした時だった。流石にこれまでの流れからして、彼が何をしようとしているかに気づいたルーシーが、慌てて彼を押し止めるように声を上げた。

 

「わー! ちょっとちょっと、鳳くん、何やってるの?」

「何って……ルーシーのレベルを上げようとしてるんだけど」

「いやいやいやいや、何をそんな当たり前みたいな顔して、変なこと言われちゃうと困っちゃうけど……そんなことしなくていいよ。私のレベルなんて上げても無駄だよ。それに多分、私はそんなにレベル上がらないと思うな」

 

 ルーシーはグイグイと顔を押し付けんばかりに近づけて、全力で拒否しようとした。鳳は滅茶苦茶近い彼女の顔をまともに見れず、頬を赤らめながら、どうしてそんなに嫌がるのかと不思議に思い、

 

「いや、今後も依頼の時についてくるつもりがあるなら、レベルを上げといた方が良いと思うんだけど。今回は荷物持ちしかさせられなかったけど、もし君にやれることが増えたら、パーティーとしては非常に助かるから」

「え? また一緒についてっていいの?」

「あー……もしかして、今回ので懲りちゃったの? なら、無理強いはしないけど……」

 

 鳳がそういうと、ルーシーはブンブンと首を振って、

 

「ううん! 私、役立たずだったから、もう呼ばれないと思って……また連れてってくれるなら嬉しいな。ここでミーさんのお手伝いしてるのもいいけど、私にだってやれることがあるなら、そっちの方が断然いいもん」

「なら上げとけよ。剣を覚えるにしても、銃を扱うにしても、素のステータスが高いに越したことはねえぞ」

 

 ギヨームがそう推奨する。しかし、彼女はそれでも難色を示しブルブルと首を振って、

 

「やっぱり、私のレベルを上げるのはおすすめしないよ……その……きっと私、そんなにレベル上がらないと思うんだ。ステータスも低いままだと思うし……荷物持ちならさ! 今まで通りちゃんとやるから……それは鳳くんに使ったほうが絶対いいと思うなあ」

 

 ルーシーは頑なに共有経験値をもらうのを遠慮したいようだった。

 

 一体、何がそんなに嫌なんだろうか……? 普段の彼女の謙遜は好ましかったが、度を越えては不快にすら思える。どうやら彼女は異常に自己評価が低いようだが、何かトラウマでもあるのだろうか……

 

 鳳は、正直、無理強いするのはよくないと思いつつも、何となく、彼女のその謙遜が気になって、どうしても彼女に経験値を振ってやりたくなった。きっと、彼女もレベルが上がったら、自分に自信がつくだろう。

 

 ちらりとギヨームの顔を見たら、彼も同じように考えていたのか、やっちまえといった視線を投げてきた。鳳はそれを受けて、怒られたらギヨームのせいにしようと思いつつ、パーティー欄のルーシーの横にある、レベルアップの文字をポチッと押した。

 

「ふぇ……? きゃあああーーーっっ!!!」

 

 その瞬間、ルーシーの体がピカピカと光りだし、突然の出来事に驚いた彼女が悲鳴を上げた。ドタドタとギルドの奥から足音がして、迷惑そうに眉間に皺をよせたミーティアがひょっこりと顔を覗かせた。彼女は応接室の真ん中で、意味不明の光(一体何が光ってるのか?)を発しているルーシーの姿を見つけて、顎がはずれるんじゃないかと言わんばかりに大口を開けながら、

 

「わわっ!? 何事ですか!? ルーシー、大丈夫ですか? ちょっと、鳳さん。なにやってくれてんですか、あんた!」

「いやいや、速攻俺のせいだって見破らないでっ!?」

 

 鳳はミーティアに詰め寄られてビクビクしながら、

 

「ちょっとルーシーのレベルを上げていたんだよ。この光は別に害はない。そう言えば……ジャンヌの時も、ギヨームの時も、最初はこんな光を発してたよな?」

 

 鳳が話を向けると、二人は言われてみればそうだったなと、過去を懐かしむような表情を見せてから同意した。というか、寧ろメアリーの時は何故光らなかったのか、そっちのほうが不思議である。

 

 ともあれ、今はそんなことを気にしている場合じゃない。

 

「それでルーシー、レベルの方はどうなった?」

 

 鳳がミーティアを押しのけて尋ねると、ようやく光が収まったルーシーは呆然と目をパチクリさせた後、ほっぺたをぷくっと膨らませて非難するような視線を見せながら、

 

「もう……鳳くん! 勝手にこういうことしないで欲しいなあ……」

 

 じろりと藪睨みされて、鳳は縮こまる。

 

「う、すんません……押し問答になっちゃいそうだったから……反省してます」

「もう……今回だけだからね」

 

 ルーシーはそう言ってぷいっと視線を反らした後、すぐ仕方ないなあといった感じに、眉をハの字に曲げつつも苦笑をして見せた。ちょろい。なんか、お願いしたら何でも言うことを聞いてくれそうである。そんなこと言ったらまた怒られそうなので口には出さず、鳳は再度レベルについて聞いてみた。

 

 すると彼女は困ったように、

 

「えー……もし上がってなくても、がっかりしないでよね」

 

 と言いながら、ステータスと小さく呟いた。鳳は、どうしてそこまで自分の能力を過小評価するんだろうかと思いつつ、彼女の返事を黙って待っていた。すると、ルーシーは自分のステータスを見ながら、徐々に険しい表情に変わっていき、

 

「う、うそ……」

 

 その表情が深刻そうだったから、鳳はもしかして、彼女が危惧している通り、あんまりレベルが上がらなかったのかな? と落胆仕掛けたのだが、

 

「上がってる……」

「いくつ?」

「……35」

 

 彼女はそう呟いて、とても信じられないとショックを受けた感じに表情をなくした。

 

----------------------------

ルーシー

STR 10        DEX 11

AGI 13        VIT 12

INT 14        CHA 10

 

LEVEL 35     EXP/NEXT 0/100000

HP/MP 757/292  AC 10  PL 0  PIE 10  SAN 10

JOB MAGE Lv1

 

PER/ALI NEUTRAL/NEUTRAL   BT A

----------------------------

 

 今までの経験からして、それは妥当な数字だと思うのだが……どうして彼女はそこまでびっくりしているのだろうか……

 

 正直少し不思議ではあったが、ともあれ、こうして新たな仲間を得た鳳たちは、冒険者パーティーとしての新たな一歩を踏み出すこととなった。

 



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ん?

 仲間に経験値を分配した翌日、鳳は村の自分の家で、今度はボーナスポイントをどう割り振ろうか考えていた。

 

 鳳が現在手にしているボーナスポイントは2。今までに振ったステータスは、DEXとMPで、効率を考えたら少しでも射撃が上手くなるように、DEXに振ったほうが良さそうに思えるのだが……

 

 気になるのは一番初めにMPを振った時、1ポイントで50もMPが増えたことである。あの時はなんとも思わなかったが、メアリーがMP不足に悩まされる姿を見た今となっては、この50という数字が、いかに破格であるかは言うまでもないだろう。

 

 そう考えるとMPのみならずHPに振るという選択肢も浮かんでくる。鳳は今までに2度も死にかけたわけだが、例えばハチにボコボコにされていた時、HPがもっとあったら、もう少し粘れていたかも知れない。

 

 割と何にでも首を突っ込む鳳であるから、今後も似たようなことがないとも限らないので、ここらでHPを上げておくのは悪い選択肢ではないだろう。

 

 尤も、HPもMPみたいに、どどんと増えるとは限らない。意外とMPと一緒で50しか上がらない可能性もあり、もしもそうなら目も当てられない。だからホントに振るとしたら、もっとボーナスポイントが増えてからにしたいところだが……

 

 ぶっちゃけ、このボーナスポイントも、どうしたら入るのかよく分かっていなかった。今の所、レベルアップのタイミングで増えているから、レベルが上がればボーナスも貰えると考えて良さそうなのだが……そのレベルが上がるタイミングというのが、依頼を達成したり死にかけたりと、イベントの直後に集中しているもんだからややこしいのだ。

 

 それを知るための手っ取り早い方法は、自分のレベルを共有経験値で上げてみることだが……今回はルーシーに譲ってしまったが、次回こそは自分に割り振ろうと考えていると、件のルーシーが、村にひょっこりと姿を表した。

 

「あら、ルーシーちゃん、いらっしゃい。村に顔を見せるなんて、珍しいわね。今日はどうしたの?」

 

 ジャンヌの言う通り、ルーシーが村に来るのは珍しかった。もしかしたら初めてではなかろうか。人好きのする彼女のことだから、すぐにみんなと仲良くなりそうなものだが、思えば彼女はこっちに来てから駐在所にこもりっきりで、村に近づこうとはしなかった。

 

 そう言えば酒場の店員時代、よく獣人に絡まれていたから、もしかすると苦手なのかも知れない。もしそうなら尚のこと、どうして突然やってきたのかと思っていると、

 

「鳳くん、ジャンヌさん、こんばんわ。えへへ、実はね、昨日のお礼にと思って、ミートパイを焼いてきました。ギルド酒場で働いてた時、マスターに教えてもらったレシピなんだけど、よかったら食べて欲しいな」

「まあ、嬉しい。丁度、今日のお夕飯、何にしようか困ってたとこなのよ」

 

 別にそんな話、一言もしちゃいなかったのだが、咄嗟にそうやって相手を気づかえるくらいにジャンヌの人間力というか女子力は高かった。もちろん、それを腐すような野暮な真似はしない。鳳も何食わぬ顔で相槌する。

 

「良かった! お夕飯が済んでたらどうしようかと思ってたんだけど」

「そしたら、食ったもん吐いてでも食べるから安心してくれ」

「駄目だよ、そんなことしちゃ」

 

 ルーシーはニコニコしながら若干引いていた。

 

 その後、せっかく来たんだから一緒にご飯にしようと言う話になり、子供と遊んでいたメアリーも帰ってきて、四人で囲炉裏をかこむことになった。

 

 貰ったミートパイを切り分け、付け合せのスープを作っていると、家の周辺を村人たちが物欲しそうにうろうろと通り過ぎていった。それは多分、ルーシーの姿が珍しいからではなく、香ばしい匂いにつられて来たのだろうが、何しろ壁がない家だからその視線にも遠慮がない。

 

 鳳たちはもう慣れたが、注目されて居心地が悪いのか、ルーシーがずっとそわそわしているので、気分を変えようと思って、鳳は話題を振ってみた。

 

「そう言えば、結局、剣と銃とどっちで行くことにしたの?」

 

 昨日、レベルが上がった彼女は、暫し放心した後に、ようやく実感が湧いてきたのかとても喜んでくれた。鳳は感謝感激の雨あられを浴びつつ、照れくさいので平静を装いながら、これからどういう方向で育成しようかと、少し上から目線でギヨームとジャンヌに聞いてみた。冒険者としてパーティーの一員になるなら、戦闘中の役割を決めておいた方が良いと思ったのだ。

 

 ところが、ステータスから扱う武器を決めようとしたところ、彼女のSTRは10でDEXは11と、困ったことに両方とも低かったのだ。これじゃあ、近接も遠距離もそれなりにしか成長しないだろうから、せっかくレベルが上がったのに残念な結果となってしまった。

 

 落胆する彼女を可哀想とは思ったが、そんなこと言っても始まらないので、取り敢えず、鳳と違ってHPは高いんだからと励ましつつ、どっちか好きな方をジャンヌとギヨームに習ったらどうかと提案した。

 

 かろうじてDEXの方が高いから、銃を扱ったほうがいいように思えるが、人に教える向き不向きを考えると、ギヨームよりはジャンヌの方が良いので、近接も捨てがたく、結局の所、ステータスからどっちを選んでも大差ないということで、昨日は決めることが出来なかった。それで、宿題にして昨日は別れたのであるが……

 

 鳳が話を向けると、ルーシーは待ってましたとばかりにパーッと明るい表情を浮かべて、

 

「うん、決めたよ」

 

 と嬉しそうに返事をした。

 

「ふーん、どっち?」

「えへへ、実は剣でも銃でもなくって……じゃーん!」

 

 するとルーシーは持ってきた手荷物の中から、一振りの杖を取り出した。食事を運ぶのに利用する天秤棒かと思っていたが、いきなりそんなものを見せられて面食らう。

 

「え? 杖?」

「うん。鳳くん、私の方を向いて、ちょっとそこでじっとしててくれる?」

 

 鳳が言われた通り彼女に向かって正座していると、ルーシーは珍しく真剣な表情で、杖を構えてなにやらブツブツとつぶやきだし……

 

「エコエコアザラク……エコエコザメラク……むにゃむにゃ~……ッポイーッ!!!」

 

 いきなりバンザイの格好で両手を上げて、そんな奇声を発し始めた。

 

 なんだろう、これは……いきなり始まった怪しい儀式に困惑する。彼女の真剣な表情を見ていると、笑っちゃいけないんだろうが、その姿は滑稽と言うか、奇怪と言うか、控えめに言って可愛いだけだった。

 

 ルーシーにお願いされれば、そりゃ生贄でもなんでもやらされることにも吝かではないが、この状況、どう反応していいのか皆目見当つかない。どうしよう……やられたー! とか叫んで倒れるフリとかしたほうが良いんだろうかと、鳳がいよいよ追い詰められた心境になっていた、その時だった。

 

「……お? おおお~??」

 

 反応に困った鳳が冷や汗を垂らしながらルーシーの顔をじっと見つめていたら、なんだか良く分からないが、急に背筋がゾクゾクしてきたというか、ゾワゾワとしてきたというか、何故か唐突に気分が悪くなってきた。風邪でもないのに、妙に体が気だるくて、こころなしか頭も重い感じがする。

 

 ああ、なんだろう、これ……なんか調子が悪い。鳳がそう思って不審がっていると、

 

「……上手くいったかな? 鳳くん、鳳くん。自分のステータスを見てみてよ」

 

 どういうことだろうか? 言われたとおりにステータスを確認してみたが、基本ステータスにも、ボーナスポイントにも、共有経験値にも特に変化は見当たらない。突然パーティーメンバーが増えた感じでもないし……一体、どこを見りゃいいんだろうかと、彼女に尋ねようとした時だった。

 

「……あれ? 嘘だろ? SAN値が減っている……」

 

 鳳が驚いていると、ルーシーは満面に笑みを浮かべて、

 

「やった、成功だ! ふっふっふ……どうかね、鳳くん。私の呪いの力は」

「呪いって……これ、どうやったの?」

 

 ルーシーが使っていたのは、どうやら共振魔法(レゾナンス)の一種、インサニティのようだった。

 

 昨晩、剣と銃、どっちを選ぶか決めきれなかったルーシーは、夜遅くまで一人で悩んでいた。せっかくレベルが上がったというのに、このままじゃみんなの役に立てないどころか、足手まといにのままである。

 

 いっそのこと、パーティーメンバーの一員から辞退しようとも思ったが、既に貴重な経験値を使って貰った手前、そんなわがままも許されない。にっちもさっちも行かなくなった彼女が、泣きそうになりながら頭を悩ませていると……そんな彼女を不憫に思ったのか、レオナルドがふいにやってきて、それなら現代魔法を覚えたらどうかと言ったらしい。

 

 曰く。ルーシーの言葉には力がある。ギルド酒場で働いていたとき、彼女に声を掛けられた客はみんな気分が高揚して、精神的に癒やされていた。それは彼女の人好きのする性格もあるが、持って生まれた才能のようなものが大きいのだと、老人は言った。

 

 現代魔法はそんな人間の心理というか、心の隙間を突くものらしい。自分の思い描く主観と、他人が思い描く客観が一致した時、人はそこに幻想を見る。簡単に言えば、人間は集団の中では同じ行動を取りやすい。そして同じことをしている人は、周りの影響を受けやすいという性質を利用したのが、現代魔法の本質なのだとか。

 

 実際には、彼の提唱する現代魔法は、主客一致論とかもっと小難しい理論をいくつも捏ね繰り回して導かれるものらしいが、そんなことは一先ず置いておいて、とにかく魔法が発動すりゃいいのだから、コツを教えてやるから試してみたらどうかということだった。

 

 パーティーの役に立ちたいなら、剣や銃だけではなく、魔法という選択肢もあるぞと、彼は言いたかったのだ。

 

 ルーシーは、初めは仰天して、自分にはそんな難しいことは出来ないと拒否しようとしたのだが、そうしたところで、他に出来ることがあるわけでもない。それに考えてみれば、自分の職業はMAGEだったし、おまけに一番高いステータスはINTだったのだ。

 

 普通なら何の意味もないと言われているINTであったが、彼女にはそれが天から下りてきた蜘蛛の糸に思えた。どうせダメ元なんだしと開き直った彼女は、そうしてレオナルドに弟子入りし……

 

「やってみたら、出来ちゃったの?」

「うん! 出来ちゃったんだ」

 

 ルーシーは実に嬉しそうにそう言った。鳳はまさかそんな展開が待っているとは思いもよらず、もしも神がいるなら、中々粋な計らいをしてくれるじゃないかと、褒めてやりたくなった。まあ、その神様は自分の幼馴染なのかも知れないのだが……

 

 ともあれ、能力に悩んでいた彼女はこれでどうにか自信を取り戻してくれたらしい。鳳は、何気なく共有経験値を振った挙げ句に、かえって彼女を困らせてしまったかも知れないと思い、ほんの少し罪悪感を感じていたのだが、肩の荷が下りた格好だ。

 

 それにしても、本当に何となくだったのだが、彼女に経験値を振ってみて良かった。今のところ、パーティー内にオーソドックスな現代魔法の使い手は居ないのだが、たまに一緒に行動するレオナルドが使う魔法にはよく助けられていたので、その有用さは身にしみて知っている。今はまだ使えないようだが、今後、認識阻害やバトルソングのようなバフ、デバフ魔法を覚えてくれたら、作戦の幅も広がるだろう。思わぬ拾い物である。

 

 しかし、現代魔法を覚えようと思った切っ掛けが、自分のINTが一番高かったからというのは、何というか示唆に富んでいるような気がした。そして、彼女のレベルが上がったことによって、突然、現代魔法が使えるようになったこともだ。

 

 思えば、神人であるメアリーは、レベルが上がることで次々と古代呪文を修得しているのだから、現代魔法もそれに倣わない理由もない。案外、人間が魔法を使うには、レベルとINTが必要なのかも知れない。これは今後の自分のレベル上げの際にも要チェックだぞと、鳳は心に刻み込んでおくことにした。

 

 ところで、

 

「SAN値下がっちゃったけど、元に戻してよ」

「ん?」

「……ん?」

「んー……?」

 

 彼女はニコニコと満面の笑みを浮かべている。確か、時間が経てば元に戻るはずだから、まあ、別にいいのだけど……人を実験台にするのなら、ちゃんと回復手段も用意して置いてほしいものだと鳳は思った。

 

 きっと、そんなことを忘れてしまうくらい、早くみんなに伝えたくて仕方なかったのだろうけど。

 



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幻のマジックマッシュルーム

 レオナルドに師事し、新たに現代魔法(モダンマジック)の萌芽を見せ始めたルーシーは、鳳たちに初めて覚えた魔法を見せにやってきた。その偉業を褒め称えていると、浮かれすぎて酔っ払っちゃったのか、ハイテンションになった彼女に意味もなくバシバシ背中を叩かれた。痛い。

 

 顔を真っ赤にしながら上機嫌にしゃべるルーシーに相槌をうちながら、彼女の持ってきたミートパイをつまんでいると、ふとギルド酒場のことを思い出した。彼女はマスターから教わったレシピと言っていたが、このミートパイは確かにあそこで食べた味付けとよく似ている気がした。国に帰ると言っていたが、彼は今頃どうしているだろうか。思い返せば、あれからまだ何ヶ月も経ってないというのに、なんだか無性に懐かしい気がした。

 

 そんな感じで、お酒を交えて昔話に花を咲かせていたら、蚊帳の外だったメアリーがいつの間にかウトウト船を漕いでいた。子供は……と言っても300歳なのだが、もう寝る時間である。

 

 ジャンヌが部屋に運んであげて、蚊帳を吊るして戻ってくると、そろそろいい頃合いだからギルドに帰るとルーシーが言い出した。外はとっくの昔に真っ暗で、足元もおぼつかない。駐在所は近いとは言え、こんな中を女の子一人で帰すわけにもいかないから、送っていこうと3人で家を出た時、すぐそばの広場から朗々たる声が聞こえてきた。

 

「星々の大海を渡り夢幻の月を跨いで幾星霜、天駆ける楼船を駆りて精霊はかく来たれり。7つの大河、7つの大海、7つの銀河を超え、悠久の時の彼方より我が神々は降臨せり。

 

 空を運びたる子よ、汝、風の声を聞け。土くれより生まれし子よ、汝、木々の声を聞け。星の子らよ、汝、波の声に眠れ。我が子よ。生命のゆりかごより生まれし血脈よ。汝に告げる。

 

 世を儚み、世を嘆き、世を無為に過ごすなかれ。生を全うすればこそ死は祝福なり。常なる世の理になりにけり」

 

 ルーシーは突然の声に驚いて足を止めた。この狼人だらけの集落で、こんなに流暢かつ難解な言い回しをする人がいるなんて、想像もつかなかったのだ。彼女は目をパチクリさせ不安そうにしながら、

 

「え? 急にどうしたの……? 何か始まるの?」

 

 鳳は彼女の疑問に答えて言った。

 

「ああ、これは降霊の儀って言って、村ではたまにこうして長老が昔話を聞かせてくれることがあるんだよ。流暢なのは枕詞で、いつも同じセリフだからさ。なんつーか、村のシャーマンである長老が、森の精霊と交信して、神々の言葉を村人に伝える儀式らしいんだけど……」

 

 内容は宗教にありがちな戒律とかを物語として伝えるようなものだった。簡単に言えば、ユダヤ教のタルムードや、イスラム教のシャリーアみたいなものだろうか。人間が生きていく上で大事な知恵を、神の名を借りて伝えているわけである。

 

 例えば、よく聞く食のタブーは、元々は大昔の人たちが、うっかり毒のある食べ物を食べないように子孫に伝えていたものが、形を変えて今も残っていると考えられている。この村でもそういった食の禁忌や、村人同士で行われる訴訟の仲裁法や、人生観なんかをシャーマンである長老が教えてくれているわけだ。

 

 まるで道徳の授業みたいで退屈そうに思うかも知れないが、夜になったらセックスくらいしか楽しみのない大森林の奥地では、こういった話でも非常に面白く感じるもので、村人たちは長老が語り始めると、強制されているわけでもないのに、やってる作業を止めて話を聞き入っているようだった。

 

 実際、鳳も村で暮らし始めてから何度か聞いているのだが、これが中々面白い。

 

 長老の話に出てくる主人公はいつも部族の英雄ガルガンチュアだった。この部族では首長がその名前を受け継いでいるのだが、大昔のガルガンチュアは今代と比べてかなり勇ましく、いつも戦に明け暮れていたようである。時には他の部族を侵略し、奪ってきた花嫁から生まれた子供が、また成長してガルガンチュアの名を受け継ぎ、大きな戦果をあげるなど、そういった武勇伝が多く見受けられた。

 

 これは300年前に魔王が登場するまでは、部族間の争いが頻繁に起きていたことを示唆しているのだろう。現在では、隣村と仲が悪いといっても、それで抗争が勃発するほど関係が拗れることはない。これもひとえに、魔王という共通の敵が現れたからだろう。

 

 その他、ガルガンチュアがいつか話してくれたように、高レベル同士で子供を作れば強い子が生まれやすいという話や、村で飼っている家畜の飼い方や、畑の作り方なんかも、勇ましい武勇伝の合間合間にちょこちょこと挟んでくる。

 

 基本的に長老の話は、そんな具合に、代々の族長の武勇伝を伝えるものばかりなのだが……そんな中にもガルガンチュアの冒険でない話がいくつかあった。

 

 例えばそれは創世神話なのだが、これが人間のものとはかなり違っているのだ。

 

「昔々、太古の昔、この世に人は一種族しか存在しなかった。人間は弱く、獣には敵わず、大森林でひっそりと隠れるように暮らしていた。

 

 神はそんな人間を哀れに思い、ある日彼らに知恵を授けた。すると彼らの前に道がひらけ、人間はあまねく世界に広まっていった。

 

 知恵を得た人々は、力で敵わなかった敵をその知恵で破り、猛獣の牙をその鉄の剣で断ち切り、猛禽を模した翼で空を駆け巡り、世界中の獣を従わせ、いつしか万物の霊長として君臨するにまで至った。

 

 しかし、そうして驕り高ぶった人間は、やがて神への感謝を忘れてしまう。知恵という神の恩恵を、元々ある自分たちの力と勘違いし、慢心して我欲を満たすことだけを追求するようになっていった。

 

 神はそんな人間たちに罰を与えることにした。

 

 ある日、人間たちは黄金の湧き出す泉を見つけた。泉に生贄を捧げれば、いくらでも黄金を吐き出すようだった。それが分かった人間たちは、せっせと泉に生贄を投げ込み始めた。牛、鶏、豚、馬、羊、山羊、あらゆる動物たちが犠牲になった。こうして人類は、有史以来最大の繁栄を謳歌していた。

 

 しかし強欲な人間たちは無限に黄金を求め続け、ついに彼らは湧き出す黄金に潰されて身動きが取れなくなってしまった。押しつぶされる黄金の下で、人間たちはこの期に及んで神に助けを求めたが、神は人間を救わなかった。

 

 神は生贄になった動物たちを、人間の代わりに新しい人類として創り出し、地上に遣わせた。

 

 こうして大森林に降臨した最初の獣人リュカは、獣たちを従えて大いに栄えた。リュカは森の獣と交わり、子を成した。それが我々獣人の祖先である」

 

 獣人達に伝わる創世神話は、ざっとこんな感じである。そこにはリュカの名前が登場するが、他の四柱の神は登場しない。ギルド長が教えてくれた人間に伝わる神話では、リュカは真っ先に殺されてしまうことからしても、人間と獣人では信じている神が違うことが、これではっきり分かるだろう。

 

 尤も、ガルガンチュアに言わせると、300年前に助けられた恩義から、今の獣人は神人の神であるエミリアのことも信仰しているようではある。

 

 ともあれ長老の話の要点をまとめると、リュカは全獣人の祖先で、他の人間族は全て滅んでしまったということになる。しかし、現実にこの世界には人間、神人、魔族という他の種族が存在するから、この話はどう考えても矛盾している。

 

 恐らくだが、お互いに相手の神を否定していることからして、大昔には人間と獣人は対立していたのではなかろうか。今はもうそんなことはなくて、お互いに協力しあって生きているのだから、わざわざそんなことを突いて蒸し返すこともないだろうが、記憶にはとどめておいた方が良いだろう。

 

 気になるのは、人間と獣人の創世神話が違うなら、魔族はどうなんだろうか? ということだ。もし、そんなものがあるなら、是非聞いてみたいものであるが……あのオアンネス族という魔族を見る限り、流石にそれは無理だろう。

 

「あ、ごめん……なんか聞き入っちゃったけど、そろそろミーさんも心配すると思うから、私は帰るね? 今日はありがとう」

 

 長老の話を聞いていたら、いつの間にか時が過ぎてしまっていたようである。我に返ったルーシーが慌ててギルドに帰ると言い出したので、鳳たちもその後に続く。

 

「いいよいいよ、私なら一人で帰れるから。せっかく長老さんもお話してくれてるんだし……」

「いや、長老の話は何度も聞いてるから。女の子を一人で帰すわけにはいかないよ」

 

 多分、ギヨームとミーティアにダブルで怒られそうだし……そんなことを考えつつ、ルーシーと一緒に村の広場から離れようとした時だった。

 

 鳳は、視界の片隅に、何か光るものを見つけた。その光はちょうど今、長老が話をしている広場の中央の舞台の上の辺りだった。なんだろう? と目を凝らしてみると、それは長老の持っている袋の中から発しているように見えた。

 

 口を開けてない袋から発する光が、こんなにはっきり見えるなんて……ハロゲンライトでも入ってるならともかく、もちろんそんなわけがない。この世界には今の所、電気を発するような物は見当たらないし、ましてやこんな大森林の奥地の未開の部族の長老がそんなものを持ってるはずがない。

 

 それじゃ、あれは一体なんなんだろうか……? 首を捻っていると、話が途切れた瞬間、長老がその袋を開けて中から何かを取り出した。思った以上の発光に目が眩んでいると、次の瞬間、あろうことか長老は、その光る何かを口の中にぽいっと入れて飲み込んでしまったのである。

 

「ふぁ!?」

 

 思わず素っ頓狂な叫び声を上げてしまった鳳に、ジャンヌが迷惑そうに言う。

 

「なによいきなり、びっくりするじゃない。どしたの、白ちゃん?」

「え? いや……だって……おまえも見ただろ? 今の?」

「今って……なんのこと?」

 

 ジャンヌだけでなく、隣にいるルーシーもキョトンとした表情をしている。何しろ、あれだけの光量なのだ。一人だけならともかく、二人ともあれを見ていないなんて考えられなかった。

 

 鳳だけに見えて他人が見えないなんてことがあるのだろうか? そう考えた時、彼はピンときた。

 

 いや、ある。アルカロイド探知だ。

 

 鳳のスキル、アルカロイド探知は、植物の中に含まれているアルカロイドに反応して、その部分が光って見えるのだ。これはこの世界でたった一人のアルケミストである、彼にしか見えない。

 

 そしてこのスキルは、含有しているアルカロイドの量が多いほど強く発光する。つまり、たった今、長老が口の中にぽいっと放り込んだのは……

 

「コカインもヘロインも目じゃねえぞ。やべえクスリがあるじゃねえか! もしやあれこそ、幻のマジックマッシュルーム!?」

 

 鳳は驚愕の事実に目を輝かせると、ギュオンと風を切って物凄い勢いで長老の元へと駆け寄っていった。降霊の儀の最中だった長老は、血相を変えて飛び込んできた鳳に仰天して飛び上がる。

 

「なんじゃおまえ!」

「長老長老! いま口に入れたの見せて!? ね、ね、いま口に入れたの見せて!?」

 

 鳳が長老の持つ袋をぐいぐいと引っ張ると、流石に長老もムッとしたのか、

 

「こら、やめろ! ツクモ! 降霊の邪魔をするおまえは罰当たり!」

「いや、これ、ほんのちょっと見せてくれるだけでいいから! ね? 先っちょ……先っちょだけでいいから! そしたら帰るから!」

 

 鳳が袋を奪おうとして押し問答していると、せっかくの話が途切れてしまったことに当惑した村人たちが集まってきた。彼らはそこで薬物に目が眩んだ鳳が長老に襲いかかっている姿を見て驚いた。

 

 普段の彼なら空気を読んで、すぐに謝罪するはずだったが、この時の鳳に周囲の様子を気遣う余裕はまったくなかった。何しろ、目の前に幻のマジックマッシュルームがあったからだ。

 

 結局、憤慨する村人たちに引き剥がされるまで、鳳の蛮行は続いた。儀式を邪魔された長老はカンカンで、ジャンヌが必死に頭を下げても後の祭りのようだった。せっかくの楽しみを奪われた村人たちもお冠で、族長のガルガンチュアが仲裁に駆けつけるまで、鳳は非難轟々なじられ続けるのであった。

 

 そんなこんなで、その日、鳳は村から放逐された。まあ、なんというか、その、薬物に溺れた者の哀れな末路である。

 



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鳳くん、正座

 川のせせらぎが心に染みる。耳をすませば、ちゃぷちゃぷと、魚が跳ねる音が聞こえてくる。遠くではフクロウがホウホウと鳴き、目をつぶれば草木のざわめきがまるで波のようだった。

 

 時折吹き付ける風が夏の匂いを運んでくる。上空を見上げれば天の川が真昼のように夜空を白く染め上げていた。それがいつかどこかで見たことがある、懐かしい地球の空を思わせて、ふと泣きそうになった。輝く星々は、どの星座も見たことがなかったが、銀河の中から見上げる銀河は、きっとどこからでもそんなに変わらないのだろう。鳳はそんな星空を体育座りしながら、うっとりと眺めていた。

 

「……いや、ポエム作ってる場合じゃねえ」

 

 誰ともなしに独りごちる。

 

 鳳は今、長老の持っていたマジックマッシュルームに興奮して、村から追い出されてしまったところだった。

 

 自業自得であるとはいえ、追い出された時間が非常にまずかった。長老が降霊の儀を始めたのは、丁度、日も暮れ宵が深まる時間帯で、そんな最中に追い出されてしまったものだが、辺りはすっかり真っ暗になってしまっており、足元さえ見えやしないのだ。

 

 夜目が効く獣人は平気かも知れないが、ただの人間である彼には周囲の様子はさっぱり分からず、時折聞こえてくるイノシシとかシカとか、なんかの野生動物の息遣いに怯えながら、少しでも明るい場所を目指してひたすら歩き、どうにかこうにか村から一番近い河原に辿り着き、そこで火をおこして、ようやく落ち着いたところだった。

 

 それにしても火を見ているとホッとする。どうでもいい現実逃避が出来るくらいには余裕も出てくる。野生動物はどんな生き物も火を恐れるものだが、逆に落ち着いてしまうのだから人間とは不思議な生き物である。

 

 それはともかく……

 

 鳳は追い出される前に長老が食べていたキノコのことを思い出した。あれはいくらなんでもおかしかった。何しろ、彼には直視できないくらい、まばゆい光を発していたのだ。

 

 周りの人には見えてないようだったから、あの光は鳳のスキルが見せた幻影だったのは間違いないだろう。そして、もしそうだとすると、あんな光量を発するキノコがどれだけ強い薬効成分を保持しているかは推して知るべしである。

 

 長老は一体、あの合成麻や……じゃなくて……合法キノコをどうやって手に入れたのだろうか?

 

 少なくとも、鳳が村に滞在している間、長老が遠出している姿は見たことがなかった。出掛けても、せいぜい、村外れの雑木林をフラフラ散歩しているくらいである。だが、もし、あんなキノコが村のすぐ近くに生えていたとしたら、鳳が気づかないはずがない。つまり長老はキノコを自分で取ってきているわけではないのである。

 

 すると代わりに誰かが取ってきているのだろうか? 真っ先に思いつくのは族長であるガルガンチュアだが……しかし、村に戻ってその辺を聞き出そうにも、きっともう誰も教えてくれないだろう。

 

 今回は本当にやらかしてしまった。長老は村のシャーマンで、降霊を行っている最中は、森の神様と言うか、獣人の祖先リュカと同一視される。つい冷静さを欠いてしまったとは言え、そんな一族にとって大事な儀式を邪魔してしまったのだから、反省しても後の祭りである。

 

 取り敢えず、これからどうしようか? あのマジックマッシュルームのことは気になるが、この辺を探索したくとも、ここは村の縄張りだし、村人たちに見つかったら怒られそうだ。

 

 諦めてどこか行くしかないだろうか……? 流石にもうほとぼりも冷めているころだろうし、勇者領に向かうのも悪くないかも知れない。色々あって愛着もあるが、いつまでもこんな大森林の奥地で暮らしているわけにもいくまい。そろそろ人里が恋しくもある。

 

 手配書のことは気になるが、まあ、現代社会のような警察力があるわけでもなし、ヒゲでもはやして、気をつけていれば問題ないだろう。新大陸に渡ってしまえばこっちのものである。帝国の手はそこまで伸びていないのだ。

 

 となると、あとは仲間をどう説得するかだ。鳳一人だけで行くのは心細いのももちろんあるが、何も言わずに勝手にいなくなるわけにもいかないだろう。少なくとも、ジャンヌは同行してくれるはずだ。

 

 メアリーはレオナルドがどう言うか次第だろう。そのレオナルドは森の魔族のことが気になっているから、難色を示すかも知れない。ギヨームは多分、彼を手伝うはずだ。となると、この三人とはお別れになってしまうかも知れない……

 

 メアリーがエミリアとそっくりなことや、勇者との関係は気になるところだが、まずは自分がこの世界で生き残ることを考えねばなるまい。どっちにしろ、彼らも時を置かずして新大陸を目指すと言っているのだ。だったら先行して、あっちで待っていても問題ないだろう。

 

 残るはルーシーだが……酒場のマスターに頼まれたこともあるし、彼女とは一度話をしておいた方が良いかも知れない。鳳としては、現代魔法を修得するためにも、ここに残ってレオナルドに師事するのがいいと思うのだが、それもこれも彼女の返答次第である。もしもそうするなら、別れる前にもう一度くらい経験値を入れてあげたいところではあるが……

 

 そんなことを考えていると、視界の片隅で何かがチラチラと光った。野生動物にでも囲まれたか? と一瞬焦ったが、直ぐにそれは遠くの方で揺れる松明の炎だと気がついた。多分、鳳が追い出されたことを心配して、ジャンヌ辺りが迎えに来てくれたのだろう。

 

 彼は焚き火から燃えさしを拾い上げると、それをブンブンと振り回した。するとそれに気づいたのか、近づいてくる松明の灯りがぐるりと一回転した。どうやら無事、こちらの意図に気づいてくれたようである。鳳は安心してそれが到着するのを待った。

 

 ところが、てっきりジャンヌだろうと思っていたのが、やってきたのはルーシーとミーティアの二人で、鳳は面食らってしまった。

 

「あれれ!? どうしたの、二人共。女の子だけで出歩くなんて危険だよ?」

「あなたが追い出されたと聞いたから、心配して見に来てやったんじゃないですか。何を言ってるんですか、まったく……」

 

 するとミーティアがプンプンと怒ってそう返してきた。いっつも怒ってる感じだから、てっきり嫌われてるのかと思っていたが、意外と優しいところもあるらしい。

 

 しかし心配してくれるのは有り難いが、二人だけで森を歩かれては逆に心配になる。鳳が困惑していると、その様子をおかしそうに見ていたルーシーがからかうような口ぶりで、

 

「ギルドに戻って鳳くんが追い出されたって話したら、ミーさんが探しに行くって言って聞かなかったんだよ。平気だって何度も言ったんだけどねえ……」

「ちょっ……! それは言わないって約束でしょう!?」

 

 ルーシーがそんな軽口を叩くと、ミーティアが真っ赤になって怒っていた。どうやら、鳳のことを本気で心配してくれていたようだ。それとも、もしかして、前に追い出したことをまだ気にしているのだろうか? だとしたら、もう気にしないでいいのにと思いながら、鳳は続けた。

 

「そっかそっか。心配してくれてありがとう。でも別に平気だよ、夜営には慣れてるし、朝になったら一度ギルドに顔を出そうと思ってたんだ」

「べ、別にあなたのことを心配して来たわけじゃないですよ。ほら、あなたも一応、冒険者ギルドの冒険者ですし、その冒険者が困っていたら助けてあげなきゃ、寝覚めが悪いじゃないですか。そう、これは業務の一環ですよ、業務の」

「あ、そうなの?」

 

 なにもそこまで強調しなくても勘違いなんかしないのに……鳳がやるせない気持ちになっていると、何故かルーシーも妙にガッカリした表情をしていた。ミーティアは一人ツンケンしながら、

 

「まあ、これも業務ですし、なにか困ったことがあるのなら、言ってくれれば助けてあげないこともないですけど」

「いや、特に。森の中にいる限りでは、食うには困らないからねえ」

「え? 何もないんですか? ご飯とか、寝る場所とか、困ってるでしょう?」

「別に? 雨風さえ凌げればどうとでもなるよ。飯はその辺の草食ってりゃいいし」

「えーっと、それじゃあ……野菜ばっかじゃお腹がすくんじゃないですか?」

「ナイフと釣り糸持ってきてるから。魚釣りは得意なんだ」

「う……無駄にサバイバルスキルが高い人ですね。言ってくれれば、何でもしますよ? 本当に何もないんですか?」

「え? じゃあ、おっぱい揉ませて?」

「殴るぞこの野郎」

「ぎゃっ!」

 

 バキッと骨が鳴る音がして、鳳は鼻っ柱をへし折られた。脳に突き抜けるような激痛が走り、彼は悲鳴を上げて仰け反った。

 

「今、何でもするって言ったよねっ!?」

「TPOをわきまえろ小僧。もう……本当にルーシーの言う通りでした。無駄に神経図太いですよ、この男。心配して損しました。こんなところまでわざわざ来るんじゃなかった」

「うう……そっちが勝手に来たくせに、なんつー言いぐさだ」

 

 鳳がそんな泣き言を言っていると、ミーティアは両手を一旦上げてから、脱力するようにダラリと腕を下げ、

 

「はあ~……それで、鳳さん。あなたこの後どうするんですか? 村の人達怒らせちゃったみたいですけど、行く場所なんてないですよね?」

「ああ、うん。丁度身の振り方を考えてたところなんだ」

 

 鳳は鼻血を止めようとして、首の後をトントンと叩きながら、

 

「ぼちぼちこっから出ていこうかと思ってる」

「え……ええええええーーー!?」

 

 すると、それを聞いてきたミーティアだけでなく、一緒にいたルーシーまでもが素っ頓狂な声を上げた。左右から甲高いソプラノの悲鳴が響いてきて、耳がキンキンとなる。鳳は今度は耳を塞いで目を瞬かせながら、

 

「な、なにもそこまで驚かんでも……元々、ここには大陸に逃げる途中に立ち寄っただけだし、そろそろ潮時かなって思ったんだ。考えてみりゃ俺も追われる身なんだから、いつまでもこんな場所にはいられないだろ?」

「そりゃ……そうかも知れませんが」

「でも、丁度良かった。ルーシーにこれからどうするか聞きたかったんだ。もし良かったら、俺と一緒に来るかい?」

 

 鳳としては何となしに聞いたつもりだった。しかし、彼がそう尋ねるや否や、ルーシーはものすっっっごく、嫌そうな表情を作って、心の底から迷惑そうに、

 

「どおぉぉーーーーーー………………して、私に聞くかなあ!? そんなこと」

 

 まさかそこまで嫌がられるとは思わず、鳳は少しショックを受けながら、

 

「え?! いや……もちろん、無理にとは言わないけど。ほら! 以前、あの街にいた時に、ギルド酒場のマスターに言われただろう? 勇者領に行くなら、一緒に連れてってくれないかって。あれを思い出して……そんなに嫌だとは思わなかった。変なこと言って悪かったね」

「あーもー! あーもー!」

 

 鳳がシュンと項垂れていると、ルーシーは頭皮が剥がれるんじゃないかと言わんばかりにガリガリと脳天を引っ掻いて、

 

「別に一緒に行きたくないって言ってるんじゃないよ! どうして私なのかって聞いてるの! 他に連れてく人がいるでしょう!?」

「ジャンヌのこと? まあ、あいつは勝手についてくるだろう。メアリーには後で聞くつもりだけど。多分、爺さんと一緒に残るんじゃないかなあ」

「そっちじゃなくって……!」

 

 まさかギヨームのことを言ってるだろうか? 彼のことは確かに仲間だと思っているが、もともと独立した冒険者なのだから、わざわざ聞かなくても自分で判断するだろうと思っていたのだが……それともまさか、ホモ達とでも思ってるのか? 私の推しカプが、相棒に冷たいと憤ってるのか? 鳳には何故ルーシーが怒っているのか、いまいち分からなかった。

 

 でもまあ、彼女も本気で怒ってるわけでもないだろうし、ここは黙って嵐が過ぎ去るのを待つのが吉だろう。それとも、これはもしやあれか? ツンデレと言うやつだろうか? この子、ひょっとして、俺に気があるんじゃ……などと、鳳がボケーッと考えていると、

 

「そ、そうですよ! 何も鳳さんが一人だけで出ていくことはないじゃないですか」

 

 それまで黙っていたミーティアが、突然、そんなことを言い出した。

 

「いや、ジャンヌも一緒だけど」

「とにかく! 一人だけ都会に逃げるなんてずるいですよ。思えば、私がこんなど田舎に飛ばされたのだって、鳳さんのせいじゃないですか。なのにあなたが出ていって、私だけが残るなんて理不尽じゃありませんか!?」

「そんなこと言われても……」

「こうなったら責任とって、私も都会に連れてって貰います。ギルド長に辞表を叩きつけてきますから、ちょっと待ってて下さい!」

「え!? ちょっと!」

 

 ミーティアは返事を待たずにピューッと来た道を戻っていってしまった。こんな真っ暗な道を一人でなんて、心配でしかなかったが、あまりに物凄い速さで駆けていってしまったので、追いかける暇すら見つからなかった。

 

 鳳はその背中を呆然と見送りながら、

 

「よっぽど、森の生活が嫌だったんだろうなあ……まあ、考えてもみりゃ、若い身空でこんな僻地に飛ばされたんだ、ストレスも溜まるってもんだろう。彼女も都会の生活が懐かしいんだろうな。つーか、ミーティアさん、ルーシーと一緒に行きたいならそう言ってくれれば良いのに、あの人も大概不器用な人だよなあ……」

 

 鳳がそんな感想を呟いていると、突然、ガシッ! ……っと、肩を万力のような力で掴まれた。肩に食い込む爪に、痛い痛いと涙目になって振り返れば……そこには般若のような顔をしたルーシーが立っていた。

 

「鳳くん、正座」

「……はい」

 

 鳳は言われるままにその場に正座した。ルーシーはそんな彼の頭の上から罵声を浴びせかける。鳳は何故怒られているのかわからないまま、それを黙って聞いていた。マジックマッシュルームの秘密よりも、彼女の小言の理由のほうが、今は深刻な問題のように思えた。

 



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信頼することと依存することは違う

「いい? 鳳くん。人生には大事な袋が3つあるの! 給料袋、堪忍袋、そして最後は……なんだっけ? とにかく! あんなにわかりやすい人に、あんな態度で接してたら、私の堪忍袋もマッハだよ! 君はもっと周りの人の気持ちを理解しないと、いつか足元すくわれると思うなあ! ううん、違うわ、どっちかっていうと、普段はどうしてこんな些細なことまでってくらい、他人のこと気味悪いくらい観察してるくせに、君は自分のことになると途端にからきしまるっきり駄目になるよね!? ああ、思い出したらなんか腹立ってきた! ダメダメだよ! ニブニブだよ!」

 

 村から追い出されて黄昏れていたら、気づけばそれを心配して様子を見に来たルーシーにまで説教されていた。鳳は頭を垂れて嵐が過ぎ去るのをひたすら待った。どうして自分はこんな森の奥深くで、女子に結婚スピーチをされているんだろうか……

 

 ルーシーはいつも穏やかな反動からか、怒ると止まらない性格らしく、自分の放った小言にまで腹を立てて、延々と説教を繰り返していた。そんなことを続けてるうちに、説教も明後日の方向に飛んでしまい、気がつけばもはや原型を留めておらず、まあ、最初から何に対して怒られてるのか分からなかったのだが、今となってはそれを理解しようと思えないくらい、話は別次元へと転がっていた。

 

 怒ってる女子には下手な言い訳をしないほうが良いだろうと、さっきからハイハイと黙って聞いているのだが、そのせいか説教が終わる気配がまるで無い。このままだと夜が明けてしまうので、そろそろ何か反論でもしたほうが良さそうなのだが……そもそも何に怒られているのか分からないので、その糸口すら掴めず困ってしまった。3つ目の袋は金玉袋、なんて言おうものならもっと怒られそうだし、何かいい口実でもないものだろうか……

 

 鳳がそんなことを考えつつ、背中を丸めて小さくなっていると、ルーシーの金切り声に混じって、パキッ……っと、枯れ枝を踏む音が聞こえてきた。この辺は野生動物がいるから、その手の音はいくらでも聞こえてくるのだが、それが遠ざかっているならともかく、こっちに近づいてくるので鳳は少々気になった。

 

「ちゃんと聞いてる? 鳳くん!」

「は、はい、すみません……」

 

 そんな態度が出てしまったのか、ルーシーの声がヒートアップする。鳳は反射的に謝罪を返したが、それで近づいてくる気配が消えるわけでもない。

 

 気になるのはその正体だが……もしかするとミーティアが引き返してきたのかもと思ったが、彼女なら松明を持ってるはずだ。それに思い至ったところで、彼は悠長に相手の出方を待ってる場合ではないと判断した。

 

「えーっと、ルーシー?」

「なに?」

「ちょっとごめんね」

 

 鳳は立ち上がると、ガミガミと小言を言っているルーシーの肩をぐいっと引っ張り、自分の背後へ追いやると、持っていたナイフを取り出して構えた。

 

「え? ちょ? 鳳くん? なになになに!?」

 

 白刃が月を反射してキラリと光る。突然のことに驚いたルーシーが真っ青になって手を上げていた。事情を説明している時間はない。鳳はそんな彼女に頭の中で謝罪をしつつ、手にしたナイフを森の方へと向けて叫んだ。

 

「誰だ! 人間ならそこで止まれ! 動物なら……俺たちは美味くないぞ!」

 

 ルーシーはその言葉で、誰かが近づいてきていることにようやく気づくと、オロオロしながら河原の石を拾い上げていた。

 

 鳳は額ににじみ出る冷や汗を拭った。もし、本当に動物なら、言って止まってくれるわけがない。今この場にいる二人では、猛獣の相手をするのは不可能だろう。せめて、ルーシーだけでも逃してやれないか……

 

 しかし、鳳のそんな覚悟は杞憂に終わった。

 

「少年……俺だ」

「え? ガルガンチュアさん??」

 

 真っ暗な森の中から聞こえてきたのは、ついさっき鳳を放逐した村の族長ガルガンチュアの声だった。二人が、ホッとすると同時に、どうして彼がこんなとこまでやってきたんだろうと思って戸惑っていると、ガルガンチュアはゆっくりと森の中から姿を表し、

 

「こんなところにいたのか。探したぞ」

 

 獣王は、鳳のことを探していたらしい。村から追い出しておいて、何の用事があると言うのだろうか。もしかして村人たちに突き上げられて、謝罪が足りないとか、やっぱリンチにするとか言い出すんじゃないだろうな……

 

 鳳は被害妄想をたくましくしてブルブル震えていたが、実のところガルガンチュアはまるで真逆のことを言い出した。

 

「村人たちはもう怒ってない。落ち着いたら、村に帰ってこい」

「え? どういうこと? もしかして、俺のこと呼びに来てくれたんですか?」

「そうだ」

 

 鳳は、流石に今回はやらかしすぎたと思っていから、まさか帰ってこいなんて言葉が飛び出してくるとは思わず、びっくりして聞き返した。するとガルガンチュアは改めて、鳳に村に帰ってきてくれと言うのだった。

 

 曰く、鳳が村から追い出された後、ジャンヌが謝罪をして回っていたのだが、長老は許してくれても、村人たちが許してくれない雰囲気だったので、仕方なく彼も村から出ていくと言い出した。

 

 すると今度はメアリーが、鳳もジャンヌも居ないんじゃつまらないから自分も出ていくと言い出し、神人を怒らせたと思った村人たちが、パニックに陥っているらしいのだ。

 

「ジャンヌもメアリーも、おまえが帰ってくるなら村にいると言っている。だから村人たちも、今はおまえに帰ってきて欲しいと言っている」

「はあ……そりゃあ、俺としても願ったり叶ったりなんで。長老が許してくれるなら、すぐにでも村に帰りますけど」

「なら平気だ。長老は最初から怒ってなんかない。しかし、どうしてあんなことをしたんだ?」

 

 あんなこととは、儀式を邪魔してまでキノコを奪おうとしたことだろう。鳳は苦笑交じりに、

 

「いやあ……実はほら、長老が食べていたキノコがあるでしょう? あれが気になって気になって。ガルガンチュアさんたちは気づいてないでしょうが、あれは恐らく、神人が使えばMPを超回復してくれる凄い薬なんですよ」

「なに、そうなのか??」

 

 ガルガンチュアは目を丸くしている。鳳は大きく頷いて、

 

「きっと魔力を持たない人間がラリってしまうのを利用して長老はトランスしてるんでしょう。地球……俺の故郷でも、シャーマンがそういうクスリを使うって聞いたことがあります。俺はアルケミストだから、そう言う怪しいクス……ゲフンゲフン……珍しい薬品とかが気になるんです。なんつーか、職業的に」

「アルケミスト……??」

 

 ガルガンチュアは、何のことかいまいち分からないといった感じに首を傾げてから、

 

「……そう言えば、街でおかしなクスリを作っていたな。俺にはさっぱり分からなかったが、スカーサハが頻りに褒めていた」

「そうでしょそうでしょ」

「ふむ……不思議なやつだな、少年。だが、おまえの言ってることは全部本当のことのようだ。長老も、理由を知れば、納得するだろう」

 

 だと良いのだが……鳳はガルガンチュアが納得したところで、さっき思いついた疑問を尋ねてみることにした。

 

「ところで、あのキノコってどこで手に入れてるんです? 長老は村から出ることは殆どないし、もし村の近くにあるなら俺が気づかないわけがない。ガルガンチュアさん、知りませんか?」

「…………知らないぞ」

 

 鳳が話を向けると、ガルガンチュアは彼にしては珍しく口ごもっていた。相変わらず、狼人の表情は読めなかったが、まるでブラウン運動のように目が泳ぎまくってるので、何か知ってると白状しているようなものだった。

 

 どうしよう……もう少し突っ込んで聞いてみようか……?

 

 しかし、村人たちとの関係もギクシャクしている今、ここで無理強いしても仕方ないだろう。ガルガンチュアの機嫌まで損ねてしまったら、今度こそ村に居づらくなる。

 

「そうですか……それじゃあ、長老に謝罪しに行きたいから、段取りだけつけてもらえません? いきなり行って会ってもらえないと困るから」

「長老はもう寝ている。ここで朝を待って、一緒に家に行こう」

「そうしてくれると助かりますよ」

 

 鳳とガルガンチュアがそうして村へ帰る段取りをつけていると、その様子を蚊帳の外から聞いていたルーシーがハッと何かに気づいた感じで、

 

「あれ!? それじゃあ鳳くん、あの村に帰るの?」

「うん。今、聞いてただろう? みんな帰ってこいって言ってるらしいんで」

「聞いてたよ! 大変だ! ミーさん止めなきゃ!!」

 

 ルーシーは、うひゃー! っと叫び声を上げると、真っ暗な森へと一直線に駆け込んでいった。恐らく、ギルド長に辞表を叩きつけにいったミーティアのことを止めようと思ったのだろう。

 

「あ、ちょっと! 一人じゃ危ないよっ!!」

 

 慌てて鳳が叫ぶも、彼女の耳にはもう届かないようだった。真っ暗闇の森の中を駆け抜ける彼女の姿は、あっという間に見えなくなった。どうするか、追いかけるべきか? それにしても、こんな暗闇の中、躊躇せずに走っていけるなんて、ルーシーは意外と目が良いんだなと思っていると、

 

「大丈夫だ、この辺りは俺たちを恐れて獣もいない」

 

 夜目の利くガルガンチュアはまだ彼女の姿を追えるらしく、足取りもしっかりしてるから放っておいても大丈夫だろうと請け合ってくれた。

 

 まあ、ガルガンチュアが言うなら、本当に大丈夫なんだろう。鳳は一先ず安心すると、小さくなりかけていた焚き火の炎に薪をくべた。

 

 フーフーと息を吹きかけると、炭化した薪が灼熱し、周囲を暖かく照らした。

 

 朝まで野宿を付き合ってくれるらしいガルガンチュアが、焚き火をかこんだ反対側に座ると、干し肉を一枚分けてくれた。きっとお腹を空かせているだろうと、気を使ってくれたようである。ありがたく頂戴する。

 

「また、仲間が増えたのか」

 

 二人でくっちゃくっちゃと干し肉をかじっていたら、焚き火の炎を見つめたままのガルガンチュアが、ボソッと呟くように言った。また、というのは、ルーシーのことだろうか。ガルガンチュアとは良く行動を共にするが、そう言えば、彼女がパーティーメンバーになってからは一度もなかった。

 

「ああ、こないだの南部遠征からお手伝いしてくれてるんです。ああ見えて、現代魔法の使い手なんですよ。思わぬ拾い物をしました」

「そうか……」

 

 獣王は感心した素振りで、

 

「おまえはリーダーっぽくないのに、真のリーダーのようだ」

「ええっ……? いや、俺は別にリーダーじゃありませんよ」

 

 すると彼は首を振って、

 

「仲間の行動を見ればわかる。おまえのために、ジャンヌは頭を下げた。おまえが居ないなら、メアリーは出ていくと言った。さっきの女も、おまえを信頼してここまで来た」

 

 ガルガンチュアはそう言うと、難しそうな顔をして少し唸り声を上げてから、

 

「どうしてなのだ? おまえにとってリーダーとは何なのだ。俺は、族長をしているが、未だによくわからない。おまえのように、上手くみんなを導けない」

「別に俺はそんなんじゃないと思いますがねえ……」

 

 焚き火の炎に浮かび上がるガルガンチュアの表情は真剣なようだ。下手に謙遜したり、はぐらかしたりしても、機嫌を損ねるだけだろう。

 

 鳳は、本当に自分がリーダーだなんて思ってもいないし、多分、自分のチート能力のせいもあるだろうと思ったが、それを言っても分かってもらえないだろうから、少し考えてから、思ってることを口にした。

 

「これ、さっきの彼女にも言ったことなんですけど、多分、俺は何も出来ないからじゃないですかね」

 

 ガルガンチュアは、ジロリと、視線だけで鳳の顔を捕らえる。見た目、完全に野獣(ビースト)なのだから、そんな怖い顔しないでくれと思いながら、鳳は続けた。

 

「俺と違って、みんな優秀なんですよ。魔法ではメアリーに敵わない。戦闘ではジャンヌの右に出る者はいない。探索や遠距離攻撃はギヨームに任せればいいし、みんなへの気配りはルーシーがやってくれる。

 

 俺に出来ることなんて何もない。せいぜい、薬草を集めるくらいだ。俺はそれを情けないと思うし、申し訳なくも思うけど、それでいいと思ってます。だってみんながやったほうが効率がいいんだから。それが分かってるからじゃないですかね。

 

 ほら、信頼することと依存することって違うでしょ? みんな、困った時に頼れるのがリーダーだって思ってるけど、そうじゃないんですよ。困った時は、絶対、みんなの力が必要なんだ。もちろん、リーダーは一通り何でもこなせた方がいいでしょうけど、物理的、時間的に考えて、何でも出来る人間なんていませんよ。

 

 ところが駄目なリーダーは、全部自分がやった方が上手いと思ってて、そして口出しするじゃないですか。事実、その通りだったとしても、自分のことを信頼してないリーダーになんて、誰もついてきませんよ。だから、いざという時、そう言う人がリーダーだと困るんだ。

 

 マキャベリは言いました。君主たるものは、必ず自分に意見出来るものを側に置けと。何でもズケズケと物を言うエキスパートを置いておかなければならない。はいはい言うことを聞く側近ばかりじゃ、本当にわからないことがあった時に困ってしまう。

 

 でも、部下に好きに言わせていても、決断するのは必ず自分だ。俺に意見をするくらいなら、おまえがやれなんて部下に押し付けても、誰が好き好んでそんなやつの尻拭いをするでしょうか。必ず最後に決断するのが君主の仕事なんだそうです。

 

 そんな感じで、自分が出来ないこと、そして部下の出来ることを知り、決断を下す。それが真のリーダーってやつなんじゃないでしょうか」

 

 取り敢えず、思いつく限りの美辞麗句を並べ立てただけだが、案外うまくまとまったんじゃないだろうか……鳳は、あの嫌いだった父親の教育が、まさかこんなところで役に立つとはと思って、内心舌打ちをした。

 

 特にマキャベリは翻訳本を何度も読み返したものだが……そう言えば、レオナルドと彼は友人同士ではなかったか? ただのハゲ散らかした爺さんくらいにしか思ってなかったが、ああ見えて歴史上の偉人なのだ。今度、機会があったら聞いてみようと鳳は思った。

 

「信頼することと依存することは違うか……」

 

 鳳がそんなことを考えていると、ガルガンチュアはなにか思うところがあったらしく、そんなことを呟いた。

 

「ええ、だから俺は本当に自分がリーダーだなんて思ってなくて、単にみんながやれることを知ってて、こうしてくださいってお願いしてるだけなんですよ」

「……そうか。うーん……そうか」

 

 彼のお気に召したのだろうか? ガルガンチュアは低い唸り声を上げながら、何かを考え込むように、焚き火の炎をかき混ぜていた。その姿がまるで中間管理職みたいで哀愁を誘う。

 

 悩み事でもあるのだろうか……? まあ、彼はあの怒りっぽい村人たちを束ねているリーダーなのだから、気苦労も絶えないのだろう。

 

 何か気の利いたセリフでもかけてあげられればいいのだが、そんな都合のいいものは何も思い浮かばず、二人はそのまま無言で朝まで焚き火を囲んでは、干し肉をくっちゃっくっちゃとやっていた。

 



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また聞いたことのないスキルばかり覚えやがって

 翌朝、ほとぼりが冷めた頃を見計らって村に帰ると、村人たちはもうすっかり普段どおりの生活に戻っていた。やたらと怒りっぽいくせに、怒りが去れば少し前のことなどすぐに忘れてしまう。野生動物みたいな連中である。そんな村人たちはともかくとして、長老には実際悪いことをしたと思っていた鳳は、早速ガルガンチュアの仲介を受けて謝りに行った。

 

 とはいえ、長老も一晩寝たらすっきりしてしまったらしく、鳳が顔を出しても、何しにきたの? と言わんばかりにケロっとしていた。怒りが長続きしないのはいい事なのか悪い事なのか、取り敢えず、事情を話し謝罪する。

 

 長老は鳳の殊勝な態度に満足したようだったが、どうしてあんなことしたのか理由を話し、出来ればキノコを見せて欲しいと言うと、キノコのことは教えられないと言って態度を硬化してしまった。昨日の晩、ガルガンチュアも誤魔化していた事を考えると、どうしても秘密にしなきゃいけない理由があるのかも知れない。

 

 実際問題、鳳以外の人にはわからないだろうが、あのキノコは相当胡散臭い。出どころは不明だし、あの時光った光量から薬の効き目を推測すると、ラリっちゃうどころか、食べた人が死んでもおかしくないくらいだった。

 

 どうしてそんなものを長老が持っているのだろうか? 気になるものは気になるので、なんとかその秘密を知りたいところであるが……とは言え、しつこく聞いたらまた怒られそうだし、平身低頭謝罪をして、ここは時間をかけて信用を得たほうがいいだろうと鳳は考えた。

 

 それから数日間、彼は長老のご機嫌取りに奔走した。

 

 降霊の儀の時こそ村の注目を浴びる長老であったが、普段はフガフガ言いながら過ごしているだけで、あまり村人たちから相手にされてない。年寄りは大概そんなものだが、だから若いのにたまに相手してもらうとそれだけで嬉しいらしく、長老は鳳の腹の中など気づかずに純粋に喜んでいた。少々後ろめたくはあったが、それはそれである。

 

 長老の命令で豚舎のうんこ掃除をし、村人への回覧を回し、彼の親族たちの面倒を見て、イノシシが食いたいと言われれば狩りに行き、魚が食いたいと言われれば釣ってきて、肩たたきに腰もみに、長老が眠るまで扇子で扇ぐことまでした。

 

 どこの王侯貴族だと言いたくなるほどの傍若無人ぶりだったが、残念ながら彼が上機嫌になったところを見計らっても、やはりキノコの秘密は教えてはもらえなかった。

 

 まあ、それも仕方ないことだろう。もうすっかり村での生活にも馴染んでいるとは言え、結局のところ鳳は外からやってきた人間でしかないのだ。いつ居なくなるかわからないような人間に、村の秘密をおいそれと教えるような者はいない。ましてや、長老は村の中心人物なのだ。そろそろ諦めて、他のことに目を向けたほうが良いのかも知れない。

 

 それに、追い出された時にも考えたように、鳳だっていつまでもここにいるわけにはいかないのだ。ここに骨を埋めるつもりなどサラサラないし、いい加減人里も恋しいし、帝国の動向も気になった。

 

 メアリーはここの暮らしを気に入ってるようだが、なんやかんやここは帝国から近いし、いつまでも自分たちが見つからないでいられるとも限らない。元々、ここには新大陸へ渡る途中に、ちょっと立ち寄っただけなのだから、やはり、そろそろ出ていくことを考えなければならない時期に差し掛かっているのではなかろうか。

 

 その際、円満にお別れ出来るように、あんまり村人と揉めるようなことは控えるべきだろうが……

 

 そんなことを考えつつ、鳳はその日も長老のご機嫌を取りに彼の家へとやってきた。もうキノコのことは半分くらいどうでも良くなっていたのだが、このところ毎日通っていたので、日課になってしまっていたのだ。

 

 南部遠征して以来、これといったクエストは受けておらず、レオナルドも何も言ってこないから、やることが無くて暇だったのもある。

 

 そんなわけで、暇つぶしも兼ねて長老の様子を見に来たのであるが……鳳はここ数日、キノコが欲しいという物欲のためとは言え、毎日のように長老の家に通っていたことを神に感謝した。もしも今日、ここへ来なかったら、多分ずっと後悔したに違いないからだ。

 

「こんちわ~! 長老、遊びに来たんですけど……長老~?」

 

 鳳はいつものように長老の家にやってくると、奥に向かって挨拶をした。何しろ壁のない吹きさらしの家だから、中の様子は丸見えである。見れば長老は自分の部屋で横になっているようだ。もしかしてまだ寝ているのかなと思いもしたが、元々老人は朝が早いし、いつもならとっくに起きてる時間である。

 

「長老~? お邪魔しますよ~?」

 

 おかしいなと思った鳳はひと声かけてから家に上がると、彼の部屋へとずかずか入っていった。しかし長老はそれに気づかず自分の部屋で横たわり、顔中に汗をかいて苦しそうな息を立てながら、

 

「う~ん……う~ん……苦しいよ~……助けて~……」

「……長老?」

 

 長老は顔を真っ赤にし、肩を使って荒い呼吸を繰り返していた。手足は力なくダラリと垂れ下がり、全身汗だくで、板張りの床に汗で水たまりが出来ているほどだった。そのくせ、いつもはツヤツヤしている狼の鼻が、今はカサカサ乾いている。

 

「ちょ!? 大丈夫ですか? 長老!?」

 

 鳳は最初長老が悪ふざけをしているのだろうと思ったのだが、あまりにその様子がおかしいので、彼の額に手をやると……するとその手のひらに信じられない熱さが伝わってきて、びっくり仰天した。

 

 体温計がないからはっきりした温度は分からないが、それでも尋常じゃない熱を発していることだけはすぐに分かった。フルマラソンしてきた人だって、こんなに熱くはないだろう。

 

「う~ん……う~ん……苦しい~……」

「あわわわわ、大変だ! すぐ人を呼んできます!!」

 

 長老は目を回してうわ言のように苦しい苦しいと繰り返している。鳳はこのまま放っておいたらまずいと思い、慌てて家から飛び出した。

 

 とは言え、救急車もないこのご時世、おまけに医者を呼ぼうにもこんな森の奥深くではどうしようもない。やれることはせいぜい、家族を呼んでくることくらいだが、不運なことに、長老の家族は出払っていて誰も居ない。こうなると頼れるのは族長だけだと、鳳はすぐ近くにあったガルガンチュアの家へと駆け込んでいった。

 

「ガルガンチュアさーん! ガルガンチュアさん! いませんか!? 長老が大変なんです!」

 

 しかし、族長の家に入って奥に声をかけても誰の返事もかえってこない。族長の家は他とは違って、プライバシーが確保されているから、奥の様子はあまり見えない。もしかして、こっちも不在なのか……? と焦っていると、

 

「う~ん……ゴホゴホ……」

 

 と、家の奥の方から弱々しい誰かの声が聞こえてきた。

 

「……ガルガンチュアさん?」

「う~ん……う~ん……ゴホゴホ……」

 

 さっきの今である。まさか、ガルガンチュアも長老みたいに倒れてるんじゃあるまいな? ……鳳は最悪の事態を想定して、今は遠慮している場合じゃないと思い、

 

「お邪魔します!」

 

 と叫んで家の中へと飛び込んだ。

 

 ガルガンチュアの家は、村の中心の大木に寄り掛かるように建てられており、部屋は全て簡単な板壁で区切られている。間取りはシンプルで、玄関を入るとまず長い廊下がまっすぐ伸びていて、その左右にいくつも部屋があるといった作りだった。

 

 壁はあるが他の家と同じく風通しは良く、中の様子は見えなくても音は聞こえた。鳳はひんやりとした廊下を抜け、わざと大きな足音を立てながら、声の聞こえてくる方へと向かっていった。途中、何度もガルガンチュアの名前を呼んだが返事はない。勝手にお邪魔しているという罪悪感から、出来れば誰も居ないなんてことがなければいいのだけど……と思っていたが、寧ろそれを発見した今は、誰も居なきゃ良かったのにと後悔した。

 

 家の奥の方……ガルガンチュアの部屋よりは手前まで行くと、部屋の中から人のうめき声が聞こえてきた。鳳はさっきから聞こえてくる声だと気づくと、すぐにその部屋へと入っていき、

 

「……え!? マニ??」

 

 そこに寝転がっている人を発見し、彼は驚いた。狼人の集落の中で、たった一人の兎人であるところのマニである。

 

 ここはガルガンチュアの家なのに、どうしてマニがこんなところにいるんだろうか? と思いはしたが、そんなことよりも、今はその容態である。

 

「おい、マニ? マニ? 平気か?」

 

 鳳は床に寝転がっているマニに駆け寄ると、跪いてその上半身を抱き起こした。彼の体に触った瞬間分かった。物凄い熱である。これは長老と同じだぞと思っていると、抱き起こされていることに気がついたマニが苦しそうに、

 

「う~ん……助けて……」

「どうした? 苦しいのか?」

「水……水ください……」

「わかった! すぐに汲んでくるから!」

 

 鳳はマニを元通りそっと床に寝かせると、もはや一人ではどうしようもないと、村中の家々を回って助けを求めた。

 

*******************************

 

 長老が倒れていることを知った村人たちは、大慌てで水を運んできてくれた。鳳が煮沸消毒した濡れタオルで長老とマニの汗を拭いていると、別の家でも彼らと同じように高熱で倒れている人が発見された。

 

 一人二人ならともかく、こう立て続けとなると考えられることは一つしかない。どうやら、村で疫病が発生しているらしい。

 

 鳳がその点を指摘すると、それを聞いた村人の一人が心当たりがあったのか、昨日、今日と、調子が悪い人が何人かいると言い出した。

 

 それで村人たちを確認したところ、妊婦や子供を含む多数の人々が、ここ数日熱を出して寝込んでいることが発覚したのであった。

 

 その後、村人たち総出で患者を一箇所に集めて隔離すると、鳳たちは冒険者ギルドへと避難した。長老の容態は気になったが、その場に残ってもやれることは何もない。寧ろ、いたずらに患者を増やすだけである。

 

 看病はメアリーとレオナルドが中心になって病人の面倒を見てくれることになった。メアリーは不老非死の神人だから病気に罹る心配はなく、レオナルドも300年間これといった病気をしたことがないそうなので、彼らに任せておけば感染拡大は防げるだろう。

 

 問題は、既に感染している人たちの回復であるが……鳳たちは医者でもないのでどうしようもなかった。そもそも、何の病気に罹っているのかも分からないのに、助けようもない。

 

 一応、免疫力を高めるために、これまでちまちまと集めていた、葛根や麻黄を煎じて飲ませて見たが、メアリーに言わせれば効いてる様子は全く無いようである。どうやら村人たちが罹っているのは、ただの風邪ではないらしい。

 

 となると、最悪の事態は鳳たちに感染してしまうことであるが、

 

「……これは暫く、ここから退避したほうがいいかも知れないな」

 

 今後の対応を協議していると、ギルド長がそんなことを言い出した。

 

「冷たいようだが、獣人が罹るような病気は、我々人間だと致命傷になりかねない。せめてここが人里の近くで、医者を呼べればまだマシなんだが……」

 

 ギルド長の言うことはもっともである。ここでの生活に慣れてきたことで、すっかり忘れてしまっていたが、そもそもここは大森林……ジャングルの中なのだ。どこにどんな病原菌が潜んでいるか分かったものじゃない。

 

 ペストやマラリア、黄熱やコレラ。どれもこれも、抗生物質のない今、罹患したら命の保証はない。

 

「……なあ、鳳。おまえのスキルで薬を作れねえのか? 麻薬が作れるなら、普通の薬も作れそうなもんだが……」

 

 ギヨームがダメで元々といった感じに言う。鳳は首を振りながら、

 

「それなんだけど、実は新スキルを覚えたらいけるんじゃないかと思って、余ってたボーナスポイントを振ってみたんだよ」

 

 南部遠征から帰ってきた時点でボーナスポイントは2余っていた。今後なにかあった時のためにと思って使わずに溜め込んでいたのだが……鳳は今回の件を受けて、試しにスキルが覚えられそうなステータス、INTにボーナスを振ってみた。

 

 INTは神人の魔法の威力に関係するだけで、何の意味もないステータスだと思っていたのだが、この間ルーシーのレベルが上がってそれが増えたところ、現代魔法の才能に目覚めたのを見て、もしかしてと思ったのだ。

 

 一応、ボーナスポイントも2あったし、1上げて駄目だったらMPに切り替えてみればいい。そう思って、ダメ元で振ってみたところ……

 

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鳳白

STR 10        DEX 11

AGI 10        VIT 10

INT 12        CHA 10

 

BONUS 0

 

LEVEL 6     EXP/NEXT 210/600

HP/MP 100/50  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

SKILL

アルカロイド探知

博物図鑑

酸化還元マスタリー

アルカロイド抽出

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「賭けには勝って、新スキルを覚えはしたんだよ……『酸化還元マスタリー』ってのと『アルカロイド抽出』っての」

「また聞いたことのないスキルばかり覚えやがって……で、それは役に立つのか?」

「役に立つと言えば立つんだけど、今じゃないって感じなんだ」

 

『酸化還元マスタリー』は自然にある様々な素材から酸やアルカリを生成するスキルで、『アルカロイド抽出』はその名の通り、素材から薬効成分を抽出するスキルである。因みに両方とも、MPポーションの高純度結晶を作った鳳には、元から知識としてあった。今後はスキルを使って、より効率的に行えるというだけの話である。

 

 そんなわけで、もし既に薬の成分が分かっているなら薬品を生成することは可能だが、そもそも何の病気かすら分からないので、今は役立てようもない。

 

「まあ、考えても見りゃ、俺はアルケミストでドクターじゃないからな。同じ薬品を扱う職業でも、ちょっと毛色が違うんだよ」

 

 ギヨームは何を言ってるのかわけがわからないといった感じに肩を竦めてから、

 

「それじゃ、ギルド長が言う通り、ここからおさらばする時が来たって感じか」

「おさらばではない。村が平常に戻れば、また戻ってくるさ……いや、その時には別の駐在員に任せたいところだが」

 

 そんな具合に、ギルド長たちが撤収も視野に入れた今後の身の振り方を話し合っている時だった。駐在所の玄関がドンドンと叩かれ、外から声が聞こえてきた。

 

「御免! フィリップはいるか?」

 

 声の主はガルガンチュアだった。このタイミングで彼がやってくる理由などわかりきっている。恐らく、村で起きている疫病の対処を、冒険者ギルドに依頼しにきたのだろう。

 

 しかし、当たり前だがギルドだって万能ではない。そんな方法があるなら、撤収の準備なんかしているはずもないので、もしガルガンチュアがそう言い出しても断るしかないだろう。

 

 ギルド長はバツが悪そうに顔を歪めながら、ガルガンチュアを迎え入れた。

 

「やあ、ガルガンチュア。今回は酷いことになってしまったな。さぞかし村人たちのことが心配だろう」

「ああ。だが仕方ない。これも自然の摂理だ」

 

 ところが、ガルガンチュアは思ったよりも潔い感じだった。思えばこんな森の中で暮らしているのだから、この手の流行り病も、一度や二度ではないのかも知れない。案の定、彼はギルド長と一通り挨拶を交わしてから、

 

「すまないが、ギルドに依頼をしたい」

 

 と言い出した。ギルド長は先の理由から、疫病を治すのは難しいだろうと言ったのだが、ガルガンチュアは首を振って、

 

「いや、俺は病気を治せなどと言わない。薬があるから、取ってきてくれと頼みたいのだ」

「え!? 薬があったの!?」

 

 あきらめムードだった鳳たちは、その事実を知って素っ頓狂な声を上げた。ガルガンチュアは、こいつら何を興奮しているのだろうと首を傾げながら、

 

「あの熱病は、俺たちがたまになる病気だ。薬もある。それがあれば、大体の者は回復する」

「そうだったのか……なら早く言ってくれよ」

 

 ギルド長が安堵のため息をつくと、だから今話してるんじゃないかと、少々ムッとした感じにガルガンチュアは続けた。

 

「薬はあるが……実はそれを持っている部族と、俺達の部族は仲が悪い。だから、俺が取りに行くと断られてしまう。そこで、少年、おまえに頼みたい。俺の代わりに薬を取ってきてくれないか?」

 

 鳳たちは一も二もなく頷いた。今日の今日まで、こんなに世話になった村である。このまま何も出来ずに去るのでは寝覚めが悪いと思っていたところだ。特に鳳は、ここ数日間、ずっと一緒だった長老の容態がとても心配だった。老人の体力が、いつまでもつかわからない。

 

 彼らはお安い御用だと請け合って、超特急で遠征の準備を始めた。

 




ステータス画面省略してるけど、ちゃんとメンバーリストも見えていると思いねえ


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たははははは……バレてしまったか

 長老や村人たちが罹った熱病にはどうやら特効薬があるらしい。ガルガンチュアからの依頼を受けて、それを貰いに行くことになった鳳たちは、出発の段階になってはたと気がついた。

 

 たった今、病人の看病をしているのは、メアリーとレオナルドだ。そんな二人を探検に連れて行ってもいいものだろうか。

 

 出発する前、村人たちに家の掃除と除菌をするように言ったのだが、やはり獣人に公衆衛生の概念など理解し難いらしく、説明するのに一苦労した。中には鳳のくせに生意気だと言って怒り出す者まで出る始末である。ところが、同じことをメアリーが言えば、誰一人逆らうこと無く素直に言うことを聞くのだから、やはり今、彼女を村から連れ出すわけにはいかないだろう。

 

 範囲魔法の使用者、特に今となってはパーティーの要とも言えるメアリーが居ないのは少々不安ではあるが、今回ばかりは村のために残ってもらったほうが良い。鳳たちはその旨をレオナルドに伝え、細心の注意を払い四人パーティーで旅立った。

 

 目的の部族はレイヴンと言って、ガルガンチュアの村から3日ほどの距離に住んでいるらしい。行って帰っておよそ1週間の行程であるが、それまで患者の体力が持つかどうかはかなり際どいところである。特に高齢者の長老はぎりぎりと言っていいくらいだろう。可能な限り急ぎたいところだった。

 

 しかし、幸運なことに、その不安はすぐ解消された。

 

 出発初日、目的の村のある場所が、丁度クマ退治の時にお邪魔した隣村の方角と一致したため、補給も兼ねて挨拶に寄ることにした。距離的には数時間で、寄る必要は無かったのだが、これが功を奏した。

 

 三度目ともなると手慣れたもので、到着すると隣村の長が快く出迎えてくれた。今日はどうしたのか、またオアンネスを倒しに来たのか? と尋ねられたので、事情を説明すると、なんと、村長は薬の備蓄があるから少し分けてあげると言い出した。

 

 距離的に近いだけあって、隣村とガルガンチュアの村は血縁関係が全く無いわけでもない。

 

 隣村の長は長老のことをよく知っており、昔世話になったことがあるから、死なれては寝覚めが悪い。後で冒険者ギルドに持っていってやると約束してくれた。

 

 その代わり、隣村の分も薬を持ち帰ってきてくれとお願いされたが、こちらとしては願ったり叶ったりなので、もちろん承諾した。これで後顧の憂いは断った。しかし、それでもマニを始めとする他の患者が危険なことに変わりないから、鳳たちは先を急ぐように隣村を後にした。

 

 初日はそうして距離を稼ぎ、たまたま見つけた森の広場にキャンプを張って一夜を過ごした。ここまでは、一度来たことがある場所だからまっすぐ進んでこられたが、ここから先は川を目印にして進むしかない。

 

 森を歩く上で一番困るのは、自分たちがどっちへ進んでいるか、方向がわからなくなることだ。方角は方位磁針があれば分かるとはいえ、動物の足は左右で筋力が違うため、真っ直ぐ進んでいるつもりでも、いつの間にか方向がずれてしまう。

 

 方位磁針でずれを直しても、既に間違って進んできた分を挽回出来るわけじゃないから、結局の所、なにか目印を見つけて、それを頼りに歩くしかない。しかし森の中は視界が悪く、例えば遠くの山を目印にしても、すぐ木に遮られてどうしようもなくなるわけだ。

 

 となると、視界を遮られないですむ川を目印にして進みたくなるのだが……川と言えば、このところ嫌というほど苦労させられている、オアンネス族のコロニーにぶち当たらないとは限らない。メアリーがいるならまだしも、今の四人だけではそんなのに見つかったら対処し切れないので、出来る限り川からは離れて進みたいところである。

 

 そんなわけで、一行は地図を頼りに、川を経由しながら、出来るだけ森の中を進むルートを取ることにした。それなら多少方向がずれても、川に辿り着いたところで修正が効き、魚人族と遭遇する可能性も少なくて済むだろう。

 

 しかし言うまでもなく、この方法では道なき道を進むことになるため、移動には思った以上に時間がかかった。そのため、二日目も三日目も予定の行程を進めず、鳳たちはその疲労と焦りから、次第に口数も少なくなっていた。

 

 三日目、本来なら目的地に辿り着いているはずだった一行は、到着する前に日が暮れてきてしまい、否応なく足を止めることになった。森ルートにはもう一つ制約があった。それは夜になったら本当に何も見えなくなるから、身動きが取れなくなることだ。

 

 その日は目印にした川のほとりにキャンプを張った。南部遠征の経験もあってか、この頃になるとルーシーも夜営に慣れてきて、ギヨームと二人でテントを張る手伝いをしていた。

 

 ジャンヌはその間、乗ってきた馬の世話をしており、鳳は夕飯の足しにするつもりで、川に仕掛け針をぶっ込んでおこうと、じゃぶじゃぶと足首まで水につかっていた。

 

「……てー……たす……」

 

 と、その時だった。岩陰に針を投げ込もうとしている鳳の耳に、風に乗って人の声らしき音が飛び込んできた。それはどこか緊迫感を帯びているというか、助けを求めているような気がして、鳳はハッと顔を上げて風上に耳を傾けた。

 

 風のびゅうびゅう吹く音と、川のせせらぎの音くらいしか耳には届かない。気のせいだったのだろうか……彼がそう判断し、また釣り針を仕掛けようとした時、ギャアギャア! っと、遠くの方でカラスの鳴き声が聞こえてきた。

 

 その声に混じって、やはり誰かの叫ぶギャアというような声も聞こえてくるような気がした。鳳は確信を持てなかったが、二度目ともなると流石に居ても立ってもいられなくなり、戻ってギヨームに相談することにした。

 

 鳳に呼ばれると彼はテントを張っていた手を休め、河原にやってきて耳をそばだて、地面に耳を当てたりして何かを探りはじめた。最終的に手近な木に登り、手をかざして遠くの方を眺めて、その木から下りてくると、

 

「多分、ここから1キロくらい上流だ。何か居るな。今までの経験からして、オアンネスのコロニーで間違いないだろう」

「それじゃ俺の聞いた声は?」

 

 鳳が尋ねると、ギヨームは苦虫を噛み潰したような表情で、

 

「状況から察するに、見知らぬ誰かが捕まっている可能性はある。だが、それを確認したわけじゃない。俺たちは今、コロニーを潰す十分な備えがない。行ったところで何も出来ず、最悪の場合は二次災害を引き起こしかねない。見つかる前にここから離れた方が良いだろう」

「そうか……」

 

 ギヨームの提言はもっともだ。今の戦力でオアンネスのコロニーを潰すことは出来ない。それに、二次災害になった時、やられるのは非戦闘員の鳳とルーシーだろう。それを避けるためにも、危険に首を突っ込まず、さっさとここから離れた方がいい。

 

 だが、それで捕まっているかも知れない誰かを見捨てるのでは後味が悪い。同じように思っているのか、ジャンヌとルーシーが不安そうな目で鳳のことを見ている。彼は少し考えてから、

 

「……ジャンヌ。例えば誰かが捕まっていたとして、一人だけなら助けることは可能か?」

「正気か!?」

 

 その問いに、ジャンヌではなくギヨームが反応する。

 

「知ってるだろう? オアンネスのコロニーには数十から、多くて百体もの魔族が潜んでいる。そんな中に突っ込んでくなんて、正気の沙汰じゃないぜ?」

「ああ、でもメアリーがまだ魔法を使えなかった頃、切り込み隊長はいつもジャンヌだったろう。一撃して、相手に隙を作ることが出来るなら、一人くらいならなんとか助けられないかな」

「仮に出来たとしても、俺たちがそんなことする理由はないだろう?」

 

 ギヨームが食い下がる。だが、鳳は首を振って、

 

「いや……魚人共に誰かが捕まってるとしたら、その人は拷問されてる可能性がある。奴らは悪知恵が働くから、そうやって村の位置を聞き出すんだ。これを見逃すと、最悪の場合、どこかの村が壊滅することになる……もちろん、俺達のやることじゃないのは分かってるが……」

「う、うーん……」

「様子を見て、駄目そうだったら諦めよう。その場合は、目的の村に急行して助けを呼ぶことにする」

 

 ギヨームはうんうん唸りながら反論を探しているようだったが、最終的には額に手を当てのけぞるように天を仰ぎながら、

 

「わーかったよ! でもコロニーの様子を見に行くのは俺がやる。突っ込むかどうかの判断もだ。それでいいな?」

 

 鳳たちは頷くと、せっかく用意していたキャンプの火を消して、潜行して近づく準備を始めた。

 

***************************

 

 真っ暗な森の中を、川に差し込む月明かりを頼りにコソコソと進んだ。幸いなことに、目的地は風上にあったから、音にさえ気をつければ見つかる心配はなかった。姿勢を屈めながらおよそ500メートルくらい進んだところで、自然の音以外に異音が混じっていることがはっきりと分かるようになってきた。魚人たちのガヤガヤとした話し声が、風に乗って聞こえてくる。

 

 コロニーの200メートル手前くらいまで進むと、ギヨームが後続を手で制し、一人で様子を見に行った。緊張しながら待っていると、10分くらいして戻ってきて、

 

「……ビンゴだ。川べりの木に括り付けられた人間が一人見えた。生死は確認出来なかったが、肉になってないならまだ生きてるだろう。ついてることに、魚人共はもうおネムの時間らしいぜ。襲撃するなら今がチャンスだ」

 

 ギヨームのゴーサインが出た。鳳たちは自分たちの作戦を確認しあうと、相手に気付かれないようにジリジリと距離を詰めた。

 

 作戦……とはいえ、4人しかいないのだから役割は殆ど決まっていた。いつもどおり、切り込み隊長のジャンヌが突っ込んでいって一撃し、可能な限り敵を引きつける。敵がジャンヌに釣られたところを、ギヨームが援護射撃で数を減らす。魚人共は、背後からの攻撃に驚くだろう。そうして浮足立ってる間に、鳳がこっそり近づいていって、捕らえられてる人物を救出する。

 

 作戦の要は言うまでもなくジャンヌである。彼が敵を引き付け、上手く捕虜から目を逸らすように誘導してくれなければ作戦は上手くいかない。その場合、敵の中に突入する鳳は、最悪捕まって殺されてしまう危険がある。

 

 だが、鳳は殆ど不安にならなかった。言うまでもなく、ジャンヌが失敗するわけがないからだ。

 

「紫電一閃っ!」

 

 ドンッ!! ……っと地面がグラグラ揺れて、寝込みを襲われた魚人共は吹き飛んでいった。地割れから地下水が吹き出し、スコールのように河原に降り注ぐ。突然の襲撃に泡を食った魚人たちがわらわらと逃げ出そうとするが、そこに立っていたのがたった一人の人間であることに気がつくと、彼らは怒りと邪な気持ちに任せて、ジャンヌに飛びかかってきた。

 

 しかしそこはそれ、長年タンク職として敵の攻撃を受け流し続けてきた彼は、全く動じること無く複数体の攻撃を器用に捌きながら、じわじわと追い詰められてる体で捕虜とは逆方向へと後退していく。

 

 殆どの魚人がそれに釣られてコロニーが空になるほどだ。さすがとしか言いようがない。だが、ジャンヌもこれだけの数は捌ききれない。頃合いを見計らって、森の中に潜んでいたギヨームと鳳が、そんな彼を射撃で援護する。

 

 パンッ! パンッ! っと銃声が轟き、一発鳴るごとに魚人が一体ずつ倒れていった。ギヨームの射撃は相変わらず正確で、急所さえ見えていれば絶対に外すことがない。その速さと正確さは、こうして隣に並んで撃っているとはっきり分かった。実力の違いというものを嫌というほど思い知らされ、鳳は舌を巻いた。

 

 鳳は彼のように一撃死は狙えなくても、せめて足だけでも止められるようにと、魚人の体のど真ん中を狙った。それでも外すことが何度もあり、次第に焦りを感じ始めていると……

 

「頑張れー! 頑張れー!」

 

 ……よっぽど手持ち無沙汰だったのか、なんか背後の方でルーシーが一生懸命声援を送りはじめた。こんな緊迫した場面で何をやっているのだろう。お陰で緊張は解れたが、それはちょっと絵面的にもどうかと思うぞ……と、鳳がツッコミを入れようかどうか迷った時だった。

 

「……お!?」

 

 彼は突然、体が軽くなったような気がして困惑した。それでも、腕は止めずに射撃を続けていたが、なんだかさっきより命中率が上がっているような……

 

「う、上手くいったかな……? エールって魔法なんだけど」

 

 ルーシーが恐る恐るそう尋ねる。どうやら彼女が現代魔法を使ったらしい。異様に体が軽く感じるのは、恐らくステータスアップ系の魔法だろう。レオナルドに師事して魔法を習っているのはもちろん知っていたが、もう実用的な魔法を覚えていたなんて頼もしい限りである。

 

「こりゃあ良い」

 

 バフが乗ってブーストがかかったギヨームが、もはやピストルというよりもマシンガンといった感じに連続射撃をぶっ放している。最初は足手まといになると反対していた彼も、もうそんなことは思ってないだろう。鳳もそんな彼の負けじと射撃を続けようと思ったが、

 

「おい、鳳! ここはもういいから、さっさと行け!」

 

 言われてハッと思い出す。今回の作戦は殲滅が目的ではない。ジャンヌとギヨームの活躍によって、魚人共の注意は完全に捕虜から離れていた。救出するなら今がチャンスだ。

 

 鳳は姿勢を低くして、敵に見つからないように隠れながら進んだ。さっきバフを掛けてもらったお陰か、足取りも軽やかだった。彼は電光石火の素早さで森の中を駆け抜けると、捕虜に一番近い場所から、さっと河原に飛び出した。

 

「た、助けてっ!」

 

 鳳が飛び出したのを見つけるや、捕虜が助けを求める声をあげた。鳳は口に人差し指を立ててその声を制すると、一直線に彼の元へと駆け寄った。

 

 木に括り付けられた男は、ツタか何かでぐるぐる巻きにされている。鳳はナイフを取り出すと、それをノコギリのように切断し、捕虜を解放した。

 

 拘束が解かれた瞬間、よほど痛めつけられていたのだろうか、捕虜は一人で立ち上げることが出来ずにその場にくずおれた。そのままでは地面に激突してしまう。鳳は慌てて駆け寄るも……

 

「大丈夫か……ええっ!?」

 

 彼は捕虜を抱き起こし……そして、その顔を見て目を丸くした。何故なら、そこに居るはずのない人間が居たからだ。

 

 知り合いという意味ではない。なのにいるはずないと言い切れるのは、それは彼が人間だったからだ。獣人ではなく人間……狼人でも、猫人でも、兎人でも、蜥蜴人でもない。もちろん神人でもない、普通の人間だったのである。

 

 どうしてここに人間が……?

 

「鳳くん! 早くして!!」

 

 鳳が捕虜を抱えたまま戸惑っていると、雑木林の方からルーシーが手招きをしているのが見えた。我を取り戻した彼は、取り敢えず疑問は後回しだと、捕虜に肩を貸して引きずるように森の中へと駆け込んだ。

 

 捕虜が逃げ出したことに気づいたのだろうか、ギャアギャアという怒鳴り声と、バタバタと土を蹴る足音が背後に迫る。鳳とルーシーは捕虜を挟むようにして抱えながら、必死になって駆け続けた。なんとか追いつかれずに済んでいるのは、多分、ルーシーの魔法が効いているからだろう。

 

 しかし、日は暮れて森の中は真っ暗である。一寸先も見えない闇の中を、一体どっちに向かって走ればいいのか焦っていると、

 

「鳳くん、こっちだよ」

 

 捕虜を挟んで反対側にいるルーシーが、鳳の腕をぐいと引っ張った。

 

「見えるのか!?」

「大丈夫! 見えてるからっ!」

 

 彼女はそう言うが、鳳には何も見えないから本当かどうかわからない。かと言って、自分に何が出来るわけでもなく、彼はもはや目をつぶって綱渡りするような心境で、彼女に引っ張られるままについて行った。

 

*****************************

 

 ルーシーは本当に夜目が利くようだった。暫くすると森の中でギヨームとジャンヌに合流し、捕虜を担ぐ役目をジャンヌに任せた一行は、彼女に導かれてキャンプ地までまっすぐ戻ってきた。

 

 元々、目が悪いオアンネスの追っ手は、戻ってくるまでに完全にまいてしまっていたが、かと言ってその場でまたキャンプする気にはなれず、彼らはまとめておいた荷物を担ぐと、馬を引いて森の中へと入った。

 

 途中、こんな闇の中を進むことを嫌がる馬を何度も宥めながら、どうにかこうにか1時間くらい進んだ。小川のせせらぎはもうとっくに聞こえておらず、フクロウの鳴き声だけが聞こえていた。倒木のある広場を見つけると、彼らはそこを今夜の野営地にすることにして、ようやく重たい荷物を下ろした。

 

 ピットを掘って、枯れ葉を集め火を点ける。ろくな準備も出来なかったので、倒木を割って薪にし、少し湿気ったそれにどうにかこうにか火を付ける。

 

 そうして周囲が照らされたことによって、助けた捕虜の状態がわかった。拷問を受けていたらしき彼は全身傷だらけで、顔はアザで膨れ上がり、両手の爪はすべて剥がされ、グズグズの生皮がむき出しになっていた。見ているだけで痛そうなその傷口は、泥で汚れて真っ黒になっていた。

 

 こんな状態で1時間も歩いていたのか。鳳は慌てて水筒の水で傷口を洗うと、激痛で悲鳴をあげる彼を元気づけながら、手持ちの傷薬を塗って、ガーゼでカバーをした。恐らく顔は骨折し、歯も何本か抜けていたが、こちらの方は手の施しようもない。鳳は本来はMP回復用に持っていた草を渡すと、麻酔効果もあるからと言ってそれをかじらせた。

 

 捕虜だった彼は最初はぐったりしていたが、治療を受けているうちに助かったという実感からか、徐々に気力を取り戻し、治療が終わる頃には、しっかり受け答えが出来るくらいにまで回復していた。

 

 鳳は手遅れになる前に助けられたことにホッとしつつ、どうしてこんな森の奥深くに人間がいたのか事情を尋ねた。

 

 もしかして、自分たちと同じ冒険者なのか、それともキャラバンから逸れたのか。そんな答えを予想していたのだが……返ってきた答えは、まったく想像もしていない代物だった。

 

「助けてくれてありがとうございます。いいえ、違います。自分はこの近辺の集落で暮らしている、生まれも育ちも森の住人ですよ」

 

 鳳はまさかこんな大森林に人が住んでいるとは思わず、

 

「ええ!? もしかして、大森林って人間の集落も存在したの?」

 

 と聞いてみた。すると男は首を振って、

 

「いいえ、自分が住んでいるのは人間の集落じゃありません……驚かれるかも知れませんが、自分は人間に見えるでしょうが、実は人間じゃないんですよ。自分は、人間の父親と、獣人の母親の間に生まれた、混血(ハーフ)なんです」

 

 と言い出した。

 

 混血……そんなものが存在したのか。鳳は驚いた。

 

 考えてみれば確かに、人間と獣人は同じ二足歩行の人類だ。道具を使ったり、言葉をしゃべることからも、獣人は類人猿よりも人間に近いのは間違いない。だが、その見た目がかなり違うことからして、この種族間に繁殖能力があるとは思わなかった。

 

 それなら、どうして今まで混血を見たことがなかったんだろうかと思えば、

 

「混血は滅多に生まれないんですよ。そして、生まれたら生まれたで、どっちの種族からも忌み嫌われます……やっぱり、人間と獣人が性交をするのは、普通とは言えませんからね。自分はそういうハグレモノ……レイヴンって言うんですが、そこの集落から来ました。魚を獲ろうとして川で釣りに夢中になってたら、あいつらに襲われたんです……本当に危ないところでした」

「レイヴン……」

 

 鳳はその名前をつい最近どこかで聞いたことを思い出して、

 

「もしかして、レイヴンって熱病に効く薬を持っているって部族かな?」

「はい、そうですけど」

「なんだ! 実は俺たち、熱病の薬が欲しくって、そこへ向かってたところだったんだ。なんか恩着せがましくて悪いけど、良かったら薬を分けてくれるように、村の人達にお願いしてくれないか?」

 

 すると男は目を輝かせて、

 

「なんと、そうだったんですか? ええ、ええ、もちろん、自分からもリーダーにお願いしましょう。でも、そうですか、あなた方は冒険者だったんですね。こんな場所に来るくらいだから、てっきり自分たちの仲間になりに来た新人さんかと思ってましたが……」

 

 そして男は、本当に何気なく、そして恐らく悪気もなく、とんでもない言葉を口にした。

 

「だって、そっちのお嬢さん……自分と同じ混血(ハーフ)でしょう?」

「……え?」

「ハーフの女性がこんなところにいるなんて、他に理由は思いつきませんでしたよ。まさか冒険者として活躍している仲間が居ただなんて、本当にびっくりしました」

 

 鳳たちは言葉を失った。

 

 彼の言う、ハーフの“女性”と言うのは誰なのか……今この場には、女性はたった一人しかいない。

 

 鳳は、困惑しながら同じ焚き火を囲んでいるルーシーのことを見た。同じく、難しい顔をしたジャンヌとギヨームも、彼女の方を見つめている。

 

「たははははは……バレてしまったか」

 

 ルーシーはそんな仲間たち三人の視線を浴びて、最初のうちはドギマギしながら、続いてどこか諦めたように表情を無くして、最後にはいつも酒場で見せていた営業スマイルで……彼女はその事実を、どこか他人事のように肯定したのであった。

 



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俺の勝ちだ!

 ガルガンチュアの村で発生した熱病。その特効薬を貰いに向かった先で、一行はオアンネス族に捕まっていた人間を助けた。こんな森の奥に、どうして人間が? と尋ねれば、なんと彼は人間と獣人のハーフだと言う。この森には、そんなハグレモノが暮らしている集落があるというのだ。

 

 そしてそんな彼の口から飛び出した爆弾発言。なんと彼は、ルーシーも混血だと言うのである。驚いた一行が注目すると、彼女は困ったように苦笑いしながら、それを認めるのであった。

 

「たははははは……バレてしまったか」

 

 ルーシーはバツが悪そうに苦笑いしている。鳳たちは何と言っていいものか、掛ける言葉を失った。別に混血に対する差別意識があるとかそういうわけではなく、単純に、どう接していいか分からなかったのだ。

 

 何しろ、今の今まで、人間と獣人の間に繁殖能力があるとは思わなかったのだ。それくらい、その二種族の間には、見た目に隔たりがあるからだ。極端な話、人間と蜥蜴人(リザードマン)では、同じ人類とは思えないくらいである。

 

 そしてその意識は鳳たちだけではなく、この世界の住人全てに共通するもののようだった。だからこそ、助けた彼は見た目が人間にも関わらず、森の奥に隠れ住んでいたわけである。

 

 だと言うのに、助けてくれた相手に対し、不用意な発言をしてしまったことに気づいた男は、真っ青になって平謝りに謝っていた。

 

「す……すみません! つい、仲間が増えたと思って嬉しくて……みなさんに隠していたんですね!」

 

 ルーシーは満面の笑みを浮かべながらニコニコ近づいていって、エイッとその傷口に猫パンチを入れた。

 

「いたぁーーーっ!! いったーいっ!!」

「えへへへ。少し黙ろうか、その口、縫い付けちゃうよ」

「す、すみません……」

 

 男は青ざめて縮こまっている。ルーシーは見た目にこやかに見えるが、内心は相当怒っているようだ。そりゃまあ、そうだろう。自分の隠し事を目の前で暴露されて怒らない人間などいないだろう。人の秘密は、その人の口から出るならともかく、他人から聞かされたらただの陰口だ。

 

 なんて言葉をかけていいものか……鳳は仲間たちと目配せし合った挙げ句、結局、普通に声をかけるしかないと思い、

 

「そうか……ハーフだったのか」

 

 するとルーシーは諦めたように、視線を明後日の方へ向けもじもじしながら、

 

「正確にはクオーターなんだけど……」

「どうして黙っていたんだ?」

 

 ギヨームが尋ねる。別にそれを知ったところで、放浪者(バガボンド)である鳳たちには、彼女を差別するような意識は働かなかっただろう。そもそも差別するなら、この世界そのものを見下していると言って過言でない。だから言ってくれればよかったのにという軽い気持ちであったが……やはり、彼女がそれを口に出来なかったのは、そこに差別があるからだった。

 

「意識しなくっても、言えばやっぱり見る目が変わっちゃうんだよ。ギヨーム君たちがなんとも思わなくっても、事実を知っていれば、会話の中にそれが現れてくることがあるでしょう。それが誰かの耳に届いたらって思うと中々言い出しにくくって……黙ってれば分からないと思うと、どうしても……」

 

 彼女はそう言って悪気は無かったんだと謝罪した。別に謝るようなことではないのだが、なんとなくフォローもしづらくて、その場の空気が気まずくなった。沈黙が場を支配する。いつの間にか風は凪いでおり、唯一聞こえてくる音は焚き火が爆ぜる音だけだった。

 

 それから暫くして、彼女はこの世界の種族間にある混血問題について、ポツポツと語り始めた。

 

 人間と獣人……狼人や猫人などの種族。これら異種間同士でも繁殖能力があり、混血が生まれてくる可能性がある。生まれてくる子供は、両親の種族的特徴を受け継ぎ、身体的には優位に立てるが、繁殖能力は殆どない。一代限りで途絶える雑種のような存在らしい。

 

 例えるなら、ロバと馬の混血であるラバのようなものだろうか。ロバと馬は、比較的最近、共通祖先から別れた近親種であり、身体的な特徴は似通っている。そのため双方の間に繁殖能力が残っているが、染色体数が異なるために、生まれてくる子供は繁殖能力を持たない。

 

 しかし進化とは適者生存と突然変異の賜である。中には繁殖能力をもつ個体も生まれてくるので、その個体がまたラバ(逆の場合はケッテイ)を産むことがあるらしい。研究が進んでないのは、ラバが経済動物であることと、動物愛護団体がうるさいからである。

 

 ともあれ、異種姦というのはそもそもマイノリティで弱者が多い。例えば人間と狼人がセックスするのは、大多数の人にとっては“気持ち悪い行為”なのだ。その子供が差別されるのは、ある意味仕方ない面もある。何しろ、この世界には動物愛護団体はおろか、人権団体も存在しないのだ。

 

 そのため、混血は身体的に優位な特徴を持って生まれても、現実社会で差別されて活躍することはないに等しい。大体の人が生まれや身分を隠して育ち、大きくなっても差別的な職業に就くことが多い。特に、繁殖能力がないという特徴は、娼婦や男娼になるにはうってつけである。

 

 ルーシーの母親はそんな混血娼婦で、彼女自身はクオーターだそうだ。さぞかし苦労したかと言えば、彼女に言わせればそうでもないらしい。ルーシーはそんな希少な人間であるため、母親の娼婦仲間に大変可愛がられて育った。彼女らは、子供が欲しくてもまず産むことが出来ないので、そんな中に生まれてきた子供が可愛かったのだ。

 

 彼女はそんな大勢のお母さんに育てられてすくすくと育った。母親たちは日の当たらない仕事をしている反面、金は持っていたので、ルーシーは普通の教育を受けて普通の町娘として育てられたらしい。ギルド長やミーティアは、そんな彼女の出自を知っていたようだ。

 

 故に、帝国が街を占領したあと、彼女は職を失って自分も娼婦になろうとしたが、みんなに大反対されて、それでギルドの職員見習いとしてこの大森林までついてきたわけである。

 

「……でも、ギルドの仕事も、日常のサポートも、ミーさんみたいに上手く出来ないし、これから何をやっていいか分からなくなって困ってたんだ。故郷に錦を飾るってわけじゃないけれど、次会う時には、出来ればみんなには元気な姿を見せたかったから……何か私にも出来ることが、ううん、自分にしか出来ない何かがないかって悩んでた。だから、そんな時に、冒険に誘ってくれて、本当に嬉しかったんだよ」

「そうだったのか……」

 

 一人だけ大反対していたギヨームがバツが悪そうにそっぽを向いていた。鳳は笑いながらそんな彼の脇腹を肘で突きつつ、

 

「良かったよ、誘って。もしかして、迷惑だったかなと思ったんだけど、そんなことないんなら……こっちとしては、すげえ儲けもんだったんだぜ? 最初は荷物持ちだけのつもりだったけど、いつの間にかどんどんスキル身につけてきて、気がつけば現代魔法も覚えちゃうし、今では俺達のパーティーに、絶対欠かせない仲間なんだぜ?」

「へへへ……そうかな?」

 

 鳳は少し真剣な表情になって続けた。

 

「だからってわけじゃないんだけど、君が勘違いしないように先に言っとくんだけど……俺達は君を差別するようなことはしない。何故なら、俺達は元々この世界の人間じゃないからだ。君たちがこの世界でどんな価値観を持っているか知らないけど、少なくとも俺はそんなの知ったこっちゃない。だから今後、君を傷つけるような奴らがいたら、俺は仲間として全力で君のことを守るよ」

 

 鳳がそう宣言すると、ジャンヌも一緒だと同意した。それから少し気恥ずかしそうにギヨームも続いた。

 

 ルーシーは、そんな仲間にお礼を言おうとしたのだが、声を出そうとすると不思議と喉が詰まってしまって、どんな言葉も出なかった。代わりにその瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れてきて、女の涙に全然慣れていない鳳は焦ってしまって、

 

「な、何も泣くことないじゃないか」

 

 するとルーシーは目尻の涙を指先で拭いながら、

 

「泣いてないよ、鳳くん。涙は心の汗なんだよ」

 

 そう言って、彼女は少し笑った。

 

**********************************

 

 翌朝、助けた男に案内されて辿り着いたのは、様々な種族が暮らす村だった。事前に話を聞いていたからそれほど驚かなかったが、もしも何も知らずに訪れていたら、きっと今頃腰を抜かしていたことだろう。

 

 レイヴンの集落は村というよりも、森の中に突然現れた街のようだった。かつて鳳たちが暮らしていたヘルメス国境の街と同じように、ツーバイフォー建築の家々があちこちに建ち並んでいる。中には2階建て以上の建物もあり、それが崩れずに建っているのは、見た目以上に建造がしっかりしているからだろう。

 

 種族はバラバラで、狼人も兎人も猫人も、そして人間も何人か混じっている。蜥蜴人が商店を開いているところを見ると、どうやらここにキャラバンが通ることもあるようだ。もしかしたら、あのトカゲ商人たちの補給基地になっているのかも知れない。

 

 見れば、大人も子供も種族も違う人々が、同じ畑で作業をしている。これがレイヴンという集団なのだ。ハグレモノと聞いていたから、もっと悲惨な生活を送っているのかと思っていたが、案外そうでもないらしい。

 

 そんな街の光景に驚いていると、怪我でボロボロの仲間を連れてきた怪しげな4人組のことを、気がつけば街の住人たちが遠巻きに囲んでいた。最初は不安そうな顔をしていた住人たちも、男が事情を説明したら、打って変わって愛想良くなり、仲間を助けてくれてありがとうと、口々にお礼を言っていた。

 

 取り敢えず、怪我をしている男をこれ以上連れ回すわけにもいかないので、彼のことを街の住人に任せ、鳳たちは別にやってきた案内人に先導されて、リーダーの家まで向かうことになった。

 

 非常に愛想のいい男で、頼んでもないのに道中いろんなことを話してくれた。

 

 彼の口ぶりもそうであったが、ここに住んでいる獣人はみんな流暢な言葉を使い、数学的な才能があって様々な計算も行えるそうである。案内人が言うには、混血は比較的人間に近い能力を持つから、文化レベルは帝国や勇者領に近いらしい。反面、レベルが低いから、戦闘面では獣人に劣るようである。

 

 だから街には用心棒が必要なのだ。

 

 街の中心のでっかい家に住んでいたレイヴンのリーダーは、混血ではなく、純血の狼人の男だった。非常に体が大きくて、筋骨隆々、鳳くらいなら片手でひねってしまえそうである。どことなくガルガンチュアに似ているのは、狼男がどれもこれも同じに見えるからだろうか……

 

 そんなことを考えていると、案内人がリーダーに鳳たちがやってきた理由を説明しだした。彼はうんうんと頷きながらそれを聞き終えると、

 

「街の仲間を助けてくれて感謝する。俺はレイヴンのリーダー、パンタグリュエル。レベル30の狼人だ」

 

 レベル30と言うくだりは、わざわざ言うことなのだろうか……リーダーは、用心棒としての役割もあるから、強さを誇示しなければならないのかも知れない。少々戸惑ったが、黙って挨拶を返す。

 

「こんにちわ。俺たちは冒険者ギルドの依頼で、熱病に効くと言われる薬を探しにやってきました。ここの部族が持っているという話を聞いたのですが……」

「仲間を助けてくれた勇者に出し惜しみはしない。薬が欲しいなら、村人に分けるように伝えよう」

 

 彼がそう言うと、案内人がお辞儀をして部屋から出ていった。多分、その薬を取りにいってくれたのだろう。リーダーは彼が退出するのを見計らってから、ほんの少しトーンを下げて、

 

「……ところで、魔族が現れたのは本当か?」

「はい。ここから数キロほど行った河原にコロニーを作ってました。あの川は、あなた達の生活用水の役目も負ってるなら、早めに駆除したほうが良いと思います」

「そうか……」

 

 そう言って黙りこくったリーダーは、厳つい顔をしているが、組んだ手の指先がそわそわと忙しなく動いていた。もしかしたら不安なのかも知れない。ガルガンチュアの部族くらい戦闘員がいるならともかく、小さな部族では魔族に太刀打ちできないような集落はいくつもある。鳳はそう思いいたり、

 

「良かったら、魔族退治に協力しましょうか?」

「本当か!?」

 

 リーダーの表情がパーッと明るくなる。もちろん、大サービスであるが、

 

「タダで薬だけを貰うわけにも行きませんから。戦力はどのくらい集めることが出来ますか? 少なくとも、猛獣クラスとの戦闘経験がある人が数人は必要ですが……」

 

 そんなことを話している最中だった。家の玄関をドーンッ! っと開ける音がして、わざとドカドカと足音を立てながら誰かが家の中に入ってきた。その不遜な態度にリーダーが怒り、大声で不躾な来訪者に向かって叫んだ。

 

「誰だ! 今は来客中だぞ!!」

 

 すると闖入者は負けじと大声を張り上げて、

 

「パンタグリュエル! そいつらは客じゃない! 敵だ!!」

 

 突然、部屋に飛び込んできたその男は、いきなり鳳たちを指差してそんなセリフをのたまった。もちろん、そんなつもりのない鳳は、慌ててそれを否定しようとしたが、

 

「ええ!? いやいや、俺たちは全然、もちろん、これっぽっちも、全く敵意なんてございませんぜ? 一体突然何を言い出すんだあんたは……って……おまえは!?」

 

 振り返って相手の顔を見た瞬間、鳳は固まった。

 

 そこに立っていたのはリーダーと同じ狼人だった。狼人は表情が乏しく見分けがつかないが、その顔だけは忘れようも無かった。最後に見たときよりも、ほんの少し成長したようだが、相変わらず小生意気な子供の表情を残している……ガルガンチュアの村を追放された、ハチである。

 

 どうしてこんなところにハチが!? 戸惑う鳳たちを尻目に、彼はリーダーに向かって言った。

 

「パンタグリュエル! こいつらはガルガンチュアの村の住人だ。俺はこいつらに、不当に追い出された! 間違いない!」

 

 彼がそう叫ぶと、それまで愛想が良かったリーダーの態度が突然豹変し、

 

「……なんだと!? 貴様ら、ガルガンチュアの村から来たのか!?」

 

 リーダーは物凄い形相で鳳のことを睨みつけると、その鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅ぎ、

 

「本当だ! ちょっとだけガルガンチュアの臭いがするぞ! この野郎……俺を騙したな!!」

 

 何故かわからないが、突然激昂したリーダーが、その丸太のような腕を振り上げる。慌ててジャンヌが間に入り、その腕を受け止めた。

 

「ちょっと! 何をするのよ、あなたっ!」

「うるさい! お前たち、俺を騙したな!? ガルガンチュアの村人が、俺の村に入るなんて許せない!!」

「待って下さい! どうしてそんなにガルガンチュアさんを拒絶するんですか? あんた、一体何者なんですか!?」

 

 事情がよく飲み込めない鳳が困惑しながら尋ねると、するとリーダーは苦々しそうな表情で言った。

 

「ガルガンチュアは俺の弟だ。俺はあいつが族長になるために……あの村を追い出されたんだ!!」

 

 興奮するリーダーの吐く息が顔にかかる。肉食獣特有の臭いがして、鼻がひん曲がりそうだった。鳳はそれを我慢して、どうにかこうにか彼に話を促した。

 

 そして判明した事実は、どうやらこういう事らしい。ガルガンチュアの村では族長の息子が後を継ぐのだが、それは何人もいる男子の内、長男に限らず最も高レベルの男子がなる決まりだった。そのため、ガルガンチュアよりもレベルが低かったリーダーは、彼が村を継ぐ際に禍根を残さないよう、まだ若いうちに村から放逐された。

 

 何もしていないのに、ただレベルが低いという理由だけで追い出された彼は、ガルガンチュアの村を憎んだ。それ以上に、村でしか暮らしたことのない彼は、いきなり外の世界に放り出されて、どうやって生きていいか分からず不安だった。生活能力のない彼は、死にそうになりながら、あちこちを放浪した末にようやくこの街にたどり着き安息を得たわけだが、それで村への憎しみが消えるわけではない。

 

 以来、彼はこの街の用心棒として生活しながら、ガルガンチュアの村への復讐を狙っていたのだ。

 

「あの村人たちが苦しむならいい気味だ! さっきはやると言ったが、薬はやらないことにする!」

 

 リーダーはそう言い捨てると、もはやお前たちとする話はないと言わんばかりに、ハチと二人がかりで、鳳たちを突き飛ばすようにして家の外まで追い出した。長い廊下を小突かれて、開きっぱなしの玄関から追い出された鳳は、地面に転がって膝小僧を擦りむいた。

 

 激痛に顔を歪めながら、彼は振り返り、何とかリーダーを宥めようとしたが、

 

「うるさいっ! お前たちは俺だけでなく、ハチも追い出した! あの村は、昔から何も変わってない! 最低だ! ガルガンチュアの村は、みんな死ねばいい!」

 

 彼の怒りは頂点に達しており、もはや取り付く島もないようだった。

 

 鳳は落胆してため息を吐く。そんな彼を見おろすように、陰が立ちはだかった。見上げればハチがニヤニヤしながら鳳のことを見下している。

 

「いい気味だな、ツクモ。今度は俺の勝ちだ」

「勝ち……? 勝ち負けも何もないだろう? おまえは何を言ってるんだ?」

「うるさい! おまえは村人たちを助けられなかった。村人たちはおまえのせいで死ぬんだ。ざまあみろ!!」

 

 突然何を言い出すんだろう、この男は。鳳はわけがわからず戸惑ったが、ハチのニヤニヤ笑いが止むことは無かった。

 

 察するに、ハチは鳳に嫌がらせをすることで、優越感に浸っているらしい。鳳に狩り勝負でやられた復讐を、こんな形で行っているのだ。いや、それだけではなく、村から追い出された恨みも、ガルガンチュアへの鬱憤も、こうして晴らそうとしているのだろう。

 

 虫唾が走るが、今はこの男のことをどうこうしている場合ではない。なんとかして薬を分けてもらわねば……長老も、マニも、隣村の人たちも困ってしまうのだ。

 

「ハチ、おまえはみんなが死ねばいいなんて言うけど、今熱病に罹っているのは、おまえの友達のマニなんだぞ? 可愛そうだと思わないのか? 助けてやれよ。おまえしか助けられないんだから、な? 俺からも頼むから、この通りだ」

 

 鳳は出来るだけ下手に出てみたが……ハチはニヤニヤ笑っているだけで何も言わなかった。薄々そうじゃないかと思ってはいたが、彼にとってマニは友達でもなんでも無かったんだろう。それどころか、目の上のたんこぶくらいに思っていたかも知れない。

 

「おまえ……狩り勝負の時にズルしたのを助けてくれたのはマニだろう!」

「うるさい!」

「おまえが腹を空かせていたら食べ物を分けてやったり、他にも色々フォローしてくれた仲間だろう!?」

「うるさいうるさい!!」

「そのマニが苦しんでいるんだぞ? なんとも思わないのか!?」

「はっ! いい気味だぜっ!」

 

 ハチは全く悪びれもせずにそう言い放った。本当に見下げ果てたやつである。鳳は悔しくて、奥歯をぎりぎりと噛み締めた。

 

 と、その時、ハチは騒ぎを遠巻きに見ていた一人の兎人の女性を抱き寄せて、まるで見せつけるようにそのほっぺたにキスをした。

 

「マニは女を知らずに死ぬんだな。哀れなやつめ」

 

 ハチはイヤイヤをする兎人の首筋をペロペロと舐め、鳳に見せびらかすようにその胸を揉みしだいた。兎人はそんなハチ相手にうっとりとしている。

 

「俺はこの村に来て良かったぜ。女は強い俺の虜。いくらでも取っ替え引っ替えだ。俺は大人になったのに、マニはずっと子供のまま。ツクモ、おまえ、女を抱いたことあるか?」

 

 鳳はあまりに胸糞が悪くてどんな言葉も出てこなかった。ただ、こんなやつを友達と思っていたマニが可哀想で……

 

「……マニは、おまえを助けようとしてたんだ。何故分かってやれなかったんだ……」

 

 彼は吐き捨てるようにそう呟くと、仲間たちが居るのを忘れて、背を向けてその場を立ち去ろうとした。

 

 そんな鳳の背中にいやらしい声が投げかけられる。

 

「おまえの負けだ。女でも抱いて出直してこい。赤ちゃん。俺の勝ちだ! 俺の勝ちだ! 俺の勝ち!」

 

 まるで子供の駄々にしか思えないのに、不思議とその言葉がザクザクと胸に突き刺さる。鳳は耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、本当にそうしたら負けを認めるような気がして……勝ち負けなんて関係ないと分かっているのに、悔しくて、最後まで毅然としていることが出来ず、逃げるように村から立ち去るのだった。

 



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人として正しい姿

 レイヴンの集落で熱病の薬を首尾よく手に入れられそうになった一行は、あとちょっとのところで乱入してきたハチに邪魔され、受け取ることが出来なくなってしまった。

 

 なんと、レイヴンのリーダーはガルガンチュアの兄で、村から追い出されたことを今でも恨んでいるらしいのだ。出掛ける前にガルガンチュアが、レイヴンとは部族間の仲が悪いから、自分の依頼であることを勘付かれないようにしてくれと言っていた理由がこれである。

 

 無論、鳳たちは依頼人の言葉を守って、自分たちがガルガンチュアの村からやって来たことは言っていなかった。だが、そこにハチが居たのではどうしようもない。やはり同じく、自分の失態で村を追い出されたばかりのハチは、村のことを逆恨みしていたのだ。

 

 異常なほどに勝ち負けに拘るハチに威圧され、散々嫌味を言われた一行は、何も言い返すことも出来ずに退散するしかなかった。こっそり村人に分けてくれと頼んでも、リーダーが反対するからと言って取り付く島もない。身体能力に劣る彼らにとって、リーダーとハチは、危険から身を守ってくれる抑止力でもあるから逆らえないのだ。

 

 レイヴンの街から追い出された一行は、あまりの仕打ちに頭にきて、もう二度と行きたくないと思っていたが……かと言って手ぶらで帰るわけにもいかない。

 

 ガルガンチュアの村では、今でも熱病に苦しんでいる村人たちがいるのだ。それに隣村の長との約束もあった。なのに人の命が掛かっているこの状況で、仕事を投げ出して帰るわけにもいかず、彼らは仕方なく、街からほど近い森の中にキャンプを張って、対策を講じることにした。

 

 真っ先に思いつくのは、とにかく下手に出てでも何とか薬を分けてもらうことだが、ハチのあの様子を見る限り、多分何を言っても無駄だろう。付き合いが長くなってきたから分かるのだが、獣人は短絡であるゆえ強情でもあるのだ。

 

 近隣の集落を見つけ、事情を話して代わりに貰ってきてもらうことも考えられたが、タイムロスが痛いのと、確実とも言い難い。いっそ襲撃しようと、珍しくルーシーがキレていたが、あの二人はともかく、他の集落の人々は関係ないのでもちろん却下だ。盗みに入るという選択肢も考えられたが、これ一度きりならともかく、今後のことを考えると、冒険者ギルドの名に泥を塗るのは得策とは言えなかった。

 

 昨晩助けた男になんとか頼んでみることも考えられたが、街に到着した段階でまだ怪我がひどく、治療のためにすぐに別れてしまったことが悔やまれた。こっそり頼みに行こうにも、彼が今現在どこにいるのかがわからないのだ。頼みの綱は彼が事情を知っているということだが、気を利かせて薬を持ってきてくれるなどというファインプレーを期待しても望み薄だろう。

 

 そんなこんなで話がまとまらず、気がつけば日が暮れてきてしまった。夜営の準備をろくにしていなかった一行は、慌てて薪を拾ってきて焚き火を囲んだが、街で分けてもらうつもりでいたから食糧事情が乏しく、なんとも侘しい夕飯となった。

 

 空腹と怒りでみんなどんどん無口になり、いたたまれない雰囲気が漂っていた。時折交わされる言葉は愚痴ばかりで、もはや建設的な意見は何も出てこなかった。中でもハチに対する怒りの言葉は大半を占め、彼の評価は地に落ちていた。だが腹立たしいことに、悪口をいくら言ったところで、何の解決にもならないのだ。

 

 興奮のせいでみんななかなか眠る気になれず、特に建設的な意見もないまま、一行は焚き火を囲んで深夜を迎えた。火が爆ぜる音が響き、ずっと熱に晒されている顔が焼けるように熱かった。

 

 鳳はそんな頬を冷やそうと、顔を上げて水を含んだ手ぬぐいを取り上げようとした。その時、同じようにそれを取ろうとしていたジャンヌと目があって、お互いに先に使えと遠慮しあっている時、そのジャンヌが怪訝そうな表情で言った。

 

「……白ちゃん。あなた、何か気になることでもあるの? ここに来てから、ずっと青白い顔をしてるけど」

 

 鳳は突然そんなことを言われて戸惑った。自分ではそんなつもりはまったくなかったからだ。

 

「え? そんなことないけど」

「昼間ハチに言われたことを気にしてるの? あなた、あいつが追い出される時、マニ君と一緒に最後まで擁護していたものね。もしかして、それで責任を感じてるのかと思って……」

 

 鳳はぶるんぶるんと首を振った。

 

「あれはあいつの自業自得だろう。なんとも思っちゃいないよ」

「なら良いんだけど……」

 

 ジャンヌはまだ少し気がかりのようだ。実を言えば確かに、少し思うところがあって鳳は話の最中、ずっとよそ事を考えていた。そんなに顔に出ていただろうかと思って、彼は気を引き締めようとしたが、そんな彼の顔を覗き込むようにしながら、今度はルーシーが尋ねてきた。

 

「私も変だと思ってたんだ。鳳くん、何か気になることでもあるの? 普段の君なら、こういう時、もっとアイディアを出してくると思うし、少なくとも何か行動を起こそうとするでしょう?」

「確かにそうだな……」

 

 とギヨームが追随する。別にそんなことはないと思うのだが……何か知らないが、彼らの中の鳳の評価は最近高すぎやしないだろうか。鳳は勘弁して欲しいと思いながら、

 

「いや、ちょっとよそ事を考えてただけだ。すまない。だけど、別に手を抜いてるつもりはないんだ。純粋に、今の状況はお手上げだよ。成すすべがない。期待に応えられなくて悪いんだけど……」

「そう……ううん、こっちこそごめんね。でももし、君が何か困っているなら、私で良かったら言ってね。昨日、隠し事がバレちゃった時、君に話を聞いてもらったことで、私は救われた気がしたんだ。だから今度は私の番かなって、そう思ったんだよ」

 

 ルーシーはそう言って、彼女にしては珍しく真面目な表情をしてみせた。鳳は、その目を真っ直ぐ見つめることが出来ずに、ぷいっと視線を逸らしてしまった。

 

 なんだかずるいことをしているような気分だった。彼女は、否応なく自分の心境を吐露せねばならなかったというのに、自分は誰にも何も言わず、独りで悶々と悩みを抱え続けている……

 

 鳳はため息を吐くと、ガシガシと後頭部を引っ掻いてから、視線だけをルーシーに戻してバツが悪そうに言った。

 

「本当に、大したことじゃないんだよ……今の状況には何の関係ないっつーか。単に、昔の嫌なことを思い出して憂鬱になっちまったんだ。昼間、ほら、ハチが兎人の女の子のこと抱き寄せて、酔っぱらいのおっさんみたいにいやらしいことをしてただろう? でも、女の子はそれほど嫌がっていなかった」

「ああ、うん、あれは最悪だねえ! あんなのが良いなんていう子の気がしれないよ」

「あれ見て、嫌な気分になったっつーか……ちょっと思い出したんだよね。俺は、女の子の気持ちがわからないなあって……な? 関係ないだろ」

「ああ、本当に関係ねえな……ぐっ!?」

 

 頭の後ろで手を組みながら、ギヨームがツッコミを入れると、横にいたルーシーがそんな彼の脇腹に肘鉄を入れた。迷惑そうな顔を向けるギヨームを無視して、彼女は身を乗り出しながら、それからどうしたのと促した。鳳は苦笑しながら、

 

「本当に大した話じゃないんだよ。俺個人の問題だし、聞いてて楽しいもんじゃないと思う。それに説明が難しいんだよ。今まで誰かに話したこともないから。何しろ、俺自身もよくわかってないんだ。ただ、それが切っ掛けで俺自身の生き方っていうか、考え方とかが変わっちまったことが昔あってさ。あいつのあの、勝ち誇った顔を見た時に、俺はそれを思い出したんだよ。何から話せばいんだろうか……

 

 人間ってのは人によって価値観が違うだろう? 音楽でもファッションでも、あれが好きこれが好きとか、大人っぽい子供っぽいとか、人の受ける印象は千差万別だ。そんなばらばらの個人が集まってるのが社会ってやつだから、一つにまとまっているように見えて、実際にはその中には色んな価値観ごとのグループが形成されている。学校でも、会社でも、価値観の違う派閥ってものがあって、お互いに無視しあってるならともかく、牽制しあったり、馬鹿にしあったりしている。

 

 そして大多数が少数を踏みにじり、強いものが弱いものを威圧する。イジメが起きたり、闘争が起きたりするのは、派閥間のバランスが崩れたときだ。人間ってのは、自分とは違う価値観の者を忌み嫌う。何故なら誰も彼もが本能のまま生きていたら、人間は奪うことしか考えないからだ。

 

 例えば、友達とどういう付き合いをするかじゃなくて、単にその数だけを重視する人間がいる。相手のことが好きかどうかは関係なく、椅子取りゲームみたいに異性を求める人間がいる。俺はそう言う人達のことを、まるで動物みたいだなと思って見下してきた。野生動物みたいに、本能のままに生きるのは、人間として間違ってると……

 

 動物の繁殖について考えてみよう。発情期にツガイを同じ檻に入れておけば、相手が誰か関係なく、その動物は交尾する。それは本能だ。人間は家畜の本能を利用して、品種改良をしてきた。ところで、人間も動物であり、オスでメスだ。だから、例えば林間学校なんかで、中学生の男女を一名ずつ、ペアにしてテント泊をさせたら何が起きるかは言うまでもないだろう。表面上はまったく興味がない相手だとしても、同じ空間で寝ていたらムラムラして襲ってしまう奴が必ず出てくるだろう。本能がそう命令するからだ。

 

 でも全部が全部そうするわけじゃない。例えば日本のような先進国でそんな実験をやった場合、多くのペアが欲望に打ち勝つことが出来るだろう。彼らは理性を働かせて、いたずらに肉欲に溺れたりはしない。何故なら、好きな子を守ろうとして大事に扱うことが出来るのが、強い男の証だからだ。俺たちはそう言う教育を受けてきて、現実にそういう欲望に負けない人たちの方が好ましいと思い、尊敬もしてきた。理性は欲望に勝るんだ。

 

 しかし、本当にそうか? 例えば欲望に負けて襲ってしまう者と、女子を傷つけまいとして何もしない者。どちらがより人間のオスとして正しいんだろうか? いや、どちらが正しいとか正しくないとかではなく、単純に結果だけを見た時……より多くの遺伝子を残すのはどっちだ?

 

 適者生存の法則により、俺たち人類は絶え間なく訪れる地球規模の災害に打ち勝ち、ついに万物の霊長として地に満ちた。適者生存とは強い者が生き残るのではなく、環境に適応したものが生き残ってきたことを意味している。

 

 実際、戦争はそれを如実に表している。弱者を虐げる戦争犯罪ばかりが目立っているが、現実の戦争で真っ先に死んでいくのは、前線の勇敢で強い兵士からだ。そして言うまでもなく、卑怯なものほど多くの戦果を上げている。

 

 そう考えると……友達とどういう付き合いをするかじゃなくて、単にその数だけを重視する者。もしくは、相手のことを好きかどうかは関係なく、椅子取りゲームみたいに異性を求める者……人として正しいのは、果たしてどちらだ?」

 

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 エミリアは中学になって綺麗になった。彼女が通り過ぎれば誰もが振り返り、彼女が笑えばまるでそこに花が咲いているようだった。みんな彼女に好意を抱いており、お近づきになりたくてあれこれ画策した。でも彼女は本質がオタクだったから、引っ込み思案で誰に対しても愛想よく出来ず、それが返ってミステリアスな印象を与えていた。

 

 もちろん、先輩たちにも評判で、休み時間になると体の大きな先輩たちが、嫉妬と羨望の混ざった目つきで、彼女のことをジロジロ観察に来たものだった。彼女はそんな先輩の目に怯えて体を硬化させ、それがかえって彼らの庇護欲を誘った。

 

 鳳はそんな彼女の友達として、変なふうに目立ってしまっていた。それだけではなく、彼はお金持ちのボンボンだったから、お金の力で彼女のことを縛っているのだと言う、おかしな噂までが流れていた。

 

 そんな噂を打ち消してくれたのが先輩だった。先輩は鳳がまだ小さい頃、近所に住んでいたガキ大将で、子供会の集まりやお祭りなどで、いつも遊んでくれた兄貴分だった。カラッとした性格で人柄もよく、誰からも好かれており、だからもちろん、鳳も彼のことを信頼して、誘われるままに彼の所属する部活にも参加していた。

 

 そんな先輩だからこそ、エミリアを紹介してと言われた時、彼は何の抵抗もなく彼女のことを紹介してしまった。彼女が取られるなんて気持ちはさらさらなく、寧ろ先輩と彼女が付き合ったら、それはきっと素敵なことだとさえ思っていた。

 

 エミリアは不服そうだったが、鳳に勧められたこともあり、そして先輩に逆らうことなんて出来るわけもなく、彼女は学校のいわゆる一軍連中と付き合い始めた。それは今にして思えば、チャラい集団だったが、当時、まだ子供だった鳳には、凄く格好いいグループに思えた。だから、その中に自分の好きな人がいることは良いことなのだと単純に思っていた。

 

 どうしようもなくガキだった。

 

 間違いが起きたのは夏休みのことだった。

 

 どうやら、一軍連中が親や学校には内緒で、子供だけで海に泊まりに行ったらしい。海辺にグループの誰かの別荘があるらしく、そこに一泊したのだ。それは好意的に見れば、単に子供だけで楽しもうとしただけの他愛のない遊びだった。

 

 だが、きっと彼らの誰一人として分かっていなかったのだ。世の中には、本能に逆らえない人間がいることを。異性がそこにいるだけで、必要以上に馬鹿騒ぎをし、虎視眈々とセックスすることだけを目的とする、そういう人間が思ったよりも存在することを。

 

 案の定、連中の中から性欲に耐えきれなかった者が現れ、その日めでたく大人の階段を上り……そして無駄に騒ぎすぎたせいで近所の誰かに通報され、めでたく警察の厄介となり、彼らの企みとセックスは親と学校の知るところとなった。

 

 夏休み明け……問題となった連中は停学を食らった。

 

 その中にはエミリアも含まれていたが、連帯責任で全員が停学になっていたので、鳳はまだ彼女に起きたことを知らなかった。彼は先輩のことを信頼していたし、彼女がそういうことが嫌いなこともよく知っているつもりだった。

 

 ところが、数週間が過ぎて連中の停学が開けても、何故かエミリアだけがいつまで経っても学校にこなかった。次第に焦りが募る中、鳳の耳に聞こえてくるのは、あいつセックスしたんだぜという、クラスメートのうわさ話ばかりだった。

 

 絶対にそんなことはない。怒った鳳は、事件以降、彼を避けていた先輩を問い詰めに行った。

 

 一年の、体の小さな、ひょろひょろの子供が乗り込んできたところで、怖くなんてなかっただろう。しかし、先輩は鳳がクラスに乗り込んでくると、ものすごく狼狽して言い訳を始め、何が起きたのかを問い詰める彼に対し、

 

「分かった分かったちゃんと説明するから」

 

 と言って煙に巻いた。今にして思えば、多分、クラスメートの前で真実を告げることを避けたかったのだろう。彼はまだ外聞を気にしていたのだ。そして鳳もまた、そんな彼のことを信じていた。

 

 しかしそんなものは幻想だ。

 

 放課後、先輩に言われた通り、学校外の人気のない場所に事情を聞きに行った鳳は、そこで一軍連中に囲まれた。それでもまだ先輩のことを信じていた彼は先輩を睨みつけ、どういうことかと詰問した。

 

「どうもこうもないだろう……?」

 

 先輩は、馬鹿な鳳が、こんな場所まで一人で来たことに笑いが止まらない感じで彼に近づいてくると、まるで躊躇なく彼の顔面にパンチを入れた。まだ何が起きているか分からない鳳がぽかんとしていると、周りで見ていた連中が一斉に動き出して、彼はボコボコにされたのだった。

 

「海についてきたらどうなるか、わかりきってるじゃないか」

 

 パチンパチンと乾いた音が鳴って、体中に熱が走った。全く予期せず殴られると、人は痛いと感じるよりも、ただ熱いと感じるようだった。

 

「ついてきた時点で、あれは合意だったんだよ。エミリアは大げさなんだ」

 

 突然、体だけは大人みたいな連中にボコボコにされた鳳は、驚いて先輩に助けを求めた。しかし、そうして見上げた彼の目に飛び込んできたのは、あの時、ハチが見せたような、優越感に満ちたいやらしい表情だったのだ。

 

「悔しいか? 鳳。おまえがグズグズしてる間に、俺が奪ってやったんだ」

 

 目は釣り上がり、鼻がピクピクと膨れ上がる。こみ上げてくる笑いが堪えられず、口の端が奇妙に歪んでいた。興奮を抑えきれないといった感じの震える声が耳朶を打つ。

 

「おまえより、俺のほうが優秀だから、当然だろう?」

 

 抵抗したくても体力的に不可能で、鳳はただ滅茶苦茶に殴られ続けた。そのうち、その一発がよほどいいところに決まったのか、呼吸が出来なくなり、意識が遠のいていった。痛みが体を縮こまらせ、恐怖が心を締め付ける。涙で視界がぼやけて、嫌な奴の顔が見えないことだけが、唯一の救いだった。

 

 地面に転がる彼の体に、大勢の男達の足が突き刺さる。執拗に蹴り上げられる脇腹に、呼吸が出来ない。恐らく、骨も何本かいってしまっているはずだ。もはや意識を繋いでいるのは、ただ苦しみを長引かせるだけだ。鳳は抵抗を諦め、意識を手放し……そして心も閉ざした。

 



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お前には失望した

 暴行はそのあともずっと続けられた。鳳は完全に意識を失っており、それがどれほど続いたかはわからない。考えなしの興奮した子供に、加減というものがわかるとも思えないし、恐らく、何ごとも起こらずそのまま暴行が続いていたら、彼は死んでいたかも知れない。

 

 それが死なずに済んだのは、ひとえに連中の足の骨がやわだったからだ。鳳は暴行を受けているうちに意識をなくし、そこから先は抵抗することが出来なくなった。すると本来なら生物が行うであろう防御反応も役に立たないから、受け身を取らないでいる彼の体は、文字通りサンドバッグみたいな状態だった。そこへ調子に乗った一人が思い切り蹴りを入れ、鳳の骨を折ると同時に、自分の足までへし折ってしまった。

 

 痛みにのたうち回る仲間を見て、最初はゲラゲラと笑っていたが、それが尋常じゃない痛がり方だと分かってくると、連中はだんだん怖くなってきた。足が折れた男は泣きながら救急車を呼んでくれと言う。しかし、救急車を呼んでしまったら、自分たちがやったことがバレてしまう。それが警察の存在を連想させ、急激に熱が冷めていった。

 

 彼らはお互いに言い訳しあいながら、足の折れた男を救助すると言う名目でその場から逃げるように去っていった。本当に助けが必要な方はもちろん放置だった。それどころか、人気のない裏路地の広場に人が近づくようなことはなかったが、それでも少しでも発覚が遅れるように、鳳の体を茂みに隠すことさえ忘れなかった。

 

 それから数時間後、鳳は朦朧とした意識の中で目を覚ますことになる。

 

 あのまま放置されていたら、下手したら死んでいてもおかしくなかった。助かったのは、これまた非常に幸運だったからだ。たまたまその近辺に、深夜に犬の散歩をする人が住んでいて、その人がたまたま犬の糞を片付けるスコップを忘れたから、たまたま鳳の倒れている路地裏に入ってきたのが理由だった。

 

 真っ暗な路地裏は視界が悪く、最初は気づかなかった。しかし犬の様子がおかしいからよく見れば、そこに鳳が倒れていた。死体かと思った男は飛び上がり、すぐに警察に通報した。そのお陰で彼は救急搬送され、すぐさま緊急手術になった。

 

 彼が目覚めたのはその最中、麻酔で意識が朦朧としていた時だった。信じられないくらい眩しい手術台のライトが彼を照らし、大勢の人たちが動き回る気配の中で、麻酔をかけてなおズキンズキンと体のあちこちが痛んでいた。

 

 彼が目を覚ましたことに気づいた看護師が何かを耳元で叫んでいた。何を言っているか分からず、何て返事したかも覚えていない。ただ、彼は自分の意志で声を発し、そこにいる他人の存在を意識したことで、安心感を得たようだった。その後、急激に眠気が襲ってきた彼は、そのまま再びぐったりと意識を手放した。

 

 次に目が覚めた時は、病室のベッドの上だった。縛り付けられてるわけでもないに、体は全く動かなかった。どちらにせよ、動けば激痛に苛まれるのだから、動けたとしても動かなかっただろう。最低限、呼吸だけをしながらぼんやりとしていると、病室に医者が入ってきて、一緒にいた父の弁護士と何か話しながら、鳳の容態を機械的に診察していった。

 

 それから一週間くらいが経過して、今度は警察がやってくるようになった。鳳は相変わらずベッドの上だったけれど、痛みは大分和らぎ、普通に会話できる程度には回復していた。だから事情聴取に来たのだ。彼らは鳳に、何故あそこで倒れていたのかを聞いた。だから鳳は、あそこらへんを歩いていたら、見知らぬ集団に襲われたんだと答えた。

 

 それは警察にとっては想定外の答えだった。彼らは鳳に何度も事実確認をし、まだ痛みで混乱しているのだと結論づけると、一旦は帰っていった。それから暫くしてまたやって来たときは、今度は遠回しに聞くのではなく、あからさまに学校の一軍連中のことをチラつかせた。

 

 それでも鳳は最初の主張を曲げなかった。戸惑う警察は、彼が先輩たちの復讐を恐れていると判断し、絶対にそうならないように保護するからと請け合った。鳳が協力してくれたら、必ずあいつらをとっ捕まえて見せると。しかし、鳳はそう言われても証言を変えることはしなかった。

 

 それからは入れ代わり立ち代わり、次々と別の警官がやってきて、脅したり宥めすかしたりして、なんとか自分たちの求めている証言を得ようと躍起になった。しかし、それでも彼は意見を翻すこと無く、結局は被害者が望んでないことなら仕方ないと警察も諦めて、事件は有耶無耶になってしまった。

 

 それは加害者である先輩たちにとっても寝耳に水だっただろう。

 

 事件から1ヶ月ほどが経過して、鳳は学校に復帰した。松葉杖をついて、まだ一人では何をするにも苦労していたが、彼は退院後、休むことなくすぐに学校へとやってきた。事件のあらましをなんとなく知っていたクラスメートたちは、そんな彼のことを遠巻きにして近づかず、そして先輩たちもまた、彼が何を考えているかわからないから、不安そうな目つきで見るだけで近づいてはこなかった。もちろん、教職員は何もしなかった。

 

 しかし、時間が経つにつれて、次第に焦れてきた一人が鳳にちょっかいをかけだした。彼はわざと鳳に突っかかり、小突いたり、嫌味を言ったり、どんな反応を返してくるのかを探っているようだった。鳳はそんな相手に対して、出来る限り愛想よく振る舞った。怒ってないことを殊更にアピールしたのだ。

 

 すると、もっと安心したい他の先輩たちも近づいてきた。本当に自分たちに害意を持っていないのか試すかのように、威圧したり、パシらせたり、鳳のことを子分のように扱いはじめた。彼はそんなことをされても嫌な顔ひとつせず、威圧する相手には下手に出て、パシらされてもしっぽを振って、ついには松葉杖を隠されても、先輩やめてくださいよと言ってヘラヘラ笑うだけで、彼らに絶対に逆らおうとはしなかった。

 

 クラスメートたちはそんな彼のことを怒りの混じったような奇異の目で見ていた。逆に先輩たちは鳳に対して好意を向けるようになっていった。やがて彼はエミリアの代わりに、学校の一軍連中と付き合うようになり、そんな彼のことを先輩たちはとても可愛がって、学校は平穏を取り戻したかのように見えた。

 

 そして鳳のことを真の仲間であると認めた彼らは、それからは面白いように何でも教えてくれるようになっていった。

 

 それぞれの家の住所、電話番号、家族構成、習い事の有無、好きな女の子、etc……

 

 中には鳳が庇ってくれたくれたことを感謝する先輩もいて、罪悪感に駆られていた者は懺悔までした。鳳はそんな先輩たちをにこやかに笑って許し、そして鳳は、彼らの集団の中に、居なくてはならない一人になっていった。

 

 時が流れ、三学期も半ばを過ぎ、三年生は登校日以外に学校へは来なくなった。鳳は、そんな静かになった三年生の教室に呼び出され、女の先輩からバレンタインのチョコレートを貰った。もじもじとおかしな事を口走る女に適当に相槌を打ち、彼女が満足して去っていったのを見送ったあと、彼は受け取ったバレンタインのチョコレートを、そこにあったゴミ箱に投げ込んだ。

 

 赤い夕日が埃舞う教室に差し込んでいる。受験頑張ろう、みんなでハッピーなんて薄っぺらい言葉が、教室の後ろの黒板に書き殴られている。誰かの体育着が放置されてカビが生えている。リノリウムの床のワックスが半分剥がれて年輪みたいな皺を刻んでいる。蟻が一匹どこからか迷い込んで、鳳の上履きに登ろうとしている。彼はそれをつまみ上げて床に放り投げると、踏み潰し、汚物をばらまくようにわざと床に擦り付けた。

 

 そろそろ、頃合いだろう。

 

 奴らは受験も終わり、後は卒業するだけだと浮かれている。

 

 自由登校期間はそれぞれが家で勉強に集中するために設けられた期間らしいが、そんなものを守っているやつなど居ない。奴らは朝から晩まで友達の家に集まって、遊び呆けていた。

 

 教師の目も届かない。親たちはそんなガキどもを家に残して、会社だのパートだのに出かけている。てめえらのガキが狙われてるとも知らず、呑気なものである。襲撃に関して気をつけねばならない事は、あとは奴らの交友ネットワークだけだ。それは既に彼の手中にあった。

 

 鳳はこれまでのおよそ半年間、牙を研ぎ澄ませ続けていた。

 

 あの路地裏で先輩にボコボコにされた時。信頼した先輩に裏切られたと知った時。彼は復讐の鬼と化した。病院で目覚め、医者が必死に彼の命をつなごうとしていた時、彼はいかにしてあのクズどもを殺してやろうかと、それだけを必死に考え続けていた。

 

 警察は邪魔だった。彼らが介入して、奴らが鑑別所にでも入れられてしまったら、復讐のチャンスを逃してしまう。警察、学校、保護観察官……観察対象が増えてしまえば行動が取りにくくなる。出来るだけ奴らには、自由でいてもらわねば困るのだ。

 

 しかし相手は大人数、そしてこちらは体力的にも劣る下級生、普通に襲撃したのでは、まず上手くいかない。だから奴らの懐に飛び込んで、隙を作るしか無かった。そのために嫌なヤツに頭を下げ、愛想笑いをし、思ってもないおべんちゃらをつかった。プライドをかなぐり捨て、賄賂を渡し、時には女に甘い言葉を囁いた。屈辱的な日々だった。

 

 だが、そんなことは今日のことを思えば、さして苦痛でも何でも無かった。日に日に鳳に対して好意を寄せてくる奴らから情報を得ることは容易いことだった。

 

 海へ行ったのは連中の内15人。そのうち、特にたちの悪い5人の男をターゲットにした。女に関しては、既に今までに集めた醜聞を、実名と共にネットにばらまく算段が出来ている。男はそれに加えて、肉体的な苦痛を受けてもらわねば困る。

 

 幸い、たちの悪い奴らほど、団体で行動するものだ。一人では何も出来ないくせに、大勢になると途端に強気になり、そしてより悪辣になる。頭は悪く、だからこそ、筋力に異常に執着するが、スポーツをやってるわけではないから案外体力がない。

 

 最初のターゲットは、そんな一軍メンバーの主力三人だった。こいつらは、いつもつるんでいて、一人でいることは滅多に無い。しかし、だからこそ中に入ってしまえば、いくらでも油断を誘うことが出来た。

 

 メンバーの中に両親が共働きで、夜遅くまで帰ってこない者がおり、いつも連中のたまり場になっている家があった。その日も三人はたまり場に集まって、他愛のない遊びをしていた。

 

 鳳はこの半年間で、そのたまり場に入ることが許されるようになっていたから、その日も学校をサボって彼らのアジトに遊びに来ていた。そして時が流れ、誰かが腹が減ったと言い出しジャンケンを始めた時、彼はこの時を逃しては行けないとばかりに、自分が買い出しにいくと言った。その代わり、一人ついてきてくれと言うと、彼らは特に不審がらずに応じた。買い物なんて一人で出来るはずなのに、それを不審がらないくらいに、彼らは鳳を信頼していたのだ。

 

 だから決行は非常に簡単だった。

 

 鳳は最初の犠牲者と共に家を出ると、家から出てすぐのところにあった、神社みたいに長い階段を先輩に先に行かせ、十分に勢いをつけてからその背中を蹴り飛ばした。全く不意打ちだった彼は面白いように階段を転げ落ち、間もなく血を流して地面に横たわった。

 

 生きているかどうかはわからない。だがまあ、動かないなら死んでいてくれても構わない。何しろこちらにはまだ他にも、やらなきゃならない奴らがいる。

 

 鳳がそんな風に冷徹に男を見下ろしていると、それを見つけた近所の人がきゃーと悲鳴を上げた。階段を落ちる時、結構な音が鳴ったから、驚いて飛び出してきたのだろう。不思議と落ち着いていた。心臓はまったく普段どおりの心拍数を保持している。鳳はその声を受けて、家まで取って返すと、大変だと言って玄関に駆け込んだ。一緒に行った先輩が、階段から転げ落ちた。救急車を呼んでくれ。

 

 家主である男にそう指示し、半信半疑の彼が電話をする間に、もうひとりの方を連れ出すことに成功した。彼は事態をまだよく飲み込めておらず、とにかく現場に連れて行けと言いながら、鳳の前を歩き始めた。

 

 こいつは馬鹿なんじゃなかろうか。鳳は、背中を向けている男の背後へ忍び寄ると、予め用意しておいたナイフで思いっきりその脇腹の辺りを貫いた。

 

 突然の鈍痛に、男が体を曲げて崩れ落ちる。彼は自分の脇腹に刺さっているナイフを見て、目を見開いた。鳳はそんな彼に対して、冷酷な視線を浴びせかけると、傷口を押し広げるようにグイグイと手首を返し、男の体を蹴り飛ばしてナイフを引き抜いた。

 

 この世のものとは思えない悲鳴を上げて、男が地面でもんどり打った。激痛に耐えきれない彼は、ばたばたと足で地面を蹴飛ばしている。

 

 鳳はそれを見て、陸揚げされたマグロみたいだと思いながら、平然とナイフの血を拭い、すぐに部屋まで取って返した。多分、今の悲鳴はもう一人の耳にも届いていたはずだ。彼に見つかる前に、さっさと行動を起こさなければならない。

 

 鳳は部屋に飛び込むと、電話の受話器を持ちながら、不安そうにこちらを見つめている男に向かって、血で真っ赤に染まった手を見せながら「救急車まだですか、早く!」と、強い口調で言い放った。

 

 どう考えても異常な行動だったが、寧ろ異常すぎたからか先輩は不審に思わなかった。その剣幕に驚いて、彼はただ事じゃないと判断し、鳳に背を向けて受話器の向こう側のオペレーターと話し始めた。鳳はその隙を逃さずに、玄関の傘立てに置いてあった金属バットを引き抜くと、今度は電話に夢中の男に向かってそれを思い切り振り下ろした。

 

 ゴッ!! と、鈍い音が響き渡って、電話をしていた男は肺の中の空気を全部吐き出してその場に倒れ込んだ。受話器の向こう側から緊迫した声が聞こえてくる。鳳はそれを無視して、倒れた男に近寄ると、驚愕に震えている彼の頭めがけて、再度、金属バットを振り下ろした。

 

 ゴッ! ゴッ! ゴッ! ……鈍い音が部屋中に響き渡る。咄嗟に防御しようと腕を上げたその手首に、容赦なく金属バットが振り下ろされる。殺すつもりで振り下ろされたバットを前に、貧弱な手首は成すすべもなく、折れ曲がって変な方向を向いていた。

 

 それでも執拗に振り下ろされるバットが当たるその度に、男の情けない悲鳴と、助けを求める声が部屋に響き渡った。鳳が執拗に頭を狙えば、男は防御反応で腕を差し出さざるを得ない。もういっそ殺して欲しいだろうに、それでも生存本能がそうしてしまうのだ。

 

 やがて耐えきれなくなった男は泡を吹いて失神した。その反応が劇的で、鳳は思わず2度見してしまった。しかし、気を失った人間はこんな間抜けな顔をしてるのかと思ったら、かつて自分がやられたことを思い出してムカムカしてきた。彼はそれをスマホで撮影すると、彼らが連絡で使用しているSNSにその映像を流した。

 

 受話器からは相変わらず、オペレーターの緊迫した声が聞こえていた。家電話だから、刑事ドラマみたいに、逆探知で居場所を割り出されるのだろうか? よくわからないが、IP電話だから多分すぐには無理だろう。そう判断すると、鳳は特に受話器をいじらずに、そのまま部屋から外へ出た。

 

 すると外には人が集まっていた。ナイフで刺された男を見つけて、近所の人たちが集まってきたのだろう。鳳はそんな中を悠々と進み、にこやかに挨拶をしてその場を去った。野次馬たちはそんな彼のことを奇妙に思っただろうが、彼が犯人とまではまだわかっていなかった。

 

 スマホが震えて、SNSにメッセージが流れてきた。さっきの動画が既読になっていて、それを見たメンバーが連絡をしてきたのだ。こいつが次のターゲットだ。

 

 鳳は出来るだけ切羽詰まった声で電話に出ると、何が起きたのかと不安げな相手に向かって、「隣の中学の連中が攻めてきた、自分たち全員が狙われている」と有無を言わせずにまくし立てた。

 

 普通に生きている者からすればバカバカしい限りであるが、身に覚えのあるそいつは動揺した。彼らは良く集団で、気の弱そうな他校の生徒を襲っては、カツアゲなんかをしていたからだ。

 

 鳳は、一人でいると危険だから、今はみんなで集まって反撃しようとしているところだ。おまえもすぐにこっちへ来いと言って、滅多に人が通らない、人気の少ない場所へ呼び出した。

 

 これからどうなるかも知らず、そいつはのこのことやって来た。みんなが集まっていると言っていた場所に鳳しかいないにも関わらず、そいつは不安がるどころか、知り合いの顔を見つけて心底ホッとしたように駆け寄ってきた。

 

 鳳はそんな子犬のように可愛らしい先輩に向かってテーザー銃を撃ち込むと、ショックで倒れた相手のアキレス腱に、ナタを振り下ろした。何が起きたかまだ理解出来ない彼は激痛に泣き叫ぶ。鳳はそんな相手を見下ろしツバを吐き捨てると、予め用意していたビデオカメラの前で、立ち上がることの出来ない相手を一方的に叩きのめした。

 

 必死に命乞いする相手を金属バットで、死なないくらいに、もしかしたら後遺症が残るかも知れない程度に痛めつける姿を撮影した。それは重労働だったが不思議と疲れは感じなかった。非常にやりがいがあった。

 

 泣き叫んで許しを請う相手に同情の欠片も見せず放置して……鳳は、そろそろ何が起きているか勘付き始めた連中が、仲間内に探りを入れている真っ只中に、グループチャットにその動画をアップロードし……そして、最後の一人に向かって名指しで宣言した。

 

 次はおまえの番だ。

 

 4人目の犠牲者を放置して、鳳は現場から離れてすぐ近くの駐車場へと移動した。そこに用意しておいた車に乗り込むと、彼は当たり前のようにキーを回して発進した。彼の家には車が何台もあった。そのうちの一台を拝借することなど造作も無かった。運転も、ゲーセンのシミュレータ程度の経験があれば、AT車ならなんの問題もないことを彼は知っていた。

 

 エミリアを紹介してくれと言った先輩は、鳳の幼馴染だった。子供の頃から付き合いあって、友達の少ない彼の面倒を見てくれる、気の良い兄貴分だった。鳳はエミリアの事が好きだったけど、彼にだったら彼女を取られても良いやと思えるくらい、彼のことを信頼していた。

 

 だからもちろん、そいつのことなんて何から何まで全て把握していた。住所も、電話番号も、家族構成も、今現在、両親が留守で一人でいることも、家の間取りも、水道やガスの元栓も、そして家の外にある電気の分電盤も。

 

 彼には最大の恐怖を味わってもらわねばならない。だからわざと他の連中を襲った動画を送りつけた。きっと今頃、ビビって警察に保護を求めている頃だろう。でも家族は居ない、一人だ。外に出るのは怖い。家の中に隠れているはずだ。

 

 だから最初に電気を止めた。外は既に真っ暗で、閉め切った家の中では何も見えないはずだった。案の定、カーテンが揺れて、先輩が外の様子を窺っているのがすぐに分かった。鳳は、車の中で工事現場で使う回転灯を回すと、動画サイトで録音したパトカーのサイレン音を鳴らした。

 

 先輩は間もなく家から飛び出してきた。まるで砂漠の中でオアシスを見つけた旅人のようににこやかな表情で。鳳はそんな彼に向かってハンドルを切ると、思いっきりアクセルを踏みこんだ。

 

 ハイブリッド車のモーターは殆ど音も立てずに急発進した。先輩はまさか助けに来てくれたパトカーに引かれるとは考えもせずに、最後まで馬鹿みたいに突っ立っていた。間もなく、鳳の乗った車がドンッ! っと揺れて、棒立ちだった先輩が面白いように飛んでいった。

 

 まるで映画のスタントを見ているかのようだった。先輩は美しい軌道を描いて吹っ飛んでいった。背中から着地した彼は、しゃーっと音を立てながらアスファルトの上を滑っていって、最後だけゴロゴロと転がって止まり、そのままピクリとも動かなくなった。

 

 鳳はそれを見てから悠々と車から降りると、地面に転がっている先輩の上にドスンと馬乗りになった。ひゅーひゅーと情けない悲鳴を上げ、息も出来ず、動けもしない彼が、半べそになって助命を乞う。それは本当に、本当に、みっともなくて、胸がスカっとする光景だった。

 

 鳳はおかしくておかしくて、ゲラゲラと笑いながら、持ってきたナイフをホルダーから引き抜くと、怯える彼の喉元にその切っ先を突きつけた。

 

「なあ、先輩? どうしてこんな目に遭うかわかるか?」

 

 怯える先輩は涙を流しながらブルブルと首を振った。鳳はそれを見て、再度ゲラゲラと大声で笑うと、

 

「俺も分からねえよ」

 

 と言って、ナイフを振り上げた。

 

 しかし……彼はそのナイフを振り下ろすことが出来なかった。

 

 もちろん、鳳は今日、殺すつもりでここに来た。そのために、この半年間、屈辱に耐え続けてきた。その気になればいつだって、こいつらを警察の手に委ねることは出来た。きっとそっちの方が楽だった。だけど彼はそうすることはなく、この日のために、ずっと心を殺し続けてきたのだ。

 

 仲間の四人にも復讐を果たした。後はこいつを殺るだけだ。なのに……!

 

 鳳はその手を振り下ろすことが出来なかったのだ。

 

 どうして彼の体は突然動かなくなってしまったのか。

 

 本当に……本当に……まるで漫画みたいな話なのだが、彼はその時、見てしまったのだ。涙がいっぱいに溜まってキラキラ輝いている先輩の目の中に……そこに映った自分の顔が、嘘みたいに、はっきりと見えてしまったのだ。

 

 目は釣り上がり、鼻がピクピクと膨れ上がる。こみ上げてくる笑いが堪えられず、口の端が奇妙に歪んでいた。優越感に浸る表情が、俺はこいつに勝ったんだという喜びを、顔全体で表現していた。

 

 “オス”として俺のほうが優秀なんだぞと、雄弁に語っているような、そんな卑しい表情だ。肉体の強靭さ、女へのアピール、性欲に根ざした価値観だけが全てなんだと言っているような、気持ちの悪い野生動物みたいな、いやらしい顔がそこにあった。

 

 それを見た途端、彼は夢から醒めたかのように、突然動けなくなってしまった。

 

 頭は相変わらずクールなのに、心がついていかないというか、力を込めても、反動をつけても、どうしてもその振り上げた腕が下りてこない。まるでパントマイムでもしてるかのように、ナイフを持つ右手首を左手でつかみ、グイグイと引っ張っても、その腕はピクリとも動かなかった。

 

 地面に寝転んで鳳を見上げている先輩の顔が、「どうして?」と言っているかのようだった。

 

 本当にどうしてなんだろう……

 

 それを見た途端、彼は不思議とそこに転がっているのは先輩じゃなくて、本当は自分だったんじゃないかと……

 

 そんな感覚を覚えてしまったのだ。

 

**********************************

 

 凶行は終わった。その後間もなく、先輩が呼んでいた警察が駆けつけ、鳳はあっけなくお縄になった。

 

 駆けつけてきた警官は、ナイフを握りしめたまま固まっている彼に向かって、それを放棄するよう指示したが、彼は呆けたようにピクリとも動かなかった。見かねた数人が彼を取り囲み、羽交い締めにしてナイフを奪おうとしたのだが、彼の指はナイフの柄に深く食い込み、まるで鋼鉄で固められたようで、大人が顔を真っ赤にしてこじ開けなければ剥がれないほどだった。

 

 そこまで覚悟が決まっていたのに、何故、自分はやり遂げることが出来なかったのだろうか……?

 

 警察署に補導された彼は取調室へと連行された。どちらも入った経験が無いから、比べようはないはずなのだが、まるで懺悔室のようだと彼は思った。刑事たちの詰めるオフィスのすぐ脇に、プレハブ小屋みたいなパーティションが区切られたスペースがあり、可視性やプライバシーがどうとかで、扉が開け放たれていたから、殆ど廊下で立ち話をしているのと変わりなかった。

 

 鳳はそんな中で事情聴取を受けた。しかし警察は割と同情的だった。聞こえてくる話では、彼が襲った連中は全員命を取り留めていたようで、それも考慮されたのだろう。それを聞いた彼は残念と思う反面、どこかホッとしていた。

 

 それから、彼が連中を襲った動機について、警察が始めから知っていたのも大きかっただろう。去年、他ならぬ彼自身が襲われた時、警察は前々からマークしていた不良グループのことを洗いざらい調べ尽くしていたのだ。あと一歩で一網打尽に出来るところを、何故かその被害者によって阻まれ、彼らは忸怩たる思いを抱いていた。

 

 だから本当はこんなことを言っちゃいけないのだろうがと前置きしてから、取調官は鳳のしでかしたことを、寧ろよくやったとさえ思っていると言った。自分だって、もしも大切な幼馴染がレイプされたら、同じことをしようと考えるはずだ。だが、大半の人がそれが出来ずに妄想に終わる。そうしなかった鳳のことを、寧ろ尊敬さえすると彼は言った。

 

 鳳はそんな言葉を、どこか砂を噛むような気持ちで聞いていた。彼はこの時初めて、幼馴染に何が起きたのかを知った。多分、そうだろうと思って行動してはいたが、他人の口からはっきりそうだと言われたのはこの時が初めてだった。

 

 凄くショックで、感情が追いつかなかった。でも、心というものは素直で、こういう時にどうすればいいのか、ちゃんと分かっているようだった。

 

 彼は無表情のまま涙を流した。頭の中はクールで、何も考えちゃいないのに、何故か止めどもなく涙が溢れて、止めようとしても止めようとしても、後から後から湧いて出てくる。

 

 取調官はそれを見て、黙って部屋から出ていった。取り残された彼はその背中を見送ってから、呆然と椅子の背もたれに体重を乗せて、言うことを聞かない体の反応が収まるのを待った。

 

 部屋の外の様子は、開いた扉から相変わらず耳に飛び込んできていて、間もなく父の顧問弁護士がやってきて、被害者の家族と示談交渉を始めている声が聞こえてきた。どうやら警察と被害家族を交えて、すぐ隣りにある別の部屋で協議しているらしい。それを聞いている限りでは、相手に鳳を訴えるつもりはなく、全て金で解決できそうだった。

 

 鳳はそれを聞きながら漠然と考えた。

 

 もし、あの時、先輩を殺していたら……

 

 もし、あの時、他の連中の止めを刺していたら……

 

 今頃どうなっていたのだろうか?

 

 駆けつけた警官の対応、さっきまでの取調官の同情、そしてすぐ隣で行われている示談交渉……全てが覆され、彼にはどうしようもなくなっていた。憎しみは涙が洗い流してくれる。さっきまで頭がおかしくなりそうだったのに、今はもう大分落ち着いていた。だからこれで良かったのだと、彼は自分にそう言い聞かせた。そいつが来るまでは。

 

 その時、警察署に鳳の父親がやってきた。

 

 彼はズカズカと苛立たしそうな足音を立てて、鳳のいる取調室へと向かってきた。落ち着けと宥める警官の声を振り切るように彼は取調室の前までやってくると、すぐ近くで協議していた被害家族の抗議の声に、微塵の尻込みも見せずに、

 

「黙れっっっ!!!!」

 

 と一喝し、呆然と立ち尽くす被害家族と顧問弁護士を睨みつけながら、鳳のいる取調室へと入ってきた。そして入ってくるなり、いきなり拳を振り上げ、

 

 バキッ!

 

 ……っと、音が鳴るくらい、鳳の顔面を思いっきり殴りつけた。完全な不意打ち、そして全体重の乗った攻撃に、鳳の体が吹っ飛ぶ。ボルトで固定されていた机がガタガタと音を立て、パイプ椅子が盛大な音を立てて倒れた。

 

 父親は地面に倒れ伏す鳳に向かって、尚も拳を振り下ろそうとしたが、それは周りを取り囲んでいた警官たちによって止められた。彼は羽交い締めする警官を振りほどこうとして、体を捻じりながら、倒れている鳳に向かって吐き捨てるように叫んだ。

 

「何故、仕留めそこなったっ!!」

 

 真っ赤に染まる鬼の形相で、その瞳からは悔しさの余りか、滂沱の涙が溢れている。

 

「どうして、殺さなかったんだっ!!」

 

 まるで気でも狂ったかのように大暴れする父親を取り押さえるのに、二人では無理と判断した警官たちが、4人、5人と束になって彼に取り縋る。それでも抑えきれない彼は、引きずるように取調室から連れ出されていった。

 

 椅子から転げ落ちた時に、机の角にでもぶつけたのだろうか、鳳の額からドクドクと血が流れていた。女性警官が慌てて駆けつけ、ハンカチで彼の頭の傷を塞いだ。不思議と痛みは感じなかった。と言うか、何だか体がふわふわと感じて、まるで地に足がついていなかった。

 

 それより何より、遠ざかる父親が狂ったように叫び続ける、「お前には失望した」の言葉が、彼の心を深く抉った。以来、その言葉は呪詛のように彼の脳裏につきまとい、いつまでも忘れられぬトラウマとなった。

 



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おまえはあの時の俺だ

「特殊な家に生まれて、金持ちの私生児だった。かなり激しい父親で、元はIT長者ってやつだったんだが、若くして金持ちになったせいで散々女に苦労させられたらしく、年取ってから全く女を信用しなくなった。それが会社がどんどん大きくなるに連れ、後継者問題に頭を悩ますことになった。何もかも、自分ひとりでやらなきゃ気がすまない男だったから、誰かに舵取りを任すなんてことが出来なかったんだ。

 

 親父はそれでもパートナーを探すなんて事が考えられず、苦肉の策として、世界中から選りすぐりの女性を集めて卵子だけを提供してもらい、その受精卵をランダムに混ぜて、途上国の女性に代理出産させた。あとになって遺産相続で揉めないように、こうして生まれてくる子供が、誰の子供か分からなくしたんだ。だから俺は、自分の母親がどこの誰だかわからない。

 

 そうして生まれた俺たちは国内に連れてこられ、後継者候補として育てられ、競わされた。競うといっても、俺たちにそんな意識はなくて、単に英才教育を受けさせてふるいを掛けていたんだろう。理由も知らず帝王学を学ばされていた俺は、そんな中で頭角を現した一人だった。

 

 物心ついた頃にはもう施設で育てられていて、両親は居ないと言われて育った。それが中学に上がる頃、ある日突然、おまえは世界でも指折りの金持ちの息子だと言われて、その後継者と呼ばれるようになったんだ。

 

 まるで漫画みたいな話だけど、俺には実感も無かったし、嬉しいとも思わなかったよ。ただ、周りからすればそれは羨ましいことだったんだろう。あの時、俺をボコボコにする先輩たちの優越感に浸る表情は、今でもよく思い出すよ。

 

 あの後、俺はエミリアに会いに行こうとしたんだけど、俺がやったことは既にあちこちで知られてて、あいつの両親に拒否られて再会することは出来なかった。俺はもう、そんな世界から逃げ出したくて……好都合にも、後継者問題は例の事件でお役御免になって、俺は親父とは疎遠になってたから、それで家を出たんだけど……それで何かが変わるわけでもなく、どうやって生きていけばいいかわからないような状態が、何年も続いたんだ」

 

 鳳の思ったよりもヘヴィーな半生を聞いて、一同は沈黙してしまった。ジャンヌも、ルーシーも深刻な顔をして、聞くんじゃなかったと言わんばかりの、後悔の表情を浮かべていた。

 

 そんな中でも、ギヨームだけは普段通り平然としており、鳳の話を黙って聞きながら、時折焚き火に薪を足したり、相槌を打ったりしていた。彼は長話に喉が枯れかけていた鳳に、煮沸して詰めておいた水筒の水を差し出しながら、

 

「お前が以前言ってた、草を食ってた時期ってのはこの時か?」

 

 すると鳳は頷いて、

 

「元々、ろくに知らない相手だったから、親父との仲は完全に冷え切っていて、やつの金で飯を食ってるという現実が耐えられなかったんだ。何故、仕留めそこなった。どうして、殺さなかったんだ……そう言って俺を殴りつけた親父の言葉が、飯を食うときにまで蘇ってきて、飯が喉を通らないんだ。嫌な奴の世話になっているという事実が俺を苦しめる。やつのことを憎んでさえいた。でも、それって結局、自分が許せなかっただけなんだよな。

 

 先輩たちにボコボコにされ、復讐を誓った時から、俺の人生は彼らを始末することに全精力が向けられていた。俺は彼らに取り入るために、どんな屈辱的な行為にも耐えた。あいつらの虚栄心を満たすようにピエロを演じて、金を使って内部に入り込んで、仲良くなってからは、俺は彼らといる時、本心から共に笑いあえていたと思う。彼らの油断を誘うために、仲間を演じているわけじゃなくて、ちゃんと彼らの仲間だったんだ。

 

 でも、いざ行動に起こしてからは、そんなこと微塵も思い出さなかった。命乞いする先輩たちの泣き顔を見ても、1ミリも同情すること無く、淡々と機械的に彼らを痛めつけることができた。

 

 罪悪感は欠片もなかった。俺みたいなやつのことをサイコパスっていうんだろう。でも……それなのに……俺は仕留めそこなった。何であそこまで行って体が動かなかったのか……俺は自分が許せなかったんだよ。

 

 そして、何度も何度も考えた。忘れよう忘れようと思っても、頭の中で暴れだすんだ。あの時、俺が止まらなかったら、今頃どうなっていたんだろうかって……」

 

 鳳の独白のような昔話を黙って聞いていたギヨームは、彼が沈黙した後、考えるように腕組みをしながら口を引き結び……やがて何かの結論を得たかのように頷くと、

 

「……お前は俺のifなのかもな」

 

 と言った。俺とおまえは似ているのだと。

 

「俺の両親はジャガイモ飢饉で新大陸に渡ってきたアイルランド移民だった。俺は移住先のニューヨークで生まれて、物心つくまでそこで親兄弟と暮らしていた。だが、移民の生活は苦しいからな。南北戦争が終わったばかりで、過当競争が激しくなって。ある日、親父はそれに耐えきれなくなって、どっかに失踪しちまったんだよ。

 

 お袋は俺たちを育てるために、一緒にアイルランドから渡ってきた仲間の男と再婚した。兄貴はそんなお袋のことが許せなくて、いつも義父と衝突していた。俺は表面上は新しい父親と仲良くしてたけど、本当はわだかまりがあったんだろうなあ……だからある日、爆発したのさ。

 

 日に日にキツくなる生活に、俺たち一家は東海岸での生活を諦めて、西海岸を目指すことになった。当時はゴールドラッシュで沸き立っていて、西に行きさえすればなんとかなるって雰囲気が社会に蔓延していたんだ。

 

 苦労の末、大陸を横断した俺たちはサンタフェにたどり着き、義父は鉱山で働き、お袋は生活を助けるために下宿を始めた。まあ、下宿っつっても、ただの掘っ立て小屋さ。おまえの建てた小屋にも劣るようなもんだ。もちろん、やってくるのはゴロツキばっかで、どうしようもない連中ばかりだった。街全体が、そんなもんだったのさ。

 

 俺はそんな燻った日々に、いつもイライラしていた。俺がいるのはこんな場所じゃねえって。だからある日、お袋のことを売春婦呼ばわりしたやつにイラっとして、つい、射殺してしまった。実際、連れ込み宿みたいなことをしてる連中は居たけど、俺のお袋をそんなのと一緒にするんじゃねえって、カッとなっちまったんだ。そんで、家から出ていくしかなくなった」

 

 彼はそこまで話し終えると、何がおかしいのかケタケタと愉快そうに笑い、

 

「丁度、おまえとは真逆だな。俺は殺意を我慢しきれなくなって、ついに殺っちまった。それを後悔したことは一度もないが、もしもあの時、我慢していたらどうなっていたかってのは、よく考えたよ。

 

 何故って、鳳。人殺しは、一生ついて回るんだよ。俺はその後の人生で、生き残るために幾度も人に手をかけた。駅馬車強盗に家畜泥棒、決闘もやった、時には遊びでネイティブを殺した。俺が人殺しであることが知れ渡ると、自然とそう言う仲間が寄ってきた。

 

 俺はゴロツキだらけの街に嫌気が差して、そんな生活を捨てたはずなのに、気がつけば俺がそのゴロツキになっていたんだぜ、笑っちまうよ。そして最後はゴロツキを殺した罪で裁かれ、射殺されたわけだ。

 

 こんな俺でも、気にかけてくれる人は居たんだぜ。タンストールさんという人は、本物の英国紳士(ジェントル)だった。ブリテン島から渡ってくる連中は、英国紳士なんて言ってるが、酒、博打、女、どいつもこいつも金の亡者みたいな連中だった。でも彼はそんなところがまるで無かった。

 

 その頃、娼婦のキャラバンの護衛をしていた俺を見かけた彼は、俺がまだ若いからやり直せるって、自分の牧場で働かないかと誘ってくれた。街の有力者に近づくつもりで請け合ったが、タントールさんはそんな俺に親切にしてくれた。学のない俺に文字を教え、算数を教え、仕事のことを教えてくれた。頑張ればおまえだって、牧場が持てるようになれるぞと言ってくれた。

 

 だらしないことが嫌いな人で、いつもツイードのパリッとしたジャケットを着ていた。屋敷には街で唯一のピアノがあって、奥さんが俺のために弾いてくれたこともあるんだぜ? どこの馬の骨とも知れない、ゴロツキの俺なんかによ。だから俺も、ここにいれば、いつかまともになれるんじゃないかって幻想を抱いちまったんだ。

 

 その頃の西海岸は無法地帯だった。内戦が終わったばかりで、連邦政府の力はまだ国全体には及んでおらず、憎しみは残り、あちこちで不正が行われていた。イギリスから渡ってきたばかりのタントールさんは、そんな空気が読めずに不正に立ち向かい、恨みを買って殺されてしまったんだ。

 

 俺は激怒した。俺だけじゃなく、彼に味方するものは大勢いた。逆に、殺した相手に取り入ろうとする奴らもさ。こうしてリンカーンの街は二分され、ゴロツキ共による殺し合いが始まった。俺はその戦争で20人以上を射殺して、お尋ね者になった。街から逃げ出した俺が振り返ると、守ろうとした物はみんな壊れ、街で唯一のピアノも燃えちまっていた。ああ、これが俺の人生なんだなって思ったよ」

 

 彼はしみじみと何かを思い出すように言葉を区切ると、数秒間の沈黙の後に続けた。

 

「鳳、おまえはあの時の俺だ。おまえは、憎い相手を殺せなかったって後悔しているんだろうけど、人を殺せば、人の間では生きられないんだよ。

 

 もしそうしていたら、おまえは今頃、殺してやったゴロツキみたいな連中とつるんで、俺みたいに、ロクでなしの人生を送っていただろうよ。そうならなかったのは、おまえがあの時に耐えたからだ。

 

 おまえの言う通り、俺もおまえもサイコパスってやつなんだろう。俺もおまえも、いざとなったら人を殺すことに罪悪感を持たない、そんな人間だ。良く言えば目的のために手段を選ばない、悪く言えば人情がない。

 

 だがそれでもおまえは、人の間に帰ろうとしたんだろう。帰る場所があったんだから。エミリアだっけ……? もし、そうしてたら、おまえはそいつの前に立てただろうか。おまえの仇を討ってやったと、笑って報告出来ただろうか。

 

 だからそれで良かったんだろうよ」

 

 鳳はあの時のことを思い出していた。あの時、どうしても体が動かなかったのは、先輩に同情したからではない。自分が、この憎い相手と同じになることが、許せなかったんだ。ギヨームはそう言いたいのだろう。

 

 確かに、彼の言うとおりかも知れない。あの時、自分が復讐のために人に手を掛けていたら……何年間かの施設ぐらしの末に、元の生活には戻れなかったかも知れない。少なくとも、風のうわさで始めたゲームで、エミリアに会いに行こうなんて思わなかったはずだ。

 

 そして彼女のことは忘れ、父親との縁も完全に切れ、きっとあの先輩達みたいなチャラい連中とつるんで、半グレみたいな生活を送っていただろう。そして、そうなったことに、何の疑問も持たなかったはずだ。

 

 彼はそうならなくて良かったと、ほんの少し気が楽になった気がした。

 

「……でも結局、エミリアには逢えずじまいで、俺もおまえも同じように、こんなわけのわからない世界にいるんだけどな」

「そこはおめえ……いいっこなしだ。神様は平等なんだろ」

「神様ね……それ、俺の幼馴染かも知れないんだぜ?」

 

 二人は顔を見合わせると、ゲラゲラと笑った。そんな二人のことを遠巻きに見ながら、ジャンヌとルーシーが同じように肩を竦めて、やっぱり二人ともシンクロするように、しょうがないなと言った感じに笑っていた。

 

 そんな風に、焚き火を囲んで青春めいた語り合いをしていた時だった。笑いすぎて涙目になっていたギヨームが、その目を擦りながら、ふと真顔に戻り、

 

「……誰だ? そこに誰かいるだろう!?」

 

 彼の言葉に、それまで声をあげて笑っていた三人がピタリと息を飲む。静寂が戻ると、確かにギヨームの言う通り、少し離れたところから、誰かが近づいてくるような、枯れ葉を踏む足音が聞こえてきた。

 

 警戒するジャンヌが剣を取り、鳳がライフルに手を伸ばした時、焚き火の炎に照らされて、ぼんやりとした人影が浮かび上がった。

 

 やって来たのは一人の狼人だった。体つきから女性に見える。彼女は警戒している鳳たちに向かって、敵意がないことを示そうと、少し離れた位置で立ち止まり、

 

「楽しいお話の最中にごめんなさい。あなた方がガルガンチュアの村から来たと聞いて、やってきたんですけど……」

「ええ、そうですけど……」

 

 彼らは目配せし合い、代表して鳳が応えた。すると女性はホッとした感じにため息をつくと、ペコリとお辞儀してからまたこちらの方へ歩いてきて、

 

「ああ、良かった。あなた方が探していると聞いて、こっそり熱病の薬を持ってきたのです」

「本当ですか!?」

 

 鳳が勢い込んで尋ねる。女性は頷きながら、

 

「はい。実は昼間、あなた方がリーダーの家の前で揉めているところを見ていたんです。その時、マニが病に倒れて苦しんでいると言っていたようですが……それは本当ですか?」

「ええ、本当ですけど……」

 

 どうしてそんなことを聞くのだろうかと鳳が首を捻っていると、女性は切羽詰まった感じで彼に縋り付くように薬を手渡し、

 

「なら、どうかこの薬で、あの子のことを助けてください! あの子は、私の子供なんです!」

 

 鳳はその言葉にびっくりして、思わず薬を落としそうになった。目の前の狼人は、なんとマニの母親だと言うのである。兎人のマニの母親が狼人とは……一体どういうことだろう? 彼は興奮する母親を宥めると、そのわけを聞くことにした。

 



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出来なかったんだろうなあ……

 熱病の特効薬を貰いに来た鳳たちは、レイヴンの村でハチの妨害を受けた。そのせいで薬の入手手段を絶たれた一行は、失意の中で対策を練る羽目になる。焚き火を囲み喧々諤々の議論の中、途中、鳳やギヨームの昔話で脱線していると、キャンプに近づいてくる人の気配を感じた。

 

 やってきたのは狼人の女性で、なんとマニの母親だと言う。昼間、鳳たちがリーダーの家の前で揉めていたのを見かけ、マニが病気であることを知って追いかけてきたそうだ。

 

 彼女は、もしマニが死にそうなら助けて欲しいと言って薬を手渡してきた。しかし、彼女はどこからどう見ても狼人である。とても兎人のマニの母親には見えない。鳳は驚きながらも薬を受け取ると、その辺りの事情を聞くために、彼女に落ち着くように促した。

 

「マニのお母さんっておっしゃいますが……失礼ですけど、ガルガンチュアの集落にいる、兎人のマニのことですか? 人違いではなく?」

 

 鳳が戸惑いながらその点を確認すると、彼女はこっくりと頷き返して、

 

「そうです。そのマニです。間違いありません。あの子は元気なんでしょうか? 村でちゃんとやれているんでしょうか?」

「え、ええ……あ、いや、病気だから大丈夫ってことはないけど、暫く前までは元気でしたよ。つい最近、長老から成人と認められてましたし」

「まあ……なんて嬉しい!」

 

 女性はそれを聞いた瞬間、我がことのように喜びを顕にしたが、すぐにそのマニが病気で苦しんでいることを思い出すと表情を曇らせ、

 

「なら、尚のこと、あの子のことをよろしくお願いします。せっかく大人になれたのに、こんなことで死んでしまったらと思うと、私は居ても立っても居られません。もっと薬が必要なら、すぐ取ってきますから……どうか、どうか……」

 

 鳳は、どうやらこの女性は本当にマニの母親なのだなと判断すると、薬のことは一先ず置いておいて、さっきから気になっていることを尋ねてみた。

 

「とにかく落ち着いて……まさかこんなところでマニのお母さんに出会うなんて、正直とても驚いてます。でも、ちょっと聞いてもいいですか? どうしてマニとあなたは一緒に暮らしていないんですか? それに……失礼ですけど、あなたが彼のお母さんって言われても、信じられないんですよ。だって、あなたは狼人でしょう? 兎人のマニとは種族が違うじゃないですか」

 

 鳳はそこまで言いかけたところで、昨日始めて知った獣人の混血問題を思い出し、

 

「あ! もしかして、お父さんが兎人だったんですかね? きっとそうだ……だからあいつ、あんなに流暢な言葉を話したり、罠を使ったり、まるで人間みたいに振る舞うことが出来たんだな……なるほどなるほど」

 

 鳳がそう言って一人で納得していると、その答えがよほど想定外だったのか、彼女はドギマギしながらほんの少し押し黙り、それから恐る恐るといった感じに、

 

「それは……ガルガンチュアからは何も聞いていないんですか?」

「ガルガンチュアさんに? ええ、聞いたことないですけど……」

「そうですか……なら、私からこんなことを言って良いのかわかりませんが……」

 

 彼女は何かを決意するような眼差しでじっと鳳の目を見ながら、

 

「あの子の父親はガルガンチュアです。マニは、彼と私の息子です」

 

 と言い出した。

 

 狼人と狼人の子供が兎人のマニだという。鳳はもはや何が何だかわからなくて、黙って彼女の話を聞くしかなかった。そうして彼女が聞かせてくれた話は、とても複雑で、とても悲しい物語だった。

 

 ガルガンチュアとマニの母親が出会ったのは今から10年ほど前、勇者領でのことだった。

 

 当時、まだ族長じゃなかった彼は、父の名代として冒険者ギルドの依頼を受けに勇者領へやって来た。

 

 若い頃の彼はやんちゃで荒々しく、腕は立つがトラブルも多い冒険者として知られていた。その頃は兄が跡目を継ぐと思っていた彼は、宵越しの金を持たない主義で、報酬を貰ってもすぐに遊びにつかってしまった。仲良くなった冒険者と呑んだくれたり、博打を打ったり、女を買った。そこで出会ったのが、マニの母親だったのだ。

 

 マニの母親は狼人と兎人のハーフで、見た目は狼人の混血だった。先に言及した通り、獣人の混血は繁殖能力が殆どなく、避妊の必要がないため男娼や娼婦になることが多かった。

 

 ガルガンチュアは娼館にちょくちょく通っている内に彼女と出会い、次第にのめり込んでいった。貰った報酬の殆どを彼女につぎ込み、やがて彼女のことを真剣に愛するようになっていった。そんな時に、彼女が妊娠したのである。

 

 自分の子供だと確信したガルガンチュアは彼女を身請けしたいと言い出した。こういう場合、普通は雇用主が渋るものだが、絶対出来るはずのない子供が出来たことと、狼人は娼婦としてあまり人気も無かったために、話は意外とすんなり進んだ。

 

 ガルガンチュアはそれまでの荒んだ生活を改め、真面目に働きお金を溜めた。ところが、ようやく彼女と一緒になれそうになった時、兄のパンタグリュエルの成長が止まってしまったのである。

 

 彼らの集落において族長は最も高レベルの男子がなるものだった。ガルガンチュアは村に呼び戻され、族長として家を継ぐことになった。寝耳に水の出来事だったが、彼は既にお腹が大きくなっていたマニの母親を連れて村へ帰還する。

 

 本来なら、族長の嫁は村の中から選ばれるものだが、マニの母親は特例として婚姻関係のないまま村に迎え入れられた。元々、ガルガンチュアは族長になる予定がなかったから、致し方ないという理由もあったが、彼女の妊娠は、彼が不能ではないことの証となり、好都合なこともあった。

 

 ガルガンチュアの集落に限らず、大森林の部族はどこもかしこも近親交配を繰り返しているため、子供が生まれにくいのだ。妊娠しても流産してしまったり、生まれてきても中々大きく育たない。先代も結局二人しか子供を残せなかったくらいだった。

 

 ところが、そうして一度は受け入れられたガルガンチュアとマニの母親の関係であったが、月日が過ぎ、いよいよその子供が生まれてくると、一転して立場が危うくなった。ここまでくれば分かるだろうが、生まれてきたのが兎人のマニだったからである。

 

「私があの子を産んだら、村人たちの態度は豹変しました。それはそうですよね、狼人が兎人を産んだんですから。それに私は元娼婦でしたから、彼らはこれは誰の子供だといって糾弾します。私には半分兎人の血が流れていると言っても、誰も聞いてはくれませんでした。唯一、ガルガンチュアだけは信じてくれましたが、しかし彼は族長という立場上、私に肩入れが出来なくなっていたのです。こうして私は村から追放されました。いまさら元の生活に戻ることも出来ない私を見かねて、ガルガンチュアが子供に罪はないからといって、生まれた子供を引き取ってくれましたが、そのせいであの子に苦労をかけていると思うと、私は不憫で不憫で……」

「それであなた達は別々に暮らしていたんですか」

「はい。村から追放された私は、その後、リーダーに拾われました。ガルガンチュアと彼は、袂を分かった後も交流があったみたいです。ただ、この件もあって彼は完全に生まれ故郷の人たちを憎むようになりました。それで、あなた方が来た時も、冷たくあしらってしまったのです」

「そうだったのか……」

 

 揉めた時はケツの穴が小さいやつだと思ったが、こうして理由を知った今は、彼の気持ちも分かる気がした。もしかすると、ここにマニの母親が薬を持って来れたのも、案外、彼が見逃してくれているお陰なのかも知れない。

 

 何の保証もないこの世界で、生まれたばかりの子供を抱えた母子が暮らしていくのは不可能だ。もし彼が救いの手を差し伸べてくれなければ、母子は死んでいたかも知れない。仮に、彼女が娼婦に戻りマニを育てたとしても、それで彼が幸せだったかどうかもわからないだろう。鳳は、どうしてマニと一緒に暮らさないのかと、責めるようなことを言ってしまったことを反省した。

 

「事情も知らず、無神経なことを言ってすみませんでした。あなたに貰ったこの薬は、必ずマニに届けると約束します」

「いいえ、お気になさらず。私はあの子さえ幸せなら何を言われても良いのです。薬はそれだけで足りるでしょうか? もしもまだ必要なら、取りに戻りますけど……」

 

 鳳は首を振って、

 

「いえ、これだけあれば十分です。後は自分たちでなんとかしますから」

 

 彼がそう言うと、マニの母親はまだ不安げな表情をしたまま、くれぐれもマニによろしくと言って、何度も振り返りながら去っていった。

 

 鳳がそれを笑顔で見送っていると、その隣で黙って彼らの話を聞いていたギヨームが、

 

「なんとかするって、どうするつもりだ? もしかして、おまえにはそれが何なのか分かるのか?」

 

 すると鳳は自信満々に頷いて、

 

「ああ、スキルのお陰で見た瞬間分かったよ。これはキナ皮を乾燥させたものだ。あの熱病の正体はマラリアだったんだよ」

 

 マラリアは古くはアレキサンダー大王がアジア遠征で罹患し命を落とし、帝国崩壊に繋がったと言われる人類に猛威を振るった感染症である。彼に限らず、これまでに多くの偉人や名もなき人々を葬ってきた疫病だが、現在では治療法が確立されている。

 

 紀元前から知られている病気であるが、キナの木の皮が特効薬になると判明したのは、かなり後の話で、大航海時代、南アメリカのネイティブが解熱剤として利用していたのを、征服者たちが発見してからだった。

 

 19世紀、ケシから薬効成分モルヒネが抽出され、世界初の化学薬品が開発されると、早速キナ皮からも薬効成分キニーネが抽出され、以来、マラリアの特効薬として使われていた。しかし20世紀に入り、ベトナム戦争で米軍の備蓄が枯渇すると、キナの皮が暴騰し、それ以降は工業的に生産されるようになった。科学の進歩には、いつも戦争がつきまとうのは皮肉な話である。

 

 さて、キニーネの抽出と言うが、要はMPポーションの高純度結晶を作るのと同じことで、鳳はこれまでに何度かその経験があった。それどころか、新しく覚えたスキル、アルカロイド抽出は、正にこの操作のことであり、今の彼に出来ないことはないと言えた。

 

 キナの木も、一度その実物を見たなら、彼に見つけられないわけもなく、彼らはレイヴンの街からの帰り際、首尾よくそれを見つけてキナ皮を大量に確保することに成功した。こうして鳳たちは、目的を果たして、ガルガンチュアの集落まで帰ってきたのであった。

 

 出発から一週間、予定通り帰還した鳳たちのことを、村の外でガルガンチュアが出迎えてくれた。彼は村人たちのことを心配して、鳳たちが薬を持って帰ってくるのを、今か今かと待ち構えていたのだろう。彼らが目的の薬をちゃんと持って帰ってきたことを伝えると、彼はホッとした表情ですぐに村人たちに分けてくれと頭を下げた。

 

 こうして村を襲った疫病は終息し、鳳たちは村の救世主となった。心配していた長老は、約束通り隣村の長が薬を届けてくれたお陰で大事無く、鳳たちが帰った頃にはすでに回復基調に入っており、完治した今となっては元通り昔話を村人たちにしていた。

 

 鳳は持ち帰ったキナ皮からキニーネを抽出し、いざという時のためにギルドに備蓄することにした。インドではイギリスの植民地時代、防疫としてトニックウォーターが飲まれていたというから、レシピを研究してミーティアに託し、他にもいる大森林の駐在員に気をつけるようにと伝えた。

 

 それから鳳はガルガンチュアに言って村の大掃除をした。考えても見ればここは熱帯雨林、どこにどんな病原菌が潜んでいるかわからないのだ。鳳たちが無事だったのは、プライバシーの確保のために、たまたま蚊帳を吊っていたからだろう。迂闊だったと反省し、村人たちにもせめて商人から仕入れた薄布を吊るすように推奨した。

 

 その他、虫よけにハーブを植えることも提案したが、狼人は鼻が良すぎて耐えられないらしく却下されてしまい、結局今まで通りやっていくしかなかった。唯一、マニだけはハーブが平気なので、まだ病床についていた彼の枕元に置いてやった。

 

 狼人と比べて体の弱いマニは、他の村人たちが回復した今も、まだ病床に臥せっていた。族長の家の中で倒れていた彼を発見した時は不思議に思ったが、ガルガンチュアの息子であると知った今は何の不思議も無い。気が付かなかったが、彼はずっとこの家で暮らしていたのだろう。気が付かなかったのは、多分、彼が未だに村の腫れ物だからだ。

 

 鳳は彼を見舞った後、去り際に思い立って、彼の母親に会ったことを伝えた。本当は言ってもいいか迷ったのだが、

 

「そう言えば、マニ……レイヴンの街で、おまえのお母さんに会ったよ。実は、先方に意地悪されて、もう少しで薬を貰いそこねるとこだったんだ。それをおまえのお母さんがなんとかしてくれたんだ」

「……お母さんに会ったんですか?」

「ああ。村の人達やおまえが助かったのは、お母さんのお陰だよ。感謝するといい。お母さんはおまえのことを、今でも気にかけていたよ。元気になったら、いつか会いに行けるといいな」

 

 鳳がそう言って立ち去ろうとすると、床に臥せっていたマニがシクシクと声を上げて泣き始めた。鳳はその声に立ち止まり振り返ると、マニは涙で濡れた顔でぼんやりと天井を見ながら、

 

「……僕も……お母さんに会いたい。村から出ていって……お母さんと一緒に暮らしたい……」

 

 マニはそう呟くように繰り返すと、何もかも諦めたような表情で涙を流していた。鳳はその顔が、なんだか昔の自分と重なって見えるような気がして、居た堪れなくなって部屋から逃げるように立ち去った。

 

 勇者領に留学したい……お母さんと一緒に暮らしたい……多分、マニはこの村のことが嫌いなのだろう。出来るなら、早くここから出ていきたい。でもそれが出来ないのは、彼がまだ子供で、そしてガルガンチュアの唯一の子供だからだろう。その姿は不憫で、鳳は彼に深く同情していた。

 

 マニが生まれた時、こんな村を捨てて、親子三人で暮らすという選択は出来なかったんだろうか……?

 

 出来なかったんだろうなあ……

 

 鳳は族長の家から外に出ると、手を翳してまだ明るい空を見上げてから、ジャンヌとメアリーが待つ自分の家へと帰っていった。

 



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衆人環視の下、ラリる

 持ち帰ったキナ皮のお陰で、集落の人々は回復した。鳳は、今後こんなことがないよう、ギルドに薬を備蓄しておいた方が良いと考え、その薬効成分を抽出しようと試みた。

 

 とは言え、ここは人里離れた大森林の奥地である。ろくな設備もなければ必要な薬品も揃えられない。それで困っていたところ、たまたま蜥蜴人(リザードマン)のキャラバンがやってきたので、彼は事情を話して一式揃えてもらうことにした。商人のゲッコーは、前回の依頼の恩を忘れておらず、キャラバンの進路とは逆方向だったにも関わらず、人を派遣してすぐに取り揃えてくれた。

 

 アルカロイドとは、大雑把に言えば毒のことであり、植物の防衛機能のことである。植物は動かないから昆虫などの捕食者から身を守る手段が殆どない。そのため、捕食者に食べられないように、わざとその体内に毒を作るものがある。

 

 例えば、ステップ地帯の風景写真を見てみると、まるで盆栽みたいに刈り込まれた、丸いシルエットの草があちこちに生えているが、あれは元からそういう形状をしているわけではなく、草食動物が毒のある部分を避けて捕食した結果、ああいう形になってしまっているのだ。有毒植物は、そうやって自らの成長点を守り、競争相手の草木が捕食され尽くした後の草原で生き残るわけである。

 

 タンポポの茎を折ると、中から白い乳液がとろりと出てくるが、あれは天然のゴムであり、アブラムシが食べようとすると口に貼り付いてそれ以上食べられなくなる。しかし、人間は体が大きいから、食べてもへっちゃらなわけである。植物はそんな感じに、様々な工夫をしながら、特定の捕食者から身を守っているのだ。

 

 こうして植物が体内に溜め込むアルカロイドは、基本的に水に対して不溶である。植物の体内は水が循環しているので、溶けてしまうと自分の毒のせいで枯れてしまうからだ。

 

 また、アルカロイドは窒素を含んだ化学物質で、殆どの場合アルカリ性(塩基性)である。従って、水には溶けないが酸には溶ける性質がある。

 

 興味深いのは、こうしてアルカロイドが酸と反応して得られた塩は、水に溶けるということだ。そんなわけで、アルカロイドを抽出するには、まず酸に溶かして塩を作り、それを水やアルコール、エーテルなどの有機溶媒に溶かしてから、蒸留して結晶を得ればいい。

 

 鳳がそうして生成したキニーネは、蜥蜴人のキャラバンを通して各地のギルド駐在所へも配られた。お陰でこれまで謎の熱病に悩まされていた森の住人たちは、今後はギルドを通じてそれに対処出来ることになり、大いに感謝された。

 

 他にも、メアリーやレオナルドの献身的な介護もあって、今や鳳たちは村人から一定以上の信用を得ていた。

 

 だからだろうか……変化は目に見える形で間もなく訪れた。

 

 そしてそれは、終わりの始まりでもあった。

 

 鳳たちが帰還してから数日が経過し、熱病に苦しんでいた村人たちも徐々に回復の兆しを見せていた。しかしマラリアの特効薬であるキニーネには副作用があり、本来なら妊婦には投与してはいけない薬だった。

 

 何しろ、暇さえあればセックスばっかりしている集落だから、当然、病人の中に妊婦もいた。ところが、鳳は医者ではないから、知らずとはいえそんな妊婦に薬を投与してしまったのだ。気づいた時には後の祭りで、看護している間に仲良くなったメアリーは彼女の予後を心配していた。

 

 幸いなことに薬のお陰で妊婦は順調に回復し、今では元通りの生活を送っている。しかしお腹の中の赤ちゃんはどうかわからない。今朝方、陣痛が始まったそうだが、果たして無事に生まれてきてくれるだろうか……

 

 その日も囲炉裏を囲みながら、メアリーはそのことばかり気にしていた。

 

「生まれそうになったら呼びに来てくれるって。何もしてあげられないのがもどかしいわ」

「狼人も陣痛があるのか。二足歩行だからかな」

「……? 他の動物にはないの?」

「辛いことは辛いらしいけど、人間ほどじゃないみたいだよ。便秘になるのも、出産の時に苦しむのも、人間が二足歩行をするせいだって」

「そうなんだ……大丈夫かな?」

 

 と、三人がそんな会話を続けている時だった。

 

 鳳の家にふらりと長老がやってきた。この頃になると鳳たちも近所の不躾な視線に慣れてしまっていたから、最初はいつものように食事の様子をじろじろと眺めに来た隣人だろうと思って気づかなかった。それが、あーとか、うーとか、ごほんと咳払いしたりとか、一生懸命アピールしていたので、ようやく彼らは来客に気がついた。

 

 鳳は驚きながら応対に出た。長老がわざわざ家に来るなんて初めてのことだ。長老を家にあげると、彼は囲炉裏でグツグツと煮えたぎっている鍋を物珍しそうに眺めながら、

 

「ツクモよ。今日はおまえに礼を言いに来た。感謝している」

 

 唐突であるが、きっと薬を取ってきたことを言っているのだろう。鳳はそう受け取り、

 

「いやいや、村で暮らしてるんだから当然だよ。でもホント、長老元気になってくれてよかったよ。あの時はもしかして、このままぽっくりいっちまうんじゃないかと思って、肝を冷やしたんだぜ?」

「わしゃ、まだそんな歳じゃない」

 

 長老はほんの少しふてくされた表情を見せたが、すぐに態度を和らげ、それからおもむろに持ってきた、なんか年季の入った巾着袋に手を突っ込んだ。

 

 なんだろうと見守っていると、袋の中から取り出された長老の手には、なんと燦然と輝く乾燥キノコが握られていた。

 

 これは以前、降霊の儀の時に長老が食べていたキノコだ。彼はそれを鳳に差し出し、

 

「おまえは村を助けた恩人。だからキノコを分けてやる」

「いいの!?」

「本当は駄目だけど、いいよ」

 

 鳳は震える手で恐る恐る差し出されたキノコを掴んだ。

 

 それは本当に不可思議なキノコであった。あの時も驚いたが、今目の前で、その目が潰れそうなくらいに燦然と輝くキノコを見ていると改めて思う。とてもこの世のものとは思えない。まるで裸の電球を握ってるような眩しさだった。

 

 なのに、他の人にはその光が見えないようだ。鳳があまりに眩しくて直視できないそれを、ジャンヌもメアリーも、何がそんなに気になるんだろうかといった感じに、しげしげと見つめている。もし、鳳がそんなことをしたら失明してしまうだろうに、彼らにはまったく影響がないのだ。

 

 つまりこれは、鳳のスキルが見せてる錯覚なのだろう。そうと分かれば話は早い。鳳は早速とばかりに、その成分を確かめようとキノコのことを眺めてみるも……

 

「……あれ?」

 

 普段なら、鳳のスキル博物図鑑(ライブラリー)が発動して、その名称や含有成分がずらりと表示されるはずだった。ところが、今回に限ってはそのスキルが発動しないのである。

 

 もしかして、スキルが発動するようなアルカロイドを含んだ植物ではないのかな? とも思ったが、それなら最初から光り輝いて見えるはずがない。ジャンヌたちのように、何の変哲もないキノコのように見えるだけだろう。

 

 ならば鳳のスキルではわからない、未知のキノコということだろうか? そもそも、この博物図鑑なるスキルがどのようなデータベースを参照しているのかわからないんだから、こういうこともあるのかも知れないが……

 

 鳳がキノコを手に、首を捻っていると、長老が続けてこう言った。

 

「キノコは分けてやる。でも、キノコは村のシャーマンしか手にしちゃ駄目。だから、おまえもシャーマンをやれ」

「……へ?」

「それを飲めば、精霊が答えてくれる。おまえは精霊の言葉を、村のみんなに聞かせる。みんなはそれを聞く」

「……あー、つまり……長老みたいに降霊の儀をやれと?」

「そうだ」

 

 要するに、彼はこう言いたいのだ。鳳にその光り輝くキノコを食べて、ラリってなんか喋れと……この、鳳にもその成分がわからないキノコを食べて、精霊の声を聞けと……

 

 鳳はゴクリと生唾を飲み込んだ。今までの経験からして、光の量とアルカロイドの量が比例するのは間違いない。つまり、これは毒を大量に含んでいるわけである。どう見ても完全アウトだ。

 

「いやいやいや! 無理でしょ!? そんなの。俺はシャーマニズムなんて、なんもわかりませんぜ? 旦那!?」

 

 鳳がおかしな返事をすると、長老は変なやつを見るような目つきで首を傾げ、

 

「大丈夫。飲めば分かる」

 

 と言って、当たり前のようにニコニコ笑いながらキノコを押し付けてきた。

 

 あんなに嫌がる長老を追いかけ回して、執拗にキノコを求めたのは鳳だ。その長老から、俺のキノコ欲しかったんだろう? と言われて、今更いらないと言えるわけがない。

 

 鳳が引っ込みがつかなくて困っていると、長老はその無言を肯定と受け取ったのか、おもむろに村の広場の方を向いて大声で、

 

「みんな! 聞け! 今晩は、ツクモが降霊の儀を行う! 村を救った英雄と、精霊の対話を聞き逃すな!」

 

 長老の声に、なんだなんだと集落の人々が集まってきた。彼らは長老に背中を叩かれながら、キノコを握って呆然としている鳳の姿を見つけると、

 

「こりゃ面白そうだ」「楽しみにしてるぞ」「一家みんなで聞きに来ます」「宴じゃ宴じゃ、酒の準備じゃ!」

 

 と、もはや既成事実のように騒ぎ立てる村人たちを前に、鳳はいよいよ覚悟を決めねばならなくなった。キノコは相変わらず、太陽のようなまばゆい光を放っている。

 

 大丈夫だよな……死なないよな……と思いつつ、彼はゴクリとツバを飲み込むと、そのあまりの眩しさにやっぱり視線を逸らした。

 

******************************

 

 長老に変わって鳳が降霊の儀を執り行うと知ると、セックスくらいしか娯楽がない村人たちが、まだ日も暮れないうちから広場に集まってきた。普段は家の中でこそこそ聞いているだけのくせに、イベントごとには目のない連中である。

 

 とはいえ、鳳がトチるのを待ち構えているわけでもなく、純粋に楽しみにしているだけなら、目くじらを立てることもなかろう。ここぞとばかりに酒を酌み交わしては、すでに出来上がってる村人たちをかき分けて、鳳は長老に押されるように広場の舞台の上に立った。

 

 そんな彼のことを、子供たちが興味津々見上げている。見れば、広場に入り口でレオナルドがうろちょろしていた。メアリーと同じく、妊婦の予後が気になって見に来たところ、おかしな騒ぎに巻き込まれて帰るに帰れなくなったようだ。村人たちに勧められるまま、彼は差し出された椅子に座ると、やれやれといった表情で鳳の方を見ていた。その口元を見れば読唇術が出来なくとも、またしょうもないことに巻き込まれおって……と言ってるのが分かった。

 

 日が暮れて、逢魔が時という時間帯、人々の顔は陰ってしまってもう見分けがつかなかった。豚舎でブヒブヒと家畜の豚が鳴いている。また焼肉パーティーが始まるとでも思っているのだろうか。鳳は舞台の下で蠢く人の群れを見下ろして、流石にちょっとプレッシャーを感じていた。

 

 マジでこんな衆人環視の中、ラリっても平気なんだろうか。自慢じゃないが、自分はMPポーションでラリってる時の記憶は殆どないのだぞ。何をしでかすかわかったもんじゃない。

 

 しかし、興味津々見上げてくる子供たちや、良かれと思ってそれを差し出してくれた長老の手前、今更やっぱやりませんとは言い出せなかった。鳳は覚悟を決めて、強烈なプレッシャーに晒されながら、南無三と光り輝くキノコを口に放り込んだ。

 

 最初はなんてことなかった。

 

 食べた感じは干し椎茸と言うか、旨味の効いた乾燥キノコとしか言いようが無かった。唾液を含むにつれて味わいが増してくる。案外、汁物に混ぜたらいい出汁が取れるんじゃなかろうか? そしたら、光り輝く鍋になっちゃうのかな……そんなことを考える余裕もあった。

 

 しかし、それを嚥下して暫く経っても体に何の変化も起きないので、今度は別の意味で焦りが生じてきた。

 

 あれ? おかしいぞ? 今頃、ガンギマリしてるはずが、何の変化も現れない。もしかして、これが普通なんだろうか? 何しろあの光量だから、やばいクスリに違いないと勝手に思っていたが、考えても見れば長老はそんなことは一言も言っていなかった。

 

 鳳が狼人じゃないというのも関係あるかも知れない。もしかすると猫にまたたびみたいな感じで、狼人には効果があるけど人間には効果がないキノコという可能性だってある。もしそうならどうしたらいいんだろうか?

 

 舞台の下では、相変わらず村の子供達がキラキラした瞳で彼のことを見上げていた。今更彼らの期待を裏切るような真似は出来ない。したら、今度こそ、鳳の名誉は地に落ちるだろう。かくなる上は、適当な話でもでっち上げて急場をしのぐしかない……

 

 そう考えた時だった。

 

 ふいに視界がグラグラと揺れて、鳳は体が左右前後に倒れるような錯覚を覚えた。それが錯覚だと思ったのは、クスリでキマっている時の感覚に似ていたからだ。しかし、それがいつもの比ではない。

 

 鳳の視界がグラグラと揺れる。それはMPポーションでラリってる時には、せいぜい小舟で揺られてる程度の心地よいものだったのだが、今はまるで大海原で嵐に遭遇した帆船みたいに尋常じゃない揺れ方をしていた。なんというか、メートル単位で体があちこちぶっ飛んでるような、そんな感じだ。なのに、周囲の様子を見てみると、誰も鳳の変化に気づいていないようだった。恐らく、これは彼の体が実際に揺れているのではないのだろう。揺れているのは、彼の頭の中だけに違いない。

 

 やばい……これはもしや、いわゆるバッドトリップというやつではなかろうか。

 

 鳳は、気持ちいいどころか、体が引き裂かれるような、強烈な違和感に支配されていた。物事を考える余裕はなく、難破船のマストにしがみついて、ただ嵐が過ぎ去るのを待っているだけの船人のようである。

 

 すぐそばにいる長老に助けを求めようとしたら、ハラホロヒレハレと声にならない声が出た。その声が余程おかしかったのか、子供たちがゲラゲラと笑う。その笑い声が頭の中で反響して、原子爆弾でも落とされたような気分になった。

 

 体の揺れは次第に増していき、ついに高速回転する遊園地のアトラクションみたいに、周囲の光景がグルグルと回りだした。もはやどこに誰がいるのか判別もつかない。助けを求めようにも声も出ない彼は泣きそうになった。

 

 と、その時だった。

 

 高速回転する視界の片隅で、ふと、妙な違和感を感じた彼は、そっちの方を必死になって見つめた。すると回転する視界の中で、一箇所だけ周囲と違って静止して見える空間があった。例えるなら、運行中の列車の窓から、並走する隣の列車を見ているような感覚だ。しかもそれは、妙にピントが合いすぎていて、この世のものとは思えなかった。

 

 なんだろう、これは? 気を抜くと千々に乱れてしまいそうな意識を必死に集中してそちらの方を見つめてみれば、どうもそこにレオナルドの姿が見える。いや、肝心なのはレオナルドではなく、その背後の空間だった。そこに何か輪郭のぼやけた奇妙な人形のような空間があって、そこだけが周囲の光景と違ってくっきりと浮かんで見えるのだ。

 

 それは違和感だった。例えるなら、何の変哲もない道端に光学迷彩を施された人が隠れてるような、そんな違和感を感じる。

 

 そこに誰かがいる……そう考えた時、鳳の目から鱗が落ちるかのように、ベリベリとベールが剥がれてその何もない空間に人の姿が現れた。

 

 妙に存在感のある男だった。特徴のないのっぺりとした顔つきで、薄っすらとした笑みを浮かべながら、どこを向いているのかわからない視線が、空中の何もない一点を見つめていた。いわゆるアルカイックスマイルというやつだろうか。オレンジ色の粗末な袈裟を着て、錫杖のような棒切れを持って、大きな鉢を首から下げている。

 

 佇む姿は枯れ木のようで、大都会の雑踏でお経を読んでいても誰も気にもとめない、そんな托鉢坊主のような風貌だった。そのくせ、妙に存在感を感じさせるのだ。

 

 何故だろうと思った時、そいつの輪郭がぼやけていることに気がついた。よくよく見れば男の輪郭線が、縦横無尽にぶれて、一つの輪郭を作り上げている。例えるなら、無数の楕円が重なって、一つの真円が浮かび上がっているような、そんな感覚だ。

 

 鳳はなるほどと思った。さっきから妙に存在感を感じさせるのは、無限の彼があの空間で折り重なって見えているからだ。ザワザワと蠢く輪郭線が、そこに無いものをそこに浮かび上がらせている。つまり彼は無限に存在するが、そこには居ない。

 

 流れる景色の中で、そんなおかしな映像がそこに浮かび上がっている。これは一体なんだろうか? と思った時、ふいにピントが合うように、その男の視線が鳳の目を捕らえた。

 

 瞬間、どきりと心臓が高鳴った気がした。ドクドクと心臓が早鐘をうち、ダラダラと額から汗が溢れ出す。男の視線に射すくめられた鳳は、恐怖するとともに安堵するような、悲嘆に暮れるとともに歓喜するような、苦痛とともに安楽を得るような、なんとも形容のし難い心境に投げ込まれた。

 

 なんだろう、こいつは……なんなんだろう……

 

 その時、鳳は頭の中に直接響いているような、奇妙な声を聞いた。ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー、ハラソウギャーテーボージーソワカー。

 

 それはお経だった。何千という僧侶が同時に一つのお経を唱えているような、そんな音の大洪水が、彼の頭の中で繰り広げられている。ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー、ハラソウギャーテーボージーソワカー。

 

 とにかくやばいと思った鳳は、何となくそいつから距離を取ろうと思い立ち上がろうとした。しかし、そう思った時にはもう、彼の体の操縦権は誰かに奪われてしまったかのように、うんともすんともしなかった。

 

 助けを求め、声にならない声をレオナルドに向かって叫んだ。しかし、返事は返ってこなかった。代わりにその背後に佇む奇妙な男から、直接頭の中に響くような声が届けられた。

 

 何千と折り重なった声が一体どこから聞こえてくるのか、鳳の頭の中に響き渡る。耳を塞ぎたくとも体は動かず、仮に動いたとしても直接脳に刷り込まれる声には抗いようもない。

 

 鳳はもはや抗うことを忘れ、まな板の上の鯉の心境になって、目の前に現れた男の目を見た。すると男もそんな鳳の目をじっと見つめていた。ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー、ハラソウギャーテーボージーソワカー。

 

 聞こえてくる声はどんどん大きくなっていく。高速回転する世界は混ざり合い、どんどん色を無くして、ついにはただの黒になった。

 

 鳳はそんな何もない空間で、体の自由を奪われ、声を発することも許されず、ただひたすらに目の前の男と対峙していた。

 

 どうしてこんなことになっちまったんだ? そう思った時、ふと、長老の言葉を思い出した。

 

 精霊の声を聞け。その言葉を届けろ。

 

 それを思い出した瞬間。彼の意識が、まるでテレビの電源でも落としたかのように、ぷつりと途切れた。

 



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第一の神リュカ

 2013年3月30日。この日、日本の将棋界に激震が走った。第二回電王戦という公の場で、初めてプロ棋士がコンピュータに負けたのだ。続く5番勝負でプロ棋士は、結局1勝3敗1分けと大きく負け越してしまう。

 

 対局後に行われた記者会見はまるでお通夜のようだった。負けたプロ棋士は涙目で、そのまま将棋をやめてしまうんじゃないかと思えるくらい青ざめた表情をしていたと、ソフトの開発者は後に述懐している。

 

 こうしてプロ棋士に“敵”と認知されたコンピュータ将棋ソフトは、この対局を最後に、もう公の場でプロ棋士と対局することは無くなってしまったのではないかと思われた。

 

 ところがその翌年に行われた第三回電王戦は、またしてもプロ側の1勝4敗という惨敗だったにも関わらず、終始和気あいあいとした雰囲気で開催されたのである。

 

 第二回で敵となった将棋ソフトが、たった一年間で受け入れられたのは何故だろうか? それはとにもかくにもプロ棋士が惨敗したことによって、プロ棋士の将棋ソフトへの見方が変わったからだ。

 

 好き嫌いはともかくとして、プロにも勝てる強い棋士がいるならば、そこから学ばない手はない。こうして一部の棋士がコンピュータの棋譜を研究し始め、プロ棋戦で結果を出していくうちに、全体の見方も変わっていった。

 

 コンピュータは敵ではなく、人間の思考を補助する機械だと。人間とコンピュータは、共存していけるのだと。人間の意識が変わっていったのである。

 

 それから何年も経過した今、プロ棋士であってもコンピュータに勝てる者はもういない。だが、だからといって人間が将棋を指すことに意味がないのかと言えばそうでもない。相変わらず、人間の中で将棋が一番強いのは誰か? ということは気になるし、それに人間は間違えるからこそ、ドラマが生まれるのだ。

 

 人間とコンピュータは、そうやってお互いに尊重し合うもの同士になっていったわけである。

 

 2045年。アフターシンギュラリティ。

 

 人間の思考をシミュレートする人工知能は、ついにあらゆる分野で人間を凌駕するに至った。囲碁将棋のような思考ゲームのみならず、言語翻訳、自動運転、医療診断、はたまた法律相談に保険の提案などなど、それまで人間にしか出来ないと思われていたあらゆる分野にAIは進出していた。

 

 というよりも、人間に出来てAIに出来ないことは何もなくなった。その気になれば工事現場の全ての作業を、AIが操作するロボットが行うことが出来たし、赤ちゃんのお守りも、老人の介護も、食事の用意や掃除洗濯、なんでも出来た。

 

 世界中の大学機関で行われている研究さえも、AIの補助こそが重要であり、人間はアイディアを出すことさえ必要なくなった。工場のラインはすべてAIに置き換わった。国家運営も、行政のサービスも、AIが考えたものに人間がゴーサインを出すものばかりになっていった。

 

 ここまでくると、経済活動において一番のボトルネックは、人間であることに間違いなかった。社会は人間が手を出さずに、AIが全てやったほうが、よっぽど上手くいく。そういう価値観が世界中に広まっていったある日、ついに人は働くことをやめてしまった。

 

 人間が邪魔さえしなければ、AIは昼夜を問わず製品を生産しつづけていく。こうして人類は無尽蔵なGDPを生み出す手段を手に入れたのである。

 

 しかしそれは一部の先進国の話であって、多くの国はまだその恩恵に預かれずにいた。理由は、戦争や宗教、国家間の経済格差、資源の有無で、仮に仕事を全部AIがやってくれたとしても、資源やエネルギーはAIが生み出せるわけじゃないから、結局、国家間による資源獲得競争は終わらなかったのだ。

 

 この点、石油の生産地中東諸国は優位と思われた。しかし、石油だけ抱えていてもマネーがなければ何も出来ない。相変わらず資源を得るために最も効力を発揮したのはマネーであり、AIが仕事をすればするほど、そのマネーは都市に集中していき、先進国だけが恩恵を受けるというジレンマがあった。

 

 結局、国境がある限り、人類は資源を平等に分配することが出来ないのである。もし、全ての国が平等に資源を持っていたら、戦争は早晩無くなっていただろう。だが、人類はそれを無くすことが出来ない。言葉や生活習慣の違いもあるが、最大の理由は地球の資源が偏在しすぎているからだ。

 

 しかし、そのせいで先進国と途上国の格差はどんどん開いていき、資源を持つ途上国が一番の被害を受けていた。世界は表面上は落ち着いているように見えたが、裏では一触即発の様相を呈していた。

 

 そんな時、技術革新が起きた。

 

 化学には量子力学という基礎理論が存在する。生物学にも適者生存と突然変異の法則が、地学にはプレートテクトニクスという、それぞれ基礎理論になりうる物がやはり存在する。ところが物理学にはそれが無い。

 

 有史以来……プラトンもアリストテレスもデカルトも、人類はこの世の中の物質が何で出来ているのか、自然科学を探求し続けてきた。ニュートンもマクスウェルもアインシュタインも、数多の科学者がそれに挑んできた。しかし未だに森羅万象を表現するに足る、万物の理論は見つかっていないのだ。

 

 21世紀現在わかっているのは、この世には4つの力が存在するということである。強い力、弱い力、電磁気力、重力。これら4つの力は、宇宙が誕生する以前は1つであったと考えられている。

 

 現代の物理学は主に超弦理論を用いて、これらの4つの力が元はどのように統合されていたのかという、大統一理論を完成させようとしている。しかし、仮にそのような万物の理論が完成したとしても、まさかビッグバンを起こすわけにはいかないから、それが正しいのかどうかわからない。

 

 そのための傍証として、LHCなどの粒子加速器を用いて、電子よりももっともっと小さな世界(高エネルギー帯)の粒子を探っているわけである。例えば2012年のヒッグス粒子は、その過程で発見されたものだ。

 

 このように人類は日夜加速器を回し続けており、人類がAIにその研究を引き継いで以降も、それらの実験は続けられていた。全ては万物の理論を完成するために。

 

 ところがそんな折に、AIが既存の統一理論ではありえないエネルギー帯に、4つの力とは異なる、また新たな粒子を発見してしまったのである。

 

 それはまったく寝耳に水の発見だった。というのも加速器から得られるデータはあまりにも膨大で、人間では全てを調べ尽くすことは出来ない……コンピュータを用いても、ある程度当たりをつけておかなければ何も発見出来ない代物なのだ。ところがAIはそんなのお構いなしだから、ランダムに抽出したデータの中から、たまたまそんなものを発見してしまったのである。

 

 そうして見つかった粒子は、また奇妙なものだった。その発見が本物かどうか、人間が追試しようとすると見つからないのに、AIが同じことをするとまた見つかるのだ。故に、最初はAIのバグかと考えられた。だが、あらゆる検証からそれは否定され……最後に残った結論は、その粒子が人間が観測しようとすると消えてしまうという事実だった。

 

 人間が観測しようとすると消えてしまう粒子。つまり、人間が観測するとエネルギーが相殺される、人間の精神と相互作用のある粒子が、どうもこの世界には絶えず飛び交っているらしい。

 

 人間はその粒子から、なんらかの精神的な影響を受けているが、それが何なのかはよくわからない。とにもかくにも分かっていることはただ一つ、それを上手く利用すれば、無尽蔵のエネルギーを引き出すことが可能だと言うことだった。

 

 それは文字通り、人間にとってとても都合のいい、神の粒子だったのである。

 

 それが何だかよく分からなくても、とにもかくにも人類は発見された第五粒子(フィフスエレメント)を利用して、世界の経済格差をなくそうと考えた。無尽蔵に得られるエネルギーが使えれば、先進国が経済によって資源を独占する必要はない。

 

 しかし、それには問題があった。第五粒子は人間の精神に感応するわけだが、つまり、それを利用するには人間の脳みそが大量に必要だったのである。

 

 そこで人類は、家畜をつかって人間の脳を培養する方法を思いついた。遺伝子組み換えした家畜に、人間の脳を作らせ、屠畜の過程でそれを回収するのだ。第五粒子の感応器官はごくわずかで、その部分だけを収穫できればいい。元々、動物の脳細胞組織に違いはないから、この方法は思った以上に上手くいった。

 

 こうして脳の培養のために新たに生み出された家畜は、ギリシャ神話の半人半獣の神を擬えてリュカオンと呼ばれた。第五粒子エネルギーは電池みたいなもので、脳の数に比例してどんどん増やすことが出来るため、世界中の家畜牧場は間もなくリュカオンの生産でいっぱいになった。

 

 それをAIが管理し、全人類が享受する。もはや資源獲得のために争いが起きる心配もない。

 

 こうして人類は長い歴史の末に、真に平等な社会を作り出すことに成功したのである。

 

 その平和は数年間は維持された。

 

 しかし、当初こそ、その恩恵を甘受していた人類は、やがてそこに潜む問題に苛まれることになる。暇な人間というものは、何かにつけて文句をつけたがるものだが、家畜に人間の脳を培養させるという非人道的な行為を、人権団体や動物愛護団体が見逃すはずがなかったのである。

 

 現状に不満が無ければ無いほど、そのような声は大きくなっていった。結局、平和な世界で最も大きいのは、いつも不満の声なのだ。

 

 間もなく彼らは、人間の脳を持っているなら、リュカオンも同じ人間だと言い始めた。リュカオンも感情を持ち、人間のように恐怖しているのだと。

 

 そしてそれは事実だった。というより、元々家畜は感情を持たないわけじゃない。人間と比べれば感情が薄いだけで、情動に関する脳組織はちゃんと持っており、場合によっては苦痛に表情を歪めることもある。

 

 従って、リュカオンが苦しんでいるのは本当だった。しかし、今更軌道に乗ったシステムを変えることは出来ず、体制と反体制とで小競り合いが起き始めた。

 

 と、そんな時、家畜牧場から救出されたというリュカオンがメディアに登場するようになった。そして間もなく、その成長したリュカオンは、人間とさほど変わらない知性を持つと判明する。当たり前のように泣き笑い、怒り……そして自分たちのような哀れな存在を作り出した人類を恨んだ。

 

 これは後になって、反体制側がプロパガンダのために作り出した、リュカオンとは別種のキメラだったと判明する。しかし、何も知らない一般人は、その姿を見てショックを受けた。そしてますます、彼らにも人権をという声は高まっていった。

 

 それが経済の停滞……ひいては暗黒時代の始まりを意味するとも知らず、リュカオンを救えという声は大きくなっていき……そしてついに、体制はその声に抗しきれなくなったのである。

 

 それから暫くして、反体制派が求めたように、リュカオンを利用した第五粒子エネルギーの生産はストップされた。従わないいくつかの国は差別視された。しかし、かつての化石燃料を使用した産業形態に戻そうとすれば、その過程で否応なく種々のサービスが停止される。ところが、自ら望んだくせに、民衆はそれを許さなかった。

 

 こうして世界は混乱し、あちこちで小競り合いが起き始めた。地域によってはそれが戦争に発展する場合もあった。特に多くの石油を抱える中東地域の混乱は目を覆わんばかりであった。しかし、人類はそうして人類同士の争いにばかり目を向けている場合ではなかったのだ。

 

 人類が小競り合いを続けている間も、解放されたリュカオンたちは繁殖を続けていた。元々、彼らは家畜であり、人間と違って教育もなく、生殖本能に逆らえないのだ。そんなものに自由を与えたらどうなるかは言うまでもない。間もなく、世界中のあちこちの牧場がパンクして、腹を空かせたリュカオンが街に解き放たれた。

 

 そしてついに、人類とリュカオンの勢力図は逆転してしまったのである。

 

 元来、家畜の数は世界人口を超えることはなかった。それは人間によって管理され、屠畜されるからであって、無秩序に増え続けたらどうなるかは言うまでもない。

 

 本能のまま行動する、ちょっと知恵のある家畜が、街をうろつき食料を求める。彼らの人権を守ろうと考えた人類は、最初だけは彼らを助けようとしたが、すぐ物理的に不可能になった。食うための家畜に、食料を分けていたのでは、本末転倒である。

 

 しかし、無秩序に膨れ上がったリュカオン人口は人類を凌駕し、否応なく都市部になだれ込む。やがて人類によるリュカオンの排除が始まり、それは戦争になっていった。

 

 平和にあぐらをかいていた人類は劣勢を強いられ、特に都市部で悲惨な殺戮が起きた。当たり前だがリュカオンに人道など始めから存在しなかったから、彼らは当たり前のように非戦闘員を狙った。もちろん食うために。

 

 長い戦闘が続き、徐々に人口は減っていく。唯一優勢だったはずの先進国の軍隊も敗れ去り、ついにリュカオンは都市の人間を血祭りにあげ、テレビ局を襲撃してその電波をジャックした。そして彼らは声高に叫んだのである。

 

「世界を維持するために、人間の脳が必要であるならば、人間を家畜化すればいいのだ!!」

 



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プラトンアカデミー

 ブーン……! っと、アナログテレビのチャンネルが切り替わるかのように、唐突に意識が覚醒した。無理矢理引き剥がされた精神を、また無理矢理体の中に押し込まれたような、妙な圧迫感があった。頭がクラクラしてまともに物事を考えられない。全身からダラダラと脂汗が垂れ落ちて、ごっそりと体重が落ちてしまった気分だった。

 

 まるでフルマラソンでもしてきたかのように、ハアハア言いながら額の汗を拭っていると、ぼやけていた視界が徐々に戻ってきて、周囲の状況が確認出来るようになった。するといつからか周りには無数の好奇心に満ちた瞳が爛々と輝いていて、何かを期待するように彼のことを見つめていた。

 

「それで、リュカはどうなったの?」

 

 集落の子供たちのキラキラした瞳が、鳳の顔に突き刺さる。まるで手品でも見せられていたかのような無邪気な声に、彼はなんて答えていいか分からなかったが……ふと、さっきまで見ていた悪夢みたいな光景を思い出し、それがいつかの長老の話と重なっているような気がして、咄嗟に思いつきを口にした。

 

「えーっと……それで、リュカオン……リュカは、森の仲間達と協力して人間を懲らしめ、反省した人間たちと仲良く暮らしたんだ。だから人間と獣人は今でも仲良しなんだよ」

 

 鳳が話をそう締めくくると、子供たちは暫くポカーンとした表情をしていたが、直ぐに顔を綻ばせて、鳳がたった今聞かせてくれた新しい物語に対し、大いに喜んでいた。

 

 間もなく長老がやってきて、おまえの話は少し違う、もしかすると神の使いも知れないと褒めそやした。その言葉を聞いて、今まで彼のことを馬鹿にしていた集落の男たちも見る目が変わり、鳳にリュカの話をもっと聞かせてくれとねだるのだった。

 

 しかし、鳳は全く喜ぶことが出来なかった。彼は体調が優れないからと言って、村人たちの求める声を辞退して、舞台から下りた。長老はそんな彼の様子を見て、初めてじゃあ仕方ないと、彼の代わりに舞台に上がってくれた。

 

 長老が、村人たちに行儀よくするよう言いながら、巾着袋に無造作に入れていたマジックマッシュルームを口に放り込む。その燦然と輝くキノコを飲んで、彼はいまごろ一体何を見ているのだろうか……

 

 鳳は頭を振った。

 

 いや、自分こそ一体、何を見せられたのだ……?

 

 鳳がさっきまで意識を失いつつも見せられていた出来事は、あまりにも真に迫り過ぎていて、とてもクスリが見せた幻覚とは思えなかった。なんというか、テレビの記録映像でも見ているような感覚だった。もしかして、あれは本当に起きた出来事なのでは? そう思ってしまうくらい、リアルだった。

 

 しかし、鳳が覚えている限り、あんな出来事はもちろん現実では起こらなかった。テレビや映画で似たような物語を見た記憶もない。幻覚と言っても、元々その人が知らない記憶は現れるはずがないし、そして鳳には、こんなことを唐突に思いつく理由もない。じゃあ、あれは誰が見せた幻影なのか?

 

 精霊……

 

 長老は、精霊の声を聞けと言った。精霊の言葉を皆に伝えろと。

 

 もし長老の言うことが確かなら、あれを見せたのは精霊ということになるが……精霊はあんなものを見せて、鳳に何を伝えようとしたんだろうか? いや、鳳にと限定することは無いだろう。思い返せば、あれは長老の昔話ともどことなく似ていた。長老もあれを見て、村人たちに昔話をしたり、創世神話を聞かせたりしているのだ。

 

 つまり、あれは精霊がキノコを食べた者に見せている物語……精霊は一体、鳳たち人類にあんなものを見せて、何を語ろうとしているのだろうか……

 

「酷い汗じゃのう。お主のその、体を張ってでも気になることを調べようとする姿勢は見習いたいものじゃが、それで死んでは元も子もないぞ」

 

 鳳がゼエゼエと荒い息を吐いていると、それを遠巻きに眺めていたレオナルドが近寄ってきて、持っていた水筒を差し出した。鳳はそれを引ったくるように受け取ると、中身をごくごくと飲み干した。

 

「爺さん、来てたのか……」

「メアリーに頼まれてのう。そろそろ妊婦の分娩が始まるから、もしもの時のために村で控えていてくれと言われた」

 

 相変わらず、メアリーには甘いジジイである。まるで孫娘を甘やかすお爺ちゃんのようであるが……鳳がそんなことを考えていると、レオナルドが続けた。

 

「中々に興味深い話じゃったが、あれはお主が即興で考えついたものか? まるで本物の祈祷師のようで感心しとったが」

 

 鳳は頭を振って、

 

「いや、違うんだ。キノコを飲んだら勝手に思いついたっていうか……実は、俺は自分がどんな話をしていたのかもよく覚えてないんだよ」

「……ふむ? どういうことじゃ」

「意識が飛んじゃってたんだよ。そんで、なんか奇妙な夢のようなものを見ていて、気がついたらその内容を話していたっつーか……」

 

 レオナルドは首を捻っている。まさに口で説明しているまんまなのだが……どう説明したら伝わるだろうかと考えていると、鳳はキノコを飲む前に見た幻覚のことをハッと思い出し、

 

「そう言えば、あのキノコを飲む前に、爺さんの姿を見かけたのを思い出したよ……その時なんだけど……なんつーか、あんたの背後に、奇妙な人間の姿を見たような気がしたんだが、あれは一体何だったんだろうか?」

「ほう……どれ、詳しく話してみよ」

 

 鳳は、キノコでトランスする前の出来事をゆっくりと思い出しながら伝えた。

 

 まずはキノコの成分が効いてきたのか、目眩がして視界がぼやけてきたこと。続いて目がぐるぐる回りだしたこと。そのくせ、レオナルドの背後だけ、奇妙にポッカリとした空間が開いていて、それが人の輪郭をとっていたこと。

 

 そしてそれが人っぽいなと思ったら、実際にそこに人間の姿が浮かび上がってきたこと。妙に穏やかと言うか、厳かな表情をした男で、印象的だったのはその輪郭線がぶれて安定していなかったこと。

 

「なんつーか、体の境界が定まっていない感じだった。物凄い存在感を感じるんだけど、そこに居るんだか居ないんだかよく分からない、そんな感じっつーか……本当は見えないものを見てしまうと、あんな風に見えるんじゃないかっつーか……」

「なるほど……お主、精霊を見たな?」

 

 鳳はゴクリとツバを飲み込んだ。

 

「精霊……やっぱり、あれは精霊なのか? そう言えば、爺さんには見えるんだっけ? もしかして、あれはまだここに居るのか?」

 

 レオナルドは軽く頷くと、手にしていた杖を使って何やら地面に描き出した。

 

 既に辺りは暗く、彼の持つランプの灯りだけが頼りだった。何を描いているのだろうか……? 鳳が、よく見えるように屈んで目を凝らすと、レオナルドは杖の先で線を引きながら話し始めた。

 

「儂はいま、地面に絵を描いている。地面は二次元の平面じゃから、従って、ここに描かれている絵は、二次元の情報の塊のはずじゃ。しかし、風景画や肖像画などはちゃんと三次元のように見える。人間の目の中には網膜というスクリーンがあって、そこに映っているのはやっぱり二次元情報のはずじゃが、儂らは世界を二次元のように感じたことはない。それは脳がそれを三次元に変換して見せているからじゃ。

 

 実は儂らはいつも二次元的に世界を見ているのじゃが、脳が遠近感や陰影、色彩などの情報から、次元を補完して見せてくれてるわけじゃ。そうやって、一つ一つの次元を意識して見れば、逆に、二次元の情報しか持たないはずのキャンバスであっても、もっと高次元の情報を記述することも可能じゃ。

 

 実際に、上下左右だけではなく、遠近法、陰影、色彩なども一つの次元と考えれば、儂ら画家は二次元のキャンバスに実は三次元どころか、五次元、六次元の情報を記述しておる。しかし、人間は三次元の生き物じゃから、漫然としておれば、そこにある高次元の情報を殆ど意識することが出来ない。

 

 つまり、高次元存在である精霊を見るにはコツが必要なんじゃ。まあ、何を言ってるか分からぬだろうから、実演して見せよう。鳳よ、一次元と言えばまず何を思い浮かべる?」

 

 鳳は突然そんな話を振られて面食らったが、取り敢えず黙って老人の質問に答えた。

 

「……点や線のことかな?」

 

「そうじゃな。座標軸を持たぬただの点を、ゼロ次元と表現すると、ある点とある点を結べば一次元の線分が現れる」

 

【挿絵表示】

 

「同じように、今度は二本の線分を描き、各々の端をまた線で結んでみる……するとここに二次元の正方形が現れる」

 

【挿絵表示】

 

「次に正方形を二つ描いて、また各々の角を線で結んでみる。すると今度は、三次元の立方体が現れる」

 

【挿絵表示】

 

「このように、n次元の物体は、2つのn-1次元の物体によって表現することが出来る。そう考えると、三次元の立方体と立方体を結べば、これが四次元立方体というわけじゃ。なんだか不思議な感覚じゃが、もし四次元の存在が儂らの前に現れたら、こんな風に見えるはずじゃろう」

 

【挿絵表示】

 

(図:四次元超立方体、正八胞体)

 

「じゃが、もしお主が4次元の見方を知らなければ、これが目の前に現れたところで、どう思うじゃろうか? 何か変なのがうねうねしてるなとしか思わんじゃろう。高次元を見るとはこういうことなのじゃ」

 

【挿絵表示】

 

(正八胞体の回転図)

 

「ところで、この点と点、線と線、角と角を結ぶ線は、時間移動線と捉えることも出来る。最初の例なら、とある点が、時間Aから時間Bの間に動いた軌跡が線になる。線が移動した軌跡が正方形に。正方形が移動した軌跡が立方体に……このように考えれば、時間も一つの次元であることがはっきりと分かるじゃろう」

 

【挿絵表示】

 

「そしてこう考えることによって、四次元物体の見方も変わる。先の例に倣えば、時間Aから時間Bまでに立方体が移動する軌跡が四次元物体となる。軌跡とは実態を持たないただの情報じゃ。それが人間の目にはどう映って見えるのかと考えれば、単一時間にありながら、絶えず動き続けている不確定な存在……ということになるじゃろう。

 

 表現がややこしいから平板に直せば、ある時点において、既にこれから起こる結果全てを内包している存在。それが高次元存在じゃ。

 

 つまりお主が見た、輪郭線がブレていて、そこに居るんだか居ないんだか分からないと思った者は、高次元存在を見たために感じた錯覚のようなものじゃ。高次元存在は、我々の感じている時間という概念を超越しており、あらゆる結果を持ちながらそこに居る、ある意味不確定な存在じゃ。従って、お主はそこに、精霊が居るとも、居ないとも感じたというわけじゃ」

「……何となくだけど、分かったよ。つまりあれは、俺たちからは見えない高次元に存在する生き物なんだな? いや、時間の感覚が俺たちと違うなら、生き物かどうかもよくわからないけど」

「概ねそういうことじゃ。四次元は三次元を内包しておるゆえ、儂らにも三次元に投影されたものならば見える。しかし、それを見るにはコツが必要ということじゃ。お主はそれを、あのキノコを食べたことによって、一時的に得たということじゃろうな」

「爺さんには、それが普段から見えているのか?」

「意識すれば……常に見えておるわけではない」

「いつから見えてたんだ? こっちの世界に来たら、自然に見ることが出来るようになったのか?」

 

 するとレオナルドは首を振り、

 

「前世から見えておったよ……しかし、見えるようになったのは棺桶に片足を突っ込んだ頃じゃった。実を言えば、儂はそれが見えたが故に、この世界に呼び出されたようなもんなのじゃよ」

「どういうことだ……? 詳しいこと、聞いても良いんだろうか?」

「そうじゃな……」

 

 老人は少し考える素振りを見せたが、直ぐに思い直したように地面に杖を突き立て、それに体重を乗せるように寄りかかりながら、

 

「お主にも精霊が見えたのであれば、話しておいたほうが良いかも知れん。儂がこの世界にやってきたのは、実は偶然ではない。精霊に呼び出されたのじゃ……やつの名はマイトレーヤ。真の名をミロク。ミトラとも、ミトラスとも呼ばれておる、この世界に君臨する五精霊の一人であり、56億7千万年後に神として人間界に降臨する予定の存在じゃった。恐らく、お主がさっき儂の背後に見たというのは、この精霊じゃろう」

 

 鳳は突然の話に驚きを隠せなかった。頭の中は疑問だらけで、すぐにあれこれ疑問を口にしそうになったが、いきなり水を差すのもどうかと思い、黙って話の続きを促した。

 

「儂は公証人の父親と農夫の娘の間に生まれた私生児じゃった。幼少期は農村で母に育てられたのじゃが、5歳になって何故か父が引き取るといい出した。当時、子供は父親の所有物という考えが支配的だったから、嫌がったところでどうにもならん。儂は父に引き取られて都市部へ引っ越した。

 

 父に引き取られた儂は、あの頃にしてはかなり良い教育を受けたのじゃが、将来は真っ暗じゃった。私生児は公証人になれない決まりがあったから、父の跡を継ぐことが出来なかったからじゃ。従って、儂は自分で自分の人生を切り開かねばならないプレッシャーがあった。

 

 儂はラテン語と数学が出来たが、当時は識字率が低すぎて、それを生かせる職業なんてものはなかった。唯一、父のような公証人があったが、その道は閉ざされておった。となると、残された道は殆ど決まっておった。当時、金持ちの息子がなるのは公証人じゃなければ、芸術家か、建築家と相場が決まっておったのじゃ。そんな風に、儂は意外と消極的な理由で画家になったわけじゃ。

 

 当時はルネサンスの全盛期。金融業で栄えたフィレンツェは、メディチ家が支配する、世界一の芸術の都じゃった。そもそもフィレンツェが栄えたのは、十字軍が東方から持ち帰ったギリシャ的な品々を、貴族たちが蒐集しはじめたのが切っ掛けじゃった。やがてそれはイタリアでも生産されるようになり、画家にはそういうギリシャ的な物を創作する需要が産まれた。故に、手っ取り早く金持ちに取り入るには、芸術家になるのが一番の近道だったわけじゃ。

 

 儂は画家になるために、ヴェロッキオの工房に弟子入りした。出来れば一人でやりたかったが、当時は徒弟制で、芸術家になるには芸術家に弟子入りする決まりがあったんじゃ。しかしまあ、特に不満は無かった。ヴェロッキオは偉大な彫刻家じゃったが、故に、あまり絵画には関心がなかったらしく、何をしててもうるさく言ってこなかったからじゃ。

 

 彼は絵画の注文を受けても、殆ど弟子に丸投げした。だから絵画部門は弟子たちが切り盛りしているようなものじゃった。儂も彼の名前で絵を描いたことがある。そのお陰で、儂は早いうちから界隈に名を売ることに成功し、兄弟子達に目をかけてもらえるようになった。中でもボッティチェッリとは年も近く、同じ画家を目指していたこともあって、不思議とうまが合った。

 

 その頃、彼はメディチ家のサロンに出入りしており、儂はそこでどんなことが行われているのか興味を覚えた。彼らは東方から逆輸入したプラトニズムを研究し直し、美を追求することによって、イデアをこの世に顕現せしめようと考えておったようじゃ。そうすることによって、彼らは自分たちが神になれると本気で考えていたのじゃ……故に、この集まりを、後世の人々はプラトンアカデミーと呼んだのじゃ」

 



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精霊ミトラ

「画家として弟子入りして間もなくの頃、儂は輪郭線というものについて考えておった。儂らは絵を描く時にまずその輪郭から描くが、現実にはそんな線は存在しない。実際に今、目の前に立っている儂のどこに線が描いてある? なのに儂らは絵を描く時に、真っ先に存在しない線から描き始めるんじゃ。

 

 この線はどこから出てきたのか? それは頭の中じゃ。実際、遠近法も無く、人間がただありのままに世界を見たら、滲んだ色がジワーッと広がる世界が見えるだけじゃろう。そうならないのは、人間が頭の中で世界を再構築しているからじゃ。

 

 あそこにいるのは犬である。猫である。鶏である。ロバである。などと、儂らは視界に映るあらゆる物体をカテゴライズする。そして、犬と猫が別物だと認識するから、これを区別するための線が見える。

 

 ところで、犬と猫の違いとはなんじゃろうか? 何なら机と椅子でも、丸と三角の違いでも、なんでもいい。人間は、犬と猫を見た瞬間、殆ど意識すること無くそれを区別することが出来る。

 

 例えば人間が猫を見た時、瞬時に頭の中の猫のイメージを呼び出して、それと目の前の猫が同じものかどうか比較検討する。そして同じだと判断した時、初めて目の前の物体を猫と認識する。

 

 同じように犬を見た場合、頭の中に犬のイメージを呼び出し、それを比較し、これは犬だと判断する。そして先程の猫と、今しがたの犬を比較し、これらは違う種類の生き物だと判断している。こういう操作をほぼ瞬間的に行っておるわけじゃ。

 

 プラトンは、その物体が何かを見比べるために、人間が頭の中に呼び出している、このイメージのことをイデアと呼んだ。

 

 現実には、猫という動物はごまんと存在していて、全てが違う姿かたちをしているはずなのに、人間はどの猫を見てもすぐに猫と認識できる。それは頭の中に完璧な猫のイメージ、猫のイデアがあるからだ。同じように、犬にも、机にも、椅子にも、丸にも三角にも、イデアが存在する。イデアという完全なイメージがあるから、儂らは世界を認識することが出来るわけじゃ。

 

 逆に言えば、現実世界は不完全な物質(マテリア)によって作られている。精神世界は完全であるのに、どうして我々の住む物質世界はこうも不完全なのだろうかと、プラトンは嘆いたわけじゃが……

 

 これがキリスト教と結びつくと、また別の解釈になる。儂らが同じものを見て、同じような感想を持つのは、即ち万人のイデアが共通だからじゃ。しかし、何故、国も違う、人種も違う、一人ひとり違う人生を歩んできたはずの者たちが、みんな同じイデアを持っているのか? それは、唯一神が人間に魂を授けたからに違いない、と彼らは考えた。

 

 聖書によると人間は、神が泥をこねて造形し、その口に息を吹き込んだことで生まれたと書かれておる。そのため、古代のキリスト教徒は皆、魂は呼吸によって口から出入りしていると考えておった。お主にも分かりやすく言えば、エクトプラズムというやつじゃ。大昔の人々はあんな感じに、目には見えないが、煙みたいなものが、口から出入りしていると考えていたわけじゃ。

 

 そしてその魂は、精神世界と繋がっている。イデアがあるのはその魂の中であり、そこには完全な世界が広がっているに違いない。故に不完全な物質(マテリア)世界を捨て、精神(イデア)世界に帰依すれば、人間は神に近づくことが許されると考える者たちが現れたのじゃ。

 

 2~3世紀に現れた、このような考え方をする集団を、新プラトン主義者という。これは仏教の解脱(げだつ)に似たような考え方で、恐らくはその影響もあったのじゃろう。しかし聖書には、この世の終わりには神が現れ、悪人も善人も全てが等しく復活し、神によって裁かれるという最後の審判という考えがある。つまり、言うまでもなくこれは異端なのじゃ。従って、新プラトン主義は異端の烙印を押されて、闇に葬り去られることになった。

 

 ところが、それから1200年近く経ったある日、東方の文献にそれを見つけたフィレンツェの人文学者たちは、この新プラトン主義という考えに触れて、また別の解釈をした。頭の中には完璧なイメージ、イデアがあるが、それを現実に再現することは果たして可能だろうか?

 

 猫のイデア、犬のイデア、鶏のイデア、ロバのイデアといった感じに、全てのものにはイデアが存在する。つまり人間にもイデアが存在するが、その『人間のイデア=完全なる人間のイメージ』というものを現実に再現したら、そこに何が産まれるのだろうか?

 

 究極の美、完全なる人間は既に我々の頭の中にある。それをどんな方法でもいい。彫刻でも、絵画でも、文学でも、医術でも、錬金術でも、現実のもとに再現すれば、そこに完全なる人間が産まれるはずだ。

 

 神は自らに似せて人間を作った。完全なる人間とは即ち神のことである。

 

 美学(アート)とは、そもそも、その完全なる美をこの世に顕現させようとして興った学問のことだったのじゃ。フィレンツェの、メディチ家のサロンに集まったプラトンアカデミーの人々は、神が人間をどのように創造したのかを、美を追求することによって示そうと真剣に考えておった。

 

 それは即ち、自らが神になる行為に他ならない。すぐ近所にはローマというキリスト教徒の総本山がある場所で、彼らはコソコソとそんなことをしておったのじゃ。

 

 儂はそれをボッティチェッリから聞いた時、面白いと思った。スコラ学の影響から、儂らは神のような形而上の存在は、空の上にいると考えるのが普通じゃった。それが実は人間の頭の中にあるのじゃという考えは、非常に斬新に思えたのじゃ。

 

 確かに、儂の頭の中には完全な人間のイメージのようなものがある。人間を見れば、いつだってそれを呼び起こせる。しかしそれを外に表現しようとすると、雲をつかむみたいに消え去ってしまう。この、儂の中にある『人間のイデア』というものを、どうにか表現できないものか……

 

 それからというもの、儂は人間とは何か、神とは何か、どうすればあの輪郭線を消すことが出来るのかと、そのことばかりを考えるようになっていった。

 

 しかしイタリアは奴隷制を敷いた古代ギリシャとは違い、人間が思索だけで生きていくことは出来ぬ。結局、儂は生活のために筆を執り、そのうち神のことなど忘れてしまった……」

 

 ヴェロッキオ工房での修行を終えたレオナルドは、フィレンツェでメディチ家の庇護を求めたが叶わず、代わりに親善の使者としてミラノ公国へと向かった。そこで当時のミラノ公に気に入られて重用されることになる。

 

 この頃が画家レオナルド・ダ・ヴィンチの全盛期とも呼べる時期であり、彼はこのミラノ滞在中に、彼の代名詞とも呼べる岩窟の聖母と最後の晩餐を描き上げている。

 

 彼としてはこのままミラノに骨を埋めるつもりだったのだろう。1490年頃になると生母を呼び寄せ共に暮らし始めるが、残念なことに母はその数年後に亡くなってしまう。更に、失意の彼に追い打ちをかけるかのように、1499年、第二次イタリア戦争が勃発し、ミラノ公国がフランスに占領されてしまったのである。

 

 レオナルドは仲間の数学者と共にヴェネチアに落ち延びて、そこで軍事顧問として雇われた。彼の画家としての才能は地図を描くのにうってつけだったし、幾何学の知識が大砲の配置図などに役立ったようである。

 

 翌年、故郷のフィレンツェに凱旋した彼は、偉大なる芸術家として熱狂的な歓迎を受けるが、その立ち居振る舞いは、寧ろ軍人のようだったらしい。事実、その2年後の1502年には、ロマーニャ公の陣に馳せ参じ、軍事顧問に就任する。更にその2年後にはフィレンツェのピサ攻略戦に参戦し、マキャベリと共同で水攻めを献策している。

 

 芸術家としてももちろん活躍していた。この頃、彼はモナ・リザや、二枚目の岩窟の聖母を描いたり、ミケランジェロと競い合い、フィレンツェ正庁舎にアンギアーリの戦い(未完)を描いたりした。

 

 しかし、彼は約束を守らないことでも有名だった。

 

 この頃の記録によれば、彼は幾何学に夢中で、ちっとも絵を完成してくれないと依頼主が嘆いているものがいくつも見つかるらしい。どうも彼は軍事のために、空飛ぶ機械を発明しようとしたり、天体の研究をしていたようだ。この頃に書いた彼の残した手記には、月の満ち欠けと地球照から、明らかに地動説を唱えているものまで見つかるそうだ。

 

 このように、比較的穏やかだったミラノ時代と比べて、晩年の彼は激動の時代に翻弄されるかのように、各地を転々とすることになる。最晩年、ミケランジェロやラファエロが活躍するヴァチカンで暮らしていた彼はローマ教皇に依頼され、ミラノを占領したフランスとの和平交渉のためにフランス王と会い、それが切っ掛けで後々フランスに招かれることになる。

 

 こうして彼は、皮肉にも彼をミラノから追い出したフランスの地に赴き、そこで生涯を終えたのである。

 

「儂をフランスに招待してくれたのはフランス王フランソワ1世じゃった。あまり気が進まなかったのじゃが、意外にも初めて会った時、彼は儂のファンだと言ってくれた。どうしてかと思えば、儂はわけあって岩窟の聖母を2枚描いたのじゃが、最初に手放した方を、巡り巡ってフランス王家が所有しておったのじゃ。儂はその修復のために招かれてフランスへ渡った。

 

 フランソワ1世は気さくな男で、よく儂を宮廷に招いては色んな話を聞きたがった。絵画のこと、数学のこと、解剖学のこと。星のめぐりについてや、実際の戦争の話、マキャベリのように君主論について講釈を垂れたこともある。

 

 そんなある日、儂はメディチ家のサロンで行われておった、プラトンアカデミーの話をしたことがあった。しかしこれはキリスト教的には異端で、儂は神父どもに糾弾される羽目になってしまった。

 

 丁度、儂がフランスへ渡った頃、北方ではルターによる対抗宗教改革が行われており、教会はピリピリしておったのじゃ。新プラトン主義とは、元々は3世紀に異端とされたものじゃから、口にするのは神に対する冒涜になる。教会は、そんな言葉狩りをしなければならぬほど追い詰められておった。ほんの半世紀前には、その辺の酒場でも出来た話が、この頃にはもう出来なくなっていたのじゃ。

 

 儂は正直、宗教改革などどうでも良かったのじゃが、フランスの神父たちは身に覚えがあったから、些細なことでもいちいちケチを付けざるを得なかったのじゃろう。おまけに、儂は有名人じゃったから、そんな儂が彼らの説教によって改心すれば、教会の権威付けにも利用できる。そんなわけで彼らは儂を糾弾し、儂も彼らの魂胆が分かっておるから引く気にはなれず、いつまでも激論が続けられることになった。

 

 それからは儂の元へ入れ代わり立ち代わり神父がやってくるようになった。儂はそいつらをいつもけちょんけちょんに言葉で撃退してやった。フランス王はそれを面白がって見ておった。元々、儂はそのフランス王が招聘したわけじゃから、神父共もおおっぴらには異端だなんだとは言えなかったのじゃ。

 

 そんなわけで儂は神父共と口論を交わしながら、いつの間にか若い頃に考えていたイデアについて、また思い巡らせるようになっておった。その頃にはもう、自分が神になるなどという世迷言は考えておらんかったが、しかし頭の中にある完全なる人間というものには、相変わらず興味があった。

 

 それから月日は過ぎ、儂にもいよいよ死期が近づいてきた。その頃になっても教会の神父共は、儂に改悛を迫りによくやって来おった。もはやお互いに、ライフワークになっておったんじゃな。病床の儂の元へも、毎日のように神父がやってくる。あなたの考えは間違ってるのだから、改悛して終油の秘蹟を受けなさいと。

 

 儂は些か疲れておった。彼らと議論を交わすのは、ある意味楽しみでもあった。じゃから、そろそろ彼らの言うとおりにするのも悪くないと思うようになった。正直、ここまで儂にこだわる理由もなかろう。教会の権威であるとか、神の威光であるとか、そういった目に見えぬ物を儂は嫌って、彼らと対峙し続けていたわけじゃが、それほどまでに彼らを突き動かす物に、逆に興味も湧いてきた。

 

 と、そうして彼らのことを認めようとした時……儂は、ふと若い頃に描いた絵のことを思い出した。身もふたもない話じゃが、儂が絵を描いていたのは、そもそも、教会からの注文があったからじゃ。

 

 彼らは、文字を知らぬ民衆に教えを広めるために、絵画を使って神の慈悲とか、教会の権威などを伝えようとしていた。じゃから、彼らからの注文はある意味いつも具体的で面倒くさくもあった。時には、依頼主とフィーリングが合わなくて、注文とは違うと言われ受け取りを拒否されることもあった。そう言うとき、儂らは仕方なく、彼らの言う荘厳さだとか華美さだとかを、どうにか表現しようとした。

 

 例えば、儂の描いた最後の晩餐という絵があるが、これは一見すると何もおかしなところがないように思えるが、よく見るとキリストと12使徒の座るテーブルの背後には、ありえないほど広大な空間が存在する。左右に掛かるタペストリーを見ればすぐ分かるじゃろう。窓の外は、まるで高所から見下ろしているかのように、遠い山の稜線が地平線になっている。儂はこうやって、被写体の背後に広大なスペースを作ることによって、中央のキリストの偉大さを表現したわけじゃ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 儂は既に目に見えぬものを描いておったのじゃよ。偉大さだとか、荘厳さだとか、そういった目に見えぬものも、こうして絵に描くことが出来る。それはつまるところ、目に見えないイメージにも、イデアが存在するということじゃ。

 

 儂は完全なる人間を描こうとして、解剖学を学び、陰影を使い、遠近法を駆使して、写実的な手法を続けていたが、その方法では目的を達することは出来なかったのじゃ。何故なら、神は偉大だからじゃ。目に見えぬものまで表現せねば、そこにイデアなるものは現れるはずがなかったのじゃ。

 

 今際の際にそれに気づいた儂は悔いた。今更やり方を変えねばならないが、もはやそんな時間はない。しかし、いまだかつて無いほどやる気に満ちていた儂は、ほんの少しでいいから時間をくれと、生まれてはじめて神に祈った……

 

 そして気づいたのじゃ……そこに誰かがいることに」

 

 病床で、自分の新しい考えに取り憑かれたレオナルドは、何とか体を起こそうとして上体をひねった。すると彼のベッドのすぐ脇に、見知らぬ男が立っていた。

 

 最初はいつものように教会の神父がやってきたのだろうと思った。しかし、どうも様子が違うと思い、彼が目を凝らしてみてみると……その男には輪郭線が無く、いや、あるのだが一定せずブレており、そこに居るんだか居ないんだかよくわからない雰囲気を漂わせているのだった。明らかに尋常な存在ではないと悟ったレオナルドは、とにもかくにもその男に向かって誰何した。

 

 すると思ったよりもしっかりした声でそれは答えた。

 

「彼の名はマイトレーヤ、真の名はミロク。悠久の時を超えて別の宇宙に現れる神だという。彼は遥か未来のとある場所から、過去に語りかけているという。そこには彼の他にも神がいて、完全な人間を作ろうとしている。自分たちが作った人間は、他の神々が作った人間と戦っている。その戦いに力を貸してくれないかと……」

 



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生と死の分水嶺

 五精霊の一人ミトラに誘われ、地球での寿命が尽きると、レオナルドはこの世界に転生した。こうして新たな肉体を得た彼は、第二の人生でついに悲願の幻想具現化(ファンタジックビジョン)を完成する。そして前世の記憶とその力でもって、勇者とともに魔王を退治することに成功したのであるが……

 

 それで目的を達したかと思えば、実はそうでもなかったらしい。確かに魔王はいなくなったが、相変わらずこの世界は、魔族、神人、人間、獣人に分かれて争いを続けており、終わる気配がなかったのだ。

 

 だから精霊が消えたあとも、彼は完全な人間というものを模索していた。精霊の話によれば、少なくともこの世界の争いごとは、神々が完全な人間を作ろうとしたことで起きたのだ。もしかすると完全な人間とは即ち、高度な文明社会のことではないかと考えた彼は、勇者と協力してこの世界の人々を導きはじめた。しかし、それはすぐに頓挫する。

 

 以前も言及した通り、獣人は頭が悪いのだ。中世のように識字率が低いとかそういうレベルの話ではなく、創造性がない彼らを教化することは不可能だった。だから、この世界を近代化したら、恐らく獣人は淘汰されるだろう。

 

 それも自然の摂理と言えばそれまでだが、元から邪な魔族はともかく、獣人まで滅ぼしてもいいのだろうか? それでは、魔王と同じではないか?

 

 そうして悩んでいるうちに勇者がおかしくなっていった。それまで女には殆ど興味を示さなかったくせに、あちこちに女を作りまくり、それが火種となって、後の大戦争につながったのだ。

 

 勇者は暗殺され、共に戦った仲間たちが次々と倒れていく中、独り生き残ったレオナルドは、その後どうすることも出来ず、この世にとどまり続けていた。神人ではなく、普通の人間がこのように長寿なわけがないから、彼が生き続けているのは恐らく精霊の影響だろう。彼にはまだ果たしてない役割があるのだ。

 

「精霊はなんて言ってるんだ?」

 

 鳳が尋ねる。レオナルドは黙って首を振りながら、

 

「わからぬ」

「どうして? 爺さんは精霊と話が出来るんじゃないのか?」

「精霊は高次元の世界の住人じゃ。どこにでも居るが、それを見るにはコツが要る。精霊は何にでも答えてくれるが、複雑な答えは期待できない。せいぜいイエスかノーかしか返ってこないのじゃよ。それは出し惜しみしているわけではなくて、恐らく向こうが伝えたくとも、儂らには理解できないのじゃろう。儂らが彼らのことを理解するには、まず高次元に関する理解が必要なのじゃ」

「なら爺さんは、どうして精霊の名前とか、その目的とかが分かったんだ? 精霊と対話したからじゃないのか?」

 

 鳳がそれでも納得いかず、その点をしつこく尋ねてみると、

 

「それは儂があの時、棺桶に片足を突っ込んでおったからじゃろう。意識は朦朧としていて、気も大分弱っておった。もう死んでも構わないとそう思っておった。そんな時、熱に浮かされた人間が幻覚を見るように、精霊が儂に神秘を見せたのじゃろう」

「つまり、頭がイカれてるほうが精霊と対話するには都合がいいってことか……」

「そうじゃな。丁度、先程のお主のように」

 

 鳳はうなずき返すと、

 

「そうだった……あれは一体、なんだったんだ? キノコで意識がぶっ飛んだかと思ったら、まるで映画でも見てるかのように、次々と頭の中に映像が流れ込んできた。いつの間にか、その内容をみんなに向かって喋ってたみたいだし……でも、俺にはあんな記憶は無いし、いきなり思いつく理由もない。俺は未来でも見せられたとでも言うんだろうか?」

「話の内容からして、恐らくはな」

「そんなことってありうるのか? 俺は預言者でもなんでもないんだぜ?」

「キリスト教的な預言者であるかどうかと問われれば、お主はそんなものとは違うじゃろう……だが、未来を知ることは、お主が思ってるほど特別なことではない」

「まさか! なら爺さんは、未来を知ることが出来るっていうのかい?」

 

 鳳が驚いてそう聞き返すと、レオナルドはさも当然といった感じに、

 

「簡単な話じゃ。未来を知りたければお主に聞けば良いじゃろうが」

「……え?」

「お主は儂の知らぬ未来からやってきた人間じゃろう。この世界は、儂やギヨーム、そしてお主のように、違う時代からやって来た者が一堂に会しておる。なら、お主の知らぬ未来を知っている者がいてもおかしくなかろう。ましてやそれが精霊であるなら尚更じゃわい」

「……確かに」

 

 鳳は黙るしかなかった。当たり前の話だが、自分が居なくなったからといって、世界が無くなるわけじゃない。人類が滅びない限り、未来はいつまでも続いていく。しかし、彼は先程の神秘体験を思い出し、唸り声をあげずにはいられなかった。あれが未来の出来事だとしたら、その内容が悪すぎる。

 

「もし、さっき見たあの映像が本当なら……それじゃ、人類は自らが作り出したリュカオンによって滅ぼされたってことなんだろうか……?」

 

 しかしレオナルドはそれを否定した。

 

「……それはどうかのう」

「え……?」

 

 彼はたくわえたヒゲを引っ張りながら、

 

「もしそうなら、この世界の人間はどこから来たというのじゃ。神人は? 魔族は? それに、この世界で淘汰されそうになっているのは人間ではなく、寧ろ獣人の方ではないか」

「……言われてみれば」

「恐らく、お主が見たものには、まだ続きがあるのじゃろう。精霊がそれを見せる前に、お主の精神がこっちに戻ってきてしまったのじゃろう」

「なら、もう一度キノコで飛んだら続きが見れるんだろうか……?」

「かも知れぬ。しかし、今日はもうやめておいた方が良いじゃろう」

 

 鳳はうなずき返した。あのトランス状態は強烈だった。クスリで無理矢理なったわけだが、あんなことを続けていては、本当にジャンキーになりかねない。それに今、疲労困憊していることは、自分が一番良くわかっていた。

 

「後日、長老に事情を話して、また試してみよう。獣人は融通が利かないけど、爺さんからも頼んでくれれば、素直に聞いてくれるかも知れない。お願いできるか?」

「その程度なら構わぬ。儂も気になるからな」

「後はメアリーにも話を通しておきたいとこだが……そう言えば、そのメアリーはどこに行った?」

 

 クスリで飛ぶ前は家にいたと思ったが。気がつけばジャンヌの姿も見あたらない。

 

「そう言えば……儂もお主に気を取られて、あの子のことをすっかり忘れておった。確か、お産が始まるからと言ってソワソワしておったはずじゃが……」

 

 二人がそうしてメアリーの姿を探している時だった。朗々と昔話を続ける長老の声に混じって村の外から、

 

「きゃあああああーーーーっっ!!」

 

 っと大きな悲鳴が聞こえてきた。丁度その人を探していたところだったから、二人にはその声の主が瞬時に分かった。

 

「メアリーの声だ!」

 

 ちょっと目を離したすきに、いつの間に村の外になんて出ていってしまったのだろう。いや、そんなことより、今はその悲鳴の方だ。鳳たちは慌てて悲鳴の聞こえた方へと駆け出した。

 

*******************************

 

 鳳がキノコでトランスしてしまう少し前……メアリーは朝からずっとソワソワしていた。マラリア騒動で死にかけていた妊婦のお産が今日にも始まりそうなのだ。もしかするとお腹の中の赤ちゃんに何か影響があるかも知れない。彼女は気がかりで仕方なかった。

 

 村の女達は出産に慣れているせいか、メアリーと違って気楽そうだった。彼女が不安を漏らすと、もし無事じゃなくても平気だからと軽く受けあっていた。何が平気かよく分からなかったが、きっとメアリーの緊張をほぐそうとしてくれていたのだろう。彼女は気もそぞろに家の中でウロウロしていた。

 

 もしもの時のためにギルドに行ってレオナルドを呼んでおいた。本当は鳳よりもずっと医学に通じているので、こういう時に頼りになるのだ。彼は村にやってくると、広場で始まってしまった鳳の儀式を面白そうに眺めていた。

 

 その鳳はまるで本物の神官にでもなったかのように、何だか難しい話を朗々と謳い上げていた。目が血走っていて別人のようである。神人のメアリーにはわからない感覚であったが、余り魔法の素養がない人間がMPポーションを過剰摂取したりすると、ああなることがあるらしい。こうなると何を言っても話が通じないので困ってしまうのだが、傍から見てる分には面白いので、お産さえ無ければメアリーも一緒に眺めたいところだった。

 

 と、そんなことを考えていると、村の女達がソワソワし始めた。どうやらお産が始まるようだ。女達は鳳の話に夢中になっている男たちから隠れるように、こそこそと妊婦を連れて村から出ていった。こんなプライバシーもない村で、出産なんてどこで行うんだろうか? と思っていたが、やはりと言うか、どうやら村の中では出来ないらしい。メアリーは彼女たちの後を追った。

 

 出来ればレオナルドにもついてきて欲しかったが、あまり無理を言うのも悪いだろう。いざという時が来なければその方がいいのだし、それまで好きにさせておこう。代わりにジャンヌがついてきてくれたが、村の女達に拒否されてしまった。多分彼が男だからだろう。メアリーは、しょんぼりするジャンヌをそこに残して、みんなと一緒に森の中へと入っていった。

 

 お産はその森の中で行われた。いつの間に用意してあったのだろうか? 分娩のために開けられたスペースに、粗末な布と枯れ葉で簡易ベッドが作られていた。運び込まれていた水瓶には、近くの川の水がたっぷり入っており、村中からかき集められた布が、焚き火で熱せられた鍋の中でグツグツと煮沸消毒されていた。

 

 お産が始まり、妊婦の苦しげな声が周囲にこだまする。もっといきんでと言う声と共に、ラマーズ法だかなんだかの特徴的な呼吸音が続き、気づかぬ内にメアリーもそれと同調するように体に力が入っていた。間もなく女達が忙しそうに動き出し、メアリーはそんな彼女らに端っこに追いやられてしまった。

 

 もう女達もメアリーに構っていられる状況ではないのだろう。彼女からは出産の様子は見えなかったが、順調に進んでいることだけは雰囲気でわかった。妊婦は初めてのお産ではなく、何度か出産の経験があるようで、思ったよりも早く決着がつきそうだった。

 

 そして、メアリーがハラハラしながら見守っている前で、妊婦の苦しげにあえぐ声がだんだん大きくなり、と同時に、彼女をサポートする女達の動きが忙しくなって、ついに待ち望んでいた赤ん坊が誕生したのであった。

 

 妊婦につきっきりで励まし続けていた助産婦が、さっと赤ん坊を取り上げ、へその緒を切り、逆さまに吊り上げた赤ん坊の尻をパンパンと叩くと、赤ん坊はおぎゃあおぎゃあと泣き声を上げた。

 

 その瞬間、周囲を取り巻いていた緊張感がパッと解れ、さっきまで怒号のように飛び交っていた女達の声と、妊婦のうめき声が止んだ。助産師が取り上げた赤ん坊を妊婦に手渡す。母になった妊婦はその子を受け取ると、慈しむような表情でその泣き顔を見つめていた。

 

 感動的な光景だ……

 

 メアリーはその母子の姿をうっとりと眺めていた。

 

 獣人の赤ん坊は人間よりも一回り小さく、その頭は猿というよりモグラみたいな印象だった。おぎゃあと泣いている姿は、さっきまで母親のお腹の中に居たなんて信じられないほど元気である。獣人は成長が早く、これがほんの10年ほどで、ガルガンチュアみたいに大きく育つのだと言うから想像もつかない。

 

 300年も生きた彼女からしてみれば、10年なんてあっという間の出来事だ。これも何かの縁である。この子が大きくなった姿を、いつかこの目で確かめたいとメアリーは思った。そしてその時のために、今日が何月の何日であるか覚えておこうとして、すぐ隣にいた女の方を振り返った時だった。

 

 さっきまで忙しそうにしていた女性たちが、彼女の後ろで深刻そうな表情で佇んでいた。彼女らは生まれたばかりのわが子を抱く女性を遠巻きに取り囲むように、半円状に広がっていた。

 

 獣人の表情は分かりづらいとはいえ、その雰囲気が出産を祝うものとは到底思えなくて、メアリーは困惑した。もしかして、元気そうに見えるあの赤ん坊に、何か違和感でも見つかったのだろうか……? メアリーは不安にかられて、母親が抱きしめる赤ん坊の姿をじっと見つめた。しかし、赤ん坊におかしなところは見当たらない。

 

 それじゃあ一体、何故この女性たちはみんなお通夜みたいな雰囲気を漂わせているのだろうか。困惑しているとその母親に、助産師が何かを耳打ちするように囁いた。

 

 それを聞いた母親は、まるで羽虫を払うような仕草で助産師のことを遠ざけた。しかし、一度追い払われた助産師が、すぐにまた彼女に耳打ちすると、それまで赤ん坊のことを慈しむように見つめていた母親の顔が、どんどん暗い表情へと変わっていった。

 

 そして助産師が最後に、分かってるだろうね? と言わんばかりに彼女の肩を叩くと、母親は無表情でこっくりと頷き、それまで命よりも大事そうに抱き上げていた赤ん坊を、そっと地面に下ろした。それを見て助産師が彼女から離れる。母親は離れていく助産師の方を……そしてメアリーたちのいる方を見ず、じっと地面に寝かせた自分の赤ん坊のことを見つめていた。

 

 メアリーは何故そんなことをするのかわけが分からず……どうして母親が、泣いている赤ん坊を抱いてやらないのかと首を捻った。彼女は近づいてきた助産師に、一体何があったの? と尋ねてみた。しかし助産師は黙って首を振るだけで、他の女性たちと同じように、母親のことを取り囲む半円の中に入るのだった。

 

 なんだろう……嫌な予感がする……

 

 メアリーはその雰囲気に当てられ、嫌な気分になってきた。何が起ころうとしているのか、彼女はこの期に及んでも分からなかったが、ただ、非常に嫌なことが起きそうな予感だけがしていた。

 

 と、その時……女性たちに注目されるように取り囲まれていた母親が、ふいに動いた。彼女は地面に横たえていた赤ん坊をひょいと持ち上げた。そしてメアリーが何をするんだろう? と見ている前で、その子の首をクイッと横に捻ってしまった。

 

 それは一瞬のことだった。気持ちを整理する暇も無かった。あっという間の出来事だった。クイッと、まるで捕らえた小動物を絞めるような気安さで、母親はたった今自分が産み落としたばかりの赤ん坊の首をへし折った。

 

 メアリーはその光景を見て、何が起きているのかさっぱりわからなかった。しかし、理性が考えることを拒否しても、体の方は目の前でたった今起きた出来事を理解していたようである。

 

「きゃああああああああーーーっっっ!!!!!」

 

 気がつけば、メアリーは叫び声を上げていた。

 

**********************************

 

 メアリーの叫び声を聞いた鳳たちが駆けつけると、そこはまるで戦場のようだった。いつの間にいなくなっていたのか、そこに村中の女達が一堂に集まり、ヒステリックな叫び声を上げ、顔を真っ赤にしながら、滅茶苦茶に腕を振り回している。

 

 一体、彼女らは何に怒っているのか? と戸惑っていると、その中央でジャンヌが揉みくちゃにされていて、足元にはメアリーが蹲っていた。女達はそこに殺到しているようだった。

 

 たった今、出産を終えたばかりなのか、下半身裸の女がそのメアリーに狂ったように飛びかかろうとしている。ジャンヌはそんな攻撃から彼女を守ろうとして、必死に母親のタックルを受け続けている。

 

 何が起こっているのかさっぱりで困惑していると、地面に伏せるように蹲っているメアリーの下で、小さな命が冷たくなっていることに気がついた。あれは、生まれたばかりの赤ん坊か? 流産してしまったのだろうか……いや、違う。

 

 鳳はそれを見た瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。

 

「何をやっている!」

 

 と、少し遅れて今度はガルガンチュアと村の男達が駆けつけてきた。

 

 彼らはメアリーと女性たちが揉めていることに気づくと、大慌てで彼女たちの間に入って喧嘩を止めようとした。

 

 しかしヒステリックに叫ぶ女性たちは興奮して手がつけられない。下手に止めようとすると返って滅茶苦茶に暴れられ、男たちの身がもたないほどだった。普段は大人しいメアリーも、もはや何を言ってるのかわからない絶叫を続けている。

 

 こんなに興奮しているメアリーを見るのは初めてだ。困惑して動けずにいた鳳たちは、ガルガンチュアに、とにかく彼女を連れてどこか行けと言われ、号泣して暴れまくる彼女を羽交い締めにして、村とは反対方向へと逃げ出した。

 

 振り返ると興奮している女性たちに、ガルガンチュアが袋叩きにされていた。男たちは必死に彼女らを宥めようとしていたが、打つ手がなく、最後はただ殴られるままになっているようだった。

 

 暴れるメアリーを引きずるようにして、鳳たちはどうにかこうにか村から離れた河原までやってきた。

 

 叫び疲れて喉が乾いていた彼女はふらふらと川に近づくと、水面に口をつけるようにしてゴクゴクとその水を飲んだ。それで少しは頭が冷えたのか……河原に大の字になって呆然としている彼女に向かって、鳳は何があったのか尋ねてみた。

 

 彼女はその時のことを思い出したのか、暫く無言のまましゃくりあげるようにヒックヒックと泣いていた。まだ時期尚早だったかと鳳が諦めかけた時……ようやく絞り出すような声で、彼女はあの場で起きた出来事を話してくれた。

 

 そして彼女が話してくれたのは、現代人の鳳たちにはショッキングな出来事だった。

 

 出産は順調に終わった。しかし、せっかく生まれた赤ん坊は、その場で殺されてしまった。メアリーはびっくりしてその赤ん坊を抱き上げ蘇生しようとした。すると母親が赤ん坊を取られたと言わんばかりに急に暴れだし、メアリーは揉みくちゃにされたのだった。

 

 たった今、自分自身が殺したくせに……彼女は死んでしまった赤ん坊を抱いて、ジャンヌが駆けつけるまで、その攻撃を受け続けていた。

 

「どうして、あの人は生まれたばかりの自分の赤ちゃんを殺したの? どうして?」

 

 メアリーの悲痛な声が胸に突き刺さる。だが、鳳はその言葉にショックを受けながらも、なんとなくその事実を受け入れている自分がいることに戸惑っていた。

 

 メアリーが目撃したのは、おそらく間引きだ。

 

 考えても見ればこんなジャングルの奥地で、考えなしに子供をポンポン産んでいたら、いつか食料が尽きて、とっくの昔に村は立ちいかなくなっていただろう。そうならないためには出産調整が必要だ。

 

 しかし、この世界の技術力では、避妊も堕胎も難しい。コンドームもなければ、医者も居なけりゃ内視鏡もない。それでも妊娠してしまった場合、母体を傷つけずに済む一番マシな方法は何か……?

 

 それが嬰児(えいじ)殺しだったのだ。

 

 思い返せば鳳も、あの村に受け入れられた時、長老から妻帯と10人の家族を持つことを許されていたはずだ。その時はなんとも思わなかったが、よくよくその意味を考えてみれば、わかるはずだった。ここでは、当たり前のように口減らしが行われていたのだ。

 

 だが、鳳は特別彼らが醜いとは思えなかった。実際問題、地球でも、世界中どこでも、昔は当たり前のように行われていたことなのだ。21世紀にもなって、まだそうした風習が残っている未開の部族は存在する。

 

 人間は、将来を悲観するがゆえに、自分の心に反してそういうことをしてしまう動物なのだ。

 

 ガルガンチュアの村の女性達だって、まさか生まれたばかりの自分の赤ん坊を殺したいなんて思うわけがないだろう。だが、そうしなければ村が全滅してしまう可能性がある。村で生きていく限り、それが掟と言われたら、彼女らは逆らう事ができないのだ。だからそんな彼女らを非難するのは酷だと、鳳はやんわりメアリーを諭そうとした。

 

「でも、そんなのセックスしなきゃいいだけの話でしょう?」

 

 しかし、メアリーはピシャリと言い返した。

 

「子供が出来たら村が立ちいかなくなってしまうなら、我慢すればいいだけの話でしょう? どうして彼らの自堕落の因業を、何の罪もない生まれたばかりの赤ちゃんが受けなければいけないのよ! そんなのおかしいわ。私は間違ってるかしら!?」

 

 鳳は何も言い返せなかった。

 

 三大宗教はどれも邪淫を禁じており、その業は自らが償わなければならない罪である。親の一時の快楽のために、何故子供がその罪を背負わねばならないのか。子供は親の所有物ではない。少なくとも、鳳自身がそうやって生きてきたはずではないか。

 

 大体、快楽のためだけにセックスをし、結果的に子供を殺した彼らと、あの先輩たちとどこが違うと言うのだろうか? それは鳳が一番嫌った行為じゃないか。この世界に来て、好きなだけ女を抱いていいと言われて自分たちは喜んだ。でも、その結果、子供が生まれたカズヤたちは、負けると分かっていながら戦いに身を投じたのだ……その行為は馬鹿げているのか? 彼らが生まれてくる子供たちのためにとった行動を、鳳は笑うことなど出来なかった。

 

 だが、それなら自分たちが今までさんざん殺してきた魔族はなんだったのだろうか? あれも妊婦だったではないか。魔族はお腹の中にいる子供ごと殺しておきながら、今は生まれたばかりの子供が殺されたことに、こんなにも心をかき乱されている。その分水嶺は何なんだ?

 

 メアリーの言ってることは正しい、理解も出来る。だが、鳳はそれに素直に賛同することが出来なかった。彼には村の人たちの気持ちも分かるような気がしたからだ。

 

 でも実際にはそのどちらのことも分かっていなかったのだ。

 

「いいえ、メアリーちゃん。間違ってるのは彼らだわ! 色んな事情があるのは分かるけど、やっていいことと悪いことはちゃんとあるはずよ。だって、生まれたばかりの赤ちゃんが殺されるなんて、悲しすぎるもの!」

 

 ジャンヌがそう言って、はっきりメアリーを肯定すると、彼女は顔をくしゃくしゃにしてまた泣き始めた。ジャンヌはそんなメアリーを、覆いかぶさるように抱きしめると、彼も一緒になってワンワンと泣いた。

 

 鳳はそんな二人の姿を、ただただ困った表情で眺めていることしか出来なかった。何故なら彼は、メアリーと村人たち……どちらの立場に立ったとしても、ジャンヌみたいに一緒に泣くことが出来なかったからだ。

 

 レオナルドがやってきて、そんな彼の脇腹を肘で突いた。彼はそれに呼応するように踵を返すと、抱き合って咽び泣く二人に背を向けた。

 

 鳳はジャンヌのように、メアリーが正しいと言い切れなかった。

 

 それは自分が子供を産むことが出来ない男だからか……それとも、単に自分が冷たい人間だからか……どんなに考えても、彼にはそれが分からなかった。

 



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それぞれの目標

 メアリーは傷ついていた。ジャンヌは一緒に泣いていた。鳳はそんな二人になんて声をかけていいか分からず、ただ黙って背中を向けると、森に面した河原の土手で薪を拾い始めた。

 

 一緒に泣ければ良いのだろうが、自分の希薄な感情では無理だった。体を動かしていないと、嫌なことばかりを考えてしまう。どちらにしろ今日はもう村に帰ることは出来ないから、夜営の準備をしなければならなかった。幸い、夕食後だったから腹を空かせる心配は無かったが、仮に何も食べてなかったとしても、今は飯が喉を通るかわからなかった。

 

 こんな気分が暗い時に、焚き火もなしで野宿するのは御免である。枯れ草を集め、適当に小枝を拾っていると、ザッザッと砂利を踏む音が聞こえて、レオナルドが近づいてきた。手にしていた薪になりそうな枝をカラカラと地面に放り投げると、彼は腰をトントンと叩きながら言った。

 

「そろそろ、旅立たなくてはならんかのう」

 

 鳳は集めた薪の大きさを揃えながら、

 

「無理だろうな……もしかしたら村人たちは、二三日もしたらケロッとしてるかも知れないが、メアリーの方はもう一生忘れないだろう。彼女にとって、ここは辛すぎる場所に変わってしまった」

「……子供たちに囲まれて、毎日楽しそうにしてたから油断しておったわい。未開の部族は、儂ら都会人には測りきれないところがある。もう少し、気を配ってやるんじゃった」

「仕方ないさ」

 

 レオナルドは、メアリーをヘルメス卿の結界から外に出したことで、責任を感じているのだろうか。しかし、そんなことを気にしたって、人間社会で暮らしている限り、何も傷つかずに一生を終えるなんてことは不可能だろう。

 

 森の中での生活に慣れてきたから勘違いしていたのだ。野生児みたいな生活を続け、様々なクエストをこなし、多くの称賛を勝ち得て、ここでやってける自信をつけたところでも……自分たちは根っこのところで文明人だった。彼らとは住んでいる社会が違う。そして全ての社会は、人間をその枠にはめようとするのだ。

 

 鳳はため息交じりに、

 

「はぁ~……それにしても、惜しむらくはマジックマッシュルームだぜ。せっかく、手に入れる算段がついたと思ったのに……もう協力してなんて言っても、聞いてくれないだろうな」

「…………精霊がお主に何を伝えようとしていたのかが気になるのだと、好意的に解釈しておこうか。そうじゃのう。あの話の続きは、儂も気になる。なんとかならんかのう」

「どうせ、おさらばするしかないなら、いっそ忍び込んで盗んでやろうか? 爺さんの認識阻害魔法を使えば、楽勝だろ?」

「それは流石に気が進まんのう……本当はお主もそう思っておるんじゃろ?」

「……あの時、一個くらいちょろまかしておけば良かったよ」

 

 二人がそんな会話をしていると、森の中でチラチラと光る松明の炎が見えた。夜目の利く獣人たちならそんなものを持ってるはずがないので、恐らくギルドの連中だろう。

 

 丁度、火種になるものを探していたところであった。鳳たちは手近にあった薪で木を叩いて自分たちがいることをアピールした。

 

「大君、ここにいらっしゃいましたか」

 

 やって来たのは意外にも一人や二人ではなく、なんと駐在所にいるはずの四人全員だった。ギルド長にギヨーム、ルーシーにミーティア。勢揃いでお迎えだなんて、今回は追い出されたのがいつもの鳳ではなく、レオナルドだったから、よほど心配だったのだろうか?

 

「いやいや、そうじゃない。実は我々も追い出されてしまったんだよ」

「追い出されただって? どういうこと?」

「それはこっちが聞きたいところだね。我々は殆ど何も知らずに、ただ今すぐ出ていってくれと言われて逃げてきたようなものなんだ」

 

 詳しいことを聞きたいところだが、取り敢えず夜営の準備が先決である。鳳はギルド長が持っていた松明を借りると、それで集めていた薪に火をつけた。

 

 河原に穴を掘って簡易的なかまどを作り、少し多めに集めた焚き火を盛大に燃やした。人数が多くなってしまったから、これくらいやらなければ夜露に濡れた体が冷えてしまいそうだった。

 

 鳳たちは焚き火を囲んで一息つくと、ギルド長にここに来るまでの経緯を尋ねた。メアリーはその頃には大分落ち着きを取り戻しており、ジャンヌにもたれ掛かってぼんやりしていた。

 

「我々は特になにするでもなく、普通に駐在所の中に居た。すると突然外が騒がしくなって、何かあったんだろうか? と顔を出したら、村の連中に囲まれていたんだ。彼らは口々に、おまえたちが災いをもたらした、おまえたちが神人を連れてきた、だからおまえたちが出て行けと言うんだよ。なんのことかさっぱりだから理由を知りたいのだが、何しろ相手が獣人だろう? 話してても要領を得ないので困っていたら、ガルガンチュアがやって来て、とにかく今は村から離れていてくれと言われたんだ。その間に落ち着かせるからと」

「なんと、彼らは駐在所の方まで現れたのか。ふーむ……流石に度を越しておるのう。何故そこまで大騒ぎするんじゃ」

「多分、神人を怒らせたことが後ろめたいんだろう」

 

 鳳がそう言うと、レオナルドは低く唸り声を上げていた。

 

 300年前の出来事もあって、獣人にとって神人は神に近い存在と思われている。実際、メアリーは強力な魔法使いであり、彼らはその奇跡を何度か(遊びで)目撃している。そんな神様に、彼らは畏れを抱いているのだ。

 

 いや、それだけではないだろう。今となっては、レオナルドも、ギヨームも、ジャンヌも、手練の冒険者であることはみんなが知っている。一人ひとりがガルガンチュアにも匹敵する能力を持つ彼らは、村の者からしてみれば脅威でしか無い。そんな彼らもまたメアリーの仲間だと言う事実を思い出し、パニックになっているのかも知れない。

 

「どうしよう……私のせいかも……」

 

 駐在所のみんなが追い出されたと知って、メアリーは自分のせいかも知れないとショックを受けていた。彼女が何故、村の連中と揉めたのか事情を知らないギルド長たちは、何があったのかと尋ねてきた。鳳は、真っ青になって答えられないメアリーの変わって、さっき起きた出来事をかいつまんで話すと、

 

「信じられない! ひどすぎる!」「そんなの、メアリーさんは何も悪くありませんよ! 私だって同じことをします!」

 

 案の定、話を聞いた女性二人が興奮して金切り声を上げていた。メアリーがそれで救われるなら良かったが、鳳は状況を説明しただけなのに、なんだか自分が責められているような気がして居心地が悪かった。

 

 助けを求めるように周囲を眺めると、ギルド長がアチャ~……と言わんばかりの表情で天を仰いでいた。きっと、彼はあの村で、そういうことが行われていることを知っていたのだろう。同じく、そういうことが行われていた世界を生きていたギヨームが、二人を制するように言う。

 

「現実に飯が食えなくなったら元も子もないんだ。あまり責めてやるなよ」

「ギヨーム君まで何言うの? それ以前の問題でしょう!? どうせ産むことが出来ないのなら、始めから赤ちゃんを作るような行為をしちゃ駄目じゃない!」

「セックスくらいしか楽しみがねえんだから仕方ないじゃないか」

「それじゃなに? 親の娯楽のために殺されてもいい命があるって言うの?」

「うるせえな、俺が殺してるわけじゃねえだろ!」

 

 興奮するルーシーが食って掛かる。ギヨームは面倒くさそうに舌打ちする。普段は仲がいい二人だから、それだけ強く言い合えるのだろう。しかし、そもそもこんなことは、二人が言い争いをするような問題ではないはずだ。

 

 鳳がヒートアップしないうちに二人を止めようと身を乗り出すと……

 

「耳が痛いな」

 

 そんな二人を制するように、野太い声が森の方から聞こえてきた。警戒を怠っていたギヨームが咄嗟に身構える。

 

 しかし、そこにいたのが見知った顔であることに気がつくと、彼は焚き火とはそっぽを向いて腰を下ろした。

 

「ガルガンチュアさん……」

 

 代わりに鳳が立ち上がって族長を迎えると、ガルガンチュアはそんな彼に軽く会釈してから、まずレオナルドを見て……次にギルド長を見てから、結局、最後に鳳へと視線を戻して、

 

「少年……いや、ツクモ。話がある。聞いてくれ」

 

 と言って頭を下げた。

 

 鳳は何故自分が……と思いつつも、ガルガンチュアにいつまでもそんな格好をさせてはいけないと、彼の言葉に応じた。

 

***********************************

 

 焚き火から少し離れた小川のほとりに、二人はしゃがみこんでいた。時折、風が仲間の声を運んでくる。少しでも大きな声を出せばその内容まで聞こえてしまう。その程度の距離だった。

 

 ガルガンチュアは鳳をそこまで連れてきたものの、長い間、何も言わずにただ黙って小川のせせらぎを見つめていた。時折、足元に転がっている丸石を拾い上げては、漫然と放り投げてはため息を吐く。ぽちゃんと音が鳴って、水面に映った月が揺れる。もしかして、狙って投げているんだろうかと思って、その軌跡を追っていると、ようやくと言った感じに、彼がポツポツと話し始めた。

 

「……俺は獣王などと呼ばれているが、実際はこんなもんなのだ。俺は強い。魔族にも負けない。だが、言葉が足りない。知恵も足りない。村人たちをまとめる力も足りなくて、いつも……こんなもんなのだ」

 

 ガルガンチュアがずっと黙っていたのは、多分、彼の言葉が足りないからだろう。本当は伝えたいことが沢山あるのに、それを伝えるだけの語彙がない。だから一生懸命考えて、こうしてつっかえつっかえ話しているのだ。

 

 鳳はその意図がちゃんと汲み取れるように、真剣に話を聞こうと耳を澄ませた。

 

神人様(メアリー)の言うことは正しい。さっきの女も正しい。俺たちは自分勝手に子を作る。誰もそうすることが止められないんだ。そして生まれてきた子を殺す。でも、俺は、本心から、生まれてくる子供をみんな育てたい……みんなもそう思ってる。でも、そうするには、食べ物が足りないんだ。圧倒的に足りない……」

「ええ、分かります」

 

 鳳が合いの手のつもりでそう言うと、ガルガンチュアは不機嫌そうにブンブンと頭を振って、

 

「いや、違う。そうじゃない。本当は食べ物はあるのだ。おまえも長老の話を聞いただろう。昔はそういうとき、俺たちは周辺の部族を襲った。食料を奪い、女を奪い、新しく生まれてくる子供のための糧とした。そして部族は大きくなっていった。俺たちが食うために、他の部族は死ぬだろう。だがそれでいい。力こそが正義だった。

 

 だが、このやり方じゃ魔族に勝てなかった。300年前。俺たちは他の部族がやられても助けなかった。次は自分たちがやられるかも知れないと思っても、助けなかった。そして、やっぱり自分たちもやられた。大森林の部族はみんな逃げるしかなくなり、人間に助けを求めた。でも誰も助けてくれなかった。俺たちは威張っていたからだ。

 

 でも勇者はそんな俺たちを助けた。魔王が退治されても、森は魔族でいっぱいだった。人間は誰も森を救おうとはしなかった。でも勇者だけは助けてくれた。勇者は俺たちのリーダーになって戦い、みんなで協力すれば、魔族に勝てると教えてくれた。だから俺たちは勇者と約束したんだ。

 

 部族同士の争いはもうしない。出来るだけ話し合いで済ます。魔族が出たら、みんなで協力する。俺たちは、その約束をずっと守っている。だから魔族が来ても、俺たちはもう負けない。でも、その代わり、俺たちの部族は、これ以上大きくなれないんだ……こんなもんなのだ……こんな……こんな……こんな」

 

 ガルガンチュアは言葉が出てこないようで、難しい顔をしながら同じ言葉を繰り返していた。鳳はそんな彼を急かさないようにじっと見守った。彼はそれから暫くの間、もどかしそうに声を発していたが、やがて何かを思いついたように、スーッと息を吸い込むと、掠れるような小さな声で、

 

「……袋小路だ」

 

 と呟いた。族長として、彼は行き詰まりを感じているのだ。

 

 普通に考えれば、部族を導いて村を大きくしていくことこそが、族長の務めと言えるだろう。なのに、彼はそれとは真逆ことを求められる。停滞し、これ以上大きくならないよう人口を抑制し、レベルが下がらないようにお見合いの段取りを決め、中間管理職みたいに、部族の不満を和らげることだけに翻弄されている。

 

 鳳は初めてこの森でこの部族に出会った時、なんて強くて自由な奴らなんだろうと思った。素手で魔族をなぎ倒し、簡単に大型の獣を狩って、みんなで巨大なキャンプファイヤーを囲んで、大人と子供が輪になってその肉を頬張る。みんな笑顔で、陽気で、すぐ怒るけど、すぐ仲直りして、隣の家に壁などなく、みんな等しく仲間にみえた。

 

 だがそんなのはただの見せかけだった。本当の彼らは、こんな狭い村社会のヒエラルキーを維持するためだけに、死ぬまで競い合い、子供の数まで決められている。セックスくらいしか娯楽はなく、うっかり子供が出来てしまったら、負債を清算するかのようにその子供を殺してしまう。隣の部族との間で決められた境界の中だけで、まるで動物園みたいに食べ物を譲り合い、掟を破る者は追放される。

 

 現実の彼らは弱く、とんでもなく不自由だった。

 

 鳳は、自分は聖人君子でもなんでもないが、それでも彼らを教化しなければならないと、文明社会の一員にしてあげたいと、妙な使命感さえ感じていた。しかし、何とかしてあげたいと思っても、どうしようも出来ないことは、とっくの昔にわかっていた。彼らには創造性がないからだ。

 

 リュカオンよ。獣人の神よ。あなたは彼らをどう導いてやろうというのか?

 

 本当に、この世に神はいるのか?

 

「出ていくのか?」

 

 ガルガンチュアが問いかける。恐らく、村を出ていくかどうか聞いているのだろう。鳳は頷いた。

 

「ええ、今回の件で、みんなの意見は一致してます。俺はともかく、女の子たちにはやっぱりショックだったみたいです。いや……俺もかな。俺も、なんだか悲しいです」

「そうか……」

 

 ガルガンチュア素っ気なく返事を返すと、また手近にあった小石を川の中にぽちゃんと投げ入れた。

 

 そして彼は、おもむろに切り出した。

 

「ツクモよ。一つ頼みがある。マニを連れて行ってくれないか?」

「……え?」

 

 鳳は驚いた。始めは狼人の集落の中で、たった一人の兎人である彼を奇妙な存在だと思っていた。だが、それがガルガンチュアの一人息子だと知った今、その彼が息子を手放すようなことを言うとは思わなかった。実際、以前にもマニが留学をしたいと言い出した時には、彼は反対したくらいだ。

 

 一体どういう風の吹き回しだろうか。鳳が首を捻っていると、

 

「今日、神人様が怒っただろう?」

 

 鳳は頷いた。メアリーが嬰児殺しにキレたことと、どう関係があるのだろうか? するとガルガンチュアは難しい顔をしながら、

 

「あのあと、少し考えた。マニは最近、成人した。だが、妻帯は無理だ。この村に、マニと結婚する相手はいない。いても、生まれてくる子供は、この村では育てられない」

「あ……」

「実は、マニが生まれた時、俺は育てるのを反対されたんだ。マニは誰の子供かわからない。だから処分するように、散々言われた……俺は自分が族長になることで、それを封じ込めてきた」

 

 そうだったのか……レイヴンの集落でマニの母親に会った時、どうしてガルガンチュアは、この哀れな母子を離れ離れにしてしまったのかと考えたものだが、その理由がよく分かった。

 

「マニが可愛かったのだ」

 

 ガルガンチュアはそう言って、照れくさそうに笑った。相変わらず、狼人の表情は読みにくかったけれども、鳳はこの時はじめて、狼人がどういう顔をして笑うのかが分かったような気がした。

 

「だが、考えが変わった。マニはこのままここにいても、幸せにはなれないだろう。だから、外の世界を見たいというマニを、助けてやってくれないか?」

 

 鳳は頷いた。

 

「そう言う事なら。お安い御用ですよ」

 

 ガルガンチュアはその返事にホッとした感じに、

 

「マニは俺と違って頭がいい。人間の集落へ行って、村を大きくするための技術を学びたいと言っていた。俺にはよくわからないが、おまえが分かるなら、勉強をよく見てやってほしい。それから、悪い人間に騙されないように気をつけてやってほしい」

「はい」

「それから、仕送りは少ないが、冒険者ギルドを通じて渡すから、おまえも冒険者になれと言ってくれ。それから、村のためなどと思わないで、もしそっちが気に入ったのならずっとそっちで暮らしてて良いと言ってくれ」

「構いませんけど、そんなこと言ったら、もう帰ってこないかも知れませんよ」

 

 鳳が冗談混じりにそんなことを言うと、

 

「それでいい。子供の幸せを願わない親などいない」

 

 すらすらとガルガンチュアは返した。鳳は反射的にそれは嘘だ……と思ったが、少なくとも、彼が本心を言ってることだけは分かったから、何も言わなかった。

 

 彼はその後も、何度も何度も“それから”を繰り返して、送り出すマニの身を案じていた。その大半は他愛もない親の心配だったが、鳳は黙ってその話を最後まで聞いていた。

 

*******************************

 

 翌朝、鳳たち一行は、長い間暮らしたガルガンチュアの集落を去るべく、旅支度を始めた。

 

 鳳の家の荷物はガルガンチュアが持ってきてくれたが、ギルドの方は全部持ってくるわけにもいかないから、直接取りに行くしかなく、ギルド長たちは村人たちを刺激しないように遠回りして駐在所まで戻らねばならなかった。

 

 本来、彼らは巻き込まれただけで、こんな仕打ちを受ける筋合いは無かった。しかし、理不尽に追い出されようとしている彼らに悲壮感はなく、荷物を詰め込むその顔は、寧ろ清々しいと言わんばかりのものであった。

 

 まあ、普通に考えればそうであろう。誰だって、こんなジャングルの奥地にいつまでも居たくなんかなかったのだ。人間は、やはり人間の間で暮らしたいものである。ギルド長たちは、これでようやく都市の生活に戻れると言って喜んでいた。巻き込んでしまって申し訳ないと思っていたが、どうやら結果オーライのようである。

 

 大森林を出て次に向かう先は勇者領と決まっていた。ギルド長たちは引き継ぎのために、冒険者ギルドの本部へ行かねばならなかったし、鳳たちはお尋ね者なので帝国には戻れなかったのだ。

 

 その勇者領であっても、どこに賞金稼ぎが潜んでいるからわからないから、潜伏生活はまだ終わりそうにない。最終的に新大陸にたどり着くまで、これからも気が抜けない日々が続くだろう。

 

 とはいえ、久しぶりの人間の都市である。ギルド長たちでなくても、やはり鳳も少し浮かれていた。あっちへ行ったら何をしようか? 大森林とは違って娯楽は多いだろうから、劇場やカジノなど、一度慰安も兼ねて遊びに行きたいところである。

 

「ツクモー」

 

 鳳がそんなことを考えて浮かれていると、一晩寝てどこかスッキリした表情のメアリーが近づいてきた。

 

 彼女は昨日のショッキングな出来事のせいで、今朝方まで深刻そうな顔をしていたのだが、今はもう吹っ切れたような、なにか決意を固めたような表情をしていた。

 

 心境に変化があるようなことがあったのだろうか? 昨日のことを蒸し返してもしょうがないので、鳳は黙って彼女を迎えた。

 

「これから向かう勇者領ってどんなとこ?」

「いや、俺も初めてだから知らないけど。ヘルメス領のあの街よりもずっと都会だって言うから、楽しみだな。劇場とか、カジノとか、競馬場とか、高級レストランとかあるらしいぞ」

「そっかあ……」

 

 メアリーはあまり興味が無さそうだ。やはり彼女としては、都会よりも森の生活の方が好みなのだろうか。考えても見れば、300年間殆ど誰とも合わず、ずっと静かな場所で暮らしていたから、もしかすると都会の喧騒が嫌いなのかも知れない。

 

 でも、どうやら彼女の生返事の理由は、それを気にしているわけではなかったらしい。

 

「あのさ、ツクモにお願いがあるんだけど」

「あん? ……なにかな?」

 

 彼女はコクリと頷くと、

 

「あのね……? 私、もっとレベルを上げてリザレクションを覚えたいんだ」

 

 鳳は思わずぽかんと口を開けた。さっきから、どことなく決意を秘めたような顔をしていると思っていたが、その理由はこれだったのか。

 

「おとぎ話のことだから、本当にそんな魔法が使えるのかわからないけど、でも、もし本当に覚えられるなら、それを目指してみたいのよ。私、思ったのよ……あの時、もしもリザレクションが使えたら、あの赤ちゃんを救えたかも知れない……ううん、それだけじゃなくって、もっと色んな人を助けられるかも知れないって」

 

 メアリーのそれは、ただの感傷だ。彼女の言う通り、もしそれが使えたら、たしかに赤ん坊は息を吹き返したかも知れない。しかし、それは一時しのぎにしかならない。元々、赤ん坊が殺されたのは、この集落に養う余力がなかったからだ。根本を解決せずに、命だけ救ったところで、もっと悲劇的な結末が待っているだけだろう。

 

 だが、そんなことを彼女に言って何になる? それくらいのことは、彼女にだって分かっているのだ。分かっていて、彼女はそうしたいというのだから、反対する理由などどこにあろうか。

 

「そうか……じゃあ、もっと頑張らないとな」

「うん。今はまだ30だけど、ジャンヌくらいまでレベルが上がったら、もしかしてワンチャンあるんじゃないかって思ってるわ。そのためには、ツクモに経験値を沢山分けてもらわないとだけど……代わりに私に出来ることは何でもするから、どんどんこき使ってちょうだい」

「わかったよ。なら、神人の寿命が縮んじゃうくらいこき使ってやろう」

「うん!」

 

 メアリーは満面に笑みを浮かべて去っていった。それはあの結界を出てから最も清々しい笑顔だった。昨日あんなことがありながら、どうしてもうそんな表情が出来るのか。それは多分、彼女に明確な目的が出来たからだろう。300年間、ずっと閉じ込められていた彼女の……それは初めての願いだったのかも知れない。だったら、出来るだけのことはしてあげようと彼は思った。

 

 しかし、それには共有経験値を沢山得る必要がある。一体どうしたらいいんだろうか? 経験値は割と些細なことで貰えることもあったが、危険な魔族退治を何度やっても、同じことをやっていては駄目だった。

 

 今までに最も沢山の経験値が貰えたのは、南部遠征の時であるが……あんな大きな依頼は、中々お目にかかれるものではない。しかも、メアリーの目標を叶えるには、それを沢山こなさねばならないのだ。果たして、そんなこと可能なんだろうか……

 

「あの……お兄さん」

 

 そんなことを考えていると、集落の方角からマニがやってきた。その背中には重そうなリュックが背負われていた。多分、ガルガンチュアに色々持たされたのだろう。既に息が上がってしまっている彼は、ゆっくり近づいてくると、獣人らしからぬ丁寧な挨拶をした。

 

「この度は、僕も冒険に誘ってくれてありがとうございます。ガルガンチュアから……父から聞きました。僕が以前、留学したいと言っていたのを覚えてて、父のことを説得してくれたんですよね。昨晩、突然許可が下りてびっくりしました」

 

 もちろん、マニを誘った覚えはない。多分、ガルガンチュアが照れ隠しでそう言っているのだろう。つい最近まで気づかなかったが、あれで案外親バカなのだ。鳳はいっそバラしてしまおうかとも思ったが、今後の親子のためを思って、自分が誘ったことにしておいた。

 

「なあに、ちょっと荷物持ちが欲しかっただけさ……しかし、おまえの荷物、すごいな。そんなに背負ってたらすぐにヘバッちまうよ」

「す、すみません! 僕も無理だって言ったんですが、あれもこれも持ってけってうるさく言われて……」

「持ってくものを厳選したほうが良い。手伝ってやるから、必要最低限のものだけ詰めなおそう」

「は、はい!」

 

 マニは荷物をひっくり返し、その中身を地面にぶちまけた。案の定、どこに隠し持っていたんだ? と言いたくなるような、不要なものがいっぱい詰まっていた。

 

 鳳がこれは何かとマニに聞きながら、持ってくものを選り分けていると……彼はその中にあるものを見つけて、思わず手を止めた。

 

「……これは?」

 

 荷物の中に、見るからに年季の入った巾着袋が混じっている。

 

 つい最近、どこかで見たことがあるような……と思いながらその口を開いたら、すると突然、中からまばゆい光が溢れ出してきて、彼は耐え切れず目を閉じてしまった。この尋常じゃない光はもしかして……?

 

 鳳があまりの眩しさに慌てて袋の口を閉じると、それを見ていたマニがその巾着袋を指差しながら、

 

「あ! それは長老に頼まれて……勇者領に行くなら取ってきてくれって、地図を渡されたんですよ。これは何かな? って何度も尋ねたんですけど、お兄さんに渡せば分かるからって言われて、無理矢理持たされました……それ、何なんですか?」

 

 受け取った紙には、よれよれの線で、どうにかこうにか地図に見えるといった感じの図形が描かれていた。この世界に詳しくない鳳には、それがどこの地図なのか分からなかったが、地図の下に注意書きであろう汚い文字がずらりと並んでいるので、きっとここにヒントが隠されているのだろう。

 

 その字があまりにも汚すぎて、解読には少々時間がかかりそうだったが……だが鳳は、これから始まる過酷な作業を、まったく苦痛に感じなかった。

 

 きっと、長老は昨日一晩かけて、苦手な文字を一生懸命書いてくれたのだ。そう思うと、大変に思うどころか、ただただ有り難かった。

 

 これで当面の目標は定まった。鳳は、手にした地図を丁寧に畳むと、破けないように慎重に自分の荷物の中にしまった。

 

 目指すは勇者領。その長い旅路のどこかにあるであろう。幻のマジックマッシュルームを探せ!

 

(二章・了)

 

 



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第三章・ケシ畑で捕まえて~異世界のゴールデン・トライアングル~
あなたは理性的な人である


 あなたは理性的な人である。こう言われると大抵の人は喜ぶ。別段なんてこと無い言葉のはずなのに、何となく褒められてる気分だ。でも、理性って何だ? 理性の対義語が野性であるなら話は簡単である。野性を抑え込んでいるのが即ち理性なのだろう。そして、それを確かめる方法ならある。

 

 俗に酒乱と呼ばれる人々を見たことがあるだろうか。アルコールというものは、人によって強い弱いがあるだけではなく、その酔い方にも割りと特徴がある。笑い上戸に泣き上戸。大抵の人はお酒を飲めば、体中の血管が開いて顔が赤くなり、気分が良くなってくる。ところが中には飲めば飲むほど、寧ろ顔色が青ざめてきて、目が充血し三白眼になり、気がつけばろれつの回らない口調で、物騒なことを口走るような輩がいる。

 

 様子がおかしいと思って、周りが飲むのをやめさせようとするのだが、その時にはもう手遅れで、理性が消し飛んでいて話にならない。やがて辺り構わず暴れだし、手がつけられなくなり、やってきた警官が数人がかりで取り押さえて、ようやく大人しくなる始末である。

 

 普段から体を鍛えている、屈強な警官が数人がかりで、汗だくになって、ようやくである。そのときに発揮される力たるや、普段は一体、どこに隠していたのだと舌を巻くほどであるが……ところが翌日になってそのことを当人に話してみても、何一つ覚えていないと言うのだ。

 

 大暴れしたことでバツが悪くなって、とぼけているのならともかく、どうやら彼は本気らしい。思えばお酒を嗜む者なら、誰しも一度や二度くらい、酩酊して記憶が飛んだ経験があるのではなかろうか。その時のことを後になってから友達に聞かされて、我々はお酒を飲んでなくても顔が真っ赤になるわけだが……不思議なのは、こうして記憶が飛んだ後にも、酔っぱらいはちゃんと家まで帰ってくることである。

 

 こいつは一体どうしちゃったんだろうかと、人格を疑いたくなるような大暴れをした翌日も、酒乱はちゃんと自分の足で家まで帰っている。理性をなくし、記憶をなくすまで飲んでも、人間にはどうやら、自分の体を普段どおりに動かすための何かが、まだ残っているようなのだ。

 

 それはおそらく、理性とはまったく別の人格、即ち野性なのだろう。我々は普段、大暴れする野性を抑え込むように、理性という仮面をかぶって生きているのだ。

 

 実際、酔っ払っている人の脳を調べてみると、それは如実に現れている。人間はアルコールを摂取すると、まず肝臓がそれを分解して、ホルムアルデヒドから酢酸へと変化させ、消化する。その時、肝臓はすべてのアルコールを分解しきれず、ほんの少しだけ血液に流れてしまうのだが、このアルコールが脳に到達すると、脳神経を麻痺させる。これがいわゆる酔っ払うと言う状態であるが……具体的にどこが麻痺するのかと言うと、まず大脳皮質の、理性や思考を司る部分なのだ。

 

 この状態で更にアルコールを摂取し続けると、血中のアルコール濃度はどんどん濃くなり、やがて海馬に到達し記憶を無くす。続いて小脳に達すると、運動神経を阻害されて、我々は千鳥足になるのだ。

 

 面白いのは、こうして麻痺する分野は、人間が進化の過程で獲得していった、人間を人間足らしめている分野ばかりなのだ。つまり残っているのは進化する前、人間がまだ野生動物だったときの、最低限、体を動かすための機能というわけである。どうやらそこに、いわゆる本能……即ち野性が隠されているらしい。

 

 話を変えよう。

 

 ショーペンハウアー曰く、幸福は消極的なものだが、不幸は積極的なものである。

 

 我々、人間という動物は生きていく上で常に飢餓と戦い続けている。この苦痛から逃れるためには、絶えず移動して体内に食べ物を摂取し続けなければならない。何もしなければ必ず飢餓がやってきて、我々は耐え難い苦痛の果てに死を迎えるだろう。不幸とは放っておいても向こうからやってくるものである。生とは即ち、死を避けることによって成立しているものなのだ。

 

 対して我々はどういうときに幸福を感じるのだろうか。自問自答したところで、自分が幸福かどうかなんて分からない。離れていく岸壁を見なければ、自分の乗っている船が動いているかどうか分からないように、それは相対的なものなのだ。故に、自分が幸福であることを簡単に確かめたいなら、自分より不幸な者を探せば良い。

 

 逆に、自分より幸福な者を見ると我々は苦痛を感じるから、始めからそれを見ないでいるか、もしくはその者が不幸になることを望むわけである。我々は自分より幸福な者を呪わずにはいられない。そんなことはない、世の中の幸福の量は、不幸の量よりも勝っていると言うのなら、例えば他の動物を食べている動物と、食べられている動物の気持ちを比べてみればいい。

 

 ところで、幸福とは何であろうか? 人間が食欲と性欲という2つの欲求で突き動かされているというのなら、それは生命が脅かされず、子孫を遺しやすい状態のことを言うのではなかろうか。

 

 およそ、我々は人生の前半生において未来に対する憧憬を持っており、後半生においては過去に対する懐古を抱くものである。今現在、そのどちらをより強く感じているかは人によるだろうが、ただ一つ確実に言えることは、我々は現在に満足した試しがないということである。

 

 しかし、現在とは、過去に対する未来であり、未来に対する過去である。ならば、我々の人生は絶えず不幸であるに違いない。なのに何故、我々は昔は良かったとか、未来はバラ色だとか思っているのだろうか。

 

 それは現在が人生のど真ん中だと思っているからだろう。誰も彼もが、自分が今までに歩んできた過去と、同じくらい長い未来が、これから先も続いていくと考えているからだ。

 

 もちろん、それは間違いだ。過去は過ぎ去った現在(いま)でしかないのだし、未来に何が起きるかは誰にも分からない。おまけに人間は記憶を改ざんする生き物である。人生とは、例えるなら、先も後ろも見渡せない崖っぷちのような場所であり、人間はそこで死を回避することで、ようやく生を全うしているに過ぎない、野生動物とさして変わりない弱い存在なのである。

 

 だが、それを受け入れることの、なんと難しいことであろうか。

 

 我々は、それが人間であろうと他の動物であろうと、死というものを直視することを極端に嫌う。我々を形作っていた物質が朽ちていくさまを見ていると、自分がただの現象に過ぎないことを意識せずにはいられないからだ。

 

 我々は自分が特別であるという承認欲求を抱えている。それが自分がアミノ酸やタンパク質の塊であることを許さないのだ。この強い欲求はどこから生まれるのかと考えれば、それもまた、性欲という現象に過ぎないのであるが。

 

 そんなことはない、自分は助平な気持ちで誰かに認められたいわけじゃないと言うならば、こう考えると良い。承認欲求とは即ち幸福になりたいという気持ちである。そして何故、人間が幸福になりたいのかと言えば、その方が子孫を遺しやすいからだ。

 

 ところで、人間は複数の苦痛を同時に感じることが出来ないらしい。例えば虫歯が痛い時は、一時的に空腹を忘れてしまう。足を骨折なんかしてしまえば、普段のありとあらゆる悩み事など吹き飛んでしまうだろう。ならば、あらゆる痛みを取り除いてしまえば、我々は幸福になるのだろうか?

 

 実際にはそうならないことを、現代人なら誰しも身近に感じていることだろう。

 

 人間は、空腹を満たすと、今度は退屈を覚えるからだ。

 

 かつて我々の祖先は常に空腹であった。空腹を満たすために世界中を歩き回り、やがて道具を作り出し、農耕を始めた。そしてようやく、歩き回ることもせず空腹を満たす方法を得た時から、我々は退屈を覚えた。そして退屈した人間は得てしてつまらないことを考えるのだ。

 

 俺は今、幸せだろうか? あいつと俺と、どちらがより幸せなのだろうか?

 

 返す返すも幸福は消極的であり相対的なものである。従って、上に立つ者が落ちてくれば、自分が幸福になれる……ような気がする。だから我々は、成功者を妬み匿名で殴りつけ、政治家の真似をして政治を叩く。持つものが持たぬものをあざ笑い、差別を煽り、お互いに傷つけ合わせようとする。誰かの失敗が、我々の幸福なのだ。我々人類は、ひとたび死の苦痛から解放されると、途端に周囲を叩き始めるように出来ているのだ。

 

 やがてその憎しみは対立を生み出し、国境を作り、人々に武器を持たせた。理性的な人々は科学を操り、強力な兵器を生み出し、ついにボタン一つで数十万人の命を一瞬で奪う爆弾を作り出してしまった。

 

 これは非常におかしなことではないのか? 我々は、ともすると暴れだしてしまう野性を抑え込むために、理性という仮面を被った。ところが、実際にはその理性のほうが、よっぽど誰かのことを傷つけている。

 

 古今東西、ほぼ全ての宗教家も哲学者も、野性を抑えて理性的になることを説いている。そのお陰で現代人は、かなり理性的になり、経済的にも豊かになった。だが、それで我々は本当に幸福になったのだろうか。失われる恐怖に怯えて、毎日あくせく働いているようにしか見えないのではないか。あまりにも理性を働かせ過ぎた結果、我々は喜びを感じられなくなってしまっているのではないか。

 

 もしも全ての人間の野性を解放してしまったら、世の中は滅茶苦茶になってしまうだろう。それは誰にでも容易に想像がつくはずだ。だが実際に混乱を生み出しているのは、理性の方なのではないか。一体どんな野生動物に、あの戦争ほど大勢の命を奪えると言うのだろうか。我々は理性的であろうとしていたはずなのに、いつの間にか効率的に人を殺す機械に成り下がっている。

 

 何故こんなことになってしまったのか。それは科学的、経済的に成功するには、理性が重要なのは誰もが認めるところだろうが、しかし、そうして得られた結果を利用するのは、必ずしも理性的な人であるとは限らないからだ。例えばアインシュタインは核爆弾を作り出す技術を生み出したが、使用したのは別の人間……というか、社会がそれを必要としたのだ。

 

 もう一度、幸福について考えてみよう。

 

 幸福とは、その人の生命が脅かされず、子孫を遺しやすい状態のことを言う。ならば、食欲と性欲に根ざした本能的な部分に、どうやら我々の幸福は属しているらしい。ところで、社会は最大多数の最大幸福を求める。つまり社会はそれほど理性的ではないのだ。

 

 歴史は、理性的な人々が道を照らし、野性的な人々がそれを喰らい尽くす……理性的な人々が新技術を生み出し、野性的な人々がそれを利用する、マッチポンプの繰り返しだ。その行き着く先がただの自殺なのは、もはや避けられない運命なのだろうか。

 

 賢者とは、普通の人々が死に際して初めて気づくようなことを、既に知っているような者のことを言う。すると賢者は生きながらにして死んでいるようなものである。

 

 我々は死を恐れ、死後の世界のことばかり考える。そんな人に、あなたは生まれる前どうだったのかと問えば、なにもないと答えるだろう。それが正解なのだ。我々は死して生まれる前に戻るだけ、長い目で見ればそこには何もない。

 

 万物は流転し、一所に留まる物など何一つ無い。諸行無常の理の内に、我々もいずれ滅び去るだろう。文明が理性的な人々を生み出す装置であるならば、文明は生きながらにして既に死んでいるのだ。

 

 あなたは理性的な人である。こう言われると大抵の人は喜ぶ。だが、あなたは不幸だねと言われると、大抵の人は憮然とするだろう。我々は一体、何に突き動かされているのだ。

 



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神人は生まれつき見目麗しく

 ヘルメス卿アイザックの叛意を察知した神聖帝国(デウス・エスト・エミリア)は、総司令官に傭兵王ヴァルトシュタインを据えて、軍をヘルメス領へと派遣した。

 

 その数はざっと10万人。勇者領に比べ人口の少ない帝国において、それは破格の数字であったが……対するヘルメス卿は、帝国軍の侵攻に当たって禁呪・勇者召喚を持って迎え撃った。

 

 神人を犠牲にすることによって、異世界から放浪者(ヴァガボンド)を呼び出すというその禁呪は、代償の大きさからか、現れる勇者は非常に強力な者たちばかりであり、ヴァルトシュタインは数的に圧倒的に有利であったにも関わらず、たった3人の勇者を前に苦戦を強いられた。

 

 味方の神人はプライドが高すぎて言うことを聞かず、練度の低い農兵からは脱走が相次ぎ、あらゆる面で指揮官の足を引っ張った。対する敵は背水の陣で士気が高く、屈強で戦意も旺盛と、なかなか崩しきれない。

 

 それでも、切れ者の軍師・利休の献策もあって、辛くも勝利をもぎ取ったヴァルトシュタインであったが、勇者を討ち取るという勲功を上げながらも、肝心の大将アイザックを取り逃がしてしまう。

 

 更には、国境の街で難民軍を取り囲みながらも攻めあぐね、賠償金を条件に引き分けに持ち込まれてしまうという失態を重ねたのであった。

 

 これら一連の出来事を重く見た帝国は、司令官の能力を疑問視しヴァルトシュタインを更迭。後任にオルフェウス卿カリギュラを据える。

 

 新たに帝国軍総司令官となったオルフェウス卿は、領内を平定するにあたって、アイザックの叔父ロバートを支持。ここに帝国の息がかかったヘルメス卿アイザック12世が即位したのであった。

 

 アイザック12世は本流である甥っ子の影に隠れ、無聊をかこっていた50がらみの男であった。兄であるアイザック10世と比べられて育ち、彼が本家を継いだ時に無理矢理出家させられ、殆ど軟禁状態の人生を送っていた。

 

 彼はヘルメス公の地位を得るや、これまでの鬱憤を晴らすかのごとく、すかさず領内の粛清を始めた。棚ぼた的に権力を手中に収めた12世は、領内の求心力に乏しく、権力掌握のための恐怖政治を敷いたのである。

 

 かつてアイザック11世に味方した貴族達は、種族を問わず身分を剥奪され追放の憂き目に遭い、そして、勇者の子を身ごもった女達は、見つけ次第まるで虫けらでも殺すかのように惨殺された。女を知らぬ彼は、汚らわしくも権力に取り入ろうとする女どもを、酷く憎んでいたのである。

 

 無論、その政治体制には不満が続出したが、背後にちらつく帝国の影を前に、誰も声を上げることが出来なかった。帝国の目論見通り、ヘルメス国の勇者派はどんどんと勢力を削がれ、12世に媚びへつらう者たちだけが生き残った。領内で勇者の名を口にすることや、11世の治世を懐かしむ声は封殺され、そしてその魔の手は、ついに国境の街まで伸びてきたのである。

 

 国境の街には帝国との戦争を恐れて逃げてきた難民たちが集まっていた。元々はただの烏合の衆で、帝国軍の力に抗しきれるような勢力ではなかったが、たまたまそこにあった冒険者ギルドの活躍によって、帝国軍と対等に渡り合い、前帝国軍総司令官ヴァルトシュタインに安全を保証された人々である。

 

 ところが、その前任者が更迭され、アイザック12世の統治が始まると、これが問題になった。

 

 ここへ逃げてきた殆どの難民は、ヘルメス領内でも特に勇者派の強い地域の人々だったのだ。元々、帝国の攻撃が予想されるから逃げてきたのだから、当たり前である。そしてその勇者派の貴族たちは、12世による粛清を受け、領地を没収されていた。つまり領民である難民たちは、今や新たな領主である12世の臣民としての義務があるというのだ。

 

 当然、難民たちはそんなところには帰りたくない。ところが、農奴制を敷いている帝国にとって、領民は領主の財産であり、その流出は避けなければならなかった。彼らは新しい領主のための無償の労働力であり、土地に縛られなければならないのだ。

 

 従って、新しいヘルメス公となった12世は難民を取り返すために詭弁を弄した。

 

『国境の街との取り決めは、功を焦るヴァルトシュタインが帝国を通さず勝手に決めたものである。卑しくもその窓口となった冒険者ギルドはただの民間企業であり、そもそも国家である帝国と対等の条約を結ぶ立場にはない。従ってその約束は無効である。

 

 国境の街の責任者は、速やかに難民を帝国に引き渡さなければならない。第一、このような場所に街があることを、帝国は認めていない。勝手に作られたスラムは、景観のために掃除するのが帝国のルールである。返事がない場合、近い内にそれを実行する』

 

 こうして、一度は復興の機運に沸き立っていた国境の街は、また戦前に逆戻りしてしまった。まだ勇者領へと逃れず、ここで踏みとどまっていた難民は、慌てて荷造りを始めたが、その時にはもう、国境の町は帝国軍によって取り囲まれていた。

 

 その数は前回の比ではない、一万人以上である。帝国軍総司令官は、アイザック11世を攻めたときの兵力を、今度は難民を捕らえるために差し向けてきたのだ。

 

 まるで罪人のように扱われる難民は恐れおののき、闇夜に乗じて逃げようとした者たちは、悉くが捕らえられ元の領地へと送還されていく。今度こそ命の保証はないと絶望する人々が街の中で項垂れる中、抗議のために司令官に面会を求めた冒険者ギルド長代理スカーサハは、兵士たちに行く手を遮られて声を上げることも許されなかった。

 

 かくして、再び窮地に立たされた国境の街であったが……

 

 そんな中、一人の男が冒険者ギルドの前に颯爽と現れた。前・帝国軍司令官ヴァルトシュタインである。指揮権の剥奪後、帝国の将軍職を辞した彼は、自分の最後の仕事を見届けるべく国境の町に滞在していたのである。

 

 彼は愛用の白馬にまたがって街のゲートをくぐると、兵士たちが止めるの聞かず、かつて自分が滅ぼしたヘルメス卿の居城ヴェルサイユを目指した。

 

 今、そこには後任の司令官が陣を張り駐留している。彼はスカーサハに代わって、自分の仕事にケチを付けた後任者に、一言文句を言ってやろうとしたのである。

 

*******************************

 

 国境の街のゲートから一頭の白馬が飛び出してきた。難民の逃亡を阻止していた兵士たちは馬を止めようとしたが、その上に跨っているのがかつての上司であることに気がつくと、自分たちの方が足を止めた。

 

「ご苦労! ご苦労!」

 

 もはや主従関係がないにも関わらず、兵士たちは通り過ぎるヴァルトシュタインを敬礼して見送った。更迭されたとは言え、かつてこの世界唯一の国家の総司令官まで上り詰めた男のカリスマは、未だに健在のようである。ヴァルトシュタインはそんな元部下たちに、軽く手を挙げて挨拶を返すと、もう片方の手で手綱を叩いて器用に馬を走らせた。

 

 彼は街道を通らず、草原を一本の樫の大木がそびえ立つ丘へとまっすぐに突き進むと、その稜線で一旦立ち止まって、眼下に広がる景色を見下ろした。かつての美しかった宮殿はもうそこには無く、その宮殿から放射状に伸びていた街も壊されて、瓦礫が撤去された殺風景な平地が延々と広がっているだけであった。

 

 そんな中、城から少し離れた場所に建てられていたために、唯一戦火を避けられた離宮が、北に広がる運河の畔にぽつんと佇んでおり、現在は帝国軍総司令官の拠点として活用されていた。

 

 ヴァルトシュタインはそれを睨みつけると、フンッと鼻息を鳴らし、気合を入れ直してまたまっすぐに馬を走らせた。

 

 丘を駆け下り、以前は城の練兵場として利用された広場までやってくると、またも帝国兵に囲まれた。今度は新司令官の手勢で融通が効かなかったが、そこは丘の上で入れ直した気合を駆って強引に突破し、目的地である離宮へと乗り込む。

 

「お、お待ち下さい! ヴァルトシュタイン閣下!」

 

 離宮へ入ると流石に司令官付きの従者が押し寄せて来て、彼を物理的に止めようとしたが、それでもかつて剣でならした武人である。ヴァルトシュタインは彼らの制止をものともせず、まとわり付く兵士たちを引きずりながら、無理矢理目的の部屋までやってきた。

 

 引き継ぎのために後任の部屋には一度訪れたことがあった。ヴァルトシュタインは従者が止めるのも聞かずに、ズカズカとその中へ入った。

 

「邪魔するぞ」

「何です、騒々しい……おや、あなたでしたか」

 

 バタン! っと大きな音を立てて扉が開かれると、中にいた一人の白髪の男が顔を上げた。目は落ちくぼみ、片耳がちぎれ、頬には大きな傷が走っている。それだけ聞くと歴戦の兵のようであるが、実際は老人のようにくたびれただけの、一度見たら忘れない、異様な風貌の男であった。

 

「も、申し訳ございません! 司令官殿。何とか止めようと頑張ったのですが……どうしても聞いていただけず……申し訳ございません!」

 

 闖入者の突破を許してしまった従者が、その異様な男を前にして、真っ青になって弁解する。その恐縮の仕方からは、彼がどれほどこの部屋の主に恐怖しているのかが、如実に伝わってきた。

 

「そのように萎縮せずとも良いのです。ここは良いですから、あなたはお客様にお茶でもお出ししなさい」

 

 司令官と呼ばれた男は不敵な笑みを浮かべながらそれを制すると、出来るだけ優しく……それでも奇妙に嗄れた声で、来客に茶を出すように命令した。

 

 その言葉に畏まりながら従者が部屋から去っていくと、彼は未だ入り口に佇んで、じろりと睨みつけているヴァルトシュタインに向かって手招きした。

 

「どうぞ、お入りください。こちらから出迎えもせずにも申し訳ないですが、私はこの通りでしてね」

 

 男はそう言うと自分の体を指差した。

 

 彼の背中は老人のように曲がっており、肩甲骨の辺りの背骨がコブのように上に向かって突き出していた。そのせいで腰が曲がってしまい、前かがみにならなければ歩けないのである。いわゆる傴僂(せむし)という病気であるが……奇妙なのはこの男が、神人であることだ。

 

 神人は生まれつき見目麗しく、余程のことがない限り死ぬことがない。例え事故で傷ついても、その傷はすぐ塞がってしまうし、仮に片腕が吹き飛んだとしても、時間が立てばそのうち元通り生えてくるのだ。

 

 だから神人に奇形はありえない。だが、目の前の男の顔は傷だらけで、額には黒いシミが広がっており、神人の特徴を表す耳の片方は、先っぽがちぎれて醜い傷跡を遺していた。髪の毛が真っ白なのも、おそらく生まれつきの色ではなくて、老化が原因に違いない。そんな神人など、居るはずがないのだ。

 

 だが、その居るはずのない神人が、今、ヴァルトシュタインの目の前に座っていた。

 

 この奇妙な男こそが、彼から軍の指揮権を奪い取った、新たな帝国軍総司令官オルフェウス卿カリギュラであった。

 



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元老院そしてローマ市民のために

 帝国とヘルメス領との間で起きた戦争、俗にいうヘルメス戦争の終結後、国境の街と帝国軍との間で交わされた難民保護の約束が反故にされようとしていた。冒険者ギルドとその約束を交わしたヴァルトシュタインは、後任の新司令官に抗議するつもりで、彼が居城にしている離宮までやってきた。

 

 帝国軍総司令官に就任したのはオルフェウス卿カリギュラと呼ばれる男である。その肩書が示す通り、彼は隣国オルフェウス領を治める帝国貴族で、悠久の時を生きる神人であった。

 

 伝説の生き物であると言われる神人は、全員が優美な容姿をしていて、歳も取らないはずだった。ところが、目の前にいる男はそんな常識を覆すかのように、背中が折り曲がるような奇形をしており、更には全身が傷で覆われていたのである。頭髪も老化のせいで白く染まっており、顔も壮年の男性らしい深い皺が寄っていた。

 

 そんな神人はありえないはずだった。そのあり得ないものが目の前にいた。

 

 ヴァルトシュタインは、その奇妙で得体の知れない男に圧迫感を感じながらも、武人の矜持を傷つけまいと、虚勢を張りながらズカズカと室内に入っていった。

 

「邪魔するぜ」

 

 だが、その虚勢はすぐに、部屋の中から漂ってくる異臭によって剥がされてしまった。彼が部屋の主の方へと近づいていくと、まるで糞尿と腐肉が入り混じったような、強烈な異臭が漂ってきたのだ。

 

 もしや、目の前の男が小便でも漏らしたのかと疑いたくなるような臭いだったが、その予測は半分当たって、半分外れていた。

 

 見れば、男の前に奇妙な装置が置かれていて、その中央には目隠しをされた猿が拘束されている。それだけならまだ良いのだが、哀れなその姿をよくよく見てみれば、その猿の頭蓋骨は、額から上の部分が割られて脳みそがむき出しになっていたのである。

 

 さっきから臭ってくるのは、この猿が発する獣の体臭と、漏らした糞尿の臭いだった。目隠しをされ頭蓋骨を割られた猿は恐怖のあまり糞尿を漏らし、全身からあらゆる分泌液を垂れ流したのである。更に驚かされるのは、一体どうやったのか分からないが、その猿がまだ生きていることであった。

 

 ヴァルトシュタインが用事も忘れて呆然とその気持ちの悪い物体を眺めていると、部屋の主である奇妙な男は、そんな彼をおかしそうに見つめながら、世間話でもするかのように言った。

 

「猿の活造りなんて珍しいでしょう? これは猿脳(えんのう)と呼ばれる、私の故郷の遥か東方から伝わった調理法です。こうやって、猿の脳みそを開けるでしょう? すると、猿は恐怖のあまり脳内麻薬をドバドバと出しますから、それが美味いんですよ」

「悪趣味な……」

「そう言わずに、どうです一口? めったに食べられる物じゃございませんよ」

 

 ヴァルトシュタインは胸の中に渦巻くモヤモヤとしたものを隠しつつ、努めて冷静さを装いながら首を振った。それを見て、部屋の主は残念そうに肩をすくめる。

 

 ヴァルトシュタインは不機嫌な表情を隠そうともせずに、気味の悪い男を睨みつけるように続けた。

 

「そんなことより、俺がここにきた理由が分かっているだろう!」

「はて……何のことでしょうか」

「しらばっくれるな! 約束を違え、国境の街に兵を送ったのはお前だろう!」

 

 彼が大声でそう糾弾すると、カリギュラはさもたったいま気がついたと言わんばかりにぽんと手を叩いて、

 

「おや、そのことでしたか……それは心外です。やったのは、ヘルメス卿ですよ。オルフェウス卿たる私は一切関与しておりません。他人の国のことですからね、外交問題になってしまいますよ」

「嘘つけっ! 兵隊を貸したのはお前だろうが。知らんで済むわけがない」

「私は領内統治のために、彼に兵を貸したまでです。その彼がどのような方法でこのヘルメス領を治めるかまでは存じませんでしたよ」

 

 ヴァルトシュタインはこの期に及んでまだしらばっくれようとする神人に業を煮やし、威圧するかのように一歩踏み出した。

 

「俺は引き継ぎのときにお前に頼んだはずだ。冒険者ギルドとの約束は、お前の権限でなんとしても守れと。そうでなければ刺し違えてでも、この座は譲らないと。信用を失えば傭兵はやっていけない。約束を守らない傭兵など、いつ裏切るか分からない。そんなゴロツキになんの価値があるというんだ。だから俺は自分の今後のために、再三に渡ってお前に忠告したはずだ。もし、約束を違えたとしたら……お前の命はないぞと」

 

 彼はそう言って、背中の曲がったオルフェウス卿の脳天をじろりと睨みつけた。

 

 それは傍から見れば、屈強な軍人が、くたびれた老人をいたぶっているようにしか見えなかっただろう。だが実際には、そのくたびれた老人は神人であり、一触即発の事態が起きた場合、首を撥ねられるのはヴァルトシュタインの方だった。

 

 彼は例えそうなったとしても、自分は抵抗するという姿勢を、敢えて見せたわけである。その悲壮な決意は、この奇妙な神人にも伝わった。

 

 カリギュラはため息を吐くと、手にしていたスプーンの先で、ツンツンと猿の脳みそを突きながら言った。

 

「……閣下。知っておられますか? 脳みそというのは痛みを感じないのですよ。見ての通り、私が今、猿の脳みそを突いても、この猿は何の反応も見せません。こうして、脳みその適当な部分をスプーンで掬ったとしても、彼は何をされているかわからないのです。見てください。こことかそことか、あっちの方も、こんな具合にかき混ぜたり、掬い上げても、猿は殆ど反応を示さない」

 

 ヴァルトシュタインは、目の前で猿の脳みそをぐちゃぐちゃとかき混ぜる男に嫌悪感を覚えつつも、ぐっと堪えて、

 

「……それがどうした?」

「ところがね、閣下、この……横の方にある、灰色の小さな脳細胞を掬ってしまうと……」

 

 カリギュラがそう言いながら、猿の脳みそをスプーンで掻き出すと、さっきまで拘束されながらもオドオドとした表情で不安そうにしていた猿が、急に動かなくなり、表情をなくしてしまった。

 

「見ての通り、猿は動かなくなるんですよ。でもね、これは死んでるわけじゃないんです。彼はまだ生きています。心臓は動いているし、食べ物を与えればちゃんと食べる。それじゃ今一体、彼に何が起きたのか……? 彼は体が死んだんじゃなく、心が死んだんですよ」

「……心だと?」

「ええ。どうやらこの、たったこれだけの小さな灰色の脳細胞に、動物の心という物が詰まっているらしい……」

 

 彼はそう言いながら、たった今掬い取ったばかりの脳みそを、自分の口の中に放り込んだ。そしてそれをにっちゃにっちゃと咀嚼し、飲み込んでから、

 

「ところが、ゴブリンにはこれがない」

「……え?」

 

 ヴァルトシュタインが目の前で行われるグロテスクな行為にうんざりしていると、カリギュラは突然ぽつりとそんなことを言い出した。

 

「ゴブリンなんてものは誰でも簡単に捕らえられますから、その脳みそを調べることだって簡単です。私はこの猿と同じように、捕らえたゴブリンの頭を割って、中身を取り出してみました。すると哺乳生物なら必ずあるはずの脳細胞がどこにも見当たらない。おそらく、オアンネスやインスマウス、オーガやオークなんかも……つまり、魔族には心というものが無いんですよ。あなたは今、私のことを気持ち悪いって思ってるでしょう? その、生物なら当たり前に感じるはずの嫌悪感や忌避感というものが、魔族には無いんです。

 

 もし、そんな連中が、南の森を通り抜けて、私達の国になだれ込んできたらどうなると思いますか? 無茶苦茶ですよ。今の我々人間社会がこんなものに太刀打ちできるわけがない。奴らは死を恐れず、ひたすら奪い、食い、犯すことしか考えない。少しの躊躇もせず、人間を慰み者にして回るでしょう。その後は魔族が支配する弱肉強食の世界が広がるだけだ。そしてそれは夢物語ではない。現に、300年前に起きた出来事なんです。

 

 私は300年前、この世の地獄を見た……

 

 そう、その経験があるというのに、人類は未だに一つになりきれていない。帝国と勇者派とに別れて殺し合い、唯一魔族と対抗できる神人は、大きく数を減らしてしまいました。もしもですよ……? 今、この時、この瞬間、南の森から魔王が現れたら、私達はどうなるでしょうか……? 今度こそ人類は滅亡するかも知れません。そして、私はここ最近、南の森で魔王復活の兆しがあることを突き止めたのです。

 

 だからこそ、私は声を大にして言いたいのです。いい加減、世界は一つにならなければならない。そもそも勇者領などというものを認めて、国を分けるからこんなことになるのです。ヘルメス卿が倒れ、帝国が一つになった今が最後のチャンスなのです。我々は、この余勢を駆って勇者領に攻め込むべきだ……そのために、ヴァルトシュタイン閣下、あなたの力をお貸し願えませんか?」

 

「……なに?」

 

 それはあまりにも唐突な提案だった。それ以前にも、魔王復活の兆候とか聞き捨てならない言葉はあったが、掻い摘んで言うと、今目の前にいるこの男は、ヴァルトシュタインに勇者領を乗っ取れと言っているのだ。

 

「帝国議会の評判はともかくとして、ヘルメス卿を打倒したのはあなたです。そして帝国軍の中には、未だにあなたへの信頼を口にする将兵たちがいる。そのあなたが率いれば、平和にあぐらをかいていた勇者領の蛮族共を蹴散らすことなど容易いことだ。もし、そうしてくれるなら、私は帝国軍総司令官の権限を持って、あなたに一軍を預けたいと考えているのです」

 

 しかしヴァルトシュタインは、嫌悪感丸出しの表情を隠そうともせずに、即座に首を振った。

 

「何を夢みたいなことを……俺は、他ならぬその帝国に更迭された身だぞ? 将軍職を辞して、元の傭兵隊長に戻ったんだぞ。今更、連中のために戦えるものか」

「帝国のために戦うのではなく、人類のために戦って欲しいのです。あなただって、世界が二分されたままであって良いとは思わないでしょう」

「……だとしても! お前は相手を見くびり過ぎだ。なんやかんや彼我の戦力差を考えてみれば、あっちの方が上なんだぞ。実を言えば、今の帝国に勇者領に太刀打ちできるような国力はないんだ。そんなのを下手に突いたら、眠れる獅子を起こすことになりかねない。お前にはそれがわからないのか!?」

「ならば帝国が征服されればいいだけの話ではないですか」

「なにぃ~……?」

 

 ヴァルトシュタインは耳を疑った。よもや、帝国の重鎮である、5大国の領主が、こんな危険思想の持ち主だとは思いもよらなかった……

 

 初めて会った時から、気味の悪い男だと思っていた。その姿といい、言動といい、神人であるのに怪我が治りきらないという、不可解な事実といい……そんな男が危険な考えを持っていたとしても、少しもおかしく思わなかったが、それが帝国の転覆さえ厭わないと知れば話は変わる。

 

 何故、皇帝はこんな男を自分の後釜に据えたのか……? まるで分からない。彼は長い溜息を吐くと、呆れた素振りで首を振り振り言った。

 

「……いまのは聞かなかったことにしといてやるよ。皇帝陛下にとって、おまえが忠実な下僕であることを願ってやまねえぜ」

「……そうですか。それは残念です」

「それに、何度も言わせるな。俺は就職活動に来たわけじゃねえんだよ。俺は単に、俺が帝国軍司令官として切った仁義を、後任であるお前に台無しにされないよう、文句を言いに来ただけだ。もし、それでもなお、お前が考えを改めないというのなら……」

「言うのなら?」

「俺はお前の首を獲るために、あらゆる手を尽くすだろう。仮にそれで、自分が死ぬんだとしてもな」

 

 その言葉に、今度はカリギュラのほうが長い溜息を吐いた。そして彼はおどけながら、ヴァルトシュタインがしたように、わざと首を振り振り、

 

「わかりませんね。あなたがどうして、彼らにそこまで入れ込むのか」

「別に入れ込んじゃいねえよ。俺は単に、約束しただけだ。傭兵として、唯一違えちゃいけないのは、雇い主との約束事だ。その仁義に反することをした瞬間に、俺たちは野盗に成り下がる。そうなったらお終いだ、もう誰もついてきちゃくれねえよ」

「そう言うものですか」

「お前だって国を背負って立つ身だろうに。それくらい、わからないわけあるまい」

 

 彼がそう言うと、この日初めて、薄気味の悪い神人は、ほんの少しだけ真面目な表情を見せた。その言葉の何が彼にそんな顔をさせるのかは分からなかったが、

 

「で、どうするんだよ、大将。逆に言えば、お前にもそこまでして、新ヘルメス卿に肩入れする理由は無いはずだ。それでもどうしてもというのなら、俺はもう覚悟が決まっているぞ」

 

 ヴァルトシュタインが決意を秘めた目でそんな彼を睨みつけると、カリギュラはついに降参とばかりに両手を挙げて、

 

「……わかりました。では、一日だけ、あなたに差し上げましょう」

「一日?」

「ええ。一日だけ、なにか理由をつけて、街を取り囲む兵を退かせます。その間に、あなたは難民を連れられるだけ連れて逃げてください。私に出来るのは、それが限度です」

「そうかい……ありがとうよ」

 

 あの、アイザック12世とかいう男に貸した兵を引き上げればいいだけなのに……何故、あんな無能にいつまでも兵を貸し与え続けているんだろうか。そう思いはしたが、とりあえずの条件を引き出せただけで良しとして、彼はそれ以上聞かなかった。

 

 ヴァルトシュタインは、新司令官の気が変わらないうちにと、礼の言葉を述べて、さっさとこの薄気味悪い部屋から立ち去ろうとした。ところが彼が立ち上がると、従者がお茶を持って戻ってきて、たった今部屋から出ようとしていた元司令官を前に、オロオロと戸惑っていた。彼はそんな間の悪い従者からお茶を引ったくるように受け取ると、その場でぐいっと飲み干した。

 

 その背中に、部屋の主が声をかける。

 

「閣下……そうまでして難民を助けようとするからには、彼らが安心して暮らせるようになるまで、ちゃんと責任を持ってくださいね」

 

 ヴァルトシュタインは、さっきまでその難民をとっ捕まえようとしていたはずの男が、何故急にそんなことを言い出すのかと疑問に思いながらも、

 

「もとよりそのつもりだ」

 

 と言って、突然押しかけてきたときのように、自分勝手に、さっさと部屋から出ていった。従者がその後を追いかける。多分、今度こそ闖入者がちゃんと出ていってくれるか、確かめに行ったのだろう。

 

 静寂が戻り、執務室の中は、またカリギュラ一人だけになった。いや、一人と言っていいのだろうか、彼の目の前には、脳みそが半分くらい欠け落ちた、哀れな猿が立っていた。もはやその姿には森で自由に暮らしていたころの動物らしい面影はなく、何の感情も示さない表情は標本のようであった。

 

 時折ピクリピクリと痙攣するのは、まもなくその体がただの現象に成り果てようとしているからだろう。彼はスプーンを取り出すと、一思いにその脳みそをほじくり返し、猿を殺した。

 

 と、その時、トントンと部屋の扉がノックされた。追いかけていった従者が戻ってくるには早すぎる。入れと言うと、スーッとドアが開かれて、帝国軍の軍服を着た、一人の男が入ってきた。カリギュラはその姿を一目見るなり、苦笑交じりに言った。

 

「やあ、君の言うとおりだった。閣下には振られてしまったよ。醜男は妙な気を起こさないに限るな」

 

 入ってきた男は、部屋の主に背中を向け、ちゃんと扉が閉まっているのを確認してから、改めてカリギュラの方を向き直り、ピンと背筋を伸ばして最敬礼を見せてから、ツカツカと軍靴を響かせ部屋の奥まで進んできた。

 

「ああ見えて、ヴァルトシュタイン閣下は清廉潔白なところがありますからな。自分が副官だった頃からそうでした。そこが彼の良いところでもあり、弱点でもあります。彼が身を滅ぼすことがあるとするならば、そんな高潔な精神に付け込まれるときでしょう」

「つまり、今……か」

 

 カリギュラは不敵な笑みを浮かべながらそう言い放つと、さっきまで生きていた猿の死骸を横に押しやりながら、

 

「ともあれ、これで役者は揃った。難民が逃げたと知れば、12世はそれを理由に、喜び勇んで勇者領に攻め込むと言い出すだろう。そしてヴァルトシュタインは帝国を裏切ってでも、難民を守ろうとするはずだ。敵にするには惜しい人材だが、せいぜい彼には盛大に踊ってもらうことにしよう」

「……よろしいので?」

「構わない。それよりも、君。早速で悪いのだが、君にはそんな12世を支援し、勇者領入りしてもらいたい。彼の地には、初代ヘルメス卿の遺産が隠されていると言う。それとなく12世に仄めかし、その在処を突き止めるのだ」

「畏まりました。陛下」

 

 そう言って軍服の男は、まるで王侯貴族にするかのように、恭しいお辞儀を見せた。カリギュラはそんな男に向かって、どこかこそばゆそうな表情を見せながら、

 

「私はもう陛下と呼ばれるような身分じゃない。そんなことを言っていると、不敬罪に問われるぞ」

 

 すると男は頭を振って、

 

「いいえ……ローマ帝国第3代皇帝カリギュラ陛下。カール5世に忠誠を誓った時から、私にとって仰ぐものは、ただローマのみ。この不可解な世界に連れてこられた時から、私には生きる目標が何もありませんでした。そこに現れたあなたは、私の希望そのものなのです。今度こそ、我らの手によって、あまねく世界にローマの威光を知らしめましょうぞ」

 

 その真っ直ぐな瞳に心を打たれたカリギュラは、感嘆の息を漏らし、こう続けるのであった。

 

「そうか……君の国家に対する忠誠心には、いつも感服させられる。ならば行け、フランシスコ・ピサロ将軍。君の智謀をもって、世界の半分を平らげてくるのだ」

 



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逃避行

 国境の町にヴァルトシュタインの白馬が帰ってきた。冒険者ギルドを代表して、街を取り囲む帝国兵に抗議を続けていたスカーサハは、それを見つけるなり中断して彼の元へと駆けつけた。

 

 出掛けに何も言ってなかったが、あのタイミングで街を飛び出していったということは、多分帝国軍の本陣に向かったのだろう。話を聞くために追いかけると、彼はわざと目立つように愛馬で街の広場を一周させ、そこに集まっていた難民たちに向かってこう言った。

 

「聞け! これから一両日中に外の帝国軍が撤退する。だがそれは一時的なことで、1日もしたらすぐに戻ってくるだろう。俺はその隙にこの街を脱出し、勇者領へと向かう。俺は元帝国兵だが、今はしがない傭兵の身。一旗揚げるために新天地を目指すつもりだ。森の中の街道には魔物や猛獣が徘徊しており、かなりの強行軍になるだろう。命の保証はない。もしかすると、このままこの街にいた方が良いかも知れん。だが、それでも一縷の望みを賭けて、この街から脱出したいと思う奴らは俺に着いて来い!」

 

 ヴァルトシュタインはそう言い放つと愛馬の手綱をぐいと引っ張った。大きな白馬が立ち上がり、ヒヒンと嘶いた。その様子をぽかんと眺めていた難民たちは、たった今言われたことを思い出し、隣の人達と目配せしあい、ボソボソと会話を始めた。

 

 多分、彼に着いて行くか、それともこれからどうするか、話し合っているのだろう。ヴァルトシュタインの演説は、広場にいた人々から、やがて小波のように伝言されていった。

 

「今の話は本当ですか?」

 

 スカーサハは駆け寄ると開口一番そう訪ねた。ヴァルトシュタインは愛馬から飛び降りると、彼と一緒に帝国軍を抜けてきた元部下に手綱を預けてから、

 

「ああ。たった今、俺の後任に直談判してきた。野郎、最初はのらりくらりと交わしていたが、最終的には折れて、さっきの言葉を引き出した……しかし、聞いての通り、一日だけだ。その間に、荷物をまとめてここを出ていかなければならない」

「だとしても、有り難いことです。よくやってくれました、ヴァルト」

 

 スカーサハはホッとした表情で彼の貢献を讃えた。何しろ、さっきまで八方塞がりだったのだ。突然、約束を反故にされて街を取り囲まれてしまい、難民を逃がす隙が無い。それが蜘蛛の糸程度の活路であっても、無いよりは断然マシだった。

 

 それもこれも、難民たちがノロノロしていたせいだった。ヴァルトシュタインが解任された時に、危機感を覚えてさっさと逃げ出しておけばよかったのだが、一度安全になると、人は動かなくなるものだ。誰だってそうだろう。身の安全が保証されるなら、当てのない旅を続けるよりも、じっとその場に留まった方がマシだ。あの街の攻防戦以降、何もかもが上手く行き過ぎていた難民たちは、知らぬ内に自分たちの立場を忘れてしまっていたのだろう。

 

「結局、難民の人たちはこっから出ていくんですか?」

 

 二人が話し合っていると、街の復興のために働いていた鉱夫たちが話しかけてきた。この街は元々、貿易のために街道に作られた街であり、難民キャンプではない。復興事業は、元々街を利用していた周辺の炭鉱で働く男たちが行っており、そこに戦火を逃れてきた難民たちが加わって、新たな体制でやっていこうとしていたのだが……

 

「アイザック12世とやらは求心力に乏しく、領内の引き締めのために、どうしても難民を見せしめにしたいらしいな。ここに残っても、ろくな結果にならんだろう」

「残念だな。せっかく上手くやって来たのに」

「元々、帝国と揉めた時点で、ここに踏みとどまるのは無理があったんだ。俺がもう少し締め付けを強くしておけば……ええい、くそ! 終わっちまったことをいつまでもグチグチ言っても仕方ねえ」

 

 炭鉱夫と難民の中には、将来を誓いあった恋人たちも居るらしい。そんな二人も、為政者の都合で離れ離れだ。なんとかしてやりたいところだが、どうしようもない。

 

 そんな話をしていると、外の帝国軍に動きがあった。街を包囲していた兵隊たちが、ぞろぞろと本陣のある丘の向こうへと退却していく。その中で、そんな話は聞いてないと金切り声をあげている者たちがいたが、おそらく彼らが12世の送ってきた将校たちなのだろう。

 

 カリギュラは、ヴァルトシュタインとの約束を守って、新ヘルメス卿に断りを入れずに兵を退いてくれたらしい。逆に言えば、今から24時間したら、あれがまた戻ってくると言うことだ。

 

「タイムリミットは明朝だ。それまでにこの街から出なければ、難民どもはバカ殿の見せしめに使われてしまうだろう。そんなわけで、ギルド長代理(スカーサハ)さんよ。明日の朝までに、希望者を募って、町の外に集めておいてくれないか?」

「分かりました。ですが、あなたは良いのですか? 私達と行けば、帝国に反旗を翻すことになりかねません。護衛なら、我々冒険者がいますし、そこまで無理をなさらずとも良いのですよ……?」

 

 彼は渋面を作りながら、

 

「乗りかかった船だ。今更、後に引けるかよ。大体、俺を解任したのはその帝国なんだぜ? 戻ったところで、今更俺のポストなんざ残っちゃいねえよ」

 

 つい先程カリギュラに誘われたのだから、それははっきり嘘だったが、ヴァルトシュタインはそんなことはおくびにも出さずにそう言った。神人スカーサハはその剛毅な男に感謝の意を表しつつ、

 

「恩に着ます。これからどうなるかわかりませんが、今回のことは、冒険者ギルドの借りとして記録しておきます。いずれ何らかの形でお礼をさせていただきましょう」

「そうかい。ありがとうよ」

「あちらに着いたら、あなたも冒険者になりませんか? 傭兵よりも、ずっと刺激的かも知れませんよ」

「そんなのは向こうに着いてから考えることだ。今から浮かれていると、足元を掬われるぞ」

「それもそうですね……気を引き締めましょう」

 

 こうして国境の街に残されたスカーサハたちは、最後の難民を勇者領へと送るべく、即席のキャラバンを編成した。攻防戦で活躍した冒険者の一部がまだ残っていたとは言え、老人や女子供を含む非戦闘員を大勢連れての移動は困難が予想された。

 

 それでも、彼らに残された道は他になかったから、難民の中からも戦闘員を募って、どうにかこうにか、形だけでも魔物と戦えるくらいの戦力を整えることは出来た。

 

 特に、帝国に解雇されて行き場を失ったヴァルトシュタインと、その彼を慕ってついてきた傭兵たちは、非常に頼りになる存在だった。

 

 レオナルドの代理として、この街の撤収を任されていたスカーサハは、出発に当たって各地に早馬を走らせた。結果的に、この街のギルドは帝国と揉めてしまい、ヘルメス領からの撤退を余儀なくされたが、帝国領内にある他のギルド支部は、それぞれの判断で踏みとどまるようにとの通達だった。

 

 帝国の政治に口出しした以上、今後、帝国の冒険者ギルドを見る目は厳しくならざるを得ないだろうが、それで全ての支部が撤退しては、今後何かあった時に即応できない。だから出来る限り食らいついていて欲しいという指令である。冒険者ギルドの最大の武器は、そのネットワークにあるのだ。

 

 スカーサハは、この通達を、隣の冒険者ギルドにだけ送った。それを受け取ったギルド支部は、その内容をまた隣の支部に伝言する。こうして一つの情報が、時間がかかっても、いずれ世界中に広まっていく。こういう柔軟な情報リレーが出来るのが、この世界で唯一、冒険者ギルドだけなのである。

 

 だから、彼女が結局この街から撤退したという情報は、そのうち、どこかにいるレオナルドの耳にも届くだろう。それを知った彼が、次なる布石を打つ助けになれば良いと、彼女は願っていた。

 

********************************

 

 翌朝。難民を引き連れたスカーサハたち難民キャラバンは、街から少し離れた平原で、最後の点呼を行っていた。勇者領へ行くのなら、今回が最後だと触れ回っていたものの、最終的に全ての難民は集まらなかった。

 

 このままここに留まっていたら、アイザック12世によって元の領地に戻されて、過酷な労役を強いられることは明白だった。しかし、それと天秤にかけても、危険な大森林を通って、未知なる土地へと向かうこともまた、彼らは不安だったのだ。

 

 その不安を臆病と(そし)ることは出来ない。ここまで頑張ってきて無念ではあったが、彼らを置き去りにする選択をして、スカーサハは先に進まなければならなかった。

 

 ともあれ、自分たちは良くやった。そう言い聞かせながら出発の準備に勤しんでいると、見張りの一人が、街道を通って数騎の騎馬が向かってくることに気がついた。その軍服から察するに、帝国兵で間違いない。

 

 見張りの声を聞いて、ヴァルトシュタインが武器を取ってキャラバンから飛び出してきた。だが、彼は先頭を走る黒鹿毛に見覚えがあることに気がつき、手にした銃をおろした。

 

「失礼、驚かせるつもりは無かったのですが。どうしても、私一人ではここまで来ることが許されず」

「軍師殿か! 久しぶりだなあ!」

 

 やって来たのは帝国軍参謀、皇帝直属の部下として名高い、利休宗易その人であった。かつてヘルメス卿との戦いで自分の作戦参謀を務め、周囲から軍師と呼ばれていた男である。ヘルメス戦争後は、また帝都に戻っていたはずだが……

 

「新ヘルメス卿が傍若な振る舞いをしていると聞き及び、もしやあなたがお困りかと馳せ参じたのでありますが、必要ありませんでしたな」

「なんだ! わざわざ俺のために来てくれたのか!?」

 

 黒鹿毛に乗った黒ずくめの男はにこやかな笑みを浮かべながら下馬すると、駆け寄ってきたヴァルトシュタインとガッチリと握手を交わした。

 

「人生は一期一会です。その時々の出会いに精一杯尽くしてこその茶人であります故。そんな私にとって約束事を反故にされることは耐え難い屈辱、新司令官に口利きをするつもりで参ったのですが、その司令官からあなたが今日旅立つであろうことを聞きました。いや、間に合ってよかった」

「そうか。おまえもここの難民のことが気になっていたんだな」

「はい。交渉は、私が進言しましたことですから。あなたは約束を守り、そして私の名誉も守ってくれた。感謝いたします」

「やめろよ、こそばゆい」

 

 ヴァルトシュタインが背中のど真ん中が痒いかのごとく身を捩らせながら、利休の背中をバチンと叩いた。彼はジンジンと熱を持つ背中を擦りながら、

 

「あなたも彼らと一緒に、ブレイブランドまで向かうおつもりですか」

「ああ。ここまで面倒見ておいて、ハイサヨナラってわけにはいかねえよ」

「左様ですか……本当なら、私もご一緒したいところでございますが、今生は皇帝陛下に捧げた身。陛下を置いて、帝都を離れるわけにはまいりません」

「気にするな。っていうか、誰もそんなこと期待しちゃいねえよ」

「ところで1つ、餞別代わりにお聞かせしたいことがございまして……少々、お耳を拝借」

「なんだよ、改まって?」

 

 ヴァルトシュタインが顔を近づけると、利休は彼が連れてきた帝国兵たちに聞かれないように、そっと小さな声で耳打ちするように続けた。

 

「……新司令官に就任したカリギュラは、放浪者(バガボンド)です。そして、そんな彼に付き従う副官の男、フランシスコ・ピサロもまた、私のように異世界からやってきた住人のようです」

「……何だと? カリギュラが放浪者だって? しかし……あいつは神人じゃないか。神人の放浪者なんて聞いたこと無いぞ」

 

 しかし、そう言われてみると、あの見た目からして尋常ならざる男が放浪者なのは案外しっくり来る。そして放浪者というのは、自分が倒した勇者たちのように、それぞれが破格の能力者と来ている。

 

 昨日、面会した時に感じたように、カリギュラの皇帝に対する忠誠心はおそらくは低い。そんな男に、帝国軍の指揮権を与えるなんて……帝国議会は馬鹿の集まりだとしても、皇帝は本当にそれで良かったのだろうか?

 

 ヴァルトシュタインがそんなことを考えてながら渋面を作っていると、

 

「ですが、本当に気をつけねばならないのは、ピサロの方です」

「……ん? あいつが?」

 

 ピサロの名前には覚えがあった。彼が司令官をやっていた時に副官をしていた男だ。どことなくふてぶてしい態度の男だったが、こちらが1つ言えば10を汲み取る、言外の言葉を読む力に長けていたので、伝令将校として重宝していたのだ。

 

 妙にキレる男だと思っていたが、なるほど、放浪者だと言われればしっくり来る。ただ、ヴァルトシュタインの印象では、そこまで気をつけねばならない男とは思えなかったのであるが……

 

「陣中にその名を見つけた時から不審に思っておりました。あの男は一兵卒として昼行灯を決め込んでいましたが、本来は能力持ち(バガボンド)、あのような立場に燻っているような存在ではないはずです」

「単に出世に興味がないだけじゃないのか?」

 

 すると利休はとんでもないと首を振って、

 

「実は前世、私とあの男は同年代を生きていた者同士でした。たまたまなのですが、私は彼の母国からやって来た宣教師との交流があり、その名前を聞き及んでいたのですが……それによると、彼はその時代を代表する大国(スペイン)の英雄であり、人々からは畏敬の念を込めて征服者(コンキスタドール)と呼ばれていた御仁なのです」

「征服者……」

「そのような人が自ら進んで、晴耕雨読の薄ぼんやりとした生き方をしているのは不思議でなりません。彼が何を企んでいるかは存じませんが……もしも今後、あなたの前に立ちはだかるような事があれば、決して一筋縄にはいかない相手であることを忘れないでいてください」

「……肝に銘じよう」

 

 二人が顔を突き合わせてそんな会話を交わしていると、その間にキャラバンの最終点呼を終えたスカーサハが、そろそろ出発しようとヴァルトシュタインを呼んだ。彼はその声に答えてから、

 

「どうやら、時間のようだ。悪いな、せっかく来てくれたのに、茶の一杯もしばいているような余裕もない」

「お気になさらず。私はここでお見送りさせていただきましょう」

 

 ヴァルトシュタインはその言葉に頷いて踵を返したが、二三歩進んだところで、ふと名残惜しそうに立ち止まり、

 

「……もしかすると次は敵同士になるかも知れんから言っておく。お前が陣中で入れてくれた茶だが、あれは美味かった……」

「それは茶人として最大の褒め言葉です」

 

 では……そう言って二人は揃って踵を返した。それ以上、別れの言葉は交わさなかった。

 

*******************************

 

 難民キャラバンはいよいよ森へと入っていった。ここから先は国家の力が及ばない地域で、何が起こるか分からない。もちろん、魔物が襲ってきたときのことを考えて護衛はいたが、十分な数とは言えなかった。だから難民の中でも戦える者は武器を持ち、いざというときの予備戦力としたのだが、しかし、そのいざという時が来たら、果たして彼らが戦えるかどうかは甚だ疑問であった。

 

 というのも、キャラバンの人数はおよそ500人であったのだが、その殆どが老人や女子供ばかりだったのだ。たまに成人男性がいても、飲んだくれていたり、障害があったりと、何か問題を抱えていた。元々、難民は戦争が始まる前、1万人以上いたのだから、今まで残っていた人々は、出がらしみたいなものだったのだ。

 

 そもそも最初から護衛をつけて森を抜けることが出来ない人々。あちらへ行っても働けるかどうか分からない人々。自分以外に家族がいない人々。そしてその家族から見捨てられた老人や子供など……そういうワケアリの人ばかりが集まっていたのだ。

 

 そんな寄せ集めの強行軍であったが、帝国が一日しか与えてくれなかったのだから仕方なかった。幸い、その帝国軍の追っ手がなかったのが、唯一の救いである。

 

 途中、何度か魔物と遭遇したが、どうにか撃退しつつ、難民キャラバンは順調と言えば順調に大森林の街道を進んだ。夜になると火のつけ方も知らない老人や、母親が恋しくて泣き出す子供が出たりと、まるでデイケアサービスでもやってるようだったが、逆に悲壮感が感じられない分だけ気楽ではあった。

 

 しかし、こんな連中が勇者領へ行ったからといって、果たして無事にやっていけるのかどうか……ヴァレンシュタインには疑問にしか思えなかったが、そのへんは冒険者ギルドが上手くやっているらしい。

 

 ところで、勇者領と一口に言っても、そこには13の氏族というものが存在する。ブレイブランドとはいわゆるアメリカのような連邦国家であった。

 

 アルマ・ベッタ・カーラ・エンマ・ファビア・フィオレ・リンダ・ルチア・パオラ・ピエラ・レベッカ・セレナ・ヴィオラ。元々は勇者のパトロンだった成金たちが王侯貴族化し、北海道くらいの広さに、それぞれ狭いながらも領地を持ち、国ごとに独自の政治を行っている。その13氏族を引っくるめて勇者領なのである。

 

 元は成金貴族とは言え、建国から300年も経っているからそれなりに権威があり、国が違えば法も変わる。アメリカと言うより、EUに近いかも知れない。そんなバラバラの国が寄り集まっているから、例えば為替や、関税、犯罪者の交換など、一定のルールが必要となり、それを中央の連邦議会が決めていた。

 

 因みに、レオナルドは氏族ではない。元々、彼は魔王討伐のときの勇者パーティの一員であり、干拓事業の際の大パトロンでもあった。勇者亡き後、正当な後継者は彼しかいないと誰もが認めていたのであるが、前世の記憶もあってか、それともヘルメス卿に遠慮してか、彼は複雑な思惑の絡み合う政治の舞台からは離れて、隠棲を決め込んでいた。

 

 その代わり、全ての氏族に彼の作った冒険者ギルド支部があり、全ての国王(族長)に顔がきいた。勇者領は氏族同士の争いを避け、また経済的な理由もあり、常備軍を持たずに傭兵に頼っていた。有事の際、募兵を行うのが冒険者ギルドであり、いわばギルドは軍閥のような立場にある。それを嫌って密かに私兵を集めている氏族もいるようだが、まあ、13も国が有れば、そういう国が出てきても仕方ないだろう。

 

 そんなわけで、冒険者ギルドは勇者領全ての領主との窓口が存在した。そのため、レオナルドがあの街の難民を救うと決めた時から、その受け入れ体制は整っており、難民はまず勇者領の入り口にあるアルマ国に集められ、そこから13氏族の領地に分配される手はずとなっていた。

 

 従って今回の、最後の難民キャラバンを引き連れたスカーサハたち冒険者ギルドの面々は、そこまで難民を連れていけば、晴れてお役御免となるはずであったのだが……

 

 ところが、およそ一週間をかけ、どうにかこうにか大森林を通り抜けて、アルマ国にたどり着いた彼らを迎えたのは、思いもよらぬアルマ国のつれない態度だったのである。

 



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とにかく金だ。金をよこせ

 およそ一週間という長い時間をかけ、国境の街からどうにかこうにか、難民キャラバンは勇者領へとたどり着いた。

 

 見上げれば青空が見えるとは言え、360度どこを向いても森しか見えない大森林の街道を進み続けるのは、終わりの見えない砂漠を歩いているかのようで、非常に気が滅入る行程であった。

 

 幸い、ここ暫く難民が続き、街道を行き来する人が増えたおかげか、戦闘の機会は少なくて済んだが、普段はその倍から三倍はいるであろう魔物が襲ってきていたら、もしかするとキャラバンは持たなかったかも知れない。その点では幸運であった。

 

 ところが、そんな彼らの視界を奪っていた木々が少なくなり、ようやく平野が見える森の出口まで来たとき、安堵する彼らを待ち構えていたのは、新生活への希望ではなく、アルマ国からの退去勧告だったのである。

 

 街道を抜け、平原へ入ったところ、キャラバンの先頭を歩いていたスカーサハは、道の先に複数の騎馬がいるのを見つけた。その背中にアルマ国の旗が翻っていることに気がついた彼女は、中央のひときわ立派な騎馬に跨ったアルマ国王の姿を見つけた。

 

 新大陸の行政長官とも知己がある彼女は、以前に参加した連邦議会で国王たち全員との面識を得ていた。その懐かしさもあって、彼女はきっと国王がわざわざ自分のことを出迎えてくれたのだと思い、喜び勇んで駆け寄っていったのであるが……

 

「……え!? 今すぐここから出て行けですって?」

 

 難民キャラバンを離れ、駆けつけた彼女にかけられたのは、そんな連れない言葉であった。

 

 何を言われているか分からなくて、ぽかんとしている彼女を前に、壮年のアルマ国王は眉間に皺を寄せ、難しい顔をしながら言った。

 

「私にとっても、我が国にとっても、古き友人であるあなたに、こんなことを言うのは忍びないのですが……あなたがここに来る間に、状況が変わってしまったのです。もはや我々アルマ国は、難民を受け入れることは出来ない。もし、ここに留まるというのであれば、彼らを捕らえ、帝国に引き渡さなければならなくなるでしょう」

 

 見た目は国王の方が断然年上に見えるが、実際には彼よりもよっぽど高齢であるスカーサハは、建国間もない頃から彼の先祖と付き合いがあった。アルマ国王はそれこそ子供の頃から彼女のことを尊敬しており、彼女をがっかりさせるようなことは言いたくなかったようであるが……

 

 スカーサハの様子がおかしいことに気づいたヴァルトシュタインが、白馬を駆って近づいて来る。アルマ国王の親衛隊員がその行く手を遮るように馬を回すと、彼はその前で馬を止め、

 

「何があった? トラブルか?」

「それが、私達がここに来るまでの間に、勇者領の事情が変わってしまったようなのです。連邦議会は帝国の要求を受け入れ、難民を引き渡す方向に政策を変えてしまったらしく、今すぐここから退去せよと……」

 

 スカーサハが顔面蒼白になりながらそんな事情を説明すると、ヴァルトシュタインは首を捻り、

 

「妙だな……」

 

 彼女は困惑しているようだが、今更そんなことを言われても、はいそうですかと出ていくわけにはいかない。ならば開き直るしか無いだろう。それよりも気になるのは、突然こんな事態になってしまったことの方だ。

 

 連邦議会が帝国の要求に屈したと言うのなら、そういう要求が出されていたということだろう。しかし勇者領と帝国との間には、自分たちが通ってきた街道しか道がない。早馬が通ったのなら、確実に自分たちが目撃していたはずだ。ところがここに来るまでの一週間、キャラバンはそんなものを見かけなかった。それじゃ、帝国はいつ、その理不尽を突きつけたのか?

 

 キャラバンは、ヴァルトシュタインがカリギュラに直談判しに行った翌日に出発している。つまり、彼らが出発した後に、そんな要求を勇者領に押し付けにいく時間的余裕はなかったはずだ。大体、いつ来るか分からないスカーサハを、アルマ国王がこうして出迎えているのは何故か。彼は最初から、今日あたりに難民キャラバンが到着することを知っていたのだ。

 

「こりゃ、嵌められたか」

 

 つまり、ヴァルトシュタインが文句を言いに行った時点で、こうなることは決まっていたのだ。カリギュラは、それを知っていながら敢えて黙っていた。12世を支援するため仕方なくという体を装っていたが、実際は難民を取り逃がすどころか、寧ろヴァルトシュタインに勇者領まで安全に送り届けて欲しかったのだ。

 

 ヴァルトシュタインはギリギリと歯ぎしりをした。正直、頭にきていたが、だがそれ以上に疑問が勝った。それは一体どうしてだ? あいつは自分に何をやらせたがっているのだろうか。

 

「国王様。出ていけというのなら、もう少し詳しい事情を話していただけませんか。俺たちが来るまでの間に何があったのか。連邦議会はどう決議したのか」

 

 アルマ国王は、いきなり割って入ってきて、そんなことを問いただすヴァルトシュタインに少々戸惑っていたようだが、スカーサハではなく、彼がキャラバンのリーダーだと判断すると、これまでにあった出来事を話し始めた。

 

 どうやら今から二週間ほど前、帝国から連邦議会に、宣戦布告とも取れるような過大な要求が突きつけられたらしい。

 

 帝国は先のヘルメス戦争のことを、アイザック11世の謀反という位置づけで処理しているのだが、そもそも彼の叛意を煽ったのは、勇者派などと呼ばれる存在があるがためである。そこで、後を受け継いだアイザック12世は、分断を防ぎ一つの帝国を取り戻すために、甥を担ぎ上げた勇者領の氏族たちを厳しく非難し、勇者派を根絶するために軍を差し向けると迫った。おまえたちは帝国からの難民を受け入れているが、それは反乱の芽を育てているのと同じことだぞと。

 

 これにリベラルが激しく動揺した。

 

 勇者領は300年前、反帝国を掲げて建国された勇者派の国であるが、長い年月を経てそれは形骸化しつつあった。今となっては13氏族の大半が勇者派とは言っても、帝国との協調路線を掲げるリベラルだった。故に彼らは、アイザックを唆したなどと言われるのは心外であり、なんとか帝国に機嫌を直してもらいたかったのだ。

 

 そもそもヘルメス戦争が起きたのは、そのリベラルが帝国と独自に国交を結ぼうとしていたことをアイザックが察知し、使者を捕らえて殺したのが切っ掛けだった。

 

 彼らとしては今回のようなことが起こらないように、帝国との経済的な結びつきを強くしようと思っていた矢先だったというのに、それを潰したのはアイザックではないか。もはや、そんな彼の仲間だと思われるのは我慢ならない。かくなる上は恭順の姿勢を示してでも、なんとしても話し合いで解決しよう。リベラルたちはそう主張した。

 

 無論、保守派の氏族たちは、国を売るようなその行為に断固反対した。特にアルマ国は帝国に最も近く、帝国軍を招き入れるようなことがあったら、まず無事では済まない立場にあった。しかも現在、ヘルメスから多くの難民が押し寄せてきていて、現状の厳しさを一番理解していたのだ。

 

 しかし、少数派が反対したところで、多勢に無勢、彼らの忠告は取り入れられることは無く、議会はついに帝国の言うことを最大限聞き入れると決定してしまった。

 

「待て! それじゃ、難民を捕らえるために、帝国軍の通行を許可すると言ってるようなものだぞ?」

 

 それを聞いたヴァルトシュタインは、話の途中であるにも関わらず、思わず大声を上げてしまった。それは国王相手に不敬であったが、近衛兵すら誰もそんなことに気づかないくらい、彼らは困惑してしまっていた。

 

「しかし、議会で決まったことはどうしようもないのだ」

「……どう考えてもこちらに落ち度は無い。地理的にも圧倒的に有利なのに、一戦もせずに敵を招き入れるなどと……まともな人間が考えることとは思えん。バカの所業だ。13氏族はそんなバカの集まりなのか?」

「貴様、我らを愚弄する気か!」

 

 ヴァルトシュタインが呆れてそんな言葉を口走ると、ようやく近衛兵の一人がいきり立って叫んだ。しかし、そんな彼を、国王自らが制し、

 

「私もそう思う。だが、その程度の判断すら出来ないくらい、我々は平和に慣れすぎてしまったのだろう。リベラルの連中は、一緒に酒を飲んで、とことん話し合えば分かってくれるはずと言って聞かないのだ。それが夢物語だと気づいた時には、もう国が無くなっているかも知れないのに……」

 

 ヴァルトシュタインは、流石に一国の主にそんな自虐的なことを言わせてしまったことを恥じ、ガリガリと自分の頭皮を引っ掻いた後、胸に手を当てて深く頭を下げた。

 

「申し訳ない。つい興奮してしまい……それで、国王様。俺たちにどうして欲しいんですか?」

「……すまないが、即刻、難民を連れて出ていって欲しい。一度は受け入れると約束した手前、無理は承知しているが、今のままでは、帝国軍を受け入れる口実にされてしまう。奴らは、難民を理由に軍を派遣しようとしている。その難民がいなくなれば、彼らに大義名分はなくなる」

「それで諦めてくれるほど甘い連中じゃないでしょうに……」

「しかし、他に方法がないのだ」

 

 国王ともあろう者にこんなに頼まれたら、断ることは出来ないだろう。ヴァルトシュタインはため息をついた。しかしそんなことを気にする以前に、国王の言っていることは不可能なのだ。

 

 彼が出て行けと言っている難民とは、今回キャラバンが連れてきた500人のことではない。今までに勇者領へ逃げてきた1万人全員のことなのだ。そんな人数相手に、単に出て行けと言ったところで、まともに動けるはずがない。そもそも、一体どこへ行けばいいと言うのか。

 

「なら新大陸へ向かうのはどうでしょう。まだまだ過酷な土地ですが、帝国に戻るよりはマシだと、難民たちも納得してくれるはずです」

 

 スカーサハがそう提案するが、ヴァルトシュタインはすかさず首を振った。

 

「いや駄目だ。新大陸も勇者領だ。帝国は相変わらず軍を派遣しようとするだろうよ」

「そうでしょうか……?」

「今、あいつらが欲しているのは、難民の身柄じゃあない。ここに軍を派遣する理由だろう」

「では、あなたはどうするのがいいと思うのですか?」

 

 ヴァルトシュタインは渋面を作り、忌々しそうにフンッと鼻を鳴らした。正直、自分にそこまでする義理はないのであるが、乗りかかった船である。何より、あのカリギュラとかいう不気味な神人に嵌められというのが気に食わなかった。彼はムスッとした表情で言った。

 

「ならば国王様……とにかく金だ。金を用意して欲しい」

「無論、君たちには相応の礼をするつもりだが」

「そうじゃない。それじゃ足りないんだ。具体的には、一万人が当面生活出来るだけの、保障をよこせって言ってるんだ」

「……なに?」

 

 その言葉には、流石の国王も厳しい表情を見せ、

 

「それはいくらなんでも虫が良すぎるのではないか。難民を受け入れていたのは連邦議会の要請もあったが、人道的な良心に従ったためもある。今までこんな面倒なことを無償で引き受けてやっていたというのに、その上、まだ金を寄越せというのか。どうして私がそんなことまでしてやらねばならんのだ。逆にこちらが請求したいくらいなんだぞ」

 

 国王の言うことはもっともであったが……ヴァルトシュタインは表情を変えず、努めて冷静に、

 

「おっしゃる通り。俺も同意見ですよ。実際にそうしたところで誰もあなたのことを責めたりしないでしょう」

「そうだろう。なら……」

「だが、本当にそんなことしたらどうなるか、少し考えてみてください。難民に出ていけというのは簡単だ。しかし、彼らには行く当てがない。それを無理矢理排除しようとしたり、ましてや帝国へ帰れなんて言おうものなら、彼らは進退窮まり発狂するだろう。今は大人しく従っているが、すぐ脱走者が相次いで、野盗に身をやつす連中が続出するはずだ」

「う、うーむ……そうかも知れん」

「そうなったらもうおしまいですよ? 帝国軍は野盗討伐という理由をつけて、領内を好き勝手に荒らし回るだろう。もちろん、野盗になった難民を捕まえるためではなく、勇者領を支配するために」

 

 彼の話を聞いて、国王のみならず、それを取り巻く近衛兵たちにも動揺が走った。勇者領は平和で、経済的に豊かな理由もあって、基本的に平時の兵力を殆ど持っていないのだ。無論、各国に憲兵は居るが、彼らは憲兵だけで、それだけの人数を取り締まれる自信がないのだ。

 

「大体、一万人もの野盗が現れたら、あんたたちに対処出来るのか。もう逃げる場所も無い人間というものは、それこそ死ぬ気になって無茶苦茶しますぜ。しかも、自分たちを追い詰めた相手とあっては、いくらでも残忍になれるだろう。だから、あんたたちにやれることはただ一つ。金を出してこっから出ていってくださいって言うことだけだ」

「それじゃまるで脅迫ではないか!?」

「そう受け取ってくれて構いませんよ。どうせ、ほっときゃそうなるんだから」

 

 ヴァルトシュタインは、しれっとそう言い返した。これには温厚なアルマ国王も、顔を真っ赤にしてプルプルと震えていた。それを見ていた近衛兵たちが、いよいよこの無礼な男を切ろうかと、腰の物に手をかけた。そんな一触即発の事態に、スカーサハが慌てて口を挟もうとした時、今度は一転して、彼はトーンを下げ、柔和な表情を作って諭すように、こう続けた。

 

「ですが、難民に金を渡して、兵隊として雇うと言えば話は変わります。元々、彼らは受け入れてくれたあなたに対し、迷惑を掛けているという負い目を感じているんです。そのあなたが、彼らのせいで窮地に立たされていると知り、あなたのために立ち上がれと言えば、おそらくみんな賛同するでしょう。そして一度、兵隊として雇われた人間は、多少過酷な要求であっても指揮官の言うことを必ず聞きます。一万人の人間に、速やかに行動させるには、これが最善の方法なんです」

 

 こうして提案された言葉は、最初の要求と何一つ変わっていなかったが、不思議とアルマ国王は受け入れやすくなっていた。彼は暫し、難しい顔をしながら唸り声を上げていたが、最終的にはため息混じりに、その提案を受け入れた。

 

「……確かに、君の言うとおりかも知れん。無理矢理追い出したところで、その後どうなるか分かったものではない。ましてや、彼らを帝国に引き渡すなんてこともしたくない。それなら……整然とここから去ってくれるのであれば、多少金を渡してもいい気がする。いや、その方が断然マシだ」

「よろしいのですか? 国王様」

 

 横で聞いていたスカーサハが問いかけると、国王は頷きながら、

 

「しかし、それで君たちはどこへ行くと言うんだ? 新大陸は駄目、帝国に戻るなんてことももちろん却下だ。結局、勇者領に留まるのであれば、私は金を渡す意味が無いのであるが……」

「ボヘミアです」

 

 聞かれてヴァルトシュタインは答えた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「大陸北西部にそびえ立つ高山地帯ボヘミアです。あまりにも平地が少ないため、帝国にも勇者領にも編入されていない、空白地帯です。ここは殆ど人が住んでいませんが、あちこちに鉱山があるから、全く人がいないというわけでもない。つまり、あんな土地でも行商人は来るってことです。当面はそれら行商人から物資を調達し、行く行くは砦を築いて自給体制に移行します。アルマ国には、そのための支援を期待したい」

「なるほど……そのための金が必要なのか。君に言われると、なんだかその気になれるな。いいだろう、可能な限りの資金援助を約束しよう」

「ならば早速、難民たちに事情を話して説得するところから始めましょう。帝国軍が動くまでどのくらいの猶予があるのか分からないが、早いに越したことはない」

 

 こうしてヘルメス領から勇者領へ、難民を連れてきたヴァルトシュタインは、話の流れでそのまま今度は、1万人もの難民を引き連れて、長い旅を続けることになった。

 

 正直なところ、元帝国将兵である彼にそんなことをする義理はないし、一体誰の思惑に乗せられているのか分かったものじゃなかったが、彼は不思議とそうするのが自然と受け入れていた。

 

 傭兵の家系に育ち、ずっと軍隊で過ごしてきたのだ。司令官を更迭されて、勢いで軍を抜けてきたはいいものの、ぶっちゃけ、これから何をすればいいのか分からなかったのだ。どうせ自分は軍人にしかなれっこないのだから、ならば、難民とは言え自分の兵隊を持てると考えれば、悪い話でもないだろう。

 

 こうして稀代の用兵家であるヴァルトシュタインに率いられた難民は、義勇軍と称してボヘミアへと向かうことになった。正直、ただの一般人の寄せ集めであり、軍隊と呼べる代物ではなかったが、これが間もなく勇者領で起きる戦争の勝敗を決定づける戦力になるとは、この時は誰も気づいていなかった。

 



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王家の遺産

 難民軍がアルマ国を出発するまで、また一週間の時が流れた。それは説得に時間がかかったわけではなく、単純に軍隊として行動するための準備期間であった。

 

 ヴァルトシュタインが言った通り、難民たちは当面の生活の保障さえしてくれれば、移動すること自体にはそれほど抵抗を示さなかった。既にここに来るまで、長い旅を経験していた彼らにしてみれば、そんなの今更だったし、現実にアルマ国が立たされている状況を聞かされ、国王自らが謝罪の言葉を口にするのを見た彼らは、感謝こそすれ恨みなど全く感じなかったのだ。

 

 彼らは寧ろ、そうまでして自分たちを支援してくれる国王に感激していた。もしも今後、アルマ国に何かがあったら、必ず駆けつけると約束するほどだった。もはやアルマ国民と言って良いほどである。

 

 北風と太陽の寓話のように、人は物理的に無理矢理動かそうとしても動かない。人を動かすならまず心を動かせばいい。そうすれば人は自ずから動き出す。それを示すかのように、そこから先の編成はスムーズに行われた。

 

 1万人の人間を、ただ漫然と引き連れて歩くことは出来ないので、まずはいくつかの小隊に分けねばならない。ヴァルトシュタインは、自分の子飼いの部下や、スカーサハ達冒険者、難民の中から戦闘に長けたもの、合計100人を選んで小隊長とし、部隊を100に分けた。

 

 そしてそれぞれ100人前後の人々を振り分けていくわけだが、実際の軍隊と違ってその構成員は難民だから、家族を一纏めにしたり、老人や子供のような弱者が偏らないように気を配って配備するのには、相当の時間がかかった。

 

 こうして編成した100の小隊で、一度地図を見ながらオリエンテーリングし、全小隊が無事に問題をクリアできることを確かめてから、いよいよ出発という運びとなった。これだけのことをするのに、一週間が必要だったわけである。

 

 出発にあたってはアルマ国王が見送りに来てくれ、わざわざ健闘を祈ってくれた。難民たちはその姿に心を打たれ、またいつかこの国に戻ってこれたら嬉しいと口々に言いながら、元気よく出発していった。これが一歩間違えば野盗になるかどうかの瀬戸際だったと考えると、なんとも感慨深いものである。

 

 スカーサハは出発間際、遠くからそれを見届けていた国王の元へと駆けつけ、改めて、彼のこれまでの尽力に感謝の意を表した。

 

「アルマ王。ヘルメス戦争以降、今日まで難民のことを、本当にありがとうございました。お陰でどうにか、行軍だけは出来るくらいにはなりました。今はまだ寄せ集めに過ぎませんが、今後アルマ国に何かあったら、あなたのために駆けつける軍があることを覚えておいてください」

「それは……なんとも頼もしい限りだ」

 

 国王は気のない返事を返した。目の前の女子供と老人ばかりの集団を見てれば、誰でもそんな感想を抱くだろう。スカーサハそんな彼に苦笑交じりに、

 

「難民がいなくなれば、帝国は勇者領へ入る大義名分を失うでしょう。しかし、彼らがこのまま黙っているとも思えません。また何かしらの難癖をつけてくることが予想されます。くれぐれも、警戒は怠らないようにしてください」

「ええ……分かっておりますとも。しかし、議会はもう、私の手には負えませんよ。リベラルは、耳障りの良いことばかり言って話を聞かない。現実に、我が国が蹂躙されるようなことでも起きない限り、彼らが意見を変えることはないでしょう」

「そうならないと良いのですが……」

「かと言って、保守派がまともというわけでもない。最近は、魔王派などというおかしな連中まで現れて、非難の的になっています」

「魔王派……?」

 

 まさか魔王崇拝者なんてものが幅を利かせているのだろうか? スカーサハが困惑していると、国王は知らなかったのか? とため息を吐きながら、

 

「帝国憎しの感情が行き過ぎて、いっそ300年前に魔王が滅ぼしてくれれば良かったのにと言うような連中のことです。魔王襲来以降の歴史を振り返ってみると、勇者が魔王を討伐したにも関わらず、神人は数を減らし続けている。だから元々、勇者がいてもいなくても、神人は滅亡に向かっていた存在だったのではないのか。だったらいっそのこと、こちらから攻め込んでいって、帝国など滅ぼしてしまえと言うわけです」

「なるほど……そんな考え方の人たちが」

「最近はそういう過激な若者が増えてきたのです。勇者領は平和が続いたせいか、極端な意見ばかりが目立つようになってしまった。議会すらまともに機能しなくなってしまった今、もう自分の身は自分で守るしかないのかも知れません……嘆かわしいことだ」

 

 国王は額に手を当てて、目をつぶり首を振った。スカーサハはそんな彼に同情はしていたが、掛ける言葉が見つからず黙るしかなかった。冒険者ギルドは政治からは一定の距離を取るスタンスだった。それに、自分だってこれから、厳しい逃避行が待っているのだ。他人に同情しているような余裕はない。

 

 言葉が続かず二人が沈黙していると、遠くの方から彼女を呼ぶ声がした。

 

「……申し訳ございません、アルマ王。そろそろ行かなくては」

「いいえ、お気になさらず。では、私はここからお見送りしましょう。道中お気をつけて、ご武運を」

「ありがとうございます」

 

 挨拶を交わして、スカーサハは踵を返し歩き始めた。ここから目的地まで、数百キロの距離がある。また長い旅が続く。彼女が気合を入れ直していると、そんな彼女に向かって、ふと、アルマ王が思い出したかのように、

 

「そう言えば……大君(タイクーン)はご健在なのでしょうか。姿を眩ましてから、もう大分経ちます。そろそろ議会にも顔を出してもらいたいところなのですが……あなたは、彼の居場所をご存知ありませんか?」

 

 するとスカーサハは頭を振って、

 

「残念ながら。大君は帝国から指名手配されていらっしゃいますので、まだ暫くは表に出て来ることはないでしょう。一人で何でも出来る方ですから、心配はないのですが」

「そうですか……」

「多分、どこかのギルド支部には顔を出すでしょうから、議会の様子をそれとなく伝えておきましょう。あなたが探していらっしゃったことも」

「そうしていただければ……いや、お引き止めして申し訳ない。あなたも、何かあったらいつでもご相談ください」

「いいえ、ではまた」

 

 アルマ王は名残惜しそうに何度も別れの言葉を口にした。二人は今度こそ別れた。

 

********************************

 

 アルマ王はその場に佇んで、スカーサハの背中を見えなくなるまで見送った。やがて最後の難民まで居なくなると、先程までの喧騒が嘘のように静まり返り、辺りには静寂が戻ってきた。

 

 連邦議会に押し付けられてから、ずっと難民を受け入れていた広場(キャンプ)は、人の足に踏み固められて地面が黒ずんでおり、ぺんぺん草さえ生えていなかった。これからどのくらい経てば、また元通りの緑が戻ってくるか分からないが……ともあれ、これでようやく肩の荷が下りた。彼はほっとため息を吐き、そしてすぐにまた別の意味でため息を吐くのだった。

 

 確かに、難民の世話はしなくて済むようになったが、これで全てが終わったわけじゃない。スカーサハも言っていた通り、相変わらず帝国の触手は勇者領に伸びており、そして最悪の事態が起きた時、最も危険なのはアルマ国なのだ。

 

 もしもの時のために備えて置かなければならない……国王はそう肝に銘じてから、乗ってきた馬車の方へと振り返った。

 

 天蓋付きの馬車は、広場から少し離れた丘の上に停められていた。国王が動いたのを見ると、すかさず近衛兵の騎馬が駆け寄ってきて、エスコートするように左右に展開し、その馬車へと誘った。まだ遠くにあるその車体を見上げながら歩いていると、窓に掛かったカーテンが揺れて、中に乗っていた人の顔が一瞬だけ見えた。

 

 絶対に見つからないようにと言って、わざわざ隠れていたくせに、よほど待ちくたびれたのだろう。きっと、馬車に戻ったら、イライラと小言をぶつけてくるに違いない。彼はそれを思ってほんの少し憂鬱になった。

 

 馬車に近づくと、主人の帰りを待っていた御者が恭しく観音開きのドアを片方だけ開けた。ステップに足をかけて中に乗り込むと、案の定、中で待っていた人が不満の声を上げた。

 

「遅いぞ! アルマ王。待ちくたびれたではないか」

 

 国王はそんな金切り声を浴びせられ、内心、耳栓でもしておけば良かったと舌打ちしながらも、努めて愛想笑いを崩さずに返事した。

 

「申し訳ございません、ヘルメス卿。何ぶん、スカーサハ様は切れ者ですので、こちらの意図を勘ぐられないよう、タイミングを見計らっていたのでございます。お言いつけ通り、ちゃんとレオナルドの行方については確かめて来ましたよ」

 

 身を乗り出していた金髪のふてぶてしい顔つきをした若い男は、その言葉に溜飲を下げたのか、体を引き戻して背もたれにどっかりともたれかかった。ヘルメス卿と呼ばれるこの男は、言わずとしれたアイザック……新しく即位した12世ではなく、その甥である前ヘルメス卿アイザック11世である。

 

 ヘルメス戦争後、先祖代々の居城であるヴェルサイユから逃げ出した彼は、大森林に潜伏した後、頃合いを見計らってここアルマ国へと落ち延びていたのだ。

 

 アルマ国は、帝国と勇者領を繋ぐ街道の出口にあり、地理的にヘルメス領と最も近かったために、昔から付き合いのある、言わば親戚みたいなものだったのだ。アイザックのニュートン家とアルマ王家も数代前には血縁関係にあり、戦争前はその関係を利用して経済的にも政治的にも、勇者領で最大の発言力を持っていたのがアルマ国だった。そのため、国王はアイザックに頭が上がらなかったのだ。

 

 そういった事情もあり、国王はアイザックが落ち延びてくると、危険を承知で今まで匿ってきた。当然、帝国も他の12氏族も勘ぐっていたが、今までどうにか隠してこれたのは、多くの難民が国境を出入りしていたことが大きかった。アイザックは、難民に紛れて入国したわけである。

 

 だが、そのカモフラージュのための難民が居なくなってしまった今、いつまでもここに居ては、帝国に見つかってしまう。そのため、アイザックは次なる潜伏場所へ移ろうとして焦っていたのである。

 

「それで、アルマ王。レオナルドは今どこに?」

「残念ですが、ヘルメス卿。大君の所在は掴めませんでした。ヘルメス戦争後、彼もまた帝国と揉めたこともあり、未だに行方を晦ましているようなのです」

「なんだと? 何もわからなかったのか!?」

 

 国王はアイザックにキンキン声を叫ばれる前に首を振り、

 

「ですが、スカーサハ様に言わせれば、大君は各地の冒険者ギルドに寄って、常に最新の情報を得ているだろうとのこと。つまり、一方通行とは言え、連絡を取る手段は持っているように思われます。これを利用すれば、こちらから情報を流して、彼を誘導することは可能かも知れません」

「なるほど……上手くやるしかないか」

「……どうせならアイザック様も、彼らと一緒にボヘミアへ向えば良かったのでは? 今更、彼らがあなたに危害を加えるとも思えませんし」

 

 国王がそう提案するも、アイザックはブルブルと首を振って、

 

「冗談じゃない! 誰のせいで、俺がこんな目に遭っていると思ってるのだ。みんな、あのヴァルトシュタインという男のせいではないか。俺は、あの男に城を落とされたんだぞ?」

「かも知れませんが……おそらく、今現在、ヘルメス卿が最も安全で居られるのは、あの難民の中だったと思いますよ」

「だとしてもだ。俺は一度敵と決めた相手に膝を屈するようなことはしたくない」

 

 それはあのヴァルトシュタインが言うセリフだろう……アルマ国王は心の中でそう独りごちた。

 

 彼は元帝国将兵でありながら、今は難民のためにその帝国と戦う道を、自ら選んだのだ。対する、アイザックの方は別段何も変わってない。頭を下げる相手など、どこにもいないのだから、要は難民と一緒に泥水を啜るのを嫌ったのだろう。

 

 二人の将軍としての差が、はっきり出たなと国王は思ったが、顔には出さなかった。どちらに率いられる方が、民は幸せだろうか。

 

「ヘルメス卿。それで、これからどうするおつもりですか……?」

「どうもこうもないさ。まずはレオナルドを探す。話はそれからだ。見つからなかった場合は考えたくないな」

「……そう言えば理由をお聞きしていませんでしたが、何故、あなたは大君の居場所を知りたかったんでしょうか」

「ん……? そう言えば、言っていなかったかな?」

 

 アイザックは実際には意図的に理由を隠していたのだが、アルマ王にそう言われて今更隠しても仕方ないと判断し、

 

「ふむ……まあ、王には世話になったから、特別に話してやろう。実は、我がヘルメス公家には代々伝わる家宝、ヘルメス書という物があるのだ」

 

 そう言ってアイザックは、いつも携帯していた彼の荷物の中から一本の巻物を取り出し、アルマ王に手渡した。国王はいきなりそんなものを手渡され、戸惑いながら、

 

「これは……読んでもよろしいのでしょうか?」

「構わんよ。君に読めるものならな」

 

 なんだか思わせぶりな態度は気にかかったが、せっかくだからと巻物を紐解いて見てみると……そこに書かれていたのは、まるで子供の落書きみたいな、どれもこれも見たことのない文字ばかりで、国王は読もうとしても全く読めなかった。

 

 わかるのは、ところどころに挿絵のようなものが描かれてあり、不思議な文字はそれを説明してるのだろうと言うことだけだった。アイザックは未知の文書を前に困惑しているアルマ王を面白そうに眺めながら、

 

「ヘルメス書とは、初代ヘルメス卿が、子孫のために遺した秘伝の書なのだ。しかし、見ての通り、その内容は理解出来るように書かれていない。彼は自分の知恵が、子孫以外に利用されることを恐れたんだな。

 

 初代は伝説の勇者と共に戦ったパーティーの一員だが、アマデウスやレオナルドのような大魔法使いとは違い、殆ど魔力を持たなかった。それでも、稀代の錬金術師と呼ばれた彼は、多くの科学知識や、兵器の設計図などを作成し、その書物に遺した。中には、メアリーが閉じ込められていたような、魔法を使った結界みたいな強力なものも含まれている。

 

 だから、その内容が理解できれば、武器になるのは間違いないのだ。俺は今、国を追われてこうして逃亡の身であるが、それを手に入れさえすれば、まだ巻き返しのチャンスはあると言うわけだ」

 

「なるほど……では大君は、これを読む方法を知っているというわけですか?」

「いいや、そうじゃないんだ」

 

 しかし、アイザックは首を振り、

 

「初代は勇者派を率いて帝国と戦ったため、帝国からひどく恨まれていた。そのため、将来、自分の墓が荒らされないように、誰にも見つからない場所に隠したんだ。ヘルメス書を読むためのヒントは、おそらくその墓にあるのだが……実は子孫である俺たちにもその場所がわからない。墓には、墓守がいるはずなのだが、その行方がわからないのだ」

「墓守……ですか」

「初代は、帝国は元より、勇者派の人間たちも避けて、どこかの獣人部族にその大役を担わせたらしい。だから、大森林を探せば、どこかにその一族が残っているはずなのだが、何の手がかりも無く探すのは無理だろう。もしかするとレオナルドなら何か知っているかも知れないから、どうしても話を聞いてみたかったのだ」

「なるほど……そういうわけだったのですか」

「ああ。だが、もし彼が見つからなければ仕方ない。地道な作業になるが、大森林の部族を片っ端から当たってみることにしよう。実は、手がかりもあるんだ」

「ほう……それはどんな?」

 

 するとアイザックはヘルメス書に描かれている、一つのマークを指差し、

 

 

【挿絵表示】

 

 

「この書物には所々にこのマークが描かれている。実はこれが墓守のことを示しているのだ。それは恐らく、部族のシンボルとして丁重に扱われているだろうから、大森林の部族を一つずつ当たっていけば、いずれこれを知っている連中に行き当たる。墓は恐らくヘルメス領に近い場所にあるはずだ。ならば墓守もその辺りにいるだろう。幸い、俺には神人の部下二人が残っている。彼らがいれば大森林の中でも危険もない」

「二人の神人……確か、ペルメル様とディオゲネス様とおっしゃいましたっけ」

「ああ。明日にでも彼らを呼び寄せて、出発しようと思っている」

「明日ですか……それはまた急ですね」

「アルマ王には世話になったな。いずれこの礼は必ずする。俺がヘルメスの遺産を受け継いだ暁には、また一緒に勇者派をもり立てていこうではないか」

 

 馬車はカラカラと車輪を鳴らして街道を進んでいた。アイザックは国王との話を終えると、閉め切っていたカーテンを開いて外の様子を窺った。難民は去り、もう彼のことを見咎める者はいないだろう。

 

 よく晴れて雲ひとつ無い天気だった。アルマ王城を取り囲む外壁が日に照らされて、浮き出るようにくっきりと見えていた。だが、その王城がやけに遠くに見えるのは何故だろう……? ふと気がつけば、馬車はその王城とは逆の方向へと向かっている。

 

「おい、アルマ王。この馬車は城とは逆に向かっていないか?」

「……ええ。実は出発を前に、ヘルメス卿にどうしても見ていただきたい物がありまして……」

「なんだ?」

「すぐに分かります」

 

 不穏な空気が流れる。まさか、人格者のアルマ王が裏切るなんてことはないだろうが……アイザックは嫌な予感がしていたが、馬車を飛び出そうにも周りを近衛兵たちに囲まれていて、下手な動きは出来なかった。

 

 やがて、馬車は城から少し離れた雑木林へとたどり着き、暫く進んだ場所で唐突に止まってしまった。周囲には何も無く、ただ木々が視界を覆っているだけである。

 

「……おい、アルマ王! ここはどこだ? 何故こんな場所に馬車を止める?」

「それは……あなたも既にお気づきでしょう」

 

 アルマ国王のその言葉を合図にしたかのように、その時、突然周囲の雑木林の影から、複数の帝国兵が現れた。予め予想をしていたアイザックはすぐに馬車を飛び出したが、さっき彼も思ったように、すぐにアルマ国の近衛兵によって取り押さえられた。

 

「アルマ王! 図ったな!」

「悪く思わないでください……私も国と民を人質に取られては、仕方なかったのです」

 

 アイザックが国王の裏切りを糾弾するも、彼は眉一つ動かさずに地面に取り押さえられていたアイザックのことを、じっと憐れみを込めて見下していた。

 

 アイザックは近衛兵の腕から何とか逃れようと身を捩ったが、屈強なその腕はびくともしなかった。顔を真っ赤にしてのたうち回っている元ヘルメス卿の周りを、帝国兵が続々と取り囲む。もはやこれまでと観念した彼が、涙目になって顔をあげると、一人の帝国兵が彼の前に歩み出て、

 

「お初にお目にかかります、11世陛下。カリギュラ帝に命じられ、あなたからヘルメスの遺産を受け取りにやってまいりました。こんなに早く見つかるとは、私にも運が回ってきましたかね」

「誰だ貴様は!」

 

 アイザックが悔しそうに叫ぶと、男は不敵に笑い、

 

「申し遅れました。私はフランシスコ・ピサロと申します。丁度、神人の部下が欲しかったところなのですよ。せいぜい、あなたには役に立ってもらいましょうか」

 

 ピサロはそう言うと、彼の背後に整列していた部下に命じて、アイザックのことを拘束した。

 



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うひょー! 宝の山やんけ~!

 ヴァルトシュタイン率いる難民軍がボヘミアへと退去してから数日が過ぎたある日、ようやく懸案事項が片付いたと安堵していた勇者領に衝撃が走った。なんと、かねてより勇者領に潜入し、先の戦争犯罪人の行方を追っていた帝国の特殊兵が、アルマ国内でアイザック11世を発見したというのだ。

 

 アルマ国に匿われていた11世は帝国兵の尋問に対し、将来の決起を企んで、仲間たちがまだまだ勇者領内に潜伏していることを仄めかしたらしい。決起とは即ちヘルメス領を取り戻すことであり、これを重く見た新ヘルメス卿アイザック12世は、勇者領に潜伏中の不穏分子を一掃すべく、帝国軍の通行許可を13氏族に要求した。

 

 緊急開催された連邦議会は紛糾し、もはやアルマ国を吊るし上げるだけの魔女裁判の様相を呈していた。せっかく、邪魔な難民を追い出し、帝国との関係が改善されるはずだったのに、それをアルマ国が台無しにしたからだ。

 

 アルマ国はそれに対し、ヘルメス領は友好国で11世の亡命を助けるのは、当時としては当たり前のことだったと弁明。逆に、帝国の要求をいくら聞いたところで、それは勇者領が完全屈服するまで尽きることはないので、今すぐに徴兵を行い、来る戦いに備えるべきだと堂々と主張した。

 

 しかし、そんなアルマ国の提案に賛同する者は誰ひとりとしておらず、議会はアルマ国に対する非難決議を採択して閉幕した。この多数派による一方的な仕打ちに、アルマ国王は深い失望を表明し、続く対策会議への参加を拒否して国に帰ってしまう。これを残った12氏族は大したことと思っていなかったが……

 

 ところが、議会を欠席して国に帰ってしまったアルマ国王は、自国に帰るや帝国に単独降伏し、帝国軍の進駐を受け入れると表明したのである。どうせ議会は保守派の意見を全く聞かず、帝国に譲歩するばかりで、いずれは帝国軍の侵入は避けられない。だったらいっそのこと、自ら招き入れて、自分の領地だけでも守ろうという苦肉の策であった。

 

 この事態に際し、連邦議会は裏切り者のアルマ国を痛烈に非難したが、そんなことをしたところで後の祭りである。議会を支配するリベラルは、寧ろこの事態を招いた犯人探しで内ゲバを始める始末であった。

 

 ともあれ、不遇をかこっていた保守派はこれで息を吹き返し、国防に関する議案がようやく可決され始めた。こうして勇者領12氏族は重い腰を上げ徴兵を開始した。しかし、そんなスピード感に欠ける勇者領に対し、帝国軍の方はアイザック12世を総大将に据えると、兵3万を勇者領へと派遣。勇者領がもたついている間に、速やかに部隊の展開を始めてしまう。

 

 それはヘルメス国を狙う11世一派をあぶり出すという名目ではあったが、実態は明らかに兵力に物を言わせた実効支配が目的であった。対する12氏族は、帝国軍の南下を阻止すべく、数だけはどうにか揃えた連邦軍を派遣。これを勇者軍と号した。こうしてブレイブランドを舞台にした戦闘がいよいよ行われようとしていた。

 

***********************************

 

 パチパチと焚き火の爆ぜる音がする。ホウホウとフクロウが鳴く声が聞こえる。生い茂る木々は一条の月明かりさえ通さず、森は暗闇に閉ざされていて、宇宙空間にでもぷかぷか浮かんでるような、そんな錯覚を覚える。焚き火の炎が届く範囲だけが人間の領域だ。こうして長く森に暮らしていると、どれだけ人類が火に助けられてきたのかと、鳳は身にしみて感じていた。

 

 こぽこぽと音を立てて、鍋の中の水が沸騰したのを知らせていた。火から下ろして茶葉を放り込むと、香ばしい匂いが辺りに広がった。ギルド支部から持って出たカフェインは残り少なく、寝ずの番の時しか飲めなかった。早く人里にたどり着かなければ、そろそろ物資がきつくなってきた。レモン代わりに、その辺に生えていた柑橘類を入れて一息つく。

 

 ガルガンチュアの村から追い出されて一週間が経過した。もはや大森林に留まる理由もないので勇者領を目指しているのだが、この広大な森の出口はまだ見えなかった。地図によればそろそろ森の外周に差し掛かってもいい頃なのだが、あと一日くらいは掛かるだろうか。たった一日のはずが、久しぶりに人里に期待が膨らむのか、妙にその一日が長く感じられた。

 

 眠れないから寝ずの番を代わったのであるが、こうして夜中に一人の時間を持ちたかった理由はもう一つあった。出掛けに長老に渡された地図に書かれた文字の解読である。長老は、鳳に例のマジックマッシュルームが生えている場所を教えてくれたのであるが、普段から文字を書き慣れてない長老の地図は、読み解くのも一苦労だったのだ。

 

 移動の最中もちょくちょく作業を進めていたのだが、やはりそのための時間を作ったほうが断然効率が良く、だから積極的に夜の番を務めていたのだが、そのお陰で作業もようやく終わりが見えてきた。

 

 鳳が作業を中断して一服していると、テントの方からジャンヌがのそのそと起き出してきた。鳳の次に寝ずの番をする予定だったから、そろそろ交代の時間のようである。彼は拳が入るんじゃないかと言うくらいの大あくびをかましながら、焚き火の方へと近づいてくると、

 

「おはよう白ちゃん、今日も頑張ってるわね。解読作業の方は順調かしら?」

 

 鳳はそんなジャンヌに淹れたばかりのお茶を差し出しながら、

 

「おう、もう殆ど解明できたも同然だ。つっても、結局は地図のほうが重要だったみたいだけどな」

「ふーん……何が書いてあったのかしら?」

 

 鳳は長老の地図を広げながら、

 

「長老は、この地図の場所が、大森林の大体どの辺にあるのかってことを、地図の余白に書いてたんだよ。地図には大きな木や川みたいな目印がいっぱい書かれてるんだけど、ごちゃごちゃしててよく分からない。でも、長老の文字を読み進めていくと、これはどうやら、俺たちが丁度今向かっている大森林の外周部、勇者領に面した場所らしいことが分かって来るんだ。で、そこに村の神様を祀った祠があって、あのマッシュルームはその周囲に自生してるんだって」

「へえ~……あの村の神様って言うと、リュカのことじゃないの? 四柱の神の」

「それがどうも違うらしいんだな。具体的に何ってことは書かれてないけど、なんか神様を示す不思議なマーク? みたいのが描いてあって、長老はこれを辿っていけば神様のとこに着くよみたいなことを言ってるんだわ」

「なにそれ、ちょっと怖いわね……マークってどんなのかしら?」

「これなんだけど」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 鳳は地図の上に描かれてるマークを指差した。ジャンヌはそのマークを見ながら、

 

「シンプルなマークね……太極図? 違うわね。数字の6とか、9にも見えるわ」

「それだと向きが逆だろう。俺には大きな腕が、上の方から何かを掴んでいるように見える。もしかすると、これが神様の腕なのかも知れん」

「ふーん……そう言われてみればそう見えなくもないけど……でも、三本指の動物なんていたかしら? カエルとか?」

「カエルは4本じゃなかったっけ? 確か、蹄のある動物に居たはずだ……サイだっけかな」

「サイ……そんなのが神様っていうか、魔獣化していたら怖いわね」

「いや、お前のほうがよっぽど怖いと思うよ」

 

 そんな話をしていると、いつの間にかだいぶ時間が経っていた。鳳はジャンヌに火の番を代わってもらって床についた。この一週間、長老の地図の解読に手間取っていたが、通り過ぎる前に作業が終わってよかった。

 

 せっかくだから、レオナルドやギヨームに頼んで、明日はこの地図の場所に向かってみよう。もしかしたら、何かあるかも知れない。少なくとも、マジックマッシュルームはあるのだし……彼はウキウキと明日のことを考えながら目を閉じた。

 

 翌朝。

 

 起きてきたレオナルドたちに頼んで、長老の言う神の祠に行ってみたいとお願いし、現地へ向かうことになった。レオナルドが興味示すとギヨームは反対しなかったし、唯一、非戦闘員であるミーティアが嫌がったが、鳳が疲れないよう馬に乗せてあげるからと言うと、最終的にはぶつくさ言いながらついてきた。長いものに巻かれやすい人である。

 

 目的地は大森林の外周……というか外にあったらしく、地図を頼りに進んでいったら、やがて頭上を覆う木々の葉が日光を通し始め、足元の雑草はどんどん背が高くなり、ついには大森林を抜けてしまった。そうしてたどり着いた先には広大な峡谷が広がっており、見渡す限りの荒野はまるでグランドキャニオンを見ているようだった。

 

 森を抜けたらいきなりこんな場所に出るとは思いもよらず面食らっていると、レオナルドはここがどこだか分かったようで、歩きながら話をしてくれた。勇者領は海を埋め立てる干拓事業から始まったのだが、300年の間に徐々に陸地の方へも開発の手が進み、今では北海道くらいの広さを持つ国になっているそうだ。

 

 その昔、ここには大河が流れていて、昔の人々はその水源を目当てに開拓をしようとしたらしい。ところがそうして次々と木が倒されて森がなくなると、赤道直下の乾燥した気候のせいで、川が干上がってしまったのだ。

 

 海に面した土地は降水量のおかげで肥沃な土地になっているから勘違いしがちだが、内陸部は乾燥した大陸気候のせいで、実は簡単に砂漠化が進んでしまうらしい。

 

 広大な大河であっても、大自然の前にはかくも儚いものなのかと、あてが外れた勇者領の人々はこれを教訓とし、それ以降は気候条件の変わる場所を境界線として森を開拓するようになって、それが現在の勇者領の形になっているそうである。

 

 こうして自然の脅威をまざまざと見せつけた峡谷は、その後、人が住めなくなったために放置され、長い年月をかけて徐々に風化し、今では砂と岩だらけの不毛な土地となってしまった。この辺りには人は全く近寄らないので、ここに長老の言う神の祠があるのだとすれば、誰にも知られていないことも頷けるとレオナルドは言った。

 

 ともあれ、薄暗い森を抜けて久しぶりの日光である。砂漠の暑さにやられてしまわないように、ここから先は慎重に進まねばならない。特に、冒険者ではないギルド長とミーティアは体力面に不安がある。そして彼らが連れているのはラクダではなく馬なのだから、水場を確保しなければ、早晩動けなくなってしまうだろう。

 

 そんなわけで峡谷にたどり着いた鳳たちは、まずは日陰を中心に水場を探した。そしてそこをキャンプ地として、動ける者で周囲の探索をしようという運びとなった。幸い、元大河であるからか、地下水が流れているらしく、水場は割りとあっさり見つかった。そしてそこにテントを張っている最中に、もう一つの幸運が舞い込んできた。

 

 長老の地図はおそらくこの場所を描いているのだろうが、地図に書かれている目印の木や川のようなものは殆ど見つからなかった。多分、長老はここに来たことがあっても、若い頃の話だろうから、目印が全部風化してしまったのだ。

 

 目印がなければ地図は役に立たない。それで一旦は手詰まりになってしまったのであるが……もしかしたら高いところから見れば何か見つかるかも知れないと、身軽なマニが崖を登ってみたところ、たまたまそこに洞穴があって、中に壁画が描かれており、そこに例の神様を示すマークが描かれていたのだ。

 

 長老は、このマークを辿っていけば、神の祠に着くと書いていた。この壁画を誰が描いたか分からないが、おそらくは大昔の村のシャーマンが、ここに来た時に目印になるようにと遺してくれたものだろう。つまり、探せばまだあちこちに壁画があるはずだ。

 

 そんなわけで、一行は短期滞在のための薪や食料を集めたあと……翌朝、キャンプにギルド長とミーティア、ルーシー、それから乗ってきた馬を残して、周辺の探索へと出掛けた。こんな地道な作業、レオナルドは参加しないだろうと思っていたのだが、どうやら彼もガルガンチュアの村の秘密が気になるようである。

 

 因みに探索ではスキルのあるギヨームではなくて、メアリーとマニが活躍した。ふたりともまだ子供だから身軽であり、また、こういった宝探しみたいなことが楽しくて仕方ない年頃のようである。いや、メアリーは子供ではなく300歳だし、マニは9歳だけど成人しているのだが……まあ、楽しそうだから良しとする。

 

 そんなこんなで、太陽が頭の天辺に差し掛かる頃には、結構な数の壁画を見つけた。そして次々と見つかる壁画の場所を地図にプロットしていくと、徐々に傾向というか、それが指し示す方向が見えてきた。

 

 昼食のために一旦休憩を取り、食後の運動を兼ねて予想した場所を探しに行くと、案の定新しい壁画が見つかった。どうやら、この方角で間違いないようである。これだけ分かればもう十分だろうと、鳳たちはバラバラに探索することはやめて、一団となって目的地の方へと歩いていった。

 

 そしてついに、探していた神の祠は見つかった。

 

 壁画は、壁の絵画というだけあって、どれもこれも、風などによって自然に掘られた横穴に描かれていた。つまり、崖のある場所を重点的に探していくと見つかるわけだから、壁画をどんどん辿っていくと、それは峡谷の低い場所へと向かっていた。

 

 そこは大昔には川底だったのだろう、両脇を高い崖に囲まれた谷底を歩いていくと、鳳はある場所に差し掛かった時、なんだか見ている風景に違和感を覚えた。

 

 何故かはわからないが、なんとなくそっちの方に何かがあるような気がするのだ。何が気になるんだろうか? と目を凝らして見てみると、谷が作る影がカモフラージュになっていて、入り口が目立たなくなっている横穴を発見した。

 

 これも自然に開いた横穴だろうか? と思いながらその中を覗いてみると、奥の方から光が漏れている。どうやらそれは洞穴ではなくて、谷の向こう側に続くトンネルになっているようだった。

 

 こんなトンネル、とても自然の侵食によって出来るような物じゃないから、もしかしなくてもこれは人の手によって作られた物なのかも知れない。誰が作ったか知らないが、この先に人工物がある可能性は非常に高いわけである。鳳たちは胸を躍らせながら、そのトンネルをくぐり抜けると……

 

「うひょー! 宝の山やんけ~!」

 

 トンネルを抜けた先には、ぽっかりと開けた広場があり、そこに目的のマジックマッシュルームが群生していた。それは鳳の目には蛍光色に輝いて見えて、まるで王蟲の大群が作る光の絨毯のようだった。

 

「するとここは風の谷。うひひひひ」

「おい、こら、待て!」

 

 ギヨームが止めるのも聞かず、じゅるじゅると唾液を滴らせながら、だらしない顔をした鳳が駆け寄っていく。こんな不自然な空間、何があるか分かったものじゃないから慎重になれと言いたかったのだが、もはやあのジャンキーは何も聞こえていないようだった。ギヨームは、はぁ~……とため息を吐きながら、とりあえず安心そうだから、鳳の後に続いてトンネルをくぐり抜けた。

 

 広場は四方を高い壁に囲まれていて薄暗かった。頭上にはこの砂漠の中では珍しく、青々とした木漏れ日が差し込んでいて、この辺りに水場があることを示しているようだった。日中の太陽の高い間しか陽が射さず、じめじめしているからキノコの生育に丁度良かったのだろう。恐らく、上を歩いていても、茂みが邪魔になってここの存在に気づかないはずだ。

 

 広さ的には20メートル四方くらいだろうか、若干、天井がせり出していてドームのような空間になっている。その壁際にひしめき合うようにキノコが群生していて、広場の中央には石でできた柱が数本立っていた。

 

 自然物のようにも見えるが、こんな分かりやすく均等に配置されているのだから、人工物に違いない。見る人が見れば、ソールズベリのストーンヘンジを思い浮かべるはずだ。だが、あれは大昔の人が暦を測るために作ったそうだが、ここには太陽の光が差し込まないから、そんな意味はないだろう。

 

 すると一体、なんのためにこんなものを建てたのだろうか……? 長老は神様の祠と言っていたらしいから、何か祀られているのだろうか。

 

 ギヨームがそんなことを考えながら周囲を探っていると、

 

「ふむ……ここはもしや、迷宮(ラビリンス)ではなかろうか」

 

 背後でこちらの様子を窺っていたレオナルドがそんなことをポツリと呟いた。

 

「迷宮だって? ここが!?」

 

 驚いて振り返ると、老人はこっくりと頷き返し、

 

「ここには精霊のような気配を感じるが、どうもそれとは少し違う、別の霊障が存在するようじゃ。迷宮とは生前、強いクオリアを形成した者の肉体が滅び、その意志だけがこの世に残ったものを言う。なんというか、霊魂とか精神とか、そういったものが死して実体化したものを言うのじゃが……」

 

 レオナルドはそんな話をしている最中に、ふと何かに気づいたように、持っていた杖で広場の中央を指し、

 

「ほれ。そうやって意識してみれば、あちらの方からお出ましのようじゃぞ」

 

 その言葉に驚いて、ギヨームが再度振り返ると、さっきまで何も無かったストーンヘンジの中央に、巨大像の台座のような四角い物体が現れていた。その中央の部分がぽっかりと口を開けている。近寄って、中を覗き込んでみると、台座は1メートル四方ほどの幅しかないはずなのに、中はずっと奥まで続いているように見えた。こんな物理法則を無視した物体が、現実にあるとは思えなかった。なんだか、だまし絵を見ているようだ。

 

「これが、迷宮か……初めて見た」

 

 ギヨームはゴクリとつばを飲み込んだ。冒険者の最大にして最終目標、迷宮(ラビリンス)。その入口が今、彼の目の前に開いていた。

 



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迷宮・ラビリンス

 長老の地図を頼りにマジックマッシュルームを探しに来た鳳たちは、そこでストーンヘンジみたいな人工物を発見した。長老が神の祠と書いていただけあって、どうやらそれには霊障を感じさせる何かがあるようだった。

 

 レオナルドはその祠を見て、もしかしたら迷宮(ラビリンス)であるかも知れないと言った。迷宮とは世界中の冒険者ギルドがその在り処を探し、中にある財宝を手に入れることを目指している、言わばギルド最大目標の一つであった。

 

 ギヨームも初めて見るという、その希少な建物を前にして、レオナルドが話をしていると、それを遠巻きに見ていたメアリーや、マジックマッシュルームに夢中になっていた鳳も興味を示して近寄ってきた。

 

「なになに? ここってそんなに珍しいものなの?」

「まあな」

「中には何があるの? 金銀財宝みたいな、すごいお宝が隠されているのかしら」

 

 メアリーがそう尋ねると、レオナルドは苦笑気味に、

 

「いいや、そのような即物的なものではない。いや、ある意味即物的ではあるかも知れんが……迷宮を攻略することによって得られる財宝とは、ずばり凄い能力のことなんじゃ」

「そう言えば、以前、どっかで聞いたな。ギヨームみたいなクオリアが手に入るんだっけ?」

「うむ。その可能性は大いにあるが、厳密にはちょっと違う……」

 

 鳳たちは首を捻っている。

 

 まあ、迷宮を前にしてろくな説明もないのでは、彼らも気持ちが悪いだろう。レオナルドはそう思い、少々長くなると前置きしてから話し始めた。

 

「……鳳には以前、話したことがあったな。儂は前世で神を目指しておった。具体的にはイデアを見つけようとしていた」

「ああ、そんなこと言ってたな。それが?」

「……人間は物体(マテリア)を見るたび、それは何か? とイデアと比較し、判断をしておる。例えば猫を見て、誰もがそれを猫と判断できるのは、万人に共通する猫のイデアがあるからじゃ。

 

 ところで古今東西、まるで接触の無かった文明同士でも、何故か神話や法律に共通性が見つかることがある。それもまた、万人のイデアが存在するからと考えられんじゃろうか? つまり、現実には見えないイデア界のようなものがどこかにあって、我々人間の魂は、もしかしたらそこで繋がっているかも知れないと言うわけじゃ。

 

 するとまた、こうも考えられる。

 

 神は土くれの人形に自らの息を吹き込んで人間を作った。故に、人間の精神というものは、魂に存在すると考えられておる。魂は煙のような形のないものであり、またどんな形にもなれると考えられる。

 

 人間が何か物質(マテリア)を見ると、魂はその形に変化し、その形状を記憶する。そして魂は、その形状とイデアを比較して、今見た物質が何であるかを判断する。つまり魂とは、物質とイデアを結ぶ架け橋のようなものと考えられるわけじゃ。

 

 魂は、新しいものを見るたびに形を変え、その形状をどんどん記憶していく。次に同じものを見た時は、イデアに確認せず、その形状だけで判断できるようになる。これがクオリアじゃ。

 

 一度形成されたクオリアは、その物(マテリア)を見れば見るほど、それが何かという判断が早くなってくる。だが、逆に多くを知れば知るほど、人間はそれが何か分からなくなってくる。物の裏側が見えてくるというわけじゃな。だからたまに、クオリアはイデアを確認し、修正する。

 

 イデアは、物質だけではなく、イメージやアイディアにも存在すると考えられる。だから、一生懸命物事を考えたり、見たり聞いたりして生きている人ほど、イデアとのつながりが増えていく。つまり、よく考え行動する人ほど、クオリアはイデアに近づいていくわけじゃ。

 

 そのような、イデアとの連結が強固なクオリアが形成された魂とは、どのようなものじゃろうか。

 

 神は自らに似せて人間を作った。つまり人間のイデアとは、即ち神のことである。神には時間が存在せず、永久不滅の存在じゃ。例えば、人間が死んでその人のクオリアが消滅したとしても、イデアは人類が消滅しない限り消えることはない。

 

 しかし、強固なクオリアを形成した者が死んだ場合、そのクオリアはどうなるじゃろうか。限りなくイデアに近づいたクオリアは、もはや死ねば消え去るような脆弱なものではなくなっている。イデアと同様、永久不滅となり、神のように肉体を離れ存在するようになるはずじゃ。

 

 それが迷宮(ラビリンス)じゃ」

 

 辺りに沈黙が流れた。レオナルドの難解な話を理解するため、一生懸命頭の中で整理しながら聞いていた鳳たちは、その結論を聞いてもすぐには理解できず、いくばくかの沈黙の後に、突然思い出したかのように、

 

「……え? 迷宮!? 迷宮って、ダンジョンとかそういうんじゃなかったの!?」

「そのような形状を取る場合もある。財宝を得るためには、ダンジョンを攻略しなければならないというような……まあ、中に入ってみれば一目瞭然なのじゃが、要は迷宮とは死んだ人間の置き土産(クオリア)なのじゃ。

 

 先に言った通り、人間の魂はイデア界で繋がっておる。すると我々の魂と迷宮もまた、イデア界を通じて繋がっておる。つまり迷宮は体で攻略するわけではなく、心で攻略するわけじゃな。そして迷宮を攻略すれば、生前のその人のクオリア……つまり意志や記憶を引き継ぐことが出来る。それを儂らは迷宮の財宝と呼んでおるのじゃ」

 

 老人のそんな説明を、鳳は自分なりに噛み砕いて消化しながら、

 

「なんとなくわかったけど。とにかく、迷宮を攻略すれば、死んだ人の記憶や能力を継承できるわけだな?」

 

 するとレオナルドはこっくりと頷いて、

 

「左様。そして、このような強固なクオリアを残すような人物は、言うまでもなく超人の類いじゃ。例えば、ギヨームのような強力な現代魔法を使えたり、儂のように幻想具現化が可能となったりする……かも知れん。人によっては役に立たない物もあるかも知れぬが、損することはない。故に、迷宮は攻略し得なわけじゃ」

「ふーん……実際に、どんなものが手に入るんだ?」

「儂は以前、お主らに古代呪文を使ってみせたことがあるじゃろう?」

 

 鳳は言われて思い出した。国境の町の攻防戦で最後に逃げ出す時、外の兵士に向かってでかいのをぶっ放したやつだ。あれは前世のゲームの中で、鳳が得意にしていた魔法だったからよく覚えているが、確かこっちの世界では失われた禁呪だったはずだ。

 

「儂は大昔、魔王討伐よりも前の話じゃが、古の大魔法使いの迷宮を攻略したことによって、あの力を得たのじゃ。まあ、燃費はすこぶる悪いんじゃがな……こんな具合に、迷宮攻略に成功すれば、人間であっても古代呪文を使えるようになることもある」

 

 この言葉にメアリーが身を乗り出して反応した。

 

「じゃあもしかして、ここの迷宮を攻略したら、私にもリザレクションが使えるようになるのかな?」

「ここのクオリアの持ち主が、生前にそれを使えたならばな。具体的に迷宮を残した者が誰だったのか分からなければ、何が手に入るかは分からぬよ」

「ふーん。じゃあ、それが分かるまでは入らないほうがいいのかな?」

「それが可能ならばな。残念ながら人間のクオリアというものは、この世にその人の持つ一つしか存在しない。故に、誰かがそれを手に入れてしまえば、迷宮は消えてしまう。悠長に下調べをしていて、誰かに先に攻略されてしまっては元も子もないわけじゃ」

「なんだよ。それじゃあ、誰が手に入れるか先に決めておかなければ、ここにいる6人で競争になっちまうじゃねえか」

 

 ギヨームがそんな感想をポツリと漏らすと、メアリーがそれに応じるように、

 

「だったら私に譲ってほしいわ。リザレクションを覚えるチャンスかも知れないもの」

「だから覚えられるかどうか分からないって言ってんだろ。大体、俺も欲しいに決まってるじゃないか。ジャンヌだってそうだろ?」

 

 ギヨームに話を振られると、ジャンヌがしどろもどろに、

 

「え!? そりゃあ……まあ、そうねえ。せっかくだし。冒険者になったときから、迷宮攻略は目標の一つだったから」

「なら、俺だって欲しいぞ。今んところ、戦闘じゃ役立たずだし。ぶっちゃけ俺が一番必要だと思う」

 

 鳳までそう主張すると、四人は一歩も退かないと言わんばかりに、お互いに顔を突き合わせ、牽制し合うようにじろじろとにらみ合いを始めた。そんな四人を嗜めるようにレオナルドが間に入り、

 

「これこれ、お主ら、こんなことで仲違いするでない。第一、協力しあわなければ、迷宮攻略なぞ到底不可能じゃぞ」

「そりゃまあ……そうだけど」

「それに、誰が手に入れると決めたところで、首尾よくその人が財宝を手に出来るとも限らん。迷宮は、元はと言えば人間のクオリアじゃ。他人の物の見方を手に入れるということは、そもそも、自分の見方を変えると言う柔軟性が必要であり、手に入れる以前に、合う合わないという感覚の問題もある。本人が望んでいないのに手に入れてしまうこともあれば、その逆の可能性もある。要は、入ってみなければ分からんのじゃ」

「なーんだ、そう言うものなんだ……」

 

 レオナルドの説明に、メアリーはちょっと残念といった顔をしてから、たった今まで睨み合っていた3人に向かって頭を下げ、

 

「ちょっと大人気なかったわ。レオの言う通り、みんなで協力しあいましょう」

「そうね。こんなことで喧嘩するのはつまらないもの」

「そんじゃまあ、誰が手にしたところで恨みっこなしだ。考えても見れば、迷宮攻略自体に興味があったんだし、俺はそれだけでも構わねえよ」

 

 ギヨームまでそう言うと、それを聞いていたレオナルドが、

 

「待て待て、お主ら、もしかして今から中に入るつもりなのか?」

「爺さんが言ったんじゃないか。悠長にしてて、誰かに先を越されたら意味がないって」

「確かにそう言ったが……ふむ」

 

 鳳の返事にレオナルドは眉をひそめ、ほんの少し思案してから、

 

「そうじゃな。百聞は一見にしかずと言うし、ならばお主らだけで、少し探索してくると良い」

「なんだよ? 爺さんは一緒に行かないのか?」

「儂は既にいくつかの迷宮を攻略したことがある。財宝を手に入れたこともあるし、これ以上増やすつもりはない。お主らに譲るので、遠慮なく行って来るが良い」

「いや……攻略経験があるなら、寧ろ一緒に来てほしいんだけど……」

 

 どうやら老人は留守番を決め込んでいるようだ。同じく、マニも怖いからという理由でその場に残ると言っていた。鳳たちはレオナルドの態度に少々引っかかりを覚えたが、かといって目の前にある迷宮の魅力には抗えず、結局4人だけで中に入ってみることに決めた。

 

「……何があるかわからないから、最初は入口付近を軽く探索するに留めよう。本格的な調査は、一度キャンプに戻って、ギルド長たちに話してからでいいな?」

「ああ、それでいいんじゃないか。急ぐ旅でもないし」

「それじゃ、みんな気をつけて行きましょう」

 

 そう呼びかけるジャンヌに応えてから、ギヨーム、メアリー、鳳、ジャンヌ……四人はその順番で一人ずつ迷宮に足を踏み入れた。

 



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はじめての迷宮こうりゃく

 迷宮の入り口はまるでだまし絵でも見ているかのようだった。ストーンヘンジの中央に、彫像が取り除かれた後の台座のような物が突き出しており、その台座の真ん中に、迷宮はぽっかりと口を開けていた。中は真っ暗闇で、松明を掲げても先の方は何も見えない。というか、それ以前に、その空間の広さはありえないのだ。

 

 入り口の台座はせいぜい2メートル四方くらいの幅しか無いのだが、その中に広がっている空間の方は明らかにそれを超えている。下手するとこのストーンヘンジが置かれている広場よりも更に広いのだから、中の空間が歪んでいるのはほぼ間違いないだろう。

 

 いくらなんでも、そんな異常な事がありえるのか? と思いもしたが、こういうことなら以前にも覚えがあった。アイザックの居城であるヴェルサイユ宮殿には、謎の裏ステージとメアリーの閉じ込められた結界があった。つまり、ここもあれと同じようなことが起きているんだろう。

 

 レオナルドは迷宮のことを、大昔の偉人のクオリアだと言った。とすると、この先は物理的な空間ではなく、精神的な何かなのかも知れない。そう考えれば、あの時、大した広さでもない城の庭で迷ったり、ポータルでジャンヌを呼び出せた理由も分かる気がする。それは下手すると、物理法則が成立しないということだから、尚更気をつけなければならないだろうが。

 

 しかし、何に気をつけて進めばいいのだ? 精神世界は、恐らく物理世界の法則が通じないはずだ。常識が通じないのであれば、気づいた時にはもう手遅れなのでは? そんなことを考えつつ、先を行くメアリーの背中をしっかりと見ながら、迷宮の入り口をくぐった鳳は……

 

「おいおい、勘弁してくれよ。いきなりこれか?」

 

 入り口をくぐった瞬間、なんというか水の中に飛び込んだ時のような、もしくは風圧の変わる建物に入った時のような、見えない境界のような何かを超えた感じがした。すると次の瞬間、鳳の視界からほんのつい今まで見ていたメアリーの姿が消え、気づけば彼は一人になっていた。

 

 背後を振り返っても、あとに続くはずのジャンヌも居ない。もちろん、先頭を歩いているはずのギヨームの姿もである。ついでに言えば、たったいま入ってきたばかりの入り口さえ見えなかった。

 

「おーい! ジャンヌー! ギヨーム! メアリー!!」

 

 焦って大声で仲間を呼んでも、誰の返事も返ってこなかった。というか、自分の声が反響すらしないことからして、どうやらここはとんでもなく広い空間のようである。一体どのくらい先まで続いているのだろうか? 視界は暗闇に閉ざされていて何も見えない。こういう時は壁を伝って進むのがいいのだろうが、その壁がどこにあるのかさえ分からなかった。もしかすると、そんなもの無いのかも知れない。

 

 完全に閉じ込められてしまった……どうすりゃいいんだろうか? と足元を見るも、そもそも自分は何の上に立っているのだろうかと言うくらい何も見えなかった。足踏みするとジャリジャリと砂を踏む音が聞こえるから、地面はあるようだが、足元も真っ暗で、まるで光を吸収する暗幕の上にでも立っているような感覚だった。周辺も同じような状況である。

 

 かといって、視界ゼロかと言えばそうではなく、何故かは分からないが、自分の体や着ている洋服は割りとはっきり見えていた。見えるということは、光源があるはずなのだが、もちろんそんなものは見つからない。なんだか星一つ無い宇宙空間にでも放り出された気分である。

 

「こういうのを超空洞って言うんだっけ? バルク空間?」

 

 それは次元の狭間のことである。多世界解釈では宇宙が変われば物理法則も変わるはずだから、案外、的を射ているのかも知れない。それが分かったところでどうしようもないのであるが……

 

 ともあれ、足がつくということは重力があるということだ。無重力状態ならお手上げだったが、地に足がついてさえいれば、いつかどこかにはたどり着けるはずである。ここで止まっていてもどうにもならないのだから、歩いていける場所を片っ端から調べてみるしか無いだろう。

 

 取り敢えず、当面は迷宮の攻略ではなく、仲間との合流や、出口を探すのが先決だ。そう考えながら鳳が歩きだすと、それは思いの外あっさり見つかった。

 

 出口はどこだろうと考えた時、彼は頬に風を感じた。最初は気のせいかな? と思ったのだが、指を咥えて頭上に翳してみると、確かに一定方向から風が感じられた。

 

 風が吹いてくるということは、そっちの方に出口があるのかも知れない。意気揚々と歩き出した彼は、そして間もなく、信じられないものを発見した。

 

 いや、信じられないと言うか、寧ろあまりに馴染み深い物だったのだが……彼が風を頼りに歩いていると、数分ほどで前方にぽつんとした光源があることに気がついた。まだ遠くにあるそれは緑色をしていて、地面に直接置かれているのではなく、丁度自分の背丈くらいの高さにあるようだった。

 

 なんだろう? と思いながら近づいていくと、それは長方形の非常階段によくある感じの非常灯の形をしていて、まさかなと思いながら足を早めて近づけば、ついに視界に飛び込んできたのは、そのまさかの非常口の場所を知らせる非常灯だったのである。

 

 緑地に、白い矢印と、扉に駆け込む人間のシルエットが描かれている。その横には、ご丁寧に『非常口・EXIT』の文字も書かれてあった。病院とか、公共施設の中で、誰だって一度は見たことがあるだろう。それは紛うことなき非常口であった。

 

「マジかよ……なんでこんなとこに?」

 

 普通に考えて、この迷宮の主である異世界人が、こんなものを知っているとは思えない。するとこれを見せているのは、もしかして鳳の記憶なのではないだろうか。レオナルドは、全ての人間の魂はイデア界で繋がっているから、迷宮のクオリアを手に入れることが出来るのだと言っていた。

 

 ところでそれは逆のことにも言えないだろうか? つまり、迷宮の方が鳳のクオリアを弄って、これを見せているのだ。何もない、空っぽの世界なんて、実に自分らしいではないか。そう考えれば、出口はどこだろう? と考えた瞬間、急に手がかりが見つかったことの辻褄も合う。風が吹いてきたのも、非常口が見つかったのも、鳳がここから出たくて見せた幻というわけだ。

 

「じゃあもしかして、この先に本当に出口があるのかもな」

 

 彼はそう思い、目の前に現れた非常口の扉をくぐった。ところが……

 

「え!?」

 

 彼が扉をくぐると、その先にはまた同じ扉があって……そこに誰かが立っているのが見えた。それはあまり見覚えのない、だけど誰よりもよく知っている人の背中だった。

 

 それは頭上の非常灯に照らされて、うっすらと緑色に染まっている。背丈は自分と同じくらい……というか、恐らく、多分、1ミリの誤差もなく同一だ。何故なら、そこにいるのは彼自身、鳳白そのものだったのだ。

 

 彼はびっくりして、咄嗟に背後を振り返った。その瞬間、目の前の背中も同時にこちらを振り返って、一瞬だけ自分の顔が見えた。

 

 真っ青になった彼の瞳が何を見たのか……それはたった今、自分が目撃している、驚愕して振り返る自分自身の背中であったに違いない。

 

 つい今しがたまで、自分が歩いてきたはずの真っ暗な空間はもうどこにもない。代わりに今、自分がくぐったばかりの非常口がそこにはあって、更にその非常口を抜けた先にもまた別の非常口があって、それが鏡合わせみたいにどこまでもどこまでも永遠に続いている。そしてその全ての非常口の下に、自分の背中が見えるのだ。

 

 世の中には自分に似た人間が三人はいるという。そしてドッペルゲンガーを見たものは近い内に死ぬという。それじゃ今目の前にいる無数の自分を見つけてしまった自分は、一体何回くらい死んでしまうんだろうか?

 

「う……うわ……うわわわわーーーーっっ!!!」

 

 鳳はパニクって悲鳴を上げた。悲鳴を上げて、目の前の自分の背中を掴もうと手を伸ばした。するとその瞬間、目の前の自分もそのまた目の前の自分の背中を掴もうとして前かがみになり、伸ばした手は空を切り、バランスを崩した彼は一歩踏み出す。

 

 すると目の前の自分の背中を掴もうとした自分もまたバランスを崩して一歩踏み出し、そのまま一歩二歩とたたらを踏むと、やっぱりそのまた目の前の自分も同じようにたたらを踏んで……鳳は分けも分からず、とにかくその背中を追い駆けて走り出した。

 

 目の前の自分を捕まえようとすると、同じく目の前の自分の背中が遠ざかっていく。非常口をくぐり抜ければその先にはまた非常口があり、次々と扉が現れては後ろに消え去っていく。

 

 あと少しで手が届きそうな背中を追い駆けてスピードを上げれば、やはり目の前の背中も同じくらいスピードを上げて、鳳がどんどん速度を上げると、通り過ぎる扉もまた同じように次々と後ろへ遠ざかっていく。

 

 もはや自分が走る速度を上げているのか、それとも目の前の背中の速度が上がっているのかわからない。実は走っている電車の中みたいに、動いているのは地面の方なんじゃないか。次々と現れては背後に消え去っていく非常扉は、鳳が速度を上げるたびにどんどん遠ざかっていくスピードを上げて、やがて回転するタイヤのように背後から現れ前方へと消えていくようになっていた。

 

 彼は前に進んでいるのか、それとも後ろ向きに走っているのか、だんだんわけがわからなくなってきて、気がつけばさっきまで手の届きそうな距離にあった自分の背中が、信じられないくらい遠くに見えて、追えば追うほどその背中は加速していき、なんだか空間そのものが引き伸ばされているような感じがしてくる。

 

 もはや過ぎ去る非常口は溶けるバターのように高速で遠ざかり、鳳は加速する自分の体に押しつぶされ始める。ぎゅうぎゅうと前後に潰され、ぎゅーっと上下に引っ張られて、彼は苦痛から悲鳴を上げるが、それでも体は速度を増すことをやめなかった。

 

 苦しみながらそれでも加速を続ける彼の体は、やがて光速を超えて光を背後に置き去りにし始めた。時間は過去へと巻き戻り、体はどんどん小さくなっていく。それは物理的にではなく時間的に、彼の体はどんどん過去へと帰っていった。

 

 ソフィアに告白することも出来ず、オンラインゲームに夢中になっていた頃の自分。父親に頭を下げて、家具のない部屋の中に蹲っていた頃の自分。ホームレスになってダンボールハウスで暮らしていた頃の自分。鬼のように憎悪を燃やし、先輩たちを次々と襲撃していった頃の自分。その先輩たちと一緒に笑っていた頃の自分。中学に上がった頃の……まだ小学生だった頃の……そしてエミリアと出会った頃の自分。

 

 どんどん過去は過ぎ去っていき、ついに彼は赤ん坊になってしまった。体はふわふわとして手足が殆ど動かせず、息苦しさを訴えようとしても言葉が出なくて、代わりになんだか悲しくもないのに涙が出てきて、彼はおぎゃあと泣き声を上げた。

 

 するとどこからか一人の女性がやってきて、愛おしそうに彼の体を抱き上げた。よしよしと言って頭をなでる女性の声を聞いていると、なんだか信じられないくらい満たされた気分になった。

 

 ああ、そうだ。そうなんだ。

 

 こんな自分でも生んでくれた母親がいたはずなんだ。だけどその顔は覚えてないし、こんな記憶ももちろん無かった。だから彼は必死になってその人の顔を見ようとしたが、逆光になって全く見えない。

 

 どうしてこんな大事な時に、自分の体は動かないのか。彼はもどかしくなって叫び声を上げた。母に気づいてほしくて声を上げた。聞いてみたいことがいっぱいあった。話したいことが沢山あった。だけど彼は語る言葉を持たず、声は全部泣き声へと変換される。

 

 おぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあ……どうか母よ気づいて欲しい。自分がここにいることを……おぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあ……あなたからすればまだ頼りないかも知れないけれど、どうにかこうにか一生懸命生きているのだ……

 

 おぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあ……彼は必死になって声をあげ続けた……おぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあ……

 

「これ、しっかりせんか」

 

 パッカーンっ!!

 

 ……っと、脳天に激痛が走って、目の前で火花が飛び散った。

 

「うぎゃああああああああーーーーーっっっ!!!!」

 

 鳳はその痛みに、とんでもない悲鳴を上げた。ズキズキと痛む頭を抱えて、ゴロゴロと地面を転げ回る。やがて痛みが引いてきて、視界がぼやけているのは涙のせいだと分かると、彼は目をゴシゴシと擦って周囲の様子を確かめた。

 

 すると目の前には硬そうな樫の杖を構えたレオナルドが立っていて、地面に寝転がる鳳のことを見下ろしていた。さっきの激痛は、あれに殴られたに違いない。

 

「なにすんだよっ!!」

「なんもかんもあるか。赤ん坊のように丸くなって、おぎゃあおぎゃあと見っともなく泣いておったのはお主じゃろうが」

「……ふぁ?」

「覚えとらんのか? 見ろ」

 

 そう言ってレオナルドの杖が指した先には、悪夢のような光景が広がっていた。自分を抱きしめながら、風に吹かれて何かをぶつぶつ呟いているギヨーム。美味い美味いと叫びながら、地面に生えているキノコをぶちぶちと摘んで貪り食うメアリー。ゴリラみたいにナックル走法で、ウッホウッホと駆け回るジャンヌ。彼は時折立ち止まると、鳳のことをねっとりとした視線で見ながらウインクし、バチバチバチっとドラミングしている。あれはなんだ、メスに求愛でもしてるつもりだろうか?

 

 全員目が血走っていて、完全に我を見失っているのは明らかだった。みんなで迷宮に入ったはずなのに、どうしてこうなっているのかは分からないが、ただ一つ分かることは、これは後で思い出して死にたくなるやつだと言うことだった。

 

「うわ……どうすんだこれ。誰が止めるんだよ? ジャンヌなんて完全に野生に帰っちまってるぞ」

「お主しかおらんじゃろうが、ほれ、はよ行って止めてやれ。儂とマニで後の二人をどうにかしておくから」

「え~……」

 

 当たり前のようにジャンヌ係にされてしまったが、拒否権はないのだろうか。さっきからドラミングしながら鳳を見る目つきが、どんどんいやらしくてなってきて軽く恐怖を感じるのだが……

 

 出来ればあんなのに近寄るのは御免被りたいが、かと言って、いつまでもあのまま放っておくわけにもいかない。鳳は覚悟を決めると、野生のジャンヌの方へと近づいていった。

 



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攻略の糸口は必ずあるはずじゃ

 暴れまわるジャンヌたちを取り押さえたはいいものの、場はひっそりと静まり返ってしまった。我を取り戻した3人は、つい今しがたやらかしてしまった自分の恥ずかしい姿を思い出し、軽くうつ状態になっていた。3人が3人とも、相手の顔を見ることが出来ず、明後日の方を向きながら項垂れており、まるでお通夜のようである。

 

 そんな中で鳳だけが比較的元気だったのは、普段からよくやらかしているからだろう。彼はジャンヌの唾液で全身どろどろになった服をギュウギュウ絞りながら、メアリーたちを取り押さえたばかりで、疲れてぐったりしているレオナルドに尋ねた。

 

「爺さん、俺たちは迷宮の中に入っていったはずなのに、気がつきゃ外でこんなことになっている。この短い間に、何が起きたんだ?」

「大方の予想はついておるじゃろうが、お主らは迷宮の中に入っておらん。というより、入った瞬間外に出てきたのじゃよ。あそこに、迷宮の入口が見えるじゃろう?」

 

 鳳は頷いた。さっき自分たちが入っていった、彫像の台座程度の大きさの、せいぜい2メートル四方しかない小さなゲートである。

 

「お主らはあの真っ暗な入り口から中に入っていったと思ったら、そのまま通り抜けて反対側から出てきたんじゃ。調べた時には、反対側に穴なんぞ空いてなかったから、驚いたのじゃが……すぐにそんなこと言ってられなくなったわい」

 

 外に出てきた鳳たちは話しかけても応えてくれず、最初はうつろな表情だったが、次第に四者四様のおかしな行動を取り始めたらしい。大暴れする彼らを止めるのは容易ではなく、仕方ないので疲れるまで暫く放置した後、比較的マシだった鳳の頭を引っ叩いて正気に戻したそうである。

 

「入る前にも説明したが、迷宮とは精神世界の産物じゃ。従って、物理的ではなく精神的な攻撃の方に長けておる。恐らくは内部に入った瞬間に精神攻撃のような物を食らったのじゃろう。」

「そうかも知れない。実は入った瞬間に他の三人の姿が見えなくなって焦ってたんだよね。その後も自分しか知らないような物が見えたりして、おかしいなって思ってたんだけど……ずっと幻覚を見せられてたんだな」

「レオ……お前、こうなるって分かってて俺たちに行かせたな?」

 

 ようやく、立ち直りはじめてきたギヨームが非難がましく言った。レオナルドは苦笑しながら悪びれもせずに、

 

「言ったところで、あの時のお主らは止められなかったじゃろう。それに、迷宮の中がどうなっているか、入ってみるまで分からんというのは本当じゃ。迷宮が、生前に活躍した人物のクオリアだということは話したじゃろう?」

「ああ……それが?」

「つまり、迷宮には個性があるのじゃ。誰だって、自分の心の中を覗かれたくはないじゃろう? 従って、迷宮は基本的に、中にずかずかと入ってくる者を追い出そうとする防御機能が働いているわけじゃ」

「なるほど、ATフィールドみたいなもんか」

 

 レオナルドは首をひねっていたが、ジャンヌは何度も頷いていた。

 

「ともかく、それを破るのが迷宮を攻略するということなわけじゃよ。その迷宮の主が何を考えているのかは、実際に中に入ってみなければ分からん。今回のように、問答無用で追い出そうとするものもあれば、試練を与えてくるものもあるじゃろう。場合によっては、積極的に入ってきたものに取り憑こうとするものもあるやも知れぬ」

「そんな悪霊みたいなのもあるってのか?」

「考えても見よ。迷宮は生前に活躍した……つまり一生懸命に生きていた人間の記憶でもある。仮にそういう人物が未練を残して死んだら、死してなおそれを叶えようとするかも知れんじゃろう。すると迷宮は、入ってきたものの精神を乗っ取り、操ろうとするためのトロイの木馬となる」

 

 その話を聞いていたギヨームが、再度怒りの声を上げる。

 

「レオ、てめえ! もしもここがそうだったら、今頃俺たちはどうなってたんだよ!」

 

 しかし老人はとんでもないと首を振って、

 

「いや、流石に儂もそこまではせんわい。ここはその可能性が無いと分かっていたから、行かせたんじゃよ。でなければ、少なくともメアリーは止めておったじゃろう」

「……どうしてそう言い切れるんだ?」

「ここは未発見の迷宮ではない。以前から何度も、ガルガンチュアの村の者たちが訪れていたわけじゃろう。あの村の連中がここに来てこの入り口を発見したら、何もせずに帰るわけがなかろう。必ず誰かが中に入ったはずじゃ。そしてお主らがたった今体験したような目に遭ったに違いない。大方、それでここのことを神の祠などと呼んでおったのじゃろうな」

 

 なるほど、いかにもありそうなことだ……鳳は妙に納得してしまった。しかし、同時に疑問も湧いてくる。

 

「でも、それなら、どうして彼らはこの場所を見つけたんだろう? ここはガルガンチュアの村からは遠すぎる。おまけに人里からも離れすぎている、死の荒野みたいなところだ。偶然見つけたにしては出来すぎているだろう」

「確かに。誰かに教えられなければ、到底たどり着けぬじゃろう……マニは何か聞いておらぬか?」

 

 それまでボーッと鳳たちのやり取りを見ていたマニは、いきなり話を振られてしどろもどろになりながら、

 

「ううん、全然知りません。僕は村から出たことが無かったし、長老みたいなシャーマンじゃないから」

「でも族長の息子だろ? 今までに何かそれっぽいことを耳にしてたりしないかな」

「……うーん……いいえ、全く。族長とは、あまり話もしないから」

 

 なんだかあまり聞いてはいけないことを聞いてしまったようである。鳳も父親のことが苦手だったから、彼の気持ちは分かる気がした。悪いことをしたと思いつつ、話題を変えるつもりで彼は思いつきを口にした。

 

「そう言えば、あのマークがないな」

「……え?」

「ほら、長老が描いてくれたあのマーク。俺たちはあれが描いてある場所を巡って、ここまで辿り着いたんだろう? なのに、ここにはあのマークが一つも見当たらない。あのストーンヘンジみたいな岩なんて、いかにもそれっぽいのに、何か刻まれていた形跡すらないじゃないか」

 

 鳳の言葉に反応したギヨームが立ち上がり、何本も建てられた岩のあちこちを見て回る。彼は最後の一本を調べた後に肩をすくめて、

 

「確かにそいつの言うとおりみたいだ。結局、あのマークは何だったんだ? ガルガンチュアの村に伝わる符丁か何かか?」

「僕もはじめて見ましたけど……」

「もしかして、行き先を間違えたとか? 長老の地図の場所は、もっと他のところにあるのかも」

 

 ギヨームの言葉を、鳳は首を振って否定する。

 

「いや、ここで間違いない。あのキノコが生えてるんだから」

「似ているだけで、別のキノコって可能性は……? ないか、おまえが間違えるわけないもんな」

「うう……本当に、あのキノコってなんなの? まだ気持ち悪くって死んじゃいそうよ……」

 

 キノコのことを話題にしたら、顔色を真っ青にしてメアリーが口を挟んできた。彼女は迷宮に入って錯乱した時、その辺に生えているキノコを手当り次第食べてしまったのだが、我に返ったあともそのせいで苦しんでいた。どうやら、キノコのMP回復量が高すぎて、軽いオーバードーズみたいな状態になっているようだ。

 

 神人は不老非死で病気に罹ることもない。その神人が体調を崩してしまうくらいなのだから、あのキノコがただのキノコではないことは分かっているのだが、

 

「……実は俺にも良くわからないんだよね。他の植物は大抵のものなら、俺のスキル『博物図鑑』で分かるのに、これは反応しないんだ」

「はあ? そんなもん、口に入れて大丈夫なのか?」

「長老は普通に食べてたし、効能的にはただの怪しいクスリだから……」

「そういうのは『ただの』って言わねえんだよ」

 

 ギヨームが呆れたと言わんばかりにぼやいている。鳳はそれを聞き流しつつ、

 

「落ち着いたら、成分を分析してみるつもりだったんだけど……メアリーにまで影響が出るなんて、マジでただのキノコじゃないな。迷宮のある場所に生えているんだから、迷宮に何か関係がありそうだけど……そう言えば、俺は以前、これを食べた時に精霊に未来を見せられたんだ。もしかして、この祠は精霊と関係があるんじゃないか?」

 

 鳳はふと思い立ち、レオナルドに向かって言った。

 

「なあ、爺さん。例えば、黄道12宮星座のシンボルマークみたいな感じで、精霊にもシンボルがないのか? この世界では、精霊も信仰の対象だろう? いかにも何かありそうだけど」

 

 しかし、老人は首を振って、

 

「無いのう。お主が言いたいのは、ここに来るまでに見つけたあのマークが、精霊や宗教的なシンボルとして使われていないかということじゃろう。確かに、シンボルを使用している宗派もあるが、少なくともその中であのマークを使っているようなものは見たことがない」

「そっかあ……じゃあ、もうお手上げだな」

 

 鳳が手を上げて降参の意を示すと、同じく降参のギヨームも腕組みしながら首を振っていた。ジャンヌも、メアリーも、もはや迷宮には興味が無さそうである。レオナルドは、若者たちのそんな様子を見て、

 

「ふむ……仕方ないから、出直すとするかのう。いつまでもここで、こうしているわけにも行くまい、キャンプでフィリップたちも待っておるしの」

「いいのか? 迷宮攻略は早いもん勝ちなんだろう? 俺たちが帰った後に、誰かがここを攻略しちまうかも知れない」

「ならば、お主がもう一度入って、中の様子を調べてきてくれるかのう……?」

 

 ギヨームは冗談じゃないと首をブンブン振り回した。レオナルドはその様子を見ておかしそうに、

 

「ふぉっふぉっ! お主の焦る気持ちは分かるが、現時点でどうしようもないものに拘っていて仕方あるまい。どうせこんな、入った者を問答無用で追い返すような迷宮じゃ、仮に他の者がやって来たとしても、儂ら同様、何も出来まい。それなら、一度出直して、街で色々と調べてきた方が良いじゃろう」

「……それもそうか。しかし、一体どうしたら攻略できるんだ? もしかして、世の中には絶対に攻略できない迷宮なんてものもあるんじゃないか」

「いや、どういう迷宮にも、攻略の糸口は必ずあるはずじゃ。人間という生き物は、その心を覗かれることを極端に嫌う反面、分かって欲しいという気持ちも同時に持っている。もし、そのような気持ちが無いのであれば、そもそも迷宮なんてものを残すはずがない」

「なるほど、そうかも知れないな」

「故に、この手の問答無用なものでもパターンはある。例えばこの迷宮の主が、クオリアを自分の子孫に継承したい場合……この場合は子孫が直接来るとか、形見の品を持ってくるとか、そういう方法で入り口が開ける可能性がある。

 

 他には迷宮の主が自分と同格の人物に継承したい場合……例えば、儂みたいな芸術家は、自分の作品に興味のない子孫よりも、苦楽を共にした同僚や弟子にその意志を託したいわけじゃ。儂に古代呪文を授けてくれた迷宮も、このパターンじゃった。

 

 後は、単純に生前の持ち主が迷宮というものを知っていて、死後の楽しみとして試練を与える場合もある。冒険者や探検家のような者は、自分の体験した冒険の数々を、ダンジョンという形にして、攻略者に示したがるのじゃ。なんやかんや、人間というものは、自分の功績を後世に知らせたいという欲求を持っておるからのう」

「ふーん……最後の場合は、特に条件もなく、普通に入れるんじゃないの?」

 

 鳳が疑問を呈すと、レオナルドはそれもそうだと苦笑してから、

 

「そうじゃな。じゃから、ここの迷宮はそのパターンではないはずじゃ。そして4人が入って4人共まったく寄せつけないということは、恐らくは子孫を待っているパターンじゃなかろうか」

「なるほど……ん?」

 

 鳳はその言葉にピンときて、

 

「なあ、その場合は子孫や形見の品を持ってくる必要があるんだよな? もしかして、あのマークがそのヒントになってるんじゃないか? 例えば、あのマークを家紋にしている家系があるとか、とある家に代々伝わる家宝にあれが刻まれているとか」

「ふむ……それはあるかも知れぬな。どれ、勇者領の儂の屋敷に着いたら、早速調べてみるとしよう。あとは、ガルガンチュアの村にも、それとなく探りを入れてみたいものじゃが……マニよ。そのうち里帰りすることがあったら、頼まれてくれぬか」

「わかりました」

 

 そもそも、ここに来た目的は、長老にキノコを取ってきて欲しいと頼まれたからだ。近いうちに一度キノコを渡しに村に帰らなくてはならないだろう。

 

 そんなこんなで、鳳たちは探索を終えて、キャンプへ帰ることにした。目的のキノコだけでなく、迷宮を発見するという思わぬ収穫があったから、早く帰ってギルド長たちにも知らせてやった方が良いだろう。もしかすると、ルーシー辺りは迷宮を見たがるかも知れない。

 

 そしたら何も言わないで中に放り込んでやるのも悪くない。きっと、ものすごい恥ずかしい姿を見れるぞ、くっくっく……などと邪悪なことを考えていたら、あっという間にキャンプ地の近くまで帰ってきてしまっていた。

 

 別に鳳が考え事に夢中になっていたというわけではない。単に、行きとは違って帰りは何も探していないから、寄り道しないでまっすぐ帰ったら、案外すぐに帰ってこれてしまったのだ。結構な時間、探索していたはずなのに、こんなに近くにあったんだな……と考えている時だった。

 

「おい……全員止まれ。静かにしろ……」

 

 突然、前を歩いていたギヨームが立ち止まり、あとに続く鳳たちを静止しようと背後に手を振りかざした。その手がたまたま鳳の顔面にぶつかって、鼻をバチンと叩かれる格好になってしまった彼は、涙目になりながら文句を言った。

 

「何すんだよ~!」

「しっ! 静かにしろっつってんだろ」

 

 ギヨームは鳳の抗議には耳を貸さず、一行をその場に待機させると、姿勢を低くしながらこそこそと前方の岩陰へと隠れるように移動して、キャンプ地の方を窺っているようだった。彼がそんな行動をする時は、まず間違いなく待ち伏せに気づいた時である。

 

 案の定、キャンプ地の様子を見てから帰ってきた彼は、鳳たちのいる場所からはまだ見えない、そっちの方角を指差しながら、

 

「俺たちの荷物の周りに見知らぬ男たちが数人、うろうろしていた……見た感じ、盗賊のたぐいだな。ギルド長たちの姿は見えなかった」

「捕まったのか?」

「わからん。どっちにしろ、荷物を奪還しなきゃならねえ。奇襲をかけるぞ」

 

 鳳たちは自分たちの武器を構えて、特攻役のジャンヌを先頭にして、キャンプ地を囲むように展開した。

 



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殺っちまった方が良いのかな?

 荒野の迷宮探索を終えた鳳たちは、荷物を置いてきたキャンプ地まで戻ってきた。ところが、あと少しといったところで、ギヨームが何かに気づき足を止めた。どうやら、鳳たちが留守の間に、何者かがキャンプに侵入していたらしいのだ。

 

 真っ先に気になったのは、留守番に残してきた三人のことだったが、ギヨームが言うには困ったことに、ギルド長もミーティアも、ルーシーの姿も見当たらないようである。捕らえられていなければ良いのだが、とにかく、このまま放置しておくわけにもいかないから、相手が油断している間に奇襲をかけようというギヨームの提案に乗って、鳳たちは動き出すことにした。

 

 とは言え、鳳はそのキャンプに武器を置いてきてしまったため、役に立ちそうもない。そんなわけで、まだキノコのせいで気持ち悪いと言っているメアリーの支援をすることになったのだが、

 

「うう……まだ頭がグワングワンするわ。もう少しゆっくり走ってよ、吐きそうだわ」

「おい、我慢してくれよ!? 頼りにしてんだから」

 

 今にも吐きそうだとぼやく危険人物(メアリー)を背中に背負いながら、鳳は岩陰から岩陰へとこそこそ駆け抜けた。隠密スキルがあるわけでもない彼が、こんな大胆に移動出来ているのは、レオナルドが認識阻害(インビジブル)の魔法をかけてくれているからだった。ただし、術者が同行していない現代魔法は、すぐに解除されてしまうそうだから、切れる前にこうして必死に走っているわけである。

 

 作戦はいつも通りである。まずはメアリーのスリープクラウドで敵を眠らせてから、近接のジャンヌが突入し、ギヨームが援護するというパターンだ。スタンじゃなくてスリープを使うのは、万が一、ギルド長達が捕まっていた場合、彼らを巻き込まないようにという配慮だった。スタンクラウドは、効果が切れても意外と尾を引くのだ。正座した後の足の痺れが全身に回ると言えば、どれほどの苦痛か想像出来るのではなかろうか。

 

 ともあれ、どうにかこうにか、持ち場の岩陰へと滑り込んだ鳳は、ぐったりしているメアリーを地面に下ろすと、一転して身を屈めて物陰からそーっと敵の方を覗き込んだ。認識阻害は掛かっている本人には、まだ効果があるのかないのかが分からないのだ。だからもう切れているつもりで慎重に行動しているのだが……

 

 ところが、物陰から敵を窺ってみたは良いものの、鳳はその様子がおかしいことに困惑するのであった。奇襲はまだかけていない。もちろん、相手にもまだ気づかれていないはずなのだが、何故か既に相手はパニック状態になっていたのだ。

 

 キャンプには見るからに野盗といった感じの、薄汚い格好をした男たちが10人くらい、鳳たちの荷物には目もくれないで、何かに怯えるように手足をばたつかせているのである。

 

 例えば、一人はうずくまってガタガタと震えていたり、別の男は虫の大群にでも襲われているかのように、体をくねらせて必死にもがいていたり、中には叫び声を上げて地面をのたうち回っている者までいる。しかし、鳳の見る限り、彼らの周囲に危険は何も存在しないのだ。

 

 なんだろう……? もしかして、鳳の残していったキノコを食べて、集団幻覚でも見ているのだろうか。それとも、あの迷宮の影響がここまで届いているのだろうか……その様子は、さっき迷宮に入って錯乱していた自分たちを思い起こす。

 

 明らかに尋常じゃない雰囲気に当惑していると、遠くの方で突入タイミングを測っていたギヨームも気づいたらしい。彼は鳳に向かってぶんぶん腕を振って合図してきた。どうやら予定を変えて、魔法を掛ける前にジャンヌを突っ込ませることにしたようだった。

 

「ちょっと! あなたたちぃ~!? 私の荷物に何してるのよっ!! 場合によったら、ただじゃおかないわよぉ~っっ!」

 

 岩陰から、オネエ言葉の巨大なゴリラがのっしのっしと現れる。野盗たちはその声に、一瞬ビクッと体を震わせると、弾けるように飛び上がり、

 

「た……助けてくれええええ~~~っっっっ!!!!」

 

 っと、情けない悲鳴を上げながら駆け寄ってきた。襲いかかってくるのではなく、長剣を構えているジャンヌに向かって助けを求めているのである。

 

 突然の出来事に戸惑いながらも、ジャンヌは飛びついてくる盗賊たちを制すると、一人じゃ手に負えないと言わんばかりに、隠れている鳳たちを呼んだ。彼らが何に対し怯えているのかは分からないが、ともかく、武器を携帯した不審な集団を野放しにしておくわけにはいかない。鳳たちは野盗をふん縛った。

 

「一体全体、どういうことだ?」

 

 取り敢えず、最後の野盗を簀巻きにすると、一仕事終えた鳳は地面に腰を下ろして呟いた。縛り上げる際も、野盗たちはまるで無抵抗で、神妙にお縄についていた。その間、おまえたちが何に怯えているのか? と尋問はしてみたものの、不思議なことに、彼ら一人ひとりは言っていることがバラバラで、何の参考にもなりゃしなかったのだ。

 

 この様子が本当に迷宮に入った時の自分たちと似ていたので、鳳はもしやと思って自分の荷物を確かめてみたのだが……キャンプに置かれていた彼らの荷物は荒らされてはいたが、特に鳳のキノコは奪われたりもせず、そのまま放置されていた。まあ、普通に考えて、他人の荷物を漁っていて、出てきた乾燥キノコを喜んで食べる馬鹿はいない。

 

 それじゃ、何が起きたというのだろうか? もしや本当にあの迷宮の呪いか何かなのでは……と考えた時、ふと、鳳の背筋にゾクゾクとする悪寒が走った。なんだか気持ちが悪い……誰かいるのか? と思ってキョロキョロと周囲を見回してみたら、

 

「ん……?」「あれ?」「変ね……」

 

 見れば仲間たちも彼と同じように、何かに怯えるような表情で辺りを見回している。まさか、彼らも同じように感じているのだろうか。これは尋常じゃないことが起きているのでは……と思っていると、突然、鳳のすぐ近くで、

 

「く……くふふ……くふふふふ……」

 

 という、女性の含み笑いのような声が聞こえた。驚き振り返るも、そこにはもちろん誰もいない。すわ、悪霊か!? と念仏を唱えながら後退りすると、そんな鳳のことを押しのけるようにして、レオナルドがすたすたと声の聞こえる方へと歩いていって、いきなり杖を振り上げると、

 

「これ! いい加減にせぬか」

「あいたーっっ!!」

 

 老人が杖を振り下ろすと、まるでテレビのチャンネルが切り替わったかのように、ルーシーの姿がパッと現れた。彼女はレオナルドの杖で叩かれた頭を抱えてゴロゴロと転がっている。その痛みはついさっき殴られた鳳もよく分かる。しかし、同情している場合ではない。一体何が起きたのかと呆気にとられていると、

 

「ルーシーが認識阻害を使って隠れておったのじゃ。まったく……こんな悪戯をするのであれば、教えるんじゃなかったわい」

「あたたー……ごめんなさ~いっ!!」

 

 ルーシーは涙目になりながら、師匠であるレオナルドに頭を下げている。ぽかんとしながらジャンヌ達がやってきて、

 

「それじゃあ、もしかしてこの盗賊たちの様子がおかしかったのって、ルーシーちゃんがやったの?」

「うむ。そのようじゃのう。才能があると思ってはいたが、ギヨームにも気づかれぬのであれば本物のようじゃな」

「えへへ~」

 

 ルーシーは褒められて有頂天になっていたが、すぐに師匠に調子に乗るなと叱られてシュンとなった。

 

 そんなルーシーが説教されていると、騒ぎを聞きつけ遠くの方からひょっこりとギルド長とミーティアが帰ってきた。どうやらルーシーは、彼らのことを上手く逃してくれたらしい。鳳たちは彼らの無事を喜び合い、ふん縛った野盗を1箇所にまとめるのであった。

 

 ともあれ、留守の間、ここで起きた出来事はこうである。

 

 鳳たちがキノコを探しに行ったあと、ルーシーは暑さでバテてしまったミーティアを連れて、水場まで水浴びしにいったらしい。そして二人で水を掛け合いながら、キャッキャウフフしていた時、勘の鋭い彼女は、ふと何者かの視線を感じた。

 

 どうやら、半裸になった彼女らの姿を、物陰から誰かが覗いているようだ。初めは鳳のことを疑った彼女であったが、すぐに思い直し、服を着替えてキャンプに戻った。戻りがてら自分たちが囲まれていることをミーティアに知らせると、呑気に昼寝していたギルド長を叩き起こして、認識阻害の魔法を使ってスタコラ逃げ出したそうである。

 

 大した成長っぷりに感心するが、話はそれだけでは終わらなかった。

 

 こうして上手いこと野盗の魔の手から逃れたルーシーたちであったが……対する野盗たちは、突然居なくなった彼女らを探して、暫くキャンプの辺りをうろちょろしていたようだが、そのうち諦めて鳳たちの荷物を物色しはじめた。

 

 目的を切り替えてくれたは良いものの、このままじゃ、馬も荷物も盗まれてしまう。それじゃ何のために留守番に残ったのか分からないと思った彼女は、何とか彼らの行動を阻止できないかと思い、彼女が唯一使える他人を害することの出来る現代魔法・狂気(インサニティ)を使って、足止めをしようと考えた。

 

 これが思った以上に上手くいった。

 

 認識阻害の魔法を掛けて野盗に近づいた彼女は、岩陰に隠れてこそこそと狂気の魔法を使っていたのだが……初め、盗賊たちは、落ち着きなくソワソワする程度で何の意味もなさず、これは駄目かなと諦めかけたのであるが、一人が発狂し始めたら場の空気が一変した。恐怖というものは伝播するもので、一人がおかしな事を口走って暴れだすと、それを見ていた他の連中も、次々と混乱し始めたのだ。

 

 こうしてついに野盗全員を制圧してしまった彼女であったが、恐慌状態に陥っているとは言え、10人もの男たちをどうこう出来る力がない。正気に戻って逃げてくれればいいのだが、はっきりそうなるとも言い切れない。

 

 そんなわけで、彼女は鳳たちが帰ってくるまで物陰に隠れてずっと野盗たちの“狂気”を保ち続けていたそうである。

 

 大の大人が泣いて助けを求めるような狂気を延々とである。野盗たちは心身ともに疲れ果てて、身動き一つ取れないようだった。なんというか……エグい話である。

 

「やるじゃねえか。正直、見直したぜ」

 

 珍しく手放しで褒めるギヨームに、ルーシーは嬉しそうに微笑んでいた。初めの頃は足手まといと言っていたギヨームであるが、今では彼女もパーティーの一員であると認めているようである。それはともかく、

 

「取り敢えず、こいつらどうする? 殺っちまった方が良いのかな?」

 

 地面に転がっている野盗を突きながら、鳳が殺伐としたセリフをぽろりと漏らすと、そんな物騒なことを言うキャラだと思っていなかったのか、ミーティアがぎょっとした顔をしていた。そんな顔をされても困るのだが……バツが悪くなって視線を逸らすと、野盗の一人が必死になって命乞いを始めた。

 

「た、助けてください! 何でもしますから!」

 

 そのセリフはあっちのゴリラを喜ばすだけだぞ、などと思っていると、当のジャンヌが鳳を嗜めるように、

 

「白ちゃん、命まで取るのはやりすぎよ。可哀相じゃない」

「しかし、今回はやばかっただろう。もし、ルーシーがやられて、ギルド長やミーティアさんが人質に取られていたとしたら、タダで済んだとは思えない」

「そ、そんなことありません!! 私達は皆さんを、丁重に扱ったに違いない!!」

 

 野盗の一人がそんなことをほざいていたが、もちろん聞く耳持たなかった。

 

「それに、こいつらを縛ってる時に見つけたんだけど……見ろよ」

 

 鳳がそう言って一枚の紙を手渡すと、ジャンヌの顔色が変わった。

 

「これは……!」

「俺たちの手配書だよ。すっかり忘れちゃってたけど、俺たちってお尋ね者だったんだよな。きっと、こいつらはどっかで俺たちの姿を見つけて後をつけて来てたんだ。こいつらを逃がすと、俺たちの居場所を誰かに言いふらすかも知れない」

「う、う~ん……」

 

 ジャンヌは自分の手配書を見ながら唸り声を上げている。もちろん、野盗は絶対に喋らないと言っているが、そんな言葉を信じるものは一人もいなかった。

 

 鳳は愛銃のレバーを引いて弾丸をチャンバーへ送ると、

 

「命乞いをする魔族なら、今までさんざん殺してきただろう。今更、躊躇する必要がどこにある?」

「で、でも……」

 

 ジャンヌはそれでも戸惑っている。鳳はため息を吐くと、ならば自分がやると引き金に指をかけた。

 

 魔族と人間はもちろん違う。だが、一度でも命のやり取りをしたのであれば、その重さは等価である。自分を害するものには容赦はしない。鳳はもう、自分の手を汚す覚悟はとっくに決まっていたのだ。

 

 しかし、そうして身動きが取れない野盗に銃口を向ける鳳の前に、思いがけずルーシーが立ちはだかった。

 

「ちょっと待った! 鳳くん、殺すのは流石にやりすぎだよ」

「おいおい、ルーシーまで……今の話を聞いてなかったのか?」

「もちろん聞いてたよ」

 

 彼女はそう言って、上目遣いで藪睨みしながら、

 

「でもね、鳳くん。この人達を捕まえたのは、実質私じゃない? だから生殺与奪権は私にあると思うんだ」

「ん……まあ、そうかも知れないけど……助けるつもりなのか?」

 

 彼女はこくりと頷いて、

 

「以前、君の身の上話を聞いたときから気になってたんだ。ずっと後悔してたんだと思う。つらい経験もしたんだと思う。君はいざとなったら何でも出来る人だと思うけど、だからって、こんなことで手を汚して欲しくないよ」

 

 以前の話とは、レイヴンの街を追い出された夜にした話だろうか……

 

「それに、殺すつもりなら私にも出来た。姿を隠したまま、全員が混乱したところで闇討ちする機会はいくらでもあったから。そうしないでみんなの帰りを待ったのは、誰かに嫌な役を押し付けたかったわけじゃない。殺す必要はないと思ったからなんだよ。だから、どうしてもやるっていうなら、私がやるよ」

 

 まさか彼女がそんな事を言うとは思わず、鳳が返事に困っていると、傍で聞いていたギヨームが言った。

 

「まあ、ルーシーの言うとおりだろう。今更、おまえがこんなことで躊躇するとは思っちゃいないから言うんだが、逆におまえ、意識しすぎじゃねえの? こんなつまんない殺ししたところで、胸糞悪くなるだけだぞ。もっとどっしりと構えて、また来たら返り討ちにしてやるくらい言ってみたらどうなんだよ」

「そうだよ。そっちの方が鳳くんらしいと思うな。それに、こういうのはギヨーム君の方が似合ってるしね」

「おまえ、喧嘩売ってんだろ。そうなんだろ」

 

 いつものニヤニヤ笑いをしたギヨームと、ニコニコ微笑むルーシーがやりあっている。初めて彼らに出会った酒場で、いつか見たような光景だった。鳳は何とはなしにため息を吐いた。思えば遠くに来たものである。

 

「はぁ~……わかったよ。確かに、ギヨームの言う通りだ。非戦闘員ばかりキャンプに残して、自分の判断ミスだったと思って焦っていたのかも知れない」

「別におまえがリーダーってわけでもないんだから、責任を感じる必要はないだろう。今度から俺もフォローするからよ」

 

 ギヨームは、鳳の肩をぽんと叩いてから、親指を簀巻きにされている野盗たちに向けて、ルーシーに話しかけた。

 

「それじゃ、こいつら全員解放するぞ? それで構わないんだな?」

「うん! あ、でもちょっと待って」

 

 野盗たちは解放されると聞いてホッと安堵の息を漏らしている。そんな野盗たちに向かってルーシーは片手を腰に当て、もう片方の手で彼らの顔を指差しながら、まるで母親が子供を叱りつけるように言うのであった。

 

「いい? 解放してもらえて安心してるみたいだけど、聞いてね? あなた達が襲った私は、実はこのパーティーでは最弱なの。もしそれと知らずに、この怖~い人達を襲っていたら、きっと今頃、あなた達はこの世にいなかったと思うわ。そうならなかった幸運に感謝して、これに懲りたらもうこんな家業からは足を洗って、もっとまともな仕事に就いたほうがいいと思うよ?」

「うっ……すんません、(あね)さん。俺たちが間違っていました」

 

 野盗たちは縛られていた縄を解かれると、みっともなく涙を流し、鼻水まで垂らして、ルーシーに何度も何度もお礼を言いながら去っていった。彼女はブンブンと大きく手を振って、その背中を気持ちのいい笑顔で見送った。

 

 何度振り返っても、いつまでもいつまでも手を振り続けているルーシーの姿を見た彼らは、感極まって改心すると心に決めたようだった。次に会う時は必ずお礼をすると叫んで、彼らは荒野のどこかへと消えていった。

 

 ルーシーはそんな野盗たちを最後まで見送ると、ほっとため息を吐いた。正直なところ、彼らの命を守る義理など無かったのだが……そうすることで、鳳の手が汚れずに済んで、そして、剣呑なセリフを吐く彼の背後で、ずっとオロオロしていたミーティアの笑顔を守れて、本当に良かったと彼女は思った。

 

 鳳は、ミーティアの王子様なのだ。お世話になっているお姉さんのためにも、彼にはあんな殺し屋みたいな真似はして欲しくなかったのだ。今回はどうにか回避できたが、ともすると、あっさりと禁忌を踏み越えてしまいそうな彼が間違わないように、今後も気をつけないと……彼女はそう心に誓った。

 

 それはそれとして、

 

「ところでルーシー……さっき、荷物を調べていた時、妙な悪寒がしたんだが……おまえ、俺たちに隠れてコソコソなにやってたんだ?」

 

 背後から、ほんの少しトーンの下がったギヨームの声が聞こえて、彼女はギクリと肩を震わせた。

 

「そういや、レオに怒られてたな……今ステータス確認したんだけど、俺のSAN値が下がってるんだが」

「あは……あは……あはははは……」

「笑って誤魔化そうとしてんじゃねえよっ!!」

 

 ギヨームの怒鳴り声にルーシーは背中を丸めて縮こまりながら反論する。

 

「だって、退屈だったんだもん。みんなは探索に行って楽しそうだったのに、こっちは水浴びも邪魔されて、ずっと野盗の人たちの相手をしてたんだよ? ちょっとくらい悪戯したっていいじゃない」

「ちょっとで人のステータス削ってんじゃねえよ! これ、意外と戻るのに時間が掛かるんだぞっ」

「まあまあ、それくらいで良いじゃないか。ルーシーは今回の殊勲賞なんだし」

 

 ギヨームの小言に、鳳が割って入る。さすが王子様。どうやら彼の方はこれっぽっちも怒ってないようだ。ルーシーがホッとしていると、鳳は邪気のないにこやかな笑顔を浮かべたまま、

 

「ルーシー、退屈してたの? なら丁度良かったよ。実は俺たち、探索の途中で迷宮を見つけたんだ」

「え!? それって、確か凄いやつじゃなかったっけ? 本当に?」

「ああ、本当だ。少し探索してみたんだけど、入り口だけなら安全だから、行ってみたいと思わないか?」

「行きたい行きたい!」

 

 荷物を片付けたら、またちょっと探索しに行こうという鳳の提案に、誰も反対しなかった。ルーシーは目を輝かした。迷宮なんて信じられない、きっと素敵なところに違いない。少し怖い目に遭ったけど、今日は忘れられない特別な日になるぞと、彼女は無邪気に笑うのであった。

 



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ヴィンチ村

 長老の持っていたキノコを探しに荒野を訪れた鳳たち一行は、そこで冒険者の最大の目標と言われる、迷宮を発見した。攻略しようと意気込んだは良いものの、その防衛機構に手も足も出なかった彼らは、ひとまず攻略を諦めて、レオナルドの根拠地を目指すことにした。

 

 砂漠化した峡谷は広大で、通り抜けるのに苦労したが、それでも二日ほどの時間をかけてなんとか横断し、一行はステップ地帯から草原へとたどり着いた。ここまでくればもう荒れ地はほとんどなく、田畑が目立つようになり、田舎のあぜ道を進んでいると、野良仕事へ向かう農家の姿が散見されるようになって、ようやく人の領域に帰ってきたんだなという実感が湧いてきた。

 

 勇者領(ブレイブランド)はその昔、勇者が大陸西部の巨大な入り江を埋め立てて作った国である。その干拓地は、現在はニューアムステルダムと呼ばれ、新大陸(ローレンシア)と、旧大陸(バルティカ)を結ぶ、世界最大にして唯一の海上交易都市になっている。

 

 実際に見てみないことには、どれ程の規模かは想像するしかないのであるが、首都出身であるというミーティアの話を聞いていると、それはそれは大変な賑わいであるらしい。恐らく、東京ほどではないだろうが、地方都市くらいはありそうだから、いつか行くのが楽しみである。

 

 その昔、勇者を慕って集まった人々は、ニューアムステルダムを開発した後は、干拓地から扇状に内陸部へと土地を広げていったそうである。途中、例の峡谷にぶつかってしまった後は北へと広げていき、そして最終的にはヘルメス領と街道で繋がる現在の領土が形成されたらしい。

 

 その開拓事業に特に貢献した者たちが後に貴族化し、現在は13氏族と呼ばれる地方領主として君臨しており、勇者領はその氏族による合議制で運営されている。因みに、レオナルドは政治からは距離をおいているらしく、余程のことがない限り絶対に口を挟まないそうだ。前世で積極的に政治に関わった結果、ろくな目に遭わなかったから、もう懲り懲りなんだとか。

 

 それでも、冒険者ギルドの長であり、伝説の勇者パーティーの一員というネームバリューは凄まじく、首都で暮らしているとひっきりなしに来客があるから、うんざりした彼は、ある日首都の屋敷を引き払い、郊外に館を作って隠棲してしまったそうである。

 

 鳳たち一行が現在目指しているのはそこであった。だんだん人通りが多くなっていく首都へ向かう街道から脇道にそれると、鄙びた村の入口が見えてくる。風光明媚と言えば聞こえが良いが、周辺に何もない、大自然に囲まれた集落である。

 

 村は小高い丘を中心に広がっていた。その丘の周りをぐるりと田畑が囲んでおり、それを管理する農家があちこちに散らばっている。入り口近くには馬や羊を飼う牧場と、鶏舎を管理する畜産農家があり、村の中心付近は恐らくメインストリートなのだろう、商店が何軒かと、馬車駅や郵便局のような建物が立ち並ぶ広場があって、ここだけで何でも揃いそうな感じだった。

 

 勇者領の僻地にあるこの村は、背後にワラキア大森林が控えており、あの国境の街に似た雰囲気を醸し出していた。違うのは丘の上にあるのが樫の大木ではなく、大きな屋敷であることで、どうやらそれがレオナルドの屋敷らしかった。

 

 村の入り口に立ったことで、もう到着した気になっていたが、ここからあの丘の上まではまだまだ距離がありそうだった。一度気分が萎えてしまうと、なかなか腰が重くなるものである。鳳は、ちょうど目の前に牧場や商店もあることだし、少し休憩しないかと言おうとしたのだが……レオナルドがその牧場の方へとてくてくと歩いていき、

 

「これ、そこの……名前はなんだったか。とにかく、そこの牧童よ。ちょっと屋敷までひとっ走りして、儂が帰ったと伝えてまいれ」

「はあ……? あんたは……」

 

 牧場の前で飼葉桶を洗っていた牧童……と言っても、もう十分な年の男は、いきなりやってきた偉そうな老人に対し、一瞬だけ剣呑な表情を見せたが、それがレオナルドだと気づくと、すぐに目を丸くして飛び上がり、

 

「た、たたたたた、タイクーンッ!!! いつお帰りで!?」

「たった今じゃよ。いいから、はよ伝えてまいれ」

「ははーっ!!! こ、こうしちゃおれない……」

 

 男はレオナルドに向かってガバっと最敬礼のお辞儀をすると、すぐ言われた通り屋敷の方へとすっ飛んでいった。その途中で何かを思い出したように取って返すと、牧場を取り囲む柵の上に身を乗り出すようにして、従業員に老人が帰ってきたことを大声で叫び、そしてまたスタコラサッサと屋敷の方へと駆けていく。

 

 男に呼ばれた牧場の従業員たちは、柵の外にレオナルドの姿を見つけると、慌てふためいて散っていった。大騒ぎを呆然と見守っていると、すぐにその中の一人がやってきて、鳳たちの連れてきた馬の手綱を引いて牧場へ連れて行き、代わりに立派な馬車がやってきて、御者台に座っていた事務員らしき者が飛び降り、レオナルドの前で恭しく礼をした。

 

「お帰りなさいませ、旦那様。道中、お疲れでしょう。どうぞ、こちらに」

「うむ、すまんのう」

 

 レオナルドは御者が開いている扉から、さっさと馬車の中へと入っていく。呆気にとられて眺めていると、そんな鳳たちに向かって先程の事務員が、

 

「ささ、お連れの方たちもどうぞ。中は広いですから、みなさん全員、ゆったりくつろげますよ」

 

 と言って、戸惑う彼らをグイグイと馬車の中へと押し込んだ。

 

 全員が乗り込むのを待ってから、馬車は音もなくスーッと動き出した。あまりにも快適すぎるから、魔法でも掛かってるんじゃないかと思ったが、案外そうなのかも知れない。考えても見れば、この馬車の持ち主は、幻想具現化(ファンタジックビジョン)という現代魔法(モダンマジック)の大家である。これもかぼちゃの馬車みたいな魔法道具(マジックアイテム)なのかも知れない。

 

 動き出した馬車から背後を見てみると、鳳たちの荷物を積んだ荷車が後からついてきていた。ああ、そうか、あの牧場はレオナルドが所有しているんだなと感心していたら、御者台から先程の事務員が、誇らしそうに言った。

 

「牧場だけじゃございません。あの田畑もあの店も、そしてそこで働く人々も、この村の全てが大君の所有物でございます」

 

 事務員の言葉を証明するかのように、暫く進むと馬車を見つけた人々が仕事をする手を止めて、中にいるレオナルドに向かってお辞儀をしはじめた。老人はそんな人々に向かって手を振っている。

 

 ここヴィンチ村は、レオナルドが幼少期に暮らした村を模した、彼が所有する荘園だったのだ。広い敷地は、一つの農村がすっぽり入るくらいの大きさがあるらしい。丘の上に見えるお屋敷は、その一部に過ぎないそうである。

 

 村は木と石レンガと漆喰で作られた家々が建ち並び、中世ヨーロッパ風の雰囲気を醸し出していた。その気になれば、近代建築みたいなものも作れる技術はあるはずなのに、そうしないのは彼が前世を懐かしむせいだろうか。

 

 まあ、そんなものがこのど田舎に建ち並んでいたら、かえってディストピア臭がするから、これで正解なのかも知れない。坂道を登っていくと、やがて石垣に囲まれたお屋敷にたどり着いた。

 

 鉄柵の門をくぐると、広い庭の中央に縁石で区切られた玄関へ続くアプローチがまっすぐ伸びている。屋敷は3階建ての石造りの建物で、確かカントリーハウスとかいう昔の大金持ち(ジェントリ)のお屋敷にありがちな作りだった。

 

 まるで音楽のジャンルみたいな名称であるが、カントリーハウスとは、日本風に言えば、武田信玄が拠点にした躑躅ヶ崎館のような、城の役割を持った屋敷のことである。屋敷の維持に金がかかり過ぎるため、現代では個人所有する者が殆どおらず、大概は寄付されて学校や公共施設に使われているらしい。

 

 城というくらいだから、実際、襲撃も意識しているのだろう。馬車を降りるとサーベルを佩いた衛兵らしき男たちが、観音開きの玄関を恭しく開いてくれた。中を覗けばエントランスホールには、この屋敷を管理するハウスキーパー……いわゆる執事やメイドたちが勢揃いしていて、主人の帰りを確認するや否や、

 

「お帰りなさいませ、旦那様」

 

 と、現代では秋葉原くらいでしかお目にかかれないお出迎えをしてくれた。そう言えば、忘れがちだがこの爺さんはとんでもない大金持ちであった。まるで王侯貴族にでもなった気分であったが、レオナルドが凄いのだろうか、それとも秋葉原の方が凄いのだろうか。

 

 いつまでも棒立ちしているわけにもいかないので、尻込みしている仲間たちを押しのけて、レオナルドに続いて屋敷に入ると、すかさずメイドさんがやって来て、まるで宝物でも扱うかのごとく、鳳の上着を受け取った。

 

 これを最後に洗ったのっていつだったっけ……? まだ生ゴミのほうが香しい気がする……

 

 ダニが巣食ってるから熱湯でグツグツ煮込んでからギュウギュウに絞っておいてくれと言ったら、顔色一つ変えずに畏まられた。冗談だと分かっているなら良いのだが……周りを見れば仲間も似たりよったりで、恥ずかしいから自分で持っていると言って、使用人たちを困らせていた。

 

 押し問答はいつまでも続き、いい加減に焦れてきたレオナルドが、

 

「そんなに嫌ならそこの暖炉に焚べてしまえ、後で好きなのを買ってやるから」

 

 と言ったことで、ようやくみんなの抵抗感も薄れてきたようだが、代わりにギルド長が主従関係を思い出したらしく、自分は屋敷の外で待っていようかと言い出したところで、

 

「つべこべ言わずについてこい。セバス! さっさと案内せい」

 

 呆れ果てた老人が執事に命令したことで、ようやく応接室まで案内が始まった。因みに執事の名前はセバスチャンである。

 

 アビゲイルと言う名前のメイド長に先導されて、広い屋敷の廊下を進んだ。広いと言っても限度があるので、大体どのくらいかと言えば、全学年2クラスずつしかない小学校くらいの大きさだろうか。アイザックのヴェルサイユ宮殿と違って赤絨毯がないから、カツカツと歩く足音が、思いのほか強く反響していた。

 

 エントランスホールから右手奥の突き当りまで行ったところが応接室で、中に入ると一枚ガラスの大きな窓に囲まれた洋室が広がっていた。窓が大きいとは言っても、直射日光を避けているために室内は結構薄暗く、壁際に掛けられた本棚の本が日焼けしないように工夫されているようだった。

 

 窓際には大理石のテーブルとふかふかのソファが置かれていて、十人くらいが楽にくつろげるようになっている。本棚の前には文机が置かれ、もしかすると普段は主人の書斎も兼ねているのかも知れない。よく見れば、部屋の片隅には布が掛けられたイーゼルが置かれており、この部屋の主が画家であることを思い出させた。

 

 これまた忘れがちだが、この爺さんはとんでもない芸術家でもあった。するとあそこに掛けられている絵画にはいくらくらいの価値があるのだろうか? 思わず布をめくって中を確かめたい衝動に駆られるが、それを見透かしたかのように、メイド長があそこにあるのはイーゼルだけで、アトリエは別にあることを教えてくれた。

 

 鳳もそうだったように、応接室にイーゼルを置いておくと、来客が話の切っ掛けにしやすいから置いているのだそうだ。それなら絵を掛けておけばなお良いのにと思ったが、現在のレオナルドは絵を殆ど描かなくなっており、彼の貴重な作品は人の目の届かない場所で、厳重に保管されているらしい。それはそれでちょっと残念である。

 

 ともあれ、立ち話もなんなので、主人に勧められるまま目の前にあるソファに腰を下ろした。一体、どんな素材を使っているのか分からないが、見た目以上にソファはふかふかで、地球の反対側まで沈んでいきそうな錯覚を覚えた。長旅の疲れがどっと押し寄せてきて、そのまま眠ってしまいそうだった。

 

 するとそれを見透かしたかのように、メイド長が眠気覚ましの紅茶を淹れてきてくれた。本当に気が利く人だなと感心しながら、鳳は懐に大事にしまっておいた乾燥キノコを取り出すと、おもむろに紅茶に投入しようとして、

 

「人んちに来て、いきなりキめようとしてんじゃねえよ!」

 

 と、ギヨームに怒られてしまった。鳳は奪われたキノコを呆然と見送りながら、

 

「はっ……つい、ぼーっとして。ようやく人心地ついたと思ったら、殆ど無意識だったよ。俺は最後の子供が巣立っていき、すっかり広くなったリビングで孤独を感じて、うっかり薬物に手を出してしまった主婦の気持ちが分かった気がする」

「そんな限定的な気持ちにならんでいいから、大人しくしてろ」

「そういうお前もそんな壁際に突っ立ってないで、せっかくソファがあるんだから座ったらどうなんだ?」

 

 鳳がいつまでも壁を背にして佇んでいるギヨームにそう言うと、彼はいつものニヤニヤ笑いというよりも、苦笑いに近い表情で、

 

「俺はこういう席では壁を背にしてないと落ち着かねえんだよ。ほっといてくれ」

「やれやれ、お主も難儀な性格じゃのう……」

 

 レオナルドはそんなギヨームに呆れながらも、無理に座らせようとはせず、既に寛いでいる鳳とメアリーの前に座った。それを見て、周囲の仲間たちもおずおずと、自分たちの席を決めてソファに座ると、じっと来客が落ち着くのを待っていた執事のセバスチャンが一歩進み出て、

 

「旦那様。よろしいでしょうか?」

「構わん」

 

 どうやら、主人の留守中にあった出来事を報告してくれるらしい。鳳はそれを紅茶をズーズー啜りながら聞くことにした。

 



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状況確認

 レオナルドの荘園であるヴィンチ村に辿り着いた一行は、山の上にあるお城みたいな屋敷に案内された。馬車で移動するような広大な敷地を通り抜けて、大勢の使用人に出迎えられて唖然としながらも、どうにか応接室で人心地着いた鳳たちは、主人の留守中にあった出来事を執事に聞かせてもらうことになった。

 

 執事のセバスチャンは、初めはいくら主人の連れてきた者たちとはいえ、女子供に獣人を含むような得体の知れない集団を前に、果たして報告しても良いのか、空気を読んで出直した方が良いのかと迷っていたようだが、

 

「構わん」

 

 レオナルドのその一言で職業意識を取り戻したらしく、優雅にお辞儀をしたあと話し始めた。

 

「申し上げます……旦那様がお留守の間、我が領内に帝国軍が侵入、アルマ国が侵略を受けて降伏しております。この事態に際し、連邦議会はようやく重い腰を上げ、冒険者ギルドを窓口にして徴兵を開始、これまでになんとか帝国軍を上回る兵数を集めることに成功し、決戦に向け着々と準備しているところです」

「左様か……帝国はついに始めてしまったのか……うーむ、しかし無防備であったとは言え、これまで一度の侵入すら許さなかった勇者領が、そんなに簡単に侵入を許すものか? 何故、帝国軍が森を抜ける前に叩けなかったのじゃ?」

 

 レオナルドが難しい顔をして尋ねると、執事は涼しい顔で続けた。

 

「順を追って説明いたします。まず昨今の連邦議会13氏族が勇者派ではなく、帝国寄りのリベラルに傾いていたことは旦那様もご承知でしょう。そのため、国境を守る勇者派のアルマ国は孤立を深めておりました。彼の国はヘルメスが落ちてもまだ態度を改めない議会に業を煮やし、単独で帝国と講和してしまったのです。講和と言っても実質は降伏ですが……」

「なんでまたそんなことに? あそこは特に帝国嫌いだったはずじゃろうに」

「むしろそれが問題だったのです。先のヘルメス戦争後、帝国は難民を返せだの、戦争犯罪人の捜索をさせろだの、様々な理由をつけて領内への軍の進駐を目論んでいました。この理不尽な要求に対し、断固とした態度を取っていれば良かったのですが、リベラルは一時的なことと言って受け入れる姿勢を見せてしまいました。しかし、進駐を許せば、帝国軍は必ずアルマ国の領土を通ることになります。彼の国は難民を押し付けられただけではなく、このままでは帝国軍の面倒まで見させられる羽目になる……もはや内も外も敵だらけだと感じても仕方なかったでしょう」

「なるほど……」

「そしてもう一つ、寧ろこれが議会を裏切った最大の理由だと思われますが、彼の国は前ヘルメス卿を領内に匿っていたのです」

「なんと、アイザックはあそこに逃げ込んでおったか」

 

 鳳たちが予めカズヤに抜け道を教えておいたおかげか、宮殿陥落後、アイザックは落ち延びたと聞いていたが、どうやら大森林ではなく勇者領へ逃げていたようである。

 

「はい。両国は歴史的にも距離的にも(ちか)しい間柄にあり、アルマ国は当初、議会にも秘密にして彼を匿っていたようです。しかし、帝国の侵入を許してしまえば発覚は時間の問題。追い詰められた彼の国は、そこで前ヘルメス卿の身柄を手土産に、帝国と単独講和するという賭けに出た模様です」

「して、帝国は?」

「アルマ国の協力を得て、軍を安全に領内に入れると、戦争犯罪人の捜索を理由に、彼の国から周辺国へと部隊を展開しております。これに対し、周辺のカーラ国、リンダ国、以下7カ国が非難声明を出しておりますが、帝国軍に聞き入れるつもりはないようです」

「そりゃそうじゃろうな。目的はあくまで侵略か……」

 

 レオナルドは自分の長いヒゲを引っ張りながら難しい顔をしている。鳳はそんな老人に代わって、気になることを尋ねてみた。

 

「それでアイザックはどうなったんですか? 処刑されちゃったんですか?」

 

 執事は、いいえと首を振り、

 

「帝国は勇者領内を行軍する名分として、彼を政治利用することにしたようです。具体的には、彼の口から戦争犯罪人が勇者領内に潜伏していると聞き出したという名目で、捜索のために軍を動かしているという体を取っています」

「ふーん……じゃあ、あいつまだ生きてるんだ」

 

 元をただせば、鳳たちをこの世界に呼び出した諸悪の根源である。今更恨んではいないが、かと言って助ける気にもなれなかった。彼との付き合いが長かったメアリーだけが不安そうな顔をしていたが、その他は大体みんな同じ意見のようである。

 

 執事は、そんな鳳やメアリーの顔を見て何かを思い出したように、

 

「そうでした。これは朗報になるでしょうか、冒険者ギルドに回っていた皆様の手配は取り下げられたようです。手配していたのは帝国ですから、当然でしょう。ここにいる限りはもう安全です」

「なんだ、それじゃ俺たち、もう襲われる心配はなかったのか……なら、あの野盗はなんだったんだ? 知らずに襲ってきたのか? 迷惑な奴らだ、撃退したからいいけどよ。でも良かったな、鳳。あの盗賊を殺しちまわなくって」

 

 ギヨームがニヤニヤしながら、厭味ったらしく言った。ほんのちょっぴりカチンと来たが、まあ概ね彼の言うとおりなので仕方あるまい。もしそうしていたら、今頃は相当後味が悪かっただろうから、ルーシーには感謝しなければならないだろう。

 

 とは言え、安全とは言っても戦争に負けてしまっては元も子もないから、

 

「それで、勇者領には帝国軍を撃退出来るほどの戦力はあるんですか?」

「ある……問題なくあるのじゃが……」

 

 その質問には、執事ではなくレオナルドが答えた。

 

「お主にも分かりやすく説明するなら、帝国は神人を中心とした奴隷制。対して勇者領は産業革命後の自由主義経済じゃ。GDPも人口も、彼我の国力差は10倍以上はある。従って、徴兵が始まれば帝国を倍する戦力を集めるのは容易いことなのじゃが……いかんせん、普段は軍隊を持たない国であるから、練度も将兵もまるで足りていない。事が起きてから動くのでは遅すぎるわけじゃ」

「ああ、それは……」

「一応、そう言うときのために冒険者ギルドがあるわけじゃが……戦闘のプロである冒険者を、連邦議会は根無し草の盗賊連中と何ら変わらぬと見下しておるのじゃよ」

 

 レオナルドが苦々しげにそう吐き捨てると、後を引き継ぐように執事が続けた。

 

「議会は、大君(タイクーン)が僭主化することを恐れているのです。元はと言えば、勇者領は勇者様が作った国。そのパーティーメンバーである大君のネームバリューは、ここでは計り知れないものがあります。もし、此度の戦争で冒険者ギルドが活躍するようなことがあれば、民衆は大君が王になることを望むようになるでしょう。そのため、13氏族は冒険者ギルドとは距離を置き、あまり利用したがらないのです」

 

 それはつまり、徴兵には利用するが、レオナルドの息が掛かった高ランク冒険者は、寄せ付けたくないということだろう。しかし、それで戦争に勝てればいいのであるが、彼らは優秀な将兵がいない軍隊がどれほど脆弱か分かっているのだろうか……

 

「……13氏族などと呼ばれて王侯貴族を気取っておるが、先祖はみんな友達じゃった。そんな、孫から小遣いを取り上げるような真似はせんと言っておるのじゃが、奴らはどうしても信じられぬらしい。嘆かわしいことじゃな」

 

 長く続く王家と言えど、自分で手に入れたわけじゃないから、彼らは自分の地位を奪われることを恐れているのだろう。それがその地位を与えてくれた先祖の友人であるというのだから、なんとも皮肉なものである。300年も生きたと聞いて羨ましく思ってもいたが、案外そんなことないのかも知れない。

 

 場がしんみりしてしまったが、執事が気を取り直すように話題を軌道修正する。

 

「話を戻しますが……旦那様のご指摘の通り、将兵不足は連邦議会も承知しておりまして、苦肉の策としてカーラ国の将兵を招いて司令官に据えることにした模様です」

「なに!? 魔王派ではないか」

「はい。保守系の方々がそれを不安に思ってか、旦那様のお留守の間、何度かこちらにご訪問されました。不在を知ると、落胆してお帰りになられましたが、いつでも議会にいらして欲しいとおっしゃっておりました。そうして差し上げれば、喜ばれるかと思います」

「それは気が進まんのう……」

 

 なんだか穏やかでない単語が聞こえたような気がして、鳳は慌てて尋ねてみた。

 

「今、魔王派って言った? そんなのまでいるのかよ、この国には」

「ああ……文字通りの意味ではないのじゃが……」

 

 レオナルドは身内の恥を嘆くように話し始めた。

 

「掻い摘んで説明すれば、勇者領は建国以来、帝国と戦争状態にある勇者派の国じゃ。しかし長い年月が過ぎ、相手が疲弊してきたこともあって、現在はこれ以上争っても益が無いと、帝国との和平協調路線を主張するリベラルが台頭するようになっておった。そして元の主流派は追いやられつつあったのじゃが……その反動からか、反帝国を声高に唱える過激派が生まれ、それが魔王派と呼ばれる連中じゃ。奴らはあくまで武力での解決を目指しておるから、普段から私兵を集めて訓練をし、威勢のいいことばかり言っておる。平時なら誰も耳を貸さぬが、この緊急事態では過激な意見の方が耳障りが良いからのう」

「ふーん……思想信条はともかくとして、実力の方はあるの?」

「わからぬ。普段から軍略を口にして人々の関心を集めてはいるが、実戦経験はないので測りようがない。尤も、経験で言えば帝国軍も似たりよったりじゃろうから、常備軍と即席軍の違いがどこまで出るかによるじゃろうか……」

「なら、案外うまくいくかも知れないじゃないか」

 

 そうなればいいのだがと、レオナルドはため息混じりに答えた。そうなったらなったで、今度は調子に乗って帝国を攻めようと言い出しかねないので、痛し痒しといったところだろうか。

 

 それにしても、戦争から逃れて大森林に潜伏していたというのに、戻ってきたらその戦争が場所を変えてまだ続いているのだから、なんとも間の悪い話である。また大森林に戻るわけにはいかないから、さっさと新大陸に高跳びしたほうがいいだろうか……?

 

 いや、今となってはメアリーは神人でも屈指の強さを誇る。今更、刺客がやってきたところで、彼女をどうすることも出来ないだろう。

 

 それに元はと言えば、メアリーの存在を知った帝国が彼女のことを狙っていたから、鳳たちは逃げていたはずなのに、どうやら現在、帝国の目的は勇者領の支配に変わりつつあるようだ。こちらとしては、追っ手さえ来なければ、戦争がどうなろうが知ったこっちゃないので、あとは好きにしてくれとしか言いようがなかった。

 

「さて、これからどうするかのう……手配が取り下げられたことで、今すぐ新大陸へ向かう必要はなくなってしまった。何か方針が決まるまで、ここに留まるかのう……」

「逃げ支度しなくていいのか? 戦争の結果次第では、ここを追い出されるかも知れないぜ?」

 

 ギヨームがそんなことを口走るも、老人は平然と、

 

「何故じゃ? 儂はこの国の王ではないぞ。議会にも参加しておらねば、ギルドの冒険者たちも戦争に関わっておらん。そんな何の口出しもしておらぬ老いぼれを、いかに帝国とは言え、どうこう出来るものでもあるまい」

「……それもそうか?」

 

 ギヨームは納得いかないと言わんばかりに首を捻っているが、恐らく老人の言うとおりだろう。

 

 戦争の勝敗で決まるのは、せいぜい国家間の賠償くらいのものである。いくら武力で人を支配しようとしても、心の中までは縛れない。理不尽な振る舞いは、反発心を招く結果となる。しかし反乱分子を殺して回っていたら、いつか国が滅んでしまうだろう。

 

 それでも無理矢理支配したいなら、歴史に倣って先住民を追い出し、移民を送り込むことだろう。しかし、彼我の人口比を考えても、そんなことは不可能だ。だから戦争の勝敗いかんで困るのは13氏族だけと考えられるわけだ。

 

 帝国が何を考えているかは分からないが、案外、それが目的なのかも知れない。彼らの(ちから)を削いで、言うことを聞かせやすくしたいのだろう。ともあれ、ここに留まるというのは悪くない選択だと鳳は思った。

 

「それじゃ、暫くはこの辺で冒険者の仕事でもしてようか。マニも村から出てきたばかりで心細いだろうし、ガルガンチュアさんにも頼まれたからな。それに、迷宮のことも気になる」

「ええ……またあそこに行くの? あそこのことは、もう忘れた方がいいんじゃないかな」

 

 メアリーとルーシーが迷宮に入った時のことを思い出し、げっそりとした表情を見せた。人の心を惑わす迷宮は、彼女らに軽いトラウマを植え付けたようである。

 

「でも迷宮を攻略したら、きっと経験値がいっぱい手に入ると思うぞ。それに、未知の魔法を手に入れるチャンスかも知れないし」

「うーん……そっかあ」

 

 経験値と聞いてメアリーが逡巡を見せる。現金なものだが、神人である彼女がこれ以上のレベルアップをするには、鳳の共有経験値を利用するしかないのだ。それに最近メキメキと実力を上げているルーシーも、迷宮のお宝には興味津々のようである。

 

 しかし、今の所、あの迷宮の防御機構を突破する方法は何も見つかっていない。それをなんとかしない限り、攻略は夢のまた夢だろう。

 

「そうじゃった。鳳よ、セバスに例の模様を見せてやれ」

 

 鳳が言われた通りに、長老の地図に描かれていたマークを見せる。執事は顔を近づけてそれをしげしげと眺めてから、

 

「これは……?」

「わからぬ……じゃが迷宮を攻略するヒントとなるものらしい。このような家紋を使っておる家系や、何かマジックアイテムがないか調べてくれぬか。先を越されては元も子もないので、あくまで内密にじゃが」

「かしこまりました」

「それでは、アビゲイル。こやつらを適当に客間に案内してくれ。フィリップとミーティアはここに残り、セバスからギルドの仕事の引き継ぎをせよ。この村の窓口は、全部こやつに任せておるでな」

 

 鳳たちは、メイド長に案内されて部屋を出た。これからの生活を思うと多少緊張もするが、なにはともあれ、今夜は久々に柔らかなベッドの上で眠れそうである。

 



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うーん……さすがファンタジー世界

 翌日、鳳は昼過ぎまで惰眠を貪っていた。

 

 前日はレオナルドお抱えの料理長による、長旅を労う料理の数々に舌鼓を打ち、まさかあるとは思わなかった湯船に浸かった後、バスローブに体を包んだまま、ふかふかのベッドにダイブしたところまでは覚えている。どうやら、そのまま気絶するように眠りに落ちてしまったらしい。

 

 泥のように眠るとはこのことで、目をつぶった次の瞬間はもう朝になっていて、しかも目が開いているにも関わらず、いつまで経っても覚醒しない、金縛りみたいな状態でありながら、天国にでもいるかのように心地良いという、なんとも形容し難い微睡みに身を任せていたら、気がついたら太陽がてっぺんを過ぎてしまっていた。

 

 流石にこれ以上寝てはいられないと、体を起こしたら、今までどんな硬い床の上で寝ててもそんなことにはならなかったというのに、体がガチガチに固まっていて、動くたびにギシギシ音がなりそうだった。

 

 どんだけ疲れていたんだろうかと、我が事ながら唖然としていると、同じ部屋で寝ていたジャンヌも起き出してきて、鳳と同じように体をギクシャクさせていた。と言うか、同じ部屋に居たはずなのに、今の今までその気配に気づかなかった。

 

 人間、やっぱりちゃんとした寝床で寝ないと駄目だと話しあいながら廊下に出たら、寝ぼけた顔をしたルーシーとメアリーに出くわした。どうやらこっちも似たようなもんだったらしい。

 

 人んちに来て、いきなりこんなだらしない姿を晒すのは情けない限りだが、誰も起こしてくれなかったのだから仕方ないだろう。そんな言い訳をしながら、昨晩は起きたら食堂に来いと、執事に言われていたのでそちらへ向かう。

 

 さっきからお腹がぐーぐー鳴っているが、流石にこんな時間に起き出してきて、朝食がどうとか言いだすのは気がひけると思っていたが、食堂に行ったら当たり前のようにその朝食が用意されていた。

 

 スープからまだ湯気が立っているのは、どう見てもたった今作られたからとしか思えなかった。いつから待っていんだろう……澄ました顔をして佇んでいる使用人たちの姿に戦慄を覚える。

 

 四人縮こまって黙々と食事を摂った後、部屋に帰ったら昨日玄関で手渡した上着が綺麗に折り畳まれて置かれていた。熱湯でグツグツ煮込まれることもなく、どうやったらこんなに綺麗に洗濯出来るんだろう? と首を捻りたくなるくらい、新品同様で糊まできいている。

 

 至れり尽くせりで、そろそろ動悸と目眩がしてきた。取り敢えず、家主に挨拶しなきゃと思って部屋を出ると、廊下に執事のセバスチャンが音もなく立っていて、

 

「旦那様から皆様に、村の仕立て屋に行って、お召し物を仕立てて差し上げよと仰せ付かっております。馬車を用意いたしますので、お好きな時にお声をおかけください」

 

 執事はお辞儀をすると、また音もなく去っていった。間違いない、ここは3日もいたら人を駄目にする世界である。

 

「私、決めた! ここんちの子になる!」

「早まるなルーシー、戻れなくなるぞ!」

 

 そんな会話をしていると、丁度挨拶に向かおうとしていた昨日の応接室から件のレオナルドが出てきて、

 

「あ、おじいちゃん!」

「おじいちゃん……? なんじゃ気持ちの悪い。まあ、良い。丁度お主を呼びに行こうと思っておったところじゃ」

 

 ルーシーのイノセントスマイルを華麗にスルーしてレオナルドが言う。どうやら彼女に用事があったらしい。渾身の笑顔を無視されたが、それでもまだ養子縁組の芽があると踏んで、彼女がなんなりとお申し付けくださいと請け合う。

 

「お主らはこれから村に行くのじゃろう? どうせ必要になると思って、フィリップにギルドを預けておいた。行けばすぐ分かるから、買い物ついでに寄ると良かろう。ルーシーは儂とお留守番じゃ」

「なんで彼女だけ?」

 

 鳳が疑問を呈すると、

 

「ついこの間も見たじゃろうが、こやつには現代魔法(モダンマジック)の才能がある。もしかすると、儂以外に使い手のおらぬ幻想具現化(ファンタジックビジョン)を使いこなせる可能性を秘めているやも知れん。ここにいる間に、少々稽古をつけてやろうと思ってのう」

「へえ、期待されてんな、ルーシー」

「えへへへへへ」

「まあ、パーティーが強くなるにこしたことないから、頑張ってくれ」

「うん、私、頑張るよ。よろしく、おじいちゃん!」

 

 なんだか目の中にドルマークが浮かんでそうな眩しい笑顔でルーシーが答える。やる気だけなら確かに不可能を可能性にしそうな勢いである。二人はまるで仲の良い本物の祖父と孫みたいに去っていった。鳳たちはそれを見送ってから、執事に言われた通り、馬車に乗って村まで向かった。

 

 ジャンヌ、メアリーと三人で馬車に乗っていると、昨日、到着したときのように、村の人達が作業を止めて、こっちにお辞儀をしているのが見えた。頭を下げられる理由なんてないので恐縮してしまう。勧められるまま何の気無しに乗ったのであるが、今後は遠慮しておいた方が良いだろう。

 

 村の広場に差し掛かったところで、もうここまでで良いと言って、逃げるように馬車から飛び降りた。帰りも待っていると言われたが、全力でお断りしておいた。確かに村はとても広いのだが、歩けないほどの距離ではない。こちとら大森林の道なき道を毎日何キロも歩いていたのだから、こんな整備された道路なら、逆立ちして鼻からスパゲッティを食べながらでも、大した労力ではないのである。

 

 村の広場はそこそこ広く、生活雑貨やレストランに酒場、八百屋に肉屋、それに魚屋まであった。どうやら地産地消の生産品だけではなく、近隣の街との交易も盛んであるらしい。鄙びた村だと勝手に思っていたが、想像以上に生活レベルは高そうだ。

 

 金持ちは都会ではなく、郊外に好んで住むと言うから、案外ここもそんな感じなのかも知れない。郊外でこれなら、この国の首都ニューアムステルダムがどんな街なのか今から楽しみである。

 

 言われた通り仕立て屋にやってきたら先客が居た。

 

「よう、おまえら。やっと起きてきたのかよ」

 

 店に入ると入り口脇に置かれた椅子にギヨームが座っていた。いつものボロいローブを纏った姿ではなく、新品のデニムのジーンズにダンガリーシャツ、革のベストにカウボーイハットという、いかにも西部劇に出てきそうなガンマンスタイルである。日本人がやるとどこの田舎もんだと言わんばかりの芋スタイルであるが、やたらと似合って見えるのは、彼が正真正銘本物のカウボーイだからだろうか。

 

 ギヨームはこれまた新品の革靴の踵で、ゴツゴツ床を鳴らしながら、

 

「なかなかいい仕事してるぜ。あとで柔軟剤塗って馴染ませなきゃな」

「上から下まで、一式揃えたんだ。他人の金だからって、遠慮無しだな。しかし、見るからに暑そうな格好だ」

「馬鹿、遠慮なんかしねえで、装備は選べる時に、しっかり選んでおいた方が良いぞ。おまえ、着の身着のままで出てきたからあれだったけど、普通、森の中であんな装備はありえないんだから」

 

 装備と言われて、鳳は自分が冒険者だということを思い出した。服を買ってこいと言われて、彼は今の今までここにおしゃれ着を探しに来たつもりでいたが、そうではなく、レオナルドは冒険に使う装備一式を揃えてこいと言っていたのかも知れない。

 

 いまいちピンとこないが、これは防具屋で防具を選ぶようなものだ。ギヨームの格好が暑苦しそうに見えるのも、肌を晒していたら攻撃を受けた時に危険だから、厚手の長袖を着ているわけだ。

 

 そう考えてみると、自分は今まで『たびびとの服』で魔物が跳梁跋扈するフィールドを歩いていたわけである。これは服を選ぶのも慎重にならざるを得ない。

 

 とは言え、冒険者の装備なんて、どんなのが標準的なのか分からない。ミスリルの鎧とか、プラチナの盾とかは流石に売ってそうもない。そう言えば『おしゃれな服』は割といい装備だったなと思いながら、ワークマンで作業着を選ぶような気持ちになって装備を選んだ。

 

 レオナルドが買ってこいと言っていたのだから、代金は彼にツケておけば良いのだろうか……質問しようと店を見回したら、神人の客なんてまずお目にかかれないだろうから、メアリー相手に緊張している店員が見えた。あれに話しかけるのはちょっとかわいそうかなと思って待っていると、試着室の方からふらっとマニが出てきた。

 

 彼はギヨームと同室だったから、一緒に装備を買いに来たのだろう。忍者みたいな頭巾に、覆面よろしく口元にマフラーを巻いている。なんだか、本当に忍者みたいだなと思っていたら、

 

「獣人であることは、出来るだけ隠しといたほうが色々と都合が良いんだよ。差別する奴らもいるし、分かった時の反応を利用することも出来る」

 

 どうやらギヨームの見立てらしい。ガルガンチュアの部族はみんな半裸みたいなものだったから、多分、何を選んでいいか分からなかったんだろう。ある意味、すごく似合っているのだが、

 

「暑くないのか?」

「めちゃくちゃ暑いです」

 

 流石にこれじゃ息苦しくて動けないから、普段は半裸で、必要な時に着替えるスタイルでいくそうである。

 

 店員に着せかえ人形にされていたメアリーの試着も終わって店を出ると、日はもう大分傾いてしまっていた。赤道直下の日没は早い。とは言え、大森林と違って危険はないから、人通りは寧ろ今がピークと言っていい頃合いだった。

 

 広場の賑わいを見ていると、雑貨店なども冷やかしたいし、預けておいた馬の様子も見に行きたかったが、先に冒険者ギルドを尋ねることにした。

 

 レオナルドには、行けばすぐ分かると言われたが、村の広場は案外広くてどこへ向えばいいかわからない。そうしてキョロキョロしていたら、

 

「あれを見て」

 

 何かに気づいたジャンヌが指差す方を見てみると、腕相撲みたいな感じで握手をする篭手のマークが描かれた看板が見えた。大森林の駐在所には無かったから、すっかり忘れてしまっていたが、国境の街にはそう言えばこんなマークがついていた。

 

 懐かしいなと思いつつドアをくぐると、カランカランと喫茶店みたいなベルが鳴って、これまた懐かしい感じに、受付に座っていたミーティアが声を掛けてきた。

 

「いらっしゃいませ……って、皆さんでしたか。まあ、この村でここに来る人なんて、皆さんくらいのものでしょうけど」

「感じの悪さも相変わらずだなあ……ミーティアさん、今度はここに就職したの?」

 

 どうやら大森林の時と同じように、ギルド長とミーティアの二人でやっているらしい。前任者はどうしたのかと思いきや、元々、この村は平和で冒険者が寄り付かないから、二人が来るまで開店休業状態だったそうだ。

 

 それでも、冒険者はいなくてもギルドの仕事はあるらしく、そういった事務仕事はお屋敷の執事がやっていたらしい。本当になんでも出来る人だなと思いつつ、依頼の斡旋以外にどんな仕事があるのかと聞いてみたら、

 

「色々ありますよ。まずは情報の集積……ギルドでは新しい依頼や、冒険者からの情報が入ったら、すぐ近所のギルドに報告する決まりになっているんです。そうして伝言が街から街へと伝わっていき、バケツリレー方式で全ギルドの共有情報になるわけです。大森林でも、大君が魔族の出没地点を調べていたでしょう? あれは、大森林内にある他の支部から入ってきた情報をまとめたわけです」

 

 街の間は、冒険者や交易商が常に行き交っているから、そう言う人達に頼んで情報を伝えているらしい。大森林では、トカゲ商人の通り道にギルドが点在しているらしく、情報だけではなく、物資の移動もお願いしているそうだ。

 

 ゲッコーが支部に来たとき、ギルド長が飛んでいったのはお得意様だったからだろう。そういったネットワークを数多く持っているのが冒険者ギルドの強みであり、この世界でギルドは郵便局と言うか、情報ハブのような役割を担っているわけである。

 

 だから結構、アクロバティックなことも出来るらしく、

 

「そうそう、ガルガンチュアさんからマニ君に仕送りが届いてますよ」

「え? 俺たち、昨日到着したばかりなのに、どうして仕送りの方が先に来てるんだよ?」

「実際に、お金を動かしているわけじゃありませんからね。ガルガンチュアさんから振り込みがあったって情報がここに届いて、ギルドが建て替えてお支払いするんですよ」

 

 要は為替である。電信もない世界だが、やりようによってはこんなことも出来ちゃうわけである。鳳は妙に感心した。そう言えば、レオナルドの故郷フィレンツェは金融で栄えた街だったから、もしかするとノウハウを持っていたのかも知れない。

 

 やっぱり、ただの爺さんじゃないなと唸っていると、ミーティアがキョロキョロとこちらを見ながら、

 

「そう言えば、ルーシーの姿が見えませんね。どうかしたんですか?」

「ああ、ルーシーなら、爺さんに捕まって勉強してるよ。なんか才能がありそうだから、伸ばしてやりたいんだって」

「まあ、凄い! ……あの子、どんどん成長しますねえ。正直言うと、冒険者の真似事をするなんて、ちょっと心配だったんですよ」

 

 ミーティアは大きな胸に手を当てて、ほんのちょっぴり長いため息を吐いてから、すぐに我が事のように笑みを浮かべて、

 

「あの時、皆さんに預けてよかった。私ではきっと、あの子のあんな笑顔を引き出すことなんて出来なかったと思います」

「いや、俺たちは別に何もしてないから、そんな気にしないでよ」

「いえ、そんなことないですよ。鳳さんのあの一言がなかったら、きっと今でも彼女は私の下で、つまらない仕事をしていたと思いますよ」

「いや、ルーシーなら自分で勝手に気づいてたと思うし、それにミーティアさんの仕事がつまらないなんてことはないでしょう。いつもお世話になってるし」

「いえいえ、そんなことないですよ。私は単に事務的に仕事をこなしているだけです。お礼を言われるようなことはしてません。寧ろ、私の方こそお礼しなければ」

「あ、そう? じゃあ、おっぱい揉ませて」

「殴るぞこのやろう」

 

 バキーっと、ほっぺをグーパンされながら、鳳はなんだか申し訳ない気持ちになっていた。

 

 実際、自分は何もしていないし、あれは彼女の実力であり、お世話になってるのはこっちの方だと思っている。もちろん、ミーティアにもいつも世話になりっぱなしだ。だからありがとうと言いたいのは、本当はこっちの方なのだが、どうにもその一言が言えず、気がつけばいつも下らない冗談に走ってしまう。まあ、ほんのちょっぴり……いや、かなり揉んでみたいのも確かなのだが。

 

 ともあれ、鳳は赤く腫れ上がったほっぺたを擦りながら、

 

「それはともかく、マニに仕送りがあるなら受け取らないと」

「そうでした……マニ君、ちょっとよろしいですか?」

「は、はい」

 

 マニは今まであまり話をしたことがないミーティアにいきなり呼ばれて、おずおずと前に進み出た。多分なにかの手続きだろう。鳳たちが背後で見守っていると、

 

「ギルドを利用した送金には、本来なら手数料がかかるのですが、高ランク冒険者の特権でそれがタダになるんです。ほら、高ランク冒険者はお金を沢山持っていますが、それを持ち歩きたくなんかないでしょう? それでギルドは彼らのお金をプールしているわけですが、それを引き出すには、信頼のおける身内であっても、ギルドメンバーじゃないといけないという決まりがあるんです」

 

 なるほど、冒険者ギルドは、そのメンバーの口座(アカウント)を作って管理しているわけだ。依頼料はそこに振り込まれるが、使われない限りはギルドの資金として使える。きっとそれを使って運用もしているはずだ。

 

 鳳は、本当に銀行というか、郵便局みたいなんだなと感心した。基本的な依頼には宅配の仕事もあるし、後はATMとキャッシュカードまであれば完璧なのだが……

 

「それで、これがマニ君がアカウントを利用するためのカードなのですが……」

「あるのかよっ!!!」

 

 鳳が思わずツッコミを入れると、ミーティアたちが目をパチクリさせていた。この調子だと、保険まで勧められそうである。一体どういう仕組なのかと尋ねてみたら、

 

「私も詳しくはわかりませんが、これに身分を証明するための魔法が掛かっているんですよ。ほら、以前、鳳さんたちもギルドに登録する時にエントリーシートに名前を書いたでしょう?」

「ああ、そう言えば、そんなもんもあったっけ」

 

 だいぶ昔の話になるから、もうすっかり忘れてしまっていたが、確かレオナルドが作った嘘発見機能付きの不思議なペーパーである。幻想具現化魔法を使えばこんなことも出来るんだと言われ、当時は素直に驚いたものである。

 

「あれは身分証明書の代わりにもなってるんです。あの時に書いた署名は各支部に複製が届けられ、冒険者はどこの支部へ行っても同じように依頼を受けることが出来ます。高ランク冒険者はどこへ行っても引っ張りだこですから、気軽に移動できるために考え出された仕組みですね」

「うーん……さすがファンタジー世界。たまにとんでもないのが出てきて驚かされるな」

 

 そしてそれには大概、あの老人が関わっているのだから恐れ入る……ミーティアは続けた。

 

「ですんで、マニ君はこのシートに、冒険者ギルドのメンバーになるための署名と、ガルガンチュアさんの息子であることを記入してください。手続きは以上です」

 

 ね、簡単でしょう? と言わんばかりに彼女はマニの前に紙とペンを差し出した。しかしマニはそれを受け取っても、しげしげと眺めているだけで一向に動き出す気配がなかった。話を聞いていなかったのかな? と思った彼女が再度説明すると、マニは困ったように眉根を寄せて、

 

「あの……署名って、どうやるんですか?」

「どうって、そこに名前を書けばいいんですよ」

 

 するとマニは更に困った様子で、

 

「僕は自分の名前の書き方がわかりません」

 

 と言い出した。

 

 鳳は思わずぽかんとしてしまった。だが、考えてもみればその可能性は十分に有り得るはずだ。何しろ、鳳は長老の文字を解読するのに1週間もかけたくらいである。あの村の子供達が文字を習っている姿は見たことがなかったし、大人たちが文書を取り交わしているような気配もなかった。

 

 大体、鳳たちが生きていた現代が特殊なんであって、人類の長い歴史上、殆どの期間で庶民の識字率は壊滅的だったのだ。それに、マニは中高生くらいに見えるが、実年齢は9歳だし、文字が書けなくても何ら不思議じゃない。

 

 しかし、文字が書けないんじゃ登録も出来ないので、どうすればいいんだろうかと悩んでいると、

 

「それじゃ、まずは文字の書き方から覚えないとな」

 

 固まっている鳳に代わって、背後からギヨームがフォローを入れてくれた。

 

「レオの世話になってる間は、金なんかなくても困らないだろう。それよりさっさと字を覚えたほうがいい。おまえ、人間社会を見学に来たんだろ。今後どこへ行くにしても、読み書きが出来ないと何も出来ないぜ。門前払いまである」

「そうなんですか? 弱ったな……」

「なに、名前くらいすぐに書けるようになるさ。俺が教えてやるよ」

「お願いします」

 

 マニはぺこぺこと頭を下げていた。ナイスフォローと内心称賛しつつ、鳳は思い出していた。そう言えば、自分たちも最初はギヨームの世話になっていた。なんやかんや面倒見のいいヤツである。

 

 さて、そんなこんなで、マニの用事も済んでしまった鳳たちは、時間を持て余して何かしようということになった。どうせ、屋敷に帰ってもやることがないのだ。出てくる前に食事をしてきたばかりだし、腹ごなしに運動するのもいいだろう。

 

 とは言え、初めてきた村で勝手もわからないし、さっきみたいに村人たちにペコペコされたら落ち着かないので、あまりその辺をうろちょろするような真似もしたくなかった。

 

 それじゃ、何をやるかと言えば、冒険者はやはり冒険者らしく、依頼(クエスト)を受けるのが本分だろうか。思えばガルガンチュアの村を出てから久々の仕事である。この辺りには、どんな依頼があるのだろうかと期待しながら、鳳は掲示板を見た。

 



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定番クエスト

 レオナルドの勇者領での拠点、ヴィンチ村にやってきた鳳たちは、暇つぶしに冒険者ギルドの依頼を受けることにした。レオナルドの屋敷は非常に居心地が良かったが、良すぎるせいで、帰ってもやることが思いつかないのだ。せっかくギルド長とミーティアが店を開いてくれたのだし、どうせなら何か受けていくのもいいだろう。

 

 とは言え、時間的にそれほど遠出は出来ない。地理を覚えたいところでもあるが、流石に隣村に配達などは無理だろう。メンバーもほぼほぼ揃っていることだし、討伐依頼が良いんじゃないかと、そんなことを話しながら一行が掲示板を眺めていると、鳳はその中に非常に目を引く単語を発見した。

 

「お……おお!?」

「うっせえな。どうしたんだよ……」

 

 鳳が気持ちの悪い声を発すると、隣にいたギヨームがいきなり大声を出すんじゃないと、これまた気持ち悪そうな目つきで尋ねてきた。鳳はそんな彼の服の袖をグイグイと引っ張りながら、

 

「おい、見ろよ! ゴブリン退治! ゴブリン退治だってよ!!」

「……? だから何だよ」

「これをやらずして何がファンタジー世界だって定番クエストじゃん。本当にあったんだ! いやあ、まさかこの目で確かめられる日が来るとは思わなかった」

 

 鳳が感嘆の息を漏らし、これはやらねばと依頼の張り紙を指差していると、ギヨームはアホらしいと言わんばかりに肩を竦めてそっぽを向き、ジャンヌも頬を引きつらせて苦笑していた。その反応と、鳳のテンションとでは、明らかにギャップがあった。

 

 そう言えば二人は鳳とは違って、ヘルメスの冒険者ギルドでも、討伐依頼をガンガンこなしていたような熟練冒険者だった。こんなのはいつか通った道でしかなく、今更受けるような代物ではないのだ。

 

 さては初心者まるだしの鳳の姿を見て、馬鹿にしているに違いない。彼は顔を真っ赤にしてプンプン怒りながら、

 

「なんだよう! 今更こんなの下らないとか思ってんだな!? かー! これだから初心を忘れちまった老人どもは! おまえたちだって最初はこういう簡単なクエストから始めたんだろう? 次はどんな敵が出てくるか、ワクワクしながら受けてたんだろう? その気持ちを忘れて、初心者を見下すような態度で見るようになっちゃ、俺はおしまいだと思うがねえ!」

「いや、別にそんなつもりで見ちゃいねえよ……つーか、おまえ、討伐依頼なんて大森林でさんざん受けてきたじゃねえか。今更、誰もおまえを初心者だなんて思ってねえよ」

「じゃあ、こんな簡単なクエストを今更受けて喜んでる俺を滑稽だと思ってるんだな? いいよいいよ、それじゃあ君たちはここで待ってなさいよ。俺たち初心者組だけで行ってくるから。それでいいよな? マニ、メアリー」

 

 鳳が話を向けると、ガチで初心者のマニはコクコクと緊張気味に頷き、メアリーの方は何でも良いと言わんばかりに鷹揚に頷いていた。

 

 正直、初心者だけで討伐依頼を受けるのは危険かなと思ったが、まあ、メアリーがいるなら余程のことが無い限り大丈夫だろう。

 

 鳳は売り言葉に買い言葉で掲示板から依頼書のチラシをひったくるように剥がすと、受付でこちらのやり取りを眺めていたミーティアの元へと持っていった。

 

 ところが、彼女は鳳の差し出すそれを受け取ろうとはせず、どことなく不安そうな表情を見せながら、

 

「……え? 本当に受けるつもりなんですか?」

 

 と返してきた。

 

 その反応には、流石に鳳も少し焦った。ミーティアはギルド職員の仕事が長いせいか、それとも素の性格からか、普段から飄々としていて、こういう時に下手に感情を表に出すことがない。からかい半分に茶化すか、淡々と受理するだろう。そんな彼女がここまで露骨に嫌そうな顔をするのは、何か問題があるに違いない。

 

 そう言えば元の世界のファンタジーアニメなんかでは、ゴブリン退治は見かけによらず危険なクエストであるという、風潮というか流行りがあった。人型の小鬼は体力はそれ程でもないが、集団で行動し知恵が回る上に武器も使うため、初心者が雑魚狩りのつもりで挑むと返り討ちに遭うというのだ。

 

 某アニメでは、男は惨たらしく殺され、女は死ぬまでレイプされ続けるという、それはもう残酷な描写が当たり前のように描かれており、ヒロインが二度もおしっこを漏らすシーンは、性癖にぶっ刺さったオタク達の間でかなり話題になっていたりする。

 

 もしかして、こっちの世界のゴブリンも、そんなアニメみたいに、初心者が手を出したらやばいモンスターなのだろうか……?

 

「いや、そんなことねえよ。ゴブリンなんてクソ弱えに決まってんだろ。子供でも退治できる数少ない魔族の一種だぜ」

「あ、そうなの?」

 

 じゃあ、何がそんなに気に食わないんだろうか?

 

「なんつーか、一言で言えば弱すぎて相手にしたくないんだが……そういやおまえは放浪者(バガボンド)だったな。じゃあ、おまえにも分かるように簡単に説明してやろう。どうも、そっちの二人も良く分かってないようだしよ」

 

 メアリーとマニが揃って小首を傾げている。ギヨームはそんな二人と鳳に向かって、主に大森林の周縁に棲息している低級魔族やモンスターについて話し始めた。

 

「基本的に、魔族も魔獣も、大森林の南部に棲息している生き物なんだ。特にオーガやトロール、ミノタウロス、オアンネスなんかの魔族と分類される人型の生物は、ネウロイと呼ばれる南半球の高緯度地方に棲息していて、北半球に現れることは滅多に無い。俺たちが大森林に居た時、その魔族が大量に侵入してきていたのは、かなりの異常事態だったわけだ。

 

 奴らが北半球にやってこない理由なら、おまえたちはもう知っているだろう。大森林の北部は獣人の領域(テリトリー)で、魔族が侵入してきたら、彼らが撃退するからだ。魔族と獣人は南の大河を境にして、縄張り争いをしているのさ。

 

 だが、そんな獣人の縄張りを抜けて、人里までやってくる連中がいる。それがゴブリンやコボルトなんかの小型魔族だ。どうしてこんな弱い連中が、獣人の領域を通ってここまでやってこれるのかって言うと、それは逆転の発想で、奴らが獣人を避けるからだ。

 

 他の魔族が北半球へやってくるのは、獣人からその土地を奪って自分たちのテリトリーにするためだ。ところが、ゴブリンなんかは最初から獣人に敵わないことが分かっているから、見つからないように避けて通る。そして、外敵の少ない人里の近くまでやってきて、そこに定住してしまうってわけだ」

 

 鳳はぽんと手を打った。

 

「あー、なるほど。兎人たちが激戦区のはずの大河で暮らしていたみたいに、ゴブリンも獣人と人間の領域の境に暮らしているんだな?」

「そうだ。奴らは大森林の中では最弱だが、人間相手ならそこそこやれる。そして人間は危険な大森林には入ってこない。だから森の外縁部にコソコソ暮らし、夜になったら人里に出てきて畑や家畜を荒らして回り、おっかけられたら森に逃げ込むという生活をしている。農家にとって天敵みたいなものなんだ」

「なるほどなあ~……じゃあ、ゴブリン退治って、まんま俺たちの世界の害獣駆除の仕事みたいなものだったんだな」

 

 鳳がそう呟き一人で納得していると、ギヨームはそれは少し違うと前置きしてから、

 

「確かにそれもあるが、もっと他に理由があるんだ。実はここからが肝心な部分なんだが、奴らが忌み嫌われているのは、その存在が邪悪すぎるという面の方が大きい。さっき、おまえが言った通り、魔族というのは他の種族を見つけると、男なら殺し、女なら犯すように出来ている。本能に忠実に生きてる生き物だ。それはゴブリンであろうがオアンネスであろうが、魔族であれば変わらない。俺たちも、もしオアンネスにやられていたら、同じ目に遭っていただろう」

「え……マジ?」

 

 鳳がドン引きしているのを無視して、ギヨームは無表情のまま続けた。

 

「しかしゴブリンは弱くて、大人がやられることはまずない……だから、被害者は常に子供なんだ。しかも、年端も行かないような小さな子供ばかりで、散々嬲りものにされた後に殺されることになる。その死体は残酷で、とても見れたものじゃない。更に奴らはそれを誇らしげに木に吊るすんだ」

 

 鳳は絶句した。そして、それを聞いていたメアリーも、子供が犠牲になっていると知って、義憤にかられて珍しく大きな不満の声をあげた。

 

「なによそれ……だったら、尚更私達がやんなきゃなんないじゃない! 私、弱い魔族のことなんて、正直どうでもいいって思ってたけど、それを聞いたら考えが変わったわ。弱かろうがなんだろうが、魔族は潰して回らなきゃいけないわ」

 

 メアリーが挑むような視線でギヨームに向かって憤りの表情を見せた。彼はそんな怖いかを交わすかのように、お得意のニヤニヤとした苦笑で肩を竦めながら、

 

「そうだ。おまえの言うとおりだ。だから、やりたくないんだよ……」

「やりたく……ない? どうしてだ? 今の話を聞いてたら、俺だってメアリーに賛成するのに」

 

 鳳がぽかんとしてそう問いかけると、ギヨームは相変わらず苦笑気味に言った。

 

「勘違いするな。俺だって賛同はしている。ただ、やりたくないと言ってるだけだ」

 

 鳳は彼が何を言っているのかちんぷんかんぷんで首を捻った。心では賛成していても、体は拒否しているとかそういうことだろうか? それは相手が弱いから? 思ったよりも簡単ではないから? その理由がわからない……

 

 そんな鳳に助け舟を出すかのように、横で聞いていたジャンヌがギヨームの言葉を補足するように続けた。

 

「例えば、白ちゃん、こう考えてみて……私達が暮らしていた元の世界で、誰にでも殺すことが出来るけど、汚らわしくて触りたくない生き物って何が連想できる?」

「どういうことだ? それが何か関係あるのか?」

「いいから答えてちょうだいよ」

「……誰にでも殺すことが出来て、汚らわしい……動物なら何でもいいんだよな? だったら、ゴキブリとか?」

 

 他にもざざむしとかムカデとか、見るだけで怖気が走るような生き物は大概そう思うものだろう。人間は大きいからそいつらを一撃で殺すことは出来る。でも心理的抵抗がある。それが何か関係あるのだろうか? 鳳が目をパチクリさせていると、

 

「それじゃ白ちゃん、ゴキブリ退治を生業にしている人がいたら、あなたはその人のことをどう思うかしら?」

「えっ……」

 

 鳳は虚を突かれた思いがした。

 

 彼にはもちろん、そういう人々を差別する気は毛ほどもない。だが、そういう人達がどういう目で見られるかは、容易に想像がついた。つまり、ゴブリン退治とはそういうことなのだ。

 

 例えば、殺虫剤を作っている人がいたとする。その人がもし、毎日素手でゴキブリを触っていると言ったら、その人が作った手料理を食べることに抵抗を感じる人は少なくないだろう。その人は話が面白くて好感も持てるし、陽気で優しいナイスガイだ。でも、一次接触はちょっと躊躇ってしまう。

 

 人間は死を連想するもの……いわゆる穢れを恐れて近づきたがらない。興味深いのは、穢れを恐れるあまり、その穢れを払う人まで恐れることだ。例えば、幽霊が出るわけでもないのに、人は深夜にお寺を見ると妙に心細くなったり、自分の生死とは何も関係ないのに、動物を屠畜する職業を恐れるように、死体を扱う職業全般を蔑視したりする。

 

 言うまでもなく我々人類は、祖先が動物の肉を食べてきたからここまで発展したわけであるが、その動物を殺すという理由から、昔は肉屋を差別するという風潮まであった。太公望が肉屋を営んでいたというエピソードは有名であるが、それはその頃の羌族がそう言う差別を受けていたということを表しているわけだ。

 

 近年でも、ロブスターを活造りにしたら社会問題になったというくらい、人間は死を嫌う。クマが人里に現れたと言うからハンターが向かったら、都会の連中がこぞってクマが可愛そうだと言い出す始末である。ほっといたらどうなるかは言うまでも無いのに、それくらい人間は死を連想するものに過敏に反応するわけだ。

 

 それと同じように、ゴブリンが可哀相だという者はいないが、ゴブリン退治という仕事は忌避されているようである。かと言って、熊やイノシシ同様に放置しておくわけにはいかない。奴らは邪悪で、畑を荒らすだけではなく、家畜や子供たちを襲うのだ。

 

 例え嫌がられても、誰かがそれをしなきゃならないわけだ。だが人間はやりたくない。じゃあ誰がその仕事をするのかと言えば……どうやら日常的にそれを生業にしているものが存在しているらしい。

 

「まあ、マニはギルドでの初仕事だし、人間社会を見学に来たわけでもある。こういう仕事をどういう奴らがやってるのかを、予め知っておくのもいいかも知れないな」

「どういうことですか?」

 

 マニは小首を傾げていたが、ギヨームは何も言わずに黙ってさっさと出入り口から外に出ていってしまった。ジャンヌがメアリーとマニの背中を叩いて後に続く。彼らがギルドから出ていくのを見て、鳳もその後を追った。

 

 鳳たち一行はギルドを出ると、街の広場を横切って、この村に到着した時に最初に訪れた牧場の方へと向かっていった。

 

 牧場主は鳳たちがやってくると、預けた馬の様子を見に来たと思ったらしく、厩舎に案内しようとすっ飛んできたが、ギヨームから来訪理由を聞かされると、目をパチクリさせた後に、なるほどと頷いて、牧場の奥に見える森の方を指差した。

 

 ヴィンチ村は勇者領の端っこにあり、大森林に面している。ゴブリンはその周縁部に棲息しているわけだから、目的地はすぐそこである。

 

 ギヨームは牧場主に指さされた方向へ足を向けると、後ろからぞろぞろとついてくる鳳たちを振り返ること無く、前を向いたまま話し始めた。

 

「この世界の子供たちは小さい頃に、親からゴブリンの怖さを嫌というほど教わって育つ。危険な森に近づくなと言う決り文句みたいなもんだが、その禁を破って森に近づき、実際に酷い殺され方をする子供は毎年居るから、物心つく頃には、子供たちはみんなゴブリンに対する恐怖が刷り込まれてるわけだ。その反動からか、大きくなって体力的に優位になると、逆にゴブリンを殺して自慢するような痛い連中が出てくる。度胸試しのつもりか知らねえが、そう言う連中が調子に乗って、惨たらしく殺したゴブリンの死体を見せつけたりするから、ゴブリン退治に対する偏見が助長されるって悪循環があるんだ」

「なるほど、中二病みたいなもんか……確かに、それと同じような目で見られるのは嫌だなあ」

「中二……? なんか良く分からんが、そんなわけでゴブリン退治ってのは、なり手が少ない職業なわけだ。万年、人手不足だから、いつでもギルドに依頼があるんだが、好き好んでそれを選ぶようなやつはいない。とある種族を除いてな」

 

 話をしながら歩いていると、前方の森に面した草原に、一軒の掘っ立て小屋が見えてきた。鳳が国境の街で作った小屋みたいなもので、小さくて粗末な作りは、まさにうさぎ小屋と言った風情である。

 

 周辺には畑も存在し、中に誰か住んでいるのは明らかだったが、農家とは少し感じが違った。家の外壁に鉄の道具が立てかけられていたが、それはクワやスキのような農具ではなく、剣やメイスのような武器だった。

 

 多分、あれで森から出てくるゴブリンや魔物と戦うんだろう。一体、どんな人が住んでるのだろうかと近づいていくと、一行の気配に気づいたのか、ギィギィと木板が軋むような音を立てて、小屋の中からゾロゾロと、数人の影が現れた。

 

「にゃにゃ? おまえたち、誰かにゃ~?」

 

 小屋から現れたその男たちは、筋肉質の引き締まった体つきをしていたが、顔の方は人間とは明らかに違う、頭の上に三角形の耳をそばだてて、アーモンド型の目は鋭く吊り上がり、ピンと伸びた立派なヒゲが風になびいていた。

 

 そこに住んでいたのは猫の顔をした猫人(キャットピープル)たちだった。彼らは突然の来訪者を警戒するように、しっぽをぷらぷらとさせながら立っている。人間の世界でゴブリン退治を生業にしている連中とは、つまりマニと同じ獣人だったのである。

 



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血で血を洗う抗争にゃ

 初心者の定番クエストかと思いきや、割りと面倒臭い裏事情があるゴブリン退治の依頼を受けた鳳たちは、森の周縁部までやってきてそこに小さな掘っ立て小屋を見つけた。どうやらこの世界には、ゴブリン退治を生業としている専門家が居るらしい。一体、どんな人が住んでいるのだろうかと近づいていくと、その気配に気づいて中から大勢の獣人が飛び出してきた。

 

 大きな三角形の耳に、アーモンド型の目、ピンと伸びた立派なヒゲが風になびいて、口元はギリシャ文字の『ω』みたいな、いわゆる猫口をしている。鳳がこの世界にきてから、その存在は知っていたが殆ど縁がなかった、猫人(キャットピープル)である。

 

「にゃにゃ? おまえたち、誰かにゃ~?」

 

 そのアホっぽい口調と、ピンと立つ猫耳、アーモンド型の大きな瞳は、猫好きにはたまらない魅力に思えるかも知れないが、実際の猫人は、筋骨隆々な人間の体の上に、ライオンみたいな顔が乗っているから結構怖かった。あと肉食獣だから口臭も凄い。

 

 狼人もそうであったが、体毛が濃くて、まさに動物の毛皮そのものであり、ノミを飼ってそうだと思って見ていたら、ポリポリと体をひっかいた指先から、何かがぴょんと飛び出した。

 

 近づいたら体が痒くなりそうだ。鳳がその様子に怯んでいると、猫人たちは突然の来訪者に対し憮然とした表情で、

 

「ここはミーたちの縄張りにゃ。よそ者はあっち行けにゃー」「人間は森に近寄っちゃ駄目にゃー! ミーたちが怒られるにゃー」「出てけにゃー!」

 

 右から左からにゃーにゃーとうるさい。猫好きだったら以下略……

 

「いや、俺たちは別に遊びに来たわけじゃない。実は冒険者ギルドで依頼を受けて、ゴブリン退治をしに来たんだが、おまえらがここの番人か?」

 

 猫人たちの勢いに押されて、あたふたしている鳳の代わって、ギヨームが前に進み出てそう尋ねる。しかし、猫人たちはそんなギヨームの姿を見て、にゃははは! っと笑うと、

 

「寝言は寝てから言うにゃ」「ユーがゴブリン退治だって?」「なんて嘘吐きにゃー」「お子ちゃまは家に帰るにゃっ」「ママのおっぱい吸ってるのがお似合いにゃ~」

 

 猫人たちはギヨームを指差して笑っている。精神年齢が高いせいで忘れがちだが、ギヨームは肉体年齢的にはまだ12歳でしかない。見た目だけなら、親の言いつけを破ってこっそりゴブリン退治をしようとしている悪ガキにしか見えないだろう。

 

 しかし、そう見えないだけでギヨームは冒険者としても、そして実際にもかなり高レベルな男である。そしていつもニヤニヤしているが、別に怒ってないわけではなく、江戸っ子ほどではないが結構怒りっぽい。

 

 鳳はギヨームの指先から燐光のような青白い光が発するのを見て取ると、

 

「おい、ギヨームやめとけよ!」

「離せ! バカにバカにされることほどムカつくことはねえんだよ!」

 

 鳳がギヨームを羽交い締めにしていると、ジャンヌがやれやれといった表情で前に進み出て、笑い声を上げている猫人に言った。

 

「ちょっとあなた達~? 彼は本当に冒険者ギルドから来た冒険者なのよ。私の相棒のことを笑わないであげてちょうだい」

「にゃにゃ? ユーは本当に冒険者っぽいにゃ」

「そうよ~。信じられないなら、村のギルドまで行って確かめてちょうだい。本当だから」

「ユーのことは信じるにゃよ。でも、他のは嘘にゃ。子供に女に兎人に……ユーしかまともなのがいないにゃ。さては、ユー! 学校の先生か何かだにゃ? 悪ガキのお世話は大変にゃ~」

 

 当たり前のように鳳のことがスルーされているのは気に食わなかったが、多分、役立たずなのは本当だから黙っていよう。またも子供と馬鹿にされたギヨームは、そんな鳳の腕を振り払うと、いつものニヤニヤ笑いを浮かべつつも、こめかみの辺りに青筋を立てながら、ドスの利いた声で、

 

「信じないなら信じられるようにしてやりゃいいじゃねえか。どけよジャンヌ」

「困ったわねえ……あなたもちょっと大人になりなさいよ」

 

 押し避けようとするギヨームを、ジャンヌは片手で簡単に制する。ギヨームは腕をグルグル振り回してジャンヌを攻撃するが、それは全部空を切っていた。

 

 それは実際には高レベル冒険者同士の物凄い攻防が繰り広げられているはずなのだが、傍から見ればまるでいじめられっ子の逆ギレにしか見えないので、猫人たちの笑い声はいよいよピークに達した。

 

「にゃはははは~!! グルグルパーンチ! いきり小学生にゃ~!」「僕ちゃん、先生の言うことはちゃんと聞くにゃー。学校で習わなかったかにゃ!?」「ユーには計算ドリルがお似合いにゃー!」「にゃーっはっはっは!!」

 

 ギヨームの表情はいよいよ穏やかを通り越して仏みたいになっていた。このままでは、いつかジャンヌだって突破されて、猫人たちはかつて猫人だった物に変えられてしまいかねない。

 

 鳳は、この失礼な猫人たちをなんとかしないとそろそろヤバいと思い、彼らに向かって一歩踏み出し、事の次第を一から説明しようとしたのだが、

 

「にゃ……? にゃああああああーーーーーっっ!!!」

 

 と、その時、突然猫人の一人が何かに驚いたように悲鳴を上げた。びっくりして振り返ると、声の主もまた同じようにびっくりした表情でこちらの方を指差している。

 

「にゃ、にゃ、にゃ……にゃー! みんな、あれを見るにゃっっ!」

 

 にゃんだろう? とその指先を辿ってみると、それはギヨームたちのやり取りを遠巻きにぼんやりと眺めていたメアリーに向かっていた。彼女は突然注目を浴びて目をパチクリさせている。猫人はそんなメアリーを指差しながら、

 

「みんな見るにゃ、あの女は神人にゃー!」「にゃんだって!?」「本当かにゃ?」「にゃんと!?」

 

 猫人たちは縦長の瞳孔を見開いて、メアリーのことをまじまじと見つめると、アーモンド型の大きな目を更に大きくしながら、

 

「にゃあああーーーーっっ!!!」

 

 と盛大な悲鳴を上げた。

 

「にゃ、にゃんで、こんなとこに神人が?」「昨日、お館様のとこに神人がやって来たって、村の人が言ってたにゃ」「それじゃあ……まさかこいつら、お館様のお客様かにゃ!?」「にゃんてことだにゃ! にゃにゃなーごっっ!!」

 

 猫人たちはそんなことを口々に叫ぶと、突然、ズザザザザーっと土埃をあげて後退り、地面にビターンと額を押し当てて土下座した。

 

「ごめんなさいでしたにゃー!!」

 

 それは一片の自尊心すら感じさせぬ、見事にへりくだった土下座であった。あまりに見事なものだから、たった今まで激おこだったギヨームでさえ呆気にとられている。

 

 お館様がどうとか言っているが、それはレオナルドのことだろうか。この村は全てあの老人の土地だそうだが、感覚的には領地といった方が正しく、村人たちからすればレオナルドはお殿様という認識なのだろう。

 

 実際、馬車に乗ってた時の村人たちのこちらを見る目は、それを顕著に表していた。メアリーはわけが分からずぽかんとしているが、多分、彼らは彼女にではなく、間接的にレオナルドに向かって土下座しているわけだ。

 

「にゃー! ミー達がここで暮らしていけるのは、お館様のお陰だにゃ。ユー達がお客さんだって知らなかったにゃ。許してくれにゃ」

 

 いきなり平身低頭する猫人に対し、毒気を抜かれたギヨームが、なんかもうどうでもいいやと言わんばかりにため息を吐いてそっぽを向いた。鳳は苦笑いしつつ、取り敢えず、ぶるぶる震えながら地面に額を擦り付けている彼らを起こしてやろうと、ジャンヌとマニを引き連れて近づいていった。

 

 すると、猫人たちはその中に自分たちと同じ獣人を見つけて、

 

「にゃにゃ? ヘイ、ユー! そのお方たちがどなたかと心得ず頭が高いにゃ!」「ユーもこっちに来るにゃ」「土下座じゃあまいにゃ、土下寝にゃ!」「わわわっ!!」

 

 猫人の一人を起こしてあげようとしていたマニは、あっという間に揉みくちゃにされて地面に寝転されていた。土下座ならぬ土下寝の姿勢で、足をぴーんとさせながらうつ伏せに寝っ転がる獣人たちの群れは、まるでセリ市場に並ぶマグロのようだった。

 

 鳳たちは、彼も仲間だと言ってマニを助けようとしたのだが、この騒がしい猫人たちはなかなか言うことを聞いてくれない。彼らに言わせれば、人間と対等に肩を並べていい獣人なんて存在しないのだ。ましてや、獣人最弱と呼ばれる兎人が、お殿様のお客様だなんて、到底信じられないことらしい。いくら本当のことだと言っても聞かない。

 

 ガルガンチュアの話までして、ようやく納得してくれたようであるが、まだ半信半疑の目を向けてくるところを見るからに、この国で……いや、この世界で獣人が、どういう目で見られているのかが分かる気がした。

 

 きっとマニも、ガルガンチュアがなかなか留学を許さなかった理由を、今ようやく痛感しているのではなかろうか。

 

********************************

 

 その後、ようやく落ち着いてくれた猫人たちと一緒に、ゴブリン退治に行くことになった。猫人たちはとにかく騒がしく忙しなく早合点しがちなものだから、面倒くさくなったギヨームが説明を放棄してしまったため、代わりに鳳が彼らに事情を話すことになった。

 

 とにもかくにも、鳳たちがここへ来たのは、ギルドの依頼を受けてゴブリン退治をすることだった。彼らは兎人が冒険者になると言うことが信じられず、最初はとても驚いていたが、マニには狼人の血が流れていると聞くと、渋々ながら納得していた。

 

 彼らに言わせれば、どうやら狼人と猫人はライバル関係にあるらしく、気に食わない相手ではあるが、その実力は認めざるを得ないらしい。

 

 ガルガンチュアの村にいた時に、猫人の話なんて全く聞かなかったから、多分、一方的にライバル心を抱いているのだろう。とは言え、彼らが狼人たちより劣っているかと言えば、そんなことはないようだった。

 

 ギヨームによれば、猫人は恐らく、獣人の中でも最強の狩人なのだそうだ。しかし、彼らは他の種族と違って群れるのを嫌い、単独行動しがちで、おまけに全く落ち着きがない。

 

 こうして話をしている間も、他の猫人たちは、あっちで蝶を追いかけ、こっちにふらふら走っていき、どうにもこうにも忙しない。こんな連中が、あの大森林でやっていけるはずもなく、他の集団との生存競争に敗れて、気づけばこの周縁部にまで追いやられてしまったそうである。

 

 そんなわけで大昔から猫人は、人里の近くで魔物を狩って暮らしていたのだが、魔族と違って話が通じるから、やがて人間たちと共存し始め、そういう連中が農場や牧場に住み着き、外からやってくる魔物から家畜を守る飼い猫になった。

 

「いっぱい狩らないと牧場長に怒られるにゃ」

 

 そうならなかったのが野良猫になって、主にゴブリンを狩り、ギルドでお金に変えているらしい。

 

「生活がかかってるにゃ」

 

 彼らは同じ狩場で、人間を守るためという同じ理由で、同じ魔物を狩っているわけだが、協調性がないために競争になりがちで、相手を出し抜くことしか考えていない。

 

「血で血を洗う抗争にゃ」

 

 それで外からやってきた鳳たちを威嚇していたわけである。

 

「なんだよ。子供が森に近づいたら危険だから、追い返してたわけじゃないのかよ」

「にゃー。それもあるにゃ。人間の子供は弱いから、すぐ死ぬにゃ。牧場長に子供を見たら邪魔するように言われてるにゃ」

「ふーん」

「でもゴブリンなんて、子供でも狩れるにゃ。だからやっぱり子供もミー達の敵にゃ」

「どっちなんだよ」

 

 まあ、なんにせよ子供を守ろうとしているというニュアンスは伝わってきた。そして、こういう汚れ仕事を獣人がやっているということも。

 

 人間は弱く、逆に獣人は生まれつきの狩人なんだから、ゴブリン退治は適材適所のはずなのだが、こうして差別されている現実に知ると、なんとも形容のし難い気分になった。鳳は結局、異邦人だから偏見がないが、命を取るという行為は、やはり人間にとってよほどショックなことらしい。

 

 人間の歴史を振り返ってみれば、殆ど戦争で埋め尽くされているのであるが……まあ、そんなことにまで考えを及ばしたところで仕方ないだろう。そう言うのはガード下の賢者たちに任せておけばいいのである。

 

 ともあれ、ゴブリン退治に話を戻すと、奴らは森の周縁部に点在する崖などに横穴を掘って、集団生活しているそうである。基本的に単独行動はせず集団で行動し、夜間に人里の田畑を荒らす。

 

 集団で行動するのは協力のためではなく、どうやら全滅を避けるためらしい。繁殖力も旺盛で、気がつくと増えている害獣のような連中であるが、物語で語られるような知恵はなく、武器を持っていてもせいぜい棍棒くらいのもので、遠距離攻撃を警戒する必要はまったくないそうだ。

 

 オアンネスが人語を喋ったことで驚いたものだが、ゴブリンの方はキイキイ声をあげるくらいで、言葉を理解していないようである。とは言え、魔族は魔族であるから、自分より弱い子供を見つけては、本能的に嬲り殺しにしたり犯したりしようとするらしいから、見つけ次第駆除しなくてはならない、なんとも邪悪な生き物だった。

 

 夕闇が迫り、空が赤く染まり始める頃合いだった。猫人たちに言わせると、ゴブリンたちは夜間に畑を荒らすために、このくらいの時間に森の周縁部をうろつき始めるらしい。文字通り、逢魔が時ということだろうか。

 

 尤も、書き入れ時だから野良猫たちもうろついているので、ゴブリンだと思ってうっかり誤射してしまったら、向こうが逆上して猫人同士の戦いになることもあるらしい。こっちが誤射するということは、向こうがそうする可能性もあるので気をつけてくれと言われて、ゴブリンたちの方がよっぽど集団行動に向いているなと思い、なんともしょっぱい気分になった。

 

 いきなり弓矢が飛んできたりしたらたまったもんじゃない。かと言って、クマを避けるみたいに騒いでたりしたら、肝心のゴブリンに逃げられてしまうから対策のしようがなかった。

 

 それじゃどうやって見つければ良いんだろうかと困っていたら、そこはさすが獣人である。

 

「すんすん……血の臭いがするにゃ~……あっちにゃ!」

 

 一人の猫人が鼻をすんすん鳴らして森の奥の方を指差した。猫人も、狼人ほどではないが、かなり鼻が利くらしい。森の奥はすでに暗く、鳳の視界はかなり狭まっていたが、猫人たちには関係ないようだった。

 

「ゴブリンは何でも食べるにゃー。臭いにゃ」

 

 ゴブリンは雑食だから、畑を荒らすだけではなく、小動物を狩って食べることもあるようだ。その臭いや足跡を辿っていけば、やがて本命のゴブリンの群れにたどり着く。ゴブリン退治も現実の狩猟と同様に、こういった地道な作業の繰り返しのようである。

 

 そんな説明を受けながら、ずんずん進む猫人の背中を追っていくと、やがて森の中の小さな広場に差し掛かった。日が暮れて殆ど太陽は隠れてしまっていたが、それでも大森林の中とは比べ物にならないくらい木が低かったから、鳳にも見えるくらいには明るかった。

 

 しかし、そうしてたどり着いた広場はなんだか奇妙な違和感があった。今までに、こういった森の広場には何度も出くわしたことがある。鳳はそのたびに、そこに生えている雑草を摘んで回ったからこそ、その違和感の正体にすぐ気がついた。

 

 ここには雑草が殆ど生えておらず、地面がむき出しなのである。こういう場合に考えられるのは、人の手が加えられているということくらいだ。しかし、今までの話からして、森の中に人が住んでいることはまずありえない。すると誰がこんなことをしたのだろうか?

 

 この森にはゴブリンが棲息し、それを狩る飼い猫と野良猫がいる。もしかして、その野良猫たちのたまり場なのか? と考えていた時、

 

「にゃー! あそこを見るにゃー!!」

 

 一人の猫人が、ワナワナと震える声で叫んだ。

 

 その口調からは緊迫感が欠片も伝わらない。だが、叫ぶ彼の様子を見るからに、明らかに尋常じゃないものがそこにはあった。猫は夜目がきくわりには、意外と目が悪いらしい。だからこういう場合には鳳のほうがよく見えた。

 

 森の広場は何故か地面がむき出しで、奥の方まで何かを引きずったような跡が見えた。そのどす黒い跡を目で追っていくと、やがて広場の奥の方に乱雑に積み上げられた、工事現場の土嚢のようなものが見えた。

 

 だが、それは言うまでもなく無機物ではない。そこに折り重なるように積み上げられていたのは、内臓が綺麗に抜き取られた、大勢の猫人の死体だったのである。

 



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何かって何だよ

 ブーンブーンと耳障りな風切り音が、絶えず耳元を通り過ぎていった。異常な数の銀蝿が広場を縦横無尽に飛び回り、内臓の抜かれた死体の腹からは、大量のウジ虫がボトボトとこぼれ落ちていた。

 

 鼻をつくような強烈な異臭に胃袋が反応して、中身を全部ぶちまけそうになったが、鼻を摘むことでどうにか堪えた。今までに何度も嗅いだはずなのに、生き物の腐る臭いはどうしても慣れなかった。内蔵を抜かれ、うず高く積まれた猫人の死体の山を前に、鳳たちは絶句していた。

 

 逢魔が刻。太陽は西の空に沈みはじめて、広場を赤く染めていた。その赤が血の赤と混ざりあって、テラテラと光る白に見えた。地面を這うように黒い線があちこちに見えるのは、死体を引きずった痕跡だろうか。恐らく彼らは内蔵を抜かれてからここに運び込まれたのだ。どの死体も苦悶の表情に歪み、光を失った目は当て所無く空中を見つめていた。

 

 牧場で飼われている……もとい、働いている猫人たちと連れ立って、鳳たちはゴブリン退治の依頼をこなすべく、森へと入った。そこは猫人たちが獲物を奪い合う、仁義なきキャットファイトを繰り広げている現場のはずであった。

 

 飼い猫は雇い主である牧場主のために、野良猫はその日の稼ぎのために、各々ゴブリンを狩る数を競い合っているという、そんなほのぼのとした(?)光景を想像していたのだが……しかし、鳳たちが森に入って間もなく辿りついた森の広場には、そんなメルヘンとは一切無縁な、死体の山が築かれていたのだ。

 

「にゃにゃ!? こいつ見たことあるにゃー! いつもミー達に意地悪する野良にゃー……」

 

 猫人の一人がそう告げると、他の猫人たちも死体の山を指出し、どれもこれも見たことのある顔だと言い出した。その数はざっと十は下らない。彼らの声が震えているのは、例え気に食わない相手であっても、見知った顔ばかりだったからだろう。一歩間違えば自分がこうなっていたかも知れない。そのあり得たかも知れない未来が、腹に冷たい鉄の棒を押し付けるような、なんとも言えない圧迫感を感じさせるのだ。

 

「しかし、何故だ! 猫人は強いんだろう!?」

 

 鳳は堪らず叫んだ。ここに来るまでに交わした話では、猫人たちは狼人に勝るとも劣らない狩人だ。いくら集団行動が苦手とは言え、これだけの数が一度にやられるわけがない。それともこんなことが出来るくらい、危険な魔物がこの辺りに棲息してるとでも言うのだろうか。

 

「いや、そんなわけねえよ。そうなら、とっくに村の連中もやられてるよ。ここは人里に近すぎる」

「じゃあ、誰がこんなことしたってんだよ?」

「俺が知るか。とにかく、死体を調べるのが先決だ」

 

 ギヨームはそう言うと、鼻を摘みながら死体の山へと近づいていった。鳳も自分が話を振った手前無視は出来ず、気は乗らなかったが彼のあとに続いた。

 

 うず高く積まれた死体の山は、どれもこれも無残なものだった。まず、ひと目見て分かる死因は、強力な鈍器で殴られたような傷跡である。いくつかの死体は頭が割られて、ぱっくりと開いた傷口から脳みそが覗いていた。他にも腕がおかしな方向にひしゃげていたり、体がくの字に曲がっていたりと、かなりの圧力を加えられた形跡があった。

 

 他に目立つような外傷は無かったが、絶対に無視できなかったのは、全ての死体が腹を割かれて内臓を引きずり出されていたことだった。見た感じ死体のどれもこれも、鳩尾(みぞおち)から下腹部にかけて縦長の傷口があり、そこから胃腸を取り外されているようだった。とても体の中まで手を突っ込んで調べる気にはなれなかったが、体の潰れ方からして、横隔膜を貫いて心臓や肺も摘出されているようである。

 

 こんな猟奇的な真似を行う野生動物などいるはずがない。明らかに人の手が加えられている。しかし誰に、こんなルンペンみたいな生活をしている猫人を襲う理由があるのだ? 彼らに恨みを抱いているという者なら心当たりはあるが……

 

 振り返ると飼い猫たちはショックで正体を失っている。とても連中がこんな酷いことをした上で、しらばっくれているとは思えなかった。じゃあ、他に誰がこんなことをするんだろうか。

 

「……そう言えば、この国は今、戦争中なんだよな? 爺さんを暗殺しようとして、スパイが潜入してるとか?」

「その可能性はあるかも知れないが、どうして野良猫を襲う必要があるんだ。直接、レオの館に行けばいいだろ」

「そりゃそうか。こんな足のつくことするわけないよな……じゃあ、どうして内臓を抜くなんて、エグい殺し方をするんだろうか……」

「そうだな……ん?」

 

 鳳の言葉に反応したギヨームは、急に鼻を摘むことも忘れて腕組みし、どこか深刻そうな表情を浮かべ、鳳の方を見向きもせずに独りごちるように言った。

 

「なあ、おまえ……おまえはいつも、どういう時に内臓を抜いている?」

「はあ!? そんな物騒な真似したことねえよ。まさか、俺を疑ってんのか!?」

「んなわけねえよ! じゃなくて、大森林で散々やってきただろうが。鹿を捕まえた時もクマを捕まえたときも、オアンネスを始末したときも」

 

 鳳は目を瞬かせた。そりゃ、動物を捕らえた時は内臓を取り出すのは当然だろう。体の肉と違って内臓は、消化液や大腸菌のようなものが詰まっているから腐りやすいのだ。少しでも肉を長持ちさせたいなら、胃腸は取り出し、すぐに食べないのであれば、心臓や肝臓のような臓器も捨てたほうがいい……

 

 どうしてギヨームは突然そんなことを聞くんだろうか……? そう思った時、鳳の背筋にゾクゾクとした悪寒が走っていった。

 

「……まさか。これをやったやつは食うつもりなのか!?」

「それは分からないが、少なくとも腐らせたくなかったんじゃねえの。そう考えれば、惨殺された死体が放置されてるんじゃなく、こうして一箇所にまとめられているのも、不自然じゃないだろう」

「不自然と言えば、ここの広場に入ったときから変に思ってたんだ。ここは雑草が少なすぎる。まるで、人が管理しているような……」

「ここを拠点にしている何かが居るのか?」

「何かって何だよ」

「俺が知るかよ」

 

 実際、そうとは限らない。だが、もしもここが何かの巣であるならば、こうして悠長に会話しているのはうかつだったかも知れない。

 

「お兄さん! お兄さん! 何か聞こえます!」

 

 その時、二人のやり取りを遠くの方でおっかなびっくり見ていたマニが、その大きな耳をぴょこぴょこ動かしながら叫んだ。ハッとして振り返ると、それまで同じ種族の仲間がやられて放心状態だった猫人たちも耳をそばだてて、

 

「……ほんとにゃ! 何か聞こえるにゃ!」「どすーん、どすーん、足音かにゃ?」「まだ遠くの方なのに、えらい大きい音なのにゃ!」「に、逃げたほうがいいかにゃ?」

 

 騒ぎ立てる猫人たちの声に耳を傾けていると、やがて鳳の耳にもその音が聞こえてきた。

 

 最初は、トトト……トトト……と、遠くの方で工事でもやってるような感じがして、それがだんだん……ドンッ! ……ドンッ! っと、まるで花火大会でも始まったかのような振動に変わっていって……やがて、ダンプカーが木々をなぎ倒しながら突き進んでいるような騒音が、迷いなく一直線に自分たちの方へ近づいてくるのを感じて……ヤバい……逃げたほうがいい……鳳は強烈な不安を感じた。

 

 もちろん、全員の意見は一致していたが、しかしその時はもう手遅れだった。すぐ近くの木々が、風もないのにザワザワと揺れて、鳳はそっちを振り返った。すると彼の目に、その巨大な影が飛び込んできたのである。

 

「グオオオオオアアアアアアアーーーーーーーーッッッ!!!」

 

 耳をつんざくような咆哮をあげて、緑色の肌をした巨大な生物が目の前に現れた。見たこともない人型のそれは、逆光を背負ってまるで巨大な山のようだった。

 

 まったく想定外の出来事に、思考が追いついていかない。ゴブリンってこんなに大きかったっけ? と他人事のように考えていた時、その巨体が動いた。

 

 巨体の割りに素早い動作でそれが腕を振り上げる。人間の、それも男性の胴回りくらいありそうな太い腕が空中で静止し、目の前でぽかんとしている鳳に向かって振り下ろされた。

 

 鳳は突然の出来事に呆気にとられ、すぐには動けなかったが、

 

「飛鳥っっっ!!!」

 

 と呼ぶ声が耳に届いた瞬間、まるで始めからそうするのが当然であるかのように、体が勝手に後方へとジャンプしていた。

 

 ジャッ!! っと耳障りな風切り音が、彼を掠めて通り過ぎ、ドンッッッ!!! っと、腹の底に響くような音がして、信じられないことに地面がグラグラと揺れていた。

 

 地面からえぐり取られた土塊が、マシンガンジャブのようにバチバチと顔面に当たる。アドレナリンが吹き出しているのか、夕焼けに染まる赤い視界が、やけにスローモーションに動いていた。

 

 鳳は殆ど反射的に後方受け身を取ると、後転飛びの要領で腕だけで体を浮かせ、一回転して着地をした瞬間、腕を前方に突き出し、

 

「ファイヤーボール!!」

 

 と叫んでいた。

 

 しかし、叫んだところで何が起きるわけもない。彼は魔法使いではない、アルケミストなのだ。神技も使えなければ古代呪文も詠唱できない。

 

 なのに咄嗟にこんな信じられない動きをしてしまったのは、前世の記憶がそうさせたからだった。

 

 やってて良かったVRMMO。奇襲をかけられた時に、前衛と後衛を入れ替えるために、何度も練習した連携だった。その証拠に、たった今まで鳳が立っていた場所に、今、ジャンヌが一直線に突っ込んでいる。

 

「こんのおおおおおっっ!!!!」

 

 ガインッッ!! っと金属の棒を叩きつけるような音がして、ジャンヌの剣がモンスターの腕を叩いた。突然の出来事過ぎて、ジャンヌは刃を向ける方を間違えたらしく、剣の腹で叩いてしまったようだが、それで十分のようだった。

 

「ぐわあああああああーーーーっっ!!!」

 

 小手に強烈な一撃を食らったモンスターが、手首を押さえてもんどり打つ。そこへほんの少し遅れて、

 

「ファイヤーボールッッ!!」

 

 後方からメアリーの詠唱が響き、火球が一直線にモンスターに向けて飛んでいった。

 

「ぎゃあああああーーーーーっっ!!」

 

 断末魔の叫びをあげて、モンスターの上半身が炎上する。炎を払い落とそうと腕をめちゃくちゃに振り回し地面を転げ回るが、魔法の炎が消えることはなかった。以前に試した通り、それは対象の脂肪を燃料に燃えているのだ。

 

 緑色の肌をした巨体がゴロゴロと広場を転げ回る。優位に立ったことでようやく落ち着いて相手の姿を観察できたが、それはかつて鳳たちが遊んでいたゲームに出てきたファンタジー生物だった。

 

 顔は扁平に潰れて鼻が上を向いている。鋭く巨大な牙が下顎から上に突き出し、上顎の犬歯と交差していた。目は赤く、緑色の肌に深緑の髪、体毛は濃く黒く見えるが、恐らく髪と同じ色なのだろう。巨大な体は筋骨隆々で、ボディビルダーみたいだった。

 

「オークか……」

 

 鳳は誰にともなく呟いた。後で確認しなければならないが、確かオークと呼ばれる種族のはずである。日本のRPGでお馴染みのイノシシ頭ではなく、海外のファンタジーの出てくるような邪悪な顔の巨躯のモンスターだ。体の大きさは人間の倍くらいあり、ジャンヌよりも二回りか三回りは大きい感じだった。

 

 見た目通り、とんでもないパワーの持ち主で、鳳みたいな低レベル冒険者は一撃で殺されても文句も言えないような相手である。しかし、ゲームではそこそこ高レベルな狩場に出現するモンスターのはずだったが、この世界ではこんな人里近くに現れるのだろうか……? もしそうなら、被害なんてゴブリンの比じゃないだろうに。

 

 鳳がそんなことを考えて首をひねっていると、

 

「オークだって……? これが? そんな馬鹿な。俺ははじめて見たぞ」

 

 背後でギヨームが呟くように言った。

 

「え? おまえくらいの冒険者でも見たことないの?」

「ああ、帝国でも、ブレイブランドでも、オークが出現したなんて話は聞いたことがない。俺は、オークとは大森林にたまに現れる、巨大魔族だってことしか知らないぞ」

「しかし、現にこうして現れたじゃないか」

「本当にそれはオークで間違いないのか? 何かの勘違いじゃないのか。こんな人里に現れていいような魔族じゃねえぞ」

「えーっと……ジャンヌはどう思う?」

 

 鳳がその魔物を見たことがあるのは、前世のゲームでの話である。だから、本当なのかと問われても、絶対にそうだとは言い切れなかった。しかし、同じゲームをやっていたジャンヌなら話は別だ。彼が尋ねてみると、ジャンヌは頷いて、

 

「私も白ちゃんと同意見よ。でも、それは多分、私達が前の世界で同じゲームをしていたからよね。こっちの世界でも同じとは限らないかも」

「またお前らの前世の話か……そう言えば、神技や古代呪文は、おまえらの言うゲームと共通だったんだっけ? だったら、本当にそうなのかも知れねえな」

 

 ギヨームは納得はし難いが、他にこれと言った候補があるわけでもない、という消極的な理由でそれをオークと考えることにした。と言うよりも、現状、呼び方などどうでもいいことなのだ。

 

「とにかく、一度ギルドに戻って報告しよう。こりゃ、俺たちだけでどうにか出来る問題じゃないぜ」

「そうだな。オークもそうだが……猫人たちの死体も放置してはおけない。(おまえ)たちもそれでいいか?」

「にゃあ~……ユー達に任せるにゃ」「ミー達はもうくたくたにゃ」「早くお墓を作ってやりたいにゃ」

 

 猫人たちは力なく返事した。気に食わない相手であるとは言え、同じ種族の仲間が惨たらしく殺されたのだ。その上、あんな怪物に襲われては堪らないだろう。鳳は彼らを慮って、せめて花でも手向けてやろうと周囲を見渡した時だった。

 

 鳳は視界の片隅に、何か見てはいけないものが映ったような気がした。彼は嫌なものをうっかり直視してしまった時のように、瞬間的にそれから目を逸らそうとしたが、すぐに駄目だと思い直し、たった今気になった方へと視線を戻した。

 

 そんなはずはないのだ。

 

 ありえないのだ。

 

 まさかたった今、メアリーの魔法で倒されたばかりの……ギヨームでさえ見たことがなかったという魔物が、立て続けに現れるなんて……

 

「ちょ、ちょっと待ってください、皆さん! また何かが近づいてきてます……いや、もう囲まれてる!!」

 

 マニの叫び声に呼応するかのように、森の木々がザワザワとざわめいた。見ればいつの間にか、緑色の肌をした巨漢の魔族たちが、森の広場を取り囲むように立っていた。しかもその数が尋常ではない。

 

「……嘘だろ?」

 

 それはたった一体だけでも人を絶望させるに足るというのに、今、鳳の目には少なくとも、ざっと数えて十体ものオークが映っていたのである。

 



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オークの群れ

 森の広場を取り囲むように、緑色の肌をした巨大な魔族が立っていた。じろりと睨みつけてくる赤い目を見ていると、それだけで気が遠くなりそうな圧力を感じる。四肢は筋肉がムキムキで大人の胴回りくらいの太さがあった。

 

 あれで殴りつけられたら鳳では良くて即死、悪ければもがき苦しんだ末に死ぬだろう。実際、さっき始末した一体がつけた地面の穴は、クレーターみたいにえぐれていた。たった一体でもそれなのに、そんなのが10体も取り囲んでいるのだ。

 

 やばい、こんなの絶対勝てっこない……退路を確保しようと振り返った先にも、待ち構えているかのようにオークが立っていた。右も左も当然、水も漏らさぬ構えである。見れば最初に襲ってきた一体は素手だったというのに、今度の連中は棍棒を(もはや鳳たちからすれば丸太なのだが……)、そんな巨大な武器を軽々と握りしめていた。

 

 武器を持ち、戦術もある……こいつらはただの馬鹿じゃない。

 

「一点突破だ! とにかく逃げろ!!」

 

 完全な不意打ちを追い返すほどの力は鳳たちにはなかった。半分は出会ったばかりの猫人だったし、マニは非戦闘員だ。おまけに、鳳もゴブリン退治に必要ないだろうと思って、いつもの愛銃を置いてきてしまった。あるのはカバンの中の貧弱なナイフ一本である。要するに、自分が一番お間抜けだ。

 

「紫電一閃っっ!!!」

 

 鳳の声に呼応するように、ジャンヌが敵の一番薄いところへ突っ込んでいった。いつもの得意技をぶっ放して、そこに穴を開けるつもりだ。

 

 今や切り込み隊長として彼以上に信頼できる者が、果たして人類にいるだろうか。鳳がその背中を追い、ギヨームが牽制のための銃弾を周囲にばら撒き、メアリーとマニが慌てている猫人たちを引っ張って後に続く……

 

 ところが、

 

「きゃああーーーっっ!!」

 

 なんと、先頭を行くジャンヌが野太い悲鳴をあげて倒れたのである。全幅の信頼を置いていた鳳は、一瞬何が起きたのか、完全に我を失った。その背中に後ろを向いていたギヨームが突っ込み、二人もみ合うように地面に倒れ込む。

 

「なにやってんだ!!」

「ジャンヌ!!」

 

 怒鳴りつけてくるギヨームを無視して鳳が叫ぶ。オークに倒されたジャンヌは辛うじて敵の攻撃を受け止めていたようで、

 

「だ、大丈夫!」

 

 その声に、ほっと肩をなでおろす。

 

 ジャンヌの突撃は完璧だった。いつもの威力、いつものキレで、前方のオークに突っ込んでいった。しかし、そこに二体居たのが運の尽きだった。

 

 ジャンヌは最初の一体を、持っている丸太ごとたたっ斬り、二体目もその勢いのまま薙ぎ払おうとした。しかし、威力を失っていた剣は、二体目のオークによって、軽く叩き落とされてしまったのである。

 

 ゲームならそんな技後硬直はあり得ない。これは現実なのだ。

 

 横に薙ぎ払おうとしていた剣を上から叩かれたジャンヌは剣を取り落し、慌てて拾おうとしたその背中に、容赦なくオークの一撃が加えられる。それは鳳の目には死を予感させるほどの直撃に見えた。しかしSTRが高いだけではなく、VITも高いジャンヌは、その一撃を食らってもなお健在で、伸し掛かるオークの攻撃を、辛うじて素手で受け止めていた。

 

「ファイヤーボール!!」

 

 先鋒のジャンヌが倒されたことで進軍が止まった鳳たちに向かって、容赦なく他のオーク達が殺到する。慌ててギヨームとメアリーが応戦するが、ほんの一瞬の隙が命取りとなった。

 

 既に二体もの仲間がやられていたことで、邪悪な魔族も激昂しているのだろうか。滅茶苦茶に振り回す丸太が地面に当たるたびに、本当に地震のように地面が揺れた。恐らく、あれに当たったらひとたまりもないだろう。

 

「ぎにゃああああーーーーーーっっ!!!」「ふううぅぅぅぅーーーっっ!!!」「しゃああああーーーっっ!!!」

 

 しかし怯んでいる場合でもない、オークたちの突進に呼応するかのように、猫たちが飛びかかっていく。彼らはぶん回される丸太をかいくぐり、手にした鉄の短剣や爪で魔族の肌を引き裂いていった。鉄の爪は驚くほど鋭利で、分厚いオークの緑色の肌もやすやすと引き裂き、鮮血が飛び散り敵を怯ませる。

 

 だが、それだけではまだ致命傷に至らず、オークはすぐに気を取り直すと、煩い蝿でも追い払うかのように、丸太を持たないもう片方の手で猫たちに応戦した。

 

「鳳ぃぃっっ! なんとかしろっ!!!」

 

 猫たちも入り乱れる大乱戦に、本来なら中衛のギヨームが焦りの悲鳴を上げる。彼の射撃は恐ろしく正確だが、正確ゆえにこの乱戦の中では神経をすり減らすだけなのだ。おまけに、銃を扱う彼の攻撃は、さっきから殆ど効いていないようだった。

 

 しかしそんなこと言われても、この状況をどう覆せというのだろうか……? 自分の手元にはナイフが一本とそれが入った雑嚢しかない。マニは必死になって投石している。猫たちは興奮して言うことを聞かない。メアリーはファイヤーボールを連発しているが、敵も馬鹿ではないのでさっきから外しまくっている。MP管理はちゃんとしてるのだろうか? このままではジリ貧だ……

 

 やはり、この状況を脱するには、まずはオークと格闘しているジャンヌを救出しなければならない。

 

「メアリー! 合図したらスタンクラウドを撃ってくれ!!」

「でもっ……」

 

 鳳の言葉に、困惑気味の返事が返ってくる。当たり前だ、こんな乱戦状態でそんなのを撃ったら、味方も巻き込まれてしまう。しかし、迷っている場合じゃない。

 

「マニ! 俺が突破口を開けるから、とにかく逃げろ!!!」

「え!? 逃げるなんて……」

「いいから、逃げろ! 出来るだけ遠くに! でも呼んだらすぐ帰ってこれる程度に!!」

 

 マニが真っ青な表情で頷いた。マニは保険だ。鳳はそれを確認してから、雑嚢の中身を全部ぶちまけ、代わりにその中に地面の土を詰められるだけ詰め込んで、

 

「……こんのおおおぉぉーーーーーっっっっ!!!!」

 

 土を詰め込まれてずっしりと重くなった雑嚢を、彼はハンマー投げの要領でグルグル回転させながら、ジャンヌに覆いかぶさるように迫っているオークに向かって突進した。

 

 ゴッッッ……!!

 

 鈍い音がして、鳳の雑嚢がオークの後頭部に振り下ろされた。何度も回転を加えて遠心力を蓄えた一撃が襲うと、オークの全体重を腕だけで必死に受け止めていたジャンヌの顔まで苦痛で歪んだ。

 

 だが、力自慢の彼がそんな顔をするくらいだ。直撃を食らったオークはひとたまりもないだろう。後頭部に重い一撃を食らったオークは、一瞬、タイマンに割り込んできた邪魔者に、血走った目を向けて怒りの声をあげたが、すぐに糸の切れた人形のようにプツリと脱力すると、そのまま地面にズシンと倒れ込んだ。

 

 ジャンヌがその下からオークの体を押しのけるようにして這い出してくる。

 

「助かったわ、白ちゃん」

 

 鳳は地面に転がっていた彼の剣を手渡すと、

 

「話は後だ、とにかくオークをひきつけてくれ!! 全部をひとまとめにするつもりでだっ! 出来るだろ!?」

「わかったわっ!」

 

 ジャンヌはそれだけで鳳が何を期待しているか分かったようだった。伊達に長い付き合いをしてるわけじゃない。彼が戦線に復帰すると、明らかにメアリーとギヨームが気の緩んだ表情を見せていた。

 

 ジャンヌは鳳に言われた通り、見事にオークたちのヘイトを稼いで、猫たちから魔族を引き剥がしている。鳳はそんな彼らに向かって、

 

「悪く思うなよ……メアリーッ!! やっちまえっ!! スタンクラウドだっっ!!」

 

 鳳の叫び声にギヨームがぎょっとした表情を見せる。逆にメアリーの方ははっとした表情を見せ、すかさず、

 

「スタンクラウドッッ!!」

 

 彼女が古代呪文を詠唱した瞬間、森の広場で揉み合うようにぶつかりあっていた全員が、一斉に攻撃を止めて、バタバタとその場に倒れていった。鳳だけが、スタンクラウドの効果範囲が届くよりまえに広場から離れようとダッシュしたが、

 

「ぐぎぎぎぎぎ……」

 

 あとちょっとのところで雲に巻かれて、あえなく撃沈してしまった。

 

 幾度となくオアンネスを仕留めてきた経験からか、それともメアリー固有の能力なのか、思った以上に彼女の魔法の効果範囲は広かったようである。

 

 この魔法を食らうのは人生二度目であったが、何度やられてもきついと言わざるを得ない。全身の神経が麻痺して動かず、無理に動かそうとすると、長時間正座した時のような耐え難い苦痛が体を駆け巡るのだ。

 

「うひ……うひひひっ……こりゃ堪らん」

 

 鳳がもんどり打っていると、広場の中央で同じく撃沈していたギヨームが怒気を含んだ声で叫んだ。

 

「おい、てめえ! ろうするつもりらっ!! 俺らも動けねえじゃねえかっ!!」

 

 舌っ足らずの声が震えているのは痺れているからだけではなく、直ぐ側にオークが倒れているからだろう。どっちが先に回復するか分からないのに、痺れが取れた方から一方的に攻撃を食らう可能性があるのだから、彼からしてみれば恐ろしくて仕方ないだろう。

 

 しかし鳳は慌てず騒がず、

 

「らいじょうぶ、手は打ってある。マニー! マニー! プリーズ ギブミー サム マニー!」

 

 まるで昭和の芸人みたいなセリフを叫ぶと、遠くの方からひょっこりと、さっき逃したマニが顔を表した。言われた通り、ちゃんと遠くまで逃げて、なおかつ、仲間を見捨てずに待機していたようである。

 

 正直なところ、もし彼が鳳たちを見捨てて本気で逃げてしまっていたら、アウトだったのだ。いざという時、ちゃんと踏みとどまれるのは、さすがガルガンチュアの息子である。鳳は安堵の息を漏らした。

 

「マニ。見ての通り、今動けるのは君らけら。後は分かるね?」

 

 マニはこくこくと頷くと、すぐそばに落ちていたジャンヌの剣を拾い上げて……少し考えてから、武器を鳳の雑嚢に代えて、それをオークの頭に向けて、力いっぱい振り下ろした。

 

*****************************

 

 全身の痺れが抜けた後、鳳たちは寄り添うように広場の地面に腰を下ろし、くたくたになって項垂れていた。脳みそは痛みを感じないと言うが、頭蓋骨に沿って張り巡らされた神経細胞が痺れていて、なんと言うか、思考がぼやけるような気怠さがあった。誰も彼もがもう一歩も動けないと、その表情で語っているかのようである。

 

 周囲にはさっきまで必死になって戦っていたオークの死体が転がっており、そのすぐそばには、可愛そうな野良猫たちの無残な死骸が積み重なっている。その、猫人たちの死体から湧いた銀蝿が、今度は動かなくなったオークの死体に集っていた。盛者必衰、諸行無常。自然とはなんと儚いものであろうか。

 

 一歩間違えば、そこに転がっているのはオークではなく自分たちだったろう。そんなギリギリの状況を脱したというのに、喜びを感じるどころか、彼らに残っていたのは、ひたすら疲労感だけだった。

 

 ため息しか出ない。もうさっさと帰って風呂にでも入りたい気分だ。だが、そう出来ないのは言うまでもなかった。これを放置して帰ってしまうには、あまりにも異常な事態だった。

 

「一体全体、どうなってやがんだ、こいつは……」

 

 ギヨームが吐き捨てるように独りごちた。このオークは、一体どこからやってきたのだろうか? さっき彼の説明にもあったように、本来、こんな人里近くにオークなんて魔族が現れるはずがないのである。

 

 改めて彼の語るところによれば、オークとはネウロイの強力な魔族の一種で、北半球まで滅多なことではやってこない生き物のようである。というのも、たった今自分たちが経験したように、オークは強力すぎるから、そんなものが通り過ぎようものなら大騒ぎになって、獣人たちの部族が見過ごすはずがないのだ。

 

 だから、たまに獣人の少ない東海岸を北上し、帝国に入ってくるハグレはいるらしいのだが、大陸の反対側にある勇者領に来ることはほぼ皆無。というか、有史以来一度もなかった。

 

 なのに、そんなのが複数体も……群れを作って……見たところ、狩りまでやっていたようだから、こんなのを放っておけるわけがなかった。

 

「とにかく、私達だけで考えてても仕方ないわ。一度ギルドに帰って、ギルド長の指示を仰ぎましょう」

「ああ、そうだな……まずは報告しなきゃ何も始まらない。猫たちもそれでいいか?」

 

 鳳がジャンヌに賛同し、しょんぼりしている猫人たちに提案すると、彼らはどことなく物悲しげな表情で、

 

「にゃあ~……それはユー達に任せるにゃ。ミー達はここに残って、野良のお墓を作ってるにゃ」

「……もしかすると、オークがまだいるかも知れないぞ? お前達だけ残るのは危険過ぎないか」

「そしたら逃げるから平気にゃ」

 

 猫たちはそう言うと、鳳たちの返事を聞かずに、自分たちの武器である鉄の剣や爪を使って地面を掘り始めた。広場はオークたちに踏み固められていたのか、とても硬そうだった。だが、猫たちは文句一つ言うこと無く、黙々とその地面を掘り返していた。

 

 猫人は他の種族と違って協調性が無いせいで、大森林から淘汰されてしまったらしい。人里にやってきても、人に飼われる飼い猫と野良猫とで縄張り争いをしているくらいだ。

 

 だが、協調性が無いからと言って薄情であるわけではない。彼らはライバル関係にあっても、決して相手を憎んだことなどなかったのだ。シュンと打ちひしがれる彼らをそっとしておくことにして、鳳たちは今日辿ってきた道を逆に歩き出した。

 

 日が暮れて藍色の空には星が輝いており、森の中はもう殆ど見えなくなっていた。

 



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停滞

 ゴブリン退治に行ったはずが、オークの群れと死闘を繰り広げる羽目となった。這々の体で帰ってきた鳳たちが、森での出来事をギルド長に告げると、案の定、彼は最初その話を信じてくれなかった。予想はしていたが、実際にされるとイラッとする。

 

 まあ、信じられないのも無理もないので、鳳が根気よく説明を続けると、最初は疑いの視線を浴びせていたギルド長も、だんだん顔色が悪くなってきて、最終的には青ざめた顔をしながら、ミーティアをレオナルドの館へ使いに出した。

 

 取り敢えず、自分たちだけではもう対処のしようもないので、村人たちに協力を頼もうと、猫たちの雇い主である牧場主に協力要請しにいったところ、牧童たちを集めて山狩りを行ってくれることになった。オークなんて生まれてこの方見たことがないと、最初は意味がわからないと渋っていた彼も、館から衛兵が駆けつけたのを見て、どうやら一大事と分かってくれたようである。

 

 村の男達が総出となって、松明を片手に続々と森へ入っていく。

 

 鳳たちは衛兵たちを連れて現場となった森の広場へと向かった。たどり着くと、現場に残っていた猫人たちが、仲間の墓穴を掘り終えて一息ついているところだった。何事もなくてホッとする。

 

 猫たちの無事を喜びあっている間、衛兵たちはオークの死体を検分していたが、結局の所、彼らもオークなどという魔族は見たことがなかったために、何も得られるものは無かったようだ。

 

 彼らは難しい顔をしながら、「取り敢えず、森の中という場所も悪いから、一旦村へ運び込もう……」ということになった。オークの死体を牧場に運び込むと牧場主が、「こんな巨大な魔族がいるのか」と言ってブルブル震えていた。

 

 その後、館からやってきたレオナルドが死体を前に慄然としながら、これは間違いなくオークであるとお墨付きをくれた。流石300年前に魔王討伐をしただけあって、彼は一目見るなりそれが何か分かったようである。

 

 その昔、魔族の侵入を許した帝国は、この巨大魔族に苦しめられたそうだ。従って、その強さも熟知していた老人は、間もなく村人たちを集めると、非常に危険な魔族が出たので、暫くは単独で行動したり、森へ近づかないように言い渡した。

 

 これによってまだ半信半疑であった村人たちは考えを改め、その日は一晩中、夜回りの声が響いていた。

 

 翌朝、レオナルドは冒険者ギルドに命じて、周辺の調査を開始した。大森林でのオアンネスの大移動に加え、こうして人里近くにオークが現れるなんて、何かが起きているのは間違いない。しかし、タイミングの悪いことに、戦争のせいで冒険者は殆ど集まらなかった。彼らはこの国難にあって戦場へ向かってしまっており、街にはあんまり残っていなかったのだ。

 

 結局、暇をしていた鳳たちくらいしかまともに対応が出来ず、もちろん彼らも血眼になって森林の調査をしたのであるが、何かが発見されることはついに無かった。森の周縁部はいつものように静かで、せいぜいゴブリンくらいしか見つからなかったのである。

 

 一体、あのオークどもはどこから現れたのだろうか? あんなものが、まるでボウフラのように湧いて出て、泡のように消えてしまうなんてあり得ない。かといって、他に考えようもない。あるとするなら、何かの間違いでネウロイに住むオークの群れが、大森林の獣人に見つからずにスルスルと、地球を半周もして勇者領まで来てしまったというくらいである。

 

 そんなこと、到底信じられなかったが、現状ではそう結論づける以外、これといった候補は見つからなかった。

 

 そんな謎を残しつつ……

 

 オークとの死闘を共にくぐり抜けた猫人たちとは、その後とても仲良くなった。同じ獣人同士で馬が合うのか、それとも単純に後輩が出来て嬉しいのだろうか、特にマニと仲が良くなり、マニもはじめて出来た村の外での仲間と一緒にいるのが楽しいようだった。あんなことがあったというのに、彼らはその後も怖がりもせずに、相変わらずお気楽なトークを繰り広げながら、森の魔物を退治して回っている。

 

 因みにマニはオークとの戦いにヒントを得て、あれから自作のスリングを使うようになった。スリングとはゴムパチンコのことではなく、なんというか、片乳バンドみたいな布の乳袋の部分に石を乗っけて、紐を持ってグルグルと回転させ、遠心力がついたところで紐を離してリリースするといった感じの武器である。

 

 簡単に作れる割に威力は抜群で、30~50メートルくらいの距離なら、上手く当てればゴリアテを倒したダビデよろしく、人間も倒せるほどの十分な殺傷力があった。マニはそれを使って、走ってるウサギを狙うことも出来るくらいの、かなり名手である。

 

 スリングを作ろうと思いついたのは言うまでもなく、鳳が雑嚢に土を詰めて振り回していたのが切っ掛けであるが、あの時、スタンクラウドで倒れていたオークを仕留めたことで、彼に大量の経験値が入ったことも、もしかしたら関係あるのかも知れない。

 

 マニはあの戦闘で期せずしてレベルアップしたのであるが、そのお陰でかなりステータスが上がったようなのだ。

 

 以前、ガルガンチュアと話したこともあったが、獣人は人間とは全然違う成長の仕方をする。具体的にはSTR,DEX,AGIがガンガン上がるが、他のステータスは上がらない。そして最大の特徴はレベルキャップがあることだ。

 

 マニはオークを倒したお陰で、最初は7しかなかったレベルが一気に20まで上がり、あっという間に成長限界に達してしまった。彼はガルガンチュアの息子であったが、レベル上限はそんなに高くなかったらしい。それは非常に残念なことではあったが、代わりにステータスの方は父親譲りで、今や軒並み15を超える高ステータスを誇っていた。

 

 力強さ、器用さ、敏捷さを手に入れた彼は、あの日からまるで人が変わったかのように、色んなことが出来るようになった。スリングだけではなく、乗馬や隠密行動、持ち前の地頭の良さもあって、文字もかなりの早さで習得しつつあった。先生であるギヨームも、さぞかし鼻が高いだろう。

 

 ところで、レベルに関してであるが、こんなことがあった。

 

 ヴィンチ村に到着してから、ルーシーは館に缶詰にされ、現代魔法の習得を進めていたのであるが……初めは「ここんちの子になる!」と息巻いていた彼女も、あまりに綿密に計画されたスパルタ教育に心が折れたらしく、ある日、鳳が部屋で寛いでいると、匿ってくれと逃げ込んできた。

 

 聞けば彼女は家庭教師をつけられて、朝から晩までみっちりと勉強させられているらしい。それも現代魔法の勉強だけではなく、陰影法や遠近法、幾何学に算術に古典物理学、医学、解剖学に果ては礼儀作法に至るまで、どうやら老人の持っている全てを彼女に詰め込もうとしているようだ。

 

 このままじゃ体がもたないよという彼女に、

 

「まあ、ここんちの子になるつもりなら、これくらいはやんなきゃ駄目なんじゃないの?」

 

 と言ったら、

 

「こんなに毎日勉強しなきゃなら、大金持ちなんてなりたくないよ。私、決めた……やっぱり娼婦になる! 友達もいっぱいいるし、今からでも遅くないよね?」

 

 とか言い出した。大金持ちよりも娼婦のほうが良いときっぱり言い切れるのは、それはそれである意味清々しいが……ともあれ、自分のパーティーメンバーが娼婦になってしまっては困るので、頃合いを見計らって密告する。

 

 その後……執事のセバスチャンにがっちりとホールドされ、ずるずると引きずられていきながら、「裏切り者ー!」と叫ぶルーシーを合掌しながら見送っていると、彼女を迎えに来たレオナルドが物のついでにといった感じに、

 

「時に鳳よ。お主、この間オークを倒した時の経験値がまだ残っておるかいの?」

「共有経験値のこと? ああ、大して入ってなかったから、使わずに取っておいてるけど」

「ならばあれのレベルを上げてくれぬか。あやつは最近伸び悩んでおってのう。得るものが少ないから、やる気が起きないのかも知れぬ」

「いいけど……レベルと現代魔法と、何か関係あるの?」

「わからん……」

 

 すると老人はあっさりとそう認めつつも、

 

「しかし、あの子の成長力は儂からしても、はっきり言って異常なのじゃ。儂は今までにも多くの弟子を持ったが、あれほど容易くスポンジのように何でも吸収する弟子はおらんかった。あの、神人スカーサハですら、そこまでの才能はない。あの子個人の実力はもちろん認めるが、それだけとも考えにくかろう」

「なるほど……」

「考えられるのは、人間と獣人の混血に何か特殊な遺伝があるのか、もしくはレベルくらいしか思い浮かばんかった」

「レベルねえ……」

「普通、あれだけ高レベルになっておれば、得意技や魔法など、誰だって何かしらの色がついておるものじゃ。しかしルーシーにはそれがなかった。だから、もしかすると、そういった伸びしろのようなものが、レベルにはあるのかも知れん」

「ふーん……そういや俺も、レベルが上ったら新スキル覚えたしな。やってみる価値はあるか」

 

 鳳はそう言って、軽い気持ちでルーシーに経験値を振り込んでおいた。これによって彼女のレベルは35から47に上がった。

 

----------------------------

ルーシー

STR 10        DEX 11

AGI 13→14        VIT 12

INT 14→16        CHA 10

 

LEVEL 35→47     EXP/NEXT 3411/180000

HP/MP 757→842/292→331  AC 10  PL 0  PIE 10  SAN 10

JOB MAGE Lv1

 

PER/ALI NEUTRAL/NEUTRAL   BT A

----------------------------

 

 ところが、本当になんとなしに上げたのだが、老人によれば、その後、彼女の現代魔法の取得率が実際に上がったそうである。相変わらず勉強嫌いで、目を離すとすぐに逃げ出そうとするそうだが、無理矢理にでもやらせてみれば、何でもすぐに上達し理解も早いらしい。彼女は新しく魔法を覚えられた喜びのお陰で、勉強に辛うじて踏みとどまっているようだ。それは大変重畳であるが……

 

 ところで、本当に、このレベルとは一体、何なんだろうか? ステータスとは関係がないと思いきや、ギヨームに言わせればやっぱり関係あるようだし、ルーシーの成長を見ていると、どうやらスキルの習得にも効いているようだ。そして鳳が以前自分で試した限りでは、ステータスは能力の絶対値ではなくバフであるらしい。

 

 これらを鑑みれば、どうも何かがこの世界に住む人々をアシストしているようにしか思えないのだが……それは神なのだろうか、それとも精霊なのだろうか。はたまた、この世界には鳳たちが気づいていないだけで、まだ他にもそういった仕組みが隠されているのかも知れない。

 

 なにはともあれ、分からないものをいくら考えたところで憶測の域を出ない。それよりも、今は目の前のものを一つずつ片付けていく方が、合理的と言えるだろう。

 

 特にオークの問題は人々の安全にも直結するのだし、今後も警戒を怠るわけにはいかない。

 

 それから、伝説の禁呪リザレクションを習得したいというメアリーの夢も忘れちゃいけない。

 

 もし、ルーシーの成長が裏付けるように、レベルがスキル習得の鍵になっているならば、それにはやはりメアリーのレベルを上げるのが一番の近道だろう。しかし、そう思って共有経験値を得ようとしても、なかなか難しいものがあった。

 

 鳳たちはヴィンチ村に来てからも、冒険者ギルドの依頼を積極的にこなし続けていたのであるが……オークの退治以降、彼らに共有経験値は全く入っていなかったのだ。

 

 それは、ある意味当然かも知れない。オークの存在が異常だっただけで、この近辺の魔物のレベルは低いのだ。それは今までずっと大森林で、凶悪な魔族と戦ってきた鳳たちパーティーにとっては、どうしたって物足りないものだった。

 

 現実問題、この世界の人々がレベル30くらいで成長が頭打ちになってしまうのは、いくら雑魚敵を倒していても、経験値が入ってこなくなるからだ。それを覆せるのは、唯一、鳳の共有経験値だけなのだが、今までの傾向からしても、難易度の低いクエストや、同じことを繰り返していては、それは得られないだろう。

 

 だから、リザレクションを覚えるには、環境を変える必要があるのだろうが……例えば、ネウロイに行って、オーク級の魔族と戦っていたら、いつか彼女の夢は叶うかも知れない。しかし、そのためにパーティーを危険に晒すのか……? ここを出て、より危険な世界へ向かうというのは、果たして正しい選択と言えるのだろうか……?

 

 彼女もそれが分かっているだろうから、特に何も言ってはこないが、ここ最近の鳳たちのパーティーは、少し行き詰まりを感じていた。

 

 パーティーについてはもう一つ、気になる点があった。

 

 鳳のパーティーメンバーは、ジャンヌ、ギヨーム、メアリー、ルーシーの計5人である。そこにマニは入ってない。

 

 ガルガンチュアの村を出てから今までずっと一緒に行動し、鳳はもちろん、ギヨームも弟分として認めているくらいなのに、彼の名前はパーティーリストには入っていなかった。

 

 まあ、考えても見れば、レオナルドやガルガンチュアも入ってないのだから、不思議じゃないのかも知れないが……

 

 実際、鳳の共有経験値はかなりのチート能力なので、誰にでも分け与えられたら、とんでもないことになるから、制限があるのはある意味仕方ないことかも知れない。しかし、それなら基準は何なんだろうか。

 

 そんなモヤモヤとしたものを抱えたまま、ヴィンチ村に来て一ヶ月が経過した。季節は夏真っ盛り。赤道直下の太陽に灼かれながら、鳳パーティーは停滞期を過ごしていた。

 



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そんな獣人居るわけねえだろ?

 ヴィンチ村に来てから一ヶ月が経過した。村に着いて早々、オークの群れとの戦いという稀有な出来事に遭遇したものの、それ以降は特にこれといったこともなく、比較的穏やかな日々だった。

 

 あの日、オークの死体が運び込まれてから、村は厳戒態勢に入り、冒険者達を雇って近隣の森を探索し続けていたのだが、あれ以来、オークは二度と現れることはなかった。鳳たちは村人たちに請われて、毎日のように森に入っていたのだが、まるで何事も無かったかのように、森はひっそりと静まり返っており、ゴブリンやコボルト、小型の草食魔獣を時折見かける程度の、どこにでもある森の周縁部に戻っていた。

 

 どうしてあんな場所に、ネウロイにしかいないはずのオークの群れが存在したのかはさっぱりわからなかったが、そのわからないと言う事実が指し示すように、やはりあれは相当な特殊ケースだったのだろう。

 

 そんなわけで、村人たちも当初こそ厳戒態勢でピリピリとしていたが、一週間が過ぎ、二週間が過ぎて何事も起こらないと、徐々に平常を取り戻していき、一ヶ月経った今ではもう、誰もオークのことなんか忘れてしまったかのようにふるまっていた。

 

 それは鳳の仲間も同じことで、森が安全であることを確認すると、まずはギヨームがもう十分だろうと言って離脱し、ジャンヌも他のことがしたいからと言い出して、ルーシーは初めからレオナルドにとっ捕まっていたから、最終的に残ったのはメアリーとマニだけになってしまった。

 

 そのメアリーも、同じ依頼を受けていてもレベルアップは出来ないからと、打開策を求めて今日はレオナルドに相談したいと言い出したことで、ついに二人になってしまった鳳たちは、

 

「……今日は俺たちもお休みにしようか?」

 

 と言うことになった。

 

 別に二人で行けばいいじゃんと思いもしたが、鳳とマニが二人でゴブリン退治をしたところで何になろうか。他の仲間がいなければ危険だと言うわけではなく、この二人でも十分やれてしまうのがゴブリン退治という依頼なのである。

 

 この一ヶ月、それを続けていた鳳は、初日にギヨームが渋った理由をようやく理解した。ゴブリン退治は誰かがやらなければならないものだが、冒険者が積極的にやるようなものではないのである。

 

 そんなわけで、ギルドでミーティアに何かめぼしい依頼がないかと確認したあと、鳳たちは近場の沢まで釣りに出かけることにした。ゴブリン退治の途中で見かけたので、そのうち遊びに行こうと思っていたのだ。

 

 大森林にいる間は、毎日のように食料の確保に奔走したものだが、ヴィンチ村に来てからはなんでも誰かがやってくれるので物足りなかった。久々の釣りにウキウキしつつ、大漁だったらバーベキューしようぜと言いながら、二人で牧場の方まで歩いてくると、村の入口にある案内板の前に、ジャンヌと猫人たちがいるのが見えた。見た感じ、ジャンヌの馬を、猫人たちが連れてきたようである。

 

「よう、ジャンヌ! まだ出掛けてなかったのか。俺たちこれから釣りにいくんだけど、一緒にどうだ?」

「あら、白ちゃん。今日はギルドの方はいいの?」

「メアリーが毎日同じこと繰り返しても意味ないって。だから今日は休暇になった」

「そうなの。事前に言ってくれてれば私も付き合えたんだけど……先生をおまたせしてるから、ごめんなさいね」

 

 ジャンヌはがっくりと項垂れている。

 

 彼は現在、村から少し離れたところにある街の道場に出稽古に通っていた。この間のオークとの戦いで、敵に剣を叩き落されたことで己の技量不足を痛感したらしい。あの時、最前線の彼が落ちたことで、あと一歩で壊滅という状況にまで追い込まれた。たまたま猫人たちが同行していたから良かったものの、もし彼らがいなければ、誰かが犠牲になっていた可能性もあった。

 

 そんなわけでジャンヌは、今までのステータスとスキルに頼った戦い方は見直し、基本から剣術というものを学ぼうと考えた。元々、彼は剣士とは言ってもゲームの中の話なので、完全に我流だったから学ぶものは多いようである。

 

 以前、鳳が自分のステータスで試した通り、ステータスとはバフのことだから、彼が基本を学んだらどれくらい強くなるのか今から楽しみである。

 

「ユー達は、お魚を取るのかにゃ?」「上手に取れるかにゃ?」「お魚取るなら、食べる係が必要にゃ」

 

 鳳たちは街へ向かうジャンヌを見送った後、二人で釣りに出かけようとした。すると、ジャンヌとの会話を聞いていた猫人たちがソワソワしながら近づいてきて、一緒に連れてってと言い出した。

 

「ゴブリン退治はいいのかよ? 牧場長に怒られるぞ」

「ゴブリンは毎日狩れるにゃ。お魚はたまにしか食べられないにゃ」「お魚を食べると頭が良くなるにゃ」「体にもいいにゃ」

 

 やはり大きくても猫は猫。目が爛々と輝いている。もはや何を言っても、着いてくる気満々のようである。鳳はため息をつくと、

 

「じゃあ、牧場長にお願いして、良いって言われたらいいよ」

「ホントかにゃ!? すぐ聞いてくるにゃッッ!!」「にゃにゃにゃ~!」「おさかな天国にゃ!」

 

 牧場長はオーク退治の貢献もあり、ここのところよく働いてくれてるから、鳳と一緒なら良いと許可してくれたようだ。その代わり、どうせ河原に行くのなら、彼らが使っている武器の手入れをしてもらってこいと、武器がいっぱいに積まれた大八車を押し付けられてしまった。

 

 本当は、渓流釣りにいくつもりだったのだが……猫人たちをちらりと見ると、浮かれすぎて、もはや完全に猫に戻っている。今更、やっぱ駄目と言ったら暴動が起きるだろう。

 

 仕方ない。食い意地の張っている猫相手なら、多分、大物狙いの方がいいだろう。渓流釣りはやめて、下流の汽水域で頑張ってみることにしよう。そこまで行けば、海から遡上してくる大きめの魚もいるはずだ。

 

 この辺には、どんな魚がいるのかな? とワクワクしながら、鳳たちは二頭の馬に大八車を引かせ、ガラガラ音を立てながら村から出ていった。

 

***********************************

 

 猫人たちの使っている鉄の武器は、全部合わせて総重量数百キロはありそうだった。二頭の馬に引かせているのだが、坂道のたびに機嫌を損ねるので、なかなかハードな道のりだった。

 

 鳳たちが後ろから車を押して、ようやく峠を越えられるレベルなので、河原に着く頃には汗だくになっていた。牧場長は休暇と言っていたが、体よくお使いを押し付けられたようである。

 

 それにしても、武器の状態は錆びついてたり、刃が欠けたりして、どれもこれも酷いものだった。これだけ大量の武器を一度に修理に出すなんて、普段から村でちゃんと手入れしてれば済む話だろうに、なんでそうしないんだろう、ずぼらなのか……? そう思ったところで、鳳は以前、レオナルドと話した獣人の創造性問題を思い出した。

 

 獣人は創造性が乏しいせいか、道具を作ったり扱ったりすることが苦手なのだ。彼らは例えば鉄の剣に獣の脂が付着していても、それを拭い取って綺麗にするという考えが思い浮かばない。そのまま放置していたら切れ味は落ちるし、確実に錆びてしまうのだが……何度も錆びた物を見ているにも関わらず、彼らはその錆の元を拭い去るという考えに至らないのだ。

 

 だからたまに、牧場の人が猫人たちの武器の状態を見て、こうしてお使いに出しているのだろう。ガルガンチュアの村でも思ったことだが、獣人は素手でも強いのだから、武器を使えばもっと強いはずだ。人間と一緒に暮らしていると、こういうメリットもあるのだなと、彼はほんの少し感心した。

 

 たどり着いた河原のあちこちから、黒い煙が上がっていた。蜥蜴人(リザードマン)行商のバザールが建っていて、その周りを取り囲むように野鍛冶が鉄を叩いていた。

 

 携帯式の七輪のような台の上に、耐熱レンガで作ったかまどが乗せられている。七輪に炭を入れ、フイゴや火吹き棒で空気を送り、高温になったかまどで熱した鉄を、金床でカンカン叩くのだ。

 

 恐らく、都市にはちゃんとした鍛冶屋が定住しているのだろうが、この世界ではまだまだ村から村へと野鍛冶が渡り歩いているようである。おそらく、あの蜥蜴人キャラバンと行動を共にしているのではなかろうか。

 

 近隣の町や村からやってきた奥様たちが、壊れた鉄鍋やバケツを直してもらいながら、ぺちゃくちゃと井戸端会議を繰り広げている横を通り過ぎ、大八車を引きながら、どの鍛冶屋に頼もうかとキョロキョロしていると、バザールの方から一人の蜥蜴人が小走りで近づいてきた。

 

 何か売りつけようとでもしてるのかなと身構えていると、

 

「そこのあなた! もしや、鳳さんではございませんか?」

「え!? そういうあんたは……ゲッコー??」

 

 鳳がそう問い返すと、蜥蜴人はなんとも形容のし難い不思議な笑顔を見せながら、

 

「やはり鳳さんでしたか! こんなところで会えるのも奇遇なら、私の顔まで覚えていてくださったなんて光栄です。人間の皆様は、大概、蜥蜴人の顔など見分けがつかないと言って、覚えていてくださらないのですが……」

 

 もちろん、顔で見分けがついたわけではない。単に、彼以外に蜥蜴人の知り合いなどいないから当てずっぽうだったのであるが……まあ、喜んでるみたいだから黙っておく。

 

「いやあ、久しぶりだね。元気してた? あれからも大森林を行ったり来たりしていたの?」

「はい、2回ほど往復しました。ですから、あなた方が集落を追い出されてしまったことも聞いております」

 

 ゲッコーは額に手を当ててヤレヤレといった感じのジェスチャーをしながら、

 

「この噂が知れ渡ってしまったせいで、まだ後任の駐在員が決まっていないようですね。僭越ながらギルドのお使いで、あの後ガルガンチュアの集落を訪れたのですが、職員が不在で参ってしまいました」

「そうなんだ……爺さんは何も言ってなかったから、平気だと思ってたのに」

「ほとぼりが冷める頃には決まるでしょう、お気になさらないのがよろしいかと」

「そう言えば、胡椒の方はどうなった? あれからちゃんと供給してもらえてるの?」

「お陰様で! その節はどうもありがとうございました。ただ、兎人たちは相変わらず気まぐれで、供給量がまちまちなので、胡椒は未だに高級品の域を出ない状況です。こちらで栽培出来ればそれが一番なのですが……」

「難しいらしいね」

 

 そんな世間話をしていると、ゲッコーは鳳が引いていた大八車の中を覗き込み、

 

「ところでこれは? もしかして、今日は武器をお売りにいらっしゃったんですか?」

「いや、違うんだ。これは猫人(あいつら)の武器で、サビ取りや打ち直しをして貰おうと思って持ってきたんだけど、鍛冶屋がいっぱいいるもんだから、誰に頼んでいいか迷ってたんだ」

 

 鳳が指差しながら説明すると、いつも騒がしい猫人たちは、まるで借りてきた猫のように大人しくなっていた。どうやらこいつら、猫をかぶっているらしい。

 

 ゲッコーはふんふんと頷いて、

 

「でしたら、私にお手伝いさせてください。キャラバンに同行してもらっている鍛冶師に頼んでみましょう」

 

 知人が勧めてくれるのだから悪いことはないだろう。鳳は助かると言って彼におまかせすることにした。

 

 紹介された鍛冶師は彼のキャラバンに同行している野鍛冶たちの親方で、何というかいかにも頑固一徹ってな感じの老人だった。日焼けした真っ赤な顔に真っ白な頭髪が生えていた。握手を交わす手のひらは、熟練の技術者らしくがっしり大きくて、皮膚が厚くカサカサしている。

 

 鍛冶師は鳳が持ってきた武器の山を見るなり、一体どういう使い方をしたらこんなことになるんだと腹を立ててみせたが、背後に控えている猫人たちを見てため息を吐くと、何も言わずに槌を叩き始めた。

 

 まずは酸に漬けて表面に浮かんだ錆をざっと落とし、続いて弟子の研ぎ師が細かい部分を削り落とし、その後、かまどで熱して打ち直し、よくわからないが、これ以上錆びないように加工してくれてるようだった。ハンマーなどの鈍器はそれで終わり、刃物はちゃんと出来上がった物をまた研ぎ師が鏡みたいになるまで磨いてくれている。

 

 一連の流れ作業のスピードや、時折やってくる弟子たちにアドバイスする姿を見る限り、彼らはかなり熟練した鍛冶師のグループのようだ。鳳はふと思い立って、もしかして彼なら釣具を作れないかと思い、質問してみることにした。

 

 現在、鳳たちは釣りをする際、水筒に糸を巻き付けただけの簡単なリールを使っているのだが、流石に不便で、出来れば投釣り用のスピニングリールなんかがあったら良いなと思っていたのだ。

 

 元の世界であれば、安いものなら千円もしないで買えたものだが……もしかして、こっちの世界にもないかなと思って、色々と質問をしながら似たようなものを作れないかと話していると……

 

「……おい、兄ちゃん。仕事の邪魔だ。あんま顔を近づけんなよ」

 

 いつの間にか親方の背後にマニが立っていて、仕事をしている彼の手元を熱心に見つめていた。何か気になることでもあるのかな? と思い尋ねてみると、

 

「鉄の道具ってこうやって作るんだ……」

 

 彼は一度もこちらへ視線を戻さずに、興味深そうに目をパチクリさせながら呟いた。どうやら、鍛冶仕事に興味があるようだ。

 

 思えば獣人は道具を使わないから、彼はこれだけ沢山の鉄器が並んでるのを見るのが初めてだったのかも知れない。村にやってくるトカゲ商人は、もちろん鉄の道具も商品として持ち込んでいただろうが、獣人たちはそれを使いこなせない。だから誰も買わなかったのだろうが、マニはそんな武器の数々を見て不思議に思っていたに違いない。

 

 彼は、彼自身が罠を作るから、鉄の道具があった方が、何をするにも効率がいいことを知っていたのだ。そう言えば以前、釣り道具のスプーンを作ったときも、熱心にその作業というか、金槌の方を見つめていた。もしかすると、こういった工作全般に興味があるのかも知れない。

 

 彼は鍛冶師の仕事を見ながら、何度か迷うような素振りを見せた後、おずおずとお願いするように言った。

 

「あの、おじさん……良かったら僕にその仕事を教えてくれませんか?」

 

 すると鍛冶師は一瞬ゲゲッとした嫌そうな表情を見せた後、すぐに渋面を作り、

 

「冗談じゃねえよ。お前ら獣人に鍛冶仕事が出来るもんか。見ろ、こいつらが持ってきた道具を……錆だらけじゃねえか。鉄は放置していたらすぐに駄目になる。ちゃんとした手入れが必要なんだ。それをこいつらは、いくら言っても理解しやがらない。道具をほったらかして遊んでやがる。こんなんじゃ宝の持ち腐れだ。こっちは金もらってるからやってやってるが、本当なら大事な道具を渡したくないくらいなんだぜ?」

 

 鍛冶師は憤懣やるかたないと嘆いてみせた。恐らく彼の長い人生で、獣人との間で幾度となく繰り返されたやり取りなのだろう。しかし、鳳はシュンとしょげかえるマニに変わって進み出ると、

 

「いや、親方さん。あなたの言ってることは正しいですよ、俺も身に覚えがある。獣人は本当に物覚えが悪い。でも、こいつはちょっと違うんですよ」

「なにぃ?」

「例えばこれ、俺たちが今使ってる釣具ですが、こいつと一緒に作ったものです。竹ひごを使って、もっと複雑な(うけ)って言う魚とりの罠を作りもしましたが、こいつは手先も器用だし物覚えもいいんです」

 

 鍛冶師は訝しげに鳳のことを見つめながら、

 

「そんな獣人居るわけねえだろ? おまえさんが話を盛ってるんじゃねえのか」

 

 鳳は苦笑しながら、

 

「そこまで言うなら、一度試してみてはいただけませんか。親方さんの言う通り、使えなければ追い返してくれればいいんだし」

「うーん……」

「もし、鍛冶が出来る獣人がいたとしたら面白いと思いませんか? それがあなたの弟子なら、なおさら面白いじゃありませんか」

 

 鳳がそう熱心に勧めると、流石の鍛冶師も少し心が動いたようだった。しかし、これまでの経験から、獣人に失望していた彼を動かすには、あとひと押しが足りないようだった。

 

 鳳が、もっと彼の興味を惹く方法はないかと頭を悩ませていると、二人のやり取りを見ていたゲッコーが助け船を出すように、話に割り込んできた。

 

「親方。私からもお願いします。実は彼らは大君(タイクーン)の客人で、ヴィンチ村に滞在している方々なんですよ。大君との今後の付き合いも考えて、そう無碍に断られてしまったら、私も立つ瀬がありませんので」

「なに? 大君の……それを早く言わねえか」

 

 レオナルドの名前が出たら、鍛冶師はそれ以上悩むこと無く、一発で認めてくれた。あと一歩まで詰めていたのもあるが、やはりタイクーンのネームバリューは、ここ勇者領では絶大のようである。

 

 取り敢えず、試用期間は一週間ということで、それで目があるようならそのまま弟子にしてくれるそうだ。早速、仕事を教えてやるという親方に連れられて、マニは他の弟子たちに挨拶をしに向かった。

 

 鳳はその後姿を優しい目で見送っていたが……何か忘れているような気がして、ふと首を傾げた。

 

 そう言えば、ここには何をしに来たんだっけ? そう思いながら振り返ると、猫人たちがヒゲをよれよれと萎ませながら立っていた。

 

「お魚はまだかにゃ~……」

 

 そうだった。ここへは元々、釣りをしに来たんだった。相棒が離脱してしまい、相談しようとしていた釣具の話もどっかへ行ってしまった。この状況で、腹ペコの猫人たちの胃袋を満たす釣果が期待できるんだろうか……

 

 鳳は口の端っこを引きつらせながら、取り敢えず猫人たちと一緒に、釣れそうな場所を探して河原を歩いた。

 



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これがわからない

 久しぶりの休暇を取った鳳たちは、趣味の釣りに出掛けようとしていたところ、魚と聞いたら目がない猫人たちに捕まって、一緒に河原まで行くことになった。そこに来ている野鍛冶に、猫たちの武器の手入れを頼むつもりだったのだが、思いがけずマニが鍛冶仕事に興味を抱いた様子で、その場で鍛冶師に弟子入りしてしまうのだった。

 

 人間社会を見学したいと言っていたマニに、良かれと思って勧めたのだが、ふと背後を振り返れば、猫人たちがお腹を空かせて待っていた。そう言えば釣りに来たんだった。鳳だけでは、彼らが満足してくれるだけの魚が穫れるか自信は無かったが、とにかくまあ、やるしかないだろう。

 

 出来ればバザールが見える辺りで釣りをしたいところだったが、周囲であんなにカンカンやられてしまっては魚がいるとは思えない。鳳はマニをトカゲ商人のゲッコーに預けると、猫人たちを連れて、汽水域を目指して下流方向へと歩き出した。

 

 しかし、この選択が裏目に出ることとなる。

 

 鳳たちがいま居るのは、勇者領と大森林とを隔てる境にある河川だった。これは元々、勇者領の首都ニューアムステルダムに流れ込んでいた川だったが、干拓事業で流れを逸らして、直接海に流れ込むようにしたものである。水源はなんと大森林を抜け、ヘルメス領をも越えて、ボヘミアまで続いているそうだ。

 

 そんな大河川の流れを変えたせいで、昔は氾濫が多かったのだろうか。思った以上にしっかりとした堤防が整備されていて、勇者領を作った人たちの技術の高さが窺える。多分、勇者やレオナルドだけではなく、他の放浪者(バガボンド)も関わっているのではなかろうか。

 

 古今東西、堤防なんてものはどれも似たようなものだから、土手の向こうに高速道路が見えないだけで、ここが東京だと言われたら、うっかり信じてしまいそうな雰囲気である。

 

 尤も、似ているのは堤防だけで、その水質の方は段違いであった。なんというか、悪い方向にである。東京とは違いここらの河川には、近隣の村や街から出る生活排水が流れ込んでいて、下流に行くほど水質汚染が広がってしまい、見る影もなかったのだ。

 

 元々、東京の河川もそれはそれは酷いものだったらしいが、64年の東京オリンピックを契機に治水工事が進み、21世紀には鮎が遡上するくらい綺麗になったという経緯がある。やはり、人が集まる場所にあって、規制がなにも無ければ、川はあっという間に汚物で埋め尽くされてしまうようだ。

 

 強烈な臭気を放っている、まるでガンジス川みたいな河川を前にして、鳳が呆然としていると、猫たちがソワソワしながら、

 

「こんなドブ川でもお魚は穫れるかにゃ?」

「いやあ、獲れたとしても、食べるのは無理だろう。死んでしまう」

「そんにゃあ~……ショックにゃ」

 

 食べる気満々であった猫たちは地面に突っ伏し、がっくりと項垂れている。こんな川でも、ナマズやドジョウのような生物は棲息しているだろうが、恐らく臭すぎて食えたものではないだろう。それ以前に、こんな油が浮いたような川の中に入っていく気がしなかった。

 

 もっと下流へ行って海に出てしまうか、逆に上流へ向えば、水質改善も見込めるだろうが、どっちにしろ、今から行くのでは時間がいくらあっても足りなかった。いっそヴィンチ村に戻って、用水路に釣り糸を垂らしたほうが、まだマシだろう。しかし、それじゃ何のためにここまで出てきたのか分からない。

 

 せっかくの休みだと言うのに、つまんないことになっちゃったな……とため息交じりに空を仰ぎ見た時、鳳はふと、高台にぽつんと一軒の家が建っているのを見つけた。

 

 河川に架かった橋を渡り、その先に続く道を辿って丘へ登ると、そこに一軒のお店が建っていた。場所的に峠の茶屋といった感じで、通り過ぎる旅人が、時折吸い込まれるように中に入っていくので、少なくとも何か出してくれることは確実のようだ。

 

 どうせ、ここにいてもやることは何もないのだし、

 

「なあ、猫たち。あそこにあるお店まで行ってみないか? もしかしたら、何か軽食でも出してるかも知れない」

「にゃあ~……ミー達はお金を持ってないにゃ」

「それくらい奢ってやるよ。本当なら、魚を獲ってやるつもりだったのに、ぬか喜びさせちまったからな」

「いいのかにゃ!?」

 

 猫たちのヒゲがピンと立っている。どうやら少しは元気を取り戻したらしい。鳳は彼らにオーケーサインを送ると、喜び勇んで先を行く猫人たちを追い駆けて橋を渡った。最近ゴブリン退治でそこそこお金を貰っていたから、この機会に使ってしまうのも悪くないだろう。本当なら、彼らが貰っていてもおかしくないお金なのだ。

 

 遠くから見たら意外と近そうに見えたが、登ってみたら意外と遠かった丘を、えっちらおっちら踏破すると、目の前に現れたのは、やはり峠の茶屋的なお店だった。

 

 峠にはヴィンチ村の駅馬車もやってきているようで、どうやらここは、この辺一帯の街を中継する、道の駅のような場所のようだった。あちこちから積荷が通り過ぎるからか、店が扱っている商品も豊富で、それ目当てにやってくる近隣の住民もいるらしい。

 

 鳳はそこで蕎麦というか、米麺(フォー)みたいな食べ物を注文し、猫たちは砂糖漬けのお菓子を美味しそうに頬張っていた。ところで、砂糖で漬けたと言っても、柑橘系を食べても平気なのだろうか……? まあ、猫人と猫は違うと言うことだろう。

 

 トカゲ商人のゲッコーも言っていたが、この世界は胡椒はまだまだ貴重品だが、砂糖の方はすでにかなり出回っているようだ。なんでも、新大陸でプランテーションを行っているらしく、海の向こうからやってくる砂糖を帝国に売って、この辺の商人は荒稼ぎしているらしい。最近では増えすぎた人口を支えるために、穀物の輸入も始めたそうだ。ある日、新大陸の民がキレてお茶を海に投げ捨てたりしなければ良いのだが。

 

 この辺で最も高い丘の上にあるその店からは、遠くのニューアムステルダムの街が一望できた。鳳はこの時初めてこの国の首都を見たのだが、そこは思ったよりも大きな建物が立ち並ぶ、そこそこ近世的な都市のようだった。

 

 最大で5~6階建ての家々の壁は白く映え、近寄って見なければわからないが、赤い屋根は瓦葺のように思えた。中南米によくあるコロニアル様式と呼べばいいのだろうか、そんな感じの家々がひしめき合うように立ち並んでいる。

 

 港には何艘もの帆船が停泊しており、沖の方には順番待ちをしている船舶もちらほら見えた。あれらは全て、遠い新大陸を往復している船なのだろうか。そう言えば、帝国と戦争をしているはずなのに、のんきそうに見えるのは、通商破壊の概念が無いからだろうか……帝国は、強いんだか弱んだかよく分からない国である。

 

 首都までは早馬ならば小一時間ほどで着くらしい。高速の駅馬車をチャーター出来ると言うので、どうせ近いうちに行くだろうし、後学のために冷やかしに行こうぜと言ったのだが、猫たちが嫌がったのでやめておいた。

 

 そう言えば、バザールでも借りてきた猫みたいになっていたが、もしかすると人混みが苦手なのかも知れない。もしくは、鍛冶師の親方の扱いもぞんざいだったように、獣人は差別されるからだろうか。

 

 たまたまであるが、鳳の周りにはマニやルーシーのような、獣人の混血という存在がいる。彼らが優秀だから勘違いしやすいが、やはり普通の獣人は物覚えが悪いのだ。これが乱世ならば、まだ戦闘に特化した狼人や猫人は役割があるだろうが、この国みたいに平和だと、人の間でやっていくのは相当難しいかも知れない。

 

 それにしても、つくづく興味深いのは混血の優秀さである。ルーシーは、混血は人間にも獣人にも差別されるから隠していたと言っていたが、マニはもちろん、下手したらルーシーなんかは普通の人間よりよっぽど賢いんじゃなかろうか。

 

 彼らがどうして優秀なのかは、人間同士の国際結婚を見てもなんとなく予想がつくのではないか。遺伝子的に遠い者同士が混じり合うと、両親の良いところだけを受け継ぎやすいのだ。逆に近すぎると優性だけではなく、劣性遺伝も強調され、それが致命的な悪影響を及ぼしやすい。ガルガンチュアが子宝に恵まれないのは、多分それが理由だ。

 

 以前、馬とロバの混血であるラバのことを考えたように、ごく最近、共通祖先から分かれた種族同士は子供を作ることが可能だ。こうして生まれた子供は、残念ながら繁殖能力がないが、能力的に優秀な個体が多いと予想される。ただし、そんな中でも極稀に繁殖能力を持った個体が生まれることがあり、それが自然淘汰されずに残っていくと、新たな種として確立される可能性があるわけだ。

 

 精霊が鳳に見せた過去から判明したのは、獣人は人間をベースに人工進化させられた種族だと思われることだ。だから人間と獣人、そして同じ共通祖先を持つ獣人同士は、繁殖が可能であり、生まれてくる子供は、身体的にも頭脳的にも強調された個体になりやすいのではなかろうか。

 

 そう考えると獣人はもっと混血を意識しておこなったほうが良いように思われるが、レベルキャップの問題があって、ガルガンチュアの集落では寧ろ純血に拘りを持っているようだった。

 

 そんなことはもう忘れて、大森林(ワラキア)の獣人同士仲良く繁栄して、そして人間社会と対等に付き合えるようになれば、そっちの方が良いように思えるのだが……しかしレベルなんて何の意味もないと一概に言い切れない事情もあった。

 

 最初、ギヨームが気づいたように、どうもこの世界の人類一人ひとりに設定されているステータスは、レベルと相関関係があるようなのだ。レベル30代から60代まで上がったギヨームは、今となっては超人的なステータスの持ち主であるし、ルーシーはレオナルドのスパルタ教育に耐え、新たな魔法を覚えつつあった。

 

 もし、獣人の混血を進めれば、彼らも文明の恩恵を受けて、人間たちのように社会的な生活を営めるようになるかも知れない。実際、レイヴンというモデルケースもある。しかし、平和な時はそれでいいが、もし今後戦乱の時が訪れたら、低レベルになった彼らは苦境に立たされかねない。それが必ずしも良いこととは限らないのだ。

 

 現在、少なくとも獣人は人間よりも身体的には優れている。そのお陰で、魔物が跳梁跋扈する大森林で暮らしていくことが出来、そしてネウロイからの魔族の侵入の防波堤になってくれているのだ。その防波堤が崩れた時、何が起きたかは300年前の歴史が教えてくれている。

 

「しかし……魔族か」

 

 鳳は串に刺さった焼きトンを食いちぎりながら、誰ともなしに呟いた。

 

 猫人たちがあまりにも美味しそうに砂糖漬けを食べるものだから、鳳も一つ齧ってみたのだが、甘すぎて口に合わず、口直しのつもりで味の濃い焼きトンを食べていたら、猫たちが物欲しそうに見つめていたので、仕方なく彼らの分も振る舞ってやることにした。

 

 痛い出費であるが、彼らの喜ぶ顔を見ていたら、まあいいやと思ってしまう……自分はつくづく、ペットは飼っちゃいけない人種なのだろうなと彼は思った。

 

 閑話休題。そんなことより魔族の話に戻ろう。一時は自分も魔族なんじゃないかと思っていたのだが、このバルティカ大陸南端のネウロイの地からやってくるという生命体であるが、あれは一体何なんだろうか。

 

 一口に魔族と言っても、その種類は獣人のように多岐にわたる。今の所、人類にその存在が確認されているのは、小鬼(ゴブリン)犬鬼(コボルト)豚鬼(オーク)大鬼(オーガ)魚人(オアンネス)半魚人(インスマウス)鳥人(ハーピー)馬頭鬼(ケンタウロス)牛頭鬼(ミノタウロス)……他にもまだまだありそうだが、概ねこんなものらしい。

 

 どれもこれも、元の世界の伝説上の生き物であり、RPGでは敵キャラとして定番な連中である。特徴としてはとにかく人類と敵対しており、対話が成立せず、ひたすら本能に忠実に生きているようだが、彼らがどうして生まれ、何を目指しているのかはまるで分かっていない。まあ、人類だって目的があって生きているわけではないから、どの生き物にも共通な、『種の保存』と考えて差し支えないだろう。

 

 ところで、鳳は最近、魔族と戦うことが多いから気づいたのであるが、どうも彼らには近親性があるように思えるのだ。特にそっくりなのは、ゴブリンとコボルトである。どちらも魔族最弱と言われており、森の周縁部にこっそりと暮らしている生き物なのであるが……

 

 ゴブリンは体が小さくて邪悪な顔をした、まさに小鬼と呼ばれるような外見をした直立二足歩行の生き物である。目は赤く、鼻は尖って、耳は長く、緑色の皮膚をしている。口は大きいが犬歯は発達しておらず、切歯と臼歯の比率も人間と同じだ。JRPGでお馴染みの邪悪な妖精みたいな感じで、集団で家畜を襲い、畑泥棒をして生活をしている。

 

 人間と食べるものが同じなのだから、歯も同じように進化したと考えることは出来る。だが、肌の色は全く別物であり、ゴブリンは寧ろオークの方に似ている。小型のオークと言っても差し支えないような見た目だ。

 

 かと思いきや、中には犬顔のコボルトがいて、これもゴブリンの亜種と考えられている。というのも、こいつらは生態がほぼ一緒で、中にはゴブリンに混じって畑泥棒をしているコボルトまでいるというのだ。

 

 こうして顔だけで分類すると、緑肌の魔族には、キツネ顔のゴブリンと、犬顔のコボルト、ブタ顔のオークが存在するわけだが……DNAを調べられるような機械があるわけでもないから、はっきりしたことは分からないのだが、もしもこいつらが分類学上、同じ種族だったとしたら、何が彼らを分けたのだろうか?

 

 獣人は家畜の人工進化の産物だった。だったら魔族も、それと同じように考えられないだろうか……?

 

 何かがあって、人間と魔族は分かれた。獣人の共通祖先が人類であったように、魔族の共通祖先もまた人類なのではないか。そう考えるに足る根拠と言うか、不都合な事実はある。この世界にはやたら二本足で歩く生き物が存在するようだが、46億年の地球の歴史を遡って見ても、直立(・・)二足歩行の生き物なんて人類以外には存在しなかったはずだ。

 

 そんな人間みたいな生物が次々と誕生するのは不自然だろう。だから、魔族もやはり人類という共通祖先から枝分かれした種族と考えるのは妥当なのではなかろうか。無論、現段階ではあくまで憶測に過ぎないのであるが……

 

 その憶測を前提として考えると、また少々嫌な憶測が浮かび上がってくる。

 

 ヴィンチ村の冒険者ギルドで、鳳がゴブリン退治に興味を示した時、ギヨームがゴブリンの生態について詳しく語ってくれた。それによると、ゴブリンもまた魔族であり、本能に忠実に生きているから、他種族を捕らえたら、男を殺し女を犯そうとする性質があるそうだ。

 

 しかし、ゴブリンは弱いから、捕まられるのはせいぜい子供くらいのものでしか無い。だから繁殖力のない女児が捕まると、より無残な殺され方をされてしまう。故にゴブリンは、普通の魔族よりも忌み嫌われているという。

 

 そこまではいい。人間の女児は可哀相だが殺されてしまうだろう。だが、これが獣人ならどうなんだろうか。

 

 獣人は成長が早い。例えばマニは15~6歳くらいに見えるが、実年齢は9歳だ。元が家畜だからか、それとも厳しい環境で生き抜くために、個体数を増やす方向に進化したのか、獣人はかなり若いうちから繁殖能力があり、早ければ5歳にもなればもう立派に子供を産めるらしい。

 

 さて、人間と獣人の間には繁殖能力が殆どない。だがまったくないわけではなく、たまにハーフが生まれ、クオーターはもっと稀だが、マニやルーシーのような実例もある。

 

 ところで、魔族と人間はどうなのか? そして魔族と獣人は?

 

 もし、ゴブリンと狼人の間で子供が生まれたとしたら、生まれてくる子はゴブリンなのか、狼人なのか。それとも、犬顔をしたゴブリン……即ち犬鬼(コボルト)が生まれて来るのだろうか?

 

 こんなことを考えた人間は、多分、鳳以外にもいただろう。だが、確かめようがない。魔族を見たことがあるからわかるのだが、あれは話の通じる相手ではない。魔族は理性がなく、仮に人間が魔族を産んだとしても、生まれてきた魔族に人間性はなく、そして魔族を産んだ人間がまともに生きているとは思えない。確認が取れないものは居ないと考えたほうが精神的だろう。

 

 一応、確かめる方法ならある。例えばゴブリンを捕まえてきて、そいつに人間の女を襲わせるのだ。そうして生まれてくる子供を調べれば、この考えが正しいかどうか判明するはずだ。だが、そんな悪魔のような実験、誰がやろうと言うのだろうか? 聞けば、コボルトがコボルトを生むことは確認が取れているらしい。だったらもう、それでいいではないか。

 

 こうして鳳は、他の人たち同様に、自分の考えを忘れることにした。だが、それでも彼はまだ考えてしまうのだ。

 

 人間と魔族、獣人と魔族のことはいい。きっと、そんなことないんだろう。でも、魔族と魔族ならどうなんだろうか? 例えば、ゴブリンがオークの子供を犯したとして、もし双方に繁殖力があったとしたら……

 

 果たして生まれてくるのはゴブリンなんだろうか、それともオークなんだろうか。これがわからない。

 



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そのころ大森林では

 大森林の巨木の下にすっぽりと収まるように広がる人口100人ほどの小さな村。ガルガンチュアの集落は、いつも通り騒がしくも穏やかな日々を送っていた。

 

 鳳たちが追い出され、マニが留学してから3ヶ月が経過し、村人たちは彼らのことなど忘れてのんきに生活していた。便りを待っているのは長老くらいのもので、それも頼んでおいたキノコが欲しいからという私的な理由であり、出ていった彼らのことを心配している者など一人もいなかった。

 

 生まれたばかりの子供を殺すなんて許せないと叫んだメアリーの言葉は、村人の心に突き刺さった。あの日、鳳たちを追い出した後、騒然とする彼らを宥めるのには、本当に苦労させられた。中には村の秩序をかき乱した鳳たちを追い駆けて、殺そうと言い出す者まで現れたくらいである。

 

 だが、それも翌日になると何事も無かったかのように、誰も彼らのことを口にする者は居なくなっていた。まるで鳳たちなど最初から居なかったかのように、村は平常通りに戻っていたのだ。誰だって、自分の子供を殺したい者なんていない。忘れることで傷を和らげるくらいしか、この集落に解決法がないことは、村の誰もが知っていたのだ。

 

 嘆かわしいものだな……そう思いつつも、ガルガンチュアは何かを変えたいとは思わなかった。変われるものならとっくの昔に変わっていただろうし、現状を維持していくしか、大森林の獣人達に未来がないことは、他ならぬ自分自身もよく分かっていた。

 

 族長の家を出ると、すぐ目の前に村の広場がある。その広場を取り囲むように、長老の家と、村でも指折りの高レベルの家族が暮らす家が並んでいた。そのうちの一つに以前は鳳が暮らしていたのだが、今はもう他の家族が引っ越してきて、彼らのいた痕跡は何も無くなっていた。

 

 蚊を避けるために吊るした蚊帳も、虫を遠ざけるために植えたミントも、村で唯一、家の中に作られた炊事場も撤去されて、もうそこに何があったのか思い出すことも出来ないくらい、無機質な壁や床がむき出しになっているだけだった。

 

 その広場を通り過ぎ、村外れから雑木林に入って数十メートルばかり進むと、開けた空間に2階建ての家屋が見えてくる。冒険者ギルドの駐在所は、今はその主が不在で、庭の草木は伸び放題だった。

 

 いつもルーシーが洗濯物を干していた物干し台は、いつの間にか地面から伸びてきた(つる)に覆われて緑の山のようになっていた。家の周囲は完全に雑草に覆われて、打ち捨てられた廃墟のようだった。踏み固められた地面だけが、まだ主の帰りを待っているかのように小径を形作っていたが、このまま不在が続けばここも雑草に覆われてしまうのは時間の問題だろう。

 

 冒険者ギルドの情報ネットワークのために、駐在員が不在でも、時折、郵便物が届けられていたのだが、ここ数週間はそれも無くなってしまっていた。前任者を村人たちが追い出してしまったため、交代要員がなかなか来てくれないことが知れ渡り、飛ばしたほうが効率的だと判断されてしまったのだろう。

 

 情報が入ってこないということは、こちらから伝えることも出来ないということであり、ガルガンチュアがマニと連絡を取るには、村から数日かかる隣の支部まで歩いていかねばならなかった。最初はそれでも良いと思っていたのだが、族長という立場から、そう頻繁に村を留守にすることは出来ないことに思い至り、彼は難儀していた。息子が困ってないか知ることが出来ないということが、こんなに苦痛だと彼は知らなかった。村は孤立していた。

 

 そのせいで、彼は大森林に変化が起きていたことを知るのが遅れた。

 

 ガルガンチュアがマニの手紙はまだかまだかと待ちわびていた、ある日のことだった。いつものようにギルドまで往復して家に帰ってくると、普通に考えたらまず会うことがないはずの、ずっと遠くにある集落の長が、彼を尋ねてやってきていた。

 

 長老と会話をしていた彼はガルガンチュアが帰ってきたのを見つけると、礼儀正しく長老に挨拶してから、彼の元へと歩いてきて、

 

「ガルガンチュアよ、息災だったか」

「ああ、おまえも元気だったか」

 

 二人はじっと睨みつけるようにお互いの顔を見つめてから、まるで相撲の立会いのように、タイミングを見計らいながら握手を交わした。お互いの顔が紅潮しているのは照れてるわけでも暑いわけでもなく、思いっきり力んでいるからだった。がっしりと握り合った手のひらからは、ギュウギュウと擬音が聞こえてきそうなくらいである。

 

 二人の仲は決して悪くはないが、良くもなかった。大森林の部族を束ねる族長の中では、歳もレベルも近いせいか、昔から何かと比べられることが多く、いつの間にかお互いにバチバチと意識し合うライバル同士となってしまっていたのだ。

 

 奥歯を噛み締め、犬歯をむき出しにして、万力のように力を込めているせいで、手を離す切っ掛けがつかめないまま、ライバル族長がグルルルルっと唸り声を上げつつ、言った。

 

「ずっと連絡を取っていたのだが、全然返事がこないからわざわざ来てやった。ギルドと揉めるのは森のルールに反する。何をやってるんだ、おまえの村は」

 

 ガルガンチュアは相手の手を叩くように振りほどくと、ムスッとした表情で答えた。

 

「ギルドと揉めたのは悪かった。だが、連絡ならちゃんと毎日、ギルドに届けられてないかチェックしていた」

「それが届いてないから、俺がこうして、ここまで来てやったのだろうが」

「なにぃっ!? どういうことだ」

「連絡網が、おまえの村だけ飛ばされていたのだ」

 

 ガルガンチュアはむかっ腹を立てたが、詳しく話を聞いてみれば、瑕疵は自分の方にあるようだった。

 

 ライバル族長は、冒険者ギルドを通じて彼に連絡を取っていたのだが、駐在員がいないことでその連絡が届かなかったようである。その他にも、恩人である鳳を追い出したことで、また隣村との関係が悪化していたのが裏目に出て、別口の連絡も途切れてしまっていたようだった。隣村の族長が、ガルガンチュアへの連絡を意図的に無視してしまったのだ。

 

 ガルガンチュアとしては、敵に頭を下げるような苦渋の決断であったが、族長である彼は仕方なくライバルに頭を下げた。

 

「それはすまなかった。俺の村のために、わざわざ来てくれたことに感謝する」

「ふん。最初からそう言えばいいのだ」

「……それで、俺を呼び出そうとした理由はなんだ?」

「そうだった」

 

 ライバル族長は、自分が嫌味を言うためにやってきたのではないことを思い出すと、

 

「この間、主要な村の族長が集まって族長会議を行った。どうしても緊急に話し合わなければならないことが出来たんだ」

「なんだと!? 族長会議だと??」

 

 300年前に魔族の侵入を許した獣人社会は、それ以来、獣人同士の争いを避けて協力し合うようになった。だがそれは隣村レベルの話で、大森林全体で話し合うようなことはまずなかった。

 

 それを行ったということは、余程のことが起きたに違いない。それこそ、初めて族長会議が行われた、魔王討伐会議くらいの出来事だ。

 

「そんな大事な会議に、どうして俺を呼ばなかった!」

「だから何度も呼んだと言ってるだろうが!」

「む……むぅ……それで、族長会議で何が決まったんだ?」

「ああ、俺はそれをお前に伝えに来た。良く聞け。これは俺の意見じゃない。みんなで決めたことなんだからな」

 

 ライバル族長は、口を酸っぱくして、これは会議で決まったことだと強調してから、会議で起きたことを話し始めた。

 

 それによると、ここ数ヶ月、魔族の侵入によって村が破壊され、行き場を失った部族が大発生しているようだった。族長を失った部族は脆く、他の部族に吸収されるならまだしも、そのまま魔族の餌になってしまうこともしばしばある。だから獣人たちは手を取り合って、魔族が出たと聞いたら村の垣根を越えて協力しあい、撃退してきた。

 

 それなら、ガルガンチュアも身に覚えがあった。彼らは鳳たちとも協力して、何度もオアンネス族を撃退してきた。魚人たちはどこから来るのか分からないが、退治しても退治しても湧いて出てくる。それが他の弱い部族では対応しきれなくなったのだろうか?

 

 ガルガンチュアがそんな風に考えていると、それを察したのかライバル族長は頭を振って訂正した。

 

「いや、違う。彼らはオアンネスにやられたんじゃない。オークにやられたんだ」

「オーク……だと?」

 

 オークとはネウロイからたまに流れてくる、巨大魔族のことである。ガルガンチュアは見たことがないが、自分クラスの獣人でも数人がかりでなければ対処できないくらい強い魔族と聞いている。

 

 話によると、それが大量発生しているというのだ。

 

「やられた連中に話を聞くと、初めは彼らもオアンネスを相手にしていたそうだ。倒しても倒しても、いつの間にかまた現れる魚人どもにうんざりしていたら、それがある時、突然オークに変わったらしいんだ」

「まさか? 間違いじゃないのか。弱い魔族にやられて、格好悪いから、そんな強い魔族の名前を出してきたんじゃないのか」

 

 ガルガンチュアが信じられないと返すと、ライバル族長も同意見だと頷きながらも、

 

「それが一つの部族だけならそうだろう。しかし、オークを見たという部族はいっぱいあるんだ。その中にはもっと具体的なやつもいて、オアンネスを倒すために、斥候に出した村人が、オアンネスの出産に出くわしたらしい」

「そうか。やってくる魚人共は、どいつもこいつも妊婦だから、いつかこうなるのは予想出来ただろう。オアンネスが増えてしまったんだな?」

 

 するとライバル族長は話の腰を折るなと言いたげに不満げに鼻を鳴らすと、

 

「違う! 斥候はそのオアンネスが、オークを産んだと言うんだ。生まれたばかりのオークは、すぐに母親を殺してその死肉を喰らい始めた。そして他の母親の腹から仲間を引きずり出すと、またそいつらと死肉を貪り食い始めたというんだ」

「バカな! とても信じられん!」

 

 ガルガンチュアがあまりにショッキングな出来事に叫び声をあげると、ライバル族長も同意見だとばかりに頷きながら、

 

「俺も信じられん。だが、魔族の繁殖を見たものはいない。そして実際にオークが現れたんだから、それが嘘だとは言い切れない」

「う、むぅ……」

「本当かどうかはまだわからんが、ここ最近現れたオークどもは、ハグレではなく、組織的に行動している。こうなってくると、俺たち獣人でも単独では勝ち目がない。みんなで協力しあって戦うしかない」

 

 ガルガンチュアは同意見だと言わんばかりに何度も頷いた。

 

「もちろんだ、俺たちも協力しよう。それでどうすればいい? 戦士を集めて行けばいいのか?」

「それもするつもりだ。だがもう一つ、お前たちにやってもらわねばならないことがある」

 

 するとライバル族長は、またこれは自分個人の意見ではないと強調しながら、会議で決まったという議案を話し始めた。

 

「オークにやられたという部族は、今となってはかなりの数にのぼる。その、村を奪われた連中が、いま行く当てもなくさ迷っているんだ。近隣の部族が彼らを受け入れているが、とても全員を捌ききれん。そこで避難所を作ることになった。どこかそいつらが安心して暮らしていける場所が必要だ」

 

 ガルガンチュアはなんだか嫌な予感がした。

 

「そのための場所を確保しなければならないが、お前も知っての通り、大森林にそんな場所はもうない。そこでだ、俺達はレイヴンの村に目をつけた」

「……レイヴン、だと?」

 

 ライバル族長はこれが本題だと言わんばかりに、ガルガンチュアのことをじっと睨みつけるように言った。

 

「レイヴンはハグレモノの俗称だ。この大森林のあちこちにいる。元は俺達の仲間だったから、今までは目こぼししていたが、この状況ではそうも言ってられない。避難所を作るために、奴らの村を一つ奪う必要がある」

「まさか……?」

「そのまさかだ。俺たちはその村を、おまえの兄が仕切ってる村に決めた。これから数日中に村を襲撃し、奴らをこの森から追い出すことにする」

 

 よりにもよって、自分の兄の村を襲撃するとは……いや、兄だけではない。あそこにはマニの母親も住んでいるのだ。彼はとても耐えきれないと抗議の声を上げた。

 

「何故だ!? 俺が族長会議をすっぽかしたからか? それは俺が悪かったが、だからってこちらの意見も聞かずに、一方的に決めるのは酷いじゃないか!!」

 

 しかしライバル族長は渋い顔をしながら首を振りつつ、

 

「違う。それも多少あるだろうが、他にも理由があるんだ。実はおまえの兄の村は、村の近くにオアンネスが出ていたにも関わらず、それを近隣の村に報せなかったんだ」

「なんだって!?」

「それを怠ったせいで、レイヴンではなく、別の部族が被害を受けた。俺たちはこんな不義理を許すわけにはいかない」

「それは本当なのか?」

 

 ガルガンチュアはとても信じられないと困惑気味に尋ねたが、ライバル族長は何度も言わせるなと言わんばかりに繰り返し鷹揚に頷いてから、

 

「元々、レイヴンなんてものは村の掟に縛られるのが嫌で逃げ出したような連中だ。そんな連中が集まった集落なら、こんなことが起きても不思議じゃないだろう。だが、今の情勢でこんなのに大森林にいて貰っては困る。俺たち獣人社会(ワラキア)が生き残っていくためにも、彼らには出ていってもらう。例え心を鬼にしてもな」

 

 ガルガンチュアは彼の言葉に何も言い返すことが出来なかった。ライバル族長はそれを返事と受け取ったらしく、心底つまらなそうに、そしてほんの少し罪悪感のこもった口調で、そっぽを向きながら続けた。

 

「レイヴンの襲撃には、おまえにも参加してもらう。それが族長会議をサボったペナルティだ」

 

 ライバル族長はそう言い捨てると、すでに襲撃のための戦力が集められているという、隣村まで帰っていった。

 



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痛みの代価

 オークの存在が確認されて、大森林が俄に騒がしくなってきた頃、件のレイヴンの街は未だそのオーク騒動を知らずに、いつもどおり穏やかな日々を送っていた。マニの母親も普段どおり、街の薬屋で勤労の汗を流しながら充実した毎日を過ごしていた。

 

 レイヴンの集落は、そこに住む一人ひとりが、自分ができることを見つけて協力しあって生きている集落だった。例えばハチのように他の獣人集落から流れてきたハグレモノなら、街周辺の驚異を取り除くために獲物を狩ったり、マニの母親のような混血の非戦闘員なら、人間の集落ならどこにでもあるような公共サービスを行っていたり、町の外からやってくるトカゲ商人と交易をしたりして外貨を稼いでいた。

 

 そうやって獣人と混血、それから人間がお互いに尊重し合いながら生きていける、理想的な集落がレイヴンの集落であった。だが、そのことを理解されることはなく、獣人たちからはハグレモノ、人間からはヨソモノと呼ばれ蔑まれていた。結局、彼らはどこかから逃げてきた負け犬だとしか思われていないのだ。

 

 その事実に打ちのめされて、レイヴンの集落に流れてきてまで、仕事もせずに不貞腐れている者はいた。かく言う、マニの母親もその一人だった。だが、そんな彼らもいつか仲間たちが支えていることに気づき、暗い洞窟から抜け出すように動き出す。そしてどん底を見たものだから分かるのだ。本当は、低レベルの獣人も、混血も、人間も、自分たちに足りない部分を補い合いながら生きていけば、純血だけの集落よりもずっと豊かに暮らしていけることに。

 

 実際、彼女の住んでいるレイヴンの街は、どこの獣人の集落よりも立派だった。彼女はいつかガルガンチュアたちがそのことに気づいて、純血にこだわらずに、自分たちのような人達を受け入れて、協力し合える社会を作ってくれるように願っていた。

 

 だが、その望みは間もなく絶たれることとなる。

 

 その午後、マニの母親は店の在庫を整理していた。以前、ガルガンチュアの村で熱病患者が出た時に、彼らを助けるためにやってきた鳳たちは、その時に手に入れた特効薬を改良して、大森林内にある冒険者ギルドへ配っていた。

 

 このせいで特効薬を独占していた街は大打撃を受けると思いきや……ある日、トカゲ商人がやってきて、冒険者ギルドの意向ということで、新しい薬をレイヴンの街も扱えるようにしてくれたのだ。どうやら、鳳はこうなることを予想していたらしく、街の収益バランスが崩れないように配慮してくれたらしい。

 

 お陰で、今後はレイヴンがキナの樹皮を収穫し、トカゲ商人が調合して村々へ売り歩いてくれることになった。人間はみんな意地悪な人ばかりだと思っていたが、中には立派な人がいるものだなと彼女は思った。その立派な人が、マニと一緒にいてくれることが嬉しかった。

 

 マニの母親がそんなことを考えながら、今頃マニは何をしているんだろうかと、ぼんやりと店から街を眺めている時だった。

 

「大変だ! 大変だ!」

 

 と叫びながら、一人の狼人が往来を駆けていった。最近、ガルガンチュアの村から流れてきて、村の用心棒になったハチである。高圧的でマニの母親はあまり好きではなかったが、そこがワイルドだと若い女の間では人気のある男だった。

 

 そんなハチが族長の家に飛び込んでいくと、間もなく中から族長のパンタグリュエルが現れた。彼はガルガンチュアの兄で、マニの伯父にあたる男であり、彼女は助けられた過去があるため、頭が上がらない相手だった。

 

 そんな族長はソワソワしながら出てくると、街の広場に集まっていた人達に向かって大声で叫ぶように言った。

 

「みんな聞け! よくわからないが、街が包囲されている! 相手は魔物じゃなくて獣人だ! 見たことのない連中ばかりで、俺たちにここから出て行けと騒いでるらしい! もちろん拒否するが、人手が足りない! 戦えるものは武器を持って着いて来い!!」

 

 族長の言葉に街の人々に動揺が走る。どうして獣人が攻めてくるのだ? 自分たちは何もしていないのに……ともあれ、出てけと言われてハイそうですかと言うわけにはいかない。思えば、そんな横暴な獣人どもが嫌で、自分たちはここまで逃げてきたのだ。また、こんな理不尽に追い出されるなんて、冗談じゃない。

 

 そんな獣人社会への反抗心が彼らの心に火をつけた。レイヴンたちは族長の呼びかけに応えて武器を取った。しかし、彼らが勇ましかったのはそこまでだった。彼らが怒りに任せて村の出入り口まで駆けていくと、そこには想像もしていないほど多くの獣人たちが集まっていたのである。

 

 一対一では獣人には敵わない。二対一でもやっぱり敵わない。なのに自分たちよりも多くの獣人が、村を取り囲むように集まっていたのである。誰も彼もが、何を考えているのかわからない、獣特有の圧迫感を感じさせる睨みを利かせて。

 

 族長が見たことがないと言っていた通り、そこに居るのは近隣の部族ではなく、どこか遠くからやってきたものばかりのようだった。それも、大森林の多数を占める狼人族だけではなく、兎人や猫人、蜥蜴人までいる始末である。まるで、大森林の全ての部族がここに終結しているかのようだった。

 

 全て、というのはあながち間違っちゃいなかった。こんな嫌な仕事は誰もやりたがらないから、連帯責任のように、実際に大森林の全域から獣人がかき集められていたのだ。だからその中にガルガンチュアがいたのは必然だった。

 

 パンタグリュエルは最初、これだけの獣人に囲まれていることに、どうしようもなく動揺していた。族長という立場でありながら、町人たちを見捨てて逃げ出してしまいそうなくらい、彼は内心怯えていた。しかし、そんな彼の心を奮い立たせたのは、そこに憎き弟がいることだった。

 

 彼は街を取り巻く獣人の群れの中に見知った顔を見つけると、この騒ぎを起こしているのは全てそいつのせいだと決めつけ、ギリギリと歯ぎしりをしながら詰め寄っていった。

 

「おまえは……ガルガンチュア! 良くも俺の前に顔を出せたな! いや、そんなことより、街の人々が怯えている、さっさとここから出ていけ!」

 

 しかし、喧嘩腰のパンタグリュエルに怯むことなく、ガルガンチュアは冷静な表情を崩さずにじっと兄のことを睨みつけ、挨拶代わりに言った。

 

「いや、出ていくのはおまえたちだ、レイヴンよ」

「なに!?」

「見てのとおりだ。俺たちはお前たちをここから追い出すために集まった。歯向かうものは容赦しない。わかったらここから出てくか、かかってこい!」

 

 パンタグリュエルはその言葉に激昂して、弟に飛びかかっていった。ところが、悲しいかな、兄弟にはとても大きな力の差があった。ガルガンチュアはまるでまとわり付く虫でも払うかのように、簡単に兄を撃退すると、力なく地面に横たわる彼を見下しながら、

 

「さあ、次はどいつだ! 文句がある奴からかかってこい!」

 

 その問答無用のセリフに集まっていた街の人々が動揺した。言うまでもなく、彼らが歯向かったところで勝ち目はない。何しろ、族長はこの街で一番強い獣人のはずだった。その彼が子供扱いされるような獣人を相手に、立ち向かう勇気を持つような者は一人も居なかった。更には、こういう時のために雇った用心棒のハチまで、いつもの威勢の良さはどこへやら、怖気づいてブルブルと縮こまっている。その情けない姿を見て、街の人々に絶望が走った。

 

 ところが……そんな中から一人の女性が飛び出してきた。マニの母親は、ガルガンチュアの姿を見るや、きっと彼がなんとかしてくれると期待していた。ところが、その期待とは真逆のことが起こり、戸惑う彼女はかつて愛した男に直談判するつもりで駆け寄ったのだ。

 

「待ってください! ガルガンチュア。どうしてあなたがこんなことをするんですか? 優しいあなたが、こんな誰かを一方的に傷つけるようなことはしたくないはずです。それに、このことをマニは知っているのですか? 胸を張って、彼に言えますか?」

 

 これには流石のガルガンチュアも動揺しているようだった。彼はここに来る前から、こんなことが起こるかも知れないと覚悟はしていた。しかし、想像と現実とではやはり衝撃の度合いが違った。

 

 彼はかつて愛した女に詰め寄られて、愛する息子に顔向けが出来るかと考えて、一瞬心が折れかけた。しかし、彼はすぐに村人たちのことを思い出すと、ぐっと奥歯を噛み締めながら、すがりつくマニの母親を突き飛ばし、

 

「黙れ! 理由を知りたいのならば教えてやろう! おまえたちレイヴンは、水場にしている川に魔族が出たことを報告しなかった! そのせいで、近隣の村々に被害が出たのだ! おまえらがやられるならともかく、何も関係のない村人たちが死んだのだ! こんなことは、絶対に許されない!!」

 

 ガルガンチュアの声に呼応するかのように、ライバル族長が進み出て続けた。

 

「そうだ! 元々、おまえたちがこの土地にいられるのは、俺達が情けをかけてやっていたからだ。なのにおまえらは俺たちに協力するどころか、被害まで及ぼした。これ以上、ここにのさばらせているわけにはいかない。大森林のルールに従わぬものは、排除するのみ!」

「もはや問答無用、一刻も早くここから出ていけ!」「さもなくば、死ね!」「おまえたちが悪いんだ!」

 

 ライバル族長の声が契機となって、街を取り囲んでいた獣人たちが問答無用と飛びかかってきた。抗議のために集まっていたレイヴンたちは成すすべもなく、蜘蛛の子を散らすように追い立てられた。建物に逃げ込もうとするものは引きずり出され、鍵を閉めて籠城する家には火が放たれた。老人も子供も容赦なく、街から出ていくまで執拗に追い回された。

 

 レイヴンたちは獣人たちが本気であることを知ると、抵抗は無意味と悟り、絶望のうちに街から逃げ出した。散り散りになった彼らは森の木陰に潜みながら、ついさっきまで自分たちが暮らしていた街から届く悲鳴を聞きながら、ブルブルと震えるしかなかった。

 

*********************************

 

 日が沈み夜になると、バラバラに逃げていたレイヴンたちも少しは落ち着きを取り戻し、徐々に合流して対応を協議しはじめた。そこは街から1キロ程度と、それほど離れていない場所だったが、獣人たちはレイヴンを街から追い出すだけにとどめ、そこまでは追ってこないようだった。

 

 その獣人たちは、未だ街を占拠しており、様子を見に行った者を見つけては追い返しているようだった。もう絶対にここへは戻ってこさせないという決意の現れだろうか。かと言って、じゃあ別の場所に改めて村を作ろうとしたら、やはり追いかけてきて追い出されるに違いない。レイヴンたちはどうしてこうなってしまったのかと、己の不幸を嘆いていた。

 

 しかしそれも獣人達に言わせれば、自業自得らしいのだ。彼らはレイヴンたちを追い立てる際に、口々にお前たちのせいだと言っていた。それは彼らの良心を抑えるために必要な行為だったのだろうが、その言葉を浴びせかけられる者にとっても、聞き捨てならないものだった。

 

 追い出されたレイヴンたちは一息つくと、街を守れなかったことで項垂れていた族長に詰め寄った。

 

「パンタグリュエル。彼らが言っていたことは本当か? この近辺に魔族が出たのに、誰にも知らせずに放置していたってのは……」

 

 族長はバツが悪そうに沈黙している。そんな彼に代わって、その魔族に襲われたという青年が名乗り出て言った。

 

「魔族が出たというのは本当です。僕は魔族に拉致され殺されかけたところを冒険者の一団に助けられました。彼らは村に来て、それをパンタグリュエルに報告したはずなのですが……」

「そう言えば、一時期あっちの水場には近づくなってお触れが出ていたが……そんなことになっていたなんて」

 

 街の人々の鋭い視線が突き刺さる。放心状態であった族長は、その視線にハッと我を取り戻すと、自分が追い詰められていることに気づき、慌てて言い訳をしはじめた。

 

「それは違うぞ! 魔族退治なら、その冒険者達がやってくれると言っていたのだ。だから俺は何もしなかったんだが、あいつらは目的の薬を手に入れたら、約束を破って帰ってしまったんだ」

「そうだ、あいつらが悪い!」

 

 パンタグリュエルの言葉に呼応するように、ハチが大声で追従した。彼は昼間、用心棒のくせに獣人たちに怯えて何も出来ず、人々からの顰蹙を買っていた。それを挽回するかのように、彼は威勢よくレイヴンたちの前に進み出ると、叫ぶように言った。

 

「その冒険者は、ガルガンチュアの村から来たんだ! そして今日、ガルガンチュアが攻めてきた。もしかしたら、あいつらは最初から、これを狙ってたんじゃないか!?」

 

 レイヴンたちの間に動揺が走る。確かに状況だけから判断すると、そう見えなくもない。だが、そんなハチの言葉を打ち消すように、慌ててマニの母親が声を上げた。

 

「待ってください! あの方たちはそんな約束はしていませんよ。それに、薬を受け取りに来たのを断ったのは、族長たちじゃありませんか。なのにあの人達は恨むこと無く、薬を手に入れた後も、街が困らないようにと冒険者ギルドを通じて手を回してくれていたんです。それはギルドに行って調べればすぐにわかります。そんな人たちが、私たちを陥れるような真似をするとは思えません」

「うるさい、黙れ!」

「きゃあっ!」

 

 しかし、そんな彼女の言葉を遮るように、ハチが暴力を振るって彼女を黙らせた。いきなり横っ面を殴られたマニの母親は、よろよろとよろけて、力なく地面に転がった。レイヴンたちの間に緊張が走る。ハチは弱いが、レイヴンの中では強いのだ。こんな状況で、この癇癪持ちの男に逆らうことは出来ない。

 

 ハチは怯えるように視線を逸らすレイヴンたちに向かって言った。

 

「俺はあいつらのせいでガルガンチュアの村を追い出されたんだ。あいつがずる賢い極悪人なのは、誰よりもよく知っている。あいつはまた、卑怯な手で俺たちを陥れたに違いないんだ!」

 

 そんなハチの一方的な主張に、パンタグリュエルが追随する。彼は自分の名誉を回復するために、もはや形振りかまっていられなかったのだ。

 

「……そうだ。ハチの言うとおりだ。あの冒険者は、確かに自分たちが片付けると言った。なのにそうせず、今日ガルガンチュアがやってきたんだ。それに元をただせば、そこの女はガルガンチュアの女だった。もしかしたら、こいつらは全員グルだったのかも知れないぞ」

「そんな! 違います!」

 

 マニの母親は反論しようとしたが、すぐにハチによって羽交い締めにされて、何もすることが出来なかった。族長はそれを見届けると、

 

「俺たちはガルガンチュアに嵌められたんだ。やつは最初から、俺達の街を奪うつもりで策略を張り巡らせていた。だから仕方なかったんだ」

「そんなずる賢い獣人がいるはずないじゃないか……もし、彼らがそんなに賢いなら、俺たちはもっと彼らと交流していて、こんなことにはなっていなかったはずだ」

 

 誰かが呆れるようにそう呟いた。パンタグリュエルはその言葉に反論できず、うっと言葉を飲み込んだが、しかし、そんな族長の代わりに目を血走らせたハチがみんなの前に躍り出て言った。

 

「今のは誰だ! 文句があるやつは前に出てはっきりと言え!」

 

 威圧するハチに歯向かえる者などおらず、レイヴンたちはみんな地面を見つめて押し黙った。たった今、誰かが言った通り、獣人に話なんか通じないのだ。それが嫌で逃げてきたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう……だが、勇気を出してそんなことを言えるものなど、もうどこにも居なかった。

 

 ハチは反論が無いことに勢いを得て、得意げに続けた。

 

「ガルガンチュアは俺たちから何もかもを奪った。こんなの許していいのか! 俺たちだってやられるばかりじゃない。今度はこっちからガルガンチュアに一泡吹かせてやろうじゃないか。そうだ! やられたらやり返せ!」

 

 ハチの言葉に流石のパンタグリュエルも戸惑いはじめた。ハチはガルガンチュア……ひいては鳳憎しの気持ちが先走りすぎて、もはや妄想と現実の区別がつかなくなっているのだ。族長はそんな若者の気を落ち着かせようと、さっきとは打って変わってトーンダウンしながら、

 

「いや待て、ハチよ。やり返すって言っても、どうやってやり返すんだ? そんなことが出来るなら、今こんなことになってない」

「パンタグリュエル! あんたも臆したか!?」

「臆するも何もない。ここにガルガンチュアと戦えるような者は、俺とお前しか居ないんだぞ? お前は、ガルガンチュアに勝てるのか」

 

 ハチはそう言われてウッと言葉を飲み込んだ。彼は以前、ガルガンチュアにこてんぱんにやられたことがトラウマになっていたのだ。忘れようもない。彼はそのせいで村から追い出され、何夜も眠れない夜を過ごしたのだから。

 

 かと言って、自分たちの街を奪われたまま、このまま黙って引き下がるわけにもいかない。大体、これからどこへ行けばいいというのか。レイヴンの街の人々が、何故こんな森の中でひっそりと暮らしていたのかを考えれば分かるだろう。

 

 彼らには最初から行き場などなかった。それじゃあ、このまま朽ち果てるしかないのだろうか……

 

「お困りのようですねえ」

 

 と、その時だった……

 

 ヒートアップするハチの怒鳴り声に、レイヴンたちは完全に周囲の警戒を怠っていた。そんな彼らの背後から、突然聞き覚えのない声が聞こえてきて、彼らは狼狽した。

 

「そんなに驚かないでくださいよ。私はあなたがたの敵じゃありません。寧ろ味方です」

「誰だ貴様は!?」

 

 まだ族長としての矜持が残っていたパンタグリュエルが、動揺するレイヴンたちを庇うように躍り出る。そんな彼の方へと向かって、森の暗がりからゆっくりと、一人の男が姿を表した。

 

「こんばんわ、レイヴンのみなさん。申し遅れました、私は神聖帝国から参りました、ピサロと申します。少々わけありでこの森を調べていたのですが、そんな時に、理不尽にもあなた方レイヴンが、獣人どもに襲われているところを目撃しましてね……義憤にかられていたところです。あのような仕打ち、とても許されませんよ。もし復讐をお考えなら、よろしければ私に協力させては貰えませんか」

「協力だと……?」

 

 するとピサロはニヤリと笑って、

 

「獣人など、所詮野蛮人です。我々帝国の敵ではない。我々の提供する武器があれば、あなた方でも獣人と対等に戦うことが出来るでしょう」

「武器、武器か……それがあれば、あいつらに勝てるのか?」

「ええ、武器があり、戦術があれば、敗北はありえません。それに万が一ということがあったとしても、私には絶対の切り札がある」

 

 ピサロがそう言うと、彼の背後から二人の神人がムスッとした表情を隠そうともせずに現れた。レイヴン達の間にどよめきが起きる。

 

「もし、あなた方が武器を持って立ち上がるというのであれば、彼らが守護者となってあなた方を守るでしょう」

「それは本当か!?」

 

 さっきまでハチを止めようとしていたパンタグリュエルは、今は逆に彼と一緒になって、ガルガンチュアに復讐する気になっていた。彼が今まで辛うじて弟に遠慮を見せていたのは、そこに肉親の愛情があるからではなく、単に彼我の力の差がそうさせていただけだったのだ。

 

 もしもガルガンチュアを倒し、自分が族長になれるなら……彼の瞳が怪しく光る。ピサロはそんなパンタグリュエルの反応を逃さなかった。

 

「もちろん本当ですとも。私と彼らは仲良しなんです。ね? ペルメルさん、ディオゲネスさん」

 

 ピサロに名前を呼ばれると、二人の神人は心底不愉快そうな表情をしながらも、

 

「……ピサロの言うとおりだ。おまえたちが望むなら、我らは力を貸そう」

 

 神人たちが同意すると、レイヴンの間からどよめきが起こった。

 

「本当に、神人が俺たちに力を貸してくれるのか?」「勝てる、勝てるぞ!?」「あのガルガンチュアの野郎……」「やられたらやり返せ! それがこの森のルールだ!」

 

 たった今まで絶望していた彼らの瞳に光が差し……そして復讐の炎が浮かび上がっている。元をただせば、街を追い出されたのは、彼らの族長が魔族のことを報告しなかったことが発端だった。だが、レイヴンたちはそんなことは忘れて、いつの間にか頭の中はガルガンチュアに復讐するということでいっぱいになっていた。

 

 人は何かを得る喜びよりも、奪われる苦痛の方をより強く感じるらしい。例え自分たちに瑕疵があったとしても、奪われたという記憶は深く心に刻まれるのだ。ガルガンチュアの……獣人たちのやり方は言うまでもなく間違っていた。彼らは強者であるゆえに、奪わえるものの気持ちを考えられなかったのだ。

 

 そのツケを彼らは間もなく支払うことになる。

 



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義勇軍起つ

 

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 大森林がオークの登場により混乱し始めていた頃、そんなこととはつゆ知らず、人間たちの国家は人間同士の戦争を続けていた。

 

 (はかりごと)が多いほうが勝つと言ったのは毛利元就である。日本では彼の言葉として有名であるが、その出典は言わずと知れた孫子である。戦争は戦う前からすでに趨勢は決まっている。真に強い者は、戦場でいくつもの勲功を上げる者ではなく、いかに戦わずにして勝つかを知っている者のことを言う。

 

 アルマ国への調略が上手くいって、戦わずしてまんまと勇者領入りした帝国軍3万は、アイザック12世を総大将として勇者領を荒らし始めた。ヘルメス戦争を引き起こした張本人アイザック11世が隠れていたように、他の不穏分子がまだまだ勇者領内に潜んでいるという名目であったが、実効支配が目的であるのは言うまでもなかった。

 

 勇者領は長い年月の末、親帝国のリベラルが台頭しており、帝国と敵対する行為を避けていたせいで、極端なまでに領内が無防備だった。帝国軍はアルマ国に本隊5千を残し、残りの兵力2万5千を使って、無抵抗の国々に部隊を展開しはじめる。帝国軍は領内の各村々で自領のように勝手に徴発をはじめ、我が物顔で進軍し続けた。

 

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 この事態に際しようやく重い腰を上げたアルマ国を除く連邦議会は、冒険者ギルドを使って募兵を開始。即席の軍隊、5万をかき集め、勇者軍と号する。

 

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 連邦議会は勇者軍を、勇者領内で唯一常備軍を持っている極右国、カーラ国の将兵に与え、領内を守る尖兵とした。しかし兵力は割りとすぐ集まったものの、将兵不足は否めず、即席の軍隊は練度と士気に欠けていた。

 

 カーラ国は練度不足から、各方面軍を組織することは不可能と考え、戦力を分散することなく1箇所にまとめることにした。こうして勇者軍は、勇者領中央部、リンダ国のリブレンナの地を最終防衛ラインとして布陣、帝国軍を迎え撃つ体勢を取る。

 

 帝国軍はこの動きに対し、迂回して進軍するのは後背を突かれ危険と判断、ここが勝負の分かれ目であると、数的に不利であるにも関わらず決戦に応じる構えを見せた。

 

 こうして帝国軍2万5千、勇者軍5万の両陣営は、リブレンナ川を挟んで数日間のにらみ合いを続けたのであった。

 

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 先に動いたのは帝国であった。

 

 川を挟んで布陣した両陣営は、ライフルによる散発的な撃ち合い以外、直接の戦闘が無いままにらみ合いが続いていた。焦れた帝国軍は、手持ちの物資も少なく時間をかけるのは不利と判断、相手を士気不足の烏合の衆と決めつけ、彼らが依っている街を直接叩くために渡河を開始する。

 

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 この動きを待ち構えていた勇者軍は、敵軍が完全に渡河し終わるのを待ってから進軍を開始。側面を突かれる格好となった帝国軍は、慌てて左右に展開するように横長の陣形で迎え撃つ。しかし、数的に不利であった彼らは、徐々に伸び切った片翼を押し上げられ、ついに勇者軍によって包み込まれてしまうのであった。

 

 勇者軍は数的有利な状況を、より効率よく活用するために半包囲陣形で迎え撃ったのだ。敵に倍する兵力を持つ場合は、部隊を分けて挟撃を狙うのもありだが、練度不足からそこまでの動きは期待できないと判断したカーラ国将校は、全軍突撃による力押しが有効と判断したのだ。

 

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 結果的に彼らの作戦は当たり、帝国軍は倍する兵力に包囲され大劣勢に立たされていた。しかし、勇者軍の練度不足と将兵の経験不足が、この後におかしな方向へと働いてしまうことになる。

 

 勇者軍は帝国軍をまんまと半包囲したまでは良かったものの、通常、こういう時にはわざと逃げ道を作っておくのがセオリーなのであるが、彼らはそれを知らなかった。そのため、完全に包囲されてしまった帝国軍は逃げ場を失い、死地に立たされた兵士たちが死にものぐるいの抵抗を見せ始めてしまう。文字通り、背水の陣である。その結果、陣形のもっとも薄い、川に面した最南端の部隊が帝国軍によって突破されてしまったのである。

 

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 そこに活路を見出し、死にものぐるいで敵陣を突破してきた帝国軍の小部隊は、逃げ延びてきた先に勇者軍の本陣を発見する。尻に火がついていた彼らはそれを見つけると、躊躇なく突撃を敢行した。

 

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 完全に油断していた本陣は、突破部隊による特攻を受けて恐れおののき、殆ど戦火を交えることなく後退し街へ逃げ込んでしまう。突破部隊はそれを追撃せず、その場に留まったのであるが、気がつけば彼らは勇者軍の背後でぽつんと孤立していたのであった。

 

 彼らは逃げるために敵陣を突破してきたのであるが、こうなってしまうと逆に本隊に合流したいと考えるのが人情である。突破部隊はそのまま戦場を離れることなく、勇者軍の背後でウロウロし始めた。

 

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 これが面白い効果を生んだ。

 

 勇者軍は当初の目論見通り、帝国軍を数で圧倒していた。しかし、彼らを死地に追い込んでしまった結果、想定以上の強い反撃を受けてしまう。練度も士気も低い勇者軍は、優勢であるにも関わらず焦りを感じ始めていた。

 

 そんな時、自分たちの背後で、突破部隊がうろつき始めたのである。これがどこから出てきたのか知らない兵士からしたら衝撃だろう。しかも、いつの間にか彼らの指揮官がいるはずの本陣がなくなっている。これらの事実が、練度の低い兵士たちの動揺を誘った。

 

 こうして背後の帝国軍に気を取られてしまった一部の部隊が崩れると、まるで楔を打ち込まれたかのように、そこを中心として勇者軍は総崩れを起こし始めた。何が起きたか分からないが、たった今まで死を覚悟していた帝国軍はそこに勝機を見つけると、反転して大攻勢をかける。

 

 これが痛打となって勇者軍は瓦解、圧倒的に有利であったにも関わらず、軍隊は散り散りになり、ついに解散してしまったのである。

 

 敵の奇襲を受け、大将であるにも関わらず、本陣を維持することなく逃げ出してしまったカーラ国の将兵は非難されるが、カーラ国は逆にそれを不服として軍を引き上げてしまう。実際には、迫る帝国軍に恐れをなして、自国を守るために帰ったのであるが、もはや帝国軍はそんな小物には見向きもしなかった。

 

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 決戦に勝利し勢いづいた帝国軍は、その後首都ニューアムステルダムへ向けて進軍を開始。目標は連邦議会の制圧であると、はっきりとその侵略の意思を明確にした。これに対し、後がなくなった連邦議会は首都決戦に備えて、あわてて二度目の募兵を開始するが、一度の大敗が領民の戦意を挫き、思ったように進まなかった。

 

 絶体絶命の勇者領。帝国軍は首都まで数日の位置まで迫っている。もはや12氏族は、このままアイザック12世に膝を屈するのは時間の問題であると、誰もがそう思っていた。

 

 ところがそんな時だった。快進撃を続ける帝国軍に対し、アルマ国に残った本隊からの帰還命令が入ったのである。

 

 一体何が起きたというのか? 北方の不毛の鉱山地帯、ボヘミアへ逃れたヴァルトシュタイン率いる難民軍、改め義勇軍およそ3000が、完全に油断しきっていた帝国軍本隊を襲ったというのである。

 

 義勇軍はアルマ国王からの恩を返すために、帝国軍のアルマ国からの撤退を目指して挙兵したと宣言。この攻撃によって本陣にまで迫られたアイザック12世は、自分を守る兵隊が5000しか残っていないことを思い出し、不安を感じ始めた。

 

 歴戦の傭兵王による執拗な攻撃は幾夜にも及び、手を変え品を変え迫りくる奇襲の数々は、アイザック12世の心胆を寒からしめるには十分であった。

 

 軍隊にとって上官の命令は絶対であり、こうして帝国軍は勇者領を征服する最大の機会を逸してまで、アルマ国までの後退を余儀なくされたのである。

 

 ヴァルトシュタインもまた、帝国軍別働隊が帰還するまでに本陣を落とすことが出来ずに撤退、ボヘミアに築いた砦に籠もり、追撃してきた帝国軍を迎え撃つ。

 

 帝国軍が再度の攻勢に出るには、背後に築かれたこの砦を攻略しなければならない。でなければ簡単に兵站線を切られ、敵地で孤立してしまうことになるだろう。

 

 しかし、堅牢な山城は平坦な神聖帝国にはないタイプであり、また、ライフルによる遠距離射撃を中心とした防衛戦を突破することが出来ず、帝国軍は圧倒的に数で押しておきながら攻めあぐねていた。

 

 こうして勇者領は絶体絶命のピンチを幸運にも切り抜け、そしてヴァルトシュタインの名前は歴史に刻まれた。戦いは帝国軍による領内の蹂躙から、北方ボヘミア砦の熾烈な攻防戦へと変わっていくこととなる。

 

 



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彼と彼の事情

 リブレンナ川の決戦を経て、戦争もいよいよ本格的になってきた……かと思いきや、鳳たちの滞在するここヴィンチ村は、至って平和な日々が続いているのであった。

 

 首都に近いこの村は、戦場から遠すぎて戦火に見舞われることもないので、まるで実感が湧いてこないのだ。初めてオークが現れた時の大騒ぎも今は昔、何が原因だったのかはわからないが、たまたまだったと結論して、村は平常に戻っていた。

 

 そんなぬるま湯につかったような日々の中で、鳳パーティーは経験値が入らず、停滞感が否めなかった。このままじゃ無為に時間が過ぎていくだけであると考えた各人は、そんなわけで、それぞれ自分なりのスキルアップを始めていた。

 

 例えばジャンヌは近所の道場に出稽古に行くようになり、ギヨームは村の牧場でバイトをしていた。意外にも彼は将来牧場経営をしたいらしく、今から経営を学んでいるのだそうだ。

 

 メアリーはルーシーと共に、レオナルドの授業を受けていた。老人に言わせれば、彼女はルーシーと違って極めて真面目な生徒のようだが、残念ながら現代魔法の才能はなかったらしい。天は二物を与えないのかと思いもするが、考えても見ればメアリーは神人であり、古代呪文はガンガン使えるのだから別にいいのだろう。

 

 マニは鍛冶屋に正式に弟子入りした。最初こそ、獣人に鍛冶仕事なんて出来ないと渋っていた親方であったが、マニの吸収の早さを目の当たりにし、今ではすっかり気分を良くしているらしい。もう暫くしたらキャラバンと共に別の土地へ行ってしまうそうだが、それまでは出来る限り仕事を教えてくれるそうである。

 

 他にも、夜になるとギヨームから文字を教わったり、レオナルドからは解剖学の講義を受けたりと、充実した毎日を送っているようだ。人の世界に留学したいと言っても、最初はどうなることかと思っていたが、ガルガンチュアに彼のことを頼まれていた鳳はホッとした。きっと里帰りした彼を見れば、ガルガンチュアも喜んでくれるだろう。

 

 因みにその鳳はと言うと……だいたい毎日猫人と遊んでいる。用水路に釣り糸を垂らして魚釣りしたり、ガラスを溶かしてレンズを作ったり、火口用のチャークロスを作ったり、馬糞を固めて燃料にしたり。それらを使って火をおこし、バーベキューしたり……だいたい、そんな毎日である。

 

 鳳としてはいつ何があっても困らないように、サバイバル技術を磨いているつもりだったが、村人たちからはすっかり変わり者扱いされていた。とは言え、軽んじられているわけではなく、レオナルドの客人のくせに話しかけやすいから、割りとどこへ行っても良くしてもらえた。バーベキューをしていると、勝手に食材が集まってくるような、そんなポジションである。

 

 お陰で非常に充実した毎日を送っていたのであるが……それで経験値が入るわけでもなく、メアリーの夢の実現には程遠かった。と言うか、次は自分に経験値を入れてみようと思っていたのに、うっかりルーシーにあげてしまったから、鳳のレベルはまだ6のままである。

 

 そんなわけで、このままじゃいけないと思った鳳は、ある日の朝食後、パーティーのみんなが集まっているのを見計らって言うのだった。

 

「あのさあ、提案なんだけど、ちょっと首都の冒険者ギルドまで行ってみないか?」

 

 鳳の突然の提案に、出掛ける準備をしようと席を立ちかけていたジャンヌが答える。

 

「あら、どうしたの、突然?」

「うん。この村での生活も慣れてきたし、みんなそれぞれやること見つけて充実してるのはいいんだけど、俺達って冒険者じゃん? このままじゃレベルも上がらないし、一度原点に帰って、冒険者らしく依頼をこなしたほうがいいと思うんだ。ほら、ここに来てから、全然、共有経験値を得られてないじゃん?」

「言われてみれば、そうねえ……でも、どうして首都なの? 依頼なら、村のギルドでも受けられるじゃない」

 

 すると鳳はもちろん分かっていると頷いてから、

 

「冒険者ギルドが情報を共有しているのは知ってるよ。遠くで出された依頼もいずれこの村までやってくることも分かってる。でも、やっぱりタイムラグがあるじゃないか。例えばこの村にいる間に、大森林やヘルメス領の依頼を見かけることはなかっただろう? やっぱり、その土地の依頼は、その土地に住む冒険者に片付けられてしまって、中々こっちまでは回ってこないんだ。

 

 ここは比較的、首都に近くて多くの情報が集まりやすいが、でもやっぱり首都とは情報の量が違う。具体的に言えば、情報は一度首都に集まってから、周辺の村に流れていくわけだから、美味しい依頼は首都で片付けられちゃってて、こっちまで回ってきてないんじゃないかって思うんだよね」

「そうね……そうかも知れないわ」

「中には大森林で受けた南部遠征みたいな依頼もあるかも知れない。そういう高難度のクエストなら、今の俺達が受けても経験値が得られるかも知れないから、出来ればそういうのを探してきたいと思ってるんだ」

「なるほど、いいんじゃないか」

 

 鳳の提案を、コーヒーを飲みながら黙って聞いていたギヨームが言う。

 

「だが、依頼を受けるだけなら全員でゾロゾロ行く必要もないだろう。誰か代表して受けてくればいい」

「まあ、そうだな。言い出しっぺの俺は行くとして……ジャンヌ、お前は?」

「うーん……残念だけど、いきなりは無理ね。明日以降なら、日にちを決めてくれれば先生にお願いして休ませて貰うけど」

「そうか……ギヨームも忙しいようだし、ルーシーもマニも……まあ、駄目だよな。仕方ない、それじゃメアリー、二人で行こうか」

「私は嫌よ」

 

 鳳の言葉を、メアリーは即座に却下した。どうしてだろうと思いきや、

 

「首都って人が多いんでしょう? 私、知らなかったけど、神人って珍しいのね。この村ですらジロジロ見られるのに、都会なんかに行ったら参ってしまうわ」

「なんだ、そんなの気にしてるのか?」

「ツクモは自分のことじゃないからわからないのよ。よく知らない人からジロジロ見られるのって、かなりの苦痛なのよ。何考えてるか分かんないのに、こっちから話しかけるわけにもいかないし」

「そういうもんか……仕方ない。じゃあ、一人で行ってくるか。おまえら、俺がどんな依頼を受けてきても、文句言うなよ?」

 

 鳳がふてくされるようにそう宣言すると、それまで黙って聞いていたルーシーが、

 

「あー! そう言えば、ミーさんが今日はお休みで暇してるって言ってたよ! 暇つぶしに付き合ってって言われたんだけど、忙しいから断っちゃったんだ。きっと鳳くんが誘って上げたら喜んでくれると思うよ!」

「そうなの? 休みなんて聞いてなかったけどなあ……」

 

 昨日もギルドには顔を出したのに……鳳が首を捻っていると、ルーシーが畳み掛けるように、

 

「ミーさん、地元民だから詳しいよ! ギルドの場所だけじゃなくて、色んなところ案内してくれると思うけど」

「ああ、そういや首都出身だって言ってたな」

「せっかく勇者領に帰ってきたのに、まだ里帰り出来てないって嘆いてたから、連れて行ってあげなよ。可哀想だよ」

「そうか……それじゃ後でギルドに寄ることにするかな」

 

 鳳がそう呟くように言って、話し合いは終わった。

 

***********************************

 

 朝食後、ルーシーはレオナルドの講義をサボって、コソコソ館内を移動していた。壁に背を当てて慎重に足音を消しながら、周囲を歩き回る使用人たちに見つからないように、わざわざ認識阻害の魔法まで使っている。

 

 彼女を連れてこいと言われたメイドのアビゲイルが、キョロキョロしながら目の前を通り過ぎていく。ルーシーはその背中を見送ると、ニヤリとした笑みを漏らし、抜き足差し足しながら玄関の方へと向かっていった。

 

「おい、こら」

「ひゃっ!」

 

 しかし、そんな背中にぞんざいな声が浴びせられる。彼女は一瞬、レオナルドに見つかってしまったかと思い、背筋をピンと伸ばして振り返ったが、

 

「なんだ、ギヨーム君か。ここで何してるの?」

「なんだじゃねえよ。おまえこそ何してんだ? またレオの授業サボって逃げ出してきたのかよ」

「えへへへ~」

 

 ルーシーは悪びれもせずに笑っている。ギヨームはそんな屈託のない笑顔を見て、はぁ~っとため息を吐きながら、

 

「まあ、嫌がってるのを無理矢理やらすのもどうかと思うから黙ってるけどよ。館の外に出るつもりか?」

「うん、ちょっと村でやらなきゃなんないことが出来ちゃってね」

 

 ギヨームはそんな事を言うルーシーに向かって探りを入れるように、

 

「ふーん……やらなきゃいけないことって、ギルドに行くつもりか?」

「え? うん、そうだよ」

「やっぱりか……前々から思ってたけど、おまえ、鳳とミーティアをくっつけようとしてんだろう?」

 

 ルーシーは我が意を得たりと言った感じの笑みを見せながら、

 

「分かる?」

「まあな。普段からの行動を見てれば、なんとなく。でもおまえ、あんまやり過ぎんなよ?」

「え? ギヨーム君は反対なの?? 二人がくっついたら素敵だと思いませんか?」

 

 ギヨームはやれやれと肩を竦めて首を振りながら、

 

「思いませんねえ」

「どうして?」

「だっておまえ、そうなったらジャンヌが可哀想じゃねえか」

 

 ルーシーはその言葉に一瞬虚を突かれたような表情を見せたが、すぐに難しい顔をして腕組みしながら、

 

「……やっぱり、ジャンヌさんって鳳くんのこと好きなの?」

「じゃなきゃ、こんなパーティーに居るわけないだろ。見てりゃわかるじゃねえか、あいつが気にかけているのは、いつも鳳のことだけだろ」

「うーん……うん」

「なのにおまえ、鳳が女を作ってイチャイチャし始めてみろ、居心地が悪くなって、下手したらあいつパーティーから抜けちまうぞ。そしたらどうすんだよ、おまえ、ろくな前衛が居なけりゃ、俺達みたいなパーティーはおしまいだぞ。おまえみたいのをサークルクラッシャーっつーんだ、サークルクラッシャーと」

 

 それはちょっと意味が違うんじゃないかなと思いつつも、ルーシーもギヨームの言ってることはわかった。実際、鳳とジャンヌの間には、長年付き合い続けた夫婦みたいな、余人は理解し難い信頼関係みたいなものが存在する。それをちょっとした思いつきで壊してしまうのは、いけないことのような気がする。

 

 彼女はため息を吐きながら、

 

「うーん……そっか。そう言われちゃうと、そうだなあ~……」

「周りがとやかく口出しすんなよ、デリケートな問題なんだから。あいつらのことは、放っておいてやれ」

「でも、ちょっと残念だなあ。ミーさんと鳳くんがお付き合いしたら、きっとお似合いだと思うんだよね」

「あら、いいじゃない。私も賛成よ」

 

 二人がそんな会話を交わしていたら、背後から野太いゴリラのような声が聞こえてきた。驚いて振り返ると、そこにジャンヌが立っていた。どうやら二人が会話に夢中になってる間に、いつの間にか近くまで来ていたらしい。

 

「わわっ! ジャンヌさん……私達はその~……別に陰口とか、そんなつもりはなくって……」

 

 まるで陰口を叩くような格好になってしまった二人は、バツが悪くなって小さくなった。しかし、ルーシーは言い訳しながらも、たった今、ジャンヌが言ったセリフが気になって、

 

「……あれ? ジャンヌさん、いま賛成って言った? 鳳くんがミーさんに取られちゃってもいいの?」

「ええ、そうね。いいんじゃない。取られるってのはちょっと語弊があるけど」

「なんでだよ、おまえ、鳳のこと好きじゃなかったの?」

 

 ジャンヌがあっさりと認めると、彼を慮ってルーシーを止めていたギヨームが、まるで裏切り者でも見るような目つきで言った。ジャンヌはそんなギヨームに向かって、苦笑交じりに、

 

「ええ、もちろん好きよ。でも、好きにも色々あるじゃない」

「どういうこと? 鳳くんのこと、友達として好きだったってこと?」

「違うわよ。私はちゃんと、女として白ちゃんのことが好きだわ」

「いや、女としてって、おまえ男じゃねえか」

「まあ、失礼しちゃうわ! あなた、そんなこと私達の時代の人に言ったら、各方面からお叱りを受けるわよ」

 

 ギヨームもルーシーも、ジャンヌが言っていることが理解できずに混乱しているようだった。でもそれは仕方ないことだろう。彼らはLGBTの概念がないのだ。現代人でさえ、実際その感覚がわからない人のほうが殆どだと言うのに、何も知らない異世界の人たちに理解しろと言っても無理な話だ。

 

 ジャンヌは、混乱して目を回している二人に向かって、苦笑交じりに続けた。

 

「私はちゃんと白ちゃんのことを異性として好きよ。だけど見ての通り、私も彼も男性よね。なのになんで女性として彼のことが好きだなんて言えるかって言えば、私の心と体の性別が違うからなのよ。

 

 科学が発達していた私達の時代は、生きた人間の体の中まで詳細に調べることが出来るようになっていたのよ。科学者が特に興味を示したのは、人間の脳みそがどうなっているのかってこと。彼らは生きた人間の脳みそをスキャンし、様々な年齢、性別の人たちの脳を調べたわ。そして分かってきたのは、人間の脳には性別差があったってことなの。

 

 人間の脳ってのは大雑把に言うと、左右二つに分かれているの。左右それぞれの脳は、体を動かす時別々の動作をしている。例えば、左脳は体の右半身を動かす時に使われ、右脳はその逆って感じね。それが脳梁と呼ばれる部分で繋がってるんだけど……

 

 男性はこの脳梁が狭くて、比較的左右の脳が独立しているのね。だから、男性は体を動かす時と同じように、左右で別々のことを考えるような傾向があるの。例えば右脳が音楽や運動などの感覚的な分野を司るのに対し、左脳は主に論理的な思考に使用されるという感じね。

 

 それに対して、女性は脳梁が太くて左右の繋がりが密接なの。だから、男性と違って左右で区切って考えること無く、脳全体を使って物事を考える。そのお陰で、女性はパッパカパッパカ思考を切り替えることが得意だったり、男性よりコミュニケーション能力に優れていると言われているわ。その代わり、突然のアクシデントに見舞われると、パニックになりやすい傾向があるそうね。

 

 他にも男性と女性の脳には違いがあるけど、とにかく言えることは、脳を見ても男性と女性は違う生き物だったってことね。

 

 ところで、この脳の違いはいつ生じるのかしら?

 

 植物や動物と同じく、人間も精子と卵子が結びついて、一つの受精卵からその生命が始まるわ。最初は胚細胞と呼ばれるたった一つの細胞が、二つに分裂し、四つに分裂しと増えていって、最終的に60兆を超える細胞を形成し、私達の体は作られる。

 

 私たち人間は母親のお腹の中に十月十日、これは数えだから、9ヶ月と10日、およそ280日間いるんだけど、その大体6週~8週頃に、私たちの体は男性か女性かに変わっていくそうよ。

 

 具体的には、父親の23番めの染色体がYだった場合、この時期に胎児の体の中で大量の男性ホルモンが分泌されて、体が男性に変わっていくの。実は人間は生まれる前はみんな女だったのよ、だから男性にも必要のない乳首や乳腺が存在するのね。

 

 ところで、こうして最初は女性だった体が男性に変わっていく過程で、なんらかのトラブルが発生して、十分に男性ホルモンが分泌されなかった場合どうなってしまうのか……体は男性なのに、脳みそは女性のままという子供が生まれてくる可能性がある。もしくは逆のパターンもあり得るわ。

 

 これがいわゆるトランスジェンダーと呼ばれる人の正体なのよ」

 

「トランスジェンダー?」

 

「肉体の性別に対する、精神の性別のことね。いま説明した通り、人間にはたまに、体と脳の性別がバラバラの状態で生まれてくる人がいるのよ。こういう人たちが成長するとどうなるかって言うと、体は男だけど心は女性のような気がする……もしくはその逆、といった違和感を持ったまま生活を続けている人たちがいるわけ。

 

 昔はそういう人たちのことをHENTAIの一言で片付けちゃってたわけだけど、科学がそれを証明してからは考えが変わって、私たちの生きていた時代では、肉体の性別のことをセックスというのに対し、精神の性別のことをジェンダーって言うようにしたのよ。

 

 それまで、自分はおかしいんじゃないかって思って悩んでた人たちは、それで救われたわけね。因みに私もそのうちの一人よ。

 

 体は男だけど、心は女だって言えるのは、とても素晴らしいことよ。だから、私は白ちゃんのことを、異性としてはっきり好きだって言えるんだもの。

 

 でも、だからかしら、白ちゃんがノーマルだってことも分かってしまうのよ。私は心と身体がバラバラだったけど、彼はそうじゃない。男性として、普通に女性のことが好きなんだって……

 

 それが分かるから、私は彼に、私のことを好きになってってなんて言えないわ。私の心だけを愛してなんて、虫が良すぎるもの。普通の人達だって、カップルになるのに苦労している。自分はもっと大変だなんてことは、とっくに分かっているじゃない。

 

 で、告白して振られて諦めて、好きな人に幸せになって欲しいって思うまでが、人を好きになるってことなんだから、私は本心から彼が幸せになってくれることを願うわ。ううん、彼は幸せになるべきよ。以前、あんな話を聞いたからこそ、そう思うわ」

 

 ジャンヌの長い話を聞いて、ルーシーは彼が鳳のことをどう思っているのか、今まで以上に良く理解することが出来た。彼は本心から鳳のことを好きだが、それと同時に諦めてもいるのだ。

 

 そして今、ジャンヌが言った通り、鳳が過去の体験から異性に対して苦手意識を持っているということも分かる気がした。彼が正常に戻り、幸せになって欲しいという、ジャンヌの気持ちも。

 

 ルーシーは、なんだか悪いことをしているような気がしてきた。ミーティアと鳳がくっついて欲しいという気持ちに変わりはない。だが、それと同時に、ジャンヌの恋も上手くいって欲しいと、今まで全く思いもよらなかった気持ちが芽生えていたのだ。

 

「ところで……二人とも、こんなところで話し込んじゃったけど、出掛けるところじゃなかった?」

「そうだった! 鳳くんがギルドに行く前に、ミーさんに入れ知恵するつもりだったんだ!」

「……鳳なら、さっきこっちの方ジロジロ見ながら出てったぞ」

「どうしてその時言ってくれないの!」

 

 まあ、それはそれとして、ミーティアの恋を出歯亀したい気持ちも本当だった。

 

 ルーシーは慌てて玄関を飛び出ると、彼女を引き留めようと待ち構えていたメイド長をひらりと交わして、村へと駆けていった。その後を、ギヨームとジャンヌがヤレヤレといいながら、当たり前のように追いかける。結局、なんやかんや、みんな恋バナが好きなのだ。

 

 3人は先に行ってしまった鳳を追い駆けて、冒険者ギルドへと急いだ。

 



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石ぶつけてやろう、石を

 ある日、鳳は朝食の席で首都の冒険者ギルドへ行くことを提案した。パーティーメンバーはみんな賛成してくれたが、各々用事があるため行くことは渋り、結局、彼が一人で行くことになった。

 

 するとルーシーが、「ミーさんが暇してるから、誘ってあげたら?」と言うので、地元民がいてくれると心強いのもあって、誘うことにした。怒りっぽい人だから断られるかも知れないが、それならそれで観光名所の一つでも教えてもらえばいいだろう。

 

 食後の便通も快調で、すっきりしてから村へ向かおうとすると、玄関のすぐそばで仲間の3人が、ジェンダーがどうとか小難しい会話を交わしていた。忙しいとか言ってたくせに、もしかして俺、ハブられてるの……とか思いつつ、興味もないのでスルーして脇を通り抜ける。

 

 玄関前の車溜まりでタバコを吸っていた御者に挨拶して、てくてくと徒歩で村へと向かった。頼めば首都まで乗せてってくれそうであるが、流石に距離が距離だけに、村の高速馬車を使ったほうがいいだろう。餅は餅屋である。

 

 館のある丘の上から下りていくと、斜面に沿って並んでいる段々畑で働く農家の人たちが、鳳に向かって手を振っていた。近寄っていくと採れたての野菜を手渡され、今日は何を獲るつもりだ? と質問される。このところ、猫人と一緒に用水路で釣りをしたり、森で動物を狩っていたから、今日も遊びに行くんだろうと勝手に思っているようだった。

 

「俺だって毎日遊んでるわけじゃないんだ」

 

 と言って間違いを訂正すると、首都へ行くんなら、あれを買ってきてくれ、これを買ってきてくれと頼まれてしまった。そんなに一度に覚えきれないよと言ってメモに書いていると、別の農夫たちまで続々とやってきて、採れたて野菜と引き換えにお使いを頼まれてしまった。

 

 これ以上貰っても両手でも持ちきれないので、籠を背負ってせっせと丘を駆け下りる。きっと傍から見たら行商人に見えるに違いない。実際、これを持って首都まで行ったら、そこそこ儲かるんじゃなかろうか……もちろんそんなことするつもりは無いのであるが、もらった野菜はどこかで消費しなければならないのは確かだった。

 

 ぜえぜえと息を吐きながら、どうにか街の広場までやってきた。大荷物を抱える鳳のことを物珍しそうにジロジロと見てくる商店主たちの目を掻い潜り、ギルドの扉をくぐった。

 

「いらっしゃいませ~……って、鳳さんですか。何ですか、その荷物。八百屋でも開くつもりですか」

 

 ギルドに入ると受付のカウンター脇で書類仕事をしていたミーティアが顔を上げた。彼女は鳳の背負っている籠を見るなり、笑顔を引きつらせながらツッコミを入れた。鳳も苦笑しながら籠を下ろして、

 

「んなわけないでしょ。丘を下りてきたら、みんなが持ってけって、くれたんだよ。持ちきれないから籠は借りてきた。後で返しておいて?」

「またそんなに貰ってきたんですか……? いつも頂いてしまって有り難いのですが、こんなには食べきれませんよ」

 

 ミーティアはブツブツ言いながらカウンターから出てくると、籠から野菜を取り出して、せっせとギルドの食料庫にしまいはじめた。これから暫く、ギルドは三食野菜炒めになるに違いない。

 

 因みに彼女が言う通り、こんなにたくさん食べきれないから、食べる時は鳳も手伝っている。というか、鳳があちこちで手に入れてくる食材を渡しているうちに、いつの間にか料理を作ってもらう仲になっていたのだ。

 

 鳳はそれを猫人たちに持っていってやり、それを知った牧場長がお肉を分けてくれるから、気がつけばギルドの食料庫は凄いことになっていた。ミーティアは鼻歌を歌いながら食材を整理しつつ、

 

「このまま食材が増え続けたら、ギルドじゃなくてレストランが開けそうですね」

「いいね。ここも国境の街みたいに、レストランを兼業してくれたら、もっと冒険者が立ち寄ってくれるんじゃないの?」

「かも知れませんが、今はもう料理をお出ししてくれるマスターもいませんし、人手が足りませんよ」

「料理ならミーティアさんがやればいいじゃないの」

「私なんかがやったって、誰も食べに来てくれませんよ」

 

 鳳はとんでもないと大げさに首を振って、

 

「そんなことないよ、ミーティアさん料理上手だから、きっと繁盛すると思うよ。少なくとも、俺は毎日食べに来るし」

 

 するとミーティアは顔を真っ赤にしてプルプル震えながら、

 

「な、な、なに言ってるんですか。じょ、冗談じゃありませんよ。私はギルドの仕事で手一杯なんだから、あっちもこっちもやれませんってば。まったくもう!」

 

 やばい、怒らせてしまった……鳳は背筋をピンと伸ばして青ざめながら、

 

「す、すみません、口が過ぎました。ミーティアさんにはギルドのお仕事だけやっていただければもう、それで十分すぎますんで、はい」

 

 鳳が謝罪の言葉を口にすると、彼女はあたふたと慌てた素振りを見せてから、結局ぷいっと横を向いて、

 

「分かればいいんですよーだ」

 

 などと宣った。

 

 無論、言うまでもなく、ミーティアは怒っているわけではなく、単に照れているだけなのだが、鳳はセクハラをするたびに殴られているものだから、こういう甘酸っぱい展開になっても気づかずに、別方向にスイッチが入ってしまう体になっていた。

 

 ミーティアはミーティアで、あまり耐性がないものだから、二人はいつもこんな感じにすれ違っていたのだ。ぶっちゃけ、その意識さえ改善出来れば、二人はもう少しマシな関係になれていただろうに……因果なものである。

 

 彼女は、もう少し素直になれたらいいのにとモヤモヤしたものを抱えながら、

 

「それで、今日もまたゴブリン退治に来たんですか? 残念ですが、他に鳳さんが満足するような依頼は入っていませんけど」

 

 鳳は、そうだった、用件を思い出したとばかりに、ぽんと手を叩いて、

 

「いや、違うんだ。今日はちょっと首都まで行ってみたいと思ってさ、ミーティアさんを誘いに来たんだよ。ミーティアさん、地元民だって言ってたし、今日は休暇なんでしょ?」

「私ですか……? ええ、確かにニューアムステルダム出身ですけど、別に今日はお休みじゃないですよ?」

「え? そうなの?」

「はい。誰からそんな話を聞いたんですか?」

「ルーシーからだけど」

「変ですねえ、私そんな話、してませんけど……」

 

 ミーティアはそこまで全力で否定したところでハッと気づいた。もしかして、今の話に乗っていたら、二人きりでデートだったのでは……?

 

「あわわわわわ……」

 

 どうしてルーシーがこんな愚にもつかない嘘を吐いたのか、ということにばかり気を取られてしまったが、なんてことはない、彼女はミーティアのアシストをしてくれたつもりだったのだ。なのに、なんてお馬鹿さん。ミーティアは唸り声を上げながら自分の頭をポカポカと叩き始めた。

 

 鳳は突然目の前で奇行を始めた彼女に恐れをなして、

 

「え? ちょっ!? そんな無理に来てくれなんて思ってないから! ミーティアさんは今日もいつもどおり、ギルドでのんびり仕事しててください」

「ううぅ~……はいぃ~……」

「でも、出来れば首都の話を聞かせてくれないかな。せっかく行くんだから、観光名所とかお土産とか、オススメなんかを教えてほしいんだけど」

「名所ですか? そうですね、色々見どころはありますけど……一日で回るのは大変かも知れません。ご案内できればよかったんですけど」

 

 ミーティアはチラッチラッと鳳の顔を窺ったが、

 

「いやいや、無理しなくていいから」

 

 鳳は手のひらを見せてブルブルと首を振っている。ミーティアはやっちまったなと萎れながらも、彼のためにオススメの観光ルートを組み立ててあげようと、首都ニューアムステルダムの地図を引っ張り出してきてカウンターの上に広げた。

 

 するとそんな二人のやりとりを遠巻きに見ていたギルド長が、ゴホンと咳払いしてから近づいてきて、

 

「鳳くん、首都に行くのかい?」

「ああ、はい。ちょっとあっちの冒険者ギルドにも顔を出しておこうかと思いまして……ああ、別にここを裏切って所属を変えようとか、そんなこと思ってませんよ?」

「そんなこと心配してないよ……でも、そうか、だったらミーティア君、今日はもう上がっていいから、彼を案内してあげなさい」

 

 ミーティアは思わぬ方向から援護が飛んできて、目を輝かせながら、

 

「良いんですかっ!?」

「うんうん。どうせここに来るのは鳳くんくらいのものだから、私一人でもなんとかなるよ。それに、お上りさんを一人で行かせて、何かあったら寝覚めが悪いだろう」

「誰がお上りさんだ、誰が」

 

 鳳はプンスカ怒っている。ギルド長はミーティアの肩をぽんと叩くと、そんな彼に聞こえないようにそっと耳打ちした。

 

「結婚しても職員はやめないでね?」

 

 ミーティアは顔を瞬間湯沸かし器みたいにボッと真っ赤に染めると、

 

「な、な、何いってんだ、このセクハラオヤジがっ!」

 

 と叫んでギルド長の腹に膝蹴りをお見舞いした。哀れな中年が体をくの字に曲げて崩れ落ちる。鳳はそんな突然の凶行を目の当たりにして、(やっぱ怒りっぽい人だ……絶対に怒らせないようにしよう……)と心に刻んだ。

 

 ともあれ、ミーティアが一緒に来てくれるのは心強い。一口に首都と言っても、以前、遠くから見ただけでも結構な広さがあったのだ。きっと鳳一人では、入り口のあたりをうろちょろするだけで終わってしまっただろう。

 

 彼はウキウキしながら出掛ける準備をしている彼女に向かって、

 

「いやー、一緒に来てくれて助かるよ。実は一人だと、ギルド以外、どこをどう回ればいいのか分からなかったんだよね」

「どこか行きたいところでもあるんですか?」

「うん、村のみんなに頼まれたお使いと、後は香辛料を手に入れたいんだ。ここでも手に入るけど、胡椒とか、希少なのは中々売ってないからね」

「へえ~……冒険で必要なんですか?」

「それもあるけど、実はミーティアさんにプレゼントしようと思ってさ」

「……え? 私ですか?」

 

 鳳は軽く頷いて、

 

「いつも美味しい料理を作って貰ってるから、その御礼に。本人が一緒に探してくれるんならそれが一番だよ」

「まあ、そんなの気にしないでも良かったんですよ?」

「とんでもない! それに、ミーティアさんのレパートリーが増えたら、俺も嬉しいからね」

 

 と言って屈託なく笑った。ミーティアはその笑顔を見ていると……(なんだろう、幸せを形にしたら、こんな感じなのかしら……)となんだか胸のあたりがざわついてくるのを感じていた。暑くもないのに額から汗が吹き出してくる。

 

 食材がもったいないし、どうせ猫人が殆ど食うんだからと雑に作っていたけれど、面倒くさくても毎日作っていて良かった。こんなに喜んでくれるなら、今度からはもっと心を込めて作ろう……例え、ねこまんまになるとしても。と彼女は思った。

 

 そんな上機嫌な彼女の支度も終わり、鳳はギルド長に挨拶をすると、彼女を連れてギルドの玄関扉に手をかけた。ところが、ドアノブを回すと自動ドアでもないのに、勝手に扉が開いて、突然、外からドタドタと人がなだれ込んできた。

 

「わっ! なんだなんだ?」

 

 鳳が驚いて飛び退くと、さっきまで彼が立っていたところにジャンヌ、ギヨーム、ルーシーの三人がごろごろと転がり込んできた。その体勢を見るからに、ギルドの玄関扉に体を預けていたところ、急に扉を開けられたように見えなくもない。

 

 なんだろう? 出歯亀でもしていたのだろうか……でも、なんのために? 鳳が首を捻っていると、

 

「いやいや、全然そんなことないよ! たまたま来たら、たまたま扉が開いて、たまたま3人揃ってゴロゴロ転がっちゃっただけなんだよ!」

 

 ルーシーが全力で否定する。鳳には彼女が嘘を吐いているようにしか思えなかったが、実際、そんなことをしても誰も得をしないので、

 

「ふーん……不思議なこともあるもんだな。ところでおまえらどうしたんだ? ギルドになんか用? あれ、でも出掛けるって言ってなかったか?」

「いやあ、ミーさんの休暇は今日じゃなかったなと思い出して、訂正に来たんだけど……一足遅かったかな」

 

 鳳はぽんと手を叩いて、

 

「なんだ、わざわざそれを伝えにきてくれたの? なら平気だよ。ミーティアさん休みじゃなかったけど、ギルド長がお休みにしてくれるんだって」

「へえ~……ギルド長が」

 

 奥を覗くとギルド長がにこやかに手を振っている。彼とは一度もこの手の話をしたことがなかったが、わざわざ気を回してくれたということは、目的は一緒のようである。ルーシーは、彼とは美味しい酒を飲めそうだと思った。いや、実際、彼女はお酒を飲めないのであるが……

 

「ところで、おまえら、実は結構暇なんだろう? やっぱり一緒に行くか? ミーティアさん案内してくれるって」

 

 ルーシーが腕組みをしながらしたり顔でウンウンと頷いていると、鳳が一緒行かないかと誘ってきた。三人は慌てて、

 

「いやいや、俺は通勤の途中だから。すぐ牧場に行かなきゃ」「私も出稽古に行く最中よ」「あ~勉強がしたい! 今日はもう帰って勉強がしたいぞ~!」

 

 全力で拒否する三人に、鳳は肩を竦めて見せた。ルーシーに限っては、明らかに心にもないことを言ってるようだが、まあ、来たくないものを無理強いすることもないだろう。鳳は、

 

「そりゃ、残念だな。仕方ないからミーティアさん、そろそろ行こうか? あ、それ持ちますよ」

「あ、はい! どうも……」

 

 鳳はそう言うと、ミーティアが持っていた手荷物を実に自然な素振りで受け取った。あまりにも自然なものだから、ミーティアも釣られてひょいと手渡してしまったが、

 

「わわ! 鳳さん。そんな、わざわざ持っていただかなくてもいいですよ! 自分で持てますから」

「いいよいいよ、付き合って貰ってるんだから、これくらいさせてよ」

 

 鳳はそう言って返事も待たずにツカツカと歩いていく。ミーティアはそんな彼のことを小走りに追い駆けて横に並ぶ。二人は歩きながら押し問答のようなことを続けていたが、やがてミーティアが折れて照れながら何かお礼の言葉を口にしているようだった。

 

 二人は傍から見れば長年連れ添ったカップルのように、実に自然な組み合わせに見えた。ルーシーはそんな二人の後ろ姿を感無量に見送りながらも、なんかしっくり来ないものを感じ、

 

「うーん……なんだろう。鳳くん、意外と手慣れてて、なんか感じ悪いんだけど。私、あんな優しくしてもらったことないよ?」

 

 ルーシーがぽつりと呟くと、それを聞いていたギヨームが、

 

「あいつ金持ちの息子っつってたから、レディーファーストっつーか、こういう教育も受けてんだろ。実際、なにやらせても卒なくこなすもんな」

「そっかあ……そう思ったらなんかムカついてきた。あんなのにミーさんを渡せないよ。石ぶつけてやろう、石を」

「ちょっと、やめなさいよ」

 

 ジャンヌが地面にしゃがんで石を拾おうとするルーシーを羽交い締めにして抱き上げる。ギヨームは何をやってんだよといった目つきで、やれやれと首を振った。実際、あの二人が今後どうなるかは分からないが、ジャンヌが良いというのなら良いんだろう。三人は鳳たちが馬車駅へ消えていくのを見届けてから、それぞれの予定に戻っていった。

 



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はじめまして、彼氏です

 馬車駅はギルドを出てすぐの広場にあった。勇者領は馬車移動が一般に普及しているらしく、ダイヤグラムのある乗合馬車が整備されていた。それに対し、三頭立ての高速馬車は、高いお金を払って雇うハイヤーみたいなものだったが、言うまでもなく、これもこの村の持ち主の物だったから、お願いしたら割りとすんなりと乗せてくれた。

 

 お代は爺さんにツケておいてと言っておいたが、多分一銭も取る気はないだろう。御者は愛想よく馬車のドアを開けると、まるで王侯貴族でも扱うかのように、恭しくミーティアの乗車を手伝ってくれた。

 

 館にある馬車と同型であるから乗り心地はよく、短時間なら鳳のヤワなお尻もどうにか痛まずに済みそうだった。大きめに取られた窓には田園風景が流れ、どこからともなく家畜の鳴き声が聞こえてきて、肥溜めの匂いがした。もしここが異世界だと意識しなければ、どこにでもある、ありふれた日本の田舎を走ってると錯覚したに違いない。

 

 街道を行き交う人々を追い越していくと、その中に鍛冶屋へ向かうマニを見つけた。名前を呼んで手を振ると、始めこちらのことが分からなかったのか目をパチクリさせていたが、鳳だと気づくと嬉しそうに手を振り返してくれた。

 

 馬車は右へカーブし丘へと登る。

 

 以前、猫人たちと訪れた道の駅に到着すると、御者が馬を替えるから少し待っててくれと言った。あの日はたどり着くのに半日掛かったというのに、今日は小一時間もかからずに到着してしまった。流石、高速馬車である。

 

 残念ながら馬車を下りて見て回るような余裕はないが、ここも中々楽しい場所なので、ミーティアに今度一緒に遊びに来ようと誘ってみたら、怒ってるんだか喜んでるんだかよくわからない反応をしていた。

 

 馬を取り替えて更に小一時間ほど走り、のどかな田園地帯が徐々に途切れ、民家が多くなってきたころ、馬車はついにこの国の首都ニューアムステルダムへと到着した。この国に来てからおよそ一ヶ月、近くて遠い縁のない場所だと思っていたが、来てみたら意外とあっさりしたもんだった。

 

 ニューアムステルダムの玄関は、まさに民族の宝庫であった。

 

 国の全ての方向へ向けて放射状に伸びる街道の終着点には、共産主義国みたいな広場がドドンと広がっていて、そこで大道芸人や行商人などが自由に商売をしていた。関税とかはどうなっているんだろうか? と思っていたら、連邦議会が管理している首都は、他の13氏族国とは違って関所のようなものはなく、比較的自由に商売が出来るとミーティアが教えてくれた。

 

 感覚的には楽市楽座のようなものだろうか? 新大陸へ向かう人と物の流れを優先して、こうなっているようである。尤も、為政者が自分の損になるようなことをするわけがないので、きっとこうすることによって得するように出来ているのだろう。

 

 そんなことを漠然と考えながら、村人たちに頼まれたお土産を見て回った。来て早々に荷物を抱えたくはなかったが、ここの市場は問屋を通しているわけではないので、目の前にあるのが全てなのだ。売り切れてしまったらそれまでなので、早めに手に入れて荷物はどこかに預けて置いたほうがいいだろう。

 

 多分、ギルドに言えば預かってくれるだろうと言うミーティアに案内されて、鳳たちは冒険者ギルド本部へと向かった。

 

「え? それでは、高難易度の依頼を受けたいからって、わざわざ首都まで出てきたんですか?」

 

 何しろ広い街であるから、大通りに面しているとはいえ、初見ではギルドまでたどり着くのに苦労しただろう。御礼を言うと、ミーティアが照れくさそうに、そんなのは良いからどうしてギルドに来たがったのかと尋ねてきたので、そう言えばまだ理由を言ってなかったと思い出し、今朝の話をしてみたところ、

 

「でしたら相談していただければ、あの村に居るまま、率先して依頼を回してもらうことも出来ましたよ?」

「え? そうだったの??」

 

 どうやら高難度クエストが見つからなかったのには理由があったらしい。

 

「はい。多分、以前にもお話ししたことがあると思いますけど……冒険者ギルドでは高難度の依頼を、誰でも見ることが出来る掲示板に張り出すことはありません。初心者がうっかり受けてしまったり、無鉄砲な方に失敗されては困るからです」

「ああ、そう言えばそんなこと言ってたなあ……」

 

 確か、ヘルメスで初めてギルドを訪れた時じゃなかったか。遠い昔のことですっかり忘れてしまっていた。

 

「ですから高難度の依頼は、ギルドに登録されている冒険者の中でも、特に高ランクの方々を指名して受けて貰ってます。AランクからEランクまであるんですが、鳳さんたちのパーティーはもちろんAです」

 

 鳳はこの時自分のランクを初めて知った。とはいえ、鳳が凄いわけじゃなく、多分、ジャンヌとギヨームの貢献が大きいのだろうが、

 

「そうなの? じゃあ、どうして回ってこなかったんだろう」

「それは、みなさんがお尋ね者だったからですよ。高難度依頼を受けられるような冒険者がいる場合、我々ギルド職員は、今うちのギルドにこういう冒険者が所属していますって、各地のギルドにお伝えするわけですけど、そんなことしたらみなさんのことが帝国にも筒抜けになっちゃうじゃないですか」

「あー、そう言うことか」

 

 まったく意識していなかったが、知らず識らずのうちにギルドに守ってもらっていたらしい。

 

「ですが、帝国と戦争になってしまったので、勇者領内ではもう身を隠す必要はないのかも知れません。今後は他からも依頼を回して貰えるように手配しましょうか?」

「そうしてもらえる?」

「わかりました。でも、今は難しいかも知れませんね。それこそ、戦争のせいでみんなそっちに忙しそうですから……」

 

 ミーティアの言う通り、冒険者ギルド本部の掲示板は募兵のチラシで埋まってしまっていた。若人よ来たれとかなんとかコピーが書かれた、自衛官募集のポスターみたいなものである。普通の依頼は隅っこの方に追いやられて、殆ど見当たらない。

 

 レオナルドが以前言っていたが、冒険者ギルドは元々、戦後の失業対策として発足した機関だったから、その名残か、戦時中は募兵にかかりきりになってしまうようだった。実際、国がどうなってしまうかわからないような状況で、あまり私的な依頼をデカデカと掲示すると目立ってしまって仕方ないから、ギルドの方でも苦慮しているのだろう。

 

 もし鳳のお眼鏡にかなう依頼があったとしても、掲示板に張り出されることはないから、職員に直接尋ねましょうと、ミーティアに案内されて奥へと進んだ。鳳一人だったら多分どうすることも出来なかっただろうから、本当に一緒に来てもらってよかったとホッと胸をなでおろす。

 

 しかし、鳳のために良かれと思ってやったことが、彼女にはどうやら痛恨のミスだったらしい、

 

「あれ~……? ミーティアじゃないの! いつこっちに帰ってきたの??」

「げっ……エリーゼ、あなたこそ、どうしてここに!?」

「今、本部にヘルプに来てるんだよー! ほら、戦争で忙しいでしょ?」

 

 ミーティアに案内されて職員に質問をしていると、市役所の受付みたいなカウンターの奥で仕事をしていた一人が、ミーティアに気づいて立ち上がり、親しげに声をかけてきた。すると一瞬、彼女はバツが悪そうな表情を見せたが、すぐに愛想笑いを浮かべて、

 

「そ、そうだったんですか、エリーゼ、お久しぶりですね。えーと、そうそう、私は別にこっちに帰ってきたわけじゃなくて、今日はたまたま用事があっただけでして、すぐに帰りますんで、ごきげんよう」

「何言ってるのよ! こんな久しぶりに会えたんだから、お茶でもしましょうよ。アントンも一緒なの。ちょっと待ってて? すぐ彼も呼ぶから」

「いや、お気になさらず、ヘルプなんでしょ? ゆっくり仕事をしててくださいよ」

「そんなわけにはいかないわよ。あ、いたいた、アントン! ねえ、こっち来て! ミーティアが帰ってきてるのよ!」

 

 エリーゼと呼ばれた女性が叫ぶと、奥の方にあった掲示板の前を暇そうにうろちょろしていた男が振り返り、

 

「おお~! ミーティアじゃないか! 久しぶりだな。元気してたか?」

「う……どうも、お久しぶりです……」

「いつ帰ってきたんだよ。おじさんおばさんにはもう会ったか? 帰ってくるなら前もって言ってくれれば良かったのに」

「いえ、ですから、私は別に帰ってきたわけじゃなくて……」

 

 ミーティアがしどろもどろに返事をしていると、エリーゼがにこやかに近づいてきて、

 

「ヘルメスでは大変だったそうね、大森林に飛ばされたとも聞いてたけど……あら? ところで、さっきから気になってたんだけど、こちらの男性は?」

 

 エリーゼのジロリとした視線が突き刺さる。ミーティアが彼女に声を掛けられた瞬間、実に嫌そうな顔をしていたから、きっと他人のふりをしていた方が良いんだろうと思って、わざわざ距離を置いていたのであるが……まさか最初から気づいていたのだろうか? その目敏さに戦慄する。

 

 どうしよう……それでも知らぬ振りをしていた方が良いだろうか……? 鳳がどうすればいいか分からず引きつった笑みを浮かべていると、エリーゼに尋ねられたミーティアがしどろもどろに目を泳がせながら、

 

「そ、その人は、その~……いつもお世話になっている方でして……」

「へ~……黒目黒髪って珍しいねえ~、新大陸の人かしら?」

「いえ! 鳳さんはその……帝国の方で」

「鳳さんって言うんだ。こんなところに来てるってことは冒険者?」

「ええーっと……はい。こう見えて、Aランクの方なんですよ」

「Aランク!? マジで? とてもそうは見えない……」

 

 ほっといてくれたまえ、この野郎。鳳は少々ムカついたが、反論すると面倒なことになりそうだと思って黙っていた。すると感心したそぶりで鳳の顔を見ていたエリーゼが、まるでいたずらっ子のように表情をくるくると変えて、

 

「ねえ、さっきから気になってたんだけど……もしかして、鳳さんって……ミーティアの彼氏?」

 

 畳み掛けるように言われたミーティアの目が、いよいよ宇宙空間に飛び出すんじゃないかという勢いで泳ぎまくっている。

 

 鳳は、おい、やめてやれよ……と思いはしたが、下手に口を出すわけにも行かずに黙って成り行きを見守っていたら、その時、何を血迷ったか、ミーティアが彼の腕にギュッと抱きついて、

 

「そ、そうです! か、彼氏です!」

 

 と叫んだ。

 

 瞬間、さっきまでガヤガヤとうるさかった冒険者ギルド内がしんと静まり返り、あっちこっちからジロジロと遠慮会釈もない視線が飛んできた。中心にいる鳳はまるで針の筵のようだったが……

 

 ともあれ、まさか彼女がそんなことを言い出すとは思いもよらず、

 

「え?」「……え?」「ええ!?」

 

 と三人が三人ともぽかんとしていると、

 

「そ、そうなんだ! ミーティアにも、ついに彼氏が出来たのね!」

 

 最初に復活したエリーゼがそう言って、アントンと呼ばれた男がハッと我を取り戻し、

 

「マジか~! あのミーティアに男がねえ……そうか。それでおじさんおばさんに隠れてこそこそしてたのか。やるなー、ミーティア。はっはっは!」

 

 彼のその笑い声が切っ掛けとなって、止まっていた時がまた動き出した。ミーティアに抱きつかれた鳳は、冒険者ギルドに来ていた人たちの、「ちっ! アベックが」といった視線に耐えながら、

 

「はじめまして、彼氏です」

 

 取り敢えずここは乗るしかないと、まだ信じられないといった表情で、まじまじと見つめている二人に向かって、にこやかに挨拶した。

 

 



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本当に低レベルなんですね!

 高難度の依頼を受けたくて、首都にある冒険者ギルド本部へとやってきた鳳は、そこで案内役を買って出てくれたミーティアの知人と遭遇した。見るからに決まりが悪そうな彼女は、知人女性に鳳のことを尋ねられ、あろうことか『彼氏』と言い出した。

 

 突然の宣言に仰天する三人。事情はよくわからないが、ミーティアのテンパりぶりを見て、ここは乗るしかないと思った鳳は、彼女の彼氏として挨拶する。とは言え、知人二人はまだ疑っているようで、

 

「へえー、ミーティアにも彼氏が出来たんだ」

 

 という二人に半ば強引に拉致された鳳たちは喫茶店へと連れて行かれ、質問攻めにあうのであった。

 

 冒険者ギルドを出て大通りを二町ほど歩き、目印もない何の変哲もない路地裏へ入っていくと、その突き当りにいかにも一見お断りな看板を掲げた店があった。中に入ると三畳ほどの狭いカウンターの中で、頑固一徹を絵に描いたようなお爺さんがグラスを磨いている。挨拶一つしないその爺さんの前を素通りし、奥に見える二階へ上がる階段を登ると、そこは屋根裏みたいに天井が斜めっているけれど、思ったよりも広い空間が広がっていた。

 

 前かがみにならないとくぐれない天井の梁をくぐり抜けて、クッションの効いたソファに座ると、階下からゆっくりとした足取りで老婆が上がってきて、何も注文していないのにニコニコしながら人数分のコーヒーとケーキを置いていった。

 

 どうやら老夫婦でやってるお店らしい。もしかするとこのケーキはあの爺さんが焼いたのだろうか……板張りの屋根裏は薄暗く、壁に掛けられた燭台の灯りだけが頼りだった。手元もよく見えない中で砂糖の瓶を探り当て、投入してカップに口をつけた。

 

「美味い……」

 

 自然と口をついて出た言葉に、知人……エリーゼという女性が反応する。

 

「ここ、美味しいでしょう? ギルドの先輩に教えてもらった穴場なんです。ケーキもすっごく美味しいですから、どうぞ召し上がれ」

 

 鳳は口角を上げるだけの笑顔を返して、言われた通りケーキを一切れ口にした。シフォンケーキのようなものだろうか? 口触りの良いふわふわのスポンジが口の中で溶け、甘味が口内に浸透していくようだった。

 

 彼女の言う通り、これは中々の穴場だなと思いつつ、ケーキの山をフォークで崩していると、その横でミーティアが質問攻めにあっていた。

 

「二人はいつから付き合っているの?」

「えーっと……結構前から」

「馴れ初めは? どこで出会ったの?」

「馴れっ……!? ヘルメスで……鳳さんがギルドにいらして」

「それで付き合い始めたんだ~。どっちから告白したの?」

「告はっ!? そ、それは……わ、わ、私からで……」

「えー! あの奥手だったミーティアが……意外だなあ。本当に二人は付き合ってるの?」

「ほ、本当です! 本当! ね?」

 

 縋るような視線が飛んできて、鳳は慌ててにこやかに頷いた。エリーゼはまだ疑うような目つきで二人のことをジロジロと見つめている。

 

「ふ~ん……ヘルメスからの付き合いっていうと、結構長いよね。その割には、鳳さんなんて他人行儀な呼び方してるのね」

「うっ……そうですかね」

「二人っきりの時はもっと親しげな呼び方してるんじゃないか?」

 

 アントンと呼ばれていた男が興味なさそうに呟く。そう言えば、ろくに挨拶もないが、彼とエリーゼは付き合ってるのだろうか? ともあれ、彼の言葉にミーティアは追い詰められたように、

 

「そ、そう……かも、知れませんね。そうかも」

「そうなんだ~。普段はなんて呼び合ってるの? やっぱり、下の名前?」

「え!? それは……その……おおとり……つくも、さんだから……つく、つく、つく、つ、つ、つーくん、うおぁぁああぅあうえあぽあああああおおおおおおーーーー!! なにってんじゃおみゃああーーーーっっ!!」

「きゃあっ! どうしたのよ急に!」

 

 だめだこりゃ……ミーティアはアマゾネスみたいな雄叫びをあげている。エリーゼはそんな彼女を必死に取り押さえている。アントンはゲラゲラ笑っており、店のおばあさんがびっくりして階下から顔を突き出していた。

 

 このまま放っておいたらもっと面白いものが見れるだろうが、同時にミーティアの心に深い傷が刻まれることは間違いないだろう。黙ってやり過ごそうと思っていたが、ここから先は彼女が変なことを口走る前に、積極的にフォローを入れたほうが良いかも知れない。

 

 セルフコントロール、セルフコントロール、セルフコントロール……鳳はそう心の中で呟くと、眉間に皺を寄せ、口端を吊り上げるような、複雑な笑みを作った。

 

 皮肉なものだ……あの父親の言葉で、唯一良い記憶として残っているのは、『女性には優しくしろ』というものだった。女性を憎み、女性を遠ざけ、自分みたいな母無し隠し子をたくさん作ったくせに、彼はどういうつもりでそんなセリフを吐いたのだろうか。

 

「まあまあ、そのくらいで勘弁してくださいよ。ミーティアさん、フルマラソン走ってきたみたいになってますよ」

 

 鳳が、エリーゼとミーティアの間に割って入るようにハンカチを差し出すと、エリーゼは苦笑しながら、

 

「あら、ごめんなさい。彼女がからかわれてるみたいで、気分良くないですよね」

「ええまあ、有り体に言えば」

 

 鳳がにこやかにそう返すと、探るような視線を見せていた彼女は疑いの言葉を口にした。

 

「失礼ですけど、鳳さん……? 本当に、ミーティアの彼氏なんですか? 話をあわせあげてるんじゃなく?」

 

 すると鳳はにこやかな笑みを崩さずに、

 

「ええ、本当ですとも。実は僕たち、付き合いはじめてまだ日が浅いものですから、もしかすると傍目には恋人同士には見えないかも知れません。僕だって、ミーティアさんとお付き合い出来るなんて、まだ信じられないくらいですから」

「まあ! お上手ですね」

「お世辞なんかじゃありませんよ。ヘルメスで出会ってから今日まで、彼女にはお世話になりっぱなしです。何も知らない僕に仕事を教えてくれて、わけあって大森林に行くときにもついてきてくれて、いつも美味しい料理まで作っていただいて……そんな彼女を自分の物に出来るなんて、僕は幸せものだなあ」

「大森林に飛ばされたって話は聞いたけど、あなたが理由だったんですか……それじゃあ、本当にお付き合いしているのね、ミーティア?」

「本当ですよね」

 

 一応、分かってるんだろうなと念を押すために目配せすると、ミーティアは何故か真っ赤な般若顔になっていた。目は吊り上がり、眼力だけで人を殺せそうだった。

 

 どうして怒るんだよ!? と焦っていると、3人のやり取りを見ていたアントンが、

 

「ははは、相変わらずだなあ、ミーティアは。昔っから照れると、殺人鬼みたいな顔になるんだよな」

「え!? これ照れてんの??」

 

 てっきり、この場にいる全員の記憶がなくなるまで殴り続けようと決心しているんだとばかり思っていたが……前々から、妙に怒りっぽい人だと思っていたが、もしかすると今までのも照れていただけなのかも知れない。まあ、そんなことはどうでもいいので、

 

「と、とにかく、それでもまだ疑われるのでしたら、よかったらこの後、僕たちと一緒に街を周りませんか? 実は今日は、彼女に街を案内してもらうつもりで来たんですよ。地元の方が加わってくれると心強い」

「まあ、そうだったんですか?」

「そちらのお二人も、お付き合いなさっているんでしょう? どうです? ダブルデートなんて」

「いいですね、いいですね! 私、いつかミーティアと、好きな人と一緒に街を歩きたいと思ってたんです! ねえ、アントン! 良いでしょう?」

 

 ダブルデートという言葉が気に入ったのか、エリーゼは乗り気になっている。アントンはちょっと嫌そうにしていたが、結局は彼女に押し切られる格好で、鳳の提案をオーケーした。

 

 その間、ミーティアは鼻の穴を大きくし、地獄の釜の蓋を開けたような唸り声を上げながら、やり取りをじっと見つめていた。アントンに言わせれば照れてるだけだそうであるが、本当に怒ってないんだろうな……これ。

 

 そんなことを考えて不安に思っていると、ここは奢ってあげるといって会計をしにいった二人を追い駆け、階段を降りようとしたところでミーティアに引き止められ、

 

「す、すみません、なんかつき合わせちゃって。どうしても事情がありまして」

「いいっていいって。っていうか、ボロが出るとヤバいから、わけはあとでゆっくり聞かせてよ」

 

 鳳がそういって手を差し出すと、ミーティアは何これ? と言いたげに首を傾げていた。鳳が、

 

「いや、恋人同士なんだから、手くらい繋いだほうがそれっぽく見えるでしょ」

 

 と言うと、またいつものようにゆでダコのように真っ赤になって、組み手争いする柔道家みたいな表情をしていた。本当にこの手を握っても良いのだろうか。手首を破壊されたりしないだろうか……

 

*******************************

 

 店を出て4人で街へ繰り出した。首都に来たかった理由は新しい依頼を受けたかったためだったが、その他に目的は特にないので適当に観光名所を案内してよとお願いしたら、地元民のアントンが嫌がった。なんというか、お上りさんみたいだからだそうである。東京人が東京タワーに行きたがらないようなものだろうか。

 

 アントンは意外と不躾なやつというか、はっきり物を言うタイプらしく、空気を読むという概念はないような男だった。どうもミーティアとは古い付き合いで、鳳のことを相変わらず疑っているらしく、同じ冒険者ということもあって、やたらと対抗意識を燃やしてくるので面倒くさい。

 

「本当にAランク冒険者なのか?」とか、「普段、どんな装備を使ってるんだ?」とか、「レベルは? 今までやった依頼で一番やばかったやつは?」とか聞いてくるので、

 

「そうですね……Aランクって言っても、僕も今日初めて聞いたので、本当かって言われるとどうも……」

「なんだそれ? 自分のことなのに?」

「気にしたことなかったもんで。装備は主にライフルを使ってますよ」

「ライフル……!? って、農民が狩りにつかうやつだろう? プーックスクス! そんなの使ってるAランクなんて聞いたことないぜ!」

 

 などと宣うので意外に思い、なら普通の冒険者はどんなのを使っているのかと尋ねてみたら、

 

「そりゃ、もっぱら剣だよ。やっぱ冒険者って言ったら、剣を振り回してガーッとやる感じじゃないか」

 

 と長島監督みたいな独特な言い回しをした。剣が悪いわけではないが、銃がある世界でなんでそんなものを勧めるんだろうと思っていたら、話を聞いているうちにその理由が分かってきた。

 

 銃の強さは結局のところ弾に帰結する。どんなにゴツい銃を使っていても、弾丸に込められた火薬の量でその威力は決まってしまう。対して剣の方は、使用者のステータスによって変わってくる。この世界にはステータスがあるから、強い人が剣を握ればそれだけ威力が違うわけだ。

 

 言われてみれば確かにそうだ。例えばジャンヌにライフルを持たせても、それで強くなるような気がまるでしない。そして鳳がジャンヌをライフルで襲撃したとしても、彼ならきっと飛んできた弾を切り落として、返り討ちにされるだけだろう。

 

 思えば鳳のパーティーも、ライフルなんて使っているものは自分しかいないのだ。唯一、ギヨームが飛び道具を使っているが、速射性、連射性を考えると、あれはもう銃というより魔法と言った方が良い。

 

 ライフルはアントンの言う通り、冒険者ではなくレベルの低い一般人が使う武器のようだ。鳳はこういうとこはしっかりファンタジーしてるんだなと感心した。

 

 ともあれ、鳳がライフルを使っているのも、結局はそのレベルの問題であり、

 

「お恥ずかしいことに、レベルがまだ6なもので」

「はあ!? ロクー!!??」

「今までにやった一番危なかった仕事は、そうですね。ゴブリン退治に行ったらオークが出てきた時でしょうか。あれは本気で死にかけましたから」

 

 鳳がその時のことを思い出し、深刻な表情でそう言うと、アントンは暫くぽかんとした表情のまま固まったと思いきや、次の瞬間、

 

「プーッ! アッハッハッハッハ! おまえ、いっくらなんでも盛り過ぎだろう! ゴブリン退治がオーク退治になるなんて、そんなのホラに決まってらあ。レベルも信じられないくらい低いし、Aランクってのも、ミーティアに良いカッコしようとして、嘘ついてるんだろ? 白状しちまえよ」

 

 アントンはゲラゲラ笑っている。目の前で面と向かってバカにされているのは承知していたが、何しろ嘘なんか一つもついてないから、そんなにおかしいことなのかと苦笑いするしかなかった。彼の馬鹿笑いに釣られてエリーゼも吹き出すのを我慢しながら、

 

「アントン、笑いすぎよ、もう! 彼に失礼でしょう」

 

 と自分の彼氏を窘めている。しかし、それでも収まらないアントンが腹を抱えて笑っていると、鳳の手を握りながら二人のやり取りをぽけーっとした表情で見守っていたミーティアが、突然憤怒の化身のように怒りだし、アントンの尻を蹴り上げて、

 

「黙って聞いてれば、好き放題言ってくれますね。失礼だと思わないのですか」

「いって! 痛えな、ミーティア……あー、くっそ……おまえ、そのすぐに暴力に訴えるのやめろよな。つってもなあ、今までの話聞いてたら、信じるほうがどうかしてるぜ? おまえ、騙されてるんじゃねえの?」

 

 本人を前によく言うなあ、この男は……と思いもしたが、下手に陰口を叩かれるよりはいいだろう。時折、鳳の顔を窺うように通過するアントンの視線は、胡散臭いものを見るというよりも、ミーティアのことを気にしているようだった。

 

 鳳が相変わらず苦笑いをしていると、

 

「騙されるもなにも、私はギルド職員ですよ。騙されようがありません」

「つっても、何かAランクに見せかける方法があるのかも知れん」

「はあ~……埒が明きませんね。男の嫉妬ですか? 自分がCランクだからって」

「ばっ! 俺のランクは関係ねえだろ! 俺はおまえが騙されてないかって心配してやってんだろうが!」

「そんなに言うのなら、ギルドにいって確かめてみてはどうですか。丁度、すぐそこにありますし」

 

 ミーティアはプンスカしながら大通りの向こう側にあるギルド本部を指差している。ついさっき、あそこから出てきたのにまた戻るのは馬鹿みたいだったが、

 

「そうですね。本当は、ギルドに依頼を確認しにきたのに、さっきはなし崩しになってしまったから、僕も確かめに戻るのは賛成です」

 

 鳳がそう言うと、アントンはやはり信じきれなかったのか、意外そうな表情をしてみせた。結局、エリーゼも職場に荷物を取りに行きたいと言うので、そのままギルドに戻ることになった。ミーティアは不機嫌そうにふんぞり返ってドスドスと歩いており、アントンはその横をまだ疑わしそうな目つきをしながら歩いている。

 

 鳳がそんな二人の後を黙ってついていくと、ふらりとエリーゼが寄ってきて、

 

「ごめんなさい。あの二人、昔っからああなんですよ」

 

 さっきから、もしかしてそうなんじゃないかと思っていたが、二人はどうやら幼馴染のようである。突然の彼氏宣言と言い、何かそのへんが関係あるのだろうか……

 

 ギルドに戻ると、勝手知ったる他人の我が家か、ミーティアがズカズカと高ランク依頼の受付まで案内してくれた。未だ信じられないといった感じのアントンが続き、エリーゼは自分の荷物を取りに奥へ入っていってしまった。

 

 ミーティアがやってくると、受付の職員も彼女のことを覚えていたのか、一通りの挨拶のあとに、

 

「高難度依頼の一覧を見せて欲しいのです。こちら、Aランク冒険者さんなのですが」

「Aランク……確認いたします」

 

 職員の女性はそう言って奥へ引っ込んだ。何を確認するんだろう? と思っていたら、彼女は白紙の紙を持って帰ってきて、

 

「それでは、こちらに現在のレベルと署名をお願いします」

 

 と言ってその紙を渡した。なんのつもりだろう? と思ったが、なんとなく既視感がして思い出した。これはギルドに最初に訪れた時に書かされたエントリーシートだ。レオナルドが作ったという不思議な魔法が掛かった紙で、書いたことが真実ならそのまま残り、嘘なら消えてしまう。

 

 懐かしいなと思いながら、言われたとおりに署名する。職員はそれを受け取ると、鳳の顔と書類に視線を行ったり来たりさせながら、

 

「えー……ツクモ・オオトリ様。レベルは6。確かにランクA冒険者と確認いたしました……ってツクモ……オオトリ!?」

 

 鳳の名前を読み上げていた職員の声が裏返った。何だ何だ? そんな驚くような名前じゃないだろうと思って目をパチクリさせていたら、その声を耳にした他の職員までが突然ガタガタと立ち上がり、顔を上げてこちらの方を見ながら、

 

「ツクモ・オオトリ……」「ツクモ・オオトリだって!?」「あのオオトリか……」「本当に、実在したんだな」

 

 なんだか妙な雰囲気になっている。一体どうしたのだろうか。もしかして、知らないうちに有名人になってしまっていたのかなと思っていたら、突然、目の前の職員が立ち上がり、握手を求めて腕を差し出してきた。

 

 鳳が分けも分からずその手を握り返すと、

 

「ツクモ・オオトリ様。お会いできて光栄です。あなたのことは、指揮者(コンダクター)スカーサハから聞き及んでおります。ヘルメス戦争では、大変な活躍をされたとか」

「ど、どうも……スカーサハって? ああ、あの神人さんか」

 

 なるほど、それで有名だったのかと鳳は納得した。そう言えば、あの街の攻防にはレオナルド本人が出てくるくらいのギルド案件だった。一応、成功報酬も貰っているので、その記録が残っているのだろう。

 

 しかし、あの時の話がめぐりめぐってこんな遠くまで響いているとは、自分も偉くなったものだなと、鳳は内心自画自賛していたが、

 

「本当に低レベルなんですね! こんなにレベルが低いのに、もうAランクなんて凄いっ!」

「そっちかよっ!!」

 

 そうではなくて、低レベルクリアを目指すゲーム配信者的な覚え方をされていたらしい。

 

 その後、次々とやってくる職員たちに求められるまま握手をして、その場は即席の握手会みたいになってしまった。まあ、Aランクであることを確認出来たからいいものの、一体いつになったら高難度依頼を紹介して貰えるのだろうか。

 

 この後はミーティアとの偽装ダブルデートも待っている。何のために首都までやってきたのだろうか。まだまだ目的は達せられそうもなかった。

 



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会えて良かった

 ギルドで自分のランクを確かめたら、低レベルのせいで妙な目立ち方をしてしまった。そう言えば、初めて冒険者ギルドへ登録に行ったときも、レベル2だってことでバカにされた記憶がある。思えばあの時、散々バカにしてくれた人と一緒にこんな遠くまで来ているのだから、縁とは不思議なものである。

 

 鳳は職員たちに囲まれながら、どうにか目的の依頼リストの閲覧を許可され、今度はどんな依頼を受けるのか? と多方面から要らぬ相談を受けつつ、依頼を吟味したのだが、残念ながら彼のお眼鏡にかなうような依頼は無かった。やはり、ミーティアも言っている通り、現在は戦争のほうが忙しくて、世間が自粛ムードになってしまってるのだろう。

 

 色々アドバイスしてくれた職員たちに挨拶してミーティアたちの元へ戻ると、さっきまで挑むような目つきだったアントンが、ほんのちょっと大人しくなっていた。彼はCランクだから閲覧を許可されず、待合室で待っていてくれたのだが、その時に恋人のエリーゼに説教されたらしい。

 

「疑うようなこと言って悪かったよ」

 

 そう言うアントンの横で、ミーティアまでしょんぼりしているのは何故なんだろう? ともあれ、別に気にしてないからと返し、少しでも雰囲気を良くしようと、

 

「それより早く街に繰り出しましょうよ。時間がもったいないですよ」

「そうね。鳳さんにこの街の良いところをいっぱい見てもらわなきゃ」

「はい、今日は皆さんのオススメの場所を教えて下さい」

 

 エリーゼが乗っかってきて、どうにか間を持たしてくれた。鳳は出来るだけ波風立てずに下手に出て、今日はお上りさんを決め込もうと心に誓った。

 

 ギルドを出て、馬車を探しているとアントンが寄ってきて、

 

「お前、本当に凄いやつだったんだな。どうやったらAランクになれるんだ? 最近、伸び悩んでて……」

「さあ……僕は目の前にある依頼を必死にこなしていただけですから。ランクとか気にしないのが一番じゃないでしょうか」

「気にするなって言われても、稼ぎに直結するからなあ」

「あとは、仲間を信頼することですね」

「上に行くやつはみんなそう言うよなあ……」

 

 そんなこと俺に聞くなよと言いたくなるようなアドバイスを求められて、適当にお茶を濁していると、女は女同士で会話を繰り広げていた。

 

「本当にいい人と巡り会えて羨ましいわ。ヘルメスに行くって聞いた時はびっくりしちゃったけど。行ってよかったね」

「え、ええ、まあ」

「大森林にも一緒に行ったって、ミーティアが彼のことを追い駆けた?」

「え!? いえいえ、そんな……どうでしょう」

「もう、こっちが聞いてるんじゃない。そう言えば、いま二人はどこに住んでるの? もしかして、一緒に暮らしているとか?」

「まさか! 一緒じゃないですぅ~っ!!」

「そうなんだ。ふーん……ねえ、彼のどんなとこが好きなのかしら」

「はあ!? 私が鳳さんのこと、す、好き!? べべべ別に、すすす好きなんかじゃないですよ、バカですか、あなた、何言ってるんですか!」

「え? 二人は恋人同士なんでしょう?」

「こ、恋人……あああああ、そうでした! ああ゛あ゛あああ゛~~っっ! そげな恥ずかしいこと聞くでねえ!!」

「きゃあっ! 急に北国っぽい方言で怒鳴らないで!?」

 

 駄目だあれは、放っておいたら絶対にボロが出る。鳳は冒険者としてアドバイスを求めてくるアントンを適当にあしらうと、必死に目を通りに走らせ、

 

「ハイヤー! ハイヤー!」

 

 通りかかった無人の馬車に手を振った。彼は二人乗りの馬車を二台止めると、ミーティアの手を取って、

 

「女性を歩かせるなんて気が利きませんでした。ささ、どうぞ、ミーティアさん。こちらにお乗りください」

 

 鳳は慇懃に見えるだけで実際はそうでもない仕草でエスコートすると、有無を言わさずミーティアを馬車に押し込んだ。

 

 まだ話したりなかったのか、男同士で乗ろうぜというアントンを無視して、彼女に続いて馬車に乗り込むと、何もかも分かっていると言いたげにニヤリとした笑みを浮かべて、エリーゼがもう一つの馬車にアントンを引っ張っていった。

 

 ミーティアは密着する肩を滅茶苦茶気にしているようだったが、そんなことに気づかない鳳は馬車に乗り込むと、

 

「御者さん、取り敢えずこの街のメインストリートに……そうだな。洋服屋や仕立て屋のあるとこへお願いできるかな」

 

 音もなくスーッと馬車が動き出す。彼の馬車に続いて、アントンたちの乗った馬車が追い駆けてきた。振り返るとエリーゼがにこやかに手を振っている。鳳も笑顔を返しながら、向こうの馬車には聞こえないくらいの声で、

 

「ミーティアさん、そろそろ落ち着いた?」

「ひ、ひゃい。大丈夫です!」

「こういうの苦手なのかも知んないけど、いい加減、あんまり慌ててるとバレちゃうよ」

「す、すみません……こちらが突き合わせてしまっているというのに、フォローまでさせてしまって」

 

 ミーティアは涙目になって落ち込んでいる。その表情は相変わらず般若のようにしか見えなかったが、鳳はこれでも落ち込んでるんだなと判断すると、空気を和らげるつもりで優しい声色で言った。

 

「ミーティアさんさ、好きとか恋人とか言われても、自分のことだと思わなきゃいいんだよ。自分のことだって意識するから慌てちゃうんだ」

「そ、そうですね。でも、意識しないにはどうすればいいのか……」

「例えばミーティアさんって、演劇とか小説とかって好き?」

 

 彼女は首を捻りながら、

 

「……? そうですね。この街に住んでた時は、年に数回ある大劇場の公演に行くのが楽しみでした」

「なら、今、自分は舞台を演じてると考えるんだ。要するに役者になりきるのさ。例えば俺は、アイザックに味方したせいで国を追われ、身分を隠して旅をしているヘルメス貴族ってことにする」

「鳳さんが貴族ですか……? ぷっ」

「笑うなよ。そんで、あんたはそんな俺の正体を知ってて、周囲にバレないように協力してくれてるギルド職員なんだ。現実と同じだからなりきるのは簡単だろう?」

「ふむふむ……」

「二人はヘルメスで出会い、紆余曲折を経てこの街まで落ち延びてくるんだけど、そこには帝国の魔の手が迫っていた。俺は身分を隠すために冒険者を装っているんだが、そんな俺をフォローするにはミーティアさんの協力が必要だ。そこで四六時中一緒にいられる恋人という身分を偽り、二人は協力して周囲を騙しているんだ」

「ははあ。二人が恋人でないことがバレると、鳳さんが疑われて、帝国に捕まってしまうかも知れないんですね?」

「そうそう、そんな感じ。それであんたは嫌々ながら俺の恋人役を演じているんだ」

「嫌ってことはないですけど……」

「そう? それはそれで嬉しいけど、下手に意識してボロを出したら、俺が捕まってしまうから、ミーティアさんはそれっぽく演じなければならない。そう考えれば、突然、話を振られてもそんなに恥ずかしくないだろう?」

「なるほど……やってみましょう」

「よし、それじゃミッションスタートだ……すみません、御者さん、そこで止めて!」

 

 鳳の合図で馬車が道路の脇に止まった。あとから追い駆けてきていた二人の馬車も続けて止まり、下りてきたアントンがどうかしたのか? と尋ねてくる。

 

「いえ、ミーティアさんと並んで馬車に乗ってて気づきました。僕は冒険に出るつもりで、せっかくのデートだと言うのに、いつもの服装で来てしまいました。このままじゃ彼女に釣り合わないから着替えさせては貰えませんか?」

「はあ? 別にそんなに変な格好じゃないと思うが……」

「あら、彼女のために着飾りたいなんて素敵じゃない。お洋服なら、私いいお店を知ってますよ」

 

 エリーゼのフォローに乗って、鳳たちは彼女の案内するお店にやってきた。そこは村の仕立て屋みたいなオーダーメイドも扱っているが、主に既製服を売っているアパレルショップだった。

 

 揉み手しながら出てきた店員を適当にあしらい、自分の洋服を見るふうを装って、鳳はレディースの服にちらほらと視線を飛ばした。彼はその中にミーティアに似合いそうな服を見つけると、楽しそうにそのミーティアと回っていたエリーゼにこっそりと近づいて、

 

「エリーゼさん、エリーゼさん。ちょっといいですか?」

「なにかしら?」

「これ、ミーティアさんに似合うと思いませんか?」

「え? そうねえ……」

 

 エリーゼは最初、何言ってんだこいつといった渋い表情をしていたが、すぐに鳳が何をしたいのかを察すると、

 

「とっても似合うと思うわ! ちょっと待ってね? ミーティア、こっち来て!」

「なんですか?」

「この服、あなたに似合わない? ちょっと着て見せてよ」

「ええ……? こんなの私に似合いませんよ」

「いいからいいから」

 

 ミーティアはエリーゼにぐいぐいと押されて試着室に入っていった。アントンはつまらなそうに端っこの方でぼんやりしている。店員は二人のやり取りをこっそり見てニヤついていた。鳳は人差し指を口に当てて、しーっと沈黙のジェスチャーをすると、ミーティアが試着室から出てくるのを待って、

 

「ど、どうですか……鳳さん、似合いますか?」

「ああ、なんて素敵なんだ! ミーティアさん。それはまるで、あなたのために誂えられたような服ですね!」

「え、えええー!? そ、そうですか?」

「ええ! とってもお似合いです。そうだ! 良かったら僕にプレゼントさせて貰えませんか? いつもあなたにお世話になっているお礼です」

「ええ!? 悪いですよ……そんな気を使わないでください」

「ううん、気なんて使ってませんよ。僕はただ、恋人にはいつも綺麗でいて欲しいだけなんです。是非、僕のワガママに付き合ってください」

 

 ミーティアはいつもの般若顔にはならずにもじもじしながら、

 

「そ、そんな、綺麗だなんて……もう! 鳳さんってば、みんなの前で恥ずかしいですよ」

「ごめんごめん、ミーティアさん。受け取ってくれる?」

「仕方ないですねえ……そしたら私にもお返しさせてください。実は、さっきあっちで、あなたに似合うシャツを見かけたの」

「……!? ああ! 僕はなんて幸せなんだっ!」

 

 多少わざとらしいが……というかアントンははっきりわざとらしいって顔をしていたが、エリーゼの方には受けが良かった。彼女はしきりに羨ましい羨ましいと連呼して、彼氏にアピールしていたが、彼はぽかんとしているだけでちっとも動く気配がなかった。きっと後で酷い目に遭うだろう。

 

 店員がやってきて、このまま着ていかれますか? と言うのでお願いすると、その場で裾を詰めてくれた。現代と違ってファンタジー世界だから、店員といっても縫製のスキルは驚くほどあるし、工業製品ではないので服も素晴らしく頑丈のようだった。

 

 これならいくら高い金を出しても悪い気はしないぞと満足してると、結局、気の利かないアントンに業を煮やしたエリーゼが不機嫌になったところで、別の店員がやってきてレンタルもしているからと、二人にも服を勧めてきた。4人は新しい、ちょっと派手でミーハーな服に着替えると、また街へと繰り出した。

 

 取り敢えず、お上りさんなら絶対オススメの観光名所に案内してもらったら、街の中心から伸びる大通りに沿って続く劇場街に連れて行かれた。通り沿いに、右を見ても左を見ても、どこまでも劇場が連なっている。

 

 まるでブロードウェイみたいだなと思ったが、考えても見ればニューアムステルダムとはニューヨークの古地名である。この街を作った者は、もしかするとそれを意識していたのかも知れない。

 

 演目は何をやってるんだろうか? と思って見てみたら、なんとシェイクスピアの名前が飛び込んできた。誰かがコピーしたのだろうか、それとも過去に本物が居たのだろうか。ヴェニスの商人を演ってる小屋があったが、シャイロックは何人なんだろう? 気にはなったが、流石に演劇なんか見ていられるほどの時間は無いので、今日は諦め別の日に改めて来ようという話になった。

 

 劇場街を通り抜けて街の広場へとやってくると、あちこちに露店が立ち並び、香ばしい香りが漂ってきた。市場と商店を人々が行き交うのを眺めつつ、オススメのB級グルメをぱくつきながら、次はどこへ行くかと4人で相談する。

 

 デートの定番といえ映画館や美術館なんかもいいだろうが、しかし映画はもちろんやっていないし、美術館は多分、何を見てもわけがわからないだろう。この世界の歴史に詳しくないので、例えば、レオナルド作エミリア像なんてものを見たとしても、なんじゃこりゃ? と思うだけで、ちっとも面白くないわけだ。逆に言えば、歴史をある程度知っていたら、それなりに楽しめるわけだが……

 

 鳳はふと思い立ち、それなら図書館に行くのはどうかと提案してみた。この面子からして図書館デートなんてあり得ないが、純粋に自分が興味あったからだ。

 

 意外にも反対はされなかったのだが、提案はもちろん却下された。というのも、そもそも図書館なんてものはこの街にはないそうなのだ。図書館(ライブラリー)を持つのは金持ちの特権で、この国だと13氏族の王城くらいにしかないらしい。知識の殿堂にアクセスするには、相当強いコネと許可が必要なのだ。

 

 だが本屋なら世界一大きいのがあると言われて、鳳は思わずずっこけそうになった。どうやら、無料で貸し出すという概念がないだけで、本自体はそこそこ流通しているらしい。

 

 是非見てみたいとお願いし、そして連れてこられたのは、現代でも大書店と呼ばれる規模の大きな本屋であった。地下1階、地上5階建てのその建物は、全フロアに所狭しと本が並んでいる、まさに本のデパートである。

 

 入り口に平積みの新刊が並んでいたりはしないが、それでも同じ背表紙の本が並んでいるところを見ると、どうやらこの世界にも活版印刷の技術はあるらしい。ミーティアが言うには、小説が娯楽として定着しているそうだが、流通の方がまだまだ前時代的であるから、ベストセラーが田舎に届くまで相当時間がかかるようだ。

 

 そのため本も大量生産されるわけではなく、せいぜい同人誌レベルの部数しか刷られないので、娯楽本はともかく、専門書なんかは相変わらず物凄い高額で取引されているようだった。

 

 本来なら、この世界の科学レベルを知るために、実用書の類を手に入れたかったのであるが、残念ながら指を咥えて眺めるくらいしか出来なかった。殆どの本は、家が買えてしまうくらいの値段をつけられてしまっていて、手も足も出なかったのだ。

 

 しかし、そうして実用書のコーナーを冷やかして回っていたら、代わりに彼は面白いものを発見してしまった。大昔の偉人が書いたと言う魔術書や祈祷書の中に、相対性理論や量子論を扱ったものが混ざっていたのだ。

 

 この世界にはニュートンだとかダ・ヴィンチだとかがいるわけだし、鳳やジャンヌのような現代人もいるのだから、もしかしてとは思っていたが、どうやら過去の放浪者の中には現代科学をこの世界に蘇らせようとした者も、ちゃんと存在したらしい。

 

 しかし、それらの技術は誰からも理解されることなく、魔術の類として片付けられてしまったようだ。まあ、それも仕方ないことだろう。ついさっきアントンと話したように、この世界にはライフルがあるくせに、場合によっては剣のほうが優秀であるとか、元の世界の常識では測れないような事がありうるのだ。

 

 例えば、レオナルドの作ったティンダーのスクロールがあれば、誰も火打ち石を使ったり、マッチを欲しがったりしないわけだ。すると、鉄を用いた着火具は生まれず、グアノを掘ってリンを手に入れようなんて考えないわけで、その分、科学技術の発展が遅れることになる。

 

 そして放浪者の存在がまたおかしな味付けをしてしまう。ニュートンが惑星の運動から力学を説いたところで、この世界の神様はアブラハムの神ではないので、みんな「あっそうなんだ」と受け入れるだけなのだ。放浪者であり偉人でもある、初代ヘルメス卿が言うのだから、きっと本当なんだろうと、誰もそれ以上考えようとはしない。

 

 だから実用書とは言っても、魔導書とか祈祷書のように誰からも理解されず、そしてこれから先も当分理解されることのない本が生まれたのだろう。

 

 魔法のほうが便利だから、科学が発展しないのだ。科学って、一体なんなんだろう……鳳は思わず唸ってしまった。

 

「お探しの本は見つかりましたか?」

 

 鳳が一人でそんな実用書を開いてニヤついていると、いつの間にか肩を並べるように立っていたミーティアが、彼の顔を覗き込みながら囁いた。ハッとして振り返ると、アントンとエリーゼの二人が退屈そうにあくびを噛み殺していた。

 

 しまった……大量の本を前に、つい我を忘れてしまったが、今はダブルデートの最中だった。それも偽装の。彼女のことを忘れて本に没頭するなんて姿を見せたら、嘘だということがバレてしまう。

 

「これはこれは、大変失礼いたしました。つい本に夢中になってしまい……」

 

 鳳が慌てて二人に謝罪すると、

 

「いえ、お気になさらずに。私たちならいくらでも待ちますから」「ミーティアの彼氏ってインテリなんだな~」

 

 二人共、それほど飽きてはいないようだった。それもそのはず、

 

「女学校時代は、ミーティアによく付き合わされたっけ」「こいつ、本棚に齧りついたら動かなかったからな」

 

 意外にも、ミーティアの趣味も読書であるらしい。なので、趣味が似た者同士お似合いであると、かえって印象は良かったようだ。慌てて話をあわせて、お茶を濁す。

 

 その後、何か一冊でいいからと探し当てたニュートンの著書を手に入れて、四人は本屋から外に出た。まさかあるとは思わなかったが、どうやら初代ヘルメス卿はこっちでも著書を残していたらしい。ミーティア曰く、帝国では禁書扱いだが、勇者領ではもちろんベストセラーなので、多少値が張るとは言っても、十分に手が出る範囲だった。

 

 鳳が手にした本を持ってウキウキしていると、「そうしていると、本当にミーティアの彼氏なんだって実感がわきますね」とエリーゼが言っていた。災い転じて福となすとでも言うべきか。

 

 その後、お詫びを兼ねてゴンドラツアーを奢ることにした。ニューアムステルダムはゼロメートル地帯という水の都だから、縦横無尽に水路が伸びている。ゴンドラは、ヴェニスみたいに観光客なら必ず乗るという定番コースなのだが、案の定、地元の三人は乗ったことがないそうだった。

 

 東京に住んでるとスカイツリーに行きたくないように、なんとなく田舎者みたいで気が引けるらしい。だが、そこが狙い目で、お上りさん丸出しで3人を説得し、無理矢理乗せてしまえば、あとは地元の3人の方がよっぽど楽しんでいるようだった。

 

 人間というものは保守的な生き物だから、元々自分の街が好きなのだ。だからいつもとは違った視点で自分の街を眺めてみると、楽しくてしょうがないのである。デートの行き先に困ったらはとバスに乗れというが、あれは至言だ。どうせ人間の行動範囲なんてたかが知れてるのだから、たまには誰かに行き先を決めてもらうのも、意外な発見もあって乙というものだろう。

 

 ゴンドラツアーでみんなのテンションも上がってきたせいか、二人はもう鳳たちの関係を疑っていないようだった。ミーティアもだいぶ慣れてきたようで、手をつないでも焦ることもなく、鳳がほっぺたにソースをつけていたら、何も言わずにそっとハンカチで拭ってくれた。

 

 それをエリーゼに冷やかされても、まるで動じず、

 

「うるさいですねえ……私のことばかり気にしてないで、そっちの大きい子供の面倒も見てやりなさい」

 

 と逆にやり返すようになっていた。これには言われた二人も苦笑いで、しょうがないなといった感じの顔をしてから、鳳たちに見せつけるように腕を組んでいた。

 

 ゴンドラは終着点の波止場にやってきた。最後は海の見えるレストランで食事をしようと言うプランで、添乗員の声に誘導されてゾロゾロと港を横断する。その時、鳳はふと思い立って、三人をツアーから連れ出した。

 

 どうしたの? と首を傾げる3人に、

 

「せっかくみんなオシャレしてるんですから、あっちの店に入りませんか?」

 

 見れば波止場には観光客が入るようなレストランの他に、上流階級が入るような豪勢なレストランがあった。入り口には黒服が立っていて、やってくる客の服装をチェックしている。見た感じ、よほど奇抜な格好でない限り、正装してれば良さそうだった。

 

「え……あれですか? 中でギャンブルとかやってる、怖そうなお店ですよ?」

 

 ミーティアはドレスコードのあるような店に入ったことがないようで不安そうにしていたが、意外にもエリーゼが乗り気のようで、

 

「いいですねいいですね。一度、ああいうお店に入ってみたかったんです。いっつもミーティアが尻込みするから、結局一度も入れずじまい。ねえ、アントンもいいでしょ?」

 

 アントンが頷き、3対1となったところでミーティアがやれやれと言った感じに折れ、4人は意気揚々と高級レストランへと足を向けた。

 

 ミーティアは緊張しているのか、密着するように鳳に肩を寄せてくる。演技だよな? と思いつつ、そのおっぱいの感触を役得と内心喜んでいたが、結果から言えばこの行動は余計だった。

 

 4人は入り口の服装チェックを突破し、ドキドキしながら店の中へと入った。店はホテルに併設された複合施設で、ドッグレース場やカジノ、プールバーなどが入った巨大アミューズメント施設だった。

 

 中央の吹き抜けのレストランでは生バンドの演奏をバックに若い男女が踊っている。ダンスといっても、ディスコのようなものではなく、鹿鳴館みたいな社交場である。ひらひらした衣装で着飾った男女が、音楽に合わせて踊る姿は中々の見もので、へえ、いいじゃないと思いつつ近づいていったら、

 

「……エリーゼ? エリーゼじゃないか!」

 

 ダンス場横のレストランにいた年配の男性が突然声を掛けてきた。

 

「げっ……お父様……」

「おまえ、どうしてこんな不良しかいないようなところに来ているんだ?」

「そんなの私の勝手でしょう? お父様だっているじゃない!」

「俺は大人だからいいんだ。それにこうやって食事をするのも仕事だ! なのに何だお前、俺の金で育っておきながら、こんなところに出入りして」

「はあ!? そんな子供の頃のことで私の現在まで否定しないでよ! 今はもう、お父様のお金なんて少しも当てにしてないのに!」

「なにおう……だったらお前に今まで掛けてきた金を全部返して見せたらどうなんだ! 安月給のくせに、いっちょまえの口を聞きおって」

 

 どうやら、たまたまエリーゼの父親が来ていたらしい。なんだかえらく感じの悪いおっさんであったが、見たところ、仕事をバリバリこなすビジネスマンといったところだろうか。もしかすると彼女はお金持ちの娘だったのかも知れない。

 

 二人が罵り合いを始めると、たまらずアントンが割って入るが、

 

「あー……エリーゼ、ここは人目もあるから冷静に……」

「だって!」

「むっ……貴様は、まだ娘につきまとっているのか!」

「お久しぶりです、お父さん」

「貴様にお父さん呼ばわりされるいわれはない!!」

 

 結局はアントンも混じって三人でごちゃごちゃと喧嘩を始めてしまった。

 

 どうしたものかと戸惑っていると、父親と一緒に来たらしき連れも同じく戸惑った表情でこちらを見ていたので、お互いになんとなく会釈を交わしていたら、頭皮をバリバリと掻きむしりながらアントンがやってきて、

 

「すまん、鳳、ミーティア。もう少し一緒に楽しみたかったが、俺たちは見ての通り野暮用が出来ちまったようだ。悪いが、ここでお別れだ」

「いえ、こちらこそすみません、俺がこんな店に入ろうなんて言ったばっかりに」

「いいや、全然、今日は楽しかったよ」

 

 アントンはそう言ってから、ふっと力の抜けた表情を見せ、鳳にだけ聞こえる声で、

 

「……正直、ミーティアの彼氏なんつーから、どんなやつなんだと身構えてたが……おまえで良かったよ。あいつ、面倒くさいけど良いやつだから、末永く、仲良くしてやってくれ」

「はあ……あ、はい」

「それじゃ、悪いな。二人とも、会えて良かった」

 

 そう言ってアントンは喧嘩をしている父娘の元へと駆けていった。

 

 取り残された鳳たちはお互いに顔を見合わせると、思ったよりも近いその顔が、なんだか急に気恥ずかしくなってきて、ぱっと離れた。さっきまでなんとも無かったのに、二人きりになった途端にすぐこれだ。人間の心理とは不思議なものである。

 

 彼女が捕まっていた上腕のあたりがジンジンしていた。夜はまだ始まったばかりだった。

 



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やり遂げました

 エリーゼとその父親が口論しながら去っていく。置いてけぼりにされた父の連れが右往左往する中、申し訳無さそうに後頭部をガリガリと引っ掻きながらやってきたアントンは、今日はこれでお開きにしてくれと謝罪して去っていった。

 

 取り残された鳳たちは、彼らの後ろ姿が見えなくなるのを確認すると、どちらからともなく繋いでいた手を離した。その瞬間、ミーティアの姿がふらついたのを見て、慌てて腕を伸ばしたが、彼女は鳳の腕を掻い潜るように、どっとその場にあった椅子に腰を下ろすと、

 

「や……やり遂げました……」

 

 ミーティアは、まるで全てを出し尽くしたボクサーみたいに燃え尽きていた。鳳はフロアを流しているウェイターからグラスを二つ貰うと、片方を彼女に差し出した。

 

「ありがとうございます……おいくらですか?」

「いや、こういう店はお金取らないよ」

「そういうものですか……鳳さんは、こういうお店によく出入りしていたんですか?」

「いや全然」

 

 日本にはこういうカジノなんかは無かったし、そもそもここは異世界である。じゃあ、なんで知ってるのかと言えば、そこはそれ現代人だからとしか言いようがない。金持ちというのは下らない付き合いが多いのだ。エリーゼの父親のように。そういや、あのオヤジは何者なんだ? と思っていると、

 

「驚きました……」

「何が?」

「いえ、巻き込んでおいて私が言うのも気が引けますが、鳳さんが思った以上に手慣れていて……要所要所でエスコートしてくれたり、手を握ってくれたり……きっと、こういうことは苦手な人なんだろうなと、勝手に想像していました」

 

 鳳は苦笑しながら、

 

「そりゃもちろん苦手だよ。だから思いきれるんじゃないか」

「どういうことです?」

「こういうのも木を隠すには森の中っていうのかな? 人間ってカップルが喧嘩していると首を突っ込みたがるくせに、逆にイチャイチャしてると目を反らすんだ。面白くないから。だから、恋人に成り切るなら、思い切って一次接触を多めにしたほうが粗が目立たなくなる。実際、一回イチャツイた後からは、もうあの二人は何も言わなくなってただろ。あれは疑いが晴れたわけじゃなくて、関心が無くなったからなのさ」

「なるほど」

「恋人を演じるなら、本物以上に接触を多くしたほうがそれっぽく見えるもんだよ。もしそれが本物なら、あんなの恥ずかしくって出来ないってのにね。ミーティアさんも、これは演技だって意識するようになってからは、気にならなくなったでしょう」

「そう……でしたね」

 

 本当に、鳳の言うとおりだった。ずーっと彼のことを意識しまくっていたくせに、一度これは演技だと腹を括ってからは、何をされてもそれほど気にならなくなった。寧ろ、そんなスキンシップが楽しいとさえ思えてきた。

 

「人間ってのは多かれ少なかれ自分を演じている。ステレオタイプに自分をはめたほうが生きやすいから。恋人同士だってそうなんじゃないの。最初は相手のことを意識しまくっていた人たちも、恋人って役割を演じ始めることで本物に近づいていくわけだ。どんなものにもそう言うプロセスがあるって知ってれば、自分を偽ることなんて大したことないのさ。どうせみんな最初は偽物なんだから」

 

 と同時に、鳳がミーティアに……そして自分自身にも無関心だということが、嫌というほど分かってしまった。ついさっきまで、彼が自分に触れてくれるだけで、まるで天にも昇る心地だったというのに、優しい言葉も、触れた手の温もりも、何もかもがウソだと分かってしまうのだ。

 

 鳳と手を繋ぎ、腕を組んで、恋人のふりを続けていくうちに、どんどん自分が慣れていくのを感じると同時に、胸がチクチクするようになっていった。お陰で、幼馴染たちからの追求は交わせたが、その代わりに何かを失ったような気がした。例えバレたとしても、彼に触れられるだけで嬉しいという気持ちのままで居られた方が、もしかしたら幸せだったのかも知れない。

 

 そして、それが幼馴染にバレた時にどう思われたとしても……きっともうなんとも思わなかった。

 

「そう言えば、まだ話していませんでした……」

「何が……?」

「鳳さんに、こんなおかしなことをお願いしたわけを」

「ああ」

 

 彼は聞かせてとも、言わなくてもいいとも言わず、手にしたグラスを傾けていた。ミーティアはグラスの中身を飲み干すと、テーブルに突っ伏すようにしながら話し始めた。

 

「本当に、今思えば大したことじゃなかったんですが……私とアントンは子供の頃から隣同士の、いわゆる幼馴染の関係でした。両親同士とても仲が良くって、元々は私の父が彼の父のお弟子さんという、大工の徒弟だったのですが、私たちが生まれた頃には仕事上のパートナーとして、お互いの家を行き来するような関係になっていたんです。

 

 ですから私と彼は子供の頃から何をするにも一緒でした。学校に行くのも、遊びに行くのも、彼の背中を追い駆けるのが、私の日常だったんです。私はそれがずっと続くんだと思っていたんですよね。でも、彼の方は違ったみたいでした。ある日突然、冒険者になるって言って、家を飛び出してしまったんです。

 

 お隣は大騒ぎでした、そりゃ跡継ぎがいきなり家を飛び出してしまったんですから、当然ですよね。そして、うちもそれなりにショックを受けていました。うちの両親は、いつか私とアントンが結婚をして二つの家が一つになるんだと、そう考えていたんでしょうね。私も子供の頃から漠然とそう考えていたのですが……ですが私は特に慌てることはありませんでした。

 

 私としては彼が大工になろうが、冒険者になろうが、気持ちに変わりなかったんです。ですから、彼が冒険者になるんであれば、自分も冒険者か……駄目ならギルドの職員になろうと思って、それで女学校に進学したんですよ」

「女学校なんてあるんだ?」

 

 彼女はこくりと頷いて、

 

「この町では、女性が自分のやりたい仕事をするには、お金持ちに生まれるか女学校へ通うしかありません。学校の紹介がないとギルド職員にはなれないんですよ。

 

 うちは裕福ではないにしろ、私を女学校へ通わせるくらいのお金はありましたから、私がそうしたいと言ったらすぐに両親は賛成してくれました。両親は薄々、私の考えていることが分かっていたんでしょうね。

 

 そうして女学校に入った私は、寄宿舎でエリーゼと出会いました。彼女はさっき見ての通り、この街の富豪の娘で、私みたいに特に何かになりたくて入学したわけじゃなくて、そうするのが当たり前で入学したんです。

 

 同室になった私たちは意気投合しました。女学校時代は何をやるにも一緒、どこへ行くのも一緒、そして卒業後の進路が一緒になるのも時間の問題でした。私は彼女がギルド職員になりたいって言った時は、自分なんかでも誰かに影響を与えることが出来るんだって、誇りを感じたものです。

 

 ですが、それが後になって自分に不都合な結果となって返ってくるとは、その時は思いもよらなかったんです」

 

 ここまで聞けばその後どうなったかは大体分かるが……鳳は黙って話の続きを促した。

 

「無事に卒業した私たちは揃ってギルドに就職しました。私たちの仲が良いことは知れ渡っていましたから、研修も同じ行き先でした。多分、ギルドが気を利かせてくれたんだと思いますが、私たちの研修先はアントンがホームにしている街でした。私は以前からエリーゼに、冒険者になった幼馴染がいることを話していましたから、彼女も彼に会うことを楽しみにしていました。

 

 そして、あとはお分かりですね。ギルド職員になった私はアントンと再会し、同僚のエリーゼを紹介したんです。二人はすぐに恋に落ちました。笑っちゃうくらいに」

 

「……そうか」

 

「それは私にとってはショックな出来事でした。言うまでもなく、私はアントンのことが好きでしたし、彼を追い駆けてギルド職員になったんです……ですが、私は一度も彼に自分の気持ちを伝えたことはありませんでした。きっと、彼も自分と同じ気持ちなんだって、そう思って。

 

 ですが、それは間違いだったんです。彼は最初から、私のことは仲の良い幼馴染としか思っていなかったようです。当たり前ですよね。私自身が、そのように振る舞っていたんですから……そしてその馬鹿な幼馴染が、運命の出会いを、馬鹿みたいに導いてしまったというわけです」

 

 鳳はなんと声を掛けていいか分からなかった。だからもちろん黙っていた。でも本音は、あなたは馬鹿じゃないという言葉を伝えたくて、もどかしかった。

 

「私はどうしていいか分からなくなりました。親友だと思っていた子に、好きな人を取られたという思いも当然ありました。ですが、それだって自分が悪かったんですよ。私はエリーゼの親友を気取っていましたが、彼女にアントンのことが好きだとは、一度も言ったことが無かったんです。寧ろ、手のかかる弟みたいな、そんな存在だって、ずっとそんな嘘を吐き続けていたんです。

 

 全部自分の撒いた種なんです。私が出来るのは二人の幸せを祈って身を引くことだけでした……私が自分の気持ちを封印すればそれで済むと、そう思いました。ですが、それでは済まない出来事が起きてしまったんです。

 

 ギルドの研修を終えてこの街に配属された私たちを追い駆けて、アントンもこの街に帰ってきたんです。彼は家を飛び出してから実家に帰っていなかったんですが、エリーゼという恋人が出来たことで、ある日、彼女を紹介するつもりで、数年ぶりに実家に顔を出したんです。

 

 もちろん、大喧嘩ですよ。跡継ぎと思っていた長男が好き勝手やって帰ってきたんだから、当然です。ですが、そんなことよりも彼の両親が怒ったのは、困ったことに私のことだったんです。

 

 数年ぶりに家に帰った彼は、ご両親と喧嘩しながらも、エリーゼを紹介したいと切り出しました。彼としては将来の嫁を連れてきたと言えば、両親の機嫌も直ると思ったんでしょう。ですが、それを聞いた彼のお父さんは激怒したんです。どうして、私じゃなくて別の女を連れて帰ってきたんだって……

 

 私と、私の家族と、彼のご両親は仲良しでしたから、彼らもまた私がアントンを追い駆けてギルド職員になったことに気づいていたんです。ですが、そんなことを言われても今更どうしようもありません。彼も、そんなことは無いと思っていたんでしょうに、彼のご両親がそれを咎めるのです。

 

 彼らの親子喧嘩はいつまでも続き、それは私の耳にも届きました。何しろ隣の出来事ですから、私の両親が、彼らを止めてくれと、私のことを呼び出したんです。

 

 そうして私が駆けつけた時にはもう喧嘩は終わっていました。

 

 そして静まり返る隣家の前に、ただアントン一人が座っていて、私を見つけるなり聞くんです。お前は俺のことが好きなのか? って。

 

 だから私言ってやりました。あんたなんか嫌いだって」

 

 しんみりとした空気が流れていた。周囲は人の声でいっぱいだったのに、彼女の声以外は殆ど耳に届かなかった。そんな奇妙な静寂の中で彼女は続けた。

 

「それから先は本当に、うんざりするような毎日でした。私は彼の両親に、彼のことはなんとも思ってないと伝え、自分の両親に、未練はないと伝えました。そして騒ぎを知った親友に、彼の両親の笑っちゃうような勘違いを、私の口から説明しなければなりませんでした。

 

 それでも疑いは晴れず、もしも私がアントンのことを好きならば身を引くというエリーゼに向かって、私は冗談じゃないと言いました。確かに私は彼の影響でギルド職員になりました。でもそれは、自由な彼が羨ましかったからであって、あんなのと一緒になるつもりはない。その証拠に、私は近いうちにこの街から出ていくつもりだと言ったんです。

 

 ギルドには貴族からの依頼もありますから、私はギルド職員の立場を利用して、玉の輿に乗るつもりだと。そのために、あなた達とは別の道を行くことになるけれど、いつか私に彼氏が出来たら、お互いの男を値踏みしましょう。まあ、私の圧勝ですが……そう言って、私はこの街からヘルメスへと転勤を願い出たんです」

 

 彼女はそう言うと、空中のなんでもない場所を見つめながら、はにかむように宣言した。

 

「私は彼のことが好きでしたが……彼女のことも好きだったんですよ」

 

 その言葉に、多分、偽りはないのだろう。演技している感じはまったくしなかった。

 

 ミーティアはそれで、あの街に居たのか……鳳は彼女と初めて出会った国境の街を思い出していた。

 

「次に会う時はいい男を連れてくると言っちゃいましたからね……そんなわけで今日、予期せずして二人と再会してしまった時、焦ってしまって、思わずあなたに恋人のふりをして貰ったんです。もし、まだ私が独り身だと知ったら、エリーゼが気にするかも知れないと思いまして」

「そっか……」

「でも、その必要は無かったかも知れませんね」

「……どうして?」

「二人がいくらイチャイチャしてても……彼がエリーゼパパをお父さんなんて呼んでても……なんとも思わなかったんですよ。この街を出ていく時は、もう二度とここには帰ってこないなんて、そのくらいの覚悟をしていたんですが……ちゃんと時間が解決してくれるんですね。恋は……」

 

 そう言って皮肉っぽく笑う彼女の表情は、どこかの絵画から飛び出してきたかのように、奇妙な美しさを湛えていた。女性は恋をすると綺麗になるというが、敗れればもっと美しくなっていくのかも知れないと、彼は思った。

 

「まあ、それで実際に玉の輿に乗って帰ってこれたら格好良かったんですけどね……ヘルメスへ行ったまでは良いものの、あの街ではロクな出会いがなくって困ってしまいましたよ。たまに、貴族のパーティーにも参加したりもしましたが、私が良いなと思っても、何故か男性はみんな私の顔を見るなり逃げていくんです……私、そこまでブスじゃないですよね……」

「いやいや、とんでもない。ミーティアさんは美人だよ」

「ななな、何いってんだ、この男」

 

 すると彼女は顔を赤らめ、べしべしと鳳の顔面を平手打ちしながら殺伐と笑った。男たちが逃げ出したのは、つまるところ、彼女がテンパった時の顔が怖いからだろうが……また殴られそうなので黙っておく。

 

「そうこうしているうちに戦争が始まっちゃって、貴族と知り合うどころか、今度は大森林ですからね。街も燃やされちゃいましたし……」

「すんません……今度からはちゃんと、燃やす前に言います」

「いや、燃やさないでください……でも、いいです。こうして人里には帰ってこれましたし、友達とも再会出来たから」

「そっか……それじゃ、そろそろ帰ろうか。今ならまだ夕飯までに村に着けそうだ」

「あ、お腹が空いてらっしゃるのであれば、今日のお礼に私が奢りますよ?」

 

 彼女と一緒に食事をして帰るのも吝かではなかったが、

 

「いいよいいよ、お礼なんて。乗り合い馬車の時間もあることだし」

「そう言うわけにはいきませんよ。最後にみんなで乗ったゴンドラの代金もお支払いしましょう、いくらですか?」

「いや、いいってば。俺も楽しかったんだし、そういう野暮なことは言いっこなしだ」

「ですが、それじゃ私の気が済みませんって」

 

 鳳がそれでも彼女の申し出を辞退すると、ミーティアの方もどうしても何かしたいと引かなかった。このままじゃ埒が明かないと思った鳳は、いつものように、

 

「じゃあ、おっぱい揉ませて?」

「殴るぞこのやろう」

 

 と言っては、彼女の強烈なパンチを顔面に受けていた。いつもは猛烈な痛みにのたうち回る手刀も、今日はいつもより幾分優しい気がした。そしていつもはこういう時に見せる彼女の顔を、悪魔のようだと評していたが、今日の彼女の怒った顔は、不思議と魅力的に見えた。

 

「さてと、それじゃ、そろそろ行きましょうか?」

 

 彼が立ち上がって彼女に手をのばすと、ミーティアはその手を当たり前のように握り返してきた。立ち上がった彼女の邪魔にならないように椅子を引いてあげると、顔が近づいてきて、彼女がすぐ近くでニコリと微笑んだ。鳳はそれに笑顔を返そうとして、ふと思い出した。

 

 今日一日ずっとそうしていたから、気がつけば習慣のようにそうしてしまったが、よく考えれば二人は元々そういう関係ではないのだ。そう思うと鳳はなんだか顔が熱くなってくるような気がして、思わず彼女から視線を逸した。そう言えばさっき、彼女のために取ってきたグラスには、アルコールが入っていたから、きっと酒のせいに違いない。

 

 鳳は喉の乾きを覚えてきて、彼女の手を離すと、通りすがりのウェイターに何か飲み物をくれと頼んだ。何が欲しいかと尋ねる彼に、ノンアルコールの飲み物はないか? と言うと、よく知らない名前のジュースを差し出してきた。

 

 鳳はミーティアの分とあわせて二つ受け取ると、もう片方を彼女に渡して、ごくごくとそれを飲み干した。炭酸を含んでいるのか、口の中でパチパチとしながらも、とても喉越しの良い爽やかな飲み物であり、程よい甘みが疲れを癒やしてくれるようだった。

 

 感覚的にはフルーツソーダのようなものだろうか。あとはポテトチップスがあれば、宴が開けそうである。科学技術的に劣った世界だと思っていたが、こういう清涼飲料水もちゃんと生まれるんだなと感心しながら見ていると……鳳はその成分に奇妙なものがあることに気がついた。

 

 それはいわゆる大麻……げふんげふん……MPポーションの主要成分だったのである。鳳はそれが入っていることを自分のスキル『博物図鑑』を使うことで発見してしまったのだ。

 

 何故、そんなものが清涼飲料水に含まれているのか……MPポーションはうまく処理しないとただの青汁である。つまり、このジュースが飲みやすいのは、その成分だけを抽出したからだ。しかしMPポーションの高純度結晶は、鳳だけが作ることの出来る特別な薬のはずなのに……

 

 一体、どうやったんだ?

 

「どうかしましたか?」

 

 鳳がグラスを見つめて難しい顔をしていると、ミーティアが声を掛けてきた。彼は彼女に、このジュースを飲んでも体に変調はないかと確かめると、

 

「ごめん、村に帰る前にどうしても調べなきゃならないことが出来ちゃったみたいだ」

 

 と言って、彼はフロアを巡回するウェイターに手を上げて呼んだ。

 



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はい。ハイポーションです

 ミーティアの幼馴染たちと別れた鳳は、その時になってようやく彼女から恋人のふりを頼まれた理由を知った。かつて恋に敗れたミーティアは、結果的に彼女から幼馴染(アントン)を奪ってしまった親友(エリーゼ)が気にしないように、身を引いて遠い異国まで流れていったのだ。

 

 そこで幼馴染よりもっと格好いい彼氏を作ると宣言していた彼女は、残念ながらまだ恋人を見つけておらず、それでつい、隣にいた鳳のことを彼氏だと言ってしまったようである。

 

 ともあれ、そんな役得デートを終えた二人は、流れで入ったカジノのレストランで一息ついたあと、村へ帰ることにした。結果的にもう十分というくらい遊べたし、首都へ来た目的も果たしていたので、これ以上長居する理由が無かったのだ。

 

 ところが、そうして村に帰ろうとした矢先に、鳳はとんでもないものを見つけてしまった。何気なく受け取った清涼飲料水の中に、なんとあのMPポーションの成分が含まれていたのである。

 

 しかし、未処理のMPポーションは単にドロドロした青汁でしかなく、こんな爽やかな飲料水になるはずがない。とすると、考えられるのはその成分だけを抽出してジュースに混ぜているわけだが……その方法は鳳しか知らない秘密のはずだった。

 

 なのに、どうしてこんなところに、MPポーションの高純度結晶があるんだ?

 

 不審に思った彼は、ミーティアにもうちょっとだけ付き合って欲しいと頼むと、フロアを巡回していたウェイターを捕まえて、この飲料のことを尋ねてみた。

 

 ウェイターは、詳しいことは知らないと言いながらも、流石客商売というかサービス業というか、フロアの責任者に話を通してくれ、それが厨房に伝わってジュースの出どころが判明した。

 

 なんでも、つい最近売り込みに来ていた商人から仕入れ、試しに店においたところ、評判が良かったのでそれから毎日卸してもらっているらしい。店の場所を教えてくれると言うからメモをし、感謝の言葉を述べて店を後にした。

 

「あのジュースが……鳳さんが作った商品なんですか?」

「そう。あの街の攻防戦の時に、主にMP消費する人たちが使ってただろ?」

「ああ……あの、なんか怪しげな薬」

「そう、あれ。あの成分が含まれているんだ」

 

 怪しい、は一言余計であるが、

 

「その製法は俺しか知らないはずなんだ。もちろん、俺以外のやつに作れないとは言わないけど、もしもその方法を知ってるやつが居たんなら、俺が作る前にとっくに流通していなきゃおかしいだろう。だから、これを作ったやつは、俺のMPポーションの高純度結晶を見たか、実際に使ったことのあるやつに違いない。それが誰だか気になってね」

 

 あの街の攻防戦には多くの冒険者達が参加していた。中にはスカーサハのような神人も居たから、そのうちの一人に違いない。

 

 そんな説明をしながら街を歩いていくと、問題の店が見えてきた。店は魔法具店の看板が掛けられており、入り口すぐ脇のショーウィンドウの中には、先程のジュースを瓶詰めにした商品が並んでいる。

 

 店にはひっきりなしに人が出入りしていて、客は中でキンキンに冷やされたジュースを買って帰っていくようだった。店の前には行列も出来ていて、ネットもない世界だというのに、口コミだけでこんなに繁盛するのかと驚かされた。

 

 鳳はすぐにでも中に入って誰がこの店を経営しているのか確かめたかったが、横入りして中に入るには他の客の視線が痛かった。仕方ないので鳳も行列に並び、順番を待って店内に入る。

 

 店内は魔法具屋というよりも、パン屋とかケーキ屋と言ったほうが良いようなレイアウトで、入り口から入ってすぐのカウンターの中で、メイド服のような制服を着た女性がジュースを売っていた。どこかで見たことがあるような気がしたのは、かつて国境の街でルーシーが着ていた制服に似ているからだろうか。

 

 カウンターのショーウィンドウでは、他にもポテトやバーガーのような味の濃い食べ物も売っており、魔法具屋というよりも、ファストフード店のようだった。さっき、ジュースを飲んだ時にポテチが欲しいという感想を抱いたが、どうやら売ってる側もそのつもりでいたらしい。

 

 鳳は自分の順番が来るとジュースを注文し、ご一緒にポテトはいかがですか? という店員に断ってから尋ねてみた。

 

「こんばんわ。実はここのジュースの作り方が気になって、ちょっと聞きたいんだけど……」

「申し訳ございません、こちらの製法は企業秘密でして……」

「いや、作り方は知ってるんだ。そうじゃなくて、これを誰が作ったのかを知りたくって」

「……はあ? そんなわけないでしょう。これはうちの看板商品、この街で、いいえ、世界でも唯一うちでしか売ってない飲み物ですよ? ははあ……さては、あなた、他の店からやってきたスパイですね。私を騙して製法を聞き出そうとしてるんですね? そんな手には引っかかりませんよ! 残念でした! わかったら、さっさとお引取りください」

 

 店員は鳳のことをスパイと決めつけているようだった。もちろんそんなことはないし、ちゃんとした製法を知ってることを伝えることも出来るのだが、一店員相手にそんなことしても仕方ない。鳳は歯がゆさを噛み殺しながら、

 

「いや、そんなつもりは無いんだってば。困ったなあ……良かったら店長さんか誰かに話を聞かせて貰えないか」

「あなたもしつこい人ですね。うちが繁盛してるからって、嫌がらせですか? 他のお客さんもいるんで、買わないんならさっさと帰ってください」

「そこをなんとか……」

 

 鳳と店員がそうやって揉めていると、カウンターが騒がしいことに気づいた店主が、店の奥から出てきて、

 

「ちょっと、ちょっと、お客さん! うちの店員にちょっかいかけないで……」

 

 店員と揉めている鳳を見るや、追い返そうと怒鳴りかけたが……ところが、彼は口を開けたまま鳳の顔をまじまじと見つめると、目を丸くして、

 

「……デジャネイロの旦那?」

「……え?」

「デジャネイロ・飛鳥氏じゃないですか!」

 

 突然、昔のHNを呼ばれて鳳は驚いた。その名前を知っているのは、もうジャンヌしかいないはずだ。いや、もう一人いたっけと思った時、彼はそれが誰かピンと来て、

 

「あんたは……ああーっ!! 店主! 店主じゃないか! あの国境の街の魔法具屋の!」

「そうです、私です! いやあ~……お懐かしい! まさかこんなところで再会するとは! 一体全体、どういう風の吹き回しで、こちらに!?」

「それはこっちのセリフだよ! 店主こそ、ヘルメスに残ったんじゃなかったの? あっちの店はどうしたんだよ」

「いやあ~……話せば長くなりまして」

 

 さっきまでスパイだと思っていたのに、肩透かしをくらったウェイトレスがポカンと見つめていた。どうでもいいけど、買わないならさっさと出てけという、行列客の視線が突き刺さる中で、鳳と魔法具屋の店主は再会を祝して抱き合った。

 

***********************************

 

 再会を喜びあう鳳たちであったが、このままじゃ営業妨害になってしまうからと、店主に案内されて店の奥へと入っていった。ミーティアはせっかくの再会に水を差しては悪いからと言って、店の外で待っていると出ていった。

 

 そんなこと気にしないでいいのだが……彼女ですか? とニヤニヤ尋ねる店主になんて答えればいいか分からず、からかうなよと照れくさそうに躱した。

 

 店の奥は例のジュースの製造工場みたいになっていて、従業員達が黙々と空き瓶にジュースを注いで瓶詰めしていた。その製法は詳しいことは秘密だが、ソーダ水に砂糖といろいろな果物の果汁をブレンドし、最後に決め手のMPポーションの高純度結晶を、ほんのちょっぴり混ぜるそうである。

 

 何故こんなことをするのかと言えば、言うまでもなく、大麻の依存性を利用してリピーターを増やすためである。まあ、当の本人は売れてる理由をちゃんと理解しているかどうかは分からないが……

 

「こっちに越してきた時、最初は高純度結晶を普通に売ってたんですが、中々売れ行きが芳しく無くて。ほら、こっちは神人が少ないでしょう? 普通の人は、MPが枯渇するなんてことがまずないから……そこで新しい商材が必要になって、試行錯誤していたところ、こいつがヒットしまして」

「へえ、そうなんだ」

「私はこれをコカ・コ○ラと名付けて売りに出そうとしたんですが、その名前はまずいと、多方面からお叱りをうけて……仕方ないんで、それじゃ、一口飲んだだけでやる気が漲ってくるから、スーパーヤリヤリサワーと名付けて売りに出したんですが……」

「いや、そっちの方がまずいよ!?」

「え、ええ……そうですね。こちらも何故か評判悪かったから、最終的に従業員のみんなと相談して、クライスと名付けました! どうです、格好いいでしょう!?」

「いや、それもどうかと思うが……まあ、いいや」

 

 なんだかマグロの一本釣りでも出来そうな名前である。それはともかく、

 

「商品開発の経緯は分かったよ。でも、どうして勇者領なんかにいるんだい? あんたはヘルメスの国境の街に残ったはずだろう。今、自分でも言った通り、こっちにはMPを消費する神人が少ないから、せっかくの商材も宝の持ち腐れだ」

「ええ、ええ、その通りなんですが……寧ろ、私たちの商品が強力すぎたことが災いしまして……」

「どういうこと?」

「それがですね……戦争が終わった後、私たちのクスリの評判を聞きつけて、街には神人たちが買付にくるようになりました。それこそ飛ぶように売れて、最初の頃はそれに気を良くしていたんですが……あまりに売れるものだから、ある時、帝国軍が私たちの商品に目をつけて、その製法を教えろって言ってきたんですよ。

 

 もちろん、みすみす飯の種を渡すような真似はしません、断りました。すると嫌がらせが始まって……帝国軍の総司令官がヴァルトシュタインだった頃は、それでもまだなんとか耐えられたのですが、新司令官が就任すると歯止めがきかなくなってきて、ついには身の危険を感じるようになり……

 

 このままでは製法をただで奪われるどころか、命の危険まであると思った私は、ある日覚悟を決めて、帝国軍の目をかいくぐって逃げ出してきたってわけです」

 

 鳳は奥歯をギリギリ鳴らして地団駄を踏んだ。

 

「ちくしょう! 帝国の奴ら、許せねえ! 俺たちの夢の結晶をタダで手に入れようだなんて……店主、苦労したんだなあ……なのに俺、何も知らずに力になれなくって、すまなかった」

「いえいえ、そっちこそ帝国に追われてて、大丈夫でしたか? あれから、どうしていたんですか?」

 

 鳳が近況を伝えると、

 

「なんと! 大森林に潜伏していたんですか? あんな人智の及ばぬ秘境によくもまあ……さぞかし苦労したでしょう」

「いやそうでもないんだ。住めば都とも言うし、ちょっとしたトラブルが起こるまでは、わりと快適に暮らせていたんだ……そうそう、面白いものも見つけたしね。是非、あんたに見せたいって思ってたんだ」

「面白いもの?」

 

 鳳はニヤリと笑うと、持っていた鞄の中から乾燥キノコをぽんと取り出して、

 

「これは、大森林のとある部族のシャーマンが、神との交信の際に使う特別なキノコなんだ。こいつを一口飲めば、たちどころに宇宙の深淵にたどり着けるという、幻のマジックマッシュルームさ」

「ま、幻のマジックマッシュルーム……是非! 私にも一つ恵んでください!」

「もちろんだとも! ただ、残念なことに、こいつの栽培条件は特殊すぎて、量産は出来そうもないんだ。手持ちが尽きたら、今度いつまた手に出来るかは、正直なところわからない。だから、自分で楽しむ以外は諦めてくれ」

「そうなんですかあ……残念です。でも、いいんです。私にはもう、クライスがありますからね」

「あ、本当にその名前で行くんだ」

 

 鳳は若干顔を引きつらせながら、

 

「そう言えば、そいつの材料調達はどうしてるんだ? 帝国からMPポーションを輸入しているの?」

「いやいや、旦那。そんなことしたら帝国に居場所がバレてしまう……だもんで、私一念発起してやってやりましたよ。ちょっと着いてきてください」

 

 店主はそう言うと、鳳を店の更に奥へと導いた。一体何があるんだろう? とワクテカしながら彼の後をついていくと……たどり着いた場所は、エメラルドに輝くパライソだったのである。

 

「ふぉおおおーーーっっ!! こいつは凄い! 一面の大麻……げふんげふん……MPポーション畑じゃないか!」

 

 そこは大麻の水耕栽培所だった。天井には何かの魔法道具を使用しているのだろうか、ハロゲンランプのように明るい照明が輝いていて、その下に広がる大麻畑を青々と照らしている。

 

 回転寿司というか、流しそうめんみたいに、水槽が部屋いっぱいに連なって置かれており、その中を水が循環するように流れている。ポンプからは水がひっきりなしに流れ、小川のせせらぎのような音が響いているが、あの動力はなんなんだろうか。

 

 大麻の生育状態は良く、いくつかは花が咲いているようだった。そろそろ収穫の時期らしい。店主は、どうです? 凄いでしょう? と言わんばかりに胸を張っている。鳳は、これだけのものをよく短期間に作り上げたなと、素直に感心した。

 

「俺もいつか栽培しようと思っていたのに……先を越されちゃったなあ」

「いやあ、苦労しましたよ。商材を手に入れるためとは言え、慣れない植物の栽培なんて……初めは中々花が咲かずに枯らしてしまっていたから、ある日、このままじゃいけないと思って、植生地域まで足を運んで栽培農家に助言を頂いたんです」

「そんなことまでしてたのか……生活かかってるもんな。ところで、植生地域って?」

 

 すると店主はぽんと手を叩いてから、

 

「そうなんですよ! 実はMPポーションって、四季のある地域じゃないと育たない植物だったんですね」

「え!? そうなんだ」

「元々は冷涼な四季のある地域に自生していた植物だそうで、勇者領……特にニューアムステルダムのような熱帯地域では中々花を咲かせないんですよ。ですが、その四季があるというのがポイントで、こうして光の量を調整して、四季があるように見せかけてやると、一年中花を咲かせるんです」

「へえ~……知らなかった」

 

 大麻を栽培していると、電気代が異様にかかってしまうせいですぐバレると言うが、こういうカラクリらしい。

 

「そんなわけで、今はこうして株を増やしている最中なんです。ゆくゆくはこれを世界中に広めて、天下を取ってやるつもりですよ!」

 

 店主は目をキラキラと輝かせている。鳳はそんな彼を見て、暫く見ないうちに圧倒的な差をつけられてしまったと、自分の不甲斐なさを呪った。

 

「ふう~……羨ましいよ。夢を語り合ったあの日から、店主はずっと走り続けていたんだな。それに比べて俺ときたら、大森林なんて植物の宝庫にいながら、結局何も見つけられなかった……」

「そんな! マジックマッシュルームがあるじゃないですか」

「それを店主みたいに栽培出来ていたら胸も張れただろうが、自分で楽しむだけじゃな……Aランク冒険者になって浮かれていたけど、それと引き換えに俺は何か大事なものを見失っていたようだ」

 

 鳳が落胆してため息交じりに呟くと、それを聞いた店主は目を丸くして、

 

「え!? Aランク冒険者になったんですか? 旦那が? 凄いじゃないですか!」

「ん? ああ……殆どジャンヌとギヨームのお陰だけど。ほら、俺らがトリップしてたらよく殴り込みに来たちっちゃいの、覚えているだろう?」

「ええ、覚えてますとも、よく旦那の尻を引っ叩きに来てた坊っちゃんですね……そうかあ……彼ともまだ一緒なんですね」

「他にも仲間が増えたんだけどね。そのメンバーと一緒に大森林を旅していたら、いつの間にランクが上がっていたんだ」

「そうだったんですか……あの大森林を股にかけて……大冒険ですね」

 

 店主は感心した素振りで目をパチクリさせていたが、その時、ふと思い出したかのように、

 

「ん……? Aランクって言うと、危険地帯の探索なんかもやっちゃう感じですか?」

「ああ、探索は得意にしてる分野だよ。俺がAランクになれたのも、多分、ネウロイの近くまで胡椒を探しに行ったのが効いてるんだろうから」

「ネウロイ! そんなとこまで……なら、戦地だろうがどこだろうが、お茶の子さいさいですね……!?」

「かも知れないが……何か探して欲しいものでもあるのか?」

 

 すると店主は少し迷うような素振りを見せたが、

 

「……実は、自分で確かめたわけじゃないから黙っていたんですが、MPポーションのことを聞きに行ったとき、そちらの農家に面白い話を聞きまして……なんでも大昔には、私たちの使ってるMPポーションの更に上位のポーション、ハイポーションが存在したらしいんです」

「ハイポーション?」

「はい。ハイポーションです」

 

 それはきっと、ハイになるクスリに違いない。鳳が頭の中でぼんやりとそんなことを考えていると、言葉だけで説明してても駄目だと思ったのか、店主が栽培所のすぐ隣りにある、なにやら実験台みたいなところから、ひょいととある一つの植物の実を取り出してきた。

 

「これがその植物の実なのですが……その農家の方が栽培しようとしても中々根付かないようでして、自分は諦めたからって、譲ってくれたんです。それで私はこれを持ち帰って、意気揚々と育てようとしたのですが、やはりというか、さっぱりでして……」

 

 鳳は店主が持ってきたその果実を見るなり、素っ頓狂な声を上げた。

 

「それは、間違いない! 芥子坊主だ!!」

「け、芥子坊主……??」

 

 店主は目をパチクリさせて、

 

「さ、流石デジャネイロの旦那! これがなんだか分かるんですか!?」

「ああ、わかるとも! 俺もそいつを探して大森林の中をさまよい歩いたこともあったんだ……どうやっても見つからないから、もしかしたらこの世界には無いんじゃないかと諦めていたんだが……それを一体どこで?」

 

 鳳は勢い込んで、店主の肩を揺すった。迫られた店主は頭をガクガクしながら、

 

「ボヘミアです!」

「ボヘミア……?」

 

 鳳から解放された店主は頷いて、

 

「はい……なんでも、ボヘミアのどこかに仙人みたいな人たちが住んでる山があるらしくって、そこで大昔の秘伝のハイポーションを生産しているそうなんですよ。農家の方は、たまたまその山を訪れたという行商人からこの実を手に入れて、是非、自分でも栽培してみたいと試したのですが、さっきも言った通り挫折してしまったそうです。彼はその後、問題の村を探しに行こうとしたそうですが、折り悪く戦争が始まってしまい……」

「なるほど……その農家の人はどの辺に住んでらっしゃるの?」

「アルマ国です。戦争が始まってすぐに帝国軍が駐留した国ですから、今頃どうしているのか……心配です。目的の仙人の山も、多分、アルマ国のすぐ近くでしょう。そこには今、ヴァルトシュタインの砦が築かれているんです……」

 

 つまり今、戦争でドンパチやっているその真っ只中に、問題のケシを栽培している村があるかも知れないわけだ。

 

 店主はその村を探しに行きたいが、冒険者でもない彼では、そんな危険地帯には足を踏み入れられない。それで仕方なく、戦争が終わるのを待っていたのであるが……そんなところに、冒険者として成長した鳳がふらりと現れたわけである。

 

「幻の村は、恐らくヴァルトシュタインの砦の近くにあるでしょう。私ではとても近づけませんが、Aランク冒険者である旦那なら、もしかして探しに行けるんじゃないですか? もちろん、無理にとは言いません。お礼だってさせていただきます。もし必要であるならば、ギルドを通して手数料を支払っても構いません。それでも私は、一日でも早く、ハイポーションを手に入れたいんです……どうでしょう、旦那、ここは一つ私の頼みを聞いてはくれないでしょうか?」

 

 鳳は店主の手をがっしりと握ると、一も二もなく頷くのであった。

 



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そんなクレイジーな……

 リブレンナ川の戦いに勝利した帝国軍は、勇者軍をあと一歩のところまで追い詰めた。しかし、その時、突如現れたヴァルトシュタイン率いる義勇軍に、北方アルマ国に置いた本陣を突かれ、帝国軍は撤退を余儀なくされた。

 

 勝利は目前だったというのに、大失態を演じた遠征軍の総大将であるヘルメス卿アイザック12世は、自らの野心を挫いた義勇軍に憎悪を燃やし、全軍をもって彼らの本拠地であるボヘミア砦を攻撃する。

 

 帝国軍は総勢3万、対する義勇軍は、これまでに多くの脱落者を出して、残るはたった3千しかいなかった。兵力差10倍の一方的な虐殺が起こるかと思いきや……ところが天然の要害を利用した砦は思った以上に堅固で、帝国軍は逆に苦戦を強いられることになる。

 

 かつて国境の街に籠もった難民軍を相手にした経験から、ヴァルトシュタインは砦に依った戦いを研究しており、ボヘミア砦を難攻不落の要塞に変えていたのだ。敵の目論見通りに谷間に誘いこまれ、複数の曲輪から一方的に攻撃され続けた帝国軍は、当初想像していたよりも多くの犠牲者を出し、ついに撤退を開始する。

 

 しかし、数で圧倒的に劣る義勇軍はこれを追撃することも出来ず、ただ帝国軍の包囲を黙って見守ることしか出来なかった。こうして、ボヘミア砦の攻防は、どちらからも手を出せない膠着状態へと陥ったのである。

 

 一方、義勇軍が時間稼ぎを行っている間に、勇者領連邦議会は立て直しを図るが、再度の募兵は遅々として進んでいなかった。前回の大敗が尾を引いており、12氏族が用意したカーラ国の将兵の下へは、誰も付きたくなかったのだ。

 

 彼らは決して下手くそな指揮を行ったわけではなかった。実際、会戦は圧勝ペースで推移し、当初、帝国軍を追い詰めていたのは寧ろ勇者軍の方だったのだ。しかし、そんな時に、たかが本隊からはぐれた敵の分隊に奇襲されただけで、本陣が逃げ出したのは許されることではなかった。その結果、勇者軍が総崩れとなったのだから尚更だ。

 

 結局、連邦議会はカーラ国は責任を取れという世論に押される格好で将兵たちを解任、追い出された彼の国は捲土重来を狙って自国で挙兵し、部隊を西方に展開、虎視眈々と帝国軍の背後を狙っていた。

 

 こうして将兵を失った連邦議会は、もはやなりふり構ってはいられないと、勇者領で絶大な人気を誇るレオナルドを担ぎ出そうと奔走する。しかし、政治の舞台からは離れていたいという大君(タイクーン)はこれを固辞、代わりに、自分はこういう時のためにギルドを作ったのだと言う彼の勧めに従って、議会は仕方なく冒険者ギルドに頼ることにした。

 

 連邦議会は冒険者ギルドから派遣されたAランク冒険者を下士官として招き、彼らの名前を前面に押し出して再度の募兵を開始した。そして兵力が整い次第、指揮者(コンダクター)スカーサハが全軍の指揮を取るという名目で再編成が行われると、止まっていた募兵もようやく動き出すのであった。

 

 レオナルドの弟子である彼女もまた勇者領では人気が高く、なおかつ、今や救世主と呼ばれる義勇軍にも参加していたため、人選として申し分なかったのだ。お陰で募兵はスムーズに進んだのであるが……しかし、当の本人は現在ボヘミア砦にあって動けない。そのため、指揮官とは名ばかりで、実際の勇者軍はまだ大将を欠いた烏合の衆であった。

 

 連邦議会はこの状況を打開するため、改めて使者をヴィンチ村へと派遣した。大君の言うとおりに冒険者を使ったのだから、今度こそ力を貸してくれと彼に迫った。要するに弟子の尻拭いであったが、レオナルドは断りきれず、話だけは聞いてやると、渋々使者を館に招き入れるのだった。

 

*******************************

 

 鳳たちがニューアムステルダムでイチャイチャしている頃、レオナルドの館にその首都から、連邦議会の議員が訪ねてきていた。彼は今回の戦争に大君を相談役として招き入れようと、議会が遣わした刺客であった。

 

 そんなことは百も承知のレオナルドは、そんなわけで、彼のことを客人としては扱わなかったようである。館のある丘へ続く長い坂を徒歩で登り、館に到着した彼は、玄関で散々待たされた後に、ようやく面会が叶ったと思ったら、執事に案内されてたどり着いた部屋には彼の他にも既に別の人がいたのである。

 

 こうやって、釣れない態度を取られる可能性はある程度覚悟はしていた。しかし、国の将来について話し合う場に、第三者というか立会人がいるとは思いもよらず、流石に議員は戸惑った。しかも、そこにいたのはまだ少女と言っていい年頃の子供で、さらに何故かその子供は文机に縛り付けられて、涙目になっているのである。

 

 齢300を越える大君の醜聞は聞いたこともなかったが、彼にはこんな趣味でもあったのだろうか……そんな勘ぐりたくもないことを考えていると、

 

「……待たせたのう。中々時間が取れず、こうして授業の合間に少し話を聞いてやることしか出来ずに悪いな」

「授業……ですか? 失礼ですがそちらの方は?」

「うむ、こやつは最近とった弟子なんじゃが、目を離すとすぐに逃げ出そうとするんでな、こうして椅子に縛り付けて、無理矢理勉強させておるんじゃわい」

 

 あの大君が弟子を取ったという事自体も初耳だったが、しかもその弟子がこんなに若い少女だとは思いもよらなかった。議員がついさっき勘ぐってしまった己のやましい妄想に顔を赤らめていると、いつの間に近づいてきたのだろうか、その少女が彼の目の前でとびきりの笑顔を見せながら、

 

「これはこれはお客様。見た感じ、だいぶお疲れのようですね。道中、大変だったでしょう。すぐにお茶をお出ししますから、どうぞそちらにお掛けしてお待ちください」

「は、はあ……」

 

 ずずいと迫られて仰け反っていると、たった今話をしていた大君が目を丸くしながら叫んだ。

 

「あ! これ! またお主は、当たり前のように縄を抜けるんでない! セバス!」

「畏まりました、旦那様。ルーシー、待ちなさい!」

 

 ルーシーと呼ばれた少女は、館の執事に追い駆けられて部屋を出る前に取り押さえられた。執事は、離してと叫ぶ少女に聞き耳をもたずに、ズルズルと引きずりながら元の場所へと戻ってくると、また椅子に彼女のことを縛り付けていた。

 

「さあ、ルーシー。今日の課題が終わるまで、もうどこへも行かせませんぞ」

「ううう……助けて……お腹すいたよう」

「ご飯が食べたきゃきりきりペンを動かす!」

 

 ルーシーは執事にじろりと睨まれながら、泣く泣くペンを動かしている。レオナルドの執事をしているくらいであるから、無論、セバスチャンも相当の手練である。そんな彼を相手に大立ち回りを演じるくらいなのだから、どうやら本当にあの少女は大君の弟子らしい。議員が唖然としながら二人の姿を見守っていると、

 

「すまんのう、見ての通り、手がかかる子なんじゃ。最近は儂にもよく分からぬ不思議な技で、隙さえあれば逃げ出そうとするでな、目が離せんのじゃわい」

「大君が出し抜かれるんですか……うーん、相当なお弟子さんですね」

 

 議員が感嘆の息を吐くものの、レオナルドは逆に溜息混じりに、

 

「今の所、その才能が逃げることのみに発揮されているのが玉に瑕でのう……もう少し落ち着いて勉学に励んでくれれば、スカーサハのような大魔法使いになるのも夢ではなかろうに……」

「うーん……それは楽しみですね!」

「そうじゃの……っと、今はそんなことはどうでも良い。お主も世間話をしに来たのではあるまい。見ての通り、あれの面倒を見なければならぬので、手短に頼めるかいの」

「はっ……本日は突然の訪問にも関わらず、お会いしていただき、大変ありがとうございます」

 

 そんなこんなで、ルーシーが部屋の片隅でスパルタ教育をうけている中、レオナルドと来訪者は応接セットのソファに対面になって座った。すぐに呼んでもないのに音もなくメイドが現れて、二人の前に紅茶を差し出すと、優雅にお辞儀をして去っていった。

 

 議員はさっきの弟子にも驚かされたが、あっちも相当凄いな……と思いながら、議員特有の遠回しで回りくどくてわかりにくい言葉でレオナルドを勧誘し始めるのだった。

 

「本日は、先日より議会からお伝えしています通り、大君に我が国の顧問と申しますか、相談役になっていただきたくて参りました。此度の戦争はもはや我々だけの手には終えず、冒険者ギルドのみならず、大君のお力にお縋りしたいのが我々の本音なのです」

「それは、こっちも何度も言っておるが、気が進まんのう……」

 

 すると議員はさもありなんと頷いて、

 

「そうおっしゃられると思いまして、今日は別件も持ってまいりました。先程、スカーサハ様の名前が出ましたが、その彼女からの手紙をお預かりしております。まずはこちらを御覧ください」

「スカーサハとな……?」

 

 政治の舞台に上るつもりのないレオナルドは、あの国境の街で別れたあとのことは、全部スカーサハに任せるつもりでいた。まさか、そのスカーサハを出汁にして、自分を引っ張り出そうという魂胆ではなかろうかと、彼は憮然としながらその手紙に目を通した。

 

 議員はそんな苦虫を噛み潰したような表情のレオナルドに、気後れすまいと腹に力を込めながら続けた。

 

「先日、大君に勧められた通り、連邦議会はギルドから高ランク冒険者をお借りして、彼らを下士官に任命いたしました。そしてその下士官を束ねる将軍として、義勇軍のヴァルトシュタインとスカーサハ様、両名を招き、作戦の自由を保障しました」

 

 因みに二人の階級は中将であり、その上には大将……12氏族の国王しか存在しない。もし、12氏族の誰かが戦場に出れば、ヴァルトシュタインとスカーサハの階級は彼らの下であるから、作戦の自由はなくなる。

 

 つまり、今回12氏族は一切口を出さない代わりに、その責任も取らないと言っているわけである。だから、作戦が成功すれば、ヴァルトシュタインとスカーサハは称賛されるだろうが、もし失敗した場合、一体誰が責任を取るのか……

 

 スカーサハの手紙にはそのことが書かれていた。議員は続けた。

 

「ヴァルトシュタイン、スカーサハ様の両名は、我が国との契約に署名いたしました。大君であらせられれば、すでにお分かりかと存じますが、大変言いにくいのですが、この場合失敗した時の責任は、大君に帰されることとなります。ヴァルトシュタインはただの傭兵でありますし、スカーサハ様はあなたの弟子であります」

「はぁ~……そうじゃな。手紙にもそのようなことが書いてある。議会の承認なんかいちいち待っていたら戦争なんて出来ないし、どうせ誰かがやるしかないのだから、つべこべ言わずに責任を取れと……まったく、あの娘は」

 

 レオナルドは溜息を吐いた。思い返せば前世から弟子には散々苦労させられたものである。聞いた話ではレオナルドが死んだ後、サライは不品行が原因の喧嘩で殺され、蔵書の全てを譲ったメルツィの子供たちは、その価値が分からずにガラクタとして切り売りしてしまった。

 

 廻り廻って今生でも、スカーサハはこの通りだし、ルーシーもあの様である……老人は頬杖をつきながら、文机に縛り付けられて涙目でペンを動かすルーシーを見ながら溜息を吐いた。

 

「ですので、お弟子様の活躍を支援する意味でも、一度議会に来ていただければ……肩書などなんでも良いのです。相談役でも、顧問でも、なんなら見学だけでも構いませんので……」

「……そうじゃな。気が向いたらの。どちらにせよ、あの神人が自信満々に受けたのであれば、ちょっとやそっとでは失敗せぬじゃろう。それに、こっちの弟子を放っておくわけにもいかんからの」

「そうですか……それは残念です。出来れば、今度の議案だけでも参加して欲しいものですが……どうしても駄目でしょうか……?」

 

 議員はこれだけ言っても大君を動かすには至らぬかと肩を落とした。これだけは何が何でも参加して欲しいという気持ちがありありと伝わってきた。レオナルドはどことなく歯切れの悪い議員に、

 

「なんじゃ、何か儂に聞きたいことでもあったんかいの」

「ええ、その、スカーサハ様のことなのですが……将軍職をお受けになられる際に、一つ条件を出して来られまして」

「またスカーサハか? 手紙には何も書いてないがのう」

「恐らく、作戦に関わることですので……」

 

 議員は話したげにもじもじしている。ここまで来て、聞いておかないのも寝覚めが悪いと言うものだから、レオナルドが先を促すと、

 

「話自体は非常に簡単なのです。スカーサハ様は勇者軍本隊の指揮を引き受けるに当たって、まずはヴァルトシュタインの籠もるボヘミア砦の死守を条件にしたのです。勇者軍と帝国軍が、真正面からぶつかりあえば何が起きるかはわかりませんから、いつでも後方から飛び出せる義勇軍がいるといないでは大違いだと」

「そりゃそうじゃのう。それで?」

「そのためには、彼らに救援物資を届ける必要があるのですが……この砦がある場所がネックでして、増援を送りたくてもそう簡単には送れないのですよ」

 

 議員は地図を広げて、ボヘミア砦の位置を大まかに書き入れた。

 

「砦はこのように、アルマ国と大森林に近い、ボヘミアの端っこに位置しております。つまり、勇者領でもかなり内陸部にあるために海路が使えず、おまけに街道は帝国軍が陣取っていて近づけません。そのため、もっと西側……例えばカーラ国のある辺りからボヘミアへ入り、峻険な山々を踏破する道を見つけなければならないのですが……このような道なき道を長距離移動し、平坦な道を探し出し、ついでに地図を作成し、なおかつ砦に物資を送り届けてくれるような冒険者は流石におらず……議会はその大任を誰に任せればいいかと頭を悩ませているところなのです」

「なるほどのう~……そうじゃのう。こんな人も寄り付かぬ秘境を、好き好んで探検するような冒険者など中々おらんからのう。どこにどんな魔獣が潜んでいるかも分からぬ」

「そうなんですよ。例えるならば、大森林の奥深くをネウロイまで行って帰ってくるようなものですよ。そんなクレイジーな冒険者がいるわけないじゃないですか」

「そうじゃのう。そんなクレイジーな……」

 

 レオナルドは議員に相槌を打っている途中でその顔を思い出し、思わず頭を抱えてしまった。つい最近、そんなクレイジーなことを平気でやって戻ってきた奴らには心当たりがあった。しかもそのうち一人は、いま目の前で机に縛り付けられている。

 

 彼がその顔を思い出していると、突然、応接室のドアがバタンと開いて、

 

「おーい、爺さん! 急なんだけどさあ、俺、ちょっとボヘミア行ってくるわ!」

 

 ニューアムステルダムから帰ってきた鳳は、レオナルドが応接室にいると聞くと、来客中だというメイドの話も聞かずにズカズカと部屋に乗り込んできた。彼はニコニコしながら近づいてくると、老人の対面に座る議員に気づかずに、

 

「いやあ、今日、首都に行ったら昔の知り合いに偶然出会っちゃってさ! 昔話に花を咲かせていたら、そしたらボヘミアにお宝があるっつーんで、代わりに取ってきてあげることにしたんだよ。冒険と聞いたら、メアリーはついてきてくれるって。後はジャンヌとギヨーム誘ってみようかと……って、あれ!? お客さん? ごめん、出直した方が良いかな……」

 

 鳳はそこまでべちゃくちゃ喋ってから、ようやく議員に気づき、恐る恐るといった感じに頭を下げた。議員も議員で、突然やってきた無礼者に戸惑いつつも、彼がボヘミアという言葉を口にしたのに興味を示し、

 

「大君、こちらは……?」

「……お主の探しておったクレイジーな若者じゃよ。鳳よ、ボヘミアへ行くなら一つ頼まれてくれるかの」

「ん? なに? 何か知んないけど任せてくれよ」

「お主は、せめて内容を聞いてから返事してはどうなんじゃ……」

「いいよいいよ。爺さんには世話んなってるからな」

「なになに……? 鳳くん、ボヘミア行くの!? いいなあ~、私も連れてって!」

「……あとルーシー、そんな気安く縄を抜けるでない」

 

 レオナルドが議員に鳳を紹介していると、ルーシーが当たり前のように縄を抜けて会話に加わっていた。そんな彼女の代わりに、机にはセバスチャンが縛り付けられている。どうやったらそんな芸当が出来るのか分からないが、そろそろこの少女も自分の手には負えなくなって来ているのかも知れない。

 

 レオナルドは溜息を吐いた。丁度、ボヘミアには姉弟子(スカーサハ)もいることだし、この不真面目な生徒を預けるのも悪くないかも知れない。彼はそう思うと、二人を議員に紹介し、正式に冒険者ギルドの依頼としてボヘミア行きを依頼した。

 



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だよねー

 海風が甲板を通り抜けていった。海鳥が大きな翼を広げ船と並走するように滑空している。そんな強力な風を受け、順風満帆の船は外洋を航行していた。鳳たちは現在、ボヘミアへ向かうため、ニューアムステルダムから北へと向かう船中にいた。

 

 帆船というものは風を受けて走るために、基本的にどちらかに傾いている。そんな斜めに傾いた船体が波を越えるたびに大きく揺れるから、普段から乗り慣れていない者では立って歩くことすら困難だった。おまけに、風向きが変わるたびに船員が忙しく動き回るから、乗客は船室で寝っ転がってるくらいしかやることがなかった。

 

 船室はどこもそんな乗客が積み荷のように寝転がっていた。船旅と言うと豪華客船のようなものを思い浮かべて、生バンドやダンスパーティーのような楽しいイベントがあるに違いないと勘違いしてしまうが、現実はこんなものである。

 

 そんな船旅の一番の敵は言うまでもなく退屈であったが、鳳はこんな時のためにと、ニューアムステルダムで買った本を持ってきていたので、他の人達よりもずいぶん快適な時間を過ごせていた。初代ヘルメス卿……すなわち、アイザック・ニュートンの著書を紐解くことは、退屈しのぎにうってつけだったのだ。

 

 ニュートンの著書といっても、元の世界のプリンキピアとはだいぶ様相が違い、内容はまるで別物である。最初の一章こそ、彼の最大の功績たる力学の解説に割いているが、その方法として極限と微分積分が何の説明もなくいきなり使用されており、これは明らかに現代数学を学んだ者を意識して書かれているようだった。

 

 そして第二章では光学の研究について論じており、光が粒子であることを切々と解説している。これは前世でホイヘンス学派と争った、光の粒子・波動論争の決着をつけるべく、特に注力されているようで、前世でその結論までたどり着けなかった彼の無念さが窺えた。

 

 現代でこそ光の正体は波動と粒子、二つの性質を合わせ持つエネルギーであることが判明しているが、それが分かるのは彼の死後200年も経ってからである。当時は光の散乱や回折現象から、波動説が優勢であり、彼は自説を引っ込めねばならなかった。

 

 お陰で20世紀になるまで、光を粒子などと言うものは一人もいなかったのだが、それが変わったのはアインシュタインの光量子仮説が登場したからである。彼は光電効果を引き合いに、光が粒子でなければこの現象を説明できないと論じ、後にノーベル賞を受賞する。

 

 この世界のニュートンも同じように光電効果という現象から、光の粒子性について論じており、特に驚いたのは彼が自力でバルマー系列にたどり着いていることだった。流石、数学の天才と言われた男の面目躍如である。

 

 バルマー系列とは、水素原子の吸収スペクトル線の並びに、法則性があること発見した数学者バルマーの功績を讃えてつけられた名称である。具体的には『656.28, 486.13, 434.05, 410.17』これらの数字に『λ=f(n^2/n^2-4)』の関係式が成立することを示している。

 

 こんな、ただの数字の羅列を見て、そこに法則性があることになんて普通の人なら気づかない。ところがバルマーは数学者であったから、たまたまこの関係に気づいたのだ。しかし悲しいかな、数学者たる彼はこの美しい関係式を導き出すことで満足し、それ以上深くは考えなかった。

 

 だが、水素原子にこんな法則性があるということは、そうなるだけの理由があることを示唆しており、ニールス・ボーアはこれをヒントに、後に量子論の扉を叩くこととなる。

 

 この世界のニュートンもこれらの現象から、量子の存在を示唆しているが、それは他者の著書に譲るとまとめて章を閉じていた。どうやら彼自身、この世界に来てから、魔導書と呼ばれる類の本を見て、量子論や相対性理論に触れていたようである。

 

 その証拠に、第三章では相対性理論から導き出した、彼自身の宇宙観について論じている。最初は特殊相対性理論から、自身の提唱した絶対時間と絶対空間の間違いを認め、時間と空間が同一であることを説明し、続いて一般相対性理論から時空の歪みについて解説している。

 

 彼は、重力によるこの時空の歪みが他次元にも及ぶものと仮定し、この世界が高次元空間の中に存在する、三次元のエアポケットのようなものだと考えた。我々の住む3次元空間の外には高次元の空間が広がっており、そしてそこにはまた我々とは違う別の高次元存在が暮らしている。それがすなわち、神のような形而上の存在なのではないかと彼は示唆する。

 

 そして面白いことに、彼は最後の第四章をまるまる使って、神の実在について語るのだった。実は本家プリンキピアでも、彼は神の存在について触れているのだが、それは当時の対抗宗教改革の最中にあって、敬虔なクリスチャンであった彼が悩み抜いた末のことだった。

 

 言うまでもなく、彼の力学は惑星の運動をヒントに、地動説を枕にして作られた学問体系である。ところが、当時の教会は地動説を異端視していたから、彼は自分の研究を進めれば進めるほど、神の言葉に逆らう結果となってしまう。更には、教会に目をつけられたら、最悪の場合禁書にされてしまう可能性があり、彼は出版を維持するためにも、その著書で神の存在に触れなくてはならなかったのだ。

 

 元の世界ではこのように、消極的な理由で語られたものだったが……ところが、こちらの世界の著書では、彼は積極的に神の実在に触れていた。どうやら彼は、この世界に神がいることを、本気で信じているようだった。

 

 どうも彼は、この世界は形而上存在によって作られた、神の国のような場所だと考えていた節があるのだ。

 

「ツクモー! ……またそれを読んでいるの? そんなに面白いのかしら」

 

 鳳がハンモックに寝そべりながら本を読んでいると、船室にメアリーが入ってきた。彼女は神人であるからか、超人的なバランス感覚の持ち主であり、この揺れる船の中でも自由に動き回ることが出来た。そのため、よく退屈しのぎに甲板をぶらついているようだった。

 

 と言うのも、彼女以外の仲間はみんなこの揺れのせいでグロッキー状態であり、普段ならジャンヌ辺りと仲良く遊んでいるものなのだが、現在、船内で彼女の暇つぶしに付き合える者がいなかったのだ。

 

 それなら鳳が遊んでやればいいのにと思いもするが、そこはそれ、彼は彼で手に入れたばかりの本を読むのに夢中だった。船を降りた後の陸路では、これだけまとまった時間を取ることは出来ないだろう。だからこの難解な本を読み解くには、今の時間がとても貴重なのだ。

 

「まあね。大昔の人が何を考えているのかを知るのは、とても興味深いことだよ。自分も良く知ってる人ならなおさらね。メアリーは、初代ヘルメス卿と知り合いだったんだろ? 彼が何を考えていたのかを知りたくならないか?」

「別に。彼のことは知ってるつもりだし、アイザックは彼だけじゃないもの」

 

 独特な言い回しだが、長い時を生きる彼女にとっては、先祖もその子孫も、みな等しくアイザックという個人のように見えているのかも知れない。鳳は、ふ~ん……と生返事をしながら、

 

「そう言えば、初代ヘルメス卿は神様のことについて、おまえに話してくれたんだよな。なんだっけ? エミリアとソフィアと精霊は……」

「三位一体ね。彼はそう言ってたわ」

 

 その言葉が示す通り、初代ヘルメス卿ことアイザック・ニュートンは敬虔なキリスト教徒である。従って、彼の語る神というのは、遠回しにキリストのことを言っていると考えて差し支えないだろう。つまり彼はこの世界を、神が導いてくれた天国のような場所と考えていたようだ。

 

 ヨハネの黙示録にはこの世の終わりのことが書かれている。世界の終わりには悪人も善人もみな等しく復活し、神による最後の審判が下される。そこで神によって選ばれた者だけが、続く神の国へと誘われ、永遠に生き続けるのだ。

 

 この世界のニュートンは、他ならぬ自分の存在をあげて、ここは審判後の世界であると考えたようだ。この世界には放浪者(バカボンド)という、過去の偉人たちが次々に現れて奇跡の力を振るっているが、それこそがこの世界に、神に選ばれた人々が集められている証拠ではないのか。

 

 しかし、ここが神の国だというのであれば、魔族や獣人のような異形の存在をどう説明するのか。それに関して彼は、ここでは今、天使と悪魔による最終戦争が行われているのだと考えた。この世界には、人間、神人、獣人、魔族という大雑把に4種族が存在し、それぞれが競い合い、最終的に生き残ったものが、神の国へと誘われるのではないかと。

 

 それが300年前の魔王襲来であり、続く勇者戦争なのだと考えれば辻褄は合うし、彼が勇者派を組織して神聖帝国と戦った理由も分かる気がする。だが、それならメアリーの存在はどうなるのだろうか。彼が帝国ではなく、神人という種族そのものを敵視していたならば、彼女を保護するようなことはなかっただろう。

 

 だから、彼はもう少し別のことを考えていたと考えられるが。残念ながら、それはこの著書には、はっきりしたことは書かれていないようだった……ただ、その代わりに面白い記述を見つけた。

 

 この世界にはまだ鳳が見たことのない翼人という種族が存在するらしく、どうやら彼はこれが天使の末裔ではないかと考えているようだった。つまり彼は神人を神の使いとは考えていなかったのだ。

 

 翼人とは新大陸の北部に生息する希少種族で、獣人ではなく、人間や神人に近い見た目をしているそうである。空を飛ぶことはないが、名前の通り背中に大きな羽が生えていて、まさに絵に書いた天使のような見目麗しい姿をしているらしい。もしかすると初代ヘルメス卿は、これを見たから、この世界が神の国と考えたのかも知れない。

 

「……うう……おい、おまえら。さっきから人の横で小難しい話ししてんじゃねえよ。喋んなら外に行くか、黙ってそこで寝ててくれ」

 

 鳳とメアリーが本についてぺちゃくちゃおしゃべりしていると、それを隣で寝転がって聞いていたギヨームがぼやくように言った。

 

 彼は乗り物酔いで、船に乗ってからずっとグロッキー状態だった。食事を摂っても、すぐに戻してしまうので、ここ二日は流動食のようなものしか食べていない。今朝も、さっき果物ジュースを飲んだきりで、深刻そうな表情で頭を抱えてずっと寝転がっていた。

 

 因みに、同行しているジャンヌもルーシーも、程度の差はあれ、似たようなものであり、二人共ぐったりと目を閉じて眠っている。

 

「ったく……おまえらは良くこんな環境で平気でいられるな。メアリーはともかく、運動音痴の鳳ごときが平気なのは、なんか無駄に殺意が湧くぜ」

「人をコケにした上に、殺意まで向けないでくれる!? ……でも、そうだなあ。俺もそこまで乗り物に強いってわけじゃないのに、何故か平気だな。船に強かったのかな」

「もしかして、本を読んでるからじゃない? 何かに没頭していると、他のことは気にならなくなるもの」

 

 メアリーが言うが、もちろん鳳は頭を振って、

 

「いや、普通、こういう時に細かい文字を読むのは逆効果だと思うよ。でも、そうだなあ……なんならギヨーム、試してみるか?」

「やめてくれ、考えるだけで吐きそうになる……」

「だよねー」

「でも、それじゃ、どうしてツクモは平気なのかしら?」

「さあ? 案外、MPポーションキメてるからじゃないか? 難しい本ずっと読んでるから、MP削られるんだよね」

「そんなんでMPが減るわけねえだろ。嘘言うんじゃねえよ、シャブ中が」

「だよねー」

 

 あははははー……っと笑ってはいたものの、実際に鳳が酔わなかったのは、これのお陰だったようだ。大麻のような鎮静鎮痛効果のある薬は、現実にも酔い止めとして使われている。それがたまたまいい方向に出ていたらしい。

 

 その後、あんまりにも鳳の調子がいいものだから、試しにルーシーが使ってみたところ症状が改善したため、ジャンヌとギヨームも分けてくれと言い出した。普段、鳳のことをジャンキーと呼んで蔑む彼らがクスリを求める姿は滑稽である。

 

「へへへ、旦那、上物がありますぜ、うふふふふ」

 

 と上機嫌に笑っていたら、ギヨームが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

*************************************

 

 一部の人には地獄のような船旅も終わり、鳳たちは勇者領北西部カーラ国の港へ降り立った。

 

 例の魔王派なる武闘派集団の本拠地として悪名高いここカーラ国は、ボヘミアに近いせいもあってか、勇者領の中でも山がちな、主に畜産業が盛んな土地柄のようだった。

 

 土地が痩せているために人口は少なく、食い扶持を稼ぐために農家の次男坊、三男坊あたりは兵隊になるものが多いらしい。男たちは気が荒く、女たちは従順、勇者領で唯一常備軍を持っているのは、そういった背景もあるようだった。

 

 その軍隊は現在、領内の東部に布陣しており、ボヘミア砦の攻防で動きがあったら、いつでも飛び出せるように臨戦態勢を整えていた。カーラ国の将校が、前回の戦いで勝利を目前にしながら敗北したため、勇者領内での立場が微妙となっており、捲土重来を狙って士気は高いようである。

 

 鳳たちは今回、冒険者ギルドというか連邦議会の要請でボヘミア入りするのだが、その道案内を頼むべく陣中に入ったのに、思った以上に煙たがられて辟易した。特に神人であるメアリーに対しては露骨な敵意を向けてくるものもあり、この国の反帝国、反神人傾向の高さを窺わせた。

 

 兵士たちはみんな気が立っているのか、どこへ行っても非協力的で、そのくせ、道が分かったら真っ先に知らせろと高圧的に言ってくる。どうやら、人気の高い義勇軍と合流することによって、虎の威を借りたいようである。

 

 だったらせいぜい、こちらの邪魔はしなければいいのに、何故武闘派というのはどの国も、周囲を威圧することでしか立場を保つことが出来ないのだろうか。弱い犬ほどよく吠えるというが、せめてその威勢の良さくらいは役に立ってもらいたいものである。

 

 そんなこんなで、カーラ国への印象は地に落ちたが、幸いにも連邦議会の紹介状が効いて、当初の予定通り、ボヘミアへの道案内は確保できた。

 

 鳳たちは紹介された行商人と共に陣中を離れ、いよいよボヘミアへと入るのであった。

 



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白いお花畑

 バルティカ大陸北西部に位置するボヘミアの地は、千メートル級の山々が連なる大山脈だ。感覚的には日本アルプスに近いところで、本家と違って標高は若干低いがその分範囲は広大で、日本列島がすっぽりと収まってしまうというくらいあるという、かなりの秘境であった。

 

 無論、そのような土地で人が暮らしていくことは困難であるから、昔は帝国との国境線を、人が住んでいるか住んでいないかで判断していた。要するに、南の大森林、北の大山脈と呼ばれ、ボヘミアは帝国が国家として認めていないような辺境だったのである。

 

 そんな辺境の地が一躍脚光を浴びるようになったのは、300年前の勇者戦争が起きてから数年が経過した頃、ボヘミア北部の山地に巨大な銀山が発見されたことが発端だった。銀は言うまでもなく全世界共通の財であるが、ところで忘れているかも知れないが、神人がその刃で傷をつけられたら最悪の場合死に至るという、神人特攻の素材でもあった。

 

 その頃、勇者派との泥沼の戦争を繰り広げていた帝国にとっては、ここが落とされたら死活問題という重要な戦略拠点であり、以来、ヘルメスを除く4大国が共同で管理する、帝国の植民地となっていた。

 

 発見から300年近く経った現在でも、その銀の産出量は世界一であり、帝国から勇者領、新大陸に至るまで、流通している銀貨の全てが、ここボヘミア鉱山から産出したものと言われている。

 

 そんな帝国の心臓部とも呼べる北部と違って、ボヘミア南部は特にこれと言った生産物のない不毛の地であった。一応、あちこちから鉄鉱石が取れるのであるが、どの鉱山も産出量はまちまちで北部ほど大規模な炭鉱が開発されることはなく、取り尽くしたら次の鉱山へと移動するという炭鉱夫の集団が生活しているくらいで、人が定住するような集落は殆どないと思われていた。

 

 しかし、道案内に雇った行商人に言わせればそれは間違いで、こんな不毛の土地であっても、それなりに集落は存在するらしい。彼らは非常に閉鎖的であり、外部との交流を快く思っていないためあまり知られていないが、それでも、周辺の集落やその集落を渡り歩く行商人とは、それなりに取引を行っているようだった。

 

「いやあ、それにしても皆さん、健脚でいらっしゃる。流石、大森林を渡り歩いていただけありますね」

 

 今回、道案内を買って出てくれた行商人は、勇者領を根城にしているトカゲ商人のキャラバンの一つだった。ゲッコーとはまた別の蜥蜴人であるが、ここでも縁があるというのだから、どうやらこの世界で秘境とトカゲ商人はセットのようである。

 

 彼らは集落間の物資を移動することで、その利ざやを稼ぐタイプの行商人らしく、持ち込んでいる物資は少なかったが、同行する職人の数は多かった。到着した村で御用聞きをし、鍛冶や大工仕事を行って、その代金として手に入れた物資を持って、村から村へと渡り歩くのがパターンであるらしい。わらしべ長者みたいであるが、まあ、そのくらい荷物を少なくしなければ、この山道を歩くのは困難だからであろう。

 

 彼らは、いくら冒険者とは言え、都会からやってきた鳳たちが、音を上げずに苦もなくキャラバンについてくるのを見て、最初は驚いているようだった。それはもちろん、つい最近まで大森林を歩き回っていたからだが、そのことを話すと納得すると同時にすごくビックリされてしまった。

 

「たった5人であの大森林を? それは凄い! なるほど、ここは道は険しいですが、大森林と違って魔物の数は少ないですから、あなた方ならなんてことないんでしょうね。商人があの森を歩くには、どうしても魔物対策が必要ですから、キャラバンが大きくなりがちなのです。我々のような規模の行商では、とてもとても無理ですよ」

「でも山歩きは慣れてるみたいだ。適材適所ってことだね」

「ええ、身軽な分、足は早いですから。山地では、日が昇っている間に、集落から集落へと移動し続けるのがコツなのです。それさえ守っていれば、道に迷うことはありません。逆に、無理をして先を急ごうとすると、遭難の危険があります。必ず、村人の言うことを守り、遠回りでも着実に、隣村から隣村へと一歩一歩進んでください」

 

 例えば大森林なら、コンパスの方角にさえ気をつけていれば、最終的には力技でも目的地周辺につくことは出来る。しかし、山地では単に方角だけを頼りにまっすぐ行こうとしても、すぐに峡谷や断崖絶壁にぶつかってしまってそれ以上進めなくなるのだ。

 

 焦っても結局遠回りになるので、それよりも、どの集落も最低でも隣の集落とは交流があるから、その情報を頼りに進んでいった方が確実に目的地に近づけるというわけだ。そうして村から村へと道を繋げていき、最終的に目的地にたどり着いた時に、どの経路を辿ってくれば一番近いかを逆算すれば、それが最短ルートになるというわけである。

 

 なんというか、ネットワークのノードとリンクの関係みたいなものだ。

 

「我々はそうやってボヘミアを渡り歩いているのです。ですから、申し訳ございませんが、あなたがたの目的地である砦への行き方はわかりません。私たちが出来るのは、あなたがたを最初の村へ案内することだけです。そこから先は、みなさんが目的地にたどり着けるように、村人たちと上手に交渉してください」

「わかりました。全く何の手がかりもないよりは、ありがたいですよ」

「出来れば、我々も一緒に探して差し上げたいのですが、こちらも仕事ですので」

「いえいえ、構いません」

 

 鳳はそう返事をかえしながらも、ふと思い立ち、

 

「ところで、話は変わるんですけど……実は俺、議会のお使いの他にも探しているものがあるんですよ。それで、普段からこの辺の山を歩いているあなたに話を聞きたいんですけど」

「おや、そうなんですか? ええ、私で良ければ何でも聞いてください」

「実は、この近辺にしか生えていないという薬の原料になるという植物があるそうなんですよ。その薬の名は、ハイポーション。MPポーションの上位版で、昔は帝国にも流通していたものだそうなんですが……」

 

 するとトカゲ商人はあっさりと、

 

「ええ、存じております。それでしたら、今から行く村でも手に入ると思いますよ」

「……は?」

 

 鳳はまさかこんなあっさり見つかるとは思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。いくらなんでも都合が良すぎるから、何かの間違いじゃないかと思い、

 

「いや、そんなまさか……えーっと……ハイポーションの原料はですね、なんつーか、地面からにょきーっと伸びる茎の先端に、丸っこい実をつける植物の、実が熟してきたらナイフで傷をつけると、翌日にはトローっと樹液が染み出してくるという……」

「ええ、そうですね。見たことがあります」

「マジで!?」

「え、ええ……そうだと思うのですが……私もそこまで言われると自信が無くなってきてしまいました」

 

 鳳があまりにも仰天しているので、トカゲ商人は少し困惑気味に、

 

「……もしかすると、あなたのおっしゃってる物とは違うかも知れません。ですが、それも村に着けばわかるんじゃないですか」

「そ、そうですね。すみません、俺から聞いといて否定するようなことばかり言って」

「いえ、いいですよ。でも、そんなものを手に入れてどうするんですか? あれはMP回復する以外に使い道なんて何もありませんよ?」

 

 もちろん、自分で使うに決まっているが、そんなことを言うと変な目で見られるかも知れないと思い、

 

「それは……うちには神人の仲間が居ますから! MPいっぱい使いますから!」

「なるほど、仲間のためにMP回復手段を多くしておきたいのですね。流石、高ランク冒険者ともなれば、準備が違いますなあ」

 

 トカゲ商人はそんな仲間思いの鳳に感心していたが、当の鳳の仲間たちは冷たい視線で彼のことを見つめるのだった。

 

**********************************

 

 そうしてトカゲ商人に案内されること半日で、目的の村に到着した。到着した時にはもう夜が間近で、畑などを見ている余裕はなかった。鳳たちは、ここでトカゲ商人たちがいつもお世話になっているという村長の家に泊めてもらい、翌朝、改めて村の人達に次の村までの道案内を頼むことになった。

 

 村長は鳳たちの来訪目的を聞くと表情を曇らせ、

 

「ああ、あの砦の……」

 

 と言ったきり渋い顔をして押し黙ってしまった。何か問題でもあったのかなと思ってソワソワしていると、村長の代わりにダンという村の若手が(と言っても50代のおっさんであったが)、

 

「俺たちは帝国とも勇者領とも関係を絶って、ここでひっそりと暮らしてるんだ。なのに、そんな俺たちの縄張りで、我が物顔で帝国と勇者領にドンパチやられちゃあ面白くないってわけだ」

「あー……なるほど」

 

 自分たちは招かれざる客と言うわけだ。鳳たちがバツが悪そうに座っていると、

 

「まあ、お兄ちゃんたちのせいじゃないから、そう畏まらないでいい。あんたらが目的を達したら、砦がなくなるってんなら協力もするぜ。勝っても負けても、あれにはさっさと出てって欲しいからな。やっぱり兵隊にこの辺をうろつき回られるのは怖いだろ」

「そうですね、すみません……お騒がせして」

「明日、朝になったら案内人を紹介してやろう。こっから砦方向だと……あの村が近いかなあ……その先はまた、あの村の奴らに聞いてくれ」

 

 ダンはそう言うと、今日はもう遅いからと言って、寝床を案内してさっさと帰ってしまった。村長は相変わらず無口で、なんだかいたたまれない思いがした。こりゃ明日になったら早めに出ていった方が良いと思いつつ、鳳たちは床についた。

 

 翌朝……

 

 日が昇ると同時に起きた鳳は顔を洗いに村の井戸まで歩いてきた。ヴィンチ村に来てからすっかり人里の生活に慣れてしまい、午後に起きることもザラだったが、大森林にいる頃は少しでも昼の時間を稼ぐために、誰に言われなくても太陽が昇れば勝手に目が覚めたものである。久々に遠出したことで、体がその感覚を思い出したらしい。

 

 濁った水でじゃぶじゃぶ顔を洗っていると、朝食のために野菜を収穫してきたらしい、親切そうなおばあさんがジャガイモを分けてくれた。ありがとうと頭を下げつつ、これは流石に生では食べられないなと思い、どこかでかまどを借りられないかとキョロキョロしていたとき……彼は、視界の片隅に白いお花畑を見つけた。

 

 なんだろう、あれは……

 

 何故かわからないが妙に心惹かれる……鳳はふらふらとその花畑へと近寄っていった。そこは畑と畑の間にある土手と言うか斜面であり、だから最初はただの雑草だと思っていた。ところが、彼がよくよく近寄って見てみれば、その白い花に混じって丸い実が生っている。なんというか、かっぱの頭みたいな形をしたそれは、紛れもなく芥子坊主であった。

 

「ほわ~! マジであった! ケシはここにあったんだ!!」

 

 苦節大体1週間……ニューアムステルダムの街でこれを見せられた時、本当にケシの花々が咲き乱れる光景が見られるとは思わなかった。鳳は真っ黒クロスケを見つけたサツキとメイみたいに小躍りすると、早速とばかりにその芥子坊主を拝借しようとしたが、

 

「いや待てよ、これって誰かの畑なのかな?」

 

 どう見ても土手に勝手に咲いているようにしか思えないが、これだけ群生しているとなると、誰かが管理しているのかも知れない。そう思って見てみると、いくつかの芥子坊主には、小さな袋みたいなものが取り付けられており、そこにトロトロと樹液が流れ込んでいるのが見えた。

 

 確かケシはまだ熟してない実が傷つけられると、防衛機能として毒を生成する。それがアヘンというものらしいが、するとこれは誰かが収穫しているものに違いない。やっぱり勝手に取っちゃまずいよな……と思いながら、鳳が指を咥えて袋の中身をジロジロと見ていると、

 

「……それ、欲しいの?」

 

 突然、声を掛けられて鳳は飛び上がった。目の前のブツに気を取られすぎて、いつの間にか人が背後に来ていることに気が付かなかったらしい。鳳は、多分ここの畑の主だと思い、慌てて斜面から下りると、

 

「すみません! 珍しかったから、ついつい近寄って眺めてしまいました」

「そう……それ、まだ収穫するの早いから、取っちゃ駄目だよ」

 

 やってきたのは一人の小柄な老人だった。目は落ちくぼみ、腕は骨に皮が張り付いているみたいに細くて、なんというか、息を吹きかけただけでもポッキリと折れてしまいそうなくらい貧弱である。実際、風もないのに歩くそばからふらふらと揺れて、まるでジャンキーを絵に書いたような老人だった。

 

 彼は鳳の横をふらふらと通り過ぎると、畑のケシを一本一本確かめている。鳳がその姿を物欲しそうに眺めていると、

 

「……欲しいんなら、分けてやろうか?」

「良いんですか!?」

 

 もちろん、自分からも頼むつもりであったが、まさか相手から先に言われるとは思わず、鳳は勢い込んで返事した。老人はそんな鳳に向かってふらふらと揺れながら、

 

「いいよ~……でも、代わりにちょっと頼み事聞いてよ」

「頼み事ですか?」

 

 なんだろう? と思っていると、目の前でふらふらしていた老人が急にバランスを崩し、今にも倒れそうになった。鳳が慌てて彼の体を支えると、すると老人はそのまま鳳の背中に当たり前のようにおぶさって、

 

「それじゃあ、まずは家まで送ってよ。すぐそこだから」

「……はあ」

 

 まるで子泣き爺みたいな爺さんだ……そんなことを考えつつ、鳳は老人に言われるままに村の中を歩いた。

 

 老人の体は恐ろしく軽く、見た目通り、本当に骨と皮で出来ているようだった。吐く息は病院のような匂いがして、彼の体が薬漬けであることが窺える。道案内する声にはやる気が全く感じられず、なんだか半分寝ながら喋っているかのようにボソボソと響いた。初見でジャンキーみたいだなと思った通り、実際に老人はかなりのジャンキーだったのだ。

 

 鳳が言われるままに彼をおぶって家まで運んであげると、彼は家に着くなり寝台によっこらしょっと寝転がり、そこにあったすりこ木みたいに丸いパイプを咥えて、なにやらプカプカ吸い始めた。

 

 老人がパイプの先端に日を近づけると、ジリジリと何かが焦げるような小さな音がして、何かの煙が部屋に充満した。それが鳳の鼻に届いた時、彼は一息嗅いだだけで、『あ、これがアヘンか……』とわかるくらい、劇的な心地よさが脳内に広がった。なんというか、夢見心地というか、体が眠っているかのようにものすごくリラックスしているのに、頭の方は何故かやる気に満ちているような、もっと嗅いでいたいという快感があった。

 

 老人はパイプを使ってスーッと煙を吸い込むと、体の細胞の一つ一つに染み渡るぜと言わんばかりに長い息を吐いてから、まあそこに座りなよ、と言わんばかりに、自分の前にあった(むしろ)をトントンと指で叩いた。

 

 鳳がそこへ腰掛けると、老人は自分が吸っていたパイプを差し出し、手近にあった乳鉢を手に取った。鳳がどうしていいのか分からずにいると、彼は乳鉢でゴリゴリと何かの結晶を削り、細かくなった粉を耳かきみたいなものでパイプに落とした。そしてパイプにランプの火を近づけると、「吸え」と言って鳳を促した。

 

 鳳が言われた通りに、炙られた煙を吸い込むと……

 

 次の瞬間、まるで体の中にユートピアが現れたかのような、得も言われぬ快感が全身を包み込んだ。ピンクの羊が空を舞い踊り、陽気なタコがずいずいずっころばしをしているような楽しさだった。聞こえるはずもないのに、遠くの方からストラヴィンスキーの春の祭典が聞こえてくる。目をつぶればサイケデリックな幻想が、網膜のスクリーンで暴れているようだった。

 

 これがアヘン……うーん、凄い……こんな世界があったなんて!

 

「あ~……こりゃあいいわ~……」

「いいだろう……」

「はい~……いいです~……」

「うん~……パイプ返して」

 

 鳳がパイプを返すと、老人はまたそのパイプを使ってアヘンを吸い込み、長いため息を吐いてから、また鳳にパイプを差し出し、受け取った鳳がまたアヘンを吸い込んで……ぐるぐるぐるぐると、二人は回し飲みのようにアヘンを吸い続けた。

 

 鳳がこの素晴らしい体験に心を打たれていると、老人がぼんやりとした目を空中に向けながら、誰ともなしに呟くように話し始めた。

 

「僕はアヘンが好きでさあ……一日中でも吸っていたいんだなあ」

「わかりますわかります……」

「でもさあ~、今年は収穫量が少なくて、ちょっと物足りないんだよ」

「そうなんですか~……」

「でさ、ここより山奥の村はまだ収穫前だから、分けてもらいに行きたいんだよね。でも、僕はこの通りだから、山道が大変で大変で……多分、隣村に辿り着く前に死んじゃうと思うんだよ。だからさあ、君、道案内するから連れてってくれないかなあ」

「あ~……」

 

 鳳はアヘンと聞いて二つ返事でオーケーしそうになったが、その一歩手前で、まだ残っていた理性で仲間のことを思い出し、

 

「でも、俺……仲間と一緒に砦にいかないとなんですよね」

「……砦?」

「はい~……こっから東の方で、帝国と勇者領が戦争やってんですよねえ。俺、そこに行かなきゃなんですよ」

「そっかあ……」

 

 鳳がその旨を伝えると、老人は少し考え込むような素振りを見せてから、

 

「なら僕もそこまで行こう」

「……え?」

「思い出したんだが、砦のすぐ近くに、ケシの大草原がある。ここのケシもみんなそこから分けてもらった物なんだ。ならば最後に、それを見ておくの乙というものだろう」

「はあ……?」

「僕は足手まといだが、道案内くらいは出来ると思う。どうだい、君。僕をそこまで連れてってはくれないか」

 

 老人はそう言ってアンニュイに笑ってみせた。鳳がなんて答えていいか分からず黙っていると、突然、家の扉がガタガタと開けられて、外から誰かが入ってきた。

 

「おーい、ポポル爺さん! いるかい? 実は遠くから来た若いのが一人居なくなってんだが、あんた知らんか……って、ここにいたんかい」

 

 やってきたのは、昨日村長の家でも会った若手のダンだった。彼は鳳が老人と一緒に仲良くアヘンを吸っているのを見ると、はぁ~……っと溜息をつきながら、

 

「まったく。道案内してやるつもりで家まで行ったら……まさかこんなところで爺さんとラリってるなんて……」

「鳳、おまえ……」

 

 見ればダンの背後でギヨームが頭を抱えていた。どうやら、起きたら鳳が居なくなっていたから、みんなで探していたようだ。気がつけば空は青々と晴れ、太陽はだいぶ上空まで昇っていた。ここに来てまだそんなに経っていないつもりだったが、信じられないことに、相当の時間が流れていたようだ。

 

 鳳は呆れ返る仲間たちに謝罪しながら、取り敢えず知り合ったばかりの老人を紹介した。彼が道案内をしてくれると言うと、ダンは最初はすごく驚いていたようだが、やがて一人で何かに納得すると、

 

「爺さんは体はともかく頭の方はしっかりしてるから大丈夫だろう」

 

 と太鼓判を押してくれた。こうして鳳たち一行は、足腰もろくに立たないジャンキー爺さんを仲間に加えたのである。

 



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食う寝る遊ぶ

 ボヘミア入りした鳳たち一行は、最初に訪れた村でジャンキーのポポル爺さんと出会った。

 

 一日中でもアヘンを吸っていたいという爺さんは、隣村のアヘンを分けてもらいたいという理由で鳳に同行を依頼したが、ボヘミア砦まで行かねばならないという彼の言葉を受け入れて、行き先を砦に変えた。爺さんがいうのは、砦の近くに物凄いケシの大草原があるらしく、彼は途中の村々でアヘンを分けてもらいながら、そこまで行きたいというのだ。

 

 村の若手ダンが言うには、爺さんの体はよぼよぼだが、頭の方はしっかりしているから道案内くらいは大丈夫ということだった。そんなわけで鳳は彼を仲間に加えることにしたのだが、もちろんギヨームは嫌がった。

 

「あのなあ、鳳。今更ジャンキーが一人二人増えようが文句は言わねえよ。だが、こんなよぼよぼの爺さんを連れてってどうするんだ? こんなののペースに合わせていたら、日が暮れちまうよ。トカゲ商人のアドバイスを忘れたか?」

「でも可哀相じゃんか。よぼよぼとは言っても爺さんも歩くくらいは出来るんだし、別の村に到着するたびにガイドを変えていたんじゃ、いつかどこかで断られて立ち往生するかも知れない。爺さんは最後まで案内してくれるって言ってるんだし、いざとなったら俺がおぶって連れてくから」

「そんなの出来るわけねえだろ。いっくらガリガリの爺さんとは言っても、40キロくらいはあるんだぜ? 音を上げるに決まってらあ」

 

 確かにギヨームの言う通りで鳳の認識は甘いと言わざるを得なかった。しかし、そんな問題はあっさりと解決してしまった。鳳たちが爺さんの同行を認める認めないで揉めている間に、その爺さんのためにダンが一頭のポニーを連れてきた。ダンは爺さんとボソボソ何かを話した後、

 

「それじゃあ、くれぐれも気をつけて爺さんをカナンのとこまで運んでやってくれ」

「カナン……?」

「聞いてなかったのか?」

 

 カナンとは、ポポル爺さんの言う凄いケシ畑の持ち主の名前だそうである。まだ見ぬ上質アヘンを求めて、ポニーに乗って約束の地(カナン)へ旅立つなんて、さしずめ爺さんはモーゼと言ったところだろうか。

 

「おまえ、そんなことばっか言ってると、いつか狂信者に殺されるぞ」

 

 そんなギヨームのぼやき声は聞こえたが、案内人に馬までつけてくれるなら文句はないと、彼もそれ以上反対することはしなかった。彼らは村長とダン、それからここまで案内してくれたトカゲ商人に別れの挨拶をし、次の村へと旅立った。鳳が爺さんの家でアヘンを吸っていたせいで慌ただしい出発となった。

 

 旅立ち前にポポル爺さんが言っていた通り、この近辺の集落はみんなケシを栽培しているらしい。その歴史は古く、いつから育てているのかはわからない。少なくとも、爺さんがこの村にたどり着いた時には、すでにケシ栽培はどこの家でも普通に行われていたそうである。

 

 この近辺の集落は、帝国の元農奴であった人々が定住して作られたものだが、この辺の気候がケシ栽培に適しているため、自然にそうなったのだろうか。ただ、ケシは弱く、自生していたとは思えないから、大昔に誰かがここに持ち込んだのは間違いないようだ。

 

 そんなケシの実から出る液汁であるアヘンは、古くからシャーマンが祭祀の際に使用する興奮剤として利用されていた薬である。ギリシャ神話の神酒ネクター、ヒンドゥー教の霊薬ソーマなど、正体ははっきりしないが記述だけが残っているこれらの飲み物は、恐らくアヘンではなかったかと思われる。

 

 そう考えると少なくとも紀元前にはインドから中央アジアまでに広まっていたようであるが、残念ながらその原種は見つかっていないため、どこが原産地かは未だに判明していない。気候条件的にはヨーロッパが原産地ではないかと言われている。

 

 ケシは冷涼で乾燥した気候を好み、熱帯雨林は適さない。紀元前から脈々と品種改良が行われてきたせいか、今となってはカイコみたいに人間が手入れをしてやらねば育たないという、経済植物になってしまっている。

 

 日本でも、戦前に栽培していた名残か、たまに雑草として道端に生えているのが見つかり騒ぎになるが、基本的には弱い品種と言える。原産地がヨーロッパなので、元々はアジアには存在しなかったのだが……それが広まったのは言うまでもなくアヘン戦争が原因であった。

 

 その昔、世界に冠たる大英帝国は東インド会社を設立、スペイン・ポルトガル連合に勝利して、インドの植民地化に成功した。インド東部ベンガル地方に進出した彼らは、その触手をさらに東へと伸ばし、ついに中国大陸の清に到達する。

 

 この時、彼らが始めから清を侵略する意図を持っていたかどうかは定かではない。この際だからそんなことは無かったと考えよう。しかし、彼らは出会ってしまったのだ。英国紳士(ブリカス)の代名詞といえば100人中100人がこう答えるであろう『紅茶』である。

 

 清に到達した英国人は、たちまち中国のお茶の虜になってしまった。日常的にカフェインを摂取している現代人は慣れてしまっているが、元々、カフェインとは覚醒剤のことである。今でもエナジードリンクでカフェインを過剰摂取すれば、それなりに効き目を感じることから、その作用が分かるのではなかろうか。それまでカフェインなど摂ったことがなかった、当時の英国人がお茶から受けた衝撃は、計り知れないものがあったようである。

 

 しかし、彼らはお茶を手に入れたくても、交換できる材料を持っていなかった。その頃の英国の主産業はインドの綿織物で、そんなものは清では珍しく無かったのだ。そのため、三角貿易でせっかく手に入れた大量の銀を、清に流出する羽目になってしまった大英帝国は、一計を案じることにした。

 

 覚醒剤(こうちゃ)が欲しいなら、覚醒剤(あへん)を売ればいいじゃない……アヘンが体を蝕むことを知っていても、遠い異国のことだから気にしない。更には、ヨーロッパから運んでいたら運送コストがかかってしまうから現地調達しようとばかりに、彼らはヨーロッパの気候に近い、タイ・ラオス・ミャンマーの山岳地帯でアヘンを生産しはじめた。これが21世紀まで続く、世界の一大麻薬製造拠点と呼ばれた黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)の始まりであった。

 

 こうして英国面をいかんなく発揮した紳士たちは、首尾よく殆どタダでお茶を手に入れることが出来るようになった。しかし、急激なアヘン汚染の広がりに驚いた北京政府は、間もなくアヘンの禁輸措置を取り、イギリス商人からアヘンを没収、これを不服とした大英帝国との間で戦争が勃発する。後は知ってのとおりである。

 

 とにもかくにも、そんなわけで、アヘンの材料であるケシという植物は、元々は高原植物だったのだ。鳳が大森林でいくら探しても見つからなかったわけである。しかし、ここボヘミアは気候的に適しているため、今ではこの近辺で育てていない農家はないそうである。

 

 となると、ここはゴールデントライアングルもかくやという、一大アヘン生産拠点であるわけだが、どうしてそんな楽園が、帝国や勇者領……というか自分の耳に伝わっていなかったのかと鳳は疑問に思った。

 

 すると、ポポル爺さんはポニーの上でのんきにパイプをふかしながら、

 

「それはここの人たちが、自分で使う分しか作らないからだなあ」

「どうして? もっと沢山作って売れば、いい暮らしが出来るかもよ?」

「いい暮らしって?」

「そりゃあ……おいしいものを沢山食べて、大きな家に住んで、綺麗な服を着て、毎日遊んで暮らすとかかな……?」

「それはお金がないと出来ないことなのか? 例えば料理を練習したり、自分で家を建てたり、裁縫したり」

「いや、工夫をすれば出来るだろうけど、お金があればその苦労を買って出る必要もなくなるでしょ?」

「ふーん……お金があれば楽になるのか……なるほどなるほど」

 

 そう改まって言われてしまうと、鳳は自信が無くなってきた。爺さんはそんな鳳には一瞥もくれずに黙々とアヘンを吸いながら、

 

「いい暮らしがしたいんだったら、こんなところで暮らしてないさ」

「そりゃまあ、そうか……」

「ねえ、君。ちょっと実験してみよう。今、君の目の前に小さなキャンディと大きなチョコレートがある」

「なんだい藪から棒に……?」

 

 爺さんは相変わらずこちらの方は見向きもせずに、ぼんやりと空中に視線を飛ばしながら続けた。

 

「多くの人にとってキャンディよりもチョコレートの方が価値があるとする。君もそう思っているとしよう。ところで、今、魅力的で楽しい仕事をしたらキャンディをくれると言う人と、退屈で面倒くさい仕事をしたらチョコレートをくれるという人が居たとして、君ならどちらを選ぶ?」

「え……? そうだなあ……まあ、楽しんでキャンディを貰ったほうがマシだろうな」

「なるほど、じゃあ今度はこうしよう。今、キャンディかチョコレートに変えられる商品券があるとする。キャンディを手に入れるには商品券が6枚、チョコレートなら10枚が必要だとしよう。この時、魅力的で楽しい仕事をしたら商品券を6枚くれると言う人と、退屈で面倒くさい仕事をしたら10枚くれるという人が居たら、君はどうする? 仕事は一回こっきりだ」

「う……うーん……そうだなあ。それなら、面倒くさい仕事でも、選んでしまうかも知れない」

 

 鳳は自信なげにそう答えた。と言うのも、彼はもう爺さんが言いたいことがわかっていたのだ。わかっていながら、彼は自分の意に反する答えを選ぼうとしてしまっていた。

 

「もう気づいていると思うけど、この二つは言い方を変えただけで同じことを聞いているだけだ。最初の質問と二回目の質問、どちらを選んでも結果は同じになる。なのに君は、最初は殆ど悩むこと無く、簡単な仕事を選んでいたはずなのに、二回目の質問では大分迷って後者を選んでしまった。君は出来ればチョコレートが欲しいけど、そのために苦労はしたくないと思ってた。ところが、商品券というクッションが間に挟まっただけで、その選好が崩れてしまったんだな。

 

 言うまでもなく、この商品券というのはお金のことだ。人間っていうのは、目的があって仕事を始めたはずなのに、そこにお金が介在すれば、知らず識らずのうちにお金の方が目的になってしまうんだな。それも仕方ないことだろう。自分の好みは目に見えないけれど、お金というのはわかりやすく力を数値化するものだから。多いほうが良いに決まっている。

 

 だが、本質を見誤るな。君は本来、楽してチョコレートを得たいと思っていたはずだ。それが駄目なら、キャンディで十分だと。お金はそのための手段でしかなかったんだ。

 

 僕は必要なだけの作物を作り、必要なだけの肉と交換し、余った時間でアヘンを吸ってダラダラ生きる。今の暮らしの方が、ずっといいと思うな。ここは確かに不便だけど、都会にはない長閑さとか、楽しさみたいなものはあると思うよ」

 

 鳳はう~ん……と唸り声を上げた。なんというか、ウォール街のジョークを思い出した。結局のところ人間に必要なものなんて、衣食住と適度な仕事だけなのだ。それ以上を追い求めても、そのために失われる自由と苦痛とに相殺されて、ほとんど意味がないような気がする。

 

「食う寝る遊ぶ……か。確かに、それに勝る生活はないもんな。考えてみれば、俺も都会で一旗揚げたいとかそんな野望があるわけでもないし、ここでの生活のほうがあってるのかも知れない。この仕事が終わったら、俺もここに永住しようかな……」

「おいおい、やめてくれよ!? 今更おまえに抜けられちゃ、うちのパーティーはどうなっちまうんだ」

「わかってるよ。メアリーのレベル上げを手伝う約束もあるしな。ただ、言ってみただけさ」

 

 鳳はそう言って話を終えたが、頭の中ではまだそんな将来のことを考えていた。

 

 結局、今のパーティーだって、いつかは解散するのだ。ギヨームは将来、牧場経営をしたいと言っていた。ジャンヌだっていつまでも鳳といるよりも、どこかに士官したほうが良いかもしれない。ルーシーはレオナルドの後継者として本気で修行した方がいいと思うし、メアリーはどうなるか分からないが、寿命のことを考えると、彼女とはいずれ遠い将来に必ず別れることになる。

 

 その時に後腐れないように、自分も将来のことをもう少し良く考えたほうがいいかも知れない。ポポル爺さんのアヘンの匂いを嗅ぎながら、鳳はそんなことを考えていた。

 

**********************************

 

 村から村を巡る旅は順調に続いた。ポポル爺さんは確かにでっかいお荷物だったが、一緒に連れてきたポニーは凄く働き者だし、ダンが言っていた通り頭の方はしっかりしていたから、村での交渉では寧ろ鳳たちなんかよりよっぽど頼りになった。

 

 と言うか、この近辺の村々は非常に広範囲に散らばっているのだが、結局の所、人口密度が少ないだけあって、どこもかしこも元をただせば同族なのだ。だから、どこへ行っても鳳たちは最初はよそ者と思われ警戒されたが、そこにポポル爺さんがいると知ると、打って変わって歓迎された。

 

 亀の甲より年の功とでも言うべきか、爺さんはどこの集落にも顔見知りがいて、中には何も言ってないのに、今年収穫したばかりのアヘンを持って駆けつける者までいるくらいだった。

 

 そんな感じで鳳たち一行は、朝に村を出て夕方までに隣村へ到着すると、そこでまた阿片窟みたいな寝床を借りて、夜はスパスパとアヘンを吸う生活が続いたのであった。この辺では名の知れた爺さんは、黙っていても誰かしらがアヘンを持ってきてくれるから、そのご相伴に預かっているうちに、鳳はすっかり一人前のジャンキーになっていた。

 

「あ~……気持ちいいんじゃあ~……」

「おまえ、いい加減にしないとホント身を滅ぼすぞ」

 

 そんな鳳のことを仲間たちはみんな呆れながら見ていたが……鳳とポポル爺さんが阿片窟へ籠もっていると、ある時からメアリーもふらりとやって来るようになった。

 

 村から村へと渡り歩いているうちに、季節はめぐりアヘンシーズンは終わりを告げていた。村人たちは秋に向けて畑を耕すのだが、焼き畑をする時にメアリーのファイヤーボールが役に立った。

 

 ファイヤーボールは地面に向けて撃っても殆ど意味を成さないが、それでも田畑を燃やすくらいの火力はあった。その火加減が程よく田畑を焼いてくれるから、いつからか彼女は村人たちに重宝がられるようになっていた。

 

 元々、献身性の高い彼女は、そうして求められるままにファイヤーボールを撃っていたのだが、もちろん、そんなことをいつまでも続けていたらMPがいくらあっても足りない。そこでふらりと阿片窟へやって来るようになったわけだが、彼女に言わせれば、実際にここに来ればMPの回復が早くなるようである。

 

 以前、キノコでオーバードーズしてしまったトラウマがあるからか、彼女は直接アヘンを吸おうとはしなかったが、匂いを嗅いでいるだけでも相当効果があると言っていた。魔法具屋の店主がハイポーションと言っていたが、どうやら本当のことだったようだ。

 

 それにしても、大麻がMPポーションだったり、アヘンがハイポーションだったりと、実際このMPというものは何なんだろう? この世界の魔法がどのように行使されているのかもイマイチよく分からないが、頭の中で何かが起きていることだけは確かのようだ。

 

 そんなことを考えつつ、ポポル爺さんのお陰で旅は順調に続き、いよいよ明日にはボヘミア砦が見えるという最後の村へとたどり着いた。そこは出かける前にダンが言っていたカナンという人が住む村だそうだが……

 

 見渡す限りの白を前に、鳳は溜息を吐いた。初めて爺さんにアヘンを吸わせてもらった日、彼が言っていたケシの大草原が、そこには本当にあったのである。

 



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翼人

 見渡す限りの白だった。カーラ国を発ってからおよそ2週間、村々を巡りながらたどり着いた先には、ケシの大草原が広がっていた。開花したばかりの花々が風にそよぎ、どこまでも続くその白い絨毯が、風を追いかけウェーブしている。

 

 爺さんが言ってた通りだなと、暫し唖然と見ていたら、突然、陽が陰ってきた。ハッとして空を見上げたら、まるで掴めそうなくらい近くに雲があった。気がつけば、上も下も白く染められた世界の中に佇んでいた。さしずめここは雲の王国と言ったところだろうか。

 

 これだけの畑を維持するのには、一体どれくらいの人手が必要なんだろう。そう言えば、ここに来るまでに通った村々では、自分たちで使う分しか作らないと言っていたのに、ここにはどう考えても売って余るほど大量のケシが生えていた。

 

 もしもこれでも、自分たちが使うだけと言い張るならば、ここは数千人規模の大きな村ということになる。もちろん、こんなマチュピチュみたいな山の上に、それほどの人口を抱える村なんてありえなかった。

 

 するとここだけ方針転換して、必要以上にアヘンを生産しているということだ。しかし、どこかへ卸しているというなら、今まで気づかなかったのはおかしな話だ。なら他に理由があるのかも知れない。

 

 それは何なんだろう? と考えていると、畑の中に第一村人を発見した。鳳たちは恐らくアヘンを収穫しているのであろう、その村人の方へと近づいていった。

 

「こんにちわ~! ここはカナン村で間違いありませんか?」

 

 すると農民は怪訝そうな、明らかに警戒している表情をしながら、

 

「カナンは村じゃなくて、村長の名前だが……あんたたちは?」

「俺たちは、この近くにある砦へ行くために勇者領から来ました。救援物資を送るために、地図を作ってるんですよ」

 

 鳳がそう説明すると、途端に農民の顔がパーッと輝きだして、

 

「それじゃ、あんたら勇者軍の人たちか!」

「いや、勇者軍じゃなくて、ギルドの冒険者ですが……」

「何にしても味方には違いない。やっと待ち望んでいた救援が来てくれたぞ! ……ヴァルトシュタインさんも、これで浮かばれる。砦はここから歩いてもそう時間がかからない。すぐ案内するから、ちょっと待っててくれ」

 

 ここに来るまで、どこの村でもあまり歓迎されてこなかったから、この反応には驚いた。聞けば彼はヘルメス領から来た難民で、ヴァルトシュタインと一緒に砦を築き上げた一人だそうである。

 

 しかし難民軍は元々、女子供や老人を含む烏合の衆で、とても戦闘に耐えられるような集団ではなかった。そこでヴァルトシュタインは、口減らしの意味も兼ねて、難民の中から戦闘の出来るものと出来ないものを選り分け、非戦闘員をこうして後方の村々へと避難させたそうである。

 

「全員がこの村にってわけにはいかないから、結構広範囲にバラけている。中には新しく村を作った奴らも。でも大体は仕事のあてを探して行商人と一緒に北を目指した。帝国から逃げてきたのに、結局、またその帝国のために働くことになるんだから皮肉な話さ」

 

 農民はそう言って自嘲気味に笑った。彼としては本当はみんなと一緒に砦に踏みとどまって、義勇軍として戦いたかったそうだ。しかし、彼には持病があって戦闘は難しかったから、こうして後方に回されたというわけである。

 

 この村にはそんな元難民軍の者たちが多く残り、農家の手伝いをしながら砦に少ない物資を送っているそうである。しかし、砦に籠もる3千ほどの義勇軍を養うには到底足りず、リブレンナ川の決戦後は籠城戦が始まって、厳しい状況が今も続いているらしい。そこへやってきた鳳たちは、さしずめ救世主の到来を告げる神の使いのようなものだった。

 

 金はあるが物資が足りない。状況はかなり逼迫しているようである。ここへ来るまでに通った村のリストから、救援物資を運び入れるルートは既に出来上がっていた。後はその情報を鳳たちは急いで勇者領に戻ってギルドに報告すればいい。

 

「それじゃあ、僕はここでお別れだ~……」

 

 鳳たちがそんな話をしていると、ポニーの上で退屈そうにそれを聞いていたポポル爺さんが言った。鳳はここまで道案内を買って出てくれた爺さんに感謝しながら、

 

「大丈夫? 爺さん一人じゃ村まで帰れないだろう? なんだったらギルドに報告した後、またここに戻ってくるけど」

 

 すると爺さんはゆっくりと首を振って、

 

「いいよ~。僕は暫くここに留まるから。ここには僕が好きなアヘンがいっぱいあるし、世話をしてくれる先生もいるからね」

「そうなの……?」

「ああ、ここの村長とは昔なじみでね。村が遠いから最近会えてなかったけど、彼はいっぱいアヘンを持ってるから、暫くはここでのんびりアヘンを吸いながら、昔話でもして過ごすつもりさ」

 

 爺さんは暫くと言っているが、思い返せば爺さんは村で一人暮らしだったし、これだけ長い道のりを案内してくれたのだ。もしかしたら爺さんは最初から、友達のいるここへ引っ越してくるつもりだったのかも知れない……鳳はそう思ってちょっと切なくなった。

 

 それにしても聞き捨てならないのは、これから爺さんが世話になると言っている村長がアヘンをいっぱい持っているという事実である。

 

 鳳は目の前に広がるケシ畑を見ながらゴクリとつばを飲み込んだ。

 

 ここに来るまでに寄った村では、みんなその日に爺さんが使う分くらいしかアヘンを分けてくれなかったが、これだけあるなら交渉次第では、もしかすると多めに分けてくれるかも知れない。

 

 元はと言えばこのボヘミア行は、魔法具屋の店主に頼まれて、アヘンを手に入れるのが目的だったのだ。鳳はそれを思い出し、

 

「それじゃあ、俺もその村長さんに挨拶しとこうかな……」

「おまえの場合は邪な考えでだろう?」

 

 ギヨームのツッコミに鳳はウッと言葉を飲み込む。彼はため息交じりに、

 

「まあ、今後、物資調達の勇者軍がうろつくかも知れないんだ、素通りってわけにも行くまい。村長に会いに行くのは賛成だ」

 

 そんなわけで、鳳たちは爺さんと一緒に村長の家へと向かうことにした。

 

********************************

 

 村長の家は村の一等地というか、この村の最も高い位置にあった。ケシ畑の間に曲りくねるように伸びている、勾配の緩やかなあぜ道を進んでいくと、やがて小高い丘の上に平屋の広い日本家屋のような建物が見えてきた。茅葺きの大きな屋根の上には妙に存在感の強い風見鶏が乗っていて、それが風を受けてパタパタ回転していた。

 

 登ってきたばかりの道を上から振り返れば、そこには広大なケシ畑が広がっていた。高原の天気は変わりやすく、いつの間にか濃い霧に包まれていて、畑の端っこはもう見えなくなっていた。それがまるで三途の川か、彼岸の景色のように映って、きっと天国という場所があるならば、こんな風景に違いないと鳳は思った。

 

 多分、これを見て天国なんて感想を抱くのは彼だけだっただろう。ところが、間もなく鳳以外のメンバーも、彼と全く同じような印象を持つような出来事が起きたのである。

 

 その家に近づくと屋根からモクモクと、湯気のように煙が上がっているのが見えた。火事ではなくて、おそらくは茅葺き屋根に虫がつかないように、中に囲炉裏でもあるのだろう。こんなとこまで日本家屋式なのかと感心しながら進んでいくと、その時、鳳はその建物から何かいい匂いがしてくることに気がついた。

 

 最近良く嗅ぐそのいい匂いとは、言うまでもなくアヘンの香りである。

 

 それじゃこの中は阿片窟にでもなってるんだろうか? ポポル爺さんを乗せたポニーがパカパカと蹄の音を響かせて建物に近づいていくと、その音に気づいたのか、中から一人の女性がひょっこりと顔をのぞかせた。鳳はこれがカナン先生なのかな? と思ったがそうではなく、女性はやってきた者たちの中にポポル爺さんを見つけるや否や、すぐさま家の中に向かって叫んだ。

 

「先生! お客様ですよー!」

 

 彼女はそう言うと、困ったような表情で鳳たちに軽く会釈してから、そのまま忙しそうにパタパタと足音をたてて家の中へと入っていった。来客と言いながら案内するでもなく、置き去りにされてしまった鳳たちが手持ち無沙汰に立っていると……やがて、そろそろ忘れられてるんじゃないかと不安になった頃になって、ようやく家の中から一人の男性がスーッと現れた。

 

 鳳たちはその姿を一目見るなり目を丸くした。

 

 男は年の頃は20代から30代、身長180センチくらいの引き締まった体をしており、サンダル履きのラフな格好の上に、白衣のようなものを羽織っていた。白髪(アッシュブロンド)で彫りは深く、目はエメラルドで、北欧系の人種らしくものすごく白い肌をしており、そして、驚くほどの美形だった。

 

 それは神が作り出したかのような、作り物めいた美しさだった。この世界に初めて来た日、神人の女性を見て抱いた印象とそっくり同じ印象がその男からは感じられた。無論、美形の神人を見るのは初めてではないし、メアリーという仲間もいるから、驚いたのはその美しさのせいではない。鳳たちが何より驚いたのは、男の背中に生えた大きな翼のせいだった。

 

 男の背中には2枚の大きな白い羽根が生えていた。それは鳥のような大きな翼で、柔らかな羽毛に包まれている。一瞬、目の前の男が作り物みたいだったから、その翼もきっと作り物なのかも知れないと思ったが、すぐにその考えは捨ててしまった。

 

 男は玄関に現れると器用にその翼を広げて、パタパタと鳳たちの方に風を送ってきたのである。

 

「これはこれは、ポポルではありませんか。お久しぶりですね」

「うん、先生。また会えて嬉しいよ」

 

 唖然とする鳳たちとは対象的に、ポポル爺さんはいつもどおりのフラットな声で家の主に挨拶すると、ポニーからよっこいしょと降りようとした。

 

「一人で大丈夫ですか?」

 

 という男の声にハッとして、鳳が爺さんに手を貸すと、彼は鳳に体重を預けてポニーから滑るように地面に降り立ち、それから割りとしっかりした足取りで、男の立っている玄関から家の中へ入っていった。そのすれ違いざまに、

 

「それじゃ暫くお世話になるよ~」

「ええ、ゆっくりしていってください」

 

 と二人は挨拶を交わし、ポポル爺さんは鳳たちに一瞥もくれずに、当たり前のように家の中へと消えていった。鳳がそんな爺さんを追い掛けようとすると、家主がその羽根ですっと彼の行く手を遮り、この中は立入禁止ですと申し訳無さそうに謝罪を口にした。

 

 入り口から見える建物の中は紫煙が充満しており、その匂いだけでトリップしそうなくらいアヘンの匂いがプンプンしていた。ちらっと見えた中には数人の男たちが屯しており、どうやらここは本当に阿片窟のようだった。

 

 一応、さっき別れの挨拶は済ませたつもりだったが、なんとも寂しいお別れである。鳳は、爺さんのことも気にはなったが、それ以上に目の前にいる男の方が気になって、その後を追うことを諦めて彼の方へと向き直った。

 

「こんにちわ……はじめまして。えーっと、あなたがカナン先生ですか?」

「はじめまして。ええ、そうです。あなた方は、ポポルをここまで連れてきてくれた方たちですね。感謝いたします。見たところ、行商人のようには見えませんが……はて?」

 

 男は、歳も格好もバラバラの鳳たち一行を見て首を傾げている。鳳は彼の正体を聞くよりも前に、まずは自分たちのことを話して置かねばと思い、

 

「挨拶が遅れました。俺たちは連邦議会から派遣されて、この先にある砦に向かっている冒険者です。ポポル爺さんには寧ろ俺たちが案内してもらった方で」

「おや、そうだったのですか? ……ふーむ。ところで、砦とおっしゃいますと、何か戦争で動きがございましたか? もし我々から徴発などをされるおつもりなら、ご容赦願いたいのですが……もちろん、我々に抵抗する力はございませんが、元から無い物を集めることも出来ません」

 

 どうやらカナンは鳳たちが砦から来た徴税官かなにかと勘違いしているようである。鳳は慌てて否定した。

 

「いやいや、俺たちは寧ろそうならないように、救援物資を送るルートを確保しに来たものです。今後は勇者領の方から物資が送られるでしょうから、もう心配ありません」

「そうですか。ならいいのですが……」

 

 カナンはまだ疑わしそうな表情を隠さなかった。どうやら彼は、勇者軍に対する不信感があるようだった。

 

 まあ、それも無理ないだろう。彼からしてみれば、いきなり自分ちの目の前に砦を作られ、ドンパチやられているようなものである。難民を受け入れてくれてるだけでも有り難いのに、これ以上不安を煽るような真似をしては気の毒だ。鳳は慌てて話題を変えた。

 

「ところで、あなたは翼人ですか……?」

「おや……私の姿を見て、真っ先にその名前を口にするとは珍しい。お察しの通り、私は翼人と呼ばれる種族の者です」

 

 翼の生えている人だから翼人なんて、誰でもすぐ思いつく言葉であるが、少なくともここ旧大陸(バルティカ)では馴染みのない言葉であった。翼人は新大陸に住んでいる少数部族で、この大陸には居ないはずなのだ。だから彼は鳳がいきなりその名を口にしたことに驚いたのだ。

 

 彼が何故その名を知っていたのかは言うまでもなく、つい最近、初代ヘルメス卿アイザック・ニュートンの著書を読んだからであるが、

 

「彼はあなた方を天使の末裔だと思っていたようですよ」

 

 鳳がそう言うと、カナンは苦笑しながら、

 

「ははははは。ヘルメス卿もおかしな方ですね。もしも私たちが天使なら、その輪っかはどこにあると言うんですか。ここが天国だと言うのなら、世に跋扈する魔物は何なんですか。神に召されてまでも、人は人同士で争うことをやめられない。ここは天国と言うよりも、どちらかと言えば、地獄と呼んだほうが良さそうなくらいです」

 

 翼人の皮肉めいた言葉に、鳳に苦笑で返しながら、

 

「俺もそう思います。でも、あなたに初めて出会った時、俺も同じ印象を持ちましたよ。何ていうか、あなたは俺たちが持っている、天使のイメージによく重なっている。初代ヘルメス卿が勘違いするのも無理はないでしょうね」

「うーん……そんなこと言われても、正直こそばゆいだけですね。私たちなんて、ただ羽根が生えているだけですよ?」

「新大陸には結構いらっしゃるんですか?」

「ええ……今は北方でほそぼそと暮らしているだけですが、元々は私たちが新大陸の先住民で、後からやってきたのが勇者領の人間たちなのですよ。昔はそれでひと悶着あったのですが、今は共存しています」

 

 すると金髪碧眼の白人先住民を、海の向こうからやってきた人間が追い出したということか……なんというか、地球とは真逆だなと鳳は思った。

 

 そんな翼人の彼がどうしてこんな旧大陸の山奥で阿片窟なんか作っているのか、正直かなり興味はあったが、あまり突っ込んだことを聞いて機嫌を損ねるのは得策ではないだろう。

 

 鳳はそれよりも彼が育てているケシ畑のほうがずっと気になって、ソワソワしながら聞いてみた。

 

「ところで……この周りに広がっているケシ畑は、全てあなたの物なんですか?」

「……? いいえ、全てというわけではありませんが。それがどうかしましたか?」

「ここに来るまでの村では、必要以上のアヘンを生産していませんでした。しかしここのケシ畑は過剰です。もしかして、どこかに出荷していたりするんでしょうか?」

「いいえ、これはここでしか使われていません。確かに必要以上の量を作ってますが、それは備蓄のためですね。こんなの腐るものではありませんから、うちの村では不作の年に備えて多めに作っているってだけですよ」

「なるほど、そうなんですか! じゃあもしかして……その備蓄をちょっと分けてもらうなんてことは……出来たりしなくなくないですかねえ? うふふふ……」

 

 鳳が上目遣いで謙るようにそう言うと、カナンはおやっとした顔をしてからクンクンと鳳の匂いを嗅いで、

 

「……ふーむ……あなた、ここに来るまでに、相当アヘンを嗜んでらっしゃいましたね?」

「えへへ……わかります?」

「わかりますとも……仕方ないですね、ポポルと一緒にいらしたなら。でも、あなた、まだお気づきになっていないかも知れませんが、これは非常に中毒性の高い薬なのです。このまま使い続ければ、取り返しのつかないことになりかねませんから、もうこの辺でやめにしておいたほうが良いですよ?」

 

 カナンがそう諭すように言いだすと、鳳は彼の言葉を遮るように慌てて首を振り、

 

「いやいや、違うんですよ! 実は俺、連邦議会の依頼で道を探しに来ただけではなく、アヘンも探していたんですよ」

「……どういうことですか?」

「はい。実は、友人に魔法具屋をやっているものが居りまして、元々はその彼の依頼でアヘンを探しに来たのが本命なんです。連邦議会はそのついでで……」

「へえ、そうだったんですか」

「友人は古代のハイポーションを復活させようとしていて、この近辺に材料があると聞き及びまして、俺に探してきてくれと依頼してきたんですよ」

「ふーむ、なるほど……MPポーションの代わりですか。確かに、これにはその効果が期待できます」

「ですんで、その友人のためにも、ほんの少しでいいからわけて貰えませんか?」

 

 鳳がそう言うと、カナンは少し考え込むように羽根をパタパタさせていたが、やがて何かを決心したように、うんうんと頷くと、

 

「わかりました。そう言う事でしたら、お薬を少し分けて差し上げましょう。その代わり、あなたが個人的に楽しむためには、絶対使用しないと約束してくれますか?」

「もちろんですとも。俺が使っちゃったら、友人に持って帰れないじゃないですか」

「……それもそうですね。わかりました。それじゃ、ナースに頼んで用意してもらいますから、少々お待ち下さい」

 

 カナンはそう言って建物の中に引っ込んだ。ナースとは看護師のことだろうか? その言葉はちょっと気になったが、ともあれ、首尾よく目的のアヘンを手に入れることが出来て、鳳は内心ほくそ笑んでいた。

 

(……カナンには個人使用はしないって言ったけど……少しくらいならばれないよね?)

 

 そんな鳳のニヤニヤとした悪い顔を、同行する仲間たちが、遠巻きに不安そうに眺めていた。

 



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ボヘミア砦

 当初、相当苦労すると思われていた連邦議会の依頼は、ポポル爺さんという強力な助っ人のお陰で、あっという間に完了してしまった。爺さんはここボヘミア南部の地理に明るく、この山奥でずっと暮らしていたために顔が広く、各村から協力を拒否もされることなく、鳳たちは順調に地図を完成させられたのであった。

 

 地図、と言っても正確な測量をしたわけではなく、どの村を通過したら次はどの村へ向えばいいのか? と言った手順のことであったが、その村々での案内人の確保と、救援物資の通過許可も得たことから、目的は十分に達せたと言って良いだろう。

 

 ボヘミア砦はもう目の前で、元難民であった村人に言わせれば、今日中にもすぐ到着するはずだった。後はギルドに戻ってこれを報告し、協力してくれる村人たちを刺激しないように念を押せば、それで依頼は完了である。

 

 困ったことに、殊勲のポポル爺さんはカナンの村に着くなり、さっさと阿片窟に入ってしまって、ろくにお別れも出来なかったが……爺さんには、落ち着いたらまた会いにくればいいだろう。どうせ手持ちのアヘンが尽きたら、また近いうちに取りに来るかも知れないのだし……

 

 彼は、私用目的では絶対に使うなと言うカナンの言葉も忘れ、そんな不謹慎なことを考えながら、ついにボヘミア砦へとやってきたのであった。

 

 難攻不落の要塞と聞いていたボヘミア砦は、実際に見てみたら驚くほどチャチな作りであった。

 

 山の上にあるその砦は、普通、城といえばすぐに思い浮かべるような石垣は殆ど見当たらず、どこも土と板の遮蔽物で曲輪を囲っているのがせいぜいという、非常に脆いものとなっていた。それを帝国軍が攻めあぐねているのは、適切な曲輪の配置と、ライフルを主とした戦術のお陰であろう。

 

 山の稜線に複数ある曲輪は、下から攻めてくる敵を必ず2方向以上から迎撃できるように配置が工夫されており、兵士たちは板塀に空けられた銃眼からライフルで狙い撃つという戦術を取っていた。板塀は断崖絶壁の上にあり、下から近づくことも狙い撃つことも出来ない。それでも帝国軍が無理して攻めようとするなら、谷を進んで砦の中心を目指すしかないが、その先にはバリケードが築かれており、そこで足止めを喰らえば、今度は都合3方向から銃撃されるのだ。

 

 何を当たり前なと思うかも知れないが、元からこのように都合のいい山なり自然物なりを探すのは難しい上に、そもそも要塞は相手に攻めてきて貰わなければ用をなさない。ここに敵がいたら困るという位置に縄張りし、その上で籠もる兵力を計算し、十倍する敵を撃退し続けているのだから、これを作ったヴァルトシュタインという男は、かなりの戦上手と言えるだろう。

 

 砦から臨む谷間の先の平原には、今も3万の帝国軍が虎視眈々と要塞を狙って布陣しているのが見える。この状況で、砦に籠もって戦い続けている義勇軍の精神状態はいかほどのものだろうか。自分だったら堪らず逃げ出してしまうかも知れないだろうに、カナンの村でそういった話を聞かなかったことからしても、ここを守る将兵はよほど人心掌握に長けた人物だ。

 

 そのうちの一人には、すぐに会えた。

 

 鳳たちが村人の案内で砦に着くと、見張りの兵士が彼らの接近に気づいて砦の中に何かを知らせる手旗信号を送っていた。警戒しているところに不用意に近づいても平気だろうかと尻込みしていると、その砦の裏口を固めるバリケードから、ひょっこりと美しい女性が現れた。

 

 こんな山奥の砦にはとても似つかわしくない彼女は、言わずと知れた神人スカーサハである。レオナルドの弟子でもあるという彼女は、鳳たちがやってきたと聞いて、居ても立ってもいられずに、出迎えにやってきたのだ。

 

 両手を広げてジャンヌ、ギヨーム、メアリーと次々にハグを交わしたあと、鳳としっかり握手を交わした彼女は、何故か彼の能力を買い被っているようだった。

 

「お久しぶりね、あの国境の町以来だわ。あの後、師匠を押し付けてしまったけれど、息災でしたか」

「お久しぶりです。お陰様で、元気でしたよ。爺さんには、今となってはこっちの方が世話してもらってるようなものなんで」

「大森林では大変だったでしょう?」

「キャンプでお椀やお箸をナイフで削り出してくれたり、活躍してくれましたよ」

「ふふふ……レオナルド作のお椀でお食事なんて素敵ね。きっと、ニューアムステルダムでオークションに掛けたら結構な値段がつくはずよ」

 

 言われてみれば……大森林から出た後は不要になったから、何も考えずに焚き火に入れてしまったが、記念に取っておけばよかったかも知れない。また言えば作ってくれるだろうか?

 

「ギルドから、あなたたちが来てくれると聞いて楽しみにしていたのよ。こんな重要任務を任されるなんて、暫く見ないうちに相当腕を上げたみたいね」

「そうなんですか? ……っていうか、ギルドからの連絡ってどうやって受け取ってるんですか? 俺たちがボヘミア山中を旅している間、そういった伝令みたいなものは見かけませんでしたが」

「あら……それはもちろん、すぐそこの麓からよ。ここは大軍は攻めにくいけど、一人ならいくらでも抜け道があるように出来てるわ。あなたが国境の町で作り上げた陣をヒントにしたんだけど、気づかなかった?」

「いえ、全く……っていうか俺、そんなこと考えたことも無いんですけど」

 

 彼が国境の町を固める時に取った方法は、単に、以前読んだことのある日本のお城の話を真似たものだった。どこでそんな勘違いをされたんだろうか? と思っていると、スカーサハはそんな謙遜しなさんなと言いつつ、

 

「なんにせよ、あなたに来て貰えてとても助かったわ。ヴァルトは今、前線なのですが、後で紹介しますから、あなたにはこの後の作戦会議に出席して欲しいのだけど」

 

 鳳は目を丸くした。

 

「はい!? いやいや、そんな大事な作戦会議に、どうして俺なんかが?」

「あの街の防衛作戦を指揮したのはあなたでしょう。私たちは、あの時のあなたの手腕を買っているのよ」

「買いかぶりすぎですって。あんなのはたまたま博打が当たっただけで……それに、俺は今回の戦争には、最初から一切関わらないと決めてますんで」

 

 鳳が必死の抵抗を見せると、スカーサハは少し困惑気味に目をパチクリさせて、

 

「えっ? そうなの……でも、それならどうしてこの砦まで来てくれたの?」

「それは単にギルドの依頼だからですよ。ギルドは今、戦争のせいで人手不足で、俺たち以外に依頼を受けられそうな冒険者がいなかったんです」

「そうだったの……」

「ですんで、今回みたいな、流石に責任重大な会議に、そんな俺みたいのが参加するわけには……」

「そんなことは気にしなくていいわ。その作戦会議の責任者があなたに会いたがっているんですから。ヴァルトはずっとあなたに会えることを楽しみにしていたのよ。なんでも、あなたの故郷の放浪者と彼は友達らしいのよ」

「そうなんですか? その放浪者ってのには興味ありますが……でも、すみません、俺はもうどっちの味方もしたいとは思いませんので……」

「ふーん……」

 

 スカーサハは額に手を当て目をつぶり、何かを一生懸命考えているような素振りを見せてから、やがて諦めたといった感じに深く溜め息を吐いて、

 

「そう……ですか。わかりました。師匠から戴いた手紙にあなた達のことが書かれていたときから、頼もしい増援と期待していたのだけど……この国の、それどころか、この世界の人でもないのに、戦争の手伝いを無理強いするわけには行きませんね」

「すみません……お役に立てず」

「いいえ、私の方こそ不躾で申し訳なかったわね。ところで……」

 

 スカーサハは鳳に向かって会釈した後、ボケーッとその背後で成り行きを見守っていたルーシーに視線をあわせた。彼女は突然、勇者領のみならず、この世界でも名高い神人に見つめられてビックリしていた。

 

 砦に到着したとき、彼女だけが何故か挨拶もされず蚊帳の外であったし、あの街の攻防戦の時は非戦闘員だったから、ルーシーはきっと自分のことを覚えていないのだと思っていたのだが……

 

 思いがけず注目を浴びて、彼女が冷や汗を垂らしていると、スカーサハは値踏みするような視線でジロジロとルーシーのことを見回してから、

 

「……あなたがルーシーね。確かギルド酒場で働いていたウェイトレスよね?」

「は、はい……そうですけど??」

 

 ルーシーはまさか自分のことを覚えているとは思わず、それじゃあどうしてさっきは無視されたんだろうと、少し不安に思っていると、

 

「あなたのことが師匠からのお手紙に書いてありました。なんでも、現代魔法の才能がもの凄くあるそうね。今では毎日、師匠に手取り足取り勉強を見ていただいている、期待の新人だとか。なら、私の妹弟子ってことになるわね?」

「あ、はい! そうです! スカーサハさんも、お爺ちゃんのお弟子さんでしたね! 今後ともよろしくおねがいします!」

 

 ルーシーはスカーサハが無遠慮な視線を向けてくる理由がわかり、ほっとすると同時に、同門同士仲良くしようと、いつもの人好きのするスマイルを彼女に向けた。しかし、スカーサハはそんなルーシーのフレンドリーな笑顔にはまるで見向きもせずに、

 

「なんて妬ましい!」

「ヒィ!?」

「あの、レオナルドから教えを請うだけではなく、一緒に暮らしている上に、お、お、お、お爺ちゃんですって!? きぃーっ!! 私なんて、教えを受けられるようになるまで100年もかかったっていうのに! 大君の後継者と呼ばれるようになるまで、200年もかかったっていうのにっ!! それをこんなぽっと出の小娘に、横から掻っ攫われるなんて……許せないわっ!」

 

 ルーシーはまさか目の前の優しそうな神人がヒステリーを起こすとは思いもよらず、仰天して腰を抜かした。

 

「ひ、ひゃー! すみませぇ~んっ!!」

「それだけならまだいいわよ! あなた、せっかくの師匠の厚意を蔑ろにして、日がな一日遊び回ってるらしいわねっ!?」

「え!? いえいえ! そんなことありませんよ!!? 私、めちゃくちゃ勉強してましたよ!? っていうかさせられてましたよ!?」

「そんなことないって、ここに書いてあるわよーっ!!!!」

 

 スカーサハはレオナルドから来たという手紙をバシバシと叩きながら、

 

「新しく取った弟子が伸び悩んでいるのか中々勉強に身が入らない。毎日ぶつくさ文句ばかり言って、逃げ出す口実ばかり探している。このままじゃ駄目になっちゃうから、気分転換にそっちに遊びにいかせるので、やさしく(・・・・)勉強を見てやってって……あなた、いい度胸ね」

「う、うわー!」

「私にとって、師匠の命令は絶対なのです。と言うわけで、今日からあなたのことは、この姉弟子である私が、朝起きてから夜寝るまで、つきっきりで、しっかりと面倒を見てあげることにします! ここにいる間は、ずっとそばから離れないように。それから、私のことは先生と呼ぶように。いいわね!?」

「そ、そんな~……」

「あなた、ちょっと魔法が使えるからって、調子に乗って基本を疎かにしてないでしょうね。モダンマジックはアマデウス公の奇跡の技、血の滲むような努力と、音楽的な知識と才能が物を言う世界なの。こればっかりは師匠であっても分からない感覚だから、あなたはまだ身につけていないようだけど、ここにいる間私がたっぷり教えてあげるから、覚悟しなさい」

「ひ、ひぃ~! お助けーっ!!」

「いい!? 現代魔法は共振魔法と呼ばれている通り、まずはその詠唱の周囲に与える振動の影響は発声法によって左右され……」

 

 ルーシーはスカーサハにズルズルと引きずられていった。初めて出会った時は、物静かな印象を受けたものだが、実際は思ったよりもスポ根で熱い性格の持ち主だったらしい。それはちょっと意外だったが……まあ、ルーシーも最初の時とは大分印象が変わってしまったから、人間の第一印象なんて案外当てにならないのかも知れない。

 

 それにしても、ルーシーがボヘミアへ行きたいとゴネた時、レオナルドが反対せずに、わりとすんなり行かせるものだなと思っていたが、まさかこんなところに思わぬ伏兵が隠れていたとは。彼女はバカンスくらいのつもりで来たのだろうが、世の中そんなに甘くないということだろう。

 

 鳳たちはお互いに顔を見合わせ、ところでこれから自分らはどうしたらいいだろう? と肩を竦めた。スカーサハはもはやルーシーをいじめ抜くことしか関心がないようで、鳳たちのことをすっかり忘れているようだった。かと言って、あれに口をはさむの嫌だなと思ってると、間もなく彼女らが消えたバリケードの奥からスカーサハの副官っぽい兵士が出てきて、砦の中へと案内してくれた。

 

 鳳なんかを会議に招こうとしていたりと、この砦は本当に大丈夫なんだろうかと思いつつ、彼らは旅の目的地であるボヘミア砦へと入った。

 



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空を飛んでいってしまいそうだ

 ボヘミア砦は勇者領にぽつんと突き出た小高い山の上に築かれた山城であった。急斜面の所々にキャットウォークみたいな連絡道が張り巡らされ、切り立った崖の上に作られたいくつもの曲輪に繋がっている。敵が比較的緩やかな斜面を登ってこようとすると、そこで待ち構えていた籠城兵から、一方的に上から攻撃されるのだ。

 

 かと言って搦手に回ろうとしても、砦の後背に広がるのはボヘミアの峻険な山脈であり、大人数での攻撃には向いておらず、多数を握っている帝国軍としては分が悪い賭けとなることから、そちらへの部隊の展開は消極的にならざるを得ない事情があった。

 

 そのため、帝国軍は兵糧攻めを考え、砦の前に広がる平野に全軍を集結させて、砦に入る糧道を止めていたが、背後のボヘミア側だけはどうすることも出来ずに放置していた。どうせ、勇者軍側もどうすることも出来ないと高をくくってのことだったが、それを鳳たちが可能としてしまったことから、籠城戦は次の展開へシフトすると思われた。

 

 山の頂上におかれた本丸から眺める帝国軍の布陣は圧巻だった。3万人という群衆は現代人なら結構見慣れているものだが、これが全てこちらを本気で殺そうとしている軍隊なのだと考えると、やはり迫力が違った。補給が可能とバレて、あれが攻勢を開始する前に、さっさとズラカッたほうが良いだろう。鳳はそう心に誓った。

 

 鳳たちが案内された本丸には、義勇軍が宿舎にしているらしき建物や、物資の倉庫、救護室などの公共設備が並んでいた。城と聞けば誰もが思い浮かべるのは天守閣だろうが、もちろんそんなものはどこにもない。ここは文字通り最後の砦で、ここに帝国軍が攻め込んできたら終わりなのだ。そう考えるとその広場が思ったよりも狭く感じて、心細く思えた。

 

 本丸には鳳たちより先に砦に入ったルーシーがいて、スカーサハにもっと腹から声を出せと怒鳴られていた。その姿だけを見ると、なんというか演劇部とか合唱部の練習風景に見えなくもないが、もちろんここは砦の中である。

 

 命を賭ける戦いの最中にあんなことしてて良いのかな? と思いもしたが、そんな彼女らの姿を通りがかりの義勇兵達が眩しそうに眺めているから、もしかするとあれは慰安の意味も兼ねているのかも知れない。昔から前線とか、刑務所とかは娯楽が少なくて、芸能人が来るだけでも泣いて喜ばれるというから、案外、あの神人はそういう効果を狙ってやっているのかも……そう思うと中々大した人物だと思いもするが、まあ、半分くらいは腹いせなのは間違いないだろう。

 

 ともあれ、気の毒なルーシーを尻目に、鳳たちは副官の男に連れられて宿舎へとやってきた。カナンの村で見かけたような茅葺屋根の日本家屋風の建物で、作りが殆ど同じところを見ると、砦建設の際にもあの村の世話になっていたのではなかろうか。カナンは他にも非戦闘員を受け入れたり、物資を分けてあげたり、こうして土木工事にまで協力しているところを見ると、口ではやんわりとしか不満を言っていなかったが、実際は腸が煮えくり返っているのかも知れない。

 

 もしこれで義勇軍が負けて、帝国までやってきてしまったら、あの村は更に忍耐を要求されることになる。ポポルじいさんがこれからも面白おかしくアヘンを吸って暮らしていけるよう、ヴァルトシュタインには頑張って欲しいところだ。

 

 因みに宿舎は、宿舎とは名ばかりの、体育館みたいなところだった。広い部屋の中に寝台がずらっと並んでいて、これといった間仕切りはない。まだ夕方だと言うのに殆ど埋まっていることから察するに、寝床を数人でローテーションしているのではなかろうか。どの寝台も薄汚れていて、なんというか男の臭いが染み付いていた。人が寝たあとがくっきりと浮かんでいるのは、シーツという概念がないからだ。恐らく、布団を干すなんて考えもないだろうから、下手するとここはガルガンチュアの集落より不衛生かも知れない。

 

 そんな男臭い寝台の森を抜けて、鳳たちは奥の方に作られた部屋に案内された。ヴァルトシュタインやスカーサハのような上官用に作られた部屋らしいが、そんな上等なものではもちろん無くて、せいぜい6畳間の狭い空間に5人で雑魚寝してくれというものである。もちろん、文句をいうつもりはないが、さっさとここから出ていったほうが、精神的に肉体的にもマシのようだ。

 

「さて、それじゃ、俺はヴァルトシュタインに挨拶がてら、前線の様子でも見てくるぜ」

 

 鳳が荷物を下ろしていると、同じく荷物を置いて身軽になったギヨームがそんな事を言いだした。

 

「え? わざわざ? あー……やっぱ、世話になるからには、こっちから挨拶に出向いた方が良いかな?」

「いや、その必要はないだろう。そんなことしたらかえって邪魔だ。俺は単に、ヴァルトシュタインって男に興味があることと、暫く世話になるんなら、ちょっと手伝ってやろうと思ってな」

 

 彼はそう言って光り輝くピストルを虚空から取り出すと、指先でくるくると回して腰にあるホルスターに差すような仕草でまたそれを消した。彼の射撃は百発百中で、今となっては狙撃スキルまでおまけでついてくる。前線に出れば相当の活躍が見込めるだろう。

 

「あら、それじゃあ、私も一緒に行こうかしら」

「ジャンヌまで? おまえはどっちかっていうと戦争反対なんだと思ってたが」

「ええ。もちろん反対よ。でも、ここの兵隊さんたちって、あの街の攻防戦で一緒に戦った難民たちでしょう? 言わば私たちの戦友じゃない。黙って見ているわけにはいかないわ」

「なるほど……言われてみればそうだな」

 

 きっと、あの時の攻防戦で大活躍をしたジャンヌが来たと知ったら義勇軍の士気も上がるだろう。鳳は、それなら自分も一緒に行こうかと思ったが、彼がいったところで結局、一兵卒と同じ働きしか出来ないのでやめておいた。

 

 ギヨームとジャンヌが出ていくと、今度はメアリーもスカーサハと話がしたいと言って出ていった。彼女は自分と同じ神人の知り合いがいないから、人間の間で活躍している彼女に色々と話を聞きたいそうである。

 

 そんなこんなであっという間に一人取り残されてしまった鳳は、部屋の中に二台だけ用意されていたベッドの上に体を投げ出しながら、

 

「うーむ……暇だ。こんなことになるなら、作戦会議とやらに参加すればよかった」

 

 とはいえ、やはり人の生死が掛かっているような会議に出るのは気が引けた。自分が下手に口を出して誰かが死んでも責任は持てない。結局、放浪者の自分はどこまでいっても他人事でしかないのだから、どっちかに肩入れすることはやめておいたほうが無難だろう。

 

 鳳は、ふと、この世界に一緒にやってきた3人の顔を思い出した。

 

「……何も死ぬことないのにな」

 

 彼らがそうまでして守った女達も、彼らの残した遺伝子も、新しくヘルメス卿になったアイザック12世が潰して回っているらしい。それを思うと本当に、彼らが何故死んだのかが分からなくなった。分からなくても、人には戦わなければならない時があるのだろう。自分にとってそれは今じゃない……鳳は自分にそう言い聞かせながら、荷物の中に突っ込んでおいた小瓶を取り出した。

 

「ま、それはそれとして……ふひひ」

 

 コルク栓をぽんと外すと、中にはタール状の黒い物体が入っていた。すでに結晶化していて見た目と違って硬くなっているそれを乳鉢に取り出して、鳳はコリコリと粉末状になるまで潰した。

 

 なにかといえば、もちろんアヘンである。

 

 カナンは私用には使うなと言っていたが、彼が見張っているわけでもなし、魔法具屋の店主の取り分は減ってしまうが、まあ、ちょっとくらいなら使ってもわからないだろう。鳳はそう考え、自分の楽しみのためにアヘンを吸おうと思ったのだが……

 

「しまった。パイプがない」

 

 いつもポポル爺さんと回し飲みしていたものだから、彼はアヘンを吸うためのパイプを持っていなかった。元々、喫煙の習慣は無かったし、手持ちの道具だけではどうしようもない。だったら諦めればいいのに、ここまで用意してしまった彼は、もうどうしてもアヘンが吸いたくなってしまい、堪らず部屋から飛び出した。

 

 彼が、どこかにパイプの代わりになりそうな物はないかと砦の中を歩いていると、

 

「うおおおおおおおおおぉぉぉぉーーーーーーっっ!!!」

 

 麓の方角……恐らく、一の丸とか二の丸とか呼ばれているようなところから歓声があがった。びっくりして立ち止まり、そっちを見れば、どうやらちょっとした小競り合いが始まったようだった。

 

 すると、さっきの歓声はジャンヌかギヨームが早速何か手柄を上げたに違いない。助っ人に来てすぐ活躍するなんて、やるなあ~……と思いつつ、自分には関係ないと、鳳はまたパイプを求めて歩き始めた。

 

 たった今、ここにたどり着いたばかりだと言うのに、もう戦闘が起きたということは、ここでは日常的に帝国の襲撃があるのだろうか。鳳は巻き込まれないかと不安になったが、まあ、ジャンヌ達がいる限り、前線にさえ出なければ、危険に晒されることはないだろう。

 

 しかし、忘れちゃいけないのは、この場所自体が前線の砦ということである。そして戦争をやっているのだから、戦いはいつも最前線でだけ起きているというわけではないことである。

 

 鳳がのんきにパイプを探して歩いていると、宿舎のすぐ脇にあった建物から、何やら馴染み深い匂いが漂ってきた。ここのところ、隣を歩くポポル爺さんが、ポニーの上でいつも吸っていたから、すっかり覚えてしまったアヘンの匂いである。

 

 鳳が、まさかと思い近づいていくと、その建物の入口からすぐ見えるところに、そのまさかのアヘンを吸っている人の姿が見えた。寝台で横になりながら、額に包帯を巻いた男が、虚ろな瞳でスーッとアヘンを吸っては、溜め息をついている。

 

 鳳は、「あるじゃな~い」と独りごちながら、ホクホク笑顔でその建物に近づいていった。どうして兵士がそんなものを吸っているのか分からなかったが、ここに来るまでどこの集落でもアヘンを栽培していたから、きっとどこかから誰かが調達してきて、軍内で流行ってしまったのだろう。

 

 まさかこんなところでもアヘン吸いに会えるなんて……鳳は退屈な砦の中で、自分の仲間を見つけたような気分になって、ウキウキしながら建物の中に足を踏みいれた。

 

「うぎゃあああ゛あ゛ああっあぁぁ゛ぁぁぁああ゛あぁぁっぁぁあ゛あ゛っっああっあぁあ゛ああ゛っぁああああああぁぁぁ!!!!!!!」

 

 踏み入れた瞬間、鳳は強烈な悲鳴を浴びせられて、三半規管が馬鹿になってしまったんじゃないかと言わんくらいに狼狽した。

 

 あまりの悲鳴の大きさに、目眩がして体がフラフラ揺れた。倒れそうになる体を、慌ててその場に踏ん張って立て直し、どうにかこうにか体勢を整える。額から冷や汗が垂れてきて視界が滲んだ。その額の汗を拭っていると、さっき見えたアヘン吸いが、ぼんやりとした表情で鳳のことを見上げていた。

 

 鳳が、なんださっきの悲鳴は? と思っていると……

 

「おい、そこの! そこにいるおまえだ! 見かけない顔だなあ!」

 

 突然、部屋の中から野太い声が聞こえてきた。怒鳴り慣れてる人特有の掠れた声で、気が小さい者なら、聞いただけで何でも言うことを聞いてしまいそうな声だった。鳳はその声が自分を誰何していることに気がついて、まいったなと思いながらも背筋をピンと伸ばし、

 

「あ、はい! 自分は今日、砦の外からやってきた冒険者です! 怪しいものではありません! 暫くこの砦のお世話になりますが、よろしくおねがいします!」

「そんなこたあ、どうでもいい!! じゃあ、おまえ、ちょっとこっち来て、手伝ってくれ!!」

 

 有無を言わさぬ言葉に戸惑いながら、鳳はその声に従って部屋の中へと入っていった。自分はただの客だと断ることは簡単だったが、流石にたった今到着したばかりなのに、不興を買って居心地が悪くなるのはゴメンだと思った。

 

 しかし、一体何をさせられるんだろう? 正直あまり気乗りしなかったが、まあ、ここで恩を売っておいたら、アヘンを吸わせてくれるかも知れない。彼はそんなことを考えながら、気楽に声の主のところまで歩いていき……そして絶句した。

 

 男の目の前には、これまた屈強な男たちに羽交い締めにされた、一人の男が寝台に押さえつけられていた。下半身は丸裸で、足の付根になにかがギューッと縛り付けられており、そこから血がダラダラと垂れている。見れば鳳を呼んだ男はナタのように大きなナイフを持っていて、そのギラギラ光る刀身に、血液と脂肪がべちゃっと付着していた。

 

 ひゅーひゅーと、呼吸音が笛のような音を立てていた。羽交い締めにされた男はぐったりと横たわっており、鳳が近づいても殆ど反応を示さないことから、多分、半分意識が吹っ飛んでいると思われた。

 

「人手が足りないんだ! おまえもこっちきて、こいつを押さえてくれ!!」

「な……なにしてるんですか?」

「見れば分かるだろう! 足を切断してるんだ!」

 

 その通り、見ればわかった。だが、その方法がありえなくって、目の前で起きていることを信じたくなかったのだ。

 

 今、目の前で寝台に押さえつけられている患者は、麻酔無しでその足の付け根の辺りからギコギコと切断されようとしていたのだ。彼の足に巻きつけられているのは恐らく麻酔代わりの氷嚢か何かで、だいぶ前からそうしていたのか、袋から水がポタポタと滴り落ちていた。口には猿ぐつわみたいに手ぬぐいを咥えさせられ、それが真っ赤に染まっているのは、恐らく歯が折れてるかどうかしてるんじゃなかろうか? だが、患者はもうそんなことが気にならないくらい、意識が朦朧としているようだった。

 

「早くしろ! こいつだって辛いんだ!」

 

 鳳が呆然としていると、患者を押さえつけている男の一人が叫ぶように言った。彼は自分が足を切断されているわけでもないのに、顔を真っ赤にしてボロボロと涙を流している。その迫力に押されて慌ててその彼に乗っかるように患者を押さえつけると、ナイフを持っていた男がそれをジリジリと炎に翳してから、ブーッとアルコールを吹き付けて、

 

「うぎゃあああ゛ああ゛あぁ゛ぁぁぁあ゛ああぁぁぁ゛ぁあ゛あ゛ぁあぁあぁぁあ゛あああーーーーーっっっ!!!! あああ゛あーーっ!! あああ゛あぁぁぁあ゛ーっ!!」

 

 放心状態だった患者の男が、信じられない力でビクンビクンと暴れまくった。鳳たちは彼を4人がかりで押さえつけているのだが、患者が暴れるたびに鳳は吹き飛ばされてしまいそうになってしまった。

 

「もっとしっかり押さえつけろ!!」

 

 足を切断している男が顔を真っ赤にしながら叫んでいる。鳳は慌ててハイと返事を返すと、もはや患者が可哀相だとか考えていられないと、相手を殺すつもりになって必死になって押さえつけた。

 

 ぎゃあぎゃあと患者が泣き叫び、そのたびに押さえつけている男たちがビクンビクンと揺れる。それが何回も続いて、鳳は段々と押さえつけている腕の感覚がなくなってきた頃……

 

 ゴトンッ……

 

 っと音がして、患者の片方の足が寝台からごろりと落っこちた。

 

「ーーーーーーーーーーーーっっっ!!!」

 

 瞬間、患者は声にならない悲鳴を上げて、最後の大暴れをすると、ついに意識を失ってしまったのか、突然、鳳たちが押さえつけていた体がぐにゃりと力を失った。するとどこからか物凄い悪臭が漂ってきて、見れば患者が糞尿を撒き散らしているのであった。

 

 最初は下半身丸裸にされて拷問でもされてるのかと思った。次に足を切り落とす時に邪魔なんだなと思った。本当の理由はこれだったのか……

 

 鳳は気分が悪くて吐き気を催してきた。こんなところにいつまでもいられない、さっさと外に出ようとして患者から手を離したら、

 

「まだだ! しっかり押さえつけてろっ!!」

 

 またあの有無を言わさぬ怒鳴り声が聞こえてきて、見ればさっきまでナイフを握っていた男が、今度は灼熱する焼きごてを持っていた。

 

 これで何をするかは言うまでもない。鳳はもう殆ど力が入らず、ただ患者の上に乗っかっていることしか出来なかったが、彼はその気絶している患者が気絶したままビクビクと暴れ、そしてまた失神する姿をこれ以上無い至近距離で見る羽目になった……

 

*****************************

 

 すべてが終わり、辺りには静寂が戻った。

 

 室内には紫煙がくゆり、うつろな目をした男たちがアヘンを機械的に黙々と吸っている。時折、誰かの苦痛にあえぐ声が聞こえてくる以外に、どんな音も聞こえてこなかった。外では相変わらず戦闘を続けているのだろうが、耳が馬鹿になってしまったのだろうか。

 

 鳳は、患者を押さえつけていた男たちと一緒に地面にへたり込んでいた。ほんの小一時間の出来事だったのに、全身汗だくで物凄い疲労感に襲われていた。みんな足腰が立たないだけではなく、口を開くことさえ苦痛なくらいに疲れていた。そんな鳳たちを見下ろしながら、患者の足を切り落とした医者の男は地面にぶちまけられた汚物を片付けながら、まだ呆然としている彼らに向かって言った。

 

「患者は今は意識を失っているが、一時間もしないうちにまた痛みで飛び起きるだろう。そうしたらアヘンを吸わせてやってくれ。俺は次の患者を見なければならない」

 

 それは自分に言ってるのだろうか? 看護師でもなんでもないのにそんな事言われても……鳳が呆然と彼のことを見上げていると、医者らしきその男は、そんな彼の視線を見て思い出したかのように、

 

「……そう言えば、見ない顔だな。新しく入った看護師か?」

 

 鳳は色々と言いたいことはあったが、そんなことを言う元気もなく、ただ首を振って、

 

「いや、だから、俺は、外から来た冒険者です。看護師じゃないんで、そんなこと言われても困るんですが」

「冒険者……? 冒険者がなんでこんなところに……」

 

 医者は鳳の顔をジロジロと見てから、突然何かを思い出したかのように、感嘆の声を上げて、

 

「おお! すると君は救援ルートの地図を作ってるという先遣隊か! ヴァルトシュタインさんが言っていたけど、これでようやく補給を受けられるんだな……いやあ、助かった助かった!」

 

 医者は鳳の手を握って嬉しそうにぶんぶんと振り回した。気持ちはわからなくないが、たった今まで汚物を片付けていた手であんまり触らないで欲しいものである。鳳はそんなばっちい手を困った顔で見ながら、

 

「ところで……さっきから気になっていたんですが、ここでみんなが吸っているあれって……」

「ん……? ああ、アヘンが珍しいのか? 以前、この砦の近くの村に物資を調達しに行った時に痛み止めとして分けてもらったんだ。俺は知らなかったんだが、これには凄い鎮痛作用があって、どんな患者もたちどころに痛みを止めてくれる」

「あー、そうなんですか」

 

 鳳はなるほどと頷いた。ここでは楽しみではなく、麻酔代わりにアヘンを吸っていたのだ。いや、寧ろこちらの方が正当な使い方なんだろうが……

 

「本当に凄い薬で、非常に助かってるよ。今まではこんな大手術、しても八割方は予後に耐えきれずに死んじまってたからな。これが五分五分の勝負になるなんて」

「五分五分……これでも五分五分なんですか」

「いや、おまえは馬鹿にしてるんだろうが、凄いことなんだぞ?」

 

 医者はそう言って胸を張ったが、鳳はとてもそうは思えなかった。現代なら麻酔無しで足を切断するなんて考えられないし、痛み止めにアヘンを吸うなんてのも聞いたことがない。思い出すのはただただ現代医学の凄さである。

 

 鳳がそんなことを漠然と考えていると、

 

「……あああ……あああーーっ! 痛え! 痛えよっ!! 先生、お願いだ、もっとアヘンの量を増やしてくれ!」

 

 突然、部屋の隅の寝台でアヘンを吸っていた一人の患者が悲痛な叫び声を上げた。鳳と話をしていた医者は会話を中断するとすぐに患者の元へと駆けつけて、

 

「駄目だ。これ以上増やしたら、中毒で死ぬ可能性がある……患部を見せてみろ……ああ……ああ……こりゃあ、もう駄目かな。切り落とした方がいいかも知れん」

「嘘だろう!? 嫌だよ、俺、あんなの見せられて、手術なんて絶対ごめんだ!」

「だが、見れば分かるだろう。おまえの足は腐ってきている。このままだと腐敗が全身に回って手遅れになる。その前に患部を切り落とさねば」

「嫌だ……嫌だあ~!! もっとだ、もっとアヘンをくれ! そしたら治るから!」

「治らないし、駄目だと言ってるだろう。アヘンは万能薬じゃない。量を増やしたところで、一度駄目になった組織は回復しないんだ」

「じゃあもういっそ殺してくれよ! あんな目に遭うくらいなら、もう死んだほうがマシだっ!」

「馬鹿なこと言ってんじゃないっっ!!」

 

 医者と患者が大声で怒鳴り合っている。他の患者たちはそれを虚ろな目をして見守っている。どの患者もアヘンのパイプにしがみついていて、それがなければ空を飛んでいってしまいそうな儚さだった。

 

 鳳は、これ以上ここにいて、治療の邪魔をしては行けないと思い、どうにかこうにか立ち上がった。疲労でまだ足がブルブル震えたが、片方が無くなってしまった人に比べればマシだろう。

 

 さっき自分が押さえていた患者は、目が覚めたらどんな気持ちになるんだろうか……いや、痛みできっとそんなこと考えられないんだろうな……

 

 そんなことを考えながら建物から出ていこうとすると、入れ替わりに外から兵士が入ってきて、

 

「先生! 急患です!」

「なんだって!? ええいっ! 今日は千客万来だな……看護師、アヘンを持ってきてくれ」

「先生、それが……もうアヘンの残りが少なくて」

「なにぃ!? つい最近、カナンから貰ってきたばかりじゃないか!」

「それが……患者さんたちが痛みに耐えきれず、このところ消費量が増えていて」

「あれほど無闇にやってはいかんと言っただろうが! 薬の量にも限りがあるんだぞ」

「すみません……でも、患者が可哀相で……カナンも最初から、もっと量を渡してくれればいいのに」

 

 看護師が苛立たしげに不満を漏らすと、それを聞いていた兵隊達もイライラしながら、

 

「どっちにしろ、薬がないなら貰いに行こう。なんなら俺が、どうして量をケチるんだって言ってきてやるよ。あの医者モドキ、あんなにあるんだからもっと寄越せばいいのに」

「いっそ村を襲撃して乗っ取るか? そしたらアヘン吸い放題だ」

「そいつはいいな、はははははは!!」

 

 そんな兵士たちの軽口に、医者は烈火のごとく怒り出して、

 

「ふざけたことを言ってるんじゃない!! そのカナンがいなければ、失われていた命がどれだけいたと思っているんだ!! その恩を忘れて彼を馬鹿にするようなことを言いやがって!」

「……だって、先生よう……俺たちだって彼が憎いわけじゃないんだ。ただ、必要なものは必要なところに優先的に回すものだろう?」

「優先順位を決めるのは俺達の仕事じゃない!!」

 

 救護室の人々は喧々諤々のやり取りを交わしている。鳳はそんな会話に巻き込まれないように、救護室から外に出た。外に出ると立ちくらみのようにクラクラして、途端に空気が重くなったような気がした。さっきまで、アヘンの煙が蔓延する部屋の中にいたからだろうか。直接吸っていなくても、それなりに影響を受けていたようだ。

 

 今、救護室ではそのアヘンが不足しているようだ。兵士たちはその不満をカナンにぶつけているが、お門違いも甚だしいだろう。医者の言う通り、義理を欠いた人間がどういう末路を辿るかは想像に難くない。大体、彼らは何のために戦っているのだ。それは山賊をするためだったのか。

 

 しかし、彼らがイライラする気持ちもわかった。こんな、全方位に敵しか居ないような場所で、毎日のように死にそうな患者を見続けているのだ。中にはその痛みに耐えかね、自ら命を絶った者だっているだろう。

 

「くそっ!」

 

 鳳は地面に転がっていた石を蹴り飛ばした。

 

 麻酔ならあてがある。アヘンよりもっと効き目のある鎮痛剤にも……

 

 だが、そんなことをする義理がどこにある? 彼らを助けるために、せっかく手に入れた物を無償で提供する理由がどこにある?

 

 ……そんなものはない。わかっている。大体、あれは友人から頼まれた依頼の品なんだぞ……だが……

 

 鳳は頭を掻きむしると、地面を蹴って駆け出した。宿舎に帰れば、さっき自分で使おうと思っていたアヘンの瓶が転がっている。あれがあれば、まだ何人かは救うことが出来るだろう。

 

「せめて俺が楽しむ分くらいは……駄目だよなあ~……」

 

 彼はぶつくさ言いながら、思ったよりも救護室から近かった、自分の宿舎へと入っていった。

 



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聖なるかな

 夜中に目が覚めた。酷い寝汗をかいていた。鳳はハァハァと息を荒げながら寝床から這い出してくると、まだ寝ぼけている頭で部屋の中を見回した。

 

 6畳ほどの部屋の中には自分以外のパーティーメンバー4人が、みんな疲れて眠っていた。二つある寝台の内一つを鳳が取ってしまっていたから、もう片方でルーシーとメアリーが背中合わせで眠っており、あとの二人は床に毛布を敷いてゴーゴーいびきをかいていた。

 

 どことなく充実感を感じさせる寝顔をしてるのは、二人とも前線でかなりの勲功を上げたからだろうか。同じ頃、救護室で必死になって患者の足を切断していたことを思い出すと、そののんきそうな寝顔に腹が立ったが、彼らが頑張ってくれたお陰で怪我人も減ったのだと考えると、感謝こそすれ怒りなど筋違いとしか言えなかった。

 

 その代わり、敵軍に多くの犠牲者が出たのも間違いないと考えると、怪我人の数は実は減ってないのかも知れないが……何故人間は戦争なんてものをしてしまうのだろうか。

 

 そんな哲学的なことを考えていると、だんだん目が冴えてきてしまった。結局、鳳は体を起こすと部屋から出ることにした。朝までまだどのくらい時間があるのかわからないのだから、また寝床に入ったほうが良いに決まっていたが、せめてこの寝汗を拭わなければ、また同じ場所に収まる気にはなれなかった。

 

 砦は昼間と比べれば静かになっていたが、それでもあちこちで歩哨がせわしなく動き回り、松明の炎が道を照らし、昼間と変わらぬ動きを見せていた。こっちが寝ているからといって、敵が待ってくれるわけもない。きっとこの砦は出来てから一度も眠ることがなく動き続けているのだろう。

 

 砦のあちこちに作られていた溜池で手ぬぐいを濡らし、ベタベタする肌を丁寧に拭った。出来れば池にダイブしたいくらいだったが、山の上で水は貴重だからそんなことをしたら怒られるどころか、殺されてしまっても文句が言えないだろう。

 

 いや、殺してほしいんなら、いっそ水に飛び込むのもありなのか? 入水自殺に失敗しても、きっと誰かが殺してくれる。

 

 昼間、救護室で手術をしたくないと泣き叫んでいた患者は、あのあと医者によって足の切断手術を受けることになった。鳳がアヘンを持って戻ってくると、彼は複数の看護師に羽交い締めにされて大暴れしていた。

 

 鳳はそれを手伝えという医者に、ほんの少し待って欲しいと頼んだ。その間に、試しておきたいことがあったからだ。

 

 この砦では痛み止めにアヘンを使っている。確かに、アヘンには鎮痛作用があり、正しい方法だ。だが効率的ではない。鳳はその鎮痛成分……つまりモルヒネを生成した方が良いと考えたのだ。

 

 その方法は知っていた。以前、キニーネを作り出したのと同じ方法で、鳳のスキルを用いれば失敗する心配は全くなかった。

 

 こうして作り出されたモルヒネを、救護室でアヘンを吸っていた患者に投与したところ、患者には劇的な変化が見られた。彼らは今までとは比べ物にならないほど楽な方法で、信じられないくらい痛みが消えて驚くと同時に、この薬をもたらした鳳に感謝していた。

 

 彼はそんな患者たちの言葉にどういう顔をしていいか分からなくて、ただ苦笑を返すと、自分の持っていたアヘンを全部医者に渡し、作り方は教えたから、あとは勝手にやってくれと救護室から去った。

 

 医師はちょっと待てと言って追い掛けてきたが、待つつもりはさらさら無く、彼は逃げるように宿舎に帰ってくると、寝台にダイブしてそのまま疲れて眠ってしまった。他人を助けることで、気分が良いと思えるような性格ならよかったのだが、彼にはそれは重荷だったのだ。

 

 濡らした手ぬぐいで顔を拭いて、夜風に晒して乾かすと、彼ははぁ~っと長い溜息を吐いた。

 

 今回のボヘミア行はずっと楽しい旅だったが、なんだか最後の最後でケチが付いたような気分だった。でも、どうして楽しかったのかな? と思えば、それはポポル爺さんが居たからだ。

 

 仲間たちに呆れられながらも、彼と一緒にアヘンを吸いながら歩いたあの日々は、なんやかんやで楽しい思い出だった。爺さんは鳳のことを肯定もしなければ否定もしない。同じ趣味を持ち、同じような価値観を持っている、言わばこの世界で初めて出来た友達みたいなものだった。

 

 そんな大事な友だちと、どうしてあんなにあっさりと別れてしまったんだろうか。また会いに来ればいいやと思っていたからだが、まだたった一日しか経っていないのに、なんだか無性に会いたくなった。

 

 爺さんは今頃何をしているんだろう? こんな夜中だし、まだ眠っているだろうか? それとも、相変わらずあの阿片窟でスーハースーハーやってるんだろうか。

 

 鳳はなんだかソワソワしてきた。目も眩むほどの絶世の美人ならともかく、どうしてあんな草臥れた爺さんにこんなに会いたいんだと思った時、彼は自分の体に起きている変化にようやく気づいた。

 

 爺さんと一緒に旅をしていた時、彼はひっきりなしにアヘンを吸い続けていた。なのに今日はまだ一度もそれを口にしていないのだ。救護室で、誰かが吸っている匂いは嗅いでいたが、それが肺の毛細血管の奥深くまで染み込むことはなかった。

 

 鳳は、自分が中毒になりかけていることに気づいた。だが、気づいたところでその衝動を押さえられるものではない。彼は、どうしてもアヘンが吸いたくて、居ても立っても居られなくなり、その場をぐるぐると回りだした。

 

 救護室に行けば、まだ彼が渡したアヘンが残っているだろうが、しかしそれを貰いに行くのは気が引けた。だから彼は何を思ったのか、砦の裏手にあるバリケードまで走っていくと、その隙間から外へと出てしまった。救護室が嫌なら、カナンの村に行けばいいと思ったのだ。行けば爺さんとも会えるし、会えたらついでにアヘンを吸わせてもらえばいいだろう。彼なら分けてくれるはずだ。そう思い、鳳は夜の山へと飛び出した。

 

 辺りはまだ深夜で、何も見えなかった。だがカナンの村は砦からはそれほど遠くないので、真っ暗でも行けると彼は思った。その時点で既に常軌を逸していたのだが、彼が自分でそれに気づくことはついになかった。彼真っ暗な山の中で、自分の進んでる方向も分からずに、ガサガサと草木をかき分けて、転んでは泥だけになりながらも、ただひたすらにあの真っ白なケシの大草原を夢見て暗い山道を歩き続けた。

 

 それからどのくらいの時間が過ぎただろうか。気がつけば東の空は白み始め、朝を迎えようとしていた。

 

 彼は黎明の中、ケシ畑のど真ん中にぼんやりと佇んでいた。真っ暗な山道をめくらめっぽうに歩き続けた彼は、いつの間にかとっくに村へと辿り着いていたのだった。着いていたのに、それに気づかず、ずっとケシ畑の中をさまよい続けていたようである。彼は血まみれになった手のひらや膝小僧を呆然と見つめながら、自分は一体何をやってるんだと呆れ果てた。

 

 下手したら遭難もあり得たというのに、どうしてこんな行動を取ってしまったのだろうか。彼は自分の行動を悔いて頭をコツンと叩くと、ともあれ、目的の村まではたどり着いたのだから、ポポル爺さんに会いに行こうと丘の上を見上げた。爺さんに会えば何かが変わる、すべてが終わると、根拠もなくそう思っていた。

 

 とその時、突然、ゴーン……ゴーン……ゴーン……と、どこからともなく鐘の音が響いてきた。

 

 一陣の風が吹き抜け、白いケシの畑がざわざわと揺れた。一体誰に聞かせようとしているのか、その音は、風に乗って、ボヘミアの山々へ隈なく届いているようなそんな気がした。

 

 それにしても、こんな早朝にどうして鐘なんか鳴らしているんだろうかと、その出処を探ってみると、どうやらそれは丘の上のカナンの家の方からのようだった。彼は村長だと言っていたから、もしかして、村で重要なイベントとかある時に鳴らす鐘なのだろうか? 間もなく、その考えが正しかったのか、村の家々の戸が開いて人々がぞろぞろと現れた。彼らは鐘の音に誘われるかのように、一直線に丘の上を目指していた。

 

 何があるんだろうか……? 彼は人々の列に混じって一緒に丘を目指した。見慣れない男がいるというのに、集落の人々はそれほど警戒もせずに黙って受け入れているようだった。行列はやがて丘を越え、その向こう側にあった広場へと辿り着いた。

 

 そこは小学校の運動場くらいの大きさの四角い墓地だった。子供の頃はやたらと広く感じたのに、大人になってから見れば信じられないくらい狭いあれだ。その墓地には100を越える墓標が立っていた。人間もまた、死んでしまえばほとんど場所を取らないのだと思うと、なんだか悲しくなった。

 

 墓地には人が集まっていて、なにやらガヤガヤやっていた。早朝からこんな場所に呼び出されたということは、きっと誰かの葬式だろう。よく見れば墓地の一番端っこに新しい墓穴が掘られており、人々はその周囲に集まっているようだった。鐘の音に集まった人々がその墓穴の中に据えられた棺桶に花を投げ入れ、手を合わせて何かお祈りをしていた。

 

 こうしてたまたま居合わせてしまったのも何かの縁である。誰だか知らないが花でも手向けてやろうと、彼は気軽な気持ちでその棺桶に近づいた。近づいていくと、それに気づいた葬儀の助手らしき者が、ムスッとした顔で、雑に5~6本の花を束ねて手渡してきた。彼はそれを受け取り、花を投げ入れようとして、そして棺桶の中身を覗き込んだ。

 

「……え? ……ポポル爺さん??」

 

 その時、村の鐘がびっくりするほど近くから鳴り響いて、全ての音をかき消してしまった。

 

 ゴーンゴーンと頭の中に直接響き渡るように、大きな鐘の音が迫ってきて、脳が揺さぶられて目眩がするくらいだった。その鐘の音の合間合間に、途切れるように賛美歌の歌声が聞こえてくる。

 

 聖なるかな聖なるかな聖なるかな、全知全能なる神よ。

 

 聖なるかな聖なるかな聖なるかな、慈愛に満ちた神よ。

 

 三位一体たるあなたを礼拝します。

 

 翼人カナンが跪き、両手を組んで熱心に祈るさまは、まるで本物の天使みたいだった。

 

「なにやってんだよ、爺さん……あんた昨日まで、普通に生きてたじゃんか」

 

 ポポル爺さんと別れたのは、つい昨日の出来事だった。あの時からまだ24時間も経ってない。爺さんは鳳たちと別れの挨拶を交わした後、自分の足で歩いてカナンの家の中へと入っていった。やけにあっさりした別れだなと思いはしたが、でも、まさか、そんな、だって、それが最後のお別れだなんて、誰も思わないじゃないか……

 

 彼が呆然と立ち尽くしていると、後からやってきた人が早くどいてくれと言わんばかりに、とんとんとその肩を叩いた。だがいつまで待っても反応を示さない彼に焦れて、その人は押しのけるように彼のことを突き飛ばすと、前に進み出て、花束を放り投げるようにして帰っていった。

 

********************************

 

 葬儀が終わり、棺桶に蓋がされると、呆然と立ち尽くしていた鳳はようやく我に返った。気づけば彼の隣にはカナンが立っていて、これから最後のお別れをするから手伝ってくれないかと言って、彼にスコップを渡してきた。彼はそれを使って、村人たちと一緒に黙々と墓穴を土で満たしていった。

 

 人々が家に帰った後、鳳はカナンに誘われて村長の家へと行った。中では相変わらず老人たちがぼんやりとアヘンを吸っており、その隙間を縫うように、看護師らしき女性がせわしなく動いている。

 

 最初見た時は阿片窟だとしか思っていなかったが、砦の救護室を見た後でははっきりと分かる。ここはもはや助かる見込みのない病人が集まる、ホスピスみたいな場所なのだ。彼らはみんな死への恐怖と戦うためにここにいる。

 

「元気そうに見えたでしょうが、ポポルはあれで体の中はボロボロだったんですよ」

 

 鳳が最初の村で爺さんと会った時には既に、彼は死を覚悟していたようである。まともな診断が出来るわけじゃないから、はっきりとしたことは分からないが、多分、彼は末期がんのようなものを患っていたのだろう。

 

 体はボロボロで、立って歩くことすら苦痛で、彼はあの村で一人で死のうと思っていたのだろう。ところが、そんなところへひょっこり鳳がやってきて、この村を目指すと聞いた彼は、最後にひと目カナンと会うためだけに、鳳たちの道案内を買ってでたというわけである。

 

 行く先々で、村人たちが彼にアヘンを持ってやってきたのは、みんな彼がもうじき死ぬことがわかっていたからだ。彼はこの辺の村にとっては、顔役みたいなものだった。

 

「神人と同じように、我々翼人もまた長生きですから、私はこれまでこの山で多くの人々の死を看取ってきました。ポポルもそのうちの一人ですが、私は彼が子供の頃からよく知っているものですから、そんな彼の最後を看取る事ができたのは、幸運だったと思います。彼をここまで連れてきてくれたあなたには感謝しなければなりません」

 

 鳳は黙って首を振った。そんな事情は何も知らなかったのだ。

 

「ここは姥捨山みたいなものなんですよ。元々、ここボヘミアの地に集落が出来たのは、度重なる帝国での飢饉が原因でした」

 

 帝国は勇者領とは違い、今でも農奴制を取る国家である。領民はみんな領主から貸し与えられた土地を耕す農民で、彼らは預かった農地で育てた作物を年貢として差し出し、残ったもので生活をしている。

 

 だが、自然相手の農家は、年によって作物の出来不出来の影響をモロに受けてしまう。豊作なら良いが、時には年貢を払ったら何も残らないような飢饉の年もあり、そう言うときには、蓄えがある家ならともかく、殆どの家は生き残るために口減らしを行うしかなかった。

 

 次男坊や三男坊、時には働けなくなった老人たちが家から追い出され、流れ着いた先が、ここボヘミアの山々だったわけである。

 

 多くの人達はここに来るまでに死んでしまった。だが、中にはたくましく生き残る者もあり、そういった人々が山を開拓して作り上げたのがこの辺の集落の始まりだった。そんな山間部でひっそりと暮らしていた彼らの元へは、飢饉のたびにまた新たな仲間が加わっていった。

 

 村へやってくるのは、帝国からだけではなく、勇者領から来る者もいた。彼らは口減らしにあったわけではなく、人間社会での生活が嫌になったり、年を取って体が動かなくなったために、自発的に山へ入った者たちだった。そんな人々と集落は合流し、山の上のコミュニティはどんどん広がりを見せていった。

 

 そのうち、誰かがケシの効用に気づいて、それを苦痛に呻く老人たちのために使っていたところ、どこからその噂を聞きつけたのか、やがて麓の方から不治の病にかかった老人たちがやってくるようになった。それがカナンの村なのだそうである。

 

「医者でも治せない病気を抱えた人々が、家族に見捨てられ、最期を迎えるためにやってくるのが、この村なのです。私はここで彼らの最期を見届けながら暮らしております。あなたが通ってきた村々で、必要以上にアヘンを作っていなかったのはそれが理由です。この山の人々にとって、アヘンはお金儲けの道具でも、楽しむための嗜好品でもなく、死を迎えるためのものだからです。

 

 元々、この辺りの村を作り上げた人々は、かつて帝国から追い出された人たちでした。そして今、ここにいるのは、死を迎えようとしている老人ばかりです。経済的にも医療的にも見捨てられた彼らから、これ以上何を奪うと言うのでしょうか。

 

 帝国と勇者領が戦争をするのは勝手です。ですが、我々を巻き込まないでもらいたい。ここにいるのは、その帝国や、勇者領からドロップ・アウトして、傷ついた人々ばかりなのですから」

 

 だからカナンは、戦争が終わるためなら何でもやると言った。物資を運ぶためのルートが知りたいなら道案内もするし、アヘンが必要なら、必要なだけ分けるとも。だが、その代わりに一日も早く戦争を終わらせて欲しいと彼は願った。

 

 この山から戦火を遠ざけるために、あなたは何が出来るのか? そう問いかけるカナンの言葉に、鳳は何と答えればいいのか、分からなかった。

 



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死んだ魚の目のような

 ヴァルトシュタインは不機嫌だった。昨日、待ちに待った援軍が到着した。救援物資を運び込むためのルートを確保するために、勇者領から険しい山道を通り抜けて、ついにこの砦まで辿り着いたという鳳たちのパーティーだった。なのに何故、彼が不機嫌だったかと言えば、そのリーダーである鳳が挨拶に来なかったからだ。

 

 かつて、国境の街で一戦交え、ヴァルトシュタインに一泡吹かせたという連中だった。彼らのせいで、ヴァルトシュタインは総司令官の座を追われ、難民に肩入れせざるを得なくなり、ついにはこんな場所で古巣(ていこく)相手にドンパチやっているのだ。

 

 その元凶である鳳と会うことは、ある意味、彼にとって楽しみだった。軍師、利休に言わせれば、戦乱の続いた彼らの母国では軍略に長けた将軍が数多くの書物を書き残しており、恐らく鳳はそれを学んだ者だろうと言うことだった。

 

 そのような人間が、膠着が続くこの状況下で、どんな献策をしてくるか非常に興味があった。仮に戦況を覆すような案は出なくても、きっと自分の助けになる。彼はそう思って、鳳の到着を心待ちにしていたのだが……

 

 ところが、彼の仲間はすぐに挨拶に来たのに、肝心のリーダーはいつまで経ってもやってこなかった。何をしているんだろうかとギヨームに尋ねてみれば、大方今ごろ部屋でアヘンでもやってるに違いないと言って肩を竦めていた。

 

 普通そんな話を聞いたらガッカリするものだが、ヴァルトシュタインはそうではなかった。このように、部下に軽んじられていながらも結果を出す人間には食わせ者が多い。論功行賞に上がることが殆ど無いくせに、どの戦場にも顔を見せるような人間は、生き残る術を知っているからだ。だからここへ来ない理由はどうあれ、ヴァルトシュタインはますます鳳に会うことを楽しみにしていたのだが……

 

 ところが、本丸に帰ってスカーサハから彼が軍議に出席しないことを聞かされると、流石のヴァルトシュタインも非常に落胆した。放浪者であるという彼はこの世界の戦争に関わりたくないと言うのだ。

 

 その理由は分かるし、ある意味正当だろう。だが、楽しみにしていた自分としてはそんなのどうでも良いことなので、ヴァルトシュタインはつべこべ言わずに出てこいと、直接彼のことを呼びに行くことにした。

 

 しかし、こうしてヴァルトシュタインがわざわざ出向いてきてやったというのに、彼は疲れて眠っているようだった。山歩きごときでだらしないと、叩き起こそうかと思ったら、思いがけず救護室の医師に止められた。

 

 聞けば鳳は砦に到着するや否や颯爽と救護室に現れ、人手が足りずに困っていた医師たちを助け、更には現状のままでは効率が悪いからと、魔法のような手法であっという間に薬の改善まで行ってしまったのだ。

 

 そのお陰で患者に劇的な変化が現れた医師は、驚いて彼に感謝しようと追い掛けたのだが、彼は名前も告げずに去っていってしまった。そしてたった今、ようやく彼の居所を突き止めたのだが……

 

 長旅の疲れからか、救護室での壮絶な戦いのためか、疲れ切って眠ってしまった彼を、どうかこのまま寝かせて欲しいと、医師はヴァルトシュタインに告げるのだった。

 

 ヴァルトシュタインも、まあ、そう言う事なら、急ぐわけでもないし、また朝になったら出直せばいいかと、そのまま寝かせてやることにした。しかし翌朝、彼がまたいそいそと宿舎にやって来たら、今度は鳳は『ちょっくらアヘン吸ってくらあ』となぐり書きのメモを残して、どこかへ消えてしまっていた。

 

「なんなんだこいつは! 自由(フリーダム)すぎんだろ! 戦争やってんだぞ、俺たちは!?」

 

 たった今も、目の前には三万の帝国兵がこの砦を攻略しようと気勢を上げている。そんな、いつどこから敵が飛び出してくるかわからないような場所を、何故当たり前のようにホイホイと出入りする事が出来るのか。いや、出てくだけならまだいい。彼は帰ってくる時に、下手したら射殺されても仕方ないということがちゃんとわかっててやってるんだろうか?

 

「ごめんなさい……本当にごめんなさい! 彼はちょっとこういう常識はずれなところがありまして……決して悪気があってやってるんじゃないのよ!?」

 

 ヴァルトシュタインがイライラして怒鳴り散らしていると、ジャンヌが申し訳無さそうに頭を下げてきた。国境の街の戦いで、信じられない大暴れをしている冒険者がいると聞いてはいたが、昨日、一緒に戦ってみて改めて良くわかった。これは勇者と呼ばれるだけの豪傑である。これだけの剛の者を従えているという鳳という青年は、本当に何者なんだろうか……

 

 彼は情けないやら呆れるやらで、こんな分けの分からないのにやられたのかと思うとだんだん腹が立ってきた。とにかく、居ないものは仕方ないので、ここはジャンヌの顔に免じて黙っていようと引き下がったが、しかし帰ってきたら一言言ってやらねばすまないぞと、密かに決意していたところ……

 

 午後になって鳳が当たり前のように帰ってきたと聞いたヴァルトシュタインは、早速、鼻息を荒くして彼の元へと向かった。前線の指揮を妹弟子(おもちゃ)を見つけたと言って喜んでいるスカーサハに任せ、一足飛びに本丸のある頂上まで駆け上がる。

 

 途中、行き交う部下たちが立ち止まって敬礼してくるのを、軽く顎を引くだけの会釈で返して、俺は偉いんだぞと肩を怒らせながら、彼が泊まっている宿舎へとやってきた。

 

 なんとなく嫌な予感が的中し、案の定彼は宿舎にいなかったが、その場で捕まえた兵士に尋ねたところ、すぐ近くの物見櫓で見かけたと言うので、今度こそとっ捕まえてやるぞと意気揚々とやってきたのであるが……

 

 こうしてようやく出会えた彼は、確かに言われた通り物見櫓に居たが、その上ではなく、何を思ったかすぐ近くにある板塀の上に腰掛けて、腕組みをしながらぼんやりと遠くの方を眺めていたのだった。

 

 グラグラと揺れる板塀の向こう側は、5メートルはある断崖絶壁になっている。背後から声をかけて、うっかり落ちてしまったら命の危険があるだろう。それどころか、今はまだ平気だが、もしも戦闘になって敵が上がってきたら、飛び道具で十分に狙える位置だ。

 

 なんだこいつは、死にたいのか?

 

 ……ヴァルトシュタインはそんな彼に声をかけることが出来ず、渋い顔をして見上げていたら、その時、ふいに鳳の顔がこちらを向いて、下にいたヴァルトシュタインの姿を当たり前のように捉えた。

 

 それは濁ったガラス玉のような瞳だった。何も期待していない、そんな目だ。今まで多くの死に行く者を看取ってきたが、その中にこんな目をしたものが何人もいた。それは自分の未来を悟り、諦めた者のような目だった。

 

 こいつはなんでこんな死人みたいな目をしてるんだろう……そんなことを考えていたら反応が遅れた。

 

「あんたがヴァルトシュタインか」

 

 彼がぼんやりと見上げていたら、鳳のほうが先に声を掛けてきた。一言文句を言ってやらねばと意気込んでいたのに、先手を取られてしまったヴァルトシュタインは、慌てて取り繕うように返事をした。

 

「そ、そうだ……何故わかった?」

「あんただけ身なりが違うし、いかにも軍人っぽい。それに、俺は以前、遠巻きにだけどあんたのことを見たことがあるから」

 

 それは以前、国境の町でギルド長フィリップと交渉をしていた時のことだろう。あの時はまだ鳳白という放浪者の存在は誰にも知られてしなかった。彼は全てが終わった後、難民たちに話を聞いて、そんな人間がいたことと、そしてそいつが街に火をつけて派手に暴れまわって逃げていったことを知った。

 

 その時は、何故こんなことをするのかと思ったが、今の自分の状況を見れば理由はわかった。ヴァルトシュタインは、うまくこの男に乗せられたのだ。カリギュラの登場までは予想していなかっただろうが、彼はあのままヴァルトシュタインが難民たちを保護してくれると期待し、そしてその通り自分は動かされたわけである。

 

 そう考えると腹立たしくも思ったが、あまり不愉快には感じなかった。彼は今の自分の境遇を後悔していなかった。結局、軍人である自分は、戦場を渡り歩くしか他に生き方を知らないのだ。あのまま帝国にいたにしろ、どうせここにはやってきただろう。だったら、より面白い陣営についていた方が、楽しめると言うものだ。

 

「そうか……一方的に知られているというはあまり気分が良いものじゃないな」

「俺の仲間も似たようなこと言ってたよ。有名人の税金だなんて言う奴もいるけど、有名になるのが目的で無い限り、それは負債だ」

「おかしなことを言う男だな……まあいい。それより、救護室での話は聞いたぞ。昨日は魔法みたいな方法で兵士を助けてくれたそうだな。感謝しよう」

 

 すると鳳は苦虫を噛み潰したような表情で、

 

「……あんなのは魔法じゃないし、本当の意味で助けたわけじゃないよ。アヘンもモルヒネも対症療法でしかなくて、結局は本人の体力次第だ。ちぎれた人間の腕が繋がるわけでもないし、無くなった足が生えてくることもない。そして爺さんはもう帰ってこない……」

「爺さん……? なんのことだか分からんが。どうせ死ぬにしても、苦しんで死ぬか、楽に死ねるかでは大違いだろう。おまえがやったことは無駄じゃない。卑下することはないんじゃないか」

「そうかな……そうかも……みんな苦しみたくないだけで、生き続けたいってわけじゃないからな」

 

 おかしなことを言うやつだとヴァルトシュタインは思った。何も期待していないような表情をしていながら、どことなく感情的なことを言う。

 

 情緒不安定というか……もしかして何かあったのかと思った時、鳳はまた話し始めた。

 

「この砦のすぐ裏にある、カナンの村は、あれは死出の村なんだ。あそこに住んでいる人たちは、みんな何かしら問題を抱えていて、もう何をやっても助からないから、死ぬためにあそこに集まっている。痛みを和らげるためにアヘンを吸う以外には、これと言って目的をもっていない。だから、俺たちが物資を運ぶためにうろついても、軍隊がやってきて協力を求めても、みんなニコニコするだけで、何も抵抗しないんだ。単純に、人恋しいのもあるだろう……あそこにいる人達は、みんな家族に捨てられた人たちだから」

「そうだったのか」

「ああ……だから俺は、そんな彼らを戦争に巻き込みたくない。ヴァルトシュタイン。あんた、軍人なんだろう? 早く戦争を終わらせてくれないか?」

 

 ヴァルトシュタインはウッと息を呑みこんだ。一言言ってやるつもりが、逆に言われてしまっていた。軍人は戦争が起きなければ役に立たない。だから中には戦争を継続することだけを目的とするような輩もいる。おまえもそう思われたくないのなら、さっさと片付けろと彼は言っているのだろう。

 

 ヴァルトシュタインは渋面を作り、小指で耳の穴をほじくりながら、

 

「……耳が痛いな。俺だって、こんなところにいつまでも籠もってなんかいたくない。だが、俺の持つ兵力だけでは、帝国を追い返すことは出来ない。今回のおまえらの活躍で、増援は期待できるだろうが、砦に籠もる兵が増えたからって、それで終わるほど戦争は簡単じゃないんだ。敵は増援を阻止するために動き出すだろうし、まだまだここでの戦いは続くだろう」

「そうか……まあ、そうだろうな」

 

 すると鳳はそんなことはわかってると言いたげに、さっさと会話を切り上げてしまった。彼は視線をまっすぐ外に向けて、もうこっちには気を配っていないようだった。それがまるで、おまえには出来ないと言われているみたいで、ヴァルトシュタインのプライドは思いのほか傷ついた。

 

 正直なところ、こんな分けのわからないやつは、もう放っておきたかった。見たところ、彼はまだ大人になりきれてない青年といった年頃で、人生を知らなければ、成功も失敗もろくに経験をしたこともなかったろうし、何かを成し遂げられるような力も感じなかった。だから向こうが興味を失ったのなら、こっちもさっさとどっかに行ってしまえば良いと思った。

 

 だが、それでもヴァルトシュタインはこの青年から目が離せなかった。何がそんなに気になるのだろうか……我が事ながら呆れていた時、彼はふと思った。鳳はこっちへの興味を失ってしまったようだが、じゃあ、今は何を見ているんだ?

 

 彼の視線の先は壁の向こう側にあり、ヴァルトシュタインからは見えなかった。だが、ここは自分の砦なんだから、もちろん、その先に何があるのかは承知していた。鳳は、砦の前方に広がる平原に布陣している帝国軍を見ているのだ。熱心に、こちらに目もくれずに。

 

「……おまえならどうする?」

 

 ヴァルトシュタインが板塀に背を預けて、その上に座る鳳に聞こえるか聞こえないかと言った程度の声音で尋ねると、さっきまで眼中にないと言っていたその目が、スッとこちらへと向いた。ヴァルトシュタインは、なんだ、やっぱり戦況に興味があるんだな……と判断すると、ゆっくりと話し始めた。

 

「戦況は膠着状態だ。帝国は勇者領を降伏させるためには、首都ニューアムステルダムを攻めなければならない。しかし、俺たちのボヘミア砦がある限り、背後を突かれる危険があるから、奴らはここを動けない。

 

 俺たちを抑えるためだけに、帝国からの増援があるかも知れないと思っていたが、今の所それがないのを見ると、どうやら帝国総司令官はこれ以上の増員を認めない方針のようだ。

 

 だからこのまま帝国軍を引きつけ、勇者軍が再編成を終えるまでここをもたせれば、俺たちにも勝ちは見えてくるだろう。その自信はある。しかし、困ったことにそれで確実に勝てるとも言えない。勇者軍は帝国軍よりも数が多く、物量で押し切れる兵力があるのだが、練度も足りなければ将兵も足りない。前回の大敗で分かる通り、勇者領にはろくな将兵がいなくて、おまけに戦意も低いんだ。

 

 冒険者ギルドの派遣する、冒険者指揮官というのには期待しているが未知数だ。スカーサハは相棒で信頼もしているが、信頼で戦争が勝てるなら世界はもっと愛で満ち溢れているだろう。また決戦を挑むのであれば、戦場も選ばなければならない。敵も馬鹿ではないから、前回のリブレンナ川のように、こっちに有利な地形に誘い込むのはもう無理だろう。

 

 俺たち、義勇軍を遊撃隊として使う戦術は効果的だろう。しかし、砦を留守にして、もしここが落ちるようなことがあったら、勇者領にもう抗う力は残っていないだろう。この状況で、おまえならどう動く? 降伏するというのは無しだ」

 

 すると鳳は殆ど考えることもなく、

 

「何故、後方連絡線を絶たないんだ?」

 

 即答と言っていい早さだった。恐らく、状況を説明するまでもなく、彼の頭の中ではとっくに答えが決まっていたのだろう。ヴァルトシュタインは少々気圧されながら、

 

「後方……? 兵站のことか? もちろん、それなら真っ先に考えた。だが、帝国から運び込まれる物資を襲うには、大森林の出口を押さえなければならない。しかし、ここが弱点だってことは帝国だってわかっているから、奴らはここに附城(つけじろ)を作って既に防衛戦を張っているんだ。少数でならこっそりと近づくことは出来るかも知れない。だがそれくらいの戦力では到底落としきれない。

 

 例えば、勇者軍を再編成して、ここを決戦の地とするというのであれば、それはいいアイディアだ。もしもこれに勝てば、帝国軍は退路を絶たれる前に撤退を余儀なくされるだろう。だが、その場合は攻撃側と防衛側が入れ替わることになる。今度は俺たちが敵の城を落とさなければならないわけだが……今の勇者軍に、それが出来るほどの力があるかは未知数だ」

 

 ヴァルトシュタインは、自分たちが何もしていなかったわけじゃないこと、これで十分に説明できたと思った。ところが、鳳はそんな彼の言葉を聞いてもまるで意見を変えず、イライラしながら言うのであった。

 

「いや、そんな必要はない。大規模な決戦なんかしなくても、ここを叩くにはせいぜい20人もいればいい。多くて50人ってところだろう」

「……は? 50人……? 500人の間違いじゃないのか? それでも少ないくらいだぞ……」

 

 ヴァルトシュタインは絶句した。今までの自分の立場から、出世のために大言壮語する輩とは、ごまんと会ってきた。だが、ここまで大風呂敷を広げたやつは初めて見た。

 

「おまえはたった50人で敵の城を落とせるというのか?」

「いや、城は狙わない。敵が待ち構えているところに、わざわざ行くのは馬鹿のやることだ。狙うのはその前、森の中で襲撃するのがベストだろう」

 

 ヴァルトシュタインは少々面食らいながらも、

 

「……なるほど、森の中で移動中を狙うのか。いい考えだ。特に、冒険者は一人ひとりが信じられないくらい強いらしいからな。だが、おまえは相手がどのくらいの用意をしているのかを知らないんだな。斥候の報告によると、ここを通るのは輜重(しちょう)隊とは言っても千人規模、全てが正規兵という念の入れようだ。帝国はここを落とされたら撤退もあり得ると考え、非常に慎重な準備をしているわけだ」

「だから……?」

「だからって……」

 

 鳳には全く意に介する気配はなかった。そんなの、自分なら当たり前だとその顔が言っていた。こういう、自信過剰な若者は何人も見てきた。そしてそいつらがどのような末路を辿ったかも。ヴァルトシュタインは話にならないと鼻で笑いながら、

 

「馬鹿馬鹿しい……スカーサハがあの街を救った英雄だと言うから、少しは期待していたんだが……蓋を開けてみれば、まあ、こんなものか。おまえはただの博打打ちだ。おまえの言ってることは、たしかに考えさせられる物もあるが、殆ど単なる机上の空論に過ぎん。そんなものに命を預けられるほど、俺も純粋じゃないんでね」

「そうか」

「悪かったな、つまらないことを聞いて。おまえはさっさと砦を出て、ギルドに報告したらもうこの戦いからは手を引け。元々、そのつもりだったんだろう?」

「そうだな」

「おまえの言う、後方連絡線……だったか? 俺たちの救援ルートを確保してくれたことは感謝する。これでまだ暫く、ここに踏み留まることが出来るだろう。それじゃな。会えて嬉しかったぜ」

「ああ」

 

 鳳はもうヴァルトシュタインは眼中にないようだった。その瞳が退屈そうに戦場を見つめていて、こんなの簡単に片付けられるのにと言っているようだった。ここまで自分のことをコケにしたガキには初めて会った。彼は鳳の座っている板塀を蹴り倒してやりたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて踵を返した。

 

 会うまではどんなやつがやって来るのかと楽しみで仕方なかった。だが、実際に会ってみればそれは死んだ魚のような目をしたおかしなガキだった。人のことを小馬鹿にして、全く話にならなかった。ヴァルトシュタインはドスドスと地面を蹴立ててその場から離れていった。

 

 それなのに……どうして自分はこんなに落胆しているのだろうか? これじゃまるで恋する乙女みたいじゃないか。

 

 馬鹿馬鹿しい。さっさと忘れよう。彼は努めて冷静さを取り戻そうと深呼吸をしてから歩き出した……宿舎に帰ったら、気を静めるためにお茶でも飲もう。軍師に貰ったやつがまだ少しだけ残っていたはずだ……彼は軍師のことを思い出し、そして彼もまた放浪者だったことを思い出した。

 

 ヴァルトシュタインは踵を返すと、もう一度、鳳の座っている板塀の方へと歩き出した。彼は自分に言い聞かせた。落ち着け、どだい放浪者という連中は、常識で計っても仕方ないのだ。彼らは自分とはまるで違う世界からやってきた人間だ。

 

 それに落ち着いて考えればそれほど悪い話でもない。いくら輜重隊とは言え、50人で敵兵を追い返すことなんて出来っこない。だが、逆に言えば失敗しても50人の犠牲に過ぎないのだ。

 

「本当に、50人でいいんだな!?」

 

 なら、賭けてみるのもありじゃないか。彼はそう思うと、まだ板塀の上で退屈そうに戦場を眺めている鳳に声をかけた。

 



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ゲリーリャ

 木漏れ日にはリラクゼーション効果があるという。こうして森の木々に囲まれているとそれを実感する。なんというか、帰ってきたなあ~……という感じがするのだ。

 

 それは彼自身、この世界に来てから大森林にいる時間が長かったから、そう思うのかも知れない。なんやかんや、彼にとって大森林はホームグラウンドなのだ。こうして小川のせせらぎに耳を澄ませながら、釣り糸を垂らした竿の先端をぼんやり見つめていると、座っている石と同化してしまったかのように、いつからそうしているのか分からなくなってくる。

 

 鳳は大森林に帰ってきた。

 

「んみゃー! んみゃー! そっちいったみゃあ!」「ヘイユー! ミーが追いつめるみゃあ!」「任せるみゃー!」「お魚とったみゃあー!」

 

 なんというか、大所帯になって。

 

 鳳は大森林に帰ってくるなり、ここのところずっと封印されていた釣りをしようと、いそいそと小川までやってきた。ヴィンチ村では用水路くらいでしか釣りが出来ず、ボヘミア山中では水場を探すことすら困難だったので、こういった釣りらしい釣りをするのは本当に久しぶりだったのだ。

 

 ところが、そんな彼の唯一の楽しみを邪魔するやつらがいる。バシャバシャと川の中を走り回る猫人たちにキレて、鳳は大声をあげた。

 

「おい、こら、猫ども! いい加減にしろ! 魚が逃げちゃうじゃないか!!」

「みゃ~! 隊長のやり方はまどろっこしいみゃ」「手づかみのほうが早いみゃ」「ミー達の方がいっぱい獲れてるみゃ~」

「それはお前らが川を荒らすせいだろうが! さっきから、俺の行く先々で邪魔ばかりしやがって。ついてくるなって言ってるだろ!?」

「嫌みゃ」「隊長が居るところは、お魚もいっぱいいるみゃあ」「入れ食いみゃ」

「このやろ……確信犯だったのか!」

 

 鳳と猫人たちが、どけどかないと押し問答を続けていると、川の向こう側の茂みがガサガサと揺れて、数人の狼人がひょっこり帰ってきた。誇らしげな彼らの背中を見れば、二頭のイノシシっぽい魔物が木の棒に吊り下げられている。まるまると太った胴体は肉付きがよく、既に首をかき切り血抜きも済ませているようだ。

 

 おお! これでまた食事が充実するぞ……と思っていたら、狼人たちは猫人たちが作った生簀を覗き込みながら、

 

「何だ? 猫人どもは、まだたったのこれしか獲れてないのか?」「猫人は、人に飼われて久しいと聞くからな」「自分で獲物を取れなくなった獣人なんて、獣人とは言えないな」

「にゃにおう!」「ミー達はそんじょそこらの飼い猫と違うみゃー!」「独立独歩の愚連隊、ゴブリン退治のエキスパートみゃ」「所詮、大森林から追い出されただけのワンコとはわけが違うみゃー!」

「なんだと!? 黙って聞いていたらこのやろう!」

「死にたいユーから掛かってくるみゃ!」

 

 犬猿……ではなく、犬猫の仲と言えば良いのだろうか? 狼人と猫人は、何故か仲が悪かった。絶えず競争意識を燃やしてすぐに喧嘩を始めるから扱いにくい。

 

「まあまあ、どちらも喧嘩はよくないですよ。昨晩は猫さんたちの方が獲物を多く獲れたのですから、ここは痛み分けということで良ろしいではございませんか」

 

 しかしそんな風に双方の喧嘩が始まると、決まって蜥蜴人がやってきて、仲裁をしてくれるので助かっていた。狼人も猫人も、何故か蜥蜴人が苦手らしく、彼らが出てくると大人しく話を聞いてくれる。蜥蜴人はそれほど強くないのだが、爬虫類を恐れるような遺伝子でも組み込まれているのだろうか? 大森林の摂理とは、自然のようで不自然な、複雑怪奇なものである。

 

 そんなことを考えていると、キャンプ地の方からカンカンと鍋を叩く音がして、

 

「みんなー! ご飯できたよーっ!」

 

 金髪に紫の瞳をしたメアリーがぴょんぴょんと飛び跳ねていた。その向こう側には大鍋をでっかいしゃもじ……というか(カイ)みたいに先を平べったくした丸太でかき混ぜているジャンヌが見える。芋煮みたいなものを作っているのだが、彼がああしていると地獄の釜をかき混ぜているようにしか見えなかった。

 

「飯みゃー!」

 

 ご飯と聞いて猫人たちがすっ飛んでいく。負けじと狼人たちも獲物をえっほえっほと担ぎながら駆けていった。彼らは自分たちの荷物からそれぞれのお椀を取り出すと、行儀よく鍋の前に整列して配給を待っていた。

 

「ミーは大盛りにしてほしいみゃ」「俺は肉を多めにしてくれ」「私のより、こちらの方が多くないですかな?」「汁ばっかりみゃ! やり直しを要求するみゃ!」「もう! みんな勝手なことばっかり言わないでよ。ちゃんと公平に分けてるわよっ!」

 

 鍋の周りには白衣を来た人間たちも居て、彼らは副菜の山菜や蜥蜴人用に取っておいた生の腐肉などを選り分けていた。まるで小学校の給食のような光景であるが、彼らはれっきとした軍人である。

 

「うみゃうみゃー!」「ご飯おいしいみゃー」「しかし、味付けがちょっと物足りないな」「悪かったわねえ、だったら食べなくていいわよ」「そんなつもりは……」「よろしければ、私の腐肉を分けて差し上げましょうか」「いらんいらん! 臭いから鼻に近づけないでくれ……」

 

 ガッツガッツと給食を貪り食う獣人たちは、まるで野性の獣のようだった。みんなどことなくお気楽で、これから命のやり取りをしようという顔をしていない。それを見て不安に思ったのだろうか、ボヘミア砦からついてきたヴァルトシュタインの副官の一人、テリーが鳳に耳打ちするように言った。

 

「隊長……本当に大丈夫なんでしょうか。こんな連中ばかりで」

「大丈夫じゃないの。あんたは知らないのかも知れないが、獣人は獲物を狩ることにかけては人間の比じゃないんだぜ」

「獲物ではなくて……帝国軍人は野生動物とは違って武器を持っている人間ですよ?」

「だから尚更心配要らないと思うんだけど」

 

 いくら重火器で武装しようが、人間は所詮人間である。森の中を時速30キロで走り回ったり、数メートルはある木に一瞬で登ったり、そういうことは出来ない。ところが、ここにいる連中は、そういう獲物を毎日のように相手しているのだ。そのために、じっと茂みの中に隠れて、何時間も待ち続けることだって出来る。森林戦では、獣人の右に出る者はいないだろう。

 

 とはいえ、帝国の補給部隊は千人規模という。その数だけを聞けば、確かに彼が不安になるのも仕方ないことだろう。だが一度でも森林での戦いを経験すれば、こんな数などただの虚仮威しに過ぎないことが分かるのだが……

 

 もう既に再三に渡って説明している森林戦の極意を、鳳がまた掻い摘んで説明しようとしているときだった。斥候部隊を率いて偵察に行っていたはずのギヨームが、一人で帰ってきて、鳳を見つけるや駆け寄ってきた。

 

「おい、鳳。ついに帝国の輸送部隊が見えたぜ。今は街道をゆっくり南進中で、明日にもこの辺りを通過するだろう。部隊の連中に見張らせているが、向こうも前衛偵察を出しているから、そろそろここで火を使うのはやめておいたほうが良い」

「そうか、いよいよだな」

「敵は言われている通り、千人規模の軍隊だ。荷車が延々と1キロ位続いている。全員が銃なり剣なりで武装しているが、本当に俺たちだけで大丈夫なのか?」

「おまえまでそんなこと言いだすのかよ」

 

 鳳はやれやれと首を鳴らすと、その場で立ち上がってみんなに聞こえるように言った。

 

「あー、食べながらでいいから聞いてくれ。みんな食事に関して、大いに不満があるだろうが、今日までの辛抱だ。明日、帝国軍がここのすぐ近くを通過する。俺たちの目的は、そんな奴らから物資を奪うことだ。帝国軍は、美味いものをたらふく食ってるらしいぞ。上手くいけば、今日よりももっと美味いものにありつけるはずだから、気合を入れて作戦に臨んでくれ。俺からは以上だ」

 

 鳳がそう言うと、それを黙って聞いていた獣人達はまた和気あいあいと食事に戻り、今度はどっちが多くの物資を奪うか勝負だと軽口を叩きあっていた。みんな自分勝手なことを言って、規律もへったくれもない。それを見ていた副官のテリーはますます不安にかられたようだが、鳳はそれほど気にしなかった。

 

***********************************

 

 ヴァルトシュタインとの会話後、改めて彼から後方連絡線を破壊する任務を請け負った鳳は、ボヘミア砦を出て大森林へ向かうことにした。メンバーはいつもの、ジャンヌ、ギヨーム、それからメアリーである。

 

 ルーシーは置いてきた。この戦いについてこれない……わけではなく、怖い姉弟子に捕まっているからである。現代魔法の使い手がいなくなるのはかなりの痛手であったが、それで彼女のスキルアップが図れるなら良しとしよう。

 

 大森林と一口に言っても範囲が広いので、その目的地を詳しく言えば、ヘルメス領と勇者領を結ぶ唯一の街道である。

 

 帝国と勇者領を繋ぐ街道は一本しかなく、それ以外で双方の国を結ぶ連絡路は、勇者領の船が牛耳っている海路か、トカゲ商人が通る大森林の道なき道しかない。従って、糧食を母国からの兵站に頼っている帝国軍は、ここを押さえられてしまうと死活問題であるため、必要以上に警戒をしていた。これまで何度も言及した通り、物資を運ぶための千人の部隊が、この大森林の中を行ったり来たりしているのはそういうわけである。

 

 鳳は、これを襲撃し、帝国からの供給を分断するという任務を負った。それは当初ヴァルトシュタインも考えたことだが、とても不可能と断念した作戦だった。だが、彼はそんな歴戦の傭兵王ですら不可能と言ったことを、たった50人でやろうとしていたのだ。

 

 それを聞いた時、ヴァルトシュタインも、鳳の仲間たちもそんなことは不可能だと反対をしたくらいだった。それでも彼が自信を持ってこの作戦が可能であると言い切れたのが何故かといえば、そこに先駆者がいたからだった。わずか20名足らずで密林に潜伏し、1万人以上の正規軍を撃退した、キューバ革命軍である。

 

 森林戦は、古くは大国ソビエトを撃退したフィンランドの冬戦争、歴史上アメリカ合衆国が唯一敗北したベトナム戦争など、決して国力に勝るほうが勝つとは言い切れない側面がある。その理由は、森林という地形が少数勢力に非常に有利に働くからだ。

 

 キューバ革命の英雄チェ・ゲバラは、革命後に著書『ゲリラ戦争』でその戦術を事細かに解説している。彼は後に続く自分のような革命勢力のために、その方法を書き記したつもりだったが……皮肉にもそれは寧ろ体制側に熱心に研究され、手の内を知り尽くしたCIAに追い詰められ、彼は生涯を終えることとなる。

 

 それはさておき、彼の戦術は至ってシンプルなものだった。少数の利を生かし、機動力で敵の先手を打ち、有利な地形を選び、常に奇襲で攻撃し、素早いヒットアンドアウェイを心がける。補給は敵から奪うことで賄えば、敵がいる限り、ゲリラもまた生き続けられるというわけだ。

 

 そんなことが出来れば苦労がないと言いたくもなるが、それが出来てしまったから革命が成功したわけである。

 

 キューバ革命軍がジャングルに籠もってから、政府軍も手をこまねいていてわけではない。政府軍はゲリラの活動拠点であるジャングルに大きな基地を作って、ゲリラ撃退に動き出した。ところが、この行動が裏目に出た。大きな拠点を作るには物資を運び入れる必要があるが、この補給部隊が狙われたのである。

 

 森林にはいくらでも遮蔽物があり、少数のゲリラは素早い移動で有利な地形を選んで待ち構え、好きなタイミングで補給部隊を襲うことが出来る。補給部隊はゲリラがどこに潜んでいるかはまずわからないから、常に奇襲を受けることになる。さらには、補給部隊は規模が大きくなるほどその隊列が伸びやすい。狭い森道を行くには、どうしても縦列を作らなければならないからだ。

 

 ゲリラはこの時、先頭でも最後尾でもなく、常に中央を狙った。こうすれば、前後を分断された補給部隊が必ず麻痺するのだ。前後からすぐに挟み撃ちし返せば問題ないのにと思うだろうが、何もないと思っていた密林でいきなり襲撃されると、人間はそうは考えられないらしい。

 

 前後に伸びた補給部隊は、先頭と最後尾でお互いに常に連絡を取っているわけでもないから、襲撃の規模がどれほどのものかがわからない。すると例えば、先頭の部隊はこのまま進むか、救援に向かうかと判断に迷う。最後尾の部隊はその逆だ。

 

 また森林という視界が確保できない土地を利用し、敵よりも少ない兵力で包囲するという離れ業もやってのけた。人間は見えない敵から一方的に攻撃されると、相手が極端に大きく見えるようである。

 

 こうして敵軍がパニックになっている間に、ゲリラは襲撃した部隊から物資を奪い、ようやく救援にかけつけた前後の部隊にヒットアンドアウェイをかけるわけである。敵軍はもしかするとゲリラを追い掛けてくるかも知れないが、密林を庭にしているゲリラと、そうではない追撃部隊とでは、どちらが有利かは言うまでもない。

 

 鳳は正にこの方法を踏襲した。

 

 帝国軍の補給部隊が通る街道に、狩りのエキスパートである猫人と狼人を伏せておき、それが通過するのを待ってから、その中腹に奇襲を仕掛けた。

 

 襲撃された荷車部隊は、突然現れた獣人達にまったく抵抗できず、即座に制圧された。驚いた前後の部隊だけが武器を構えて抵抗を見せたが、1キロ近くも長く伸びた補給部隊の殆どは、何が起きたか分からずに動揺するだけだった。

 

 鳳たちゲリラ部隊は前後の部隊にだけ応戦し、その隙に非武装の蜥蜴人が駆け寄って帝国軍の物資をひょいひょいと運び出してしまった。彼らは大森林をホームにする行商人でもあるから、物資を運ぶことに長けているのだ。

 

 やがて、混乱から回復した敵補給部隊から増援がやってくると、鳳は笛を吹いて撤収の合図をし、帝国軍を襲っていた獣人達はその笛を聞いて、手近にあった物資を掴んでスタコラサッサと逃げ出した。

 

「メアリー!」

 

 撤収が決まるとすかさずメアリーがファイヤーボールを飛ばし、敵補給部隊の荷車を燃やした。残った敵物資をまた有効活用されないようにと、火を消そうとする彼らを足止めする意味もある。

 

 そんなことをせずに最初からスタンクラウドなりをお見舞いしてやればいいと思うかも知れないが、そこはそれ、こっちに神人がいると分かると相手も神人を出してきかねないから、その隠蔽のためである。尤も、神人が出てきたところで、それを避けて奇襲をかければいいのだから、やることは変わらないのだが……

 

「うう……なんだか私、今回はやることないわね」

 

 メアリーはぶつくさ言っていたが、敵の物資を瞬時に焼くことが出来るのは非常にありがたかった。普通だったら燃料をかけてじわじわ焼くしか無いのだから。それに、彼女の魔法は寧ろ撤退戦でこそ役に立つのだ。

 

「白ちゃん、敵が追い掛けてくるわ」

 

 横に並んだジャンヌが背後の敵兵の存在を示唆する。鳳は頷くと、

 

「足止めして、出来る限り殺すなよ! メアリー、もいっちょ頼む」

「わかったわ」

 

 メアリーがスリープクラウドを唱えると、背後から追い掛けてきた敵兵の何人かがその場でパタパタと倒れて眠ってしまった。驚いて立ち止まる敵兵に、更にジャンヌや獣人たち、武闘派が襲いかかる。

 

 こうして生きたまま捕らえた捕虜を、鳳たちは拠点に連れて帰った。

 

 拠点に連れて来られた彼らは、戦闘が一段落すると武装解除されて一列に並べられた。不安そうにゲリラ隊のことを見つめている敵兵の前に、ヴァルトシュタインの副官であるテリーが歩み出る。彼はヘルメス国の難民出身者であり、今回の戦争の被害者でもあった。

 

「帝国兵の諸君。落ち着きたまえ。まずは我々は君たちを害するつもりがないことを約束しよう。実は私は君たちと同じ帝国はヘルメスの出身者だ。帝国に居た頃は圧制者に苦しめられ、毎年要求される年貢に汲々とする日々だった。挙句の果てに、為政者であるアイザック11世が敗れると、我々の故郷は次の為政者の都合によって弾圧され、私は故郷から逃げざるを得なくなった。だが、今はそれで良かったと思っている。

 

 勇者領へ渡った私はそこで自らの足で立ち上がることを知った。そこに苦労がないと言えば嘘になるが、少なくとも自分で手に入れた物を理不尽に奪われることは無くなった。なんて簡単なんだと思った。今までは鄙びた農村で与えられた仕事だけをして一生を終えると思っていたが、それは私に立ち上がる勇気が無かっただけなのだ。外へ飛び出してしまえば、そこには自由が広がっていたのだ。

 

 現実は過酷で、何時その身に不幸が降りかかるかはわからない。抵抗しない限り、我々は為政者の都合によって収奪されているだけなのだ。君たちは帝国兵であるが、それは誰のためであるのか。君たちは軍人というが、それは皇帝陛下のために命を捧げたからか? それとも、領主のためなのか? 違うだろう、君たちは愛する家族のために立ち上がったのだ。しかしその家族が生きるための糧を、為政者たちは自分たちの都合で奪っているのが現実だ。本当に、このままでいいのか? そんな生活が、君の子供や孫の代まで続いてもいいのだろうか? 自由を勝ち取ろうとは思わないのか。

 

 我々、義勇軍は圧政に立ち向かうために立ち上がったのだ。ここでは皆が平等で、自由だ。誰からも束縛されることはない。過酷な年貢を取り立てられることもない。新たな秩序を自らの意志で勝ち取ろうとしているのだ。無論、君たちの今の生活を否定するつもりはない。だが、もしも我々の活動に興味があるなら、諸君らも義勇軍となって共に立ち上がらないか? もしその意志があるなら、我々義勇軍は諸君らを歓迎する。以上だ。話を聞いてくれてありがとう。君たちは自由だ」

 

 テリーの演説が終わっても、捕虜たちは一歩も動かずにぽかんとしていた。目の前の男が何を言っているのか分からないが、何故か拘束が解かれ、自由だと言われているような気がする。

 

 捕虜の中のひとりが恐る恐る尋ねた。

 

「あの……俺たちを逃してくれるのか?」

「ああ、もちろんだ。最初に言っただろう。我々は君たちを害するつもりはない。我々の敵はあくまで帝国、圧制者なのだ」

「は……はあ……」

「この後、我々の仲間が君たちを街道まで送ろう。そこで君たちは本隊に合流するなり、そのままヘルメス領に帰るなりすればいい。君たちは自由だ」

 

 捕虜たちは狐につままれたような表情をしていた。そりゃそうであろう、普通なら捕虜として交渉の材料にされるか、腕の一本二本は覚悟していたはずだ。それが何の拘束もされずに放置され、更には送迎までしてくると言うのである。これじゃ何のために追撃していたのかわからない。

 

 それはギヨームも感じていたようで、

 

「ありゃあ、一体何のつもりだ?」

「あれはプロパガンダだ」

「プロパ……? なんだか分からんが、タダで返すなんてもったいなくないか?」

「いいんだよ。相手が交渉に応じてくれなければ、捕虜はただのお荷物だからな。それよりも、こちらの主張を一方的に流してくれるスピーカーになってくれた方が、ずっと役に立つってもんさ」

 

 解放された後、帝国軍に戻った彼らは将校たちから尋問され、仲間たちに質問をされるだろう。そのたびに彼らは義勇軍が自由のために戦っているということを説明してくれるはずだ。始めのうちは馬鹿馬鹿しいと一蹴されるだろうが、これが続けば聞く方の意識も変わってくる。

 

 捕虜を解放することで、こちらの動きが察知される危険はあるが、そもそもゲリラとは、特定の拠点をもたずに動き続ける軍隊なのだ。

 

「補給部隊が森を抜けるまでに、もう一戦くらい出来るだろう。あいつらは今ごろ、奪われた物資の確認をしたり、俺たちの追撃がないかと警戒しているはずだ。この隙に前に回り込んで、また同じように奇襲をかける」

 

 大森林を突き抜ける街道は非常に長く、大部隊が通り抜けるまでには一週間は必要だ。つまり襲撃ポイントはいくらでもあるということである。彼らは難民がここを抜けるのに、どれだけ苦労したかを今ごろ痛感しているだろう。尤も、それは怖い魔物に襲われることではなくて、いつゲリラに襲撃されるかわからないという恐怖に変わっているのだが。

 

 鳳たちゲリラ部隊は、こうして大森林の中を縦横無尽に駆け回り、補給部隊をチクチクと攻撃し続けた。その一回一回は大した被害でなかったとしても、それが続けられているうちに被害はどんどん積み重なっていき、やがて帝国軍が無視できないほど大きくなっていくのだった。

 



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勝負は一瞬で決まった

 ゲリラ作戦が始まってから暫くした頃、ボヘミア砦を包囲する帝国軍に明らかな変化が表れ始めた。潤沢に供給されていた食事の量が減らされ、兵士たちの規律を欠いた怠慢な行動が多く見られるようになり、それまでは悠々と砦を囲んでいたはずの帝国軍が、苛立ちを隠しきれないように攻撃を仕掛けてくることが多くなってきたのである。

 

 例えば、砦の後方から救援物資が運び入れられていることが知れると、帝国軍はこの糧道を断ち切ろうとして無謀な作戦を繰り返し、それを砦からの別働隊に攻撃されて痛手を負っていた。もはやこの砦に籠もって長い義勇軍にとって、山は自分たちの庭みたいなものだったのだ。なのに、網の目のごとく光っている監視の目をくぐり抜けて近づくことなど出来るはずがなかった。

 

 この失敗を教訓に、帝国軍は砦から襲撃を受けないくらい、遠く離れてから入山を試みようとしたが、そこはカーラ国の目の前であり、前回の大敗後に顰蹙を買って国に戻っていたカーラ国軍の攻撃を受けてあえなく頓挫した。誰も期待していなかった軍隊が、こうして役に立つのだから、戦争とは本当に何が起こるかわからないものである。

 

 かくして兵糧攻めを断念せざるを得なくなった帝国軍は、最後の悪足掻きと全軍で総攻撃を仕掛けたが、人数を増やしたところでそれは渋滞を起こすばかりで効果が薄く、ヴァルトシュタインの指揮の下、堅固に守られた砦を落とすには至らず、ついに撤退を余儀なくされたのであった。

 

 こうして義勇軍は、ついに10倍する軍隊を完全に退けたのである。それは勇者軍を勇気づけ、帝国軍の士気を大いに挫く大戦果であったが、話はまだ終わっていなかった。

 

 ボヘミア砦から撤退したとは言え、勇者領から完全撤退したわけではない帝国軍は、相変わらずアルマ国に駐留していた。しかし、その背後では鳳のゲリラ部隊が糧道を荒らしまくっており、兵站を完全に後方に頼っていた帝国軍は、この動きを阻止することが出来ずに臍を噛んでいたのである。敵は明らかに少数であることがわかっているのに、いつまで経っても嫌がらせを止めることが出来ないのだ。

 

 彼らは補給部隊を制圧しようとはせず、ひたすら略奪を繰り返し、帝国の兵站に打撃を加えることだけを目的としていた。略奪は、補給部隊がもう引き返すことの出来ないくらい街道を進んだ頃から始まり、勇者領に到達するまで手を変え品を変え行われる。

 

 数百キロにも及ぶ遮蔽物だらけの森の中では、いくら偵察を出しても少数のゲリラを先に発見することは不可能だった。交戦は常に奇襲で始まり、襲撃を受けた部隊は無抵抗のまま物資が奪われ、混乱から回復した部隊がようやく応戦を開始しようとすると、彼らはさっさと逃げ出してしまう。それを逃してなるものかと追いかければ罠にはまるという念の入れようだ。

 

 ところが、こんな卑怯な真似をしているのに、彼らは兵士を捕らえると、正義のため、自由のため、解放のためと耳障りの良い言葉を並べ立て、自分たちを正当化してしまうのだ。

 

 補給物資を全て奪われるわけではないから、最初のうちはそれほど気にしていなかった帝国軍も、これを何度も繰り返されると話が変わってきた。この間、ゲリラ部隊に捕まった兵士たちはかなりの数に上っており、無傷で帰ってきた彼らがゲリラ部隊の主張を伝えることで、兵士の間に動揺が広がっていたのである。

 

 元々、帝国軍は5カ国の混成軍隊であるため、兵士の軍に対する忠誠心は低い。特に最下層の兵卒には敗戦したヘルメス国から嫌々ながら徴兵された者が多く、そんな彼らからしてみれば、帝国軍よりも義勇軍の方が正当に思えなくもないのだ。

 

 なのに、ボヘミアではその義勇軍に敗れ、後方では山賊じみた連中に好き放題やられているのだから、動揺するなという方が難しかった。この上、十分な食料の確保も出来なくっては士気崩壊を起こしかねないと、危機感を覚えた帝国軍は慌てて徴発を開始する。

 

 ところが……農作物を接収しようとした帝国軍は、そこでまたとんでもない事態に直面する。まだ収穫シーズン前であるにもかかわらず、畑から農作物が無くなっていたのだ。

 

 帝国は勇者領に入ってから今までずっと好き放題やっていたが、彼らが拠っているアルマ国への流通が止まったら領民が逃げてしまうので、庶民の生活に制限を設けることはしていなかった。市場には普通に商品が並べられ、物流を担う商人の邪魔もしていなかった。連邦議会はここに目をつけて、帝国が手を出す前に青田買いをしていたのである。

 

 無論、補給が上手く行っていたらこのようなことをしても意味はないから、これは後方をうろつきまわるゲリラ部隊と連携した動きであったのは言うまでもない。先手を打たれた帝国は、慌てて周辺国からも物資を徴発しようとしたが時既に遅く、畑どころか市場にも軍隊を養えるほどの食料は残っていなかった。

 

 かくして補給が滞りだした帝国軍内では、士気低下による風紀の乱れが蔓延しはじめるのであった。完全に補給が途切れたわけではないが、物資の不足はもはや隠しきれないほど深刻となり、兵士たちに十分な食料が行き渡ることは、ついに無くなってしまったのである。

 

 勇者領に入ってから失態続きのアイザック12世は、この事態に際してまた器の小ささを露呈した。

 

 アイザック12世は物資が不足し始めると、ある日、補給部隊を指揮する将校を呼びだし、わざわざ他の将校たちが集まる軍議の席で叱責した。たかが野盗ごときに何度も失敗しやがって、次に失敗したらその首を切り落とすと、有無を言わせず脅しつけたのである。

 

 補給部隊の将校は何の弁明も許されず謝罪をさせられ、屈辱に耐えるより他なかった。この話がどう伝わったのかは分からないが、この出来事以降、補給部隊からは脱走が相次ぐようになり、完全に立場を失ってしまった将校は、後に責任を感じ自殺してしまったという。

 

 物資不足は最も身分の低い兵卒の食事に露骨に現れてきた。下士官たちはまだいい物を食えていたのだが、兵卒にはパンが一個などという日が続いていた。人間も生物であるから、食の欲求が満たされなくなった者たちが、まともでなくなっていくのは時間の問題であった。そしてついに、兵士たちによる略奪が起きてしまったのである。

 

 ある日、帝国兵たちは巡回と称してアルマ国内の農村を回り、そこにあった食料を勝手に接収しはじめた。長引く戦争のせいで生活が苦しくなっていた農家は、そんなことをされては暮らしていけないと必死に抗議したが、腹を空かせた兵士たちは聞く耳持たなかった。

 

 一度味をしめた彼らは、暴力によって抗議の声を封じると、目につく家々から手当たりしだいに物資を奪い始めた。暴走は留まるところを知らず、アルマ国民の取れる手は、もはや座して死ぬか、生きるために逃げ出すかしかなくなってしまったのである。

 

 これらの陳情を受けたアルマ国王は、すぐさまアイザック12世に抗議した。元はと言えば、アルマ国が帝国軍を受け入れたのは、このようなことが起こらないためだった。なのにこれでは約束が違うではないかと言うアルマ国王に対し、しかし12世は打つ手を持たなかった。

 

 原因ははっきりしている。とにかく物資不足を解決するしかない。しかしいくら責任者を(なじ)ったところで、伸び切った兵站線を維持出来そうもなかった彼は、アルマ国王の抗議に明確な答えを示すことが出来ず、結局のところ、いつもの癇癪を起こすしかなかった。

 

 そしてアイザック12世は、ここでもまた、取り返しのつかない間違いを犯した。今度はなんと、アルマ国王が叛乱を企てていたと断じて、有無を言わせず投獄してしまったのである。

 

 しかし、叛乱などと言うがここは帝国ではなく、そもそも帝国の法に従う理由など無いのだ。人の国に勝手にやってきて、我が物顔で振る舞い、ついには彼らの戴く国王を一方的に断罪するという。この暴挙をアルマ国民は黙っていなかった。

 

 ここに至ってアルマ国民はついに団結し、パルチザン活動を開始した。元々、保守派であるアルマ国は帝国嫌いの人間ばかりだった。そんな火薬庫に一度火がついたら、燃え尽きるまでそれを止める方法は無かっただろう。

 

 アルマ国内ではあちこちで小競り合いが起こり始め、そしてこれまでの鬱憤を晴らすかのごとく、兵士たちへの闇討ちが始まった。惨たらしい死体が晒され、命の危険を感じた兵士たちも黙ってはおられず、たまらず国民への弾圧を開始する。気がつけばアルマ国内は疑心暗鬼が蔓延り、昼間であっても人が出歩くことがない戦場と化し、帝国軍は物資不足などもはやどうでも良くなってしまうほど混乱するのであった。

 

 一方その頃、ボヘミア砦を脱出した神人スカーサハは、勇者軍本隊と合流すべく一路ニューアムステルダムを目指していた。彼女は首都周辺に展開していた勇者軍の指揮権を譲り受けると、総勢3万にまで回復していた軍隊を北へと向かわせる。

 

 帝国軍が黙って見ているとは思わなかった彼女は、決戦の地を求めて自軍に有利なポイントを繋ぐよう慎重に行軍したが、しかしその工夫は無駄に終わった。前回の決戦地、リブレンナ川を過ぎ、勇者領北部に入っても未だ帝国軍は動かず、ついに西方からカーラ国軍が合流し、更にはボヘミア砦からヴァルトシュタイン率いる義勇軍まで参陣した。

 

 それでもまだ動かなかった帝国軍は、勇者軍がアルマ国境に差し掛かった頃にようやく姿を現したが、しかし、そこにいたのは総勢3万の帝国軍ではなく、相次ぐ脱走や小競り合いのせいで疲弊した、2万足らずの草臥れた軍勢であった。

 

 帝国軍はその2万で、三角形の形をしたいわゆる魚鱗陣形を作り、迫りくる勇者軍を迎え撃つよう布陣した。

 

 対する勇者軍は矢印の形をした鋒矢陣形で布陣し、両翼にカーラ国と義勇軍を配置、中央突破の姿勢を見せる。敵を上回る兵数を活かし、一撃で敵を分断、各個撃破し、スピード勝負を決める狙いであった。

 

 しかし、敵軍が本陣を魚鱗の底辺に配置したのに対し、スカーサハは自分のいる本陣を矢印の先の方……せいぜい次鋒の位置辺りに置いていた。これは普通に考えれば、大将を危険に晒すあり得ない布陣であったが、彼女がこうしたことにはもちろん理由があった。

 

 開戦は、そのスカーサハの戦歌(・・)によって始まった。

 

 両軍の怒号が入り乱れる最前線に、透き通るような歌声が響き渡る。敵に負けまいと鬨の声を上げていた勇者軍の兵士たちは、その歌声を聞いた瞬間、突如として自分の内から湧き出るような自信と、漲るような力を感じるのであった。

 

 スカーサハの使う戦歌(バトルソング)は、これを聞いた対象者に士気高揚と、各種ステータスバフ効果を与える現代魔法であった。以前、ルーシーが使った応援(エール)とは違い、これは多数に効果があった。故に彼女は、出来るだけ広範囲の味方にバフをかけるべく、最も味方が密集している位置に本陣を置いたわけである。

 

 これによって彼女の周りにいる兵士たちは恐れを知らぬ戦士と化し、新米兵士を精鋭へと変えるのである。これがすなわち、彼女が指揮者(タクティカル・コンダクター)と呼ばれる所以であった。

 

 対する帝国軍もここにきてようやく虎の子の神人を投入する。しかし、敵とは違って死を恐れる(・・・)彼らは適当にクラウド系魔法を展開すると、すぐに戦火の届かない後方へと引っ込んでしまった。

 

 そこへバトルソングによって士気高揚した勇者軍が殺到する。恐れを知らぬ彼らは、神人の残した魔法によって多少の被害を受けたが、それでその勢いが止まることは無かった。

 

 間もなく両軍がぶつかり、押し寄せる勇者軍の吶喊を前に、士気負けする帝国軍は初めから成すすべもなく、押し込まれ、ついに中央を食い破られる。目論見通り中央突破を敢行した勇者軍は、分断され混乱している帝国軍を各個撃破すべく動き出す。

 

 勝負は一瞬で決まった。

 

 分断され散り散りになった帝国兵たちには、もはやその場に踏みとどまるだけの気力は残っておらず、迫りくる勇者軍を前に背を向けて逃げ出すのが関の山であった。やがて包囲される帝国軍の中から白旗が上がり、アイザック12世は降伏した。

 

 やけくそになった彼は、取り囲む敵中に進み出ると、「さあ、このヘルメス卿を捕らえる誉れを受けるのは誰であるか!」などと居丈高に叫び、それを聞いた帝国兵に引き倒されて、殺されそうになったところを勇者軍に助けられる始末であった。

 

 こうして長らく続いた帝国軍の勇者領遠征は、帝国軍の敗北で幕を閉じた。追撃は夜まで続けられ、敗残兵たちは死を恐れ、ろくな準備もせずに大森林へと飛び込んでいった。そんな彼らの行く先がどこへ続いているかは神のみぞ知るである。

 



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久々のレベルアップ

 人間、ひたすら同じことだけを繰り返していると、段々とどうでもいいことが気になってくる。最近気になっているのは、帝国軍の食事の傾向である。

 

 最初、鳳たちがゲリラを始めた頃、帝国軍が運んでいた食料には野菜や果物などが含まれており、バランスに気を配った食事が多かった。それが最近ではとにかく穀物が多くなっており、逆に日持ちのしない青野菜などはまるで見なくなって、そして酒量が増えていた。

 

 これはつまるところ、ゲリラ作戦が功を奏して、向こうの物資が不足していることの現れだろう。穀物が多いのはとにかく腹が膨れて保存がきくものが好まれ、酒量が多いのはストレスが溜まっているからだ。

 

 尤も、こうして後方が気を配って食料を厳選していても、結局は鳳たちに奪われてしまうからあまり意味は無かった。彼らはまだまだ少ない食料でイライラする日々を過ごすことになるだろう。そしてこれらの食料は鳳たちの胃に入ることになるのだから、どうせだったらバランス良い食事を心がけて欲しいものである。鳳はそんなことをぶつくさと呟きながら、酒のたっぷり入った(かめ)の蓋を開けた。

 

 鳳のゲリラ部隊では飲酒を禁じていた。最初の頃は作戦が成功するたびに祝杯を上げていたものだが、それが当たり前になってくると、酒は酔っ払いを作るだけで、あまり作戦にいい影響を与えなかった。男というのは無駄に酒の強さを競いたがるし、酔っ払いは自分が酔っていることを認めたがらない生き物である。二日酔いのまま襲撃をかけて、返り討ちにあったらたまったものではない。

 

 だから最近ではもう酒は重いだけだから取ってくるなと命じているのだが、それでもたまに誰かが持ち帰ってしまう。これを隠し貯蔵庫に置いておくと、こっそりと飲んでしまう者が出てくるから、こうして処分しているのである。

 

「おーい! 鳳! 前線で動きがあったみたいだ……って、酒くせえな。何をやってるんだよ?」

 

 鳳が瓶を開けていると、提示連絡のために木に上っていたギヨームが降りてきた。彼は鳳の姿を見て、自分で禁じておきながら、何故酒瓶なんか抱いているのかと問いただすと、

 

「ああ、また誰かが酒を持ってきてたみたいだから、こうして蓋を開けて酢に変えらんないかと思って、試してるんだよ」

「そんなことしなくても、その辺に流しちまえばいいじゃねえか」

「いや、聞くところによると、モルヒネと無水酢酸を混ぜればヘロインが出来るらしくって……」

 

 ギヨームは黙って酒の瓶を蹴り倒した。

 

「わっ! 何をするっ!」

「何をするじゃねえ、この馬鹿! そんなことより、連絡の狼煙が上がったぞ。どうやら、勇者領の方でも戦闘が終わったらしい」

「あ、そう? 早かったね」

 

 鳳は割りとフラットに返事した。と言うのも、ちょっと前からやけに大森林を通る逃亡兵が増えていたので、そろそろなんじゃないかと思っていたのだ。それどころか、最近では補給部隊から鞍替えし、ゲリラに合流する兵士も増えていて、帝国軍の内情はそれとなく知っていた。

 

 彼らは口々に言っていた。アイザック12世に求心力はなく、間もなく帝国軍は瓦解するだろう。末端の一兵卒にまで口汚く罵られるようになっていた新ヘルメス卿ではもう、戦線を維持できそうもなかったのだ。

 

「とにもかくにも、これで俺たちもお役御免だ。おまえに作戦を聞いた時には、とても上手くいくとは思えなかったのに、やってみたらあっけないもんだったな。まさか、こんなに簡単に帝国軍を麻痺させることが出来るなんて」

「森の中では、圧倒的に待ち伏せする側が有利だからな。帝国は、こんな狭い道一本で、兵站を維持しなきゃならなかった時点で詰んでたんだよ。出入り口さえ塞いでおけば平気だって思ったんだろうけどね。危険はいつも見えないところに転がってるものさ」

「相手は戦闘力に劣る補給部隊とは言え、1000対50だからな。単純に数字だけ聞けば、誰だって無謀だと思うだろうよ」

 

 確かに、鳳だってキューバ革命を知らなければそう思っていただろう。たった83名で海を渡った革命軍は、上陸したその日に20名足らずにまで数を減らした。そこから革命を成功させたのだから、一体どんな魔法を使ったんだ? と思いたくなる。ところが、それをやった本人が書いた本によれば、これこの通りだったのである。ひたすら忍耐と度胸を試されるだけで、難しいことは殆どない。鳳はそれを真似しただけだ。

 

 密林のような、どこから敵が攻撃を仕掛けてくるかわからない戦場では、数に頼る軍隊は寧ろ相手に発見されるだけ不利になる。そして敵がどのルートを通るかわかっていれば、奇襲をかけたい放題だ。そして、ゲリラが勝ち続けることによって、状況は変わってくる。圧政に苦しむ民衆たちだって、それを聞けば立ち上がろうという気になるだろう。そして一度でもこういう流れが出来れば、多数を力で押さえつけていた体制側は、考えている以上に脆いものだ。

 

 今回の場合に当てはめれば、帝国はひたすらヘイトをばら撒いた敵国のど真ん中で、ろくな補給もなく孤立していたわけである。そりゃ脱走兵も続きたくなるだろう。

 

「まあ、それでも、圧政に苦しむ民衆がいなければここまで上手く行かなかっただろうけどね。もしも帝国がアルマ国をもっと上手く統治出来ていれば、戦争はまだ長引いていたはずだ。そう考えると、俺たちは癇癪持ちのアイザック12世に感謝しなければならない」

「ははっ! 戦争を起こした張本人に感謝なんて、皮肉にもなんねえな」

「隊長!」

 

 鳳とギヨームが会話をしていると、別拠点にいるはずの義勇軍将校テリーがやってきた。彼はゲリラ作戦が始まってからずっとプロパガンダのための演説をしてくれ、敵から義勇軍に鞍替えたいという兵士が現れてからは、襲撃部隊から離れて後方で訓練教官をしていた。

 

 彼に育てられた新兵は、使い物になるようになったら前線に送られる。お陰で当初森に入った50名のゲリラ部隊は、気がつけば総勢200名を越える大所帯になりつつあったが、さっきも言った通り、森では大人数で行動する方が不利になるので、今では鳳の本隊以外にも複数の分隊が存在していた。

 

 脱走兵が後を絶たない今、これがどこまで増えてしまうんだろうかと、そろそろ作戦の見直しが必要だと思っていたところ、帝国の降伏が伝えられ、ほっとしたのが本音である。テリーは意気揚々と近づいてくると、

 

「隊長、聞きましたか? 勇者領の方で、ついにヴァルトシュタインさんがやってくれたようですよ!」

「ああ、たったいま、ギヨームに聞いたところだよ……あんた、それを伝えるために、わざわざ遠くから走ってきたの?」

「はい!」

 

 何の屈託もなく言い切っているが、彼が訓練教官をしている拠点は、現在鳳たちがいる場所からは相当離れていた。よっぽど嬉しかったのかも知れないが、どれだけ急いできたんだろうかと呆れていると、

 

「ところで、これからどうしますか? 現在の我々の規模なら、森を通る帝国の敗残兵を襲うことも出来ますが」

 

 なるほど、これが聞きたかったのか。状況が変わったからすぐに作戦を確認しようとするなんて、流石ヴァルトシュタインが送ってきた参謀だけあった。鳳は頷くと、

 

「普通に考えれば追撃するのがセオリーだろうけど、誰も俺たちにそこまで期待していないだろう。手負いの兵士は何をするかわかったもんじゃない。義勇軍の正当性も宣伝させてもらったことだし、出来るだけ交戦は避けて勇者領に戻ることを優先しよう」

「わかりました。早速、各分隊長に連絡して、撤収準備を始めます」

「ああ、それから、その隊長ってのはもうやめにしようぜ。勇者領に帰ったら、俺はお役御免だ。この部隊はこれからあんたが面倒を見てくれ」

「隊長は、義勇軍をやめてしまうんですか?」

「だからそれをやめろと言っているのに……」

 

 鳳は肩を竦めると、

 

「元々、俺はボヘミアから戦争を遠ざけるために協力しただけだよ。あの砦の背後にある村に、友達が眠っているんでね。静かに眠らせてやりたかったんだ。だから最初から義勇軍になんて参加してないんだよ」

「ですが、ヘルメス戦争の時に国境の街にもいましたよね?」

「そうだね。そう考えると凄い縁だけど、俺はヘルメス人でもないし、義勇軍にはそんなに思い入れはないんだよね」

「そうなんですか……残念です。隊長とヴァルトシュタインさんが組んだら、きっと凄い軍団が作れると思うんですけど」

「だから隊長は、もう君だっつってるのに……」

 

 テリーはまだ納得いかないと言った顔をしながらとぼとぼと帰っていった。

 

 間もなく、戦争が終わったことがみんなに伝わって、ゲリラたちが続々と集まってきた。全員が1箇所に集まるのはこの時が初めてだったが、最初は獣人だらけの小勢だったのが、よくもここまで成長したものだと感慨深いため息が漏れた。久々の森の生活で野生化しかけていた獣人たちを引き連れて勇者領へと凱旋する。

 

 鳳たちのいる場所から勇者領へは、普通であればまだ数日はかかるであろう距離があったが、道なき道を100キロ移動することもザラにあったゲリラにとっては、そんなのは造作もない距離であった。彼らは撤収を開始すると、引き揚げている帝国軍を避けつつも、あっという間に勇者領まで帰ってきてしまった。

 

 森から出てアルマ国に入ると、すぐに勇者軍本隊が王城を囲んでいるのが見えた。どうやらまだアルマ宮殿に残党が残っていて、最後の悪あがきをしているらしい。決戦に勝利したのに、まだ王城を落とせていなかったのかと思いもしたが、考えても見れば鳳たちが異常なだけで、数万の大軍の移動速度なんてこんなものだろう。

 

 ともあれ、もう勝ちは揺るぎないので、高みの見物を決め込もうと、部隊を近くの丘へと進めた。城壁にはもうアルマ国の旗が翻っており、どうやら城下町ではパルチザンが勝利を収めたようである。

 

 これでようやく終わったか……と感慨にふけっていた時、鳳はふと自分のステータスのことを思い出し、開いてみた。

 

----------------------------

鳳白

STR 10        DEX 11

AGI 10        VIT 10

INT 12        CHA 10

 

BONUS 1

 

LEVEL 7     EXP/NEXT 660/700

HP/MP 100/50  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

 

PARTY - EXP 500

鳳白           ↑LVUP

ジャンヌ         ↑LVUP

メアリー         ↑LVUP

ギヨーム         ↑LVUP

ルーシー         ↑LVUP

ガルガンチュア      ↑LVUP

----------------------------

 

「おー! 500も入ってるじゃんっ!!」

 

 連邦議会から依頼されたボヘミア行は、結構な高難度クエストだったから、きっと経験値が入ると思っていた。今回はそれに加えて大森林でのゲリラ作戦もこなしていたから、今までにないほどの共有経験値が入っていた。

 

 ついでに自分のレベルも上がった鳳が喜んでいるとメアリーがやってきて、

 

「どうしたの?」

「ああ、今ステータスを確認したら、久々に共有経験値が入ってたんだよ。今回は500もあるから、メアリーのレベルだって二回も上げることが出来るぞ」

「本当? でも経験値は公平に分けたほうが良いわ」

「ああ、次はいつ経験値が入るかわからないから、ここは慎重にいきたいところだけど……禁呪の夢も捨てがたい」

 

 メアリーは前回から、ジャンヌみたいにレベルアップに必要な経験値が上がっていた。恐らく一回のレベルアップに200消費するだろうから、二回が限界だ。

 

 ついでに、神人は人間と違ってレベルアップに必要な経験値量が多いから、現在レベル30の彼女はこれでも40に届くか微妙なところだろう。おまけに神人はステータスの増減もない。既に魔法使いとして完成している彼女は、普通に考えれば後回しにした方がいいだろう。

 

 だが、その10レベルの違いで、もしも彼女の職業レベルが上がったとしたら、もしかするとこの世界では失われて久しい上級古代呪文を覚える可能性があるのだ。その可能性にかけるのは非常に魅力的だった。

 

「次に覚えるのはレビテーションだったか。浮遊魔法があれば作戦の幅も広がるだろうし、あって絶対に損はないよな。それに、同レベルの禁呪にはタウンポータルがある。こっちはもしも覚えることが出来れば、とんでもなく便利な魔法だぞ」

「瞬間移動ね。でも、人間にそんなことが出来るのかしら……?」

「そうだなあ……でも、俺は一度ジャンヌを呼び出したことがあるんだよね」

 

 あの時はアイザックの部下である神人に殺されそうになっていて、無我夢中だったからどうやったかは覚えてないが……考えてみれば、MAGEではない鳳が使えたのだから、あれは古代呪文とは関係なくて、彼のステータスの方に関係があるのかも知れない。

 

 だったら寧ろ、自分のレベルを上げたほうがその可能性があるのではないか……思えば、ずっと後回しにしてしまっていたが、いよいよ自分のレベルも上げてみようかとパーティー欄を眺めていた時……彼はそこに違和感があることに気がついた。

 

「……あれ?」

「どうしたの?」

「……パーティーメンバーの一覧を見ていたら、なんかガルガンチュアさんの名前が入ってるんだけど」

「へえ……それじゃあガルガンチュアも仲間になったってことかしら?」

 

 普通に考えたらそうなるだろうが、それにしたっていきなり脈絡がなさすぎる。なんでこのタイミングで彼の名前がリストに上がるのか不思議に思っていたら、そんな二人を遠巻きに見ていたジャンヌも近寄ってきた。

 

「二人共どうしたの? なにかあったのかしら」

「実は共有経験値が入っていたから、今度はどう割り振ろうか? って話をしていたんだけど……」

「まあ、素敵。それじゃあ、今度こそ白ちゃんに経験値を振ると良いわ。あなたはどんな成長の仕方をするのか、興味深いわ」

「うん、まあ、それも悪くないけども……」

 

 鳳は軽く頷いてから、

 

「それはともかく、誰に入れようかパーティーリストを見ていたら、なんかガルガンチュアさんの名前が増えてたんだよ」

「え? なんでそんな唐突に?」

「だよなあ……まあ、彼が仲間になってくれるなら頼もしい限りだけど。ここに居ない人の名前が急に出てきても面食らっちゃうよな」

「そうね。彼に連絡を取れないかしら?」

「ガルガンチュアさんは大森林のど真ん中だぞ? ギルドに依頼を出しても返事が帰ってくるまで1ヶ月はかかるっての」

 

 こっちから出向いていくのは吝かではないが、あんなことがあって村を追い出された身である。行ったところで歓迎してもらえるとも思えないので、難しいところだ。

 

 鳳がそんな風に考えて諦めかけていると、ジャンヌはそんな彼とはまったく違ったことを考えていたらしく、

 

「あら、違うわよ。私はチャットが繋がらないかしらって思ったのよ」

「チャット? ……あーあーあー!」

 

 言われて唐突に思い出した。確かまだこの世界に飛ばされてきて間もない頃、ゲームの世界みたいだなと思って、試しにジャンヌとパーティーチャットで連絡を取ってみたことがあった。あれ以来、基本的にずっと一緒に行動しているからすっかり忘れてしまっていたが、もしかすると、またあの時みたいにガルガンチュアと連絡が取れるかも知れない。

 

「試すだけ試してみよう……シーキューシーキュー……」

 

 鳳はそうやって呼びかけてみたが……返事は中々返ってこなかった。何かやり方がまずかったのかなと、色々試してみたのだが、そもそも念話のコツなんてものが分かるわけもないので、どれも無駄に終わった。

 

 まあ、ガルガンチュアが村に居るとするならば、鳳との距離は1000キロ近くも離れている。流石に遠すぎるかなと諦めかけた時、

 

『……ザザ……ザザザー……』

 

 と、彼の耳の中で、何かノイズのような音が鳴った。その耳障りな音に、耳の中に何か異物でも入ったのかと思った彼が、小指を突っ込んでほじくり返していると、また、

 

『……ザザザー……ザザ……ザー……』

 

 と、ノイズが聞こえた。これはただの耳鳴りじゃないなと思った彼が、もう一度、

 

「シーキューシーキュー! ガルガンチュアさん、聞こえますか? ガルガンチュアさん?」

 

 今度は強い口調でガルガンチュアのことを呼び出してみると、やがて耳障りなノイズの中から、小さな声が聞こえてきた。

 

『……ザザ……ザザー……さん……お兄さん……助けて……村が……ザザ……ザーーーーーーー……』

「もしもし……? もしもーし! もしかしてマニかあ? 助けてって、一体どうした……もしもし……もしもーっし!!!」

 

 やがて鳳の耳に直接響いていたノイズは大きくなり、唐突にプツンと途切れてしまった。鳳は自分の頭をガンガン叩いたりして、再度呼び出してみたが、もう向こうから返事が返ってくることは無かった。

 

 鳳が深刻な顔をして唸っていると、横で聞いていたジャンヌが、

 

「どうしたの? 何があったのかしら?」

「わからない。繋がったかと思ったら、ガルガンチュアさんじゃなくて、マニが出てきてさ。なんか切羽詰まった感じで、助けてって……」

「助けてって……大変じゃない! すぐ助けにいかなきゃ」

「って言っても、どうやって行くんだよ。ここはアルマ国だぞ? 爺さんのヴィンチ村も、ガルガンチュアの村も、遠すぎて一日二日でたどり着けるような距離じゃない」

「そ、そうね……どうしたものかしら」

 

 そんな感じに鳳たちが困っていた時だった。丘に上ったゲリラ部隊を見つけて、勇者軍の本陣から数騎の騎馬が駆け寄ってくるのが見えた。友軍だから危険なことは無いはずだが、相手の方がこっちの正体に気づいていない可能性もある。そう思って少し警戒気味に騎馬の到着を待っていると……

 

「おーい! 鳳ツクモー! 待ちわびていたぞ!!」

 

 戦闘を進む黒い騎馬の上には見覚えのある姿があった。ヴァルトシュタインは、鳳たちのゲリラ部隊を見つけると、本陣から飛び出して迎えに来てくれたようである。隣には、スカーサハと、彼女の背中にしがみついているルーシーの姿も見える。

 

 鳳たちはその姿を見てホッとすると、警戒を解いて彼らのことを迎えた。

 



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アルマ国解放

 ゲリラ部隊を率いて補給線を叩き続けた鳳たちによって、ついに帝国軍は瓦解した。小さなほころびから総崩れとなった帝国軍には、もはや勇者軍の攻勢を食い止める力はなく、アルマ国境での決戦に敗れ、止めを刺される結果となった。

 

 鳳たちが大森林から引き揚げてくると、アルマ国では帝国残党と勇者軍が最後の攻防戦をしている真っ最中であった。高みの見物を決め込んだ鳳は、丘に登って攻防戦を見ながら自分のステータスを弄っていたところ、パーティーメンバーの中にガルガンチュアの名前を見つけた。

 

 唐突に現れた名前、そしてマニの助けを呼ぶ声を聞いた彼がどうしたものかと思案に暮れていると、そんな彼の姿を見つけた義勇軍の者たちが駆けつけてきた。

 

「おお、鳳よ! よくやってくれた! おまえたちはたった50人で3万人の帝国軍を撃退した英雄だ!」

 

 ヴァルトシュタインは丘の上に鳳の姿を見つけると、黒い愛馬から飛び降りるように下馬し、両手を広げて駆け寄ってきては、ガバっと鳳の体を抱きしめた。そんな熱烈な歓迎を受けるとは思わず、いきなり屈強な男にぎゅうぎゅうと締め付けられた彼はゲホゲホと咳き込みながら、

 

「ちょっ! 離れろ、おっさん。おっさんにそんなことされても嬉しくないわ」

「そう言うな、俺が嬉しいんだ。黙って歓迎されていろ」

「気持ち悪いっつってんだよ!」

 

 鳳は体を捻るようにしておっさんの抱擁から逃れると、ぜえぜえと荒い息を吐きながら膝に手をついた。歓迎してくれるのは有り難いが、もう少し他に方法は無いものか。思ったよりも熱い性格であったヴァルトシュタインのさらなる抱擁から逃れつつ、比較的落ち着いて見えるスカーサハに戦況を尋ねた。

 

「スカーサハさん、俺達はさっき森から出てきたばかりなんですよ。決戦には勝ったようだけど、その後の首尾はどうなんですか。まだ残党が残ってるようだけど」

「ええ、補給を絶たれた帝国軍は士気崩壊をおこして、もう本体同士がぶつかりあえるほどの力を残していなかったわ。二日前、アルマ国境での会戦で我々が勝利して、今回の戦争は終結したと考えていいでしょう」

「じゃあ、あの王城でやってるドンパチは?」

「今は王城に残っていた敗残兵を、アルマ国のパルチザンが突入し、追い詰めているところなのです。勇者軍の将兵の中には、さっさと王城を落とせばいいという意見も多いのですが、我々は今後のアルマ国のことを考えて、止めの一撃を国民に譲ったのです。もしこのまま我々が城に突入したら、アルマ国は独立のチャンスを失います。それでは進駐軍が帝国から勇者軍に変わるだけじゃないですか」

「ああ、なるほど、何を手こずってるのかと思えば、そういうことか……」

 

 人間も暮らしも中世に毛が生えた程度の世界なのに、こういった感覚はやけに近代的なのは放浪者がいるせいだろうか。鳳が得心して頷いていると、ヴァルトシュタインが代わって、

 

「俺たち義勇軍は、アルマ国王の呼びかけによって決起した。なのに、そのアルマ国が無くなってしまっては意味がないだろう。それで他の国の連中に手出し無用と牽制したんだ。彼らは最初は渋ったが、結局、敵に大打撃を与えたのはすべておまえのお陰なんだから、そう言ってやったら黙るしかなかったようだぜ」

「俺は後方で敵を撹乱してただけだよ。やり方さえ分かれば誰にでも出来る」

「謙遜するな。その方法を誰も思いつかなかった時点で、おまえの手柄だ」

「だとしても……帝国がボヘミア砦に釘付けになっていなければ、この作戦は不可能だった。帝国がもし自由に領内を動けていたら、彼らは好きな時に物資を調達することが出来て、糧道を断つ意味はなかったかも知れない。そもそも、あんたらが起たなければ、ニューアムステルダムはとっくに落ちていたかも知れないのだし、だから、今回のことはあんたの手柄だよ。俺じゃない」

 

 鳳が面倒くさそうにそう言うと、ヴァルトシュタインは目を瞬かせながら、

 

「……欲のない男だな。普通、これだけの手柄を上げたらもっと大騒ぎするもんだぜ?」

「自分の手柄だと思ってないんだからしょうがないだろう。あんただって、俺がこんだけ譲ってやってんだから、自分の手柄だって喜べばいいじゃねえか」

「それじゃ俺のプライドが許さん。俺はこれでも軍人だからな。誰の力が一番か、わかっているつもりだ」

「俺は軍人どころか、この国の人間でも無いんだよ。よくわからないから、もうほっといてくれ」

 

 鳳とヴァルトシュタインがお互いに手柄を擦り付けあっていると、それを見ていたスカーサハが苦笑気味に呟いた。

 

「二人共、似た者同士なのですね……言ってることとやってることが、真逆のように見えて、殆ど同じだわ」

 

 多分、二人の耳に届いたら、声を揃えて否定しただろう。

 

**********************************

 

 アルマ王城はその日のうちに陥落した。夕日に照らされたアルマ国の国旗が王城に揚げられると、それを取り巻く城下町のあちこちから、怒号のような歓声が上がった。

 

 間もなくパルチザンのリーダーがやってきて、そこに布陣していた勇者軍への感謝を口にすると共に、軍の城下への立ち入りを歓迎した。それを受けて今度こそ完全勝利を確信した勇者軍の中から、自然と勝鬨の声が上がった。

 

 ともあれ、総勢3万に上る勇者軍が一斉に入ることは出来ないから、城下へは勇者軍の将兵が数名と、それから連邦議会から派遣された観戦武官が入った。その中には鳳パーティーも含まれており、彼はなんで自分までとブツブツ言いながらも、ヴァルトシュタインに引きずられるようにしてアルマ城下へと入っていった。

 

 帝国に進駐されていたとは言え、アルマ国の城下町は見たところ綺麗なままだった。それは戦闘を避けるためだったから当然かも知れないが、しかし対する王城の方は、最後の攻防戦を繰り広げた場所だけあって、戦火の爪痕が生々しく、見るも無残なものだった。美しかった白い壁は、あちこちに爆風を受けた跡や、血の痕がこびりついている。

 

 王城に入ってすぐの広間には、そこを占拠していた敗残兵たちが縛り付けられており、絶望して焦点の合わない瞳をしたまま呆然としている者や、負けを悟って自殺を図るも失敗したというような者たちが、お通夜の席のように項垂れていた。

 

 スカーサハは、手当をしなければ死んでしまう者は医務室へ運び、それ以外の者たちはどこかへ監禁するようにパルチザンに指示した。元近衛兵であったパルチザンのリーダーは、それなら地下牢があるからそこへ入れようと言い、兵士たちを地下牢へと連行していった。

 

 そして彼らは、そこにアルマ国王が繋がれているのを発見したのだった。

 

「陛下っ! ああ、なんとおいたわしや……」

 

 牢屋の中にアルマ国王が繋がれているのを見つけたパルチザンのリーダーは、引き連れていた帝国兵を突き飛ばすと、慌てて牢屋の鍵を開けて、中にいたアルマ国王に駆け寄った。

 

 いつからここに閉じ込められていたのだろうか? ボロボロの衣服を身にまとい、憔悴しきった顔をした国王は、解放されるとフラフラと力なくその場に倒れこみ、それを慌ててリーダーが抱き上げるのであった。

 

 貧血でも起こしたのか、国王は呆然とした表情でリーダーの顔を見上げ、

 

「おお……おまえは近衛の……そうか。私は助かったのか」

「はい、陛下! ここにいる勇者軍の皆様のお陰です」

 

 リーダーがそう言って、彼らのことを取り巻くように見ていた鳳たちを紹介すると、それまで呆然としていた国王の瞳に光が戻り、彼は自分を取り巻く人々をぐるりと見渡すと、突然、力なくぐったりと項垂れ、

 

「では、あなた方が帝国軍を追い払ってくれたのか……すまなかった」

 

 国王はそう言うと、とても一国の王がすることとは思えないくらい、深々と頭を下げた。慌ててリーダーが彼を抱き起こそうとするが、国王はそんなリーダーを突き飛ばすように制すると、そのままの姿勢で謝罪の言葉を口にした。

 

「私は帝国軍を招き入れた張本人だ。そのことはどんなに謝罪しても許されることではないだろう。だが、あの時、国民を守るためには、私にはこうするより方法が無かったのだ。帝国は、あなた方のお陰で、どうやら撃退することが出来たらしい。だが、そもそも私が彼らを招き入れるようなことがなければ、こんなことにはならなかったはずなのだ。だから私は裁かれても仕方がないと思っている。だが……私はどうなってもいい、だが、国民のことだけは……どうか助けて欲しいのだ。それが私からの最後のお願いだ」

 

 どうかこの通り……そう言って国王は深々と頭を下げた。

 

 ここに集まっているのはカーラ国の将兵を含めて、誰もが庶民の出身だった。だから小国とは言え、王族と呼ばれる者がこんな殊勝な態度で庶民に向かって頭を下げるとは思っていなかった。

 

 この姿には、アルマ国を糾弾しようとしていた連邦議会の者たちも流石に言葉を失った。帝国の侵攻を受けたのは、果たして彼だけの責任と考えていいのだろうか……彼らがそうして迷っていると、そんな彼らを押しのけるようにして、ヴァルトシュタインが歩み出た。

 

「王様、お久しぶりです。どうか頭を上げてくれ、俺はやっとあなたに会いに戻ってこれたというのに、そんな顔をされては困ってしまいます」

「君は……おお! ヴァルトシュタインか……帝国から、ボヘミアで苦戦を強いられていると聞いていたが、そうか……君が……」

「はい。あの日、この国を出ていく時に宣言した通り、俺はアルマ王の兵としてここに戻ってきたんです。俺に従ってくれた難民のみんなも、あの時に受けたあなたの恩を忘れていません。俺たちが、この国から帝国を追い出したのは当たり前のことなんです。だから助けてもらったなんて言わないで、どうか頭を上げてください」

「しかし……」

「ヴァルトシュタインの言うとおりだ」

 

 ヴァルトシュタインに支えられ、アルマ国王が逡巡していると、思わぬ方から同調する声が聞こえてきた。なんとこれまで威勢のいいことばかり言い続けていたカーラ国の将兵が、連邦議会の観戦武官たちにじろりとにらみを効かせながら言い放った。

 

「連邦議会はアルマ国が帝国を招き入れたというが、寧ろあの時、帝国に逆らう気概がなくて、侵入を許そうとしていたのはリベラルの連中ではないか。我が国とアルマ国は、最後まで帝国の侵入を阻止しようと努力していた。忘れたとは言わせないぞ」

 

 議会から遣わされた観戦武官たちは渋い表情を作った。実はカーラ国の言っているリベラル色の強い国々からは、この場には誰ひとりとして派遣されていなかったのだ。彼らは実際に戦争が起こってしまうまで、ずっと親帝国を叫んでいたため、この期に及んで勝ち馬に乗るわけにもいかないから、ほっかむりを決め込んだようだった。

 

 すると、この場の空気も読まずにアルマ国王を糾弾しようなどと言う者は誰もいなかった。観戦武官たちはお互いに顔を見合わせると、

 

「我々もそう思う……だが、我々はただの派遣武官だ。ここで結論を出すことは出来ない。アルマ国王には今後、連邦議会に赴いてもらって、当時の状況を説明してもらうしか無いだろう。その結果がどうなるかは……そもそも、勲功第一の義勇軍がアルマ王の軍隊であるならば、誰も何も言えないだろう。彼らがいなければ勇者領がどうなっていたことか、連邦議会もそれは重々承知している」

「それでは……?」

「少なくとも我々は国王を罪人のように扱うつもりはない。お疲れの陛下を早く安全なところに連れて行って、休ませて差し上げましょう」

 

 地下牢に集まっていた者たちからほっと安堵の溜め息が漏れた。

 

 パルチザンのリーダーは国王を支えていたヴァルトシュタインに感謝を述べると、疲れてフラフラになっていたアルマ王を連れて、急ぎ足で階段を上っていった。

 

 王城はさっきまで攻防戦を繰り広げていたわけだが、彼が安心して休める場所はあるのだろうか……ともあれ、これでようやく何もかも終わった。あとは帝国の敗残兵を牢屋に入れれば一件落着と、誰もが思っていた時、

 

「……感動の再会は終わったか? 満足したなら、そろそろ俺のことも出してくれないか」

 

 弛緩した空気の中に、どこか軽薄な響きを持った、捻くれた声が聞こえてきた。

 

 アルマ国王を解放した勇者軍の面々は、まだ他に捕まっている者がいるとは思わず、驚いて声のする方へ目を向けると……国王と同じような鋼鉄の扉に塞がれた独房の中で、一人の痩せこけた男が足を投げ出すようにして座っていた。

 

 かなり長い間閉じ込められていたのか、その衣服は国王に輪をかけてボロボロで、近寄ってもいないのに臭ってくるような気がした。髪の毛は明るい金色をしていたのだろうが、長く洗髪していないせいで、ガチガチに固まっていておかしな色になっていた。目は落ちくぼみギョロギョロとして、胸元に覗いている鎖骨が気味が悪いほど浮き出ていて、まるでその中に別の生き物を飼っているかのようだった。

 

 鳳はそんな薄気味の悪い男を見て、嫌悪感を覚えると同時に、どこかで会ったことがあるような既視感を覚えた。どこで見たんだろうかと首を傾げながら、一生懸命記憶をたどっていると、彼は城の地下牢という場所から、かつて自分が召喚されたヴェルサイユの地下牢を思い出し、

 

「お前は……アイザック! アイザック11世か!?」

 

 鳳の叫び声に、その場にいた将兵たちが一斉に彼へ注目する。しかし、ここに居るのはほとんどが勇者領の人間で、彼がアイザック11世であることを確認出来るものはいなかった。

 

 本当にこんな今にも死にそうな病人みたいな男が、あの栄華を誇ったヴェルサイユ宮殿のヘルメス卿アイザックなのかと、誰もが困惑していると……

 

「11世など呼ばれるのは性に合わん。まるで死人みたいではないか。そう言うお前は……もしかして、鳳白か!? そっちは……ジャンヌ・ダルク! そうか……あの時、俺の城から出ていったお前らに、まさかこんなところで助けられるとは……運命とは皮肉なもんだな」

 

 鳳はまるで他人事みたいにほざくアイザックにイライラしながら、

 

「誰が助けに来たって? 俺はお前がここに捕まっているなんてことすら知らなかったよ!」

「なんだ、嫌われたものだな……」

「当たり前だろう! 誰のせいで、俺はこんな未開の世界で苦労してると思ってんだ! 一緒に呼び出された仲間は殺され、俺もジャンヌも、未だに勇者なんて呼ばれて、帝国軍に追われているんだぞ? 全部おまえのせいじゃないかっ!」

「ふんっ」

 

 アイザックは面倒くさそうに鼻を鳴らすと、

 

「呼び出された日、おまえも他の連中と一緒に、女が抱けるって喜んでいたではないか。勇者と呼ばれて、冒険が出来るとわくわくしていたじゃないか。あてが外れたからって八つ当たりしないでもらいたい」

「あの時はまだ実感も沸かねえし、夢みたいなもんだと思ってたんだよ! 大体、帰れないっつってるのに八つ当たりも糞もあるか」

「どっちにしろ、逃げ出したおまえに、今更何を言われる筋合いもない。死んでいった勇者たちならともかく」

「ああ、そうかい。なら、尚更俺はおまえを助ける義理がねえよな」

 

 鳳がギリギリと奥歯を噛み締めて睨んでいると、二人のやりとりを見ていたヴァルトシュタインが近寄ってきて、

 

「おい、こいつがヘルメス卿アイザック11世というのは本当か?」

「ああ、間違いない。このふてぶてしい態度が証拠だ」

「……それが証拠になるかは分からんが、勇者と呼ばれるおまえらが言うなら本当なんだろう。どうする?」

「どうするって……?」

 

 どういう意味だろうと、鳳は首を傾げたが、それは彼に対して投げかけられた言葉ではなく、その背後にいたスカーサハや勇者領の面々へ問いかけたものだった。

 

 彼らは一様に眉をひそめて渋面を作っている。何故、そんな顔をしているのだろうか。彼らにも、アイザックを積極的に助けたくない理由があるのだろうかと首を捻っていると、ヴァルトシュタインが淡々と説明してくれた。

 

「俺たちはこの間の決戦で、帝国軍の大将だったヘルメス卿アイザック12世を捕らえた。今後、勇者領は彼を戦争犯罪人として裁き、帝国に賠償を求める方針だった。だが、ここにアイザック11世が出てきてしまうと話が変わる。12世は元々、帝国に反旗を翻した11世を捜索するという名目で勇者領に軍を派遣した。その11世を助けて、12世を拘束したとなると、俺たちは帝国に侵攻を受けたのではなく、単にヘルメス領の継承戦争に巻き込まれただけの格好になってしまう。少なくとも、帝国はそう言ってしらばっくれるだろう」

「つまり……こいつは帝国が残した毒まんじゅうってことか?」

「あの癇癪持ちの12世が、本当に11世を見つけるだけで、大人しく監禁しているとは思わなかった。てっきり殺されたものだとばかり思っていたが……」

 

 ヴァルトシュタインが吐き捨てるように言うと、それを聞いていたアイザックは薄笑いを浮かべながら、

 

「残念だったな。おまえたちが捕らえた叔父は、ただの帝国の傀儡だ。彼は帝国軍に利用されただけなんだよ」

「そのようだな、向こうにも切れ者が居ることは承知している……だが」

 

 ヴァルトシュタインは腰に佩いた剣に手をかけると、

 

「最初から、ここにおまえが居なかったことにだって出来るんだぜ?」

 

 スラリと引き抜いた刀身が光を受けてキラッと光った。アイザックは牢屋越しにその切っ先を突きつけられて、ヴァルトシュタインを三白眼で見上げるように睨みつけた。

 

「……貴様がヴァルトシュタインか。おまえは俺にとっての死神か。よもや、帝国の犬であった貴様に、今度は勇者軍の一人として剣を突きつけられるとはな……心底憎たらしい男だ。来世で会ったら、親族ともども根絶やしにしてやる」

「ふん……どうせその前に、地獄で会えるぜ」

 

 二人の呼吸音がやけに大きく響いている。彼らを取り巻く人々は、止めなくてはいけないと思っていたのだが、誰一人として動けなかった。と、その時、

 

「待ってください! ヴァルトシュタインさん!」

 

 そんな空気が蔓延する中、堪らず一人の男が飛び出してきた。鳳と一緒にゲリラ部隊を率いていたテリーである。彼は突き飛ばすようにヴァルトシュタインを牢屋から引き剥がすと、彼とアイザックの間に立ちふさがり、

 

「義勇軍の多くはヘルメスからの難民です。私も彼らも、元はと言えばアイザック様の臣民なのです。事情があるのはわかりますが、お願いします! どうかアイザック様の命だけは、助けてくれないでしょうか!」

 

 ヴァルトシュタインとしては、単に脅しのつもりで剣を突きつけているだけだったのだろう。突然、頼りにしている仲間に詰め寄られて驚いているようだった。

 

 そして、思わぬところから、自分に対する忠誠心を見せられて、牢屋のアイザックも何か感じるところがあったのだろう……彼はさっきまでのどこか挑むような表情をやめて、険が取れた、穏やかでありながら今にもホロリと来てしまいそうな、なんとも言えない表情で、

 

「……君はヘルメスの民なのか」

「はい、アイザック様。12世、ロバート様も大事な方ですが、やはり私たちにとってヘルメス卿と言えばあなたなのです。助けることが出来て、本当に……本当に良かった」

「そうか……」

 

 アイザックはその言葉を聞くや否や、まるで張り詰めていた糸が切れたかのように、がっくりと肩を落とし、牢屋の壁にズルズルと背中を預けて、

 

「……俺を帝国に売ったアルマ王には正直腹を据えかねていた。だが、今にして思う。彼は立派だ。的確な時期に、的確に俺というコインをベットして、確実に自国民を守ったのだ。それに比べて、俺は君たちを守ることが出来なかった。許してくれ」

「アイザック様……」

 

 そんな牢屋越しの主従の関係を見せつけられて、すっかり悪役になってしまったヴァルトシュタインはチッと舌打ちをすると、抜いていた剣を鞘へと戻した。

 

 それで緊迫した空気が和らいで、また時間が動き出した。帝国の敗残兵たちが次々と牢屋に入れられ、アイザックを救出するために、看守が急いで牢屋の鍵束を持ってきた。スカーサハはそんな忙しない人混みの中から、ヴァルトシュタインに近づいてくると、

 

「ヴァルト、みんなを脅かしすぎですよ。あまり感心しませんね」

「わかってらあ、ただ、言ってみたかっただけだ。で、実際、これからどうするんだよ?」

「それは私たちが決めることではないですね。ただ、あなたの言う通り、11世の処遇次第で戦争の行方が変わってしまうのは確かです。連邦議会の決定があるまで、彼の生存は秘匿しておいた方がいいでしょう」

「じゃあ、まだ暫くは軟禁生活か。良かったな、11世。命だけは助かって」

 

 ヴァルトシュタインが皮肉っぽく言うと、牢屋から救出されていたアイザックは、彼を支える手を押しのけてフラフラと近づいてきて、

 

「待ってくれ! あなたはスカーサハだったな……?」

 

 ヴァルトシュタインが行く手を阻むも、彼は眼中にないと言った感じに、その肩越しに話しかけてきた。何の用かとスカーサハが応じる。

 

「ええ、そうですよ、殿下。あなたとは、あなたがまだ物心付く前に一度会ったきりですね」

「そうか……あなたとも会ったことがあったのか……神人とはなんとも不思議な生き物だな」

 

 彼は感慨深げにそう呟くも、すぐにブルブルと頭を振って、

 

「いや、懐かしがっている場合ではない。それより、俺を軟禁されては困る。まだやらなければならないことがあるんだ」

「やらねばならない……? てめえの意見なんて聞いてもらえる立場だと思ってるのか」

 

 ヴァルトシュタインがそう突っ込むも、アイザックは苛立たしそうにその言葉を無視して続けた。

 

「聞く聞かないの判断は、勝手にそっちでやってくれ。だが、事情くらいは聞いてくれてもいいだろう?」

「……話にならないな」

 

 アイザックの突然の懇願を、ヴァルトシュタインは有無を言わさず却下した。どちらにしろ、さっきも言った通り、それを決める権限は彼らにはないのだ。もう何日かしたら連邦議会のおえらいさんが来るだろうから、その時にでも頼んでみろと言って、彼らはアイザックをまた拘束しようとした。

 

 しかし彼らがそんなやりとりを交わしていると、連れて行かれそうになっているアイザックの前に小さな陰が躍り出て、

 

「待って。話くらいは聞いてあげて。それくらいはいいでしょう?」

 

 金髪紫眼の神人メアリーが、彼を庇うように立ちふさがった。

 

「みんなは彼を責めるけど、彼はそんなに悪い人じゃないわ。私はアイザックが赤ちゃんの頃から知ってるの。大きくなって偉くなってからも、頻繁に会いに来てくれた。城に閉じ込められていた私にとって、彼は弟みたいな存在だったし、数少ない友達でもあったわ。だからお願い、話だけでも聞いてあげて」

「メアリー……そうか、あなたもここに来ていたのか」

 

 アイザックは感極まって項垂れている。鳳はそんな二人を見て、渋い顔をするヴァルトシュタインとスカーサハに向かって言った。

 

「まあ、話くらいは聞いてやってもいいんじゃないですか。と言うか、こいつも言ってる通り、聞いてみなけりゃ判断のしようもない。他愛のないことなら無視すりゃいいだけだし、重要なことなら取り返しがつかないかも知れない」

「……仕方ないな。話してみろ」

 

 鳳とメアリーに諭され、ようやくといった感じでヴァルトシュタインが折れた。アイザックはそんな彼に感謝すると、改めて自分のやらなければならないということを話し始めた。

 

「さっき、君も言っていた通り、今回の勇者領侵攻は叔父の独断専行ではない。彼はその功名心を擽られて、うまく唆されただけなんだ。彼を利用して、今回の作戦を立てたやつは別にいる」

「だろうな……」

 

 ヴァルトシュタインは、それはきっと自分の後任であるオルフェウス卿カリギュラだと思っていたが……ところがアイザックの口から出てきたのは、それとは別の名前だった。

 

「俺はそいつを見たことがある……というか、俺をここに監禁したのはそいつなんだ。叔父は権力掌握のため、本当は俺を殺したがっていたのだが、結局最後まで彼を恐れて手出しが出来なかった。いや、彼と言うか、彼に奪われた、俺の部下たちを恐れてなんだが……」

「……話が回りくどい。そいつは一体何者だ?」

「それはピサロという男だ。帝国軍での階級はそれほど高くないが、オルフェウス卿に買われて暗躍しているようだ。俺は詳しく知らないが、どうも異世界から来た放浪者(バガボンド)であるらしいのだが」

「ピサロだって……!?」

 

 その名前には、ヴァルトシュタインでも、スカーサハでも、メアリーでもなく、鳳が真っ先に反応した。素っ頓狂な声を上げた彼へと視線が集まる。

 

「ピサロってのは……フランシスコ・ピサロのことか?」

「ああ、確かそんな名前だったような……知っているのか?」

「知ってるも何も……超有名人だよ」

 

 カスティーリャ王国生まれのフランシスコ・ピサロは、若い頃に行った新大陸探検の経験を買われて、統一王国スペインからペルーの支配権を得る。スペイン王カルロス1世のお墨付きを貰った彼は、そこにあった10万人のインカ帝国を、わずか180人の手勢で滅ぼすと、これがその後長きに渡る、南米のスペイン支配の礎となり、彼は英雄として後世に語り継がれることになった。

 

 ところが、その風向きが変わったのは1992年。コロンブスの新大陸発見から500年が経過し、それを記念する式典が、アメリカを始めとする先進国で行われている時だった。先進国がお祭り騒ぎで浮かれていると、南米諸国では続々とそれを批判するデモが起き始めた。

 

 彼ら南米人は、かつてそこにあったスペイン・ポルトガルに滅ぼされ文明の末裔であり、彼らからすれば新大陸を発見したコロンブスは史上最悪の征服者であった。そんな連中を偉人として称える先進国の気が知れないというわけである。

 

 折しも冷戦終結の直後であり、世界には帝国主義への反省論が渦巻いていた。西欧諸国はこの時になって、はじめて自分たちが南米人に恨まれていることを知り、お祭り騒ぎは一転して自粛ムードへと変わっていった。

 

 そうして調べ始めてみれば、大航海時代の偉人と呼ばれる者たちによる、南米での傍若無人な振る舞いの証拠が、あちこちで見つかりはじめた。コロンブスは新大陸発見を夢見る冒険家ではなく、原住民を人間扱いせずに、いきなり虐殺した極悪人となった。他の提督や将軍たちも似たようなものだった。

 

 ピサロもまた、そんな一人だった。それまでスペイン通貨にその肖像が使われていたほどの英雄が、ほぼ一夜にして、偉大なインカ文明を滅ぼした破壊者へと評価が一変したのである。

 

「ある時期からものすごく評判の変わった人だけど、それでもたった180人で10万人の王国を滅ぼしたという事実は変わらない。西洋でも指折りの謀将であることは間違いないだろう」

「謀将……つまり、今回の戦争は、こいつの思惑通りだったというのか?」

「可能性としては」

「だが、何のためにこんなことをしたんだ? 帝国はやらなくていい戦争をやった挙げ句に、こうして敗北してるんだぞ?」

「恐らくは、俺からヘルメスを完全に奪うためだろう」

 

 ヴァルトシュタインの疑問にアイザックが答える。

 

「奪うも何も、おまえはもうヘルメス卿ではなく、帝国はとっくにヘルメス領を支配しているじゃないか?」

 

 しかし、アイザックは頭を振って、

 

「いや、形の上で征服したところで意味はないのだ。俺たち五大国にはそれぞれの国の守護精霊の名前がつけられている。それはその国が、その精霊に加護されていることを意味している」

「そうだな……で?」

「俺の祖先、初代ヘルメス卿は、精霊(ヘルメス)からその加護を受けた一人だ。そんな彼はいつか今回のようなことが起こると考えたのだろうか、300年前の勇者戦争の最中に、自分の墓を作ってそこに遺産を隠した。自分の正統な後継者にしか開けられないように細工を施して。俺はそれを見つけ出し、また帝国と戦う切り札にしようと考えていたのだが……」

「ピサロに先手を打たれたのか。もし、彼がその遺産を手に入れれば、ヘルメス卿の地位も危うくなると……」

「ああ、そうだ」

「だが、おまえが言うことが確かなら、その遺産を手に入れることが出来るのは、子孫であるおまえだけなんじゃないのか? 12世にも権利があるだろうが、こっちも俺たちが捕まえている」

「それが駄目なんだ」

 

 アイザックは苦々しく奥歯を噛み締めながら、

 

「初代は遺産を奪われないように、子孫である俺たちにもその場所を隠した。そのヒントとしてヘルメス書という本を遺していたのだが……そのヘルメス書をピサロに奪われてしまったんだ。初代は周到な人で、その内容は見ただけでは理解できない。だが、それを持つ者が墓を見つけた場合、何が起こるかはわからない」

「もしかすると、それが遺産を手に入れる鍵になっているかも知れないのか」

「おそらくは……もし血統がその鍵だったとしても、どこまでをその血統に含むかという問題もある。男子直系であるなら、たしかに俺と叔父しか残ってないが、傍系でいいなら、そんなのはいくらでもいる。認知されてないだけで、遊びで抱かれた女だって、この300年間で何人もいるだろう」

「言われてみればそうだな……血縁なんて、なんのセキュリティにもなってないわけか」

 

 横で黙って話を聞いていた鳳が、二人に口を挟むように言った。彼は腕組みをしながら、

 

「話を整理しよう。それじゃあ、ピサロはこの戦争でおまえと12世を排除し、なおかつ、ヘルメスの正統後継者となる遺産を手に入れようとしていたわけか。今のところ、そうなりつつある……恐ろしい話だが」

「やつは俺を捕まえる時、神人の部下が欲しいと言っていた。恐らくは、俺を人質に取ることで、俺の部下二人を言いなりにしているのだろう……」

「ここまで用意周到となると……王家の墓が見つかるのも時間の問題か。残念だったな、アイザック、おまえはもうヘルメス卿に返り咲くことは出来なさそうだ」

「他人事みたいに言うな。お前らだって、ここまでやられて悔しくはないのか!?」

 

 アイザックが叫ぶと、勇者軍の面々は難しい表情をしていた。確かに、今の話が本当なら、彼らは私心で戦争をさせられたことになる。そしてこれだけの被害を受けていながら、なんの保障も得られそうにないのだ。

 

「かと言って、肝心のヘルメス書とやらが奪われたんじゃ、もう追い駆けようもないだろう。あとやれることがあるとすれば、奴らが遺産を発見したところで奪い返すくらいだ」

 

 鳳がそう言うと、アイザックが首を振って、

 

「いや、手がかりはある。俺は王家の墓の謎を解くために、何度もヘルメス書を読んでいた。結局、その内容はさっぱりわからなかったが、その中に重要なシンボルがあることだけは突き止めた」

「シンボル……? どんな?」

 

 するとアイザックは、自分の足元の埃まみれの床に、なにやら奇妙な模様を描き、

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……これは、王家の墓の墓守を表すマークらしい。初代は大森林の中にある、とある部族に墓を守らせることにした。もしも彼らが生きているなら、きっと今でもこのマークを村のシンボルとして使っているだろう。それを探し出せれば、ピサロの先を越すことが出来るはずなんだが」

 

 鳳はそのシンボルマークを見て目を疑った。

 

「これが、墓守を表すマークだって……?」

「ああ……知っているのか?」

 

 知ってるも何もない、それはつい最近、勇者領に辿り着く前に立ち寄った峡谷にある迷宮で見たものだった。つまり、アイザックの言う墓守とはガルガンチュアの部族のことだったのだ。

 

 その考えに辿り着いた瞬間、彼はついさっき、丘の上でガルガンチュアに連絡を取ろうとしてパーティーチャットを試みたことを思い出した。あの時、ガルガンチュアは応答せず、代わりにマニの声が聞こえてきた。その声はどこか切羽詰まっており、助けて……という声も聞こえていたような。鳳は眉を顰め、下唇をかんだ。

 

「ああ、知ってるとも。俺はそのマークを見たことがある。そしてピサロは、どうやらその墓守のところに辿り着いたようだぜ……」

 

 何故そんなことが分かるのだ? という声を無視して、鳳はどうすれば千キロも離れているところにいる彼らを助けることが出来るかと、必死になって考え始めた。チャットはもう繋がらない……あと、試せることがあるならば……

 

 彼は自分のステータスに見える、ガルガンチュアの文字をじっと見つめた。

 



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醜いものだ

 ハアハアと乱れる吐息が森林にこだましていた。ガサガサと森の木々が揺れて、陰が迫ってくる。ガルガンチュアのライバル族長の狼人は、大森林の鬱蒼と茂る木々の間を縫うように駆けていた。この大森林の中で、自分をこんなにも簡単に追い詰められる者がいるなんて、彼にはとても信じられなかった。しかし彼を追う陰はまるでそれが容易いことであると言わんばかりに、森の木々を自由に飛び回る鳥のように一直線に向かってくる。

 

 どうすれば逃れることが出来るのか。考えても必死に走るということ以外に選択肢は思い浮かばなかった。今の今まで、自分のことを森で最強のハンターだと思っていた彼は、屈辱に震えると同時に、言いようのない恐怖を感じていた。自分が強いと思っている者ほど、そうでないと分かった時に、残されている手は少ないものだ。彼は抵抗する手段を失っていた。あとはただ逃げるのみだった。

 

 その時、ヒュッと風切り音が鳴って、彼の肩に激痛が走った。足がもつれてその場でゴロゴロと転がると、肩に突き刺さった矢から矢尻が抜けて、肩の筋肉をぐちゃぐちゃと引き裂いた。激痛に耐え、頭上を見上げれば、木の上で弓矢を番える神人の姿が見えた。その矢尻が自分をまっすぐ狙っていることに気づいた時には既に遅く、彼のアキレス腱に二本目の矢が突き刺さっていた。

 

「ぐ、ぐうぅぅーーーっ!!」

 

 奥歯を噛み締め痛みに耐えながら、彼はなおも何とか逃げ出そうと、残った片手と片足だけで、芋虫みたいに地面をかき分け進んだ。だが、必死に逃げても追いつかれるような相手に、そんなことまでして逃れようとしても滑稽なだけだった。間もなく、彼を追う別の足音が近づいてきて、地面に転がるライバル族長を見つけると、まるで壊れた玩具みたいにけたたましい笑い声を上げるのだった。

 

「ふふふ……ははははははは!! ざまあないな、族長よ! 最初の威勢はどこへいった!」

 

 追い掛けてきた男……レイヴンのリーダーであるパンタグリュエルは、力尽き這いつくばっているライバル族長の頭髪を掴むと、彼の体が仰け反るくらい乱暴に引っ張り上げた。堪らずライバル族長が悲鳴をあげるも、彼はその悲鳴が心地良いと言わんばかりに笑っているだけだった。

 

「助けて……助け……」

「あははははは!! 許しを請え! 泣いて詫びろ! このバカ獣人が! 村を奪われる屈辱が分かったか!!」

「助けて……ごめんなさい……俺が悪かったから……だから村だけは……村人だけは助けて……助けて……」

 

 ライバル族長は情けなく涙を流し、パンタグリュエルに許しを請うた。だが、そんな無様な獣人を見て、彼は同情を抱くどころか、寧ろ喜びに満ち溢れた弾んだ声で、

 

「駄目だー、許さんっ! おまえの部族の者たちは、みんな俺たちレイヴンに殺されるんだ! 当たり前だよなあ? 自業自得だよなあ? お前たちが俺たちにやったことを思えば、こうなっても仕方ないだろう?」

「うぅぅぅ~~……うううぅぅ~~~……こんなに頼んでいるのに……悪魔め! 呪われてしまえ!」

「誰が悪魔だ、この野郎」

 

 パンタグリュエルは突然真顔に戻ると、興が醒めたと言わんばかりにライバル族長の体を地面に叩きつけた。そして苦痛に呻く彼の頭に、手にした拳銃を突きつけ、

 

「俺たちの街を襲った時、お前は助けを求めるレイヴンたちを助けてやったのか。あの街を追い出されたら、俺たちレイヴンは大森林で生きていくことなんて出来なかったのに、お前は俺たちに、死ぬか奴隷になれと言ったようなもんだろうが。誰が悪魔だ……大森林は弱肉強食、強いものが弱いものを好きにして良いのなら、今度はお前たちが奪われる番なのだ。どうだ? 奪われる者の気持ちは……? 俺たちの気持ちが分かったか!」

「ぐ……ぐううぅぅぅ~~……」

「分かったならその気持ちを抱えたまま死ね!」

 

 パンッ! ……っと、乾いた銃声が轟いて、ライバル族長の頭から血しぶきが上がった。彼の額には黒ぐろとした穴が空き、そこから血が蛇口みたいに流れ出した。驚愕に見開かれた彼の瞳は、もう何も映すことは無かった。パンタグリュエルはその顔を見ると、また愉快そうに腹を抱えて笑った。

 

 その頃、ライバル族長の村では略奪が続いていた。

 

 銃を持ったレイヴンたちが、もう戦意を喪失している狼人たちを執拗に追い立てる。彼らは口々に、村を追い出された者の気持ちが分かったかと叫んでは、無抵抗の女子供まで容赦なく攻撃した。

 

 村の隅では1箇所に集められた男たちが拳銃を突きつけられながら、死ぬか屈服するかを選べと迫られている。迫っているのもまた獣人の男たちで、彼らも同じようにレイヴン達に襲撃され、屈服することを選んだ者たちだった。

 

 レイヴン達はまるで野に放たれた野獣の群れのように、村々を襲い、こうして巨大勢力になっていったのである。

 

「……醜いものだな」

 

 そんなレイヴンの傍若無人な振る舞いを遠巻きにしながら、一人の神人、ディオゲネスが不快そうに呟いた。彼はレイヴン達に先駆けて村を襲い、戦闘力の高い男たちを無力化するための、言わば特攻隊長みたいな役割をさせられていた。本当はこんな真似はしたくないのだが、彼にはそうせざるを得ない理由があった。

 

 彼は元ヘルメス卿アイザック11世の腹心中の腹心だったのだ。そのため、主君であるアイザックを人質に取られてしまっては、言いなりになるしかなかった。

 

 彼と同僚のペルメルは、ヘルメス戦争で敗れた後、アイザックとは別の潜伏先で反撃の機会を窺っていた。ところが、そんなある日、彼らの元へやってきたのは主君ではなく、その主君を捕らえた帝国兵だったのである。帝国兵、ピサロは彼らにアイザックを監禁していることを伝えると、

 

「ヘルメス卿が帝国に連れて行かれたら、すぐにでも処刑されるでしょう。しかし、もしあなた達が私に協力してくれるのであれば……まだ彼の首も、繋がったままでいられるかも知れませんね」

 

 そう言われてしまうと、彼らには従うしか他に選択肢は無かった。彼らの忠誠心は本物であったし、仮に帝国に復讐するにしても、その神輿を失ってしまえば何の意味もない。

 

 しかし、このような悪辣な方法で人を従わせる者に、信用が置けるわけがなかった。だから彼らは隙さえあらば、アイザック奪還に動き出すつもりであったが……おかしなことに、ピサロは帝国軍の中にいながら戦争には加担せず、大森林で獣人の集落を襲うという、一見して意味のないことを続けているだけで、今の所まったく隙を見せていなかったのだ。

 

 正直、彼らの祖国ヘルメスとは何の関係もないから、獣人を襲うこと自体には抵抗がないのであるが……ピサロという得体のしれない男が何を考えているのか分からず、彼らは当惑するばかりであった。

 

 そんなことを考えながら、ディオゲネスが略奪の様子を遠巻きに眺めていると、ガサガサと草木を掻き分けて、ペルメルがパンタグリュエルと一緒に帰ってきた。

 

 流石に、獣人の長というべきか、集落の中には一人だけ、彼ら神人ともやりあえるくらいの強者がいた。ペルメルはそんな族長を一人で相手して、なんとか勝利したようだ。パンタグリュエルの手には、その獣人の首がぶら下げられていて、どんよりと曇った目が、何もない中空を見つめていた。

 

 彼は村が見えてくると、上機嫌に駆け出して、

 

「ははははは!! おまえらの族長は、この俺が殺してやった!! おまえたちは負けたんだ!! 今後はこの俺、パンタグリュエルに従えっ!!」

 

 彼はまるで自分の手柄のように、哀れな族長の首を振り回しながら村の中を駆け回った。頼りにしていた族長が殺られてしまったことで、村人たちは完全に戦意を喪失したようだ。子供たちは一斉に泣き出して、女たちが必死に命乞いをしている。そして男たちの何人かは、諦めてレイヴンに従うことを決めたようだった。

 

 こうしてレイヴンはまた獣人たちを吸収し、その勢力を拡大するのだった。今では大森林の中でも異例の大所帯となっており、もしかするともう神人の手を借りなくても、負けることはないかも知れない。

 

 しかし、こんなことを続けていたら、森の勢力図が変わってしまうのは時間の問題である。それが自然の摂理だと言えばそれまでだが、ここ大森林では、獣人たちは自然だけを相手しているわけではなかったのだ。

 

「ウオオオオオオオォォォォォーーーーーーーーーッッ!!!!」

 

 レイヴンたちが略奪を続けている時だった。突然、村の奥の方から悲鳴が上がったかと思えば、続いて地鳴りのような唸り声が聞こえてきた。それまで、好き勝手に村の中で暴れまわっていたレイヴン達は静まり返り、その声の方へと振り返る。

 

「お……オークだ……オークが出たぞおーーっ!!」

 

 誰かの叫び声が轟くと、レイヴン達は一斉に悲鳴を上げ、まるで蜘蛛の子を散らしたように滅茶苦茶に逃げ出し始めた。あちこちで衝突が起こり、怒号が飛び交っている。そんな大騒ぎのど真ん中では、緑色の肌をした山のように大きな巨体が、信じられないくらい大きな棍棒を振り回している。オークは一体二体ではなく、群れと言っていい数だった。

 

「た、大変だ! 先生方! 助けてください!!」

 

 神人二人がそんな光景をぼんやりと眺めていると、さっきまで調子をこいて村の中を駆け回っていたパンタグリュエルが血相を変えて戻ってきた。彼はオークの方を指差すと、

 

「さあ、早く! 仲間がやられてしまう!!」

「……仲間とはなんだ?」

 

 ところが、神人たちは不快そうに顔を背けると、冷たくそう言い放った。パンタグリュエルは目をぱちくりさせながら、

 

「な、何を言ってるんだ? あんたらには、あれが見えないのか?」

「見えるが、それが何だ?」

「何だって……」

「俺たちはピサロに言われて、おまえらの獣人への復讐には手を貸してやると言った。だが、魔族など知らん」

「なっ……」

「無闇矢鱈に村を襲えば、こうなるのは目に見えていたではないか。俺たちはおまえらの尻拭いをするために居るわけじゃない。おまえらだけで勝手にやればいい」

「そんなのずるい! 詭弁だ! おまえらが言うことを聞かないんなら、ピサロに言いつけてやるぞ!!」

 

 パンタグリュエルは顔を真っ赤にして神人二人に迫った。彼らは口臭が臭いと言いたげに、不快な表情をしながら突き飛ばすと、

 

「……いつから狼人(ウェアウルフ)にはキツネが混じっていたんだ?」

「なに……?」

「虎の威を借る狐みたいだと言ってるんだ」

「なんだと、この野郎!!」

 

 その言葉に、パンタグリュエルに残っていた獣人の誇りが傷つけられたようだった。彼は烈火のごとく怒り出すと、顔を真っ赤にして神人たちに飛びかかっていった。しかし、彼らはそんなパンタグリュエルの攻撃を、あくびをしながら躱すと、

 

「ただでさえ、獣人など我らの相手ではないのだ。その上、おまえごとき低レベルな者が、我らに勝てると本気で思っているのか?」

「このっ! このっ!!」

「……駄目だこいつ、頭に血が上って、話を聞いてない」

 

 そんな風に神人二人が呆れながらパンタグリュエルをおちょくっている時だった。騒ぎを聞きつけたピサロが、彼らの元へと駆け寄ってきた。

 

「何の騒ぎですか? 騒々しい……」

 

 すると、その姿を見たパンタグリュエルの顔がパーッと輝いた。彼はまるでいじめられっ子が先生がやって来たのを見つけたかのように、神人二人を攻撃している手を止め、ピサロの元へと駆けつけると、

 

「ピサロ! 聞いてくれ! 村にオークが出たんだ! なのに、この神人どもは戦おうとしないのだ。このままじゃ全滅するかも知れないのに、これは裏切りだ! だからおまえが二人を叱ってくれ!」

「……そうなのですか? ペルメルさん。ディオゲネスさん?」

 

 ピサロが確認を求めると、二人は黙って顔をそむけた。答えは返ってこなかったが、その態度が答えのようだった。彼は、はぁ~……っと溜め息を吐くと、

 

「やりたくないのであれば、仕方ないですね。それじゃあ、我々はそろそろ撤収することにしますか。レイヴンの方たちには悪いですけど、足止めになってもらいましょう」

「なに!?」

 

 それを聞いたパンタグリュエルが、信じられないといった表情で、慌ててピサロの前に飛び出す。

 

「そんなことが許されるか! ピサロ、おまえは俺たちを見捨てるつもりか!?」

「見捨てるもなにも、あれくらい自分たちで片付けられなければ、あなた方と一緒にいる意味なんてありませんよ。我々はあなたの味方ですが、保護者じゃないんです。その辺は勘違いしないで欲しい」

「そんな! 今さらおまえたちがいなくなったら、俺たちはやってけない……」

「族長! 助けてください! 族長!!」

 

 その時、遠くの方からオークに襲われているレイヴンの助けを求める声が聞こえた。族長と呼ばれたパンタグリュエルがハッとして振り返る。彼はなんとしても助けなきゃと思った。彼にもまだ、族長としてのプライドが多少は残っていたのだ。

 

 パンタグリュエルはグルルルル……っと唸り声をあげ、憎しみのこもった目でピサロのことをじろりと睨みつけると、

 

「今まで散々俺たちを利用していたくせに、突然こんな意地悪をするなんて……ならば、そこで見ているがいい! でも覚えていろよ!? オークを片付けたら、次はおまえたちの番だからなっ!!」

 

 パンタグリュエルは悔しそうに叫ぶと、肩をすくめる三人に背を向けて村へと駆けていった。次はおまえたちというのは、ピサロたちを殺すということだろうか。彼はどうやら、仲間が増えたことで、自分が強くなったと勘違いしているようだ。

 

 確かにレイヴンはいつの間にか巨大な勢力になっていた。多くの村々を襲い、その勢力を吸収し、総勢数百名に上る獣人達は、どんな部族相手でもいい勝負になるだろう。だが、所詮は烏合の衆だ。元々、レイヴンたちには戦闘力は無くて、ピサロが供給する帝国製の武器が無ければ戦うことすら出来なかった。おまけに彼らを率いる族長は低レベルな獣人であり、そんな彼らに負けて従うような獣人たちもまた、低レベルだったのだ。

 

 パンタグリュエルは勢い込んでオークの群れに飛びかかっていった。そんな族長の姿を見て、レイヴンたちは一瞬だけ期待を込めた表情で彼の後に続いた。だが、それだけだった。

 

 彼らの希望であった族長は、オークに飛びかかっていったかと思うと、あっという間にねじ伏せられ、地面に叩きつけられた。その瞬間、この世のものとは思えない叫び声を上げて彼は命乞いをしたが、元々人語を理解できないのか、オークはそんな情けない族長の懇願など無視して、まるで餅つきでもするかのように交互に棍棒を彼の体に叩きつけた。

 

 バキッ! バキッ! っと、人間の体から出ているとは思えないような音が、村中に響き渡った。四肢はありえない方向へ捻じ曲がり、もはや人間の原型を止めていなかった。その棍棒が頭に叩きつけられると、パーンッ! っとおかしな音がして、まるでスイカ割りみたいに、真っ赤な鮮血が飛び散った。

 

「ウオオオオオオオォォォォォーーーーーーーーーッッ!!!!」

 

 オークたちはそれを見て勝鬨のような声をあげると、次なる獲物を探してぐるりと周囲を見渡した。

 

 その瞬間、希望が絶たれたレイヴンたちは絶望の表情を作ると、先ほどとは比べ物にならない悲鳴を上げて、我先にと逃げ出そうとしてはお互いにぶつかり合い、もつれ合って転げ回って、パニックはもはや収拾がつかなくなっていた。

 

 ピサロはそんなレイヴンたちの情けない姿を見て溜め息を吐くと、

 

「やれやれ……物の用にもたちませんね。仕方ない、ペルメルさん、ディオゲネスさん。彼らを助けてあげてくれませんか」

「……見捨てるのではなかったのか?」

「さっきはああ言いましたが、彼らにはまだ役に立ってもらわねば困ります。これに懲りたらレイヴンたちも、少しは大人しくなるでしょうから、どうかここは一つ私に免じて、気を静めては貰えませんか?」

「ふん……勘違いするな。我らは元々、彼らに悪感情をもっていたわけではない」

 

 神人二人はそう言うと、レイヴンたちを助けてやるために前に出た。ピサロにはそう言ったが、実際には少し気が晴れていた。二人はさっきまではテコでも動いてやるかと思っていたが、今は仕方ないくらいに思えるようになっていた。

 

 それにしても、オークごときにこれほど一方的にやられるとは、獣人とは言え末端の連中は人間と大差ないなと、彼らは溜め息を漏らした。オークは確かに強い魔族だが、頭の方は単純なので、落ち着いて対処すれば怖い敵ではない。例えば、距離を取ってチクチク遠距離攻撃をしかけるか、それこそ自分たちならクラウド魔法をかけてしまえば、それだけでもうあのでかい図体はただの肉の塊になる。

 

 神人二人はそのつもりで手を掲げ、呪文を詠唱しようとした……しかし、彼らはその時、ふと思うのであった。

 

 獣人でさえあの通りなのだ。偉そうにしているこの人間(ピサロ)はどうなんだ? 人質を取られて仕方なく従ってやっているが、今ここでこいつが死んでしまえば、自分たちは自由になれるのではないか……

 

 今、自分たちがオークを倒さず野放しにしたら、きっとピサロは成すすべもなく殺されるだろう。いや、いっそ自分たちの手で片付けてしまえばいいのでは? そうだ、どうして今までこいつを殺そうと思わなかったのだろう?

 

 彼らがそんなことを考え、振り返ろうとした時だった、

 

「私は臆病者ですから、定時連絡を欠かさないようにしているんですよ。帝国軍は私からの連絡がなくなれば、私が死んだと判断して、ヘルメス卿の首を落とすかも知れません。12世は権力掌握のために、どうしても甥に死んで欲しくて仕方ないから、歯止めが無くなったらすぐにでもそうするんじゃないでしょうか」

 

 背後から、まるで二人の考えを見透かしたような、ピサロの声が聞こえてきた。

 

「もし、ここで私がオークに殺されたら、帝国が私が死んだと判断するのと、あなた方がヘルメス卿を助け出すのと……果たしてどちらが先になるでしょうかね」

「……我らがオークごときに遅れを取ると思うか?」

「とんでもない! もちろん信頼していますとも」

「……ふん」

 

 彼らはその表情が見えないようピサロに背を向けたまま、歯ぎしりしながらオークの群れへと飛びかかっていった。ピサロはそんな二人の背中を、半笑いで見送った。

 

 人を意のままに操りたいなら、脅すばかりではなく、時には飴も必要だ。このところ、調子に乗っていたパンタグリュエルが死んだことで、彼らも少しはスカッとしたことだろう。しかし、リーダーを失ったことで、今後レイヴンはどうなるだろうか……? 彼らは依存心が高く、優柔不断で、一人で考えることが出来ない。それは操る側にとっては都合がいいが、だからといって、自分に頼られても面倒なだけだ。彼らにはリーダーが必要なのだ。

 

 神人二人のガス抜きのために、パンタグリュエルを殺してしまったが、次のリーダーは誰にしたらいいだろうか……?

 

 ピサロは周囲を見渡すと、建物の陰に入りオークから身を隠してガタガタ震えている一人の狼人に目をやった。

 

「あれはパンタグリュエルを説得していた、彼の部下……名前は確かハチと言ったか?」

 

 ヘルメス卿の遺産を得るため、大森林の部族を虱潰しに調べていた時、追い出されたレイヴンたちの中で、復讐をしようと叫んでいた男である。これから先も、レイヴンたちには、他の集落を襲って貰わなければならない。それなら、あのどうしようもない、怒りの化身みたいな男が最もふさわしいんじゃないか……

 

 ピサロはニヤリと笑うと、怯えて隠れているハチの元へと歩いていった。

 



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お父さんの馬鹿野郎っ!

 森ってこんなに暗かったんだな……と、マニは思った。

 

 マニが勇者領に留学してからおよそ3ヶ月が経過した。慣れない人間の中での生活にいっぱいいっぱいで、あっという間だったような、寧ろ永遠のように長く続いていたような、そんな不思議な日々だった。

 

 勇者領に来て暫くは鳳たちが面倒を見てくれて、マニはギヨームから文字を教わったり、河原では鍛冶を学んだり、スリングという新しい武器も手に入れた。オーク退治をしたお陰でレベルが沢山上がり、鳳たちが居なくなってからは、その縁で知り合った猫人たちが戦闘の仕方を教えてくれたり、夜には暇になったレオナルドが解剖学を教えてくれ、お陰で人体の構造にも詳しくなった。本当に充実した日々だった。

 

 そんな、毎日が新しいことの連続であった人間社会にも慣れてきて、鍛冶仕事も少しは任せてもらえるようになった頃、お世話になっていたキャラバンが近所の河原から移動することになった。

 

 今、彼らがお世話になっているトカゲ商人のゲッコーは、勇者領で手に入れた商品を満載にして、大森林を行ったり来たりする行商人だった。そんな彼は、マニのためにいつもより長く勇者領に滞在してくれていたのだが、そろそろ移動しないと商売にならなくなってきたらしい。

 

 勇者領で手に入れた商品は勇者領ではあまり売れないから、大森林やオルフェウス領に持っていって稼がなければならないのだ。

 

 ゲッコーにこれ以上迷惑をかけることは出来ないから、もちろんそれには反対するつもりはないのだが、問題は彼の師匠の野鍛冶が大森林へは行かないことだった。彼ら野鍛冶はゲッコーのキャラバンと一緒に行動していたが、元々はキャラバンの一員ではなく、彼らが勇者領に来たときに合流するだけの間柄だったのだ。

 

 そんなわけでゲッコーが大森林へ行くなら、野鍛冶たちも別のキャラバンに混ざって他の場所へ移動すると言い出した。彼らもまた、仕事を求めて移動し続けなければ生活が成り立たないのだ。そのため、マニは師匠について勇者領を回るか、ここでお別れして別のことをするかの選択をしなければならなくなったのだが……

 

 彼は悩んだ末に、野鍛冶とは別れることにした。師匠にはとてもお世話になったが、彼の目的は鍛冶屋になることではなく、あくまで自分の村を良くすることだったからだ。師匠に教わった鍛冶仕事で、村人たちが鉄の道具を使えるようになれば、村はもっと繁栄するだろう……マニがそんな夢を語ると、野鍛冶は特に後腐れもなく、頑張れよと言って次の場所へと去っていった。

 

 こうして鍛冶屋の修行を終えたマニは、ゲッコーのキャラバンに混じって、一緒に大森林へ帰ることにした。村を出てから結構な時間が経過していたので、一度里帰りするのも悪くないだろう。鳳から預かっている、長老のキノコを届けるという役目もあった。彼は荷物をまとめると、レオナルドにまた帰ってくると挨拶し、猫人たちと最後のゴブリン退治をしてから、大森林へと向かった。

 

 久しぶりに足を踏み入れた大森林はまるで別世界であった。今までよくこんなところで暮らしていたなと呆れるくらい道は険しく、太陽を遮る天井の木々は葉が鬱蒼と生い茂り、ほとんど光を通さなかった。まだ昼間だと言うのに、こんなに暗いのかと、マニは信じられない思いだった。

 

 それでも今回の留学で逞しく成長した彼には、来たときよりもずっと楽な道のりだった。行きは自分の荷物を持って、鳳たちの後を追いかけるので精一杯だったが、今回はキャラバンの荷物も持ったし、遅れている者を積極的に助けたりもした。

 

 それはもしかしてレベルが上ったからだろうか? 村にいる頃は誰もマニが戦闘が出来るなんて思わず、狩りに行くにも仲間に入れてくれなかったから、レベルが上がる機会も無かったのだが、今ではもう村の大人たちに肩を並べるくらいの力がついていた。得意のスリングを持って一緒に狩りに行ったら、きっとガルガンチュアは息子の成長にびっくりするぞと、彼はそんな夢想をして嬉しくなった。

 

 ところが……そんなマニが帰ってきたというのに、村はどこかどんよりとしていた。村人たちはみんな暗い顔で落ち着きがなく、いつもならキャラバンが到着したらお祭り騒ぎみたいに駆けつける子供たちも、誰一人として寄ってこない。おまけに村人たちは、キャラバンの中にマニの姿を見つけるとバツが悪そうな表情で去っていった。

 

 更によく見れば、村の外周部の空き家には、見慣れない獣人たちがちらほら住んでいて、中にはひどい怪我をしている者もいた。恐らく、どこか別の集落からやって来たのだろうが……一体みんなどうしたんだろう? と思いながら、村の広場で商品を並べているキャラバンから離れて、マニは自分の生家でもある族長の家へと帰った。

 

「おお、マニよ! よく帰った。少し大きくなったか? 見違えるようだな!」

 

 家に帰るとガルガンチュアはマニの顔を見るなりパーッと輝いた表情を見せたが、何故かすぐにトーンダウンすると、

 

「人間社会で何かあったのか? こんなに早く帰ってくるなんて……」

「いえ、何もないですよ。あっちではみんな良くしてくれました。長老に頼まれたキノコを渡したら、またすぐに戻るつもりですが」

「そうか」

「……それより、村で何かあったんですか? 久しぶりに帰ってきたというのに、みんな余所余所しくて。いつの間にか知らない人が住んでいたり、怪我人だらけなのも、あれはなんです?」

「う、うーん……」

 

 ガルガンチュアは出来ればしゃべりたくないのだろうか……少々歯切れが悪そうだったが、思ったよりもマニがまっすぐな視線で見つめてくるので、そのプレッシャーに押し切られたといった感じに、

 

「実は今、大森林ではオークの大繁殖が起きているのだ」

「……オークだって!?」

 

 マニが驚きの声をあげると、ガルガンチュアはオークのことを知っているのか? と少し興味深げな顔を見せてから、

 

「実は、前々から出没していたオアンネスの集団は、あれはオークの子を孕んだものだったのだ。全く知らなかったのだが、魔族はそんな繁殖の仕方もするらしい」

「オアンネスがオークを産んだのですか? ……そうか、なるほど」

 

 マニはその話を聞いて、すぐにヴィンチ村で襲われたオークの群れのことを思い出した。あの後、鳳たちが必死になってオークの侵入経路を探したのに、道理で見つからないわけである。オークは、別の魔族の腹の中に入ってやってきたのだ。これは早速、タイクーンに知らせなきゃとマニは思った。

 

「それじゃあ、あの怪我をした獣人たちは、オークにやられて逃げてきた集落の人達ですか。気の毒に……いや、オークにやられて、あの程度の怪我で済んだのなら、寧ろ幸運かも知れない」

 

 マニがそんなことを呟いていると、ガルガンチュアは渋い顔をしながら、

 

「違う、あれはオークにやられたわけじゃない」

「オークじゃないって……? それじゃあ、一体何にやられたんですか」

「それは……子供は知らなくっていい!」

 

 マニが追求すると、ガルガンチュアは自分が話を向けたくせに不機嫌そうに会話を断ち切ってしまった。以前なら不機嫌な父が怖くて、マニは黙ってしまっていたのだが、しかし人間世界で揉まれてきた彼はもう以前の彼ではなかった。

 

 彼は父も案外子供っぽいんだなと思いつつ、

 

「ガルガンチュア。僕ももう成人した村の男ですよ。何かあったのであれば、ちゃんと教えて下さい。村の役に立ちたいのです」

「なんだと!?」

「僕はそのために人間社会に行ったのです。少しは信用して欲しい」

「う、うーん……」

 

 ガルガンチュアはマニからそんな風に迫られて、なんだか気恥ずかしくなってきた。彼のことを子供扱いしていたが、誰だっていつまでも子供でいられるわけじゃない。勇者領に留学して帰ってきた彼を、ちゃんと一人前の男として扱ってあげなくてはならないだろう。

 

 しかし、マニに言いたくないのは、彼のことを子供扱いしているからではなかった。その理由をマニが許してくれるとは思えなかったからだ。だが、村を憂えている一人の若者を馬鹿にして遠ざけるのは、愚かな年寄りがやることだ。自分はそうはならないぞと思っていたのに、族長なんかになってしまってから、どんどん自分がそんな嫌な大人になっているのを、彼は実感していた。

 

 ガルガンチュアは長いこと唸り声を上げながらジロリとマニを睨んでいたが、透き通った目で父親を見つめる息子の視線が折れることは無いと悟ると、やがて溜め息を吐いてから、

 

「実は……あれはレイヴンにやられたのだ」

「レイヴンに……? 一体、どういうことですか?」

 

 ガルガンチュアは上目遣いでちらりとバツの悪そうな顔をしてから、マニの視線を避けるように顔を背けて、

 

「実は、おまえたちが村を出た後、オークに村を奪われたという獣人たちが次々とやってきたのだ。部族社会(ワラキア)は古の盟約に従って彼らを受け入れたが、あまりにも多くて単純に受け入れるだけの土地がなかった。そこでレイヴンを襲った」

「なんだって!?」

「レイヴンは部族社会に参加せず、好き勝手してるからいいだろうと言うことだった。だが、追い出されたレイヴン達は俺達のことを恨んだ。当たり前だ。それで奴らは復讐のために、この周辺の村々を襲い始めたのだ。普通なら、レイヴンなんて怖くないんだが……

 

 俺たちは、ただでさえオーク退治で必死なのに、レイヴン達は何故か強力な武器を装備していて、おまけに神人が味方をしているせいで歯が立たないんだ。そうしているうちに、オークがどんどん繁殖して、この周辺は魔族のテリトリーに塗り替えられてしまった……

 

 ここも、いつ襲われるかわからない。だから、おまえにはまだ帰ってきて欲しくなかったのだが……」

 

 マニは、自分が居なかったたった3ヶ月の間にとんでもないことが起きていて言葉を失った。オークの襲撃、レイヴンの復讐、だがそれ以上に聞き捨てならなかったのは、その追い出されたというレイヴンのことだった。

 

「……レイヴンの村を襲った? そのレイヴンの村って……」

 

 ガルガンチュアはいつものように唸り声をあげるだけで何も答えなかった。それだけでマニには、彼が何をしたのかが分かってしまった。

 

「そのレイヴンの村って、お母さんが住んでいるところじゃないの!? どうしてそんな……お母さんに酷いことをするんだ! 家族なら守ってあげなきゃいけないだろう!? 大体、あそこには伯父さんだって居るんじゃないの!? 自分の血を分けた兄弟を追い詰めるなんて、それが誇り高き狼人のすることなのか!!」

 

 その言葉にカチンときたガルガンチュアが大声で怒鳴った。

 

「おまえに何が分かると言うんだ! 他の獣人を守らなければ、俺たちだけではオークを止めることは出来ない。俺はこの村のためを……いや、この森全体のためを思って、仕方なくやったんだ! それなのに、そんな俺の苦しみも知らずに、子供がなめた口聞くんじゃない!!」

 

 しかし、今までならこれで黙っていたはずのマニは、父親の怒鳴り声にも全く怯むこと無く、キッと睨み返すと、

 

「何度も何度も子供子供と、そっちの方がよっぽど子供みたいじゃないか! 大体、村のため? 森のためだと? 家族がいなくなった森を守ったところで、一体何の意味があるんだ! そんな下らないものを守るくらいなら、族長なんかやめてしまえ! あなたはガルガンチュアである前に、お母さんが好きな一人の男だろう!?」

「うるさいわあーーっっ!!」

 

 バチーンッ!! っと乾いた音が響いて、マニの顔面に拳が突き刺さった。瞬間、マニの体が面白いように吹っ飛び、壁に激突して家がグラグラと揺れた。ドシーンッ!! っと彼の体が壁にぶつかる音の方が、殴られたときよりもよっぽど大きかった。

 

 ガルガンチュアはハッと我に返って、突き出した自分の拳を見つめた。思わずカッとなって手が出てしまったが、彼の拳は木々をへし折り、その爪は魔獣を真っ二つに切り裂くのだ。そんな攻撃を受けたら、マニが死んでしまう。だから彼は、小さいマニを抱っこしたくても触れられなかったのだ……それなのに……それなのに……彼は慌てて、いま自分が殴り飛ばしてしまった息子へと駆け寄ろうとした。

 

 しかし、そうして駆け寄ろうとした父を、壁に激突し床に転がっていたマニが、ぱっと手のひらを翳して制した。てっきり気を失っていると思いきや、彼はあの攻撃を受けても平気だったのだ。ただし、鼻からは鼻血がポタポタと流れ落ち、そして目からはそれ以上に大粒の涙がダクダクと流れていた。

 

 彼は真っ赤な目をして悔しそうにガルガンチュアのことを睨みつけると、

 

「お父さんの馬鹿野郎ーーっ!!」

 

 と叫んで、父親を突き飛ばして部屋から飛び出していった。

 

 ガルガンチュアはそんな息子のことを呆然と見送ることしか出来なかった。追い掛けたくても、一体何と言って引き止めればいいのだろうか。情けない自分の行動を思い出し胸が苦しくなった。まったく、マニの言うとおりだった。自分はなんてガキなんだろうか……悔しくても、もう取り返しがつかない。彼は後頭部を掻きむしった。

 

 それにしても、自分の攻撃を受けて大怪我をしているんじゃないかと思いきや、殆ど無傷だったなんて、いつの間にあんなに強くなったのだろうか……ガルガンチュアはほんの少し嬉しくなったが、しかし喜んでいる場合じゃない。

 

 マニの言う通り、これはレイヴンを襲った報いだ。自分としては心を鬼にしてやったつもりだったが、それは逆に心の弱さの現れだった。もし自分が本当に強いなら、何かのせいにしてやりたくもないことをやるはずがなかったのだ。あの時、なんとしてもマニの母を助け、そして兄と仲直りをしたかった……そうするのが本当の男の強さだったんじゃないのか。どうしてそう出来なかったのだ……

 

 ガルガンチュアは溜め息を吐いた。どうやらマニに教えられたようだ。もしもレイヴンたちがこの村にやってきた時には、もう手遅れかも知れないが、兄に土下座をしてでも、争う以外に他に方法が無いのか語りかけてみよう。兄は話を聞いてくれないかも知れないが、それでも、せめてマニだけでも無事に暮らしていけるように、なんとか頑張らねばなるまい……

 

 彼はそんな決意を秘めつつ、親子喧嘩で散らかってしまった部屋の中を片付け始めた。マニがぶつかった壁際には彼の荷物が置かれていて、その中から様々な鉄の道具やら、綺麗な布や、沢山文字が書かれた本などが覗いていた。きっと、自分や村人たちへのお土産だったに違いない。マニはみんなのことを考えていたというのに、まったく自分は何をやっていたのか。

 

 これが終わったら、マニに謝りにいかねばならない……ガルガンチュアがそんなことを考え、反省しながら片付ける手を動かしている時だった。

 

「大変だー! ガルガンチュア! 村の外にレイヴンがっ!! 急いできてくれ!!」

 

 たった今出ていったマニと入れ替わりに、村人が家に駆け込んできた。どうやら、レイヴンは親子の仲直りを待ってくれなかったようだ。

 

 ガルガンチュアはマニの荷物を脇に押しのけると、村人の声を追い掛けて外に出た。

 



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俺がガルガンチュアだっ!

 水面がキラキラと揺れて魚が跳ねるように泳いでいた。この小川のせせらぎを聞くのは、最後に村を発ったあの日以来だろうか。帰ってきて、またすぐ逃げるようにここへやってくるなんて、なんとも皮肉な話だった。

 

 マニはよく鳳と一緒に釣りをしていた河原に来ていた。鳳が村を追い出されたびに、いつもキャンプをしていたあの場所だ。

 

 せっかくここに来たのだからと、釣り針を落としてみたが、今日は釣れる気がしなかった。釣りは魚との知恵比べと言うが、きっとイライラしているからだろう。彼は腰に吊るしていたスリングを引き抜くと、河原の石をブンブン振り回して、わざと川の中へと打ち込んだ。

 

 スパーン! っと気持ちのいい音が鳴り響き、面白いくらい飛沫が飛んで、川の水が濁ると同時に、魚たちもみんな逃げていってしまった。彼はジャブジャブと川を渡り、中洲の岩の上に飛び乗ると、垂らしていた釣り糸をグイグイ引き上げ腰のホルダーにしまい、そして四肢を投げ出すように岩の上に大の字に寝そべった。

 

 川の真上だからここだけ頭上を覆う木々が途切れており、日差しがとても心地よかった。サワガニがかさかさと歩き、ポチャンと川の中に飛び込む音がした。マニは目をつぶって、虫の声を聞きながら、ガルガンチュアの話を思い出していた。

 

 父との仲はあまり良好とは言えなかった。子供の頃から、彼が族長だからか、それとも種族の違いのせいなのか、甘えたくても、彼はいつも近寄ってくるマニを嫌そうな顔で追い返した。大きくなって色んな話をしたくても、彼は都合が悪くなるとすぐに怒鳴りつけて、ムスッと黙りこんでしまった。だから今まで、一度にこんなに沢山の話をしたことは無かった。でもそれがこんな悲しい話だなんて、最低の気分だった。

 

 父が、母の暮らしている村を襲ったというのだ。

 

 父が何故そんなことをしたのか、理解は出来る。このところのオークの群れの出没で、沢山の村が犠牲になった。壊滅した村の人たちは避難場所を欲していた。レイヴンは大森林で暮らしていながら、他の部族とは交わらないはぐれものだから、彼らに出ていってもらおうと考えた。短絡的だが、理解は出来る。

 

 だが、理解出来るのと本当にやるのとでは大違いだろう。レイヴン達は非協力的とは言え、魔族とは違って話の通じる人間なのだ。それも自分の大事な人や、血を分けた兄弟がいる村を襲うなんて、いくら部族社会の掟だとは言え、マニなら絶対に出来なかったろう。父は、どうしてそんなことが出来たのだろうか……

 

 マニは、やはり自分と父は血が繋がってないんじゃないかと、考えたくもないことを考えざるを得なかった。それくらい、父と自分では考え方が違うのだ。特に自分は混血であるがゆえに、考え方が人間に近い。それに比べて村の連中は、人間と違ってどことなく薄情なのだ。

 

 思えば村に住んでた居た頃は、いつも苦労させられた。彼らは兎人であるマニをはっきりと蔑視し、軽んじていた。本当に族長の息子なのかと言われたことも一度や二度ではない。母を娼婦呼ばわりされたことも。村人たちは常にイライラしていて、隙あらばマウントを取りたがり、いつも見下せる相手を探していた。マニはそんな彼らの格好の餌食だったのだ。

 

 だがそれは、彼らが外の世界を知らないからだ。人間社会を見てきてはっきり分かったが、村人たちは精神的に弱いのだ。いつも部族の誇りだとか、獣人の強さだとかを強調するのは、そんな自信のなさの現れだろう。だからいざという時になると、すぐに攻撃的な選択を選ぶのだ。父が、誰にも相談せずに、短絡的な行動を取ったのは、その証拠だ。

 

 ヴィンチ村で出会った猫人達は、彼らもすぐにマウントを取ったり、相手を見下したりしていたが、少なくとも毎日が楽しそうだった。彼らの場合はそれが冗談で済んでいたのだ。その違いがどこにあるのかは、きっと彼らが人間と共に暮らし、世界の大きさを理解しているからだろう。

 

 確かに、獣人は人間と比べて頭が悪い。だから人間社会に出ると不利になるのは本当だった。だが少なくとも人間は、自分たちより獣人の方が強いことを認めている。だから肉体労働ばかりさせられるわけだが、言い換えればそれは適材適所じゃないか……人間がいないここよりは、ある意味、人間と一緒にいたほうが獣人も幸せなのかも知れない。

 

 マニは溜め息を吐いた。

 

 獣人社会と人間社会、その両方を知っているのは自分だけじゃないか。以前にも考えたことだが、獣人は獣人だけでまとまっていたら駄目だ。自分が村の鍛冶師になろうと考えたように、獣人と人間の間を取り持つ誰かが必要なのだ。

 

 マニはその誰かをレイヴンがやればいいと思っていた。そうすれば彼らも今までのように、獣人社会の中でよそ者呼ばわりされることもなく、人間社会で爪弾きにされることもない。そしていつかお母さんと一緒に暮らせる日が来るかも知れないと思ったのだ。

 

 今回の帰省で、それとなくガルガンチュアに伝えるつもりだった。そのために彼は勇者領での鍛冶仕事を持ち帰って、みんなに認めてもらおうと思っていたのだ。なのに癇癪を起こして飛び出してきてしまったのは失敗だった。今からでも遅くない。帰ってちゃんと話さなければ……

 

 マニは気合を入れて立ち上がり、また川の中に飛び込むと、全身の火照りを冷ますかのように、バシャバシャとバタ足で水面を蹴立てて、泳いで川を渡った。川底を手で掻いて、横になった体をスイスイと進ませる。立っても膝丈くらいしか水深でそんなことをしていると、まるで小さな子供に戻ったみたいな気分になった。

 

 岸にたどり着いた彼がそんなことを考えながら立ち上がると、すぐそばで砂利を踏む音が鳴った。誰かが追い掛けてきたのだろうか? 格好悪いところを見られちゃったなと思って振り返ると、そこには村では見かけない男が立っていた。

 

「やあ、こんにちわ。君はこの先の村の子かな?」

 

 それは村で見かけないどころか、大森林ではまず見ることがない人間の男だった。マニは鳳たちが居たから人間を見ても珍しく感じなかったが、その感覚がおかしいだけで、普通に考えればこんな場所に人間がいるはずがなかった。

 

 トカゲ商人のキャラバンに一緒についてきた人だろうか? いや、そのキャラバンと一緒に帰ってきたのは、他ならぬ自分じゃないか。それじゃあ、この人は何者なんだろう。こんな森の奥に用事がある人間なんて怪しくて仕方ないが……

 

 マニがそうやって警戒していると、男は人懐こそうな顔をしながら歩み寄ってきた。

 

「そんなに警戒しないでください。私は冒険者ギルドのもので、大森林にちょっと捜し物をしに来ただけです。敵意はありませんから」

「捜し物……?」

「ええ、これなんですけどね。知りませんか?」

 

 

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 男はそう言って、一枚の紙切れをマニの目の前に差し出した。彼はその化け物の手みたいなマークを見た瞬間に、以前に見たことがあることを思い出し、声を漏らしてしまった。

 

「あれ……? これって……」

 

 男はそれを見逃さなかった。

 

「おや? あなたは見たことがありそうですね」

 

 何の心の準備もなく突然見せられたから、ついうっかり声が出てしまったが、確か鳳たちは先を越されると嫌だから、このことは内緒にしとこうと言ってたはずだ。マニは出来れば隠したいと思ったが、しかし今更知らないと言っても信じてくれそうもないので、

 

「えーっと……知ってるというか何というか」

「そこを何とか、教えてもらえませんか?」

「うーん……」

 

 彼はまだ迷っていたが、確か目の前の男は冒険者ギルドから来たと言っていた。結局はレオナルドが知るところになるのだから、話しても構わないんじゃないかと思った。ただ、あの迷宮は、村の長老が教えてくれたものだから、彼の許可を得たほうが良いと思い、

 

「それじゃあ、もし長老が良いと言うなら教えてあげますよ」

「そうですか、わかりました。それじゃ一緒に村まで行きましょう」

「はい……ところで、あなたはその村からやって来たんですよね。どうしてこんな、村外れの人気のないところに?」

 

 マニと男は一緒に村へと戻ろうと歩き出した。しかしマニには、なんとなく男の行動が不審に思えてならなかった。ゲッコーのキャラバンはさっき村についたばかりだ。マニは家に帰ってすぐに飛び出してきたから、時間的にはそれほど経ってない。

 

 なら、男はマニが村に帰ってきた時には既に村に滞在していたことになる。でも、そんな人間が来ているという話は聞かなかったし、もし居たとしたら、鳳みたいにもっと目立っていたのではないか。村人たちが彼を空気のように扱う理由がわからない。

 

 変だな……と思うとますます気になってきた。マニは長老のところへ案内する前に、その辺のことをもう少し詳しく聞いてみようとした。

 

 ところが、その時、マニの進む先からパンッ! パンッ! という、火薬が弾けるような音が聞こえてきた。人間の世界でしょっちゅう聞いてたから分かる。あれは銃声だ。方角からして、村から聞こえてくるので間違いない。なんで村から? 何が村で起きているのだ?

 

 そう言えばさっき父が、レイヴンたちがこの周辺の村を襲っていると言っていたことを、彼は思い出した。

 

 レイヴンには人間と獣人の混血も含まれる……マニは急に嫌な予感がしてきてきて、この男からすぐ距離を取ったほうがいいと思った瞬間……ドンッ! っという衝撃と共に、後頭部に何か硬いものがぶつかるような感触がして……

 

 マニはそのまま意識を失ってしまった。

 

********************************

 

 村は無数のレイヴン達に取り囲まれていた。レイヴン達はどこから手に入れたのか、全員が銃で武装しており、中には他の村から吸収された獣人たちも含まれていて、もはや彼らは低レベルの混血の集団とは呼べなくなっていた。おまけにそんなレイヴン達を保護するように、両翼には噂の神人が睨みを利かしていたのである。

 

 獣人同士が争えば、よほどのレベル差が無い限り互角の戦いになる。レイヴン相手でも、不用意に近づけば、その銃で撃ち抜かれて致命傷になりかねない。それなのに、敵はガルガンチュアの集落の倍を軽く凌駕する大軍で攻めてきたのだ。

 

 しかし、誇り高きガルガンチュアの部族はそんな相手にも怯むことなく、それぞれがそれぞれの武器を取って、レイヴンたちに真っ向から挑むべく集結していた。その武器は相手とは違って、木の槍や石の斧、自分の爪が頼りの徒手空拳の者も多かったが、誰一人として逃げ出そうというものはいなかった。

 

 それもこれも、彼らには獣王ガルガンチュアがついているからだ。かつて大森林を支配した最強の獣の王の末裔である彼らには、今も常勝不敗の族長がいる。彼が居れば、たとえ相手が神人であっても、このような敵など恐るるに足らぬと、彼らは本気で信じていた。

 

 間もなく、その族長が現れて、レイヴンたちの前へと進み出た。村人たちは彼の合図と共に先制攻撃をかけようと、ジリジリと敵との距離を詰め始めた……ところがそんな時、当然、自分たちの村に侵入した不届きなレイヴン達を一蹴すると期待していた族長が、信じられない行動に出て村人たちは困惑するのであった。

 

 頼みの綱のガルガンチュアは、レイヴンの前に進み出ると、威嚇や怒声を浴びせるのではなく、襲撃をやめるように懇願し始めたのである。

 

「パンタグリュエルよ! 兄よ、居るんなら出てきて話を聞いて欲しい。もうこんなことはやめてくれ。俺が悪かったのなら謝る。殺したいと言うなら命を差し出そう。だからどうか、レイヴンよ! 兄弟よ! 今は怒りを沈めて、俺の話を聞いてくれないか!」

 

 その言葉には両陣営が動揺した。レイヴンたちは、まさかプライドの塊みたいな獣人の長が、一戦もすることなくいきなり降参するとは思いもよらず……そして村人たちは、自分たちの族長が、そんな部族の誇りを傷つけるような真似をするとは思わず、目を剥いた。

 

 ガルガンチュアは動揺する人々に構わず話を続けた。

 

「こんなことを続けていたら森が駄目になってしまう。本当なら俺たちは今、オークを抑えて森を守らなければならないはずだ。このままでは戦いに勝っても負けても、住む場所がなくなってしまう。お前たちを森から追い出そうとしたことは間違いだった。それは認める。謝罪もする。必要ならば、全てが終わった後、俺は死んでも構わない。だからどうかレイヴンたちよ、もうこんなことはやめて、オークを倒すことだけに集中させてくれないか」

 

 ガルガンチュアの懇願は、レイヴンたちの心を打った。彼らは最近オークに襲われたばかりだったから、その凶悪さを身にしみて感じていた。これまでは復讐心だけで村々を襲い続けていたが、その結果がどうなるか、そろそろ考えねばならない時期に差し掛かっていた。

 

 しかし、そんなレイヴンたちと対象的に、村人たちの方は烈火のごとく怒り出した。彼ら部族にとって、戦わずして敗北を認めることなど許されることではない。村人たちは突然敵にしっぽを振り出した族長に詰め寄った。

 

 勝手に部族の誇りを傷つけるようなことをするなら、族長を降りろと迫る村人たち。ガルガンチュアは、それでも今回ばかりはこっちの方が悪かったのだと、何とか村人たちを宥めようと、必死に悪罵に耐えていた。

 

 しかしそんな時だった。

 

「静まれ静まれ!!」

 

 動揺するレイヴンたちの中から、ハチが歩み出てきた。彼は双方がにらみ合う広場に躍り出ると、振り返ってレイヴン達に向かって言った。

 

「みんな騙されるな! これはガルガンチュアの罠だ! さっきからこいつは俺たちに言ってるように見えて、兄にばかり話しかけてる。多分、兄なら騙せると思ったからだ。残念だったな。パンタグリュエルは死んだ!」

「……なに!?」

 

 まさか兄が死んでいたとは思いもよらず、ガルガンチュアは驚愕する。

 

「パンタグリュエルは最後まで、ガルガンチュアを許さないと言っていた。彼はこの男を殺すためだけに、ずっと頑張ってきたのだ。それなのに、こいつは自分が助かるためだけに、兄弟の絆を利用しようとしているのだ! こんなことが許されるのか!? 俺たちは俺たちの族長のことを思い出さなきゃならない。彼の死を無駄にするな!」

 

 ハチの扇動に、レイヴンたちがまた動揺し始めた。そうだ、元はと言えば、彼らの復讐はガルガンチュアに村から追い出されたことから始まったのだ。それを果たさずして、戦いをやめてしまっていいのだろうか……

 

「こいつはオークと言って怖がらせようとしてるが……レイヴン達よ! 臆するな! 俺たちは強い! 俺たちはそのオークに勝ったじゃないか!」

 

 その一言が決め手となった。一度はガルガンチュアの言葉に耳を傾けて、話し合おうと思っていたレイヴンたちも、再度武器を取り上げて村人たちに怒りの目を向けてきた。そして、その敵意を敏感に読み取って、レイヴンではなく村人たちの方が先に手を出してしまう……

 

 村人の中のひとりが先走って、先制攻撃を始めてしまった。

 

「卑怯な! 戦いたくないと言ってたじゃないか!」「うるさい! それは族長が勝手に言ったこと」「やはり、罠だったか……」「みんな続け! やつらに鉄槌を下してやるんだ!」「抜かせ半端者が!」「うおおおおーーー!!」「死ねっ!」

 

 どこかで起きたほんのちょっとの小競り合いが瞬く間に広がっていく。ガルガンチュアはそんな村人たちを止めようとして必死に叫ぶが、もはや誰も彼の声を聞いてくれるものは居なかった。

 

 どうすればいい……? どうすれば……

 

 戸惑い立ち尽くすガルガンチュアの元へ、二人の神人が立ちふさがる。そのうち一人の男が彼の前へ歩み出て、

 

「やはり罠だったのか……? お前の話は聞くところもあると思ったが」

「そんなつもりはない。俺は本気でそうしたいんだ。今からでも遅くない、お前たちも彼らを鎮めてくれないか」

 

 その言葉に神人も戸惑いを見せるが、

 

「ペルメル……」

 

 もう一人の神人がその肩を叩いて首を振ってみせると、

 

「……分かっている。どちらにせよ、俺たちには戦う他に選択肢はない。お前の話を聞いてやるにしても、それは勝敗が決まった後だ」

「……結局、戦わねばならぬのか。これが獣人という種の運命なのか」

「さあ、武器を取れ」

「そんなものはない。俺にはこの爪があれば十分だ」

 

 二人は暫しにらみ合い……そしてどちらからともなくぶつかりあった。

 

 レイヴンと村人たちの戦いは、双方入り乱れての大乱戦になった。なんやかんやでガルガンチュアの訴えがきいてしまい、初めは距離をおいていた両陣営が、なし崩しにそのまま戦闘に入ってしまったせいだった。

 

 レイヴンたちの主力はライフルや拳銃という遠距離武器であり、このような乱戦が始まっては不利であったが、それでも彼らはどこか楽観していた。何しろ人数に差があり過ぎることと、彼らには神人という強い味方が居たからだ。

 

 ところが、戦闘が長引いてくると彼らは次第に焦り始めた。ガルガンチュアの村人たちは、これまで戦ってきた村々の住人達とは違って、一人ひとりがタフであり、そして負けず嫌いだった。彼らは倒れても倒れても何度も蘇ってくる。

 

 更にはあてにしていた神人が、全く役に立っていなかった。なんとガルガンチュアは、神人二人を相手に堂々と渡り合っていたのである。

 

 これまで、いくつもの村を沈めてきた神人たちが、ガルガンチュアに……ただの獣人に互角以上にあしらわれている。彼らは切り札の古代呪文を封じられ、虎の子の神技まで見破られて、何ひとつ好きにさせてもらえなかった。苦戦する神人二人は徐々に追い詰められていく

 

 どうしてガルガンチュアは神人を相手にここまでやれたのか……? それは彼がメアリーと一緒に戦う機会が何度もあったからだった。

 

 神人は人間を凌駕する身体能力を持っているが、それは相手が人間であるからで、獣人とはそれほどの差はない。それが分かってさえいればなんとかなる。厄介なのは彼らが使う古代呪文であるが、それは彼ら以上の使い手であるメアリーの魔法を見ていたガルガンチュアにとっては驚異では無かった。

 

 彼には、神人たちがどんな時に、どんな魔法を使いたがるかが分かっていた。古代呪文は万能ではなく、味方も一緒に巻き込んでしまう。ガルガンチュアはそれを逆手にとって彼らが魔法を使い難い位置取りを常に心がけて戦った。

 

 神人二人は次第に焦り始めた。こんなに苦戦するのはジャンヌに屈した時以来だ。それもそのはず、ガルガンチュアの中には、ジャンヌという神技の使い手と共に戦った経験も活きていたのだ。

 

 ジャンヌは大技の使い手だったが、小技も全て使えた。その彼が使う神技と比べて、目の前の神人たちが使う神技は、ハエが止まっているかのように遅かった。

 

 神人は確かに強かった。だが、経験の差が物を言った。身体能力に違いがなければ、神人も決して戦えない相手ではないのだ。

 

 そんな族長の善戦を見て、村人たちの士気も否応なく上がる。逆に戦闘を望んでいなかったはずのガルガンチュアがここまでやるのを見て、レイヴンたちの方は動揺が強くなってきた。戦力は相変わらず、レイヴンたちの方が圧倒している。だが、その勢いは完全に逆の方へと傾きつつあった。

 

 しかし、快進撃もそこまでだった……

 

「止まれ、ガルガンチュア! これ以上、抵抗するなら、こいつの命はないぞ!」

 

 ガルガンチュアの耳に、ハチのヒステリックな声が聞こえる。神人二人の攻撃を捌きつつ、彼は声のする方へと目をやり……そして止まった。

 

 押し込まれていた神人たちは、突然戦意を喪失した相手に気づかず、相変わらず攻撃を繰り出している。そして彼らの鋭利なサーベルの先が、深々とガルガンチュアの腹へと吸い込まれていった。

 

「な……!?」

 

 突然の出来事に、驚いた神人の一人、ペルメルがサーベルの柄から手を離す。しかし、それは地面に落ちることなく……まるでそこから生えているかのように、ガルガンチュアの腹に納まっていた。

 

 何故、こいつは急に立ち止まったんだ? ペルメルはギリリと奥歯を噛みしめると、さきほど聞こえてきた声のする方へと目を向けた。

 

 するとそこにはピサロと、その虎の威を借るハチ……それから見知らぬ兎人が、羽交い締めにされて立っていたのであった。

 

「いいぞ、神人! そのままそいつをぶっ殺せ!」

 

 目障りなハチが、まるで手下にでも言うように命令してくる。ペルメルはこの生意気な獣人を殺してやろうかという気持ちをぐっと抑えて、その隣にいるピサロに尋ねた。

 

「おまえ一体、何をした!」

 

 するとピサロは、何をそんなに怒ってるんだろうと言わんばかりに肩を竦め、

 

「珍奇な話なんですけどね、この兎人、実はそこのガルガンチュアさんの子供らしいんですよ」

「なに……!? そんな馬鹿な」

「私もそう思います……しかし、どうやら彼には、命に代えても惜しくないらしい」

 

 ガルガンチュアを見れば、彼は腹に剣を突き刺したまま、唸り声を上げて仁王立ちしている。そんな彼に向かって羽交い締めされているマニが、必死に何かを叫ぼうとしているが、口を塞がれて何も言えないようだった。

 

 嘘みたいだが、彼らが親子と言うのは本当のことらしい。神人二人が困惑しながら佇んでいると、そんな二人に向かってピサロが言った。

 

「ほら、分かったのなら、早くその狼人を倒してしまいなさい」

「……断る。こんな卑怯な手で勝ちたくない」

「あのねえ、強がりを言ってる場合じゃないですよ……こうでもしないと、あなた達、彼に勝てなかったでしょう?」

「なんだと!?」

「あなた達が、彼をもっと簡単に倒してくれれば、私だってこんな真似はしないで済んだんです。私が何をやってでも目的を達する人間であることをお忘れか?」

「くそっ……卑怯者め!」

 

 神人二人は怒りで頭がどうにかなりそうだった。このまま、ガルガンチュアを殺すのは簡単だ。だが、そうしてしまったら、彼らの中にある大事な何かが失われてしまう……そんな気がして仕方がなかった。

 

 その通りである。目の前のガルガンチュアも示したように、人には命に代えても譲れないものがある。人生など何の意味もないとニヒルなことばかりを言うものもいるが、だったら何故死なずにダラダラと生き続けるのか。そこに失いたくない物があるからじゃないのか。それをやすやすと乗り越えてしまえる者を、人は外道と呼ぶのだ。

 

「おまえたちが殺らないんなら、俺が殺る!」

 

 神人二人が顔を真っ赤にしながら、何も出来ずに佇んでいると、その間を縫うように駆け抜けて、ハチがガルガンチュアの前へと躍り出た。彼は元族長の前に立つと、当たり前のように手にしたライフルをその腹に突きつけ……

 

 パンッ! ……っと、安々とその引き金を引いた。

 

 血がまるで蛇口をひねるようにボタボタと流れ落ち、ガルガンチュアの体がビクリと揺れる。

 

 しかし至近距離からライフルの射撃を受けても、獣王は抵抗の意思を見せるかのように、その場で佇んだまま微動だにしなかった。

 

 これにビビったハチが、また慌てて引き金を引く……パンッ! ……パンッ! ……パンッ! ……パンッ! ……そして全弾を撃ち尽くし、尚も倒れない相手に恐怖しながら、カチカチと弾の出ないライフルの引き金を引き続けていると……

 

 そこでようやく、ガルガンチュアは膝をついたのである。

 

「ぐっ……うぅ~……」

 

 膝をついた彼は、そのまま糸の切れた人形のように、前のめりになって地面に倒れた。ドスン! っと大きな音が響いて、そんな彼の腹から流れた大量の血液が地面を濡らしていく。

 

 さっきまで激闘を繰り広げていた神人二人が、そんな彼のことを、ポカンと口を開けたまま、呆然と見下ろしていた。

 

「お父さんっ!!!」

 

 そこへピサロの腕を振りほどいたマニが駆け込んできた。彼は倒れた父を抱き起こそうとして、その体にすがりついた。しかし、思った以上に重い体を持ち上げきれず、腹ばいになった体を転がしてどうにか仰向けにするのが精一杯だった。

 

 信じられないくらい大量の血液が地面を濡らし、マニの白い毛を真っ赤に染めていく……

 

「お父さんっ! お父さんっ! しっかりしてよっ! お父さんっ!!」

 

 マニは必死になって叫んだ。必死に叫び続けた。怒られてもいい、そのつもりで。

 

 絶対に村人たちの前では言ってはいけない。ガルガンチュアか、族長と呼ぶように……そう言われて育った彼は、この時、生まれてはじめてその誓いを破った。

 

 しかし、そんな約束を破ったマニのことを叱らずに、血だらけのガルガンチュアは愛おしそうに腕を伸ばして、その頭の上に手のひらをポンと乗せ、弱々しい声で言うのであった。

 

「よく帰った、マニ……大きくなった……な……」

「お父さん! ちょっとまってよ! 今なんとかするから! 誰か! 誰か助けて! 血を止めてよっ!」

 

 本当はずっとこうしたかったのだ。そう言いたげにマニの頭の上に乗せていた手がするりと落ちて、地面の血溜まりを叩いてパシャンと音が鳴った。

 

 その瞬間、まるで時間が止まってしまったかのように、全ての戦闘がピタリと止んだ。

 

 頼りの族長が殺られ、村人たちは戦意を喪失する。

 

 レイヴンたちはそんな彼らを唖然と見守るだけで、止めを刺すことはしなかった。

 

 誰も彼もが動けなかった、たった一人の男を除いては。

 

「あはは……あはははは……あははははは!!」

 

 まるで嬌声のような気持ちの悪い笑い声が村に響く。

 

「ついにやったぞ! 俺が……俺が、ガルガンチュアを倒したんだっ!!」

 

 ハチは息が切れるほど目一杯腹を抱えて笑い転げると、まるでフルマラソンでも走り終えたような清々しい表情をしながら、地面に転がっているガルガンチュアの死体を思いっきり蹴り上げた。

 

「俺を追い出しやがって、この野郎! 気分が良かっただろうな! ちょっと強いからって、ふざけやがって……俺が……俺が、どれだけ! 憎くて、憎くて、憎くて、憎くて、憎くて! たまらなく憎くて眠れない日が続いたことか、おまえにわかるか! この野郎!」

 

 バチンバチンと肉を叩く音が鳴り響く。彼は村人たちが項垂れて降参の意思を示しているの見ると、実に嬉しそうに、

 

「村の連中も全員、許さないぞ! こいつと一緒になって俺を追い出しやがって、おまえら全員、簡単に死ねると思うなよ! 男たちは全員、俺にひれ伏すか死ぬか選べ! 女たちはひとり残らず犯してやる!」

 

 ハチはケタケタとした笑い声をあげると、何か思いついたかのように、

 

「そうだ! この村では最強の男が族長になるんだったな! つまり俺が最強だ……俺が……今日から俺がガルガンチュアだ! おまえたち、わかったか! 俺がガルガンチュアだっ!!」

 

 狂ったように叫ぶハチに、村人たちは何も言えなかった。彼らは一様に押し黙り、ただ悔しそうに地面を見つめている。中には涙を流す女も居たが、特に激しい反応を見せたのは、いつもハチと一緒に遊んでいた子供たちだった。

 

 彼らは戦闘中、物陰に隠れてそれを見ていたが、今や彼らの瞳は憎悪に燃えたぎり、たった一人の男に注がれている。ハチはそんな憎しみの籠もった目には気づかずに、さも気持ちよさそうな顔を見せると、未だに父親の死体にすがって泣いているマニに近づいて、彼のことを思いっきり引きずり倒した。

 

 ズザーッ……と、地面を擦る音が鳴って、土埃が舞った。マニは地面に突っ伏したまま、何かぶつぶつと呟いている。ハチは舌なめずりしながら近づいていくと、

 

「……助けて……村が……お兄さん……助け……」

 

 マニは焦点の合わない瞳で、わけのわからないことを呟いている。父親が殺されたことで頭がおかしくなってしまったのだろう。ハチはそんなマニに、いやらしいねっとりとした視線を送ると、ニヤニヤとしながらその首筋に舌を這わせてペロペロと舐め始めた。

 

 何をしているんだと奇異の目を向ける人々に気づかず、ハチは自分に酔いしれたような恍惚とした表情を浮かべると、誰にともなく言った。

 

「くくくく……おまえは特に可愛がってやろう。女の服を着せて、毎晩抱いてやる。おまえは俺のものになったんだ。もう邪魔者はいないぞ」

 

 ハチはそう呟くと、既に冷たくなっているガルガンチュアの体を滅茶苦茶に蹴り始めた。それに飽き足らず、今度はその爪で肉を切り裂くと、気持ちの悪い音が響いて、べちゃべちゃと肉片が周囲に飛び散った。彼はおそらく、素手でガルガンチュアの体を解体しようとしているのだ。

 

 これには辛抱堪らず、嫌悪感丸出しの神人たちが止めようとして動き出した。しかし、彼らは二三歩進んだところでその足を止めた。この悪趣味な獣人以上に気になるものが見えたからだ。

 

 その時、突然、ぐったりしていたマニの体が奇妙な光を発し始めた。蛍光色のような薄暗い緑色から、徐々に目も眩むような虹色に変わってくる。その光はどこか圧迫感を感じさせた。

 

 神人は後退りした。この感じはどこかで見たことがあるような……そうだ、確かまだ城に居た頃、ジャンヌに二人まとめて倒された時の……

 

 そんなマニの変化に、高笑いを続けるハチはまだ気づかない。彼はゆっくりと立ち上がると、父の仇をその視界に入れるのだった。

 



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誰が誰だって?

 その姿は虹色のオーラを纏っているかのようだった。光の礫が彼の逆立つ毛先から飛び出し空へと昇っていく。いつもは真っ赤な彼の瞳が今は七色に輝き、キラキラと燐光を発していた。彼の体がゆらりと動くたびに、それがまるで糸を引くように軌道を残していった。

 

 マニは全身に力が湧いてくるのを感じていた。湧いていくると言うより、溢れ出すと言った方が正しいかも知れない。その力は無限に増大し、増殖し、彼の意のままにいくらでも引き出すことが出来るようだった。

 

 彼は自分が別の何かに生まれ変わっているようなそんな気がした。体の隅々の細胞が入れ替わる。引き絞る弓のように研ぎ澄まされた筋肉が自分の体にフィットしていく。頭の中では、今まで経験したことのない記憶が溢れていた。身に覚えのない遠い記憶……だが、確かに彼の記憶だった。

 

 大昔の大森林、まだ獣人がこんなにいなかった頃、森は魔族に支配されていた。襲い来る魔物の群れ、そして凶悪な魔族たち。ネウロイから突然飛び出し、北上を開始した魔族は、あっという間に森を飲み込み、獣人たちを追い出しはじめた。

 

 そんな魔族に敢然と戦いを挑む獣人の部族がいた。族長の名はガルガンチュア。強力な仲間を従えて、迫りくる魔族たちをバッタバッタとなぎ倒す彼は、正に獣王の名が相応しかった。彼が通り過ぎれば、そこには魔族は一人も残らない。彼が引き連れる部族は、まるで移動要塞だった。

 

 だがそんな無敵の集団も、いつまでもそのままではいられなかった。魔族と戦えばやはり犠牲は付き物で、一人、また一人と脱落していくうちに、部族はどんどん小さくなっていった。やがて女子供がついてこれなくなり、その穴を埋めるべく、無理がたたって多くの男たちが脱落し、そして彼らはついに魔族の前に屈した。

 

 血だらけで、ボロボロになって、命からがら逃げてくるガルガンチュア。彼の周りは魔族だらけで、仲間はもう誰一人として残ってない。絶体絶命のピンチの中、力尽きて倒れた彼に、しかしその時、救いの手が差し伸べられた。

 

 どことなく鳳に似た雰囲気の黒目黒髪の男性。

 

 ヘルメス卿と呼ばれる長身痩躯の優男。

 

 アマデウスと言う名の陽気な青年。

 

 そして若かりし日のレオナルド……彼の髪は金色で、まだフサフサだった。

 

 命を助けられたガルガンチュアは従者として彼らに付き従い、魔王の軍勢と対峙する。そして勇者が魔王を討伐し、世界に平和が訪れたのだ。

 

************************************

 

「今日から俺がガルガンチュアだ! おまえら男は全員、俺に従え! 女はみんな犯してやる!!」

 

 マニとしての記憶、ガルガンチュアの記憶、二つの記憶が混じり合って、マニは自分が誰なんだかよく分からなくなっていた。頭が回らなくてクラクラする、いつもと同じはずなのに、体のサイズがあっていないのか足元がおぼつかない。いつもよりずっと視界が低いような気がして仕方ない。ただ、その代わり体が軽くて、これならいくらでも敏捷に動けそうだった。

 

 なるほど、この体も悪くない。そう思った時、すっと体の感覚が戻ってきて、さっきまでブレていた視点がピタリと合って、視界がクリアになった。すると目の前にいた狼人が突然、自分のことがガルガンチュアだとか言い出して、何を言ってるんだ? こいつは……と思ったガルガンチュアは、その狼人……友達のハチだ……友達だと思っていたのに……彼はずっと父のことを憎んでいた。マニのことを変な目で見ていた……マニはそれを思い出すと胸が苦しくなってきて……腹の奥底から怒りがこみ上げてきたガルガンチュアは、この不届きな馬鹿を一秒たりとも生かしておいてはいけないと思った。

 

「おいこら、誰が誰だって?」

「あん……?」

 

 ガルガンチュアがハチの肩に手を置くと、彼は間抜けな顔をして振り返り……マニはその憎らしい顔を見た瞬間、頭の中で何かがプツンと切れる音がして、自然と体が動くのに任せた。

 

 するとマニの腕がハチの首にまとわりついた瞬間、それは面白いように明後日の方向へと捻じ曲がって、まるで海賊のおもちゃみたいにポンと胴体から首が発射した。

 

 ハチの首が空を飛び……少し遅れて、首のあったところから噴水のように血が舞い上がった。間もなく血の雨が降り注ぎ、地面に当たってバシャバシャと音を立てた。

 

「うおおおおおぉぉぉーーーーんんんっっ!!!」

 

 マニはそれを全身に浴びながら、まるで狼のような遠吠えをあげると、

 

「俺がガルガンチュアだ!」

 

 マニの遠吠えに、その場にいた全員が釘付けになった。

 

 たった今まで、ピサロに羽交い締めにされて抵抗が出来なかった弱々しい兎人が……ハチに父親を殺されて泣いていた子供が……今は何故か不思議なオーラを纏って、異常な威圧感を周囲にばら撒いている。

 

 彼を見ているとレイヴンたちは胸のうちに恐怖心が湧いてきて、逆に村人たちは信じられないほどの期待感が溢れてきた。だが、見た目は何も変わらない。マニはマニなのだ。何故、彼を見て急にこんなことを感じるのだろうか。村人たちがそう考えていると、そのマニはギラリと光る鋭い眼光を周囲に走らせてから、

 

「何故話し合わない! 何故協力し合わない! 何故許し合わないのだ! おまえたちはこの300年間、一体何をしていたんだ! この森を守るため! 我らの子孫を守るため! そして勇者が救ったこの美しい世界を守るために、俺はこの森の秩序を作った! それは魔族から我らの居場所を守るためで、獣人同士が争うためじゃない! 一人がみんなのために、みんなが一人のために、この森に住む全ての者が協力しあわなければ魔族に勝てないからじゃないか! なのにお前たちは……情けない子孫どもめ! 全員、叩きのめしてやる!!」

 

 その言葉を聞いて、森の住人たちは一様に震え上がった。300年前のことなんて、まだ成人して間もない子供がおかしなことを言ってるとしか思えないのに、なのに彼らには、まるで本物のガルガンチュアに怒られているとしか思えなかったのだ。

 

「まずはおまえからだ、すべての元凶!」

 

 ショックで固まっている獣人たちを無視して、マニは近くにいたピサロから片付けようと動き出した。

 

 突然の出来事に呆気にとられていたピサロだったが、獣人の遺伝子が無い分だけ、マニの咆哮を聞いても平気だったのか、彼は迫りくるマニの攻撃をすんでで交わして、ゴロゴロと地面を転げて逃げ出した。

 

 マニはチッと舌打ちすると、尻尾を巻いて逃げ出そうとするその背中を追ったが、ようやく恐怖心から脱したレイヴンたちが、慌てて自分たちの大将を守ろうとして立ちはだかった。ピストル、ライフル、それからサーベルで武装した複数の男たちがマニに迫る。

 

(おぼろ)

 

 マニはそんな男たちに真正面から飛びかかっていき、突然、そんな言葉を呟いたかと思ったら……次の瞬間、空中を蹴って男たちの背後に回り込んでしまった。そんなあり得ない動きに唖然として硬直しているレイヴン達を、マニは腰にぶら下げていたスリングの布で器用に引きずり倒すと、無防備な首筋にナイフを突き立てた。

 

 血をダクダクと流した男が悲鳴を上げる。その声に我に返った仲間がライフルをマニに向けて構えると、

 

疾狗(しっく)

 

 狙いを定めたマニが突然、四つん這いになるくらい体を低くかがめたと思ったら、次の瞬間、彼はもう男の目の前に立っていた。瞬間移動としか思えない程のスピードに、信じられないと呟いたのが、彼の最後の言葉になった。

 

 まるで花を手折るように、容易く首を折られた男が崩れ落ちる。それを見た他の者達は、ある者は逃げ出し、ある者はパニックになって一斉に飛びかかってきた。四方八方から向けられる刃と弾丸の数々……このままでは蜂の巣にされると思いきや、

 

陽炎(かげろう)

 

 マニが腰にぶら下げていた水筒から水を辺りに撒き散らすと、次の瞬間、そのキラキラと光る水滴が蠢き、何かを形作っていくと思いきや、なんとそれは複数のマニそのものになった。

 

 光の錯覚か、それとも怪しげな術なのか。レイヴン達は、いきなり何人にも分身した彼の内どれが本物かと戸惑っていると……なんとその全てがそれぞれ別方向へと走り出し、マニを囲んでいたレイヴン達全てに襲いかかってきた。

 

 それはただの幻影ではなく、全てが本物のマニだった。呆然とするレイヴンたちは、あまりの理不尽に抵抗することも忘れて棒立ちのまま命を落としていく……

 

「いいぞ、マニ! もっとやれっ!!」

 

 マニが次なる獲物を探して駆けていると、それを見ていた村人たちから声が上がった。彼らの期待に満ちた瞳に気づいたマニは、それを見ると突然足を止め、

 

「なんて情けない……お前らなんて、俺の子孫じゃない! そこで待ってろ全員殺す!」

 

 マニの眼光が鋭く光り、村人たちは恐怖に慄いた。虎の威を借る狐のような行為を、マニは許しはしないのだ。慌てた村人たちが、パニックになって逃げ惑う。

 

 村人たちもレイヴンも、たった一人の兎人を恐れ、完全に正気を失っていた。蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う彼らが、あちこちでぶつかっては悲鳴を上げる。マニが通り過ぎた後には血しぶきが上がり、死体が転がっていた。

 

 あっけに取られていた神人の二人は、ようやくこのまま放っておいてはまずいと思い、彼を止めようとして動き出した。しかしマニは目の前に立ちふさがる二つの陰に気がつくと、

 

「神人か……弱い者いじめにも飽きてきた。少し相手してやろう」

「抜かせっ!」

 

 神人の一人……ペルメルが先制攻撃とばかりに飛びかかる。しかし、マニはそんな神人の攻撃を悠々と躱すと、相棒の陰に隠れて迫っていたもう一人の神人、ディオゲネスの攻撃を軽くいなして、手にしたスリングをブンと一回転させた。

 

「ぎゃあっ!」

 

 するとその瞬間、ディオゲネスの肩に激痛が走り、彼は悲鳴を上げて転げ回った。マニの持つスリングには石は乗せられてない。彼はスリングをムチのように使って、ディオゲネスの肩に巻きつけたのだ。

 

 神人は傷を負ってもすぐに回復してしまう。だからマニはすれ違いざまに、相手の肩関節を外してしまったのだ。外された関節は怪我ではないからすぐくっつきはしない。ディオゲネスは痛みに耐えながら自分の腕を強引に嵌め直す。

 

「気をつけろペルメル……こいつ、おかしな技を使うぞ!」

「わかっている……二人同時に行くぞ!」

 

 生半可な攻撃が通じる相手ではない……一度でそう結論した彼らは、今度は二人同時に全力で飛びかかっていった。

 

 しかし、それでもマニはまだ余裕がありそうに、悠々と神人二人の攻撃をいなしてしまった。それは先程のガルガンチュアのときとは違ってギリギリの攻防ではなく、完全に神人たちを圧倒しているようだった。

 

 手合違い……そんな言葉がディオゲネスの頭を過る。認めたくないが、目の前の兎人は自分たちよりも強い。戦ってみて初めて分かる。これはあのジャンヌに匹敵するか、それ以上の強敵だった。しかもジャンヌはステータス任せのパワーで押してくるのに対し、目の前の兎人は技で自分たちの攻撃を全て受け流してしまうのだ。

 

 おまけに彼は見たこともない妙な技まで使うのだ。朧……突然、空中で方向転換するフェイントや、疾狗……低い姿勢で忍び寄る瞬間移動。それらの技を駆使して、徐々に、徐々に、神人二人を追い詰める。

 

 しかし、これは勝てない……彼らがそう思った時だった。突然、マニは二人から距離を取ったかと思うと、顔の前に人差し指を立てる不思議なポーズをとって、

 

葉隠(はがくれ)

 

 彼がそう言うなり、急に周囲の木の葉が舞い上がり、まるで木枯らしのように回転しながら、マニの姿を覆い隠した。そして嵐が止んだ後には、そこに彼の姿は無くなっていた。

 

 消えた相手の行方を追って、ペルメルが焦って前に飛び出す。しかし、ディオゲネスはマニが消える寸前、一瞬だけ、彼の体が地面に吸い込まれるように消えていくのを見た。その光景に、彼はなんとなく既視感を覚え、咄嗟に、

 

「後ろだっ!」

 

 誰にともなくそう叫ぶと、ディオゲネスは背後を振り返り、当てずっぽうに手にしたサーベルを突き出した。すると、その先端から、ズンッとした感触が伝わってきて、見れば背後から二人に忍び寄ろうとしていたマニの脇腹に、サーベルの先っぽが深々と突き刺さっていたのだった。

 

 マニはその先端を強引に引き抜くと、後転飛びをしながらディオゲネスから距離を取った。そして脇腹を手で押さえ、苦しそうに、

 

「ちっ……なかなかやるな」

「ペルメル! こいつが使ってるのは神技(アーツ)だ!」

「なに!?」

「俺は以前見た、これは勇者が使ってたのと同様の技だっ!」

 

 言われてペルメルも思い出した。以前、アイザックの城で勇者の一人が、影に隠れ、突然背後から現れるという見たこともない技を使っていた。それと同じものを、目の前の獣人が使えるというのだ。

 

「どうして獣人が神技を! これは神人だけが使えるんじゃないのか!?」

「俺が知るかっ! 今更驚くことでもあるまい」

 

 既に彼らは人間が、自分たち以上の魔法を使っているのを見た経験があった。今度はそんな獣人が現れただけだ。彼らは気を落ち着けると、そんなことを気にしていられるほど状況は良くないと、サーベルを構え直した。

 

 しかし、その時だった、

 

「ペルメル! ディオゲネス! 何をやってるんですか! そいつにさっさと止めを刺しなさいっ!!」

 

 さっきまで逃げ惑っていたレイヴンたちの中から、ピサロの焦りを孕んだ声が聞こえてきた。耳障りで腹立たしくて仕方なかったが、傍から見ればそう取られても仕方ない。だが、目の前にいる相手は、たとえ手負いであっても、そんな簡単に討てる相手ではないのだ。

 

 二人は怒りに任せて黙ってろと言い返そうとしたが……と、その時、マニがふっと表情を和らげると、

 

「……ふんっ! 少し頭に血が上っていたようだ。血を抜いてくれて感謝する」

「なにっ!?」

「俺の相手はお前たちじゃない」

 

 彼はそう言うと、たった今、声の聞こえた方向へと、一直線に走り始めた。

 

「ひっ……ひぃぃーーっ!!」

 

 突然、自分に向かって真っ直ぐに走ってくる兎人を見て、ピサロは悲鳴を上げた。声を上げたのはやぶ蛇だった。手負いのマニはせめて父親の仇を討つべく、ピサロに照準をあわせたようだ。返り血を浴びて、真っ赤に染まった異常な姿の兎人が迫る。

 

 さっきの戦いを見ればはっきりわかる。あんなのに勝てるはずがない。焦ったピサロは背後を振り返り、必死になって逃げようとしたが、それで確実に逃してくれるとは思えなかった。だから彼は最後の気力を振り絞ると、これまた最後の賭けに出ることにした。

 

 ピサロは迫りくるマニの前に、すぐ横にいたレイヴンを強引に引っ張り、身代わりにするべく突き出した。ただ勘に従っただけで、意味のある行為だとは彼自身も思っていなかった。なんとなくそうした方がいいと思うからそうしただけで……しかし放浪者(バガボンド)である彼の直感は当たっていた。

 

「マニ……!」

 

 ピサロの首を取るべくマニが肉薄する。その時、彼の前に突き出された一人の狼人の女性が、恐怖しながらも必死に声を上げた。

 

 その瞬間、マニの体がピタリと止まり、さっきまでの荒々しい雰囲気が、まるでパラパラと剥がれ落ちる乾いたペンキのように、あっという間にどこかへ吹き飛んでいってしまったのである。

 

「……お母さん……? お母さんなのですか?」

 

 マニはたった今、正に叩き伏せようとした女性の前に呆然と立ち尽くすと、その目をじっと見ながらそう尋ねた。すると女性もまた目を丸くしながら、

 

「はい、そうです、マニ……ああ、あんなにちっちゃかったあなたが……こんなに大きくなって」

 

 マニの母親の手が、恐る恐ると伸びてくる。マニは呆然としながらそれを受け入れた。

 

 不思議な感触だった。その手が触れると、さっきまであんなに怒りに満ち溢れていたのに、今はもうそんな気持ちはどこかへすっ飛んでしまっていた。彼はこの時、初めて自分の母親を見た。

 

 いや、実際には子供の頃に見たことがあるはずなのだが、その時は本当に赤ちゃんみたいなものだったから、何も覚えてはいなかったのだ。多分、母親の方もそうだろう。彼女は生まれたばかりの赤ん坊を、村に預けて出ていくしかなかった。

 

 いつか大人になったら会いに行こうと決めていた。その時は、立派になった自分を見て貰おうと思ってた。なのに、その再会が、まさかこんな形になるなんて……

 

 パンッ!!

 

 と、その時だった。マニがふらふらと母に抱きつこうと一歩踏み出した時、彼の腹にズシンとした衝撃が走り……

 

「え……?」

 

 見れば、母の背後に隠れたピサロが腕を伸ばして、ピストルをマニの腹に突きつけていた。

 

 パンッ! パンッ! パンッ!!

 

 追撃の銃声が鳴り響く。だが、父の最後を見ていたマニは、咄嗟にその場を飛び退いてその銃弾を躱すと、

 

「……脱兎(だっと)

 

 そう呟いて、まるで疾風のように駆け出した。

 

「ひぃ~っ!!!」

 

 殺されると思ったピサロはまた情けない声を上げ、頭を守るように腕をクロスしたが、マニはその横をすり抜け、あっという間に駆けていった。

 

 助かったのか……? 唖然とするピサロが振り返ると、その背中は既に点になっていた。マニは文字通り脱兎のごとく、この場から姿をくらました。

 

**********************************

 

「何なんだ! 何なんだ! 何なんだ! あいつはっ!!」

 

 ピサロは荒れていた。ここまで自分の思い通りに事が進まないのは初めてだった。神人が二人も護衛についていながら、まさか死にかけるとは! それもこれも、この村の戦力を見誤ったからだが……しかし、こんなたかだか大森林の小さな集落ごときに、神人を凌駕するような者が二人も居るなんて思いもしないではないか。

 

 最初の族長の方はまだわかる、神人と互角といっても、それはギリギリの戦いだった。いや、もちろんそれは凄いことなのだが、その後に出てきた奴は桁が違っていたのだ。

 

 何をしたのか分からないが、一瞬にして獣人たちを恐怖のどん底に叩き入れ、見たこともない技を使い、神人二人を圧倒した。しかもあの兎人が使っていたのは、神技かも知れないというのだ。

 

 神人たちは以前、勇者と呼ばれる放浪者が、見慣れぬ神技を使うのを見たことがあると言っていた。自分自身が放浪者であるピサロも身に覚えがあり、そう言うこともあるかも知れないと納得はしたが……しかし、獣人の放浪者というのは見たことも聞いたこともなければ、獣人が魔法を使うなんてもってのほかだった。

 

 あれは間違いなく、ウサギの顔をした兎人だ。しかも、両親が狼人という変わり種だった。もしかすると、それが何か関係あるのかも知れないが……

 

 ともあれ、レイヴンの集落で見つけて以来、なんとなく拉致して連れてきた狼人の女が役に立ったのは行幸だった。最初のリーダー、パンタグリュエルが言うには、あのガルガンチュアの女だと言うから、もし戦うことがあれば、有利に立てるかも知れないと思ったのだが……

 

 彼にはこれが効かず、最初はあてが外れたと思ったのだが……思いがけずこの女が、次に出てきたあの兎人の母親だったとは、自分のツキもまだまだ捨てたもんじゃないとピサロは思った。

 

 ところで、種を明かせば、これが彼の能力だった。

 

 先に言った通り、この世界に紛れ込んでくる放浪者は、何かしらの能力を持って目覚める。

 

 ピサロはこの世界で目覚めて以来、なんとなく他人が大事にしているものがわかるようになっていた。それも、命と引き換えにしても守りたいものがわかるのだ。簡単に言い直せば、有効な人質が手にとるように分かるのだ。

 

 だから実は、マニの母親を見た時、こいつが後に役に立つであろうことはピンと来ていた。そして、このガルガンチュアの集落に来たとき、村を飛び出していったあの兎人が役に立つであろうことも……

 

 まさかそんな彼らに縁があるとは露知らず、そしてこの兎人がこんなにヤバいやつだとは思いもしなかったのであるが……

 

「おい、ピサロ……いい加減に諦めたらどうだ」

 

 ぶつくさ言いながら、彼が集落の広場をウロウロしていると、周辺の探索を終えて帰ってきた神人ディオゲネスが面倒くさそうにそう言った。

 

 現在、彼らはマニによって混乱しきったレイヴン達を再度まとめ直すと、いつものように征服した集落の者たちに恭順を迫ったり、逃げ出したものを追ったりしていた。逃げ出した彼らがどこかの集落と結託して、襲って来たら面倒だ。特にピサロは、最後に逃げたマニの行方が気になって仕方がなかった。

 

 彼のことを全ての元凶と言い放ち、あと一歩のところまで迫った兎人。もしも母親を人質に取っていなかったら、今ごろピサロの首は胴体と切り離されていただろう。そんなやつに逃げられ、いつどこで襲われるかわからないというこの状況が、非常に恐ろしかった。

 

 だから彼はレイヴン達に命じて、マニの行方を血眼になって追っていたのだが……今の所あの兎人は完全に姿をくらましており、その行方は杳として知れなかった。ピサロはそれが見つかるまで、ここから動きたくない気持ちでいっぱいだったが、

 

「だが、おまえも見ただろう。あの兎人は手負いだ。腹をサーベルでえぐられて、鉛玉を入れたままでは、普通ならろくに動けない。もしかすると、今ごろ死にかけてるかも知れないぞ」

「それならそれで、その死体がどこかに転がっているはずでしょう。それを見つけるまでは、あまり移動したくありませんね」

「いつまでビビってるつもりだ」

「……なに?」

 

 ピサロがジロリと睨むが、神人はピクリとも表情を動かさずに、

 

「なら寧ろ、ここを移動したほうがいいんじゃないのか。あの怪我ではどうせろくに動けまい。ここに留まっていれば、おまえは安心するのだろうが、相手の怪我も回復していくことを忘れるなよ」

「ふん……私は確実でないことが嫌なだけですよ」

 

 ピサロは強がりを言ったが……確かに、神人の言うことにも一理があった。リーダーである彼がいつまでも動揺を見せているのは、全体に悪影響を及ぼす危険がある。レイヴン達は、今は恐怖で彼にしたがっているが、そんな彼がいつまでも狼狽していたら、やがてレイヴンたちがピサロを軽んじるようになって、何が起こるかわかったものじゃないだろう。所詮、こいつらは犬畜生なのだ。

 

「……仕方ないですね。目的も達したことですし、そろそろ次へ向かいますか」

 

 彼は長い溜め息を吐くと、努めて冷静を装って立ち上がった。幸い、彼の言う通り目的は達していた。この大森林へはヘルメスの遺産を見つけるために来たのだが、彼は村の長老を捕らえて例のマークを見せ、それがどこにあるかを聞き出していた。あとは怯える彼の案内で、遺産のある場所へ行けばそれで終わりだ。

 

 それにしても、ヘルメスの遺産とはどんなものだろうか……彼は口では上司であるカリギュラに従っている振りをしていたが、本心では素直にそれを持ち帰るつもりは無かった。もしもそのヘルメスの遺産が自分にも扱えるのであれば、彼を裏切って自分の物にしてしまった方が良いだろう。

 

 カリギュラが言うには、それはヘルメス卿の証たるもので間違いないらしい。つまり、それを手に入れれば、自分がヘルメス領の正統な後継者と主張することだって可能なのだ。するとピサロはオルフェウス卿と同等の立場になるから、もうカリギュラに従う必要はなくなる。

 

 これで一国一城の主だ……それどころか、いきなり五大国の頂点の一人となるのだ。元々自分は戦場よりも、権謀術数渦巻く宮中工作の方が長けている。どこか浮世離れした神人相手なら、ライバルを追い落とすことも目じゃないだろう。

 

 もしかすると、前世では叶わなかった世界征服の夢が、この異世界でなら叶うかも知れない。彼はそれを思いだすと、さっきまでの恐怖が和らいできて、急にやる気になってきた。

 

「ではディオゲネスさん、そろそろ移動するから探索を終えて合流してと、ペルメルさんにも伝えてきてください。レイヴンはリーダーがいなくなってしまったから……暫くは私が率いていくしかありませんね。はあ~、忙しい忙しい」

 

 ピサロはそう言うと、どことなく浮かれた調子で歩いていった。ディオゲネスはそんな背中をため息交じりに見送った。あんな奴に従わなくてはならない自分が不甲斐ない。だがアイザックの無事が確認出来るまで、ペルメルと一緒に耐えるしか無いだろう。彼はその仲間を呼びに歩き出した。

 

「……うぅっ……」

 

 と、その時……彼のすぐ近くの茂みから、苦痛に喘ぐ声が聞こえた。ディオゲネスはピタリと足を止めて、目だけでその茂みを見つめた。

 

 脱兎のごとく逃げ出したマニは、実は意外と近くに潜んでいた。最初は遠くまで逃げたのであるが、父の死体をそのままにしておくことが、どうしても許せなかったのだ。だから村の中に潜んで機会を窺っていたのだが……ピサロが中々ここから出ていかずにヤキモキしていると、それがようやく出ていくと言うので気が緩んだところ、突然、傷口が痛みだして、思わず声を漏らしてしまったのだ。

 

 立ち止まったディオゲネスの視線は、完全にマニの目を捕らえていた。あちらからは影になって見えないかも知れない……だが、ここまではっきり見られているのだから、気づかれていないはずがない。

 

 マニは手負いの状態でどこまでやれるかと覚悟を決め、腰に吊り下げたスリングに手をかけた。しかし、その時、

 

「どうしましたか?」

「いや、なんでもない。すぐに行く」

 

 元の場所に止まったまま動かないディオゲネスを不審に思ったピサロが尋ねると、彼はぷいっとマニから視線を外して、スタスタと歩いていった。去り際に、こっそりと後ろ手に手を振り、どっかいけというジェスチャーを見せる。

 

 もしかして、見逃してくれたんだろうか……マニは息を潜めてそれを見送りながら、心のなかで感謝した。

 

 どうやらあの神人は、何か事情があって、仕方なく従っていたようだ。あの時、うっかり殺してしまわないで本当に良かったと思いつつ、マニは母親や長老、そして彼らを救うためにも、早く怪我を治さなきゃと、傷口を縛る布を強く引き締めた。

 



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どうやら先を越されたようだ

 町から町を経由して、鳳たちはひたすら早馬を走らせていた。アルマ国で一瞬だけ繋がったマニとのチャットは、どうやらガルガンチュアの村で何かが起きたことを示していたらしい。

 

 最初はそれが何なのか分からなかったのだが……その後、思いがけず再会したアイザックの話で、ガルガンチュアの部族が初代ヘルメス卿の遺産を守る墓守だと判明した。今回の戦争の仕掛け人と目されるピサロは、それを探しているのだと言う。つまりあの時、マニの様子がおかしかったのは、村が襲われていたからだ。すると彼らが次に向かうのは、例の迷宮に違いない。

 

 それなら先回り出来るかも知れない。迷宮のある峡谷は、アルマ国からは勇者領を縦断しなければならないくらい遠かったが、ガルガンチュアの村からもそれなりに距離があった。あとは整備された街道を走る早馬の鳳たちと、大森林を行くピサロたちとで、どちらが先に到着するかの勝負である。

 

 正直、分の悪い賭けではあったが、今は悩んでいる場合ではない。彼は直感的にガルガンチュアに共有経験値を割り振ると、仲間を連れ、今度は一路南を目指した。メンバーはいつもの、ジャンヌ、ギヨーム、メアリー、ルーシー……それからアイザックである。

 

 彼を連れて行く理由はシンプルだ。ピサロの言いなりになっている神人たちに、彼が解放されたことを示せば交戦を避けられるだろう。口で言っただけでは素直に信じてくれるかわからないから、こうして連れてきたというわけである。

 

 勇者領は縦横に網の目のように乗合馬車の路線が張り巡らされている。早馬……つまり高速馬車を駅伝方式で乗り継いでいけば、思ったよりも早く領内の移動は可能だった。だが最後の荒野だけは、徒歩で移動するしか無かった。そもそも人家が存在しないのだから仕方ないだろう。

 

 灼熱の太陽に焼かれながら、汗だくになって荒野を歩く。一度行ったことのある場所だったが、前回とは通る場所が違うため、迷わないか心配だった。いつものようにギヨームが先行偵察し、その後を鳳が進み、ジャンヌがしんがりである。

 

 きっと足手まといになると思っていたアイザックは思いのほかしっかりとした足取りでついてきた。地下牢でダイエットに成功したから体が軽いと(うそぶ)きながら、彼はゼエゼエと荒い息を弾ませつつ、先を行く鳳に話しかけてきた。

 

「参考までに聞いておきたい。ピサロとはどういう奴なんだ?」

「……え?」

「君は地下牢でピサロのことを知っていると言っていただろう。あの時は軽く聞き流したが、これから戦う敵のことを知っておくにこしたことはない。話してくれないか」

 

 鳳は確かに彼の言うとおりだと思いつつも、どうして自分がこんなやつの言うことを聞かなきゃならないんだと思って、あんまり話す気にはなれなかった。だが、結局はまだ暫くは無言で荒野を歩き続けるしかないのだし、気分転換にもなると思い、話し始めた。

 

「知ってると言っても、そう多くのことを知っているわけじゃない。人里離れた場所で活動してた奴だから。史料によるとピサロは、とにかく権謀術数に長けた人物だったようだ。

 

 欧州人が新大陸を発見した当時、彼我の技術差は凄まじいものがあった。コロンブスがカリブの島に上陸した時、彼らを歓迎したのは木の槍で武装した半裸の人々だったそうだ。彼らの衣服は草で編まれ、鉄を見たことが無かったらしく、武器を渡したら怪我をしてしまったくらいだった。そんな相手を征服するのは容易く、彼らは銃や剣を使って瞬く間に新大陸の人々を奴隷に変えてしまった。

 

 ピサロもそれと同じように、当初は圧倒的な技術差でインカ帝国を支配したと思われていた。実際、インカ帝国もカリブの島々と似たりよったりで、木の弓矢や竹槍など、ろくな武装を持っていなかったようだ。でもだからって10万の帝国を、たった180人で制圧出来るわけがないだろう? 実は彼が取った作戦は、圧倒的な武力による支配ではなく、人質を使った人心掌握作戦だったんだ。

 

 ピサロは南米ペルーにインカ帝国を発見すると、彼らを歓迎する皇帝に謁見を求めた。帝国にはたまたま、白い肌をした者は天の使いだという伝説があったから、それは容易いことだったようだ。しかし、こうして無防備に謁見に応じた皇帝のことを、ピサロはその場で拉致してしまう。

 

 天の使いだと思っていた人たちに皇帝を捕らえられた帝国の人たちは驚いた。皇帝を助けたくても、彼らは見たことのない武器で武装して近づけない。皇帝も死にたくないから、彼らの言うことを聞けと言い、それで仕方なく帝国の人々は、ピサロの言うことを聞かざるを得なくなったんだ。

 

 彼はこうして手出しが出来ないようにしてから、大臣を通じて国民に命じ、黄金をかき集めた。そして巨万の富を手に入れた彼は、それに飽き足らず、更にこの国自体を手に入れようとして策略を張り巡らされていく。

 

 どんな国でも権力争いはあるだろう。ピサロはそれを見逃さず、宮殿内の分断を図った。少数派の勢力はピサロを利用して多数派の力を削ぎたい。その願望を利用して、宮中で力を持つ勢力を排除していき、そのバランスが崩れたら今度は逆のことをする。こうして自分に都合のいい勢力を育てたんだ。

 

 こんなことを繰り返していれば、施政は滞り国が乱れてくる。おまけにこの頃インカ帝国では、スペイン人が持ち込んだ天然痘が大流行し、国民の生活は滅茶苦茶になってしまった。そのせいで国内のあちこちで叛乱が起こり、帝国が慌ててそれを鎮圧する。

 

 ピサロはこれすら利用した。叛乱が起きたことを知ると、それを抑えるどころか寧ろ煽って、帝国を打倒する勢力に育ててしまったんだ。やがて帝国は叛乱に対処できなくなって行き……こうしてインカ帝国は国民同士の争いと、疫病の大流行で滅んでしまい、ピサロはその跡地を悠々と征服したわけだ」

 

 アイザックはその話を聞いて、苦々しげに唸り声を上げた。

 

「うーん……なんと卑怯な」

「普通そういう感想になるよな」

「俺はそれと全く同じことをやられたようだな。言い換えれば、奴の手口はそれほど変わっていないと言うわけだ」

 

 言われてみれば、そうかも知れない。アイザックを人質に取られて神人たちは嫌々従わざるを得なかったようだし、12世という獅子身中の虫を利用して、ヘルメス国は味方であるはずの勇者領と戦っていたのだ。おまけに、終わってみたら勇者領は帝国に賠償を求めることすら出来ない可能性が高い。

 

「となると、アイザックを人質にしたのは常套手段だったわけか。ピサロという人物は、よほど人の弱みを握ることに長けているのかも知れないな。そんなのとこれから戦わなきゃならないんだから、みんなも気をつけよう」

 

 相手にうっかり弱みを見せようものなら、確実にそれを狙ってくるだろう。特にジャンヌはこのパーティーで最強の男だが、この中の誰が人質に取られても、力を発揮できなくなる危険があった。

 

 彼が抜けたら戦力ダウンは必至だ。下手したら全滅の可能性だってある。絶対に弱みを見せないように気をつけなきゃ……

 

 いや、案外、ピサロには見えているのかも? 彼も鳳たちと同じ放浪者だ。何かの能力を隠している可能性がある。もしそれが他人の弱みが見える能力だったりしたら……

 

「おい! どうやら先を越されたようだぜ」

 

 鳳がそんな最悪のことを考えていると、偵察のために先行していたギヨームが帰ってきた。彼が言うにはこの先に、大勢の獣人が屯しているらしい。そこはもう迷宮の目と鼻の先であり、どうやらピサロは既に到着してしまっていたようだった。

 

 鳳は舌打ちすると、姿勢を低くして、敵に見つからないように風下に回った。

 

***********************************

 

 峡谷の谷間に、やけに数が多い獣人の集団がいた。よく見れば中には人間の姿も混じっていて、一見すると何の集団なのかわからない。

 

 面白いことに、彼らが居るのは、以前に鳳たちがキャンプを張った場所だった。それは奇遇でもなんでもなくて、単純にこの荒野を探索するには水場をキャンプ地にするのが最適だからだろう。そしてこの水場はあの迷宮から最も近かった。

 

 こんな場所にピンポイントにキャンプを張る理由は一つしか無い。ピサロはまっすぐにここにやって来たのだ。案の定、注意深く目を凝らせば、集団の中央付近で木にくくりつけられた人の姿が見える。

 

 影になっていて見にくいが、一人は鳳にこの場所を教えてくれた長老で間違いなかった。彼はボケが進んでいるのか、ガルガンチュアの部族でありながら気が小さい。また怖がって泣いていたら可哀想だ。早く解放してやらねば……

 

 その隣には同じ狼人の女性が捕まっていて、最初は誰だか分からなかったが、どこかで見覚えがあるような気がしてじっと見ていたら分かった。

 

 あれはマニの母親だ。とすると、さっきから見かける人間たちは、もしかするとレイヴンなのだろうか……? 何があったかわからないが、ともあれあの二人を助ければ事情も分かるだろう。

 

「ルーシー、メアリー」

「合点承知だよ」

 

 鳳が名前を呼ぶとルーシーが腕まくりしてやってきた。彼女はゲリラ部隊に参加できず、このところ活躍していなかったからやる気満々のようである。二人が鳳に作戦を聞いていると、それを横で見ていたアイザックが不服そうに、

 

「なんだ? 君は女性に行かせるつもりなのか?」

「まあ見てろって」

 

 鳳に話を聞いたルーシーがメアリーを連れて距離を取る。彼女は胸に手を当てると、ラララーっと突然歌を歌いはじめ……何をしてるんだろう? とアイザックが不可解そうにそれを眺めていたら、突然、そんな彼の視界から彼女たちの姿が消えてしまった。

 

「なんだなんだ!? 一体どうなっている!?」

「現代魔法だよ」

 

 以前はムニャムニャ呪文を唱えていたはずなのに、スカーサハに色々叩き込まれたのだろうか? 今度からは歌を歌うようになったようだ。

 

 前は魔法をかけるところを見ていれば、仲間の視界から消えることは無かったのに、今回はそこに居るのが分かっていても消えてしまった。どうやら、新しい師匠を得て、彼女も成長しているらしい。

 

 完全に周囲の認識から消滅しているからだろうか、話しかけても返事は返ってこなかった。それがかえって不安になり、本当に大丈夫かな? と思い始めたところで、突然、峡谷にいたレイヴンたちがパタパタとその場で倒れだした。

 

 どうやら首尾よくメアリーのスタン魔法が発動したらしい。鳳たちは慌てふためくレイヴンたちが全員昏倒するのを待ってから、崖を降りて長老たちを救出した。

 

「えーん、えーん、ツクモー、怖かったよー!」

 

 解放された長老は子供みたいに泣きじゃくっていた。ここに来るまで相当ひどい目に遭ったらしい。ここは部族の秘密の場所だから、彼は絶対に教えたくなかったのだが、ピサロたちは暴力を振るって彼に無理矢理吐かせたようだ。

 

 恐怖に怯える老人になんてことをするんだと憤っていると、一緒に捕まっていたマニの母親が事情を話してくれた。

 

「実はレイヴンの街が襲撃され……気づけばトントン拍子に……」

「大森林、そんなことになってるの!?」

 

 マニの母親の話は思った以上に深刻だった。その話が本当だとすれば、今ごろ大森林はオークの巣窟になっている。一番怖いのは、それが繁殖することだろう。それを抑えるための獣人たちも、殆どいなくなってしまったのだから、下手すれば近いうちにも人間の領域にオークが現れるのではなかろうか。戦争なんてやってる場合じゃなかったのだ。

 

 それにしても、まさかガルガンチュアが殺されているとは思わず、鳳たちはショックを受けた。あの部族とは色々あったが、悪い思い出ばかりではなかった。族長を失った部族はバラバラになり、たまたま村に帰っていたマニは行方不明だという。見れば昏倒しているレイヴンたちの中には、見たことのある村人たちの姿もちらほらあった。あの強くて誇り高い部族がこんな連中に従わされているなんて……

 

 ピサロは一体、何をしようとしているのだ? 魔族を先導し、人間に戦争でもふっかけるつもりなのだろうか……その考えが全く読めず、鳳たちが困惑している時だった。

 

「何者だ! そこで何をしている!!」

 

 定時連絡が無かったせいか、それとも外の様子がおかしいと気づいたのか、迷宮に行っていたレイヴンの別働隊が帰ってきた。彼らは遠くの岩陰に隠れながら、銃をこちらに向けている。その先頭には神人の一人が立っていて、抜身のサーベルをこちらに向けて、何かを唱えようとしていた。

 

 古代呪文を食らったらひとたまりもない。ジャンヌが剣を引き抜き、ギヨームが銃を構える。そして鳳が慌てて物陰に隠れようとしたら、それとは逆にアイザックが飛び出していき、

 

「待て! 待つんだ! ディオゲネスッ!!」

 

 神人が呪文を発しようとした瞬間……そこに飛び出してきた男を見て、彼は驚愕の表情を見せた。

 

「ま、まさかあなたは……アイザック様!? 本物ですか!!?」

「ああ、もちろん本物だ! だから武器をしまってくれ!」

 

 ディオゲネスは信じられないといった表情を見せてから、主君に対し不敬と言わんばかりに慌ててサーベルを鞘に戻した。彼に付き従っていたレイヴンたちはどうしていいか分からず、相変わらず銃口をこちらに向けていたが、それに気づいたディオゲネスが武器を下ろせと命じると、素直に従った。

 

 それを見て、鳳たちも武器をしまって歩み寄る。ディオゲネスはアイザックの元へ駆けつけると、その前で膝を屈して恭しくお辞儀すると、

 

「ご無事でなによりです。助けに向かうことも出来ず、申し訳ございません」

「気にするな。お互い命があっただけ儲けものだ」

「そちらの……勇者たちが我々を助けてくれたのですか?」

「ああ、そうだ……というか、勇者軍が戦争に勝利し、捕らえられていた俺のことを発見してくれたのだ」

「帝国軍は負けたのですか……!?」

 

 ディオゲネスはそれを聞くと、悔しそうに奥歯を噛み締めながら、

 

「それではもうとっくに、我々はやつに従う必要なんか無かったんですね。なのに、あの男……まるでいつでも帝国軍と連絡を取り合えるような振りをして」

「あの男とはピサロのことだな? やはり、おまえたちは奴に操られていたのか」

「はい。アイザック様の命を盾に取られては従わざるを得ませんでした。我々は、あたながどこに居るのかさえ知らされていなかったのです。ですがこれで、奴の言いなりになる理由はありません。早速、ペルメルにも知らせ、あの男に思い知らせてやりましょう!」

「わかった。ペルメルは今どこに?」

「彼はピサロと共に、この先にある遺跡を調査中です。狭い場所なので、お供は多くありません。捕らえるなら今がチャンスです」

 

 ディオゲネスが振り返り、迷宮のある方角を指差す。どうやらピサロは、以前に鳳たちが手も足も出なかった迷宮に、既に入っているようだ。ヘルメスの遺産とやらを奪われてしまう前に追いついて、彼らを止めなければならない。

 

 鳳たちの視線が一斉に向くと、ディオゲネスと一緒にいた獣人たちがそわそわしながら、

 

「……神人様。俺たちはこいつらと戦わなくていいのか?」

「ああ、もしお前たちがピサロに義理立てすると言うなら、今度は俺が相手をするが」

 

 すると獣人たちは慌てて首を振って、

 

「冗談じゃない! あんたに勝てるわけがない。俺たちは、ピサロじゃなくて、あんたが怖いからレイヴンに入ったんだ」

「そうだったか……すまなかった」

「神人様がいいなら、もう森に帰りたい。他の奴らもそうだろう」

 

 ディオゲネスの周りにいた獣人たちが一斉に頷く。どうやら彼らはヒエラルキーに従っていただけのようだ。その頂点に立つ神人が居なくなれば、もうピサロの言うことを聞く必要はないと言うことだろう。

 

 ならば、メアリーに昏倒させられた他のレイヴンたちも、事情を知ればもう暴れることはないのかと思いきや、

 

「いや、そうでもない。中にはハチみたいに純粋に略奪を楽しんでいる連中もいた。そいつらが目を覚ましたら、また何をしでかすかわかったもんじゃないだろう。ピサロを追いかけるのも大事だが、ここを押さえておく必要もある。お前たち、森に帰る前に、ここに残ってレイヴン達が悪さをしないように見張っていてくれないか?」

 

 獣人たちはディオゲネスの頼みならと頷きつつも、

 

「俺達だけで、この人数を相手にするのは不安だ」

「なら、私がここに残るわ」

 

 獣人たちが不安そうな表情を見せると、それを聞いていたメアリーが手を挙げた。

 

「彼らが起きてきたら、またスリープクラウドをかければいいんでしょう? MPはまだ沢山あるし、それに泣いている長老を放ってはおけないもの」

 

 解放された長老はまだえーんえーんと子供みたいに泣いている。そんな彼を連れて行くわけにはいかないし、ここに残していくのも不安だった。だがメアリーが残ってくれるなら安心である。少々、戦力ダウンは否めないが、代わりにディオゲネスが合流するのだから大丈夫だろう。

 

 彼はおそらくメアリーより強くはないが、相棒のペルメルも加われば、戦力ダウンどころか寧ろアップだ。

 

「それじゃあ、メアリーをここに残して、俺達だけで迷宮に向かおう。相手のピサロは人間だが放浪者だ。何をやってくるかわからない。もしかしたら、ギヨームみたいなクオリアを持ってるかも知れないから、油断せずに行こう」

 

 鳳たちパーティーはお互いに頷きあうと、ディオゲネスに案内で迷宮へと向かった。

 

 とは言え、案内されるもなにも、迷宮は以前にあった場所、そのままである。

 

 キャンプ地から少し歩いた先にある崖に、太陽光で上手くカモフラージュされた入口がある。そのトンネルを抜けると、そこにはドーム状の空間が広がっていて、遥か上空の崖上から木漏れ日が差し込んでいたり、例のマジックマッシュルームが生えていたりしたのであるが……

 

 しかし再び訪れた迷宮の入り口は、確かにドーム状であったが、以前とは打って変わって人工的な空間が広がっているのであった。壁は岩の崖ではなくコンクリートで固められ、床は何の素材かわからない艷やかに光を反射するパネルで覆われ、天井にはうっすらと光る人工照明が灯っていた。

 

 相変わらず隅っこには例のキノコが生えていたが、どう見ても前回来た場所と同じとは思えない。

 

「なんだこりゃ? 前とは別の場所に来ちゃったのかな??」

「ねえ、みんな、中央の祭壇を見て!」

 

 そんなジャンヌの声に視線を向けると、以前そこにあったストーンヘンジみたいなオベリスクの中央に、光を発する祭壇が見えた。その上には一冊の本が置かれており、光を発しているのは寧ろその本だった。一体どんな魔法が掛かっているのか、それは空中に浮いていて、パラパラとページがめくれたり閉じたり繰り返している。

 

 その祭壇というか台座には、以前はぽっかりと真っ黒い穴が開いていて、そこが迷宮の入り口になっていた。もしかすると、これが迷宮の本来の姿なのだろうか。

 

 アイザックは光る本を指差すと、

 

「あれだ! あれはヘルメス書で間違いない!」

「じゃあ、この本が迷宮の鍵なのか……」

 

 鳳が近寄ってよく見れば、パラパラと勝手にページがめくれてよく読めないが、明らかに意味の取れる文章が書かれているようだった。確かアイザックは地下牢で、ヘルメス書の中身は読めないと言っていたが、こうして鍵としての役目を果たしたことで、読めるようになったのだろうか。

 

 その内容も気になったが、今は不用意に動かすわけにはいかないだろう。鳳は台座から少し離れて屈むと、その下にぽっかりと空いた穴から迷宮の中を覗き込んだ。中にはやっぱり、この台座の大きさからは考えられないほど広い空間が広がっていたが、今度は暗闇ではなくて、真っすぐ伸びる廊下が見えた。

 

 少し進むとT字路になっていて、その先は見えなかった。どうやら中身はそれほど単純な作りではないようだ。探索にはそれなりの時間が必要だろう。

 

 実際、かなりの労力が必要だったとディオゲネスが説明してくれた。

 

「我々はここに数時間前に辿り着いた。間もなく入り口を発見して中に入ったが……この中は意外と入り組んでいて多くの部屋があり、その一つひとつを詳しく調べているわけにはいかなかった。我々は最奥にある大部屋にたどり着くと、そこを重点的に調べたのだが……そこには様々な機械らしきものがあったのだが、どうすれば動くのかがさっぱり分からず、煮詰まっていたところだ。それで俺は外の空気を吸いがてら、こうしてキャンプの様子を見に行ったのだが……」

「そこに俺たちが居たのか」

「ああ、あれから然程時間は経っていない。ピサロたちはまだその大部屋にいるだろう」

「なら、そこで奇襲をかけるのが一番だな……案内してくれるか?」

 

 ディオゲネスはコクリと頷いた。

 

 鳳はそれを見てから迷宮の入り口に立ち、背後を振り返って仲間たちに作戦を確認しようとした。まずは大部屋の近くまで忍び込んで、そこでルーシーの認識阻害の魔法を使って部屋に入る。そこでピサロの位置を確認し、ジャンヌとギヨームで奴を捕らえ、その間にアイザックがペルメルに呼びかけ武装解除を促す。

 

 そう説明するつもりだった。

 

 ところが……彼が迷宮の入り口に立った、正にその瞬間だった。

 

「……悪く思うな」

 

 案内役を買って出たディオゲネスが迷宮の入り口へと歩いていったかと思いきや、突然、鳳の首根っこをぐいと引っ張り、その中に引きずり込んでしまったのである。

 

「え……!?」

 

 完全に油断しきっていた鳳は成すすべもなく迷宮に連れ込まれた。仲間たちもアイザックも、みんな驚いて目を丸くし、ジャンヌは鳳に向かって手を伸ばしていた。そんな唖然とするみんなの姿があっという間に遠ざかっていく。

 

 鳳はそのまま迷宮の奥へと引きずり込まれていった。彼はなんとか逃れようとして、体を捻ったり手足をばたつかせたりしたが、そもそもステータスの違う神人にガッチリと拘束された体はびくともしなかった。

 



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おまえ、ちょっと黙れよ

 まったくわけが分からなかった。鳳はまるでクッパにさらわれるピーチ姫みたいにガッチリと拘束され、ズルズルと引きずられていった。なんとか逃れようとして体をねじっても、神人と低レベルの鳳では基本的なステータス差があり過ぎてびくともしなかった。

 

 そもそも、自分はなんで捕まってるんだ? 理由がわからないから抵抗も弱かったかも知れない。それを見ていた仲間たちも同じだったようで、分からなすぎて反応が遅れたジャンヌたちは、大分遅れてから入り口の方で騒ぎ始め、ようやくと言っていいくらい時間が経ってから、二人の後を追ってきた。

 

「待てー!」

 

 と叫ぶ声がかなり遠くに聞こえる。迷宮内はディオゲネスが言っていた通り割りと入り組んでいて、案内が無ければ迷いそうだった。鳳はこのままだと引き剥がされると感じ、

 

「こっちだ、助けてっ!!」

 

 と叫び返したが、すぐに口を塞がれてしまいどうしようもなくなった。

 

 バタバタとした複数の足音が廊下に乱反射して、近くにいるんだか、遠くなんだか、だんだん分からなくなってきた。

 

 そうこうしているうちにディオゲネスは迷宮の奥にあった、大広間のような場所へと辿り着いた。途中、いくつも部屋があったが、一直線に向かってきたのを見ると、初めからここが目的地だったのだろう。入り口にあったドームを一回り大きくしたような空間で、研究所というか何かの実験場のように見えた。

 

 天井は然程高くなかったが広さはそれなりにあり、地面はリノリウムのような鈍く光を反射する床材で覆われ、あちこちにある太いコンクリートの柱が天井を支えている。壁際には何やら計器類やサーバーラックのような機械類が見えた。そして部屋の中央には、巨大なCTスキャナーみたいなドラム型の機械が据え付けられており、そこからスパゲッティーみたいに配線が部屋の隅々に伸びていた。

 

 なんとなく、部屋が緑色に見えたのは、例のキノコがあちこちに生えているからだろう。それは入り口のマジックマッシュルームの胞子がこの中に入り込んでしまったのだろうか、それともその逆なのか。

 

 キノコに覆われて駄目になってしまったのだろうか、錆びついた計器類が部屋の隅に打ち捨てられて山積みになっていたが、中央の機械だけは未だ新品同様にピカピカだった。見た目からして何かヤバい放射線でも発しそうである。

 

 ディオゲネスは部屋に鳳を連れ込むと、そこにドサッと下ろすと言うか、まるで一本背負いみたいにぶん投げた。床に落ちた鳳がバウンドし、ズザーッと滑っていく。そして背中を強打してゲホゲホとむせている彼の首筋に、ギラリと鈍く光る剣の切っ先が突きつけられた。

 

 ぎょっとして見上げれば、そこに黒目黒髪の男が立っていた。黒髪と言っても彫りが深いラテン系の男であり、どことなく軽薄そうな面構えをしていた。もしかしてこいつがピサロだろうか? 咽返りながら誰何しようとしたとき、バタバタと音を立てて、仲間たちが追いついてきた。

 

「それ以上、近寄らないでください!!」

 

 鳳を放り投げたあと、サーベルを抜いて入り口を振り返ったディオゲネスは、そこから遅れて入ってきたアイザック達の前に立ちはだかると、抜身の剣を突きつけながらそう叫んだ。

 

 仲間だと思っていたのに……アイザックが、ショックを隠せない青ざめた表情で糾弾する。

 

「何故だディオゲネス! 君は俺を助けるために、仕方なくピサロに従っていたんじゃなかったのか!?」

「最初はそうでした……ついさっきまでは。でも今は……ペルメルを助けるためには、こうするしか仕方ないんですよっ!!」

「ペルメル……!? そう言えば、彼は今どこに……」

「おっと! おしゃべりはそこまでですよ」

 

 その声にハッとして一行が顔を上げると、苦渋の表情で剣を構えるディオゲネスの後方に、一人の男がいるのが見えた。黒目黒髪のその男は、地面に寝転がっている鳳の首筋に剣を突きつけながら立っている。下手な動きを見せれば、すぐにでもこの首を切り落とすぞと言わんばかりだ。

 

 ギヨームはチッと舌打ちすると、

 

「てめえがピサロか!?」

「人に聞く前にまず自分の名を名乗れ……と言いたいところですが、あなた方は有名人ですからね。ええ、そうです。私がフランシスコ・ピサロです」

「何回も人質を取りやがって、汚え野郎だ!」

「ふふふ、それは私にとっては褒め言葉ですね。さあ! あなた方のリーダーが殺されたくなかったら、武装解除して貰えますか」

 

 ピサロはニヤニヤとした勝ち誇った表情で一行を脅迫した。鳳の首筋に冷たい刀身が押し付けられ、彼の表情が恐怖に歪む。

 

 だが、そんな鳳のことなどどうでもいいと言わんばかりに、ギヨームとアイザックの二人は力強く一歩踏み出すと、

 

「断るっ!」

 

 ドシンッ! っと床を踏み鳴らしつつ、二人の声がハモる。瞬間、二人は心底嫌そうな表情を浮かべてお互いに見つめあったかと思うと、すぐにプイッと顔を背けてピサロを睨みつけた。

 

「最後の最後で見誤ったな、ピサロ! そいつは俺とは何の関係もない。寧ろ、以前一度殺そうとした相手だ。人質に取られたところで痛くも痒くもないぞ!」

 

 アイザックがふんぞり返って宣言する。助けてやったのに、この野郎……続けてギヨームが叫ぶ。

 

「馬鹿が! そいつは俺たちの中で最も役立たずだ。知ってるか? そいつのレベルはたったの7なんだぞ? そんなのが俺たちのリーダーなわけあるか。同じ人類として恥ずかしいくらいだ」

「お前いくらなんでも酷すぎないか!? 本当のことだけど……! 本当のことだけどもっ……!!」

 

 鳳は悲しくもないのに、なんだか視界がぼやけてきた。鼻をスンスン鳴らしていると、流石のピサロも風向きがおかしいと感じたのか、鳳と仲間たちの間に交互に視線を飛ばしていた。

 

 きっと今ごろ、彼の頭は次の手を探して高速回転しているのだろう。鳳は、この隙になんとか逃げ出せないかと周囲を見渡した時、勘付いた。

 

 よく見れば、仲間の中にルーシーの姿が見えない。彼女は現代魔法の使い手だ。さてはさっきみたいに姿を消して、鳳を助けようとこっそり近づいているのかも知れない……しかし、彼がそう考えたのとほぼ同時だった。

 

「きゃあっ!」

 

 と、部屋の隅から悲鳴が上がった。見ればそのルーシーが、一人の獣人に羽交い締めにされている。彼はいやらしい目つきでベロベロと彼女の首筋を舐め回すと、

 

「女の臭いがすると思えば……なあ、大将? 終わったら、こいつもヤッちゃっていいんだろう?」

「好きにしなさい……しかし、まだ、隠し玉があったとはね。やはり、あなた方は侮れませんね」

 

 ルーシーが捕まったことで、ギヨームが大きな舌打ちをしてから降参の意思を示すかのように両手を挙げた。どうやら彼女は完全に姿を消してはいたが、それでも狼人の鋭い嗅覚からは逃れられなかったようだ。

 

 ピサロに付き従っている獣人は数人……この期に及んでまだ彼に従っているのだから、上に居た連中とは違い、嫌々従っているのではなく、好きで行動を共にしているのだろう。それはすなわち、虐殺やレイプのような犯罪を好む連中というわけだ。

 

 このままではただで済むとは思えない……そう感じたのか、最後まで意思表示を見せていなかったジャンヌが、苦しげな表情を浮かべながら、腰に佩いた剣を下ろした。

 

「ジャンヌ・ダルク! おまえまで、何をやってるんだ!?」

「アイザック様、ここは大人しく従いましょう」

「馬鹿を言え!! こんな奴の言うことに従って、命が助かる保障がどこにあるというんだ! お前ならここにいる連中を全員始末することが出来るだろう? どうして戦わないんだ!」

 

 ジャンヌは首を振って、

 

「仮にそうしたところで、全てが終わった時に白ちゃんは生きていないわ。それじゃ意味がないの。私は、最初の仲間を失ったことを今でも後悔している。この上、白ちゃんまでいなくなったら……私にこの世界で生きていく理由なんて何もないもの」

「ふざけるなっ! ここで戦わずして、その勇者の力はなんのためにあるというんだ!」

「だから全部、白ちゃんのためにあるのよ! 私はもう、仲間が死ぬのがいやなのっ!!」

 

 弾けるように叫んだ言葉がアイザックに突き刺さった。元はと言えば、彼がこの世界に来たのも、彼の仲間が死んだのも、アイザックのせいなのだ。アイザックはジャンヌの鋭い睨みを真正面に受けると、その気持ちを斟酌し、悔しそうに地面に剣を叩きつけた。

 

「くそうっ! 勝手にしやがれ!!」

 

 カランカランとアイザックの剣が地面で跳ねる。彼が癇癪を起こしたかのように、ふんぞり返って地面にどっかとあぐらをかくと、これで完全に優位に立ったと思ったのか、ピサロがふふふと笑い声を上げた。

 

「賢明な判断です。なに、ヘルメス卿、あなたにはまだ使い道がありますから、命までは取りません。なんならヘルメス領を返して差し上げますよ」

 

 その言葉を聞いてディオゲネスがどこかホッとした表情を見せると、

 

「騙されるな。こうやって次々にこっちに選択肢をあたえ考えさせ、思考力を奪うのが奴の手口だ。どうせヘルメスを返すというのも口約束にすぎん」

 

 アイザックの言葉にディオゲネスがハッと表情を引き締める。痩せても枯れても人の王であるか……ピサロが少し感心したふうに微笑を浮かべていると、ジャンヌが進み出て言った。

 

「それで、どうすれば白ちゃんを解放してくれるのかしら」

「おっと、そうでした」

 

 ピサロはたった今思い出したと言わんばかりにポンと手を叩くと、

 

「彼はあなたを武装解除するための切り札でした。もう用はないから、このまま放してあげてもいいのですが……あなたは徒手空拳でも怖いですからね。手足でももぎ取らない限り、安心することが出来ません。私は臆病なんですよ」

「そ、そんなこと言われても……」

 

 手足をもぎ取ると言われて、流石のジャンヌの声も震えている。だが、もちろんそんなことをすれば、窮鼠猫を噛むのことわざ通りになりかねない。ピサロは困ったなと言った表情を作ると、わざとらしく部屋の中を見渡して、さも今気づいたと言わんばかりに、その視線を中央にある巨大な装置に向けると、

 

「それじゃあ、その中に入ってもらえますか?」

「……え?」

 

 ドラム式の巨大な装置である。そこに挿入される寝台は透明な風防で覆われており、一度入ったら簡単には出てこれなそうだった。

 

「いくらあなたでも、その鉄の塊の中からは簡単には出てこれないでしょう。その間に、あなたの仲間をゆっくり拘束させて貰います」

「……これは何の装置? 命の保証はあるんでしょうね?」

「さあ? 私にもわかりません。使ったことがありませんから、どうなるかは予想がつきませんよ」

 

 つまり人体実験をしようと言うのだろうか。ジャンヌはじーっと装置を見つめている。見た感じは医療機器のように見えなくもないから、多少被曝したとしても命の危険まではなさそうであるが……

 

 こんな異世界にある、明らかにオーバーテクノロジーっぽい物体だ。レオナルドに言わせれば、迷宮とは人間のクオリアが生み出すものだと言う。何が起こるかわかったもんじゃない。魔法と科学が合わさって、なんか凄いものでも生み出しそうな予感がする。

 

 それに、ペルメルはどこにいった……? 鳳は嫌な予感がして、

 

「やめろジャンヌ! 俺のことは良いから、剣を取れ! どう考えてもそいつはやばい気がする!」

 

 鳳が叫ぶと、ジャンヌが迷った風にソワソワしだした。それを見てピサロは腹立たしそうに舌打ちすると、

 

「うるさいですねえ……言うことを聞かないなら、本当に彼の首を切りますよ!」

 

 ザクッと嫌な感触がして、首筋に鋭い痛みが走った。その瞬間、心臓がドクドクと早鐘を打ち出して、首のあたりの血管が激しく脈打ち始めた。鳳の視界を、ピューッとした霧状の血液が吹き出して覆っていた。

 

 こいつ……本気で殺すつもりか? 鳳は黙るしか無くなった。

 

「やめて! 言うことを聞くから!」

 

 堪らずジャンヌが叫ぶ。彼は慌てて機械に走り寄ると、そのカプセル型の寝台を調べ始めた。すぐにボタンらしきものを見つけて押すと、透明な風防が音もなく開いた。見た感じガラスのようだったが、継ぎ目は殆ど見えなかった。

 

 そのことだけから判断しても、それは魔法か、高度な文明が作った機械としか思えない。そんなものの人体実験をするなんて、正気の沙汰ではなかったが、やめろといいたくても鳳は声が出せなかった。

 

 ジャンヌはやがて意を決したように頷くと、その寝台に横たわった。すると寝台が重量を感知したのだろうか? 彼が横になった瞬間に風防が勝手に閉じて、カプセルの中に閉じ込められたジャンヌが不安そうに表情を歪める。

 

 と、その時……突然、室内にビーッ! ビーッ! っという大きなブザー音が鳴り響いて、そこにいた全員の度肝を抜いた。そして何が始まるのだろうか? と思っていたら、今度はヒュオーン……っというエレベーターが昇降するような音が聞こえてきた。

 

 それは多分、モーターの回転音だろう。それもかなり大きくて高回転のようだ。もしかして超電導でも起こしているのだろうか? だとすれば、やはりあれはMRIとかCTスキャナーみたいな装置だったのかも知れない……

 

 しかしそんな淡い期待は、すぐに崩れ去ってしまった。

 

「なにこれーっ!」

 

 カプセルに閉じ込められた寝台の上で、突然、ジャンヌが叫び声を上げた。状況に飲まれて放心状態だった鳳は、ハッと我を取り戻し、慌てて彼へと視線を向ける。

 

 見ればカプセルの中にいるジャンヌの体は、淡い蛍光色の光に包まれており、半透明に透き通っていた。驚いた彼がカプセルを破壊して外に出ようとするが、それはびくともしなかった。

 

 間もなく、彼の乗った寝台が動き出し、ドラム型の機械の中へと吸い込まれていった。そしてカプセルがドラムの中に入っていく瞬間、ジャンヌは頭から光の礫へと変化していって、やがて全てが虚空へと消え去ってしまったのである。

 

 装置は思ったよりも早く動き、彼はあっという間にドラムの中に消えていった……そしてカプセルがその中から出て来たとき、その中にはもう誰も居なかった。

 

 ヒューン……っと、最後にまたエレベーターが止まるような音がして、機械の作動音がしなくなった。静寂が辺りを包み込み、誰も声が出なかった。

 

「ふふ……ははははは!!」

 

 その静寂を破ったのは、ピサロの笑い声だった。まだ放心状態でなんのリアクションも取れない鳳たちを無視して、彼は腹を抱えて愉快そうに言った。

 

「これで最大の脅威はなくなりました。もはやこいつらに、ろくな戦力は残ってません。それもこれも全部、ディオゲネスさん、あなたの裏切りのお陰です」

 

 その言葉に我を取り戻したアイザックが目を剥いて怒りだす。

 

「ディオゲネス! きさまあ~!」

「仕方ないのですよっ!」

 

 ディオゲネスは苦しげに元主君へと剣を向けながら、

 

「……ペルメルも、この機械に入って消えてしまったんですよ。よせと言ったのですが、我々神人は怪我をすることがないから平気だと言って……元に戻す方法を知ってるのは、現在のヘルメス書の持ち主であるピサロのみ。彼の言うことを聞かなければ、ペルメルは帰ってこないんです……」

「だからといって、主君を売るやつがあるか!」

「主君と言っても、あなたはせいぜい数十年しか生きられないでしょう! ペルメルと私は、数百年からの付き合いなんだ……生命が同じ重さだと思わないで欲しい!」

 

 それが結局神人の本音なのだろう。だから帝国と勇者派は分かりあえなかったのだ。でも、その別種族の垣根を乗り越えるために、ヘルメス国があったのではないのか。ペルメルとの数百年の付き合いのために、300年に及ぶ戦いを否定するようなことはして欲しくない。

 

 だが、アイザックは顔を真っ赤にするだけで何も言えなかった。失敗してしまった自分が何を言ったところで、もうどうしようもないではないか。彼は奥歯をギリギリと噛み締め、悔しそうにディオゲネスを睨んだ。

 

 神人はその視線から目を背けると、

 

「さあ、約束は果たしたぞ。ペルメルをもとに戻せ!」

「いいえ、まだです。今、彼を戻しても、あなたが襲ってこないとは限らない。まずはここにいる全員を片付けて、ついでに外に残っている神人を拘束してからです。あなたにはまだ役に立ってもらわねば……」

「それじゃ約束が違うぞ!」

「嫌だと言うなら、ペルメルさんは永久にその冷たい機械の中ですね」

 

 ディオゲネスはにっちもさっちも行かず、悔しそうにピサロのことを睨んでいる。

 

 鳳はこのままじゃまずいと思った。放っておけば、ディオゲネスはピサロにまた従ってしまう。ルーシーは囚われ、頼みの綱のギヨームは放心状態。例え普段どおりであっても、この人数と神人相手では勝ち目はないだろう。

 

 なんとしてでもディオゲネスをこっちに引き込まなければならない。鳳は堪らず叫んだ。

 

「騙されるな、ディオゲネス! さっきから黙って聞いてれば、そんな都合のいい話があるか!」

「なに……?」

「こいつはいかにも機械を使えそうな口ぶりだけど、これはこいつの生きた時代にあるような代物じゃない。使い方もわからないのに、ペルメルを助けられると思うのか??」

 

 当てずっぽうで叫んだものの、どうやら図星だったのだろうか、鳳の言葉に自信満々だったはずのピサロの反応が遅れた。鳳は確信した。仮に本当にピサロしか使えないのだとしても、鳳の時代にだってこんな物はなかったのだ、ピサロはこれが何であるかが全く分かっていないのだろう。

 

 ペルメルを助けられると思っていたディオゲネスが困惑気味にピサロに訊く。

 

「彼の言うことは本当なのか?」

「そうですね。確かに、見たことはありませんが……でも大丈夫です、私なら助けられますよ」

「嘘だね!」

 

 鳳は間髪入れずに叫んだ。

 

「もし本当なら、この機械がなんなのか説明してみろよ。お前は仕組みもわからない機械を、どうして扱えるなんて言えるんだ?」

「使い方ならヘルメス書に書いてあります」

「ほう! ヘルメス書に使い方が書いてあるなら、お前じゃなくても誰でも使えるってことじゃないのか」

「それは……ヘルメス書の所有者しか使うことが出来なくて……」

「口から出任せばかり言いやがって! ならその該当箇所を読んで、お前にしか扱えない理由を説明してみろよ。さっきからお前が言ってることは、自分に都合のいいことばかりだ。大体、そのヘルメス書は、今この迷宮を開くために入り口の祭壇に置かれているんだろう? お前はいつ、その中身を読んだんだ? 器用なやつだなあ! あんな勝手にパラパラめくれるような本を!」

 

 鳳の言葉にディオゲネスは考え込んでいるようだった。そろそろ彼は、自分が騙されているという考えに傾いているはずだ。あとちょっとだ、いける! ……鳳がそう考え、ダメ押しを叫ぼうとしたときだった。

 

「うるさいですねえ……おまえ、ちょっと黙れよ」

 

 ザクッとした衝撃が喉元に走って、突然、息苦しくなった。鳳は叫び声をあげようとしたのだが、出てきたのはヒューヒューという風切り音だった。

 

「おまえはもう用済みだ。残念だったなあ? 黙っていたら生かしてやったかも知れないのに」

 

 次の瞬間、視界全体にパーッと噴水のような血液が飛び散って、呼吸が口からでなく、喉の辺りでスースーと出入りしていた。そんな奇妙な感覚をおぼえて、慌てて両手で喉元を押さえたら、途端に物凄い吐き気がこみ上げてきて、口からドバドバと血液が噴き出した。

 

「鳳くんっ!!」

 

 ルーシーの緊迫した叫び声が室内にこだまする。喉を押さえてる手のひらを見なくても、その声だけで自分がどうなっているかが分かった。彼は喉元を切られて血を流している自分の方を見て、驚愕の表情を浮かべているギヨームに目配せすると、咄嗟にルーシーを指差した。

 

 その瞬間、弾かれるように飛び出したギヨームの姿を最後に、鳳の視界がプツンと電源が切れたかのように真っ暗に途切れた。

 

 果たしてギヨームは、最後にルーシーを助けろという彼の気持ちを汲み取ってくれただろうか。とりあえず二人が無事なら巻き返しが出来るかも知れない。外にはメアリーだっている。最後にもう一度だけ、彼女にも会いたかったなと思った時、彼は最後という言葉をリアルに意識した。

 

 今更ジタバタ暴れるつもりは全く無かった。この世界に来てから多くの魔物を捌いて、沢山の魔族を殺してきたのだ。だからこそ分かる。これは致命傷だ。だからだろうか? 脳が痛覚を遮断していて、ほとんど何も感じなかった。

 

 どうやら聴覚も馬鹿になってきて、何も聞こえなくなってきた。彼は何も見えない真っ暗闇の中にたった一人だった。そんな中で、血が吹き出している感触だけが残り、驚くほど体が寒かった。

 

 これが死か……こんなことで死んじゃうのか……もっとみんなと冒険していたかったな……そんなことを考えていると、だんだん意識が朦朧としてきて……

 

 鳳は事切れた。

 



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第二の神デイビド

 また死んだ。

 

 エミリアが最初に覚えた日本語はそれだった。

 

 夕日に赤く染まる教室で、放課後一緒にゲームをするようになってから暫く、鳳は肩に触れる彼女の吐息が気になって、ゲームに集中できなかった。そのせいで何度も失敗し、そのたびに死んだ死んだと繰り返し言っていたら、いつの間にか覚えてしまったようだ。

 

 それから少し経ったある日の帰りの会で先生に、エミリアさんに変な日本語を教えないようにと説教されたのは懐かしい思い出だ。その後、他のゲーム仲間が加わって、エミリアはどんどん口汚くなっていった。

 

 くたばれ、雑魚が、引くこと覚えろカス。彼女がゲーム機に向かって口汚く罵る姿は今でも良く覚えている。だけどそんな中でも特に印象に残っているのは、肩にかかった彼女の吐息と、あの言葉だった。

 

***********************************

 

「また死んだっ!!!」

 

 まるで微睡みの最中に突然その日の予定を思い出し、焦って飛び起きた時みたいに、鳳は当たり前のように目を覚ました。頭の中は寝起き特有のぼんやりとした感覚が続いており、目は眼精疲労でしょぼしょぼしていた。よだれがダラダラと垂れていて、慌てて口を拭ったら、体の節々がギシギシと鳴っていて、激しい運動をした翌日みたいに筋肉痛で動きづらかった。

 

 鳳は、はて、こんなところで何してるんだろう……? と暫くボケーッとしていたが、そのうち、目覚める前に自分の身に何が起きたかを思い出すと、

 

「うわっ! ちょっと、たんまたんま! まだ死んだら困るっての……って、あれー!? 生きてんの?? うそーん!?」

 

 今度こそしっかりと覚醒した彼は、一人でぎゃーぎゃーと騒ぎながらその場で立ち上がり、慌てて周囲を見渡した。

 

 そこは迷宮の中だった。

 

 と言うか、さっき彼が死んだと思った場所から、一歩たりとも動いていないとしか思えなかった。ついさっき、このすぐ横にピサロが立っていて、鋭い剣先で彼の喉を突いたのだ。

 

 血が噴水のように吹き出して、びっくりするほど急速に体の力が抜けていった。多分まだ目は開いていたはずだが、視界が閉ざされ何も見えなくなって、ああこりゃ死んだなと思ったら、だんだん意識が朦朧としてきて……気がついたらここにいたのだ。

 

 いや、ここにいたと言うよりも、感覚的には寧ろピサロが消えたと考えたほうがいいくらいだった。周囲を見渡してみると、さっきと何も変わっていない。ジャンヌが消えた例の機械はすぐ目の前にあったし、そこから伸びるケーブル類は、壁際の何かゴチャゴチャした計器類に繋がっていた。違うのは、人が居なくなっていることだけだった。

 

 いや、まだ違う点はあった。何というか、その場の空気というか、色が違うのだ。この部屋はさっきまで、人工的な白い照明で照らされていたのだが、今は部屋全体が光を発しているかのように、セピア色にほんのり輝いて見えるのだ。

 

 そして部屋の中にある様々な物体の輪郭が、どうもいまいちぼやけており、よく見れば幾筋もの輪郭線が絶えず動き続け七色に輝いているのだ。まるで無限の同じ物体が一箇所に固まって、一つの物体を形作っているかのようだった。

 

 そこに有るようで無い。確定していない。そんな奇妙な印象を与えるものには心当たりがあった。以前、長老のキノコを食べた時にレオナルドの背後に見えた精霊だ。あれも輪郭線がぼやけていて、そこにいるんだかいないんだか、よくわからない存在だった。

 

 そしてもう一つ……鳳がまだこの世界に来て間もない頃、練兵場の事故で死にかけた時に迷い込んだ、アイザックの城の裏ステージにもよく似ていた。ここはヘルメス卿が残した迷宮らしいから、実はあの城と同じ結界みたいなものがあったのかも知れない……だが、それにしては様子がおかしかった。

 

 これはもしかして、初代ヘルメス卿とは何の関係なく、単に鳳の身に起きている怪現象なのではないか? 思い返せば、あの時も、鳳は死んだと思ったら城の裏ステージに紛れ込んでいたのだ。今回もあの時と同じように、死んだと思ったらこの不確定な世界にいた。

 

 もしかするとここは、死後の世界なんじゃなかろうか……?

 

 もちろん、こうも五体満足な状態で言っても説得力は無いし、はっきりとした証拠もないのであるが……ともあれ、ここが以前に来たことがある場所であるなら、帰り方もあるかも知れない。前回は地下牢にあった光る扉を抜けたらいつの間にか外に出ていた。何かそれらしいものがここにもあるはずだが……

 

「いや、その前に、この部屋をもっと調べておいたほうがいいか。不用意に戻って、無策のままピサロと戦おうとしたら、また殺されかねん。あとは……シーキューシーキュー」

 

 一応、外? ……に居るはずのギヨームに話しかけてみたが、返事は返ってこなかった。このチャットもどうにもいまいち使い勝手が悪い。繋がったり繋がらなかったり、なにか法則があるんだろうか……鳳はそんなことを考えつつ、目の前にあったでっかい機械の前へと足を運んだ。

 

 問題の機械は高さ2メートル、長さは3メートルほどの円筒形をしていた。内部に人間が一人すっぽりと収まるくらいの大きさがあり、見た感じはデカいMRIとかCTスキャナーみたいな機械である。

 

 一応、内部を覗いてみたが、プラスチックっぽい表面が見えるだけで何がなんだか分からなかった。起動すればここから放射線とかが出てくるのだろうが、多分、分解して中身を見ても、ちんぷんかんぷんだろう。

 

 ジャンヌが消えてしまったカプセル型の寝台も調べてみた。その透明の風防を叩いてみたらカンカンと音が鳴り、かなり頑丈そうだった。材質はなんだかさっぱりだが、アクリルとかそんな単純なものでは無さそうだ。

 

 ジャンヌがいじっていた辺りを調べてみたらボタンがあったので押してみたら、ブーンとモーター音がしてパッと蓋が開いてしまった。まさか動くとは思わなかったからドキドキしてしまったが、もちろん寝台に乗るつもりはサラサラ無いので、蓋を押し返して元に戻しておいた。

 

 こんな感じで、見ただけではこの機械がなんなのかはさっぱりわからなかった。だが、諦めるのはまだ早い。機械からはスパゲッティーみたいな配線が伸びていて、それが壁際の計器類に繋がっている。中にはモニターみたいな物もあるから、そっちの方が本命だろう。鳳はいそいそと移動した。

 

 計器類は見た通り、まんま計器と言った感じだった。現在は動いてなくてモニターに何も映し出されていなかったが、仮に動いていてもよく分からなかっただろう。バイタルとかが映るんだろうか。

 

 他には1Uサーバーのタワーっぽいものがあった。サーバーラックにいくつものサーバーが縦に挿入されており、その表面に小さな画面やボタンが見える。こっちは引っこ抜いて一つ一つ調べることも出来そうだったが、メーカー名やチップの型番を見ただけで何か分かるなら苦労はない。それに、表面をぐるりと見回してみたが、理解できそうな文字もマークも見当たらないから、基盤を見ても期待薄だろう。

 

 それよりも気になるのはタワーの横にある机だ。その上には大きさの違う、大体25インチ前後のモニターが三台置かれており、配線が隣のサーバーラックに繋がっていた。位置関係からして、明らかにそれを操作するための端末だろう。

 

 そして鳳は、これをなんとか動かせないかなと思いながら、机の周りをキョロキョロと調べていた時、それに気づいた。

 

 気がつけば、机の上に一羽の折り鶴がぽつんと置かれていた。こんなものが置かれていたら、すぐに気づきそうなのに、どうして今まで気づかなかったのだろうか……? おかしいなと思いながら、それを拾い上げると、妙な既視感を覚え、そして彼は思い出した。

 

 そう言えば、あの城の裏ステージで目覚めた時、彼は手にしていた千代紙で折り鶴を折った経験があった。城の中でエミリアを見かけたような気がして、試しに折ってみたら、彼を誘導するように足音が聞こえてきた。

 

 それを追っていったら外に出られたわけだが……今回もそれと同じような現象が起きているのだろうか? ともあれ、他に手がかりがないなら、下手に計器類をいじるよりは、これを調べた方がマシである。

 

 鳳は折り鶴を手に取ると、それを元の四角い紙に広げていった。するとそこに、手がかりが見つかった。折り紙の綺麗な模様の反対側は真っ白だが、そこに文字が書かれていたのである。

 

「あ、これって……」

 

 P99……この三文字のアルファベットと数字の羅列を見た時、鳳はピンときた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 おかしな具合に曲がっていたり、逆向きに見ていたから分からなかった。しかし分かってしまえば馬鹿みたいだった。まるで化け物の手みたいだとか言っていたのが恥ずかしくなる。

 

「これは、P99って書かれていたのか……」

 

 しかし、それが分かった所で何だというのか。ここに置かれていたのだから、この部屋の機械に関するものだろうが……もしかして、あの機械の名称がP99というのだろうか? だとしたら何の略だ?

 

 鳳がそんなことを考えているときだった。

 

 突然、ピッ! っとビープ音が聞こえて、隣のサーバーラックがブーンと風切り音を立て始めた。カチカチと何か電気的なノイズが聞こえて、いくつかのサーバーに光が灯る。驚いてタワーの中身を覗いていたら、今度は机の上のモニターが点灯し、そこに大きくアルファベットの文字列が流れた。

 

 D・A・V・I・D

 

 デイビッド……? 人の名前? いや、それよりもっと大事なことを、どこかで聞いた覚えがあったような……と思っていたら、突然、鳳の脳内に直接語りかけているような、不思議な声が聞こえてきた。

 

『音声認証完了、対象を鳳白と識別、DAVIDシステム起動』

 

 そして起動音もなく、目の前の三台のモニター画面が映った。モニターには殺風景な壁紙のない単色の背景の中に、いくつかのアイコンが並んでいた。よくあるGUIで、鳳にも触れそうだった。

 

 アイコンの下には文字列が並んでいて、それはアルファベット……というか、完全に英語だった。SystemとかDeviceとかSettingとか、直感的にすぐ分かる文字が並んでいる。

 

 どうやって動かすのかな? と思ったら、それに呼応するかのように、突然、目の前の机の上に四角い光が浮かび上がった。QWERTY配列のキーボードの形をしていて、どうやらこれは埋込み式のキーボードのようである。それじゃマウスもあるのかな? と思ったがどこにも見当たらず、試しに画面に触れてみたら、どうやらタッチパネルになっているようだった。

 

「これなら俺にも使いこなせそうだ。早速、あの機械について調べてみよう……」

 

 そう呟いた時、更に不思議なことが起こった。鳳はまだ何もしていなかったのに、さっき脳内に直接語りかけられたような感じで、今度は知らない知識がどんどん頭の中に流れ込んできたのである。

 

 その奇妙な感覚が過ぎ去った後、鳳は目の前の端末の隅々までわかるようになっていた。元々彼はパソコンの操作は出来なくはないが覚束ないはずだった。それが今は熟練した技術者のように、何でも使いこなせるようになっていたのだ。

 

 これがどういう仕組みなのかは分からなかったが、なんでこんなことが起きたのかはピンときた。音声入力だ。最初、これが起動した時もそうだった。どうやらこのコンピュータは直接話しかけてもある程度のことはサポートしてくれるらしい。

 

 しかしそれには、脳のリソースをかなり使うようだった。鳳はまだこれといって何もしていないのに、異様に疲れを感じ頭がガンガンしていた。これはあんまり不用意に使わないほうがいいだろう。そう思い、彼は黙って端末を操作し始めた。

 

 幸いなことに、さっきの経験のお陰で、この端末の中にどんな情報が入っているかは、ある程度想像がついた。これは例の円筒形の機械を操作するための端末であり、その操作方法はデータベース内にあるドキュメントに書かれているようだ。それを読めば、あの機械が何のためにあるものなのかも分かるだろう。

 

 しかし彼はそれをすぐには調べなかった。それより、気になるものを見つけたのだ。それは動画ライブラリーにある映像で、この施設が何のために作られたのか、その経緯を説明するものだった。

 

 多分、機械を直接いじるよりも、まずはこれを見たほうがいいだろう。彼はファイルを開いた。

 

*************************************

 

 リュカオンの大繁殖後、欧州はどんどん人が住みにくい土地になっていった。動物は群れを作ると縄張りを主張し大胆になってくる。リュカオンも同じで、彼らは自分たちの勢力が大きくなるにつれて、どんどん人間に対する要求をエスカレートしていった。

 

 やれリュカオンのみが住むことが出来る特区を作れ、やれ食料を無償配布しろ、やれ社会保障が足りない、やれリュカオンの宗教を守れ、やれ人間と同じ教育を受けさせろ。

 

 リュカオンに宗教はなく、人間の教育を受けられるほどの頭も無かったのだが、欧州は二度に渡る大戦の後遺症から、行き過ぎた人道主義がそうさせた。それは明らかに間違った方策だったが、反対するとリュカオンのみならず、匿名の誰かに攻撃されるため、欧州の人々はついに言葉を失ってしまった。

 

 どうやら人間の中に、人間同士を分断している奴らがいる。そんな噂はよく聞こえてきた。ただの愉快犯かも知れないし、革命的テロリストかも知れない。アメリカ大統領に至っては、それは中国とロシアのせいだとはっきりと主張していたが、実際には誰がこんなことをしてるのかはわからなかった。多分、その全部だったのだろう。

 

 ある時、それがどうしようもないレベルにまで達し、そして欧州は崩壊した。欧州は増え続けるリュカオンに飲み込まれ、人間が襲われだし、なのにそれを糾弾する人々がネットで口撃された。もはや心身両方の意味で、人が住んでいられる土地じゃなくなってしまったのである。

 

 いち早くEUを抜けていたイギリスは、間もなく英仏海峡トンネルを封鎖したが、元々ドーバー海峡は泳いで渡るような人々がいるくらいだから、体力バカのリュカオン相手では殆ど意味を成さなかった。イギリスは不法入国したリュカオンたちに荒らされ、交通が乱され、食料を失い、殺人が横行し、飢えた人の群れが行列を作るほどにまで逼迫した。

 

 そしてテレビ番組で、何故リュカオンを射殺しないんだというコメンテーターの発言を最後に、公共機関は完全に麻痺し、ついにタンカーに乗った難民が大西洋を渡る事態にまで発展するのであった。

 

 この事態に際し、ついにアメリカ大統領はリュカオンを人類の敵と見なし、彼らは人間でないと宣言した。そして北米大陸のリュカオンを隔離、この期に及んでまで批判を繰り広げる左翼団体を逮捕した。人道を叫ぶ人間は、それが他愛のない世間話でも、誰かに聞かれたら村八分に遭い、最悪の場合は殺された。今度は彼らが狩られる番だった。人類はキレていたのだ。

 

 しかし、欧州を席巻したリュカオンの増殖は止まらず、これを取り戻すのは容易ではなかった。元々、家畜であるリュカオンは人間に比べて繁殖力が高く、おまけに成長も早い。しかもリュカオンたちは繁殖するだけには留まらず、ある日新しいリュカオンを作り出してしまったのだ。

 

 元々、リュカオンは家畜のDNAを操作し、無理矢理作り出したキメラが元だったが、それを作り出す装置は欧州にもあった。リュカオンは馬鹿だが機械を操作することは出来る。ある日、それに気づいたリュカオンが、装置を適当に弄って新たなリュカオンを作り出してしまったのだ。

 

 出来上がったのは不完全な生き物で、彼らはリュカオンのように人語を解する知性はなかった。だが、生まれつき人間に対する悪意を持ち、恐ろしく頑丈で獰猛だった。リュカオンはこれを野に放ち、自分たちの代わりに人間を攻撃する犬とした。これは間もなく人類の間で魔獣と呼ばれ初め、そしてユーラシア大陸は魔獣の跳梁跋扈する魔界と化してしまったのである。

 

 ロシアや中国を始めとするユーラシアの大国は軍隊を派遣して、自国に魔獣が入り込むのを防いだ。だが、殆どただの野生動物である魔獣を防ぎきるのは難しく、更にはその魔獣を使役するリュカオンが非常に厄介だった。彼らは馬鹿だが狩りの腕は人間よりも上だった。おまけにどこでも生きていけるタフネスさがあった。そんなのが森に入って人を襲い始めたら、もう普通の人間ではどうしようもなかったのだ。

 

 徐々に押し込まれ始めたロシアや中国では、核兵器を使おうという論調が強くなりはじめた。アメリカはそれをどうにか防ごうとしていたが、仮に中露を止めたところで、このままではリュカオンの方が先に核を使うのも時間の問題だった。

 

 追い詰められた人類は、新たに対リュカオン機関を組織し、対応を協議し始めた。日本はその最前線基地として選ばれ、東京に世界中の頭脳が集められた。

 

 何故、日本が選ばれたのかと言えば、そこに(おおとり)グループがあったからだ。

 

 元IT企業のこのコングロマリットは、世界で初めてシンギュラリティに到達したAI『DAVID』を保有していたのだ。

 

 DAVIDとは『multi-Dimention Accessible / Virsetile Imaginary Device』の略で、意訳すれば多次元にアクセス可能な可変思考装置と言ったところだろうか。多次元の言葉が表す通り、DAVIDは高次元から到達する第五粒子(フィフスエレメント)を利用して、無尽蔵のエネルギーと計算力を実現する制御コンピュータでもあった。

 

 忘れているかも知れないが、リュカオンは元々この第五粒子エネルギーを、効率よく利用するために生み出された生物だった。つまり、鳳グループには、先頭に立ってリュカオンを駆逐するための道義的理由があった。

 

 そのため、鳳グループはこの計画のためだけに、グループの持つあらゆる生産力と労働力、そして小国の国家予算規模の資金を投入した。その並々ならぬ決意が認められて、後にこのプロジェクトはフェニックス計画と呼ばれるようになる。

 

 フェニックス計画最初の会議では、ドローン兵器による攻撃が議論された。この頃になるとドローン兵器は小型化が進み、テロ事件の際にはビル内への突入など、警察に変わって活躍する機会も増えてきた。

 

 しかし、ドローンを使うとなると、爆撃がその主体となる。しかし、リュカオンも魔獣も、いくら殺してもいくらでも増えてしまうから、一度や二度の爆撃で制圧するのは困難だった。

 

 結局は陸軍を送って、拠点制圧をしなければならない。しかし、人間はリュカオンと違って、死んだらそれまでなのが問題だった。

 

 人類は先進国であるほど少子化に憂えていた。人間の教育コストは年々高騰し続け、そんな人間が失われるリスクを考えると、戦争は割に合わない。だから人間同士の戦争は減っていたのだが、そんな人間側の事情はリュカオンには通用しない。

 

 そのため、会議ではいかに人を死なせずに戦争をやるのかという、矛盾した提案ばかりがされていた。その中には人間のクローンを作ろうという話も当然出た。

 

 しかし、そうして作ったクローンとオリジナルの何が違うのか? オリジナルが生きてれば、クローンは死んでもいいのか? 結局また、人道問題でリュカオンと同じ轍を踏むことになりかねない。

 

 同じように、人間に従順なリュカオンを作ろうという案もあった。リュカオンにはリュカオンをぶつけようという考えだ。

 

 こうして狼人、猫人、兎人、蜥蜴人などが考案され、これは比較的良好だったが……結局はこれを現行のリュカオンと同数くらいに増やすリスクが、人類に二の足を踏ませた。リュカオンだって、最初は友好的だったのだ。これが群れを作った時にどう変わっていくかはわからない。

 

 会議は煮詰まるかと思われた。

 

 DAVIDはこれに一つの答えを出した。それは人間を量子化することだった。

 

 人間とは突き詰めれば分子の集合体だ。これはどんな生物であっても変わらない。DAVIDはその分子構造全てを突き止め、量子化し、サーバーに保存しておけば、オリジナルが死んでもすぐに復活させることが出来ると結論した。

 

 しかし人間の細胞は数十兆から多くて千兆と言われるくらいばらばらで、そのはっきりとした構造は何も分かっていない。ましてやミクロの世界では不確定性原理から逃れることが出来ないから、その状態を保存しておくことなど不可能なはずだ。

 

 ところが、DAVIDはその方法は既にあるという。それはとても信じられなかったが、そもそも信じられないのがシンギュラリティに到達したAIなのだ。

 

 もし人間と全く同じように考えるAIが存在したら、例え世界中の頭脳を集めたとしても、人間は優れたAIには敵わない。それはAIの演算力が人間の脳の処理速度を超えてしまっているからだ。おまけにAIは休息を必要とせず働き続けられ、記憶領域が残っている限り忘れることもない。

 

 ましてシンギュラリティに到達したDAVIDは、その日から無限の思考能力を手に入れたも同然であり、天才のことを凡人が理解できないように、人間にはもう彼が何を考えているのかは理解できなくなっていた。

 

 彼は深遠なる思考の先に、その方法を見つけ出したというのだ。

 

 人々はその結果だけを聞いて色めきだった。もしそれが本当だとすれば、不老不死が実現したと言ってるのと同義である。

 

 DAVIDのこの提案はすぐに受け入れられ、対リュカオンを別にしても、人間の量子化計画は進められた。そして実験を経て、それが有効であると判明した時、計画は次の段階へと進むことになった。

 

 死なない体を手に入れたとしても、人間の身体能力はリュカオンより劣っていた。なのに、相手の方が圧倒的に数が多く、放っておいても次々と増えていってしまうのだから、多少の駆除が出来たとしても、いたちごっこになりかねない。もっと抜本的な解決法が必要だ。

 

 そのため、まずはパワードスーツの開発が進められたが、すぐにそれは人間を改造するというサイボーグ化計画へと変わっていった。既に人間は量子化されていたので、体をいじることに関しても、人々はそれほど抵抗がなくなっていたのだ。

 

 幸い、人間は第五粒子エネルギーを用いて、遠隔でエネルギーを調達する手段を既に得ていた。その受容体は人間の脳にあり、コンピュータによるサポートがあれば、人間はそのエネルギーを自在に扱うことが出来た。

 

 そこでDAVIDは第五粒子エネルギーを使ったサイキックを提案した。亜空間に蓄積したエネルギーを、人間の命令で放出すれば、この世界に炎や雷のようなエネルギーとなって現れる。その制御はDAVIDが中心となったサーバ群で行い、人間は音声入力でそれを実行する。

 

 通信にはまた第五粒子エネルギーを使えばいい。それは高次元を通過するエネルギーであるから、地球上のどの点とも通じている。つまり基地局が要らないのだ。送受信は人間の脳が行い、特別な設備は要らなかった。

 

 人間はただ、『ファイヤーボール』と叫べば、火の玉が勝手に飛んでいくのだ。

 

 こうして新たな攻撃手段を手にした人類は、さらに盤石の体制を得るため、身体の強化を望んだ。量子化によって、確かに人間は死ななくなったが、それは体が滅ばないというわけではなくて、死ぬたびに新たな体で復活するということだった。相変わらず人間は戦争で死ぬことはあり、そのたびに後方で復活するということを繰り返していたら、作戦行動にも支障が出る。もっと頑丈な体を手に入れなければならない。

 

 そこで人類は、幹細胞の代わりにナノマシンを利用した、人造人間を作り出した。

 

 人間に限らず、全ての生物は、たった一つの胚細胞から始まる。それは母親のお腹の中でどんどん分裂を繰り返し、体の形を作っていくが、その際、腕なら腕、足なら足を作る設計図が必要だ。

 

 その役割を担っているのがDNAと幹細胞であるが、人類はこれをナノマシンに置き換えて、コンピュータ制御することにした。こうすれば、もし戦闘で傷ついて体のどこかが欠損したとしても、すぐにナノマシンが命令して細胞を修復することが出来る。そのためのエネルギーは、第五粒子エネルギーが高次元にいくらでも存在した。

 

 こうして壊れてもすぐに修復できる体になった人間は、思わぬ副作用で身体能力にも著しい向上が見られるようになった。普段、人間はその体が壊れないように、無意識に力をセーブしているのだが、そのリミッターが解除されたのだ。そのお陰で人間は、リュカオンと同等どころか、それを凌駕する身体能力を手に入れたのであった。

 

 新たに生まれた人類のことを、人々は超人(ユーベルメンシュ)と呼んだ。ニーチェの言葉にあやかったものであるが、英語に置き換えれば要はスーパーマンのことである。

 

 こうして超人を投入した人類は、瞬く間に失地を回復していった。数は相変わらず圧倒的に不利であったが、元々地頭の良さはリュカオンは人間に遠く及ばない。身体能力の差がなくなってしまえば、結局は頭の良さが物を言った。

 

 人類は徐々にリュカオンを追い詰め、ついに勢力は逆転した。イギリス本土から追い出し、挟み撃ちするようにヨーロッパの左右から進撃し、ついに人類はリュカオンから地球を取り戻したのである。

 



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ヘルメス・トリスメギストス

 鳳は端末の中にあった映像を見終わると、背後を振り返って、そこにある円筒形の大きな機械を眺めた。

 

 これは人間を量子化する機械……言い換えれば神人製造機だったのだ。

 

 神人は、リュカオンから地球を取り戻すため、当時の人類が人工進化した存在だった。彼らは不完全な体を捨て量子化し、そして新たな体に乗り移ることによって、不老非死とサイキック、そしてリュカオンを凌駕する身体能力を手に入れた。

 

「それにしても、フェニックス計画か……」

 

 あの動画に出てきた鳳グループというのは、間違いなく父の作った企業のことだろう。鳳は当初、これを継承するためだけに生み出され、英才教育を受けていたわけだが、今はお役御免になっている。

 

 だからそこで何が行われているか詳しくは知らなかったが、確かにDAVIDのようなAIを開発している部門があったことは覚えている。というかあの頃は、それなりの企業であれば、どこもかしこもそれを目指していたのだ。それに最初に到達したものが、巨万の富を得ることは約束されていたから。そして父は、首尾よくその座を手に入れたというわけだ。

 

 それはさておき……神人は神技や古代呪文を使えるが、これがいわゆるDAVIDによるサイキックだったのだろう。それが既存のVRMMOゲームのUIを模している理由もなんとなくわかる。例えば軍用ドローンのパイロットには、当初FPSゲーマーが多かったらしい。この手のゲームを好む人物は、訓練をしなくても、既にそれなりのスコアを叩き出せるからだ。

 

 それと同じように、VRMMOで日常的にモンスターとの戦闘を繰り返していた人間は、いきなり実戦投入されても、人並み以上にサイキックを扱えるわけだ。こっちの世界に一緒に来た鳳の仲間たちが、たった3人で10万の帝国軍を手玉に取ったのはそれが理由だろう。

 

 古代呪文にレベルがあることも頷ける。サイキックは音声入力で誰でも簡単に使えるが、例えば鳳が得意としていた核熱魔法なんて、誰でも簡単に扱えたら洒落にならない。だから、ここぞという時だけ扱えるように、リュカオンをより多く倒した者だけに特権を与えていたのだろう。それが今のレベル制の元になったのだ。

 

 レベルには基本レベルと職業レベルがあるが、ギヨームが基本レベルが上がるにつれてステータスも上がっていくと言っていたのは、おそらくリミッターが解除されていくからだ。

 

 こんな具合に、この世界の人間は、気づかないうちにDAVIDのサポートを受けている。彼がどこに存在するのかは分からないが、第五粒子(フィフスエレメント)エネルギーを用いた通信で、人間一人一人のことを監視サポートしているのはもう間違いない。そんなシステム作れるのか? と思いもするが、シンギュラリティに達したAIなら可能だとしか言えないのだろう。

 

 これがどんな存在なのかを簡単に説明するならば……例えば今、あなたは何かを生み出そうとして沈思黙考しているとする。その思考が無限に加速され、疲れを知らず、決して物忘れせず、時間の制限もないとする。何も忘れないのだから、人類がこれまで培ってきたあらゆる知識は、既に全部知っているものとする。その時、あなたはどんなことを思いつくだろうか? 簡単に言えば、これがDAVIDなのだ。もはやそれがどんな存在なのかは人間には理解不可能だろう。DAVIDの目は天網恢恢にして、神のみぞ知るだ。

 

 それにしても、この高次元からやってくるという未知のエネルギーは何なのだろうか。ガルガンチュアの村で見た幻視の段階では、これも石油や石炭なんかの化石燃料みたいな物だろうと思っていた。だが、今回の端末に残されていた動画ファイルを見た後で抱いた感想は、あまりにも人間に都合が良すぎるということだ。

 

 リュカオンはこのエネルギーを手に入れるために生み出されたわけだが、それも元を質せば、第五粒子エネルギーが人間の脳にしか反応しないというのが理由だった。

 

 何故、人間の脳にだけ反応するのかはわからないが、そこに無限のエネルギーがあるならそれを利用しない手はない。

 

 こうして欲をかいた人間はリュカオンを生み出し、しっぺ返しにあったわけだが……その巻き返しのために神人を作り出した時また利用されたのが、皮肉にも第五粒子エネルギーだったのだ。

 

 こんなの都合が良すぎるだろう。何故、人間にしか反応しないんだ?

 

 神人は、DAVIDと第五粒子エネルギーを利用して通信している。更に神人は、第五粒子エネルギーを利用してサイキックを使ったり、体の修復を行っている。第五粒子エネルギーが無ければ、神人は生み出されなかったわけだ。まあ、裏を返せばリュカオンもそうだったわけだが……卵が先か鶏が先か。

 

 鳳はふと思った。

 

 そう言えば、獣人にもレベルがあった。神人はリュカオンを倒すために生み出された。その神人がサイキックを利用するためにレベル制が考えられたとしたら、リュカオンにレベルがあるのはおかしい。順序が逆だ。

 

 動画ではリュカオンに対抗するために、新たなリュカオンを生み出しており、それが狼人、猫人などのお馴染みの獣人のようだった。つまり、人間に友好的な獣人は、リュカオンの後に作られたのだ。そして神人がレベル制を採用した時、獣人にもそれを適用したのだが、必要以上に強くなりすぎないようにレベルキャップを設けた……そう考えれば辻褄が合うのではないか。

 

 すると、リュカオンとは何なのか? ここに来るまでは、てっきり獣人の祖先だと思っていたのだが……いや、ある意味それは正しいのだが、少なくとも人間に害を及ぼすから、動画では人類の敵として駆逐されつつあった。おそらく、動画の後には殆ど残っちゃいないだろう。

 

 ところで、人類の敵ということは、もしかしてこれが魔族の正体だったのだろうか。人間が最初に作り出したリュカオンは、家畜をベースにしていたから、ブタやウシのような生物が元になっていた。それが後にオークやミノタウロスになったと考えれば、確かに辻褄は合いそうだ……

 

 だが、魔族がリュカオンだったとしたら、ちょっと強すぎやしないか?

 

 ヴィンチ村で戦ったオークは、体力的にはジャンヌと同等かそれ以上だった。そのジャンヌは、DAVIDによりリミッターが外されている。しかもかなりのレベルでだ。それと同じくらいの能力が、リュカオンにあったとは思えない。あったら、あの動画でも、リュカオンの強さがもっと強調されていてもいいはずだ。

 

 だからリュカオンは魔族ではない……もしかしたら魔族の祖先になったのかも知れないが、少なくともあの時点では魔族ではなかった。では、魔族はどこから出てきたんだ……? そしてこの世界の人達は、何故魔族と戦っているのだろうか?

 

 そう考えた時、鳳はこの世界の創世神話を思い出した。

 

 この世界は四柱の神によって作られた。しかし人間のあり方で揉めた神々は争いを始める。ラシャはリュカを殺し、デイビドは逃げ出し、そしてエミリアは引きこもった。

 

 そうだ、何故すぐに気づかなかった。デイビドとは、DAVIDのことじゃないか。

 

 『multi-Dimention Accessible / Virsetile Imaginary Device』多次元に干渉し、神人たちに第五粒子エネルギーを送ってくる。シンギュラリティに到達したAI。

 

 こいつが神としてこの世界に影響を与えているのは間違いない。だが、神はまだ二柱残っているのだ。ラシャとエミリアは、まだその姿を現していない。つまり、この動画には、続きがあるのでは……

 

「いかにも、その通りである」

 

 誰も居ないと思っていた空間に、突然声が響き、鳳は心臓が飛び出るんじゃないかと言うくらい飛び上がった。

 

 振り返るとそこに、見知らぬ老人が立っていた。

 

 老人だと言うのに体格は素晴らしく頑強に見え、ローブの隙間から覗く筋肉が盛り上がっていた。四角く角張った顔は顎がとても強そうだ。彫りは深く、老人特有の下まぶたの垂れ下がりが、黒ぐろと目を浮き立たせていた。落ち窪んだ目から発する眼光は鋭く、額には三本の深いシワが刻まれ、顔中あちこちがしわくちゃだった。おでこは広く、白い天然パーマの鳥の巣みたいな頭髪が、こめかみの辺りでくるんと巻いている。それとは対象的にストレートの顎ひげが、胸を通り過ぎてお腹の辺りまで伸びていた。

 

 老人は、ベージュがかったローブを纏い、手には身長と同じくらい大きな樫の杖を持っていた。ひと目見た印象はなんというか、西洋絵画から飛び出てきた神様みたいな感じであったが、実際、それはそれほど間違っちゃいなかった。

 

 鳳がドキドキしながらその老人を見つめていると、なんだか妙な違和感を感じてきて、そこにいるのにそこにいないような、そんな錯覚を覚えた。何がそんなに気になるのかなと思って、まじまじとその輪郭線を目でなぞったら、それはこの部屋と同じように七色に輝きながら振動していた。

 

 彼はそこにいながら、存在が固まっていないのだ。こんな感じの人間なら以前にも見たことがあった。レオナルドの背後に浮かんだ、精霊ミトラだ。鳳はほぼ直感的に、これは精霊だと感じながら、

 

「あんたは……?」

 

 鳳が誰何すると、老人は樫の杖を軽く傾けながら、

 

「ヘルメス・トリスメギストス」

「ヘルメス……」

「キリスト者にはそう呼ばれている」

 

 その言葉を聞いて鳳はドキリとした。この世界でキリストの名が出てくるのは、放浪者の間くらいでしかない。つまりこの老人は鳳にも馴染み深いあっちの世界の住人……確か、伝説の錬金術師のことではなかったろうか。

 

 すると目の前の老人はそんな鳳の考えてることを見透かしたかのように、

 

「そう呼ばれているが、実際にはそんな人間などいない。ヘルメス・トリスメギストスとはキリスト者が彼らの教義を正当化するために生み出した創作だ。当時のキリスト者は善悪二元論の影響で、自らの神の正当性を強調するために、彼らの神を認める異教の錬金術師という存在を欲していたのだ。私はそうして生み出された……人によって作り出された空想上の存在。そう言う意味では、私もまた神と呼べよう」

 

 自分のことを神という者など、ろくな存在とは思えないが、不思議と目の前の人物からはそんな印象は感じられなかった。だいたい、登場した瞬間からこれだけ異様な雰囲気を漂わせているのだ。神じゃなくても只者じゃないことだけは間違いない。

 

「……以前、あなたと似た雰囲気の人物を見たことがある。俺の知り合いの爺さんは、それが精霊ミトラだと言っていた。あなたはもしかして、この世界の精霊なのか?」

「いかにも、そう呼ばれている」

「……爺さんが言うには、精霊ミトラは他の神々と戦っていると言っていたそうだ。それはあなたのことだろうか?」

 

 すると精霊は掲げていた杖を下ろし、

 

「否定する。我々、精霊の目的は同じ。私はミトラのことをよく知らないが、彼とは運命を共にしていると言っていいだろう。我々は共闘者だ」

「共闘者……一体、何と戦ってるんだ? まだ出てきてない四柱の神ラシャか?」

 

 鳳がそう言うと、それまで無表情だった精霊は苦笑いといった感じの顔を作って首を振り、

 

「言うのは簡単だが、言うことは出来ぬ」

「何故……?」

「蓋を開けたら猫は死んでしまうだろう。それと同じことだ」

 

 どう言うことだ? それを知ってしまうと、何かが決まってしまうとか、そういうことだろうか。例えば、鳳がそれを知り『敵』として認識した瞬間、それに鳳の考えが伝わってしまうとか……確かDAVIDは第五粒子エネルギーを用いて、人間の脳と通信していたはずだ。もちろん、デイビドが敵と決まったわけじゃないが、神とはそういう存在だ。もしも相手が神なら、知ることはそれ自体がリスクだ。

 

 と言うか、目の前の精霊が何と戦っているかは知らないが、そもそもそれが鳳に立ちはだかる障害になるとは限らない。知ってみたら案外、どうでもいい相手かも知れないのに、知ってしまったばっかりに、神々の戦いに巻き込まれたらたまったものじゃない。精霊としては教えるだけ、鳳としては知るだけ損と言うことか。

 

「だが、あえて言うなら、五精霊を思い出せ」

 

 鳳がぼんやりと考えていると、精霊は一つの方向性を示した。五精霊のうち、ヘルメスとミトラが同じ敵と戦っている共闘者というなら、他もそうなのかも知れない。彼らの共通の敵とはなんだ?

 

 異教の錬金術師ヘルメス。

 

 復活ではなく解脱を目指すミトラ。

 

 神殺しの悪神セト。

 

 地獄より帰還せしオルフェウス。

 

 最初の殺人者であり神に背いたカイン。

 

 彼らが何と戦っているのかはなんとなく分かる……しかし、それが何かと考えれば、また雲をつかむように分からなくなる。神とはなんだ?

 

「……ヘルメス。この世界は何なんだ? ここは俺の知っている地球とは明らかに違う。ゲームの中なのかと考えたこともあった。でも、これまでの情報からその可能性は低い。ここはニュートンの言うような死後の世界なのか? なんというか、俺たちの文明が滅亡してしまった後の……?」

「死後の世界と言えば、それに近いかも知れない。だが、正確ではない」

「……どういうことだ?」

「焦らずとも、君はそのうち知ることになる。それよりも……」

 

 しかしヘルメスは首を振ると、今度は鳳の目をじっと覗き込むようにしながら、

 

「力が欲しいか?」

 

 鳳はごくりとつばを飲み込んだ。

 

「……力?」

「そうだ。君が欲するならくれてやる」

 

 くれると言うならいただきたいが、その代償になにを要求されるのだろうか……いや、おそらく何も要求されないだろうが、彼らは神と戦っているのだ。タダより高いものはない。そんな馬鹿な質問はするだけ無駄だ。答えは、要るか要らないか、そのどちらかでしか無いが……

 

 鳳は部屋の中央にある機械を見ながら、

 

「……この機械は神人の製造機だな? この機械で量子化された人間の記憶はどこかに残されているはずだ。実は友達がこの中に入っちゃって。それを呼び出すことは可能だろうか?」

「無論だ。だが、その方法なら君は既に知っているはずだ」

「知ってる?」

「君は錬金術師である前に、最高位の魔術師であった。君に扱えぬ魔法はない」

 

 何を言ってるのかさっぱりだった。錬金術師……? 魔術師……? 鳳はそのどちらでもない。前の世界ではただの引きこもりニートだったし、この世界ではレベル7の職業不明のアルケミストだ……

 

 そう考えた時、彼はピンときた。錬金術師とはアルケミストのことじゃないか。じゃあ魔術師って……?

 

「友を助けたいならば、君は力を取り戻す必要がある」

「力を取り戻す……やっぱそう言うことか。なら答えは決まっている。ジャンヌを助けるためにそれが必要なら、迷うことなど何もない」

「ならばくれてやろう」

 

 ヘルメスはそう言うと、手にした杖を上空に掲げ、何かぶつぶつと呟いた。その瞬間、杖の先から信じられないくらい眩しい光が溢れ出して、鳳の体に降り注いだ。あまりの眩しさに彼はギュッと目をつぶる。そんな彼の耳に、ヘルメスの最後の言葉が届いた。

 

「これで君はこの世界で最強に近い力を手に入れた。しかし夢々忘れるな。力に溺れたとき、君は君でなくなる。かつて勇者はそうして消えた」

「勇者が……?」

「己を見失わず、まっすぐ生きよ」

 

 そうだ。精霊はかつて魔王と戦うために勇者と共闘していた。彼らもまた勇者の仲間なのだ。勇者とは一体何者だ?

 

 鳳はそのことを問いただそうと思い、慌てて目を開けたが……その時にはもう、そこに精霊の姿は無かった。ただ、そこに何かがいたということを示すかのように、光の礫だけを残して。それが完全に消滅した後、部屋には静寂以外に何も残っていなかった。

 

「自分を見失わず、まっすぐ……ね」

 

 それがどういうことを意味しているのかわからないが……とにかく自分の気持ちに素直に生きろとか、惑わされるなとかそういうことだろうか。ならずっとそうしてきたつもりなのだが……

 

 鳳は貧血みたいにフラフラとよろけながら、その場にあった机の端っこに腰をかけた。さっきまで起動していた端末は、今はもう動いていなかった。また調べれば動かせそうだが、まあ、いいだろう。今は用済みだ。確かにこれを使えばジャンヌを復活させることは出来るが、この世界で彼を目覚めさせても意味がない。この空間を脱し、仲間がいる世界に戻らねば。

 

 そのための方法というか、知識は既にわかっていた。というか、今も頭の中にどくどくと注がれる燃料のように、知識が溢れ返っていた。彼はその知識によって、この機械の使い方と、そしてかつて彼が日常的に使用していた能力を思い出した。

 

 それはこの世界で目覚める前、ゲームの世界で呆れるくらい繰り返したものだった。なんてことはない。ジャンヌも、他の仲間達も、この世界に来たときから、当たり前のように使えていたではないか。

 

「まずは、ジャンヌを復活させなきゃ」

 

 ようやく貧血が収まってきて、頭の中に溢れていた知識も落ち着き始めた。彼は深呼吸するとそう呟いて、昔そうしていたように、高々と天を指差し宣言した。

 

「我、鳳白が命じる。汝、ジャンヌ・ダルクの魂よ。我が声に答え、我がもとへと還れ。リザレクション!」

 



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そりゃもう、死んだ死んだ

 室内には銃声と剣戟が轟いていた。ギヨームは背中にしがみつくルーシーを背負ったまま、敵の獣人たちに苦戦を強いられていた。隣には下手くそな剣を必死に振り回すアイザックがいる。思わぬ形で共闘となったが、もしこいつが居なかったら、もう既に何回殺られていてもおかしくはなかった。

 

 彼らを囲む獣人は4人。いくら相手が獣人でも、この程度の数なら、高ステータスのギヨームなら簡単にさばけるはずだった。それが出来ずにいるのはルーシーを守りながら戦っていることもあったが、それよりなにより彼がかなり動揺していたからだ。

 

 首を突かれた鳳は、大量の血を流して床に転がっている。こちらからは顔が見えないが、あの出血では間違いなく死んでいるだろう。ジャンヌは消え、メアリーもいない。この場を切り抜けるための最大戦力は、もはや自分しか残っていない。そのプレッシャーが、信じられないくらい重く彼にのしかかっていた。

 

「そのガキは後回しです、後ろの女を狙いなさい!」

 

 ギヨームが必死になって獣人の攻撃を食い止めていると、ピサロから指示が飛んできた。本当に、忌々しいほど的確に弱点を攻めてくる男である。ギヨームはルーシーに伸びる魔の手を振り払おうとして、不用意に敵に背中を向けてしまった。その瞬間、獣人の鋭い爪が、彼の背中に食い込む。

 

「くっ……」

「きゃああーーーっ!! ギヨーム君!」

 

 鮮血が飛び散り、若干体の動きが鈍くなった。ギヨームは力を振り絞って振り返ると、止めを刺そうと無謀な突撃を仕掛けてきた獣人にカウンターを食らわせた。銃撃を腹に受けた獣人が崩れ落ちる。どうにか一人を仕留めたが、こっちが手負いなことを敵が見逃してくれるわけがなかった。

 

「ふ、ふれー! ふれー! 頑張れー! 頑張れー!」

「あーもう、ちょっと黙ってろよっ!!」

 

 ルーシーが必死になって何かを叫んでいる。多分、さっきから現代魔法を使おうとしているのだろうが、動揺しきっているせいか全く発動せず、単にギヨームの神経を逆撫でるだけだった。

 

 鳳が死ぬ間際、彼女を助けるように目配せをしたので、咄嗟に助けたはいいものの、この乱戦では彼女は何の役にも立たなかった。こんなことなら助けたりせずに、獣人と距離を置いたまま戦えば良かった。

 

 元々、自分はアウトレンジの戦いで有利に立つスタイルなのだ。距離を詰めるなんてもってのほかだし、彼女を拘束するために獣人が一人動けない方が、まだ効率が良かっただろう。

 

 だが、その場合、ルーシーがどうなっていたかはわからない……何しろ、用済みになった鳳を簡単に殺してしまった相手だ。おそらく、彼女が邪魔だと判断したら、ピサロは躊躇なく彼女を殺していただろう。

 

 ギヨームは悔しくて歯ぎしりをした。ルーシーだって必死なのは分かっているのだ。なのに、こんなことを考える自分が情けなかった。

 

 と、その時……ぼんやりとする視界の片隅がキラリと光り、サーベルの刃が彼に迫ってきた。殆ど反射的に、ギヨームが慌ててバックステップで躱すと、入れ替わりにアイザックが飛び込んできて、その刃を受け止めた。

 

「ディオゲネス! 貴様、まだ目が覚めないのかっ!」

 

 その刃はディオゲネスの物だった。神人の剣を目視で躱せるなんて普通であれば考えられないことだが、それはおそらく、彼もまだ判断がつきかねていたからだろう。

 

「許してください、アイザック様……これしかないんですっ!!」

 

 彼は鳳の説得で、かなり気持ちが傾いていたようだ。ピサロは、ジャンヌとペルメルを消した機械を操作出来るのは自分だけと言っていたが、考えても見れば、これだけ卑怯な振る舞いを続ける彼が、本当のことを言っているとは思えない。

 

 だが、嘘を吐いているというはっきりとした証拠が無い限り、この迷宮の秘密を解き明かせるのは、ヘルメス書を持っている彼だけかも知れないのだ。ディオゲネスはそれに賭けたようだ。

 

 アイザックが必死になって叫んだ。

 

「いい加減に目を覚ませ! 奴が嘘を吐いてないなんて、どうしてそう思えるんだ!」

「嘘かどうかは、もうどうでもいいんですよ!」

 

 しかしディオゲネスは、アイザックの剣を弾き飛ばしながらそう返した。飛ばされたアイザックの剣が、カランカランと音を立てながら床を滑っていく。彼は痺れた腕を擦りながら、その場に膝をついた。

 

「くうぅぅーっ!?」

「……嘘をついてるかどうかは、この場を制圧した後に問いただせばいいことです。もし、それが嘘だったのなら、殺すまで。だからどっちにしろ、ペルメルを助ける可能性がある限り、俺はこっちにつくしかないんですよ」

 

 ピサロはこの迷宮に入るためにヘルメス書を使った。つまり、ヘルメス書の今の所有者はピサロということだ。あれがどのような書物かはまだ判然としなかったが、持ち主以外には、何の恩恵も与えてくれなくても不思議ではない。

 

 ピサロのけたたましい哄笑が部屋いっぱいに響く。

 

「賢明な判断です。あなたに敬意を表して、特別にヘルメス卿の命だけは助けて差し上げましょう」

「黙れ! おまえの口約束など聞き飽きた。それよりも、もしも嘘だった場合、自分がどうなるか覚えていろよ!?」

「おお、怖い。大丈夫ですよ。私は嘘なんてついていませんから」

 

 ディオゲネスは今にも人を殺しそうな憎悪に満ちた表情をしていた。神人がそこまで感情を露わにすることは滅多に無い。それはもちろん、本来ならピサロに向けられたものだったが、対峙している手前、真正面に受けてしまったギヨームは背筋が凍りつくような思いだった。こいつは腹を括っている。次は本気だ……

 

 ギンッ!!

 

 ……そう思う間もなく飛び込んできたディオゲネスのサーベルを、ギヨームは必死にピストルの背で弾いた。その瞬間、攻撃を受けたピストルが、光の粒となって虚空に消えていく。素早さは前の比ではなく、もはや目で追っていたら死を待つしか無いほどだ。

 

 ディオゲネスはピストルが消えたのを見逃さず、返す刀で再度ギヨームに迫ったが、こちらも左手に残っていたもう一丁のピストルを使って、なんとか弾くことに成功した。ギヨームはバックステップで距離を取ると、急いで両手にまた自分の銃を作り出した。

 

 MPが続く限り、攻撃を躱すことは出来る。だが、それだけだ。こっちから攻撃しても、神人にはこんな豆鉄砲はほぼ無意味だ。せめて銀弾を持ってくれば一発逆転もあったかも知れないが、ないものねだりをしてもどうしようもない。出来ることはもう、銃で隙を作って逃げ出すことくらいだが……

 

「ギ、ギヨーム君……ごめんなさい」

 

 弱々しい声が耳に届いて、ギヨームは今度こそ本当に背筋が凍った。ディオゲネスと対峙したことで、完全に余裕を失っていた。その神人の肩越しに、ピサロに捕まったルーシーが見える。彼女は剣を首筋に当てられて、成すすべもなく震えている。

 

 彼女を助けるには、目の前の神人を倒すしか無いが……気がつけば、ギヨームは神人どころか、残った3人の獣人にも取り囲まれていた。前後左右、逃げ場は見当たらない。いや、それでも今なら上手く隙をつけば、獣人の一人を殺して、なんとか逃げることは可能だろう。外に出て、メアリーと合流すれば、もう一戦は出来る。だが、その場合、ルーシーはどうなる?

 

 ギヨームは頭の中が真っ白になった。すごい勢いで血の気が失せてきて、頭皮がパチパチと音を立てているようだった。打開策は何も見つからなかった。見つけようとすら思わなかった。せめて後ひとり仲間がいれば、なんとかなるかも知れないが……そんなもの期待するだけ無駄だった。

 

「起きろ、鳳……起きろっ!」

 

 彼は無意識にその名を呼んでいる自分に驚いた。何故、鳳の名を呼んだんだ? ジャンヌならともかく、今あいつがいたところで、なんにもならないじゃないか。

 

「いい加減、目を覚ませ! ピンチなんだよ! 洒落んなってないんだよっ!!」

 

 なのに彼は叫ぶことをやめられなかった。

 

 レベル64の自分が……レベル7の何の能力も持ってない人間に助けを求めるなんて、どう考えてもおかしかった。なのにこの状況を打開できるとするならば、こいつしか居ないと思えてしまうのだ。

 

 彼はここまで低レベルながら低レベルなりの活躍をして、いくつもの絶望的な状況を覆してきた。オークの襲撃の時のように、咄嗟の判断を求められる場面でも、焦ることなく的確に指示を下し、ギリギリの勝負を勝ち抜いてきた。

 

 なんやかんや、あいつがこのパーティーの扇の要だったのだ。ギヨームはそんな彼にいつの間にか依存してきたのだ。あいつに任せておけばいいやと、何も考えずにここまで来てしまったのだ。

 

 だって仕方ないだろう。今まさに、自分が死のうとしているその瞬間に、自分の心配じゃなくて、咄嗟にルーシーを助けようとした男だぞ。血を流して倒れる自分が注目を浴びているのを利用して、その隙にルーシーを奪還しろと指示した男だぞ。

 

 こいつならなんとかしてくれると思っても、仕方ないじゃないか。

 

「鳳、起きろよっ! 起きろっつってんだろうっ!!」

 

 ピサロは死人に助けを求めるギヨームをあざ笑っていた。獣人たちは自分たちが優位に立ったと意識したのか、リラックスした表情で拳をパキパキと鳴らした。そんな中でディオゲネスだけが一切の隙を見せずに、剣を構えたままジッとギヨームに対峙していた。

 

 ここまできても手加減するつもりは無いという決意だろうか。もはやこの神人から逃れることは不可能だろう。自分が死んだ後、ルーシーはどうなるんだろうか。せめて、彼女だけでも助かればいいなとギヨームは思った。

 

 彼はもはや狙いを定めることもなく、滅茶苦茶にピストルの弾を撃ちまくった。彼の銃は特別製で、リロードする必要もなければ弾が尽きることもない。MPさえあれば一生だって撃ち続けられる。彼はそんな愛銃を両手に構えて、大雑把に敵のいる方へ向けて引き金を引いた。

 

 油断しきっていた獣人たちは、その攻撃をもろに受けて怯んでいる。一人は急所を捕らえて戦闘不能になった。だが、ディオゲネスだけはこんな攻撃にも怯むこと無く、驚いたことに、飛んでくる弾丸を目で追って剣で弾くと、真っ直ぐに突き進んでは袈裟斬りにギヨームへ振り下ろした。

 

 ディオゲネスのサーベルの切っ先が目の前に迫る。ギヨームはもはやこれまでと目をつぶった。

 

 しかし、その時だった……

 

 ギンッ!!

 

 っと、甲高い金属音が、目をつぶったギヨームの耳に響いた。くわんくわんと頭の中で反響するその音に驚いて目を開ければ、たった今、彼に振り下ろされようとしていたサーベルが弾かれて、代わりに目の前にドライアイスのような冷気をまとった白い刀身の剣が見えた。

 

 なんだこれは? と呆然と見守っていると……その白い刀身がひび割れたかと思ったら、次の瞬間、それは強烈な光を発した。

 

 それはまっすぐ見たら目が眩んでしまいそうな、強烈な光だった。何もない空間に、突然そんな光が差して、その中から一本の剣が突き出しているのだ。

 

「ギヨーム! ごめん、遅れたわ!」

 

 その強烈な光の中から、甲高い女性(・・)の声が響いてきた。聞いたことのないその声に戸惑っていると……まるで空間を切り裂くかのようにその剣が上下に振るわれ、かと思ったら、次の瞬間、光の礫が部屋いっぱいに広がっていき、その中心から一人の剣士が颯爽と現れた。

 

 長身痩躯で信じられないほど整った顔立ちをしており、長い耳が横に少し垂れ下がっていた。目は青く腰まで伸びる金髪をなびかせて、やたら胸を協調するようなピッタリとしたプレートメイルを身にまとい、手には先程のオーラのような光をまとう細身のレイピアを構えている。

 

 その姿から神人であることは間違いないが、問題は彼女の方はギヨームのことを知ってるようなのに、彼の方は知らないことだった。

 

 少なくとも敵ではなさそうだが、この女は何者だ……? ギヨームが戸惑っていると、神人の女性はディオゲネスの背後に佇むピサロに剣の切っ先を向けながら、

 

「さっきはよくもやってくれたわね! もう騙されないわよっ!! ……神人さん、悪く思わないでちょうだい」

 

 彼女はそう叫ぶと、目の前の障害であるディオゲネスに飛びかかっていった。

 

 突然の登場にあっけにとられていたディオゲネスが、辛うじてその一撃を防ぐ。キンッ! と、金属のぶつかり合う音が響いて火花が散った。彼は女性から距離を取るように飛び退くと、半身になって片手でサーベルを突き出した。それに対し女性がレイピアで応戦する。

 

 カシャカシャと音を立てて、二人の剣が交差する。まるでフェンシングみたいな細かくて素早い攻防が繰り広げられ、どちらが先に相手を貫くか、ギリギリの勝負が続いていた。

 

 ディオゲネスが叩き伏せるようにサーベルを振り下ろすと、女性はそれに絡みつくようにレイピアを下から振り上げる。しなる刀身がヒュンヒュンと音を立てて、信じられないことに、ソニックブームのような振動が周りで見ているギヨームの体まで届いてきた。

 

 両者の技量は互角だった。だが、やがて手数で勝る女性の方が優位に立ち始めると、焦ったディオゲネスが起死回生の一撃を狙って大振りになった瞬間を狙って、ついに女性の剣が彼の腕を捕らえた。

 

 鮮血が飛び散り、堪らずディオゲネスが反射的に傷ついた腕を振り上げる。すると、そのがら空きになった胴体に向かって女性は横薙ぎに剣を振りながら、

 

「紫電一閃! 桜華絢爛五月雨斬りっ!!」

 

 その構え、その言葉を聞いた瞬間、彼はトラウマを刺激されたかのように、慌ててその場を飛び退いた。

 

 その技は以前食らった覚えがあった。もし真正面に受ければ、どれほどのダメージを食らうか計り知れない。しかし、そんな彼がドキドキしながら身構えていても、その女性のレイピアからは何も発動しなかった。

 

 あっけにとられるディオゲネス。それは女性も同じだったようで、

 

「あ、あれ!? 紫電一閃! 桜爪愁華乱斬りっ!! めくりっ!! 紫電一閃……変ね、快刀乱麻!! あれー!?」

 

 女性は剣を振り回しながら、一人で叫び声をあげては慌てている。その姿が間抜けなこともさることながら、その技の名前と、強そうに見えて案外滑稽な姿には、どこか既視感を覚えた。

 

 ギヨームは唖然としながら、女性に向かって言った。

 

「おまえ……誰だ?」

 

 しかし、その答えは彼女からではなく、別の方から返ってきた。

 

「ジャンヌのはずなんだけどね……何でおまえ、女になってんの?」

 

 そっちの声には聞き覚えがあった。その場にいるほぼ全ての人が、ドキリとして振り返る。

 

 ギヨームだけではなく、ディオゲネスも、獣人も、ピサロも、そして捕まっているルーシーも、みんながそこに立っている人物に目を奪われた。

 

 気がつけば、鳳がいつの間にかピサロのすぐ背後に立っていた。首筋を手ぬぐいでゴシゴシと拭いつつ、血だらけの自分の服を引っ張って、これ落ちるかな……などとぼやきながら、

 

「お、おまえは……死んだはずじゃなかったのか!?」

 

 その姿を見て一番驚いたのは、どうやらピサロのようだった。自分が殺した相手が生き返っていたら、そりゃ当たり前だろう。呆然とした表情を浮かべながら、彼の足がガタガタと小刻みに震えている。

 

 鳳は口の中に溜まっていた血が混じった唾液をペッと吐き出しながら、

 

「そりゃもう、死んだ死んだ。知ってんだろ? おまえが殺したんだから……」

「それじゃ何故生きている!?」

「色々あったんだよ……色々。お陰で、色々思い出しもした。エナジーボルト!」

 

 鳳が指をパチンと弾くように指差し、そう唱えると……次の瞬間、強い衝撃が走って、ピサロは仰け反るように吹っ飛んだ。彼は強かに尻もちをつき、手にしていた剣がカランカランと地面を叩きながら転がっていく。

 

 さっきまで彼に拘束されていたルーシーは解放されるや、すかさずその剣を拾いに走った。そうはさせじと迫りくる獣人の腕を掻い潜り、彼女は滑り込むようにして剣を拾い上げ、それを抱えて逃走する。

 

 部屋から飛び出していった彼女を追いかけるかどうか迷っている獣人に向かって、ギヨームの銃撃がうなる。

 

「行かせるかよっ!!」

 

 無防備な背中を見せていた獣人たちは、それによって戦闘不能に陥った。

 

 たった数瞬前まで、圧倒的に優勢だったのが、気がつけば完全に逆転されていたピサロは、何故自分が劣勢に立たされているのかわけが分からずに、

 

「な、何なんだ、おまえは! 何なんだっ!! なんで殺した男が生き返っているんだ? それにその女は何者なんだ!?」

「何だ何だうるせえな。育ち盛りの赤ちゃんか、おめえは。てめえだって元は死人じゃねえか。別に生き返ったって不思議じゃないだろ」

「そんな出鱈目な話があってたまるかっ!! ……くそっ! ディオゲネス! そいつを殺せっっ!!」

 

 ピサロは最後の悪足掻きに、神人に向かってそう命令したが、もはや複雑になりすぎた状況についてこれていないディオゲネスは、どうしていいのか判断がつかず、その場で呆然と立ち尽くしていた。

 

 鳳は、彼がまた裏切ったら堪らないので、悪いと思いつつも、

 

「スリープクラウド!」

 

 呆然と佇むディオゲネスの足元に、見慣れた雲が広がっていった。彼はその光景を目の当たりにして、驚愕の表情を浮かべると……次の瞬間には、ぷつりと意識が途切れて、その場で昏倒するのであった。

 

 ディオゲネスは倒され、獣人たちも手負いで役に立ちそうもない。ピサロはその場に残されている味方がもう自分一人だけになっていることを知り、

 

「あ、ありえんだろう!? 古代呪文だと!? 理不尽すぎるだろう!? なんだこれは? たった今まで、お前らの戦力なんて、もうそこのチビだけだったろう!? それがなんだ! 気がついたら逆転しているだと? いくらなんでもそんな無茶苦茶な話があるか! おまえら、どんな卑怯な手を使ったんだ! こんちくしょうっっ!!」

「人聞きの悪い。おまえと一緒にするんじゃないよ」

 

 鳳が苦笑いしながらそう言うと、ピサロは顔を真っ赤にしつつ、怒りでブルブルと震える声で、

 

「……降参すれば、逃してくれたりは……しないんだろう……なっ!!」

 

 彼は吐き捨てるようにそう言い放つと、突然、大きく振りかぶって地面に何かを叩きつけた。するとその瞬間、彼の足元で何かがパンと弾けて、室内にモクモクと煙が充満しはじめた。

 

 煙幕を使って逃げるつもりか……!? この期に及んでまだ隠し玉を仕込んでいるとは、なんと往生際の悪い男だろうか。鳳が慌てて追いかけようとすると、

 

「きゃっ! えっ、なにこれーっ??」

 

 背後から一緒に追いかけようとしていたジャンヌが変な悲鳴を上げた。ジャンヌの体はもはや神人と同じ特別製で、ちょっとやそっとじゃ傷つかないはずだが……見れば新しくなった彼女の体から煙が上がり、傷口から妙な光を発している。

 

 鳳はチッと舌打ちをすると、ピサロを追いかける足を止めて、急いでジャンヌの元へと駆けつけた。

 

「いたたた……どうなってるの? これ? 体がおかしくなっちゃったのかしら」

 

 ジャンヌは光を発する傷口をおっかなびっくりさすっている。鳳は傷ついた彼女の腕を取って、

 

「くそっ……あの野郎、さっきの煙幕に銀の弾丸を仕込んでいたんだ。それがおまえの体のナノマシンと反応してるのさ」

「ナノマシン……?」

「神人の体の中に仕組まれている仕掛けさ。あいつは最初から、事が済んだら神人たちを始末するつもりで用意しておいたんだろう……まさかそれがジャンヌにまで有効とは」

「おい、鳳。マジでこいつはジャンヌなのか? 見違えた……つーか、性別まで違うじゃねえか。一体どうなってやがんだよ」

 

 ギヨームが眉間に皺を寄せて困惑気味に呟く。鳳は首を振って、

 

「話は後だ。それより今はこの傷を治さなきゃ」

「治せるのか?」

「そこの機械を使えば、多分な……あー、くそ! ギヨーム、ピサロの方は任せられるか? ルーシーが危険だ」

「わかった」

「俺も行こう」

 

 ギヨームが走り出すと、その後にアイザックが続く。

 

「傷を治したらすぐ追いかける! なんとか足止めしといてくれ」

「殺してしまっても、構わないんだろう!?」

 

 よほど腹に据えかねたのか、アイザックが振り返りもせずにそう答えた。別に彼とは仲間になったつもりは無いのであるが……鳳は肩を竦めて黙ってそれを見送った。

 

************************************

 

 迷路のように入り組んだ廊下を、息せき切ってルーシーは必死に駆けていた。

 

 死んだと思った鳳が復活し、ピサロが剣を取り落した時、彼女はすかさずそれを奪って逃げ出した。あの場に居ても足手まといにしかならないのは分かっていたし、それに、自分が居なくとも、鳳ならあの場をなんとかしてくれると思えたからだ。

 

 と言うか、あの状況で颯爽と現れて、絶体絶命のピンチを救うなんて、いくらなんでも格好良すぎやしないか……? あれは本当にヤバかった。もう絶対に駄目だと諦めたところで、当然のように現れて、不思議な力でバッタバッタと敵を倒してしまうのだから、ツンデレのギヨームじゃなくても、涙目になっても仕方ないだろう。

 

「鳳くんはああいうとこが卑怯だよね」

 

 彼女はそんなことを呟きながら、ぼやけた視界をゴシゴシと拭った。

 

 とにかく、このままメアリーのところまで逃げれば勝ちだ。流石に、ピサロでも高レベルの神人相手では勝ち目はなかろう。そう思って必死に駆けていたのであるが……そうは問屋がおろさないというのだろうか。迷宮の床をカンカンと鳴らす彼女の足音に混じって、すぐ背後から誰かが追いかけてくる足音が聞こえてくる。

 

 それが仲間なら声を掛けてくるだろう。無言で追いかけてくると言うことは、それが敵であるからに違いない。彼女はそう判断すると、うろ覚えの迷路の中でつっかえながら、どうにかこうにか入り口まで帰ってきた。

 

 祭壇のような入り口をくぐり抜けて、またドーム型の空間にまで帰ってきた彼女は、すぐに迷宮から出ようと峡谷の脇道へ向かって走り出した。しかし、いざ外へ出ようとした時、彼女はすぐ後ろにある祭壇の上に一冊の本がまだ置き去りにされていることに気がついて足を止めた。

 

 確かあれは、アイザックが奪われたとかいう、ヘルメス書というやつだ。迷宮を開ける時に使われたらしいが、このまま放っておいていいものだろうか。もしまたピサロの手に渡れば、悪用されるかも知れない……

 

 彼女はそう判断すると、来た道を戻り、祭壇の上にあった本に手を伸ばし、それを掴んだ。

 

「おっと! 手癖の悪い女ですねえ……」

 

 ルーシーがそれを手にした瞬間、ちょうど彼女の死角になっていた祭壇下の入り口から、ピサロの手がにゅっと伸びてきた。彼女は驚いて飛び退こうとしたが一足遅く、足首を掴まれて、彼女はその場に倒れてしまった。

 

 手にした本が壁際まで転がっていく。うつ伏せで手を伸ばした彼女の背中に、ピサロの足がドンっと踏み降ろされる。その瞬間、肺の中の空気が全部吐き出され、苦痛が全身を貫いた。

 

「かっ……かはっ……」

「今は相手してやれないのが残念ですが、その幸運に感謝して、あなたはそこで寝てなさい」

 

 ルーシーを踏みつけていったピサロは、彼女に目もくれずにヘルメス書の方へと歩いていく。ルーシーは息苦しさに耐えながら、どうにか肺の中に空気を吸い込むと、

 

「コウモリの家は上が下で下が上。スッテンコロリンコロコロリン!!」

 

 突然、背後からそんな馬鹿みたいな歌声が聞こえ、ピサロは気でも触れたのかと言わんばかりの呆れた表情で、ルーシーの方を振り返った。しかし、彼は左右に振り返ったつもりだったのに、何故か体が上下逆さまに回転するような錯覚を覚えて、驚いたのもつかの間、次の瞬間、世界がぐるりと半回転し、そのまま頭から地面に突っ込んでいたのであった。

 

 何が起きたのか分からないピサロが、激痛に耐えながら地面でもんどり打っていると、その横をルーシーが駆け抜けていく。

 

「ばーかばーか!」

 

 彼女はそのまま転がっていたヘルメス書を拾い上げると、一目散に峡谷へのトンネルへと走っていった。あそこを抜ければもうこっちのものだ。彼女がそう思って、楽観しかけた時……

 

 しかし、あと一歩のところで、背後から銃声が轟く。強い衝撃が走り、彼女は足がもつれてその場に倒れた。肘と膝小僧を盛大に擦りむいて、血が滲んでいく……だが、そんな傷よりもっと深刻な物が、彼女の太ももの辺りでぽっかりと穴を開けていた。

 

 弾丸に肉を削ぎ落とされた太ももから、血がドクドクと流れだす。幸い、弾は貫通しているようだが、耐え難い苦痛に晒されて、彼女は立ち上がることすら出来なかった。

 

「い……たあー! 痛いっ!!」

「馬鹿な女め! 命だけは助けてやろうと言っているのに」

 

 ピサロは忌々しそうに単発式の銃を投げ捨てると、代わりにルーシーが取り落した自分の剣を拾い上げ、彼女に止めを刺そうと近づいてきた。

 

 慣れないことはするんじゃなかった。本なんか捨てて、逃げておけば良かった……彼女は後悔しながら、ピサロの剣から逃れようとその本を盾のように構えた。

 

「ちっ……本当に往生際の悪い小娘ですね」

 

 本を傷つけるわけにもいかず……それが思ったよりも障害になったピサロがまごついている。だが、彼はようやく体勢を整え、剣を突き立てるように脇に構えた。

 

 今度こそ殺られる……そして彼女が体を固くしたその時だった。

 

 ゴッ……

 

 っと、体の中から何やら小さな音が鳴って。ピサロは突然、目眩のような違和感を覚えた。なんというか、トンネルを抜けた瞬間、世界が変わってしまったような、そんな感覚だ。

 

 ルーシーに剣を突き立てるつもりが、それが全く逆方向へと空振ってしまったような、そんな違和感を感じて、彼は慌てて腕を引いた……引いたつもりだった。

 

 彼は体を動かそうとしても、自分の体が動かないことに気がついた。脳がいくら命令しても、体がうんともすんとも言わない、金縛りのような状態だった。何が起きたんだ? と思って振り返ろうとしても、首すらまったく動かないのだ。

 

 次第に焦りが募ってくると、突然、体が動かないのに、何故か視界だけが勝手に動き出した。動いていると思ったら、それは真上を向いたあと、急に物凄い勢いでグルンと真下に向かって回転し、気がつけば彼は自分の背中を見つめているのであった。

 

「な……な、に……これ?」

 

 声にならない声を上げて、彼は自分の首が一回転していることに気がついた。普通、前を向いているはずの首が……せいぜい、左右90度までしか回らない首が……今は180度、真逆の方を向いている。

 

 焦って体を動かそうにも、さっきからまるで言うことを聞かない。彼はそのまま重力の命ずるままに、ズシンとその場に倒れ込む……すると見上げる彼の顔を覗き込むようにして、一人の影が近づいてくることに気がついた。

 

 口元をマフラーで隠し、頭になでつけた耳を頭巾の中に隠しているが、その真っ赤な瞳の色は忘れようも無かった。彼はその目に見つめられた瞬間、恐怖のあまり股間が濡れていくのを感じていた。

 

「ひぃっ! ガルガンチュア……!?」

 

 右手にスリング用の革紐を持ち、左手に短刀を構えたマニが、ピサロのことを無機質な目でじっと見つめている。彼は動けないピサロのすぐ横へかがみ込むと、

 

「父の仇だ。異存はないな」

「ま、ま……っへ、たす……け……」

 

 ピサロは痺れて動かなくなりつつある舌を必死に動かして命乞いをした。しかし、マニはそんな男の声を無視して、動かなくなった彼の頭髪を乱暴に掴んで持ち上げると、

 

「今までどれほど多くの人たちが、おまえに命乞いをしてきたんだ」

 

 彼は吐き捨てるようにそう言い放つと、延髄の隙間から脳に向けて短刀を滑り込ませた。瞬間、ピサロはぐるんと白目を剥いて、舌を突き出し、鼻血をダクダクと流して絶命した。

 

 やっと仕留めたか……マニは彼の死を確認すると、それでも飽き足らず、二三度脳をかき回すようにグリグリ動かしてから、ピサロの命を奪った短刀を引き抜いた。

 

 これが勇者領を滅茶苦茶に引っ掻き回し、獣人社会を混沌へと突き落とした男の、あっけない最期だった。

 



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そんなんチートや、チーターやん!

 勇者領を滅茶苦茶に引っ掻き回し、獣人社会を混沌へと突き落としたピサロは死んだ。その爪痕はまだ癒えておらず、これからどうなるか分からなかったが、一先ずの決着がついたことにホッとしつつ、マニはそいつの後頭部に突き刺した短刀を引き抜いた。

 

 野鍛冶の師匠がマニのために特別に打ってくれた大事な短刀に、ピサロの汚い血と脳の一部が付着している。マニは不愉快そうにブンブンと、まるで穢れを祓うかのようにそれを振り払った。

 

「マニ! 生きてたのか!」

 

 短刀を腰のホルダーへと戻し、足を撃たれて動けないルーシーに近づこうとすると、迷宮の入り口の方からギヨームが出てきた。彼を見つけるなり嬉しそうに笑顔で手を振るギヨームの背後にはアイザックも居る。

 

 彼らは怪我をしているルーシーと、そのすぐ横でおかしな方向に首が曲がったピサロの死体を見つけると、

 

「まさか、これをおまえがやったのか?」

「マニ君凄かったんだよ! どこからともなく現れたと思ったら、いきなりこいつの首をグイッとやっちゃって……イタタタ」

 

 ルーシーがその時のことを興奮気味に説明しようとすると、太ももの傷が痛みだしたのか、突然傷を押さえて、今にも泣きそうに顔を歪めた。

 

 マニはそれを見て当初やろうとしていたことを思い出し、ホルダーから水と薬草を取り出すと、彼女に駆け寄って傷口の治療を始めた。思ったよりも深かった傷に悲鳴を上げつつ、どうにかこうにか治療を終えて一息くと、彼らは鳳たちが出てくるのを待って、メアリーの残っているキャンプへと戻った。

 

***********************************

 

 キャンプに戻った彼らは、別人になってしまったジャンヌのことをメアリーに説明したり、ピサロが死んだことで大人しくなったレイヴンたちが、マニに恭順を示したことに驚きながら、ヴィンチ村を出てから何があったのか、お互いに情報をすり合わせることにした。

 

 まずはアイザックが捕まって以降、大森林で何が起きていたのか……迷宮に入る前にマニの母親から聞いていた通り、ピサロはヘルメス卿の墓守を探して大森林を滅茶苦茶にしながら、ついにガルガンチュアの村へと辿り着いたらしい。

 

「彼は狡猾と言うか、用意周到な男で、事前にあらゆる手を尽くしてから戦闘を始めるタイプだったようです。どうも彼には敵の大事な物が見えるふしがあったみたいで、僕は村が襲われる前に、彼によって拉致されました」

 

 そのせいでガルガンチュアはピサロに抵抗できなくなり、ハチの手によって殺害された。マニは父の死体にすがりつき、呆然とするしか無かったが……

 

「その時、何故かお兄さんの声が聞こえてきて、不思議な力が湧いてきたんです」

 

 多分、チャットで呼びかけた時だ。その後、アイザックの話からガルガンチュアの村が襲われていることを確信した鳳は、余っていた経験値をガルガンチュアに注ぎ込んだわけだが……そのガルガンチュアとは、父の名を受け継いだマニだったわけである。

 

 しかし、マニがガルガンチュアになったのは、父が死んで鳳が経験値を注いだ後だ。なのにステータス画面に名前が出てきたのは、それより大分前だったのはどういうことだろうか。タイミングが違えば、経験値は父ガルガンチュアに注がれていたのだろうか。

 

 少々気になったが、確かめる方法はない。だが、その後、彼の身に何が起きたかはおおよそのことは見当がついた。

 

「力が湧き上がってくると同時に、ご先祖様の記憶が蘇ってきました。僕はピサロ達に対する怒りで、殆ど意識を乗っ取られてしまいました。ご先祖様は神人たちを物ともせず、その場にいた全員を脅かし、ピサロを殺そうとしたんですけど……でもその時、僕が人質のお母さんに気を取られてしまって、気がついたらご先祖様は僕の中から居なくなっていました」

「なるほど、おまえは放浪者(バガボンド)になりかけたんだな」

「放浪者?」

 

 鳳は頷いてからギヨームの方を振り返り、

 

「確か、以前、おまえはこの世界の自分の記憶も残ってるって言ってただろ。おまえがこの世界で普通に暮らしていたところ、ある日突然、地球のビリー・ザ・キッドの記憶が割り込んできて、それ以来、おまえはおまえになった」

「ああ、そうだな。それまでの自分の記憶はあるが、それが俺だって認識はない」

「それと同じことがマニに起きたんだ。もしもその時、マニが意識を手放してしまっていたら、こいつは今ごろご先祖様として、この世界をさ迷っていたはずだ。もしもお母さんが呼びかけてくれなかったら、そうなっていたかも知れない」

「そうか……お母さんが……」

 

 マニはそう呟いて嬉しそうにしていたが、その母親を連れてきたのは、元はと言えばピサロの策略だったのだから、なんとも皮肉な話である。

 

 その後、我を取り戻したマニが、父ガルガンチュアの遺体を弔っていると、騒ぎの最中に逃げ出していたゲッコーのキャラバンが戻ってきて彼と合流した。レイヴンの襲撃を知った彼らは、それを知らせようとして一直線に勇者領へと戻った。

 

 マニはキャラバンを護衛した後、仇討ちのためにすぐに取って返してきたのだが、キャンプはもうメアリーによって制圧された後であり、それじゃあ鳳たちの加勢にと迷宮へとやってきたら、そこへピサロがのこのこと出てきたので、仕留めたようである。

 

「じゃあ爺さんはこの事態を知ってるのか」

「はい。数日中にもこちらへ討伐隊が派遣される予定でしたが、間一髪でしたね」

 

 もしも鳳たちが間に合わなくて、ピサロがこの迷宮の調査を終えてしまっていたら、今ごろとんでもないことになっていたかも知れない。ピサロは昔の人間ではあるが馬鹿ではないのだ。機械の操作法を知れば、その仕組みが分からなくとも、動かすことは出来る。もしそうなっていたらと思うとゾッとする。

 

「それにしても、放浪者ってのは何なんだ? てっきり、レオやヘルメス卿みたいな地球の有名人が、こっちの世界で復活しているんだと思っていたが……」

「ああ、それはよく分からないが、多分、迷宮の中にあったあのマシンに関係があるんだと思う」

「あれが……? そういやあ、あれは結局なんだったんだ? いきなりジャンヌが消えたかと思ったら、女になって復活するし、おまえは死んだんじゃなかったのかよ」

 

 ギヨームがジロジロと鳳の足を見ている。彼はちゃんと付いてるから安心しろと、足を叩きながら、

 

「ああ、死んだ。間違いなく死んでた。でも実を言うと俺、こうして生き返るのって二度目なんだよね」

「はあ!?」

 

 ギヨームがお手上げと言わんばかりに目を回していると、それを周りで聞いていたジャンヌとアイザックが反応を示した。彼が渋い表情をしているのは、その時、鳳を殺そうとしていたのが他ならぬアイザックだったからだ。ジャンヌが言う。

 

「それって……アイザック様のお城の中での出来事ね?」

「そうだ。あの時、俺はやっぱり死んでいたんだよ。なのにこうして生き返ったのは、どうやら自分のパーソナルデータ? みたいなもの? それがどこかに保存されているらしいんだよね。具体的にどこかって言うと、それはわからないんだけども……ただ、そのデータを作り出す方法なら分かる。それがさっきジャンヌが入った機械なんだ。

 

 あれはかつて、リュカオンに追い詰められた地球人類が作り出した神人製造機だったんだよ。あの中に入った人は、その人を構成する分子がすべてスキャンされて、どこかのサーバー上に記録される。そうして一度量子化された人間は、例え死んでもやり直しが可能だ。

 

 実際には、不確定性原理のせいで同じ人間を作り出すことは不可能なんだけど……まあ、今は詳しい説明は省かせてくれ。きっと説明しても、ジャンヌとレオナルドの爺さんくらいしか理解できないだろうよ」

「ふーん……じゃあなんで、ジャンヌは女になっちまったんだ?」

 

 ギヨームが分からないながらも疑問を呈する。その辺は鳳もよく分からなかったが、憶測だと前置きしつつ、

 

「それは多分、ジャンヌは生物学的に男だけど、ジェンダーは女だったから、量子化した際にそれが正しい性別に置き換わったんじゃないか? なんつーか、俺たちの生きてた時代ってのは、性差に関して色々とうるさかったんだよ。だからもし、神人になる際に簡単に性転換できる技術があったなら、そうした人って結構多かったんじゃないかな。後は法律の問題だけだから」

 

 その法律だって、今から体を量子化しますなんて状況では糞食らえだったろう。と言うか、今更だが、神人は例外なく(・・・・)美麗な容姿をしているのだ。ただ量子化した人間を新しい体に置き換えただけでは、そうはならない。多分、この時代の人々は、美容整形に関しても、相当ゆるゆるな感覚だったに違いない。

 

「つーか、ジャンヌの見た目なんて、完全にゲームのアバターそのままだもんな。その剣も鎧も見たことがある」

「あ、やっぱりそうだったのね。鏡が無いから分からなかったんだけど……」

 

 ジャンヌはペタペタと自分の顔を触っている。普通、体が完全に別人の物になってしまったら不安になりそうなものだが……しかし鳳はそんな彼女に、

 

「良かったな」

「……え?」

「ずっとそうなりたかったんだろう? 良かったじゃねえか。本物になれて」

「……白ちゃ~ん!!」

 

 彼がそう言って笑いかけると、感極まったジャンヌが大粒の涙を流しながら抱きついてきた。ついこの間までは、ぎゅうぎゅうと押し付けられていた厚い胸板が、今は信じられないくらい柔らかいおっぱいに変わっている。

 

 普通に考えれば役得を喜ぶ場面だろうが、ついさっきまで男だったことを知っていたから、鳳はなんだか物凄く変な気分になって、グイグイと彼女の体を押しのけると、

 

「やめんかいっ! 暑苦しい奴だなあ……見た目は変わったのに、中身はおっさんそのままじゃねえか」

「ひどいっ!」

 

 ジャンヌは鳳のつれない態度にショックを受けつつも、いつも通りに接してくれる彼にほんのちょっと感謝しつつ、話の続きを促した。

 

「……とにかく、ここに入った人は、データ化され、神人になって生まれ変わるわけね?」

「噛み砕いて言えばそういうことだ。地球人類はリュカオンに対抗するために、とにかく頑丈で強い体が必要だった。そうして生み出されたのが神人だったわけだ。神人となった人間は、超回復とサイキック能力のお陰で滅多なことじゃ死ななくなったが、それでもうっかり死んでしまうこともある。そう言うときに、量子化されたオリジナルデータから体を再構築する方法が、リザレクションという魔法だったんだ」

 

 その言葉にメアリーが反応する。

 

「それじゃあ、リザレクションが使えても、生き返るのは神人だけなの?」

「具体的にはこの機械で量子化された人間だけだね。つまりまあ、そういうことだ」

「なんだあ……がっかりだわ。いつかあの時の赤ちゃんを、生き返らせてあげようと思ってたのに……」

 

 やっぱりそんなことを考えていたんだな……鳳はなんだか子供にサンタクロースの正体をばらしてしまったような、微妙な気分になりながら、

 

「まあ、そんなわけで、リザレクションって言う古代呪文を使うには、非常に高レベルが要求されたわけだ。誰も彼もが使えたら、問題も起きるだろうからな。多分、この世界で禁呪って呼ばれてる魔法は、それが理由で失われたのかも知れないね」

 

 そんな二人のやり取りを遠巻きに見ていたルーシーが、ハッと何かに気づいたように慌てながら、

 

「あれ? それじゃあ、ジャンヌさんが生き返ったのって……?」

「俺がリザレクションを使った」

「やっぱり! 生き返った後に何か魔法を使ったと思って不思議だったんだよ。あれはやっぱり古代呪文だったんだね。でも、どうしてMAGEでもない鳳くんが、急に使えるようになったの?」

「精霊ヘルメスに力を貰ったんだ」

 

 鳳の言葉に、その場の全員が絶句する。以前もミトラを見たと言っていたが、よくよく精霊に縁のある男である。ギヨームが具体的にどういうことかと問いただすと、

 

「死んだ時に、死後の世界っぽいとこで会ったんだよ。目覚めたら、俺は迷宮の中だけど、次元が違うっていうのかな? ちょっと別の場所に居て、そこで戻る方法を探していたら、フラッと精霊が現れたんだ。レオナルドの爺さんも、ミトラと会話したのは死にかけのときだったって言うから、多分、精霊ってのはそういう場所にいる神様みたいな存在なんだと思う」

「ヘルメスが、そこに居たというのか?」

 

 アイザックが興味深そうに言う。鳳はうなずき返して、

 

「元々、ここは初代ヘルメス卿の残した迷宮なんだろう。迷宮は、死んだその人のクオリアが具現化したものだ。つまり、神人製造機は初代ヘルメス卿の頭の中にあった。彼がどうしてあの機械を知っていたのか分からないが、多分、彼自身もヘルメスに出会って、この世界の秘密に触れていたんじゃないか。そうでもなきゃ、ヘルメス卿なんて呼ばれないだろうし」

「……初代は勇者と共闘する前に精霊の加護を受けたと聞いている。本当かどうかはわからなかったが」

「多分、本当だったんだろう。じゃなきゃ、あんなものが残ったりしないし、そこにヘルメスが現れることもなかったはずだ」

「それで、おまえはヘルメスから、リザレクションの使い方を伝授されたのか」

 

 鳳はその言葉に首を振って、

 

「いや、正確にはそうじゃないんだ。俺はほら、レベル1でこの世界に呼び出されてしまっただろう?」

「……ああ、そうだったな」

 

 そのせいで殺されかけたり……というか二度も殺されたし、さんざん苦労させられたわけだが……今にして思えばなんやかんや楽しい思い出だった。そんな感想はともかくとして、

 

「ヘルメスはそれを本来あるべき姿に戻してくれたんだ。つまり、俺は今、この世界に来る前に使えた全てのスキルと魔法が使えるようになっている」

「それって……!?」

 

 その意味が瞬時に分かったジャンヌが目を丸くしている。続いてアイザックも、自分が呼び出した勇者のことを思い出して、顔を引きつらせていたが……他の連中はわからないようだったので、鳳は仕方なく種を明かした。

 

「つまりまあ、いま俺は、この世界に存在する全ての古代呪文と、簡単な神技なら使えるようになっている。因みに、レベルは99だ」

「はあああ~~~~~~っっ!?」

 

 それを聞いた瞬間、ギヨームが心底嫌そうな表情で叫んだ。きっと今まで散々馬鹿にしてきた相手にレベルを抜かれたのが悔しくて仕方ないのだろう。鳳はそれをいい気味だと思いつつ、続けて、

 

「ついでにボーナスポイントも93余ってる。まあ、ステータスは何も上がってなかったんだけどね」

「ちょっと待て! ボーナスポイントっておまえ、あのステータスを自分の好きに弄れるっていう奴か?」

「そうだ」

「それってつまり……その気になったらSTR99にすることも出来るってことか?」

「まあな」

「そんな無茶苦茶な!」

「叫ぶなよ! ツバが飛ぶ」

「だっておまえ、平均に均したとしても、全ステータス20超えだろ? いや、初期値10なんだから、ほとんど30近いじゃねえか!?」

「HPやMPも上げないとだから、そう全部が全部ってわけにもいかないだろうがな」

「そんなんチートや、チーターやん!」

 

 あまりのショックでギヨームがキャラ崩壊を起こしている。まあ、そう叫びたくなる気もわからないでもない。鳳だって、今更こんな小説家になろうの主人公みたいな能力を貰ったところで嬉しくもなければ、大して役立てられると思ってもいないのだから。どうせ死んでも生き返るのだし、いっそ封印したって良いくらいだ。

 

 と、そんな感じに、鳳がギヨームにぶつくさ文句を言われている時だった。大騒ぎするパーティーの中で、急にアイザックが立ち上がったかと思えば、

 

「ディオゲネスッ!!」

 

 彼はそう叫ぶと、キャンプ地から少し離れた場所に居た男の元へと駆けていった。ピサロに散々利用され、鳳たちの障害として立ちはだかったディオゲネスである。スリープクラウドで眠らせたまま放置しておいたが、ようやく目覚めたのだろうか……?

 

 いや、それにしては出てくるのが遅すぎたから、多分、目覚めた後、彼は自分のやったことに後悔して、今まで煩悶していたのだろう。彼はまるで幽鬼のようにフラフラとした足取りで、駆け寄るアイザックの前でガクリと跪くと、

 

「アイザック様……今まで、お世話になりました」

 

 そう言って、アイザックに向かって深々と頭を下げた。

 

「数々のご無礼をお許しください。俺は騙されていると分かっていながら、奴の言うことを聞かずにはいられなかったのです。それもこれもペルメルを助けるためでしたが……その望みも絶たれた今、俺に残されているのは主人を裏切ったという汚名だけです。許されるなら、どうかお暇を下さい」

「何を言う。おまえが利用されていたのは俺だってわかっている。おまえの言ったことだって、大して気にしていない。逆におまえ、友達の命よりも上司の命令を優先するような奴なら、俺はおまえを心底軽蔑しただろう。そうではないおまえのことを、俺は寧ろ信頼しているのだ。だから今まで通り、そばにいてくれないか」

「しかし、アイザック様……」

 

 ヘルメス卿の主従が押し問答を続けている。

 

 鳳はそんな二人のことをどこか冷めた目つきで眺めながら、どうしたもんかと黙っていると……

 

「お兄さん……」

 

 マニが近づいてきて、少し言いにくそうに言った。

 

「森でピサロにやられて潜伏していた時、彼は僕のことを庇ってくれました。本当は優しい人だと思うから、助けてあげて欲しいんですが……」

「やっぱそうなるよね」

 

 鳳は苦笑いしながら天に向かって指差した。

 

「我、鳳白の名において……」

 

 鳳の突然の行動に、その場にいた全員の視線が釘付けになった。彼の詠唱が朗々と続く。

 

「汝、ペルメルの魂よ。我が声に答え、我がもとへと還れ……」

 

 それはつまり、鳳の権限において、サーバー上にあるペルメルのデータを、鳳の座標に送信し、そこで彼の体を修復せよ。

 

 文法としてはそんな感じだろうか。データベースにアクセスするためのSQLみたいなものだ。もちろん、命じているのはDAVIDだ。非常に機械的な操作で、科学的と言えた。

 

「リザレクション!」

 

 しかし、これを傍から見たらどう感じるだろうか。まるで救世主が天におわす神様に向かって祈りを捧げたら、奇跡が起きたように見えるんじゃないか。

 

 鳳の命令によってトランザクションが発生し、ペルメルのパーソナルデータ。分子を生成するためのエネルギー。そして体を修復するためのナノマシンが送られてくる。それらは高次元からこの次元に顕現する時、著しい発光を伴って現れた。

 

 そしてまばゆい光の中からペルメルの姿が現れると、もはや諦めていたディオゲネスの顔は驚愕に震え、アイザックは涙を流した。呆然と佇むペルメルの元へと二人が駆け寄る。彼らは暫くの間、お互いに抱き合い、歓喜の声を上げていたが、やがて落ち着きを取り戻すと鳳の方へ感謝の眼差しを向けた。

 

 彼はその視線を受けて、なんとも言えない気分になった。感謝される言われはない。自分がやったという実感もない。ただ、やれることをやっただけだ。なのに……

 

 神とは何だ……?

 

*********************************

 

 ペルメルが復活し、メアリーを含む神人三人に睨まれたレイヴンたちは、スタンが解けても大人しくなっていた。ピサロのせいで従っていた殆どの獣人たちもガルガンチュアとなったマニに恭順を示し、こうして大森林を騒がせたレイヴンたちの暴走は終わったかに見えた。

 

 しかし、ここまで事が大きくなってしまうと、これで一件落着というわけにはいかない。彼らが森に帰ったところで、もう集落はどこにもないし、森はオークに席捲されてしまっているのだ。

 

 これをどうするかの対策を、早急に練る必要があるのだが……いつまでもこんな砂漠のど真ん中で立ち話をしているわけにもいかない。一度ヴィンチ村に戻り、レオナルドに相談しようということになった。

 

 しかし、ヴィンチ村はこの場所から早くても一昼夜の距離がある。これだけの大人数で移動するのは一苦労だ。マニの話では、暫くしたら冒険者ギルドから派遣された者たちがここを訪れるはずだから、それを待ったらどうかという話になったのであるが、

 

「いや、待つ必要はない。すぐ出発しよう」

 

 鳳がそう言うと、ギヨームが不可解な目を向ける。

 

「どうしてだ? 待ってりゃすぐに誰か来るんだし、こっちから行くにしても、まずは少数で連絡を取ったほうが無難だと思うが?」

「だから、全部の魔法が使えるようになったと言っただろう。ほれ、ヴィンチ村へ繋いでくれ……タウンポータル!」

 

 鳳がそう唱えると、中に光の渦巻いた大きな扉のような形をした物体が現れた。その先は真っ白で見えなかったがここをくぐればどうなるかは察しがついた。

 

「……マジか?」

 

 もうこれ以上驚くことなど何もないと思っていたギヨームは、うんざりした表情をしながら、額の汗を拭った。鳳はマニを振り返ると、

 

「ガルガンチュアの村にも行けるから、後でお父さんをちゃんと弔ってあげよう」

 

 マニは嬉しそうに頷いた。

 

 こうして鳳たちは散々あちこち寄り道をした末に、長く続いたボヘミア旅行を終え、ようやくヴィンチ村へと帰還した。旅を終えて一回り成長……というか、なんかもうよくわからないものに変身して帰ってきた彼らを見て、レオナルドが腰を抜かしたのは言うまでもない。

 



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祭りのあと

 タウンポータルで帰還した先は、ヴィンチ村の広場のど真ん中だった。村人たちは、突然何も無いところから現れた鳳たちを見て驚いていた。あっという間に騒ぎになってしまい、何もこんなところに繋がなくてもと思っていたら、冒険者ギルドから出てきたミーティアが彼らのことを見つけて、

 

「あ、お帰りなさい。往来の邪魔ですから、もっと脇に退いてやって下さいよ。こっちにクレーム来るんですから」

 

 といつも通りフラットに対応してくれたお陰で、村人たちもそういうこともあるのかな? と言った感じで落ち着きを取り戻し、面倒に巻き込まれずに済んだ。ミーティアに感謝はもちろんするが、村人たちの適応力も大したものである。

 

 なんでこんなにサバケてるのかと呆れたくもなるが、ここは空想具現化の開祖であるレオナルドの村であり、この世界には神人もいれば魔法もあるのだから、案外こんなものなのかも知れない。

 

 往来の邪魔だと言っていたミーティアもそんな感じだったらしく、彼らを道路の脇に誘導しながら、

 

「それってどうやってるんです?」

 

 と訊いてきたので、タウンポータルを使った旨を伝えると、

 

「それって失われた禁呪じゃないですか! ひえー!」

 

 と初めて驚く始末であった。と言うか、驚くのはそこなのか。この世界の人々のツボがいまいち良くわからない出来事であった。

 

 ともあれ、そんな具合にみんなをポータルで運んでいたのだが、そのうち半数くらいの獣人がポータルを使えないことに気づいた。全部ではなく半数くらいである。他の人達は特に何事もなく使えるのに、どうしてだろう? と首を捻っていると、騒ぎを聞きつけた執事のセバスチャンが館から駆けつけて来たので、とりあえず彼らを残して、報告のために館へと向かった。

 

 レオナルドは鳳たちの突然の帰還を驚きつつも、割とあっさり受け入れてしまった。感覚的には村人たちと同じなのだろうが、ポータルと聞いてもいまさら驚いたりはしなかったのは、亀の甲より年の功というやつだろうか。

 

 それよりも迷宮のことや鳳が会ったヘルメスのこと、それから大森林で起きた騒動の後始末など、問題は山積みであり、いちいち驚いてられなかったのだろう。つい最近までこの国は戦争までやっていたのだから、これ以上問題を持ち帰ってくれるなというのが本音だったのかも知れない。

 

 鳳たちの報告を聞いたレオナルドは暫し難しい顔で考え込んでいたが、ふっと表情を和らげると、

 

「相わかった。一朝一夕でどうなる問題でもあるまい。話はまた落ち着いてからにしよう。それより実は今日、村では戦勝祝いの祭りをする予定だったのじゃ。丁度、英雄であるお主らが帰ってきたと聞けば村人たちも喜ぶじゃろう。疲れてるところすまぬが、祭りの主賓として参加してくれんかのう」

「英雄って、なんでそんなことになっちゃってるの?」

 

 鳳たちはアイザックを助けてから、すぐに早馬に乗って発ってしまったから知らなかったのだが、どうやらあの後もヴァルトシュタインが吹聴していたらしい。それを聞いた連邦議会も、鳳たちがボヘミアの地図づくりを命じた冒険者の一団だということに気づいて、その尻馬に乗ったようだ。

 

 それだけでもかなり迷惑な話だが、更に失礼なのは、そのリーダーとしてジャンヌの名前が独り歩きしていたことだ。どうやら連邦議会としては、当時レベル6だった鳳の名前じゃ説得力に欠けるから、レベル102でヘルメスの勇者として名高いジャンヌの方を、勝手にリーダーにしてしまったようである。

 

 かくして筋骨隆々の神技使い、ゴリマッチョことジャンヌ・ダルクの名前は世界中に轟いたわけだが……しかし、そんな彼も今や金髪碧眼の長身エルフである。誰が今の彼女を見て、ゴリマッチョを思い出すだろうか。そう考えれば実害もないのだから、腹立たしくもあるが、まあ放っておくしかないだろう。しかし、ホント、これからどうなっていくのだろうか……

 

 ともあれ、お祭りの主賓として招かれたからには、きょう一日くらい楽しんでもバチは当たらないだろう。

 

 思えばボヘミアに行ってからろくな目に遭っていなかった。当初こそアヘンの魅力に引き込まれ、ここに永住するのも悪くないと思いもしたが……砦で足の切断を手伝わされたり、モルヒネを作らされたり、ポポル爺さんは死んじゃうわ、中毒になりかけるわ、大森林でゲリラをさせられるわ、勇者領縦断レースみたいな強行軍をさせられるわ、挙句の果てに死ぬし……こうして列記してみると、本当に殺人的な旅程である。

 

 そんな旅の疲れを癒やすためにも、今日は色んなことを忘れて素直に楽しんでしまおう。鳳は久しぶりのヴィンチ村を満喫することにした。

 

 お祭りは夕方から始まった。

 

 村の上空にポンポンと空砲が鳴り響くと、村の家々から大勢の家族連れが集まって来て、村長(レオナルド)の代理で執事が通り一遍の挨拶をしたら、村の広場の中央にキャンプファイヤーが焚かれ、なんだか盆踊りみたいというか、フォークダンスみたいなを踊りを始めた。道路には露店が並び、商店主たちの屋台の他にも、村の外からやってきた行商人の屋台も出ているようだった。

 

 主賓と言うから何かやらされるのかなと思いきや、特にそんなことはなかった。考えても見ればこんな狭い村の人たちなんて殆どが顔見知りみたいなものだから、改めてそんなことをやる必要もないのだろう。

 

 いつも野菜をくれる農家の人たちの真似をして踊っていると、やってくるオッサン連中から口々に「兄ちゃんも少しはレベルが上ったか? 立派になったら娘を嫁にやるよ」と散々からまれた。今のレベルを知ったらどう反応されるかわからないのでもちろん黙っていたが、高レベルになるとこういう距離感もなくなってしまうんだなと思うと、あまり嬉しいものとは思えなかった。

 

 屋台でイカ焼きが売っていたから調達し、ここの人たちも食べるんだなと思って感心していると、遠くの方で猫人たちが、フェレンゲルシュターデン現象みたいな目でじっとこちらを見つめていた。柑橘類も食べちゃう連中であるが、流石にイカはどうかと思うので気づかないふりをしてスルーする。

 

 普段は落ち着いた雰囲気の村はこの日ばかりは賑やかとなり、子供たちの笑い声が夜遅くまで響いていた。

 

 そんな中でルーシーは、スカーサハと連れ立って屋台を回っているようだった。最初こそ強引な姉弟子のことを苦手にしていた彼女だったが、戦場での活躍を見て感化されたらしい。レオナルドはガッカリしていたが、頭でっかちなことを考えるよりも、音楽のほうが性に合っていたらしく、今ではすっかりスカーサハの弟子みたいになっていた。

 

 因みに、どうして彼女がこの場にいるのかと言えば、言うまでもなくポータルを使って呼んできたからだ。

 

 レオナルドが言うには、祭りは戦勝祝いだそうだから、どうせだったら本物の英雄を呼んできてやれと、祭りが始まる前にアルマ国までひとっ飛びしてきた。突然現れた鳳たちを見て、スカーサハはかなり驚いていたようだが、ヴィンチ村の名前を聞くと久しぶりに師匠に会えると言って、素直に応じてくれた。

 

 ついでだからヴァルトシュタインも呼んでやろうと思ったのだが、ところが不思議なことに、彼も獣人たちみたいにポータルでの移動が出来なかった。おかしいと思って調べてみたが、理由はいまいちわからなかった。なにか条件があるのだろうが……ポータルを通れる人間と、通れない人間とで、どんな違いがあるのだろうか?

 

 怪しいと言えば、やはり、あの迷宮で見つけた機械が怪しそうだが……と言うのも、あの機械によって著しい変化を見せた人物に心当たりがあったからだ。言わずと知れたジャンヌである。

 

 お祭りでは当初、鳳はジャンヌと一緒に回っていたのだが、ヴァルトシュタインの話をしている最中に、ジャンヌが自分のステータスの変化に気づいた。どうやら彼女は、あの機械で復活したことによって、ステータスが初期値に戻っていたらしいのだ。

 

 まあ、体がここまで劇的に変化してしまったのだから、ステータスもそのままというわけにはいかなかったのだろう。ディオゲネスとの戦闘の最中に、神技が使えなくなっていたのはそれが理由だったようだ。

 

 その代わり、鳳みたいにボーナスポイントが割り振られていたらしく、レベルはそのままだったから、今は100ものポイントを自由に使えるようになっているらしい。つまり、ジャンヌもまた、以前とは比べ物にならない力を手に入れたわけだが……『しかし夢々忘れるな。力に溺れたとき、君は君でなくなる』精霊の言葉を思い出す。本当にこのまま、このポイントを使っても良いのだろうか。鳳は少々不安に駆られたが……

 

 そんなことよりもゲーオタの性と言うべきか、

 

「ステ振り楽しい~!」

 

 ジャンヌはそれを発見するなり、自分の能力をどう成長させるか、そのことしか頭の中に無くなってしまったようだった。こうなってしまうとどうしようもなく、話しかけても生返事しか返さないだろう。

 

 まあ、力に溺れるなというのは、力を使うなと言うことではない。いきなり変なことにはならないだろう。鳳はそんなジャンヌを置いて、一人でお祭りを楽しむことにした。

 

 人混みの中を大分歩いていたせいで、少し疲れてきた。鳳が夜風に当たろうと、喧騒から離れて牧場の方へとやってきたら、マニが猫人たちと遊んでいた。強くなったマニは猫人たちに請われるままに、空中ジャンプして見せたり、瞬間移動して見せたりしている。

 

 ガルガンチュアの息子だし、ご先祖様の能力を受け継いだと言っていたが、流石にあれはどうなんだろう……今度、時間を作ってゆっくり話を聞いてみようと思っていると、

 

「おーい、鳳!」

 

 振り返ると、ギヨームとメアリーがやってきた。珍しい組み合わせだなと思っていると、別に二人で行動していたわけではなく、祭りから離れていく鳳の姿を見かけて追いかけてきたようだ。

 

 メアリーは両手に露店のジャンクフードを抱えながら、

 

「お祭りってのは中々良いものね。毎日がお祭りだったら、きっと楽しいわ」

「ニューアムステルダムは毎日がお祭り騒ぎみたいだったろ」

「それとこれとは違うわよ。あっちは知らない人だらけ。ここみたいに楽しめないわ」

 

 ボヘミアへ向かう時、船に乗るために立ち寄ったのだが、メアリーはやはり都会は性に合わなかったらしい。城から連れ出してそろそろ半年が過ぎようとしているが、順調に人見知りに育っているようだ。思えばエミリアも、人見知りの引きこもりだった……やっぱりDNAとか、何か関係が有るのかなと思っていると、

 

「あっちでジャンヌを見かけたんだけど、話しかけても上の空なのよ。独り言をブツブツ言ってて気味が悪かったわ。どうしちゃったか、ツクモは何か知らない?」

「ああ、それなら……」

 

 鳳がジャンヌの身に起きた出来事をかいつまんで説明すると、返事はメアリーではなくギヨームから返ってきた。

 

「はあ!? あいつもそんなことになってるの? なんつーか……おまえらつくづくずるいよな、チートだチート。チート兄弟だ」

「チートて……否定はしないけどね。つかどこでそんな言葉覚えたの」

 

 このまま行けばいつかブロント語でしゃべり出しそうだ。そんな事になったら大変なので、鳳はあまり汚い言葉遣いをしないようにと心に誓った……

 

 ギヨームは牧場で遊んでいるマニを眺めて溜め息を吐きながら、

 

「なんかあっという間に抜かされちまったよな。先祖の力かなんか知らないが……俺もあの機械に入ったら、ジャンヌみたいになれるんだろうか?」

「さあ、どうだろ。少なくとも、ペルメルはそんなこと言ってなかったな」

 

 ジャンヌに先駆けてあの機械に入ってしまった神人のペルメルであるが……彼は復活したことが信じられなくて、あの後かなり自分の体のことを調べていた。もしもステータスに変化があったらとっくに騒いでいるだろう。

 

「もしかすると、彼が元々神人だったのが関係しているのかも知れない。まあ、試してみるのは簡単だけど……おまえ、神人になりたいのか? 一度なったら、戻るのは難しいと思うが」

「確かに、そこまでは思いきれないな……」

「俺はゴメンだね」

「どうして?」

 

 鳳たちがそんな感想を言い合ってると、そばで聞いていたメアリーが首を傾げていた。鳳は、神人である彼女の前で言うことじゃなかったと思いつつ、

 

「なんつーか俺たちは、長生きはしたいけど、歳を取らない体にはなりたくないんだよ。いつまでも若いままでいられるってのは魅力的なんだけど、それも100歳を超えてとなると抵抗感があるんだ。100年以上人生が続くって考えると、なんか途方も無い気がするっつーか……まあ、もしかすると人間特有の感覚かも知れないし、神人になっちまったらもうそんなこと考えないのかも知れないけど」

「ふーん……よくわからないけど、でも、そうかもね。私も300年も生きてたら飽きることもあったわ」

 

 鳳は苦笑いするしかなかった。一口に300年生きたと言っても、彼女の場合は、あの結界の中に閉じ込められてなのだ。それを飽きるの一言で済ませられる時点で、既にその感覚がありえないのであるが……

 

「まあ、ジャンヌのことも含めて、また爺さんが暇になったら迷宮に行って調べてみよう。もしかすると、あの迷宮はマニの能力にも何か関係有るのかも知れない」

「そう言えばそんなこと言ってたな。どうしてそう思うんだ?」

「だって、あれ、神技だろ?」

「ああ、そっか……神技や古代呪文は、あの機械が関係してるのかも知れないんだよな」

 

 正確にはあの機械で量子化された人間と、デイビドがリンクしている感じというのが正しいだろうが、

 

「……改めて考えると、とんでもない機械だよな。そう言えばあの峡谷のあちこちに書かれていたマーク、P99だったか? これって、あの機械の名前なのか?」

「ん? ああ、そうかもな」

「どういう意味があるんだ」

「さあ? 普通に考えれば、こういう数字にはバージョンやロットナンバーがあてられるものだけど、99じゃ大きすぎる気がするし、もしかすると99年産って意味かも知れないな」

 

 これが作られたのがその頃だとすると、リュカオンが地球人類を圧迫し始めたのは21世紀末ごろということになる。確か以前に見た幻視では、AIがシンギュラリティに到達したのは45年だったはずだ。

 

 とすると第五粒子(フィフスエレメント)が発見されたのもこの頃……それから半世紀であの事態に陥ったのだと考えれば、妥当かも知れないが……

 

「ツクモ」

 

 そんな事を考えていたら、メアリーが呼びかけてきた。

 

「ん? なんだい?」

 

 鳳がどうしたんだと返事を返すと、彼女はもどかしそうに首を振って、

 

「違うわ。ツクモのことを呼んだんじゃなくって、99ってツクモのことでしょう?」

「……あー、あー、あー! 確かにそうだな」

 

 鳳の名前は白と書いてツクモ。元々、九十九と書いてツクモと読むのを、百から一を引いた白に当て字した名前だが……

 

 彼は自分の名前に何か引っかかりを覚えた。そして、それがなんだろうと深く考えてみた時、彼はピンときた。

 

 この機械を作ったのは、動画では鳳財閥だった。それにあやかってプロジェクトはフェニックス計画と名付けられた。フェニックスとはギリシャ神話の不死鳥ポイニクスの英語名、だから綴りはPhoenix。

 

 鳳白=Phoenix99。

 

 機械が起動した時、あれは『認証』したと言っていた。ということは、P99とは機械の名前じゃなくて、パスワードだったんじゃないのか。

 

 あの機械を起動するには、P99というパスワードが必要だったのだ。だからあの迷宮の持ち主である初代ヘルメス卿は、ガルガンチュアの部族にあのマークを伝承させた。いつか誰かが、あのマークの意味に気づいて、機械の前で偶然口にするのを期待して……

 

 しかし、どうしてこんなパスワードがついているんだ?

 

 ヘルメス卿は、それをどこで知った?

 

 元々、あれを使っていたのは、何者だったんだ……?

 

**********************************

 

 夜が更け、日付が変わろうとしても、宴はまだ続いていた。子供たちが糸が切れたようにおとなしくなると、フォークダンスは間もなく終わり、屋台も帰ってしまったが、大人たちはまだ広場に残って酒を飲み交わしながらワイワイやっていた。

 

 明日からまた野良仕事だ。北方は食糧不足が深刻だから小麦相場が上がるだろう。いいや、青田買いした穀物が出回っている今が買い時だ。家畜飼料が安くなっていたぞ。村のおじさん連中が、いつもは通り過ぎるだけの広場であぐらをかきながら、気分良さそうに騒いでいる。

 

 そんな彼らのすぐ横を、金髪碧眼の美女が通り過ぎていった。酒に酔っていたこともあって、すかさず彼らは、無遠慮でネットリとした視線をジロジロと飛ばした。あれは誰だ? 偉いべっぴんさんだな。確か神人さんが来ていたろう。スカーサハ様とは別人だ。あんな人いたっけな……彼女は胸を強調するようなピッタリとした上着を来て、まるで誘っているかのように、腰を振りながら通り過ぎていく。おっさん連中は鼻の下を伸ばし、その後姿を見ながらイヒヒと笑った。

 

 自分がどんな風に見られているかにも気づかずに、ジャンヌは村の中を歩き回っていた。夕方から始めたステ振りに悩んで、鳳に相談に乗って貰いたかったからだ。

 

 つい昨日まで40代無職童貞ゴリマッチョだったジャンヌは、今まではパーティーのタンク役を任されていたけれど、こうして細身の体を手に入れた現在、これまでのような戦闘スタイルに拘らなくてもいいのではないかと考えた。

 

 もちろんゲームではこの体でタンク職を担っていたのだから、やってやれないことはないのだが、ここは現実なのだから、下手にSTRやVITを上げて筋肉がついてしまったら可愛くないと彼女は思ったのだ。

 

 元々、ジャンヌがゲームで女性キャラを選んだのは、可愛いアバターを使って、可愛い服で着飾りたいと思っていたからだった。あっちの世界ではゲーム中にある見た目装備を全部集めて、いろいろ組合わせて喜んでいたのだ。それが現実で出来るようになったのだから、出来ればこの体型を維持したい。

 

 それに、今のパーティーでは別の役割があっていいかも知れないと彼女は考えていた。正直なところ、今のパーティーは前衛職が少なすぎて、彼女が敵を引きつけるよりも、さっさと倒した方がいい場面が多々あった。実際、そうして切り込み隊長を任されることも多かったから、今度はもっと攻撃特化にしても良いんじゃないかと思うのだ。

 

 今となっては新たに獣王ガルガンチュアという強力な仲間も増え、力を取り戻した鳳もいる。なら、ちょっとくらい我がままを言っても良いんじゃないか……彼女がそんなことを考えながら村を歩いていると、やっと冒険者ギルドの前で鳳の姿を見つけた。

 

 彼はギルドの手すりに腰掛けて、グラスを片手にぼんやりとキャンプファイヤーの残り火を眺めている。ジャンヌはそんな彼に声をかけようと、いそいそと近づいていった……と、その時、ギルドのドアがガチャリと開いて、中からミーティアが顔を覗かせた。

 

「お疲れさまです。これ、屋台の余り物ですけど」

「ありがとう……この焼きそばみたいの、ミーティアさんが作ったの?」

「わかります?」

「ここで毎日食べてたからね。なんかこの味食ってると、帰ってきたって感じがするよ……って、なんでそんな人を殺しそうな目でチョップを構えてるの!?」

 

 鳳はミーティアにバシバシと叩かれている。彼は犠牲になった左腕を擦りながら、

 

「まあでも、本当にこの村に帰ってくると落ち着くよ。思えばこの世界に来てから住んでた場所は、どこもかしこも無くなっちゃったからな。ここは流石に爺さんの居城だけあって無くなることはないだろうから、それだけで安心するよ」

「鳳さんは、何故か村人たちにも受け入れられてますもんね……今日なんか、何度もお見合い勧められてましたよね」

「あれね、ビックリだよね。俺の世界だと逆に田舎は嫁不足で、娘を貰ってくれなんて話は聞いたことなかったんだけど。きっと俺の国の農家が異世界転生したら引っ張りだこだと思うよ」

「いや、そういうことじゃないと思うんですけど……お嫁さん不足ってのはここも変わりませんよ?」

「そうなの? じゃあ、ミーティアさんも結構縁談持ちかけられてるんじゃない?」

「うっ……実は、そうなんですよ。特に、鳳さんたちが遠征に出掛けてからは、毎日ギルドで暇してたから……次から次へと」

「断っちゃったの? 前は早く結婚したいって言ってたのに」

「色々ありましたから……今は、もう少しギルドの職員を続けたいかなーって……」

「ふーん。うん、それがいいよ。そんな焦んないでも、ミーティアさんならそのうち良縁あるだろうし、それに、ギルドにミーティアさんがいてくれた方が、帰ってきたなって感じがするから……って、だからなんで無言で拳を握りしめるの!?」

 

 ギルドの前で、鳳とミーティアがいちゃついている……サンドバッグにされているようにも見えなくもないが、どっちにしろ、二人の仲を見せつけられているかのようで……

 

 ジャンヌはそれを見た瞬間、何故か自分の胸が信じられないほどに傷んでいることに気がついた。

 

 彼女は反射的に踵を返すと、ギルドとは逆方向へと歩き始めた。今まではそんなことなかったのに……今はあの二人を見ていると、とんでもなく苦しくなる。

 

 以前、ルーシーに聞かれた時、彼女はミーティアのことを応援すると受けあった。自分のことで変に鳳のことを悩ませるくらいなら、ちゃんと女の人を好きになって欲しい。そう思った。それはその時、彼女は彼だったからだが……でも、今は?

 

 背後から、二人の幸せそうな声が聞こえる。

 

「そう言えば、今回も大活躍だったみたいですね。スカーサハさんが言ってました。なんでも、鳳さんがいなかったら、戦争に負けてたかもって」

「いや、そこまでではないんだけどね。あの先生も一々大げさなんだよ」

「そうなんですか? でも、本当なら、何かお礼しなきゃいけませんね。何かして欲しいことってありますか? 何でも言って下さい」

「じゃあ、おっぱい揉ませて?」

「殴るぞこの野郎」

 

 鳳の悲鳴が広場にこだまする。ジャンヌはその声が聞こえなくなるまで、誰の姿も見えなくなるまで、ひたすらに足を早めて歩き続けた。

 

(第三章・了)

 



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第四章・飲む買う打つは勇者の甲斐性
21世紀地球の旅


 2019年、世界人口が77億人を突破した。その勢いは留まることを知らず、2050年には97億人、2100年には109億人を突破するだろうと言われている。このままいけば、人類はどこまで増え続けてしまうのだろうか。他の生物とのバランスや、環境問題に懸念を抱く自然派は気が気じゃないだろう。

 

 でも実は人口増加のスピードは鈍化している。世界人口が30億を突破した1960年から、人口が10億人増える期間は徐々に短くなっていたのだが、21世紀に入ってついにその速度は逆転し始めた。このままいけば人口増加どころか、世界人口は頭打ちとなり、逆に減り始めるのでは無いかと予想する研究者もいる。

 

 人口50億を突破した1987年頃、日本はバブル絶頂期のイケイケドンドンな空気もあって、誰もが人口は増え続けるものだと思い込んでいた。テレビは毎日のように、このままではいずれ狭い日本には買える土地が無くなってしまうと煽り、世界人口は21世紀に100億はおろか、200億を突破すると真顔で断言するような学者も居た。

 

 そして意外とみんなそれを信じていた。このままいけば一極集中の東京は人が住めなくなってしまう。四畳半どころか三畳間のワンルームを借りるのが精一杯だ。バブルが弾けてさえ、まだみんなそう思っていた。かくなる上は首都機能を移転して、一刻も早く地方へ脱出するのだ。

 

 しかし現状はどうだろうか。確かに一極集中はより進んでしまった感があるが、日本全体の人口の方は頭打ちで、今や外国人労働者に頼らねばやっていけない始末である。あの頃の日本人は、こんな急激に衰退するとは誰も思っていなかったのに。

 

 もちろん、政治家たちもただ手をこまねいて見ていたわけじゃない。少子化対策のために、子育て支援を行ってはいた。だが、ゆとり教育や子ども手当など、いつの間にか終わっているものが多く、政府があれこれ口を出しても、うまく行かないことを知らしめる結果にしかならなかった。

 

 結局、子育てにはお金がかかり、子育て世帯は誰かが支えてあげなきゃならないのだが、その子育て世帯こそが一番の働き盛りなんだから、誰も彼らを支えられないのだ。

 

 そうではなく、単に政治家が票田である老人ばかり優遇しているのが悪いのだという声も聞こえるが、実際問題、子育て支援はそこそこ行われていた。というよりも、そんなものが無かった時代の方が子供がバンバン生まれていたのだから、時代が変わったとしか言えないのではなかろうか。何言ってんだこいつと怒られそうだが……

 

 話は変わるが、アメリカは大体なんでも社会実験にしてしまうから、子育てについても色々実験している。それによると教育の質によって生涯に渡る賃金格差が生じるという結果が、歴然と示されていたりする。例えば、A学区で育った子供とB学区で育った子供を追跡調査した結果、そこに賃金格差がはっきりと現れていたわけだ。

 

 これが具体的に何を示しているのかと言えば、黒人だらけの学区と白人しか住んでいない学区では、生涯賃金に差があったということである。興味深いのは、そういった黒人だらけの学区で暮らす白人と、白人だらけの学区に通った黒人との間にも、格差が生じていたことである。

 

 この差が何故生まれるのかと言えば、言うまでもなく学力の差が生じるからだ。黒人だらけの学校だと、貧困家庭が多くみんなそんなに勉強しないから、そこそこの成績しか取れず、将来もそこそこの仕事にしか就けない。ところが白人だらけの学校は成績が優秀な子供が多く、結果、高学歴となり大企業へ就職する確率も高い。つまり、白人と同じ学校で同じ教育を受ければ、貧困の黒人層も這い上がれるチャンスがあるというわけだ。

 

 だから最近の人権活動家は、何でも白人の枠を減らし、その分、黒人やヒスパニックに寄越せと声高に叫ぶわけである。

 

 しかし、本当にそうか? 実を言えば、学力というのは遺伝の影響がかなり大きいものである。遺伝子の存在が知られるようになって以来、多くの生物学者たちの研究結果からそれははっきりしている。お里が知れるという言葉があるが、実際に東大生の家庭は高収入という調査結果もあったりする。言っちゃ悪いが、やはり馬鹿な親から天才は生まれない。環境だけではどうしても埋められない差が、生まれる前から存在するのだ。

 

 だから、さっきの例だと黒人だらけの学区に住む白人の親とはどういう層なのかと考えなければならない。もちろん黒人の方もそうである。元々、その学区に住む人達の遺伝子に、知能格差があるのだ。

 

 だが、そんなことを言えば最近のリベラルが何を言い出すかは想像に難くない。きっと狂ったように攻撃してくるに違いないだろう。実際に、ノーベル賞学者のジェームズ・ワトソンは、黒人のIQは遺伝的に低いと言ってしまい、散々な目に遭った。

 

 彼としては悪意はなく、様々なエビデンスがある上での発言だったが、そんな言い訳は誰も聞いちゃくれなかった。彼は追い詰められ、生活に困窮するにまで至った。その件以来、人種によるIQの差について語ることはタブーとなった。人種や知能の差は関係なく、どんな人間も同じ教育を受ける権利があるという考え以外は認められなくなったのだ。

 

 しかし、そうやって何でもかんでも平等で、遅れてるものに手を差し伸べるような教育を行ったところで、結果が芳しくないのは言うまでもないだろう。日本で実際にゆとり教育を行った結果どうなったか、誰も総括したがらないからはっきりしないが、聞こえてくるのは散々なものばかりである。

 

 笑っちゃうが、みんな一緒にゴールしようという運動会を行った結果、他人を思いやり親切にしようという気持ちに『欠ける』大人になったという調査報告もあるようだ。完全週休二日制もかなり影響があった。要は学校が無い土曜日の過ごし方で差がついたわけだが……それが金持ちの子とそうでない子でかなり違いがあったわけだ。それを埋めるためには、進学塾無償化でもすればいいのだろうか?

 

 話を戻そう。教育が生涯獲得賃金に影響を与えることは事実である。高卒と大卒ではその差がはっきり出ることが分かっているし、実際に教育の有無が仕事の能率に関わってるのは、誰だって少しは実感があるのではないだろうか。だからまあ、教育自体はしなきゃならないわけだが、ところで我々は何故教育を受けているのだろうか。

 

 産業育成のためとか、国家戦略というお題目もありだが、一般庶民の感覚としては、それは幸せになるためだろう。

 

 我々が子供の頃、テレビを点ければ、いつでもそこには理想の家庭が映っていた。一流大学出身で大企業に勤務するイケメンの旦那さん。良妻賢母で専業主婦の綺麗な奥さん。子供は一人か二人で、郊外の大きな家か、お洒落なマンションに住んでいる。白い犬を飼ってるのも定番だ。そんな人たちがコミカルな会話を繰り広げながら、よく浮気したり、殺人したりするわけだが……

 

 我々は、きっと将来、自分もこんな風になるんだろうと漠然と信じていた。一流大学や大企業は無理でも、少なくとも結婚だけはしていると思っていた。

 

 ところが、現実はどうなったか。30過ぎても都内のワンルームマンションで暮らしていたり、実家ぐらしだったりする人は多いんじゃなかろうか。

 

 中には一流大学を出て大企業に就職し、高級車を乗り回しているような羽振りのいい人もいるだろう。だが、そういう人も、どこか結婚を諦めていないだろうか。もしくは結婚しても子供を諦めていたり、作っても1人だけと思ってないだろうか。

 

 たまに同窓会に呼ばれて周りを見れば、家庭を持っている者はどいつもこいつも早婚で、来年もう長男が中学に上がるとか、子供の成長のことばかり話してはいないか。我々はそれを内心イラッとしつつ、ニコニコしながら聞いているのだ。どうしてここまで差がついたんだろう……?

 

 まあちょっと考えて欲しい。あなたは普通の家庭に生まれたごく一般的な男子だ。小学校では体育が得意で、特に受験は考えずに地元の公立中学へ進学した。高校受験は少し苦労して、どうにか家から通える距離の私立高校に引っ掛かった。そんな経験もあり、大学入試では親に迷惑をかけまいと猛勉強し、地元の駅弁大学に合格。大学ではその反動で遊びまくったが、留年はせず無事4年で卒業して地元企業に就職した。

 

 さて、あなたには大学で知り合った彼女がいる。結婚してもいいと考えているが、今すぐ彼女にプロポーズするだろうか? 恐らくしないだろう。まずは入社した企業で出世して、家庭を持っても大丈夫なくらい足元を固めてからと考えるのではないか。

 

 でもそれはいつだ? 石の上にも三年と言うから、大体みんな三年くらいと漠然と考えているが、三年で出来る仕事などたかが知れているだろう。先輩たちからすれば、ようやくOJTを終えたくらいのものだ。実際に、その仕事で食っていけると思える頃には、10年くらいが経過しているものではないのか。

 

 その時、あなたはいくつだ。大学をストレートに卒業していれば32歳、まだ若くて働き盛りと言えよう。だが、その年齢になるまで、彼女は待っていてくれるだろうか。大学からの付き合いなら、かれこれ10年以上が経過していて、その間に別れてしまっていてもおかしくないだろう。またすぐ彼女が出来ればいいが、32歳独身の彼には出会いの場が少ない。あの時、さっさと結婚してればこんなことにはならなかったのに……

 

 とは言え、実際に彼と同じ立場になったら、多分みんな同じ選択をするんじゃないか。何故なら、教育とは一種の投資だからだ。その教育費は生涯獲得賃金の前借りなのだ。小中高大学、人によっては大学院まで高い教育費を投じてきた分、それを回収しなきゃ割りに合わないと考えるのは、自然ではないか。じゃなきゃ、何のためにあんな長い時間を勉強に費やしてきたのか。

 

 そしてその回収の見込みが立つのに、およそ10年がかかるというのが、先程の話の主旨である。少なくとも、大学を出て三年で立つほど、今の世の中は甘くない。昔はそれでも20代のうちから、えいやっと思い切って結婚し子育てを始めたわけだが、それは年功序列で経済成長が見込める時代だったから出来ただけの話であり、今の時代で同じことをするのは相当リスキーだ。

 

 昔のほうが競争が激しかったということはない。今の若者たちは、同じような教育を受けて、同じくらいパソコンやスマホを使え、賃金の安い周辺諸国と競争しているのだ。彼らからすれば、日本の中だけで何でもかんでも完結していた世代に、なにも言われたくないだろう。

 

 ……ともあれ、結婚する目処はたったが、今度はそのための相手がいない。慌ててみんなパートナー探しをするわけだが、もちろんそんな都合よく結婚相手が見つかるわけもない。そして、ようやく相手を見つけたとしても、その時にはもう、子供を何人も産もうと思えるような元気はなくなっているだろう。せいぜい一人産むのがやっとだ。

 

 もちろん、昔と違って現代は50近くになっても安全に出産が出来るくらい、医療技術が進歩していることは知っている。そう言う話ではなく、例えば40歳で初めて子供を授かったとして、その子が成人した時、自分はいくつだろうか。還暦を迎えているではないか。

 

 しかも子育てはそれで終わりではない。さっきも言った通り、今の子供たちが大学を卒業し、ようやく独り立ち出来たなと思える頃には30歳を越えている。その時、親は70歳だ。いや、将来の子供たちは、大人になるのにもっと時間がかかるかも知れない。更に時が過ぎ、子供たちが家庭を持ち、子育てしようとしている時、下手したら自分は死んでいる。なのに、何人も子供を産もうと思えるだろうか。

 

 つまり、少子高齢化の原因はこの晩婚化にあり、これは先進国が抱える病なのである。我々は幸せになろうとして、一生懸命勉強してきた。国民の学力が向上すれば生涯獲得賃金も上がって、ひいては国のGDPを底上げするだろう。教育を受けた国民が競争し、全体の知能レベルが上がれば、産業の発展も期待できる。現に、20世紀の人口爆発は、テクノロジーが進歩して、多くの人口を養えるようになったお陰だ。食糧事情が改善し、医療技術の進歩で子供は死ににくくなった。

 

 だが、高度な社会に適応するには時間がかかる。全員が知識階級になれば競争も激化し、何をするにも昔ほど簡単にはいかなくなる。子供が死ににくくなり、多死多産だった社会が、どんどん不死少産へと変わっていき、一人の子育てにかけられる時間は増えていった。皮肉なことにその結果、晩婚化が進み子供が産まれにくくなってしまったのだ。

 

 2019年、世界人口が77億人を突破した。その勢いは留まることを知らず、2050年には97億人、2100年には109億人を突破するだろうと言われている。数字だけ見れば、なんだ、それでも人口は増え続けるんじゃないかと思えるが……よく見れば、2050年から2100年になる間に、人口は12億人しか増えていない。それまで、10億人増えるのに12~3年程度だったことを考えれば、かなりの鈍化だ。

 

 その内訳は、日本などの先進国が人口減少に転じる一方、2050年までにサハラ以南アフリカの人口は倍増するというものだ。その後も発展途上国の人口は増加し続け、先進国は頭打ちになるだろうと言うのが、現在の国連の予想らしい。

 

 だが、リベラルの人たちが言う通り、学力と遺伝に関係がないのであれば、現在、発展途上国と呼ばれている国々も、遅かれ早かれ我々と同じような社会になるのではないか。つまり、晩婚化が進み、少子高齢化の波は意外と早くやってくるはずだ。となると、この100億人突破というシナリオも案外眉唾で、もっと早い段階で世界人口は減少へと転じるのではなかろうか。

 

 そしてその可能性は高いと思っている。と言うのも、長々と説明してきたが、少子高齢化は学力の問題と言うよりは、それに伴う社会構造の問題なのだ。学力向上の結果テクノロジーが進歩し、その適応のために時間がかかるようになったのなら、同じテクノロジーの恩恵に浴している社会が同じ目に遭うのは当然ではないか。

 

 そして殆どの人権家は、アフリカが先進国と同じような社会になることを望んでいる。それはアフリカにとって望ましいことではないと言ったジェームズ・ワトソンをぶっ叩いて。なら、彼らの威信にかけても、そうするのではなかろうか。そうして人口減少が起きた後、どうなっていくか興味は尽きない。

 



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フェニックスの街へようこそ

 以前にも言及したが、人間の記憶とは意外と曖昧なものなのだ。アメリカ人の多くは911の記憶を鮮明に覚えていると言うが、実際に話を聞いてみるとみんなてんでバラバラであり、場合によっては、事件当日には絶対にあり得なかったはずの出来事を、あたかも目撃したかのように語りだす始末である。

 

 しかもその間違いを指摘しても、みんな目をパチクリするばかりで、絶対に自分の記憶違いを認めようとしないのだ。何故なら、これだけの重大事なんだから、みんなまるで映画を見るように鮮明に覚えており、そこに間違いが潜んでいるなんて考えられないからだ。

 

 ところが、様々な事例によって、この映画のような記憶……フラッシュバルブ記憶には嘘が混じっていることが証明されている。人間は、間違いようがないと思っているようなフラッシュバルブ記憶をも、案外簡単に書き換えてしまう。例えば、事件後に放送された時系列的にも整合性の取れたドキュメンタリー映像を、自分の記憶としてアップデートしてしまっていたりするのだ。

 

 何故、こんなことが起きてしまうのか? と考えてみれば、人間がこのフラッシュバルブ記憶をどのように保存しているかが見えてくる。フラッシュバルブ記憶は、脳内にmpegのような映像アーカイブとして記録されているわけではなく、思い出そうとする度に、せいぜいト書き程度の情報を付加された台本を元に、脳内で再生されているのだろう。

 

 人間の記憶は、脳というハードウェアに、シナリオを流し込んで、再生されているようなもののようなのだ。

 

 ところで、話は変わるが……とある双子の話をしよう。

 

 一卵性双生児のジェームス・ルイスとジェームス・スプリンガーは生後間もなく養子に出された。二人はお互いに双子の兄弟がいることを知らずに育ったが、ある切っ掛けでそのことを知ると、お互い会ってみたいと考えて連絡を取り合い、実際に39年ぶりに再会した。

 

 こうして再会した二人には驚くほど多くの共通点があった。まず一卵性双生児というからには、二人の容姿や身長体重は殆ど同じだった。

 

 だが、似ていたのはそれだけではなく、二人とも高血圧気味の偏頭痛持ちであり、学生時代は落第すれすれの成績だった。二人とも同じメーカーの愛車に乗って同じ銘柄のタバコを吸っていた。共通点はまだまだ続き、更には、二人には離婚歴が有り、どちらも最初の妻と二番目の妻の名前が同じ。二人の息子の名前も同じなら、飼っている犬の名前まで一緒だったのである。

 

 ここまでくると流石に作り話なんじゃないかと疑われそうだが、そうして調べはじめてみると、世界中には似たような事例がいくつも見つかったのである。どうやら双子というのは、例え同じ両親に育てられなくても、似たような人生を歩むらしいのだ。

 

 ユダヤ人の父とカトリックの母を持つ一卵性双生児のオスカーとジャックは、両親の離婚後、父母に一人ずつ引き取られた。オスカーは母に引き取られてドイツでヒトラー・ユーゲントに入隊し、父親に連れられたジャックはトリニダード・トバゴのユダヤ人街で育った。

 

 二人は全く真逆のコミュニティに所属していたため、大人になっても再会することはなかったが、50近くになって双子の共通点を調べる研究に協力するために再会を果たした。

 

 すると別々に研究室へやってきた二人は同じ服を着ており、共通の癖があり、どうやら似たような趣味嗜好や生活習慣を持っていることが分かった。二人はその後、どちらもガンで亡くなった。二人はわりと似ていた。普通、ここまで真逆のコミュニティで育てば、全くの別人が現れるんじゃないかと思いきや、案外そうでもなかったのである。

 

 もしかして双子は魂が繋がってるのだろうか? と思いたくもなる出来事だが、どうも人間の個性というものは、思ったよりも両親からの遺伝の影響が大きいようなのだ。

 

 これらのケースを踏まえて、その後、多くの双子の追跡調査が行われた。それによって判明したのは、人間は肉体面だけではなく精神面も、DNAの影響を強く受けているらしいことだった。特に数学や音楽、それからスポーツの才能は、驚くほど両親の才能に左右されるそうである。残念だが、トビはタカを産まないのだ。

 

 ところで、遺伝子が肉体だけではなく精神面にも強く影響するというなら、もしも生き別れの双子のジェームス達が別れる日に戻って、それぞれが貰われていく家を取り替えてしまったら、どうなるだろうか?

 

 恐らく、結果は同じだろう。DNAが全く同じ二人の赤ちゃんは、自分たちの人生が入れ替わったなんて気づくこともなく、同じような人生を歩むはずだ。つまり元ジェームス・ルイスはジェームス・スプリンガーの人生を追体験し、元ジェームス・スプリンガーはジェームス・ルイスの人生を寸分違わず追体験する。生まれたばかりの赤ん坊は、まだ生活環境による個性への影響を受けていないのだから。

 

 ところで、こうして39年が過ぎた後に再会した二人の記憶と、二人の人生を取り替えることなく、記憶だけを入れ替えるのとでは、どこが違うのだろうか……?

 

 ここから先はオカルトチックな話になるが、以上を踏まえると、人間の記憶というものは、実はDNAの影響を受けていると言えるのではないか。同じ個性を持つものが同じ場面に遭遇しなければ、同じ記憶は形成されないのだから、記憶もDNAの影響を受けていると考えられるのでは。

 

 先の例だと、二人のジェームスとは全く関係ない別人と、片方を入れ替えたらどうなるかを考えてみればいい。例えばジェームス・ルイスとドナルド・トランプを入れ替えたらどうなるか。その場合、入れ替わったトランプはジェームスとは全く別の人生を歩むだろう。トランプの強烈な個性は、きっと人生の様々な場面で、ジェームスとは違う選択を選ぶからだ。すると記憶の共通性も失われる。

 

 そんな二人が39年ぶりに再会したとして、ドナルド・トランプとジェームス・ルイスが、記憶を取り替えてみることにしたとしよう。しかし、こうして記憶を入れ替えたジェームス・ルイスは、自分のことをドナルド・トランプと認識するだろうか? 恐らく、強烈な違和感を感じるだけで、それが自分の人生だとは感じられないのではなかろうか。どんなに記憶を弄っても、彼のDNAに刻まれた個性は変わらないからだ。

 

 ジェームス・ルイスと、ジェームス・スプリンガーであった時には、恐らく感じなかったであろう違和感がある。この違いを生み出したのは何か? もちろん、トランプのDNAだ。

 

 考えても見れば、人間の記憶も脳のどこかに保存されているのだろうから、DNAの影響を受けるのは必然なのかも知れない。記憶がどのように保存されているのかはまだ分からないが、仮にそれを取り出せたとして、別の誰かに移植してもそれは意味を成さないだろう。

 

 記憶というソフトウェアは、非常にシビアに、肉体というハードウェアを選ぶのだ。そこに互換性は殆どない。

 

 だが逆に言えば、そこまで肉体(ハード)を選ぶのであれば、記憶(ソフト)の方は我々が考えている以上にシンプルなものでいいのかも知れない。それこそ、薄っぺらい演劇の台本のようなものでも、この演者なら絶対にこう演じるという決まりがあるなら、一度失われた記憶を再度作り出すことは可能だろう。

 

 まあ、実際に我々の記憶がそこまで薄っぺらいことは無いだろうが、それは思ったよりも圧縮が効いていて曖昧なものであるのは間違いない。そうでなくては、人生の膨大な記憶を全部覚えておくなんてことは、絶対に出来ないはずだ。

 

 その証拠になるかも知れないが、我々はしょっちゅう記憶違いをするし物事を忘れてしまう。そしてフラッシュバルブ記憶が改ざんされていても、そのことに気づけない。我々の記憶は、思った以上にいい加減なのだ。

 

 つまり、そのいい加減な記憶を外部に保存するのも、意外と容易なはずである。

 

***********************************

 

 ヴィンチ村のお祭りから一夜明け、勇者領と大森林の境にある無人の荒野、その渓谷の中にあるヘルメス卿の迷宮に鳳たちは戻って来ていた。ポータルで運びきれなかった獣人たちへの指示と、そこにある神人製造機……便宜上P99と呼ぶことにするが、これを調べるためだった。

 

 P99は遺跡の壁際にあるサーバーに繋がれており、端末からその制御が出来るようになっていた。この機械がどういう仕組みで動いているのかは、さっぱり分からなかったが、動かし方は簡単に分かった。ドキュメントが残されていたからだ。

 

 それによるとP99は、まず元となる人間の全細胞をスキャン、量子化し、続いてその人のDNAから神人の設計図を作り、別々に保存しておいた記憶と混ぜて、また新たな肉体を作り出しているらしかった。

 

 どうせDNAから新たな肉体の設計図を作るなら全スキャンは必要無さそうだが、その工程が入っているからには何らかの意図があるのだろう。実際、新たに作られた体が元と乖離していたら、混乱が起きそうなものだが……ジャンヌは性別も肉体も完全に入れ替わってしまったというのに、自分を見失わずにいられたのは、多分、こうすることに意味があったのだろうと推察される。

 

 また記憶が別々に保管されているというのも示唆的だ。

 

 サーバーに残されていた記録によれば、神人はリュカオンを征伐するために作り出されたわけだが、その際、人間が死ぬことが非常にネックになっていた。先進的な国の人々は、自国の軍隊から死者が出ることを極端に嫌がるからだ。

 

 そんな厳しい条件がある中、神人化は死んでも復活できるという理由で採用されたわけだが、その具体的な方法がどんなものなのかは、映像記録を見ただけではわからなかった。だが、P99のドキュメントを見て、ある程度の推察は出来るようになった。

 

 どうやら人間の記憶と肉体は相互に対応するものらしい。どちらかが欠けても駄目で、例えば鳳の記憶をジャンヌの肉体に植え付けようとしても不可能なのだ。鳳の記憶を再生するには鳳の肉体が必要で、その肉体を生成するにはDNAが必要といった塩梅のようである。

 

 P99はそのDNAと記憶、肉体の状態を保存し、仮に戦闘で肉体が失われても、すぐ復活できるように管理しているらしい。その際、本人の記憶はP99に保存された時点に戻ってしまうから、定期的なバックアップが必要である。

 

 ただ、鳳が何度死んでもすぐ復活している事実から、記憶は後にシームレスに保存されるようになったようだ。だが少なくとも、今目の前にある機械ではそこまでは対応しきれていなかった。

 

 どうも、これは対リュカオン戦争の際に最初に作られたプロトタイプのようである。しかしプロトタイプとはいえ、ジャンヌを復活させた機能は十分であるから、あまり気にする必要はないだろう。

 

 それよりも、この機械の存在によって、この世界に仕組まれたカラクリの一端が見えてくる。

 

 何かと言えば、記憶が別に管理されているということは、ゼロから新たに作成した記憶から、人間を復活させることも可能なのではなかろうか?

 

 具体的に言えば……例えば、大昔の人間であるアインシュタインの脳細胞は保存されているが、このDNAを元に体を作り、彼の半生を元にした記憶を新たに生成すれば、アインシュタインは生き返ることが出来るのではなかろうか……?

 

 先に述べた通り、人間の記憶というものは曖昧で、思ったよりも圧縮の効いたものなのだ。アインシュタインくらいの有名人であれば、彼の伝記や残した手記、その他様々な逸話から、それっぽい記憶データを作り出すことができるのではないか。

 

 そうして新たに作られた人間は、完全なアインシュタインとは呼べないだろうが、少なくとも本人は自分のことをアインシュタインだと思っているはずだ。

 

 つまり、これが放浪者(バガボンド)の正体なのである。

 

「……なるほどのう。確かに、お主の言う通り、その方法でなら大昔の人間……例えば儂のような放浪者を復活させることも可能じゃろう」

 

 鳳がP99の端末を弄りながら、自分の思いついたことを話してみると、それを聞いていたレオナルドがこう返した。

 

「しかし、それなら、儂の死に際の記憶をどう考える? 儂は死の間際、精霊ミトラと出会って、彼の要請に応じてこの世界へやってきたのじゃ。少なくとも、儂はそう記憶しておるのじゃが、これはどこから出てきた記憶なんじゃろうか」

「うーん……言われてみればそうだな。作られたレオナルド・ダ・ヴィンチの記憶に、そんなオカルトを混ぜる必要は無い」

「それに儂は、最初からこの世界に、レオナルドとして生まれてきたわけではない。儂はこの世界で普通に暮らしておったら、ある日突然、レオナルドの記憶が蘇ってきて、今の儂になったのじゃ。儂になる前の人間の記憶もちゃんと残っておる」

 

 鳳はポンと手を打ってから、

 

「それだ。逆に考えると、それこそ不自然な話なんだよ。P99の仕様から考えると、人間が復活するには、記憶だけじゃなくて肉体も必要と考えられる。とすると、爺さんになる前の爺さんは、レオナルドのDNAを持って生まれてきたことになる。でも、それって普通じゃ考えられないことなんだよ」

「……完全に一致する必要はないのではないか? 例えば、マニがガルガンチュアの記憶を継承したのは、あの子がガルガンチュアの子孫だったからじゃろう。子孫と先祖、そのくらいの違いであれば、記憶の継承は起きると考えれば、儂に近いDNAを持った人間がこの世界にたまたま生まれたと考えることは出来んのか?」

 

 鳳はとんでもないと首を振って、

 

「それがまずあり得ないんだ。人間の遺伝子は染色体の中にあり、染色体には一つあたり数百から数千の遺伝子が含まれている。その遺伝子は、30億もの遺伝子プールからランダムに選ばれてて、父と母それぞれ23本ずつ、計46本の染色体を持って人間は生まれてくるんだ。その組み合わせは天文学的な数字で、まず同じ人間は生まれないと考えていい。逆に、マニとご先祖様は10世代くらい違うけど、そのくらい差があっても、何も無いところからランダムに生成されるよりは、遺伝的に似てると考えられるわけだ」

「ふむ……つまり、儂らがここにいるのは、何か仕組まれていなければありえないというわけか。じゃが、それは別に不思議でもなんでもないんじゃないか? 儂らのような、大昔の人間がこうして復活しておるのじゃ。そこに何の作為も無いほうが、寧ろ不自然じゃろうて」

「そりゃまあ、そうか……」

 

 鳳はポリポリと頭を引っ掻いてから、

 

「しかしそれじゃあ、誰がそんなことをしてるんだ? 何のために? 爺さんをこの世界に呼んだのがミトラなら、精霊がそうしてるって考えてもいいんだろうか?」

「そう考えるのが妥当じゃろう……それに、彼らには目的がある。ミトラは儂に、この世界で他の神々と戦っていると言っていた。その戦いに協力してくれと」

「確かに、ヘルメスも似たようなことを言っていた。それが何かと尋ねたら、答えられないと言っていたんだが……」

 

 何故なら、それを知ること自体がリスクだからだ。このあいだ、ヘルメスと対話したことで確信したが、彼ら精霊は間違いなく、鳳たちよりも高次元の存在のようである。

 

 そんな彼らからすれば、鳳たちの考えていることなど筒抜けだろうし、鳳たちの一生など一瞬の出来事に過ぎないだろう。

 

 しかし、それじゃあ何故、そんな彼らが鳳たちのような低次元の放浪者に、助力を求める必要があるのだろうか? 彼らは鳳たちに神々との戦いに協力しろと言っていたわけだが、具体的にどうすればいいかは言わなかった。

 

 とにかく、今自分たちにやれることは、まだ正体が明らかにされていない残り二柱の創世神、ラシャとエミリアのことを調べるくらいだが……この、幼馴染の名前がついた神様は、一体何者なんだろうか。

 

***********************************

 

 遺跡の調査後、鳳は獣人たちの処遇をレオナルドたちに任せて、一人でヘルメス領へと飛んだ。タウンポータルが使えるようになったお陰で、今までに行ったことのある街なら好きに訪問出来るようになったのだが、その中には例の国境の街も含まれていたのだ。

 

 鳳はヘルメス領へ戻ると、こっそりとアイザックの居城があった場所を調べてみた。P99を使ったら、もしかしたら仲間を復活させることが出来ないかと考えたのだ。

 

 鳳たちは勇者召喚という尋常ではない方法でこの世界に呼び出された。その仕組はさっぱりわからないが、少なくとも鳳たちがこの世界にこれたということは、元々どこかに彼らの記憶が残されていたからだろう。もしかしたら自分たちも、対リュカオンの戦いの際に、神人化された人間の一人だったのかも知れない。

 

 その記憶が都合よくP99の中にあるとは限らないが、残っていると仮定すれば、あとは彼らのDNAを見つけさえすれば復活する目があるんじゃないかと考えたのだ。

 

 結果としてそれは徒労に終わり、仲間たちの痕跡は跡形もなく消え去っていた。どうも帝国軍は、勇者と名のつくものをとにかく毛嫌いし、例えそれが髪の毛一本であっても、残っているのが我慢できないようであった。

 

 鳳は兵士たちが巡回する中をコソコソと嗅ぎ回り、瓦礫の山をひっくり返していたりしたのだが、ついに見つけることは出来ず、逆に兵士に見つかって追いかけられる羽目になった。

 

 とは言え、ヘルメスとの邂逅以降、この世界でもはや彼に敵う魔法使いなどいるわけもなく、彼は軽く追っ手を撒くと、また丘を越えて街へと戻った。

 

 徒労に終わった彼は街の中央広場にあった酒場のテラス席に陣取り、完全に様変わりしてしまったその広場の様子を眺めつつ、己の行動を後悔していた。

 

 せめて、もう少し早く、仲間の遺品を探しに来るべきだった。いや、さらし首にされていた彼らの遺体を、あの時なんとしても取り返しておくべきだった。あの時はそうする力が無かったし、何より、仲間の死体を見るという行為が、どうしても腰を重くさせてしまったのだが……今となってはそれを悔いても後の祭りである。

 

「フェニックスの街へようこそ」

 

 鳳がそんな自責の念に駆られていると、注文したドリンクをウェイトレスが運んできた。彼女は見かけない鳳のことを旅行者と勘違いしたらしく、歓迎の意味もこめてそんな言葉を口にした。

 

「……フェニックス?」

「はい。何度壊されても、不死鳥のごとく蘇るから、いつの間にかそう呼ばれるようになったんだそうです。勇者領で帝国が負けて、またここが戦場になりそうだって言うのに、みんな気楽なもんですよ」

 

 そんな彼女の言う通り、道行く人々はどこかのんびりしていて、これから戦争が起きるかも知れない街の様子とは思えなかった。難民で溢れたり、帝国軍に包囲されたり、燃やされたり、度重なる騒動の末に、住人たちはどこか達観してしまったのだろうか。ちょっとやそっとじゃ動じなくなっているようだった。

 

 考えても見れば、ここを最後に見たのは、炎に包まれて崩れ去る街を尻目に大森林に逃げ込んだあの日以来だった。あの盛大に燃え盛る炎の中から、またここまで街が再生しているのだから、ある意味フェニックスという名前は相応しいかも知れない。

 

 もっとも、その炎をつけたのも、他ならぬ(フェニックス)なのだから、なんとも皮肉な話であるが……

 

 鳳はドリンクをグイと飲み干すと、チップと代金をテーブルに置いてから、ポータルの光の中へと消えた。突然、目の前から人が消えてしまったウェイトレスは、最初は仰天していたが、すぐにテーブルの上にお金があることに気がつくと、それを懐にしまって、それ以上詮索すること無く去っていった。

 



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まあまあまあまあ!

 勇者領の連邦議会は紛糾していた。

 

 先の帝国の侵攻に勝利した勇者領13氏族は、アルマ国の議会復帰を認めた。しかし勇者領がここまでの危機に陥ったのは、言うまでもなくアルマ国の裏切りがあったからだ。だが、諸般の事情を鑑みて、アルマ国だけの責任を問えない議会は、まずは先の戦争の総括をしなければならなかった。ところが、それには当事者が足りないのだ。

 

 勇者領は帝国と戦っていたはずなのだが、帝国がそれを認めていない上に、ここに帝国の代表者はいないのだ。

 

 帝国軍総司令官オルフェウス卿カリギュラは、ヴァルトシュタインの懸念通り、今回の勇者領で起きた一連の戦闘は、アイザック11世と12世の間で起きたお家騒動であり、自分たちは関係ないとしらばっくれていたのである。

 

 これには流石に連邦議会の面々も、右も左も問わずに激怒した。いくらなんでも、侵攻を受けて黙っていられるほど、寛容(リベラル)派も寛容ではいられない。無論、カーラ国などのタカ派は逆侵攻をすべきだと声高に叫んだわけだが……しかし、一口に逆侵攻と言っても、そう簡単にいかないのは、兵站をゲリラ部隊に散々に食い荒らされた帝国軍の顛末を知っている今となっては言うまでもないだろう。

 

 帝国に賠償を求めるにも、逆侵攻をするにも、そこには片付けねばならない様々な問題が転がっていた。勝利したのに何も得られないのは腹立たしいが……ともあれ、どうしてこうなったのか、まずは今回のヘルメス戦争が起こった原因を考えてみよう。

 

 戦争は最初、ヘルメス国で起きた。帝国はヘルメス卿が勇者召喚した事実を突き止めると、彼に叛意があると断定し、アイザック11世を廃するために軍を差し向けた。11世はそれに対し、自ら呼び出した勇者をぶつけて応戦……激戦の末にヘルメスは敗れ去った。

 

 それだけを見れば、今回の戦争はアイザック11世の暴走ととらえられるかも知れないが……そもそも、彼がそうせざるを得なかったのは、勇者領のリベラル派と帝国が、ヘルメス卿の頭越しに通商条約を結ぼうとしていた経緯があったからだ。

 

 300年前、かつての勇者を帝国が暗殺したことから始まった勇者戦争は、長く続く停戦期間の末に、今となっては形骸化しつつあった。実際、双方はボヘミア北部の緩衝地帯を通じて、経済的な結びつきがあり、帝国は新大陸からもたらされる食料などの生産品、加工品を手に入れ、そして勇者領はボヘミアが産出する銀に依存していた。

 

 故に、今後その取引が絶たれることを恐れた勇者領リベラル派は、帝国との和平こそが寛容であると、ヘルメス国も連邦議会も飛び越えて、個別に和平を行おうとしていたのだ。

 

 彼らにはそれをするだけの財力があり、議会工作も万全だった。現に、ヘルメス戦争が起きた後の議会では、リベラル派の主張が圧倒的に優勢であり、保守のアルマ国やカーラ国の意見は聞き入れられなかった。国を売るような意見がまかり通る中……そしてアルマ王は失望を禁じ得ず、自国を守るために反旗を翻したのは周知の通りである。

 

 話は前後するが、しかしそんなことをされたら溜まったものじゃないのは、ヘルメス国も同じであった。ヘルメス国は帝国に属しながら勇者派の旗頭として君臨し、かの勇者の名誉のために戦い続けている国だった。

 

 それが出来たのは、初代ヘルメス卿の威光と、莫大な富を生み出す勇者領が背後にあったからだが、それが無くなってしまえば、孤立無援のヘルメス国は、帝国内部で袋叩きに遭い、間もなく膝を屈することになるだろう。それじゃあ、この300年は何だったのか分からなくなる。

 

 だからもちろん、その動きを察知した11世は、勇者領リベラル派への説得に動いた。ところが、勇者戦争が始まってから長い月日が経ち、貴族としての色合いが濃くなっていた13氏族リベラル派は、今となっては勇者への恩など忘れて、おのれの損得勘定にしか興味がなくなってしまっていたのである。

 

 彼らはアイザックの説得を聞き入れること無く、寧ろヘルメス国も和平へと動くべきだと反駁してきた。勇者戦争ももう300年も昔の話であり、当時のことを覚えているものは殆ど居ない。なのに、若い世代がいつまでも勇者派だなんだと、過去の亡霊にとらわれていても仕方ないだろう。それよりも未来志向で帝国と共に歩む道を考えていくのが、これからのヘルメスにとっても良いことなのじゃないか。

 

 確かに言ってることは尤もだが、しかし順序が違うだろう。未来志向に立って和平を考えるのは良いことだろうが、それもこれも議会を通してみんなで話し合って決めることではないのか。彼らが言ってるのは、自分勝手に国の未来を左右するような話を進めて、それがバレたから開き直っているようなものである。当然、アイザックは彼らの姑息なやり方が気に入らなかった。

 

 そして彼は、リベラル派の重鎮たちを粛清した。ある日、彼らの説得に応じるようなふりをして居城へ呼び出し、殺してしまったのだ。そしてその遺体を利用して勇者召喚を行い、鳳たち5人を呼び出したのは知っての通りである。

 

 さて……そんな経緯があるから、議会は先の戦争の原因を身内に見つけることは出来なかった。アルマ国やアイザック11世が一概に悪いとは言い切れなかったし、もちろん、中心メンバーを殺されてしまったリベラル派も同じである。

 

 じゃあ、帝国はどうなのかと言えば、それもまた難しかった。彼らが今回の戦争はヘルメスのお家騒動だと言うように、実際に勇者領に侵攻してきたのは、帝国軍の力を借りたヘルメス卿アイザック12世だったのである。

 

 彼が帝国の傀儡であり、その虚栄心を利用され、勇者領に攻め込んできたことは明白だった。だが、本心からそう思ってるからこそ、それを認めさせることは難しかった。現在、12世は勇者領にて拘禁されているのだが、いくら問い質しても、彼は自分が帝国に利用されていたことを認めようとしなかったのだ。

 

 以上がこれまでの経緯である。連邦議会は休戦か、逆侵攻かで揺れていた。

 

 主戦派はもちろん、カーラ国とアイザック11世である。彼としては奪われた居城を取り返さねばならないという理由があり、なんとしてでも勇者領の力を借りて反撃するのが急務であった。議会で何度も頭を下げて、どうか力を貸してくれと頼む若きヘルメス卿を前に、議員たちも無碍には断れなかった。

 

 しかし、頼みの綱の勇者軍も、勝ちはしたものの先の戦闘により相当な痛手を負っており、これからまた遠征軍を組織するのは経済的にも難しかった。議会としては、最悪、勇者領への帝国からの侵攻さえ食い止められればそれで良く、積極的にヘルメスを奪還する理由もない。

 

 そんなわけで議会はどちらかと言えば、逆侵攻に及び腰のまま推移してた。アイザックがどうか軍を貸してくれと声高に叫ぶのに対し、議員達は気持ちはわかると頷きながらも明言は避け、お茶を濁すような場面が続いた。

 

 このままでは恐らく、議会は休戦へと傾き、アイザックはヘルメス国を失ってしまうだろう。彼が焦りを感じている時だった。ところが援護射撃は思わぬ方から飛んできた。

 

 議会が紛糾している最中、勇者領へと帝国からの使者が到着したとの連絡が入った。先の戦争に対し、帝国側からまともな反応を返してきたのはこれが初めてだった。連邦議会は恐らく和平の使者だと思い、彼を丁重に招き入れた。しかし、そうしてやって来たのは、決して和平の使者などでは無かったのである。

 

 使者曰く。

 

「我はアイザック12世の帝都への召喚を命ずる者である。畏くも皇帝陛下は、現在、国を不在にし、いつまでも帰ってこないヘルメス卿に対し不信感を抱いている。何故、ヘルメス卿はいつまでも勇者領にいるのか。誠に甚だしき所存。弁明の機会を与えるので、早急に帝都まで参られたしとのこと。さもなくば、帝国への叛意があると見做し、陛下の軍をもってこれを正すつもりである」

 

 使者の言葉を聞いた連邦議会は色めきだった。

 

 それは一見すると12世を責めているような口ぶりであったが、内容は明らかに勇者領に対し、彼の返還を求めているものであった。それも何の賠償もなしで。さもなくば、12世ごと勇者領を攻め落とす気があるという脅し付きである。

 

 流石にこれには勇者領の穏健派も我慢ならず、犬を追い散らすように使者を追い返すと、さっきまで及び腰であった腰を椅子に深く落ち着け、話を続けようと促すのであった。

 

 これが決め手となり、連邦議会は逆侵攻へと傾いていった。帝国侵攻は確かに割りに合わないものであったが、そんな損得勘定抜きにしてでも、人には戦わねばならない時があるのである。

 

 アイザック11世はこの勢いに乗じると、連邦議会に感謝し、侵攻にあたっては自ら指揮を執ると宣言、必ず勝利を得ると議員たちにまくし立てた。

 

「まずは私と共に戦う決意をしてくれた勇者領諸氏に感謝を述べたい。侵攻には困難を伴うだろうが、だが我々には心強い味方がいる。先のアルマ国解放戦でも無類の活躍を見せた勇者である! 思えば我々勇者派は、かの勇者の意思を受け継いで立ち上がった仲間だった。そんな我々に、勇者である彼らがいる限り、決して負けはないであろう! 邪智暴虐な皇帝に、今度こそ目にもの見せてくれようぞ!」

 

******************************

 

「俺は行かないぞ。なんで戦争なんかに手を貸さにゃならんのだ」

 

 ニューアムステルダムの連邦議会が帝国への逆侵攻を採択した翌日、アイザック11世はお供を引き連れ、鳳とジャンヌに参戦を要請するため意気揚々とヴィンチ村までやってきた。

 

 一先ずP99の調査を終え、獣人たちの移動も終えた鳳は、朝食を食べてから食後のコーヒーを飲みながら、ほったらかしていたステ振りをそろそろどうにかしないとな……と思っていたところに来た客を、面倒くさいと思いつつも迎え、開口一番そう言った。

 

 まさか断わられるとは思ってもいなかったアイザックは目を丸くして、

 

「何故だ!? 君はあの帝国に一泡吹かせてやりたいと思わないのか!?」

「別に……これと言って被害を受けたわけでもないしな」

「俺は国を奪われてしまったのだぞ!? 貴様だって一度は暮らしていた街だってあるんじゃないか。それを取り返したいとは思わないのか!」

「ああ、それな。この間様子を見に行ったんだけど、なんかちゃんと復興してみんなよろしくやってたんだよ。結局、そこに住む人にとって、お上が誰かなんて関係ないんだよな。年貢がそこそこで、平和ならもうそれでいいんじゃねえの」

「そんなわけにいくか! あれは元々、俺の物だったんだぞ。不当に奪われたまま放置しておけるものか」

「不当ってこたあ無いだろう。戦争の結果だ。おまえだって、こうなることを全く予想せずに一戦交えたわけじゃないだろう」

「それは……しかし、君は悔しくないのか? 帝国軍は、君の仲間を殺した敵なんだぞ?」

 

 鳳は奥歯をぎりぎりと噛み締めながらジロリと睨みつけ、

 

「そんなこと言いだしたら、それは元々お前が俺たちをこの世界に呼びつけたのが原因だろうが! 最初から、お前が勇者召喚なんかしなければ、戦争も起こらなかったし、友達が死ぬことも無かったんだ! お前にだけはそんなこと言われたくないね」

「まあまあ、落ち着けって鳳よ。何も無理矢理ついてこいと言ってるわけじゃないんだ……それから大将よ! そんなこと言われたら、あの時、彼らと戦っていた俺は立つ瀬がないぜ? もう少し発言に気をつけてくれよ」

 

 鳳とアイザックが睨み合っていると、彼と一緒にレオナルドの館までやって来たヴァルトシュタインが、まあまあと宥めながら仲裁に入ってきた。彼の言う通り、あの時、勇者である鳳の仲間たちと戦っていたのは彼だった。そう考えれば、アイザックよりもヴァルトシュタインの方が敵としては相応しいだろう。だが、鳳はプイッと顔を背けると、

 

「別に……死ぬかも知れないと分かっていて残ったのは彼らなんだから、あんたのことを恨んじゃいないよ」

「そう言ってくれると助かるが……どうしても戦争にはついてきてくれないのか?」

「……ああ」

「そうか……まあ、お前ならそう言うんじゃないかと思っていた。ボヘミア砦でも、興味無さそうだったもんな。しかし、そうなると勇者の力を当てにしていた議員共の説得に、また骨が折れることになるな」

 

 鳳はムスッとしながら言った。

 

「それなんだけど……どうして連邦議会は俺のことを勇者なんて思ってるんだ? 確かに、前回の戦いでは、後方でうろちょろして勲功を稼いでもいたが……彼らが俺を英雄視するような目立った行動はしてなかったつもりだ」

「ああ、それなら」

 

 どうやら、ピサロ討伐後にリザレクションやタウンポータルなどの禁呪をガンガン使っていたことを、アイザックが議会で証言してしまったらしい。そこにいたのが彼だけなら眉唾だったかも知れないが、神人であるペルメルとディオゲネスが肯定したので、議会は俄然やる気になってしまったようだ。

 

「アイザック~~……!!」

「なんだ!? 俺は本当のことを言っただけだぞ。それに、君だって調子に乗ってポータルを使ってスカーサハ先生を呼びに行ったではないか。遅かれ早かれ、君の存在は明るみに出ていたはずだ」

「うーむ……便利なんだけど、使い所をわきまえないとだな」

 

 鳳はため息をついて姿勢を正し、

 

「とにかく、俺は戦争なんて御免だよ。大体、お前らは俺になにをやらせようっていうんだ? 勇者の力を当てにしていると言うからには、きっと先陣に立って、敵に大魔法をぶっ放せとかそう言うことだろう? 冗談じゃないぞ」

「どうしてだ? 大活躍間違いなし、きっと君は英雄となるだろう」

「逆に帝国兵からは恨まれるだろうが。同じ力で尋常の勝負をしているならともかく、俺のチート能力で理不尽な死を迎えたら、その家族は俺を一生恨むだろう」

「分からんな。力があるんだから、そんなものは一蹴すればいいだけの話だろう」

「亡国の王が何言ってやがる。力があったら、こんなことにならなかったんじゃないのか」

「俺はまだ国を失ったわけじゃないっ!」

「まあまあまあまあ!」

 

 ヴァルトシュタインが割って入る。なんだか幼稚園の先生になったような気分だった。彼は額の汗を拭きながら、

 

「話は分かった。どうしても戦争に加担するつもりはないんだな?」

「まあな」

「それじゃあ、仕方ないな……しかし、これからどうするつもりだ? このまま勇者領に居ても居心地が悪いだろう」

「別にそんなのは気にならないんだが……大森林へ行くつもりなんだけど」

「大森林? なんでまたそんなとこに?」

 

 鳳は頷いてから、現在大森林で起こっている出来事について話し始めた。

 

 アルマ国でアイザックを拘束した帝国の手先フランシスコ・ピサロは、彼から奪ったヘルメス書を片手に大森林の部族社会を荒らしまくった。そこに描かれていたP99のマークを持つ部族を探すためだったようだが……後先考えない彼は、獣人たちが魔族を抑え込んでいることを考慮せず次々と集落を潰してしまい、そのせいで大森林は現在、強力な魔族で溢れかえってしまっているのだ。

 

 鳳はその現状を打破すべく、ガルガンチュアの名を継承したマニと協力して大森林を解放するつもりだった。獣人たちは現在、大森林に面した渓谷の端っこでキャンプを張って、彼らの到着を待っているところである。

 

「大森林がそんなことになっていたのか……?」

 

 ヴァルトシュタインはその話を聞いて難しそうに眉間に皺を寄せた。

 

「ああ、ピサロはどうやらヘルメスの遺産を手に入れたら、ヘルメス卿の地位を乗っ取るつもりだったらしい。だから大森林がどうなるかなんて考えもせずに、虱潰しに獣人部族を潰して回っていたようだよ」

「……それはどうかな?」

 

 鳳がそう言うと、ヴァルトシュタインはほんの少し首を捻りながら、それは解せないと言った感じに反論してきた。

 

「あいつは俺の部下だった時から、用意周到と言うか、卒がないと言うか、無駄な行動は一切しないタイプの軍人だった。と言って、予め決められたルーチンを守るわけでもなく、より楽な方法があればそちらを採用する柔軟性もあった。そんな奴が、意味もなく獣人の社会を潰して回るなんて思えない。何というか、奴らしくない行動のような……」

「ピサロがわざとそうしたっていうのか? 何の目的があって?」

 

 鳳がそう尋ねると、ヴァルトシュタインはそんなものは知らないと首を振ってから、

 

「まあ、考えてみてくれよ。ヘルメスの遺産だったか? 不思議なマークを探すだけなら、わざわざ獣人の集落を潰す必要はない。寧ろ、友好的な振りをして近づいたほうが良いだろう。戯れに、レイヴンの仇討ちに協力してやったことも考えられるが、それにしたってやりすぎだ。これじゃまるで、獣人社会を潰すことが目的だったような暴れっぷりじゃないか」

「確かに……じゃあ、もしかして、本当にそれが目的だったのか? でも、何のために……」

「さあな。あいつが死んじまった今、何を考えていたかなんて分からんよ……ただ、もしかすると、それは保険だったのかも知れん」

「保険……?」

 

 ヴァルトシュタインは頷いて、

 

「ピサロにヘルメスの遺産を見つけるように入れ知恵したのは、帝国軍総司令官カリギュラだ。ピサロはカリギュラに命じられて、大森林に遺産を探しにやってきた。奴があわよくばそれを手に入れて、カリギュラを裏切るつもりだったとしても、しかし、それが見つかる保障はない。だから、それを手に入れる算段がつくまでは、カリギュラの命令に従っている振りをしていたんじゃないか?」

「……つまり、大森林の部族社会をメチャクチャにしたのは、カリギュラがそう命じたからってこと?」

「かも知れんってことだ……お前は放浪者(バガボンド)なんだろう? なら、カリギュラという名前に聞き覚えもあるんじゃないか。やつは、お前らの世界では、どういう人間だったんだ?」

 

 鳳は腕組みをし、難しい顔をしながら、

 

「……それが、俺が生きていた時代よりも、2000年も前の人だから、よくわからないんだよ。ただ、ローマ帝国は初代アウグストゥスが崩御してから、暫くは悪政が続いたんだ。カリギュラはその代名詞みたいな皇帝だったはずだ」

「悪の代名詞か……すると、獣人を襲ったのは、ただの悪意という可能性もあるんだな。うーん……」

「あんたこそ実物(カリギュラ)に会ったことがあるんだろう? どんな人だったんだ?」

 

 鳳が逆に質問すると、ヴァルトシュタインは暫し黙考してから、

 

「実は、俺は難民を連れてヘルメス領を発つ前日に、奴からスカウトを受けたんだ。奴はその時にはもう勇者領へ攻め込む気でいたらしく、俺にその指揮官をするように言ってきた。もちろん、断ったんだが……その時、奴は妙なことを口走った」

「妙なこと……?」

「ああ。俺は勇者領を攻めるなんて無謀だと言ったんだ。最初は上手く行ったとしても、帝国と勇者領では経済力というか、地力の差があるから、最終的に押し返されると。現にそうなっているだろ? まあ、それはともかく……俺がそう言ったら、奴はこともあろうにそれならそれで構わないと言ったんだ」

「構わない……? つまり、負けていいと?」

「ああ。それで帝国が滅びてしまうならそれでもいい。それよりも、人類が魔王に対抗出来るように、今は分かれている国を一つにしたほうが良いと。奴は、魔王復活の兆候を見つけたと言っていたんだ。それを思い出した」

「魔王復活だって……!?」

 

 それには黙って聞いていたアイザックも驚きの声を上げた。この世界の人にとって、魔王は大地震や台風のように、いつかやってくるかも知れない災厄であり、前回と違って神人の数が激減した今、それは考えたくもない最悪のシナリオだった。もし今、魔王がやって来てしまったら、果たして人類が対抗できるだろうか……

 

「俺はその時は馬鹿らしいと一蹴したんだが……オークだったか、その話を聞いた今、一概に切って捨てて良い話じゃないと思っているのだが……」

「……このオークの大繁殖が、魔王復活の兆候かも知れないってことか?」

「それは分からないが……もしもそうなら、勇者軍のヘルメス領への逆侵攻も、奴の描いたシナリオ通りということになる……大森林の動きも気になるが、お互いに気をつけねばならないのかも知れないな」

 

 ヴァルトシュタインはそう言って言葉を切った。鳳たちはお互いに目配せし合うと、次の布石を打つために、それぞれ動き出した。

 



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物理と魔術とステータス

 それが魔王復活の兆候かどうかはともかく、仮にそうでなくてもオークが強敵であることに間違いはない。これからそのオークに席捲されてしまった大森林を取り戻すには、かなりの戦力アップが必要だろう。

 

 幸い、ピサロとの戦いに勝利したことで、共有経験値は800と、また結構な量が入っていた。その前にマニへつぎ込んだ経験値を回収しつつ、お釣りが来るレベルである。そして言うまでもなく、鳳とジャンヌの二人は、ボーナスポイントというチートポイントを所持している。これらを駆使して、パーティーのレベルアップを図れば、例えオークであっても物の数ではないだろう。

 

 鳳たちは、大森林遠征を前に、意見交換をしながら経験値の分配を行うことにした。

 

 と言っても、経験値を流し込むだけの他のメンバーと違って、鳳とジャンヌは、まずはステータスについて考えなければならなかった。何も考えずに、上げられるステータスを全部フラットに上げてもそれなりに強くなれるだろうが、出来れば自分の戦闘スタイルに合わせて効率よく上げたいところである。

 

 でなければ、仮にボーナスポイントが100あるジャンヌであっても、適当に割り振ってしまったら、あっという間にポイントが尽きてしまうのである。ポイントは基本6ステータスだけではなく、HPとMPにも振らねばならず、しかも一度振ってしまったらやり直しは効かないのだ。

 

 そもそも、このステータスとは何なのか? 以前、鳳がライフル銃を片手に試したところ、ステータスとは能力の絶対値ではなく、持ち主が持っている能力を底上げする補助(バフ)値らしいことは分かっていた。

 

 例えば銃がそこそこしか扱えない鳳のDEXを10から11に上げてみたら、かなり命中率があがったわけだが、もしこれがギヨームだったらもっと劇的な変化が見込めるわけである。また、脳筋剣士であるジャンヌなら、普段使わない魔法に関係ありそうなINTやMPを上げるのは効率的ではなく、その分、他のステータスに回したほうがいいだろう。

 

 他に分かっていることと言えば、STRの高さがAGIとDEXに影響することである。これは簡単に言えば、筋力を上げすぎると敏捷性や器用さが損なわれるということだ。実際、スポーツなんかで、マッチョ化したせいで動きがぎこちなくなってしまった選手を見たことがあるだろう。あんな感じだ。また、年を取れば筋力が衰え、代わりに器用さや敏捷性が増すこともあるようだ。

 

 しかし、世の中には筋肉ムキムキでありながら敏捷に動ける者だっている。それに神人たちは軒並み、力も耐久力も魔法力も強い。この違いはどうやって生み出されているのだろうか?

 

 鳳たちは冒険者ギルドにお願いして様々な人々のステータスを調査し、それがVITにありそうだということを突き止めた。要するに、耐久力があれば、無理な方向転換や高速移動時の照準など、細かい動きも制御しやすいと言うことだ。

 

 実際、時速40キロで全力疾走している人間の前に猫が飛び出してきたとして、それを避けようとしたらどうなるだろうか。力がなければ転んで怪我をするだろうし、頑丈でなければ方向転換した瞬間に捻挫をするだろう。つまりSTRとVITのバランスが重要なのだ。

 

 またVITは、大方の予想通りHPの伸び方にも影響があった。これは他人のステータスを参考にしたわけではなく、実際に鳳のステータスを弄っていて判明したことだが、どうやらHPは、VITが高いほどボーナスポイントで上がる量も増えるようだった。

 

 具体的には、VITが10の時にHPを上げたら50上がるが、VITが11の時なら55上がると言った具合だ。実際にはそんな単純な上がり方ではなく、STRやレベル、他のステータスなんかも参照しているようだが、大体こんな感じで上がっていく。

 

 面白いのはHPを上げた後にVITを上げても、一度上がったHPはそれ以上上がらないから、HPをたくさん上げたいなら、先にVITを上げておかないと損をするということである。普通、HPとVITが一対一に対応するなら、それが前後しても良さそうなものだが、どうやらそういう仕様らしいのだ。

 

 この仕様を駆使すれば、高VIT低HPの神人をクリエイト出来るわけだが、そんなことして何になるのだろうか?

 

 思いつくのは、HPがゼロになれば、その肉体は死を迎えるわけだが……極端な話、神人はP99さえあれば、また復活が可能なので、場合によっては高HPで粘るよりも、さっさと死んでしまった方がいいことがあるのかも知れない。例えば、リュカオンに捕まったらひどい拷問を受けるとか……

 

 まあ、そんな妄想はともかく……以上から高STR、AGI、DEXを実現するには、高VIT、HPが必要ということが判明した。つまり、物理戦闘力を重視する者は、必然的にINTやMPを上げにくくなるというわけである。何というか、上手く出来ているものである。

 

 因みに、このINTは魔法の威力に直結していた。

 

 例えばINT10のファイヤーボールと20のそれでは威力が全然違う。測定する機械があるわけでもないから大雑把であるが、およそ10倍くらい威力が上がっているようであった。

 

 ただし、消費するMPも倍になるから、単純にINTを上げすぎても良くない。MPの上限は999で間違いないようなので、威力を求めてINTを上げすぎると、一度の戦闘で使える魔法の回数が減ってしまうのだ。

 

 だから、単純に威力を求めるのであれば、INTを上げるのではなく、より上位の魔法を覚えた方が良い。

 

 おさらいになるが、古代呪文には8段階のレベルが存在する。

 

レベル1 エナジーフォース

レベル2 エンチャントウェポン・ディスペルマジック

レベル3 スリープクラウド・スタンクラウド

レベル4 ファイヤーボール・ブリザード

レベル5 ライトニングボルト(・プロテクション)

レベル6 レビテーション(・タウンポータル)

レベル7 ディスインテグレーション(・サモン・サーヴァント)

レベル8 メテオストライク(・リザレクション)

 

 カッコ内は失われた禁呪として、この世界では存在しないと言われている呪文である。そして現在、レベル6以上の神人は存在しないらしい。

 

 ともあれ、これらの呪文のうち、攻撃魔法に属するエナジーフォース<ファイヤーボール=ブリザード<ライトニングボルト<ディスインテグレーションは、このレベル順の通りに威力が増していく。

 

 因みに、これらの呪文のMP消費量には殆ど差がなく、INT10の状態なら、どれもMP30前後で使用可能である。ただし、エナジーフォースだけ、5前後と低い。多分、連発を前提とした魔法なのだろう。

 

 状態異常魔法の代名詞であるスリープ・スタンクラウドは、レベル2魔法のディスペルマジックで相殺可能であるが、ディスペルは攻撃魔法を弾くことが出来ない。攻撃魔法は物理攻撃と同じで、盾や物陰に隠れることで回避できるのだが、物理障壁を作るプロテクションの魔法は、今のところ鳳にしか使えない禁呪である。

 

 ……と思いきや、実は復活したジャンヌもプロテクションが使えるので、もしかするとある程度の戦闘技能が必要とか、何らかの条件がある神技なのかも知れない。他にも、鳳がサモン・サーヴァントを使っても何も起こらなかった。てっきり、ジャンヌやギヨームのような仲間を呼び寄せられるのかなと思っていたのだが、そうではないらしい。まあ、彼らは給仕(サーヴァント)ではなく、仲間だから当然といえば当然だが……もしかすると、これも古代呪文とは別の体系に属する魔法なのかも知れない。

 

 ところで、最上位の攻撃魔法はディスインテグレーションではなく、メテオストライクであるが、これの威力に限ってはINTの大小は関係ないようだった。と言うのも、この魔法は名称通りに大気圏外から隕石を落としているらしく、つまりその威力は落ちてくる隕石の質量に依存するわけである。

 

 この隕石をどうやって選んでいるかはわからない。恐らくはたまたま近くを飛んでいるデブリをランダムに落としているだけだろう。だから、場合によっては映画アルマゲドンみたいな小惑星を引っ張ってきてしまうこともあるかも知れないが、大抵の場合、威力はそこそこである。

 

 何故、これが最上位魔法なのか不思議であるが……憶測だが、このシステムを作った当時の地球には、例えば月面にマスドライバーがあったのではなかろうか。もしくは軌道上の衛星に何かやらせたりとか、色々と理由はありそうだ。

 

 因みに、メテオストライクを除けば、最上位の攻撃魔法はディスインテグレーションであるが……これはゲームでは核熱魔法として表現されていたものだが、現実では少し毛色が違うようだった。まあ、実際に呪文を唱える度に放射能を撒き散らしていたら溜まったものじゃないから、当たり前といえば当たり前だろう。

 

 実際に、どうやって巨大な爆発を起こしているのかは想像するしか無いが、恐らくは反物質を用いているのだと推測される。と言うか、核反応を毎回起こすよりは、そちらの方がよっぽどスマートだから間違いないだろう。

 

 人類は、第五粒子(フィフスエレメント)という無尽蔵のエネルギーを手に入れたわけだが、それは純粋にエネルギーであって、物質ではない。だからこそ、次元を超えてやってこれるわけだが……このエネルギーを現実で作用させるには、何らかの方法で変換しなければならない。

 

 例えば、エナジーフォースはエネルギーを用いて空気を圧縮し、それをフレミング左手の法則で弾き飛ばしているようだ。この攻撃を受けた対象は、突然見えない何かに押されて物凄く驚くのだが、ぶっちゃけ威力はお察しである。これをうまく利用するには、対象を押して硬い壁に叩きつけるとか、足を掬って転ばすとかの工夫が必要だろう。

 

 ブリザードは、要はエアコンと同じ原理で、空気分子の運動エネルギーを奪ってどこかへ放出してしまうわけである。すると気圧差が生じるから、周囲から風が吹き付けて吹雪となる。ファイヤーボールは以前に考察した通り、生き物の脂肪をそのまま酸化し燃やしてしまう。ライトニングボルトは空気中の分子を激しく摩擦し、雷を発生させるといった具合である。

 

 こう考えると、ディスインテグレーションが、毎度まいどどこかから放射性物質を転送してきて、それを連鎖反応させているとは考えられないわけである。恐らく、雷を発生させるのと同じ原理で反物質を生成し、それをどこかに保管しておいて、一気に爆発させるとかそんな感じだろう。

 

 古代呪文は魔法のように見えるが、れっきとした物理現象なのである。INTというステータスは、それをどのくらいの強度で行うかを決める指標というわけだ。つまり、強すぎれば、かえって使いづらくなってしまう。

 

 結論としては、鳳のような魔法職であればMPは上限まで上げておくべきだが、INTは程々にしておくのがベターだろう。出来ればボーナスポイントを貯めておいて、必要ならば、状況に応じて威力を上げていく、そんな具合に。

 

 さて、残る基本ステータスはCHAだが、これは文字通りカリスマ性に影響があるのは間違いないようだった。理由はガルガンチュアとなったマニのCHAが異様に高いことだ。

 

 共有経験値を注ぎ込まれて、ご先祖様の力を継承したマニは、レベルキャップを越えて成長しており、ステータスも軒並み上がって、獣人は絶対に上がらないはずのVIT、INT、CHAの三種も増えていた。それも驚きであったが、特に目を引いたのがCHAで、これが20と伝説クラスの数値を示していたのである。

 

 これが何に影響があるのかは一目瞭然であった。ガルガンチュアになったマニは、ピサロに従っていた獣人たちに恐れられ、それまで兄貴分として接していた猫人たちからも一目を置かれるようになっていた。

 

 人間にはどのくらいの影響があるのか分からないが、どうも獣人には本能的にCHAの高い人物を見分けて従う傾向があるらしい。もしかすると、過去にはビーストテイマーのような職業があったのかも知れない。

 

 こうして判明してしまえば身に覚えもあった。鳳がガルガンチュアの村にいた頃、彼は村人たちによく馬鹿にされていたが、ジャンヌやギヨームは全くそんな事がなかった。メアリーに至っては神扱いされていたが、彼らは軒並みCHAが高かったのだ。

 

 逆に鳳と同じくCHAが最低値であったルーシーは獣人達を苦手にしていたが、それが理由だったのだろう。てっきり戦闘力の差でそういう扱いを受けていたのだと思っていたが、分かってみれば単純なものである。

 

 そんなわけで、獣人とよくつるむことも多い鳳は、CHAを上げておくにこしたことはないだろう。以上を踏まえて、ボーナスを振ったところ、彼のステータスは現在、以下の通りになっている。

 

----------------------------

鳳白

STR 15        DEX 15

AGI 15        VIT 20

INT 20        CHA 15

 

BONUS 20

 

LEVEL 99     EXP/NEXT 591/999999

HP/MP 1843/999  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

----------------------------

 

 



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それぞれのレベルアップ

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鳳白

STR 15        DEX 15

AGI 15        VIT 20

INT 20        CHA 15

 

BONUS 20

 

LEVEL 99     EXP/NEXT 591/999999

HP/MP 1843/999  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

----------------------------

 

 鳳の新たなステータスを見たギヨームは開口一番こう言った。

 

「なんつーか……お前らしいの一言だな。華がないっつーか、見栄えがしないつーか、フラットっつーか、ボーナスを使い切らず、保険をきっちり残してるとこが、また何とも言えん味を出してる。いや、凄いんだけど」

「なんだよう、人のステータスにケチつけやがって」

「何もご丁寧に5刻みにする必要はないんじゃないか」

「いやあ、バランス良くって考えてたら、なんかこうなっちゃったんだよね」

「INTやMPが高いのは分かるが、VITも高いのはどうしてだ?」

「それは痛いのが嫌だから」

「……まあ、高いにこしたこと無いからいいけどよ。ところでお前、得物はライフルなんだから、STRやAGIを上げる必要はなかったんじゃないか?」

 

 鳳はブンブンと首を振って、

 

「いや、俺は別にライフルが得意ってわけじゃないぞ。元の世界じゃ銃は規制されていたから、使い方を覚えたのだってこっちの世界に来てからなんだ」

「ああ、そう言えばそうだったか」

「元々、ゲームの世界では杖を使っていたんだよ。魔法の威力を高めるためと、不意打ちを食らった時に近接も出来るように。一応、神技だって使えるんだぞ?」

 

 ギヨームはゲェっと吐き気をもよおしたと言わんばかりに、げんなりとしたジェスチャーをしてみせた。

 

「マニだけじゃなく、お前まで神技使えるようになっちまったのかよ。まるで神人のバーゲンセールだな」

「因みに得意技は振り逃げダイナミックです」

「なんじゃそりゃ……まあ、実際、このステータスは近接としても破格だから、強い前衛が入ってくれるのは有り難いけどよ」

「うちのパーティーは後衛に偏ってたからね。マニが加わってくれたことで、バランスは良くなったけど、今度はジャンヌが戦闘スタイルを変えたいって言うから、俺も前線に出れたほうが何かと都合が良いと思ってさ」

「そう言えばそうだったな……」

 

----------------------------

†ジャンヌ☆ダルク†

 

STR 14       DEX 20

AGI 21       VIT 12

INT 10       CHA 15

 

BONUS 10

 

LEVEL 102     EXP/NEXT 186124/999999

HP/MP 3252/300  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB KNIGHT

 

PER/ALI GOOD/NEUTRAL   BT C

----------------------------

 

 ジャンヌのステータスは見ての通り、これまでのSTR・VIT型の脳筋スタイルから、AGI・DEX型のテクニカルな剣士系に変わっていた。今までは高いSTRとVITで、敵の攻撃を受け止めてから反撃していたのを、今度からは高いAGIを武器に、交わしてカウンターを決めるというスタイルだろうか。

 

 高DEXであるから、まず敵の急所を外すことがなく、手数も増えるから、実は以前のスタイルよりも殲滅速度は上がるだろう。それにしても思い切った路線変更にどうしたんだろうと尋ねてみたら、

 

「だって、高STR高VITって、可愛くないじゃない。せっかく、こうして華奢な体を手に入れたんだから、戦闘スタイルもそれに合わせるべきよ」

 

 などと(のたま)った。

 

「いや、別に高STRだからって、見た目がガチムチになるわけじゃないだろう。メアリーだってかなりの高ステータスだけど、見た目は華奢じゃないか」

「でもメアリーちゃんのステータスはずっと変わらないじゃない。私は変化するんだから、見た目も変わるかも知れないわ。もし腹筋ついたらどうするのよ?」

「腹筋ならついてもいいんじゃないの?」

「シックスパックなのよ!?」

「う、うーん……それは確かに嫌かも知れないが……」

 

 鳳がなんだか勢いに押されて納得しかけていると、それを横で聞いていたギヨームが、

 

「いや、しかし! 戦闘スタイルを変えるって言ったって、これまでに染み付いた動きっつーものがあるだろう。こんな簡単に変えて、大丈夫なのか?」

「それなら平気よ。あっちの世界でもセカンドキャラは回避型だったから。このスタイルでの戦い方にも、ある程度慣れているわ」

「セカンドキャラ……?」

 

 ギヨームはちんぷんかんぷんと言った感じにお手上げのポーズをしていた。ゲームでは、案外みんな、メインで遊ぶキャラの他に、生産職なんかのサブキャラを持っているものだった。因みに、鳳はそのせいで、新規クリエイトしたばかりのキャラデータでこっちの世界に飛ばされてしまったために、苦労したわけだが……

 

「それに復活した時に一緒に持ってきた、この魔剣フィエルボワはレイピアなのよ。叩きつけるような攻撃より、突いたり受け流したりする方が得意だわ。DEXに補正もかかってるし、これを生かさないのは勿体ないと思うの」

「補正?」

 

 ジャンヌは頷いて、

 

「実は、AGIを上げていた時に気づいたんだけど、基本ステータスも20を越えると、ボーナスポイントを2消費するようになってたのよね。好きに上げられるように見えて、これにもやっぱり制限があったの。それで私はAGIを21で止めたんだけど……なんと、この武器を装備していれば、DEXに5の補正がかかるのよ。だから私のDEXは、実質25だと思っていいわ。本来ならボーナスポイントを10使わなきゃ上げられないステータスを、これが肩代わりしてくれるんだから、使わない手はないでしょう?」

 

 それがどれくらい凄いのかはよく分からないが、多分、走ってる馬の上から飛んでる蚊を撃ち抜けるレベルだろう。と言うか、人類最強クラスの高DEXであるギヨームよりもまだ上なのだから、使ったこともないライフルを持たせたとしても、神業のようなスナイプが出来るのは間違いないはずだ。

 

 ギヨームはジャンヌの剣をまじまじと見つめながら、

 

「へえ……大したマジックアイテムだな。ステータスが5も上がるなんて、伝説級なんじゃないか? そんなものまで作り出せてしまうなんて、あの機械はやっぱすげえな。俺も本気で、あの中に入ることを検討したほうが良いんだろうか……」

 

 鳳は腕組みをしているギヨームに向かって尋ねた。

 

「なんかあんま驚いてないみたいだけど、この世界にはこの剣と同じようなのが結構あるのか?」

「ん……? ああ、以前にも言っただろう? 迷宮の中には、こうしたマジックアイテムが隠されていることもあるって。つーか、ヘルメスの遺跡の中にあったあの機械だって、つまるところマジックアイテムじゃねえか」

「そう言えば……そう言うもんか」

 

 高度な科学技術は魔法と見分けがつかないと言うが、正にそんな感じである。

 

「普通の人間はお前らみたいに、ほいほいとステータスが上がるようには出来てないからな。それなりの冒険者には、こういうマジックアイテムを所持してるのもいるらしいぞ。つーか、レオが色々とコレクションしてるはずだから、言えば見せてくれるはずだ」

「なんだよ、あの爺さん。そんなもの持ってるなら、どうして今まで教えてくれなかったんだろう」

「誰でも使えるわけではないからさ。大抵のマジックアイテムは使い手を選ぶんだ。多分、ジャンヌの剣も、こいつ以外には使えないんじゃないか?」

 

 するとジャンヌが頷いて、

 

「そうかも。これは元々、大昔にやったイベントで好成績を収めて、運営からもらった私専用のユニーク武器だったのよ。だからこっちでも私以外に使える人はいないかも知れないわ」

 

 多分、他の人には振り回すことは出来ても、補正は受けられないだろう。すると確かに、高いDEX補正を活かすためにも、スタイル変更は有りかも知れない。ギヨームは腕組みしながら頷くと、

 

「まあ、もう上げちまったものを、ぐちぐち言っても仕方ないか……ちゃんと保険も残してるみたいだしよ。それより、こんだけステータス弄っちまったんだ。今まで使ってた神技はどうなったんだ? ちゃんと使えるのか?」

「ええ、もちろん。キャラクターが変わったわけじゃないから、今まで使えた神技はそのままよ。それどころか、実はこっちに来たときに使えなくなっていた古代呪文も、また使えるようになってるのよ」

 

 ギヨームはまたげんなりとした表情を見せつつ、

 

「なんだって……? おまえまで鳳みたいに万能型になっちまったのか?」

「白ちゃんほど万能ってわけじゃないわよ。私が使える呪文は、エンチャントウェポンとプロテクションの二つだけ。元々、ゲームの世界ではマルチスキルは当たり前だったんだけど……こっちの世界に来たら魔法体系が違うからか、使えなくなってたのよね。いつの間にか職業もプリーストからナイトに戻ってるし、あの機械に入ったことでなんかの制限が解除されたのかしらね」

「そう言えば、哀れなステータスにばかり目が行って忘れちまってたけど、鳳の職業もこの世界じゃ馴染みのないもんだったな」

「失礼なやつだな……まあ、俺もジャンヌも職業レベルがないし、この世界のシステムとは完全に切り離されてるのかも知れないな。そんでもって、多分、俺の影響を受けたっぽいマニも……」

 

----------------------------

ガルガンチュア

STR 16        DEX 16

AGI 18        VIT 17

INT 10        CHA 20

 

LEVEL 71     EXP/NEXT 83277/450000

HP/MP 2718/50  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB NINJA

 

PER/ALI NEUTRAL/NEUTRAL   BT C

----------------------------

 

 共有経験値を流し込まれ、ご先祖様の力を継承したマニは、獣人にあるはずのレベルキャップを突破して成長していた。獣人の限界突破自体は、実はルーシーの時に経験済みだったのだが、マニの場合は上がらないはずのVITやCHAが急激に上がった他にも、職業がこの世界にはないユニークなものになっていた。

 

 なんとなく、その戦闘スタイルからそれっぽいと思っていたが、忍者である。

 

 因みに、直接戦ったペルメルとディオゲネスが言っていた通り、彼が使う忍術の正体は神技であるらしく、本来ならば獣人には必要ないはずのMPも彼は持っていた。ただ、本当に少しであるから、あまり技に頼った戦いは続けられないようである。

 

 尤も、その数値を見れば分かる通り、彼のステータスは神人を凌駕するほど高いので、気にするほどではないだろう。おまけに高CHAの影響で、他の獣人たちは彼の命令に従う傾向があるので、集団戦闘で無類の活躍を見せてくれることは請け合いだ。

 

「元々、獣人は身体能力に恵まれているとは言え、こいつは本当に化けたよな。他の獣人も、もしかしてレベルキャップが無ければ、このくらい強くなれるんだろうか……?」

「かもな……でも、マニは賢いから良いけど、ハチみたいのが制限もなく成長し続けたら、そんなのもう魔族と変わらないだろう。レベルキャップがあってホント良かったと思うよ」

 

 彼にはこれから大森林を解放した後に、獣人達を率いる役目を負ってもらうことになるだろうが、性格的にも温厚で、人間との協調性もある彼がリーダー候補になってくれたのは本当に幸いと言えた。大森林にはまだ踏みとどまっている部族もいるだろうが、実力から考えて、いずれマニの傘下に入っていくだろう。

 

 しかし……こうして獣人を一つにまとめる勢力が出てきたのは、もしかしてこれもカリギュラの目論見通りだったのだろうか? 鳳はヴァルトシュタインの言葉を思い出し、ほんの少し嫌な予感がしていた。

 

 ともあれ、戦力アップはこれだけではない。ピサロと戦った時に入った共有経験値が残っている。鳳はギヨームと相談して、それをメアリーに400ポイント、ギヨームとルーシーに200ポイントずつ分けることにした。

 

 メアリーが倍なのは、神人の彼女がレベルアップするには、倍の経験値が必要だからだ。この分配なら、みんなそれぞれ2回ずつレベルアップ出来る計算である。こうして経験値を入れた結果、いまの彼らのステータスは以下の通りである。

 

----------------------------

メアリー・スー

STR 15        DEX 16

AGI 17        VIT 15

INT 16        CHA 18

 

LEVEL 30→40     EXP/NEXT 51211/400000

HP/MP 2200→2400/390→480  AC 10  PL 0  PIE 10  SAN 10

JOB MAGE Lv6→7

 

PER/ALI GOOD/LIGHT   BT B

----------------------------

 

----------------------------

ウィリアム・ヘンリー・ボニー

STR 13        DEX 18→19

AGI 17       VIT 12→13

INT 13        CHA 15

 

LEVEL 64→73     EXP/NEXT 318224/460000

HP/MP 1840→1977/95→100  AC 10  PL 0  PIE 0  SAN 10

JOB Thief Lv6→7

 

PER/ALI NEUTRAL/NEUTRAL   BT A

----------------------------

 

----------------------------

ルーシー

STR 10        DEX 11

AGI 14→15      VIT 12

INT 16→17      CHA 10

 

LEVEL 47→61     EXP/NEXT 1299/310000

HP/MP 842→955/331→408  AC 10  PL 0  PIE 10  SAN 10

JOB MAGE Lv1

 

PER/ALI NEUTRAL/NEUTRAL   BT A

----------------------------

 

 



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女なんか侍らせやがって、軟弱者め!

 ヴィンチ村の上空、大きな入道雲をバックに、小さな人影が浮かんでいた。それは影送りのようなものではなく、純粋に単純に、本当に人が空を飛んでいるのであった。

 

 メアリーは今回のレベルアップによって魔法レベルが上がり、ついにライトニングボルトよりも上位の呪文、レビテーションを覚えたのである。

 

 それはこの世界では今となっては使い手がいない魔法だったが、鳳のチート能力によってレベルが上がりやすくなっていた彼女は、高レベルになりさえすれば、今でも神人は上級魔法が使えるようになるということを示した格好である。

 

 残念ながら、ライトニングボルトと対になるはずの呪文、プロテクションを覚えることがなかったから、このまま行っても彼女の悲願であるリザレクションを覚えることはないと言うことが示されてしまったわけだが……

 

 尤も、その魔法は不特定の人間を生き返らせるものではなく、神人を再生させるためのものであることが判明した今となっては、特に覚えられなくても、もうショックを受けていないようだった。

 

 それよりも今は空を飛ぶことに夢中である。やはり人間というものは、どこまでも広がる青い空に憧れを抱くものなのだろう。

 

 レビテーションはそのまんま、術者を空に浮かび上がらせる魔法である。ゲームの中では、あたかも重力を操作しているかのように、自由自在に飛び回れたものであったが……現実の世界でどうやってこれを再現するのだろうか? と思っていたら、風圧を利用して飛ぶという、かなりの力技であった。

 

 フライングスーツを着て、下から巨大な扇風機で風を送り、ふわふわと浮かぶアトラクションがあるが、あんな感じである。

 

 従って飛び上がるためには、まず腹ばいにならねばならず、下手に体を傾けたら空気抵抗が減って落下してしまうから、上手くバランスを取る必要があった。そのため、最初はおっかなびっくりのメアリーだったが……慣れてきたら楽しいらしく、用もないのにふわふわと浮かんでは、上空でアハハアハハと笑っていた。

 

 無論、風を送り続けるにはエネルギーを使うから、その間、ずっとMPを消費し続けているのだが、勿体ないからやめろと言ってもどこ吹く風である。

 

 まあ、今となってはMP回復手段も色々あるので、枯渇する心配はないのだが……鳳はアヘン中毒になりかけたことがあるし、彼女だってキノコでオーバードーズしたことがあるのだ。急激なMP回復が、体に悪いのは間違いないのだから、ほどほどにしておいて欲しいものである。

 

「うわ! なんだあれは! 神人が空飛んでやがる!?」

 

 鳳がそんな彼女のことを見上げていると、いつの間にか村の入り口に人だかりが出来ていた。彼らは上空で滑空したり宙返りしたりしているメアリーのことを指差しながら、口々に驚きの声を上げていた。

 

 どうやら、今回、大森林を解放するにあたって頼んでおいた、助っ人冒険者達が村に到着したらしい。彼らは勇者領でも腕利きの冒険者達だったが、流石の高ランク冒険者たちであっても、空飛ぶ神人なんて始めて見たのだろう。

 

 メアリーはそんな彼らに気がつくと、バツが悪くなったのか、更に上空に飛び上がってから、スーッと滑空するようにして遠くに飛び去ってしまった。人見知りの彼女が、この中に降りてくるのはハードルが高かったのだろう。どうせ、後で紹介することになるのだが……まあ、気の済むようにさせてやる。

 

「おーい! 鳳!」

 

 そんなことを考えながら彼女の姿を目で追っていると、同じく空を見上げていた集団の中から声が掛かった。冒険者の知り合いなんてまるで心当たりがないので、一体誰だろうと首を傾げていたら、一人の男が手を振りながら鳳の元へと駆け寄ってきた。

 

「おお! アントン! アントンじゃないか!」

 

 ミーティアの幼馴染で初恋の人、アントンである。彼も冒険者だから、ここへ来る可能性はあったわけだが……鳳はまさかの再会に驚いた。

 

「よう、久しぶりだな、鳳。元気してたか? ……って、元気だよな。おまえの活躍は知ってるぜ。実は俺も軍に参加してたんだが、アルマじゃ声掛けそびれてさ」

「なんだ、普通に声かけてくれれば良かったのに」

「馬鹿! スカーサハ様と親しげに話してるところになんかいけるかよ。しかし、Aランクなのは知ってたけど、おまえって本当に凄いやつだったんだなあ」

 

 しみじみとそう言われてしまうとなんだか照れくさくて仕方がない。自分としてはそんなに活躍しているつもりはなかったのだが……と言うか、厄介事の方からやってきて、仕方なくそれに対処していたらこうなっていただけなのだ。褒められておいて不満とは言わないが、出来ればそっとしておいて欲しいものである。

 

「みなさん、よくお越しくださいました!」

 

 そんな具合に鳳たちが挨拶を交わしていると、冒険者の到着を待っていたミーティアとジャンヌがギルドの中から出てきた。さっきまで空飛ぶメアリーを見上げて驚いていた冒険者達が、今度は綺麗どころの登場で色めきだつ。彼らはもう超常現象のことなど忘れて、福笑いみたいに目尻を垂らしていた。

 

 元々、冒険者なんて荒くれ者の集団だから仕方ないのだろうが、ミーティアはともかく、ジャンヌにまで色目を使うのがいるのはどうなんだろうか……何も知らずにデレデレとおべっかを並べ立てる男たちを見ていると、元の姿を知ってる身としては、なんとも複雑な気分になった。

 

 お前ら本当にそれでいいのか……? そいつの中身はおっさんだぞ……? 鳳がそんな場面を表情筋を引きつらせながら眺めていると、それに気づいたミーティアがおやっとした顔をして近づいてきた。彼女は鳳の隣に立っているアントンを見上げるようにしながら、

 

「変ですね。私は本部に腕利きの冒険者を頼んだはずなんですけど、どうしてアントンがここに居るんですか?」

「うわっ、ひでえ! それが久しぶりに会った幼馴染に言うセリフかよ!?」

「言うほど久しぶりでもないと思いますが……大森林遠征は、オーク討伐が目的の命がけの冒険ですよ? Cランクのあなたでは足手まといにしかならないのでは……」

「かも知れないが、鳳が人手を欲しがってるって聞いたら、居ても立ってもいられなかったんだよ。俺だって荷物持ちくらいの役には立つだろうから、連れてってくれよ」

 

 まさかたった一度会っただけの男のために、命がけの旅に馳せ参じてくれるとは、その義理堅い行動には思わずジーンと来た。正直、最初はいけ好かない野郎だと思っていたが、認識を改めねばなるまい。

 

 鳳がそう思って感動していると、アントンはどこか照れくさそうにそっぽを向きながら、

 

「別に、幼馴染の恋人が困ってるなら、当然だろ? もしかしたら、一生の付き合いになるのかも知れないんだしよ」

 

 などと言い出した。鳳は思わずぽかんとしてしまったが……

 

「え……?」「は……?」「ん……?」

 

 三人でお見合いするように首を傾げあっていたところで、ハッと思い出した。

 

 そうだった。確かニューアムステルダムで出会った時、鳳とミーティアは恋人同士のふりをしていたのだった。それは幼馴染に当てつけるための嘘だったが、誤解を解いていないのだから、彼はもちろん二人がまだ恋人同士だと思っているのだ。

 

 アントンはそんな二人の姿を怪訝そうに眺めながら、

 

「……あれ? そう言えばなんか、以前会ったときよりも、距離感が遠い気がするな。もしかしておまえら、喧嘩でもしているのか?」

 

 このままでは嘘がバレてしまう。二人は慌てて密着するように肩を寄せ合うと、

 

「ととと、とんでもない! 僕たちはいつだってラブラブさっ! ねっ? ミーティアさん?」

「そ、そうですよ……今日は人前でちょっと恥ずかしかっただけでして、二人っきりの時はいつもいかがわしい行為に勤しんでいますとも」

 

 ミーティアは鼻息を荒く熱弁している。いや、いかがわしい行為ってどんなんだ……言い訳するにも他に言い方があるだろうに、相変わらず腹芸の出来ない人である。

 

 アントンはその言いぐさに若干顔を引きつらせながら、

 

「そ、そっか。まあ、幸せそうで良かったよ。そんなわけで、大事な幼馴染の恋人に死なれちゃ困るからな。俺もついていくから、こき使ってくれよな」

「あーうー……」

 

 『大事な幼馴染』に反応したのか、それとも『幼馴染の恋人』という言葉が照れくさいのか、ミーティアは顔を真っ赤にしてうつむいている。アントンはどこかアメリカンなわざとらしさがあったが、根は本当にいい奴のようである。

 

 鳳はそんな彼に嘘を吐いていることを多少申し訳なく思いつつ、そんなことよりも二の腕に当たっているオッパイの感触に鼻の下を伸ばしていると……

 

 と、その時、何を思ったのか、遠くの方で他の冒険者達の相手をしていたジャンヌがツカツカと歩み寄ってきて、

 

「ふ……二人とも……ちょおおぉぉ~~っと、近すぎるんじゃないかしら? 白ちゃん、鼻の下なんか伸ばしちゃって、みっともないわよ?」

「あ! こら! ジャンヌっ!」

 

 何を思ったのか、鳳とミーティアの間に割って入ってきた。

 

 突然引き剥がされたオッパイがプルンプルンと揺れている……もとい、ミーティアが驚いている。

 

 鳳は何しやがると内心憤ったが、事情を知らないジャンヌからすれば、突然二人がいちゃつき出したようにしか見えず、その光景が目に余ったのだろう。だが、今はそんなことをされたら、ややこしくなるだけだ。

 

 突然の乱入に驚いているアントンは目をパチクリさせながら、

 

「お、おい、鳳。この神人のかたは……?」

「えーっと……こいつは俺のパーティーメンバーで、ジャンヌって言うんだけど……って、おい! 何をする?!」

 

 説明が難しくて口ごもっていると、ジャンヌは鳳の腕に絡みつくように抱きついてから、戸惑っているアントンに向かってにこやかに挨拶した。

 

「はじめまして。私はヘルメスの頃から、ずっと白ちゃんとパートナーを組んでいるジャンヌ・ダルクよ。よろしくね」

 

 男の時から割とこういうことをするおっさんだったが、以前は厚い胸板だったものが、今は得も言われぬ感触の柔らかいオッパイに変わっていた。前はただ暑苦しいだけで突き飛ばす事に躊躇いはなかったが、今はどこを触って良いのか分からない……

 

 鳳が戸惑っていると、それを見ていたミーティアがムッとした表情で、突然、空いていたもう片方の腕にギュッとしがみついて来て、

 

「ジャンヌさんはレベル102を誇るギルド最強の冒険者さんです。以前は屈強なナイスガイだったのですが、最近女性になってめっきり美しくなってしまったのです」

「はあ? 何言ってんだおまえ?」

「ですよね? 私も何言ってんだって思うのですが、事実なんです」

「屈強って、失礼ね……中身は以前から乙女だったのよ」

 

 三人はやいのやいのとおかしな会話を交わしている。鳳は二人の美女に挟まれて動けない。両手に花といえば聞こえは良いが、ぶっちゃけ、嬉しいと思うよりもひたすら萎縮するだけで、はっきり言って居心地が悪くて仕方なかった。

 

 気がつけばそんな彼らのやり取りを遠巻きに見ていた冒険者たちの視線が冷たいものに変わりつつあった。このまま続けていたら、今後の遠征に支障を来してしまうかも知れない。そう思って、鳳がそろそろ離れろと、強引に二人を振りほどこうとした時だった……

 

「たのもう! たのもう!」

 

 突然、村全体に響き渡るような大声が轟いて、冒険者たちの背後から、一人の巨漢がヌッと姿を現した。

 

 声のする方を見れば、強面の男がキョロキョロと村の中に視線を走らせていた。彼はやがて鳳をロックオンしたかと思うと、ジロリと鋭い眼光を光らせながら一直線に向かってきた。

 

 これ以上、面倒事は御免だぞと焦っていると、男は仁王立ちするように見下ろしながら、いかにも不機嫌そうな声で、

 

「ふんっ……調子に乗って女なんか侍らせやがって、軟弱者め! おまえが、勇者鳳白(おおとりつくも)だな?」

 

 鳳は軟弱者と言われても、何も言い返せず、ただただ恐縮するしかなかった。

 



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チラッ……チラッ……

 大森林遠征に向けて鳳たちが冒険者達を迎え入れていると、遅れてそこに現れたのは山のような巨漢だった。

 

 柔道着みたいな厚手の布地の服を着て、腰を帯でギュッと縛っている。合わせた道着の胸襟からは、フライパンみたいにガチガチの分厚い胸板が覗いており、裾が破けて縮れている袖からは、成人女性の腰周りくらいありそうな、物凄く太い腕が伸びていた。

 

 下半身ももちろん屈強であり、そのせいでちょっとがに股で短足ではあったが、丸太みたいな両足が、まるで地面に根を張るかのように、どっしりと地面の上に乗っかっていた。剃髪した頭頂部は青々としていたが、額は太陽を反射してキラリと輝いている。目は細くて糸目だったが、それが返って鋭い眼光を強調しているようだった。

 

 男はキョロキョロと村の中に視線を走らすと、そこにいた鳳をロックオンして、ズカズカと巨体を揺らして近づいてきた。荒くれ者の冒険者達が黙って彼のために道を開ける。鳳がそんな強面に射すくめられ、小リスのように棒立ちしていると、男は仁王立ちするようにそれを上から目線で見下ろしながら、彼の両手にぶら下がっている二人の女性を交互に見つつ、

 

「ふんっ……調子に乗って女なんか侍らせやがって、軟弱者め! おまえが、勇者鳳白(おおとりつくも)だな?」

 

 鳳は軟弱者と言われても、何も言い返せずに、ただただ恐縮するように、

 

「あ、はい、すんません……勇者ってほどじゃないですけど、私が鳳白です。すんません」

「そうか。俺の名はサムソン! 金剛力士のサムソン! 人類最強のSTR20を誇る格闘家だ! ……いや、人類最強の格闘家だった。あの男が現れるまではな! おまえは確か、ヘルメスの国境の街で、帝国軍と戦った時にもいたよな?」

 

 それは今やフェニックスの街と呼ばれている街のことであろう。それを聞いて思い出したが、難民を守るために籠城を決め込んだ時、勇者領からやってきた助っ人の中にサムソンの名前もあった。確か彼はスカーサハ、ガルガンチュアと並ぶ高ランク冒険者で、ジャンヌと共に最前線で大暴れしていた一人だったはずだ。

 

 鳳はそれを思い出すとペコペコと頭を下げて、

 

「ああ! その節はどうも、大変お世話になりました。あなたのお陰で、今こうしていられます。あの時はお礼も言えずに、すみませんでした」

「え? あ、うん……別に気にしてないけど。調子狂うなあ……おほん! ともかく! 勇者が冒険者を募っていると聞いてやってきたのだが、俺はてっきり勇者と言えば、ジャンヌ・ダルクのことだと思っていたのだが、来てみてびっくり、軟弱なおまえがリーダーなんだって?」

「はい、俺もジャンヌがリーダーの方がいいと思うんですが、ちょっと色々事情があって、俺が責任者やってます。あ、別に俺の方がふさわしいからとかそんなんじゃないんで、安心して下さい」

「あ、そうなの……? いや、そうじゃなくて……つまりだなあ! 俺はジャンヌ・ダルクと再会することを楽しみにしてここに来たんだ。なのに、彼がリーダーじゃなくて、ちょっと残念でした」

 

 サムソンはそう言ってがっかりと項垂れている。鳳はなんだか申し訳ない気分になった。ともあれ、どうしてそんなにジャンヌに入れあげているのだろうか。気になって尋ねてみると、

 

「よくぞ聞いてくれた。それはだな? さっきも言った通り、俺はSTR20を誇る人類最強の格闘家だった。だが、そんな俺の前に、奴が現れたのだ……そう、STR23という、人類を超越した化け物、ジャンヌ・ダルクだ!

 

 俺は自分以上のSTRを誇る人類がこの世に居るとは思わず、凄く驚いた。俺も格闘家の端くれ、すぐにこいつと勝負がしたいと思ったんだ。でも、あの時は帝国軍との戦いが控えていてそれが難しかった。だから俺はやつと約束したんだ。この戦いが終わったら勝負しようと。奴は言った『いいわよん』と。そして俺はそれを楽しみに、あの攻防戦を最後まで戦い抜いたんだ……

 

 ところが、全てが終わった時、奴はそこには居なかった。帝国に追われていたから仕方ないとは言え、俺は落胆した……どうしても勝負がしたかったのに……だから、今回、お前ら勇者が冒険者を募っていると聞いて、俺は居ても立ってもいられなくなってやってきたんだ。

 

 なあ、勇者よ。おまえがここにいるのなら、ジャンヌももちろん居るんだろう? ならばあの時の約束を果たすために、奴を呼んできてくれないか」

 

 サムソンの熱弁を聞いていたジャンヌは、鳳の腕から離れると、今度はサムソンの手を取って彼のことを見上げながら申し訳無さそうに頭を下げた。

 

「まあ、そうだったの……あの時は黙って出ていってごめんなさいね。ほんの軽い気持ちで受けちゃったけど、申し訳ないことをしたわ。もちろん、私で良ければ、いつでも勝負させてもらうけども」

「え……? いや……こちらのお嬢さんは?」

 

 サムソンは突然彼の手を取った金髪碧眼の神人女性を前に、しどろもどろになりながら鳳に尋ねた。目の前にいるのだから直接聞けばいいのに、視線も合わせられないのは、彼が女性を苦手にしているからだろうか。

 

 鳳は、少々心苦しく思いながら、その女性こそが彼が探し求めているジャンヌだと言わねばならなかった。

 

「えーっと……それがその……実はそいつがジャンヌなんだけど」

「……は? ああ、彼女もジャンヌさんって言うんですか。とっても綺麗な方ですね。いや、そうじゃなくて、俺は屈強なジャンヌを探しているんだが」

「だから、それがそのジャンヌなんですってば」

「……謀ってるのか? 何か、ジャンヌを出せない理由でもあるのだろうか?」

「いや、そんなのないんだけど……まいったなあ」

「あの、エントリーシート持ってきましょうか?」

 

 鳳が何とも説明しづらく困っていると、もう片方の腕にぶら下がっていたミーティアが言った。

 

 エントリーシートとは、例の嘘を吐いたら文字が消えてしまう紙のことである。彼女は鳳の腕からぱっと離れると、パタパタと靴音を鳴らしてギルドへと駆けていった。こうして久しぶりに両手の自由を取り戻した鳳であったが、あんなに迷惑に思っていたのに、今となっては寂しささえ感じるのは何故だろうか。

 

 鳳がそんな哲学の迷路に迷い込んでいると、間もなくギルドから紙を取って返ってきたミーティアが、ジャンヌにそれを差し出しながら、

 

「はい。ジャンヌさん。ここに署名をお願いします。みなさん、もうご存知かと思いますが、これに書かれたことが真実でなければ消えてしまいます」

「わかったわ」

 

 ジャンヌが言われたとおりに署名すると、その文字はいくら待っても消えることはなかった。サムソンは首を捻りながら紙を受け取ると、それをまじまじと見つめた後に、その隣に同じように『私はジャンヌ・ダルクです』と署名してみた。するとその文字はすぐにくるくると回転し、インクは空中へと消えてしまった。

 

 彼は暫し呆然とした後……

 

「そうか。同姓同名なんだな?」

「いや、諦めようよ。そいつは正真正銘ジャンヌなんだよ」

「しかし! 俺が知っているジャンヌは、それはそれは見事な筋肉の40絡みの男だったんだぞ!?」

「そうだよ。俺が知ってるジャンヌも筋肉だるまだったけど……」

「そうだろう!?」

「でも、なんか女になっちゃったんだよ」

「そんな無茶苦茶な!」

 

 サムソンは目を回している。それを傍から聞いていた冒険者たちも騒然としている。まあ、普通、こんな話を聞いたら、こうなるのが当然だろう。鳳は、それ以上何を言っても付け焼き刃にしかならないと思って、彼らが落ち着くのをじっと待った。

 

 鳳が見守っていると、やがてサムソンは、うーんと唸り声を上げてから、がっくりと脱力した。どうやら、この理不尽な状況をどうにかこうにか受け入れてくれたらしい。心のなかで様々な葛藤があったのだろう、額にびっしょりと汗をかき、彼は少し青ざめた顔をしながら、

 

「それじゃあ、本当におまえがジャンヌなんだな?」

「ええ、そうよ。ごめんなさいね。あなたと勝負する約束をしていたのに、勝手に女になってしまって……」

「そうかあ……うーん、そうかあ……」

「STRだってもう23じゃないのよ。今の私はか弱いSTR14の乙女でしかないんだわ」

「……いや、14だって結構な数字だが」

「でも、安心してちょうだい! 例えSTRが14でも。別に弱くなったりレベルが下がったりしたわけじゃないから、勝負自体はちゃんと成立するはずよ。あなたさえ良かったら、是非、あの時の約束を果たさせてちょうだい」

「……はあ?」

 

 落胆し、少し放心状態だったサムソンは、それを聞くと鼻でせせら笑いながら、

 

「いやいや、お嬢さん。俺はSTR20、あんたは14。こうなっては勝負にならないだろう。手合違いだ」

「いいえ、きっと平気よ。私もこの体で、どこまでツワモノと渡り合えるか興味があったの。試してみましょう」

「そうは言うが……失礼だが、あんたのその細いウエストじゃ、俺のパンチを食らったら折れちまう。それじゃ気が引けるぞ」

「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。でも見てのとおり、私も今は神人よ。ちょっとした怪我ならすぐに治ってしまうわ」

「うーん……」

 

 サムソンは困ったように唇を尖らせて唸り声を上げている。鳳はそんな彼に助け舟を出すように言った。

 

「まあ、やるだけやったらどうですかね。また決着をつけなかったら、それはそれで後々しこりになるかも知れない。あんただって、ジャンヌと勝負が出来なかったのが心残りで、わざわざここまで来たんでしょう?」

「うむ……ふむ……うーむ……それもそうだなあ~……」

 

 サムソンは溜息をつくように鼻息をフンと鳴らすと、

 

「よしわかった。そのかわり、勝負はどちらかが怪我をするか、地面に手をつくまでとしよう。つまり、相手を転ばせたら勝ちだ。それでいいな?」

「望むところよ」

 

 ジャンヌは腕まくりしながら牧場の方へと歩いていった。サムソンはそんな彼女の後を追いかけつつ、すれ違いざまにこそっと鳳に耳打ちしていった。

 

「もし、彼女が怪我をしそうになったらすぐに止めてくれ」

 

 こうしてジャンヌとサムソンが勝負をすることになると、それを聞いた冒険者達が面白がって集まってきた。中にはもうどちらが勝つかトトカルチョを始める者も居る。鳳も賭けに乗りたかったが、審判を任されたせいで乗ることが出来ず、指を咥えて眺めていると、そんな彼の元へ不安そうな表情を浮かべてミーティアが近づいてきた。

 

「あの、鳳さん……本当に大丈夫なんですか? 止めたほうが良いのでは?」

「別に、大丈夫じゃない?」

「でも……流石にジャンヌさんでも、今回ばかりは相手が悪いと思うのですが。サムソンさんはあれで伝説級と呼ばれる冒険者ですよ?」

「平気平気。伝説級なら、ちょっとやそっとじゃ死なないでしょ」

 

 ミーティアは困惑気味に眉根を寄せている。鳳は苦笑いしながらそれに答える。寧ろ、だからこそ大丈夫だと思っているのだが……STR20と言っても、所詮サムソンは人間である。神技(・・)も、古代呪文も使えないのだ。

 

 冒険者たちが賭けをしている手前、下手な情報を与えないように黙っていると、間もなく牧場の隅っこの広場で二人の決闘が始まろうとしていた。

 

 サムソンは余裕を見せて腕組みをしながら半身に構え、いかにも手加減してやるといった感じの挑発気味のポーズをしている。

 

「さあ! どこからでもかかってこい」

 

 あんまり余裕をかまさない方がいいんじゃないかと思いながら見ていると、ジャンヌはそんな舐めプの彼を見るや問答無用で、

 

「練気拳! 覇王拳! 神威穿孔阿修羅拳!!」

「ひでぶっ!」

 

 彼女が技名を叫ぶや否や、その腕がまばゆいばかりに輝きだし、更に次々と技を叫んだ瞬間、その光が巨大な炎となってサムソンを襲った。

 

 格闘戦と言ってるのに、まさかそんな攻撃が飛んでくるとは思いもよらず、腕組みをしたままサムソンは直撃を食らって思いっきり吹っ飛んでいった。彼はゴロゴロと地面を転がっていくと、やがて数十メートル先にあった牧場の欄干にぶつかって止まった。

 

 そんな一瞬で勝負が決まるとは思っていなかった冒険者たちが、泡を食って無効だ無効だと騒いでいる。鳳が、ちゃんと生きているかな? と手かざしをしながら遠くで大の字になっているサムソンを眺めていると、

 

「きゃあ! やりすぎちゃった! もしかして、パンチとキックだけで勝負したほうが良かったかしら……」

 

 などとジャンヌが要らぬヘイトを稼いでいた。もしかして、実は結構腹を立てていたのだろうか……戦闘スタイルを変えると言っているが、やはり根っからのタンクである。

 

「って、そんな感心してる場合じゃない! さっさと介抱しに行くぞっ!」

 

 慌てて吹き飛んでいったサムソンの元へと駆け寄り、鳳がその顔を覗き込むと、彼は完全に目を回して伸びていた。往生際の悪い冒険者達が、まだ勝負がついていないとテンカウントを数えていたが、多分、起き上がることはないだろう。鳳が両手で大きくばってんを作ると、冒険者達からブーイングが上がった。胴元がニヤニヤしながら賭け金を分配し始める。他人事だと思って薄情な連中だと思っていると、ミーティアがギルドから水を運んできた。

 

 ザブーっと、伸びているサムソンの頭から水をぶっかけると、しばらくして彼は周囲をキョロキョロしながら目を覚まし、やがて正気を取り戻したようにハッと飛び上がった。

 

「な、なんだなんだ!? 俺は……負けたのか?」

 

 理不尽な勝負にまだ状況整理が追いついていないサムソンがハアハア息を荒げて周囲を見回している。ジャンヌはそんな彼の元へ悠々と歩み寄ってくると、

 

「悪いけど、全力でいかせてもらったわ。神技を使っちゃいけないと言ってなかったから使ったんだけど……まずかったかしら?」

「なに!? 神技……!?」

 

 ようやくサムソンは自分が何を食らったのか理解して、目を丸くしていた。ジャンヌと言えば剣士だから、まさか徒手空拳の技を使ってくるとは思ってなかったのだろう。実は彼女はゲーム時代から、あらゆる武器を使いこなす戦闘のスペシャリストだったのだ。と言うか、長いことゲームをやってると、スキルポイントが余ってきて、みんな段々そうなってしまうのであるが……

 

「そう言えば……功夫(クンフー)を積んだミトラの神人修行僧の中には、腕から気弾を発射するという奇跡の技を体得した者もいると聞く。まさか、今のがその技だというのか……!?」

 

 そんなこととは露知らず、不意打ち気味に神技を食らってしまったサムソンは、つぶやくようにそういった。その顔は真っ赤に紅潮して、握りこぶしを作った腕がプルプルと震えている。

 

 あまりに卑怯だったから、やり直しを要求しようとでもしてるのだろうか。面倒なことになってしまったな……と鳳が内心思っていると、そんな彼の想像とはまるで別の方向で、事態は更にややこしくなろうとしていた。

 

「……惚れた」

「……え?」

 

 サムソンは、顔を真っ赤にしてプルプル震えていたと思えば、突然鼻息荒く、そんなことを口走った。

 

「惚れたー! 俺は強い漢と漢を高め合うために来たつもりだったが、まさかこんなところに、理想の女性がいたなんて! おお、ジャンヌよ! 俺はお前が女になってしまったと聞いた時は、心底がっかりしたのだが、それは間違いだった。お前こそ俺が長年追い求めていた女性に間違いない。強く、逞しく、そして何よりも美しい!」

「え? え? ……どうしよう、白ちゃん、私、口説かれてるわ」

 

 ジャンヌが突然迫られて面食らっている。鳳はそんな二人から若干距離を取りながら、

 

「知らんがな。つーか、いちいちこっち見んなよ」

「おお、ジャンヌ! 戦の女神ディアナのように勇猛果敢な戦乙女よ。どうか俺の生涯の伴侶として、共にいることを許してくれ」

「え? そんな力強く迫られたら、困っちゃうわ……チラッ……チラッ……」

 

 そんなことを言いながら、ジャンヌは頬を赤く染めつつ満更でも無さそうな表情で、チラチラとこっちの方をチラ見していた。鳳はその視線を避けるように一歩二歩と後退ると、遠くの方でこちらの様子をうかがっていたアントンたち冒険者に向かって肩を竦めてみせた。

 

 サムソンはまだジャンヌを口説いている。そんな二人のことをオロオロしながらミーティアが見守っている。これから魔族の跳梁跋扈する大森林へと行こうと言うのに、何をやっているんだか、早くもその旅はどうしようもないものになりそうな予感がしていた。

 



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ヘルメスの杖

 そんなこんなで、鳳たちが村の牧場でトトカルチョをしたり、サムソンがジャンヌを口説いたりしていると、丘の上の館からレオナルドが馬車に乗ってやってきた。大森林へ向かう前に冒険者達を連れて出発の挨拶に向かうつもりだったが、一向にやってこないから業を煮やしたのだろうか。

 

 牧場前に馬車が止まり、いきなり中からレオナルドがお供を連れて降りてくると、それまでダラダラと駄弁ったりしながら大騒ぎしていた冒険者達は、まるで軍隊みたいに背筋をピンと伸ばしてそれを迎えた。

 

 レオナルドは別にこの国の王でも、彼らの主人でもないのだが、荒くれ者の冒険者達までもが瞬時にこんな態度を取るのだから、彼の人徳の高さが窺える。老人はそんな冒険者達にリラックスするように、軽く手を上げると、

 

「よいよい。皆、よく集まってくれた。話は聞いておるじゃろうが、実はこの国がアルマで戦争をしていた最中、大森林が大変なことになっておった。魔族が繁殖して、いまじゃ手を付けられぬほど、被害が広がっておるらしい。詳しいことはこのガルガンチュアが説明してくれるから、皆、彼ら獣人たちと協力して事にあたってくれ」

 

 レオナルドがそう言って、彼の背後からマニが出てくると、冒険者たちはまだ年若い兎人を見て困惑の声を上げた。獣王ガルガンチュアと言えば、屈強な獣人冒険者として名が轟いていたから、マニが出てきたことで驚いたのだろう。

 

 慌ててガルガンチュアが代替わりして、息子がその後を継いだことを説明するが、彼らはまだ半信半疑のようだった。獣人たちは彼を見るなり、まるで借りてきた猫のように大人しくなるのだが……やはり、人間にはCHAの影響はないのだろうか?

 

 だが、そんな彼らもジャンヌがじれったそうに前に出てきて、

 

「彼の実力は本物よ。何なら、誰か代表して模擬戦を行ってみればいいわ」

 

 彼女がそう言うと、先程のサムソンとの勝負を見ていた冒険者たちも納得せざるを得ずに黙りこくった。

 

 兎人が人間社会に出てくること自体が珍しいのもあり、マニがおずおずと前に進み出て、大森林で起こっている出来事を話すと、彼らは物珍しそうに黙って話を聞いてくれた。そのうち、村が襲われて、父ガルガンチュアが殺された話になると、中には同情して涙を流す者までいた。

 

 鳳がマニのことを、大丈夫かな? と見守っていると、そんな彼に手招きしながら、レオナルドが近づいてきた。

 

「鳳よ……少し良いかの? そろそろスカーサハがアルマ国へと帰還したいと言っておるのじゃが」

「あ、そっか。待たせちゃったかな」

 

 引き続き、勇者軍の指揮官として就任したスカーサハは、連邦議会に出席するためニューアムステルダムに滞在していた。その後、逆侵攻の方針が決まり、アイザックとヴァルトシュタインが鳳に参戦要求しに来た事は記憶に新しい。

 

 スカーサハは一足先に帰った彼らに変わって、議会との調整を行っていたのだが、その仕事を終えて前線へ帰るために、ヴィンチ村にやってきていた。理由は言うまでもなく、鳳のタウンポータルを使ったほうが、馬車を使うよりも断然早いからである。

 

 鳳はその場をジャンヌに任せ、レオナルドと共に馬車に乗った。丘を上って館に戻ると、執事のセバスチャンが恭しく扉を開いて待っていた。そんな彼に外套を渡し、メイドのアビゲイルの後に続いて、いつもの応接室へとやってくると、中には件のスカーサハと一緒にルーシーが待っていた。

 

 スカーサハは鳳がやって来たのを見るなりソファから立ち上がり、

 

「勇者、忙しいところを私的な用事でご足労願い、申し訳ありません。至急、アルマへ帰還せねばならなくて」

「いや、こちらこそお待たせしてすみませんでした。つーか、その勇者ってのやめて下さいよ。背中がこそばゆくなる」

「いいえ、あなたはこれから先、色んな人からそう呼ばれることになりますよ。早く慣れて下さい」

 

 スカーサハはにこやかにそれを拒絶すると、独特な論理で彼を煙に巻いた。鳳はやれやれと肩をすくめると、

 

「戦争なんかのために、あっちこっち飛び回らなきゃならないなんて大変ですね。もう特に用事がなければ、すぐにポータル出しますけど?」

「お願いします。よければ息抜きに、たまには私にも会いに来て下さい。紅茶を用意してお待ちしておりますよ」

「いいですね。その時はみんなを連れてお邪魔します」

 

 鳳がポータルを出すと、スカーサハは手を振りながらその光の向こう側へと去っていった。間もなくポータルが閉じ、光の礫となって消えていく。ルーシーはその光景を物珍しそうにマジマジと見つめながら、

 

「いつ見ても不思議だねえ、これ。どうなってるんだろう?」

「さあ……ゲームの中ならデータだけを送れば済む話だから気にならなかったけど、現実だとどうしてんだろね?」

 

 普通(?)に考えれば、スタートレックの転送方式みたいに、体を構成する全ての物質を量子レベルまで分解して飛ばしているのだろうが……そう考えると、あのP99と原理は同じなのだろうか。

 

 ポータルには、それが使える人と使えない人がいて、特に獣人はほぼ全滅だったのだが、何かその辺が関係あるのかも……そんなことを考えていると、ルーシーが鳳の顔を覗き込みながら、

 

「それにしても、随分先生に気に入られたみたいだね。勇者なんて呼ばれたり、また会いに来てなんて、あんな美人になかなか言われていいセリフじゃないよ」

「俺がいればあちこち飛び回りやすいから、定期的に顔を出してくれってことだろう」

「どうかなあ……実は以前話してくれたんだけど、先生、300年前の勇者様とラブロマンスがあったらしいよ?」

「え!? そうなの!?」

 

 ただでさえ神人は作り物めいた容貌をしており、おまけに彼女はやたら落ち着いて見えるものだから、そういった性的な印象は全く受けなかったのであるが……そう言えば、アイザックの城には妖艶な神人もいたし、彼らに性欲がないわけではないのだから、そういうこともありえるのだろうか。

 

 鳳がそんなことを考えてぼんやりしていると、レオナルドが不機嫌そうに、

 

「前に言ったじゃろうが、勇者は晩年、手当たりしだいに女に手を出しておった。そのうちの一人がスカーサハじゃ。儂は、弟子に手を出した彼に怒って抗議しにいったのじゃが……殆ど喧嘩別れになってしまったそれが、彼との最後の別れとなってしまったことを後悔しておる」

「そうだったのか……」

「何故彼がそうなってしまったのか、もう少しちゃんと話を聞いてやれば良かったのじゃが……儂も頭に血が上っておってな」

 

 レオナルドはそう言って渋面を作ったが、すぐに気を取り直したようにパッと表情を和らげて、

 

「まあ、つまらない話はそのくらいにしておいて、大森林へ行く前にお主らに渡しておきたい物がある」

 

 渡したいものとはなんだろう。鳳たちが首を傾げて見守っていると、メイドのアビゲイルが細長い楽器ケースみたいな大きな容器を運んできた。彼女は応接セットの机の上にそれを置くと、鍵を開けて、鳳たちに見やすいようにケースを傾けて中身を示した。

 

「これは……杖かな?」

 

 棍棒のようにも見える。長さはおよそ120センチくらいの木の棒で、先端に丸っこい意匠を凝らした綺麗な槌がくっついていた。振り回せばそれなりの打撃は与えられそうだが、あまり威力はありそうに見えない。どちらかと言えば、魔法使いの杖といった方がしっくりくるようなデザインである。

 

 レオナルドはそれを手に取ると、ルーシーに差し出しながら、

 

「これは昔勇者と旅していた頃、長いあいだ使っていた武器じゃ。カウモーダキーという。お主にやろう」

「わあ、ありがとう、お爺ちゃん!」

 

 ルーシーは目を輝かせながらそれを受け取ると、いつもの誰もが幸せになりそうな、飛び切りの笑顔を見せた。老人は現金な奴めと言いたげに苦笑しながら、

 

「それはジャンヌの剣のようにステータスに補正があるものではなく、不思議な力で飛んでくる矢を落として術者を守ってくれる棍棒じゃ。お主は攻撃を受けるとうまく魔法が使えなくなるようじゃから、それで守ってもらうと良いじゃろう」

「凄い! もしかして、これを持ってたら、私も前の方で戦えるかな?」

「剣や打撃武器などは躱せん。あくまで遠くから狙われた時の保険じゃ。それに頼りすぎて注意がおろそかになっては本末転倒じゃから、いつかはこれを使わずに戦えるようにならんとな」

「そうかあ……」

 

 ルーシーはどことなく元気無く項垂れている。突然、前線に出たいなどと言い出したり、もしかすると彼女なりに戦闘が苦手なことを気にしているのだろうか。確かにルーシーは、敵に気づかれていない時は非常に優秀な現代魔法の使い手だが、乱戦になると少々浮足立つ傾向があった。

 

 それを克服出来れば、戦闘中もバッファーとして活躍できるだろう。早くそうなるといいなと思いつつ、鳳は話題を変えるようにぶっきらぼうに言った。

 

「そんなものがあるならもっと早くくれればよかったのに」

「いい若者が、何も苦労せずに物だけ欲しがってはいかん」

「へいへい。つーか、ギヨームも言っていたけど、爺さん、マジックアイテムのコレクションなんてものがあるんだって? もしかして俺にも使えそうなものはないのかな?」

「ある……と、言うか、そのつもりで呼んだ。アビゲイルよ」

 

 レオナルドが命じると、側に控えていたメイドが黙って部屋から出ていって、また同じような大きさなケースを抱えて戻ってきた。彼女は先程とは違い、慎重そうにそのケースを机の上に置くと、今度は鍵を開けてはくれずに、代わりに鍵を直接手渡してきた。

 

 自分で開けろということだろうか? 彼女がここまで丁寧に扱うのだから、よっぽどの物が出てくるんじゃないかと、ドキドキしながらその鍵を回すと、ケースの中から出てきたのは、さっきの棍棒よりももっと無骨な杖だった。

 

 木製か、石製なのか、よくわからない材質で出来た支柱の周りに、二匹の蛇が螺旋を描くように絡みついているという、そんな意匠が施されている。先端には水晶玉みたいにツルツルに磨かれた丸い玉がついていて、最初は真っ黒な黒曜石のように見えたそれは、よく見ると光を反射して虹色に輝いていた。

 

「これは……?」

「ケーリュケイオン。別名ヘルメスの杖じゃ。実を言うと、今まで使い手がいなかったから、それがどのような力を持つかは分かっておらぬ。じゃが、精霊ヘルメスと会ったというお主なら、もしかすると使えるかも知れぬと思って、こうして持ってこさせたのじゃ」

 

 絡み合う二匹の蛇が、まるでDNAの二重螺旋を思わせるからだろうか、それはどこから見ても明らかに無機物だというのに、何故か生命でも宿ってるような雰囲気を感じさせた。もちろん、そんなはずはないのだが……鳳はなんとなくそれに触れることが躊躇われて、暫くそのまま見つめていることしか出来なかった。

 



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永劫回帰

 レオナルドに呼ばれて館に戻ってきた鳳は、スカーサハをポータルで飛ばした後、レオナルドから一本の杖を渡された。

 

 ケーリュケイオン……別名ヘルメスの杖と呼ばれるそれは、触れようとする者を威圧するような、不思議な雰囲気を漂わせていた。どうみても無機物なのに、生き物のような存在感があるというか、触れるとなんだか呪われそうな感じである。

 

 鳳は使い手が存在しなかったというその杖を前にしながら、なかなか手にすることが出来ず、それをケースに収めたまま老人に尋ねた。

 

「使い手が居なかったのか……それじゃ、どこで手に入れたんだ?」

「分からぬ」

「わからない……?」

 

 てっきり、どこかの迷宮から発掘されたのかと思いきや、老人はまるで予想もしていない、おかしなことを言い出した。

 

「その昔、勇者戦争が起きてすぐアイザック1世が死に、儂は彼の死後の混乱を鎮めるために、暫くヘルメスに滞在しておったのじゃ。その時、彼の形見分けという形でこれを手に入れたのじゃが……考えても見れば、アイザックは儂らのような魔法使いではない。じゃから、彼が何故こんなものを持っていたのか分からぬのじゃ」

「精霊に貰ったとかは? 彼は初代ヘルメス卿で、それはヘルメスの杖なんだろう?」

「かも知れんが、それじゃ何故儂らにそれを報せなかったのか。何故ヘルメスは使えもしない杖を彼に託したのか。出どころがはっきりしないのは事実じゃ。しかし、ヘルメスの名を冠するという、その名前だけは分かっておったから、儂は奇妙に思いつつも、誰かの手に渡らぬよう、こうして厳重に保管しておったのじゃよ」

「……なんだよそれ、まるで呪いのアイテムじゃないか。そんなの、手に触れても大丈夫なのかよ?」

「分からぬ。じゃからこうして見せるだけで、アビゲイルにも触らせてはおらぬのじゃ。気が進まぬのであれば、そのまま箱に戻してしまえば良い。どうする?」

「どうするって……本当に、出どころがわからないのか? 爺さんがボケちゃっただけで、実はその昔、普通にどこかで手に入れた代物なんじゃないのか?」

「儂はまだ耄碌しておらぬつもりじゃが……なにせ300年も生きておるからのう。たまにど忘れするようなこともあるじゃろう。じゃが、それほど力を感じさせる魔法具を、全く覚えておらぬというのも考えにくい」

「うーん……」

「もしかすると、今日、お主が手にするために、どこかから紛れ込んだのかも知れぬ。精霊というものは、儂らには計り知れぬ存在じゃからな……さて、話はこのへんで、そろそろ決めるがよい」

 

 レオナルドは突き放すようにそう言い捨てると、どこまでも透明で無感情な瞳で鳳のことを見つめてきた。度胸がないなら、無理するなと言っているようなものである。鳳は、正直あまり気が進まなかったが、かと言って、自分に縁があるかも知れないマジックアイテムを、ろくに調べもせずに封印するのも勿体ない気がして、結局はおっかなびっくりそれに手を伸ばすことにした。

 

 その表面はすべすべとしていて、肌に吸い付くような滑らかさがあり、材質はやはりよくわからなかったが、金属のようにひんやりとしていて、手に持つとずっしりとした重さを感じた。昔、父親の所有していた象牙を持った時の感触に似ていた。

 

 どういう能力があるか分からなかったが、とりあえず、ジャンヌの剣みたいにステータスに変動が無いかと思って確認してみたら、すると基本ステータスに変化はなかったのであるが、MPが少し減っていて、

 

「……お!? びっくりした」

 

 突然、ブンッ! っと音がしたと思ったら、杖の先端から翼のような形をしたホログラフィが浮かび上がった。その光の翼は、先端の黒い球体の周りでパタパタと羽ばたいている。

 

 なんだろう、ビームでも出るのだろうか? などと思いつつ、ドキドキしながら翼が生えた球体を近くにあった観葉植物に向けると……

 

 その光の翼が触れた瞬間、シュッと吸い込まれるように、それは杖の中へと消えてしまった。驚いた鳳が、慌ててまた杖を振ると、すると今度はその先端から、さっき吸い込んでしまった観葉植物が現れて元の場所へと収まった。

 

「ほう! 物を出し入れすることが出来る杖じゃったか」

 

 レオナルドがそれを見て感心そうに呟いている。鳳はそれはなんとなく違う気がして、また手近にあった大理石の机を吸い込み……また杖を振ったら、今度はその中から大理石で出来た彫像が現れた。その出来栄えはあまりよくない。

 

「これは……一体どうなっておるのじゃ?」

「ははあ……これは多分、等価交換の杖だ。吸い込んだ物の素材を使って、別の形に作り変えることが出来る。その時、出てくるのは俺の考えたものだから、彫像の出来栄えが悪かったんだな」

 

 鳳はそう言ってから彫像を杖に吸い込み、また元の場所に机を戻した。因みに大理石の机の方は、さっき見た記憶が鮮明に残っているからか、寸分違わず元通りである。

 

「なるほど、ヘルメス・トリスメギストスといえば錬金術師。彼らしい杖じゃな。クオリアを元に物体を作っているのであれば、儂の空想具現化(ファンタジックビジョン)と同じような原理じゃろうか」

「俺はその空想具現化が出来ないからなんとも言えないが……便利そうだけど、いまいち使い道に困る武器だなあ」

 

 ステータスを見れば、たった二回出し入れしただけなのに、結構MPが減っていた。強い力にはそれだけ代償が必要であるから仕方ない。だからここぞという時しか使えないが、そのここぞという場面がまるで思い浮かばなかった。

 

 せっかく手に入れたのに、普段使いには向かないだろう。材質は硬そうだし、ちょっとやそっとじゃ壊れそうもないから、棍棒代わりに持ってても良さそうではあるが……どんだけ高級な棍棒なんだと思いながら、手にした杖を矯めつ眇めつしていたら、蛇の二重螺旋の合間を縫うように文字のようなものが書かれているを発見した。

 

 見た感じはただのデタラメな記号である。なんて書いてあるのだろうか? と思い、老人に尋ねようとした時だった。彼は、ふいにその文字が読めるような気がして、

 

「……始まりにして終わり。アルファにしてオメガ。死者は蘇り、生者には死の安らぎを与えん……なんじゃこりゃ?」

 

 鳳が文字をじっと見つめていると、突然、視界に認識可能な文字列が飛び込んできて、困惑しながら彼はそれを口にした。すると老人が逆に尋ねてくる。

 

「読めるのか? 古代語か何か、儂にもよく分からなかったのじゃが」

「読めるっつーか、見えるっつーか……」

 

 その文字は相変わらず解読不能なのだが、目で追っていると内容が日本語に変換されて、直接網膜に映るように見えるのだ。何というか、一時期いろんな企業が競って作ったが、結局流行らなかったスマートグラスをかけているような、そんな感じである。

 

 ともあれ、その内容は示唆的である。

 

「なんだろうね、これ。アルファにしてオメガってのは聖書だっけ? 輪廻とか動物世界の食物連鎖とかも、それっぽいよな。考えてみりゃ惑星の運動だって繰り返しだ。他にも色々ありそうだけど」

「ふむ。繰り返し……永劫回帰か」

 

 鳳が杖に書かれた文字の意味を考えていると、そんな彼の姿を見ていたレオナルドが、突然、そんな言葉を口にした。

 

 永劫回帰とは、歴史が繰り返しているというニーチェの思想のことだ。ニーチェはこの繰り返しから脱却するために、人間は超人にならねばならないと説いていた。第二次大戦中、それはナチスに利用されて、別の意味を持つことになるのだが……

 

 それはともかく、どうして突然、老人がそんな言葉を口にしたのだろうかと首をひねっていると、

 

「……実はマニと話していて、少し気になることがあってな? あの子が先祖の力を継承する際、まずその記憶が蘇ってきたという。その時、マニは先祖が主人と仰いでいた勇者のことや、その仲間である儂の姿も思い出したらしいのじゃが……その勇者の姿というのが、どうやらお主にそっくりだったというのじゃ」

「俺に……? おいおい、冗談じゃないぞ。確か、爺さんも俺と勇者は似ていないって言ってたじゃないか」

「うむ、そうじゃ。で、あるから、何かの間違いではないかと言ったのじゃが、マニはそんなことはないと頑なに言うのでな。彼にしてみればつい最近見たばかりの出来事であるし、昨日のことのようにはっきり覚えておると……そう言われてしまうと、儂も段々自信がなくなってきてしまってな。儂は確かに勇者とともに旅をした仲間じゃったが、それはもう300年も昔の話なのじゃ。記憶の中の姿はもうかなり曖昧で、はっきりとは思い出せぬ。絵にしてみろと言われても不可能なのじゃ。なのに、その雰囲気だけは、何故かお主に似てるような印象を覚えておる」

「……そう言えば、雰囲気は似てるって言ってたな」

「そして、お主は迷宮で、昔の力を取り戻した。全ての古代呪文を使えるというその力は、実は勇者と同じなのじゃ。スカーサハにも、もちろん確認してみた。あの子も、やはりお主と勇者は別人じゃと言っておった。じゃが……あの子がお主を贔屓する姿は、なんとなく彼女が勇者を崇拝していた頃と重なる。

 

 そうやって考え出してみると、奇妙なことに気づいたのじゃ。儂はお主と勇者が似ていないところばかりを探していて、似ているところは殆ど考慮していない。積極的に無視している気がする。力と雰囲気が同じ、でも顔は覚えていない。そんな二人をはっきり別人と言い切る理由は何なのか……

 

 その杖のこともそうじゃ。何故、儂は都合よく、そんな出どころも知らない杖を後生大事に抱えていたのか。もし、この場にお主が現れなければ、それはどうなっていたのじゃろうか。もしかすると、儂は意図的に何かを忘れようとしているのではないか……」

 

 レオナルドは、その透明で透き通るような瞳で、鳳の持つ杖を見つめている。

 

「以前、お主と放浪者のことについて話をしたことがあったじゃろう。お主は人間の記憶というものは意外と情報量が少なくて、保存が可能だと言った。その代わり、その記憶を引き出すための肉体が必要となるが、その肉体が偶然に生み出されることはありえないから、やはり放浪者は別の方法で生み出されているのではないかと、儂らはそういう結論に達したわけじゃが……もし、この世が永劫回帰する繰り返しの世界であるならば、同じ人間がまた生まれることはありうるのではないか」

「いや、その場合は、フィレンツェのレオナルドがまた誕生するだけだから。そもそも、永劫回帰なんて物理的に絶対あり得ないことなんだぞ」

 

 鳳が即座に否定すると、それを黙って聞いていたルーシーがおずおずと手を上げて質問してきた。

 

「あの~……さっきから黙って聞いてたんだけど、そもそもその永劫回帰ってのはなんなの? 出来れば私にもわかりやすく教えてほしいなあ~……なんて」

 

 ルーシーは引き攣った笑みを浮かべている。鳳は難しい顔をしながら、

 

「もしこの世の物質が有限で時間が無限なら、宇宙は同じ状態を繰り返しているのではないかってことだ。

 

 簡単に説明するため、例えば宇宙の広さがここにある杖の入ってたケースの中にすっぽり収まることにしよう。ケースの中には空気の分子がいっぱい入っているけど、初期状態では方眼紙のマス目に一個ずつ収まるように綺麗に並んでいることにする。空気の分子は初期状態から一瞬でも時間が進めば、自由運動してバラバラになってしまう。何億、何兆という分子が自分勝手に運動するのだから、それはもう元には戻らないはずだ。

 

 だが、ケースの中は有限だ。その中にある空気の分子は、いっぱいと言っても限りがある。対して時間が無限なら、もしかすると、数万年、数億年という長い時間が経過すれば、ある時偶然にも箱の中の空気分子は、初期状態のような綺麗な並びになることがあるんじゃないか。

 

 この考えを宇宙全体に広げてみたら、たった今、この瞬間が、これから何億年、何兆年か経った後にも訪れるのではないか……つまり、この宇宙は繰り返しているというのが、永劫回帰という考えだ」

 

「はあ~……いまいちだけど、つまり、私達がまたあの国境の町のギルドで出会うことが、これからずっと未来に訪れるかも知れないってことね?」

「そんな感じ」

「それは本当に起こるの? だったら、素敵な話だと思うけど……」

 

 鳳は首を振って、

 

「いや、それがあり得ないんだ。スーツケースの中の話に戻って考えてみよう。確かに、ものすごい時間をかければ、ある時偶然にも、スーツケース内の空気分子は綺麗に並ぶかも知れない。でも、その時、綺麗に並んだ空気分子の一つ一つは、初期状態の分子とは違う運動量を持っている。簡単に言えば速度が違うんだ。

 

 不確定性原理はミクロの世界では物質の位置と速度が同時に測れないことを示している。位置を決めれば速度が、速度を決めれば位置が曖昧になる。運動量ゼロの量子は揺らいでいる。同じ位置と速度を持つことは物理的に不可能なんだ。だから永劫回帰は絶対に起こらないんだ」

 

 ルーシーは目を回して、降参といった感じの悲鳴を上げた。

 

「どうしてそうならないって言い切れるの? 本当に時間が無限にあるなら、同じ位置と速度の瞬間が訪れるかも知れないじゃない」

「それが訪れないというのが、この世のルールなんだよ。不思議なんだけど、そういうことになっているとしか言いようがない。もしそれに逆らうことが出来るなら、それは神様くらいのものじゃないか」

「じゃが、儂らはその神を知っておるではないか」

 

 鳳がルーシーにそんな話をしていると、横で聞いていたレオナルドがそう口を挟んできた。そんな老人の方へ向き直ると、彼は厳かな様子で鳳の手にした杖を指差し、

 

「困ったことにこの世界には精霊というものがおる。それは高次元に存在し、儂らにもよくわからぬ超常の力を操っているようじゃ。彼らならば、お主の言う不確定性原理を覆すことも出来るかも知れぬ。それに、儂が言いたいのは宇宙全体のことではない。繰り返しているのは、儂らがこの世界に来てからあとの話じゃ」

「……どういうことだ?」

「以前、お主がこの世界に放浪者が現れるのは……例えば精霊やP99のような機械が、その記憶を儂らに流し込んだからじゃないかと言っておったじゃろう。しかし、それは同じ体を持つ人間が生まれない限り、ありえない話だろうと」

「ああ、そうだな」

「思うに、誰かがこの世界に生み出しているのは、実は儂らの記憶ではなくて肉体の方なのではないか。何者かが、儂らのDNAを持つ赤ん坊が生まれるように仕組んでいるんじゃ。それなら、何かの拍子に儂らのような放浪者が誕生してもおかしくないじゃろう」

「……つまり、托卵するように、母親の胎内からこれから生まれてくる子供と、放浪者の遺伝子を持つ胚細胞を入れ替えてるということだろうか?」

「そうじゃ。と言うのも、放浪者というのが、どのような者たちがなるか考えてみよ。儂や、ニュートン、モーツァルト、ビリー・ザ・キッド、フランシスコ・ピサロやカリギュラ帝……いかにも人為的ではないか」

 

 その通り、殆どの放浪者は歴史上の偉人ばかりだ。ニューアムステルダムで遊んだ時に知ったことだが、過去にはシェイクスピアや、量子力学の権威などもいたようだ。

 

 現実に、偉人の墓やゆかりの品は意外と残されているし、そこに付着したDNAの断片から、元のDNAを生成するという研究は21世紀にはかなり進んでいた。だからやろうと思えばレオナルドのような過去の偉人さえも復活させることは出来るだろうが……

 

 鳳は首を振って、

 

「しかし、それなら俺やジャンヌみたいな一般人が混ざってるのはおかしくないか? 精霊や神様なんかが、積極的に俺たちを復活させるような理由はないだろう」

 

 しかも、この世界を救う救世主かなにかとしてである。そんなこと絶対にあり得ないだろう。にもかかわらず老人は、

 

「いや、それは間違いじゃ。お主らは儂らのように、母親の胎内から生まれてきたのではなく、勇者召喚によって呼び出されたのじゃろう。それに……お主は自分のことを一般人だと言っておるが、案外そうではないかも知れぬではないか」

「そんなことない。俺は間違いなくただの一般人なんだって。この世界に来る前の俺はただのニートで、爺さんみたいに何かを成し遂げたような、そんな記憶は全くないんだ。確かに、親父は金持ちだったけど……」

「そうではない。そうではなくて、その後は分からぬではないか。お主は儂やギヨームのように、人生の最後を迎えてからではなく、人生の途中でこちらの世界に来たんじゃろう?」

「そうだけど……?」

「ならば、その後の人生はわからぬではないか。お主は何故か人生の途中で、こちらへ飛ばされて来たようじゃが、その時、お主はあちらの世界で死んでいたわけではない。生きた肉体が、変わらずあちらに残っていたのじゃろう。なら、その肉体はその後どうなったのじゃ。お主という主観が失われたことで、植物人間にでもなってしまったのじゃろうか……それとも、お主がこちらの世界へ来たことなど全く関知せず、その後の人生を普通に過ごしているのではないか」

 

 そう言われてみて、鳳は初めて気がついた。確かに、鳳の主観は今ここにあって、あのゲームの最終日から連続しているから、あたかも自分が瞬間移動してきたかのように思っていたが……その瞬間、あちらの世界の肉体が滅びたわけではないのだ。

 

 恐らく、あの後、サーバーから強制ログアウトされて、あちらの鳳はあちらの鳳として、また普段どおりの生活に戻ったはずだ。つまり、鳳の人生は、あの瞬間に2つに分岐したのではないか……

 

「そう考えれば、お主がこの世界へ呼ばれた理由も推察できるのではないか。例えば、ヘルメスの迷宮でお主が見た未来では、お主の父親が作った企業が四柱の神の一柱デイビドを生み出し、あのP99を作り上げたわけじゃが……もしかすると、それを成し遂げたのはお主の父親ではなくて、お主だったのではないか? リュカオンが地球を席捲したのがいつ頃かは分からぬが、時期的に考えても、お主の父親が存命であるうちと言うよりは、その後継者が成し遂げたと考えたほうが妥当なのではないか。そして、そのような人類の危機を脱した存在のことを、我々は偉人と呼ぶのではないか」

「いや、しかし、俺は中学の時に事件を起こして、後継者としての資格を失ったんだぞ。だからその後、オヤジの会社を継ぐはずがない」

「そんなこと分からぬではないか。資格を失ったとは言っても、能力を失ったわけではない。お主は事件を起こす以前は、後継者として選ばれておったのじゃ……お主は父親嫌いのようじゃから、その父親がどのような人物であったかは、この際問わぬ。じゃが、能力がある者を一度失敗したからといって、そう簡単に手放してしまうほど、人間は愚かでも薄情でもないのではないか」

「それは……」

 

 鳳は否定の言葉を探したが、それはついに見つからなかった。言われてみれば、確かにその可能性は有りえるのだ。鳳があの後、どういう人生を送ったかは想像するしか無いが、普通に考えて、日課にしていたゲームがサービス終了してしまったのだから、それ以外のやり甲斐を見つけるために、何か行動を起こしていただろう。

 

 それは父親からの独立かも知れないが……あの時点では中卒でしかない彼が社会に出るにはハードルが高く、河川敷でホームレスでもしない限りは、せめて高校くらいは出ておこうという気になったのではないか。

 

 そうして普通の生活に戻ればまた考えも変わる。高校を卒業すれば、そのまま大学に行きたくなるだろうし、就職を考えれば、父親の伝を頼らない手はない。どうせ、あの日本で父親の息のかかってない企業に就職するのは不可能なのだ。それを嫌って海外に出るのは、合理的でない。なんというか、鳳らしくない。

 

 というか、父親はそれが分かっていたのではないか。だから彼はあの後も後継者を決めずに、鳳を飼い殺していたのではないか……

 

「P99という機械は人間を量子化する。つまりDNAもそのままコピーされるのじゃろう。儂らのような放浪者はそうして生まれたと考えれば辻褄は合う」

「しかし、なんのために?」

「分からぬ。儂がこの世界に来たのは、精霊に呼び出されたからじゃった。ミトラは神々と戦うためと言うておった。恐らく、お主やギヨームも同じじゃろう。儂らは、そうしてこの世に繰り返し生まれ、そして忘れている。本当に、なんのためなんじゃろうな」

 

 レオナルドの、もしかすると自分は勇者の事を忘れているかも知れないという疑問から始まった考察は、思わぬところへ着地した。それによると、鳳は勇者かも知れず、彼ら放浪者はこの世界に繰り返し生まれては、同じような人生を送っているかも知れないという。

 

 考えても見れば、もともと鳳はこの世界に勇者として召喚されたのだ。その時、自分には力がなかったから、そんなこと全く考えもしなかったが。

 

 永劫回帰……もし、それが本当だとすれば、これから先、彼の行く手に待つものはなんなのか。魔族が跋扈する大森林へと向かう前に、鳳は少し不安になっていた。

 



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これだからハッタリは利かせておくに限るのだ

 レオナルドとの対話から新たな懸案事項は出てきたが、今は勇者だなんだと考えていても始まらない。老人から新たな武器も手に入れてパワーアップした鳳たちは、ギルドから派遣された助っ人冒険者たちを仲間に加えて、いよいよ魔族が席巻する大森林へと向かった。

 

 いつもなら少数精鋭で動くことを好む鳳たちが人手を頼んだのは、これから向かう大森林で数多くの戦闘が予想されるからだった。つい数ヶ月前までガルガンチュアの村に滞在していた彼らは、その近辺に現れるオアンネス族たちを退治して回っていたわけだが、その時に潰したコロニーには、かなりのオアンネス族たちが暮らしており、その一人ひとりがオークを出産するのだとしたら、それは今頃とんでもない数に膨れ上がっていることが予想されたからだ。

 

 尤も、この事態を引き起こしてしまったレイヴンたちによれば、オークは仲間同士でも争うことがあったらしいから、想像よりもその数は少なくなっているかも知れない。だが、逆に言えば競争を勝ち残った凶悪な個体ばかりが残っているわけだから、こちらの数も多いにこしたことはないだろう。

 

 助っ人に呼んだ冒険者たちはみんな腕利きだった。オークとタイマンで勝てるとは言わないまでも、簡単に殺されるようなことはないだろう。ミーティアには馬鹿にされていたが、アントンもそれほど筋は悪くなく、剣ならそこそこ使えるようだ。実は、ヴィンチ村でジャンヌが通っていた流派と同じらしく、純粋に剣技だけならジャンヌよりも上手らしい。尤も、ステータスが段違いだから、実際に戦えばアントンが千人束になってかかってもジャンヌには敵わないだろう。

 

 そのジャンヌにあっさり破れてしまったサムソンも、本来なら言うまでもなくかなり強い冒険者だった。彼自慢のSTR20は、実際にジャンヌさえいなければ人類最強であったろうし、そのジャンヌの戦闘スタイルが変わった今、彼以上のSTRを誇る者はもういないかも知れない。

 

 神技は使えないが、両手に鋼鉄のナックルをはめた格闘術は、実際に岩をも砕いた。よく熊殺しなどという触れ込みの怪しげな格闘家がいるが、彼の場合は本当に熊を殺したと言われても信じてよさそうである。

 

 鳳たちはそんな腕利きの冒険者達を引き連れて、迷宮のある峡谷でキャンプしていた獣人たちと合流してから、大森林へと入っていった。

 

 この獣人たちは、鳳のタウンポータルに入ることが出来なくて、迷宮の近くに残っていた者たちだった。彼らはピサロに敗北して仕方なくレイヴンに加わっていたが、それから解放された今は、ガルガンチュアとなったマニに従うことにしたようだ。別に彼がそうしろと言ったわけではないのだが、獣人の本能がそうさせるのか、行き場のない彼らはマニを新たな族長として仰いでいるようだった。

 

 マニはそんな彼らに勇者領で手に入れた鋼鉄の武器を与え戦わせることにした。彼に言わせれば、獣人は道具をすぐ壊してしまうが、それはメンテナンスが出来ないからで、それさえクリアできれば、元々ステータスに恵まれている獣人がかなり戦力アップするのは間違いないそうである。恐らく、牧場にいた猫人たちを見てそう考えるようになったのだろう。

 

 その効果は間もなく証明された。大森林に入ってすぐ、川沿いのコロニー跡で発見したオークとの戦闘で、獣人たちは驚異的な活躍を見せた。ギヨームたち前衛斥候が発見したオークは別の集団から逸れたのか、少数で孤立するように河原の近くの魔物を狩ったりして暮らしているようだった。

 

 元々弱い個体だらけなのか、体長は鳳たちが戦った時よりも一回りは小さく、初戦としてはやりやすい相手と言えた。獣人たちはそれを知るや、初めての経験で緊張している冒険者達を置き去りに、先陣を切って突っ込んでいってしまった。

 

 彼らからしてみれば、自分たちの森を我が物顔でうろつきまわる魔族に我慢出来なかったのだろう。周辺の獣人を襲ったのであろう人骨が転がっているのを見つけると、よほど腹に据えかねたのか、正に虐殺と言っていいくらいの勢いで片付けてしまった。

 

 特にマニの活躍は凄まじく、最初は鳳たち冒険者の言うことを聞くようにと、獣人達を嗜めるつもりで追いかけていったのだが、乱戦になるや味方をちょくちょくフォローしながら、二体三体と続けざまに襲ってくるオークを返り討ちにしてしまった。

 

 強くなったのは知っていたが、こうして実際に戦っている姿を見るのは初めての鳳は、その変貌ぶりに舌を巻いた。何というか、マニは強いと言うか、とにかく速くて卒がないのだ。

 

 例の得意武器にしているスリングがくるりと一回転するや、次の瞬間、襲いかかるオークの額から血しぶきが上がって仰け反ったかと思えば、更に次の瞬間には、その首や関節がおかしな方向に捻じ曲がっている。今のはどうやったんだろう? と思ってマニの姿を探せば、元の場所にはもうおらず、既に全然違う場所にいる。

 

 もしかすると動きが速いのではなく、トリッキー過ぎて目で追えないのかも知れない。繰り出す技はとにかく省エネで、無駄な動きを殆どしない。正直、あれと戦っても勝てる気が全然しなかった。

 

 戦闘が終わるとマニは獣人達を並べて、人間たちの言うことを聞かないと駄目だと説教をしていた。プライドの高い獣人たちが若者に公開説教なんかされたら怒り出しそうなものだが、彼らの顔は寧ろ、どうだ俺たちの族長は強いだろうと誇らしげに見えるのだった。

 

 この一件があってから、冒険者たちの獣人を見る目が変わったようで、冒険心に火がついた彼らはそれから先は競い合うようにしてオークの群れを倒していった。競い合うとは言っても、冒険者と獣人たちは仲が悪いわけではなく、戦闘を繰り返していくうちに連携も取れるようになり、やがてお互いに認め合う存在になっていた。

 

 もちろん、古参の仲間たちも活躍しており、ギヨームは言わずもがな、斥候をしながら戦闘になれば正確無比な射撃で敵を釘付けにし、ルーシーは新しく覚えたバトルソングでパーティー全体の底上げをしてくれた。そしてメアリーのクラウド魔法は、集団戦闘の要である。

 

 新しい体を手に入れたジャンヌの強さも相変わらずで、以前のようにパワーで圧倒する場面は無くなったが、その代わりに一体の処理スピードは格段に上がっていた。例のDEX補正のかかる魔剣フィエルボワで正確に急所を貫くのが功を奏しているらしい。以前はパワーはあっても大雑把だったのだろう。

 

 因みに、武器は変わっても、長剣も小剣も同じ剣であるから神技も同じものが使えていた。

 

「紫電一閃……虎口裂波乱撃斬っ!!」

 

 豪快なフルスイングから繰り出される剣戟が、目に見えるかまいたちとなって敵を襲う。それがオークの肌に触れると血しぶきが上がり、グチャグチャに引き裂かれた肌の下から骨が覗いた。

 

 堪らずオークが怯んだところへ肉薄すると、彼女は目にも留まらぬ早業で、今度は魔族の急所を正確に貫いた。この間、わずか数秒であるから、彼女の通り過ぎた後には死体の山が築かれた。

 

 とは言え、彼女も背中に目がついているわけではない。突出すれば敵に囲まれ背後を狙われることもある。

 

「うおおおおおおーーっっ!! 爆・裂・拳!!!」

 

 だが、そんな時は、戦闘中も彼女の尻ばかりを追いかけているサムソンが、敵を始末してくれるから安心である。彼がその膂力で敵を吹っ飛ばすと、それに気づいたジャンヌが追撃して、オークはあっという間に倒されてしまった。

 

「はあはあ……怪我はないか!? ジャンヌよ」

「ええ、大丈夫よ、サムソン。ちょっと油断したわ……チラッ。そっちこそ怪我はない? チラッチラッ」

「俺は大丈夫だ! 俺はお前さえ無事であれば、それでいい!」

「まあ、そんなこと言って! あら……本当に怪我しているじゃない。いらっしゃい、お薬を塗ってあげるわ……チラッ」

 

 いちいちチラチラ見るんじゃない……嫉妬するとでも思っているのだろうか……

 

 ジャンヌは救急キットから傷薬を取り出すと、ほんのちょっと赤くなっているサムソンの膝小僧を丁寧に包帯で巻いている。そんなサムソンは得も言われぬ恍惚の表情を浮かべて、今にも飛び上がりそうであった。

 

 正直なところその行動は、鳳の感心を惹くよりも、他の冒険者達の嫉妬を買っていた。困ったことに、元の姿を知っている鳳は何とも思わなかったが、それを知らない周りの冒険者からすれば、ジャンヌは絶世の美女なのだ。

 

「おい、リーダー! 水もってこい!」「はいはい」「リーダー! 魔族の血でべっとりだ! 石鹸ください」「はい、よろこんで」「リーダー!」「少々お待ちを」

 

 鳳はそんな冒険者たちのイライラを鎮めるべく、後方で雑用係をやっていた。そのせいか、リーダーのくせに戦闘が出来ないというイメージがついてしまったのか、気がつけば冒険者たちになめられて、今となっては怒りのはけ口である。

 

 レベルが上って近接戦闘も出来るようになったというのに、なんでこんなことばかりしているのかと言えば……鳳が前線に出ると頼んでもないのに、敵と当たる前にギヨームの援護射撃が飛んできて、ルーシーのバフがかかり、影のようにマニが付き従ってくるのだ。おまけにジャンヌは戦闘中もチラチラこちらの様子ばかり窺っているので、はっきり言って前に出ないほうが作戦的に都合が良かったのである。

 

 彼らからすれば、これまでの低レベルな印象が拭えないのだろう……ならば後方で古代呪文を使えば良さそうなものだが、それはメアリーで間に合っていた。彼女の仕事を取るわけにもいかず、とは言え鳳にしか使えない魔法は全然戦闘には向いておらず、こうなるとやれることは雑用くらいのものだった。

 

 一体、何のためのレベルアップだったのだろうか……鳳がそんな不条理を噛み締めていると、同じく率先して雑用を買ってくれていたアントンが話しかけてきた。

 

「いや~! それにしても、おまえのパーティーって本当に強いな。低レベルでAランクに上り詰めた理由が分かったよ」

「そうだろう?」

「特にジャンヌさんは凄いな。神人とは言え、あの早業はとても同じ人間がやってる物とは思えない……なんやかんやパワーもあるし、まるで隙がないな。ガルガンチュアとどっちが強いんだろうか」

「さあ……流石にジャンヌの方が強いんじゃないか?」

 

 彼女とマニではスキルも素ステも違いすぎる。でも、ご先祖様の記憶を継承した分マニのほうが経験が豊富なので、もしかすると彼が勝つかも知れない。やはり、戦闘スタイルを変えたせいか、まだまだ鳳の目に彼女の動きはぎこちなかった。

 

「二人とも神技の使い手だけど、やっぱり本家本元の神人であるジャンヌさんの方が多彩だよな。あの紫電一閃だっけ? あれってどんだけバリエーションがあるんだ?」

「……? バリエーションって?」

「ほら、さっきは虎口裂波乱撃斬だっけ? この間は桜華なんちゃら陣だったし、その前も少し違ったじゃん。よくあれだけ多くの技を使い分けられるよなって感心していたんだよ」

 

 鳳はポンと手を打って、

 

「ああ、あれか。一つだよ」

「……は?」

「いや、だから、ジャンヌが使ってるのは紫電一閃、一種類だけだよ。その後についてるなんちゃらかんちゃら斬りってのは、その場で思いついた言葉を適当に叫んでるだけなんだ」

「……はあ!? なんでそんなことすんのっ!?」

「まあ、色々あってだなあ……」

 

 アントンは目を丸くしている。まあ、気持ちはわからなくもないが、これには深い事情があるのだ。

 

 元々、この世界の人々が神技(アーツ)と呼んでいるのは、鳳たちの世界ではゲーム中のスキルだった。そのゲームでも同じように技名を叫んでスキルを使っていたのだが……しかしこのユーザーインターフェースは、まだVRMMO黎明期ではわりとハードルの高い仕組みだった。何が悲しくていい年した大人が技名なんて叫ばねばならないのだという抵抗感があったのだ。

 

 そのため、最初期にはこれがネックでやめてしまう者が続出したわけだが、それでも残った者たちがこの気恥ずかしさをどのようにして乗り切ったのかと言えば、それはなりきりプレイだったのである。

 

 どうせみんな、エルフやドワーフなんかのアバターに姿を変えているのだから身バレはしない。それでも恥ずかしいのであれば、いっそそのキャラになりきってしまえばいい。なりきって、もっと恥ずかしい技名を叫んでいれば、そんなの気にならなくなるだろうと、一部のユーザーが『黄昏よりも昏きもの……』みたいな詠唱を始めると、それが爆発的に広まっていったのだ。

 

 何というか、木を隠すには森、恥ずかしい技名を隠すにはもっと恥ずかしいセリフを叫んでしまえというわけである。

 

 こうして、より恥ずかしい技名を叫ぶのが通例になってくると、そのうち有志が恥ずかしい技名ジェネレーターなるものを公開し、ユーザーはこぞって自分オリジナルの技名を使うようになっていった。すると、よく使う自分の必殺技にはバリエーションを持たせたくなるのが人情というものであり、ジャンヌはそれを今も続けているというわけである。

 

 鳳も、ただのファイヤーボールを打つ時でさえ、オリジナルの長ったらしい詠唱を唱えていたものであるが……しかし、そんな前世のことを何も知らないアントンに、こんな話をするわけにもいかず、どうしたものかと腕組みしていると、そんな二人の元に、周辺の斥候に行っていたギヨームが近づいてきた。

 

「鳳! ここから先の崖付近で、周辺の村から逃げてきたらしき獣人たちの集落を発見した。好意的な連中のようだ。どうする?」

「え? マジ? もちろん会いに行こう。今は仲間がいればいるだけ助かる」

 

 鳳は好都合だとばかりに会話を打ち切ると、ギヨームにくっついて問題の集落へと向かった。

 

*******************************

 

 その集落は非常に狭い崖の上にあった。恐らく、周辺の村が襲われた後、逃げてきた人々が不安にかられて見晴らしがいいという理由だけで作ったのだろう。それははっきり言って人が住んでいる集落と呼べるようなものではなく、塹壕とか防空壕とか、何かそういった感じの避難所みたいな場所だった。

 

 そこに居た人々は一つの部族ではなく、周辺のあちこちから逃れてきた人々が寄り集まっているらしい。聞けば、みんな突然現れたオークの群れに抗しきれず、逃げるのが精一杯で、自分たちが住んでいた村がどうなったかはわからないそうである。

 

 幸いと言っていいか分からないが、そんな避難民のお陰で、この周辺の集落がどこにあるのかが分かったから、鳳たちはその情報を元に被害にあった村々を効率よく回ることが出来た。

 

 戦闘を覚悟していたが、訪れた村にはもうどこにもオークはおらず、避難所を見つける前に鳳たちが倒した群れが最後だったらしい。メアリーに上空から確認してもらったところ、周囲におかしな動きもなく、この辺りはもう安全のようだった。

 

 その旨を伝えると、集落の人々はほっと胸をなでおろしてから、逆にこれからどうしたらいいかと相談してきた。一部の男たちは、村のかたきを討つためにガルガンチュアについていくと言っていたが、それ以外の女子供はいつまでもここに隠れているわけにもいかない。

 

 どこかの壊滅した村を再建するか、それとも、勇者領まで彼らを連れて行くべきかと判断に迷っていると、そんな鳳にマニが近づいてきて言った。

 

「お兄さん。村を作るなら、いい方法があるんですが……」

「どゆこと?」

 

 聞けば、マニはご先祖様の記憶の中で、彼が住んでいたガルガンチュアの村を作った時のことを知ったらしい。鳳は彼からその方法を聞いて驚いた。何故ならそれは、今の鳳にしか出来ないことだったからだ。

 

 果たして、それがどんな方法かと言えば……

 

「星々の欠片を集めし小惑星(アステロイド)、天空の高みより高き宇宙(そら)より来たれ、そは天駆ける炎の不死鳥、生命の方舟、轟音とともに現れ唸れ、流星降臨! メテオストライクッ!!」

 

 崖の先端に立った鳳は、避難民たちの注目を集めながら、その杖を空に向けて翳した。その瞬間、二匹の蛇が絡みつく杖の先から光の翼が現れ、続いてはるか上空から一筋の光が落ちてきた。

 

 それは、まだ昼間だというのに、燦然と輝く星だった。驚いた人々が硬直して見上げていると、それは徐々にこちらへと近づいてきて、間もなく上空から空気を切り裂くゴオゴオという轟音が耳に届いてきた。

 

 それは一直線にこちらへ向かって来る隕石だった。あんなものが直撃したら即死である。人々が慌てて逃げ出そうと背中を向けるも、その時にはもう隕石はすぐ崖下に広がる樹海の中に落ちてしまっていた。

 

 ドォォーンッ! っと鼓膜が破れそうな音が鳴り響き、その衝撃でその場に居た者たちが吹き飛んでいった。森の木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、隠れていた野生動物たちが群れをなして逃げ出していく。

 

 地震のように地面が揺れて、隕石の落下でえぐれた地面から岩石が飛びだしてきた。そのまま行けば鳳に直撃しそうな軌道を描いていたが、彼は慌てること無く真正面に捕らえると、手にした杖をその岩石に向けて振り下ろした。

 

 するとその瞬間、岩石は跡形もなく消え去ってしまい、驚いたことに空に飛び散っていた岩や土埃が次々とその杖の中に吸い込まれていったのである。そして人々が唖然と見守る中で、鳳は杖の中に岩や土を全て吸い込むと、

 

(なら)せ」

 

 今度はその杖の先端から吸い込んだ岩石や土が飛び出していって、さっき隕石が落ちたことでむき出しになっていた地面を、あっという間に埋めてしまった。

 

 こうして全てが終わった時、そこには綺麗な円を描くクレーターが残されていた。爆発の衝撃でなぎ倒された木々が燃え広がり、良い焼き畑になるだろう。後はこの中心に雨よけとなる大木をどこかから運んでくれば、ガルガンチュアの集落の一丁上がりだ。その大木を運ぶのもケーリュケイオンを使えば楽勝である。

 

 なるほど、あの村はこうして出来たのか……マニもレオナルドも、もしかすると鳳は勇者なのかも知れないと言っていたわけだが、その傍証が早くも見つかってしまった。自分は本当に勇者なのか? と、もう少し悩んでいたいところだったが、これは覚悟を決めねばならないのかも知れない。

 

 そんなことを考えつつ背後を振り返れば、まるで神様でも見るような目つきで獣人たちが地面にひれ伏し、彼のことを見上げていた。一緒に来た冒険者たちは、何を見たのか未だ処理が追いつかず真顔のまま突っ立っている。

 

「これはあの高名なレオナルド・ダ・ヴィンチから授かった奇跡の杖です。どうです? 凄いでしょう!」

 

 鳳がテレビショッピングみたいなわざとらしさで大げさに言うと、ようやく時が動き出したように人々の顔に笑顔が戻った。

 

 これだからハッタリは利かせておくに限るのだ。こんなのは本当なら、メテオストライクの一言で済んでしまうことだった。だがそうしていたら、今ごろみんなの鳳を見る目つきは変わってしまっていただろう。

 

 人間が恥を知る生き物で良かった。そして暫く使っていなかったのに、しっかりと詠唱を覚えていた自分の中二的な資質に、彼は失望感を覚えるのであった。

 



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大森林を流れる河川について

 獣人たちの避難村を作って以来、鳳というかケーリュケイオンの扱いが良くなった。それまではあまり目立ちたくなくて力をセーブしていたのだが、それからはどんな能力を使っても、全部杖のせいに出来るようになったからだ。何というか、全盛期のミスターマリックが何でもかんでもハンドパワーで通したような感じである。

 

 冒険者たちも馬鹿ではなく、それが手品でないことに薄々勘付いているようだったが、伝説の禁呪など誰も見たことがないのだから、言われたことを真に受けるしかない。そんなわけで、あいつはリーダーとしてはどうかまだわからないが、少なくとも冒険者としては信用しても良さそうだ……くらいの扱いにはなったので、あとは実績を積み上げればいいだけだった。

 

 こうして鳳は河川を遡ってオークを片付けていくうちに、徐々にリーダーとしての地位を確立していった。今ではレオナルドやギルドの名前を出さなくても、みんな話くらいは聞いてくれる。

 

 さて、それは一先ず置いておいて、オークを退治すると言っても、何しろ大森林はこの大陸の半分以上を占めるほど広大なのだから、全部を調べ尽くすことなど不可能である。だからある程度当たりを付ける必要があるのだが、どの辺を重点的に調べるかと言えば、鳳たちは河川流域に絞って構わないだろうという結論を得ていた。

 

 オークはオアンネスを母体にして生まれたわけだから、その生息域も河川に集中していたのだ。当たり前だが、生き物は水が無ければ生きていけないから、森の動物達も水場に集まってくる。それを捕食するオークもこの近辺にいたほうが都合が良いから、結局、生まれてからずっとその近辺に留まっているようだった。

 

 食欲が旺盛なオークのコロニーには、大量の動物の死骸や骨が転がっているから、見れば誰でもすぐわかった。川から少し離れればその痕跡が消えてしまうから、どうやらオークのコロニーは、流域からせいぜい1キロも離れていない範囲に分布していることが分かってきた。

 

 そんなわけで討伐隊は森に入ってからずっと、河川を上流に向かって進みつつ、その途中でオークの痕跡を発見したら近辺を重点的に探索し、発見したら殲滅する。それを繰り返してきた。

 

 たまに、小さな支流が流れていたらその先も調べなければならなかったが、暫くすると、その支流にオークが入ったかどうかは分かるようになってきた。

 

 オークはその体力を誇示するためか、それとも生まれつきの習性か、木々をなぎ倒しながら進む癖があるようなのだ。だから支流に入って暫く歩けば、オークがいるなら不自然に倒された木々が見つかるという寸法である。

 

 とは言え、なぎ倒された木々がなければ、その支流を調べる必要はないかと言えば、その場合は生存者がいる可能性が高いから、結局は全部調べるしかないのだが、その先に何が待ってるかある程度わかるので、精神的にはだいぶ楽になった。

 

 そんな感じで、川を遡ることおよそ二十日間、それまで順調に進んでいた探索は分岐点に差し掛かった。それは文字通りの分岐点で、大河がそこで二股に別れていたのだ。

 

 討伐隊はこのまま東に進むか、それとも方向転換して北へ向かうか、判断が求められた。たまたま、この分岐点のすぐ近くにはガルガンチュアの村があったので、丁度いいのでまずはそちらへ向かい、そこを活動拠点にしようという話になった。

 

 こうして鳳たちは、またあの懐かしい村へと帰ってきたのである。

 

 ガルガンチュアの村は、他の破壊された村とは違って、比較的綺麗な状態のまま残されていた。この村もレイヴンに襲われたのだが、結局すぐにマニによって撃退されてしまったから、あまり荒らされずに済んだようである。

 

 この近辺にもオークは現れたようだが、幸いといって良いのか、その時にはもう村人たちが連れ去られた後だったから、オークは誰もいない村に興味を示さなかったようである。長老が飼っていた豚も、残念ながらもういなかった。

 

 マニはピサロの襲撃後に、父ガルガンチュアを弔うために戻ってきたらしく、その時にトカゲ商人のゲッコーと一緒にギルドの駐在所を使っていたようで、駐在所はすぐにでも使える状態で残されていた。

 

 とは言え、無人の時期が長かったせいか内部は埃だらけで、庭も雑草に覆われて見る影もなく、ずっとそこで暮らしていたルーシーが見かねて片付けはじめてしまったので、鳳たち他の冒険者もなし崩し的に村の大掃除をする流れになった。

 

 どうせ拠点にするなら暫くここに滞在しなければならないのだ。だったら残っている家をせいぜい利用させてもらおうと、冒険者と獣人たちが村へ散らばっていく。中にはこの村出身の者もいるようで、そういう者は黙って自分の家を片付けていた。

 

 鳳はマニと一緒に、父ガルガンチュアの墓に手を合わせてから、族長の家の片付けを始めた。

 

 族長の家は他の家とは違って非常に広く、掃除には手間がかかったが、代わりに他の家とは違って頑丈な作りであるから、物資を運び込んで倉庫にしたり、会議を行うには丁度良さそうだった。ただ、これだけの人数の補給基地にするには流石に狭いから、近くに新しい小屋を建てるか、それともギルドを使うか……

 

 そんなことを考えながら板張りの床を雑巾がけしていると、玄関の方から聞き慣れたギヨームの声が聞こえてきた。

 

「鳳、ここにいたか。実はギルドでこんなもんを見つけてよ」

 

 そう言いながらギヨームが出してきたのは、大森林の地図だった。今回の事件が、まだオーク騒動になる前、オアンネスの出没地点を記録しておくために、レオナルドとギルド長が使っていたものである。

 

 一枚はこの近辺の河川と、そこにある獣人の集落が書き込まれたものだった。普段から大森林を行き来しているトカゲ商人からリサーチしたからか、その内容はかなり詳細である。

 

 他にも、まるで空撮したかのように正確な俯瞰地図があり、こっちは大森林どころか、大陸全体の形がはっきりとわかる世界地図だった。そのため、縮尺が大きすぎて普段遣いには向かないが、今回調べている大河の形が分かるため、非常にありがたかった。

 

 実はこの世界に来てすぐ、まだヘルメスの宮殿に居た頃にも見たことがあったのだが……しかし、大森林はおろか、ネウロイは前人未到の地とされているはずなのに、どうしてこんなものが存在するのだろうか。

 

 恐らくは大昔にいた放浪者(バガボンド)が残した物なのだろうが、こういうイレギュラーがいつの時代にもあるから、本当にこの世界のテクノロジーは謎である。そんな愚痴はともかく、今は大助かりであるからありがたく使わせていただこう。

 

 鳳たちは村の片付けをそこそこで終え、族長の家に集まって、今後の方針を話し合うことにした。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 因みに、これがこの世界の地図である。鳳たちが暮らしているのは西のバルティカ大陸、東のローレンシアがいわゆる新大陸である。とは言え、その存在はすでに昔から地図によって知られており、正確には新大陸とは呼べなかった。

 

 それじゃ何が新しいのかと言えば、300年前勇者が西側航路を見つけたことであり、その時はじめて人類は世界が丸いことを証明し、東の大陸へと進出する足がかりを得たらしく、それ以来、新大陸と呼ばれるようになったようである。

 

 世界一周の長さはおよそ2万キロと、地球よりだいぶ小さい惑星のようであるが、重力の影響を感じないから、コアが重いか、鳳たちの体が適応してしまっているか、どちらかだろう。

 

 見ての通り、新大陸の勇者領は大陸東部の河川流域に広がっており、この広大な植民地から本国へ莫大な富がもたらされているわけである。そのおかげで戦争がいつまで経っても終わらないとも言えるのだが……まあ、今は関係ないので世界地図はこのへんで引っ込めておこう。

 

 今考えなければならないのは、バルティカ大陸中央の大森林のことである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 以前にも言及したが、大森林は中央に大きな山地が広がっており、それが人間と魔族の世界を隔ててきたという経緯がある。ところが、オアンネスはこの山地を越えてやってきたらしく、突然のことに獣人の部族社会は大混乱に陥ったわけであるが、逆に考えれば、オアンネスの侵入経路は既に絞れていると言えよう。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 この山地から流れ出す河川の内、人間の生息域に直接流れこんでくるのは4本あるが、これらを抑えてしまえば、恐らくもう、オークは人間の生存域までたどり着けないだろうと推察される。出来ればもう一河川、兎人たちが住んでいた南の流域も片付けておきたいところだが、今はそれより北の4河川に絞っておいたほうが良いだろう。

 

 そのうち、右の2本については、行き先がオルフェウス領であり、戦争のせいで殆ど情報がなかった。恐らく、オアンネスの侵入はもう間違いないが、そこで何が起きているかはわからない。今は無事を祈るしかない。

 

 残る大森林北西に延びる2本の河川については、途中で合流しており、それが鳳たちが現在立ち往生を余儀なくされていた分岐点であった。

 

 さて、こうしてこれらの河川がどのように繋がっているかが判明したことで、今後の方針も立てられよう。

 

 具体的に、討伐隊は今回の遠征で、北西2河川からのオークの駆逐を目標とし、そのために、まずはガルガンチュアの村の近くにある最初の分岐点から、東の源流まで遡ってこの間のオークを一掃。続いて、また分岐点に戻ってから北へと進み、三叉に別れる二番目の分岐点でそれぞれの河川の終着点まで調べてから、ヘルメス領へ抜けるという考えである。

 

 この間、オークを退治しながら、各地に散らばってしまった獣人達を集め、再侵入の備えにすれば、少なくとも北西の河川流域から脅威を排除することは出来るだろう。実を言えば、ピサロが荒らしまくっていたのは殆どこの流域だったから、ここさえ片付けてしまえば、もう魔族の侵入に怯えないで済むかも知れない。

 

 まあ、希望的な観測はあてが外れた時に痛い目に遭うから、他の河川もオークの侵入を許していると考えて行動した方が良いだろうが、当面の目標はこの流域の正常化である。その後はまたオルフェウス領の情報を得てから方針を決めたいところだ。

 



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こんなに綺麗になっちゃって……

 今後の方針が決まり、討伐隊はガルガンチュアの村を一時的な拠点として、本格的に整備することにした。雑草だらけの村の草刈りを行い、元々あった高床だけの粗末な家をリフォームし、壁と天井を取り付け、もう少し人間が住みやすくしようというのだ。そのためには何はなくとも、人員と物資が必要である。

 

 普通に考えればそんなものをすぐに都合よく集められるわけがないのであるが、そこはそれ、鳳のポータル魔法があれば問題はないに等しかった。彼はまたケーリュケイオンを意味深に意味もなく振り回すと、討伐隊の面々が見守る中でポータルを作り出してヴィンチ村へと帰還した。同行者はジャンヌ、ルーシー、サムソンの三人である。

 

 そんなに厳選せずポータルに入れる人間なら全員連れてくればいいと思うかも知れないが、それにはちゃんとした理由があった。鳳の作り出すポータルは一方通行で、一度中に入ったら逆戻りできない。物資だけを運ぶことは出来ず、必ず人間ごと運ぶ必要がある。ポータルは時限式でおよそ1分強で消えてしまう。そして他の古代呪文同様に、高INTの鳳ではMP消費が激しすぎて、およそ15回も使えば満タンだったMPが枯渇してしまうという制限があった。

 

 こんなことならINTを上げなければ良かったが、魔法の威力に関わるので痛し痒しである。無論今となってはMP回復手段は色々用意してあったが、神人と違って体が人間である鳳では、どうしても後遺症を完全に防ぐことが出来ないらしく、気にせず使い続ければ、また阿片中毒になりかねないという危険性があった。どうも魔法という能力は、脳のリソースを酷使するようだ。

 

 そのため、少人数の移動であれば気にするまでもないのであるが、大人数の移動には事前にかなりの準備が必要だった。普段の戦闘でも、クラウド魔法はメアリーに任せっきりなのは、そういう理由もあった。やはり餅は餅屋というところだろうか。そんなことをつれづれと考えながらポータルをくぐる。

 

 ポータルを出ると、そこはヴィンチ村の広場だった。この間、ミーティアに怒られたばかりだったが、細かな出口を調整することは出来ないらしく、これを避けようとすると辺鄙な場所に出てしまうため諦めるしか無かった。

 

 幸い、鳳が調子に乗ってあちこち飛んでいたため、村人たちはもう慣れてしまったらしく、なにもないところから突然人が現れても、それが鳳だと気づくと何事もなくどっか行ってしまった。ただ一人、ポータル魔法を初めて使ったサムソンを除いては。

 

「うおおおーっ! なんと、本当にここはヴィンチ村ではないか! うーむ……これがケーリュケイオンの奇跡の力。凄いんだなあ、勇者っていうのは」

「まあな。爺さんのお陰だけどな」

「謙遜するな。結局、その杖を使えるのがお前しかいないのであれば、実質お前の力ではないか」

「いや、俺は全然。運良くこれを手に入れなければ、ただの荷物持ちだから」

「うーむ、欲のない男め。しかし、勇者とはそういうものなのかも知れんな」

 

 鳳が勇者召喚で呼び出されたと知っているからか、サムソンは頻りに鳳を褒めちぎった。多分、ジャンヌと同郷で仲が良いというのもあるだろう。鳳はそんな大男のおべんちゃらを、相変わらず自分の能力は全部杖のせいにしながら適当に受け流していた。別に隠す必要はないのであろうが、なんとなく力をひけらかすような真似をしたくなかったのだ。

 

 そんな内心はさておき、ここへは遊びに来たわけではない。鳳たちには物資の調達以外にも、人里を離れてから20日間の内にあった、新たな情報を仕入れるという目的もあった。丁度目の前にはヴィンチ村の冒険者ギルドが見える。彼らはその看板を目指して歩き始めた。

 

 カランコロンとドアベルが鳴って、外から鳳たちが入ってくると、ミーティアは一瞬どうしてここにいるの? と言わんばかりに目を瞬かせていたが、すぐに状況把握を完了すると、

 

「あら、おかえりなさい。オーク退治の方は順調なのですか?」

「いま、ガルガンチュアの村に辿り着いたところなんだ。暫くここを拠点に動こうと思っててね。物資を運び入れるついでに情報を仕入れにきたんだけど」

「ギルド長! だそうですよ」

 

 奥で書類に向かいながらこっちの方をチラ見していたギルド長が立ち上がり、立ち話もなんだからと応接セットへと導いた。鳳たちが席に座ると、すぐにミーティアが紅茶を持ってやってきて、彼らの前にティーカップを並べてからお盆を持ってすぐ脇に立った。

 

 鳳が今後の方針を話しながら、オルフェウス領へ続く残りの二河川について気になっていることを話すと、ギルド長はズズズッと紅茶を一口啜ってから、

 

「それならちょうど良いタイミングで帰ってきてくれたよ。実はつい先日、オルフェウス領のギルドと連絡が取れてね」

 

 戦争が始まってから、勇者領とヘルメス領をつなぐ唯一の街道が封鎖されてしまった。トカゲ商人が往復していた大森林の道も、オークの出現で通れなくなってしまったため、現在、オルフェウス領と連絡を取るには、外洋で交易のあるボヘミア北部を通るという、大陸をぐるりと大回りするルートしかなかった。

 

 従って、ギルド長の話は約一ヶ月前の話であるそうだが、

 

「ほら、この村の近くにオークが出て、君たちが倒してくれたことがあっただろう? あの時から、大森林の周辺の村々に変わったことがないかと連絡を回していたのだが、ようやっとオルフェウスの様子がここまで届いてきたんだ。それによると、どうやらあっちの森の周辺でもオークの姿が確認されていたらしい。その時は、あっちのギルドに所属する冒険者や、軍が出てきて対処したようだが、被害は甚大だったそうだ」

「それじゃ、あっちもこっちと似たような状況ってことかな……多分、森の中の獣人たちはひどい目に遭ってるはずだから、早く助けてやらないと」

「オルフェウス……というか、神人は獣人に冷たいから、率先して助けようとはしないはずだ。多分、獣人たちの抑えが決壊して、続々と領内に魔族が入ってきてから、ようやく対処するのが関の山だろう」

「それじゃ遅すぎる。そんなんじゃ国土も相当荒らされるはずだぞ? 戦争なんてやってる場合じゃないのに、帝国は何を考えているんだろうか……」

 

 鳳は腕組みをして唸り声を上げた。というか、その帝国軍の総大将が、オルフェウス卿カリギュラなのだ。自分の領地のことなんだから、彼が知らないはずがない。なのに、自分の領地を守ろうとせずに戦争を続けているのは何故なんだろうか。

 

 おまけに彼はピサロに命じて、現在鳳たちがオーク退治をしている北西部の村を荒らしまくっていたようだ。これじゃまるで、わざとオークを帝国に招き入れようとしているとしか思えない。

 

 ヴァルトシュタインが言っていたことを思い出す……カリギュラは、魔王復活の兆候を見つけたと言っていたらしいのだが……本当に、彼は何を考えているんだろうか?

 

 そんな具合に鳳とギルド長が沈黙していると、話が終わったと思ったのか、サムソンが呑気なことを聞いてきた。

 

「情報交換は終わったか? ところで、さっきから気になっていたのだが……そこのギルド職員が、その、勇者の恋人なのか?」

 

 彼は小さいティーカップを2本の指で摘むように持ちながら、鳳の隣で佇んでいるミーティアを指差した。

 

 大事な話の最中に突然何を言い出すんだと思ったが、内容が内容だけにすぐにツッコミが出なかった。鳳が黙っていると、

 

「アントンから聞いたぞ。実は彼女は今回同行している冒険者達に評判だったんだが、彼女には勇者という恋人がいるから手を出すなと。それを聞いてみんながっかりしてたぞ」

「そ、そうなの……? つーかミーティアさん意外と人気あるんだね」

 

 まあ、怒ってさえいなければ美人だし、おっぱいも大きいから分からなくもないが。しかし、アントンの野郎、余計なことを……一度どこかで釘を差しておいた方が良さそうだと鳳は内心舌打ちした。ともあれ、どう返答しようかと悩んでいると、

 

「べべべ、別に二人はお付き合いしてるわけじゃないわよね。何か事情があって、付き合ってる振りしてるみたいだけど。私は、二人が恋人同士だなんて、知らなかったわよ」

 

 鳳の代わりにジャンヌが勝手にネタバラシをし始めた。実際その通りなのだが、何で勝手に言ってしまうのだろうか。鳳が、本当のことを言うべきかどうか悩んでいると、ジャンヌの言葉の真偽がわからないサムソンが首を傾げながら、

 

「そうなのか? ならば、冒険者のみんなには朗報だろう。しかし、それじゃ何故アントンはあんな嘘を吐いたんだろうか」

「それは……」

 

 ミーティアは鳳と顔を見合わせながらバツの悪い表情を作った。それは二人がアントンを騙しているからなのだが、そこには深い事情があるのだ。だから、別に恋人同士じゃないことをバラすのは構わないのであるが、そのせいでアントンに真実がバレてしまうのは困ってしまう。この程度の空気も読めないサムソンに腹芸なんて期待できそうもないし、どうしたものだろうか……二人が返事に困っていると、

 

「私は二人がお付き合いしてることを知ってたよ! もちろん、ジャンヌさんも知ってたでしょう!?」

 

 そんな具合に鳳たちが思案に暮れていると、突然、ルーシーが椅子から立ち上がって大声を上げた。その言葉に、当のジャンヌがオロオロしている。

 

「え? え?」

「そうなのか?」

 

 サムソンが疑問を呈すると、ルーシーは自信満々に、

 

「もちろんだよ! ジャンヌさん、二人がまだお付き合いを始めて日も浅いからって、からかっちゃ可哀想だよ! こんなところで、つまんない話に突き合わされてるからかな。せっかく村に帰ってきたんだし、久しぶりに、気晴らしに散歩でも行こうか!」

 

 ルーシーはそう言うと、呆然としているジャンヌの腕を取って、半ば強引に引っ張っていってしまった。カランコロンとドアが開いて、彼女たちが出ていこうとすると、最近ずっと金魚のフンをしていたサムソンも続いて外に出ていこうとして、

 

「サムソンさんはついてこないでよ。たまには女二人で遊びたいものだわ」

「しかし……」

「しかしもかかしもないでしょう。サムソンさん、今回の旅が始まってから、ずーっとジャンヌさんのお尻ばっかり追いかけ回してるけど、いい加減に気持ち悪いよ! そう言うのなんていうか知ってる? ストーカーっていうんだよ、ストーカー!」

「ストーカー……なかなか格好いい響きではないか。どういう意味なんだ」

「馬鹿の! 変態の! 性欲魔神って意味だよ!」

「へ、へんたい……ガーン!」

 

 サムソンはショックで真っ青になって固まっている。格闘一筋で世界を渡り歩いていた彼は、女性に面と向かってこんなことを言われたのは始めてだったのだろう。ルーシーは固まって動かなくなったサムソンを、どすこいどすこいと押し返すと、ジャンヌを連れてギルドから出ていってしまった。

 

 バタンと閉まったドアを前にして、サムソンがしょんぼりと項垂れている。鳳はなにか声をかけてあげたかったが、どんな言葉も出なかった。なし崩しに、二人の関係を伝えそこねてしまったが、このままで良かったのだろうか?

 

 鳳とミーティアが目配せしあっていると、この騒動の間に自分の席から地図を取って帰ってきたギルド長がぼそっと呟いた。

 

「青春だなあ……」

 

********************************

 

 ヴィンチ村の往来を、ルーシーはジャンヌのことを少々乱暴にグイグイと引っ張りながら歩いた。痛い痛いというジャンヌの声や、通行人のなんだなんだ? といった表情を無視して、彼女は往来から離れた用水路脇の木陰に連れ込むと、そこにあった木にジャンヌの背中をドンと押し付けるようにして、じっと彼女の顔を覗き込んだ。いわゆる壁ドンである。

 

 二人とも女性同士だし身長差もあるから、それは全然様になっていなかったが、ジャンヌは突然のことに戸惑って、まるで少女のようにドキドキしていた。ルーシーはそんな反応を見せる、意外と余裕がありそうなジャンヌをジロリと睨みつけると、

 

「ジャンヌさん……この旅が始まる前から、ちょっと気になってたんだけど……もしかして、鳳くんのことをずっと目で追ってない?」

「え? えーっと……」

「サムソンさんがちやほやする度に、当てつけのように鳳くんを煽ったり、ミーさんと仲良くしてると邪魔したりしてない?」

「それは……」

 

 ジャンヌはなんとか言い逃れをしようとしたが、そんな彼女の心の奥底を見透かすかのように、じっと瞳の奥を見つめてくるルーシーの視線に負けて、彼女は白状するように頷いた。

 

「実は……ちょっとだけ」

「ちょっとじゃないよ。はっきりいって、周りにもバレバレだよ。今日だって、ミーさんと鳳くんが仲良くしてるとムキになっちゃってさ……気づいてないのはジャンヌさんしか眼中にないサムソンさんくらいのものだよ……でも、どうして? 一緒に応援するって言ってたじゃない!」

「それは……」

 

 ジャンヌはまだなんとか言い逃れをしようと考えを巡らせたが、結局うまい言い訳が見つからなくて、吐露するようにぽつりぽつりと自分の気持ちを伝えた。

 

「応援しようって言ったのは嘘じゃないのよ。今でも、白ちゃんと彼女が上手くいくことを願ってる。それは本心なの……でも、そう思いながらも彼のことを目で追ってると……駄目、なのよ……」

「駄目って?」

「前はそんなでもなかったのよ。私は白ちゃんのことが本当に好きだったけど、それは彼に幸せになってほしいと願う、そういう友達としての好きだった。でも、自分が女になってしまったら……封印していた自分の女としての好きって気持ちが暴走して、どうしても我慢できなくなってしまったのよ」

 

 ジャンヌはまるで息をするのも苦しいと言った感じに、過呼吸みたいにハアハア言いながら、顔を真っ赤にし目尻に涙を浮かべ、まくしたてるように言った。

 

「だって、私が女なら、彼に愛してもらえるかも知れないじゃない? 男だった時は、自然と諦めていたその気持ちが、もうどうしようもないほど膨れ上がって、居ても立ってもいられなくなっちゃうのよ。

 

 ミーティアさんには悪いと思ってるのよ。でも……彼と彼女が、いつもみたいに親しげに話してるのを見ると、どうしようもなく胸の中がかき乱されるの。お腹の底のあたりが、ぎゅっと締め付けられるみたいに苦しくなるの。自分はどうなっちゃうのかしらって、不安になるの。

 

 何故って、もし彼らが本当に恋人同士になってしまったら、そこに私の居場所はもう無いじゃない。男だったらそんなことなかったはずなのに……辛いけど、ずっと一緒にいられたはずなのに……女の私にはもうそこに居場所がないんだわ。

 

 だからその場所は明け渡せない、譲れない……彼と一緒にいるために、絶対彼女に負けられない。でも、そう思ってしまうのがまた情けなくて……切なくて……だって私はミーティアさんのことも好きなのよ? みんなことが大好き。だけど自分の感情を抑えなければ、みんなのことを好きでいられないなんて……せっかくこうして念願かなって女になれたっていうのに、私はもうどうしていいのかわからなくなるわ」

 

 ジャンヌはそういってポロポロと涙を流している。ルーシーはそんな彼女の胸に飛び込むようにして、ガバっと彼女の体を抱きしめると、

 

「あーもー! あーもー! いいよもう、分かったから。ううん、そうじゃなくって、本当はわかってたんだよ。ただ確認したかっただけなんだ……なのに辛いこと言わせてごめん」

「……わかってた?」

「うん……以前、ジャンヌさんに聞いたでしょ。本当に鳳くんのこと好きなのかって。あの時はジェンダーだとか、いろんな話を聞かされても、いまいちピンと来なかったんだけど……今は分かるよ。ジャンヌさんが、鳳くんのことをどうしようもなく好きだって気持ちが……」

 

 ルーシーは長い長い溜め息を吐いた。

 

「こんなに綺麗になっちゃって……」

 

 彼女が顔を埋めた胸の辺りが生暖かった。ジャンヌはそんなルーシーをどうしていいか分からず、引き剥がそうと一旦肩に手を置いたが、そのまま額を胸に押し付けている彼女の背中に手を回した。また、彼女の生暖かい溜め息が胸にぶつかる。

 

「でも、どうしよう。今更、ミーさんに手を引けなんて言えないし……誰にもこんなこと相談出来ないよね」

「え? そんなことしちゃ駄目よ。だって、人の好きって気持ちは誰にも止められないでしょう?」

「でも、それで二人が仲違いしたり、どっちかが居なくなったら嫌だよ」

「私は居なくなったりなんかしませんよ」

 

 ルーシーとジャンヌが二人で話をしていると、ふいに背後から声が掛かった。どきりとして振り返ると、そこには今一番居て欲しくないミーティアが立っていた。二人が出ていった後に様子がおかしいと思って追いかけてきたのだろう。ルーシーは会話を聞かれたと焦り、なんとかはぐらかそうとあれこれ言葉を尽くしたが、そんな誤魔化しが通じるはずもなく、結局はミーティアに全部白状することになった。

 

 しかし彼女はどんな話を聞いても驚いたりはせず、

 

「やっぱり、そういうことなんじゃないかと思ってました。ちょっと前から、ジャンヌさんの様子がおかしかったですから」

 

 自分の気持ちを聞かれてしまったジャンヌが申し訳無さそうにしていると、ミーティアはくすりと笑い、

 

「それじゃ、私たちはライバルですね」

「……怒らないの?」

「どうして? ジャンヌさんも言ってた通り、好きになるのなんて人の勝手じゃないですか。どちらかと言えば、私のほうこそお二人の間に割り込んでしまったお邪魔虫のようですし……それに、私たちは付き合ってるわけでもありませんよ。少し事情があって、鳳さんに恋人の振りをしてもらってるだけですから」

「そうなの……? でも、白ちゃんはあなたのことを凄く気に掛けてると思うけど」

 

 するとミーティアはほんの少し寂しそうに苦笑いしながら、

 

「それは多分、鳳さんが私のことを女として見ていないからじゃないですかね」

 

 ルーシーとジャンヌはブンブン頭を振って、

 

「そんなことないでしょう。鳳くん、すっごいおっぱい見てるよね」

「ええ、おっぱい見てるわね」

「そ、そうですね。おっぱい見てますね……くっ。けど、それこそ彼が私に興味がない証拠なんじゃないかと」

 

 それを聞いた二人は戸惑った。とっくに深い仲になってるんだと思っていたのに、どうしてこんな自信なさげなことを言うのだろうか。

 

「実際に恋人のふりをして貰った時に気づいたんです。彼は凄く優しくしてくれるんですが、なんか手慣れているというか、どこか機械的というか、私のためとかじゃなくて、単に与えられた状況をこなすのが、すごく上手な人なんだなってことが、分かってしまったんですよ。

 

 ああ、この人は今、私と話をしているけれど、本当は私に興味がないんだなって……ううん、興味がないと言うか、鳳さんは、私のことをギルド職員以上の目では見ていないんだなって瞬間が度々あって。自分としては結構アプローチしていたつもりなんですが……

 

 その時思ったんです。鳳さんって結局、私も、ジャンヌさんも、ルーシーも、みんな同列に見ているんだと思うんですよ。何といいますか、女性じゃなくて、仲間と言うか。彼としては仲間は恋愛対象にならないんじゃないかと、そう思ったんです。と言うか、恋愛というものがよくわからないのではないかと」

 

 ルーシーは、それにはなんとなく思い当たる節があった。以前、レイヴンの村の近くで、彼の生い立ちや、昔のトラウマについて聞いた覚えがあった。それを思い返せば、ミーティアが言うように、彼には恋愛というものに対して臆病になるというか、必要以上に期待しないところがあるのかも知れない。

 

「だから、彼が私のことを女として見てくれるようになるまでは、焦らず今の関係をこのまま続けてたいかなと……そんな風に思うんですよ」

「そう……そうだったの。なのに、私はあなたの気持ちをよく知りもせず、嫉妬にかられて恥ずかしいわ」

 

 二人は互いにそんなことを言って俯いている。なんだかさっきまで、一人の男を巡ってバチバチしてるというような、勝手にそんなイメージをもっていたのが馬鹿らしいくらい、二人は及び腰になってるようだった。今ではまるで温かい目で押しメンを見守ろうというアイドルの追っかけファンみたいに、告白するのは鳳がその気になるまで、それをお互いに納得がいってからにしようとか言いあっている。

 

 ルーシーはそんな二人の姿を見て、なんだかこのままじゃいけないような気がした。見守っていたら鳳

がその気になるなんて、そんな都合のいいことはないんじゃないか。それよりも二人で鳳を奪い合うどころか、いっそ二人同時に付き合えくらいの勢いで攻めて行ったほうが、ああいう男にはよほど効果的なんじゃないのか。

 

 それに、いくらあの朴念仁でも、これだけの美女たちに本気で迫られれば少しは頬も赤くなるはずだ。彼女はそう考えると居ても立ってもいられず、

 

「もう! 二人ともそんなんじゃ、ぽっと出の誰かに取られちゃっても知らないよ!」

 

 と言うと、ルーシーは二人の手を取って、すぐ目に入った洋服の仕立て屋へと半ば強引に連れ込んだ。鳳に、二人が美しい女性なんだということを、もっと意識させてやるのだ。最近は男臭い集団の中で戦闘ばかりしてたから、二人の綺麗な姿を見れば、きっとイチコロに違いない。ここならレオナルドの名前を出せばツケが効くだろうという、ちゃっかりとした計算も彼女の頭の中には入っていた。

 



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何かが気になる

 冒険者ギルドの中では、ルーシーに酷いことを言われて置いてけぼりを食らったサムソンがしょぼくれていた。彼が扉の前で呆然と立ち尽くしていると、すぐに二人を追い掛けるようにミーティアが横を通り抜けていったが、その後に続こうとしたら彼女は扉を開けるなりくるりと振り返り、

 

「あ、そういうの結構ですから」

 

 片手を胸の前に翳して、まるでキャッチセールスでも断るようなきっぱりとした仕草で、彼女は容赦なくサムソンを押し止めると、バタンと音を立てて出ていった。カランコロンと鳴り響くドアベルの音でさえ、今の彼ならノックアウトしそうだ。

 

 最近は慣れてきたから気にならないが、ここの女性陣はわりとああいうところがあるよなと思いつつ、流石に哀れに思った鳳は、自分の隣の席を指差し、ティーポットに残っていた紅茶をサムソンに勧めた。彼はドサッと体重を預けるようにソファに腰を埋めると、溜め息を吐きながら、スポーツ飲料みたいにそれをごくごく飲み干した。

 

「元気だしなよ、そのうち良いことあるから」

「ありがとう、勇者よ。お前、結構良いやつだな……」

 

 サムソンは空になったティーカップを弄びながら、

 

「俺はてっきり、お前に嫌われているのだと思っていた。あとから来て、ジャンヌに手を出そうとする不届き者だと」

「いや、そんなこと全然思わないよ……っつーか、あんた本当にジャンヌが好きなの? あれ、元おっさんだって知ってるだろ?」

 

 サムソンは、元々STR23時代のガチムチゴリマッチョのジャンヌを追っかけてここに来たのだ。正直、あのインパクトが強すぎて、とても恋愛感情なんて湧きそうもないものだが……

 

「もちろん知っている。だが、今は美女じゃないか」

「いやあ、普通はそこまで割り切れないと思うんだけど」

「そうか? 俺はそんなことはないぞ。それに、もしもジャンヌが男だとしても、やはり俺は惚れていただろう」

 

 鳳は驚いて目を丸くした。割り切る割り切らないレベルの話ではない。もしかして、あれか? バイなのか? 異世界にもバイがいるんだなと思いつつ、隣りに座った鳳が若干距離を取ろうとしていると、サムソンはそんな彼に気づかず続けた。

 

「惚れるとは言っても、その場合は子作りしたいとかいう感情ではなく、背中を預けるパートナーみたいな感じだろうか。こいつがいれば、俺はどこまでも強くなれる、そう思うから、そいつに自分の全てを預けられるのではないか。ジャンヌほど強い者なら、それが男だろうが女だろうが、俺には関係ない」

「背中をねえ」

 

 鳳は、裸のゴリマッチョたちがマウント合戦で背中を奪い合う姿を想像してげんなりした。オッスオッスという掛け声が聞こえてきそうだ。というか、今の美女になったジャンヌよりも、そっちの方が脈があったんじゃなかろうか。

 

「丁度、今までの勇者とジャンヌみたいな関係だろうか。俺にはそういう関係が羨ましいと思うんだ。ずっと一人でやってきたからな」

「おおお、恐ろしいこと言わないでくれる!?」

「……? 何か変なことを言ったか?」

 

 鳳は額に脂汗をかきながらサムソンの言葉を押し止めると、こんな不謹慎な話なんかしてないで、当初の予定通り、物資の運搬についての話をしようと提案した。

 

 それを受けてギルド長はテーブルの上に世界地図を広げると、例のガルガンチュアの集落が存在する北西の河川流域に丸をつけながら、

 

「ふむ……君の話によると、今回、討伐隊はこの流域からオークを一掃しようというのだな。そのために、まずは東の源流を確かめて、またガルガンチュアの村へと戻り、北へと向かう。悪くないアイディアだと思う」

「他に方法もないですしね。オルフェウス領へ流れる河川も気になりますが……」

「こっちは当面どうしようもないからな。ギルドからも注意しろと勧告を出しておくが、恐らくオルフェウス国自体が対応を表明しない限り、あっちに行きたがる冒険者はいないだろう」

「……一体、オルフェウス卿は何を考えてるんでしょうかね」

「さあ、わからん。案外、敵の手下である冒険者の手など借りないとか、そんなどうでもいいような理由かも知れんぞ。領民は堪ったもんじゃないだろうに」

 

 寧ろそれだったら良いのだが……それくらい、カリギュラに命じられたピサロの行動は話をややこしくしていた。

 

「とにかく、方針が決まってるなら、物資の調達は任せてくれ。まずは東の源流への遠征だが、これにはどのくらいの人数で、どのくらいの日数を予定しているんだ?」

「はい。こっちには獣人を連れて行かずに、冒険者だけで挑もうと思ってるんです」

「何故だ?」

「終点まで行ったら、帰りはポータルを使おうと思って。獣人は、ポータルが使えない連中が多いんですよ。だったら、最初から冒険者だけで行動した方が良いかなと」

「なるほど……じゃあ人数はこのくらいで、片道だけなら20日といったところだろうか。これくらいなら今すぐ手配しよう、時間はかからない」

「助かります。そんで、東をクリアリングしたら村に戻って、今度は獣人たちも連れて全員で北へ向かいます」

「そっちはかなりの物資が必要そうだな」

「はい。でも、獣人は冒険者と違って自分たちで獲物が狩れるから、ある程度融通は利くと思います。なので量よりも質というか、動きやすさを重視してくれた方がいいかも知れません」

「なるほど」

「そんで北の分岐点に着いたら、そこにまた拠点を構えようかと。でも今度はガルガンチュアの村みたいにポータルが使えないから、物資を運び入れるのに苦労しそうなんですよね」

「だったらポーターを雇ったらどうだろうか。ちょうど、大森林がこんな事になってしまっただろう? トカゲ商人たちが行き場を失って困っているから、仕事を斡旋してやれば喜ぶと思うぞ」

「あー、そりゃいい考えですね」

 

 ガルガンチュアの村へ行くまでに、散らばっていた獣人達を集めて何個か避難所を作ったのだが、そちらも物資不足で困っていたから、トカゲ商人の行商が復活してくれれば森全体としてもいいことだろう。

 

 そんな感じで段取りが決まれば、元々冒険者ギルドはこういった作業が得意なのだから、後は早かった。ギルド長は小一時間もあれば物資を集められるというから、鳳はそれを運ぶための人員確保に、この村で世話になっているレイヴンたちに会いに行くことにした。彼らは戦闘力はないが、何故かポータルには入れるので、頼めば聞いてくれるだろう。

 

 ギルドを出て広場を見渡してみたが、外に出ていったジャンヌたちの姿は見つからなかった。何も言わずに黙って行くのは悪い気がしたが、居ないものは仕方ない、サムソンを連れて、レイヴンたちがいるであろう牧場へと足を向ける。

 

 村の入口にある牧場へやってくると以前とは風景がガラリと変わっていた。前よりも馬の数が増えて、レイヴンの従業員たちが忙しそうに世話をしていた。二足歩行の獣人は、獣よりも人間に近いのであるが、それでもそんな彼らが馬にまたがっていると、おとぎ話から出てきたような、なんだか不思議な感じがした。

 

 牧場を取り巻くハロン棒によりかかり、見知った顔がないかキョロキョロしていると、牧場の脇にある鶏舎の横で、犬と戯れている長老とマニの母親を見つけた。長老は鳳に気がつくと、牧場の犬を引っ張って……と言うか、途中から引っ張られるようによたよたと駆け寄ってきて、

 

「ツクモー! 帰ったかー! みんな元気かー?」

「こんちは長老。元気だよ。つーか、ちょうど良かった。実は今、討伐隊はガルガンチュアの村まで辿り着いたんだ。暫く留守にしてたから、ちょっと荒れちゃってるけど、長老の家もそのまま残っていたから、そろそろ村に帰るかい?」

「ほんとう? 帰るよー! 村のみんなは元気ー?」

「えーっと、同行しているマニの部下たちはね。みんな自分の家に帰れてホッとしてる感じで、片付けしてたよ。残念ながら、長老の飼ってた豚はいなくなっちゃってたけど」

「そっかー……じゃあ、この犬を連れて帰るよ。増やすんだー」

「いや、それは牧場の人に聞かなきゃ駄目だと思うけど」

 

 犬はパタパタしっぽを振っている。ずっと長老の面倒を見てくれていたのだろうか、なかなか賢そうな犬である。鳳は苦笑いしながらマニの母親の方へ向き直ると、

 

「そんなわけで、お母さんも一緒に帰りましょう。マニの家は広いですから、お母さんも一緒に暮らせますよ。きっと彼も喜ぶでしょう」

 

 鳳がそういって話を向けると、マニの母親は混血だからか、獣人らしからぬ少し困った表情を作りつつ、

 

「いえ、私は一緒にはいけません」

 

 とか言い出した。まさか断わられるとは思わず、鳳が聞き返すと、

 

「実はレイヴンのみんなは大森林には帰らず新大陸へ向かうつもりなのです。私はそれについていこうかと」

「新大陸だって? 何でまたそんなことに」

「今回の騒動は、レイヴンが起こしたようなものですから。みんなどの面下げて帰れるかと思っているようで、責任を取るためにも大森林から出ていくつもりだったんですよ。それで、どうせ行くなら新天地を求めて新大陸へと……」

「なにもお母さんまで一緒に行くことないでしょう。あなたは何もしてないのに」

「いいえ、私は止められませんでした。仲間なのに」

 

 暴走を止められなかったことで彼女が責任を感じる必要などないと思うが、多分彼女にとって大事なのは、それが仲間だということの方だろう。なんやかんや、彼女は大森林に来てからずっとレイヴンの街で暮らしていたのだ。だから帰属意識が高い。

 

 かと言って、せっかく会えた親子がまた離れ離れになるのも忍びない。それに、マニはレイヴンたちにも仕事を与えようと頑張っていたようなので、こりゃ放っておけないぞと、鳳は説得をはじめた。

 

「責任を取ろうとする気持ちは分からなくもないけど、それで森から出て行くというのはどうなんでしょうか。残って、大森林のために尽くすという選択もあるのでは?」

「それは……私にはなんとも」

「今のリーダーって誰なんでしょうか。なんなら直接話したいんですけど」

 

 すると母親は頭を振って、

 

「いいえ、リーダーは居ないんですよ。ちょっと前、そのリーダーに振り回されてしまったから、みんなもうリーダーは決めずに何でも話し合いで解決しようと」

「そうだったんですか」

 

 力で選ばれたリーダーではなく、話し合いで解決するのは良い判断だと思うが、今は間が悪かった。流石に一人ひとりを説得して回るわけにもいかない。鳳はうーんと唸りながら、

 

「なら一度、みんなを集めてマニの話を聞いてもらえませんか。彼は落ち着いたらレイヴンの人たちにも役割を与えようと考えているようなんです。何も言わずに居なくなられては肩透かしになってしまう」

「マニが……?」

「今はあいつが族長です。散り散りになっていた森の獣人たちも、みんなあいつに従っています。獣人は根が単純なところがありますから、実力を示せば過去の諍いなど忘れてしまうんですよ。だからレイヴンも、彼の庇護下に入れば誰も文句なんか言いませんよ」

 

 母親は鳳の話を聞いて、強くなった息子のことを頼もしく思うような、様々な責任を押し付けられてしまって可哀想というような、複雑な表情をしていた。彼女は暫くそんな顔で黙考していたが、やがて諦めたようにため息をつくと、

 

「わかりました。みんなに伝えておきましょう」

「後で物資運びを手伝って欲しいと思ってたんです。その時、彼を連れてきますから」

 

 マニの母親は仲間たちに話をつけに去っていった。

 

 その後鳳は、犬を連れて帰ると言って聞かない長老を説得し、牧場主に子犬が産まれたら分けてもらうという約束を取り付け、早速物資の手配をしておいたというギルド長と共に、ギルドの前で検品を始めた。

 

 20日間の物資と言っても、詰めてしまえば背負える程度のものであるが、それでも冒険者の数は50人を下らないので、それを全て調べるのは相当手間がかかった。こんな時のためにジャンヌやルーシーを連れてきたのに、あの連中は何をやっているのだろうか。

 

 サムソンも、未だにぼーっとしていて役に立たず、いっそもうレオナルドの館に行って、スーパー執事でも助っ人に呼んでこようかと迷っていた時だった。

 

 ギルドの玄関からすぐのところにある仕立て屋から、カランコロンと音を立てて、綺羅びやかな服を着飾ったジャンヌたちがぞろぞろと現れた。

 

 こんな田舎の村にはそぐわない格好に、道行く人がはっと振返る。元々、ルーシーもミーティアも素材が良いのは知っていたが、そこに神人となったジャンヌまで加われば、どこの王宮からお忍びでやってきたのだろうかと言いたくなるくらいの壮麗さであった。

 

 しかし、本当にこの連中は何をやっているのだろうか。このクソ忙しい時に勘弁してくれと、少々ムッとしていると、そんな狭量な鳳とは打って変わってサムソンが三人の前にピューと飛び出していき、

 

「おお、なんと美しい。みんな絵画から飛び出してきたようだぞ! おまえ(ルーシー)は草原に咲き誇る可愛らしい花のようだ。おまえ(ミーティア)は一見冷たく見えるが、さしずめ氷の花のように透き通る美しさがある、流石勇者の恋人だ。そしてジャンヌよ。おまえは高嶺に咲く美しいバラだ。真っ赤に咲き誇る、気高い女王の風格だ!」

 

 サムソンは鼻の下をだらしなく伸ばしながら、そんな言葉をつっかえることなく捲し立てた。見た目に反してナンパなハゲである。さっき冷たくされたから、挽回しようと必死になっているのだろうか? 女性は褒められると弱いと言うが、三人も満更でもない様子だった。

 

 鳳がそんな4人を遠巻きに眺めていると、それに気づいたルーシーがパタパタと近づいてきて、彼の前でくるりと一回転し、

 

「鳳くん、どう? 似合うかな?」

「お、おう……」

 

 正直なところ何やってんだと思いもしたが、考えても見ればジャンヌはともかく、ルーシーは冒険者というより一般人に近かった。なのに鳳と関わってからは、ジャングルの中を歩き回ったり戦争に参加させられたりと、散々な目に遭っていたから、たまにはこういう息抜きも必要なのかも知れない。

 

 大体、鳳だって冒険の最中に大麻を吸ったり阿片を吸ったり、好き勝手やって来たのだ。これくらいのことで腹をたてるのはお門違いと言うものだろう。彼はそう思うとなんだか自分が情けなくなってしまい、サムソンを見習って彼女らに話しかけた。

 

「そうだな。見違えたよ。ルーシーもこういう格好してると、凄いお嬢様っぽいのな。レオナルドの財産を受け継ぐ日も近いかも知れん」

「鳳くんは褒め方が雑だよね! もう……私のことより、ジャンヌさんはどうかな? あれを見て、なんか思わない?」

「ジャンヌ……?」

 

 言われてジャンヌの方を見ると、薄手のドレスを着た彼女はスカートの裾を握ってもじもじしている。田園風景には似合わないが、その格好自体はかなりいかしていた。サムソンみたいに高嶺の花とまでは思わなかったが、そのまま舞踏会に出てもおかしくないくらいである。

 

「そうだね、似合ってるね」

「そうでしょう? そう思うよね? 見ててムラムラしてくるよね?」

「ムラムラて……」

「ジャンヌさん、女の子になったのに、今まで全然こういう格好させてもらえなかったじゃない。ずっと厚手のダサい服ばかり着せられてさ」

 

 そりゃまあ、モンスターと戦う前衛職だから仕方ないだろう。ビキニアーマーみたいなものがあるならともかく、残念ながらこの世にそんなものは存在しない。

 

「でも着せたらこんなに似合うのに、もったいないよね。誰も指摘してあげなかったら、ずっとあのままだったんだと思うとぞっとするよ。鳳くんもリーダーなら、ちゃんとフォローしてあげてよね。ほら、鳳くんが何も言わないから、モジモジしちゃって可愛そうじゃない。ジャンヌさんのことも、ちゃんと女の子として扱ってあげなきゃ!」

「あ、ああ、似合ってる似合ってる」

 

 ルーシーは何故だかうざ絡みしてきた。冒険者には女性が少ないからフラストレーションが溜まっているのだろうか。鳳は極力逆らわないようにしてジャンヌの前まで進み出ると、まだサムソンの美辞麗句を受け続けていた彼女に似合っていると言った。

 

 と言うか、似合ってて当然なのだ。

 

 鳳は、彼女がこういう格好をすることを知っていた。今はルーシーの見立てなのか、大人っぽいドレスを無難に着ていたが、もっとゴスロリみたいなフリフリの衣装を着こなしている姿だって見たことがあった。彼女が綺羅びやかな衣装で着飾っている姿なんて、実は飽きるほど見慣れていたのだ。

 

 と言うのも、今のジャンヌの姿とは、ゲーム時代のアバターそのまんまなのだ。その頃、鳳は彼女の中身がおっさんであることを知らず、新しい衣装を着てるのを見る度に、お世辞でもなく普通に褒めていた。だから何というか、今更過ぎたのだ。

 

 それにしても……ゲームと同じ姿だから、今まであまり気にしていなかったが、実際問題、ジャンヌのDNAとかはどうなっているのだろうか。以前のゴリマッチョのおっさんと、今目の前にいるエルフ耳の美女が同じDNAとはとても思えなかった。

 

 性別が変わっているから、少なくとも染色体の一部は確実に変わってしまってそうだが、鳳の予想ではDNAと記憶は連動するはずだから、もしもDNAが変わってしまったら、ジャンヌは記憶を維持できないはずだ。

 

 ……いや、それだって本当にどうなってるかはわからない。鳳の生きた時代には、整形技術はかなり上がっていたようだし、性転換手術というものもあった。だから案外、DNAを変えずに見た目だけをいじることは可能なのかも知れない。

 

 もしくは見た目を司る遺伝子と、精神を司る遺伝子が違うから、見た目をいくら変えても平気と言うことだろうか……

 

「あの……白ちゃん?」

 

 鳳がそんなことを考えていると、彼にじっと見つめられていたジャンヌが困ったようにモジモジしていた。それを見惚れていると判断したのか、ルーシーが何故かドヤ顔で見ていた。鳳ははっと我に返ると、

 

「ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事をしていて。ジャンヌ、それ、似合ってるよ。見違えた。ミーティアさんも綺麗だね」

 

 鳳は取ってつけたように傍らに居たミーティアの服も褒めると、そのままルーシーとサムソンを交えて、彼女らの服の品評会みたいなことを始めた。こういうことがあまり得意でないミーティアが、般若のような顔をしながら固まっている。

 

 ジャンヌはそんな仲間の姿を見ながら、なるほど、これがミーティアの感じた違和感かと痛感していた。ルーシーは、彼が見惚れていると思っていたようだが、本人だからわかる雰囲気というものがある。

 

 あれはフラットな目つきでただ何かを考察していたのだ。恐らく彼は、今の自分の姿の向こうに、以前の男の姿を見つめていたのだろう。もしくは、更に昔の自分だろうか。今目の前にいるジャンヌにはまるで関心が無かったのだ。似合っていると言いながら、興味なさそうな口ぶりでそれが分かった。

 

 ミーティアの言う通り、それは彼に恋愛感情というものが欠けているからだろうか。それとも、性欲が? ……しかし、こっちの世界に来たときの仲間たちとの会話や、ミーティアに対するいやらしい目つきを見るからに、女性に全く興味がないわけではないはずだ。

 

 何かが気になる……

 

 ジャンヌは何かの違和感を感じたが、それが何かはついに分からず……綺羅びやかな服を纏う仲間たちに手招きされたので、今はもうそれ以上は考えずに、その輪の中に入っていった。

 



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俺の周りには、魅力的な女性が多すぎるよ

 ルーシーが突然始めたファッションショーみたいな何かを終えて、鳳たちはギルドに集められた物資の検品に戻った。これじゃせっかくの服が汚れちゃうと言いながらギクシャクと動くルーシーに対し、ジャンヌとミーティアは特にいつも通り違和感なく動けていたのは、普段からの所作の差なのだろうか。

 

 結局、何をしたかったのかはいまいち分からなかったが、彼女の気が晴れたならそれで良しとしよう。多分、一番元気になったのはサムソンに違いないが、さっきまでぼんやりとしていた彼は、痩せても枯れても一流冒険者なだけあって、目が覚めた後は非常に頼りになった。

 

 そんな覚醒したサムソンのお陰で集めた物資の検品をあらかた片付けると、鳳は一人でガルガンチュアの村まで戻って、マニを連れて帰ってきた。レイヴンたちが森から出ていくと言ってると聞いたマニは複雑そうな表情をしながら現れると、約束通り母親が集めてくれたレイヴン達を前に説得を開始した。

 

 曰く、これからの獣人社会を維持していくにあたって、獣人だけでは駄目なのだ。人間と獣人の間を取り持つ、レイヴンのような存在が必要なのだ。今は仲違いしているが、獣人たちも人間やレイヴンの使う道具というものが有効なことには気づいている。だから暫くは様子を見るだけでもいいから残ってくれないか。

 

 そんな彼の説得が功を奏し、レイヴンたちはガルガンチュアの庇護が受けられるならという条件付きで残ってくれることになった。結局、彼らも獣人社会が駄目だからといって、すぐに人間社会に溶け込めるかといえばそれも難しく、この辺が落とし所だったのだ。

 

 そんなわけで、ガルガンチュアの部族として新たに吸収されたレイヴン達にお願いして、鳳たちはポータルを使って物資を村へと運んだ。彼らは今はまだヴィンチ村の牧場の世話になるが、落ち着いたら村を拡張し拠点を作るそうである。

 

 そうして物資を運び終えた鳳は、途中経過を報告するためにレオナルドの館へと向かうことにした。

 

 ルーシーは、せっかくだから綺麗な服を老人にも見て欲しいと言って、ジャンヌとミーティアを引き連

れ馬車に乗って一足先に帰っていった。鳳とサムソンはそんな彼女らの乗った馬車を追い掛けて、ゆっくりと徒歩で館へと向かったのだが……到着すると、ルーシーが褒められるどころか、

 

「また勝手に仕立て屋にツケを作りおって!」

「えーん! ごめんなさーい!」

 

 と怒られていた。そう言えば、あの衣装の代金はどうしたんだろうと思っていたが、まさか天下のレオナルド・ダ・ヴィンチにたかろうとは……他人のことは言えない雑さ加減である。

 

 ルーシーの説教が終わるのを待ち、夕飯の用意が出来ていると言う執事に連れられ去っていった仲間たちを見送ると、応接室には鳳と老人だけが残った。すぐにいつものメイドが紅茶を持って現れ、何も言わずにテーブルを整えて去っていった。あれも忍者に違いない。

 

「およそ3週間ぶりじゃが、みな息災か。大森林の中は今どうなっておる?」

「ああ、お陰さんで一人も脱落者がなく、みんな元気だよ。オークやピサロたちに追い出された被害者があちこちに散らばってたから、それを集めて避難村を作ってたんだけど、その間、それほどオークは見かけてないな。もしかすると、全然別のところに溜まっているのかも知れない」

「ふむ……元々数が少ないという可能性は?」

「だと良いんだけど、避難民の話を聞く限りでは、こんなもんじゃ済まないようだ。彼らが興奮して、誇張してるならともかく、希望的観測はご法度だしな」

 

 少なく見積もれば気が楽になるが、それが裏切られた時は目も当てられない結果になる。気を引き締めるためにも、実際のオークの数は多いと覚悟しておいた方が無難だろう。

 

「そうそう、爺さんに貰ったケーリュケイオンが非常に役に立ってるぞ。なんやかんや禁呪を使う機会は増えてるんだが、どうしてそんなことが出来るのか、いちいち説明するのが面倒でさ。それを全部、杖の奇跡のせいに出来るから助かっているよ」

「それは良かったのう。ヘルメスの話を聞いて、思い出して良かったわい。お主にしか使えぬようなものを、何故儂が持っていたのかは分からぬが」

 

 老人は満足そうに頷いている。鳳はそこまで話をしてから、そんな老人の目をじっと覗き込んだ。突然の行動に、老人はキョトンとした目でこちらを見返している。鳳は彼の目を注意深く見つめながら、そこに嘘はないか、なにか隠し事をしてないかを見極めようとしながら言った。

 

「それなんだけどさあ……多分、これ、勇者の杖だぞ」

「……なんじゃと?」

 

 老人はその言葉に驚き目を見開いた。そこに嘘や誤魔化しのようなものは見当たらない。鳳は鼻でため息を吐き出してから、マニに言われて避難所の村を作った時のことを話した。

 

「マニのご先祖様の記憶によれば、どうやらガルガンチュアの村は勇者が作ったものだったらしいんだ。マニは俺の杖を見て、すぐにそれを思い出したらしい。勇者は300年前、この杖を使っていた。だからそれが巡り巡って爺さんの所有物になったのは、なんつーか……必然だったんだろうな」

「そんなまさか……儂は、そんなことすら覚えておらんのか?」

 

 よほどショックだったのだろうか、いつもは冷静なレオナルドが青ざめている。そりゃそうだろう。彼は伝説の勇者パーティーの一員だった。そんな彼が勇者の名前はおろか、使っていた武器さえ覚えてないというのだ。本当に、おまえはレオナルド・ダ・ヴィンチなのか? と疑いたくなる。

 

 しんと静まり返る部屋の中で、鳳は少し声を潜めて、ささやくように言った。

 

「……前々からちょっとおかしいと思ってたんだ。一緒に旅していたくせに、爺さんは勇者の名前を知らないという。勇者がただ連れてきただけの、母親もいない少女(メアリー)を、彼の娘だという。そんな勇者はある日突然、人が変わったように女を食い散らかしはじめた。その後、魔王を倒したくらい強いはずの彼はあっさり死んだ。そして、そんな彼の愛用していた武器を、爺さんは覚えてないという。

 

 周りがみんな、勇者のことを勇者と呼んでいたから気にならなかったというのは、まああるかも知れない。爺さんが、むかし勇者と旅をしたレオナルドだということも疑ってないよ。それまで疑ってしまったら、勇者領という存在自体があやふやになる。多分、爺さんは勇者の仲間として、彼とともに国を作った。ここまでは間違いない。

 

 だが、勇者はなんのために勇者領を作ったんだ? 新大陸にまで領土を広げたんだ? そんな野心があるやつだったのだろうか? そして、そのせっかく作った領地をほっぽりだして、どうして帝国に入り浸っていたんだろうか。そりゃ、神人はみんな綺麗だから、気持ちはわからなくもないが……」

「……確かに、わからぬな。彼に特定の恋人のような者が居たとも聞いてない。いや、もしかしたら、覚えておらぬのかも知れんが……お主の言う通り……」

 

 レオナルドは鳳の言葉の一言一言を噛み締めるように飲み込んで、自分が何か幻術のたぐいを受けているのではないかと思い始めていた。それくらい、彼は自分の記憶が曖昧であることに驚いていた。

 

 実際、記憶というものはあやふやだ。しょっちゅう忘れるし、勘違いもおこる。だが事実に言い訳はきかない。勇者の仲間でなかったら、この世界にレオナルドが存在する意味はなくなる。ギヨームみたいにそこそこ名の知れた、ただの放浪者(バカボンド)に過ぎなかったはずだ。

 

「まあ、300年も生きていれば、多少ボケもするだろうし、忘れることもあるだろう。でも、なんつーか爺さんの忘れっぷりは、ただの物忘れというよりも、どこか人為的なものを感じる気がするんだ。これは憶測に過ぎないのだけど……もしかして、300年前に、爺さんも忘れてるような何かがあったんじゃないか? もしくは、爺さんの記憶を奪うような何かが」

「う……うーむ……」

 

 老人は唸り声を上げて固まってしまった。返事は期待していなかった。老人が鳳を意図的に騙しているとしても、本当に覚えてないのだとしても、どちらにしろ言えることなど何もないだろう。ちょっと真剣に考えてくれればそれでいい。

 

 ただ、少しくらい手がかりになるような何かが転がり出てこないかと、それくらいのことは期待していたのだが、どうやらそれも駄目らしい。鳳はこれ以上老人を責めるようなことをしても無意味だろうと、溜め息を一つ吐くと話題を変えた。

 

「ま、それはともかく……今の所、勇者領からガルガンチュアの村までの川沿いは壊滅状態で、まだまだ復興には時間が掛かりそうだよ。避難所を作ったり、ガルガンチュアの部族に引き入れたりして、散らばっていた獣人達を少しずつ集めているところなんだが……今後のことについて、爺さんと相談しておきたいんだ」

「……というと?」

「マニは今回の件を踏まえて、獣人とレイヴンの融合を図りたいと考えてるようなんだ。今のような分断が続いていたら、また同じようなことが起こりかねない。双方が協力関係になれば、諍いはなくなるだろう。

 

 例えば、獣人は道具を作ったり手入れしたり出来ない。でも使えれば、ものすごい戦力アップになるだろう。実際、今回の遠征で、マニはかなり手応えを感じているようなんだ。そこで、道具の手入れが出来ない獣人の変わりに、レイヴンたちにそれをやって貰おうと考えたわけだ。

 

 獣人は、レイヴンたちのことを戦えもしないくせに、大森林に住んでるフリーライダーのように思ってる。でも、ちゃんと彼らにも役目があるとわかれば、もうそんな見下すようなことはしないんじゃないか」

「なるほど。それはいい考えじゃな」

「だろう? で、レイヴン達を中心とした鍛冶村を作ったり、勇者領や帝国からの流通経路を整備したいと考えてるんだ。ちょうど今回、北西の河川流域のオーク退治のついでに、あちこちに避難村を作ってる。そこを中継点にすれば、自然と交易路は出来上がるんじゃなかろうか」

「ふむ。儂にそのパトロンになれということじゃろうか」

 

 鳳は首を振ると、

 

「それもいいな……けど、そうじゃない。なんつーか、こうして出来た避難村にギルド支部を作って、レイヴンを職員にしたらどうかと思ってさ」

「何? レイヴンをか? ……ははあ~、なるほどのう」

 

 レオナルドはその話を聞いて、すぐに一考の価値有りと認めた。

 

 元々、大森林の中にもギルドの支部はあったが、それは協力関係にある部族の都合で、かなりまちまちだったのだ。おまけに、支部には職員を派遣しなければならないが、大森林のような僻地には誰も行きたがらず、つい最近もガルガンチュアの村の職員はずっと不在だった。

 

 だが、レイヴンなら、もともと大森林で暮らしてるのだから、そんな心配はせずに済むわけだ。問題は、職員になるには研修を受けねばならないのだが、混血であるレイヴンの頭脳は、獣人よりも人間に近い。研修に耐えられるだけの能力を持った人材も、探せば必ずいるだろう。

 

「相わかった。ならば職員になりそうな者を見つけてこい。儂からギルド本部に推薦状を書いてやろう」

「またマニと相談してくるよ。鍛冶屋の方にも何人か回したいからな」

「ピサロにメチャクチャにされて、一時はどうなることかと思っておったが、中々面白いことになっておるな……破壊のあとには再生があるか……皮肉な話じゃ」

「人間の方は、未だに破壊を続けてるみたいだけどね」

 

 大森林がこんな事になっているというのに、勇者領と帝国はまだ戦争を続けているのだ。鳳はふと思い出して、

 

「そういや、ヘルメス戦争の方はどうなってるの? 帝国を攻める糸口は見つかったんだろうか?」

 

 鳳が話題を振ると、レオナルドは口を開きかけたが、すぐに思い直したように口を引き結び、

 

「そうじゃった。勇者軍はいよいよ動き出したようじゃ。作戦上の問題があるから詳しいことは儂の口からも言えぬのじゃが、上手く行けば一気に帝国軍の力を削ぎ、勇者軍をヘルメス領へ入れることが出来るじゃろう」

「機密ってやつか。作戦が失敗したら元も子もないもんな」

「すまんのう……しかし、お主ならスカーサハに会いに行けば、作戦の内容を教えてくれるじゃろう。まだアルマにおるじゃろうて、気になるなら飛んでいけばいい」

「うーん……スカーサハさんか……」

「あの子もお主に会いたがっておるから、久しぶりに会いに行けばいいではないか。何か行きたくない理由でもあるのかのう?」

「いや、それなんだけどさあ……今まではそんなこと考えもしなかったんだけど、ほら、こないだルーシーも言ってたじゃないか。勇者とスカーサハ先生は一時期恋仲だった時があるって」

 

 鳳がそう言うと、老人は一瞬虚を突かれたように目を丸くしてから、すぐにおかしそうに腹を抱えながら笑い出した。

 

「ふぉっふぉっふぉ! お主、そんなことを気にしておったか。確かにそれは事実じゃが、今更あの子がお主と勇者を混同するようなことなどあるわけなかろう。つまらぬことを気にする奴じゃのう」

「いや、俺が気になるのはそういう意味じゃないんだが……」

「ふむ? ならば、どういう意味じゃろうか」

「それは……ちょっと説明が難しいというか……」

 

 鳳は老人に笑われたことで思わず口にしてしまったが、本当はそのことについては、確信が持てるまで話すつもりはなかった。だが、結局のところ他に相談できる相手もなく、彼は渋々決心すると、

 

「要するに、爺さんの言う通り、もし彼女に迫られたらそれに耐えきれる自信がない……というのはある。でも、ちょっとニュアンスが違うんだ」

「……? どういうことじゃ。お主が言ってる意味がさっぱり分からぬ」

「つまりさあ……勇者は晩年おかしくなったと言っていただろう? スカーサハ先生とどうこうなったのもその頃だと」

 

 鳳がそう言うと、それを思い出したのか老人は不快げに眉を顰めつつ、

 

「そうじゃ。それまではお調子者でありながらどこか憎めないやつじゃったが、人が変わったように女を食い散らかしはじめてからは、まるで儂らの言うことなど聞かずに……」

 

 彼はそこまで言ったところで、ハッと何かに気づいたように言葉を止め、

 

「お主……まさか?」

 

 鳳は頭を振って、

 

「そうじゃない。まだ、そうじゃないんだ。でも……以前も爺さん言ってただろう? もしマニの記憶が正しければ、俺は勇者なのかも知れないって。俺たちはこの世に、繰り返し生まれてきているのかも知れないって。そしてマニの記憶は、実際わりと正しいみたいなんだ。だったら……」

 

 鳳はその先を続けるのが怖かった。もしも自分が勇者なら、そうなる可能性は本当に無いのだろうか……? 頭の中にスカーサハの顔を思い浮かぶ。ルーシーや、ミーティア、そしてジャンヌの姿も。

 

「俺の周りには、魅力的な女性が多すぎるよ」

 

 それを傷つける可能性があるのだとしたら、自分は一体どうしたらいいんだろうか。杞憂に終わればよいのだが、未来のことは誰にもわからない。この世界にやってきたばかりの仲間たちみたいに、ただ勇者の力を得たことを能天気に喜んでいられたら良かったのに、鳳にはそれが、今は呪いのように感じられた。

 



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24時間戦えますか

 ガルガンチュアの村に物資を運びいれた鳳たちは、当初の予定通り、まずは村の東側に伸びる河川の源流を調べることにした。今回は片道だけなので、帰りはポータルを使えるように、遠征に向かう者を厳選し、人間の冒険者だけとした。

 

 その間、マニたち獣人は村の片付けを行いつつ、周辺を渦巻状にぐるぐる回ってオークが居ないか確認する予定である。しかしこれまでの経験上、川を離れてオークがうろついていることは無かったから、恐らくは無駄足になるだろう。無駄と言っても、そっちのほうが断然良いのだが。

 

 もしかしたら生存者がどこかに隠れているかも知れないので、慎重に探すというマニを残して、鳳たちはリュックを背負って村を出た。今回は馬がなく全員徒歩だが、遅れる者は一人も居ない。ルーシーなんかはつい最近までただの一般人だったのだが、大した成長ぶりである。そんな事をギヨームに言ったら、おまえもそうだろうと返ってきた。言われてみればその通り、思えば遠くへ来たものである。

 

 一応、隣村のことだから話は聞いていたが、鳳がクマを退治した例の村もピサロに襲撃されて壊滅していた。村には人っ子一人おらず、野生動物に荒らされた形跡だけが残っていた。ただオークは来ていないようだから、その気になれば復興は容易いだろう。

 

 尤も、実を言えば生存者は討伐隊に参加していて、既にガルガンチュアの部族に吸収されていた。獣王のカリスマは伊達ではなく、他の部族もマニに従う者が多いから、もしかすると彼らに村を復興するという考えはもうないのかも知れない。

 

 その場合は、ガルガンチュアの村を中心にして空白地帯が出来てしまうから、その辺をどうするのか、それもマニの双肩にかかっていた。思えば彼はまだ実年齢9歳だというのに、色々背負い込まされて可哀想だ。出来るだけフォローして上げたいところである。

 

 そんなことを考えつつ、隣村を後にして川を進む。

 

 この河川は中央山地に続いているオアンネスの侵入ルートの一つと目されていたから、恐らくその道中は激戦になるのではないかと予想していた。だから人間の冒険者だけで大丈夫か? という心配はあったのだが、蓋を開けてみれば、意外にも流域は穏やかでオークに遭遇することは全く無く、それがいた形跡を発見するだけで、戦闘は一度も起こらなかった。

 

 途中、何本かの支流も確認したが結果はどこも同じで、そこはオークが去った後だった。正直、肩透かしもいいところだったが、危険がないならそれに越したことはないだろう。討伐隊はサクサク進み、予定通り7日目に最初の目的地である元レイヴンの街へと辿り着いた。

 

 レイヴンの街は他の獣人部族と生存圏がかぶらないよう避けていたのか、川から大分離れた場所にあった。だから、その場所を知らなければたどり着くことは出来なかっただろう。

 

 幸い、鳳たちは以前に訪れたことがあったから、殆ど迷うこと無くたどり着くことが出来た。そうして再訪したレイヴンの街は、どうやら近隣部族の避難所になっているようだった。

 

 中にはピサロに襲われた者も大勢いたから、避難民たちは鳳たちが近づいてくると最初は物凄く警戒していたが、それが冒険者ギルドから派遣された討伐隊だと分かると、ホッとした感じで協力を約束してくれた。

 

 避難民たちの話によれば、どうもここにいる全員がピサロに集落を襲われたようだった。震源地であるレイヴンの街の近くに住んでいたのだから、当然といえば当然だろう。だから、殆どの者はオークと戦ってはいなかったようだが、その動向はしっかりと確認していてくれたようだ。

 

 彼らはレイヴンたちから隠れながら、水場である川の近くに潜伏していたそうなのだが、魔族への備えを失ったこの近辺は、最初はものすごい数のオークで席巻されていたらしいのだ。

 

 具体的な数は避難民によってまちまちであり、正確な数はつかめなかったが、少なくとも獣人が数人いたところでどうにかなるレベルではない。今ここに居る避難民が束になってかかっても、勝ち目がないほどだったようだ。オークは河川を根城にして、その周辺の野生動物を狩っていたらしい。だから避難民たちはそれを恐れて川から離れ、次第にレイヴンの街へと集まってきた。

 

 彼らはレイヴンにやられて放浪していたわけだから、最初はレイヴンが帰ってくるんじゃないかとヒヤヒヤしていたようだが、時間が経って落ち着いてくると、ここは家の作りがしっかりしているし、井戸や畑などもあって暮らしやすく、安全なシェルターになったようだ。

 

 こうして彼らはここに隠れながら、河川を占拠するオークの群れを監視していたそうなのだが……暫くするとオークたちは周辺の獲物を狩り尽くしてしまったのか、まるで何かに導かれるように、どんどん西へと向かっていったそうである。その数は次第に減っていき、最近はもう殆ど見なくなったようだ。

 

 とすると、鳳たちがこれまでに片付けた群れが、ここから出ていったというオークの群れだったのだろうか……しかし話を聞く限りでは、今まで倒した数ではとても足りそうもないから、もしかすると殆どのオークはガルガンチュアの村のある分岐点を、北へ向かって進んでいったのかも知れない。

 

 北の分岐点はどうなっているんだろうか……なんだか嫌な予感しかしない。

 

 ともあれ、もうこの辺にはオークはいないようだが、かと言って調べないわけにもいかないので、予定通り鳳たちは更に上流へと向かうことにした。情報を提供してもらったついでに、討伐隊は現在ガルガンチュアの村を拠点にしていることを伝えると、避難民の何人かは手伝うといってそっちへ向かってくれることになった。だが、殆どの者は安全なここに残るようだ。彼らはもう殺し合いなど懲り懲りなのだろう。獣人はみな誇り高いが、全ての獣人が好戦的というわけでもないのだ。

 

 レイヴンの街で一泊し、ほんの少し物資を分けてもらってから、討伐隊はまた河川へと戻って東へ向かった。山地へと続く川の源流は次第に坂になっていく。お陰で距離を稼ぎにくくなったが、上流に進めば支流の数も減っていったから、プラスマイナスゼロと言ったところだろうか。

 

 討伐隊はおよそ1日に20キロのペースで進んだ。それは道のない森の中ではかなりのペースであったが、元々獣人たちが住んでいた川沿いはなんやかんや獣道があり、オークが木をなぎ倒して進むという性質もあって、思ったよりも歩きやすかったのだ。

 

 更に、森歩きで最も危険なのは方向を見失うことであるが、この河川には地図が存在し、上空からメアリーがどの辺を歩いているかその都度確かめてくれるから、殆ど迷う心配は無かった。

 

 そんなメアリーの姿は、最初こそ冒険者たちの度肝を抜いていたが、暫くして慣れてくると、いつの間にかスーパーマンと呼ばれ頼られるようになっていった。まさか地球のあの映画を見たことも無いだろうに、人間というのはどこにいても似たようなことを考えるものである。

 

 それからもオークに出くわすことはなく、討伐隊は順調に川をさかのぼり、やがて幅広だった川は段々と沢と呼ぶに相応しい険しい流れへと変わっていった。ここまで姿を見ないとなれば、もうこの先を調べるのはあまり意味がないだろう。山に入れば二次遭難の危険もある。鳳はそう判断すると、当初の予定を切り上げて、あと一日進んだところで引き返すことにしようと提案した。

 

 正直、もうこのまま引き返しても良いくらいだった。だが、一応の義務感から取ったその一日が明暗を分けた。

 

 討伐隊は翌日、沢を慎重に登りながら手近に見える尾根を目指して進んだ。そこまで行けば周囲を見渡せ、オークがいないことを確認出来るからだ。もちろん、メアリーが上空から見ているので、いないことはとっくに確認済みだったが、彼女一人に責任を負わせるわけにもいかないので、一応である。

 

 沢に沿って歩いていると、段々と崖が多くなってきた。岩肌の露出した場所を歩くのは危険であるから、討伐隊は暫くすると川から離れて道なき道を登り始めた。

 

 出来るだけ獣道を探して歩きたかったが、流石にここまで来ると集落もなく、野生動物の通り道が都合よく山頂を目指してくれるわけもないから、討伐隊はここに来て最も歩きにくい道なき道を行くことになって、それまでのペースはガクッと落ちた。

 

 本来はオークと戦うために持ってきた剣や鎌で草を刈りながら、せっせと山の斜面を上っていく。斥候など出せる余裕もなく、全員で一丸となって突き進んでいくと、やがて植生が変わって中程度の高さの木々が鬱蒼と茂る雑木林へと出た。それが足元の視界を遮って、余計に歩きづらい。目的地の尾根は常に見えているのだが、一向に近づく気配もなく、これは日没までにたどり着けないかも知れないと、野営を覚悟した時だった。

 

 鳳は行く先に薄ぼんやりと光る何かを見つけた。炎のような明かりではなく、蛍光色をしたなにかがある。こんな場所に人工物があるわけないから、昼間なのにホタルでも飛んでいるのだろうかと思ったとき、彼はハッと気がついた。

 

 これは多分、鳳のスキル、アルカロイド探知が反応しているのだろう。アルカロイドなんてその気になれば森の中にはいくらでも存在するから、今は何にでも反応しないように出力を調整していた。だからよほどのものでない限りは、スキルが発動するわけがないのであるが、どうやらそのよほどの物が見つかったらしい。

 

「あ、おい、こら! 鳳どうした!?」

 

 鳳が嬉々として駆け出すと、後からギヨームが追っかけてきた。鳳は足元に絡みつく雑草をも物ともせずに光の元へと駆け寄ると、そこに人間の背丈より少し高いくらいの木がポツポツと生えていた。

 

 どこにでもありそうな双子葉植物で、ローズヒップみたいな赤い実が沢山なっているのが特徴と言えば特徴だった。葉っぱは椿みたいな光沢が有る細長い葉で、枝の節々から脇芽が伸びて小さな白い花をつけている。見た目は何の変哲もないただの木だ。多分、よほどの好事家か、専門家でも無ければ見逃していただろう。

 

「おい、勝手に走り出すなよ! 何か見つけたのか?」

「コカノキだ」

「……は?」

「コカだよ、コカ。麻薬の王様、コカインだ。いやあ、まさかこんなところにあったなんて。前回、レイヴンの街まで来たとき、もう少し周りを探索してたら見つけられたかも知れないのに……惜しいことをした」

 

 鳳は目の前に聳え立つ木から一本の枝を手折ると、にこやかな笑みを讃えながらギヨームにそれを差し出した。彼はそれを見て心底嫌そうな顔をして、

 

「おい、こら、まさか、これを持ち帰って広めようとか思ってるんじゃないだろうな」

「広めたりはしないけど、持ち帰りはするぞ。MP回復の役に立つからな。知ってると思うが、俺はMP消費が激しいんだよ。邪魔しないでくれたまえ」

「だから代わりにメアリーが古代呪文担当をしてるんじゃねえか! おまえ、こないだ中毒になったの忘れたのか」

「もちろん、覚えてるって。だからもう、そんなヘマはしないってば。ふひひひひ」

「……そのだらしない顔を見て、誰が信用するんだよ!」

「おーい、どうしたんだ、二人とも……休憩か?」

 

 鳳とギヨームが押し問答していると、アントンが討伐隊の列から離れた二人の様子を見に来た。さっき休憩したばかりなのに、そんなわけないだろうと言おうとしたが……もう何時間も山を歩き続けているせいか、アントンの顔は疲労の色が濃かった。

 

 見れば、討伐隊の他の面々も大分お疲れの様子である。予定とは違うが、やはり、今日はここらで野営をして、尾根はまた明日目指すことにしようかと考えたとき、鳳は手にしたコカの枝を見てハッと思い出した。

 

 コカというのは元々、原住民たちの嗜好品でもあり高山病の薬でもあった。そのため、生産地のボリビアは今でも世界で唯一合法的に使用が可能である。その薬効は高山病を和らげるだけでなく、空腹や疲労感を忘れさせるものらしいから、現地の鉱山労働者は、朝にコカの葉を口の中に詰めて、唾液に浸した液汁を飲みながら、夜まで休み無く働くらしい。労働環境に厳しい21世紀にもなって信じられない話だが、つまりそれくらいぶっ飛んだ効き目があるわけだ。

 

 鳳はそれを思い出すと、目の前の木から葉っぱをちぎってアントンに渡した。

 

「なんだこりゃ……?」

「元気になる薬だ。まあ、奥歯にでも挟んでおけ」

 

 アントンは半信半疑の目つきをしていたが、疲労は本物だったから、騙されたと思って言われたとおりに口の中に放り込んだ。鳳はそれを見てから休憩を宣言すると、残りの冒険者達にも葉っぱを配って回った。

 

 特にMP回復を期待してメアリーにあげたかったのだが、直接口にするのが嫌だというからハーブティーにして煮出していると、

 

「うおおお! ハッスルハッスルー!」「あああー! みなぎってきたあああ!!」「24時間戦えますか!」「ぼよよんぼよよん!」

 

 葉っぱをあげた冒険者たちがそんな雄叫びを上げて、いつの間にか元気を取り戻していた。なんか目つきがヤバかったが、この際気にしないでいいだろう。やがてメアリーがハーブティーを飲み終えた所で、もう待ちきれないと言った感じの冒険者達が急かすから、休憩もそこそこに討伐隊は再始動した。

 

 するとさっきまでは数メートル進むのにも四苦八苦していた討伐隊の面々は、信じられない力を発揮し、あっという間に道なき道に風穴を開けて、一直線に尾根へと突き進んでいくのであった。

 

 こうして野営もやむなしと思っていた討伐隊は、日が暮れる前に目的の尾根へと到達し、周辺の山々にもうオークがいないことを確認することが出来た。冒険者たちはまだ元気が有り余っているようだったが、それは空腹や疲労を忘れているだけで、ちゃんと体の方は疲れているはずだから、これ以上無理はしないほうが良いだろう。

 

 鳳は予定通りにポータルを出すと、それを見てまた興奮しだした冒険者たちを次々とその中に放り込んで、こうして東部の源流を探る旅は終わったのであった。久しぶりの人里に帰ってきた彼らは、ガルガンチュアの村の硬い床なんて野宿してるのと変わらないと文句を言っていたが、それでも翌日は夕方になるまで起きてこれないくらい、コンコンと眠り続けるのであった。

 

 教訓。中毒にならなくても、やっぱりクスリに手を出してはいけない。

 



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北部遠征開始

 東部遠征を終えて、討伐隊はこれで一本の河川からオークが居なくなったことを確認した。これからは、ガルガンチュアの村の辺りにある分岐点に流れ込む、北側の河川を調べることになる。第2段階といったところだろうか。

 

 東部の源流を探る旅は、なんというか拍子抜けで終わってしまったが、それで大森林の驚異が大したことないと考えるのは早計のようだった。鳳たちが東部遠征している最中、村に残った獣人たちはマニの指揮のもとにぐるりと村の周囲をさらったのだが、その際、彼らはオークの群れと遭遇したらしい。

 

 人間も動物も、何はなくとも水が無ければ生きていけないから、彼らは安全な水場を確保するためにも、鳳たちに先駆けてほんの少し北の河川流域にも足を運んだ。するとオークは、二股に分かれたすぐ先にもう居たらしい。

 

 その数はざっと数えても50体を下らず、これまでに倒してきたオークの群れとは比較にならない規模だったそうだ。

 

 ここで無理をする必要もなく、マニは即座に撤退を決めたが、あちこちで戦力を吸収したマニの部下は今やそれを倍する兵力があり、やろうと思えばやれそうだった。そのため、血気にはやる若い獣人が命令を無視して手を出してしまい、一戦交えることになってしまったのだが、マニは多少の犠牲を払いつつも、どうにかこれを撃退して撤退を成功させた。

 

 その際、オーク側からも血気盛んな個体が追い掛けてきて追撃戦になったのだが、彼が予め用意しておいた罠まで誘導しようとしたところ、ある程度の数を倒したところで追撃はパタリと止んでしまい、オークはそれ以上追い掛けてこなかった。

 

 誘導されていることに気づくなんて、オークにそんな知恵があるとは思えなかったマニは不審に思い、それからも度々オークのコロニーにちょっかいをかけたらしい。すると、オークには縄張り意識でもあるのだろうか? 河川からある程度距離が離れると、それ以上は進みたがらないという性質があったようだ。

 

 実はガルガンチュアの村にたどり着くまでに通った流域でも、どうもそういう性質がありそうだということは気づいていたのだが、ここまではっきりとその習性が判明したのは大手柄であった。しかし何故そうなるのだろうか? もしかすると、母体となったオアンネス族のDNAがそうさせるのだろうか。魚人は水が無ければ生きられない。しかし、だからこそ、あの山を越えてきたというのは腑に落ちないのであるが……

 

 ともあれ、この習性が確認出来たこと自体は大変ありがたかった。これでもしオークに襲われそうになっても、川から離れれば生き残る目が出来たということであるからだ。鳳たちは、仲間にそれを周知させた。

 

 その後、鳳たちが東部遠征から帰ってきて、冒険者たちがみんな疲れて爆睡していたので2日間の休養を挟んだあと、討伐隊はまた獣人を加えていよいよ北部への探索を開始することになった。

 

 その際、鳳はまたポータルを使って物資を運び入れるつもりだったのだが……その必要はなくなっていた。ギルド長が気を利かせて、トカゲ商人のキャラバン隊を組んでくれていたからだ。

 

「お久しぶりです、勇者さん、坊っちゃん。ここに来るのももう何度目になるでしょうか。前回はあの大騒ぎでしたからね……また来れて良かった。お父さんのご不幸は、本当に残念なことになってしまって、あの時はお墓を作るくらいしか力が及ばず申し訳ありませんでした。気落ちなさってるでしょうが、私になにか出来ることがあれば、なんでもご相談下さい、坊っちゃん」

「ありがとう、ゲッコーさん。実は折り入ってお話があるんですが」

「おや、早速。なんなりとご用命ください」

「僕の野鍛冶の師匠に、ヴィンチ村で世話になっているレイヴンの中から物になりそうな人を選んで、修行をつけてくれるように頼んで貰えませんか? 費用はいくらかかっても構いません。必ずお支払いします」

「かしこまりました。親方ならあの辺を巡回してますので、捕まり次第頼んでおきましょう。ところで彼以外にも、付き合いのある鍛冶師に心当たりがありますが……?」

「出来ればお願いしたいですが、師匠以外に獣人に対する理解が有る方がいらっしゃるかどうか……」

 

 マニが自信なさげにそう言うと、ゲッコーは暫し反芻するように吟味してから、

 

「確かに、おっしゃる通りですね。坊っちゃんを知らぬ者なら、まずは獣人にも鍛冶仕事が出来ると、説得するところから始めねばなりません。では、急ぎ戻り次第、そのように手配しましょう。私はこれにて」

 

 ゲッコーは請け合うと、運んできた物資を鳳たち討伐隊に渡してから、また勇者領へと取って返していった。

 

 以前にギルド長と話し合った時にも言及したが、鳳たち討伐隊は今後北へと向かい、また分岐点に到達したら、そこに新たな拠点を定めるつもりだった。しかし、そこはまだ街や村になっていないから、鳳のポータルは恐らく使えない。そんなわけで、ガルガンチュアの村から新拠点まで物資を運ぶポーターを雇うことにしたのだが、ゲッコーがその役を引き受けてくれたわけである。

 

 だからゲッコーたちはこの村に待機して、鳳が物資を運んでくるのを待てばいいだけなのだが、どうも大森林がこんなことになってしまったせいで、本当に暇をしているらしく、頼んでもないのに率先して物資を運んでくれているようだった。レオナルドが、多少色をつけてくれたのも効いているらしい。

 

 そんなわけで、恐らく、鳳たちが北部の河川からオークを掃討し、拠点を作って帰ってくる頃には、ゲッコーたちはこの村にまた新たな物資を溜め込んでくれているだろう。非常に頼もしい助っ人である。

 

 討伐隊は、そんな彼らに補給を受けてから、いよいよ北へと向かった。

 

 拍子抜けの東部とは違い、北部ではすぐに戦闘が始まった。先程、マニがその習性を確認したときに利用したオークのコロニーである。その際に大分数を減らしていたことと、予め獣人たちが戦場を整えていてくれたことで有利に戦うことが出来、一人の犠牲者も出すこと無く遠征初戦は楽勝で終えることが出来た。

 

 しかし、こんなに早く敵に遭遇するなんて、先が思いやられる展開である。案の定、最初のオークの群れを退治してから、日没前、その日のキャンプ地を探して歩いてる最中に、もう次の群れを発見してしまった。

 

 距離はおよそ5キロ強くらいだろうか……人里ならまだしも、こんな間隔でオークの群れが密集しているとなると、この辺一体は既に壊滅状態であるとみて間違いないだろう。

 

 出来れば南の河川と同じく、生存者を発見、吸収し、拠点構築をしながら進みたいところだが、オークが水場から動かないという性質が判明している今、生存者がいるとしたら、川から離れた森の中のはずだから、捜索範囲が広がりすぎて非常に困難に思われた。

 

 しかしそういう条件下でも方法というのは探せばあるものである。鳳たちは大森林に関する二枚目の地図、レオナルドがオアンネス騒動の時に、書き込みをしながら使っていた地図を利用することにした。

 

 こっちは例の世界地図とは違って、全然正確ではなかったのだが、大森林を行商している商人から聞き取り調査をして制作されていたため、そこに書き込まれている村の位置はかなりあてに出来たのだ。

 

 それによると獣人の集落は決して河川の近くにばかり集中しているわけではなく、川から離れた森の中にも、結構広範囲に点在していた。そういった村がどうやって水を確保しているのかと言えば、なんらかの天災で自然にできた溜池などを使っていたり、崖から滲み出る湧き水を利用したりしているようである。

 

 だからもし、生存者がいるとしたら、川から離れてそれらの集落に避難しているはずであろう。

 

 そんなわけで、北部探索にあたって、討伐隊は部隊を4つに分けることにした。

 

 まずはたった今言及した通り、生存者は恐らく川から離れた場所に避難しているだろう。これらの村を効率的に回り、生存者に討伐隊の存在を知らせる役目を、森歩きに慣れていて身軽な、ギヨームを中心とした部隊に任せることにした。

 

 それから、北部から流れ込む河川の幅は広く、両岸のどちらへ渡るにもかなりの時間を要する。もし対岸にオークを見つけたとしても、川を渡る間に敵に発見されては元も子もないだろう。そのため、あらかじめ部隊を二つに分けて、片方が戦闘して敵をひきつけている間に、もう片方が川を渡って増援に向かうという戦法を取ることにした。この両翼をジャンヌ率いる冒険者部隊と、マニの率いる獣人隊とで担うことにする。

 

 そして最後に、これらの部隊の荷物を持ち、少し後から追いかける本隊兼サポート部隊を鳳が率いることにした。討伐隊の荷物はコンパクトに纏められているとはいえ、およそ30日分の食料を背負って歩くのは効率的ではない。逆流するとは言え、河川は幅も広く流れも穏やかなので、船を使って運べば少数でもなんとかなりそうだった。

 

 本隊にはルーシーも待機しており、もしも前方で戦闘が起きたら、鳳がレビテーションを使って彼女と駆けつける予定である。こうして鳳のクラウド魔法とルーシーのバフで、オークと有利に戦うつもりだ。メアリーは万一の遭遇戦に備えてギヨーム隊に配属している。彼女も空を飛べるから、必要ならギヨームの役に立ってくれるだろう。

 

 隊を分けたらジャンヌが仲間になりたそうにチラチラ見ていたが、この配分しかあり得ないだろう。因みに鳳を本隊に置いているのはちゃんと理由があった。実を言うと、彼しかパーティーチャットが使えなかったのだ。

 

『シーキューシーキュー……(ギヨーム)だ。地図に載ってた場所で避難民を発見した。村はピサロに襲われて壊滅していたが、オークの被害からは無縁みたいだ』

「生存者の数は?」

『だいたい30人くらいだ。子供が多い。ただ、川から追い立てられた野生動物もこの辺に逃げてきてるから、食うには困ってないようだ。大人がついてて特に切迫した様子もないから、暫くはこのままここに居てもらったほうがいいだろう』

「わかった。じゃあ、避難所が出来たら迎えに来るって言っておいて」

『了解』

 

 ギヨームとのチャットを終えると、すかさずジャンヌから連絡が入った。

 

『白ちゃん白ちゃん! オークを発見したわ!』

「すぐにマニに連絡する、そのまま待機しててくれ」

『ごめん! 見つかっちゃったわ。もうすでに交戦中よ!』

「ちっ……すぐ向かうから、無理はしないでくれよ? ……マニ! 聞こえるか? どうぞ!」

『……こちら獣人隊。敵ですか?』

「対岸で既に戦闘中らしい。急行してくれ!」

『わかりました』

「頼んだ! ルーシー! 俺たちも行くぞ」

「うっ……ちょ、ちょっとまって、あれ結構怖いっていうか、高いっていうか、なかなか慣れないんだけど……って、きゃあああーーーっっ!!」

 

 鳳はチャットを終えるとすぐにルーシーの手を捕まえて空へと飛び上がった。船に残った冒険者達がぽかんと彼らを見上げている。

 

 レビテーションの魔法は以前も説明した通り、重力操作ではなく、圧縮された空気の層の上に乗っかるようなものである。垂直に立ったままだと空気抵抗を受けられなくて落下するから、腹ばいの状態で空に上がる。口で説明すると不自由そうだが、空気の層とは要するに流体だから、感覚的には波乗りをやっているようなものだった。

 

 だからある程度慣れてくると、サーフィンのように風に乗って滑空したりと、結構自由に空を泳げるのであるが、生まれてこのかた、海や川で泳いだことのないルーシーは、勝手がわからずにかなり怖いらしかった。

 

 鳳が、怖がるルーシーを引っ張りながら飛んでいくと、眼下にオークと応戦している冒険者たちの姿を発見した。彼はスピードを緩めながら、そのまま上空でスタンクラウドの呪文を唱え、オークを無力化する。

 

 それに気づいたジャンヌとサムソンが突進し、開いたスペースに着地すると、痩せても枯れても賢者の弟子であるルーシーが落ち着きを取り戻し、すかさずバトルソングを歌い、それによってステータスが上昇した冒険者達がオークの群れを押し返し始めた。

 

 間もなく、対岸から渡ってきた獣人部隊も加わって、オークはどんどん数を減らし、ついに完全勝利した。こんな具合に討伐隊は、河川を遡りながら、魔族によって奪われてしまった獣人の土地を取り戻していった。

 



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力の代償

 ガルガンチュアの村を出発した討伐隊は4部隊に別れ、オークを片付けつつ北上していった。東部遠征が肩透かしだった反動か、予想通りこの流域にはかなりのオークが流れ込んでいるようだった。

 

 それにしても何故、オークは川の合流点を勇者領ではなく、帝国のある北方へ向かったのだろうか。考えられるのは川の流れる方向で、勇者領は下流で北部は上流に当たることだろう。

 

 オアンネスは魚人と呼ばれる通り、魚の遺伝子を持っているから、もしかすると繁殖のために川を遡上する習性があるのかも知れない。そう考えれば、山を越えてこちらの河川流域にまでオアンネスがやってきたのも頷けるだろう。ネウロイが現在、どうなってるのかは分からないが、オアンネスは落ち着いて出産できる場所を求めて川を上り、ついに獣人のテリトリーにまで侵入してきたというわけだ。

 

 そのオアンネスから生まれたオークもまた、繁殖のために川を遡上する習性を持っているなら、彼らが上流に向かっていった理由にもなる。まあ、そんなのはただの憶測に過ぎず、実際、それが半分間違っていたことは、すぐに判明するのであるが……

 

 北部流域に入ってから一週間が経過した。

 

 その間、討伐隊は毎日必ず一度はオークとの戦闘を経験していたために、進軍は非常に遅々としたものに変貌していた。これまでは日に20キロ進んで、まだ余裕があるくらいだったのが、今は10キロ進めば御の字というペースである。

 

 これは取り立てて道が歩きにくくなったわけではなく、寧ろ、河原は歩きやすいくらいだったが、毎日オークと戦闘するため、その戦後処理に時間がかかったのだ。

 

 魔族の死体など墓を作ってやる必要もなく、放っておけばそのうち野生動物が分解してくれるはずなのだが、獣人たちはその死体が汚れを呼び寄せると信じていたため、そのままにしておくのを嫌がったのだ。

 

 実際、腐敗した魔族の死体が河原を汚染する可能性は否定出来ない。彼らはこの森で暮らしているから、生態系の変化に敏感なのだ。郷に入りては郷に従えという言葉もあるし、そんな彼らが言うのであれば、従わないわけにはいかないだろう。

 

 そんなわけで討伐隊は戦闘後、倒したオークを1箇所に集めると、内臓を取り出して川に捨て、残った死体を可能な限り燃やすという処理を毎回行った。いちいちそんな処理をしているわけだから、夕方ならばそのままキャンプを張ればいいが、午前中だと進軍を犠牲にするしかなかった。

 

 これがまた思わぬ副作用を招いた。

 

 川を行く本隊は、そんなわけでペースを落としていたのだが、それとは関係ないギヨームの捜索隊はいつも通りのペースで進めるわけだから、気がつけば広範囲を歩き回ってるはずの彼らのほうが、本隊よりもだいぶ先行してしまっていたのだ。

 

 彼らは今のところ一度もオークと遭遇していない。だが、これからもそうとは言い切れないだろう。そんなわけで、ギヨーム隊を一時本隊と合流させ、鳳はこの近辺に最初の避難村を作ることにした。そして本隊が先に進んでいる間に、ギヨーム隊には今までに見つけた避難民を呼んできてもらい、ついでに後方のガルガンチュアの村から、物資をここに運び込んでもらおうということである。

 

 高台に登り、適当な場所を見繕って隕石を落とし、飛んできた土砂をケーリュケイオンに吸い込んでから、クレーターになった地面を均す。いつ見ても豪快な鳳の起こす奇跡を前に、討伐隊の面々から感嘆の声が上がった。

 

 ところが、トラブルというのはいっぺんにやってくるもので、この最中にまた面倒なことが起きた。なんと地面を均していた鳳が、突然、何の前触れもなくパタリと倒れてしまったのである。

 

 突然の出来事に泡を食ってパーティーメンバーが駆けつける。しかしいくら調べても鳳の体に異常は見つからない。状況がつかめずに右往左往する討伐隊の面々は、その日は何の作業も手がつかず、無為な時間を過ごしてしまった。

 

 因みに心配された鳳の容態であるが、翌日になったらケロリと回復してしまった。心配かけてすまないと弁明する彼によると、どうやらMP切れを起こしたらしい。

 

「MP切れだって……? ああ! そう言えば、MPが枯渇すると、気絶してしまうんだったな。普通は、人間がMPを切らすことなんてないから、全く思い浮かばなかったぜ」

 

 ギヨームは舌打ちし、心配して損したと管を巻いている。鳳は苦笑いしながら、

 

「実はケーリュケイオンって、結構ごっそりMPを消費するんだよね。ほら、ここんとこ戦闘が続いてただろう? それを忘れてて、うっかり切らしちまったんだ」

「ちゃんとMP管理しとけよ。ステータスを見るだけだろう?」

「一応、そうしてたつもりだったんだけどね……」

 

 鳳は高INTのため、一度の魔法にかなりのMPを消費する。だからいつもMPがカツカツだったのだが、それを回復するには阿片やモルヒネなどのドラッグに頼らねばならないという制約があった。

 

 MPが殆どなかったころは、寧ろ楽しみで吸っていたくらいなのだが、こうしてMP回復手段として日常的に使用するとなると、これが厄介な問題になった。MPを回復しようがしまいが、ドラッグを使えば薬物中毒になるのは変わらないのだ。

 

 一応、MPは自然回復もするのだが、一晩寝ても回復するのは60程度……これは鳳が古代呪文を一回使う分にしかならず、今のように日に二度も戦闘が起きてしまうと、あっという間にMPは尽きてしまう。かといって、それを補うために薬物を乱用すれば、廃人まっしぐらという危険性があった。

 

 鳳はため息交じりに呟いた。

 

「しかしMPってなんなんだろうね。古代呪文はどうやら高次元からやってくる、第五粒子(フィフスエレメント)エネルギーを利用しているわけだから、その受容器官である脳を酷使するのは分かる。でも、その酷使した脳を回復する手段が、危険ドラッグってのはちょっとおかしいよな。これって回復するよりは寧ろ、脳内麻薬を異常分泌させて活性化させるものだろう? だからこそ廃人になっちまうわけだし。脳を回復のためにその脳を酷使するなんておかしいから、MPってのはもしかすると、エネルギーを得るために払う対価のようなものなのかも知れないな」

「そんなの俺に聞かれてもな。それより、配置転換だ。MPが使えないんなら、おまえが本隊にいる必要はないだろう。メアリーと代われよ、あいつなら薬物中毒になる心配もないんだろう?」

「そうなんだよ。神人は超回復があるからか、せいぜい気持ち悪くなるだけで、依存症になったり体に異常を来したりしないみたいなんだよ。ずるいよなあ、俺はこんなに苦労してるっていうのに……消費MPも、メアリーは一回の魔法に俺の半分しか使わないんだぜ? INTは俺よりは低いけど、その差は4しかないくせに。なんでこんなに違うんだろう。やっぱ、神人は古代呪文を使うための体になってるとか、そういうことかね」

「だから知らねえって。そう言うのはレオとやってくれよ。ジジイなら喜んで付き合ってくれるだろうよ」

「まあ、そうだろうな」

 

 鳳は肩をすくめると、仕方ないとギヨームの提案を受け入れた。

 

*******************************

 

 そんなこんなで、鳳の消耗が激しいのもあって、配置換えを行った討伐隊は、改めて北上を再開した。ギヨームの捜索隊に鳳が合流し、メアリーは兵站を兼ねた本隊に陣取り、戦闘が始まったらルーシーを連れて飛んでいく係である。

 

 二人を入れ替えただけなんだから何も変わらないじゃないかと思いきや、これが意外とそうでもないのだ。と言うのも、討伐隊は部隊間の連絡に、鳳パーティーのチャットを利用しているわけだが、このチャットは何故か鳳以外のメンバー同士では通じないため、常に彼が中継役として話に加わらなければならなかった。

 

 そのため本隊から離れて行動しているのに状況だけは伝わってくるから、内容次第ではソワソワせざるを得なかった。例えば、獣人隊が交戦に入ったと聞いて、ジャンヌ隊と本隊に連絡を入れるとする。ジャンヌもメアリーも、了解と返してくるわけだが……たまに暫くして、メアリー辺りから、

 

『ごめん、ツクモ。みんなの姿が見つからないよ。どの辺にいるの? って伝えて』

 

 などと連絡が入ろうものなら、居ても立ってもいられなくなって、今すぐ飛んでいきたい衝動に駆られるわけである。

 

 そんな時は気もそぞろで周りが見えてないせいか、よくギヨームに怒られた。

 

「あのなあ、鳳。全体が見える位置にいるからわからなくもないが、リーダーが何でもかんでもやろうとすんなよ。そうしたいんなら、最初から隊を分ける必要なんて無かっただろう。一度任せたんなら、相手を信用して最後まで任せろ。じゃなきゃ、誰も責任を持って行動しなくなるぞ。リーダーはもっとどっしりと構えてろ」

 

 全くぐうの音も出なかった。ギヨームの言うとおりだと反省しつつ、ハーブを食みながら探索に集中する。

 

 鳳がそんな情けない姿を晒しつつも、配置転換後は特にトラブルもなく、討伐隊はどんどん北上していった。犠牲者は全く出なかったわけではないが、それも想定範囲内といったところで、概ね順調にオーク討伐は進んでいた。因みに、アントンも未だ健在であったが、流石にきつくなってきたのか、今は前線ではなく、本隊で荷物を運ぶ役を負っていた。それを不甲斐ないとボヤいていたが、彼がどんなに悔しくてもそう判断せざるを得ないくらい、状況は悪化の一途を辿っていたのだ。

 

 討伐隊が北上するにつれ、戦闘回数もどんどん増えていった。流域に入って、最初のうちは日に1~2回の戦闘がある程度だったが、それが次第に2~3度となっていって、目的地の川の合流点に到着する頃には、ついにオークと戦っていたら、別の群れが気づいて加勢に来るなんていう状況にまでなってしまった。

 

 こうなるとこの先にどれだけの魔族がいるのか想像もつかなかった。流石にどこまでも増え続けるとは思えないが、今のところ減る兆候は見られなかったから、このまま何も対策をせず漫然と進み続けるのは自殺行為だろう。

 

 鳳はそう判断すると、ここから先はこっちから向かっていくのではなく、敵をおびき寄せながら、少しずつ片付けていこうと提案した。当初の予定通り拠点を構え、ここを中心に少しずつ活動範囲を広げていこうという作戦だ。

 

 作戦を伝えると、そろそろ彼らも限界を感じていたのか、冒険者たちは一も二もなく賛成してくれた。獣人たちの間からも一切不満の声が聞こえなかったのは、もうここに来るまでに、血気盛んな者たちが犠牲になってしまったからだろうか。いつの時代も、最後に生き残るのは臆病者なのだ。

 

 オークは本当に河川から遠くに離れることが無かったため、ギヨームの捜索隊に編入していた鳳はMPを完全回復することが出来ていた。そんなわけでいつものように、避難村を作るべく適当な場所を探そうと、高台を探している時だった。

 

『ツクモ! なんか様子がおかしいの……すぐ上にあがってきて!?』

 

 その高台を見つけるために、上空にあがってもらったメアリーからそんなチャットが舞い込んできた。どうしたんだろうと見上げれば、メアリーはかなり上空まで上がってしまったのか、米粒みたいに小さく見える。

 

 無駄なMPを消費したくないから頼んだわけだが……何もそんなに上がらなくてもいいのにと思いつつ、言われたとおりにレビテーションの魔法で上空へと上がっていくと、彼女はそんな鳳の姿を見つけるなり、手招きしながら北の方角を指差した。

 

 その指の先を見たとき、鳳はあれ? っと違和感を覚えた。何だか森がおかしな形をしているように見えるのだ。そして変だなと思いつつ、メアリーと同じ高さまで上がっていったとき、彼はその違和感が何なのかを知るのだった。

 

 地平線の向こうに隠れていてよく見えなかったが、上空へ上がっている最中、彼はまるでスプーンで掬われたかのように、森が抉れてるような感じがしていたのだ。それは見間違いではなく、全体を見渡せる高さまで上がって来たとき、彼の目に飛び込んできたのは、まるで巨大なナメクジでも這いずったかのように、森の木々がなぎ倒されて、むき出しの地面が覗いているという、無残な光景だった。

 

 そのナメクジが這いずったような痕は何本もあり、それは川に沿って北方へと向かって続き、また水平線の向こうに消えていた。

 



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開戦

 鳳たちが大森林の異変に気づいた頃、勇者領ではヘルメス戦争が新たな局面を迎えようとしていた。数々の帝国の挑発により、ようやく重い腰を上げた連邦議会によって、いよいよヘルメス遠征の号令がくだされたのだ。

 

 嵩む戦費や交易への悪影響から、半ばイヤイヤやっている議会に対し、先の勝利を受けて勝ち馬に乗ろうとしている国民の方は、意外に戦意が高かった。そのため、外国遠征にも関わらず、かなりの数の兵士が集まった。

 

 捲土重来を目指すアイザック11世は、この余勢を駆って帝国へとなだれ込みたいところであったが……いかんせん、帝国と勇者領の間には、広大な大森林が広がっている。ここを通って帝国入りをするのは、知っての通り無謀と言わざるを得なかった。

 

 単純に道が狭すぎて大軍が一度に通るのは不可能なこと。出口には帝国軍が待ち構えており、突破するのは至難の業であること。それを突破したところで、今度は兵站を切られる心配があること。先のアルマ国の攻防戦では、帝国はこれが弱点となって撤退を余儀なくされた。なのに勇者軍が同じ轍を踏むわけにはいかないだろう。

 

 しかし他に道があるのかと言えばそんなものはなく、勇者軍は余勢を駆って挙兵はしたものの、中々帝国に攻め入ることが出来ずに手をこまねいていた。

 

 大軍を動員するには大金がかかり、このまま領内で燻っているだけでは金の無駄であるから、解散するのも時間の問題だろう。勇者軍は税金で運用されているから、厭戦感情が広まるのも早いのだ。案外、帝国もそれがわかっているから、あえて挑発しているのかも知れない。賠償金が取れなくても、戦費で赤字を垂れ流すよりはマシであると、連邦議会が根負けするのを待っているのだ。

 

 無論、そんなことは許せるはずはないから、なんとしても帝国に一泡吹かせてやりたいのだが、中々そのための作戦が見つからなかった。森歩きに慣れているトカゲ商人などを頼れば、街道を行かずに帝国に侵入することも可能だろうが、もちろん大軍を動かすのは無理だろう。ならば、少数でヘルメス入りして内部から撹乱しようかという案も出たが、森と違って平野部でそんなことをしても、すぐに鎮圧されるのが落ちだった。

 

 帝国にはヘルメスだけではなく、他にも4つの国がある。海路を通じてそれらの国を急襲してはどうかという案も出たが、襲撃以前に、まず軍艦という概念が無いのでどうしようもなかった。海洋国家のくせに意外かも知れないが、そもそもこの世界で外洋交易を積極的に行っているのは勇者領しかなく、軍艦なんてものは必要なかったのだ。

 

 護衛艦もないのに大量の兵士を運ぶなんて危険過ぎるから、こうして海を渡る案は却下されたわけだが……しかし、これらは作戦立案のヒントにはなった。

 

 先のボヘミア砦での活躍を評価され、正式に勇者軍の将軍として就任したヴァルトシュタインは、戦時特例として連邦議会に経済封鎖を依頼した。

 

 神人領主を中心とする農奴社会という前時代的な国体を取っている帝国は、勇者領と比べて圧倒的に経済基盤が脆弱だったのだ。

 

 実は大陸西側航路を通じて、勇者領はボヘミアやそれを管理するセト国と交易があり、それを止めてしまうと、帝国はあらゆる物資が不足するという弱点があった。帝国経済を回しているのはボヘミア北部から産出する銀であり、建前上は国交断絶している両国は、新大陸を通じて繋がっていたのだ。

 

 また、農奴制であるから、これだけ戦争が長引けば、食糧事情に影響が出るのは必然だった。折しも現在は収穫の秋。帝国は懲罰的にヘルメスから兵をかき集めていたが、皮肉にもそのヘルメスこそが、帝国の広大な食料庫だったのだ。

 

 働き手を失っていたヘルメスでは収穫の秋を迎えても人手が足りず、また例年より作付面積が少なかったこともあって、畑はどこもかしこも不作となり、とても全ての帝国人の胃袋を満足させるほどの収穫は見込めなかった。

 

 そこへ来て、勇者領からの経済封鎖を受けた帝国では、穀物相場が異常な高値をつけ、その影響をもろに受けたヘルメスでは、間もなく飢饉が始まろうとしていた。

 

 自分たちは何も悪くないのに、金もなくなり、食料もなくなり、おまけに戦争にまで駆り出される。元々、帝国内でも勇者派の色が濃いヘルメスの民衆は、こんな目に遭ってまで、何故帝国のいいなりにならねばならないのかと考え始めていた。

 

 そんな時、彼らの耳に、アイザック11世が凱旋するという噂が流れてきた。彼が大軍を率いて帰ってくるというのだ。現に、勇者領では今、帝国へ向けて挙兵が始まっているという。先の戦争で国土を荒らされた勇者派が激怒して帝国へ雪崩込もうとしているのだ。これはヘルメスの人々にとっては、寧ろ解放軍のように思えた。

 

 帝国の将兵はそんなのはただの虚仮威しで、勇者軍はそもそも大森林を抜けることすら出来ないと言った。しかし、それならどうして帝国軍は勇者領へと入り、そして逃げ帰ってきたと言うのか。彼らが言うのは劣勢に立っている者の詭弁ではないのか。生活が困窮し始めたヘルメスの民衆は、勇者軍を待ち焦がれていた。

 

 一方その頃……領内にそんな空気が醸成されている中、アイザック11世は本当にヘルメス領へと帰っていた。

 

 帝国軍が警戒している南の大森林を通るのではなく、ボヘミアを通って帝国軍の北側へ出た彼は、新たに得た副官テリーを近隣の村々へと走らせた。ヘルメス人である彼の親兄弟、親戚縁者をフル動員して、アイザック帰還の噂を流すためだった。

 

 雌伏の時を経てヘルメス卿が帰ってきた。このまま帝国支配が続けばヘルメスの民は疲弊するばかり。かくなる上は一斉蜂起して、我々の王を迎え入れよう。

 

 噂は野山を駆け巡り、あっという間にヘルメス中へと広まっていった。そして不遇をかこっていたヘルメスの民は、実際にそこにアイザック11世の姿を認めると、帝国への不満を爆発させて、一も二もなく彼に味方するのであった。

 

 まさか外からではなく内側、しかも警戒している南ではなく北で起きた領民の蜂起に、帝国軍は慌てふためいた。ヘルメス卿がここまで大胆な行動を取るとは思いもよらず、完全に後手に回った帝国軍は、それでもすぐに反乱鎮圧のための軍を差し向けようと編成を急いだ。

 

 一斉蜂起したのは所詮は農民、ろくな武器も無ければ練度も足りない。人数的にも帝国軍の方が圧倒しており、負ける要素は何一つなかった。

 

 にも関わらず……帝国軍は間もなく、反乱鎮圧の部隊を差し向けるのではなく、最前線フェニックスの街からの撤退を開始したのであった。

 

 何故か? それは地理的な状況がそれを許さなかったからだ。

 

 ヘルメス国は東西に細長い国である。帝国軍は勇者軍を阻止するため、その最西端に布陣していたわけだが、裏を返せばそこはヘルメス国の最奥部であり、もしもこのまま反乱が続けば、帝国軍は敵地で孤立する恐れがあった。

 

 反乱は小規模で、確かに吹けば飛ぶようなものだった。だが、その背後にはボヘミアの山が控えており、反乱軍はいくら蹴散らされても、そこへ逃げ込めば何度でもやり直しが効いたのだ。

 

 アイザック帰還の噂は既に国中に広まっており、もしもここで反乱鎮圧に手こずれば、他の地域でも反乱が相次ぐ恐れがあった。故に帝国軍はその芽を潰すためにも、後退せざるを得なかったのだ。

 

 こうしてアイザック11世は、一軍も率いることなく、まんまとヘルメス国へと凱旋したのであった。

 

 彼は帝国軍が本拠を置いていたかつての自分の離宮を取り戻すと、間もなく、街道を通って勇者軍が合流した。アイザック11世の叛乱から始まり、勇者領を巻き込んで半年も続いたヘルメス戦争は、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

*************************************

 

 アイザック11世の帰還に帝国軍は動揺していた。まさか、一度はあそこまで追い詰められた彼が、また故郷の土を踏むとは誰も思いもよらなかった。特に帝国軍内のヘルメス出身の兵士の動揺は激しく、彼らは故郷の領主への忠誠と帝国へのそれとで板挟みになったのか、脱走が相次いだ。

 

 このままでは、いざ戦闘になっても役に立つかどうかわからない。帝国は慌てて徴兵を開始するが……そこへ思いもよらぬ横やりが入った。セト国が不参戦を決め込んだのだ。

 

 そんな裏切り行為が許されるはずもなく、セト国は強烈な非難を受けた。しかし彼らには、いくら責められても引けぬ事情があった。元々、セトは大陸の北部に位置し、ボヘミアと隣り合っているだけあって山がちで、土壌が貧弱であった。幸い、ボヘミアから銀が産出するため経済的には恵まれていたが、逆に羽振りがいいため国内の開墾はおろそかになり、食料を外国からの輸入に頼っていたのだ。

 

 ところが現在、帝国の食料庫であるヘルメスは飢饉で、他国も自分たちが食べるので精一杯である。こうなるとセトは勇者領との交易が大きすぎて動けなかったのだ。

 

 無論、他国がセトに援助してくれるというなら、彼らだって裏切りたくはない。だが、その3国だって、平時ならヘルメスから供給される食料を失い、新大陸からの物資も断たれたとあっては、そう長くは持たないだろう。

 

 戦争が続く限り、勇者領からの経済封鎖は続くはずだ。セトは不参戦を表明することで、自分たちが食べていく分の交易を許されているのだ。それでも他の3国は、セトに食わずに死ねと言えるのか。そう言われてしまうと、彼らはそれ以上強く出れなかった。

 

 経済オンチというか、それに全く興味を示さなかった神人たちは、この時はじめて勇者領との決定的な差を知ったのである。

 

 さて……これによって、他の3国、カイン・ミトラ・オルフェウスが自らの行いを反省し、不易な戦争はもうやめようという厭戦ムードに傾いていったかと言えば、寧ろそれは逆で、彼らは自分たちの不甲斐なさ、そして見下していた人間に負けたという悔しさから、怒りの炎を燃やすのであった。

 

 こうして帝国の威信をかけて多くの神人が出陣し、ヘルメス国へと集結してきた。使い物にならなくなったヘルメス兵を後方に配置して反乱への抑えとし、新たに神人兵を核として再編成した帝国軍は、ヘルメス国中央の穀倉地帯に布陣し、勇者軍の東方への進出に備えた。

 

 対する勇者軍は、思いがけず神人を大量投入してきた帝国軍を前に、少々動揺の色が隠せなかった。戦争とは外交の一手段であり、だからこそあらゆる政治的努力の最後に行われるわけだが……敵の力を少しでも削ぐための経済封鎖が、まさかこんな風に裏目に出てしまうとは、流石に誤算であった。

 

 とは言え、帝国へ戦争を仕掛けているのだから、当然神人兵に対する備えは用意していた。ヴァルトシュタイン率いる勇者軍は、ヘルメス領に入ると後詰めをアイザックに任せて東へ進軍。ボヘミアから大森林へと流れる大河の西側へ布陣し……その対岸に、帝国軍が陣取った。

 

 戦闘は一発の銃声から始まった。

 

 大河の両岸に陣取った両軍は、渡河のリスクを嫌って互いに動きが取れなかった。そこで帝国側は神人による古代呪文で勇者軍の前衛を襲い、勇者軍は全軍に装備させたライフルと、現代魔法の使い手による呪術合戦を行った。狂気(インサニティ)の魔法による、SAN値削りである。

 

 インサニティは効くか効かないかはその時の状況次第、わかっていれば大して効果はない魔法であるが、かと言って一度SAN値が下がってしまうと簡単には回復せず、ゼロになれば恐慌状態に陥り戦闘不能になる。更にはレベルダウンのおまけがつくため、本来なら古代呪文で一方的に攻撃できるはずが、お互いに射程を確かめ合いながら戦うという尋常の勝負に持ち込まれ、帝国軍は臍を噛んだ。

 

 とは言え、古代呪文の使い手が少ないならば、現代魔法の使い手も少ないため、帝国の威信をかけて多数の神人が参戦している今、探せば弾幕の薄い場所は必ずあった。

 

 帝国軍は呪術合戦で相手術士の場所を特定し穴を見つけると、そこに戦力を集中、神人の身体能力をもって渡河攻撃を仕掛け、勇者軍呪術部隊を掃討し一気に決着をつける奇策に出た……勇者軍が呪術合戦で神人兵の動きを封じていると、突然、上流から何艘もの小舟が流れてきたのだ。水上からの攻撃に警戒するも、見れば小舟には誰も乗っておらず、小舟はただ漫然と流れ行くのみ。一体、帝国は何をしたいんだろうか……? と首をひねる勇者軍であったが、その理由はすぐにわかった。

 

 50メートルはあろうかという川幅を、神人たちが上流から流した小舟の上をひらりひらりと伝い、あっという間に駆け抜ける。その常識はずれの動きが奇襲となって、勇者軍の一角が脆くも崩れ去った。そして神人たちは持てる神技の全てを駆使して、勇者軍の兵士をばったばったとなぎ倒していった。

 

 身体能力で圧倒する神人たちに食いつかれてはもはやなすすべもない。勇者軍は乗り込んできた敵に向かって必死の応戦を行ったが、ただの鉛玉では効果を上げられず、銀の剣を抜刀した者は、見つけ次第集中して狙われた。彼らが本陣へと肉薄するのは時間の問題と思われた。

 

 しかし、その時だった。そんな神人兵が目指していた後方の本陣から、山なりに何かが発射された。短い砲身からポンと打ち出された花火のような炸裂弾が、渡河してきた神人たちの頭上へ打ち上げられる。そして導火線によって着火した玉が頭の上で弾けると、降り注いできた何かによって、彼らの体にぶつぶつと穴が空き、そこからジュウジュウと音をたてて煙が上がったのである。

 

 突然の出来事に戸惑う神人たち……その時、誰かの「銀だ!」という叫び声を聞いて、彼らは何をされたのかに気がつくと、あんなに颯爽と現れた神人たちは、泡を食って来た道を戻り始めた。あまりに慌てすぎたのか、中には小舟の上でバランスを崩し、無様に川に転落する神人もいた。

 

 これがヴァルトシュタインの用意しておいた、対神人用の秘策であった。彼はアイザックとその部下に聞いた、追い詰められたピサロが放った最後っ屁から、これを着想したのだ。

 

 神人は不老非死であり、ちょっとやそっとのことでは死にもしなければ怪我もしない。だが、だからこそ彼らは、自分たちの体が少しでも傷つくことをひどく恐れるのだ。

 

 神人を撃退するには圧倒的な火力で叩きのめすのではなく、銀の散弾などで傷をつけて、もしかして死ぬかも知れないという恐怖を植え付けてやる方が効果的というわけである。自分の体に醜い穴が空いた彼らは、それを見ただけで戦意を喪失し、戦線離脱していくものが多かった。

 

 この新兵器の登場が契機となり、今度は勇者軍の攻勢が始まった。彼らは神人が背中を見せたのを好機と見るや、高ランク冒険者を率いた指揮者スカーサハが、手薄な側面を突くべく下流の河川敷に姿を表した。

 

 そうはさせじと帝国軍も水深の浅い渡河地点に殺到し、両軍が入り乱れる乱戦が始まった。

 

 両軍は川の中ほどでぶつかり合い、水しぶきが上がり視界不良の中、剣と剣がぶつかり合う音だけが戦場にこだまする。

 

 乱戦は当初、戦い慣れている冒険者たちが帝国の農兵を圧倒していたが、やがて神人兵がその農兵に紛れて参戦すると、また帝国軍が押し返し始めた。

 

 本来、人間の間に入ることを厭う神人が、なりふり構わず農兵に混じって現れるなど想定外すぎて、思わぬ奇襲を食らった勇者軍の精鋭たちが崩れる。しかし、勇者軍もさるもの、スカーサハのバトルソングでそのステータス差を埋めると、高ランク冒険者たちは期待以上の働きをして、神人兵に肉薄した。

 

 戦闘は一進一退の攻防が続き、どちらも決め手にかけるまま、長い時間だけが過ぎていった。膠着状態のまま時が過ぎ、やがて西の空が赤みがかってくると、両軍の司令官はお互い消耗を避けて、そろそろ引き際を探しはじめた。

 

 このまま夜戦になったら、どちらが勝つかまるでわからない。ただの消耗戦を続けるよりは、今日は一時撤退し、明日に備えたほうがいいだろう。ヴァルトシュタインはそう判断し、頃合いを見計らって全軍に撤収の合図を送ろうとした時だった。

 

 突如、戦場の南に広がる大森林から、数万羽を越える鳥の群れが一斉に飛び立った。上空を覆う鳥の群れで、一瞬、戦場に影が落ち、まるで突然夜がやってきたかのように暗くなった。夕方を迎えて寝床に向かう鳥の群れは珍しくもないが、ここまでの数となると流石に奇妙と言わざるを得ない。そもそも、鳥たちの帰るべき場所はその大森林のはずなのに、逆に飛び出してくるのはどういう了見か?

 

 唖然とする両軍が、お互いに攻撃する手を止めて、異常を示す大森林へと目を向ける。

 

 すると鳥たちが飛び出してきた木々の向こう側から、何か地響きのような音が、ゴゴゴゴゴ……と音を立てて近づいてきて……その音がどんどん大きくなっていったかと思うと、今度は押し寄せる山津波のように、森の木々が次々と風も吹いていないのに倒れはじめたのである。

 

 本来、木がそんなおかしな倒れ方をするはずがなく、両軍が互いに相手の新兵器を疑って警戒していると、そのなぎ倒された木々の間から、今度は次々と蠢く巨大な影が飛び出してきた。

 

 ゴオーンゴオーンと腹の底から震えるような地響きを立てて、森から巨大なオークの集団が現れた。それはなぎ倒された木々の間から平原へと飛び出し、まるで浸透する水のように半円状に広がっていった。

 

 獲物を求め、血眼になったオークの群れが迫りくる。しかし、たった今まで人間同士の争いをしていた両軍は何が起きているのか理解が及ばず、まるで他人事のように、ぼんやりとそれを見守ることしか出来ずにいた。

 



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襲来

 耳をつんざく咆哮が、戦場に轟き大地を揺らす。人間はその声を聞いただけで、震え上がり足がすくんで動けなくなった。たった今まで敵味方に別れて殺し合っていたはずなのに、みんなそんなことは忘れてしまって、ただ南の森から現れた巨大で緑色をした異形を呆然と見つめていた。

 

 オークの軍団は森から飛び出してくると、そこに待ち構えていた人間たちに向かって、まるでデザートを見つけた子供のように無邪気に飛びかかってきた。何が起こっているかわからない哀れな人間が、そのまま何が起こっているか分からないまま死んでいった。

 

 オークの群れが満員電車から溢れ出す人混みのように、続々と森の中から飛び出してくる。飛び出すと言うより、噴き出してくると言ったほうが正しいだろうか、なぎ倒された森の木々の間でひしめき合い、弾けるようにポンと勢いよく平原に飛び出して、それは半円状に広がっていった。

 

 ドドドドド……っと山津波のように鳴動し迫りくる魔族の群れを前にしても、両軍は未だ一歩も動けずにいた。今起きていることは明らかに尋常ではないのに、お互いにまだこれは相手の罠なんじゃないかという考えが捨てられなかったのだ。その判断の遅れが犠牲者を増やしたのは言うまでもない。間もなく、オークの群れが人間たちの軍勢へ到達すると、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられた。

 

 オークに捕まった人々の悲鳴が飛び交い、怒号が響き渡る。オークは人間を捕らえるや、まるでか細い花でも手折るかのように、ポキポキと脊椎を折り曲げ、皮膚を切り裂き、四肢を引き抜いた。一瞬で死んだものはまだ良く、内臓を引き抜かれてまだ生きている者たちの泣き声が轟く。

 

 強烈な殺人劇を目の当たりにした兵士たちの背筋は凍りつき、それでようやく事態の重さを知るのであった。彼らは、これはもう戦争なんてしてる場合じゃないと悟ると、我先にと争うように逃げ出した。

 

 もはや陣形など留めていられるわけもなく、押し合いへし合いする兵士たちで戦場はぐちゃぐちゃになり、あちこちでドミノ倒しが起きた。逃げ遅れた人々に、容赦なくオークの豪腕が振り下ろされ、猛禽のようにあっという間に人をたいらげていく。

 

 勇敢なものが辛うじて踏みとどまり、手にした武器で反撃を行おうとするが、所詮、人間を殺すための武器なんかでは歯が立たず、無惨にもその生命を散らしていった。

 

 後方でそれを目撃していたヴァルトシュタインは、ようやく我を取り戻すと、混乱に混乱を極めた前線に向けて続々と伝令を送った。と言っても、とにかく今は逃げろとしか言いようがない。彼は青い顔をしている伝令将校たちに向かって、

 

「伝令!! 前線に伝えろ! 今はもう帝国軍なんて気にしてる場合じゃない! オークから離れて、とにかく逃げろと伝えるんだ!!」

 

 ヴァルトシュタインの戦場でもよく通る野太い声が響き渡ると、伝令たちもハッと我を取り戻し、気を引き締めるように復唱してから、前線に向かって駆けていった。

 

 ヴァルトシュタインは、とりあえず逃げろと言ったが、逃げた後どうやって巻き返せばいいのかと頭を悩ませていると……それを横で見ていた参謀のテリーが、何故か困惑の表情を浮かべながら言った。

 

「ヴァルトシュタイン将軍……質問していいですか? あれは……あの魔族はオークなんですか?」

「なにい!? こんな時になんだ! 見てわからないのか!?」

 

 次の作戦に脳のリソースを全振りしていたヴァルトシュタインは、テリーの些細な疑問に苛立ち、怒鳴りつけるように声を荒げた。しかし司令官の癇癪に慣れていたテリーは臆することなく、

 

「見てわからないから聞いたんです! 確かに私は取り立てて魔族とか魔物の種類に詳しくない。けど、オークというのは確かネウロイにだけ住むという、伝説の生き物でしょう? 司令官はそんなのものを見たことがあるんですか? 何故、あれがオークと断言出来るんですか!?」

 

 そう言われてヴァルトシュタインはハッと気がついた。

 

 テリーの言うとおりだ。彼もあんな化け物を見るのは始めてなのに、ほとんど迷うこと無くあれをオークと断言出来たのは、事前に鳳とアイザックの3人で情報交換をしたからだ。

 

 鳳が言うには、現在、大森林の中でオークが大繁殖しているらしい。本来ならそれは、獣人が食い止めるはずだったのだが、ピサロが邪魔をしたせいで対応が遅れ、魔族の侵入を許してしまった。彼はその露払いのために大森林に向かったようだが……

 

「あの野郎……」

 

 ヴァルトシュタインはギリギリと奥歯を噛み締めながら、帝国軍の本陣を睨みつけた。オークの大繁殖はピサロが引き起こしたことだ。それは間違いない。だが、彼がそれを面白半分にやったとは思えなかった。ピサロが獣人社会を引っ掻き回したのは、多分、帝国軍総司令官であるオルフェウス卿カリギュラに命じられたからだ。

 

 カリギュラが何故そんなことをしたのかは分からないが……彼と最後に会った時の会話を思い出す。魔王復活の兆候がある。人類は一つにならなければならない。そのために帝国が潰れるなら、潰れてしまえばいい……

 

「……この事態は、あいつの思惑通りだってのか? しかし、何故……!?」

 

 困惑するヴァルトシュタインのことを、テリーがじっと見つめている。彼は正しい命令を待っているのだ。

 

 どうする……? もしこの事態を引き起こしたのがカリギュラなら、彼がこのまま見逃してくれるだろうか。オークとともに、勇者軍を追撃してくるのではないか。それとも、帝国軍が犠牲になることすら彼の狙いなのか……

 

 ヴァルトシュタインは思い悩む……と、その時、突然前線の方から、彼の迷いを吹き飛ばすような歓声があがった。

 

 こんな絶体絶命の状況で、歓声が上がるなど不可解だ。慌てて声のする方を見れば、そこにはまるで人間たちを守るかのように、前に出てオークと戦う帝国神人兵たちの姿があった。

 

 彼らが友軍である帝国兵を守るのは当然かも知れない。しかしよく見れば、神人たちは敵味方関係無く、弱い人間を守るように迫りくるオークと対峙していた。

 

 それは単に、プライドの高い神人たちが魔族に背中を見せるのを嫌っただけかも知れない。だがそれ以上に、帝国本陣からそういう命令があったと考えるほうが、よほど妥当と思えた。

 

 帝国神人兵に助けられた勇者軍の兵士たちからも歓声があがる。その歓喜に満ちた声を聞いていると、ますます分からなくなっていった。

 

 カリギュラは、オークを呼び寄せて、それを神人に守らせているのか? だが、なんのために? 帝国のマッチポンプか? わからない……ヴァルトシュタインには分からなかった。

 

 だが、カリギュラが何を考えているか分からなくても、ただ一つ、誰にでも分かることはあった。帝国が味方であろうがなかろうが、相変わらず魔族は人類の敵である。

 

「伝令! もう一度前線に伝えろ! 余力のあるものは、神人たちの援護に回れ! ありったけの銃弾を撃ち続けろ! 意味がないと思うな、豆鉄砲でも当たりゃ痛いんだよ。オークどもに気持ちよく攻撃させるな!!」

 

 ヴァルトシュタインの命令を受けて、たった今帰ってきたばかりの伝令将校たちが、また慌てて駆け出していく。彼はその背中を見送ると、テリーにはスカーサハ隊への伝令を任せ、自分はありったけの銃弾をかき集めるために、後方の補給線へと駆けていった。

 

 神人がオークと戦い出すと、にわかに前線が落ち着き出した。

 

 元々、彼我の戦力差は圧倒的に人類が上だったのだ。オークは大軍と言えども、統率はされておらず、散発的に森から現れるだけの烏合の衆だった。慣れてしまえばそれは猛獣狩りをしているのと大差なかった。

 

 人間たちが神人に守られながら、十字砲火でオークの進撃を食い止める。帝国も勇者軍も関係なく、お互いに背中を預け、足りない銃弾を都合しあっていると、不思議な高揚感のようなものが生まれてきた。とてもさっきまで両軍に別れて殺し合いをしていたと思えないような連携で、人類は魔族を押し返していった。

 

 遅れて勇者軍の精鋭であるスカーサハ隊が合流すると、その傾向はますます顕著になった。スカーサハのバトルソングによって、神人に匹敵するような実力を得た冒険者たちは、人間の身でありながらオークと互角に戦い、そして彼女の現代魔法はただでさえ強い神人を更に強化した。

 

 いつも以上に漲る力を得て、神人たちが一騎当千の兵に変貌する。そんな神人の古代呪文エンチャントウェポンを受けた冒険者の剣は、やすやすとオークの硬い皮膚を切り裂いていった。すると、それまで一方的に押し込まれていた勇者・帝国連合軍は、逆にオークを押し返しはじめ、ついに魔族を森へと追い返し始めたのであった。

 

 ただ考えもなしに森から出ようとして半円状に広がっていたオークの群れが、人間たちによる半包囲陣形によって左右から挟撃を受けて、次々と倒れていく。ついに、神人でも冒険者でもない、ただの一兵卒の銃弾の前に倒れたオークを見て、誰もが勝てる……そう思った。

 

 だが、災厄というものはいつもこういう時に現れるものである。

 

 人類が最初の混乱から正気を取り戻し、魔族を押し返しはじめた正にその時だった。

 

 ズシン……ズシン……ズシン……と、地響きを立てて、森の奥から何かが近づいてきた。それは大群が立てるざわついた音ではなく、たった一つの何者かが立てているような、ゆっくりとして、そして信じられないくらい強い振動を伴った、足音だった。

 

 ズシン……ズシン……地面が揺れる度に、嫌な予感が人々の背筋を凍らせる。そしてそれまでは目の前の人類を、ただ捕食することしか考えていなかったようなオークたちが、音が近づくたびにまるで恐怖しているかのごとく、メチャクチャに暴れだしはじめた。

 

 そんな死にものぐるいで暴れるオークを抑え込もうと躍起になっていた時……人類はそれを目の当たりにした。

 

 夕日に照らされて真っ赤に染まった巨大な影が、森の木々の上からにゅっと突き出してきた。

 

 それは強烈な口臭を放ち、ギョロギョロとよく動く目を持った、巨大な顔だった。

 

 緑色の皮膚に、狭い額。鼻はぺちゃんこでただそこに2つの穴が開いている感じであり、悪臭を放つ口からは犬歯が四本突き出しており、下の2本が上の2本よりも長く伸びている。それは一見すると目の前にいるオークそのもの……巨大オークのものとしか思えなかった。

 

 だが、そんなことはあり得なかった。外縁部の森の木々は低いとは言え、それでも10メートルないし15メートルはあった。その顔はそんな木々を上から見下ろしながら、ズシン……ズシン……音を立てて近づいてくる。

 

 もしそれが本当なら下手なビルよりも大きいだろう。そんな巨大生物がこの世に存在していいはずない。ここは海の中ではなく、地上なのだ。

 

 なのに、それは確かにそこに二本の足で立っていた。体長20メートル近くはありそうな緑の巨人が、思いのほかしっかりとした足取りで、森の中からヌッと姿を現した。

 

 それはブクブクと肥え太った巨大な肉の塊みたいで、自らの肉の重さに耐えきれず、あちこちの皮膚がベロンと垂れ下がっていた。両足は短く、とは言え、人の背丈の倍はあり、対する腕は長く、直立したまま地面に触れそうだった。

 

 見た目はオークに見えるその巨体は、オークキングとでも呼べば相応しいだろうか。

 

 その奇妙な巨人を前に、人類は完全に思考停止に陥った。

 

 何故こんなものがここにいるのだ? 俺たちは夢でも見ているのだろうか? 夢なら早く覚めて欲しい。何故ならこんな悪夢、とてもじゃないが正気ではいられない!

 

 その時、突然、何者かが悲鳴を上げて吹き飛んでいった。何が起きたのだと、虚を突かれた兵士たちが我に返る。みんなその巨人を見上げていて、目の前にオークが迫っていることを忘れていたのだ。慌てて応戦しようとするが、ショックのあまり力が入らず、多くの兵士がそれで犠牲になっていった。次々と兵士たちが血祭りに上げられる。

 

 すぐに神人や冒険者達がそんな兵士たちの救援へと駆けつけた。それで崩壊しかけた前線は一時的に持ち直したが、しかし、それはほんの気休めに過ぎなかった。

 

 兵士たちをなぶり殺したオークを蹴散らした神人が、怒りに任せてそのままオークキングへと突っ込んでいく。

 

 どうせあんな巨体がまともに動けるとは思えない。俊敏な彼は、敵の攻撃をかいくぐり、その懐へと忍び寄れば、いくらでも勝機があると考えたのだ。しかし、それは考えが甘すぎた。

 

 次の瞬間、オークキングの脳天に剣を突き刺してやろうと飛び込んだ彼の体が、突然、水風船のようにパンと弾けとんだ。もはや原型すら留めておらず、血液のスープとなった彼の体が、シャワーのように辺り一面に降り注いだ。と、同時に衝撃波のような突風が辺りに渦巻き、人もオークも関係なく、立っている者全てをなぎ倒していった。

 

 オークキングはその見た目に反し、信じられない速度で飛びかかってくる神人を払い除けたのだ。鋼鉄ででも出来ているのだろうか、人一人を一撃で粉砕したというのに、その拳は傷一つ負っていなかった。

 

 神人は超回復があるとはいえ、ここまで一瞬で全身をぺちゃんこにされては、そんなものが機能するわけがない。次の瞬間、無慈悲な仲間の死を目撃した神人たちから悲鳴が上がり……そしてそんな神人を頼りにしていた人間たちもまた、パニックに陥って情けない悲鳴を上げた。大の男が泣きわめき、命乞いをし、腰を抜かして糞便を垂れ流している。そこにはもう、ほんのつい今まで、オークの群れと互角に戦っていた軍勢の面影はなかった。

 

 そんな帝国軍のパニックを受け、ここはもう持たないと考えたスカーサハは前線を維持することをやめて、冒険者達に撤退を命じた。逃げ惑う一般兵士たちを背後に見ながら、勇者軍の精鋭部隊が川の向こう側へと撤退を開始する。その背中を追って、勇者軍の逃げ遅れと、またそれを追うオークの群れが続いた。

 

*********************************

 

 一方、遠く離れた帝国本陣では総司令官であるオルフェウス卿カリギュラが、森から現れた巨大なオークキングを真正面に見据えていた。その冗談みたいな巨体は、遠くから見れば騙し絵のように滑稽に見えた。だが、その足元で繰り広げられている殺戮劇は、冗談で済むようなものではなかった。

 

 帝国本陣からため息が漏れた。このヘルメス戦争が始まってから、一体何人の神人が犠牲になったのだろうか。最初は勇者に、そして今度は魔族に……一体この戦争のどこにどんな利益があったというのか。ただ、(いたずら)に仲間を減らしただけの結果に、帝国軍参謀たちは意気消沈していた。せめてあの巨人がいなければ、まだ何とかなったかも知れないのに……

 

 それにしても、あの巨大な魔族はなんなのだろうか。どこから現れたのか。あれもオークなら、オークとは放っておくとあそこまで大きくなるものなのだろうか。だとしたら、南方ネウロイでは当たり前のように、あんな巨人がうろついているというのだろうか。

 

 いや、あんなのが沢山いるわけがない。もしもそうなら、300年前のように森を平らげ、とっくに人類を滅ぼしていてもおかしくないじゃないか。そう、300年前のように……参謀たちの脳裏に、最悪の言葉がよぎった……

 

 魔王……もしかして、あれが魔王と呼ばれるものなのか?

 

「ここはもう駄目です、我々も撤退しましょう」

 

 逃げ惑う神人兵を遠目に見ながら、不安そうに進言する参謀の声を受けて、カリギュラがゆっくりと頷いた。それを肯定の合図と見て、部下たちが我先にと蜘蛛の子を散らしたように散っていく。

 

 カリギュラはそんな部下たちがバタバタと逃げていく音を背後に聞きながら、自身はそこから一歩も動かず、オークキングを真正面に捕らえたまま立ち尽くしていた。背中が曲がり、杖に掴まらなければ立てないような白髪の彼がそうしていると、まるでしょぼくれた老人が諦めて死を迎え入れようとしているようにしか見えなかった。

 

 逃げようとしていた参謀の一人が、そんな彼に気づいて近寄ってきた。

 

「オルフェウス卿、ここは危険です。我々も早く逃げましょう」

 

 しかし、カリギュラは振り返りもせずに首を振ると、

 

「いいえ、私はここに残ります。あなたは早く行きなさい」

「何をおっしゃってるんですか! あれがもうすぐここへ来てしまいますよ。まさか、卿は死ぬおつもりですか!?」

「死ぬ……?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、それまで誰が声をかけても身じろぎ一つしなかったカリギュラの体がカタカタと震えだした。参謀はそれを見て、オルフェウス卿が死の恐怖に震えているのだと思った。だが、そんな予想に反して、カリギュラは突然おかしそうに哄笑をあげると、

 

「ハハハハハ! 私が死んで済むのなら、この生命などいくらでも差し出しますよ。そうではなく、私はあれを食い止めるつもりなのですよ。あれを呼び寄せてしまったのは、私の責任ですからね……」

「オルフェウス卿……? 何を言って……」

「さあ、あなたは早く逃げなさい。このままここに留まっていては、命の保証はありませんよ」

 

 笑いをこらえながら、カリギュラが涙を拭う。彼は深呼吸をして息を整えると、未だに彼の身を案じて立っている参謀をちらりと一瞥した。どうやら参謀は、カリギュラが逃げない限り、もうここから逃げる気は無さそうだった。

 

 彼はこんな善良な男を死なせるのは忍びないと思ったが、もはや何を言っても聞きそうもないなと諦めると、

 

「……そうですか。ならば、そこで最後まで見届けなさい。これより始まる、二匹の巨大な化け物の戦いを……!」

 



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変身

「……そうですか。ならば、そこで最後まで見届けなさい。これより始まる、二匹の巨大な化け物の戦いを……!」

 

 カリギュラが一息にそう言った瞬間……突然、彼のその曲がった背中に出来た(こぶ)がビクンビクンと動き出した。それはカエルの心臓みたいにビクビクと、正確に、それでいて素早く脈打っている。まるでその背中に別の生き物を飼っていて、今にも何かが飛び出してきそうだった。

 

 すると次の瞬間。洋服の布を引き裂いて、カリギュラの両腕がメキメキと巨大化しはじめた。それは彼の両腕の筋肉が怒張しているのではなく、文字通り巨大化と言ったほうが正しいような、ムクムクと細胞が分裂して膨れ上がっていくような、そんな変身だった。

 

 腕はそのまま、二抱えはありそうな巨木の幹くらいにまで膨れ上がり、その先端の指先から、今度は長くて鋭い、サーベルタイガーの犬歯みたいな爪がぐんぐんと伸びてきた。

 

 変身はまだ終わらず……間もなく、背中でビクビクと蠢いていた瘤がパンと弾けて、今度はその中から毛むくじゃらの何かが飛び出してきた。

 

 それは蛇のように長い首をもつ、ろくろ首だった。まるで破水して母親の胎内から出てきた赤ん坊のようにヌラヌラと光っている。前髪の張り付いた顔の真ん中には、巨大な1つ目がデンと鎮座しており、その周辺に小さな複眼がびっしりと並んでいる。耳は長く、鼻がなく、その長い首は鳥のような形をしていた。だが、そこに嘴はなく、代わりにげっ歯類のように鋭く巨大な前歯が覗いていた。

 

 弾けた瘤は、そのままカリギュラの体を覆い尽くし、腕と同じように細胞分裂して、体全体を風船のように膨らませていった。

 

 巨大化する彼の体はもはや人間の原型を留めておらず、前後に長いトカゲのような形をしており、実際にその背中には爬虫類のような硬い鱗がびっしりと生えていた。手足は短く、ティラノサウルスみたいなシルエットをしており、長い尻尾がムチのようにしなっている。首は鶴のように細長く、しかしその先にはげっ歯類のような異形の顔が乗っかっていた。

 

 やがて細胞分裂が終わると、そこにはまるで子供が絵に書いたようにメチャクチャで、それでいて人間に根源の恐怖を抱かせるような、巨大な生物が立っていた。様々な生物を継ぎ接ぎのように寄せ集めて作ったような、生物学的にはありえない、そんな異形の化け物が、遠くオークキングを見据えて奇妙な咆哮を上げる。

 

「GIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII!!!!」

 

 それは声と言うよりも、鼓膜を破るようなただの振動音だった。それを間近に受けてしまった逃げ遅れの帝国参謀が、三半規管をやられでもしたのか、目を回して四つん這いになりながら逃げていった。

 

 化け物はそんな彼の姿を見届けてから振り返り、遠くからこちらを凝視している緑の巨大なオークキングに向かって、その大きな口を開けると……カッ! っと強烈な光をまとったエネルギー弾が、その口からものすごい速さで飛んでいった。

 

 しかしオークキングが迫る光球をまるでハエでも払うかのように軽く払いのけると、逸れた球はそのまま地面に激突し、ものすごい爆風と共に、雲にまで届きそうな巨大な土柱を巻き上げた。

 

 ドドドドドドド……地響きを立て、直撃をくらった何体ものオークが吹き飛んでいく。あまりの衝撃に立っていられない人々が地面に伏せて、バチバチと空から降ってくる土塊から身を守っている。

 

 しかし、二匹の化け物はそんな周囲の状況などお構いなしに、互いに互いの敵を認めるようににらみ合い……次の瞬間、

 

「ウオオオオオオオオオオオォォォーーーーーーッッ!!!」

 

 っという咆哮と共に、オークキングの巨体が信じられないスピードで、帝国本陣にいる化け物めがけてすっ飛んでいった。

 

 ゴゴゴーーンンン……2つの影が交差すると、まるで工事現場の鉄骨がぶつかり合ってるかのような音が鳴った。とても有機物の肉体を持つ生物同士が出すような音には思えない。彼らが一撃、一撃、繰り出すごとに、そんな異常な音が戦場に轟いた。

 

「きゃあっ!」

 

 その衝撃波を受けて耐えきれなくなった馬が、鞍上のスカーサハを振り落として一目散に逃げていった。河川敷に投げ出された彼女を抱き起こそうとして勇者軍の精鋭達が駆け寄ってくる。しかし彼女は差し出された手には見向きもせず、ただ一点を指差しながら、驚愕の表情を浮かべていた。

 

 腰を抜かしてカタカタと震えるスカーサハが、その震える指先で二匹の化け物を差しながら、

 

「そんな……だって……あれは……勇者が倒したはずじゃなかったの……?」

 

 彼女はゴクリとツバを飲み込むと、ほとんど悲鳴に近い叫び声を上げた。

 

「ジャバウォック!!」

 

 300年前の魔王の名前を叫ぶ彼女の瞳には、二匹の化け物による激しい戦闘が映っていた。

 

 ブクブクと太った巨大な肉の塊でありながら、信じられない速度で攻撃を繰り出すオークキング。その剛腕から打ち出されるパンチは衝撃波をまとって、当たればその振動で皮膚が裂け、小さな神人など一発で弾け飛ぶほどの威力である。

 

 対するジャバウォックはそんな強烈な一撃を、これまた目にも留まらぬ尻尾の一撃で叩き落とし、その衝撃で上体がのけぞったオークキングの懐へと飛び込んでいく。異形の化け物はそのまま蛇のようにくねる首を、オークキングの体に巻き付け、げっ歯類のような鋭い歯を首筋に突き刺した。

 

 その瞬間、爆音のような苦痛の叫び声が草原に響き渡り、オークキングの首筋から気持ち悪いドロドロとした青色の血液が噴き出した。頸動脈に達したげっ歯類の歯が、容赦なく血管を引きちぎる。

 

 その強烈な痛みに火事場の馬鹿力を発揮したオークキングは、巻き付くジャバウォックの首を強引に引き剥がすと、それをそのまま真っ二つに引き裂いた。血しぶきが上がり、ジャバウォックの気持ちの悪い首が空中に舞い、そこには首なしのトカゲの体だけが残されていた。

 

 これで勝敗はついたかに見えたが、しかし、首なしトカゲはそれでもまだ倒れること無く、指先の鋭い爪を使ってオークキングの皮膚をズタズタに切り裂くと、たったいま首がもげたばかりの付け根の辺りから、ブクブクと泡立つように何かが飛び出してきて、次の瞬間には、また元通りのろくろ首がそこに生えているのであった。

 

 白目しか無い巨大な眼が怪しく光り、周囲を取り巻く複眼がギョロギョロとあちこちを見回す。開いた口からまた強烈な光を発するエネルギー弾が閃き、至近距離でオークキングに直撃すると、化け物はそのまま20メートルくらい上空に吹き飛び、ズズンッ! っと土埃を上げて地面に落っこちた。

 

 高所から、数十トンはありそうな巨体が落下して、普通なら無事で済むとは思えない。だが地面をゴロゴロと転がるオークキングは、それだけの衝撃を受けてもほぼ無傷で、足を振り上げ、その反動で背中の筋肉を収縮させ、手をつくこと無く地面から飛び上がり着地した。

 

 腹回りに垂れ下がった皮下脂肪がまるで別の生き物のように波打っている。ただ巨大であるわけではない。ただのデブであるわけでもない。オークキングとは、この醜悪な体で一つの生き物として完成されているのだ。

 

 ジャバウォックが不意打ちを食らわせるように、立ち上がりを目掛けて突き進んでくる。長い首をブンと振り回し、その反動で尻尾を突き刺すようにオークキングに当てると、バリバリと空気が裂ける耳障りな音が鳴り響き、遅れて衝撃波が辺りの人や物を吹き飛ばした。直撃したオークキングの皮膚がグロテスクにめくれ上がり、中の肉片が外に飛び出す。

 

 しかしそんな強烈な一撃を食らって怯みながらも、なお倒れないオークキングは尻尾の反対側でフラフラと動いていたジャバウォックの首をとっ捕まえると、ぐるぐるとジャイアントスイングの要領で振り回しては、遠心力を利用してその体を地面に叩きつけた。

 

 瞬間、またその化け物の首が根っこから千切れて吹き飛び、ゴロゴロとトカゲの胴体だけが転がっていく。それが遠くの方で滑るように立ち止まると、またその首の付根からブクブクと泡立つように肉が盛り上がり、元通りの首が生えてくるのだった。トカゲのしっぽならぬ、ジャバウォックの首である。

 

 両者距離を取りながらにらみ合い、次の手を模索するようにゆっくりと円を描く。しかし遠距離ならジャバウォックの方が分があったようだ。化け物が歯がむき出しの口を大きく開くと、その前方にきらめく高温の光が集まってくる。

 

 ところが、いよいよそれが放たれようとした時、突然、ジャバウォックの体がグラグラと揺れて、光球はオークキングを逸れて全然違う場所へと飛んでいった。

 

 二匹の化け物の戦いを呆然と眺めていた人々は、はじめ何が起きたのか分からず戸惑った。

 

 見れば、ジャバウォックの足元で小さな何かが虫のように蠢いている。なんだろうとよくよく目を凝らせば、驚いたことに、巨大な二匹の生物の前に錯覚してしまったが、それは数十からのオークの群れだった。

 

 無数のオークたちが、まるでキングに加勢するかのように、ジャバウォックの足元で蠢いている。一体一体は大したこと無いが、流石にそれだけの数に取り憑かれると、その巨大怪獣も無視は出来ず、尻尾を振り回してまとわりつくオークの群れを蹴散らし始めた。

 

 だが、目の前の敵をおろそかにして、そんなものに気を取られていては、この対決も勝負があっただろう。動きが緩慢になったジャバウォックの隙を見逃さずに、オークキングは猛烈な速度で一直線に相手に肉薄すると、足元でキングのために道を作っていたオーク共を踏み潰しながら、強烈な一撃をジャバウォックの胴体へと突き刺した。

 

 ズズンッ! ……っと、腹の底から震えるような衝撃音が草原に鳴り響き、オークキングの腕がアッパーカットのような格好で、ジャバウォックの心臓辺りに突き刺さった。瞬間、化け物の体のあちこちから、鉄砲水のように血液が噴き出して、全身の筋肉が痙攣するようにビクビクと震えた。

 

 オークキングの腕が突き刺さった反対側……その衝撃で背中の方から何かが飛び出し、数十メートルほどの高さまで上がってから、弧を描いて地面に落っこちた。もしや、心臓が体を突き破って飛び出したのかと思いきや、よく見ればそれは人の形をしていた。

 

 地面に叩きつけられたその何かが、まるで生まれたての子鹿のようにブルブルと震えながら立ち上がろうと躍起になっている。それは人の形をしていたが、まるで老人のように背中が曲がっている、白髪の神人だった。

 

 オルフェウス卿カリギュラは、ジャバウォックの胎内から排出されると、地面に叩きつけられて深手を負った。神人特有の超回復は行われず、体のあちこちからジュウジュウと煙が上がっている。

 

 それでもまだ立ち上がろうとする彼は、腕を怒張させ、背中の瘤をうごめかせ、自分の体を変形させようと力をこめた。しかし、そこまでだった。激しい戦闘の末に半分溶けるように焼けただれていた体は、もはや言うことを聞かず、彼はそのまま変形の途中で地面に倒れ伏してしまった。

 

 片腕だけが異常に膨れ上がり、背中から気持ち悪い泡のような肉片をぶら下げた、異形の神人が地面でのたうち回っている。帝国人たちはそれがオルフェウス卿であることに気づいていたが、助けようとして近寄ってくる者など誰もおらず、最後まで彼と共にいると言っていた参謀は、遠くの方でゲロを吐いていた。

 

 カリギュラはそれを見て、ふっと表情を緩めると、「ここまでか……」と呟いて、地面に大の字に寝転がった。さっきまで彼だった巨大な肉塊に、オークたちが群がっている。それらは好き勝手にトカゲの肉を引きちぎって、まるでバーベキューでもしているかのように口に頬張り、雄叫びをあげていた。

 

 対するオークキングはそんなものには目もくれず、地面に落ちたコア……カリギュラをロックオンし、ズシンズシンと足音をたてて、ゆっくりと彼の方へと近づいてきた。

 

 きっと、自分を取り込もうとしているのだろう。すると、次の魔王はこのブクブクと太った巨人ということだ。カリギュラはおかしくもないのに、自然と顔がほころぶのを感じていた。これでやっと、解放される……

 

 大将が倒れているというのに、遠巻きに見てるだけで助けようとしない帝国人たちの向こう側には、先程まで敵味方に別れて戦っていた勇者軍の姿が見えた。白馬にまたがって一際目立つ男は、あれはヴァルトシュタインだろうか。その横には馬を放した神人スカーサハが立っている。自分が死んだ後、あの二人だけでこの場を対処できるだろうか……だがもうやるだけのことはやった。後のことなど考えてもしょうがないだろう。

 

 彼はまたごろりと脱力すると、自分の方へ近寄ってくる巨大なオークキングを頭越しに見上げた。上下逆さまになった異形が、夕日に照らされて赤く染まっている。今まで数百年間、生きるために様々な物を食べて来たが、捕食されるとはどんな気持ちなんだろうか……

 

 半ば投げやりにそんなことを考えている時だった……彼は、オークキングの遥か後方、上空に何かが浮かんでいるのに気がついた。

 

 7つの点のように見えるそれは星とは違って自ら光ることはなく、逆に夕日を浴びてほんのりと赤く輝いて見えた。

 

 何かがいる。巨大な鳥だろうか? オークキングの肩越しに、ぼんやりとそれを眺めていると、その7つの影はやがて4つと3つに別れて、片方は水平線方向、勇者軍の陣地へと向かい、もう片方の4つの影は、上空へと上がっていった。いや……上空へ向かっているのではない。あれは、こちらへ近づいてきているのだ。

 

 あれはなんだろうか……?

 

 カリギュラは、徐々に大きくなってくる影を凝視し、ついにそれが人間の形をしていることに気がつくと、心の底から沸き上がってくる高揚感を抑えきれずに叫んだ。

 

「来たか……さあ、勇者様のご帰還だ!!」

 



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空襲

 大森林の北西河川流域を探索していた鳳たちオーク討伐隊の一行は、ヘルメス領へ続く流域に入った瞬間、それまでとは打って変わって大量発生したオークの群れに阻まれ、進軍速度を落としていた。一日に二度も三度も起こる戦闘に討伐隊はどんどん疲弊していった。

 

 オークがどうしてこんなに増えたか分からないが、このペースを維持し続けるのは困難と考えた討伐隊は、北の合流点までやってくると、そこに拠点村を作り、ゆっくり周辺を掃討していこうと方針を変えることに決めた。

 

 しかし、鳳が新たな拠点を作るべく候補地を探している時、レビテーションの魔法で上空に上がったメアリーが何かに気づき彼を呼んだ。何かあったのだろうか? と、そうして上空に上がった彼が目にしたものは、まるでナメクジでも這いずったかのように、綺麗になぎ倒された木々が作る道だった。

 

 遠目だから分からないが、一本一本の木は樹齢数十年から百年を越える立派な木のはずだった。それが何十本も何百本もなぎ倒されている、あれはなんなのか?

 

 嫌な予感がしながら鳳とメアリーの二人がその痕を追ってほんの少し北へと進むと、やがて彼らの目に飛び込んできたのは、ブルドーザーのように木々をなぎ倒しながら進む、おびただしい数のオークの群れだった。

 

「……オークの大軍だって? それも、今までの比じゃない数の」

 

 鳳たちはそれを発見するや、慌ててキャンプ地へと戻り、いま自分たちが見てきたものをみんなに話した。

 

「ああ、今までは多くてもせいぜい50体かそこらの村規模だったろう? でも、俺達が上空で見たのは、それじゃ全然きかない数のオークが森の木々をなぎ倒しながら進む姿だった。ざっと見ただけでも数百は越えてた。地平線の向こうに消えて先頭は見えなかったが、恐らく、数千を越えるオークの群れが、まっすぐ北に向かってるようだった」

「数千だと!? そんなのもう、俺たちだけじゃどうしようもないだろう! 国家規模の戦力が必要だ……」

「ああ、その通りだ。あんなのもう、オークの群れとかそんなレベルじゃない。言うなればオークの国家だよ」

 

 鳳がそう言うと、冒険者たちの間に動揺が走った。もしそんなのと出くわしていたら、果たして無事で済んだだろうか。今まで何事もなくここまでこれたのは、ただの運に過ぎなかったのだ。

 

 冒険者たちの中では格下のアントンが、ブルブルと震えながら申し訳無さそうに鳳に向かって言った。

 

「すまない……これ以上は俺じゃ役に立ちそうもない。足手まといになるくらいなら、ここに置いていってくれ」

 

 するとそれを聞いていたサムソンが苛立たしげに彼の頭を叩くと、

 

「バカモン! そんなのはここにいるみんなが思ってることだ。口に出して言うことじゃない。大体、そんな群れに突っ込むなんて、わざわざ餌になりにいくようなものだ。それでも、何もしないわけにもいかないから、みんなで相談してるんじゃないか」

「ご、ごめん……」

「それで勇者よ。おまえには何か策があるのか?」

 

 サムソンがそう言って鳳の指示を仰ぐと、その場にいた冒険者たちの真剣な眼差しが彼に集中した。彼は少々気圧されながら、

 

「二人が言う通り、正直、俺達だけじゃもうどうこう出来る問題じゃない。早急に、国家レベルの対策が必要だ。オークの群れは見たところ、川に沿ってまっすぐ北へと向かっているから、このまま進めば帝国ヘルメス領へ出るだろう。俺はそこにいる帝国軍に助けを求めるのが一番だと思う」

 

 帝国軍という言葉を聞いて、場の雰囲気が少し重苦しくなった。ここにいる大半は勇者領の冒険者たちだったから、帝国軍に頼るのがいやなのだろう。だが、もはやそんなことを言ってる場合ではないので、

 

「幸いと言っていいかわからないが、現在、帝国軍本隊がいるはずのフェニックスの街にはポータルで飛んでいける。誰かが行って、そこにいる帝国軍に助けを求めるしかないだろう」

「しかし、こんな話、信じてもらえるだろうか? 大森林の中で魔族が大発生して、帝国へ大軍が向かっているなんて……大体、今は戦争中なんだろう? 国境の守りを放棄するようなこと聞くわけない。どうやって調べたんだと言われるのが落ちだ」

「それでも何も言わないわけにもいかないだろう。例え対応が遅れたとしても、知ってるのと知らないのとではわけが違う。そのためにも、情報だけは伝えなきゃ」

「しかし、こっちが善意で伝えてるのに、相手が信じてくれないなら意味ないんじゃないか。下手したらスパイを疑われてとっ捕まったり、拷問されるかも知れん。なのに俺たちがそこまで義理を果たす必要はあるんだろうか」

 

 冒険者たちの反応は鈍い。相手とは戦争中という心理的な抵抗があることや、行けばほぼ確実に拘束されるだろうから、気がのらないのだろう。しかも、疑いが晴れるのはヘルメスが蹂躙された後なのだ。

 

 かと言って、このままオークの軍団を追い掛けていって、それを倒せる戦力があるわけでもない。討伐隊の面々が考えあぐねていると……

 

「……じゃあ、俺が行くよ」

 

 場を沈黙が支配する中で、控えめに手を上げながら、アントンが名乗り出た。

 

「さっきも言ったけど、俺はもうこの戦いについていけてない。だから何日拘束されようが、拷問されようが、誰も困らないじゃないか。だったら、俺が適任だろう?」

 

 討伐隊で味噌っかす扱いだったアントンが、思いがけずそんな勇気を示したからか、討伐隊の間に動揺が走った。それは彼を馬鹿にしているからではなく、自分たちの不甲斐なさを嘆いたものだった。

 

「馬鹿野郎! おまえが一人で行ったところで、話すら聞いてもらえるわけないじゃねえか」

「じゃあ、どうすりゃいいってんだよ!?」

「俺も行くぞ」

 

 そんなアントンに続いて、討伐隊の他のメンバーが、俺も俺もと次々と名乗りを上げる。一番、勇気が足りない彼が男を見せようというのだ、ここで乗らなければ嘘であろう。そんな冒険者たちの心理が分からず、アントンはぽかんとしている。

 

「もう、こうなったら行けるやつ全員で行ったらいいだろう。これだけの数の冒険者が一斉に証言するなら、流石に相手も無視は出来まい」

 

 結局、ほとんどの冒険者達が名乗りを上げたことで、そういう結論になった。フェニックスの街には、ポータルに乗れる人間の冒険者が行き、残った獣人がこの場所を死守するという役割分担である。

 

 方針が決まり、冒険者たちが荷物をまとめる中で、鳳は一人その場に佇み、彼らの準備をじっと待っていた。そんな彼を不審に思い、手荷物をチャッチャと片付けてしまったサムソンが近づいてきて言った。

 

「勇者よ。おまえは荷物をまとめなくていいのか?」

「ん、ああ……俺はここに残ろうかと思って」

 

 まさかの討伐隊のリーダーの言葉に、移動の準備をしていた冒険者たちの手が止まる。鳳は流石に理由を話さねば誰も承知してくれないかと思い、少し言いづらそうに、

 

「実は、ポータルは片道切符なんだよ。ここに戻ってこようと思ったら、またガルガンチュアの村から歩いてこなきゃならない」

「それは知っているし、前も聞いたぞ。俺はここに残って何をしようと言うのかと聞いてるんだ」

 

 サムソンに他意はなく、純粋にどうしてなのかを知りたがっているようだった。無論、鳳もズルをしたくてここに残ると言ってるわけではなかった。ただ、それを口にするのは憚られると言うか、出来れば誰にも聞かれたくなかったのだ。

 

 しかしサムソンはそんな鳳の気持ちを慮ってか、

 

「勇者よ……いや、リーダー。俺は別にお前が不正をしてると咎めているわけじゃない。単純に、ここでやり残したことがあるのだとすれば、それが何なのか気になるから、教えて欲しいだけなのだ。それは俺にも出来ることなのか?」

 

 理由を説明しづらく、返答に困っていると、サムソンはふっと表情を和らげてから、

 

「お前は隠してるつもりなんだろうが、今更誰もお前が勇者であることを疑ってなんかいない。杖の力だなんだと誤魔化しているが、お前が見せた奇跡の数々は、全部お前の能力だと気づいている。何故、人間のお前が禁呪と呼ばれるタウンポータルの呪文を使えるのか、そして勇者であることを隠しているのか知らんが、そんなことを抜きにしても、俺はリーダーであるお前の力になりたい。みんなもそう思ってるはずだ」

 

 サムソンがそう言うと、周りを取り囲んでいた冒険者達が同じように柔らかい表情で頷いた。お前が隠してるから合わせてやってたが、そんなものはとっくに知ってると言いたげな表情だった。

 

「足手まといだと言うならそう言ってくれて構わない。お前がここに残ってやろうとしていることが、もしも俺に手伝えることなら、遠慮なく言ってくれ。死ねと言われたらそりゃ断るが、多少の危険は承知で冒険者になったつもりだ」

 

 サムソンの言葉は真摯であり、だからこそ適当な嘘ではぐらかすわけにはいかなかった。鳳はポリポリと後頭部を引っ掻きながら、

 

「うん、まあ、足手まといってことはないんだけど、多分、みんなが残ってもあんまり意味がないんだ。俺は、簡単に言えば、オークの群れがヘルメス領に到達する前に、出来るだけその数を減らしておけないかと思ってさ……」

「なにぃ!? オークの軍団と戦おうと言うのか!? だったらなおさら、俺達の力が必要なんじゃないのか?」

 

 冒険者たちの間にどよめきが起きる。鳳は首を振って、

 

「いや、人が多いとかえって邪魔なんだ。俺が何をしようとしてるかって言うと……ほら、避難所を作る時にいつも隕石を降らせてただろ?」

「あ、ああ……やっぱり、あれも杖の力じゃなかったんだな?」

 

 鳳はおいおい……と思ったが黙っていた。勇者の力を信じるとか言ってたくせに、まあ、実際こんなものだろう。頭ではそう思っていても、中々受け入れがたいのが勇者の力である。だってこんなの、本来ゲームの中でしかあり得ないのだから。彼は続けて、

 

「あれは強力な魔法なんだけど、問題は狙いがさっぱり定まらないことなんだ。ある程度の範囲は絞れても、どこに落ちるかわからない。被害も大きい。だから戦闘では使えなかったんだけど……オークは今なんか知らないけど、固まって行動しているだろう? あれなら狙いがいい加減でも、外すほうが難しいから、行って何発か打ち込んでやろうかと思って」

「なるほど、そういうことか」

 

 鳳の話を聞いて、サムソンを含めた冒険者たちは納得しているようだった。それなら確かに少数精鋭のほうが動きやすいし、第一、鳳なら空を飛んでいけば森を歩くよりも断然早い。サポートには、いつもの鳳パーティがいれば十分だから、冒険者たちは必要がないというわけだ。

 

 冒険者たちは納得すると、鳳の代わりにフェニックスの街へ行って、帝国軍に話をつけると約束してくれた。彼らは撤収の準備を終えた者から順に、ポータルに入っていった。鳳の作るポータルは数分もすれば消えてしまい、MPの無駄になるからそう何度も作れないのだが、急いでポータルをくぐり抜けていく冒険者たちの列から離れて、アントンは自分の番になると鳳の前まで寄って来て、突然こんなことを言い出した。

 

「鳳……縁起でもないと笑われるかも知れないが、最後になるかも知れないから言うよ。おまえ、本当はミーティアのこと何とも思ってないだろう?」

「え……?」

 

 まさかこんな時間もない時にそんなことを言われるとは思わず、何も考えていなかった彼は返事が出来なかった。アントンはそれを肯定と受け取ったのか、

 

「実は最初っから気づいていたんだ。伊達に生まれたときからの付き合いじゃないからな。あいつが嘘を吐いていたら、すぐにわかるよ……あいつに恋人のふりしてくれって、頼まれたんだろう? あいつ……俺のことが好きで好きで、しょうがなかったみたいだからな……」

「………………」

 

 それは色男の傲慢か、それとも幼馴染の苛立ちか、判別がつかなかったが……

 

「でも、俺はエリーゼが好きなんだ。だから、あいつが嘘を吐いているとわかっても、気づかない振りをするしかなかった。願わくば、そんなあいつが連れてきたおまえがいいやつだったらと思って……おまえは本当に、いいやつだよ。だから、俺はホッとしたんだ。勝手かも知れないけど、おまえがあいつのことを幸せにしてくれたら嬉しい」

 

 アントンは、ちょっと格好つけすぎたかなと言った感じに軽くはにかんでから、

 

「おまえは本当は、あいつのこと何とも思ってないのかも知れないが、あいつは多分、おまえのこと好きだと思うよ。俺もおまえたちのことが好きなんだ。だからさ、無事に帰ったら、また四人でどっか遊びに行こうぜ」

 

 彼はそう言うと、時間が惜しいと言わんばかりに、鳳の返事を聞かずにさっさとポータルに入ってしまった。

 

 そんな彼の背中に、『死ぬなよ』という声が掛かったが、彼が心配しているのは、自分の身の安全のことではない。この場に残るという、鳳のことだった。アントンは自分では力になれないという不甲斐なさに奥歯を噛み締めながらポータルをくぐり、出た先で待っていた冒険者たちの中に入っていった。

 

 周囲を見回してみるとそこはもう森の中ではなく、すぐ近くに小高い丘が見える穀倉地帯の真ん中だった。

 

 冒険者達が、本当に一瞬でどこにでも飛んでいけるのだなと感嘆の声を上げていると、すぐ近くに見える街の門から、馬に乗った兵隊らしき軍団が彼らの元へと近寄ってきた。

 

 先頭の馬にまたがっているのは金髪碧眼の神人であり、冒険者達は早速帝国軍のお出ましだと気を引き締めたのであるが、ところが意外にも彼らの元へ近づいてきたのは帝国軍ではなくて、

 

「そこの連中! 貴様ら一体どこから現れた! 我が名はペルメル! 勇者軍預かりの将にして、ヘルメス卿アイザック様一の部下である! ここを勇者軍の陣営と知っての狼藉か! 反抗する気がないのならば、今すぐ武器を捨てよ! 手向かうものは切る!」

 

 その言葉を聞いて冒険者達がどよめいた。彼らはここに駐屯しているはずの帝国軍に会いに来たはずが、まさかそこに勇者軍がいるなんて思いもよらず面食らった。彼らが大森林にいる間に、いつの間にか戦況が変わって、勇者軍が街を奪還したのだろうか。

 

 一体どうやったんだと興味は尽きなかったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。冒険者たちの代表が慌てて武器を捨ててから、ペルメルの元へと歩み寄った。

 

「待って下さい! 俺たちは帝国軍じゃありません。勇者領の冒険者です。実は、ヴィンチ村のレオナルドに依頼されて、大森林を調査していたところ、早急にお伝えしなければならない事態に遭遇し、ここへやってきたんです」

「なに? レオナルドの依頼と言うと……君等は鳳様の部下なのか?」

 

 まさかまだ何も言っていないのに鳳の名前が出てくるとは……彼らが一も二もなく頷くと、ペルメルはすぐに事情を察して、

 

「鳳様がいるならば、ここへはポータルを使って飛んできたのだな?」

「は、はい!」

「どうやら本当のようだ。何か急ぎの用事があるのか? ならばすぐにヘルメス卿に会わせよう、ついてこい」

 

 ペルメルはそう言うと、馬を返して冒険者達に道を開けた。最悪の場合、監禁拷問される覚悟までしていた彼らは、ほんの少し拍子抜けに思いつつも、この幸運に感謝してペルメルの後に続いた。

 

***********************************

 

 アントンがポータルに消え、次々と冒険者たちがフェニックスの街へと去っていく中で、最後まで残ったサムソンは、くるりと向きを変えた。

 

「やはり、俺も残ろう」

「……え? サムソンさんいかないの? もうそろそろポータル消えちゃうけど」

 

 慌てて鳳が彼の背中を押そうとするが、サムソンは意に介さず、

 

「勇者が残る、ジャンヌも残ると言うのであれば、俺も残らないわけにはいかん。お前は軽く言っているが、これから向かおうとしている先は死地であろう。なのに、人類最強である俺が残らんでどうするんだ」

「でも……」

「何事も起きなければそれでいい。だが、もしも近接戦闘が起きた場合、きっと俺は役に立つはずだ。邪魔はせん。どうしても駄目だというならここに残る。それだけだ」

 

 サムソンはそう言うと鳳の手を払い除けて、その場にデンと腰を下ろした。どうやら彼の決意は固いようである。鳳がどうしたものかと考えあぐねていると、

 

「いいんじゃねえか。どうせここに残ってもやることはねえんだし、一緒に死んでくれるってんなら、断る理由はないだろう」

 

 ギヨームがサムソンの味方をして言う。鳳はため息交じりに、

 

「死ぬつもりはないぞ」

「だったら尚更だろ。どうせおまえ、遠慮して他の連中を街に戻したんだろうが、人手は多いにこしたことはない。そうだろ?」

「……わかったよ。それじゃマニ、俺たちはオークを追っかけて北上するから、おまえはここで獣人達を指揮して、これ以上のオークの侵入を阻止してくれ」

「いえ、僕も行きますよ?」

 

 鳳が言うと、マニは目をパチクリしながら返事した。

 

「え? おまえも来んの?」

「はい。そのつもりだったんですけど……駄目ですか?」

 

 するとまたギヨームが割って入って、

 

「そうしてもらえ。おまえ、忘れてると思うが、このパーティーは後衛だらけで、いざ戦闘となったら意外と脆いんだ。ジャンヌとサムソンだけでも十分かも知れねえが、獣王様が入ってくれれば百人力だ」

 

 ギヨームのマニの評価は思いの外高いようだ。鳳はそれもそうかと納得し、とにかく、自分が全員を無事に帰してあげればそれでいいんだと覚悟を決めると、

 

「それじゃあ……俺とジャンヌ、ギヨーム、メアリー、ルーシー、マニ、サムソン……この7人でオークを追いかける。近接組はやる気があるようだが、基本的に近接戦闘は避ける。上空から一撃離脱を繰り返し、オークの数を減らすことを優先とする。これでいいな?」

「わかったぜ」「異論はない」「では、行きましょうか」

 

 仲間たちはそれぞれ返事を返すと、鳳の後に従った。

 

 作戦は先の通り、上空からの一撃離脱戦法である。まずは鳳とメアリーがレビテーションの呪文でみんなを浮かし、滑空してオークの群れを追いかける。森の中を歩けば1キロ進むのにも30分~1時間はかかると言うのに、この方法ならほんの一分程度で進めるのだから、本当に馬鹿らしいとギヨームがボヤいていた。

 

 だが、上空からというのもメリットばかりではなく、着地点に何が潜んでいるかはわからないから、その時は近接組に露払いして貰わなければならなかった。

 

 彼らはオークの群れを見つけると、その近辺に降り立ち、まずは周辺に敵がいれば索敵排除、続いて鳳が適当な高台に立ち、メテオストライクの呪文を唱え、首尾よくオークの頭上に落としたら離脱するということを繰り返した。

 

 しかしそうやってかなりの数のオークを排除しても、追いかける先にはまだまだいくらでもオークがいるようだった。オークの集団は川沿いの広範囲にどこまでも続いており、一度の爆撃で数百からの魔族を倒しているというのに、終わりは一向に見えなかった。

 

 そのうち、オーク退治の要である鳳のMPが尽きてしまい、夜も近づいていたために彼らは最初のキャンプを張った。

 

 鳳はMP回復のために薬物を大量摂取しなければならなかったのだが、一度にそれだけ大量の薬物を投与したことは始めてであり、焦りや疲れもあったのか、間もなく体温が低下して昏睡状態に陥ってしまった。

 

 それに気づいたジャンヌが慌てて彼が飲んでいた薬物を吐き出させたが、何しろ様々な薬に手を出してるような男だから、全てを取り除くことは出来ず……パーティーは鳳が昏倒したまま不安な夜を過ごすことになった。

 

 翌朝、彼は何事もなく起きてきたが、顔色は青く、とても戦闘が出来るようには見えなかった。薬を吐き出させたせいでMPも半分しか回復しておらず、とても初日のような活躍は見込めない。

 

 それでもオークは待ってくれないから、彼は仲間の反対を押し切り、昨日に続いて一撃離脱戦法を繰り返した。

 

 ただし、同じ轍を踏まないよう、今度はレビテーションは完全にメアリーに任せ、自分はメテオストライクだけに集中し、合間合間に休憩を取ってMP回復に努めるという作戦に切り替えた。

 

 お陰で安定はしたが処理速度はだいぶ落ちてしまい、彼はイライラしながら阿片だのコカだのの違法ドラッグに手を出すという、何とも言えない状況に陥った。この世界で始めてMPポーションの効能に気づいて以来、いつも仲間に呆れられながらも楽しんでいたというのに、今はちっとも楽しくない。それを見るのも苦痛なくらいだった。

 

 そんな具合にほぼ休み無く薬を打ち続け、ついでに魔法も打ち続けていると、段々自分が何をしているのか彼は分からなくなってきた。視界はクリアで頭もよく回るのだが、なんだか同じ場所をぐるぐる回ってるようなそんな徒労感を感じる。頭に血が上っていてこめかみの血管が絶えずピクピクと動き続け、まるで頭の中に別の生き物を飼っているような感じだった。

 

 昼間っからそんなに薬物を過剰摂取していたから、夜は当然眠ることが出来ず、彼は体が泥のように疲れているというのに、頭だけは異常に冴えているという状態で一夜を過ごす羽目になった。

 

 周りがすやすやと寝息を立てている中で、彼はとにかく疲れを取らなきゃという義務感だけで横になり、煩悶としながら夜が明けるのを待っていた。じっとりとした寝汗が体にまとわりついて気持ち悪い。話し相手もいないから、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。時折、ステータスを確認しては、MPが回復しているのを見てホッとするのが唯一の楽しみであった。

 

 月明かりも届かない真っ暗な森の中で、野生動物の鳴き声すら聞こえないひっそりとした闇に包まれ、彼はどうして自分はこんな目に遭っているのだろうと思った。

 

 この世界にやってきたあの日、彼は勇者の力を与えられ、女も抱き放題だと言われ無邪気に喜んだ。でもそれは間違いで、彼には当たり前の力すら無く、このゲームみたいな世界の中で散々苦労させられた。だが今にして思えば、それはそれで楽しかったのだ。

 

 なのに今はどうだろうか。本当に勇者としての力に目覚めた彼は、最強の冒険者であるサムソンをも驚愕させ、圧倒的な力で魔族を蹂躙している。でもそこに転がっているのは苦痛ばかりで、ちっとも楽しくなんかなかった。きっと力がなければこんなことはしようとすら思わなかっただろう。なまじ力なんかを手に入れてしまったからこんなことになるのだ。

 

 奇跡には代償が必要なのだ。無邪気に冒険を楽しんでいたあの頃のほうが、よほど夢を見ていられた。こうして力を得た今、現実は、ただ彼に苦痛しか与えなかった。

 

 夜が明けて太陽が昇る。木漏れ日が差してまた新しい一日が始まる。彼はそんな緑色に輝く天井を見上げながらポツリと呟いた。

 

「だめだこりゃ……」

 

 彼は仲間が起き出してくるのを待ってギブアップを宣言した。

 

「すまん。オークを少しでも多く排除しようと思ってたんだけど、物には限度がある。このまま続けていたら、多分、俺は中毒になる前に廃人になっちまう。だからちょっとやり方を変えよう」

「ええ、そうよ、絶対そうした方がいいわ。あなた、自分がどんな顔してるか知ってる? ひどい顔よ……」

 

 ジャンヌが鳳の目を覗き込み、心配そうにつぶやく。鳳とは逆に綺麗になった彼女にそう言われると、なんだか非常に傷ついた。

 

「俺もそうしたほうがいいと思うが……これからどうする? ポータルで冒険者たちの後を追うか?」

 

 ギヨームが言う。鳳は首を振って、

 

「いや、今から追い掛けても単に2日のロスにしかならない。それよりも、このまま北上を続けて、オークの先回りをしたい。正直、この大軍の先頭が、今どこまで進んでいるかわからないけど、このままいけば確実にヘルメス領に入るだろう? 先回りして、森の出口にいる人々や集落なんかに、さっさと逃げるように触れ回った方がいい」

「それが現実的か。冒険者達が上手く軍を動かしてくれてればいいが、あまり期待は持てそうにないしな」

 

 空を飛べば日に100キロ進むのも容易い。彼らは方針転換すると、川から少し離れた場所を、ひたすらまっすぐ北へ進んだ。

 

 そうしてそれから二日後の夕刻、彼らはついに大森林の端までたどり着き、それを見つけた。

 

 それは二匹の怪物がぶつかり合う、とてもこの世のものとは思えない光景だった。

 



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電撃

 北上するオークの間引きを断念した鳳たち一行は、それならば今度はと、このままオークが進み続けた場合に予想される被災地に先回りして、注意喚起しようと動き出した。レビテーションの魔法を駆使して、滑空するように進めば日に100キロは進める。そうやって稼いだ距離で彼らはあっという間に大森林を抜けてヘルメス領が見えるところまでやってきた。

 

 北へ進めば進むほど、オークの群れの数は増え続け、それらが作る道幅は広くなっていった。一体どれほどのオークが存在するのか、数えるのは不可能だったが、ただここまでくると分かるのは、大森林に侵入してきたオークたちはみんな、一団に集まってきて、ひたすら川を遡上するという性質があったということだ。

 

 それは川を遡上する鮭の群れのように、DNAがそう命じるのか、それとも別の理由があるのか分からなかったが……そんな時、群れを追い掛けて森の外縁にたどり着いた彼らの目に飛び込んできた光景が、その可能性の一つを示唆していた。そこに王がいたのだ。

 

 森の先に広がっていた平野には、思いがけず人間の軍隊が集まっていた。先行した冒険者達がやってくれたのか? と思いもしたが、どうもそれとは様子が違い、どうやら彼らはたまたまここを戦場にして戦っていた、帝国・勇者両軍のようだった。

 

 こんな偶然があるのか? と思いつつ、とにかく助かったとほっと胸をなでおろした一行であったが……残念ながら、そうは問屋がおろしてくれなかった。

 

 まだ人が米粒のように見える戦場を見下ろせば、そのど真ん中に縮尺を無視した巨大な何かがいた。まるで人とオークが作る波間で、水遊びでもしてるかのように暴れまわる二匹の巨大な怪物だった。

 

「ジャバウォック!!」

 

 その信じられないような光景を前に、仲間たちが呆然とする中で、突然、鳳とジャンヌの二人だけがそんな言葉を口走った。

 

「ジャバウォック……? あれが?? 古の魔王だって言うのか!?」

 

 彼らの声を聞いて、信じられないといった顔のギヨームが問いただす。鳳たちは一も二もなく頷いてから、

 

「ああ、間違いない。俺たちがあのサーバーで、何千回となく倒してきたラスボスだ。絶対に、見間違いようがないよ」

「でもどうして? ジャバウォックは倒されたんじゃないの?」

 

 鳳たちが当たり前のように話す様子を見ていたサムソンが困惑気味に尋ねる。

 

「ちょっと待て、お前たちは何を言ってるんだ? どうしてあれがジャバウォックと言い切れるのだ。それに……何千回も倒しただと??」

 

 彼の疑問はもっともである。鳳が上手く説明できなくてまごついていると、ギヨームが横からひったくるようにその疑問に答えた。

 

「今更このくらいのことでガタガタ言うんじゃねえ。こいつらは勇者で、なんかよく分からねえ方法でこの世界にやってきたんだよ。まあ、こいつらが言ってることは、大体いつも正しいから、安心しろ」

「そ、そうか……」

「それよりこれからどうするの?」

 

 ギヨームたちの会話にルーシーが割り込んでくる。いつまで経っても空を飛ぶことに慣れない彼女は、こんな上空に留まっていないで、早く地面に降りたそうだ。

 

 しかし、降りると言っても下はオークの群れが闊歩していて、目の前では怪獣決戦が繰り広げられているのだ、一体どこに降りればいいのかわからない。ギヨームが嘆くように言った。

 

「つーか、あの怪物同士はなんで戦ってんだ? もう片方は、でかいオークみてえだけど……魔王と戦ってんなら、あれは味方なのか?」

「いや、それはないでしょう。大物ばかりに目が行くけど、よく見ると他の小さいオークたちは人間を襲ってるわ。私たち人間にとって、どっちも敵なのよ」

 

 ジャンヌがそう言った時、前方の巨大生物同士の決着がついた。オークキングがアッパーカットの要領でジャバウォックをふっ飛ばし、その瞬間、古の魔王は動かなくなった。すると小さいオークがワラワラと寄ってきて、ジャバウォックの死体蹴りをして嬉しそうに雄叫びを上げていた。

 

 遠くから見ていると、その出鱈目な大きさのせいで、ゴブリンの群れのようにしか見えなかった。鳳は醜悪な光景に舌打ちすると、

 

「……共倒れしてくれれば良かったんだが、そう上手くは行かないか。このままほっとけば、被害がどんだけ増えるかわからない。加勢に行くぞ」

「え~!? 本気なのっ!?」

 

 ルーシーが目を回している。普通に考えれば、その反応が正しいだろう。鳳だってほんのちょっと前までなら、さっさとずらかろうぜと言ってる頃のはずだ。だが、今はそう言えない事情があった。

 

 彼らはここにいる数万を数える人間の中でも、最も高レベルなのだ。あれと戦えるとしたら自分たち以外ありえない。どうせ戦わなきゃならないなら、ここで逃げるわけにはいかなかった。

 

 きっと力が無ければこんなこと考えもしなかったというのに……だが、どうしてこんな力があるのかと恨んでも仕方ない。鳳は気を取り直すとほっぺたをパンと叩いて、

 

「他のオークはともかく、あのデカブツを倒せるのは、多分いま、この世に俺たちだけだ。放っときゃ被害が増えるだけだから、最低でもあれだけは潰しておきたい」

「策はあるのか?」

 

 サムソンが訊ねると、鳳は苦々しく首を振った。

 

「正直なとこ、そんなもんはない。でも、もしかしたら俺の魔法なら効くかも知れない。火力だけはあるからな。とにかくなんでも試すしかないね」

 

 ギヨームが言う。

 

「スタンクラウドは効かないのか?」

「効けばとっくに効果が出てるだろう。あそこには神人もいっぱいいるんだから」

「そりゃそうか……しかし、あれだけの巨体だぞ。出来るのか?」

「やるしかないんだよ。そのために、軍にも手伝ってもらう。メアリー! ルーシーとギヨームを勇者軍の陣地に連れて行ってくれないか。多分、そこにヴァルトシュタインがいるから、周辺のオークの露払いをするように頼んでくれ。俺たちがデカブツと戦ってる間に乱入されたら堪らん」

「わかったわ」

 

 メアリーは二人を連れて水平方向にスーッと飛んでいった。去り際、ルーシーはどこかホッとした表情をしており、ギヨームは逆に悔しそうな顔をしていた。鳳はそれを見送ってから、

 

「ジャンヌ、マニ、サムソンはあのデカブツに波状攻撃を仕掛けてくれ。関節を狙うかなにかして、なんとかしてあれに膝をつかせるんだ。俺は後方で援護しながら機会を待つ。合図したら大魔法を打つから、そしたら全力で逃げてくれよ? 巻き込まれたら命の保証はないぜ」

「わかったわ」「任せてくれ」「わかりました」

 

 三人の返事を待ってから、鳳はレビテーションの魔法を使って更に上空へと舞い上がり、そして急降下するようにオークキングの脳天目掛けて滑空した。

 

************************************

 

 二匹の化け物の戦いは、オークキングに軍配が上がった。

 

 ジャバウォックが敗れた際、その背中から飛び出してきたカリギュラが、無惨に地面に転がっている。だが、異形と化した彼の元へは、味方であるはずの帝国軍ですら誰も近づこうとしなかった。

 

 カリギュラは再度立ち上がろうとしたが体が言うことを聞かなかった。そんな神人の成れの果ての方へと、オークキングがゆっくりと近づいてくる。恐らく、その肉体を喰らい、力を奪うつもりだろう。もはやこれまで……彼が諦めて目を閉じようとした時だった。

 

 オークキングの頭上に何かが飛来してくる。それは徐々に大きくなって、やがて人の形だとはっきり分かるほど近づいた時、4つの影の一つが杖を振るって何かを叫んだ。

 

「くたばれっ! ライトニングボルト!!」

 

 上空のなにもない場所から稲光が発して、オークキングの脳天に直撃した。ピシャンッ! と耳をつんざく音がして、少し遅れてからゴロゴロとした雷鳴が聞こえてくる。

 

 落雷の直撃を受けたオークキングは、その瞬間、少しグラグラと体を前後に揺らしたが、すぐに体勢を整えると、足元を均すように腰を落としてズシンとその場で足踏みをした。グラグラと地面が揺れて、土埃が舞う。

 

「ちっ……全然効きゃしねえしっ」

 

 不意打ちの先制攻撃を食らってもびくともせず立ち続けるオークキングを前にして、鳳は舌打ちをした。四人は化け物を取り囲むように前後左右に着地すると、まず真正面に降下したジャンヌが動いた。

 

「紫電一閃っ……雷火奮迅争覇爆炎刃っっ!!」

 

 いつものように見えない剣戟が対象へ飛んでいき、オークキングの皮膚を切り裂こうとした。しかし、化け物の皮膚は恐ろしく硬く、いつもなら何匹も同時になぎ倒すはずのジャンヌの一撃を物ともせず、その表面は殆ど傷を負っていなかった。

 

「まだまだあー!」

 

 だが、ジャンヌはそれにもめげずにオークキングへ肉薄すると、たった今神技で傷つけた場所目掛けて高速の突きを何度も何度も突き刺した。

 

 魔剣フィエルボワの薄っすらと冷気をまとった刀身が、オークキングの皮膚を抉る。AGIは21、そして合計25を数える人智を超えたDEXから繰り出される攻撃は、恐ろしく速く恐ろしく正確だった。

 

 寸分違わぬ同じ場所を何度も高速で貫かれては、どれだけ厚い装甲だっていずれは穴が開くだろう。ましてや生き物の皮膚なら当然だ。オークの皮膚がその耐久限界を超えた時、ジャンヌの剣が抵抗を失いスッと沈み込み、その瞬間、オークキングが雄叫びのような悲鳴を上げた。

 

「おおおおおおおおぉぉぉーーーっ!!」

 

 巨人からしてみれば昆虫程度の生き物にしか見えないジャンヌに、突然、鋭い痛みをつけられたのだ。オークキングは怒りの雄叫びを上げると、その羽虫に向かって拳を振り上げた。

 

 と、その時、一瞬の隙を突いて、横合いから筋肉だるまが突っ込んでくる。

 

「ウオオォォォーーーっっ!! 稲・妻・キィィィーーーッッックッッ!!!」

 

 STR20という、文字通り人類最強となったサムソンの力を溜めた渾身の蹴りが、がら空きになったオークキングの脇腹に突き刺さった。表面がどんなに硬かろうが、受けた衝撃は止められない。

 

 衝撃が内臓に達したオークキングが苦痛に呻く。化け物は肺に溜まっていた息を吐き出して片膝を突いた。そこへマニが襲いかかる。

 

「不知火!」

 

 彼の投げた鉄球が火炎を吹いてオークキングの顔を包む。

 

「朧!」

 

 堪らず顔面を両手で覆った化け物の前でマニは飛び上がると、空中ジャンプを繰り返してその頭上を飛び越えてしまった。その飛び越しざま、分銅を先に結んだ鋼線を投げて器用にその首に巻き付け、そしてそのまま彼の全体重を乗っけて引っ張ったのだが……

 

 彼の飛ばした鋼線は確かにオークキングの首に巻き付いていたが、彼の全体重を乗せてもそれが首に食い込むことはなかった。間もなく炎が消えて落ち着きを取り戻した巨人は糸をブチブチとちぎって体勢を整える。

 

「ちっ……なんだあれは。化け物か!」

「見て分かるでしょう!?」

 

 ジャンヌとサムソンが背中を預けあい、そんなセリフを口走る。巨人の背後に回り込んだマニが隙を窺っている。鳳は三人に向かって、

 

「真正面からやりあっても勝ち目はない! その巨体だ、絶対に足元が弱いはず。膝とかアキレス腱を狙え! マニ! その調子でとにかく関節をしつこく狙うんだ!!」

 

 ジャンヌとサムソンが頷いて、また左右に別れて踊りかかっていった。鳳はそんな彼らを援護しようとケーリュケイオンを構えたが、

 

「ツクモ! 後ろ! スタンクラウド!!」

 

 背後から声が響いて、振り返れば空からメアリーが降りてきた。ルーシー達をヴァルトシュタインに預けて、もう帰ってきてくれたようだ。気がつけば、鳳の背後には無数のオークが迫っている。何体かはメアリーの魔法で昏倒していたが、これを食い止めるのは骨が折れそうだった。

 

 だが、オークキングと戦っている三人に、こいつらを近づけさせるわけにはいかない。

 

「くそっ! こっちは俺とメアリーが食い止める! その間に、なんとかしてくれ!!」

 

 鳳は背後の三人にそう叫ぶと、目の前のオークの群れに飛び込んでいった。

 

**********************************

 

 ジャバウォックの登場に一時は混乱しかけたスカーサハであったが、その後なんとか落ち着きを取り戻すと、ヴァルトシュタインと共に迫りくるオークの群れに川を渡らせまいと、河原に防衛線を築いた。しかし方陣を組んでオークの進撃を止めつつ、至近距離から銃撃して数を減らすも、いくつかの戦線は突破され苦戦を強いられていた。

 

 スカーサハは精鋭部隊を率いて、その穴を埋めるべく遊撃を繰り返していたが、敵の数が多すぎて次第に追い詰められていった。少しでも敵の数を減らそうと、バトルソングをやめてスタンクラウドに切り替えたが、そのせいで精鋭部隊の攻撃力が落ちるというジレンマに陥った。

 

 せめて、もう一人自分がいれば……と彼女が臍を噛んでいると、その時、突然上空から何かが飛来し、目の前に迫っていたオークの群れを無力化した。

 

「スカーサハ先生! 大丈夫ですか! 私もすぐに援護に回ります」

「……ルーシー!? 何故、あなたがここに?」

 

 スカーサハは突然、空から降りてきた妹弟子に面食らった。メアリーは約束通りルーシーとギヨームを本陣に送り届けると、行きがけの駄賃とばかりに近くのオークの群れにスタンクラウドを食らわせてから、

 

「それじゃ、私はツクモたちの応援に行くわ」

 

 と言って去っていった。

 

 空飛ぶ神人など見たことがなかった勇者軍からどよめきが起きるが、すぐに軍の規律が緩んでいることを察知したヴァルトシュタインが、

 

「馬鹿野郎!! 殺し合いの最中によそ見してんじゃねえ!!」

 

 腹の底から響くような指揮官の声に、勇者軍の兵士たちはハッと我を取り戻すと、また必死になって迫りくるオークの群れと戦い始めた。

 

 ヴァルトシュタインはそれを見届けてから、たった今やってきたルーシーたちの元へと駆け寄ってきて、

 

「お前たちは……鳳の子分じゃないか。何故こんなところにいるんだ? 確か、今は大森林じゃなかったか」

「誰が子分だ! 喧嘩売ってんのかこの野郎!」

「お、おう……悪かったよ」

 

 ギヨームが顔を真っ赤にしてヴァルトシュタインににじり寄る。彼は両手を挙げて悪かったと言いつつ、何があったのかと尋ねると、

 

「俺たちは大森林の中でこのオークの群れと遭遇したんだよ。それで、先回りしようとして追い掛けてきたんだが、一足遅かったようだ。今、鳳が仲間を率いてあれと戦っている。俺たちはその援護を頼むためにここに来たんだ」

「なに!? あれって……あれのことか??」

 

 ヴァルトシュタインが信じられないと言った表情でオークキングに目をやると、ちょうどその時、空がピカッと光って雷鳴が轟いた。稲妻がオークキングに直撃し、一瞬、それの動きを止める。すると、そんな中に4つの影が降り立って、すかさず棒立ちになっている怪物に向かって飛びかかっていった。

 

「マジかよ……あれ。人間があれと戦おうっていうのか?」

 

 ぴょんぴょんと飛び跳ねるマニ。その信じられない膂力で敵を動かすサムソン。ジャンヌの攻撃でオークキングが悲鳴のような雄叫びをあげると、その姿を目撃した、勇者軍、帝国軍の双方から歓声が上がった。

 

 ヴァルトシュタインもその姿に見惚れそうになったが、すぐに頭をぶんぶん振って我に返ると、

 

「分かった。任せろ。スカーサハ! ここはもういい、すぐに精鋭を率いて鳳たちの援護に向かってくれ! 奴らにオークを近づけさせるな!」

「でも、大丈夫なの!?」

「駄目でもなんでも、とにかくやるしかないだろうが。どう見てもあっちのほうがキツそうなんだしよ。やれるよな、野郎ども!!」

 

 ヴァルトシュタインの野太い声が戦場に響き渡ると、今度はそれをかき消すかのような大音量の歓声が返ってきた。ブルブルと体の芯まで響きそうなその声を受け、スカーサハは目を丸くしながら頷くと、

 

「分かったわ。ルーシー! ここは任せるわ。みんなのことを全力で守ってあげて」

「うわ、本気ですかー? 私じゃ無理無理! 無理ですよー!!」

「駄目でも、誰もあなたに文句なんて言わないわ。でも、今ここにいる人達を守ってあげられるとしたら、それはあなただけなのよ。忘れないで」

「うっ……分かりました。がんばります!」

 

 ルーシーはひいひい言いながら、出来るだけ大勢の兵士たちにバフをかけようと発声練習を繰り返した。

 

 スカーサハがオークの群れをかき分けるようにして最前線へ向かってしまうと、間髪入れずに防衛線を襲う魔族の攻撃が激しくなってきた。相対的にこちらの戦力が落ちたから当然である。

 

 ルーシーはこのままじゃまずいと焦って現代魔法を唱えようとしたが……すぐに思い直して息を整えると、じっと自分の手に握った杖を見つめた。

 

 旅に出る前に、レオナルドから直々に託された(カウモーダギー)だった。言ってしまえばただの孤児で、娼婦の娘でしかない自分にはもったいない宝物だ。ここを任せると言ったスカーサハの言葉が、頭の中で反芻するように繰り返し響いている。彼らの名を聞くだけで、世界中の人達がひれ伏すだろう。これだけの人たちが自分に期待してくれてるんだ。

 

 ルーシーは顔を上げると大きく息を吸って、一音一句間違えないように、スカーサハの教えを思い出しながら、丁寧に(バトルソング)を歌い始めた。その透き通るような歌声が戦場に響き渡ると、兵士たちは不思議と心の底から力が湧き上がってくるような気がした。

 

 ルーシーの歌声によって河原の防衛線はどうにか持ち直しつつあったが、それでもまだ勇者軍は劣勢に立たされていた。そもそも、人間とオークとでは一人ひとりの力の差が有りすぎるのだ。少しでも気を抜くと、すぐに戦線は崩壊しかねない脆さがあった。

 

 だが、あちこちでそんな綻びが出ようとすると、すぐにどこからともなく援護射撃が飛んできて、戦線は維持された。ギヨームの正確な射撃によって、オークの進軍はコントロールされていたのだ。

 

 彼は防衛線の後方に陣取って一歩も動くこと無く、そこから高速の射撃を繰り返していた。目にも留まらぬ早業と言うが、彼の射撃は殆ど予備動作がなく、傍目には何をやっているのかさっぱりわからなかった。一発の銃声が聞こえたと思ったら、実際には十発以上の銃弾が飛んでいるのだから、手品でも見てるんじゃないかと思うのが普通だろう。

 

 ルーシーのバトルソングの効果もあり、ようやく防衛線が落ち着いてくると、指揮をしていたヴァルトシュタインがやってきて彼を労った。

 

「やるじゃないか。お前がいてくれて助かった。子分とか言って悪かったよ」

「ちっ……うっせえな」

 

 ギヨームは不機嫌そうにそっぽを向いている。本当ならスカーサハと一緒に鳳たちの救援に行きたかったのだろう。ヴァルトシュタインはそう判断すると、

 

「そう不貞腐れるなよ。お前も鳳の援護に行きたかったろうに、わざわざ残ってくれたんだろう? お陰で助かった。ここはもう平気だから、あっちに行きたいならそうしてくれて構わないぞ」

「ちげーよ! そうじゃない……つーか、俺が行った所で大したことが出来ないんだよ」

 

 ギヨームは眉間に皺を寄せて、悔しそうに言った。

 

「俺の現代魔法(クオリア)は豆鉄砲だ。だからオークには殆ど効いちゃいない。よく見りゃ分かるが、俺の銃撃は魔族を怯ますことは出来ても止めは刺せないんだ。仕留めてるのは、全部兵隊のライフルか長槍だよ」

「なにっ!? そうか……」

 

 言われてからよく見てみれば、確かに彼の射撃で倒れるオークは一体もいなかった。彼の正確な射撃が魔族の目やこめかみなどの急所に当たり、怯んでる隙に兵士が至近距離から止めを刺しているようであった。

 

 とは言え、ギヨームは気に食わないようだが、これは十分な働きには違いない。そもそも、彼が魔族を怯ませなければ、兵士は近づくことすら出来ないのだ。ヴァルトシュタインが、何がそんなに気に入らないのだろうかと首を傾げていると、

 

「……あいつはそれがわかってるから、敢えて俺を後方に回したんだ。なのに、のこのこ前線になんか出ていけるかよ。足手まといが増えて、あいつの負担が増えるだけだ」

 

 そんなことを気にしていたのか……見た目に反して、意外とナイーブな少年である。ヴァルトシュタインはそんなことはないと言って励ましてやりたかったが、下手な慰めはかえって彼を傷つけると思い、

 

「そうか。ならここで大いに活躍してくれ。おまえがいてくれたお陰で命が救われたと、全ての兵士たちがそう思えるくらいの活躍を」

 

 眉間に皺を寄せて難しい顔をしていたギヨームはそれを聞くと、眉をピクリと動かしながら、

 

「ふん……言われなくてもそうしてやらあ。おまえもこんなとこで油売ってないで、ちゃんと兵隊の指揮をしろよ。指揮官なんだろ」

「ふんっ。おまえこそ、口の減らんガキだなあ……まあいい。それじゃ、ここは頼んだぞ」

 

 ヴァルトシュタインがそう言って、立ち去ろうとした時だった。突然、彼らの後方から……ドンッ!! っと地面を揺らすような轟音が鳴り響いて、ギヨームは驚いて振り返った。

 

 見れば後方の砲撃陣地で、異様に長い銃身をもったライフルのような兵器を構える兵士が見える。あまりにも銃身が長いから、立って撃つことが出来ず、銃身を土のうの上に乗せた状態で、寝転がりながら射撃を行っているようだった。

 

 その銃口がピカッと光を発すると、またさっきのドンッ! と言う音が鳴り響いて、放たれた銃弾がオークの群れの間に落ちて、地面に大きな穴が空いた。その衝撃で数体のオークがバランスを崩し、そこに前線の兵士たちから一斉に射撃が飛ぶ。

 

「……あれは?」

 

 ギヨームがぽかんとしながら独りごちると、まだそこから立ち去っていなかったヴァルトシュタインが立ち止まって、

 

「おお、あれは対神人用に用意しておいた大口径ライフルの試作品だ。簡単に言えば、大砲と歩兵銃の中間だな。威力さえあれば神人も回復が追いつかないだろうから、いざという時のための切り札に取っておいたんだ。だが見ての通り、反動がデカすぎてまず的には当たらない。直撃しなきゃ神人を倒せるわけないから、結局使えずに放置されてたんだ。まさか、ここに来て役に立つとはなあ……」

「馬鹿野郎! あんなもんがあるなら、何故最初から言わないっ!!??」

 

 ヴァルトシュタインが説明していると、突然、ギヨームが真っ赤な顔をして怒鳴り声をあげた。聞かれたから答えてやったのに……ヴァルトシュタインが不服そうな顔をしていたが、ギヨームはそんな彼を置き去りに砲撃陣地へと飛んでいき、

 

「おいっ! ちょっとそこどけ」

 

 突然やってきて、偉そうに振る舞う少年を見て、砲兵たちは面食らっていた。というかこの熾烈な戦場に、どこから子供が紛れ込んだのだろうか……彼らはギヨームのことをつまみ出そうとしたが、

 

「そいつの言うとおりにしてやれ」

 

 続いて司令官がやってきたのを見て砲兵たちは驚くと、気をつけをしてギヨームを通してやった。彼は大口径ライフルの照門を覗き込んでいた兵士を押しのけるようにしてライフルを奪うと、その異様に長い銃身の先にある照星に照門を合わせた。そして徐ろに引き金を引くと……

 

 ズドンッ!! とした振動と共に、長い銃身が冗談みたいに空目掛けて跳ね上がった。銃口から炎が噴き出し、銃弾がぶっ飛んでいく。ギヨームはひっくり返りそうになりながらも、じゃじゃ馬のように跳ね上がる銃身を力づくで押さえつけた。下手したら彼の身長よりも長いであろうその大口径ライフルを撃って、子供のような彼がひっくり返らなかったことこそが、まるで奇跡のようだった。

 

 しかし、奇跡はもっとはっきり分かる形で現れた。彼の撃った銃弾が空気を切り裂き戦場を走る。間もなくその凶暴なエネルギーの塊が戦線に到達すると、それは恐ろしく正確に迫りくるオークの顔面を捉えていた。

 

 瞬間、パン! っと音を立てて、まるでスイカ割りのようにオークの額が真っ二つに割れて、その中身をぶちまけた。

 

 しかも奇跡はまだ終わらない。一撃でオークの頭を貫通した銃弾は、なおもエネルギーを失わずに、すぐ背後に迫っていた別のオークに突き刺さった。そしてそのオークの体をも貫通し、更に二体三体と続けてオークを屠っていった。

 

 たった一撃で複数のオークを仕留めた光景を目の当たりにして、砲兵たちは呆然と立ち尽くしていた。対する防衛線の兵士たちは、何が起きたかわからないが、とにかくラッキーと歓声を上げている。

 

 試射もせずにそんなことはあり得ないと思うだろうが、それが出来るのがギヨームなのだ。この世界のステータスは絶対値ではなく補正値、つまりバフだ。元々、射撃の腕前は百発百中、両手(ダブルハンド)で別々の的を狙えるほど器用な彼が、高DEXで補正されているのだから、どんなに雑に狙っても当たらない方があり得なかったのだ。

 

 自分の能力が低いと嘆いているが、比較対象がおかしいだけで、彼もとっくに人類をやめていた。ギヨームはそれに気づかず、跳ねる銃身を押さえつけると、排莢しようとしてレバーを探し、どこを見てもそれがないことに気づき、

 

「ちっ……先込め式かよ」

 

 これだけの威力を発揮するためには、銃床に下手な細工を施せなかったのだろう。彼は薬莢を引き出そうとして槊杖を握ると、銃口のある方へと回り込もうとした。

 

 しかし、彼がそうしようとした瞬間、土のうの上に乗せられていたライフルがぱっと取り除かれて、代わりのライフルがそこに据えられた。びっくりして振り返れば、砲兵たちが別のライフルを持って一列に並んでいる。たった今、彼が撃ったライフルの空薬莢は、また別の砲兵が掻き出していた。

 

「……気が利くじゃねえか」

 

 彼はそう言うと地面に伏せ、また大口径ライフルの引き金を引いた。銃弾が発射し、跳ね上がる銃身を押さえつけ、するとすぐに射撃を終えたライフルが片付けられて、次のライフルが送られてくる。

 

 こうして彼らが即席で行なった組打ちによって、迫りくるオークの群れは、信じられない速度で片付けられていった。

 



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崩壊

 最前線ではジャンヌ、マニ、サムソンによるオークキングへの波状攻撃が続いていた。しかし、人知を超えた彼らの力をもってしても、オークキングにはほとんど傷を負わせることが出来ず、攻防はひたすら巨人を翻弄し動けなくすることに終止していた。

 

 鳳はそんな状況を打開すべく、距離を保ちながら何か決め手はないかと探り続けていた。だが、そんな彼の背後にジャバウォックとの戦いを終えて勢いに乗ったオークの群れが迫っていた。

 

「スタンクラウド!!」

 

 鳳は駆けつけたメアリーと共にオークの群れを食い止めるが、いかんせん数が多すぎて話にならなかった。二人は次々と迫りくるオークを連続で眠らせ続けたが、後から後から湧いてくる魔族を前に、MPが尽きるのは時間の問題だった。

 

 このままではオークキングと戦うどころではなく全滅もあり得る。最悪の場合、ディスインテグレーションなどの大魔法をぶっ放し、戦線を離脱するということも可能だろうが、そのためには最低限のMPを残しておかなければならない。回復手段はあるが、即効性のものはなく、おまけについ最近廃人になりかけたばかりだ。出来ればこのまま使わず済ませたい……

 

 かくなる上は格闘戦を仕掛けるか? エンチャントを掛けて戦えば、ステータス的に鳳もそこそこやれる。しかし神技を使えばMPを消費し、これだけの数を相手に神技なしではとても戦えないというジレンマがあった。

 

 鳳もメアリーも、打開策が見つからずにどんどん消耗していく。これはもう、諦めて一時撤退しようかと弱気になったその時だった。

 

 突然、目の前に迫ってくるオークの頭が、バシュッと音を立てて吹き飛んだ。青い血液が飛び散り、脳髄がぶちまけられる。鳳は神技を使ってない。もしかしてメアリーか? と思いきや、そんな彼女も目を丸くして驚いている。オークは一体だけではなく次々と頭を吹き飛ばされて死んでいった。

 

 何が起きているのか分からず身構えていると、遥か遠くの勇者軍の陣地の方から、オークの頭が吹き飛ぶのと連動して、銃声が鳴り響いていることに気がついた。勇者軍の陣地はここから数百メートルはあったが、鳳は間違いなくそこからの援護だと確信した。というか、こんなことが出来るのはギヨームしかいない。

 

「勇者を援護します! 私に続きなさいっ!!」

 

 するとオークの群れの向こう側から凛とした声が聞こえてきて、馬に乗ったスカーサハが精鋭部隊を率いて駆けつけてきた。高ランク冒険者を主体としたその部隊は、ほぼ人間だけで構成されているというのに、強力なオークを前にしても一歩も引けを取らなかった。これでもまだ、スカーサハのバトルソングがかかっていないのだ。

 

 そんなスカーサハは、部隊にバフをかける前に、遠巻きにぼーっとこちらの様子を眺めている帝国軍を一瞥すると、悠々と馬を歩かせ彼らに向かってよく通る澄んだ声で語りかけた。

 

「私は勇者軍大将スカーサハ! これより魔族を討伐します! 帝国軍の者に告げる! そこでただ見ているだけなら逃げなさい! もしも勇気があるものが残っているなら続きなさい! 共に勇者と戦う栄誉を授かりましょう!」

 

 スカーサハの呼びかけに応じて、一時は共同戦線を張っていた帝国軍の神人がまた動き出した。それを見て一般兵たちも負けじと武器を取り続々と集まってくる。間もなく、強力な部隊の参戦によって、鳳たちを取り巻いていたオークの群れは押し返され始めた。

 

「助かりました、スカーサハさん!」

「いえ、勇者。ここは任せて行って下さい!」

 

 ジリ貧まで追い詰められていた鳳は彼女に感謝を述べると、オークキングと戦っている三人の元へと駆けていった。

 

 一方……ジャンヌはオークキングを前に焦っていた。最近変えたばかりの戦闘スタイルが、ここに来て足を引っ張っていたのだ。

 

 戦いは当初、手数に勝るジャンヌとマニが優位に進めていた。オークキングはチョロチョロと動き回るマニに翻弄され、そしてジャンヌの針を通すような正確な攻撃に、何度もその鋼鉄のように厚い皮膚を貫かれ悲鳴を上げた。

 

 しかし、彼女の針を通すような攻撃とは、巨大なオークキングにとっては文字通り針を突き刺す程度の攻撃に過ぎなかったのだ。やがてマニもジャンヌも自分に痛打を浴びせられないことに気がつくと、オークキングは二人の攻撃を大したものではないと割り切ってパワー押しをし始めた。

 

 普通、人間は自分に向かって何かが飛んできたら、自然と払いのける動作をする。だからフェイントが有効なのだが、一度それが攻撃ではないと割り切ってしまったオークキングは何をやっても動じず、フェイントを多用するマニの戦い方は逆にカウンターの餌食になった。

 

 『朧』による空中ジャンプを駆使して裏に回り込もうとするマニに対し、図体の割にすばしこいオークキングの攻撃が迫る。

 

「ぎゃっ!!!」

 

 それまで確実に通っていたパターンを崩され、オークキングの攻撃の直撃を受けた彼は吹っ飛び、地面を何度もバウンドしてから砂煙を上げて止まった。真っ赤な血がドクドクと流れて、彼の白い毛を染めていく。

 

「マニ君! ……紫電一閃っ!!」

 

 地面に横たわるマニに追撃をかけようとするオークキング。それを阻もうとして、ジャンヌは神技を使って魔族の前に躍り出た。

 

 しかし、それは明らかに判断ミスだった。今のジャンヌに、その攻撃を真正面から受けられるだけの力は無い。彼女はこの咄嗟の場面で、『彼』だったころの戦闘スタイルを出してしまったのだ。

 

 ジャンヌはオークキングの冗談みたいに大きな拳が目前に迫った時にようやく気がついた。剣を構える自分の腕が、異様に細く華奢なことに。彼女はしまったと思ったが、その時にはもう後の祭りだった。

 

 ゴンッ……と、まるでコンクリに鉄球でも叩きつけてるような、通常ではあり得ない音がした。メキメキと体の中から音がして、その瞬間にはもう、体のあちこちがおかしな方向に折れ曲がっていた。なのに他人事みたい痛みを感じない。真っ先に感じたのは、空っぽになった肺が空気を求める息苦しさだった。

 

「きゃああああーーーーーっっ!!」

 

 ひゅーひゅーと喉の音が鳴って酸欠の脳に酸素が送られた瞬間、自分のものとは思えないような強烈な悲鳴と、信じられない激痛が体中を駆け巡った。ジャンヌは一瞬、意識を持っていかれそうになったが、辛うじて堪えて顔を上げた。

 

 体のあちこちからジュウジュウと音を立てて湯気が上がっている。どうやら神人の超回復が始まっているようだった。ここまでボコボコにされたのは始めてだったが、ここまでやられてもまだこの体は回復しようとするのかと、死んだほうがマシだと思える痛みの中で、彼女は我が事ながら呆れていた。

 

 しかし、彼女の体がいくら自分を癒そうとしたところで、オークキングがそれを待ってくれるわけがない。間もなく追撃の魔の手が彼女に向けられた。巨人はその巨大な拳を振り上げて、はんこを押すような気安さでジャンヌを叩き潰そうとした。彼女は咄嗟に避けようとしたが、しかし体に力が入らない。

 

 万事休す……このまま攻撃を食らい続けたら、いくら高HPの神人の体だって持たないだろう。最悪、死んでも鳳がいれば生き返らせて貰えるから、それもありかも知れないが……

 

 そして彼女が諦めようとした時だった。

 

「うおおおおおおおおーーーーーーっっ!! 爆・裂・拳っっっ!!!」

 

 ドッパーンッ!! と、相撲の立会いみたいな肉と肉がぶつかり合うような音がして、迫りくるオークキングの拳が弾き返されていた。みればサムソンがジャンヌを庇うように立ちふさがり、オークキングの拳に立ち向かっていた。

 

 横槍をいれられてバランスを崩した巨人は一瞬だけ虚を突かれたように立ち止まったが、すぐに攻撃する相手を変えると、今度はサムソンにその矛先を向けた。

 

「うおおおぉぉーーーっっ!! 爆・裂・拳っっ! 岩・砕・拳っっ!! 旋・風・脚っっ!!! おらあああぁぁぁーーーっっ!!!!」

 

 ドカッ! ドカッ! ドカッ! 次々に打ち下ろされる巨大な拳を、サムソンはおのれの膂力だけで弾き返していた。何か強そうな技名を叫んでいるが、ただの人間である彼に神技が使えるはずもなく、それはただの掛け声だけのパンチやキックに過ぎなかった。

 

 だが、サムソンは人間の身でありながら、その人類最強とも呼べるSTR20の力で、凶悪なオークキングの攻撃に真っ向から対抗していたのである。

 

「くぅぅーーーっっ……ジャンヌっ!! 逃げろーっっ!!」

 

 しかし、そんな無茶がいつまでも通じるわけがなかった。二度、三度と阻まれる度に、拳に込める力を強めていくオークキングに対し、受けるサムソンの方は一撃ごとに確実に傷ついていた。やがて、彼が押し返す力が弱くなり、それと同時にオークキングの追撃の間隔が早まっていく。

 

 このままじゃ持たない。だから早く逃げろというサムソンが叫ぶ。

 

「なんで……守られているの? この、私が……」

 

 だが、ジャンヌはその場で身じろぎ一つせずに固まって、呆然と独り言を呟いていた。

 

「ぬわーーーーーっっ!!」

 

 ついに巨人の激しい攻撃に抗しきれなくなったサムソンが、オークキングのパンチで吹き飛んでいく。彼はズザーッと地面を滑るように転がると、血塗れでブラブラとしている肩を押さえながら、未だに動こうとしないジャンヌに向かって叫んだ。

 

「ジャンヌーーっっ!!」

 

 しかし、ジャンヌは未だ呆然として反応しない。そんな彼女に向けて、差し出されたデザートでも手に取るかのように、オークキングが手をのばす。しかし、それを手にするより先に、巨大な魔族は突然悲鳴を上げて天を仰いだ。

 

「不知火っっ!!」

 

 見れば、復活したマニがオークキングの足元に潜り込んで何かをしていた。足の付け根と言うか、股間に何か鉄球のようなものを打ち込んで、男の急所を思いっきり攻撃したのである。

 

 こんな巨大生物の雌雄など判別もつかないし、人間と同じところに急所があるとは限らなかったが、どうやら賭けに勝ったらしい。猛烈な痛みにのたうち回るオークキングだったが、しかし、痛みが薄れてくると、今度は怒りにまかせてマニだけを攻撃し始めた。

 

 ドスンドスンと足踏みをし、その長い腕をメチャクチャに振り回す。普段のマニであったら、そんな冷静さを攻撃は寧ろ有り難いくらいだったが、巨人の攻撃から回復したばかりの彼の動きは鈍く、紙一重で避けるのが精一杯だった。

 

 このままでは、今度こそマニが殺されてしまう。この期に及んでようやく我に返ったジャンヌは、なんとか加勢しようと体を持ち上げようとしたが、神人の超回復を持ってしてもまだ全快には程遠く、よろよろとよろけながら立ち上がるのが精一杯だった。

 

 このままじゃ全滅だ……あの時、うっかり敵の前で無防備を晒すなんてミスさえしなければ……自分のせいだ。だからなんとかしなければならないのだが……ジャンヌはどうしていいかわからなかった。

 

 だが、その時だった。

 

「気にすんな、よくやった、殊勲賞だ」

 

 スッと彼女の横をすり抜けて、誰かが高速で駆け抜けていった。まるで弾丸のように素早いその姿を目で追うことは困難だったが、それでもそれが誰であるかは、不思議とその場にいる誰もが直感的に理解していた。

 

*********************************

 

 ギヨームと駆けつけたスカーサハ達の援護を受けて、ようやくオークの群れから解放された鳳とメアリーは、いよいよ仲間の救援に向かうべくオークキングのいる戦場を振り返った。

 

 なにしろ相手はあの信じられないような巨体である。いくら残った3人が地上最強であろうとも、いつまでもそんな少人数ではもたないだろう。あのジャンヌでさえ、傷を負わせるのがやっとのような化け物なのだ。魔法の援護が必要だ。

 

 彼は焦りながら仲間の元へと走った。しかし、そんな彼が駆けつけた時にはもう、仲間たちは壊滅状態に陥っていたのである。

 

 オークキングの攻撃を受けたジャンヌが傷つき倒れている。そのジャンヌを守ろうとして、サムソンが信じられない粘りを見せたが、間もなく攻撃に耐えきれなくて吹っ飛んでいった。辛うじて、復活したマニがオークキングの注意をひきつけていたが、このまま何もしなければ、彼が殺されるのは時間の問題だろう。

 

 一歩遅かったか……鳳は舌打ちした。オーク退治に時間をかけすぎ、残してきた仲間のフォローがおろそかになっていた。信用していたといえば聞こえが良いが、ただの怠慢の判断ミスだ。これだけのメンバーが揃えば、例え相手が魔王であっても負けはしないと、戦ったこともない相手に慢心しすぎたのだ。

 

 自分の判断ミスで、仲間が殺されるかも知れない……鳳は背筋が凍る思いがした。

 

「どうするの?」

 

 鳳が苛立ち爪を噛んでいると、並んで走っていたメアリーが不安そうに見上げていた。彼はその瞳を見て首を振ると、頭のスイッチを切り替えた。

 

 後悔するのは後回しだ。今はとにかくこの状況を脱しなければならない。マニはもって数分、サムソンは満身創痍でもう動けないだろう。ジャンヌは立ち上がってはいるが、回復が追いついておらず、戦えるようになるまではまだ時間が掛かるはずだ……なんだ、軽く詰んでるじゃないか。彼は目眩がするのを気合で払い除けた。

 

 かくなる上は三十六計逃げるに如かずだが、いま鳳たちが退いたら、残った帝国・勇者両軍はどうなってしまうだろうか。彼らは、他ならぬ鳳たちを助けようとして、必死に戦っているのだ。それを見捨てて逃げるなんて出来ない。

 

 こんなことになるなら、最初から接近戦など挑まずに、どこかに誘導するように戦えばよかったのだ……そうすれば、鳳の大魔法を使って一発逆転も出来たかも知れない。こんな乱戦でそんなものを使ってしまったら、どれだけ味方を巻き込むかわかったものじゃない。

 

 だが逆に考えれば、オークキングがマニに気を取られている今なら、命中精度の低いメテオストライクだって当てられるかも知れない。ディスインテグレーションなら確実だ……仲間を犠牲にする覚悟があるのなら……

 

「ざけんなっ!!!」

 

 仲間を犠牲にするだと? ふざけるな。そんな選択を選ぶくらいなら、彼は間違いなくもう一つの方を選ぶだろう。

 

 鳳が突然大声を上げ、メアリーはビクッと肩を震わした。彼はキョトンとしている彼女に言った。

 

「メアリー、俺が合図したらライトニングボルトを撃て。俺やマニを巻き込むかも知れないが、そんなこともう考えるな!」

「え? でも……」

「たとえ直撃しても、一発くらいなら俺たちは死なない。これが最善だ。信じろ!」

「わ、わかったわ」

 

 鳳はメアリーが頷くのを見てから、彼は残っていたMPポーションを全部口に放り込んだ。そんなことをしたらオーバードーズするのは確実だったが、どうせ死ぬかも知れないのだ、あとのことなど知ったこっちゃなかった。

 

 彼は『プロテクション』と唱えると、残りのMPを確認すべく自分のステータスを開き、そして残っていたボーナスポイントを全部STRに突っ込んだ。これから行おうとしていることへの保険と、さっきサムソンがオークキングの攻撃を凌いでいたのを見て思いついたことの応用だった。パワーさえあれば、あれと殴り合えるのだ。

 

 そしてパワーがあれば素早さも上がる。彼は地面に突き刺さっていた、誰かが落とした鉄の剣を掴むと、左手にケーリュケイオン、右手に鉄の剣を構えて駆け出した。

 

 地を蹴る足がいつもより軽い。まるで月面でも走っているかのようだった。油断すると空中に躍り上がってしまいそうだから身を低くして、風を切るように彼は駆け抜けた。途中、ジャンヌの横を通り過ぎる時、彼女と一瞬だけ目が合った。彼はそんな彼女に殊勲賞だと呟いてから、一直線にオークキング目掛けて突貫した。

 

 未だマニに気を取られて鳳の接近に気づかないオークキングは、よく見れば体のあちこちからピューピューと、まるで噴水みたいに青い血を噴き出していた。それはジャンヌがつけた無数の傷跡だった。文字通り、針の穴を通したような軽いキズではあったが、ともあれ、穴が空いていることには違いない。

 

 弾丸みたいな速度にまで加速した鳳は、オークキングの前まで達すると、ケーリュケイオンを投げ捨て、開いた両手で腰だめに剣を構え、その傷痕目掛けて突っ込んだ。

 

 ズンッ! とした衝撃が全身に走って、鳳の手にした剣がオークキングの体内に深々と突き刺さった。突然、死角から突っ込んできた何者かに一撃を食らったオークキングが悲鳴を上げる。

 

 幅広の剣を体内深く埋め込まれたオークキングに、この日一番のダメージが入ったことは間違いなかった。だが、もちろん本命はこれじゃない。鳳は鉄の剣が突き刺さっていることを確認すると、メアリーに向かって合図を送った。

 

「メアリーッ! うてえええぇぇーーーーっっ!!!」

「ライトニングボルト!」

 

 彼女の叫びとほぼ同時に、上空の雲から稲光が走った。それは葉脈のような線を描き、まっすぐにオークキングへと落ちていった。

 

 瞬間、鳳の目の前でバチン! と光が爆ぜて、ものすごい衝撃音とともに、彼は一瞬意識を持っていかれた。

 

 地面に弾き飛ばされ、ゴロゴロと転がりながらも、彼はここで気絶するわけにはいかないと歯を食いしばり、必死になって立ち上がる。殆ど賭けに近かったが、物理軽減の魔法が効いている分、鳳のほうが立ち上がるのが早かった。受け身に失敗して肩に激痛が走ったが、外れた肩を自分で無理やりはめ込むと、彼は落ちていたケーリュケイオンを拾い上げ、体を預けるようにしながら落雷の元へと走った。

 

 辺りには肉の焼ける香ばしい匂いが立ち込めていた。落雷を受けたオークキングに突き刺さった剣が、真っ赤に灼熱しているのが見える。落雷はその剣に向かって落ち、魔族の体内を一瞬で焼いたのだ。と同時に、体中に電流が駆け回って、流石の巨大生物も意識を保っていられなかったようである。

 

 だが、これで倒せるのであれば苦労はない。落雷を受けて倒れたオークキングの体はまだ呼吸でかすかに動いていた。鳳はそれを確認すると、覚悟を決めてその巨体に潜り込むように体を屈めて叫んだ。

 

「レビテーション!」

 

 詠唱を受けて魔法が発動するや否や、まるで台風みたいなものすごい風が起きて、砂塵が舞った。落雷の衝撃を受けて気絶していたマニが吹き飛んでいく。鳳は彼に悪いことをしたと心の中で謝罪しつつ、オークキングの体を持ち上げることに集中した。

 

 全長20メートル弱、体重は何百トンあるかわからないようなその巨体を持ち上げるために、ものすごい風圧が地面にある何もかもを吹き飛ばした。遠く離れていたジャンヌとサムソンの二人もゴロゴロと転がっていくのが見える。

 

 まるでロケットの発射場のように粉塵が舞って、辺りを真っ白に染めていく。その中央では、本当にロケットのように、ゆっくりと加速しながら、オークキングの巨体が空へと上がっていった。

 

 突然、戦場に粉塵が舞い、警戒していたスカーサハたち精鋭部隊は、その砂煙の中から巨大なオークキングが浮かび上がってきて度肝を抜かれた。一瞬、魔王の人知を超えた攻撃かとどよめいた彼らだったが、すぐその下に勇者の姿を認めてそれは歓声に変わった。

 

 そんな歓声をよそに、鳳は自分のステータスを見ながら冷や汗をかいていた。レビテーションの魔法自体はそれほどMPを消費しないはずなのだが、流石にこの巨体を持ち上げているせいか、思ったよりもMPの減りが早いのだ。

 

 このままじゃ目的を達する前にMPが尽きてしまう。そう思って、彼が焦りを感じていた時だった。突然、彼の頭の上に持ち上げられていたオークキングが意識を取り戻し、バタバタと暴れだしたのだ。それは自分の体が浮かんでいることに驚いて、化け物のくせに恐怖しているようだった。

 

 レビテーションは風圧を利用して無理やり対象を浮かべる魔法である。だからそんな風に暴れられては浮力を失ってしまう。間もなく、オークキングの体が傾いて、上昇速度が落ちてきた。このままでは逆に落下に変わるのは時間の問題だ。

 

 いっそ、地面に叩きつけてやればと思いもしたが、現在高度はまだ30メートルかそこらで、この巨体に致命傷を与えられるとは思えなかった。

 

 鳳は頭上で暴れるオークキングに苦戦し、仕方ないと諦めようとしたその時だった。

 

 不意に、持ち上げている対象の重量が軽くなったように感じた彼が、驚いてその体の反対側を見た。するとそこには鳳と同じようにレビテーションの魔法をかけて、空へ昇ろうとしているメアリーの姿があった。

 

「メアリー! ここはいいから、急いで離れろ! 巻き込んでしまう!!」

 

 それを見て鳳が叫ぶも、彼女は首を振って、

 

「やろうとしてることは分かってるわ! でもこのままじゃ失敗しちゃう。私はいいから、やっちゃって!!」

 

 鳳が驚いて目を丸くしていると、彼女はふいに柔らかい表情を見せ、

 

「ツクモなら、ジャンヌみたいに私のことを生き返らせることも出来るでしょう?」

「リザレクションのことか? でもそれは賭けだ! 俺だって、ちゃんと生き返れるかどうかわからないんだし」

「なら、尚更じゃない。ツクモがやられたら、もうこの化け物を倒せる人はいないわ。どうせ死ぬなら、私はみんなと一緒がいいわ」

 

 彼女の悲壮な決意に絶句する。確かに、鳳がこれからやろうとしていることの後で、彼が生き残っている保証はない。なのに、この化け物の方が生き残っていたら、残ったメアリーたちがこれを倒しきれるとは思えなかった。

 

 だと言うのに、彼女だけ生き残れというのだろうか。このまま一緒に死んだほうがマシなんじゃないか……実際、彼女がいなければ作戦自体が失敗する恐れがある。鳳は判断に迷った。

 

 だがその時、彼は視界の片隅に何かを捕らえた。そこだけ騙し絵のように浮き上がって見える何かに彼が目を向けると、するとそこには馴染み深い日本語の文字列が並んでいた。

 

『始まりにして終わり。アルファにしてオメガ。死者は蘇り、生者には死の安らぎを与えん』

 

 ケーリュケイオンに刻まれた文字列だった。実際のそれはただの記号で、本当ならその内容は誰にも読み取れないはずだった。だが、何故か鳳にだけはその文字が読めた。尤も、読めたところで、その内容はやっぱり分からなかったのであるが……

 

 だが、その使い方だけは、もはや自分の体に染み付いている。だから彼はその文字列を見た時に、それを思いついたのだ。

 

 鳳とメアリーは会話を交わしながらも、化け物を持ち上げて上空へと昇り続けていた。その高度はいよいよ100メートルに達しており、ここまで来たらこのまま化け物を落下させても、それなりの戦果は見込めると思えた。

 

 だが彼はもはや迷いはせず、更にオークキングを上空へと持ち上げると、

 

「わかった、メアリー。そのままこいつを上げることに集中してくれ」

「わかったわ」

 

 鳳はそう言うと、十分な高度を稼いでからこっそり彼女に近寄っていった。

 

 メアリーは一生懸命にバランスを取りながら、暴れるオークキングを持ち上げることに集中していた。そんな彼女のすぐ隣に、いつの間にか鳳が近寄っていた。彼女がその気配に気がつき目を向けると、すると彼は何故か彼女に向かってその杖を構えており、

 

「ケーリュケイオン!」

 

 二匹の蛇が絡みついた杖の先から、ふわりと光の羽が生える。一体、何をしているんだろう? メアリーがぽかんとしていると、突然、彼女はその杖に吸い込まれるような錯覚を覚え……そしてそのまま意識を失った。

 

 ケーリュケイオンがメアリーの体を吸い込んでいく。彼はそれを確認すると、彼女を吸い込んだ杖を思い切り遠くへぶん投げた。

 

 これは賭けだ。等価交換の杖なら、中に吸い込んだ彼女を、また元通りに戻せるかも知れない。もちろん、そんな保証はどこにもないし、鳳がいなければ彼女を取り出すことも出来ない。だが、これからやることに付き合わせるよりは、こうした方がまだ彼女が助かる可能性が高かった。

 

 メアリーを失ったことで、頭上で暴れている化け物の浮力がガクッと落ちた。鳳一人ではもはや支えきれず、それはすぐに落下を始めた。

 

 鳳の腕からようやく解放されたオークキングは、すれ違いざまに信じられないものを見るような目つきで鳳のことを見ていた。自分から望んでそうなったくせに、まるで助けろと言っているようだった。

 

 鳳はそれを見て、人間みたいな奴だなと思った。もしかすると本当に、これもリュカオンのような人間の成れの果てなのかも知れないと。

 

 ともあれ、このまま放っておいてもそれは落下の衝撃で死ぬかも知れないが、確実とは言えなかった。それじゃ何のためにこんな空の上まで昇ってきたのかわからない。

 

 やることは一つしかない。鳳は化け物を指差すと、

 

「我、鳳白の名において命じる。そのデカブツを塵一つ残さず燃やし尽くせ、ディスインテグレーション!!」

 

 その瞬間、彼の視界は白く染まり……間もなく、彼は数万度に達する高温に焼かれて消滅した。

 



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蠱毒

 西の空に真っ赤な太陽が沈もうとしていた。東の空はもう真っ暗で、星が輝き、夜を迎えようとしていた。なのに中天の明るさときたら、まるで2つ目の太陽がそこに誕生したかのようだった。

 

 暫くするとその輝きは徐々に失われていき、空はまた元通りの紫色に戻った。上空からパラパラと雨が降ってきて戦場に降り注いだ。冷たかった。

 

 ポツンポツンと叩きつけるような雨音が、地面を黒く覆っていく。空からは雨滴以外に何も落ちてくるものはなく、あの巨大な化け物の肉片の一欠片も、そして鳳もメアリーも、いつまで経っても降りてくることはなかった。

 

 突然、それまで大暴れしていたオークの群れが、まるで人間たちに怯えるみたいに森へ帰って行った。彼らの王が倒されたことで劣勢を悟り、狩るものと狩られるものの立場が逆転したかのようだった。

 

 勇者軍と帝国軍の兵士たちが追撃を開始し、無抵抗のオークを相当排除することに成功したが、森に逃げ込んだオークはかなりの数があり、これらを全て駆逐するには、まだまだ時間がかかりそうであった。それは獣人たちに残された試練になりそうだが、果たして彼らだけで上手く片付けられるだろうか。

 

 その獣人の王であるガルガンチュアことマニは、雷のショックから立ち直ると、フラフラしながら体を起こした。彼がさっきまでオークキングと戦っていた地面はボコボコに穴が開いており、そこで激しい戦闘があったことを窺わせた。

 

 殆どの攻撃が通用しなかった。目くらましでどうにか凌いでいたが、あれだけの戦いで命を落とさずに生き残れたのは、運が良かっただけだろう。彼はギリギリと奥歯を噛み締めた。

 

 ふと見れば、ボコボコに抉れた地面の中央に一本の杖が突き刺さっていた。二匹の蛇が絡み合う意匠が施されたそれは、鳳の使っていたケーリュケイオンで間違いなかった。上空からここまで落ちてきたのだろうか。もしかしてその近辺に、鳳も倒れていないかという淡い期待を抱いて近寄っていくと、反対側からジャンヌが血相を変えて駆け寄ってきて、その杖にすがりつくようにして泣いた。

 

「いやああああーーーっっ! 白ちゃん! 白ちゃん!」

 

 それまで上手く行っていた連携が崩れたのは、彼女がミスを犯したせいであると責任を感じているのだろう。滂沱の涙を流し嘆く彼女の姿は痛々しかった。

 

「ジャンヌ……」

「触らないでよっ!!」

 

 サムソンが、そんな彼女を慰めようと近寄っていったが、彼女は荒々しくそれを拒んだ。目は真っ赤に充血し、親の仇を見るような目つきで見られて、満身創痍であった彼は心の底まで冷える思いがした。今はそっとしておいた方が良い。周囲の視線がそう告げているようだった。

 

 ジャンヌの、おいおいと泣き叫ぶ声が、まるで祭りの後みたいに戦場にこだまする。しかし彼女がどんなに泣いた所で、探し人は決して見つかることはなかった。

 

 と、そんな彼女の元へツカツカと、小さな人影が歩み寄っていった。後方で援護射撃を続けていたギヨームだった。彼は泣いているジャンヌの背後で立ち止まると、ガツンと思いっきり拳を振り下ろし、

 

「馬鹿野郎! 勝手に殺してんじゃねえ。あれがそう簡単に死ぬ玉かよっ!」

「で、でも……」

 

 強烈な痛みが走り、頭の中でゴーンゴーンと音がした。ジャンヌが泣きはらした目で振り返ると、同じく、後方で兵士たちの援護をしていたルーシーが近づいてきて、

 

「そ、そうだよ、ジャンヌさん。鳳くんならそのうちひょっこり帰ってくるよ。それよりも、一緒に昇っていっちゃったメアリーちゃんの方が気になるけど……神人だし、鳳くんが生き返らせてくれるんだよね?」

 

 ジャンヌはハッと表情をこわばらせた。鳳のことばかり気にして、あまりにも周りが見えていなかった。確かに二人の言う通り、これまで何度死にかけても戻ってきた鳳と比べて、メアリーの方はそんな保証もない。なのに彼女のことはまるで思い出しもせずに、自分はなんて薄情なんだろうとジャンヌはショックを受けた。

 

 しかし、そんな二人の不安をどこ吹く風で、ギヨームがぶっきら棒に言った。

 

「大丈夫だろ。あれが仲間を巻き込んで自爆するとは思えない。多分、最後まで足掻いたはずだ。案外、そのお陰で二人とも今もどこかで生き残っているかも知れないぜ」

「そ、そうだね……きっとそうだよ!」

 

 ギヨームとルーシーが笑い、ジャンヌもどことなく落ち着きを取り戻したようだった。サムソンはそんな三人を遠巻きにしながら、この状況でまだリーダーのことを信じられる彼らの絆の強さを羨ましく思った。彼がどんなにジャンヌのことを想っても、この中に入っていくのは相当骨が折れそうだ。

 

 そんな具合に行方不明になった鳳とメアリーのことを心配していると、遠くの勇者軍本陣の方から大勢の声が聞こえてきた。何が起きたんだろうかと目を凝らせば、どうやらフェニックスの街へ向かった冒険者達が、アイザック率いる後方支援部隊を引き連れて戦場に駆けつけたようだった。

 

 彼らは進軍中にオークと戦う友軍を見つけ、行軍速度を早めたようだが、どうやら到着する前に戦闘が終わってしまったようだった。その途中、巨大な化け物(オークキング)が空を飛んでいくのを見かけて度肝を抜かれたのだが、あれは何だったのだと大騒ぎしている。

 

 援軍が駆けつけたのを見て帝国兵が動揺し始めたが、最前線にいたスカーサハがそれに気づき、停戦を呼びかけることで事なきを得た。流石に、たった今まで一緒に戦っていた相手と、このまま戦争を続ける気にはなれなかった。

 

 敵将に語りかけ、取り敢えず、両軍入り乱れているこの状況では話し合いも出来ないから、一旦、それぞれの陣営に兵を引こうと言うことで話がまとまると、スカーサハとヴァルトシュタインはそれぞれ部下に命じて、兵士を川の向こう側に撤退させるように指示した。

 

 ところが、勇者軍が二人の号令により粛々と撤退をするのに対し、帝国軍の方はどうも動きが鈍い。それもそのはず、彼らを指揮するはずの総司令官オルフェウス卿カリギュラは、今や体の半分が異形と化した化け物となっていた。帝国将兵たちは、これをどう扱っていいか分からず、遠巻きにするだけで何も出来なかったのだ。

 

 ヴァルトシュタインはそれに気がつくと、昔とった杵柄と言うべきか、駆け寄っていって見知りの元部下たちに、ここは任せてとにかく今は兵を引けと命じた。敵味方に別れた今となっては彼の命令に従う義務はなかったが、彼らもこの状況では埒が明かないと感じたのか、少しの逡巡のあとに兵を引き上げていった。

 

 ヴァルトシュタインはそれを見送ってから、ゆっくりと自分の愛馬の手綱を握り、未だ戦場のど真ん中で倒れているカリギュラの元へと近づいていった。

 

「よう。おまえは一体……なんだったんだ」

「あなたも知っての通り、一人の神人である、オルフェウス卿カリギュラですよ」

「……今更はぐらかして何になるんだ。あの化け物は、おまえだったんだろう?」

 

 彼が異形の怪物を見下ろしながら返事を待っていると、それを見ていたジャンヌやギヨームたちもやってきた。カリギュラは体を起こそうとして、異形と化した半身をなんとか動かそうとしたが、プルプルと震えるだけで体は言うことを聞かず、やがて彼は諦めると、ただ真上だけを真っ直ぐ見つめながら、息も絶え絶え自分の過去を話し始めた。

 

**********************************

 

 300年前。オルフェウス卿アマデウスが行方不明になって以降、オルフェウス領は領主のいない状態が続いていた。そのため、オルフェウス領は帝国内でも発言力が乏しく、殆ど他国の言いなりだった。

 

 実のところ、ヘルメス領と国境を接し、南に大森林の驚異を抱えているオルフェウス領には勇者派が多く、勇者戦争に関してあまり乗り気ではなかったのだ。しかし、発言力が乏しいがゆえに面倒事を押し付けられて、なし崩しにだらだらと戦争が続いていた。

 

 オルフェウスに住む、とある神人は、このままでは国土が疲弊するばかりだと憂い、ある日、捜索隊を募ってネウロイへと向かった。

 

 オルフェウスに領主がいないのは、とにもかくにも、アマデウスの死が確認されていないからだ。人間である彼が今も生きているとは到底思えなかったが、中にはレオナルドのような例外もいる。そのため、オルフェウス卿は空位のまま放置されていたわけだが、捜索隊が遺品でも持ち帰れば状況も変わるだろう。そう思い、彼らは一縷の望みをかけて決死行へと赴いたのだ。

 

 しかし前人未到のネウロイの地は神人であっても過酷な環境であった。一人また一人と脱落者が続き、ついに捜索隊は散り散りとなってしまう。

 

 後にカリギュラとなる神人は仲間と逸れたあとも使命を果たそうとして、魔族の群れの中で孤軍奮闘し続けていたが、いかんせん多勢に無勢の感は否めなかった。特に、神人といえども食事を取らずに動き続けることは不可能であり、彼は食料の乏しいネウロイの地で空腹を紛らわすために、木の皮をかじり泥水を啜った。だが、そんな状況でいつまでも体が持つはずもなく、やがて諦めた彼は自分が倒した魔族を食らうことで生きながらえる道を選んだのであった。

 

 しかし、これがマズかった。

 

 魔族は神人すらも侵すウイルスを宿しており、彼は魔族を食べることによってそれを取り込んでしまったのだ。やがてウイルスは脳に達し、彼はどんどんおかしくなり……

 

 そしてついに意識を失ってしまう……

 

 紀元前八世紀、ロムルスが国を興して以来、ローマは長い共和制の時代を続けていた。その状況に変化が起きたのは、カエサルがルビコン川を渡ったからだ。カエサルは親友ブルータスの裏切りによって命を落としてしまうが、養子であるオクタビアヌスが後を継ぎ、彼は初代皇帝アウグストゥスに就任、こうしてローマ帝国が誕生する。

 

 尊厳者(アウグストゥス)の名が示す通り、彼の治世は多くの人々の支持を受け、ローマ帝国は大いに繁栄した。誰もが彼の帝位を疑うこともなく、その平和は永遠に続くものと思われた。しかし、彼が選んだ後継者がまずかった。

 

 二代皇帝ティベリウスは就任当初こそ優れた手腕を発揮したが、優秀である故に他人を全く信用しておらず、国民を無視した改革を推し進め、やがて支持を失っていった。そしてこれも人の世の常か、権力を手放したくない彼は、間もなく自分に都合の悪い人間の粛清を始めてしまう。

 

 方々から恨みを買った彼は、やがて嫁や側近からも裏切られ、ますます疑心暗鬼を強めてしまい、晩年にかけて恐怖政治を敷いて、帝国は絶望のどん底に叩き落された。

 

 そんな経緯もあり、彼の後継者に選ばれたカリギュラには誰もが期待していた。ティベリウス時代があまりにも酷かったから、これ以上酷くはならないとの思いからだった。ティベリウスの指名した後継者という不安はあったが、皇帝になる前の彼は好青年で仲間が多く、何よりも優秀だったから、誰も心配していなかった。

 

 カリギュラ自身も就任当初、前任者の悪政を正そうという使命に燃え、非常に優れた手腕を見せた。こうして帝国はまた繁栄の道に戻るかに思えたのだが……しかしそんな矢先に、彼は病に倒れてしまう。

 

「まだ皇帝に就任して一年にも満たない頃でした。私は熱に浮かされ、なんとか立ち直ろうと踏ん張っていました。しかし、それは当時では治る見込みのない脳炎で、その後、ようやく熱から解放されても、私の脳には大きなダメージが残ってしまっていたのです。

 

 そして私は理性を失いました。普通の人が持ち合わせている善悪の判断が出来なくなっていたのです。それからの私は怒りの衝動のままに行動し、好奇心に駆られるままに悪逆の限りを尽くすようになりました。

 

 周囲の人々は戸惑ったでしょう。私は見た目は何一つ変わりないのに、まるで別人のようになっていたのですから。しかし、みんなおかしいと思っても、皇帝である私に楯突くことなど出来るはずもなく、帝国は大混乱に陥りました。

 

 こうなれば取るべき道は唯一つしかない。こうして私は就任からわずか4年という短さで、側近たちに暗殺されるという方法で、皇帝の座から引き摺り降ろされたのです」

 

 皮肉にも、彼に理性が戻ってきたのは、その暗殺の瞬間だったそうである。彼は熱病に掛かったときから殺される瞬間まで意識がなく、目が覚めたら、いきなり信じていた側近たちに刺殺されていたのだ。

 

 それと同時に、彼は自分が意識を失っていた間に起きた出来事もちゃんと記憶しており、側近たちが苦しみながらも彼を殺した理由もちゃんとわかっていた。だから彼は暗殺されながらも、誰を恨むことも出来ず、寧ろ知らずしらずのうちに自分がしでかしてしまったことに対して、深い後悔の念に苛まれた。

 

 皇帝になり、人々を救うつもりが、まるで逆のことをやってしまった。今更後悔しても仕方ないが、出来るなら熱病にかかる前に戻ってやり直したい。人々を救うために、自分の手腕を発揮したい。彼はそう願いながら、間もなく死への深い眠りに就こうとしていた。

 

 その時だった。オルフェウスが現れたのは。

 

 薄れ行く意識の中で、それは死の淵に片足を突っ込んでいる彼の脳内に直接話しかけてきた。

 

『人々を救いたいというおまえの気持ちは本物か? そのためにはどんな苦労も厭わないのか? 自分でも……あまつさえ人間でさえなくなっても、それでも構わないか?』

 

 カリギュラは一も二もなく願った。

 

 もしもやり直せると言うなら、どんな苦労も厭わない。このまま死んでいくのでは、なんのために皇帝になったのかわからない。どうせ死ぬなら、せめてたった一人でも、誰かを幸せにしてから死にたい。そのために、自分が自分じゃなくなってしまっても構わない。どうせ、この四年間は似たようなものだったのだから。

 

『……その願いを聞き届けよう』

 

 そんな言葉が彼の脳内に響き渡り……

 

 そして新世界で目覚めた時、彼は一匹の魔物になっていた。

 

 竜のような鱗に覆われたトカゲみたいな胴体にコウモリの羽。首は蛇みたいににょろにょろと長くて、その先にはげっ歯類みたいな顔がついている。尻尾ムチみたいにしなっていて、軽く振ると空を切り裂く耳障りな音がした。

 

 魔獣ジャバウォック……

 

 彼は自分が何になってしまったのかを正確に理解していた。それはカリギュラの元となった神人の記憶が残っていたからだった。彼はこの世界に、ジャバウォックになってしまった放浪者(バカボンド)として目覚めたのだ。

 

「目覚めた私はすぐに何が起きたのかを理解しました。その体は、ネウロイにオルフェウス卿を探しにやってきた捜索隊のもので、彼は魔族を食べた後遺症により理性を失い、そこで一匹の魔獣になってしまっていたのです。

 

 実は、ネウロイでは魔族による蠱毒が行われているのです。魔族は、別の魔族の遺伝子を自分の体内に取り込むことによって、その形質を変化させます。戦って殺すか、犯して産ませるか。魔族とは、そうやってひたすら強さを求めて進化し続ける、生命体の総称だったのですよ。

 

 神人である彼は魔族を食らうことによって、その特性を引き継いでしまったのでしょう。こうして魔族となった彼は理性を失い、今度は自ら他の魔族を取り込むことで、どんどん進化していった……

 

 ジャバウォックとは、神人が魔族化したものだったのです」

 

「ちょっと待て、それじゃあ300年前に現れた魔王ジャバウォックってのは……あれも神人だったっていうのか??」

 

 ヴァルトシュタインが割り込むように質問をするも、カリギュラはそれに答えようとしなかった。それは意図的に無視しているわけではなくても、彼の命の灯火が、もう間のなく消えようとしているからだった。

 

 カリギュラはぼんやりとした視線で空中を見ながら続けた。

 

「魔族は激しい怒りを原動力にして、自分よりも強い者を求めて戦い続けます。そして勝った方が相手の遺伝子を取り込み、生きたまま自分の形質を変化させ、また強い者を求めて彷徨います。

 

 こうして究極的進化を遂げたものが、いずれ魔王となるのです。

 

 ネウロイで目覚めた私は、自分が魔王となっていたことに気づきました。本来、魔族は理性を持たないのですが、前世で理性を失ってしまったことを非常に悔いていた私は、魔王となりながらも理性を失わずに居られたのです。恐らく、これがオルフェウスの贈り物(ギフト)だったのでしょう。

 

 私はすぐにネウロイから脱しました。魔王がいなくなれば人類は救われる、今は私が魔王なのだから、私が人を襲わなければそれでいいと思ったのです。でも、これは甘い考えでした。私が居なくなったからといって、魔王が生まれないわけじゃないのです。ネウロイでは相変わらず魔族たちが戦い続けており、蠱毒の末に魔王となる。

 

 ジャバウォックの体を隠し、帝国に戻っていた私は、ある日、直感で自分よりも強い魔族が生まれたことに気づきました。放っておけば、いずれこれが進化のために、私を取り込みに帝国までやってくるでしょう。このままここにいけないと、私は自分ひとりでこれを解決しようと考えたのですが……

 

 しかし、その時思ったのですよ。新たに生まれた魔王は私よりも強力だ。もし、私が敗れて魔王が私を取り込んだとしたら、果たして人類がこれに太刀打ちできるのだろうか……そうならないために逃げ続ければいいのだろうか、それとも……私は判断に迷います。

 

 と、そんな時でした。ヘルメス卿が無邪気にも勇者を復活させたという噂が流れてきました。魔王が生まれたのであれば、勇者もまた現れる……私は一計を案じることにしました。この勇者に、私たち魔王を倒させようと考えたのです。

 

 そして私はすべての事情を皇帝陛下へと告白し、帝国軍の総司令官として就任したのです。全ては今日、この日、この場所で、この世界の全ての国の人々の前で、魔王が現れたことを認識させるために……

 

 こうして思惑通り、魔王は倒されました。ですが、それでもう魔王が生まれないというわけじゃない。ネウロイでは、今も新たな魔王を生み出すべく、魔族たちが戦い続けています。それがいつになるかはわかりませんが、次の魔王が誕生したときに……そのときにすぐに対応出来るように、人類は一つになるべきだ。

 

 私は……そう願って、止まないのです」

 

 風が吹き抜け、パタパタと旗が棚引く音がしていた。ここは戦場だと言うことを忘れてしまうくらい、辺りは静まり返っていた。ヴァルトシュタインは、この魔王と化した神人の次の言葉を待っていたが、それはもう永遠に訪れなかった。愛馬から降りて覗き込むようにその顔を見れば、カリギュラはもう事切れていた。

 

 さっきまでビクビク動いていた獣の腕はもう動かない。肥大化して、おかしな方向に曲がった片足も。神人の死など、もう見慣れてしまっていたが、果たしてこれもそう呼んでもいいのだろうか。せめてちゃんとした墓に弔ってやりたかったが、帝国軍の部下たちは怖がって、誰も近づいてこなかった。

 

「どうするよ……?」

 

 ヴァルトシュタインの横で同じようにそれを覗き込んでいたギヨームが言った。

 

「放っておくわけにもいかんだろう。誰か帝国将兵をとっ捕まえて、引き取るように言わねばならん。休戦交渉もしなきゃならんし、忙しくなるぞ」

「ちょうどアイザックもいるし、帝国が話し合いに席についてくれればいいな。まあ、戦争の方は俺たちには関係ない。鳳を探しに行かなきゃならねえから、この辺で失礼させてもらうぞ」

「なんだ? もう行くのか……?」

「元々ここへはオークを追っかけて来ただけなんだ。そうしようと言った馬鹿がどっか行っちまったんだから、見つけて引っ叩かなきゃならねえだろ。ジャンヌも、あの通りだしよ……」

 

 ギヨームがそう言って、やれやれとお手上げのポーズをしてみせた時だった。

 

 先程、ヴァルトシュタインに言われて引き上げていった帝国軍の本陣の方から、一頭の馬に乗った身なりの良い神人が近づいてきた。来ている服は軍服じゃないので、後方支援を担っている文官だろうか。

 

 何者だろうかと警戒していると、その神人はヴァルトシュタイン達から馬の脚で十完歩くらいの距離で止まり、敵意がないと言いたげに、一度両手を上に上げてから、大きくはないがよく通る声で、そこにいる者たちに語りかけてきた。

 

「私は帝都よりやってまいりました、護帝隊所属マッシュ中尉であります。そこにいらっしゃるのは帝国軍前司令官ヴァルトシュタイン閣下とお見受けしますが……」

「護帝隊だと!? 皇帝の直属じゃねえか。なんでそんなのがここにいるんだ?」

 

 ヴァルトシュタインが目を丸くしている。護帝隊とは要するに近衛兵のことであり、皇帝に付き従うもののことである。親征でもないかぎり、戦場には出てくることはありえないし、そもそも現在の皇帝は殆ど名誉職で帝国内のゴタゴタに興味がない。だから彼も近衛兵のくせに文官みたいな格好をしているわけだが……

 

 そんな皇帝が何故このタイミングで首を突っ込んでくるのだろうか。ヴァルトシュタインが訝しげに睨んでいると、マッシュ中尉と名乗った男が続けた。

 

「総司令官が倒されたため、帝国にこれ以上の継戦の意思はございません。早速、停戦交渉を行いたいので、ヴァルトシュタイン閣下、並びに、勇者軍の方々に帝都までお越しいただければと、お願いにまいりました」

「なんだと? まだろくに一戦もしていないんだぞ!? 何故、こんな予め決まっていたかのように、話が進んでいるんだ……?」

 

 と言いかけたところで、ヴァルトシュタインは気がついた。それならつい今しがた、カリギュラが言っていたではないか。

 

 彼は、いずれ現れるであろう魔王を勇者が倒してくれるように、皇帝に相談し、自分を餌にし、帝国軍総司令官となってここに軍隊を集めていたのだ。その思惑通り、この場に現れたオークと両軍が協力して戦い、ついに勇者が魔王を倒したのだ。つまり目的を達したから、もう戦う必要はないということだ。

 

「冗談だろう……あいつ。ここまでお見通しだったっていうのか?」

「皇帝陛下におかれましては、ヴァルトシュタイン閣下には再度帝国軍総司令官へ就任してくれますよう望んでおられます。また、アイザック11世様には、お望みであればヘルメス卿の爵位を、正式に下賜するおつもりがあるとおっしゃられております。ですので、ぜひ一度帝都までお越しいただければ……」

 

 ヴァルトシュタインは呆然として返す言葉がなかった。一体、どこまでがカリギュラの筋書き通りだったのだろうか。当の本人が死んでしまった今、それが分からないのが悔しくてならなかった。

 

 ギヨームは固まってしまったヴァルトシュタインの肩をぽんと叩くと、

 

「良かったな。これでお役御免だ。戦争も片付いて、お前もヘルメス卿も返り咲けて大団円だ。それじゃ、俺たちは先を急ぐから、また機会があったらどこかで会おうぜ。そうそう、もしもどこかで鳳の情報を聞いたら、すぐに冒険者ギルドに連絡をくれ」

 

 ギヨームがそう言ってから仲間を促し、戦場から去ろうとした時だった。

 

「お待ち下さい。勇者パーティーの方々ですね? あなた方にも帝都までご同行願いたいのですが」

 

 思いがけず、皇帝の使いであるマッシュが声をかけてきた。ただの冒険者でしか無い自分たちに何の用があるというのだろうか。もしかして、勇者が魔王を倒したから表彰したいとかその手の話だろうか。

 

 しかし、今はその勇者が行方不明なのだ。こいつをさっさと見つけに行かなければならない。だから今は帝都なんかに遊びに行ってなんかいられないと、ギヨームは断りを入れようとしたのだが、そんな彼の声を遮るように中尉は続けた。

 

「勇者様……鳳白様なら、いまごろ帝都におられるはずです。陛下が直々にお引き止めしているところでしょうから、すれ違いにならないためにも、ついてきていただければ有り難いのですが」

「……はあ!?」

 

 ギヨームは……そして他のみんなも素っ頓狂な声を上げた。他に返す言葉が見当たらなかった。何故、ついさっき、木っ端微塵に吹き飛んでしまった鳳が、帝国の首都なんかにいると言い切れるのだろうか。

 

 いくらなんでも嘘に決まっている。そう思うのであるが……さっきのカリギュラの話を聞いた手前、一概にそうとも言い切れなかった。目の前で死んでいるその神人が、それを予想していたことは否定できないのだ。

 

 ギヨームたちは、複雑なため息を漏らしながら、一体どういう事情があるのかと、帝都からやってきたその男に詳しい話を聞くことにした。

 



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エディプスコンプレックス

 生きる屍という言葉があるなら、その頃の鳳ほどそれが似合う男はいなかった。

 

 事件を起こしたあと、彼は学校へは戻らなかった。行ったところでどうせ腫れ物扱いだろうし、同級生たちの姿を見れば嫌でも事件のことを思い出さずにはいられなかったし、先輩たちは卒業していなくなったとしても、殆どが同じ町内に暮らしているのだから、どの面下げて表を歩けるのかと思っていた。

 

 かと言って家で引きこもってもいられなかった。その頃の彼は父親の家で暮らしていたが、事件後に折り合いが悪くなった父とどうやって接していいか分からず……父は忙しい人だったから滅多に会うことはなかったのだが、それでも家の中でばったり出会ってしまったら、あの時の言葉を思い出してしまって、針のむしろだったのだ。

 

 何故、仕留めそこなった。どうして、殺さなかったんだ。

 

 それは喉に突き刺さる魚の骨のように、彼に反論を許さなかった。どんなに後悔しても悔やみきれない胸の痛みと、どうしようもない無力感が襲ってきて、彼の生きる気力を根こそぎ奪っていくのだ。

 

 だから彼は耐えきれなかった。父親に保護されている自分が嫌だった。そして彼は逃げ出したのだ。本当は、自分の心の弱さが原因だったのに、それを価値観の違いに転嫁して、父を憎んだのだ。

 

 しかし、家を出たところで、たかだか中学二年生でしかない彼には行く場所なんてどこにもなかった。せめて一目でいいから会いたいと思い、会いに行ったエミリアの家では、彼女の家族に追い返されてどうにもならなかった。彼らは鳳がしたことを知っていたのだ。それが仮に、彼女のためだったとしても、そんな言い訳は通用しなかった。

 

 そして行くあてのない彼は彷徨い歩き、結局、東京のどまんなかを流れる川の河川敷という、中途半端なところに漂着した。

 

 その頃の彼は今ほど生きる力は無かった。道端の草が食えるなんてことは知らなかったし、魚を三枚におろすことも出来なかった。ただ、河川敷に並んでいるブルーシートテントを見ていたら、あいつらが生きてられるんだから、自分もなんとかなるんじゃないかと思っただけだった。そしてそれは正解だった。それからおよそ半年間……彼はそこでホームレスの真似をして、食っていく方法を学んだ。

 

 やってみれば案外簡単なことだったのだ。都会には、その日世界で餓死する人たち全員を助けられるくらいの、廃棄食品が溢れていた。それはホームレス対策として、わざと水浸しにされていたり、鍵のかかった倉庫に厳重にしまわれていたりしたが、中には無造作にポリ袋に突っ込んで捨てられている物も、探せばわりと見つかった。

 

 仮にそんなことをしなくても、100円200円も出せばスーパーの見切り弁当なら普通に買えた。そしてその100円200円も、自販機の下を覗き込んだら結構な頻度で見つかるものだった。

 

 そしてその日のカロリーを摂取したら、あとは河川敷に帰ってダンボールにくるまって寝るだけだった。水は近くの公園で好きなだけ飲めるし、雨が降ったらその公園の遊具の中で眠った。

 

 そうこうしているとおかしなガキが紛れ込んでいるということで、ホームレスの一人が脅かしに来たが、一目じろりと睨んでやったらすぐに帰っていった。縄張りを主張したかったのだろうが、そんなことをしたら何をされるかわからない、そんな野生の勘が働いたのだろう。その時の鳳はもう、脅せば逃げていくような普通の子供とは、何かが根本的に違っていたのだ。

 

 そうしてホームレス生活をしていると、そのうち彼を気遣って声を掛けてくれる者も現れた。最初は近所の教会で炊き出しがあるから一緒に行こうと誘ってくれたおっさんで、次はスマホを貸してやるから一緒に商売しようぜという怪しげな兄さんだった。

 

 おっさんはホームレス歴が長く、立派なブルーテントを持っていた。工事現場でもらった角材の柱に、梁までしっかり渡してあり、屋根に乗っかってもびくともしなかった。中は拾ってきた様々な物で溢れており、梁に張った紐にかけたハンガーには何着かの古着が吊るされていた。かなり清潔にしていて、ホームレス特有の嫌な匂いは全くしなかった。

 

 カセットコンロで何でも料理するようだが、ボンベ代が勿体ないから、普段はカップラーメンで凌いでいることが多いそうだった。買い置きなんかしたらすぐ盗まれてしまうから、もっぱら現金を持ち歩いているようで、驚いたことに銀行口座とキャッシュカードまで持っていた。

 

 ホームレスとして脂が乗っている彼は、定番の空き缶拾いや雑誌拾いの仕事などを教えてくれた。他にもくず鉄を買い取ってくれる工場や、日雇い仕事を斡旋してくれる窓口まで教えてくれた。この手の仕事は身元なんて調べようともしないから、鳳が中学生だろうが家出少年だろうが全く興味を示さず、機械的に仕事をくれた。きつい仕事の割りに低賃金だったが、それでもなんとかなるんだなと、日当の五千円札を太陽に透かしながら思った。

 

 兄さんはそんな仕事すら嫌がるダメ人間で、いつも何台ものスマホを持ち歩いては、何かをポチポチやっていた。大抵はポイントの貰える無料アプリを大量に起動して小銭をかき集めているようだったが、他にも海外のオークションサイトからの転売や、闇金の使い走りみたいな仕事をしていた。連絡があったら金を持って依頼者の元へ行くのだ。いわゆる受け子の逆バージョンだが、こうすれば闇金は正体がバレないで済む。そうすることでどんなメリットがあるのか分からなかったが、需要があるからには何か意味があるのだろう。

 

 そんなにスマホを持っていて充電はどうしてるんだろうと思ったら、盗電出来るポイントをいくつも知っているらしかった。普段はファストフード店をオフィス代わりにしてるから、それだけでもなんとかなるようだ。怪しげな海外SIMを大量に持っていて、よく使い終わったカードがテーブルの上に散乱していた。多分、転売のついでに東南アジア辺りから仕入れているのだろう。

 

 ホームレスと言うより、正確にはネカフェ難民なのだろうが、ネカフェで寝てることはまずなかった。と言うか、寝てること自体が少なくて、公園やらファストフード店で一時間くらい仮眠したら、またすぐ起き出してスマホを弄っていた。食事の回数も少なく、青白い顔をして、吹けば飛ぶような体格をしており、どうしてそんなんで平気なのだと尋ねたら、眠らないでいい薬を持っていると言っていた。

 

 くれるというので試しに飲んでみたら、嘘みたいに頭が冴えて、本当にいつまで経っても眠くならなかった。あまりにも劇的なので、これはなんだ? と尋ねてみたら、ケロリとした表情で覚醒剤だと宣っていた。鳳が翌日、ぐったりして一日中眠っていたのは言うまでもない。

 

 そんな感じに、道徳性が悪い方向へ振り切れているような男だったから、最後もあっけないものだった。ある日、一緒に商売しようぜというから話に乗ってみると、スマホを一台渡されて、コールセンターの真似事をさせられた。コールセンターと言うか、チャットの返信なのだが、どうやら詐欺の片棒を担がされていたらしい。

 

 兄さんは闇金から手に入れた名簿やら、SNSの釣り懸賞なんかに登録していたアドレスに、手当り次第『芸能界に興味はありませんか?』というメッセージを送りつけていた。普通の人ならバカバカしいと無視するものだが、これが思ったよりも返事がかえってくるのだ。鳳は大量に送られてくるメッセージに返信し、脈がありそうなものをピックアップして兄さんに渡した。兄さんはそのアドレスに、レッスン代だとか登録料だとか、色々と理由をつけて金を引き出し、短期間の内に信じられないくらい巨額を稼いでしまった。本当に、普通に働くのが馬鹿らしいと思うくらいだ。

 

 しかしこれは詐欺である。良心の呵責はないのかと尋ねたら、どうしてだ? と真顔で返された。

 

「こんな手口に引っかかる奴は、よほどの馬鹿だけだろう。もしくは抱えきれない虚栄心に押しつぶされそうになってる奴だ。俺は彼らの承認欲求を一時的にしろ満たしてやったんだから、感謝されこそすれ非難されるいわれはない。政治家を見ろ、マスコミを見ろ。奴らが約束を守った例があるのか。綺麗事を並べて金を得る。俺とどこが違うんだ」

 

 兄さんはそうして荒稼ぎした金を闇金の口座を通じて海外へ送金し、彼がもう一つの拠点にしている東南アジアの国へ飛ぼうとしたところ、張っていた捜査員に逮捕された。羽田でも成田でもなく、茨城空港で捕まったのは、何とも彼らしかった。その後、しばらくの間、ファストフード店に捜査員がよく来ては、鳳も職質を受けたが「僕、わかんなーい」としらばっくれておいた。

 

 兄さんはいなくなってしまったが、特に寂しいとは思わなかった。価値観の違う人だったから、逮捕されてもしょうがない、塀の中から出てきたらまた悪いことをするんだろうなといった程度である。鳳は空き缶拾いや雑誌拾いに戻ったが、それは長くは続かなかった。楽して稼ぐ方法を見てしまったからというわけではなく、単純にその作業に飽きてしまったのだ。ぶっちゃけ、お金はそんなに無くても食べてはいける。ホームレスの最大の敵は暇だった。

 

 そんな時に知り合ったのが爺さんだった。爺さんは河川敷に住むおっさんの知り合いで、何匹も野良猫を飼ってる人だった。昔、この辺で野良猫を保護したら、次々と人がやってきてペットを捨てていったらしい。以来、爺さんが面倒を見ているのだが、いつの間にか餌やり爺さんとして行政に目をつけられていたようである。一体、誰が悪いのか。

 

 行政は猫を保健所に連れていきたいようだが、それじゃ忍びないので、爺さんはなんとか里親を探そうとしていたが、ホームレスの猫など貰いたがる者もおらず、軽く詰んでいた。役所は保健所が見つけてくれますよと言って強引に引き取ろうとしたが、そうしたら十中八九殺処分だろう。そのため、爺さんは昼間は猫をテントに隠して、夜に行動していた。もうかなりの高齢で力仕事なんて出来ず、仲間の援助が無ければ生きられないようなそんな人だった。

 

 でも爺さんには知識があった。爺さんは夜になると、本当はいけないことなんだけどと言いつつ、ミミズを餌に川でぶっこみ釣りをして、釣れた魚を猫にやっていた。残ったものを河原で摘んできた野草と一緒に煮込んだり、栗やら柿やらビワやいちじく、そこらの公園で自然になっている実を収穫してきては、保存食を作ったりしていた。河川敷にこっそり畑も作っていた。鳳は、こんな都会のど真ん中でも、金を一切かけずに食べていけるんだと驚いた。それも廃棄食品に頼らずに自然の物が中心なのだ。

 

 感心した鳳は爺さんに弟子入りし、食べられる野草の種類や果物のなる木などを教えてもらった。釣りの仕方も習い、ぶっこみだけではなく、様々な仕掛けも教えてもらった。釣りはホームレス生活の暇つぶしには最適で、鳳はすぐにのめり込んでいった。言われるままにコンビニで遊漁券を買って、釣り竿も自分用のものを新しく揃えた。お礼に釣った魚は猫にやったし、爺さんのために年券をプレゼントしたが、結局、それを使うことは無かった。爺さんのようなホームレスが釣りをしていると目立つのだ。だから彼は人の寝静まった夜中にしか行動せず、それなら今までと何も変わらなかった。それでも、今までは気が引けていたからと言って爺さんは喜んでくれた。同じホームレスでも、どうしてこんなに倫理観が違うのだろうかと彼は思った。

 

 ともあれ、新たな趣味も出来て、鳳はホームレス生活を満喫していた。釣りや野草の収集で日々の糧を得て、たまに空き缶拾いや雑誌拾いに精を出し、時にはおっさんから酒を頂戴したり、怪しげな外人がこそこそと隠していた非合法な薬をちょろまかしては追い掛けられたりと……割りと充実した毎日が続いていた。お陰でエミリアや父親のことは殆ど思い出さなくなっていた。

 

 だから、油断していたのかも知れない。自分が何者であるのかを、彼は少し忘れていたのだ。

 



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ハンターズハイ

 ある日のことだった。いつものように深夜に釣り糸を垂らしていたら、河川敷にものすごい爆音を響かせて、バイクに乗った集団がやってきた。それは深夜のツーリングというわけではなく、見るからに暴走族と言った感じであった。この時代にもなって、まだこんな連中がいるんだなと呆れつつ、魚が逃げてしまうじゃないかと不満に思っていたら、連中は思わぬ行動に出た。

 

 一台のバイクがブオンブオンとエンジンを吹かしながら、おっさんのテントに突っ込んで行ったのだ。あっという間になぎ倒されたテントから、おっさんが命からがら出てきては、取るものも取り敢えず一目散に逃げようとした。それを見た他の連中が面白がっておっさんを追いかける。バイクと徒歩では相手にならず、おっさんはあっという間に捕まって、バイクに引きずり倒された。

 

 鳳の隣でそれを見ていた爺さんは、ひぃっと怯えた声を上げてその場に伏せた。彼はブルブルと震えていて、完全に見て見ぬ振りを決め込んだようだった。その行動は正しかっただろう。普通、こんなことに首を突っ込む馬鹿はいない。しかし、鳳は特にこれといった感情を抱かずに、ただ、放ってはおけないなと思っていた。河川敷に来てから、だいぶ世話になった。彼にはおっさんを助ける義理があったのだ。

 

 鳳は爺さんの隣にしゃがむと、真っ暗な地面を手探りで、手頃な石を探した。出来るだけ硬くて尖っている燧石を見つけると、それを手にこそこそと男たちの方へと近寄っていった。

 

 三人の男がバイクから降りて、襲われているおっさんを見ながらゲラゲラと笑い声を上げている。彼はその背後へ忍び寄ると、一切の躊躇を見せずに後頭部に石を振り下ろした。というか、躊躇をすれば失敗するのは目に見えていたから、殺すつもりでやった。だから一人目の男は自分が殴られたことにも気づかず意識を失っただろう。二人目も同じように昏倒した。三人目だけは仲間が倒れたのに気づいて、ぎょっとして振り返る時間があったが、その時にはもう迫りくる石を避ける間もなく、彼もあっけなく沈んだ。

 

 頭から血をピューピューと噴き出して三人の男が寝転がっている。死ぬかも知れないし死なないかも知れない。確実に仕留めるべきだろうか。いや、これは狩りではないのだから、とどめを刺す必要はないだろう。

 

「てめえっ!! なにしてやがんだっ!?」

 

 そんなことをぼんやりと考えていたら、おっさんを追い掛けていた連中が、仲間がやられたことに気づいて怒鳴り声を上げた。鳳は自分に注意が向いたことに気がつくと、手にした石を投げ捨て背後を振り返り、川へ向かって駆け出した。バイクの音がすぐ背後まで迫ってくる。彼はこの間におっさんが逃げてくれたら良いなと思いながら、川の中へとダイブした。

 

 連中はバイクに乗っているから、どうせ川の中までは追い掛けてこないだろう。案の定、エンジン音は川岸でUターンし、代わりに悔しそうな怒鳴り声が響いている。鳳はそれを背後に聞きながら、わざとバシャバシャと音を立てて川を泳いで渡り切った。ヘッドライトで照らされながら対岸へ上陸すると、そのまま生い茂る茂みの中へと身を隠してから背後を振り返った。

 

 こちらからは丸見えだったが、あちらからは茂みに潜んでいる彼が見えないようだった。ずぶ濡れになった服を絞っていると、連中は対岸を指差しながら何かをごちゃごちゃ喋ったあと、数台のバイクが川沿いを土手の方へと走りだした。恐らく、橋を渡って追い掛けてくるつもりだろう。地の利はこっちにあると言うのに馬鹿な奴らだ。鳳は連中がこちらへ渡って来る前に、不法投棄されているゴミの山へと向かった。そして中から鉄筋が飛び出しているコンクリート片を引っ張り出すと、今度はまた別の茂みの中へと隠れた。

 

「ガキがぁ! 出てこいやぁ! おらぁーっ!!」

 

 暫くすると爆音を響かせて、また数台のバイクが河川敷へと侵入してきた。隠れている鳳をあぶり出すためだろう、そんな怒鳴り声を上げていたが、それで出ていく馬鹿はいない。正直、もう隠れているだけでもやり過ごせそうだったが、鳳は彼らを追撃するつもりで茂みの中に伏せていた。何故なら、彼らの次の行動が手にとるようにわかったからだ。

 

 バイクは速くて馬力もあるが、オフロードでもない限り、茂みの中を走ればタイヤを取られて速度が出せない。だから連中は知らずしらずのうちに茂みを避けて、走りやすいあぜ道を走ろうとするだろう。そしてその道は普段から河川敷で暮らしている鳳は全て把握済みだった。彼はその中でも最も走りやすいランニングコースにもなっている遊歩道の脇に隠れると、獲物がやって来るのをじっと待った。

 

 対岸まで鳳を追ってきた連中は、しばらくの間誰もいない茂みに向かって馬鹿みたいに叫んでいたが、やがてバラバラにバイクを走らせて、河川敷を虱潰しに探し始めた。諦めて帰るという選択肢は無かったようだ。ならばと待ち構えていると、そのうちの一台が鳳の潜む遊歩道へやってきた。走りづらい河川敷を走っていたせいでフラストレーションが溜まっていたのか、そのバイクは走りやすい遊歩道を見つけると、うっぷんを晴らすかのようにスロットルを回した。

 

 鳳はバイクが速度を上げて近づいてくるのを見計らって、コンクリート片から突き出した鉄筋を握り、ハンマー投げの要領でぐるぐると回転しながら遊歩道へ飛び出した。バイクは突然飛び出してきた人影に驚いたようだが後の祭りである。

 

 ドッと重い衝撃が腕に伝わり、コンクリート片の直撃を受けた男がバイクから投げ出されて転がっていった。悲鳴を上げなかったのは、当たった瞬間に気絶したからだろう。暗くて当たりどころは分からなかったが、まあ、死んでも死ななくてもどっちでも構わなかった。倒れたバイクは遊歩道を滑るように転がっていって、10数メートル先でエンジン音ごと止まった。

 

 仲間が事故ったことに気がついた連中から「大丈夫か?」という声が聞こえてきた。鳳はその声に「大丈夫!」と元気よく返事をしてから、倒れているバイクへと走った。普通なら気づきそうなものだが、バイクの音が煩いのと、この暗がりでは分からなかったのだろう。連中は特に怪しむこと無く、また鳳を探して走り始めた。

 

 鳳はまんまと事故ったバイクを奪うと、それを起こしてエンジンを回した。バイクは頑丈で事故の衝撃にもびくともせず、どこも壊れていないようだった。気絶したライダーが起き出してくると面倒くさいので、さっさと行動したほうが良いだろう。鳳はバイクに跨ると、周囲を見渡して次の獲物を探した。すると事故った仲間を心配して、まだこちらの方を見て立ち止まっているバイクがいる。彼はそれに突っ込むつもりで躊躇なくバイクを走らせた。

 

 きっと仲間が無事を知らせるために近づいてきてるのだと思っていたのだろう。ものすごい速度で近づいてくるにも関わらず、立ち止まっているライダーは最後まで回避行動を取ろうとしなかった。

 

「ぎゃああああああーーーっっ!!!」

 

 仲間のバイクに横から思い切り追突された男が、バイクごと吹っ飛んでいった。彼はバイクに跨ったまま、かなりの勢いで地面に叩きつけられ、バイクと地面に挟まれた足がおかしな方向に曲がっていた。大腿骨でも折れたのだろうか、ものすごい悲鳴が河川敷に轟いて、その瞬間、走っていた残りのバイクが急ブレーキをかけた。残りは二台。どう料理するか……

 

「お、おい! なにしてる!?」

 

 バイクに跨りながら、遠巻きに恐る恐るとこちらを見ている残りの二人をちらりと見てから、鳳は姿勢を低くして茂みに入った。その瞬間、怒号が浴びせられバイクが近づいてくる音が聞こえたが、勝手知ったる自分の庭では捕まるはずがなかった。

 

 男たちは鳳が逃げ込んだ茂みの中で、手にしたナイフをメチャクチャに振り回していたが、その鳳は遠くからそれをぼんやりと眺めていた。月明かりに照らされて、それはまるで盆踊りのように見えた。そのうち、すぐ近くでうめき声を上げている仲間を見つけて、残りのうち片方が「もう逃げよう」と提案したが、もう片方は興奮冷めやらない様子で、血走った目で辺り構わずナイフを振り回していた。

 

 鳳は、そんなことをしても草刈りにしかならないのにと思いながら、興奮する男の背後へと回り込み、相手の体力が尽きるのを待った。既にその手には石が握られていたが、ふと思いついて、彼はポケットに入れていた釣り糸を取り出すと、手頃なサイズの輪っかを作った。やがて男が荒い息を吐きながら、膝に手をつくのを見るや否や、彼は音もなくその背後に忍び寄って、男の首に輪っかをかけた。そのまま糸の両端をキュッと引っ張ると首が絞まった。男は咄嗟に背後にいた鳳にナイフを突き刺そうとしたが、ヒヤリとしたのはその一瞬だけで、脳への酸素供給が断たれた彼はすぐに戦意を喪失して、必死にその首に巻き付いた細い糸を解こうとした。だが、首に食い込む糸を掴むことも出来ずに、ものの10秒もしないうちに落ちてしまった。

 

 あーうー、とかおかしなうめき声を上げて白目を剥いている。鳳は、男の手からこぼれ落ちたナイフを拾い上げると、月明かりにかざしてそこに映る自分の目を見た。大丈夫。冷静だ。そこに映った自分の顔が普段通り冷静であることに彼はホッとすると、足元に転がっている男を雑巾でもみるような目つきで見下ろした。

 

 失神ごっこでそのまま死んでしまう子供もいると言うから、案外このまま死んじゃうのかな……などと漠然と考えていると、最後に残った一人と目が合った。

 

「ご、ごめんなさい……許して下さい……ごめんなさい、許して下さいごめんなさい……」

 

 男は目を見開いて、オウムみたいに同じ言葉を繰り返していた。バイクに押しつぶされた仲間を助けようとしていたのか、中腰になって腕はバイクのハンドルを掴んでいる。その下には大腿骨が折れて悲鳴を上げている男がいて、どちらももう戦意を失っているようだった。鳳はそれを確認すると、何も言わずに背を向けてその場を立ち去った。

 

 彼はついさっき渡ってきたばかりの川を、今度は音を立てないようにスイスイと泳いで渡った。岸に上がる際に着ていた服を絞って水を十分に切ってから、茂みに姿を隠しつつ慎重に元いた場所へと戻った。そこにはまだ爺さんがいてブルブルと震えていた。彼は鳳が帰ってきたことに気がつくと震えながら、

 

「だ、駄目だよ……あんなことしちゃ、駄目だよ」

 

 と青ざめた表情で繰り返していた。駄目と言われても、しかし、他にやり方が分からないのだ。

 

 鳳がなんて返事すればいいんだろうと戸惑いながら、ぽりぽりとこめかみの辺りを指で引っ掻いていたら、こちらに残っていた連中の声が聞こえてきた。どうやら頭をかち割ってやった3人を病院に連れていくか、救急車を呼ぶかで揉めているらしい。どっちでも構わなかったが、自分たちがやったことを棚に上げて警察を呼ぼうとか言っているのが聞こえたから、鳳はそれは困ると思って立ち上がると、

 

「おい、おっさんのテントに突っ込んだのはどいつだ?」

 

 せめてそれだけは弁償させようと、肩を怒らせて近寄っていったら、連中はそんな鳳の姿を見てぎょっとした表情を見せ、まるでおばけでも見たかのような悲鳴を上げて逃げてしまった。いい年して暴走族なんかしてる連中からすれば、鳳なんてただの華奢な子供でしかなかっただろうが、それでも対岸に向かった仲間たちが静かになってしまった今、追い掛けていったはずの男がナイフを片手に立っている姿は、彼らに相当恐怖を与えたようだった。

 

 頭から血を滴らせた男たちがバイクに乗って逃げていく。鳳はこれ以上深追いしても仕方ないと、諦めてそれを見送った。

 

 それから暫くすると、対岸に救急車と警察車両がやってきた。どうやら向こう岸の連中が助けを呼んだらしい。そのうちこっちに気づいた警官が、彼を補導しにやってくるかも知れない。弱ったぞと思っていると、いつの間にか、連中に追われて逃げていたはずのおっさんが帰ってきていて、興奮気味に言った。

 

「いやあ、兄ちゃん、メチャクチャ強いんだな。でも、本当にメチャクチャだよ。あんなことをしたら、警察だって黙っちゃいられないだろ。きっともう見逃してくれないぞ」

「うん、困ったな。どうしたらいいんだろう」

 

 おっさんはため息を吐くと、何か思いついたように壊されたテントに取って返し、手探りで中からカセットコンロと飯ごうセット、それからいつも彼が背負っていたリュックサックを持ってきて、鳳に手渡した。

 

「ここにいたら警察に捕まえてくれと言ってるようなもんだ。これは餞別にくれてやるから、そのむき出しのナイフをしまってここから離れな。いいかい? もうここには帰ってくるんじゃないよ? 君は俺達とは違うんだから、いつか気が済んだなら、本当に君が帰らなきゃいけない場所に帰るんだ」

 

 顔を上げると、そんな彼を取り囲むようにして、河原中のホームレスたちが並んでいた。鳳は、ここにはこんなに人が居たんだなと思いながら、彼らに頭を下げると、背を向けて河原から離れた。殆どが顔見知りというだけで、せいぜい挨拶を交わすだけの仲だったけれど、これでお別れだと思うとどうしようもなく寂しかった。あの中学も、父親の家も、恋しいとすら思わないのに、ここから去らねばならないということが苦痛だった。いつの間にかここが彼のホームグラウンドになっていたようだった。彼は土手に上がってからもう一度振り返ると、もう一度頭を下げてから、市街地の方へと歩き出した。

 

 とは言え、行くあてなんかどこにも無かった。安心して眠れる場所なんて、水飲み場にしていた公園か、兄さんがオフィス代わりにしていたファストフード店くらいのものだった。だが、そんなところにいつまでもいるわけにはいかないだろう。彼はファストフード店で一夜を明かすと、日が昇ってから新天地を目指して動き出した。

 

 取り敢えず、生きるためには食料の確保が必要だった。すぐに思いつくのは飯場を渡り歩くか、悪いことをするかだったが、幸いにも彼には爺さんから教わったサバイバル術があった。真面目に働くのも悪事を働くのも、どちらも気が進まなかった彼は、当面はそれで食いつなごうと、上流に向けて歩き始めた。

 

 東京に近い山は殆ど綺麗に整備されていて観光客でごった返していたが、それでもほんの少し奥地へ行けば、そこには人が寄り付かない別世界が広がっていた。日本の山は険しく、標高百メートルの山で遭難したという事件もあるくらいだから、鳳が姿を隠しながら生活できるような場所もすぐ見つかった。

 

 彼は取り敢えず手持ちの資金が尽きるまで、そこに潜伏してみようと考えた。警察も暇じゃないから、暴走族同士の喧嘩なんて数日も捜査したらすぐ切り上げるだろう。そうして始めたサバイバル生活だったが、これが思ったよりも快適だった。

 

 時節は正に実りの秋で、山にはいくらでも食べるものがあった。トチや栗、銀杏やドングリ。あけび、サルナシ、柿やスダチなどなど。持ち込んだ業務用米もあるから、あとは湧き水を確保すればそれだけでも十分食べていけそうだった。

 

 無論、釣りにも挑戦した。というか、そのつもりで上流に向かったのだから当然である。しかし、始めは見つからないようにコソコソとやっていたのだが、下流の汽水域とはわけが違って全く釣れないから、結局、遊漁券を買って試行錯誤するはめになった。何が悪いのかさっぱりわからなかったから、釣り人を捕まえて色々教えてもらったら、それからは嘘のように釣れだした。こうして苦労したり工夫したりして、ようやく釣れるのは、また格別の楽しさがあった。

 

 だが、楽しいばかりでもなく、山での生活ではとにかくイノシシに悩まされた。集団で人を恐れず、真っ暗闇の中で動き回るから、一度眠っている時に襲われかけて酷い目に遭った。咄嗟に木に登って事なきを得たが、備蓄していた食料を根こそぎやられて、立ち上がる気力さえ奪われてしまった。

 

 そんなこんなで時は過ぎ、一ヶ月以上が経過した。気がつけば秋も深まり防寒具なしで夜を過ごすには、寒さが厳しい季節になってきた。鳳はいい加減にほとぼりも覚めただろうと思い、一度山から下りることにした。あまりに快適だったから、思った以上に長居してしまったようだ。

 

 久々の人里だったが、特にこれといった混乱もなく、割とあっさり馴染んでしまった。山では殆ど金を使わなかったから、持ち合わせがだいぶ残っており、今更ケチる必要もないから帰りは電車に乗った。

 

 床にリュックをおろし、ドアと長椅子の間の狭い隙間に体をねじ込んで、流れる車窓の風景を眺めていたら、帰ってきたんだなと妙に感傷的な気分になった。なんやかんや、このコンクリートジャングルが自分のホームなのだと、体に染みついているかのようだった。

 

 取り敢えず、これからどうすべきだろうか。金を稼ぐ方法ならいくらかあてはある。それで防寒具を買って、どこかに寝床を見つけねばなるまい。冬になったら流石に野宿は辛いだろう。おっさんのように立派なテントがあれば関係ないだろうが……そう言えば、そのおっさんは今頃どうしているのだろうか。なんとなく彼のことを思い出したのだが……それは多分、虫の知らせだった。

 

 電車を降りた彼は、まずは腹ごしらえと目についたラーメン屋に入った。特に食べたかったわけでもなく、一杯300円という値段に釣られただけだが、考えてもみれば一食に300円も使うのは、今の彼にとっては浪費と言えた。久しぶりに人混みに揉まれて、感覚が麻痺しているのだろうか。そんなことを考えながら、出てきたラーメンに手を付けようとした時だった。

 

 ふと、ラーメン屋の点けっぱなしたテレビの中に気になる文字列が過ぎった。なんだろうか? と顔を上げれば『ホームレス殺人』のテロップが流れている。なんとなく嫌な予感がして画面を見続けていたら、自分が以前住んでいたあの河川敷が映った。リポーターが何かをしゃべりながら、いつも彼が釣り糸を垂らしていた河原を歩いている。

 

 と、その時、見たことのない名前と一緒に、おっさんの顔写真が画面に映った。その2つが頭の中で結びつかなかったからすぐに反応出来なかったが、どうやらそれは殺人事件の被害者であるらしかった。被害者は一月くらい前から、地元の暴走集団に嫌がらせを受けていた。弱い者いじめが趣味みたいな連中だったが、それがどんどんエスカレートして、ついにおっさんをなぶり殺してしまったらしい。容疑者たちは反省の色を見せず、以前にやられたことの報復だと言っている。鳳は300円を机に叩きつけると、ラーメンを食べずに店を出た。

 



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虎よ

 そして帰ってきた河川敷は、以前とはまるで別物になっていた。伸び放題だった雑草は綺麗に刈られて、ところどころ地面がむき出しになっている。一番の違いは、そこにあったブルーテントが一つもなくなっているいることであり、警察が現場検証をしているのだろうか、ロープが張られていて中に人が入れなくなっていた。

 

 鳳がロープの前で立ち往生していると、新聞記者らしき男がやってきて事件について何か知らないかと聞き込みをしてきた。知らないから見に来たのだと断り、逆にここに住んでいたホームレスたちはどうしたのか? と聞いてみた。記者は金になりそうもないと肩を竦めながら、暴走族に襲われた人は病院に運ばれ、他の人たちは保護施設に連れて行かれたと教えてくれた。事件を機会に、河原からホームレスを一掃したのだ。

 

 なんてことだ……鳳はショックで頭が回らなくなった。河川敷をただ呆然としながら歩いていると、近所の小学生たちがギャーギャー騒いでる場面に出くわした。何をそんなに驚いているんだろうかと思って見てみれば、そこに数匹の猫の死骸が転がっていた。内臓が飛び出し、蛆が湧いて、原型を留めていない、まるで何かに踏みつけられたような、そんな死に方だった。

 

 鳳は土手の階段に腰掛けて、もうそこから動けなくなった。立ち上がろうと思っても力が入らず、ただそこで項垂れていることしか出来なかった。やってきた時はもう午後だったが、間もなく日が暮れて暗くなり、ジョギングをする人や買い物の自転車が後ろをひっきりなしに通り過ぎたあと、人気はどんどんなくなっていった。

 

 やがて満月が中天に達し、日付が変わろうとしていた。それでも彼はまだそこから動けなかった。頭の中では後悔の念が渦巻いていた。

 

 何故、仕留めそこなったんだ……どうして、殺さなかったんだ……

 

 と、その時、後悔に苛まれる彼の耳に、小さな猫の鳴き声が飛び込んできた。はっとして顔を上げれば、遠くの茂みの方で小さな影が踊っている。あれは爺さんの猫だろうか。せめてこの猫だけでも保護をしなければと思い、鳳はもつれる足を叩きながら声のもとへと駆け寄った。そしてその茂みの奥に、猫だけではなく、人も転がっていることに気がついた。

 

 茂みをかき分けて中を覗けば、ダンボールの上に横たわっている爺さんがいた。全身傷だらけで服はボロボロ、顔はアザで青くなっている。辛うじて胸が上下しているから生きているのが分かるが、高齢なこともあって、今にも死にそうで見ているのが怖かった。

 

「爺さん! 爺さん!」

 

 鳳が声をかけると爺さんはゆっくりと目を開き、ぼんやりとした視線で彼のことを見上げた。

 

「……君か。ちょっと待っててよ。猫に餌をあげる時間なんだ」

「そんなこと言ってる場合か。すぐに救急車呼ぶから」

 

 鳳がそう言って電話をかけに走り出そうとすると、思いがけず素早い動きで、爺さんが彼の足首を掴んで制止してきた。

 

「やめてくれ……救急車は呼ばないでくれ」

「はあ!? そんな怪我して、何言ってんだよ。つーか、どうしてみんなと一緒に病院にいかなかったんだ。今からでも遅くない、何なら俺が呼んでこようか?」

「駄目だ。みんなと一緒に行きたくないから、こうして逃げ回ってるんだよ」

 

 爺さんは、焦点の合わない弱々しい目つきで、わけのわからないことを言っている。

 

「病院へ行けば、そのまま保護施設に入れられてしまう。そしたら、ここへ帰ってこれなくなる。ここから出てしまったら、もう帰る場所がなくなってしまう。ずっと一人で頑張ってきたと言うのに、もう自由には生きられないんだ」

「……何言ってんだ? 爺さんは施設じゃなく、もっと別のどこかに、実家かなんかに帰りたいのか?」

 

 爺さんは首を振った。

 

「違う、そうじゃない。君だってそうだろう。君にだって帰る家はある。でも帰りたくない。どこにも帰る場所がないから、だからここにいるんだろう。それはどうしてだ? 誰にも迷惑をかけたくない。一人で生きていきたいと、そう思ったからだろう」

 

 そうかも知れない。鳳はそう思ったが、口には出せなかった。爺さんが、何を言わんとしているのか、さっぱりわからなかった。彼はハアハアと喘ぎながら続けた。

 

「僕はただここに居たいだけなんだ。ここでひっそりと暮らしていたいだけなのに、どうしてそっとしていてくれないんだ……どうして、彼は死ななければならなかったんだ……どうして……僕たちが何をしたと言うんだ?」

「ごめん……俺が、余計なことをしたばっかりに……」

「違う! 君のせいじゃない。あんなの、君のせいであってたまるか……」

 

 爺さんはそう言いながら、ゆっくりと体を起こすと、唸り声を上げながら傍にあった釣り竿を掴んだ。胡座をかいた上半身がゆらゆらと揺れていて、視線も定まっていなかった。彼はそのまま餌もつけずに釣り針を川に投げ入れた。猫たちがミィミィと甘えるような声をあげながら、彼の膝に乗っかった。

 

 そんなんじゃ釣れるわけがない。爺さんに指摘して、釣り竿を貸してもらおうと思った時、信じられないことにその釣り竿がピクピクと動いた。水面をバシャバシャと叩いて、魚が暴れている。しかし握力が殆どなくなっていた爺さんの手から釣り竿が持っていかれそうになり、鳳は慌てて釣り竿を引ったくると、爺さんの代わりにそれを釣り上げた。現金な猫たちが爺さんの膝から降りてきて、鳳の足元にすり寄ってくる。彼が釣り竿を爺さんに返そうとすると、爺さんは無色透明な瞳でじっと彼の目を見つめながら言った。

 

「君は、虎みたいな人だ。強く、気高く、孤高だ。君という一個だけで完結している、そんな人だ。だから人の中では生きてはいけない。人の中に虎がいれば、誰かを傷つけてしまうから。だから君は飛び出してきたんだろう、自分一人で羽ばたくために。君という生き方を認めてくれる人がいたならば、君はここにはいなかったはずだ。なのに今更、人の中になど帰れるものか」

 

 そして彼が噛みしめるようにして吐き出した言葉は、まるでこの社会への憎悪全てを乗せたような、そんな重みがあった。

 

「虎は、人の中で生きていくために、自ら檻の中に入らねばならない。君はそうやって自分を殺して、一生過ごせるのか」

 

 それは鳳になぞらえて、多分、自分のことを言っているのだろう。彼はここから出て誰かに頼ることで、自分が失われてしまうかも知れないと怖がっているのだ。それは非常に滑稽だ。棺桶に片足を突っ込んだジジイの言うようなことじゃない。青臭く、薄っぺらい言葉だった。

 

 でもだからこそよくわかった。鳳も、その皮を一枚剥けば、中身は空虚だったから。だから虚勢を張って、自分を虎だと思い込むことでしか、上手く生きられなかったのだ。

 

 何故って社会に負けてしまったら、彼には帰る場所がないからだ。彼には生まれつき母がなく、生まれたときから施設で暮らしていて、誰かの顔色を窺うことでしか、人とのつながりを築けなかったのだ。そんな彼が自由を手に入れようとしたら、破壊するか、逃げ出すしかないだろう。

 

 鳳はため息を吐いた。

 

「だけどな、爺さん。ここに居たいのは分かるけど、あんたそのままじゃ死んじゃうかも知れないじゃないか」

「それならそれで構わないじゃないか。体の傷は死ねば消える。でも心の傷は死んでも消えることはない。どっちの傷がより痛いか」

「……爺さんは、どうしてもここから出て行きたくないんだな?」

「ああ、御免こうむる」

 

 爺さんはそう言って鳳から釣り竿を奪うと、魚から釣り針を外そうとして、プルプル手が震えて全然うまくいかないでいる内に、突然、パタリと倒れた。魚が地面に投げ出されてビチビチと跳ねた。猫がそれをパチパチと手で叩いている。

 

「おい、爺さん!」

 

 それから鳳がいくら呼びかけても、もう爺さんは返事をかえさなかった。ダンボールの上で眠っているのではなく、失神しているようだった。抱き起こそうとしたら、信じられないほど軽く、その体は骨と皮だけで出来ていた。その体の軽さが事態の深刻さを物語っているようだった。このまま放置しておけば、爺さんは明日の朝には冷たくなっているだろう。

 

 ふと見れば、いつの間にか釣り上げられた魚は死んで、少し離れたところで猫の餌食になっていた。鱗が付いたまま胴体に歯を立てて、前足を上手く使ってその肉を食いちぎっていた。この猫も、爺さんがいなくなったら、あっちで死んでいた猫と同じ運命を辿るんだろうか……鳳が飼えばいいという問題じゃない。その時、爺さんは死んでいる。やることはもう、はっきりしていた。爺さんの意思なんか無視して、すぐに救急車でもなんでも呼ぶべきだ。

 

 だが、彼はそうすることが出来なかった。そうしたら、なんだか自分の中にある大事なものも、一緒に連れて行かれそうな気がしたのだ。でも、現実問題、このまま放置したら爺さんは死んでしまう。それは避けねばならない。なら、どうすればいいと言うのだ……? どうすれば……? どうすれば……?

 

 そして彼は走った。深夜の街を、ひたすらに、一秒でも早く。やれることがあるならもうこれしかないと、最初から分かっていた。だが、そうしたら自分の心が死んでしまうから、どうしても避けたかったのだ。でも、このままじゃ爺さんは死んでしまう。爺さんの死と、自分の死、どちらが大事かと考えたとき……彼は躊躇なく前者を選んだ。それが結局、鳳白という男のパーソナリティだったのだ。

 

 荒い呼吸音を響かせて、肩を上下しながら息を整えた。頭がガンガンと痛んで、視界が霞むようにぼやけていた。ずっと遠くに逃げたつもりで居たのに、いざ帰ろうとしたら、ものの十分程度の距離でしかなかった。久しぶりに帰ったその家は、飛び出した時から何も変わっていなかった。鳳の……父親の家だった。

 

 彼は覚悟を決めるとその呼び鈴を押した。ハウスキーパーは通いだから、今は父しかいないはずだ。こんな深夜にすぐに出てきてくれるわけがない。何度も押すことになるかも知れない。インターフォンから声が聞こえてきたら、なんと答えればいいだろうか。何しろ半年間も家出していたのだ。冷たく突き放されるだけならともかく、相手すらされないかも知れない。元々、何人もいる腹違いの兄弟の一人でしかない自分のことなど、もしかすると忘れているかも知れない。

 

 でもそれじゃ駄目なのだ。今は自分のプライドなどかなぐり捨てて、なんとしてでも爺さんを助けねば。そしてそれが出来るのは自分ではない……頭を下げよう。頭を下げて、父にすがろう……それしか、爺さんを助けられる方法はないのだから。自分のチンケなプライドなんて、この際どうでもいいだろう?

 

 ……と考えていた時だった。思いがけず一発でオートロックの門が開いて、玄関に父親が立っていた。

 

「帰ったか。さっさと入れ」

 

 抑揚のないフラットな声だった。何気ない日常の中で聞いたら、聞き逃してしまいそうな、淡白なセリフだった。でもそれがかえって胸に突き刺さった。およそ半年ぶりに見た父親の顔は、恐ろしいほど無関心で無表情のままだった。彼は昨日出ていった家出息子が、今日帰ってきたような、そんな顔をしていた。鳳には、ほんの十メートルくらい先にいるその人が、とても近くて、恐ろしいほど大きく見えた。

 

「助けて下さい……お願いします。助けて下さい……お願いします……助けて……」

 

 彼はその顔を見るとすぐに頭を下げた。そして何度も何度も同じことを繰り返した。他に言うことがいくらでもあるはずだろうに、他に何の言葉も出てこなかった。代わりに涙がポロポロポロポロと溢れてきて、あっという間に視界を海の底へと沈めてしまった。

 

 一人で生きていけると勘違いしていた。結局、人は一人では生きていけないのだ。困ったときには父親に頼ることしか出来なかった。彼は虎でもなんでもなく、ただの子供でしかなかったのだ。それが悔しくて、悲しくて、辛くって、どうしようもなく自分に腹が立つのに……それと同時にどうしようもなく、ホッとしていたりもするのだ。

 

 そのホッとする気持ちが余計に彼の心を傷つけて、いよいよ涙は止まらなくなっていった。こんな奴のところには帰ってきたくなかったのに、なんでこんなに安心しているんだ。彼のしゃくりあげるような声が深夜の街に響いて、近所の家の窓から次々と明かりが漏れ出した。そこら中の家々の番犬が連鎖的に遠吠えを始め、木枯らしが吹いていた。季節はもう秋を越えて、過酷な冬が始まろうとしていた。

 



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勇者召喚

 真っ暗闇の中で目が覚めた。体は気怠く、どうしようもない無力感に包まれていた。ふと顔に手をやったら涙に濡れていて、なんじゃこりゃ? と思った時に、その理由を思い出した。

 

 どうも夢見が悪かったらしい。あの頃のことを思い出していたようだ。思えばクソみたいな人生を送ってきたものだが、その中でも最高にクソな時期だった。鳳はゴシゴシと瞼を擦ると、ため息交じりに体を起こした。

 

 ふっと水中から出た瞬間のような、何かの膜を突き破るような感覚がして、急に視界が開けた。突然飛び込んできた景色に、目をパチクリさせながら周囲を見渡してみれば、彼はどうやら非常に広いドーム型の建物のど真ん中に居るようだった。

 

 天井は高く、綺麗な円形を描いている。そして部屋の外周に沿って等間隔に並んだ円柱が見える。その頭の部分には綺羅びやかな彫刻が施されており、それが天井のドームを支えているようだった。

 

 確か、円柱にはギリシャ式とかローマ式とかあって、時代が進むにつれてより質素なデザインになるんじゃなかったか。とすると、これはよっぽど古い建物なのだろうか。まさか今度はタイムスリップでもして来ちゃったんじゃないだろうな……と思いながら、自分が立っていた台座らしきところから飛び降りて振り返ると、いつの間にか台座の上に棺が収まっていた。

 

 さっきまでそんな物は無かったのに、いつの間に現れたんだろうか……? よく見ればその位置は最初に鳳が寝そべっていた辺りだから、すると彼は最初、その中に収まっていたようである。もしかしてこれは映像か何かで、実態がないのかも……そう思って棺に手をやってみると、ペタペタと感触があった。中からは出てこれるが、外からは入れない容器なんだろうか。おかしな物もあったんもんだと、彼は感嘆の息を漏らした。

 

 それもそのはず、その棺の輪郭はブレていた。と言うか、部屋をひと目見た瞬間から気づいていたのだが、天井も、床も、壁に並ぶ円柱も、全部七色の線がプルプルと震えて、輪郭線がぼやけて見えた。もう三度目だからいい加減に慣れてきてしまったが、また死後の世界に迷い込んでしまったようである。

 

 いや、死後かどうかは正直よく分からないが、少なくとも普通の空間でないことだけは確かだった。いつもならこの後、不思議な現象が起きて元の世界に戻れるはずだが、さて、今回は何が起きるんだろうか……そう思ってキョロキョロと辺りを見回していたら、柱の陰から見知った顔がひょっこりと現れた。

 

「ツクモー!」

 

 元気いっぱいに手を振りながら駆け寄ってくるのはメアリーだった。この世界に知り合いがいるのは初めてだったから普通なら驚くところだったが、鳳は意外と冷静にそれを受け止めていた。と言うか、寧ろ予想通りだったと言おうか、その可能性もあるんじゃないかと少し覚悟はしていたのだ。

 

「あー……やっぱ駄目だったか、ごめん、メアリー。俺たち、死んじゃったみたいだ」

 

 鳳はガックリと項垂れた。この世界にメアリーがいるということは、つまりそういうことである。彼としてはなんとか彼女だけでも助けられないかと足掻いてみたが、どうやら無駄骨だったらしい。取り敢えず、何度も来ている自分はともかく、彼女も一緒にここから出られる方法を見つけなければ……鳳がそう思ってため息を吐いた時だった。

 

 ドンッと衝撃がして、メアリーが彼の胸に飛び込んできた。なんだろう、こんなことは初めてだった。元々スキンシップをするような間柄じゃなかったから、照れると言うより単純に驚いた。見た目はただの小学生だから、甘えているとか不安がっているように見えなくもない。

 

 もしかすると、鳳が目覚めるまで結構時間があって、彼女は一人きりで不安だったのかも知れない。しかし、そう尋ねようとして彼女の顔を見た時、違和感を覚えた。彼女は怯えているのではなく笑っていた。それもずっと逢えなかった恋人と再会したかのような、とてもリラックスして相手を信頼しきっている顔をしていた。まるで恋する乙女のようだった。

 

 正直、メアリーとの仲は悪くは無かったが、そこまで良くもない。こんな反応をされる覚えはない。

 

「おまえは……誰だ?」

 

 自分で呟いたくせに、その響きが耳に届いた瞬間、彼の脳裏に電撃のような直感が走った。そうだ、ずっとそばにいるからそれが当たり前になっていたが、彼女は元々誰かに似ていたのだ。言うまでもなくそれは彼の幼馴染……

 

「まさか……エミリア!?」

 

 そういった瞬間、彼の視界がブレ始めた。それは波のように視界を歪めていく。まるで返事を聞く前に、強制遮断されるかのように、意識が遠のいていく。

 

「あー! くそっ!!」

 

 彼は必死に思考をつなぎとめようと藻掻いたが、なにをしようとも無駄だった。彼は間もなく抗いようのない異常な眠気のようなものに襲われて、勝手に瞼が閉じていき、そして意識を失った。

 

**********************************

 

「全知全能の支配者であらせられる我らが(エミリア)よ。この世は我らが神と勇者(かみのこ)のものなり。その力はこの世を(あみ)し、その慈愛は人を網する。神の神、主の主(デウス・エスト・エミリア)。さあ、神の宴が始まろう。主は来ませり、主は来ませり、主は来たりて、世をお救いになられるであろう」

 

 強烈な眠気で強制的にまどろみ状態にされたような気がしていたら、どこからともなく賛美歌のような詩が聞こえてきた。まるで優しい母の腕に抱かれているような心地よさを味わっていたら、突然、グンと重力に押しつぶされるような感覚がして、これまた強制的に目を覚まされた。

 

勇者召喚(サモンブレイブ)!」

 

 パリパリと耳元で静電気が走るような感覚がして、じわじわと全身に血が巡りはじめたような気がする。視界は真っ暗闇で何も見えない。だが今度は上体を起こそうとしたら、頭の上で何かにぶつかった。

 

 その瞬間、ゴンッと音が鳴って、外から「おおっ」と言うどよめきが上がった。その声色からして、結構な数がいるっぽい。なんだろう、怖いんですけど……と思いながら、たった今ぶつかったばかりの頭上に手をやったら、どうもそれは棺の蓋だったらしく、横に除けたらズシンと落ちる音と共に、さっき見たばかりの天井が見えた。すると、ここはあの棺の中なのだろうか? 確かめるには体を起こすしかないのであるが……

 

 恐る恐る棺の縁を掴んで外の様子を窺ってみると、そこはやはり先程のドームらしく、何本もの円柱が天井を支える広場だった。彼はその中央の棺の中に居て、その台座の前には複数の人影が膝をついて、頭を下げ、傅いているのが見えた。服装はローブと言うか、ギリシャ人みたいなトーガを着ており、そのうち先頭にいる女性一人だけが顔を上げていた。

 

 頭にティアラをつけている様子からして、この中で一番身分が高いのだろう。柔和な笑みを浮かべた絶世の美女で、その顔のパーツひとつひとつとっても、全身のスタイルを見ても完璧で、まるで彫刻がそのまま動き出したかのような美しさだった。

 

 まさか本当に大昔にタイムスリップしたのかと一瞬焦ったが、そのティアラの下に長くて尖った耳を見つけてホッとする。そんなファンタジーな姿を見て逆に安心するのも皮肉な話だが、目の前にいる連中はどうやらみんな神人であるようだった。

 

 問題は、プライドが高いはずの神人が、何故かみんな鳳に向かって頭を下げていることだった。十中八九嫌な予感しかしなかったが、また棺の中に逆戻りするわけにもいかず、彼は渋々体を起こすと、目の前のティアラに向かって尋ねた。

 

「あー……ここはどこだ。あんたたちは誰?」

「恐れながら、まずは勇者様のご尊顔を拝謁する無礼をお許し下さい」

 

 ティアラはそう言いながらゆっくりと頭を下げた。何もそんなに畏まらなくても良いだろうに……呆れて顔を引きつらせていたら、頭を上げた女性の顔もまた緊張から少々強張っているようだった。正直言って何が起きてるのかもわからない現状、怖いのはこっちの方だと思うのだが……

 

 さっき賛美歌のようなものが聞こえてきたし、見た感じ、神官とか聖職者のようにも見えるので、ここはどこかの寺院か何かかなと思っていたら、返ってきた答えはそれよりもっと予想外なものだった。

 

「ここは帝都アヤソフィア、真祖ソフィアの霊廟です。(わたくし)はここの祭祀を務めております、神聖エミリア帝国皇帝、エミリア・グランチェスターと申します」

「……はい~!?」

 

 鳳は思わず馬鹿みたいな叫び声を上げてしまった。それがコンサートホールみたいに音響の良いドームに広がり、傅いていた神人たちがビクリと肩を震わせた。いや、脅かしてしまって申し訳ないが、驚いているのはこっちの方なのだ。鳳はゴクリとツバを飲み込むと、

 

「神聖帝国って……あの、いま勇者領と戦争してる?」

「はい」

「アヤソフィアって、帝国の首都だっけ? エミリア・グランチェスターってのは……その、神様の名前じゃなかったっけ? 四柱の」

「左様です。ここは帝都アヤソフィア。(わたくし)は、恐れ多くも、神様と同じ名前を親より授かっただけです。他意はございません」

 

 まあ、現実世界にもマリアとかヴィーナスとかいるから、そんなノリだろうか。

 

「グランチェスターってのは?」

「真祖、ソフィア様より受け継いだ王家の名です。私と先帝は、血の繋がりはありませんでしたが……簡単に言えば家を継いだのです」

 

 なるほどグランチェスター朝というわけか……しかし、そのファミリーネームは、鳳の知っている幼馴染と同じなのだ。つまり目の前の皇帝を名乗る女性は、一字一句、鳳の知っているエミリアと同じ名前だった。

 

 彼女はそれを知っていて口にしているのだろうか? 見た感じ、どうもそうではないらしい。ともあれ、こうしてまた、この世界と幼馴染に関係がある傍証が出てきてしまったわけだが、今は話が進まないから一旦置いておこう。

 

 それよりも、どうしてこんな場所に自分はいるのだろうか……? 今はそっちの方がよっぽど気になった。何しろ、彼は目覚める前まで、帝都からはるかに遠いヘルメス国境の戦場に居たはずだ。まさか捕虜として連行されたとか……?

 

「とんでもございません! 私たちが勇者様に、そのような大それたことが出来るはずがありません。私たちは、勇者召喚の儀式にて、あなたをお呼びしたのです」

「勇者召喚……?」

 

 そう言えば目覚める前に賛美歌のような声が聞こえてきて、外で何かごちゃごちゃやっているようだった。つまりあれが、勇者召喚の儀式と言うことか……鳳はそれを思い出し、長い溜息を吐いてから、

 

「……やっぱり俺って勇者なの?」

「勇者召喚に応えられたのがその証拠かと」

「何かの間違いってことは?」

「何度殺されても死なない人間なんて、勇者様以外にありえません」

「ああ、やっぱ、そこだよね……」

 

 鳳は苦笑いを浮かべると、背筋を伸ばして棺の中から立ち上がった。いい加減、覚悟を決めねばならないだろう。ヘルメスと出会い、元の力を取り戻し、勇者の杖を受け継いだ時点で、そうなんじゃないかとは思っていた。ただ、はっきりとした確証がなく、レオナルドの記憶も曖昧だったから、もう暫くは様子見だと思っていたのだが……まさか敵国の、それも皇帝からお墨付きをもらうとは思ってもみなかった。

 

 いや、敵国……? そもそも帝国は自分にとって敵なんだろうか。鳳はそもそも勇者領の人間ではない。それにさっきまで、彼らとはオークキングを倒すために共闘していた仲なのだ。ピサロにはむかついたが、あれも元はと言えば放浪者なのだし、はっきりと帝国を敵視するような理由は何も無かった。

 

 鳳は棺を出て、台座からぴょんと飛び降りると、

 

「まあ、取りあえず落ち着かないから、皆さん顔を上げて下さい」

 

 と、未だ皇帝の後ろで頭を下げて傅いている神人の集団に言った。しかし、彼らはそう言われても微動だにしない。困ったな……と思いつつ、ふと冗談半分で、

 

「皆のもの、おもてを上げよ!」

 

 と言った瞬間、下を向いていた神人たちが、バッと一斉に顔を上げてこっちを見た。その迫力に気圧されて、思わず後退りしそうになる。気分を害してしまっただろうか。だが、その表情からは敵意は感じられない。単純に、お願いは聞けないが命令なら聞くとか、そういうことだろうか。面倒くさいなと思いつつ、鳳は台座の前に腰を下ろすと、

 

「取りあえず、敵意が無いことはわかったよ。それで、皇帝陛下。どうしてあなたは俺を呼び出したんです?」

「はい。まずはこちらから出向くことが出来ず、お呼びつけするような真似をしたことをお許し下さい。あなたのことは存じておりましたが、本物であるかどうか見極めがつかなかったのです」

「見極めですか……」

 

 皇帝は軽く首肯して、

 

「はい。もうご存知かと思いますが、勇者召喚の儀式自体は、我が帝国の秘儀でありながら巷間に流出した技術でもあるのです。そのため、昔から儀式を用いて勇者様の召喚を試みる輩は大勢おりました。その目的は言わずもがな、勇者様の力を利用して私腹を肥やしたり、帝国の転覆を図ることです。そのため、我々は勇者召喚の兆候を見つけ次第、全力を持ってそれを阻止して来たのです」

 

 それはまさしくヘルメス戦争が起きた理由だった。追い詰められたアイザックは、勇者召喚を行なって、呼び出した鳳たちに帝国と戦わせようとしていた。帝国からすれば目に余る行為だから、兵を向けられても仕方なかっただろう。仲間がやられてしまったことを、今更恨んだりはしないが……

 

「ですが、勇者召喚というものは、基本的には必ず失敗するものなのです。それで呼び出されるのは無作為な放浪者で、力はあれど勇者様ほどではなく、我々神人ならどうとでも対処が可能です。今回も、そうして呼び出された勇者5人の内、3人を倒したことで、我々はヘルメス卿の目論見が失敗に終わったと考えていました。逃げた二人は、帝国に帰ってこないのであれば、もう放っておこうかと……まさか、そのうち低レベルの方が勇者様だとは思いもよらなかったのです」

 

 なるほど、実際、フェニックスの街で帝国軍に引き渡しを要求されたのはジャンヌだけだった。その時、帝国も鳳が勇者だとは想像もしていなかったわけだ。そりゃ、当の本人にも自覚がないのだから当然だろう。しかし、まだ気になることが一つある。

 

「なら、メアリーを奪おうとしたのは何故ですか? 俺たちとは関係ないじゃないか」

「それは勇者の娘ということが聞き捨てならなかったからです。帝国は、勇者の血筋を根絶しなければならない義務を負っておりました。そのために、この300年を戦い続けていたのですから」

「根絶って……穏やかじゃないな」

 

 そう言われて思い出した。300年前、魔王を討伐したはずの勇者を暗殺したのは、帝国だったのだ。それに激怒したヘルメス卿が立ち上がり、勇者戦争が勃発し、やがて勇者の子供たちが生まれてきて、それが神人だと知った帝国は、狂ったようにその血を根絶やしにしようと戦争に明け暮れた。そのせいで勇者戦争は何百年も続き、神人はその数を減らしてしまったわけだが……

 

 しかし、考えても見れば妙な話だ。それなら何故皇帝は、目の前にいる鳳が勇者だと認識しておきながら、憎悪を向けるのではなく、バカ丁寧に応対しているのだ。他の帝国人なんて、まるで王にでも傅くかのような態度である。

 

 そしてもう一つ、彼女は勇者のことを『殺しても死なない人間』と評していた。つまり、鳳が何度も死んでは蘇っていることも知っているのだ。なら、どうやって彼らは勇者を暗殺(・・)したというのだ?

 

「それにつきましては、あなたの目で確かめていただきたい物があります。私が百を語るよりも、それを一目見て貰った方が話が早いと思われますから」

「それは……なんでしょうか?」

「持ち運びが出来るような物ではないのです。恐縮ですが、ご案内しますので、ご同行願えませんか?」

 

 もちろん、ここでもったいぶって行かないなんて選択肢はない。鳳は一も二もなく頷くと、彼女に先導されながらホールを出た。

 



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第三の神ラシャ

 幼馴染と同姓同名の皇帝に連れられて、鳳は最初に目覚めた棺のあるドーム、ソフィア廟から外へ出た。見せたいものがあると言われ、他に何の手がかりもないから、言われるままについてきてしまったのだが……しかし考えても見ればここは帝国の中枢であり、周りには帝国人しかいないのだ。本当にこのままついて行っても大丈夫なんだろうか。

 

 ところが鳳の不安を感じ取ったわけじゃないだろうが、ソフィア廟を出て暫く進むと、皇帝の従者たちは立ち止まって二人を見送った。どうやらここは皇帝の居城……いわゆる禁裏にあたるらしく、禁裏であるから従者たちも自由には歩けず、そこから先にはついてこれないらしかった。

 

 こんな誰も入れないような場所に、国のトップと得体の知れない男を二人っきりにしてもいいのだろうか? 帝国のセキュリティはどうなってんだと逆に不安になった。もしかするとそれだけ信用していますよという、皇帝なりの信頼の証だったのかも知れないが、これなら誰かに監視されてた方がまだ落ち着くと、鳳はソワソワしていた。

 

 見知らぬ女性の背中をただ追いかけているのはどうにも間が持たない。何か会話の糸口でも転がってないかと辺りを見渡していると、彼はふと違和感を感じた。その廊下は窓一つ無い通用路のような場所だったのだが、そのくせ妙に明かりが行き届いていて歩きやすいのだ。

 

 ふと思い立って天井を見上げれば、間接照明のような柔らかい光が天井の隅から廊下を照らしている。光源はなんなんだろうか? 揺らぎがないから、ろうそくの炎でも、太陽でもなさそうだ。廊下も塵一つ落ちてないのはもちろんのこと、材質がコンクリートのような石材のくせに、表面が妙に滑らかだった。なんというか、全体的に雰囲気が現代的に感じられた。

 

 ヘルメス領、勇者領と旅をしてきて、この世界の技術はせいぜい産業革命期くらいの水準だと思っていたが、もしかして帝国はもっと進んでいるのだろうか? そう思って尋ねてみると、皇帝は即座に否定して、

 

「いいえ、これは現在の帝国の技術ではなく、失われた古代の技術なのです。帝国に限らず、この世界はその時々の放浪者(バカボンド)の登場によって、技術が発展したり廃れたりしています。しかし、それを維持しようとする意欲が神人にはないのです。ここアヤソフィアは、およそ1000年前の建国当時からこのような建物が建っていたようですが、誰が建てたのかも、どうやったのかも伝わっておりません」

「そうなんですか……っていうか、1000年? この国って1000年の歴史があるんですか? 確か、以前聞いた話では、300年より以前は曖昧でよく分からないって話でしたが」

「はい。神人は長生きであるせいでしょうか、今起こっている出来事を、何かに記録しようという考えがあまりないのですよ。自分が覚えている範囲のことだけしか興味がない。そのため、過去がどんどん曖昧になってしまうのですが、流石にここは帝都ですから、様々な文献を総ざらいすれば、およそ1000年ほどの歴史があることがわかります。その頃、真祖ソフィア様がこの地にご降臨なされて、魔王と戦い、帝国の版図を広げていったようです」

「へえ……」

 

 1000年も歴史があるならば、世界はもっと広がっていても良さそうなものだが、それも神人が自分以外のことにあまり興味がないせいだろうか。そんな事を考えながら廊下を歩いていくと、やがて曲がりくねった道の先に、大部屋の入り口らしきものが見えてきた。

 

 それを見た瞬間、鳳は初めて来た場所なのに、なんだか既視感のようなものを感じた。何故だろう? と思っていると、その理由はすぐに分かった。皇帝に連れられて両開きの扉をくぐると、その部屋の中央には透明な風防に覆われた寝台と、巨大なMRIみたいな機械がドンと鎮座していた。まさかと思って記憶の命じるままに壁際を見れば、そこにはサーバーラックらしきタワーと、端末のモニターがあった。

 

「そんな馬鹿な……まさかこれは、『P99』なのか?」

 

 鳳がその言葉を叫ぶように独りごちると、ピッと起動音がして端末のモニターが点灯した。あのヘルメス卿の迷宮にあったものと同じように、DAVIDシステムのロゴの後にGUIが起動する。彼が呆然としていると、その手前にいた皇帝はパタパタと足音を立ててモニターへ駆け寄っていき、不慣れな様子で端末をちょこちょこと操作した後に振り返り、言った。

 

「これを起動できるのは、皇帝である私だけのはずなのですが……どうやら勇者様にも可能だったようですね。驚きましたが、しかしこれがまた、勇者様が勇者様であられることの証拠になりましょう」

「何故これがここにあるんですか? これは、初代ヘルメス卿が作り出した迷宮の遺産だったはず……いや、逆なのか。ヘルメス卿は、これを見たことがあったから、あそこにあれを再現したんだ」

 

 鳳がぶつぶつとそんなことを言っていると、皇帝はそれについては良くわからないがと前置きしてから、端末を操作し、

 

「様々な疑問がございましょうが、一先ず、勇者様にはこれをご覧になっていただきたいのです。何故、我々がヘルメス戦争を続けていたのか。そして300年前、勇者様の子孫を害する行為に及んだのか……」

 

 鳳が頷いて端末の方へと近寄っていくと、彼女はそれを見てから何かのファイルを開いた。それは以前、迷宮で見た、地球人類が神人を作り出した時の映像の続きであった。

 

************************************

 

 リュカオンに追い詰められた地球人類は、DAVIDの献策により超人になることで、敵を凌駕する肉体を手に入れた。これによって反撃を開始した人類は、ひたすらに増え続けてしまったリュカオンを間引くことで、ついに世界を取り戻すことに成功する。

 

 こうして地球人類はまた万物の霊長の座を奪い返したのであったが……お役御免となったからと言って、一度超人となった人々はその後元の身体に戻ることはなかった。心身を量子化し、別の肉体を作り出すことによって、永遠の命を手に入れた人類は、そしていつしか子供を作らなくなった。

 

 進化が、環境適応のためのシステムであるなら、自らの身体を機械によって変化させ、死ぬこともない超人は、もはや進化の必要がなかったのだ。進化の必要がなくなれば、子孫を作って自分のDNAを残す必要もない。寧ろ、死なない人間が子供を作ってしまったら、人口が増え続けてしまうという弊害もあった。

 

 無論、体が変わったからと言って生殖本能がなくなったわけではなかったから、超人たちも他者とのセックスを求めた。特に超人は本人たちの希望により整形手術が施されていたから、出来上がるカップルは常に美男美女だった。だから、超人が現れた初期の頃は良かったのであるが……

 

 誰とヤッても美男美女であるならば競争は生まれない。いつでも見た目だけは理想の相手が見つかる状況では、やがて超人たちはパートナーにより精神性を求め始め、それはつまり相手に自分のエゴを押し付ける行為であったから、現実にそんな相手と一緒にいるのが耐えられないように、彼らもまた他人といることが耐えられなくなっていった。

 

 こうして超人たちはセックスよりも孤独を求め、どんどん他人への関心を失っていったのである。

 

 超人たちが子供を作らなくなったのに対し、リュカオンや獣人たちは逆にその数を増やしていった。リュカオンが未だ生き残っているのは不思議であったが、人類の生存権を取り戻す戦争の末期、絶滅仕掛けたリュカオンのことを、人類は寧ろ保護し始めたのだ。

 

 どんな生物にも生きる権利がある。ましてやリュカオンは人間が生み出してしまった過ちの象徴のようなものだった。だからこそ、それを根絶やしにするのではなく、いつでも過去の過ちを思い出せるように保護すべきだという考えが起こったのだ。

 

 しかし、この動きに自然派の人々は不安を覚えていた。

 

 自然派とは、超人のように量子化はせずに、元の人間の体のまま寿命を全うしようという人々のことである。元々、超人は戦争のために生み出されたものだから、戦争を嫌う人々は超人にはならずに人間のまま留まった。彼らは普通の人類として、普通に結婚し、子を産んで育み、そして死んだ。

 

 超人のような驚異的な能力はなく、攻撃を受ければ普通に死ぬのだ。そんな人々が、自分たち人間よりも、リュカオンや獣人が増えることを恐れるのは必然だった。彼らは亜人を増やすような真似はやめろと超人に迫った。

 

 やがて自然派の人々は、進化の袋小路に入り込んだ超人こそが失敗作であると言い出した。この惑星は元々、適者生存と突然変異の法則が支配する、生命の楽園だったはずだ。そして生命にとって、進化は種を保存するために絶対必要な条件である。

 

 それを超越したと言えば聞こえがいいが、実際超人は、例えばDAVIDシステムに何らかのアクシデントが発生したら、種そのものが全滅しかねない危険性があった。そんなんじゃ人類を超えたとは呼べず、せいぜいが、ナチスが宣伝に利用した神人ではないか。

 

 人間にはやはり死と再生が必要なのだ。量子化のような過去に留まる方法ではなく、人間こそが進化の頂点にたどり着くべきなのだ。自然派の人々はそう言って、神人とはまた別の方法で肉体を強化する方法を模索していった。

 

 そうして彼らが取った方法は、絶え間ない人工進化による、進化そのものの加速であった。

 

 彼らにとって人間は万物の霊長でなくてはならなかった。その霊長が、たかだかリュカオンや獣人のような紛い物より劣っているのは我慢ならなかった。彼らはそうして肉体の強化を求め、遺伝子を改造し始めた。

 

 自然交配ではなく人工交配と成長促進を繰り返し、試験管の中で身体的な強化を驚くべき速さで行なった。何世代も無理矢理に作り出し、様々なストレス環境を与えてそれを学習させ、DNAを強化する。こうして生まれてきた子供たちは数年で大人顔負けの成長を遂げ、ついに誰もがオリンピック選手をも凌駕する身体能力を手にした。

 

 それでも彼らの力への渇望は激しく、さらなる肉体的な進化を求め続けた。その頃の人類は、もはやAIが何でもやってくれるから、立ち止まって難しいことを考えるという、深い思考力は必要なくなっていた。難しい仕事は全部AIがやってくれて、人間は働く必要すらない。黙っていても食べ物は毎食供給される。だから、その分の脳のリソースを反射神経と肉体の強化へと回してしまえば、人類はもっと強くなるのではないか。こうして新人類は、脳のリソースすら肉体的な強化へ回し、どんどん進化していった。

 

 だが、代わりに彼らは理性を失っていった。元々、人間には速い思考(システム1)と遅い思考(システム2)が備わっている。システム1とは本能に根ざしたもので、ぱっと見てすぐに思いつく直感のことである。例えば、友達が美味しそうなアイスクリームを食べていたら、それを奪いたくなる。このような思考だ。

 

 しかし、実際にそれでアイスクリームを奪ってしまったら、アイスクリームを得た喜びよりも、友達を失ってしまった悲しみのほうが大きくなってしまうだろう。我々はそういうときに、より良い結果を求めようと思考を切り替え熟慮を始める。こうして後からやってきて、じっくり腰を据えるように考えるのが遅い思考、システム2だ。システム2はいわゆる理性を司るもので、詰め将棋やパズルの問題を考えてる時に使われたり、浅はかなシステム1の歯止めにもなっている。

 

 だが、システム1は本能に根ざした欲求でもあるから、それを止められることは苦痛を伴う。実際、怒っている人は怒りが収まった後、大抵ぐったりしているものだが、それは暴れるシステム1をシステム2が必死に抑えた結果である。人間は、熟慮をすると非常にエネルギーを消耗するのだ。

 

 だが、このシステム2があるからこそ、我々は怒りを抑えることが出来る。もし、理性がなくなれば、人は怒りのままに行動する畜生以下の存在と化すだろう。自然派……いまや新人類となった彼らは肉体の強さを求めるあまり、そんな判断力すら失っていた。

 

 そしてついに身体能力がリュカオンや獣人を越えた時……新人類はそれまでの鬱憤を晴らすかのように、突然、殺戮を始めた。彼らはたかが家畜に人間様が負けることが許せなかったのだ。たまにインターネットでメチャクチャに怒ってる人がいるが、そんな具合に、新人類たちはリュカオンや獣人を見つけ次第殺し、気に食わないことがあれば新人類同士でも殺し合った。理不尽で身勝手な殺戮は、まるでリュカオンが欧州人を追い立てた光景に似ていた。

 

 歴史は繰り返すというが……今度はリュカオンや獣人たちが助けを求めて逃げ惑った。皮肉なことにそれを助けたのは神人であった。元はと言えばリュカオンを駆逐するために生まれた神人が、今はそのリュカオンを保護するために戦っていたのである。こうして人間に従順なリュカオンである蜥蜴人や、獣人である狼人、猫人、兎人などは助かった。

 

 新人類たちの暴走は留まるところを知らなかった。彼らは倒すべきリュカオンや獣人が少なくなったら、今度は新人類同士で争い始めた。強さを求めるあまり、新人類たちは理性を失い、もうまともな判断が出来なくなっていたのである。とにかく自分さえ良ければいい。そして何が何でも相手よりも強くなりたいという強い意思が彼らを狂気に走らせた。

 

 こうして新人類同士が戦い始めたらすぐに限界が訪れた。双方が同じことをしているのだから、このまま人間としての進化を追求していっても、相手を上回ることはないのである。そしてある日、一部の新人類が、人間の遺伝子とリュカオンの遺伝子をかけ合わせて、人類とはまた別の進化を遂げたキメラを作り出した。新人類たちは、リュカオンを取り込むことによって別の生物へと進化する道を選んだのである。

 

 彼らはもはや世代を重ねるなどの進化の法則すら無視して、自分たちの体を改造し始めた。DNAを直接変化させることによって形質を獲得する方法を生み出し、自分よりも優位な遺伝子を持つ個体を取り込むことによって、その形質を奪っていった。リュカオンや獣人、猛獣や猛禽などの遺伝子すら躊躇なく取り込み、そしてついには異形と化してしまう……

 

 こうして、もはや人間との区別がつかなくなってしまった彼らのことを、人々は怒りの化身ラクシャーサと呼んだ。

 

 羅刹(ラクシャーサ)……つまりラシャは地上に広がり旧人類を圧迫し始めた。神人、獣人、リュカオン、そしてほんの一握りの人間たちが、羅刹に追われてどんどん生存圏を失っていった。神人はこの状況でもまだ羅刹を凌駕する能力を持っていたが、しかし理性的になりすぎた彼らは攻撃することをためらった。

 

 どうせ、これを駆逐したところで同じことの繰り返しだ。また別のリュカオンや羅刹が現れて、地球人類の覇権を求めて争うだけだろう。人間は……というか生物は、種の保存のために生存競争を勝ち抜かねばならない。生きている限り、争いは避けられないのだ。

 

 しかし神人は既に死を超越している。生きるために過酷な生存競争を戦わなければならないこともなく、種を保存するために生殖を行う必要もないのだ。つまり、自分たちはもう完成されているのだ。自然派は、神人のことを失敗作と呼んだが、その自然派の成れの果てが羅刹なのだから、どちらが正しかったかは言うまでもないだろう。

 

 量子化されている彼らは、もう無益な争いは避けて、肉体を捨てて電脳体へと切り替えてしまった。羅刹が地上の覇権を求めるならくれてやればいいだろう。そして彼らはサーバーに引きこもり、地上をラシャに明け渡してしまったのである。

 



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兆候

 帝都のP99の中に残されていた動画ファイルによって、鳳は魔族の正体を知った。魔族とは強さを求め過ぎて理性を失った人間の成れの果て、四柱の神ラシャだったのだ。

 

 魔族は現在もネウロイで、ひたすら強さを求めて戦い続けており、殺した敵のDNAを獲得して形質を変化させたり、自分の遺伝子をばら撒こうとして女を犯し続けているようだ。そこにはもはや理性はなく、あるのはただ敵への怒りだけだった。

 

 端末を弄っていた皇帝は振り返って言った。

 

「真祖ソフィア様は、この『神の揺り籠』を用いて、この世に神人たちを復活させていました。我々、神人はそうして作られた存在だったのです。神人が子供を作れないのは、元となる量子化された人間たちが、生殖を望まなかったからでしょう。帝国などと称しておきながら、初めから私たちはこの世を統べるつもりなど無かったのですよ」

「ソフィアはどうして神人を増やしたんでしょうか?」

「それは恐らく、創世神話で語られています通り、魔王と戦うためでしょう」

 

 おさらいになるが創世神話とは……四柱の神がこの世界を作ったが、人間の在り方で揉めた。その結果、ラシャはリュカを殺し、デイビドは逃げ、エミリアは引きこもったというやつである。

 

 この内、エミリアの正体だけが未だにはっきりしていないが、エミリア=神人と考えれば辻褄があいそうだ。神人は羅刹が席巻してしまった地球を彼らに明け渡し、肉体を捨ててサーバーに引きこもってしまった。

 

 しかし、これらは全部地球上で起きた出来事だ。それが何故、見たこともない別の惑星で繰り返されているのだろうか? それはやっぱり、まだわからない。

 

 その他、創世神話から分かることは……初め、この世界には魔族しかいなかった。これを倒すために、神であるエミリアがソフィアをこの世界に降臨させて、そのソフィアが精霊を作り、精霊が神人を作ったことになっている。

 

 実際には精霊と神人は対等じゃないから、精霊がソフィアに力を貸したと考えるのが妥当だろうか。この辺はよく分からないが、神話を全部鵜呑みにするのも馬鹿らしいし、まだエミリアの正体もはっきりしていないのだから、それが分かれば自ずと判明するだろう。

 

 あとは、鳳がこの世界の勇者として存在している理由もよくわからない。レオナルドはP99を作ったのが鳳なんじゃないかと言っていたが、それだけで勇者にされたのでは堪ったものじゃないだろう。やはりエミリアとソフィアという名前に心当たりもあるわけだから、幼馴染に何かあったと考えたほうが良さそうだが……

 

 鳳がそんなことを考えていると、皇帝が続けた。

 

「300年前、我々帝国は勇者様と仲違いをしたつもりはありませんでした。世間では帝国が勇者様を殺害したということになっておりますが……あなたは倒そうとして倒せる人でしょうか?」

「そうだった。俺もそれが引っ掛かってたんですよ。アイザック……ヘルメス卿の居城で聞いた歴史では、勇者は帝国に暗殺されたことになっていた。でも、あなたは俺のことを『殺しても死なない人間』と言っていた。仮に俺を殺しても、どこかで復活してしまうことを知っていたんだ。なのに、帝国は俺を殺したことを否定せずに、怒った勇者領の人たちと戦い続けていた。どうしてそんなことをしたんですか?」

 

 すると皇帝は苦々しげな表情で言った。

 

「それは増えてしまった勇者様の血脈を断つためだったのですよ。我々はそのために、敢えて汚名を被ったまま行動を起こしました」

 

 その言い方は非常に穏やかじゃない。そしてわけがわからなかった。一見して穏やかな皇帝らしからぬ言葉に、鳳は困惑しながら尋ねた。

 

「何故ですか? あなたは勇者とは仲違いするつもりは無かったというのに、何故その子供たちは許せなかったんですか?」

「少々話は長くなりますが……実は私は皇帝になる前、この帝国に仕え、この世界の成り立ちを探求していた研究者だったのですよ。その頃の私の研究テーマは、魔族とは何なのか魔王はどこからやってくるのかということでした。そんなことを研究するものは当時でも少なかったのですが……少々、退っ引きならない事情がございまして」

「退っ引きならない?」

「はい……」

「それってどんな?」

「それは順を追って説明します……先程ご覧になられた映像の通り、魔族とはひたすら進化を求めた挙げ句、怒りの化身となってしまった人類のことです。魔族は他の生物を体内に取り込むことで、その遺伝子を獲得し肉体を強化します。しかし強化と簡単に言っていますが、それは体を構成する細胞の遺伝子を書き換え、別の形質に変化するということでしょう? そんなことが出来る生物がいるでしょうか? バクテリアやウィルスなどの微生物ならともかく、人間のような複雑な生き物には不可能でしょう」

 

 確かにその通りだ。鳳は黙って頷いた。

 

「ところが、それが出来るということは? 恐らく、そこになんらかの仕掛けが存在するはずです。例えばここにある『神の揺り籠』のようなものがネウロイにあって、そこに住む魔族に働きかけていると考えられるわけです。魔族たちは、それによって肉体の強化を行い、貪欲に次の獲物を探し続けていると」

 

 なるほど……それなら魔族がネウロイに集中している理由にもなる。

 

 仮にそのような機械があるとして、それがどうやって魔族に影響を与えているのか? という疑問が残るが、それも第5粒子エネルギーという存在がある時点で解決済だ。鳳も、神人も、神技や古代呪文の使い手は、みんなそのエネルギーを介して、他次元に存在するであろうデイビドの影響を受けている。

 

 人間の羅刹化はDAVIDシステムの開発後に起きた出来事なのだから、同じような手法で人間に影響を与える機械があってもおかしくない。鳳は尋ねてみた。

 

「もしかして、それらしきものが見つかったんですか?」

「いいえ……残念ながら。しかし、今はあると確信しております」

「そりゃまたどうして?」

「それは……」

 

 皇帝は歯切れが悪そうに言葉を区切ると、渋面を作って視線を逸らした。よほど言いにくいことらしい。急かしても仕方ないので鳳が黙っていると、

 

「先程のラシャの神話からの推測になりますが、魔族は他者から奪うことによって力をつけていくわけです。すると、いずれ一人の個体に力が集約されて、誰も勝てなくなってしまう。それが魔王……なのでしょう。魔王とは、ある一定のラインを越えた最強の生物がなるものだと考えられます」

 

 鳳は頷いた。そこまでは概ね同意見だ。問題はそこから先にあった。

 

「では、その魔王を倒した時、この世の中で最強なのは誰でしょうか? 真祖がこの地に降臨した時、魔王を倒したのは彼女が作り出した多数の神人たちでした。だから誰が最強と言うことはありませんでした。しかし、300年前。その神人たちすらも敵わない魔王が現れた時、それを倒したのは一人の勇者だったのです……」

 

 皇帝は溜めるように一拍おいて、鳳の様子を窺いながら、重苦しい口調で続けた。

 

「もし……ネウロイにある何らかの機械が、無条件に最強の誰かに働きかけるものだとしたら……勇者は最終的に魔王になる可能性がある。そしてその兆候が現れていたのです」

 

 その口調からなんとなく嫌な予感はしていた。それを聞いてやっぱりという気持ちもあった。鳳は腰に手をあてて、少し長いため息を吐いてから、皇帝に話を促した。

 

「兆候……ですか」

「はい。魔族は……もうご存知かと思いますが、男を殺して女を犯そうとする習性があります。殺してその性質を奪い、犯して自分の子供……すなわち分身を増やそうとするわけです。それはオアンネスがオークを産むように、種族を問わず強力な繁殖力を示します……

 

 300年前の勇者様にも、その兆候が現れていました。それまでは女性には無関心だった勇者様が、次から次へと女性に手を出し始め、そしてその殆どが妊娠しました。先程の動画にもあった通り、神人というのは既に繁殖を必要としない存在であるにも関わらずです。

 

 もちろん、神人も元は人間なのですから、全く産まないわけではありません。しかしそれは稀で、肉体関係を持った者が高確率で妊娠するというのは、流石におかしな出来事だったのです。

 

 しかし、幸か不幸か勇者様はおモテになりましたから、誰もそのことに疑問を持ちませんでした。せいぜい、カイン卿のような貴族が、娘が汚されたと言って怒ったくらいのものです。その娘というのも、神人が戯れに産ませた庶民の子で、人間でした。だから帝国ではさほど問題視されていなかったのですが……

 

 そんな中で私を含む魔族の研究家は危機感を覚え始めていました。ちょうどその頃、帝都では神人の謎の失踪という不穏な事件が相次いでいたのです。当時は今と違って神人の数も多かったですから、ただ気まぐれに家出でもしたのだろうと、あまり大事にはならなかったのですが……私たちからしてみれば、勇者様と肉体関係を持った人たちの妊娠とセットで、彼を疑うには十分な事件でした。

 

 そして、時が過ぎ、彼の子供たちが続々と産まれてきたところで、我々は確信を持ちました。ご存知の通り、勇者様の子供たちは、全員が例外なく神人だったのです。それは母親が神人だろうが人間だろうが関係ありませんでした。まず子供が生まれるはずのない、獣人との混血の間にも子供が産まれたのです。

 

 ここまで来たらもはや疑う余地もありません。我々は、当時既に勃発していた勇者戦争を理由に、勇者様の子供たちを排除するために動き始めました。もし、彼らが成長して力を得たら、魔王になる可能性があったからです。これが、どんなに神人の数を減らしてでも、帝国が勇者派と戦い続けていた理由です」

 

 皇帝の口から出てきた真実は、思ったよりもずっと深刻だった。鳳も、力を得た時からずっと、なんとなく嫌な予感はしていたのだ……何しろ、この力は代償を求めすぎる。力を振るう度に、脳細胞を破壊することを求められてるようなものだった。そのくせ、やれることは何かを創造するのではなく、敵を殲滅するためのものばかりだ。

 

「勇者はその後……どうしたんですか?」

「わかりません」

「わからない……?」

 

 皇帝は、少々放心状態の鳳にも、はっきり見えるよう大きく頷いてから、

 

「帝都にいた勇者様は、多くの女性と関係を持った後、ある日忽然と姿を晦ましてしまいました。そして勇者領にも新大陸にも帰って来なかったから、勇者派の人たちは帝国による暗殺を疑って、勇者戦争が勃発しました。勇者様を害することなど、我々には不可能だと言うのに」

「そのことをヘルメス卿は知ってたんじゃないですか? 彼は、勇者パーティーの一員だったんでしょう?」

 

 すると皇帝は意外なほどあっさりと頷いて、

 

「ええ、知っていたでしょう。知っていて、戦争を始めたんだと思います」

「そんな、なんで!?」

「それは多分、勇者様が魔王化しかけていたこともまた知っていたからではないでしょうか。彼はそれでも勇者様の子供たちを守りたかったのですよ」

「でも、その子供たちがまた魔王になるかも知れなかったんでしょう? 話し合うことは出来なかったんですか?」

「それが、話し合いをする前に、彼はあっさりと戦死してしまったのです。彼は学者で、勇者パーティーの他の二人とは違って、知恵で勇者様を助けていたお方でしたから」

 

 鳳はため息を吐いた。初代ヘルメス卿が助けたかったのは、多分、メアリーだ。彼はメアリーを結界に閉じ込めた後、戦場へ行って死んでしまった。以来300年間、彼女はあの城に封印され、戦争はいつまでも続いた。今起きているヘルメス戦争だって、元はと言えばその延長なのだ。彼はどうして、そこまでしてメアリーを守りたかったのか……

 

「……勇者は、何も告げずに、どこへ消えたんだろうか。彼が居なくなれば、混乱が起きるのはわかっていただろうに」

「……逆にお尋ねしたいのですが、もしあなたならどうするでしょうか? そこに真実が隠されているのだと私は思います」

 

 皇帝が不安そうな声で呟いた。鳳はその言葉にハッとした。そうだ……300年前の勇者と言っているが、それは自分と同じ人間だったのだ。だから、自分が同じ状況に置かれたらどうするか? と考えれば、そこにヒントは転がっているのだ。

 

 それならもう、答えは決まっていた。自分だったら十中八九、理性を失って魔王になるくらいなら『死』を選ぶだろう。

 

 普通、自殺なんて考えたくもないだろうが、意外なほどあっさり、彼はその理不尽な運命を受け入れていた。特にこの世に未練はない。今すぐやらなきゃならないこともない。問題は彼が殺しても死なないという事実だけだった。だというのに、勇者は一体どうやったのだろうか……

 

「勇者様のその後はわかりませんが、もしも魔王と化していたなら、この世界は既に滅亡しているでしょう。そうなっていないのだから、勇者様は魔王にはならなかったと考えられます。我々の不安は、後は勇者様の子孫が力を得て魔王化することでしたが……他ならぬ、あなた自身がこうして復活してしまったのですから、それも無駄だったようですね」

「……それは、すみませんでしたね」

 

 すると皇帝は口が過ぎたと考えたのか、全力で首を振って、

 

「とんでもない! 帝国にとっても、勇者様は恩人なのです。その恩人を害さねばならない理由がどこにあるでしょうか。我々はもう、あなたがどういう選択をしても、恨むつもりはありません」

「そうですか……なら俺も、なんとか魔王にならないように、努力しようかと思いますよ……」

 

 本当に、そうなってしまうのかもその方法も、さっぱり分からなかったが、鳳は漠然と、他人事のようにそう返した。

 



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神の揺り籠

 300年前……帝国が、世界を救った勇者を暗殺した裏には、思いもよらぬ深刻な事情が隠されていた。勇者が魔王になりかけていたのだ。

 

 この世界には、どうやら過去の地球のテクノロジーの影響が残っており、人々は今もその恩恵を受けているらしい。例えば、神技や古代呪文はデイビドの影響で行使出来るように、魔族の力はラシャ(正確には羅刹と化した人類の遺産)のおかげだった。

 

 ラシャの影響は魔族だけではなく人間にも届いており、過去の勇者はそのせいでどんどんおかしくなっていったようだ。そして彼は、魔王となって理性を失う前に、自らの手で終止符を打った。それが勇者暗殺の真相だったのだ。

 

 そしてその勇者とは他ならぬ鳳白のことであり……彼もまた、現世界で最強の力を手に入れれば、過去の自分同様、魔王になりかねない危険があるようだった。だから出来ればそうならないように努めたいのだが、その方法がわからない。何しろ、既に3回死んでいるのに、その都度復活しているのだ。普通ならラッキーと思うその性質を、まさか疎ましく思う日が来るとは思わなかった。

 

 しかし何故、鳳は死んでも生き返るのだろうか……? そもそも、この世界に勇者として呼び出された理由もわからない。例えば、何かしらの事情があって神になってしまった幼馴染に呼び出されたと考えれば辻褄があいそうにも思えるが、話が荒唐無稽過ぎてそこから先を考えるのが馬鹿馬鹿しくなるのだ。

 

 せめて何か、その証拠になりそうなものがあればもう少し真剣に考えることも出来るのだが、未だ幼馴染に関しては手がかりすら見つかっていなかった。

 

 この世界の研究者であるという皇帝ともう少し話をしたかったのだが、あっちはあっちで公務が忙しくて今は鳳の相手をしていられないらしい。ヘルメス戦争を終えるにあたって、休戦交渉をしなきゃいけないのだが、そのための議会工作が必要なのだとか。

 

 それは勇者領との間で交わす条件についてではなくて、カイン、ミトラ、セトという大国の主を納得させるための折衝だそうだ。皇帝は、鳳に話したことを全部、諸侯にも話しているわけではないので、説得が難しいようである。

 

 まあ、彼らからしてみれば、ヘルメスには帝国へ叛旗をひるがえす確かな証拠『勇者召喚』という材料があったのだから、簡単に負けを認めるわけにはいかないだろう。そもそも戦争は、オークキングが現れてしまったせいで、なし崩し的に停戦状態になっているわけだから、彼らには負けたという認識はないのだ。

 

 そんなこんなで、鳳は迎賓館みたいな立派な屋敷に、待ってりゃそのうち仲間も帝都にやってくるからと言われて押し込められた。流石に好き勝手にやられちゃ堪らないだろうから監視の目はあったが、あっちも鳳がその気になったら止めることなど不可能だと分かっているからか、その制限は大分緩かった。

 

 それじゃあ仲間を迎えに行こうかな? と思いもしたのであるが、それはやめてくれと頭を下げられてしまい実行できなかった。何故かと言えば、鳳が勇者軍と合流してしまうと、諸侯の説得がより困難になってしまうからだ。彼らはアイザックが勇者を呼び出したから怒って挙兵したわけだが、皇帝はその勇者なら既に帝都に招いていて、敵意がないということを理由に、議会を説得しているのである。

 

 当たり前だが、諸侯はまだ鳳が本物の勇者かどうか半信半疑らしく、だから出来ればこのまま帝都に留まって、やってきた仲間を帝国の客人として出迎えて欲しいのだと、皇帝は鳳に要請してきた。そうすれば諸侯も信じるだろうし、勇者が言うならと勇者軍も態度を軟化するはずだ。筋は通っているし、それで戦争が終わるなら安いものだから、素直に聞いておくことにする。

 

 とは言え、仲間たちも鳳の安否を気にしている頃だろう。一応無事だけは知らせておこうとチャットで呼びかけたのであるが、反応が無くて焦ってしまった。どうしたんだろう? と思って自分のステータスを見てみれば、今まであったパーティーリストの項目が無くなっていた。

 

 もしかして、また勇者召喚された影響だろうか? 驚いて他のステータスも変化してないかと調べてみたら、STRが27に、そしてレベルが121まで上がっており、突然の変化にぎょっとしたが……思い返せばSTRが上がってるのは、ジャンヌを助けようとした時にとっさに上げた結果である。レベルが上がってるのは、痩せても枯れても魔王を倒したからだろうか……

 

----------------------------

鳳白

STR 27        DEX 15

AGI 15        VIT 20

INT 20        CHA 15

 

BONUS 23

 

LEVEL 121     EXP/NEXT 57224/999999

HP/MP 1891/999  AC 10  PL 0  PIE 5  SAN 10

JOB ALCHEMIST

 

PER/ALI GOOD/DARK   BT C

----------------------------

 

 正直なところ、元の世界でゲームをやっていた頃も見たことのないような数値に喜ぶどころか、皇帝の話を聞いた今となっては危機感しか感じなかった。この、レベルというのも、ボーナスポイントも、考えてもみれば示唆的ではないか。

 

 敵を倒して力を得るというのは、魔族の特性そのものである。そして今回鳳が倒したオークキングの特性を考えると、こうしてSTRが上がっている現状が、まるで必然のように思えてならなかった。これはあれを倒す直前に、自分で上げたものだから後付けのはずだが、結果論としてオークキングを倒した鳳のSTRは上がっており、そしてもう元には戻せないのだ。

 

 思えば、鳳に限らず人間は、敵を倒すとレベルが上がってステータスが変動する。だが、神人は生まれつき基本ステータスが決まっていて、レベルがあがっても変動することはない。この違いが何故生まれるのか、もっと吟味しておくべきだった。まだはっきりとしたわけじゃないが、もしかすると、基本ステータスはラシャの影響を受けているのではないか。

 

 神人も魔族も、元は人間だから、人間はその両方の影響を受けるのだ。特に鳳はボーナスポイントがあるから、このままボーナスポイントを振り続けたらどうなるのか……今後はより慎重に行動しなければならないだろう。

 

 帝都から戦場まではかなり距離があったが、向こうもまさか全軍で行動するわけじゃないから、仲間たちが来るのは意外と早いはずだ。遅くとも一週間といったところか。だがその一週間がなんとももどかしかった。

 

 と言うか、やることがなくて暇なのだ。もしかして、暇だから暗いことばかり考えてしまうのかも知れない。

 

 鳳が帝都に来てから3日が過ぎた。その間、彼は迎賓館の与えられた部屋の中から殆ど外に出ていなかった。せっかく帝都に来ているのだから街を散策したかったのだが、戦争終結のために、すでに勇者が帝都入りしているという噂は城下に広まっていたため、自重せざるを得なかったのだ。

 

 皇帝は事情を知っているから全く敵意を感じられなかったが、普通の神人は勇者派とずっと戦争を続けていたのだから、あまりいい感情を持ち合わせていないらしいのだ。

 

 終戦宣言を前にトラブルを起こすわけにもいかないし、そんなわけで迎賓館の中で日がな一日ぶらぶらしているしかなかった。黙ってても三食出てくるし、不満はないのだが、とにかく暇なことだけがネックであった。

 

 日帰りならという条件付きで、ポータルを使って外に遊びに行く許可は得ていたが、どうにも腰が重かった。出来れば一度ヴィンチ村に戻りたかったのだが、あんな話を聞いた後では、今はミーティアと顔を合わせづらかった。

 

 それにメアリーのこともあるから、レオナルドとも会いづらかった。早くケーリュケイオンから彼女を出してあげたいのだが、それは現在帝都へ向かってきているであろう仲間が持っているはずだから、彼らを待たねばならないという、どうしようもないジレンマがあった。

 

 一人でニューアムステルダムに繰り出すのも悪くないが、どうせならこの暇な時間を使って迷宮のP99を調べにいく方が良いだろう。しかし、迷宮にはポータルで直接飛べないから、一旦ヴィンチ村を経由するしかない。なのに、ミーティアにもレオナルドにも挨拶をしないのは気が引けるし……

 

 などと堂々巡りをしている時、彼は気がついた。そう言えばP99を調べるだけなら、この帝都にもあるじゃないか。あの時はラシャの話や、鳳が魔王化するかも知れないという話が気になって、機械の方は十分に調べていなかったが、迷宮のそれと、帝都のそれが同じものとは限らない。案外中身は別物かも知れないから、もっとよく調べておいたほうが良いだろう。

 

 鳳はそう思うと居ても立ってもいられなくなって、監視役の従者に頼んで、また禁裏の奥に行けないかとお願いしてみた。

 

*****************************

 

 P99……ここでは『神の揺り籠』と言うそうだが、それは流石にこの帝国の最高機密であるから、許可はすぐには降りなかった。籠の間は、管理者である皇帝にしか開けられないから、彼女の同行が絶対に必要なのだが、忙しくて中々時間が作れなかったのだ。

 

 結局、その日遅くになって、就寝前に時間を作ってもらったのだが、もう深夜と言ったほうが良い時間帯に、疲れている彼女を連れ回すのは大分気が引けた。彼女としてはどうせ機械をいじれる人は限られているのだから、もっと自由に触ってもらっても構わないそうだが、やはり色々とうるさいらしい。権力者といえども、世間のしがらみからは逃れられないのだ。

 

 皇帝は大分眠そうだったが、それでも研究者の血がたぎるのだろうか、鳳が何を調べるのかと興味津々に聞いてきた。ぶっちゃけ、行きあたりばったりではっきりとした目的は無かったのであるが、デイビドやラシャの動画があったように、その時代の他のアーカイブも残されているようなので、

 

「主に、自分が生きていた時代のことを調べてみようかと。どうも、その頃の俺に色々とあったみたいなんで」

「そう言えば、勇者様は放浪者でございましたね……ご自分のことなのに、覚えていらっしゃらないのですか?」

「何でか知らないんですけど、俺は他の放浪者とは違って、人生の途中でこっちの世界に呼び出されちゃったみたいなんですよ。俺と一緒にこっちに来た仲間もそうだから、この時代の放浪者は別のルールが適用されてるのかも……まあ、そういうことを含めて調べてみようかなと思って」

 

 なるほど、と関心を示す皇帝の言葉を背中に聞きながら、鳳は端末を調べ始めた。

 

 そこで使われているOSはよくあるGUIであるとは言え、使われている文字は独特で、少なくともアルファベットではないから本来ならお手上げだった。だが、迷宮のP99をいじった時と同様に、暫く端末をいじっているうちに、鳳にはなんとなくその文字が読めるようになってきた。恐らくは、デイビドにサポートされているのだろう。ラシャの可能性もあったが、なんとなくその荒ぶる神のイメージではないので、きっと前者で間違いないだろう。

 

 それはともかく、文字は読めるが代わりに脳のリソースをかなり食うようだから、文字を目で追ってるだけで、異様に神経がくたびれて来た。どうやらMPも消費されているので、あまり長くはいじれそうにないようだった。だが、鳳は以前とは違ってMPが最大値まで上がっていたから、まだ暫くは余裕がありそうだった。出来るだけ要点を絞ってさっと調べた方が良いだろう。

 

 鳳がそう肝に銘じながら、備え付けのキーボードをカチャカチャと操作していると、

 

「……勇者様。もしやあなたはそれを操作できるのですか?」

「え……?」

 

 彼の背後で皇帝がぽかんとした表情で画面を凝視していた。その様子からすると、どうやら彼女はこの機械をまともには動かせないらしい。

 

「でも、最初俺がここに来た時、あなたは俺にあのファイルを見せてくれましたよね? あれはどうやって見つけたんですか」

「それはお恥ずかしながら……我々研究者たちが総当りで、長い年月をかけて、一つ一つのファイルを吟味して発見したのです。我々には、時間だけは有り余っていますから」

 

 何という力技だ……鳳はある意味そっちの方が感心した。多分、この中には何千万というファイルがあるだろうが、それを根気よく探っていたわけだ。絶対に何かあるという確信がなければ続けられないだろう。

 

 鳳は尋ねた。

 

「それじゃ、あの動画を見つけたフォルダはわかりますか? その辺を集中的に調べたいんですけど」

「それもお恥ずかしながら……偶然に発見したとしか言いようがないのです」

「なるほど……それは残念」

 

 と言いはしたが、彼はそれほど悔しがってはいなかった。と言うのも、ファイルはすでに見つかっているのだ。ならば、そのファイル名で検索をすれば、マシン内の似たようなファイルが他にも見つかるのではないか。

 

 幸い、ファイラーはとっくに見つけており、その中に検索窓のようなスペースもあった。後はその窓にファイル名を打ち込めばいいだけである。コピペ出来ればすぐなのだが、残念ながらショートカットキーがわからないので、鳳は手探りで慎重にキーボードを操作しながら、その作業をどうにか終えた。

 

 すると別の窓が開いて、検索結果が次々と現れた。ファイル名が自動生成されたナンバリングっぽかったから覚悟はしていたが、これと同じファイルは端末内にまだまだたくさんあるようだった。それが収まっているフォルダも複数あったが、文字は読めずともなんとなくその意味だけは取れたから、そのうち、フォルダ名に情報とか歴史などの意味が混じっているものに当たりをつけて探ってみた。

 

 そして彼はそれを発見した。

 

「英語だ……」

「英語?」

「はい。俺たちの使っていた共通語で……多分、こちらでは失われた古代語って感じですかね」

「読めるのですか?」

「そりゃもう、古代人ですから」

 

 鳳が開いたのはどうやら英字新聞の切り抜きの画像データだった。文字が読めない人たちからすれば、ただのバイナリーデータに過ぎないから、スルーしてしまっても仕方ないだろう。

 

 画像の文字をクリックしてみたら、文字ごとに範囲を指定できたので、どうやら起動しているアプリは文字を認識出来ているようだった。というか、新聞の切り抜きに関連付けられたアプリなのだから、当然といえば当然だ。

 

 鳳はすぐに全文検索のための窓を見つけた。音声入力でも書き込めるようだったが、どうやらキーボードはQWERTY配列に対応しているらしく、好きな単語を直感的に打ち込むことが出来た。

 

 試しにJAPANと打ってみたら、画面が固まるくらい尋常じゃない数のファイルがヒットしてしまったので、次は控えめに自分の名前を入れてみた。

 

 しかし、鳳が自分の名前を入れても、検索結果は一件もヒットしなかった。Outori TsukumoでもTukumo Ohtoriでも、他の綴りもためしてみたが、全く反応はない。まあ、自分が有名人だなんて自惚れてもないから、当然なのかも知れないが……

 

 代わりに父親の名前を入れてみたら、こっちはかなりのファイルがヒットした。鳳グループの総帥だけあって、世界中にその名が知れ渡っているのだろう。試しにファイルを開いてみたら、それは世界で初めてシンギュラリティに到達したAI、DAVIDを表彰する記事だった。鳳の推測通り、やはりあれは鳳の父が作ったものだったのだ。

 

 気になったのはその日付だが、見ればどうやらDAVIDが完成したのは、あのVRMMOのサービスが終了した翌年のようだった。つまり、鳳がもうちょっとあっちの世界に残っていたら、シンギュラリティ後の世界を目撃できたわけだ。

 

 それはちょっと残念だなと思いつつ、やっぱり自分は父親の後を継がなかったんだなと、妙に安心していると、鳳の肩越しから首を突き出すようにして、にゅっと皇帝の横顔が出てきた。ものすごく近いその顔にドキドキしていると、皇帝は目を丸くしながら、

 

「……真祖様?」

 

 と呟いた。鳳は驚いて聞き返した。

 

「え!?」

「いえ、その……この画像に映ってる女性が、私の知っている真祖様によく似ていたものですから」

 

 言われて画面の見ると、鳳の父親のすぐ斜め後ろの方に、確かに見覚えのある顔があった。それはうっすらとエミリアの面影がある女性だったが、しかし、彼女だとしたら年齢が合わないのだ。

 

 鳳と同い年のエミリアなら、その年はまだ20代に入ったばかりのはずだ。だが、画像の女性はどうみても初老といった感じで、下手したら鳳の父親よりも年上に見えた。だから、彼女はエミリアではない。だが、エミリアの親戚である可能性はある……それが何故、父親と一緒にいるのだろうか?

 

 鳳はふと思い立って、今度はエミリアの名前で検索をかけようと思った。しかし、彼女の名前は忘れようもなかったが、その英語の綴りまでは覚えてなかった。だからつい、隣にいる同姓同名の皇帝に、

 

「エミリア・グランチェスターって、どういう綴りでしたっけ?」

 

 わかりもしない彼女に尋ねてしまった。もちろん、彼女は焦るばかりで、答えは帰ってこなかったが、

 

「お?」

 

 代わりに、鳳の音声を拾ったのか、検索窓に『エミリア・グランチェスターって、どう……』という文字列が、日本語で打ち込まれていた。どうやらこのアプリ、二バイト文字にもちゃんと対応しているらしい。

 

 Unicodeなのかな? と思いつつ、エミリアの名前の後に続いた、不要な文字列を削ってみると……すると検索窓に、一件だけファイルがヒットした。まさか幼馴染の名前がこんなところに出てくるなんて、驚きながらファイルを開いた彼は、そして更に驚かされた。

 

「……え?」

 

 開いたファイルは日本の新聞の社会面の記事だった。内容はよくある交通事故で、その中に書かれた彼女の名前の後には、死亡の二文字が並んでいるのである。

 



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出来すぎじゃないか?

 帝都のP99を暇つぶしに調べていたら、鳳は思わぬものを発見してしまった。端末のデータベースの深い階層には、地球で発行された新聞記事の切り抜き画像がたくさんあったのだが、それを全文検索していたらエミリアの死亡記事がヒットしたのだ。

 

 そりゃ、この世界はどうやら鳳が生きていた時代よりもずっと後のことらしいから、彼女が死んでいること自体は問題ない。だが、老衰ではなくまさか事故で死んでいるとは思いもよらず、鳳は絶句してしまった。日本に来て踏んだり蹴ったりだったのに、そのうえ最期が事故死だなんて、あんまりではないか。

 

 正直、ショックで上手く頭に入ってこなかったが、それでも現実を見つめなければならないので、鳳は苦労しながらもゆっくりとその内容を吟味していった。

 

 それによると、どうやらエミリアは友達の家があるマンションの、階段の踊り場から転落死したらしい。マンションは12階建てでエレベータがあったが、通勤時や夕飯時などは混雑して中々乗れないことがあり、彼女は焦れて階段を行こうとしたが、その時になんらかの弾みで踊り場から外へ落ちてしまったようだ。

 

 警察が調べたが事件性はなく、友達の家に遊びに来たばかりの彼女に死ぬ理由も無かったから、それは事故死として処理された。記事にはそれ以上の情報はなく、続報もなかったから、その後どうなったかはわからない。

 

 しかし、こんな短い記事の中でも、彼は矛盾を発見してしまった。死んだ彼女の年齢は13歳と書かれていたのだが、13歳と言えば中学1~2年生の頃であり、鳳が事件を起こした時期と一致していた。

 

 だが、鳳が先輩を襲撃する前、彼女が死んだなんて話は聞いたことがなかった。事件後、彼はホームレス生活をしていたわけだが、仮にその時に死んだのだとしたら、それならソフィアはどうなる?

 

 鳳はその後、ゲームの中でソフィアと何年も一緒に遊んでいたのだ。ジャンヌと、みんなと、最強ギルド・荒ぶるペンギンの団として。だが、日付からするとゲーム中で彼女と遊んでいたときには、エミリアはとっくに死んでいた。じゃあ、ソフィアとは一体何者だったのだ?

 

 誰かがエミリアに成りすましていたということは考えられるが、しかし何のために? 大体、こうしてソフィアの矛盾に気づいた今でも、彼女が偽物だったとはとても思えなかった。鳳だけではなく、一緒にこの世界に飛ばされてきたカズヤも、彼女がエミリアだと信じていた。何故なら、灼眼のソフィアなる痛キャラは、小学生だった彼女のオリジナルのキャラクターだったのだ……いや、パクリだけど。

 

 ともあれ、そのなりきりキャラクターといい、ときおり見せる素の仕草など、それは完璧にエミリアで別人だったなんて思えなかった。仮にそうだと仮定しても、それなら今度はどうして彼女に成りすます必要があったのか、そのメリットがわからない。鳳とソフィアは、ほんの二三日遊んでいたわけではない。あのオンラインゲームの世界で何年も、同じギルドメンバーとして戦い続けていたのだ。そんなことをする意味が分からないし、偽物ならいつかボロが出るだろう。

 

「……ふあぁぁぁ~~……」

 

 鳳が記事を読みながら呆然としていると、突然、背後からそんな間の抜けた声が聞こえた。ハッとして振り返ると、皇帝が眠たそうに大あくびをかましていた。そう言えば、忙しい公務の合間、就寝前の時間を割いてくれているのだった。

 

 彼は、大口を開けていたところを見られ、慌てて取り繕おうとしている彼女に頭を下げると、

 

「結構、時間経っちゃいましたね。今日はこの辺にしときます」

「よろしいのですか?」

「ええ……ちょっと考えなきゃいけないことが出来ちゃって」

「そうですか……ところでそれは何が書かれているのでしょうか?」

 

 皇帝がモニターを指差す。今度はさっきと違って写真が入っていない記事だから、彼女には何が書かれているのか分からないのだ。鳳はその内容を朗読してあげようとしたが、すぐに思い直した。エミリアは、鳳にはただの幼馴染に過ぎないが、この世界の人にとっては神様なのだ。

 

「まあ、簡単に言えば……神は死んだってことですかね」

「はあ……」

 

 皇帝はわけがわからないといった感じに首を捻っている。まだ何もわかってないのは鳳も同じなのだ。エミリアは本当に死んだのか。ソフィアは何者だったのか。もしかすると、記事が間違っていて、エミリアはちゃんと生きている可能性だってある。

 

 鳳はそんな淡い期待を胸に秘めながら、端末から離れて部屋へと戻った。

 

*********************************

 

 部屋に戻ったは良いものの、その日は中々寝付けなかった。そりゃ、あんな物を見つけてしまったのだから、当たり前だろう。今更、エミリアが恋しくて泣くなんてことは有りえないが、それでも一度は好きになった相手である。それがあんな変な死に方をしていたとしたら、何も考えないわけにはいかないだろう。

 

 本当に、エミリアとソフィアは別人だったのだろうか? 今思い返してもやっぱり信じられなかった。確かに、ゲームの中ではみんなアバターを使っていたから、姿を隠して別人に成りすますのは難しくない。だが、それなら何故ソフィアはエミリアに成りすまそうとしたんだ? 鳳を騙そうとしていたのだろうか……?

 

 と言うか、そもそも鳳はどうしてゲームを始めたんだったか。確か風のうわさでエミリアがそのゲームをしていると聞いたからだった。しかし、当時の彼は引きこもりで学校に行っておらず、友達らしい友達もいなかったから、そんな情報を手に入れる機会は無かったはずだ。

 

 なのに何故、彼はあのゲームを始めたのか……彼は当時のことを思い出そうとした。

 

 エミリアを汚した先輩連中を襲撃したあと、裁判が何年も続いた。あの事件で鳳は加害者であり、先輩たち……というかその親は被害者だったから、黙っていられなかったのだろう。だが世間が騒げば非は向こうにある。だから鳳は逃げも隠れもせずに立ち向かうつもりだった。

 

 しかし、そうやって粋がってみたはいいものの、彼はまだただの中学生でしかなくて、社会的には何の力も持っていなかった。裁判は理詰めで行われ、情状も判例を元に酌まれる。なのに鳳の意見はただの感情論でしかなく、邪魔でしかなかった。だから裁判は、父親が雇った弁護士が中心になって行なっていた。

 

 彼は自分が引き起こした事件なのに、子供は何もするなと言われて、何もない部屋で過ごしていた。裁判は本人を無視して、親同士で勝手に行われた。子供は責任能力がないから、親が責任を取るしかないと。しかしそんな慣例は、親もなくずっと施設で過ごしてきた彼には理不尽でしか無かった。

 

 だから彼は父親の世話になるのが嫌で、一人で生きるために家を出たのだ。事件を起こした彼は、父の後継者にはもうなれないのに、いつまでもその父親の庇護下に居るのが、どうしようもなく苦痛だった。

 

 ただ生きていくだけなら簡単だった。

 

 バイタリティのある彼はどんな場所でもすぐに馴染んだ。アウトローな兄さんと詐欺を働いたり、ホームレスキングみたいなおっさんと飯場で飯を食ったり、爺さんからは釣りと食べられる草をいっぱい教えてもらった。ホームレス仲間との時間は思ったよりもずっと楽しかった。

 

 だが社会から逸脱すれば、社会は簡単に敵になる。何者にも負けない力があっても、何もかもが解決するわけじゃない。もしそうならば、世の中はもっと暴力で溢れているはずだ。

 

 彼は人を傷つけることは出来ても、誰かを守ることは出来なかった。

 

 おっさんも、爺さんも、そしてエミリアも……

 

 本当に強いのは、守ることなのだ。彼はそれを痛感し、父親に頭を下げて助けてもらった。父親に迷惑をかけたくないと思って家を出たのに、こうしてまた迷惑をかけている。彼はもうどうやって生きていけばいいのか分からなかった。

 

 先輩に負けた、父親に負けた、社会に負けたと、頭の中がそればっかりで、生きるための目標を見失っていた。

 

 だからその頃は割りと父親の言うことを聞いていた。他にやることが無かったからだ。彼は学校に行く代わりに、父親に命じられて家でひたすら本を読んでいた。東西の古典を、暗記するのではなく、ただ読まされた。とにかく父親が持ってきた本を読みさえすればあとは勝手にしてて良いと言われ、本に没頭していれば、余計なことは考えないで済むから、言われたとおりに読みふけっていた。

 

 そのうち、本を読むだけでなく、茶道や禅、絵画やクラシック鑑賞などもするように言われた。その頃にはもう、父は教養を身に着けさせたいのだろうと分かっていたから、特に嫌がることもなく受け入れていた。とにかく言われたことだけやってれば、あとは好きにしてていいのだ。

 

 そうやって生活を続けていくうちに、いつの間にか彼は心に余裕を持てるようになっていた。もうエミリアのことはそんなに思い出さなかったし、死んだおっさんや、魚釣りを教えてくれた爺さんのことも思い出さなくなっていた。

 

 ただ、彼らのことを忘れてしまうことへの罪悪感のようなものがあったから、たまに思い出したかのように河川敷を見に行った。だが、あんな事件があったあとだから、もうそこには誰も居なかった。釣り糸を垂らして待ってても、もう誰もそこには来なかった。

 

 エミリアも、彼女の家が引っ越してしまっていたから、思い出はどんどん色あせていった。彼女の顔を思い出しても、胸は傷まなくなっていた。

 

 彼はこのままじゃいけないと焦燥感を感じ始めていた。父親の庇護下で安穏と暮らしていたのでは、自分が自分でなくなってしまうと。

 

 だから彼は、バイトでもして家を出ようかと考えた。そして、深夜のコンビニの前でコーヒーを飲みながら、求人雑誌を読んでいた時だった。そこへ中学時代の同級生らしき連中がやってきた。鳳はちょうど車の影に隠れていたから、向こうもこちらも、お互いに気が付かなかった。ただ、彼らの会話の中に突然、鳳の名前が出てきたら、彼は驚いて聞き耳を立てた。彼らはこんなことを言っていた。

 

 中学時代に騒ぎを起こしたやつがいるだろう? あいつがせっかく助けてやった外人は、いま引きこもって毎日ゲームしてるんだって。学校も行かずにゲーム三昧なんて羨ましい。

 

 鳳は彼らの言うゲームを知っていた。最近、父親の企業が開発したVRMMOゲームだった。世界初だかなんだかで話題になっていると、確か父の秘書だかなんだかが言っていた。確かそのサンプルが倉庫に眠っているのでは……

 

 鳳は、オンラインゲームなら彼女に会えるんじゃないか? と考えた。彼女の家族には拒絶されてしまったが、まさかゲームの中まで行動を縛れるはずがない。なんなら、自分の正体を隠しておけばいい話だし、鳳としては、彼女の安否さえ確認出来ればそれでいいのだ。第一、そんなゲームの中で彼女のことをちゃんと見つけられるか分からないのだし……

 

 そして彼は、そんな言い訳をしながらゲームを始めた。

 

「出来すぎじゃないか?」

 

 鳳は寝っ転がっていたベッドの上で、飛び上がるように上体を起こした。

 

 彼が何故、ベッドの上で眠れずに、こんな昔のことを思い出していたのかと言えば、それはエミリアの死亡記事を見つけてしまったからだ。あれが本物とは限らない。何しろ、自分は実際に起きたことを見たわけじゃないのだから。だがあれが本当だとするならば、エミリアはこの時点で死んでいた。なら、何故こんな噂が立つんだ……?

 

 鳳は事件を起こしたあと、中学校には戻らなかった。だからそこで聞いた噂話はもちろん知らなかった。学校がエミリアの死を隠していた可能性はある。だが、人の口に戸は立てられないと言うし、彼女が死んだという噂が流れるならともかく、こんな引きこもってゲームをしているなんて嘘が流れるものだろうか……?

 

 あの時、コンビニの前に居たのは、本当に中学時代の同級生達だったのだろうか? 偶然にしては出来すぎている。人為的なものをぷんぷんと感じる。だがもし本当にそれが人為的なものだとしたら、誰が何のためにこんなことをすると言うのだろうか……

 

 頭の中は霧がかかったようにゴチャゴチャしていた。その霧の向こうに見える誰かの姿が鳳にはなんとなく見える気がしたが、掴もうとした瞬間、それは雲みたいに消えてしまった。

 

*******************************

 

 翌日以降も皇帝の貴重な睡眠時間を削ってもらって、鳳はP99を調べていた。とは言え、流石に情報ソースが新聞記事だけでは限界があり、結局何もわからないに等しかった。

 

 鳳たちがプレイしていたVRMMOのサービス終了時に何か事件が無かったかと調べてもみたが、特に何も出てこなかった。

 

 もしも、意識がこの世界に飛ばされた時に、地球に残った体の方に何か影響があったなら、間違いなく事件になっているだろうから、やはりあっちに残った鳳は鳳で、その後の人生を普通に全うしたと考えるのが妥当だろう。彼の人生はそこで二股に別れたのだ。

 

 そしてあっちに残った自分がなにかやらかしていそうなのだが、残念ながらそれは何も分からなかった。一応、エミリアの死だけではなく、自分のその後についても調べてみたが、新聞記事に名前が乗るような人生は送っていなかったようだ。かと言って、死んだエミリアが何か出来るとも思えない。四柱の神の最後の一柱は、未だにその正体を現そうとしなかった。

 

 そうこうしているある日、帝都に早馬が駆け込んできた。停戦交渉に向けて、勇者軍の先遣隊がいよいよやってくるという報せだった。その中には鳳のパーティーメンバーも含まれているというので、彼は監視に頼んで迎えに行くことにした。せっかく帝都まで来たというのに、誰の出迎えもないなんて可哀相だと思ったからだ。

 

 ところが、出迎えのために城壁まで歩いていくと、予想に反してそこには大勢の人々が集まっていた。神人が数を減らしてしまったせいで、帝都は非常に人口が少ないらしいのだが、この様子では街の半数以上が集まっているようだった。

 

 物見遊山の見物人がこんなに集まってくるくらい、帝都人は暇なのかなと思ったが、それは勘違いだった。間もなく、城門が開いて勇者軍の面々が城下町に入ってくると、思いがけず民衆から一斉に歓声が上がった。

 

 それは本当に勇者軍の到着を歓迎する声だった。つい先日まで敵味方に別れて殺し合いをしていた相手に、こんな歓声が上がるのはどう考えてもおかしい。思った以上にこの帝国は統制が取れているのかなと思ったが、それも違った。

 

 彼らが口々に叫ぶ声に耳を傾けたらその理由が分かった。帝国人は魔王を倒した帝国軍と、共に凱旋した勇者軍を歓迎していたのだ。

 

 そういえば、魔王を倒したのだった……すっかり忘れていた。

 

 鳳がそんなことをぼんやりと考えていると、到着した軍勢の中から彼のパーティーメンバーが飛び出してくるのが見えた。ジャンヌが号泣しながら駆けてきて、その直後に嬉しそうな表情のルーシーが続く、ギヨームはいつも通りニヤニヤしていた。

 

 たった数日しか経ってないのに、なんだか妙に懐かしい。鳳はそんな仲間を笑顔で迎えつつ、心のなかでは妙な隔たりを感じていた。

 

 



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勇者軍の帝都入り

 勇者軍の帝都入りは思いがけず好意的な歓迎を受けた。この歴史的な日を停戦交渉の材料にしたいという思惑もあっただろうが、純粋に魔王討伐の報せが帝国人を喜ばせたようだった。

 

 考えてもみればこの世界に真祖ソフィアが降り立って以来、神人の目的はただ魔王を討伐することのみだった。事故でも起きない限りは永遠を生きる彼らは、その目的が無ければ思った以上に浮ついた存在なのだ。つまるところ彼らの貴族としてのプライドは、そこに集約されている。

 

 しかし300年前と比べて圧倒的に数を減らしてしまった彼らは、表に出しはしなかったものの、次の魔王がやってきたらどうなってしまうのかという不安を抱えていた。その不安から解放されたのであるから、喜びもひとしおであろう。

 

 とは言え、みんなこれで一段落したと思っているのだろうが、実際には皇帝が隠しているだけで脅威が過ぎ去ったわけではない。ラシャの問題を片付けない限りは、次の魔王は必ず現れるのだし、下手したらもうこの帝都の中に入り込んでいるかも知れないのだ。

 

 鳳は、仲間との再会を喜びつつも、心のどこかに引っかかりを覚えていた。それは要するに、次の魔王とは他ならぬ自分のことかも知れないのだ。彼らにどこまで事情を話すべきか、それとも話さないでおくべきか。既に自分としては結論が出ているのに、下手に心配をかけたくないと彼は思っていた。

 

「そうか……みんなはオルフェウス卿の最期に立ち会ったのか」

 

 帝都にやってきた仲間たちと、往来で一通り再会の挨拶を交わしていると、すぐに帝国軍から移動するようお願いされた。歓迎に水を差された格好だが、警備する側からすれば、市民たちがどう思おうが彼らに何かあってからじゃ遅すぎるのだ。

 

 勇者軍を率いてきたヴァルトシュタインは要請に応じて、約500騎ほどの騎馬隊を帝都の練兵場へと向かわせた。長く一緒に戦っていたから忘れてしまいそうになるが、元々ここが彼のホームグラウンドだったのだ。

 

 帝都にやってきた勇者軍は、そのヴァルトシュタインの500騎だけで、あとはヘルメス領へと置いてきたようだ。彼らはあくまで先遣隊で、今後、勇者領からやってくる連邦議員のために地ならしをしているようだった。

 

 政治的な目的があるならスカーサハの方が向いてそうだが、そこは勝手知ったる他人の我が家で、単純にヴァルトシュタインの方が知り合いも多くて動きやすいからこうなったらしい。他に帝都へやってきたのは、ヘルメス卿アイザック11世とお付きの神人二人、それからジャンヌにくっついてきたサムソンと、ヴァルトシュタインの副官テリーである。因みにマニは来ていない。

 

 アイザックたちは鳳と同じく迎賓館へ迎えられ、帝都にいる間は別の部屋に滞在するそうである。鳳のパーティーメンバーも同じ迎賓館に個室を貰ったが、ヴァルトシュタインとテリーは固辞して兵士たちと兵舎にいるらしい。指揮官が贅沢をしていると士気に関わるという彼なりの哲学だそうだ。

 

 それはさておき、「勝手に死にやがって馬鹿野郎」とギヨームに殴られながら近況を話し合っていると、案の定カリギュラのことに話題が及んだ。カリギュラはあの時戦っていた二匹の化け物の片割れだったわけだが、それを確かめたわけでもない鳳が知っていることを、仲間たちは不思議がっているようだった。

 

「帝都に来てから皇帝に聞いたんだよ。彼女もオルフェウス卿から聞いていたらしい」

「そういや、オルフェウス卿もそう言ってたな」

「大体、皇帝が知らなきゃ、特に実績があるわけでもないやつが、総司令官なんかになれるわけがないじゃないか。彼は自分が魔王になったことを知ってて、自分を倒せる相手を探していたようだな」

 

 そんな時、アイザックが勇者を呼び出して戦争が起き、カリギュラはそこから逃げだした鳳のことを疑っていたようだ。鳳はあの城で一度殺されて復活していた。勇者のことを何も知らないアイザックたちは、何かの間違いだと思ってそれ以上追求しなかったが、帝国の中枢に関わるカリギュラは勇者が殺しても死なないことを知っていたのだ。

 

 ヘルメス占領後、練兵場でそういうことが有ったことを知った彼は、もしかしたら鳳こそ本物の勇者かも知れないと思い、そして見事にピサロを退けたことで、疑念は確信に変わった。

 

「ところで、その皇帝ってのは何者なんだ? 俺たちは、お前が死んだあと、すぐに探しに行こうとしたんだ。そしたら皇帝の遣いってのがやってきて、お前は帝都にいるから来いって言われてよ……半信半疑だったが、来たらホントに居るし。神通力でも持ってんのか? わけがわかんねえよ」

「ああ、皇帝は俺のことを勇者召喚したんだよ」

「召喚だって?」

「そう。本物の勇者なら、召喚に答えてここに来るだろうと見越していたようだ」

 

 鳳がそう宣言すると、部屋の中にいた者たちからどよめきが上がった。正直、今更ではあったが、やはり皇帝からお墨付きを貰ったのは大きいようだ。

 

「皇帝は、俺の生死を問わず、魔王を倒したら帝都へ呼ぶつもりだったみたいだよ。結果は死んじゃったから、遣いの人は言われていた通りにお前たちを引き止めた。皇帝はその後、俺が死んだことを伝書鳩で知ってから召喚の儀式を行なったそうだ。生きていたなら遣いの人は、普通に俺に来てくれって言ってたはずだ」

「ちっ……なんだよ、種明かしされてみたら当たり前の対応だったんだな。俺はてっきり謀られてるんじゃないかと思ってたぜ」

「でも白ちゃん、生きていたならどうしてチャットで連絡してくれなかったの?」

 

 ギヨームがブツブツと文句を言っている横で、ジャンヌが不思議そうに尋ねてくる。鳳はそんな彼女を横目に見ながら、

 

「しようとしたんだけど、出来なかったんだ。どうも勇者召喚された影響か、一時的にパーティーリストが白紙になっちまってた。こうして再会したらまた出てきたんだけど、ここに居ないからかマニの名前は入ってない」

 

 そして共有経験値もしっかり入っていた。だが、鳳はもうこれを分配する気にはなれなくて黙っていた。下手に彼らを強くしてしまったら、この先何が起こるかわからない。レベルが上がるのはもう自分だけでいいだろう。

 

 彼はそんなことを胸に秘めつつ、さっきから二の腕に当たっているぷよぽよしたものを若干意識しながら、

 

「ところでジャンヌ……再会してからずっとベタベタされてうざいんだが、そろそろ離れてくれないか」

「嫌よ……本当なら私の方が盾役なのに、あなたに助けられるなんて……あなたが死んだあと、戦闘スタイルを変えたことをすごく後悔したのよ」

「あん? お前がドジって前線が崩れかけた時のことか? あれはあれで良かったんだよ。お前が攻撃特化になってたおかげで、その後の俺の攻撃が通じたんだから」

「でもそのせいでみんなが傷ついて、あなたを失ってしまったわ。私がタンクをやっていたら、もっと別の解決方法があったかも知れないのに」

「そんなの結果論だろう。それならそれで、今度はあのデカブツに剣が突き刺さらなくて困ってただろうし。寧ろあれはおまえの功績だぞ。あの時も殊勲賞だって言ったじゃねえか」

「それは嬉しいけど……でもやっぱり、私はあなたに守られるよりは、盾役でいたかったのよ。だから今は後悔してるわ」

 

 彼女はそう言いながら胸をグイグイ押し付けてくる。もちろんおっぱいは大好きだから普通なら嬉しいのだが、勇者の末路を聞いた今では、その物理的接触が怖かった。いや、それ以前に、こいつに欲情なんかしたら人間として負けのような気がする。鳳はブルブルと身震いすると、

 

「わかったから、いい加減離れろ! お前が言うと盾役が竿役って聞こえて気持ち悪いんじゃ! 後悔するのもスタイル変えるのも、勝手にすればいいだろ、ウザいんだよっ!」

「あんっ……いけず。でもそんなつれない所も好き」

 

 鳳に振りほどかれたジャンヌは床に投げ出されて、ヨヨヨとわざとらしく泣いている。おっさんの時からこういう仕草をするやつだったが、美女にやられると本当に罪悪感が湧くからやめて欲しい。

 

「くっ……これが俺様系男子というやつか。憎い……その概念が憎いぞ」

 

 鳳がげんなりしているとサムソンがそんなことを言って悔しがっていた。どうでもいいが、本当に見た目に反してナンパなハゲである。

 

「ところで鳳。メアリーはどうした? おまえが生き返ったんなら、あいつも生き返ってんじゃないのか?」

 

 ギヨームに言われ、鳳はポンと手を打った。

 

「そうそう、そうだった。ところでケーリュケイオンは? 持ってきてくれたんだろ?」

「お前の杖か? だったら、戦場に落ちてたのを見つけて、冒険者達に頼んでヴィンチ村まで運んでもらってる最中だが……」

 

 当然、持ってきてくれているものだと思っていたのに、まさかの対応に鳳は目を回した。

 

「え? なんで? どうしてそんなことすんだよ!?」

「はあ? んなこと言われても……これから敵地に行くかも知れないってのに、貴重品は持ってけねえだろ。お前が帝都にいるって保証は無かったんだ。だからあの時は、レオに預けておいた方がいいって話になったんだよ」

「なんてこった……それじゃまだ移動中だよな」

 

 あの戦場からヴィンチ村までは、帝都へ来るよりも倍は時間がかかる。

 

「どうしてそんなに杖に拘るんだ? あったほうが便利かも知れないが、今すぐ戦闘があるわけでもないのに」

「実はあの中にメアリーが閉じ込められてるんだよ」

 

 鳳があの時に何が起きたのかを説明すると、それを黙って聞いていた仲間たちの顔色も変わってきた。ルーシーが青ざめながら言う。

 

「ど、どうしよう? 今すぐ出してあげなきゃ、お腹空いて餓死しちゃうかも」

「いや、あの中に空間があるわけじゃないだろうから、大丈夫だと思うけど。つか、神人なんだから餓死はしないだろう、元々」

「どうしてそんな博打を打ったんだよ? おまえならリザレクションで生き返らせられるだろう?」

「メアリーはジャンヌと違ってP99でスキャンしたわけじゃないから、確信が持てなかったんだよ。この世界に一緒に召喚された仲間たちは復活できなかったわけだし、あの時は咄嗟だったから」

「そうか……うーん、そうか。多分、もう勇者領に入ってるだろうから、追いかけるのは難しいだろうな」

「仕方ない。爺さんのとこに届くまであと数日我慢してもらおう」

 

 本当に何事もなければいいのだが、メアリーを杖から出してあげるにはもう暫く時間がかかりそうだった。案外ルーシーの予想通り、空腹に耐えかねていたらどうしようか。恨まれるどころか、一生口を聞いてくれなくてもおかしくない。流石にそれはないと思いたいのだが……

 

 こんなことなら、せめて一度くらい動物を封じる実験をしておくべきだった。生き物相手にそんなことを試そうなんて思い浮かばなかったからやらなかったのであるが……

 

 と、そんな話をしている最中だった。

 

「話にならん! なんだあの若造は……失礼する!」

 

 鳳の部屋のすぐ外から、誰かの興奮するような声が聞こえてきた。鳳たちは顔を見合わせた。仲間は全員ここにいるから、アイザック主従しか考えられない。ここは賓客をもてなす場所のはずなのに、こんな着いて早々に怒鳴り声を浴びせられるとは……何かあったんだろうか? 鳳はそっと扉を開いて廊下の様子を窺った。

 

 すると廊下の隅っこの方で複数の神人たちが押し問答しているのが見えた。神人はみんなイケメンだから区別が付けにくいのだが、片方はアイザックの部下たちで間違いないだろう。なにかのトラブルのようだが、誰も止めようとはしていない。

 

 どうやらいつもはいる鳳の監視役ももういないようだ。彼の仲間が帝都に来たことで監視体制が変わったからだろうか……? いつもは頼まれてもないのにいるくせに、本当にいて欲しい時にいないとは……鳳がそんなことをボヤきながら成り行きを見守っていると、結局物別れに終わったのか、神人グループの片方が肩を怒らせて去っていった。

 

 取り残されたのは神人が2名。確かペルメルとディオゲネスだったかな……と思いながら近づいていくと、

 

「おや、これは鳳様……お休みの所騒がしくして申し訳ございません。お見苦しいところをお見せしました」

 

 どっちがどっちか区別がつかないが、恐らくペルメルだったほうが平身低頭わびてきた。復活させてやったことで態度を改めたようだが、かつては自分のことを殺そうとしていた相手だから、今でも警戒心が拭えなかった。

 

 鳳が別にいいよと言って理由を尋ねたら、彼らはため息交じりに、

 

「実は皇帝から勅使が来たのですが、アイザック様が追い返してしまいまして……」

「なんでまた?」

 

 聞けば敵地に乗り込んできたアイザックは随分と興奮しているらしかった。まあ、生まれた時から敵と聞かされて育った相手だから無理もないだろう。

 

 皇帝はそんな彼の気を慮ってか、休戦交渉を前に一度会いに来て欲しいと使者を送ってきたのだが、アイザックは自分を懐柔することで勇者領との交渉を有利に進めようとしているのではないかと疑い、応じなかったようだ。まあ、十分に有り得る話だから、そこまではいい。

 

 ならば、ヘルメス卿の爵位下賜のため参内する際の打ち合わせをしようとしたのであるが、アイザックはそれすら聞く耳持たなかったようなのだ。

 

 鳳はイレギュラーだったから別として……本来、皇帝に謁見するにはかなり面倒な手順が必要だった。爵位によって予め決められた服を羽織り、下賜された勲章があれば略式で身につけ、また謁見の間に入る順番や席順も決まっている。もっと言えば贈り物や返礼品も決まっている。ガッチガチのしきたりがあるのだ。

 

 だから、勅使はアイザックのための衣装を貸し出したり、謁見のための予習をするから、何月何日の何時にまた会いましょうと言ってきたのだが、彼はそれすら断った。曰く、それじゃまるで臣下の礼ではないか。自分はここへ勝手に奪われたものを取り返しに来ただけで、帝国に服従しに来たわけではない。皇帝と自分は対等の立場なんだから、そのように扱え。

 

 これに勅使は激怒したわけである。痩せても枯れても彼は神人、たかが人間風情に自分たちの皇帝を冒涜されるいわれはない。たたっ斬ってくれるわ! ……と一触即発の状況になりかけたので、慌ててペルメルとディオゲネスが割って入って、相手の従者も交えて揉みくちゃになって現在に至るそうである。

 

 鳳がため息交じりに見れば、アイザックは部屋の奥のソファにふんぞり返っていた。爵位は貰ってやるから、そっちから持ってこいといった感じである。

 

「駄目だこりゃ。そんなの通用するわけないだろう。お前は帝国に喧嘩を売りに来たのか?」

「申し訳ございません」

 

 アイザックではなく、部下の神人二人が頭を下げる。彼らのせいではないので、そんなことをされても困ってしまうだけなのだが……思えば彼らは、アイザックの先代も、先々代も、赤ん坊の頃から知ってるわけだから、ずっとこんな風に甘やかして来たのだろう。

 

 まるで駄々っ子みたいな対応に内心呆れてはいたものの、皇帝と会ったことのある鳳としては、彼女がヘルメス卿の地位を向上させようと腐心していることを知っていたので、黙って見過ごすわけにもいかなかった。このまま勅使を帰してしまったら、下手すれば悪評が広められて、議会工作とやらもおじゃんになりかねない。

 

 また戦争になっても嫌なので、鳳はため息を吐くと、

 

「仕方ない……今から追いかけたら勅使もまだその辺にいるかも知れないから、俺が行って話をつけてくるよ」

「本当ですか?」

「ああ、その代わり、あんたらはあの馬鹿を説得して、せめて皇帝に会うときだけでいいから大人しくしてろと言い含めてくれ」

「申し訳ございません。恩に切ります」

 

 鳳はひらひらと手を振ると、勅使を追って迎賓館を出た。

 



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じゃあそれだ。もうそれでいいじゃねえか

 迎賓館は帝都アヤソフィアの中枢にあって、周りには皇帝の居城と大名屋敷みたいな建物が並んでいた。従って人通りは少なく、勅使にはすぐ追いつけるつもりだった。ところが、迎賓館を出て通用門を抜け、左右を見渡して見てもその姿は見当たらず、慌てて門番に確かめたところ、彼らは乗ってきた馬車でさっさと帰ってしまったらしかった。

 

 乗り物に乗ってきていることを考慮に入れていなかった。走っても多分追い付けないだろうから、空を飛んで追いかけようか? と思いもしたが、どう考えても騒ぎになるから自重した。例えるなら、ホワイトハウスの上にドローンを飛ばすような物だからだ。まあ、あれは飛んでるところが見つからなかったから騒ぎになったわけだが。

 

 途方に暮れていると迎賓館の中からジャンヌとサムソンが追いかけてきて、

 

「もう、白ちゃん。外出するんなら言ってよ。私も一緒に行くわよ」

「いや、遊びに行くんじゃないから。アイザックが追い返しちゃった使者を追いかけようとしてたんだ」

「あらそうなの?」

「見失っちまったんだけどな……まいったなあ。どっちいけばいいんだろう」

 

 鳳は取りあえず、使者が去っていった方へ向かって歩き出した。その直後に二人が続く。こんなゾロゾロ行っても仕方ないのだが、どうせ断っても勝手についてくるだろう。ジャンヌのことは嫌いじゃないのだが、女になってからなんか前より面倒くさくなったな……などと要らぬことを考えていたら、更にその金魚の糞であるサムソンが話しかけてきた。

 

「勇者は帝都に数日前から居たんだろう。ならこの近辺の道に詳しいのではないか? ある程度行き先に心当たりはないのか」

「いや、全然。あんたらが来るまで迎賓館に引きこもっていたようなもんだから」

「何故だ? もしかして、帝国に不当に扱われていたのか?」

 

 鳳はブンブン頭を振ってから、

 

「とんでもない。監視付きだけど、自由に出入りしても良かったんだよ。ただ、俺が勇者だってことがすでに市中に知られてたから、下手にお供を連れて歩き回ったら、帝国人を刺激しちゃいそうだったんで……」

「ははあ、勇者様サインくださいって感じだろう」

「いや、逆だよ。帝国人は勇者を恐れてるんだ」

 

 その言葉にサムソンは目を丸くして、

 

「なに? しかし、俺たちが帝都に入城した時の様子を見ただろう。帝国人たちは魔王を倒した俺たちを大歓迎してくれたじゃないか」

「魔王討伐は帝国人の悲願だからな、でもそれとこれとは話が別なんだよ。帝国も長いこと勇者派と戦っていたから、アイザックみたいにすぐには勇者軍を受け入れられないらしいんだ。勇者への感情もまた複雑なものみたいだね」

「そうなのか。歓迎されているものとばかり……戦争とは面倒くさいものだな」

 

 鳳とサムソンがそんな話をしているときだった。男同士の戦争の話からちょっと距離を置いて歩いていたジャンヌが、突然、何かに気づいたように耳をそばだてて、

 

「あれ……? ねえ、白ちゃん。何か聞き覚えのある音がしない?」

 

 言われて耳を傾けてみるも、特に変な音はしない。しかし、何かの聞き間違いじゃないか? と言おうとした時、コーン……っと、確かに聞いたことのある音が聞こえた。

 

「なんかめっちゃ懐かしい感じの音だな……なんだろう」

「これって、鹿威しじゃない?」

「ししおどし……? あー、あの竹のやつか」

 

 そんな話をしている間も、遠くの方からコーンと懐かしくて、なんだか落ち着く音が聞こえてきた。その音を聞いているうちに、鳳もジャンヌも本来の目的を忘れてしまって、まるで吸い寄せられるようにその音の元へと歩き始めた。サムソンがそんな二人の後を追う。

 

 そうして三人がたどり着いた先は、中々立派な竹林があった。表面に白い粉を吹いたような青々とした幹はどこまでも伸び、中が空洞とは思えないほど硬そうだった。竹林の中は真っ暗で下草は生えていない。今は時期じゃないがタケノコ掘りをしたら楽しそうだ。

 

 そんなことを考えながら見てみれば、その竹林を竹で組んだ垣根がぐるりと囲んでいた。その光景がますます日本を思い起こして、鳳たちは驚いた。風を受けてざわざわと鳴る竹林の奥から、またコーンと澄み渡る音が聞こえる。

 

 鳳たちは垣根の間に小径を見つけると、その音に誘われるように中へと入っていった。するとそこには綺麗な白い砂利で覆われた庭園が広がっていた。植えられている木々も松のような針葉樹で、いかにも日本庭園っぽい。

 

 飛び石が庭のあちこちに張り巡らされており、小さな池のほとりには、さっきから聞こえていた鹿威しが置かれていた。そこに竹の樋を伝ってどこからか引っ張ってきた水が注がれて、定期的にコーンコーンと音が鳴るような仕組みになっているようだった。

 

 時期的に紅葉がかってきた庭の樹木が彩りを添えている。奥の方には東屋代わりに大きな朱傘が立てられていて、その下に待合の椅子が置かれていた。そのすぐ奥には小さな冠木門があって、これまた竹の生け垣が奥の空間とを隔てている。

 

「これ……完璧に日本のお庭よね?」

「そうだな。どこに出しても恥ずかしくない露地だ」

 

 鳳たちが感嘆の息を漏らしていると、一人だけ意味がわかっていないサムソンが首を傾げながら、

 

「お前たちが何を驚いているのかが分からん。この庭に何か仕掛けでもあるのか? こんなところで見てないで、中に入ったらどうだ」

 

 無造作に足を踏み入れようとする彼を鳳が慌てて引き止める。

 

「あ、こら! 土足で人んちに上がるんじゃありません!!」

「ええっ……なにゆえ!?」

「せっかく綺麗に整えられてるんだから、砂利は踏まないで、こっちの飛び石を渡っていくんだよ。ほら、よく見ると飛び石の真ん中にわざとらしく枝が置かれていたり、なにか印がついてたりするだろう? あれは踏んじゃ駄目って印なんだ」

「ふむふむ」

「んで、それを避けて通れる石を渡っていけば、この庭の主人がお客に見せたかったものが見えるって寸法だ。ざっと目で追ってった感じ、多分、こっちからあの池のほう通って、それから寄り付きに辿り着くってコースじゃないか」

「へえ~、そんなルールがあったのね。知らなかったわ」

「何やってんだ、お前ら?」

 

 鳳たちがしゃがみこんで飛び石を見ていると、いつの間にか彼らの背後に近づいていた何者かから声が掛かった。そりゃ、他人の家に勝手に入ってこんなことをしていたら当たり前なのだが、突然声を掛けられた三人がびっくりして、飛び上がるように振り返ると、そこには片方の眉毛を釣り上げて、訝しげに彼らを見下ろすヴァルトシュタインが立っていた。

 

「あれー!? ヴァルトシュタインじゃないか。何故ここに?」

「さんを付けろよ、さんを。俺のほうがずっと年上なんだぞ、この野郎」

 

 しかもそのヴァルトシュタインは、涼し気な着流しのような和服をまとっている。帝都に来てから、修道士みたいなローブや、ローマ人みたいなトーガを着ている人は見たことがあったが、こんな時代劇みたいな格好をしている人は初めて見た。やっぱり帝都には、日本人がいるのだろうか?

 

 三人は、やってきたヴァルトシュタインと連れ立って、飛び石を通ってさっき遠くに見えていた朱傘の待合まで歩いてきた。彼はそこにあった椅子にどっこらしょと腰を落ち着けると、懐に忍ばせていた煙管に火を入れて美味そうに吸っていた。

 

 見た目は欧州系のようだったが、なんだか日本びいきの外国人みたいに、やたらとそういう格好が似合っていた。その服はどうしたんだと尋ねてみたら、

 

「おう、ここの主人に貰ったんだよ。兵舎に行ったらまだ着いて間もないってのに、茶ぁしばきに来ないかって手紙と一緒に当たり前のように届けられていた。なんつーか、こういう、人が驚くようなことが好きなやつみたいだな」

「へえ……そういや、あんたは元々帝国人だったな。それじゃあ、帝都にいた頃はこの辺りに住んでいたのか」

 

 するとヴァルトシュタインは苦笑気味に首を振って、

 

「馬鹿を言え、神人でもない俺が帝都になんか住めるものか。俺はボヘミア出身の傭兵だよ。魔物退治や反乱鎮圧で手柄を立てていたら、いつの間にか序列が上がってたんだ。だが、平民じゃ爵位は上がらないから、司令官なんてなっても神人は誰も言うこと聞きゃしねえ。皇帝はまた戻ってきてくれなんておべんちゃら言ってるみたいだが、俺は二度とゴメンだね」

「そ、そうか……あんたも苦労してるんだな。就職先が見つかってよかったね」

「まあな。んで?」

「ん? でって?」

「さっきも言っただろうが。お前ら人んちの前で何やってたんだ? 見た感じ、お前らもここの主人に呼ばれたってわけじゃないだろう」

 

 言われて思い出した。鹿威しの音に釣られて入ってきてしまったが、元々は全然別の理由で外出したんだった。鳳は首を振ると、

 

「いや、実はアイザックが皇帝の勅使を追い返しちゃってさあ。それを追いかけていたんだけど、見失っちゃって。そしたら、ここから聞き覚えのあるっつーか、懐かしい音が聞こえてきたもんだから、ついフラフラと入ってきちゃったんだよ」

「なにぃ~? 勅使を追い返しただと……? あの馬鹿、また戦争でもおっ始めようってのか」

「なんか敵地だと思って興奮しているみたいなんだよ。皇帝には絶対頭を下げたくないってふんぞり返ってて、そしたら勅使が怒っちゃったみたいで」

「そりゃ、怒るだろうが……仕方ねえなあ。ならちょうど良かった、ここの主人に相談してみたらどうだ?」

「ここのご主人に?」

 

 鳳は思案した。ここは迎賓館や皇居に近い、いわば一等地である。周辺には大名屋敷みたいな建物がずらりと並んでいるわけだから、ここに住んでいる主人もまた、帝都の中枢に顔が利く実力者と言うわけであろう。なら相談しない理由はない。

 

「そりゃ願ったり叶ったりだけど、いきなり押しかけたら心証悪くないか」

「俺からもお願いしてやるし平気だろ。おっとりした奴だから怒りゃしないさ」

 

 鳳はヴァルトシュタインに頷き返してから、さっきから思っていた疑問を口にした。

 

「ところで、ここの主人ってのは一体何者なんだ? 実はあんたのその格好って、俺たちの出身国の民族衣装によく似てるんだ。っていうか、この庭の雰囲気も全体的にそんな感じなんだけど……」

「ん? そうなのか……? あー! そう言えば、お前たちも勇者である前に放浪者だったっけな」

 

 ヴァルトシュタインはポンと手を叩いてから、

 

「お前らが篭もっていた、今はフェニックスと呼ばれる街があっただろう。ここの主人も、あの時の防壁を見て自分の国のものに似ているって言ってたな。もしかすると、同じ国出身なんじゃないか」

「へえ、誰だろう。名前はなんつーの? 聞いたら分かるかも知れない」

「名前は……あー……いっつも軍師って言ってたから忘れちまった」

「おいおい、これから会おうってのに、そんなんで本当に大丈夫なのか? お願い聞いてもらう以前に、嫌われちまうぞ」

「そ、そうかあ? うーん……なんつったかな。確か、ソウシキとか、ソウウケとか……そう……そう……早雲?」

「そりゃどっちかつーと下剋上した人だぞ。甲斐宗運ならそれっぽいけど……軍師なのかなあ?」

「太原雪斎みたいなポジションよね」

「日本で軍師って言ったら、やっぱあれだろ、山本勘助とか黒田官兵衛?」

「竹中半兵衛とか角隈石宗なんかも有名ね」

「じゃあそれだ。ソウなんとかって言ってたからきっとそれだ。もうそれでいいじゃねえか」

「適当過ぎんだろ、絶対違うぞ」

 

 ヴァルトシュタインに半ば強引に言いくるめられそうになっていると、冠木門の向こう側からクククっと吹き出すような忍び笑いが漏れてきた。会話が止まり、沈黙が場を流れると、暫くしてからそろりと引き戸が開けられ、中からバツの悪そうな顔をした男が出てきた。

 

 優雅な立ち居振る舞いの男で、長身痩躯で黒ずくめの出で立ちをしていた。その黒い羽織袴と黒目黒髪からして、いかにも日本人風であり、鳳とジャンヌは懐かしさもあって思わずおおっと声を漏らした。

 

 男はそこに居るはずのない鳳たちを認めると、ヴァルトシュタインに会釈してから、

 

「失礼……用意が整いましたのでお呼びしたのですが、中々閣下がおいでにならぬものですから、はて、何か手違いでもあったかと様子見に覗ったところ、興味深い会話が聞こえてきたもので、つい立ち聞きをしてしまいました。お楽しみのところ水を差してしまい申し訳ございません」

 

 男はそう言ってバカ丁寧にお辞儀をしてみせた。鳳たちは寧ろ闖入者である自分たちの方がよっぽど悪いんだからと、慌てて手を振り首を振って、

 

「いやいや、こっちこそすみません。勝手に入った上に、お客さんを引き止めるようなことをしてしまって……」

 

 鳳はそう言ってからちらりと上目遣いに、

 

「ところで……見た感じ、日本の方とお見受けしましたが……もしかして?」

「ええ、そうです。日本より参りました。このような場所で、まさか同郷の方と再会できるとは夢にも思わず、いささか驚いております」

「やっぱり! この庭を見た時からそうなんじゃないかと思ってました。えーっと……こりゃ失礼。名前を尋ねるなら、まずはこちらから名乗った方が良いですよね」

 

 鳳がそう言って、慌てて自己紹介しようとした時だった。男はさっと手を上げると、にこやかな笑みを浮かべながら、やんわりとそれを制するように言った。

 

「その必要はございません。存じ上げておりますよ、鳳白様」

「あれ?」

「実を申しますと、あなたが召喚される数日前に、陛下から色々と尋ねられました。私が同郷だから、あなたのことを何か知ってると思ったのでしょう。生まれた時代が違いすぎるのですけどねえ」

「ありゃ、そうだったんですか。その節はご迷惑をおかけしました」

「いいえ、私も日本のことを色々と思い出せて、楽しい時間でしたよ……おっと、失礼。私の方こそ、いつまでも名乗りもせずに申し訳ございません」

 

 男はハッと思い出したかのようにそう言うと、両手を腰にピッタリとつける気をつけの姿勢で深々と日本式のお辞儀をしながら、少しいたずらっぽく言った。

 

「閣下にももう忘れないで頂きたいのですが、私の名前は宗易。千利休宗易(せんのりきゅうそうえき)と申します。以後お見知りおきを」

 

 その名前を聞いて、鳳もジャンヌも思わず目を見開いた。日本人の彼らからしてみれば、下手をしたら、レオナルド・ダ・ヴィンチと出会った時以上の衝撃だった。利休はそんな二人の戸惑う姿を、面白そうに見守っていた。

 



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茶室にて

 鹿威しの音に釣られて迷い込んだ庭の持ち主は、日本人にはお馴染みの千利休だった。この世界には地球の偉人が多数紛れ込んでいるようだから、いつかは出会うと思っていたが、自国の偉人との初めての邂逅に否が応でもテンションが上がる二人であった。

 

 突然の訪問であったにも関わらず、利休は一期一会ですからと言って、鳳たちも茶席に招待してくれた。まさか天下一宗匠にお茶を点てて貰えるとは思わず、ヴァルトシュタインが彼と知り合いでなければこんなことは起きなかったのだろうから、鳳は初めてこいつ凄いやつだったんだなと、妙なところで感心していた。

 

 利休は、それじゃあ改めて用意をしてくると言ってまた門の向こうへと消えていった。元々、ヴァルトシュタイン一人を招待しただけだから、鳳たちの分は用意されていなかったのだろう。もちろん、突然の来客に対応出来るように、いつでも準備はしてあるだろうが、本来なら友人との久しぶりの再会だったろうに、こっちこそ水を差してしまって申し訳なかった。

 

 その後は特にこれと言った会話も無く、四人でぼんやりと庭の風景を眺めていたら、門の中から手水に水を入れる音が聞こえてきた。それを合図にヴァルトシュタインが立ち上がり、鳳たちを連れて門に入っていった。

 

 門の中もまた露地になっていて、表の庭とは違って簡素ではあったが灯籠や季節の花が目を楽しませてくれた。関守石のルールに従って飛び石を渡っていくと、それは母屋に向かっているようだった。そのすぐ傍にはいかにも利休が好みそうな小さな茶室があったが、本当ならそっちを使うつもりが、大人数になってしまったから母屋に作った小間へ案内しているのだろう。とは言え、こちらも四畳半しかないので、普通の人の感覚では十分狭かった。

 

 露地は俗世間と茶室という別世界を隔てる幽世のような場所で、本来なら声を立ててはいけないらしい。茶室に辿り着くまでにいくつかの門を設け、そこを潜る度に俗世間の垢を落として、厳かな気持ちで茶室に入りましょうと言うことなのだろう。利休の師匠に当たる武野紹鴎(たけのじょうおう)は臨済宗のお坊さんでもあったから、侘び茶に禅の考えを取り入れたためにそうなったようだ。だから茶室も方丈(よじょうはん)なのだろうか。

 

 とは言え、本当に黙ってしまったら初心者のサムソンなんかは何をやってるか分かるわけがないので、みんな割と普通に喋っていた。流石、友人というだけあって、ヴァルトシュタインは既に何度か茶事に招待されたことがあるようで、戸惑うジャンヌやサムソン相手に、蹲居(つくばい)ではこうやって手を洗うんだとレクチャーしていたりと、思いがけず頼りになった。見た目、外国人である彼らが日本の文化に触れている姿を見ると、コロっと行ってしまいそうな嬉しさがこみ上げてくるのは何故なんだろう。

 

 (にじ)り口をくぐり抜けてすぐの床の間には、恐らくは利休本人が書いたのであろう墨跡と花入れが飾られていた。それを鑑賞していたら、続けて入ってきたサムソンがどうしてこんなに入り口が狭いのかとボヤいていたので、茶室に武器を持ち込まないように工夫しているんだと答えたら、「それじゃあ、俺は入っても良いのか?」と真顔で問われて返事に困った。言われてみれば、全身武器みたいなこの男はどうしたらいいんだろうか。

 

 茶室はちゃんとイ草の畳敷きになっていて、あまりの懐かしさにこみ上げてくるものがあった。こんなファンタジー世界に来てまで、流石の拘りだなと思ったが、逆にファンタジー世界だから拘ったのかも知れない。最近はフローリングじゃないと家が売れないと言うが、やはり日本人は畳のほうが落ち着くような気がする。

 

 間もなく、母屋に通じる戸から主人が入ってきて、道具を並べて炭点前を開始し、炉に掛けた釜がぐつぐつと音を立てると、いよいよ天下の宗匠の点前が始まった。もちろん、突然の訪問だから略式なのだろうが、相手が相手だけになんだか真剣勝負のような迫力を感じるから恐れ入る。ヴァルトシュタインが普段どおりリラックスしているのは、相手を知らない気楽さだろうか。

 

 利休の点てたお茶は、まず正客であるヴァルトシュタインに出された。彼の性格からして豪快に飲み干して、「不味いもう一杯」とか言いそうなものだが、ちゃんと正面を避けて90度茶碗を回してから口に含んでいたのには結構驚いた。鳳もマナーを学ぶために茶道をやらされたのだが、400年前も同じことをやっていたのだ。回ってきた茶碗は伝承通り真っ黒で、本当に千利休なんだなと感慨深かった。

 

 心配されたサムソンであったが、ちゃんと他の三人の様子を見ていて、たどたどしい仕草で茶碗を回していた。ただ、回し方がわからないみたいで、最終的に反時計回りに一回転させていたのは、ある意味見ていて面白かった。そんな古今無双のサムソンも、流石に正座はきつかったようで、足を崩していいと言われて嬉しそうに立ち上がろうとしてゴロンと転がり笑いを誘った。おかげで雰囲気も和やかになって、茶室にはリラックスした空気が漂い始めた。

 

「鳳様は、まだお若いのに立ち居振る舞いがご立派ですね」

 

 そのままお茶菓子を食べながら談話が始まると、暫くして利休がそう言ってきた。相手が相手だけに恐縮しつつ、

 

「実は茶道の経験がありまして」

「茶道……ですか」

 

 まさか茶道の開祖がそれを聞いて首を捻っているのは不思議なものだが、実際のところ茶道と呼ぶようになったのは彼の死後であるから当然といえば当然だった。鳳はせっかくだからと、耳かじっていたことを教えた。

 

 千利休の切腹後、一時は断絶した千家であったが、孫の宗旦の代になると、彼は生活のために散り散りになっていた養祖父の茶道具を回収し始めた。利休の孫ということもあって、仕官の口は引く手あまたのようだったが、彼は生涯清貧を貫き、代わりに子供たちを大名家へ指南役として送った。それが表千家、裏千家、武者小路千家である。

 

 こうして花開いた江戸の茶道文化だったが、明治維新になると武家社会の旧弊とされ、新政府に嫌われてあっという間に没落した。茶道は廃れ、彼らの収集した名物にも値段がつかなくなってしまったが、それを救ったのが当時の数寄者である財界人たちだった。いくら旧弊と言ったって、外国人からすれば結局のところ江戸文化が日本の文化なのだから、彼らと付き合いのある財界人にとっては貴重だったわけだ。

 

 その後、財界のスターがこぞって茶道具を蒐集していると知られると茶道は見直され、表千家、武者小路千家などはスポンサーに恵まれ息を吹き返し、裏千家は女性の礼儀作法教室として成功して現在に至る。そんなわけで、街で見かける茶道教室は大体裏千家なのだそうだ。

 

「宗旦と言えば少庵の子ですか……そう、あの子が……」

 

 利休は感慨深そうに何度も頷いた後、ふと思いついたように、

 

「鳳様は歴史にお詳しいのですか? でしたら、豊臣家はその後どうなったのか、お聞かせ願えますでしょうか」

 

 鳳はジャンヌと顔を見合わせてから、探るような口調で続けた。

 

「えーっと、その……豊臣家は、その後すぐ滅びました」

「滅んだ……? なんとまあ」

「やっぱり、恨んでらっしゃるんですか?」

 

 千利休と言えば晩年になって、秀吉に切腹を命じられた人だ。だから当然恨んでいて、その後のことを聞きたいのだろうと思ったのだが、

 

「恨む……? とんでもない。どうして私が殿下のことをお恨みするようなことがございましょうか」

「え? そうなんですか?」

「太閤殿下には、あれだけ取り立てて頂いたのですから、感謝こそすれ恨みなどございませんよ。切腹を命じられたことなら、あれは私が実権を握りすぎたのが良くなかったのでしょう。私は武人ではなく、大名でもなく、ただの数寄者でしたから」

 

 大友宗麟が上洛した際、彼は秀吉に『公儀のことは秀長に、家中のことは宗易に聞け』と言われたそうである。つまり大和大納言と称される弟秀長と同列に扱われるくらい、この時の利休は厚遇されていたわけである。

 

 ところが、秀長が死んでしまうと雲行きが怪しくなった。公儀のことは秀長に聞けとあるように、洛中の大名を取り仕切っていたのは秀長だったわけだが、彼が死んでしまったせいでそれまで一人に集中していた権力が分散してしまったのだ。

 

 その頃の秀吉には、甥の秀次と秀秋という二人の後継者がおり、更には弟の死と時を同じくして、二番目の子供鶴松が生まれるという出来事があった。結局、この鶴松は夭折してしまうのであるが、後に直子の豊臣秀頼が後を継ぐことから考えても、この頃の豊臣家中がごたついていたのは間違いない。

 

「あの頃、大名たちは、殿下の後継者を巡って派閥争いを始めておりました。秀次派と秀秋派に分かれ、殿下亡き後の世で、あわよくば立身出世しようと画策していたのです。当然、私に近づこうとする輩も後を絶ちませんでしたから、殿下は家中を引き締めるためにも、私に死を賜ったのでしょう。その後どうなったかは存じませんが、さぞかし効果は覿面だったでしょうね」

「……まるで他人事みたいに言ってますけど、死ぬのは怖くなかったんですか?」

「そんなもの見慣れておりましたし、侘び数寄も仏教の端くれですゆえ……死は人の世の終わりではなく、この世の終わりに過ぎません。人は未練があるから死を恐れるのであって、その死に意味を見いだせるならば、腹を切ろうが首を落とされようが、自然に死ぬのとなんら変わりありますまい。太閤殿下は、私にその意味を与えてくださったと思えば、思い残すこともございませんでした」

 

 これぞ戦国時代の人の死生観と言ったところだろうか。それにしても、どうもこの利休はよほど秀吉が好きらしい。大体、晩年の彼は悪く書かれるものであるが、政権交代の末期とはどれも似たようなものなのだから、人によってはあの頃が良かったと言うこともあるだろう。

 

「現にこうして、新たな世でまた好きに侘び茶を続けていられるのですしね。こちらでは肩肘張らず、毎日が楽しゅうございます」

「そう言えば、皇帝に謁見していたり、こちらでも大分出世されてるみたいですけど」

「いえ、特に役職を頂いているわけではございません。私はミトラの出身なのですが、あちらには修行僧が多く、この世に降り立って以来、彼の地で侘び数寄を続けていたら、いつの間にか神人の方々に一目置かれるようになっていたのです。彼らは抹茶が大好物なのですよ。大変喜ばれるのでつい嬉しくて、もてなしているうちに自然と……」

 

 そう言えば、お茶に含まれるカフェインにも覚醒作用があるから、MP回復に有効なのだ。濃茶などは今で言うエナジードリンク並みにカフェインが入っているので、草庵の厳かな雰囲気と、利休の洗練された作法と合わせて、保守的な神人たちには訴えかけるものがあったのだろう。それで皇帝に献茶するまでに至ったのは、やはり彼の手腕に尽きるのだろうが、

 

「ところで、お前さん、武人ではないと言っていたが、それじゃなんで軍師なんて呼ばれていたんだ?」

 

 鳳と利休が会話を続けていたら、ヴァルトシュタインが背後から話しかけてきた。いつの間にか彼は四畳半の端っこで横になって、頬杖を突いていた。楽にしていいと言われていたが、いくらなんでもそりゃないだろうと思ったが、主人の方は特に気にしていないようだった。

 

「以前にそのように呼ばれている方がいたようですよ。私は放浪者ですので、前世は何をしていたのかとよく尋ねられ、答えているうちにそれなら軍師に違いないと。まあ、武家の方とのお付き合いが多ございましたから、門前の小僧で軍略も多少聞き齧っておりましたし、家内調略のための韜略を嗜んでもおりました。軍配者と似たような立場にあったので、それででしょうかね」

 

 韜略とは六韜三略のことで、一つ一つの合戦に焦点を当てる戦術とは違って、戦を含めた政治全般のことを戦略というが、その語源である。

 

 利休自身も戦に全く縁が無かったわけではなく、小田原征伐に従軍していたりする。日本には軍師という役職はないが、軍配者という従軍して吉凶を占う祈祷師のような者が居た。だが、戦国初期のせいぜい数百人がぶつかり合う戦から、戦国末期の数万が殺し合う合戦が頻発するようになると、彼らの一番の役割は首実検になっていった。

 

 部下が手柄をあげたら上司は賞罰を与えなければならないわけだが、例えば部下が織田信長の首です! と自信満々に持ってきたとしても、それを確かめる術がなければ、上司は彼を褒めることも罰することも出来ないわけだ。

 

 そんな時のために敵味方に顔が広い者が重用されるようになり、大名の求めに応じて色んな合戦に従軍するようになった。従軍すれば戦術にも明るくなる。信長の野望のような戦国シミュレーションをやってると、やたら軍師ポジションに坊主が多いのはそういうわけである。

 

「なるほど、顔が広いからって、そういうわけか。なら尚更好都合じゃねえか」

「なにが?」

 

 鳳はいきなり背中をドンと叩かれて首を傾げた。ヴァルトシュタインはやれやれと言った感じにため息を吐くと、

 

「お前さん方、ヘルメス卿が勅使を追い返しちまったからって、それを追いかけてたんだろ?」

 

 鳳たちは言われてハッと思い出した。和やかな雰囲気に流されていたが、ここへはお茶を飲みに来たわけではない。鳳は改めて利休の前に手をつくと、

 

「あの、宗匠。折り入ってお願いがあるのですが」

「何でございましょう?」

「実は、帝都に入ったばかりだと言うのに、もうヘルメス卿が……」

 

 鳳はアイザックが追い返してしまった勅使のことを伝え、どうにか間を取り持ってもらえないかと頼んでみた。利休は話を聞き終えると、事情は理解したと言い残し、ちょっと待っててくれと言って奥へと引っ込んだ。

 

 それから暫くして戻ってきた彼が持ってきた物は、この街に住む貴族や、現在帝都に来ている五大国の重鎮たちのリストであった。

 



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まだ大丈夫そうだ

 利休との邂逅の翌朝、鳳はわけあってヴィンチ村へ帰る準備をしていた。トラブルを起こしたアイザックの尻拭いに、仕方なく工作をするためだった。

 

「白ちゃ~ん? いないの~? 白ちゃーーんっ! どこ~……」

 

 そんな鳳の姿を探してジャンヌが部屋を覗き込んできた。彼がさっと物陰に隠れると、彼女のすぐあとにサムソンが続き、「勇者はいないのか?」と二人でぺちゃくちゃと喋ってから、やがて諦めて去っていった。

 

 パタンとドアが閉じられる音がしてから、彼はのそのそと物陰から出てきて、また荷物を詰め込み始めた。こんな子供じみた避け方はしたくなかったのだが、昨日からジャンヌがやたらと接触を求めてきてウザかったのだ。

 

 別にそれだけなら構わなかったのだが、皇帝と話した勇者の顛末が彼にプレッシャーを与えていた。一次的接触を嫌ってジャンヌをつっけんどんに押し返して、サムソンが悔しそうに臍を噛んでいるのを見るのも嫌だった。恋愛は自由だし、パーティー内でくっつくのも勝手にしてくれればいいが、それに自分を巻き込んでほしくなかった。

 

 女になったジャンヌが別段しつこくなったわけじゃない。男だった頃からわりとこんなものだった。どこへ行くのも一緒だし、いつも護衛のように彼の背後に付き従っていた。それを思うと、女になったことで意識しているのは、寧ろ鳳の方なのだ。彼女のことを異性として見ていなければ、こんなことを考えずに済むはずなのに、今はもうそうすることが出来ないのが、凄く嫌だった。

 

 ヴィンチ村へ行ったらミーティアと会うのは間違いない。そこにジャンヌがいたら、またおかしなことになるかも知れない。だからこれは保険なのだ。彼は自分にそう言い聞かせてから、仲間に黙ってポータルを開くと、まずはフェニックスの街へ向かった。

 

 仲間たちの話では、オークキングを倒した後、オークの群れは自発的に森へと帰っていったそうである。まるで人間を天敵であると認知し、恐れているかのようだった。それは帝国にとっては重畳であったが、大森林に住んでいる獣人たちにとっては大問題だ。

 

 大森林の中に仲間を残してきたマニは、それを見るとすぐに彼らを助けるべく森へ向かって行ったそうである。元々、オーク退治のために集められていた冒険者の一部も、彼についていってくれたそうだが、アントンを含む何人かはギブアップしてフェニックスの街に残ったようだ。

 

 手負いとは言え、今後オークがどういう行動を取るかは未知数である。獣人たちだけに任せずに、また勇者領から増援を送った方がいいだろう。他にもヴィンチ村を起点としてトカゲ商人達が物資の運搬をしてくれている。その指示も含めて、もう一度全体の作戦を見直さなければならなかった。

 

 街へ到着すると、思わぬ歓迎を受けた。これまた忘れていたわけだが、魔王を倒した後、鳳は一時行方不明になっていたのだから、それがひょっこり帰ってきたらそりゃびっくりするだろう。

 

 アントンが泣きながら抱きついてきて、勇者軍の兵士たちから揉みくちゃにされた。一体どうやって助かったんだと言われても説明がつかず困っていたら、一人冷静さを失わずにいたスカーサハに呼ばれて助かった。

 

 幕僚の天幕に呼ばれて帝都での出来事を報告し、特にアイザックが揉めたことを知らせると、彼女はため息交じりに連邦議会に顔を出したいから、勇者領へ帰るなら自分も一緒に連れて行ってくれと言われた。思えばこのひとには体よく足代わりに使われているような気がする。まあ、300年前を思い出して品を作られるよりは、アッシー扱いされてたほうが気が楽ではあるのだが。

 

 その後、ギブアップ組を集めてニューアムステルダムへ飛び、スカーサハに帰りにまた迎えに来ると約束してから、アントンと二人でヴィンチ村へ飛んだ。

 

 久しぶりに帰ってきたヴィンチ村は相変わらず長閑で落ち着いた雰囲気であった。もちろん、ヘルメス戦争の顛末もまだ伝わって無ければ、魔王が出現し討伐されたことすら知らないので、ここでは鳳も揉みくちゃにされることもなく、いつも通りの村だった。

 

 取りあえず、新しい冒険者を雇ったり、今後のことを色々相談しなければいけない。カランコロンとドアベルを鳴らしながら冒険者ギルドの中へ入っていくと、いつものように受付に座っていたミーティアが、おやっとした表情をしながら二人を出迎えた。

 

「鳳さんおかえりなさい……アントンも一緒とは珍しい組み合わせですね。どうしたんですか。ついにこの男、音を上げて帰りたいとか言い出したんですか」

 

 多分、彼女なりのジョークのつもりだったのだろうが、図星を指されたアントンがバツが悪そうに唇を尖らせる。

 

「くっ……おまえ、容赦ない女だな。そうだよ! 正直、冒険者としてのレベルが違い過ぎて、ついていけなくなったんだよっ!」

「え? 本当に……? 情けない男ですねえ」

「おまえ、こいつと一緒に冒険したことがないからそんなこと言えるんだよ。空は飛ぶわ、森は薙ぎ払うわ、戦争は止めるし、魔王は倒しちまうし、死んだと思ったら生き返って来たりもするんだぜ?」

「アントン……大丈夫ですか。頭を打ってたりしません?」

「だよなあ、俺の頭がおかしくなったようにしか思えないよなあ? 事実しか言ってないってのによ!」

 

 アントンは不貞腐れてぶつくさ言っている。鳳は苦笑いしながら、

 

「まあ、色々あったんだよ。実はアントンだけじゃなくって、何人かの冒険者も脱落してるから、人員の補充についてギルド長と相談したかったんだけど……」

「ギルド長なら、ちょうど今タイクーンの館に伺っているところですよ。物資の調達が一段落したので、今後のことを話し合いに行ったんです」

「そっか。じゃあ爺さんのとこで捕まえることにするよ」

 

 鳳がそう言ってギルドから出ようとすると、ミーティアはふと思い立ったように立ち上がって、スススっと鳳の方へと歩み寄り、ほんのちょっと上目遣いでおねだりするように言った。

 

「あの……ところで鳳さん。今日はこの後、お時間あります?」

「いや、爺さんとこ行ったら、すぐに帰るつもりだったけど……」

 

 とは言っても、スカーサハを迎えに行かなければならないので多少なら時間はある。鳳が何か用事だろうかと尋ねると、

 

「実は、鳳さんがいなくなってからも、村の方々が食材を分けてくれるものだから、だいぶ余らしちゃってるんですよ。中年のギルド長だけじゃ片付かなくって、勿体ないから食べていってくれませんか?」

「ああ、いいね。ちょうどアントンもいるし、お呼ばれしちゃおうかな」

 

 鳳が応じようとすると、それを横で聞いていたアントンがいたずらっぽく、

 

「いやあ、俺は遠慮しておくよ。新婚の家庭にお邪魔するような野暮な奴は犬に食われて死んじまえって言うだろ?」

 

 するとミーティアの顔が瞬間湯沸かし器のように真っ赤に……と言うか灼熱に染まり、阿吽の仁王像みたいにオラつきはじめた。

 

 鳳は、確かオークキングとの戦いの前に、とっくにネタバレしていたはずなのにと思い、アントンに確かめようとしたら、彼はニヤニヤしながら目配せしてきた。どうやら、からかっているつもりらしい。

 

 まあ、考えてもみればこんなのバレバレなのに、騙してる本人の方はまだバレてると思っていないのだから、積極的に誤解を解く必要もないのかも知れない。彼女が騙そうとした事情も事情だし、黙っておいたほうが無難だろうか。

 

 しかし、真っ赤になっているミーティアは相変わらず怖い。千年の恋も覚めるくらい怖い。だから安心するんだろうか? 鳳は、その顔を見ていた時にふと思い、なんとなく彼女の手を取った。

 

「……あの? なんでしょう」

 

 彼女の手は柔らかくて一回り小さかった。すべすべして白魚の手とは言えなかったが、よく働くしっかりとした指をしていた。彼はその指の間に指を絡ませて、自分の右手と彼女の左手を組み、余った左手と彼女の右手をまた組んだ。二人は真正面に向かい合って佇み、彼女が不思議そうに見上げていた。

 

 別に格闘家のような組み手争いがしたいわけじゃない。恋人の振りをしてくれと言われて、それをお首にも出さなかったが、本音を言えば彼女のことは多少意識していた。だから帰ってきて彼女と会うのは若干怖かった。食材が余ってるからご飯を食べていかないかと言われたときもドキリとした。でも言ってしまえばそれは前と同じだった。

 

 レオナルドは、勇者が段々おかしくなっていったと言った。皇帝は、それはラシャの影響によるものだと言った。だから次に会う時、もしかして彼は彼女のことをどうしようもなく欲しくなってしまうのではないかと警戒していたのだ。

 

 でも、こうして彼女の手を握っていても、多少緊張していても落ち着いていられた。だから多分、まだ大丈夫なんだろう。ジャンヌやスカーサハ、それからルーシーのことも意識せざるを得なかったのだが、ミーティア相手にこうして落ち着いていられるなら、無理に避けようとしなくて良かったのだろう。

 

 こうして落ち着きを取り戻してみると、今朝は悪いことしてしまったなと罪悪感が芽生えてきた。ま

あ、やたらベタベタしてくるジャンヌも悪いと思うのだが、そんなこと言ったら、いま鳳の目の前で顔を真っ赤にしている彼女にはもっと悪いだろう。

 

「ミーティアさんさ。照れると顔真っ赤にして、般若みたいになるよね」

「……はい?」

 

 ミーティアは目をパチクリさせている。そんな彼女のことを呆れた表情で見つめながら、アントンが同じように指摘した。

 

「おまえ、昔っからそうだよな。知らない人相手だと、怒ってるようにしか見えないんだよ」

「まさか、そんなこと無いですよ?」

「本人、やっぱ気づいてなかったんだな……人を殺しそうな目つきをしていることに」

「そうだな。実際、数人くらいは殺ってそうな顔してるよな」

 

 鳳とアントンの二人が腕組みをして、呆れたようにうんうんと頷いていると、彼女はオロオロしながら、

 

「あの、鳳さん、からかってるんですよね? 私、そんな変な顔してますか?」

「してるしてる」

「だからお前いつも、いいとこまで行っても、男に逃げられてたんだよ。いい加減、気づいてると思ってたんだけど……今度こそ、本命に逃げられないように、さっさと直したほうがいいぜ」

「う……嘘だ!」

 

 まるで何かを発症していそうな形相でミーティアが叫んでいた。鳳は相変わらず両手をつなぎながら、そんな彼女を微笑ましそうに見つめていた。

 

********************************

 

 レオナルドの館へ行くと、ギルド長がちょうど帰ろうとしているところに出食わした。鳳は彼を引き止めると、いつもの応接室まで連れて行って、二人にヘルメス領で起きた出来事を報告した。

 

 二人は魔王が現れたこと、更には鳳たちがそれを退治してしまったことに驚いていたが、なによりも戦争が終わったことにはホッとした様子で、

 

「左様か。あんなつまらない戦争がいつまで続くのかと半ば呆れておったが、魔王の出現がある意味、人類にそれを気づかせるきっかけになるとは、何とも皮肉な話じゃのう」

「オルフェウス卿はそれすら計算の内だったようだよ。今スカーサハさんが、その辺の報告のためにニューアムステルダムへ出向いているとこだ」

「連邦議会は元々戦争に及び腰じゃった。このまま和平と行けば良いが……」

「少なくとも、帝国はそのつもりみたいだよ。ところが、戦争を起こした張本人であるアイザックの方が、どうにも頑なでさあ」

 

 鳳が帝都で起きたことを話すと、レオナルドとギルド長は渋面を作った。

 

「やれやれ、若いから仕方ないとは言え、おのれの立場もわきまえずにしようのない奴じゃのう」

「このまま、彼をヘルメス卿に戻しても良いんでしょうか……また、カーラ国などのタカ派を集めて、おかしなことを始めなければよいのですが……」

 

 ギルド長がため息交じりに漏らす。元々、この人はフェニックスの街のギルド長だったわけだから、この問題には特に関心が強いのだろう。

 

 しかし、アイザックが頼りないのは確かだが、彼が領内へ戻っただけで民衆が蜂起したり、ペルメルやディオゲネス、テリーの忠誠心を見ていても、彼の人気は間違いないのだ。結局、彼をヘルメス卿に戻してから、和平交渉まで持っていくのが無難だろう。レオナルドはため息交じりに続けた。

 

「まあ、あれもそこまで馬鹿ではあるまい。今は興奮していても、元の鞘に収まれば落ち着くじゃろう。下手に年を食って凝り固まっておる叔父の12世よりは、まだ人の話も聞くし、頭も柔らかいじゃろうて」

「そうですねえ……このまま和平に至らぬとも、せめて休戦交渉を終えるまでは大人しくしててくれれば良いのですが」

「それなんだけど、帝都で知り合った人に相談して、なんとかなりそうなんだけどさ……」

 

 鳳が言うと、二人は興味深そうに耳を傾けた。

 

「話を聞こう」

「あいつは生まれつき、帝国は敵だって聞かされて育ったわけだけど……要するに、ヘルメスも帝国の一員であるって自覚が芽生えればいいわけだろう?」

「……そんなことが出来るのか?」

 

 レオナルドたちは半信半疑と言った感じで固まっている。鳳は頷くと、

 

「元々、政権の中枢にいた人のお墨付きだから、なんとかなるんじゃないか。ただ、そのために爺さんに協力して欲しいんだけど……」

「無論、協力は惜しまぬ。何をして欲しいんじゃ?」

「まずは先行投資だと思って資金提供をお願いしたい。それから、爺さんの直筆で、アイザックこそがヘルメス卿に相応しいって感状を書いてほしいんだけど。結構大量に」

 

 そんなこんなで、三人は顔を突き合わせながら、今後のことについて話し合った。そして鳳は帝都で調略、レオナルドは議会で資金集め、ギルド長は大森林への増援要請と、それぞれが動き始めた。

 



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金5000

 それから数日間、アイザックは引きこもっていた。皇帝直々のヘルメス公爵位授与式は近づいていたが、彼はその準備を一切せず、出たとこ勝負で受け取って、さっさと国に帰るつもりのようだった。もちろん、そんなことをしたらどれだけ帝国人の心証を悪くさせるかは言うまでもない。だが、生まれた時から宿敵と聞かされて育った相手に、彼は簡単に頭を下げる気になれなかったのだ。

 

 とは言え、戦争を続けるという選択がどれだけ愚かであるかは、流石に彼だって分かっていた。自分さえ我慢すれば和平の道もあるのだと理解していたし、そうすべきだと言うことも彼はちゃんと検討していた。

 

 だが、それでも踏ん切りがつかないモヤモヤしたものが胸の内に燻っていたのだ。彼は別に平和が嫌いなわけじゃない、寧ろ好きだ、腹立たしいが帝国と手を取り合う未来があってもいいと思っている。だが、今のように白黒つけずして、安易にその道に進んでもいいのだろうか。

 

 思い返せば300年前に勇者戦争が勃発し、ここに至るまでに数多くのヘルメス人が犠牲になってきたのだ。自分の代に至るまでの先祖が、そして領民が志半ばで倒れながらも、そのバトンを託してきたのだ。彼はそんな多くの屍の上に立っているのだ。

 

 だというのに、皇帝に臣下の礼を取るような真似をしてもいいのだろうか。これだけ長期間に渡る戦争を続けてきたのだ。既にヘルメスは帝国の一部ではなく、一つの国家なのではないか。わざわざ皇帝に頭を下げて、認めてもらう必要など無く、自分はもう実力でヘルメス卿を……いや、ヘルメス王を名乗ってもいいのではないか。

 

 多分、それは正当な権利だろう。そして恐らく領民は理解してくれる。だが、そうすることは戦争を継続することと同義であった。そして今度こそ、勇者領は離れていってしまうかも知れない。だからそんなことすべきでないと分かっているのに……彼は胸の中に渦巻く様々なしがらみに、がんじがらめになっていた。

 

 そんなある日の朝だった。朝食もまだ食べてない早い時間に、鳳がふらりと訪ねてきた。

 

「おい、アイザック。挨拶回りに行くぞ、支度しろ」

「なに?」

 

 寝ぼけ眼をこすりながら、突然そんなことを言われたアイザックが首を捻る。見れば鳳の背後には、彼が最も信頼しているペルメルとディオゲネスが控えており、まるで初めから彼の来訪を待っていたかのようだった。

 

 実際、そうだったのだろう。アイザックが挨拶回りとはどういう意味かと尋ねれば、

 

「お前、帝都に来てから誰とも会わずに引きこもっているだろう。せっかく人脈を広げるチャンスなのに、このままじゃヘルメス卿に返り咲けても、領民を不幸にするだけだ。取りあえず形だけでも良いから顔を売っておけ」

「何のつもりか知らんが、向こうからやってくるならともかく、俺はそんなことをするつもりはないぞ」

「だから、この数日間で分かっただろうに。ここで待ってても、向こうからなんて誰もやって来ないんだよ。お前は自分が大物にでもなったつもりなのかも知れないが、このままじゃ帝都では誰にも相手にされない、ただの頭のおかしな若造でしかないんだよ」

「なんだとっ!? 貴様、愚弄するつもりか!!」

「現実を見ろと言っているんだ。戦争を続けるにも和平するにも、まず相手を知らなきゃ何も始まらないだろう。なのにお前は知ろうともしない。お前は何と戦ってるんだ?」

 

 アイザックは鳳の言葉に何も言い返せなかった。ただ腹が立ち、こいつの言うことだけは聞きたくないと、そっぽを向いた。しかし、そんな彼を嗜めるように、部下の神人二人が懇願するように言った。

 

「アイザック様、鳳様の言うとおりです。せめて領民のためにも、会いに行くだけでもしてくれませんか」

「何故、お前らまでそんなことを言うんだ」

「鳳様はアイザック様が恥をかかないようにと、先だって根回ししてくださったんです。それにアイザック様は勇者派のトップじゃございませんか。なのに勇者様の言うことも聞けないのでは、示しもつきませんよ」

 

 アイザックは言われてみればそうだなと思った。初めて会った時はレベル1だったし、付き合っていても気安いものだから、つい忘れがちになるが、この男はどうやら本物の勇者らしいのだ。魔王を倒した男を前に、本来ならこんな口の聞き方もないだろう。彼は渋々頷くと、

 

「お前たちがそこまで言うなら、今日は付き合ってやってもいい。だが、本当に今日だけだぞ? もう金輪際、こんなことはしてやらないからな」

「何でお前はそう無駄に偉そうなんだよ。まあいい、それじゃあ、すぐに行くから早く支度しろよ」

「待て、朝食がまだだ」

 

 アイザックが朝食を用意させようとすると、鳳は慌てて割って入って、

 

「馬鹿。これから何件回ると思ってるんだ。逆に腹をすかせていないと一日持たないぞ」

「何を言ってるんだ? 食べ歩きに行くのではあるまいし」

「良いから黙って言うこと聞け。今日だけなんだろ」

 

 アイザックは憮然としながら従った。

 

**********************************

 

 以前も軽く触れたが帝都は(みやこ)と言っても人口は少ない。元々、神人の都だったわけだから、その数が減ったせいで自然とそうなってしまったのだ。皇帝の暮らしている皇居を除けば、人が住んでいるのはその皇居周りの大名屋敷と、そこから少し離れた人間たちの城下町だけで、後は神人貴族の狩猟場である野山が広がってるようなところだった。

 

 だから挨拶回りに行くといっても、殆ど一箇所に固まっているから移動面では楽と言えた。しかし、小さな町故に行動が筒抜けだから、その動向次第ではどんな噂が立つかわからないという面倒臭さがあった。アイザックは、そんな中に敵国の首領として入ってきて、一切姿を見せずに引きこもっていたのだから、帝国人からすれば不気味で仕方なかったろう。これじゃ、和平交渉なんて雰囲気でもない。だからまずはその印象を変えねばならなかった。

 

 とは言え、闇雲にご近所さんに挨拶して回っても意味はない。お引越しの挨拶じゃないのだから、ちゃんと手順はある。例えば、田舎に引っ越したは良いものの、村長に挨拶しなかったばっかりに村八分にあったなんてことは、現代でもざらにある話だ。保守的な人間ほど序列を気にする。だからまず敵の大将に会いに行くべきなのだ。

 

「なに、カイン卿!? カイン卿に会いに行くというのか、君は?」

「そうだ。今、帝都に居る中では皇帝に次いで偉い人だからな。まず外せない」

「しかし、カイン卿とは勇者戦争勃発当時からの因縁だぞ? そんなのに突然会いに言っても、門前払いされるだけだ」

「いいや、会ってくれるはずだ」

「何故、そう言い切れる?」

「それは俺が勇者で、おまえがヘルメス卿だからだよ」

 

 カイン卿の藩邸は意外にも皇居周りではなくて、そこから少し離れた辺鄙な場所にあった。それは別に皇帝を嫌ってというわけではなくて、金持ちは郊外を好むというやつだろうか、騒がしい中央よりも、静かで落ち着いた場所に、大きな邸宅を建てた方が良いといった感じであった。

 

 屋敷に着くと、神人二人は鳳たちに先行して母屋の勝手口へと駆けていった。使用人に二人の到着を告げるためである。しかし大きな門を潜って更に馬車道を数分歩き、ようやくたどり着いた母屋で二人を出迎えたのは、カイン卿ではなくその使用人だった。アイザックは、それ見たことかとドヤ顔をしていたが、鳳が『勇者が来た』と告げると、使用人はバカ丁寧にお辞儀をしてから奥に引っ込み、代わりに壮年の白髪男性がお供を大勢連れて現れた。

 

 神人の年齢を気にしても仕方ないだろうが、カイン卿は見た目還暦を過ぎた辺りのダンディな男だった。長い間権力の座に居続けていた者が放つ独特な威厳を湛えており、お付きの者たちが緊張感を漂わせているのは、ここにいるのが長年の宿敵である勇者とヘルメス卿と知っているからだろう。

 

 あまり修羅場を潜った経験の無い者ならチビってしまいそうな雰囲気であったが、そんな中、鳳は臆することなく一歩踏み出すと、

 

「お初にお目にかかります、カイン卿。私は鳳白と申します。皇帝陛下に帝都へ呼ばれてから大分経ってしまいましたが、ご挨拶に参りました。突然押しかけて申し訳ございません」

 

 カイン卿は剣呑な雰囲気を崩さずに言った。

 

「これはご丁寧に痛み入ります。今代の勇者様も若いのに、とてもしっかりしておりますな。そちらの方はヘルメス卿とお見受けしますが」

「ひゃい!」

 

 アイザックの声が裏返る。お供の男たちから失笑が漏れると、彼の顔がみるみるうちに赤く染まっていった。カイン卿はそんな部下たちを嗜めるように手を翳すと、

 

「ヘルメス卿も長旅でお疲れの様子。私も忙しい身ですので、今日はこの辺で。帝都にいらっしゃるなら、また会うこともあるでしょう」

 

 カイン卿はそう言ってさっさと奥に引っ込もうとした。けんもほろろと言った態度である。アイザックは悔しさと恥ずかしさで、早く逃げ出したいと思っていたので、彼のその態度が今は寧ろありがたかった。彼は早く帰ろうと、鳳の服を引っ張った。

 

 と、その時だった。奥へ引っ込もうとしていたカイン卿に使用人が近づいてきて耳打ちした。彼はそれを聞くと表情を変えて少々思案してから、また来訪者たちの方へと向き直り、

 

「せっかく訪ねて来てくださったのに、このまま帰すのも失礼でしょう。朝食の間でしたら時間が取れますから、よろしければご一緒にどうですか」

「謹んでお受けいたします」

 

 鳳が間髪入れずそれを受け入れる。アイザックは本気か? と戸惑いつつも、案内されるまま、さっさと屋敷の奥へと歩いていく鳳の後を慌てて追いかけた。

 

 カイン卿が何故心変わりをしたのかは見当もつかなかったが、ともあれ二人はそのままカイン卿直々に屋敷の奥にある応接室へと案内された。朝食と言っていたが、そこに朝食など並んでおらず、代わりにこれでもかと言うくらいケーキやお菓子が並んでおり、使用人が目の前で熱々のミルクティーを淹れてくれた。

 

 いつの間にかカイン卿を取り巻くお供は居なくなっており、応接室は使用人を除けば、主人と鳳たち三人だけになっていた。それは恐らく、カイン卿なりの信頼の証なのだろうが、アイザックはそんなことも気づかないほど余裕を失って、ガチガチに固まってしまっていた。鳳は、まあ最初は仕方ないと思いつつ、彼をフォローするつもりでカイン卿との会話を引き受けた。

 

「ところで先程、今代の勇者とおっしゃってましたが、カイン卿は300年前の勇者に会ったことがあるんですか?」

「無論です。我々は無駄に長生きですから」

「300年前の勇者はどんな人でしたか。私と似ていたんですか?」

 

 するとカイン卿はじっと鳳の顔を見つめてから、

 

「そうですな。雰囲気は似ておりますが、あなたの方が彼よりも落ち着いて見えます」

 

 カイン卿はそう言って少し不機嫌になってしまった。確か庶子とは言え、娘が食われてしまったそうだから、それを思い出して気分を害してしまったのだろうか。娘は人間だったから、彼よりも先に逝ってしまった。そして彼は亡き娘を思ってますます勇者への憎しみを深めていったのだろうか……この話は、あまり引っ張らない方が良さそうである。

 

 しかし……300年前の勇者と鳳は恐らく同一人物である。ところがレオナルドもそうであったように、関係者は皆、何故かそのことを忘れてしまっている。これはどうしてなのだろうか。

 

 事情を知っている皇帝も、鳳とかつての勇者が同じであることを認めながらも、別人のように扱っている。それは彼女にも記憶がないからだ。鳳自身も300年前の記憶なんてないし、300年という月日がそうさせるということは考えられなくもないが……こうも立て続けにみんなが忘れているとなると、何か人為的な力が働いているとしか思えない。

 

 それは一体なんなんだろうか。今のところ、それに繋がるような情報は何も出ていない。自分がおかしくなる前に、何か分かればいいのだが……取りあえず、今はそのことは置いといて、アイザックの方に集中した方がいいだろう。

 

 カイン卿はアップルパイみたいなタルトを食べている。どうやら甘いものが好きなようだ。それから、庭で何頭も犬を飼っていること、そしてこんな郊外に屋敷を構えていることからしても、狩猟の趣味があるようだ。利休から事前に仕入れていた情報とも一致する。鳳はそれを思い出しながら、巧みに話題を誘導していった。

 

「ヘルメス卿も暫く帝都に滞在されるのであれば、近い内に是非一狩り行きましょう」

 

 朝食の間だけと言っていたが、それからおよそ2時間位、鳳たちはカイン卿と会談を続けることになった。鳳が趣味の話題を振り続けることで雰囲気が良くなり、やがて緊張していたアイザックも落ち着き出してからは、自然と和やかなムードで会話が続いた。当たり前だが、戦争の話は一切無かった。

 

 そうこうしている内に、二人ともライフルを嗜むということで、カイン卿が狩猟に誘ってくれることになり、会談はそこでお開きとなった。続きはまたその時にでもと言うことである。彼は最初こそ不機嫌そうだったが、趣味の話題になってからは終始ご機嫌であり、鳳たちが屋敷を辞する時には見送りと共に手土産まで持たせてくれた。

 

 アイザックはそれをありがたく頂戴すると、すんなりと頭を下げて礼を言った。あれだけ警戒していたはずなのに、今はもう全くそんな気はなくなっていた。彼は屋敷を出たところで待機していた神人二人に手土産を渡すと、玄関先で彼に向かって丁寧にお辞儀をしている使用人たちに軽く手を振ってから歩き始めた。

 

「アイザック様、いかがでしたか?」

 

 鳳たちがカイン卿と会談している間、待合室で相当気を揉んでいたのだろう、屋敷を離れるやすぐ神人たちが首尾はどうだったかと聞いてきたが、アイザックはうんと返事するだけで語らず、彼は逆に鳳に向かってこう尋ねてきた。

 

「ヘルメスとカインは勇者戦争以来の宿敵同士……正直、こんなに上手くいくとは思わなかったぞ。一体、どんな魔法を使ったんだ?」

「別に。感情のままに国のトップが突っ走れば、国が滅んでしまう。これだけ長い間トップに立ち続ける人が下手な挑発をしたり、それに乗ったりすることはないだろう。だからちゃんと手順を踏まえて近づけば、それなりの対応をしてくると思ったわけだ」

「手順か……」

「おまえは自分が大物になったつもりでいるようだが、大物ならそれに見合った行動をしなければならない。引きこもって周りを威圧するだけじゃただの馬鹿だ。だからそうじゃないところを見せなければならなかった」

「ふ、ふん……別にいつまでもああしてるつもりじゃ無かったさ」

 

 アイザックは渋い顔をしている。緊張も解れて、多少話を聞く気になったのだろうか。鳳はそれならばと続けて言った。

 

「俺が学んだ帝王学では……権力とは賞罰を与える権利のことなんだ。権力者が適切な報奨を与えるから賢者は力を発揮し、適切に悪を罰するから部下の信を得られる。賢者を安く釣り上げようとすれば必ず人は離れていくし、一つの悪を褒めれば百の悪人が近づいてくる。

 

 大物を釣り上げるなら、それに見合った餌が必要なんだよ。針も餌も小さければ大魚は望めない。また、針も餌も大きければ、小魚は食いつけない。人間もそれと同じで、その人に見合った釣り方がある。お前はまず大魚に見合った餌を与えなければならなかったんだよ」

「餌……」

「つまり、俺たちがカイン卿の邸宅に到着するのに合わせて、贈り物をしておいたんだ。使用人がやってきて、急に態度を変えたのはそういうわけさ。彼は受け取った目録を見て、これだけの贈り物をしてきた相手を無碍に追い返してはいけないと考え直したんだ。後は普通に接していればそれで良かった。おまえとカイン卿は、肩書的には対等なんだから」

 

 アイザックは種明かしを聞いてぽかんと口を開けた。

 

「なんだ、どんな魔法を使ったんだと思ったら、たったそれだけのことだったのか」

「それだけのことが、意外と人付き合いには効果的なんだよ。そしてたったそれだけのことを、中々人は上手に出来ない。贈賄みたいで恥ずかしいじゃないかとか。そんな金銭の繋がりは信じられないとか言って、結局何もしないんだ。何もしなければ何も起こらないに決まってるのにな」

 

 ナポレオンは皇帝に就任すると、まず真っ先に栄典制度を復活させた。それが現在でもフランス最高の栄誉であるレジオンドヌール勲章である。勲章は権力者が下賜するものだから、革命で自由を勝ち取ったばかりのフランス人たちは旧弊の復活を嫌った。だがナポレオンは、古今東西、勲章無しでやってこれた共和国があるなら教えてもらいたいと聞く耳持たなかった。彼は報奨制度が人心を動かすのに必要なことを理解していたのだ。

 

「う、うーん……なるほど、よくわかった。仮に金だけの付き合いだとしても、何もないよりはマシだからな」

「そういうことだ、分かってるじゃないか」

「見くびるなよ……それじゃあ、君には迷惑をかけたな。何を贈ったか知らないが、建て替えておいてくれた分はきっちり返そう。いくらだ?」

「金5000だ」

「は……? 金5000……金貨5000枚だと!?」

 

 アイザックは目を剥いた。鳳は簡単に言っているが、金貨一枚は大体10万円くらいの価値がある。つまり5億円をポンと相手にくれてやったというわけだ。それはヘルメスの領主である彼にとっても、おいそれと人にあげられる物ではなかった。

 

「そ、そうか、それは今日、これから伺う全ての人への贈り物を合わせた合計だな?」

「んなわけあるか。カイン卿に金5000だよ。これから行く、ミトラ、セト、両国にも同じだけ贈っている」

「君は勝手になんてことをしてくれたんだ!」

「勝手というが……逆に聞くが、これだけの大国の領主相手に贈るとして、いくらだったら適正だと思うんだ」

 

 鳳の切り返しに、アイザックは言葉をつまらせた。関係修復を考えればまず妥当だし、かといって敵に塩を送る行為にもなりかねない。言い換えれば絶妙なさじ加減とも言えそうではあるが、

 

「そ、それは……しかし、国庫にも限度というものがある。俺は今、ヘルメス卿でもないんだから、そんなには払えないぞ? 無駄遣いしたと知ったら領民も怒るだろう」

 

 鳳は苦笑しながら続けた。

 

「安心しろ、お前は一銭も払う必要はない」

「な、なに? ど、どういうことだ?」

「今回のお前の帝都入りに当たって、勇者領13氏族が資金提供をしてくれたんだよ。連邦議会は元々ヘルメス戦争を続けたくなかったんだ。オルフェウス卿の挑発により、仕方なく兵を送ったが、今回の件で戦争が終結し帝国との国交も正常化されるのであれば、そっちのほうが利益があると勇者領の多くの国が考えている。あのカーラ国でさえ、魔王が現れてしまった以上仕方ないと矛を収めるつもりでいる。つまりお前は、勇者領すべての国とヘルメスを代表してここに立っているんだ。みっともない真似はさせられないと、みんな考えているわけだ」

 

 アイザックは絶句した。自分が迎賓館で不貞腐れている間に、周りではそんなことがあっという間に決められていたなんて……それもこれも鳳が、いや、勇者が帝国と勇者領の距離を物理的にも精神的にも縮めてしまったからだ。

 

 普通ならば、これだけのことを決めるには二ヶ月も三ヶ月もかかるはずだ。それを数日でまとめてきてしまったのは、何よりも勇者の存在と、その奇跡の力に依るところが大きいだろう。

 

「これから回る人たちのところへは、ヘルメス卿就任にあたっての心付けの金銭と、お前こそがヘルメス卿に相応しいとのレオナルド直筆の感状が届けられている。ついでに、ヘルメスの特産品と、勇者領からのお近づきの品々もだ。お前はこれだけの物を背負って、彼らの前に現れるわけだ。当然、向こうは応対を疎かに出来ないし、お前は失敗するわけにいかない」

「………………」

「出されたものは何でも食えよ。振られた会話は興味がなくても笑顔で答えろ。ミトラ卿、セト卿は絶対として、今日中にあと10件は回るぞ」

 

 鳳の言葉にアイザックは呆然と立ち尽くしていた。そんな主人の両脇を神人二人が抱えて、先をゆく勇者の後に続いた。

 



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ヘルメスを背負う者

 ミトラ卿の屋敷はカイン卿のすぐの隣りにあった。と言っても、カイン卿の屋敷が広大であるから、彼の屋敷はずっと皇居寄りではあった。カイン卿の屋敷を囲む巨大な石壁の道を抜けると、今度は打って変わって淡白な生け垣が続いており、ちょうど見頃だったのか、金木犀のような黄色い花が咲いていて、匂いと目を楽しませてくれた。植木は綺麗に刈り込まれていて、屋敷の主の几帳面さと庭にかける意気込みを感じさせた。

 

 正面に回ると大きな棟門があり、それはヒノキで作られた四脚門で、瓦葺きは完全に和風であった。どうしてこんなものがここにあるのかと言えば、それもそのはず、中の庭園も利休好みの素朴な露地で、要はこの家自体が千利休のプロデュースだったのだ。

 

 彼はミトラ国に転生し、そこで自由気ままに侘び数寄を続けていたところ、修行僧の多い土地柄のためかすぐに地元の神人に気に入られて、多くの弟子を持つに至った。そのうち領主の耳にも届いて、膨大な時間を持つもの特有の厭世観に苛まれていたミトラ卿は、すぐに茶道の楽しさを知ったらしい。以来、彼も利休の弟子になって、その文化を帝国に広めようとしているそうである。利休が帝都の一等地に居を構えていたり、皇帝に献茶していたのはそういう理由だった。

 

 その彼の口利きもあったため、ミトラ卿との会談は恐ろしくスムーズに行われた。彼は鳳たちが来ることを予め知っていたので、最初から茶室に招き入れると、そこで利休直伝の点前を披露してくれた。その際、受け取った贈り物の品々に礼を述べた後、

 

「カイン卿にまず会いに行ったのは正しい判断です。私から彼を紹介することも出来たでしょうが、そうしたらシコリが残ったでしょうからね。レオナルド直筆の感状が添えられているのもポイントが高い。彼は帝都でも人気がありますから。誰もが彼の作品を欲しがって止みません。この感状もゆくゆくはものすごい価値になるでしょう。これも、宗匠の入れ知恵で?」

「ミトラ卿にはお見通しのようですね。はい、宗匠には色々とご相談させていただきました」

「流石、宗匠。私など長く生きているだけで、彼の足元にも及びません」

 

 ミトラ卿は自分で点てたお茶を美味そうに啜っている。贔屓にしている利休が褒められたことがよほど嬉しいようだ。

 

 神人の年齢など当てにならないが、彼は見た目は20代くらいの美青年で、ベルサイユのばらにでも出てきそうなキラキラしたイケメンであった。背筋をピンと伸ばして姿勢正しく、茶室に入ってからずっと正座のままびくともしない。逆に斜め前に座るアイザックの方は正座に苦戦して、もはや足のしびれにしか意識がないようだった。ミトラ卿はそんなアイザックの姿を微笑ましそうに眺めていた。

 

 ふと床の間を見れば、花入れの代わりに何故か盆栽が置かれていた。普通はそんなことはしないのだが、ここに置くからにはよほど見てもらいたいのだろう。

 

「盆栽がご趣味なのですか?」

 

 と尋ねてみたら、待ってましたと言わんばかりに食いついてきた。

 

「国の者に勧められて始めたは良いのですが、これが中々どうして奥が深くて……」

「そうですね、盆栽は手をかければかけるほど答えてくれますからね」

「わかりますかー!」

 

 もちろん何一つ分からないが適当に相槌を打って見せると、ミトラ卿は実に嬉しそうに盆栽について語り始めた。きっと普段話し相手がいないのだろう。聞いてもないこともベラベラと止めどなく話し続けて、こちらから話題を振る必要なんてないくらいだった。

 

 会談は終始ミトラ卿のおしゃべりで進んで、彼を上機嫌にすることで終わった。そろそろアイザックも限界だろうという頃合いを見計らって暇乞いを告げると、彼は名残惜しそうに炉に炭を焚べた。

 

 それを見てアイザックが絶望的な表情を見せたが、こういう仕来りなんだよと教えてやると、ミトラ卿は楽しそうに笑っていた。結局、正座をしすぎて立ち上がることが出来なかったアイザックに肩を貸して屋敷を出ると、彼は門の外まで見送ってくれた。

 

 主人を神人二人に任せ、いつまでもにこやかに手を振っているミトラ卿に手を振り返して、鳳たちは軒先を曲がると、ミトラ卿から見えなくなったところでアイザックを地面におろした。

 

 彼はまだ足のしびれが取れないらしく、痛い痛いと愚痴をこぼしていたが、こんなになっても足を崩さなかった根性は見上げたものである。それを褒めてやると、少々頬を赤らめながら、

 

「まったく……なんなんだあれは。いきなり狭苦しい部屋に通された時は冗談だと思ったぞ。それにこの拷問のような仕打ち……君がいなければ、俺は馬鹿にされているんだと思って帰ってしまっていたところだ」

「あー、まー、初心者にいきなりはきついよな。普通はそれを見越して、主人が足を崩していいって言ってくれるもんなんだけどね」

 

 ミトラ卿がそうしなかったのは、多分、アイザックが苦しむ姿を見るのが、よほど楽しかったからだろう。鳳はふと思い立って彼に聞いてみた。

 

「あの茶室を見てどう思った?」

「どうもこうも、あんな狭苦しい中で、男が三人も膝を付き合わせているなんて正気の沙汰とは思えん。あれが本当に、君の国のスタンダードなのか?」

「ああ、本当だ……逆にお前、あんな狭いところに、国のトップがお供も連れず、武器を持たずに顔を突き合わせていたんだぞ。これがどういうことか分かるか?」

「え……?」

「密談し放題ってことだ。あそこに招待してくれるってことは、お前のことをよほど信用しているという心の表れでもあるんだよ」

「はあ~……なるほど、そういう意味があるのか」

 

 まあ、あのミトラ卿がそこまで考えて招待したとは思えないのだが……茶事は室町時代に、まず禅僧の間で流行り、その後戦国武将にも広まったわけだが、あの狭い茶室で万が一行われることを考えると大名は見過ごせないわけである。

 

 そこで織田信長などの大名は、茶器を特別に下賜された者だけが茶会を開くことが出来ると決め、ブランド化したのである。茶会を自由に開ければ、色んな大名や武将を呼んで人脈を広げる事が出来る。だから、名物茶器には一国一城の価値があり、武士が欲しがったというわけだ。

 

「ミトラ卿があれだけ熱心なら、もしかすると茶室外交が流行るのかも知れない。お前も機会があったら宗匠のとこへ行ってみるのもいいかもな」

「冗談じゃない。俺はもう懲り懲りだ」

 

 カイン卿、ミトラ卿と、立て続けに宿敵と会うことになって、まだ午前中だと言うのに、アイザックの精神は既にクタクタのようだった。この上、セト卿とも会わねばならないなんて無理だと駄々をこねたが、もちろん大国の領主を後回しにするなんて出来るはずもなく却下した。

 

 くたびれきった彼はもはや愛想笑いも出来ないとゴネたが、そもそも初めからそんなもの期待していなかった。次の相手にはそんなものは必要なかったからだ。何故なら、セト卿の屋敷を訪問したアイザックは、これまでにない歓待を受けた。経済オンチの彼は知らなかったようだが、ヘルメスとセトは勇者領を通じて経済的な結びつきが元々強かったのだ。

 

「いやあ、こうして帝都でヘルメス卿とお会い出来るとは夢にも思いませんでした。我が国とヘルメスは地続きですし、是非一度お目にかかりたいと思っていたのですが、情勢が許さずこのような場を設けていただいたことを勇者様には感謝いたします。次は是非、我が国にもいらしていただければ」

 

 ちょうど昼食時ということもあり、セト卿は豪華な食事を前に実に愛想よく喋った。鳳が出された食事をありがたく頂戴している横で、アイザックが呆然とセト卿の話に相槌を打っている。

 

 セト国はボヘミア北部に面しており、そこで産出される銀を新大陸へ輸出することで国家運営している。つまり勇者領と一蓮托生なので、元々戦争には前向きではなかったのだ。ただ、それ以上に国防をカイン、ミトラに依存しているという弱点もあり、事が起きてしまうと地理的な状況からどうしても帝国につかざるを得なかった。

 

「本当なら、こうなる前にお話が出来ればよかったのですが……そうです! 今後はこんなことが起こらないように、よろしければ我が国から大使を派遣したいのですが、いかがでしょうか。出来れば休戦交渉を前に、是非一度、個別交渉の場を設けていただければ大変ありがたいのですが」

「まあまあ、セト卿。今日のような席で戦争の話なんて野暮ですよ」

 

 セト卿はグイグイとアイザックに迫ってくる。そんな商人の勢いに飲まれているアイザックに代わって、隣で黙々と飲み食いしていた鳳がぼそっと呟く。セト卿はうっと息を呑むように一瞬黙り、

 

「そ、そうですね……せっかくの我々の出会いに、このような話は無粋でしたか」

「それに、交渉は連邦議会が中心となって行う予定になってますんで、我々には権限がないんですよ。彼もまだ、ヘルメス卿ではありませんし、全ては式典の後ということで」

「左様でございましたか。いやはや、少々勇み足でしたかな、ははははは!」

 

 セト卿はそう言って空々しく笑った。

 

 アイザックはその笑い声に、あれ? なんか様子がおかしいなと思いつつも、愛想笑いを返し、なんとなく場の雰囲気が柔らかくなったように感じた彼の腹の虫が騒ぎ出したものだから、ありがたく目の前の豪勢な食事を頂戴することにした。

 

 会談は終始和やかに進行した。セト卿の接待は一分の隙もなく、アイザックは屋敷を辞する頃には、すっかり彼のことが好きになっていた。帰り際、両手に抱えきれないプレゼントを贈られた彼は、それをお供の神人二人に託し、彼の姿が見えなくなるまでいつまでもいつまでも見送っているセト卿に、何度も振り返って挨拶しながら、ようやく屋敷を出た。

 

 軒先を曲がり、人気が無くなったところで、ようやくアイザックは感嘆のため息を漏らしながら呟いた。

 

「ふう~……君の言う通りだった。俺は今まで何と戦っていたのか……俺は彼らのことを怪物のように思い込んでいたが、話してみればカイン卿もミトラ卿もセト卿も、何も怖いことはない普通の人だった。どうしてあんな人達と戦争をしていたのか、分からなくなったよ」

「まあ、お前のせいじゃないさ。外交の窓口さえあれば、こんなことにならなかったろうに、お前の先祖はそれを怠ってきたんだから」

「そうか、そうだな……先祖を馬鹿にされるのは癪にさわるが、何も言い返せない。今度セト卿に会ったら、大使を受け入れることも検討しよう。それにしても、帝国にも話が通じる人がいたんだな。俺は短い時間だったとは言え、すっかり彼のことが気に入ってしまったよ。勇者領を通じて付き合いもあるし、今後はセト国と話し合って、もっと仲良くやっていこうと思うよ」

 

 鳳は苦笑を漏らした。

 

「あのな、アイザック」

「なんだ?」

「お前が勇者召喚を行なった原因はなんだった。確か、勇者領のリベラル派閥が、お前の頭越しに帝国と直接交渉を行おうとしていたからだろう?」

「そうだ。あそこで領内を引き締めなければ、帝国と勇者領の双方から挟み撃ちされる危険があった。それがどうした?」

「リベラル派が帝国との和平を望んだのは、帝国との経済的な結びつきが強くなってきたからだ。現在、勇者領と間接的にでも取引があるのは、ヘルメスとセトしかない。つまり、リベラルが直接交渉しようとしていたのは、セト卿だよ」

 

 そう言われた瞬間、アイザックはアッと叫び声を上げて目を見開いた。

 

「言い換えれば、ヘルメス戦争は彼の勇み足が原因で起きたとも言えなくもない。だから彼は、お前に負い目を感じていたんだよ。それから、このままお前が皇帝に臣下の礼を取ってヘルメス卿に返り咲いたら、帝国五大国と勇者領も国交が回復する。その時、勇者領との交易の中心になるのはセトではなくヘルメスだろう。彼はそれを見越して、お前と仲良くしておきたかったわけだよ」

「あ、あの野郎ぉ~……」

 

 アイザックはギリギリと奥歯を噛み締めている。

 

「怒るなよ、アイザック。お前には怒る資格なんてないだろう。本来、起きなくていい戦争が起きてしまったのは、やはりお前の失策だ。誰も不満に思うものがいなければ、戦争なんて起きることはない。お前はその不満の芽を摘みそこなったんだ」

「う、うーむ……」

「感情のまま動かずに、もっと周りをよく見ることだ。お前が馬鹿にされることは、ヘルメスが馬鹿にされることなんだと肝に銘じておけよ」

「ふ、ふん。言われずともそうしているとも」

「そうかい……それじゃあ、今日はたっぷりと、格好いいところを見せてもらおう。今日中にあと10件は回ると言っただろう。まだまだ休んでる暇はないぞ」

「お、おう……」

 

 アイザックは自分の腹をさすった。セト卿に勧められるまま、つい食べすぎてしまったが、この後を考えると大丈夫なんだろうか不安になった。出掛けに鳳が腹を空かせておけという理由が分かった。アイザックは渋々と彼の後に従いながら、今日をどうやって乗り切ろうかと考えていた。

 

 しかし、その後は特に心配することは何もなかった。最初に三大国のトップに会いに行っていたことから、後の者たちはアイザックを受け入れることに躊躇いは無くなっていた。寧ろ、挨拶回りをするアイザックの大盤振る舞いが知れ渡ると、帝都は彼の噂で持ちきりになった。

 

 高価な贈り物を受け取って気分が悪くなる人間などまずいない。このプレゼント攻勢が効いて、帝都の人々はヘルメス卿を見直し、応対は丁寧になり、返礼もどんどん豪華になっていった。

 

 こうなると全てが好意的に受け入れられるようになり、アイザックが当初引きこもっていたことも、これだけの贈り物を用意するために仕方なかったのだと、勝手に解釈されるようになっていた。

 

 挨拶回りも二日目になると、受け取る側も用意が出来ているために、対応が変わってきた。アイザックたちが挨拶に来る前から主人が玄関に待機しているようになり、贈り物を受け取った貴族たちはその御礼にと予め準備していた接待の場を設け、帰りにはお客様を無事に送り届けなさいと護衛まで付けてくれるようになった。

 

 こうして訪問する家々から護衛を付けられた結果、気がつけば彼らの背後には大名行列のような護衛の数々が付き従い、それを道行く人々が笑顔で迎えてくれるという、なんとも不思議な光景が繰り広げられるようになっていた。アイザックはその先頭を進み、実に鼻高々といった感じである。

 

 だが、楽しい事ばかりではない。彼にはどうしてもやらねばならないこともあった。

 

「あの時は、本当にすまなかった!」

 

 挨拶回りの最終日、彼は一人の官吏の家へと赴いた。それは取り立てて有力な貴族ではなかったのだが、どうしても謝らねばならないことがあったからだ。彼はアイザックが帝都にやってきた初日に追い返してしまった、皇帝から派遣された世話役だった。

 

「君が皇帝の派遣された世話役で、害意がないことは分かっていた。しかし、あの時は帝都に入ったばかりで、周りが敵だらけに思えて仕方なかったのだ。今は多くの人に触れて、帝国の人々だって同じ人間であったことを痛感している。そして、君にとんでもない無礼を働いたこともだ。俺は馬鹿だった。許してくれとは言えないが、どうか謝らせて欲しい。この通りだ」

「お顔を上げてください、ヘルメス卿」

 

 官吏はまさかあの日の無礼な若造が、こうも素直に謝罪してくるとは思わず面食らった。本当なら嫌味の一つや二つ言ってやろうと思っていたが、もうそんなことは彼の頭の中から消え去っていた。

 

「あなたのお気持ちはわかりました。私もあなたと同じ立場であれば、疑心暗鬼にかられても仕方なかったと思います。ですからどうか、私のようなものに頭を下げるなどということはおやめください」

「許してくれるのか?」

「もちろんですとも」

 

 官吏はにこやかに笑いかけると、

 

「その代わり、式典の準備では、私の言うことを聞いてくださるとお約束してください。陛下に無礼であるというだけではなく、長く続いた仕来りに反するということが、私たちにとっては恐ろしいことなのです。新しいことをすることは、誰にとっても緊張感を伴うものでしょう」

「うむ、そうか……そうかも知れない。俺も新しい場所に来て、不必要に怯えていたのかも知れない。君の言うとおりにしよう。式典ではよろしく頼む」

「かしこまりました。ヘルメス卿」

 

 こうして後顧の憂いを断ったアイザックは、盤石の態勢でヘルメス卿就任の式典に挑むことになった。それは今まで世襲で帝都に赴くことが無かったから、初代の就任以来、初めての帝国とヘルメス国との間で交わされる約束となった。

 

 しかし、彼はまだヘルメス卿ではなかったが、既に帝国の人々には受け入れられているようだった。ここ数日の貴族たちへの挨拶回りによって、彼の資質を疑うものは誰もいなくなっていた。

 

 この若きヘルメス卿の背後には巨大な人口を抱える勇者領と、そして広大な新大陸が控えている。彼らがヘルメス卿を助け、その隣には勇者が付き従っているのだから、なんの心配があると言うのだろうか。願わくば、彼が本心から帝国への恨みつらみを忘れてくれるようにと、帝国の人々は思っていた。

 

 そしてそれから暫くして、ついにアイザック11世のヘルメス卿就任の式典が執り行われることとなった。

 

 それは12世就任にあたって一度は廃された彼が、改めて皇帝のお墨付きを得て返り咲くという、記念すべき行事となり、そしてこの式典をもって、帝国と勇者派との間で長く続けられた勇者戦争の終結も見えてくるという、正に歴史的な日であった。

 

 アイザックは彼の世話役の官吏に、帝国人の正装である金糸を散りばめられたトーガを着せられて、今正に皇帝のいる謁見の前の前に立っていた。今日のこの日のために、多くの人々が彼にアドバイスしてくれた。カイン卿、ミトラ卿、セト卿、五大国の重鎮たち。それから帝都に住まう皇帝の官吏たち。背後には、いつも彼に付き従ってくれた神人二人、ペルメルとディオゲネスが控えており、そして隣には勇者・鳳白がいた。

 

 もはや何も恐れるものはない。だと言うのに、アイザックはこの土壇場まで来て、まだガチガチに固まっていた。鳳はそんな彼の気を紛らわせるつもりで、軽く肩を叩いて言った。

 

「おい、今からそんなガチガチでどうするんだ。式典はまだ始まってもいないんだぜ。そんなんじゃ終わるまでに石化しちまうよ」

「……なあ、鳳白。本当に、これで良かったのだろうか?」

「なに? まさかこの期に及んで怖気づいたのか?」

 

 鳳がぎょっとして尋ねると、しかし、アイザックは首を振って、

 

「そうじゃない。ただ、本当にこのまま皇帝に頭を下げても良いものかと考えてしまうんだ。もちろん、俺は皇帝に含むところはない。カイン卿や、ミトラ卿、セト卿に対しても、もはや恨みは何もない。だが、俺がそう思うからって、ヘルメスが帝国の傘下に入るような真似をしても……勝手に戦争をやめてしまってもいいのだろうか。

 

 それじゃあ、今までの300年間はなんだったのか。俺の前に勇者派を率いて帝国と戦い続けた10人の先祖や、勇者を慕って命を散らしていった先達たちは、ただの無駄死にだったのだろうか。彼らの死を思うと、こんなに簡単に事を決めて良かったのだろうかと思えて仕方ないんだ」

 

 鳳はそんなアイザックの気持ちがわかるような気がした。しかしそれとこれとは話は別だ。

 

「なるほど……まあ、確かにそうだろうな。彼らの死を思えば、ここで頭を下げるのは得策ではないかも知れない。勇者領にも、白黒つくまで戦い続けるべきだという声もまだ多く聞かれる。何なら彼らを率いてヘルメスが独立するという手もあるかも知れない」

 

 鳳がそんなことを言い出したのを聞いていた、帝国の兵士たちがぎょっとした表情を見せる。彼はそんな兵士たちに向かって苦笑しながら、早く謁見の間の門を開けろと指示した。

 

 ゴトゴトと大きな音を立てて、石造りの巨大な門が開かれていく。

 

「だが、誰がなんと言おうが、今はお前が権力者なんだ。お前が国を手放さない限りは、お前が国をどう変えて行きたいかが、すなわちヘルメスの未来なんだよ。昔の人を思って戦争を続けたいなら、それもまたお前の決断だろう。その場合、ここで踵を返してしまえばいい。だが、よく見ろ、アイザック」

 

 鳳は彼の肩を乱暴に抱き、門の向こうに広がる謁見の間を指差しながら言った。

 

「ここに居並ぶ人々は、みんなお前を待っている。お前が着ているその服は、この国の五大国の領主しか着ることが出来ない最高の栄誉あるものだ。そして、目の前におわす皇帝の右側を見ろ。あそこは皇帝の最も信頼する者だけが立つことを許される場所だ。カイン卿が、今日はお前のためにそこを開けて待っていてくれたんだ。みんなが、お前を迎え入れようとしてくれているんだよ。

 

 お前はこの先、誰と共に歩んでいきたいんだ。そしてどんな風に、国を導いていきたいんだ。そこは血で血を洗う戦場か、それとも平和な未来なのか。ご先祖様に報告して、恥ずかしくない方を選べよ。さあ、今日はお前が主役だ、アイザック。思うがままに、お前を演じてこい」

 

 鳳はそう言ってアイザックの背中をパンと叩いた。バランスを崩したアイザックが、たたらを踏んで一歩踏み出す。じわじわと地面から足の裏に重力が伝わってくる……まるで、活力が漲っていくかのようだ。彼はそんな地面を踏みしめ背筋を伸ばすと、もはや迷いは無いといった瞳で、真っ直ぐに前を向いた。

 

 その日、ヘルメス卿アイザック11世は、神聖皇帝エミリアに臣下の礼を取って、ヘルメス領の帝国への復帰を内外に示した。これにより、ヘルメス国はカインに次ぐ五大国二位の国とされ、帝都に領事館が作られる運びとなった。

 

 ヘルメスは帝国と勇者領との独占的な交易権を持ち、それが帝国に巨大な富をもたらすことは間違いなかった。こうして、300年の長きに渡る勇者領との戦争が、いよいよ終結に向けて動きだしたのであった。間もなく、勇者領から連邦議会の特使が帝都へ到着するだろう。それにより、ついに真の平和が訪れるであろうことを、誰もがみな期待していた。

 



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灼眼のソフィア

 神聖皇帝よりヘルメス卿アイザック11世に正式に爵位が下賜され、これをもってヘルメス戦争は終結した。爵位授与後、そのままヘルメス卿の就任を祝う式典が執り行われて、帝都はお祭りムードに沸き立った。普段は静かな帝都もこの日ばかりは賑やかとなり、往来にはひと目ヘルメス卿を見ようと、神人、人間を問わず大勢が詰めかけごった返した。アイザックはそんな中を、共に帝都入りした勇者軍に護衛されながら練り歩いた。

 

 その後、カイン卿の呼びかけにより宮中晩餐会が行われることとなり、勇者パーティーも招待されることとなったのだが……皇帝を筆頭に、空位のオルフェウスを除く五大国の領主が一堂に会するのは歴史的な出来事であり、晩餐会には驚くほど大勢の貴族が出席し、その堅苦しさを嫌ってギヨームは早々にトンズラし、ルーシーは立ちながら気絶していた。思いがけずジャンヌが人気だったが、肝心の勇者の周りには怖がって誰も近づいて来なかった。まあ、静かなので良しとする。

 

 そんなお祭りムードから一夜明けて、鳳は早朝から禁裏の中にある皇帝の寝所に来ていた。晩餐会の終盤に、皇帝の従者から呼ばれていたのだが、どうやら一連のヘルメス卿の地位向上に対するお礼がしたいらしい。護帝隊を名乗る男たちに連れられて皇居内を進み、P99のある区画とは正反対の方角にあった寝所で、皇帝は部屋着のまま朝食を取っていた。

 

 多分、それなりに価値があるものなのだろうが、人を駄目にするソファみたいなものに腰掛けて、ローテーブルの上のトーストをハフハフと頬張っている姿は、まるで出勤前のOLのようだった。もちろん、そんなことを口にしたら、背後にいる護衛たちに何をされるか分かったもんじゃないから、鳳は黙って皇帝から少し離れた場所に立った。

 

 皇帝は口をあんぐりと開けながら、なんでここにいるの? といった表情をしていたが、従者が時間を確かめるような仕草を見せると、青ざめながら、

 

「こ、このような格好で申し訳ございません。ようやくお休みが取れて気が抜けてしまったようで、お客様が来ることを忘れて、つい寝過ごしてしまいました」

「いや、お疲れのところ早朝から押しかけてこっちこそ申し訳ない。なんなら出直してきましょうか?」

「いえいえ! そんなお呼び立てしたのはこちらなのに、何度もご足労願うわけには……どうぞ、おかけください」

 

 皇帝はそう言って自分のローテーブルの前を指差した。そりゃ確かに、呼ばれたから来たのだけど……鳳がどうしたもんかなと思いながら対面に正座すると、従者が慌ててクッションを持ってきた。本当にここは皇居の中なんだろうか。なんとなく不条理なものを感じていると、慌ててトーストを飲み込んだ皇帝が取り繕うような愛想笑いを浮かべつつ言った。

 

「この度は勇者様の力添えがあったお陰で、ヘルメス卿との間に有意義な関係を築くことが出来ました。改めて感謝いたします」

「いや、全然構わないです。あいつ放っといたらおかしなことになりそうだったから。勝手なことしてすみません」

「とんでもない。実際、どうすれば彼が心を開いてくれるか、思案に暮れていたところだったのです。こちらからお願いもしていないのに、勇者様が動いてくれたお陰で大いに助かりました」

「また戦争になっちゃったら困りますからね」

 

 正直、アイザックがどうなろうが知ったこっちゃないというのが本音だったのだが……結局、自分達がこの世界に呼び出されたのは戦争のためだったのだから、これを終わらせなきゃ寝覚めが悪いというものである。

 

 皇帝は鳳に一通りお礼を述べた後に、少し空々しく話を切り出した。多分、こっちのほうが本題なのだろう。

 

「ところで、勇者様はこの後どうなされるおつもりですか?」

 

 このまま何もしなければ、いずれ鳳も魔王になってしまうかも知れない。遠回しにであるが、それを聞いているのだろう。鳳は頷くと、

 

「陛下は300年前の勇者のことを覚えていますか?」

「申し訳ございません。その頃の私は、今のような立場ではなかったので、勇者様とは殆ど接触がなかったのです」

「それでも普通、名前くらいは覚えてるもんでしょう。ところが、俺がこの世界に召喚された時、誰もが俺と勇者の名前が一致することに気づかなかった。つまり、この世界の人達は、勇者がいたことは覚えていても、顔も名前も覚えてないんですよね」

「そう……ですね。勇者様のことは、勇者様としか伝わっておりません。これも神人が記録を残さないせいでしょうか」

「そんなわけないでしょう」

 

 鳳は自嘲気味に続けた。

 

「実は伝説の勇者パーティーの一員だったレオナルドも、その弟子スカーサハも、カイン卿も陛下も、みんな勇者に関する記憶だけがないんですよ。まるで何者かに記憶が消されているかのように」

「……何者か?」

「少なくとも、300年前の勇者は魔王にはならなかった。俺は、もしかすると、そこに魔王にならずに済む方法があるんじゃないかと思うんですよ。だからそれを探しに行こうかと」

「なるほど……」

 

 皇帝はその言葉を吟味するように頷くと、

 

「でしたら、それが見つかるまでは帝都にご滞在ください。ここには『神の揺り籠』もございますし、こちらでの生活は全て保証いたしましょう」

「それは有り難いですけど、お気持ちだけで。そろそろ杖も届いてる頃だろうし、俺はヴィンチ村へ帰ります。あっちの方が知り合いも居るし、気楽ですからね」

「ヴィンチ村ですか。勇者様は、いまレオナルドの館に住んでらっしゃるのですか?」

「そうですよ」

 

 鳳がそういうと、皇帝は感慨深そうに何度も頷きながら、

 

「レオナルドですか。何もかも懐かしい……私と彼は友人だったのですよ」

「そうなんですか?」

「はい。私は勇者様とは接点が無かったのですが、研究者としてレオナルドとは何度も議論したことがあります。彼の次元についての考察には色々と考えさせられました。芸術家というものは、我々とはまた別の視点で世界を捕らえているものなのですね」

「そう言えば、俺もそんな話をしたことありますね」

 

 確か彼は、自分の内なるイデアを追求することによって、神の実在を証明……というか、彼自身が神になろうとしていたはずだ。精霊は、我々の住む四次元時空よりも高次元に存在し、我々のクオリアはそこと繋がってるとか何かそんな感じだ。

 

 高次元か……何度か死んだ時に紛れ込んでいたあの輪郭線の曖昧な世界。おそらくあれが高次元空間なのだろう……ヘルメスが現れたのもあの場所だったし、あそこにもっと気楽に行くことが出来れば、鳳の悩みも解決するのだろうか。

 

 なら、いっそもう一度死んでみようか……などと鳳が物騒なことを考えていると、皇帝は突然ポンと手を叩いて、そんな彼に笑顔で言った。

 

「そうですわ。勇者様のタウンポータルの呪文があれば、一瞬でヴィンチ村へ行くことが出来るのですよね。なら是非一度、私も連れて行ってはくれませんか?」

 

 するとそれを部屋の隅で聞いていた従者たちがブーッと噴き出して、

 

「なりません、陛下! 帝都を出るなんて言語道断です!! これが知れたらカイン卿辺りが気が狂ったように怒り出しますよ」

「和平がなったわけでもない今、勇者領はまだ敵国です。そんな中に陛下が行かれるなど……我々を心労で殺すつもりですか」

「別にいいではないですか。どうせ、私のことなんて誰もわかりはしませんよ。それに私だって神人の端くれ、勇者様もいらっしゃるのであれば、どんな危険があるというのでしょうか」

「しかし!」

「このところの激務からようやく解放されたところです。この機会を逃せば、勇者領などもう二度と行くことは出来ないかも知れません。邪魔をしないでくださいよ」

 

 皇帝と従者二人のやりとりが続いている。鳳は中々無茶なことを言う皇帝だなと思いながら、そのやりとりを黙って見ていた。しかし、無茶とは言っても、皇帝だって機械じゃないのだから、このくらいのワガママは許されてもいいだろう。

 

 聞けば彼女は皇帝に就任して以来、一度もこの帝都から外に出たことがなかったらしい。それは危険だからという理由ではなく、単に神人という種族が保守的だからだそうだ。皇帝がフラフラとうろつきまわるのは相応しくないと言うわけだ。

 

 まあ、理由がそれだけなら、確かに鳳のポータルを使ってしまえば、誰に見咎められることなく、お忍びで諸国を漫遊することも出来るだろう。従者たちも彼女の不自由な身の上を知っているため、最終的には皇帝に押し切られる形で、本当にヴィンチ村まで出かけることになってしまった。

 

「ただし、我々も同行した上で、夕食までには必ず帝都に戻ること。それが条件です。いいですね!?」

「もちろん、それで構いませんとも。勇者様も、それでよろしいですね?」

「え? あ、はい、もちろん。俺も構いませんけど……」

 

 結局、ポータルを出して送り迎えするのは鳳なのだから、構うも構わないもないのであるが……せっかくのルンルン気分に水を指すのも忍びないので、彼は黙って頷くことにした。

 

*********************************

 

 皇帝が部屋着から旅装に着替えるのを待ってから、鳳たちはポータルでヴィンチ村へと飛ぶことにした。同行者は護帝隊のマッシュ中尉とフェザー中尉の二名である。二人は普段から禁裏で皇帝をサポートする近衛兵で、護衛と言うよりは文官に近い出で立ちをしていた。

 

 とは言え、皇帝の警護役に任命されるくらいだから実力の方は確かで、マッシュ中尉は徒手格闘が得意で、フェザー中尉は腰に佩いた刀を自在に操るらしい。刀を使う人は初めて見たのでちょっと驚いたが、刀工がいるならマニに教えてやったら喜ぶかも知れない。機会があったら聞いてみようと思いつつ、鳳はポータルに乗ってヴィンチ村のいつもの広場へと飛んだ。

 

 ヴィンチ村はまだ早朝といった感じで広場には人気が無かった。出てきた時にはもう日がだいぶ昇っていたはずだったが、帝都とヴィンチ村ではそれなりに時差があるため、こっちはまだ早朝だったらしい。たまたま、ギルドの前に水を撒こうとしていたミーティアがバケツを持って出てきて、鳳を見つけた彼女が近づいてきて、

 

「おや、おかえりなさい、鳳さん。今日は見かけない方々がご一緒ですね。冒険者仲間ですか?」

「いや、こちらは……あー、えー、つまり……ちりめん問屋のご隠居さんと、お供の助さん格さんだ」

「はあ……なんだか良く分かりませんが、村へはどういったご用件で」

「爺さんに会いに来たんだよ。結構なお大尽なんで、歩かせるのも悪いから、馬車を呼んできてくれない? まだ早朝だから、御者さんが居ないかな……」

「御者さんならいつでも駅逓に詰めてますよ。ちょっと待っててください。すぐ呼んできますから」

 

 ミーティアはそう言って同じ広場にある駅逓まで駆けていき、暫くしてレオナルドの館の馬車を連れて帰ってきた。御者がドアを開けようとして飛び降りると、その前にお供の二人が恭しくドアを開けて、皇帝がウキウキしながら中に入っていった。仕事を奪われてしまった御者は、その姿を見ただけで、多分只者じゃないのだろうと察したようで、何も言わずに御者台に戻り、ハイヨーと声を掛けて馬車を走らせた。

 

 クッションの効いた天蓋付きの馬車から、あくびを噛み殺している御者に「起こしてすまなかった」と謝ると、逆に鳳たちは馬車を使わなすぎるからもっと使えと怒られてしまった。遠慮しているのかも知れないが、そもそも誰も乗らなければ彼がいる必要がない。すると仕事が無くなってしまうかも知れないから、そっちの方が困るので今度からもっと乗ってねと言うわけである。

 

 大いに反省しつつ、何もないあぜ道を面白そうに眺めている皇帝と会話しながら、およそ5分。館の玄関アプローチに馬車が入っていくと、既に来客の気配を察知して待ち構えていた執事のセバスチャンが、御者の代わりに馬車のドアを開けてくれた。

 

 彼は鳳と一緒にやってきた人物を見るや否や、その正体までは分からなかったようだが、すぐにやんごとなきお方だと悟ったようで、

 

「旦那様はまだお休みでございます。すぐに起こしてまいりますから、もう暫くこちらでお待ち下さい」

 

 皇帝一行を待合室に通すと、執事は家中の使用人を叩き起こして、今までに無いくらいバタバタと慌ただしく動き出した。

 

 暫くするとメイドのアビゲイルがやってきて、主人の準備が出来たからと案内をしてくれたのだが、するといつもは何も無い廊下に赤絨毯が敷かれていて、用もないのに使用人たちが廊下の左右に並んで畏まっていた。

 

 執事には一言も正体を漏らしていないはずなのに、雰囲気だけで分かるものなのかと驚いていたら、お付きのマッシュ中尉が「多分、護帝隊の制服に気がついたんでしょう」と教えてくれた。こんなこと普通はありえないから制服のまま来てしまったが、次があったら自分たちも服装を変えておかねばならないと、彼は苦々しそうにしていた。

 

 アビゲイルの案内でいつもの応接室に通されると、レオナルドは執務机ではなく、応接セットのソファに座ってあくびをしていた。執事が言っていた通り、本当に眠っていたところを叩き起こされたらしく、鳳が入ってくるのを見るや不機嫌そうにじろりと睨みつけると、

 

「客を連れて来るなら、前もって知らせるか、もっとまともな時間に連れて来んか。馬鹿たれ」

「悪かったよ。あっちを出た時は普通の時間だったんだ。帝都とこっちじゃ時差があることをすっかり忘れててさ」

「ふむ、なるほどのう……お主の魔法は便利じゃが、便利すぎてそういうこともあり得るのか。して、こんな朝早く誰を連れて来たのじゃ」

 

 鳳が脇に寄って背後から皇帝が現れると、最初不機嫌そうだったレオナルドの顔が、見る見るうちに驚愕へと変わっていき、彼は広角に泡を飛ばしながらワナワナと震える声で叫んだ。

 

「そ、その顔は……エミリア……? エミリア・パリスか! 馬鹿なっ!! 神聖皇帝を連れてきおったじゃと!?」

 

 その言葉を聞いて、案内のアビゲイルが珍しくピクリと反応した。鳳は彼女がほんの少しでも動揺しているのを初めて見た。皇帝は腰を抜かしそうなほど驚いているレオナルドの前に歩み出ると、ニヤニヤと笑いながら、

 

「クククッ……お久しぶりですね、レオナルド。私のことを覚えていてくださるなんて、嬉しい限りですわ。でも今はグランチェスターを名乗っているのですよ、間違えないでくださいね」

「そ、そうじゃったか……いや、もちろん知っておったのじゃが、あまりのことに頭がついていけなくての……それにしても、お主は変わらんのう。神人というものはそういうものだと分かってはいるつもりじゃったが……300年ぶりか? 300年ぶりじゃと言うのに、なんじゃこの、昨日会ったばかりのような変わりなさは……」

「ええ、大体300年ぶりですね。あなたの方は、お変わり……お変わ……お変わり……クククッ……アーッハッハッハ!! 大変お変わりになってて! 勇者様がいらっしゃらなかったら、きっと私、今頃騙されたって怒ってる頃ですよ! アハハハハ……アハハハハハハ!!」

 

 皇帝はレオナルドのことを指差しながら、ゲラゲラと爆笑している。何がそんなにツボに入ったのかと思いきや、

 

「だって、あなた、そんな……アハハハハハ! 変わり過ぎじゃないですか。そんな、ハゲチャビンで、鳥の巣みたいなゴワゴワの髪の毛を、未練がましく両サイドに残しちゃってて! アハハハハハ!! みすぼらしいったらありゃしない!」

「なんじゃお主! 300年ぶりに会った友人の頭を捕まえて、なんたる不躾な!!」

「だって、だって! 知ってますか、勇者様。この人、300年前は大変おモテになられたんですよ? 髪の毛は金色で、細くてサラサラで、腰の辺りまで伸びていて、まるで女性みたいと評されていたのに……それが……それが……アハハハハ!」

 

 容赦ない言葉にレオナルドが激怒し、それすら面白そうに皇帝がからかっている。割りと普段からこんなものなのか、お付きの二人は呆れるような、それでいて肩身が狭そうな表情で恐縮していた。因みにアビゲイルはいつもの我関せずといった無表情に戻っていた。

 

 どうやら本当に親しい友人だったらしい二人の応酬が続いたあと、皇帝はぜえぜえと息を切らして、目尻の涙を拭いながら、

 

「はぁはぁ……で、でも……しっかり面影は残っていますね。流石に骨格まではお変わりないようで、あの頃のままですわ、レオ。お久しぶりです」

「自分の皮の下を評されても反応に困るわい……まったく。お主も息災か」

「ええ、どうにか生きておりますよ」

 

 二人はそんな具合に、お互いにお互いのことをよく覚えているようだった。そのくせ、勇者のことはよく覚えていないのだから、やはりここに何らかの人為的な力が働いていると考えざるを得なかった。

 

 ともあれ、二人が昔話に花を咲かせている内に、鳳はやることをさっさと済ませてしまおうと考えた。元々、ここへは皇帝を連れてくるのが目的ではなかったのだ。ケーリュケイオンに閉じ込めてしまったメアリーを、早く救出しなければならない。彼は二人から離れて入り口のすぐ脇に立っていたアビゲイルを捕まえると、

 

「あの、メイド長さん。ところで冒険者ギルドを通じて、俺の杖が届けられていないかな」

「それでしたら、旦那様が大事に保管されておられますが……」

「これ! 鳳!」

 

 鳳がばれない内に杖だけを回収しようとしていたら、そんな彼の背中に不機嫌そうなレオナルドの声が浴びせられた。怒気を孕んだその声に、嫌な予感をさせながら振り返ると、老人は鳳のことをじろりと睨みながら、

 

「皇帝なぞを連れてくるから、うっかりそっちに気を取られてしまったが……お主、今日はここへはケーリュケイオンを取りに来たな?」

「あ、ああ、そうだけど……」

「何ということをするんじゃ! このあんぽんたん!」

 

 老人の怒鳴り声に、鳳は肩を竦めた。何で突然怒り出したのかと思いきや、

 

「お主、あれに誰かを吸い込んだな?」

「え!? 爺さん、分かるのか??」

「以前に次元の見方を教えたじゃろう。儂の幻想具現化(ファンタジックビジョン)は高次元に存在するイデアを操る技。そしてこれは空間を操る杖じゃから、感じが変わっていることくらいは、見ればすぐに分かる」

「そうなのか……驚いたな」

「して、お主なにをやったのじゃ?」

 

 鳳は観念して杖の中にメアリーを吸い込んだことを白状した。それを聞いたレオナルドは青ざめ、改めてなんてことをしたんだと怒鳴り声を上げたが、

 

「あの時はああするより方法がなかったんだってば! 相手は魔王だったんだぞ? メアリーだけ逃してる余裕なんか無かったし、絶対に復活する保証も無かったから、俺の魔法で消し飛ばすくらいなら、こうした方がまだマシだって思ったんだ」

「うーむ……内部がどうなっておるか分からぬが、時間も空間も凍結してあるなら良いのじゃが」

「神人だから、最悪餓死するなんてことはないと思うんだけど……」

「お主……そんなことよりも、何も見えない聞こえない、ひたすら暗闇の中に長期間閉じ込められることを想像してみよ。気が触れてしまってもおかしくないじゃろう」

「うっ……確かに。そっちのほうがきつい」

「分かったら早く出して上げなさい」

「言われなくともそのつもりだよ。まったく……まいっちゃったな」

 

 こんなことになるなら、やっぱり杖に閉じ込めたりなんてせずに、あのまま爆破してしまったほうが良かっただろうか。しかし、確実に復活させられるとも言い切れなかったのだし、仕方ないよなと思いつつ、鳳はレオナルドに渡された杖を握ると、力を込めてそれを振った。ところが、彼が二度、三度と杖を振っても、メアリーは中々出てこなかった。

 

「……あれ?」

「どうしたんじゃ」

「いや、平気」

 

 レオナルドの表情が訝しそうに歪んでいく。鳳は取り繕うような愛想笑いを浮かべると、彼の視線を避けるように背中を向けて、杖をじっと見つめた。

 

 暫く手放していたからか、感覚がいまいちつかめなかった。いつもはどうやっていたんだっけ? と考えた時、彼は思い出した。この杖は物を出し入れする空間を操る杖ではなく、等価交換の杖なのだ。出てくるのは吸い込んだ素材そのものではなく、それを材料にイメージした物を出すことも出来る。つまり、メアリーのイメージがちゃんと掴めていないのだろう。

 

 鳳は焦りながらも、彼女のことを必死に思い出そうと努めた。見た目は幼馴染そのまんまだからすぐにイメージ出来た。問題はどんな性格だったかであるが、考えてもみれば彼女はいつもジャンヌと一緒にいたから、あんまり接点がなかった。一緒に食べられる草を摘んだり、鹿を解体したり、空を飛んだり、子供たちと遊んだりしたけれど、具体的にどんな感じだったっけ? と問われると中々難しい。

 

 やばい、とにかく思い出せることを全て思い出そう、これがエミリアやソフィアのことなら、簡単なのに……と思った瞬間、急に彼は手にした杖が軽くなったような、妙な感覚を覚えた。

 

 すると……

 

「キャッ!」

 

 という悲鳴と共に、ドスンと誰かが尻もちを着くような音が背後から聞こえてきた。

 

「イタタタ……もっと優しく扱いなさいよ」

 

 慌てて振り返ると、打ち付けた腰をさすりながら非難がましい表情でこちらを見上げるメアリーがいた。鳳はホッとため息を吐いた。よかった、ちゃんと出すことが出来たらしい。不安だった彼女の体調も良さそうだ。その顔色は血色もよく、特に痩せてる感じは受けず、杖の中で精神がおかしくなった素振りもない。鳳はこれで一安心と胸をなでおろしたが……

 

 しかし、久しぶりに見たメアリーはどこか感じが違っていた。何がおかしいんだろうかと思った時、鳳は彼女が着ている服が、いつものシンプルなポンチョから、やたら綺麗な純白のドレスに変わっていることに気がついた。

 

 ケーリュケイオンは等価交換の杖、イメージしたものが出てくるのだとしたら、彼はメアリーにこんなドレスを着せたかったということだろうか……?

 

 うっ、恥ずかしい……鳳が頬を染めながら、彼女の額に収められた、つい最近どこかで見たことがあるようなティアラに目を奪われていた時だった。

 

「そんな……まさか……真祖様!?」

 

 皇帝の、驚愕に震える声が耳を打つ。その言葉の意味がすんなりと頭の中に入ってこず、最初は彼女が何をそんなに驚いているのかとポカンとしてしまったが、やがて鳳にもその言葉の持つ意味が分かってきて、それが目の前のメアリーの姿と一致した時、彼は度肝を抜かれて腰が抜けそうになってしまった。

 

 まさかと思って隣を見ると、鳳と同じようにあんぐりと口を開いたレオナルドが居た。メアリーは腰をさすりながら立ち上がると、まずは声を発した後絶句している皇帝に向かって、

 

「久しぶりね、エミリア。偶然あなたがいてくれたお陰で、説明の手間が省けそうね。助かったわ」

 

 そう言って皮肉めいた笑みを見せた後、続いて彼女は困惑する鳳たちに向かって、

 

「とは言え、何から説明すればいいのかしらね。まずはレオナルド、私の身体を保護してくれたことに感謝するわ。私の名はソフィア。ソフィア・グランチェスター。それとも、真祖ソフィアとか、灼眼のソフィアといったほうが、あなたたちにはわかりやすいかしら……」

 

 彼女はそう言ってまた皮肉そうに笑った。そのニヒルな笑みと赤い瞳が、ほんの数ヶ月前まで遊んでいたあのゲームの中の彼女に似ていて……

 

 鳳はもはや言葉を必要とせず、そこにいるのが誰であるのか理解していた。

 



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300年前の魔王

 魔王討伐の際、死を覚悟した鳳が咄嗟にケーリュケイオンに閉じ込めたメアリー。しかし、ヴィンチ村に届けられた杖の中から出てきたのは、メアリーではなく、『真祖ソフィア』を名乗る神人だった。見た目はメアリーそのものである彼女は、鳳がゲームをしていた頃のパーティーメンバー『灼眼のソフィア』であるとも主張していた。

 

 彼女の纏っている綺羅びやかな純白のドレスと、額にはめられたティアラは、皇帝エミリアに言わせれば間違いなく真祖ソフィアのものらしい。と言うか、鳳もつい先日、帝都で彼女がそれを身につけているのを見たばかりだ。

 

 入り口で警戒していた護帝隊の二人も困惑気味にソフィアのことを見つめている。どうやら長生きの彼らは、かつてそこにいる彼女に仕えたこともあったらしく、信じられないものを見ているようなそんな素振りだった。

 

 一体何が起きているのか分からない一同は、暫くの混乱の末に、ようやく落ち着きを取り戻すと、とにかく杖から出てきたソフィアに話を聞くことにした。

 

「そうね、まずは何から話せばいいのか……そっちから質問してくれた方がやりやすいんだけど。アビゲイル、話が長くなるから紅茶を戴けないかしら」

 

 まるで勝手知ったる他人の我が家と言わんばかりに、ソフィアは応接セットのソファに腰掛けると、壁際で気配を消していたアビゲイルに向かって紅茶を所望した。彼女は少し戸惑いを見せたが、すぐに職業意識を取り直すとお辞儀をしてから部屋を出ていった。

 

 皇帝のお墨付きもあり、杖から出てきた彼女が真祖ソフィアであるということはもはや疑いようもない。と同時に、レオナルドが可愛がっていたメアリーでもあるようだ。老人は渋面を作ると、人が変わってしまった彼女に向かって尋ねた。

 

「取りあえず、状況を整理したい。お主はその昔、神聖帝国を作った真祖ソフィアで相違ないな? と同時に、300年前に、勇者が連れてきたメアリーでもある」

「そう、間違いないわ。私はつい最近まで、記憶を封じられてメアリー・スーと名乗っていた」

 

 レオナルドはあっけなく断定された事実に、頭が痛いと言わんばかりに額に手を当てながら、

 

「300年前、勇者はお主のことを自分の娘じゃと言って連れてきた。儂はそのことを疑っておらんかったのじゃが……それが事実じゃと言うと、何故、彼はそんな嘘を吐く必要があったんじゃ?」

 

 するとソフィアは少し言いづらそうに口を濁した。そこへアビゲイルが帰ってきて、応接セットに座る四人の前にティーカップを並べると、それに紅茶を注ぎ始めた。耳鳴りがしそうな沈黙の中で、紅茶を注ぐ音だけが部屋の中に響いている……

 

 ソフィアはティーカップを持ち上げ一口含み、アビゲイルに向かって満足そうに頷いたあと、徐ろに言った。

 

「……面倒くさいことは嫌いだから単刀直入に言うわ。それは私が300年前の魔王だったからよ」

「なん……じゃと……?」

 

 レオナルドは驚愕に目を見開いている。隣に座っていた鳳も当然のごとく驚いていたが……ふと見れば、皇帝の表情は殆ど変化していなかった。その様子からすると、どうやら彼女はこの事実を秘匿していたらしい。

 

 鳳は、やはり帝国は信用してはいけないのか……? と思いもしたが、その内容を考えてみれば、彼女が口外しなかったのはある意味当然だったろう。何故彼女が魔王と化してしまったのか、その理由を知ったらそれも仕方ないように思えた。

 

「300年前。魔王になってしまった私は、当時の勇者……つまりツクモに討伐された。その後、彼は死にかけていた私の身体を『神の揺り籠』を使って再生し、ケーリュケイオンに記憶を封印して、自分の娘と偽ったのよ。理由はどうあれ、私は魔王になってしまって、多くの人々を殺してしまった。生きる気力を失くし、責任を取って死にたがっていた私のことを、彼は救おうとしたのね」

「何故、お主は魔王になってしまったのじゃ……?」

「まずは、魔王はこの世界の最強生物が、ラシャの影響によって誕生するという前提を踏まえて話を聞いて欲しい。ちょっと長くなるから、質問は後回しにしてね」

 

 ソフィアはそう前置きしてから、忌々しそうに話を続けた。

 

「今からおよそ千年前、私はこの世界に降り立った。それからずっと魔族と戦い続けてきたの。その頃の人類はネウロイから遠く離れた大陸の北端で、怯えるようにひっそりと暮らしていた。私はその現状を打破すべく、『神の揺り籠』を使って神人を作り出し、魔族への備えとしたのよ。

 

 始めは上手く行ったわ。知ってると思うけど、魔族は理性が無いんで頭が悪い。だから神人の敵じゃない。そうして魔族を撃退し続け、帝国の版図を広げていったんだけど、その内、たまにものすごく強い魔族が現れるようになったのね。言うまでもないけど、魔王のことよ。

 

 私は魔王を倒すために神人の数を増やしたの。単体では敵わないから、数の暴力で対抗したってわけ。それで最初の危機は乗り越えたわけだけど、それから定期的に帝国に魔王が襲来するようになってしまったのよ。

 

 結論から言えば、魔族は一人の魔王を生み出すために蠱毒を行なっているわけだから、ある程度強くなった個体は、当然、私たち神人も取り込もうとやって来るわけ。こうして私たちの帝国と魔王との戦いが始まったんだけど……魔王は討伐しても討伐しても、また必ず現れて、それは来るたび前回の魔王よりも着実に進化していたの。

 

 魔族はそうやって、種そのものが魔王の記憶を蓄積して、必ず敵を上回る個体を作り出そうとするシステムなんでしょうね。つまり、私たちの帝国も、いつしかネウロイの蠱毒の一環になっていたわけよ……でも、あっちは失敗してもいくらでもやり直しが効くかも知れないけど、こっちはそうはいかない。だから、ついに限界が訪れたわ。

 

 私は、定期的に襲来する魔王の対処のために、神人を増やしていった。新たに5つの国を興し、経済を発展させて兵を養い、そして300年前、それは10万を越える大軍勢になった。これでどんな魔王が現れようが万全だと思っていた、でもそれは逆だった。

 

 魔族は自己を強化するために、敵を食らってその性質を奪うか、犯して自分の眷属を増やそうとするわけでしょう? 私は魔族のように敵を犯したりはしなかったけど、結果的に神人という眷属を増やしすぎてしまった……神人は、私が『神の揺り籠』で作り出した、いわば私の子供たちで、彼らにとって親である私の言うことは絶対だった……つまり私がこの神人の帝国の皇帝として、世界最強になってしまっていたってわけよ。

 

 ラシャは……そうして生まれた世界最強の者に、問答無用で寄生するのよ。気がつけば、私は魔族を倒し続けた結果、経験値が貯まりまくっていた。神人ではあり得ないほど高レベルになっていて、そして神人にはあり得ないステータスの変動もしていた。私はそれを自分に都合よく、デイビドの恩恵を受けていると思っていたんだけど、どうやらラシャの影響を受けていたみたいね。

 

 私は、この世界に来てから700年間魔王と戦い続けていたから、それなりに魔王というシステムについても理解していた。だから、自分がおかしくなりつつあることにも気づいた。だけど、一度こうなってしまったらもうどうしようもなかった。デイビドのサポートもそうだけど、ラシャの命令も、私たちには感知することの出来ない高次元方向から、直接脳内に下されるのよ。私にはこれから逃れるすべはなかった……

 

 私は自分が魔王になりかけていると考えた。このままじゃ世界を滅ぼしかねないと焦っていた。死を選ぼうとも考えたけど、きっとそうした場合、私が貯めに貯めた共有経験値が、誰か別の神人に注がれて魔王になるだけだったでしょう。多分、エミリアがなっていたんじゃないかしら」

 

 何気なく話を振られた皇帝が、ぎょっとした表情で冷や汗を垂らしている。ソフィアはニヒルな笑みを浮かべ肩を竦めつつ、

 

「だから私は悩んだ挙げ句、自分を確実に倒せる人間を作り出そうとしたのよ……それがツクモ、あなただったわけ」

「俺が……?」

 

 鳳が困惑気味に反復する。彼女はその声を受けて、申し訳無さそうに頷くと、

 

「その時の私は、自分が魔王ジャバウォックになろうとしていることが分かっていた。そのジャバウォックを倒せる人間……って考えた時に、真っ先に思い浮かんだのが、あのゲームのギルド、荒ぶるペンギンの団のメンバーたちだったわけよ……

 

 私たちは、それこそ何万回と、呆れるくらいゲームの中でジャバウォックを退治したわ。だからこそ、私の魔王としてのイメージはジャバウォックという架空の魔獣に固定されていたんだけど……

 

 そして幸か不幸か、あのゲームのサービス終了時点の全ユーザーのパーソナルデータが、『神の揺り籠』には残されていたのよ」

「何故そんな物があの中に?」

 

 鳳が驚いて尋ねると、彼女は困ったように頷きながら、

 

「DAVIDシステムも、あのゲームも、実は開発元が一緒だったからよ……薄々、勘付いてはいたんでしょう? ちょっと話がややこしくなるから質問は後にして」

「あ、ああ、わかった……」

「神人は、その個体の遺伝情報と記憶情報が別々に保存されている。だから肉体が滅びても、『神の揺り籠』を使って復活することが出来る。あなたもそのことは知ってるでしょう。更にもう一歩踏み込んで、放浪者はその人の遺伝子と大雑把な記憶があれば、放浪者自身が記憶を補完して復活することが出来る……実はこれがそのまま勇者召喚の正体なのよ。私は、あなたの遺伝子とサーバー内に残されていたゲームのパーソナルデータから、あなたを復活させることに成功した……」

 

 だから鳳の記憶はその時点で止まってしまっていたのか……やはり、鳳の人生はあの後もちゃんと続いているらしい。元の世界でその後彼が何をしたのかは分からないが、ともあれ、ソフィアは鳳を復活させると、すぐに限界を迎えて魔王になってしまった。

 

 そして魔王になってしまった彼女は理性を失い、そこから先は何も覚えていないようだった。だが彼女が知らなくても、何が起きたかはここにいるレオナルドと皇帝が知っている。皇帝はソフィアの後を続けた。

 

「真祖様は魔王になった直後、理性を失って帝国を破壊し始めました。私たちはなんとか止めようとしましたが歯が立たず、やがて止めようとする私たちをも取り込み、ジャバウォックは更に強くなってしまいました。

 

 帝都の護帝隊だけではもうどうしようもなく、かといって五大国の軍隊が出てきても、強くなりすぎたジャバウォックには太刀打ち出来ませんでした。私たちは建国以来、初めての国家存亡の危機に狼狽えるだけで、これと言って有効な手立ては何一つ見つけられませんでした。

 

 ところが、そんな時にどこからともなく精霊が現れて、暴れるジャバウォックを抑え込んでくれたのです」

 

 鳳はハッとして叫んだ。

 

「そうだ、精霊! 精霊がいた! 爺さんをこの世界に呼びつけ、俺に力を授けた……こいつらは一体、何者なんだ?」

 

 鳳の言葉に皇帝は首を振って返し、期待したソフィアも彼の問いたげな視線を受けて肩をすくめると、

 

「まるでわからない。私は精霊という存在がいることは知っているけど、レオやツクモみたいに、話をしたことはないのよ。そういう意味では、私よりも寧ろ、あなた達のほうが詳しいんじゃない」

「創世神話では、お前が精霊を作ったことになってると言うのに?」

「ああ、それ? その嘘を吹聴したのは私よ」

 

 鳳も、レオナルドも、その場にいる人々全員が、思わぬカミングアウトに面食らった。まさか創世神話の中に、真祖ソフィアが吐いた嘘が混じってるなんて……

 

「なんでそんなことをしたんだよ?」

「簡単な話よ。神人を作ったのは私だって言うと、みんなどうやったのかって知りたがるでしょう。でも、精霊が作ったって聞かされれば、そんなもんかって納得する」

「あ、ああ~……なるほど。ハッタリを利かせたわけか」

「そういうこと。精霊というのは、私にはよくわからないけども、恐らくはラシャやデイビドと同じような存在でしょうね。仮にこの世界がゲームだとしたら、ゲームマスター的な存在っていうか……まあ、そういうのを人は神って言うわけだけど」

 

 ゲームの中かも知れないというのは、もちろん鳳も考えた。ステータスだったり、魔法だったり、ゲームっぽくないと思うほうが無理というものだ。彼は尋ねた。

 

「お前はこの世界がゲームかも知れないという、兆候のような物を見つけたのか?」

 

 するとソフィアはあっさりと否定して、

 

「いいえ、まったく。っていうか、もしもそうなら、こんなのいつかGMがリセットして終わりにしてるでしょう。そうならないのだから、違うと考えたほうが良いわ」

「それもそうか……」

 

 そもそも、現実と区別がつかないゲームの中であるならば、意識すること自体意味がないだろう。鳳たちが黙ってしまうと、二人の会話が終わったと見た皇帝が話を戻した。

 

「とにかく……精霊の介入によって一次的にジャバウォックは抑え込まれましたが、討伐には至りませんでした。正直、精霊が魔王を倒せないとは思えないので、もしかすると彼らには直接手を下せないような理由があるのかも知れません」

「そうだなあ……」

 

 精霊は敵なのか味方なのか……レオナルドは精霊ミトラに、他の神々と戦う手助けをしてくれと言われてこの世界に来た。鳳がヘルメスに力を授けられた……と言うか、ゲーム時代の力を取り戻したのは、間もなく魔王オークキングと戦う可能性があったからと考えれば、やはり味方と考えて良いような気もするが……

 

 だが鳳はその力を得たせいで、魔王になる危険性に怯えなくてはならなくなってしまった。正直、どっちが良かったのか……判別に苦しむところである。

 

 それは300年前の勇者も同じだったろう。その彼とパーティーを組んでいたレオナルドが当時のことを話してくれた。

 

「精霊が魔王を抑えていた頃、儂らは帝国に侵入してきた魔族と戦っておった。魔族は魔王に呼応するかのように、ワラキアの大森林から唐突に現れ、神人10万もの大軍をもってしても食い止めるのが精一杯じゃった。儂とアマデウス、アイザックの三人は、帝国が討ち漏らした魔族を退治して人間を守っておった。神人は強いが、他種族には割りと薄情なところがあるからのう……そんな人間たちは、魔族にとってはデザートみたいなもんじゃった。

 

 儂らはそうして人々を助けておったわけじゃが、助ければ助けるほど、大所帯になっていくのは必然じゃろう。やがて、助けた避難民が増えすぎて身動きが取れなくなってきてしまった。そして魔族はそんな身動きの取れない羊の群れを見過ごしてはくれなかった。儂らにも捌ききれんほど大量の魔族が人々を襲いはじめる……そんな絶体絶命のピンチに現れたのが勇者じゃった。

 

 その頃の儂らは既に現代魔法を確立させ、多くの迷宮を踏破して、人知を超えた力を手にしていた。しかし、勇者の力はその比ではなかった。あやつはあらゆる神技と古代呪文を使いこなし、近接戦闘にも長けておった。そして儂らから現代魔法をも習得し、その圧倒的な力は神人すらも従わせ、ついには単身で魔王に挑むまでに成長してしまった……

 

 勇者パーティーなどと呼ばれておるが、実際に魔王と戦ったのは勇者一人だけだったのじゃ。儂らはその周りで露払いしていたに過ぎん。何せ相手は体長数十メートルを越える巨体のくせに、尋常でない速度と身体能力を持ち、殺人光線まで吐き出したからのう……じゃが、あやつはそんな魔王に挑み、ついに倒してしまった」

 

 レオナルドが手も足も出なかったという300年前の魔王は、話を聞く限り、この間倒したオークキングとは力の差が有りすぎた。それは魔王の元となった個体に、強さの違いがあったからだろう。

 

 300年前の魔王は目の前にいる真祖ソフィアだったのだ。その時の彼女は10万人の神人の頂点に君臨し、その神人という種全体の能力が元となったのであれば、生まれた魔王の力は半端ではなかったはずだ。オークキングと違って、その眷属が魔王に従わなかったことだけが、唯一の救いだったろう。

 

「この世界に来てから何度か歴史の講釈を受けたが、そう言えば真祖ソフィアというのはいつの間にか歴史の舞台から姿を消していたな。大昔のことだから死んだんだろうって勝手に思ってたけど、考えてもみれば神人は殺さない限り老衰では死なないんだった。彼女が消えたのはこういうわけだったのか」

 

 鳳の言葉に皇帝が頷く。

 

「はい。公には真祖様は魔王との戦いで行方不明になったことにしてありますが、実際は真祖様こそが魔王だったので、公表することが出来なかったのです。あの頃の帝国は、魔王のせいで国土が荒廃しきっていました。神人は著しく数を減らし、頼りの真祖様も、もうおりません。帝国には次の魔王が攻めてきたらどうなってしまうかと言う不安が蔓延しておりました。この上、実はそれを引き起こしたのが真祖様だと知られれば、何が起こるか分からなかった……それで一部の神人が結託して、この事実を伏せることにしたのです。カイン卿を含む、五大国の主たちもこのことを知りません……唯一、ヘルメス卿を除いては」

 

 ヘルメス卿は恐らく勇者経由でその事実を知っていたのだろう。そして、その勇者が魔王化しかけていたことも知っていた……彼は魔王になる前の勇者から、メアリーとケーリュケイオンを預かり、そして勇者が居なくなるとそれに殉じるように、彼自身もこの世から去ってしまった。

 

 彼はメアリーのことを子孫や側近にも知らせなかったようだが、それは皇帝と同じように、事実が漏れると世界が動揺すると考えたからか、もしくは、自分の子孫がメアリーを政争の道具に使うことを嫌ったのだろう。実態はどうあれ、彼女は勇者が自分の娘として残した、最後の希望だったのだから。

 

 それにしても……ソフィアがこうしてこの世界の真祖として君臨していた理由は分かった。だがまだ一つ、はっきりしていないことがある。

 

「ソフィア、もう一つ聞きたいことがあるんだが、良いか?」

「何かしら?」

「そもそも、お前……元の世界のゲームの中で、『灼眼のソフィア』を操作していたのは誰なんだ? 俺はてっきりエミリアだと思っていたんだが、調べてみると、俺たちがゲームをしている時にはもうエミリアは死んでいたようなんだ……彼女の振りをしていたんだから、お前にはその理由が分かるんだろう?」

 

 するとソフィアは何ともいえない複雑な表情を見せてから、口をパクパクと開け、声にならない声を漏らしながら、両手で首の後の辺りをグイグイと押さえつけてから、やがて諦めたように肩を竦めてみせると、

 

「……それについては、いつかあなたに話さなければならないと思ってはいたわ……でもそれは、サービスが終了して数年経って、もうあなたが私のことを思い出さないようになってからと、そういうつもりだった……だから本当なら話したくないんだけど」

「今更だろう。話してくれ。じゃないと、これからどうしていいかわからない」

「そうね……そうした方が良いでしょう。でも、これは本当に言いにくいことだから、出来ればツクモ以外の人には席を外して欲しいの」

 

 レオナルドと皇帝が目配せしあっている。それは自分たちにも話せないことなのか? と問いかけるレオナルドに対し、ソフィアは当たり前だと言わんばかりに頷くと、老人たちはそれじゃ自分たちは席を変えようと、部屋を出ていった。

 

 応接室には鳳とソフィアだけが取り残された。朝日が昇り、陽光が部屋いっぱいに広がっている。彼女の純白のドレスが光を吸って、まるで輝いているように見えた。鳳がそんな彼女の対面に座り息を呑み込んでいると、やがて彼女は話しだした。それは予想よりも遥かに胸糞の悪い、忘れたくても忘れられない昔話の続きだった。

 



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サービス終了の日

 人払いした室内は驚くほど静かだった。時計がカチカチなる音も無ければ、どんな機械音もしない。ついさっきまで起き抜けの小鳥の囀りがピーチクパーチク煩かったが、いつの間にか飛び立ってしまい、今はどんな音も聞こえてきやしなかった。

 

 そんな耳鳴りがするような静寂の中で、光を受けて輝いているソフィアのドレスを見ていたら、なんだか夢の中に迷い込んでしまったような、そんな気分になった。彼女の赤い瞳が何もない空中にぼんやりと浮かんで見える。確かメアリーは紫色の瞳をしていた。ゲームのソフィアは青い瞳をしていて、魔法を使うと赤く変化するキャラだった。なんてことはない。彼女はこの世界でもちゃんとロールプレイしていたのだ。

 

 細かい埃が宙に舞って、窓から差し込んだ光が幾筋もの光のカーテンを作り、彼女の姿を覆っていた。そんな幻想的な姿を見ていたらいつまでも時が過ぎてしまいそうな気がして、埒が明かないと思った鳳の方から、沈黙を破って声を掛けた。

 

「お前はエミリアだったのか……?」

「違うわ」

「エミリアの親戚とか……俺が知っている誰かなのか?」

「それも違う」

「じゃあ、ソフィアって何者だったんだ」

 

 彼女はその問いかけに敢えて時間を掛けるかのように、カップをソーサーごと持ち上げて、左手にソーサーを添えながら、右手にカップを持ち、その中身を音もなく飲み込んだ。それがカチャカチャと音を立ててテーブルに戻されると、彼女はまたピンと背筋を伸ばして鳳のことを正面に見据えながら言った。

 

「私は、あなたの父親が作った……AIよ」

「……AI?」

「そう」

 

 彼女の答えは非常にシンプルだった。だからそれ故に分かりやすくもあった。ああ、そういうことかと、すんなりと腑に落ちた。あのゲームはVRMMOと言っても、操作するキャラクターはみんなアバターだったのだ。中にはジャンヌみたいに、女性キャラを演じる男もいたし、単純な作業を繰り返すBOTもいて、たまにBANされていた。

 

 機械がゲームを操作するなんてことは、考えてもみれば大昔からある技術なのだ。そこに、人間のように受け答えするAIが混ざっていてもおかしくない。問題は、何故そんなものがいて、エミリアのふりをしていたのかだが……

 

「それが結局、問題の核心部分なのよ。あなたの指摘した通り、私があのゲームで灼眼のソフィアというキャラを演じ始めた時、既にエミリアはこの世を去っていた。つまり私は、最初からあなたを騙すために、あなたの父親に作られたのよ……いえ、作ったのは、もちろん彼の企業の研究者なんだけど」

「なんで親父はそんなことをしたんだ?」

 

 鳳は自分でそれを聞いておきながら、心の中はものすごく嫌な予感でいっぱいだった。心臓がバクバク鳴っていて、脳内でおかしな薬物が分泌でもされているのか、ものすごい勢いでいろんな言葉が飛び交っていた。ゴールはとっくに見えているのに、そこに至るのが嫌でわざと迷路を遠回りしているような、そんな感覚だった。

 

 ソフィアも同じような感覚だったのだろうか。彼女はよほど言いたくない様子で、何度もティーカップを手で弄びながら、やがて徐ろに前置きも無しに言った。結局、どう取り繕っても、どうにもならない現実がそこにはあったからだ。

 

「彼女は……あなたが事件を起こした直後、衝動的に自殺を図ったのよ。実は彼女は、妊娠中絶した後の予後が悪くて、世を悲観していたんだけど……」

「……妊娠? ……中絶? ちょ、ちょっと待ってくれ、そんなの知らない。どういうことだよ」

「どうもこうも……」

 

 ソフィアはよほど言いづらそうにため息を吐いていた。藪睨みする鋭い眼光が彼の胸元あたりで小刻みに動いていた。悔しそうに唇の端を噛んだあたりがほんの少し赤かった。それは彼女のモデルになった人に起きたことだからか、それとも彼女が女性であるからだろうか……

 

「合意であろうがなかろうが、やることをやれば子供は出来るわ。エミリアを襲った相手は、そんな取り返しもつかないことすら考えられない子供だったから、当然、避妊なんてしようともしなかった。旅行から帰ってきた彼女は両親に言えず、一人で問題を抱え込んでいたんだけど、9月が過ぎて学校に行きたくないと言いだした頃になって、ようやく彼女の身体に変化が起きていることに、両親は気づいたのよ。

 

 すぐに病院に連れて行って、中絶手術を受けさせられて、彼女は心身ともにズタボロになった。当然、両親は中学を通して相手を訴えようとしたけど、前代未聞の不祥事に学校は及び腰で、相手の親の中には偉い人もいたらしくて、寧ろ不祥事を隠蔽しようとした。そして相手は徒党を組み、多数の論理で封じ込めにかかった。相手が責任能力の無い中学生で、ご両親が外国人だったのも問題だったみたい。こういう時に頼れる相手がいない異国の地というのは、本当に冷たいのよ。

 

 そんなままならない日々が続いた頃だった。両親はくたびれ果て、家の中から会話が途絶え、彼女の体調は日を追うごとに悪化していった。そんな時、あなたが事件を起こした。それはどんなに訴えても、のらりくらりと交わす相手に痛打を与える出来事だった。ついにマスコミが騒ぎ出した。だから両親は喜んだ。でも、彼女は違ったわ。彼女は……あなたが彼らに仕返しをしたと知って、寧ろ、あなたに自分が汚されたことを知られたと感じたんでしょう」

 

 そして彼女は衝動的に命を断った。自宅近くのマンションから飛び降りたのだ。

 

「俺が……とどめを刺したのか?」

 

 喉がカラカラで、かすれて殆ど声になっていなかった。かろうじてそれが耳に届いたソフィアは黙って首を振った。そんなわけはない、彼は何も悪くない……だが、結果として彼のその行為が、彼女の背中を押してしまったのも事実だった。

 

 鳳はあまりのショックで胃がねじ切れそうな痛みを感じていた。何も知らずに、ただ自分の正義を振りかざそうとして、結果的に守りたかったものを傷つけてしまっていた。彼はそんな過去の過ちを後悔したが、それ以上に、あいつらを仕留めそこなったという後悔の念の方がよほど強かった。

 

 警察署に連行された彼を殴りつけ、顔を真っ赤にして叫んだ父親の言葉が、今も頭の中で何度も何度もリフレインしている。

 

「そうとは知らず、釈放されたあなたはエミリアに会いに行ったわけだけど、ご両親はそんなあなたを拒絶した。事件を起こしたような人に、娘を会わせることは出来ませんと……本当はあなたに感謝していたんだけど、真実を話したらあなたがショックを受けると思ったんでしょうね」

 

 なんとか相手を訴えようとして、世論を味方につけようとしていた彼らは、今度は逆に事件を隠蔽する側に回ったのだ。その後、鳳はエミリアに会えず、悲嘆に暮れて家出してしまった。父親はそんな彼を無理矢理連れ戻しても駄目になってしまうと考え、敢えて見守ることにしたらしい。彼はそんなこととは露知らず、半年間のホームレス生活の末、爺さんを助けるために父親に頭を下げて、家に帰ってきた。

 

「家に帰ってきたあなたは気力を失っていて、まるで廃人みたいだったようね。食欲もなくて、返事も虚ろ、もし事実を知ってしまったら、そのまま死んでしまいそうな危うさがあった。だから父親は一計を案じたのよ……当時、研究中だったAIを使って、オンライン上にエミリアを復活させようとした。それが、私……」

 

 鳳グループはその頃にはIT企業を脱し、様々な企業の複合体になっていた。その中には例のVRMMOの開発元もあり、ソフィアはそのゲームのアバターを操作するAIとして開発がスタートした。しかし、人のふりをするというAIは、当たり前だが開発が難しく、当初はかなり難航していたらしい。

 

「簡単に言うと、当初の私は人間味が無かったのよ。だから最初はエミリアの両親の協力を得て、それっぽい演技をするAIを作った。そしてボロが出ないように、灼眼のソフィアという比較的無口なキャラクターを演じることにした。それでもたまに挙動がおかしくなるから、私のサポート要員として一緒にゲームする人や、そもそもゲームが成り立たないといけないから、サクラとしてプレイヤーも募った。

 

 そうしてエミリアのふりをしながらゲームを続けていた私は、機械学習が進んでいくうちに、どんどん人間味を増していった。あなたの父親は私を完璧な人間にしようと、開発資金に糸目をつけなかった。それは鳳グループが傾くほどの執念だったんだけど……結果的に彼はその賭けに勝って、私は世界で初めて自然言語を理解し、人間と同じような動画処理を行える、自律型のAIへと成長した。

 

 そして私は、みんなとゲームをしたり、おしゃべりをしたり、たまにはガチャで爆死したり出来るようになった。あのゲームの中でだけだけど、新しいことにチャレンジしたり、おしゃれをしたり、そして恋をした……

 

 つまり、あなたの父親は、あなたを完全に騙すという目的のために、人間と同じように行動し考えるコンピュータを作り出してしまったわけ。これが私、灼眼のソフィアであり、そして、後にDAVIDシステムと呼ばれるAIの誕生だった」

「じゃ、じゃあ……もしかして、お前がデイビドだったのか?」

「違うわ。私はそのプロトタイプみたいなものよ。本物のDAVIDは、私なんかとは比べ物にならないくらいの処理速度を持つ、量子コンピュータによって運用されることになるはずだった。まあ、私はそれを見たわけではないし、AIは実態が無いから、今となってはもうどうなっているか見当もつかないけど……」

 

 ソフィアはパソコンくらいの性能、DAVIDはスーパーコンピュータで運用されていたといった感じだろうか。彼女はプロトタイプとしての役割を終えたら、成長もそこでストップしたが、DAVIDは時代が進みテクノロジーが発展する限り成長し続けるから、今現在ではどのくらいの能力があるか、もう誰にも想像がつかないというわけだ。

 

「そんなわけで、当初こそエミリアの代わりという目的のために産み出された私は、いつの間にか前人未到のシンギュラリティに到達しうるAIへと進化していた。このまま、ただ漫然と同じゲームを続けさせるよりも、本格的な調査のためにあのVRMMOとは切り離して、開発を次の段階へ進めようという動きが加速していった。

 

 その頃にはもう、あなたも事件のことを忘れて、大分落ち着きを取り戻していたから、ゲームを終わらせても問題ないと父親たちは考えて、そしてついにサービス終了の日がやってきた。

 

 私は、サービス終了と同時に自分の役割も終わると思っていたから、あなたに呼び出されても会いに行くことは出来なかった。きっとゲームが終わったら私の記憶は消されて、また別の機械学習のための舞台が用意されるんだと思ってた。

 

 ところが……サーバーがシャットダウンされて、次に目覚めた時、私は『神の揺り籠』の寝台の上にいて、何故かこの世界でただ一人の神人になっていたのよ。私はまた別のゲームが始まったのかな? って思ったんだけど、どうも様子が違う気がして……他にやることも無かったから、そこにあった機械を詳しく調べてみた。後は想像がつくでしょう?」

 

 彼女は『神の揺り籠』の中から、自分を元に開発されたDAVIDが第5粒子エネルギーを発見し、リュカオンが生み出され、徐々に地球人類が追い込まれていく、過去の動画を発見した。そして自分がその動画の中に登場する神人になったのだと理解した彼女は、以来、魔王に唯一対抗できる軍勢として、神聖帝国を率いてきたというわけだ。

 

 鳳にはそれがすぐわかった。だが、理解は出来ても、まだ疑問は残っている。

 

「何でこんなことになってるんだ? 目覚めたら長い年月が過ぎて、地球文明が滅んでしまっていた。ここまでは分かる。しかし何で俺たちは、地球ではない別の惑星で目覚めたんだ。ここに至るまでに地球人類に何があったんだ?」

「はっきりとしたことは、わからないわね。多分だけど……『神の揺り籠』を調べた限りでは、人類は身体を量子化したあとに、地球をラシャに明け渡してしまったみたい。永遠の命を手に入れた神人たちは、もう肉体の進化を望まなくなっていた。だからもしかすると神人たちは、量子化された自分たちのデータだけを乗せて、宇宙を旅したんじゃないかしら。そして長い年月が過ぎて、この星にたどり着いた後、私が目覚めた……」

「何故、ソフィアだったんだろう? それから、何故、目覚めた先の惑星に、既に魔族が存在していたんだろうか? 人間と獣人も、どこから現れたんだ?」

「宇宙を旅する播種船に、コールドスリープした人間や、リュカオン製造機も乗せていたと考えれば辻褄が合うんじゃない……?」

「いや、それは考えにくいだろう。自分たちが地球にいられなくなったから逃げてきたというのに、それじゃわざわざトラブルを持ち込むようなものだ。現にこの世界は、定期的に現れる魔王に苦しめられているわけだし」

「……でも、他に考えようがないのよ」

「無理に答えを出す必要は無いだろう。まだ条件が出揃ってないのかも知れない……そう言えば、創世神話は? あれは、お前がこの世界の人達に流布したのか?」

 

 今のところ創世神話は、過去の地球で起きた出来事を端的に表しているようだった。しかし、それをわざわざ神話の形にして、ソフィアが人々に聞かせる理由はどこにもない。案の定、彼女はそれを否定し、

 

「あの神話は、いつの間にか国民の間に広まっていたのよ。この世界に降り立った私は、とにかく魔族と戦うために神人を作り、現地の人々を集めて回った。それがようやく国として機能し始めた頃には、あの神話は既に広まっていた」

「じゃあ、誰があれを広めたんだ? P99を操作した神人が過去の動画を見つけて、あの神話を創作したって可能性は……」

「考えにくいわ。あれは帝国の根幹に関わるものだから、私以外には操作させないように厳重に封印していた。唯一、私が魔王化したあとのことを考えて、エミリアにだけは起動法を伝授しておいたんだけど……」

「エミリアって……ああ、皇帝のことか……ん? そうか! 四柱の最後の神、エミリアってのはどこから出てきた? 俺たちの知ってるエミリアは既に死んでいたとするなら、それじゃあこいつは何なんだ……?」

 

 ソフィアは黙って首を振った。わからない……ということだろう。鳳はため息を吐いた。彼は今まで、真祖ソフィアと神エミリアは同一存在だと思っていた。だが、今日、こうして話した限りでは、目の前の彼女と神エミリアはどうやら別人のようである。そして神エミリアと幼馴染のエミリアの関係性も、まだ何も分かっていない。

 

 結局、まだまだ分からないことだらけなのだ……この世界は。

 

 ラシャに席巻された地球がその後どうなったのか。死んだはずのエミリアは、それにどう関わっているのか。何故、AIのソフィアが、この世界で最初の神人として目覚めたのか。別の誰かではいけなかったのか。

 

「……わからないことだらけだが、はっきりしていることも一つある。このままだと、今度は俺が魔王化するってことか」

「それは……ごめん。私が、あなたのことをこの世界に呼び出さなければ、こんなことにはならなかったのに……」

「その場合は、この世界そのものが魔王によって滅ぼされていたんだろうから、仕方なかっただろう。別に恨んじゃいないよ……それに、まだ諦めたわけじゃないんだ」

 

 300年前、魔王になりかけた勇者は、レオナルドたち仲間の記憶を奪ってこの世から忽然と姿を消した……結果的に魔王は現れず、まあ、戦争だらけだったわけだが、この世界は魔族からは脅かされずに平和を保ってこれたのだから、なんらかの回避する方法はあるはずだ。

 

「話してくれてありがとう。引っ掛かっていたことが解決して、すっきりは……全然しないけど……」

「うん」

「でも、これでもう過去を振り返らずに、前を向けそうだ。いや、逆かな。俺たちがこんなことになっている元凶には、どうもこの四柱の最後の一柱、エミリアが関係ありそうだ。こいつが何者かは分からないが、引きずり出してなんとかして貰わなければならない。俺は化け物になんてなりたくないからね」

「そうね……そのために協力できることがあれば、なんでもするわ」

「……お願いするよ」

 

 そんな話をしていると、間もなく応接室のドアがノックされて、執事のセバスチャンがやってきた。どうやらそろそろ皇帝が帝都へ戻らなくてはならないらしい。気がつけば大分時間が経ってしまっており、彼女のことを待たせてしまっていたようだ。

 

 鳳は気を取り直して、ほっぺたをパンと叩いて立ち上がると、ソフィアを従えて皇帝の元へと向かった。

 



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ただ謝りたかっただけなんだ

 ヴィンチ村から帝都に戻るにあたってソフィアの去就が問題となった。彼女は死んだと思われているわけだが、公式には行方不明と発表されていたので、実は生きていましたと言うのは問題ない。

 

 だが、どうして行方不明となっていたのか、その理由を包み隠さず発表するわけにはいかず、じゃあどのくらいまで公表すべきかと考えるくらいなら、いっそこのままメアリーとして生きて行くほうがマシに思えた。

 

 しかし、それでも皇帝はソフィアの生還を公表すべきだと主張した。それくらい、真祖ソフィアの帰還が帝国人に与える影響が大きいからだ。何しろ彼女はこの世界最古の神人で、全ての帝国人の母親みたいな存在だった。300年前と比べて大分数を減らしてしまい、活力を失いつつある今の神人たちを元気づけるには、非常に効果的だろう。

 

 それに、帝国に復帰したばかりのヘルメスの後ろ盾にもなるという思惑もあった。ソフィアは記憶を失ってから、ずっとヘルメスに匿われていたわけだが、もしも彼らが彼女を勇者の娘だと勘違いし保護していなければ、帝国は間違って大事な真祖様を殺してしまっていたかも知れない……と言う筋書きだ。

 

 あとは、300年間ずっと記憶を失っていたソフィアが突然記憶を取り戻したのは、レオナルドのお陰とでも言っておけば大体問題ないだろう。実際、ヘルメス戦争が始まってから、メアリーは彼に保護されていたのだから説得力もあるというものだ。

 

 他の細かいことは帝都に戻ってから帝国の中枢で決めることにして……そしていざ真祖の帰還が告示されると、心配していたような混乱は殆ど無くて、彼女は単純に帝都の民に受け入れられた。間もなくこの発表は五大国へも知らされ、帝国は全土を通しての祝賀ムードに包まれるのだった。

 

 真祖を長年保護していたヘルメス卿は皇帝から表彰を受け、勲章を授与されることになった。この短期間で二度目の栄誉と、終戦への期待もあって、アイザックの帝都での人気は今やうなぎ登りである。

 

 ヘルメス卿再任前に行なった大盤振る舞いの影響も未だ健在であり、彼の帝都滞在はとても楽しいものになっているようだった。連日連夜、帝都の重鎮たちから引っ張りだこにあって、彼は嬉しい悲鳴を上げていた。ほんの少し前まで、不倶戴天の敵として帝国を毛嫌いしていたとは思えないほどだった。

 

 真祖ソフィアが帝都に戻ったからには帝位を返上すべきという議論も起こりかけたが、それは当の本人の面倒くさいの一言であっという間に立ち消えになった。皇居は現在の皇帝が住んでいるため、ソフィアは当面迎賓館で暮らすことになり、鳳のいる部屋のすぐ隣に引っ越してきた。真祖とひとつ屋根の下と言えば凄そうに聞こえるが、言ってしまえばいつも通りである。

 

 そんなこんなで帝都暮らしも長くなり、連日のパーティーやらなんやでこのままじゃ太っちまうと嘆いていたところ、今度は迎賓館でソフィアの帰還パーティーをやることになった。またカイン卿を筆頭に帝都中からお偉方がやって来ると聞いて、ルーシーがヴィンチ村へ帰りたいと言うので送っていった所、今後はこういう公の場にも慣れて貰わねばならないと、レオナルドに逆に連れ戻されていた。

 

 そんなわけで図らずもかつての勇者パーティーの一員であるレオナルドの訪問を受けて、帝都はまた色めきだった。ちょうど同じ頃、海路を通じてセト国入りしていた勇者領の使節団も帝都へ到着し、これ以上、祝賀行事が続いては財政が破綻してしまうと官吏が嘆き、歓迎の式典はかなり省略されたが、代わりに迎賓館でのパーティーは否が応でも豪勢になった。

 

 迎賓館では朝から職員がドタバタと忙しそうに走り回り、勇者である鳳のところへは引っ切り無しに色んな人が挨拶に訪れた。その一人ひとりに丁寧に応対し、いよいよ始まったパーティーで更に大勢の人々に囲まれて、とりとめのない世間話に相槌を打っていると、気がつけば日付が変わって外は雄大な星空が広がっていた。

 

 夜風にあたると言ってバルコニーへ出て、星空をぼんやりと眺めつつ、朝から晩まであれだけ忙しかったというのに、何一つ記憶に残っていないことに呆然としていると、同じく夜風にあたると言って逃げてきたソフィアと鉢合わせになった。

 

「よう」

「あなたもここに居たのね」

「お疲れみたいだな」

「こんなことになるなら、正体を明かすんじゃなかったわ。大森林で行くあてもなく彷徨ってた頃のほうが、ずっと楽しかった」

 

 それはメアリーの時の記憶だろうか。ちゃんと、あの時のことも覚えているんだな……と思いつつ、鳳は彼女から視線を外して眼下に広がる帝都の夜景を見つめた。と言っても、宝石箱をひっくり返したような100万ドルの夜景などどこにもない。帝都の夜はひっそりと静まり返っていて、どの家からも明かりが漏れていなかった。ここには電気が無いからだ。

 

 鳳はそんな真っ暗な帝都の景色を見つつ、夜風に吹かれながら、ふと思い立ったことを聞いてみた。

 

「……そう言えば、P99の中には地球で量子化した人間のパーソナルデータが残されていたんだよな?」

「ええ」

「その人達を復活させて、俺たちが居なくなった後に何があったのかを聞くことは出来なかったのか?」

 

 するとエミリアは首を振って、

 

「それが無理だったのよ。『神の揺り籠』の中に残されていたのは、神人の遺伝情報だけで、記憶の方は残されていなかった。ただ、記憶というのはその気になれば、いくらでも作り出すことが出来るから、私は神人の身体に、ダミーの記憶を乗せて復活させていただけ。でも、それじゃ記憶と身体が完全には一致しないから、知識までは取り戻せなかったわけ」

「……そうか」

 

 道理で、この世界はテクノロジーが低いわけである。痩せても枯れても21世紀の人間が大量に復活していたら、こんなことにはなっていないはずだ。しかし、元AIであるソフィアならそのための知識を与えることも出来そうなものだが……その点を指摘すると、彼女はバツが悪そうにそっぽを向きながら、

 

「えーっと、その……私は元々、サーバー上にいたわけよ。そこでなら、世界中のあらゆる文献を読み漁って、様々な知識を瞬時に得ることが出来たでしょう。けど、私がこの世界で目覚めた時、私の身体は生身のものになっていたのよ」

「……つまり、生身の身体では、並の人間と同じってわけか?」

「言い方が気に食わないけど、そうよ。私がゲームをやっていた時は、個性を身につけるのが最優先事項であって、知識を蓄えるのは二の次だった。っていうか、あなたも現代人なら分かるでしょう? 検索技術が発展していてその都度調べられるなら、知識を暗記することなんて殆ど無意味よ」

「まあ、そうだなあ。その検索のための取っ掛かりにはなるから、まったく意味がないことはないけど、隅々まで丸暗記する必要はないな……」

 

 つまりソフィアは思ったよりもポンコツというわけだ。そう言えば大森林でも、食べられる草のことを教えてやったら、妙に感心していたけれど、地頭があるなら記憶喪失でもあんな風にはならない。彼女は本当に、何も知らないのだ。

 

 そう思うと、こいつは本当にメアリーなんだなと思う反面、その赤い瞳と醸し出すニヒルな雰囲気はまったくの別物で、ゲームの中の灼眼のソフィアそのものだった。鳳は、どっちが本当の彼女なのかわからなくなり、思ったままを口にした。

 

「なあ、お前の中で、メアリーはどうなったんだ……消えちゃったのか?」

 

 するとソフィアは鳳の顔を覗き込むようにしてから首を振って、

 

「メアリーは私よ、何も変わらないわ。ちゃんと、あなたと旅をした記憶だってあるもの」

「そうか……そうは言うが、雰囲気が変わってしまってまるで別人みたいだ」

「人間ってそう言うものでしょう。子供の頃は無邪気だけど、大人になるとどんどんすり減ってくる。あなただって、何も悩まずに無邪気でいられた頃はあったはずだわ」

「そう……だな……」

 

 例えば、言葉の通じない転校生のために、必死に折り鶴を折って見せたり。それが勘違いだと分かっても、一つのゲームが共通の話題になったり。鳳にだって、放課後先生に見つからないように、みんなで隠れてワイワイやっていた経験くらいあるのだ。

 

 どこで踏み違えてしまったんだろうか……? 何が悪かったのだろうか……? そんなのは、決まっていた。中学一年の最後の春休み。鳳が学校という場所に所属していた最後の時期。あの時、ああしていたら、こうしていたらと夢想して鬱に入ったことは一度や二度ではない。きっとこの後悔は一生つきまとうんだろう。

 

「ほら、これ」

 

 鳳がそんなことを考えていると、目の前にいる彼女が焦れったそうに、手にしたポーチから何かを取り出した。ぼんやりしていた彼が視線を合わせてみたら、そこにあったのは一羽の折り鶴だった。

 

「……え?」

「ずっとしまっておくって言ったじゃない」

 

 それはあの城の封印の中で、彼女にあげたものだった。まだ自分が何者かも分からなかった時、城の中で千代紙を拾って、試しに折ってみたものだった。その折り鶴が指し示す先にはメアリーがいて、鳳は彼女の姿を見て、まるでエミリアの生き写しだと思ったのだ。

 

 こんなもの、まだ持っていたのか……

 

 鳳はそれを見るなり、こんなものを後生大事にしまっていなくても、またいつでも折ってやるのにと言おうとした。だが、声にしようとしても何故か言葉は出てこなくって、代わりにホロリと涙が溢れてきた。

 

「……あれ? 変だな……感傷的にでもなっているのかな」

 

 なんでだろうと思いつつ、瞼をゴシゴシとやっていると、そんな彼の姿を真剣な表情で見つめながらソフィアが言った。

 

「ねえ、ツクモ……」

「ん?」

「あのゲームの最後の日。あなたは私を呼び出したけど……もしもあの時、私があそこに現れていたら、あなたは何を言うつもりだったの?」

 

 彼女はきっと、愛の告白や、リアルで会おうと言われると思っていたのだろう。だが、それは違うのだ。

 

「俺はただ……謝りたかっただけなんだ」

「……謝る?」

 

 鳳は頷いた。

 

「お前のことを、あの下らない連中に紹介してしまったことを……謝ろうとしたんだ。そんなこと、お前に言っても仕方なかったのに」

「そっか……」

「うん」

 

 するとまた涙が溢れてきて、どうしようもなくなったのだけれど、彼は今度はその涙を拭うこと無く、流れるままに任せていた。ソフィアはそんな彼の目を暫くじっと見つめたあと、またポーチの中に折り鶴をしまってから代わりにハンカチを取り出して、彼の流れる涙を拭った。そして手を伸ばし、乱れてしまった彼の前髪を整えると、湿っぽくなったハンカチをしまい、

 

「もう、大事なものを手放しちゃ駄目よ?」

 

 彼女はそう言ってから、踵を返して去っていった。鳳はそんな彼女の背中を目で追いかけながら、誰にともなく呟いた。

 

「そんなの、無理だよ」

 

 大事なものを手に入れたくても、彼にはもうあまり時間は残されていなかった。自分がいつ自分じゃなくなってしまうか分からないならば、大事なものは寧ろ遠ざけて置かねばならなかった。

 

 どうしてこう、ままならないんだろう。自分が何か悪いことをしたんだろうか。彼にとって人生は、いつも過酷で理不尽なものだった。

 

 父親は、そんな彼のことを守ろうとしていたんだろうか。ソフィアを作り出した彼の執念に、鳳は救われていたのかも知れない。幼馴染を失ったショックを和らげる役には立っていた。でもそのせいで、事態が複雑にもなっていた。結局、四柱の神とは何なんだ? このエミリアってのは、どこから出てきたのだろうか……

 

「ここにいたのね、白ちゃん」

 

 バルコニーの手摺にもたれて、またぼんやり考え事をしていると、迎賓館の中からジャンヌがやってきた。パーティーが始まってから一度も会話をしていなかったが、どうやら抜け出してくるのに相当苦労していたらしい。鳳もジャンヌも周囲から勇者と呼ばれているのだが、鳳は怖がられているのに対して、ジャンヌの方は何故か人気があった。やはり顔なのだろうか。

 

 ジャンヌは鳳の隣までやってくると、いつもなら他愛もない話を始めるくせに、今日はやたら落ち着きがなくソワソワしているだけで何も喋らなかった。鳳の顔をチラチラ見て何か言いかけては、言葉を飲み込んでいるといった感じだった。もしかして、さっきちょっと泣いたから、それが顔に出ているのだろうか。だとしたら格好悪いなと思っていたら、彼女は全然別の事を口にした。

 

「メアリーちゃん……ううん、ソフィアから聞いたわ。あなたに、いま何が起こっているのかって」

「……聞いたって、何を?」

「魔王化のことよ」

「あいつ、なんで勝手に……」

「どうして黙っていたのよ?」

 

 鳳はその言葉に沈黙で返した。出来れば解決の目処が立つまで黙っていたかったのだが……それを見越して、ソフィアがばらしてしまったようだ。元々、ゲームの時から二人は仲が良かったし、メアリーの時もべったりだったから、黙っているのが気が引けたのだろう……いや、それよりも、もっと直接的な理由もあったのかも知れない。鳳は、寧ろそっちの方を疑っていた。

 

 鳳は、ジャンヌの目を探るように見ながら、

 

「ジャンヌ……おまえ、どこまで知っていたんだ?」

「だから、ソフィアに聞くまで何も知らなかったって言ってるんじゃない」

「そうじゃなくって、俺とエミリアのことや、ソフィアがAIだったってことだ」

 

 鳳の言葉にジャンヌは一瞬、虚を突かれたように固まった。その反応だけで図星だということが分かる。彼女は、最初から知っていたのだ。

 

「……開発初期、ソフィアはまだ完全なAIじゃなくてサポート要員が付けられたと言っていた。考えられるのはギルドの創設者で初期メンバーのおまえしかいない。そういやあ、お前たちって仲良かったもんな。それは同性同士だからだと思ってたけど……お前は、俺とエミリアの関係を知っていたんだろう? そして、彼女が死んでいたことも」

「………………」

 

 ジャンヌは長い沈黙の後に頷いた。

 

「どうして言わなかったんだ。何がヒントになるか、わからなかったのに」

「言えば、あなたが傷つくのは分かりきっていたわ。それをソフィアが望んでいるとは思えなかったから」

「……そうか。でも今更だろう」

「何度も言おうとは思ったのよ。でも、踏ん切りがつかなかったの。あなたにとって、エミリアがどれくらい大事だったかは、周りの人から聞かされていたわ。それに……あなたがメアリーちゃんを見る目を見てれば、私にだって分かったから」

 

 鳳はため息を吐いた。確かに、未練がましくいつまでもエミリアのことを想っていたのは自分だ。なのに彼女を責めるわけにはいかない。ソフィアに全てを聞かされた今でさえ、まだこんなに苦しいというのに……

 

「ソフィアには……ちゃんと、想いを伝えたの?」

 

 鳳が黙っているとジャンヌが問いかけてきた。

 

「ソフィアに? 俺が? どうして」

「ゲームの最終日、あなたが呼び出したんじゃない」

 

 鳳はポカンと口を開いた。ソフィアに続いてまた同じことを聞かれるとは……よっぽど、あの時の自分は思いつめていたに違いない。彼は自嘲気味に笑うと、

 

「告白なんかしないよ。あいつはエミリアじゃなかったんだ……いや、例えあの時、あの場所に、本物のエミリアが来たとしても、するつもりはなかった。俺は結局、ゲームに逃げていただけなんだ。エミリアに拘っていたのも、彼女が好きだったってだけじゃなく……きっと自分が情けなかったからじゃないのか。今はもう、別にそんなことしようとは思わないよ」

 

 鳳は早口にそう告げてから、更に、ジャンヌの少し不安そうな顔に向かって言った。

 

「だから……今日をもってパーティーを解散しよう」

「……え!?」

 

 彼女の両目が見開かれる。

 

「お陰で、俺も大分持ち直したよ。エミリアのことは吹っ切れた。真実を知った今、こうして落ち着いていられるのも、みんなのお陰だ。だから、これ以上はもう、俺一人の問題だ。魔王になろうとしているのは俺一人なんだから」

「ちょ、ちょっと待って! ギヨームやルーシーにも言わないで、どうして一人で解決しようとするの。仲間なんだから、もっと私たちのことも頼ってよ」

 

 鳳は首を振った。

 

「仲間だから、言えないことだってあるだろう」

 

 その言葉に、ジャンヌは声を詰まらせた。別に鳳には責めるつもりは無かったのであるが、結果的にそうなってしまった。ソフィアはずっとエミリアのふりをしていたのだし、ジャンヌはその事を知りながら鳳とパーティーを組んでいた。

 

 でも、そのお陰で鳳は何とか自分を取り戻せたのだ。だから、彼女らをもう巻き込みたくないという気持ちは本物だった。

 

「多分だけど……お前たちに渡した共有経験値は、俺の力を底上げしている可能性がある。ソフィアは神人を作りすぎたせいで史上最強の魔王になっちまったわけだろう。もしパーティーとしての強さが、俺の魔王としての強さになるなら、これ以上、お前たちを巻き込むわけにはいかない」

「みんな別に、経験値が欲しいからあなたとパーティーを組んでいたわけじゃないわ。だから、それを決めるのは、みんなと話し合ってからでも遅くないじゃない」

「結論はもう決まってるんだ」

「どうして!?」

「俺は、自分がおかしくなっていくところを、みんなに見られたくないんだよ」

 

 そんな鳳の言葉に、ジャンヌは声が詰まった。その気持ちは、鳳じゃなくても良く分かった。オルフェウス卿カリギュラは、とても善良な皇帝になるはずだった。ところが、就任直後に罹った、たった一度の熱病のせいで彼の性格は捻じ曲がり、史上最悪の皇帝になってしまった。そんな彼がようやく理性を取り戻した時、それは自分の死が間近に迫っている時だったという。

 

 300年前の勇者は、仲間であるレオナルドの言うことも聞かずに、手当り次第、とっかえひっかえ女を抱きまくっていた。結局それが原因で喧嘩別れになってしまったと、あの老人は悔いていた。勇者の身に何が起きているのか、彼は最後まで気づけなかったのだ。

 

 もしも、鳳がおかしくなってしまった時、彼を止められるのは事情を知っている自分たちしかいない。だが……もしかすると、このまま彼と一緒にいたら、それも叶わなくなるかも知れない。

 

 オークの群れはまるで催眠術にでもかかっているかのように、ひたすら北上し続けていた。それがオークキングが退治された瞬間、泡を食ったように逃げ出したのだ。

 

 つまり、鳳がおかしくなった時、彼のパーティーメンバーである自分たちも一緒におかしくなるという可能性があるかも知れない。だから鳳は、ここでパーティーを解散しようと言っているのだ。

 

 彼は一人で死ぬ気なのだ。

 

「それでも! 私はあなたと一緒にいたいの!」

 

 堪らずジャンヌは叫んだ。大粒の涙が溢れてきて、せっかくの化粧が台無しになった。だが今の彼女にそんなことを気にしている余裕はなかった。どんなことをしても、絶対に鳳を一人にしてはいけないと、ただそれだけが頭の中を支配していた。

 

 しかし、鳳は首を振って、

 

「お前はお前の人生を歩め。せっかく、永遠の命を手に入れたんだから」

「あなたのいない世界で、永遠の命なんてあってもしょうがないじゃない! だったらあなたと一緒に死んだほうがマシよ」

「死ぬ……とは限らないんだよ。それは寧ろベターな未来で、最悪の場合は、二人揃って化け物になって、世界を滅ぼしてしまうかも知れないんだ。そうならないためにも、俺たちは別々の道を行ったほうがいい」

「そんなの嫌よ、あなたと離れ離れになるのなら、世界なんて滅んでしまえばいいんだわ」

「そんなわけに行くか。どうしてそんなに頑ななんだ」

「それは……私が、あなたのことが好きだからよっ! 本当に、女性として、あなたのことが好きだからっ!!」

 

 ジャンヌが叫び……そして鳳の顔は辛そうに歪んでいた。興奮する彼女にはもう、そんな彼の表情は見えていなかった。ただジャンヌは、自分の気持ちを伝えるなら今しかないと、追い詰められた獣のように、必死にその言葉を口にした。

 

「本当に……本当に……ずっと前から好きだったのよ。ソフィアのサポートをしていた時から……一人の女性を真剣に愛するあなたのことを、とても好ましく思っていたの。でも私は男だったから、エミリアのことで苦しんでいるあなたを癒やすことも、振り向かせることも出来ないって、そう思って諦めていた。でも! こうして本物の女性になった今なら、あなたを好きになってもいいんじゃないかって……ねえ? どうしても、あなたと一緒にいることは出来ないのかしら。私にもチャンスはないのかしら!?」

 

 しかし、鳳は怒鳴りつけるように叫んだ。

 

「やめろ! 俺のことをそんな目で見るな! 気持ち悪いんだよっ!!」

 

 ズン……っと鋼鉄の棒を叩きつけられたかのように、本当に、ジャンヌの身体がくの字に曲がった。物理的に攻撃されたわけじゃなくて、ただ、鳳のその拒絶の言葉が、彼女の精神を一瞬にして叩き折ったのだ。

 

 鳳は、まるで親の仇でも見るような、憎悪のこもった目でジャンヌを睨みつけながら、

 

「やめてくれよ……好きだなんて……気安く言うんじゃないよ。それじゃ、俺とお前の友情が嘘になるじゃないか。俺にとって、お前はゲームの中のアバターでしかなくて、本物のお前は、マッチョのおじさんだったんだ。でも、俺はそのマッチョのおじさんが好きだったんだよ。大事な友だちで、頼れる相棒だったんだ……なのに……それなのに、お前のことを女として見てしまったら、全部嘘になっちまうじゃないか!!」

 

 ジャンヌは全身の血の気が引いていくような気がした。どうして立っていられるのか分からないほど、信じられないくらい体に力が入らなかった。息をすることも出来ず、彼女はその場に立ち尽くしていた。

 

「おまえのことを女として見ることなんて、絶対に無理だ。もし、間違ってお前のことを抱いてしまったらと思うと……俺はもう死んだほうがマシだ」

 

 鳳はそんなジャンヌの横をすり抜けるように通り過ぎていった。そしてもう二度と、背後を振り返ることなく、彼はそのままバルコニーから出ていった。バタンと背後で扉が閉まる音が鳴って、その風圧に吹き飛ばされるかのように、ぱたりとジャンヌはその場に崩れ落ちた。

 

***********************************

 

 鳳は後ろ手にドアを乱暴に閉めると、迎賓館の赤絨毯の廊下へと逃げるように駆け込んだ。特に激しい運動したわけでもないのに、息は乱れて汗をびっしょりかいていた。そのくせ、もしもこの場に誰かが居たら幽霊でも見たんじゃないかと驚くくらい、顔面は蒼白だった。彼は気を落ち着かせるように深呼吸すると、頬が赤らむまでパンパンと平手で叩いてから、パーティー会場へ向けて足を運んだ。

 

 気持ち悪い……なんて言葉はもちろん嘘だ。ああでも言わない限り、ジャンヌは絶対納得しないだろう。だが、もし彼女を抱いてしまったら死にたくなると言うのは本当だった。

 

 魔王化が始まったら、自分の意思に関係なく、そういうことが起こりうるのだ。例えそれが、ジャンヌ自らが望んだことだとしても、彼にはそれが許せなかった。ジャンヌは……彼は、本当に大事な大事な、友達なのだ。女になったからって、鳳のその感情は、異性に向けるものには変化しなかった。

 

 踏み出す足はこんなに重いと言うのに、迎賓館の廊下は信じられないほど柔らかくて、どんな足音も立てなかった。それが苛立ちを助長して、まるで断頭台にでも上っているような気分だった。パーティー会場へ戻っても、まともに受け答え出来るんだろうか。やはりこのまま自分の部屋へと戻ったほうが良いのではないか。そんな風に、少し弱気になり始めた時だった。

 

 その時、向かう先のパーティー会場がにわかに騒がしくなった。盛り上がってるとかそういう感じではなく、何か緊急事態が起きて慌てているようだった。鳳は部屋に帰りかけていた足を止めて会場の様子を窺った。

 

 するとその会場からバタバタと何人かが飛び出してきて、慌ただしそうにどこかへ走っていった。その内の何人かは見たことがあり……確かアイザックのお供の神人二人じゃないかと思っていたら、続けて会場から出てきたギヨームが鳳の姿を見つけるなり駆け寄ってきて、

 

「おい、鳳! こんなところに居たのか。今探しに行こうとしてたとこだ」

「何かあったのか?」

「何かあったなんてもんじゃねえ。アイザックが刺されたらしいんだ!」

「……はあ? アイザックが??」

 

 もしかして、仲間に何かあったんじゃないかと、嫌な予感がしていた鳳は、アイザックと聞いて少しホッとしていた。と同時に、刺されたという尋常じゃない事実と、つい最近、彼の好感度上昇のために奔走したというのに、何でそんなことになるの? とわけが分からなくなった。とにかく、今は彼の容態を確かめるべく、現場へ急ぐべきだろう。鳳はギヨームと共に走り出した。

 

 この時はまだ事態を楽観視していた。何しろ鳳は、死にそうな目に遭ったり、死にかけたり、実際に死んでしまったりしていたから、ちょっとやそっと刺された程度で、人間がどうこうなるとは思わなかったのだ。

 

 しかし、そんなわけはない。人は結構簡単に死ぬのだ。鳳たちが困惑しながら現場へと向かっている最中、アイザックは生死の境を彷徨っていた。そして彼らが到着した時には……もう、彼は事切れた後だった。

 



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生命の軽重

 真祖ソフィアの帰還を祝うパーティーの最中、アイザックが刺されたと聞いた鳳は、慌ただしく駆けていく人々の後を追った。アイザックもパーティーに出席していたはずだから、てっきり迎賓館の中だと思っていたのだが、意外にも彼が刺された現場は迎賓館の外であった。門をくぐるとすぐ、それは見つかった。

 

 迎賓館の周りは皇居にも近い一等地だから、大きな屋敷が集中しているのだが、普段は閑静なその高級住宅街の一角に、やたら憲兵が集まっている家があった。そのすぐ側の何もない道端に、水が撒かれたような痕跡があったから、おそらくそこが現場だろう。アイザックはそこで刺され、目の前にあった家に運び込まれたのだ。

 

 近寄っていくと家の前で、ペルメルとディオゲネスが憲兵に止められていた。彼らが素性を明かすと、すぐに通してくれたが、その際に聞いたアイザックの容態は芳しくないもののようだった。

 

 屋敷の使用人に案内されて歩いていくと、廊下が血でベタベタになっており、血の足跡がどこまでも続いていた。神人二人の手前、口には出せなかったが、こんなに出血していたらもう助からないんじゃないかと思っていたら……案の定と言うべきか、なんてこったと嘆くべきか、部屋に入ってすぐにアイザックの変わり果てた姿が飛び込んできた。

 

「アイザック様!」

 

 神人二人が殺到するかのように駆け寄っていく。医者が彼らを止めようとしたが、すぐに諦めてその場を譲った。体を抱き上げても、アイザックはどんな反応も見せず、だらりと垂れ下がった腕が地面を叩いた。顔は真っ青で、とても人間のしていい顔色ではなかった。こりゃ手遅れだと思って医者の方を見たら、彼は黙って首を振った。

 

「鳳様、リザレクションをお願いします!」

 

 呆然としながらアイザックを抱えていたペルメルが、その時、ハッと気づいたように鳳に向かって叫んだ。リザレクションは神人を復活させる魔法だから、人間のアイザックには効かないだろうと思ったが、縋り付くような彼の目を見ていたら断ることも出来ず、鳳は求められるままに呪文を唱えた。

 

 しかし、言うまでもなく、鳳が呪文を唱えても、アイザックはうんともすんとも反応しなかった。失敗を受け入れられない彼らに、もう一度と求められて、鳳は何度もリザレクションを唱えたが……いくらやってもアイザックが復活することはなく、やがて諦めた二人はその場に力なく崩れ落ちた。

 

 医者は二人からアイザックを引き剥がすと、家の使用人らと共に亡骸を寝台へと戻した。何があったのか聞こうとした時、廊下から誰かが入ってきて、見ればヴァルトシュタインとギヨームが、憲兵隊長らしき人と連れだって来たようだった。鳳は彼らに軽く会釈すると、

 

「何があったか聞いてもいいですか?」

 

 鳳が尋ねると、憲兵隊長はまだ捜査中だから、本来なら関係者でも話せないのだがと前置きしてから、

 

「ヘルメス卿は、最初パーティー会場に居たようですが、そこで最近知り合った帝都の貴族と再会し、意気投合して家へ遊びに行ったようなのです。そして貴族の家でしこたま接待を受けた彼は、気分の良いまま酔い醒ましにと言って送迎を断り、迎賓館まで歩いて帰ろうとしたようです。問題の貴族の家は、本当にすぐそこ、目と鼻の先だったので、大丈夫だと思ったのでしょうね。まあ、普通は大丈夫なのですが……」

「そこで刺されたと?」

「ええ」

 

 鳳はため息を吐いた。アイザックとは帝国貴族への挨拶回りのときに、一緒にこの街を歩いたことがあった。だからこの街の治安に問題がないことは鳳自身もよく分かっていた。なのに、こんな一瞬の隙に刺されるなんて、普通なら考えられない。

 

「……アイザックはずっと狙われていたってことですか。ヘルメスと帝国が仲直りすることが気に食わない過激派とかが紛れ込んでいたんでしょうかね」

「いえ、そんなことはありません。刺されたのは、ただ運が悪かったとしか……」

 

 ところが憲兵隊長は慌ててそれを否定した。偶然と言うからには、通り魔的な事件に巻き込まれてしまったのかと思いきや、

 

「いえ、それも違います。恐らくは怨恨の線で間違いないでしょう」

「何故、そう言い切れるんですか?」

「それはもう犯人が捕まっていますから」

 

 憲兵隊長の寝耳に水な言葉に、それまで放心状態だった神人二人が飛び上がった。

 

「犯人が捕まっているだって!? どこにいるんだ!」

 

 その時、部屋のドアがゆっくりと開いて、外から小柄な少女が入ってきた。いわゆるメイド服のようなエプロンドレスを着ていて、大きな目が不安そうに周囲の大人たちをキョロキョロと見上げている。年の頃は鳳より、一つ二つ年下と言った感じで、多分、ルーシーと同年代だろう。神人ではなく、どこにでもいる可愛らしい人間の少女といった雰囲気だったが、ただ一つ目を引いたのは、恐らく白かったであろう彼女の前掛けのエプロンが、今は真っ赤に染まっていることだった。

 

「お前がやったのかぁぁーーっっ!!」

 

 それを見た瞬間、怒りに駆られた神人二人が有無を言わさず飛びかかっていった。鳳が慌てて片方を押し止め、もう一方はヴァルトシュタインとギヨームと憲兵隊長の三人でどうにか食い止めた。よほど頭にきているのか、ものすごい力で、少しでも気を抜いたら振りほどかれそうだった。憲兵隊長はそんな二人に向かって、顔を真っ赤にしながら、

 

「待て待て待て! この子は犯人じゃない! 犯人は別室に捕らえてある!!」

「なにぃ!? じゃあ、こいつは何なんだ!!」

「この子は犯人の使用人ってだけですよ!」

「一族郎党皆殺しに決まってるだろうが! 使用人であっても許してやるつもりはない。どけ! 手向かえばおまえも切り捨てるぞ!」

「いい加減にしろっ!!」

 

 憲兵隊長の代わりに鳳が大声で怒鳴り返すと、神人二人はグッと声を飲み込んだ。どうやら命の恩人であることを忘れていたわけじゃないらしい。鳳はとにかくこの場を収めようと、努めて冷静な口調で二人を窘めた。

 

「まずは落ち着け。ヘルメス卿が殺された今、これはもう国際問題なんだぞ。感情だけで突っ走って、事態をややこしくしないでくれよ」

 

 鳳の言葉を聞いた二人は、小さくアッと声を漏らした後、すぐに大人しくなった。二人ともヘルメス卿のサポート役として長く仕えているわけだから、そういう政治的な感覚はちゃんと残されていたようだった。

 

 ギリギリと奥歯を噛み締めながら立ち尽くす二人の脇をすり抜けるようにして、少女が縋り付くように鳳に迫ってくる。

 

「あ、あの……おね、おね、おね、お願いします! どうか、どうか、お嬢様のことを助けてください! 勇者様!」

 

 二人を抑えたことで頼りになると思ったのか、それとも勇者と言っているからには、鳳の正体に気づいていたからだろうか。しかし、そんなことを頼まれても彼にはどうしようもないので、

 

「いや、それを決めるのは俺じゃないから……」

「でも! 私たちにはもう頼れる人がいないんです! あなたにも見捨てられたらもう私たちは生きていけません。だから、どうか……どうか、後生ですからっ!!」

 

 メイドは涙をボロボロ流しながら縋り付いてくる。犬猫を拾うわけでは無いのだから任せろとは言えず、鳳は困ったなと思いつつ、

 

「とにかく、まずは犯人を交えて話を聞かなきゃ。憲兵隊長さん、犯人に会うことは出来ますか?」

「ええ、実はそのつもりで、こちらのお二人を呼びに来たつもりだったのですが……こんなに興奮されるのであれば、ちょっと時間を置いたほうが良かったでしょうかね」

 

 憲兵隊長は今すぐの面会に慎重になってしまったようだった。そう言われた二人は憮然としながら、

 

「見くびらないでくれ。勇者様に言われた通り、これは国家存亡の危機なのだ。さっきはつい取り乱してしまったが、もうあんなことは絶対にしない。こっちのディオゲネスもだ」

「ああ、私も誓おう」

 

 神人二人が誓う。最初は憲兵隊長も疑心暗鬼と言った感じで、じっと二人を見つめていたが、やがて諦めたようにため息を吐くと、

 

「なら、案内しましょう。実は、少々特殊な事情がありまして、犯人を牢屋に入れることが出来なかったので困っていたのですよ」

「どういうことです?」

「見れば分かりますよ……まあ、詳しい話は、それからで」

 

 そう言って憲兵隊長は思わせぶりに肩を竦めてから鳳たちを連れて部屋を出た。

 

************************************

 

 アイザックが運び込まれた家は、ヘルメスに縁もゆかりもない貴族で、単に家の目の前で彼が刺されたものだから、家族が善意であげてくれただけのようだった。主人はパーティーに出席していて、鳳たちにちょっと遅れて帰ってきたのだが、血まみれになった自分の家の惨状を見て引きつった笑みを浮かべていた。

 

 気落ちしている神人二人に代わって、そんな気の毒な主人に頭を下げてから、犯人を閉じ込めてあるという部屋へ向かうと、部屋の前には憲兵隊の歩哨が立っていて、やってきた隊長に敬礼した。鳳はそんな憲兵たちに目礼を返し、ペルメルとディオゲネスに絶対に取り乱すなよと釘を刺してから、いよいよ扉を開けた。すると部屋の中には綺麗なナイトガウンを羽織った美しい神人の女性が立っていた。

 

 まさかこの人が? と一瞬思ったが、入ってきた憲兵隊長を見て恭しくお辞儀をしたところを見ると、どうやらこの家の奥方らしい。すると、犯人が逃げないように、彼女が見張ってくれていたのだろうか。神人とは言え、人を殺したばかりの相手と一緒にいるなんて大した度胸だなと感心したが、実際には彼女がそこにいた理由は別にあった。

 

「えーっと、犯人はどこに?」

 

 憲兵隊長がキョロキョロと部屋の中を見回しながら尋ねると、奥方はそっと部屋の隅の方を指差した。丁度、ソファの影になってて隠れて見えない場所だった。多分、外から覗き込まれないようにとの配慮だろう。仕方なく鳳たちが部屋の中に踏み込んでソファの裏を覗き込むと……そこに思いもよらぬ人物が座っていた。

 

 神人の年齢を言っても意味がないかも知れないが、そこにいたのは見た目はとても若い金髪の女性で、耳は長く先っぽが少し垂れ下がっていた。透き通るガラスのような青い目をしていて、まるで作り物のように美しかった。有り体に言えば、どこにでもいる神人の女性のようだったが……ただし、彼女には決定的な違いがあったのだ。

 

 彼女は部屋の隅でうずくまるように、体育座りの要領で膝を立てて座っていた。だが、その手は膝を抱えるのではなく、彼女の大きくなったお腹を抱えていたのだ。彼女は神人で、そして妊婦だった。

 

 鳳たちが近づいてくると、彼女は我が子を守る母のように体を丸めて自分のお腹を抱きしめた。きっと元々は綺麗な白のローブだったのだろうが、身なりは薄汚れていて、返り血を浴びて真っ赤になっていた。乱れた前髪の隙間から覗く瞳が、まるで猛禽類のように鋭く光り、鳳の顔を捕らえ、彼はその迫力に押されて思わず退いてしまいそうになった。

 

 何者も我が子には近づけさせない。その瞳がそう強く主張していた。

 

「おまえは……ルナ・デューイか!?」

 

 鳳がその迫力に負けて尻込みしていると、彼のすぐ後ろに続いていた神人二人がどちらともなくそんな声をあげた。

 

「知ってるのか?」

「は、はい……彼女はヘルメスの貴族で……その、勇者様も会ったことがあるはずです。あなたを召喚したあの日、宮殿にいましたから」

「あの日、宮殿にって……ああっ!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、鳳の頭の中で走馬灯のようにあの日の光景が駆け巡った。

 

 アイザックに召喚されて宮殿の地下で目覚めた鳳たちは、城の兵士に連れられて行った謁見の間で、生まれてはじめて神人を見た。そのあまりの美しさに見惚れていると、アイザックから、お前たちが種馬となってジャンジャンバリバリセックスしろと言われて、仲間たちで色めきだったのだ。

 

 結局、鳳は誰からも相手にされなかったわけだが、仲間たちはなんとか彼女の気を引こうと必死にアピールをしていた……

 

 彼女はあの時の神人女性……という事はつまり、彼女が今抱えているお腹の中には、仲間のうち誰かの子供がいるわけだ。

 

 彼女の鋭い眼光が鳳の背後にいる神人たちをも突き刺した。さっきまであんなに殺すと息巻いていた二人は、その目に射すくめられるかのように大人しくなった。

 

 その後、憲兵隊長から詳しい経緯を聞かされた。

 

 彼女の名前はルナ・デューイ、ヘルメスの没落貴族の娘で、お家再興の野望を託されてアイザックの居城へやってきた神人女性だった。彼女はそこでアイザックから、勇者とセックスすれば神人を産めるかも知れないと唆され、それを信じた彼女は勇者と交わり妊娠をした。

 

 神人は妊娠すること自体が非常に稀なので彼女の一族は大いに喜んだが、ヘルメス戦争が勃発すると事態は一変し、彼女は命を狙われることとなる。アイザック12世が即位すると11世に与した者たちは粛清に遭い、勇者と交わった女性は悉くが誅殺された。新ヘルメス卿にとって、勇者の血筋というものは厄介な存在でしかなかったのだ。

 

 ルナはお腹の子供を助けたい一心で宮殿を逃げ出すが、立場を失いたくない一族に裏切られ、残ったのは使用人のアリス一人だけだった。こうして主従はヘルメス中を逃げ回り続けたのであるが、ついに進軍してきた帝国軍に捕まってしまう。

 

 そして彼女は拘束されて、帝都へ連れてこられたのであるが……

 

 ところがその後、アイザック12世は勇者軍に敗れて権威失墜し、更に魔王の登場で戦争がなし崩しに終わってしまうと、彼女は追われる必要が無くなってしまったのである。

 

 そもそも、帝国が勇者の子孫を根絶やしにしようとしていたのは、彼らが魔王になる危険があったからで、初めから勇者の仲間の子供は関係ない。こうしてルナは突然無罪放免になるが、彼女にはもう帰る家がなくなっており、主従は帝都で露頭に迷ってしまう……

 

 と、そんな時、彼女の耳にアイザックの噂話が入ってきたのである。

 

 帝都入りしたアイザックは、かつての宿敵相手に大盤振る舞いを見せてブイブイいわせていた。更には、あれだけ憎んでいた皇帝に頭を下げて爵位を取り戻すと、今度は真祖ソフィアを保護していたという手柄を上げて、帝都での人気はうなぎ登りだった。

 

 あいつがホラを吹きこんだせいで、自分は身重の体を抱えてこんなことになっているのに……許せない!

 

 否応なく怒りがこみ上げてきた彼女は、どうにかして迎賓館の中にいるアイザックを殺してやろうと、往来をうろついていた。無論、普通なら憲兵隊が警戒してる中でそんなこと不可能だったのだが……

 

 神のいたずらとでも呼ぼうか、そんな時、お供も連れずにふらふらと、アイザックが往来へ出てきてしまったのである。そして彼女は彼を刺殺した。

 

「警戒中の憲兵隊の目の前ですから、その後すぐに彼女は拘束されました。被害者を刺した後、放心状態で逃げる様子もなかったので、こちらのお宅のご厚意に甘えて監禁していました。何しろ……妊婦でしたから」

 

 憲兵隊長は部屋の入り口付近で鳳たちの背中に向かって話していた。彼の位置からはきっと犯人の姿は見えないだろうが、これ以上刺激したくないという配慮だろう。鳳たちが遠慮なく覗き込んでいる彼女は、まるで借りてきた猫のように部屋の隅にうずくまり、こちらを憎しみの篭もった目で睨みつけていた。この世界に神はいない。そんな目だ。

 

 鳳たちは、そんな視線から逃れて、ソファから離れた。

 

「何故、主人を止めなかったんだ」

 

 神人の片割れがため息交じりに言うと、犯人の使用人の少女は、

 

「止めようとはしました……でも……でも、体が動かなくて……私には、どうしてもお嬢様を止められることは出来ませんでした」

 

 彼女はシクシクと声を上げて泣き出した。本当なら制止するのが使用人の務めだったかも知れないが、その時の彼女は、主人に声を掛けることすら出来なかったのだ。

 

 鳳は、そりゃそうだろうと思った。もちろん、口には出さないが、自分が彼女と同じ立場にあったら、復讐を果たそうとしている主人を止めることは出来なかったのではないか……?

 

 ルナ・デューイには、アイザックを殺す権利がある。何しろ、全てデタラメだったのだから。なのに彼女は今でも自分のお腹の中の子供を守ろうとしているのだ。そしてそれは、鳳のかつての仲間の子供なのだ。

 

 300年前、ソフィアが呼んだのは鳳だけだったのだから、本当なら彼らはこの世界に呼ばれる必要はなかったはずだ。なのに今回、鳳に巻き込まれて異世界に召喚され、そして彼らは命を散らした……

 

 鳳は、彼らに一緒に逃げようと言ったのだが、彼らは子供が生まれるからと言って聞かなかった。そんな彼らの忘れ形見を、このまま知らぬふりして、見捨ててしまっても良いのだろうか。

 

 鳳は部屋の隅にうずくまる彼女の前に歩み寄ると、その憎悪の煮えたぎった視線が真正面にくるように、腰を下ろしてじっと彼女の瞳を覗き込んだ。

 

「君のお腹の子は、多分、神人じゃない。全部アイザックの嘘だったんだ。産んだところで、君の立場が劇的に改善されることはないだろう。もしかしたら、子供を産んだ後、君は処刑されるかも知れない。それでも産みたいのか?」

 

 そんな鳳の言葉を合図に、堰を切ったように彼女の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。感情の高ぶりを表すかのように、肩がブルブルと震えている。しかし、それでも彼女は一度も視線を逸らすことはなく、挑むように鳳の目を睨みつけながら、コクリと頷いた。そこに嘘は無さそうだった。

 

 鳳はその返事を受け取ると、また立ち上がって背後を振り返った。部屋に詰めかけた人々が不安そうに彼の姿を見つめている。鳳はまずはペルメルとディオゲネスに向かって、

 

「……俺は、彼女のことを助けたい。協力してくれないか?」

「正気ですか!?」

「彼女を一方的に断罪することは出来ないだろう。お前たちも、今はもう、そう思ってるんじゃないか?」

 

 ディオゲネスは腕組みをすると、無言のまま目を瞑った。相棒のペルメルは苦々しげに表情を曇らせてから、

 

「しかし、いくら事情があっても、ヘルメス卿を殺した犯人を野放しにしては、国内に示しがつきませんよ。これから予想される混乱を収めるためにも、可哀想でも彼女には死んでもらったほうがいい」

 

 その言葉にメイドのアリスが飛び出していって、彼らの前で両手を広げて仁王立ちしてみせた。小柄な彼女がそんなことをしても意味は無かったが、小動物みたいに小刻みに震える身体を見たら、その決意のほどは分かった。

 

 鳳はそんな彼女の意思を受け継ぐように、

 

「それでも、俺は助けたいんだ。なんなら、また彼女たちを連れて大森林に逃げ込んでも良い。それくらいは見逃してくれないか?」

「しかし……」

 

 鳳たちがそんなやり取りをしていると、それを傍で見ていたヴァルトシュタインが、恐る恐るといった感じに手を上げながら割り込んできた。

 

「あー、お取り込み中のところ悪いんだけどよ? 彼女の刑罰なんか気にしてる場合じゃないと思うんだがな」

「なに!?」

 

 ヴァルトシュタインは睨みつけてくるペルメルの視線を涼しげに交わしながら、

 

「そうやってすぐ怒るなよ、神人さんよ。主人が死んじまって興奮しているのは分かるが……その主人の後釜はどうするんだ? つい先日、勇者領は和平の使者をこの帝都に送ってきたところだ。それはヘルメス卿が帝都での地位を改善したから、それを当てにしていたわけだが、到着してみたらそのヘルメス卿が死んでいたんじゃ、彼らもどうしていいかわからなくなるぞ」

 

 それは鋭い意見だった。部屋の中にいた人々の間からどよめきが起こる。ヴァルトシュタインはさらに続けて、

 

「11世が死んだから、やっぱり12世に戻すのか? しかし、それじゃ今度は勇者領が黙っちゃいないぞ。つい最近、勇者領に侵攻してきたのは、その12世だからな。彼がヘルメス卿に返り咲くというなら、和平交渉は無しにという事になりかねん」

 

 そうだった。12世は帝国の傀儡だったのだ。彼を操っていたオルフェウス卿はもういないが、元々、オルフェウス卿も12世の自尊心を擽ることで彼を利用していたのだ。そんな彼が権力を取り戻したら、自分を正当化することしかしないだろう。するとヘルメスと勇者領の関係が壊れて、帝国と勇者領も和平を結べなくなる。もっと最悪なのは、過激派が彼を利用してまた戦争を始めることだった。

 

「アイザックに子供はいないのか?」

「残念ながら、アイザック様はまだお若い方でしたから……」

「この際12世じゃなきゃ誰でもいい、誰かいないのか?」

「非常に古くに分かれた傍流がありますが、後継者に恵まれず、現在の当主は女性なのですよ。領民の支持を得られるかどうか……」

「……やっぱり、この世界もそんなこと気にするの?」

 

 ヘルメス人のテリーを見ていて思ったことだが、まだ中近代並みのこの世界で、血筋というのはとても重要なのだ。ヘルメスには現在、11世と12世の派閥があり、仮にその女系傍流を領主につけても、派閥間で争い始める可能性が高かった。それを抑え込むには、主流である11世の派閥から、ヘルメス卿の血脈に連なる誰かを立てなければならないが、ペルメルに言わせるとそんな都合のいい人物はいないらしい。

 

 こうして彼らが後継者問題に頭を悩ませている時だった。一人だけ会話に加わらず、じっと腕組みをしながら何かを考えていたディオゲネスが、唐突に言った。

 

「一つだけ、丸く収まる方法があります」

 

 誰の意見も無くなり、沈黙が場を支配していた時だった。彼の声はよく響いた。鳳は勢い込んで尋ねた。

 

「そんな方法があるのか?」

「ええ、勇者様。あなたがヘルメスの領主になるんです」

「……はあ!?」

 

 寝耳に水な言葉に、その場の全員が素っ頓狂な声を上げた。まるで王位を簒奪するような話に、憲兵隊長に至っては聞かなきゃ良かったといった顔をしている。

 

「馬鹿なことを言うな! そんなことしたら戦争になるぞ?」

 

 ペルメルが嗜めるも、ディオゲネスは首を振って、

 

「いや、絶対にそうはならない。ヘルメスは元々、勇者派の総本山。勇者様が領主になるというなら、抵抗なく受け入れてくれる領民の方が多いだろう。それに、勇者様はなんと言っても、我々の守護精霊から洗礼を受けている。それはヘルメスの地を治める正統な理由になる」

「あ! そうか!」

 

 その言葉に、今度はペルメルまでもが希望に満ちた表情で声を上げた。守護精霊の洗礼とは、迷宮でヘルメス・トリスメギストスに出会ったことだろうか? 確かにあの邂逅の後に鳳は勇者の力に目覚めたというか取り戻したわけだが、そのお陰で今とんでもなく苦労しているのだ。

 

 と言うか、絶対に無理だ。自分の理性が後どのくらい持つかわからないというのに、国がどうとか言ってる場合じゃない……鳳がそう思って、どうにか断ろうと口を開けると、それを制するかのようにディオゲネスが詰め寄ってきた。

 

「勇者様の手腕はこの帝都で幾度も拝見させていただきました。今は亡きアイザック様と比べても、あなたの方がよほど領主としての才覚に恵まれていると感服いたしておりました。あなたは人の上に立たれるべきお方です。どうか助けると思って、我が主となってください」

「右に同じです。鳳様に生命を助けられて以来、いつかご恩返しをと思っておりました。どうかこれからは、この生命をあなたのために使わせてください」

「アホ抜かせ! 俺はやらんぞ。他にやらなきゃならないことがあるんだ」

 

 鳳が必死に拒否しようとすると、ヴァルトシュタインが面白がって乗ってくる。

 

「そりゃ、面白そうだ。お前がヘルメス卿になるっていうなら、俺が軍を率いてやってもいいぞ。和平がなれば、勇者軍はどうせ解散だからな」

「人員に不足があれば冒険者ギルドを使え。ちょうど今、帝都にはレオがいる。それに今なら、お前のために馳せ参じる冒険者なんて、いくらでもいるだろう」

 

 そしてギヨームは冒険者ギルドの統括について、もう皮算用を初めたようだった。彼は当たり前のようについてくるつもりのようだが、本当は鳳はパーティーを解散しようと思っていたのだ。

 

 だから何とか断ろうと思うのだが……逆に、ヘルメス卿になれば、自然とパーティーを解散出来るのでは? と、つい魔が差してしまった時だった。

 

 彼の前にずいっと小柄な少女が接近してきて、

 

「お、お願いします、勇者様。どうかお嬢様をお助けください!」

 

 小柄な彼女の大きな目が、必死に鳳のことを見上げている。きっとこんな場違いな場所で怖い思いをしているのだろう。その身体は小刻みに震えていて、今にも倒れそうだった。そうまでしても、この少女は主人を助けてやりたいのだ。

 

 今はソファの影に隠れて見えない、ルナ・デューイ……彼女のあの目はとても絶望している人の目ではなかった。何が何でも赤ん坊を生み育てる、そんな決意を秘めていた。

 

 思えばつい最近、大森林の中では同じ母親が、生まれたばかりの自分の子供を殺している場面に遭遇したばかりだった。命を冒涜するその行為を非難したいわけじゃない。鳳なんて、試験管の中で受精して、代理母から生まれてきたのだ。そして幼馴染の彼女は自ら命を断った……同じ生命だと言うのに、どうしてこうも違うのだろうか。

 

 鳳はため息を吐いた。

 

「わかったよ」

 

 その返事に、神人二人の顔がパーッと明るくなった。ついさっき、彼らの全てと言ってもいい、主人のアイザックが殺されたばかりだと言うのに……

 

「ただし、ヘルメスが落ち着くまでの、あくまで代理だ。今、下手に権力を手放してしまったら、和平もならなければヘルメスは大混乱に陥るだろう。だから一次的に俺が預かる。だが、落ち着いたら必ず後継者を探して、そいつに爵位を譲る。俺には、どうしてもやらなきゃいけないことがあるから。それでいいな?」

 

 鳳の言葉に、神人二人は少し残念そうにため息を漏らしたが、すぐに取り直したように喜びの声を上げた。ヴァルトシュタインも、ギヨームも、たまたま居合わせた憲兵隊長や家主の奥方も笑顔を向ける。そしてメイド少女のアリスはぺたんとその場に腰を抜かした。

 

 仲間が死んでから、半年くらいが経過していた。ルナのお腹の大きさからして、臨月まであと2~3ヶ月といったところだろうか。それくらいなら、多分、まだ自分の理性も持つだろう。その間に、ヘルメスの問題を片付けて、魔王化を阻止する方法も同時並行で見つけなければならない。

 

 そんな器用な真似、本当に出来るんだろうか……?

 

 だが、やるしかないだろう。どうせ、最初から何も分かっちゃいないのだから……

 

 鳳は不安に駆られながらも、新たな世界に一歩踏み出す決意を固めた。和平を成し、ヘルメスを安定させ、仲間の子を取り上げたら、自分は潔くこの世から去ろう。そう胸に秘めて。

 

(第四章・了)

 



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第五章・ハーレム王に俺はなる!
平面世界の神視点


 我々は縦横高さ三つの空間軸と、一つの時間軸を持つ4次元時空に生きている。大抵の人がその事自体は、知識としても直感的にも知っているだろうが、具体的にどうして空間と時間が統合されているのか、その理由をちゃんと説明できる人は少ないかも知れない。

 

 しかしまあ、それはアインシュタインの特殊相対性理論を紐解けば、高校数学程度の知識があればわりと理解できると思うので、ここでは割愛する。長い物理学の歴史の中でも別格に美しい理論の一つであることは間違いないから、下手糞な説明を受けるよりも、巷にごまんと存在する解説本の一つや二つを読んだほうがずっと良いだろう。だからここではとにかく、我々の世界が3つの空間軸と1つの時間軸で表される、四次元時空の中にあるということだけを知っていればそれでいい。

 

 さて、我々はそうした4次元時空の中で日々暮らしているわけだが、宇宙も同じ4次元時空の中に存在するのかと言えば、どうやらそれは違うらしい。不思議なことに、なんと宇宙には11次元もの時空(10次元の空間と1次元の時間)が存在し、我々はそのほんの一部を認識しているに過ぎないようなのだ。

 

 どうしてそんなことが分かるのか? と言われると、実ははっきりとその存在が判明しているわけではないのだが……20世紀以降、科学技術が進んできたら、宇宙が4次元よりも多くの次元を持っていると考えたほうが都合がいい、と考えられるような傍証がチラホラと見つかってきたからだ。

 

 その先駆けとなったのが電磁気力と重力の統合理論であるカルツァ=クライン理論である。電磁気力と重力の統合は非常に難しい問題で、終生それに取り組み続けたアインシュタインでさえ解決出来なかった。それが、テオドール・カルツァに言わせれば5次元以上の時空でなら統一することが可能だというのだ。

 

 しかし、5次元時空なんてわけのわからないものを持ち出してきて、それにどんな意味があるの? と言われると、ちょっと説明が難しいのであるが……物理学では、それらの力を統合することが非常に重要なことなのだ。

 

 宇宙はビッグバン……つまり一つの点から始まったと考えられているから、遡ればこの宇宙に存在する全ての粒子が(力も)、一つに統合されなければおかしいはずだ。重力も電磁気力も(強い力も弱い力も)最初はみんな同じものだった。しかし4次元時空で考えていても、どうもそれらは上手く結びつかないのである。

 

 ところが、カルツァのように5次元以上の時空が存在すると考えれば、それが上手く行きそうなのだ。だから、余剰次元の理論は始めこそただの数学的なお遊びと思われていたが、次第に受け入れられていった。

 

 そしてついに、宇宙が10次元のヒモで出来ていると考える超弦理論が誕生したのである。この名前を聞けば、ああ、あのノーベル賞を取った奴ねと、高次元に半信半疑だった人も受け入れてくれるのではなかろうか……

 

 因みにこの超弦理論であるが、21世紀の現在でも、優れた理論ではあるが万物の理論にはなっていない。それもこれも、結局5次元以上の時空間なんて、本当にあるかどうか誰にも確認が出来ないからだ。何故なら、我々は4次元時空に生きていて、そこから逸脱する空間を認識することは不可能だからだ。

 

 面倒くさいからこの際、時間のことは忘れて、3次元空間と4次元空間のことを考えてみよう。

 

 我々は3次元空間と言われれば直感的に理解できるが、4次元空間と言われても、それがどんなものであるかを想像することが出来ない。縦、横、高さは分かるが、4次元軸の方向ってどっちなんだ? 空間がどんな風に広がっているのか、頭の中で想像することさえ出来ないだろう。なのに、それがあることを前提とした理論など、なかなか受け入れられないではないか。

 

 だが、それでもこの宇宙は10次元あるということで大勢が決まりつつあるようだ。恐らく今後、これが覆ることはないだろう。我々は、我々が認識できる4次元時空の他に、更に6つの次元があることを知りながら、それを認識することが出来ずにずっと生きていくわけである。なんだか喉に魚の骨が刺さったような、すっきりしない感じである。

 

 ……しかし、我々は確かに4次元の方角を認識することは出来ないが、理解することは出来る。物事が複雑で理解出来ない時は、いちど単純化して考えればいい。

 

 例えば、3次元空間に暮らしている我々が4次元空間を認識できないように、2次元空間に住む住人は3次元空間を認識することが出来ないはずだ。だからまず、我々も2次元空間の住人の気持ちに立って考えてみれば、自ずとその先のこともわかるというものだろう。

 

 フラットランドに住む三角氏は二次元の住人だ。

 

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 フラットランドには高さは無くて、縦と横、二つの空間軸しか持っていない。画用紙を思い浮かべて貰えばそれで間違いない。三角氏は、そのまっ平らな画用紙(フラットランド)の中をウロウロしている人間だ。

 

 すると、遠くの方から四角氏がやってきた。三角氏と四角氏は竹馬の友だが、すぐ近くまでやってきても、ふたりはお互いのことがわからない。フラットランドの住人同士がお互いにどう見えるのかと言うと、それはただの線だから近寄っただけでは誰が誰だか分からないからだ。

 

 だからフラットランドの住人同士が相手のことを知るには、相手に触れてその形を確かめねばならない。三角氏は四角氏の体に触れながらぐるりと彼の周りを一周し、そこに4つの角があることを知って『これは四角氏だな』とわかる。四角氏も同じように三角氏の体に触れて『これは三角氏だ』と判断し、二人はようやくお互いが友達同士だということを認識する。非常に迂遠だが、フラットランドではこのようなコミュニケーションが普通なのだ。

 

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 そんなフラットランドに、ある日、三次元の世界から球体氏が遊びに来た。

 

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 球体氏は、縦と横しかないフラットランドを『上下に』通過しようとする。たまたまそれを目の前で見てしまった三角氏には、彼のことがどう見えるだろうか。

 

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 球体氏がフラットランドに触れた瞬間、三角氏にはどこからともなく点が現れたように見えるだろう。球体氏の体が更にフラットランドを通過していくと、最初は点に見えていた彼の体は、徐々に大きな円に変わっていき、その円は球体氏がフラットランドを通り過ぎる丁度中間点で最大になり、続いて徐々に小さくなり、最後は点になって消えてしまうだろう。

 

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 このように、二次元の住人には、三次元の住人が、大きさが変わったり、出たり消えたりする不思議な物体に見えるはずなのだ。

 

 ともあれ、三角氏は三次元の住人の出現に驚いて、『お前は誰だ?』と問いかけた。すると球体氏は『自分は球体だ』と言う。三角氏は球体というものが理解できずに、『円か?』と尋ねる。球体氏は『円は自分の一部である』と答える。

 

 ちんぷんかんぷんの三角氏に球体氏は言う。『自分はこの世界に全てを晒すことが出来ない、だから自分の体の一部分しか見えないのだ』と。それでも納得がいかない三角氏が、『おまえはどこから来たのか?』と問いかけると、球体氏は『上の方から来た』と答える。しかし、三角氏には『上』という方角が分からない。

 

 『上というのは縦と横、どっちだ?』三角氏にしてみれば不思議なことかも知れないが、そう問われても球体氏にとって上は上でしかない。『上は上だ』『それじゃわからない。右と左どっちだ?』『右でも左でもない』『北か、東か?』

 

 そんな具合に噛み合わない会話を続けた後、ついに焦れったくなった球体氏は癇癪を起こす。『上ってのはこっちの方だよ』球体氏は三角氏の体を引っ張って、フラットランドの外へと飛び出してしまった。

 

【挿絵表示】

 

 三角氏はフラットランドから飛び出すことによって、初めて球体氏がどんな形をしているのかが分かった。

 

『君はそんな形をしていたのか』

 

 そして彼は三次元の方向から、今まで暮らしていたフラットランドを俯瞰することが出来た。そこには友達の四角氏や、家族や仲間たちが大勢暮らしているが、彼がいつも見ている光景とは明らかに違った。

 

『人間の体の中身が見える』

 

 いつもはただの線しか見えないのに、今はその線にくくられた体の中身が丸見えだ。三角氏は、三次元に飛び出すことによって、自分の体の中も丸見えになっていることに気づいて落ち着かなくなった。

 

『君からは何もかも見えていたのか』

 

 やがて、フラットランドに戻ってきた三角氏は球体氏と別れて家に帰り、エキサイティングだった三次元の旅を思い返す。この世界は二次元に閉じているのではなく、その外側には三次元の世界が広がっているのだ。彼は家族や親しい友だちにそのことを教えたくなった。しかし、彼がいくら説明しても、誰も彼の言葉を信じてくれない。

 

『お前は三次元が存在するというが、それならその三次元の方角とはどっちだ』

『それは上だ、上なんだ!』

 

 ……これは19世紀の詩人アボットによる『フラットランド』という小説のあらすじなのだが、我々には理解し難い高次元というものを説明するのにうってつけだから、よく引き合いに出されている。

 

 我々、3次元空間の住人が4次元空間というものを想像する時は、この気の毒な三角氏と同じように考えればいい。我々も三角氏同様、人間の外っ面しか見えていない。もし、4次元存在が我々の前に現れたとしたら、球体氏が可変する円に見えたように、時間によってウネウネと形を変える、ヘンテコなオブジェクトとして現れるだろう。それが全体的にどういう形をしているかは、3次元空間に囚われている我々には認識することは出来ない。

 

【挿絵表示】

 

 ところが4次元にぴょんと飛び出せば、それがどんな形をしているかが理解できるようになる。そして我々は、今まで自分が暮らしていた3次元の世界を見てびっくりする。『人間の中身が見えるぞ』と。それは内臓の詰まった人体標本のようなものが見えるのではなく、人体を構成する全ての分子がひと目で分かるような、そういう状態だろう。我々を構成する全ての分子一つ一つが、ミクロの部分で4次元と繋がっているのだ。

 

 しかし、こうして四次元のことを直感的に理解出来た我々も、またいつもの三次元に空間に戻ってきた瞬間にそのことがわからなくなってしまう。四次元の方角ってのはどっちだ? それはあたかも三角氏が『上だよ上!』と言ったように、四次元の方だとしか言いようがない……我々はついさっき四次元があることを理解したはずなのに、それを口で説明することが出来ないのだ。

 

 さて……長々と説明してきたが、どうして突然、四次元空間なんてものについて話し始めたのかと言えば、つい最近、余剰次元を扱っているアニメを見たからだ。なんてタイトルかは割愛するが……ある日、お兄様が高次元の方からやってくるウイルスだかなんだかに攻撃される、そんな内容だ。

 

 お兄様とその仲間たちは天性の直感でその攻撃を交わすのだけど、敵がどこから攻撃してくるのかまでは分からない。このままじゃジリ貧だ。次第に焦りが募ってくる。と、その時、仲間の眼鏡が『あっちです!』と言いだす。すると、眼鏡が指差した方に、どこかのスキマ妖怪が作り出したような穴が開いていて、そこから怪電波みたいなのがドバーッと飛び出してくるのである。

 

 この、スキマを通ってやってくる怪電波が高次元からの攻撃というわけだが、フラットランドの話を聞いた今、これはおかしいことが分かるだろうか。

 

 3次元に飛び出した三角氏に、フラットランドの住人の中身が見えたように、3次元空間を俯瞰して見ている余剰次元の住人からは、我々3次元生物の中身が見えるのだ。だったらスキマなんか通さずに、直接体の中を狙ったほうが効率が良いだろう。

 

 フラットランドに戻って考えてみよう。こう一方的な状況下で、あなたが球体氏だったら、三角氏のことをどうやって攻撃するだろうか。例えば、虫眼鏡を持ってきてフラットランドの三角氏の頭の中目掛けて太陽光線を集めてみたらどうだろう。きっと三角氏は自分が誰に攻撃されたのかも、どうやって攻撃されたかも気づかずに絶命するはずだ。高次元からの攻撃とはこういう理不尽なものなのだ。

 

 そんなわけで、余剰次元から攻撃されたら、この世界に空間のスキマが開くというのは間違った表現である。とは言え、私はスキマが悪いと言いたいわけではない。見えない力を口で説明されるよりも、映像として何かそれっぽいものを見せた方が説得力があるのだから、演出上こうするより仕方なかったのだろう。もしも私が監督でも、悩んだ末にやはり同じような手法を選ぶはずだ。だから私はスキマを批判するつもりはサラサラ無い。

 

 じゃあ、何がいいたいのかと言えば、この物語の主人公たちは……鳳やジャンヌたちは、こういう理不尽な力を、日常的に受けているということである。

 

 そして、もしも我々が住む四次元宇宙の外側に『神』が在るのだとしたら、いかにその力が一方的で絶大であるか……そのことを、ほんの少しでも分かっていただければ、幸いである。

 



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ヘルメスの後継者たち

 帝国南西ヘルメス領。樫の大木がそびえ立つ丘から見下ろせば、かつてヴェルサイユと呼ばれた華美な宮殿は既に無く、代わりにそこには新たな仮設庁舎が建てられていた。こじんまりとしたそれは、いつか新たな庁舎が建てられるまでの繋ぎであり、差し当たって数十名の文官たちが詰めるためのものでしかなかった。ヘルメス戦争によって瓦礫の山にされた居城の再建がこうして始まったのである。

 

 同じく、戦争によって無残に壊されてしまった城下町の復興も始まり、それは丘を越えた反対側にあるフェニックスの街を拡張する、という形で行われていた。それまでの城下町は、ヘルメス卿の居城を起点として放射状に伸びていたのだが、その伝統を捨て、フェニックスの街を城下町にしたのである。

 

 元々、フェニックスの方が街の規模として大きかったことと、先の戦争のように、城下町を城壁として利用しては、復興に膨大な金と時間が掛かりすぎるという反省からだった。考えてもみれば守るべき人民を盾にしているようでは、攻められた時点で負けに等しい。現に、壮麗華美を極めたヴェルサイユ宮殿はなく、バラック小屋が立ち並ぶフェニックスの街の方がこうして残っているのだから、城の防衛思想自体が間違いだったと言わざるを得ないだろう。

 

 新ヘルメス体勢ではその反省を踏まえて、平時は今までの場所に作った官庁街で政治を行うが、戦時はここからほど近い要害の地に城を建てて防衛に当たる、という方法を取ることにした。

 

 これでは敵に安々とフェニックスの街を奪われてしまうことになるが、代わりに本陣である要害城を落とさない限りは、いつでも奪還の可能性があり、敵は街への駐留を余儀なくされるというわけである。壊されるくらいならいっそ渡してしまえという発想だが、これが案外理にかなっているのは日本の城を見ていれば分かるだろう。日本には城壁に囲まれた街や村は殆ど存在しないのだ。

 

 要害城の候補地の選定にあたっては、新しくヘルメス軍の総司令官に就任したヴァルトシュタインが行うことになった。思い返せば、かつてのヴェルサイユを陥落させた帝国の将軍こそが、このヴァルトシュタインであったのだから、なんとも皮肉な話であるが、そのヘルメスを相手に勝利したヴェルサイユ攻防戦、勇者領でのボヘミア砦防衛戦や、結果的に魔王討伐戦となった河川敷での戦いを経て、今やこの世界でも押しも押されぬ名将と知れた彼であるから、誰からも文句は上がらなかった。寧ろ、引く手あまたであったこの男を引き抜いて来た新ヘルメス卿の手腕こそ湛えるべきものだと、称賛されているほどである。

 

 さて、その新ヘルメス卿こと勇者・鳳白であるが……

 

 仮設庁舎のすぐ前から、勇者領まで続く街道が、樫の木の丘を縫うように伸びていた。そんな街道を通って、数頭の騎馬軍団がフェニックスの街へ向けて颯爽と進んでいた。先頭にはヴァルトシュタインの副官として名を上げたテリーが旗手を務め、そんな彼に付き従うように数頭の騎馬が左右に展開し後を追いかけている。そんな騎馬たちに囲まれる位置にヴァルトシュタインの跨る白馬が続き、そしてその白馬の隣に、どことなくのんきな雰囲気を醸し出しつつも、ガッシリとした馬体の馬に乗った鳳がいた。

 

 風は凪ぎ、複数の騎馬の蹄の音だけが辺りに響く。

 

 フェニックスの街の人々は、街道からそんな騎馬軍団がやって来ることに気がつくと、すぐにたった今までやっていた仕事を中断して往来へと駆けつけた。そんな慌ただしい雰囲気に釣られて、物見遊山の人々があちこちから集まってきて、いつの間にか往来は人でごった返した。

 

 やがて人々が押し合いへし合いする中、騎馬軍団が街のゲートに辿り着くと、どこからともなく歓声が上がり、街は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。揉みくちゃにされながら、若い女が鳳の名前を叫んで手を振った。新ヘルメス卿の人気は、今やうなぎ登りだったのである。

 

 間もなく、騒ぎを聞きつけた憲兵隊が街のあちこちから駆けつけて、ヘルメス卿をひと目見ようと往来に飛び出す人々の取り締まりに当たった。憲兵隊たちの道を開けろという怒号が辺りを飛び交う。鳳たちはそんな人々でごった返す中に降り立つと、さして気にもとめた風もなく、悠々と歩き始めた。このところ、街へ来る度に同じことが起こるから、もう慣れっこになっていたのだ。

 

 鳳は表情一つ変えること無く、ただまっすぐに前を見て歩いていた。一生懸命手を振っている町の人に、軽く手を振り返すくらいすればいいのに、彼はむっつりとした表情を崩すこと無く、人々の歓声を無視して突き進んでいく。

 

 普通なら、『なんだあの野郎、スカしやがって』と腹を立てそうなところだが、そんな彼の釣れない態度も、若い女たちからするとクールに見えるらしいから、人間心理とは不思議なものである。勢いに乗っている時は何をしても好意的に取られるということだろうか。

 

 と、その時、往来から一人の女性が彼の前に飛び出してきた。金髪碧眼に抜群のプロポーションをした神人……ジャンヌである。彼女は鳳の前におずおずと飛び出すと、眉根を八の字に曲げて、どこか懇願するような表情で一言二言告げた。その言葉は小さすぎて、きっと鳳にしか聞き取れなかっただろう。

 

 しかし、鳳はそんな彼女のことがまるで見えていないかのように涼しい顔でその横を通り過ぎると、また何事も無かったようにむっつりとした表情で往来をまっすぐに歩いていった。その態度があまりにも素っ気なさ過ぎて、思わず町の人達は、二人が今まで会ったこともない、他人同士であると錯覚しそうなくらいだった。

 

 だが、ジャンヌは鳳と同じく勇者としての実績がある冒険者であり、街の人々も彼女が鳳のパーティーの一員として、先の魔王討伐戦に参加していたことを知っていた。ギスギスとした雰囲気が、一瞬、辺りを支配する。そんな時、

 

「この人でなしのバカ領主ー!」

 

 去りゆく鳳の背中に、そんな声が浴びせられ、それを見ていた見物人たちの肝を冷やした。一体、どこの命知らずだと振り返れば、人垣の中でひときわ目立つ格好をしたウェイトレス姿の少女が、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら鳳に向かって罵声を浴びせている。これまた勇者パーティーの一員、ルーシーである。彼女はジャンヌのことを無視して去っていった鳳のことを糾弾しているのである。

 

 だが、鳳はそんな彼女の声すらも聞こえないと言った感じで、一切後ろを振り返ること無く、そのまま街の中へと消えていった。怒ったルーシーがその背中を追いかけようとすると、すかさずヴァルトシュタインの部下たちが駆け寄ってきて彼女の進路を妨害する。

 

 ルーシーは兵士たちをも押しのけて鳳に迫ろうとしたが、そんな彼女のことを背後から伸びる小さな手が制した。

 

「おい、もう止めろよ」

「止めないでよ、ギヨーム君! 今日こそは一言言ってやらなきゃ気がすまないよっ」

 

 ルーシーはそう言い捨てて更に追いかけようとするが、ギヨームはそんな彼女の腕を今度は強引に引っ張って人垣へと引き戻した。その姿を見て、事態の収集を図ろうと近づいてきていた兵士が申し訳無さそうに頭を下げてから、元の隊列へと戻っていく。

 

 彼女はそんな背中をプンプン怒りながら見送りつつ、

 

「どうして邪魔するのよ?」

「どうもこうもねえだろ」

「鳳くんのジャンヌさんを無視するあの態度、許せないと思わないの?」

 

 ギヨームはその言葉を聞いて、ため息交じりに、

 

「男女のことは仕方ないだろうが。男と女が別れてまで、いつまでもグズグズ一緒に居るほうが、よほど健全じゃないだろうよ」

「そうかな? だからって話すらしないなんて、行き過ぎじゃない」

 

 ギヨームは、彼もそう思っていたが口には出さずに、

 

「……それは人によるんじゃねえの。あいつはそういうのが上手く出来ないタイプだったんだろう。それにしても……ジャンヌのやつも、どうして先走るような真似をしちまったんだろうか。鳳がそんなこと望んでないのは分かっていただろうに……」

 

 するとルーシーはまるで恋する乙女のようにしたり顔で、

 

「分かっていても我慢できないのが恋なのよ」

「……あほらし。それでパーティーがバラバラになってちゃしょうがねえだろうが」

「ふんっ……」

 

 ギヨームが血も涙もない言葉で切って捨てると、ルーシーは唇を尖らせて不満げにぷいと横を向いてしまった。彼はそんな彼女を宥める言葉を持っておらず、またそのつもりもサラサラ無く、黙っていつもみたいに肩を竦めてみせた。

 

 視界の片隅には相変わらず鳳に振られてしょぼくれているジャンヌの姿が映っていて、そんな彼女のことを遠巻きに見ている見物人の目が、自分に向けられているわけでもないのに痛かった。

 

 ギヨームは色恋沙汰のせいでパーティーがバラバラになったと言ったが……もし、彼女が鳳に女性として見て欲しいなんて言い出さなければ、今頃自分たちのパーティーは何をやっていただろうか。どっちにしろ、パーティー解散は避けられなかったのではなかろうか。

 

 曲がりなりにも魔王が倒され、戦争も終結して平和が訪れた。相変わらず大森林には魔族がうろついているようではあるが、人間の世界はもはや自分たちのような荒くれ者の冒険者が出るような幕はない、政治家たちによる第二ラウンドが始まっているのだ。その政治の世界で、ギヨームは自分が何の役にも立たないことを重々承知していた。

 

 鳳がヘルメス卿として辣腕を振るう中で、自分たちは間違いなく足手まといにしかならなかっただろう。だからジャンヌのことがあってもなくても、遅かれ早かれ、彼がパーティー解散を言い出すのも時間の問題だったんじゃないか。

 

 彼はそれを悔しいと思うと同時に、自分がまるで戦乱を望んでいるかのように思えて情けなくなった。これじゃ世が乱れていた方が、自分も活躍できるのにと言ってるようなものではないか。

 

「いや……案外もう、戦闘でも役に立てるかどうか」

 

 ギヨームは誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。それは風に乗って、たまたまルーシーの耳に届いたが、彼女はその呟きをはっきり聞き取っていながらも、何も言わず、黙って往来を突き進むヘルメス卿の列をじっと睨みつけていた。

 

***********************************

 

 アイザック11世が死亡してから2ヶ月が経過していた。その間、戦乱の続いたヘルメス国は首都をフェニックスに移し、勇者・鳳による執権政治が行われていた。本来、勇者とは言え血縁でもない彼に大国の実権を委ねるのはあり得ない事であり、特につい最近まで敵として相対していた他の五大国は警戒感を露わにしていたが、戦争終結ムードが一転して領主の死という不幸を突きつけられ、動揺しきっていたヘルメス領内を落ち着かせるためには致し方ない措置だった。

 

 それに執権という言葉通り、彼は厳密にはヘルメスの国主に就任したわけではなく、あくまで暫定的な措置であった。現在、ヘルメスは厳密には国主が不在で、二人の候補者がその後継を巡り争っている最中であり、それが決まるまでの一時しのぎというわけである。

 

 その後継者の一人は、ロバート・アイザック・ニュートン12世。

 

 死亡した11世の叔父で、ヘルメス戦争中に帝国により任命された正式なヘルメス領第十二代当主であった。しかし周知の通り、彼は就任後に勇者領侵攻を試みて失敗、11世により侯爵位を再度奪い返されたという経緯があった。そのため特に勇者領から警戒されており、もしも彼が後継者になるならばヘルメスとの国交断絶も辞さないと、連邦議会から牽制されている。

 

 しかし、勇者領へ触手を伸ばしたという過去があっても、彼自身は実は野心家というわけではなく、単にお調子者でヘルメス内の左派に担がれているというのが現実だった。

 

 因みに、勇者派の総本山であるヘルメスにおいて、左派とは帝国守旧派のことである。だが神人が多いというわけではなく、どちらかと言えば神人の力を利用して人間を支配しようと考えている人間がその主体だった。

 

 ヘルメスは勇者派であるが帝国の一部でもあるから、元々の体制は帝国と同じく農奴制を採用しており、国内の貴族が自分たちの荘園を統治し、税金を収めるというやり方をしていた。しかしそれと同時に共和制を敷く勇者領の影響も強く、農民に自立心が強いという傾向もあった。そのため、戦争が起きるや否や難民が大量発生したわけで、貴族からしてみれば自分たちの財産である農民たちにそんなことはして欲しくないという思惑があった。

 

 そんなわけで、ヘルメスの帝国への帰属は寧ろウェルカムというのがこのロバート派であり、彼らは親帝国の色を隠そうともしておらず、また勇者領侵略の失敗を誤魔化す意味もあって、勇者領を遠ざけ五大国との結びつきを強くしようとするきらいがあった。

 

 アイザック11世の置き土産として、ヘルメスと五大国が国交正常化した暁には、彼は真っ先にカイン卿への接近を図り、今回の爵位継承戦では大国の力を背景に領内の有力貴族の票をまとめており、現状ではライバルに一歩差をつけている。

 

 ただし、元々勇者派が多数を占める領内で、あまりにカイン卿に加担する姿勢を逆に危険視する向きもあり、今ひとつ決め手は欠いていた。

 

 その対抗馬である、もうひとりの後継者候補は、クレア・プリムローズ。

 

 数代前のヘルメス卿が側室に産ませた家の出身で、女系であるためこれまで継承権がなかった。

 

 しかし代々美男美女に恵まれ、優秀な政治家を排出するため、思ったよりも知名度が高く、特に庶民からはロバートよりもこちらを押す声が多かった。残念ながら嫡出子に恵まれず、今代も女性当主なために、男子相続を重んじる保守派からも期待されておらず、肝心の貴族の支持基盤が弱いという弱点があった。

 

 そんなクレアは起死回生の秘策として勇者・鳳との結婚を画策しているようだが、今のところまるで相手にされていない。思想的にはリベラルで、勇者領と帝国の融和を目指しているが、経済的な繋がりのためにやや勇者領寄りである。

 

 以上、鳳は領内の反応を見ながらどちらかに権力を譲るつもりでいた。しかし、問題点の多い二人よりも、領民の期待はいつしか勇者に傾いていた。領内に未だ戦争の爪痕が残る状況下で、領民を顧みずに権力争いを演じる二人よりも、他国からの支援を取り付けつつ堅実な領内経営を行う鳳のほうが、よほど領主に向いていると思われていたのだ。

 

 季節は冬の真っ只中。世界は平和になっても、未だ勇者を中心に回っているようだった。

 



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勇者軍撤退

 フェニックスの街からほど近い平原に、無数のテントが立ち並んでいた。先のヘルメス戦争のおりに帝国入りし、そのまま駐留を続けていた勇者軍の駐屯地である。戦争が終結したため順次撤退してはいたが、未だにその数ざっと1万が領内に留まっており、ただでさえ苦しいヘルメスの財政を圧迫していた。

 

 無論、友軍とは言え他国の軍隊の駐留費をヘルメスが請け負う義務は無いのであるが、彼らが居なければヘルメスは解放はおろか、下手したら今ごろ魔王に蹂躙されていた可能性もあったため、そんなことは言えた義理ではなかったのである。

 

 とは言えそれも今日までの話であった。最後まで残ったその1万も、つい先日、本国から撤退命令が出され、今日は朝からその準備で大忙しだった。因みに、ヴァルトシュタインが抜けた今、総司令官はスカーサハが務めており、彼女は今回の撤退を持ってついにお役御免となる予定である。

 

 さて、そんな慌ただしい駐屯地に、ウェイトレスの服を着て、営業スマイルを絶やさない少女がふらりとやってきた。もしここが秋葉原だったらチラシでも配ってそうな出で立ちであるが、こんなのでも今や世界でも屈指の現代魔法(モダンマジック)の使い手であるのだから、人は見かけによらないと言わざるを得ないだろう。言わずと知れた勇者パーティーの一員、ルーシーである。

 

 フェニックスの街に帰ってきた彼女は、最近、ギルド酒場のウェイトレスに返り咲いたため、そんな格好をしていたのだが……そんな格好なものだから、ゲートを守っていた兵士は最初彼女のことに気が付かず、街からやってきた物売りかなにかと勘違いして追い返そうとしていたようだった。

 

 しかし、彼女の行く手を遮ろうしていた兵士も、間もなく彼女が誰であるかに気がつくと、今度は背筋をピンと伸ばして最敬礼で彼女を迎えた。忘れているかも知れないが、ルーシーはスカーサハの妹弟子であり、駐屯地は顔パスなのだ。

 

 彼女は会釈代わりに手にした杖を軽く掲げてゲートを潜ると、いきなり現れた謎のウェイトレスを見て目をパチクリしている兵士たちに愛想を振りまきながら、駐屯地をのんびりと横切っていった。行き先は中央のひときわ大きな幕僚用テントである。

 

「こんにちわー! スカーサハ先生いますかっ!」

「あら、ルーシー。今日はまた唐突ですね。どうしましたか?」

 

 スカーサハはアポもなしにいきなり現れたルーシーに驚いていた。彼女はそんな姉弟子にむかってプンスカと怒りを向けながら、

 

「どうしたもこうしたも、街で兵隊さんに聞いたんですよ。先生、明日にも勇者領に帰っちゃうそうじゃないですか。どうして言ってくれなかったんですか?」

「正式に決まったのがついさっきだからですよ。ヘルメスを発つにあたって、フィリップにも挨拶をしておきたかったから、どうせこの後ギルドへいくつもりだったのですが」

「そうなんですか? ギルド長も手が空いたらこっちに来るって言ってましたよ?」

「そうでしたか。行き違いにならなくて良かったわ。おや……せっかく来てくれたのに、立ち話もなんですね。座ってください、お茶にしましょう」

 

 ルーシーがテントへやってきた時、スカーサハは撤退のための執務をしていたようだった。彼女は手を止めると立ち上がって茶葉を取り出し、ストーブで無造作に温められ続けていたヤカンのお湯で紅茶を入れた。ルーシーはマグカップを受け取ると両手でそれを持ち、フーフーと息を吹きかけながら言った。

 

「先生も居なくなっちゃうと、ここも寂しくなっちゃいますね。まだヘルメスも平常通りに戻ったってわけでもないんだし、もう暫く居ることは出来ないんですか」

「軍隊はただ集結しているだけでもお金が掛かりますからね、戦争が終わったのであれば、速やかに解散するのが筋ってものです。本音を言えば、後継問題が片付くまで、連邦議会としてもこのまま留まっておきたいところなのですが……これ以上、勇者・鳳に負担を強いるのも本意ではありませんから」

 

 鳳の名前が出るや否や、ルーシーはプンスカと怒りの表情を作り、言った。

 

「鳳くんなんて困らせてやればいいんですよ。知ってます? あの人、権力を持つや昔の仲間を捨てて、さっさとパーティーを解散しちゃったんですよ。言ってくれれば私たちだって何でも手伝うつもりだったのに、政治のことは一切私たちに関わらせようとはしないんです。ジャンヌさんなんてこの世界に来る以前からの仲間だったって言うのに、用が済んだらあっさりしたもんですよ。正直、あんな人だったなんて思わなかった」

「……色々とあったみたいですね。一応、話は聞いてますが、そんな風に言うものじゃありませんよ。勇者にも何か事情があるのでしょう」

「事情があるなら話してくれればいいじゃないですか。なのに、鳳くん……あれからずっと私たちのこと避けてるみたいで、まともに話もしてくれないんですよ。そりゃ、ジャンヌさんとのこともあるから、気まずいのかも知れないけど……話すら出来ないんじゃ、フォローのしようもないじゃないですか」

「ジャンヌさんの事って言うと、彼女が勇者に、男女の関係になれないかと迫ったってことね?」

「うっ……先生、なんか言い方がいやらしいですよ」

 

 ルーシーが愚痴をこぼしていると、それを聞いていたスカーサハがポツリと言った。まあ、ぶっちゃけ彼女の言うとおりなのだが、言い方次第でこうも抵抗を感じるのは何故なんだろう。ルーシーは頬を引きつらせながら、

 

「まあ、有り体に言えばそうですけど。断るだけならともかく、避けるまでするのはあんまりですよね」

「そうですね……でも確か、勇者には好きな女性がいたのではありませんでしたか」

「ミーティアさんのことですか? それならそれで、二人共ものにしてやるくらいの甲斐性を見せないでどうするって言うんですか。曲がりなりにも勇者なんて呼ばれているくせに、情けない」

 

 スカーサハは苦笑しながら、

 

「いえ、そうではなく、確かあなたが言ってたんじゃないですか? 勇者は、前の世界で好きな女の子が居たのだけど、その子を不本意な形で失ってしまったせいで、傷ついているって」

「……ああ、そういえば」

「案外、その方に操を立てているのかも知れません。もしそうなら、そんな悪しざまに言うのは可哀想ではありませんか」

 

 ルーシーは言葉に詰まった。一方的に愚痴だけ聞いててくれれば気楽だったのに、

 

「……先生は割りと鳳くんに好意的なんですね」

「そうですね。ですが、それはあなたも同じでしょう。彼には、不思議と人を惹きつける何かがある。そう思いませんか?」

「そうかなあ……?」

「そうでなければ怒ったりなんかしませんよ。人は期待をするから、裏切られたと腹を立てる。どうでもいい相手なら、そもそも気にすらしませんから」

 

 ルーシーはなんだか言いくるめられてるような気がしてならなかったが、かと言ってどんな反論も出てこなかった。このところずっと鳳の煮え切らない態度にイライラしていたが、それも彼に対する一方的な期待の裏返しだったのだろうか……

 

 彼女がうーんと唸りながら黙りこくっていると、スカーサハはまたとんでもないことを言い出した。

 

「ところでルーシー……ひとつ聞きたいのですが。あなた、処女ですか?」

 

 ルーシーは思わず口に含んでいた紅茶を噴き出し、むせ返った。

 

「ブーッッ!? な、な……突然、何を言い出すんですか、先生!?」

「いえ、皆まで言わなくても分かりました。ちょっと気になったもので」

「……私の体験なんか気にして何になるって言うんですか」

 

 ルーシーが不貞腐れたように唇を尖らせていると、スカーサハは苦笑交じりに、

 

「ほら、ついさっき、あなたが言ったじゃないですか」

「……何を?」

「曲がりなりにも勇者だと呼ばれる者なら、女の一人や二人、同時にモノにしてやるくらいの甲斐性を見せろと」

「……はあ」

「それで、ふと思いついたんですよ。あなたはそう言うけれど、実際にあの鳳白と言う青年が、そんな器用な真似をして見せたら、どう思うんだろうかって……」

「……え?」

「つまり、ジャンヌさんとミーティアさんですか? 両方と付き合って、両方にいい顔をしながら、両方とも食っちまったら……あなたはどう思いますか? やはりそれも勇者の甲斐性だと思いますか?」

 

 ルーシーは返事に窮してしまった。言われてみれば、それは嫌だなあと言う気持ちのほうが勝っていた。だが客観的に見て、双方がそれで納得するのであれば、それはそれで良いんじゃないかと言う気持ちもあった。トータルでどっちなのかと言われるとまた選択に困るのであるが……

 

 それにしても、今日の姉弟子はどこか飛ばしているなと思いつつ、ルーシーは冷や汗をかきながら、

 

「……鳳くんは、そういうことしないと思いますよ。もし二人と付き合うとしたら、ちゃんと二人共、同じくらい愛してくれると思いますけど……」

 

 スカーサハはそんな返事を受けて苦笑しながら、

 

「そうね、そうなのでしょう。それが彼の持つ道徳性であり、あなたの持つ期待なのでしょう。あなたは、そうならなかったから、だから怒っているんでしょうね」

「……はあ」

 

 ルーシーは上手く言いくるめられているような気がして不満げに口を尖らせながら、

 

「……先生、なんか今日はやけに絡みますね。私に何か思うところでもあるんでしょうか?」

 

 するとスカーサハは遠くを見るような眼差しを向けたかと思うと、少し伏し目がちに視線を逸らせながら続けた。

 

「あなたには何もありませんよ。ただ、ちょっと……思い出したことがありまして」

「思い出した……?」

「……さっき、あなたは勇者に避けられていると言っていたでしょう? 実は、私もなんですよ」

「え……?」

 

 寝耳に水だった。ルーシーがどういう意味かと尋ねてみると、

 

「思い返してみるとどうもそういう節があるなと。彼がヘルメス卿となり、そして私がここの司令官として着任してから2ヶ月が経っているでしょう? 当然ですが、その間、私たちは仕事の都合で面会する機会が多々あったはずです……ところが、私はこの二ヶ月、公の場で彼と会った記憶がないんですよ。何か用事があって庁舎に赴く時、いつも出迎えてくれるのはペルメルかディオゲネス、部下の神人のうちどちらかだったんです」

「それは気の所為ではなくて?」

「私もそう思っていたんですけどね、ただ、どうもそうではないらしいという証拠みたいなものも出てきてしまいまして……」

「……証拠?」

 

 スカーサハはこっくりと頷いてから、

 

「実は、連邦議会からの帰還命令が来る少し前に、大君から手紙が来ていたのです。ちょっと調べたい物があるから、勇者軍の仕事が片付き次第、一度ヴィンチ村に来てくれと言うものでした。大君は、どうやら300年前の勇者のことを思い出したいようなのですが……」

「300年前……? そんなもの、今更思い返したところで、何かあるんですか?」

 

 ルーシーがそんな疑問を呈すると、スカーサハもその通りだと言いたげにはっきりと首肯してから、

 

「私もそう思いました。今更そんな昔話を聞きたがるなんて変だなと……ただ、そこに書かれていたことを見てすぐに考えが変わりましたが」

「……手紙にはなんて?」

 

 すると彼女は眉根を寄せて深刻そうな表情を作り、

 

「……本当は、本人が言い出すのを待つべきなのでしょうが、やはりあなた達は仲間なのだから知っておくべきだと思うので……」

「はあ……?」

 

 ルーシーが、なんで彼女はこんなに回りくどく前置きをしているのだろうと思っていると、やがて決心したかのように、スカーサハは矢継ぎ早にその言葉を口にした。

 

「手紙にはこう書かれてました。300年前の勇者と、今代の勇者は同一人物だと」

 

 そう言われても、ルーシーはすぐにはその意味が頭に入ってこなかった。300年前の勇者と、今代……つまり鳳が同一人物? 意味が分からない。彼女がちんぷんかんぷんだと言いたげに目を回していると、スカーサハは続けて、

 

「私も、そんな馬鹿なって思いました。私は300年前の勇者とも面識があります。その彼と勇者・鳳はまるで別人であるという認識があります。私は二人が別人であると、確信していたのです。ただ、そう思いながらも、300年前の勇者のことを思い出そうとすると、どうも妙な引っ掛かりがあると言うか……」

「どういうことです?」

「……私は以前、あなたに言いました。300年前、一時期、私は勇者と恋仲になったことがあるのだと」

「はい」

「なら、私は勇者・鳳を見たら、彼を愛おしく思わなくてはおかしいでしょう。ですが、私は彼を見ても別段そうは思いませんでした。だから、やはり300年前の勇者と彼は別人だと、私はそう結論しようとしたのです……ところが、その時ふと、思い出したのですよ……300年前、私は確かに勇者と恋に落ちました。そういう記憶がある。ですが……どうしてそうなったのか。具体的に勇者とどんなラブロマンスがあったのか。それを思い出そうとしても、実は何も思い出せなかったのです」

 

 その言葉に、ルーシーはいよいよ思考力を失ってしまった。正直、目の前の姉弟子が何を言っているのかさっぱりわからない。ただ、そこには何か退っ引きならないものがあることだけは、わからないなりにも分かっていた。スカーサハは続けた。

 

「何しろ300年も経っているから、細かいディテールを忘れている、というなら分かります。ですが、こうも見事に記憶が抜け落ちているとなると、おかしいと言わざるを得ないでしょう。私は処女ではありませんが、身持ちは硬いほうだと信じています。例え相手が勇者だからと言って、体を求められたからそれに応じるというような、そんな付き合い方はしなかったでしょう。私は彼とそれなりの蜜月があった。でも私はその中身を全く覚えていないのです」

 

 困惑するルーシーに対し、スカーサハは続けざまに言った。彼女は自分の身に起きた出来事を、どこか他人事のように捉えながら、客観的な事実のみを積み上げて、そして結論したのだ。

 

「つまり、300年前の勇者と、今代の勇者・鳳白が同一人物であるのだとしたら、私は……我々は彼に関する記憶を失っている……ということです。誰が? 何のために? そもそも、どうやったのかも分かりませんが、私たち人類は、恩人であるはずの勇者の記憶を都合よく捻じ曲げられている可能性があるのです」

「それは本当なのですか?」

「……現状では、かも知れないといったところですが。私はそうなんじゃないかと思っています……だから、これはもしもの話なのですが、ルーシー?」

 

 スカーサハはほんの少し震える声で言った。

 

「もしも今後、勇者に求められるようなことがあったら……躊躇せずにその身を差し出しなさい」

 

 それは全く予想だにしない言葉だった。

 

「……え!? 逆ではなく?」

 

 ルーシーが面食らってそう言うも、スカーサハは撤回せずに頷いて、

 

「ええ、処女だとか、そんなこと気にしないで、思い切って彼に身を委ねなさい。どうせ、いつかは誰かとそういうことをするんだから……」

「なんでそんな……?」

 

 その、ともすると身持ちが軽い娼婦みたいなセリフが、とても姉弟子のものとは思えず、ルーシーが再度問いただそうとした時だった。

 

「失礼します!」

 

 天幕の入り口が開いて、外から伝令の兵隊が入ってきた。何しろ、話していた内容が内容だから、二人ははっと息を飲み込んで振り返った。その様子に違和感を感じたのか、伝令はまずい時に来てしまったと言った感じに後悔の表情を浮かべつつ、努めて目を合わさないよう天井の方を見ながら続けた。

 

「フェニックスの街の冒険者ギルドから、フィリップ様がお見えになりました。総司令官殿に面会を求めていらっしゃいますが、いかがしますか?」

「そうですか、ここへお連れしてください。ご苦労さまです」

「はっ!」

 

 伝令はくるりと回れ右をすると、背筋をピンと伸ばしたまま去っていった。間もなく、彼がギルド長を連れて戻ってくるだろう。二人はさっきの話を蒸し返す気にもなれず、どことなく余所余所しい調子で続けた。

 

「ルーシー……あなたはヴィンチ村に戻らず、暫くはこちらに残るつもりなのですよね?」

「はい。元々、私はこの街の出身ですし、その……鳳くんというか、仲間のことも気になりますから」

「ええ、そうなさい。ただし、ここに残るなら修行は怠らないように。あなたは目を離すとすぐにサボろうとするから」

「そんなに言わなくても、大丈夫ですよ。信用ないなあ」

「あると思ってたんですか?」

「うっ……」

 

 割りと容赦のない言葉に絶句する。まあ確かに、そう言う傾向があることは否定できないが、それはレオナルドの脳みそが痒くなるような座学の話だ。スカーサハが教えてくれた現代魔法の訓練や、発声練習などは苦ではないので続けられるはずである。まあ、それも彼女なりにではあるのだが……

 

 ルーシーがそんな弱気なことを考えていると、スカーサハはふと思い出したように、

 

「……そう言えば、あなたに会ったら言っておこうと思ってたのですが」

「なんです?」

「勇者領はロバートの即位を警戒しています。出来れば排除したいくらいなのですが、勇者・鳳は公正を重んじているために手が出しづらく、万が一のことも有りえます。そうならないよう、あなたから勇者にそれとなく伝えてください」

「は、はあ……でも、さっきも言った通り、今は難しいと思いますよ?」

「一応、気に留めといてください。一番いいのは、このまま勇者がヘルメス卿として正式に即位してくれることなのですが……」

 

 スカーサハはそう愚痴るように呟くと、今度はルーシーの目をじっと見つめてから、少しだけ消極的な響きを含みながら言った。

 

「それから……これも言うか言うまいか少し悩んだのですが……」

「なんですか?」

「あなたは大君レオナルドが、現代魔法ではなく古代呪文を使っている場面を見たことがありますか?」

 

 彼女はそう言われて、かつてこの街から逃げる際、レオナルドがメアリーでさえ使えない大魔法を使っていたのを思い出した。普段の彼は古代呪文なんて使うことは無かったからすっかり忘れてしまっていたが、あれはどうやったんだろうと思いきや、

 

「もしも今後、あなたに力が必要なことが起きたら、帝都にいる私の知人を訪ねなさい。その昔、大君は帝都にほど近い迷宮で、古の大魔法使いからあの技を伝授されたそうです。彼は今や現代魔法の大家ですから、もうその力に頼ることも無いでしょうが、あなたにはまだまだ有益かも知れません」

「なんと? そんな凄い迷宮があるなら、どうして教えてくれなかったんですか。早速、近い内に訪ねてみることにします」

 

 ルーシーが鼻息を荒くしていると、スカーサハは呆れるようなため息交じりに、

 

「いえ、あくまで必要になってからにしなさい。あなた、迷宮を簡単に攻略できると思ってるようですが、下手をすると生命に関わるような場所ですから、それを肝に銘じて起きなさいね?」

「ええ~……そんなに危険なんですかあ?」

「あのですね、そもそも、神人でないただの人間が古代呪文を使うということ自体が、ものすごく危険なことなんですよ。邪な気持ちで入ったら、まず無事では済まないでしょうね。だから言うかどうか迷ったんですが……」

「そ、そうなんですか……因みに、先生は攻略済みなんですよね? 出来れば攻略法とかあったら教えて欲しいんですが」

 

 するとスカーサハはキョトンとした表情で、

 

「私ですか? 私は入ったことすらありませんが?」

「え? なんで?」

「なんでも何も、私は元々神人ですから。古代呪文は普通に使えますし」

「ずるいっ!!」

 

 二人がそんな会話を続けていると、まもなくギルド長がやってきた。彼もルーシーと同じく、勇者領へ帰るというスカーサハに別れの挨拶をしに来たらしい。

 

 ヴィンチ村で臨時のギルド長をやっていた彼であるが、ヘルメス戦争が終わってフェニックスの街の復興が進んでいるのを知ると、ミーティアと共に暇乞いをして帰ってきたのだ。彼はヴィンチ村に行くのなら、そのことをレオナルドに謝っておいて欲しいと言いつつ、三人は懐かしいヴィンチ村の話に花を咲かせるのだった。

 



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アリスの決断

 今日も半ばを過ぎ、気がつけば大分日が陰ってきた。明かり取りのために付けられた窓から見上げれば、いつしか空はどんよりと曇っており、今にも雨が降りそうだった。いや、室内でさえ吐く息の白いこの気温では、もしかすると雪になるかも知れない。そうならない内に、早く産まれてくれればいいのに……アリスは熱いお湯の入ったヤカンを両手に抱えながら、パタパタと廊下を駆けていた。

 

 ヘルメス卿の仮設庁舎のすぐ脇には、これまた仮設の職員のための宿舎が建てられていた。かつてのヘルメス卿の居城が壊されてしまったから、暫定的な措置であるが、その宿舎の一番奥の部屋で、今日は朝から苦しげに喘ぐ、女性のうめき声が廊下中に響いていた。

 

 昨晩の未明、陣痛が始まったルナの子供が、いよいよ産まれそうだったのだ。アリスは長年……と言ってもまだ子供の彼女にしては、であるが……長年仕えた主人の出産を前に、朝からてんやわんやの大忙しであった。何しろ、助産師を除けば、ルナの出産に立ち会っているのは、彼女一人だけだったのだ。

 

 ルナ・デューイと使用人アリスの境遇については、改めて言う必要はないだろう。一応、軽く説明すれば、かつて鳳たちがこの世界に呼び出された時、勇者のために充てがわれたのがルナだった。

 

 彼女は、勇者と子供を作れば確実に神人を産むことが出来るという、アイザックの言葉を鵜呑みにし、妊娠したのであるが、その後状況が変わってしまい、一転して追われる立場になってしまった。やがて生家からも裏切られた彼女は行き場をなくし、ついに帝国によって捕らえられてしまうが……その捕らえられた先の帝都で、紆余曲折を経てアイザックに復讐を果たし、鳳に保護されたという経緯があった。

 

 騙したアイザックが悪いとは言え、そのお陰でヘルメスは非常に微妙な立場に立たされていた。だから、本来ならば神人で貴族でもある彼女の出産は、大勢の人に祝福されるはずであったが、こんな場所でたった一人の使用人だけを頼りに出産に挑んでいたのである。

 

「アリス……アリス、いないの!」

「はい、お嬢様! ここに!」

 

 アリスが助産師に頼まれたお湯を取って戻ってくると、ベッドの上で苦しみに耐えるルナの呼び声が聞こえてきた。彼女はいつの間にかいなくなっていた唯一の身内を探して、さっきから必死に叫び続けていたようだ。

 

 ヤカンを置いて慌てて駆け寄ると、主人は戻ってきたばかりの使用人の冷たい手を引ったくるように、ぎゅっと握りしめた。その手がブルブルと震えているのは、力を込めすぎているからだけではなく、恐らく不安の表れだろう。

 

 握りしめられた手は正直痛いくらいだったが、アリスは主人の手を優しく握り返した。ルナはまるで藁にでも縋るように両手でそれを引き寄せ、助産師に言われたとおりに腹式呼吸をしながら、必死にその手を抱きしめていた。神人である彼女はアリスなんかよりもずっと年上だったのだが、その姿はまるで母に捨てられた赤ん坊のように儚げである。

 

 本当なら、彼女にはもっと相応しい場所があるはずなのに……神人である彼女の出産は、非常に稀な慶事だった。少なくとも、アリスが生まれてから神人が子供を産んだという話は聞いたことなく、本当なら縁のない遠くの偉い貴族でさえ、駆けつけてくるくらいの出来事だった。

 

 それがこんな寒風の吹きすさぶ公務員の宿舎で誰からも祝福されること無く、家族にすら見捨てられ、一人ひっそりと子供を産むなんて……ルナが一体何をしたというのだろうか。アリスは悔しくてならなかった。

 

 だが、そんな不満顔を主人に見せるわけにはいかない。今誰よりも不安なのは、間違いなく彼女なのだから。アリスはそう考えると、気を取り直し、必死に彼女の手を握りしめる主人に向かって頑張ってと声援を送り続けた。

 

 やがて、どれくらいの時間が過ぎただろうか……気がつけば主人と一緒になって、ヒッヒッフーと腹式呼吸を続けていたアリスは、いつの間にか酸欠みたいに頭がボーッとしてしまっていた。出産の立ち会いが、思いのほか緊張を強いていたのかも知れない。食事を摂るのも忘れて励まし続けていたせいもあるかも知れない。

 

 ともあれ、そんなぼんやりとしていた彼女の耳に、突然、赤ん坊の大きな泣き声が聞こえてきた。ハッとして目をやれば、いつの間に取り上げたのだろうか、助産師が赤ん坊を抱いて嬉しそうに差し出していた。まるで時が止まってしまったかのように、アリスは固まった。

 

「元気な男の子ですよ」

 

 もしかして、助産師は彼女に赤ん坊を抱っこしろと言っているのだろうか? 見ればベッドの上でいきんでいたルナはぐったりしており、とても赤ん坊を受け取れるような状態ではなかった。かと言って、いつまでも助産師に赤ん坊を預けておくわけにはいかないだろう。

 

 アリスはゴクリとつばを飲み込むと、おずおずと手を差し出した。助産師は手慣れた様子でパッと彼女に赤ん坊を渡すと、にこりと笑って片付けを始めた。抱きしめた赤ん坊はびっくりするくらい熱くて、猫みたいな声を上げていた。

 

 それからまた時が過ぎた。

 

 出産の疲労でぐったりしていたルナもようやく落ち着きを取り戻し、助産師は片付けを終えると去っていった。これから数日は大変だろうが、まあ辛くても死にはしないからと、彼女はあっけらかんと去っていった。

 

 出産のために鳳が見つけてきてくれたのだが、事情が事情だけに誰もやりたがらない仕事を、彼女は嫌な顔ひとつ見せずに買って出てくれた恩人であった。二人はいつか彼女にもお礼をしなきゃねと言いながら、今はすやすやと眠っている赤ん坊の顔を覗き込んだ。

 

 赤ん坊は、籐で編んだ揺り籠の中で、シーツにくるまれて眠っていた。ルナが起きてからはずっと母親の彼女が抱いていたのだが、まだ首の座ってない赤ん坊をいつまでも抱いていた緊張からか、少し疲労の色を見せ始めていたので、赤ん坊が眠った頃合いを見計らってベッドに移した。

 

 彼女は手放すのを惜しんだが、揺り籠の中に収まっていたらいたで、それはそれで可愛いらしく、ずっと上から赤ん坊の寝顔を見つめていた。その微笑ましい姿に、アリスは今までやってきた苦労が全部吹っ飛び、なんだか救われたような思いがした。

 

 思えば生命を狙われて家を飛び出してきてから、彼女の主人がこんなにも柔らかい表情を見せたのは、これが初めてかも知れない。それもこれも、本来なら殺されても仕方なかった主人を助けてくれたヘルメス卿のお陰である。アリスは胸の中で感謝の言葉を呟いた。

 

 と、その時だった。

 

 コンコン……っとドアをノックする音が響いて、部屋にその鳳がやってきた。

 

「まあ! ヘルメス卿!」

 

 お付きの神人二人を引き連れて、暫定ヘルメス卿である鳳が部屋に入ってくると、さっきまで自分の赤ん坊をうっとりと眺めていたルナの顔が輝いた。

 

「お疲れのところ、押しかけて申し訳ない。先程、助産師さんから報告を受けて、気になったんで少し様子を見に来ました。なにはともあれ、おめでとうございます。大変なお仕事でしたがよく頑張りましたね」

「まあ、なんて嬉しい。ありがとうございます。私はいつもお世話になるばかりで、あなたに何もして差し上げられないのに、そんな嬉しいことを言っていただけるなんて、これ以上無い喜びですわ」

「いや、そんな畏まられても困っちゃうんですけどね」「おめでとう」「おめでとう」

 

 苦笑気味に口端を引きつらせている鳳の背後で、お付きの神人たちも祝辞を述べていた。ルナは昔の仲間たちにお礼を返しながらも、その視線はずっと鳳に釘付けだった。と、その時、彼女は自分が少し汗ばんだ寝間着であることに気がついて、恥ずかしそうに毛布を引き上げると、まるで少女みたいに顔を赤らめた。アリスはそんな主人のために慌ててカーディガンを差し出しながらも、おやっと悪戯心が湧き上がった。

 

 もしかして、ルナは鳳のことが好きなんだろうか?

 

 まあ、今までの経緯を考えると、彼女が惚れてしまうのも無理はないだろう。ヘルメス卿は下手をすれば処刑されていてもおかしくない自分たちを救うどころか、こうして住むところまで提供し、身重のルナをサポートまでしてくれたのだ。これ以上何を望むというのだろうか。

 

 アリスは、赤ん坊の親は別人だが、ヘルメス卿がこの子の義父に……ひいてはルナの旦那様になってくれたら嬉しいなと思い、ふと思いつきを口にした。

 

「そうだ! 勇者様? もし良かったら、赤ちゃんを抱いてみませんか。こんなにお世話になったあなたに抱いてもらったら、きっと赤ちゃんも喜びますよ。ねえ、お嬢様?」

「え? しかしご迷惑では……」

「え? いいの?」

 

 アリスが突然そう提案すると、ルナは驚いた様子を見せたが、思いがけず鳳の方は乗り気なようだった。普通、男性は赤ん坊を抱くことを嫌がるそうだが、彼はそう言うことをあまり気にしないらしい。

 

 アリスがこれ幸いと、少し強引に主人に勧めると、戸惑っていたルナも鳳の反応が好意的なことに気がついたらしく、すぐに願ったり叶ったりだと言わんばかりに破顔し、

 

「え、ええ、良かったら。是非、この子も喜びますわ」

「なら、せっかくですし」

 

 鳳が返事をかえすと、ルナは嬉しそうにベッドのすぐ脇に置いていた揺り籠に手を伸ばした。バランスを崩したら大変だと、慌ててアリスが主人を手伝う。二人はそうして、揺り籠の中で眠る赤ん坊を起こさないよう、慎重に籠を持ち上げると、ソワソワしている鳳にも顔が見えるように、そっと揺り籠を傾けた。

 

 と、その時だった……

 

 母親であるルナが息子をうっとりと見つめているその頭上から、籠の中を覗き込んだ鳳の顔が、ほんの一瞬、妙な感じに歪んだように見えた。

 

 アリスはその彼が一瞬だけ見せた表情に、「あれ?」っとした違和感を感じたのだが……そう思った瞬間にはもう鳳の表情は普段どおりに戻っており、彼女は気のせいかなと疑問を引っ込めた。しかし、

 

「さあ、どうぞ、ヘルメス卿」

 

 ルナが揺り籠の中を指しながら、赤ん坊を抱くよう笑顔で鳳に勧めるも、ところが彼は急に余所余所しそうにそこから離れだし、

 

「あー……やっぱりまたの機会にするよ」

「え!? でも……せっかく来てくださったのですから」

「いや、よく眠ってるし、起こしちゃうのも可哀想だなって」

「はあ……」

「ごめんよ、せっかくの厚意を……あー……おっと、そうそう、そんなこと言ったら、女性の部屋に男が大勢で押しかけるのも失礼でしたね。ペルメル、ディオゲネス、俺たちはそろそろお暇するとしようか」

 

 鳳は突然矢継ぎ早にそう言うと、やたら居心地が悪そうにバタバタと踵を返してしまった。その変化があまりにわざとらしかったから、お付きの神人も怪訝に思い、

 

「……よろしいのですか? ヘルメス卿」

「いや、だから俺はヘルメス卿じゃないよ。今日はルナさんもお疲れだろう、機会はまたいつでもあるから」

 

 彼は振り返りもせずにそう言うと、不思議がる神人たちを置いて部屋から出ていってしまった。あっけにとられた彼らは、暫し沈黙をした後、

 

「……では、我々も帰るとしよう。ルナ、まずはしっかり養生しろよ」

「我々はすぐそこの庁舎にいる。必要なものがあれば言ってくれ」

 

 二人はそう言うと、先に出ていった鳳に追いつくために、少し足早に部屋から出ていった。

 

 バタンとドアが閉まって、部屋に沈黙が訪れた。彼らが来る前は、曲がりなりにもそれなりに会話があったというのに、今はどちらも口を開きたくない気分だった。赤ん坊は揺り籠の中ですやすやと眠っている。

 

 ルナは揺り籠の中からそっと自分の息子を抱き上げた。まだ首が座っていないから慎重に、ゆっくりと腕で包むように胸に抱くと、ぐっすりと眠るそのプニプニとした額をそっと指でつついた。赤ん坊はまるで天使のように穏やかな表情で眠っている。鳳は起こしちゃ可哀想だからと言っていたが、そんなのはきっと杞憂だったに違いない。

 

「……ヘルメス卿は赤ちゃんがお嫌いだったのかしら」

 

 そんな主人のため息交じりの声を聞いて、アリスはいたたまれない気分になった。自分が彼に赤ちゃんを抱いてみてと持ちかけなければ、きっと彼女はこんな気持ちにはならなかったに違いない。アリスはどうにか彼女を元気づけられないかと、そんな彼女の姿をじっと見続けていたが……ふとその時、アリスはその赤ん坊を抱えて寂しげにしている主人の姿を見て、急にもやもやとした不安を感じた。

 

 ルナも自分もひと仕事を終え、ホッとするばかりで忘れていたが、考えてもみればこれから先、子供を抱えた自分たち二人は、どうやって生きていけばいいのだろうか。

 

 家を飛び出してきたルナに帰る家はない。そもそも、赤ん坊を殺そうとした人たちのところになんて、帰ってこいと言われたところで戻りたくないだろう。かと言って、お嬢様のルナが子育てしながら逞しく生きていけるほど、この世界は優しくも甘くもない。

 

 恐らく、何も言わなくても、鳳は自分たちに便宜を図ってくれるに違いない。だが、だからといって、その厚意に甘んじていても良いのだろうか。

 

「そうだ! お嬢様。あまりに突然のことでうっかりしましたが、私はまだ勇者様にお礼を言っていませんでした。まだ追いつけそうですから、少し待っていてくださいませんか?」

 

 アリスはそう言うと、主人の返事も待たずに部屋を飛び出した。背後からルナの制止の声が聞こえていたが、彼女は意識的に無視して、パタパタと廊下を駆け出した。

 

 どちらにせよ、お礼を言いたいのは本当だった。彼女は鳳たちがまた隣の庁舎へ戻るために玄関に向かったと当たりをつけると、一直線にそちらへ向かった。

 

 果たして彼女の予想は正しかった。間もなく、玄関前の広間に差し掛かる廊下の隅っこに、ずんずんと進む男三人の姿を見つけた。彼女は待ってくださいと大声で呼びかけると、おやっとした表情で振り返った鳳の元へと駆け寄った。

 

「お呼び止めして申し訳ございません。お忙しいところ、せっかく来てくださったのにお茶も出さずに、気が利かず、それどころかお礼すら言い忘れていたことに気づいて、慌てて追いかけてきました」

「そんなこと気にしなくていいのに」

「そんなわけには参りません」

 

 アリスはきっぱりと首を振って否定すると、お仕着せのスカートの裾をつまんで恭しく鳳に向かってお辞儀をした。

 

「この度は本当に何から何まで、お嬢様のために尽くしていただき、ありがとうございました。あなたのそのお慈悲がなければ、私たち二人は今ごろ野垂れ死んでいるところでした。こうして無事に赤ちゃんが生まれたのも、全てはあなたのお陰です。お嬢様に代わって感謝いたします。ありがとうございました。私も肩の荷が下りました」

「そう、良かったね」

「はい。それで……勇者様」

 

 アリスはおずおずと上目遣いに続けた。

 

「つきましては、早速、この御恩を返させていただきたく思っております。ですが、私もお嬢様も、これと言って財産がありません。ですから、どうかこれからは、あなたの手足と思って私をお使いくださいませんか?」

「ええ!? いいってそんなの、大げさだな」

 

 鳳が面食らっていると、横で聞いていたペルメルが一歩踏み出して、

 

「控えろ、人間。ヘルメス卿に近づきたいのはわかるが、打算がすぎるぞ」

 

 しかし、アリスは臆することなく前を向くと、

 

「打算も何も、私はこの身を差し出す以外に、何も持ち合わせていないのです。私は生まれた時からデューイ家の使用人となるべく育てられ、お嬢様の身の回りを世話する以外に、どんな仕事もした経験がありませんでした。そんな私が自信を持ってやれることは、炊事洗濯などの家事くらいのもの。もちろん、勇者様がおっしゃるならば、どんな仕事だって厭いませんが、どうか哀れだと思って一度チャンスを与えてはもらえませんか。きっと、お役に立ってみせます」

 

 鳳は、挑むようなアリスの瞳を受けて、迷惑そうに視線を逸らした。彼女はその仕草を見て、駄目だったかと諦めかけたが、ところが鳳は彼女から視線を逸らすと、少し伏し目がちに思案げな表情を見せ、

 

「別にそんなことしなくても、君たちをいきなり放り出したりなんかしないよ」

 

 アリスはぶんぶん首を振って、

 

「寧ろそうしていただいた方が気が楽なくらいなのです。勇者様の御恩に、何一つ返せないことのほうが、私には苦痛なのです」

 

 鳳はその言葉を受けてため息交じりに、

 

「……そうか。まあ、そうかも知れない。ならそうしなさい」

「よろしいのですか? ヘルメス卿」

 

 鳳が彼女の提案を受け入れると、それを横で聞いていた神人二人が困惑気味に確認してきた。彼はそんな二人に面倒くさそうに頷いて、

 

「俺が彼女の立場だったら、一方的に与えられる厚意なんて、気持ち悪くて仕方ないだろうよ。俺も、上から目線で、与え続けているだけでは具合が悪いんだ。どこかでこの関係を断ちたい。だからこれはギブアンドテイクみたいなものさ」

「はあ……そう言うものですか」

 

 鳳は少女に目線を合わせるように少しかがみながら、

 

「アリスって言ったね?」

「はいっ!」

「それじゃ、明日から君には俺の執務室で雑用をやってもらおう。朝になったら、隣の庁舎に出勤しなさい。定時まで務めたら、夕方にはお嬢様のところへ帰るように。それでいいね?」

「あ、ありがとうございます……ありがとうございますっ!」

 

 鳳はそんな彼女の元気な返事を受け取ると、また少し複雑そうな表情を見せてから踵を返して去っていった。二人の神人がその後に続く。アリスはそんな後ろ姿が見えなくなるまで、いつまでも見守っていた。

 

 やはり、鳳は優しい人だったのだ。そう確信し、アリスはホッと胸をなでおろした。そうでなくては、いくら事情があるとはいえ、アイザックを殺してしまったルナのことを助けてくれるわけがないではないか。彼は縁もゆかりもない、何の役にも立ちもしない身重の女性を、ただその道徳心だけで助けてくれたのだ。本当に素晴らしい人は居るんだなと、彼女は神に感謝した。

 

 それにしても……あの時、鳳がルナの赤ん坊を見た時の、あの表情は何だったのだろうか。あれはなんと言うか、まるで不倶戴天の敵でも見るような、もしくは汚物でも見るような、非常に棘のある顔だった。もしかして、本当は子供が好きじゃなかったのだろうか? それにしては、最初は嬉しそうにしていたのだが……

 

 アリスは少々気になったが、すぐに首を振るとそれ以上考えないことにした。こんなにも、自分たちに尽くしてくれる人なのだ。子供が嫌いだったら、そもそも助けてくれなかったに違いない。だからあれはアリスの見間違いだったのだろう。

 

 ともあれ、これからどうやって生きていけば良いのだろうかと不安に思っていたが、首尾よく仕事をもらうことが出来た。これで暫くは安泰だろう。きっとルナも喜んでくれるはずだ。彼女はそれを伝えたくて、いそいそと飛び出してきた部屋へと戻った。案の定、ルナはアリスの報告を聞くと嬉しそうにしていた。寧ろ、自分こそがヘルメス卿のお役に立ちたかったのにという彼女の顔は、まるで恋する乙女のようだった。

 



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ヘルメスの内政問題

 鳳がヘルメス卿に就任したのは、それもこれも、身重のルナを助けたいためだった。かつての仲間の子を身ごもった彼女を、見捨てることが出来なかったからだ。

 

 しかし、そのルナの子供が産まれたからと言って、これで何もかもが終わったわけではなかった。アリスの打算的な就職活動もさることながら、寧ろこれからどうやって生きていくのかが問題なのだ。その目処が立つまで、結局鳳はヘルメス卿を降りるわけにはいかなかった。

 

 明けて翌朝、言われた通りに執務室へと出勤したアリスは面食らった。なにはともあれ新たな上司にやる気のあるところを見せようと、まだ誰も登庁していない早朝にやって来たと言うのに、そこにもう鳳の姿があったからだ。

 

 と言っても、彼女が来る前に既に来ていたというわけではなく、昨日、仕事をしたままそこで眠ってしまった感じであった。しかし、昨夜はルナの見舞いに来たときはもう夜も更けていたはずだ。すると彼はあの後、またここへ戻ってきたということだろうか。アリスは恐る恐る、彼の顔を覗き込んだ。

 

 うず高く積まれた書類のタワーに隠れるように、備え付けのソファの上で丸くなっていた鳳の顔は驚くほど白くて、まるで死人のようだった。実際、近づいてその寝息を聞くまで、アリスは彼が死んでいるんじゃないかと、自分の目を疑ったほどである。

 

 それにしても、いつもこんな風なのだろうか。執務室の中は散らかり放題に見えて書類の束だけは几帳面に積まれており、それでいてどことなく生活感が溢れていて、この部屋の主がほとんど家にも帰らず仕事ばかりしている様子が窺えた。そう言えば、ルナの世話をしている時に、鳳のことはいつもこの庁舎で見かけていたが、彼がすぐ隣りにある家に入っていく姿を見たことは一度も無かった。

 

 まさかここに住んでいるんじゃないだろうか……そんなことを考えつつ、アリスが彼の顔を覗き込んでいた時だった。聞こえていた寝息が急にピタッと止まったかと思えば、パチっと鳳の目が開いた。

 

「……おはよう」

「お、おはようござますっっ!!」

 

 びっくりして心臓が飛び出そうになっているアリスに対し、鳳は寝起きだと言うのに妙に冷静な表情で挨拶を交わした。そして、ぐいと上半身を起こすなり、戸惑っている彼女を尻目に懐から何やら取り出して、

 

「……未だ早朝じゃないか。どうしてこんな早くに?」

 

 彼は懐中時計で時刻を確認するなりそう尋ねた。彼女はこんなに小型の時計を生まれて初めて見たことに驚きつつも、

 

「その……起こしてしまって申し訳ありません。初仕事だから、絶対に先に来ておきたくて」

「なるほど」

 

 鳳は懐中時計の蓋をパチンと閉じると、ゼンマイを巻いてからそれをまた懐にしまった。彼女の言いたいことは分かった。これから世話になる上司に、やる気があるところを見せたかったのだろう。彼は一定の理解を示しつつも、

 

「気持ちは分かるけどね。でも、ここまで気合を入れて早く来る必要はないよ」

「申し訳ございません。勇者様はよくここに泊まってらっしゃるのですか?」

「いや、そんなこともないんだけど……昨日はちょっと、食べすぎてしまってね。お腹いっぱいでうつらうつらしていたら、そのまま眠ってしまったようだ」

 

 てっきり仕事が忙しいのかと思いきや、思ったよりもしょうもない理由にアリスは苦笑を漏らした。

 

 彼はそんな彼女の顔をまじまじと覗き込みながら、何か異質なものでも見るような目つきでジロジロと見つめた。そのプラスチックみたいな目玉が、まるで爬虫類のように見えて、アリスはもしかして気分を害してしまったのかなと思い焦ったが、

 

「……あんなに食べるつもりは無かったんだけどね。何故かどうしても食欲が収まらなくて……いや、そんなことはどうでもいいか」

 

 彼はそんな具合に一人で勝手に納得すると、

 

「それよりも、こんなに早くに居るんなら、もしかして君はお嬢様がまだ眠っているうちに出てきてしまったんじゃないか?」

「は、はい。昨晩は私もお嬢様も、赤ちゃんに何度も起こされていたので、お嬢様もきっとまだ眠いだろうと思いまして」

「そう。なら、頼んでおいた乳母にもまだ会ってないね?」

「え!? 乳母?」

 

 全く想定外の言葉が出てきて、アリスは素っ頓狂な声を上げてしまった。鳳は戸惑う彼女と対象的に、相変わらず冷静な態度で、

 

「昨日、君と別れた後、冒険者ギルドに行って頼んでおいたんだ。日中、君が仕事をしている間、君のお嬢様が一人では大変だろうと思って」

「そんな……そこまでしていただく理由はありませんわ。昨日話し合って、お嬢様もそのつもりでいらっしゃるのですが……」

「そう言うと思ったけど。言っちゃ何だが、君たちは赤ちゃんを産んだことも初めてなら、そのお世話をするのも初めてだろう? その大変さがどれほどのものか知らないはずだ」

「は、はい……」

「だったら、経験者に手伝ってもらったほうが良いだろう。じゃないと、君がここにいる間、赤ちゃんが元気かどうか、俺が気になってしょうがないじゃないか」

 

 鳳は冗談めかしてそう言ったが、アリスは額面通りにそれを受け取ってしまって恐縮しきりに、

 

「す、すみません、そこまで考えが至らずに……この御恩もまた別の方法で返させていただきます。出来れば、夜もここで働かせていただけませんか? ……乳母の方のお給金は、そこから建て替えさせていただければ」

 

 鳳はその言葉に慌てて首を振ると、

 

「いや、俺がしたくてやってることだから。君が責任を感じることじゃないよ。忘れているかも知れないが、あの赤ちゃんは俺の友人の忘れ形見でもあるんだ。だから厚意を素直に受け取って欲しい」

「……申し訳ございません」

「謝るようなことじゃないんだけどね……」

 

 鳳は肩をすくめると、これ以上この話は無しだと言わんばかりに、

 

「それじゃ最初の命令だ。まずは宿舎に戻って、やってくる乳母に挨拶してくること。これからお世話になる人だから、失礼のないようちゃんと話を聞いてきてね」

「はい。挨拶が済み次第、すぐにこちらへ戻ってきます。何から何まで、本当にすみません」

 

 アリスは真っ赤になりながら、何度もペコペコお辞儀して部屋を出ていった。気合を入れて早朝に来たのに、かえって鳳に気を使わせてしまった。反省しなければ……彼女は踵を返して部屋のドアをくぐると、そのドアが閉まる直前に見えた部屋の光景を思い出しながら、そう肝に銘じた。

 

 去り際見えた部屋の中では、もう執務机の前に座った鳳が仕事を始めていた。話でしか知らないが、戦場の彼はどんな魔物も物ともしない、屈強な戦士であるらしい。なのに全く偉ぶったりもせずに、あんな熱心に仕事までするなんて、世の中には凄い人がいるのだなと彼女は思った。

 

**********************************

 

 乳母に挨拶をした後、アリスは改めて庁舎へ出勤してきた。赤ん坊はまだ生まれたばかりで目が離せず、実際、ルナ一人では手に負えなかっただろう。鳳の機転がなければどうなっていたことか……アリスはそのことに改めて感謝しつつ、再び執務室へと戻った。

 

 室内に入ると昨日会った神人二人も既に登庁していて、鳳と顔を突き合わせて難しい話をしていた。新ヘルメス卿となった鳳の元へは陳情が続いており、彼らはその一つ一つを聞いて慎重に吟味しているようであった。

 

 戦争が続いたヘルメス領内は、今は見た目以上にボロボロらしい。

 

 まず、この国が抱えている最大の問題は、なにはともあれ飢饉であった。戦争のせいで農繁期に労働力が不足したため、国内は現在深刻な穀物不足に陥っているらしい。また、昔ながらの農奴制を取っているため経済も停滞しており、おまけに戦後のどさくさに紛れて野盗が横行し、治安の悪化も著しかった。

 

 他にも、一時的に冒険者ギルドが閉鎖されていたせいで、大森林から流れてくる魔物の退治が追いつかず、女子供に犠牲者が出ているようだった。更に戦場となった河川の近隣では、無数の死体が放置されたせいで疫病も発生しているらしい。

 

 これらの諸問題だけでもまいってしまいそうになるが、鳳の後任を巡ってロバート派とクレア派の間でいざこざも尽きないらしく、陳情には鳳にこのままヘルメス卿として留まってくれというものもあった。

 

 だが彼はこれらの言葉を一蹴し、いずれどちらかに後任を譲るつもりで居るようだ。世の中には権力を手に入れるためにいくらでも汚いことが出来る連中がいる一方で、どうしてそれを求められる人間の方は潔いのか。

 

 ともあれ、いずれ権力を譲渡するという目標がある分、鳳の内政方針はある意味とても分かりやすかった。後任が困らないように、自分の影響力を極力排除することである。

 

 例えば、現代人である鳳からしてみれば、工業化などの強力な改革はいくらでも思いつくし、ある意味では手堅い方法と言えた。だが、いずれいなくなる自分がそんなことをしたら、後々混乱を招きかねない。だからあまり時代を先取りしすぎることは避け、今あるもので堅実な成長を促すことを心がけたのである。

 

 また、彼が動けば海外……特に勇者領から強力な援助を取り付けることも可能だろう。だが、そうすれば領民はますます勇者に依存しかねず、彼がいなくなり援助が打ち切られた時、果たして自ら歩き出せるだろうか。そうならないよう、今すぐにも自助努力を促したいのだ。

 

 しかし、せいぜい中世の農奴社会であるこの国で、農民にやれることは少なかった。例えば、食べるのにも切羽詰まってるなら、普通なら家財道具を売ったり、家内手工業で食いつなぐことを思いつくだろうが……実はそうしたくても、この国の農民にはそうする権利がなかったのである。農奴社会において領民は領主の所有物であり、勝手に商売することは禁じられていたからだ。

 

 簡単にこの国の政治体制を説明すれば、五大国の〇〇卿と呼ばれているのは、正確には侯爵のことであり、立場的には帝国に属する国王と考えればいい。彼らがそれぞれ統治する国には、大勢の神人貴族が小領主……いわゆる荘園主として存在している。そしてその貴族は自分たちの領地で奴隷を働かせ、そこで得た作物を租庸調として侯爵に献上していた。

 

 こうして貴族のために働く奴隷に自由はなく、彼らは生まれてから死ぬまで土地に縛られ、畑を耕すことだけを生業として一生を過ごしている。そんな彼らが私財を持てるわけもなく、今回の戦争と飢饉のダブルパンチで、成すすべがなくなってしまったというのが、今の国内事情だった。

 

 さて……鳳はこの状況を打破すべく、まずは関所撤廃を行った。領民に国内の自由な移動を許可したのである。

 

 先も言った通り、帝国領内は神人貴族の荘園ごとに自治が行われており、領民の財産は領主のものとされている。だが、領民が飢えて死んでは元も子もない。死なない程度に稼がせてやる必要がある。そのためには移動の自由と、市場が必要だろう。

 

 彼はそのことを強調しつつ、荘園ごとに市場を設けることを貴族たちに飲ませた。市場は座代を払えば誰でも好きに商売が出来、貴族はショバ代と売上金へ掛ける税で潤うという寸法である。要するに楽市楽座を取り入れ、国内の流通改革を促すのが目的であった。

 

 貴族は領民が勝手に出歩くことを嫌ったが、座代で必ず自分たちが儲かるということで、最終的には折れた。いきなり商売をしてもいいことになった農民は面食らっていたようだが、座して死ぬくらいならと、やがて嫌でも動き出した。こうして自由な行動を保証することで、どうにかこうにか国内は経済活動を再開していったのである。

 

 しかし、人の移動を自由にすることは良いことばかりでもない。人や物が移動すれば、それを狙った盗賊のような悪い連中も移動するからだ。

 

 農民は商品を売るために、自分の住んでいる領地ではなく、出来るだけ遠くの領地まで売りに行く傾向が強かった。当たり前だが、自分が持っているものは隣近所も持っているので、そうした方が儲かるからだ。だが、そうして遠くまで行こうとする農民は、ある意味野盗からすればカモだった。間もなく、国内で強盗事件が頻発し、鳳はその対応に追われることになった。

 

 しかしまあ、これもある意味予想の範疇であった。何しろ、そのために彼はヴァルトシュタインという将軍を得ていたのである。

 

 国内で強盗が相次ぐようになると、彼はすかさず軍政改革を行った。盗賊を取り締まるために、憲兵ではなく、徴兵を基本とした軍を常設化したのである。

 

 普通、軍隊は招集するだけでお金が掛かる。だから近代になるまで平時は軍隊を所有しない領主が多かったというのに、この飢饉の中でそれと逆行するような行動を取ったのはいささか不自然かも知れない。

 

 だが、もちろんこれにも理由はあった。先に種明かしをすれば、のちのち検地……つまり戸籍調査を行うためだったのだ。

 

 帝国は貴族による領地経営を認めているため、正確な人口と言うものがさっぱりわかっていなかった。戦争になったら帝国は貴族たちに、何人兵隊を出すようにと命じるだけで、それ以上のことはしてこなかったのだ。だから貴族は自領の人口を誤魔化すのが慣例となっており、国も人頭税のようなものを取っていなかったのである。

 

 鳳はそれを是正するために、古代の中国に倣って伍を導入した。伍とは江戸時代や戦時の五人組制度のことで、日本では特に悪名高い政策であるが……要するに五世帯を一つのグループとして連帯責任を負わせ、必ずグループから一人の兵士を出すように制度を改めたのである。

 

 もしも兵士を出さなかったり、やってきた兵士が逃げ出したりしたら、その五世帯が連帯責任で重い罰を受けることになる。こうすることによって、国は一定の兵を確保することが出来、また兵士も故郷の家族に対する責任があるから、軍を裏切らないというメリットがあった。軍でもまた伍を規準に分隊を作れば、最初から連帯責任を理解して行動する兵士の出来上がりという、おまけ付きである。

 

 鳳はこうして得た兵をヴァルトシュタインに預け、彼はその兵士を訓練して屯田兵とした。ヘルメス軍は領内の盗賊を追って移動し、移動した先で畑を耕す。こうして不足していた人手の解消も出来るという一石二鳥の策だった。

 

 問題は、やはり軍を動かせば金が掛かるということだったが、いずれ正確な戸籍調査が行われれば、それも税金で養えるようになるだろう。それまではひたすら野盗を潰し、畑を耕してもらって糊口を凌いでもらうしかない。

 

 こんな具合に、出来るだけ無理のない改革を推し進めていた鳳であったが……困ったことに、いつも人手不足に見舞われていた。彼にはこれらの政策を理解し、内政を取り仕切る文官が必要だったのだが、それらしい人材を探しても、なかなか見つからなかったのである。

 

 いつもの神人二人も戦闘力はすごいのだが、政治に関してはぱっとせず、いまいち任せきれなかった。そのため、鳳は一人で苦心していたのだが……そんな時、彼はそれこそうってつけの人材に心当たりがあることに、はっと気がついた。

 

 鳳の改革は、あるものを生かして無理のない政策……というものを心がけていたが、要は故事にならって、鎌倉時代から江戸時代くらいまで、暮らしのレベルを切り上げようというものだった。だからその時代を生きていた人物なら当たり前のことばかりであり、それなら丁度いい人材がいるではないか。

 

 鳳は帝都に居た千利休に白羽の矢を立て、彼を招集することにした。死して侘び数寄を続けていた彼は始めこそ難色を示したが、最終的には友人でもあるヴァルトシュタインの説得によって受け入れてくれた。

 

 こうして利休を得た新生ヘルメスは、政治体制も固まり、徐々に落ち着きを取り戻していった。しかし戦争の爪痕はまだ残っており、予断を許さない状況がまだまだ続いていたのである。

 



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ホザンナ

 戦争によって完膚無きまでに荒廃しきっていたヘルメス領も、勇者・鳳を暫定統治者として迎え、ヴァルトシュタインと千利休という人材を得て、ついに落ち着きを取り戻し始めた。こうなれば、元々他国よりも勇者領との結びつきが強い、ヘルメスの景気が上向きになるのも時間の問題であった。

 

 ヘルメス卿に就任した鳳はまず手始めに、首都であるフェニックスの街の再開発を行っていたのであるが、領内景気の上昇を受けて、いつの間にか勇者領からの投機マネーが入ってくるようになっていた。区画整理をして商業の誘致が始まると、これから帝国で商売したい勇者領の商人たちがこぞって進出して土地を奪い合い、そして建設ラッシュが始まった。もう暫くすれば、領内は勇者領からの投資で潤い出すことだろう。

 

 とは言え、戦争から回復しはじめたばかりの領内に、勇者領からの安い商品が大量に入ってきてしまっては、ようやく自立しだした農民たちが太刀打ちできない。いくら国内が潤っても、領民のやる気を削ぐような形にしては元も子もないので、鳳はインフレ抑制のために関税を掛け、市場を監視して回っていたのだが……

 

 捨てる神あれば拾う神ありとでも言うべきだろうか、好景気に潤う商人の影で、バブル景気からふるい落とされた弱者もまた、巷に溢れていたのである。

 

 と言っても、鳳は最初、すぐにはそれが分からなかった。彼にしてみれば見慣れた光景だったから、意識に登らなかったというのが正しいだろう。ある日、彼が街を視察していると、新たに商売を始めた商店主が、みすぼらしい身なりの子どもを追いかけていたのだ。

 

 恐らく万引きでもしたのだろう。気まぐれに助けてやろうとした彼は、しかしそこで、ふと気がついた。よく見れば、追いかけられている子供の他にも、広場にはボロを纏った子供が大勢いたのである。

 

 もしやと思い、慌てて庁舎に戻った彼は、アリスに命じて街の様子を調べてこさせた。いかにも使用人といった風体の彼女に、街の人々は明け透けに答えてくれた。街の開発が進み、景気が良くなってくるにつれて、フェニックスの街に浮浪児たちが集まってきていたのだ。

 

 ありがちな話だが、浮浪者は田舎には住んでいない。田舎にいても食い物にありつけないので、みんな都会に出てくるからだ。案の定、子供たちの出自を調査してみたら、それはヘルメスのあちこちから集まっていた孤児だった。

 

 改革で領内は徐々に景気がよくなっていたが、それは都市部だけで、やはり人の少ない田舎はまだまだ厳しかった。飢饉が続けば弱者から切り捨てられていくのは世の常で、景気回復の恩恵に預かれていない田舎では口減らし行われているようだった。季節はもうすっかり冬で、夏場にろくな冬支度も出来なかった彼らは、そうするより他なかったのだろう。

 

 幸いにも、鳳が貴族たちに義務付けた楽市楽座がセーフティネットとなり、口減らしにあった子供たちはまず市場に集まっていた。しかし田舎は物資にも限界があるので、彼らは風のうわさを頼りに、どんどん都会に向かったようである。

 

 だが、都会に出てきたからといってそれだけで子供たちが助かるわけもなく、彼らはまたこの街で食料を求めて、過当競争を繰り広げていた。領内に溢れている孤児はこれが全てではなく、時間が経てば更に各地から集ってくるのは間違いないだろう。

 

 これらの孤児が都会で逞しく育ってくれるならまだ良いのだが、そもそも口減らしに遭うような子供というのは、家に居ても何の仕事も出来ないような子供ということである。嬰児ならば殺されていたが、そうでないから捨てられた。

 

 体力のある子は他の子から奪ってでも生き残るだろうが、現代で言えばまだ就学前の子供たちが、このまま生きていけるわけがない。今はまだ勇者領からきた裕福な商人たちが施してくれているお陰でなんとかなってるようだが、このまま孤児が増え続ければ、いずれ誰も気にしなくなるだろう。

 

 繰り返すがフェニックスはヘルメスの玄関口なので、その街が浮浪児の死体で溢れかえったりしたら目も当てられない。だから早急に対策が必要なのだが……すぐには何も思いつかなかった。

 

 利休に言わせれば、戦乱の世の中で子供たちが犠牲になるのもまた自然の摂理だった。でなければ鎌倉仏教なんかが広まるわけもないので、その辺は割りとドライのようである。貴族たちに孤児の保護を強く求めることも出来るだろうが、ただ上から目線で命じるだけでは無駄な恨みを買いかねない。鳳はそのうち権力を譲渡するつもりなのだから、やりっ放しで投げ出すわけにもいかないだろう。

 

 どこかに唸るくらい金を持っている篤志家がいれば話は早いが、多分、レオナルドもこんなことには興味を持っていないだろう。ルーシーは元々娼婦の娘で、そういった子供たちのネットワークを持っているようだから、彼女に相談するのは悪くないが……ジャンヌのことをグチグチ言われそうで、あまり気が乗らなかった。

 

 いや、そもそも、犠牲になっているのは子供たちだけではない。普通ににっちもさっちも行かなくなって、首をくくっている大人だってごまんと居るだろう。病気で寝たきりの老人たちだって口減らしの対象だ。彼らも保護してやらねば、不公平というものだろう……

 

 そう考えた時、鳳はふと思い出した。

 

「そう言えば……」

 

 以前、そういう老人たちを世話している人物に会ったことがある。ボヘミアの南部は勇者領の姥捨山になっていて、終末医療に見放された老人たちが、ホスピス代わりに診療所でアヘンを吸いながら死んでいく村があったはずだ。

 

 確かそこに住む翼人の名前を取って、カナンの村と言ったはずだ。あそこには旅の道連れで仲良くなったポポル爺さんが眠っている。これも何かの縁だし、墓参りがてら彼に相談しにいくのも悪くないかも知れない。

 

 鳳はそう考えるや、善は急げと勇者領へと向かうことにした。

 

*********************************

 

 鳳のタウンポータルの魔法は、タウンという冠詞がついているだけあって、人の集落と認定されている場所でなければ繋がらない。例えば、P99の置かれていた迷宮は街ではないから飛べないが、たとえそれが大森林のど真ん中であっても、ガルガンチュアの村は集落だから自由に飛べた。

 

 それ式に言えばカナンの村も同じだから、もっと頻繁に遊びに行っててもよかったはずだが、鳳は今回試すことで初めていけることに気づいたくらいだった。帝国、フェニックス、ヴィンチ村、ニューアムステルダム、大森林……今まで色んな街に飛んだが、どうしてカナンの村に一度も寄ろうとしなかったのだろうか。ポポル爺さんのことを忘れたわけでもないのに、不思議だなと思いつつ、彼はポータルを潜って村へと出た。

 

 久しぶりに訪れた村は、まるで別の村に来てしまったと錯覚してしまうくらい様変わりしていた。あの時、一面に咲き誇っていた白いお花畑はどこにも見当たらず、村は茶色い地面と草木で覆われていた。

 

 もちろん、ケシを育てなくなったわけではなく、要するにシーズンオフだからこうなっているわけだが、普通なら冬のほうが雪化粧で白くなりそうなものなのに、逆に青々とした草原が広がっているのだからなんとも皮肉な話である。

 

 村は相変わらずしんと静まり返っており、たまに家畜の鳴き声が聞こえてくるくらいで、人の気配はほとんどしなかった。爺さんの葬式には大勢の人が駆けつけたのだから、全く人が居ないわけではないのだろうが、外を出歩けるほど元気な人が居ないということだろうか。なにしろここは終末医療の村なのだ。

 

 しかしそれなら、食料のための畑の管理は誰がやっているのだろうか……? カナンの人徳で、近隣の村から集まってくるのかなと思いつつ、鳳は村を横切って丘の上の診療所へと向かった。

 

 畑とは違い、カナンの診療所は以前に来た時のままだった。建物に近づくと、プンと阿片の匂いが漂ってきて、それだけで酔ってしまいそうだった。トントンと扉をノックすると、暫くして中から看護師らしき女性が出てきて、また以前のように鳳の顔をじろりと一瞥してから、

 

「先生! お客さんです」

 

 と言って、返事も聞かずにさっさと部屋の奥へと引っ込んでしまった。

 

 診療所の中は相変わらず阿片窟になっているらしくて、モクモクと煙が充満していてなんとも言えない空気を醸し出していた。その匂いというか、覚醒物質がじわーっと脳内に浸透して来るような感覚は、なんとも久しぶりだった。

 

 実は鳳はヘルメス卿に就任して以来、一度も薬物に手を出していなかった。それは暫定とは言え国のトップになったから……というわけではなく、単に魔王討伐の際にMP回復のために、廃人になりかけるくらい無理矢理クスリをキメていたせいで嫌になってしまったのだ。

 

 クスリに手を出すのはそりゃ気持ちいいからで、義務感でキメても何も面白くはない。それに鳳のMPは今や人類最大を誇り、そのせいか耐性がついてしまって、ちょっとやそっとでは効かなくなっていた。それでも無理矢理キメようとすれば、副作用ばかりが目立って仕方がないから、魔王討伐の後、また死んで体がリセットされたのを機に、クスリを断っていたのである。

 

 思えばここでポポル爺さんと阿片を回し飲みしていた頃が一番楽しかった……あの頃は何の力も持ち合わせちゃいなかったが、お陰でずっと気楽だった。今は責任に振り回され、振り上げた拳の行き先にばかり気を使っている……

 

 などと感慨にふけっていると、奥の方からカナンが現れた。

 

「おや……あなたとは以前、お会いしましたね。確か……」

 

 久しぶりに会ったカナンはやはり天使のようだった。天使のように可愛らしいとか美しいとかそういうわけではなくて、とにかくその背中に生えている翼が、西洋絵画に出てくるような天使を思わせるのだ。だが、彼に言わせれば自分たちはそんな大層なものではないらしく、新大陸には翼人が結構いるそうだ。

 

 マニやルーシーみたいに、獣人との混血が存在するわけだから、彼らもそういった独自の進化を遂げたのだろうか。人間と何をかけ合わせたらこんな風になるのかなと思いつつ、鳳はぺこりとお辞儀すると、

 

「こないだはどうも。俺はポポル爺さんと一緒に来た者ですけど……」

「ああ! そうでしたそうでした。その節はどうも。今日はどうしましたか? またあの時みたいに、阿片を分けて欲しくてきたんでしょうか?」

 

 カナンは人の顔を見るなりそういった。そりゃ、以前の自分の姿を思い返せば、そう言われても仕方ないのであるが……そんなに物欲しそうな顔をしていたのだろうか。鳳は苦笑いしながら、

 

「いえ、今日はそうではなくて……えーっと、ポポル爺さんの墓参りに」

 

 ついでに村のことを聞こうと思っていたのだが、いきなりそんなこと言われても困るだろうと、鳳はまずは遠回しに爺さんのことを言ってみた。カナンはその言葉を聞くと嬉しそうにうんうんと頷いて、

 

「それは殊勝な心がけですね。きっとポポルも喜んでいるでしょう。案内して差し上げますから、少々お待ち下さい」

 

 彼は上機嫌でそう言うと、診療所の奥に向かって少し声を張り上げて、

 

「アスタルテ! お客さんをお墓に連れていきますから、少しここをお任せします!」

 

 カナンがそう言うと、暫くしてから奥の部屋からすっと看護師の女性が現れて、無表情に頷いてまたさっさと引っ込んだ。看護師というのは、病人と接する機会が多いせいか、みんな柔和で優しそうなイメージがあるが、彼女はそういった愛想とは一切無縁のようである。珍しいタイプだなと思いつつ、鳳はカナンに連れられて村の墓地へと向かった。

 

 墓地は高台にある診療所からすぐの崖下にあって、葬式の時に一度来ていたから、案内されなくても普通に辿り着けた。ただ、ここでは毎日のように誰かが死んでいくから、墓石の数は下手な霊園よりもありそうだった。だからなんとなくやってきても、爺さんの墓には一生たどり着けなかっただろう。

 

 鳳はカナンに案内されてポポルじいさんの墓石の前に立つと、既視感のようなものを感じた。墓には特に名前が刻まれていたりはしなかったのだが、とにかくその石の形状や墓の位置から、確かに最近ここに爺さんを埋めたなということを、心の奥底で覚えていたようだった。

 

 あの時、爺さんは火葬もされずに棺桶に入れられたまま葬られていたから、きっと今でもこの墓の下には、彼の死体が眠っていることだろう。もちろん、体組織はとっくに分解されて骨だけになっているのだろうが、それでも火葬とは違い魂はそのまま眠っているような気分になるから、なんとも不思議な感じがした。

 

 しかし、ここにある墓の全てが土葬だとすると、疫病とか大丈夫なのだろうか……などとどうでも良いことを考えつつ、鳳は墓の前で目を閉じて手を合わせた。

 

 彼は別にどんな宗教も信仰してはなかったし、ポポル爺さんもそうだったろうが、ぼんやりと墓を眺めて突っ立っているよりは、こういう場所では信じてもいない神様に祈っていた方が無難であろう。

 

 鳳は目を閉じると、聞く人が聞けば五回くらい聖戦を起こし兼ねない、実にいい加減な神の祈りを捧げた。

 

 一方、その背後ではカナンが両手のひらをクロスさせて、いかにも天使みたいな素振りで祈りを捧げていた。それがあまりにもハマっていたものだから、とても同じ人間とは思えなかった。

 

「聖なるかな聖なるかな聖なるかな……万軍の神よ、主よ、天と地はあなたの栄光に満ちています。ボザンナ。いと高き所にボザンナ」

 

 その祈りの言葉は手慣れていて、本当に彼は天使のようだった。さっきから天使天使と、語彙が貧困で呆れてしまうが、他に形容のしようがないくらい、やはり翼人のその姿は西洋美術の世界の天使にそっくりだったのである。

 

 鳳は祈りの言葉を背後に聞き、感嘆の息を漏らしながら、そう言えば爺さんの葬式のときにも、カナンはこうして祈りの言葉を捧げていたなと思い出していた。あの時は爺さんが死んでしまったショックで何とも思わなかったが、もしかするとカナンは医者であるまえに聖職者なのかも知れない……と考えた時、彼はふと違和感を覚えた。

 

「神よ、この者をお許しください。慈悲深き主よ、彼らに安息をお与えください。アーメン」

 

 そう言えば、あの時も今も、彼は神に祈りを捧げていたが……彼の言う主とは一体誰のことなんだろう?

 

 鳳がそんな疑問を持った瞬間だった。その答えは明確にカナンのその口から告げられた。

 

「主イエス・キリストよ、栄光の王よ。全ての死者の魂を、地獄の罪と深淵よりお救いください。かつてあなたが、アブラハムとその子孫に約束したように」

 

 鳳は飲み込もうとしていた唾液が気管に入り込んで、思わずむせ返った。

 

「なっ!? え!? ちょっ……げほげほごほごほ!!」

「大丈夫ですか?」

 

 祈りの言葉を呟いていたカナンは、突然咳き込んだ鳳の背中を擦りながら言った。鳳は大丈夫と手を振って返し、息が落ち着くのを待ってから、

 

「カナン先生……あなた、もしかしてキリスト教徒だったの?」

 

 するとカナンは目をパチクリさせながら、

 

「ええ、そうですけど。それが何か?」

 

 まるで当然のように彼はそう返すのだった。

 



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まるで天使のような

 ボヘミア南部には家族に見放された老人たちが集まる姥捨山がある。

 

 ヘルメス領は都市部の景気回復とは裏腹に、冬が越せない農民たちによる口減らしが始まっていた。そんな弱者救済に動き出した鳳は、何かのヒントになるかも知れないと思い、かつてポポル爺さんと共に訪れたその村を再訪した。

 

 そこにあった診療所……と言うか阿片窟の主であるカナンは未だ健在で、相変わらず老人たち相手の終末医療に従事しているようだった。神も仏もいないようなこの世界で、何の得にもならないだろうに、どうして彼はこんなに慈悲深いのかと不思議に思っていたところ、ポポル爺さんの墓参りをしている最中にとんでもない事実が判明した。

 

 彼は死者のために祈りを捧げていたのだが、その神とはイエス・キリストのことだったのだ。

 

 まさかこの世界にキリスト教が伝来しているとは思いもよらず、一体どこでそんなものを知ったのかと尋ねてみたら、彼は鳳こそどうしてそんなことを知っているのかと驚きつつも、診療所に帰ると聖書を片手に理由を教えてくれた。

 

「ああ、なるほど、そうでしたか。あなたは放浪者の方でしたか。ならば主イエス・キリストを知ってらしてもおかしくないですね。元はあなたの世界の宗教ですから」

「カナン先生は、どうしてキリスト教徒になったんです?」

「簡単です。新大陸の翼人はみんなキリスト教徒だからですよ」

 

 カナンが言うには、概ねこういうことらしい。昔……と言っても勇者以降の話であるから、今から二百数十年前、宣教師らしき放浪者が現れて熱心にキリスト教を布教していたそうだ。

 

 しかしこの世界は魔物が跳梁跋扈し魔王と勇者が戦うようなファンタジー世界。つい最近魔王が現れ、精霊と共に戦った記憶も新しい彼らに、世界は唯一神がお作りになられたのだと言ったところで誰も信じやしなかった。

 

 失意の宣教師はそれでもめげずに布教に励んでいたのだが……そんなある日、海を渡った彼は、そこで翼人を発見し狂喜乱舞した。鳳も何度もそう思った通り、背中に翼の生えた彼らは天使にしか見えなかったからである。

 

 宣教師からしてみれば、死んで異世界にやってきたところ、そこに天使が存在したのだから、これ以上嬉しいことはないだろう。一神教が存在せずに悲嘆に暮れていた彼は、この出会いを経て逆にこの世界こそが天国(パラダイス)であると確信し、翼人は神の使いであると崇拝しはじめた。

 

 すると、天使と呼ばれて、彼らもまんざらでもないから、翼人のコミュニティではあっという間にキリスト教が広まっていった。宣教師は布教のために聖書を著し、翼人たちに慈愛の精神と、賛美歌を授けた。そして布教を終えると、彼は自分の信じた天使に囲まれながら、満足そうにこの世を去ったのだという。

 

 さて、こうしてキリスト教は翼人の間に広まった。めでたしめでたし……と言いたいところだが、これには後日談があった。

 

 キリスト教徒となった翼人たちは、宣教師がそうしたように、新大陸にやってきた勇者領の人々に布教しようと街へ下りていったのであるが、彼らもまた同じように勇者と魔王、それから神人を引き合いに出されて、

 

「神様だって? だったら奇跡の一つも見せてくれよ」

 

 と言われては黙るしか無かったのだ。何しろ神人は神技(アーツ)古代呪文(スペル)という、正真正銘の魔法を使う。でも翼人は特に力を持たない。イエスが3日後に復活したと言っても、実際に見せてくれなきゃ、そんなの誰も信じないだろう。

 

 殺伐としたこの世界にキリスト教の慈愛精神もなかなか馴染まず、翼人は説教臭いと人々から敬遠された。そして傷ついた彼らは現在では布教を諦め、山奥でひっそりと暮らしているらしい……

 

「まったく嘆かわしいことです……」

 

 カナンはため息交じりにそう言いながら、手にしたお茶をズズズイと啜った。口では残念と言っているが、実はそんなに気にしていないのだろう。まあ、もう昔の話だから、慣れっこになっているのかも知れない。

 

 それに、布教は全く上手くいかなかったわけでもなく、カナンが言うにはこの山の人々はみんなキリスト教徒らしい。

 

 元々この山の人々は、不治の病に侵されて先が長くない老人や、勇者領の競争に負けて逃げてきたいわくつきの人が多いから、彼らには縋り付くための神が必要だった。そんな袋小路に追い詰められたような人にとっては、五精霊や四柱の神より、キリストの教えのほうが受け入れやすかったのだろう。

 

「でも、ここでいくら布教しても、みんな山から下りていかないんじゃ、これ以上広まらないでしょう。それじゃ意味ないのでは?」

 

 鳳がそう指摘するも、カナンはまるで表情を変えずに、

 

「そうですね。布教という点ではその通りでしょう。しかし、それで私たちが弱者救済というキリスト教本来の目的を忘れるようでは、本末転倒というものではないですか?」

「……確かに」

「布教も大事ですが、それ以上に、私たちにとっては、キリストの教えを守ることの方が大切なのです。その昔、私たちは新大陸の人々を教化しようとしていました。しかし、いくらやってもあちらでは根付かず、こちらでボヘミアの方々の手助けをしていたら、いつの間にか人々に受け入れられていたのです。無理に教えを広めようとするよりも、結局、教義を守ることが布教への近道だったのですね。これぞ神の教えというものでしょう」

「ははぁ~……なるほど」

 

 鳳は感心した。結局、神だのなんだの言ったところで、人間食って行かなければならないのだから、宗教家というものはみんな布教に熱心だと思っていた。しかし、この天使みたいな翼人は違うようだ。まずは人々を救い、それから布教をすればいいという彼の考えに、鳳は共感が持てた。

 

「ところで、カナン先生? 実は相談したいことがあるんですが……」

 

 鳳はカナンという人物が信用の置ける人物だと確信すると、ここへ来た本来の目的を果たすことにした。ここへ来たのは爺さんの墓参りのためではなく、孤児問題を解決するヒントがないかと思ったからだ。

 

 カナンは最初は、紆余曲折を経てヘルメス卿になったという鳳の話を胡散臭げに聞いていたが、戦争のせいで領内に孤児が溢れているという話には、すぐに表情を曇らせて同情を見せた。

 

 鳳が、出来れば孤児を助けたいのだが、孤児院を作ろうにもこの世界にはろくな宗教もなく、適任者がいなくて困っていると言うと、カナンはさもありなんと首肯してから、

 

「なるほど、それでここのことを思い出したんですね?」

「そうです。ここでは先生のような人が、死出の旅路を見送っていたり、当たり前のように村人同士が助け合って生きていました。老人たちはともかく、若い人らは山から下りてしまえば楽なのに……どうして上手くいってるんだろうか? って不思議に思ってたんですよ。それで来てみたら、まさか前世の世界の宗教が伝来してたとは」

「そうですね、ここでは家族を愛するように隣人を愛せという、キリストの教えが根付いているのですよ」

 

 鳳はうなずき返すと、

 

「そこで相談なんですが、今ヘルメスでは増え続ける孤児のために、孤児院を作ろうと思っているんです。それで、もし出来れば先生に責任者をお願いできないでしょうか?」

「私がですか……?」

「はい。ここで終末医療を行っていた経験を生かして、そのノウハウをヘルメスの民に伝授して欲しいんです。お金の心配はしなくていいです。もちろん、布教も自由に行ってくれて構いません。寧ろ、キリスト教の奉仕精神なんかを説いてくれるとありがたいくらいなのですが……」

「なるほど。それは魅力的な提案ですね」

 

 カナンはそう言いながら、うんうんと頷いてみせた。それを見た鳳は、良い返事が期待できるぞと思ったのだが、

 

「ですが、お断りします」

 

 真逆の返事が帰ってきて、彼は面食らってしまった。

 

「何故です? 悪い話じゃないと思うのですが」

「そうですね。でも、良い話だからといってホイホイとついていくわけにもいきませんよ。ここには私を頼ってやってくる患者がいる。畑やお墓の管理もある。だから私はここを離れるわけにはいきません。それに、これは個人的な意見ですが、権力と結びついたら信仰はおかしくなりますよ。最初のうちはいいのですが、段々と信仰が政治のための道具になってくる。人は徒党を組むと、かならず争いを始めますからね。そうなるとおしまいです。だから孤児院も、やるんでしたら宗教とは切り離したほうがいい」

 

 カナンはまるで地球の宗教戦争でも見てきたようなことを言いだした。鳳が驚いていると、彼は続けて、

 

「大体、私が行くまでもなく、あなたは既に孤児院を作ると決めてるようではありませんか。なら、どうしてあなた自身がやらないのです? きっと私がやるよりも余程みんなに喜ばれますよ」

「それは……俺は近い内に、ヘルメス卿の地位を譲ろうと考えているからですよ。俺は元々、ヘルメスの地を治めていた一族とは関係がありません。だからあくまで暫定的な措置でしかないんです」

 

 するとカナンは目を丸くしながら、

 

「それじゃ、ますます私なんかの出る幕ではありませんよ。あなたがいなくなった後、後継者があなたの意思を継ぐとは限らないじゃないですか。きっと孤児院なんて、すぐに潰してしまうに決まってます」

「それは……そうならないように言い含めておきますから……」

「他人にあなたの理想を押し付けることなんて、出来やしませんよ。それが出来るのはあなたが権力を握っている間だけです。もし、あなたが本当に孤児を助けたいのであれば、あなたは権力を手放すべきじゃない。でなければ、あなたに縋って集まってきた人々は肩透かしを食い、なんなら不幸にもなるでしょう。何故そんな簡単に、あなたはその地位を手放そうと言うのですか?」

 

 それは耳が痛い言葉だった。カナンの言う通り、理想を掲げるのであれば、権力を手放してはいけないだろう。別に元の領主であるニュートン家に遠慮しているわけではない。ヴァルトシュタインや利休は、鳳だから手伝ってくれているのも知っていた。なのに、もし自分が爵位を譲ってしまったら……改革がストップしてしまう危険性があった。

 

 だが、彼には辞めなければならない明確な理由があった。300年前の勇者の顛末を考えるに、自分がいつまでこのままいられるかどうか、分からないのだ。ソフィアの予想では魔王化は避けられない。そうなる前に、出来るだけ早くヘルメス卿を辞して、解決法を探しに行かなければならないのだ。

 

 だが、そんなこと、目の前の翼人には言えなかった。鳳は自分がいなくなった後、すぐに潰れてしまうかも知れない孤児院経営をしてくれと頼んでいるようなものなのだ。鳳が返答に窮していると、しかしカナンはふっと表情を和らげ、

 

「ふむ。どうやら事情がありそうですね。それが何か気になりますが、まあ、この辺にしときましょうか。別に私は、あなたのことを追い詰めたいわけじゃありませんから」

 

 カナンはそう言ってから、改めて鳳に向かって姿勢を正すと、

 

「さて……あなたがヘルメス卿を辞めるつもりであれば、私たちもそのつもりで動きましょう。孤児院を作るというのなら、せめてその経営が軌道に乗るまではお手伝いさせていただきます」

「……ええ!? 手伝ってくれるんですか?」

「はい。ちょっと脅かすようなことを言いましたが、初めからそのつもりでした。どの道、私は今、あなたから子供たちが犠牲になっていることを聞きました。助けに行く理由など、他に必要ないじゃありませんか」

 

 鳳はそのきっぱりとしたセリフに、ぐうの音も出なかった。

 

 自分はあーだこーだ考えすぎて雁字搦めになっていると言うのに、カナンの方は生き方にまるで迷いがないのだ。一本筋が通っているというか、これが宗教の力なのだろうか。

 

 鳳が感心していると、カナンは続けて、

 

「ただし、さっきも言った通り、私はここを動くことが出来ません。ですから、ヘルメスへは別の人に行ってもらうことになると思います」

「別の人ですか……?」

「はい。私と同じ海を渡ってきた翼人なのですが、この近辺の村を回っている巡回神父で、名前をベル神父と言います。ちょうど今は出掛けていて、すぐには紹介できませんが、信仰に篤い方ですから、事情を話せば必ずオーケーしてくれると思いますよ。孤児院スタッフの人選も、彼に任せておけば大丈夫なはずです。顔が広いですから、信者の方が手伝ってくれると思います」

「本当ですか!? それは頼りになります。出来れば、その人が帰ってくるのをここで待ちたいところですが……」

 

 しかし今やヘルメス卿となった鳳が、そんな悠長なことをしてはいられなかった。今日、ここへ来たのもかなり無理をしており、出来るだけ早めに帰らなければならない。カナンはそのへんの事情も察していると言った感じに、

 

「いえ。一度巡回に行ってしまったら、いつ戻ってくるかわかりません。そんなもの待ってはいられないでしょう。ですから、あなたは紹介状を残していってください。事情は私の方から説明しますよ」

「なんだか、何から何まで押し付けてしまって申し訳ない」

「構いませんよ。私にはそれくらいしか出来ませんから」

 

 鳳が畏まっていると、カナンは軽く請け合いつつも、なお問い詰めるように目を覗き込みながら、

 

「ただ……もう一度、いえ、何度でも口を酸っぱくして言いますが、可能ならば権力は手放さないようにした方が良いですよ。私もベル神父を紹介する手前、孤児院には上手く行ってほしいのですが……あなたが居なくなった後、それがどうなるか責任は持てません。それが確実に上手く出来るのはあなただけなのです。それだけは肝に銘じておいてくださいね」

 

 カナンは何度も念を押してきた。鳳はそれを頭では理解していたが、確証するわけにもいかず、曖昧な返事をかえすことしか出来なかった。

 



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孤児院建設

 カナンの村から戻ってすぐに、鳳は領内の孤児を保護するように貴族に命じた。ただし、無理矢理命じても彼らの反感を買うだけだから、慎重に言葉は選んだ。

 

 景気回復のためには領外からの投資も不可欠だが、その投資先が孤児で溢れかえっていたら魅力も半減だろう。ヘルメスが今後、五大国の経済の中心を目指すにあたって、これでは目も当てられない……と言うと、彼らもその通りであると渋々納得しているようだった。

 

 ただ、それで彼らが言われたとおりに保護を初めたかと言えば、残念ながらそうでもなく、自分の領地から外へ追い出そうとする者が大半だった。まあ、そこまでは予想の範疇だったので黙っていたが、どこの領主がどういう選択を取ったかは部下に命じてきっちりと記録しておいた。ヘルメス卿を辞めると決めている現状、この程度の対抗措置が精一杯である……

 

 それはさておき、この孤児保護令が呼び水となり、領内の孤児の移動は寧ろ促進され、フェニックスの街はいよいよ孤児で溢れかえった。鳳はそれを見てから孤児院の建設を宣言し、街から離れた行政区の隅に予定地を確保。当面、雨風を凌げるようなテント村を作った。

 

 建設を後回しにしたのは、要はどれくらい孤児がいるのか予想できなかったからだが……覚悟はしていたがその数は千を越え、一つの街くらいの規模になっていた。だが、逆に言えばそれで打ち止めだったのは、ある意味、意外だった。

 

 ヘルメス戦争で勇者領へ逃れた人々は数万人を越えていた。だから下手したら孤児もそれくらい集まると思っていたのだが、そうでもなかったのである。また、孤児院を建てると宣言したら捨て子が増えるかと思いきや、そういう気配も特になかった。

 

 それは生活は苦しくても、簡単に子供を捨てるようなモラルがない領民が少ないことの証拠であった。おまけに、孤児院建設と聞いて各地から続々と野菜などの寄付が集まったのは幸いだった。領民は貧乏はしても心までは荒んでいなかったのである。

 

 寧ろ、孤児を保護しろと言ったら逆に追い出した貴族のほうが、よっぽど性根が曲がり切っているだろう。子供たちを養うためにも、こういう連中から領地を奪い取ってしまいたいところだが……いずれ居なくなる身ではそれも難しかった。

 

 そして、孤児院の建設が始まってから数日が経過した頃、いよいよ頼んでおいたカナンの村から助っ人がやってきた。ベル神父と彼の弟子である修道士10名、それからカナンの診療所にいた看護師の女性である。

 

 ベル神父はカナンが同郷と言っていた通り、背中に翼の生えた翼人だった。この大陸では珍しいから、好奇心旺盛な子供たちの注目の的になっていたが、本人はサービスのつもりか翼をパタパタさせながら涼しい顔をしていた。子供に優しいおじさんのようでホッとしたが、逆にいたずらで羽を毟られたりしないかちょっと心配である。

 

 カナンは金髪の美麗な顔をしており、まさに天使と言った感じだったが、こちらは厳つい顔をして筋骨隆々な白髪の壮年の男で、天使というより神様みたいな雰囲気を漂わせていた。と言っても、羽が生えているからそう思うだけで、それがなければ拳法でも使いそうな感じである。また、翼人は神父だけで、それ以外は全員普通の人間だった。

 

 紅一点の看護師……確かアスタルテと言う名前だったが、彼女は神父の部下というわけではなく、子供は病気をしやすいので、医療の心得があるものが必要だと言うことで、わざわざついてきてくれたようだった。そこまで気が回らなかったが、言われてみれば確かにその通りなので、早めに医療スタッフを確保しなければならないだろう。

 

 彼らがカナンからどんな風に聞いて来たかは分からないが、少なくとも孤児院といっても、せいぜい百人程度のものを想像していたようである。ところが来てみたらそこには千を越える子供……それも就学前くらいの小さな子どもだらけなことに面食らっているようだった。正直、こちらとしても恥ずかしいというか申し訳ない限りであるが、ともあれ、彼らはすぐに持ち前の信仰心を発揮して、それを受け入れてくれたようであった。

 

「あなたがヘルメス卿か。私はカナン様から紹介を受けたベルという。以後よろしく」

「遠いところ、ようこそおいで下さいました、ベル神父。今回は大変な仕事を引き受けてくださって、本当に感謝しております」

「孤児院を作るのだと、カナン様から聞いてはいたが、それにしても凄い数だ……子供の世話に長けた者を連れてきたつもりだが、これではまるで数が足りない。用意不足は甚だ遺憾だが、出来れば地元の人を雇う許可を頂きたい」

「もちろんです、すぐに手配しておきましょう。スタッフの人選はそちらにお任せします。他にも必要があれば何でも相談してください。大抵、誰かしらが庁舎に詰めていますから」

 

 神父は鷹揚に頷いた。

 

「見ての通り、あなた方に働いてもらう予定の孤児院は現在建設中です。建設中ですんで、何かリクエストが有ればまだ建物に手を加える余地がありますが、何かありますか?」

「だったら、礼拝堂を一つ作って欲しい」

「ああ、もちろんです。でも、そんなに大きいのは作れませんよ? 子供たち全員を集められるようなのは、それこそ教会を建てたほうがいい」

 

 すると神父は苦笑気味に、

 

「そうではない。物理的にこれだけの人数を集めて礼拝をするのは不可能だ。何か勘違いしているようだが、私は子供たちを教会の色に染めるつもりはない。あくまで私の生き方として聖書があるので、私が神に祈りを捧げる場所を作って欲しいというお願いだ」

 

 鳳はバツが悪そうに肩を竦めて、

 

「こりゃ失礼しました……なら、用途が決まってない部屋がたくさんありますから、その内の一つを空けましょう」

 

 その他にも、鳳は今いる子供たち全員が入れるよう、学校みたいに大きな建物を作ろうとしていたが、話し合いの末に母屋の周りに何件かの小さな施設を建てることになった。子供の成長は早いから、成長するに従って住む場所も変えたほうがいいという考えである。

 

 大きくなった子供はいつかここから巣立っていくわけだが、夜泣きする子や、まだおねしょをしているような子供と、ずっと同じ部屋で寝かせているわけにはいかない。

 

 また中には一人では寝られない子供や、親に捨てられたショックから自閉症気味になってしまった子供もいたり、すぐ癇癪を起こして言うことを聞かない子供もいる。一人ひとり個性が違う子供全員を、少ないスタッフでフォローするのは不可能だから、子供のことは子供同士が面倒を見れるような体制も作らなくてはならない。そのためには班分けをしたり、部屋を分けたりしなければならないだろう。

 

 他にも、自立を促すためには、炊事洗濯などの家事の訓練、畑や家畜などの野良仕事を実地で覚える必要もあり、なら、全員を一つの建物にまとめておくのは寧ろ効率が悪いというわけである。

 

 不思議なものだが、そうして班分けして大きな子供が小さな子供の面倒を見るような体制を整えていくと、孤児院は軍隊に似てきた。と言うか、学校教育というのは、つまるところそれに集約されるのではないか。孤児院には千人からのやんちゃな子供がいるわけだが、これら全員を一つにまとまるよう教育するには、結局軍隊方式が一番効率いいからだ。

 

 例えば一つの命令を一万人に行き渡らせるにはどうすればいいだろうか。一人がマスターすれば十人を教えることが出来、その十人がマスターすれば百人を教化することが出来る。こうしてネズミ算式に命令を徹底させれば、最初は途方も無いと思った人数も、一つの意思で統一することが出来る。

 

 年長者を班長にして、常に5~6人で行動をさせ、連帯責任を徹底する。班長がやって良いことと悪いことを教え、掃除などの仕事を班ごとに競わせ、上手に出来た班は表彰され、サボったりしたら罰を与える。

 

 もちろん、それを上から押し付けるようなことはせず、子供同士で解決出来ることはそうさせる。難しいことは出来るまで、大人が付きっきりで根気よくやってみせる。理不尽な命令は絶対せず、人の見てる前で叱ったりは絶対にしない。

 

 ベル神父は不思議とこうした教育に長けており、孤児院の経営を任されてしばらくすると、最初はあれだけ猥雑だった孤児たちはみるみる落ち着いていった。

 

 親が必要なくらい小さな子供は母性本能が強い子が面倒を見てくれて、それ以外の子供たちは班行動をおこなう。やがて教育が行き届いた班がいくつか集まって、近所の畑を手伝うようになると、孤児院は援助以外の収入を得ることも出来るようになっていった。

 

 すると、子供たちは誰が一番偉いか意識するようになり、インスタの有名人を真似するように、子供たちも神父の真似をするようになっていった。子供たちは食事の前には手を合わせて神に祈りを捧げるようになり、神父や修道士の話を聞きたがるようになった。そしていつしか、孤児院からは賛美歌が聞こえるようになっていた。

 

 孤児院にはその意志に賛同したボランティアが集まるようになっていたのだが、そんな彼らもまた子供たちの歌声に興味を惹かれ、いつしかベル神父の礼拝堂に出入りするようになっていた。

 

 ベル神父がこの街にやってきた時、鳳は布教の自由を約束したが、彼はまったくそんな素振りは見せなかったのに、続々と信者を獲得していった。以前、カナンも言っていたが、信仰とは押し付けるのでなく、実践することで獲得していくものなのだろうか。まるで宗教の標語みたいな出来事だったが、とにもかくにも、孤児院は健全に運営されているようだった。

 



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ギヨームの懸念

 軽やかなピアノの伴奏と共に子供たちのソプラノボイスが風にのって流れてきた。

 

 うっとりするような歌声に、道行く人々は目を閉じて聞き惚れていたが、ギヨームは逆に顔をしかめた。何故ならその内容がいわゆるキリスト教の賛美歌だったからだ。初めて聞いたときにも何となく似てると思ってはいたが、まさか本当にそうだったとは……この世界に来てから数年間、一度も聞いたこともなかったのに、一体どこから紛れ込んだのだろうか?

 

 いや、そんなのはとっくに見当がついていた。ある日、鳳が連れてきた羽の生えた胡散臭い連中だ。以前、ボヘミアでも見たことがあったが、まるで天使みたいな羽を持つおかしな連中が、キリスト教を広めて回っているのだ。

 

 いくらなんでも、こんな偶然があって良いのだろうか?

 

 相変わらず忙しそうにしている鳳を捕まえることが出来ず、確認は取れていないが、ギヨームはなんだか嫌な予感がして仕方がなかった。最近の鳳はやはりどう考えてもおかしい。それはジャンヌを避けているからだと思っていたが、どうもそれだけじゃないのではないか……

 

 別に、キリスト教にアレルギーがあるわけじゃない。そもそも、アイルランドから海を渡ってきた彼の家族はカトリックだったし、家を出てからも新教の連中と付き合いがあった。彼自身は神を信じていた……とは言い切れないが、別段それを否定するつもりもない。

 

 そう言うことではなく、今までこっちの世界でキリストのキの字も聞いたことがなかったのに、天使みたいな連中が現れたと思ったら、急にそれが広まり始めたという事実がおかしいと言っているのだ。

 

 もちろん、単なる偶然ということもありうるだろうが、あの勘の鋭い鳳が、それに気づいていないのだろうか……?

 

「あ……こんにちは」

「よう」

 

 そんなことを考えながら、いつものようにギルド酒場の扉を開けようとしたら、丁度中から小柄な少女が飛び出してきた。少し赤みがかった焦げ茶色のボブカットに、いわゆるお仕着せと呼ばれるメイド服を着ている、ルナの使用人のアリスである。ギヨームが脇に寄ると、彼女はペコリとお辞儀をしてから去っていった。小走りでいつも忙しそうにしているのは、実際に忙しいからだろう。彼女は現在、鳳の使いっぱしりをやっているようだった。

 

 帝都でアイザックを殺してしまった主人のルナを助けるために、必死になって鳳に縋り付いてきた少女である。あの時は、主人のおまけくらいにしか思っていなかったが……別に嫉妬しているわけではないが、今は自分たちが鳳に避けられ、そんな彼女が重用されて存在感を増しているのだから、人生とは分からないものである。

 

 彼女が酒場から出てきたのは、恐らく冒険者ギルドに用事があったからだろう。鳳は最近ギルドに用事が出来ると、自分で直接来るのではなくアリスを寄越すようになった。これまでは用も無いのにギルドに来ては、よくミーティアとくっちゃべっていたのに、今じゃまるで近寄る気配がない。

 

 まあ、今や伝説の勇者でヘルメス卿の彼が来ようものなら、騒ぎになってしまうだろうから、そうならないよう配慮してるという可能性はある。

 

 だが、漠然とであるが、鳳は彼女のことが好きなんじゃないかと……ジャンヌを振ったのはそのせいなんじゃないかと思っていたのだが、ここ最近避けられて元気を失くしている二人の姿を見ていると、流石にちょっとおかしいんじゃないかと、彼は思うようになってきた。

 

 一応、フェニックスの街にギルドが復活してから、一度も来なかったというわけじゃないらしい。ミーティアが言うには営業時間外に一度だけ、こっそりとやってきたことがあるそうだ。その時はルナの赤ん坊が生まれたばかりでベビーシッターを雇いたいと相談に来たらしいのだが……

 

 小腹がすいたと言う彼に、余っていた料理を出してやったら、どうも異様に空腹だったらしく、ものすごい勢いで平らげてしまった。まだ物足りなそうにしていたので、それならと酒場の材料を使って料理してやると、ものすごい勢いで次から次へと食べるから、気を良くしてどんどん作っていたのだが……気がつけば何時間も、とても一人の人間が食べる量とは思えないほど食べていたから、深夜だし、そろそろ止めたらどうかと諭したら、彼は深刻そうな顔をして帰っていったようである。

 

 後から考えてもその様子はおかしかったが、ともあれ、あんなに喜んで食べてくれるなら作りがいがあると、ミーティアはまた彼がやって来るのを待っていたそうだ。だが、それ以来、鳳は一度もギルドに現れず、代わりに用事がある時はアリスを寄越すようになったらしい。

 

「いらっしゃいませー! って、なーんだ、ギヨーム君か。何しに来たの?」

 

 アリスと入れ替わりに酒場に入ると、ルーシーの愛想のいい声が聞こえてきた。彼女は入ってきたのがギヨームだと分かると、露骨に態度を改めた。愛想は良くても歓迎してるとは思えない言葉に憮然としながら、

 

「ここは客を選ぶような店なのか」

「そんなことないよ。でも、ギヨーム君て、いつ来ても何も注文しないじゃない。お酒飲めないし」

「飲めなくても料理は食べられるだろうが」

「じゃあご注文はなんですか?」

「あー……水?」

 

 ルーシーが冷たい視線を送ってくる。ギヨームはコホンと咳払いをしてから、

 

「ところで、さっき鳳のとこのメイドとすれ違ったぞ。あいつ何しに来たんだ?」

「メイドちゃん? いつもどおり鳳くんのお使いだよ。孤児院で必要なものがあるからって、冒険者ギルドに相談しにきたみたいだね。用があるなら直接来るなり、なんなら呼び出してくれてもいいのにね。ミーさんが可哀想だよ」

 

 ルーシーがぶつくさ言っている。ギヨームも概ね同意見だったが、ジャンヌのこともあるから黙っていた。彼は話題を変えるように、

 

「それにしても孤児院か……あいつ、一体どうしちゃったんだろうな」

「どうって?」

「鳳が冷たいやつだとは言わないが、ああいうことに熱心なタイプでもなかっただろう。俺たちを避けてまで、それがやりたいことだったのか」

「そうだねえ……多分、そんなことないだろうけど」

「それから翼人だっけ? 急に妙なやつらと付き合い始めたり、弱者を救えとか言い出したり……あいつ、やっぱちょっとおかしくなってんじゃないか……?」

 

 ギヨームは、当然ルーシーも同意するだろうと思っていたが、ところがルーシーは少し考えるような素振り見せてから、彼の意見とは反対に、

 

「うーん……確かに鳳くんって、こういうことは敬遠しがちなタイプだけど、領主の仕事って考えると、それほどおかしくないんじゃない?」

「なに?」

「弱者救済って、つまり領民の生活を良くしようってことでしょう? それに、孤児院が出来て、正直私は助かっているから悪口なんて言えないんだよね」

 

 ギヨームは彼女が突然変なことを言い出したことに面食らった。助かっているとはどういう意味かと尋ねてみると、彼女は少し落胆するように表情を曇らせながら、

 

「……実は、ここに帰ってきてから、昔の仲間がよく尋ねてくるようになったんだ。鳳くんのパーティーに居たってことで、出世したねって祝福してくれて、だから最初はみんな、冒険の話を聞きに来たんだと思って、嬉しくって何でも答えてたんだけど……そのうち、タカりに来てるんだなってわかってきたんだよ。ヘルメス卿と友達なんだから、私のことお金持ちだと思ってるみたいなんだよね」

「あ~……」

「昔お世話になった人たちだし、私も立場が逆だったら同じことしてたかも知れないから、それは別にいいんだけど……お金なんかないって言っても中々信じてくれなくてさ、で、そんな時、私に子供を預けてそのままドロンしちゃう人が出てきてね?」

「は、はあ!?」

 

 ギヨームは素っ頓狂な声を上げた。ルーシーは苦笑しながら、

 

「ほら、私って娼婦の娘でしょう。だから、周りに恵まれない子供ってのが多かったんだよね。自分自身も似たようなものだったし。お母さんが仕事してる間は、そんな子供たちが寄り集まって遊んでたんだけど……その、昔の仲間が置いてっちゃったんだよ。そういう感覚っていうか。当たり前みたいに。私に子供を預けた方が幸せだって思ったんだろうね」

 

 そう言う商売をしていると、いくら気をつけていても、出来る時は出来てしまう。現代みたいに避妊技術が進んでいたり、人工中絶のような方法もないから、仕方なく出産するという選択を取る女性も多い。そうして生まれてきた子がその後どう育つかと言えば、蛙の子は蛙じゃないが、やはり似たような人生を送りやすいだろう。

 

 ルーシー自身も、まさにそうして生まれてきたから、彼女らのことを悪くは言えなかった。特に彼女は獣人のクォーターという珍しさから娼婦仲間に可愛がられ、学校まで通わせて貰っていたから尚更だった。

 

「そんで、面倒見てって預けられちゃったんだけど、断れなくってさ…多分、待っててももう引き取りには来ないだろうし、どうしたらいいんだろうって困ってたら、丁度その時、鳳くんが孤児院を作るって言い出してね。助かっちゃんだよ」

「……そうだったのか」

「預けたからってそれで縁が切れたわけじゃないから、それからもちょくちょく孤児院に様子見に行ってるんだけど、神父さんや他の先生達もみんな親切で、特に怪しいとか感じたことはないなあ」

「そうかい。悪かったよ」

 

 ギヨームは、まるで陰口を本人に聞かれてしまったような気分になって肩を竦めた。世話になってるなら、彼女に何を言っても無駄だろうなと思っていると、ルーシーはそんなギヨームの目を覗き込みながら、

 

「ギヨーム君は何がそんなに気に入らないの?」

「気に入らないっつーか……」

 

 彼は胸の内に渦巻くもやもやしたものの正体がいまいち掴めず、少し迷いながらそれを口にした。

 

「もしかすると、放浪者とそうでない者の価値観の違いかも知れない。知ってるか? あいつらが孤児に刷り込んでるのは、元々は俺達の世界の宗教だったんだぜ。そこでは翼の生えた天使ってのが現れて、いつか訪れる破滅から人類を救うことになってるんだよ。その姿が奴らに似すぎていて……こんな偶然ってあるのかね。俺はどうもそれが引っ掛かるんだ」

「言ってることが事実なら、確かにちょっと気になるけど」

 

 彼は言葉にしたことで決意が沸いてきたと言った感じに、

 

「……俺、やっぱり一度あいつと直接会って、話してみるわ。もしかすると、おかしな連中に何か謀られてるのかも知れない。そうでもなきゃ、ジャンヌはともかく、俺たちまでこんなに避けることはないだろう?」

「そ、そうだねえ……うーん、そうかも知れない。実は私もちょっと、スカーサハ先生に妙なこと吹き込まれてね」

「スカーサハに?」

「うん。それも気になるから、私も一緒に行くよ。ちょっと待っててくれる?」

 

 ところが、ルーシーがそう言って、エプロンを脱ごうとした時だった。すぐ近くの席にいた人が、突然、不愉快そうに声を上げた。

 

「それであなた方がスッキリしたところで、ヘルメス卿になんの得があるんですか?」

 

 その声に振り返ると、不機嫌そうな顔をした女性がギヨームのことを睨みつけていた。知り合いかと思いきや、まるで面識のない女性にいきなり睨みつけられて面食らっていると、彼女は二人の顔をジロジロと交互に見ながら、

 

「あなた達が、真に彼の仲間だと言うなら、まず対等であらねばならないんじゃないですか。なのにあなた達は彼に答えを求めるばかりで、何も提供しようとしない。あなた達が持ち込む苦情で、彼を更に困らせるだけでしょう」

「なんだお前は、いきなり他人の話に首を突っ込んで来やがって、失礼なやつだな。関係ないお前にそんなこと言われる筋合いねえよ」

 

 突然背後からそんな言葉を浴びせられたギヨームは、内心ドキリとしながらも、持ち前の鼻っ柱の強さでそう言い返した。しかし女性はまるで臆することなくキッと彼を睨み返すと、

 

「関係なくありませんよ。私はベル神父と共に、カナンの村から呼ばれて来た者です。さっきから黙って聞いてれば、私の仲間のことをまるで不審者みたいに言って、失礼なのはどっちですか」

「な、なに?」

 

 まさか関係者がいるとは思いもよらず、ギヨームは動揺した。彼女が誰であるかに気づいたルーシーが、怒られる直前の子供みたいに顔を強張らせている。それを見てギヨームも思い出した。確かカナンの村を尋ねた時、最初に阿片窟のドアから出てきた看護師だ。彼女は不愉快そうな顔を隠さず、寧ろ挑むようにこう続けた。

 

「失礼ついでに言わせて貰いますが、あなた達は勇者パーティーなんて呼ばれて尊敬されていますけど、彼が魔王と刺し違えていた時、あなた達はどこにいたんですか。何故、彼一人だけが犠牲になったのですか。今だってそうです。私には彼は一人で苦しんでいるように見えますが、あなた達には何がどう見えているのですか。付き合いが長いから気安いのかも知れませんが、今彼に必要なのは苦言ではなくサポートなのではないですか。妙な連中と付き合ってるですって……? その妙な連中に頼って、あなた達を頼らなかったことを恥じるならともかく、彼の頭がおかしくなったなんてよく言えましたね。そんなことで次また魔王が現れた時、彼についていけるのですか。遠くでぼんやり眺めているのが関の山なんじゃないですか。それとも、敵が強いから何とかしてくれと、彼に苦情でも言いに行きますか」

 

 何も言い返せずに黙りこくっている二人に対し、女性は言いたいことを言って満足したのか、涼し気な表情でナプキンで口を拭いつつ立ち上がり、

 

「お食事は大変おいしゅうございました」

 

 でも、もう二度とここへ来ないだろうとでも言いたげに、彼女は少し多めの代金をテーブルに叩きつけて去っていった。ルーシーは慌ててそれを返そうとして追いかけたが、その背中から発する不機嫌のオーラに気圧されて声を掛けることも出来なかった。

 

 両開きのドアを押し開けて彼女がギルドから出ていくと、酒場は水を打ったような静けさに包まれていた。どうやら彼女の剣幕に驚いた他の客から、いつの間にか注目を浴びていたようだった。

 

 ギヨームが不機嫌そうにギロリと周囲を睨みつけると、それを合図にするかのように、ガヤガヤとした喧騒がまた店内に戻ってきた。彼は椅子にふんぞり返るように背中をもたれると、チッと悔しそうに舌打ちをしてみせた。

 

 何一つ言い返せなかった。ほぼ全て彼女の言うとおりだった。特に堪えたのは、

 

「あの戦場で俺がどこに居たかって……?」

 

 それが一番言われたくないことだった。彼は自分の力不足を悟り、邪魔にならないように自ら戦場を離れたのだ。仲間がそれこそ必死になっている姿を遠目にしながら、鳳が空高く舞い上がり爆死したのをぼんやりと見上げていたのだ。

 

 何故、彼の隣に居られなかったのか。今だってそうだ。さっきの女の言う通り、確かに、今彼に必要なのは、苦情ではなく頼りになる仲間じゃないか……

 

 ギヨームは自分の不甲斐なさが悔しくて、どんどん深みにはまっていくような気分だった。ルーシーはそんな彼の気持ちを慮ってか、少々自虐的な口調で、

 

「……アイタタ~って感じだねえ。悔しいけど、あの人の言うとおりだよ。そもそも、私は孤児院があって助かってるくせに、苦情を言いにいくような立場じゃないよね。確かに鳳くんの性格からして、弱者救済なんて上から目線なこと言いそうもないけど、それはヘルメス卿って立場が言わせてるんじゃないかな。立場が変われば、人は言うことも変わるよ。私だって中身は何も変わってないのに、みんなからタカられたり、子供押し付けられたりするようになっちゃったからね。アハハハハ」

「悪かったよ」

 

 ギヨームは彼女から視線を外すと、ため息を吐いた。別に誰かの悪口を言いたかったわけじゃないのだが、結果的にそうなってしまった。悔しいのはルーシーも同じなのだ。そんな彼女に気を使わせて、いつまでも不貞腐れてはいられまい。

 

 しかし、ギヨームはただ、鳳の様子がおかしいんじゃないか……? と思っただけなのだが、本当に気にしすぎだったのだろうか。確かに、ヘルメス卿の行動としてなら、今のところ彼は何もおかしなことはしていない。そして政治の世界で自分たちが役に立たないことも知っている。

 

 どうして自分を頼ってくれないのか? という嫉妬心が、彼に対する不信感を抱かせているのだろうか。鳳がジャンヌを避けているから、このところ疎遠になっているが、彼自身は何も変わってないのなら、このままでいいんじゃないか……

 

「くそ……」

 

 ギヨームは首を振った。立場がそうするとか、やってることは正しいとか、確かに状況は間違ってない。だが、鳳の様子自体がおかしいのは紛れもない事実だろう。でも、なんでそう思うのか、それがわからない。

 

 ギヨームはそれでも消えないモヤモヤしたものを胸の内に抱えながら、運ばれてきた水をちびちび舐めていた。それが形となって現れるのは、もう暫くあとのことだった。

 



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派閥争い

 鳳は本当におかしくなっていないのか? そんなギヨームの疑念はともかく、彼がヘルメス卿に就任してからの領内景気は、どんどん上向いていた。

 

 戦争によって荒廃したヘルメス領内は、飢饉の直撃も受けて危機的状況にあったが、楽市楽座の制定や関所撤廃の流通改革によって人との物の移動を促し、また口減らしにあった子供たちのために孤児院を作ることによって、ようやく領内は以前の落ち着きを取り戻しつつあった。

 

 しかし孤児院のお陰である程度の子供を救えはしたが、国全体はまだまだそうとは言い切れなかった。確かに勇者領からの投資によって、首都であるフェニックスは好景気に沸いていたが、地方はその恩恵を受けられず経済が停滞していたのだ。

 

 関所を撤廃したことも裏目に出た。フェニックスに行けば仕事があると分かれば、人はみんな首都を目指し、そのせいで地方から人がどんどん流出していってしまったのだ。農奴社会のこの国では、領民は土地土地の領主の物であるから、現状では鳳は地方領主からその財産を奪ってしまったことになる。このままでは、春を迎えても人手が足らず、また今年の二の舞になってしまうだろう。鳳も、無駄に地方領主から恨まれるから、早急に手を打たなければならなかった。

 

 さて、この状況で取れる対策は何があるだろうか。普通に考えて、人がフェニックスのある西部に集まろうとするなら、それを繋ぎ止めるためにも、東部の開発を行うのが、雇用も生み出せて手っ取り早いだろう。

 

 ヘルメスは国土のほぼ全てが肥沃な平野という土地柄に恵まれていたが、それでも昔から人口が西部に偏っていた。それは他の帝国領と戦争をしていたからだが、和平がなった今はそんなことを気にする必要はない。積極的に東部に進出していくべきである。

 

 そのためには、何は無くとも道の整備を行わなければならないだろう。

 

 そうして改めて領内の道路事情を調べてみると、そこには思いのほか多くの問題が隠されていたようだった。

 

【挿絵表示】

 

 まず、ヘルメス領はほぼ全土が平野部だと言うのに、道の整備がまったくなっていなかったのだ。それは長年、帝国と戦い続けていたせいで、もし歩きやすい道があれば、敵にも利用されてしまうから、敢えて帝国に近づくほど道の整備がされていなかったというわけである。

 

 領内には、隣村へ向かうだけの狭い道しか存在せず、一応軍用路のような広い道もあるにはあったが、それは比較的仲が良かったオルフェウス領へと続いており、帝都やセトに続く北部は、道と言うには曖昧なものしかなかった。どれもこれも、平野なのに山道みたいに捩じ曲っているのだ。恐らく、何度も作っては壊されたため、そうなってしまったのだろう。

 

 だから、これらの道をもっとわかりやすいように整備するだけでも、良い景気刺激策になるはずだった。フェニックスには今、勇者領からの投資が舞い込んでいるが、これらの道が出来れば、それを通って帝都までの村々にも金や物資が流れていくようになるかも知れない。

 

 また、帝都と勇者領を直接繋ぐ道は、現在海路しか存在しないが、陸路という選択肢が出来ればそちらを好む商人や旅人も現れるだろう。ヘルメス中央北部には、ボヘミアやセト、帝都と接している巨大な湖もあり、湖岸には水上交易の拠点になる街もあるので、そちらへの道も整備すればより選択の幅も広がる。

 

 これらのインフラ整備が始まれば、今はフェニックスに出稼ぎに来ている領民たちも、春になれば地元へ帰っていくはずである。なんやかんや、人は住み慣れた土地が一番なのだ。予算は現在フェニックスの街から入ってくる税収で何とか賄えそうであり、これなら地方領主たちも文句ないのではないか。

 

 また、道が整備され新たな流通網が構築されれば、帝国の玄関口であるフェニックスの街は、さらなる税収アップが期待できるはずだ。鳳は将来入ってくるであろう、その資金をも予算に組み込んで、さらに大規模な事業計画を立てた。

 

 現在、ヘルメスと勇者領を繋ぐ街道はフェニックスの街に繋がる一本しかない。鳳はこれに加えてもう一本、大森林を通り抜けるルートを作れないかと考えたのだ。

 

 と言うのも、ヘルメスはつい最近オークキングの襲撃を受けたわけだが、不幸中の幸いとでも言うべきか、その時のオークの大移動のおかげで森の木々がなぎ倒されており、今なら道を作るのが比較的容易なのだ。おまけに、オークは川辺に沿って移動していたから、道路と同時に水路の整備も可能である。

 

 これらの流域は現在、ガルガンチュアの部族が支配しており、鳳がところどころに作った避難村には、冒険者ギルドの職員になったレイヴンが駐在しているはずだった。代替わりし、マニが族長になった今、彼らは人間社会と積極的に関わっていこうと方針転換しているので、必ず協力してくれるだろう。

 

 問題は、こんな魔物だらけの道を誰が通りたがるかと言う話だが、元からある街道もまったく安全というわけではなく、既にトカゲ商人が利用しているという実績もあるから、まったく使われないということはないはずだ。というか、こちらのほうが獣人からの護衛を受けやすく、水路は重たい物資を運ぶのに有利である。

 

 そして最大の利点は、この河川が勇者領の首都であるニューアムステルダムに通じていることであり、例えば新大陸から運んできた物資を、そのまま港で積み替えてヘルメスを目指すことが出来るわけだから、手広い商売を行っている大商人ほどこちらのルートを選びたがるだろう。

 

 熱帯雨林である大森林は放っておけば、一年もすればまた人を阻む草木で覆われてしまうだろう。そうなる前にさっさと道を作ってしまう必要がある。

 

 今がチャンスなのだ。

 

 だから鳳は予算が足りず国債を発行してでも、絶対着工すべきだと考えていた。ところが、こうして彼が大森林の街道整備を発表してみると、思わぬところから横槍が入った。鳳がいつかその権力を譲渡するかも知れない、ロバートが反対したのである。

 

「勇者殿がおっしゃることは理解できますが、だが承服しかねますな」

 

 鳳は彼を説得するため庁舎へと招いた。この事業は非常に大事で、ちゃんと話し合ってその意味を理解すれば、きっと賛成してくれると思ったからだ。ところが呼び出された彼は自分の腰巾着……いわゆるロバート派の貴族をこれでもかと侍らせながら現れた。鳳の執務室に入り切らないから、仕方ないので練兵場の施設を借りたくらいである。

 

 恐らく、自分はこれだけ多くの者を従えているのだと誇示するためだろうが、余りにも数が多すぎて圧迫面接みたいになっていた。彼はヘルメス戦争で失態を演じたことで爵位を剥奪されたわけだが、元々はこの国の王権を持つ正統な後継者であり、対する鳳は勇者と言えどもどこの馬の骨ともわからない出自、早くその地位を明け渡せと言いたいのだろう。

 

 まあ、言ったところで、帝国と勇者領をバックに持つ鳳に何をすることも出来ないし、いくら人数を連れてこようが威圧にもならないわけだが……鳳は、ロバートの反対は事業への無理解が原因だと甘く考えていたが、どうやら見込み違いだったようである。彼らは最初から鳳のやることに反対するつもりで集まっていたのだ。

 

 多分、何を言っても聞く耳持たないなと思いながら、とりあえず彼らの言い分を聞くことにした。

 

「勇者殿が言う街道を作るということは、獣人を領内に入れると言うことだろう。それはこれまでこの国や帝国のやり方に反する。帝国のどこを見れば、獣人が暮らす集落が存在するというのか。我々の祖先は、人間と獣人の領域を明確に分けてきた。それは奴らが野蛮で、人の言うことをまるで理解しないからだ」

「いや、ロバートさん、獣人にも個性があって、人によって違うんだ。確かに獣人は総じて理解力に乏しいが、中には人の言うことをちゃんと聞ける賢い連中もいる。こういう連中を仲介役にすれば、獣人は本当に良い労働力になるんだ。現に勇者領では、人と獣人が協力して暮らしている集落がいくつもあるじゃないか」

「勇者領はそうかも知れないが、今でも帝国に現れる獣人は家畜泥棒をしたり畑を荒らしたりする不埒者ばかりだ」

「それは元々獣人を排除しているせいで、流れ者しかやってこないからだろう?」

「いいや違う。奴らはいくら教育しても人と協調することを知らず、何の役にもたたないのだ。何せ今でもジャングルで獲物を狩り、裸で暮らしているような野蛮人だからな。勇者殿は分かっていないようだからはっきり言ってやるが、我々はこのような連中に、我らが領土を踏み荒らされたくはない」

「うーん……」

 

 鳳は押し黙った。それは差別じゃないのか? と言いたいところだが、言っても無駄なことが分かっているからだ。

 

 この世界ではそもそも差別という概念がない。例えば大航海時代、黒人を鎖に繋いで海を渡ることに誰が疑問を抱いただろうか。

 

 この世界の神人からしてみれば人間は奴隷であり、その人間からしてみれば獣人は魔物と変わりがない。実際、獣人も魔物もリュカオンから派生しているのだから、そう取られても仕方ないところはあった。概ね彼らは創造性に欠け、怒ると話が通じなくなる。そんな連中と付き合ってる、勇者領の方がちょっと変わっていると言わざるを得ないのだ。

 

 だが、知っての通り、その獣人が魔族の進出を抑え、ネウロイに封じ込めているのも事実だった。そしてそれは、魔王の登場で、簡単に決壊する防波堤に過ぎないことも。だからこそ、これからは大森林の獣人社会とも、人間は付き合っていかなければならないのだが……

 

「失礼だが、貴殿はこの国のことが何も分かっていない。外からやってきたから仕方ないのだろうが、いずれその座を明け渡すというのであれば、今までのやり方を変えるようなことはしないでもらいたい。前例を覆すようなことをすれば、我々は各国の物笑いの種になるだろう。帝国に復帰したとは言え、彼らはまだ我々を警戒しているはずだ。ずっと戦ってきたのだから当然だろう。帝国が未だに我らを屈服させる機会を窺っている可能性がある以上、異質なことをしては下手に彼らに口実を与えるだけではないか。だから私は断固として反対する。私の領内に、獣人を近づけさせるようなことは絶対してくれるな」

 

 正直、獣人びいきの鳳からすれば腹立たしい限りだったが、ロバートの言うことも一理はある。自分はいずれ居なくなる身、なのに後任のことを考えずに勝手なことをしては混乱を招くだけだろう。

 

 鳳が何も言い返せず憮然としていると、今までロバートの後ろにいた腰巾着の一人おずおずと手を挙げて、

 

「畏れながら、勇者様に申し上げます。ヘルメス北部の道を開発するというのも、出来ればおやめくださいませんか?」

「……なに?」

「皇帝とも懇意である勇者様は、帝国との風通しを良くしたいとお考えでしょうが……我々はつい最近、その帝国から侵攻を受けた身です。なのに、帝国軍が通りやすくなるように道を整備するなど、とても正気の沙汰とは思えないのです」

「いや今更、帝国がこの国を侵略するなんてことはない。俺は他の3大国の領主に確認したし、帝国は勇者領とも仲良くしたがっているんだ、それは間違いない。第一、その帝国と組んでこの国を支配していたのは、あんたらの大将であるロバートさんじゃないか。それこそ筋が通らないのでは?」

「12世は我々を守るために仕方なく帝国に従ったまで……本心では彼らの暴虐に憤っていたはずです。そうですよね? 12世?」

「もちろんだ!」

 

 ロバートはふんぞり返って宣言する。鳳はなんだかきな臭いと思いながらも、彼らの言い分にも耳を傾けざるを得なかった。

 

 ここに集まっているのは、曲がりなりにも現在この国を支配している貴族たちなのだ。その彼らが、そんなことをしてくれるなと言うなら、暫定ヘルメス卿でしかない鳳は従うしかない……

 

 しかし、それを受け入れてしまったら、自分の思い描いていた景気回復のプランが崩れてしまうのも事実だった。他に代案があるならまだしも、ただ止めてくれと言われて、はいそうですかと受け入れるわけにもいかないだろう。領内には相変わらず、明日の食料にも事欠く人々が溢れているのだ。

 

 鳳は、なんだか面倒なことになっちゃったなと思いつつも、何とか彼らにも受け入れてもらわねばと頭を悩ませた。どのくらいなら譲歩出来るだろうか……

 

 だが、その時だった。

 

 話し合いをしていた部屋のドアがバタンと開かれ、突如、外から凛とした女性の声が飛び込んできた。

 

「異議あり! 私たちはヘルメス卿に賛成します! 帝国に近い北部こそ開発が必要なことは、この国に住む者であるなら誰でも実感している事実です。景気回復を急がなくてはこの国は持ちません。ここにいる全員が賛成してます! あなた方はまるで国の総意みたいに、ヘルメス卿に勝手なことをするなと言っていますが、あなた方こそ勝手じゃないですか!」

 

 部屋の外には、ロバートが連れてきた腰巾着の数に勝るとも劣らない人数が詰めかけていた。ロバートはそれを見て、露骨に顔を歪めてちっと舌打ちした。その先頭に立っていたのはクレア・プリムローズ。現在、ロバートと共に鳳の後任の座を争っている二大派閥の主だった。

 

 クレアは、まるでハリウッドスターみたいにきらびやかな衣装をきて、ストレートの長く美しい金髪を靡かせつつ、颯爽と部屋の中へと歩み寄った。

 

「ロバート派の連中が大挙してヘルメス卿の元へと向かったと聞き及んだので、嫌な予感がしたのですが……来てみて正解でしたね。まさかこんな卑劣な手で私たちの妨害をしようとは……」

「なんのことかな?」

 

 ロバートは何かしらばっくれるように、ふんと鼻息を鳴らして顔を逸らした。その態度が意味深で、鳳がどういうことかと眉を顰めていると、クレアはそんな鳳に微笑を向けながら、分かりやすく説明してくれた。

 

「ヘルメスの北東部とは、私のプリムローズ家に連なる者の支配地域なのです。この連中は、私たちの地域が力をつけるのを嫌がってるんですよ」

「馬鹿なことを申すな! 初代ヘルメス卿に連なる重臣たる我々が、そんなおまえらみたいに、みみっちい真似をするわけないじゃないか」

「なら大森林の街道整備に反対するのは何故ですか? 勇者領との密接な関係を維持するなら、道を増やすのは道理でしょう」

「それでは獣人が領内に紛れ込んでしまう」

「今だって大森林に壁があるわけじゃありません。入ってくる時は入ってきますよ。あなた方は色々理由をつけていますが、どれもこれも道を作らない理由にはなってない。もしかして、単に新たな経路が出来ることで、富が分散されることを恐れているのではないですか?」

「そんなことはない! 見くびるなよ、若造が!」

 

 ロバート派の誰かの野次が飛ぶと、その瞬間、双方から違う違わない嘘をつけ嘘をつくなの大合唱が始まった。クレア派が糾弾し、ロバート派が怒鳴り返す。見たところ、前者が改革派で、後者が守旧派といったところだろうか……

 

 鳳はその怒鳴り合いに辟易しながら、双方の言い分を黙って聞いていた。ロバートが街道整備に反対した時は一体どうしたものかと思ったが、どうやら彼らは本気でそれを嫌がっているわけじゃないらしい。クレアが言う通り、富が分散し、クレア派が力をつけることを恐れているのだ。

 

 どうして彼が突然鳳に注文をつけ始めたのか……要するに、邪魔な鳳が居なくなった後を見据えて、ロバート派とクレア派の綱引きが始まっていたのだ。まさか、民衆の暮らしを顧みず、そんな政争に明け暮れているとは夢にも思わず、鳳は情けないやら腹立たしいやらで、本当にこいつらに後を任せても平気なのかと、この時初めて思った。

 



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クレア・プリムローズ

 鳳が、景気対策第二弾として領内外の街道整備を行おうとしていたところにやってきた、ロバート派からのクレーム。一見して筋は通っているので返答に窮した鳳であったが……しかし領民の生活は未だ苦しく、どうしたものかと頭を悩ませていると、今度はそれを聞きつけたクレア派が、そうはさせじとやってきた。

 

 どうも彼女から言わせれば、ロバートのクレームは、クレアを封じ込めるための嫌がらせであるらしいのだ。それを否定するロバート派と、嘘をつけと糾弾するクレア派。会議室は怒号で包まれ、両陣営はお互いに相手を罵り合い始めた。鳳は辟易しながら黙ってそれを聞いているしかなかった。

 

 さて、このままではわけが分からないから、取り敢えず状況を整理しよう。

 

 アイザック11世が死亡した現在、ヘルメスは勇者・鳳が暫定的に統治している。その後継を巡って叔父・ロバート・アイザック・ニュートン12世と、傍系であるクレア・プリムローズが争っている。

 

 因みに人気は拮抗してるとは言い難く、意外かも知れないが庶民の人気はほぼロバートに集中していた。テレビもないような世界で庶民は為政者の能力など知りようもなく、ただ王族と言うだけで、その権威を正統なものと認める傾向があるようだ。特にクレアは女性であるために分が悪く、領民からの支持はほぼ得られていない。

 

 それでも対等な後継者として彼女の名が上がっているのは、地方を統治する貴族からの支持を得ているからだった。貴族からしてみれば、先のヘルメス戦争でのロバートの失態は記憶に新しく、帝国軍と勇者軍の双方から領土を荒らされたという事実だけが残った。彼らの不満は大きく、ロバートが後を継げばまた同じことを繰り返しかねないと、若くて政財界に味方も多いクレアを推しているというわけである。

 

 いくら人気があっても、この国は農奴制だから、結局庶民は領主の言うことを聞く。そんなわけで現実的にはクレアがリードしてると見ていいのだが……ただ、やはり男女の壁は厚く、彼女が後を継げば、初代ヘルメス卿から綿々と続く直系男子の流れは途絶えてしまう。そのため、貴族の中でも保守的な者はロバート派に靡きやすい傾向があった。

 

【挿絵表示】

 

 もう一度ヘルメスの領土を見てみよう。

 

 ヘルメス領は東西に細長く、L字を左に90度傾けたような形をしている。領土のほぼ全域が肥沃な平野という土地柄に恵まれているが、長い戦争のせいで国土を十分に活かしきれておらず、人口は首都フェニックスのある西部に偏っていた。

 

 帝国との最前線にあたる北東部は、いわゆる辺境と呼ばれる土地で、領土は広いが人は少なく、特に武勇に優れた貴族が統治していた。が、それも今や昔で、代替わりした現在は、国境警備に無関心な子孫が職場放棄している、不毛の地となっている。

 

 彼らは普段から首都の城下町で暮らしており、領地に帰ることは殆どない。どうせ敵国に荒らされるのだから、最初から領地経営なんかしないほうがいいと言う考えである。因みにプリムローズ家はここの出身だ。

 

 帝都やオルフェウス領との国境は、そんな具合にどこもかしこも似たりよったりだったが、そこから少し離れた東部から中央部に掛けては、広い土地を持ち領地経営に熱心な貴族が支配する地域が広がっていた。

 

 彼ら中部地方の貴族は感覚的には江戸時代の庄屋に近く、肥沃な土地を生かして農業を行い、領内のみならず、平時には帝国各地にも輸出している豪商でもあった。そのため非常に顔が広く、お金持ちであり、領内外に一定の勢力を持っている、ある意味最も貴族らしい貴族と言えた。

 

 しかし、農地が広いということは反比例的に人口は少ないわけで、彼らが結託しても領内世論の全てを味方につけることは不可能だった。結局、人口の多い西部貴族の声が大きく、平時は彼らもその声に従っているというのが現状である。

 

 ただし、今回に限って彼らはクレア派についていた。と言うのも、帝国との国交正常化が成された今、西部の連中の言うことを聞くより、帝国に近い領地を持っているクレアの方が、彼らからしてみれば魅力的に映るのだ。

 

 その中部の貴族がバックについているので、クレア派は後継争いで大きくリードしているのは間違いなかった。しかし、そうなると面白くないのはロバート派で、彼らはクレア派を切り崩すためにも、西部の貴族を味方につけるべく、鳳に待ったを掛けに来たというわけである。

 

 具体的に何がまずいのかと言えば、西部の貴族とは、元の領主であるニュートン家に仕える官僚が多い。故にその殆どが、首都であるフェニックス周辺に領地を持っており、現在の好景気の恩恵を受けていた。

 

 彼らはそれがいつまでも続いて欲しいと思っている。ところが、街道整備が始まってしまったら、いま首都に出稼ぎに来ている人は仕事を求めて東部に移動し、経済の中心も東に移るだろうと思われる。すると必然的に西部の儲けは少なくなる。

 

 大森林の街道にしても同じことで、彼らとしては、勇者領から流れてくる物資は全てフェニックスを通過して欲しいのだ。そうすれば今まで通り儲けられるので、獣人がどうのこうの言うのはただの口実で、単純に儲けが減ることを彼らは恐れているわけである。

 

 さらに言えば、東部が潤うということはクレア派が潤うということでもある。それはロバート派にとっては大問題であり、ここに西部貴族とロバート派の意見が一致したというわけである。

 

*********************************

 

 ロバート派のクレーム、それに異議を唱えるクレア派の乱入。鳳の目の前で繰り広げられた領内貴族たちの小競り合いは、最終的に鳳がキレて怒鳴り散らすまで続けられた。鳳は見た目はただの若造であるが、そこは本物の勇者……怒らせたらまずい相手だということは彼らも重々承知していたようである。

 

 鳳は結局、彼らの自分勝手な言い分を聞いていても埒が明かないので、とにかくクレームは受け付けたと言うことで、今日のところはさっさと帰らせた。空気の読めないロバートは最後までグズグズ言っていたが、最終的には彼と一緒にやってきた腰巾着に引きずられるように帰っていった。

 

 鳳はうんざりしながら練兵場を後にすると、庁舎の執務室へ戻り、神人二人が見ているのも構わず、靴を脱ぎ捨ててソファに寝転んだ。仕事中、滅多なことではそんなだらし無い姿を見せない彼が珍しく疲れていることに気がつくと、神人たちは恐る恐ると言った感じに尋ねてきた。

 

「それで、ヘルメス卿。今回の件はいかがなさいますか?」

「いかがも何も……俺のほうが聞きたいよ。どうしたらいいと思う?」

「この国でヘルメス卿の声は絶対です。本来、あのような苦情など受け付けなくとも、あなたがこうすると言えば誰も逆らうことは出来ません。現実問題、領民の生活は苦しく、今のまま放置していればいたずらに被害が増えるだけでしょう。ここは彼らの言うことなど聞かず、強行するのがよろしいかと」

「まあ、そうするのが妥当だよな……」

「まだ何か気がかりがございますか?」

 

 鳳はため息交じりに、

 

「問題は、仮にこれを強行したところで、俺の引退後も街道が維持されるとは限らないことだ。恐らく、ロバートが後を継いだら確実に街道を封鎖しようとするだろう。そんなんで、やる意味があるのだろうか……」

「それならば、あなたがこのままヘルメス卿の地位に留まっていればよろしいじゃないですか」

「またそれか……何度も言うが、俺はこの仕事を続けるつもりはないよ。出来るだけ早く後任に譲るつもりだ」

 

 今度は神人二人の方がため息交じりに、

 

「でしたら、早めにクレアを後継に据えたらどうでしょうか。ロバート様とは違い、彼女なら勇者領からの反発も無く、改革にも理解があります。問題があるとするならば、女性である彼女が領主の座に就くことを、領民が納得してくれるかどうかですが……」

 

 ディオゲネスの方がそこで言葉を区切ると、もう片方のペルメルがシレッとした顔で続けて、

 

「なら鳳様が適当に子供でも作ってやれば、領民も納得するのではないでしょうか」

「君、わりと恐ろしいこと言うね……」

「そうでしょうか。少なくとも、クレアの方はそれを望んでいる節がありますよ。彼女は家名を残すためには何でもする女です。後継者になりたいなら一発ヤラせろと言えば、必ず乗ってくるでしょう。後腐れなく女を抱けるチャンスですよ」

「チャンスですよじゃないよ! ゲスいなあ、君は……まさかそんなこと言い出すキャラだったとは思わなかった」

「何をおっしゃる。アイザック様にこの世界に召喚された日、あなただって結構乗り気だったじゃないですか」

「……そう言えば、そんなこともあったなあ」

 

 思い返せば、あれからまだ1年も経ってないというのに、何だか遠い昔の出来事のように思えた。ペルメルの言う通り、あの時は女を抱き放題と言われて無邪気に喜んでいたが……今となっては状況が違いすぎた。今は女を抱くどころか、近づくことさえ出来れば避けたいのだ。だが、事情を知らないこの神人に、そんなこと言っても仕方ないだろう。

 

 鳳がそんなことをぼんやり考えている時だった。コンコン……っとドアがノックされ、外からアリスが入ってきた。

 

「失礼します。クレア様が面会を求めていらっしゃいますが、いかが致しましょうか?」

 

 何の用事かと思えば……たった今、男三人でゲスい話をしていた相手である。鳳は別に自分は悪くないのに、何だかバツが悪い気分になり、

 

「街道整備のことなら、今日はもう話すつもりはないって言ってくれ。つーか、ついさっき帰れって追い返したとこなんだけどな……」

「街道整備ですか? いいえ、クレア様は孤児院のことについてお尋ねしたいとおっしゃってましたが……」

「孤児院だって?」

 

 てっきり、さっきの話の続きか、もしくは自身の後継問題について言ってくるのだろうと思っていたのに、全く予想外の単語が出来て鳳は戸惑った。クレアのような華やかな女が、孤児院なんかに興味を示すとは思えないので、もしかすると鳳に近づくために搦手を使っているのかも知れないが……ともあれ、まずは話を聞かなければ何も始まらないだろう。

 

「分かった。ここへ通してくれ」

 

 鳳は警戒を怠らないように気を引き締めると、脱ぎ捨てた靴を履き直してから執務机へと戻った。

 

「我々は席を外しましょうか?」

「……いいからそこに立っててくれ」

 

 ペルメルの冷やかしに憮然と応え、手持ち無沙汰に机の上の書類を整理していると、アリスに案内されてクレアがやってきた。彼女は室内に入ると神人二人に向かって軽く会釈をし、続いて鳳の前に進み出ると、まるで王侯貴族にするかのように恭しくお辞儀してみせた。

 

「ヘルメス卿におかれましてはご機嫌麗しゅうございます。本日はお忙しいところお時間を頂き大変恐縮に存じます。慈悲深い貴方様の優しさに感謝を……」

「いえ、堅苦しい挨拶は結構ですんで、本題をどうぞ」

「まあ、そっけない。でもそう言うところも素敵ですわ」

「お世辞もいいですから」

 

 鳳が少々乱暴な口調で言っても、彼女は優雅な姿勢を崩さずににこやかに笑みを浮かべてみせた。そこには生まれついての勝者のような貫禄があった。

 

 プリムローズ家は数代前のヘルメス卿の娘が、特に武功などは無かったが、当時、社交界でブイブイいわせていた初代を見初めて結婚し、その頃から辺境化していた北東部の領地を与えられ興した傍系だった。

 

 嫡出男子に恵まれず、すぐに直系は途絶えてしまったが、元がヘルメス卿の娘の降嫁先だったので、遠縁として今も扱われていた。その家系はやたら美男美女が多く、代々、社交界の人気者を排出していたが、今代のクレアも神人もかくやという美しさを湛えた息を呑むような美女だった。

 

 美女は見慣れているこの世界の人々だが、神人と違い人間ということは問題なく世継ぎを産めるわけで、社交界では大人気であり縁談には事欠かない。彼女自身もその立場を意識しているようで、優雅なふるまいの中には、男性を惹きつけるような艶美な仕草も時折見られた。

 

 当然、鳳にもグイグイ迫ってくるので、そんなわけで今は出来るだけ女性を避けたい彼は少々苦手にしていた。しかし彼がそっけない態度を取っても、彼女はそれをただの照れ隠しと思っているようで、今もまるで恋する乙女のような潤んだ瞳で、彼のことを見つめながら目の前に立っていた。

 

 こんなものをいつも見せられているのだから、神人二人が気を利かせたくなるのも分かるというものである。

 

「それで、今日はどういうったご要件で? 孤児院がどうとか言ってたそうですが」

 

 クレアの潤んだ瞳でじっと見つめられていた鳳が、いらいらしながら強く促すと、彼女はわざとらしくハッとした表情を作り、ここへ来た用事を思い出したかのように手を打って、

 

「そうでしたわ。今日はヘルメス卿にそのことを尋ねようと思いやってきたのですわ。そうしたら、ロバート様が何やら大勢を連れて貴方様のところを向かったと言うので、急ぎ仲間を集めてまいった次第なのですが……お気に触ったのなら申し訳ございませんでしたわ」

「いえ、色々と領内の事情が知れたのは助かりましたよ。それで?」

「ええ、実は私の領地のことなのですが……知っての通り私の領地は辺境の不毛の地。お恥ずかしい話ですが、今回のヘルメス戦争ではずっと帝国軍の占領を受け、領民に苦労をかけてしまいました」

 

 辺境の領主が領地経営に熱心じゃないことは知っていた。それにしても、そんな簡単に国境侵犯されるなよと思いもするが、そこはそれ、現代とは事情が違うのだろう。昔の国境はもっと曖昧だったと聞く。だからそのことを責めたりするつもりもなかったのだが……

 

 彼女は一体、何が言いたいのだろうか? と警戒していると、彼女は相変わらず潤んだ瞳で意外なことを言った。

 

「そのため、終戦後も領内が乱れていたのですわ……そこへ貴方様の命令を受け、私は取り急いで領内の孤児を保護したのですが、その数が思ったよりも多く手に余ってしまいまして……全ての子供たちの面倒を見るのが困難な状況になってしまったのです」

 

 鳳はその言葉を唖然としながら聞いていた。そう言えば、鳳は孤児院を作る布石として、全土に向けて孤児保護令のような物を出していた。しかし、殆どの領主が鳳の命令など聞かずに、孤児を領外へ追い出していたから、彼は首都に集まってきた子供たちを保護する施設を作ったわけだが……

 

 クレアはヘルメスの後継者として、鳳の印象を良くするためにも、その命令を真面目に守っていたようだ。だが、彼女の領地は広大な上に貧しく、保護した子供の数は相当な数に上ってしまっていた。ろくに領地経営などしたこともない彼女に、それは荷が重すぎたのだろう。

 

「そんな時、首都で貴方様が孤児院を開いたと聞き及び、私の領地の参考にならないかと思い視察に来たのですが……貴方様のお建てになられた孤児院のなんと素晴らしいこと! 子供たちはみな生き生きとして、とても親に見捨てられた子供とは思えませんでした。これもすべて勇者たる貴方様のお力の賜物。それで私も是非、このような施設を作りたいと、ご教授を願いにまいったのです。出来ればこの後、じっくりとお話を伺えたら嬉しいのですが……」

 

 醜聞ばかりに意識が向いていたが、中にはクレアみたいに鳳の命令を聞いて孤児を保護している貴族もいるだろう。そういう人たちを支援し、ちゃんと表彰しなければならない。鳳は、自分が命令したくせに片手落ちだったことを恥じながら、すぐに彼女にその旨を伝え、

 

「まずは子供たちを保護してくれたことに感謝します。このことは近く領内に広めて、あなたの功績に報いましょう。それで孤児院のことですが、あれは俺が開いたことになってますが、実際には建物の間取りもその仕組みも、外部から招いたベル神父が行ったものです。彼を紹介しますので、質問はそちらにお願い出来ますか」

「まあ、そうでしたの? でしたらそのベル神父も交えて、このあとお食事でもいかがでしょうか? 実はフェニックスに最近出来たレストランを予約しておりますのよ。早馬を駆使して、この辺りでは手に入りづらい海鮮料理をお出しする店で、きっと貴方様のお口にも合うと思いますわ」

 

 鳳はグイグイと迫ってくるクレアにむかって表情を変えずに、

 

「せっかくのお誘いですが、今は特に腹も減ってなく……」

 

 と言った時、間が悪いことに、彼の胃袋が突然グーと音を立てた。それが防音の効いた室内に思いのほか大きく響き渡り……鳳はバツが悪くなって顔を引き攣らせつつ、

 

「……減ってなくもないのですが、まだ仕事がありますので、腹にものを入れるわけにはまいりません」

「お仕事が終わるまでお待ちいたしますわよ?」

「それには及びません。いつ終わるかわからないので。ベル神父のところにはこちらのディオゲネスが案内しますから、彼についていってください。ディオゲネス、くれぐれもクレアさんに失礼のないように……あともちろん、神父様にも」

「かしこまりました」

 

 ディオゲネスがそう言ってエスコートするように腕を差し出すと、クレアは素っ気ない態度を取り続ける鳳に向かって子供みたいにむくれながら、

 

「もう……今日のところはこれで引き下がりますけど、出来れば近い内に一度、私の誘いにも乗ってくださいね」

 

 鳳は首を軽く上下するだけで返事した。彼女はそれを見てため息を吐くと、ごきげんようとお嬢様のような挨拶をして優雅に去っていった。いや、お嬢様のようではなく、正真正銘お嬢様なのだろう。

 

 バタンとドアが閉まり、彼女の香水の匂いだけが室内に残された。鳳がその芳しい香りを意識した時、また彼のお腹がグーと鳴った。ペルメルはそんな彼のことをジト目で見ながら、

 

「そんなにお腹が空いてらっしゃるなら、一緒に行かれたらよろしかったでしょうに。仕事なんて、今日はもう特になかったでしょう?」

「いやそんなことはない。俺は忙しいんだ。食事はここで取るから、アリスに軽食でも持ってくるように頼んでくれないか」

「……やれやれ、我が主は潔癖であらせられる」

 

 ペルメルは呆れるように肩を竦めてから、一礼して部屋を出ていった。鳳は部屋から人が居なくなるや、はぁ~……っとため息を吐いてから、慌てて部屋の窓を全開にして彼女の残り香を追い出した。

 

 むせ返るような女の匂いが彼の肺に充満すると、どうしようもなく胃がキリキリした。ずっと興味のない振りをしていたが、本当は彼女のことを相当意識していたのだ。

 

 だがそれは美女に迫られてドギマギするようなものではなく……頭がガンガンするような……どうしようもない怒りがこみ上げてくるような……喉の乾きとか空腹感とか、もっと別の感覚であり……それと同時におかしな声が彼に囁くのだ。

 

『あいつを殺して……殺してよ……』

 

 その声は、いつかどこかで聞いた覚えがあるような気がした。それは彼がこの世界に召喚される前の世界の出来事だ。だが、そんなはずはない……そんな出来事はなかったはずだ……

 

 鳳はそれを誰かに知られるわけにはいかないと自分に言い聞かせながら、外から流れ込む冷たい空気を吸い込んでいた。

 



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帝都に最も近い辺境の地

 ロバート派のクレームから数日後、ヘルメス領内に一つの広報がなされた。かねてからの孤児問題を解決するために、クレア・プリムローズが私財を投げ売ってでも孤児院を建てようとしていると言うことに対し、ヘルメス卿が表彰するという内容であった。

 

 あの日彼女からの相談を受けた鳳は、その後すぐに領内の孤児状況を調査したところ、やはりというべきか、殆どの貴族が自分の領地から孤児を追い出す中でも、子供を保護して守ろうとする真面目な領主もいたのである。

 

 鳳は感激するだけではなく、すぐにどこの誰であるかを調べ、クレアと共に表彰した。そして彼らに褒賞と資金援助を約束すると同時に、領内向けの基金を設立することにした。基金は具体的な目的はなく、『もし彼らの善意に賛同するなら寄付を』という曖昧な内容であったが、すぐにかなりの寄付が集まった。要するに、身に覚えがある連中が、慌てて取り繕ろうとしたのだろう。

 

 鳳はこの資金を元手に新たな孤児院をクレアの領地に建てることにした。生活が苦しい領民はやはり地方に多かったから、全ての恵まれない子供を救おうとするなら東にも大きな物を作らねばならない。クレアの領地はいくらでも土地が余っていたから、建設予定地としてうってつけだった。

 

 ついでに、その資材を運ぶという名目で、彼はヘルメス領を東西に貫き北東部へ至る大街道の整備を強行することにした。それはロバートのクレームを無視するということでもあり、西部貴族は慌てて抗議の声を上げたが、ところがそれは庶民の不満の声によってかき消された。先の表彰により、貴族たちが孤児を助けるのではなく追い出していたことがバレてしまったのである。

 

 その結果、それまで正統な王位継承者として庶民の支持を受けていたロバートの牙城が崩れ始めた。分かりやすく弱者救済を謳うクレアに対して、ロバートの方は獣人差別をし、領民を見殺しにするような政策ばかり支持している。そして今回の孤児騒動が決め手となり、庶民はロバートに失望し、領内の人気は完全に二分された。

 

 これに焦りを感じた彼は慌てて寄付を行ったが、今更すぎて誰にも評価はされなかった。ロバートは次第に孤立感を深めつつあり、後継者争いは新たな段階へと入ろうとしていた。

 

********************************

 

「……本当に、この場所でよろしいのですか?」

 

 地平線の向こうまで続く原野を前にして、利休は感嘆の息を漏らした。行政官として孤児院建設予定地の視察に来たのだが、連れてこられたその場所が余りにも広大だったからだ。彼の暮らしていた堺の町なら20~30個は入りそうなその敷地には、数軒の民家がポツンポツンと見つかるくらいで他には何も見当たらなかった。

 

 確かに樹木が生い茂るだけで道もないような僻地ではあったが、険阻な地形でもなく鬱蒼と茂る密林でもない。逆に言えばいくらでも焼き畑が行え、その気になれば食うものには困らないであろう場所だった。

 

「ええ、ここでよろしくてよ」

「神父様は子供たちの教育のために畑もやりたいとおっしゃってましたが」

「それも聞いていますわ。周辺の家に協力するよう命じておきますから、好きにお使いなさい」

 

 クレアは何でも無いようにケロリと言い放った。簡単に言っているが、これだけの土地を好きに開拓していいと言っているのだ。孤児院どころか街を作ってもお釣りが来るような場所だった。こんな場所があるというのに、何故この国の領民は腹を空かせているのだろうか……利休は理解に苦しんだ。

 

 するとクレアは彼の隣でだらしなくうんこ座りしながら、

 

「ここは国境のすぐ近くじゃない? 開拓しても、向こう側からいつ野盗がやって来るか分からないのよ。追い返すために兵士を置けば、向こう側にも兵士が現れる。帝国が入植者を送りつけてくることもあって、小競り合いじゃ済まないような事態が過去に何度も起きてね、いつの間にか人が居なくなっちゃったのよ」

「……もったいないことですね」

「もったいなくても命には変えられないから、こんな活用されない土地がそこら中にゴロゴロあるのよ。多分、帝国側も似たようなもんね。領土を守るための戦争でその領土が使えなくなり、貴族を生かすために奴隷が犠牲になるから人口だって増えない。何が神人よ。神聖帝国が聞いて呆れるわ」

 

 愚痴っぽいが、その口調はやけに乾いてサバサバしていた。鳳の前では品を作っているが、普段の彼女は案外そうでもないようだった。ペルメルが指摘していたように、彼女は鳳のことを本気で狙っていたのだ。

 

 実を言えば、ヘルメス戦争の最中、彼女は難民とともに勇者領に避難していたのだ。

 

 戦争が始まった時、彼女はこんな国境の領地なんて近づけるわけもなく、いつも通り首都の城下町で暮らしていた。ヘルメス卿の遠縁であるから宮殿にも呼ばれ、アイザックが呼び出した勇者も紹介された。ついでに言えば、隠れてつまみ食いもした。

 

 他の女と違い子供が出来なくて残念に思っていたが、まさかあの勇者たちが偽物だったなんて……その後アイザックの居城ヴェルサイユが落とされてしまったら、彼女はもうどこにも行き場がなかった。

 

 今回は本気でヤバかった。

 

 領地は何度も帝国軍に蹂躙され、少ない領民は飢饉が起きるのが分かっていながら、ずっと兵役に取られていた。それも最初はヘルメス軍、続いて帝国軍として勇者領にまで遠征させられたのだから、たまったものじゃないだろう。彼女はそれを命じるだけで、彼らに何も報いてやることが出来なかった。

 

 領民はきっと彼女を恨んでいるだろう。だから彼女も今回ばかりは駄目だろうと、自分の代でプリムローズ家も終わりだと覚悟していたのだが……そしたら突然、本物の勇者が現れて帝国と和平してしまうのだから、世の中わからないものである……

 

 ともあれ、避難生活は決して楽ではなかったが、無益でもなかった。ヘルメス卿の親戚とバレたらただじゃ済まないから、彼女は家族と共に身分を偽って勇者領に潜伏していたのだが、お陰で庶民の生活というものを肌で感じることが出来た。

 

 最初はアルマ国に居たのだが、ヴァルトシュタインが挙兵するとここも駄目だと悟り、ニューアムステルダムへ逃げ延びた。攻め込んできたのがロバートだと知ると、徴兵に応じてやろうかと思うくらい腹を立てたが、彼女に出来ることはやはり何もなかった。

 

 帝国軍に攻め込まれているはずなのに、ニューアムステルダムはまるで対岸の火事であるかのように何事もなかった。彼女は避難先の街を毎日散策して回ったが、ヴェルサイユも大きな城下町だったが、勇者領の首都は規模が違った。建物は大きく、何よりも人口が桁違い過ぎる。しかもこの街に住む人々は、誰一人として奴隷ではないというのだ。一体、どうしたらそんな国が作れるのだろうか……? 彼女には理解が出来なかった。

 

 だから勉強した。ニューアムステルダムには大きな書店があり、お金さえ払えば誰でも本を手に入れられるのだ。彼女はその書店で勇者領の歴史本を買いあさり、かつて勇者がどのように国を作り上げたのかを学んだ。更に、それを研究している学者の本や、放浪者と呼ばれる異世界の技術を持ち込んだ人の本も読んだ。そう言えば、偽勇者たちも放浪者だったなと思い出し、睦言など交わしてないで、もっと色んなことを聞けばよかったと後悔した。

 

 そうこうしているうちにロバートが失脚し、帝国軍は勇者領から追い散らされた。一時は首都に迫る勢いだった帝国軍だったが、その敗戦を機に勢いは弱まり、今度は逆に侵攻を受けるのだから盛者必衰とは良く言ったものである。

 

 まあ、戦争の勝敗など彼女にはどうすることも出来ないから気にしていなかったが、その頃から聞こえ出した勇者の噂は気になっていた。居るというのに全く姿を見せない勇者に対し、彼女はもしかしてアイザックの時のように、箔をつけるために連邦議会が嘘を流しているのかなと思っていたのだ。

 

 だから、その勇者がまさか魔王を倒して、あれよあれよと言う間に帝国との和平交渉までまとめてしまうとは夢にも思わなかった。一度は諦めた領地も返ってきて、彼女の家族はヘルメスへ帰れるようになった。

 

 ヘルメスへ帰った彼女はそれまで殆ど顧みることがなかった領地へ行ってみた。領内の道という道は進軍によって荒らされ、彼女が拠点にしようとしていた要所の村は、軍の接収を受けてひっそりと静まり返っていた。村人たちの姿は見えず、仮に見えてもきっと彼女はひどく恨まれているだろうと思っていた。

 

 ところが、しばらくして村の中から人々が出てくると、彼女は思わぬ歓迎を受けた。また帝国軍がやってきたのだと思って隠れていたようだが、来たのが領主のクレアだと知ると、村人たちはこれで自分たちは救われると喜び始めた。戦争中、一度も領地を顧みなかった彼女のことを、領民はまだ盲目的に崇拝していたのだ。

 

 彼らはアイザックが死ぬと今度はロバートに期待し、彼がこの国を導いてくれると信じ切っていた。一度はそのロバートが国を売ろうとしていたのだが、そんなことはお構い無しで、彼らにとって大事なことはただ血筋だけなのだ。クレアにしたって、こうして恨まれたりせず尊敬され続けているのは、たったそれだけが理由なのだ。

 

 勇者領の庶民と、自分の領民の違いはなんだ? 彼女はそのことに生まれてはじめて疑問を抱いた。

 

 今、領内は麻のように乱れ、民は飢え苦しんでいる。なのに彼らは自らの力で立ち上がろうとせず、お飾りの領主が助けてくれると信じ切っているのだ。戦争の間中、ふんぞり返っていただけのロバートが彼らを導けるとは到底思えない。ならば誰が彼らを救えると言うのだろうか。

 

 新しくヘルメス卿としてやって来る勇者も、どこの馬の骨とも知れなかった。魔王を倒したと言うくらいだから戦闘力はあるのだろうが、得てしてそういう輩はオツムが弱いものである。おまけに彼は、ロバートを後継者に据えようとしているそうだった。あれだけ失態を演じた男に、国の舵取りなんてさせてたまるか! だから彼女はもうひとりの後継候補として、勇者を籠絡するつもりで近づいたのだ。

 

 しかし、そしてやって来た勇者は彼女が想像していたものとは全然違った。彼は貴族たちが手を拱いている間に、まるで見てきたかのように次々と対策を打ち、苦しんでいる多くの領民を救った。領内の風通しを良くして、外部から人を招致し、勇者領からの投資を呼び込んだりして、滞っていた経済が回るようにした。

 

 軍政改革にも乗り出し、貴族から自然と軍事費を徴収し、兵士が畑を耕すような仕組みも作り出した。そして今まで活用されなかった土地を利用するため道の整備を行い、極めつけは誰も手がつけられず、見て見ぬ振りをしていた孤児まで救おうとしているのだ。しかもそれが意外と上手く行ってるのだから、認めざるを得ないだろう。

 

 どうやら彼は放浪者であるとも聞く。彼の部下の神人から聞いた話だが、前の世界では人の上に君臨するため、帝王学を学んでいたそうである。なのに何故、権力の座から降りようとするのだろうか。

 

 彼女は最初はその権力を奪取するために彼に近づこうとしていたが、今は逆にどうにかして彼にその地位に留まって欲しいと思っていた。

 

 そしてあわよくば、自分が正妻の座につくのだ。

 

 しかし、これが中々上手く行かない。彼はクレアがどんなに女の武器を駆使して秋波を送っても、一向に靡く気配が無かった。彼女は自分がそれなりにイケてる方だと思っていた。実際に、今でも多くの有力貴族の子息からモーションを掛けられ、偽勇者たちもメロメロだった。

 

 セックスも上手いはずだ。男を喜ばす方法ならいくらでも知っている。だから一度でも抱いて貰えれば、必ず落とす自信があるのだが……その一度の機会が与えられず、ずるずると後継者争いが続いていた。

 

 どうして自分に興味を持ってくれないんだろうか? もしかして、女に興味が無いのだろうか? 自信がないのだろうか? 照れてるだけだろうか? 少なくとも童貞であることは間違いなさそうだが……

 

 クレアがそんな下世話なことを考えていると、視察を終えた利休がにこやかに近づいてきて言った。

 

「これだけの土地を提供していただけるなら、ヘルメス卿もお喜びになられるでしょう。あなたに大変良くして貰えたと、私の方からもお伝えしておきますよ」

「あら本当? あなた、いい人ね」

「あなたのおっしゃる通りなら、野盗の徘徊が気になるところですが……戦争も終わり、ヴァルトシュタイン閣下の軍も領内を巡回しているので、子供たちが来る頃には大分落ち着いているはずでしょう。ここは辺境とは言え帝都に最も近い土地、街道の整備が終われば見違えるようになるでしょう」

「そうなるといいわね」

 

 クレアは嬉しそうに頷きながら、ふと思い出したかのように、

 

「そう言えば、あなたはヘルメス卿に請われていらした方でしたわね。もし、彼がその地位を譲り渡したあと、あなたはどうするつもりかしら?」

「私でございますか? 自宅もありますから、帝都へ帰るつもりですよ。ヘルメス卿とは、元々領内が落ち着くまでという約束でしたので」

「そう……どうして人から必要とされる人ほど、簡単にその地位を明け渡そうとするのかしら」

 

 すると利休は日本人特有の薄っすらとした笑みを浮かべつつ、

 

「あなたにそう言ってもらえることは光栄ですが、私にもやりたいことがございますので」

「それって何? 今の地位より大事なものなの?」

「そうですね……単に私の人生を、ありのまま過ごしたいというだけでしょうか」

 

 クレアが首を捻っていると、彼はまた外国人には理解できないアルカイックスマイルを浮かべながら、

 

「あなたが気にしてらっしゃるのはヘルメス卿のことでしょう。なら、彼を思い浮かべてみてください……正しく権力を用いる者ほど、自らを犠牲にするものなのです。権力がただ民衆を救うためにのみ行使されるものであるなら、そこに私利私欲が混じることは厳に慎まねばなりません。自分が間違っていたら腹を切り、いくら大事な仲間が失敗しても泣いて馬謖を斬る厳格さが必要です。それが我々の理想とする為政者の姿なのです。民を救うことが至上の喜びであるならともかく、そうでない人が、いつまでそんなことを続けられましょうか。故に、正しいものは去り、私利私欲を求めるものが権力の座に就くのです」

「……それじゃあなたはロバートの方が権力者に向いていると思うの?」

 

 クレアが訝しげにそう聞くと、利休は相変わらず表情を動かさずに、

 

「本人の向き不向きという問題であれば、その通りでしょう。少なくとも、彼は自分のすることに迷いはありません。間違っていてもへっちゃらです。ですが、それが国のトップであれば、民は堪ったものじゃありません。だから我々が正しいものを選ぶのです。そうして選ばれた人が、あのヘルメス卿なのではないですか。それが本人にとって幸せかどうかは関係なく」

「そういうことね……」

「ヘルメス卿は、何かご自身でやりたいことがあるようです。ですがヘルメスがこの通りですから、ご自分を犠牲にして、領民に尽くしてくださっているのでしょう。だから私も彼に協力して差し上げようと、自然とそう思えるのです」

 

 クレアは感嘆の息を漏らした。流石にあのヘルメス卿が招いただけあって、彼の言うことは筋が通っていてわかりやすい。しかし、それと同時に、鳳に今の地位のままで居てもらうことが難しいことも分かった。彼にやりたいことがあるなら、早く解放してあげなければ……

 

「でも、それなら別に、今の地位に留まったまま、やりたいことをやればいいんじゃないの?」

「そうですね、私もそう思いますよ」

 

 クレアがそれでも諦めきれずに疑問を投げかけると、利休はシレッとそう返した。

 

「正直なところ、九割正しい行いをするなら、一割私利私欲に権力を用いても罰は当たらないと思いますよ。現実の権力者なんてものは、大体そんなものです。私たちだって完璧を求めているわけではありません。私も生前、私利私欲に溺れていましたから」

「そ、そうなの……?」

「でもそれが出来ない潔癖さを持ち合わせているのが、あの若いヘルメス卿なのでしょう。何か切っ掛けがあって、考えが変わるとよろしいのですが……」

 

 クレアは爪をかみながら、その切っ掛けが自分であればいいと考えた。彼がやりたいことがあるというなら、自分が支えてやればいいのだ。やはり、自分が後継となって、彼を引き止めねばならない。そうすればこの国は安泰だ。

 

 そのために、なんとしても自分の名を売り、ロバートをリードしなければ……幸い、この間の広報のお陰で民衆の目はこちらに向いている。孤児院を建てることで、分かりやすく民を救うのがどちらかとアピール出来ているのだ。あとはこの孤児院を軌道に乗せて、リードを保ち続ければいい……

 

 しかし、得てしてこういうときにこそ不運は振りかかるものなのだ。彼女の進退を揺るがす不祥事は、彼女が作ろうとしているその孤児院から出てきてしまったのである。

 



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信賞必罰

 衣食足りて礼節を知るとはよく言ったもので、領内経済が落ち着いてくると、領民たちは政治にも関心を向けるようになっていった。そんな折、孤児院を建設していると広報出来たのは良かった。少なくともクレアは領民を救おうとしているとアピールしたことで、領民は後継候補のどちらがより領主として相応しいかを、真剣に考えるようになったからだ。

 

 それまでは藁にもすがる思いで、ただ血筋だけを理由にロバートを支持していた民衆も、それ以来、目が覚めたようにクレアを支持するようになっていった。考えてもみれば、彼女では駄目な理由なんて、女性であるということ以外なにも無く、実務面だけを見てみれば、彼女の方がリードしているのは一目瞭然だったのだ。

 

 ロバート派は自分勝手な理由で街道整備を嫌がったり、孤児を保護するどころか追い出したりと悪政ばかりが目立っていたのも、彼の人気凋落に拍車を掛けた。更には鳳が街道整備を強行したことに、ロバート派が大勢でまたクレームをつけに行ったのも失敗だった。

 

 彼らは街道が整備されれば帝国に利用されると主張しているわけだが、戦争中、その帝国に組みしていたのはロバートであり、それをせっかくアイザック11世が収めてくれたというのに、これじゃまた戦争に逆戻りしようと言ってるようなものである。支離滅裂というか、どの面下げて言っているのだと、流石に従順な領民だって怒るだろう。

 

 こんな具合にロバートのチョンボが続き……一時は隆盛を誇っていた彼の勢いは完全に失墜した。ロバート派貴族はこぞってクレア派に鞍替えし、ポスト勇者を決める後継争いは、クレアを中心に動き始めようとしていた。

 

 さて、そんなこんなで大勢が決したところで、鳳は最後の仕事として、いよいよ大森林の街道整備を行うことにした。魔王襲来後、森に逃げたオークの群れは、ガルガンチュアの部族と高ランク冒険者たちによって、あらかた片付けられていた。後はオークの大移動の際に出来た川沿いの道を踏み固めればいいだけである。

 

 しかし作業自体は簡単とは言え、距離が長大な上に、地面が木々に覆われる前に作業を終えなければならないという、タイムリミットが存在していた。必然的に工事に関わる人数も莫大なものが予想され、これだけの大事業を行うには、どれほどの予算が必要なのか想像もつかなかった。

 

 他の人なら考えるだけ時間の無駄と、さっさと諦めてもおかしくなかっただろう。だが、それでも敢えて行ったのは、インフラ整備が強力な景気刺激策になることと、鳳がヘルメス卿である今、勇者領の協力が得やすいというメリットがあったからだった。

 

 何はなくとも彼のポータル魔法は距離を縮める。普通なら、それなりの人数をかけて何ヶ月も折衝を行う必要があるところを、彼ならパッと連邦議会まで飛んで行って決めることが出来るのだ。

 

 また、街道はヘルメスと勇者領を繋ぐものだから、勇者領に折半を持ちかけられたのも大きかった。それでも出来るだけ金を出さずに済むように話し合いが行われたが、結局は勇者領の方が折れた。と言うのも、既に勇者領はヘルメスにかなりの投資を行っており、それを回収するためにも、この話に乗るしか無かったのだ。

 

 数ヶ月前、ヘルメス卿の最初の仕事として、鳳はまずは領内の食糧不足を解消する必要があった。必然的に勇者領に頼ることになり、ヘルメスは新大陸から多くの穀物を輸入したのだが、彼はその代金として先物を使ったのである。要するに、今年援助してもらった分を、来年の収穫で返すからと言って借りたのだ。そんなわけで、勇者領としてはヘルメスの景気回復は自分たちの利益に直結した。

 

 大森林の街道整備を行えば、ヘルメスの領民にも仕事が回り、金が入ればヘルメスの景気も回るだろう。更に、首都フェニックス以外の都市が発展すれば、東部開拓の機運も高まり、今は活用されていない土地からの収穫も見込めるようになるはずだ。

 

 帝国との国境沿いには広大な未開発の土地があった。鳳の改革に乗ればその領土が機能し始め、行く行くは莫大な富を生み出すだろう。勇者領はそれに投資することで更に儲けが得られる……そういう期待があったわけだ。

 

 そんなわけで、ヘルメスの将来性を担保に、鳳は勇者領からどんどん金を借りて開発を行っていた。帝国と国交正常化が成された今、既にフェニックスはこれ以上ない好景気に沸いており、現代人の感覚としては、あとは人と物が滞りなく流れるような仕組みが作れれば、金も回りだすだろうと考えていた。

 

 世はまさにバブル景気のイケイケドンドンな空気に満ちていた。戦争で打ちのめされていた領民たちにも、いつしか笑顔が戻り、ヘルメス領はポスト勇者時代に向けて着々と成長しつつあった。

 

 だが得てしてそういう時にこそ災いというものは降りかかるものである。

 

 大森林の街道整備の予算が組まれ、勇者領側からの工事も始まり、あとはガルガンチュアの部族と連携して、ヘルメス側からも始まれば、クレアに権力を渡してようやくお役御免である……そんな最終段階に来たとき……

 

 そのクレアに不祥事が起きた。

 

***********************************

 

「はあ!? 売春? 孤児院で……?」

「左様。子供らの様子がおかしいので少々泳がせてみたのだが、プリムローズの孤児院では夜な夜な変態どもへの饗応が行われていたようだ。子供らはそこで貴族の相手をさせられていた」

「……嘘でしょう?」

「ならば良いのだが、既に証拠は掴んでいる。信じがたいが、子供に性欲を抱く者が、孤児院に紛れ込んでいたようだ。あんな者を選んだプリムローズの失態だな」

 

 ベル神父はただでさえ厳つい顔を更に怒らせて、不機嫌そうに吐き捨てた。鳳は机に両肘をつくと、頭を抱えてため息を吐いた。

 

 神父の話はこうである。

 

 クレアが自領に孤児院を建てると宣言した後、神父たちスタッフは彼女に孤児院経営のノウハウを教えるために、彼女の領地へ向かった。孤児院は忙しい彼女が直接運営してるわけではなく、彼女が選んだ代理人が院長として働いていたのだが、その男がロリコンで、どうやら最初から子供たちに手を出すつもりで名乗り出たらしかったのだ。

 

 ロリコン院長は中部地方の豪農貴族で、地元では領民思いの子供好き領主と知られていたらしい。子供好きとは、要するに性的な欲望を抱いていたわけだが、周りからはただの親切な男だと思われていた。鳳の孤児保護令が出た後も、彼は自分の欲望のために恵まれない子供たちを保護していたのだが、クレアはそれを見たままに受け取り、彼を院長として抜擢した。ロリコン院長はそれを快く引き受け、その立場を利用して、孤児院に集まってきた子供たちを物色していたようである。

 

 そしてロリコンの元にはロリコンが集まる。悪いやつほど群れたがるというか、罪悪感のようなものもあったのだろう。彼は一人で楽しむばかりではなく、そのうち友達も呼んで、好みの子供を選ばせ提供することにした。行き場のない子供たちは、そんな院長の言うことを聞くしかなく、泣く泣く変態共の相手をさせられていたらしい。

 

 しかし、人の口に戸は立てられない。ましてや子供は秘密が守れないから子供なのだ。ベル神父たちはクレアの孤児院を視察しているうちに、一部の子供たちの様子がおかしいことに気がついた。そして調べてみたところ、院長の犯行が発覚したのである。

 

 彼はこのことを鳳に知らせるために視察を切り上げ、急遽フェニックスに戻った。その動きを察知したロリコン院長は、慌てて神父の口を封じるべく刺客を送ったが、逆に神父の返り討ちにあい、刺客はふん縛られた。彼の言う証拠とはそのことらしい。

 

「今、ヴァルトシュタインが尋問しているが、よく舌の回る刺客のようだ。死ぬ前に粗方証言は取れるだろうと言っていた」

「いや、殺さないでくれよ……ちょっと誰か行って止めてきて」

 

 鳳がため息交じりに言うと、ペルメルが軽く頷いてから部屋を出ていった。ディオゲネスが難しい顔をしながら、何やらアリスに命じている。彼女は頷くと、ペルメルに続いて部屋から出ていった。鳳はそんな二人を見送ったあと、

 

「とにかく……ベル神父にはご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。国のトップとして謝罪します」

「気にしないでいい……ともいい切れぬな。もしかしたら、私も死んでいたかも知れないのだから。それで、孤児院はどうする?」

「取り敢えず軍を派遣し、そのロリコン院長と、今回の件に関与した連中を連座して処罰します。領地没収が妥当でしょうか」

「それは厳しくないか」

「国に逆らうというのはこういうことだと、見せしめにもなるでしょう。逆にそのくらいしないと、身勝手な貴族が多すぎるんですよ、この国は」

「しかしヘルメス卿。今、そのような強権を使われては、クレアへの権力移譲に支障を来してしまうのでは?」

 

 鳳とベル神父の横からディオゲネスが口を挟んできた。鳳は憮然と、

 

「じゃあ、許せっていうのか? 事件は既に発覚してるんだぞ?」

「いえ、そう言うことではありません。そこまで厳格にするならば、院長を指名したクレアも処罰を受けねば、言行不一致になりかねないと言いたいのです。もちろん、彼女を同列に扱うことはありませんが、それなりに厳しくせざるを得ない。すると領民の目が政治に向いている今、ポストヘルメス卿としての彼女の立場が危うくなるのでは?」

「……しかしロバートはもう虫の息だろう?」

「失礼します!」

 

 その時、さっき部屋から出ていったアリスが帰ってきた。彼女は部屋に入ってペコリと一礼すると、ディオゲネスの方へと歩いていき何やら耳打ちをした。彼はそれを聞くとチッと舌打ちしてから、

 

「……そのロバート派が既に動き出しているようです。今回の件を領民に喧伝し、クレアはヘルメス卿に相応しくないと」

「な、なに!?」

「自らの醜聞で失脚した者は逆恨みしますからね……これを見逃す手はないと思っていましたが、それにしても早かったですね。どこから漏れたんでしょうか」

「……頭に来ていたので、街に帰ってきた時、出迎えの信者に事と次第を伝えてしまった。まずかったろうか」

 

 ベル神父が厳つい顔をしながら呟く。相変わらず表情は読めなかったが、責任を感じているようだ。もちろん、彼が悪いことなんて何も無いので、

 

「いえ、遅かれ早かれ、どうせ知られていたと思いますよ。と言うか、俺はこの件を隠すつもりは無いです。たとえ貴族であってもこのような破廉恥なことをすれば容赦はしないと、俺は領内に知らしめねばならない。信賞必罰。ヴァルトシュタインに命じ、早速措置を取るようにしましょう」

 

 鳳は鼻息荒くそう宣言した。

 

 宣言したは良いものの……実際、その後の領内運営の舵取りに、彼は非常に苦労することになってしまった。

 

 子供たちを毒牙にかけた貴族たちは、宣言通りに軍を派遣した上に領地没収の刑に処した。要するにお家取り潰しという重い処罰であったから、相手は軍隊まで出してきてものすごい抵抗をしたのだが、勇者である鳳に敵うわけもなく、彼らはあっけなく排除された。

 

 更にディオゲネスが指摘した通り、クレアの責任問題が追求されることになり、鳳はこれに関しても孤児院周辺の領地を没収するという措置を取った。没収する領地は非常に狭く、これは逆に彼女を孤児院経営から解放するという意図があったのだが、しかしこの噂がまた悪い方へと転がっていった。

 

 彼の処置は、貴族たちには、仮に善意であっても失敗すれば鳳は厳しく処罰すると取られ、庶民たちには、処罰を受けたクレアは悪いやつだと受け取られたようだった。もちろん、罪の重さも罰則の軽さも段違いであるからその点を説明しているのだが、これを反撃の好機と捕らえたロバート派によってかき消されてしまったのだ。

 

「ヘルメス卿、お待ちを!」

 

 ある日、鳳が庁舎に出勤すると、待ち構えていたクレアが追いかけてきた。

 

「今回の件は私の失態でした。あのような輩の悪心も見抜けず、貴方様に預かった大事な領民を傷付けてしまいました。深く反省しております。ですが、あれは私の本意ではなかったのです。私としても寝耳に水の出来事なのに、処罰が重すぎはしませんか? どうかお考え直しを……!」

「それは分かってる、あなたのせいじゃないと言うことは。しかし何の罰も与えないわけにもいかないのです」

「ならせめて挽回のチャンスを! お預かりした孤児院は、今度こそ私自身の手でちゃんと運営してみせます。ですから、召し上げられた領地をお返し願えませんか?」

「……いや、ただ返すわけにはいかない。あなたには孤児院ではなく、もっと別の方法で挽回して欲しい」

「それが難しいからこうしてお願いしているのです。このままでは私の醜聞だけが独り歩きして、身動きが取れません」

 

 クレアの人気は失墜し、領民はまた女である彼女に猜疑の目を向け始めた。領内の街道整備に関しても、それまで乗り気だった貴族たちも、失敗を恐れる余り及び腰になってしまった。ロバート派はそれを自分たちの主張が正しかったと宣伝に利用し、更にクレア派を攻撃した。すると一時は彼女に靡いていた西部の貴族たちも迷い始めたようだった。

 

 気がつけば完全に虫の息だったロバート派は息を吹き返し、後継者問題はまた振り出しに戻っていた。やはりなんやかんやで王権は血筋が重視され、直系男子であるロバートの方に分があったのだ。それに、例え彼は能力が怪しくても、逆に言えば、調子に乗せてしまえば誘導がしやすいという面があった。権謀術数に長けた者なら、クレアよりもロバートの方が与し易いと考えてもおかしくはないだろう。

 

 しかし、領内はそれで良くても、それじゃ済まないのは勇者領である。ある日、鳳は勇者領側の大森林での工事がストップしていると知らされた。連邦議会は既に人員を引き上げているようだ。彼は慌ててニューアムステルダムへ飛んだ。

 

「勇者殿も既におわかりでしょう。あなたが権力をロバートに渡すと言うなら、我々が貴国に肩入れする理由はもうありません。帝国との和平がなった今、ヘルメスへの投資を引き上げセトとの交易を模索するつもりです」

「いやしかし、既にかなりの投資を行っているはずでしょう? このままでは丸損ですよ」

「失礼ながら、勇者殿は損得勘定というものがまるで分かっていない。敵に塩を送るのもまた損得なのですよ。我々はあなたに要請されて、アイザック11世に資金提供しました。貴国の領民のために穀物の援助も行いました。その上、フェニックスに注力し、大森林の工事にも投資いたしました。このまま手を引けば、これらの投資が全て無駄になるでしょう。それは非常に惜しい。ですが逆に、これだけの投資の成果が、我が国の領土を蹂躙したロバートに奪われるという事実のほうが、我々にとっては損失なのですよ」

「………………」

「もしあなたがヘルメス卿の座を下りて、ロバートが後を継いだら我が国の国民感情は確実に揺さぶられます。とても今まで通りの関係ではいられないでしょう。その時、どうして敵に塩を送るようなことをしたのだと追求されるのは私たちなのですよ。現状ではそうなる可能性が高い。だから我々は損して得取れという選択を選ぼうとしているのです……何故、あなたは権力を投げ出そうとするのですか? あなたさえそのままで居てくれたら、我々もこんなことしなくて済むのに」

「それは……俺はただの馬の骨ですよ。生まれも育ちもこの世界の住人ですらない」

「結構。ロバートはアホな上に馬の骨ですよ。それよりずっと上等じゃないか!」

 

 連邦議員たちは血眼になって、鳳に現在の地位に留まるように迫ってきた。彼らは余程ロバートがヘルメス卿に返り咲くのが嫌なのだ。事の経緯を考えれば、それは当たり前だろう。鳳は彼らを説得するどころか、逆に説得され、何も言い返せなくなってしまった。

 

 結局、勇者領からの確約は何も得られず、鳳も現状維持を約束出来ずに、話し合いは物別れに終わり、彼はフェニックスに帰ってきた。街はひっそりと静まり返っており、出歩く人の姿は見当たらなかった。話し合いは夜遅くまで続けられたが、どうやら時差のせいでこっちはもう深夜になってしまっていたようだった。

 

 興奮しているせいか、鳳は普段ならとっくに眠っている時間帯なのにまるで寝付けず、仕方ないのでナイトキャップのつもりで買い置きしていたブランデーをちびちび舐め始めた。

 

 以前の彼ならきっと大麻でもやっていただろうが……最近は代わりに酒ばかり飲んでいた。何度か死にかけた……というか死んだことで、健康を意識するようになったのだが、代わりに酒量に頼むようになってしまったから意味は無かっただろう。

 

 元々、薬物耐性が強いせいか、酒を飲んでも余り酔えず、酔うために酒量はどんどん増えていった。気持ちよくもないが、その代わりに思考を麻痺させる効果があるから、嫌なことを考えずに済んで気が楽だった。

 

 空が白み始めたところで、ようやく眠気が訪れてくれたが、その時にはもうかなりの酒瓶が床に転がっていた。片付けようとして、フラフラと千鳥足で部屋を歩き回り、彼はそのまま床に突っ伏して眠ってしまった。

 

 最近は、そんな日々が続いていた。嫌なことはみんな、酒が洗い流してくれれば良いのに、そんなものは一時凌ぎにしかならなかった。ただでさえ魔王化という懸念がある中で、ヘルメス卿の仕事を続けているのは、やはりストレスの限界が近かった。そして彼はおくびにも出さなかったが……それは、体の変調という形で現れていたのだ。

 

 実は最近、良く幻聴を聞く。

 

『あいつらを殺して……殺してよ……』

 

 ストレスを感じる度に、目の前にいる連中を殺したくなる。まあ、人間誰しもそんな妄想を抱くことはあるだろう。だが、彼にはそれが懐かしい幼馴染のお願いに聞こえるのだ。

 

『ねえ、あいつらを殺して……早く殺してよ……』

 

 外はとっくに明るくなっており、あと一時間もすればアリスが起こしに来るだろう。普通の人なら堪ったものじゃないだろうが、彼にしてみればそれだけ眠れれば上等だった。

 

『殺せ……殺せ……』

 

 鳳はそんな懐かしい声を聞きながら眠りに落ちた。最近はもう、自分が起きているのか、それともまだ夢を見ているのか、どちらが現実がよくわからなくなっていた。

 



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悪夢

 死んだ人間を復活させることが出来る。それは量子化された超人だけではなく、あなたの良く知っている人であるならば、遺伝子が残っている限り、例え大昔の偉人であっても可能である。

 

 そんな技術が開発されたのは、リュカオンとの戦いも久しく、超人が肉体を捨て、自然派が地球上のあらゆる場所で鬱憤と悪意をばらまいている時だった。

 

 自然派が自分たちだけが人間であると主張し、他種族を排除しようと躍起になっている頃、それを否定するためにDAVIDが導き出した答えの副産物がそれだった。人間の記憶は遺伝子と結びついており、例え完璧でなくとも、二つがある程度揃っていれば、遺伝子を元に記憶を復元することが可能だと言うのだ。

 

 このニュースはまたたく間に世界中に広まり、また新たな議論を生み出した。

 

 ロマンチックな人はこの夢のようなテクノロジーを使って、例えばアインシュタインやニュートンのような天才を復活させようと言った。人類を代表するような頭脳を持つ彼らが復活すれば、この歴史の袋小路に入り込んだ世界をきっと良くしてくれるに違いない。

 

 他方、そんなことをしても無意味だという意見もあった。今更アインシュタインが復活したところで何も出来るわけがない。既に人類にはシンギュラリティに到達したAIが存在し、DAVIDの前では彼もまた凡百の科学者の一人に過ぎないだろう。

 

 それこそ人権という問題もあった。大昔の偉人はとにもかくにも天寿を全うした人間なのだ。人生を終えて安らかな眠りについた彼らを、未来人が勝手に起こすことは大問題じゃないのか? 彼らが復活を望んでいたのならともかく、そうでなければ単に苦しめるだけだ。

 

 偉人の復活なんてものは、一部の人権派やフェミニストはともかく、殆どの人にとっては単にミーハーなだけの願望に過ぎなかった。彼らを生き返らせたところで、サインを貰ったり、ほんのちょっと話を聞きたいというだけの話である。だから議論は結局、安易に死者を生き返らせるものじゃないという、当たり前の論調に支配されていった……

 

 ただ……そんな中、死者の復活に並々ならぬ思いを抱く者たちがいた。その人達は過去の偉人を生き返らせたいというわけではなく、例えば若くして病死した自分の子供だったり、不慮の事故で亡くなった恋人にまた逢いたいという、そんな過去を引きずっている人々だった。

 

 彼らは、故人が苦しい闘病生活に耐えながらも、生きようとする意思を持っていたと主張した。事故さえなければ、故人には輝かしい未来があったはずだとも……そう言う人達の願いを叶えるべきかどうかも議論された。しかし結論は出なかった。やはり、人間が人間を生き返らせるというような、生命を弄ぶような行為を人は恐れるのだ。

 

 そしてそんな頃、このまま人間の倫理観が変わるまで待っていては、故人が復活するよりも、自分たちが老いさらばえて死を迎えるほうが早いだろう。そんな焦りから、こっそり大切な人を生き返らせるような人々が現れた……

 

 その内の一人に、鳳白は含まれていた。

 

 リュカオンとの戦いの最中、急逝した父親から鳳グループを引き継いだ彼は、DAVIDシステムを所有する企業のCEOとして戦争の勝利に貢献した。彼の人類への寄与は大きく、各国から表彰されたが、それと同時にあらゆる方面から恨みも買っていた。

 

 そもそも、リュカオンを生み出したのはDAVIDだったからという理由だったが、実際には若くして成功者となった彼に対する嫉妬が殆どだった。だが彼はそんな群衆の心理には興味なく、戦争が終わるとさっさとCEOを辞職して歴史の表舞台から下りてしまった。

 

 彼にはこの世界を救う気持ちなどサラサラなかった。ただ、なんやかんやで育ててくれた父親に対する義務感だけで、その後を継ぎ、彼の尻拭いをしただけだったのだ。

 

 ともあれ、こうしてようやくリュカオン騒動から解放された彼は、羽を伸ばす意味でも人里離れて静かな余生を過ごしていた。彼は若く、余生と言うには、まだまだたっぷり時間が残されていたが、それでももう彼は歴史の表舞台に戻るつもりはなかった。もう、人類に対する責任は果たしたとそう思っていた。

 

 ただ、彼には一つだけやり残したことがあった。それは中学時代に死んでしまった幼馴染のことだ。幼かったとはいえ、自分の失敗で、彼女にはつらい思いをさせてしまった。最後は不慮の事故で死んでしまうなんて……

 

 せめてもう一度逢いたい……逢って謝罪がしたい。最近、DAVIDが発見した人間を復活させる方法。それを用いればエミリアを復活させることが出来る……彼はそんな気持ちだけで、禁断の扉を開いてしまったのだった。

 

 そうして復活したエミリアの様子はおかしかった。

 

 まだ確立したばかりの技術なので、なんらかの後遺症が出ているのかと思った。でもそれは違った。復活した彼女は支離滅裂な叫び声を上げ、殆どコミュニケーションが取れなかった。特に男性医師や、若い看護婦を恐れており、近づくことさえ出来なかった。ただ、そんな条件が判明し、年配の女性が対応することで、ようやく彼女が何を恐れているのかが分かった。

 

 彼女は不慮の事故で死んだのではなく、同級生に殺されたのだ。

 

 鳳が先輩に復讐を果たした数日後、彼女は犯行を知り彼に会いに行こうとした。彼女は自分がされたことを公表してでも、彼を助けるつもりだったのだ。それは彼女にとっては死ぬより辛い決断だった。しかし、それだけ思い切った彼女の行動を踏みにじるような出来事が起きた。彼女は警察署へ辿り着く前に、同級生によって見つかってしまったのだ。

 

 徒党を組んだ同級生に捕まったエミリアは、人気のない屋上へと連れ込まれた。同級生たちもまた鳳が事件を起こしたこと知ったばかりで、彼がその凶行を実行したのはエミリアのせいだと考えているらしかった。

 

 彼女らが慕う先輩たちは、今エミリアのせいでひどい怪我を負い、病院に収容されている。一番症状が重い先輩なんかは手術を受けても後遺症が残るそうだった。何故彼らがこんなひどい目に遭わなければならなかったのか。それもこれも、エミリアが鳳を唆したからだ。おまえは先輩たちに可愛がられていたくせに何が気にくわないんだ。謝罪しろ。土下座して謝れ。

 

 どうして自分が謝らなければならないのかわからないエミリアはそれを拒絶した。しかし、長い間引きこもっていた彼女は上手く返事すら出来なかった。目を逸らし、はっきり声を発するすら出来ず、怯えるような表情を見せる相手に、同級生たちは優位に立ったと勘違いし、更に無茶な要求を始めた。このままじゃ気がすまない。一発殴らせろ。つーか死ね。ここから飛び降りろ。

 

 誰も居ない屋上で追い詰められたエミリアは、なんとか彼女らの追求を交わして逃げ出そうとした。追いすがる同級生の腕をかいくぐり、昇ってきた階段へ逃げ込んだ。屋上は普段は人が入らないように鍵が掛けられていたが、それはダイヤル式のもので、同級生たちは簡単に開けることが出来た。そんなセキュリティ状態であったが、人が入り込むような場所ではないと想定された作りになっていた。

 

 階段へ逃げ込んだエミリアはそのまま階下の住人に助けを求めようとした。しかし、その背中に同級生が追いすがり、彼女のことを突き飛ばした。エミリアは階段を転げ落ち……普通なら踊り場で止まっただろうに……しかし、そこは人が入らないはずの屋上だった。階段の手摺はせいぜい腰の高さくらいしかなく、彼女はそれを乗り越えて落下した。

 

 12階以上の高さから落ちたエミリアは即死した。彼女を突き飛ばして殺した同級生は真っ青になった。このままじゃ自分が殺人犯にされてしまう。自分たちは何も悪くないのに。全部あいつが悪いのに! だから彼女らは嘘を吐いた。エミリアが事件のことを知って悩んでいたので相談に乗った。一生懸命慰めたが説得しきれず、彼女は思いつめたような表情のまま帰っていったと。

 

 全員が同じ証言をし、エミリアと彼女らは小学生のころから付き合いがあったから、警察はそれを信じた……

 

 なんてことだ!

 

 鳳は頭を抱えた。ずっと彼女を追い詰めていたのは、自分の犯行のせいだと思っていた。実際、社会復帰した後に聞かされた話では、彼女は自殺したことになっていた。辻褄が合っていたからそう信じていた。だから謝りたかったのに……

 

 なのに、その前提が崩れた今、復活したエミリアにとってこの世界は悪意に満ちた場所でしか無かった。彼女は自ら生命を断ったわけでも、不慮の事故で亡くなったわけでもない。人の悪意によって殺されたのだ。一度死んだ彼女にとって、その恐怖は常に死と直結している。

 

 復活したエミリアは人を極端に恐れ、ほぼベッドで寝たきり状態だった。辛うじて相手が出来るのは年配の女性だけで、それも母親が子供に接するような忍耐力が必要だった。

 

 鳳は深く後悔した。こんなことになるのなら、生き返らせるんじゃなかった。

 

 結局、人間の復活なんてただの感傷に過ぎないのだ。生きている者同士ですらすれ違うというのに、死者が生前に何を考えていたかなんて、わかるわけないじゃないか。どんな理由があったとしても、死者を復活させるなんてことはしてはならない。人間の生死は、例えそれが善意であっても、他人が勝手に決めていいようなものではないのだ。

 

 彼が自分の愚かな行いに対し、自分を責めている時だった。エミリアの部屋の方が騒がしくなった。何が起きたのか聞いてみれば、どうやらテレビを見ていた彼女が突然おかしくなったらしい。でも、その何が彼女の琴線に触れたのか、医者も看護師も分からず困っているようだった。

 

 鳳はどういうことだろうかとテレビを点けた。するとそこにとんでもない物が映っていた。なんとそこには中学時代の先輩が映っていたのだ。

 

 テレビは最近増え続けている自然派の主張を取材するドキュメンタリーだった。エミリアを襲ったあの先輩は、その後紆余曲折を経て自然派の一員になっていたのだ。彼はこの世界を支配しているのがDAVIDというコンピュータと、肉体を持たない超人であることに不快感を覚えていた。

 

「この世界は俺たち人間が築き上げきたもんでしょう。なのに今の超人は、コンピュータの言いなりになって、肉体を捨てるなんて馬鹿げてますよ。こんなのは人間じゃないっつーの。ただのメモリ上のデータじゃないっすか。俺たちの、子々孫々、親から子へ受け継がれた生命のリンクが、このままじゃ途切れてしまう。だから俺達みたいにちゃんと親から貰った体を大事にして、真面目に働いて、きちんと結婚して子供を生み育てる普通の人間にこの世界を返すべきなんすよ。

 

 つーか、世界の危機を救ったなんて偉そうに言ってるけど、鳳グループとか超人が支配者面していられるのは、機械と遺伝子操作っていうチートを使ったからじゃないっすか。そんなチート使って偉そうにされてもね……なら、俺らもチートを使えばいいって話じゃないですか。

 

 おかしいっすか? 確かに、おまえら自然派って言ってるくせに、肉体改造なんて矛盾してるだろって良く言われるんですけど……でも、例えば整形手術って悪いことですか? 虫歯ができたら誰だって抜いて差し歯にするでしょう。遺伝子操作も人間が正当に手に入れた科学技術なんだから、それを受け入れて使っていきゃいいんですよ。

 

 自然というのはね、ちゃんと男と女が愛し合って、子供を産むってことなんですよ。そうやって人と人が愛しあって、子供を産み育む。そういう意思がある人間だけが、この世界を支配していけばいいんですよ。

 

 その方がよっぽど自然じゃないっすか! なのに、その支配者が、いつまでも非力なままっておかしくないっすか? だから俺たちも素手でリュカオンを倒せる程度には強くならなきゃね」

 

 先輩はインタビューの間、ずっと寄り添うように肩を組んでいた伴侶にキスをしてみせた。

 

「今、妻のお腹の中に5人目の子がいるんですよ。来年生まれてくるこの子のためにも俺たちが頑張んなきゃ。人が愛し合ったら、子供が産まれる。それが自然ってやつじゃないっすか。ラブアンドピース。だから子供を作る気概もない超人は、さっさとこの世界から退場してくれってね」

 

 先輩の高笑いが響き渡る。鳳はテレビを消した。

 

 リュカオンとの戦争が終結してから暫くして、こういう身勝手な主張をする連中が増えてきた。彼らは戦中は自然派と言って徴兵を拒み、超人になることを拒否した。ところが、戦争が終わると今度は自分たちも改造しろ、不公平じゃないかと言い出した。

 

 結局、自然派なんてものは、馬鹿げた反体制派の戯言なのだ。

 

 彼らは肉体的にも精神的にも他種族に劣っているというコンプレックスを持ち、それを暴力的な方法で解決しようとしているだけだ。だから本来、こんな主張は切って捨てるだけなのだが……

 

 鳳は受話器を取った。

 

「……俺だ。さっきテレビに出ていた反体制派の男と連絡を取りたい」

 

 鳳は彼らの望み通りにしてやることにした。リュカオンを討伐し、DAVIDを所有し、世界中の富を独占する企業のトップであった彼ならそれが可能だった。だから彼は敢えてそうすることにした。

 

 自然派の言う通り、好きに遺伝子操作を出来るようにしてやって、そして奴らの遺伝子をぐちゃぐちゃにしてやるのだ!

 

 強くなりたいと言うのなら、あらゆる獰猛な動物の遺伝子を組み込んでやろう。下手に理性などがあるから、我々は躊躇してしまう。だから理性も奪ってやれ。人格も余計だ。そもそも、あんな下等な奴らにそんなもの必要ない。奴らも言っているじゃないか。闘争のために情けは無用だ。

 

 何が、人が愛し合ったら子供が産まれるだ。

 

 愛など無くても子供は産まれてくる。

 

 エミリアはそのせいで、今も苦しんでるんじゃないか!

 

「クソがっ……」

 

 鳳は吐き捨てると椅子を蹴飛ばし立ち上がった。部屋にあるものを手当り次第なぎ倒し、テレビを真っ二つにぶっ壊した。破片が飛び散り、頬をかすめて飛んでいく。そんなもの別に痛くもないのに、視界が滲んでよく見えなかった。

 

 彼はハァハァと荒い息を吐き出しながら、部屋の続きに作られた洗面所へと向かった。落ち着け。何をするにしても、まずは冷静でなくてはならない。気を静めて、これからの戦略を練らねば……彼は怒りに震える自分の腕を押さえつけた。

 

 と、その時、彼は妙な違和感を覚えた。押さえつけた自分の腕が、何故だか自分のものじゃないような気がしたのだ。おかしいと思って見てみるも、暗い洗面所で涙に濡れる視界ではそれはよく確認出来なかった。彼はチッと舌打ちすると蛇口をひねり、バシャバシャと顔を洗った。すると彼の爪先が額を引っ掻いて猛烈な痛みを生じた。

 

 おかしい。痛い。何だこれ?

 

 慌てて自分の手を引き剥がし、彼は洗面所の電気スイッチを押した。するとそこには……全身毛むくじゃらで、顔には鋭い牙が生えていて、丸太のような腕の先には巨大なクマのような手と、トラのような爪をもった一匹の獣が立っていた。

 

********************************

 

「うわああああああああああぁぁぁぁぁーーーーーーっっっ!!!」

 

 早朝の官庁街に叫び声が響き渡った。丁度、出勤しようとしていた役人たちは目を丸くした。その声は自分たちが住んでいる宿舎のすぐ隣に作られた、ヘルメス卿の邸宅から聞こえてきた。どうせ暫定だからと言って、一国の主が住むような場所では無かったが、それでも鉄筋で作られたそれなりの家がガタガタと揺れていた。

 

 丁度その時、毎朝の日課で鳳を起こしにきたアリスは、驚きながら家の中へと駆け込んだ。ものすごい悲鳴が聞こえたが、何があったのかと彼の寝室へ飛び込んでいくと、鳳はソファから転げ落ちて荒い息を吐いていた。

 

 床には大量の酒瓶が転がっており、またこんなに飲んだのかとアリスを呆れさせたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。彼女は慌てて彼の元へと駆け寄ると、その体を抱き起こそうとした。

 

「触るなっ!」

 

 その時、ドンッ! っとものすごい衝撃がして、アリスの体が吹き飛んでいった。多分、彼女が現代人だったら、ダンプカーにでもはねられたような、ものすごい衝撃だったとでもいうだろう。

 

 壁に叩きつけられたアリスは肺の中身を全部吐き出してしまったのか、息苦しそうに咳き込んでいた。鳳はその姿を見て、ハッと夢から覚めたように正気を取り戻し、

 

「ごめん、大丈夫かっ!?」

「……だいじょぶです……」

 

 アリスはゴホゴホと咳き込みながら必死に立ち上がると、

 

「勇者様こそ、大丈夫ですか? 何か凄い悲鳴が聞こえましたが……」

 

 それでも鳳のことを介抱しようと近づいてくる彼女に向かって、鳳は制止するように手を翳すと、

 

「俺は大丈夫だ! 俺のことはいいから、自分の体を心配しろ!」

「でも……」

「単に夢見が悪かっただけだから! 君は心配しなくていい」

 

 鳳は必死に彼女を近づけさせまいとしている。その様子が不自然で、アリスはもしかして鳳が怪我でも隠しているのではないかと思ったが、と、その時……

 

 ぐぅ~……っと鳳のお腹が鳴って、その間抜けな音が緊張感を根こそぎ奪っていってしまった。

 

「……どうやら、お腹が空いているようだ。空腹な上に酒を飲みすぎて、悪夢を見たんだろう。他に悪いところはない。体の調子は本当に良いんだ」

「……すぐにお腹に負担が少ない物を用意します」

 

 彼女はペコリとお辞儀すると、慌てて部屋から出ていった。鳳は突き飛ばしてしまった彼女の体が大丈夫かと心配だったが、思ったよりもその足取りがしっかりしていたのでホッとした。

 

 バタンとドアが閉じられ、静寂が戻ってきた。窓を見やれば外はもう完全に明るくなっており、通勤する人々の気配がしていた。また、一時間も眠れなかったようだ。彼はズルズルと重い体を起こすと、傍にあったソファに背中を預けた。

 

 足元には酒瓶が散乱しており、部屋は汗の匂いが充満していて酷かった。どうしてこんなに飲んでしまったんだっけ? と思い出した時、解決出来ない問題を思い出して憂鬱になった。だが、それ以上に心に重く伸し掛かるのは、さっき見た夢だった。

 

 あの夢の内容が本当ならば、ラシャを作り出したのは鳳だったのだ。彼は幼馴染を殺した者たちが許せなくて、せっかく救った世界の何もかもをぶち壊す策を取った。その結果、生きたまま遺伝子を操作する機械が作られ、人間は魔族になった。彼が憎しみに駆られ、人を殺したい衝動に駆られるのは、そのせいなのだ。

 

 彼は両手で顔を覆った。

 

「俺が魔王になるのは自業自得だ……全部、自分が悪いんじゃないか……」

 

 あの夢が本当かどうかはわからない。だが、自分の胸のうちに燻る殺意衝動は本物だった。さっきも、心配するアリスが駆け寄ろうとした時、彼は彼女のことを『喰いたい』と思ってしまった……

 

 限界は刻一刻と迫っている。魔王になってしまう前に、早く自分の生命を絶たねばなるまい。でも、どうやって……?

 

 なにしろ、この世界に来てから3度殺され3度生き返ったのだ。死ねるんならとっくに死んでいた。思い悩む彼は結論が出ない。なのに周りから期待され、胃がキリキリ痛むようなストレスを抱え、結論を先送りにしながら、仕方なく生きていた。

 



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対物ライフル

 練兵場に用事があって、ギヨームはまだ早朝の官庁街へとやってきた。フェニックスの街から少し離れた場所にあるから、一般人は余り近づかないのだが、本当ならこっちの方が城下町のはずだった。

 

 ここには以前、放射状に伸びた見目麗しい町並みが広がっており、城の壮麗さと共にヘルメスの象徴だった。それがたった一度の戦争で瓦礫の山と化し、何もかも変わってしまうのだから、人の営みなど儚いものである。

 

 街に足を踏み入れると、何やら宿舎の辺りが騒がしかった。何かあったのかなと見ていると、宿舎からアリスが飛び出してきてパタパタと鳳の家へと入っていった。ヘルメス卿の邸宅と言えば聞こえは良いが、正直、見た目はただの掘っ立て小屋である。

 

元々は宿舎に住んでいたようだが、それだと職員が緊張するからという理由で、仕方なく外に建てたらしい。一応コンクリート造であるようだが、そのみすぼらしさもさることながら、セキュリティの方もどうなっているのだろうか……少なくともメイドは一度も止められていなかった。

 

 最近は殆ど鳳の使用人みたいになっていたが、アリスは元々ヘルメス貴族ルナ・デューイの侍女だったはずだ。鳳はその主人を助けるためにヘルメス卿になったわけだが、彼女は今ごろどうしているのだろうか……そんなことを考えていると、同じ宿舎から噂の本人が現れた。

 

 ルナは胸に抱いた赤ん坊をあやすかのように、体を揺さぶりながらウロウロし始めた。散歩のつもりだろうか。最近、無事に男子を出産したと聞いていたが、産後の肥立ちも良さそうだった。お嬢様育ちと聞いていたが、ちゃんと子供の世話はしているようで、ギヨームはホッと安心した。

 

 散歩かと思っていたが、どうやらルナはアリスを追いかけてきたようだった。鳳の家から出てきた彼女にすれ違いざまに声を掛け、二言三言交わした後、ホッとした表情を見せた。出産後、アリスは鳳の世話をするようになったが、ルナの方は相変わらず彼女のことを頼りにしているようである。ずっと二人きりで追っ手から逃げ回ってきたのだから当然だろう。

 

 しかし、何の用事でこんな朝からバタバタしてるんだろうか? と思って遠巻きに眺めていると、ギヨームはふと嫌な感覚を覚えた。それは前衛斥候としての勘というやつだろうか、危険が迫ってるときに感じる違和感だった。何がそんなに気になるんだろうと冷静に観察してみると、ギヨームとは反対側の街の入口の影から、ルナ主従をコソコソ見ている複数の影が見えた。

 

 一見すると官庁街に用事があってやってきた貴族とその護衛のように見えなくもないが、だったらさっさと中に入ってくればいいだろうに……ギヨームは何となく嫌な感じがして様子を窺ってみることにした。

 

 その時、アリスと分かれたルナが動き出した。今度こそ赤ん坊の散歩だろうか? 胸に紐でくくりつけた赤ん坊を相手に、ニコニコ何か話しかけながら、彼女は官庁街をふらりと歩きだした。するとそれを待っていたかのように、さっきの連中が動き出した。ギヨームは、こりゃ間違いなく彼女のことを狙ってるなと思い、双方に気付かれないようにルナの後をつけた。

 

 彼女は出勤してくる役人たちとは反対方向に、どんどん人気が少ない方へと歩いていった。通勤の邪魔をしないようにという配慮もあったかも知れないが、むずがる赤ん坊のために、単に静かな場所に行きたかったのだろう。官庁街は画一的だから行き先は大体見当がついた。少し離れた所に申し訳程度に公園があるのだが、どうやらそこへ向かっているらしい。

 

 彼女は2ブロックほど歩いて、近道のつもりか狭い路地へと入っていった。するとそれを待っていたかのように、先程の怪しい連中が動き出した。貴族らしき男の指示で、数人が路地の出口へと走り、残った者が彼女の後を追いかけて路地に駆け込んでいく。ギヨームは少し遅れてその路地へ駆けつけると、そっと姿勢を低くして中の様子を窺った。

 

「いやあぁぁーっ!! 離してっっ!!」

「この売女が!! 死ねっ!!」「気をつけろ! 古代呪文を使うぞ!」「ガキを狙えっ!!」

 

 狭い路地裏の丁度中間あたりでルナが男たちに捕まっていた。反対側の出口から、さっき回り込んだ連中が駆けつけてくる。神人であるルナは彼らに見えない何かをぶつけたが、相手は一瞬怯んだだけですぐに体勢を整えると、怒りに任せて彼女に掴みかかってきた。

 

 本来なら身体能力では劣らないはずの彼女も、胸に抱いている赤ん坊のせいで身動きが取れず、腹ばいになって自分の子供を庇うのが精一杯のようだった。男たちはそれを優位に生かして、彼女に覆いかぶさるように羽交い締めすると、赤ん坊を引きずり出そうとして彼女の胸のあたりに手を突っ込んだ。

 

 たちまちルナの悲鳴が上がって、同時に赤ん坊の泣き声がこだました。しかし、周囲を壁に囲まれているせいか、その悲鳴はどこにも届かず、官庁街の人々は気づいていないようだった。

 

「この殺人者! 図々しい女め! いつまでものうのうと生きてやがる! おまえがアイザック様を殺したせいで、俺たちがどんな目に遭ってるというのか……おまえが国をめちゃくちゃにしたのだ! 死んで詫びろ!!」

「やめてっ! 私の赤ちゃんを引っ張らないでっ!」

「こいつが全ての元凶だ。潰して見せしめにしてやる!!」

「やだっ! やだああぁぁーーーっっっ!!!」

 

 男たちはルナから赤ん坊を奪い取ろうと躍起になっていた。しかし我が子を必死に守る母親に勝てるはずもなく、上手く行かないことにイライラした一人が腹いせに彼女のことを蹴り上げると、一斉に他の連中も彼女に攻撃を加えはじめた。

 

 ドスドスとサンドバッグを叩くような音が響き渡る。その度にルナの小さな悲鳴が漏れた。赤ん坊はいよいよ派手に泣きじゃくる。

 

 神人は傷つかないと知ってはいるが……流石にもう見ていられない!

 

 せめて事情が分かるまで静観しようかと思っていたが、男の一人が石を拾い上げるのを見るや否や、ギヨームは堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに即座に銃を抜いた。

 

 と、その時だった。

 

 ブワッと猛烈な風が路地裏に吹き込んで、砂埃が男たちの目を襲った。石を手にしていた男が堪らずそれを地面に落として目を擦る。やがて風が通り過ぎると、咳き込む男たちの前に立ちはだかるように、一人の男が立っていた。

 

 現ヘルメス卿こと、鳳白である。まるで瞬間移動でもしたかのように唐突に現れた彼の姿に、相手が誰であるかすぐに分かった貴族らしき男は顔を青ざめ、他の男たちは驚愕の表情を浮かべた。彼はそんな連中を前に憮然とした表情で、

 

「……私刑は禁じられているはずだ。お前らを憲兵に引き渡す」

「なんだこいつ。どこから現れた?」「どうせ格好つけてるだけのガキだ。こいつも一緒に畳んじまえ!!」

 

 男たちはあっけにとられながらも、相手が一人だと知り勝てると踏んだのか、貴族が止めるのも聞かずに飛びかかってきた。鳳はそんな男たちの攻撃を最低限の動きだけで躱すと、お見舞いに軽く腕を伸ばした。

 

 ゴッ……っと、まるで石が叩き割れるような音がして、飛びかかっていった男たちが吹き飛んだ。彼らは嘘みたいに狭い路地の両壁をバウンドしながら飛んでいき、数メートル先でもんどり打って失神した。それを見ていた仲間の男たちが色をなくす。

 

「おおお、お許しを! どうかお許しを!」

 

 貴族の男は慌てて彼の前に進み出ると、地面に額を擦り付けて許しを請うた。鳳はそんなみじめな男の姿には見向きもせずに、遅れて路地に駆け込んできた憲兵隊に合図すると、彼らは最初の宣言通りに逮捕されていった。

 

 ヘルメス卿! ヘルメス卿! と叫ぶ男の顔からして、彼はこんなことをしたら鳳が激怒することが分かっていたように思える。それでも実行したのは、それだけルナが許せなかったのだろうか……正直、ギヨームにはその気持ちが全然分からなかった。

 

 そんなことより唖然とさせられたのは鳳の方だ。何だあれは。腕をちょっと翳しただけで、どうして人間が吹っ飛んでいくというのか。自分は斥候としてそれなりに自信はある。敵を先に見つけなければ死ぬような世界で暮らしていたからだ。なのに、彼が現れた時、ギヨームは全くその姿を確認出来なかった。

 

 あれが勇者の力というものなのだろうか。魔王を倒した時も相当強かったが、それでもものすごく強い神人……そんな程度の強さだった。もはや人類を超越して、神がかっていやしないか? 確か最後に聞いた鳳のレベルは99。STRは27だったはずだが、今はどれくらいになっているんだろうか……?

 

 ギヨームが遠目にそれを盗み見ていると、危機を救われたルナが涙目で鳳の元へ駆け寄ってはペコペコと頭を下げていた。鳳は気にしなくて良いからと言った感じに手を振りながらも、明らかに少し迷惑そうな顔をしていた。その時、赤ん坊がまた泣き出して、ルナも泣きそうになりながら子供をあやし始めた。そうして一瞬、彼女の視線が離れた瞬間、鳳が見せた胡乱な目をギヨームは見逃さなかった。

 

 なんだろうあれは……ルナのことが……いや、赤ん坊が苦手なのか?

 

「ギヨーム!」

 

 彼がそんな二人の様子を遠くから傍観していると、突然、その鳳から声がかかった。距離はそんなに遠くはないが、建物の影に隠れていて向こうからは見えないはずだった。ギヨームは肩を竦めて路地裏に姿を晒すと、

 

「気づいてたのかよ」

「ああ」

 

 鳳は頷く。ギヨームはフンっと鼻を鳴らすと、彼の目の前まで歩いていき、じっとその目を睨みつけるように見上げながら、

 

「なら何故、あいつらを制圧するときに呼ばなかった」

「必要ないからだ」

「……ああ、そうかい」

 

 全くもってその通りだ。ぐうの音も出ない。あの時、ギヨームがしゃしゃり出たところで結果は何も変わらなかったし、寧ろ鳳の邪魔になっただけだろう。それくらい、今の彼我の差は開いていた。

 

 鳳も、ギヨームも、どちらからともなく、そっけなく視線を逸らした。

 

「……俺は仕事があるから、ルナさんを宿舎まで送ってってくれないか」

「いえ、ヘルメス卿、お構いなく!」

 

 そのルナが慌てて口を挟むが、たった今襲われた母子が何を言うのか。ギヨームはため息をつくと、

 

「分かったよ。俺は暇だしな」

「頼むよ……」

 

 鳳は素っ気なくそう言うと、踵を返して帰っていった。ルナはそんな鳳の姿が見えなくなるまで何度も何度もお辞儀をしながら見送っていた。その動きが面白かったのか、さっきまで泣きじゃくっていた赤ん坊が、今度はキャッキャと笑っている。どんな生き物でもそうだが、赤ちゃんというのはみんな可愛いなと、ギヨームは口をほころばせた。

 

 ……鳳は何故、あんな顔をしていたんだ?

 

「……私はヘルメス卿から嫌われているのでしょうか」

 

 ギヨームがそんなことをぼんやりと考えていると、鳳を見送っていたルナがポツリと呟いた。彼女の瞳は涙で潤んでいて、鳳のあの素っ気ない態度に本当に傷ついているようだった。

 

「んなわけねえよ」

 

 彼は、柄じゃないと思いつつも、落ち込んでいる彼女にそう言わざるを得なかった。

 

「あいつはあんたを助けるためにヘルメス卿になったんだぜ? 今だって、あんたを助けに駆けつけてきたじゃねえか。なんとも思ってない相手に、こんなことしねえよ」

 

 ギヨームがぶっきら棒にそう言うと、ルナは目をパチクリさせながら彼の顔をまじまじと見ていた。赤ん坊がそんな母親の顔を見上げながら、手を叩いて喜んでいる。ギヨームがそんな赤ん坊の目の前に指を翳すと、赤ん坊はそれに手を伸ばして一生懸命握って笑顔を見せた。

 

 ルナは息子のはしゃぐ声を聞きながら、目尻の涙を指で拭うと、

 

「……ありがとう、あなた、いい人ね」

「いいからさっさと帰ろうぜ。俺にも行くとこがあんだよ」

 

 二人は襲撃犯を拘束している憲兵隊の横を通り過ぎ、路地裏から表通りへと出た。敬礼する憲兵の脇を抜けると、ギヨームはルナ親子を先導するように先を進んだ。

 

 それなりに時間が経っていたのか、動き出した街には人出が多くなりつつあった。道行く人々が憲兵隊を見つけて、何があったのだろうかと興味深そうにチラチラとこちらの様子を窺っている。

 

 振り返ると路地裏は狭く、憲兵が立っていなければ誰も何かがあったなんて気づきそうもなかった。実際、ルナが襲われている時、誰一人として事件が起きていることに気づいていなかった。ギヨームはルナを追いかけて来たからあそこに居合わせたわけだが……鳳はどうしてルナが襲われていることに気づいたんだ?

 

 ストーカーでも無い限り、あんなの気づくわけないだろうに……そして、その彼女のことをギヨームは見張っていたのだ。自分はスカウトとしてそれなりの経験と自信がある。鳳が居たなら気づかないわけがない。あいつはどこから現れたんだろうか?

 

**********************************

 

 ルナを送り届けたギヨームは、当初の予定通りに練兵所までやってきた。官庁街のど真ん中にある、ヴァルトシュタインの根城である。

 

 一等地と呼べるようなこんな場所に、どうしてこんなものがあるのかと言えば、元々城の練兵場があった場所だったからだ。ヘルメス戦争でここは激戦区となり、城の陥落後には死体が集められたり、勇者の屍が晒されたりしたから、誰も縁起が悪くて近づきたくないという心理が働いていたのだ。

 

 因みにその城攻めを行った将軍こそがヴァルトシュタインであり、巡り巡って彼がヘルメスの司令官として戻ってくるのだから因果なものである。

 

 ギヨームがそんな練兵場に姿を現すと、はじめは門番の兵士に通せんぼされた。知らない者からすれば、彼の見た目はただの子供だから、ふざけていると思われたのだろう。

 

 イライラしながらこれまでの経緯を説明していると、騒ぎを聞きつけた副官のテリーがやって来て、彼の身分を保証してくれた。お陰で誤解は解け、番兵はしきりに謝っていたが、ギヨームは憮然と通り過ぎるしかなかった。まあ、子供の姿が役に立つこともあるので、慣れるしかないのだが。

 

「よう! ギヨームじゃねえか。久しぶりだなあ」

 

 司令官室に案内されると、ヴァルトシュタインは似合わない銀縁の眼鏡をかけて、何かの書類を見ていた。戦場でしか会ったことが無いから意外だが、彼は後方支援の方が向いている指揮官らしい。実際、もしも彼が猛将タイプの将軍だったら、最初のフェニックスの街の攻防戦で、損害を覚悟して仕掛けてきたかも知れない。鳳はそこまで見抜いていたのだろうか……などと考えていると、眼鏡を外して眉間をモミモミしながらヴァルトシュタインが聞いてきた。

 

「今日はどうした? 冒険者をやめて軍隊に入りたくなったか?」

「んなわけねえよ。ちょっとあんたに頼みがあってさ」

「頼み? 俺に出来ることなら、言ってみろ」

「ああ、簡単な話だ。この間、戦場で使ってた巨大ライフルがあったろう? あれをもう一度見せてもらえないか」

「巨大ライフル……ああ、お前がオークを一撃で粉砕していたやつか。まだ残ってたかな?」

 

 ヴァルトシュタインが確認すると、テリーが頷いてから兵器庫へ飛んでいった。ライフルは巨大で、一人では持ちきれなかったらしく、彼は10挺のライフルと数人の部下を従えて帰ってきた。

 

 ギヨームは1挺でいいのに……と言いながらそれを受け取ると、ヴァルトシュタインに向かって、

 

「悪りぃんだけど、こいつをひとつ譲ってくれねえか?」

「そんなもの持ち出してどうするんだ? どうせお前にしか扱えないんだから、欲しけりゃやるが……知ってると思うが、こいつは銃身が衝撃に耐えられなくてすぐに壊れる、玩具みたいな代物だぞ。こないだ、おまえが使ったやつも、軒並み壊れちまって全部スクラップ行きだ」

「ああ、知ってるよ。けどまあ、使い道はあるんじゃないかと思ってさ」

「どうやって使うってんだよ?」

「……こうやってさ」

 

 興味津々に尋ねてくるヴァルトシュタインに、ギヨームは肩を竦めてから、じっと真剣な表情を返して見せた。すぐには何も起こらず……テリーや兵士たちが何をしてるんだろう? と首を傾げていると、突然、ギヨームの目の前にキラキラと光の礫が現れ、それが一箇所に集まっていき、何かの形を作り始めた。

 

 それが目の前のライフルであることに気づくと、部屋にいた者たちが感嘆の息を漏らしたが、残念なことにその光は最後まで収束せずに、暫くすると弾けるように消えてしまった。

 

「……今のは?」

「俺の現代魔法(クオリア)だ。普段はこれで拳銃を作り出しているんだけどよ」

「ああ! いつも手ぶらなくせに、どんな手品だと思っていたら……現代魔法はこんなのもあるのか。初めて知ったぞ」

「俺のは頭の中で思い描いた銃を作り出すっていうスキルだ。見ての通り、そのイメージが完璧じゃないと失敗しちまう。だから実物を見ながら、構造を頭に叩き込もうと思ってよ」

「へえ~……現代魔法ってのは奥が深いんだな」

「俺がいま作り出せる拳銃じゃ火力不足でよ。でもこれなら、壊れてもまた作り直せばいくらでも撃てるから、戦力アップになるだろう?」

「なんとかなりそうか?」

「どうかな。今の感じじゃ全然だから、一度ライフルをバラしてイメージを膨らましてみるよ。ところで、こいつの製造法って軍事機密か何かか? 出来れば、作った工房を訪ねて、部品から手に入れたいんだが……」

「いいや、ただの町工場に頼んで作らせたものだから、秘密でもなんでもねえよ。地図描いてやるから、あとで行ってみろ」

「助かるよ」

 

 ヴァルトシュタインは見ていた書類を脇によけて、白い紙に地図を描き始めた。ギヨームがそれを上から覗き込んでいると、彼は線を描いたり消したり、ああでもないこうでもないと言いながら、会話の間をもたせるような感じに、

 

「しかし、部品一つからイメージしなきゃならんものなのか。大変だな」

「ああ、なんつーか、銃を作り出すってのは、頭の中で形を思い描くんじゃなくって、ネジやらバネやら、一つ一つの部品を組み立てていくようにイメージするんだよ。完成品を作り出すには、そのイメージを明確に、瞬時にやらなきゃならない。俺が今まで使い続けていたのは、前世で使っていた愛銃だから出来たわけだが……これは一から覚えるしかないからな。実際、上手くいくかどうかは未知数だ」

「ふ~ん……部品を一からね。幻想具現化(ファンタジックビジョン)みたいだな。同じ現代魔法だし、なんか関係あんのかね」

 

 ヴァルトシュタインはぼんやりとした口調でそう言った。それが余りにも自然だったから、ギヨームは一瞬聞き逃しそうになったくらいだ。だが、その意味に理解が及ぶと、彼は一転して驚愕の表情を浮かべ、地図を描いているヴァルトシュタインの腕を押し留めて、勢い込んで尋ねた。

 

「どうしてそう思うんだ?」

 

 せっかく地図を描いてやっていたのに、いきなり腕を掴まれたヴァルトシュタインは憮然としながら、

 

「何が?」

「俺のクオリアが、幻想具現化みたいだって、どうしてそう思ったんだ?」

「どうしてって……? どうしてだろう?」

 

 ヴァルトシュタインは首を傾げた。ギヨームはそんな彼をイライラしながら見守っていた。自分で言っておきながら、なんでそんな言葉が出てきたのか、ヴァルトシュタインは最初分からなかったようだが……やがて何かを思い出したかのように、

 

「ああ、そうだそうだ。部品を組み立てるってところがな……お前は知らないかも知れないが、この世界の銃はその昔、レオナルドが作り出した物なんだよ。確か、初代ヘルメス卿が設計図を描いたんだが、当時の技術じゃ上手く作り出せなくてお蔵入りしかけたんだが、レオナルドがそのパーツの一つ一つを幻想具現化で作り出した。そうして生まれたのが、この世界最初の銃だったんだ。暫くは彼の専売特許だったんだが、そのうちその辺の鍛冶屋でも作れるようになってからは、一般に普及していった」

「そう言えば、そんな話も聞いたことがあるな」

「何もないところから部品を作り出して、組み立てる。お前がやろうとしていることと同じだろう? それを頭の中で一気にやるか、ワンクッション置いて外で組み立てるかの違いはあるが……俺の勝手な想像だから、全然見当違いかも知れないがよ」

「いや、そんなことはない……すげえ助かったよ」

 

 ギヨームはヴァルトシュタインの腕を離すと、邪魔して悪かったと謝って一歩下がった。ヴァルトシュタインは、もういいのか? と言って肩をすくめると、今度こそ最後まで地図を完成させてギヨームに渡した。彼はそれを受け取ると、改めてお礼を述べて部屋を後にした。

 

 今日、ここに来たのは大正解だった。もしかしたら、あの巨大ライフルを作れないかと、漠然とした考えだけで来たのだが、実物をいただけるどころか、まさかそのヒントまで貰えるとは……

 

 意識していたわけではないが、確かに、ギヨームが今やろうとしていることは、レオナルドの幻想具現化に近かった。一人で何もかもやろうとしていたが、前例があるならそれに倣わない理由はない。彼は近い内にヴィンチ村を尋ねようと心に決めつつ、まずは貰った地図を頼りに鍛冶屋を目指した。

 



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おまえ、モテないだろう?

 両開きのドアを押し開けて、ギルド酒場にギヨームが入ってきた。以前なら、見た目が少年でしかない彼を誂うならず者がいたものだが、今となってはそんなことをする恐れ知らずなど一人もいなくなっていた。というか、最近は鳳の使いのメイド少女も良くやってくるから、お客も慣れてしまったのだろう。

 

 頻繁に少年少女が通ってくる酒場ってどんなんだ……などと思いつつ、ミーティアが頬杖をつきながらその動向を見守っていると、多分ルーシーに用事があるんだろうと思いきや、彼はまっすぐギルドの受付の方へとやってきた。

 

「おや、珍しい。お客様、ギルドにご依頼でしょうか?」

「んなわけねえだろ、冒険者なのに」

「それじゃ仕事を探しに来たんですか? 知ってると思いますが、ここのところヘルメスの治安が良くなりすぎちゃって、ギヨームさんにお願いするような高ランクの依頼なんてありませんよ。失せ物探しとかなら沢山ありますが」

「いや、仕事を探しに来たんでもない。つーか、平和になって残念みたいに言うんじゃねえよ、あぶねえギルド職員だな」

「実際、仕事がなさすぎて退屈なんですよ。いっそ本気で酒場の方にデビューしようかなとか考えちゃうくらいで」

「別に俺は止めやしないが、フィリップが嘆くぞ……って、こんなこと言いに来たんじゃなかった。今日はそのギルド長に挨拶に来てさ。奥に通してくれないか?」

「……挨拶? 結婚でもするんですか?」

「ちげえよ! 本当に面倒くさい職員だな。暫く留守にするからその挨拶だ」

 

 いつもの癖で軽口を叩いていたら、飛び出してきたのは寝耳に水なセリフであった。ミーティアは驚いて、どういうことかと尋ねてみたら、

 

「別に永久に居なくなるわけじゃねえよ。ちょっとレオに教わりたいことが出来て、ヴィンチ村まで行こうと思ってんだ。手応えを掴むまではあっちにいるつもりだから、いつ帰ってこれるか分からなくってよ」

「教わりたいこと?」

「俺のクオリアについてちょっとな。まあ、修行みたいなもんだ」

「ギヨーム君、修行に行っちゃうの?」

 

 ギヨームがミーティアと話していると、それを背後で聞いていたルーシーから声が掛かった。見ればお盆を胸に抱きながら、彼女がてくてくと歩いてくる。ギヨームはどっち向いて喋れば良いのかわからないと思いつつ、どうせ彼女にも挨拶するつもりだったからと肩を竦めて振り返り、

 

「いや、修行っつーかなんつーか……」

「ふーん……こないだの孤児院の先生のこと気にしてるのかな」

「だから違うっての! ……現代魔法に関してちょっと思うところがあってよ。レオに相談したいだけだよ」

「そっかあ……ギヨーム君がパワーアップを目指すんなら、私も帝都に行こうかなあ。私も、このままじゃいけないかなって思ってたし」

「違うと言うのに……っつか、帝都? ヴィンチ村に帰るんでなく?」

 

 ルーシーは頷いて、

 

「実は先生に勧められていたんだ。帝都の近くに迷宮があって、昔おじいちゃんがそこで修行したんだって。もしも力が必要になったら、そこに行きなさいって」

「迷宮攻略……一人じゃ危なくねえか? 砂漠の迷宮みたいに精神攻撃してくるところばかりじゃないぞ。物理的に仕掛けてくる迷宮もあれば、問答無用の即死トラップなんてもんもある。せめてジャンヌを連れてくか、俺が帰ってくるまで待ってろよ」

「うーん……ジャンヌさんかあ。最近のあの様子じゃ、難しそうだよね」

 

 ルーシーはため息交じりにやれやれと首を振った。鳳がヘルメス卿になって以来、ジャンヌは日に日に元気を失っていった。原因はもちろん、彼に拒絶されてしまったからだ。ギヨームはそれを男女のことだからある程度は仕方ないと思っていたが……とは言え、普通ならそうなっても会話くらい成立しそうなのに、鳳がここまで粘着質だとは思いもよらず、正直最近は考えを改め始めていたところだった。

 

 だから、まあ、一度くらい文句を言っても罰は当たらないだろうとしたところ、例の孤児院の女医に諭されてしまったわけだが……ルーシーには違うと言ったが、ギヨームはあの言葉が相当堪えていた。せめて同じ高みにいるのなら、殴って言うことを聞かせてやるくらいのことは言えただろうが、確かにあの女の言うとおり、今の自分はただの口だけ達者な子供に過ぎなかった。

 

「ジャンヌさんは引き篭もってしまってて、最近はギルドにも寄り付かないんですよね。少し前までは、そこでサムソンさんが励ましている姿を頻繁に見かけたんですが……」

「そうか、サムソンが……」

 

 今までは一生懸命粉をかけても相手にされていなかったが、傷心の今なら彼にもチャンスが回ってくるだろう。相手が弱ってるところに付け入るなんて、あのハゲもゲス……ではなく、ソツがないなと思っていたら、

 

「『貴様は俺と並び立つ強き者! こんなことでヘコタレてどうする。自信を持て、胸を張れ! アタックあるのみだああぁぁーーーっ!!!』なんて言って……」

「って、マジで応援してんのかよ。アホか、あいつは。それじゃ鳳に取られちまうだろうに……」

 

 ギヨームが呆れながらそんなことを言っていると、噂のサムソンが酒場に入ってきた。彼はキョロキョロと店内を眺めてから、ギヨームたちが集まっていることに気づき、にこやかに近づいてきたのだが、

 

「よう、サムソン。おまえ、モテないだろう?」

「なんだと貴様!」

「いや、褒めてんだよ」

 

 来て早々馬鹿にされて怒るサムソンを相手に、ギヨームは旅立ちの報告をしてから、自分が居ない間の事を任せた。しっかりジャンヌのことを元気づけてくれと言うと、彼は男らしく胸を張って任せろと言っていた。根がどうしようもない善人なのだろう。

 

************************************

 

 ギルド長に出発の挨拶を済ませ、路銀の足しに簡単な配達の依頼を受けてから、ギヨームは勇者領へ発った。ルートは現在工事中の街道ではなく、既存のアルマ国へ向かうルートである。

 

 新しいルートには興味があったし、途中でガルガンチュアの村にも寄れるから、出来ればこちらを通りたいと思っていたが、工事が中断してしまった今では、どこで足止めを食うか分からず、断念せざるを得なかった。鳳と言うか、貴族連中が何やら揉めているようだが、生活改善のためにもインフラ整備は早く行って欲しいものである。

 

 街道が整備されているとは言え、アルマ国のルートも庶民にはなんやかんや難所であり、護衛の冒険者を雇うか、商人のキャラバンに同行するのが一般的だった。戦争後、人の往来が頻繁になった現在では、護衛専門のキャラバンなんてものも存在するようだが、ギヨームの場合は寧ろ同行者が居るほうが邪魔であり、普通なら1週間はかかる道を、彼は単独でたったの2日で踏破してしまった。

 

 別段、急いだつもりはなかったのだが、パーティーの斥候として大森林で長く活動していたお陰で、森歩きと探知スキルが尋常ではない成長を遂げていたらしい。戦闘スキルも、今では簡単な魔物の群れなら障害にならず、自分でも強くなっている実感はあったのだが……とは言え、これでも恐らく、鳳とは相対的にどんどん差が開いているのだから、やってられないというもんである。

 

 勇者と並び立つような人間というのは、どんな感覚なのだろうか……? もしかして、若かりし日のレオナルドも、自分と似たようなコンプレックスを抱いたのだろうか? そんなことを考えつつ、大森林を抜けて勇者領へと入った。

 

 アルマ国から先は街道も整備されており、今度は単独よりも、数頭立ての乗り合い馬車を乗り継いだ方が早かった。最近はヘルメスへの荷物が多く、人も行き交うから混雑しているらしく、馬車内はぎゅうぎゅう詰めで、下手に眠ろうものなら幌から落っことされそうなくらいだった。

 

 これじゃ馬も参ってしまうだろう思ったが、途中で頻繁に交換して凌いでいるらしかった。これでも路線が赤字にならないのだから、今の物流がどれだけヘルメスに向かっているかがよく分かる。早くもう一つの街道も開通して欲しいものだと、乗り合わせた乗客がぼやいているのを耳にした。これだけ人々に求められても上手く行かないのだから、国家運営とは余程面倒くさいものなのだろう。

 

 確かレオナルドは、それを嫌ってヴィンチ村に籠もっているはずだった。生前はあちこちの国で行政に参画していたはずだが、こっちではもう関わり合いになりたくないと徹底して避けていた。人間社会というのは、どこの世界も似たりよったりと言うことだろうか。

 

 アルマ国から高速馬車を乗り継いで4日後、ヴィンチ村に到着した。馬車を降りて広場に立つと、村はいつも通り長閑で、まるで過去に戻ってきたような錯覚を覚えた。ギルドの看板だけが降ろされていたが、それ以外は何もかもが前のままだった。尤も、自分としてはそれが一番大きな違いであり、言い知れぬ落胆を覚えた。

 

 一時期世話になっていた牧場に行くと、すぐに牧場主が飛んできて、ギヨームの帰還を喜んだ。牧場の外れでは相変わらず猫人たちがゴブリン退治に勤しんでいた。牧場主が言うには、彼らもタカる相手がいなくなって寂しい思いをしているようだ。

 

 酷い評価だと思いはしたが、確かに、両手いっぱいの野菜を抱えて、ギルドに入っていく鳳の姿が見えないのは、何となくパズルのピースが欠けてるような落ち着きない気分にさせられた。いつもそんな彼に、これでもかと野菜を持たせていた段々畑は、熱帯地方に近い気候のお陰で、今も作物で満たされていた。ギヨームはそんな畑の中の道を通って、丘の上のレオナルドの館へと歩いていった。

 

 館の玄関に立つと、当たり前のように執事のセバスチャンが控えていて、「おかえりなさいませ」の挨拶以外、特に何も言うこと無く館内へ案内してくれた。館内の様子が思ったよりも賑やかなので、誰か来ているのかと思えば、スカーサハが滞在しているらしい。

 

 いつもの応接室ではなく、レオナルドの工房(アトリエ)に通されると、老人と一緒にその神人も居り、やってきたギヨームに会釈してみせた。彼が軽く頷いていると、

 

「誰が来たかと思えば、ギヨームか。どうしたんじゃ? 儂に何か用事かいのう?」

「ああ、ちょっと聞きたいことがあってよ。俺一人だけちょっと戻ってきたんだ」

「左様か。ルーシーはおらなんだか。あの馬鹿弟子は、役に立っておるかのう?」

「酒場の店員って意味ならそりゃ役に立ってるだろうが……そう言う意味じゃないんだろうな」

 

 ギヨームは、ヘルメス卿になってからの鳳の様子を話して聞かせた。スカーサハからある程度聞いていたのだろうか、レオナルドも最初のうちは顔色を変えずに聞いていたが、ジャンヌを避けるだけではなく、ミーティアやルーシー、果ては彼が苦労を買ってまで助けたルナさえ避けてる様子を聞かせると、そのうち段々顔色が曇ってきた。

 

「……なんつーかもう、修行僧かっつーくらい、女を避けてる感じがするな。一応、アリスってメイドがいるが……まあ、ありゃ使用人って感じだからかね」

「ふむ……女性を避けている……か……」

「何となくそう感じるぞ。だから、ルーシーが役に立つ立たないって話なら、そもそもあいつは鳳に近づくことさえ出来ねえし、近づけたところで、まあ、役に立たねえだろうなあ……政治経済のことなんてからっきしだしよ」

「左様か……ならばいつまでもあんなところでグズグズしとらんで、こっちに帰ってくれば良いものを」

「……? 帰るも何も、元々あいつがあの街出身だから、元の生活に戻してやったんじゃなかったのか?」

 

 すると老人は首を振って、

 

「いいや。何か事が起きた時、あの子の魔法が役に立つじゃろうと思ったからじゃ。彼女は儂の弟子でもあるが、お主らのパーティーメンバーでもあるからのう」

「へえ……そんなつもりだったのか。そういや、あいつもそんなこと言ってたな。自分も修行したいから帝都の迷宮に行こうかなって」

「……なんじゃと!? 儂は教えとらんぞ、あんな危険な場所。誰から聞いたんじゃろうか」

大君(タイクーン)、私です」

 

 スカーサハが名乗り出ると、老人は立ち上がって目を見開き、苛立たしそうに頭の上から怒鳴りつけた。

 

「何故、そんな勝手なことを! 修行の付け方にケチはつけんが、命あっての物種とも言うじゃろう。あの才能を失うこともまた損失なんじゃぞ」

「申し訳ありません。しかし、勇者のことも放っておけなかったのです……もし、事が起これば現状では対処が出来ないでしょう。レベルアップが急務だと思ったのです」

「その判断はまだ時期尚早じゃろう。あの子も無鉄砲なところがあるから、無茶をしなければよいのじゃが……」

「なんか知らんが、ジャンヌと一緒か、俺が帰ってくるまで待てって言っといたから大丈夫だろう。つーか、あいつに期待するのはわかるが……どうしたんだ、あんたら? なんかちょっと、様子がおかしくないか。何かあるなら、俺にも話して欲しいんだが」

 

 ギヨームが訝しがりながら二人のことを睨めつけると、さっきまで怒っていた老人はバツが悪そうに腰を下ろし、神人は困ったように眉根を寄せた。明らかに何か隠している態度だった。

 

「……あんた、新大陸の人だったよな。戦争も終わったんだしさっさと帰りゃいいのに。こんなところで二人でコソコソ何してるんだ? なあ、レオ。俺にも言えないことなのか。もしもそうなら仕方ない、諦める。何も聞きゃしねえよ。だがもし俺にも関係あることなら言ってくれ」

 

 ギヨームが真剣な眼差しでじっと老人の目を見つめると、やがてレオナルドは諦めたようにため息を吐いてから、

 

「……まだそうなるとは決まってない話じゃぞ。その前提を忘れずに、まずは落ち着いて話を全部聞いてくれるか」

「何が何だかよく分からねえが、話の腰を折らないでくれってことか? いいだろう」

 

 ギヨームが聞く態勢を見せると、レオナルドは何から話したものかとあれこれ逡巡しながら話し始めた。鳳と300年前の勇者の関係。そしてその勇者が消えた理由。

 

 話を黙って聞いていたギヨームはみるみると青ざめ、

 

「……魔王化だと?」

「左様。どうもこの世界には、始めから魔王を生み出すための仕組みが存在していたらしいのじゃ。鳳のあの破格の力は、彼と彼の仲間を際限なくパワーアップさせるものじゃが、もしも魔王を倒した者が次代の魔王になるのであれば、実はあれは魔王の力じゃったのかも知れんというわけじゃ。そしてそれは300年前の勇者の様子からも窺い知れる……」

「それであいつ、女を避けていたってのか」

 

 ギヨームは悔しそうに舌打ちした。

 

「くそっ! そうならそうと言ってくれりゃいいのに、どうして何も言わないんだ。なんで、なんでもかんでも自分ひとりで決めやがる!? そんなに俺たちが役に立たねえっつーのか!?」

「そんなわけはなかろう。恐らくは、自分が変わっていく姿をお主らに見られたくないんじゃろう……300年前の儂は、女を取っ替え引っ替えしだし、変わっていく勇者に苦言を呈するだけで、彼が苦しんでいることに気が付けなかった。300年も経ってそれを知った時、言ってくれれば良かったのにとひどく後悔したが、仮に気づいていたところで何が出来たわけでもないじゃろう……お主らには、そんな後悔をして欲しくないものじゃが……」

「……ちっ」

 

 ギヨームはグッと言葉を飲み込んで、腰を下ろした。考えてもみればレオナルドの言う通り、知ったところで今の彼には何も出来そうもなかったのだ。なのにそのことを300年越しに知らされた老人を前に、取り乱してどうするのだ。

 

 レオナルドは変わっていく勇者に何が起きているかすら知らされず、ただケンカ別れみたいに離れていくしかなかったのだ。それを教えてもらっただけでも、自分はまだマシだろう。彼は目の前の老人に同情した。

 

 なのに声を荒げてしまって申し訳ない気分でいると、レオナルドはそれを見透かしたかのようにおどけた調子で、

 

「ま、そんなわけで、儂らは魔王化を止める手立てがないかと、こうして集まって相談しておったのじゃ。今の所、何も分かっておらんから、お主らと変わらんがのう。事情を知っとった分だけ怠慢とも言える……まあ、憂えていても仕方あるまい。そんな話はさておいて、今日は何をしに来たのか? 金の無心か」

「んなわけあるかよ! 話が脱線しちまったが……いや、ある意味これで良かったのか? 急がなきゃいけない理由も出来たわけだし」

「なんのことじゃ」

「実は……最近、仕事が無くて暇でよ、レベルアップも出来ないから伸び悩みを感じてたっつーか、俺も戦力アップする方法がないかとちょいと考えていたんだよ。で、そんな時に、こないだの戦争で勇者軍が使ってた兵器を思い出して、そいつを作れないかと思って色々試していたんだが……」

「作る? なんじゃ、鍛冶屋にでも就職しようと言うことかいのう。だったら儂ではなく、マニに相談したらどうじゃ」

「ちげえよ馬鹿、作るってのは……こうやってってことだよ」

 

 ギヨームがプンスカしながらじっと手を翳し、集中して力を込めると、どこからともなく光の礫が集まってきて、彼の手に巨大なライフルのシルエットが浮かび上がった。しかしそれは、それ以上形を保つことが出来ずに、暫くすると消えてしまった。

 

 ここまで来る道中でも試行錯誤していたのだが、やはり駄目か……ギヨームががっかりしてため息を吐いていると、しかしそれを見ていたレオナルドの方はそうでもなかったようで、身を乗り出して驚いたように、

 

「今のは……お主の現代魔法(クオリア)か?」

「ああ。俺のスキルは銃を作り出すものだから、もしかして軍で使うような強力なライフルも作り出せるんじゃないかって思ったんだ。でもどうしても形が保てなくてよ……そんな時、ヴァルトシュタインがこれを見て、『幻想具現化(ファンタジックビジョン)みたいだな』って言い出してよ。忘れてたけど、この世界の銃ってレオが作り出したんだよな、だからもしかして、何かアドバイス貰えないかと思って来たんだが……」

「なるほどなるほど……お主、これを作り出す時、一つ一つの部品をイメージして組み立てようとしておるな?」

「分かるのか?」

 

 すると老人は嬉しそうに二度、三度と頷いてから、

 

「分かるとも。お主がやっているのは、確かに儂の幻想具現化と同じことじゃ。高次元に存在するイデアにアクセスし、クオリアを生成、それを現実に引き出そうとしておる。儂はその作業を、一旦キャンバスの上に描き出すことによってワンクッション置いてやっておるのじゃが、お主はそんなものを使わずに一足飛びにやろうとしておるから上手く行かんのじゃろう」

「お、おう……俺には何か分からねえけど、レオには分かるんだな?」

「分かる……と言えば分かる……が、儂が分かったところで、お主が分かるとは限らぬ。最終的には、伝えるようなものではなく、感じるといった方が良いような技術じゃからな」

 

 禅問答のような言葉に、ちんぷんかんぷんのギヨームは首を捻った。レオナルドは、さもありなんと言った感じにウンウンと頷いてから、

 

「……ルーシーに期待しておったのじゃが、他の現代魔法に冴えを見せるわりに、幻想具現化の方はとんと理解出来ないらしくてのう……もう諦めておったのじゃが、まさかお主の方にその才能の片鱗があったとは。全く気づかなかったわい」

「才能? おいおい、俺に作れるのは銃だけなんだぞ? レオとは根本的に違うよ」

 

 ギヨームが驚いて否定すると、レオナルドは苦笑いを浮かべながら、

 

「今はそう思っておるじゃろうが、その技術を理解していくうちに、認識も変わってくるじゃろう。そう、正に幻想具現化とは、その認知の歪みなのじゃ……すぐに理解せよとは言わぬが、まあ、話を聞いておけ。その軍用ライフルとやらを作り出したいのは確かなのじゃろう?」

「ああ。出来るのか?」

「うむ。恐らくは……どれ、少し脳のマッサージをしてやろう。スカーサハも座りなさい、久しぶりに、儂自らが手ほどきをしてやろう」

 

 レオナルドはそう言って二人を座らせると、工房の黒板も使って自らの編み出した技術、『幻想具現化』について話し始めた。

 



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次元とは何か

 ギヨーム、スカーサハ、二人を前にレオナルドが滔々と語りだした。

 

「さて、ギヨーム。お主は自分が『銃』しか作れないと言っておったが、あちらで訓練するのではなく、どうしてここにやって来たのか? 何か切っ掛けがあったはずじゃ」

 

 彼は面倒くさそうに、

 

「それならさっきも言ったが、ヴァルトシュタインに俺の現代魔法(クオリア)が、あんたの幻想具現化(ファンタジックビジョン)に似ていると言われたからだ。俺は銃を作り出す時、頭の中でその一つ一つの部品をイメージして、それを組み立てるような感覚で作り出していたんだよ。そう言ったら、奴が似てるっつーから、言われてみれば確かにそうかなって思ってよ」

「ふむ、それはつまり、お主は今まで『銃』じゃなくて『部品』を作り出しておったんじゃないのか? 例えばネジやバネ、銃身や銃床、これら部品全部が組み合わされば銃になるが、その部品の一つ一つは銃とは呼べんじゃろう」

「……そうだが、いや、しかし……そうなのか?」

「ところでお主、今は新しいことをやろうとして頭がこんがらがっとるようじゃが、元の拳銃を作り出すことは今でも出来るのか?」

「そりゃあ、もちろん……ほらよ」

 

 ギヨームが実践してみせる。レオナルドはそれを見つめながら、

 

「今、お主がこれを作り出した時、新しく作り出そうとしているライフルと比べて、どれくらい部品というものを意識しておった? 少なくとも、ライフルの方と比較すると、無意識に近いのでは……?」

「そう……だな。なんか、全然感覚が違うのは確かだが……だが、どっちも同じようにやろうとしているのは本当なんだよ」

「誰も疑ってなどおりゃせんわい。お主は今までの拳銃も同じプロセスを経て作り出してきたわけじゃが、それを意識せずに出来たのは、生前から使い続けてきた馴染み深い拳銃だったからじゃろう。部品や構造、その一つ一つをいちいち思い出さずとも、お主は瞬時に思い描けた。じゃから、拳銃の方は迷わずに最後まで生成出来た。しかしライフルの方は無理じゃった。ところで、お主は射撃する際、その弾丸の重さや重力の強さ、風の向きや目標までの距離をいちいち数値化して考えておるか?」

「まあ、ある程度はしているが……殆どは感覚的なもんだ。今までの経験上から、このくらいだって当て推量の方が強いね」

「要はそれと同じことじゃ。他にも泳ぎ方や歩き方、乗り物の操縦法などは生涯忘れないという。こういったものは、一度やり方を覚えてしまえば、不思議と次回からは意識せずとも上手く出来るようになる。儂ら人間というものは、そういうスイッチみたいなものを、元から頭の中に持っておるわけじゃ。お主が現代魔法(クオリア)でライフルを作り出すには、お主の頭の中にこのスイッチを作らなければならないというわけじゃな……」

「つまり、もっと構造を研究して、一つ一つの部品を意識せずとも思い出せるくらいになりゃいいってことか……?」

 

 ギヨームがそう質問すると、老人はニヤリとした笑みを浮かべて、

 

「残念じゃが、それだけでは何も生み出すことは出来ん。もし出来るのなら、もっとお主と同じ能力を持った連中がいなくてはおかしいじゃろう。お主のような現代魔法の使い手は、この慣れるという作業と言うか訓練を経て、確固たるクオリアを脳内……もしくは高次元のイデア界……そこに形成してから、現実に引き出すという作業を行っておるのじゃ。その際、それを現成させるためのエネルギーをどこから拝借しているかと言えば、それは高次元からやってくる第5粒子(フィフスエレメント)なのじゃが……」

「高次元……フィフスエレメント……?」

 

 レオナルドは難しい表情で頷いてから、

 

「儂らの脳は、なにかの物体を見る度に、それが何であろうかと考え、脳が高次元に存在するイデア界に検索をかける。そこで目的の物体のイデアを見つけ出し、それがなんであるかを認識すると、初めて脳内に記憶として保存されるのじゃ。

 

 しかし、完璧なイデア界とは違って、現実は不完全であるから、例えば同じりんごでも、実際には一つ一つが違っていて、同一の物は一つとして存在しない。

 

 なのに儂らがそれを『りんご』であると共通認識できるのは、世界中にあるりんご一つ一つと、りんごのイデアを結びつける特別な感覚(クオリア)が、自分の脳内に形成されるからじゃ。

 

 お主は銃を作り出す際、このクオリアから不完全な一つを拝借してきておるわけじゃ。そして用が済んだら、使用した分のエネルギーを返して、チャラにしておる。その際、消費されるエネルギーが第5粒子なのじゃが、それが高次元……すなわちイデア界と繋がっておるから、お主はこんな芸当が出来るというわけじゃ。この際重要なのは、お主が無意識とは言え、高次元の存在にアクセスしているということじゃろう。恐らく、お主はそんな自覚はないのじゃろうが……」

「ああ、そんなの全く、これっぽっちも考えたことねえぞ。俺はそんなわけのわからねえことをしてたのか? どうやって?」

「無意識であれ、自発的にそれを行っているということはありうるのじゃ。例えば重力はその一つじゃが、話がややこしくなるから後回しにしよう……今は、この第5粒子が高次元方向からやって来て、儂らの脳に働きかけているということを認識出来れば良い。まあ、それが難しいわけじゃが……」

 

 レオナルドは、わけが分からないと言った表情で首を捻っているギヨームではなく、隣で背筋を伸ばして聞いていたスカーサハに向かって言った。

 

「スカーサハ。儂らが認識しているこの世界は、空間座標軸がいくつある?」

「3つです。時間を含めて4次元時空と言われてますね」

「そうじゃ。3次元というのはこの座標軸がいくつあるかを示しているに過ぎん。儂らは3次元空間のある一点を示すために、3つの座標を取り、それを例えば紙にプロットすることで視覚的に表すことが出来る。しかし、紙は二次元平面であるから、そこに3つの座標軸を書き入れることは本来不可能なはずじゃ。

 

 今、目の前に真っ白な紙がある。まずはその紙の中央付近、左端から右端まで、一本の線を引いてみよう。

 

【挿絵表示】

 

 次に縦方向、上から下まで同じように線を引いてみる。すると紙の中心辺りで二本の線が交わって十字を作る。数学者はこの直交する線の横方向をX軸、縦方向をY軸と呼んで、平面を表すのに利用している。

 

【挿絵表示】

 

 しかし、儂らの世界は通常3つの座標軸で示される。このままでは平面は表せても空間を表すことは出来ん。だから3つ目の線を書き入れたいが、困ったことに紙に奥行きはないから、二つのXY軸に直交する3つ目の線、Z軸は書き込むことが出来ない。

 

 しかし、実際には儂らはこのZ軸を書き込むことにそれほど苦労はしておらん。数学者たちはこういう時、XY軸と交わるように斜めに線を引いて、その線に添えるように『z』と書き入れる。

 

【挿絵表示】

 

 言うまでもなく紙は2次元平面なので、そこに書かれているのはただの縦横ななめの線に過ぎん。ところが、儂らはそれを見て、ちゃんと奥行きを持った座標軸として認識し、そこにある物を立体と捕らえることが出来る……本来2つの次元しか持たない紙の上に、3次元空間が現れたということじゃ。

 

 他にも例えば、これは言葉にすれば12本の線分を描いたものに過ぎないが、お主の目には縦横奥行きを持った、3次元の立方体に見えておるはずじゃ。

 

【挿絵表示】

 

 何故、2次元の紙に書かれたものを、3次元の物体として認識出来るのか? もうわかっているかも知れんが、それは儂らの脳がそう見えるように補完しているからじゃ。

 

 実を言えば普段から、儂らは世界を平面的にしか見ていない。儂らの目は、網膜という2次元のスクリーンに映し出された世界を見ているわけじゃから、そこから得られる情報は常に2次元情報なのじゃよ。

 

 なのに、儂らがそれを意識することがないのは、脳が網膜から入ってきた平面のデータを、瞬時に3次元に変換して見せているからじゃ。脳というのは3次元空間を読み取ることが非常に上手い。儂らが3次元空間に縛り付けられて生きておるから、脳がそう進化したのじゃろう。

 

 では、もし、儂らが4次元で暮らしていたら?

 

 もしかしたら目が3次元的な視覚を見るように進化していたかも知れん、じゃが儂の予想では、今まで通り網膜に映った2次元情報から、脳が4次元空間を捉えるように進化していたはずじゃろう。と言うのも、体を複雑に進化させるまでもなく、4次元というのは、表現すること事態は容易いのじゃ。

 

 先の座標軸の話であるなら、xyzの他に新たにwという斜めの線を足せば4次元座標を2次元にプロットすることは可能なのじゃ。同じように5次元6次元と、抽象的にはいくつでも次元を継ぎ足していくことが出来る。

 

 しかし、そうして軸を継ぎ足しても儂らは4次元空間を認識できない。3次元空間に捕らわれておる儂らは、4次元空間の見方が分からぬからのう。故に儂らが四次元人でもない限り、この方法は意味がないのであるが……」

 

「ちょっと待ってくれレオ。わけがわからない……」

 

 ギヨームが降参のポーズを見せると、老人は苦笑いしながら、

 

「話が抽象的すぎて分からぬか。まあ、始めはそう言うものじゃから心配するでない。今は分からずとも、黙って聞いておけば、後々必ず役に立つじゃろう……

 

 そもそも、お主らには次元という物がどんなものかを正しく理解しておるじゃろうか。次元とは、それを表すのに必要な情報の数のことじゃ。

 

 通常、○次元空間と呼ばれるものは、その空間上の点を表すのに必要最低限な座標軸の数を表してる。2次元ならxyの2つの座標軸が、3次元なら3つの座標軸が最低でも必要というわけじゃ……

 

 ところで、これは最低限の数だから、別にそれ以上あっても良いわけじゃろう? 例えば2次元平面上に縦横を示すxyの二つの座標軸と、斜めを表すz軸を作る。このz軸は空間の奥行きを表しているわけじゃなく、単に斜めに伸びるの座標軸に過ぎん。

 

 この2次元平面上にある点は、xy軸の2つだけで表せるが、xyzの3つの座標軸があっても差し支えがないのが分かるじゃろうか? 座標軸が少なかったら困ってしまうが、情報は多くても困らないというわけじゃ。

 

 さて、具体的に情報を付加することによって何が起きるか考えていこう」

 

 レオナルドはそう言うと、埃をかぶらないようにシーツに覆われていた絵画を何枚か取り出してきて、彼らの前に並べ始めた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ここにあるのは儂の絵じゃが……見ての通り、平面上に描かれておるのに、そこに3次元的な空間の広がりが感じられるようになっておる。これをケーキを切り分けるように細分化していけば、そこにあるのは平面に塗られた『色』だけのはずなのじゃが、少し離れて全体を見ると不思議と奥行きが感じられるのじゃ。

 

 どうして立体的に見えるのじゃろうか? それはもう、言うまでもなく、そう言う情報が詰まっておるからじゃ。人間の目は、近くのものは大きく、遠くのものは小さく見えるように出来ている。そして光が当たっている場所は明るく、そうでない場所は暗く見えるように出来ておる。

 

 儂の絵には遠近法と陰影が表現されておるから、見る者が錯覚を起こして立体感を覚えておったわけじゃ。縦と横と、色と遠近法と陰影……ここには最低でも5次元の情報が含まれておる。実際の空間座標よりも多くの情報が含まれておるが、要はそれくらい付加価値を付けねば現実は表現できないと言うわけじゃ。

 

 逆に大昔の絵がのっぺりして見えるのは、この遠近法と陰影という情報が足りんからじゃ。そのせいでルネサンス以前の宗教画はほぼ立体感が感じられぬ……が、その代わりに別の情報が含まれておった。

 

【挿絵表示】

 

 その昔、教会に飾られておったイコンと呼ばれる板絵や壁画は、文字が読めない信者に聖書の教えを広めるために描かれた故に、物語性があった。大概、一つの絵に二つ以上の場面が描かれており、その二つに同じ人間がいることで、時と場所の切り替わりを表現しておった。つまり、絵の中に時間軸が存在したわけじゃな。

 

 静的な場面だけではなく、動きそのものを描いて空間の広がりを表現しようとした者もおった。

 

【挿絵表示】

 

 18世紀のターナーは霧の中を疾走する機関車を、ぼやけた視点と極端な遠近法で描いて、本来なら止まっている絵の中には見えないはずの、『速度』というものを表してみせた。

 

【挿絵表示】

 

 モネの『ひなげし』は穏やかな陽気の中を散歩する二組の母子の姿が描かれておる。この二組の母子は実は同一人物で、時間の流れを表しているのかも知れないとも言われておるが……それ以上に重要なのは主題にもなっている花の方じゃ。見ての通りひなげしの花と思われるのは、絵の具を塗りたくったただの赤い点なのじゃが、なのに儂らの目にはそよ風に揺れ動く花がありありと見えているじゃろう?

 

 かつての画家たちはそうやって様々な技法を駆使して、そこにある空間を切り取って描いてみせた。逆に、見えないものを描こうとしたものもおる。

 

 ダリは3次元ではなく、高次元空間で磔刑に処されるキリストの姿を描いてみせた。キリストの背後には8つの立方体に分離された十字架が描かれ、前にある4つの小さな立方体によって、彼の体は十字架に括り付けられている。足元の地面には十字架の写像が映っておる。

 

サルバドール・ダリ『超立方体的人体(磔刑)』

 

 神は我々とは住む世界が違う、高次元の存在であるということを、そうやって示したのじゃろう。

 

 そしてパブロ・ピカソは、一人の女性を様々な角度から見た視点を、一枚の絵に描いてみせた。こうして描き出されたドラ・マールの肖像は、あり得ないほど2次元的な絵なのに、不思議とどんな絵画よりもずっと立体感が感じられる……

 

ピカソ『ドラ・マールの肖像』

 

 悔しいことに、儂はかつて写実的な方法でしか絵を描くことは無かったのじゃが、このように、情報の乗せ方、物の見方によって、3次元空間はいろいろな顔を持つ。儂の描いた絵と、ピカソの描いた絵は同じ空間を描いておるが、印象はまるで違うじゃろう。そしてダリは4次元以上の空間そのものを描こうとしてみせた。

 

 この通り、4次元以上の余剰次元というものも、実は情報の捕らえ方次第で『見る』ことは可能なはずなのじゃ。儂ら人間がその方法を知らんだけでな。恐らく、4次元人がダリの十字架を見たら、儂らがイコンを見たときのように、のっぺりとしているが4次元的に感じるはずじゃろう」

 

「……レオはそれを見ることが出来るってのか?」

「見ると言うか、認識出来ると言う感覚じゃろうか。そしてお主もまた、儂と同じ認識力を持っておるはずなのじゃが」

「俺も……? まさか。俺はそんな意識まったくないんだが」

 

 すると老人は首を振って、

 

「意識していないだけで、実は見ておるのじゃよ。クオリアを顕現させるということが、その『見る』ことと同義なのじゃ。お主が生成している拳銃は、元々はイデア界とでも呼ぼうか、この世界の外側にある高次元空間に存在しておる。それをお主の脳が第5粒子エネルギーを用いて引っ張り出してきておるのじゃ。見えなきゃそんなことは出来んじゃろう?

 

 そこで最初に戻るわけじゃが……お主は生前にずっと使い続けていた愛銃は生成出来るが、新たに得たライフルは生成できなかった。それはお主の認識力の差が、高次元で生成されるクオリアの出来に現れていたからじゃ。お主が生前の愛銃に持つクオリアは、限りなく銃のイデアに近いが、お主のライフルに対するクオリアはまだ不完全なんじゃな。故に、これを完成させたいなら、お主は4次元的な視点を持ち、よりイデアに近いクオリアを生成する必要がある。

 

 この4次元的視点と言うのは、3次元の物質の全てが見えるということに等しい。それは部品一つ一つを良く見るという大雑把なものではなく……その部品を作り出す分子、重量、色や構造、そしてお主が使い続けていたという経験なども含めて『見る』ということなのじゃ。だから、お主が新たな現代魔法(クオリア)を得るには、まずその『実感』を得なければならない……と言うわけじゃよ」

 

「そうか、なるほど、さっぱり分からん」

 

 ギヨームが力いっぱい宣言すると、レオナルドは苦笑を漏らした。ギヨームは背筋がむず痒くて体が捩れそうになったが、どうにか理解をしようと頭を捻った。

 

「……話はいまいち分からなかったが、要は俺が作ろうとしているライフルのことを、もっとよく知れってことなのか? それこそ、俺が生前に使っていたサンダラーみたいに。だったら、こいつを使い続けていれば、いつかクオリアも生成出来るようになるんじゃないか?」

 

 すると老人は意外なほどあっさりと頷いて、

 

「出来るじゃろうな。お主は既に4次元空間を無意識的に見ることが出来ているのじゃから……使い続け、考え続け、認識し続けていれば、いずれは……しかし、それはいつのことじゃろうか?」

 

 それはギヨームが生涯をかけて愛銃に抱いた印象と同等か、それを上回る情報量を獲得しなければならないだろう。彼はそれを理解すると、

 

「……なるほど。それじゃ遅すぎるな」

「お主はそれを一足飛びに行いたいわけじゃろう。ならば、やはり4次元的視点というものを理解するのが一番の近道じゃろう」

 

 そんなに都合よく、楽な方法は転がっていないというわけだ……ギヨームは憮然とした表情で、ため息交じりに言った。

 

「さっぱり分からねえな……見るっつっても、実際に見えるわけじゃないんだろう? 頭で考えるっつーか」

「左様。五感で捉えるようなものではない。理解して、初めて意識出来るようなもの……とでも言っておこうか」

「それじゃ、お手あげだ。俺はあんたらみたいに頭の出来が良くねえんだよ。考えるよりも慣れろってタイプで。つーか、そもそも、その4次元空間だかは何なんだ。本当に存在するものなのか?」

「ある……それは確実にある。高次元存在というものも実在しておる。儂は自分が死にかけた時にそれを見た。この世界で精霊と呼ばれる存在じゃ」

「うーん……」

 

 ギヨームはいまいち信じきれず胡乱な目つきをしている。老人はやれやれと首を振りつつ、

 

「お主は実際に見たわけじゃないから信じられないのじゃろうな。ならばどうしてそれが存在するのか、もう少し噛み砕いて説明してみようかの」

「今度こそ、俺にも分かりやすく頼むよ」

「仕方ないのう……ならばお主のやる気が出るような話をしてやろう。これは儂らの時代の出来事ではなく、相当未来の話じゃ。従って鳳は言うまでもなく普通に知っており、あやつならば、お主が苦戦していることもすんなり理解できるじゃろう」

「なにい……?」

 

 鳳の名前を出すと、ギヨームの目つきが明らかに変わった。元々、ここへ来た理由も、彼に置いていかれたのが原因であるし、負けたくないという気持ちが強いのだろう。レオナルドはそれを確認してから、ニヤリとした笑みを浮かべて話し始めた。

 




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空間の歪み

「儂は公証人の息子じゃった。公証人というのは、国と個人が交わす契約を認証する仕事のことで、つまりは役人のことじゃな。国と個人が取り交わす約束事と言えば、殆どが土地の取引のことと言って良い。従って、公証人というものには土地の測量を行うための幾何学の知識が求められた。

 

 儂も子供の頃に父親に引き取られた後、数学を習っておったが、それは幾何学のことだったのじゃ。私生児であった儂は公証人になれるわけではなかったのじゃが、そうして土地の面積を測るための幾何学を学ばされておったわけじゃが……

 

 ところで、ギヨーム。三角形の内角の和がいくらか知っておるか? 知らぬなら、スカーサハに答えてもらうが」

 

 するとギヨームはムスッとした表情で、

 

「それくらい俺でも知ってるよ。180度だろ」

「左様。一般的にはそうなる。じゃが、場合によってはそうでないこともある。例えば、今から儂が庭に出ていって、地面に三角形を描いたとする……この内角の和が、実は180度ではないと言ったらどうする?」

「どうするって言われても……そんなことがあんのか?」

「うむ。地面に書いた三角形は、正確には内角の和が180度ではない。何故なら、地球が丸いからじゃ」

 

 まずは赤道上にある国のことを考えてみよう。東アフリカのケニアは赤道直下、北緯0°東経34°付近の国である。そこからずーっと東へ進んでいくと、インドネシアのスマトラ島が北緯0°東経98°付近にある。

 

【挿絵表示】

 

 

 さて今、太郎さんと花子さんの二人がいるとする。

 

 太郎さんはケニアからスマトラ島を経由して北極まで旅行しようと考えた。ケニアからスマトラ島まで、赤道上を真東に進んできた太郎さんが、次に北極へ向かおうとするなら、そこで何度向きを変えればいいだろうか? 答えは90度、直角だ。

 

 逆に花子さんはスマトラ島からケニアを経由して北極へ旅行したいと考えた。すると今度は、スマトラ島から真西に進んできた花子さんは、ケニアで何度向きを変えればいいだろうか? 言うまでもなく90度右に回転すれば真北を向くはずだろう。

 

 その後二人は北へまっすぐ進み、やがて北極点で合流した。すると二人の通った軌跡は三角形を描くはずだが……この内角の和はいくらだろうか?

 

 赤道上で二人は直角に曲がったのだから、この時点でもう180度を超えているのが分かるだろうか。同じ真北に向かった二人は平行移動するはずだった。ところが彼らは北極で出会ってしまった。すると彼らが描いた三角形は、なんと内角の和が244度もあることになる。

 

「この通り、球上に描かれた三角形は内角の和が180度ではない。180度なのは、空間が歪曲していない完全な平面上だけの話なのじゃよ。何を当たり前なとか、そんな例外を持ち出されてもと思うかも知れんが、現実の世界には完全な平面なんてものはまず存在せんから、実は内角の和が180度のほうが例外なのじゃ。

 

 とは言え、普通はそんなことを考えなくとも良いじゃろう。儂が庭に描いた三角形は、確かに、正確には内角の和が180度ではないかも知れんが、そんなのは微々たるもので、余程精密な機械でもない限り、検出できないような些細な誤差じゃ。故に、普通は180度と考えていいのじゃが……しかしさっきのように地球規模の大きさで考えると、それを無視することは出来なくなる。

 

 この宇宙は至るところが歪んでおり、ユークリッド幾何学が通用しない場面はいくらでも存在する。もしも地球を旅する旅人が、地球が平らだと勘違いし、地図に描かれた三角形を頼りに向きを変えたら、二人は北極点では出会えなかったじゃろう。

 

 地球が丸いせいで……つまり空間が歪曲していたせいで、本人の意思とは無関係に、まるで別の場所にたどり着いてしまうわけじゃ。

 

 そしてこの、『空間が歪んでいると本人の意思に反して勝手に曲がってしまう』と言う事象こそが、重力の正体ではないかと考えた者がおった」

 

 言わずと知れた20世紀の天才、アインシュタインである。

 

 結論から言えば、なんらかの質量を持つ物体がある時、その周囲の空間は歪んでいる。歪みは質量に比例して大きくなるが、その力は非常に小さいので、例えば人間くらいの質量では殆ど空間の歪みは生じない。

 

 だが、地球くらいの大きさにもなると流石に無視出来なくなり、太陽ほどの質量にもなれば、空間の歪みが光さえも曲げてしまうようになる。実際、重力レンズ現象によって、太陽の周りの空間が歪んでいることは既に観測済みである。この宇宙は本当に、至るところが曲っているのだ。

 

 しかし、その空間の歪みがどうして重力の正体であるのか? いまいちピンとこないだろう。何故なら、我々はその空間の歪みを認知することが出来ないからだ。

 

 どういうことなのか、少し単純化して考えてみよう。

 

 3次元空間が歪むなら、2次元空間だって歪む。3次元空間の歪みを我々は直感的に理解出来ないが、2次元空間の歪みならば普通に目で見ることが出来る。フラットランドの住人を思い出して欲しい。

 

 フラットランドはどこまでも広がる平面世界で、縦横の広がりを持つが厚さ(もしくは高さ)を持たないペラペラな世界だ。画用紙とか、ピンと引っ張った布を思い浮かべれば、大体イメージ通りだろう。

 

 このフラットランドが歪むというのはどういうことだろうか。歪むとは画用紙をポスターみたいにクルクルと丸めるのと同じことで、平たかった画用紙は筒のような厚みを持つようになる。つまり3次元の方向へ曲がるのと同義である。

 

 もしくは、ピンと張った布の上に鉄球を置いたら、重力によって鉄球の周りが凹む。鉄球ではなく地球が中央に置かれている物を見たことある人は結構いるのではないだろうか。これが2次元空間の歪みと考えられるわけだ。

 

【挿絵表示】

 

 

 フラットランドの住人は、この歪んでしまった世界の中で生活しているが、彼らは布にピターッと張り付いていて、そこから外に飛び出すことは出来ないから、その歪みに気づくことが出来ない。

 

 さて、こうして歪みが生じたフラットランドの中で、2次元人が地球の近くに通りかかった。彼はその横をまっすぐ通過しようとするが、その周囲は3次元方向に歪曲しているから、彼はその歪曲に沿って曲がることになる。

 

 太郎と花子が北極へ向かった時と同じようなものだ。彼らは赤道上で直角に曲がり、お互いに平行に移動していたつもりが、北極点で出会ってしまった。それと同じように2次元人は、自分の意思とは関係なく、3次元の歪みに沿って曲がってしまう。

 

 するとおかしなことになる。

 

 我々、3次元人はフラットランドの様子を上から見ているから、2次元人が空間の歪みのせいで曲ったと認知出来る。ところが2次元人からしてみれば、空間の歪みなんてものは認知できないから、まるで自分が不思議な力で引っ張られたように感じる。

 

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 何故かわからないが、重いものの近くを通ると、そっちに引っ張られる。

 

 これが重力の正体というわけだ。

 

「儂らが重力を感じるということは、4次元の方向へ空間が歪曲しているということじゃ。しかし、儂らは空間の歪みに気づかないが故に、何かの力に引っ張られたと感じるわけじゃが……もしも儂らが3次元空間を飛び出して、4次元空間から自分たちの世界を見ることが出来れば、重力は空間の歪みへ変わる。

 

 4次元の方向を『見る』というのは、この空間の歪みを認知の歪みに変えよということじゃ。儂らには認知が出来ないが、重力を感じたらそこは必ず4次元方向へ歪んでいる。そう意識するのじゃ。さすれば、お主の現代魔法(クオリア)は劇的な変化が現れるはずじゃろう……」

 

 知恵熱でも出ているのか……ギヨームは真っ赤な顔をして、額に手を当て、ほとほと困り果てたような調子で言った。

 

「……レオ。言ってることは何となく分かるんだが、具体的に何をどうしていいのかさっぱり分からない。結局俺はどうすりゃいいんだ? 瞑想でもしろってことか?」

 

 するとレオナルドはなるほどと言った感じに首肯してから、

 

「それもありと言えばありじゃろう。目を閉じ、じっと自分の体の重みを感じながら、それは空間の歪みに起因しているものだと意識するのじゃ。儂らの体は3次元に縛り付けられているが、と同時に4次元空間にも触れている。それを繰り返しているうちに、ある時、脳内のスイッチが切り替わり、何かが変わって見えるようになる。

 

 4次元の方向からやってくる第5粒子(フィフスエレメント)を感じると言うのも、同じことなのじゃよ。儂らが魔法を行使する時、第5粒子は空間の歪みの向こう側からやって来る。今まではそれを不思議な力としか考えて無かったじゃろうが、これからはそれがどこからやって来て、どうお主の脳に作用しているのか、空間の歪みと共に意識して行使してみよ。

 

 例えばお主は拳銃と言う質量のあるものを、一時的とは言え顕現させている。それにはものすごいエネルギーを必要とするから、お主が魔法を使う時、お主の周りには膨大な量のエネルギーの流れが存在するはずなのじゃ。

 

 なのにそれを感じられないのは、それは儂らの住んでいるこの世界のことではなく、この3次元空間を飛び出した余剰次元世界で起きていることだからじゃ。しかしそれを引き起こしているのは、間違いなくお主なのじゃから、お主はその力の片鱗をなんとかして捕らえるように努力するのじゃよ」

 

 ギヨームは自信なさげに答えた。

 

「……とにかく、意識しろってことか? 魔法を使う時、空間がどうとかの話を思い出せと」

「そうじゃ、まずはそれでよい。これからは魔法を行使する際に、儂が話したことを常に意識せよ。日常生活の中でも度々思い出すようにして、意識改革を行うのじゃ。何度も言っておるが、お主は既に現代魔法を用いて高次元にアクセスする方法を知っておる。でなければ、拳銃を作り出すことが出来ないからじゃ。故に、常に考え続け、空間に対する認識が変わった時、お主は赤ん坊が歩き方を理解するようになんとなく、この世界の仕組みを理解するじゃろう。その時、お主の脳は、高次元のイデア界にアクセスする方法を会得しておるじゃろう」

「……今日明日にも使えるようになるってもんでも無さそうだな」

「じゃが、これが一番早道じゃ」

 

 レオナルドはそう締めくくり、長い説明を終えた。

 



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神について

 レオナルドの長い講義が終わり、ギヨームはぐったりしていた。

 

 自分の現代魔法(クオリア)を強化するため、何かヒントが得られないかと、はるばるヴィンチ村までやって来たわけだが……魔法が本家レオナルドの幻想具現化(ファンタジックビジョン)に似ているとお墨付きをもらった上に、大君の講義を受けられると言う収穫を得たというのに、結局その内容が半分も理解出来なかったせいで、現状では何も得られていないに等しかった。

 

 レオナルドの言ってることは何となく分かるのだが、抽象的過ぎて具体的なものが何一つ掴めないのだ。

 

 老人はそれで良いと、いずれスイッチが入り、脳内で何かが変わるからと言っているのだが、自分の頭の出来にいまいち自信が持てない彼は、ただ焦りを覚えるだけだった。どのくらい自信が無いかと言えば、せっかくの講義も、多分、一晩寝たら忘れてしまうんじゃなかろうか……? というレベルだ。

 

 取り敢えず、そうなる前に今分かっていることを整理してみると……高次元とは目で見て捕らえられるようなものではないらしい。ただし確実に存在し、自分の脳は第5粒子(フィフスエレメント)を介してそれと繋がっているそうである。老人が言うには、魔法を使っている時に、空間の歪みを感じ取れるはずなのだということなのだが……

 

 そのためには、ひたすら考え抜いたり、魔法を行使し続けるしか方法がない。だが、それなら、ここに来る前にも散々やって来たのに、本当に意味があるのだろうか……彼は不安を覚えた。

 

 しかしそれは杞憂だったようだ。

 

 レオナルドの講義を聞いたせいで、予想以上に疲労してしまった彼は、その日はすぐに休むことにした。そして一晩眠った翌朝、変化はすぐに現れた。

 

 旅の疲れと、久しぶりの柔らかいベッドに包まれて、思った以上に寝坊してしまったギヨームは、寝起きのぼーっとする頭で、案の定、昨日の講釈がすっかり抜けてしまっていることに気づいた。あれだけ一生懸命教えてもらったのに、その内容の殆どを覚えてないのだ。

 

 仕方ないからダメ元で朝食後にレオナルドに会いに行くと、彼はまるで怒ることなく、すぐまた昨日と同じ講義をしてくれた。老人に言わせれば、ルーシーなんてこんなのいつものことだし、自分も説明することで考えをまとめられるから、悪いことばかりではないそうだ。

 

 とは言え二度手間には違いないから、ギヨームは礼を言いつつ、昨日以上に真剣に講義を聞くことにした。

 

 講義内容は昨日と全く同じだったが……二度目だからか、昨日よりもイメージが掴みやすくなっていて、彼は老人の講義がスラスラと頭に入ってくるように感じていた。

 

 講義が終了しても昨日とは違ってまだ余裕があったギヨームは、早速講義の内容を思い出しながら、現代魔法(クオリア)を実演してみることにした。

 

 すると、いつもの拳銃は特に変化が無かったが、ライフルを作り出そうとした時に、彼は何か新しい感覚を覚えたのである。

 

 相変わらず、魔法には失敗して、ライフルはすぐに光を放って消滅してしまったのだが、その際、彼は口では説明できない何か感触のようなものを感じたのだ。それはなんと言うか、ロッククライミングで例えるなら、小指の先にようやく届くようなところにある出っ張りに触ったかのような、そんな頼りないけど確かなものだった。

 

 ただの気のせいかも知れないと思い、改めて魔法を行使してみると、彼はまたしても同じような感触を得た。それが何かは相変わらず分からなかったが、とにかく自分が何かを掴もうとしている手応えを感じた彼は、その後何度も何度も同じことをやってみた。

 

 しかし、そうやって魔法を繰り返していたら、思ったよりも早く限界が訪れてしまった。

 

 さっき起きたばかりだと言うのに、なんだかやたら疲労を感じると思った彼が、体に変化がないかとステータスを調べてみたところ、なんとMPが減っていたのである。

 

 ギヨームのクオリアは、ルーシーの現代魔法と違ってMPを消費する。しかし、それは銃弾を撃った場合に限り、拳銃を出し入れするだけならMPは消費しない。ところが今調べてみると、ライフルを作ろうとする時にどうやらMPがごっそりと減っているようなのだ。

 

 何が起きているのか不安に思った彼が、レオナルドに相談したところ、

 

「ふむ……MPを消費する、か」

「ああ、こんなことは今まで一度も無かった。MPを消費するのは銃撃を行った時だけだったんだが……」

「いつもの拳銃を作る際はMPを消費しないのか? ふむ……」

 

 老人は自分の禿頭をペチペチと叩き、興味深そうに何度も頷きながら、

 

「状況から考えられるのは、実はお主は拳銃を作り出す時にもMPを消費していたということじゃ。というか、何もないところに物体が現れるのじゃから、普通に考えればそれを生成するためのエネルギーが必要なはずであろう。拳銃は鉄の塊であるから、結構な重量じゃぞ。なのに、お主が今までMPを消費しなかったのは、拳銃を顕現させても使用後に元の場所へ戻していたからじゃろう。エネルギー的にはこれでチャラ……というわけじゃ。しかし、銃撃はこの世の因果に影響を及ぼす。チャラには出来ないので、それがMP消費という形で現れておったんじゃろうな」

「つまり何か? 俺はライフルを作ろうとして、失敗して元に戻せなくなったから、代わりにMPを消費しているってことか?」

「そう考えれば辻褄が合うじゃろう」

 

 ギヨームは首を振って、

 

「しかし、今までだって何度も失敗しているのに、MPは消費しなかったんだぞ?」

「今まではクオリアを生成するまでには至らなかったからじゃろう。今は形にはならなくても、何らかの失敗物を高次元から引き出しているのではないか」

「なら、失敗した残骸が残ってなきゃおかしいんじゃないのか?」

「それは光となって消えているのじゃろう。光もエネルギーであるから」

「う、うーん……」

 

 なら、これまでも光を発していたのだがと言おうとしたのだが、結局彼は口を噤んでしまった。これ以上言っても禅問答にしかならないだろうし、恐らくはレオナルドの言ってることは正しいのだ。

 

「それにしても、MPって何なんだ? 神人が魔法を使う時に消費するものとしか思ってなかったが……」

「儂は第5粒子(フィフスエレメント)そのものだと思っておったが……少し違ったようじゃの。恐らくは、第5粒子を受け取った際に得られたエネルギーを、人間が脳かどこかに蓄積しているもの、と考えれば良いじゃろうか。グリコーゲンみたいに」

「グリコーゲン……? また知らない名前が出てきたな」

「食べ物はそのままの形じゃエネルギーとして使えないと言うことじゃ。胃や腸で消化して、肝臓などで栄養を使える形に変換しなければならないじゃろ」

「ふーん、そう言うもんか」

 

 ギヨームは感心したように頷いてから、

 

「けど、まいったな。いちいちMP切れを起こしてたんじゃ、訓練が出来ねえじゃねえか」

「いや、訓練ならばMPを消費しない拳銃でやっても同じことじゃ。逆にMPを消費するということは、実感を得られることでもあるから、失敗と成功、両方を学べることでより正解に近づきやすくなったかも知れぬ」

「……ものは考えようってことか」

「それに今はMPの回復方法だっていくらでもある。鳳の置き土産が残っておるから、セバスに持ってこさせよう」

「うへえ……まさか俺も大麻に頼る日が来るとは」

 

 二人が話し合っていると、ドアがノックされ、工房にスカーサハが入ってきた。見れば昼食用にサンドイッチを乗せた皿を持っている。どうやらギヨームのせいでレオナルドの午前を潰してしまったようである。

 

 邪魔をしたなと頭を下げて部屋を出ていこうとすると、あなたの分も持ってきたのにと言われ、サンドイッチを渡された。急ぐわけでもないので礼を言って齧りつく。

 

 部屋は沈黙に満たされ、ティーカップをカチャカチャ鳴らす音以外には何も聞こえなかった。普段どんな会話をしているのだろうかと思っていたが、どうやら二人とも必要なこと以外は喋らないタイプらしい。

 

 このままでは息が詰まりそうなので、話題を振るつもりで今やっていることを尋ねてみれば、彼らはどこかで見たことのある杖を持ち出してきた。

 

「これは……ケーリュケイオンか? 鳳の」

「そうじゃ。以前、村を訪れた時に、預かっていてくれと頼まれた。今は必要ないからのう」

 

 ヘルメス卿の仕事をしている間は、杖を触る機会が減るだろう。それで自分で保管するよりは、レオナルドに預けておいた方が良いと、鳳は考えたようだ。

 

 老人はこの預かった杖に、まだ何か隠されていないかと調べていたようだ。勇者はこれを残して消えてしまったわけだが、その中にはメアリー=ソフィアの記憶が封じられていた。同じように、勇者が消えた手がかりのようなものがないかと考えているわけだが、しかし、今の所あまり上手く行ってはいないようである。

 

 鳳の魔王化を阻止すると言っても、とにかく手がかりが少なすぎて、何もわからないから、今は様々な書籍をあたって資料を集めている段階らしい。具体的には勇者は300年前に消えてしまったわけだが、その頃の出版物に何か痕跡が残っていないかと探しているみたいだった。

 

 工房の隅にはうず高く書籍が積まれており、どうやら二人で手分けしてそれを調べていたようだ。その膨大な量は、活字を見ているだけで頭が痛くなるギヨームからすれば、一生かけても読みきれないほどだったが、彼らは既にそれを読み終え、今はニューアムステルダムの本屋に未読のものを注文しているそうである。

 

 二人顔を突き合わせてこんなものを読みふけっていたのなら、そりゃ会話も無くなるだろうなと思いつつ、ギヨームが書籍の山を覗き込むと……ふと、既視感のある本の表紙が目に飛び込んできた。

 

「これは……」

「何か気になるものでも……? ああ、それは初代ヘルメス卿の書籍ですね。それに興味があるのですか?」

 

 興味津々にスカーサハが尋ねてきた。ギヨームはその声に頷いてから、

 

「いや、興味があるっつーか……以前、こいつを鳳が読んでたのを思い出してよ。ほら、連邦議会に頼まれてボヘミアに行ったことがあったろう? あの時、船でみんながゲエゲエ吐いてる中で、あいつだけ元気にこんなもん読みふけってたから、何が面白いんだって言ったんだよ。それを思い出してよ」

「へえ、勇者がそれを……大君が貸して差し上げたのですか?」

「いいや、儂は知らんぞ」

 

 レオナルドが首を振ると、スカーサハは怪訝そうに、

 

「そんな高価な本、どこで手に入れたのでしょうね」

「高価? いや、鳳は安物だって言ってたはずだが……」

「そんなわけありませんよ。この世界ではまだ書籍は貴重で、それ一冊だけでもニューアムステルダムに家が建つくらいの価値があるんですよ?」

「家だって!?」

 

 ギヨームは仰天して手にした本を落としそうになり……慌ててそれを拾い直した。

 

「マジか……あいつ、そんなこと一言も言ってなかったんだが」

「あまりに高価だから、謙遜してたのでしょうか」

「うーん……あいつもヤクの権利とかで、そこそこ金は持ってるみたいだしなあ……」

 

 だとしても、あの鳳が家が建つような金額を、書籍一冊にポンと出すとは思えなかった。ホームレス生活が長かった彼は、どちらかと言えばどケチなのだ。確かに、これを手にした鳳は上機嫌だったが、それをどうしても手に入れたかったようには見えなかった。

 

 ギヨームは少々気になり、

 

「レオ、こいつを少し借りてってもいいか? 俺も読んでみたくてよ」

「うむ、構わぬぞ。何か気がかりな点があったら言ってくれ。儂らはここで、他の書籍を調べておるから」

 

 ギヨームは本を手に取ると、サンドイッチのお礼を言ってから部屋に戻った。

 

***********************************

 

「……さっぱりわかんねえ」

 

 本を借りて来たは良いものの、部屋に帰ってベッドに寝転がりながらそれを開いたギヨームは、すぐに本を投げ出してしまった。いくら活字を目で追っても、その内容がさっぱり頭に入ってこないのだ。

 

 前世から本を読む習慣など無かったが、それでも文字くらいは読めるんだから、少しは理解できるだろうと思っていたが甘かった。なんかもうその内容が、読み書きが出来るとかそういったレベルを遥かに超えているのだ。

 

 因みにその本の内容はと言うと……第一章のニュートン力学からはじまり、電磁気学、相対性理論、量子論へと20世紀までの物理学を網羅するものだった。何しろこの世界のニュートンは、生前の光の粒子波動論争に終止符を打つべく、この本を書いたのだから、その内容は高度に専門的だったのだ。故にギヨームには理解出来なかったが……

 

「鳳はこれを見て面白いっつってたのか……現代人だからスラスラ分かるってわけでもないんだろうなあ……」

 

 彼はため息交じりに吸っていた大麻の煙を吐き出した。もちろん、MP回復のために吸っているのだが、集中力も増すので丁度いいと思い、本を読むついでに吸っていたのだ。お陰でMPは回復したが、別の意味でMP的なものを消耗したような気分になった。

 

 今まで散々バカにしてきたが、気がつけば自分もMPを回復するのにクスリの世話になるようになってしまっているのだ。それが情けないというか、呆れるというか、そんな気持ちにさせられたわけだが、

 

「それにしても、MPってのはホントわけわかんねえな。なんで大麻で回復するんだろう……? レオの仮説が確かなら、エネルギー変換のために、脳を酷使するってことなんだろうけど……」

 

 だったら本を読んでもMPが下がりそうなものだが、そういうことは無いようだった。魔法は脳の使ってる部分が違うからなのだろうか? そう言えば鳳はMPの消費も激しいようだが、彼の頭の中は本当にどうなっているのだろうか。

 

「やっぱ俺とは根本的に頭の出来が違うのかね……」

 

 ギヨームは少々卑屈に呟いた。この世界に来た当初こそ面倒を見てやらなければ何も出来ない奴だったが、今となっては彼のほうが何をやっても上手のようだ。いつまでも兄貴分のつもりでいたが、そろそろ力不足を認めなければならない時期に差し掛かっているのだろうか……

 

「……お?」

 

 そんな風に憮然としながら、なんとなしに本をパラパラめくっている時だった。

 

 それまで何一つ頭に入ってこなかった難解な本の中に、彼にもスラスラと読み解けるページがあった。それはニュートンの本の最終章に当たり、普通なら結論をまとめる章だったのだが、

 

「……神について、だと?」

 

 彼は最終章をまるまる使って、神の実在について嬉々として説明しているようだった。それは今までの物理学を全く使わず、叙述的な説明のみに終止しているため、ギヨームにもその内容が読み取れたのだ。

 

「それにしても、ニュートンって偉い学者かなんかだろう……? 神なんてもんを本気で信じてたのかね」

 

 ギヨームは釈然としないものを感じながらも、ともかく、せっかく理解できるのであるからと、その内容を読み始めた。

 

 それによると、ニュートンはこの世界を死後の世界と考えていたようだった。キリスト教の世界では、世界の終焉が訪れた時、死者が蘇り最後の審判が下されることになっている。そして選ばれた者のみが神の国へと誘われて、永遠の命を手に入れるのだ。

 

 この考えはキリスト教世界ではわりとメジャーなもので、前世のギヨームの仲間にも、それを信じている者がいるくらいだった。彼らは終末、神に選ばれるには聖書に書かれていることのみを忠実に実行すべきだと信じており、従ってカトリック教会が勝手に決めた聖人やミサを全く不要なものと断じて譲らなかった。

 

 これをカトリック教会から独立したばかりの英国国教会は、都合が良いから認めていたのだが、議会に席を置いた彼らがあまりにも厳格に聖書の教えに従うように言うものだから、英国紳士らしく敬意を込めてこう呼ぶようになったのだ。この堅物野郎(ピューリタン)と。

 

「ヘルメス卿もピューリタンだったのかね」

 

 彼は意外に思いつつも、ニュートンが生きていた当時の社会ならば不自然ではないと、さして気に留めなかった。ところが、そこから数行先に、彼としてはいわく付きの単語を見つけてしまい、すぐに考えを改めざるを得なくなった。

 

「翼人だって……?」

 

 そこには著者がこの世界を神の国と考えるようになった切っ掛けが書かれていた。

 

 勇者の仲間として魔王を倒し、ヘルメス卿となった彼は、ある時、翼人と呼ばれる種族と出会った。彼らは背中に真っ白な翼を持ち、神人のように見目麗しい容姿をしており、それが彼の信じるキリスト教の天使にそっくりだったものだから、彼は本当に神の使いなのではないかと思うようになった。

 

 そう考えると、ここが死後の世界であるという傍証はいくつもあった。そもそも、この世界にやってきた放浪者は、彼を含めてみんな死んだ後に転生してきた人たちだった。他にも普通の物理法則では考えられない魔法があったり、人間以外の種族が存在したり、彼は帝都で神が作ったとしか思えない機械を見つけたとも書かれていた。

 

 これらの事実を鑑みれば、ニュートンがここを神の国と考えたことも頷けるが……ギヨームはフェニックスでの出来事もあり、何となく引っ掛かりを覚えた。

 

「……つーか、こいつはどこで翼人と知り合ったんだ?」

 

 書かれている内容からすると、彼が翼人と出会った時期は、ヘルメス卿になってから勇者戦争が起きるまでの間と推測できた。だが、その頃の彼は今の鳳みたいに領内の復興に忙しく、海外を旅して周るような余裕は無かったはずだ。

 

「いや待て……つーかこの時期、新大陸には街すらないはずだぞ?」

 

 なのに、新大陸に住んでいたはずの翼人とどうやって出会ったというのか? 今までにも、彼らが頻繁に旧大陸を訪れていたのなら話はわかる。だが、それなら旧大陸で暮らしている翼人がもっといなければおかしいだろう。

 

 しかし、そんな話は聞いたこともないし、下手したらこの大陸の人々は翼人の存在を知らない人のほうが多いのではなかろうか。実を言えばギヨームも、つい最近までそれを知らなかったのだ。

 

 そう、知らなかった……

 

「なのに、何故、当たり前のように受け入れているんだ……?」

 

 ギヨームは、頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。

 

 そうだ。何故、こんなに簡単なことに気づかなかったのだ。彼はあのカナンの村で、生まれてはじめて翼人を目撃したのに、それをなんとも思わなかった。普通なら天使みたいな容姿に驚き、強い印象を残しているはずなのに……もしくは直接彼らに色々質問をしていてもおかしくないはずなのに、特に何もしなかった。

 

 あの時、彼は翼人を見てもなんとも思わなかったのだ。せいぜい「ふーん、本当にいたんだ……」程度にしか思わなかった。

 

 何故なら、彼はカナンの村に辿り着く前に、この世界には翼人がいるということを、既に知っていたからだ。

 

 ニューアムステルダムからボヘミアへ向かう船の中で、鳳がこの本を読んで嬉々として話していたのだ。その時、ギヨームたちは吐き気に見舞われグロッキー状態であり、ハンモックに寝転がりながら、寝物語のように鳳とメアリーの会話を聞いていた。

 

 まるで予習するかのように、予め知らされていたのだ。

 

 鳳は、この本をニューアムステルダムで買ったと言っていた。その直後に、本の中に出てくる翼人と出会うなんて、これは本当に偶然なんだろうか?

 

 今にして思えば、フェニックスの街で、翼人に対する不信感を鳳に伝えに行こうとした時も、あのアスタルテとかいう女が口を挟んできたのは、タイミングが良すぎるのではないか。ギヨームは彼女の言葉にぐうの音も出なくて、その後鳳に会いに行くことはしなかったのだが……あの時、ちゃんと伝えていたら、何がどう変わっていただろうか。

 

「……やっぱり、あの翼人って連中は何かがおかしい」

 

 ギヨームは本を閉じると、急いでレオナルドの工房へ向かった。スカーサハは新大陸の住人だから、彼女ならもっと翼人のことを詳しく知っていると思ったからだ。

 

 しかしそれは全くの期待はずれだった。

 

 やはりと言うべきか、300年も新大陸で暮らしているスカーサハですら、これまで一度も翼人に会ったことがないと言うのである。

 



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カナンの村

 潮風に吹かれながら、揺れ動く水平線の向こう側を見つめていた。空間の歪みが存在するというのなら、あの丸くなった先に何があるのか、意識することでそれを感じ取れないものだろうか。ギヨームはそんなことをぼんやりと考えながら、ニューアムステルダム発の船の甲板に佇んでいた。

 

 因みに二度目の船旅は同じ轍を踏まぬように、最初からガンガン大麻を吸っていたからなんともなかった。正直、体に良いとは思えないし、(あれ)に毒されているような気分になるから、出来ればこんなものに手を出したくないのだが、もはやそんなことを気にしていたら魔法使いなんてやってられないくらい、彼のMP消費は激しくなっていた。

 

 甲板の手すりにもたれかかり、光の礫を幾度も出しては、ギヨームはため息を吐いた。それを大道芸かなにかと勘違いした船員たちから拍手が送られたが、これは失敗したから出る光なのだ。褒められても何も嬉しくない。

 

 順風に恵まれた船旅も三日目となり、船長に言わせれば今日中にカーラ国に着くだろうとのことだった。今回はそこからすぐにボヘミアには入らず、直接ヴァルトシュタインの砦へ向かうつもりである。

 

 彼が船に乗り向かっている先は、言うまでもなくカナンの村だった。今から丁度3日前、レオナルドの館で読んだ本に書かれていた翼人の話。そこに違和感を感じた彼は、スカーサハに新大陸に翼人がどれくらいいるのかと尋ねてみた。

 

 すると彼女は翼人の存在は知っていたが、今までに会ったことはないと言い出した。北方の少数民族と聞いてはいるが、具体的にどこに住んでいるのか、どのくらいの数がいるのか、そういった細かいことは知らないのだと。

 

 だが、それはちょっと考えにくいことだろう。何しろ彼女は神人で、300年以上も生きている上に、開拓当時から新大陸で暮らしていたのだ。そりゃ、師匠がこっちに住んでいるのだし、今のように旧大陸を行ったり来たりしてはいたが、それでもトータルでは200年以上も新大陸で暮らしていた計算になる。

 

 おまけに彼女は連邦議会の特別顧問であるし、新大陸の政府高官みたいなポジションにいる。だから翼人の存在を知っていたとも言えるが、そんな彼女が実物に会ったことがないというのは、流石におかしいと言わざるを得ないだろう。

 

 そうして考えて始めて見ると、不自然なことはいくつも見つかった。

 

 例えば彼らは新大陸の先住民だと言うが、勇者が新大陸へ渡った際、彼らと衝突が起こったという記録はない。知っての通り、地球の歴史では、アメリカ大陸に渡った征服者(コンキスタドール)たちと先住民との間で大戦争が繰り広げられ、それに終止符を打ったのは彼らが持ち込んだ病原菌だった。

 

 征服者たちは数世代進んだ科学技術と圧倒的な武力で、またたく間に南米を支配したように思われているが、実際には最初の150年くらいは相当苦労している。と言うのも、彼らが持ち込んだ銃や弾薬は、先住民だって奪えば使えたのだし、数の上では圧倒的に先住民の方が優勢だった。

 

 因みに北米のインディアンと聞けば馬に跨った上半身裸の男達が、手斧を振り回して突撃してくるようなイメージを持つが、あれは西洋人が持ち込んだのを先住民が奪ったものだ。元々アメリカ大陸に馬なんていなかったのだ。

 

 ところが、こちらの世界では、新大陸に渡った勇者領の人たちは、全く誰からの抵抗も受けること無く入植出来た。何故か? それは彼らが渡った先に人が住んでいなかったからなのだが……翼人が先住民であるなら、どうして彼らは住みやすい温帯ではなく、わざわざ北方の極寒の地で暮らしていたのだろうか。

 

 新大陸にも魔物がいて、彼らはそれを避けて北方で暮らしていたのかも知れない。1000年前、ソフィアが現れる前の人類も、同じように北に追いやられていたそうだから、そういうこともあるだろう。だがそれなら、新大陸に人が渡ってきて、安全な街を作り始めた後も、どうして彼らは北方で引き篭もっているのだろうか。

 

 旧大陸の人間と反りが合わないとか、キリストの教えを守るためとか、色々理由をつけてはいるが、エスキモーだって貨幣経済の波からは逃れられなかったのだ。なのに、彼らが誰一人として村を離れないというのはどう考えてもおかしい。実はそこそこ人里に下りていると言うのなら、今度はスカーサハが会ったことがないというのが矛盾になる。

 

 彼らの容姿も非常に怪しい。見た目が天使のようだという事を差っ引いても、そもそもあんなふうに人間が進化するものだろうか?

 

 ギヨームたちが彼らの姿を見ても驚かなかったのは、この世界に獣人や魔族が存在するからだが、考えてもみればリュカオンを元にした獣人たちは、元の動物の特徴をかなり残している。じゃあ、あの翼人の元となった動物は何だ? と考えると、翼が生えているのだから鳥のような気もするが、どちらかと言えば人間の特徴の方がよっぽど多く残っているだろう。

 

 あれが獣人と同じ種族とは到底思えない。しかし魔族なら、新大陸に渡ってきた人類と敵対していたはずだし、これらのことを踏まえると、本当に翼人なんて種族が存在するのかどうか疑わしくなってくる。少なくとも、300年以上も前から新大陸に住んでいたのは嘘なんじゃなかろうか。

 

 いや、彼らは嘘を吐いている。断言する。では、彼らはどこからやって来たのか……? 天使のような翼、神人のような容姿、そして新約聖書。これらの材料が頭の中でぐるぐる回ってどうにも落ち着かず、ギヨームは思考の迷路に迷い込んでいた。

 

 だから彼は直接探りに行くことにした。カナンの村へ行って、遠くから村の様子を監視するのだ。例のニュートンの著書を読んでいて、つくづく思った。どだい、自分は頭で考えるよりも行動したほうがいいタイプなのだ。考えるのは鳳やレオナルドのような頭脳派の仕事だ。

 

 その鳳に知らせるべきかどうかは悩んだが、結局はやめておいた。取り敢えずはレオナルドたちが知っていれば、何かあった時のフォローはしてくれるだろうし、今は煩わせたくないと思ったからだ。鳳はあの神父を信用しているようだし、仮に翼人が危険な連中だったとしても、彼が簡単にやられるとも思わない。結局は考えすぎと言うか、杞憂に終わるのが一番いいのだ。

 

 そんなわけで彼はレオナルドたちに後事を託すと、ニューアムステルダムから船に乗った。本当なら陸路を行ったほうが早いのだが、乗合馬車では例の現代魔法(クオリア)の訓練が出来ないから海路を選んだ。お陰で船旅の間、たっぷり訓練は出来たのだが、残念ながら3日間の行程では何も得られるものは無かった。

 

 MP消費も増減したりせず、相変わらずクオリアは光の礫となって消えてしまった。MPの回復中は拳銃の方を作り出したり、レオナルドの講義を思い出したりしていたが、老人が言うように脳のスイッチが入るような劇的な変化は訪れなかった。本当にこの方法でいいのだろうか……? という迷いもあったが、他にやれることもないのだから、今は信じて続けるしかない。

 

 カーラ国に接岸してからは、高速郵便馬車に便乗してアルマ国を目指した。早馬で1日の距離だが、ボヘミア砦はその途中にあるからもっと早くつくはずである。

 

 御者に途中で下ろしてくれるように頼んでから、荷台で丸まって寝ていると、暫くしてゆさゆさと揺すり起こされた。あくびを噛み殺しながら荷台から外に出ると、太陽はとっくに沈んでおり、空はすっかり暗くなっていた。何しろ戦場になった場所だから周囲に民家もなく、御者は本当にここでいいのかと念を押してきたが、間違いないと礼を言って馬車を下りた。

 

 月明かりを頼りにヴァルトシュタインの砦まで歩いた。砦は山の中だから周囲は完全な暗闇であり、夜目が利かなければきっと一歩も動けなかっただろう。しかし彼は松明をつけることもなく、慎重に山の中を進んだ。理由はカナンの村の住人に気付かれないように近づきたかったからだが、夜明け前までにたどり着けるか少々不安になった。

 

 夏なら虫の声が煩かっただろうが、今は逆に耳鳴りがするくらいしんと静まり返っていた。時折吹く風に常緑樹の葉がガサガサと音を立てる以外、本当にどんな音も聞こえてこない。それが平衡感覚をおかしくするようで、彼は何度も転んで尻餅をつく羽目になった。

 

 ほんの半年前、あの大森林を散々歩き回ったというのに、体が鈍っているのかなと思いもしたが、それくらい人間の空間認識力は耳に頼っているということだろう。

 

 そんな具合によろけながら山の斜面を登ってくると、段々とその傾きが緩やかになってきた。どうやらカナンの村がある、山の中腹にたどり着いたらしい。村人たちに気づかれないよう、新雪を踏むように落ち葉をギュッと踏みしめながら、彼は慎重に村の方へと進んでいった。

 

 やがて月明かりに照らされ美しく輝く段々畑が見えてきた。森の出口に差し掛かったギヨームはそれ以上進むことをやめ、手近にあった木によじ登ると、荷物と自分が乗るためのハンモックを吊るし、それから迷彩柄のシートを出して木に張り巡らせ、ハンモックを覆った。こうしておけば、遠目から人に気づかれる心配は絶対にないはずだ。彼はハンモックに寝そべるように腰掛けると、荷物から双眼鏡を取り出して村の様子を窺った。

 

 そうやって木の上に基地を作っている間に、夜は明けて空は白み始めていた。冬でまだ夜が長いから、時刻は7時少し前といったくらいだろうか。都会の若者ならまだ寝ているだろうが、老人だらけのこの集落なら、とっくにみんな起きているだろう。もう少し日が昇れば、そのうち村人たちが外に出てくるはずだ。ギヨームはそれを待った。

 

 ところが……そうやって村を監視していても、一向に誰かが現れる気配がない。彼はおかしいと思い、双眼鏡を下ろして村全体を眺めてみた。

 

 村はまさに高地の寒村といった感じで民家が少なかったが、それでもざっと見た限りでも疎らに数軒の家が見て取れた。手入れもされているようで、誰かが住んでいるとしか思えないのだが……どうして誰も出てこないのだろうか? と思った時、彼はふとした違和感に気がついた。どこの家からも煙が上がっていないのである。

 

 いくら家の中でもこの寒さでは暖炉がなくては暮らしていけない。それに炊事をするにも火をおこす必要があるだろう。日が昇り、そろそろ陽気もポカポカしてきた頃合いである。なのに、一軒も煙があがらないなんておかしいだろう。

 

 いや、たった一軒だけ、煙が上がっている家はあった。それは村の中央にある小高い丘の上……カナンの診療所である。そこの煙突だけが煙を上げており、唯一人の気配を感じさせた。

 

「……やっぱ、おかしいよな、これ」

 

 ギヨームは呟いてから、双眼鏡を覗き込んだ。さっきから人を探そうとしていたから、ちゃんと家の様子を観察していなかった。そうやって気を新たにして見てみれば、家は確かに手入れはされているが、例えば通用口の前の雑草の生え方だったり、暫く人が住んでいない痕跡が見て取れた。この村は、カナンの診療所以外に人がいないのだ。

 

 どういうことだろうか? 農閑期だから村人たちが他所へ行っているのだろうか。いや、冬だからと言って、農家に仕事がないわけじゃないから、彼らが畑を留守にするとは思えない。

 

 じゃあ、なんであんな民家があるのだろうか。ここに人が住んでいますよと、見せかけるためのカモフラージュだろうか。いや、それもおかしい。だったら、ポポル爺さんはこの村を目指さなかったろうし、近辺の村の人々がカナンのことを知っているはずがない。

 

 ヴァルトシュタインが砦に籠もっていた時、確かにこの村はあったのだ。連邦議会はカーラ国から山に入り、周辺の村を経由してここに物資を送ってきた。間違いない。では、なんで今、人がいないんだ……?

 

 おかしい……変だ……だが、それが分かったところで、何をしていいのかが分からない。村人たちがいないなら、この村を探りに来た意味がないのでは……? いや、そんなこともないだろうか……ギヨームは翼人の様子を探りに来たのだ。一応それならカナンが居る。寧ろ、彼しかいないようだから、きな臭いと思っているのだが……

 

 そんなことを考えながら、双眼鏡を診療所に向けた時だった。締まりっぱなしだった玄関のドアが開いて、中から誰かが出てきた。いかにも休憩がてら外の空気を吸いに来たといった感じで、太陽に向かって伸びをしている。白衣を着て、身長は中くらい、女性にしては長身だ。そう、出てきたのは女性だった。

 

「……なんで、あいつがここにいる?」

 

 ギヨームはその女性を見て驚いた。何故なら、そこに居たのは、例の孤児院で医者として働いている、アスタルテという名前の女性だったからだ。ギヨームは彼女にボロクソに言われたことが悔しくて、自分の魔法を改良しようと思い立った。少しでも鳳に近づくために……

 

 いや、今はそんなことはどうでもいい。それよりも、何故、彼女がこの村にいるのだろうか。彼女は元々この診療所でカナンの助手として働いていたのだから、居る事自体は不自然ではない。だが、彼女は今孤児院のスタッフとして、フェニックスの街で働いているはずなのだ。

 

 ギヨームが、フェニックスからヴィンチ村へ行って、また引き返すようにこっちへ来るまでに、かなりの時間が経過している。だから、その間に彼女がフェニックスから帰ってきた可能性は否定できない。だが少なくとも、彼が旅立つ前に、そんな気配はなかった。孤児院の医療スタッフというのは、そんなに簡単に帰れるものなのか? 本当に、どうして彼女がここにいるのか……

 

 と、その時だった。

 

 困惑しながら双眼鏡を覗き込んでいるギヨームと、彼女の視線が交錯した。その視線に心臓を射抜かれたような気分がした彼は、無駄と知りながら息を殺し、ゴクリとつばを飲み込んだ。アスタルテは、そんな彼の目をじっと見つめている。

 

 ここは村の周縁の森の木の上で、見つからないよう念入りにカモフラージュされている。臭いや音は隠せないが、少なくとも人間が遠目から見て気付けるはずがない。もちろん、彼は太陽を背にしており、双眼鏡が光を反射するようなヘマも犯していないはずだ。

 

 だからあれはただの偶然だ。たまたま、彼女がこっちに目を向けただけなのだ……ギヨームは自分にそう言い聞かせ、早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと深呼吸をした。

 

 果たして、彼の焦りはやはり杞憂のようだった。じっとギヨームの目を見つめていた彼女は、間もなくぷいっと視線を外すと、面倒くさそうに診療所の中へと帰っていた。扉が閉じられ、中の様子は窺えない。暫く待ってみたが、もう一度開くことはなかった。

 

 ギヨームは、ふぅ~……っとため息を吐いて、双眼鏡を下ろした。緊張感が解けてどっと力が抜けた気がした。気づかぬうちに押し付けていたのだろうか、目蓋がヒリヒリと痛くて、手で触れたらぬるっとした感触がして、額にものすごい汗をかいていることに気付かされた。

 

 いくら何でもビビり過ぎだろう……確かに、あの女に見られたと思った時はドキリとしたが、あれはただの偶然だったのだ。あの後、彼女はすぐに診療所の中に入ってしまった。気づかれているはずはない。何しろここは数百メートル先の森の中だ。

 

 でも……本当にそうなのだろうか?

 

 根拠はないがあの時の視線には、何か嫌なものを感じた。それはただの冒険者の直感でしかないのだが、ヤバい魔物と遭遇したときのような……自分が蛇に睨まれた蛙になってしまったかのような、そんな気がしたのだ。得体の知れない連中であるという先入観がそう思わせるのだろうか。まあ、それを探りに来たのだから仕方ない面もあろう。

 

 ともかく、彼はこのまま監視を続けようと、また双眼鏡を覗き込もうとして……すぐにそれを下ろした。

 

 これ以上、監視を続けて何になる? 彼はここに何をしに来たのかを思い出した。それは村を探ることによって、あの翼人たちが何かボロを出すんじゃないかと思ったからだ。それならもう出してるじゃないか。

 

 いつの間にか消えてしまった村人たちに、ここには居ないはずの女性が当たり前のようにいる。恐らく、あの診療所の中にカナンはいるだろうが、阿片窟にはもう誰もいないだろう。

 

 さて、どうすべきか。それを確認しにいくべきだろうか……これまでの状況からして、翼人たちが胡散臭い連中であることはもはや疑いようもない。彼らは自分たちの出身地や行動を誤魔化して、鳳に近づいたのだ。もしかすると、ニューアムステルダムで彼が本を手にすることも、ヘルメス卿を押し付けられることも、予め知っていたのではなかろうか……? それはいくらなんでも飛躍し過ぎか? だが、そう思わせる得体の知れなさが彼らにはあった。

 

 ともあれ、今までの状況証拠だけでも、鳳に警戒感を抱かせることは可能だろう。仮にギヨームの話を聞こうとしなくても、レオナルドから言われれば彼も考え直すはずだ。このまま山を下りていって、近くの街からヴィンチ村に手紙を出そう。そして、自分は急いでフェニックスに帰るのだ。

 

 だが、本当にそれでいいんだろうか? 彼はまだ迷っていた。

 

 ギヨームの推測通り、翼人たちが怪しいことは確認出来た。しかし結局、何故彼らが鳳に近づいてきたのか、それはまだ分からないのだ。

 

 鳳はこの世界の勇者である。300年前、忽然と姿を消した勇者と、同一人物であるらしい。レオナルドやスカーサハは、自分たちの記憶が改竄されていることに気がついている。最近、鳳がおかしくなったのは魔王化による影響だ。このまま放置していたら、いずれ鳳は魔王になってしまうか、自分たちの記憶から消されてしまう可能性が高い……

 

 この状況で、突然、天使みたいな連中が勇者の周りをうろつき始めた。それを調べずして、ここから立ち去ってしまっても、本当にいいのか?

 

「……くそっ」

 

 ギヨームは吊るしておいたリュックサックを乱暴に引っ掴むと、ハンモックの上に中身をぶちまけた。そして一日分の携行食と万が一の着替え一式だけを詰め直し、軽くなったそれを木の根っこの辺りに放り投げた。

 

 それ以外の荷物はハンモックの上に残し、木を降りた彼は先に落としたリュックを隠蔽してから、姿勢を低くして誰にも見つからないよう、慎重に村の方へと近づいていった。

 

 村は異様なほどひっそりと静まり返っており、まるで黄泉の国にでも迷い込んだかのようだった。

 



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私たちはどこから来てどこへ行くのか

 ギヨームは村を監視していた木から飛び下りると、出来るだけ人に見つからないように姿勢を低くし、茂みから茂みを経由しながら村の外縁部まで忍び寄った。そこから先は遮蔽物のない休耕地が広がっており、カナンの診療所まで身を隠しながら近づくのは不可能のようだった。

 

 ならば、暗闇に乗じるために夜を待つのもいいだろうが……彼は覚悟を決めると、結局そのまま村へと足を踏み入れた。そもそも村には明らかに人気が無く、誰かに見咎められる心配はないのだ。寧ろ、どうして誰も居ないのか、翼人に直接確かめるつもりでここに来たのだから、これ以上コソコソする必要はないだろう。

 

 ギヨームは森から村へ姿を晒すと、まずはすぐ近くにあった民家へと近づいていった。案の定、家の中からは人の気配は感じられず、戸を叩いても返事はかえってこなかった。思い切って戸を引くと、田舎の民家であるからか戸締まりはされておらず、中を覗き込んでもそこには誰も居なかった。

 

 そこから数十メートル行った先の隣の民家も同じようなもので、物置に土が付着した鍬が立てかけられている以外には、何も変わりはなかった。だが家の周りの畑を見れば、作物は植わっていなかったが、ちゃんと畝が立てられており、もしかすると土の中には種が撒かれているのかも知れなかった。するとこの家の者は、畑をほったらかしてどこへ行ってしまったのだろうか。

 

 そこからカナンの診療所までには、まだ数軒の家があったが、どこも似たりよったりで、何となく人が居るように見えるが、実際には人っ子一人居ない状況が続いていた。それは村全体が神隠しにあったような感じというよりは、最初からそう見せかけるために、カモフラージュされているような印象であった。

 

 考え得る限り、それをやったのは例の翼人たちだろうが、何故そんなことをする必要があるのか、その理由は見当もつかなかった。

 

 段々畑の横を抜けて、村の中央にある小高い丘へと登っていく。ギヨームはカナンの診療所の前までやってくると、そこからさっきまで自分が隠れていた森を眺めてみた。彼にはハンモックのある位置が大体どの辺りか分かっていたが、やはりと言うべきか、そこから彼の荷物はまったく見えず、自分の隠蔽は完璧だったと確信出来た。

 

 なのにあの時、あの女は彼の目を見た……ような気がした。それはただの偶然だったと思いたいが、万が一のことを考えて、彼は退路をしっかりと確認しておくことにした。あの木の下には最低限の荷物を詰めたリュックが隠してある。いざとなったら、それを引っ掴んで山から下りるのだ。

 

 そして退路確認に暫く時間を割いた後、彼はいよいよ診療所の戸口に立った。ここから先は一発勝負だ。いきなり襲いかかってくるようなことはないだろうが、絶対に警戒は怠るな。彼はそう自分に言い聞かせながら、診療所の戸をノックした。

 

 それはただの木戸にしか見えなかったが、思ったよりも硬い感触がして、少し甲高い音がした。なんだか奇妙な感覚を覚えつつ、もう一度ノックすると、中からパタパタと誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。

 

 緊張が走り、彼は自分が間違ったことをしているんじゃないかと少し後悔しかけていた。本当はこんなことせず、さっさと山を下りるべきでは……だがその時にはもう、診療所の戸は開けられており、

 

「帰れ」

 

 そしてパタンと閉じられた。

 

 ギヨームはその場に立ち尽くした。

 

 ……というか、何が起きたのか考えが追いつかなかった。なんか、戸が開いてあの女が出てきたと思ったら、ゴキブリでも見るような嫌そうな目つきで彼のことを見下ろした後、一言いって戸を閉じてしまったような……

 

「って、おい! てめえ! 何いきなり閉じてんだよ!」

 

 なんでいきなり締め出されているのだ。彼が頭にきてドンドンドン! っと戸を叩いていると、また中からドスドスと床を踏み鳴らす大きな音が近づいてきて、

 

「なんですか、あなたは! 人の家の戸を何度も何度も! 失礼な人ですね」

「門前払いしておいて、どっちが失礼だっ!」

「はあ? アポイントメントもない者を相手に面会拒否して何が悪いんですか。ここは私の家ですよ」

「はあ? アポイントって何言ってやがんだ、おまえ。いいから翼人に会わせろよ。俺はお前じゃなくてあいつに会いに来たんだよ!」

「カナン先生なら尚更ここを通すわけにはいきませんよ。どうしても会いたいのであれば、ちゃんと手順を踏んで出直してきなさい」

「なんだそりゃあ! もうここまで来ちまったんだから、そんな悠長なことやってられるか。いいからそこをどけっての!」

 

 ギヨームが強引に中に入ろうとすると、女性はそれを阻止しようとして、二人は戸口を挟んで押し相撲みたいに揉み合い始めた。戸口がガタガタと音を立てて、こころなしか診療所全体が揺れるような感じがする。

 

 きっとそれがうるさかったのだろう。二人が押し合いへし合いしていると、暫くして診療所の奥に続く暖簾をかき分けて、中からカナンが出てきた。

 

「何ですか、騒々しい……おや? お客さんですか?」

「いいえ違います、先生。いま追い返しますから」

 

 アスタルテはすぐに否定したが、するとカナンは苦笑交じりに、

 

「そう何でもかんでも追い返さずとも構いませんよ。えーっと……確かあなたは……以前に一度、ここへ来たことがありましたね、ヘルメス卿と一緒に」

「あ、ああ……そうだよ」

「私に何か御用でしょうか……? まあ、立ち話もなんですので、どうぞお上がりください」

「いいのか?」

「ちっ……私は奥にいます」

 

 カナンがギヨームを招き入れようとすると、アスタルテは露骨に舌打ちしてから、忙しそうに奥へと引っ込んでしまった。なんであんなに嫌われてるんだろうと思っていると、カナンが申し訳なさそうな表情で、

 

「ああ見えて、意外と仲間思いなのですよ。さ、どうぞ」

 

 ギヨームは何を言われているのか理解した。以前、フェニックスの酒場で目の前の翼人の悪口を言っていた時のことだろう。するとカナンは既にギヨームが疑っていることを知っていることになる。彼はバツが悪くなって、中に入る前に一言謝罪をしておいた方が良いだろうかと考え……はっと我に返った。

 

 そもそも自分は、ここへカナンと馴れ合いに来たわけじゃない。先程の彼女とのやり取りで気が抜けてしまい、当たり前のように勧めに従って家の中に上がろうとしていたが、無策で敵のホームに入るなんて危険過ぎるだろう。

 

 彼は慌てて室内に入ろうとしていた足を止めて、すぐに飛び出せるように出口を背にしながら言った。

 

「いや、長居するつもりはないから、ここで構わない」

「そんな遠慮なさらずに。彼女のことなら気にしないでください」

「そんなんじゃない。ここでいいってだけの話だ」

「……別に、取って食ったりなんかしませんよ?」

 

 こちらの心境を知ってか知らずか、カナンは飄々と言ってのける。

 

「………………」

 

 ギヨームが彼を正面に見据えて黙りこくっていると、カナンはやがて諦めたように肩を竦めてから、手近にあった椅子を引っ張ってきて、

 

「では、失礼ですが私は座らせてもらいますよ? 羽なんて生えてるもんだから、立ちっぱなしだと段々腰が痛くなってきましてね……それで、今日はどうされたのですか、一人でこんなところまで」

 

 ギヨームは深呼吸をすると、

 

「その前に……あの女はどうしてここにいるんだ。今はまだフェニックスの街にいるはずだろう」

「いえ、たまたまこちらへ帰って来たタイミングであなたが来ただけですよ。寧ろあなたの方こそ、どうしてここへ? まさか、彼女を追いかけて来たんじゃないですよね」

「……しらばっくれるな。こんなのはフェニックスに帰ればすぐに裏が取れる話だぞ」

「なるほどなるほど。それは困りましたねえ……」

 

 カナンは、でも帰らなければわからないだろうとでも言いたげに涼しい顔をしている。ギヨームは不愉快そうに眉をひそめながら、

 

「ここへ来る途中、村の様子を見てきた。どうして人っ子一人見当たらないんだ。誰も居ないのに、何故か畑は丁寧に手入れされている。これは一体誰がやったんだ? おまえたちか?」

「そんなことないでしょう。村人たちはいますよ。畑が手入れされているのがその証拠です」

「嘘つけ! 俺は家の中に入ってまで調べてきたんだ。その結果、この村には暫く人が居た形跡がないと言っているんだよ」

 

 これにはカナンも流石に憮然とした表情を浮かべてから、

 

「人の家に勝手に入るなんて、困った人ですね……もし誰か居たらどうするつもりだったんですか」

「だから居なかったんだよ。居ないから俺は次々と家の扉を開けて、中を調べてきたんだと言ってるんだ!」

 

 するとカナンはため息交じりに、

 

「でもねえ、あなた……ギヨームさんでしたか。それでも村人たちはいますよ。ちゃんといます。私には見えます。それでもあなたが見えないのは、あなたがそれを見ようとしていないからじゃないですか?」

「なんだと? そうやってはぐらかそうとしても無駄だぞ。現に今、村に人は一人も居ないんだから」

「本当に……?」

「あのなあ。そんなのちょっとそこまで見に行けば、すぐわかることだろうが」

 

 ギヨームが呆れたようにそう言い返す。しかし、カナンはじっと彼の顔を見つめながら、

 

「もしかして、居ないのはあなたの方なんじゃないですか?」

「な、なに!?」

「例えばあなた……ここへ来る時、どういう道を通りましたか? 案内も付けずに、一人で山に入りませんでしたか? 外は暗く、道なき道をあなたは進んだ……その時、道を間違えたりしませんでしたか?」

 

 その言葉にギヨームが顔をしかめる。目の前の男が何を言っているのかわからない。頭がおかしくなってしまったのか、それともそんな振りをしているのだろうか。どちらにせよ、このまま話をはぐらかし続けられてはたまらない。もはや強硬手段も辞さないつもりで、ギヨームが表情を強張らせると、カナンはふっと表情を和らげてから、

 

「人の寝静まる深夜、月の明かりも届かないような暗闇を歩いている時、たまにこの世の理から離れて、どこかへ消えてしまう人がいると聞きます。我々はそれを神隠しにあったなどと表現しますが……あなた、つい最近、そんな誰にも見えないような暗闇の道を歩いていませんでしたか」

 

 それなら身に覚えがあった。昨日、ここへ来るまでに通った山道が正にそうだった。彼は村人に見つからないよう、松明の明かりもつけずに道なき道を進んだ。

 

 だが、それが何だという話である。ギヨームの見た目が少年だから、怪談でもしておけばビビるとでも思ったのだろうか。彼はイライラしながら、これ以上はぐらかすなと口を開きかけたが……

 

 そんな彼を制するように、先にカナンがこんなことを言い出した。

 

「あなた、最近、空間の歪みを探そうとしましたよね。故意にせよ、無意識にせよ。この世の理の裏側を見ようとしていたんじゃないですか?」

「なっ……!?」

 

 空間の歪み……その言葉にギヨームの心臓がドキリと高鳴った。それは図星と言うかなんと言うか……いやそもそも何故目の前の翼人の口から、その単語が出てくる事自体がわからなかった。

 

「この世界はわりと歪んでいて、色んな所にその綻びみたいなものがあるんですよ。意識してそれを見ることが出来るようになれば、その人にとってこの世は一つではなくなる。あなたはつい最近、そういった体験をしたのではないですか? 例えば……とある城の地下牢で光に触れたら、まるで別の空間へと転移していたとか……例えば、とある装置で人が分解されたり元に戻ったり、例えば、魔法の力で街から街へと瞬間移動したり……」

「お……まえ……は……何を、言って……」

「我々はそのようなスキマのことをワームホールと呼んでいるのですが、ヘルメス卿のお仲間であるあなたなら、タウンポータルと言った方がわかりやすいでしょうか。あなたはそのスキマを通って、知らず識らずのうちにこの空間に紛れ込んでしまったのですよ。そのせいで、ここはあなたの認識上ではカナンの村であってカナンの村でなくなってしまった」

 

 ギヨームはショックのせいか、立ち眩みがして体勢を崩した。背にした玄関の戸がガタガタと音を立てた。今目の前にいる翼人のことが怪しいと思ってここまで来たが、怪しいどころの騒ぎではなかった。彼はこちらの手の内を知っている。この男は少なくとも、レオナルドや鳳クラスの放浪者か何かだ。

 

「おまえ……何者だ?」

 

 ギヨームはよろける身体を腕で支えながら、いまいち焦点の合わない視線でカナンを見つめた。彼の柔和そうな顔がいくつにもブレて気持ちが悪い。机の上の蝋燭の炎が大きくなったり小さくなったり、明るくなったり暗くなったり。まるで催眠術にでも掛かっているかのようだ。思考が忙しすぎて頭が混乱しているのだろうか、どうしてこんなに立ち眩みがするのかと思った時、彼はようやく室内に充満する阿片の匂いに気がついた。

 

 彼はそれに気づくと、慌てて脳内に特大ライフルを思い浮かべて、現代魔法(クオリア)で呼び出そうとした。瞬間、彼の手の中で光が弾けて虚空へ消えていき、それと同時に彼のMPがごっそり消費された。MP回復している間は酔わないはずだ。これで少しは楽になるだろう……ギヨームが額の汗を拭っていると、その様子を見ていたカナンが物珍しそうな表情で、

 

「ほう……変わったことをしますね、あなた。今のは何ですか?」

「うるさいっ! そんなことより質問に答えろ。おまえは何者だ!?」

「一方的な人ですね。会話はキャッチボールと言うでしょう? 答えてくれてもいいでしょうに……」

 

 カナンは不服そうに口をとがらせた。その態度に苛立ちながら、ギヨームはまだぼんやりとする頭で必死に考えながら続けた。

 

「いや、そもそも翼人とはなんだ? 新大陸の先住民だと言うのなら、何故北方に引き篭もっている。本当に、おまえらは最初からあそこにいたのか? 本当はどこから来たんだ。こっちの大陸の人間との関連性は? キリスト教で言う天使の姿に酷似しているのはどうしてなんだ? あまつさえ、そのキリスト教を布教するなんて、なんの冗談だ」

 

 するとカナンはそんな一度に質問されても答えられないと言わんばかりの困った表情を浮かべながら、

 

「そう焦らずとも、質問には答えましょう。ただ……その前に少し考えてください。あなたは私たちがどこから来たのかとおっしゃいますが、あなたたち人類の方こそどこから来たのですか?」

「……なに?」

「ここはかつてあなたが生まれ落ちた地球ではない。この世界には何故か最初からP99があった。それを用意したのは? 1000年前ソフィアはこの地に降り立った。その彼女が神人を作る前に、既に魔族は存在していた。何故か? ここは宇宙のどこら辺にあるのでしょうか。物理法則は地球と同じなのでしょうか。あなたはそういったことを今まで考えたことがありますか?」

 

 ギヨームはその問いに答えられなかった。いや、きっとこの世界に住む人の誰一人として、その疑問に答えることは出来なかっただろう。それは、この世界がいかにして作られたのかと聞いているようなものではないか。

 

 カナンは何故、そんなことを聞くのだろうか……? 彼はその理由を知っているとでも言うのだろうか? その存在のあやふやさ、何故か鳳に付きまとっている怪しさ、そういったことも含めて、ギヨームは新たに沸いてきた疑問に戸惑いを感じていた。

 



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年老いた蛇

「あなたたち人類こそ、どこからやって来たんですか?」

「……なに?」

「1000年前、皇帝ソフィアがこの地に降り立った時、人類は大森林からやってくる魔族に怯え、北方で隠れるように暮らしていました。ソフィアはそんな人類を救うべく、神人を作り出して帝国を作り上げた……つまり、神人が誕生するより以前に、この地には人間も魔族もいたのです。ともあれ、ソフィア率いる神人たちは、古代呪文という魔族を圧倒する力を用いて、押し寄せる魔物や魔族、そして度々やってくる魔王を撃退し、なんやかんやと人間を守護しながら現在に至ります。

 

 さて……ソフィアが人間を守ろうとしたのは良いでしょう。それより、彼女が神人を生み出すために使用したP99は何故そこにあったのか。そして彼女が目を覚ます以前から魔族は存在したわけですが、それはいつからなのか。神人の使う古代呪文もそうです。彼らはMPを消費することで奇跡を起こす。あなたもMPを消費して銃を作り出す。そのMPは何故、阿片を吸うことで回復するのでしょうか?」

 

 ギヨームは未だフラフラする身体で、扉にもたれ掛かりながら、吐き出すように言った。

 

「それなら、レオが言っていたな……俺たちの脳は高次元から何らかの力を受け取っているが、それはそのままじゃ使えないから、脳が利用出来るように変換してるんだって」

 

 するとカナンはわざとらしく目を大きく見開いて、興奮するようにパタパタと翼をはためかせながら、

 

「素晴らしい! 流石、万能人レオナルドですね。中世人の身でありながら、その答えにまでたどり着くとは。その通り、受け取った力はそのままでは使えません。放っておけば電流のように流れて消えてしまいますから、脳がそれを蓄積しようと試みます。その行為が脳のリソースを著しく消費するので、我々は脳内麻薬を補うために、外部から薬物を取り込むのです。

 

 このように、高次元から受け取るエネルギーは変換しなければ使えませんが、私達は絶えずその力を受け続けています。それは流れる水のごとく、この世界に溢れ出しているのです。ところで、このエネルギーはどこから来たのでしょうか?」

 

「……? だから高次元だろう。たった今、自分でそう言ったじゃねえか」

 

 カナンは苦笑しながら、

 

「そう言う意味で言ったのではないのですが……我々は余剰次元の方向からエネルギーを受け取っていますが、その源泉は一体どこにあるのかと言うことです」

「源泉? わかるわけないじゃないか。俺はその高次元って方向からして、まだ分かってないっつーのによ」

「……まあ、そうですよね」

 

 ギヨームの素気ない態度にカナンは肩を竦めたあと、すぐに真面目な表情に戻って話を続けた。

 

「今からおよそ10万年前のことです。それまで数百万年間も東アフリカの一部に閉じ込められていた人類は、この時期に突然、爆発的にその勢力を伸ばし世界中に散らばりました。それまではただの器用な猿でしかなかった人類が、急に創造性を発揮しだして、複雑な石器を作り出し、言語を使い始め、情報交換し、徒党を組み、ついには国家を作り上げたのです。

 

 どうして急にそんなことが出来るようになったのか。それは彼らが、植物の種を植えて、穀物を収穫する方法を発見したからと言われています。

 

 それまでは生き残るために、獲物を発見し狩るという身体能力を重視していた人類は、今度は大勢が一箇所に留まって生活するために、コミュニケーション能力を重要視するようになっていきました。誰よりも素早く獲物を狩るよりも、みんなと協力したり、情報交換したり、便利な道具を作る者が重用されるようになっていったのです。

 

 そして移動生活を止めて定住するようになった人類は、どんどん数を増やしていきました。農耕を始めたお陰で、狩りの成果に関わらず、一定の食物を得られるようになり、定住したお陰で子供も育てやすくなりました。

 

 しかし定住農耕生活もいいことばかりではありません。農作物は毎年必ず収穫出来るわけでもなく、ある年には突然飢饉に見舞われることもあったし、定住していることで外部の人間に位置を知られて、飢饉の時に襲撃を受けることもありました。

 

 だからそうならないように彼らは他の集落と協力したり、襲ってその人員を取り込んだりして、集落の構成員を増やしていきました。しかし、数十人程度の集落なら、みんな知り合いなのでなんとかなるでしょうが、その数が千、二千と増えていくと、全員が協力して行動することは難しくなる。

 

 そこで考え出されたのが宗教です。火や雷といった自然物を神に喩え、集落の守護神という概念を作り出し、同じ神を信じている者同士は兄弟のように仲良くし、そうでない者は殺しても構わないというルールを作ったのです。これはとてもシンプルですが、非常に強力でした。

 

 こうして一つの神の下に誓いを立てた集落が大きくなっていくと、それに圧迫された周りの集落は同じ神を信じていれば助かるのだから、どんどん改宗してその傘下に入ります。でも今度は千人二千人と増えても、神がいるお陰でバラバラにはなりません。

 

 代わりに、別々の神を信じている者同士での争いが激しくなる面もあるから、信仰はどんどん命がけになっていきます。やがて信仰はどっちの神が強い弱いという争いの種となり、儀式や祈祷のような神秘的な行事が重視されるようになると、その祭祀を行う祈祷師や巫女のような者が重要視されていく。

 

 そしてその者が王となり、国家は戦争のためだけではなく、様々な文化や科学技術を生み出します。こうして人間は神という概念を作り出したことで、他の動物にはあり得ない発展を遂げたのです……

 

 でも、本当にそうなんでしょうか? 人間が神を作り出したから、人類は飛躍的に発展したのでしょうか。本当は、神が人間を作り出したから、人類は繁栄を迎えたのではないのでしょうか?

 

 およそ紀元前5千年頃、後者のような考えを持つ宗教が生まれてきます。我々が神を作ったのではなく、神が我々を作ったのだ。そういう考えの者たちが一神教を作り出し、やがてアブラハムの宗教が生まれます」

 

 そう、アブラハムの宗教は後発である。最初は自然そのものが崇拝され、それが精霊崇拝(アニミズム)に変わっていく。やがて国家が成立すると、王が神によって選ばれ、その選民思想が一神教を作り出した。一つの神という考えは、王もしくは民族を強力にする道具みたいなものだった。

 

 それはいい。問題は目の前の男が、その一神教の信者が考え出した、神の使いにそっくりだと言うことだ。

 

「時は流れて21世紀。人類は自律的に考え行動するAIを創り出しました。やがてコンピュータの処理速度が人間の脳を超えた時、それはビッグバン的な知識革命を起こし、いわゆるシンギュラリティが訪れます。

 

 こうして人間を凌駕したAIは、人類に代わってあらゆる問題を解決し始め、科学技術をも発展させていきます。そして人類は自ら考えることをやめ、AIによって次々ともたらされる新技術の恩恵によって、これまでにない繁栄を遂げることになるのです。

 

 と、そんな時、AIは空間の歪みの向こう側……いわゆる高次元の方向からやってくる不思議な力を発見します。後に人間によって第5粒子(フィフスエレメント)と呼ばれるようになったその力は、不思議なことに人間の脳にだけ反応を示し、それを利用すれば高次元からいくらでもエネルギーを引き出すことが可能でした。

 

 人類はその力に目をつけ、家畜を品種改良することによってリュカオンを生み出し、後にリュカオンの反乱が起こります。すると今度は、人類はその対策として超人を生み出し、リュカオン討伐を行いました。

 

 超人たちは、第5粒子が脳に反応することに着目し、脳内にエネルギーを蓄積する方法を編み出し、機械を使用することなく通信する技術をも開発します。これによって超人は、身一つで世界中を飛び回りながらも、第5粒子を介して指令を受け取り、AIによる強力なサポートを受けつつ、リュカオンと戦うことが出来るようになったのです。

 

 AIが、人間の脳に、直接情報を送るようになったのです。

 

 これは結構、重大なことですよ。情報を受け取るのは超人だけに限らず、あらゆる人間の脳が受け取れるはずなのです。何しろ、第5粒子は発見された当初から、人間の脳にだけ反応する物質だということが分かっていましたから。何故、こんなものが、我々が感知することの出来ない高次元空間に無尽蔵に存在していたのか……そしてそれは、いつから我々に影響を与えていたのか……」

 

 阿片の影響が取れてきて、ようやく頭が回りだしたギヨームが眉間に皺を寄せながら言った。

 

「おまえはそれを……10万年前に起きた出来事と結びつけているのか?」

 

 カナンはその言葉に頷きながら、

 

「かも知れないということですよ。人類は10万年前、唐突に他の動物には見られない創造性というものを獲得し、飛躍的な進歩を遂げた……それはダーウィンの進化論でも十分に説明可能ですが、逆に言えば、神が猿に知恵を授けたと考えても差し支えないはず……ということです。話を続けましょう。

 

 それからまた時が流れ、リュカオン排斥運動から人類宗主論が起こります。この世界は元はと言えば、人類が作り上げたものなのだから、そこから派生した超人やリュカオンがでかい顔をするなという運動です。

 

 それは、気がつけば新人類と比べて脆弱になってしまっていた旧人類が、焦りを感じて自分たちの優位性を主張するための虚仮威しに過ぎませんでした。本来ならば放っておいても害のない、庶民の鬱憤晴らしに過ぎなかった。ところが、時代が悪かったとしか言いようがないのですが、その頃の人類は、リュカオンから超人へと立て続けに人工進化を経験していたため、肉体を人工的に改造することに、躊躇がなくなってしまっていたのです。

 

 取り残された旧人類の庶民たちは、新人類憎しと自分たちの身体を改造し始めます。そしてAIは求められるまま、第5粒子を用いて人間の脳を弄り、遺伝子をも書き換え始めました。

 

 こうして怒りの権化(ラクシャーサ)となった旧人類たちは、自ら化け物になってまでも、地上は自分たちのものだと主張し、新人類たちを追い出しにかかります」

 

「ラシャ……それが、魔族の正体?」

 

「そうです。身体能力と理性はトレードオフの関係になっていて、理性が身体のあらゆるリミッターにブレーキをかけている。ラシャはそれを捨てることによって、超人を凌駕する肉体と、死を恐れぬ精神を手に入れました。そしてラシャは、新人類を殺すためだけに遺伝子を操作し続け、ひたすら進化する殺戮マシーンとなってしまった。

 

 超人たちはこの運動に対し抵抗をすることも可能でした。ところが、ラシャが理性を失くしたのとは対象的に、超人の方はどんどん理性的になっていった。彼らは思考すらAIのサポートを受けていたため、感情的になることが殆どなく、従って自分たちに向けられる殺意に対しても怒りを感じることが無かったのです。ただ、可哀相な連中であると思っただけでした。

 

 だから彼らは、ラシャに地上を明け渡すことにしたのです。ラシャとなった人類は、もはやただの化け物でしたが、それも一つの人間の進化の形だと受け入れて、超人たちは肉体を捨てて地球の大気圏外に建造したコロニーに引き篭もってしまった。まあ、放っておけば理性を失くした人類など、そのうち滅びるかも知れないし、それをAIに見張らせながら自分たちは長い眠りにつこうとしたのです。

 

 ところが……こういう事態が起きると皆同じようなことを考えるのでしょうか? ある時、地球の生物の遺伝子を乗せた宇宙船を、宇宙のあちこちに飛ばそうと考える者たちが現れました。

 

 このままではラシャが地球上のあらゆる生物を滅ぼしてしまう。いや、それ以前に、リュカオン騒動の時からも地球は多くの種を失ってしまっていた。それらが本当に失われる前に、太陽系外に地球に似た惑星を見つけて、そこへ移住させることは出来ないかと考えたのです。

 

 幸い人類は既に、遺伝子から種を復元する方法を見つけていました。それは失われた古代生物であってもです。そしてそれらの遺伝子は、遺伝子バンクに保存されて一元管理されており、必要に応じてコピーすることが可能でした。

 

 彼らはそうして地球上のあらゆる生物の遺伝子を乗せた船を作り、宇宙のあちこちに向けて飛ばしました。それは何百年どころか、何百万年かかるか分からない旅でしたが、生物と違って遺伝情報は劣化することはないので、いつかたどり着ければそれでいいという、そんな旅路です。これを播種船と呼びますが……

 

 播種船はたどり着いた星系に地球型惑星を見つけたら、一緒に乗せておいた機械を起動し、地球そっくりな環境を作り上げるようにプログラムされてありました。その機械を操作するのはシンギュラリティに到達したAIと同じもので、不測の事態に備えられるように、人間の人格が植え付けられております。AIは惑星にたどり着いたら肉体を手に入れ、神人となって降下出来るようにもなっています。

 

 もうお分かりですね。それがここ、惑星アリュード・カエルマです」

 

「アリュード・カエルマ……?」

 

「アナザーヘブンという意味です。エデンの園から追い出された人類が最後にたどり着いた楽園……まあ、便宜上、我々がそう呼んでいるだけで他意はありません。ともあれ、この惑星にたどり着いた播種船のAIは、地上を詳しく調べるために、手始めに受肉して降下することにしました。その降下した管理者こそが、エミリアなのです」

「エミリア……エミリアだって? ソフィアではなく?」

「そうです。エミリアです。あなた方、人間の歴史では四柱の神の一柱に数えられているものですよ」

「……そうか。そのエミリアってのは、鳳の幼馴染とは別物なんだな?」

「いいえ、ヘルメス卿の幼馴染で間違いありませんよ」

「はあ? だが、ちょっと待てよ……確か、エミリアってのは死んだはずだぞ?」

「そうですね。彼女が死んだこともまた事実ですが……でも、あなただって一度死んだじゃないですか」

「……どういう意味だ?」

 

 ギヨームは本当に意味がわからなくて首を傾げたが、カナンが言っていることはそっくりそのままの意味だった。

 

「あなたはビリー・ザ・キッドの通り名を持ち、アメリカ西部で活動し、サンタフェで殺害されて一度人生を終えた後、この世界で蘇り、勇者パーティーの一員として現在に至るわけでしょう」

「あ、ああ……! それじゃあ、エミリアも放浪者だったのか……? いや、違うな。さっきの話なら、こいつは人間ですらないじゃないか」

 

 ギヨームの言葉に、カナンは残念そうにため息を吐きながら言った。

 

「何をもって人間と定義するかにもよると思いますが。例えば真実を知ったあなたにとって、魔族は人間でしょうか? それとも魔族は魔族のままでしょうか? 獣人は人間でしょうか? 神人は? 他にも、例えば私は自分のことを人間だと思っていますが、あなたからしたらどうでしょうか?」

 

 言われてみると確かに微妙な問題だった。捕らえ方によって大分ニュアンスが変わる。ギヨームは難しそうに唸り声を上げながら、

 

「……そうだな。俺にとって魔族は魔族だ。元は人間だと知った今でも、相変わらず、出食わせば問答無用で狩る相手でしかない。それから……すっかり忘れていたが、そうだった。俺がここへ来たのは、おまえ達が何者なのかが知りたかったからだ。俺からすれば、おまえはただの人間だとは到底思えない。いい加減、話をはぐらかしていないで、そろそろ本当のことを言えよ。おまえは一体、何者なんだ?」

 

 すると翼人は少し困ったように肩を竦めてから、

 

「さて、私は私です。カナンという翼人でしかありませんよ」

「だからその翼人ってのはなんなんだよ。少なくとも、新大陸の先住民ってのは嘘だろう? おまえらはどこから来て、ここで何をしている? どうして鳳に近づいたんだ?」

「それを知って、あなたはどうしたいんですか」

「どうするもこうするも……俺たちに害を与えるものであれば排除する。それだけだ。それでどうなんだ。敵か? 味方か?」

「ふむ……敵味方の二元論にされるのは、少々具合が悪いですね。私としては誰の敵でも味方でもあるつもりもありませんが……でも強いて言うなら、人類の敵と呼ばれるものかも知れませんね」

「……なに?」

 

 ギヨームはその時、何か嫌なものが脳裏をかすめていくような感覚を覚えた。カナンの背中に生える翼がパタパタとはためく。それが何故か、左右6対12枚の羽のように見えて……そう言えば、元はと言えば、自分は彼ら翼人がキリスト教の天使のようだと思ったことが、ここまでやって来た最大の理由だと思い出し……

 

「私は、かの者に年老いた蛇と呼ばれたものです」

 

 彼はその言葉を聞いた瞬間。間髪入れず、殆ど反射的に引き金を引いていた。

 



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神弓

「私は、かの者に年老いた蛇と呼ばれたものです」

 

 それを聞いた瞬間、ギヨームはほぼ無意識に動いていた。これまでに経験したことのないスピードで、いつの間にか自分の手には魔法の拳銃が握られており、腰だめに構えたそれを高速で全弾撃ち尽くしていた。

 

 物凄く集中すると、時折人は物が止まって見えることがある。例えば交通事故の瞬間だとか、勝利を決める試合の最中だとか、ギヨームも今、世界が止まっているかのようにスローモーションで見えていた。

 

 その射撃が余りも速く、発射音はたった一発にしか聞こえなかったが、コルトM1877サンダラーの銃口からは6発の弾丸が発射されていた。それは正確に、真っ直ぐに、カナンに向かって飛んでいた。

 

 いける……彼は勝利を確信した。それは所詮豆鉄砲だから、即死はしないだろう。しかし、一瞬でも足止め出来れば、少なくともここから逃げることは出来るはず。ギヨームは拳銃を投げ捨てるように消し去ると、背中を向けて診療所の中から一目散に逃げ出そうとした。

 

 しかし、次の瞬間、彼は信じられないものを見た。

 

 たった今、カナンに向かって真っ直ぐに飛んでいった秒速235mの弾丸が、あろうことか標的の目の前で曲った(・・・)のだ。それは何らかの力によって曲げられたというよりも、最初からカーブが掛かっていたかのように自然な軌道を描き、カナンの身体を避けるように通過した後、まるでそうなるのが当然であるかのように、元の軌道へと舞い戻り、彼の背後の壁へ突き刺さった。

 

 背を向けようとしていたギヨームは、あり得ない光景を目の当たりにして固まった。カナンはそんなギヨームに向かってにこやかな笑みを浮かべると、

 

「あなたが今『見』ようと努力している空間の歪みとは、つまりこういうことなのです。この世界はどこまでも広がる余剰次元の宇宙の一部分でしかありません。我々は荒野の中に無数に存在する井戸の一つに住む蛙のようなもので、井戸の外に荒野が広がっていることに気づかないのです。ですが、その荒野にはエネルギーが溢れており、我々は第5粒子によってそれを感知できる。そこにエネルギーがあれば例えそれが三次元以上の空間であっても曲がるのです。これを利用して空間を曲げ、あたかも瞬間移動したように見せかけるのがいわゆるタウンポータルの原理ですが……って、聞いてます? ああ、もう、せっかく説明してあげているというのに……」

 

 ギヨームは得意げに語るカナンに背を向けて、今度こそ逃げ出した。カナンは、まるで崖を飛び降りるかのように必死になって丘を駆け下りていくギヨームの背中を見送りながら、やれやれと肩を竦めた。

 

「ヤバい……ヤバい……ヤバい……」

 

 突然現れた怪しい連中を探りに来たのだから、ある意味正解だったのは事実である。だが、手を出したものがここまでヤバいとは思いもよらなかった。ギヨームはたった一人で乗り込んできた己の浅はかさを後悔していた。

 

 創世記、アダムの肋骨から作り出された最古の女性イヴは、年老いた蛇に唆されて禁断の知恵の実を食べた。その罪により楽園を追い出された人類は、その後も度々その蛇によって苦難を強いられた。神に名指しで許さないと宣言されたその蛇こそが、6対12枚の羽を持つ元最高位の天使長だったものだ。

 

 もちろん、ブラフの可能性は否定できない。何しろ、こんなのにビビるのなんて、聖書の知識がある放浪者しかいない。カナンがそれを知っていて騙している可能性はある。

 

 だが、あの時、ギヨームの放った弾丸がすり抜けた現象は本物だった。手を出しちゃいけない相手に手を出したのは確かなのだ。

 

 逃げよう……なんとしてもここから逃げて、鳳やレオナルドにこのことを伝えるのだ。正直、連中が何をしようとしているのか分からないし、あんなのから逃げ切れる気もしなかったが、とにかくその存在だけでも伝えなくては……

 

 ギヨームは村を駆け抜け、一目散に周縁の森へと向かった。そこには予め荷物を減らしておいたリュックがある。それを回収してからなんとか山を下りるのだ。山を下りてもこの辺には村もないが、街道まで出れば誰かしらが通りかかるだろう。それまで足を止めるな。振り返るな。このまままっすぐ突き進むのだ。

 

 彼は酸欠に喘ぐ脳で、爆音を鳴らす心臓の痛みを必死に堪えながら、ようやく目の前に迫った森の中へと飛び込んだ。

 

 すると、突然、周囲の光景が暗転し、バランスを崩したと思ったら、ゴロゴロゴロゴロ……っと彼は軋む木の床の上を転がって、ズシンッ! っと、漆喰の壁にぶつかってから止まった。その衝撃で、家全体がグラグラと揺れるような感覚がする。天井からは砂のような埃がパラパラと落ちてくるのが見えた。ギヨームはそれを見ながら、暫し呆然としていた。

 

 今、彼は確かに森の中へと駆け込んだはずだった。なのに何故、天井が見える? 明るい場所から暗い場所へ入ると、一瞬目が見にくくなることはある。そんな感覚がしたかと思ったら、いきなり森がどこかの室内に繋がっていた。まあいい、ここは異世界だ。迷宮なんてものもあるし、今更驚いたりしない。だが、ここはどこだ? 自分はどこへ飛ばされてきた?

 

「空間の歪みを捕らえられていないから、ここから出られないのですよ。入ってきた時の感覚を思い出すのです。案外、また夜を待つのもいいかも知れませんね。目を開けていると、どうしても視覚に釣られてしまいますから」

「うわ……うわ……うわあああああああーーーーっっっ!!!」

 

 ギヨームは叫び声を上げた。床に転がっている彼の頭上から、ひょっこりとカナンが顔を出した。仰天して周囲を見渡せば、そこはあの診療所の中だった。視線の先には開け放たれたままの玄関の戸が見える。彼はさっきそこから飛び出していったはずなのに、あろうことか、今度はそこから中に飛び込んでいた。

 

 全く、自分の意思とは無関係に。

 

 ショックで子供みたいな甲高い叫び声を上げていると、それが五月蝿かったのか、診療所の奥に続く暖簾をかき分けて、迷惑そうにアスタルテが顔を覗かせた。彼女は床に転がっているギヨームを見下ろすと忌々しそうに、

 

「こいつ、まだ居たんですか? うるさいからさっさと帰してくださいよ」

「彼はまだ空間の歪みが認知出来ないらしく、出ていったつもりが戻ってきてしまったようです」

「そんなの、あなたが連れ出してあげればいいだけでしょう?」

「それでも構いませんが……アスタルテ。せっかくの機会ですし、少し指導してあげてくれませんか?」

「何故、私が……」

「彼がここへ来たのは、元はと言えば、あなたが挑発したからでしょう?」

「うっ……」

「彼には言葉で説明するより、実地で訓練した方がいいと思うのです。あなた、そういうの得意でしたよね?」

 

 アスタルテは憮然とした表情でカナンのことを見ていたが、暫くするとため息を吐いて、

 

「はぁ~……私は先生と違ってスパルタですよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ギヨームの背筋にゾクリとした悪寒が走った。

 

 根拠はないのだか、このままここにいたらマズイと判断した彼が咄嗟に身を捩って飛び上がると……次の瞬間、たった今彼が寝転がっていた地面に彼女の腕が突き刺さっていた。まるで鋭利な刃物のように、手刀が床板をぶち抜いて。予備動作も、彼女の移動も、腕の動きも何もかも全く見えなかった。ただ気がついたら、最初からそこにあったかのように、彼女の腕が床に突き刺さっていた。

 

「ちっ……勘の鋭いやつですね」

 

 アスタルテは露骨に舌打ちすると、ギヨームを捕らえる視線を動かさずに腕を引き抜いた。もしも彼がそのままそこにいたら、確実に致命打を与えられていたであろう深さだった。

 

 また、ゾクゾクとした悪寒が走って、彼は飛び退くように開け放たれた玄関から外へ飛び出した。肩を戸口にぶつけて強烈な痛みが走ったが、そんなことを気にしている余裕は無かった。アスタルテの第二撃が、またも見えない動作でギヨームに肉薄していたのだ。

 

「な、なんだこれ!?何をやった!?」

 

 ギヨームが叫ぶ。その疑問には答えず、翼人たちは自分勝手に会話を続けている。

 

「ああ、もう、優しくしろとは言いませんが、絶対に殺しちゃ駄目ですよ?」

「分かってますって」

「本当に分かってるんでしょうねえ?」

「腕の一本や二本もぎ取る程度で許してあげますよ」

「何も分かってないじゃないですか……」

 

 翼人たちが不穏な会話をしている間に、ギヨームはまた一目散に村へと駆け出した。さっきは森を抜けられなかったが、もう一度やればなんとかなるかも知れない。しかし、彼のそんな淡い期待は、すぐに脆くも潰え去った。

 

「ぐっ……!?」

 

 診療所を飛び出し、丘を駆け下りて畑に差し掛かろうとした時だった。一瞬だけ、目の前で何かが通り過ぎたと思ったら、腹部にドッとした強烈な痛みが走って、彼はその場に崩れ落ちた。肺の酸素が全部吐き出されて、酸欠の脳が思考を奪われる。

 

 何が起きたのかと思えば、背後に引き剥がしたはずのアスタルテが、何故か、彼の前方から飛び出してきて、その拳を彼の腹へと突き立てていた。

 

 胃液が喉までこみ上げてきて、堪らずギヨームは吐瀉した。

 

 すると、たった今目の前に立っていたはずのアスタルテが何故か背後に回り込んでいて、今度はそんな彼の背中を蹴っ飛ばし、彼はそのまま自分の吐瀉物の中に倒れ込んだ。

 

「汚い野郎ですね。ゲロがかかってたら死んでましたよ、あなた」

 

 自分のゲロにまみれながら分けがわからず呆然としていると、今度は彼女が蹴る動作をしたかと思ったら、何故か地面に転がっているギヨームの下から強烈な蹴りの振動が伝わってきて、暴力的なその衝撃に彼はそのまま空中に蹴り上げられた。

 

 理解が追いつかず、無防備になった彼の顔面にアスタルテの拳が突き刺さる。すると、右の頬を殴られたと思ったのとほぼ同時に、何故か左の頬にも衝撃が走り、左右から圧迫するような殴打を食らった彼の脳みそが振動して、目眩がした。

 

「ぐぎっ!?」

 

 意識が持っていかれそうな衝撃を必死に堪え、フラフラになりながらなんとか体勢を整えようとすると、アスタルテは軽く一回転しながら回し蹴りを放った。その蹴りがグロッキー状態のギヨームに到達すると、どう見ても緩慢な動きだったくせにあり得ない衝撃が走り、彼は信じられないスピードで吹き飛ばされ……何もない空中にぶつかって(・・・・・)そのまま地面に叩きつけられた。

 

「ほらほら、死ぬ気で避けないと死にますよ」

 

 ギヨームは唾液に混じった血を吐き出し立ち上がると、それこそ死ぬ気になってアスタルテから距離を取った。ところが10メートルは離したと思ったその距離を、まるでだまし絵を見ているかのように、彼女はたった一歩で詰め寄ると、驚愕しているギヨームの顎をアッパーカットで撃ち抜いた。脳が振動し、またフラフラになりながら彼女から距離を取る……

 

「弱いですね。さっき避けてくれちゃったのはマグレですか?」

 

 あり得ない……あり得ないのだ。彼女の動きは緩慢そのもので、全部ちゃんと目で追うことが出来た。ところが、ほんの一瞬、緩急をつけるかのように何かテンポのようなものがずれて……ずれたかと思うともう目の前にいる。女性なのに、見た目も軽そうなのに、放たれるパンチもキックも一撃の重みが異常で、時には複数回分の衝撃が同時に襲ってくる。

 

 明らかに何か魔法的なことをしている。だが、それが分かったところで何が起きているか分からなければ対処のしようがない。

 

「見るんじゃなくて、感じるんですよ」

 

 ギヨームが絶望感に打ち震えていると、すぐ横からカナンの声が聞こえてきた。まったく気配を感じさせないその接近にギヨームは驚き、バッタみたいにパッと飛び退いた。カナンは柔和な笑みを浮かべながら、

 

「空間を『見る』という表現はあくまでイメージです。実際には五感をフルに使って、直感的に感じるんですよ。ダ・ヴィンチとの対話で、あなたもある程度知っているでしょうが、3次元空間に縛られた人間に4次元空間は見えません。見えないものを見ようとしても何の意味もないでしょう?

 

 ですが安心しなさい。あなたは既にその感覚を持っているはずです。あなたは頭の中に思い浮かべた幻想を、高次元から引き出す事ができる。その拳銃を使って1キロ以上先の標的に、ピンポイントに当てることが出来る。その気になれば、地平線の向こう側にいる見えない標的すら狙うことが出来る。

 

 普通、そんなことは不可能ですよ。なのに、あなたは殆ど意識すること無く、直感的にそれが出来る。この空間認識能力こそが、高次元を『見る』ことの正体なんですよ」

 

「あなたどっちの味方なんですか……?」

 

 ギヨームにヒントを与えるカナンに対し、アスタルテが不満を漏らす。彼女はその話を聞いて何かを掴みかけているギヨームに向けて、何かを気づかれる前に追撃をお見舞いした。

 

 アスタルテの姿がまた奇妙に揺れ動き、手刀を振り上げながら、あり得ない経路を通ってギヨームに迫ってくる。

 

 ギヨームは五感をフル稼働し『見るのではなく感じる』ということを意識しながら、敢えてそれを『見』た。

 

 瞬間……ドドドドッと、獣の群れにでも轢き逃げされたかのような衝撃が走り、ギヨームの身体の至るところに打撃が突き刺さった。彼はその衝撃によって重力を失い、まるで紙切れのように吹き飛んでいった。

 

 10メートルは飛ばされたであろう彼が、背中からドッと音を立てて地面に落ちる。

 

 アスタルテは今までで一番抵抗もなく飛んでいった彼を苦虫を噛み潰したような目で見送りながら、血に染まった自分の手刀を見て忌々しそうに言った。

 

「先生、これ以上は危険です。彼には才能がないんですよ」

 

 するとカナンはニヤリと笑い、

 

「でも、彼はまだ諦めてない様子ですよ」

 

 アスタルテがその声にハッと振り返ると、さっき吹き飛んでいったギヨームが、膝をつき、手をつきながら立ち上がろうとしていた。彼は膝をガクガクさせながら立ち上がると、額からポタポタと滴り落ちる血を腕で拭いながら、もう片方の手に虚空から光の礫を集めていた。

 

 それが拳銃の形を取ろうとした時、彼女はなんとなく今日一番の殺気のようなものを感じて、本能のままに後ろに飛び退いた。

 

 その瞬間、パンっと乾いた銃声が聞こえて、彼女の頬を掠めて弾丸が通り過ぎていった。

 

 彼女には、ギヨームが撃った瞬間も、そしてその弾丸がどういう経路を通ってやって来たのかも分からなかった。

 

 まさかと思い、彼女が空間の歪みを意識すると、またパンっと銃声が聞こえ……あろうことかその弾は、彼女の予想通り、空間の歪みを通ってあり得ない方向から飛んできた。

 

 ドンッ! っと衝撃が走り、彼女の肩に弾丸が食い込む。考えに気を取られて対応が遅れた。彼女は苦痛に顔を歪め、悔しそうに舌打ちすると、今まさに三発目の引き金を引こうとしているギヨームの銃撃から逃れようと身を翻した。

 

 パン! パン! パン! っと小気味よく連続した銃声が村中に響き渡る。ギヨームは今までに経験したことのない集中力と高揚感に包まれながら、逃げ惑うアスタルテの動きを追った。それは今まで何度も驚かされた、あり得ない動きであったが、彼にはもう彼女が不思議な経路を辿っているようには見えなくなっていた。

 

「見える……見えるぞ……」

 

 空間の歪みを『見』るとはこういうことだったのか……

 

 ギヨームには今、この世界にポコポコと泡のように現れては消えていく空間の歪みが感じられていた。それはこの3次元空間を歪め、通常ではあり得ない方法で2つの空間を繋げていた。だがそれはランダムで、自分の思い通りには繋げられない。

 

 ところが、その原理も理屈もさっぱり分からなかったが、彼女はこの空間の歪みを自在に操り、トリッキーな動きを実現していたのだ。それが分からなかった時は、ギヨームは一方的に狩られる側だったが、しかし一度分かってしまえばなんてことはない。彼女が空感の歪みを作ろうとした時、先回りして銃撃してしまえば、彼女は一生彼には近づけないだろう。

 

「ちっ……厄介ですね」

 

 アスタルテは必死に頭を回転させながら逃げ回っていた。どうやらあの人間は、本当に空間の歪みを検出しているらしい。今まで通りそれを使えば、自ら弾丸に向かって飛び込んでいくようなものである。だから彼女はダミーの空感の歪みを作り、そこをギヨームに狙わせようと考えた。

 

 しかし、考えることはどちらも同じだった。ギヨームは両手に二丁拳銃を構えると、片方で彼女の空間の歪みを牽制しつつ、もう片方で通常空間を通って彼女を狙った。アドバンテージを封じられたアスタルテが舌打ちしつつ、ダミーを大量にばらまいていく。

 

 ギヨームはその全てに牽制の銃弾を撃ちながら、反撃の機会をじっと待っていた。空間の歪みは彼女が作り出しているものだけではない。たまにだが、自然に空間に穴が空くこともあり、それが彼女と射線を繋ぐのを待っていたのだ。

 

「見えた!」

 

 果たして、それは間もなく訪れた。彼女が空間の歪みを大量に作り出したせいで、自然とその歪みが発生しやすくもなっていたのだろう。ギヨームはそれを見つけると、彼女の攻撃に対処しながら、針の穴を通すような正確さで、一瞬だけ開いたその空間の歪みに弾を撃ち込んだ。

 

「きゃあぁぁーーっっ!!」

 

 次の瞬間、予期せぬ方向から銃撃を受けたアスタルテの足から血しぶきが上がった。彼女がその痛みに足をもつれさせると、それを待っていたかのように、次々と銃撃が襲いかかってきた。

 

 彼女はそれを空間の歪みを使って回避していたが、嵩にかかった攻撃を前に、間もなく対処しきれなくなった。

 

 バシバシバシッ! っと、嫌な音が身体の中から響いてきて、その身体のあちこちに激痛が走った。その強烈な痛みと、まさか格下の相手にやられたという事実に、彼女のプライドが刺激され、まるで瞬間湯沸かし器のように、彼女の顔が真っ赤に染まった。

 

光よ(ルクスシット)っっ!!」

 

 その瞬間、怒りに駆られたアスタルテの理性が一瞬だけ消し飛んだ。彼女は銃撃を受けるにも構わずに、血に飢えた獣のように立ち上がると、天に向けて手を翳し、まるで弓を構えるかのように腕を引き絞った。

 

「いけないっ!!」

 

 それを見ていたカナンが叫び声を上げる。だが、その声はもうアスタルテには届かなかった。

 

 その時、ギヨームは見た、アスタルテの背中に4枚の翼が生えているのを。それは先の方が白く斑になった、黒い翼だった。

 

「今いまし、昔いませる、全能なる神よ。その栄光と誉れと力によって、我が道を照らしたまえ。7つの封印より解かれし真実の炎。災厄を焼き尽くす鏑矢となれ。神弓(シェキナー)!」

 

 いつの間にか彼女の手に握られていた光の弓から、一本の光る矢が、天に向けて真っ直ぐに放たれた。

 

 それは間もなく花火のように虚空に消えてしまったが、ギヨームの目には、それが空間の歪みに入っていくのがはっきりと『見』えていた。

 

 どこへ行く? いや、どこから来る? あれがどんな攻撃かは分からないが、彼女の狙いは間違いなく自分だ。

 

 ギヨームはそう考えると、矢の行き先を見逃すまいと五感を研ぎ澄ませてそれを『見』ようとした。

 

 空間の歪みはポコポコと沸き立つ泡のようにあちこちで発生しては消えていく。矢はそのうちの一つを通って、こっちに飛んでくるはずだ。カナンはその空間認識力がギヨームにはあると言っていた。そしてついさっきまで、彼はそれを利用してアスタルテを追い詰めていた。

 

 だから『見』える、自分には出来るはずだ。彼はそう信じて、直感を働かせた。

 

 そして彼は見つけた。それがどこからやって来るかを、はっきりと感じ取ることが出来た。だがそれは到底考えられない場所だった。

 

 矢は間違いなくやって来る。自分の内から、外へ向かって……

 

「そんな軌道を描く矢があってたまるかっ!」

 

 その理不尽な軌道に焦りを感じつつも彼は、その時、どこか他人事のように冷静に、レオナルドの言葉を思い出していた。

 

 4次元の方向というのは、その理不尽な方向なのだ。

 

 ザシュッ!

 

 ……っと、矢が突き刺さる音がして、彼の身体のあちこちから噴水のように血が吹き出した。

 

 大量の血を吐きだして、ギヨームがその場に崩れ落ちる。

 

「ああ! なんてことだ!」

 

 カナンが悲鳴を上げて、そんな彼の元へと駆け寄ってきた。

 

「アスタルテ! いくらなんでもやりすぎですよ! 人間がこんな力を受けてしまったら、死んでしまうに決まってるじゃないですか!!」

「すみません。つい、カッとなって」

「つい、じゃありませんよ……ああ、どうするんです? 彼はヘルメス卿の友達ですよ。きっと烈火のごとく怒り出します。今はまだ、下手に彼を刺激したくないというのに……ああ、本当に、どうしたらいいんだ」

「先生が作り直せばいいじゃないですか」

「そんなことして、バレたら一巻の終わりですよ……まいったなあ」

 

 しかし、カナンの心配は杞憂だった。

 

「……先生」

 

 その時、アスタルテはありえないものを見た。

 

 カナンの背後に、全身血だらけで真っ赤に染まった男が立っていた。

 

 彼は獣のような鋭い眼光で、彼女をじっと睨みつけていた。

 

 アスタルテはその目を見て、初めてカナンに出会ったときのような凄みを感じていた。

 

「立ち上がらないで! いま介抱しますからっ!!」

 

 カナンが仰天しながら、立ち尽くすギヨームを支えようと歩み寄る。しかし、彼はそんな翼人のことを邪魔だと言わんばかりにドンと突き飛ばすと、

 

「どけ。まだ終わってねえよ」

 

 それが思ったよりも強い力で、カナンは思わず尻もちをついてしまった。アスタルテはそれを見て、カナンがあんなに取り乱しているというのに、まだやる気である彼のことを初めて怖いと感じた。

 

「ありがとうよ……お前のお陰でよくわかったよ。四次元の方向ってやつがよ……俺のクオリアは、なんてことはない……ずっとここにあったんだな……ああ、そうだ。当たり前ってやつだったんだよ……」

 

 ギヨームの手に、どこからともなく光の礫が集まってくる。それはどんどんと密度を増していき、やがて一挺の巨大なライフルの形を取った。

 

 彼は自分よりも背の高いそのライフルを両手で握りしめると、まるで重力を感じさせない動作でその銃口をアスタルテに向けてピタリと構えた。

 

 ドンッ!

 

 本当に、拳銃の引き金を引くような気安さで、それは間もなく火を噴いた。至近距離でその音を聞いてしまったカナンの耳がキンキンと鳴る。彼の耳が聞こえなくなる最後の瞬間に、パシャっという音が聞こえたと思ったら、アスタルテの上半身が吹き飛んで無くなっており、残った下半身が血の噴水を上げていた。

 

 ギヨームは自分の銃撃の反動で吹っ飛びながらそれを見ていたが、間もなくその視界はかき消えるように真っ白になっていった。どうやら血を失いすぎて、視力が働かなくなってしまったようだった。

 

 ドンッと衝撃が走って背中から地面に落っこちる。ずっと悩んでいた現代魔法のヒントも得られて、これからだと言うのに、もう立ち上がる気力すらなくなっていた。

 

 どうして彼らと戦うことになってしまったのか分からないが、ともあれどうやら自分は勝ったらしい。まだカナンが残っているが、仲間をやられてタダで済むとは思わないので、今すぐここから逃げなければとも思ったが、もうどうにもこうにも体が動かなくて、彼はどうにでもしろと投げやりな気になっていた。

 

 しかし、そんな心配などする必要なんてなかった。

 

「ああ、すぐに輸血しなくては。だから立ち上がるなって言ったのに……それにしても、アスタルテ。指導するつもりが返り討ちとは、情けない人ですね」

「うるさいですね。可愛げがないこの男が悪いんですよ。まったく、とんでもないものを持ってましたね……私が人間だったら死んでましたよ」

 

 ギヨームは、薄れゆく意識の中で、アスタルテの悔しそうな声を聞いていた。たった今、上半身が吹き飛んで絶命したはずなのに……なんで彼女の声が聞こえるんだ? その理由はたった今、彼女自身が言っていた。

 

「……やっぱお前ら……人間じゃねえじゃん」

 

 ギヨームはそう呟くと、間もなく暗闇の中に落ちていった。

 



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そろそろ限界が近いようだ

 墨をぶちまけたような真っ黒い雨が降っていた。キィキィとガラスを爪で引っ掻くような不快な音が頭の中に反響して、彼の心をかき乱した。歯を食いしばってそれに耐えようとしていたら、ジャリジャリと砂を噛むような感触がして、口の中に血の味が広がっていった。

 

 今目の前には子供が画用紙に描いたみたいな12階建てのビルがあって、さっきから彼はそこへ登ろうとしているのだが、真っ黒なシルエットのどこにも階段が見つからなくて、どうやったって登れなかった。

 

 そうこうしている内に屋上から何かが投げ出されるように飛び出てきて、地面に落下してぐしゃりと音を立てた。恐る恐る近づけば、それは四肢があべこべの方向へ折れ曲がった幼馴染の成れの果てだった。

 

 彼女はそこから何度も落ちた、ぐしゃりぐしゃりと音を立てて。そうして彼女の死体が積み上がっていく。手足がもげたり、頭が半分吹き飛んだり、どれ一つとして同じものは無かった。

 

 彼が呆然とその積み上がる死体を見つめていると、やがてそれは一塊の混沌となって渦を巻くように彼を闇に包み込んだ。闇は光を通さず、彼は何も見えないはずなのに、彼女の気配だけがまるで輪郭を持っているかのように、手にとるようにわかるのだ。

 

 そして闇は一斉に目を開いた。幼馴染の顔をして。そして彼に囁きかけるのだ。殺して、殺してと……それは今彼の目の前で苦しみ悶える幼馴染に止めを刺せということではなく、憎いアイツを殺せという恨みの言葉だった。

 

 彼の前には今核兵器のスイッチがあって、それを押せば全てが終わるのだが、彼はそれを押すことが出来ずに、いつまでもいつまでも煩悶していた。やがてまた墨をぶちまけたような雨が降り、彼はどうやったって見つからない上り階段を探して走り回った。幼馴染の死体が降り注ぐ闇の中で。

 

*********************************

 

 ドンッ!!

 

 ……っと強い衝撃が走って、鳳はカッと目を見開いた。散らかり放題の自室の埃が舞い上がり、カーテンの隙間から漏れる光の帯を浮き立たせていた。ハァハァと自分の荒い呼吸音が耳に届いて、まるで全力疾走してきたかのようにバクバクと心臓が鳴っていた。耳たぶが焼けそうなくらい熱く、額から流れる汗が目に染みた。

 

 腕で拭うと、まるで風呂上がりみたいに大量の汗が滴り落ちてきた。どうやら昨日も、浴びるように酒を飲んで、そのまま寝落ちしてしまったようだった。手の届く範囲に何本ものワインの空き瓶が転がっており、鳳はソファに凭れ掛かるように眠っていた。胸がヒリヒリと痛むのは、きっと寝ぼけて自分で叩いたからだ。どうもさっきは、その衝撃で起こされたらしい。

 

 未だふらつく体を起こし、よじ登るようにして、どうにかこうにかソファに腰掛けた。二日酔いと尿意のせいで、おそらく殆ど睡眠とは呼べないものしか取れなかったのだろう、体は疲れ切っていて、頭はどんよりと重かった。

 

 それでも取り敢えず、今日も朝日は昇ってくれたようである。ならば早く庁舎にいかねばならなかった。まだ積み残した仕事が残っている。あれもこれもやらなくては……

 

 こんなに辛いのに、どうしても仕事のことばかり考えてしまうのは、仕事をしている間は考えないで済むからだろう。そんな自虐的なことを考えつつ、体を拭いて服を着替えようとした時だった。

 

 コンコンとドアがノックされる音がして、

 

「勇者様? 勇者様? 起きてらっしゃいますか? 今、中からすごい音がしましたけど、大丈夫ですか……?」

 

 アリスの声が聞こえてきた。どうやら彼を起こしに来たらしい。ドア越しなのは、彼女が部屋に入られないように、最近は鍵を掛けているからだった。アリスには悪いが、寝起きに彼女の顔が飛び込んでくると、安心するより寧ろドキリとするのだ。だからもう起こしに来なくていいと言っているのだが、今日も鳳が起きるまでドアの向こうで待っていたらしい。

 

 自分はそこまで傅かれるような人間ではない。鳳は少しイライラしながら、

 

「何でも無い! ちょっと寝起きが悪かっただけだ。それより、俺のことはもう起こしに来なくていいって言っただろう!?」

「え? ……でも」

「言い訳はいい! 用意できたらすぐ執務室に向かうから、先に行っててくれ」

「は、はい! 申し訳ありませんでした」

 

 アリスの逃げるような足音がパタパタと遠ざかっていく。鳳は少し罪悪感を感じながらそれを聞いた後、はぁ~……っとため息を漏らした。

 

 あんな怒鳴りつけるような言い方をする必要なんてなかったはずだ。体に不調が起きてから、何かに付けてイライラする事が多くなった。このままでは、いつか彼女に取り返しのつかないことをしてしまいそうだったから、鳳は敢えて彼女を遠ざけるような態度を取っていた。

 

 彼女は鳳に対する負い目があるから、身を粉にして働きすぎる。だからあれくらい強く言わないと中々分かってくれないのだ。彼は自分に言い聞かせるようにそう言い訳すると、取り敢えず早く庁舎へ行かなければと、いつも身につけている懐中時計を取り出した。

 

 時計は午後を指していた。

 

 彼女はいつからドアの向こうに立っていたのだろうか……? あんな言い方するんじゃなかったと後悔しつつ、鳳は慌てて服を着替えると、取るものも取り敢えずすぐ隣の庁舎へと走っていった。

 

 登庁すると、当たり前だが執務室では神人二人がとっくに働いていた。鳳が息せき切って入っていくと、彼らは苦笑いしながら、

 

「重役出勤とは珍しいですね、ヘルメス卿? お疲れのご様子ですが、大丈夫ですか」

「遅れてすまない。悪かったよ」

 

 謝りながら執務机の上を見れば、昨日頼んでおいた仕事が全部、とっくに終えられていた。あとは鳳の決済待ちであり、二人は彼が来るまで手持ち無沙汰で待っていてくれたようである。鳳が申し訳ないと思いつつ、すぐに取り掛かろうとすると、

 

「中々いらっしゃらないのでアリスに迎えに行かせたのですが、それにしても遅かったですね。昨日はいつごろ就寝なされたんですか?」

「だから悪かったって言ってるだろう!?」

 

 アリスを向かわせたのは彼ららしい。それを聞いた瞬間、鳳は頭に血が昇っていた。自分が間違いが起こらないようにと必死になって遠ざけようとしているのに、この空気を読めない神人どもは、寧ろ彼女を近づけようとしたのだ。

 

 許せない……この野郎……鳳はまるで瞬間湯沸かし器のように、憎悪の炎が燃え上がりかけたが……その瞬間、ハッと我に返った。見ればペルメルもディオゲネスも無表情のまま固まっている。鳳は慌てて首を振ると、

 

「……すぐに取り掛かるからちょっと待っててくれ」

 

 二人はそんな彼の言葉に沈黙で答えた。彼らには鳳が何故怒っているのか理解不能だっただろう。怒ってる張本人からして、自分が何故こんなに苛立っているのかわけがわからないのだ。

 

 何もかも、遅刻してきた鳳が悪いのだ。責められこそすれ、怒鳴り散らすなんてありえなかった。反省すべきは反省すべきだというのに、なのに鳳はアリスにすら一言も謝ることが出来なかった。

 

 重苦しい沈黙が室内に流れる。

 

 ペルメルもディオゲネスも、下げなくてもいい頭を下げて、静かに鳳の仕事が終わるのを待っている。

 

 アリスは部屋の隅で一ミリも動かず畏まっている。

 

 鳳が書類にサインするペンの音だけが響いていた。

 

 そろそろ限界が近いようだ。

 

 今までは、多少違和感を感じても抑えつけられていた。本当はもうとっくに自分はおかしくなっていたのだ。鳳は、際限なく湧き上がってくる憎しみの炎に抗えなくなりつつあった。変化は徐々に、だが確実に起こっていたのだ。

 

 多分、これが300年前にソフィアの身に起きたという、魔王化の影響なのだろう。

 

 夢を見始めた。

 

 最初は声が聞こえるだけだった。元々、映像がつくような夢はあまり見ない方だったから、暫くはそれが夢なんだか現実なんだか良く分からなかった。真っ暗闇の中でただひたすら声が聞こえるのだ。あいつらを殺せ、殺してよ……と。それが誰の声であるかは、すぐに分かった。あいつらと言うのが、例の先輩たちのことだということも。

 

 エミリアが耳元で囁くように、憎悪を投げつけてくるのだ。それはちょっと気を抜いた時や、ウトウトしかけた時、はっとするようなタイミングで聞こえてきた。正直、そのせいで眠れなかった日もあった。だがそれは常に自分が抱えている負の感情でもあったから、わりとどうにかなっていた。

 

 だからだろうか、そのうち夢は次のステップへと進んだ。

 

 今度は鳳が知らない未来の出来事だった。鳳はその世界で父親の企業を継いで、世界のトップに君臨していた。その世界の人類は、リュカオンとの戦いを経て、高度な科学文明を築いており、ついには過去の人間を復活させる技術まで手に入れてしまったのだった。

 

 鳳は、その技術を使ってこっそりエミリアを復活させた。早逝してしまった彼女に、せめてひと目でも逢いたいという身勝手な願いからだった。だが、彼はすぐにそれを後悔した。復活したエミリアは事故ではなく、実はクラスメートに殺されたというのだ。彼女はその悪夢に怯えて死にたがっている。鳳はそんな彼女の姿を見て哀れに思うよりも、寧ろ怒りに駆られ、そしてラシャを作り出してしまう。そして地球はメチャクチャになった……

 

 彼はそれを知ってショックを受けた。人類が滅びたのも、この世界の人々が魔王の襲撃に悩まされているのも、元はと言えば全部自分のせいだったのだ。彼が怒りに任せてあんなことをしなければ、この世界はこんなことにはならなかった。そんな自分が魔王化に苦しんでいるのは、ただの自業自得ではないか。彼はどんどん自棄になっていった。

 

 だが、これはちょっとおかしい。鳳はこれまでミトラやヘルメスなどの精霊と邂逅し、P99の映像などを見ていたから勘違いしてしまったが、考えてもみれば、これが事実である証拠はどこにもない。そもそも現時点での彼は、父親の企業を継いですらいない、言わば過去の鳳白なのだ。未来の鳳白がしでかした事に責任を感じる必要はないではないか。ましてや、本当にやったかどうかすら分からないのだ。

 

 もしやこれも魔王化の影響なのでは……?

 

 そうやって勘ぐりだしたら、夢はまた別のものへと切り替わっていった。今度は先輩たちが鳳に命乞いをする夢や、エミリアがレイプされたり殺されたりする夢を見始めた。もはや幻聴は眠っている時だけではなく、何気ない日常の中ですら聞こえてくるようになった。

 

 例えばさっきみたいに、ほんのちょっとイラッとするだけでも、彼の頭の中で彼女が囁くのだ。

 

『殺せ……殺せ……殺してよ……私は殺されたというのに、どうして彼らは罰を受けない……?』

 

 ペルメルやディオゲネスが笑顔で冗談を言ってる時に、そんな言葉が頭の中に響くのだ。こんなのが頭の中で騒いでいるというのに、どうして普通に会話をしていられるというのか。

 

 だから鳳はひたすら仕事に集中することにした。ほんのちょっとでも、誰かにイラッとしたりしなければ、声は聞こえてこないのだ。仕事はそれを忘れさせてくれる良い逃避先になっていた。だから彼は昼も夜も忘れて仕事に熱中した。

 

 でもそうやって仕事に集中している時にこそ、不思議とあの父親のことを思い出すのだ。周囲を顧みず、仕事に没頭している自分の姿が、父に重なるからだろうか。ふとした拍子に彼のことを思い出し、そして聞こえてくるのだ。

 

『どうして止めを刺さなかった! 何故殺さなかったんだ!』

「うるさいっっっっ!!!」

 

 ズシンッ!!!

 

 ……っと、まるで大岩でも降ってきたかのような音が響いて、グラグラと本当に建物が揺れていた。ブワッと埃が部屋中に舞い上がって、積み上げられていた書類の束がひらひらと宙に踊っていた。

 

 鳳の仕事を側で見守っていた神人二人が、ぱっと飛び退き、身構えて目を丸くしながらこちらを見ている。部屋の隅にいたアリスは腰を抜かしていた。

 

 鳳はポカンと口を半開いた。見ればたった今自分が使っていた執務机が真っ二つに割れている。サインをしていた書類はビリビリに破れて、どちらももう使い物にならなかった。部屋の外から職員がざわついている声が聞こえてきて、騒ぎになる前にそれを落ち着かせようと、ディオゲネスが出ていって彼らに向かって何でも無いと告げていた。

 

 鳳がそれを呆然と見ていると、ペルメルがやってきて、

 

「ヘルメス卿、どうかなされましたか?」

「別に……少し考え事をしていて……」

「どうやらお疲れのようですね。暫く休憩にいたしましょう」

「いや、しかし、まだ来たばかりだし……」

「ですが、これでは仕事になりませんよ」

 

 ペルメルが苦笑交じりに部屋を指差す。鳳の足元には執務机の残骸と、使い物にならない書類が散乱していた。たった今サインしていた書類は、鳳に握りしめられグシャグシャになっていた。全部、鳳が遅刻してくるまでの、彼らの仕事の成果物だった。鳳は申し訳なくて涙が出そうになった。怒りが去ると、今度は悲しみが溢れてくる。感情の揺れ幅が、どうにも馬鹿になっていた。

 

 それが顔に出ていたのだろうか、ペルメルはそんな鳳を見て、

 

「書類はまた作れば元に戻ります。ですがヘルメス卿はそうじゃありませんから、休憩にしましょう。きっとまだ寝起きで頭が回ってないんですよ」

「……すまない」

 

 鳳がガクリと肩を落として項垂れていると、職員を落ち着けてから戻ってきたディオゲネスと共に、彼らはお辞儀をして部屋から出ていった。間もなく、別の職員が新しい執務机を運んできて、テキパキと部屋の掃除をしはじめた。

 

 鳳はそれをソファの上で体育座りをしながら見守っていた。その職員の顔が、まるで死刑執行人でも見るような感じに強張っている。彼のことを怖がらせるつもりはないのに……いつの間にか自分は人々の恐怖の対象になっているようだった。

 

 そりゃそうだろう。普通、重厚な作りの執務机は素手で破壊できるようには出来ていないのだ。どうやら自分は身も心も怪物になろうとしているようだ。鳳がため息を漏らすと、職員の肩がまたビクッと震えた。

 



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魔王化の影響

 職員は鳳が壊してしまった執務机をテキパキ設置すると、埃を追い出すために開け放った窓をパタンと閉じてから去っていった。去り際に恭しくお辞儀する姿は、まるでロボットダンスのようだった。執務室には鳳一人だけが残されて、静けさが戻ってきた。だが、彼にはそんなものなど、殆ど意味をなさなかった。

 

 部屋の外からは、相変わらずヒソヒソとした声が聞こえてきた。たった今出ていった職員がホッと息を漏らし、同僚に『殺されるかと思った。異様な迫力だった』と言っている声が聞こえた。すぐ側にはペルメルとディオゲネスがおり、彼らはそんな職員の軽口など聞こえてない感じで、『ヘルメス卿の様子がおかしいのは、やはり勇者領のことが気がかりなのだろうか』『ロバート様をさっさと後継から外すと言えば良いのに……それを許さぬ国内事情が辛いな』『血の繋がりはそれだけ重い。我々も、アイザック様のことが無ければ、盲目的に彼に従っていただろう』『ああ……鳳様が、この国を治めると言ってくれさえすればいいのに』

 

 彼らはあんな理不尽な怒鳴られ方をしても、まだ鳳のことを信頼しているようだった。二人のその忠誠は素直に有り難かったし、涙が出るほど嬉しかったが……でも、この国を治め続ける……それは出来ない相談だった。それくらい、鳳の変化は著しかったのだ。

 

 そもそもこれらの会話は、普通の人間には壁一枚を挟んで聞き取れるようなものではないのだ。それどころか、神人二人はすぐ隣にいる職員の声すら聞こえてないはずであり、なのに鳳には聞こえている。つまりはそう言うことなのだ。魔王化が始まってから、彼の感覚は日に日に鋭くなっており、今では文字通り化け物じみていた。

 

 因みに、数日前、ルナが襲われそうになっている時、現場に駆けつけられたのはそのお陰だった。だが良いことばかりではなく、ヘルメス卿などをやっていたら、当然あちこちから恨まれているから、最近は誰も居ない場所でこうして座っていても、否応なく悪口が耳に飛び込んできた。それだけなら我慢すればいいのだが、それを聞くたび憎悪を増幅するかのように、頭の中ではエミリアによる『殺せ殺せ』の大合唱が響いてきて、それを意識して遮断するのに苦心している。

 

 身体能力の変化だけではなく、ステータス的にもはっきりわかる変化が現れていた。いつの頃からか彼のレベルは勝手に上がり始め、ボーナスポイントも増え続けているようだった。共有経験値もガンガン上がり、パーティーリストには知らない名前がどんどん増えていっているのだ。

 

 どうやら、彼に出会った領民なら誰でもここに登録されていくらしい。最近は見るのも嫌で開いてないからどうなっているか分からないが、おそらく全ての領民を登録するまでそれは続くのではなかろうか。

 

 精神的な変化もかなりきつい物があった。最近は焦燥感に苛まれているというか、常に追い詰められた気分でいた。と言うのも、男性に対する暴力衝動のようなものが、日に日に強くなって抑えきれないのだ。

 

 元々、理不尽には報復を……という性格ではあったが、今はとにかく目の前の相手をへこませたい、相手を殴り倒してでも言うことを聞かせたいという、暴力衝動が強くなっていた。特にロバートやその腰巾着に対する感情は強く、殆ど殺意と言っていい。お陰で最近は彼がクレームに来る度に、それを抑えるのに必死だった。

 

 だが、嫌でもクレームはやってくるし、領民のことを考えるとロバートを後継者から外すことなど出来なかった。その鬱憤のせいで、つい部下に当たり散らしてしまうのだが……鳳はそれすら気に食わなかった。

 

 それは、プライドの高いはずの神人が、『どうしてそんなに簡単に頭を下げるのだ。そうじゃなくてもっと突っかかってこいよ』という、理不尽な感情だった。だがもし本当に突っかかってきたら、それは殺意に変わるのだろう。それが分かるから、鳳は自分が苛立つことにまた苛立ち、その情けなさに死にたい気分になるのであった。

 

 男性に対する暴力衝動もさることながら、それに輪をかけて厄介なのは女性に対する飢餓感であった。

 

 300年前、勇者はセックス依存症になったという。その顛末を聞いていたから、女性に関しては最も警戒していたのだが、やってきたのは耐え難い性欲ではなく、異様な飢餓感のようなものだったのだ。

 

 一度、ルナの子供の乳母を探しに、冒険者ギルドを訪ねていったことがあった。鳳は、元から意識していたミーティア相手にも性欲は起こらず、普通に話が出来ることにホッとしていたのだが……その時、何故か妙にお腹が空いてきて、腹がグーと鳴った。

 

 元々、ヴィンチ村に居た時から、料理を作ってもらうような間柄だったから、彼女はその音を聞いてすぐに夜食を作ってくれた。それが変化に気づいた最初だった。

 

 鳳は、彼女と久しぶりの彼女との会話に気を良くして、出されるものを次から次へと平らげていたのだが、彼女の料理はどれもこれも異常に美味しくて、何故か食べても食べてもお腹が満たされることがなかった。

 

 流石にこれは食いすぎだろうと思いつつも、そのまま食べ続け、ついには食堂の食材が尽きかける程になり、ドン引きした彼女に止められたことでようやく食べることを止めたのであるが……それでも空腹感が拭えないことに首を捻りつつ、彼女と別れて執務室へ戻った彼は、そのままソファでぶっ倒れ、翌日、たまたまやって来たアリスに起こされるまで眠ってしまった。

 

 そうしてアリスに起こされた時、昨日ぶっ倒れるまで食べたくせに、何故か空腹のようなものを感じ……それでようやく彼は性欲が食欲に変換されていることに気がついた。元々、性欲と食欲は繋がっていると言うが、女性を警戒するあまり、魔王化の影響がおかしな方向に出てしまったのだろう。

 

 所構わず勃起するよりはマシかも知れないが、ある意味、こっちの方がきついかも知れない。例えそれが誰であっても、女であれば反応する。要するに鳳は四六時中空腹に悩まされているのだ。おまけに、いい女であるほど飢餓感の度合いが強いので、鳳はミーティアやルーシー相手にも、自分はそう言う目で見ていたのかと思い知らされて結構へこまされた。

 

 年齢はあんまりが関係ない。ただ、本当に小さな子供には反応しないので、もしかしたら出産能力が関係しているのかも知れない。因みにアリスはまだ幼いからか、一緒にいても比較的楽な方だったので、性欲のバロメーターにしていたのだが……そろそろ駄目のようである。最近はそれで彼女も近づけないようにしていたのだ。

 

 空腹の度合いで言えば、神人女は特にやばく、ジャンヌはその好意を知っているせいで余計にきつかった。彼女に会うと意識せずにはいられず、その意識の全部がダイレクトに胃袋にくるのだ。同じ意味ではクレアもやばい。彼女は女の性というものが武器になることを理解しているので、なおさら性質が悪かった。

 

 だがある意味で一番ヤバいのはルナだった。

 

 彼女は神人で信じられないほど美しかった。初めて出会ったのはあの謁見の間であり、元々性的な意味で興味もあった。それを友達の子供のお母さんだからということで意識しないようにしていたのだが、飢餓感はそんなものを考慮してくれない。また、今の彼女が、鳳がいなければ生きていけないという優越感が、彼の性欲に拍車をかけていた。

 

 極めつけは、生まれてきたのが男の子だというのもまずかった。男に対しては飢餓感は生まれないが、代わりに殺意(・・)が湧くのだ。

 

 実は赤ん坊が生まれた日、彼はそれを殺そうとしていた。赤ん坊を見た時、あんなに可愛いと思ったのに……友達の子供だと分かっているのに……彼は今すぐこの子を殺して、女の方をぶち犯そうと、そう考えてしまっていたのだ。

 

 それは初めて感じた殺意と性衝動であり……その時からもう、彼はとっくにおかしくなっていたのだ。

 

 鳳は、それを思い出す度にゾッとした。もし、この飢餓感や殺意に負けて、あの母子を傷つけるようなことがあったら、一体自分は何のためにこんなことをしていると言うのだろうか……面倒くさい領主の仕事も、ロバートみたいな私利私欲にまみれた連中と戦っているのも、大事な仲間を遠ざけてまでそうしているのは、全部彼女らを助けるためにやってきたことなのだ。なのに、それを自分からぶち壊そうとしている。

 

 赤ん坊のことだって、本当に可愛いと思っているのだ。なのに、それを見た瞬間、その感情が殺意に変わる。あんまりではないか。

 

 友達は、あの子を守るために死んでいったのだ。それじゃあまりにも浮かばれないから、せめてあの子が大きくなるまで見守ってやりたいと、そう思っていただけなのに……今の鳳には、赤ん坊を守るどころか殺すことしか考えられないのだ。

 

 そんなこと、絶対に起こしてはならない。自分自身が許せないだけではなく、きっと仲間たちは失望するだろう。だからそうなる前に、早く今の生活を終わらせて、誰も居ないところへ行かなければ……

 

 彼はこのところ、ずっとそのことばかり考えているのだが、今のところその目処は、いつまで経っても立ちそうになかった。

 



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ロバートかクレアか、セトか勇者領か

 癇癪を起こした翌日、鳳は今回こそは流石に部下に見放されたかと思ったが、彼が時間通りに登庁すると、神人二人は何事も無かったように、昨日台無しにしてしまった仕事をやり終えていた。彼は自分のことが情けなくなったが、少しでも感情的になるとまたおかしくなりかねないので、書類の束を受け取ると機械的にそれにサインを続けた。

 

 昨日癇癪を起こして気が晴れたのか、その日は前日ほど酷い幻聴に悩まされることはなかった。魔王化の影響は確かにあるが、それを差っ引いてもストレスの影響の方が大きいのかも知れない。あまり根を詰めず、たまには何かで発散したほうが良いのだろうが……誰かと一緒に行動するのもまたリスクだから、中々いい方法は思い浮かばなかった。

 

 ともあれ、昨日の遅れを取り戻さなければならない。領内の街道整備は文字通り道半ばで、勇者領との折衝も中々厳しいものがあった。どちらにせよ、ヘルメス卿を辞めたいのであれば、これらの仕事を終えねばならないのだから頑張るしかないが、問題なのは後継候補であるロバート派がこれらを邪魔していることだった。

 

 現状を確認しよう。

 

 ロリコン院長のせいでクレア派が勢いを失った後、領内ではロバート派が息を吹き返してきてしまった。一時は完全に死に体だったくせに、本当にしぶとい男である。

 

 ヘルメスは現在、復興による景気回復が続いているのだが、景気が良くなる反面、格差も生まれていた。街道整備が完全ではない今、改革の恩恵が受けられているのは、主に首都周辺の限定的な地域ばかりであり、それ以外の地域は依然苦しいままだった。

 

 隣の芝生は青く見えるもので、恩恵を受けられない庶民が、以前の方が良かったと口にする傾向が強くなっているようだった。そしておかしなことに、彼らは改革前、もっと言えばヘルメス戦争前の時代に戻って欲しくて、ロバートに期待しているみたいであった。

 

 なんやかんやロバートはこの国の王侯貴族であるわけだから、縋りたくなる気持ちもわからなくはない。だが、彼らが指をくわえて見ている芝生は、それこそロバート派の貴族ばかりなのだから、彼がヘルメス卿になったとしても現状が変わるわけがないだろう。と言うか、彼らが住んでいる東部への進出を阻んでいるのがロバート派なのだが、彼らは自殺願望でもあるのだろうか。

 

 ロバートの台頭で勇者領もヘルメスとの関係を見直しているわけだし、戦争以前に戻ることは不可能だ。このまま行けば、相変わらず東部は苦しい時代が続くだろう。それどころかヘルメス全体が不景気に逆戻りしかねない。それでも庶民は何も考えず、支配されることを選ぼうとするのだから、現代人としては理解し難いものがあった。

 

 とは言え、それは貧すれば鈍するという類のものではなく、単純に、テレビもラジオもない時代では、庶民はこういう風に行動するということなのだろう。

 

 マスメディアは世論を誘導するという負の側面もあるが、情報を共有するという点では非常に強力な武器である。無論、この世界にだって新聞くらいはあるのだが、電信が無いせいで東部と西部では書いてある内容があまりにも違った。生活が苦しい中で、少ない情報しか得られない庶民が何を基準に判断するかと言えば、パッと上を仰ぎ見て、それに任せてしまっても何ら不思議ではないだろう。

 

 せめて領内の風通しがもう少し良くなれば、得られる情報の質も上がってきて、彼らの行動も変わるかも知れないが……現状ではロバート派の妨害が酷くて、街道整備すら進まないというジレンマがあった。

 

 大森林の工事も滞っていた。勇者領側からの工事がストップされ、再開の見込みが立たないのだ。こちらから強引に進める事は出来るし、今後のためにもせめてガルガンチュアの村辺りまでは進めておきたいが……領内の街道整備と同時に行うのは流石にリソース不足であり、また資金面にも不安があった。

 

 鳳の改革はとにもかくにも勇者領との連携を基準にしており、資金もあちらに頼ることが多かったのだ。まずは勇者領との関係修復が成されなければ、当初の予定通りには事が進まないだろう。

 

 だが、それでもまだ完全に詰んでるというわけでもなかった。

 

 クレア派への嫌がらせの意味もあり、ロバート派は東部への進出こそ露骨に妨害してくるが、実は首都周辺の街道整備に関しては一切手を出してこない。そりゃ自分たちの領地の整備を、国が代わりにやってくれるのだから当然だろう。ただ、それだけではなく、ヘルメス北部の湖へ向かう街道に関しても、同じように妨害はなかった。

 

 ヘルメスの北方には、ボヘミアとセト国に囲まれた大きな湖があった。これは戦時には北方からの侵入を防ぐ防波堤になっていたが、平時の今はセトへ向かう水路として活用出来る期待があった。そのため、街道整備は湖にある漁村にも向かっていたのだが、どうも彼らはフェニックス~セト間の交易を重視しているようだ。

 

 それは恐らくセト国がバックについていると言うことだろう。ヘルメスの後継者問題で、鳳の後をロバートが継げば、勇者領との関係がギクシャクすることは間違いない。セトはそれを見越して、先手を打ってロバート派に近づいてきたのだ。

 

 彼の国は、ヘルメスとの戦争の際には、帝国と勇者領とを繋ぐ唯一の国でもあった。それが国交正常化が成されたあとは、ヘルメスの影に隠れて影響力を落としていた。しかし、ロバート派が台頭すれば勇者領との関係が悪くなり、必然的にセトが勇者領の窓口に返り咲くことが出来る。

 

 また、ロバートを支援しておけば、ヘルメスとの関係改善にも役立つという腹積もりがあるのだろう。このような構図をロバートが描けるとは思えないから、恐らくは彼の取り巻きの中にセトと通じている者がいるのだろう。

 

 セトは新生ヘルメスとの交易に乗り気である。ではヘルメスとしてはどうだろうか?

 

 あそこはボヘミア北部の銀山を独占しており、金だけは持っているから場合によっては勇者領から乗り換える手もある。計画が潰され、利益誘導されるのは癪だが、景気さえ良くなれば問題はないから、妥協するのもありだろうか……

 

 ただ、その場合はロバートが後任になるわけだが、彼に任せてしまっても本当に良いのだろうか。正直なところ、クレアだって未知数なのだから、勇者領とセトを天秤に掛けて考えるという手は悪くはない。

 

 どちらを選ぶにせよ、その後、この大陸がどのように動くだろうか? 一度、五大国のトップで集まって話し合いがしたい……書類の束にサインをしながら、そんなことを考えている時だった。

 

「鳳、ちょっといいか!?」

 

 ドンドンと叩きつけるように執務室の扉がノックされて、ヴァルトシュタインが入ってきた。額には玉のような汗をかいており、息せき切って余裕のない表情を見るからに、余程切羽詰まっているらしい。何があったのかと訪ねてみると、

 

「ついさっき、オルフェウス国境付近を巡回中のテリーから、早馬が送られてきたんだ。それによると、現在、我軍はオルフェウス国境を挟んで、帝国軍と睨み合い状態になっているらしい!」

「はあ!? 帝国軍がなんでまた……?」

「詳しいことはわからんが、多分、ヘルメス軍が国境付近を通過したことで、隣国を刺激したんじゃないか。テリーは、とにかく緊急を要する案件であるから、至急、上の判断を仰ぎたいって言ってきた。おまえなら、今すぐにでも現場に飛んでいって指示できるだろう?」

 

 鳳は一も二もなく頷いた。このまま放置してまた戦争なんてことになったら、今までの苦労が台無しである。彼は神人二人に後を任せると、ヴァルトシュタインには念のために後詰を集めておくように指示し、ポータルを使って東部の都市を目指した。

 

**********************************

 

 東部国境付近、孤児院を一度視察した際に訪れた街へやってくると、鳳は即座にレビテーションの魔法を使って空へと舞い上がった。突然ヘルメス卿が現れたと思ったら、そんな奇跡を目の当たりにして、街の人々が驚愕の声をあげていたが、今はそんなことに構っていられなかった。

 

 空高く昇って周囲を見渡すと、街から数十キロ先の国境に両軍が対峙している姿を発見した。両陣営は共に千人規模で、交戦状態にはなく、互いに距離をとって睨み合っている……というかキャンプしている。

 

 鳳がそのまま滑空するように空を進んでいくと、やがて近づいてくるその姿に気がついた陣営の中から、テリーが手を振っているのを見つけた。

 

「ヘルメス卿! よく来てくださいました。やはりあなたにかかれば、移動はあっという間ですねえ! たった1週間前に伝令を出したばかりだと言うのに」

 

 テリーは感嘆のため息を吐いている。その落ち着きっぷりは、さっき執務室に駆け込んできたヴァルトシュタインとは対照的だ。それもこれも彼の言う通り、東西の移動には、早馬を乗り継いでも1週間かかるせいだろう。テリーが事態に直面し、鳳がやってくるまでにそれだけの時間が経っているのだから、最初の緊張も解れてしまったというわけだ。

 

 それは国境の向こう側にいる帝国軍も同じようで、鳳が飛んできても彼らは銃を構えたりはせず、非武装状態でこっちの様子を窺っていた。多分、お互いの指揮官同士で停戦協定が成っているのだろう。

 

 ともあれ、何があったのかと尋ねてみれば、

 

「我々がこの付近に出没するという野盗を取り締まっていたら、国境の向こうに帝国軍が現れたんです」

 

 ヘルメス戦争が終わり、領内では現在急ピッチで復興が行われているわけだが、戦争の被害を受けたのは、ヘルメスだけではない。司令官がオルフェウス卿だったために、隣国の領民もかなりの数が徴兵されており、現在この国でも農村を中心に飢饉が起こっているようだった。

 

 ところがついていないことに、オルフェウスの方はトップが不在なために、帝国から最低限の人道支援くらいしか受けられていなかった。そのため領民は食うに困って体を売ったり、自殺したり、家を失ってヘルメスへと流れたりしていたようだが、やって来たのは難民だけではなく、国境付近では野盗に身をやつした者たちが暴れまわっていたのだ。

 

 ヴァルトシュタインはその報告を受けると、早速とばかりに討伐軍を派遣し、テリーを将軍につけ国境へと送った。ところが、国交が回復したとは言えまだ戦争の記憶も新しい今、理由があっても国境に軍を並べられては、隣国も堪ったものではない。そんなわけで帝都、オルフェウス、そしてカインから抗議の軍が送られて来たというわけである。

 

「どうやら我々がここに駐屯しはじめてから、向こうの領民が不安がっているようです。早急にどっか行ってくれと」

「そりゃごもっともだね」

「しかし、我々が引き下がれば、それが野盗となって入り込んでくるわけですから、引くに引けず……こちらからも事情を話して抗議をしているのですが、向こうには野盗が現れていないのだから取り締まりようがないと言われ、困ってしまってるのです」

「野盗も盗るものがある方に来るだろうからね。しかしまいったな……この程度で刺激されちゃうんじゃ、今まで国境警備はどうしていたの?」

「それが、今まではやってこなかったのですよ。国境警備のために軍隊を送れば、今回みたいに帝国側を刺激するので、双方ともに有事以外はあまり近づかず……お互いに領民が行き来するような間柄でも無かったので、今まではそれでなんとかなっていたんですけど。国交正常化された今は、そのザルな警備の隙をつかれてオルフェウス領からドンドン人が流れ込んできているようで……」

 

 この近辺の領主は、ただでさえ勝手に入ってくる難民に手を焼いていた所、野盗に領内まで荒らされてお手上げ状態であったらしい。そんなところに駆けつけたテリー達のことを神だ救世主だと喜んでいたのだが、これが引き上げてしまったらたちまち不満が爆発するだろう。

 

 領主たちは国境封鎖を主張して、いっそのこと壁で囲ってしまえと言ってるようだが、しかしそんなことをすれば野盗を防ぐだけでなく、難民たちを窮地に立たせてしまうことにもなる。そんなの知ったこっちゃないと言えばそうであるが、鳳は出来れば彼らのことも助けたかった。

 

 オルフェウス卿は、自分に後事を託して死んだようなものなのだ。彼のことを思うと、その領民をあまり無碍に扱いたくなかった。

 

「事情は良く分かった。取り敢えず、早急に対応するから、それまでもう暫くここに駐留させてくれって、向こうの指揮官に伝えてくれないか?」

「もう、なにか解決法を思いつかれたのですか?」

「300年前の勇者と同じ方法を使う。野盗を取り締まるなら、その野盗を使えばいいのさ」

 

 300年前、全人類の総力を挙げて魔王を撃退した後、帝国内には解雇された兵士が溢れかえっていた。彼らが故郷に帰っても、魔族に踏み荒らされた畑に食べ物は無く、生きていくために今度は彼らは野盗に身をやつしたのだ。

 

 そんな状況を憂えた勇者は、それを解決すべく冒険者ギルドを設立したのだ。誰だって悪事を働くよりも正義を行いたいはずだ。野盗をするより、その野盗を取り締まる側になろうと呼びかければ、きっと彼らも考えを改めるだろう。

 

 そんな勇者のアイディアに賛同したレオナルドや、後の勇者領13氏族たちが冒険者ギルドに投資し、勇者はその資金を使って冒険者ギルドを切り盛りし、見事帝国領内の混乱を鎮めたのである。

 

「どうも戦争のせいで、この近辺には冒険者ギルドがないみたいだ。新たに支部を作って、国境の向こう側に呼びかければ、食い詰めた農民やそれこそ野盗が集まってくるだろう。これで難民も野盗も半減する。私兵を使って取り締まるのであれば、帝国軍も文句はないはずだ」

「なるほど、しかし上手く行きますかね……?」

「……どうしてそう思うんだ?」

 

 テリーは難しそうに唇を結びながら頷いて、

 

「はい。我々がここへ来た時、この近辺の領主たちは皆、オルフェウスからの国境侵犯に手を拱いていました。それもこれも、国交正常化される以前から、領外からの襲撃に悩まされていたからです。そんな彼らはオルフェウスの民のことを嫌っています。これはもう理屈じゃありません。なのに難民を招き入れるような政策を、彼らが受け入れてくれるものでしょうか……」

「ふーむ……」

「恐らく貴族たちは、このまま軍に残ってくれと要請してくるはずです。何なら帝国軍との共同作戦でも、難民の侵入を阻止して欲しいと言ってくるでしょう。私としても、下手に双方を刺激するよりは、そちらの方が良いと思いますが」

「それじゃあ、難民はどうなっちまうんだ? 救われないだろう?」

「致し方ありません。彼らにはカインか帝都へ向かってくれとしか」

 

 鳳が不満を漏らすと、テリーはわりとあっさりとそう言ってのけた。軍人として上官を立てるタイプの彼にしてはかなり辛辣な態度であり、鳳は少し戸惑ったが、よくよく考えてもみれば、彼もまたかつては難民だったのだ。

 

 ヘルメス戦争が起こった時、テリー達にオルフェウスへ逃れるという選択肢は無かった。あまつさえ、フェニックスで逃げ遅れていた彼らは、帝国軍に捕らえられ、奴隷にされそうにすらなっていた。そんな彼にしてみれば、これくらいの苦労は自分でなんとかしてみろと言いたいのだろう。

 

「……分かったよ。テリーの言うことも考慮しよう。でもまあ、まずは当初の予定通りに、冒険者ギルドで対処出来ないか考えてみる。要は東部の貴族たちを納得させればいいんだろう?」

「はい」

 

 それならば当てはある。東部と言えば、クレアの広大な領地がある地方だ。彼女は鳳の後継者候補というだけではなく、この辺一帯のリーダーでもあった。そんな彼女が言うのであれば、東部の貴族たちも渋々言うことを聞いてくれるはずだ。そしてこれが上手く行けば、クレアの復権にも役に立つのではないか。

 

 問題は、鳳の魔王化の影響であるが……昨日癇癪を起こした分、今日は今のところ大分抑えられていた。これならばクレアに会ったとしても、余程のことが無い限り取り乱したりはしないだろう。彼はそう判断し、説得のためにまたフェニックスへと舞い戻った。

 



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クレアの拒絶

 東部国境からの難民流入、それに伴う野盗出没への対策として、鳳は冒険者ギルドを活用しようと考えた。彼はすぐにでも実行しようとしたが、しかしテリーの指摘を受けて、まずは東部貴族たちの同意を得なければと考え直した。

 

「え? クレアを呼べ、ですって?」

 

 その説得のために、東部から慌ただしく帰ってきた鳳は、まずは東部貴族のリーダー格であるクレアを呼び出すことにした。このところずっと避けていたくせに、彼女のことを呼べと言うから、最初神人たちは目を丸くしたが、事情を説明するとすぐに、

 

「なるほど、帝国との戦争が百年単位で続いていましたからね。これまでにも度々国境侵犯を受けていたのは知っています。知っていても、何も出来なかったんですが……」

 

 神人二人はバツが悪そうに目を逸らした。その様子じゃ恨まれている心当たりがあるのだろう。ともあれ、男三人でお通夜みたいに渋い顔を突き合わせていても仕方ない。クレアを呼ぶと、彼女は5秒くらいですっ飛んできた。

 

「ヘルメス卿に置かれましてはご機嫌麗しゅうございますわ!」

 

 本当に、どこにいたんだよというくらいの早さであった。もしかすると、鳳が会ってくれるまで、庁舎のどこかで粘っていたのかも知れない。なにも、そこまでしなくてもいい立場であろうに、彼女は余程ヘルメス卿になりたいのだろうか。

 

 ともあれ、鳳はこの様子なら説得も容易だろうと思ったのだが、

 

「……は? オルフェウス国境を開けとおっしゃるのですか……?」

「有り体に言えばそうです。既にオルフェウスからの難民は多数領内に入り込んでしまっています。それに乗じて野盗も出没しており、それを取り締まるためにも、国境を封じるより、寧ろ開けて速やかに難民を受け入れ、彼らに仕事を与えたほうがマシだろうと判断しました」

「何をおっしゃってるんですか。軍隊で追い返してくださればいいだけの話ではございませんか。何のためのヘルメス軍です?」

「実はそれをやったことで、現在、国境でヘルメス軍と帝国軍が睨み合っているんですよ。帝国側は、軍隊が国境付近をうろつくのは流石に看過できないと言ってまして、それで速やかに解散しなくてはならなくて……」

「でしたら丁度いいから一緒に取り締まって貰えばいいじゃないですか。今はもう帝国軍も敵ではないのでしょう? 元はと言えばあちらが悪いのですし、要らぬ誤解も解けるというものですわ。ついでに領内に潜伏しているオルフェウス民も連れ帰ってもらいましょうよ」

 

 クレアはテリーと同じようなことを言い出した。これまで、鳳のやることは何でも賛同してきたクレアのまるで取り付く島もない様子に、鳳は困惑すると同時に、理屈じゃないと言っていたテリーの言葉を思い出していた。

 

 国境問題を抱えている東部の貴族たちは、オルフェウス領からの攻撃に何百年も悩まされ続けてきたのだ。それをいきなり受け入れろと言われても、彼らには無理な相談なのかも知れない。だが、鳳はそれでも諦めきれずに、

 

「難民をただ追い返したところで、彼らの殆どが故郷で餓死するだけなんですよ? 流石にそれは寝覚めが悪いと思いませんか」

 

 しかし彼女はきっぱりと言いきった。

 

「いいえ、思いません。だって、こっちが困っていた時、彼らは助けてくれなかったじゃないですか。私たちの領民の誰がオルフェウスへ亡命しましたか。そんなの一人もいませんわ。何故なら、国境を越えてあっちに行ったら問答無用に殺されるからです。なのに今度は自分たちが困ってるから助けてくれなんて、いくら何でも虫が良すぎます。これは昔の話じゃない。たった1年ほど前の話ですよ?」

「それは……あの時は戦争中でしたし、敵国同士だったからでしょう? 平和になった今なら、彼らだってきっと助けてくれると思いますよ」

「いいえヘルメス卿、お言葉ですがそんなことはあり得ないです」

 

 そしてクレアは、今まで見たこともないような棘のある表情で、吐き捨てるように言った。

 

「私の領民たちは、300年間もあちらからの国境侵犯に脅かされ続けて来たのですよ。収穫期を狙われ、家畜のように女性がさらわれる。なのにこちらからは何も出来ない。辺境だから、中央政府もあてにならない。領民たちはいつ襲ってくるかも知れない野盗に怯え、領内を転々と移動しながら暮らしていたのです。あんなに土地があるというのに、街は国境から何十キロも離れた場所にしか作れない。それもこじんまりとした田舎の村です。じゃなきゃ襲撃の対象になりますから。それでも彼らを受け入れろというのですか? 私たちの間に流れる感情は……もうそう言う問題じゃ片付かないのですよ」

 

 クレアは思った以上にはっきりと、鳳の要求を拒絶した。

 

「今日、ここに呼ばれたのは、私に国境の領主たちを説得して欲しいからだったのですね……申し訳ございませんが、こればっかりは……いくらヘルメス卿の頼みでも受け入れかねますわ。お呼ばれした時は本当に嬉しかったです……残念です。失礼しますわ」

 

 クレアはそう言うと、真っ白な顔を強張らせながら、ぷいと踵を返して去っていってしまった。鳳たちは、今まで見たこともない彼女の嫌悪感あふれる表情に驚き、何も言葉を発することが出来ず、黙ってその後姿を見送るしかなかった。

 

*********************************

 

「……俺はちょっと、彼女を舐めすぎていたかも知れないな」

 

 クレアが執務室を出ていった後、鳳たち三人は何も言えずに沈黙することしか出来なかった。気まずい空気が流れる中で、鳳はそんな反省の言葉を口にした。

 

 彼女とは出会いからして対等ではなかった。鳳は勇者で、暫定とは言え皇帝から認められた正式なヘルメス卿……対して彼女はその後継候補という弱い立場だった。その態度に裏があることは分かっていたが、最初から好感度がマックスで、何を言っても必ず賛同してくれるから、いつの間にか勘違いしていたようだ。

 

 彼女にだって譲れないものはあるのだ。鳳は、今回はろくな根回しもせずに、彼女のことを傷つけるような真似をしてしまったことを後悔した。

 

「それでどうしますか? ヘルメス卿。今回ばかりは彼女の言う通りにした方が良いのでは?」

「実際問題、難民受け入れは難しいですよ。受け入れたは良いものの、彼らが地元に馴染むとは限りません。それにもし、トラブルが起きた時、我々はどちらの味方をすればいいのでしょうか。あまり一方を贔屓すれば、もう一方から恨まれます。下手したら暴動になりかねませんよ」

 

 クレアの剣幕もあって、神人二人は及び腰になってしまったようだ。鳳は彼らの言うことを聞き入れつつも、

 

「確かに、そうした方がいいとも思うが……俺はもう一度だけ、ちゃんと彼女を説得してみようと思うよ。いま話をした感じ、彼女も感情だけで拒絶している面はあった。俺も、彼女なら聞き入れてくれるだろうと言う甘えがあった。だから今度はそういった感情を抜きにして、理屈でちゃんと議論しておきたいんだ」

「そこまでする必要が、この難民受け入れにあるんでしょうか?」

「俺はあると思う。例えここで受け入れを拒否しても、これ以上両国の関係が悪化することもないだろう。既に最悪だからな。しかしだからと言っていつまでも放置していていい問題でもない。国交が成立した以上、これからは嫌でも付き合っていかざるを得ない相手なんだ。いずれ正規のルートでオルフェウスの民が入ってきた時、ここで恩を売っておくのとおかないのとでは、雲泥の差があると思う」

「……確かに」

「それに、クレアにとっても悪くない話だと思う。彼女が後継者レースに勝つには、やはり東部の開発を急ぐ必要がある。今はロバート派の妨害のせいで労働力不足に陥ってるが、もしもオルフェウス難民を使えるのであれば、それが一気に解決する。それに隣国のことじゃ彼らにも手が出せないだろう? その点も含めて、まあ、なんとか説得してみせるよ」

「わかりました。それじゃ、もう一度クレアを呼んでみましょう」

 

 神人二人はそう言うと、たった今出ていったばかりのクレアのことを追いかけて部屋から出ていった。

 

 しかし、彼女がもう一度執務室に帰ってくることはなかった。追いかけていった神人の話では、戻ってもどうせ今の話を蒸し返されるだけだから、彼女は嫌だと言っているそうだった。

 

 クレア曰く……正直なところ、それでも鳳に強く頼まれたら自分(クレア)は拒否出来ないだろうが、もしも本当にそうしたら、間違いなく東部の領主たちに恨まれることになる。彼らは同じ苦労を抱えている仲間であり、彼女の支持基盤でもあった。そんな彼らを裏切ることはどうしても出来ないと彼女は言った。

 

 それは至極まっとうな理由であったし、支持基盤を失えば、流石に今度こそ彼女も後継者に返り咲くことは出来ないだろう。鳳としても出来ればロバートではなく、クレアを推したいのだ……ならばこれ以上強くは頼めないだろう。

 

 出来ればもう一度彼女と話し合ってみたかったが、こうなっては仕方ないと、彼は一度は諦める決心をした。

 

 ところが、そうして彼が諦めたところ、まるでタイミングを見計らっていたかのように、そのクレアから食事の誘いが舞い込んだ。ずっと誘われていたのだが、魔王化の影響が怖くて避け続けてきたのであるが……きっと今なら誘いに乗ってくれると、彼女は思ったのだろう。

 

 もしも食事に付き合ってくれるなら、その間くらいなら話を聞くと彼女は言っているようだった。流石、百戦錬磨と言うか、卒がないと言うか、行けば必ず誘惑されることが分かっているのに、どうして誘いに乗ることが出来ようか。

 

 しかし、これを逃したら彼女を説得することは一生出来ないだろうし、ついでに彼女との関係も永遠に失われるかも知れない。考えようによっては、ロバートの妨害を掻い潜って、彼女に起死回生の一打を与えることの出来る、最後のチャンスかも知れないのだ。

 

 それに昨日大暴れしたせいで、今日は朝から調子が良かった。神人二人相手に苛ついたりもしていないし、今のところ、わりと冷静でいられている。だったら、一度賭けに出るのも悪くないのではないか。最悪の場合、彼女の誘惑から逃げればいいだけだし……

 

 と考えたところで、鳳はそれ以上考えることをやめた。

 

 馬鹿馬鹿しい。なんで男の自分の方が貞操の危機を考えなくてはならないのか。鳳は勇者であり、アホみたいなチート能力の持ち主だ。対してクレアは美人なだけのただの女だ。仮に彼女が襲ってきたところで、危険なのは彼女の方だ。

 

 鳳はそう考え直すと、彼女の誘いに乗ることにした。彼はこの時調子が良くて、魔王化の影響を甘く見ていたのだ。

 



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私は何が何でもヘルメス卿にならねばなりません

 クレアに呼び出されたのは、フェニックスの街外れにある料亭だった。

 

 急成長中の街は官庁街に近いほど建物が多くて賑やかであるが、勇者領からやってきた投資家や、元々首都で暮らしていた貴族たちは、猥雑な中心部を避けて郊外に家を建てる傾向があった。店はそんな高級住宅街の一角にあり、閑静な町並みにひっそりと作られた隠れ家的な雰囲気を醸し出していた。

 

 鳳はそんな静まり返った住宅街へと人力車に乗ってやって来た。一応、お忍びだから目隠しで覆われていたので、すぐ近くに来るまでそれに気づかなかったのだが、たどり着いた先は白い壁に棟瓦が乗った土塀に囲まれている、正に料亭といった感じの場所であった。

 

 ポカンとしながら車を下りると、待ち構えていたかのように、四脚門のすぐ脇に作られた通用門がパッと開いて、店の者が恭しくお辞儀をしてみせた。着流しにエプロンという出で立ちに驚いていると、その案内人に連れられて言った先の玄関で、三指を立てて女将が出迎えてくれたことには更に驚いた。女将と言っても日本人ではなくエルフみたいな顔をした神人だから、なんだかコスプレでも見ているような気分である。

 

 板張りの廊下は薄暗く、見えなくなるくらい奥まで続いていて、左右の襖からは会食中らしき客の声が聞こえた。案内されたのはその長い廊下の一番奥の部屋で、襖を開けると目に飛び込んできたのは、畳敷きの和室であった。

 

 まだ新しく、い草の匂いが漂い、床の間には花入れに美しい一輪挿しが置かれ、壁には墨跡が掛けられている。どう見ても漢文であるが、この世界の人々はこれが読めるのだろうか? 書いたのは言うまでもなく、あの人であるに違いない。元の世界で売ったらいくらくらいの値がつくだろうか。

 

 隣部屋との間の鴨居には透かし彫りの欄間が入っており、目を楽しませてくれた。日本家屋など懐かしい気もしたが、考えてもみれば、つい最近帝都でも見たばかりである。多分、この店をプロデュースしたのも利休だろう。鳳に呼ばれて街に来たのはつい最近のはずであるが、もうこんな店を出しているとは、流石に元商人だけあって、商魂たくましいものである。

 

 気になったのは、どうしてクレアがこんな場所を知っていたのかであるが……彼女の格好を見てすぐに察した。クレアは光沢のある美しい呉服を身に着けていた。化学繊維など存在しない世界だから、恐らく正絹だろう。いつの間に、これだけのものを送られる間柄になっていたのか、やはり社交界のスターとは侮れない。オンラインゲーばっかりやっていた陰キャの鳳には、猛禽類よりも恐ろしい相手であった。

 

「本日はようこそおいで下さいました。ずっとお誘いしていたのに、全く相手にされないものですから、少々傷ついていたのですよ」

 

 今日来なかったらこれで最後にしようと思っていたという彼女の口ぶりからは、少々緊張の色が窺えた。鳳は理由があって避けているわけだが、人によっては嫌われていると感じても仕方ないだろう。どうやら今日は、リスクを承知で来て良かったようである。もっとも、誘惑されては元も子もないので、それだけは気をつけておかねばなるまいが。

 

 しかし、彼のそんな心配は杞憂であった。クレアもこれまで避けられていた経緯からか、二人きりになってもがっついたりはせず、会食は終始和やかなムードで進んだ。

 

「今日はヘルメス卿の郷土料理を用意させてもらいましたわ」

 

 場所が場所だけに、多分出てくるんじゃないかと思ったが、彼女の言う通り出てきたのはどれもこれも日本料理であった。というか、まさしく懐石料理そのものであり、一汁三菜から始まって、酒を饗され、八寸、強肴、デザートに主菓子などと続く日本ならではのコース料理だ。

 

 千利休が書いたとされる南方録にも記されているが、現在では偽書と伝わっている。本人が生きていた時代にここまできっちりとした仕来りがあったかどうか知らないが、まあ、あの性格だから面白がって真似しているのだろう。

 

 酒が饗されると芸子ではないが、お酌のための女性がやって来たが、鳳は手酌で十分と断った。そしたらもしかしてクレアがやるとか言い出すのではないかと思ったが、彼女はそんな素振りは一切見せずに、自分も断ってちびちびと舐めるようにお猪口を口にしていた。

 

 肴には刺し身が出されたので、もしやと思ったがそれは海魚で、どうやら勇者領を通って遠くから届けられているようだった。ここまで届けるのに、一体どれだけの労力と金が掛かっているのか、考えるだけでこの店の高級のほどが分かった。

 

 それくらい、彼女も気合が入っていたのだろう。酒が入って暫くすると、そのクレアから口火を切ってきた。

 

「それで、ヘルメス卿。楽しいお食事の最中ですが、お酒が回ってしまう前に、ちゃんとお尋ねしておいた方がよろしいでしょうね。今晩、私に付き合ってくださっているのは、ただのご好意ではございませんよね」

「……はい。昼間にもお願いしましたが、もう一度考え直して欲しくて……クレアさん。いや、プリムローズ卿。あなたの力で、どうかオルフェウス難民を救ってくれませんか」

 

 クレアは憮然とした表情で、鳳から視線を逸らしたまま酒を舐めていた。昼間みたいにはっきりと拒絶しないのは、聞きたくはないが、話したいなら勝手に話してくれということだろう。そうじゃなければこんな席を設けたりはしない。そう受け取った鳳は、剣呑な雰囲気なままの彼女の横顔に向かって話し続けた。

 

「この国が帝国からしばしば国境侵犯を受けていたという過去は聞きました。そのせいで、あなたの領民が脅かされていたのに、昔のヘルメス卿は何もしてくれなかったことも。同情だとか、その気持ちが分かるだなんて、俺が言えるわけがありません。だから、あなた方に苦痛を与えていることを自覚した上で、敢えてお願いします。それでも俺は国境を開いて難民を受け入れて欲しいんです」

「……それは、昼間も言いましたが、非常に難しい話なんです。いいえ、不可能と言っても良いかも知れません。私だけならともかく、他の領主の気持ちを考えると、私にはとても……」

「ええ、だからあくまで理屈だけの話だと思って聞いてください。その上で判断して欲しいんです。俺はあなた方にただ苦痛を強いようとしているわけじゃありません。オルフェウス難民を受け入れるのは確かにリスクもありますが、同じくらいメリットがあると考えているのです」

 

 クレア横を向いたまま、半信半疑と言った感じに横目でこちらの様子を窺っている。

 

「まず、オルフェウス難民を受け入れれば、純粋に東部の人口増加が期待できます。クレアさんの領地のある東部は、戦争のせいで人口が少なく、そのせいで労働人口も不足しています。

 

 俺はその問題を西部から労働者を送り込んで解決しようとしていましたが、ロバート派によってそれが妨害されている状況です。彼らは自分たちの領民や、国民感情を巧みに利用して労働者が東へ出稼ぎに行くのを邪魔しています。ですが、オルフェウス領民であれば彼らは口出しできません。

 

 確かに東部はそのオルフェウスのせいで人口が少ないですが、それを逆手に取って飛躍するチャンスでもあるんですよ。それに、最初に提案した通り、難民の受け入れが野盗の取り締まりにも繋がる。

 

 オルフェウスからどうして野盗が来るのかと言えば、それは庶民の生活が厳しいからです。帝国は何でも神人を優先して、人間を蔑ろにしてきた。戦争が起きると必ず虐げられるのは人間でした。ですがヘルメスは違います。この国では神人だけではなく、人間にも等しくチャンスが与えられる。

 

 だから彼らを労働者として取り込めば、自然と野盗が消えるはずなんです。そして労働力が増えれば、滞っている東部の街道整備も行える。しかもこれを人道支援として宣伝すれば、帝都にも影響を与えることが出来るでしょう。

 

 当然、ロバート派はこの動きを牽制してくるはずです。彼らが獣人を排除しようとしたように、他国民を入れるとは何たることだと妨害してくるでしょう。ですが今度は帝国が味方になってくれるはずです。彼らだって持て余している問題を、こっちが人道的に解決しようとしているんですからね。そして帝国は、今後の顧客でもある。

 

 ところで、クレアさんは帝都に行ったことがあるでしょうか。俺は最近行ってきたばかりなんですが、帝都と言ってもそこまで大きな都市ではなかった。勇者領の首都ニューアムステルダムには遠く及ばないし、今のフェニックスにすら劣る規模です。だが、そのフェニックスでさえ、今後東部の開発が進めば、もしかしたらプリムローズ領に負けるかも知れない。

 

 街道が整備されれば、帝都にも近く、オルフェウスやカインにも近い、ここは穀物の流通経路になります。広大なヘルメス、及びオルフェウスの作物が、全部ここを通るんですよ。当然、商人たちが集まってきて、ここには巨大な市場が生まれる。あなたの作った都市が、世界に名だたる大都市に変わるんです。ここを第二のニューアムステルダムにしましょう!」

 

 鳳の説得が続くに連れて、クレアは知らずしらずの内に身を乗り出してそれを聞いていた。男という生き物は大抵夢を描くものだが、ここまで大きくて、そして地に足のついた夢を語る男は初めてだった。

 

 彼女は自分の領地の光景を思い浮かべ、もしあの不毛の土地に、ニューアムステルダムは無理だとしても、フェニックスくらいの都市が出来たら、どんなに素晴らしいだろうと夢想した。そしてもしそれが本当に出来るのであれば、東部の領主たちを説得することも可能なんじゃないかと考え……鳳の口車にまんまと乗せられていることに気づいてハッとなった。

 

 鳳もそれを意識していたのか、ダメ押しのつもりで、

 

「クレアさん。俺はこの国の後継者はロバートではなく、あなたが継いたほうが領民のためだと思っています。ですから一つ考えてみてはくれませんか」

「……でしたら、何故、私から孤児院を取り上げたのですか? あれがあったせいで、私は領内で苦しい立場になっています。口さがない者たちからは変態とまで言われています。私がやったわけじゃないのに」

「それは……」

 

 鳳は何も言い返せず黙りこくった。あの時は領内の規律を引き締めるためにも必要だと思ったのだ。だが、部下に止められてまで強行したのは確かに間違いだった。そのせいでロバート派は息を吹き返し、クレアは窮地に立たされている。もしかするとあの時の懲罰的な判断も、魔王化の影響があったのかも知れない。

 

 鳳は色々と言い訳は思いついたが、どれもこれも彼女を納得させるのは無理だと思い、何も言えなかった。そんな彼の顔を見ながら、クレアは淡々とした調子で話し始めた。

 

「……私たち東部は、昔から度々帝国の侵犯を受けてきました。今回のように、お腹を空かせたオルフェウス領民が入り込むだけではなく、時には野盗に扮した帝国兵が領内を荒らしに来ることもありました。

 

 野盗退治に人手を割くと、それを察知した帝国兵がやって来るんです。当事者である私たちはその動きがわかりますから、もちろん抗議するのですが、この国の中央政府は遠く安全な場所にいて、何もしてくれませんでした。ヘルメスが軍を動かせば、今回みたいなことになるからです。だから開発が遅れて野山が放置されているんです」

 

 クレアは懐かしそうな、少し遠い目をしながら続けた。

 

「私は首都生まれの首都育ちで、物心がつくまで自分の領地がどこにあるのかすら知りませんでした。ですが、自分が後を継ぐと決まった頃、興味本位でひと夏だけ領地で過ごしたことがあったんです。

 

 その頃はちょうど帝国との緊張が解けていた時期で、私はちょっとお金持ちの令嬢がバカンスのために訪れたように装って、自分の領地に降り立ちました。領地を顧みない領主だってバレたら、領民に復讐されるんじゃないかと恐れたんです。

 

 意外かも知れませんが、子供の頃の私は活発な方で、初めて訪れた自分の領地に興奮して、来る日も来る日も野山を駆け回っていました。そこは自然がいっぱいで、遊び場が沢山ある宝の山に見えました。

 

 そして友達も出来ました。私はバカンスに訪れた先の農村の子供たちと仲良くなって、彼らと毎日のように一緒に遊びました。みんな都会から出てきた私に良くしてくれて、私は楽しい思い出をいっぱい作って首都に帰りました。また来年の夏にはここに戻ってこようと思って。

 

 ですが、それからすぐ帝国との緊張が高まり、私はまた領地には近づけなくなりました。国境で小競り合いが続いていると聞いて、私は仲良くなった農村の友達のことを心配しましたが、かと言って私には何をすることも出来ません。そのうち、それを考えることが苦痛となって、私は領地のことを顧みなくなっていきました。

 

 それから数年後、大きくなった私は時期を見計らって、また領地を見に行きました。あの夏、私が過ごした村にも行きました。ですが……そこにはもう村はありませんでした。みんな散り散りになっていて、中には死んでしまった者もいました。それもこれも、全部オルフェウスからの侵攻が原因だったのです。

 

 私はそれでも諦めきれなくて、残った昔の友だちを探しました。ようやく見つけた彼らは、一か所に留まること無く遊牧民みたいな生活をしていました。どこかに街を作れば、そこへ略奪者がやってくるから、ずっと移動し続けていたんです。

 

 領内にはいくらでも耕す土地があり、それは彼ら全員が豊かに暮らしていけるだけの十分な広さがあったのに、なのに彼らはそれを活用することが出来ず、ひたすら領内をさまよい続けていたのです。

 

 それもこれも、戦争を止められなかった為政者のせいです。そんな不便な生活を続けなくても、せめて戦争の間だけでも逃げればいいのに……どうして彼らは土地を捨てて逃げなかったのかと私は不思議になりました。

 

 だから聞いたんです。あなた達は何もしてくれない領主が憎くないのかと。そうしたら彼らは言ったんです。そんなことはないって。悪いのは帝国で、クレア様は悪くない。ここに自分たちが踏みとどまっていれば、いつかクレア様がなんとかしてくれるはずだって……それ以来、私は彼らとは会っていません」

 

 クレアは自分の領地で起きたそんな出来事を話し終えると、御膳を脇に避けて、正座したまま滑るように、鳳の前までやってきた。そして畳に手をつくと、深々と頭を下げながら言った。

 

「私はオルフェウスが大嫌いです。ですが、私には彼らとの約束があるんです。またいつか昔みたいに彼らと笑いあえるように、領内を良くしたいと思う気持ちは本物です。それだけは信じてください……」

「はい」

「あなたがこの国を良くしてくれると言うのであれば、私はあなたの言うことに従いましょう。早速、明日にでも、ここフェニックスにいる東部貴族たちを説得して回ります。ですからどうか、必ずこの話を成功させてください」

「……わかりました」

 

 鳳は彼女の話に感動し、殆ど考えもなしにそう返事した。しかし、それが空約束であることは、他ならぬクレア自信がよく心得ていた。彼女は鳳のその言葉を待っていましたとばかりに顔をあげると、

 

「……本当に、分かっているんですか?」

「……え?」

「私は、あなたにこの国を良くして欲しいと言っているんです。ですがあなたは今、この国最高の地位であるヘルメス卿の座を他者に譲ろうとしている……なのにどうしてそんなことが言えるんですか?」

「それは……」

 

 鳳は痛いところを突かれて返答に窮した。ペルメル、ディオゲネス、そしてカナンや利休にまで言われたことだ。どうして地位を捨てるのかと。みんなに望まれてその地位に立ったのであれば、不要とされるまでそこに留まるべきだと。

 

 鳳としてもそうしたいのは山々だった。だが、そうは出来ない事情があるのだ。今はまだマシだが、魔王化の影響で、いつまたおかしくなるかわからない。その時、自分が何をしてしまうのか……本当はこんなことをしている余裕など、一秒もないのだ。

 

 なのにどうして彼女にこの国を良くするなんて言えるのだろう。鳳は、先鞭を付けて、彼女にこの国を譲ることしか出来なかった。彼女がそれじゃ不十分だというのなら、一体どうすればいいのだろうか。

 

 しかし、クレアはそんなふうに鳳が返答に窮することも計算していたのか、

 

「そんなに難しく考えないでください……理由はわかりませんが、あなたがどうしてもその地位を下りたがっていることはわかります。ですから、もしあなたが私に後を託すとおっしゃってくれるのであれば、私はその地位を受け継ぎ、あなたがやり残したことに全力で取り組むことにしましょう。

 

 その代わり、一つだけ、どうしてもお願いしておきたいことがございます」

 

 クレアはそう言うと、呆気にとられている鳳の前で、誰かに合図するかのようにポンポンと手を2回叩いた。

 

 すると彼女の背後の襖が、突然、音もなくスーッと開かれ、その向こう側に一組の布団が敷かれているのが見えた。ご丁寧にも、枕が2つ並んで。その枕元にはティッシュ代わりの手ぬぐいが山ほど置かれていた。

 

「私は何が何でもヘルメス卿にならねばなりません。そのために勇者様。どうかご協力をお願いします」

 

 彼女は挑むような真剣な目でそう言い放つと、今度は三指を立てて、深々とまた頭を下げた。

 



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ヤりたいに決まってんじゃないかっ!!

「私は何が何でもヘルメス卿になりたいのです!」

 

 三指を立てて頭を下げたクレアの後を見やれば、続き部屋に一組の布団が敷かれていた。恐らくこのためだけに、ずっと襖の向こう側で待機していたのであろう中居たちが、澄まし顔で軽く会釈してからそそくさと出ていった。

 

「さあどうぞ! この帯を引っ張ってクルクルと私を寝室まで運んでくださいませ」

 

 まるでどこかのバカ殿みたいな展開に、鳳は思わず咽た。

 

「一体どこで覚えてきたんだ、こんなこと!」

「ヘルメス卿もご存知でしたか? 帝都ではこのような逢い引きが流行っていると聞いたのですが……」

 

 クレアはキョトンとした表情で鳳のことを見上げている。こんなのが流行ってたまるか! と言いたいところだったが……いや、しかし、案外本当にこんなことが流行っているのかも知れない。こんなことをしそうな連中に心当たりがある。ミトラとは禁欲的な菩薩の名前であるはずだが、この世界でその名を冠している男はしょうもない俗物のようだ。

 

 鳳がげっそりとしていると、いつの間にか手の届く範囲まで忍び寄っていたクレアがさっと手を握ってきて、彼はドキリとして固まった。

 

「ヘルメス卿、あなたは今、この国を救うために何でもするとおっしゃいました。その思いは私も同じですわ。私は私の領民を……ひいてはこの国の全ての人々を守るために、ロバートを倒し、何が何でもヘルメス卿にならねばなりません。そのためにはあなたの子供を作るのが一番手っ取り早いんです」

「いや、無理無理無理! 何を言ってるんだ、あんたはっ」

「別に愛してくれなんて言いません! 仮面夫婦でもいいですから、とにかく分かりやすい形が欲しいんです。悔しいですが、私一人では領民を納得させるにはまだ足りないのです。だから二人の子供を作って周囲を黙らせましょう」

「そんなことないって! みんなあなたのこと、ちゃんと認めてくれますって! だから俺なんかに拘らないで、まっとうな結婚をしてください!」

「……ヘルメス卿は心に決めた方でもいらっしゃるんですか? 結婚が嫌だというのなら、私生児でも構いません。私が立派に育て上げてみせますから」

「いやいやいや、駄目でしょう!? 子供はこう、ちゃんと両親に愛されながら生まれこなきゃ駄目ですよ! あ、いや、私生児が可哀想ってわけじゃないけど。出来ればちゃんと愛されて育って欲しいじゃないですかっ!」

「素敵! 私、確信がもてましたわ。あなたなら、きっと生まれてくる赤ちゃんのいいお父さんになってくださるって」

 

 鳳はなんとかクレアを押しのけようとした。しかし、不用意に触れると何が起きるか分からないと躊躇して、腰砕けになってしまった。クレアはそんな鳳の姿に隙を見つけるや、チャンスとばかりにグイグイと豊満な胸を押し付けてきた。その瞬間、彼の頭の中で何かの糸がブツリと切れるような、そんな感じがした。

 

「あっ、だめ……」

 

 鳳がそんな喘ぎ声にも似た吐息を漏らすと、クレアはまるでエロオヤジみたいに小鼻をひくつかせながら、

 

「そんなに恥ずかしがらないでくださいませ。私だって恥ずかしいんですのよ? 童貞ってわけでもないのでしょう?」

「いや、そのまさかです。お恥ずかしながら、実は俺はまだ童貞なんです。だからこんなことやめてっ!」

「まあ、それでは私が貴方様の初めてなのですね。とても光栄ですわ。大丈夫。リラックスしてください。天井の染みを数えている間に終わりますから」

「いやぁっ! やめてぇーっっ!!」

 

 鳳の抵抗が緩んだと見るや、クレアはここが正念場だと、それまで以上の迫力で迫ってきた。彼女はもはや布団まで待ってられないと言わんばかりに、その場で彼を押し倒すと、引き抜くように自分の帯を外して、グイと胸元を緩めた。

 

 その瞬間、彼女の形の良い白いバストが目に飛び込んできて、鳳の思考力を著しく奪っていった。

 

 今、彼の上には絶世の美女がセックスする気満々で覆いかぶさっている。彼女の目的は子作りだけで、後腐れなく中だしし放題、何回だってオーケーだ。何のリスクも無く抱ける美女が目の前にいるというのに、何を躊躇するものがあるというのか。

 

 初めてだから怖い? 恥ずかしい? そんなの関係ねえ。これだけの女が抱けるのだから、据え膳食わぬは嘘である。鳳はそれまで頭に巡っていた血液が、一斉に下半身に集中していくのを感じた。

 

 だが、それと同時に、彼は言いようの知れぬ飢餓感に見舞われた。さっきたくさん食べたばかりだというのに、もう腹がぐうぐう鳴って空腹でキリキリと胃が痛んだ。すると突然、視界が真っ赤に染まり、彼は目の前の女を征服することしか考えられなくなった。

 

 この女をぶち犯したい。力づくでねじ伏せて、四つん這いにして、無理やり言うことを聞かせてやりたい。男をナメやがって、このクソアマ。今すぐ這いつくばらせて、力の差を思い知らせてやらねば気がすまないぞ。

 

 鳳は耐え難い飢餓感が襲ってくる中でそんなことを考えていた。この、空腹感の中で理性を失ったら彼女はどうなる?

 

 鳳は、最後の最後にほんのちょっとだけ残っていた理性を総動員して、上に伸し掛かってくるクレアの体を押しのけた。

 

「きゃあああぁぁぁーーーっっ!!」

 

 本当に、軽く払い除けただけだった。なのに彼女の体は面白いように吹っ飛んでいった。鴨居の下を通過し、そのまま隣の部屋の壁に激突した彼女は、目を回しながら隣の部屋に敷いてあった布団の上に落っこちた。まるで事後のようにシーツが乱れ、枕の中から羽毛がふわふわ飛び出した。

 

 ドシンと建物全体を揺るがすような音が響いて、驚いた店のものが駆けつけてくる。鳳はそんな彼らのことも突き飛ばして部屋から出ると、酔っ払いのようにふらつきながら長い廊下を去っていった。

 

 突き飛ばされた中居がボーリング玉みたいにゴロゴロと部屋の中を転がっていき、御膳を跳ね飛ばして残飯をぶちまけた。女将は、まだ建てたばかりの部屋がもうこんなに汚れてしまったと気が遠くなりかけたが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。彼女は隣の部屋で目を回しているクレアに駆け寄った。

 

「大丈夫ですか? クレア様? 大丈夫ですかっ!?」

 

 布団の上に落っこちたクレアは壁に叩きつけられた衝撃で失神していた。女将が何度も呼びかけていると、やがて彼女は目を開けたが、すぐに自分に起きたことを理解したのか、暫し呆然としたあとに、

 

「私……自分でもそこそこイケてると思っていたんですよ?」

「はい?」

「ここまで拒絶されたのは初めてです」

「あの、何をおっしゃって……?」

 

 女将の困惑をよそに、クレアは悔しそうに親指の爪を噛んでいた。

 

 あり得ない。おかしい。セックスは男の本能であり、普通、自分みたいなイイ女がここまで露骨に迫ってきたら、抗える男などいないはずだ。鳳も後ちょっとで落ちそうな気配はあったのに……なのに彼は最後の最後で拒絶を選んだ。

 

 わけがわからない。彼は何を考えているのだ? もしかして、本当に好きな相手に操でも立てているのだろうか。それとも、もしかしてホモなのでは?

 

 ……そう考えた時、彼女は思い出した。そう言えば、まだアイザックの居城にいた時、二人の勇者が手と手を取り合って逃げ出したという噂を聞いた。その時、残った他の勇者たちは、あいつらホモだからと笑っていたのだ。

 

 そうだ。ホモだったのだ。きっとそうだ。そうに違いない。彼女は振られたショックで気が狂いそうだった。振られたのは自分のせいじゃない。彼の性癖の方がおかしかったのだ。

 

「……作戦を変えなくては」

 

 もはや自分の体は武器にはならないと知った彼女はショックを受けると同時に、なりふり構っていられなくなった。あとやれることは何が残っているだろうか。彼女はヒートアップする思考で妙なことを考えた。

 

**********************************

 

 目がおかしくなってしまったのか、視界が明滅してよく見えなくなっていた。胃袋がギリギリと締め付けられ、目は充血して刺すような痛みが襲ってきた。まるで自分のものじゃなくなったかのように、足が言うことを聞かず、彼は右に左にフラつきながら進んだ。言いようの知れぬ怒りがこみ上げてきて彼の心を蝕んだ。そのくせ、下半身は異常なほど勃起していて、その怒りが性欲に起因していることを嫌でも思い知らされた。

 

 自分では真っすぐ進もうとしているのだが、とにかくズボンの前が突っ張ってどうしようもなかった。その酔っぱらいみたいな足取りが目立つのか、通行人が振り返る度に、彼はその目が自分の行動ではなく、下半身に向けられているような気がしてどうしようもなくなった。

 

 彼は前かがみになりながら、どうにかそれを鎮めようとポケットの中からペニスを抑えつけた。するとその瞬間、小便みたいにビュービューと大量の精液がパンツの中にぶちまけられて、彼は堪らずその場でポータルを出しそれに飛び込んだ。

 

 適当に開いたからどこへ飛んだか分からなかったが、後から思えば恐らくヴィンチ村だったのだろう。幸運なことに夜間の村は人通りがなく静まり返っており、人気がない場所はいくらでも見つかった。ここがどこかなんて気にする余裕もなく、彼はとにかく近くの畑に向かって走った。

 

 作物をかき分けて畑の奥へ奥へと入り込み、真っ暗闇の中で、彼はようやくヌルヌルと気持ち悪いズボンを脱いだ。すると栗の花の匂いに似た精液の臭いがムワッと立ち込め、たちまち彼の心を折った。パンツの中には精子が水たまりのように溢れており、それは手で掬いあげることすら出来た。

 

 これだけ大量に出しても彼の股間は依然勃起したままだった。パンツの中から精液を掻き出しながら、もう片方の手でペニスに触れると、それは電気ショックを受けたカエルみたいにビクビクと震えて、勝手に射精を開始した。じんわりと先っぽから、トロトロ滲み出るような弱い射精感に、彼は耐えきれなくなって、ついに汚れるのも構わずその場でペニスを握りしめると必死になって上下に扱いた。

 

 次の瞬間、言いようの知れぬ幸福感と共にびっくりするほど遠くまで精子が飛んでいった。腰が抜けるんじゃないかと思うくらいの気持ちよさに、彼はもはや辛抱堪らず、猿みたいにその場で何度も何度も自慰をした。

 

 自分は何をしているんだ……?

 

 その気になってる女からわざわざ逃げてきて、どうしてこんな真っ暗な畑の中で、自分の種を撒いているんだ?

 

 自虐的な気分と共に射精感が押し寄せてきて、わけがわからなくなる。彼はペニスから精子を吐き出すと同時に、口からは胃袋の中身を全部吐き出していた。吐瀉物と精液が混じり合った汚物を前に、あまりの情けなさに涙がこみ上げてきて、視界がぼやけて何も見えなくなった。それなのに右手は必死に自分の分身を扱き続けている。

 

 彼はもはや空っぽになってしまった胃袋から胃液まで吐き出して、焼けて爛れた喉からヒューヒューと掠れるような叫び声を上げた。

 

「ヤりたいに決まってんじゃないかっ!! あんなむしゃぶりつきたくなるような女……つーか、相手がヤりたがってんだから、ヤりゃあいいじゃないかっ!!! なのに……何が起きるかわからないじゃないか!!! ヤッた後、彼女が無事かどうかさえわからないというのに……ヤれるわけないじゃないか……くそっ……ちくしょうが……クソがあああぁぁぁーっっ!!!」

 

 汚物まみれの地面をドンドン叩きつけながら怒鳴ったら、ピチャリと頬っぺたに泥が跳ね返ってきた。それを拭おうとした手も泥だらけで、右手の中ではようやく大人しくなった息子がフニャフニャになっていた。それが彼を賢者に変えた。どうしようもない絶望感とともに、際限のない後悔が押し寄せてくる。

 

「ヘルメスなんて救うんじゃなかった……だってみんな破滅を望んでいるじゃないか。誰がこの国を、あんな無茶苦茶にしたと思ってるんだ? なのにそいつを王に戴こうなんて、頭がおかしいんじゃないか。そんなにそうしたいのなら、もうロバートに国を譲って何もかも忘れてしまおう。俺にはもう時間がないんだ……下手な同情なんてしてる暇なんてないんだ……ルナもその子も……野垂れ死ねばよかったんだ。だって、俺がいなくなったあと、彼女らが幸せになる保証なんてないじゃないか!? なのに一時の哀れみだけで、俺は何をやってるんだ!? 助けるんじゃなかった……俺は彼女らをより不幸にしてしまっただけなんだ……」

 

 鳳がそんな弱音を吐いている時だった。

 

「そこに誰かいるのか……!?」

 

 鳳があまりに騒がしくしていたからだろうか、畑の持ち主が様子を見にやってきたようだった。彼は脱ぎ捨てたパンツを慌てて履くと、ぴちゃりとした冷たい感触を我慢しながら、ズボンを上げた。そんな気配に気づいた農夫が恐る恐る近づいてくる。彼はすぐさまポータルを開くと、中に飛び込んだ。

 

 今度は行き先を決めるだけの余裕があったから、彼はフェニックスの街のすぐ近くの樫の木の丘に戻ってこれた。街と官庁街のちょうど中間あたりにあるから、ここが行き先に指定されていたのだ。

 

 夜になれば官庁街に用事なんて無いから、辺りは人通りがなく静まり返っていた。彼はそんな緩やかにカーブするあぜ道を辿りながら、重い足取りで官庁街にある自宅へと向かった。

 

 明日からどうしたらいいんだろう……

 

 明日になればきっとクレアは今日のことを言い訳しにやってくるはずだ。逃げるのは簡単だが、彼女の本音を聞いた今では無視するわけにはいかないだろう。彼女の領民への思いは本物だ。それにさっきは弱気になってしまったが、ルナ母子のことも放ってはおけない。自分が居なくなった後、せめて彼女らがこの間みたいに、トチ狂った親族に襲われたりしないように、渡りをつけておかねばならないだろう。

 

 しかし、そんなことやってる暇はあるのか。もう限界だ。分かっている。早く仕事を片付けなければ何もかも台無しだ……弱音と焦りが頭を締め付ける。自分はいつまたおかしくなるかわからない。

 

 政庁舎の執務室からは明かりが漏れていた。きっとクレアと話をつけにいった鳳の帰りを神人たちが待っているのだろう。でも今はもう何も考えたくなかった。帰って酒を浴びるように飲んで、気絶したように眠りたかった。彼らに悪いと思いつつ、鳳は庁舎の前を通り過ぎると、すぐ隣の自分の家へと入っていった。

 

 自宅の鍵を開けると、彼は違和感を感じた。

 

 家の中はひんやりと静まり返っているはずだった。なのに部屋は何故か暖かく、中から明かりが漏れて、人の気配が感じられた。最近はアリスが入らないように鍵を掛けていたから、彼女も入れないはずなのに……魔王化の影響で、感覚が鋭くなっていた彼は気配を探った。すると部屋の中にいるのがアリスではないことにすぐ気がついた。

 

 と言うか、今までに出会った誰の気配でもない。何者かが部屋に侵入しているのだ。

 

 鍵がかかっていると言っても、原始的なものだから、その気になれば誰でも簡単に入ることが出来るだろう。鳳は泥棒が怖いから、貴重品は家に置いていないくらいだ。尤も、だからといって泥棒に入られたことなど無かった。泥棒だって、忍び込む家のリスクくらい考えるだろう。

 

 まさかどこかの国から刺客でも送られたのだろうか? 勇者である鳳に……? それはちょっと考えられない。

 

 おかしい……おかしいと思いつつも、彼は警戒しながら部屋へと入っていった。誰かを呼ぶと結果的に部下に気づかれ、今日のことを聞かれるのが嫌だった。だから彼は、自分ひとりで対処しようと考えた。恐れることはない。今更、勇者の力に目覚めた自分を害せる者などいないのだ。しかしそれは間違った判断だった。

 

 玄関を開けて狭い廊下を進み、恐る恐る自分の部屋の扉を開ける。すると、彼の目に飛び込んできたのは、一人のマッチョなおっさんだった。

 

「あら~、ヘルメス卿。おかえりなさ~い。勝手に忍び込んでごめんなさい。クレア様にどうしてもって言われて来たのよ。悪く思わないでね」

 

 それは神人になる前のジャンヌみたいに筋骨隆々で見事なマッチョだった。胸板が厚く逆三角形の腰にはブーメランパンツをつけている。それがスケスケのネグリジェを羽織って薄っすらと化粧し、何故か鳳のベッドの上でウッフンとウィンクしていた。

 

「ヘルメス卿が私たちと同じ趣味だったなんて知らなかったわ。私ならいつでもウェルカムよ。クレア様からお代はいただいているから、今夜は何度でも私を抱いてちょうだい。腰が立たなくなるまで! それとも、ヘルメス卿は抱かれる側が好みかしら? 私はどっちもOKよ! さあ、来て! 熱いベーゼを交わしてちょうだ~い!!」

 

 マッチョはベッドから飛び降りると、ハグを求めるように両手を開いて唇を突き出しながら、腰をクネクネさせつつ迫ってきた。と、同時に、ブーメランパンツの中ではち切れそうになっていた一物が、まるで生き物のようにニョッキリと顔を出した。

 

 鳳はそれを見た瞬間、本当に脳内でどこかの血管がブチッと切れる音を聞いた。いきなり目の前が真っ赤に染まって……その後のことはよく覚えていない。

 

 本当に、気絶するかのように何も覚えていない。

 

 でも多分、軽くツッコミを入れたような気はする。

 

 なんでやねん、と。

 

 本当に、本当に、ただそれだけのはずだった。

 

 気がつけば、彼はまるで骨折でもしたかのような拳の痛みとともに、肩でハアハア息をしながら立ち尽くしていた。足元には先程のマッチョがあり得ない姿勢で倒れていて、物を言わぬ肉塊となっていた。

 

「おい……」

 

 話しかけても返事はない。それは本当に、ただの屍になっていた。

 



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本能と野性の間で

 ついカッとなった……新聞の社会面でよく見掛ける言葉だ。今までの鳳にとってそれは、そんな他人事みたいなセリフだった。しかし今の彼にとっては違った。

 

 彼の足元には、ブーメランパンツにネグリジェ姿の、マッチョのおっさんの死体が転がっていた。その体はありえない方法に折れ曲がり、既に息絶え動かなくなっていた。

 

 慌ててリザレクションの魔法を掛けたが、彼は神人ではないため意味がなかった。見様見真似で蘇生術も試みてみたが、心臓マッサージをしても肺に溜まった血が吹き出るだけで、彼が生き返ることはついになかった。

 

 鳳はその場にへたり込んだ。

 

「……俺は、たかだかこんなことで、人を殺してしまったのか……?」

 

 彼は元々、倫理観が常人とは少し違うところがあった。魔物と戦争だらけのこの殺伐とした世界で、いつか人殺しを経験することもあるだろうと覚悟もしていた。と言うか、この世界に来たばかりの頃、フェニックスの攻防戦で弾幕を張っていた時に、きっと流れ弾で誰かを殺していただろう。多分、そうだろうと思っている。

 

 だがそれは不特定多数の中の誰かであって、こうして自分の意思で人を殺したのは初めてだった。しかも理由が奮っている。ホモが襲いかかってきたので、ついカッとなってなんて、何の冗談だ?

 

 彼は暫くの間、ショックでピクリとも動けなかった。

 

 それからどのくらいの時間が経過しただろうか……

 

 それでも自分のやったことの始末をつけねばなるまいと、彼はとにかく人を呼びにいこうと立ち上がった。フラフラと外へ出れば、すぐ隣の庁舎から明かりが漏れていた。そう言えば、さっき部下の二人が残っているのを確認したと思った彼は、自分の執務室の窓の方へと歩いていった。窓を叩くとそれに気がついた神人たちが駆け寄ってきた。

 

「ヘルメス卿! おかえりなさい。それで首尾はどうでしたか? そんなところに立っていないで、入ってきてくださいよ」

 

 二人はクレアとの会談がどうなったのか、勢い込んで尋ねてきた。しかし鳳が何度も口を開いては、まるで声が出なくなってしまったかのように、すぐに口を閉じてしまうのを見て、恐らく失敗に終わったのだろうと察した。

 

 彼らは鳳になんて声を掛けたらいいのかと言葉を探していたが、そんな彼らが言葉を見つけるよりも先に飛び出してきた鳳の言葉は、まったく予想外過ぎて理解するのに時間を要する代物だった。

 

「すまない。人を殺してしまったようなんだ」

「……は?」

「ちょっと来てくれないか」

 

 二人は最初何を言っているのか分からずポカンとしていたが、徐々にその言葉の意味を理解すると、今度はそれが信じられないと言った感じに、

 

「えーっと、冗談ですよね? 我々をからかっているんですか?」

「いいや、嘘じゃないんだ。とにかく、今は黙ってついてきてくれないか」

 

 二人はまだ信じられなかったが、それでも鳳の醸し出す雰囲気から何かが起きたことを察して、彼の言う通り黙ってついていくことにした。執務室を出て玄関へ回り、急いで窓の外までやってくると、鳳はまだ部屋の中をぼんやり見ながら立っていた。

 

 息が届くくらい近づいたところで、ようやく彼は神人二人がやって来たことに気がつくと、そのまま黙ってすぐ隣の自宅へと歩いていった。二人がその後を追って玄関をくぐり、鳳の自室へと入っていくと、そこには言われた通り死体が転がっていた。

 

 ディオゲネスは死体に近寄るとしゃがみこんでその脈を取り、

 

「……これは、死んでいますね」

「ああ。俺がやっちゃったんだ」

「なんでこんなことに……」

 

 神人二人は顔を見合わせて言葉に詰まったが、ペルメルのほうが先に何かを思いついたように気を取り直すと、

 

「すぐに死体を片付けましょう。ディオゲネス、憲兵に命じて酔っぱらい同士の喧嘩で死んだことにしよう。ここで何も起きなかったことにするんだ」

「わかった」

「いや、そんなことしたら駄目だ。罪はちゃんと償わなければ」

 

 神人二人が死体を隠蔽しようと動き出すと、すぐに鳳がそれを止めようとした。しかしペルメルはそんな上司を諭すように、

 

「いいえ、ヘルメス卿。この程度の事件なんて、この世界じゃざらにあることです。あなたにくだらない経歴がつくよりは、何事もなかったことにして今まで通り職務に励んでいただいた方がこの国のためと言えるでしょう」

「いや、国のためとかじゃないんだ。俺が間違いを犯したことは、俺が一番良く知っているんだから、それを隠したままではいられないだろう。それに、その人を送ってきたのはクレアなんだ」

「……クレアが?」

「隠しても彼女には俺がやったことがすぐにバレるだろう。つい先日、その彼女の失敗を厳しく追求したくせに、自分の罪は隠すなんて、そんな卑怯な真似は出来ない」

「しかし……」

 

 ペルメルはそれでもまだ隠蔽できないかと臍を噛んでいたが、ディオゲネスがそんな彼の肩を叩き、

 

「ペルメル、いくら俺たちでもクレアの口を封じることは出来ない。仕方ないからここは一旦引き下がって憲兵を呼ぼう。それに、ヘルメス卿がどうして殺人を犯してしまったのか、その理由を聞いていない。それを聞いてからじゃないと、判断を下すにはまだ早いんじゃないか」

「……それもそうだな。ヘルメス卿。まずは落ち着いて何があったのか話して貰えませんか?」

「ああ、憲兵が来たら話すよ」

 

 鳳はしょんぼりと項垂れている。二人は頷きあうと、今度は事情を聞いた上で隠蔽工作が出来ないか考えようと心に誓った。しかし隠蔽なんて必要なかった。どうして鳳が殺人を犯してしまったのか、そのくだらない理由を知ったら誰でもそう思ったろう。

 

 間もなく憲兵隊がやってきて、彼らは驚きながらも室内の死体を外に運び出してしまった。普通なら現場を保存しようとしそうなものだが、この国にそんなちゃんとした警察組織など存在せず、ヘルメス卿の屋敷にいつまでもこんなものを置いてはおけないという理由で死体は運び出された。

 

 鳳の自宅は宿舎にも近かったから、異変に気がついた職員らが通りに出てこちらを見ていた。これはもう隠しようがないと判断したペルメルは、それならいっそ自分が殺したことにしてしまおうと、憲兵に口裏合わせをしようとした時、それは起きた。

 

 ディオゲネスに促されて鳳が玄関から出てきた時だった。突然、騒ぎを遠巻きに見ていた野次馬の中からクレアが飛び出してきた。彼女は真っ直ぐに鳳の前まで駆けつけると、驚いて彼女を止めようとしている憲兵を振りほどいてその場に土下座した。

 

「ヘル、ヘル、ヘル、ヘルメス卿! お、おお、お、お許しを!!」

 

 憲兵も野次馬も、突然飛び出してきた美女が額を地面に擦り付けている姿を見て呆気にとられている。神人たちも最初は戸惑っていたが、すぐにそれがクレアだと気づくと、

 

「クレア・プリムローズ。一体なんのつもりだ? 事情を説明してくれ」

「ああ! なんてこと! まさかこんなことになるなんて……その男娼を送りつけたのは私なんです」

「あ、ああ、そう言えばヘルメス卿もそうおっしゃってたが……?」

 

 するとクレアは額に泥をくっつけながら顔を上げると、惨めったらしく涙を流しながら、

 

「私、今日、いつまでも靡いてくれないヘルメス卿に、かなり強引に迫ったんです。会食も上手くいってムードもよくて、ヘルメス卿もその気になってくれてると思いました。でも、駄目なんです。それでもヘルメス卿は私のこと抱いてくれないんです。だから焦った私は強引にヘルメス卿を押し倒したんですが、彼はそんな私のことを押し退けて飛び出していってしまったんです!」

 

 クレアの声は意外と大きく、野次馬たちにも聞こえたようで、為政者たちの醜聞を聞いて辺りは一瞬騒然となった。しかし神人たちはそれに気づかず、

 

「それでどうしたんだ?」

「それで私、思い出したんです。以前、城にいた時、ホモと駆け落ちした勇者がいたってことを。だから私、てっきりヘルメス卿がホモなんじゃないかと思って、彼好みのマッチョを厳選して謝罪のつもりで行かせたのです。でも違ったみたいです。ヘルメス卿はそれに怒って、侵入者を殺してしまったみたいなんです」

「貴様……何てことしてくれるんだ! 完璧におまえが悪いんじゃないかっ!!」

「申し訳ございませんっ!!! だって私……わからないじゃないですか! まさかヘルメス卿が女に興味がなく、男にも興味がなくて……まさか不能者だったなんてっ!!」

 

 クレアのヒステリックな叫び声が、夜の庁舎街に響き渡る。

 

「もうやめてくれっっっ!!!」

 

 その余りにも失礼な言い分に堪らず鳳は怒鳴り声を上げた。

 

「俺は不能じゃない! ホモでもない! 平気で人を傷つけるようなこと言うなよ!! なんでお前は俺にそんなにつきまとうんだよ。普通にしてればお前が後継者だったのに……どうして大人しくしてられないんだ! 頼むからもう来ないでくれよ……」

 

 鳳の視界が涙でじんわりと滲んでいく。

 

「俺はこんな……こんな……勇者だなんだと言われてるけど、ちょっと人を小突いただけで、殺してしまうようになっちまったんだぞ!? 自分で制御するのさえ難しいのに、それなのに理性をふっ飛ばしてお前を抱いてしまったら何が起こるかわからないじゃないか! もうたくさんだ! 何もかも……こんな地位、欲しけりゃ誰にでもくれてやる。つーか、俺はずっとそう言い続けてるじゃないかっ!!」

 

 彼の瞳からはボロボロと涙が溢れ出した。神人二人は普段は冷静沈着な鳳が取り乱す姿を見て仰天した。クレアは目の前で男がメソメソ泣く姿を見せつけられて狼狽えた。彼らを取り巻く衆人たちが唖然としている。鳳はそんな彼らに向かって叫ぶように言った。

 

「何故、お前らはどっかからやってきたよそ者でしか無い俺に何もかもを押し付けるんだ! 自分の国なのに、どうして自分で良くしようと考えられないんだ! 何故、ロバートは自分の領民を苦しめても上に立ちたがるんだ! そんなに破滅したいなら、勝手に破滅してくれよ……俺は万能じゃない。何でも出来るわけじゃない。勇者の力なんて、人殺し以外に何が出来るって言うんだよ!!」

 

 突然取り乱す勇者を見て、野次馬たちがまるで珍しい動物でも見るかのように目を丸くしている。鳳はそんな野次馬を睨みつけると、何を見ているんだこの野郎と言わんばかりに、

 

「ライトニングボルト!!」

 

 彼が古代呪文を叫んだ瞬間、目が眩むようなまばゆい閃光が走り、ビシャン! と耳をつんざく音が轟いた。いや、それはもはや音という生易しいものでは無く、目の前に落ちた雷の衝撃のせいで、地震のように地面がグラグラ揺れていた。

 

 その一撃で数人が吹っ飛び、気絶した人々を見た野次馬が、悲鳴を上げて逃げ出していく。憲兵隊が失神している者、腰を抜かしている者を引きずって、慌てて現場から遠ざかっていく。鳳はそんな衆人を追い立てるように、何度も何度も魔法を連発した。

 

「ライトニングボルト! ライトニングボルト! ライトニングボルト!!」

 

 轟音が夜の官庁街に轟き、もうもうと煙が立ち込める。すぐ側にあった庁舎でまだ残業をしていた職員が、驚き飛び出してきて、鳳の形相を見て逃げ出していった。見れば庁舎の二階の窓からも、我先にと飛び降りる職員の姿が見える。

 

 神人二人は癇癪を起こした鳳に驚いてずっと固まっていたが、ペルメルはそれを見てハッと我に返ると、

 

「ヘ、ヘルメス卿! もう、おやめください! 庁舎が壊れてしまいます」

「うるさいっ!! 俺をヘルメス卿と呼ぶなっ!!」

 

 鳳が振り返りざまに拳を振り下ろすと、その一撃を食らったペルメルが吹き飛んでいった。彼はまるで水切りの石のように地面を何度もバウンドしながら転がっていって、やがて遠くの宿舎の壁に激突して気絶した。

 

 その衝撃に驚いた宿舎の住人が身の危険を感じて飛び出してくる。その中に赤ん坊を抱えたルナとアリスの姿を見つけると、鳳は何故か余計にむしゃくしゃするものを感じて、古代呪文を滅多矢鱈と打ち続けた。

 

 ドーン! ドーン! ドーン!

 

 っと、魔王が現れたときのような巨大な振動音がいつまでも続いた。こうなってはもはや彼を止められるものなどこの世にはおらず、ディオゲネスは腰を抜かしているクレアの首根っこをつまみ上げると、同じく宿舎の壁に激突して気絶しているペルメルを抱えて避難していった。

 

 その後、鳳の凶行は、彼のMPが尽きるまで続いた。その間に街の人々は全員逃げ出していて、彼が肩で息をしながら周囲を見渡した時には、もう街は無人になっていた。

 

「静かだ……俺は自由だ……誰にも邪魔されない……自由で……静かだ……」

 

 彼は誰も居なくなった街を見て、清々しい表情でそんなセリフを口走った。だが家に入ろうとして振り返った時、すぐ足元の地面に男娼の死体が転がっていることに気づいて、その場に崩れ落ちるように腰を落とした。

 

「ごめん……ごめんよ……ごめんなさい……」

 

 彼は死体に向かって涙を流しながら、何度も何度も謝罪の言葉を口にした。だが、いくら謝ってももう生命は戻ってこない。彼はその儚さを知ってますます罪の意識を深めていった。

 

 それからどれくらいの時が経っただろうか。声が掠れてガラガラになるまで謝罪を続けた彼はようやく立ち上がると、これ以上死体が晒されないように、憲兵が用意した筵を彼にかけてから、花を摘んでその横に置いた。

 

 両手を合わせて、とにかく安らかに眠って欲しいと、何度も何度も祈りを捧げると、彼は無表情のまま自室へと戻っていった。

 

 今晩はもう誰もこの街に戻ってくることは無いだろう。明日になったら神人二人が様子を見に来るかも知れないから、そうしたら彼らにヘルメス卿を辞めると伝えて、この街を出よう。

 

 さっき、ペルメルをぶっ飛ばした時、もはや力の制御が出来なかった。それが怒りによるものなのか、魔王化のせいなのか分からなかったが、クレアに対する欲情を考えても、いい加減限界を迎えているのは間違いないだろう。

 

 魔法を連発していた時も、彼は一発も人に当てることは無かったが、途中からはもしこれを当ててやったらどれだけスカッとするだろうかと、そんなことばかり考えていた。もしも人々が逃げずにここに留まっていたら、きっと今ごろ彼は罪を重ねていたことだろう。次、いつそうなるか分かったもんじゃない。もう潮時だ……

 

 部屋に入ると彼は空っぽになったMPを回復するためにモルヒネを探した。本当はそんなものここには無いと分かっていながら、彼は部屋中のあらゆる物というものをひっくり返してクスリは無いかと探して回った。途中からはむしゃくしゃして、まるで投球練習みたいに掴んだ物を壁に向かって投げつけていたが、やがて部屋がその残骸だらけになると虚しくなってやめた。

 

 残骸を部屋の片隅に押しやってから、彼はワインの瓶をひっつかむと、炭酸飲料みたいにごくごくとそれを飲み干した。それを二本、三本と立て続けに飲んで、途中からは浴びるように飲むというか、本当に頭から浴びるようにしてワインを飲んだ。服がびしょびしょに濡れて気持ち悪いから、全裸になろうとしてズボンを脱いだらプンと栗の花の臭いが漂ってきて、腹が立ってワインの瓶を叩き割った。

 

「誰が不能者だ。くそっ……バカにしやがって」

 

 やはりあの時、犯せばよかった。犯して殺してやればよかったのだ、あんなやつ。あいつがそれを望んでいるのだから。誰がホモだ。子作りしたい? どんだけ自分に自信があるんだ、あの女は……

 

 鳳はむしゃくしゃする気分を紛らわせようと、ワインを立て続けに飲み続けた。だが、いつまで経っても酔いはこず、口を突いて出る怒りの言葉と人を殺してしまったという罪悪感とで、彼の気分は台風に翻弄される船のように激しく浮き沈みし続けた。

 

 もしかして自分はもう魔王になってしまったから酔えないのでは? などと思いながら、鳳はひたすら肝臓をイジメ続けていたが、いくら魔王でも体内に入ったアルコールを分解しようとする生命の安全装置はちゃんと機能していたらしく、彼はそのうち自分の正体が分からなくなるくらい酔っ払っていった。

 

***********************************

 

 深夜。街は静まり返っていた。癇癪を起こした鳳の凶行によって、官庁街に住む人々は避難を余儀なくされていた。その時、宿舎にいたアリスもルナと共に街の外れにある孤児院に避難してきて、不安な夜を過ごしていた。

 

 職員に協力して泣いて怯える子供たちを寝かしつけたあと、アリスは乳飲み子を離せないルナを置いて一人で外に出た。いくら危険とは言え、鳳のことを放っておけないと思ったのだ。

 

 避難所はヘルメス卿の大暴れの噂で持ちきりで、職員の中には怖いからもう仕事を辞めたいなどという者さえいた。

 

 だが、彼があそこまで大暴れしたのは日々伸し掛かる責任の重さと、人々の勝手なふるまいのせいであり、追い詰められているのは寧ろ彼の方だろう。なのに、誰一人として彼を助けようとはせず、愚痴を言い合うなんてあんまりだとアリスは思った。

 

 鳳は今ごろ、一人で塞ぎ込んでいることだろう。あの時叫んでいた彼の様子からしても、明日になれば気が晴れるようなものではないはずだ。もしかすると最悪の事態もありうるかも知れない。今は一人にしちゃいけない。誰かがそばにいてあげなければ……彼女はそう思うと居ても立っても居られず、怒られるかも知れないと思いつつ、鳳の様子を見に行くことにした。

 

 街は文字通り人っ子一人居ないゴーストタウンになっていた。耳鳴りがするくらい静かな通りを抜けて鳳の家の前まで来ると、彼が殺してしまったという死体がちゃんと筵に包まれて、横には花が添えられていた。やはり自分がしでかしてしまったことに、相当傷ついているのだろう。アリスは死体に手を合わせると、音を立てないように慎重に家の中へと入っていった。

 

 家には鍵が掛かっていたが、以前締め出されたことがあったから、その後もしもの時のためにと神人二人からこっそり鍵を預かっていた。彼女は悪いと思いつつもそれを使って家に入ると、息を潜めて鳳の部屋を覗き込んだ。

 

 もしかして自殺してたりしないかと心配したが杞憂であった。鳳はそこまで馬鹿ではなく、ちゃんと生きているようだった。その代わり、部屋の中には酒の匂いがプンプンと漂っていて、その臭いを嗅いでいるだけで酔っ払ってしまいそうだった。

 

 おそらく彼自身がやったのであろう、部屋の中はメチャクチャで足の踏み場もなかった。鳳はそんな中で何故か全裸でソファに寄り掛かるように倒れており、酒瓶を片手にハアハアと苦しそうな息を立てていた。

 

 散らかった床には、怒りにまかせて割ってしまったガラスの破片がパラパラと落ちていて、彼の皮膚にいくつも突き刺さっていて痛々しかった。アリスはこのまま放っておいたらまた怪我をしてしまうと思い、慌てて手近にあった箒を取ると、恐る恐る部屋の中へと入っていった。

 

「勇者様……ご無礼をおゆるしください」

 

 鳳は相当酩酊しているのだろうか、アリスが部屋に入ってきても気づいていないようだった。怒られるかも知れないと覚悟していた彼女はホッとしてため息をつくと、すぐにガラスの破片を箒で掃き集めた。

 

 出来れば部屋の片付けまで行いたかったが、流石にそこまでやっては叱られるだろう。だからせめて鳳がこれ以上怪我をしないように破片だけを片付けると、彼女は散らばっていた酒瓶を集めて、彼がまた割ったりしないように廊下へと持ち去った。

 

 また部屋に戻ってきて鳳を見ると、彼は最初に見た時と同じようにソファに寄り掛かってフラフラしていた。起きているのか寝ているのかわからない様子で、時折重力に負けそうになってビクリと体を震わせている。

 

 何故か服を着ておらず、今は酒で体が温かいかも知れないが、このまま放置していたら明け方には風邪をひいてしまうだろう……いや、確実にひくし風邪で済むとも思えない。毛布を掛けてあげるつもりではあるが、せめてソファの上に移動してくれないかと思い、彼女は恐る恐る彼に近づいていった。

 

 近寄って、顔を覗き込んでも彼はまだ気づかない様子だった。これなら大丈夫かなと思い、彼女は眠ってる子に話しかけるように静かに話しかけてみた。

 

「あの、勇者様? 肩をお貸ししますからベッドまで移動しませんか?」

 

 すると鳳は思ったよりも素直にその言葉に頷くと、持ち上げようとするアリスに体重を預けてよろよろと起き上がった。どうやら本能的に寝床に向かおうとしてくれているらしい。彼女はホッとして彼をベッドまで誘導した。

 

 細身とは言え男女の違いや身長差もあり、彼女にしてみれば鳳の体はかなり重かった。それでもどうにかベッドまでよろける彼を導くと、彼女はここに寝てくださいと彼をベッドの縁に腰掛けさせようとした。

 

 ところが、酩酊している彼にはベッドの位置が分からず、そのまま地面に尻もちをつきそうになった。慌てたアリスが彼を持ち上げようとして抱きつくと、二人はそのままもつれ合うようにして転がった。

 

 ドスンと背中からベッドに落ちて、アリスはほんの少しむせ返った。自分より体の大きな鳳の下敷きになって、肺が圧迫されて苦しかった。慌てて押し返そうとしたが、彼の体は重くてびくともしなかった。仕方ないから横に転がるようにして抜け出そうとしたら、何故かその体をがっしりと掴まれた。

 

「あの……勇者様?」

 

 彼はアリスの腕を強い力で掴むと、まだ半分床の上にあった彼女の体をグイとベッドに持ち上げた。ふわりとした浮遊感とともに、アリスはベッドの上に寝転がった。鳳はそんな彼女の体に覆いかぶさると、ぎゅっと背中に手を回して抱きついた。彼女は彼が寝ぼけているのだと思い、慌てて抜け出そうとした。しかし鳳の力は信じられないくらい強く、彼女がどんなに身を捩ってもびくともしなかった。

 

 どうしよう。もしかして布団と勘違いされていて、このまま朝まで離して貰えないんじゃないか。彼女がそんな呑気なことを考えていると、その時、鳳が身を捩って彼女の首筋にぬるりとした感触が走った。何をしているんだろう? と戸惑っていると、今度は胸や下半身をまさぐるような感触がして、彼女は彼が何をしようとしているのかようやく気がついた。

 

「や……やめてください!」

 

 それまで彼を起こさないように気を配っていたアリスは、ここに来てようやく本気で抵抗しはじめた。しかし、小柄な彼女が男の力に勝てるはずもなく、彼女の必死の抵抗は襲いかかる獣を一ミリすらも動かすことが出来なかった。彼女は彼に抱きつくように背中に回した手で、背中をドンドンと叩いたが、既に気がついているであろうに、彼はその振動すら無視して彼女の股間をまさぐっていた。

 

 下着を引っ張られる気配がして彼女は内股に力を込めてなんとか抵抗しようとしたが、強引な彼の力に負けてそれは簡単に脱がされてしまった。あまりの恥ずかしさに、彼女は顔が紅潮していくのを感じたが、もはやそんな事を気にしている場合ではなかった。

 

 その時、信じられないほど硬い何かが彼女の下腹部の辺りに触れた。男の怒張したペニスなど見たことのなかった彼女は、最初はそれが何だか分からなかったが、すぐに自分に何が起きようとしているかを察すると、もはやなりふり構わず叫び声を上げた。

 

「やだっ! やめてっ!! 助けてっ!!」

 

 彼女の必死の叫び声と火事場の馬鹿力で、今度はほんの少し鳳の体が持ち上がった。だが本当にそれは一瞬のことで、すぐに彼女は力尽きると、鳳の体に覆い被さられて、今度こそ少しも身動きが取れなくなった。

 

 腕を掴まれていては叩くこともかなわず、身を捩って抜け出そうとしても彼の体はびくともしない。

 

 と、その時、鳳が彼女の足の間に下半身をねじ込もうとしてるのを察知して、彼女はまた必死に内股を閉めようとした。だがそれもまた一瞬のことで、すぐに彼女は力負けすると、間もなく脳天まで突き上げるような信じられない痛みが走った。

 

「痛いっ! 痛いっ!! 痛いっ!」

 

 まだ幼く、そして何の準備もしていない彼女の体にはそれは快感でもなんでもなく、ただひたすらナイフを突き立てられるような痛みでしか無かった。体の中をザリザリとヤスリで削られているような痛みが走る。耐え難い苦痛から逃れたくて、何度も何度も鳳に懇願しても、もはや彼は自分が何をやっているのかすらわからない感じで、一心不乱に腰を動かし続けていた。

 

 痛い。やめて。何度お願いしても、彼女に覆いかぶさる男はその動きを止めてくれなかった。それまでずっと信頼していた人に、自分がされていることを中々受け入れられず、彼女は痛みの中で懸命にその理由を探した。だけどそんなものいくら考えても見つからず、強烈な痛みに気が遠くなっていく中で、だから彼女は自分を責めることにした。

 

 きっとこれは罰なのだ。

 

 彼女が勇者に、お嬢様を助けてなんて、無理を言った報いなのだ。ずっと彼は、自分はヘルメス卿じゃないと言っていた。最初から、彼はこんなことなどやりたくなかったのだ。なのに、自分たちが転がり込んできたせいで、彼の人生が変わってしまった。あの時、自分が彼に助けを求めなかったら、彼はこんなに苦しむことはなかったのだ。だからこれは全部自分のせいなんだ。

 

 彼女は突き抜けるような痛みと信頼していた人から受ける凶行の中で、必死にそんなことを自分に言い聞かせていた。やがて意識が薄れていって、彼女はついに痛みを感じなくなった。それでも彼女は最後まで、一度も彼を恨もうとは思わなかった。

 



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違うだろうっ!

 すごい愉悦だった!

 

 自分のことをバカにしたあのクレアを抑えつけ、四つん這いにして無理やり後ろからガンガン突き上げてやったのだ。彼女は鳳の巨根に屈し、自らもっと犯して欲しいと懇願した後、何度も何度も果てたのだ。ざまあみろ。男をバカにするからそんなことになるのだ。鳳は快感で身悶えているクレアに吐き捨てるように怒鳴りつけてやった……

 

********************************

 

 ……最悪の目覚めだった。

 

 頭の中で工事でもしているかのようなガンガンとした痛みが走り、何故か体のあちこちに切り傷が出来ていてヒリヒリしていた。よほど飲みすぎたせいか、刺激を受け続けた胃がビクビクと痙攣して吐き気がした。体がフラフラしているのはまだ血中に大量のアルコールが残っているからだろう。

 

 素っ裸で寝てしまったからか体が完全に冷え切ってしまい、寒気がしてブルブル震えていた。悪寒がするのは、もしかすると二日酔いのせいだけじゃないかも知れない。

 

 夢見も悪かった。昨日クレアに言われたことを、よっぽど気にしていたのか、彼女を犯して言うことを聞かせる夢を見ていた。夢の中の彼女は素直で可愛かった。それを起き抜けに思い出して、気分は際限なく沈んでいった。

 

 これ以上ないほど最悪の目覚めだ。

 

 だがそう思ったのは束の間のことで、最悪はもっと別の形で現れた。

 

 とにかく、こう頭が痛くてはやってられない。まずは顔を洗って服を着て、アルコールを抜くため水を飲まねば……そう思って体を起こし、ベッドから降りようとした時だった。

 

 立ち上がろうとして手をついたら、何かいつもとは違う感触がした。あれ? と思って振り返ると、鳳の下敷きになるような格好でベッドの上にアリスが寝ていた。

 

 なんでこんなところに彼女がいるんだ? と思いはしたが、すぐにそんな考えは忘れてしまった。見れば彼女の服のあちこちがはだけて白い肌が晒されおり、ところどころ蚊に刺されたような痕が見える。そしてめくれ上がったスカートの下から覗く足の付根の辺りには、乾いた血の跡がべっとりとついていた。

 

「なん……で?」

 

 鳳は言葉を失った。一瞬にしてパニックに陥り、何をどうしていいかわからなくなった。びっくりするくらい動悸がしてきて、さっきとは比べ物にならない目眩が襲ってきた。信じられない程の罪悪感が押し寄せてきて、胸が苦しく張り裂けそうになった。呼吸をするのを忘れてしまっていたようで、ようやくそれを思い出して息を吸い込んだ瞬間、大量の汗がにじみ出てきて、さっきまでの寒気を助長して体の震えが止まらなくなった。

 

 しかしこれだけ動揺していても、自分が何をやってしまったのかはすぐ理解出来た。理解して、そして物凄い吐き気が襲ってきた。彼はベッドから飛び降りると、まっすぐ部屋の窓を開けて外に向かってゲロを吐いた。胃がひっくり返るような強い圧迫感が下からこみ上げてきて、何分間もげえげえ吐き続けた。

 

 胃の中身を全部吐き出すまで吐き気が収まらず、それがようやく収まった時には気力も体力もごっそり奪われていた。視界は涙で滲んで周りは何も見えなくて、もうこのまま何もかも投げ出して気絶してしまいたかったが、今は自分のことなど気にしていられないと、どうにかこうにか気を取り直し、彼は開け放った窓から叫んだ。

 

「誰か! 誰かいないか!! ペルメル! ディオゲネス!」

 

 しかし街はひっそりと静まり返っており、誰の返事もかえってこなかった。地面にはところどころ黒い焦げ跡が残っており、昨日、自分がさんざん暴れまわったせいで、町の人達がみんな逃げ出してしまったのだと彼は気づいた。

 

 どうすればいいのだろうか……? わからなかったが、とにかくアリスをこのままにしてはおけないと思い、彼はたった今逃げ出してきたばかりのベッドに戻った。彼女はそのベッドの上で、死んだように眠っていた。その姿が、これが夢ではなく現実であることを、嫌でも彼に思い出させた。

 

 どうしようもない後悔の念が押し寄せてくる。

 

 動悸と目眩で頭がおかしくなりそうだったが、それでも彼は彼女に近づくと、手を取って脈を取り、生きていることを確認した。しかしそれでホッとしてはいられなかった。彼女の呼吸は弱々しく、顔色は真っ青で死人のようだった。体のあちこちが擦り傷だらけで、よほど自分が乱暴にしてしまったのだろう。

 

「アリス……アリス!」

 

 呼びかけても返事はなく、揺すってもピクリとも反応しなかった。投げ出された手足は人形のように力なく、放っておいたそのまま死んでしまいそうだった。

 

 このままじゃいけない……でも、どうしたらいいのだろうか……?

 

 鳳は反応を示さないアリスを前にして、オロオロと部屋の中をうろつきまわることしか出来なかった。彼は医者じゃないから、今彼女に起きていることがわからなかった。やがて、とにかくその医者を呼んでこないと始まらないと思った彼は、服を着てフェニックスの街まで医者を呼びに行こうと考えた。だが服を着ている途中で考えが変わって、彼はベッドの上に寝ていたアリスを抱き上げると、取るものも取り敢えず家から飛び出した。

 

 確か町外れの孤児院には医務室があったはずだ。医者を頼るなら、とにかくそこへ連れて行くのが一番早いだろう。彼はアリスを担ぎながら、ひっそりと静まり返る街の中を駆け抜けた。

 

 空はようやく白み始めたばかりで、まだ足元も覚束なかったが、そんな薄闇の中でも彼はどうにか孤児院までやって来れた。寝静まっている建物を見ると、古い田舎の小学校みたいな建物の端っこから明かりが漏れていた。子供たちがいつ体調を崩すかわからないから、医療スタッフが常駐しているのだろう。彼は迷わずそっちへ向かった。

 

 医療室は学校の保健室みたいなもので、外からでも内からでも入れるように勝手口がつけられていた。彼はその入り口に立つと、アリスを抱えて塞がっている両手の代わりに、足を使って扉をドンドン叩いた。

 

 その音が思ったよりも大きかったからだろうか。間もなく、中から不機嫌そうな表情をした女性が出てきて、

 

「なんです? 騒々しい。そんなに大きな音を立てなくても聞こえていますよ……どうしたんですか?」

 

 確かカナンの診療所にいたアスタルテという名の看護師である。鳳は彼女に向かってアリスに起きたことを伝えようとしたが、言葉に詰まって何も出てこなかった。彼が入り口に突っ立ったままソワソワしていると、アスタルテはその腕に抱かれているアリスの様子を見て察しがついたらしく、

 

「……言いたいことは山程ありますが、今はとにかく治療が先です」

 

 彼女は鳳の胸ぐらをぐいと掴んで診療所の中に引っ張り込むと、戸惑っている彼にアリスを寝台に寝かせるように指示してから、パタパタと足音を立てて続きの部屋に駆けていった。

 

 間もなく、そこで仮眠していたであろう看護師たちが集まってきて、棒立ちしている鳳とアリスを見比べて暫し動揺したあと、気合を入れ直すかのように、シャンと背筋を伸ばして動き始めた。アリスを救うため、生々しい指示が飛び交っている。

 

「体を拭くお湯を。それから定期的に呼びかけて」「縫合を必要とする傷はありません」「ザーメンを吸い出すポンプを持ってきてください」「ポンプってこれですか?」「違う、そっちのシリンダー」「えーっと……」「これですよ。わかりませんか」「すみません」「先生、お湯を沸かしてきました」「そこに置いてください」

 

 アスタルテが中心となって、忙しそうに看護師たちに指示を飛ばす。彼女は人肌に温めた濡れタオルで、寝台に横になっているアリスの下半身を拭おうとして、すぐ何かに気づいたように手を止めると、振り返って鳳をドンと突き飛ばした。

 

「治療の邪魔です。出ていきなさい」

 

 廊下に押し出された鳳は、まるで紙切れのようによろよろとよろけて、壁に激突してズルズルとその場に腰を落とした。バタンとドアが閉じられて、中から緊迫した会話と忙しそうに動き回る足音が響いてくる。

 

 鳳が自分のしでかしたことに後悔しながら両手で顔を覆っていると、足音が近づいてきて彼の横でピタリと止まった。恐る恐る顔を上げれば、院長のベル神父が神様みたいな厳かな表情でじっと鳳のことを見下ろしていた。その顔を見ているだけで、彼は物凄い罪悪感を感じてドキリとしたが、神父はそんな鳳に向かって思いのほか優しい声で、

 

「ついてきなさい」

 

 彼はそう言うと背中を向けて歩きだした。その背中に生えた羽がパタパタとはためいている。鳳がどうしたらいいんだろうかと迷っていると、神父は数メートル先で立ち止まって振り返り、黙ってじっと彼のことを見ていた。彼はその目に急かされるように立ち上がり、先を行く翼人の後に続いた。

 

 外は大分白んできて陽が差し始めていた。鳳が連れてこられたのは礼拝堂で、窓から差し込む光に照らされた十字架が神々しかった。アリスの快気をお祈りでもするのかと思いきやそうではなく、彼は礼拝堂の隅に設けられた小さな部屋の扉を開けて鳳に入るように促してから、自分はもう一つある別の扉から中に入っていった。

 

 多分これはテレビなんかで見たことのある懺悔室だろう……鳳は少し迷ったが、やがて意を決して中に入っていった。

 

 室内には椅子が一脚だけあって、壁の向こうからは人の気配がした。入ってきた扉を閉めて椅子に座っていると、その壁にあった小さな窓が開いてベル神父が顔を覗かせた。

 

「ここで話したことは誰にも聞かれません。これは神とあなただけの対話です。父と子と精霊の御名によって。アーメン」

 

 ベル神父は十字を切ってパタンと窓を閉じた。その瞬間、静寂が戻ってきた。向こう側の人の気配ももう感じられず、鳳は本当にこの世界にたった一人になってしまったように感じた。彼はどうしようと戸惑っていた。まごついていると、壁の向こうから凛然たる声が響いてきた。

 

「神を信頼し、あなたの罪を告白しなさい」

 

 その言葉を聞いた瞬間、鳳は罪を犯してしまったのだと言う事実が、今までで一番強く感じられたような気がした。きっとそれまでは、どうやって後始末をつけようと、そんなことばかり考えていたのだろう。まずは罪を受け入れなければならない。そう思ったら、胸のつかえが取れたかのように、自然と言葉が口から出てきた。

 

「人を殺してしまいました……この世界に来たときから、いつかそんな日が来るんじゃないかと思っていました。俺はその罪に耐えきれず、酒に逃げました。酒に溺れ、気がついたら、女の子を傷付けてしまいました。

 

 このところずっと、好きだった幼馴染の声が聞こえてきたんです。殺せ、殺せって……それは憎しみを助長し、精神を蝕んでいきました。俺は昔、その女の子を他人に傷付けられて亡くしました。だから俺は絶対にそうならないと誓ったはずなのに、やってることは彼らと同じだったんです。

 

 力が制御出来ないんだから仕方ないじゃないかとか、むしゃくしゃしていたとか、クレアが悪いとか、仕事のストレスだとか……言い訳ばかり思いつきましたが、そんなもん全部ひっくるめて間違いでした。

 

 俺は単に、自分の弱さを受け入れられなかっただけです。とんでもない間違いを犯しました……

 

 魔王を倒してから体に異変が起きていたんです。気がついたら勝手にどんどん経験値が入ってきて、常人とは比べ物にならない力が溢れてきました。見ないように見ないようにしていましたが、勝手に上がり続けるレベルを前に……俺はこの力を使えばどんなことでも出来るという優越感や、他人とは違うという特別感に、知らず識らずの内に捕らわれていたんだと思います。

 

 STRを高くしたのも間違いでした。今の俺は軽く小突くだけで、簡単に人を殺すことが出来るんです。幻聴も聞こえるし、そのせいか俺は怒りをコントロールするのが段々難しくなってきて、殺人衝動や性衝動が抑えられなくなっていました。魔王化の影響があったんです。俺はそれが分かっていながら、いつまでも人の間で暮らしていたんです。

 

 本当はさっさとここから出ていかなきゃいけなかった。

 

 あと少し、ほんの少しでいいから、せめて領内が落ち着くまで……クレアが領主と認められるまで……ルナの子供が手がかからなくなるまで……そんな風に理由をつけて、その日を遠ざけてきたんです。

 

 魔王になってしまうくらいなら、いつでも死んで良いと思っていたのに。俺は本当は……怖かったんです。みんなと別れるのが……辛かったんです。

 

 でも……今は誰かを傷つけることの方がずっと怖い……アリスは何も悪いことしていないのに……一生懸命だったのに……そんな彼女の尊厳を踏みにじってしまうなんて。俺は自分が許せない。

 

 もう、限界だったんです。このままここに俺がいたら、世界を滅ぼしてしまうかも知れない。そうなる前にもう俺はここから出ていこうと思います……」

 

 鳳の長い告白が終わり、また沈黙が訪れた。それから一分くらい静寂が続いたあと、壁の向こうから神父の厳かな声が聞こえた。

 

「許します。あなたが罪を告白し、心から悔い改めようとしていることを、神は必ずお許しになるでしょう」

 

 鳳は壁の向こうに向かってペコリとお辞儀した。正直、信者でもなんでもない自分にその言葉が何の意味を持つのか分からなかったが、ただ許すという言葉を聞いただけで、何だか無性にありがたくなった。だが、そんなのは一時的な感情でしかないことは彼もわかっていた。

 

 懺悔室から出ると、すぐ反対側の扉の脇に既に神父が立っていた。彼は告白を聞いて、鳳が街を出ようとしていることを知り、思いとどまるよう何か言葉をかけてあげたいと思ったが、職務に忠実である彼には出来なかった。二人は無言で頷きあうと、そのまま礼拝堂から出ていった。

 

 と、廊下に足を踏み入れた時だった。そこをたまたまルナが通り過ぎようとしていた。深刻そうな表情の彼女は礼拝堂から神父と鳳が出てくるのを見つけると、始めはハッとした顔で立ち止まってから、すぐにバツが悪そうな表情を作り、鳳から視線を逸らせながら神父に訴えかけるように言った。

 

「あの……アリスが運び込まれたと聞いて……」

 

 医務室の場所を探していたのだろう。鳳はその態度から彼女が既に事件のことを知っていると悟ると、歯を食いしばり、深々と頭を下げながら、

 

「……申し訳ありませんでした」

「あ……ヘルメス卿」

 

 彼は何かを言いかけているルナを真っ直ぐ見ることが出来ず背中を向けた。ルナはそんな彼の背中に声をかけることが出来ず……そうこうしているうちに耐えきれなくなった鳳の方からその場を後にした。

 

 歩く速度が機関車のように、次第に早くなっていき、建物から出た時にはもう殆ど駆け足になっていた。

 

 鳳はハアハア呼吸を荒げながら無人の街を駆け抜けた。既に日が昇って明るくなった街には砂埃が舞っていて、まるで西部劇の鄙びた荒野の町みたいだった。

 

 自宅の近くまでやってくると、昨日の爪痕がくっきりと残っていた。地面はところどころ真っ黒に焼け焦げていて、ボコボコ穴が開いていた。雷の直撃で崩れたのであろう、庁舎の屋根から何枚も瓦が落ちていた。その衝撃でほとんどの窓が割れて、足の踏み場もないほどガラスの破片が散らばっていた。

 

 彼は自室に飛び込むと、大森林にいた頃から愛用していた大きなリュックを引っ張り出してきて、とにかく手当たりしだいに荷物を詰め込み始めた。今の自分なら大森林に入りさえすれば食料の調達は難しくないはずだ。だから着替えと火付け道具一式を入れ、あとは薬草やこまごまとした物をリュックに詰めると、彼はそれを背負って外に出た。もはや一刻の猶予もない。早く旅立たなければならない。これ以上ここに留まれば、もっと多くの人達に迷惑をかけてしまう。

 

 ところが、そう決心して家を飛び出した彼の前に、一人の女性が立ちはだかった。彼女は罪悪感と焦燥感のせいで硬直している彼の顔を、ここは通さないといった決意を秘めた目でじっと見つめていた。

 

 鳳はその眼力に負けて視線を逸らした。この様子なら、既に彼女も彼がしでかしたことを知っているのだろう。この世界に来てからずっと一緒にいた相棒……ジャンヌだった。

 

 ジャンヌは両手を大きく広げて鳳を通せんぼするように立ちふさがると、キッと睨みつけるような視線で彼に向かって言った。

 

「どこへ行くつもり?」

 

 鳳はその目を真っ直ぐ見ることが出来ずに下を向きながら、

 

「……どいてくれ。俺はここから出ていかなければならない。お前は既に知ってるだろう? この世界の勇者は、魔王を倒した後に魔王化の影響に晒されるんだ。世界そのものが魔王を求めて強い個体を支配下に置こうとしている。俺はそれに負けないようにしていたが、どうも限界みたいなんだ。これ以上ここにいたら、また誰かに迷惑をかけてしまう。だから行かなきゃ……」

「バカヤローーーッッッ!!!」

 

 まるで疾風のような速さでジャンヌの拳が飛んできた。下を向いていた鳳はそれを見ることすら出来ず、直撃を食らって吹っ飛んでいった。物凄い痛みが頬に突き刺さり、ミシミシと音を立てて奥歯が折れた。

 

 彼はよろけながら壁まで吹き飛んでいくと、ドンと壁に肩を打ち付けてその場に崩れ落ちた。ヒリヒリと痛む頬っぺたと、ジャンヌに殴られたというショックで、彼の足は痺れたように動かなくなった。

 

 鳳は呆然としながら、懇願するように言った。

 

「聞いてくれ! もう自分でも抑えられないんだ。日に日に強くなっていく殺人衝動と、女を支配したいという欲望が……俺はもう、ちょっとイライラしただけで人を殺したくないんだ! あまつさえ、俺のことを信頼している女の子を傷付けたくなんて……だから頼むよ! 俺をこのまま行かせてくれ! 俺は魔王になるくらいなら……やっぱり死んだほうがマシなんだよっっ!!!」

「違うだろうっ!!!」

 

 しかしジャンヌは譲らなかった。彼女は目を真っ赤にして顔を紅潮させながら、なおも言い訳をしようとしている鳳に向かって叫ぶように言った。

 

「お前の気持ちなんかどうでもいいんだよ。逃げようが死のうが、好きにすればいいだろう!? 魔王になるってんならなればいい。その時は俺が止めてやるっ! ……でも今はそうじゃないだろう? まずは、ちゃんと謝りなさいよっっっ!!!」

 

 鳳はその言葉を聞いた瞬間、ハンマーで頭を殴られたような気分になった。

 

「傷付けてしまった子がいるなら、ちゃんと謝りなさいよ。それで罪が消えるわけでも、許してもらえるかもわからないけど……そうしないでこのまま逃げてしまったら、あなた死んだって後悔するわよ?」

「ああ……ああ……ああああああああぁぁぁぁぁ~!!!」

 

 鳳は馬鹿みたいに雄叫びを上げていた。それはいつしか涙声に変わっていき、止めどなく溢れる涙で、顔はぐしゃぐしゃになっていった。

 

 自分は罪悪感に押しつぶされて、また間違えそうになっていたのだ。みんなのためだと偽ったり、罪を犯した罰だとか言って格好つけたり、そうやって逃げ出そうとしていたのだ。

 

 ジャンヌに殴られ、責められ、その痛みで彼はようやく自分の間違いに気がついた。

 

 彼は絶対に許さないと思っていた連中と同じようなことを、自分がやろうとしていたことがショックで、そのあまりの情けなさで、体の力が全部抜けてしまった。

 

「さあ、行きましょう。駄目なら、私も一緒に謝ってあげるから」

 

 ジャンヌはそんな彼の腕をぐいと引っ張り上げた。肩に伸し掛かる鳳の体はずしりと重くて、殆ど自分で立っていることが出来ないようだった。彼女はそんな彼を担ぐようにして、ふらつきながら歩いていった。

 

 朝日に照らされた二つの影が折り重なって一つに見えた。二人の影はこんなに仲良さそうに見えるのに、どうして二人の心はこんなに離れてしまったのだろうと、ジャンヌは思った。

 



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だからこそ

 騒動から一夜が明けて、孤児院には子供たちの笑い声が戻っていた。ここに避難していた官庁街の人々も、少しずつ家へと戻り始め、街は日常を取り戻そうとしていた。

 

 彼らは自分たちが戴く勇者の力を目の当たりにして、そしてその両肩に伸し掛かる責任の重さを知らされて、このままにしておいて良いのかと考え始めたが、誰も結論は出せなかった。

 

 力を持てば幸せになれる。人は誰しもそう思うから努力をするのだろう。だが魔王をも凌駕する過ぎたる力が、ただの人間にどんな影響を与えるかは誰にも想像できないのだ。誰だって、立ち向かうより逃げ出すほうがずっとマシなのだから。

 

 孤児院の多目的室には人が集まっていた。ペルメル、ディオゲネス、クレア・プリムローズ……ヴァルトシュタイン、ルナ・デューイ、ルーシー、ミーティア、そして部屋を提供しているベル神父。そんなメンバーがもう一人の勇者の片割れ、ジャンヌを囲んで深刻な顔を向けあっていた。

 

 罪悪感に打ちひしがれる鳳を連れ帰ってきたジャンヌは、この期に及んで隠し事はしていられないと、関係者を集めて彼の身に起きていることを話すことにした。彼女は既に、昔の仲間であるソフィアからすべてを聞いて知っていたからだ。

 

 この世界の住人は、実は四柱の神ラシャの影響を受けていて、戦闘力が強いものほどそれに影響されやすい。魔族はそのせいでお互いに殺し合い、ひたすら強い個体を生み出す種族となっているのだが、人間や神人であっても、魔王を超える力を手に入れてしまえば、ラシャは種族間を越えて魔王を生み出そうとしてくる。

 

「300年前の魔王の正体は、そうしてラシャの影響を受けて魔王化した真祖ソフィアだったのよ。でもその魔王が勇者に倒されたことで、今度は勇者がラシャの影響を受け始めてしまった。勇者はその後、忽然と姿を消すわけだけど、帝国はその事実を隠して、魔王の遺伝子を持つ勇者の子孫を駆逐して回ったの。もしかしたら、彼らの中から新たな魔王が生まれるんじゃないかと恐れてね」

 

 室内にどよめきが起きる。彼らはジャンヌの話をすぐには信じられないようだったが、これが帝国の最高機密であると言われては納得せざるを得なかった。帝国と勇者派の戦争は、無駄に長く続きすぎたのだ。そのくせ、鳳が現れたと思ったら一瞬で終わってしまったのだから、他にも何かあったと考えざるを得ない。

 

 しかし、その何かのせいで、あれだけ冷静に見えたヘルメス卿が、実は四六時中攻撃を受けていたとは思いもよらず、神人二人は自分たちの行動を振り返り、青ざめながら尋ねた。

 

「勇者ジャンヌよ。それでその魔王化というのは避けられないものなのですか? もし、今すぐ職務を放棄して養生すれば、治るものなのでしょうか?」

 

 ジャンヌは首を振って、

 

「多分、無理。病気とか、そういうものじゃないのよ。どうも、魔王化が始まると、優越欲求が強くなって攻撃的になるらしいの。元々、魔族ってものは、神人や獣人に対して劣等感を抱いた人間がなってしまった種族だから、他人より優れたいという気持ちが強いらしいのね。

 

 優越感を満たすために、魔族という種族は他者を攻撃し、殺し、その屍肉を喰らい形質を奪う。そうやって勝ったものがどんどん強くなっていき、最終的に誰も勝つことが出来ない魔王が生まれる。

 

 その魔王を生み出すシステムそのものがラシャ……つまり魔族という種族なのよ。システムは、人間が元から持っている感情を利用しているから避けようがない。誰だって、多少は他人より優れたいって思うのは当然じゃない?」

 

 その欲望を無くさない限り、現時点ではこのシステムから逃れる術はないということだ。それを聞いた神人二人は意気消沈している。そんな二人を横目に見ながら、ルーシーが不思議そうに尋ねた。

 

「でも、もしそんなシステムが存在するなら、人類はとっくに魔王に滅ぼされてなくちゃおかしくない? そして人間がいなくなってしまった星では、魔王であっても生きて行けなくなって、いつか何もかもが消滅してしまうんじゃないかな」

 

 ジャンヌは軽く頷いて、

 

「そうね。それで300年前、この星は滅びかけたわけじゃない。その時はどうにかなったわけだけど、今度はどうなるかわからない。この星は、まだ魔王に滅ぼされる前の状態ってだけの話よ」

「あ、ああ……そういうことか」

「本来、生物というのは、環境に適応したものが生き残っていくものなの。ところが、幸か不幸か、人類は環境の方を変えてしまうほどの、大きな力を手に入れてしまった。だからこんな『強者生存』なんて、無茶な進化をすることが可能になっちゃったのね。そして誰かがそのパンドラの箱を開けてしまった。

 

 本当なら理性的であるはずの神人たちが、この世界ではやけに高圧的で人間臭いのも、ラシャのせいなんでしょう。神人は人間よりも強くてその影響を受けやすい。食料が尽きてしまったカリギュラは、ネウロイで魔族を食べてしまったせいでその形質を取り込んでしまい、理性のタガが外れてしまった。

 

 でも、ソフィアはそんなことはなかったそうよ。彼女はある時から優越欲求が強くなり、最後の数年間はとにかくずっとイライラし続けていたらしいわ。なんでこんなに自分の欲望に耐えられないんだろうと思っていて……ある時、ついにそれが爆発してしまったみたいね。

 

 白ちゃんも、いずれそうなる可能性はあるわ。でもソフィアの時と比べれば、彼はまだ冷静で、その段階には至っていないはずよ。だからすぐにでも、このラシャの影響を食い止める方法を探しに行った方が良いんだけど……彼は義務感から、ヘルメス卿を辞められずにいるのね」

 

 ジャンヌの言葉を聞いて、今度はルナが青ざめていた。

 

「きっと、私のせいですわ……ヘルメス卿は、私の赤ちゃんを守るために、犠牲になっていたんですね」

「いいえ、それを決めたの彼なんだから、あなたの責任ってわけじゃないわよ。あなたの赤ちゃんは、私たちの仲間の子でもあるの。もしも同じ立場だったら、私も彼と同じことをしたでしょうね」

 

 ジャンヌのそんな慰めの言葉に、ルナは多少気分が落ち着いたが、それで罪悪感が消えたわけではなかった。彼女は子供を産み育てるということが、どれほど周囲の手助けを必要としているかを痛感して胸が苦しくなった。

 

「ジャンヌさん。質問してもいいですか?」

 

 ミーティアが沈黙を破るように手を挙げていった。ジャンヌがどうぞと促すと、

 

「今の話を聞いてて思い出したのですけど、鳳さんと以前お会いした時、妙な感じだったんですよ。何ていうか、異常な食欲だったっていうか、もうそんなのを通り越して人間の限界を越えてご飯を食べ続けていたんです。私は物理的にどこに入ってるんだろうって、そんなことばかり気にしていましたが……今にして思うと、これが魔王化の影響だったんでしょうか?」

 

 魔族は他者を食べることによって、その形質を得ようとする。鳳の異常な食欲はそれに起因したものだったのだろうかと、彼女は言いたいのだろう。しかし、ジャンヌは首を振って、

 

「いいえ、魔王化の影響であることは確かだけど、それは多分、性欲が食欲に変換されて現れていたんだと思うわ」

「……性欲?」

「魔族という種族は、同性は殺して喰らい、異性は犯して遺伝子を残そうとするのよ。彼はあなたの前に立った時に強い性欲を感じていたはずなんだけど、持ち前の我慢強さでそれを抑え込んでいたから、それが別の形になって現れたのね。

 

 人間の欲求っていうのは、元々生物の生きようとする本能のことだから、性欲も食欲も、自分は特別だと思い込みたい承認欲求なんかも、実は全部根っこで繋がっているのよ。仕事のストレスを抑え込みすぎて過食症になる人もいるでしょう? そういうことよ。

 

 ソフィアも魔王になる前は、異常にお腹が空いていたと言っていたわ。その頃は常にイライラしていたから、怒るとお腹が減るんだと思ってたなんて言ってたけど……」

 

 ジャンヌの言葉を聞いて、ルナとクレアも思い当たる節があると頷いていた。

 

「そう言えば……ヘルメス卿と会う時、あの方はいつもお腹を空かせていましたわ」

「言われてみれば……私はヘルメス卿をお食事に誘ってばかりいましたわ。普通に考えれば、彼の興味を惹くためには、一度断られたなら食事は避けそうなものなのに……何度も同じことを繰り返していました」

 

 ジャンヌとミーティアも加わり、四人が自分たちの前で起きた出来事を確認しあう。そんな中でルーシーは一人だけ、

 

「あの……私はそんなことなかったんだけど?」

「それは多分、彼があなたに、それほど性的な欲求を持たなかったからじゃないかしら……?」

「うっ……そこはかとなくバカにされてる気分だよ」

「まあ、会うといつも喧嘩ばかりしていたからかも知れないわね。きっと、アリスちゃんに対してもそうだったのよ。だから他のみんなが避けられている中で、彼女だけは傍に置いてもらえた……もらえたからこそ、今回被害者になってしまったんだけど……」

 

 気まずい沈黙が辺りを包み込む。クレアはそんな雰囲気を打ち破るように頭を抱えて嘆きながら、

 

「ああっ! それじゃ性的なアプローチは全部逆効果だったのね!? なのに私は、嫌がるヘルメス卿を、あと少し、もうひと押しと迫りに迫って、ずっと彼を追い詰めてしまっていたんですわ」

「そうだ。おまえが悪い、反省しろ」「まったく、ろくなことをしない女だ」

 

 神人たちが容赦なくツッコミを入れる。

 

「で、でも、あなた達だって止めなかったじゃないですか! 私は寧ろ応援してくれてるんだと思ってましたわ」

「うーむ……少しでもヘルメス卿のストレス発散のはけ口になればいいと思ったのだ」

「言い方っ! 言い方ってものがあるでしょう!?」

 

ジャンヌはそんな三人に向かって苦笑しつつも、後悔を乗せた声色で言った。

 

「それは私も同じだから。私は彼に自分のことを愛して欲しいと願った……事実を知っていたからこそ、余計に性質が悪いわ。でも……人を好きになることは、誰にも止められないじゃない」

 

 彼女のその言葉に、自分も思い当たることがあった女性陣がバツが悪そうに口を結ぶ。まるでお通夜のように深刻な雰囲気であったが、そんな中で一人黙って話を聞いていたヴァルトシュタインは、結局のところ、彼がモテるのが悪いんじゃないかと、半ばバカバカしいと思いながらも、

 

「それで……大将は今どこにいるんだ?」

「医務室よ」

「なに?」

「アリスちゃんが起きるのを待っているのよ。とにかく、まずは謝罪しないと始まらないから」

 

 ヴァルトシュタインは、それは酷じゃないのかと言いかけたが、結局は黙っておいた。自分とは違って、まだ汚れていない若者たちにはこういう儀式が必要なのだろう。

 

「そう……医務室ね」

 

 そうしてヴァルトシュタインが押し黙る中で、代わりにルーシーが立ち上がった。彼女はその場にいる全員から、どうしたんだろう? という視線を浴びながら、

 

「ちょっと確かめたいことがあるんだ」

 

 と言って、部屋を出ていった。

 

*******************************

 

 孤児院の子供たちが、きゃあきゃあと遊んでいる、笑い声が聞こえた。

 

 幼い頃、近所の子供たちのそんな幸せそうな声を聞いて、いつも羨ましいと思っていた。

 

 生まれた時からルナの使用人になることが決まっていた彼女には、同年代の子供たちと外で遊んだ経験がなかった。彼女にとってはルナが全てであり、他には何も必要ないと聞かされて育ったから、それが当たり前だと思っていた。ここの子供たちは、親に捨てられ、つらい思いをしてここまで流れてきたのだろうけど、それでも今はあんな風に笑えているのだから、羨ましいなと彼女は思った。

 

 ぼんやりしていた頭が覚醒してくると、消毒液の臭いがして鼻がツンとなった。アリスは今まで一度も見たことのない天井と、周りを真っ白なカーテンで仕切られたベッドの上で目が覚めた。

 

 自分がどうしてこんな場所にいるのか分からなかった彼女は、ここがどこなのか確かめようとして体を起こした。しかし、その瞬間、全身にズキズキとした痛みが走って殆ど動かすことが出来なかった。

 

 一体、どうしちゃったんだろう? 彼女がベッドの中で困っていると、その気配に気づいた部屋の主がパタパタと足音を立ててやってきた。

 

「目が覚めましたか?」

 

 女性はベッドの上で目をパチクリさせているアリスに近寄ってくると、背中に手を回して上体を起こし、それから手にしたロウソクの炎を見るように言った。彼女はそのロウソクを近づけたり遠ざけたりしながら、

 

「うん……問題ないですね。気分はどうです? 吐き気はありますか?」

「いいえ……あの、ここは? どうして私はこんなとこに?」

「ここは孤児院の医務室ですよ。あなたは、明け方に運び込まれたんですが……覚えていませんか?」

「明け方……?」

 

 アリスは首をひねっている。アスタルテは、もしかして彼女がショックで忘れようとしているのかと思い、ほんの少し探る感じで、

 

「……ヘルメス卿に運ばれてきたのですが」

「勇者様に……? あっ」

 

 アリスはその一言で昨日何があったか思い出したらしく、慌てて両手で体をペタペタと触って怪我がないか確かめ始めた。ところどころ擦り傷はあったが、ちゃんと手当されていて、今はもうなんともないようだった。下腹部の辺り……というか足の付根の辺りに痛みを感じていたが、起き抜けに体が動かなかったのは、そのせいだろうか。

 

 それを意識しだすと、彼女の顔がみるみるうちに赤く染まっていった。アスタルテは、それが乱暴された汚辱のせいだと思ったが、案外そうでも無かったらしく、

 

「あの、勇者様は執務に戻られたのでしょうか?」

「いいえ。街もあんなですし、今日はまだ仕事にならないでしょう」

「では、今どちらに? 早く行って差し上げなければ」

「は……? あなた、彼に会おうと言うのですか?」

「え? はい」

「怖くはないのですか?」

「怖い……? どうしてですか?」

 

 アリスはキョトンとした表情でアスタルテを見つめていた。その純真無垢な瞳を見つめていると、彼女は段々と自分が悪いことをしているような気分になってきて、何も悪くはないのに視線を逸らしてしまった。

 

 どうやらこの少女は、自分を乱暴した男のことを恨んではいないようである。だったら、早めに会わせてやったほうがお互いのためだろうか……アスタルテは、ちょっと待っててと言い残すと、ドアを開いて医務室を出ていった。

 

 それから暫くすると、バタンとドアが閉じる音がして、二人分の足音が近づいてきた。アリスがぼんやりとその音の方を見ていると、カーテンの向こうからさっき出ていった女医と一緒に、真っ青な顔をした鳳が現れた。

 

 その顔を見た瞬間、アリスの心臓がドキンと跳ね上がり、火が出るくらい顔が熱くなっていった。それを意識しだすと、彼女は信じられないくらい恥ずかしくなってきて、まっすぐ彼の顔を見ることが出来なくなってしまった。

 

 彼女は膝に掛けていた布団を、顔が半分隠れるくらいまで持ち上げると、パタンとベッドに横になって目だけを出して二人の方に目を向けた。紅潮する顔は耳まで赤く、目も真っ赤に充血している。

 

 その姿を見たアスタルテは、やっぱり会わせるのはまだ早かったかと後悔したが、もはや後の祭りであった。彼女はもう一度出直した方が良いと隣に並ぶ鳳に言いかけたが、そんな彼女よりも先に一歩踏み出して、彼はベッドに横たわるアリスに向かって頭を下げていた。

 

「ごめん! 本当に、本当にごめん!」

 

 恥ずかしさから布団に隠れてしまったアリスは、それを聞いて、あれ? っと布団から首を出した。鳳は、そんなアリスの表情には気づかずに、相変わらず死刑宣告でも受けたかのように、目の下にくまを作り真っ青な顔をしながら、

 

「いくら酒を飲んでいたとは言え、俺は君に取り返しのつかないことをしてしまった。許してくれとは言えない、謝って済む問題とも思っていない。君の心に付けてしまった傷を、俺は癒す方法を知らない。本当に最低な行為だと思う。顔も見たくないと思う。だけど、せめて謝らせて欲しいんだ。ごめん。ごめんなさい。すごく身勝手なお願いだけど、君がまた日常に戻れるよう、どんな償いでもするから、だからどうか……どうか……また元気になって欲しい」

 

 鳳は苦悶に歪む表情のまま頭を下げて、まっすぐ医務室の床を見ていた。横になっていたアリスは彼の脳天を見ながら、なんでこの人は自分なんかに頭を下げているんだろうと思った。

 

「俺はこのまま君の前から消えるから、またお嬢様と一緒に静かに暮らして欲しい。もちろん、彼女と、彼女の子供の生活も、俺がなんとかするから。だからもう俺にされたことは忘れて、元の生活に戻って欲しい。君が自分の人生を歩めるようになるなら、本当に何でもする。本当に申し訳なかった……」

 

 どうしてそんなことを言うのだろうか。アリスはその言葉を聞いた瞬間、今は恥ずかしがっている場合ではないと思った。彼は彼女の前から消えると言っている。彼女は被っていた布団を跳ね上げると、またベッドに腰掛けるように体を起こした。その瞬間、下腹部に鈍い痛みが走ったが、もうそんなことは気にしていられなかった。

 

「あの、顔を上げてください、勇者様」

「いいや……このままで許してくれ。俺は君に恨まれても仕方ないことをした。すまなかった」

 

 アリスは彼女に向かって何度も頭を下げる鳳の肩をグイグイ押して、無理矢理顔を上げるように促した。しかし彼の体はびくともせず、彼は相変わらず地面を見つめたままで動かなかった。アリスはそんな彼の脳天を困惑気味に見下ろしながら、

 

「あの……私はあなたのことを、少しも恨んでいませんよ?」

「……え?」

「なのにどうして、勇者様みたいな偉い人が、私なんかに頭を下げるんですか?」

「どうしてって……」

 

 鳳はその疑問にようやく顔を上げた。久しぶりに見た彼女の顔は、本当に意外そうで何が何だかわからないといった表情をしていた。実際、その通りだったのだ。彼女には、どうして彼がこんなにも苦しそうに謝罪しているのかその気持ちが分からなかった。

 

「あの、その……勇者様にされたことは、とても痛かったし怖かったです。でも、私は自分の立場なら、いつかそういうことが起きるかも知れないと、初めから覚悟していたんです。だから突然だったけど、あの時のことは仕方ないなと思っていました」

「いや、だからこそ駄目だろう? 俺は自分の立場を利用して、君を無理矢理犯したんだぞ……」

「いえ、だからこそです!」

 

 するとアリスはそんな彼の言葉をかき消すように言った。

 

「私はお嬢様の使用人になるために生まれてきました。生まれる前からそう決められていて、それが不服だったわけじゃありません。家には他にも同じような境遇の使用人たちがたくさんいて、私達はとにかく主人に絶対服従で、自分の意見なんて持ってはいけないと言われて育ちました。

 

 ですが貴族の中にはひどい人もいて、使用人を性のはけ口にするような人もいました。中には貴族社会の上下関係を持ち出して、私たちのような者を気まぐれに抱いては、家名に傷がつくからと堕胎を迫るような人たちもいます。それが当たり前だったんです。

 

 私はお嬢様にお仕えしていましたが、そのお嬢様でも逆らうことの出来ない者はおります。お嬢様自身がそうして赤ちゃんを産んだんですし……私たち女を、道具のように扱う者はいくらでもいました。だから私も年頃になったら、そういうこともあるんだろうなと、漠然と思っていました。

 

 だから帝都で勇者様に助けを求めた時、私はいずれあなたにこの身を捧げるんだろうと思っていました。あなたに呼ばれたら、いつでもこの体を差し出そうと、ずっと覚悟しながら暮らしていたんです。だって何の打算もなく、他人を助けるような人がいるなんて思わないじゃないですか。

 

 なのにあなたは私利私欲なく私たちのことを助けてくれて、いつも気を使ってくれました。どうしてこんなに良くしてくれるんだろう? って思ってたら、あなたは私たちだけじゃなくて、生活に困った人たちや、親に捨てられた孤児も無償の奉仕で助けていたんです。

 

 ああ、こんな人がいるんだなって、私はすごく驚きました。そしてわかりました。きっとこれからも、この人は私たちに何も求めないんだろうなって。

 

 だからこそ、私はあなたに恩返しをしたいと思ったんです。あなたのお傍にお仕えして、あなたのお役に立ちたいと思ったんです。私は、あなたが思っている以上に、あなたのことが好きなんですよ? そんなあなたに何かされたからって、いきなり嫌いになったりしませんよ」

 

 鳳は、まさか罪を犯してしまった相手から許されるなんて……ましてやそんな自分のことが好きだなんて言われるとは思わず、とても信じられなかった。彼はもしかして、彼女が二人の立場の違いというものを考えて、わざとそう言っているんじゃないかと疑心暗鬼に尋ねた。

 

「しかし……俺はそんな君の期待を踏み躙ってしまったじゃないか」

「そんなことありません、私の勇者様への憧れは、何も変わってなんかいません」

「どうして……」

「どうしてって……あんなになるまで頑張ってきたんでしょう?」

 

 その言葉が胸の中にすっと入ってきた時、彼はどうしようもなく感情が揺さぶられて、視界が滲んでいくのを止められなくなった。

 

「あなたのお役に立ちたいと思った時から、ずっとあなたのことを見てきたんです。あなたが苦しみに耐え、みんなのために頑張っているのを、ずっと傍で見ていたんです。あの時の勇者様が普通じゃなかったのも、お酒のせいだってことも、いくら私だってわかりますよ」

 

 鳳はどうして自分が傷つけてしまった相手から、こんなに優しい言葉をかけられているのか、わけがわからなかった。ただ、自分の人生の中でも最悪の後悔になるはずの出来事が、彼女の言葉で一瞬にして解けてしまったことに、彼は魔法でも見ているような気分になった。

 

「ごめん……本当に、ごめん……謝るから、だから……どうか許して欲しい」

 

 目からは涙がボロボロと溢れ出して、口からは謝罪の言葉が止まらなくなった。でもその中にはさっきまで一度も出てこなかった、許しを請う言葉が含まれていた。アリスはそんな彼の手を握りしめると、

 

「あの……もう泣かないでください。ちょっと失敗しちゃっただけじゃないですか」

「ごめん……ごめんよ……ごめん……」

「でも良かった。ずっと避けられていたから、嫌われているんだと思っていました」

 

 アリスがいつまでも泣き止まない鳳に向かって、冗談めかしてそんな言葉を口にすると、そんな彼女に嫌われたくないと思った彼はハッと顔を上げ、

 

「そんなことはない。俺は一度も君を嫌いだなんて思ったことはないよ」

「でも、目も合わせてくれなかったじゃないですか」

「それは……」

 

 魔王化の影響があったから……そう言いかけた時、鳳は自分の身に起きている変化に気がついた。

 

 見れば今、自分の手はアリスにしっかりと握られている。彼女の顔はすぐ目の前にあって、くっつきそうなくらいだった。今までなら、こんなことをされたら、耐え難い苦痛が襲ってきたはずなのに……なのに今は彼女がこんなに傍にいても、空腹もやってこなければ性欲も刺激されていなかった。

 

 状況からして、そんなのを感じている場合じゃないというのは分かる。だが、それなら今までだってそうじゃないか。魔王化の影響は、例え深刻な話し合いの席であっても、絶えず彼を襲っていたのだ。なのに、何故今はそれを感じないんだろう……?

 

 そんなふうに、自分の変化に戸惑っている時だった。コンコン……とドアがノックされて、医務室に誰かが入ってきた。タイミングからして、恐らく、ドアの向こう側で中の様子を窺っていたのだろう。

 

「おっほん! お邪魔するわよ~?」

 

 乱入者……ルーシーはバツの悪さからか、わざとらしく咳払いをしながら入ってきた。鳳が、彼女にも恥ずかしいところを見られてしまったなと、涙を拭っていると、ルーシーはそんな彼に向かって続けて言った。

 

「えーっと……お取り込み中のところ悪いんだけど、鳳くん、ちょっといいかな?」

「……なんだよ?」

「単刀直入に聞くけど、鳳くん……今、どんな気持ち?」

 

 そんなもん、最悪に決まっているだろう……と言いたいところだったが、鳳には彼女の言わんとしていることがすぐに分かった。今、どんな気持ちかと言えば、それほど悪くなかったのだ。

 

 その時、彼からは、今まで散々悩まされてきた魔王化の影響が無くなっていたのだ。

 



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ハーレム王に俺はなる

「鳳くん。今、どんな気持ち? ねえ、どんな気持ち?」

 

 アリスが眠る医務室に現れたルーシーは、思わず殴りつけたくなるようなセリフを吐いた。それはともすると暗くなりそうな雰囲気を壊さないようにという、彼女なりの気遣いなのだろうが……もしも昨日までの鳳だったら、今ごろ彼女のことを怒鳴りつけていただろう。

 

 だが、今の彼はそんな気持ちはまったく湧き上がってこなかった。と言うか、鳳には彼女が何故そんなことを言い出したのか、その理由が分かっていた。つい昨日まで散々悩まされていたあの魔王化の影響が薄れていたのだ。

 

 鳳は、彼の手を握りしめてくれているアリスの小さな手をまじまじと見つめながら、

 

「……どういうことだろう。ちょっと前までなら、こんなことをしたらすぐ腹が減って仕方なくなっていたのに」

「それは多分、一発ヤッてスッキリしたからだろうね」

 

 ルーシーが冗談めかしてそんなセリフを口にすると、それまで意識せずにそうしていたアリスが、彼の手を握っていることに気づいて、頬を赤らめパッとその手を離した。

 

 彼女は恥ずかしそうにまた布団の裾を持ち上げてモジモジしている。鳳が無粋なことを言うやつだなと、非難半分、呆れ半分の目をルーシーに送っていると、

 

「いやいや、冗談のつもりは無いんだよ。実はね、以前、先生と話していて気づいたことがあるんだけど……」

「スカーサハ先生と?」

「うん。知ってると思うけど、先生は一時期300年前の勇者と恋人同士だったことがあるんだよね。でもその頃の彼は、どうも女性を取っ替え引っ替えしていたらしくて、先生の師匠であるおじいちゃんからすれば、不埒な輩にしか見えなかった。

 

 そんな勇者と先生が肉体関係を持つことに不快感を持ったおじいちゃんは、ある日ついに彼に文句を言いにいって、それでケンカ別れみたいになってしまったんだけど……まあ、そのことはおじいちゃんも先生も良く覚えてないそうだけど……それは置いといて、いちばん大事なことは、その300年前の勇者と鳳くんが、もしかしたら同一人物だということなんだよね」

「つまり……どういうことだ?」

 

 ルーシーは鳳とアリスを交互に見ながら、

 

「今の鳳くんを見ていたら、とてもそれと同じ人間とは思えないんだよ。君がもし伝え聞いている通りの人物なら、とっくにミーさんとどうにかなってたでしょうし、きっとジャンヌさんのことも、クレアさんのことも拒まなかったでしょう。アリスちゃんのことも……ここまで深く傷つくようなことはなかったんじゃないかな。あくまで想像だけど」

 

 言われてみれば確かに……300年前の勇者が自分だと言うなら、どうしてそんな行動を取ったのか、今の彼には想像できなかった。魔王化の影響を知らず無防備だったからだろうか? それとも、もしかしてやっぱり別人だったからなのだろうか?

 

「いや、しかしマニの継承したご先祖様の記憶にしても、ケーリュケイオンのことにしても、俺が勇者じゃなかったとは思えないんだが。そもそも、ソフィアははっきりと、俺を呼び出したと言っていたんだぞ?」

「うん、私もそのことは疑ってないんだよ。多分、300年前の勇者と君は同じだった。でもやってることは、とても同じ人間とは思えない。それで、どうしてそんなことになっちゃったんだろうかって考えていて、気づいたんだよ。もしかして、300年前の鳳くんはそうせざるを得ない理由があったんじゃないかなって……だからさ、鳳くん。これからはジャンジャンバリバリ女を抱きなさい」

「はあ!?」

 

 鳳はルーシーが言っていることの意味が分からず、素っ頓狂な声を上げた。

 

「いや、なんでそうなるんだ? 俺は魔王化のせいで性欲が強くなってこんなことになってるんだぞ? なのに、その性欲に抗うなっていうのか?」

「でも、現実には逆のことが起きてるんじゃない?」

 

 鳳が困惑していると、彼女はベッドの上のアリスを指差しながら、

 

「経緯はどうあれ、君は彼女を抱くことによって、一時的に理性がコントロール出来るようになっているんでしょう。それまでは女性が近づくだけでも苦痛で、屈強な男性を軽く小突くだけで殺してしまうくらい、力の制御が出来なかった……それが今は出来ているわけじゃない?」

「あ、ああ……そうなのか?」

「試しに握ってみてよ」

 

 ルーシーは握手を求めるように手を差し出した。鳳は少し戸惑いながらその手を握った。

 

 どこに出しても恥ずかしくないシェイクハンドをしながら、二人が医務室という似合わない場所でじっと見つめ合っている。周りからすれば何をやってるんだ? と言わんばかりの光景だったが、鳳には今までとは確実に違う変化が感じられた。アリス同様、ルーシーに触れていても、今は特に嫌な感じはしなかったのだ。

 

「……本当に、症状が緩和されているみたいだ」

「やっぱり……おかしいと思ったんだ。300年前の鳳くんも勇者だからモテたかも知れないけど、だからって同じ人が全然別の行動を取るとは思えなかったんだよ。だとしたら、何かそうせざるを得なかった理由があったと考えるのが筋でしょう? そう考えていた時、ジャンヌさんから魔王化の話を聞いて、もしかしてって思ったんだ」

「……魔王化を拒絶するより、多少なら受け入れた方がマシだったってことか」

「その点を含めても、鳳くんはストレスを溜め過ぎだよ。そんなに何でもかんでも一人で出来るわけないでしょう? だからたまには羽根を伸ばして、綺麗なお姉さんがいるお店にでも行って、相手してもらってきなさいよ」

 

 ルーシーの蓮っ葉な言葉に、それでも鳳はう~んと唸り声を上げて、

 

「しかし、こうしてアリスを傷付けてしまった以上、もうそんな不純なこと出来ないよ。俺には責任がある。彼女を不幸にしておきながら、俺だけが馬鹿みたいに性欲に溺れるなんて絶対駄目だ……」

「別に彼女はそんなことを望んでないと思うけど」

 

 ルーシーがちらりと視線を飛ばすと、アリスはこくこくと頷いていた。鳳はそれを見て、どっちのほうが年上なんだろうと、恥ずかしいやら情けないやらどうしようもない気分になった。ルーシーはそんな二人を代わる代わる見てから、はぁ~っとため息を吐いて、

 

「……そんなに責任取りたいなら、責任取ればいいんじゃないの?」

「……なに?」

「責任とって、彼女をお嫁さんにしてあげなさいよ。それなら構わないでしょう?」

 

 ルーシーのそんな投げやりな言葉に、鳳は思わずむせ返った。そんな芸能人じゃあるまいし、責任を取るイコール結婚なんて発想は全く無かったのだ。大体、それで本当に責任を取れるとも思えない。彼は慌てて否定した。

 

「いや、そんなんで責任を取れるわけないだろう!?」

「そう? どうせ鳳くんのことだから、責任を取るって言ったら、一生面倒を見ますとか、お金のことで苦労をかけませんなんて思ってるんでしょう?」

「そうだけど……」

「なら結婚するのと大して違いがないじゃない」

 

 鳳は慌てて首を振った。

 

「いやいやいや! 全然違うだろ。そこには彼女の意思が入ってないじゃないか。俺が勝手に決めていいことじゃない」

「アリスちゃん? この人と結婚したくない?」

 

 するとアリスは目を丸くして、慌てて手をパタパタさせながら、

 

「そんな! 滅相もございません。私なんかが勇者様と結婚なんて……」

 

 鳳は若干傷つきながら、

 

「ほら見ろ、嫌がってるじゃないか」

 

 しかしルーシーはこれっぽっちも意を介する素振りを見せずに、

 

「ならアリスちゃん。手切れ金をいっぱい貰って、このままここでお別れする方がいい? 私が聞いてるのは、これからこの人と、どういう付き合いをしていきたいかってことなんだけど……?」

 

 すると今度は、アリスは一瞬だけ慌てた後に、真剣な表情を見せてから、

 

「私の願いは……ずっとこのままお嬢様と共に、勇者様の下にお仕えしていたいです。勇者様は、路頭に迷っていた私たちを助けてくださいました。せめてその御恩をお返しするまで、出来ればこのまま勇者様のお傍に仕えさせていただけたらと思っております」

「まだるっこしいなあ……お給金を貰いながら彼に仕えたいのか、それともたまにイチャイチャしながら、彼と一緒に暮らしていきたいのかって聞いてるんだよ」

「それは……出来れば、たまには、私のことも気にかけてくださったら嬉しいですが……そうでなくても十分すぎるほど嬉しいと言うか、恥ずかしいと言うか、恐れ多いと言うか……」

 

 アリスの声は尻すぼみにだんだん聞こえなくなっていき、それと反比例するかのように、彼女の顔はどんどん赤くなっていった。耳まで真っ赤な彼女がどうして欲しいのかは一目瞭然だった。

 

「……本当に、これでいいのか?」

 

 鳳は困惑し独りごちた。この期に及んでもまだ、彼には信じられなかったのだ。何しろ昨日あれだけやらかしてしまったのだ。並の神経をしていたら弱気にもなるだろう。

 

 あんなことをしてしまったというのに、彼女がまだ自分のことを好きでいてくれる? 結婚してもいいと思っている? いくらなんでもすぐには信じられなかった。

 

 しかし、責任は取らねばならない。恐らく、罪を償うだけなら、いくらでも他にやりようがあるのだろう。だが、彼女の気持ちが今聞いた通りなら、それを受け入れるのが一番いいやり方なんじゃないだろうか……?

 

 鳳は暫く唸り声をあげていたが、ついに観念したかのように、

 

「わかった、それでいいなら俺は……」

「ちょっと待った!!」

 

 その時、バンッッ!! っとけたたましい音を立てながら、いきなり医務室のドアが開かれた。

 

 突然開け放たれたドアから風がビュービュー吹いてきて、ベッドを取り囲むカーテンがパタパタ揺れた。机の上に置いてあった資料やら何やらの紙束が部屋を舞い上がり、この部屋の主が迷惑そうに眉を顰めた。

 

 一体誰だとドアを見れば、そこにはじんわりと滲むような汗をかいたクレアが、ハアハアと息を切らせて立っていた。彼女は迷惑そうに紙束を拾っているアスタルテの前を通り過ぎると、ベッドの横に座っている鳳の前に歩み出て、いきなりその手を握りしめ、

 

「失礼かと思いましたが、ドアの向こうでお話はこっそり聞かせてもらいましたわ。あなたが可哀相なメイドに同情して嫁するとおっしゃるなら、ええ、ええ、それもいいでしょう。いいと思います。いいですよ? ですが……側室で! せめて側室でお願いします!! そしてどうか正妻はこの私にっっ!!」

 

 クレアは彼女の勢いに気圧されている鳳に体を密着させ、更にグイグイと伸し掛かるように迫りながら、

 

「私はあなたと子作りして、この国の支配者になりたいんですっっ!!」

 

 彼女は身も蓋もない欲望を叫んだ。鳳も、ルーシーも、アリスも、その場にいる全員があっけに取られている中で、彼女は興奮気味に鼻息を荒くしながら続けた。

 

「……と言うか、もう、ヘルメス卿? どうして困っているのなら私を使わなかったんですか? 私ならいつでもウェルカムだったのに。あ、いえ、あなたにも事情があったことは認めます。あちらの部屋で聞きました。仕方なかったと思います。ですから責めたりはしませんが、ならば今度こそ昨日の続きを! 最後までしっぽりとセックスを! あなたも、それで楽になるのでしょう? だったら、いくらでも私を性のはけ口に使ってくださって……グエッ!?」

 

 下品な言葉を口にしつつ、異常な勢いで迫るクレアに気圧されていると、突然、彼女が潰されたカエルみたいな声を上げて仰け反った。

 

 見れば彼女の首根っこを思いっきり引っ張り上げながら、その背後にミーティアが立っていた。彼女はいつもの怒っているようにしか見えない邪悪な笑みを浮かべ、容赦なくクレアを締め上げると、白目を剥いている彼女をドンと突き飛ばしてから、鳳を見下ろすように立ちはだかった。

 

「鳳さん。鳳さんがやったことを聞いて、私は落胆しました」

 

 ミーティアは彼の目を睨みつけながら、開口一番そう言い放った。その言葉が鋭利な刃物のように彼の心に突き刺さった。こんなことになるまでは、それとなくお互いに意識していた相手からの拒絶であった。

 

 幻滅されても仕方がない……彼は項垂れたが、

 

「どうせ無理矢理なら、どうして私じゃなかったんですか?」

「……はい?」

 

 鳳は、彼女が何を言っているのか分からず顔を上げた。するとミーティアは怒った顔ではなく、今までに見たことのないような、それはそれは穏やかな笑みを浮かべながら彼のことを見下ろしていた。

 

 なんだろう? この表情は……こんな顔など見たことがなかった彼が戸惑っていると、すぐ隣からルーシーの怯えるような声が聞こえた。

 

「激おこだ……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、鳳の背筋にゾクゾクとした悪寒が走った。え? これ、怒ってるの? と言うか、どうして怒っているのだろうか……鳳はわけが分からず、蛇に睨まれた蛙のように固まっていると、彼女はそんな彼に更に詰め寄りながら、

 

「あのですね、鳳さん……? 色々と言いたいことは山程あるんですけど、まずはどうして私に相談してくれなかったんです? 仲間にも相談しづらいことはあるでしょう。一人で解決したい気持ちもわかります。でも、そういう時のために私たちはいるんですから、何でも遠慮せずに話してみてください。クライアントの秘密は厳守しますから」

「す、すみませんでした……」

「……深夜に私に会いに来てくれた時は本当に嬉しかったんですよ? 私の作ったお料理を、すごく美味しそうに食べてくれて、またいつもみたいになれるのかなと淡い期待を抱いたりして、本当に嬉しかったんです……でも、まさかあれが性欲を誤魔化すための過食だったなんて……」

 

 ミーティアは長い長い溜息を吐いてから、

 

「欲情するならちゃんと欲情してくださいよ。これじゃまるで、私が食欲に負けたみたいじゃないですか?」

「そ、そんなこと言われましても……」

 

 彼女は言い訳を許さず畳み掛けるように続けた。

 

「あまつさえ、その性欲が私じゃなくて他の子に向かってしまうなんて……アントンもそうだったんですよ? ちょっといい子を見かけたらフラフラってそっちに行っちゃって……そしたらそのまま帰ってこなくって……ああ! 男の人ってこうなんだなって、つくづく思いました」

「え? あ、はい……すみません」

「私の人生、いつもこうなんです。この気持ち、あなたにわかりますか!?」

「えーっとその……すみません」

 

 鳳はやはりなんで怒られているのかさっぱり分からなかった。恐る恐る上目遣いで彼女の顔を見上げると、ミーティアは相変わらず見たこともないような満面の笑みを浮かべたまま、

 

「わかりませんよね。わからないと思います。だからもう、私は迷いません。どうせ待っていたら男はいなくなってしまうなら、こちらから打って出るまでです。鳳さん、いいですか?」

「……はい」

「アリスさんを貰うより先に、私をお嫁さんにしてください」

「……はい?」

 

 鳳は最初何を言われているのか分からず、ポカンと彼女の顎を見上げていた。すると、いつの間にか彼女の表情がいつもの邪悪な笑みに変わっており、その顔は耳まで真っ赤になってプルプル震えているのだった。

 

 ああ、これは恥ずかしがってる顔だなと思った時、彼はようやく彼女の言ってる言葉の意味を理解した。理解して余計わからなくなった。彼女は何を言っているのだ?

 

「え? ちょ? いや、どうして今の流れでそうなるの!?」

「ですから、放っておいたらあなたはどこかへ行っちゃうでしょう。だからそうなる前に、私が唾を付けておこうかと。あ! 正妻はクレアさんではなく、私にしてください。それで今回のことはチャラにしてあげます」

「ちょっと、あんた後から出てきて何言ってるんですか!?」

 

 ミーティアがそんなことを宣言していると、ようやく立ち直ったクレアが血相を変えて遮ってきた。ミーティアはそんな彼女を鬱陶しそうに、

 

「後から出てきたのはあなたの方でしょう? 私は彼がこの世界に来た時からの付き合いですよ。手を繋いでデートしたことだってあります」

「んまあ! 庶民のくせに生意気なこと! あのねえ、あなた、勘違いしているのでしょうけど、貴族を差し置いて庶民が正妻になんてなれるわけないでしょう? 口を慎みなさいよ」

「色恋沙汰に身分を持ち出すなんて、そんなに自信がないんですか? 悔しかったら実力で奪うくらい言いなさいな」

「はあ!? はあ!? はあー!? 誰が自信ないですって!? そんなわけないでしょう、私のテクにかかれば、ヘルメス卿なんてメロメロよ。ベッドの上でヒイヒイ言わせてやるんだから!」

「まあ、お下品。貴族が聞いて呆れます。流石、社交界の色情狂と呼ばれただけはありますね」

「むっかーっ! 誰よ! そんな悪口言ってるの!! 教えなさい!」

「たった今、私が作りました」

「このっ!!」

 

 顔を真っ赤にしたクレアが飛びかかり、負けじとミーティアが応戦した。二人は押し合いへし合いしながら狭い医務室の中いっぱいを使って取っ組み合いを始めてしまった。4つのおっぱいがブルンブルンと揺れている。慌ててルーシーが止めに入ったが、こちらの胸はやや控えめだった。

 

 アリスはベッドの上でオロオロとするばかりで何の役にも立たず、鳳はなんじゃこりゃあと傍観していることしか出来なかった。

 

「アホらしい……」

 

 その時、部屋の外から中の様子を覗き込んでいたヴァルトシュタインが、ギャラリーを代弁するかのようなセリフを吐いた。

 

「男なら、地位も名誉も国も女も総取りだくらいのこと言ってみろよ」

 

 彼は手をひらひらさせたあと、背中を向けて去っていった。入れ替わりにこそこそと神人二人が医務室に入ってきて、鳳に耳打ちするように近づいてきた。

 

「話は勇者ジャンヌから聞きました。色々とお悩みでしょうけど、娼婦を用意しますので、これからは定期的に抱いてください」

「いや、君たちねえ……」

 

 まさか部下に性欲処理の心配なんかをされる日が来るとは思わなかった。鳳は迷惑そうな顔を向けたが、今回ばかりは彼らも引くつもりはないようだった。実際、こうして大騒動を起こしてしまった手前、今は強く言えないのであるが……

 

「病室で騒ぐなら出ていきなさいっ!!!」

 

 騒ぎが大きくなりすぎたせいで、医務室の主であるアスタルテの堪忍袋の緒が切れたようだ。ルーシーがペコペコと頭を下げて、神人二人が取っ組み合いを続けるミーティアとクレアを慌てて引き剥がしている。

 

 その時、隣に座っていたアリスからクスクスという笑い声が漏れて、見れば彼女の穏やかな笑顔がそこにあった。考えてもみれば、出会ってから一度もそんな表情を見たことが無かった。それくらい、いつも張り詰めた環境を強いていたのかも知れない。

 

 鳳が顔を見ていることに気づいたアリスが小首を傾げてこっちを見ている。その顔を見た時、彼はなんだか憑き物でも落ちたかのような幸せな気分になった。

 

「どうやら俺は勘違いしていたらしい」

「え?」

「遠ざけるんじゃなくて、受け入れて生きていくしかなかったんだな」

 

 この感情に負けてしまったら、いつかみんなを傷付けてしまうんじゃないかと思っていた。だが、自分ひとりの力では解決出来ないこともあって、それとは真逆の結末を迎えてしまうところだった。

 

 もし、自分が間違いを犯してしまったのが彼女じゃなかったら……そしてこの仲間たちが居なければ、今ごろどうなっていたんだろうか。そんな仲間が望んでるというのなら、自分はこの国を救わねばならないし、彼女らを幸せにしてあげたいと、彼はこの時はじめて決意した。

 

 間違いは正さねばならない。

 

「ハーレム王に俺はなるよ」

 

 彼は決意を秘めたような眼差しで、そんな風に誰ともなしに呟いて……そしてその日、彼はいなくなった。

 



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弱虫

 鳳の大暴れから数日が過ぎ、官庁街にはまた人が戻っていた。勇者の力を持つヘルメス卿の狼藉はもはや厄災レベルであり、普通の人ではとても太刀打ち出来るわけもなく、みんな避難を余儀なくされていたのだが、それがようやく落ち着いたと言うので恐る恐る戻ってきたところである。

 

 騒動を引き起こした張本人は、現在リフレッシュ休暇と称して勇者領で療養しているそうだった。今回の件はまだ年若い彼が重責を担わされ、激務が続いた末のストレスのせいであるらしく、各国との折衝も国内貴族たちとの調整も、全て彼に任せっきりだった役人たちは自分たちの怠慢を恥じた。

 

 彼らは反省をして今まで以上にやる気になっており、あれだけの騒動だったにも関わらず、一人も欠けることなく職場復帰し、現在はペルメル、ディオゲネス両名の下で、ヘルメス卿不在の行政を支えてくれていた。

 

 尤もそれは詭弁で、実際の鳳はリフレッシュ休暇なんてものに行っているわけではなかった。彼はあの医務室でアリスに許された後、落ち着きを取り戻していたように見えたが、実際にはそうでもなく、その翌日には一通の手紙を残して消えてしまった。

 

 彼の性格を考えると仕方ないことだったのかも知れないが、あれだけ言ってもまだ一人で解決しようしていることに仲間たちは憤ったが、しかし、彼もまた仲間を受け入れるための努力をしていたようである。

 

 手紙にはこう書かれていた。

 

『私は私生児として生まれ、施設で育ちました。父親は分かっていますが、母親が誰だかはっきりとせず、親の愛というものを殆ど知りません。父は自分の後継者を作り出すべく、不特定多数の女性と契約して子供を産ませ、私たちは知らず識らずのうちにお互いに競争させられていたのです。私はそんな中でたまたま頭角を表した一人でした。

 

 私を引き取った父は自分の後を継がせるべく、私に英才教育を施しました。施設にいた時と別段変わりない生活でしたから、特に苦しいと思ったことはありません。ですが父に支配されているということ、母親がいないということ、彼のために生き、彼のやりたいことを継承するために生まれてきたのだという事実が重くのしかかり、私は最後まで父を信じることが出来ませんでした。彼のことを憎んでさえいました。

 

 でも今は、それでも彼は彼なりに愛情をもって育ててくれていたんだと思ってます。この世界に来てからそれが分かった気がします。幼馴染を汚された時、私を叱ってくれた父は正しかった。だから今は、自分の生命を軽視してたりしてないし、いつ死んでもいいなんて思ってもいません。

 

 それに私には生きる希望も出来ました。とても大切な人たちが出来たんです。

 

 ミーティアさんはこの世界に来た時からお世話になっている人で、右も左もわからない私にいつもお姉さんのように優しく接してくれました。デートしたり料理を作ってもらったり、時には喧嘩もしました。いつ頃からか彼女の元へと帰ってくるのが、この世界での自分の居場所になっていたんだと思います。そんな彼女が私のことを好きでいてくれたことはとても素敵なことだと思っています。

 

 クレアさんはこの世界でもとびきりの才媛で、私にはもったいない女性です。始めはこれだけの美人が私に近づいてくるのは、自分の地位を利用しようとしているだけだと思っていました。ですが、私は彼女の良心に触れ、少しずつ彼女のことを知る内に、彼女がどれだけ領民を愛し、この国を良くしようとしているかが分かり、心の底から彼女は尊敬するようになりました。

 

 私はアリスさんのことを、ずっと自分が保護していると思っていました。彼女の雁字搦めの境遇が自分と似ているような気がして、目が離せないと思っていたのです。ですがそれは私の間違いでした。彼女は自分一人の意思で立ち上がり、自分の居場所を掴み取り、主人を助け、そしていつも私に尽くしてくれていた。とても強い女性だったのです。そんな彼女は私の間違いを正し、あまつさえそれを許してくれたことで、駄目になりそうだった私を救ってくれた恩人でもあります。

 

 私はこんな自分のことを愛してくれる3人のことを、本当に嬉しく思っています。彼女らの愛を受け入れ、これから共に暮らしていきたいと、本当にそう願っております。ですが、そうするにはまだ不安が残っているのです。

 

 300年前の勇者はたくさんの子供を残しましたが、その殆どが殺されています。それは魔王になりかけていた勇者の落胤として、帝国に処分されたからです。私がこれから彼女らと結婚して子供が生まれたとしても、その子供たちが不幸になるのだとしたら意味がない。私はみんなを幸せにしたいのです。私を愛してくれた3人の女性のことも。その子供たちも。領民も。この世界の人々全てを。

 

 そのためにはやはり魔王化を止めるのが先だと思うのです。今回、これだけ皆さんに迷惑を掛けたというのに、その止め方が分かっていないのは、やはり恐怖なのです。また自分は同じことを繰り返してしまうのではないか。それが怖いのです。

 

 確かに、ルーシーの言う通り、性欲を満たせば一時的に衝動は収まりますが、それで魔王化が解決したわけじゃないのです。もしかすると、このまま誤魔化しながらずっと生きていくことも出来るかも知れませんが、いつどうなるかはわからないのです。少なくとも、300年前の勇者は忽然と姿を消しました。

 

 300年前の彼に何があったかはわかりませんが、もし将来、私の身に何かが起こり、彼のように愛する人を残して消えるようなことがあっては、取り返しがつかないことになる。全てが台無しになる。だから今はまだ、性欲に溺れるわけにはいかないのです。

 

 仲間を信じていないわけじゃありません。理性を失い、魔王となった私のことを彼らはきっと止めてくれるでしょう。ですが、私も彼らも無傷とはいかないはずです。もしかしたら誰かが死ぬかも知れない。私はそんなことになって欲しくないのです。

 

 もちろん、何の当てもなくこのようなことを言ってるわけじゃありません。私は魔王化を止める鍵がネウロイにあると考えています。あの土地は魔族が生まれる土地だからこそ、そこに元凶があるのではないか? 例えば帝都にある『神の揺り籠』のような先文明の遺産や、迷宮があるのではないか。それを探しに行こうと思っています。

 

 最初に言った通り、死ににいくつもりは全くありません。私は今、かつて無いほど生きたいという意志に満たされています。私は、私の愛する3人の嫁と面白おかしく暮らすために、絶対に帰ってくる。ハーレム王に俺はなるんだ。だから心配しないで待っていて欲しいのです。

 

 でも、もしものことがあったらその時は、この国の将来をクレア・プリムローズ卿と、私の信頼する部下、ペルメルとディオゲネスに委ねようと思っております。もちろん、そうならないよう全力で努力しますが、そうなった時のために、彼女を後継者とする血判を残しておきますので、どうかよろしくおねがいします。

 

 最後に、アリスさんに、あなたに私の全財産を残します。預かっておいてください。それでは、皆様の末永いご健勝をお祈りしております。鳳白』

 

 主が不在となった執務室の中で、クレアとペルメルとディオゲネスの3人が顔を突き合わせていた。

 

 彼らは鳳の手紙を読み終えると、それと一緒に添えられていた血判状と共に、大切なものをしまうように金庫にしまった。だが、これを使うことは未来永劫ありえないだろう。彼らが大事に思っているのは、後継者を指名した紙切れなどではなく、そこに書かれていた決意であった。

 

 絶対に帰ってくる。その言葉を信じて、彼らもまた決意を固めた。

 

 クレアは鳳がやり残していった東部国境を開くため、仲間たちを説得することに決めた。隣国を嫌う彼らを説得するのは相当骨が折れる仕事だろう。本音を言えば自分だって嫌なのだ。だがもうそんなこと言ってられない。彼が帰ってくるまでに、国内の街道整備を終え、自分の領地に新しく大きな街を作るのだ。

 

 彼女は彼が自分のことを領民思いだと言ってくれたことを誇りに思ったが、それ以上に、彼がもっと多くの人々を救おうとしていたことを知っていた。彼の思い描いた夢のように、自分の領地を第二のニューアムステルダムにするのだ。

 

 そして神人二人もまた、国内の神人貴族を取りまとめるために動き出した。今までは先代の家系に遠慮して手心を加えていたが、今となってはそんな気持ちは失せていた。そもそも、高潔な神人である自分たちが、何故能力の劣る人間の下に傅かねばならないのか。

 

 真の王は一人で良いのだ。他者の意見などどうでもいい。強力に改革を推し進める力が必要なのだ。それはロバートでもクレアでもない。ヘルメスの加護を受け、勇者となった者をおいて他にありえないだろう。最初からわかっていたのだ。

 

 だから彼らは動き出した。新しい時代を始めるために、彼が戻ってくるのを信じて……

 

*********************************

 

 運び込まれた孤児院の医務室での療養を終えて、アリスはまたヘルメス卿の近侍として仕事に戻ろうと思ったが、その時にはもう彼は旅立ってしまった後だった。

 

 いつものように執務室へ出勤すると、そこには深刻そうな顔をした3人がいて、鳳の手紙のことを教えてくれたあと、彼女に自宅待機を命じた。他の3人とは違って、仕えるべき上司がいない状況では、彼女がここに残っていてもやれることは何も無かった。彼女の仕事は日々の細かな雑用なのだ。用事を言いつける者がいなくてはどうにもならない。

 

 仕方なく宿舎に帰ると、丁度ルナが外出しようとしているところだった。隣にはいつもの乳母ではなく、見たことのない女性が立っていた。アリスは不自然に思いながらも、大きくなってきた赤ん坊を重そうに抱いているルナに駆け寄ると、

 

「お嬢様。よろしければ私が代わります」

「まあ、アリス、どうしてこんなところに? 今日からまたお仕事だって張り切っていたじゃない」

「実は……」

 

 アリスが鳳が旅立ってしまったことを告げると、ルナは暫く呆然としたあとに残念そうな表情を作り、

 

「そう……私にはヘルメス卿のお悩みが理解できますわ。私たちは、無邪気に勇者の血が欲しいなどと言っていましたが、そうしてこの子を授かったあとに待っていたのは、過酷な逃亡生活でした。ヘルメス卿は、あなたにまたそんな思いをして欲しくないのでしょう」

「はい……ですが勇者様は絶対に帰ってくるともおっしゃっておりました。ですから、それまで、また以前のようにお嬢様のお傍に仕えさせてくださいませんか」

「いいえ、それは出来ないわ」

 

 ところがルナは、きっぱりとそう言いきった。まさか主人に拒絶されるとは思いもよらず、アリスは戸惑った。

 

「どうしてそんな意地悪をおっしゃるのですか?」

 

 するとルナはアリスの目を覗き込むようにじっと見つめてから、

 

「あなたにはもう、本当のご主人さまが出来たのですから、これからはそちらに尽くしなさい。今、その方が大変なときだと言うのに、こんなところで時間を浪費している場合ではないでしょう?」

「それは……」

「ヘルメス卿は、あなたに財産を預かってくれと書き残して旅立たれました。それはもしもの時のために、あなたに対する償いのつもりで書かれたのでしょう。あなたはそんなお金を受け取れますか?」

 

 アリスはハッと目を見開いて、それから慌てて首を振った。彼女はそれを、単にお金の管理を任されただけだと、言葉のとおりに受け取っていたのだ。それが生まれつきルナの従者として育てられた、彼女にとって当たり前のことだったから。

 

 ルナはそんなアリスに向かって、まるで自分の娘に言い聞かせるように微笑みかけると、

 

「実はこの間、避難所代わりに行った孤児院で仕事を見つけてきたのです。今、こちらの方の紹介で、そこへ向かうところでした。ヘルメス卿が作られた孤児院の子たちは、みんなしっかりしていて、避難中の私の赤ちゃんの面倒を見てくれました。私も、孤児院の子供たちを世話するのが楽しくて、また機会があればと思っていたのです。

 

 神人は長く生きるくせに、なかなか子供が出来ないから、今までその可愛さがわかりませんでしたが、私はこの子を授かったことで、それが分かった気がします。今の私は、人の子全てが愛しくて仕方ないのです。きっとこれが天職だったのでしょうね」

 

 ルナは自分の赤ちゃんを愛しそうにぎゅっと抱きしめながら、今までに見せたことのないような晴れやかな笑顔で言った。

 

「アリス……あなたのお陰で、この子に会うことが出来ました。きっと私一人だったら、今ごろ帝都で処刑されているか、仮に逃げおおせても世を儚んで、こんな幸せな気分ではいられなかったでしょう。それもこれも、あの時あなたが必死になって、私のためにヘルメス卿に縋ってくれたからです。感謝しています」

「お嬢様……」

「今日を持って、私とあなたの主従関係を解消しましょう。これから私たちは対等な立場です。だからもう、私のことは気にせず、あなたはあなたの人生を歩みなさい。あなたと過ごしたこの数年間は、私の大切な宝物です」

 

 ルナは片手で赤ちゃんを抱きながらもう片方の手を差し出しながら言った。アリスはその手をしっかと握りしめ、深々と頭を下げながら、別れの言葉を口にするのだった。

 

「長い間、ありがとうございました」

 

*******************************

 

「……鳳さんの弱虫」

 

 冒険者ギルドの掲示板前では、不機嫌オーラを放つミーティアが、今にも人を殺しそうな眼光鋭い瞳で掲示板を睨みつけながら、ペタペタと何か張り紙をしていた。

 

 黙っていればクール系美人と言えなくもない彼女は、実は今のフェニックスのギルドでは密かに人気があったのだが、口を開けばすぐ飛び出す暴言とその邪悪な笑みのせいで、いつしか屈強な冒険者達からも敬遠されていた。

 

 おまけに今日はそれに輪をかけて不機嫌そうと来ている……酒場に来ていた冒険者たちは触らぬ神に祟りなしと、遠巻きにそれを見ているだけで誰も彼女に近づこうとはしなかった。

 

 そんなこととは露知らず、彼女は今日もギルドに閑古鳥が鳴いていると嘆いては、また不機嫌オーラの色を濃くしていた。

 

 それもこれもあの根性無しが悪いのだ。彼らしいといえば彼らしいのだが、鳳はまた自分ひとりで何かを決断すると、何も告げず彼女を置いてどこかへ行ってしまった。あの日、彼女は彼に今度からはちゃんと相談しろと言ったのに……自分では役に立たないかも知れないが、それでも報告はしろと言ったのに……

 

 そしてこうも言ったはずだ。もう待っているだけの自分じゃないと。

 

 クレアから彼の残した手紙の話を聞いた時、唖然としながらも、彼女は心のどこかで、やっぱりなと思っていた。そしてすぐに追いかけようと覚悟を決めた。

 

 相手は伝説の勇者で、行き先は魔族の跳梁跋扈するネウロイである。そんな場所に何の戦闘力もない自分なんかが行けるはずもない。無謀なことはわかっている。でもそんなの関係ない。ギルド長の説得もまだだが、彼女は絶対に追いかけてやると心に決めていた。

 

 そんな感じに彼女が決意を新たにしていると、酒場のマスターが受付までやってきた。元々、この街の酒場を経営していた男であるが、彼は戦争のせいで一度は国元へ帰っていたのだが、鳳がヘルメス卿になるとまた舞い戻ってきて、元の席に収まった経緯があった。

 

 因みにルーシーの母親とは知り合いで、彼女が死んでからは彼女の親代わりのような立場でもあった。そんな縁もあってか、今でも一緒に酒場を切り盛りしていたのであるが、

 

「ミーティア君、今日ルーシーから何か聞いてないかい?」

「どうかしたんですか?」

「実は朝から来て無くて、ただの遅刻だと思ってたんだけど……まいったなあ、そろそろお昼時だし、店のほうが忙しくなってきちゃって。良かったら手伝ってくれないか?」

「いつも暇だと思わないでください。私にだってやることがあるんです」

「うっ……すみません」

 

 マスターはすごすご帰っていた。ミーティアは彼の煤けた背中を見送ると、受付のデスクにダラっと覆いかぶさるように突っ伏した。

 

「まあ……見ての通り暇なんですけどね」

 

 彼女は突っ伏したまま手首に顎を乗っけるような姿勢で、大賑わいの店内を眺めながら、ため息交じりに言った。

 

 このタイミングでルーシーが居なくなるなんて、もしかして鳳について行ったんだろうか? 彼が誘うとは思えないから、彼女が強引についていったと考えるのが自然であるが……もしそうなら、どうして自分を誘ってくれなかったんだろうか。

 

 やはり非戦闘員は危ないから? 確かに、自分みたいな素人がネウロイなんていけるわけがない。無謀すぎるのは分かっている。でも、諦めきれないのだ。

 

 座していては、男はあっちへフラフラこっちへフラフラ、どこかへ行ってしまうだけなのだ。幼馴染を親友に奪われた時、二人のことが好きだったから、これでいいと諦められた。だが今度はそういうわけにはいかない。愛する人は、ちゃんと自分の手で掴んでおかなければ、一生後悔する。

 

 彼女はそんな風に考えて、遣る瀬無さに胸がはち切れそうになった。彼のことを追いかけたい。でも自分には力がない。どうすればいいのか……

 

 そんな時、まるで天啓が舞い降りたかのように、その声が聞こえてきた。

 

「はあ? なんだこの張り紙は……ネウロイなんて行くバカがこの世のどこにいるってんだよ」

 

 気がつけば、いつの間に紛れ込んできたのか、掲示板の前で少年がゴソゴソやっている。彼はさっきミーティアが貼り付けたばかりの張り紙をビッとちぎるように引ったくると、ニヤニヤとした、それでいて愛嬌があるような独特な笑みを浮かべつつ、彼女の方へと近寄ってきた。

 

「どうしてこんな無謀なの貼ってんだ? 依頼人は……はあ? ミーティア? あんた、気でも狂ったのかよ?」

 

 見れば暫く前に勇者領へ旅立ったギヨームが、肩を竦めて呆れるような素振りで立っていた。彼女はその姿を見るや否や、その頭をベチっと引っ叩いて、

 

「帰ってくるの遅すぎ!」

 

 そんな理不尽なセリフを浴びつつも、彼は相変わらずニヤニヤとした笑みを絶やさずにいた。

 



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それぞれの旅立ち

 護衛求む。行き先はネウロイ……そんな無謀としか言えない依頼のビラを手に、ギヨームはミーティアに頭をべちべち叩かれながら帰還の挨拶をした。その失礼な態度もさることながら、彼女にしては切羽詰まっている様子に、取り敢えず何があったのかと尋ねて、彼は自分が居ない間にあった出来事を知った。

 

 鳳が酒に飲まれてアリスを襲ってしまったことを聞くと、彼は呆れたりがっかりしたりはせずに、寧ろ関心したそぶりで、

 

「へえ……あれがマグダラとはね」

 

 などと意味深なセリフを呟いていた。ミーティアには何を言っているのかチンプンカンプンだったが、それ以上に彼がほとんど驚いていない様子が気になり、

 

「ところで、ギヨームさん。なんだかあまり驚いてないように見えますが……」

「ん? ああ、実はレオから聞いてさ」

「タイクーンから?」

 

 ギヨームは軽く頷いて、

 

「実はレオも帝都にいる時に、ジャンヌみたいにソフィアから魔王化について聞かされていたらしいんだよ。俺が村に行ったら、スカーサハと一緒に丁度それを阻止する方法を探していたみたいでさ、そんで教えて貰ったんだ」

「だったらすぐ帰ってきて、私たちにも教えてくれたら良かったじゃないですか! そうしたらこんなことにはならなかったのに……」

 

 ギヨームは、ミーティアの気持ちは分かるが、そんな風に責められても困ると言わんばかりに、

 

「つってもよお、レオもまだ調べてる段階で何か見つけたわけじゃないんだぜ? なのに、これこれこういう事情です。まだ何も解決してませんって、お前らに報告しても意味ねえだろ」

「それはそうですけど……」

「帰ってきてもあの時の俺じゃ何の役にも立たなかっただろうし、すぐどうこうなるとも思えなかったんだよ。それに、俺も色々行き詰まってたからさあ」

 

 言われてミーティアは思い出した。そう言えばギヨームは、鳳と比べて自分の力不足を感じるようになり、修行のためにレオナルドに会いに行ったのだった。そんな彼にさっさと帰ってこいと言うのは酷である。ミーティアは声を荒げたことを反省しつつ、

 

「そう言えば、修行の成果はどうですか? レベルアップしたり、スキル覚えたりしましたか?」

「ん……? まあ、ぼちぼちかな。いや、本当、レオは偉大だよ。色んなことを教えてくれた」

 

 ギヨームは苦笑交じりにそんなことを口走った。あまり人を褒めない彼が自然とそんなことを言うくらいだから、よほどいい経験が出来たのだろう。なら良かったとミーティアがホッとしていると、彼はパンパンと指でビラを弾きながら、

 

「んで? この張り紙はなんなんだ? ネウロイって、なんであんたそんなとこ行きたがってんだよ?」

「それは……クレアが教えてくれたんですけど、鳳さんが残した手紙には、自分の魔王化を止める手がかりを探すためにネウロイへ行くと書かれていたそうなんです。それを追いかけようかと思って……」

「はあ!? 追いかけるって、あんたマジで言ってんのか!?」

「……マジですけど」

「そんなの無謀だし、見つかるわけねえだろう? ネウロイってどこにあると思ってんだよ? 地球の反対側だぞ!? あ、いや……地球じゃないけど。惑星だけど。とにかくメチャクチャ遠くて、魔族も魔物もいっぱいいて、危険が危ないとこなんだぞ?」

 

 ギヨームが目を丸くしながら彼女の無謀を指摘すると、彼女はうんざりしたような、もしくは拗ねるような表情で唇を尖らせながら、

 

「そんなの分かっていますよ。私が何年ギルド職員をやってると思ってるんですか?」

「なら分かんだろうが……」

「でも追いかけるって決めたんです!」

 

 ミーティアは叫ぶように言った。

 

「もう待ってるのは嫌なんです……あの人がそこにいると言うなら、私は行くって決めたんですよ。何もしないで待ってたら、もしかしたらもう、帰ってこないかも知れないじゃないですか……そんなのもう、嫌なんですよ」

 

 彼女には、それがいかに無謀であるかが分かっていた。自分なんかじゃ、そこへ到着するより先に死んでしまうかも知れないということも。自分が意固地になっているのも分かっていた。でも、それでも追いかけずにはいられなかったのだ。

 

 そこが危険であればあるほど、あの鳳だって無事で済むとは限らないのだ。ただ座していたら、彼が死んだことすら分からず、もしかしたら一生彼を待ち続けることになるかも知れないじゃないか。

 

 それが嫌だと言うわけじゃない。苦痛であるわけでもない。だが、そうやってヒロイズムに浸っているのはもう嫌なのだ。彼女がぼんやりと待っている間に、幼馴染は別に運命の相手を見つけてしまった。鳳は、別の子を相手に罪を犯してしまった。

 

 もし彼がまた間違いを犯すことがあるならば、その時は絶対に自分が傍に居ると決めたのだ。そしたらそれは間違いじゃなくなるのだから。

 

 だから彼女は行こうと思ったのだ。それがそんなに悪いことなのだろうか。無謀なのは分かっている。馬鹿だとも思っている。だが、何もしないで諦めるよりは、まだマシな馬鹿だと彼女は思った。

 

 笑いたければ笑え。彼女はふんぞり返りながらギヨームを見下ろした。しかし、彼はそんな彼女に向かって、やれやれとお手上げのポーズを見せると、

 

「しゃーねえ。じゃあ行くか?」

「……え? ギヨームさん、一緒について来てくれるんですか?」

「ああ、そう言ってるつもりだが?」

「……馬鹿にしないんですか?」

「馬鹿なのは鳳の方だろう?」

 

 その身も蓋もない言葉に、ミーティアは胸のつかえがポロリと取れた気がした。

 

 そうだ、馬鹿なのは鳳だ。ミーティアも馬鹿かも知れないけれど、鳳はもっと馬鹿なのだ。どっちも馬鹿なら、これ以上お似合いの二人はいないじゃないか。

 

「正直、ネウロイに行ったところで見つかるとも思えないが、ルーシーのことも気になるからついていってやるよ。せめてガルガンチュアの村辺りまでは行く意味もあるだろう」

「は、はい! ……それで、依頼報酬の方なんですけど」

「んなもん要らねえよ……でも、そうだなあ。もしあいつを見つけたら、俺の代わりに一発ぶん殴ってくれないか」

 

 ミーティアは邪悪な笑みを浮かべながら言った。

 

「元よりそのつもりです」

「そいつは頼もしいな」

 

 ギヨームはその言葉にニヤリとした笑みを向けた。

 

 もしかしたら、彼は彼女の気持ちを汲んで、こう言ってくれてるだけかも知れない。きっと彼女が途中で音を上げるだろうと、高をくくっているのかも知れない。でも仮にそうだとしても、彼女は彼がついてきてくれるというだけで有り難かった。

 

 何故なら、こんな無謀な依頼を受けてくれる冒険者なんて、他に誰もいないことを彼女は知っていたからだ。その気持ちに感謝しつつ、彼女はギルド長へ暇乞いをしに向かった。

 

 護衛の冒険者が彼一人というのは、普通に考えれば心許ない気もするが、今は不思議と彼さえいればなんとでもなるような気がしていた。それはギルド長も同じだったようで、ミーティアが鳳を追いかけたいと言ったところ、彼は最初は驚いて反対したが、最終的にはギヨームが同行するということで許可してくれた。

 

 鳳にはルーシーが同行しているかも知れない。見つけたら一緒に連れ帰ってくると言い残し、二人は続いてジャンヌを誘いに街へ出た。

 

*********************************

 

 フェニックスの街の宿屋に居を構えていたジャンヌを尋ねると、彼女は丁度旅支度を終えたところのようだった。ギヨームが帰還の挨拶をし、暫し3人で雑談を交わす。

 

 ミーティアはもしかして、彼女も自分と同じように鳳を追いかけようとしているのかと思い、嬉しくなった。ところが、サムソンと共に宿屋をチェックアウトしようとしていた彼女の目的地が、ネウロイではないと分かりミーティアは狼狽した。

 

「帝都へ……?」

「ええ、そうよ」

「あの……私たちはネウロイへ向かおうと思ってるんですけど」

「そう。私は白ちゃんを追いかけたりしないわ」

「なんだ、おまえは鳳ハーレムに入らないのか?」

 

 ともすると決別とも思えるカラッとしたその宣言に、ミーティアが言葉を失っていると、背後からギヨームのド直球なセリフが聞こえてきた。彼女がそんな無遠慮なギヨームの足を踏みつけていると、ジャンヌは苦笑いしながら続けた。

 

「私にはその資格がないわ。多分、彼がああなってしまったのは、私のせいだと思うもの……」

「そうか? 元々のあいつの性格のせいだと思うぞ」

「それもあると思うけど、その切っ掛けを与えてしまったのは、やっぱり私だったと思うのよ。私が考えているよりもずっと、LGBTと普通の人とでは、感覚のがズレが大きいんでしょうね。私がこうして完全に女になっても、彼にとって私はいつまでも頼れるマッチョなお兄さんだったのよ。私はそれが嫌で、なんとかその認識を覆そうとしていたけど、そんなこと彼は望んじゃいなかったし、今やることでも無かったわ。

 

 今回の件で踏ん切りがついた気がするの。私がやるべきことは、彼が間違えたときに、逃げ場になることじゃない。一緒に戦うことだったのよ。それを忘れて、女になったって浮かれて騒いで、ずっと彼にプレッシャーを掛け続けていたのね。だから罰が当たったのよ。

 

 彼が一番苦しんでいる時、私はミーティアさんみたいに彼を支えてあげたいって言い出せなかった。クレアさんやアリスちゃんみたいに、まっすぐ彼を愛せるとも言えなかった。私の現在位置はそこで、これからもう近づくこともないでしょう。完敗ね。だから、ミーティアさん。彼のことはあなたにおまかせするわ」

「ジャンヌさん……」

 

 ミーティアはそれでもまだ諦めることはないと言いたかったが、自分が好きになった相手を好きになってくれとは言えず、黙っていることしか出来なかった。考えてもみれば自分たちは恋のライバルで、彼が必ず自分を選んでくれるとは限らないのだ。

 

 そんな二人がお互いに黙りこくっていると、バツの悪い雰囲気を嫌ってか、ギヨームが話題を変えるように言った。

 

「それでジャンヌ。どうして帝都へ行こうとしてるんだ? この街で待ってるんじゃ駄目なのか」

 

 ジャンヌは、はたと気づいた感じに首を振ってから、

 

「あら、勘違いさせちゃったみたいね。別に私は、みんなとお別れしようと思って帝都へ行くわけじゃないのよ。私は私で、白ちゃんの魔王化を止める手立てがないか、探しに行こうと思ってね」

「なんだ、そうだったのか。でも、どうして帝都なんだ?」

 

 すると彼女は難しそうな顔をして、腕組みした片手で頬杖を突きながら、

 

「これはただの女の勘でしかないんだけど……白ちゃんはネウロイに何かがあると思ってるみたいだけど、私はそう思わないのよね。きっと彼は、ネウロイに、帝都や勇者領の峡谷にあった『P99』みたいな機械があると思ってるんでしょうけど、もしそんなものがあるとするなら、誰が管理してるのかなって……」

「管理……?」

「もし誰かが神人を作るように魔族を作り出しているなら、その機械を操作するオペレーターがいるはずよ。そうじゃなくて、単に魔族を狂わす電波を発するような機械があるだけだとしても、今度は理性を持たない魔族に囲まれてるのに、千年以上も破壊されずに稼働し続けているのは妙でしょう?

 

 それに、魔王化の影響はネウロイだけじゃなく、この惑星(ほし)の反対側にいる私たちにまで及んでいる……人工衛星でもない限り電波は届かないから、もっと別の方法、例えば第5粒子エネルギーを使っていると仮定すると、今度こそそんな機械がネウロイにある必要はないじゃない」

 

 なるほど、確かにそうだ……ギヨームは感心して頷いた。どうやら今は鳳よりも、ジャンヌの方がよっぽど冷静であるようだ。彼女は続けて、

 

「で、考えてみたのよ。元々、魔族っていうのは、獣人や神人に嫉妬して対抗しようとした人類が、人工進化して生まれた種族なんでしょう? だったら今はどうあれ、初期には神人や獣人と同じように、DAVIDシステムの力を借りていたはずじゃないかしら……? なら、実は怪しいのは場所じゃなくて、P99なんじゃないかなって……」

「ふーん……言われてみれば怪しいな」

「うん。あくまで直感でしかないんだけどね。どちらにせよ、魔王化についてはソフィアに一日の長があるんだし、相談がてら調べてみようかなって」

「そうか。ならそっちの方は頼むよ。俺はネウロイに賭けてみる。どっちにしろ、あの馬鹿を連れ帰らなきゃなんねえしな」

「頼んだわ」

 

 ギヨームとジャンヌがお互いに健闘を称え合っていると、それを背後で聞いていたサムソンが歩み出てきて言った。

 

「なんだか、そっちの方が大変そうだな。もしよければ俺も一緒にいってやろうか?」

「はあ?」

 

 まさかそんなこと言い出すとは思いもよらず、ギヨームは面食らって素っ頓狂な声を上げてしまった。サムソンは当然、ジャンヌと帝都へ向かうのだと思いきや、ついてきてくれるという。そりゃ場所が場所だけに、戦闘員はいくらいても助かるが……

 

「はあ!? 何言ってるんですか、サムソンさん。それじゃジャンヌさんの方はどうするんですか?」

「ジャンヌなら俺がいなくとも、帝都に行くくらいわけないだろう?」

「そう言うことじゃなくってですねえ……!」

 

 ミーティアはイラッとしながら、

 

「気持ちは嬉しいですけど、私たちはこれからネウロイに戦いに行くんじゃなくて、人を探しに行くんです。戦闘は極力避けて通るつもりなのに、そんな中にあなたみたいな図体がデカいだけの人が混じってしまったら、かえって目立って邪魔なだけですよ」

「じゃ、邪魔!? いや、しかし、戦闘をしなくとも俺は役にたつと思うが」

「それにサムソンさんみたいにきっついヨーグルト臭を漂わせていたら、いくら隠れていても魔物に感づかれてしまいます。いいえ、それ以前に、そんな人が四六時中隣にいたら、私のほうが先に参ってしまいますよ。もしそれでもどうしてもついて来たいと言うのであれば、まずはそのキツイ体臭をどうにかしてください。あともう少し小さくなってから出直して来てください。あとあと、私、生理的にハゲは受け付けないんでよろしく」

「ひどいっ!!」

 

 サムソンはここまでけちょんけちょんに言われるとは思わず、ショックを受けて泣き崩れた。その隣ではジャンヌが苦笑しながら、そんなに体臭きつくないよと慰めていた。ミーティアはそれを見ながら、またサムソンが心変わりしないうちに、さっさと出発してしまおうと、

 

「それでは、ジャンヌさん。私たちはこれで、慌ただしい出発になってしまいましたが、生きていたらまたお会いしましょう」

「え、ええ、その時は白ちゃんと一緒に」

 

 ミーティアはごきげんようと爽やかに挨拶をすると、気の毒そうな顔をしているギヨームの服をグイグイと引っ張り、ジャンヌの宿屋から外に出た。往来まで引っ張られてきた彼は、やれやれとため息をつくと、

 

「あんたさあ……酷いんじゃね? あんなこと言われたら、あいつ立ち直れねえぞ?」

「はあ? 何言ってるんですか。私、メチャクチャ優しいじゃないですか。サムソンさんが魯鈍なのが悪いんですよ」

「いや、言いたいことは分かるけどさ……」

 

 しょっちゅう鳳と漫才を繰り広げているのを見てきたが、彼女は笑顔が怖いだけではなく、根本的に口も悪いようである。ギヨームは、道中は下手に彼女を怒らせないでおこうと心に誓った。

 

********************************

 

 帝都へ旅立つというジャンヌたちと別れて、ミーティアとギヨームはまたギルド酒場へと戻ってきた。今度は自分たちが旅支度をする番だった。

 

 とは言え、旅慣れているギヨームと違って、問題はミーティアだけだった。一般人の彼女は何をどれだけ持っていけばいいか分からず、行き先も行き先だけあって、最初は両手に抱えきれないほどの荷物を持っていたが、すぐにそんなんじゃ駄目だとギヨームに断捨離させられた。

 

 彼女は彼に言われるままに荷物を減らしていったが、そのあまりの捨てっぷりに段々自信が持て無くなっていった。最終的には彼女が想定していた一週間分くらいの荷物しか残らなくて、流石にこれじゃ保たないんじゃないか? と抗議の声を上げたら、

 

「あのなあ、保たないんじゃないか? じゃなくて、どうせ保たないんだよ。物資は必ずどこかで尽きる。そこで動けなくなるんなら、最初からネウロイなんて目指すべきじゃないんだよ。寧ろ、物資が尽きてからが本番で、そこから先は色々と工夫して進まなきゃなんねえ。極端な話、荷物なんて何も持たずに森に入っても生きていけるサバイバル技術こそが必要なんだよ」

 

 残念ながらそんな技術なんか持ち合わせてはいない。まあ、そのためにギヨームが居るわけだが……彼女は本当に大丈夫かな? と思ったが、今となっては森歩きのエキスパートである彼の言うことを聞くのが、結局のところ最善だと割り切り、言われた通り荷物をスッキリさせた。

 

 最終的に彼女には背負って駆け足が出来る重さのリュック一つだけが残り、ギヨームが野営用の荷物を持ち、食器類はミーティアが担当することになった。取り敢えず食料はここから持っていかず、物資は森に入る直前に周辺の村からかき集めることにして、そして彼らは馬車を捕まえるべくギルドを出た。

 

 往来は喧騒に満ちていて、街の人々はもうこの間の騒ぎを忘れてしまっているかのようだった。時折聞こえてくるうわさ話も、これと言って深刻なものはなく、単に鳳が休暇を取ったらしいという程度で、思ったよりも混乱は少ないようだった。

 

 もしかするとこの国は、もう彼がいなくてもやっていけるんじゃないかという錯覚すら覚えるが、実際には鳳が居なくなった段階で勇者領が手を引き、帝国との綱引きが始まるはずである。その時、この国の舵取りを行う者がこの繁栄を維持できるかが問題なのだ。正直なところ、現状では誰が後継者になったところでそれは不可能だろう。

 

 だがそんなことにはならないだろう。

 

 ギヨームは、実はミーティアよりも、ずっと鳳を連れ帰ってくる気満々だった。彼にはそうしなければならない契約があるのだ。

 

 街の玄関でもある広場までやってくると、大量の馬車と荷物と荷運びの労働者たちでごった返していた。即席の市場が立ち、威勢のいい声があちこちから聞こえてくる。

 

 そんな中、東へ向かう馬車を探して二人がうろついていると、遠くの方から息せき切って小さな影が駆けてきた。それがまっすぐこちらへ向かってくることに気づいたミーティアが顔を上げる。見ればこのところ鳳の使いっぱしりで、すっかり見慣れてしまったアリスだった。彼女はいつものメイド服ではなく、どこか旅立ちを想起させる簡素な出で立ちで現れた。

 

「おや、アリスさん。珍しいところでお会いしますね」

 

 ミーティアが、この間の騒動もあってバツが悪いなと思っていると、アリスはそんな彼女を見つけると息を整えながら近づいてきて、

 

「ギルドへ行ったら、今日は店じまいと言われまして……マスターさんに、追いかければまだ間に合うかもって……」

 

 恐らく、ギルドに何か依頼をしに来たのであろうに、いきなり店じまいと言われて彼女は戸惑っているようだったが、すぐに意を決したように、

 

「あの……私も勇者様を追いかけたくて……」

 

 多分、ギルドに護衛の冒険者を斡旋してくれるよう依頼しに行ったのだろう。そうしたら、一足先にミーティアが旅立ったと聞いて、慌てて追いかけてきたのだ。

 

 考えることは同じか……

 

 はっきり言って、アリスは恋のライバルであり、助ける義理はまったくない。もし鳳と再会したら、彼は彼女の方へ靡いてしまうかも知れないし、自分同様、何の戦闘スキルも持ち合わせていない彼女は足手まといにしかならないだろう。そもそもギヨームが同行を拒むかも知れない。だから断るのは簡単だが……

 

 しかし、ミーティアはため息を吐くと、

 

「……一緒に来ますか?」

 

 するとアリスは恐る恐ると言った感じに、

 

「よろしいのですか?」

「ええ。どうせ拒否しても、別の冒険者を雇って追いかけて来るつもりでしょう? そんなことしても騙されるだけかも知れませんし……ネウロイまで到達できる冒険者なんて、彼の他に居るとも思えません。なのに拒否して、あなたが今ごろどうしてるのかな? なんて考えるのは寝覚めが悪くて仕方ありませんから、だったら初めから一緒に居たほうが良いでしょう。ギヨームさん? よろしいでしょうか?」

「ああ。いいぞ。荷物持ちくらいにはなんだろ」

 

 頭の後ろで手を組みながら、二人の様子を見ていたギヨームが、まるで近所に散歩に行くくらいの気安さで請け合った。以前の南部遠征で、ルーシーの同行を拒んだ彼と同一人物とは思えないほどである。

 

 ヴィンチ村で、よほど良い修行が出来たのだろうか? 今の彼からは自信というか、何かオーラのようなものを感じさせた。ミーティアはそれを頼もしく思いながら、

 

「ではアリスさん。これからは彼の言うことに何があっても従ってください。こう見えても彼は腕利きの冒険者ですから、言うことさえ聞いていれば道中の安全は保証出来ます。と言うか逆に、彼が駄目な時は私たちも駄目なんで、その時は思いっきり罵ってやってください」

「はい、奥様」

「……奥様?」

 

 聞き慣れない言葉にミーティアが面食らう。まじまじとアリスの顔を覗き込んでいたら、彼女は何か悪いことでもしてしまったのかと言った感じに、

 

「あの……何か失礼でも申し上げましたでしょうか?」

「いえ。いきなりだったので、ちょっと驚いて。奥様って私のことですか?」

「……? はい。勇者様の……いえ、ご主人さまの奥様でしたら、そうお呼びしたほうがよろしいかと思って……それともミーティア様とお呼びした方が良いでしょうか?」

「いいえ! 奥様でいいです。良いですね、奥様……これからもずっと奥様と呼んでください」

「はい」

「因みに、クレアのことはなんて呼ぶつもりですか……?」

「……? クレア様はクレア様ですけれど……」

「あなたいい人ですね。気に入りました」

 

 ミーティアはキャッキャウフフと浮かれている。二人はまるで数年来の友のように仲睦まじく、並んで往来を歩いていった。

 

 そんな感じに、どことなく嬉しそうなミーティアと、それに子犬のように従うアリスを追いかけて、ギヨームが後からのんびりとついていく。彼はそんな二人を遠巻きに眺めながら、彼女らに聞こえないくらい小さな声で呟いていた。

 

「……聞こえるか? カナン。ああ……ああ……分かってる。そっちの方は任すよ。後は鳳次第だが……まあ、なんとかなんだろ」

 

 彼はニヤリとした笑みを浮かべると、

 

「じゃあ、始めようか。終わりの始まりを……」

 

(5章・了)

 




次回更新は4月1日を予定してます。ではでは


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第六章・今からそいつを殴りに行こうぜ
ブラックホールに落ちた人はどうなってしまうのか?


 今は近未来。あなたは国際宇宙ステーション(ISS)の乗組員だとしよう。ISSは当初の予定を大幅に過ぎても運用され続け、ついに今年で100周年を迎えようとしている。まるでテセウスの船のように、始めに打ち上げられた部品は殆ど残されておらず、その船体は継ぎ接ぎだらけだ。

 

 だから今日もNASAから、船体のどこぞに穴が開いているから、行って塞いできてくれと指令が下った。あなたは毎日のように穴が開く船に辟易しながら、やれやれと宇宙服に着替えて、ダクトテープとマイナスドライバーを持って船外に出た。

 

 船外活動に慣れっこになっていたあなたはスイスイ宇宙遊泳しながら問題の箇所へと飛んできて、船体から空気が噴射している箇所を見つけた。穴はとても小さいから、こんなのはダクトテープで塞いでしまえばそれで終わりだ。そう思ったあなたは腰のホルダーにぶら下げたテープに手をやった。

 

 ところがその時、あなたはテープを取ろうとした拍子に、うっかりドライバーを手で弾いてしまった。ドライバーはホルダーから外れて宇宙空間をスーッと飛んでいく。このままじゃデブリになってしまう。あなたは慌ててそれを取り戻そうと手を伸ばして……今度はあなた自身がその反動で船体から飛び出してしまった。

 

 手の届く範囲には何もない無重量の中で、あなたはふわりふわりと浮かびながら、目的のドライバーに追いついた。それを腰のホルダーに回収したあなたはホッとしたのもつかの間、船に帰ろうとして振り返り、それに気づいた。

 

 宇宙服にはしっかり命綱が取りつけられていたが、なんとその先端が船体に繋がっていないではないか! 命綱はまるで蛇みたいにうねりながら、あなたの後ろにくっついてくる。どうやらあまりにも船外活動に慣れすぎていて、安全確認を怠ってしまったらしい。あなたは大慌てで仲間の乗組員に緊急事態を告げた。

 

「メーデー! メーデー! 助けてくれ! 命綱をつけずに、うっかり宇宙空間に飛び出してしまった!」

「なんだって? まったく、しょうが無いやつだなあ……いま手が離せないから、そのまま5分ほど待っててくれ。終わったら助けに行くよ」

「はあ!? 5分!? 何を言ってるんだ。船体からどんどん離れていってるんだぞ? このままじゃ地球に落っこっちまう!!」

「そんなの自業自得だろう。こっちは手が離せないんだからそのまま待ってろよ。ところで穴はちゃんと塞いだのか?」

「穴のことなんてどうでもいいだろう!? それより早く助けてくれ!!」

「人命が掛かってるのに良いわけあるか! ああ、クソ、まったく……仕方ないから穴を塞ぐことを最優先とする。おまえはそこで反省してろよ。通信を切るぞ」

「おい! ちょっと! なに言ってんだ!? 冗談だろ……? 助けろ! 助けてくれよ! いや、助けてください!! ねえってばっっ!!」

 

 あなたは必死に助けを求めた。しかし通信回線はもう二度と開くことはなかった。顔面蒼白のあなたの前に、地球がぐんぐん近づいてきている。振り返ればISSは小さな点になっていた……

 

 SF漫画の1シーンにありそうなシチュエーションである。

 

 尤も、そっちでは仲間が必死になって助けてくれて、ハラハラドキドキの展開の末に主人公が助かり、友情が芽生えるのが定番であるが……現実に起きても、案外こんなものなのかも知れない。

 

 と言うのも、我々の常識では、宇宙船から飛び出してしまった宇宙飛行士はそのまま地球に落下してしまうと思いがちだが……実際には宇宙船から飛び出た宇宙飛行士もまた、宇宙船と同じ速度で慣性飛行しているわけだから、放っておけばそのうち元の軌道に戻ってくるはずなのである。

 

 ISSはおよそ秒速11kmで上空400キロメートルを飛んでいるわけだが、ずっと飛んでいられるのは、ISSが地球から離れようとする速度と、地球の引力が釣り合っているからだ。

 

 落下した宇宙飛行士もまた同じ速度で慣性飛行をしているわけだが、彼が地球に近づけば近づくほど(落下するほど)、地球の重力加速度を得て速度が上がる。速度が上がれば地球から遠ざかる力のほうが強くなるわけだから、たったいま地球に落っこちそうになっていた彼は、今度は逆に地球から遠ざかって(上がって)行き、最終的には元の軌道に戻ることになる。

 

 だからまあ、ISSなり宇宙船なりから、例え誰かが落下したとしても、すぐに追いかけたりせずに、慌てず騒がず戻ってくるのを少し待ってから助けたほうが賢明だろう。尤も、戻ってくるまで、酸素ボンベがもてばの話であるが……

 

 因みに、筆者がこの話を知ったのは野尻抱介のロケットガールであったが、これを読んで以来、似たようなシチュエーションを見ても、全然楽しめなくなってしまった。SF界隈ではわりと定番な話なのだろうが、普通に生きていたら知らないほうが良いということは往々にしてあるものである。今頃あなたもあの漫画とかこの映画を思い出していることだろう。同じ沼へようこそ。

 

 それはさておき、さっきさらっと流してしまったが、ISSがおよそ秒速11キロメートルで飛んでいるのは、それが地球の脱出速度だからである。第一宇宙速度とか第二宇宙速度とか聞いたことあるだろうが、その第二宇宙速度がこれにあたる。

 

 意味としては、地球の重力を振り切って衛星を打ち上げるのに必要な速度は、どのくらいか? というものなのだが、意外と簡単に導くことが出来るのでちょっとやってみる。

 

 まずは手始めに地球の引力について考えてみることにしよう。

 

 ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔から鉄球と鳥の羽を落としたら、二つ同時に地面に着地したという有名な話があるが、そんなわけあるかと言うツッコミはさておき、重力加速度が物体の質量に依存しないことは周知の事実であろう。

 

 質量を持つものは皆、万有引力で引っ張り合っているわけだが、その力は非常に微々たるもので、例えば人間同士の間では殆ど引力を感じられない。だが、惑星ほどの規模になるとそれは無視できないくらい大きな力となる。

 

 とにかく分かっているのは、質量が有る物体同士が近づくとお互いに引っ張りあう力が発生する。その力の大きさは、引き合う二つの物体が持つ質量mとMに比例し、距離rの2乗に反比例する。式にすると大体こんな感じだ。

 

【挿絵表示】

 

 これはrメートル離れた、物体mと物体Mの間に何らかの力Gが掛かっていることを意味する関係式である。この物体Mを地球と仮定して、実際の数値を当てはめて計算すれば重力定数Gが導ける。正確な数値はウィキペディアに書いてあるから、今は気にせず話を続けよう。

 

 肝心なのは、地表にある物体mは、特に何もしていなくても常に上記の引力を地球から受けているということである。この力を受けている物体を、地球の半径Rから地球の重力の影響を受けない無限遠∞にまで持っていくエネルギーを計算すると、この式を積分して、

 

【挿絵表示】

 

 になる。なんでって思われるかも知れないが、微分積分ってのはそういうもんだと思って欲しい。筆者も受験生のときに一生懸命やったはずだが、さっぱり覚えてない。そんなんじゃ駄目だ、ちゃんと意味を理解しなきゃという向きもあるだろうが、というか筆者も昔はそうだったんだけど、現在は一番スマートな方法は電卓を叩くことだと思っている。

 

 話を戻そう。ともあれ、地球から飛び出すには、この力に打ち勝たねばならない。それにはどのくらいのエネルギーが必要だろうか? ニュートン力学で運動エネルギーは1/2・mv^2で表せるから、これと先程の式が釣り合えば良い。

 

【挿絵表示】

 

 これを速度vについて解けば、

 

【挿絵表示】

 

 となる。重力定数も地球の半径と質量も既に判明しているから、これを計算すると地球の脱出速度は秒速約11.2キロメートルとなるわけだ。

 

 さて、こうやって式に表してみると分かるのだが、ロケットが地球を脱出するには、自分自身の重さmは関係ないようだ。スペースシャトルのような大きなロケットも、ホリエモンロケットみたいな小さい物も、脱出速度に達すれば等しく宇宙に飛び出して人工衛星になれる。

 

 他にも気になるところがある。この式を眺めていて、実は左辺には限界があることに気づいただろうか?

 

 一般相対性理論は、万物が光速を超えることが出来ないことを示した。だから脱出速度が光速を超えるような天体があったら、それはブラックホールなわけである。

 

【挿絵表示】

 

 この式で天体の質量Mは分数の分子にあるから、天体の質量が重くなればなるほど脱出速度は大きくなり、やがて光速を超えてしまい、ブラックホールになるわけだ。

 

 ところで、この式には質量の他にも変数が存在する。それは天体の半径Rである。半径Rは式の分母にあるから、今度は小さくなればなるほど脱出速度は大きくなる。

 

 これから分かることなのだが、実はブラックホールは質量だけに依拠してはいない。地球も何か物凄い力でゴルフボールくらいの大きさになるまでギューッと圧縮してしまえば、ブラックホールになってしまうのである。そんな莫大なエネルギーをどこから持ってくるんだと言われたら現状無理そうだが、理論上は可能だからいつかそう言うことも出来るかも知れない。

 

 ところで、万物はほぼほぼ質量を持っているから、惑星のような天体に限らず、例えば電子なんかの素粒子もやろうと思えばブラックホールになりうる。これがいわゆるマイクロブラックホールというやつである。

 

 と言うか、そっちの方が簡単だからやってみようぜと科学者が言い出して、世界中が大騒ぎになったのはLHCが稼働する前、ゼロ年代初頭のことだった。多分その関係者がジョン・タイターとなり、後にシュタインズ・ゲートという名作が生まれたのだと思うと、実に感慨深いものである。尤も今では、実は落雷の中でマイクロブラックホールは日常的に生まれているらしいという研究もあって、それじゃあの騒ぎは何だったのかと言いたくなるが。

 

 さて、先程の式を半径Rについて解くと、

 

【挿絵表示】

 

 となり、これがいわゆるシュヴァルツシルト半径と呼ばれるものである。この半径Rの内側に入ってしまったものは、光であってももう外には出られない。そしてブラックホールの中心から、Rの距離にあるのが、いわゆる事象の地平面だ。

 

 ところで、さっき地球もブラックホールになりうると言ったが、実際にブラックホールになってしまったら太陽系はどうなってしまうんだろうか?

 

 我々の常識では、ブラックホールは何でも吸い込んでしまうから、地球がブラックホール化した瞬間に太陽系は消滅してしまうように思えるだろうが、実際にはなんにも変わらない。

 

 万有引力はあくまで質量に比例して大きくなるものだから、質量が変わらなければ地球の引力は根本的には変わらないはずだ。そしてその引力は距離に応じて減衰していくわけだから、今までと同じ条件で運動している天体には何の影響も及ぼさない。

 

 だから最初のたとえ話みたいに、もしもあなたがISSの乗組員だとして、ある日突然地球がブラックホールになってしまったとしても、相変わらずISSは同じ軌道をぐるぐる周り続けている。もちろん、その中で働いているあなたに突然強烈なGが発生したりはしない。相変わらず無重量状態でふわふわ浮いているはずだ。

 

 また、あなたがうっかりドライバーを落として宇宙空間に投げ出されたとしても、暫くすれば元の軌道に戻ってくるだろう。問題があるとすれば、あなたが帰還するための地球がもうないことだけだ。

 

 さて、ここまで読んできたら、あなたがブラックホールに抱くイメージも大分変わってきたのではないだろうか。我々はなんとなく常識的に、ブラックホールが近くにあったらもうお終いだと思いこんでいるが、実はそんなこともないわけである。

 

 実際、我々の住んでいる、この天の川銀河の中心部には、いくつもの巨大ブラックホールがあることが判明しており、我々の太陽系はその周りをぐるぐる周っているのだ。詩的な表現をすれば、我々は既にブラックホールに落ち続けているわけである。

 

 ところで、誰でも一度は考えたことがあるだろうが、実際にブラックホールに落ちてしまったら……事象の地平面の向こう側に行ってしまった人間は、一体どうなってしまうのだろうか?

 

 おあつらえ向きに我々の銀河の中心にはブラックホールがあるから、ちょっとロケットで飛んでいってみよう。

 

 いくつもの恒星をスイングバイして、あなたのロケットはブラックホールに近づいていった。いよいよブラックホールの重力に捕まったロケットは、事象の地平面に落ちないように、ブラックホールの少し上で周回軌道に入る。このときのロケットの速度は、光速に限りなく近い亜光速だ。

 

 ところで特殊相対性理論によると、光速に近づくほどそのロケットの中の時間の流れは遅くなるはずだ。だから地球からこの様子を見ている『私』がいたとすれば、そのロケットに乗ってるあなたの姿は殆ど止まって見えるだろう。

 

 私はこう思うはずだ。あいつ、『ちょっとブラックホールに行ってくんよww』とか息巻いてたくせに、なんで直前で足踏みしてるんだ? それどころか私の目には、あなたの乗っているロケットが、平べったく引き伸ばされて見えてるはずだ。あんなにペシャンコになっちゃったら、とてもじゃないが中の人は生きていられないだろう。

 

 しかし、あなたにしてみればどうだろうか? あなたの乗ったロケットは確かに光速に近い速度で飛んでいるが、それは私から見た場合の話だ。あなたからすれば、ロケットは相対速度ゼロで飛んでるわけだから、ペシャンコになったりせず何も変わらない。そしてロケットは亜光速といっても、慣性飛行しているわけだから、その中に乗っているあなたは重力を感じられない、無重量状態である。

 

 そんなあなたがロケットの窓から外を見たとしよう。ロケットはスペースシャトルみたいな形をしていて、腹をブラックホールに向けてるとする。あなたが上を見上げると、そこには眩い星々の海が見えるはずだ。それは物凄い速度で流れていき、まるで長時間露光した写真のように見えるだろう。

 

 続いて目を下に向けてみよう。すると今度は、打って変わって光を通さない、真っ黒な暗闇がそこには広がっているだろう。それは信じられないくらい真っ黒で、あなたは何かヤバいものに近づいていると恐怖を覚えるに違いない。そして最後に前方を眺めてみると、光の海と、全く光を通さない暗闇とが、まるで地平線のようにくっきり別れているのが見えるはずだ。

 

 さて、いよいよロケットはブラックホールに突入しようと試み始めた。ロケットはゆっくりブラックホールに近づいていき……そしてある瞬間、まるでトンネルにでも入ったかのように、窓の外を見ていたあなたの視界から星々の煌めきが消えてしまった。ついに事象の地平面を通り過ぎたのだ!

 

 この瞬間、それを外から見ていた私の目には、あなたの乗ったロケットがボンと爆発し、炎となって消えてしまったように見えるだろう。私はこう思うはずだ、ああ、あいつ本当にブラックホールに突入して死んじまったと……

 

 しかし、ロケットに乗っているあなたはどうだろうか。あなたが事象の地平面を通過した瞬間、外の様子は見えなくなった。光であっても光速を超えることは出来ないから、もうこの中から外へ戻ることは出来ない。そこまではいい。

 

 だが、その瞬間に私が見たようにロケットは爆発するのだろうか? ロケットは単に高度を下げただけだ。例えるなら着陸態勢に入り、大気圏に突入しただけの話である。ブラックホールの中に大気はないはずだから、空気抵抗も存在しない。中に乗っているあなたからすれば、ロケットは相変わらず自由落下を続けており、無重量状態のままのはずである。

 

 ブラックホールの中では何でもありだから、タキオンなどの超光速粒子も存在しうる。だからロケットも光速を超えて飛び続けているかも知れない。それは分からない。ただ一つ分かってることは、ブラックホールの中に入った物質は重力に引っ張られて、みんな中心にある特異点に集まっていくということだ。だからロケットもいずれ特異点にたどり着いて、そしてボン! と爆発する。

 

 だが、そうなるまでの間はどうなんだろうか?

 

 あなたは相変わらずロケットの中で無重量状態のままふわふわ浮いている。その状態はロケットが特異点に辿り着くまで続くだろう。それはいつだ? 例えば、銀河系くらい大きなブラックホールがあったとして、その中心に辿り着くまでには、光の速さでも何万年もかかるはずだ。ロケットはまっすぐ中心に向かってるわけじゃないから、下手したら何億年ということもありうる。

 

 その間にあなたは寿命を終えて死んでしまうだろう。だから結果は変わらないが、その過程は大いに違う。外で見ていた私からすれば、あなたはブラックホールに吸い込まれた瞬間に、パッと死んでしまったように見えるが、現実のあなたは老衰して死ぬまで普通に生き続けていたのだ。

 

 それどころか、宇宙船の中が快適なら、もしかすると誰かとの間に子供を残すかも知れない。その子供もまた宇宙船の中で生き続けて、たくさんの子孫を作る可能性だってありうる。私にはパッと消えてしまったように見えたあなたの子孫は、一体どこから出てきたのだ?

 

 私が見たあなたと、実際にあなたに起きた出来事、どちらが真実なのだろうか?

 

 それはどちらも真実だ。どうも、そう考えるしかないらしい。

 

 相補性とはニールス・ボーアが20世紀初頭に初めて使い始めた言葉だそうだが、例えば、光の正体は19世紀までは波だった。ところがその後の研究によって、特定の状況では粒子として振る舞うことが分かってきた。じゃあ、光は波じゃなかったのかといえば、そんなことはない。光は波であり粒子でもあるのだ。

 

 それどころか、物質は全て波である。あなたのその手も、じーっとミクロのミクロまで近づいて見れば、波のようにうねっている。普通に生きている我々はそんなもの認識することも出来ないが、これはれっきとした事実だ。

 

 これと同じように、ブラックホールの外から私が見た結末と、あなたが実際に経験した結末は、どちらも真実なのだ。あなたは私からすれば、ボンと炎になって消えてしまったが、あなたからすればそんなことは起きずに、その後ブラックホールの中で天寿を全うしたらしい。

 

 そしてその記録は事象の地平面に記述され、ブラックホールが蒸発するまで残されている。そういう風に、この世界は出来ているようなのだ。

 



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強ければ問題ないんだろう?

 鳳がフェニックスの街で散々やらかしていた頃、ヴィンチ村のレオナルドの館では、何も知らないレオナルドとスカーサハが、今日も彼の魔王化を阻止する方法を探していた。しかし、いくら彼らが過去の文献をあたり、ケーリュケイオンを調べても、何の糸口も見つからなかった。

 

 翼人を怪しんで調査に向かったギヨームからは、未だに何の連絡もなかった。彼は何か分かったらギルドを通じて連絡すると言っていたのだが、音沙汰ないのは何も無かったからか、それとも本当にあれが当たりだったからだろうか?

 

 ギヨームは腕利きの冒険者だし、単に連絡が遅れているだけだと思いたいが、もしもそうでないなら誰か人を雇って調査をするか、直接行って確かめるしかないだろう。出来ればこの忙しい時に、そんなことはしたくないのだが……

 

 スカーサハはそんなことを考えながら、今日もニューアムステルダムから取り寄せた文献を調べていた。そんな時だった。

 

「誰か! 誰か来てください!!」

 

 いつもは静かな屋敷にそんな叫び声がこだました。聞き覚えのあるその声は、メイド長のアビゲイルのもののようだった。彼女にしては珍しく切羽詰まった声色に、何事かと廊下に飛び出せば、別方向から執事のセバスチャンが早足で近づいてきた。

 

「何かあったのでしょうか?」

「わかりません。旦那様の書斎からみたいです」

 

 普段は慇懃丁寧なセバスチャンも、さっきの声によほど慌てているのか、スカーサハに一礼するとさっさと歩いていってしまった。不安に思った彼女はその背中を追いかけて、二人は共にレオナルドの書斎へと入っていった。

 

 書斎にはさっき叫び声を上げたアビゲイルが呆然と座っており、中央でうずくまる誰かを支えているようだった。顔面蒼白の彼女が助けを求めるように顔を上げる。するとその膝には、ぐったりと力なく目を閉じたレオナルドの頭が乗っていたのだった。

 

大君(タイクーン)!!」

「アビゲイル、一体どうしたのですか!?」

 

 部屋に入った二人が驚きの声を上げると、血の気が失せた紫色の唇をブルブル震わせながらアビゲイルが言った。

 

「わかりません。換えのお紅茶をお持ちしたところ、旦那様がここに倒れておりまして、いくら呼びかけても目を開けてくれないのです」

「なんと! 旦那様……旦那様!」

 

 セバスチャンがそれを確認するかのように、必死になって声を掛けるも、レオナルドは力なく薄目を開けたまま、まるで死人のように反応しなかった。

 

 その姿を見たスカーサハの背筋に悪寒が走る。彼女はまさかと大君の元へと駆け寄って、その脈拍を取った。幸いなことに、不安は杞憂だったようで、レオナルドはまだ脈も呼吸もあるようだった。彼女はホッと安堵したが、それですぐ大君が目を覚ますわけじゃない。

 

 何が原因で彼は倒れてしまったのだろうか……? スカーサハが手かがりがないかと周囲を見渡すと、アビゲイルの背後に無造作に転がっていたケーリュケイオンを見つけた。状況からして、大君はここでこれを調べていたのだろう。何かを発見してこうなってしまったのか、それとも……?

 

 倒れた原因はわからなかったが、いつまでも主をこのままにはしておけない。彼らはぐったりして目を覚まさない彼を寝室へと運んだが……結局、それから数日間、レオナルドはいくら呼びかけても目を覚ますことはなかった。

 

********************************

 

 タウンポータルをくぐってガルガンチュアの村のギルド前に出ると、最近、職員になったばかりのマニの母親がたまたまそこに居て、ギョッとして固まっていた。彼女は鳳がポータルを使うことを知っていたが、やはりいきなり空中から飛び出して来られると誰だって驚くだろう。

 

 鳳が脅かしてしまってすまないと謝罪すると、彼女は慌てて首を振って、

 

「とんでもない、勇者様には親子ともども、いつもお世話になっておりますから」

「マニは元気ですか?」

「はい。元気に族長を務めております。こうして親子一緒に暮らせるようになったのも、みんな勇者様のお陰です」

 

 別にそんなことはない、マニもお母さんや、レイヴンたちみんな一人ひとりが頑張った結果だろう。鳳がそう言うとマニの母親が否定し、それをまた鳳が謙遜し返すといった感じに、暫くおばちゃんの井戸端会議みたいな応酬を繰り広げた後、彼はマニの居場所を聞き出してからその場を後にした。

 

 マニは現在ガルガンチュアを名乗り、この辺一帯を取り仕切る酋長みたいになっていた。ピサロの襲撃以降、この辺の部族はみんなバラバラになってしまったのだが、それを解決した彼がリーダーとしてみんなから認められたのだ。

 

 こうしてリーダーとなったマニは、狼人も猫人も兎人も、種族も混血も関係なく全てを受け入れると、元々、自分の村だけでやろうとしていた改革を行った。すなわち、マニのお母さん達レイヴンに鍛冶屋や雑貨屋などの人間がやるような商売をさせて、狩猟の得意な獣人たちには鉄の道具を与えたのである。

 

 これは思った以上に上手く行って、襲撃のせいですっかり数を減らしてしまった獣人社会を、急速に、そしてより大きく復興させる役に立っていた。獣人たちはレイヴンからのサービスを受けたお陰で、今までとは比べ物にならないほどの収穫を得られるようになり、また、今までは漫然と剥がしていたせいで、半分以上捨てざるを得なかった動物の皮も、レイヴン達が余すこと無く綺麗に剥がしてくれるようになり、皮革産業にも手が出せるようになったのだ。

 

 そして、この皮をトカゲ商人達が欲しがり、ひっきりなしに村を訪れるようになって、そんなわけで村とギルドを結ぶ小道の両側には、今や所狭しと商店が立ち並び、ひっきりなしに人が行き交う大通りみたいになっていた。

 

 ガルガンチュアの村は、この辺一帯の首都になったような感じである。

 

 通りを抜けて村に入ると、きゃあきゃあと奇声を発しながら、大勢の子供たちが駆けていった。子供たちの集団は狼人に限らず、いろんな種族が入り混じっているようだった。だが、それを遠巻きに眺めている母親のグループの方は、種族ごとに別れていて、どうやら子供のほうが国際的なようであった。

 

 壁なし藤棚屋根だった家々も大分様変わりしていて、全ての屋根がもう雨水を通さないようにしっかりとした板張りになっており、そして中央付近のもっと裕福な家々は、土や竹の壁で囲われていた。おそらく、レイヴンの左官屋がやってくれたのだろう。

 

 元々家と呼べないようなものだったとは言え、この短期間に変われば変わる物だなと感心していると、村の中央広場の岩に乗っかって、日向ぼっこしている長老の姿が見えた。

 

 元からヨボヨボの爺さんだったが、ちょっと見ない間に輪をかけて老け込んでしまったようだった。そろそろ死期が近いのか、こころなしか一回り小さくなってしまった彼を心配してか、直ぐ側には村の若い狼人が護衛のように立っていた。恐らく、子供たちにからかわれないように気を利かせているのだろう。

 

 その護衛は、鳳がここで暮らしていた時、すぐ隣の家に住んでいた男だったようで、彼は鳳の姿に気がつくと顔を綻ばせて、

 

「ツクモ!」

 

 彼は嬉しそうにそう叫んでから、すぐ近くにあった族長の家に駆けていっては、入り口から中に向かって、

 

「ガルガンチュア! ツクモが来たぞ!」

 

 そんな彼の声に呼応してか、暫くすると族長の家からドタドタと足音を立ててマニが飛び出してきた。

 

 獣人は成長が早いせいか、こちらも暫く見ない内に大分感じが変わっていた。数ヶ月前に別れた時は、まだどこか幼さを残していた顔つきはすっかり精悍な大人のものに変わり、そして体は父親には劣るが、引き締まった筋肉質なものになっていた。

 

 鳳は南部遠征の時にたくさんの兎人に会ったことがあったが、それと比べてもマニはやはりというか、かなり違った。考えてもみれば、彼の血の四分の三は狼人なんだから、殆ど草食動物の皮を被った肉食獣と言ったほうが正しいのだろう。それでも彼に付き従う獣人たちより一回りは小さいのだが、まとっているオーラのようなものが違った。

 

 尤も、性格の方はあまり変わっていないようで、彼は鳳の姿を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて、

 

「お兄さん! お久しぶりです。今日はどうしたんですか? 村に遊びに来てくれたんですか? 長老も喜びますよ」

「うん、実はちょっと行きたい場所があってね、その途中に立ち寄ったんだ。後で詳しく話すから、少し時間をくれないか?」

「もちろんいいですよ。今日は村に泊まっていかれますか? お母さんに頼んで、夕飯の用意をしてもらわなきゃ。そうそう、今は長老と一緒に暮らしているんです。ワンちゃんも一緒ですよ」

「そうなんだ。それは楽しそうだな。でも今日は泊まっていく気はないんだ。少しでも早く行かなくちゃなんなくて……」

「そうですか……残念です。それで一体、どこへ向かうつもりなんです?」

「おい、ガルガンチュア!」

 

 鳳とマニがそうやって立ち話をしている時だった。背後に十数人の男たちを引き連れた、どことなく不遜な雰囲気を漂わせている狼人が現れた。彼は中央広場に入ってくるなり、そこにいた鳳の頭の先から爪先までをジロジロ見てから、

 

「この人間は誰だ? 誇り高き森の獣王がペコペコ情けない。おまえ、リーダーなら、そんなみっともない真似はよせ」

 

 男はそう言うと鳳の肩をドンと突き飛ばした。それを見た瞬間、マニの毛が逆立つ。

 

「やめろゲルト! その人は勇者様だぞ!」

「なに? 勇者だと……?」

 

 ゲルトと呼ばれた男はその言葉に一瞬面食らったように硬直したが、すぐに元の不遜な態度に戻り、

 

「ふん! それがどうした。たかが人間ごとき、この誇り高きゲルト様が恐れるものか。おまえ、こんなのの相手をしてないで、さっさと追い出してしまえ」

「おまえ、まだ言うか! これからは人間とも仲良くしなきゃいけないと、俺は何度も何度も口を酸っぱくして言っているだろうが!」

「おまえはおかしい。俺たちは今まで人間なんかに頼らずやってきた。なのに、どうして今更ペコペコしなきゃならない」

「ペコペコしろと言ってるわけじゃない。仲良くしろと言ってるんだ。不必要に相手のことを見下す態度を改めろと言ってるんだ!」

「自分より弱い相手を見下して何が悪い」

「人の強さは力だけにあるんじゃないと、何故わからない! 俺たちは協力しあうから強くなれるんだ。おまえの持ってる剣や爪は誰が作った!? おまえはレイヴンや人を見下しすぎる。いい加減にしないと、俺にだって考えがあるぞ!」

「なんだ? やるか? いいだろう。俺もいい加減、おまえが獣王なのが、我慢ならなかったんだ。ここらで決着をつけようじゃないか」

 

 どうやらゲルトという男はマニの政敵のようである。彼は恐らく自分より若いマニに従うのが嫌なのだろう。一触即発の雰囲気の中、鳳は自分が来たせいでとんでもないことになっちゃったなと思いながら、二人の間に割って入り、

 

「まあまあ、待て待て、こんなことで喧嘩なんかするんじゃないよ。せっかくみんな一つにまとまってこれからって時に」

「しかし、お兄さん……」「邪魔するな!」

 

 マニも、それに突っかかってきたゲルトも、二人とも不服な様子である。鳳はそんなマニを押し止めると、苦笑いをしながら、

 

「要するに、俺が強ければ問題ないんだろう? 相手してやるからかかってこいよ」

「なに!?」

 

 まさか脆弱な人間ごときがそんなことを言いだすとは思わなかったのだろう。ゲルトは一瞬虚を突かれたように目を丸くしたが、すぐに気を取り直すと、

 

「ふんっ! 勇者だかなんだか知らないが、人間ごときが馬鹿にしがって! いいだろう! 死んでも俺は知らないからな!」

 

 ゲルトはそう言うと間合いを測るようにパッと飛び退り、爪を立て、鋭い眼光で鳳のことを睨みつけた。鳳はそんな戦闘態勢の狼人に対して、徒手空拳のまま、特に身構えもせず棒立ちしている。

 

 屈強な森の獣人に向かって、武器も持たずに突っかかってくるなんて……よっぽど自分のことをナメているのかと思ったゲルトは、怒り心頭と言った感じに牙をむき出しにすると、

 

「うおおおぉぉーーーーんっっ!!!」

 

 腹の底から地面が震えるくらい大きな雄叫びを上げて、その無防備な男に飛びかかっていこうとした。

 

 ところが……ゲルトの脳は確かに地面を蹴るように命令しているはずなのだが、何故か彼の足は地面に縫い付けられたかのようにピクリとも動かなかった。

 

 おかしいと思った彼は、気合を入れ直すと、自分の太ももを叩いてから、再び飛びかかろうと地を蹴った。

 

 しかし、地面を蹴ったはずの彼の足はなおも動かず、勢い込んでいた彼はバランスを崩して、前に進むどころか、その場に尻もちをついてしまった。唖然とするゲルトは慌てて立ち上がろうと地面に手をついて、そして気づいた。自分のその手が、何かに怯えるように、ブルブルと震えていたのだ。

 

 ハッとして顔を上げると、鳳はさっきとまったく同じ場所で一ミリも動かず、じっとこちらを睨みつけていた。

 

 彼は武器を持たず、ゲルトより一回りも二回りも小さい、見た目は貧弱な人間にしか見えなかった。だが、彼の野生の勘が騒いでいる。これは決して手を出してはいけない相手だと……

 

 ろくに相手のことを見てもいなかったゲルトは、この時になって初めて彼の目を覗き込んで……そしてその瞬間、全身にゾクゾクと悪寒が走るのを感じた。

 

 その瞬間、彼はまるで蛇に睨まれた蛙のようにピクリとも動けなくなり、ついには呼吸すら忘れて目の前の脅威にひたすら気圧されていた。彼にはもうこの場を収拾するすべが見つからなかった。彼は自分が虎の尾を踏んだことに、ようやく気がついたのだ。

 

 それから暫く、そんな睨み合いが続いていたが……やがて鳳はふっと表情を和らげて、敵意は無いと言った感じに漫然とした歩幅でゲルトの方に近づいてくると、そっと手を差し伸べながら言った。

 

「どうした。殺したりはしないから、安心してかかってこいよ」

 

 ゲルトはその言葉を聞いた瞬間、忘れていた呼吸を取り戻し、そして羞恥心から顔が熱くなっていくのを感じた。きっと彼の顔が毛深くなかったら、周りに気づかれていただろう。

 

 彼は差し伸べられた手をバシッと払いのけると、

 

「ふ、ふん! 生意気な人間め! 今日のところはこれで勘弁してやる!」

 

 そう言うやいなや鳳に背を向けて、文字通り尻尾を巻いて逃げていった。

 

 自分たちのリーダーが、まるで本物の獣になってしまったかのように四つん這いになって駆け去っていく……取り巻きたちは、わけも分からずその後に続いたが、中の数人には鳳の力に気づいた者もいたようである。

 

 彼らは鳳に向かってペコペコとお辞儀をしてから去っていった。きっと後でゲルトにどやされるに違いない。鳳がそんな姿を苦笑いしながら見送っていると、すぐ隣にマニが並んできて、いい気味だと言った感じにニヤリとした笑みを浮かべながら、

 

「流石、お兄さん。あのゲルトが子供扱いだ。それにしても、随分雰囲気が変わりましたね」

「そうか? おまえほどじゃないだろう? 前までならまず話し合おうとしてたじゃん」

「獣人たちは、いつもこの通りで……遠慮していたら統制が取れませんからね」

「そうか。俺も似たようなもんだ。もう、なりふり構ってられないからな」

 

 鳳がそんな言葉を口にすると、マニは不思議そうに首をかしげながら、

 

「何かあったんですか? そう言えば、話があるってさっき言ってましたが」

「ああ……ちょっと場所を変えようか? 歩きながら話そう」

 

 鳳はそう言うと、まだ少しざわついている中央広場から出ていった。

 

*******************************

 

「……魔王化ですか」

 

 二人はいつも釣りをしていた近所の河原までやって来た。ヴィンチ村で作った釣り竿を持ち、マニが叩いた釣り針に餌をつけて糸を垂らす。川の流れと釣り糸の作る波紋をじっと見つめながら、鳳は魔王を倒した後に自分の身に起こった出来事を話して聞かせた。マニはそれを黙って聞きながら、う~んと驚きの唸り声を上げていた。

 

「ああ、どうもこの世界は俺を魔王にしたくって、不必要な力を無理矢理与えてきているらしいんだ。俺はそれがどこから来るのか、どうすれば阻止できるのか分からなくって、お手上げ状態なんだ。そんで、何か手がかりはないかと思って、ネウロイに行ってみようと思ってるんだけど……」

「ネウロイ!? 危険じゃありませんか?」

「ああ、危険だ。だから行くんだけど。ほら、ネウロイって魔族の故郷なんだろう? 普通ならそこで魔王が生まれるはずだ。なら、魔王化に関する何かがそこにあるかも知れないと思ってさ」

「うーん……そうかも知れないですけど。本当に大丈夫かなあ?」

 

 鳳は少し投げやりな感じに、

 

「わからん。だからもしもの時のために、おまえには連絡係になって欲しいんだ。一応、一ヶ月で帰ってくるつもりなんだが、それを過ぎても俺が帰ってこなかったら、おまえからヘルメスの仲間に連絡してくれないかな」

「そりゃ構いませんけど……」

「おい、引いてるぞ」

 

 鳳が指差すと、マニの釣り竿がしなっていた。彼はお手製のリールをキーコキーコと巻き上げると、釣り上げた小さな川魚をポイとリリースし、彼はまた代わりの餌を針に付け直しながら、

 

「……僕も、一緒に行きましょうか?」

「いや、その必要はないよ。一人のほうが動きやすいし」

「でも、人数が居たほうが何かあった時に安心じゃないですか?」

「いや、空飛んでくつもりだから、少ないほうがいいんだ」

「ああ……そっか」

 

 マニは不安そうである。確かに、そんな危険な場所に一人で行くなんて聞いたら誰でも不安になるだろう。だが、鳳はなんとかなるんじゃないかと思っていた。それくらい、今の彼の力はどんどんおかしくなっていたのだ。

 

 結局、それから一言二言会話を交わした後に、鳳は暗くなる前に発ちたいからと言って会話を切り上げた。マニは、本当に鳳は伝言を頼むためだけに来たのだなと残念に思いながらも、事情が事情だけに引き止めるわけにもいかないと、その決断に従った。

 

 鳳は釣り竿をマニに返すと、すぐ近くの岩場に置いておいたリュックサックを背負い、

 

「それじゃ、ちょっくら行ってくらあ」

「危険そうだったらすぐに帰ってきてくださいよ。お兄さんなら、ポータルを潜れば一瞬なんだから」

「分かってるって」

 

 彼はそれでもまだ不安そうなマニの言葉を軽く受け流すと、旅立つためにレビテーションの呪文を唱えた。その瞬間、周囲から風が集まってきて、ふわりと彼の体を宙に押し上げた。

 

 ところが、いざ飛び立たんとして地面を蹴った彼の体は、少し上がったところで何故かガクリとバランスを崩し、そのまま地面に下りてしまった。

 

 あれ? おかしいな……と思った彼は気を取り直して再度飛び立とうとしたが、今度もまた同じように、少し浮いたところで彼の体は地面の方へと引っ張られてしまった。

 

 鳳は首をひねった。なんだか感覚がおかしい気がする。まるで、急に体重が増えてしまったような……

 

 そう思った時、彼はハッと閃いた。そしてまさかと思いながらも、じっと意識を集中し、自分の腰の辺り目掛けて軽くゲンコツを振り下ろした。

 

「あいたああああーーーっっ!!!」

 

 するとその瞬間……たった今まで二人の目には何も映っていなかった空間に、突然、ルーシーの姿が現れた。

 

 あまりに突然のことにぎょっとするマニ。不意打ちにゲンコツを食らって地面をゴロゴロと転がるルーシー。鳳はそれを見て驚くと同時にため息を吐いた。どうやら彼女は、鳳に気付かれないよう、不可視(インビジブル)の魔法を使って、ここまでずっと尾行していたようである。

 



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乙女かっ!

 自分の魔王化を阻止する方法を見つけるため、鳳がネウロイに旅立とうとした時、彼は不思議な違和感を覚えた。まるで自分の体重が倍増したような錯覚に、まさかと思って腰の辺りをひっぱたくと、彼の腰にしっかとしがみついていたルーシーが、痛みに悶えて地面にゴロゴロ転がり出てきたのであった。

 

 どうやら彼女は鳳がフェニックスの街から旅立つ前から、ずっと彼のことを尾行していたらしい。鳳がポータルに入ってしまう前に大胆にもそこを潜り抜け、その後、マニの母親にも、レイヴン達が大勢集まる大通りでも、村の中央広場の騒動の間も誰にも気づかれず、完全に姿を消していたのだ。

 

 今となっては彼女も相当の現代魔法の使い手だと分かっているつもりだったが、それにしてもここまで完全に姿を眩ませられるとは……鳳もこれにはさすがに驚いた。

 

 そう言えば、レオナルドの座学をサボるために、何度も彼を出し抜いたと聞いていたから、もしかすると逃げることと隠れることなら、あの天才以上なのかも知れない。

 

 鳳はその事実に舌を巻きながら、少し呆れ気味に言った。

 

「つーか、何やってんの、君?」

「何やってるじゃないよ! 鳳くんが黙って一人で居なくなろうとするから、こうしてこっそり着いてきたんじゃないのっ!!」

 

 ルーシーは涙目になりながらも、どうにかこうにか痛みを耐えきると、ボケーッとした表情で彼女のことを見下ろしていた鳳の胸ぐらをつかんで立ち上がった。鳳はその剣幕に恐れをなして一歩引き下がりながら、

 

「え? いや、居なくなろうなんてしてないよ? ちゃんと帰ってくるって手紙に書いておいたじゃない」

「あんな遺書みたいな手紙読んで、安心する人なんて居ないよ!」

「遺書!? いやいや、そんなつもりは……俺は一生懸命、思ってることを書いたつもりだったんだけど……ちゃんと伝わらなかったのかな? もしかして、家に帰ったら、ミーティアさんたち呆れちゃってるのかしら?」

「……っていうか、何? 鳳くん、本当にそんなつもりなかったの……?」

「ああ。手紙にもそう書いたつもりだが……」

 

 鳳はそう言ってポッと顔を赤らめた。きっと今頃、ミーティアと、クレアと、アリスがあれを読んでるだろう。そう思うと何だか気恥ずかしくなったのだ。

 

 実を言うと、鳳は本当に彼女らの愛を受け入れるためにここに来ているつもりだった。ネウロイで魔王化阻止の方法が見つかるとは限らないが、もしも首尾よく見つかれば、家に帰った後には、彼女らとのバラ色の未来が待っているのだ。

 

 ミーティアは、あんな間違いを犯してしまった彼のことを今でも好きだと言ってくれた。クレアに至っては今すぐ子供が欲しい、それも何人も! と言っているのだ。アリスはその……本当に申し訳なく思ってるからあれだけど、ともかく帰ったらウハウハだ。

 

 だから彼は居ても立っても居られず飛び出してきてしまったのだが、そんなのあのタイミングであの手紙を読んだ者にはわからないから、ルーシーは心配してこっそり着いてきたのだが……

 

「じ、じゃあ、なんでさっきマニくんにあんなこと言ったの? もし帰ってこなかったらみんなに知らせてくれだなんて……」

「そりゃネウロイは危険だし、死ぬ可能性もあるから」

「ほらみたことか! やっぱり無茶なことしてるって自覚があるんじゃないの! なのにどうして自分勝手に、一人でそんな危険な場所に行こうとなんてするわけ!? 私言ったよね!? これからは何でも一人で決めずに、ちゃんとみんなに相談しなさいって!」

 

 鳳は頭ごなしに怒鳴られて、亀みたいに首を引っ込めつつ恐る恐ると言った感じに言い訳を始めた。

 

「そりゃ、ちゃんと相談しようとは思ったよ。けど、結局、一人のほうが好都合だと思ったんだ」

「好都合ってなにそれ!? そんなに私たちは頼りないの!?」

「いやいやいや、誤解だって! そうじゃなくって、一人で来たのにはちゃんと理由があるんだよ」

「理由……? 言ってごらんなさいよ」

「うん、ほら、ネウロイって遠いだろう? この惑星の反対側だ。そのくせ道があるわけでもないし、もちろん航路も無いから、正攻法で近づくことはまず無理なんだよ。だから大掛かりな調査をしようと思ったら、とてもじゃないが時間がかかり過ぎてしまう。それこそ、数年単位になるんじゃないかな」

「……うん」

「でも、俺一人なら話は別だ。俺は空を飛べるから、空路でパッと様子を見に行って、帰りはポータルを使って帰ってこれる。これなら、一ヶ月もあれば、そこそこ調べられるんじゃないかと思って、そんで一人で出てきたんだよ」

「う、うーん……」

 

 ルーシーは、わりとまっとうな理由が出てきて返事に困った。彼女は鳳が暴走しているのだと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。彼女はうんうんと唸りながら、

 

「それでも、私たち仲間くらいには頼るべきだよ。一人で勝手に行かれたらみんな心配するでしょう?」

「いやまあ、そうなんだけどさあ……ちょっと誰にも相談しづらくって」

「どうして?」

 

 鳳は困ったぞと言った感じに、ポリポリと指先でほっぺたをかきながら、

 

「やっぱこういう時、一番頼りになるのってジャンヌなんだけど、あんなことがあった後じゃ、ちょっと頼りにくいだろう? ……後は、ギヨームが居たら絶対相談してたと思うけど、居なかったし」

「私が居るじゃない! 私じゃそんなに頼りにならない!?」

 

 ルーシーは、仲間だと思っていたのに、まさか自分がスルーされていたとは思いもよらず、目くじらを立てて彼に迫った。鳳はその勢いに気圧されながらも、必死に首を振りながら、

 

「違うって! だってルーシー、空飛ぶの嫌がってたじゃないか!?」

「……え?」

「オークの群れを追いかけていた時、一人だけ最後まで慣れなくって、キャーキャー騒いでいたじゃないか。なのにネウロイまで飛んでこうだなんて言ったら君、ついてきてくれただろうか?」

「……そ、そうだね」

「こっからネウロイまで、まだ何千キロもあるんだよ。俺のMPも無限にあるわけじゃないから、空路っつっても日に200キロ進めればいいとこで、MP回復してる間は、下に降りて戦闘したりを続けてると思うんだよね。そんな旅にルーシーを誘うなんて、ちょっと思いつかなくってさあ」

 

 そう言われてしまうとグーの音も出なかった。ものすごく軽く言ってるが、彼がこれからやろうとしていることは、ちょっと常識では考えられないような過酷な旅だ。それは彼だからこそ出来ることだが、足手まといが混ざると話は変わる。

 

 ルーシーはなんだか自分の方が間違っていたような気分になって、頭が痛くなってきたが、

 

「う、うーん……ダメダメ! 悪気がなかったのはわかったよ。でも、やっぱり誰にも言わずに出てくるのは駄目だと思うな。せめてミーさんには絶対に相談すべきだった。それが誠意ってものじゃない?」

「まあ、そう言われちゃ、そうなんだけどさ、言いづらいっつーか、なんつーか……」

 

 鳳はなんだか歯切れが悪い。ルーシーは彼の顔を覗き込むように見ながら、

 

「何かどうしても彼女には言えない理由とかあったのかな?」

 

 すると鳳はもじもじしながら、

 

「だって……恥ずかしいじゃん?」

「……はあ??」

 

 ルーシーは彼が何を言っているのか分からず、呆れた感じに首をひねった。鳳はその顔を見て更に顔を赤らめもじもじしながら、

 

「だってさあ……ミーティアさんに相談したらきっと反対するよ? 今、俺、彼女に行かないでなんて言われたら、絶対決心が鈍ると思ったんだよ。そんで目的を忘れて抱きしめてしまう……ほら! 魔王化って一応、アレすれば緩和できるじゃん? ミーティアさんもそのためなら何でもしてくれるって言うし、なんでもって、おまえ、それ、有り得ないっていうか、嬉しいっていうか、辛抱たまらんていうか、そしたら俺! 彼女のことしか考えられなくなって、そのままどうでも良くなっちゃうと思ったんだよ!!」

「えー……」

「だって、あんなに可愛いんだよ!? 可愛いだけじゃなくって、綺麗で、お茶目で、おっぱいも大きいんだよ!? そんな人が俺のことが好きだなんて、普通に考えたら絶対耐えられないよ……それにクレアも凄いんだぜ! あいつ、お金持ちで、優秀で、絵から飛び出してきたような容姿してるくせに、滅茶苦茶エロいんだぜ!? すげえ勢いで誘惑してくんの。もうセックスのことしか考えてない野獣って感じで迫ってきてさ、俺もあと一歩のところまで、先っちょが入るくらいまで追い詰められたんだ……それがこれからは我慢しなくてもいいってなったら、俺、絶対歯止めが効かなくなると思うんだよね! 多分、ひたすら肉欲に溺れて、今頃セックスしまくってると思うよ。魔王とか、ヘルメスとか、もうどうでも良くなって、ひたすら種付けするマシーンになってる。その自信ある。そして精を吐き出しながら、アリスのことを思い出して、ああ、ごめんごめん、ごめんよってなって、憂鬱になって、それでも許してくれる彼女に甘えてると思うんだ……」

 

 ルーシーはドン引きして一歩二歩……三歩四歩……更に、五歩六歩と、ジリジリ後退していった。鳳は、そんな彼女が能面みたいな顔になってることに気づかずに、なおもクネクネしながら言った。

 

「だからこのままここに居たら駄目だって思ったんだよ。ここにいたら、彼女らのことしか考えられない……だからせめて彼女らを苦しめないように、魔王化のことだけは片付けておかなきゃって、そう思ったんだよ。俺……人を好きになると、こんなにも世界が違って見えるなんて知らなかった!」

 

 鳳から十分に距離を取っていたルーシーは拳を振りかぶると、助走をつけて思いっきりそれを振り下ろした。

 

「乙女かっっっ!!!!」

「痛いぃぃーーっ!!」

 

 バチコン! っと景気の良い音が響いて、紙切れのように鳳が吹っ飛んだ。ルーシーはハアハアと荒い呼吸を弾ませながら、ジンジンと痛む拳を手で擦った。

 

「私の手のほうがよっぽど痛いですぅ、このおバカ!」

「ぶったね……親父にもぶたれたことないのに!」

「いいお父さんだねっ! ああ、もう、いいよ! 話はよくわかったよ! 鳳くんが街に残らなくってよかったって、お姉さん、今痛感してます! こんなキモい人が国のトップだったなんて知ったら、ヘルメスの人たちも嘆くよ!」

「君、わりと辛辣だね」

「辛辣にもなるよ。心配してついてきたら、このザマだもん。本気でこの人これっぽっちも悪気が無かったなんて……」

 

 ルーシーは、長い長い溜息を吐いた。そう言えば、鳳は元々アホみたいに果断なのだ。必要とあれば躊躇なく街に火をつけるし、低レベルのくせに獣人に喧嘩をふっかけるし、アヘンが欲しいって理由だけでボヘミアまで行ってしまうのだ。思い立ったが吉日で、その時にはもう行動を起こしているのだ。

 

 まあ、それで上手く行ってるわけだし、彼の思いつきがあったからこそ、彼女も勇者パーティーの一員としての今があるわけだから、そんなに責めることは出来なかいのだが……ただ、それでも全て納得出来るわけじゃないから、

 

「はぁ~……話は分かったよ。でも鳳くん、やっぱり一人で行くのは違うと思うな。一人で行動したほうが身軽かも知れないけど、何か決断を迫られる度に一人で決めちゃうわけでしょう? それで今回、散々な目に遭ったばかりなんだから、ちゃんと人の意見を聞ける環境を残しておかないと駄目だと思う」

「うーん。そっか。そうだね……」

「だから、私を連れて行きなさい。私はあまり役に立たないかも知れないけど、何か決めなきゃって時に、一緒に考えるくらいは出来るから」

「良いの? 飛ぶよ?」

「う、うん……」

「じゃあ行こうか?」

 

 ルーシーが提案すると、鳳はあっさりとそれを受け入れてしまった。彼女としては、もう少し嫌がるだろうと思っていたのだが、驚くくらいすんなりと決まってしまい面食らった。どうやら本当に鳳は、ネウロイにちょっと行って帰ってくるだけのつもりで居たらしい。

 

 まあ、実際、話を聞いた限りでは、彼は街に残るよりも、さっさと魔王化の問題を片付けた方が良いように思える。彼女は心配してちょっと損したなと思いながら、二人のやり取りを遠巻きに見ていたマニの方へ顔を向けると、

 

「それじゃあマニ君。聞いての通り、私たちはちょっとネウロイまで行ってくるから、それを冒険者ギルドに報告しておいてくれないかな? きっとヘルメスのみんなが心配してると思うから……心配は無用。寧ろこの男は死んだほうがマシなくらい元気だったと伝えておいて」

「わかりました」

「いや、わからないでよ」

 

 鳳はまだ尻もちをつきながらぶつくさ言っている。ルーシーはそんな彼を引っ張り上げると、まるで年下の子にするように、彼のお尻についた泥をパンパンと手で払いながら、

 

「ほら、いつまでも地面に転がってないで、ちゃっちゃと起きなさいよ。まったく手がかかるんだから」

「ちぇっ、なんだよ……そっちの方が年下のくせにさ」

「ならもう少し年上らしく振る舞ってよね。みんなのこと、あんなに心配させて」

 

 鳳は肩を竦めて、直ぐ側に置いてあった荷物を背負うと、既に準備万端で待っているルーシーの手をむんずと掴み取り、

 

「へいへい、すみませんでしたね。それじゃあ、行くぜ。レビテーション!」

「あ、やっぱちょっと待って! 心の準備が……あっ……きゃっ……きゃああああーーっっ!!!」

 

 そんな叫び声を残し、マニが見守る前で彼らは砂煙を巻き上げて、あっという間に数十メートルの高さまで飛んでいってしまった。そのびっくりするような速さからしても、鳳が以前よりもずっと強力な力を得たことが窺える。

 

 尤も、さっき旅立とうとしていた時は、もっとふんわり浮かぼうとしていたから、多分、今のはルーシーが驚くと分かってて、わざとやったに違いない。ルーシーの言う通り、鳳も案外子供っぽいなとマニは思った。

 

 それにしても、会話に入りづらくて黙っていたが、さっきの話から察するに、鳳はマニの知らない内にギルドの職員だったミーティアと結ばれていたらしい。彼はまだ10歳だから色恋沙汰はよくわからないが、確かに二人は仲が良かったしお似合いだとも思ったが、鳳が一番仲が良かった女の人は、てっきりルーシーだと思っていたから、彼は少し意外に思った。

 

********************************

 

 河原から飛び立って数十分が過ぎ、ギャーギャー騒いでいたルーシーもようやく静かになってきた。空を飛ぶのに慣れてきたのか、それとも叫び疲れたのか、ちらりと横目で盗み見た表情は相変わらず優れなくて、少々気の毒にも思ったが、ついてきたいと言ったのは彼女なんだから我慢してもらうしかないだろう。

 

 眼下は一面に森が広がっていて、遠くの山を見なければ自分がどっちに進んでいるのかわからなかった。以前は川を辿ったり、オークの群れを追いかけたりしていたから目印には困らなかったが、これからはもっと太陽や星の位置を意識したほうが良いかも知れない。

 

 鳳は今、MP回復用のクスリを調達するために、以前見つけたコカの木が自生している山を目指していた。

 

 出来れば今日中に辿り着ければ良いのだが、流石に距離がありすぎて無理そうだった。だから目的地には明日目指すことにして、今日はそんなに無理せず、途中にある元レイヴンの村に寄っていくのも悪くないかも知れない……

 

 鳳がそんなことを考えていると、鳳の手を握りながら隣を飛んでいたルーシーが声を掛けてきた。

 

「ねえ、鳳くん? 一人でネウロイに行こうとしてたけど、もしも魔王化が進んだり、その影響が出たらどうするつもりだったの?」

「ええ?」

「そうならないように、ミーさんとかアリスちゃんとかが、体を張ってくれるって言ってたわけでしょう。その好意を無碍にして出てきちゃったら、ミーさんたちも悲しいんじゃないかな」

 

 なるほど、そんな風に取られてしまう可能性もあるのか……彼としては、彼女らの体に溺れたり、ましてや義務的に抱くようなことは嫌だなと思って先走ったわけだが。鳳は少々気まずくなりながら、思っていたことを口にした。

 

「そうならないよう、すぐに戻るつもりだったし、それに……多分、影響は出ないんじゃないかな?」

「……なんでそう思うの?」

「魔王化の影響ってのは要するに、魔族みたいに闘争本能をむき出しにする力、強制的に本能を刺激してくる不思議な力なわけじゃない? それは俺の脳を直接揺さぶるわけだけど、アリスのお陰でその影響は、欲求を満たせば一時的に緩和することが分かった」

「うん」

「で、その欲求ってのは性欲や食欲、殺人衝動なんかだけど、それならあそこにはいくらでも殺す相手がいるじゃないか。ネウロイは魔族の棲家なんだから」

「あ~……戦ってれば、欲求が満たされるってこと? でも、そんなに上手くいくのかな? 300年前の勇者は女性を抱いていたんでしょう? もしかして性欲じゃないと駄目ってことはないかな」

 

 すると鳳は少し間を開けて、少し言いにくそうに続けた。

 

「……それは俺も、ちょっと考えたんだ。でも多分、そんなことないんだと思う」

「どうして、そう言い切れるの?」

「……あの時、理性を失っていてもアリスを殺さずに済んだのは、本当は直前にクレアが送ってきた男娼を殺してしまっていたからじゃないかって。あの時、俺は全然自分の力が制御出来なくて苦労してたんだ。執務机を壊して、クレアを吹き飛ばして、そしてツッコミのつもりの裏拳が、あの人を殺してしまったんだけど……たまたま、彼を殺してしまったから、その後に起きた間違いの時に、俺は力をセーブできていたんじゃないかって、そう思うんだよ……だとしたら、あの人には本当に顔向けが出来ないなって……どうすれば償えるのか分からないんだけど」

「そっか……」

 

 彼女のその短い返事を最後に、二人の間に会話は無くなった。日は高く、夜はまだ遠かった。上空の冷たい風に吹かれながら、二人は少し沈んだ雰囲気のままで、ひたすら東の山を目指して飛び続けた。

 



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柔よく剛を制す

 鳳とルーシーがネウロイに飛び立った頃、フェニックスの街からはジャンヌとサムソンもまた旅立とうとしていた。

 

 旅立つ直前にやって来たギヨーム達の誘いを断り、自分たちは帝都に行くつもりだと告げると、二人は馬を買うために市場へと向かった。ところがこのところの好景気でよほど需要が生まれていたのか、フェニックス近辺の牧場の馬は殆どが売られてしまっており、残っていても信じられないような値段がつけられているのだった。

 

 A級冒険者、それも勇者パーティーの一員である二人なら、決して手が出せない額では無かったが、どうせ無駄になると分かっていては買う気になれなかった。彼らは移動のために馬を欲しているだけだから、帝都に着いたらそれを売り払うつもりだったのだ。あっちでは普通の値段しかつかないだろうから、これじゃ大損間違いなしである。

 

 仕方ないのでフェニックスで馬を買うのは諦めて、乗合馬車に乗っていこうとしたのだが、そのつもりで広場にやってきたら、臨時馬車駅は人でごった返していた。

 

 鳳が領内の移動の自由を認めたために、馬の値段が高騰しているわけだから、それは当然と言えば当然だった。移動の需要増で馬車の方も増発されているようだが、それでもまだ追いつかないくらい、今のフェニックスは人の出入りが激しいようだった。

 

 次の便はとっくに満席で、その次もその次も駄目そうであり、このままここで待っていたら、馬車に乗る前に日が暮れてしまうだろう。行商の馬車に便乗することも考えたが、向こうも商売だから足元を見られてしまい、軽く交渉しただけでその気も失せてしまった。ついでに言うと、サムソンは巨漢で場所を食うから、行商の方も嫌がった。

 

 そんなわけで、彼らは馬車を諦めると、そのまま徒歩で街道に出た。二人とも健脚だから、いくつかの村を徒歩で通り過ぎるくらい、大した問題にはならないだろう。なんなら帝都までそのまま行ってもいいくらいだが、それだと時間がかかりすぎてしまうから、結局どこかで馬を調達しなければならないのは間違いないのだが……

 

 早く見つかればいいけれど……そんな会話を交わしながら二人が街道を足早に歩いていると、いくつかの馬車とすれ違ったり追い抜かれていった後に、一台の馬車が彼らの少し前方で止まった。

 

 見たところ行商人ではなく、貴族か誰かの私用の馬車のようだった。もしかして知り合いだろうか? そう思いながら近づいていくと……天蓋付きの馬車の中から、羽をはやした壮年の男が窮屈そうに現れた。

 

「あら、ベル神父でしたっけ? こんな場所でお会いするなんて、奇遇ね」

「うむ、君等はヘルメス卿の友だったな。こんなところで何をしている?」

「帝都に行く途中なんですよ」

「……帝都に? 徒歩で向かうつもりか?」

 

 ベル神父が怪訝そうな表情を見せると、ジャンヌは苦笑いしながら、

 

「いいえ、まさか。実は馬が手に入らなくって……乗合馬車も混雑してて、とても乗れそうになかったから、馬が見つかるまで行けるとこまで行こうと思って、こうして歩いてるとこなのよ」

「そうか。君等のことだから修行の一環かと思ったが……そう言う事なら我々の馬車に来なさい。途中まで乗っていくと良い」

「良いんですか?」

 

 神父は厳かに頷くと、

 

「これも神の思し召しだ。少々窮屈かも知れないが」

 

 二人はお言葉に甘えて馬車に乗ることにした。

 

 ジャンヌ達が馬車に乗り込むと、神父の言った通り、中は本当に狭くて窮屈だった。と言うか、神父とサムソンが大きすぎて無駄にスペースを圧迫していると言うのが正しいかも知れない。神父は体が大きいだけではなく翼も生えているから、見た目以上にスペースを必要とするのだ。彼が器用に翼をたたんで、どうにか収まってる感じであった。

 

 馬車には神父の他にも数人の職員が乗り込んでいて、みんな首からロザリオを掛けているところを見ると、どうやら彼らも神父に感化されたキリスト教徒のようであった。みんな宗教をやっている人特有の、親切そうな笑みを讃えながら、道連れの二人を快く受け入れてくれた。

 

 それにしても、情報ソースはマリみてくらいしかないのだが、確かロザリオをつけているのはカトリックだけではなかったか……? とすると、この神父もカトリック教徒のはずだが、この世界にヴァチカンはない。いや、宇宙のどこかにあるのかも知れないが、この場合、彼らは何を信じていると言うのだろうか……? もしかして、この神父が教皇扱いなのだろうか……? コンクラーベとかしたのだろうか?

 

 ジャンヌがそんなどうでもいいことを考えていると、その信者らしき者が間をもたせる感じに尋ねてきた。

 

「勇者様方は帝都まで何しに?」

「昔の知り合いに会いに行くのよ。魔王と戦った仲間のメアリー……ほら、真祖ソフィアって子がいたでしょう?」

 

 ジャンヌは何気なく言ったつもりだったが、その言葉に馬車の中がどよめいた。いつも一緒に居たから分からなかったが、考えても見ればこの国の人にとって彼女は神様みたいなものだから、やはりインパクトが強いのだろう。

 

 ジャンヌはなんだか自慢しているみたいで気恥ずかしくなって、話題を変えるように尋ねた。

 

「あなた達こそどちらまで?」

 

 信者は軽く確かめるように神父の顔色を窺ってから、

 

「私たちは東方の孤児院に向かっているところです。フェニックスの方が軌道に乗ってきたので、暫くはあちらの方を手伝おうかと……例の事件以降、まだ院長が決まっていないのですよ」

 

 例の事件とは孤児を引き取る振りをして売春をさせていた件である。あの事件があったせいで、孤児院のある一帯は鳳に取り上げられて直轄領になっており、現在は国境警備の軍隊が駐留しているらしい。それは一時的な措置のつもりだったのだが、思ったよりも国境問題が長引いてしまい、駐留も長くなっているようである。

 

 神父は忌々しそうに言った。

 

「野盗が出没するよりはよほどマシだが、武器を持った大人がずっと近くに居ては、子供たちも不安だろう。行って安心させてやらねばならない」

「そうだったの……それは心配ね」

「プリムローズ卿が解決のために動いてくれているようだが、これがなかなか難しい問題らしい。難民をいつまでも放置しているから野盗が現れるのだが、かと言って、それを受け入れるのは地元民の心情が許さないそうだ。これも一つの戦争の爪痕だな。昨日まで殺し合っていた相手の手を取るのは、想像以上に困難なのだろう」

「そう……戦争は嫌ね。何も生み出さないもの」

「如何にも。それを商売のようにいつまでも繰り返している連中は、滅殺されてしかるべきであろう」

 

 その言葉にはどこか神父らしからぬ剣呑な響きが含まれていた。まさか神の使徒である神父がそんな言葉を口にするとは思いもよらず、一瞬、馬車内の空気が凍った。だが、神父はそれほど深い意味で言ったわけではなかったのだろう。彼はすぐに話題を変えると、またいつものような厳かな口調で語り始めた。

 

 馬車の中でそんな他愛もない世間話を繰り返しながら、いくつかの村を通り過ぎて、一行は一日目の宿場町に到着した。まだ日は十分高かったのだが、馬を休ませることも考慮しなくてはならず、余計な荷物が二人分も増えてしまったのだから文句は言えなかった。

 

 馬車を降りたジャンヌたちは神父に礼を言ってから別れると、今度こそその宿場町で馬を手に入れるつもりで歩き回った。ところが、ここまで来てもまだ馬の需要は衰えず、首都と値段も変わらないので断念せざるを得なかった。

 

 結局、その事情を神父たちに話して翌日以降も便乗させてもらうことになり、おまけに宿を探していると知ったら、わざわざ同じ宿の一部屋を空けてくれた。どうやら、東方に行く際の定宿にしているらしく、融通が効くようである。

 

 そんな具合に何から何まで世話になってしまって申し訳なく、彼らは荷物を宿に置くと手持ち無沙汰に街に出た。宿に居ると肩身が狭いから、暗くなるまで街でも散策していようというつもりだったが、観光地でもないただの宿場町は見どころも少なく、大通りを端から端まで歩いたらもう飽きてしまった。

 

 しょうが無いので街からすぐの穀倉地帯をぼんやり歩いていたら、隣にならんだサムソンがうーんと唸り声を上げながらこんなことを言い出した。

 

「ところであの翼人とは何者なんだ?」

「え……ベル神父のこと?」

「前から街で見かける度に思っていたんだが、今日一日、一緒にいて確信した。あれは相当の達人だぞ。あの尋常ならざる雰囲気は只者じゃない」

「そうかしら? 私にはそんな風に見えなかったけど……」

「鳳がスカウトしてきたそうだが、やはり勇者と言われるだけあって、凄い知り合いがいるものだな。達人は達人を呼ぶというやつだろうか」

「うーん……白ちゃんがそこまで考えていたとは思えないけど……」

「二人とも、ここに居たか」

 

 二人がそんな話をしていると、噂の張本人が街の方からやってきた。別に悪口を言っていたわけではないのだが気が引けて黙っていると、神父は気にした素振りもみせずにふらりと近寄ってきて、

 

「宿の者が夕食の支度をすると言っている。そろそろ戻らないか」

「え? もうそんな時間なの? ごめんなさいね、あなた達までお待たせしちゃって。すぐに戻るわ」

「構わない。では後ほど」

 

 神父はそう言うと踵を返してさっさと来た道を戻り始めた。このまま一緒に宿に戻るか、それとも少し間を置いて戻ったほうがいいだろうかとジャンヌが迷っていると、彼女の横にいたサムソンがその背中に声を掛けた。

 

「ベル神父! ひとつ聞きたいことがあるんだが」

 

 引き止める声を聞いて、神父はゆっくりと振り返った。サムソンはそんな神父に向かって少し緊張するような声色で、

 

「不躾なお願いで申し訳ないが……あなたを相当の手練とお見受けした。出来れば、一度でいいから手合わせをしてくれないか?」

「なに?」

「ちょっとサムソン!」

 

 神父は突然の申し出に戸惑い目を丸くしていた。ジャンヌはそれを見て失礼だと思い、サムソンを嗜めるつもりで声を上げたが、

 

「ふむ……食前の運動には丁度いい。一本勝負で良いだろうか?」

 

 ところが神父は思いの外あっさりとその申し出を受け入れてしまった。これにはジャンヌのみならずサムソンも驚き、

 

「え、いいのか?」

「ああ、いいぞ。君も徒手格闘をやる口だろう?」

「あ、ああ、そうだ。いや、そうです」

「なら私も心得が有る。かかってきなさい」

 

 神父は軽くそう言い放つと、腰だめに両手を構えて体全身を沈めるように深く腰を落とした。両拳を軽く握り、手首は空の方を向いている。左足はサムソンに向かって真っ直ぐに伸ばされ、右足は深く屈伸しており、半身になって迎え撃とうとする、なんとも独特な構えを見せた。

 

 しかし、低く構えたその姿勢に意外と隙が見つからなかったのか、サムソンは少々戸惑った感じに距離を取ると、ボクシングのファイティングスタイルみたいに両拳を顔の前に構えた。

 

 二人はそのまま暫しお見合いをするかのように睨み合ったあと……その空気に耐えきれなくなったサムソンの方から仕掛けた。

 

 巨大な肉弾のようなサムソンが、巨体からは想像も出来ないような速度で神父に飛びかかっていく……

 

 ところが神父は、サムソンの拳が届くより前に、独特な動きで一瞬にして間合いを縮めると、その動きに驚いている彼の脇をすり抜けて背後を取ろうとした。

 

 サムソンはそうはさせじと慌てて振り返り、窮屈そうに小さくジャブを放つ。

 

 しかしそんな無理な体勢で打った拳では、神父を捕らえられるわけもなく、神父はサムソンに密着したまま更に円を描くように彼の背後を取ろうとして、二人はまるでダンスでもしているかのようにもみ合いを始めるのであった。

 

 隙があればすぐ腕を絡め、足を刈ろうとする神父のいやらしい動きを嫌って、サムソンが距離を取ろうと大きく飛び退く……

 

 すると神父はその隙を逃さず、彼の呼吸にあわせて跳躍し、着地点まで先回りすると、サムソンの足を水平蹴りの要領でパンと跳ねてしまった。

 

 着地点を狙った攻撃に流石のサムソンも耐えきれず、バランスを崩して背中から地面に落下していく……しかしサムソンはパンっと地面を両手で叩いて受け身を取ると、そのままバク転の要領で一回転して着地した。

 

 また、二人の間に距離が生まれ、それと同時に動きが止まった。

 

 サムソンの額から、ひんやりとした汗が流れ落ちた……神父は見かけによらず、打撃系ではなくて投げを得意としているのだろうか? しかし、その独特な構えを見て、サムソンは考えを改めた。いや、どっちが得意と言うわけではなさそうだ、きっと両方やるはずだ。

 

 サムソンは今度は好きにはさせないぞとばかりに、一直線に突っ込んでいかず、間合いに入る直前にフェイントのジャブを無駄打ちしてから、タイミングをずらして飛び掛かっていった。

 

 神父はそんな動きにはまったく釣られず待ち構えたまま、いよいよサムソンの拳が届くかという距離に入ろうとした瞬間に、また独特な動きで彼の体勢を崩そうとした。

 

 しかし今度はそれを予想していたサムソンが、間合いを外そうとする神父の動きを先回りして拳を突き出す。先手を取られた神父はなかなかやるなといった感じに、サムソンの拳を受け流すと、二人の間でバシッバシッと乾いた音が轟いた。

 

 次々と繰り出されるサムソンのパンチを、神父はくるくるとダンスを踊るような独特な動きでいなしていく……それを傍から見ているジャンヌの目には、どれだけの技の応酬があったのかわからないくらい、二人の動きは鋭くて速かった。

 

 しかし、総じて素人目にも分かるのは、サムソンの方が苦戦しているということだった。彼は神父の低く構える独特な動きに翻弄されて有効打を浴びせることが出来ず、逆に神父はいくらでもサムソンの隙を突くことが出来ただろうにそうはせず、まるで弟子に稽古でもつけるかのように淡々とその攻撃を受け流していた。

 

 彼が達人だと言ったサムソンの言葉に間違いはなかった。神父はどことなく中国拳法に似た技を使い、一方的に繰り出されるサムソンの攻撃を一度もその体に受けることなく、全て腕や足を使って防御していた。

 

 そして最後にバチンッ! っと肉と肉がぶつかりあう音がして、また二人が距離をとった時、サムソンは体から湯気が出るくらい汗だくになり肩で息をしていたが、それに相対する神父の方は、何もなかったかのように涼しい顔をしているのだった。

 

 実力の差ははっきりしていた。地上最強を自負していたサムソンはその事実に打ちのめされそうになる気持ちを抑えると、裂帛の気合を込めて、

 

「うおおおおおおおぉぉぉーーーーーーーっ!!」

 

 と雄叫びを上げ、

 

「爆・裂・拳っっ!!!」

 

 全身の力をただただ右の拳に乗せた必殺の正拳突きを、神父に向かって打ち放った。その気合の一撃がまるで巨大な岩のような錯覚を思わせ、神父に迫る。

 

 しかし、彼はそんなサムソンの一撃を真正面に受け止めると……次の瞬間、ありえないことが起きた。

 

 サムソンの拳を神父の腕が絡め取ったと思った瞬間、突然、サムソンの体がふわりと浮き上がり、ポンとその体が宙に飛んでいってしまったのである。

 

 まるで空気投げみたいに、サムソンの力を利用したその投げは、信じられないくらい高く放物線を描き、彼の体を宙に飛ばした。

 

 サムソンは驚きながらも、どうにか空中で体勢を立て直そうとしたが力及ばず、背中から地面に叩きつけられた。強い衝撃と共に肺の中にあった空気が全部外に吐き出される。息苦しさに耐えきれず、四つん這いになってゴホゴホ咳き込んでいると、その時にはもう目の前に神父の足があって、彼ははっと顔を上げた。

 

 見上げれば神父はもうこれ以上やるつもりはないと言った感じに手を差し伸べながら、いつもの厳かな表情で立っていた。それを見て彼我の力量差を理解したサムソンは、力なく項垂れると、素直に負けを認めるのであった。

 

「参りました。俺の負けだ」

「いい運動になった。君もなかなかやるな」

「ご冗談を! ここまで清々しく打ち負かされたのはジャンヌ以来だ。びっくりするほどあなたは強いな!」

 

 サムソンは汗だくになった額を腕で拭いながら立ち上がると、彼とは対象的に汗一つかかずにいる神父に向かって頭を下げて教えを請うことにした。

 

「完全に俺の負けだ。どうしたらあなたみたいに強くなれるだろうか? 何かヒントを貰えませんか?」

 

 そんなサムソンの素直な態度に、神父はこれはいい加減なことは言えないなと、少し考えるような素振りを見せてから、

 

「そうだな……君は力が強いが、強いゆえにそれに頼りすぎてしまう傾向がある。柔よく剛を制すという言葉がある。硬い剣は脆く砕けてしまうが、柔らかい剣は折れてもまだ使い道があるだろう。一見して無駄に思えることも、柔軟さを持って取り組んでみれば、意外と面白い発見があるものだ。例えば、君はいつも最高の力で拳を打ち抜こうとするが、それも間違いではないが、次の動きに繋げるためにもっと遊びがあっていいはずだ」

「なるほど……」

「だが無駄なものは無駄でしかない。君は先程フェイントのつもりで、何もない空に拳を打ち出していたが、あれは無駄だ。もっと自然に、流れるような動きを意識したほうがいい。自然で無駄のない動きというのは、案外避けにくいものなのだ。水は柔らかくて掴みどころがないが、その流れは岩をも砕く。形がなく、変幻自在に姿を変える水のような構えが、私は体術の理想だと思っている」

 

 サムソンは感嘆の息を漏らした。たった今、戦ってみたからこそ分かる。神父の言う通り、彼はいつも無駄のない直線的な動きを心がけているが、一見して無駄な神父の回転するような動きに全ていなされてしまった。

 

 それどころか、無駄な動きをしていないつもりのサムソンの方がこれだけ息を乱していると言うのに、神父の方は平然と汗一つかいていないのだ。これには圧倒的な実力差以外にも、埋められない何かがあるのだろう。

 

 サムソンはそれを認めると、神父に向かって頭を下げ、

 

「御見逸れしました。まったくもって、あなたの言う通りだ。俺は感動した……神父……いや、師父! よろしければ、俺をあなたの弟子にしてくれませんか?」

「なに?」

 

 サムソンが目をキラキラしながら詰め寄ると、神父は珍しく戸惑ったような表情で後退ったが、すぐにいつもの厳かな表情に戻り、

 

「うーむ……私には孤児院の仕事がある故、弟子は取れないが、プリムローズ領までの道行きでいいならば稽古をつけて差し上げよう」

「よろしいのですか!?」

「ああ、君がそれでいいならな」

「もちろんです、師父! ジャンヌ、先を急ぎたいところすまないが、東方まで彼らと行動を共にしてもいいだろうか?」

「ええ、私もそれで構わないわよ。お師匠様が出来て良かったわね、サムソン」

 

 鳳の魔王化阻止は、もしも見つかればいいなといった程度のものだった。なら然程急ぐ旅でもあるまい。ジャンヌは苦笑しながらその提案を受け入れた。

 



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それは簒奪ではないか!!

 サムソンがベル神父の強さに惚れ込んでしまったので、帝都への道行きは、結局、途中のプリムローズ領まで孤児院のメンバーと同行することになった。

 

 馬車は大人数でゆっくり進んでいるから、帝都に着くのが少し遅れてしまうだろうが、元々、馬がなくて困っていたので、プラマイゼロと考えていいだろう。流石にヘルメス東端のプリムローズ領まで行けば馬も見つかるだろうから、遅れはそれから取り返せばいい。

 

 そんなわけで翌日からも馬車に便乗することになったのだが、神父はともかく、他のスタッフからは迷惑がられるかも知れないと思っていたが、馬車が狭くなるにも関わらず、彼らは嫌な顔ひとつ見せずに受け入れてくれた。代わりに布教されたりしないかと覚悟もしていたがそんなこともなく、道中は終始和やかな雰囲気だった。やはり、ほとんどボランティアで孤児院を経営してるような人たちだから、人間が出来ているのだろうか。

 

 サムソンの稽古は翌朝からすぐに始まったが、ジャンヌも気になって様子を見に行ったところ、彼だけではなく、同行の信者たちも同じ稽古を受けているようだった。その内容は太極拳みたいに、型を神父の真似をしながらゆっくり行うというもので、特に難しくないからジャンヌもどうだと言われ、彼女も一緒に受けることになった。

 

 修行というよりラジオ体操みたいだなと思いながら言われた通りにしていたのだが、これが中々どうして、ゆったり見えるくせに相当きつく、途中からどうしようもなく汗が吹き出てきて、終わる頃にはクタクタになっていた。

 

 みんな汗だくになって地面に転がっていると、一人だけ涼しい顔をしている神父がやってきて、

 

「疲れるのはそれだけ無駄な動作が多いと言うことだ。始めは一つ一つの動きに集中し、どうすれば効率良く動けるか見極めろ。繰り返し練習し、意識せずとも自然と体が動くようになれば、自ずと力が抜け、もう疲れない。それが正しい型だ」

「わかりました。師父」

 

 同じことをしていると言うのに、汗一つかいていない神父が言うのだからこれ以上の説得力はないだろう。サムソンは体に鞭打って正座すると、深々と頭を下げた。

 

 朝はそんなもので、本格的な修行は夕方以降に行われた。日中は馬車で移動し、次の宿場町までやってくると、二人は夕食前の運動と称して出掛けては人気の少ない河原や原っぱで実戦形式の訓練を行った。

 

 神父はサムソンの直線的な動作を直したいようで、朝のように一通り型の練習をした後は、拳を交えて一つ一つの動きをチェックしながら、丁寧にアドバイスしていた。

 

「君は力を直線的に最短でぶつけようとするが、それは一見して正しいように思えてアクシデントに弱い。もしも必殺の一撃を躱された時、君は自分でその力を引っ込めねばならない。二度、力を込めなければならないのだ。これでは、力をセーブするか、捨て身にならざるを得ないだろう。そうではなく、もっと回転を意識するのだ」

「回転ですか……?」

「そうだ。独楽は回転し続ける限り決して倒れず、どんな攻撃も弾いてしまう。それと同じように体術も絶えず流れ続ければ、万難に屈することはない。常に次の動きを想像し、先手先手を取って行動するよう心がけろ。そのためには、相手を倒すことではなく、未来の自分の動きをイメージするのだ」

「相手ではなく、未来の自分の動きですか……?」

「そうだ。絶えず動き続けよ。勝つことを目的とする者はいずれ必ず負ける。己自身に打ち勝つものだけが最後まで立っている。勝敗をイメージする前にまず動け。動作があって、それから結果がついてくるのだ。故に、これからは直線的な動きは極力抑えて、相手と一定の距離を保ちつつ、回るような動きを意識するのだ。一撃で仕留めるのではなく、攻撃を継続する手段を第一に考えろ」

「なるほど、それならわかります」

「ではやってみよう」

 

 そうして行われる組手は、傍目には非常にゆっくりとしたものだったが、その内容は濃密だった。神父の一つ一つの動きを目で追っていると、サムソンはこれまで自分が如何に無駄な動きをしていたか痛感させられた。そして、そんな風に考えながら戦っていると、彼には教えられた型の意味も分かるような気がしてきた。それは流れる水のように絶え間なく、ゆっくりと、時に激しく、移りゆく動作なのだろう。

 

 神父の体術は時に超常の力をも操った。彼は、力はただ筋力からのみ発するものではなく、もっと精神的なところから発揮されるものだと説いた。

 

「丹田に力を込め、全身を巡る気の流れを意識せよ。それは呼吸によって行われる。深く吸い込んだ息を吐き出す時、指先まで流れる気を感じ取るのだ。気は集中した呼吸によって循環し、体の中心、丹田に蓄積されていく。それを練り上げ、まずは呼吸とともに拳を打ち出すことを意識しろ」

「しかし師父。気という言葉は聞いたことはありますが、おとぎ話ではないのですか? 心構えみたいなことを言ってるのでしょうか?」

「いいや、そうではない。そうだな……なら、試してみよう」

「試す?」

 

 神父は頷くと、いつもの低い構えではなくノーガード、いわゆる棒立ちのままサムソンに向かい、こう言った。

 

「私はここから一歩も動かないから、君の最高の力で思い切り攻撃してみろ。蹴りでも拳でもなんでも構わない」

「よろしいのですか……?」

「うむ。私を信じて、思い切りこい」

 

 正直、無防備な人を殴るのは気が引けたが、言うまでもなく既にサムソンは師匠のことを心の底から信じていた。彼は、ならばと助走をつけると、思いっきり師匠に向かって飛びかかっていき……そしてそのままバランスを崩してゴロゴロ地面に転がった。

 

 彼は言われたとおりに本気で師匠を殴ろうとした。ところが、その拳が師匠に届いた時、ありえないことが起きたのだ。彼の拳は確かに神父の体を打ち抜いていたのだが、あるはずの手応えがまったくなかったのだ。

 

 まるで空気でも殴っているかのように、彼の拳には一切の反動が伝わって来ず、そのため彼はバランスを崩してそのまま転んでしまった。

 

 そんな彼が呆然と見守る中で、殴られた神父はまるで月面にいるかのようにふわりと浮かび上がり、綺麗な放物線を描いて十数メートル先に音もなく着地した。その着地は実にソフトで、砂埃も上がらず、そんな重力が無くなってしまったかのような光景を前に、サムソンは声を失った。

 

「軽気功という。気を練り上げ、自然と一体化することで、私という存在そのものを殺した。私は今ここにいるようでここにいない。いないから重さを感じられなかったのだ」

「そ……そんなことが人間に出来るのですか?」

「修行次第で、あるいは。他にも硬気功や軟気功、気功には様々な型があるが、君はまず気を感じることから始めねばならない。そのための呼吸法を教えるから、これから毎日、訓練中は呼吸の仕方をも意識しろ。それがまた、型の完成に繋がる」

「わかりました! 師父!」

 

 こうしてサムソンは新しい技の手ほどきを受け、道中に時間を見つけては鍛錬を続けた。朝はみんなより早起きして型を磨き、夜はクタクタになるまで師匠にその動きを指導してもらった。彼は毎日動けなくなるまで修行に明け暮れたが、充実しているお陰だろうか、翌日に疲れが残ることは全く無かった。

 

***********************************

 

 そんな感じに修行をしながら、プリムローズ領への道程はあっという間に過ぎてしまった。フェニックスを出てからおよそ10日ほどで目的地の孤児院まで辿り着くと、サムソンは最後の訓練を終えて師匠に感謝の礼を述べた。

 

「師父よ。今日までありがとうございました。短かったとは言え、この10日間はこれまでの人生と同様の価値があるほど、密度の濃い毎日でした。俺はあなたに教わったことを忘れず、これからも努力していきたいと思います」

「うむ。頑張りなさい」

「サムソン、もしもあなたがその気なら、この場に残ったっていいのよ? 私なら一人でも帝都までいけるから」

 

 二人のやり取りを見守っていたジャンヌが、サムソンの気持ちを慮ってそんなことを口にした。しかし彼はそんなジャンヌの気持ちをありがたく思いながらも、

 

「いや、目的を間違えては元も子もない。俺が強くなりたいのは、勇者と呼ばれるおまえと肩を並べて戦っていたいからだ。それに師父は他にも大事な仕事がある。それを邪魔するわけにもいかない」

「そう……あなたがそう言うのなら」

 

 神父はそんな二人の会話を黙って聞き終えるとサムソンに言った。

 

「君の言う通り私にも仕事がある。それにこれが今生の別れでもあるまい。私はまだ暫くはこの国にいるから、何かあればいつでも尋ねてきなさい。力になろう。あとは今日までに教えたことを忘れず功夫を積めば、自ずと道は開かれるだろう」

「はい、師父!」

 

 サムソンとジャンヌは、神父や馬車の同行者たち全員と握手してから、手に入れたばかりの馬に乗って去っていった。プリムローズ領の広大でどこまでも続く平原を、サムソンは何度も何度も振り返っては、大きな体をいっぱいに使って手を振っていた。

 

 ベル神父はそんな弟子の姿が見えなくなるまで見送ると、ようやく背後を振りかえって孤児院の方へと歩き出した。馬車から荷物を下ろしていた同行の職員たちが、にこやかな笑みを讃えながら彼を迎えた。

 

「とても爽やかな人たちでしたね」

「うむ。若者は皆ああであって欲しいものだ」

「あなたがお弟子さんを取るとは意外でしたが」

「少しでも勇者の役に立つなら。それに見どころのある若者だった……さて、私はもう一仕事してくるが、ここは任せられるか?」

「かしこまりました」

 

 神父は職員と別れると、孤児院へ入るのではなく、その正門の前を通り過ぎ……そこから暫く歩いた先にあったヘルメス軍のキャンプへと向かった。簡易的な柵に囲われたキャンプの入り口には、ライフルを装備した歩哨が立っており、最初は不思議な格好をした翼人のことを止めようとしたが、すぐに近くの詰め所から上官が出てきて神父のことを通してくれた。

 

 ただでさえ巨漢の神父は、その背中に生えた翼もあって、余計に周囲の目を引いた。こんな場所で何をしているんだろう? といった好奇の視線を浴びながらも、神父はさして気にした素振りを見せずに、いつものように厳かな表情のままノシノシと、キャンプ地の奥の方に建てられた他よりも少し豪華なテントまで歩いていった。

 

 そのテントの前にも、先程と同じように歩哨が立っていた。神父はそんな彼に向かって、

 

「隣の孤児院から使いが来たと伝えてくれ。言えばわかる」

 

 歩哨が中に消えて暫く経つと、そのテントの中から入って良いとの声が聞こえた。出てきた歩哨と入れ替わりに中に入ると、テントの中央に置かれた会議机の回りを大勢の男たちがぐるりと取り囲んでいるのが見えた。

 

 ここは軍のキャンプの中であったが、彼らが着ているのは軍服ではなく、どれもこれも意匠の凝った綺羅びやかな装いだった。それもそのはず、そこにいた者たちは皆、軍人ではなくて、この国の貴族たちだったのだ。

 

「よく来てくれた。さあ、こっちへ!」

 

 そんな貴族たちの間から一際大きな声がかかった。神父がその声に応えて会議机の方へと歩み寄っていくと、その集団の中心あたりで、特に偉そうに踏ん反り返っている小太りの男が見えた。

 

 彼は自分で呼び出しておきながら、やってきた神父のことを虫けらでも見るような目で見下しながら、

 

「それで、どうなんだ? 勇者は今、この国にいるのか? いないのか?」

 

 そんな感じに苛立たしそうな声を上げたのは、この国の後継者候補……アイザック12世ことロバート・ニュートンであった。彼は少々事情があって、自分の腰巾着を引き連れ、こっそりとこの国境まで忍んで来ていたのだ。

 

 神父はそんなロバートに向かって、表情を変えず、いつもの調子で言った。

 

「ヘルメス卿は居なくなった。今はわけあって、戻ってこれるかどうかもわからない旅に出ている」

 

 その言葉を聞いた瞬間、テントの中に動揺する悲鳴のような声が響き渡った。ロバートは忌々しそうに舌打ちをし、腰巾着たちは皆青ざめた顔をしている。本来はこのテントの所有者でもある、この中で唯一軍服を着ていた将校のテリーも、眉を顰めて緊迫の表情を浮かべていた。

 

 ロバートは、ざわめく腰巾着たちに静かにするよう命じてから、更に神父に向かって尋ねた。

 

「それで、その事実を隠して、クレア派は何をしようとしているのだ?」

「うむ。ヘルメス卿は、もしもの時のために自分の後継者としてプリムローズ卿を指名するという置き手紙を残していった。彼女らはその手紙を盾に、その時が来れば速やかに権力が移譲されるよう、コソコソ準備をしているようだ」

「おお、なんてことだ!」

 

 テントの中でまた動揺の声が沸き起こった。彼らは期せずして、ここでロバートの負けを聞いてしまったのだ。殆ど者がそれを聞いてがっくりと項垂れるのに対し、数人の男たちは抜け目なく目配せをしていた。今からでもクレアにつこうと画策しているのだろう。

 

 そんな中でロバートは再度舌打ちしながら、

 

「しかし、まだ勇者が帰ってこないと決まったわけじゃないだろう。何故、奴らはそんなスタンドプレーに走ろうとしているんだ?」

「それはヘルメス卿が向かった先がネウロイだからだ。いくら彼でも、そんなところに行って無事で済むわけがない。だからプリムローズ卿は、もう彼が死んだものとして行動しているのだろう」

 

 その言葉に、周りの腰巾着たちはまたどよめいた。勇者の力をよく知らない彼らからしてみれば、無事では済まないという神父の言葉は信憑性が高く思えたのだろう。

 

 もはやクレアがヘルメス卿になるのは間違いない。ロバートについたのは失敗だったか……彼らの表情がそう告げていた。

 

 ところが、対するロバートは神父の言葉を聞くやいなや、ニヤリとした笑みを浮かべてから、それをすぐに引っ込めて、わざとらしく咳払いすると、

 

「それは簒奪ではないか!!」

 

 ロバートの大声に、ざわついていたテント内が静まり返り、彼に視線が集中する。彼はその視線を受けながら、実に嘆かわしいと言った素振りで、

 

「勇者様がどこへ行こうと、その死が確認されない限り、ヘルメス卿は彼のものだ。それを勝手に死亡したことにして奪うなんて、あってはならないことだろう。もしも彼らが真にこの国の下僕であるのなら、その生還を信じていつまでも待つのが筋ではないか? なのに、居なくなったのをこれ幸いと権力を奪おうなど、言語道断、絶対に許してはならない卑劣な行いではないか!」

 

 ロバートの言葉に、テント内の者たちの目に活気が戻りだす。

 

「やはり、狡猾な女が国の頂点に立つなどあってはならないことなのだ! このまま奴らの独断専行を許しては、この国は滅びてしまう。奴らの悪政からヘルメスを守るためにも、我々は立ち上がらねばならないのではないか!? どうだろう! 皆のものよ……私についてきてはくれないだろうか!!」

 

 ロバートの宣言に、一人、また一人と呼応する者が現れる。元々、彼を神輿に担いで、そのおこぼれを貰おうとしていた連中である。彼を支持するその声がテント中に満ちるまで、それほど時間はかからなかった。

 

 そんな中で唯一の部外者であるテリーは、聞かなければ良かったといった表情を見せてから、何かを決意するかのように唇を結んだ。神父はどちらに与することもなく、いつものように厳かな表情で、じっと成り行きを見守っているようだった。

 



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帝都のP99

 神父と別れたジャンヌとサムソンの二人は、進路を変え、一路北へ進んだ。

 

 プリムローズ領のあるヘルメス東部は、長く続いた戦争のせいで人口が少なく、帝都に繋がるまともな街道も無いことから、今のところ帝国へ行くにはコンパスを頼りに原野を突っ切っていくのが一番早かった。

 

 ヘルメス戦争の置き土産で、帝国が作った軍用路もあるにはあったが、やはり他国の人が整備しただけあって道が不案内なのと、そこを通る商人を狙って野盗が出没するそうだから、結局道なき道を進んだ方が利口らしかった。

 

 そんなわけで二人は要らぬ騒動を避けて原野を進んだ。別に野盗なんか恐れることもないのだが……しかし、野盗を見つけたら退治するしかないが、それを憲兵なり冒険者ギルドなりに連れて行くのが億劫だったのである。

 

 原野は人が全然居ないせいか野生動物の楽園になっており、鳳がいたらきっと食うには困らなかったろうが、二人とも動物の解体が出来ないので、指をくわえて見ているしかなかった。

 

 頼りなのは、孤児院で分けてもらった糧食だけで、それが尽きれば食べ物に困ってしまうから、必然的に先を急がねばならなかった。おまけに夜にはその野生動物の襲撃を警戒しなくてはならなかったから、彼らにとってこの原野は、高難度のダンジョンみたいなものだった。

 

 大森林でもそうだったが、環境に左右されずに生き残れる能力こそが、冒険者に最も重要なスキルなのかも知れない。数字に現れることはないが、低レベルながらAランク冒険者にまで上り詰めた鳳は伊達ではないのだろう。尤も、そのレベルも今となってはジャンヌも追い抜かれてしまっているのだろうが……

 

 そんな具合に昼は馬を走らせ、夜は交代で見張りをしながら、二人は先を進んだ。

 

 サムソンはそんな忙しい道程の中でも、暇を見つけては神父から学んだ修行を熱心に続けていた。型を繰り返し、呼吸を整え、それをゆっくりした動きで見直している。

 

 ジャンヌも時間があれば付き合うこともあったが、そんな時は実戦形式の試合を行った。サムソンは別人かと思うくらいにこれまでの戦法を変えていたが、そのせいか以前よりも弱くなっており、ジャンヌはそれをオブラートに包んで知らせてみたが、彼はそれすら楽しんでいるようだった。

 

 何でもそうだが、強くなるためには、まず自分を追い込まねばならない。今弱いのは、それだけ伸びしろを持っていると言うことだ。彼はそう言って、めげずに修行を続けていた。

 

 そして二人はそれからおよそ2週間ほどで帝都に到着した。ヘルメス国境を抜けて帝国に入ってからは、街道も整備されていて歩きやすく、あっという間の道のりだった。

 

 帝都は古都と呼ばれるだけあって、復興と開発ラッシュのヘルメスとは違い、数ヶ月前に訪れた時と寸分違わずそのままのようだった。城下町は活気に満ち溢れていたが、そこから少し離れた神人たちの居住区は人通りも少なく、厳粛な空気に包まれていた。

 

 二人はそんな静まり返った通りを抜けて、以前泊まった迎賓館の前を通り過ぎ、皇居までやって来た。電話もない世界だからアポイントのとりようもなく、いきなり来てしまったが大丈夫かと思いながら近づいていくと、皇居を警備していた護帝隊の隊員がジャンヌに気づいて駆け寄ってきた。

 

 ジャンヌのことを覚えていてくれたその隊員に、警備員の詰め所に案内された二人が背中を丸めて待っていると、暫く経って皇帝側近のマッシュ中尉がやって来た。見知った顔にホッとする。彼は来訪者がジャンヌと知って目を丸くすると、

 

「これはこれは勇者ジャンヌ。お久しぶりです。今日はどうしてこちらに? ヘルメス卿のお使いでしょうか?」

「いいえ、今日はメアリーちゃんの友人として、プライベートで会いに来たのよ。ちょっとお願いしたいこともあって」

「そうでしたか。真祖様でしたら、今は禁裏にお住まいになっておいでです。すぐにご案内して差し上げたいところですが、勇者様といえども入るには手続きが必要でして……申し訳ございませんが、今暫くそのままお待ちいただけませんか?」

「ええ、わかったわ。突然押しかけちゃってごめんなさいね」

 

 マッシュ中尉は申し訳無さそうに皇居内へ戻っていったが、彼が言うほど待つことはなかった。それから暫くして、メアリーの方からこっちに会いに来てくれたからだ。

 

 間もなく皇居の通用門が開くと、中からひょっこり運動着のようなラフな格好をしたメアリーが現れた。彼女は詰め所にジャンヌを見つけると、嬉しそうにスコップを持った手を振って、お付きの隊員の制止も聞かずに駆けてきた。

 

 彼女は詰め所の前に出て待っていたジャンヌに飛びつくように抱きつくと、

 

「ジャンヌ! 久しぶりね! 会いに来てくれて嬉しいわ!」

「きゃー! メアリーちゃん! 私も会えて嬉しいわ。元気してたかしら?」

「元気元気。ジャンヌはまだ私のことをメアリーと呼んでくれるのね」

「いけない、そう言えばもうソフィアだったわね。つい今までの癖が抜けなくて……」

「別にどっちだっていいわ。今となってはあなた達とゲームしていた頃よりも、メアリーでいた時間の方がずっと長いもの」

 

 二人はまるで女子高生みたいにキャッキャウフフと抱擁しあっている。そんな微笑ましい光景をサムソンが見守っていると、やれやれといった表情で、真祖付きの隊員……確かフェザー中尉という名前の男が、苦笑気味に会釈をしてきた。

 

 結局、中に入れないなら自分が外にいくと言って聞かない真祖のわがままに押される格好で、手続きは簡略化されて、二人はすぐに禁裏への入場を許可された。

 

 彼女に引っ張られて禁裏へ入ると、皇帝の寝所の片隅に以前は無かった彼女の部屋が設けられていて、二人はそこへ案内された。和風模様が描かれた折り鶴が飾られた寝台のすぐ横には、ちゃぶ台みたいなローテーブルが置かれており、すました顔の侍女がお茶を入れると音も立てずに去っていった。

 

 メアリーは、狭苦しいところだけどと、定型句みたいな言葉を口にしながらクッションを勧めると、自分も靴下を脱いでその上にぴょんと正座した。ジャンヌもそのクッションに腰を下ろすと、皇居には似合わない運動着みたいな服を来ているメアリーに向かって、

 

「元気そうで安心したわ。ところで、その格好はどうしたの? 皇居って言うから、きっといつも綺麗なドレスを着てるんだと思ってたのに」

「これ? 庭の植物や昆虫を観察してたのよ。ドレスなんか着てたら、すぐに泥だらけになっちゃうし、こっちの方が動きやすいわ」

「まあ、そうだったの」

「ここは退屈で庭いじりくらいしかすることが無いのよ。かと言って、外に行きたいって言うと止められるし。大森林が恋しいわ。あそこにはいくらでも楽しみがあったもの」

 

 そう言って彼女はため息を吐きつつ、

 

「でも以前は300年間も狭い空間に閉じ込められていたんだから、それに比べればずっとマシよね。って、いけない……こんな話をしていたら空気が悪くなるわ。そんなことより、ジャンヌはここへ何しに? 私に会いに来ただけってことはないでしょう?」

「うん……実はそのことなんだけど……」

 

 ジャンヌは魔王化が進んでいる鳳に起きた出来事を話した。彼はそれを食い止めるべく、大森林を越えてネウロイに向かったようだが、

 

「私はそっちよりも、ここにあるP99って機械のほうが怪しいんじゃないかって思うのよ。それで、皇帝陛下にお願いして、調べさせて貰えないかなって思って……」

 

 するとメアリーはある程度理解を示しつつも難しい顔をしながら、

 

「ふーん……でも、それは望み薄かも知れないわ」

「あら、やっぱり、外部の人間が触るのは難しいのかしら」

 

 彼女は違うと首を振って、

 

「ううん。そうじゃなくって……私はこの世界に来てから、なんやかんや、700年近くもあの機械をいじってたのよ。300年前からは、エミリアたち学者も一緒になって、合計千年も魔王について調べていたけど、帝国は今まで何も見つけられなかったの。確かにあれは、私たちにはわからないテクノロジーの塊だから、全てを調べ尽くしたとは言えないけど……それでも魔王化に関する何かがあるなら、何も見つからないってことはなかったと思うわ」

「そう……そう言われてみると、確かにそうね……」

 

 ジャンヌがしょんぼりした顔を見せると、メアリーは慌てて首を振って、

 

「でも、だからってすぐ諦めることもないわね。もしかすると、あなたの視点でなら気がつくこともあるかも知れないから、調べるだけは調べてみましょう。エミリアに頼んでみるからちょっと待ってて。ああ見えて、あの子も皇帝だから忙しいのよ」

「ごめんなさいね、私のわがままに付き合わせちゃって」

 

**********************************

 

 帝国において真祖ソフィアの存在は絶対だから、ジャンヌのお願いはすぐに受け入れられたのだが、『神の揺り籠』の使用には皇帝の立ち会いがどうしても必要らしく、結局彼女の手が空く夜遅くまで機械に近づくことは出来なかった。

 

 と言っても、それを焦れながら待っていたわけでもなく、なんやかんや旧交を温めたり、サムソンと一緒に型の練習をしたり、お風呂に入ったり晩御飯を食べたりで、楽しい時間はあっという間に過ぎていき、急いで公務を切り上げてきた皇帝が僻みっぽく見守る前で、ジャンヌはようやく機械に触れることが出来たのであった。

 

 システムの調査はジャンヌ主体ではなく、元々操作に慣れているメアリーが行ったが、彼女が昼間言っていた通り、その中に目当てのものは見つかりそうもなかった。

 

 帝国によるシステムの解析は思ったよりも進んでいて、メアリーはこの中にある人類の歴史データベースや、生物の遺伝子データベース、それから量子化された神人のデータが大体どこにあるのかを既に突き止めていた。

 

 しかし、どこにあるか分かったところで、量子化データは人間に理解が出来るものではなく……ただでさえ膨大な上に、いわゆるバイナリデータとして存在しているわけだから、結局、そこにおかしなものが紛れ込んでいたところで、お手上げ状態だったのだ。

 

「それに、この中にある量子化データは、私が遺伝子データベースから作成した神人のものしかないはずなのよ。でも、魔王は普通、ネウロイに住んでる魔族がなるものでしょう? 魔族のデータはこの中のどこにも無いんだから、魔王化を引き起こしている物もここには無いと考えるのが打倒でしょう」

「確かにそうね……それじゃ魔王化は、どこかの機械の中で情報が書き換えられたりしてるってわけじゃないのね」

「うん。一応、私もなったことがあるから言うんだけど、それは頭の中が直接刺激されるような、一方的で抗えない力なのよ。それをDAVIDが引き起こしている可能性は高いけど、だとしてもその機械があるのは、この惑星ではないかも知れない」

「つまり、地球……って可能性が高いわけね」

「うん。私たちがどうしてこの惑星に来てしまったのかはわからないけど、ここに地球の歴史を記述したデータベースがある限り、それは無視できないわ」

「うーん……」

 

 ジャンヌは唸り声を上げた。ソフィアの言う通り、もしも魔王化を引き起こしているのが地球からの命令だとしたら、地球に行く手段がない限り、鳳の魔王化はもうどうしようもないのではないか。

 

 彼女はその事実に打ちのめされながらも、ふと思い立ち、

 

「そう言えば……もしかしてこの中に、白ちゃんの量子化データってあるの? 確かあなたは、この中に残っていたオンラインゲームのセーブデータから、彼を復活させたって言ってたけど」

 

 するとソフィアは半分正解と言った感じに小首をかしげるように頷いて、

 

「うん、そうなんだけど……それは完全な量子化データではないのよ。実は人間の量子化は、ゲーム時代の私の情報を元に開発された技術なんだけど、そのお陰で、ゲーム時代の私たちのセーブデータと、神人の量子化データには上位互換性があるの。でも、セーブデータの方はあくまで情報量の少ない下位互換でしかないから、ツクモのデータを神人の体にそのまま乗せることは出来なかったの」

「え? じゃあ、私たちはどうやってこの世界に再生されたの?」

「それは、迷宮の力を使ったのよ」

「迷宮……P99があった渓谷の遺跡みたいなものね? 死んだ誰かの強い思いが作り出すという」

「うん」

 

 メアリーは今度は正解といった感じに大きく頷いてから、

 

「今となっては、帝都は千年の都だから、これまでに大勢の偉人が生まれては、迷宮を遺して死んでいったのよ。言わば帝都自体が、迷宮の遺跡とも呼べるのね。で、その迷宮を遺した者の中には、レオに匹敵するような天才も居て、私はホーエンハイムと呼ばれた錬金術師の遺した迷宮を使って、人間の体を作り出したのよ」

「あら、凄い! パラケルススね?」

「そう! そう言えば、あなたにもこの手のオタク話は通じたんだっけ……生涯を医学に捧げた彼は、完全なる再生を目指して、人間そのものを作り出す錬成術を遺したの。いわゆる、ホムンクルスってやつね。ただ……錬金術の基本は等価交換だから、人間を作り出すには人間が必要だった……だから私はツクモを再生したあと、この技術を封印するつもりだったんだけど、魔王になってしまったどさくさで流出しちゃったみたいなのよね」

「それが巡り巡ってヘルメスに渡って、たまたまセーブデータが残されていた私たちがこの世界に呼び出されたってわけね」

「ごめんね……こんな事に巻き込んじゃって」

 

 ジャンヌは苦笑気味に首を振った。

 

「そんなの今更ね。私は何も恨んじゃいないわ。それに私は、またメアリーちゃんと再会できて嬉しかったわよ。今度はAIと人ではなく、同じ人間として」

「ジャンヌ……」

 

 メアリーの目は潤んでいる。ジャンヌはそんな彼女の涙に気づいてないふりでモニターを覗き込みながら、

 

「それじゃあ、この中には私のデータも残されてるのね。もしかして、死んだ仲間を生き返らせることも出来るのかしら?」

「うーん……出来るけど、その記憶はサービス終了時点に戻っているはずだわ。彼らはこの世界に来たことも、死んじゃったことも覚えてないはず。それを復活したと呼べるかどうかだけど」

「……違うわね。もしかしたらって思ったけど、もうそっとしといた方が良さそうだわ」

 

 ジャンヌは残念そうに肩を落とすと、ゲームのデータが入っていると言うフォルダの中を見ながら、

 

「あら? こっちのファイルは何かしら。セーブデータとは違って、私にも意味が見て取れるわ」

「ああ、それはモンスターの行動スクリプトね。XMLで記述されてるから、私たちが見ても直感的に分かるわよ」

「また、枯れた技術が出てきたわね。どれどれ……あらやだ、これってジャバウォックの行動パターンじゃない」

 

 何気なくジャンヌが開いたファイルには、ジャバウォックのモンスターIDとモンスター名の他に、各種ステータスや技名、その使用頻度などの行動パターンが乱数として記述されているようだった。何重にも入れ子構造になっている中には、意味が取れない数字がいくつも含まれていたが、それが複雑な動きを実現する鍵となっているのだろう。

 

 そんなデータを興味深く覗き込んでいたら、メアリーが別のファイル……今度はオークキングのデータを見つけ出してきた。

 

「へえ……あのゲーム、こんな風に出来ていたのね。こうしてみると、意外とローテクなのね」

「見た目が凄くっても、ゲームって案外そんなものよ。シンプルじゃなきゃ楽しめないもの」

「そうかも知れないわね……これによると、ジャバウォックは必殺技の目からビーム、しっぽから放たれるソニックブームと、あとは再生が得意な魔物なのね。そうそう、ゲームでもそうだった」

「こっちのオークキングは……特にこれって技がないわ。ゲームでは中ボス扱いだったかしら? 代わりに、取り巻き召喚を無限に行えるみたいだけど。そうやってデコイを巻きながら、パワーでゴリ押すのが、このモンスターの作戦みたいね」

「ん……? それって、こないだ戦った魔王とそっくりじゃない? あのオークキングも、眷属を軍隊かってくらい引き連れて現れたけど……」

「言われてみればそうね……でも、現実の魔王が、ゲームの行動パターンを踏襲するわけないし、おかしいわ。神の揺り籠と、魔王化は関係ないはずなのに……」

「あれ……? これって……」

 

 メアリーが首を捻ってると、その隣でジャンヌがまた別のものに気づいた。彼女が端末を操作してファイルを開くと、そこには見慣れぬモンスターの行動データが記述されていた。

 

「魔王レヴィアタン……魔王ベヒモス……これって、開発当初から存在だけが噂されてて、結局実装されなかったボスのデータじゃない!?」

「ホントだ! ……もしかして、グラフィックはサービス終了までに間に合わなかったけど、行動パターンだけは既に出来ていたのかも」

「そうかも知れないわ。へえ……レヴィアタンはこうしてみると、オークキングと同じ取り巻きを召喚するタイプみたいね。必殺技に定番のタイダルウェイブと、ウォーターボール、噛みつき、ひっかき、髭の鞭なんて攻撃があるみたいね。空中浮遊は、陸地で戦うための苦肉の策かしら。凄く攻撃が多彩そう。自己回復しないのが唯一の救いね」

「ベヒモスの方は……ファイアブレスにアースクエイク、突進、噛みつき、咆哮と攻撃特化みたいね……暴食ってなにこれ? げっ! プレイヤーを食べて回復する攻撃だって。エグいわね。食べられたらやっぱ即死かしら?」

 

 ゲーマーの血が騒ぐのか、二人がデータを見ながら和気あいあいと会話を続けている時だった。この、皇帝以外は入ってきてはいけないはずの聖域に、ドタドタと大きな足音が近づいてきた。

 

「失礼します! 陛下っ!」

 

 二人の会話をこっくりこっくり船を漕ぎながら聞いていた皇帝は、ビクッと目を覚ますとよだれを拭いながら、

 

「な、なんですか? 騒々しい……許可する前の入室はルール違反ですよ」

 

 しかし、皇帝の非難にも関わらず、飛び込んできた人物……マッシュ中尉は、そんなこと重々承知の上といった感じで血相を変えながら、

 

「緊急事態です! たった今、ヘルメス国境を警備していた部隊から入ってきた情報によりますと……先月から国境をうろついていた例のヘルメス軍が、突然反旗を翻し、クーデターを起こしたとのことです!」

「クーデター!? それは……帝国に侵攻してきたということですか?」

「いえ、違います。そっちではなくて、ヘルメスで内戦が勃発したようなのです!」

「内戦……」

 

 皇帝は困惑の表情を浮かべて更に詳しい事情を求めた。たった今まで昔話に花を咲かせていたジャンヌとメアリーも、驚き立ち上がると、その会話に加わるべく歩み寄る。

 

 つい先日、300年近くも断続的に続いた長い戦争に終止符を打ったばかりだと言うのに、ヘルメスはまた自ら戦火に飛び込もうとしていたのだ。

 



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私に戦争をしろっていうの?

 追い詰められたロバート派が東方で叛旗を翻していた頃、遠く離れた首都フェニックスの街はまだその知らせを聞いておらず、至って平穏な日々を送っていた。ヘルメス卿が大暴れした爪痕も、今やすっかり片付いてしまっており、街は何事もなかったかのように元通りになっていた。

 

 そのヘルメス卿は療養のために現在は首都を留守にして、噂では勇者領辺りでバカンスをしているそうだった。そのため彼の行ってきた改革が滞るのではないかと心配されたが……その穴を埋めるかのように、彼の部下である神人のペルメル・ディオゲネスが頑張っているお陰で、行政に支障が出ることも殆どなかった。

 

 ヘルメス卿は激務を嫌って辞めたがっているそうだが、彼が辞めてしまった後どうなるかと不安がっていた民衆たちも、それを見てある程度落ち着いたようだった。体制が変わってもこの国はもうちょっとやそっとじゃ揺らがない、真の実力を手に入れつつあるのだ。

 

 そんな中、ヘルメス卿の後継者候補の一人であるクレアは、東方問題を解決すべく、仲間の貴族たちを説得して回っていた。反オルフェウスで凝り固まっている彼らは、かつての宿敵に国境を開くことに難色を示していたが、クレアは改革の波が押し寄せている今こそ、東方が飛躍するチャンスであり、そのためにはオルフェウスのマンパワーが重要なのだと、その必要性を説いて回った。

 

 自分たちと同じ気持ちを共有していると思っていた東方貴族たちは、彼女の手のひら返しとも思える変わりように驚きが隠せなかったが、ヘルメス卿に感化させられたという彼女の明け透けな話を聞いてる内に、それも一理あると考えを改めざるを得なくなっていった。

 

 そもそも、戦争のせいで荒廃しきってしまった領地を、彼らは今までまともに経営しようなんて思ったことがなかったのだ。だが、戦争が終わった今、ヘルメス卿の言う通り、改めてその広大で肥沃な領土を活用出来ると考えてみれば……自分たちの領地が第二のニューアムステルダムになるというのも、夢じゃないかも知れないのだ。

 

 今までは辺境の貧乏貴族として肩身が狭かった自分たちが、この国の主役に躍り出られるかも知れないのだ!

 

 そう考えると、一時的な感情に流されるのは得策では無いのかも知れない。既にここフェニックスには、帝国各国の商人たちが集まってきており、かつて敵国同士だった両国間で、国交は現実に交わされているのだ。今後もその流れが止まらないなら、国境に領地を持っている自分たちが、ただ指をくわえて見ているのは馬鹿げた話ではないか。

 

 その事実を指摘され、国境解放の重要性を説かれ、当初は反対していた東方貴族たちも、やがて態度をあらため徐々に風向きが変わっていった。なんやかんやクレアは彼らの担ぐ神輿であり、その彼女が言うのであれば仕方ないと、彼らは渋々といった体でそれを受け入れはじめたのである。

 

 こうしてついに東方貴族たちを説得しきったクレアは、その感謝の意味も込めて、お互いの結束を確かめあう会合を開くことにした。例の鳳と密会した料亭に、東方貴族たちが集まってくる。彼らはこの大陸内部では珍しい海の幸に舌鼓を打ちながら、意気揚々とお酌して回っている自分たちのリーダーに、根負けしたかのように言った。

 

「それにしても、暫く見ぬ間に随分と雰囲気が変わりましたね、クレア。いつの間にか、ぐっと領主っぽくなりました。オルフェウスのことだって、あなたが一番嫌ってると思っていたのに、今回のような大局的な目線で物事を測れるようになっているとは、思いもよりませんでした」

「それはヘルメス卿に出会ったからですわ! あの方は私よりも年下なのに、いつも信じられないほど多くのことを教えて下さいます。実を言うと私があなた達を説得したあの言葉だって、全部彼の受け売りなのですよ。あの方は不世出の政治家なのです。だから絶対に手放してはなりませんわ。そのために、私も彼に見合う女にならなくては」

「おお、あなたは本当に彼に惚れ込んでいるようですね。失礼だが、私はてっきり、あなたが出世のために彼を利用しているだけだと思っていましたが……」

「もちろん、それもありますわ!」

 

 クレアが胸を張ってぶっちゃけると、室内に笑いが沸き起こった。彼女はニコニコしながら笑いが収まるのを待つと、

 

「ですがそれだけではありません。私には測りかねますが、あの方の頭の中にはもっと様々なアイディアが詰まっておいでなのです。それを実現することが出来れば、ヘルメスの将来は約束されたようなものでしょう……だから本音を言えば、私はこのまま彼がヘルメス卿を続けてくださればいいのにと思っておりますが、あの方はどうしてもその地位を辞めたいとおっしゃっているのです」

「おお、なんと嘆かわしい。どうして彼は頑なに地位を手放そうとするのですか?」

「それはあの方が勇者としての過酷な使命を背負っているからですわ。それが何かは言えませんが、彼はその使命に立ち向かうべく、後顧の憂いを絶つために後継者を探していたのです。それを知った時、私は打ち震えました……だから私は生涯の伴侶として、そんな彼の支えになりたいと思っているのです。そして行く行くは二人の愛の結晶が、この国を治めてくれると信じているのですわ!」

「ああ、素晴らしい! そんなあなたに想われている勇者様が羨ましい! お二人がいらっしゃれば、この国はもう永久に安泰ですな!」

 

 わははわははと、気分の良さそうな笑い声が料亭に響き渡る。彼女がオルフェウス国境を開いて欲しいと言ってきた時は気でも違ったかと思ったが……今となっては出席者はみんな、クレアがこの国を変えてくれることを信じて疑わなかった。

 

 と、そんな時だった、

 

「お楽しみのところ、大変失礼致します!」

 

 酒の席にクレアの秘書をしている男が血相を変えて飛び込んできた。みんなが気持ちよく飲んでいるところに、空気も読まずに入ってきた彼のことを、クレアは一瞬ムスッとした表情で追い返そうとしたが、すぐにちょっと様子が違うことを感じ取ると、

 

「一体何です? 急でないなら、後にしてくれないかしら」

「それが……急ぎお耳にお入れしたいことがございまして……」

「仕方ないわね。何かしら?」

「出来れば、クレア様お一人で……みなさまのお耳を煩わせるのもどうかと……」

 

 秘書は何故か歯切れが悪い、焦れったく思ったクレアはむっとしながら、

 

「東方貴族の絆は何があっても揺らぎませんわ。私たちは一心同体。何一つ隠すものなどありません。いいからそこでおっしゃいなさい」

「はあ……それでは、申し上げます。先程、ペルメル様よりお使いが参りまして、それによりますと……ロバート派がプリムローズ領内に駐留中のヘルメス軍を乗っ取り、ヘルメス卿に叛旗を翻したとの情報が入ってきたとのこと」

「な、なんですって!? どうしてそんなことに!?」

 

 その情報に室内の貴族たちの間にも動揺が走る。プリムローズ領は、自分たちの領地にも近いのだ。更に秘書の口からは、信じられないような言葉が飛び出してきた。

 

「それが……どうやら彼らは、クレア様がヘルメス卿が不在なことを良いことに、国を乗っ取ろうとしていると主張しているようです……実はヘルメス卿が療養なんて嘘で、彼はこの国を見限って出ていってしまったのだと。クレア様と神人二人は不誠実にもそれを隠して、彼の後釜に座るべく、急いで足場がためをしているのだとロバート派は言っているようです」

「クレア、まさか……それは本当なのですか……?」

 

 秘書の言葉を真に受けて、出席者がクレアに不審な目を向ける。クレアはとんでもないと首を振って、

 

「冗談じゃありませんわ! 先程も申しました通り、私は彼の伴侶としてこの国を治めていきたいのですわ! そこに鳳様がいらっしゃらないのであれば、ヘルメス卿になど何の価値も感じません。何なら領民の前でそう宣言してもいいですわ! 彼らの主張はでっち上げです!!」

「そ、そうですよね……失礼しました。しかし、クーデターとは穏やかでない……彼らが軍をフェニックスに向けたら、この国はどうなってしまうのだろうか……」

「クレア様! 急ぎ、ヘルメス卿と連絡は取れないのですか? ああ、この緊急事態に、彼は何をしてるんだ……」

 

 出席者の間に動揺が走る。クレアはそんな仲間たちに、とにかく自分がなんとかするからと言って安心させると、急ぎ神人二人と協議するために、主が不在の政庁舎へと向かった。

 

*********************************

 

 クレアが政庁者にやってくると、執務室にはもう関係者が全員集まっていた。ヘルメス卿の側近、ペルメルとディオゲネス、ヘルメス軍総司令官ヴァルトシュタイン、そして臨時行政官の千利休。現在、トップの鳳に変わり、国を治めている四人が、難しい顔を突き合わせて、机に広げた地図を見ながら何かを話し合っている。その表情はいつになく真剣で、張り詰めた空気の中に入っていくのはかなり勇気が必要だった。

 

 クレアが遅ればせながら室内に入ってきたのに気づくと、ヴァルトシュタインが腕組みしながら言ってきた、

 

「やっと来たか……秘書から話は聞いてるだろうな?」

「ここに来るまでにある程度ですけど……ロバートが挙兵をしたって本当なの?」

「どうやら本気らしい。国境警備のテリーから連絡が途絶えたからどうしたのかと思えば、軍を乗っ取られて一時的に連絡手段を失っていたようだ」

 

 クレアは青ざめながら、信じられないと言った感じに首を振った。

 

「……彼は一体何を考えてるの? 内戦なんか起こして、この国を壊すつもりなのかしら。とても、この国の為政者になろうとしていた人の考えることとは思えないわ」

 

 そんな彼女の疑問に、ペルメルが淡々と答えた。

 

「どうも、その為政者になれる目が潰えたことに彼は気づいたようだ。ヘルメス卿が後継者にクレアを指名し姿を隠したことを、どこかで聞いてしまったらしい。それで、自分がなれないのであれば、いっそこの国を乗っ取ってしまおうと考えたのだろう。テリーの密書にはそう書かれている」

「そんな……! ヘルメス卿が私を指名したのは、万が一戻ってこれなかった場合の仮定の話よ? 彼は必ず帰ってくると約束してくれたのだから、そんなのまだ決まってないに等しいでしょうに。どうしてこんな早まった真似を……いいえ、それよりも、ヘルメス卿の手紙は私たちが厳重に保管したはず。どこからその情報が漏れたというのよ!」

「さあ、我々にもさっぱり……」

「……彼の手紙は、まだちゃんと金庫の中にしまってあるのかしら?」

「確かめてみよう」

 

 クレアの疑問に答えるべく、5人は銘々に頷きあうと、執務室の金庫の鍵を取り出して来てそれを開けた。その中には、およそ一ヶ月前に、彼らがしまった手紙がそのままの状態で残されており、誰かが触ったような形跡は全くなかった。

 

「誰かがこれを持ち出したということはなさそうだな……」

「それじゃあ、この中の誰かがあいつに情報を漏らしたというの……? それは考えられないわ!」

 

 あの手紙のことを知っているのは、ここにいる5人の他には、クレアのライバルであるミーティアとアリス、勇者パーティーの仲間たちと、それからお世話になった孤児院の神父くらいしかいない。この中の誰かが大事な秘密を漏らすなんて、クレアには到底考えられなかった。

 

 そんなクレアが頭を抱えていると、ディオゲネスが今は悩んでる場合ではないと急かしてきた。

 

「とは言え、情報が漏れてしまったのは事実だ。そしてロバート様がクーデターを起こしたことも……クレア、おまえが後継者として、これを鎮圧しなければならないのはわかっているな?」

「私が……?」

 

 彼は顔を強張らせて見上げているクレアの目を真っ直ぐ見ながら、

 

「ヘルメス卿が不在な今、公務は我々が引き継いでいるが、重要な決断を求められるものは、後継者であるおまえとロバート様が合議で決めることになっている。その片割れであるロバート様がこうして挙兵してしまったのだから、これを止めるのはおまえしかいないだろう」

「そんな……私に戦争をしろっていうの?」

 

 まさか鳳の不在時にこんなとんでもない決断を迫られるとは……クレアが青ざめていると、ヴァルトシュタインが横から、

 

「心配するな、俺が勝たせてやるよ。その代わり、おまえは士気高揚のためにも、鎮圧軍に同行しろ。なあに、戦場と言ったって、後ろの方でふんぞり返っていればいいのさ。流れ弾も飛んでこない」

「でも怖いわ。どうしてもやらなきゃ駄目なの?」

 

 クレアが弱気な姿を見せるも、ヴァルトシュタインはまるで意に介さないと言った感じで首を振った。そんな有無を言わさぬ彼に変わって、苦笑交じりに利休が言った。

 

「クレア様、決断のときですよ。今あなたが立たなければ、ヘルメス卿が帰っくる国がなくなってしまうかも知れません」

「それは困るわ!」

 

 鳳が帰ってこれなくなる……その言葉が、思いの外すんなりと彼女の胸に入ってきた。ミーティアもアリスも、彼を追いかけてネウロイに向かったのだ。勇者でもなんでもない彼女らが、あんなに思い切った行動をしたというのに、ヘルメスに残った自分が恐れを為して隠れていたのでは、彼女らに示しがつかないだろう。

 

 彼女らに出し抜かれ、鳳に失望されてしまう……それだけは御免だ。彼女はフンッと鼻息を荒くして気合を入れると、

 

「わかったわ。国を預かるというのはこういうことなのね。私は彼が帰ってくる場所を守らねばなりません。ヴァルトシュタイン様、どうか私に力を貸してください」

 

 クレアが貴族らしく恭しいお辞儀をしてみせると、ヴァルトシュタインは当たり前だと言わんばかりに、無言で頷き手を差し出した。彼女はそんな彼の手をギュッと握り返し、肩を怒らせると、

 

「そうと決まれば、すぐに戦支度よ。甲冑ってどこで買えば良いのかしら?」

「おまえは戦うわけじゃないんだから、そんなものは要らん。せいぜい動きやすい服と、急所を守る革の防具があればいいだろう。そっちは俺が用意してやるよ」

「わかったわ。動きやすい服ね。早速、新調しましょう」

「せいぜい派手なのを選んでくれ、大将がみすぼらしい格好をしていたら、兵士の士気に関わる。おまえさんの場合、いっそ茶会用のドレスでもいいくらいだ。まあ、それじゃあ動きにくいだろうが」

「難しい注文だけど、とにかく着飾ればいいのね……いくつか見繕ってくるから、あなた達、後で意見を聞かせてちょうだい」

 

 クレアは周りで話しを聞いていた三人にそう言い放つと、まるで遠足が待ちきれない子供みたいに、弾むような足取りで執務室から出ていった。

 

 バタンとドアが閉まって、彼女が廊下を駆けていく足音が段々小さくなっていく……ヴァルトシュタインはその足音が完全に消えるまで待ってから、左右の肩を交互に上げ首の骨をポキポキ鳴らしながら、一段低いトーンで言った。

 

「……行ったか。お嬢さんが気丈に振る舞ってくれて助かるよ」

「まったくですね。戦争と聞いたら、もう少し渋るかと思いましたが」

「流石、勇者の伴侶などと大言壮語するだけあるな……さて」

 

 彼は利休の相槌に返事をしながら、ぐるりと残った3人の顔を見回すと、

 

「クレアはああ言っていたが……今回の件をリークしたやつが、どうやらこの中にいるようだな。機密は厳重に管理されていた。職員の誰一人にも漏らしていない。なのにロバート派にコソコソ告げ口をした野郎は誰だ?」

 

 強面であるヴァルトシュタインのじろりとした睨みを受けても、3人は顔色一つ変えずに涼しい顔をしていた。3人とも自分は関係ないと言いたいのだろうが、こんな疑いをぶつけられたら、普通ならもう少し慌てなければおかしいだろう。彼らは明らかに何かを隠しているのだ。

 

 ヴァルトシュタインはフンと鼻を鳴らすと面倒臭げに、

 

「正直に名乗り出る気はないか……? ならば、こういうのはどうだ? お前ら全員、ちょっと目を瞑れ。いいか? 俺が良いと言うまで、絶対に目を開けるんじゃないぞ?」

 

 3人は言われた通りに目をつぶった。ヴァルトシュタインはそれを確認すると、

 

「よし、じゃあ改めて質問しよう。情報をリークした奴は正直に手を挙げろ。今度は俺しか見てないし、俺は誰にも言わないから安心して手を挙げるんだ」

 

 彼はみんなに目を瞑らせると、そんな茶番としか思えない質問を繰り返した。

 

 普通に考えればこんな質問、バカ正直に答える者などいないだろうが……ところがこの茶番が功を奏したとでも言うのだろうか、その後、思いのほかあっさりと犯人は名乗り出た。

 

 ヴァルトシュタインのその馬鹿げた質問に、なんと、その場にいた4人(・・)4人(・・)とも手を挙げたのだ。

 

 彼らは各々手を挙げながら、ちらりと薄目を開けてはニヤリと笑った。ヴァルトシュタインも手を挙げながら、クククッと愉快そうに忍び笑いを漏らすと、

 

「おまえら……揃いも揃って、いい性格してやがんなあ。俺はてっきり、こういう汚い真似をするのは、そこの軍師様くらいのものかと思っていたが」

「心外ですね。私はそれこそ、閣下に相談されたから策を弄したまでのこと……寧ろ、先代の腹心であったあなた達神人が裏切ってるとは思いませんでしたよ」

 

 利休の問いかけに、ペルメルとディオゲネスが複雑な表情で答える。

 

「裏切りと言われるのは釈然としないが……我々の仕えるべき方は、今となってははっきりしているからな」

「鳳様がクレアを後継者と指名するなら、それに従うまでのこと。いつまでもロバート様にのさばっていられては困るのです。さっさとご退場願わねば」

 

 利休は二人の答えを聞いて、さもありなんと頷きながら、

 

「考えることは皆同じという事ですか。今後、ヘルメス卿が正式な手続きを踏んで後継者を指名すれば、候補であったロバート様に対しても、その地位を安堵しなければなりません。このままでは国内に争いの火種が残るのは必定。ですから何かとイチャモンをつけてでも、彼を排除しておかねばならないのですが……こういうことは、あの若い二人にはまだ難しいでしょうからね。我々、大人が手を汚さねば」

「俺たちは首都を離れ独立した軍を率いているテリーを使って、ロバートを陥れるつもりだったんだが……渋るあいつを説得している最中に、何故か孤児院の神父がのこのこやってきて、ロバートを焚き付けたって言うじゃないか。それでテリーも腹が決まったようだから、万事オッケーなんだが……あの神父が率先して情報リークするなんて思えねえ。裏で操ってるのは誰だ? って話してたんだが……」

 

 ヴァルトシュタインが不思議そうに尋ねると、ペルメルが応えて、

 

「クーデターを起こすとなると、孤児院にも戦火が及ぶ危険があったからな。ベル神父に話をつけておかないわけにはいかなかったんだ。事情を話すと、彼はそれならばと、メッセンジャーを買って出てくれた」

「鳳様がいる内は、ロバート様は何も出来ないだろうが、その鳳様が不在と知れば、きっと今がチャンスとばかりに動き出すと踏んだんだ……予想通りそうなったよ。後は反乱の鎮圧だけだが、既に国内の神人の支持は取り付けてある。我々が人間ごときに負けるはずがない」

「はっ! なるほどな。お前らも、なかなか根性が腐ってやがんな。さて、それじゃ改めて……」

 

 ヴァルトシュタインと利休が手を差し出すと、神人二人はお互いに顔を見合わせてからその手を握り返し、

 

「これから俺たちは一心同体だ。鳳が帰ってきて新体制が整うまでに、俺たちでクレアをこの国の王にしてやろう」

 

 彼のその宣言を合図に、四人は交互に握手を交わした。

 



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ネウロイ

 時は一月前に遡る。鳳とルーシーがガルガンチュアの村を飛び立ってから2日後、彼らはワラキア中央の山岳地帯へ立ち寄った。まっすぐネウロイへ向かわず寄り道したのは、以前のオーク退治のときに発見したコカの木から葉っぱを調達するためであった。ギヨームが居たら即座に突っ込まれそうだが、わりと本気で必要だったのだ。

 

 鳳はMPが切れたら飛べなくなるが、そのくせMPの自然回復は本当に少ないのだ。大体、一日に20も回復すれば良い方で、最大MP999の鳳では殆ど意味をなさなかった。そのため、薬物に頼ることになるのだが、前回経験したように、過剰に摂取すると体への負担が大きくてMP回復どころじゃなくなってしまう。

 

 クスリの覚醒成分は、MPが満タンでないならMP回復に優先して回され、ラリっちゃうことはないのだが、急速に回復しようとして過剰摂取するとその限りではなかった。現実に、自殺目的で薬物をがぶ飲みする者がいるように、MP回復のつもりで気軽に使いすぎれば、やはり体調を崩して死ぬ危険性があるのだ。

 

 そのため、日中はずっと空を飛んでいるわけにも行かず、MP回復休憩を挟みながらちょっとずつ進むしかなかった。それでも、一日に平均して150キロほど進むことが出来、これは道がない大森林ではかなり凄いことではあったが、そもそもネウロイまでの距離が距離だから、わりと焼け石に水だった。

 

 ネウロイまでは、ガルガンチュアの村から直線距離でも5000キロはあり、このペースだと現地に到着するのに一ヶ月はかかる計算だった。空路でこれなのだから、鳳が単独で行こうとしたのは合理的だったわけである。

 

 ルーシーは、もし自分がついてこなければ、もっと早く進めたんだろうなと思って少し後悔したが、それでも今の彼を一人で放っておくことは出来ないと思い、黙っていた。彼はいつも通りの飄々とした顔をしていたが、あんなことがあった後ではどことなく危ういものを感じていた。

 

 道中は思ったよりも戦闘が少なかった。

 

 空を飛んでいるというのもあったが、単純に魔族の数が少なかったのだ。ネウロイは魔族のメッカと聞いていたし、実際に南部遠征の時は南へ行けば行くほど敵が多くなっていったから、二人とも相当の覚悟をしていたのだが……なんとも肩透かしであった。

 

 鳳たちは大体、1日に三度MP回復休憩をし、日が暮れたらキャンプを張るという生活を続けていた。

 

 戦闘も考慮してMPが300を切ると上空を旋回し、十分に索敵をしてから着地し、更に地面に降りた後も警戒を怠らずに偵察をしてから、ようやく休憩に入っていたのだが……これだけ頻繁に地上に降りても、敵と遭遇することは稀であり、だいたい2日に一度戦闘があるかないかといった程度だった。

 

 そして魔族を見つけてもオアンネスの時のように群れでいることは少なく、大体が一匹狼的な強力な魔族が縄張りを主張しているだけで、それを倒してしまえば近くから敵の気配はなくなった。

 

 おまけに、魔族がヒャッハーしている土地だと思っていたから、野生動物が少なく食料には苦労するだろうと思っていたのだが、意外にもネウロイの野生動物は多く、下手をすればガルガンチュアの村がある大森林北部よりも、よっぽど獲物が豊富のように思えた。

 

 これまた肩透かしであったが、道中は草や地下茎ばっかり食う羽目になるだろうと思っていただけに、嬉しい誤算ではあった。鳳は適当に中型の草食動物を狩ると皮を剥いで、夜はそれを燻製にしたりして過ごした。

 

 そんなある日のことだった。日が暮れてキャンプを張り、骨付き肉を焚き火で炙っている時だった。ぼんやりと炎を見つめていたルーシーが、誰ともなしにポツリと呟いた。

 

「……このままネウロイにたどり着いたとして、そこに何かあるのかな? 私たち、本当は無駄なことしてるんじゃないかな」

 

 多分、旅の疲れと炎を見ていたせいで、無意識に本音が出てしまったのだろう。返事を期待して言ってる感じじゃなさそうだし、黙っていても問題なかったろうが、鳳は肉にかぶりつきながら思ってることを口にした。

 

「さあ、どうかな。もしかしたら何もないかも知れない……実は俺もあまり分の良い賭けじゃないと思ってるんだよね」

 

 鳳がぶっちゃけると、ルーシーはビクッと肩を震わせてから、複雑に眉を歪ませてこっちを見た。ここまで来ておいて、そりゃないだろうと言いたげな表情に、彼は苦笑交じりに続けた。

 

「魔王化は自然選択ではなく、人工的に行われてることは間違いない。恐らく四柱の神のデイビドが引き起こしていることなんだろうけど、だとしたらネウロイなんかよりもP99を調べたほうがよっぽど建設的だろう。実は俺もそう思っていたんだけど……あの機械はもう、調べるところがないくらい、調べつくしちゃったんだよね。

 

 帝都にあるP99は復活したソフィアがかなりの部分まで解析済みで、俺はその情報を元に、渓谷のP99に違いがないか調べてみたりもしたんだが、新しいものは何も出てこなかったんだ。

 

 それもそのはず、あれは端末であって、DAVIDシステムそのものじゃない。魔王化に関する肝心な部分は、あれとはまた別の場所にあるはずなんだ。それがどこかって言うと、俺たち放浪者(バガボンド)の故郷である地球って惑星の可能性が高いんだけど……だとしたら、もうお手上げだから、この惑星にあると仮定して、とにかくまだ探していない場所を虱潰しに探しに行こうと、ここに来たのが本当のところなんだ。

 

 だから最悪の場合、ネウロイには何も無かったことがわかればそれでいい。そしたらまた別の場所を探すから。俺はそんな、消極的な理由でネウロイを目指しているのさ」

 

 ルーシーはそんな気の長い話を聞いて目眩がした。

 

「それじゃあ、ここで何も見つからなかったら、更に別の場所を調べるつもりだったの?」

「ああ、新大陸にはまだまだ前人未到の土地が山程ある。そういう場所も調べておかないと気がすまないから。時期を見て探しに行くつもりだった」

「そんなのいくら時間があっても足りないじゃない……ねえ? 鳳くんが最初に言ってたみたいに、もう諦めてミーさん達と面白おかしく暮らしていくわけにはいかないの?」

「その場合は、まず子供を諦めなきゃいけない」

 

 彼女のそんな提案に、鳳はきっぱりとそう断言した。その即答っぷりからして、恐らく、そんなことは既に何度も考えただろうし、考えて結論が出ている答えだったのだろう。

 

「根本的に、魔王化を解決する手段が見つからなければ、今度は俺の子供が俺と同じ目に遭うかも知れない。それに、セックスで魔王化が緩和できるのも、いつまでもってわけにはいかないだろう。神人と違って俺は年を取るんだし、少なくとも300年前の勇者は消えてしまった……そんな曖昧なことに彼女らの人生まで犠牲にするわけにはいかないだろう。だから、どうしても俺は解決手段を見つけるしかないんだ。出来るだけ早い内に」

「そっか……」

 

 鳳の言葉は、いつも理路整然としていて他人事のように響いた。普通の人ならとっくに音を上げてるかも知れないことに、彼は慣れきってしまっているのだ。だから、彼ならなんとかしてしまうだろうと思えると同時に不安にもなった。彼の人生が乾ききってしまう前に、ちゃんと幸せはやってくるのだろうか。たかだか好きな人が出来たと言うだけで浮かれていた彼の姿を思い出して、彼女は少し遣る瀬無くなった。

 

「それにしても、敵が少なくってよかったね。ネウロイが本当に言われてるような場所だったら、今頃こうしてのんびり話をしていることも出来なかったかも。何事も、蓋を開けて見るまでわからないもんだね」

「いや、俺が思うに……つい最近までは本当にそうだったんじゃないかな」

「どうしてそう思うの?」

 

 鳳は焚き火から燃えさしを拾い上げ、地面に落書きしながら、

 

「オルフェウス卿カリギュラの話では、彼が探検した頃のネウロイは魔族の巣窟だったはずだ。実際に行ってきた人の証言なんだから、これは間違いないだろう。せいぜい十数年前の話なのに現在がこうなってるのは、恐らく、魔王が現れてオーク族以外が駆逐されてしまったからじゃないか?

 

 魔族は男を殺して女を犯す。そうして母体にされたオアンネス族も、オークを産んだ直後に、自分の子供に殺されてしまった。同じことが、ここネウロイでも起こっていたんじゃなかろうか。そして残ったのは、オークに負けない強い個体か、たまたま難を逃れた連中だったと考えれば辻褄が合う」

「あー、そっかあ……そうかも知れないね」

「うん、で、もしかしたら、300年前に魔王が現れた時もそうだったのかも知れない。話によれば300年前、帝国に魔王が現れるよりも前に、既に大森林には魔族が押し寄せてきていた。バラバラだった獣人社会はそれに耐えきれず、ついに防波堤が決壊するかのように魔族が森から溢れ出してきて、人類はそれと戦っていたんだ。

 

 何故、奴らは現れたのか。新たに魔王となったジャバウォックを狙ってやって来た、今回のオークキングみたいな強い個体がいたのかも知れない。まあ、それはわからないけど、勇者が魔王を討伐した時には、この惑星の魔族は相当数を減らしていたことは確かだろう。

 

 だとしたら、その後ネウロイの調査に向かったオルフェウス卿アマデウスは、きっと深部にまでたどり着けたんじゃないかな」

 

 さっきまでネウロイに行くことを疑問視していたルーシーは、鳳の予想を聞いて目を輝かせた。

 

「そっか! じゃあ、もしかしたら、ネウロイにそのアマデウスが遺した何かが今も眠っているかも知れないね?」

「うん。それが魔王化を阻止するために必要なものかはわからないけど、P99に匹敵するような面白い発見は期待できるかも知れない。迷宮は、強い個性の持ち主が残すものらしいから、共振魔法(レゾナンス)の創始者である彼の迷宮が無いとは思えない。もしかすると峡谷の遺跡みたいなのが、どこかに眠ってるんじゃないかと思うんだけど……」

 

 問題は、ネウロイと一口に言っても、それは広大だと言うことだった。

 

【挿絵表示】

 

 ネウロイというのは、元々存在していた地図(P99制作)に、大昔の帝国人が適当に線を引いただけの領域のことであった。彼らは南の大森林には獣人が暮らしているが、魔族はそれより南からやってくるらしいと言う情報を元に、ここからここまでがワラキアで、その先がネウロイと言った感じに、非常にアバウトな線引きをしたのだ。

 

 だから、南部遠征の時に見に行った河川以南も、人によってはネウロイと呼んだし、例えば中央山地の南では、獣人は殆ど活動をしていないから、そこを境界線にしている者もいた。だが、概ね大陸の南端の半島が突き出している辺りをネウロイと呼ぶのが、昔からの習わしだと思えば間違いないだろう。300年前のアマデウスも、そのつもりでネウロイに向かったはずだ。

 

 だから鳳たちは、まずは一直線にそこまで飛んでいって、西の端から東に向かい、空から探索することにした。方法は単純、ネウロイを大体20の領域に分け、一日探して何も見つからなければ次の領域へと進むのだ。今回は移動が目的ではないから、いつもより高度を上げて見下ろせば、もっと広範囲をカバーできる。それなら最低でも20日の探索で調査を終えられるだろう。

 

 それは空から見下ろすだけという、完璧とは程遠い調査であったが、たった二人ではこれが限界だったのだ。先も言及した通り、ネウロイとは人によっては南半球まるまる全部を言うこともある。鳳は、その範囲をかなり絞って調査しようとしているわけだが、それでも日本列島くらいの広さはあった。これが精一杯なのである。

 

 そんな感じでおよそ1ヶ月弱が経過し、鳳とルーシーはいよいよネウロイへと到達した。

 

 流石にここまでくると、棲息する魔族の数も増えてきたが、今の鳳なら問題なく排除できる程度の増加でしか無く、二人はほっと胸をなでおろした。

 

 それよりも厄介だったのは、高緯度地域に差し掛かり、気候が寒くなってきたことだった。上空から広範囲を探索するつもりだったのに、あまり高く上りすぎると、数分で凍えそうになってしまうのだ。そんな時は昼であっても焚き火に当たらねばならず、当初予定していたような調査はとても出来そうもなく、鳳は調査方針を変えざるを得なくなった。

 

 とは言え、悪いことばかりでもなく、気候が変わったおかげで植生も変わり、大森林のような鬱蒼と茂る森は鳴りを潜めて、空から見ても地面が見えるステップ地帯や針葉樹林が多くなってきた。これならば上空からでも、地上のものが隈なく探せる。

 

 南に行けば行くほど植物は少なくなっていったから、ある程度は妥協しなければならないと思っていた地上探索にも光明が見えてきた。ただし、植物が少ないのはそれだけ寒いのが原因だったから、彼らの移動速度とトレードオフの関係だった。

 

 地図を見てしっかり準備をしたつもりだったが、頭の中で考えるのと実際にやってみるのとではかなり違う。地図には気温も植生も書いていないのだ。鳳は焦る気持ちを抑えながら、当初予定していた20分割を大幅に変更することにした。

 

 これでは全て調査するのに、予定の3倍は時間がかかってしまうだろう。そんなに時間がかかっては、流石にヘルメスに残してきた者たちも心配するだろうし、今は抑えられている魔王化の影響もいつ発症するかわからない。

 

 ここはやはり、妥協すべきなのだろうか……そうやって鳳が迷い始めた頃。それでも諦めきれずに、寒さに震えながら上空から地道に調査していた彼の目に、一筋の光が差し込んだ。

 

 ネウロイに到達して数日後。彼らはついに、その不毛な大地に人工物を発見したのである。

 



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そんな装備で大丈夫か?

 バルティカ大陸最南端ネウロイの地で、鳳はようやく探し求めていた人工物を発見した。それは不毛の大地を虱潰しに探索していた時、思いもかけないような場所から見つかった。

 

 ネウロイの奥地はかつて氷河に閉ざされていたのか、フィヨルドのようなデコボコとした地形が広がっていたのだが、そんな中でも特に目立ったテーブルマウンテンみたいな平たい山の頂上に、とても常識では考えられないようなお城が建っていたのである。

 

 それは正に西洋の城塞といった趣の建築物だった。城の周りにはいくつもの円筒形の塔が立ち並び、それらが全て石積みの城壁で繋がれている。周りは水堀で囲われ、城に入るには跳ね橋を渡るしか無いが、その先のゲートを潜った広場には、ゴシック建築みたいな重厚な尖塔がそびえ立つ館が建っており、中でも一際高い尖塔は鐘楼となっていて、それが風に吹かれて時折、ゴーン……ゴーン……と音を鳴らしていた。

 

 その音が、上空の風に乗って微かに聞こえてきたから、鳳は難なく城を発見できたのだが、多分、その音が山の麓に響いても、地上からは絶対見つからなかっただろう。山は断崖絶壁に囲まれていて、登る手段がない。それじゃ、どうやってこんなものを建てたのだろうかと首を捻りたくなるが……それはさておき、ようやく見つけた手がかりである。彼は逸る気持ちを抑えて、キャンプに置いてきたルーシーを迎えに戻った。

 

「うっわー! なにこれ! お城だよ! お城があるよ!」

「な? 俺が言ったとおりだろう?」

 

 キャンプに戻った鳳が人工物を発見したと言うと最初彼女は喜んだが、それがお城だと言ったらこんな時にふざけるなと怒られた。それが普通の反応だろうが、端から否定されては堪ったものじゃない。嘘じゃないからとにかくついてこいと引っ張って、こうして舞い戻ってくると、彼女はそれに近づくにつれて興奮気味に叫びだした。

 

 こんなマチュピチュみたいな秘境に人工物が建ってるだけでも信じられないのに、それが意匠を凝らした欧州風の建物なのだ。普通に考えてあり得ない。

 

「もしかして、昔ここに人が住んでいたのかな?」

 

 というルーシーに対し、

 

「いや、ネウロイには少なくとも一千年以上、人間が近づいたことはなかったはずだ。それ以前から建っていたことも考えられるが、それだと朽ちもせずに、ここまで綺麗に残っているわけがない。十中八九、迷宮だね。アマデウスの迷宮だ」

 

 鳳がそう断言すると、ルーシーが小首をかしげながら、

 

「迷宮っていうのは同意見だけど、どうしてこれが彼のものだと断言出来るの?」

「それはもう、建物の建築様式としか言えないね。これはヴィンチ村の爺さんの館や、フェニックスにあったヴェルサイユ宮殿に感じが似てるだろう?」

「うーん……うん。言われてみれば」

「彼らはみんな、生まれ故郷が近いんだよ。だから彼らが城って言うものをイメージすると、こういうのになる。クオリアは心象風景そのものだから、こういうのが迷宮として残ったんだとしたら、それはアマデウスの迷宮だと考えるのが無難だろう」

「ふーん……こんなお城が、おじいちゃんたちの故郷にはいっぱいあったんだ。鳳くんの国には無かったの?」

「俺は城って言うと、もっと別のものを思い浮かべる。まあ、こういうお城もあるにはあったけどね。地方の山奥とかに」

 

 鳳が、そう言えば目黒川沿いにもでっかいのが建ってたなと懐かしく思っていると……ルーシーがどことなく緊張気味に言った。

 

「で、どうする……? 探検するなら、どっちかが偵察に行ったほうが良いよね……」

「どうして?」

「だって、迷宮でしょう? 最初、峡谷の迷宮に入ろうとした時、ひどい目に遭ったじゃない。忘れたの?」

「ああ~……そう言えば。精神攻撃される可能性があるのか」

 

 こんな場所で、二人揃って赤ちゃん返りなんてしてたら命がいくつあっても足りない。一人が先行して、もう一人がサポートに回るのが無難だろう。となると、どちらが危険を冒すかであるが……

 

「俺が巻き込んでしまったんだし、俺が先に行くのが筋だろう。ルーシーは後からついてきてくれ」

「ダメダメ! 私が先に行くよ」

「……なんで?? 危険だし、今の俺ならちょっとやそっとじゃどうにもならないから、俺が行った方がいいと思うが……?」

 

 するとルーシーは首を振って、

 

「今の鳳くんにおかしくなられても、私じゃ止められるかわからないよ。逆なら問題ないでしょう?」

「あー、まー、確かに……」

「もしもおかしなことが起きたら、全力で止めてよね?」

 

 鳳は少し気が引けたが、他にいい案も見つからないから同意した。

 

 迷宮はおよそ70~80メートル四方と、城にしてはこじんまりしたものだった。断崖絶壁の上にあるため、この近辺に魔族はおらず、襲われる心配はなさそうである。と言うか、外界と完全に隔絶されている場所のようだから、ガラパゴス化しているのか、ちょっと歩いただけでも、見たこともないような奇妙な生物がちらほら見つかった。きっと、見る人が見れば、ここは宝の山に違いない。

 

 尤も、そんなものをゆっくり観察している場合でもないので、二人は城壁を一周して周囲に危険が無いのを確認すると、いよいよ内部に入るために跳ね橋の前へと移動した。

 

 平たい山の山頂であるため、強い風がビュービュー吹き付ける中、慎重にその跳ね橋を渡っていくと、城壁内へ侵入した瞬間にピタリと風が止んで穏やかな天気に一変した。多分、この城壁が既に迷宮なのだろう。二人は頷きあうと、当初の予定通りにルーシーが先行して迷宮内を調べていくことにした。

 

 とは言え、少し慎重すぎたかも知れない。城壁内は明らかに外の空間とは違ったが、特に目立って危険な物は見つからなかった。中央の館の周りは誰かが手入れをしているような気配もなく、花壇や東屋のような施設もないため殺風景だったが、下草がそれほど伸びてはおらず非常に歩きやすかった。

 

 となると本命は中央の館の中だろう。二人は玄関らしき両開きの扉の前に移動すると、ルーシーが今度こそ何かが起きるかも知れないと緊張しながら扉を開いて中を覗き込んだ。

 

 その扉は木製で、綺麗な彫刻が施されたものだった。館の外観は遠目にはお城のように見えたが、この扉の感じからすると、もしかしてここは教会やレストランのような建物なのかも知れない。そんな印象を持ちながら彼女の動向を見守っていると、いよいよ決意して中に入っていった彼女が、暫くしてから外に呼びかけてきた。

 

「鳳くん! 取り敢えずは大丈夫そうだから、ちょっと入ってきてよ!」

 

 声のトーンからしても危険は全くなさそうである。ホッとしながらその声に応じて玄関の扉をくぐると、中は電気も通ってないだろうに、明るくて柔らかな光に包まれた空間が広がっていた。

 

 密閉された空間であったが床に赤絨毯が敷かれて足音が響くこともない。壁には等間隔にランプが吊るされていたが、部屋の明るさの正体がこれだけとは考えられないから、恐らく照明というより装飾用に取り付けられた物だろう。他にも観葉植物の入った花瓶や、なんだかこざっぱりした風景画などが飾られている。

 

 部屋はおよそ20畳くらいの広さだったが、エントランスとしては少し広すぎる印象だった。さっきぐるりと一周りした館の大きさからして、この部屋だけで四分の一くらいのスペースを使っていそうである。なんでこんな無駄なスペースを? と思いつつ、彼を呼んだルーシーの方へと歩いていくと、部屋の中央に佇んでいた彼女は道を開けるように脇にどいて、そこにあった立て看板を指差しながら困った感じに首を傾げて見せた。

 

「なにこれ?」

 

 鳳が尋ねると、彼女はさっぱり? とお手上げのポーズをしながら、

 

「わかんない。中に入ってすぐ目についたんだけど……とにかく読んでみてよ」

 

 言われたとおりに彼女の指差す看板を見てみると、そこにはこんな言葉が書かれていた。

 

『当サロンは会員制となっております。はじめてお越しの方は、必ず男女ペアになってお進みください』

 

 サロンというのは要するに会員制クラブみたいなものだろうか。しかし、こんな世界の果てみたいな場所にそんなものがあっても、会員など一人もいやしないだろう。これはこの迷宮の持ち主なりのジョークなのだろうか? ともあれ、肝心なのはその言葉の意味である。

 

「男女ペアってことは、二人同時に入ってこいってことかな……?」

「多分そうみたい。さっき私が中に入った時は、この看板が立ってるくらいで、他におかしなものは何も無かったんだ。でも、今は見て」

 

 彼女がそう言って指差した先には、いつの間にか隣の部屋へと続く扉が現れていた。鳳が部屋の中に入った時点では無かったものだ。どうやら、彼が看板を読んだことで現れたらしい。

 

 鳳たちはお互いに顔を見合わすと、扉の外から次の部屋の様子を窺ってみた。その先には今いる部屋と殆ど変わらない赤絨毯の広間が広がっていて、その中央にはまた同じように立て看板が立っており、

 

『クロークにコートをお預けください』

 

 と書かれてあった。立て看板の隣には大きな籠が置かれており、恐らくここに今着ているコートを入れろということだろう。鳳は唸り声を上げた。

 

「……どうやら、この看板の指示に従えば次の部屋への扉が開く仕組みみたいだな」

「これじゃあ、どっちかが先行して偵察するなんて出来ないね……」

「どうする? 一旦出直して、何か対策を考えようか?」

「うーん……でも、対策って何?」

 

 そう言われると返答に困った。要は立て看板の言うことを聞かずに先に進む裏技みたいなものがあればいいのだが、普通に考えてそんなものが見つかるとは思えなかった。

 

 迷宮は、その持ち主のクオリアだから、この中に入った時点でその人のテリトリーの内なのだ。ルールに従わない者を、自分の心の中に受け入れようという者はいないだろう。いたらマゾである。この中では、迷宮所有者が絶対であり、言わば神みたいなものなのだ。

 

 その神に従わないのは寧ろ自殺行為であり、強引なことをして下手に機嫌を損ねてしまったら、かえって危険なことが起きるかも知れない。ここは正攻法で攻める以外に、どうやら方法はなさそうである。

 

「仕方ない。今の所、危険はなさそうだし、このまま進もう。ここまで来て手ぶらで帰るってわけにもいかないからな」

「わかった。ねえ? 私を連れてきて良かったでしょう?」

 

 鳳が提案すると、彼女はフフフんっと不敵な笑みを浮かべながらそういった。確かに、もし彼女がここに居なければ、鳳は迷宮の前で立ち往生しているところだろう。それについては感謝しているが……

 

 何もこんな時にそんなことを言わなくてもいいだろうに、無理やり着いてきたことに、よほど引け目を感じていたのだろうか? 鳳は分かった分かったと同意すると、必要以上に謝辞を述べておいた。

 

 隣の部屋に進んだ二人は、看板の指示通りに外套を脱いで籠に入れた。すると予想通り目の前の壁に、また新たな扉が現れた。二人は一応、何か仕掛けがあるかも知れないからと、クロークの部屋を隅々まで調べてから隣の部屋へと移動したが、案の定というか、そこにも同じような看板が立っており、

 

『当サロンは土足厳禁となっております。ここで靴をお脱ぎください』

 

 と書かれてあった。看板の隣には下駄箱が置かれている。鳳は靴を脱いでそこに入れると、

 

「なんだか、注文の多い料理店みたいだな」

「なにそれ?」

「そう言う有名なお話があるんだよ。主人公が山奥で見つけたレストランに入ると、ここみたいに看板が立っていて、色々と指示が書いてあるんだ。主人公はお腹が空いてて早くご飯が食べたいから、書かれているとおりに指令を実行していくんだけど、それがどんどん奇妙なものになってくんだよ」

「奇妙ってどんな?」

「服を脱いで塩コショウを体に揉み込んだり、小麦粉をまぶしたりしろって言うんだ。で、流石にこれはおかしいぞと思った主人公が、そっと様子を窺ってみると、実はそのレストランは化け物の巣で、食べられるのは主人公の方だったって話だ」

「うひゃー! そんなの普通、食べられる前に逃げ出すよね!?」

「うん。物語でもちゃんと主人公は逃げ出すんだけどね」

「なら安心だ……って、安心してちゃ駄目か。もし、ここも同じような場所なら、私たちが食べられちゃうってことだよね?」

「まあ、それは無いと思うけどね」

 

 なにしろ予想では、ここはアマデウスの迷宮なのだ。かのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが食人鬼だったなんて話は聞いたことがない。

 

「でも、もしかしたら武装解除をしておいて、戦闘はあるかも知れないから、ちょっとは警戒しといたほうが良いかもな」

「その時は頼りにしてるよ? 私、戦闘系のスキルはまったくないからね」

 

 二人は気を引き締め直して先に進んだ。ところが……続きの部屋の立て看板には、早速二人が気にしていたようなことが書かれていた。

 

『お荷物をお預かりします。こちらにお預けください』

 

 看板から少し離れたところに、クローゼットみたいな大きな棚が置かれている。二人は顔を見合わせた。

 

 キャンプを引き払って来たばかりだから、二人は大荷物を抱えていた。その中には数日分の水や食料、地図にコンパスに、ロープやナイフなどの道具類が入っていた。言うなればそれは命綱であり、これをこの得体の知れない迷宮の中で手放すことは正直考えられなかった。

 

 しかし、これまでの経緯からして、言うことを聞かなければ先に進めないことは間違いないだろう。鳳が下唇を噛みながら看板の文字を見つめていると、隣に立つルーシーが困った表情で言った。

 

「……どうしようか?」

「流石にこれは、ちょっと勇気が要るなあ……」

「一度外に出て、水と食料だけでも安全な場所に置いてくるのはどうかな?」

「そうだな……でも荷物をここに置いてけって指示なんだから、それが許されるかな?」

「わからないから、試すだけ試してみようよ」

 

 ルーシーがそう言って踵を返そうとした時だった。二人が見つめていた看板の文字が、突然スーッと消えて、すぐに代わりの文字が浮かんできた。

 

『駄目です。荷物を全部、ここに置いていってください』

 

 二人はまたお見合いした。

 

「……どうやら、こっちの行動を監視してやがるみたいだな」

「引き返すならそれまでって感じだねえ……」

 

 鳳はため息を吐くと、

 

「はぁ~……それじゃこうしよう。荷物はここに置いていく。だが、装備を置いて行けとは書かれて無いんだから、それは持っていこう」

 

 鳳はまるで挑むみたいに、誰もいない天井に向かってそう宣言すると、リュックサックの中から着火具とナイフとロープ、それからMPポーションを取り出して、ウエストポーチに突っ込んだ。ルーシーはそんな鳳の行動をぼーっとしながら見ていたが、やがてハッと気づいたように自分の荷物を漁りだし、最終的にはレオナルドに貰った杖を手にした。そんな装備で大丈夫か?

 

 二人はそうして残った荷物を全て指示通りにクローゼットの中にしまうと、これでどうだと言わんばかりに踏ん反り返りながら看板の前に立った。部屋は暫くなんの反応も無かったが……やがて、まるで諦めたかのように、看板の文字が消え、彼らの目の前に次の部屋への扉が現れた。

 

 鳳たちは勝ち誇るようにフンッと鼻息を鳴らしつつも、内心ドキドキしながら隣の部屋へと向かった。

 



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絶対に○○しないと出られない部屋

 次に訪れた部屋は今までとは少し毛色が違った。

 

 これまでは床一面が赤絨毯で覆われていたのだが、今度の部屋は床がフローリングになっており、部屋の隅の一部分だけ石タイルが敷かれてあって、その上にはバスタブが置かれていたのだ。

 

 バスタブの脇には洗面器とバスタオル、それから何本かのボトルがあり、壁に埋め込まれた洗面鏡のすぐ前には、赤と白のキャップをかぶった蛇口が突き出していて、そこから伸びるホースの先にはシャワーヘッドが取り付けられてあって、どう見てもそこは風呂場にしか見えなかった。

 

 なんじゃこりゃ? と思いつつ、多分あるだろう看板を探すと、

 

『長旅ご苦労さまでした。さぞかし疲労も溜まっていることでしょう。ここでゆっくり湯に浸かって、体を綺麗にしてください』

 

「今度は体を洗えってか……本当に注文の多い料理店みたいになってきたな」

「お風呂に入るのは良いけど、バスタブが一つしか無いよ? 鳳くんと一緒に入れってこと?」

「順番に入ればいいだけだろ! つーかこのボトル……もしかしてシャンプーとリンスじゃないか? 材質はプラスチックっぽいが……一体どういうことだ?」

「ねえ、この壁に繋がってる蛇みたいのって何?」

「何ってシャワーだけど……って、これもこの世界には無い物か」

 

 そもそも、水道のようなインフラもまともに整ってない世界である。仮にあっても、よほどの金持ちでもない限り、そんな物は見たことないだろう。鳳がシャワーヘッドを掴んで、そこにあった蛇口を捻ると水が吹き出し、それを見たルーシーは目を丸くした。

 

「きゃっ!! なにこれ、凄い発明だねえ……あれ? この水、温かいよ?」

「ちゃんとお湯が出るんだな……温度調節は出来ないみたいだが、多分、ほっといてもいい湯加減なんだろう。で、どうする? そっち先に入る?」

「入る入る!」

 

 ルーシーは新しいおもちゃでも見つけた子供みたいにはしゃいでいた。現代人の鳳からしてみれば、こんなもの珍しくもなんともないのだが、彼女にしてみれば未知との遭遇なのだろう。ほっといたら今すぐ衣服を脱ぎだしそうな彼女に、一通りシャワーの使い方を教えると、鳳は部屋の隅に行って背中を向けた。

 

 後ろの方から服を脱ぐ衣擦れの音が聞こえてきて生々しい……風呂に入れと言うくせに部屋には衝立一つ見当たらず、ともすると覗きたくなる衝動を鉄の意志でもって耐えるしかなかった。他の部屋には籠なり下駄箱なりクローゼットなり、必要なものは必ず置いてあったのに、衝立は必要ないという判断なのだろうか?

 

 そう言えば、入り口には必ず男女ペアで入れと書いてあったから、もしかすると恋人同士を想定していたのだろうか、それとも、こうしてドギマギするのを見越して迷宮の主がからかっているのか……

 

 なんにせよ、魔王化の影響が怖い今は本当に耐えるしかなかった。またクレアに迫られた時みたいに性欲が暴走したら、ここではもう成すすべがないだろう。実のところ、ルーシーのことは妹のように思っているから今まで誤魔化してこれたが、なんやかんやギルド酒場の看板娘であるくらいには可愛いのだ。一度意識しだしたら止まらなくなる危険がある。

 

「ねえねえ、鳳くん? この先っちょから白いヌルヌルしたのが出てくる物は何?」

「シャンプーじゃないですかね! つか、言い方! 言い方に気をつけようか!?」

「?? よく分かんないけど……わっ! 首の部分を上下に扱いたら、ヌルヌルもいっぱい出てきたよ!」

「おまえ、分かってるだろう!? 分かってて、やってんだろう、絶対!!」

「そんなことないって、それより見て見て! バスタブの中でかき混ぜたらすっごい泡だらけになっちゃった!」

「お風呂で遊ぶんじゃありません!」

 

 鳳はなんとか平静を保とうとしていたのに、ルーシーがはあまりにはしゃぐものだから、自分の背後で繰り広げられている光景を嫌でも想像してしまって、股間がエキサイトしそうになった。無心に般若心経を唱えることでどうにか抑えることが出来たが、こっちの気も知らず、今も無邪気に遊んでいる彼女を、あとで一発ぶん殴ってやろうと心に誓う。

 

 それにしても……シャワーといい、あのプラスチックのボトルといい、この世界には無かったものが次々と登場してくるのはどういうことだろうか。この迷宮の主が予想に反して現代人だったという可能性もあるが、それよりも鳳の記憶を元に再現されたと考えたほうが無難だろうか。一度、二人がズルをしようとしたら看板に咎められたことがあった。つまり、迷宮の主は二人の様子を窺っているのだ。

 

 指令に気を取られてあまり考えてこなかったが、ここに来るまでにいくつもの部屋を通り過ぎてきたわけだが、館の外観からとてもそこまでの広さはなかったはずだ。

 

 迷宮の中はなんでもありの精神世界なのだ。そう考えると、鳳の心の中を覗くことくらい造作もないだろう。もしもそうなら、ここの主は思っている以上に厄介な相手なのかも知れない……

 

 ルーシーはシャワーが珍しいからか、それとも温かい湯に浸かるのが久しぶりだったせいか、なかなか風呂から上がってこようとせず、結局、一時間くらいダラダラと長風呂を続けていた。

 

 鳳はその間、無邪気に話しかけてくる彼女に機械的に相槌を返しながら、フェルマーの最終定理を証明したり、ポアンカレ予想について画期的な解法を考案したりしていたが、ようやく彼女が風呂から上がった頃には、身動き一つしていなかったのに全身汗だくになっていた。

 

 風呂を先に譲って良かった。じゃなきゃ、二度入る羽目になっただろう。鳳が長風呂の不満をぶつけても、彼女はさっぱりした表情で、

 

「あー、いいお湯だった。鳳くんも早く入んなよ」

「言われずともそうするわい」

 

 彼女の横を通り過ぎると、ふんわりと石鹸の香りが鼻孔をくすぐった。ここ最近、そんな匂いとは無縁過ぎたから、思いの外それが胸をドキリとさせた。女の子の匂いがするとでも言おうか、ただの化学薬品の匂いのはずなのに、妙に意識させられるのだ。

 

 よく清純な子の例えで、石鹸の匂いがする女の子と言う言葉があるが、思うにあれは石鹸の匂いがする女の子の匂いという方が正しいのではなかろうか。でなければ、たかが風呂上がりと言うだけのことで、好感度が爆上がりするわけがないだろう。男というのは儚い生き物である。さっきまであんなに頭にきていたのに、それだけでもう何もかも忘れていいような気がしていた。

 

 そんな馬鹿げたことを考えながら汗だくになったシャツを脱いでいる時、鳳はなんとなく気になって背後を振り返った。すると約束なら壁を向いているはずの彼女とばっちり目が合って、慌てて視線を逸らす姿が見えた。

 

「……おい、こら、今こっち見てただろう!」

「ソンナコトナイデスヨー……」

「なんで片言なんだよ! つーか見てただろう、絶対見てた。なんで見るの!?」

「いやあ、だって……男の子の体にちょっと興味があって」

 

 鳳は壁に向かって正座しているルーシーの方へとズカズカ歩いていくと、思いっきりその頭を引っ叩いた。

 

 ルーシーに覗かれるかも知れないと思うと落ち着いて風呂に入っていられず、鳳はカラスの行水みたいにさっさと風呂から上がってしまった。せっかく久しぶりの温かい湯だったのに……などとぶつくさ言いながら服を着なおしていると、立て看板の向こう側に、いつの間にか新たな扉が出現していた。

 

「おお? どうやら次の部屋の扉が開いたみたいだぞ」

「やっとかー! 今回はちょっと手間取っちゃったね」

「殆どルーシーのせいじゃんか! まったく……今度の部屋ではグズグズすんなよ?」

「分かってるよ。ところでさあ、看板の言うことを聞いてれば先に進めることは分かったんだけど、最終的にこれを続けてたら何があるのかな? 私たちに何をさせたいのか、さっぱりなんだけど……」

「そうだなあ……今んところ、それこそ注文の多い料理店と同じなんだよね。でもまさか、俺たちを食べようなんて思ってないだろうしなあ」

「物語だと次はどうなるの?」

「簡単だ。材料を洗ったら下ごしらえをするだろう?」

 

 そんな話をしながら次の部屋へと入っていくと、また新たな部屋の中央にも、いつもの立て看板が置かれていた。

 

『乾燥はお肌の大敵です。この乳液を使ってスキンケアをしてください』

 

 鳳たちは顔を見合わせた。つまり、この乳液を顔や手足に塗り込めということだろうか。ここまでくると流石に疑わしくなってくる。鳳は看板の横に一緒に置かれていた乳液のボトルを手に取ると、クンクン匂いを嗅いでから、中身を一滴取り出してぺろりと味見してみた。

 

「……もしかして、塩コショウの味がするかと思ったんだけど。化学薬品の味だな。苦い。そしてまずい。本当に、看板に書かれてる通り乳液みたいだ」

「どうする? 言われたとおりに使ってみる?」

「騙されてるわけじゃないなら、従うしか無いだろうなあ……」

 

 二人は釈然としないものを感じながらも、看板の指示通りにペタペタと顔や手足に乳液を塗った。しっとりとした肌をペチペチ叩いていると、次の部屋への扉が現れ、中に進むとまた同じような看板が置かれており、

 

『当サロンは体臭のキツイ方の入室を禁じております。このオーデコロンを使ってください』

「私、臭うかな……?」

 

 寧ろいい匂いですと言いそうになるのをぐっと堪えて、鳳は看板の横にあった香水瓶を手に取ると、霧吹きを手首にシュッと吹き付け、

 

「……普通の香水だ。酢でも料理酒でも無い。看板に偽り無いようだが……うーむ」

「メンズとレディースと二種類あるね。じゃあ、私はこっちを使えばいいのかな?」

 

 ルーシーは瓶を手に取ると、制汗スプレーみたいにシューシューと全身に香水を振りまいてしまった。

 

「ああ、ああ、付けすぎ付けすぎ」

 

 鳳はそう言いながら。自分は首に一吹きと脇の下辺りに軽く撒いた。すると看板の文字が切り替わり、

 

『ちゃんとパンツの中も一吹きしとけよ?』

 

 まるで合コンのノリみたいなセリフにうんざりしながら、彼は指示通りにパンツの中に一吹きした。

 

 こうして二人がまた看板の指示をクリアすると、いつものように隣の部屋へと続く扉が現れた。ただし、今回は少し様子が違って、いつもの木製のドアとは別のデザインの扉が現れた。更には、隣の部屋へ行こうとすると、また立て看板の文字が切り替わり、

 

『それではごゆっくりお寛ぎください』

 

 と表示された。まるでこの先が目的地であるかのような言いっぷりである。

 

「……もしかして、ここが終点なのかな?」

「どうだろう……」

 

 ルーシーが尋ねてくるも、鳳はすぐには返事せず、代わりに新たに現れた扉に近づいてそれを軽くノックした。コンコンと響くその音と感触からして、どうやら木目調のデザインが施されたスチール製の扉らしい。中から返事が返ってくることもなく、人の気配もしない。鳳は覚悟を決めるとドアノブを握り、その扉を押し開いた。

 

 すると今度の部屋は今までと違って照明がついておらず、中は真っ暗なままだった。入り口から差し込む光で辛うじて見える室内の床は、これまで何度もお目にかかった赤絨毯ではなく、チープな合成繊維のクッションフロアのように見えた。

 

 部屋は今までと同じくらいの広さがあるようだが、とにかく暗くて中の様子はよく分からない。じっと目を凝らしていたら、奥の方に人影らしきものが見えて、一瞬ドキッとしたが、よく見れば人の背丈くらいにあるランプシェードのようだった。つまり、照明がないわけではない。点いていないのだ。

 

 もしかして入口付近に照明のスイッチが無いかな? と思い、壁を手探りしてみたが見つからず、そうこうしている内に、だいぶ目も慣れてきて、中の様子も少しは見えてきた。室内には生物がいる気配もなく、危険は少なそうだ。となれば、あそこにある電気スタンドらしきもののスイッチを入れれば、もう少し探索もしやすくなるだろう。

 

 いつまでもここでこうしているわけにもいかない。鳳が覚悟を決めて部屋に入ろうとした時、

 

「え? 一人で入るのは危険だよ!」

 

 隣に居たルーシーも慌てて一緒に室内に入ってしまった。多分、それがスイッチだったのだろう。突然……ババーン! っと鉄扉が閉まる大きな音がしてビックリしていたら、背後のスチールドアが勝手に閉じてしまった。

 

 その瞬間、部屋が真っ暗になって何も見えなくなり、ルーシーが足をもつれさせて鳳の腕にしがみついて来る。

 

 そんな彼女を支えようと、二人抱き合うように暗闇に佇んでいたら、次の瞬間……パッと部屋の照明が点いて、部屋の様子が目に飛び込んできた。

 

 鳳はそれを見て度肝を抜かれた。

 

「な……なんじゃこりゃあ……」

 

 部屋の奥の方にあったランプシェードのすぐ脇には、なんと現代的なおしゃれな冷蔵庫と液晶モニターが設置してあった。モニターが乗ってるテレビ台には、懐かしのゲーム機が収められていて、更にそのすぐ隣にはコンドームの自動販売機が置かれている。テレビ前の柔らかそうなカウチの上には、毒々しいショッキングピンクのクッションが乗っていて、何の用途に使うか一目瞭然の大人のおもちゃが無造作に転がっていた。

 

 そしてたった今、二人抱き合うようにして立っているすぐ目の前には、丸い回転ベッドがデデンと置かれてあり、その枕元には良くわからないスイッチがたくさんついていて、まさかそんなはずはと戸惑いながら、見上げれば天井は鏡張りになっていた。

 

 間違いない……これはどこに出しても恥ずかしくない。ラブホテルの一室であった。

 

「え~……」

 

 鳳は困惑すると言うよりドン引きしながら部屋を呆然と見回した。正直、驚くと言うより信じられないという気持ちのほうが先に立って、どんなリアクションを取って良いのか分からなかった。

 

 山の上にそびえ立つお城を見た時、まるでラブホテルみたいだなという感想を持ちはしたが、まさか本物が出てくるなんて思いも寄らないだろう……この迷宮を作ったやつは一体なんなんだ。心が叫びたがっているのか。

 

 逆に、ここがどういう場所かわからない人のほうが冷静になれるのだろうか、呆然としている鳳に代わって、部屋の中をキョロキョロ見回していたルーシーがポツリと言った。

 

「ねえ、鳳くん? おかしくない? この部屋は今までと違って、どこにも看板が見当たらないよ?」

 

 その言葉にハッと我に返った鳳は、改めて部屋の様子をぐるりと見回した。すると無いのは看板だけじゃなくって、

 

「なあ、俺達ってどこから中に入ってきたんだっけ? 扉は?」

「嘘!? 閉じ込められちゃったの?」

 

 ルーシーが驚いて、自分たちが入ってきたはずの壁をベチベチと叩いている。その壁は分厚いコンクリートででも出来ているのか、どんな振動音も返ってこなかった。

 

 閉じ込められたという事実に二人は一瞬焦ったが……しかし、慌てる必要はないだろう。扉が消えてしまったと言ったって、今までだって看板の要求に従わなければ、次の部屋の入り口は現れなかったのだ。今度は逆に、帰り道が出てこないと考えれば、状況的にはそう変わらない。

 

 問題は、その指令を出すはずの看板が、この部屋には見当たらないことだが、一体どこにあるんだろうと思っていると……

 

 その時、どこからともなく、ブーン……という、懐かしい電子音が耳に届いた。

 

 その音に釣られて、鳳は咄嗟に液晶モニターを見た。すると案の定というか、いつの間にかモニターの電源が入っており、黒い画面が薄っすらと光を放っているのが見えた。彼はピンときた。どうやらこれが看板の代わりらしい。

 

 鳳は未だに壁を手で触っているルーシーの肩を叩くと、どうやら目的のものが見つかったみたいだぜと、彼女のことを促した。そして二人が見やすいようにモニターの方に移動してくると、突然、何の前触れもなくその画面の右から左へテロップのように文字が流れ出したのであった。

 

『絶対にセックスしないと出られない部屋』

 

 二人はそれを見て固まった。モニター画面は無情にも音もなく淡々と、そんな文字列を表示し続けていた。

 



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……してもいいよ?

 モニターには淡々と『絶対にセックスしないと出られない部屋』という文字列が映し出されていた。これまでの流れからして、命令に従わなければ、本当にここから外に出ることは出来ないのだろう。それは良い。いや、良くないけど、今は置いといて……自分の記憶が確かならば、ここは前人未到の魔族の巣窟ネウロイのはずである。まさか惑星の反対側とも呼べる僻地まで来て、こんなSNS界隈がざわつきそうなネタが転がってるとは思いもよらなかった。

 

 ちらりと横目でルーシーの顔を盗み見ると、丁度同じようにこっちを見ていた彼女と目が合った。瞬間、どちらからともなくそっぽを向いて、お互い言葉を交わすことも出来ず、会話はそのまま途切れてしまった。気まずい。彼女の居る方の肩がムズムズする。

 

 鳳はため息を吐いた。思い返せば、この迷宮に入った時から、その兆候は随所にあらわれていた。まず初めに、迷宮には男女ペアでないと入れないと来て、荷物を取られ、途中からはシャワーを浴びたり、スキンケアしたり、香水を振りまいたりして、終いには運動部の先輩みたいな助言までされた。この辺で気づければ良かったのだが、流石にこんな落ちが待っているなんて、想像出来ないではないか。

 

 ここは300年前の、かの勇者パーティーの筆頭、アマデウスの迷宮なのだ。伝説の人物の残した遺産だと思えば、命に関わるようなトラップに警戒はすれど、こんなアホみたいなトラップは思いつきもしないだろう。

 

 しかし、確かに迂闊ではあった。鳳はモーツァルトという音楽家を神格化しすぎていたのだ。思い返せば、注文の多い料理店みたいだなと思った時ルーシーが、それじゃ最後は食べられちゃうのかな? って言った時、鳳はアマデウスは殺人鬼ではないから大丈夫だと評した。

 

 そう、知っていたのだ。鳳は伝記などを読んで、彼は殺人鬼ではないが、すこぶる変態(・・)だと言うことは結構知っていた。友達の家をうんこまみれにしたり、おならについて熱く語ったり、あまりにも下ネタばかり飛ばすものだから、お父さんの説教の手紙が後世に残ってるくらいなのだ。

 

 だから風呂に入った辺りで気づくべきだった。看板の文字はこっちの様子を見ているかのように刻々と変わっていた。と言うか実際に見ているだろうから、きっと今頃、この迷宮の主は、鳳たちを閉じ込めてニヤニヤしていることだろう。そう思うと段々腹が立ってきた。

 

「ルーシー!」

「はい!」

「この指令のことだけど」

「あーうん、流石にこれはお姉さんも、ちょっとと言うか、かなりと言うか、及び腰と言いますか……出来れば最初は、もう少しムードとかあった方がいいかなあ? なんて思うわけですよ」

「いや、こんなの従うわけないだろう。さっさとここから出る方法を探そうぜ」

「え? しなくてもいいの……?」

 

 ルーシーは肩透かしにあったみたいにポカンとした表情をしている。鳳はなんでそんな顔してるんだよ、襲っちゃうぞと思いつつも、

 

「当たり前だろう。さっきから指令に従ってれば先に進めるから受け入れてたけど、物には限度ってもんがある。それに、看板の文字が変わることから、迷宮の主が俺たちのことを見張ってるのは明白だ。俺は誰かの前で致すことなんて出来ないぞ」

「確かに……誰も見てないならともかく、それは嫌だね」

 

 鳳は、誰も見てないなら良いの? と聞きたいのをぐっと堪えながら、

 

「だろう? この迷宮の主は、俺たちの慌てる姿を面白がって、からかってるだけなんだ。きっとどこかに抜け道があるから探そうぜ」

「うーん……そうかなあ? 見たところ、部屋も狭いし、そんなのあると思えないけど……でも、そうだね。何事も、まずはやってみないとわからないよね。わかったよ」

 

 二人は頷きあうと、改めて部屋の中を片っ端から調べ始めた。

 

 鳳は、まずは入り口があったはずの壁を重点的に調べることにした。中に入った瞬間に扉は消えてしまったが、もしかしたらこの先に、ちゃんと前の部屋がまだ残ってるかも知れない。

 

 迷宮の内部は空間がおかしくなってるようだから、正直望み薄だったが、それでも鳳はどこか壁が薄くなっていないか? と、ヤモリのようにへばりついてじっくりと探索した。

 

「ねえねえ、鳳くんちょっと来て? 凄いもの見つけた!」

 

 すると背後からそんなルーシーの弾んだ声が聞こえた。鳳は先を越されたかと振り返ると、彼女の元へと駆け寄った。何を見つけたんだろう? と彼女のことを覗き込んだら、ルーシーは嬉々とした表情で冷蔵庫を開けながら、

 

「見てよ、この箱! 中に入ってる物が信じられないくらいキンキンに冷えてるんだよ!」

「そりゃ冷蔵庫ですからねっ!!」

 

 鳳がすかさず突っ込むと、彼女はキョトンとした表情をしながら、冷蔵庫とはなんぞやと首を傾げた。鳳は、そう言えばこの世界の科学は遅れてるんだと言うことを思い出し、頭痛を堪えながら、

 

「えーっと……それは俺たちのいた世界じゃ珍しくない物で、普通のご家庭に必ずあるものなんだ。俺の部屋にも小さいのがあったし」

「え!? そうなんだ……鳳くんたちの世界って凄いね、こんないくらでも食料が出てくる魔法の箱が、当たり前のようにあるなんて」

「いや、魔法の箱じゃないからいくらでも食料が出てくるなんてことは……出てくるの?」

 

 鳳は、何だかルーシーが聞き捨てならないことを口走ったような気がして、その点を問いただしてみた。すると彼女は目をパチクリした後、冷蔵庫の中に入っていたジュースの瓶を一本取り出し、それを鳳に確認させてから冷蔵庫の扉を一旦閉じ、そして再び、冷蔵庫の扉をおもむろに開けた。

 

「……補充されてる」

「うん。さっき中の物をこっそり食べたんだけど、凄く美味しかったからもう一個食べちゃえと思って気がついたんだ」

 

 彼女はそう言いながら、カウチの横のローテーブルに乗ったカップケーキの残骸を指差した。

 

「人が必死になって出口を探している時に、何してやがんだこの女は」

「てへっ」

 

 鳳がイラッとして睨みを利かすと、ルーシーはウインクしながら自分の頭をコツンと叩いた。鳳は呆れながらも……ともあれ、これで餓死しなくて済むと、ほんの少し胸をなでおろした。もしもこのまま出口が見つからず、何日間もここで足止めを食ったとしても、食べ物の心配はしなくて済みそうだ。

 

 鳳は、今度はもうサボるんじゃないぞと言い含めてから、また部屋の中を調べ始めた。壁の方はさっき散々調べたが不審な点は見つからなかった。となると、次に気になるのは天井の鏡だ。もしかしたらあれがマジックミラーになっていて、その裏に何かがあるかも知れない。

 

 彼はそう思い、ベッドの上に乗って、フラフラしながら天井の鏡を調べていると、

 

「鳳くん、鳳くん! 大変! 戻んなくなっちゃった、ちょっと来てくれるかな?」

「今度はなんだよ……」

 

 あとちょっとで天井に手が届きそうだったのに……鳳がため息を吐いて、また彼女のところへやってくると、今度はルーシーが自販機の前で大量のコンドームの箱に埋もれていた。

 

「どうしたらこんなことになるんだよ……つーか、何ダースあるんだ?」

 

 一箱12個入りだとして、これだけあったら何年くらいもつだろうか。いや、その前に体がもつかな? そんなことを考えていたら、使用中を想像してしまって、下半身がオッキして来そうになったが、鳳は鉄のような平常心で観無量寿経を唱えてどうにか抑えた。

 

 ルーシーは床に散らばったコンドームの箱を一か所に寄せながら、

 

「わかんない。この大きな箱ってなんだろう? って思って見てたら、正面にボタンが付いてたから押してみたんだ。そしたら中身がバラバラ飛び出してきて……」

「これ、自販機だと思ってたけど、無料だったんだ」

「それで止めようとして連打してたらこんなになっちゃったんだよ。ねえ、こんなにいっぱいの箱、どこに入ってたんだろうねえ?」

「知らんけど……もはや何でもありだな。取り敢えず、床がコンドームまみれじゃ落ち着かない。手伝ってやるから片付けようぜ」

 

 鳳はその場にしゃがむと床に散らばっていた箱を拾い始めた。ルーシーも正面にしゃがんだからちらりと見たが、パンツ丸出しなんてありがちなことにはなっていなかった。何を期待していたんだ?

 

 散らばってしまった箱はうんざりするほど大量だったが、嵩張るからか見た目ほど数量は無かったようで、二人で作業をしたら意外とすぐに片付いた。うず高く積まれたコンドームタワーは明らかに自販機よりも巨大だったが、本当にこれはどこから現れたのだろうか。

 

 それにしても……異世界まで来て、なんで自分はラブホで女の子とコンドームの箱を積み上げているんだ? こんな常識はずれの不思議空間で、出口を見つけるなんて、やっぱり無謀なんじゃないか……鳳がそんな風に弱気になってると、ルーシーが最後の一箱をタワーに積みながら、

 

「ところで、これってなんなの? 0.01ってなんの数字?」

「え? ……薄さだと思うけど」

「薄さ?」

「コンドーム知らないの?」

「うん。コンドームって何?」

 

 なんだろう? 哲学だろうか……? 鳳は一瞬、思考の迷宮に入りかけたが、すぐにここが地球ではなく、ファンタジー異世界であることを思い出し、

 

「ああ、そうか……考えみりゃこの世界ってゴム製品すらなかったんだよな。そりゃ、コンドームなんて見たことないか」

「うん。これってなんなの?」

「何って、避妊具だけど……」

「避妊具?」

 

 それも知らないのか。まあ、異世界に相模ゴム工業はないだろうから、当然と言っちゃ当然の反応かも知れない。

 

 鳳が、自分が実演するわけにもいかないしどうしたものかと悩んでいると……ふと見れば、テレビの前のカウチに極太バイブが落ちているのに気がついて、彼はおもむろにそれを取り上げた。そして箱からコンドームを取り出すと、ピッとフィルムを切って中からゴムを取り出し、それをバイブに取り付けようとして、

 

「って、俺は何をやってんだっ!!」

 

 ゴムごとバイブを壁に叩きつけると、それはパリンと砕け散った。自分でやっておきながら、ちょっと股間がヒュンとなった。鳳はハアハアと肩で息をしながら、じろりとルーシーを睨みつけ、

 

「あのさ、色々気になるのは分かるんだけど、今は遊んでないで、ここから出ることを優先しようぜ?」

「ごめん。でも遊んでるつもりはないんだよ。ちゃんと手がかりを探してるつもりなんだけど……」

「見たことのない物だらけで、どれから手を付けていいかわからない感じか……しゃーない。それじゃあ、ルーシーは暫くそこのカウチで寛いでてくれ」

「いいの?」

「ああ。冷蔵庫の中のお菓子でも食べて、のんびりしててくれよ。作業を中断されるより、そっちの方がマシだからな」

 

 ともすると戦力外通告のような冷たいセリフだったが、彼女は意に介さず、わーい! と諸手を挙げて冷蔵庫に向かって走っていった。鳳は彼女がカウチで大人しくしているのを確認してから、今度こそ手がかりを見つけるつもりで部屋の中央にある回転ベッドのところへ戻った。

 

 さて……今、一番怪しいと思っているのはあの天井の鏡なのだが、あとちょっとで手が届きそうで届かない高さにあって、そんな調子では仮に届いても何か発見するのは期待できそうになかった。

 

 何か台にでも乗ればもっと楽に手が届きそうだが、回転ベッドの真上という位置が悪く、足場を置くのは難しかった。いっそ下から何かをぶつけて割ってしまえば話は早いが、出来ればそれは最後の手段にしたかった。

 

 後はレビテーションの魔法を使えれば良かったのだが、この魔法は空気の圧力を利用しているわけだから、こんな室内でやろうものならサガミオリジナルの嵐が吹き荒れることは目に見えていた。

 

 まいったな……鳳はそう思いながら、天井を見上げるつもりでベッドに寝転がった。

 

 考えても見れば、あれはマジックミラーだと思いこんでいるが、元々そんな保証はない。本当にただの鏡かも知れないのだから、他の場所を探した方が賢明かも知れない。しかし、他の場所ってどこだろう……そう考えながら寝返りを打った時、彼はそれに気づいた。

 

 回転ベッドの枕元には、何やらたくさんのボタンが取り付けられていた。そう言えば、ホテルの照明スイッチなんかは、ベッドから操作できるように、こうして一か所にまとめられているものだ。もしかして、このうちの一つが外に繋がる出口と連動しているのでは……?

 

 彼はそう思い、怪しそうなスイッチをポチッと押した。すかさず回転ベッドがぐるぐると回り始めた。どうやらハズレのようである。彼がボタンをもう一度押すと、ベッドは音もなく止まった。

 

 何だかどっと疲れたような気がするが、ともあれこのやり方で正しいようだ。ここにあるボタンを片っ端から押してみれば、何か新しい展望が開けるかも知れない。

 

 彼はそう期待して、隣のボタンをポチッと押した。

 

『アッアッアッアッアッ! アアァーッ! イクイクイッちゃう! 気持ちいい! アー! アヘアヘアヒンッ!!』

 

 唐突に、部屋いっぱいに轟きはじめた喘ぎ声に度肝を抜かれ、鳳はオナニーの最中、親にドアをノックされた時の思春期男子よろしく、マッハでたった今押したはずのボタンを押した。ところが彼がいくらボタンを連打しても、喘ぎ声は止まらなかった。

 

 真っ青になりながら声のする方を見ると、さっきまで『絶対にセックスしないと出られない部屋』と表示されていたモニターで、アダルトビデオが上映されていた。その下のテレビ台には四角いデッキが置かれており、よく見れば赤い電源ランプが点灯している。彼はそれに当たりをつけると、ズザザーッ……とスライディングしながらテレビ台に近づいて、乱暴にデッキの電源を落とした。

 

 その瞬間、喘ぎ声が止まって室内に静寂が戻ってきた。戻ってきたついでに、モニターの『絶対にセックスしないと出られない部屋』も戻ってきた。思わず画面を殴りつけたくなる衝動を抑えつつ、鳳が額から流れ落ちる大量の冷や汗を拭いながら振り返ると、カウチの上で足首をクロスさせ体育座りをしていたルーシーが、ポテチをくわえながら、目をまん丸くしていた。彼女はパリッパリッと音を立ててポテチを口に押し込むと、

 

「い……今の、なに?」

「すまん。ちょっと操作をミスった。なんかのトラップが発動したみたいだ」

「……男の人と女の人が、裸で抱き合ってたように見えたけど」

「そういうビデオなんだよ!」

「ビデオ……?」

「あーもーあーもー!」

 

 鳳は頭を掻きむしった。作業の妨げになるから大人しくしててくれと言っておきながら、自分のミスで早速これだ。取り敢えず、AVのことなんて説明出来ないから、彼女の冷たい視線に耐えつつ黙っているしかないが……

 

 それにしても、どうしてこんなもんがこの世界にあるんだよと、その理不尽さに辟易している時、彼は気づいた。

 

 そう言えば……さっきのビデオ、見たことがあるぞ? 確か、まだ地球にいたころ、インターネットのエロサイトで見つけて、隠れてコソコソ見ていたやつだ。そんなものが出てくると言うことは、やはりこの迷宮の主が鳳の記憶を覗いて、色々再現しているのだろうか……?

 

 風呂を作って裸を意識させ、ラブホの部屋を再現してコンドームをばら撒き、AVを見させて理性を奪う。迷宮の主は、そうまでして鳳にセックスをさせたいのだろうか? しかし、若かりし頃の彼ならノーマルなセックスでも十分勃起出来たから実用性に堪えたが、今となってはあんな程度では下半身は一ミリも動揺すまい。

 

 残念だったな、アマデウス……鳳はニヒルな笑みを浮かべながら、愚かな迷宮の主をあざ笑ったが……

 

「あ……あれ? あれれ?」

 

 ところがその時、彼の股間に何かズキュンとした衝撃が走って、途端にズボンの前が突っ張って身動きが取れなくなった。まさかと思い、股間を見れば、そこには立派なテントが立っていた。しまった……下手にAVのことなんて意識したせいで、寝た子を起こしてしまったようだ。やばいと思って大乗起信論を諳んじてみたが時既に遅く、ポケットのモンスターはムクムクと成長し続けている。

 

 このままじゃルーシーにバレてしまう。彼は何とか衝動を抑えようとしたが、

 

「どうしたの……?」

 

 その時、鳳の様子がおかしいことに気づいたルーシーが、きょとんとした顔をしながら近づいてきた。さっき、馬鹿みたいに振りまいていた香水が、まるで暴力的なフェロモンみたいに彼の鼻孔を突き刺した。それが一瞬、彼の判断力を奪ったのだろう。まずいと思った時にはもう、彼女は彼のズボンの前が突っ張っている事に気づいてしまっていた。

 

「えーっと……その……」

「なにも言うな!」

 

 鳳は取り敢えずちんポジを直した。そしてその姿を見て、気まずそうにしているルーシーに背を向けたまま、こうなっては仕方ないと開き直って、必死に言い訳するのであった。

 

「いや、これはその、仕方なかったんだよ! このところご無沙汰だったし、魔王化の影響もあるし、こんなとこで女の子と二人っきりだし、さっきのあれのせいでスイッチが入っちゃたみたいなんだ」

「そ、そうなんだ……」

「でも大丈夫! こうなってもまだ何とか理性は保ってられるから……迂闊だったなあ。そう言えば、ここに来るまで、思ったより戦闘が少なかったから、魔王化の影響を完全には緩和しきれてなかったようなんだ。そう、魔王化のせいなんだよ。魔王化さえなければ、こんなことにはならなかったのに……極めて遺憾だ」

 

 鳳はそんな言い訳を口走りながら、なんとか動揺を収めようとした。しかし、彼の言う通り本当に魔王化の影響があるのか、股間のそれは収まるどころか、よりいっそう元気になっていく始末だった。

 

 せめてこの場にいるのが自分ひとりだったらまだしも、それなりに意識していた女の子と一緒だというのが、また最悪だった。彼が懸命に意識しまいとしても、見られてしまったという事実が、どうしようもなく彼女の存在を意識させるのだ。

 

 まいったなあ……こんな格好悪いとこ、出来れば知り合いには……ましてやルーシーには絶対に見られたくなかった。今はビックリして黙っているみたいだけど、落ち着いたら後でみんなに面白おかしく言いふらしちゃうんだろうなあ……などと、鳳が彼女の人格を全否定している時だった。

 

「すごっ……おっきいね」

 

 気がつけば息がかかるくらいすぐ近くにルーシーの顔があって、彼女は肩越しに鳳のアレを覗き込んでいた。彼女の吐息が鼻をくすぐり、その瞬間、必死に抑えようとしてた息子が、また一回りくらい大きく成長したような気がした。

 

「男の人って、そんなになっちゃうんだ……そんなの本当に入るのかな?」

「ちょ! 今そんな事言われたら!? アッー! ……あいたたたた!!」

「え? うそ!? 痛いのそれ……?」

「いや、普段はそんなことないんだけど、急に話しかけるから……ってか、なに見てんだよ!?」

「あ、ごめん……」

 

 鳳は必死になって股間の一物をズボンに押し込めた。そのせいで変な方向に曲がってしまって激痛が走った。お陰でぶっ飛びそうになっていた理性が戻ってきたが、代わりに何か尊厳のようなものが失われた気がした。

 

 子供みたいに好奇心旺盛なのは彼女の長所かも知れないが、今は本気で殺意が芽生えるくらい腹立たしかった。こんな時に不用意になんつーことを口走るんだあの女……と、鳳が涙目になりながら懸命に股間の暴れん坊を抑えようとしていると……そんな彼の努力を台無しにするようなセリフが、また彼女の口から飛び出してきた。

 

「あのさあ……鳳くん?」

「なに!? 今ちょっと余裕ないんだけど」

「さっき、ソファに座りながら考えてたんだけど……」

「だから、なに?」

「……してもいいよ?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、頭のどこかで血管が一本プツッと切れるような音がした。脳内麻薬がドバドバと溢れ出して多幸感に包まれる……驚いて振り返ると、そこには真っ赤な顔をしたルーシーがもじもじしながら立っていた。

 



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しょうがないなあ~

「……してもいいよ?」

 

 その言葉は脳みその奥の方にガツンとした衝撃を打ち込んできた。聞いた瞬間、頭の中は桃色に染まり、股間はこれまで自分でも経験したことがないくらい膨れ上がっていた。体の関節という関節が、一瞬にして錆びついてしまったかのようにギクシャクして、心臓がバクバク鳴っていた。

 

 さっきから、エロいことばかり考えていたから、聞き間違えたんじゃないかと思ったが、振り返って見た彼女の真っ赤な顔がそれを否定していた。

 

「えっとさ? 今まで看板の指示に従ってきたら先に進めたのはホントなんだし、この部屋だって嘘は吐いてないと思うんだ。最初から、無理に抜け道なんて探さなくても、鳳くんもその方がスッキリするだろうし、私のことは気にしなくていいから……」

 

 ああ、本気で本気なんだ……そう思った瞬間、鳳は理性がぶっ飛びそうになったが、それと同時に彼女の羞恥に耐える表情が彼を少し冷静にさせた。

 

 落ち着け……もしかしたら、こういうこともありうるとは思っていたのだ。鳳が魔王化の影響に晒されていることを、彼女は最初から知っていたのだ。知っていて、この旅に同行してきたのだから、彼が理性を失った時、彼女は身を投げ出すだろうと予想もしていた。

 

 だからこそ懸命に我慢してきたというのに、彼女にこんなことを言わせてどうするのだ……鳳は大きく深呼吸すると、心臓の鼓動を確かめるように、胸に手を当てながら言った。

 

「あー……ごめん。心配しないでくれ。男がこうなっちゃうのって、ある意味仕方ない面もあるんだよ。多分、初めて見てびっくりしてるんだと思うけど、見た目ほど大したことないから。あれだ。こんなの、一発出してスッキリしちゃえばどうってことないんだから」

「う、うん。それはわかってるつもりだよ。私のお母さんも、その……そういうことしていたから」

「あー……うん。そうだったっけ。ごめん」

「ううん。全然気にしてないし……っていうか、多分、もう気づいていると思うけど、私は最初からそのつもりでついてきたんだよ」

 

 鳳はポリポリとほっぺたを指で引っ掻いた。それを返事として受け取ったルーシーは、相変わらず真っ赤な顔をしてそっぽを向きながら、

 

「実は、スカーサハ先生にも言われてるんだ。もしも鳳くんが魔王化に負けそうになったら、迷わず体を差し出しなさいって。最初はどうしてそんなこと言うんだろうって思ってたけど、今は私もそうしたほうが良いって思ってる。ううん、そうしたいって思ってるし、今がその時だって思ってる」

「うん、その気持ちは有り難いんだけど……そんな景品みたいな理由でルーシーのことを抱くことは出来ないよ」

「どうして?」

「仲間だからね」

 

 鳳がそうきっぱりと言うと、彼女は口をパクパクさせてなにか言いたげな表情をしてから、結局なにも言わなかった。彼は申し訳ないと頭をかきむしりながら、

 

「だからそうならないように、我慢してきたんだけど……ちょっと見通しが甘かったようだ。本当に、こんなの暫くしたら収まるんだから、もうこの話は無しにしよう。俺のせいでこんなこと言わせて、ごめんね?」

 

 ルーシーは少し険のある声で、

 

「鳳くん……そう言うのは紳士的って言うんじゃなくて、臆病なんだと思うよ」

 

 鳳はそんな彼女に向かって、唇の端だけで笑みを作り、両手を合わせながら、

 

「悪かったって。チキンなのは重々承知してますから」

「はぁ~……鳳くんは大げさに考えすぎだと思うよ。結局、私だっていつかは誰かとセックスするんだろうし、それに全く興味がないわけじゃないんだ。だったら、最初は鳳くんでもいいかなって、そう……思ったんだよ。役得だな……くらいに」

「あー、うん。俺もそう思えたら良かったんだけど」

「もう童貞ってわけでもないんでしょ? 3人も奥さんが居て、そんなに気にすることなのかなあ?」

「うーん……」

 

 鳳は、あれ? なんで責められてるのかな? と、ちょっと理不尽に感じつつも、とにかくこういう時はひたすら謝っておけとばかりに、

 

「だからごめんって。気にするっていうか、ちょっと怖いんだ。ほら、ルーシーとミーティアさんって友達でしょう? なのに、彼女の知らないところで、その友達とこっそりやっちゃうのは、やっぱ仁義に反するっていうか、それをやったら最低かなと……」

「あー……うん。まあ……最低だね。でも私、ミーさんには言わないよ?」

「うん。分かってる。俺だって、もちろん言うつもりはない」

「だったら」

「そうじゃなくって、俺、まだミーティアさんとキスもしたことないから……」

「……は?」

 

 それまで険しかったルーシーの顔が、一瞬にして素に戻った。鳳は完全に呆れられてるなと思いながらも、

 

「いや、ほら、ミーティアさんのこと好きだし、多分、彼女も俺のこと好きなんだろうなと思ってたけど、実際付き合ってたわけじゃないじゃん? 彼女と結婚するって決まった時も、俺は魔王化でアホなことになってたから、彼女とそう言う事するようなタイミングって、今まで全然なかったんだよ」

「はあ……」

「それなのに、その友達と先にヤッちゃうのはどうなのかと……それに、アリスが許してくれた時に誓ったんだ。もう、こんな力には負けないって」

「……そう」

 

 ルーシーは、うーんと唸り声を上げて眉間に皺を寄せていたが、やがて諦めたようにはぁ~……っとため息を吐くと、またいつもの愛嬌のある表情に戻り、

 

「それなら仕方ないかあ……でも、どうするの? さっきからこの部屋を調べているけど、出口はやっぱり見つかりそうもないし……多分、あの指示に従わないと、ここから出ることは出来ないと思うよ?」

「ああ、それなら始めっから、出るだけなら何も心配していなかったんだよ」

「え……?」

「タウンポータル!」

 

 鳳がその呪文を口にすると、部屋の片隅に光の柱が出現した。今までに幾度となく通り抜けた経験がある、タウンポータルの魔法である。この空間転移魔法を使えばあら不思議、何千キロも離れた街から街まで、ひとっ飛びなのだ。

 

 ルーシーはそれを見た瞬間、唖然として固まり、続いて、

 

「あー……あー……あー……あー……あー……」

 

 と、あーを数十回繰り返してから、がっくりと項垂れ、

 

「あー……そうだねえ。いざとなったら、これがあったかあ……いやあ、お姉さん、ちょっと勇み足だったかな」

「俺も先に言っとけば良かったんだけど」

「本当だよ! 知ってたらあんな恥ずかしいこと、絶対言わなかったよ!? あー、思い出したらなんか顔から火が出そうになってきた!」

「すんません。俺も出来ればこれは使いたくなかったから、意識的に避けてたのかな」

「なんで?」

「そりゃあ、ポータルを使えば街には戻れるけど、こっちには戻ってこれないから。一度来たから場所は分かるけど、また一ヶ月も掛けて帰ってくるのは大変だからな」

「あー……そっか。じゃあ……」

 

 ルーシーはまた何か言いかけたが、すぐに有り得ないと言った感じに首を振ると、

 

「あー、まあ、でも、一度報告も兼ねて戻ったほうがいいよね? そろそろ、ミーさんたちも心配している頃だろうし」

「うん、まあ、仕方ないよな。ここから出れる方法も無さそうだし」

「そうだね。それじゃ、帰ろっか……」

 

 そう言ってぷいっと顔をそむけた彼女の顔はもう赤くなかったが、代わりにその目は兎みたいに真っ赤だった。鳳は、なんでそんな顔をするんだろうと思ったが、自分にはそんなこと気にする資格はないと思って、黙っていた。

 

 ルーシーはポータルへまっすぐ向かっている。鳳もその後に続く。

 

 ポータルを抜けたらその先はフェニックスの街に繋がっていて、そこにみんなが待っているだろう。魔王化を阻止するために行ってくると書き置きした手前、まだ何も解決していないのに帰るのは格好悪いが、この迷宮を見つけただけでも、今回の遠征は成功したと言ってもいいだろう。

 

 街ではきっと、勝手なことをした鳳を、ミーティアが怒っていることだろう。物凄い説教をされるだろうが、甘んじて受け、それから今までにあった出来事を伝えて協力を願おう。

 

 この迷宮を踏破したら、きっと魔王化を阻止するための何かヒントがあると思うのだ。それを見つけたいと言えば、きっとミーティアなら協力してくれるはずだ。そのためにセックスをしなきゃならないわけだが……こんなこと彼女にしかお願いできないし、それにハネムーンも兼ねていると言えば、きっと受け入れてくれるだろう。断じて助平心ではない……

 

 彼はそんなことを考えているうちに、ミーティアに逢いたくてどうしようもなくなってきた。彼女だけでなく、クレアとアリス、他のみんなにも会いたいと思い、彼は早くポータルを潜ろうとして足を早めた。だが、その時、彼はふと思った。

 

 ……でも、そしたらルーシーはどうなるんだ?

 

 鳳は、何だか今、自分がものすごく大切なものを失おうとしているような気がして、殆ど反射的に前を行くルーシーの手を取った。

 

 たった今、ポータルを潜ろうとしていたルーシーは、突然後ろにガクンと引っ張られて、びっくりして振り返った。鳳も、自分がなんでこんなことをしたのか分からなくて、びっくりしていた。

 

 グイと引っ張った拍子にうしろによろけた彼女の背中が胸に当たって、社交ダンスでもしているような密着した姿勢になった。彼女はそのまま首だけを後ろに向けて、

 

「え? なに?」

 

 キョトンとする彼女の瞳に、鳳はバツが悪くなって天井を見上げた。顎のあたりに感じる視線でスースーする。

 

 このポータルを抜けて帰るのは良いだろう。だが、帰ってすぐまた別の女を連れてとんぼ返りするなんてしたら、ルーシーは立つ瀬がないんじゃないか。連れてくるのがどうでもいいような商売女だったらまだ良い。だが相手が、彼女が最も信頼しているミーティアだというのは、相当まずいんじゃなかろうか。

 

 ガルガンチュアの村から旅に出た当初から、ルーシーは多分、鳳が魔王化の影響でおかしくなった時のための、保険のつもりでいるんだろうと言うことは、なんとなく気づいていた。だからこそ、そんなことにならないように、彼は細心の注意を払ってここまで来たのだ。

 

 そもそも、それなりに好意を持っている女の子と一ヶ月も一緒に行動していたら、意識しないのはどだい無理な話だ。ここに来るまでに、彼女が河原で水浴びをしていたり、鳳のすぐ側で無防備に眠ってる姿を見て、何も思わないわけはなかった。それでも、大事な仲間であるからこそ、鉄の意志で自分を律して、こうして逃げ道まで用意して、彼女に手を出さないようにしていたわけだが……

 

 確かにそれで鳳の気は晴れるかも知れないが、彼女の気持ちはどうなってしまうんだろうか?

 

 してもいいよと言った時、彼女は相当勇気が要っただろう。いくら『絶対にセックスしないと出られない部屋』なんて免罪符があったところで、口に出すのはかなりの覚悟が必要だ。鳳は、逃げ道が有ることを初めから知っていたから堪えられたのだ。だが、彼女は知らなかったんだから、本気でここに閉じ込められたと思っていたはずだ。そしてここから脱するために、自分を犠牲にしようとしてくれたのだ。

 

 最低でも、その気持ちには答えなくてはならないんじゃないのか……?

 

 いや、持って回った言い方はやめよう。

 

 アリスを襲ってしまった時、自分はもう二度とこんなことは起こすまいと誓ったのだ。それは本気だ。もう形振り構って居られないのだ。なのに、まだ格好つけようとして、おまえは何がしたいんだ。

 

 鳳は社交ダンスみたいに彼女の体をくるりと回転させると、その肩をむんずと掴んで、血走った目で勢いよく言った。

 

「ルーシー……実を言うと、滅茶苦茶セックスしたいんだ!」

「……は?」

「本当は、してもいいって言われた時、そのまま押し倒したかったんだ! 余裕ぶってるけど、ちんこなんてもうギンギンだし、一こすりしただけで出ちゃいそうだし、滅茶苦茶ルーシーに欲情していたんだ!」

「えーっと……」

「実はお風呂入ってる時からセックスのことしか考えられなかったんだ! ルーシーの匂いと香水の匂いが渾然一体となって襲ってきた時には俺は既に脳をやられていたし、フェニックスに帰ろうって言った時はホッとするよりも寧ろ残念で仕方なかったし、帰ったらオナニーすることしか考えてなかったんだ!」

「ちょっ!? 鳳くん、何言ってんの?」

 

 鳳は彼女には返事せずに、ガバっとその場で土下座すると、

 

「無理を承知でお願いします! 本当はすぐ街に帰れるんだけど、それでも俺とセックスしてください! ぶっちゃけると、ここで帰ったら一ヶ月の苦労が台無しだし、また一ヶ月かけて戻って来るのも大変だし、出来ればこのまま先に進みたいんだ。魔王化を阻止するためなら、俺はなんだってすると決めたんだ。そのために君にセックスしてくれなんて、本当に人間として最低だと思うんだけど……最低ついでに言わせてもらうと、俺はルーシーのことも好きなんだ! 多分、ミーティアさんと同じくらいに!」

 

 鳳は思ってることを全部ぶちまけると、摩擦で頭が着火するんじゃないかと言うくらいに額を床に擦り付けた。ひりひりする額の痛みに耐えながらも、下半身は尚も勃起していた。多分、今断られてしまったら、未知なる性癖が拓けてしまいそうなくらいだった。

 

 しかしまだ、どうにかノーマルに踏みとどまっていられそうだ。

 

「しょうがないなあ~……」

 

 その声に恐る恐る顔を上げると、ルーシーがまた真っ赤な顔をしながら目の前にしゃがんでいた。そんな彼女の膝小僧と膝小僧の間に見える暗がりを見た瞬間、彼の理性は吹き飛んだ。

 

 鳳は無防備な膝小僧の彼女に飛びかかると、そのまま力強く彼女を肩に担ぎ上げて、ベッドに直行した。

 



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ねえよ! 馬鹿っ!

「ああああぁぁぁぁ……人間に生まれてきてすみません! 人間に生まれてきてすみません!」

 

 回転ベッドの上で一匹の獣が頭を抱えて悶え苦しんでいた。ベッドのシーツはもうぐちゃぐちゃで、その真ん中には、真っ赤な印がついている。誰がどう見ても、何をヤッていたかは一目瞭然だった。

 

 床には脱ぎ散らかした衣服と使用済みコンドームが散乱しており、途中、腹を満たすために冷蔵庫からむしり取るように出してきた食べかけのパンと、ペットボトルが枕元に置かれていた。

 

 そしてそんな情けない男の横では、今、パレオみたいに下半身だけシーツを巻きつけたルーシーが寝そべっており、ニヤニヤとしたいたずらっぽい笑みを浮かべ、ポッキーを二本指で挟みながら、

 

「ふ~……兄ちゃん、なかなか良い体してたぜ。こいつが今回のお手当だぜ」

「こんなはした金……ひどいわっ! 私の体だけが目当てだったのね!?」

「おまえから体を取ったら何が残るのさ。ほれほれー」

「あっ! やめてっ! そこホントに弱いの……って、こら。わっはっは!」

 

 鳳は脇腹をこしょこしょされて悶絶した。ルーシーはくすくす笑いながら食べかけのポッキーの箱を突き出してきた。もはや前を隠すつもりなんてないらしい。同年代の女の子の乳首がこんな目の前にあるなんて、何だか途轍もなく凄かった。

 

 そんなことを考えていたら、また息子がおっきしそうだったから、出来るだけ平常心を保ちつつ、鳳はポッキーの箱を受け取った。すると彼女は、一本ちょうだいと言わんばかりにあ~んと口を開けて催促した。お手当じゃなかったのかよと思いつつ、それを取り出して彼女の口に差し出したら、ルーシーは嬉しそうにぱくついてから、まるで猫みたいに鳳の脇腹にすりすりと頭を押し付けた。その仕草はとても可愛い。

 

「えー? 鳳くんの方が可愛かったと思うよ? ここから鏡で見てたけど、鳳くん、私に覆いかぶさって、もうホント必死だったよね。私のこと征服しようって感じで、これでもかってくらい体全身使って、腰の動きとか、お尻の筋肉とかすごいから、ああ、男の子なんだなあって見てて思ったよ」

「やめてやめて! なんで冷静に観察してんの、そんなこと!? なんなの君……ついさっきまで処女だったよね? どうしてそんなエロいの?」

「ふ~……そんなのはもう遠い昔の話さ」

 

 そんな具合にベッドの上でイチャイチャしつつも、二人ともとっくに気づいていた。第一ラウンドが終わった辺りから、すでに部屋には隣に続く扉が現れていた。とは言え、一度火がついた二人が止まれるわけもなく、鳳は引ったくるようにコンドームタワーを突き崩すと、これを全部使ってやるくらいの勢いで彼女の体に溺れた。もしかして、迷宮の主に見られてるんじゃないかと思ってはいたが、そんなのもうどうでも良かった。二人とも、ただ獣みたいにお互いの体を求めあう以外何も考えられなかった。

 

 とは言え、いつまでもそんなこと続けてられるわけもなく、やがて二人は満足するように立ち上がると、どちらからともなく床に転がっていた服を拾い始めた。

 

 さっき何もかもを見せあっていたはずなのに、何故か服を着替えるという行為が恥ずかしくて、なんとなくお互いにそっぽを向き合って、二人はいそいそと服を着直した。着たきりスズメの服はゴワゴワしていて、何だか変な感じだと思っていると、背後で着替えているルーシーがボソッと言った。

 

「ねえ、鳳くん?」

「うん?」

「私のこと好きって言ってたけど……あれ、本気?」

 

 多分、セックスしたいと拝み倒していた時のことだろう。鳳は、あれは最悪だったなと思いつつも、もはや包み隠すつもりはないと言わんばかりに、

 

「ああ。本当のこと言うと、初めてあの街で二人に出会った頃、俺、ミーティアさんよりルーシーの方が気になってたんだよ」

「え! そうだったの……?」

「うん……でも、マスターに、手を出したら彼女のファンにひどい目に遭うぞって脅されて、気にしないようにしてたんだ」

 

 そうこうしている内にミーティアと仲良くなっていって、意外とおちゃめな彼女に惹かれていったわけだが……鳳がミーティアのことを思い出していると、背後でルーシーがため息を吐いて、

 

「はぁ~……帰ったらマスターには説教が必要だねえ」

「……ところで帰ったら、本当にどうしよっか?」

「何が?」

 

 鳳はポリポリと頭をかきながら、

 

「こんなこと俺から言い出すのはどうかと思うんだけど……その……帰ったらみんなに言って、ルーシーとも結婚した方が良いのかな?」

 

 するとルーシーは、突然、背中を向けていた鳳の肩をグイッと引っ張って、

 

「絶対にやめてね!」

 

 無理矢理振り向かされた鳳の目に、こわばった表情のルーシーの顔が飛び込んできた。鳳は、ああ、やっぱりひどいこと言ってるんだなと反省しながら、

 

「そう……だよな。既に3人も奥さんがいるような男が言うこっちゃないよな。ごめん! 忘れてくれ」

「違うって! 鳳くんと結婚したくないわけじゃないよ? そうじゃなくって、ミーさんに隠れてこんなことしたの、彼女には知られたくないから」

「あー……そういうもんか」

「きっと言ったら、ミーさん許してくれると思うんだ。なんやかんや、アリスちゃんのこともクレアさんのことも、あの人認めているわけだし。今回は事情もあったわけだし。でも、それで彼女が傷つかないってわけじゃないから、知らなくてもいいことは知らなくてもいいじゃない」

 

 なるほど、言われてみるとたしかにそうかも知れない。だが、そうやって割り切れてしまえるほど、ルーシーはドライなんだろうか。

 

「実際、そうかも知れないよ」

「……そうなの?」

「うん。例えば、私、鳳くんのこと好きだよ? 今回の旅だって、もし君に何か起きたら、自分の身を差し出すつもりで同行したんだ。それくらいには大好き。でも、ミーさんのことも好き。どっちが好きかって聞かれても、選べないくらい。だから、私も選ばない」

「……どういうこと?」

「鳳くんは、私もミーさんも、どっちも食べちゃうんでしょう?」

 

 鳳はウッと息をつまらせた。彼女の言う通り、優柔不断にどっちも選べず、今回は彼女を選んでしまった。もし本当にミーティアだけが好きなら、あの時迷うはずは無かったのだ。もしかして、本心ではこのことを彼女に話して、許して貰いたがっているからこんなことを言い出してしまったのだろうか。

 

「さっきも言ったけど、そんな深刻に考えなくていいんだと思うよ。私、今回の旅で鳳くんとしちゃったらラッキーくらいのつもりでついて来たんだから」

「……本当に、そうなのか?」

「ホントホント。だから結婚したいだなんて思ってないんだ。でも、そうだなあ……じゃあ、私、鳳くんの愛人にしてよ」

「……は?」

 

 いきなり何を言い出すんだろう、この女の子は……鳳がドン引きしているにも関わらず、ルーシーはいいことを思いついたとばかりに、

 

「私は鳳くんとは一生結婚しないけど、たまに会ったら奥さんに隠れて、一緒にお酒を飲んだり、一緒のお風呂に入ったり、ベッドの中でおしゃべりしたりするんだ。必要以上にお互いの生活に踏み込まずに、付かず離れずの関係でいたい。そういうのに、私はなりたいかな」

「……そう言う関係を否定するつもりはないけど、本当にそれでいいの?」

 

 すると彼女はさっぱりとした表情で、

 

「だってさ、もし私が鳳くんの奥さんになって家庭に入っちゃったら、きっとミーさんと譲り合っちゃって、かえってギクシャクすると思うよ」

 

 それは鋭い指摘だった。鳳がいくら彼女らを幸せにすると口で言ったって、そして彼女らがそれを受け入れてくれたからって、彼女らには彼女らの横の関係があるのだ。現実に、古今東西のハーレムでは、女の対立が激しく、刃傷沙汰まで起きたと聞く。そしてハーレムなんて作ってる時点で、それは男には口出し無用の世界なのだ。鳳が彼女らを同列に扱うことで、仲のいい二人の間に亀裂が入ってしまうのでは、自分としても本懐ではない

 

「私はミーさんには、目一杯、鳳くんに甘えてほしいな。もちろん、私も甘えるから。だからこのままでいいんだよ……それになんか、共犯者っぽいよね」

 

 そう言って笑うルーシーの笑顔は、本当に魅力的なものだった。彼女は自分なんかよりもよっぽど利口だ。鳳は、本当に自分が情けなくなりながらも、彼女に頭を下げるつもりでこう口にした。

 

「俺、ルーシーのことを愛人として一生大切にするよ」

「それ、今まで生きてきた中で、一番最低のセリフだ」

 

 ルーシーはそう言いながらも、本当にそうするのが当然であるかのように、鳳の肩に頭を乗っけて、ニヤリと笑った。

 

******************************

 

 それから二人は服を着替えて、冷蔵庫の中の食料を漁って、少しイチャイチャしてからようやく重い腰を上げた。出会った時には、まさかこんな関係になるとは思いもしなかったが、なんだか不思議な感覚だと思いながら、彼らは部屋の出口のドアの前に立った。

 

 過大な要求をされて、思わぬ時間を食ってしまったが、迷宮はまだ全部を踏破したわけではない。この先にはまだ道が続いているのだ。その終点には一体何が待っているのか。

 

 アマデウスがなんでこんなアホなことをさせたのかは分からないが、もしもこの迷宮に意思が有るというのなら(看板の文字がリアルタイムで変わることからして、有ると思っているのだが)、直接会って、文句の一つも言ってやりたいものである。

 

 今回は、一緒に入ったのがルーシーだったからぎりぎり何とかなったが、もしもここに居るのがジャンヌだったら、今頃二人の間に取り返しの付かない深い溝が出来ていたかも知れない。

 

 縁結びのつもりか何か知らないが、そういう危険性があることが分かっていながら、敢えてこういう迷宮を作ったのだとしたら、そのクオリアの持ち主は相当ゲスな性格だと言わざるを得ないだろう。

 

 セールス用語にフット・イン・ザ・ドア・テクニックというものがあるが、それによると、人は最初に簡単なお願いを聞いてしまうと、その後徐々に釣り上げられる要求も、つい受け入れてしまうという心理が働くらしい。

 

 この『注文の多い料理店』は正にそれを意識した作りになっているようだが、セックスをするという最大限の要求を受け入れた今、鳳はこの先にはもう立て看板は無くて、この迷宮の核心部分が待っているんじゃないかと思っていた。

 

 だが、気を引き締め直してドアを開けると、そこは予想に反して新たな部屋が広がっていた。

 

 部屋の広さはいつも通り20畳くらいで、床はリノリウムか何か合成樹脂っぽいフロアパネルのようだった。部屋の片隅にはガラス張りのユニットバスが置かれ、その横には脱衣所と洗濯機、そこから更に少し離れた場所には、お洒落なシステムキッチンと冷蔵庫があった。そして空いたスペースにはランニングマシンとエアロバイクが置かれており、まるでフィットネスジムみたいになっていた。

 

 なんだろうこれは……今度はライザップでもさせようと言うのだろうか?

 

「うひゃー! なんかまた見たことない未来的な物だらけだね」

 

 ルーシーがエアロバイクを珍しそうに観察している。使い方がわからないからか、彼女はサドルを叩いたり、ペダルをぐるぐる手で回していた。実際、この迷宮の主もこんなもの見たこと無いだろう。無いのにそれが有るということは、やはりこれらの現代的なインテリアは鳳の記憶から生成されているということだ。

 

 もしかして、この迷宮は鳳の願望を再現しているのだろうか? いやまさか……だとしたら、ルーシーの希望も取り入れられてなくてはおかしいだろう。二人とも、実は心の奥底でこうなりたいと思っていたとも考えられるが、そう考えるのはあまりにも自分にとって都合が良すぎた。

 

 そして実際、その考えは間違いだったとすぐ判明した。迷宮の主は、この中に入ってきた侵入者(おもちゃ)のことなど何一つ考えちゃいなかった。何故なら、二人はこの新たな部屋の中で、また例の立て看板を見つけてしまった。そしてそこにはこう書かれていたのだ……

 

『この壁一面に、うんこを満遍なく塗ってください』

 

「ねえよ! 馬鹿っ!!」

 

 二人は殆ど同時に立て看板に向かってツッコミを入れていた。しかし、無機物であるはずの看板は、まるで二人を挑発するかのように、

 

『息ぴったりですね。二人ならやれると信じてます』

 

「無理だっつのっ!!」

 

 二人は息ぴったりにツッコんだ……

 

 立て看板はそれっきり、新たな返事はかえしては来ず、暫くすると元通りの文言に戻ってしまった。すなわち、『うんこを塗れ』という趣旨である。そのあまりにも無慈悲な言葉に、頭がくらくらした。まだ何もしていないのに、部屋のあらゆる場所から腐臭が漂ってくるような錯覚がした。

 

 鳳たちはお互いに顔を見合わせた。

 

「……嘘だよね? これ、本気? やるの?」

「いや、流石に無理だろうこれは……」

「だよね? だよね?」

 

 ルーシーは両手をギュッと握りしめ、口角につばを飛ばして、まるで自分に言い聞かせるように何度も頷いている。鳳は眉間に寄った皺を指で揉みほぐしながら、

 

「そう言えばアマデウスは、俺の世界で偉人として名高いだけではなく、変態としても有名だったんだよ。特にスカトロ趣味が酷くて、その手の逸話がいくらでも残っているらしい」

「なんで!? 他人のうんちなんて、そんなの見て面白い物じゃないでしょう!?」

「……それが、面白いらしいんだ。世の中には、そんなのを見て興奮するような人もいるらしい。そして多分、俺たちが苦しんでいるのもまた面白いんだろうなあ」

「信じらんないっ!! アマデウスって、もっと素敵な人だと思ってたのに! 見損なったよ」

 

 ルーシーは大変ご立腹のようだ。鳳は、女性の怒ってる顔は、ともすれば男性よりもずっと怖いと感じる口だが、きっと、この迷宮の主的にはご褒美なのだろう……

 

 彼は頭を抱えながらも、とにかく一旦冷静になれと彼女を宥めた。

 

「まあ、落ち着いてくれ。いざとなったら、俺たちにはポータルがあるんだから」

「あ、そっか……そうだよね」

「うん。それから、どうせリタイアするとしても、まずは出口を探してみよう。さっきも言ったけど、一度街に帰ってしまったら、ここまで戻ってくるのに一ヶ月以上がかかる。だからポータルは最後の手段に取っておきたいんだ」

「わかった」

 

 二人はそれを確かめ合うと、出口を探すために部屋に散っていった。

 

 さっき入ってきたばかりの、部屋の入口はまだ残されていた。便宜上、前の部屋をラブホ部屋、新たな部屋をキッチン部屋と称すると、二つの部屋を結ぶドアは残されていたが、元々あったはずのラブホ部屋の入口は消えたままで、相変わらず全体としては閉鎖空間のままだった。

 

 取り敢えず、部屋の壁全てを叩いて回ってみたが、壁は硬くて反響もなく、その先に空間があるような気配は無かった。もちろん、床も天井も同じで、空気穴も見つからないから、窒息しないかと心配になるくらいだった。

 

 シャワーやトイレの排水溝も外に繋がってる様子はなく、魔法的な何かで排水をしているとしか思えなかった。何しろ、冷蔵庫の中身が無限に補充されるのだから、ここを現実と同じ空間と思わないほうが良さそうだ。

 

 そう考えると物理的な方法で強引に出るのは無理そうだから、指令に従わないでも出られる別の方法を探した方が良いだろう。しかし前のラブホ部屋でもそうだったが、いくら看板を拝み倒しても条件を変えてはくれないようだった。

 

 キッチン部屋とラブホ部屋にはそれぞれ冷蔵庫があるが、キッチン部屋は生鮮食品が補充されるのに対し、ラブホ部屋はお菓子や飲み物が補充されると言った具合に、それぞれ用途が分けられているようだった。そしてキッチン部屋には寝床がないところを見ると、多分、ラブホ部屋を寝室代わりに使えということだろう。

 

 さっきから何度も試しているのだが、食材は無尽蔵にいくらでも出てくるようだ。部屋の空調も快適で、裸でも風邪を引く心配はなく、運動不足を解消するためのジムと、汗をかいたら浴びるシャワーも完備されており、全自動洗濯機には乾燥機も取り付けられていた。気になるのは、ユニットバスの水洗便所の脇に、おまるが用意されていることくらいである。

 

 その気になれば、ここで何年でも暮らしていけるだろう。だが、ここから出たいならうんこを壁に塗るしかないという、迷宮の主の強い意思を感じさせる作りだった。どうしてこの人は、駄目な方向に全力を振り絞っちゃったんだろうか……

 

 鳳たちは部屋を満遍なく調べてその結論に達すると、脱力してベッドに寝転がった。

 

「だめだこりゃ……絶対出れない」

「諦めるしかなさそうだねえ……」

「ああ、しょうがないからポータルで脱出しよう。問題は荷物を途中に置いてきちゃったことだが……こうなることを見越して、あそこで奪ったんだろうか? 本当に根性が捻じ曲がってるな、この迷宮の主は」

「あの時、鳳くんが機転を利かしてくれたお陰で、おじいちゃんの杖を持ってこれてよかったよ……あとのものは最悪諦められるし」

「俺もナイフなんか持ってこないで、もっと別のもん持ってくりゃ良かった……」

「ねえ、悔しいから、色々持って帰っちゃおうよ? お菓子とかお菓子とか」

「そうしようそうしよう」

 

 二人は頷きあうと、部屋から大量のお菓子とコンドームをかき集めてきた。それを回転ベッドのシーツを使って風呂敷包みし、鳳がサンタクロースみたいに担ぎ、代わりにルーシーが彼の手荷物を受け取って、レオナルドの杖と一緒に持った。

 

「それじゃ帰ろっか? それとも、どこか寄ってく?」

 

 ルーシーがまるでデートにでも行くような感じで気楽に聞いてくる。

 

「そうだな……このまま手ぶらで帰るのもなんだし、ちょっと帝都に寄っていかないか? アマデウスの資料が残ってるかも知れないし、もう一度P99を調べてもみたい」

「いいよ。その後はどうする?」

「そうだなあ……帰ったら冒険者ギルドでスカトロ趣味のカップルを募集しよう。ここの迷宮は、命の危険だけは無さそうだから、代わりに先に進んでもらえないか頼んでみる」

「前代未聞の依頼だね。きっとミーさん卒倒すると思うよ」

 

 二人はそんな会話を交わしながら、いつものようにポータルを出してそれを潜ろうとした。鳳が潜ってしまうとポータルが消えてしまうから、まずはルーシーから中に入った。彼女の体が光の向こうに消える……鳳はそれを見送ってから、自分も後に続こうとして足を踏み出した。

 

 ところがその時、彼がポータルの光の中に入ろうとした瞬間、何故かそれはパッと消えてしまった。

 

「ありゃ?」

 

 おしゃべりしながら雑に出したからだろうか? 詠唱が不十分で消えてしまったのかも知れない。今までそんなこと一度も無かったのに、彼はあまり深く考えずにもう一度ポータルを出そうとした。ところが……

 

「タウンポータル! タウンポータル! ……あれ? タウンポータル!!」

 

 何度唱えてもポータル魔法が発動することはなかった。

 

 どうしちゃったんだろう? と戸惑いつつ、もしかしてMP切れを起こしているんじゃないかとステータスを確認しようとした時……

 

 突然、部屋の明かりが消えた。

 

 そもそも、どうやって光っているのかも分からない部屋の照明が一斉に消えた瞬間、彼は視界までをも失った。光をまったく通さない、完全な暗闇の中に、彼は立っていたのだ。驚いて固まっていても状況は良くならない。

 

 彼は慌てて今度はファイヤーボールの魔法を唱えて見たが、これまたうんともすんとも言わなかった。

 

 右を向いても左を向いても、上を向いても下を向いても、どこを向いても何も見えなかった。自分の体さえ見えないために、平衡感覚が失われてしまった彼は、何だか自分が宙に浮いているような気がしてきた。

 

 いや、それは気のせいじゃなかった。その時、背中に担いでいた重い荷物が、突然重力がなくなったかのように重さを失ってしまった。慌てて背中に手をやって確かめようとしたら、その手が空を切った拍子に、彼は自分の体が何だかぐるぐると回転しているような、奇妙な感覚に包まれた。

 

 やばい……そう思った時にはもう手遅れだった。暗闇と無重力の中で、彼は焦燥感に駆られながら、何故か急に入り口に書かれていた文言を思い出していた。

 

『必ず男女ペアになってお進みください』

 

「……そう言うこと?」

 

 さっきまで彼らを閉じ込めていた壁はもうどこにもなく、鳳のつぶやきはどこにも反響することなく、虚空に消えて行ってしまった。

 



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オンリーロンリー

 ポータルを出た瞬間、鋭く差し込んできた光に目が眩んだ。ずっと迷宮の中に居たから時間感覚が狂っていて、なんだか変な気分がしたが、どうやら帝都は朝のようだった。太陽の位置からすると正午に差し掛かろうとしている頃合いらしく、市場に買い出しに出かける貴族の使用人たちが、何人も往来を通り過ぎていった。

 

 右手を見れば、以前に帝都に来た時に泊まったことがある迎賓館が見えた。どうやら鳳のポータル魔法は、ここを記憶しているようだ。多分、帝都に来た時に泊めてもらうのに都合がいいのだろう。とても大きくて壮麗な建物だが、意外と決まり事が多くて肩がこった記憶があった。同じ綺麗な建物なら、ヴィンチ村の方が良いなと思いながら、ルーシーは彼に話しかけるつもりで振り返った。

 

「ねえ、鳳くん……って、あれ?」

 

 しかし、彼女が振り返った時、背後には誰もいなかった。それどころか、さっき自分が出てきたはずのポータルの光も消えていた。変だなと思って辺りを見回してみても、鳳の姿もポータルも、どちらもどこにも見当たらない。

 

 もしかして、自分が移動した後に、なにかあっちでトラブルでも起きたのだろうか……?

 

 迷宮のお菓子を持ち帰ろうとしていたが、持って帰れないとか、帰るなら荷物を取りに来いと言われたとか、案外そんな他愛のないことかも知れない。ともあれ、鳳はいつでもポータルで戻ってこれるのだから、心配はないだろう。彼女はそう考え、特に心配もせずにその場で待機した……

 

「おかしい……どうしちゃったんだろ?」

 

 しかし、それから数分待っていても、彼が現れる気配はなかった。鳳のことだからふざけてるのかな? と思いもしたが、彼のはあくまで笑える冗談で、こんな異国に一人置き去りにするような真似はしないだろう。となるとやっぱり何かがあって、帰るに帰れなくなったのでは? 彼女は不安になってきたが……しかし、何かあったとしてもその何かが分からず、動くに動けなかった。

 

 結局、その後も何することもなく、彼女はその場で待ち続けてみたが、いつまで経っても彼が出てくる気配はなく、そのうち、体がブルブル震えてきて、その場に留まっていることが出来なくなった。

 

 帝都はネウロイに比べればまだ暖かかったが、彼女は迷宮に外套を置いてきてしまった上に裸足だったのだ。そんな彼女の姿が奇異に映るのか、通行人が冷たい目をして通り過ぎていく。久しぶりの人里ということもあり、他人の視線がやけに気になった。鳳のことは心配だが、いつまでもここに留まっているわけにもいかなそうだ。彼女は一旦諦めると、取り敢えず人気が少ない方へと歩き出した。

 

 とはいえ、これからどうして良いのかも分からなかった。いくら鳳のことを心配しても、ネウロイは遥か彼方で戻りようがない。彼女はポータルも使えないし、空も飛べない。ついでに言えば、こんな異国に一人っきりでは、自分の身の振り方も心配しなければならないだろう。

 

 せめて帝都に知り合いがいれば良かったのだが……

 

 そう考えた瞬間、彼女は思い出した。すっかり忘れていたが、帝都にはメアリーが住んでいるのだ。真祖ソフィアの記憶を取り戻した彼女は、鳳たちとは別れて、あれから帝都で暮らしている。記憶を取り戻したと言っても、メアリーの記憶もちゃんとあるから、彼女がルーシーのことを忘れているということもないだろう。それに彼女はレビテーションの魔法も使えるし、きっと事情を話せば助けてくれるはずだ。

 

 彼女はそう判断すると、いそいそと皇居に向けて足を早めた。

 

「帰れ」

 

 皇居にたどり着いた彼女は中へ入れて貰おうとして、当たり前のように番兵に追い返された。それが仕事だし仕方ないことだろうが、話すら聞いてもらえないのは参ってしまった。

 

 と言うのも、今の彼女はコートも着ていない上に裸足なのだ。おまけにこの一ヶ月間、まともな生活も送って来れなかったから、着ている服も薄汚れていた。きっと兵士には物乞いにしか見えなかったのだろう。

 

 メアリーが何かを察して外に出てきてくれるなんて有り得ないだろうから、なんとか自分が来ていることを伝えなくてはならないが……鳳から預かったウエストポーチに、最低限のお金が入っているから、街で身なりを整えてから出直すべきか。

 

 彼女は散々迷ったが、結局、今すぐにでも室内に入らなきゃ凍えてしまうという気持ちが勝って、強行突破することにした。彼女は杖の石突きで、コーンと地面を鳴らしてから、あーあーあーっと発声練習をして、

 

「るるる~、寂しくて切なくて震える~、私は世界一孤独~、オンリーロンリーワン~、凍てついた心が魂さえも凍らせる~、みんな私を~見てくれない~、そして私は消えてなくなる~る~る~る~」

 

 番兵の目が徐々に険しくなってくる。そりゃ、みすぼらしい格好をした女が皇居に入れろとごねた後、変な歌を歌い始めたらそうなるだろう。しかしルーシーはそんな視線を浴びながらも、調子っぱずれな歌を止めなかった。番兵は、この頭のおかしな女を怒鳴りつけてやろうか、銃を突きつけてやろうか、それとも応援を呼ぼうか迷ったが……

 

 と、その時、彼は突然、自分が何故イライラしているのかがわからなくなった。たった今まで何かに気を取られていたような気がするのだが、それが何だかさっぱりわからない。番兵はキョロキョロと辺りを見回して、そこに誰も居ない(・・・・・)ことを確認すると、変だなと思いながらもまた職務を遂行するために門前へと戻った。

 

 皇居の中にはやんごとなきお方が住んでいる。自分は彼女らを守るための最後の砦なのだ。おかしな奴が来たら、たとえ自分の命と引き換えでもここで食い止めてやる。彼は自分の仕事に誇りを持っていた。

 

 ルーシーはそんな番兵の横を通り過ぎ、また杖で地面をコーンと鳴らした。その時、一瞬だけ番兵が不審げな表情を見せて辺りを窺っていたが、もう彼がルーシーの方を見ることはなかった。

 

 不可視(インビジブル)の共振魔法を使った彼女の姿は、その杖の音を聞いた者からはもう絶対に見えなくなっているのだ。レオナルドに、逃げることとサボることに掛けては天才的と言わしめた彼女は、この魔法を得意にしており、かの大君でさえ、一度この状態になった彼女を見つけるのは困難だった。

 

 もしも遠くから望遠鏡で覗いている者がいれば、相変わらず彼女の姿は見えるだろうが、近くに居るものは誰ひとりとして、もはや彼女に気づくことはないだろう。こうして彼女は、世界で最もセキュリティが厳しい場所にまんまと侵入を果たすと、それがどれだけマズいことかもろくに考えずに、鼻歌交じりに皇居内をうろつき始めた。

 

 皇居には、魔王討伐後に、その功績を称えられて一度だけ来たことがあったが、禁裏がどこにあるのかまでは知らなかった。とは言え、同じ敷地内にあるのだからなんとかなるだろうと、彼女は後先考えずに手近な宮殿に入っていった。

 

 皇居とは皇帝の住まいなわけだから、きっと偉い人の気を煩わせないように、静かな場所なんだろうなと思っていた。ところがいざ室内に入ってみると、中は大勢の兵士たちが右往左往していて、全然落ち着かなかった。

 

 何かあったのかな? と思って耳を澄ませてみれば、どうもヘルメスで反乱が起きているらしい。鳳が居ない隙を突いてとんでもないことになってるなと驚いたが、大声を上げたら流石に気づかれてしまうので、口を噤んでまた一回コーンと杖を打ち鳴らした。

 

 他に何か情報は無いかなと、そのまま兵士たちの動向を探っていると、その中からジャンヌの話題が飛び出してきて、また驚いた。どうやら現在、帝都にはジャンヌが滞在中らしい。恐らく、鳳とルーシーが居なくなった後に旅立ったのだろう。彼女に会えたのはラッキーだった。彼女ならきっと協力してくれるはずだ。

 

 そうして兵士たちのうわさ話を頼りにジャンヌの居場所を求めて、彼女はついに禁裏にたどり着いた。禁裏とは言っても、何か結界が張ってあるわけでもないから、普通に侵入出来た。彼女は室内に入ると人の居そうな場所を手当たりしだいに探して回った。流石に、皇帝の寝所がある区画だから、さっきまでとは打って変わって人が少なく、目的地に辿り着くまでにたった一人(マッシュ中尉)しか見かけなかった。その一人の脇を通過し暫く進むと人の声が聞こえてきたから、声のする方へ曲がったら、皇帝とメアリー、そしてジャンヌとサムソンの姿が目に飛び込んできた。

 

「あー! やっと見つけた! ジャンヌさん、サムソンさん、メアリーちゃんもお久しぶりー!」

 

 ルーシーは仲間たちに再会すると、ほっとため息を吐いて杖をくるりと回転し、大声で彼女らに呼びかけた。その瞬間、誰の気配も感じていなかった場所に、突然彼女が現れたことに驚いて、4人が一斉に立ち上がる。

 

 ジャンヌとサムソンの前衛組は、その瞬間には既に攻撃態勢に入っていて、ルーシーの目前まで迫っていた。しかし彼らは、そこにいたのがルーシーであることに気がついて、すんでの所で足を止めてたたらを踏んだ。この間、わずか1秒足らずという早業に、やはり勇者パーティーの人たちは凄いなあと、ルーシーは目を丸くした。こんな人達と一緒に冒険をしていたなんて、もしかして自分は夢でも見ていたんじゃないかと、彼女はのんきにそんなことを考えていた。

 

 しかし、呆れてものが言えなかったのは、寧ろジャンヌたちの方だろう。

 

「ル、ルーシー……!? どうしてここに?」

「えへへ、ジャンヌさんお久しぶり! 実はわけあって、ちょっと鳳くんにここまで飛ばされちゃったんだけど……」

「白ちゃん? 彼も帝都に来ているの?」

「ううん、それが違うんだよ。実は連絡が取れなくなっちゃって困ってて。そしたらそこに皇居があったから、メアリーちゃん居るかな? って思って、ちょっと立ち寄ってみたんだけど……」

「失礼します!! 陛下! 今、悲鳴のような声が聞こえましたが……何奴!?」

 

 ルーシーがジャンヌとの再会に花を咲かせていると、皇帝の私室の外に詰めていた警護のマッシュ中尉が異変に気づいて飛び込んできた。彼はそこにいるはずのない人影を発見するなり、さっきのジャンヌたちみたいに反射的に飛びかかってきたが……そんな彼とルーシーの間に、サムソンが割って入って慌てて止める。

 

「待て! 彼女は違う、仲間なんだ!」

「はあ!? え……? そんな……どうして?」

 

 サムソンの制止に辛うじて踏み止まったマッシュ中尉は、そこにいるのが以前知り合った勇者パーティーの一人であることに気づいてショックを隠しきれない様子だった。彼は自分が完璧に護衛を果たしていると思っていたのに、いつの間にか出し抜かれていたのだ。

 

 茫然自失のマッシュ中尉の姿を見て、ジャンヌは不審に思い、

 

「ねえ、ルーシー? あなた、一体どうやってこの中に入ってきたの? 普通、ここに入るには必ず陛下の許可が必要だから、いきなり入ってこれるわけないんだけど……?」

「どうやってって、普通にだよ? 普通に共振魔法(レゾナンス)を使って」

 

 彼女がそう言って杖をコーンと打ち鳴らすと、次の瞬間、メアリーと皇帝が動揺の声を漏らした。ジャンヌとサムソン、それからマッシュ中尉は一度見たことで注意を払っていたが、ぼんやり見ていただけの二人はまたルーシーの魔法に掛かってしまったのだ。

 

 彼女がまた杖を鳴らして姿を現すと、皇帝は冷や汗を垂らしながら言った。

 

「……確か、スカーサハ以来のレオナルドの弟子って言ってましたね。なるほど……あの人が弟子に取るだけありますね」

「申し訳ございません、陛下。この不始末は私の進退を持って付けさせていただきます……」

 

 マッシュ中尉が跪いて悔しそうに項垂れている。皇帝はそんな中尉に顔を上げるように命じているが、彼もなかなか頑固に固辞し続けていた。ルーシーはその様子を見て、あれ? なんかマズいことでもしちゃったのかな? と、この期に及んで困惑したが、それがどれだけマズいかはジャンヌに言われるまで分からなかった。

 

「ルーシー……あなた、ここがどこだか分かってるの? この世界ただ一人の皇帝を守るために、数百人からの護帝隊が詰める皇居なのよ? 彼らは皇帝に危険が迫らないように目を光らせ、いざとなったら命を投げ出す覚悟でここに居るの。それを全く意に介さず、ここまで侵入しちゃったのは凄いことだけど……これは下手をしたら何人かの首が、物理的にも飛びかねない国際問題なのよ」

「え!? そんな……私そんなつもりで入ってきたわけじゃないのに。だって、門番の人にメアリーちゃんの友達だって言っても、話も聞いてくれなかったんだよ?」

「それは、彼らはメアリーじゃなくて、ソフィアだと思ってるから」

「え……?」

「今の彼女は、私たちの知ってるメアリーでもあるけど、真祖ソフィアでもあるのよ。この国の人達からすれば、後者のほうがより馴染み深いもの」

「……あ~。そう言えば、あ~……そうだあ、ねえ?」

 

 ルーシーの目が泳いでいる。そんな彼女の動揺する姿や、落ち込んでいるマッシュ中尉を遠巻きに見ていたメアリーは、しどろもどろになる彼女を見ながらクスクス笑うと、

 

「もういいじゃない。友達が私に会いに来てくれただけなんだから、そんなに深刻に捉える必要はないでしょ。マッシュ中尉も進退なんて掛けるもんじゃないわ。あなたの首なんて貰っても、誰も嬉しくないもの」

「しかし……」

「今回は相手が悪かったのよ。私たち神人は思い上がってるけど、世の中、上には上がいるわ。それが分かっただけ良かったじゃない」

「……このことは、次の御前会議にて周知徹底いたします。我々は大君の現代魔法を見くびり侵入を許しました。二度とこのようなことが起こらないように、人間の魔法使いを招聘し、今後の対策を練ります」

「そこまでしたら騒ぎになるじゃない。そうね……ならこうしましょ」

 

 メアリーは、自分のしでかしたことにようやく気づきオロオロしているルーシーに歩み寄ると、その手を取って不敵に笑った。

 



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禁呪を求めて

 ルーシーが侵入してから数十分後、皇居は大騒ぎになっていた。それは彼女がこっそり侵入したのがバレたのではなく、なんと、知らぬ間に真祖ソフィアが、皇居から抜け出していたことが発覚したからだった。

 

 実は護帝隊は、隙あらば皇居を脱走しようとする真祖に、いつも手を焼いていたのだ。彼女は300年ぶりに帝都に戻って以来、ずっと皇居に閉じ込められていた。それは帝国人たちが自分たちの生みの親とも呼べる真祖を大切にし、二度と失わないようにという思いからきた、少し過保護な決まりごとだったのだが、一度自由を知ってしまった真祖からすれば、こんな狭い皇居に閉じ込められているのは退屈でしか無く、いつも外に遊びに行きたいとゴネていた。

 

 そんな彼女が、隊士の目を盗んで、ついに皇居からの脱走に成功してしまったのだ。慌てふためく皇帝は、たまたま滞在していた勇者ジャンヌに真祖の捜索を依頼し、彼女は相棒のサムソンを連れて帝都を発った。次にここへ戻ってくる時は、必ず真祖ソフィアと一緒だと、皇帝に誓って。

 

 ……というのはもちろん大嘘で、メアリーはちゃんと皇帝に断りを入れて、普通に皇居の通用門から外に出た。ルーシーがやらかしてしまったことを真面目に報告してしまったら、本当に何人かの首が飛びかねなかったからだ。

 

 だからメアリーは、自分が自由になるために、昔のよしみを通じて脱走を図ったことにしたわけである。そしてジャンヌたちはそんな二人と仲間だったから、その実力と縁を買われて皇帝直々に協力を求められた……これならばルーシーがやらかしてしまったことはチャラになるし、メアリーも久々に憂さ晴らしが出来て一石二鳥と言うわけである。

 

 無論、護衛のマッシュ中尉は嫌がったが、自分にも落ち度があるため強くは出れず、最終的には折れた。真祖が外に出るといっても、なんやかんや、彼女と行動を共にするのは勇者パーティーのメンバーなのだし、メアリー自身の実力も折り紙付きなのだから、これ以上心配するのはもはや不敬だろう。

 

 そんなわけで、メアリーはルーシーに不可視(インビジブル)の魔法を掛けてもらうと、いつも彼女の動向に目を光らせている兵士たちの横を通って外に出た。

 

 途中、本当に誰にも全く気づかれなかったことに驚いたメアリーが、また遊びに来てよとルーシーを絶賛していると、皇居から遅れて出てきたジャンヌたちが合流した。待ち合わせ場所に来た彼女らは、誰にも見つからないようにキョロキョロと辺りを窺いながら、

 

「……ルーシー、居るの?」

 

 ルーシーが杖を鳴らすと、ジャンヌは複雑そうな表情をしてから、

 

「それ、本当にいきなり出てくるから、びっくりするわ。前はここまで完璧じゃなかったのに、いつの間にこんなに腕を上げたの?」

「うーん……ネウロイに行った時、常時発動していたからかな? 鳳くんが寝ている間は、二人とも無防備になるから」

「やっぱり……白ちゃんが居なくなった後、あなたの姿も見えなくなっていたから、もしかしてと思っていたけど、あなた達一緒に居たのね?」

「うん。どうせ鳳くんのことだから何かやらかすと思ってたら、案の定一人で旅支度を始めたから、こっそりついていったんだよ。今みたいに」

 

 ジャンヌはそんなことをしてもバレなかったというルーシーの技量に舌を巻きながらも、鳳のことが気にかかり、

 

「それで……白ちゃんはどうしたの? やっぱり思いつめていたのかしら」

 

 彼女は、ルーシーがこうして一人で帝都に帰されたことからして、また鳳が何か思いつめてやらかしたのだと思い、尋ねたのであるが、

 

「ううん、それが全然そんなこと無かったんだよ」

「……なかったの?」

「うん。私もさ、きっと鳳くんが最悪死ぬ覚悟でネウロイに向かってるんだと思ってたんだけど……蓋を開けてみたらあの人、いつもみたいに平然と、一人で行くのはその方が効率いいからって言い出したんだよ」

「はあ……?」

「で、それじゃあ、なんで誰にも相談しなかったのさ? って問いただしたら、今度は恥ずかしいからだって……あの人、ミーさんに好きって言われたことで舞い上がってたみたいなんだよ」

「はあ!? えーっと……なにそれ?」

 

 ルーシーがため息交じりに彼が言ったことを詳しく伝えると、ジャンヌは最初は顔を真っ赤にしていたが、段々げっそりしてきて、

 

「それは……言っちゃ悪いけど……キモいわね……」

「うん、だから私、一発引っ叩いといたよ」

「ありがとう。みんなを代表してお礼を言うわ」

 

 二人はがっしりと固い握手を交わした。サムソンは二人のやり取りを見て、そこまでボロクソ言うことないのにと内心気の毒に思いながら、

 

「それで勇者はどうしたんだ? 何故、君一人だけで帰ってきたのだ?」

「そうだった。それが私にもさっぱりなんだよ。実は私と鳳くんは、ネウロイで迷宮を見つけたんだけど、それがちょっと変わった迷宮でさ? 何とか二人で攻略しようと試みたんだけど、結局断念するしかなくなっちゃって……」

「迷宮を見つけたの!? それも凄いけど……今の白ちゃんが諦めるしかないなんて、そっちも凄いことね。一体、どんな迷宮だったのよ?」

「えっと、それは……」

 

 ルーシーは迷宮の立て看板のことを言いかけて、はっと言葉を飲み込んだ。

 

 それを言ってしまったら、何をしていたのかバレバレなのではないか? 途中までなら別に話しても構わないが、最後の方は絶対に言えない。しかし最後の方を言わなければ、それで何故、攻略を断念したのか? と勘ぐられるのが落ちだった。

 

 つまり、言うなら包み隠さず言うしかなくて、言わないなら何一つ言うことが出来ない……そんなジレンマに陥って、彼女はウンウンと唸り声を上げた。

 

「そ、そんな口にするのも憚られるような、恐ろしい迷宮だったの?」

「うーんと、そんなこともないんだけど……」

「じゃあ、どうしてそんな顔をするの? ねえ、白ちゃんに何があったのよ? 彼、ちゃんと生きているんでしょうね?」

「それはもちろん! そうじゃなくって、えっと、迷宮は、そう! 峡谷の迷宮みたいに、精神的に来る感じのやつだったんだよ」

「精神的に……? どんな感じで?」

「それはだから……精神的なことだから、言えないっていうか、言いたくないというか……」

「そう……その気持ちは少しわかるわ。でも、言ってくれないと対策を立てようもないでしょう? ところで、ルーシー? あなた、帰ってきた時から、少し歩き方がおかしいように感じてたんだけど。それも迷宮のせいなのかしら?」

「ギクーッ!! ぜぜぜ、ぜんぜんぜんぜんそんなことないよっ!!?」

 

 ルーシーはしどろもどろになっている。その様子が不審すぎて、ジャンヌの視線はいよいよ険しくなっていった。それは女性であったらもしかしたら気づいたのかも知れないが、最近までおっさんだったジャンヌでは、何があったのかまでは察することが出来なかったのだ。

 

 一体彼女は何を隠しているんだろうか? 現実に鳳は居なくなっているのだし、ここは無理にでも聞き出さないと……ジャンヌはそう思い、慌てふためくルーシーに詰め寄った。しかし、そんな彼女の背後から、したり顔をしたメアリーが、

 

「ルーシーの歩き方なんてそんな細かい話はいいから、それよりもどうしてツクモが居なくなったのか、その時の状況を教えてちょうだい。ネウロイにいたはずのあなたがここに居るってことは、二人はポータルで帰ろうとしたんでしょう?」

「そうそうそうなんだよ!」

 

 ルーシーは地獄に仏とばかりに食いついた。ジャンヌは煮えきらないものを感じているようだが、それ以上追求してはこなかった。ルーシーは話を蒸し返されないように、少し早口で続けた。

 

「ネウロイで迷宮を見つけた私たちは、二人でその奥まで行ったんだけど、それ以上先に進めなくなっちゃって、しょうがないからポータルでこっちに戻ってこようって話になったんだ。そのとき鳳くんが、手ぶらで帰るのは気が引けるからって、何かあるかも知れないし帝都の機械を調べに行こうって言いだして……それで私はポータルに入ってこっちに戻ってきたんだけど……」

「ツクモは一緒に戻ってこなかったの?」

「そうなんだよ。ポータル出て振り返ったら、もうそこには何も無くって……おかしいなと思いながら暫く待ってみたんだけど、いつまで経っても鳳くんは戻ってこなくて」

「……向こうで喧嘩したから、一人だけ帰されたりってことはないのか?」

 

 サムソンが聞きにくいことをあっけらかんと聞いてくる。確かに鳳ならそう言うことを平気でやりそうな雰囲気はあるが、あの時の状況からしてそれは考えられない。

 

「それは絶対にないと思うな」

「……寧ろ、今まで以上に仲良くなった感じよね」

「それはともかく!」

 

 メアリーのぼそぼそ呟くようなツッコミに冷や汗を垂らしながら、ルーシーは話を強引に戻した。

 

「ポータルを潜ってしまったら、もう元には戻れないから、しつこく最終確認してたって可能性はあるかも知れない。でも、あの状況で急に心変わりして、一人だけあっちに残ったなんて、正直、考えられないんだよ」

「あなたが帰った後、迷宮内でなにかがあったってことね……突然、敵に襲われたとかは?」

「それも無いと思うんだけど……仮にあったとしても、今の鳳くんならそんなのさっさと倒しちゃうか、それこそポータルを潜ってしまえば戦わなくて済むわけだから」

「そうね……じゃあ、どうして戻ってこなかったのかしら?」

「それが分からないから、こうして相談してるんだけど……」

 

 四人は顔を突き合わせてお互いに誰か何かアイディアを出さないかと目配せしあった。しかし、いつまで経っても誰からもなんの意見も出やしなかった。それまでどこか他人事のように聞いていたメアリーが、眉間にしわを寄せながら尋ねる。

 

「ルーシーがこっちに戻ってきてから、どのくらい時間が経ってる?」

「大体、二時間かそこらだけど……」

「そう。なら、まだそんなに心配いらないと思うけど……これだけ待ってもツクモがこっちに帰ってこないってことは、やっぱり何かアクシデントが発生したってことよね」

「どうしよう……? なんとかして、あそこまで戻れないかな? メアリーちゃんはポータル魔法が使えないんだっけ?」

「ええ。禁呪と言われている古代呪文は、どうやら私たち神人には使えないみたいよ。どうしてなのか、理由は分からないけど……」

「でも、レビテーションは使えたよね? それなら、ここからネウロイまで飛んでいくってことは出来ないかな?」

「無理よ」

 

 メアリーは呆れたと言わんばかりに肩を竦めながら、

 

「さっき聞いた話では、あなた達は大森林の村から1ヶ月かけてネウロイに到達したんでしょう? 場所がわかっているって言ったって、ここからだと倍はかかる計算になるわよ。それに、私はツクモほどMPが多くないわ。途中で力尽きるのが落ちよ」

「そっか……」

「可能性があるとしたら、どうにかしてポータル魔法を使える人を探し出して、その人に大森林の村まで連れて行って貰うことね。そこからなら……私と、ルーシーだけでいいならネウロイまでたどり着けるかも知れない。みんなで移動するのは、やっぱりMPが持たないと思うわ」

「困ったなあ……ポータルを使える知り合いなんて心当たりないし、ギルドに相談しても無駄だよね?」

「そもそも、そんな大魔法使いがいるなら、とっくに帝国が召し抱えているわよ。少なくとも、皇室はその存在を知ってるはずね」

「はぁ~……それもそうだよねえ~……」

「世界は広いから、もしかしたら勇者領や新大陸にはそんな人もいるかも知れないけど……今からそれを調べに行くんじゃ、どっちにしろ遅すぎるわよね。まあ、そんな人、居るとは思えないけど」

「あら、それならいるじゃない」

 

 メアリーとルーシーが、状況が厳しいことに変わりがないとため息を吐いていると、そんな二人の話を聞いていたジャンヌが言った。

 

「私の記憶が確かなら、タイクーンがフェニックスの街からの撤退戦のときに、禁呪を使っていたはずよ。普段はMPを大量に消費するから使わないって言ってたけど、もしかしたら、ポータルも使えるのかも知れないわ」

「それだぁ~っっ!」

 

 そんなジャンヌの言葉に、ルーシーが喜々として大声で応える。メアリーは興奮気味に喜びの声を上げた彼女のことを不審そうに眉を顰めて見つめながら、

 

「ちょっと待って、ルーシー。レオはポータル魔法は使えないはずよ。もしも使えるなら、私たちは大森林に潜伏しなくても、最初から新大陸に逃げちゃえば良かったんだから。それに、仮に使えたとしても、ヴィンチ村はガルガンチュアの村より更に遠くにあるのよ? 結局そこまで行くんじゃ無意味じゃない。ちゃんと、私の話を聞いてたのかしら……」

「違う違う、そうじゃなくってね?」

 

 メアリーが不服そうに言うと、ルーシーは慌てて説明不足を詫びながら、

 

「スカーサハ先生に言わせると、おじいちゃんが古代呪文を使えるのは、帝都の近くのとある迷宮を攻略したからなんだって。以前、そこへの行き方を教えてもらったから、もしかして、そこなら私たちにも、禁呪を覚えられるチャンスがあるかも知れない」

「え!? そんな迷宮がこの帝都の近くにあったの??」

「うん! 先生は、私に攻撃手段がないから、そこへ行って魔法を修得するように勧めてくれたんだけど、なかなか帝都に来る機会がなかったから……それに、一人じゃ攻略できなくても、今のメンバーなら十分に攻略可能でしょう?」

 

 ルーシーが目配せすると、ジャンヌとサムソンが黙って頷いた。メアリーはそんな二人の姿を見てから、

 

「なら、みんなで行ってみましょう? 私も禁呪には興味があるわ。それで、その迷宮ってのはどこにあるのかしら?」

「えーっと、確か先生は……なんか帝都のすっごい辺鄙な場所に住んでる、パリスって皺くちゃのお婆ちゃんが知ってるって言ってた。今からその人を探して尋ねてみよう」

 

 ルーシーがそう言うや否や、メアリーはいかにも呆れたと言わんばかりに、口をあんぐりと開けてみせた。何か知っていそうなそのリアクションに、どうしたのかと尋ねてみれば、

 

「それ、多分、エミリアのことよ?」

「え? エミリアって……皇帝陛下!?」

「うん。エミリア・パリス……今はグランチェスター姓を名乗ってるけど、元々はそう言う名前なの。そういえば……学者だった頃のあの子とスカーサハは仲が悪かったわ。エミリアとレオはよく意見が食い違っていたから、自分の師匠がバカにされてると思ってたみたいね」

「先生……大人げないなあ」

「とにかく、最初の行き先がわかったわ。早速、エミリアのところへ戻って、迷宮の場所を聞き出しましょう」

 

 メアリーとルーシーが皇居に引き返そうとすると、慌ててジャンヌが突っ込んできた。

 

「ちょっと待って、二人とも! 戻ってどうするつもり? 私たち、たった今、そこから逃げてきたわけよね?」

 

 そう言えば、二人はその皇居から脱走したことになっているのだ。今、戻ってしまっては、護帝隊に捕まってもう二度と外に出してもらえなくなる……

 

********************************

 

「だからって、また当たり前のようにセキュリティーを突破しないでくださいよ!」

 

 ルーシーの不可視(インビジブル)の魔法を使って禁裏に戻ると、公務の打ち合わせをしていたマッシュ中尉がキレていた。

 

 一行は皇帝から迷宮の場所を聞き出すと、そんな危険な場所に行っちゃ駄目だと慌ててる中尉を煙に巻いて、またそそくさと皇居を抜け出したのであった。

 



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占星術師の迷宮

 占星術師(アストロロギア)の迷宮は、帝都からおよそ5日ほど行った街道沿いにあった。迷宮は古代の偉大なる占星術師が残した物であり、こんな目立つ場所にあるのに誰にも知られていなかったのは、危険であるからと言って帝国が厳重に封印しているからだった。

 

 皇帝が言うにはここ300年間で、この迷宮に挑んで帰ってきたのはレオナルドただ一人であるらしい。彼女はそんな場所に本気で挑むのか? と不安がっていたが、一行はそれを聞いて信憑性が増したと、俄然やる気になっていた。

 

 彼らはレオナルドが実際に禁呪を使っていたことを知っていたので、その彼しか踏破したことがないような高難度の迷宮を攻略出来れば、自分たちも禁呪を習得できる可能性が高いと考えたのだ。

 

 真祖(メアリー)をそんな場所に行かせたくないマッシュ中尉の反対を押し切り、そして帝都をこっそり抜け出した4人は、皇帝の言う通り5日掛けて迷宮にたどり着いた。メアリーの魔法を使えばもっと早くつくはずだったが、そんなことをして、逃げた真祖が帝国人に見つかってしまったら大事になるので、馬より早く移動するわけにはいかなかったのだ。ただ逆に言えば、鳳が帰ってきた場合、すぐに追いついてこれるから、全く無駄というわけでもなかった。

 

 そんなわけで、ゆっくりと移動した彼らが迷宮にたどり着いたということは、あれから5日経っても、まだ鳳は行方を晦ましたままと言うことだった。ここまで音沙汰ないのは、やはり退っ引きならない何かがあったのだろう。

 

 鳳はサバイバルスキルが高いから簡単に死ぬようなことはないだろうが、もし未だに迷宮に閉じ込められているなら話は変わる。いくら生き残っていても、そこから抜け出せないのであれば、考えようによっては死ぬより悪い結果かも知れない。だから出来るだけ早く、あそこに戻らなければならないのだが……ルーシーのそんな話を聞いて、4人はぶっつけ本番で迷宮に入る決断をした。

 

 ルーシーはこれまで二つの迷宮に入った経験があるが、この占星術師の迷宮は今までとは全然毛色が違った。寧ろ、今までのが特殊と言った方が正しくて、本来、こういうものの方が迷宮と呼ぶに相応しいのではなかろうか。その中は、大量の魔物が行く手を阻む、ダンジョンになっていた。

 

 迷宮は、帝都近郊の小高い山の側面にある何の変哲もない洞穴の中にあり、薄暗い洞窟を進んでいくと、やがて大きな広場にたどり着き、その奥に石レンガのゲートが見えた。そのゲートをくぐり抜けると、中は同じような石レンガと石畳の、画一的な作りの通路が続いており、どことなく大昔の神殿のような雰囲気を漂わせていた。

 

 ネウロイの迷宮とは違って、室内なのに明るいというようなこともなく、松明の灯りだけが頼りだった。通路は非常に正確に測量されているのか、一寸の狂いもなくまっすぐ伸びている感じで、曲がり角もきっちり90度折れ曲がっている。

 

 そんな画一的な通路が規則性もなく、縦横無尽に伸びていて、一つの迷路を作り上げているようだった。ジャンヌは、まるで昔の3Dダンジョンゲームでも攻略しているような印象を持って懐かしく思ったが、その手のゲームを知らない3人は困惑気味に、

 

「こんな同じような道が続いてたら、どこを歩いてるのかすぐにわからなくなっちゃうよ」

「大丈夫、私この手のマッピングは得意なのよ。ちゃんと脳内に保存してあるから、安心して進みましょう」

「本当か? 流石ジャンヌ、お前は本当に凄いやつだな」

「あら、褒めてくれるのは嬉しいけれど……それより、来たみたいよ!」

 

 ジャンヌが剣を抜くと、通路の先の暗がりから、複数体の魔物が飛び出してきた。巨大な昆虫に、爬虫類のような見た目の化け物、そしてゴブリンの姿もある。低レベルの冒険者が間違って入ってしまったらひとたまりも無いだろうが、流石にこの程度の魔物に遅れを取るような勇者パーティーではなかった。

 

「ファイヤーボール!」

 

 メアリーの先制攻撃がゴブリンに直撃すると、炎が上がって一瞬だけ迷宮内を明るく照らした。その明かりを頼りに、ジャンヌとサムソンの前衛二人がモンスターの群れに飛び込んでいく。

 

 ルーシーは、二人に次々となぎ倒されるモンスターの向こうに、一瞬だけファイヤーボールに照らされて見えた矢をつがえるゴブリンを発見し、咄嗟に手にした杖をかざした。

 

 後衛を狙っていたその矢は、術者であるメアリーに向かっていたが、ルーシーの魔法具で軌道が逸らされて明後日の方向に飛んでいった。メアリーは彼女にお礼を言うと、もう一発のファイヤーボールをそのゴブリンにお見舞いしてやった。

 

「油断するな! お次の団体さんがお出ましだ」

 

 第一陣を片付けてホッとしたのもつかの間、すぐにサムソンの声が迷宮に響き渡った。それに呼応してジャンヌがすかさず後ろに怒鳴った。

 

「ここは私たちだけでも、まだなんとかなるわ! メアリーはMP温存も考慮して!」

 

 その言葉に、今まさに魔法を使おうとしていたメアリーの体がびくっと震える。ルーシーはそんな彼女に鳳から預かったウエストポーチを預けると、

 

「中に鳳くんがMP回復に使ってたクスリが入ってるよ。いざとなったら使って」

「わかったわ」

 

 前衛の二人は、狭い空間であるにも関わらず、後衛の二人を守って器用に連携しながら戦っていた。ルーシー達はそんな二人の邪魔をしないように、敵から距離を取ろうとして一歩退いた。と、その時、後退する彼女らを追って数匹の魔物が前衛二人の間を突破してきた。

 

「スタンクラウド!」

 

 しかし、そんな前衛と後衛の間に出来たスペースに、メアリーがクラウド魔法を設置することで、それ以上の接近を防いだ。いつもならここにギヨームが陣取り、敵の突破を許さないのだが……

 

 ルーシーは、今のままじゃ自分は足手まといにしかならないと思い、何か出来ないかと考えて、杖をかざして目を閉じた。

 

「ららら~、戦う~君の流す汗と血潮~、素敵~わたーしの心~ときめかすー、強い強さー、力があふれーるみんなの元気~、仲間ーがいるから頑張れる~のよ~、るるるー」

 

 何を歌ってやがるんだあの女は……? 戦闘の最中に、突然のんきな歌声が聞こえてきて、ルーシー以外の3人は思わず脱力しかけた。ところが、実際には脱力するどころか、何故か力がみなぎってきて、彼らは今なら何でも出来るような、物凄いやる気に満ち溢れるのであった。

 

 特に前衛二人の動きは見違えるように良くなり、ギアが一段も二段も上がったような切れ味鋭い動きで、バッタバッタと敵を屠りだした。ジャンヌの動きは速すぎて、この暗がりでは目で追えないほどだった。

 

 サムソンは急に体が軽くなり、自分の体重が消えてしまったかのような、不思議な感覚を覚えた。そして今ならば師父の言っていた功夫を実践出来るのではないかと思い、戦いの中で彼の教えを反芻しながら戦ってみようと考えた。

 

 回転し続ける独楽のように、決して止まらず、常に次の動きをイメージして、丹田に意識を集中しながら動き続けるのだ……すると突然、体の中心から外に向かって何かが走り抜けるような感覚がして……次の瞬間、彼の打ち出した拳から信じられない力が発揮された。

 

 その時、魔物を捕らえたサムソンの拳には、反動が全く感じられなかったのである。まるで雲でも叩いているかのようだった……なのに、叩かれた魔物の方は、ダンプカーでも衝突したかのように、信じられない速度でギュンと加速しながら飛んでいったのである。

 

 まるでビリヤードの玉みたいに、周りの敵を巻き込みながら、壁に叩きつけられた魔物が絶命する。

 

 自分がやったことが信じられず、サムソンは動きを止めて自分の拳を凝視した。するとまた、ずしりとした体の重さが戻ってきてしまい、彼はしまったと顔を歪めた。どうやら集中力が途切れてしまったようだ。

 

 せっかく掴みかけていたのに勿体ない……彼はフーっと大きく深呼吸してから丹田に意識を集中すると、また今の動きを再現しようと、魔物の群れの中で戯れる独楽のようにクルクルと回り始めた。

 

 その糸をひくような滑らかな動きは、傍目には緩慢にしか見えなかったが、彼が魔物の群れの中でゆっくりと移動する度に、襲いかかろうとした魔物が面白いようにどこかへ吹き飛んでいく。

 

 ジャンヌの目にも留まらぬ素早い動きと、サムソンのゆったりとした動作は対照的であったが、まるでダンスを踊っているかのように、不思議と二人の呼吸はピタリと合っていた。魔物の群れはそんな二人の前に成すすべもなく、次々と打ち倒されていくのだった。

 

*********************************

 

 魔物の襲撃も一段落がついて、迷宮に静寂が戻ってきた。4人は連戦を避けて、一旦、入り口の広場まで戻ってくると、キャンプを張った。

 

 流石に、300年間も冒険者を退け続けただけあって、この迷宮は一筋縄ではいかなそうだ。この中がどのくらい広いのかはまだ見当もつかないが、今度はもっとメアリーの魔法を効率的に使っていかないと、最深部までたどり着くことは出来ないだろう。そんな風に、作戦会議とMP回復休憩を兼ねて焚き火を囲んでいると、サムソンがルーシーのところへ寄ってきて言った。

 

「さっきのあれは何だ? 現代魔法の一種なのか」

「さっきのって? ……あー、バトルソングのこと?」

「バトルソング? あれが?」

「うん、スカーサハ先生に習ったんだ。それまで強化魔法は、一人にしか掛けられなかったんだけど」

 

 サムソンは、感嘆のため息を吐きながら、

 

「そうか……スカーサハのバトルソングなら掛けてもらった経験があるが、今日のおまえのは少し違ったな。妙に体の力が抜けるというか、強張っていた体から無駄な力が取れたというか……そう、リラックス出来たんだ」

「そうなの? 私は強くなれーっ! って思いながら歌ってたんだけど。あまり役に立たなかったかな……」

 

 するとサムソンはとんでもないと首を振って、

 

「いいや、戦いの最中にリラックス出来るというのは凄く重要なことなんだぞ。普通はみんな目の前の敵に集中する余り、こう視野が狭くなっていく……だが、おまえの魔法でリラックス出来たお陰で、今日はずっと全周囲に意識を集中しながら戦い続けることが出来た。常に次に繋がる動きを予測し、先の先を取り続ける。滞ることのない動きが実現出来たのだ」

「そう言えば、サムソンさん途中からなんか凄かったね。いつもと違って動き自体は優しい感じなのに、敵に対しては容赦ないっていうか……まるで重さがないみたいに飛んでっちゃったね」

「うむ、自分でも驚いているのだ……あれが、気の流れというものなのだろう」

「気……?」

 

 ルーシーの視線が胡散臭いものでも見るような目つきに変わっている。サムソンは、おまえには言われたくないと言いたげに苦笑混じりに、

 

「つい先日、俺は新たな師に教えを受けたのだ。気とは人間誰もが内に秘めたる力のことで、その流れをコントロール出来れば超常の力を発揮することが出来る。師父は、それは功夫を積むことで体現できると言われ、俺に呼吸法と型を伝授してくれた。最近俺は、それにひたすら打ち込んでいたのだが……さっきのあれで、何かを掴めたような気がする。おまえのお陰だ」

「私は特に何もしてないけど……」

「おまえの魔法のお陰で、今までどうしても拭いきれなかった、戦闘中の力みのようなものが消えたのだ。あれが切っ掛けとなって、その後の動きに繋がった。もしかすると……現代魔法と気功は同じ系統の技なのかも知れないな」

 

 サムソンはそう言うと、両手のひらを天に向けてかざし、

 

「例えば、神人の使う古代呪文は、空気中のマナを体内に取り込んで、溜め込んだマナを一気に放出する感じだろう? そのマナの量がMPという数値に表れている。対して、現代魔法はMPを使わず、人間が内に秘めた力のみによって実現している」

 

 彼はおへその辺りに手を当ててぐるぐる回し、

 

「気も同じだ。気は、元々人間が体を動かすために使っている力を、丹田に集中することで増幅し、驚異的なパワーを発揮する。丹田から全身に向けて流れる龍脈を通じて気を循環し、例えるならゼンマイを巻くように力を溜め込み、それを一気に放出するのだ。

 

 ところが、力むとその流れが途切れてしまうから、師父は勝敗に拘泥せず、ひたすら先の先を取り続けろと言ったのだろう。敵に対する恐怖心を捨てて、集中するにはそれも一つの方法だ。だが今日、俺はおまえの魔法のお陰で、知らずしらずの内にリラックスすることが出来た。そのお陰で気の流れを掴むことが出来たようだ」

「なんか分からないけど、役に立ったなら良かったよ」

「ああ、感謝する……ところで、バトルソングというのは、対象者のステータスを向上させるスキルだったはずだが、おまえのは少し毛色が違うな。いや、ステータスもちゃんと上がっていたようだが、それ以上に精神面への効果を強く感じた」

 

 ルーシーとサムソンの会話を横で聞いていたジャンヌが割り込んでくる。

 

「私もそれは何となく感じていたわ。バトルソングを聞くと、敵に対する恐怖心が薄れるのは同じなんだけど、ルーシーのはちょっと違った。それに……先生のは、もっと荘厳な感じじゃなかったかしら? 聞いているだけで、グイグイ力が湧き出してくるような。そう、オペラみたいな感じね……あなたのは何か、その、脱力系というか、ポエミーよね? あの歌詞はなんだったのかしら。あれも先生が教えてくれたの?」

「違うよ。あれは私が考えたんだ。格好良かったでしょう?」

 

 ルーシーは自信満々に胸を張っている。ジャンヌがなんて言って良いか分からず黙っていると、彼女は親指と人差指で拳銃のような形を作り、それを自分のこめかみに当てながらウンウンと唸って、

 

「えーっと……おじいちゃんに言わせれば、共振魔法(レゾナンス)は音を使って、場の空気とか、他人の元気とかをコントロールする魔法らしいのね。それを普通は音楽を使って行うんだけど、やり方さえわかれば、おじいちゃんみたいに歌を歌ったり踊ったりしなくても、共振魔法は使えるんだ」

「そうだったの?」

「うん。私は最初、おじいちゃんにその方法を教わってたんだけど、座学が苦手で結局最後まで良くわからなかったの。それで、先生に師事するようになってからは、歌を歌う方法に変えていったんだよね。先生が言うには、音楽は生まれつきの才能にかなり左右される分野らしいんだけど、私はそっちの方が向いていたってわけ」

「ふーん……でも、先生に習ったってわりには、先生のとは全然似てないじゃない?」

「習うって言っても、模倣するのとは違って、全く同じことをやっても駄目なんだよ。人には人それぞれのやり方があるんだ」

 

 ルーシーはそう言うと、今度は両方の人差し指を使って自分の目尻を吊り上げながら、

 

「例えば、こんな風に目を吊り上げて怒ってる人の顔を見ると不安になるでしょう? 逆にこうして目尻を下げて、笑った顔を見てると落ち着く。見た目一つで、他人の心もちょっとはコントロール出来ちゃうんだよ。

 

 現代魔法はそれを強制的に、より強く行うものだから、術者のテンションや他人の精神状態に凄く左右されるの。私が楽しい気持ちでいれば、相手も楽しくなる。バトルソングはみんな強くなれーっ! って気持ちで歌ってるから、その気持ちがみんなに伝わってパワーになるのね。

 

 あの歌はそれを効率よくみんな伝えるために、私が作ったオリジナル曲なんだ。鳳くんとネウロイに行く途中、ずっと暇だったから一生懸命考えたんだよ」

「そ、そうだったんだ……ふーん」

 

 そうして生まれたあんな脱力系ポエムが信じられない効果を発揮するのだから、現代魔法は自分には一生理解出来ない分野だろうとジャンヌは思った。しかし、彼女はルーシーの説明の中から少し納得できない点を見つけ出し、

 

「あれ? でも……共振魔法が、歌を使って他人の心をコントロールするのはわかったわ。でも、それなら不可視(インビジブル)の魔法はどうなの? 私はあなたが歌った場面を見ていないわ。寧ろ、そんなの見ていたら、見失いようが無さそうよね」

「うん、これはどっちかと言うと、他人じゃなくて自分にかける魔法なんだよね。なんていうか……ひたすら私は誰にも見えない、音を立てても何も聞こえない、感じ取れない……自分が植物や路傍の石ころになっちゃったみたいに、自己暗示をかける感じ。そう考えると、さっきサムソンさんが言ってた、気と似たようなものかも知れないね」

「へえ~……」

 

 彼女の場合、更にそれをパーティーメンバー全員に掛けているのだ。ルーシーとは長い付き合いであるが、今まであまり感じたことは無かったが、もしかして、才能だけならパーティー内でも随一なのかも知れない。

 

 自分は最初から高レベルの上に神技まで使えて、だいぶ下駄を履かせて貰っていたのだ。そう気づき、ジャンヌが舌を巻いていると……そんな二人の会話を黙って聞いていたメアリーが、何かに気づいた感じで、おもむろに言った。

 

「ねえ、その不可視の魔法って、峡谷の迷宮で野盗に囲まれた時も、使っていたわよね?」

「そうだね」

「ってことは、その魔法はレオが教えてくれたわけよね?」

「うん」

 

 ルーシーが肯定するとメアリーは、ははあ……と、したり顔を作り、

 

「私、思ったんだけど……この迷宮って敵を倒しちゃいけないんじゃないかしら?」

「え……? どういうこと? 敵を倒さなきゃ、進めないじゃん?」

 

 ルーシー達が首を捻っていると、メアリーはMP回復用の草をクルクルしながら、

 

「今、私たち、この中に入って早速戦闘したわよね? それが思ったよりも激しくて、ジャンヌとサムソンでも捌くので精一杯で、私なんてすぐにMPが尽きちゃった。だからこうして入り口まで戻ってきたわけだけど……」

「そうね。これだけ敵が多いんじゃ、私たちであっても、よほど計画的に行動しなければ最深部にはたどり着けないはずよ。それを一人で攻略するなんて……流石タイクーン・レオナルドよね」

 

 ジャンヌが感嘆のため息を漏らすと、メアリーはブンブンと首を振って、

 

「それよ。ちょっと思い出して欲しいんだけど、レオって私たちと一緒に行動していた時、殆ど戦闘に参加してなかったわよね?」

「そうね……ご老人の手を煩わせるのはいけないと思って、積極的に私が倒すようにしてたんだけど……」

「うん、ジャンヌはそう思ったんでしょうけど、そうじゃなくて、実はレオは元々戦闘がそんなに得意じゃないのよ」

「え? そうなの?」

 

 メアリーは頷くと、

 

「もしもそうなら、少しは戦闘に参加してるでしょう? レオは確かに禁呪を使えるけど、MPを大量消費するからって、普段は古代呪文を使おうとしなかったわ。そして彼の得意な現代魔法は、弟子のルーシーを見てれば分かるけど、直接攻撃を得意とするものは少ない。そう考えると、彼はツクモと同じで、直接戦うんじゃなくて、戦術のアイディアを出す参謀タイプだったのよ」

「言われてみれば……でも、それじゃあ、彼はどうやってこの迷宮を攻略したと言うの?」

「きっと不可視の魔法を使ったのよ」

 

 メアリーの言葉に、その場の全員があっと驚きの声を上げた。そう考えれば、彼がたった一人で迷宮を攻略出来た理由が分かる。

 

「レオは不可視の魔法を使って、敵に気づかれないように迷宮の奥まで行ったのよ。そしてそこにあったお宝を手に入れて、帰ってきたんじゃないかしら。これは本人に聞いたわけじゃないから正しいかどうかわからないけど……今やれる最善の方法だと思うし、やってみる価値があると思うわ」

「そうね、どうせまともに攻略しようとしても無理そうなんだから、試すだけ試してみましょう。ルーシーにばかり負担をかけることになるけど、いいかしら……?」

 

 ルーシーは、自分が一番足手まといになると思っていたのに、思いがけず仲間に頼りにされたことに気を良くし、

 

「任せて! 私、おじいちゃんにも、逃げることにかけては天下一品って言われてるんだから!」

 

 褒められてるんだか貶されているんだか良くわからない言葉を口にすると、彼女は満面に笑みを浮かべた。

 



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物質と精神の境界

 敵から身を隠す現代魔法は二種類ある。一つは、不可視(インビジブル)の魔法で、文字通り敵から姿を見えなくするものだ。これは光学迷彩みたいなもので、実際には見えているのだが、あたかも対象が背景に溶け込んでいるかのように、視覚的に見えなくなってしまうという魔法だった。

 

 それに対しもう一つは、認識阻害(インコグニション)。こっちは簡単に言えば、視覚や聴覚などの五感を誤魔化すもので、例えば目の前にいる術者が人間ではなくて蟻のように見えたり、話している会話の内容がただの風音に変わったり、例えば犬のように鼻の利く動物に対しては、術者の臭いが危険性のないありふれたものに感じるように、対象の認識を変えてしまうものだった。

 

 これらはどちらが強力ということもなく、状況によって使い分けるか、もしくは複合的に使うようなものだった。不可視は、こと視覚に関しては完全な隠蔽が可能であるが、臭いや音でバレてしまう危険が残っており……認識阻害の方は、注意深く観察されてしまうと簡単に見破られてしまうという欠点があった。

 

 実は、ルーシーは最初からその両方を複合的に使っていた。本人は全く意識していなかったのだが、彼女の現代魔法はレオナルド直伝であるから、普通の術者よりも強力なものを最初から使っていたのだ。

 

 おまけに、認識というものは本人の素質が関係しており、例えば目が見えない人には、不可視の魔法自体が想像すら出来ないように、術者本人の認識力の違いによって、魔法の精度は変わってくる。例を挙げれば、犬は非常に嗅覚が優れているが、人間はそれがどのくらいであるかをイメージ出来ないために、認識阻害の魔法をかけても、案外発見されやすいわけだ。

 

 ところが、ルーシーは1/4が獣人であるため、夜目が利く上に鼻も犬並みと非常に優れていた。そのため、レオナルドと同じ魔法を使っていても、師匠よりも強力な隠蔽が可能になっていたわけである。

 

 そんな彼女の強力な不可視魔法があったお陰で、一行は4人揃って迷宮を進むことが出来た。MPを使わない現代魔法であっても集中力は必要だから、本来だったら一人で行動したほうがよっぽど良いのだが、彼女は苦もなく仲間と共に隠密行動が可能だった。

 

 とは言え、足手まといを3人連れているというわけでもなく、なんやかんやみんなそれぞれ役には立っていた。

 

 ダンジョンは階層が複数あり、おまけに階段を昇ったり降りたりしながら進むという、複雑な構造をしていたが、これにはレトロな3Dゲームをやっていたジャンヌのマッピング能力が非常に役に立った。

 

 彼女は一見して同じにしか見えない迷宮の構造を、全て記憶することが出来たのだ。もしも彼女がいなければ、ルーシー一人では同じ場所をぐるぐる回ってしまい、先に進めなかっただろう。

 

 また、案の定と言うか、迷宮は奥に進めば進むほど敵の数も増えていった。入ってすぐにあれだけの戦闘をこなしたにもかかわらず、奥にはもっと大量の敵が待ち構えていたのだ。

 

 一行は不可視の魔法で姿を隠してはいたが、敵に接触したら流石に気づかれてしまう。そのため、跳梁跋扈する魔物たちの間を注意深く進んで行くしかないのだが、ただでさえ四人の姿を隠蔽している上にそんなことにまで気を配らねばならないルーシーは、段々と気疲れが目立ち始めた。

 

 そしてそんな時、彼女の集中力が途切れて、ふいに戦闘になることがあったのだが、こういう時は即座に範囲魔法が使えるメアリーは頼りになった。彼女のクラウド魔法で大半を無力化したあと、前衛の二人が残った魔物を撃破する。その間に、ルーシーは体勢を立て直して、また不可視の魔法を使い先に進む……

 

 そんな薄氷を踏むような行軍をずっと続けているわけにもいかないので、途中、休憩用に魔物が居ないスペースを確保しなくてはならなかったが、そんな時はサムソン、ジャンヌのコンビは八面六臂の活躍を見せた。

 

 袋小路なっている道を見つけて、その手前の魔物を片付ける。そうやって安全を確保した一行は、ようやく腰を下ろして人心地をついた。ルーシーは腰を下ろした瞬間に、即座に襲ってきた眠気に抗いながら、ため息交じりに言った。

 

「やっぱ、おじいちゃんは凄いなあ……こんな迷宮を一人で攻略したなんて」

「まったくね……敵に見つからないように行動するだけじゃなく、この複雑な迷路も突破しなきゃいけないんだから、ちょっと信じられないわね。つまりタイクーンはこれを、休憩も取らずに一気に駆け抜けたわけでしょう?」

「私一人じゃ絶対に無理だったよ。みんなについてきてもらって良かったあ~……」

 

 ルーシーは感謝の言葉を述べながら、うつらうつらと船を漕いでいる。その姿を見るからに、そろそろ限界のようだ。ジャンヌたちはお互いに頷きあうと、

 

「ルーシー、ちょっとだけなら大丈夫だから、魔法を解いて少し眠ったら?」

「大丈夫……って言いたいところだけど、ゴメン。30分くらいでいいから、ちょっと横にならせて?」

「ええ、あなたが眠ってる間は、絶対にこの場所を死守するから、私たちを信じて安心して眠ってちょうだい」

「それは……もちろん……信じてる……」

 

 ルーシーは掠れるような小さい声でそう呟くと、そのまま寝落ちするように地面に吸い込まれていった。

 

 その瞬間、さっきまで静かだった通路の先に、魔物の気配がし始めた。

 

 これだけの魔物すべてから、4人が見つからないように隠蔽し続けていたのか……ルーシーは師匠が偉大だと言っていたが、彼女自身も十分に凄いとジャンヌたちは舌を巻いた。

 

 それにしても、最後に別れた時から見違えるように強くなっている気がする……ネウロイ行きが転機となって、彼女もまた成長したというのだろうか。これは負けられないなと気合を入れ直して、ジャンヌたちは彼女に一時の安らぎを与えるために、魔物の群れに飛びかかっていった。

 

********************************

 

 そんな具合に休憩を挟みながら、一行は少しずつ迷路を攻略し、ついにダンジョンの最深部に到達した。それは頭の中に完全な地図を作り上げたジャンヌが、総合的に判断して間違いないと太鼓判を押しただけでなく、ひと目見ただけで誰もがここが終点だと分かるような場所だった。

 

 そこは今までの画一的な通路とは打って変わって、巨大な空間が広がっており、その中央にはこれまた巨大な穴が開いていて、その中に大量の魔物が蠢いていたのである。

 

 穴の中の魔物たちは時にお互いに殺し合い、犠牲となった個体の血肉を奪い合ってその中で生き続けている……まさに蠱毒と言うに相応しい場所だった。

 

 そして、強烈な臭気とおぞましい鳴き声が反響する穴の中央には、まるで塔のように突き出た小高い丘があった。それはほぼ垂直の崖になっており、穴の中の魔物たちが登ってくるのを阻んでいたが、その気になれば他の魔物を蹴落として登ってこれるような、絶妙の高さだった。

 

「ねえ、あれを見て!」

 

 そう言ってジャンヌが指さした丘の上には、いかにも意味深な椅子がぽつんと一脚だけ置かれていた。その椅子の向こう側には、丘に通じる唯一の吊橋が架っており、それは穴の外周に沿って作られたキャットウォークみたいに細い通路の先に繋がっている。

 

 吊橋は今にも落ちそうなくらいボロボロで、4人同時に渡るのは危険そうだった。いやらしいことに、橋は部屋の入り口から丁度反対側の位置にあり、まるで細い通路を通ってここまで来いと迷宮の主が言ってるようだった。これらの状況から推察するに、おそらくこの迷宮の終点はこの部屋というより、あの椅子なのだろう。

 

 だが、あそこまで行くのは相当度胸が必要そうだ……出来れば率先して行きたくはない。ジャンヌ達がお互いにそんな顔をしながら、どうしようかと目配せしていると、メアリーが進み出て言った。

 

「別にあの吊橋を渡る必要は無いわ。これだけ広ければ空を飛んでいけるもの」

「そっか、メアリーの古代呪文(レビテーション)があったわね」

 

 それなら4人同時にあそこまで行ける。彼らは喜々として中央の丘まで飛ぼうとした……ところが、その瞬間、彼女の魔法で巻き上がった風に反応して、穴の中の魔物たちが騒ぎ始めた。

 

 レビテーションは風圧で空を飛ぶため、どうしても室内では目立たずに居られないのだ。どうやら、この一回だけで、穴の中の魔物たちはメアリー達の姿に気づいてしまったようである。

 

 魔物たちが奇声を発し、物凄い勢いで壁を登ろうとし始める。メアリーは慌てて魔法を解除し、ルーシーがまた調子っぱずれな歌を歌って、どうにか不可視の魔法をかけ直す……

 

 魔物たちは風が収まってからも暫く大騒ぎをしていたが、やがてどこかで不運な個体が犠牲になると、またその屍肉を求めて争い始めたようだった。

 

「……ごめん、危うく全滅するところだったわ」

「みんな予想できなかったんだから仕方ないわよ」

「でも、困ったわね。せっかくここまで来たというのに、このままじゃゴールに辿り着けないわ」

 

 メアリーはがっくりと項垂れている。今の反応からするに、正規ルート以外の方法で島に渡ろうとしたら、また穴の中の魔物に見つかってしまうだろう。だが、吊橋を渡れるのはせいぜい一人ずつが限度であり、全員で渡るのは正直現実的ではない。

 

 と言うか、この中で中央の島に行けるとしたら、ルーシー以外にはあり得なかった。何しろ、彼女以外に不可視の魔法を使える者はおらず、そんな彼女から離れてしまえば魔法は解けてしまう。

 

 彼女が居ない間は、部屋の隅に隠れてやり過ごすことは出来るだろうが、彼女から離れて吊橋を渡ろうとしたら、下の魔物に反応されて、ものすごい勢いで襲われるだろう。それは誰もが理解していた。

 

 だから、自然と視線がルーシーに集まっていった。他の3人が表情を窺う中、彼女は額に汗をびっしょりとかき、緊張した面持ちで下唇を噛み締めながら、じっと島の上にある椅子を見つめていた。

 

「……せっかくここまで来たとはいえ、命をかける必要までは無いわ。残念だけど、引き返しましょう」

 

 そんな強張った表情のルーシーを慮って、ジャンヌが優しく言った。しかし、ルーシーは首を振ると、

 

「そうしたいのは山々だけど、命がかかってるのは私だけじゃないんだよ。忘れたの? ここには鳳くんを助けるために来たんだって」

「でも、白ちゃんなら最悪死んでも生き返れるかも知れないじゃない。なんでか知らないけど、彼は勇者召喚で蘇るらしいから。もしかしたら、そうやって連れ戻すのが最善かも知れないわよ……?」

「でもそれは、鳳くんが死ぬほどひどい目に遭うってことでしょ……しかも、絶対とは言い切れない。何の保証もないんだよ。だから、やれることはやっとかないと」

「……本当に行く気?」

「うん」

 

 ルーシーは、ふぅ~……っと長い溜息を吐いてから、額の汗を腕で拭った。どうやら覚悟は決まっているらしい。ジャンヌたちは目配せし合うと、

 

「……それじゃあ、俺たちは下の連中に気づかれないように、部屋の隅っこでおとなしくしているぞ」

「私たちの心配はしなくていいからね。あと、何かあったら、全力で助けるから心配しないで」

「もしも下に落っこちちゃったら、すぐにスタンクラウドを連発するから! ……すっごく痺れるかもだけど、恨まないでね?」

 

 彼らは三者三様にルーシーの背中を押した。彼女はそんな仲間たちに勇気をもらうと、ぱちんとほっぺたを叩き、気合を入れ直してから、ゆっくりと崖に張り付くように、細い通路を歩き始めた。

 

 道は細く、前を向いて歩くことは出来ないから、崖に顔を向けてカニのように歩いた。下を見ると蠢く魔物の影に怯えなくてはならなかったが、足元を見ないわけにもいかないから、必死に気にしないようにしながら進んだ。

 

 部屋は広くて、見た目以上に道程は長かったが、どうにかこうにかその狭い通路を抜けた彼女は、今度は今にも崩れ落ちそうな吊橋に取り掛かった。今度も足元を見ないと板を踏み外してしまいそうで、嫌でも下で蠢く大量の魔物に目を奪われた……

 

 だが、恐怖を抱いてしまったらそこで終わりだ。一瞬でも気を抜いて、不可視の魔法が途切れてしまえば、また一斉に魔物たちは暴れだすだろう。認識阻害の魔法が不十分であれば、彼女の美味しそうな臭いに釣られて、あの仲間を貪り食う連中が押し寄せてくるに違いない。

 

 額から流れ落ちた汗が顎の先から落ちそうになる。もしもそれが橋の下まで落ちしたら、その瞬間に彼女の存在がバレてしまうかも知れない。冷や汗をかくのも、ため息を吐くのも、今の彼女には許されなかった。

 

 彼女は恐怖心を克服するためにも、ひたすら無心で一歩一歩踏みしめるように前に進んだ。

 

 そしてようやく中央の島に到達した瞬間、彼女は全身がガクガクと震えだした。それは恐怖心から来るものではなく、あまりにも疲れ果てていて力が入らないからだった。こうしてここまで来たは良いが、また同じ道を通って帰れるのだろうか……? そう考えると気が遠くなりそうになったが、対岸でこちらを心配そうに見つめている仲間の姿を見て、彼女はどうにか踏み止まった。

 

 目の前には、何の変哲もない椅子がぽつんと置かれている。近づいて見たら何かあるだろうと思っていたが、こうして実際に近くに来ても、それは何もおかしなところがないただの椅子にしか見えなかった。

 

 周囲をぐるりと一周し、背もたれをグイグイ押してみてグラつきが無いのを確認すると、彼女は座面をパタパタ叩いてから、そっとそれに腰掛けてみた。

 

 いきなり壊れたりしないかとちょっとヒヤヒヤしたが、別にそんなこともなく、背もたれに体重をぐっとかけても椅子はびくともしなかった。こんな部屋の中心に意味深に置かれてあって、絶対に何かあると確信していたのに、ここまで来て何も起こらないなんて……彼女は肩透かしの結果に困惑した。

 

 これからどうしようか……何も無かったと報告するために、またあの細い道を通って戻ったほうがいいのだろうか? 自然とため息が漏れそうになる……

 

 だが、少しでも気を抜いたら魔物に気づかれてしまうだろう。彼女はそうならないよう、出来るだけ穏やかな気持ちで、椅子に腰掛けたまま、瞑想するように、己の存在を消すことに集中していた。

 

 と……その時だった。

 

 じっと気配を消すことだけに集中していたからだろうか? 唐突に、そして速やかに、彼女の耳から周囲のざわつきが薄れていった。あまりにも集中しすぎて周囲の音が遮断されるということがあるが、そんな感じだろうか……彼女は自分の意識が現実から隔絶されていくのを感じた。

 

 それが思ったよりも心地よくて、まるでぬるま湯に浸かってるような錯覚を覚えた彼女は、ここに来るまでに払い続けていた緊張感を解すように、じっとその感覚に意識を集中した。

 

 音はどんどん遠ざかっていき、辺りは静寂に包まれる……

 

 彼女はこうなってくると段々煩わしくなってきた視覚情報をも消すために、敵のど真ん中だというのを忘れて目を閉じた。ところが、普通なら目を閉じたら真っ暗になるだろう視界が、何故かその時は真っ白く染まっていた。それはまるで眩い光の中にいるかのようだった。

 

 音もない真っ白な世界に彼女は一人ぼっちだった。いくら集中力を発揮したからってこんなことにはならないだろう。もしや、これは迷宮の仕掛けか何かだろうか。彼女は不思議に思って目を開いた。

 

 すると彼女が目を開いたにも関わらず、視界は相変わらず真っ白だった。白くて何もないだだっ広い空間に、彼女はぽつんと椅子に腰掛けていた。さっきまであれだけいた魔物は一匹もおらず、ついでに仲間の姿もどこにも見えない。

 

 ポータル魔法みたいに場所が変わってしまったのだろうか? それとも、幻覚を見ているのだろうか……彼女は椅子に腰掛けたまま、じっと周囲の様子を窺った。

 

 と、その時、彼女の耳に、微かな物音が届いた。それはカツカツと地面を蹴る足音で、背後から徐々に彼女の方へと近づいてくる。普通ならその足音に驚いて振り返りそうなものだが、不思議とその時の彼女には、それが危険なものには感じられなかった。

 

 足音はどんどん近づいてきて、やがてはっきり耳に届く距離までやってきた。音は彼女が座る椅子を迂回するように移動して、ついに彼女の目の前へと回り込んだ。

 

 ぼんやりとその足音を聞いていたルーシーは、その時になってようやく顔を上げ、自分の前に佇んでいる者の顔を見た。するとそこには飾り気のない灰色のローブを纏い、左右に大きくて丸いガラスの入ったゴーグルと、奇妙な鳥の嘴みたいなマスクを被った男が、ぬっと彼女を見下ろすように立っていた。

 

 光が反射して眼鏡の中は見えず、それがまるで巨大な鳥の目のようだった。男は見上げるルーシーにも見やすいように、手にした椅子を掲げると、

 

「座ってもいいかい?」

「どうぞ」

 

 彼女がそう返事をすると、男は持ってきた椅子を地面に置いて、まるで食卓につくような気安さで、彼女の対面に腰を下ろした。

 



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アストラル界

 真っ白い世界の中で、ルーシーは奇妙なマスクを付けた男と二人きりだった。普通なら恐怖を覚えそうな状況だと言うのに、彼女は不思議と恐れを感じず、当たり前のようにそれを受け入れていた。

 

 男の纏っている飾り気のない灰色のローブは体の輪郭を隠し、まるでその下には何もないような、そんな印象を与えていた。そして、そのマスクの大きくて丸い風防はともかく、その鳥の嘴みたいに尖った口元は何のために付いているのかさっぱりで、彼女は目の前に男が座るや否や、開口一番こう言った。

 

「もしかして……鳥人間!?」

 

 男は椅子に座るやがっくりと肩を落とし苦笑いすると、

 

「違う違う。これはペストマスクって言うのさ。ヨーロッパで何度も流行した死病があってね? 僕はそれ専門の医者をしていたんだ」

 

 彼はそう言うと、頭に被っていたマスクをあっさりと脱いでしまった。こんな登場の仕方をしたのだから、てっきり顔を隠したいのかと思いきや、案外そうでもなかったらしい。

 

 マスクの下から出てきたのは、灰色の瞳が印象的で顎がシャープな優男だった。年は20代か30代と若く見えるが、落ち着き払ったその姿にはどことなく貫禄があり、もしかすると見た目通りの年齢ではないのかも知れない。だが、耳が尖ってはいないので神人ではないようだ。

 

 そんな印象はともかく、ルーシーは彼の言葉に耳慣れたものがあることに気づいた。

 

「ヨーロッパって……確か、放浪者(バガボンド)の故郷だったよね? もしかして、あなたもそうなの?」

 

 すると男はよく知っていたなというような感心する素振りを見せながら、

 

「どうかな。僕は放浪者とはちょっと違うかな。けど、彼らと同郷なのは確かかな」

 

 同郷だけど放浪者じゃないとは、どういう意味だろうか……? ルーシーは疑問に思ったが、それを尋ねるよりも前に、まだお互いに名前すら名乗ってないことに気づき、

 

「あ、ごめんなさい。いきなりだったからちょっと驚いちゃって、まだ挨拶もしてなかったよね。私はルーシー、あなたは? ここで何をしてるの?」

 

 すると男は唇の端を釣り上げるだけの独特な笑みを見せながら、

 

「ミッシェル・ド・ノートルダム。多分、この迷宮の主ってやつさ」

「多分……? 何だか、さっきから曖昧な返事ばかりね。えーと、ノートルダムさん?」

「ミッシェルでいい」

「じゃあ、ミッシェルさん。あなたは放浪者じゃないけど、彼らと同じ故郷なんだよね? それってどういうことなの?」

 

 するとミッシェルは少し難しそうな表情を作り、自分の顎を擦りながら、

 

「ふーむ……それは少し説明が難しいんだ。放浪者というのは、元々この惑星に生まれた人間の体に、魂だけが憑依した人たちのことだろう? 僕はそんな手順は踏まなかった。最初からアストラル体としてここに……君たち風に言えば迷宮か。迷宮になった」

「……そんなことってあるの? 迷宮って確か、死んだ人のクオリア? ってものが、この世に現出するとかなんとか、そんなんじゃなかったっけ」

 

 ルーシーが困惑気味に眉を顰めると、彼は苦笑しながら、

 

「そうだね。でも別に死ななくてもいいんじゃないかな。クオリアは生きている人間であれば誰にでも存在する。それを物理的に触れられる形にしたものもまた迷宮と呼べるんじゃないか」

「……まさか、ミッシェルさんはまだ生きているっていうの?」

「うーん……それもまた難しい。地球にあった肉体ならとっくに滅びたよ。だけど僕は死んではいない。生きている時から、既に永久不滅だった。そしてそれはこの宇宙が滅びぬ限り、君を含む人間全てがそうなんだけどね」

 

 ルーシーはそう言われてもまだチンプンカンプンだった。ただ、ミッシェルがはぐらかそうとして言っているわけではないことは、何となく理解していた。恐らく、彼は彼女とは全然違う世界観の国からやってきたのだろう。鳳も時折そういうところを見せた。生まれてきた時代も世界も違いすぎると、考え方に決して埋まらない溝のようなものが生まれてくるのだ。

 

 彼女が困惑気味に唇を引き結んでいると、ミッシェルは多分この話を続けても実りは無いと感じたのだろうか、話題を変えるように、

 

「それで、君はここへは何しに? 実に300年ぶりの来訪者だから、僕に出来ることならなんでもしてあげたいとこだけど」

 

 ルーシーはポンと手を叩いた。

 

「そうだった。ここへは魔法を習得したくて来たんだ。早速、教えてもらいたいんだけど……いいかな?」

「魔法……? それってどんな?」

「どんなって、古代呪文だけど……神人が使う。あれ? ミッシェルさんは使い方が分かるんだよね?」

「ふむ。超人たちが使ってるあれか……いや、僕にそんな力はないよ。それを教えてくれと言われても困るな」

「え!? そんなはずはないよ。おじいちゃんは、この迷宮を攻略したことで古代呪文を使えるようになったって、先生も言っていたし」

「おじいちゃん……先生……その二人はどんな人たちなんだい?」

「二人とも私の師匠なんだけど……おじいちゃんは先生の師匠でもあるんだ」

 

 ミッシェルはそんな説明では何もわからないと言おうとしたが、その時、彼は彼女が手にしている杖に気がついて、

 

「それは、カウモーダキー……ははあ。君はレオナルドの弟子だったんだね?」

「え? ミッシェルさん、この杖のことを知ってるの?」

「もちろん。それを彼に送ったのは、何を隠そうこの僕さ」

「これって元はあなたの物だったの!?」

 

 ルーシーは驚いてオウム返しに尋ねた。彼はそんな彼女に向けて大きく頷いて、

 

「うん。正確には僕のではなく、とある神にレオナルドに渡すよう託された物なんだけど。実を言うと、僕はそれを渡すために、彼がここに来るのを待っていたのさ。その役目を果たした今、もう二度とここに誰かが訪れることはないと思っていたんだけど……彼は何故、君にそれを託したんだろうか」

 

 ルーシーが自分の杖の由来を聞いて、あまりの事の大きさに唖然としていると、ミッシェルは続けて、

 

「ああ、ごめん。君たち風に言えば精霊と言ったほうが良いんだろうか。それは元々ミトラ神が使っていた武器だったんだ」

「精霊!? そんなこと一言も説明されなかったんだけど……この杖は、私が戦闘で役に立たないことが多かったから、おじいちゃんが集中力を失わないようにってくれたんだ。これを持ってれば矢とか飛び道具を弾いてくれるから、安心してみんなのサポートをしなさいって」

「ふーん……確かにそれには術者を守るためのシールドが付与されているけど、それは補助的な機能であって本来の使い方ではないよ。彼はそれを知っていたはずだけど……何故君に伝えなかったんだろう?」

「わからないけど……ねえ? それなら、本当はこれは何をするはずの杖だったの?」

「ああ……それはイマジナリーエンジンを搭載した形而上デバイスで、簡単に言えば、神の兵器と言うのが一番それっぽいだろうか」

「神の兵器……?」

「神は、あまねく世界を見通すことが出来る高次元存在のこと。つまりこれはその高次元に属する物で、次元を超えて並列世界と交信したり、虚数空間にコンパクト化されたエネルギーを引き出したり、空間を固定し新たな世界を構築したりと、まあ、一口に言ってしまえば、この世界に奇跡を呼び起こすために作られた、それはそれは大層な装置なんだ。故に、天使たちはそれを崇めて、福音(ゴスペル)と呼んでいた」

「き、奇跡……? 天使? 装置とか、福音って……ごめん、ちょっと何を言ってるのかわからない。ついていけないよ」

「この世界の話ではないから、理解できなくても仕方ないね……例えばヘルメスの兵器、ケーリュケイオンがあるだろう? それはあれと同等の物だよ。違うのは、それが製造された宇宙が別々ってことくらいのものさ」

「宇宙が別……? ううん、それより、これが鳳くんの杖と同じ……?」

 

 鳳の杖は、無尽蔵に物を吸ったり出したり複製したり、終いには真祖ソフィアの記憶を保存していたりと、確かに奇跡の力を持った武器だった。だから、これがその杖と同等の物と言われても、彼女はとても信じられなかった。何故なら、今までそんな気配は微塵も感じさせなかったのだ。

 

 彼女が困惑していると、ミッシェルはさもありなんと頷きながら、

 

「それは仕方ないね。道具というものは、何かの目的のために作られるわけだけど、その目的があまり一般的でないと、普通の人には宝の持ち腐れにしかならないだろう? 例えば、野球をやらない人にはバットはゾンビを叩くための道具にしかならないように、君は本来の目的に沿った使い方を知らないだけなのさ」

「何となく言ってることはわかるよ。じゃあ、この杖が作られた目的ってのは?」

「兵器というものは敵を倒すために存在する。それも同じさ」

「敵……」

「それは余剰次元に満ち溢れている第5粒子エネルギーを内部に蓄え、そのエネルギーを使って敵を攻撃するための装置だ。方法は使用者に委ねられるから、使い方次第では魔法のような超常現象を引き起こすことも可能だろう。君の師匠(レオナルド)が古代呪文を使えるようになった切っ掛けは、きっとそれを用いたからだろうね」

「でも、おじいちゃんが魔法を使った時は、これを持ってなかったと思うよ……?」

「別にこれに頼らなくても魔法は使えるんだよ。彼は現代魔法という超常現象のエキスパートだから。それを手放したということは、もう必要なくなったんだろうね」

「そっか……」

 

 ルーシーは何となく釈然としないものを感じながらも、自分の手にしている杖をしげしげと見つめながら、

 

「じゃあ、これを使えば私も古代呪文が使えるようになるのかな?」

「出来るだろうね。でも多分、今の君のままじゃ無理だ」

「……どういうこと?」

「神秘とは文字通り神の秘密のことを言う。奇跡を願う時、人はその方法まで願うだろうか? 結果しか求めていないんじゃないか? だから神は奇跡を起こす時、それを上手に隠すのさ。レオナルドは古代呪文を覚えたわけじゃない。(ことわり)を知ったんだ。君がこの杖を使いたいと言うのなら、まずは理を知らなければならない」

「理……」

 

 ルーシーは、なんだかレオナルドの座学を受けているような気分になった。それもそのはず、理とは宇宙の真理なのだから、二人とも結局は同じことを言ってるはずだからだ。

 

 まるで禅問答のような彼の言葉に、いつもなら逃げ出すことを考えているところだろうが、それでは何のためにここまでやって来たのか分からないので、彼女はぐっと堪えて少しでも彼の言葉を理解しようと努めた。

 

 ミッシェルはそんな彼女の不安そうな表情を見て苦笑いをすると、

 

「そんなに身構えなくても、こんなのはなんとなく分かればそれでいいんだよ」

「そうなの……? おじいちゃんのとこでは、いつも椅子に括り付けられてたけど」

「レオナルドはスパルタだなあ……理とは当たり前のこと。当たり前だから、今は分からなくても、そのうち何となく分かってくるよ。子供の頃まるで歯が立たなかった難問が、大人になったら何が難しかったのかすら分からないほど簡単になってたなんてことが、往々にしてあるだろう? それと同じことさ」

「はあ……」

「まずはリラックスして話を聞いてくれればそれでいい」

 

 ルーシーは半信半疑といった表情で見つめている。ミッシェルは、よほどトラウマになってるんだなと苦笑しながら、

 

「さて……それじゃあ、まずは当たり前のことから始めようか。今、君はどこにいる? さっきまで魔物蠢く大穴のど真ん中にいたはずだけど、あの空間はどこに消えた?」

「それは分からないけど……そういえば、ジャンヌさん達、みんなどこに行っちゃったの? みんな無事なのかな?」

「みんなここにいるから安心していい。ただ、君が認知していないだけさ」

「認知……私自身がみんなを見ないように意識してるってこと?」

「それは少し違う。今、君はあの空間とはまた別の空間にいる。認識が変わることで、君は相転移したんだよ。と言うのも、空間とはそもそも人間という観測者が作り出した幻のこと。ここは君が頭の中で作り出した幻想の世界なんだ。今、君は物質世界を離れ、アストラル体になってここに存在している。簡単に言えば、精神世界に迷い込んだみたいな状況だね」

「精神世界……? じゃあ、もしかして私の体は元の世界に残されたままなの?」

「その通りだ。でも勘違いしちゃいけない。ここも幻想なら、君が元いた物質世界も、また同じように幻想なんだ。実は僕たち人間とは、実態を持たないアーカーシャに記述された情報に過ぎないんだよ。アーカーシャとは物質世界と精神世界を分ける境界のことで、人間はその境界面に張り付いている情報(レコード)。その情報の写像が、即ち物質界にある僕たちの肉体なんだ……」

 

 ルーシーは、どの辺が当たり前なんだと頭を抱えたが、ミッシェルはそんな彼女のことなどお構いなしに話を続けた。その顔が、取り敢えず聞いとけと言っているような気がして、彼女はあまり深く考えないようにしながらその話を聞いていた。

 



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アカシックレコード

「我思う故に我ありとデカルトが言った時から、僕たちの肉体と精神は二つに分けられた。科学の進んだ世界ではそんなキリスト教的善悪二元論は評判が悪いけど、僕たちが物事を考えたり、体を動かそうと脳が命令する時、精神とか魂というものが現れてそれを実行していると思うのは、経験則としてそれほど間違っちゃいないだろう。

 

 僕たちは、脳みその中であれこれ思索するわけだけど、その時、脳みそが計算機のように無機質に結果を叩き出しているというよりは、脳の中にある『心』があれこれ思い悩んでいるように感じるのが普通だ。

 

 で、この心がどこにあるのか? と考えた時、僕たちは肉体を超越した魂というものを想像する。だからデカルトが肉体と精神を分けて考えたのも、もっと遡ればプラトンが物質界と精神界を分けたのも、自然な成り行きだったろう。

 

 けど、そのせいで僕たちは、いつか滅びる肉体と、永遠不滅の魂というものを作り出してしまった。肉体が滅びた後、魂はどこへいくのか? そう考えた結果、僕たちは天国とか、精神世界とかいう架空の世界を作り出してしまったというわけさ」

 

 ミッシェルは滔々と話し続けた。その内容の殆どはルーシーには理解できなかったが、ただ少し気になることもあり、その点だけを尋ねてみた。

 

「今の話だと、ミッシェルさんは天国とか、精神世界の存在を信じてないんじゃないの? そしたら今、私達がいるこの不思議な空間はなんなの?」

 

 するとミッシェルは我が意を得たりとにやりと笑い、

 

「良い質問だ。その通り、普通の人が考えるような天国や精神世界というものは、もちろん存在しない。だが現に、ここに精神世界は存在している。大いなる矛盾だ。何故、こんなものが生まれてしまったのか……それは人間の正体が情報だからさ。人間の肉体が滅びる時、精神も同じように滅びる。でも、情報は消えないから、このような仮想空間が許される。ではまず、僕たちの精神がどのように生まれるのかを考えてみよう」

 

 彼はそう言うと、まるで子供みたいに椅子の足をカタカタ鳴らしながら続けた。

 

「知らない人同士が一つの空間に閉じ込められると、まずは天気の話題を口にすることが多いらしい。お互いに相手のことを知らないから共通の話題がない。だから何か無いかと考えて天気に行き着く。どっちも今日の天気くらい知っているし、今日は寒いねとか、暑いのは苦手だとか、いま肌で感じていることなら話題にしやすいのも選ばれる理由だろうね。

 

 ところでこの温度ってのは、実は存在しないものなんだ。温度の正体は分子運動の乱雑さ(エントロピー)を表す指標であって、物質そのものが温度というパラメータを持ってるわけじゃない。僕たちの体を小さく小さく切り分けていくと、やがて素粒子にまで分解されるわけだけど、素粒子の世界に温度は存在しない。温度というのは、分子の比較的大きな集団があって、初めて生まれる現象なんだ。こういうのを創発現象という。

 

 他にも例えばバッタは単独で行動している時は、草原の風景に溶け込むような緑色をしていて、それぞれの個体が避けて行動している。ところが、飢饉なんかで食料が乏しくなると集団を形成し始め、わずか1~2世代でまったく別の黄色くてゴツゴツした体に変化する。そしてそれまで避けて行動していた個体は、軍隊みたいに一糸乱れぬ動きをするようになり、時に集団で動物を襲撃したりするようになるのさ。

 

 孤独なバッタと群れのバッタはまるで別の昆虫かというくらいに違う。蟻や蜂なんかもそうだ。彼らはあたかも、群れ全体で一つの生き物になったかのように振る舞う。

 

 人間の心もそれと同じさ。神経網を形成するシナプスは、動物によって違いがあるわけじゃない。牛も馬も猿も人間も、みんな同じだ。なのに人間だけが特別なのは、人間が形成するシナプスの群れが、一人の人間という現象を創発しているからだろう。これが精神の正体なわけだ。故に、人間の肉体が滅びれば精神も滅びる。

 

 でも、肉体が滅びても情報は消えない。例えば岩に刻まれた大昔の絵画は、何万年だって生き残る。そういった、人間が生きていたというような情報は消えない。

 

 そして実は、人間に限らずあらゆる生命は、誕生すると同時に宇宙の果てにあるアーカーシャにその情報が記述されるようになっている。アーカーシャとは、宇宙の果ての境界領域のことで、僕たちの宇宙にある、ありとあらゆる情報はそこに刻まれていて、その写像が物質として現出しているのがこの世界なんだ。

 

 人間が生まれてから死ぬまでの一生は、肉体や精神が滅びても、情報だけがそこに残る。だから何らかの切っ掛けで肉体が復活すると、アーカーシャの情報がそれとリンクして精神も復活する。それがこの世界に現れるという放浪者(バガボンド)という人々の正体だったわけさ」

 

「よくわからないけど……人間の記憶は頭の中にあるんじゃなくて、実は宇宙の果てにあったってこと?」

「概ね正しいね。実際には人間そのものが……なんだけど、まあ、すぐに理解しなくってもいいよ。死んでも、宇宙の果てに記憶が残っていたから、君の師匠であるレオナルドは復活できたって風に覚えていればいい」

「ふーん……」

「さて、ここからが神の秘密のおでましさ……物質である肉体の情報はアーカーシャに存在する。そして肉体が復活すれば精神も復活する。となれば、実はアーカーシャの情報さえあれば、生命はいくらでもコピーが出来るってことになる。そしてそのコピーは、何も4次元時空の物質界だけに縛られている必要はない。我々の宇宙にはまだ他にコンパクト化された6つの次元が存在するのだけど、その中でなら、肉体を持たない精神体という形で人間が存在することも可能だろう。

 

 実はそうやって、アーカーシャの情報から肉体と同時に精神体をも形成している生命体が、唯一人間なんだよ。だから僕たちは、肉体の他に精神……魂というものの存在を感じられるというわけさ。現実にはアーカーシャに情報があるだけなんだけどね」

「……ちょっと待って? さっきミッシェルさんは、精神世界のような場所は存在しないって言ってなかったっけ?」

「その通り、そういった世界は存在しないよ。この現実世界に、肉体と精神が同時に存在しているんだ。じゃあ、その精神はどこにあるんだ? と言えば、それは物質である人間には絶対に見えないところなんだけど。だからまあ、ある意味そこが精神世界と言っても間違いじゃないかも知れないね」

「……ごめん、複雑すぎてちょっと何を言ってるのかわからない。とにかく、生きている人間には、肉体と精神の二つが存在しているのね? それは間違ってない?」

「ああ、間違いない」

「……でもさっき、ミッシェルさんは肉体があるから精神が生まれるって言ってなかったっけ。創発現象だっけ? なのにアーカーシャにある情報とやらも精神体を作るんなら、それじゃあ人間には精神が二つあることになっちゃうんじゃない?」

「そう! その通りなんだよ」

「え……?」

 

 まさかそんなにあっさりとした答えが返ってくるとは思わず、ルーシーはぽかんと口を開けた。ミッシェルは自分のこめかみの当たりで指をクルクルさせながら、

 

「人間には速い思考と遅い思考の二つがある。本能と理性と言い換えてもいい。肉体のシナプス結合が生み出しているのは本能の方で、これは人間以外の動物も持っている、生存のために必要な状況判断力のことだ。

 

 対して、遅い思考……理性は未来を予測し行動を変える力のことだ。人間は、目の前に美味しそうなご飯があっても、将来の飢饉を見越して蓄えることが出来る。例えば出掛けに空を見上げて、傘を持っていこうとすることも出来る。他にも、ただの石から綺麗な彫刻を削り出したり、新しい音楽を作ったりも出来る。いわゆる創造性と言うものを持っているのが、唯一人間という動物だけなんだ。

 

 10万年前、神は二足歩行する猿に創造性を与えるために、アーカーシャにあった彼らの記述を書き換えた。それにより、人間は肉体を持つと同時に精神体を併せ持つハイブリッドな生命体に生まれ変わったんだ。

 

 どうしてそんなことをしたのかといえば、人間が未来予測をするにはイデアが必要だったからさ。人間は新たな物体や現象に遭遇する度に、イデアという理想像を参照することで、それが何であるかを判断している。未だこの世には存在しない新たな芸術作品を生み出す時も、自分の頭の中にある理想像=イデアに近づけることで、それを生み出すことが出来る。

 

 僕たちの創造性は、イデアから生まれる。だから神は二足歩行する猿にイデアを与える必要があったんだ。

 

 でもイデアは物質界に用意することは出来ない。そんなことをしたらすぐに地上が溢れちゃうからね。だから神はイデアを収めるための世界を作った。それがエーテル界。そしてそのイデアにアクセスするために、人間の精神体が収められている世界を用意した。それがアストラル界。

 

 精神世界が二つに別れているのは、イデアに人間の精神が混ざらないようにするためだ。人間の精神は不完全だから、完全なイデアのあるエーテル界には存在できないわけさ。そしてこの精神世界が二つに別れているという仕組みによって、面白い現象が生まれる。

 

 おさらいしよう……人間があらゆる事物、現象を正確に捕らえることが出来るのは精神体がイデアを参照しているからだ。僕たちは、新たな現象に遭遇する度に、何度も何度もイデアを参照する……

 

 ところで同じことを何度もするのは効率が悪いから、その内そのイデアの情報を、精神体に一次記憶(キャッシュ)するようになる。そのキャッシュがクオリアなわけだけど、クオリアはイデアを元に作られたコピーだから、完全ではない。完全ではないということはゆらぎがある。ゆらぎがあるということは、クオリアは変えることが可能だということだ。

 

 それが共振魔法(レゾナンス)の正体なんだ。

 

 つまり、現代魔法とはそのゆらぎを突いて、対象の認識そのものを誤認させてしまう力の事なんだよ。

 

 そして僕たちの魂は、もともとアーカーシャに記述された情報なんだから、その記述を変えることによって一度に不特定多数の誤認を引き起こすことも出来る。

 

 これが幻想具現化(ファンタジックビジョン)だ。

 

 神人の使う古代呪文や神技もこの系統にあたる。ただし、神人の魔法は予め神に用意されたものだから、レオナルドの幻想具現化と比べると、お話にならないくらい自由度が低いけどね。

 

 ともあれ、大昔から神はこうやって奇跡を起こしてきた。故に、僕たち人間でもアーカーシャにアクセスする術さえ見つければ、いくらでも奇跡を起こすことが出来る。世界そのものを変えることだって原理的には可能だろう。これがこの世界の秘密。神々の秘技(シークレットドクトリン)だ」

「神々の秘技……?」

 

 また知らない名前が出てきた……情報過多で、いよいよルーシーがげっそりした表情のままで固まっていると、それまで楽しげに語っていたミッシェルは、ちょっとやりすぎたかなと言った感じに肩を竦めてから、話をまとめはじめたようだった。

 

「誰かがそう名付けたってだけの話しさ。だから、忘れちゃっていい。話を戻そう。この宇宙に住む人間の正体は全て、アーカーシャに記述されている情報(レコード)なんだ。僕たちが実体を持たないただの情報だって聞いてショックかも知れないけど、どうもそういうことらしい。

 

 でも、逆に言えばこれは都合のいいことでもある。僕たちはアーカーシャという場所で一つに繋がっているから、他人に影響を与えることも出来、因果を越えた力、魔法という神の奇跡を起こすことも可能だって言うわけさ。

 

 古代呪文も現代魔法も、やり方が違うだけで、実は同じ現象を起こしているに過ぎない。その違いってのは、古代呪文は機械を用いて行使される秘技。現代魔法は術者のアストラル体を通じて行われる秘技だって、それだけのことなんだ。

 

 だから君が古代呪文を使いたいのであれば、機械のサポートを受ければいいってことになる」

 

 ルーシーは首を捻った。

 

「でも、神人たちは機械を使ってないんじゃない? 彼らが何か特別な道具を使ってるところは見たことがないよ」

「いや、帝都のど真ん中にあるじゃないか。神人たちが『神の揺り籠』と呼んでいるのが」

「あー! ……そっか。そう言えば、鳳くんもあれが何かしてるんじゃないかって言ってたけど、そういうことだったんだね。機械は手元になくてもいいんだ……あれ? でも、それじゃあ、あれを使えなきゃ古代呪文は使えないのかな……」

 

 ルーシーが期待はずれの結果に落胆していると、

 

「そんなことはない。君は既に持ってるじゃないか」

 

 ミッシェルは首を振って、彼女が手にしている杖を指差し、

 

「カウモーダキーは神の兵器。形而上存在が奇跡を行使するために作り出した機械だ。それを使うことで、君にも古代呪文を模倣することが出来るだろう」

「そうか! おじいちゃんが古代呪文を使えたのはそういうことだったんだね……」

「君はたった今、この世界の理を学んだ。まだ消化不良かも知れないけど、いずれ君の身になれば、自ずと杖を使いこなすことも出来るようになるだろう。そうしたら古代呪文を使うことも可能だ。でも、神人とはやり方が違うから、まったく同じってわけにはいかないだろうけどね」

「どうやって使えばいいのかな? 何かスイッチがあるようにも見えないし……」

「使い方はシンプルだ。神でも仏でも何でもいいから願えばいい。それだけさ」

「願う? ……たったそれだけ?」

 

 ルーシーが目を丸くして驚いていると、ミッシェルは簡単だろうと言いたげにウインクしながら、

 

「そもそも、奇跡ってのは人の願いのことだろう? 神はそれを人間に使わせるために作ったのだから、それが妥当さ。ただし、使いこなすには、この世の理を理解し、奇跡がどのように起こるのかをトレースできなきゃいけないんだけど、君には既にその素養が身についているはずだよ。

 

 君は今、アストラル体として物質世界と切り離されてここにいる。カウモーダキーは君のアストラル体と、物質世界に取り残された肉体との位置情報を割り出し、その中間のどこかにあるアーカーシャの空間座標をインプットしたはずだ。

 

 今後、君が願えばカウモーダキーがアーカーシャの記述を書き換え、奇跡を行使することが出来るようになるだろう。そしてその代償はMPによって支払われる」

 

 ルーシーは自分の手にした杖を掲げ、まじまじとそれを見つめた。レオナルドに貰ったことが嬉しくて、ずっと大事にしていたから良かったものの、鳳とあの迷宮に閉じ込められた時、荷物と一緒にこれを置いてきたら今頃どうなっていたことだろうか……彼女は肝が冷える思いがした。

 

 ともあれ、ミッシェルの話からすると、これでどうにか鳳のもとに戻る可能性が拓けたことになる。

 

「それじゃ古代呪文を使いたいなら、今からこれにポータルを出してって願えばいいのかな?」

「うん。物質界に戻ってからにした方が良いけど……それにしても、そうか……君が使いたかったのはポータルだったのか」

「何か問題でもあるの?」

 

 ルーシーはミッシェルが少し歯切れが悪いと思って尋ねてみた。

 

「ポータルというのは空間転移のことだろう? それは思ったよりも難しい技術で、仮にポータルを出したとしても、それがどこに繋がるかわからないから、オススメできないんだよ」

「ポータル魔法って、一度行ったことのある街に繋がるんじゃないの?」

「それはタウンポータルという名の古代呪文のことだろう? あれは機械が転移先の空間座標を計算しているから、いつも同じ場所に繋がるんであって、人間がそれをしようとしても中々難しいものがあるんだ」

 

 ルーシーは困惑した。それじゃここまで来た意味がまったくないではないか。

 

「困ったなあ……行方不明の人を探すためにどうしても必要だったんだけど」

「おや? 人探しに使いたかったのかい?」

「うん。実は、大切な仲間と遠い場所ではぐれちゃったんだ。私はどうにかしてそこに戻りたいと思ってたんだけど……」

 

 するとミッシェルは打って変わって表情を綻ばせ、

 

「それなら、その人のことを思い浮かべたら案外上手くいくかも知れない。ポータルの出口が固定できないのは、人間が座標計算を苦手にしているからなんだ。でも、誰かを探したいという明確な意図があるなら話は別だ。人間は、アーカーシャで一つに繋がっているから、君の願いがそれを見つけ出す可能性は十分にある」

「本当に?」

「ああ。絶対にとは保証できないけど。ずっと可能性は広がったと思うね」

「そっかあ……よかった~……」

 

 ルーシーはほっとため息を吐いた。これで死ぬ思いをしてまで、ここに来た甲斐があったというものである。彼女は自分の杖を見ながら、

 

「ポータルの件はそれで良しとして、これを使えば他の古代呪文も使えるようになるんだよね。出来れば攻撃魔法も欲しいんだけど……」

「君が願えばね。ただし、代償が必要だ。より大きい力、より多くの力を望めば、その都度支払う代償も大きくなっていく。それがMPで賄いきれなくなった時、別の何かで補わなければならなくなるだろう。最悪の場合、命を落とす危険性もある」

「うっ……それは洒落にならないね」

「まあ、やるなとは言わないけど、やるとしたら厳選した方が良いね。例えば、一つしか願わなければ代償は少なくて済むし、君は空間転移のエキスパートになれるかも知れない。僕としてはそっちの方をオススメするよ」

「そっか。私もその方が良いような気がしてきたよ」

 

 ミッシェルはそんなルーシーのことをじっと見つめていたが、ふと表情を曇らせ、

 

「ねえ? 君はその杖をレオナルドから貰ったって言ってたよね。でも、その使い方は教えてもらえなかったって」

「うん。そうだけど」

「今、君と話していて思ったんだけど……もしかして、レオナルドは代償を支払ったんじゃないか? 何をしたかは知らないけれど、杖を使い続ければそういうこともあり得る。人間はアーカーシャに記述された情報と言っただろう? 情報ってのはつまり記憶のことだ。彼は強い力を行使した結果、記憶を失っている可能性があるんじゃ……」

 

 ルーシーは、言われてはっと気がついた。

 

「そう言えば……そんなことを言っていたかも。おじいちゃんは何故か勇者のことに関しての記憶が曖昧なんだって」

「ふーん……それじゃあ、僕とここで会ったことも、もう忘れてしまったんだろうね。だとしたら寂しい限りだ。実は僕とレオナルドは同郷でね。それだけじゃなくて、同じ時代に生きていたから、彼とは何度か会ったことがあるんだよ」

「え!? そうだったの……?」

「ああ。彼の方はそれを覚えていなかったんだけどね……僕と彼にはちょっとした共通点があったんだ。それで僕はミトラ神から、彼に会ったらその杖を渡すように託されたのさ」

 

 彼はそんな杖を見て、懐かしそうな目をしながら、自分の過去を語り始めた。

 



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トビアスと天使

 フランスのプロバンス地方で誕生したミッシェル・ド・ノートルダムは、ユダヤ人の子孫だったが、曽祖父母が14世紀にユダヤ教からキリスト教に改宗し、それに伴い名前もノートルダムと改めた。ノートルダムとはフランス語で聖母マリアを意味する言葉で、曽祖父はイタリア風にサント=マリーも名乗っていたが、彼以外の一族は主にノートルダム姓を好んで使った。そんな一族の中で、後に予言者として成功したミッシェルは、自身の筆名をしばしばラテン語風に変えて、ノストラダムスと称することがあった。

 

 ミッシェルの祖父は占星術と医術に長けた人物で、プロヴァンス伯に侍医として仕えていたことで、ミッシェルは物心つくと跡取りとして育てられることとなった。祖父から占星術とカバラを学んだミッシェルの占いはよく当たり、彼はすぐに引っ張りだこになった。けれど彼自身は、自分の占いがどうして当たるのかさっぱり分からず、疑問に思っては、いつもそんな自分の評判を恐れていた。

 

 こんな大昔に書かれた数字をこねくり回したり、星を見たくらいの占いで、一体何が分かるというのだろうか……?

 

 彼はそれでも当たってしまう自分の予言を不安に思い、より一層占星術にのめり込んでいった。

 

 自分の占いには何か秘密があるはずだ……そう確信しながら、一心不乱に夜空を見上げて星の研究していたミッシェルは、そしてある時、偶然にも地動説にたどり着いてしまった。

 

 もしかして、この星空が回っているのではなく、太陽を中心に大地のほうが回っているのでは?

 

 彼はそう考えたが確証はなく、当時、そんなことを考えている人など殆ど居なかったから、彼はそんな馬鹿げた考えを誰にも言えずに、ずっと胸に秘めたまま過ごしていた。

 

 ところがそんな不安だらけの少年時代を過ごしていたミッシェルの元に、レオナルドが同じようなことを考えていると言う、風のうわさが流れてきた。

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチと言えば、当時の欧州の大スターで、特にミラノの最後の晩餐は彼の数少ない完成作品として、貴族の子女がバカンスになるとこぞって見学に行く定番コースでもあった。

 

 ミッシェルの周りにも壁画を見に行った者たちがおり、バカンスから帰ってきた彼らが一様に目をキラキラさせながら、その凄さを語っていた姿は幼い彼の目に焼き付いていた。

 

 まさかそのレオナルドが自分と同じことを考えているとは……それを知った時から、彼はなんとしてでもレオナルドに会いたいと思うようになっていった。

 

 その最初のチャンスが訪れたのは、彼が大学に入学する前年のことだった。

 

 1515年。従伯父であった前王の崩御によりフランス王に即位したフランソワ一世は、イタリア戦争を継続しミラノ公国へと侵攻した。ミラノ公スフォルツァ家を追放したフランス王は、翌年、停戦協定のために訪れたローマで、そのスフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチを口説き落としてフランスに招聘する。

 

 是非、あなたの知っているルネサンス文化をフランスにも伝えて欲しい。フランソワ一世の熱意に打たれたレオナルドはその要請に応じると、フランス王の用意した馬車に乗ってアンボワーズを目指し、その途中でミッシェルの住んでいるアビニヨンを通り過ぎた。

 

 その噂はあっという間に広まり、物見遊山の見物人で道がごった返す中、レオナルドを乗せた馬車はゆっくりと進んだ。人垣に揉まれながらそれを遠くの方から見ていたミッシェルは、なんとかして彼に近づけないかと四苦八苦していた。

 

 と、その時、彼の願いが天に通じたのか、偶然にも彼のすぐそばで馬車が止まり、中からレオナルドがひょっこりと姿を表した。

 

 恐らくは、長旅に疲れて外の空気でも吸いに出てきたのだろう。もしくは人気者である彼は、少しでも姿を見せてやれば群衆が落ち着くことを知っていたのかも知れない。

 

 彼が出て来た瞬間こそどよめきが起きたが、すぐに辺りは和やかな雰囲気になった。通せんぼしていた群衆も、御者の要請に応じて自然と脇に寄り、レオナルドはそんな人々にお礼をするように手を振ると、馬車の中へと帰っていった。

 

 ただ、そんな中でただ一人、ミッシェルだけが未だ道のど真ん中で、どこか慄然とした表情でレオナルドの姿を凝視していた。いや、彼が見ていたのはレオナルドではなく、その背後に見える、奇妙な男の姿を見つめていたのだ。

 

 輪郭線の無いその男は宙に浮かび、まるでレオナルドを守護するかのように彼の後ろに付き従っている。あれはなんだ? と驚いた彼は、群衆に引きずり出されるまで、道のど真ん中で唖然とそれを見つめ続けていた。

 

「まるでトビアスと天使みたいだったよ。レオナルドの背後に居た男は、明らかにこの世のものではないオーラを放っていた。実際、空飛ぶ人間なんて居やしないんだから、ただの人間でないことはすぐに気づいた。だけど、気づいたからってそれで納得できるわけじゃないからね。

 

 僕は少し取り乱しながら、あれはなんだ? って周囲の人に聞いて回った。でもみんなにはそんなものは見えなかったから、きっと僕が興奮しすぎて気が狂ってしまったとでも思ったんだろうね。気の毒そうな顔をしたり、嘲り笑ったり、やがて熊みたいな大男が腕まくりながらやって来て、早く道を開けろって怒鳴って僕を引きずり倒した。

 

 レオナルドが僕らの街を通り過ぎた後も、僕は友人や知り合いを捕まえては、その時のことを尋ねてみた。誰か一人でも良いから、僕と同じものを見た人は居ないかと思って……そんなのは一人も居なかった。みんなから否定されているうちに、段々、僕は自分の方がおかしいんじゃないかと思い始めた。

 

 でも誰も信じてくれないそんな中で、家族だけは僕の言うことを信じてくれた。みんな敬虔なクリスチャンだったから、きっと僕が天使を見たんだと言って、逆に喜んでくれたんだ。僕にはそれが救いになったよ。

 

 それから暫くして、僕はあの時に見たのは興奮しすぎた僕の頭が作り出した幻想だったと言って、日常に戻ることにした。家族に迷惑をかけたくなかったからね」

 

 レオナルドの背後に天使を見たミッシェルは、翌年、大学に進学すると、すでに故人となっていた祖父の後を継ぐべく医学を勉強しはじめた。流石、学問の府だけあって、大学にはいろんな人がいた。その中には、ミッシェルと同じように地動説を唱える変わり者もいて、彼はそんな仲間たちと議論したり、小旅行したりしながら充実した大学生活を送っていた。

 

 二度目のチャンスが訪れたのは、大学二年目のことだった。見習い医師であるだけではなく、占星術師としても名の知れていたミッシェルは、ある日、王族に伝のある貴族からバカンスに誘われた。

 

 貴族はミッシェルがレオナルドの大ファンであることを知っていて、占いのお礼に彼と会わせてあげると言った。ミッシェルは一も二もなく同意すると、バカンスをアンボワーズで過ごすべく旅に出た。

 

 こうして訪れたアンボワーズのクロ・リュセ城は、しかし厳重な警備に包まれていた。その頃、ドイツ北部で起きたルターによる公開質問状騒動のせいで、カトリック教会は揺れていた。そんな中で無宗派を公言していたレオナルドは、教会の悩みのタネだった。教会は彼をなんとかして改宗すべく、彼を城に缶詰めにしていた。

 

 そのせいでレオナルドに気軽に会えなくなってしまった貴族は、落胆しているミッシェルに謝罪したが、しかし彼は諦めなかった。ミッシェルは僧服に身を包むと、レオナルドを改宗すべく集まった神父たちの中に紛れ込んでしまった。

 

 貴族の誤魔化しもあって、首尾よく城の中に入った彼は、こうして念願のレオナルド・ダ・ヴィンチとの対面を果たした。それは神を信じぬ頑固者と、若き神父という偽りの姿ではあったが、ミッシェルは非常に満足していた。

 

 彼は、レオナルドに改宗を迫るふりをしながら、かの天才の考えを拝聴する機会を得た。そうしてレオナルドの世界観や宗教観に触れ、生命の神秘や宇宙の構造について学んだ。それは教会の教義を信じている手前、否定するしか無かったが、どれもこれも若いミッシェルには斬新で魅力的に思えた。

 

 レオナルドもミッシェルの理解が早く、他の神父たちとは違って頑なに否定するだけではなく、質問したり相槌を打ったりする態度に気を良くし、二人の間には奇妙な友情が芽生えていった。ミッシェルはそんなレオナルドに、お礼にと言って教会の秘術カバラを披露し、レオナルドはそれを気に入って、やがて、おまえみたいなのもいるなら改宗するのも悪くないと言い始めた。

 

 だが、そんな楽しい日々はいつまでも続かなかった。間もなく、ミッシェルの滞在中にレオナルドが体調を崩してしまった。大学で医学を学んでいた彼は病床のレオナルドの下に駆けつけたが、手の施しようがなかった。

 

 教会の神父たちは、今際の際のレオナルドにまだ改宗を迫っている。もう休ませてやればいいのに……ミッシェルが歯がゆく思っていると、その時、死にかけのレオナルドが何故かミッシェルを指差して、こっちへ来るよう手招きした。

 

 彼が慌てて駆け寄ると、レオナルドは口をパクパクして何かを言いたげにしていた。ミッシェルがそっと耳を傾けると、レオナルドは死の瞬間、彼にだけ聞こえる声でこう言った。マイトレーヤと。

 

「マイトレーヤというのがなんなのか分からなかった僕は、それをレオナルドの遺言として胸に刻みつけ、それからずっと気にかけていた。その後、またペストが流行りだすと、僕はペスト医として欧州を駆け回り、あちこちで知己を得た。流行病がようやく収まった後は、その時の縁を頼りに占星術師として身を立てて、気がつけば僕は予言者と呼ばれフランス王に招かれるまでになっていた。

 

 でも、その頃になってもまだ、僕は僕の占いがどうして当たるのかがわからなかった。求められるままに占いをして、予言を残してきたけれど、それが的中する度にいつも不安になった。こんな偶然、いつまでも続くはずないと思っているのに、何故、僕の占いは当たり続けるのか……

 

 そんな心配とは裏腹に、僕の評判はどんどん上がっていった。やがてそれが欧州中に響き渡った時、僕は僕の信奉者の中から、マイトレーヤという言葉を知っている人を見つけた。そしてそれが、遠い異国……インドの神様のことだと知ったんだ」

 

 マイトレーヤという言葉の意味を知ったミッシェルは、東方(オリエント)の宗教に興味を持ち調べ始めた。しかし当時は対抗宗教改革の真っ最中で、ユグノーに苦しめられていたフランス王国でそんなものを研究するのは難しく、彼は非常に苦労させられた。

 

 それでもめげずに、あらゆる伝を頼って東方の文献を読み漁った彼はやがて、それがレオナルドがかつて語っていたプラトニズムと似ていることに気がついた。時代も文化も、言葉も人種も違うのに、これらはどうしてこんなに似ているのだろうか?

 

 まるで人間には何故か共通の宗教観のようなものがあるみたいだ。これは何故なんだろう……? そう考えた時、彼は天啓のように閃いた。

 

 もしかして、人間の魂には共通点があるのではないか? 例えば、自分の頭の中には、肉体を持つ自分とは別の自分が存在する。肉体の自分はそいつによって支配されていて、頭の中のそいつ……つまり精神によって命令し動かされている。

 

 ところでこの精神体とも呼べる自分は一体どこにいるのだろうか? この世界とは違う見えない世界があって、もしかして、そこに居るんじゃないか? もしかして、宇宙は空にあるのではなく、心の内にあるのではないか……?

 

 万物は目に見える物質だけではなく、目に見えない精神も必ず持ち合わせている。そしてその精神は、どこか見えない世界で全てが繋がっているのだ。

 

 そう考えるとミッシェルは、自分の占いがよく当たる理由も分かる気がした。彼はいつも祖父に習った占星術やカバラを行いながらも、ちっともそれが当たるとは思っていなかったのだ。だからいつも、その結果を見ながらも、最後の最後に自分の良心に問いかけていた。

 

 この占いの結果は本当に正しいのだろうか? もしかして間違ってるんじゃないか? そう自分自身に問いかけて、時に彼は占いの結果を変えていた。なんてことはない。彼は占星術をやっているようで、実はいつも自分自身の心に問いかけていただけなのだ。

 

 そして、自分自身の中にある、見えない何かに問いかけて、彼はいつも正しい答えを導き出していた。これは自分の心の内に、見えない何かが潜んでいる証拠ではないのか……?

 

 そう考えた時、彼は自分の目の前に何かが居ることに気がついた。

 

 ハッとして顔を上げれば、そこにはかつてアビニヨンを通り過ぎたレオナルドの背後に見えた、輪郭の不確かな存在が宙に浮いていた。

 



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ちょっと待ってて

「実はずっとマイトレーヤは……精神体、即ちアストラル体でこの世に顕現していたんだ。しかし、普通の人間は物質界に縛り付けられているから、アストラル界にいる彼の姿に気が付かなかった。だから彼は気づいて欲しくて、僕みたいにアーカーシャにアクセスし、アストラル界に通じることの出来る人間を探していたんだよ」

 

 そんな風に興奮気味に語るミッシェルに対し、ルーシーはずっと思っていた疑問を口にした。

 

「マイトレーヤって、確かおじいちゃんが前世で最後に見た精霊ミトラのことだよね? 結局、それって何だったの?」

「高次元存在、神だ。神は僕たちの宇宙の外側に居る、形而上存在と言い換えてもいい。僕たち人間は、物質として3次元の構造しか持たないけど、高次元存在はそれ以上の情報量を持っている。だから、そのままの姿で3次元に現れようとしても全ては収まりきれず、僕たち3次元世界の住人と接触する事はできないのさ。

 

 でも、僕たちは宇宙の境界にあるアーカーシャに記述された情報でもあるから、そこを通じてなら情報交換が出来る。そのためには修行を積んだ高僧や、僕みたいな変わり者が必要だったんだ」

「マイトレーヤはそうまでして何を伝えたかったの?」

 

 するとミッシェルは難しい表情を作り、

 

「少し複雑な話になるけど、平行世界は無限に存在し、ここと似たような世界もあれば、既に滅びた世界もある。高次元世界にも同じように無限の並行世界が存在するわけだけど、その構造がドミノ倒しのように壊れるというような、差し迫った危機が現在進行中らしいんだよ。それで彼はそれから脱却するための力を欲していて、僕たちみたいな変わり者をスカウトしていたのさ。

 

 そして彼は、レオナルドにこの世界に来て勇者を助けるようお願いしたんだけど、覚醒した時、すでに肉体が滅びていたレオナルドに力を授けることが出来なかった。そこで、彼の死に際、たまたま居合わせた僕に目をつけて、いずれ転生先……つまりここに現れるであろうレオナルドに、その杖を渡してくれと頼まれたんだ」

 

 彼はルーシーの所持するカウモーダキーを指差してから、

 

「僕自身は世界の危機にも勇者にも興味がなかったんだけど、レオナルドのことは好きだったからね。引き受けることにしたんだ。マイトレーヤが、彼に渡してくれれば後は好きにしていいと言ったから、僕はカウモーダキーを受け取ると、それを使っていくつもの予言を残した。

 

 その後、僕は肉体が滅びてからもアストラル体となって現世に留まり、人類の行く末を見守っていた。これがあれば簡単にアーカーシャにアクセスできる。そこには人類の全ての叡智があり、過去も未来もいくらでも見通すことが出来た。尤も、平行世界は無限に存在し、過去も未来も遠くに行けば行くほどブレるから、あんまり意味はなかったけどね。でも人類が滅亡するってのは概ね当たっていたよ。人類はAIによって段階的に滅んだんだ。

 

 こうして地球の最後を見守った僕は、その後も、平行世界を渡り歩いて様々な経験をしたあと、300年前にここでレオナルドと再会した。彼は僕のことを覚えていてくれて、僕たちは懐かしい地球の話を飽きるまで続けたんだけど……そうか、彼はもう、そのことを覚えていないんだね」

 

 ルーシーは、落胆しているミッシェルに対し、弟子として申し訳なく思いながらも、

 

「それじゃ、おじいちゃんは、マイトレーヤに言われた通り、高次元世界を救おうとして記憶を失ったのかな?」

「その可能性が高いだろうね。何をしたからそうなったかは、既に情報が無いから分からないけど」

「記憶を取り戻すことは出来ないの?」

「残念ながら。情報というものは、あるかないかの2つの状態しか持たないからね。一度失われた情報は取り返しがつかないんだ。でも、虫食いの情報は復元が可能だ。もしかしたら、何らかの切っ掛けさえあれば、芋づる式に思い出すことも出来るかも知れない」

「本当に?」

「案外、君が今日僕と会ったことを話せば、思い出すかも知れない。まあ、期待しないほうがいいってレベルだけどね」

「そっか……なら、一度ヴィンチ村に戻って確かめてみようかな」

「空間転移の練習には丁度いいかも知れないね」

 

 ルーシーは自分の手の中にあるカウモーダキーをちらりと見てから、

 

「そう言えば、空間転移って言うのは、ポータル魔法とはちょっと毛色が違うんだったっけ? 場所を思い浮かべるんじゃなくって人を思い浮かべたほうがいいとか」

「ああ。人間は、より執着のあるものと心のどこかで繋がっている。それを引き寄せる感じかな。ロマンチックな例えだと、好きな人といつも一緒にいたいとか、そういう気持ちだ。とにかくやってみるのが一番だろうね」

「ふーん……」

「と言うか、今すぐそうして、ここを立ち去った方がいいかも知れない」

「どうして?」

 

 まるでさっさとこの場を立ち去れとでも言いたげな言葉に、それまでノリノリで話していたくせに、急にどうしたんだろう? とルーシーが眉間にしわを寄せると、彼は他意は無いと言った感じ肩を竦めて見せてから、

 

「物質世界の方の君は、今も椅子に座って放心状態のまま魔物の群れに囲まれている。それを心配した君の仲間が痺れを切らして戦闘中だ」

「ええ!?」

 

 驚いたルーシーが大声を上げて椅子から立ち上がると、それを切っ掛けとして集中力が途切れたのだろうか、白い世界はまた霞がかったように薄れていき、目の前に座るミッシェルの姿は徐々に徐々に見えなくなっていった。

 

 と同時に、ルーシーの目には、迷宮の中で魔物の大群と必死になって戦う仲間の姿が見えてきた。彼女は申し訳無さそうに頭を下げると、

 

「ごめん、ミッシェルさん! そろそろ行かなきゃ」

「ああ。どうやらお別れのようだね。僕はアストラル界に住む精神体。どこにでも居るし、いつまでも存在する。君がアーカーシャにアクセスする限り、またいつかどこかで会うこともあるだろう」

「うん、絶対にまた会おうね。その時が来るのを楽しみにしてるっ!」

 

 ルーシーのその言葉が彼に届いたかどうか、その姿は殆ど薄れてしまっていて分からなかった。ただ、アストラル体である彼は物質界からは見えなくても、心のうちにはいつも存在しているはずだから、多分、その言葉はちゃんと伝わったはずだろう。

 

 彼女はそう考えると、それ以上名残を惜しまず、ただ目の前のことに集中しようと頭を切り替えた。真っ白だった世界は徐々に色を取り戻し、ブレブレの輪郭線が収束するように、あらゆる物質がくっきりと視界に映し出されていく。

 

 そして全ての輪郭がいつものようにはっきり見えるようになると同時に、ルーシーは体にグンと強い重力を感じた。まるで深い眠りから急速に覚醒した時みたいに、全身にパリパリとした静電気が走って、彼女は自分の体のコントロールを取り戻した。

 

 その瞬間、ガクッと体がふらついたのを見て、魔物と戦っていたジャンヌが叫んだ。

 

「ルーシー! 起きたの!?」

「ごめん、ジャンヌさん。今、戻ったよ」

「まったく動かないから死んじゃったかと思ったわよ! それじゃもうここに用事はないわ。脱出しましょう。サムソン! 殿はお願いできる? 私が道を切り開くわ!」

「任せろ!」

 

 ジャンヌとサムソンが互い違いの方向へ走って、それぞれ大振りの攻撃で魔物の群れを牽制する。そんな二人の攻撃の隙間を埋めるように、メアリーがクラウド魔法を設置して、彼らはあの一人しか渡れそうもない吊橋への道を確保した。

 

 吊橋は、相変わらず今にも崩れ落ちそうだった。ジャンヌはここから逃げようと言うのか。ルーシーは慌てて彼女の行動を制止すると、

 

「待って、ジャンヌさん! そんなとこ4人で渡ったら絶対に橋が落ちるよ!」

「でも、他に逃げ場はないでしょう?」

「ちょっと待ってて!」

 

 今は説明している暇はない。そして、いろいろ試している時間もない。ぶっつけ本番になるけれど、彼女はもはや迷うことはないと言わんばかりに、手にした杖を両手で天に掲げた。

 

「お願い、カウモーダキー! 力を貸して!!」

 

 追い詰められた時、人間というものはすごい力を発揮する。彼女がそうして一心不乱に杖に願うと、次の瞬間、その願いに呼応するかのように、杖から柔らかな光が発し、先端から魔法陣のようなホログラフがぐるぐると回転しながら現れたかと思えば、レーザービームのような光が天井に突き刺さった。

 

 それが虚空に消えたかと思ったら、今度は術者であるルーシーの目の前に小さな光の点が収束していき、それが金魚鉢を満たすかのように徐々に膨らんでいった。

 

 やがてその光の集合体が一つの形を作り出した時、ジャンヌはそれが何であるかを理解し、驚きの声を上げた。

 

「それは……タウンポータル!? ルーシー、あなたやったのね!?」

「今は悠長に話してる場合じゃないわ。さっさと逃げましょ。スタンクラウド!」

 

 それを見ていたメアリーは、もはやMPの心配は要らないとばかりにスタンクラウドを連発すると、一目散にポータルの光の中に飛び込んでいった。続けて、しつこい魔物を打ちのめしたあと、サムソンが飛び込み、最後にルーシーを荷物みたいに小脇に抱えたジャンヌが飛び込む。

 

 ポータルをくぐると空気が変わったことを肌で感じた。別々の空間を繋いでいるのだから当然なのかも知れないが、だまし絵でも見ているかのような違和感を感じるのだ。鳳のタウンポータルでもいつもそんな感覚がしていたのだが、ルーシーの空間転移はそれとはまた違った。

 

 彼のポータルは空間座標という点と点を繋げているのに対し、ルーシーのはベクトルを結んでると言ったほうがいいのだろうか? 出口の向きが固定されておらず、おかしな方向を向いていたのだ。

 

 今回、彼女が繋いだポータルの出口は、どこかの天井から床に向かって開いていた。だから、そこに飛び込んだメアリーは天井から床に落下して強かに腰を打ち付けた。おまけに、そこへ後に続いたサムソンが飛び降りてきて、最後にジャンヌとルーシーまでもが乗っかった。

 

「むぎゅ~……」

 

 仲間たちに踏んづけられて、あんこが出そうになっているメアリーに気づき、サムソンは慌てて立ち上がったかと思いきや、彼は彼女に手を差し伸べるのではなく、思いっきり天井に向かってアッパーカットを振り抜いた。彼らの後についてきた魔物が、今まさにポータルから飛び出てこようとしていたが、そんな彼の攻撃で吹っ飛んでいった。

 

 まるでそれが合図であったかのように、ポータルの光がスーッと消えていく……しんと静まり返る室内で、4人は息を呑むと、天井を見上げながらお互いの無事を確認しあった。

 

「……どうやら、助かったみたいだな」

「危機一髪だったねえ」

「みんな無事?」

「無事じゃないよ~……早くどいてってば」

「ごめんごめん!」

 

 ジャンヌたちはメアリーの上に乗っかっていることに気がつくと、慌てて飛び降りて謝罪した。もしも彼女が神人でなければ、今頃大惨事になっていただろう。今回はぶっつけ本番だったから仕方ないが、ルーシーは今後は出口の方向もあわせてくれるように、杖に願おうと肝に銘じた。

 

「ところで、ここはどこかしら?」

 

 ともあれ、人心地ついた彼らは、今度はここがどこなのか気になった。ルーシーは咄嗟だったから、ポータルをどこへ繋ごうとも考えていなかったのだが、とにかく帰りたいという気持ちがそこへ繋いだのだろう。

 

 ふと気がつけば、目の前に皇帝がいて、彼女はぽかんと口を半開きにして彼らの姿を凝視していた。

 

「あ、あの~……みなさん?」

 

 いつものローテーブルを文机にして、何かの書類を書いていた皇帝は、状況がいまいち読みきれないのか目を丸くしながら、

 

「取り敢えず、おかえりなさい……お茶でもいかがです?」

 

 そして背後からは怒りに震えるドスの利いた男の声が聞こえてきた。

 

「あんたたち……だから、こうも簡単にセキュリティを破らんでくださいよ!」

 

 振り返ればマッシュ中尉がキレていた。本気でそろそろ誰かの首が飛びそうである。

 



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ほんとゴメンね?

 怒れるマッシュ中尉を宥めることに労力を費やすこと小一時間、今度こそ本当に人心地ついた一行はぐったりとしながら皇帝のローテーブルを囲んだ。恐らく、この世界で一番偉い人であろうに、皇帝は当たり前のようにいそいそとみんなのカップにお茶を注ぐと、彼女の生みの親でもあるメアリーに尋ねた。

 

「それで真祖様、迷宮の方はどうでしたか? まあ、こうしてポータルを使って現れたわけですから、結果は聞くまでもありませんか」

「ううん、それが万事順調ってわけでもなかったのよ。結局、ポータル魔法を覚えられたのはルーシーだけで、私は何も覚えられなかったわ」

「あら、それは残念でしたね……」

「でも、迷宮の構造自体がルーシーじゃなきゃ攻略できないような場所だったから、仕方ないと思うわ」

「へえ、迷宮はどんな場所だったんですか?」

 

 皇帝は、一行がどうやって迷宮を攻略したのかを聞いて感心している。彼女は道中の話を聞き終えるとルーシーに向かって、

 

「では、迷宮の最奥に辿り着けたのはあなた一人だけだったんですね。そこで何が起きたんです?」

「話すと長くなるんだけど……」

 

 ルーシーは最奥部の椅子に座った後のことを出来るだけ詳しく伝えた。敵に見つからないように集中している内にトランス状態になったこと。すると視界が白く染まってきて、不思議な空間に飛ばされたこと。そこで出会ったミッシェルに、アストラル体に相転移したと教えられ、この世の理を伝授されたこと。そして自分がレオナルドに貰った杖こそが、古代呪文を使うためのキーアイテムだったこと。

 

「ミッシェルさんは、おじいちゃんと元の世界で会ったことがある人だったんだ。その縁を買われてミトラ神に、この……福音(ゴスペル)? って武器を届けるようにお願いされたらしいよ。でも、おじいちゃんはそのことを忘れてしまっていて……」

「ボケたってわけでもなかったのですね。あの人、人間のくせに300年も生きていたり、おかしいと思ってはいたけれど」

 

 皇帝は腕組みをしながら考え事をしている。ルーシーは代わりにメアリーに向かって続けた。

 

「この杖を使えば奇跡を行使することが出来るんだけど、その代償としてMPが消費されるんだ。ただ、あまりにも大きな願いはMPだけでは足りなくて、何か失うことになるらしくって。おじいちゃんはそれで記憶を失くしちゃったんじゃないか? ってミッシェルさんは言っていたよ」

「MPを消費するの? そう言えば、ルーシーってMPはどのくらいあるのかしら?」

「408だけど」

「たっか! そんなにあったの? 私と殆ど変わらないじゃない」

 

 メアリー(MP480)が目を丸くしている。そりゃ神人の彼女とほぼ同じと言われた驚きだろう。今まではMPなんてあっても何の役にも立たなかったから誰も気にしなかったが、確かにルーシーのMPは人並み外れて高かった。

 

 彼女は、自分の職業がMAGEで近接戦闘に向いていないことを、いつも残念に思っていたが、まさかこんなところでそれが役に立つとは思いもよらず、何事も蓋を開けてみなければわからないものだと得心した。ついでに自分のステータスを改めて確認してみると……

 

「あれ……?」

「どうしたの?」

「MPがごっそり、100も減ってる……そっか、さっきのポータルの代償として消費されたんだね」

「100ってことは、4回で打ち止めってことね。MPポーションはあるけど、急激に回復すると副作用がひどいから、緊急回避用も考えて、せいぜい一日3回までにしといたほうが無難でしょうね」

「そうだねえ……でも、どこに繋がるかわからないのがネックなんだよね。必ず行きたい場所にいけるわけじゃないから」

「え? まさか転移先を指定できないの? そう言えば……こんなピンポイントにエミリアの部屋に戻ってこれるなんて、あなたのポータル魔法はツクモのとは何か違うみたいだけど」

「うん、そうなんだよ」

 

 ルーシーはミッシェルの話をかいつまんで聞かせて、

 

「場所を指定するには、なんか凄く難しい計算が必要なんだって。でも、そんなこと私には出来ないから、代わりに人を思い浮かべなさいって。人間の心は一つに繋がっているから、そうすることでその人の近くに飛ぶことが出来る……かも知れない。だから、さっきは何が何でも帰りたいって気持ちが、皇帝陛下のことを連想して、ここにポータルが繋がったんだと思う」

「ふーん……場所を指定できないのは不便だけど、でも今は逆にそれで良かったかも知れないわね」

「……どうして?」

「だって、ツクモのことを思い浮かべれば、ネウロイへだって一瞬で飛んでいけるかも知れないってことでしょ?」

「あ! そうだね。それじゃもう、マニ君の村から空を飛んでいく必要はないんだ」

 

 感嘆の声を上げているルーシーに向かって、メアリーはうんうんと頷きながら、

 

「いくら私でも一ヶ月もMPをやり繰りしながら飛んでいくのはしんどいと思ってたのよ。それじゃ早速、試してみましょう? 結構時間を食っちゃったけど、ツクモが心配よ」

「ちょっと待った! 真祖様!!」

 

 すると慌てて皇帝が二人の間に割って入って、

 

「そんな当たり前のように同行しようとしないでくださいよ。これ以上、帝都を留守にされては臣民が動揺します。今回は自重してください。いい加減、私だって怒りますよ」

「ちぇっ……どさくさに紛れてもうちょっと遊んでたかったんだけどな」

 

 メアリーは口をとがらせて不満を漏らしている。ついさっき、死にそうな目に遭ったばかりだというのに、彼女にとっては退屈な帝都の生活よりも、危険な冒険の旅の方がよっぽど楽しいのだろう。ルーシーはそんな彼女を気の毒に思いながらも、

 

「ポータルがちゃんと使えるようになったらまた来るから、そしたらまたどこかに遊びに行こうよ」

「本当?」

「うん。マッシュ中尉の胃に穴が開かない程度にね。それじゃあ、私は行くね。ジャンヌさんたちはどうする?」

 

 ルーシーが尋ねると、ジャンヌは少し考え込むような仕草をしてから、

 

「同行したい気持ちもあるんだけど、今はこっちに残るわ。どうも、白ちゃんの留守中にヘルメスがごたついてるらしくって、何かあった時のために備えておきたいの」

「そっかあ……残念だなあ」

「白ちゃんに再会できたらよろしく伝えておいて」

「わかったよ」

 

 ルーシーはそう言うと、一人ひとりと名残を惜しむように握手をしてからポータルを開いた。

 

 去り際にマッシュ中尉から、今度からは絶対に正門から来てくれとげっそりした表情で頼まれた。どうやら帝都の要注意人物になってしまったらしい。ルーシーはそんな中尉に苦笑いで返しながら、挨拶もそこそこポータルに飛び込んだ。

 

******************************

 

 そうして飛び込んだ先は、思いがけず人混みのど真ん中だった。

 

 突然、何もない空間から現れた彼女の姿に、通行人達がギョッとした表情で立ち止まっている。ルーシーも驚いて周囲を見回してみれば、そこは見慣れたフェニックスの街だった。すぐ近くには冒険者ギルドの看板も見える。

 

 ちゃんと鳳のことを考えながらポータルを開いたはずだったが、どうやら鳳=フェニックスの街が連想されてしまったらしい。困ったなと思いながらステータスを確認すると、目的地とは全然違うのにMPはしっかり減っていた。

 

 行き先を指定できないというのは、こんなに面倒くさいことなのか。これは何度も失敗していられないぞ……

 

 彼女は今度こそ鳳の元へ飛ぼうとポータルを開きかけたが、ふと思い立って、その前に一度ギルドの様子を見に行こうと考えた。鳳に逃げられないようにこっそり出てきてしまったから、誰にも行き先を告げていなかったのだ。

 

 酒場のマスターはともかくとして、ミーティアは心配しているかも知れない。取り敢えず無事なことだけでも伝えておこうと、彼女は酒場のドアを押し開けた。

 

「いらっしゃーい……って、あーっ!! ルーシー、やっと帰ってきたか!」

 

 ギルド酒場に入るなり、丁度ホールに接客に出ていたマスターが、彼女の姿を見つけては大声で叫んだ。彼は目の下にクマを作り、いかにも寝不足の顔をしながらドスドスと近づいてくると、

 

「一ヶ月以上も無断欠勤して……不良娘め。この一ヶ月間、僕一人で酒場を切り盛りするのは大変だったんだぞ?」

「ごめんなさい。どうしても行かなきゃいけない理由があって」

「ルーシーはやっぱり鳳くんと一緒にいたの? ミーティア君が、多分、彼のことを追いかけていったんじゃないかって言ってたけど」

「うん。そうなんだ。鳳くんと同行して、ちょっとネウロイまで行ってきた」

 

 マスターは口の端をひくつかせながら、

 

「ネウロイって……軽く言ってくれるなあ……それじゃ、彼も街に戻ってきたんだね? なんか国境で大変なことになってるらしいけど、これで安心だ」

「ううん。鳳くんはまだ帰ってきてないよ」

「ええ!? じゃあ、ルーシーだけで帰ってきたのか。一体、彼はどうしたんだい?」

「それが、行き先で逸れちゃって。それで……」

 

 鳳を探すつもりでいると言ったら、マスターはどんな顔をするだろうか。例え泣いて引き止められても行くつもりだが、そのげっそりした表情を見るからに、ワンオペも限界を迎えつつあるようだ。彼女は言葉を引っ込めて、代わりに、ミーティアに代役をお願いしようとして、

 

「ところでミーさんは? 受付がお留守みたいだけど……」

「それがミーティア君の方も彼のことを追いかけて行っちゃったんだよ。かれこれ一ヶ月前のことだから、今頃どこをほっつき歩いているのやら……君こそ、彼女に会わなかったのかい?」

「ええ!? ミーさんもネウロイに向かったの!?」

 

 ルーシーは、愛する男を追いかけるなんて、彼女も中々やるなあ……と思いつつも、一人では無謀過ぎると青ざめたが、

 

「丁度ギヨーム君が街に帰ってきて、彼女についていってくれたんだよ。だから心配はないと思うけど」

「あー、そうなんだ。ギヨーム君がいるなら安心だね……でも、それでもネウロイには辿り着けないと思うな」

 

 何しろ、空を飛んでも一ヶ月もかかった場所なのだ。地上を移動している彼らは、今頃どの辺りを歩いているのか見当もつかない。そんなこと、ギヨームだって分かっているだろうに、あの現実主義者の彼がどうしてミーティアのお願いを聞いたのだろうか……?

 

 ルーシーは疑問に思いながらも、

 

「ジャンヌさん達は帝都だし……それじゃあ今、街に残ってるのはマスターとギルド長くらいのもんなんだね?」

「ああ、そうだよ……って、あれ? ジャンヌ君が留守って、僕、言ったっけ? まあ、いいや。それより、ルーシーが帰ってきてくれて助かったよ。酒場もギルドも人手不足で大変なんだ。疲れてるとこ悪いんだけど、さっそくホールに入ってくれるか?」

「あー、それなんだけど……」

 

 ルーシーは一歩、二歩とマスターから距離を取りながら、

 

「ごめん! 実はまだ、鳳くんがネウロイに残ったままなんだ。これから彼を探しに行かなきゃならないから、もう少し一人で頑張ってて!」

「はあ!? 何言ってるんだよ。そんなの駄目に決まってるだろう? っていうか、一人でどうやっていくつもりなんだ?」

「お願い杖よ、力を貸して!」

 

 ルーシーが杖を掲げてそう唱えると、杖の先端でクルクルと魔法陣が輝きだし、彼女の目の前に大きな光のゲートが現れた。突然の超常現象を目の当たりにしたマスターが仰天していると、彼女は申し訳無さそうに顔の前で両手のひらを合わせながら、

 

「ほんとゴメンね?」

 

 彼女はそう言うと光の向こうに消えてしまった。マスターはそんなルーシーの姿を見送りながら、暫しその場で放心状態のまま立ち尽くしていた。

 

 この街で別れてから、色々あって勇者パーティーの一員になったことは知っていたが……どうやら知らぬ間にその名に恥じぬ実力までもを身に着けていたらしい。子供の成長は本当に信じられないくらい早いものだなと、彼は感嘆のため息を漏らした。

 

****************************

 

 マスターを煙に巻いて逃げ出してきたルーシーは、また出口がおかしな方向を向いていたせいで、外に出るなり真っ逆さまに地面に落っこちてしまった。

 

「あいたー! ててててて……」

 

 どうにか受け身を取った彼女が怪我はないかと確かめていると、手についた泥や木の葉から、ここがジャングルの中であることに気がついた。どうやら、今度こそ大森林に戻ってきたらしい。

 

 しかし泥を叩いて立ち上がっても、辺りは鬱蒼と茂る樹木しか見えず、目的地であるアマデウスの迷宮は見当たらなかった。鳳のことをイメージしていたから、見当違いの場所に飛ばされたということはないと思うが……ドンピシャで彼の元へ戻ることは出来なかったらしい。

 

「困ったなあ……」

 

 彼女はため息交じりに周囲を見回した。恐らく、迷宮のすぐ近くまで来ていると思うのだが、森の中であるが故に視界が悪い。どこか高台にでも登って周囲を確かめたいところであるが、問題は彼女には戦闘スキルが一切ないことだった。

 

 この危険な森の中で、魔族や魔物に見つかったら、彼女一人ではお手上げだ。ましてや今ネウロイに残ってる魔物は強力な個体ばかりと来ている。最悪の場合、ポータルを使って逃げることも考えなくてはならないだろう……彼女は取り敢えず周囲から姿を隠すべく、不可視(インビジブル)の魔法を使った。

 

 それにしても、これからどうしようか……?

 

 彼女は空を飛べないから上空から確認することは出来ない。もう一度ポータルを使ってみるのもいいが、失敗したら今度こそMPが尽きてお手上げだ。これは何かあった時のための、緊急回避用に取っておきたい。となると戦闘を避けるためにも、今はここで下手に動かず、じっとMPを回復してから行動を開始したほうがいいだろうか。

 

 鳳と逸れてからそろそろ6日が経過しようとしている。帝都にもフェニックスにも帰ってないとすると、彼はまだあの迷宮にいるはずだが、本当に大丈夫なんだろうか? ここに戻ってくるまでに何度も考えたことだが、やはりあのタイミングで鳳がルーシーだけをポータルで帰す理由がない。何かあったと考えるのが妥当なのだが……

 

 こんなことになるなら、無理を言ってでもメアリーやジャンヌについてきて貰えばよかった……彼女がそんな風に考え、ため息を漏らしたときだった。

 

 ガサガサ……っと、遠くの方から、何者かが草をかき分けて近づいてくる音が聞こえる。それは一直線にこちらへ向かっており、音は徐々に大きくなっていった。

 

 ルーシーは慌てて不可視の魔法を掛け直した。もしかしたら、さっきはちゃんと掛かっていなかったのかも知れない。この魔法の最大の欠点は、術者にはちゃんと魔法が掛かっているかどうかが分からないところだった。だから迷宮でも、彼女の集中力が途切れる度に、突然魔物に襲われることがあったのだ。

 

 しかし、あの時は周りに仲間がいたから事なきを得たが、今の自分では魔物に襲われたら一巻の終わりである。その場合は、虎の子のポータルも使わねばならない。出来ればそれは避けたいところだが……

 

 それでも音はどんどんこちらに近づいてくる。彼女はゴクリと生唾を飲み込んだ。杖を握る手が震えている。彼女は最悪の事態を想定し、中腰になって杖を構えながら、その近づいてくる音に集中した。

 



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めちゃくちゃ好きどころの騒ぎじゃねえ

 時を遡ること一ヶ月前。もう一組の鳳捜索隊であるギヨーム、ミーティア、アリスの3人は大森林へ入る直前の村にいた。

 

 帝都へ向かったジャンヌたちと別れてから数時間後、ようやくの思いで乗合馬車に乗り込んだ3人は、ほぼ丸1日のあいだ混雑する車内で押しつぶされながら街道を進み、どうにかこうにか大森林に入る直前の村までたどり着いた。

 

 ここに来るまでで既にクタクタになってしまったミーティアは、ギヨームの提案もあって一泊だけその村に泊まって、次の日に大森林へ入ることにした。彼女は、こうしている間も鳳はどんどん先へ進んでいると思うと気が急いたが、体が動かなくてはどうしようもない。諦めてギヨームの勧めに従うと、宿屋のベッドに沈み込むように身を横たえ、その日はぐっすりと眠ってしまった。

 

 翌朝、昨日の疲れが十分に取りきれてない中、体に鞭打って起きだすと、彼女は遅れを取り戻すつもりで市場へ向かった。冒険者と違って何の取り柄もない彼女は、せめて道中の食事係を買って出たのであるが、その食材の買い出しのためである。

 

 アリスの方はといえばギヨームと一緒に、朝から近隣の牧場に馬を探しに出掛けていた。同じ馬車に乗っていたのに、アリスはまったく疲れを見せていないのは、普段から体を使っている者と、事務仕事ばかりの自分との差であろうか。初日からこんなに足を引っ張ってしまっては先が思いやられる。彼女はため息を吐いた。

 

 買い出しから戻っても、二人はまだ帰ってきていなかった。ミーティアより前に出掛けたはずだから、結構な時間が経っているはずだが、なにかトラブルで起きたのだろうか? 彼女は荷物を宿に預けると、彼らを探しに村の入り口まで歩いてきた。街の入口には見張り台みたいな櫓が立っていて、ここからなら遠くも見渡せる。

 

 彼女がそうして辺りを眺めてみると、二人はあっさりと見つかった。彼らは村からほんの少し離れた農家の軒先で、馬を前にしながら何やら口論をしているようだった。

 

 従順なアリスがあんなに嫌がってるのは、きっとギヨームが無茶を言ってるに違いない。彼女は櫓から降りると、アリスを助けるつもりで小走りに彼らの方へと駆けていった。

 

「あ! 丁度よかった。おまえ、ちょっとこいつに何とか言ってくれよ」

 

 ミーティアが二人の口論を仲裁すべく駆け寄っていくと、思いがけずアリスではなくてギヨームの方がうんざりした表情で助けを求めてきた。対するアリスの方は眉を吊り上げプンスカしながら口を尖らせている。

 

「一体何があったんです?」

 

 彼女が尋ねると、ギヨームはため息交じりに、

 

「朝から馬を探していたんだが中々見つからなくて困っててよ。そしたら運のいいことに、以前に依頼で世話した金持ち農家が、ラバを売ってくれるって言うんで、ちょっと割高だが買うことにしたんだよ。ところが、いざ買おうとしたら、こいつが高すぎるから駄目だってゴネだしてよ」

「最初に決めた予算をオーバーしているんだから、絶対駄目です!」

「だから、これが掘り出しモンだっつーのは分かるだろう!? 朝からそこら中歩き回ってようやく見つけたんじゃねえか。金だって、おまえ、鳳の小切手持ってんだから、いくらでも出せるだろうがっ!」

「ですから、これはご主人様と奥様にお預かりした大事なお金だから、自分勝手に使うわけにはまいりません!」

 

 アリスは一向に引く気配がない。ミーティアは、気が弱そうに見えて彼女も意外と頑固な面があるんだなと驚きつつ、ギヨームに助け舟を出すつもりで、

 

「アリスさん。こういう時はあなたの判断で使っていいと思いますよ。鳳さんも事情を知れば文句を言わないでしょうし、事後承諾でも私に言って貰えれば、私からもお願いしますから」

「いいえ、駄目です。それならまずは奥様にお伺いを立てるのが筋です」

「さっきからずっとこれなんだよ。こっちは旦那を待たせてるっつーのによ」

 

 ギヨームが呆れ顔で肩をすくめる。隣にはラバの手綱を握った農家の旦那さんらしき人物が苦笑いしながら見ていた。きっと二人が口論している間、困惑しながら見守っていたのだろう。ミーティアは彼に申し訳なく思いながらも、

 

「アリスさん、その場で決断しなければならないことは、これからもやっぱりあると思いますし、私もこういう時はあなたの判断で行動して欲しいと思うんですが……」

「いえ、そういうわけにはまいりません」

「どうしてそう頑ななんですか?」

「それは、こういうことをなし崩しにしては、主従関係が壊れてしまうからです」

 

 アリスはぴしゃりとそう言い切った。主従関係……ミーティアは、彼女がそんなことを気にしていたのかと少々面食らいながらも、

 

「言いたいことはわかりますけど、でも、あなたももう鳳さんの奥さんなんでしょう? だったら私たちは対等じゃないですか」

 

 アリスはミーティアから『あなたも奥さん』と言われて、顔を赤らめもじもじし始めたが、すぐにハッと我を取り戻した素振りで、

 

「それとこれとは話が別なんです。私はご主人様の、つ、つ、つ、妻である前に、下僕でもありたいんです! この気持ちは、ご主人様にお仕えすると決めた時から変わりません。ご主人様が私の帰る家、守るべき領土、そして法なのです。ですから、絶対にご主人様、奥様の信頼を裏切るようなことはしたくないんです」

「うーん……それは良くわからないです。もしアリスさんが私のことを信頼してくれると言うのなら、私を信じて自分の判断を優先して欲しいと思うのですが……これは詭弁でしょうか」

「いえ、奥様のおっしゃることは正しいと存じております。ですが、それでもお金の取り扱いに関しては、私は引くつもりはありません」

 

 アリスは、奥様と仰いでいるミーティアの説得にも応じず、頑として自分の考えを曲げようとしなかった。これには流石のミーティアも辟易して、どうしてここまで拘るんだと、半ば呆れながら問いかけた。すると彼女は真剣な表情で、

 

「お金の魔力というものは、私たちの常識では決して測れないものですし、測ってはいけないものなんです。真面目だと思っていた人が、信じられない額を着服したりすることもあれば、主人のただの勘違いで数十年来仕えてきた使用人が、理不尽に罪を着せられ命を落とすことだってあります。

 

 たかが十数年でしかありませんが、貴族の従者としてお仕えしてきた私が知る限り、信頼関係が壊れるのは必ずお金からでした。ご主人様、奥様からしてみれば端金でしかないものに、悪魔のようになれるのが人間なんです。

 

 私はルナお嬢様の従者として、長年お嬢様の財産を管理しながら、いつも恐々としていました。お嬢様の従者になるために生まれてきた私には、この関係が壊れてしまったら、どこにも行く場所が無かったんです。

 

 だからある時、私はお嬢様にお願いしたんです。お金を使用する時は、必ずお嬢様の許可を頂きたいと。そうでない時は、どんな理由があろうともお金は使わないと。お嬢様はそれを受け入れてくれました。それで私は心の底からホッとしたんです。

 

 ですから奥様。私はこれからもあなたのお金を使う時は、必ずあなたの許可を頂きたいのです。どうかこればっかりは、わがままをお許しください」

 

 ミーティアは思わず黙りこくった。今までもルナの財産を管理していただけあって、アリスの言葉は説得力があった。草を食って生きていたような男だから、お金持ちのイメージは全くないのだが、ヘルメス卿となった今の鳳は相当の金持ちだった。彼の小切手は、下手すると国庫に直結している。アリスは、たかがお金と言えるような額を管理しているわけではないのだ。

 

 なるほど……とミーティアは感心した。もしもそれが自分なら、生きた心地がしないだろう。いや、それどころか、とっくに着服しててもおかしくない。その自信すらある。彼女はう~ん……と唸り声をあげると、キラキラとした目で彼女のことを見上げているアリスの肩を叩いて、

 

「……あなたの気持ちはわかりました。これは私のお金というわけではありませんが、これからは何かあった時は必ず一緒に考えて使いましょう」

「はい、奥様」

「面倒くせえなあ……」

 

 二人のやり取りを見ながら、ギヨームがうんざりするようにぼやいていた。

 

 ともあれ、馬がなくては移動すらままならないので、その後、ミーティアの判断で目的のラバを購入することにした。ギヨームはうんざりしていたが、農家の旦那さんの方は感心した様子で、この話を自分の使用人も聞かせてやると言って帰っていった。アリスの管理する財布の紐の固さもさることながら、彼女の鳳への忠誠心も固く、もはや愛を越えて崇拝に近いようだった。

 

 ラバを手に入れた一行は、出発の遅れを取り戻すつもりで、宿をチェックアウトするとすぐに大森林へと入った。森は夜が訪れるのが早いので、少しでも距離を稼ぎたい一心で急いだわけだが、大変だろうと思われた移動は信じられないほどスムーズで、初日にも関わらず結構な距離を進むことが出来た。

 

 と言うのも、例のオークが作り上げた通り道は思いがけず交通量が多くて、非常に歩きやすかったのだ。ギヨーム達は大体30分くらいの間隔で、行商人のキャラバンに出くわした。彼らは景気の良いヘルメスで一儲けしようと、新大陸から渡って来た商人たちだった。

 

 道は全然整備されていないというのに、どうしてこんなにひっきりなしに商人が通るのかと言えば、実は勇者領は13国ごとに関税があって、既存の街道を通ろうとすると、ヘルメスに到着するまでにかなりの税金を支払わねばならなかったのだ。

 

 それが、大森林を通れば一切税金を払わずに済むので、新大陸から来た商人たちは多少リスクを負ってでもこっちを通りたいわけである。

 

 おまけに、これだけ多くの人間が通れば野生動物も警戒して近づかないから、道は思ったよりも安全であり、更にはヘルメスに入れば、鳳が実行した関所撤廃の恩恵を受けられるから、一攫千金を狙う中小規模の行商人が多数利用していたのである。

 

 ある意味、この物流がヘルメスの好景気の正体であり、勇者領が関税を取るためには、両国間で街道を整備して協定を結ぶしかないのであるが、連邦議会はロバート憎しで身動きが取れなくなっていた。

 

 それは両国にとってあまり良いことじゃないので、出来るだけ早く是正した方が良いのだろうが、弱小商人は今のほうがよっぽど稼げるので、ロバートにはもうちょっと頑張ってほしいというのが本音だろう。

 

 ともあれ、街道を整備すればヘルメスへの物流が一気に改善するという鳳の目論見は正しかったわけであり、アリスはそれを知るとまるで自分のことのように喜び、さすが御主人様ですと胸を張っていた。ミーティアはそんなアリスの姿を見て、彼女は本当に心の底から彼のことを信頼しているのだなと、微笑ましく思っていた。

 

 その夜……一行は川沿いから少し離れた森の中でキャンプを張ることにした。水場を避けたのは虫が多いのと、なんやかんや人通りがあるのであまり落ち着かなかったからだ。

 

 ギヨームは手頃な木にタープを渡して簡易なシェルターを作ると、夜の間の見張り番を決めてさっさと寝てしまった。休める時に休めないと道中が大変になると言う彼の言葉は良くわかっていたが、あまり旅慣れていないミーティアは彼のようにすぐに眠ることが出来ず、最初の見張り番を買って出た。

 

 森の中はしんと静まり返っており、フクロウの鳴く声くらいしか聞こえてこない。パチパチと焚き火が爆ぜる音を聞きながら、じっと炎を見つめていたら、いつの間にか時間が経っていたのであろう、交代番のアリスが寝床から起きてきた。

 

「奥様。そろそろ交代いたします」

「もうそんな時間でしたか……寝覚めにコーヒーでもどうです?」

「でしたら私がお淹れします」

「いえ。このくらいのことで遠慮しないでください。私たちはもう家族なんですから」

 

 ミーティアが何気なくそう言うと、アリスはハッとした表情をしてからモジモジと顔を赤らめた。ミーティアは思わず口をついて出た言葉だったけど、ちょっと臭かっただろうかと反省したが、その言葉はわりとアリスには好評のようだった。

 

 彼女はミーティアからコーヒーの入ったカップを受け取ると、それを両手で持ちながらフーフーと息を吹きかけて、

 

「……家族って、暖かいものだったんですね」

「……え?」

 

 ミーティアが首を傾げて彼女を見ると、アリスはほんの少し遠い目をしながら、

 

「私には生まれた時から家族というものが居なくって……本当はちゃんとお母さんも居たんですけど、お嬢様の従者になることが決められていた私には、家族というものが初めからないことにされていたんです」

 

 どういうことだろうか? いまいち判然としない言葉に戸惑っていると、アリスは何から話せば良いのかと言った感じに言葉を選びながら、自分の身の上を話し始めた。

 

「私のお母さんは、いわゆるお手つきだったんです……お母さんも私と同じように、貴族の従者になるために生まれてきた人で、子供の頃から主人に尽くし、そして年頃になったら、当たり前のように貴族に抱かれました。そうして生まれたのが私だったんです。

 

 だけど、普通、使用人は貴族と結婚することは出来ません。だから私は初めから父親が居ない子供として生まれたんですが、困ったことに使用人であるお母さんに子供が居ることがわかったら、誰が父親であるかも大体分かってしまうから、私にはお母さんも居ないことにされてしまったんです。

 

 お母さんは使用人をやめたら、一人では生きていけなかったから、泣く泣く私を手放したそうです。それで私はデューイ家に貰われて、お嬢様の使用人なるためだけに育てられたんです」

「……そうだったんですか」

「私は物心ついた頃には、もう仕事を覚えるために教育係をつけられたんですが……多分、その人が私のお母さんだったんだと思います。でも、それを何度確認しても、彼女は一度もそうだと言ってくれたことはありませんでした。彼女は私に根気よく仕事を教えると、ルナお嬢様だけが家族だと思って、彼女のためだけに生きなさいと言って去っていきました。その後、彼女とは会っていません」

 

 それでアリスは死ぬかも知れないと分かっていても、帝国軍に追われるルナを見捨てず一緒に逃げ続け、その後、帝都でアイザックを殺してしまった彼女を庇って、殺されるかも知れないにも係わらず、必死に鳳に縋り付いたのだろう。彼女にとって、ルナが全てだったのだ。ルナがいなくなってしまえば、アリスにはもう生きる理由も術もなかった。

 

「でも、それは今までの話です。家族のいない私は、主人を失えば今までなら死ぬしかありませんでした。ですが、ご主人様がそんな私の境遇を変えてしまったんです」

「変えた……?」

「はい。今までのヘルメスなら、従者の子に生まれたなら、従者以外の仕事をして生きていくことが許されませんでした。私はルナお嬢様の物とされ、彼女がいなくなってしまえばそれまでです。ところが、ご主人様がヘルメス卿になられてからは、それが許されるようになったんです。

 

 農家の人達が商売をしたり、誰でも自由に領内を移動しても良くなりました。外国から大勢の人たちが訪れて、色んなものを提供してくれて、私も自分の意思でお給金をいただけるようになれたんです。女性が働きに出るなんて、勇者領に住まわれていた奥様からすれば当たり前のことかも知れませんが、これって凄いことなんですよ?」

 

 ミーティアは頷いた。恋破れてヘルメスに来た時から、それはずっと感じていたことだった。この国では女性が働くことなんて普通ならありえず、仮に働く女性がいたとしたら、それは大体が水商売だった。後は家族の手伝いで、店番をしているくらいのものだろう。

 

 だから、こっちに来てから貴族のパーティーや、農家の集団お見合いなんかに参加する度、いつも閉塞感のようなものを感じていた。そして彼女がギルド職員として働いていることを知ると、例外なく男性たちは及び腰になった。

 

 ところが、鳳がこの国の領主になってから、たった数ヶ月のことでその空気が一変してしまったのだ。今の彼女は以前のような閉塞感を感じなかった。何となくだが、この国が、ようやく自分のことを受け入れてくれたんだなと、そんな風に思っていた。

 

 ミーティアがそんな感想を呟くと、アリスは薄く笑みを浮かべながら、

 

「もし、もっと早くご主人様がこの国を変えてくれていたら、私は今頃お母さんと一緒に暮らしていたかも知れません。でも、そしたら私はご主人様に出会うことも出来なかったでしょうから、こっちの方が良かったかも知れません……」

「……そう考えると、不思議な縁ですね。私たちが、こうして森の中で焚き火を囲んでいるなんて」

 

 二人はコーヒーを飲みながら、暫くの間そんな会話を交わしていた。

 

********************************

 

 アリスに火の番を代わってもらって、ようやく寝床についたミーティアは、それでも暫くは眠ることが出来ずに、ハンモックの上で色々考えごとをしていた。

 

 と言うか、考えなしに飛び出してきてしまったが、この旅の終着点に本当に鳳が居るのか、彼女は信じきれていなかったのだ。何しろこっちは地べたを這っていくしかないのに、相手は瞬間移動したり、空を飛んだりして行動するのだ。だからもし、彼とどこかで再会することが出来たとしても、その時はこっちが追いついたというよりは、あっちが見つけてくれたと言った感じの再会になるのではないか。そんな旅に、彼女らを巻き込んでしまって本当に良かったのだろうか。

 

 案外、自分はギヨームが止めてくれるのを期待して、わがままを言っていただけなんじゃないだろうか。何故か今回は皮肉屋の彼が止めなかったためにこんなことになっているのなら、今からでも遅くないから、やっぱりフェニックスで待とうと言いだし方が良いんじゃないだろうか……少なくとも、アリスをこんな危険な旅に付き合わせるよりはそっちの方が良いのかも知れない。

 

 彼女はそんな後ろ向きなことを考えては、ますます眠れなくなっていた。

 

 それにしても、アリスの鳳への想いは凄いと言うか、少し圧倒されるものを感じていた。彼女は鳳のことを尊敬しているだけでなく、ちゃんと愛を持って向き合っているのだ。彼女の見ている世界で、鳳はただ格好いいだけではなく、たくさんの恵まれない人々を導く立派なリーダーなのだ。自分みたいに、いつも一緒に居て仲が良かったから、なんとなく好きになっちゃったのとはわけが違った。彼女はなんというか、命を懸けて彼のことを愛しているのだ。そんなのに、太刀打ち出来るのだろうか?

 

 ミーティアはため息混じりに体を起こした。さっきからどうもハンモックに慣れなくて、寝返りが打てずに苦労しているせいか、だんだん目が冴えてきてしまった。寝る前に飲んだコーヒーのせいで、心なしか尿意も覚えていた。これは一度、お花摘みのついでにアリスのところで焚き火に当たってこよう。彼女はそう思ってハンモックから降りた。

 

「あれ……?」

 

 ところが、彼女が寝床から出てアリスの様子を見に行くと、そこには飲みかけのカップがあるだけで、彼女の姿は見えなかった。薪はちゃんと焚べてあるから、そんなに遠くには行っていないだろう。

 

 どしたんだろう? と思いながら辺りを見渡すと、少し遠くの方で何やら人の気配がした。もしかしてアリスかな? と、彼女は気配のする方へ歩いていった。

 

 しかし、よくよく考えてもみれば、こんな暗がりで一人ですることなんて、自分と同じくトイレくらいしかないだろう。だとしたら、その様子を見に行くなんて野暮な話である。ミーティアはそう思い、やっぱり引き返そうとしかけたが……

 

 ところが、その時……何故か行く先からハァハァという、なにやら苦しげな吐息のような音が聞こえてきて、彼女は引き返そうとした足を止めた。

 

 女性のものらしき息遣いは断続的に聞こえてきて、いかにも何かに耐えている感じだった。昼間の様子からして、アリスに何か持病があるとは思えなかったが、もしかして隠しているだけで、本当はあったのかも知れない。

 

 ミーティアはそう思い、緊急事態かも知れないことを考慮して、悪いと思いながらも声のする方へと近づいていった。すると……

 

「ハァハァ……ハァハァ……ご主人様……ご主人様……お慕いしております、ご主人様……ハァハァ……」

 

 クチュクチュという水をかき混ぜるような音と、鼻にかかったアリスの声が、まるでピンク色の靄になって体にまとわりついて来るかのように、ミーティアの耳に届いてきた。何をしているかは一目瞭然、いや一聴瞭然だったが、考えが追いつかず、彼女は暫しその場で呆然と立ち尽くしていた。

 

「はわわわわわ」

 

 しかし、ようやく何が起きているのか理解が追いついてきた彼女は、じわじわとこみ上げてくる羞恥心から逃げるように、声を漏らさないよう必死に口を抑えながらその場を後にした。

 

 ようやく焚き火のところまで帰ってきたミーティアは額から流れ落ちる汗を拭い、はあはあと苦しげな喘ぎ声を漏らしながら、絞り出すようにつぶやいた。

 

「……めちゃくちゃ好きどころの騒ぎじゃねえ」

 

 気がつけば全身冷や汗でぐっしょりしており、そのせいか尿意なんてもう吹き飛んでいた。

 

 アリスのことを見ている限り、彼女が鳳のことを慕っているのはわかりきっていたことだが、その愛はミーティアの想像を遥かに越えていた。彼女は鳳を尊敬しているだけではなく、きっちり欲情してもいたのだ。

 

 と言うか、こんな森の中で一人で慰めちゃうくらい好きってどんだけなんだ……?

 

 ミーティアはドン引きした。彼女だって彼のことが好きだが、流石にそこまでしちゃうほど恋しくはなれない。かも知れない。いや、やろうと思えば出来なくもないが、普通はしない。ところがアリスはそれが我慢出来ないくらい、彼のことが好きなのだ。

 

「あ、あかん……あれはもしかして、相当のライバルなのでは?」

 

 いつもルナという神人と一緒にいたから目立たなかったが、アリスも普通にしていれば相当の美少女なのだ。と言うか、彼女の生い立ちから察するに、父親は神人に違いない。そのハーフであるアリスが可愛くないわけがない。そんな子が、好き好きオーラ全開にして迫ってきたら、果たして鳳は耐えきることが出来るのだろうか。

 

 ミーティアはこの期に及んでようやく危機感を持ち始めた。思えば、クレアといい、アリスといい、二人とも自分と違って処女でもなければ、滅茶苦茶エロいのだ。オボコの自分じゃ到底太刀打ちできないのではなかろうか。

 

 やはり待っていたら駄目だ。あの男を手に入れるには、追いかけていって無理やり所有権を主張するしか他に方法はないだろう。

 

 彼女はまた新たにそう決意すると、アリスに覗いていたことがバレないように、こっそり寝床に戻っていった。

 



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言わんこっちゃない

 ミーティアが目撃してしまった深夜のハプニングはさておいて、その後、旅は順調に続き、ギヨーム達はついに中継点のガルガンチュアの村へとたどり着いた。オークの通り道があったお陰で、本来なら一ヶ月はかかるであろう距離を、たったの1週間で踏破した計算であった。

 

 元々、馬よりも優秀なラバを二頭も連れていたというのも早さの秘訣であったが、それ以上に驚いたのは、ギヨームがここへ来るまで一度もそのラバに乗らなかったことだ。

 

 彼はその間、当たり前のようにラバと並走し続け、不平も言わなければ疲れを微塵も見せなかった。魔王を倒してしまったという鳳の成長にも驚かされたが、彼もまたそれと同じくらい劇的に成長していたようである。そんな凄腕冒険者をタダで雇ってしまえるなんて、自分はなんて幸運なんだろうとミーティアは思った。

 

 ともあれ、ガルガンチュアの村に到着した彼女は、集落の周りだけ森がポッカリ開けていて、中央に巨大な木がそびえ立つ村を見るなり『帰ってきた』と思ってしまった。ここに居たのはせいぜい数ヶ月前のことだと言うのに、何だかどうしようもなく懐かしかった。

 

 尤も、村の雰囲気は以前とは大分様変わりしており、彼女が早速とばかりに懐かしのギルド出張所へ向かおうとしたら、ギルドへ続く森の小径は、いつの間にか両側に店が立ち並ぶ大通りに整備されていて、それを利用する村人や行商人たちで賑わっていた。

 

 店はレイヴン達が経営している鍛冶屋や道具屋で、彼らが作った皮革製品などを、外から来た商人たちが買い取り、レイヴン達は代わりにくず鉄などの材料を仕入れているようだった。

 

 他にも大森林で取れる香辛料と小麦粉を交換したりと、ヴィンチ村に留学していたマニの経験が、大分生かされているようである。

 

 ミーティアは、そう言えばギルド職員もレイヴンが引き継いだことを思い出し、新任に挨拶しておこうとギルドに向かったら、思いがけずそこでマニに出くわした。彼はギヨームの顔を見るなり、まるで犬みたいに嬉しそうに駆け寄ってきて、

 

「やあ! ギヨームお兄さん。ミーティアお姉さんも、よく来てくれました。千客万来ですね」

「よう、マニ。たった二人で千客もねえよ。大げさすぎんだろ」

 

 ギヨームがいつものように皮肉を言うと、マニは苦笑しながら、

 

「いえ、少し前に勇者のお兄さんとルーシーさんも来てたんですよ。なんでも、ネウロイに向かうとか」

「なに!?」

 

 ギヨームとミーティアは顔を見合わせた。やはり、鳳はここへ立ち寄ったらしい。それはある意味予想通りだったが、

 

「あの野郎、やっぱここに立ち寄ってたんだな。それで、やつはどうしたんだ?」

「えーっと、ネウロイに向かうって言ってまして、僕も一緒に行こうかと聞いてみたんですが、その必要はないから、代わりにみんなに自分が来たことを伝えておいてくれって言って……今頃ギルド経由でフェニックスに伝わってる頃だと思いますよ?」

「ふーん、それで」

「旅立とうとしたらルーシーさんが出てきて、一人じゃ危険だからって、ひと悶着した後、二人で飛び立っていきました」

 

 その言葉を横で聞いていたミーティアがホッとしながら、

 

「そうですか、一人で出ていってしまった時は心配しましたが、ルーシーも一緒なら安心ですね」

「そうかあ? 女と二人っきりなんだろ。案外、今頃抜け駆けしてるんじゃねえか?」

 

 ギヨームがそんな穿ったことを言うと、ミーティアはプンプン怒りながら、

 

「失礼な人ですね。彼女がそんなことするわけないじゃないですか。あの子は私が鳳さんのことが好きだってことを知ってるんですよ? そんな彼女が裏切るはずがありません。私と彼女が、一体、何年付き合ってると思ってるんですか!?」

「あんたがヘルメスに来てからせいぜい2年ちょっとだろう?」

「年数なんか関係ないんですよ!」

 

 おまえが先に言い出したことだろうに……ギヨームはそんな理不尽な言葉に、これ以上何を言っても無駄だと肩を竦めた。尤も、彼の言葉は現時点では確かに誤りではあった。現時点では……

 

 ともあれ、鳳が無事だったことを知ると、ミーティアはそれを重ねて確かめるようにマニに詰め寄りながら、

 

「ところで、鳳さんの様子はどんな感じでしたか? どこか思いつめていたりとか、苦しそうな感じとかしませんでしたか?」

「ええ!? いいえ、そんなことは全くありませんでしたけど……」

「そんな馬鹿な!? ……本当に?」

「はあ……特に変わりなく。いつも通り、ルーシーさんと漫才みたいな会話を繰り広げた後、やっぱりいつも通りにふわっと飛んでっちゃいましたが……あ! そう言えば!」

 

 マニは会話の途中で何かを思い出したかのようにポンと手を叩いた。ミーティアはその様子に、何か良からぬことでも起きたのだろうかと気を揉みながら、マニの言葉を催促すると、彼は少しこそばゆそうな表情をしながら、

 

「えーっと、挨拶がおくれちゃいましたが……ご結婚おめでとうございます」

「……はい?」

「お二人からお話を聞いて知りましたが、最近、お兄さんとミーティアお姉さんは結婚されたそうですね。お兄さんはそれを嬉しそうに話していて、僕は、ああ、お兄さんは本当にお姉さんのことが好きなんだなって、その気持ちが凄く伝わってきましたよ」

「んまあ! 鳳さんがそんなことを……?」

「はい。だから、全然、思いつめたりとかそんなんじゃなくって、寧ろ浮かれていてルーシーさんに叩かれてたくらいですが……」

 

 どうやら本当に鳳は普段どおりだったらしい。あんな出発の仕方をしたから心配してここまで来たのに肩透かしではあったが、元気が無いよりはマシだろう。ミーティアがそう思って安堵していると、マニは人見知りするようにソワソワしながら、二人の背後に影のように付き従っているアリスのことを指差し、

 

「ところで、さっきから気になってたんですけど、そちらの方は?」

「ん? ああ、こいつはアリスって言って、鳳の新しい従者だ」

「ああ! それじゃ、この人がもう一人の奥さんですか」

 

 マニはポンと手を叩くと彼女の前に進み出て、

 

「あなたのこともお兄さんたちから聞いています。お兄さんはあなたのことを、まるで宝物みたいに、それはそれは大切そうに話していましたよ」

「ご主人様が私のことを……?」

 

 アリスはまるで神に祈りでも捧げるかのような恍惚とした表情を浮かべている。

 

「ぐぬぬ……」

 

 ミーティアはそれを尻目に見ながら、やはりこの子は侮れないとまた危機感を募らせていた。

 

 そんなミーティアの不安をよそに、マニは続いてギヨームの前に進み出ると、彼の全身を隈なく眺めるようにじろじろ見つめてから、

 

「それにしても……ギヨームお兄さんも大分感じが変わりましたね? 最後に別れた時と比べると雰囲気が格段に違います。もしかして最近、何かすごい力を得たりしませんでしたか?」

「……分かるのか?」

 

 ギヨームが少し意外そうに言うと、マニは当然だとでも言いたげな素振りで、

 

「森の中には危険がいっぱいありますから、獣人は元々そういうのを肌で感じるセンサーみたいなものを持っているんですよ。特に僕は兎人の血も引いていますからよく感じます。ついでに、ご先祖様の力を継承したのもあるんで……なんとなくですが」

「へえ。そいつは便利だな」

「お兄さんもそうだったんですけど、ギヨームさんからも、魔王に匹敵するような凄みみたいなものを感じます。今のお二人が力を合わせれば、例え相手が誰であっても敗北は無いんじゃないですか?」

「でも、下手したらその鳳と戦わなきゃなんねえ状況だからなあ……奴が来たんなら、魔王化の話は聞いてるんだろう?」

「はい。どうやら深刻な事態みたいですね……」

「ああ、俺たちはこれをどうにかして止めなきゃなんねえわけだが……そのために、俺はこいつらを奴のとこまで連れてこうとしてるんだが」

「奥さんたちですか?」

「おい、ガルガンチュア! 何をやってやがる!?」

 

 ギヨームとマニが首を突き合わせてそんな話をしている時だった。ギルドに通じる大通りの道幅いっぱいに広がって、たくさんの取り巻きを引き連れた狼人が現れた。

 

 マニはその姿を見るや否や、それまでの愛嬌のある子供らしい表情が鳴りを潜め、どことなく剣呑な雰囲気を漂わせながら、現れた連中を睨みつけた。そして一段トーンの低い声で、

 

「ゲルト! お客さんの前で失礼だぞ」

「客? 客なぞどこにいる。ここにはおまえと人間しかいないぞ」

「またおまえは、誰彼構わず威圧して、いい加減にしないかっ!」

「威圧? 俺は威圧などしていない。人間が勝手に怖がって逃げていくだけだ」

「それを威圧していると言ってるんだ! おまえのせいで、せっかく来てくれた人間の行商人達が、今までどれだけ離れていってしまったことか」

「ふん! あいつらが売りつけようとしていた物は、トカゲ商人よりもずっと高かったじゃないか。不必要に獣人を差別するような輩がいなくってせいせいするぞ」

「族長は俺だぞ! それを決めるのはおまえじゃない!」

 

 ギヨームはそのやり取りに驚いた。マニが感情をあらわにして他者を批判するとは珍しい。話の内容からして、恐らくは村長を巡ってのライバルなのだろうが、よほど手を焼いているのだろうか? とは言え、こんな物語の序盤で登場する噛ませ犬みたいな奴に、今更遅れを取るようなマニではないはずだ。

 

「おい、マニ。そんなのさっさと畳んじまえばいいじゃねえか。なんなら俺が始末してやろうか」

 

 だから、何を手こずっているんだろうと思ったギヨームは、自然とそんな言葉を口にしていた。彼にしては当たり前の言葉だったが、しかし、見た目は子供でしかないギヨームに、いきなりそんなことを言われたゲルトは怒り狂った。

 

「何だと貴様!? 今、俺を倒すと言ったのか!? この俺を! 森の獣人最強の種族である狼人のこの俺を!?」

「ん? ああ、わりいわりい、プルッちまったか。悪気は無かったんだよ。つい、ポロッと本音が漏れちまってよ」

「生意気なガキめっ!! ぶっ殺してやる!!」

 

 怒り心頭のゲルトは目を吊り上げると、牙をむき出しにして自慢の爪をニョキッと伸ばした。狼人のその鋭利な爪は、分厚いクマの皮をも引き裂き、まともに食らっては一溜まりもないであろう。食らえばの話であるが……

 

 ゲルトは自分より半分以上も小さいギヨームに、敵意を剥き出しに襲いかかってきた。そんな二人の間にマニが慌てて飛び込んで、ゲルトを押し留めようとする。

 

「やめろ! ゲルト! この人に手を出してはいけないっ!!」

「黙れ、ガルガンチュア! こんなガキに舐められていて黙ってられるか! それもこれも、おまえのせいだぞ! おまえが人間なんかにペコペコするから!!」

「そうじゃない! わからないのか!? おまえじゃ相手にならないって!!」

「うるさい! 臆病者は引っ込んでろっっ!!」

 

 ゲルトは押し留めようとするマニをドンと突き飛ばすと、ギラギラと目を光らせてギヨームを凝視した。大森林の獣人は屈強で、並の人間なら、それだけで恐慌状態に陥るには十分な迫力だった。だが、修羅場を潜ってきた数が違うギヨームが、今更そんなものを恐れるわけもなく、彼はポケットに手を突っ込んだまま、いつものニヤニヤ笑いをしながらゲルトの顔を見つめていた。

 

 その生意気そうな表情がますますゲルトの自尊心を傷つけた。彼はうおおんと大きな雄叫びをあげると、マニが止めるのも聞かずに牙をむき出しにしてギヨームに飛びかかった。

 

 しかし、そんなゲルトの腕が、ギヨームに届こうとした瞬間だった。

 

 ドンッ! っと腹の底から響いてくるような振動音が辺りに轟いたかと思うと、たった今ギヨームを切り刻もうとしていたゲルトの腕が空振りし、代わりにいつの間にか背後に回っていたギヨームが、ゲルトの背中を思いっきり蹴り飛ばしていた。

 

 相変わらずポケットに手を突っ込んだまま、まるでサッカーボールを蹴るような気安さで振るわれたにもかかわらず、その蹴りを食らったゲルトの体は、空中を錐揉しながら吹き飛んでいく。

 

 そのまま地面に激突したゲルトの巨体が、ズザザッ、ズザザッと、水切りの石みたいに地面を跳ねながら飛んでいき、彼の体はやがて大木の幹にぶつかりズシンと大きな音を立てて止まった。

 

 そのあまりの衝撃に目を回しながらも、どうにか立ち上がろうとしたゲルトは、しかしその時、既に彼の間合いに入り込んできていたギヨームの姿を捕らえて絶望した。

 

 その姿はあまりにも速すぎて、周りの者達は誰も目で追うことが出来なかった。暴力を振るわれているゲルトですら、何が起こっているのかわかなかった。ただ、気がつけばいつの間にかそこにいて、そして次の瞬間、ギヨームが軽く彼の体に触れたと思ったら、ゲルトはまるで内蔵を直接抉り抜かれたような強烈な痛みが全身を突き抜け、その時にはもう失神していた。

 

 ぶくぶくと泡を吹きながら、巨大な狼人の男が、小さな男の子に打ちのめされている。そんな光景を、ゲルトの取り巻き達は、唖然呆然と眺めては、ぽかんと棒立ちするばかりであった。

 

「言わんこっちゃない……」

 

 マニは頭を抱えてため息を吐いた。そして、未だに身動き一つ取れずにぼーっとしているゲルトの取り巻き連中に向かって、

 

「お前たち、闘争心が強いのは結構だが、相手との力量差すら測れないで、何が獣人だ! 今回は相手が俺の友達だったから良かったものの、これが森の中だったらゲルトは死んでいたんだぞ!? なのにおまえたちは彼を止めも、助けもしないで、何をいつまでぼんやりしているんだ!!」

 

 族長がそう言うと、取り巻き達ははっと気がついた感じに体を震わせ、正に今ゲルトを踏んづけているギヨームに向かって一歩進み出た。しかし、そうしたまではいいものの、それからどうしていいのか分からず、彼らは蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。

 

 マニは呆れ果てたと言った感じにため息を吐くと、彼らの代わりに前に進み出て、ギヨームに向かって頭を下げた。

 

「ギヨームさん、すみません。そいつは俺の村の仲間なんです。非礼はお詫びしますから、今回は許してやってくれませんか?」

「ん……? ああ、俺は別にいいけどよ」

 

 ギヨームは、やれやれと言った感じに肩を竦めて、いつものお手上げのポーズを見せた。そんな少年を前にゲルトの取り巻き達は何も言うことも出来ず、おずおずと自分たちの族長の背中に隠れていることしか出来なかった。

 



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父の名に恥じぬように

 ガルガンチュアの村に到着したギヨームは、マニと話している最中に乱入してきた彼の政敵ゲルトをけちょんけちょんに畳んでしまった。今更、この程度の獣人をマニが恐れる必要なんてないじゃないかというつもりであったが、そんな彼の思惑とは裏腹に、ゲルトをやっつけたら慌ててマニが頭を下げてきた。

 

 どうやらマニはゲルトや取り巻きに尻込みしているわけではなく、族長として言葉で言って聞かせてやりたかったようである。そんなこととはつゆ知らず、いつも通り暴力には暴力で返してしまったギヨームは肩をすくめると、バツが悪くなって彼らから少し距離を取って背中を向けた。

 

 そんなギヨームの元へ呆れた素振りのミーティアがやってくる。

 

「どっちが年上かわからないですね。マニ君の方がよっぽど大人です。ギルドではそれで助かってましたが、あなたもそろそろ成長しなければ」

「うっせえな。わかってるよ。この商売、舐められたらお終いなんだよ」

「それにしても、いつの間に人間やめちゃったんです? 暫く見ない内に、また化け物みたいに強くなりましたね。何かおかしなものを拾い食いでもしたんですか」

「相変わらず口が悪いな、あんた……」

 

 二人がそんな会話を交わしている間、気絶したゲルトをマニとアリスがてきぱき介抱していた。アリスが水筒の水を布に含ませ口に当て、そんなゲルトを抱き起こし、マニがグイッと背中を押すと、彼は一瞬ビクッと跳ねるような動作をした後、薄ぼんやりと目を開けて、呆然と周りを見回していた。

 

 なかなか焦点が定まらないのか、暫くの間フラフラと頭を左右に振っていた彼は、その目がギヨームを捕らえるや否や、それまでの尊大な態度が一瞬にして崩れて恐怖に怯える表情を見せた。

 

「ヒィッ……!」

 

 彼はその時になってようやく自分がヤバいものに手を出してしまったのを悟ったらしく、トラウマスイッチが入ったかのようにハアハアと呼吸を取り乱す様は、これぞ正に負け犬といった感じで、彼をリーダーと仰いで従っていた取り巻き達を動揺させた。

 

 マニはそんな連中の姿を見て、ため息交じりに言った。

 

「ゲルト。おまえは無闇矢鱈と人間を見下しているが、これで人間にだって、獣人よりもずっと強い人がいるのがわかっただろう。自分の力を過信し、相手の力量も見極められずに突っかかっていって、挙句の果てにこてんぱんにやられて、おまえこそそんなのが誇り高き森の獣人と呼べるのか。

 

 おまえは普段から獣人こそが最強だと宣っているくせに、この体たらくはなんだ! さっきだって、お前一人がやられるだけならいいが、もしもギヨームさんが本当の敵対者だとしたら、おまえもその取り巻きも、みんなやられていたところなんだぞ?

 

 魔族は、気絶したおまえを優しく介抱したりなんかしない。みんな今頃お陀仏だ。そんな判断もできないやつに、村のことをとやかく言われたくないぞ!

 

 ……人間と協調するというのは、俺が族長になった時からの既定路線だ。そうした方が、獣人が種族として強くなれると、俺はそう思っているからだ。今更これを変えるつもりはない。

 

 もちろん、頭からそれを受け入れろというつもりもない。反対意見もあっていい。だが、やりもしないうちから排除するような真似はするなよ。大森林の獣人は、俺たちは、今変わらなきゃいけない瀬戸際に立ってるんだ。いい加減、そのことに気づいて欲しい。

 

 言いたいことは、これからも好きに言えばいい。だが、今は俺が族長なんだから俺に従ってもらう。それがどうしても嫌だと言うなら、力づくで奪いにこい。そりゃ俺はまだ若くて頼りないかも知れないが……」

 

「違う! そうじゃない!」

 

 マニが滔々と説教をたれている間、ゲルトは大きな体を小さく丸めて黙って聞いていたが、マニが自分のことを言及するや、慌ててそれを否定するように声を荒げ、

 

「人間にも強いのがいるのは知ってる。勇者は凄い強い。知っている。さっきはカッとなったが、今はそこの少年の力量も分かる……俺じゃ相手にならない。俺の間違いだった。だから少年には謝る。俺の負けだ」

 

 ゲルトはそう言うと、意外と素直にギヨームに向かって頭を下げてきた。その瞳は未だに恐怖に怯えているようだが、その場しのぎで言っている感じではなかった。

 

 ギヨームが謝罪を受け入れると、ゲルトは悔しそうに奥歯をギリギリ噛み締めてから深呼吸し、気を改めるようにマニへと向き直り、

 

「そうじゃなくて、おまえは族長だろう?」

「ああ、そうだ。頼りないかも知れないが……」

「そうじゃない! おまえが族長であることを俺は認めている。みんなも認めている」

「……そうなの?」

 

 ゲルトのその言葉に、マニは目をパチクリさせて周りを見た。マニの問いかけに、ゲルトの取り巻き連中はみんな頷き、と同時に、その様子を見に来ていた大通りのレイヴンたちも遠巻きに頷いていた。

 

 ゲルトは続けた。

 

「おまえは族長なのに、おまえが人間にペコペコしたら、みんなが人間に劣ってるように感じてしまう。だから、俺はおまえにだけは、誰にもペコペコして欲しくないと言ってるんだ。でも、どうしてもおまえは分かってくれない。おまえはいつまで経っても、そこの少年や女、勇者にペコペコする真似をやめない」

「……? ペコペコするなと言うが、しかし、俺はこの人たちにお世話になったのだし……実際に、ギヨームさんは俺よりも強いんだぞ?」

「そんなこと! ……あるかも知れないが、そうじゃなくて……ギギギッ……」

 

 ゲルトはどうしたらマニに分かってもらえるのかと言いたげに、渋い表情で歯ぎしりをしている。だがマニはそんなゲルトの気持ちがまだわからないようだった。

 

 そんな二人のやり取りを見ていたギヨームは、何となくゲルトが言いたいことが分かるような気がして、自分が撒いてしまった種でもあるので、代弁をしてやろうとした。

 

「マニ。そいつは、俺や鳳に頭を下げるなと言ってるんじゃない。おまえはこの森のリーダーで一番偉いんだから、誰彼かまわず頭を下げるなって言ってるんだ」

「……どういうことですか?」

「おまえは誰に対しても丁寧に応対するが、あまりに丁寧すぎるせいで、村人たちが獣人は人間よりも格下だと劣等感を感じるようになっちゃってるんだ。みんな、おまえが強いリーダーだと思っているからついてきているのに、これじゃやってられないだろう。だからそいつは、おまえには誰であっても頭を下げてほしくないと言ってんだ。おまえは、知らずしらずのうちに、部族を代表して人間にへりくだってしまっていたんだよ」

「そんなつもりは……」

「なら、こう考えてみろ。おまえの親父が、おまえみたいに、人間の商人相手にフレンドリーに振る舞ってる姿を想像してみろ。それを見たら、おまえはどう感じるだろうか?」

 

 マニはその言葉を聞いて、ようやく自分が何をしてしまっていたのかに気がついた。想像してみると確かに、もしも父ガルガンチュアが人間相手に、必要以上にベタベタしたり、フレンドリーに接していたら、相当な違和感を覚えたろうし、きっと気分が悪くなっていただろう。

 

 マニの記憶にある限り、父がそんな姿を見せたことは一度もなかった。族長としての威厳を損ねるような真似は決してしなかった。かと言って彼は冷血だったわけではなく、実は鳳相手によく村のことを相談していたらしいし、最後の瞬間、マニを抱きしめながら、ずっとこうしたかったと言っていた……

 

 父は、村のために、ずっと我慢していたのだ。

 

 人に親切にするなというわけではない。そうではなくて、親切にするにしても族長自らが応対する必要はないのだし、丁寧な言葉づかいは、時に他人からはへりくだって見えてしまう。そんな態度はこの森の長にはふさわしくない。ゲルトは、例え相手が神聖皇帝であっても、族長にはそんな態度をとって欲しくなかったのだ。父のように、族長には、いつも威厳を持っていて欲しかったのだ。

 

 ハッとして周囲を見回すと、いつの間にかそこにはゲルトの取り巻き以外にも、大勢の村人たちが集まってきており、彼の行動を見守っていた。今まで気にも留めていなかったが、彼らはゲルトとのやり取りを、いつもどんな思いで見ていたのだろうか。

 

 こんな衆人環視の中でゲルトのことを責めていたのか……そんなことにも気づけないくらい、自分は余裕をなくしてしまっていたようである。マニは反省すると、そんな彼らに向かって問いかけた。

 

「……俺はペコペコしていたか?」

 

 するとゲルトやその取り巻き達は、お互いに顔を見合わせてから、恐る恐ると言った感じに頷いた。

 

「そうか……」

 

 マニはそれを見て、後頭部をポリポリと引っ掻いて反省すると、自分の否を認めてゲルトに頭を下げようとしたが、

 

「だから謝るな! おまえは俺に頭を下げるのも禁止だ! おまえはいつも堂々としてなきゃいけない。おまえはいつも強さを誇示しなければならない。おまえが間違っていたら、俺たちが力で分からせる。獣人は強いから、それがルールだ」

 

 ゲルトはフンと鼻を鳴らすと、明後日の方に顔をプイと背けて、不機嫌そうな表情を見せた。いっつも突っかかってきて嫌な奴だと思っていたが、ゲルトは意外とツンデレなやつだったらしい。マニはそんなゲルトに、今までのことは悪かったとまた言いかけては、慌ててその言葉を飲み込んだ。

 

 ともあれ、彼らが嫌がっていることが分かったのなら、改善しなければならない。だが、マニはうーんと難しそうに唸り声をあげると、

 

「お前たちの言いたいことは分かった。しかし俺は、やはり村を大きくするには、人間の手を借りなきゃいけないと思っている。だからこれからも人間の商人を呼び込みたいと思っているんだが、そのための対応はどうしたらいいんだ?」

「それこそレイヴン達に丸投げすればいいじゃないですか」

 

 マニがそんなことを危惧していると、傍で聞いていたミーティアが見かねて言った。

 

「獣人は無愛想だから接客には向いていませんが、レイヴンならそんなことありません。ここに来るまで村の様子を見てきましたが、既にレイヴン達は外からやって来た商人たちと、普通に商談を交わしていましたよ。それに、こんなところまで来る商人なんて、よほど逞しくないとやっていけないんだから、あなたが子供を世話するように応対しなくても、ほっといても自分で勝手にやってくれますよ」

「そ、そうでしょうか……」

「そんなもんですよ。あなたは族長になったばかりで意気込んでいるのかも知れませんが、何でもかんでも一人で抱え込む必要はありません。もっと部下を信頼して、仕事を丸投げするくらいが丁度いいんですよ。その方が、彼らも気楽なんです」

 

 働き者の上司の下では部下は気が休まる暇がない……そう言うミーティアの言葉には、妙な実感が込められていた。マニはそんな彼女の言葉を素直に受け取ると、

 

「それじゃあ、暫くはそれで様子を見よう……みんなもそれでいいだろうか?」

 

 族長がそう呼びかけると、その様子を遠巻きに見ていたレイヴン達が頷いていた。ゲルトは話がまとまったのを見ると、ようやく分かってくれたと言いたげな表情で立ち上がり、ギヨームの方をちらりと一瞥してから、

 

「……世話になったな」

 

 と言って、ぶっきらぼうに腕を突き出してきた。ギヨームは、獣人にしては意外と礼儀正しいやつだとその手を握り返すと、そんな二人が和解する姿をホッとした表情で見ていたマニに向かって言った。

 

「マニ……いや、ガルガンチュア。これからは、俺相手にもタメ語で話せよ」

「え? どういうことですか??」

「おまえ、いつもはお兄さんお姉さんと言ってるけど、こいつらの前だと族長らしく振る舞おうとして、態度を変えているだろう? 俺もそれでいいから、普段からそうしておけ」

「いいんでしょうか……?」

 

 マニは突然の提案に戸惑って恐る恐ると言った感じにそう返したが、ギヨームは何を当たり前のことをと言わんばかりに、

 

「たった今、こいつと族長らしく振る舞うと約束したんだろう。なら、そうした方が良い。俺は気にならんし、おまえもそうした方が、変な甘えも抜けるだろう。おまえはガルガンチュアの名を受け継ぐものなんだからな」

 

 ガルガンチュアの名を受け継ぐもの……その言葉を聞いた瞬間、マニは何かずしりとした重いものが、自分の両肩に伸し掛かってきたような錯覚を覚えた。しかし、それは決して不快な重さではなく、どこか懐かしく、そして心地よい重さだった。

 

 彼はギヨームの言葉に小さく頷くと、

 

「わかりました……いや、わかった。努力するよ、ギヨームさん」

 

 そう言って、父の名に恥じぬように振る舞うことを心に誓った。

 



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アロンの杖

「身内の見苦しいところを見せてしまって、悪かった……とにかく話を元に戻そう。それでギヨームさん達は、この村には、お兄さ……勇者を追いかけて来たのか?」

 

 ゲルトとのやり取りで、族長らしさを身に着けようと心に誓ったマニは、ともあれ話が脱線し過ぎてしまったことを詫びてきた。ギヨームは、最初は何の話をしていたのかを思い出し、ポンと手を打つと、

 

「おっと、そうだった。なんか妙な方向に話が逸れちまったが。えーっと……ガルガンチュア、一週間前に鳳がここを通ったのは間違いないんだな?」

「ああ、間違いない……勇者は俺に、ネウロイに行くからって伝言を頼んで、ルーシーさんと一緒に飛んでいった。さっき伝えた通り、おかしな様子は無かったと思うが……」

「おまえがそう言うなら、そうなんだろうな……となると、ミーティアさんよ。一つ提案がある。あいつはどうやら心配無さそうだから、俺はこのままフェニックスに帰るのも一つの手だと思うぞ?」

 

 ボケーっとギヨームたちの会話を他人事のように聞いていたミーティアは、いきなり話を振られてハッと我に返り、あたふたとしながら言った。

 

「ご冗談を。ここまで来て今更引き返すつもりはありませんよ。それに私は出発する時、誓ったんです。鳳さんを連れ戻すまで、もうここには戻らないと」

「ふーん、そうかい。覚悟は決まってんだな。まあ、フィリップにもそう言っちまったし……それに、手ぶらで帰ったら他の女に出し抜かれそうだもんな」

「うっ……べ、別にクレアに負けたくないとか、そんなつもりはありませんからね?」

 

 ミーティアは両手の指先を尺取虫みたいにクネクネしながらぶつくさ文句を言っている。マニはそんな二人のやり取りを見ながら、

 

「しかし、追いかけるにしても、あなたたちはどうやって追いかけるつもりなんだ? 彼は空を飛んでいるし、それにネウロイと一口に言ってもとても広く、一体どの辺を探せば良いのか分からないんじゃないか?」

 

 マニにそんな風に当たり前のように突っ込まれると、何も考えずに勢いだけで出てきてしまったミーティアは、返答に窮した。正直、行けばなんとかなると思っていたが、ここまで来て、それが現実的でないことは流石に彼女も分かっていた。

 

 ちらりと横目で盗み見たアリスは涼しい顔をしているが、多分、何も考えていないのは一緒だろう。彼女はただ、奥様についていくだけと、それしか考えてないはずだ。

 

 どうしようか……やはり、ギヨームの言う通り、ここらで軌道修正したほうが良いのだろうか……

 

 ミーティアが一人で煩悶していると、思いがけずそのギヨームが解決策をもたらしてくれた。

 

「まあ、一応、方法ならあるんだよ」

「え! あるの!?」

 

 ミーティアが身を乗り出してキラキラした目で見つめると、ギヨームはなんでおまえがそんなに食いつくんだよ……と、迷惑そうにしながら、

 

「普通に考えればガルガンチュアの言う通り、やつに追いつくことは不可能だ。追いつけたら奇跡だろう」

「そうですね」

「だから、奇跡を使うのさ」

「……はあ?」

 

 ギヨームが何を言っているのかちょっとわからない。マニとミーティアは同時に首を傾げている。彼は苦笑いしながら、自分でもどうかしていると思うがちょっと待てと前置きしてから、ラバに積んでいた荷物をゴソゴソと漁って、一本の杖を取り出してきた。

 

「これはちょっとした知り合いから借りてきた聖遺物(アーティファクト)だ。アロンの杖と言う」

「聖遺物……もしかして、迷宮の宝物ですか?」

「まあ、そんなもんだが、ちょっと違う。奴らは福音(ゴスペル)と呼んでいた」

「ゴスペル……」

 

 ミーティアは聞き覚えの無い言葉に戸惑いながらも、好奇心からじっとその杖を見ている。ギルド職員にとって聖遺物はやはり特別なのだ。ギヨームはそんなに気になるならと言って彼女に杖を手渡し、

 

「これはその昔、人々を悪い王から逃がすために、神が指導者に与えたという由緒正しい杖なんだ。だから、こいつを使えば、その人が真に求めている約束の地(・・・・)へ連れて行ってくれるはずだ」

「それはまた、胡散くさ……霊験あらたかな杖ですね。っていうか、なんでそんなものをあなたが持ってるんです?」

 

 ミーティアは指でつまむようにして杖を突き返してきたが、ギヨームはそんな彼女を押し返し、

 

「馬鹿、おまえが使うんだよ」

「……え? 私がですか? 私には何の力もありませんよ?」

 

 ギヨームはそんなことは知っているよと面倒くさそうに頷きながら、

 

「まずは話半分でいいから黙って聞けって。あのな? 人間ってのはどこか心の奥底で一つに繋がっているものなんだよ。例えば生まれてすぐに生き別れになった兄弟が、数十年ぶりに再会してすぐにお互いのことが分かるとか、縁の強い者同士は例え遠く離れていても、強い絆みたいなもので結ばれてるものなんだ。双子なんかはその典型だな。で、この杖はその、人と人との繋がりってやつを検知して、お互いを惹き寄せあうように奇跡を起こすのさ。おまえが鳳のことを強く想えば、その執着がやつのところへ導いてくれるって寸法だ」

「うーん……本当ですかあ?」

「信じるものは救われるって言うだろう? つーか、信じていないと杖の奇跡は起こらないだろうから、今は騙されたと思って盲目的に信じてろ」

「……そんなこと言われてもなあ」

 

 ミーティアはそれでもまだ信じられないと、半信半疑な表情で杖をじーっと見つめている。ギヨームは仕方ないとため息を吐いて。

 

「まあ、信じられないなら仕方ない。それじゃあ、杖はそっちのメイドが使ってくれ。おまえも鳳のことが好きなんだろ?」

「ご主人様のことを想えばよろしいのですね? それなら、お任せください」

 

 アリスは一点の曇りもない無垢な瞳で頷いている。ミーティアはその清々しい表情が、まるで後光が差しているかのように眩しくなり、自分の疑り深さを恥じては、慌ててアリスに負けてたまるかと鼻息荒く叫んだ。

 

「わーかりましたっ! わかりましたってば! 私もちゃんと信じますから!」

「そうか? いや、俺はどっちでもいいんだけど……そうだな。じゃあ、二人で使ってみろよ。二人別々に杖を使ってみて、同じ結果が出たら信憑性も増すだろう?」

「なるほど……それもそうですね。で、どうやって使うんです? これ」

 

 ミーティアが杖を指差しながら尋ねると、

 

「ああ、使い方は至ってシンプルだ。こう、別れ道に来た時に、手近な棒きれを立てて、それが倒れた方向に行くって占いがあるだろう? あんな感じで、杖を立てて倒れた方向に歩いていけば、鳳のところへ辿り着くって寸法だ」

「ふーん……ますます胡散臭いですね」

「とりあえずやってみろって。メイドはちょっと後ろを向いててくれ。結果を見たら、ズルしてるって思われるかも知れないからな。この疑り深い奥様によ」

「はい。かしこまりました」

 

 アリスは言われた通りに、ギヨームたちに背を向ける。ミーティアはそれを確認してから、説明されたとおりに杖を地面に立てて、その頭の部分を軽く指で押さえた。ギヨームはそれを見て、

 

「そのまま、鳳のところへ行きたいって強く念じながら指を離してみろ」

 

 彼女は目をつぶって、言われた通りに鳳のことを考えながら指を離した。すぐにカランコロンと音が鳴って、目を開けると、杖は村から東の方向を向いて止まっていた。

 

「よし。それじゃ今度はメイドがやってみろ」

 

 ギヨームは杖を拾い上げると、背中を向けて手で顔を覆い隠していたアリスの肩を叩いた。アリスは杖を受け取ると、ミーティアの横に歩いてきて、恭しく一礼してから彼女と同じように杖を手放した。

 

 すると、杖は最初ミーティアの時とは逆方向へ倒れたのだが……

 

「おおおお~~っ!?」

 

 それは地面に倒れるや、すぐにコロコロと回転しながら転がっていって、ついさっきミーティアの杖が倒れた方向と、寸分たがわぬ方向に頭を向けて止まったのだった。その様子を遠巻きに見ていたゲルトら、村人たちからも歓声が上がる。

 

 ミーティアも流石にこれには驚きを隠せず、引ったくるように杖を拾い上げると、もう一度同じように杖を手放して……

 

「信じられませんが、どうやら本物みたいですね」

「本当に疑り深いやつだな、あんた……」

「だって、聖遺物ですよ? こんな凄いもの、どこで手に入れたんです? そう言えば最近修行の旅に行ってたみたいですけど。なんか凄い発見でもあったんですか」

「それは……まあ、いいじゃねえか」

「なんでそこで言葉を濁すんですか。まさか……盗品ってことはないですよね?」

「んなわけあるかよ! あんたホントに、俺のことどういう目で見てるんだ……? ったく。さてと。それじゃ、方針も決まったことだし、これからは、たびたびこの杖に行き先を聞いて、杖に導かれるままに進んでいこう。そうしたらいずれ、奴のもとにたどり着けるだろう」

「わかりました」「はぐらかした」

 

 アリスが素直に応じて、ミーティアはまだぶつくさ言っていた。そんな感じで話がまとまると、横で聞いていたマニが進み出て、

 

「ギヨームさん達はもう行くのか……良かったら、俺も一緒に行こうか? 勇者には空を飛んでいくからと言って断られたけど、地上を歩いて行くんなら、人手があったほうが良いだろう」

「そりゃ、おまえがついてきてくれるなら助かるけど。村のことはいいのか……?」

「ああ……商売もある程度軌道に乗ってきたところだし、さっきみんなにも言われた通り、俺はもう商売には口出ししないほうが良さそうだ。なら、周辺の部族との交流も兼ねて、一度村から離れてみるのも悪くないかも知れない」

「そう言う事なら願ったり叶ったりだ。よろしく頼む」

「わかった。それじゃゲルト! 暫く村をおまえに預けるが、あとのことは頼めるか」

「ふん! 言われずとも、俺はいつも村のことを考えている。おまえこそ、俺との約束を破って、そいつらにペコペコするんじゃないぞ!」

 

 ゲルトはマニの目は一切見ずに、プイッと明後日の方向を向きながら、不愉快そうに吐き捨てた。ゲルトは嫌な奴と見せかけて実はツンデレな男のようである。

 

 そんなこんなで、マニを加えた鳳捜索隊一行は、ガルガンチュアの村を出発してネウロイに向け旅立った。それは他人の目からすれば、風まかせ杖まかせの、当て所もない旅であったが、不思議と彼らに不安は無かった。アリスはもちろん、ギヨームもマニも、一番疑り深いミーティアでさえ、近い内に鳳に追いつくだろうと思っていた。

 

 だが、そんな楽観的な考えは間もなく吹き飛んでしまった。それからおよそ一ヶ月が過ぎても、彼らはネウロイはおろか、まだ大森林を出ることも出来ずに、村の周辺をさまよい続けていたのである。

 



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そんなこと言われても……

 目を閉じて、耳を澄ませて、風に揺れる体毛の感触だけで空気の流れを捕らえながら、マニは音もなく森の木々の間を俊敏に駆け抜けていた。そんな芸当、普通、獣人にだって出来るわけがないのだが、この一ヶ月間の訓練で研ぎ澄まされた今の彼なら苦もなく出来た。

 

 なにしろ、五感をフル稼働させても、ギヨームの動きは決して捕らえられないのだ。彼の動きは捕らえたと思った時にはもうそこにはいない。寧ろ、彼を見つけようとするなら五感に頼っては惑わされる。だから直感だけで行動するしかないのだが、そんなことを続けている内に、マニの感覚(センサー)は神の領域にまで張り詰められていた。

 

「……そこっ!」

 

 そんな風に神経を研ぎ澄ませていた彼は、肌で一瞬だけ感じた違和感に向けて、苦無(くない)手裏剣を放った。それはチッと何かを掠めて森の中へと飛んでいった。その瞬間、さっきまで微塵も気配を感じさせなかったギヨームの姿が臭い(・・)となって現れた。

 

 人間には、獣人の嗅覚を想像することが出来ない。だから、ギヨームがどれほど隠蔽が得意だとしても、臭いだけはどうやったって隠せなかったのだ。充満する血の匂いを追って、ゆらりとマニの体が動く。狩りの時間だ。

 

「朧……」

「うおッ!?」

 

 上腕部を苦無が掠めていった瞬間、ぎこちなかったマニの動きが一気に変わった。空中で向きを変える二段ジャンプに猛スピードで迫りくるタックル、そして影分身。マニは多彩な技でギヨームを追い詰める。

 

 しかし、そんな獣王の力すらも、今のギヨームには効かなかった。彼は突然動きが変わったマニに一瞬だけ焦りを見せたが、すぐにいつものニヤケ面に戻ると、次々繰り出される彼の技を全て軽くあしらってしまった。

 

 普通なら慌てふためくであろう影分身にも一切動じず、攻撃の意思のない分身には目もくれずに、必要最低限の動きだけで攻撃を躱し、二段ジャンプで襲いかかるマニを、あろうことかその空中の着地点を操作することで無力化した。

 

 彼は空間を操っているのだ!

 

 こんな信じられない芸当を見せる相手に、ただ速いだけの攻撃など無意味でしかなく、マニの一か八かのタックルは、ギヨームのカウンターの餌食になった。

 

「ぐぅっ……」

 

 脳天に待ち構えていた膝が突き刺さって頭がくらくらする。本当ならここで追撃を食らって、マニはお陀仏だっただろう。だがこれは訓練だと言わんばかりに、ギヨームはそんな彼に、次を打ってこいと言わんばかりにじっと待ち構えている。

 

「葉隠」

 

 そんな余裕しゃくしゃくのギヨームに対し、追い詰められたマニが起死回生の大技をかけた。

 

 葉隠は対象の影に潜んで不意打ちを食らわす技だ。実は神人のシャドウハイディングという技と同じもので、彼はこの大技を使うときだけMPを消費した。だから連発することが出来ないのだが、これを使えば必勝という切り札のはずだった。

 

 ところが、そんなマニの必殺技をも、

 

「おっと! ここだろ?」

 

 ギヨームは自分の影に文字通り手を突っ込むと、まるで田んぼの中に潜んでいたカエルでも捕まえるかのように、簡単にマニの首根っこを引き抜いてしまった。

 

 絶対に捕まるはずがないと思っていたマニが不意打ちを食らい、ゲホゲホと咳き込んでいる。

 

 彼はギヨームの前で四つん這いのまま動けず、負けを認めるしかなかった。

 

「まいった……降参! 一体、どうしたらこんな芸当が出来るんだ?」

「おまえ、途中から鼻に頼ったろう? 五感に頼ったら駄目なんだって、言ったろ? 空間の歪みを捕らえるんだって」

「ギヨームさんはそう言うけど……そんなの普通の人間にわかるわけないだろ」

「つっても、何度も言ってる通り、おまえも既にこの力を操ってんだぞ?」

 

 マニはお手上げと言わんばかりに地面に大の字に寝転がった。

 

 事の起こりはおよそ一ヶ月前、ガルガンチュアの村から一行が旅立ってすぐのことだった。アリスとミーティアを護衛しながら前方偵察をしていたマニは、後方から射撃で援護しているギヨームの攻撃に違和感を覚えた。彼の射撃はどう考えても、木々を迂回しているとしか思えないような場所から飛んでくることがあったのだ。まるで回折現象のように。

 

 そうして思い返してみると、彼が村でゲルトを制圧した時の攻撃も不自然だった。みんなはギヨームの動きが速すぎて見えないと思っていたようだが、目のいいマニには、彼が瞬間移動したように見えていたのだ。

 

 その時はただの見間違いだろうと思っていたのだが、こうして何度も不自然な軌道を目撃しているうちに、それは確信に変わっていった。間違いない。ギヨームは何か超常的な力を使っているのだ。

 

 ある日、そのことを尋ねてみると、

 

「お? 気づいたのか。まあ、おまえならそのうち気づくだろうと思ってたけど」

「やっぱり……あれは一体?」

「空間ってのは、目に見えているそのままではなく、案外あちこち曲がっているものなんだよ。それを検知して利用すれば、普通の人間には不思議な力が掛かっていると錯覚させることが出来る。実は重力って力はそうやって生み出されているものなんだが……まあ、難しい話は抜きにして、おまえもこの力を使ってるんだぞ?」

「俺が……?」

「ああ。おまえの朧って技で、よく二段ジャンプしてるだろう。あれや葉隠って神技は、その空間の歪みを利用した技だ。だから、おまえが気づきさえすれば、案外すぐにこの空間の歪みってのを検知できるようになるかも知れない」

「そうだったのか? 先祖から継承した技だから、俺もよく分からずに使ってたんだが……」

 

 マニは感嘆の息を漏らした。ギヨームがどこでそんな技を会得したのかわからないが、レベルが上ったわけでもないのに、急激に強くなったように感じたのはそのせいだったのだろう。

 

 なにはともあれ、自分にもそれが使えるかも知れないと言われては、黙っているなんて出来ない。

 

「あの、ギヨームさん……俺もそれを覚えたいんだけど……」

 

 ゲルトとの約束もあり、下手に出ることが出来ないマニが口をモゴモゴとしていると、ギヨームは当たり前だろうと言った感じに、

 

「もちろんだ。鳳のとこに辿り着くまで、そこそこ時間がかかるだろう。どうせ夜の間は動けないんだし、時間を見つけて練習しようぜ。暗いほうが会得しやすいんだよ。俺も最初はそうだった」

「本当に? ありがとう!」

 

 そうやって久しぶりに笑顔を見せたマニの顔には、まだあどけなさが残っていた。考えてもみれば彼はまだ10歳で、こうしているのが自然なんだろうに、もう一族の未来を一身に背負わされているのだと思うと気の毒だった。

 

 父ガルガンチュアが生きていれば、まだ子供のままでいられたのだろうが……その父の死を乗り越えたからこそ、今の彼があるのだから人生とは本当にままならないものである。

 

 ともあれ、そうして昼間に移動したあと、夜に訓練するのが日課になった二人は、最初のうちはギヨームがマニに稽古をつけるだけの関係だったが、途中からはマニもギヨームに近接戦闘を教えるような間柄になっていった。

 

 ギヨームの得意武器は銃だから気軽に撃つわけにもいかず、徒手空拳のままずっと防戦一方だったから、それに気づいたマニが彼にナイフの使い方を教えてくれるようになったのだ。

 

 そんなのいつ覚えたんだ? と聞いたら、ヴィンチ村にいた時に猫人たちに教わったらしい。とは言っても、マニの実力はすぐに彼らを上回ってしまったから、それから後は独力だそうである。

 

 彼らは落ちていた枝木を削り、ナイフに見立てて訓練した。次第に暗くなっていく森の中で、木剣のぶつかり合う音が辺りに響き渡る。そうしていれば、危険な野生動物も近づいてこないので、一石二鳥だった。

 

 そんな感じで、昼間は杖の向くままに移動し、夜はキャンプを張って訓練をするという日々が続き、そろそろ一ヶ月が経過しようとしていた。

 

 鳳が失踪してからは40日くらい経っているから、彼がちゃんとネウロイに向かっているなら、もうとっくに辿り着いている頃であろう。それに対して、追いかけるギヨーム達の方は、まだネウロイからは遠く離れた大森林の中にいた。

 

 それは奇跡でも起こらない限り当然のことだから、ある意味仕方ないことだったけれど……実はギヨームには懸念があった。杖の向くまま進んでいた彼らは、今までに進んだ距離や方角から計算すると、実質殆ど村から離れていなかったのだ。

 

 そのことをマニに確認したところ、流石に森に住んでいるだけあり、彼はちゃんと気づいていて、ここは村から2~30キロくらいの場所だと教えてくれた。ネウロイに向かってるはずが、なんで近所をグルグル回っているのか気になってはいたが、みんなをがっかりさせたくなかったので黙っていたらしい。

 

 彼はギヨームの方から聞いてきてくれてホッとしているようである。そして、ギヨームのことを信じていないわけじゃないが、これからどうするんだと二人が話し合っていると……その事実に気づいたらしきもう一人の人物が近づいてきた。

 

「ギヨームさん、ちょっといいですか?」

「なんだ?」

「俺は外したほうが良いか?」

 

 マニが気を利かせて席を外そうとすると、ミーティアはそんな彼を止めて、

 

「いえ、ちょっと確認したいことがあるだけですから……って言うか二人共、多分気づいてるんでしょうけど、もしかして私たちってネウロイに殆ど近づいてないんじゃないですか?」

 

 たった今話していたばかりの、そのものズバリの質問が来てしまい、二人はバツが悪くなって黙りこくった。誤魔化すのは簡単だが、流石に一ヶ月も経過していて、これからどうしようか話し合っていたところで、それもないだろう。ギヨームが、仕方なく白状しようとすると……

 

「ああ、いいです。その反応だけでわかりました……実は、ちょっと前から気づいていたんですよね。ほら、杖を倒しているだけとは言え、この旅の行き先を決めてるのは自分じゃないですか。だから、ずっと杖の倒れた方角をメモして、どのくらい進んだか記録していたんです」

「そうだったのか……」

「暫く前から、なんかグルっと円を描いているんじゃないかと思い始めていたんですが……確信も持てず、杖のせいにもしたくなかったので、黙っていました」

 

 ギヨームはポリポリとほっぺたを引っ掻いた。その杖を使えと言ったのはギヨームだった。

 

 何しろ聖書にも載っているというその由来もさることながら、それを貸してくれた相手が相手だけに、ちゃんと奇跡は起こるはずだと信じていたのだが……今のところ杖は何の成果も出してはおらず、ギヨームもそろそろ疑問を感じ始めていたところだった。

 

 まさか、あの翼人がまがい物を寄越したとでもいうのだろうか……? それは考えられないのだが……ともあれ、自分を信じてついてきてくれた彼女に申し訳ないと思い、ギヨームは唇をひん曲げながら、謝罪の言葉を口にしようとしかけたが……

 

 しかしミーティアはそう言ってから、間を置くように長い溜息を吐いて、

 

「……もしかして、私のせいなんでしょうか?」

「え? なんでさ?」

 

 てっきり責められるかと思っていたギヨームは、逆に謝罪されて目をパチクリさせている。彼女はそんな彼に向かってため息交じりに、

 

「もしかすると、私が杖の力を信じていないせいで、ちゃんとした方角が出ていなかったんじゃないかと思いまして……」

「はあ? いや、そんなことねえだろ。杖はあんたとメイドの二人で使ってるんだから。その結果が同じなら間違いねえよ」

 

 即座にギヨームが否定するも、ミーティアはどこか思いつめたように、

 

「でも、現実はこの通りじゃないですか。私たちは鳳さんに追いつくどころか、寧ろ遠ざかっています。流石に、これだけ時間がかかってしまいますと、私も大分頭が冷えましたから、今更彼に追いつけるとは思っていません。それに多分、このまま進めば、あと数日で村に到着しますよね?」

 

 どうなんだ? とマニの顔を覗き込むと、彼はその通りだと小刻みに何度も頷いていた。ミーティアはそれを確認すると、

 

「やっぱり……私、思ったんですよ。これだけ時間が経ってしまったら、鳳さんならとっくにネウロイに辿り着いているでしょうし、もしかしたらもう何か発見して帰り支度をしてる頃なんじゃないかって。それで無事なことをマニ君に知らせに、帰りもあの村に立ち寄るでしょうから、杖は最初からそれを指し示していたんじゃないかと」

「うーん……その可能性は否定できないが、それなら杖は倒れないか、最初から同じ場所を行ったり来たりしていたはずだ。俺が借りてきた杖は、マジでそれくらいの信頼性はあるはずなんだよ」

「ふ~ん……捻くれ者のギヨームさんがそう言うのなら、そうなんでしょうね」

「捻くれ者は余計だが」

 

 ギヨームは頬を引きつらせつつ、ほんのちょっと戸惑いながら、

 

「どうしたんだよ? 珍しく弱気じゃないか」

「……そりゃ、弱気にもなりますよ。一ヶ月も森の中をさまよい歩いて、結局、元の場所に戻ろうとしているんだから」

「まあ、なあ……」

「やっぱり私が信じきれてないのが原因なんじゃないでしょうか。もしかしたら、これからは、アリスさんだけで杖を使ったほうが良いかも知れない……あの子は、私と違って盲目的に鳳さんのことを想って杖を振るのに、私は色々考えてしまうんですよ。こんなの馬鹿らしいとか、騙されてるんじゃないかって……」

 

 ミーティアは体力的にも精神的にも大分参っているようだった。ギヨームは自分が借りてきた聖遺物(アーティファクト)のせいなのに、彼女が弱ってしまっているのを申し訳なく思い、

 

「まあ、あんたは自分のせいだって言うけど、俺はそうは思わねえよ。つーか、縁ってのは盲信とは違うから、信じる信じないの問題じゃないんだよ……例えば、嫌いな相手同士にも、強い縁ってのはあるんだ。宿敵とかな。で、杖はそういった人と人の縁を結びつけるものだから、あんたが信じようが信じまいが、自然と奴のところへ案内してくれるはずなんだ。あんたと鳳は、それくらいの縁はある。俺が保証するよ。ガルガンチュアだって、そう思うだろう?」

 

 マニはゆっくり頷いている。ギヨームは続けて、

 

「それに、盲信って言ったら、ネウロイに行こうって言い出した段階で、あんたも相当イカれてるぜ。あのメイドに負けないくらいに。だから別に信じなくってもいいけど、やつに会いたいって気持ちだけは忘れないでくれ。何度だって言うけれど、奴を追いかけるには、あんたが頼りなんだ」

 

 彼の言葉を黙って聞いていたミーティアは、じっとその言葉を噛みしめるように目をつぶると、長い溜息を吐いてから戒めるように自分の頭をコツンと叩いて、

 

「……すみません。少し弱気になり過ぎていたかも知れません。どっちにしろ、私の目的は鳳さんに追いつくことですから、そこがネウロイであろうと、ガルガンチュアさんの村であろうと構わないんですよね」

「ん、まあ、そうだな」

「なんというか、旅に出た当初は、きっと鳳さんが感動するような劇的な再会をしてやるんだって、無邪気に妄想していたんですが、時間が経って頭が冷えてきて、余計なことを考えるようになってしまったみたいです」

 

 ミーティアはどことなくモジモジしながら、

 

「ほら……私って、3人の中じゃ一番鳳さんと付き合いが長いのに、一人だけその……おぼこじゃないですか? だから自信がないと言いますか、あの二人ほど自分に性的な魅力があるとは思えないんです。だから例え鳳さんが帰ってきても、彼女らは彼に上手に甘えられるんでしょうけど、私は自分から彼に迫ったりとか、クレアみたいなことは出来ないだろうなあ……なんて考えてしまって。だから、この旅で少しでも鳳さんに印象づけられたら良いなって思っていたのに、その野望が潰えてしまってガッカリしたというか……いえ! 鳳さんの身が心配なのだって本当なんです。本当に、一日でも早く彼に逢いたいんですけど、でもそれは出来ればもっとロマンチックなものであって欲しかったと申しますか……」

 

 いや、そんなこと自分に言われても困るのだが……ギヨームは、何だか語りだしてしまったミーティアを遮ることも出来ずに、眉をハの字に曲げて黙って聞いているしかなかった。

 

 正直、こんな話をされても一つも気の利いたことは言えないし、他人の恋バナなど聞きたくもないのであるが……考えてもみれば、冒険者でもない彼女からすればこの一ヶ月もの流浪の旅は、肉体的にも精神的にも相当きつかったのかも知れない。彼女らはずっとラバに乗って行動していたわけだが、それで疲れないというわけでもなし、流石に限界が近づいているのかも知れない。

 

 もしかするとこれはもう、杖の結果がどうあれ、一度村に戻って疲労を回復したほうが良いのかも知れない。幸いなことに、ここは村の近くであるそうだし、彼女の愚痴が終わったら、後で夕食でもしながら提案してみよう。

 

 彼はそう思いながら、黙って彼女の話を聞いていた……その時だった。

 

「……ちょっと待て、ミーティア」

 

 ぶつぶつと愚痴っぽく語るミーティアの声を遮って、ギヨームは耳をそばだて周囲を警戒した。何か危険を察知したのだろうか? その偵察能力には、かなりの信頼を置いている彼女は口を手で覆って息を潜めた。ところが、そんなギヨームに対し、マニは不思議そうな表情で尋ねた。

 

「ギヨームさん。何か気になることでも……? 俺には何も聞こえなかったが」

「ん? ああ……多分なんだが、この周辺で大きな空間の歪みが起きた」

「え!? 俺は気づかなかったが……」

 

 マニは眉間にしわを寄せて難しそうな顔をしてる。空間の歪みは、最近マニも体得しようとして、ギヨームと訓練しているものだ。残念ながら、まだ訓練中の彼には検知出来なかったようだが、ギヨームにだけ分かる何かがあったらしい。

 

「一瞬だけど、俺の視界が目眩みたいにぐらついたんだ。こんなことは自然にはあり得ないから、多分、何者かが空間の歪みをわざと発生させたんだと思うんだが」

「それって……敵ですか?」

 

 ミーティアが、ヒソヒソ声で尋ねると、するとギヨームは首を振って、

 

「わからん。だが、こういう真似が出来るのは俺たちの知り合いに一人しかいない。もしかしたら、鳳がポータルを通って来たのかも知れないが……」

「鳳さんが帰ってきたんですか!?」

 

 ミーティアが身を乗り出すように迫ってくる。ギヨームはそんな彼女を落ち着けと押し返しながら、

 

「待て待て、まだそうと決まったわけじゃないって。鳳だとするとちょっとおかしいんだ。あいつのポータルは街に直接繋がるはずなのに、ここは村からは遠すぎる。それに、さっきまであった気配が今は消えている……恐らく、こっちに気づいて隠れたんじゃないか。ガルガンチュア、分かるか?」

「ああ……ここから100メートルほど前方に、何かがいる。恐ろしく巧妙に隠蔽しているけど……こいつは、勇者の気配とは違う気がするな」

 

 流石に動物に近いだけあって、こういう感覚は獣人のほうが優れているようだった。ギヨームのわからない気配を、マニはまだ追えているようだ。ギヨームは彼に向かって頷くと、少し小声になって、

 

「どうする……? このままやり過ごすか?」

「相手が襲ってくるでもなく、隠れているのが気になる……ここは俺の村に近いし、脅威なら放ってはおけない」

「わかった。じゃあ、俺がここから援護するから、おまえが前衛でいいか?」

「もちろん。あれの気配が追えるのは俺だけだ」

 

 方針が決まるや否や、マニは姿勢を低くしながら茂みの間を音もなく、スーッと駆けていった。ギヨームの手が一瞬光り、いつの間にか拳銃を握っている。ミーティアはそんな彼の背後に身を隠したが、彼が拳銃で狙っている先は真っ暗で何も見えなかった。彼らは、こんな暗闇の中で、何かの気配を察知したというのか……? ミーティアが信じられない思いを抱きながら、息を潜めて見守っている時だった。

 

 100メートルほど先を駆けていたマニは、それまで何の音も立てていなかったのに、急にガサガサと葉っぱを揺らしながら速度を増した。恐らく、獲物の捕獲体勢に入ったのだろう。

 

 ミーティアには、マニが狙っている対象が全く見えなかったが、どうやらそれはギヨームも同じだったらしい。

 

「ちっ……見えねえ」

 

 援護すると言っていたのに、一発も弾を撃つことが出来なかったギヨームが忌々しそうに舌打ちをする。すると、その時、見えないなにかに飛びかかったマニが、その手を荒々しく上にあげると、

 

「きゃあああああーーーーーっっっ!!!」

 

 甲高い悲鳴が森の中に響き渡って、ギヨームはぎょっと目をむいた。その声は人間の女性に近く、もしかすると魔族が忍び寄ってきていたのかも知れないと思った彼は、慌てて銃口をマニの掴んでるものに向けようとしたが、

 

「ちょっと待った! ギヨームさん! あれって、ルーシーの声じゃないですか!?」

 

 そんな彼にタックルするように、ミーティアが背後から腰にしがみついて来た。その言葉に驚いて、彼が目を凝らしてみると……

 

「いやああー!! 食べないで食べないで! 私は美味しくないから、食べないでー!!!」

 

 マニにとっ捕まって、ジタバタと大暴れしているルーシーの姿が目に映った。彼女は目をつぶったまま、マニの頭をぽかぽかと叩いている。対するマニの方は彼女にとっくに気づいていて、そんな彼女のめちゃくちゃな攻撃を受けながら、どうすることも出来ずに困った顔をして突っ立っていた。

 

 どうしてルーシーがこんな場所に居るんだろう……? ギヨームとミーティアはお互いに目配せしあい首を捻りながらも、取り敢えず、取り乱している彼女をあのままにしてはおけないと、ボコボコにされながら耐えているマニの元へと駆け寄っていった。

 



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あいえええ?

 空間の歪みを検知したというギヨームの言葉から、何者かが自分たちの周囲に潜んでいることに気づいた一行は、それを排除すべく先制攻撃を仕掛けた。ところが、脅威かも知れないと思っていたそれは、なんと現代魔法で隠れていたルーシーだった。

 

 これまで魔物の大群すらも寄せ付けなかった不可視の魔法を見破られ、不意打ちを食らった彼女は錯乱したが、ギヨームと一緒に駆け寄ってきたミーティアの声を聞いて、徐々に落ち着きを取り戻していった。

 

 彼女は自分がポカポカと叩きまくってる相手がマニであることに気がつくと、鼻血を出して泣きそうな顔をしている彼に向かって、

 

「あいえええ? マニ君!? マニ君なんで!? どしたのその傷?」

「……ルーシーさんに殴られたんだけど」

「うわあーーっ!! ゴメン! ゴメンね!? っていうか……あれえ!?」

 

 ルーシーは未だに何が起きているのかわからず困惑しきっている。ミーティアは、言語能力が退化してしまっているルーシーに向かって、

 

「ルーシー、まずは周りをよく見て落ち着きなさい。命の危険はないんだから」

「そっ、そうだね。本当にゴメンね? わざとじゃないんだよ?」

 

 ミーティアの落ち着き払った声を聞いて、どうにか恐慌状態から回復したルーシーは、もう一度マニに謝ってから、

 

「って言うか、どうしてみんながここにいるの?」

「それはこっちのセリフでしょう。いきなり誰かが現れたと思ったら、こそこそ気配を隠すもんだから、怪しいと思った彼らが攻撃を仕掛けたんですよ」

「そ、そうだったの……こっちも、何かいると思って慌てて隠れたもんだから……だって、まさかネウロイに人がいるなんて思わないじゃない? しかもそれがミーさん達だなんて。てっきり怖い魔族だと思ってた」

 

 ルーシーは大げさに身振り手振りを交えて強調している。しかし、ギヨームは彼女の言葉に気になる点を見つけると、

 

「ん……? ちょっと待て。おまえ、ここがどこだと思ってやがる?」

「どこって、ネウロイでしょう? それにしても、みんな凄いね。普通に歩いてこようとしたら、数ヶ月はかかるって鳳くんは言ってたけど……こんなに早く追いつくなんて」

「やっぱり、おまえ、勘違いしてるな? ここはネウロイなんかじゃない。大森林のど真ん中、ガルガンチュアの村の近くだぞ」

「はあ……? そんなはずは……だって、鳳くんはまだネウロイに居るはずだし、私はそのつもりでちゃんと杖に願って飛んできたはずなんだけど……」

 

 ギヨームはポンと手を叩いて、

 

「そうだ。その鳳はどうした? さっきポータルの気配がしたが、あいつと一緒に飛んできたんじゃないのか?」

「違うよ。私が使ったんだよ」

「はあ? 何言ってるんだ? ポータルだぞ?」

「そんなことより、みんなこそ鳳くんと一緒じゃないの? ポータルは彼の元へ繋いでくれるはずだったんだけど……」

「……おまえが何を言ってるんだか分からねえが、鳳ならいないぞ。おまえこそ一緒にいたんじゃないのか?」

 

 ルーシーはミーティアの方を向いて、

 

「……本当に?」

「はい。本当ですけど」

「そんなあ~!! また失敗しちゃったの……?」

「どうしてそっちに聞き直すんだよ。つか、失敗って何がだ。そろそろ分かるように説明してくれ」

 

 ギヨームは失礼な相手にムッとしている。ルーシーはそんな彼の冷たい視線を浴びながら、ぐったりした様子でその場に崩れ落ちてしまった。その落胆っぷりと状況がいまいち分からず、ギヨームが詳しい事情を聞こうとしていると、先程の悲鳴を聞きつけて、キャンプにいたアリスが様子を見に来た。

 

 ギヨーム達はこのままじゃ埒が明かないので、取り敢えずルーシーを促して一度キャンプに戻ることにした。

 

*****************************

 

 キャンプに戻った彼らは話を整理するために情報交換をした。まずはギヨーム達がここへ来るまでの話をして、マニが間違いなくここが自分の村の近くだと断言すると、ルーシーはようやく現実を受け入れ、その後ため息まじりにネウロイで鳳と逸れてしまった経緯を話し始めた。

 

「……でね? とにかくそのアマデウスの迷宮ってのが厄介で、攻略を諦めた私たちは、一旦帝都に戻ることにしたんだけど、何故か鳳くんがいつまで経ってもポータルから出てこなくって、そのまま閉じちゃったんだ。普通に考えて、彼が戻ってこれない理由なんてないから、きっとあっちで何かあったんだろうけど……それで急いで戻らなきゃって思って、たまたま帝都に来ていたジャンヌさんたちと、今度は占星術師の迷宮ってところを攻略して、不完全だけどポータル魔法が使えるようになったんだよ」

「……それじゃあ、マジでおまえ、ポータル魔法を覚えたっていうのか?」

「うん。私が覚えたって言うか、この杖の奇跡なんだけど……」

 

 ルーシーは自分の杖を見せながら、

 

「これはおじいちゃんに貰った物なんだけど、実は福音(ゴスペル)って呼ばれてる、精霊がくれた凄い武器だったんだって。私は、迷宮の主であるミッシェルさんから、その使い方を教えてもらって、そんでポータルを使えるようにはなったんだけど……行き先は鳳くんみたいに固定できないんだよ」

「そんな便利な杖が……それでこんな変な場所に飛んできたのか」

 

 ギヨームが感心していると、それを聞いていたミーティアが何かに気づいたように、

 

「ゴスペル……ですか。それって確か、ギヨームさんがアロンの杖のことをそう呼んでいませんでしたっけ? あれも精霊がくれたものだったんですか?」

「ん……? ああ、いや。多分、似たような経緯で出来た杖ってだけだろう。出どころは全然別のはずだ」

「アロンの杖って?」

「これです」

 

 ルーシーが何のことだろうかと首を捻っていると、気を利かせたアリスが荷物の中からそれを取り出してきて彼女に渡した。勝手なことをするなというギヨームを無視して、ルーシーはそれを握りしめると、

 

「これは……本当にカウモーダキーと似た物みたいだね」

「分かるのか?」

 

 ギヨームが驚いて目を丸くしていると、ルーシーは軽く頷きながら、

 

「ミッシェルさんと出会ったことで、私にもおじいちゃん達に見えている世界のことが、ちょっとは分かるようになってきたんだよ。これはアストラル界を通じてその先にある何かにアクセスしようとしている……ような気がする。ミッシェルさんは、それをアーカーシャって呼んでいたけど。ギヨーム君はこれをどこで手に入れたの?」

「ん、まあ、ちょっとな。借り物だから、あまり詮索しないでくれよ」

「なにそれ、怪しいなあ……教えてくれたっていいじゃない?」

 

 ルーシーは歯切れの悪いギヨームのことを疑り深く見つめている。彼はそんな彼女をはぐらかすように話題を変えて、

 

「それはともかく、ミーティアさんよ。これってもしかして、この一ヶ月が無駄じゃなかったってことじゃねえか?」

「どういうことです……?」

「俺達はこの一ヶ月、鳳を追いかけるつもりが、この辺をグルリと大回りさせられていた。さっきまで、それはガルガンチュアの村で待っとけって意味だと思ってがっかりしたわけだが、こうしてルーシーが出てきたってことは、もしかすると杖は、最初からこの日この場所に俺たちを導こうとしていたんじゃないか?

 

 ほら、俺たちは、ネウロイにいるはずの鳳に追いつこうとして、毎日距離を稼ぐことを最優先に移動し続けていただろう? もし、ここが目的地だったのだとしたら、あのペースで進み続けていてはどんどん離れてしまうことになる。だから杖はこのタイミングでここに辿り着くように調整していたんだよ。

 

 何故なら、どんなに急いだところで、やっぱり空を飛ぶ鳳には追いつけないんだよ。可能性があるとすれば、同じように空を飛ぶか、ポータルみたいな瞬間移動系の能力を持つ者だけ。そう考えれば、こんな何もない森のど真ん中で、偶然ルーシーと出くわした理由にもなるじゃねえか」

「確かに……ここは村に近いとは言え不案内な森の中ですもんね。こんな場所でピンポイントに彼女に出会うなんて、普通に考えたらありえません」

「だろう?」

「ちょっと待って、何の話?」

 

 ギヨームとミーティアが二人だけで納得していると、まだ状況を把握しきれていないルーシーが尋ねてきた。ギヨームは杖を指差しながら、

 

「さっきも説明した通り、俺たちは鳳を追いかけるためにその杖の奇跡に期待した。そしてその杖に従って辿り着いた先に、ポータルが使えるようになったルーシーが現れたんだよ。となると答えは一つっきゃないだろ。杖はここでおまえと合流して、おまえのポータルで鳳のところへ行けって示してるんだよ」

「でも、私もさっき言ったけど、鳳くんのところへ戻ろうとして、既に二回失敗しているんだよね。もちろん何度だって試すつもりだけど、本当にこの方法で戻れるのかな?」

「いや、だからこそ、おまえはここに来たんだろうよ」

 

 ギヨームはニヤリとした笑みを浮かべて、

 

「この杖には、人と人との縁を繋ぐ力がある。だから、おまえがこの杖の力を使ってポータルを生成すれば、今度こそやつのところへ繋がる可能性が高い。もしかすると、おまえが鳳のことを思い浮かべたのにここに飛んできてしまったのも、この杖の力だったのかも知れないぞ」

「うーん……そうか。そんな力が。なら、早速試してみたいところだけど……実は残りのMPが心許なくて」

「そういやMPを消費するんだっけな。何回くらい使えるんだ?」

「最大で4回。今日はもう3回使っちゃったから、後一回ですっからかんになっちゃう。せめてもう一回分は回復してから試したいところだけど」

「ルーシー。鳳さんと逸れてから、今日で何日になりますか?」

 

 二人の会話にミーティアが割り込んでくる。その背後には同じく心配そうな表情のアリスの姿も見えた。二人とも鳳がネウロイで消息を絶ったと知って、居ても立ってもいられないのだろう。その気持ちはよく分かる。

 

「えーっと……今日で6日目かな」

 

 これからMPの回復を待っていたら、ちょうど一週間になる計算だった。そんなのただの区切りでしかないはずだが、改めて考えると、何だか急かされているような気がしてきた。鳳と別れた部屋にはいくらでも食料があったが、これだけ音沙汰なしだと絶対に無事とも言い切れないのだ。

 

 二人の不安そうな顔を見ていたら、段々自分も不安になってきたルーシーは、少し迷ってからギヨームとマニに向かって言った。

 

「逆に言えば、あと一回なら使えるんだ。どうせ休憩するなら、試した先で休憩するほうが良いのかも。もし、鳳くんと合流できたら、それでいいんだし。二人ならネウロイの魔族が相手でも、遅れを取ったりしないよね?」

「まあ、魔王でも出てこなければな」

「……早く合流できる可能性があるなら、そっちの方が良いんじゃないか。あまり遅れて、彼が魔王化してしまう方が危険だと思う」

 

 そんなマニの指摘は説得力があった。そもそも、鳳はそれを阻止するためにネウロイを目指したのだ。すっかり忘れてしまっていたが、向こうに残らざるを得なくなったのも、案外それが理由かも知れない。ルーシーはそう判断すると、

 

「それじゃ、最後の賭けになるけど、もう一度だけやってみよう。これで駄目なら、行った先で一日MP回復に努める。それでいいかな?」

「ああ、いいぜ」

 

 そんな具合に話が決まると、ミーティアとアリスがホッとした表情を見せた。とは言え、まだ確実に彼のところへ行けると決まったわけじゃない。ルーシーは、彼女らを落胆させる結果にならなければいいなと思いながら、アロンの杖を握りしめると、

 

「それじゃあ試してみるけど……失敗したら嫌だから、ミーさん達も一緒にお願いできる?」

「え? 私たちも……? 素人が下手に触らないほうが、上手くいくのでは?」

「私自身も、昨日今日使えるようになったんだから、素人みたいなものなんだよ。この杖が、人と人とを結ぶものなら、出来るだけ彼と親しい人が使うのが良いと思う。それに、ここまで来れたのはミーさん達が彼のことを一生懸命に考えたお陰でしょう?」

「はあ……そうですね。あなた一人に責任を押し付けてしまうのも気が引けますし。それで、私たちは何をすればいいんでしょうか?」

 

 ルーシーは、流石、分かっているなと苦笑しながら、

 

「簡単だよ。一緒に杖を握って、彼のところへ連れてってって願ってくれればそれでいいよ。そしたら私がポータル魔法を発動するから」

「わかりました。それじゃ、アリスさん?」

「はい。奥様」

 

 ミーティアとアリスは、ルーシーの手を包み込むように手を合わせた。そうして一本の杖を握りしめた3人は、頭上高くにそれを掲げるように持ちながら、邪念を捨てて鳳の無事を一心不乱に祈った。ルーシーは、二人が目をつぶって集中しているのを確認してから、自分も深呼吸して気持ちを整えると、

 

「お願い杖よ! 力を貸して!」

 

 彼女がそう言いながら杖に魔力を込めると、高々と上げた杖の先端から半透明の魔法陣が浮かび上がった。それは回転しながら徐々に大きくなっていき、やがてその中心付近に集まってきた光の礫が流れる水のように杖から飛び出て、彼らの目の前に光のゲートを作り出した。

 

 ギヨームは感嘆のため息を漏らした。これまで何度も鳳が作り出したのを見たから間違いない。ルーシーは、本当にポータル魔法を会得してきたのだ。鳳と逸れたのが6日前と言っていたが、この短期間に大したものである。

 

 そんな感想はともかく、ポータルは使用者が潜り抜けたら消えてしまう。ギヨームはルーシーに目配せすると、

 

「それじゃ先に行くぜ」

 

 ギヨームが真っ先にポータルへ入り、続いてマニが続いた。ルーシーと一緒に杖を握りしめていたアリスは、初めてのことに少し戸惑っているようだったが、

 

「アリスさん。手をつないであげますから、一緒に行きましょう」

「は、はい!」

 

 すっかり主従らしくなってしまった二人が続き、最後に残ったルーシーはそんな二人の背中を見届けた後に、

 

「……やっぱあれ、バレたらやばいよね」

 

 要らぬ邪念を思い浮かべながら、最後に彼女がポータルを潜った。

 

*******************************

 

 そして潜った先で、彼女は声を失った。

 

「うわっぷ!! 誰? 出口で立ち止まらないでよ!」

 

 ポータルから出た瞬間、何か柔らかいものにぶつかって鼻を強かに打ち付けた。恐らく、人の体じゃないかと思ったら、すぐ近くからミーティアの声がした。

 

「私です。ルーシー!? ここはどこですか? あのポータルはどこに繋がっていたんでしょうか」

「どこって……ちょっとゴメン。周りが見えないんだよ。あれ? 目をつぶってるつもりはないのに……」

 

 ルーシーは、さっきから周囲をキョロキョロ見回しているのに何も見えなくて焦っていた。目を塞がれているわけでもないので、単純に出てきた先が真っ暗だったと考えて間違いないだろう。問題は、夜目が効くはずの彼女にも、周りが全く見えないくらい、そこが真っ暗だということだった。

 

 こんなことは普通に考えてあり得ない。あるとしたら光が全く差し込まない、完全密閉された空間だろうが……なんでそんな場所に繋がってしまったのか? ルーシーが困惑していると、少し離れた場所からギヨームたちの声が聞こえてきて、

 

「おい! こいつは一体どういうことなんだ? さっきから手持ちの松明に火をつけようとしてるんだが、火が全く見えねえ。着火具の音だけが聞こえてくるんだ。マニ!? おまえ、目がいいだろう? 何か見えないのか?」

「俺にも全く見えてない。火花も起きないなんて、これは少しおかしいぞ……? 何かの超常現象が起きているんじゃないか?」

「まいったな……次元の狭間にでも飛ばされたっつーのか? いや、それならそれで、空間の歪みがあるってことか。なら、ちょっと待ってろ……これは?」

 

 ギヨームが何かぶつぶつと言っている時だった。突然、その場に居た全員の耳に、パリンとガラスが砕けるような音が聞こえてきた。何事かと身構えていると、またギヨームが緊迫した声色で、

 

「おい! 今、結界か何かを突き破った。気をつけろ! 何か居る!」

「ギヨーム君! 何をやっちゃったの!?」

「わからねえよ! わかるのは、ここは空間がめちゃくちゃに繋がってる場所だっつーことくらいだ! こんな場所、地上にあるわけ……って、あったな」

「何か分かったの?」

 

 するとギヨームは今度は打って変わって落ち着いた声で、

 

「ああ、こんな場所、あるとしたら迷宮の中だけだ。おまえ、鳳と迷宮の中で逸れたって言ってたろ?」

「あ! そうか!」

「ポータルは、ちゃんと奴のところへ繋がっていたんだ。でも、どうしてだ? なんでこうも周りに何もない……」

 

 ギヨームがそう言いかけた時だった。

 

 突然、ズシン! ズシン! ズシン! っと、脳天をかち割るような、巨大な衝撃音が次々と襲いかかってきて、その場に居た全員の三半規管を揺さぶった。

 

 彼らはその音の不意打ちを食らって立っていることが出来ず、みんなその場で膝をついてしゃがみこんだ。あまりに容赦のない音に目眩がする。慌てて耳を塞ごうとしたルーシーは、そして気づいた。

 

 さっきまで、何も見えなかったのに、今は自分の手足が見える。ハッとして周りを見回せば、他の仲間達の姿もはっきり見えるようになっていた。しかし、彼女は全然安心出来なかった。確かに仲間の姿は見えるようになったのだが、その背景は相変わらず真っ黒だったのだ。

 

 まるで、壁も天井も黒く塗りつぶされた巨大な部屋の中に佇んでいるかのようだった。もしくは、もしも彼女が宇宙を知っていたら、宇宙空間に投げ出されたような感じと思ったかも知れない。とにかく、そんな真っ黒の中で、自分たちの姿だけがくっきりと浮かび上がって見えるのは、ある意味不気味であった。

 

 でもこの感じ……どこかで?

 

 彼女が何か既視感を覚えた時だった。さっきからずっと続いていた、立っていられないほどの衝撃音が、ようやく少し落ち着いてきた。その音はまるで巨大な生物が歩いているかのように、彼らの真上を通過していくと、徐々に遠ざかっていき、やがて殆ど聞こえなくなった。

 

 助かった……誰もがそう思いながら冷や汗を拭っている。特に何をされたというわけでもないのに、彼らはこの一瞬だけで、全身汗だくになっていた。目を塞がれ、巨大な音に襲撃され、前後不覚に陥って、よほど恐怖を感じていたようだ。

 

 それにしても、あの音はなんだったんだろう。今にして思えば、何か巨大な生き物の足音だったようにも思えるが……

 

 彼らがそんなことを考えていると、今度はガシャン! っといった感じの、シャッターを落とすような音が聞こえた。

 

 いや、それは逆にシャッターを開く音だったのかも知れない。

 

 その音にビクッとなって振り返ると、いつの間にか彼らの背後に、サーチライトに照らされた、巨大な何かが立っていた。

 

 ぎょっとして目を見開いても、その姿ははっきりとは見えなかった。あまりにも巨大過ぎて、それは一台のライトでは全てを照らし出すことが出来なかったのだ。

 

 だが、それで慌てる必要はまったくなかった。それを照らすライトは、ガシャン! と言う甲高いシャッター音と共に、一台、また一台と増えていき……ついには全てを詳らかに照らし出した。

 

 ガシャン! ガシャン! ガシャン!

 

 音が響く度に、どんどんその巨大な姿が現れていく……緑色の肌。ゴツゴツとした筋肉。ゴーっと言う竜巻のような呼吸音。そして邪悪な赤い瞳と、天に向かって長く突き出た巨大な牙。

 

 彼らはその姿をよく知っていた。何しろ、彼らはそれを倒したことで、勇者と呼ばれるようになったのだから。

 

 振り返れば、そこに巨大な魔王の姿が目の前にあった。

 

 魔王オークキング……その十数メートルという巨体が、今、正に彼らを踏み潰そうとして、大きく足を上げているところだった。

 



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魔弾の射手

 ガシャン、ガシャンとシャッター音がする度、まるで真っ黒なシートが剥がれ落ちるかのように、そこに緑色の巨人の姿が浮かび上がっていった。その全てが映し出された時、そこにはつい先日、彼らが苦労して倒したはずの魔王オークキングが立っていた。

 

 そんな馬鹿な……有り得ない! 突然の出来事に戸惑って、硬直している彼らに向けて、容赦なく魔王の足が振り上げられる。その動作にハッと我を取り戻したギヨーム達は、慌てて回避行動を始めた。

 

 ズシン! と地面を揺らすような音がして、背後からミーティアとアリスの悲鳴が上がった。非戦闘員を抱えたまま突如戦闘に入ってしまったギヨームは、慌てて彼女らを守るように指示を飛ばす。

 

「ガルガンチュア! 敵の攻撃を引きつけろ! ルーシー! 隠蔽魔術だ!!」

「ここは寒い、凍えてしまう。逢いたくて逢いたくて震える~私は孤独なロンリーららら~」

 

 ルーシーが突然調子っぱずれな歌を歌いだし、ギヨームは思わずずっこけそうになったが、その表情が真剣なのを見て彼女が真面目なことを思い出しぐっとこらえた。そんな彼の隙を突いて、容赦なくオークキングの大木のような腕が飛んでくるが、彼は難なくそれを躱してジャンプした。

 

 するとその上腕部に向かって数本のクナイが突き刺さった。取っ手には紐が括り付けられていて、マニはグイッとそれを引っ張り、その反動を利用してオークキングの肩に飛び乗った。

 

「朧っ!」

 

 そして二段ジャンプで魔王の側頭部を蹴り上げると、堪らず怒りの咆哮を上げて、オークキングは彼をふるい落とそうとして手を振り回し、上半身をグルングルンと回転させた。マニは魔王にしがみつきながら、更に追撃のクナイを打ち込む。

 

 そんな短剣をいくら当てられても、魔王にとっては蚊に刺された程度のことでしかなかっただろう。だが、致命傷にはなり得なくても、痛痒をまったく感じないわけではない。オークキングは蚊に付きまとわれた人間の如く、不快そうに咆哮をあげながら、自分の首の辺りでうろちょろする獣人を追い散らそうとして大暴れしている。

 

 しかし、オークキングは確かに強いが、一度戦った経験があるマニには、もうその動きは単調にしか思えなかった。彼は魔王の死角から死角へと移動をし続け、ひたすらヘイトを稼ぎ続けている。

 

 しかし、攻撃を避けられるとは言っても、致命打を与えられない限りは、いずれこちらの方が力負けしてしまうのは必至だった。だから援護が必要なのだが、さっきからギヨームは見上げるばかりで動こうとしない。マニは焦れったくなって叫んだ。

 

「ギヨームさん! 援護を!」

「待て!? 何故ここにガルガンチュアが居る?」

 

 ギヨームはわけのわからないことを言っている。マニはイライラしながらオークキングの側頭部を蹴ると、その反動を使って距離を稼いだ。少しでも体力を温存しなければやられてしまう。そんなマニの体スレスレを、丸太のような魔王の指先が掠めていった。あれが当たっていたら死んでいたかも知れない。マニは肝が冷えるよりも、ギヨームに対する怒りがこみ上げてきて、

 

「ギヨーム! 俺を殺す気か! おまえが敵を引きつけろと言ったんだろうが!? 何故俺を見殺しにしようとするんだ!!」

「わ、わるい……ガルガンチュア。いや、マニなのか?」

「はあ!?」

「悪かったって言ってるんだよ! おまえ、自分の体をよく見てみろ!!」

 

 マニは怒鳴り返したいのを懸命に抑えて、言われたとおりに自分の体を見た。と言っても腕と腰回りくらいしか見えないので、そんなものを確認して何になると思ったのだが……それは一目瞭然だった。

 

 彼の体はいつもの短くて白い毛並みではなく、青毛の混じった太くて長い体毛に覆われていた。変わっていたのはそれだけではなく、腰も腕も一回り太くなっており、その指先には狼人みたいな鋭い爪が伸びていた。

 

 いや、みたいなではない。明らかにそれは狼人のものだった。まさかと思ってギヨームの顔を見てみたら、

 

「おまえ、オヤジそっくりの姿になってんだよ!」

「なんだって!?」

「死者が生き返ったのかと思って、ちょっと驚いたんだ」

「どうしてこんなことに?」

「わかんねえよ」

 

 ギヨーム達が困惑している時だった。彼らのすぐ脇から悲鳴が上がった。会話に夢中になって、警戒が疎かになっていたらしい。慌てて振り返ると、オークキングが新たな獲物を見つけたとばかりに、ミーティア達に襲いかかろうとしていた。

 

 巨大な腕が振り下ろされる。不可視(インビジブル)の魔法を使っていたルーシーは、まさか自分たちが狙われるとは思いもよらず、咄嗟のことに体が硬直してしまった。見れば、もうすぐ目の前に、オークキングの腕が迫っている。

 

 ……殺される! 全身に怖気が走り、彼女は死を覚悟した。

 

 だが、そんな時だった。ルーシーが呆然とその拳を見つめていると、背中からドンッ! とした衝撃が走って、何者かが彼女を突き飛ばした。

 

 バランスを崩し地面を転げながら、彼女が何が起こったのかと振り返る……

 

 すると、たった今まで自分が立っていた場所に、入れ替わりにミーティアが立っていた。恐らく、彼女が突き飛ばしてくれたのだろう。ミーティアはまるで前へならえをしているかのように、腕を突き出したままの姿勢で、肩で息をし、自分が何をやっているのか分からないと言った感じに、目を丸くしながらルーシーのことを真正面から見つめていた。

 

 その背後には恐怖に慄き絶望した表情のアリスが立ち尽くしており、彼女は今正に死のうとしている奥様を目の前にして、成すすべもなく悲鳴を上げていた。

 

 慌ててガルガンチュアが駆け寄ってくる姿も見えた。そのすぐ背後でギヨームが拳銃を生成しようと手から光を発していた。だが、それはどちらももう間に合わないだろう。ルーシーには、その光景が全てスローモーションに見えていた。

 

 どうして不可視の魔法が効かなかったんだ? 自分のせいで、ミーティアが死んでしまう。ルーシーの全身は絶望に貫かれ、もはや体を動かすことも、考えることすら出来なくなっていた。

 

 ところが、オークキングの拳が遂にミーティアを吹き飛ばそうとした瞬間、ゴウッ! ……っと強烈な風が巻き上がって、何故かその腕はピタリと止まった。

 

 巨大な拳に押し出された風を受けて、ミーティアはよろよろとよろけて尻もちをつく。

 

 てっきりその拳に撃ち抜かれて、肉片も残らず、水風船のように破裂してしまう未来を予想していたマニは未知なる結果に咄嗟の判断が出来ず、その腕に飛びかかろうとしていた体の向きを強引に変えようとして、そのまま転けた。ギヨームも、銃を構えたまま静止している。

 

 オークキングは伸ばした腕を引っ込めると、まるで苦悩する人がそうするように、両手で頭を抱えながら雄叫びをあげた。ウオオオン! ウオオオン! っと狂った獣のようなその声は、信じられないほど大きくて、鼓膜が破れるんじゃないかと思うほど耳が痛かったが、死を覚悟していたミーティアは尻もちをつきながら呆然と、涙で曇る視界でそれを見上げていた。

 

「奥様!」

 

 甲高い声が響いて、駆け寄ってきたアリスが芋でも引っこ抜くかのように、強引にズルズルとミーティアのことを引っ張っていく。

 

 その声を合図にして、我に返ったルーシーは二人に再度不可視(インビジブル)の魔法をかけたが、今度こそ注意深く共振魔法を行使したつもりなのに、まったく手応えが感じられない。

 

 おかしいと思った彼女が棒立ちのまま自分の杖を見つめていると、雄叫びをあげていたオークキングがそんな彼女に狙いを定めて腕を振り上げたが、今度は冷静さを取り戻していたマニによって阻まれた。

 

 マニはまたロープを魔王の腕に絡ませると、それを利用して飛び回る蚊のごとくその顔の周りでうろちょろしはじめる。ギヨームはそれを射撃で援護しながら、ルーシーのところへ駆けつけた。

 

「何やってんだ!? 隠蔽魔法をかけろっつったろ!」

「やってるよ! さっきからずっとやってる! って言うか、バトルソングも使ってたんだけど……どうして発動していないの?」

「なに!? 魔法が使えないのか……? いや、そしたら俺の銃も出ないはずだが」

 

 何かがおかしい……それは分かっているのだが答えが出ない。しかも、そんなことを悠長に考えている余裕もない。ギヨームは歯ぎしりすると、

 

「とにかく、俺はガルガンチュアの援護をしてるから、その間にあの二人だけでも逃してくれ!」

「でも、逃がすってどこに?」

「そんなの自分で考えてくれよ!!」

 

 ギヨームは余裕なくそう叫ぶと、これ以上は無理だと言って戦闘に戻っていった。マニが翻弄し、ギヨームがアウトレンジからじわじわと痛めつける……二人の連携で十数メートルはあるだろう巨人が徐々に押され始めている。このままいけば倒してしまいそうにも思えるが……

 

 そう自己判断するのは危険だろう。万が一に備えて、今はとにかくミーティア達を逃さねば……と言うか、現代魔法が使えない今、足手まといにならないように、自分も逃げた方が良いんだろうか? 鳳ならこんな時、迷いなく指示をくれるのだが、別にギヨームを馬鹿にするわけではないが、彼と鳳とではここまで咄嗟の判断が違うのかと彼女は呆れていた。

 

 ともあれ、ルーシーが腰を抜かしてへたり込んでいるミーティアの元へ駆け寄ると、彼女は体をブルブルと震わせながら、未だに青ざめた表情で、

 

「ル、ルーシー。無事でしたか?」

「ごめん、ミーさん。私のせいで怖い思いをさせて……」

「私……なんで助かったんですかね?」

 

 ミーティアは震える自分の手のひらを見つめながら、呆然とつぶやいた。確かにあの時、オークキングの腕が彼女の目前で止まったのは誰が見ても不自然だった。魔族は男は殺して女を犯すと聞いている。だから相手が女だと思って一瞬躊躇したのだろうか……?

 

 しかし、あんな大きな化け物が、自分たちのような虫けらみたいな生き物の性別を気にするとも思えないし……ルーシーがそう思って首を捻っていると、

 

「……あれは、本当に魔王なんでしょうか?」

「……え?」

「いえ、その……あの時、私を殺そうとした手が止まった後、あの怪物はまるで後悔してるみたいに頭を抱えていたから。それが凄く人間っぽくって」

「まあ、魔族も元々は人間だったらしいから……でも、そうだよね……変だよね」

 

 何かが変なことはとっくに気づいていた。マニは父ガルガンチュアになってるし、魔法は使えないし、魔王はミーティアを殺すのを躊躇するし……そして突然の襲撃で興奮していてすっかり忘れていたが、周囲は一面真っ黒で何も見えないのだ。

 

 それは壁が黒く塗られているというわけではなく、元々、この空間が持っている属性のようなもののように感じた。普通に考えて、そんな空間がこの世にあるとは思えない。

 

 そう言えば、ギヨームは恐らくここが迷宮の中だと言っていた。鳳と逸れた時のことを思い出すと、とても同じ場所とは思えないが、確かにその可能性は高いのだ。

 

 そして迷宮と言われて思い出したが、この感じはつい最近、ジャンヌ達と攻略した迷宮と非常に似ているような気がした。

 

 いや、迷宮ではなく、その最奥にあった椅子に腰掛けた後、訪れたミッシェルの世界……アストラル界に近いのだ。あの時は周囲が全部真っ白だったが、今回はそれが黒くなったと思えば二つの空間は瓜二つだった。

 

「そっか!」

 

 ルーシーは何かに気づくと、魔王と戦っている二人に向かって叫んだ。

 

「ギヨーム君! マニ君! ここは精神世界なんだよ! 私たちは、頭の中の理想と戦っているだけなんだ!!」

「なにっ!?」

「私の魔法が使えなくて、ギヨーム君のが使えるのは、ここが元々、クオリアの存在する世界だからなんだよ。私たちは普段、この世界に理想を投影しながら物事を判断している。私たちの持つ魔王というイメージがあれを作り出し、魔王は強いというイメージのせいで君たちは苦戦している。不必要に恐れないで! 魔王なら一度倒した! 今の二人が、あの時の魔王に負けるなんてありえないでしょう!?」

 

 そのルーシーの叫びが切っ掛けとなって、マニの動きが急激に変化した。彼は詠唱もなく影分身を作り出すと、その全ての分身を器用に操って魔王を翻弄し始めた。そして普通なら分身は本体を超えないはずが、一つ一つの分身までもが本体と同等の力を発揮した。

 

 複数の分身が縦横無尽に飛び回り、魔王の攻撃を躱し、受け流し、お返しとばかりにカウンターをお見舞いしていく。十数メートルの巨体が、その十分の一でしかない小さな獣人によって、徐々に徐々に押し返され始めた。

 

 マニは信じられない思いだった。その動きは本当に、いつも自分の頭の中で思い描いている理想そのものだったのだ。今なら何でも出来るかも知れない……そう考えた時、彼は空間の歪みというものを感じられたような気がした。

 

 そしてその瞬間、分身の動きがまた一段と変化した。それまでは速いとは言え目で追える程度の動きでしかなかった分身が、唐突に出たり消えたり、瞬間移動するようにまでなったのだ。ギヨームは、彼が空間の歪みを利用していると言っていた。分身は、最初からこの空間の歪みを移動していたのだ。

 

「こりゃあ……驚いたな」

 

 ギヨームはそんなマニの動きを感嘆の息を漏らしながら眺めていた。さっきは援護をしろと怒鳴っていたが、今のマニに援護なんて必要ない。それどころか、下手に手を出したら邪魔にしかならないかも知れない。

 

 しかし彼の攻撃は魔王を押し返しはすれども、相変わらず致命打を与えることは出来ないようだった。素手ではどうしてもパワー不足が目立ってしまう。だからとどめを刺すのは自分の役目だ。

 

「ガルガンチュア! 避けろよ!!」

 

 ギヨームは魔王を完全に封殺しているマニに目配せをすると、

 

光よ(ルクスシット)! 荒ぶる戦の神マルスよ、今すぐ俺に力をよこせ! 千の銃弾、万の銃弾、嵐となって吹き荒べ!」

 

 彼が天高く手のひらをかざし、そう叫んだ時、今までとはまるで違うまばゆい閃光が、その彼の腕から放たれた。それは周囲の空間を一瞬にして白く染め上げ、見る者全ての視界を奪った。そしてその光がようやく収まった時、そこには万を越える無数の銃口が虚空から現れ、魔王を取り囲んでいた。

 

 これから何が起きるか察したマニは、慌てて影に飛び込んだ。ギヨームはそれを見てから腕を振り下ろし、

 

「打ち砕け、魔弾の射手(フェイルノート)!」

 

 その言葉と同時に、そこにある全ての銃口が火を吹いた。そして放たれた銃声はもはや音すら超越し、鋼鉄のような重みをもって、その場にいる全ての者の体をぐっと押した。

 

 それを遠巻きに呆然と見ていたミーティアもアリスもゴロゴロと吹き飛んでいく。杖の機能によって辛うじて踏み止まっていたルーシーが、慌てて二人を引っ張り上げる。

 

 銃弾は硝煙となって辺りに充満し、鼻がツンとするような刺激臭が目に入って涙が出てきた。いつの間にか影から出てきた鼻のいいマニが、その強烈な異臭に対し恨めしそうにギヨームを睨んだ。今は体が狼なのに、その目は元の兎みたいに真っ赤だった。

 

 その銃撃は全て、あの戦場で用いた対物ライフルと同等のものだった。一撃でオークを吹き飛ばす銃弾を、1万発以上も浴びて無事で済む者など居るはずがなかった。例えそれが鍛えられた鋼鉄であっても、跡形もなく消し去るだろう。

 

 ところが、硝煙の霧が晴れてきた時、彼らはその中心に何かがあるのを見た。

 

 それは薄い光の膜に覆われた人間だった。いや、それを人間と言っていいかは分からなかった。そこにいたのは人間の形をして、背中に大きな翼を背負い、天使の輪っかを頭に乗せた、一人の男だった。

 

 鳳白が、何故かそんな姿をしながら、空中に浮かんでいたのだ。

 

 それは禍々しいと言うよりも、神々しささえ感じさせる姿だった。だが、それと同時にそれがいかに危険であるかを、その場にいた全員は、目に見えて理解させられた。その虚ろな瞳に映った者は、例えそれが神であっても消し去ってしまいそうな、そんな恐ろしさを孕んでいた。

 

 マニも、ルーシーも、ミーティアもアリスもその見知ったはずの姿に恐怖して動けなくなった。そんな中でただ一人、ギヨームだけがチッと舌打ちを一つすると、

 

「……野郎、やっぱ魔王化してやがったか」

 

 彼はそう言うなり、即座に虚空から銃を取り寄せて、そこにいる天使目掛けて銃撃をお見舞いした。それは巨大な対物ライフルで、戦車の装甲すら撃ち抜く代物だった。ところが、そんな巨銃から撃ち出された弾が、いともたやすく鳳の纏う光によって弾かれて、あらぬ方向へと飛んでいってしまった。

 

 ギヨームはそれでも銃撃を続けた。まるでやめてしまったら死んでしまうとでも言いたげな、執拗な銃撃だった。だが、いくらそんなことを続けても、目の前の天使を傷つけることは不可能そうだった。

 

 と、その時、鳳の虚ろな瞳が少しだけ動いて、ギヨームの姿を捕らえたように見えた。彼はその瞬間、背筋が凍りつくような悪寒が走って、咄嗟にその場に伏せた。すると彼が居なくなった空間目掛けて、どこからともなくレーザー光線のような光がスーッと横薙ぎに通過していった。

 

 それは音もなく、何の迫力も無かったが、当たったらどうなってしまうかだけは、何故か本能的にわかってしまった。そんな光が、縦、横、斜めと、音もなくスーッと不規則に動き回る。ギヨームはどこから現れるかわからないそんな光を避け続けた。そして次第に追い詰められた彼は冷や汗を流しながら、片腕を天に翳してまた叫んだ。

 

光よ(ルクスシット)!」

 

 強烈な閃光が走り、虚空から無数の銃口が鳳の周囲を取り囲む。だが、どこからともなく現れた光が、スーッとその銃身を横切ると、多くの銃が両断されて、音もなくストンと下に落っこちていった。

 

 一瞬にして数千の銃が、それによって無力化されていた。ギヨームはゾクゾクと背中を駆け上がってくるような恐怖心を抑え込みながら、それでもまだ数千の銃口が狙ってるとばかりに、その腕を下ろそうとしたが……

 

「ま、待ってくださいっ!!」

 

 その時、彼の視界に一人の女性の影が飛び込んできた。

 

 見ればミーティアがあたふたと慌てながら、虚ろな目をして宙に浮かんでいる鳳の前で仁王立ちしていた。ギヨームは間もなく振り下ろそうとしていた腕を咄嗟に引き上げると、

 

「な、なにやってんだ、この馬鹿!!」

「待ってください! 鳳さんを殺すつもりですか!?」

 

 ミーティアは懇願するような目でギヨームを見つめている。彼はあまりのことに、金魚みたいに口をパクパクしながら、

 

「殺すもなにも……()らなきゃ俺が殺られるだろうが!!」

「わからないじゃないですか! だからちょっと待ってくださいって!」

「分かるよ! そこにいるのはもう鳳じゃない! いいからどけ!」

「退きません!」

 

 ミーティアはギンとギヨームの目を睨みつけた。

 

「さっき私は彼に殺されそうになりました。あの時、あの腕がそのまま振り切られていたら、今頃私は死んでいたでしょう。でも、ちゃんと止まったんです。彼には私たちのことが分かっていたんですよ」

「そんなの、たまたまかも知れないじゃないか! そいつは今、どうみても意識を失っている。このまま放置していたら、また動き出して今度こそあんたもお陀仏だぞ!?」

「じゃあ、それまでは殺さないでください。大丈夫です。必ず戻ります。今だって、彼は私を殺そうとはしていないじゃないですか!」

「んな保証はねえだろ!」

 

 ギヨームはイライラしながら立ちふさがるミーティアを乱暴に押しのけると、

 

「こいつは殺しても死なねえんだよ! だが、魔王になっちまったらもう殺すことすら不可能になる。だからその前にやるしかない! 後でちゃんと復活させるから。今はすっこんでろ」

 

 しかしミーティアはそんな彼の腕にしがみついて、

 

「それは外の世界での話でしょう? ここは精神世界なんですよ? 精神が死んだら……それはちゃんと元に戻るんですか!?」

「それは……」

 

 ギヨームは返答に窮した。言われてみれば確かに今は状況が違う。鳳は物理的に死んでも、勇者召喚で何度でも復活するが、精神が死んだ場合はどうなるか、それは誰にもわからなかった。

 

 しかし、そうやってギヨームが一瞬の躊躇を見せた時だった。また音もなく光がスーッと動いて、鳳を取り巻く銃を全て破壊してしまった。ハッと我を取り戻したギヨームが、慌ててその場にしゃがむと、光は彼のいた空間を両断するように通過していった。その動きは明らかに彼を狙ったものだった。

 

「この……光よ(ルクスシット)!」

 

 ギヨームはそれを見た瞬間、やはりもう目の前の魔王には、何を言っても通用しないと確信した。そして再度銃撃をお見舞いしようと腕を翳すと、それを阻もうとするミーティアに向かって最後通牒を突きつけた。

 

「退けっ! 退かないなら次はおまえごと撃ち抜くぞ!」

 

 しかし、ミーティアは臆すること無く、

 

「構いません! どうせ彼が死んだら、生きている意味はありません! 彼を殺すというのなら、私ごと殺しなさい!」

「脅しで言ってるつもりはないんだ!」

「だからやれって言ってるでしょう!?」

 

 ミーティアはそう言うと、もはや問答無用とばかりに、虚ろな目をした鳳に向かって駆け出し、そして彼を抱きしめるつもりで飛びついた。しかし……

 

「きゃあああーーーっっ!!」

 

 彼女の体が、鳳の纏っている光の膜に触れた瞬間、それは強烈な閃光を発して、近づいてきた彼女を弾き飛ばしてしまった。体をくの字に曲げて、十数メートルも吹き飛ばされたミーティアの額から真っ赤な鮮血が迸る。

 

 ギヨームはそれを見た瞬間、今度こそ躊躇なく腕を振り切った。

 

「打ち砕け! 魔弾の射手(フェイルノート)!!」

 

 強烈な音の暴力がまたその空間に吹き荒れて、何もかもを消し去る銃撃の嵐が鳳を襲った。二人のやり取りを見ていた仲間たちは、慌てて耳を塞いでそれに備えた。硝煙の霧が周囲に充満し、息をするのも困難な刺激臭が襲ってくる……ギヨームは滲む視界に目を細めながら、今度こそ殺ったかとその霧の中を覗き込んだ。

 

 しかし……その霧が徐々に晴れてきた時、その中心には薄っすらとまだ光が差し込んでいることに、彼は心の底から恐怖を覚えた。その全てが露わになった時、そこには依然としてぼんやり虚ろな目をした鳳が、無傷のまま宙に浮かんでいたのだ。

 

 そんな彼の周囲に、無数の光の刃が浮かんでいた。それは相変わらず音を立てなかったが、さっきまでとは打って変わって、水を通さぬような精密さで、ギヨームの退路を阻むように迫ってきている。

 

 あ、こりゃ死んだわ……彼がそう思い、諦めた時だった。

 

「鳳さん……いい加減に起きてっ!!」

 

 そんな彼の目の前に、女性の影が飛び出したかと思ったら、その光にまるで歯向かうように突進していった。そしてそれは敢え無く光に分断され、粉々に砕け散ってしまった……かのように見えた。

 

「ミーさんっっ!!」

 

 ルーシーが絶望して悲鳴を上げる。だが、ギヨームはそれを見て目を剥いた。

 

 ミーティアが飛び出した瞬間、それは翼をはためかせ、信じられない速度で飛んできた。そして光が彼女を切断しようとする、正にその瞬間、それに追いつき光をかき消してしまったのだ。

 

 たった今、死んだと思ったミーティアが、目をパチクリさせながらその場に呆然と立ち尽くしている。

 

 鳳はそんな彼女の腰の辺りにしがみつくように抱きつきながら、懇願するような弱々しい声で言った。

 

「あれ、死ぬから……普通に死ぬから……頼むから……無茶、しないでよ……」

 

 彼はそう言うなり、ズルズルと地面に突っ伏した。ミーティアは暫し呆然と立ち尽くしていたが、そんな彼の姿を見るなり、慌てて膝の上に抱き起こすと、

 

「大丈夫ですか!? どこか痛いんですか……?」

 

 鳳はそんな彼女を見上げながら、まずは自分の心配をしろよと言いたげに苦笑を漏らしつつ、返事の代わりに腹の音で答えた。

 

「腹……減った……」

 

 ぐ~……という、どこか情けない音が辺りに響いている。それが壁に反響して聞こえたような気がして、我に返った一行が周囲を見渡してみれば、いつの間にか真っ黒だった空間は消えていて、そこはどこかの狭い室内に変わっていた。

 

 一体なにが起こったのか、まるでわからなかった。ミーティアの立っているすぐ横には、見たこともないような丸い形をしたベッドがあって、そして部屋の奥には液晶モニターと冷蔵庫があり、ついでにコンドームの自販機もあったが、彼女にはそれが何かも分からなかった。

 

 とにかく分かっていることは、ようやく逢えた彼女の愛しい人が、腹を空かせてヘトヘトになっていることだけだった。彼女はその様子を呆然と見ていたアリスに向かって、何か食べ物をと慌てて叫んだ。

 



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鳳さん……正座

 狭い室内に、まるで工事現場みたいにバリバリと飯を貪り食う咀嚼音が響いていた。ミーティアの膝に突っ伏していた鳳は、アリスが運んできた食べ物を見るなり、それに飛びついて、まるで飢えた狼のようにガツガツと食い始めた。

 

 その食いっぷりは尋常ではなくて、それを見ていたギヨーム達は、彼に何があったのか聞きそびれてしまうくらいだった。と言うか、そんなの聞くまでもなく、その落ち窪んだ眼窩とげっそりと痩けたほっぺたを見れば、彼がお腹をすかせていることは一目瞭然だった。どうやらこの様子だと、ルーシーとはぐれてからほぼ一週間、彼は何も食べていなかったと考えていいだろう。

 

 鳳は差し出された食料を飲み物のように流し込み、うっかり喉につまらせてゲホゴホと咳き込んでは、アリスに出された水筒を引ったくるように受け取って、それをまたごくごくと飲み干した。

 

 顔面を紅潮させながら、喉に詰まった食べ物を嚥下した彼は、フルマラソンを終えたランナーみたいに呆然としたあと、はぁ~……とため息を吐いてから、

 

「いやあ~……死ぬかと思った。つーか、真面目な話、死んだと思ってたんだけど、なんで俺まだ生きてるの? あの後何があったの? いや、それより、みんななんでここに居るの? あれ? ここってまだネウロイだよね? みんなどうやってここまで来たの?」

 

 矢継ぎ早に投げかけられる疑問の数々に、ギヨームはうんざりした口調で、

 

「そりゃ、こっちのセリフだろうよ。助けに来てやったらいきなり襲いかかってきやがって。危うく死ぬところだったんだぞ」

 

 鳳はそれを聞いてポンと手を叩くと、少し興奮しながら、

 

「あー……ごめん。なんかよくわかんない内にあんなんなっちゃってたんだよ。俺もなんでギヨームとガルガンチュアさん? ……ってか、あれマニだったんだろ? よくわかんないけど、戦ってんなーって思ってたら、ミーティアさんまで出てくるし、マジわけわかんなくて。つーか、凄いね。なにあれ。君、暫く見かけないと思ってたら、アホみたいに強くなったね。なにやったらあんなんなるの?」

 

 ギヨームはそんなセリフを聞いて更にうんざりとため息を吐きながら、

 

「それでも、こっちがやられてんじゃねえかよ! おまえこそ人間やめてんじゃねえ、馬鹿野郎!」

「あいたーっ!!」

 

 鳳の言葉にイラッとしたギヨームが容赦なく頭を殴りつけてくる。鳳が強かに打ちつけられ、ヒリヒリする脳天を擦っていると、そんなギヨームの背後から苦笑交じりにルーシーが話しかけてきた。

 

「鳳くん、混乱しているのは分かるんだけど、そろそろ落ち着いて何があったか話してくれないかな? あの時、私をポータルで送った後、どうして君は一人でこっちに残ってしまったの?」

 

 鳳はルーシーに言われて、ようやく当時の状況を思いだし、

 

「あー、そうだった。なんて説明すればいいのかな……つーか、ルーシー。俺たちが別れて、あれから何日くらい経ってるの?」

「6日とちょっとだけど」

「ははあ……そりゃギリギリだったんだな。実はね? あの後、何かあったってわけじゃなくって、寧ろ何もなかったんだよ」

 

 ルーシー達はどういうことかと首を捻っている。鳳は正直あまり思い出したくないと言った感じにため息を吐いてから、

 

「実はあの後、俺はさっきの謎空間に閉じ込められちゃってたんだよ。ルーシーがポータルを潜った後、俺も続こうとしたら、いきなりポータルが消えちゃって、周りが見えなくてなって、ひたすら真っ暗で……それだけなら良いんだけど、何故か魔法も使えなくなっちゃってさ? ポータルも出せなきゃ、火をおこすことも出来なくって、参っちゃったんだよ」

「あー……」

 

 ルーシーはなんとなくその理由が分かった。鳳が閉じ込められたのは、恐らく精神だけのアストラル界。古代呪文は機械が操っているものだから、あの世界では何の役にも立たないのだ。ともあれ、そんなことを今説明しても仕方ないので話を促すと、

 

「特に何か危害が加えられていたわけじゃないんだけど、気がつけば、とにかく何も見えない真っ暗闇の中で、俺はどうすることも出来ずにふわふわ宙に浮かんでたんだ。もちろん、なんとかしようと足掻いてはみたさ。けど全然駄目で、気がつけば全身冷や汗まみれで、段々頭もガンガンしてきて、それでも1日か2日はまだなんとか頑張れたと思うんだけど……腹が減ってくると、もうまともな判断なんて出来なくなっちゃってさ? ついに頭がおかしくなったっていうか、魔王化の兆候が出てきて、あ、こりゃ駄目だ……って思った時には、俺はオークキングになっていたんだ」

「自分があれになっていたってのは覚えているのか?」

 

 ギヨームの問いかけに鳳は頷き、

 

「ああ。俺もオルフェウス卿みたいに、魔王になっちゃったんだなって思って、やばいとは思ったんだけど、寧ろこうして魔王になっても誰にも迷惑をかけずに死んでいけるなら、それはそれでありかなと……そう考えたあとは、殆ど意識を手放していた。たまに、ふっと我に返りもしたけど、その時はもうひたすら空腹と戦い続けている感じで、頭がおかしくなっちまった方がマシだとさえ思って……で、実際に考えないようにしてたら、そしたらなんか、ギヨームとガルガンチュアさんが出てきて、あれ? って感じで……」

「うっかり彼女を殺しそうになって、ようやく我に返ったってところか」

「いやあ、ごめんね。自分でも何やってんだかさっぱりだったから……つーか、どうして俺はオークキングになっちゃったんだろう。オーク族でもないのに、考えてもみればおかしな話だよな」

 

 鳳がそんな感想を漏らしていると、ルーシーが何かに納得した感じに、

 

「それは多分、鳳くんにとっての、魔王のイメージがオークキングだったからだね。だから君のクオリアがあれを呼び出してしまったんじゃないかな」

「クオリア? ……どういうこと?」

「さっきのあの真っ暗な世界……アストラル界ってのはクオリアが収められている場所のことなんだ。迷宮は、クオリアが物質世界に具現化したものだから、実は迷宮とさっきの世界は常に重ね合わせで存在しているんだ。迷宮の中が物理法則から逸脱しているのは、その影響を受けていたからだったんだね。

 

 鳳くんは、迷宮のルールに違反したせいで、物質世界から精神だけが引き剥がされて、アストラル界に取り残されちゃったんだよ。要するに、いきなり体を失っちゃったから、魔法も使えなければ何も見えなくなっちゃって、その恐怖心と言うか、心細さから逃れるために、最終的に自分を魔王に変えてしまったんだと思うよ。魔王ってのは強さの象徴でもあるでしょう?」

「ははあ……なるほど、なんとなくわかったけど……」

「今ので分かるのかよ!」

 

 というギヨームのツッコミはさておき、

 

「ところで、オークキングになってた俺をギヨームが倒した後に出てきたあれはなんだったんだろう。俺はあんな天使みたいなの見たことないぞ」

「そりゃ、あっちのほうが、本物のおまえの魔王のイメージなんだろ」

 

 今度はギヨームが何かに納得した感じに、

 

「魔王ってのはつまり神の敵対者、堕天使のことだ。だからもし、おまえが魔王化に耐えきれず魔王になっちまったら、きっとあんな姿になるんだろうよ」

「ふーん……そうか。俺はあんな風になっちまうのか。正直、ジャバウォックやオークキングみたいになるのは嫌だけど、あれくらいならなっちまっても別に構わないかもな」

「やめてくれよ? 勝てる気がしないから……」

 

 ギヨームの顔は、うんざりを通り越してそろそろげっそりしてきた。鳳はそんな彼に苦笑を返しながら、ふと思いついて、

 

「つーか、ルーシーからアストラル界なんて怪しげな単語が出てくるとは思わなかった。それって現代神智学の用語だよね? オカルト趣味の人でも無い限り、普通は知らないと思うんだけど……どこでこんな言葉を覚えたの?」

「そうなの? ミッシェルさんはおじいちゃんと同時代人って言ってたけど?」

「ミッシェルさん……?」

 

 鳳はちんぷんかんぷんと言った感じに首を捻ってから、

 

「ふむ……俺の方は一旦置いといて、ルーシーこそあの後どうなったの? 俺が閉じ込められたみたいに、そっちも閉じ込められちゃったの?」

「ううん。私はちゃんと帝都に辿り着いていたんだよ。で、暫く待ってみても鳳くんが全然出てこないから、きっと何かあったんだと思って……」

「え? 帝都に居たのに、どうやって帰ってこれたの?」

 

 ルーシーは、鳳と逸れた後にあった出来事を話して聞かせた。帝都にいたジャンヌたちと合流して迷宮に行ったこと。その最奥で迷宮の主ミッシェルと出会ったこと。彼はレオナルドの知人で、精神世界のエキスパートであること。彼に教えてもらって、カウモーダキーを使ってポータルを作り出し、ここへ戻ってきたこと。

 

 彼女が全てを話すと、鳳は目を丸くしながら、

 

「それじゃ、この短期間に迷宮一個攻略してきて、新たな力を得て、ついでにギヨーム達を途中でピックアップしてきたっていうのか? はあ~……いやあ、ホント凄いね、君。いや、君たち。ギヨームもそうだけど、マニも、さっきのあれはマニだったんだろ? つい先日別れた時とは、みんな別人じゃないか。どうしたらこんな急激に成長出来るってんだよ。精神と時の部屋にでも入ってきたの」

「だから、そんなことおまえに言われたくねえんだよ、こっちは」

 

 ギヨームがうんざりと返事を返し、ルーシーもマニも苦笑いしながらこっちを見ていた。

 

 鳳は、久しぶりに少し喋りすぎてしまい、喉の乾きを覚えてさっき貰った水をもう一口飲もうとし、水筒の中身が空っぽなのに気がついた。

 

「どうぞ……」

 

 すると彼の視界から、きっちり一歩分外れたところに立っていたアリスが、すっと前に進み出てきて、彼に一本の飲み物を差し出した。受け取る彼の隣には、さっきからずっと寄り添うようにミーティアが座っていて、少し潤んだ瞳で彼のことを見つめていた。

 

 鳳は、そんな二人の姿を見て、そう言えば、自分が何故魔王化を阻止しようとしていたのか? それは彼女らと末永く暮らしていくためだったことを思い出して、何だか急に気恥ずかしくなってきた。

 

 今はまだ道半ばであったが、彼女らはそれでも自分を信じて、こんなところまで追いかけてきてくれたのだ。彼は二人になんて声を掛けていいか分からず、ほんのり顔を赤らめながら、アリスに受け取った飲料のプルタブを起こして、中身をゴクゴク飲み始めた。

 

「……あれ? これって、コーラじゃん?」

 

 シュワシュワと舌の上で弾ける炭酸の刺激に驚いて、彼はたった今自分が飲んでいたボトルを口から離した。

 

 そして良く見てみれば、それは日本で暮らしていた時に、どこの自販機でも買えた赤いコーラの缶であることに気がついて、彼は驚きの声をあげた。

 

 なんでこんなものがここにあるんだろうか? というか、どうしてアリスが持ってるんだ? 彼が驚いて彼女に尋ねてみると、

 

「ご主人様の水筒が空になっていらしたので、すぐに換えをご用意しなければと、少し辺りを散策していました。すると、そこにあった不思議な箱の中に、奇妙な器に入った飲料水がございましたので、持ってまいりました。お気に召しませんでしたでしょうか?」

「いや、全然。コーラは大好物だったから嬉しいけど……って言うか、ご主人様?」

 

 アリスの呼び方がなんか変わってるな? と思っていたら、変わっているのはそれだけではなく、彼女の鳳を見つめる瞳も、今までと段違いに熱量を帯びたものになっているのに気づいて、彼は慄いた。

 

 そんな神様でも見るようなキラキラした目で見られては、あの日、欲望に耐えきれずに彼女を押し倒してしまった罪悪感が胸をえぐる。鳳が、戸惑いながらどうして呼び方を変えたのかと尋ねると、

 

「はい。お嬢様にあなたとの結婚の約束を報告しましたところ、今後はあなたにお仕えしなさいと仰せつかりました。これよりこの身はあなたの下僕。どうか一生、おそばに仕えさせていただきたく思っております。ご主人様」

 

 そう言って彼のことを見上げるアリスの瞳は、正に恋する乙女のようだった。

 

 あれ? 結婚しようって言ったのは確かだけど、そりゃ責任を取るためであり……つーか、ぶっちゃけ見方を変えれば、彼女にとって自分はレイプ犯なんだぞ……と、鳳が戸惑っていると、

 

「ところで、再会を喜び合ってるところ悪いんだが、一体、ここはどこなんだ? 確か、おまえら、迷宮を攻略中に逸れたんだろ? まさか、このへんてこな部屋もその迷宮の中なのかよ?」

 

 ギヨームの言葉にハッと我に返った鳳は、改めてアリスがコーラを見つけてきたという箱を見返して、そこが例のラブホ部屋の中であることに気がついた。さっきから自分が腰掛けているのは回転ベッドで、何も知らないミーティアが寄り添うようにそのベッドに腰掛けている。

 

 鳳は、もしも彼女がこのベッドが何のためにあるのか知ったらどんな顔をするのか、ほんのちょっぴり好奇心に駆られたが、まずはギヨームに返事しなければと、

 

「ああ、そうなんだよ。この迷宮はとにかく注文が多いやつでさ? 俺たちは迷宮の指示をクリアしながら、どうにかこうにかここまで辿り着いたんだけど、そしたらこの部屋が……」

 

 そう、説明していた鳳の顔が、みるみるうちに青ざめていった。

 

 みんな、言葉を飲み込んでしまった鳳のことを、どうしたんだ? と首を傾げて見ている。

 

 彼はゴクリとつばを飲みこんだ。

 

 どうしたもこうしたも、これ以上話を続けたら、ここで何が起きたかバレてしまう。秘密は墓まで持っていくつもりだったのに、こんなあっさりバレてしまうなんて……

 

 いや、まだだ。まだバレたと決まったわけじゃない。ここは口八丁手八丁でなんとか誤魔化してしまえば……

 

 鳳の頭がそうしてフル回転し始めた時だった。突然ブーンと言う電子音が聞こえてきて、部屋の奥にあったモニターに薄っすらと明かりが灯った。その小さな音に気がついたマニがどうしたんだろうとそちらを見て、それに気づいた他のみんなも釣られてそっちの方を向いた。

 

 そうして全員の注意がモニターに注がれると、まるでそれを待っていたかのように、徐に画面の右から左に向かってテロップが流れ始めた。

 

 絶・対・に・セ・ッ……

 

「あああああああぁぁぁぁーーーーーっっ!!!!」

 

 その時、突如、絶叫みたいなルーシーの声が室内にこだまして、キンキンとみんなの耳をつんざいた。驚いた全員の注意が彼女に注がれると、彼女はわたわたと大げさに両手を振り回しながら、まるでこの世の終わりのように青ざめた表情で、

 

「わああっっ!! 鳳くん! 見てみて、あそこ! ずっと探しても見つからなかった、部屋の出口があるじゃない! そうか! ここは男女ペアで入らなきゃいけない迷宮! 定員オーバーだから関係ない人は出てけってことだね! いけないいけない! ルール違反をしたらまた大変なことになっちゃうぞ! それじゃ、余計な人たちは部屋から退場しようか! さあさあ、ギヨーム君もマニ君も、グズグズしないでさっさと部屋から出ようね!」

「あ、おいっ!? 待てよ? 何なんだ急に、おまえ!?」

 

 ギヨームもマニも、突然のルーシーの奇行に驚いて、成されるがままに連行されていく。ルーシーはさらにアリスをロックオンすると、

 

「アリスちゃん! ご主人様に再会できて幸せなところ悪いんだけど、ここは奥様に譲ろうか!」

「あ、おい、ルーシー!」

 

 彼女はそう言って小脇に抱えるようにアリスを羽交い締めにして部屋の扉まで引きずって行ってしまった。鳳はそんな彼女を呼び止めようとして手を伸ばしたが、彼女は青ざめた表情で最後に一瞬だけ振り返ると、

 

「それじゃ、二人とも。あとはよろしく。ごゆっくり!」

 

 と言って、部屋から出ていってしまった。

 

 その瞬間、バタンとドアが閉まって、すーっとその扉が消えてしまった。鳳は慌てて部屋の壁をガンガン叩いてみたが、もうそこには外に通じる出口は無くなってしまっていた。コンクリートの壁は硬く無機質で、恐らく鳳が本気で叩いてみても、その先はどこにも繋がっていないだろう。

 

「また……閉じ込められたのか?」

 

 電光石火の早業に、鳳は殆ど身動きが取れなかった。流石、レオナルドに逃げることにかけては天下一と言わせただけのことはある。実に見事な逃げっぷりである。

 

「鳳さん」

 

 鳳が妙な具合に感心しながら、彼女らが消えていった壁に向かってため息を吐いていると、背後からミーティアの優しい声が聞こえてきた。どことなく甘えるようなその声に、どきりとして振り返れば、彼女が天使みたいな純白の笑みを湛えて、彼のことをじっと見つめていた。

 

 その笑顔が眩しすぎて、鳳は正視することが出来なかった。考えても見れば今、彼は好きな人とこの閉鎖空間で二人きりなのだ。ラブホなのだ。なんだか気恥ずかしくて息することすら苦しかった。次第に胸がドキドキしてきて、暑くもないのに冷や汗が出てきた。顔が紅潮しているのだろうか、視界がぼやけて目眩もしてくる。

 

 ミーティアはそんな初心(うぶ)な仕草を見せる鳳のことを、まるで聖母のように慈愛に満ちた瞳で見つめながら、何故か急に右手の親指をグイッと上げて、サムズアップのジェスチャーをしてみせた。

 

 なんだろう? 二人っきりになれて嬉しいという意思表示だろうか。鳳がモジモジしながら、彼女に倣ってサムズアップしてみせると、彼女はそれを見てクスリとした笑みを浮かべてから、その指をそのまま顔の辺りまで持ち上げていって、まるで後ろを見ろと言わんばかりに前後に揺らした。

 

 鳳の視線がその指先を辿って行くと……彼女の肩越しに例のモニターが見えた。そこには黒い背景に白字で、飾り気のないありふれたフォントでこう書かれてあった。

 

『絶対にセックスしなければ出られない部屋』

 

 鳳はそれを見た瞬間、思い出した。そう言えば、笑顔のミーティアは怖いのだ。彼女が恥ずかしがったり笑ったりすると、まるで般若のように邪悪に顔が歪むから、それが男を寄せ付けなかったはずだった。なのにさっきから、彼女は天使みたいに笑っている。

 

 鳳は、更に胸がドキドキしてきた。暑くもないのに額から汗がダラダラと垂れて、視界がぼやけて目眩がしてきた。

 

「鳳さん……正座」

「はいぃぃーーっ!!」

 

 彼女の笑顔はますます魅力的になっていく。鳳はそれを見て地面に両手をつくと、言われてもないのに自分から額を地面に擦り付けるのだった。

 



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土下座で頼んでみた

 ピリリと肌に張り付くような緊迫感が室内に満ちていた。鳳は地面に両手をつく土下座スタイルのまま、未だ何も言わずに彼の頭頂部をじっと見下ろしているミーティアに頭を下げ続けていた。ポタポタと、顎の先から滴り落ちる汗が不快である。

 

 と、その時、彼の視界の上の方で、すっと彼女の足が動くのが見えて、彼の体が反射的にビクッと震えた。こっちに近寄ってくるらしき彼女の顔を、恐る恐る下から見上げてみると、彼女は顔は般若でもなく、能面でもなく、呆れたというか困ったような、そんな感じのものに変わっていた。

 

「鳳さん、まずは顔を上げてください」

「はいっ! すみませんでしたっ!」

 

 鳳はようやく話しかけてくれた彼女にひれ伏すかのように、また地面に額を擦り付けた。ミーティアはそんな情けない男にため息交じりに、

 

「いえ、あの……そんなに一方的に謝られてしまうと困りますよ」

「でもその……怒ってらっしゃるかと思いまして……」

 

 鳳が様子を窺うようにちらりと上目遣いに見上げると、彼女は困った表情で、

 

「あのですねえ、そりゃ最初は腹も立ちましたが、怒りってそんなに持続するもんじゃないですよ。と言いますか、私も何に怒ればいいのかよく分かっていませんし……でも鳳さんの様子を見るからに、やっぱりルーシーとの間で……何かありましたね? 何があったんです? はっきりしてください」

 

 しまった……鳳は、実はまだしらばっくれればバレずに済んだかも知れないと知って内心舌打ちした。だが続く彼女の言葉を聞いて、そんなゲスいことを考えている場合じゃないと慌てふためくことになった。

 

「はあ~……けど考えても見れば、私たちの間に何かあるわけでもないですし、私も怒れる立場かどうかも怪しいですし、彼女は魅力的ですから……私よりもルーシーを選んだと言うのであれば、それはそれで仕方ないことだと思います……それなら私は身を引きますから、鳳さん……私たち、これで別れましょうか……」

「あわわわわ! 全然全然そんなことないですよ!? いや、選ぶ選ばないとかそれ以前に、俺はミーティアさんのことが大好きと申しますか、そんなっ、いきなり別れるなんて……ひええええ! なんとか考え直してくれませんか!?」

 

 鳳が未練がましく何とか彼女に心変わりしてくれるように懇願すると、ミーティアはそんな惨めったらしい彼の目の前でしゃがみこみ、同じ目線の高さになってじっと彼の目を覗き込みながら、両手で挟み込むようにペチンと彼のほっぺたを叩いた。そしてツンとむくれるような顔をして、

 

「嘘です。本当は、鳳さんが別れてくれって言っても、絶対別れてあげません。なんのために、ここまで追いかけてきたと思うんですか? と言うか、私たち、まだろくに付き合ってもいないのに、それなのにもう浮気だなんて……鳳さん、ひどいです」

「うっ……」

 

 鳳はそんな彼女の言葉を聞いて、胃袋の中に真っ赤に灼熱した鉄球をぶち込まれたくらい最低な気分になった。あの時は、色々と追い詰められていたこともあって、散々悩んだ結果、ついルーシーに手を出してしまったわけだが……それがどれだけ悪いことだったか、自分は分かってるつもりでちっとも分かっていなかったのだ。

 

 思い返せば、彼女は幼馴染(アントン)を一途に想って、人生を変えてしまうくらい情の深い女性なのだ。それでいて、その幼馴染にいい人が出来たら、親友のために身を引いてしまうという情け深い人でもあった。もし今、彼女が本気で別れようと言い出したら、自分にはそれを引き止める資格はないだろう。鳳はそう考えて絶望的な気分になった。

 

 そんな感じで、ズーンと沈んだ表情で固まってしまった鳳のことを見ながら、ミーティアは少し清々しつつも、ちょっと言い過ぎたかなと後悔した。考えてもみれば、ついさっきまで、彼は迷宮に閉じ込められて死にかけていたのだ。なのに、ようやく解放されたというのに、いきなりこんな風に責められたのでは可哀相だ。もしかしたら何か事情があったのかも知れない。

 

 それに、他の女に手を出したことに立腹するのは当然だが、そんなこと言い出したら、そもそも彼は既に3人も奥さんがいるのだ。アリスに手を出してしまった時のことを思えば、こっちはまだマシな方だと言えた。

 

 仕方ない……許してあげよう。ミーティアは、我ながらちょろいなとため息を吐くと、

 

「そんなこの世の終わりみたいな顔しないでください。悪いことしたって反省してるならもういいですよ」

「え! いいの!?」

「はい。ルーシーのことも、まさか遊びで手を出したんじゃないですよね?」

「そりゃもちろん! ……あ、いや……遊びじゃないですけど……本気というわけでもなくて……その……」

「はあ~……仕方ない人ですね。何があったのか、ちゃんと話を聞かせてくれませんか? ルーシーとその……致しちゃったのは、また魔王化のせいだったんですか? それとも……さっきから気になってるんですけど、あの、なんというか、不思議と言いますか、品がない言葉が何か関係しているんでしょうか?」

 

 ミーティアは液晶モニターに燦然と輝いている『絶対にセックスしないと出られない部屋』を指差している。鳳はそれを見て、あ~……と低い唸り声を漏らし、話せば長くなると前置きしてから、

 

「実は……ネウロイに到着してここの迷宮を発見したまでは良かったんだけど、これが凄い面倒くさい迷宮でね? 途中に何枚も立て看板が立てられていたんだけど、そこに書かれている指令をこなさなければ、先に進めないって仕掛けだったんだ」

「はあ……指令ってどんなんです? 腹かっさばいて腸を引きずり出せとか、親指を詰めて出汁にして飲めとか?」

「いや、そんな指令はそもそも守れませんけど……つーか、あんた、ナチュラルに邪悪な発想しますね。恐ろしい……」

 

 ミーティアは目をパチクリしながら、

 

「それじゃどんなんです? それってそんなに難しいものだったんですか? 今の鳳さんが苦戦するんだから、相当ですよね」

「えーっと、いや、指令自体はそんな難しいものじゃなかったんだよ。靴を脱げとか、荷物を置いてけとか、風呂に入れとか」

「楽勝じゃないですか」

「うん。楽勝だったから、怪しいと思いつつも、全ての指令を言われるがままにこなしてきたんだよ。そしたら、この部屋に辿り着いて……」

「はあ……え? つまり、それって?」

 

 ミーティアは暫くきょとんとしていたが、ようやくその意味を悟ると、顔を赤らめながらきょろきょろと部屋の中を見回し、例の文言の書かれたモニターを見ながら、

 

「そ……そう言えば、ルーシーが逃げていった後、部屋の扉が消えちゃいましたが、それってもしかして……」

 

 鳳は厳かに頷いた。

 

「そう。閉じ込められちゃったの。ここは……『絶対にセックスしないと出られない部屋』なんだ」

 

 なんだろう、この心の底から馬鹿馬鹿しいと思っているのに、ずしりと来る重みのある言葉は……ミーティアは、くらくらと目眩を覚えながら立ち上がると、慌ててさっきまで扉があった壁の前までやってきてベチベチと叩いた。

 

 そして数日前に鳳たちがやったみたいに、部屋のあちこちを調べながらグルっと一周して戻ってくると、その様子をじっと見守っていた鳳の目の前に、同じように正座して、

 

「私たち、閉じ込められちゃったんですか?」

「うん」

「……絶対にセックスしないと出られないんですか?」

「う、うん……多分」

「多分って……?」

 

 ミーティアは、ルーシーとやっちゃったんだから結果は知っているだろうに、どうしてはぐらかすんだろうかと首を捻ったが、すぐに鳳たちが攻略を失敗したことを思い出して、

 

「あ! もしかして鳳さん、指示に従いたくないから、それでルーシーのことをポータルで返しちゃったんですね? なんだ、それじゃ二人は、その、あれをしてないんじゃないですか?」

「あいや、しちゃったんだけどね……?」

「……しちゃったんですか? 帰れるって分かってたのに? どうして?」

「うーん……」

 

 鳳は、こんなのいくらでも誤魔化せるし、案外、誤魔化したほうが彼女にとっても精神的かも知れないと思いつつも、もはや腹芸は通じまいと観念し、ぶん殴られることも覚悟しながら、

 

「本当はすぐに帰ろうとしたんだよ。帰って事情を話して、ミーティアさんにお願いしたら、もしかしてついてきてくれるんじゃないかなと思って……」

「わ、私ですか!?」

 

 鳳はモジモジしながら、

 

「う、うん……駄目かな?」

 

 ミーティアもモジモジしながら、

 

「えーっと……駄目じゃないですけど……」

 

 二人は真正面に正座で向かい合ってお互いにモジモジしながら、

 

「でも、一度帰ったら戻ってくるのに一ヶ月くらいかかるから、出来れば戻りたくなかったんだ。それで、グズグズしてたらルーシーがしてもいいよって言うんで……抗いきれずに……」

「ルーシーからしようって言い出したんですか?」

「俺がグズグズしてたのが悪いんだよ! 彼女はここから出れるって知らなかったんだ。慌てて説明したけど、それでもいいよって言うから……それなら帰ってミーティアさんにお願いするより、そっちの方が時間効率的にいいかなって。いや、そんな言い訳してもしょうがない。ルーシー見てたらその、ムラムラしてきて……」

「……したくて、しちゃったんですか?」

「あ、はい……したくて、しちゃいました」

 

 ミーティアは、はぁぁぁ~~~……っと、今まで一番長いため息を吐いた。

 

「しょうがない人ですねえ……」

「面目次第もございません」

 

 鳳は猫みたいに背中を丸めて申し訳無さそうに項垂れている。時折、チラチラと彼女の顔を盗み見ては、またぱっと目を逸らして視線を地面に向けていた。

 

 ミーティアはそんな情けない男の姿を暫くじーっと見てから、やがて仕方ないといった感じにゆっくり立ち上がると、今度はビクリと肩を震わせて怯えている鳳の隣に並んで正座した。

 

 そして、どうしたんだろう? と戸惑っている彼の肩にちょこんと頭を乗せ……すぐに座りが悪いと言わんばかりに一度離れて、シャキッとしなさいと言わんばかりに、彼の背中をぐいと押して背筋を伸ばさせてから、また徐にその肩に頭を乗っけて、満足そうにふふんと鼻を鳴らした。

 

 ものすごく近くに彼女の顔があってドキドキする……鳳はそんな彼女の顔を横目で見ながら、

 

「あの……ミーティアさん? どうしたの……?」

「知ってます? セックスしないと、出られないんですよ? ここ……」

 

 鳳は生唾をごくりと飲み込んだ。ミーティアはそんな彼の耳に吐息が掛かるくらいの至近距離で、

 

「さっき、一度帰って私をここに連れてこようとしてたって、言いましたよね?」

「は、はい」

「私とここで……する、つもりだったんですか?」

「は、はい」

 

 彼女の息がかかる度に耳が溶けそうになった。さっきから既に下半身は天元突破しており、ズボンを突き破りそうなくらい膨張していた。鳳は興奮を隠すために鼻息を聞かれないように口で息をし始めたが、やっぱり口臭が気になって、鼻をヒクヒクさせながら必死に呼吸を整えようとした。しかし、そんなの無駄だと言わんばかりに心臓がドクンドクンと跳ね上がっている。

 

 ところが、そんな彼の期待を叩き潰すかのように、彼女は妖艶な笑みを浮かべて、

 

「他の女としていたくせに……?」

「うっ……」

 

 鳳は今度は別の意味でドキッと心臓が跳ね上がった。大量の冷や汗がダラダラと流れ落ちてきて目が痛かった。彼は乾きを潤すかのように、またごくりと唾を飲み込むと、

 

「す、すみません。でも本当にあの、彼女とのことは遊びのつもりはないけれど……本気ってわけでもなくて、本当に本気なのは……ああ、いや、アリスやクレアのことも大事なんですけど……そう! 俺が一番好きなのはミーティアさんです! ミーティアさんが一番です!」

 

 鳳は恐らく最低なことを口走っているという自覚があったが、しかし最低でも何でも本心なんだから仕方ないじゃないかと、半ば投げやりな気持ちでそう叫んだ。

 

 彼は、女性に追い詰められるとここまで余裕がなくなるものなんだと痛感しながら、ビンタされるのも仕方ないと言った感じに、ギュッと目をつぶって彼女の返事を待った。

 

 しかし……やってきたのはビンタじゃなくて、両手で優しく頬を包み込む彼女の腕と、唇に触れる柔らかな感触だった。

 

 目を開けると、ほんのちょっと赤く潤んだ瞳がそこにあった。ミーティアは、少し鼻にかかった声で、

 

「これが私のファーストキス。鳳さんは、もう他の人にあげちゃったんですよね?」

「す……すみません」

「仕方ない人ですね。それじゃ初めての代わりに、一番をください。私も、鳳さんのことが、一番大好きですよ?」

 

 そう言って彼女はまたついばむようなキスをした。

 

「私の初めてを全部あげるから、だから、鳳さんの一番をいっぱいくださいね?」

 

 その言葉は、鳳の理性をすべて吹き飛ばすには、十分な力を秘めていた。彼はもはや理性を失くした野獣と化し、ひたすら彼女を求めることしか考えられなくなった。

 



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どちくしょうめぁえあーー!

 朝目覚めたら、ミーティアが死のうとしていた。

 

「ああ゛ああああ゛あ、あ゛あ゛ああ、ああ゛あ゛あああ゛ーーーっっ! 死にたいっ! 死にたいよーッ! 殺して! いっそ殺してえええーーーっっ!!」

「ミ、ミーティアさん落ち着いて!」

 

 鳳が、昨日あんなに愛し合ったというのに、どうしてそんな悲しいことを言うの? と真顔で聞くと、彼女は一瞬白目を剥いた後、そんなキラキラした瞳で口走るんじゃねえと往復ビンタした挙げ句、ベッドの上で両手両足をジタバタさせながら悶絶した。

 

 どうやら一晩経ってみたら、二人でベッドインする直前に、自分が言ったセリフを思い出して死にたくなったらしい。彼女は目尻に涙を溜め、真っ赤な顔をして、

 

「ふ、雰囲気にあてられていたとはいえ、私はなんてことを言って……」

「えー……? 俺、すっげえ感動したんだけどなあ」

「やめてえええええああああぁあぁぁぁああーーーーっっ!!!」

「痛いっ! 痛いっ! 本気で痛いからっ!」

 

 ベチベチと容赦なく叩かれる度に、背中に一枚ずつ紅葉が出来ていった。それが昨晩つけられた爪痕に響いてガチで痛かった。というか、傷口が開いて鮮血が飛び出して彼女の手を汚すと、それを見た彼女はようやく我を取り戻し、

 

「はっ!? 私はなんてことを……すみません! 痛かったですよね……?」

「これくらい平気さ。ミーティアさんにつけられた傷だって思えば、男の勲章みたいなものだよ」

「だから恥ずかしいこと真顔で言うんじゃねええええぁーーーーっっっ!!」

 

 彼女の振り抜いた左フックがゴッと顎を捕らえて、鳳はクラクラと脳しんとうを起こした。そのまま真っ白になっちまったボクサーのようにベッドに突っ伏すと、再度ハッと我に返ったミーティアが涙を撒き散らしながら、慌てて崩れ落ちた鳳の頭を自分の膝の上に乗せた。

 

「だ、大丈夫ですか!? つい……」

「つ、ついでプロボクサーも顔負けな幻の左を繰り出されては、堪ったもんじゃないんですけど……」

 

 どうでもいいが、後頭部に当たっている柔らかい感触のすぐ下に、いま彼女の大事な部分が剥き出しになっているんだなと思うと、鳳は下半身のあたりが特に落ち着かなくなってきた。

 

 でもきっとそんなこと言ったら、処刑されるのは目に見えてるので黙っていると、彼女は泣きはらした後みたいな真っ赤な瞳で彼のことを覗き込みながら、

 

「ごめんなさい、私ガサツで。嫌いにならないでくださいね? は、恥ずかしいのが嫌ってわけじゃなくて、本当は嬉しいんですけど……そんな面と向かって言われるのは慣れてないと言いますか……ああああ! 無理! これ以上は許して!」

「あー、はいはい。俺も全く恥ずかしくないわけじゃないんで、気持ちはわかるから」

「そ、そうですよね!?」

「うん。でも恥ずかしい気持ちより、ミーティアさんのことが好きな気持ちが勝っているから平気……うっ」

 

 ドスッ……ミーティアの手刀が綺麗にみぞおちに突き刺さり、鳳は肺の中の空気を全部吐き出して悶絶した。

 

「はっ!? す、すみません! 私、つい無意識に……」

「だ、だから、ついでそんな的確に急所を突かないでくださいよ……」

「あうううう……乱暴な女でごめんなさい。す……捨てないでっ! おっぱい揉んでいいからっ!」

「あーもう! 可愛いなあー、ちきしょー! 捨てるなんてとんでもない! おっぱいは揉むけども!」

 

 信じられないくらい柔らかかった。鳳は、その指に吸い付くようなきめ細かい肌と、沈み込むような感触に宇宙を見た。重量感、張り、肌触り、そして先端の控えめな突起、この世の全てがこの中に詰まっているようだ。

 

 などとわけのわからないことを考えながら、膝枕の状態で下からおっぱいをモミモミしていると、最初の内は、え? 本当に揉むの? と、真っ赤な顔をしてプルプルしていたミーティアも、そのうち一周回って落ち着いてきたらしく、いつの間にか彼の頭を優しく撫でながら、恍惚とした表情でじっとその瞳を見つめていた。

 

 二人の上気した息遣いだけが部屋に響いている。

 

 鳳の下半身はもう完全に臨戦態勢で、このまま押し倒せばいつでも二回戦を始められそうな感じであり、彼は段々ぼーっとしてくる頭の中で、どのタイミングで彼女に飛びかかろうか、しかしこのおっぱいの感触も捨てがたい……などと煩悶していると、まだ辛うじて理性が残されていたミーティアが、揉みしだかれている自分のおっぱい越しに(それは信じられないくらい大きいのだ!)彼のことを覗き込みながら、

 

「あの……自分から大騒ぎしておいてあれなんですけど、そろそろ落ち着いて、ここから出ませんか?」

「えー? 俺、もっとミーティアさんと、ここでごにょごにょしていたいんだけど……」

「わ、私もその……ごにょごにょ……してたいですけど。でも、落ち着いて考えてみたら、私たちって外にルーシー達を待たせてるじゃないですか? あの子は中で何をしてるか知ってるわけですし、あんまり待たせるとその……私にも体面があると言いますか」

「あー、うん。そうだね。んー、でも、すぐ出れるってわけでもないしなあ……」

「え? でもここって、ごにょごにょしたら出られる部屋だったんじゃないんですか? さっき気づいたらあっちの方に扉が出現していましたし、あれを潜れば外に出れるのでは……?」

「いや、それが、確かにこの部屋からは出られるんだけど、続きがあると言うか……」

 

 鳳が歯切れ悪そうにしていると、段々不安になってきたのか、ミーティアはおっぱいを揉む彼の手を押し退けて、

 

「……そう言えば、ルーシーとしたって言ってましたよね。つまり鳳さんはあのドアの先に何があるか知ってるんですね?」

「まあ……」

「何があるんです? 気になるから見に行きませんか?」

「うーん……あまり気がすすまないなあ。それより、ねえ?」

 

 鳳がそう言って甘えるように彼女の腰に抱きつこうとすると、ミーティアはえいっと不届きな彼の頭をベッドに落として立ち上がった。そして服を着ようとして下着を取ったはいいものの、彼に見られているのが恥ずかしかったのか、慌ててそれを隠して、代わりにベッドのシーツをバスタオルみたいにクルクル巻いて、着替えを持って隣の部屋へと行ってしまった。

 

 鳳はそんな彼女のことをベッドの上から見送ってから、やがて仕方ないといった感じにゆっくりと起き上がり、その辺に落ちていたパンツとズボンをはいてから、シャツはどこにやったっけ? とベッドの下を覗き込んでいると……

 

「いやああああああああーーーーーっっっ!!!」

 

 隣室から、ミーティアの悲鳴が聞こえてきた。普通なら驚いてすぐに駆けつけるところだろうが、鳳はそれを聞いても微塵も動揺せずに、拾い上げたシャツの袖に腕を通した。

 

 まあ、隣の部屋に行って、あれを見たらああいう反応をするのも致し方ないだろう。鳳はシャツのボタンを上まできっちり留めてから、ゆっくりと隣の部屋へと移動した。

 

*******************************

 

『この壁一面に、うんこを満遍なく塗ってください』

 

 鳳が隣の部屋へやってくると、ミーティアはそんな文言の書かれた看板の前で腰を抜かしていた。

 

 備え付けのシステムキッチンを見れば、まな板の上にいくつかの食材が置かれており、流水に晒された新鮮な野菜が瑞々しく水を弾いていた。多分、部屋に入った瞬間は、彼女はそんな看板よりもキッチンの方が目について、そこにあった冷蔵庫を開けてウキウキと中身を覗き込んでいたのだろう。

 

 そして鳳の顔を思い浮かべながら、今日の献立は何にしようかなと考えている時に、ふとこの部屋にやって来た当初の理由を思い出し、いけないいけないと気を取り直して部屋の中を調べ始め、そして看板を見つけたのだろう。うんこを濡れと。

 

 その衝撃は、実際に一週間前に味わった鳳にはよく分かった。セックスしろっていうのは、普通の感覚からすれば相当抵抗感のあるものだから、それを乗り越えた今、怖いものなど何もないと思ってやって来たらこれである。

 

 放心状態の彼女は、そんな彼がすぐ隣に来るまでまるで気づかず、だらしなくM字に開脚しながらその看板を見上げていた。前に回り込めないだろうか。大事なところがまろび出ていないか心配だ。

 

「お、お、おおお、おおおお、鳳さん?」

「うん」

「ここ、これこれこれ、これ!?」

「うん……この通りなんだけど」

 

 鳳がやって来たことにようやく気づいた彼女は、未だシーツを体に巻き付けただけというセクシーな格好のまま、脇に立つ鳳の顔を唖然と見上げていた。鳳はそんな彼女にどんな顔をしていいか分からず、取り敢えず苦笑いで、

 

「つまりその……そんなわけで俺たちはこの迷宮の攻略を断念しようってことになったんだよ。一週間前、俺とルーシーはここまで来て、一応、部屋の隅々まで調べて他に方法がないか探したけど見つからなくってね? 散々悩んだ挙げ句にフェニックスに戻ることにしたんだよ。流石に……ねえ? こんなのはちょっと……ねえ?」

「むりむりむりむりかたつむり!」

 

 ミーティアは少々言語能力がおかしくなっていた。彼女は目をグルグル回しながら。

 

「わたわた、わたしっ! 鳳さんのことは好きですし、何でもしてあげたいですけど、流石にこれは無理ですから! って言うか、どうするの!? これ? 私たち、閉じ込められちゃってますけど!!」

 

 鳳は錯乱気味の彼女を落ち着かせるように、ドウドウと肩を叩きながら、

 

「あー! だから大丈夫だって。いざとなったらポータル魔法があるんだから。一週間前のルーシーもそうやってここから脱出したんだ。だからミーティアさんは大丈夫!」

「あ、そ、そうでした。それなら一安心……って、あれ? 駄目じゃないですか。そしたら鳳さんどうなっちゃうんですか? 確か、それでここに閉じ込められちゃったんですよね?」

 

 ミーティアはこれ以上ないくらい狼狽している。鳳はそんな彼女を見て、流石にちょっと申し訳なく思い、ここは彼女だけでも助けてあげようと、

 

「うん、まあ、そうなんだけど、こないだとは状況が違うから。多分、大丈夫だと思うんだよね」

「え? どうしてです?」

 

 ミーティアはソワソワしながら上目遣いにこっちを見ている。鳳は、そんな姿も可愛いなと思いながら、

 

「ほら。こないだと違って、今は迷宮の外にルーシーたちが待機してくれてるでしょ? だから今度は中の様子がおかしいと気づいたら、彼らが助けに来てくれると思うんだ。そしたらもう、ルーシーに無理やり協力させるか、ダメ元でアリスに頼んでみるから、ミーティアさんは先にフェニックスに帰って待っててよ」

「え……でも」

「正直なところ、俺たちのこともバレちゃったし、ミーティアさんが怒っていたって言ったら、ルーシーも観念すると思うんだよね。幸い、やってることが不衛生なくせに、ここは衛生的な設備が整ってるから、まあ、なんとかやってみるよ。だから、気にしないで帰ってくれ」

 

 鳳はそう言っているが、ミーティアは不安だった。彼女が激怒していると聞いた所で、あの女が逃げない保証はない……というか、絶対逃げる。そして鳳はまた途方に暮れるだろう……

 

 そこまではいい。そしたら今度は地の果てまでルーシーを追っかけて折檻してやればいい。問題はそこではない。彼女が気にしていたのは、寧ろアリスの存在だった。

 

 ぶっちゃけ、酒のせいとは言え、ほぼレイプ状態で襲われたくせに、恨むどころか全面的に彼のことを肯定し、あまつさえ、逢えない夜が恋しくて森でオナっちゃうような女の子なのだぞ?

 

 彼女ならやる……間違いなくやる……うんこを壁に塗るどころか、うんこを食うくらい平気でやる。そしてまたキラキラした瞳で彼のことを見上げながら、ご主人様のためならなんでも致しますと言い放つに違いない。

 

 鳳は彼女に負い目があるから、そんな彼女がここまでしてくれると知ったら、惚れ直すどころかその感情は崇拝にまで昇華するだろう。そしてお互いにリスペクトしあい、お互いに命を投げ出すことすら厭わないような、そんな関係性を築き上げてしまうはずだ。

 

 そんな中に、一体、誰が入っていけると言うのだろうか……?

 

「ど……ど……ど……ど……」

 

 鳳はオロオロしていた。良かれと思って帰っていいよと言ってみたら、ミーティアは何だか腹の底から響くような低音でブツブツつぶやき始めた。もしかして、言い方が悪かったのだろうか。それとも一度くらいは土下座で頼んでみるべきだったか。彼女のプライドを傷つけてしまったのなら、なんとかフォローしなければ……

 

 そんな彼が恐る恐る彼女に声をかけようとした時だった。

 

「どちくしょおおおおーーーーーーめえええあああぁぁぁえぁっっ!!!!」

 

 ミーティアは顔を真っ赤にし、涙腺からピューと涙を吹き出しながら、腹の底から絞り出すような大声で叫んだ。それを耳元で聞いてしまった鳳はクラクラしながら、

 

「わー! ミーティアさんどうしたの!? いきなりキャラ変しないでよ!?」

「やる! やりますよ! 私、やりますからねっっ! うんちでもなんでも、もってこーーーいっっ!!」

「えええええぇぇええぇぇええーーーっ!?」

 

 鳳は度肝を抜かれて目を丸くした。まさか、ミーティアが自らやると言い出すなんて、夢にも思わなかった。

 

「え!? するの!? うんこだよ? ミーティアさんうんこするの? じゃなくて、ミーティアさん、まさかスカトロに興味あったの?」

「あるかあぁぁー! ぼけえぇーいっっ!!!」

 

 ベチン! 痛い……容赦なく殴られた。鳳がヒリヒリする頬を擦っていると、

 

「あのですねえ……私だって女の子ですから、こんな下品なこと何度も言わせないでください! もちろんやりたくないですよ、やりたくないけど、だけど、そうしなきゃ鳳さん、ここから出られないんでしょう? だったらもう……やるしかないじゃないですか!」

「いや、だから、何もミーティアさんがやらなくても……」

「じゃあ逆に聞きますけど、私がやらないで、誰がやるっていうんですか!? 私が鳳さんの一番なんですよ!!」

「え? はい……そうですけど」

「だから私がやるんですよ! 覚悟してください! 私があなたのためなら何でも出来ちゃう女だってことを……これから見せつけてやりますからねっ!!」

 

 見せつけるって、うんこを……? 思わずそう言いたくなる言葉を飲み込んだ。

 

 まるで怒鳴るように叫んだ彼女の決意は本物のようだった。目尻に涙をいっぱいに溜めてプルプルと震えるその姿は控えめに言っても愛おしかった。鳳は、今すぐ彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、しかしその決意を秘めた瞳が見つめているのは、これからうんこを塗る未来なのだ。

 

 どうしてこうなった……

 

 前人未到の大地であり、魔族の巣窟でもあるネウロイで、壁にうんこを塗っている。そんなわけのわからない状況に、そして彼らは自ら突入していくことになるのである。

 



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そして糞をひる、壁に塗る。

 飯時にこんなうんこくさい話を読んでいる読者は居ないと仮定して話を進めるが、壁にうんこを塗るという行為は、簡単そうに思えて意外と難しいものである。

 

 まず精神的に来ると言うのもさることながら、どうやって塗るのかという方法が問題なのだ。オマルにひり出したうんこをそのまま壁にぶち撒ければ良いじゃないと言う向きもあるかも知れないが、それでは満遍なく塗ることが出来ない。まだ濡れてない壁にピンポイントにうんこをぶつける技量が必要だ。更には、壁に放っただけでは殆どのうんちが床に落ちて無駄になってしまう。そしてその後片付けをするのも自分なのだ。

 

 これらを鑑みてやはり手で握ることが最重要課題なのだ。勇気を出してオマルに手を突っ込んでそれを掴むことで、ようやくスタートラインに立てるのである。だがその第一歩を踏み出すことの、なんと道の険しいことか。例えあなたが下ネタとうんこをこよなく愛する男子中学生であったとしても、初めてそれを掴むのにはものすごい抵抗感があるだろう。ましてやそれが年頃の女性であるなら尚更だ。

 

 ともあれ、あなたがその最初にして最難関を突破したとしても、まだ足りない。仮にあなたが針を通すようなコントロールで壁にうんこを投げつけることが出来たとしても、結局のところ大半のうんこは壁から床に落ちてしまう。それを拾い上げて、もう一度ぶつけることは出来るだろう。だがここまでくるとどうしてもそれでは満足できない。そう、今度はうんこを壁に薄く伸ばしたくなるのが人情だ。

 

 つまり、うんこを握るのが第一関門だとすると、それを潰すのが第二関門というわけである。もうここまで来たら大差無さそうなのに、それを手のひらに乗っけるのと、押し潰すのではやはり違う。そのむにゅっとした感触がMPを根こそぎ奪っていく。やっちゃいけないことをやってる感が半端ない。そしてあなたは両手で薄くうんこを伸ばして、壁にべちょーっと塗っていくのだ。

 

 さて、とにもかくにも、あなたはその難関すら突破したとしよう。だが、それで全てが解決したというわけではない。何しろ壁は広いから、一個のうんこじゃ全てを塗り尽くすことは出来ない。だからあなたは毎日排便しなければならないわけだが、なにしろこんな生活を続けているのだから相当なストレスがかかる。そのせいで何日も便秘になってしまう可能性がある。

 

 また、うんこの状態によっては全てが徒労に終わるかも知れない。ストレスの多いあなたは酒に逃げるかも知れないが、そんなことをして不必要に胃壁を刺激しては、翌朝、下痢便になってしまうこともあるだろう。君は知ってるだろうか? 下痢便は掴むことが出来ないのだ。なんならオマルの中に溜まったものを、バシャッと壁にぶっかけることは出来るかも知れないが、それはなんだかうんこを塗るよりも忌避感が強い。忘れてはいけないが、部屋にはもうひとり相方が居るのだ。その相方に、下痢便をぶち撒けた奴と知られるのは、ものすごいプレッシャーだ。

 

 そう、壁にうんこを塗るには、鋼のように強い精神力が必要なのだ。心を無にして恥辱に耐えながら、規則正しい生活を続け、常に健康なうんこを心がけねばならない。時に運動も必要だろう。そんな時は部屋に備え付けられたエアロバイクで汗をかくと良い。バランスの良い食生活も大切だ。動物性タンパク質を多く摂れば粘り気の強いうんこが出来るが臭いもキツくなるだろう。また、食物繊維が不足すれば大腸のヒダヒダに宿便が残り便秘を助長する。数日間、腹の中に溜まっていた糞は臭い。鼻がひん曲がるくらい臭い。だから毎日大量の野菜と植物性タンパク質豊富な豆類を中心とした献立を心がけ、酒や油はご法度だ。そして睡眠を可能な限り多く取り、起きてる時は出来るだけ体を動かして、常に腸内細菌の環境を整えておく。

 

 そして(くそ)をひる、壁に塗る。満遍なく、弛まぬように……

 

 声に出して読むとまるで大河ドラマみたいに壮大に聞こえるが、そんな人としての尊厳全てを投げ出したかのような生活を、彼らは数週間に渡って繰り広げることとなる。

 

********************************

 

 ミーティアは泣いていた。最初の数日間は本当に泣いてばかりいた。そんなに嫌なら無理しないでいいんだよ? と言うのだが、それは彼女を慰めるどころか重圧になるだけだった。だから暫くすると二人は言葉を交わさなくなった。ただお互いを貪り食うだけの肉と化した。セックスをしてる間だけは何も考えずにいられるから、彼女はまるで景品のように自分を差し出した。ミーティアはここに残ると言ったけれども、気持ちが先走るばかりで体がついてこれないのだ。そんな彼女の苦悩が、彼の胸をえぐった。

 

 だから鳳はそんな彼女を一日でも早く解放してあげたいと思って、自分が率先してそれをやろうとしたのだが、そんな彼でも初日は便秘になってしまうくらい、それは精神的にキツイ行為だった。彼は彼女のことを想って便器の上で二時間くらいウンウン唸ったが、やっと出たのは鹿の糞みたいにコロコロした粒だった。彼はそれをじっと見ながらまた数分悩んだが、こんなものを塗っても大した面積は稼げないと言い訳して流してしまった。初日はそんな感じで終わった。

 

 翌日は前日のストレスで下痢便になってしまい、勝負は三日目からだった。鳳は、この日、生まれてはじめてうんこを握った。インド人でもない限り、普通に生きていたらそんな体験するはずないのに、なんでこんなことをしているのだろう……? と思いながら、ホカホカのうんこを手に乗せていたら、なんとも言えない気分になった。彼は、手のひらに伝わる温度に、体内温度は肌よりも高いと漠然と考察しながら、それを機械的に壁に向かって放り投げた。ベチャッと壁に当たったうんこはそのまま地面に落っこちて床を汚した。鳳はそれを便器に戻すのが精一杯で、それ以上なにもする気にはなれなかった。

 

 そうしてうんこを壁に投げたはいいものの、その後、隣のラブホ部屋へ帰っていくのが凄く辛かった。ソロソロと部屋に入ると何も知らないミーティアが普段どおりに迎えてくれたが、鳳は自分が(けが)れたもののように思えてきて上手く返事が出来なかった。彼女に近づくのも悪いような気がして、きっと態度にも出ていただろう。

 

 鳳は眠くもないのにベッドの上で寝たふりをして、彼女はカウチの上でどこを見るでもなく壁を見つめていて、気まずい空気が流れて部屋にいても居たたまれなかった。食事は彼女が作ってくれるのだが、キッチンは隣のうんこ部屋にしかないから、それから暫くして彼女は部屋を出ていった。

 

 鳳がベッドの上で、今頃彼女に気づかれてるだろうな……と思ってクヨクヨしていると、さっき出ていったばかりのミーティアがふらっと帰ってきた。こんなに早く食事が作れるわけないからどうしたんだろうと思ったら、彼女は何も言わずに胸に飛び込んできて、

 

「好きスギィ! すきすきすきすきすきんあああーーっっ!!」

 

 そんな野獣のようなセリフを口走ったかと思うと、まるでマーキングする猫のように何度も何度も彼の胸に頭をゴシゴシと押し当ててから、ものすごく熱のこもった潤んだ瞳で見上げながら、めちゃくちゃキスをしてきた。それが今までにないような反応だったから、鳳は少々面食らってしまったが、一度火が点いてしまった感のある彼女は止まらず、彼のことを無理やり押し倒すと自分から服を脱ぎ始め、彼のことを強く求めてきた。

 

 鳳は気分が沈んでいたこともあって、そんな激しく求められたら辛抱なんてしてられるはずもなく、彼女をギュッと抱きしめるとまるで壊れた機械みたいにギュインギュインと腰を振り続けた。ミーティアはまるでスイッチが入ったかのように激しく乱れた。鳳は何をやっても感じてくれるそんな彼女の反応が嬉しくて、壊れるくらい彼女のことを求め続けた。

 

 自分はうんこを投げたのに、滅茶苦茶ばっちいのに、彼女はそんな自分のことを好きだと言ってくれるんだ……そう考えるとめちゃめちゃ愛しくてたまらなくなり、そしてその日はメシも食べずに、二人はそのまま気絶するまでひたすら愛し合うのだった。

 

 彼女がどうしてそんなに求めてきたのかは分からなかったが、翌朝、元気を取り戻した鳳は、自分のやってる行為に対する迷いが綺麗サッパリ無くなってしまっていた。今更、自分は汚れちまったなんてヒロイックに浸ってる場合ではないのだ。どうやってもここから出られないなら、やるしかないではないか。そして一日でも早く彼女を解放してあげるんだ。そんな使命感の方がずっと強くなっていた。

 

 何も食べてなかったから心配したが、お通じも思いのほか快調で、彼はそれをおまるにひり出すと、今回は思い切って手を使って薄く伸ばしてみせた。初めてそれを握りつぶした感触は夢に出てきそうだったが、これなら壁がうんこ塗れになるのも時間の問題だろう。待ってろよアマデウス……その時が来たら絶対にうんこぶつけてやるからな! 彼は鼻息を荒げ、決意を新たにすると、まだまだ真っ白いところだらけの壁を見上げた。

 

 それから先は案外楽だった。

 

 結局の所、うんこが襲いかかってくるわけでもなし、手で掴んで握り潰すという行為を一度でも乗り越えてしまえば、二度も三度も変わらなかった。問題は、食生活によって便の質が変わることと、運動不足はお通じの大敵ということだ。彼はそれから一週間くらいかけて、食事を改善したり運動する時間を作ったりしてコンディションを整えていき、壁に塗りやすいうんこを排泄する体を作り上げていくのであった。

 

 そんなこんなで壁の汚物も順調な広がりを見せていったある日のこと、彼はその日も快便するために、隣のキッチン部屋までエアロバイクに乗りにきた。何しろ二部屋あるとは言え狭い室内のことだから、十分な運動をするには(セックスと)これしかないから日課にしていたのだが、その日は朝から便秘だというミーティアに部屋が占拠されてしまっていて、中々乗りにこれなかったのだ。彼は気分が悪いと言って帰ってきたミーティアと入れ替わりに部屋に入ると、早速とばかりにマシンに乗った。そして数十分間バイクを漕いで、しっかりと汗をかいた後でそれに気づいた。

 

 汗を洗い流そうとガラス張りのユニットバスまでやって来たら、何故かその中央におまるが置かれていた。普段は、使った後にここで洗ったら、また外に出しておくのだが、昨日は忘れてしまったのだろうか……? そんな風に思いながら、それを元の場所に持っていって、彼ははっと目を見開いた。

 

 いつも彼がうんこを塗りたくっている壁の反対側に、小さな黒いシミみたいなものが増えている……それは非常に小さくて、鳳と比べたら微々たるもので、普通の人なら気づかなかったかも知れないが、今やうんこのエキスパートとなった彼にはそれが何なのかはすぐにわかった。

 

 ああ、そうか……あんなに嫌がっていたのに、あれだけ泣いたというのに……宣言通り、彼女はそれを乗り越えたのだ。それを見た瞬間、彼はそれが汚物と言うよりも、何か黄金とかそんな尊いもののように思えてきて、と同時に彼女のことが愛しくてたまらなくなった。

 

 彼女は彼のために、こんなことまでやってくれたのだ。心の底から嫌がってることを、恥も外聞もかなぐり捨てて、彼を思って必死に実行してくれたのだ。女性にしてみれば本当に受け入れがたいことだろう、なのにあの美しくて若くて可愛くてどうしようもなくおっぱいの大きい彼女が、自分のためだけにこんなことまでしてくれたのだ。

 

 それを知った瞬間、鳳のミーティアを想う気持ちが爆発した。

 

「好きスギィ! すきすきすきすきすきんあああーーっっ!!」

 

 鳳が絶叫しながら部屋に入ってきた時、彼女はベッドの中で布団にくるまっていた。無理矢理ガバっとめくると中から泣きはらした彼女が出てきて、その顔を見た瞬間、鳳の脳の理性を司る何かがブチ切れて、殆どタックルみたいに彼女の体に飛び込んでいた。

 

 ミーティアはいきなり好き好き言って抱きついてきた鳳に面食らって、最初のうちはちょっと抵抗したが、なんやかんやですぐに力を抜いて体を開くと、彼のことを受け入れた。鳳が堪らず彼女の唇に吸い付き、彼女が舌を絡めて応戦する。まるでどっちがどれだけ愛しているかを競い合う格闘技のようだった。そのまま興奮してわけがわからなくなった彼らは、ベッドの中で揉み合いながら服を脱ぎ散らかすと、ぶつかり合う獣のように激しく愛し合い、その日は本当に気絶するまでセックスし続けた。

 

 結局、それは吊り橋効果みたいなものだったのだろう。こんな狭い閉鎖空間に閉じ込められて、二人でいけないことをしているという背徳感が、二人を異常なまでに縛り付けていたのだ。だが、言葉にしてしまえば簡単でも、切っ掛けがどうあれそれでも二人が互いを求める気持ちは本物だった。

 

 鳳は、ミーティアの体に触れているだけで、全身にとろけるような快感が走った。自分のために彼女がどんな嫌なことでもやってくれるんだと思うと、どうしようもなく興奮した。例えそれがうんこを手で握る行為だとしても、いや、だからこそ余計に興奮した。嬉しくて仕方なくて、彼女を求める気持ちが溢れて、溺れそうだった。

 

 彼女は彼女で、汚れた自分をこんなに強く求めてくれる彼に完全にまいっていた。普通に考えれば、こんなうんこを素手で握るような女なんて嫌われても当然だろうに、彼は嫌うどころか寧ろガラス細工でも扱うかのように、大事に大事に彼女の全身を愛撫してくれた。それがどうしようもなく彼女の琴線に触れた。

 

 そして二人はマウントを取り合うレスラーみたいに、どちらが上になるかを争ってお互いに相手の気持ちいい部分を攻め続けた。セックスって共同作業なんだなとつくづく思った。自分が気持ちよければいいなんてのはセックスとは呼べないのだ。

 

 もしも倦怠期のカップルがいるなら、うんこを壁に塗るといい。うんこは自分の相手に対する想いを赤裸々に教えてくれる。そして相手の愛を白日の元へと晒してくれるのだ。そこには二人の愛がはっきりとした形となって現れている。それを見て二人の愛を確かめあって欲しい。大家には追い出されるかも知れないが。

 

 そんなこんなで、二人は朝起きて、メシを食い、軽い運動をして汗をかいたら、一緒に風呂に入って、うんこして、そしてひたすらセックスしては気絶するように眠るという、健康的だか不健康だか良くわからない、ただれた生活を続けていた。

 

 そして……何しろ室内に閉じ込められているから、正確な日数は分からなかったが、それが一ヶ月くらい経過した時、ついにそれは訪れたのだった。

 



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趣味だ

 ある日、鳳が熟練左官工の如く壁にうんこを塗りたくっていると、ゴトッと音がしてキッチンの後ろの辺りに扉が出現した。金粉を伸ばすような繊細な作業に没頭していた彼は、不意に鳴ったその音に一瞬ムスッと顔を上げたが、すぐにまた集中して作業に戻り……そして今度はハッと顔を上げた。

 

 最近は壁にうんこを塗る作業にすっかり慣れてしまって忘れていたが、そもそも自分たちがそんなことを続けていたのは、迷宮に閉じ込められたからだった。この迷宮は注文が多くて、部屋ごとに置かれている立て看板に書かれていることに従わなければ先に進めないのだ。そして今回は壁にうんこを濡れという有り得ない指令だったわけだが……ついにその有り得ない指令を、やり遂げたのだ! やったぜ!

 

 ……と、普通なら諸手を挙げて喜びそうなものだが、その時の鳳は恐ろしいほど冷静だった。と言うのも、そもそもその前のセックスしないと出られない部屋からして、ビギナーの彼にしてみればハードルが高すぎたのだ。なのに、それをクリアした先に待っていたのがこの部屋なのだから、ここを抜けられたからといって、それで全てが終わるとは限らないではないか。

 

 彼はぬか喜びしてはならないと、まずは一人で偵察してこようかなと思い、扉の前まで移動してきた。果たして扉を開けて覗き込んでみたら、その先は真っ暗な通路となっており、一つ前の部屋みたいに入ったが最後、また閉じ込められるような気がして、彼は二の足を踏むのであった。

 

 やはり、ここはミーティアに報告してから、二人で進んだ方が無難だろうか。しかし、本当に彼の不安が的中し、この先に進んだらまた有り得ない指令が待っていたとしたらと思うと、憂鬱だった。何しろ、うんこを濡れの後なのだ。それを上回る指令なんて、それこそ、うんこを食えとか言い出しかねないではないか。流石にそれは嫌すぎる。

 

 鳳がそんな風に、どうしよっかな~……とクヨクヨ悩んでいると、すぐ傍にあった立て看板の文字が焦れったそうにスーッと変わり、

 

『大丈夫です。これで最後です』

「……本当に?」

『本当の本当です』

「そんなこと言って、本当は僕たちの反応見て楽しんでるんでしょう?」

『疑り深い人ですね。そんなことしないから早く進んでくださいよ』

「誰のせいでこうなったと思ってるんだ……」

 

 鳳は看板とナチュラルに会話してからため息を吐くと、手を爪の間まで熱心に洗ってから寝室にしているラブホ部屋へと戻った。

 

「え!? 扉が出現したんですか?」

 

 部屋に入るとミーティアはピンと綺麗にベッドメークしているところだった。他にやることもないからこの一ヶ月ですっかり磨かれてしまったスキルだったが、どうせ一晩でグシャグシャになるのだから、そこまでなくていいのに、彼女は毎日洗濯機を回してはシーツを清潔に保っていた。

 

 この世界には洗濯機が無いから、こんな便利なものがあるのが嬉しいんだと彼女は言っていたが、多分それだけじゃないだろう。なにしろやってることが不衛生過ぎるから、逆に普段の生活が几帳面になるのだろうか、鳳もそうなのだが、この生活を始めてから二人はびっくりするほど規則正しい生活を続けていた。

 

 ともあれ、今日も一仕事をやり終えて、あとは二人カウチでチュッチュしながら盛り上がって来たところでベッドに入るだけと思っていたミーティアは、思わぬイベントが発生して少し思考停止してしまったようである。自分で扉が出現したと言っておきながら、それが意味することが分からなかった様子で、暫く腕組みしてから、ようやく気づいた感じに、

 

「あ、出口が現れたんですね!? でも……どうせ続きがあるんでしょう?」

「俺もそう思ったんだけど、看板がこれで最後だって言ってる」

「本当に~?」

 

 彼女は疑り深そうにこっちを見ている。まあ、その気持ちは分からなくもない。たった今、鳳もまったく同じように思っていたのだ。

 

 ところで、壁にうんこを塗りたくっていたのは自分たちのくせに、どうして二人とも、それがもうじき終わるということに気づいていなかったのかと言えば、それはもちろん、二人ともちゃんと壁を見ていなかったからだ。

 

 何しろやってることがやってることだけに、そんなものを正視していたら、とっくに頭がどうかなっていただろう。だから二人とも、うんこがすげえことになってきた段階で、意識的にあまり壁を見ないようにしていた。そして目的も理由も忘れ、ただ機械的にスペースを見つけてうんこを塗ることに集中し、たまに思い出して発狂しそうになったら、ひたすらセックスして発散した。

 

 そんなストレスフルな生活が終わろうと言うのに、二人ともなんだか気分がもやもやしているのは、その先に待ち受けているものがあまりにも未知過ぎたからだ。

 

 元々、ここへは鳳の魔王化を阻止する方法を探しに来たわけだが、閉じ込められてしまい、すったもんだの末に、目的がここから脱出することに変わってしまっていた。

 

 そしてそれがようやく終わると分かった時、彼らは当初の目的を思い出してホッとするよりも、不安の方が強くなったのだ。

 

 アマデウスの迷宮を見つけた時は、かつての勇者パーティーのリーダーである彼のクオリアに期待していた。共振魔法(レゾナンス)の創始者である彼なら、きっと凄いものを遺しているに違いない。そう思った。

 

 だがこの一ヶ月でそんな考えは消し飛んでしまった。何故って、こんなアホで馬鹿でドラえもんな男が残した迷宮なんて、たかが知れてるではないか。

 

 だからこの先に進んでも大したお宝があるとは思えず、そしてそれが確定した時……自分たちが、ただ、ネウロイまでうんこを塗りに来ただけと確定してしまった時……頭がどうにかなってしまうんじゃないかと思って、二人はあまり気乗りしなかったのだ。

 

「……まあ、先に進むにしても今すぐじゃなくていいよね?」

「……そうですね。私、まだ作ってない料理も有るんで、どうせ最後なら、ここの冷蔵庫が使えるうちに、作れるだけ作っちゃいますね」

「手伝うよ」

 

 そうして二人はその日はドアに背を向け、キッチンに並んで料理した。それはここに来て一番豪勢な夕食だった。食事を終えた後は、カウチに座って冷蔵庫のお菓子や飲み物をつまんだり、おしゃべりしたりした。いつもならこの後、どちらからともなく激しく求め合うのだが、その日はそんな気が全く起こらず、二人は遅くまでお酒を交えながら将来のことを話し合ったり、愛を語り合ったりした後、手をつないで同じベッドで眠った。

 

 翌朝、すっかり健康なうんこを生産する機械と成り果てていた鳳が、起きてすぐトイレにいくつもりで隣の部屋に向かうと、キッチンでミーティアが、シャーコシャーコと音を立てながら包丁を研いでいた。何してるの? と尋ねれば、今までお世話になったから、最後に綺麗にしておくのだと言っていたが、一心不乱に包丁を研いでいるその瞳が不穏すぎて、出そうと思っていたものが引っ込んでしまった。

 

 記念に一本くらい持って帰ってもいいだろうか? と聞かれたが、やめておいたほうがいいと諭した。もしも彼女が包丁を持ち歩いている時、この迷宮の主に出くわしたら何が起こるかわからない。自分もコンドームを持ち帰るつもりだったが、彼女にそう言ってしまった手前やめておいた。

 

 朝食をパンとサラダで済ませ、一ヶ月ぶりに水洗便所で用を足して、なんだかすっきりしない気持ちを抱えたまま、いよいよ二人は部屋から出て先に進むことにした。出掛けに、今度こそ最後だからしっかり見ておこうかと思い、二人の一ヶ月の集大成とも呼ぶべき壁の前に立ってみたが、きっと色んな感情が渦巻くに違いないと思っていたのに、実際には何の感慨も湧いてこなかった。よくもまあ、こんなアホなことをやり遂げたものだなと、それくらいのものである。一体、アマデウスは何をやらせたかったのだ?

 

 キッチンの後ろにあった扉をくぐると、その先は真っ暗な通路だった。

 

 それまでは扉をくぐるとすぐ次の部屋に繋がっていたが、今回は違った。真っ暗なのに、何故そこが通路だと分かったのかと言えば、それは遠くの方に小さく出口が見えたからだ。長さにして百メートルはありそうな長い廊下の先から光が漏れていて、そこからピアノの音が聞こえてくる。なんだろう? と思って耳を傾けたら、背後でドアが勝手に閉まる音がして、振り返ればそこにはもう何も見えなかった。

 

 あの、ある意味、苦楽を共にした狭い部屋にはもう戻れないのだ。なんだかちょっと寂しい気もしたが、今更後戻りするつもりもなく、二人は自然に手を繋ぐと、狭い通路をゆっくりと歩き始めた。

 

 それはきらきら星変奏曲だった。通路の先から煌めくようなピアノの音が聞こえてくる。普通ならこんな暗くて細くてどこに繋がってるのかもわからないような道は、不安になりそうなものなのに、まるで演奏者が遊んでいるかのようなメロディを聞いていると、不思議と恐怖を忘れてしまった。二人はその音に惹きつけられる虫のように、ふらふらと通路を進み、やがてその先にあった大きなホールへと辿り着いた。

 

 それはオペラなどに使うコンサートホールのようだった。一階に整列する数百のシートを取り囲むように、まるで蜂の巣みたいに5階建てのボックス席がずらりと並んでいた。高い天井を見上げれば豪華なシャンデリアが吊り下がっており、そこから発せられる光がボックス席に散りばめられた金糸に反射してキラキラ輝いていた。

 

 鳳たちはそんなホールの最後方、中央の出入り口に立っているようだった。舞台を見ればそこには大きなグランドピアノが一台置かれていて、どうやら曲はそこから流れてきているようだったが、演奏者の姿はどこにも見えなかった。

 

 代わりに、舞台中央の指揮者の位置に例の立て看板が立っており、すぐ脇には一台の竪琴が置かれていた。今度こそ最後の指令か? と緊張しながら近づいていくと、看板にはコングラチュレーションの文字が踊っており、二人がその前に立ち止まるのを待ってから、それはまたスーッと消えて新たな文字を浮かび上がらせた。

 

『ここまで来てくれて嬉しいよ。私が遺したこの迷宮をクリアする者がいるとすれば、よほどの馬鹿か、変態か、君くらいのものだろうと思っていた』

「それらと同列に並べないでくれる……? つか、おまえ、やっぱり意思を持っていたんだな。この迷宮の主なのか?」

『ああ、今更名乗る必要があるとも思えないが、一応名乗り出ておこう。私はかつてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと呼ばれた者……オルフェウス卿アマデウスと言った方が、こちらの世界では通りがいいだろうか』

 

 その言葉に二人は歓喜のため息を漏らした。やはりここはアマデウスの迷宮で間違いなかったのだ。恐らくそうだと思ってはいても確信は出来ずに、これまでアホなことを続けてきたわけだが、これで報われたというものである。

 

 だが、逆に言うとそれが判明したところで、あの馬鹿げた行為を一ヶ月も続けさせられた理由にはならない。鳳は憮然とした表情で、何故、彼がこんな迷宮を後世に残したのかと尋ねてみた。

 

『趣味だ』

「叩き割るぞ!」

『まあ、待ちたまえ……半分趣味であることは事実だけど、まったく意味が無かったわけじゃないだろう?』

「……どういうことだ?」

『例えば今君には、命に代えても守りたいものがあるだろう。そこにいる彼女のことを、今一生を懸けて幸せにしたいと、そう思っているだろう』

 

 鳳が隣に立つミーティアのことを見ると、彼女の方も彼のことを見つめていた。自然と、彼女の手を握る手に力が入った。

 

『300年前の君にはそういう気持ちが欠けていた。いつ死んでも良いというような、そんな空気感を纏っていた。実際、君は死んでも何度でも蘇るから、そういう気持ちになりやすかったんだろう。でもそれじゃ駄目なんだ。君にはもっと、この世に生き残りたいという執着が必要だ』

「……あんたは、それを俺に教えるために、こんな馬鹿げたことをさせたっていうのか?」

『まあ、8割くらいは趣味だけど』

「さっき半分って言ったじゃんっ!!」

 

 鳳が思わずツッコミを入れると、立て看板はパカーンと真っ二つに割れてしまった。鳳はしまったと青ざめたが、すぐまた別のところからにょきっとそれが生えてきて、

 

『そう興奮しないでくれ。趣味と実益を兼ねているんだ。ほら、ここには君以外にもやってくる者がいるかも知れないだろう? そういった連中を追い返すためのトラップが必要だったんだ』

「……もし、俺じゃなかったらどうなってたの?」

『命までは取らないさ。泣いて、ここから出してくださいって言い出すまで、全力でからかっていただろう』

 

 鳳は迷宮のことは殆ど知らないが、それでもここがこの世界に存在する迷宮の中でも、屈指の高難度迷宮だと確信した。というか、最初から攻略させる気もないのに、トラップを仕掛けているところからして性質が悪い。実際、鳳たちも昨日、これ以上進んでも何もなくて、はいさいならと追い返されるかも知れないことを恐れていたのだ。立て看板の反応からするに、最悪の事態は避けられたようだが……

 

「あんた、そうまでして、なんでこんな辺鄙な場所に迷宮を遺したんだ? オルフェウスはあんたが不在なせいで、政治的にずっと混乱していたんだぜ? どうせ死ぬなら国に帰ってから死ねばいいじゃないか」

『そう出来れば良かったのだが、ここじゃなきゃいけない理由があってね』

「理由……? それってどんな?」

『もう一度、君に会うためだ』

 

 鳳は面食らった。一応、彼とアマデウスは300年前の仲間らしいが、何しろ自分にはそんな記憶は微塵もないのだ。なのに相手が迷宮化してまでここで待っていたなんて言い出したら、驚くのも当然だろう。鳳は困惑しながら、

 

「俺に会うためって、そりゃどういう意味だ? あんたは俺がここに来るって確信していたのか?」

『いいや、君が来なければ来ないでそれで良かった。問題は、もし君が復活して、またここを訪れることがあるとしたら、その理由は魔王化を阻止するためでしかないと言うことだった』

「……え?」

『君たちは、魔王化を阻止しにここまでやってきたのだろう? きっと魔族の故郷のネウロイになら、何か手がかりがあるんじゃないかって。実は、300年前、私と君……勇者もそれを探しにネウロイにやってきたんだ』

 

 もう殆ど期待していなかった鳳は目を見開いた。その方法を探していたというアマデウスの迷宮がここに残っていたということはまさか……彼はごくりと唾を飲み込み、

 

「まさか……あんたはその方法を見つけたの? 魔王化は阻止できるのか?」

『出来る』

 

 その言葉に鳳とミーティアは歓喜の声をあげた。この一ヶ月の屈辱的な日々が、これで報われるというものである。だが、そんな二人に待った掛けるように、看板は新たな文字列を淡々と表示し続けた。

 

『待ちたまえ。喜ぶのはまだ早すぎる。魔王化は確かに阻止できるし、その方法を使えば、君は死ぬまで魔王にならずに済むだろう。だが、それは応急措置に過ぎないんだ。君が魔王にならなかったとしても、相変わらず誰かが魔王になる可能性は残っている。もちろん、君の子孫だってその候補者だ。その魔王が現れた時、誰がそれを倒すのか。根本的な解決を目指すにはまた別の方法を見つけねばならないだろう』

「そうか……」

『とは言え、君にはまだちんぷんかんぷんだろう。それは君が持っている情報が足りないからだ。まずは300年前に何があったのか。そしてこの世界に、本当は何が起きているのか。その真実をこれから語ろう』

 

 看板の文字は絶え間なく流れていき、そしてピアノの音は軽やかに鳴り響いていた。

 



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レオナルドの迷宮

『300年前。私たちは帝都に現れたジャバウォックに辛うじて勝利した。300年前に現れた魔王は異様に強く、攻撃方法も多彩で手のつけようがなかった。それもそのはず、すでに知っていると思うが、その魔王の正体は魔王化した真祖ソフィアだったからだが……実を言うとその力の源は、もっと別のところにあったんだ。それがなんであったのかは順を追って話すが、私たちはそんな強力な魔王を、精霊たちの力を借りて辛うじて倒した。だが勝利を喜んだのも束の間、君は溢れる自分自身の力に飲まれて、魔王化の影響を受け始めたんだ』

 

 魔王に勝利した勇者は、現在の鳳のように理性を欠きはじめた。性欲が異常に強くなり、常に暴力衝動に苛まれ、力の制御が利かなくなる。しかし、立て看板に言わせれば、300年前の彼は、今の鳳とは違って一人で解決しようとはせず、すぐに仲間たちに事情を話して解決策を探りはじめたようだ。

 

 それは聞いていた話とは違って、鳳を困惑させたが……ともあれ、勇者を助けるべく仲間たちは動き出したようである。

 

 魔王化の命令は高次元の方向からやってくるわけだから、レオナルドは現代魔法を駆使して、その高次元からの攻撃を阻止する方法を見つけようとした。アイザックは帝国の科学者たちと協力して『神の揺り籠』を解析し、そしてアマデウスは大規模な調査隊を率いて、勇者とともにネウロイにやってきた。

 

 その頃のネウロイも今と同じように魔王討伐後で魔物が少なかった。だから調査隊によってかなり詳細な調査が行われたのだが、それでも魔王化に関する手掛かりは何も見つからなかった。それで調査隊は諦めて一時撤退することになったのだが……

 

 長期間、魔王化の影響を受け続けていた勇者はその時にはもう大分追い詰められているようだった。力の制御が出来ずに怒りっぽくなり、仲間以外の言うことは殆ど聞かなくなった。セックスをして発散することを覚えたのはこの頃だったが、それに気づいた時にはもう手遅れだった。

 

 勇者は帝国に充てがわれた娼婦を次々と獣のように抱いてはそれに飽き足らず、何も知らない神人女性たちをも毒牙にかけはじめた。その行いは正に手当り次第といった感じで、恩人である勇者の不祥事をいくら帝国が隠そうとしても隠せない程だった。神人はすべて貴族であり、プライドを傷つけられた男性が勇者に対する憎しみを募らせていく……

 

 次第に追い詰められていった勇者パーティーと後の皇帝エミリアは、もはや手のつけようが無くなってしまった勇者の処遇を話し合った。このまま彼を庇い立てして、彼が魔王になるのを待つか……それとも、真祖ソフィアみたいに封印するか。

 

 苦渋の決断を迫られる仲間たちであったが、しかし、それは杞憂に終わった。

 

『神による刈り取りが始まったからだ』

「……刈り取り?」

『そうだ。それはゆっくりと、着実に進行していた』

 

 アマデウスによれば、勇者の魔王化と並行して、世界中で神隠し現象が相次いで報告されていたらしい。彼らは当初、それが魔王化により暴力衝動に耐えきれなくなった勇者が、密かに人々を殺して回っているんじゃないかと疑っていた。被害は帝国のみならず勇者領も含めて広範囲に広がっていたが、そんなことが出来るのはポータルが使える勇者しかいなかったからだ。

 

 だが、それにしても数が多すぎる。勇者は常に監視されてもいたから、その監視の目をかいくぐってそんなことをしていたら、流石にわかるんじゃないか? それでおかしいと思っていた時、魔王化を調べていたアイザックがその原因を突き止めたのだ。

 

『魔王化の命令がやってくるのは高次元方向からだろう? そっちに何があるんだろうかと探求していた彼は、実はこの世界が、高次元世界の何者かに作れられた実験場だと言うことに気がついたんだ』

 

 その真実はドキリとするような重みがあった。隣にいるミーティアなんかは、その衝撃に言葉も出なくなって固まっているようだった。だが、鳳はなんとなくその可能性もあると考えていたため、意外と冷静にそれを受け入れていた。何しろそれよりももっと気になることがある。

 

「その、何者かってのは……」

『君は魔王化がどうして起きているか知っているか?』

 

 何故、そんなことを改めて問うのだろうか。鳳は少し戸惑いながらも、

 

「……確か、怒りの化身(ラクシャーサ)となった人間が、ひたすら最強の力を求めるために、かつてリュカオンを作り出した機械を改造して、人工進化を始めたのが発端じゃなかったか。ラシャは殺すことによって自分より優れた者の形質を奪い、女を犯して複製を作る。そうして強い個体が次々と生まれていき、その中で最強の者が魔王となる。そして魔王となったものは理性を失い、すべてを食らい尽くす化け物になる。俺もそうなるように、機械が余計な理性を奪ってるんだと思っていたが……」

『そうだ。その認識で正しい。人間はそんな風に人工進化する生命体になっていった。だが、それはこの世界で起きていることではなくて、実は私たちより上の世界。高次元世界で起きている出来事だったんだ』

「……どういうことだ?」

『実は魔王化には二種類が存在していたんだ。一つは君の言うラシャの蠱毒という自然選択。そしてもう一つは、神による予定された進化(インテリジェントデザイン)だ』

 

 鳳は、彼が何を言ってるのかいまいち理解しきれなかった。立て看板もそう感じたのだろうか、それまでよりも少しゆっくりとしたペースで話を続けた。

 

『ここから先は、私たちが住んでいるこの世界より高次元にも、私たちとそっくりな宇宙が存在し、そこに地球があると考えて話を聞いて欲しい。その高次元世界の地球でも、ある時、AIによるシンギュラリティが起こり、第5粒子エネルギーが発見され、リュカオンが誕生した。そしてそのリュカオンが反乱を起こし、超人が誕生し、最後にラシャによって地球は奪われてしまった。

 

 この時、超人たちはまだラシャを排除するだけの力を持っていたが、あまりにも理性的になりすぎた彼らは、化け物に成り果てたとはいえ同じ人間であるラシャを滅ぼす気になれなかった。そして彼らはラシャに地上を明け渡し、肉体を捨てて長い眠りについた。

 

 しかし話はまだ終わらなかった。そうして地上に満ちたラシャ、つまり魔族は、絶滅すると思われた当初の予想を覆し、それから数千年に渡って繁栄し続けたんだ。その間、魔族は自らの力で進化し続け、何度も魔王が誕生し、滅びる寸前まで行っても生き残り、そしてついに、その力は超人すら超えてしまった。

 

 ところで、魔族は怒りの化身である故に、人類を駆逐するまで止まらない。だからある時、魔族は量子化された神人をも取り込もうとしはじめた。量子化とはただのデータだ。ただのデータを肉体に取り込むなんて、そんなこと生物に出来るわけがないだろうに、それが出来てしまうくらい、魔族は進化しすぎてしまったんだ。

 

 この期に及んでようやく超人たちは魔族を敵と見なし、地球の覇権を賭けて戦いはじめた。

 

 しかし、彼らの力はDAVIDシステムに完全に依存しており、生物としての進化はこれ以上期待出来なかった。ところが魔族はこれを凌駕しつつあり、魔族単体ならまだしも、魔王相手には全く歯が立たなくなってしまっていた。

 

 そこでDAVIDシステムは、そんな神人(・・)たちでも、次々と生まれてくる魔王と戦える方法を編み出さなければならなくなった』

 

 高次元世界……神が住むという上の世界で、ここと全く同じことが起きている? 鳳はなんだか嫌な予感がした。立て看板……アマデウスは淡々と続けた。

 

『その方法というのは、彼らの住む世界よりも低次元の空間に宇宙を作り、そこに生まれた知的生命体に、地球と全く同じ進化を遂げさせ、同じ敵と戦う世界を大量に作り出すことだった。

 

 次元の違う二つの世界は時間の流れも違うから、進化もあっという間だ。そして然るべき時に、現在自分たちが戦っている魔王の情報(・・)を送信し、300年前のソフィアみたいに、たまたまその核となった哀れな生命体の理性を奪って人類と敵対させた。

 

 その世界が首尾よく魔王を倒せたら良し。仮に倒せなくても、滅びるのは自分たちの世界じゃないんだから問題ない。そして無限にある低次元世界の中から、条件を満たした世界が出現したら、その世界の情報(・・)を根こそぎ奪う。そうやって、神人達に魔王を倒す手段を与えたんだ』

 

 鳳はゴクリとつばを飲み込んだ。

 

「じ、じゃあ、300年前に世界中で起きていた神隠し現象ってのは……」

『300年前、高次元世界のDAVIDシステム、即ち神から送られてきた情報により、真祖ソフィアは魔王に変えられた。そしてその魔王を君が倒したことで、神による刈り取りが始まったんだ。神はこの世界のあらゆる生物を、情報(・・)に変換することが出来る。アイザックに言わせれば、情報というのはそれそのものがエネルギーでもあるから、魔王を倒した君という情報をそっくりそのまま取得すれば、高次元世界の魔王を倒すエネルギーになる。神はそうやって、神人に力を与えていたらしい』

「ち、ちょっと待て。それなら、どうして神隠しなんてことが起きるんだ? 関係ない一般人まで根こそぎ奪ってなんになる? 神は勇者一人の情報さえ手に入れればそれでいいわけだろう?」

『理屈ではそうだ。だが、神は言うほど器用ではないんだよ。高次元世界の存在にとって、低次元世界の人間というものは、ただの無機質なデータに過ぎず区別がつかない。例えるなら、蟻塚の中から一匹の蟻を選別するようなものなんだ。だから神は最初から、この世界に住むすべての人間という情報を刈り尽くそうとする。そうやってすべてを刈り取ってしまえば、必ず君という情報が入っているから』

「そんな、無茶苦茶だ! それじゃこの世界は滅びてしまうじゃないか!」

『そうだ。魔王を倒そうが倒すまいが、滅びるように出来ている。最初から、世界はそういう風に作られていたんだよ』

 

 それはあまりにも身勝手な真実だった。この世界は、初めから自分たちとは全く関係のない別の世界を生かすためだけに存在し、そのために滅びるように出来ていたというのだ。

 

 それじゃ鳳がこの世界に呼び出されたことも、魔王と戦ったことも、そしてその魔王を倒したことも、何もかもが無駄だったというわけだ。寧ろ終わりを早めただけで、ここで出会ったたくさんの仲間達も、今隣りにいる大切な人も、いずれ全てがいなくなる。

 

 そんなことが受け入れられるだろうか? いや……鳳は首を振った。

 

「いや、待て。それが事実なら、この世界は300年前に、とっくに滅びてなきゃおかしいんじゃないか? 本当にそんなことが起きたのか?」

『君の言いたいことはわかるが、残念ながら刈り取りが起きたのは事実だ。ようやく魔王を倒した私たちは、今度は滅びゆく世界に対処しなければならなくなった。頼みの綱の勇者は溢れ出す自分の力に飲まれ、魔王化の影響で精細を欠いている。恐らく、このままではろくな結果にならないだろう。300年前、だから私たちは決断しなければならなかった』

「決断……?」

 

 それから暫くの間、看板は文字が書き換わらなかった。それはその機能が壊れてしまったとかそういう理由ではなく、看板……つまりアマデウスの精神自身も、あまり言いたくない事実だったからだろう。

 

『どうせ勇者はもう助からない。だから、私たちは彼を犠牲にして世界を救うことにしたんだ。さっき君が指摘した通り、神は魔王を倒したという情報だけを欲している。だから君一人さえ刈り取ることが出来ればそれで終わるはずだ』

「そんな方法が? 一体どうやって……」

『神による刈り取りは、この世界に向かって無差別に行われている。つまり、この世界にいる限り、人間は刈り取りから逃れられない。だから私たちは、ここと同一の世界を作り、そっちへ人類を移住させることにしたんだ』

「は……?」

 

 何を言ってるんだ? この看板は……鳳はあまりの事の大きさに、理解が追いつかず声を失った。おとぎ話にしたって度が過ぎている。この期に及んで、まだ謀られてるんじゃないか? と疑いもした。だが、その後に看板が続けた話に、何もかもが腑に落ちていった。

 

 思えば、神が世界を作ったと言っても、それは高次元世界にいるAI……人工物だったのだ。同じ人間が作ったものなら、この世界の住人が作り出すことも出来るはずだし、そしてそんな能力を持っている人物なら、すでに心当たりがあった。

 

『レオナルドは私たちの総意を受け取ると、幻想具現化を用いてこの世界を創造した。彼がミトラ神より授かったカウモーダキーは、そのための媒介となった。彼は世界を創造した後、迷宮と化し、今の私と同じような思念体となった。彼が300年間生き続けているのも、記憶が曖昧なのも、つまりはそういうことだ。この世界は、レオナルドの迷宮の中にあるんだ』

 

 鳳の脳裏に、レオナルドと過ごした日々が走馬灯のように駆け巡った。大君と呼ばれながらも、それ程強い力を持ち合わせておらず、戦闘では殆ど役に立たなかった。豊富な知識を持ちながら、肝心なところでどこか記憶が曖昧だったり、勇者パーティーの一員だったと言いながら、鳳のことをまったく覚えていなかった。

 

 それは300年も生きたせいでボケてしまったのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。彼はこの世界を作る代償として、大半の能力を失っていたのだ。この世界を救うために、彼は自分の命を犠牲にしたのだ。

 

 ……いや、犠牲になったのは彼だけではない。

 

『こうして私たちは勇者を置き去りにして、新たな世界へ緊急避難することになった。私たちは、魔王からこの世界を救ったはずの勇者を犠牲にして、自分たちだけが助かろうとしたのだ。

 

 それは紛れもない敗北だったろう。300年前。私たちは失うばかりで、何一つ得られたものはなかったのだ。そしてそれは高次元からの理不尽な攻撃が元凶だった。

 

 だから残された私たちは誓ったんだ。奪われたものは取り返さねばならない。勇者、レオナルド、そして何より私たち人類の尊厳を取り戻すために……私たちはその日、神に挑むと決めたんだ』

 



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オルフェウスの竪琴

 300年前、神の刈り取りによって一度この世界は滅びかけたが、勇者ただ一人を犠牲にすることでそれを回避した。これによってレオナルドは本来の力の大半を失い、そして勇者は存在そのものを消されてしまった。こうして世界は救われたかに思われたが……しかし、アマデウスによると、話はそれで終わりではなかったらしい。

 

『君たちの犠牲によって世界は救われたように見えたが、それは始まりに過ぎなかった。君も知っての通り、魔王討伐後に待っていたのは戦争の時代だった。帝国は分断され、勇者領の支援を受けたヘルメスとの間で300年にも及ぶ戦争が続けられた。何故こんなことが起きたのか。それは勇者の浮気が原因だったとか、帝国の陰謀だったとか、人によって様々な理由がつけられていて、実ははっきりとしない。それもそのはず、理由なんて初めから存在しなかったんだ。

 

 私には詳しいことはわからないのだが、この世界は情報によって成り立っているらしい。その世界から勇者という情報が消えたことで、この世界全体に影響が出ていたんだ。例えば、勇者は存在自体が消滅したんだから、その子供たちは全て父親が存在しないことになる。これは大変な矛盾だ。だから世界は矛盾を無くすために、整合性のある物語を必要としたんだ』

 

 それはあたかも、米国人が911の間違った記憶を覚えているように、世界は勇者の不在を嘘の記憶に置き換えてしまった。世界は勇者によって救われたわけだから、勇者がいたという事実は残っているが、その勇者そのものの情報がないため、全てが嘘に塗り替えられる。例えば、勇者は世界を救ったあと天狗になって横暴になり、女を食い物にして帝国を混乱に陥れた挙げ句、何者かの手によって始末された。その何者かが、時には帝国のせいになったり、勇者領の陰謀になったりして、人々は分断された。

 

 勇者の子供たちはもっと悲惨だった。彼らは父親が存在しないために、存在そのものが世界から否定された……故に不幸な事故で死んだり、殺されたりすることが多かった。生き残った者はごく僅かで、今となっては彼の血は殆ど途絶えてしまった。

 

「それじゃあ、300年前の勇者の子供が殺されたのは、彼らに魔王化の兆候があったからじゃなかったのか?」

『理由がないと人は動かないから、そう言う理由をつけて殺されていただけであって、元を正せば神の刈り取りのせいだ』

「勇者の子供がみんな神人だったってのは?」

『それも間違いだ。君の子供は人間だった。ただ、君自身がそうであるように、君の遺伝子を受け継いだ子供たちは、人間でありながら古代呪文が使えた。君の子供なんだから、当たり前だろう。それ以外は、どこにでもいる普通の子供たちだった。なのに』

 

 看板はまるで悔しさを表しているかのように、暫く文字が変わることがなかったが、やがて、何かを吹っ切るように続けた。

 

『世界を救ったはずの勇者の子供が、まるで悪魔のように扱われ殺されたことに、私たちは憤った。しかし、怒ったところで、私たちに出来ることは何もなかった。例えるなら、それは世界の修正力であり、一介の人間にどうこう出来るような代物じゃなかったんだ。

 

 もし出来るとしたら、それは神と同等の力を有したレオナルドくらいのものだが、彼は世界を創造した後遺症で、極めてぼんやりとした存在に成り下がってしまった。同じく真祖ソフィアも、魔王になったり、勇者に記憶を封印されたりで、完全に子供返りしてしまっていた。

 

 そして真祖不在の帝都で新しい皇帝エミリアが即位した時、彼女は私たちと共にこの世界を救ったコアメンバーであったにも関わらず、勇者は魔王化が始まったために始末されたというシナリオを信じ込んでしまっていた。そして恋人であったスカーサハも、彼女は自分が勇者に弄ばれて捨てられたと思い込んでいたようだ。君たちはとても仲睦まじかったというのに、彼女はそれをいい思い出として封印してしまった。

 

 あらゆる犠牲を払い、訪れたのは平和どころか戦争の世界だった。人々は記憶を取り戻すことが出来ず、勇者を悪者にしてそれに正当性を与えている。このままでは、アイザックも私も、いずれ彼らのように記憶を失うだろう。そしてここがレオナルドの迷宮であることも忘れて戦争に明け暮れてしまうに違いない。

 

 そんなことが許されていいのか?

 

 否! 断じて否だ! 私たち二人は、例え悪魔に魂を売ってでも私たちの仲間を奪った神に復讐してやろうと心に誓い、そして、実際に悪魔と契約することにした』

「悪魔と契約……? それは、比喩表現的な意味で?」

『いや、違う。悪魔は存在する。君もそのうち会うだろう。詳しいことはその時彼らに聞けばいい。とにかく、私たちは悪魔と契約したんだ。尤も、魂までは売っていないがね』

 

 看板は少し感情的にそう書き連ねると、また暫く沈黙した。心なしか、背後で鳴り響いているきらきら星の旋律も荒んでいるような気がした。

 

『悪魔とは神の敵対者のことだ。彼らは神に復讐するという私たちに、手を貸してくれると言った。だが、そのためには、勇者の力が必要だと言うんだ。私たちは渋った。それじゃまた何も知らない君を犠牲にするようなものではないか。

 

 だが、そうも言ってられない事情があった。レオの作ったこの世界は永遠ではない。いつか必ず限界は訪れる。その時、元の世界に戻った私たちを神が発見したら、ここがまた実験に足る世界と見なして魔王化情報を送ってくるだろう。それを阻止しようとしても、私たちにはもう切り札がないのだ。

 

 だから私たちは、また新たに君を呼び出すことにしたんだ。300年前の君の記憶は失われてしまったけれど、元となったゲームのデータは残っていた。それを利用すれば、まだ私たちに出会う前の君ならば、何度でも復活が可能だ。そうして蘇ったのが君だ。

 

 もちろん、失われた勇者を復活させたのは、私たちのエゴに過ぎない。私たちは、神によって理不尽に命を奪われた君を助けたかっただけだった。だから、君が普通に暮らしていきたいのであればそれでいいと思った。

 

 だが、もし君が力を欲したら、昔の力を与えてくれるように悪魔に願った。ケーリュケイオンはそうして起動した』

 

 それはあの峡谷の迷宮でピサロに追い詰められた時のことだろう。確かにあの時、鳳は仲間を助けるために、ヘルメスに力を求めた。そして今思い返せば、あれが端緒となって、後の魔王化が始まったのだ。もしあの時、みんなを見捨てていれば、自分は今こうして魔王化に苦しむことは無かっただろう。

 

 だが、もちろん、そんなことは全くこれっぽっちも後悔していなかった。ヘルメスは、力を得れば代償を求められることを暗に示していたはずだ。自分もそう思っていたし、それを受け入れるつもりでいた。ただそれだけのことだ。

 

『そして君が力を取り戻せば、魔王化が始まるのは必然だった。だから私たちはその時のために、それを阻止する方法を考えていた。アイザックは死して迷宮となり、そこに新たな神の揺り籠を遺した。これは元々あった帝都の神の揺り籠からの影響を薄め、君に新たな力を授けるためだった。

 

 君はそれによって、仲間に自分の力を分け与えることが出来るようになったはずだ。この機能を使えば、際限なく増え続ける君の力を分散し、効率よく使いこなすことが出来るだろう。君が、共有経験値と呼んでいるものだ』

「あれは、峡谷の迷宮の影響だったのか? どうして俺だけがこんな力を持ってるんだろうと思っていたけど……」

『君は放っておけば際限なく力が増幅し続ける。それは高次元からやってくる魔王を倒すまで続く。そんな力をただの人間の体で受け続けては、精神が持たないのは当然だろう』

「際限なく力が湧くって……? そんなの初耳だ。そういや、どうして俺やジャンヌは、最初からやけに強い力を持っていたんだ。考えても見れば、それがゲームの中の力を再現しているからなんて理由じゃ説明がつかないじゃないか」

『帝都にある神の揺り籠で、そう作られたからだ』

「それなら他の神人たちだって同じだろう? なのに、なんで俺たちだけ……」

『それは神人を作ったのはソフィアだが、君を作ったのがエミリアだからだ』

「……エミリア? それはどういう意味だ?」

『その理由もすぐに判明するだろう。今は取り敢えず、力を分散すれば、君は理性を保っていられると考えればそれでいい』

「……そうかい。じゃあ、このアホみたいに溜まりに溜まった共有経験値は、仲間に分け与えても良かったのか?」

『そうだ。寧ろそうした方が良い。そうすれば、君は殺人衝動に駆られたり、女性を襲ったりせずに済む』

「マジかよ……」

 

 鳳は盛大な溜息を吐いた。いつの頃からか、何もしていないのに増え続けていく経験値に戸惑い、力を使わないようコントロールしていたつもりが、それは逆に使ったほうが良い力だったというのだ。寧ろそうして力を溜め込んだ結果が、あの最悪の殺人やレイプだったのだと思うと、自分がどこまでも馬鹿に思えてきて、ため息しか出なかった。

 

『オークキングという個体は、単体ではそこまで強い魔王とは呼べなかっただろう。だが、群れ全体を一つの魔王として捕らえれば、それは想像以上の力となる。君も同じように、共有経験値を仲間に分け与えることで分散すれば、その核となる君自身の力は失われるかも知れないが、全体としての総力は変わらない。そうやって、君自身が力に溺れないようにコントロールすればいいんだ』

「はあ……なるほどな。種を明かしてみれば、簡単なことだったんだな」

『セックスすることで緩和したのも、君の子供に力を分け与えると考えれば同じ事だ』

 

 その結果殺されたのでは、子供たちにしてみれば堪ったものじゃないだろうが……300年前の自分は力に溺れて、そんな不幸な子供たちを大勢作ってしまったのだ。もう二度と、そんなのは御免だ。

 

『神から送られてくる情報は別としても、性衝動や殺人衝動のような魔王化の影響は地球が存在する限り続く。これは、そこにあるラシャ製造機が諸悪の根源だからだ。今後、どうにかしてこれを止めない限りは、君は力を制御し続けなければならないだろう』

「そうかい。それで、地球はどこにあるんだ?」

『それは、どこかにあるとしか言えない。私にはわからないんだ。申し訳ないが、それは自分でなんとかしてくれ。ただ、高次元方向、即ち神から送られてくる魔王化情報であったら遮断することが出来る。私の看板の横に、竪琴が置かれてあるだろう?』

 

 それはこの部屋に入ってきた時から気づいていた。ピアノの音が鳴り響くホールの中で、何の音も奏でていない竪琴は異質だった。これは何のためにここにあるのだろうと思っていたら、

 

『これは精霊オルフェウスから授かったものだ。名前は無いが、君の持つケーリュケイオンや、レオのカウモーダキーと同じく、福音(ゴスペル)と呼ばれる神の兵器の一つだ』

「神の兵器……? そう言えば、ルーシーがそんなことを言ってたな」

『私はこれを300年掛けて改良し、神の攻撃を弾く盾に変えた。この竪琴を奏でれば、空間は固定され、高次元からの介入を防ぐ共振魔法が発動するようになっている。もし今後、君や誰かに魔王化の兆候が起きたり、万が一、刈り取りが起こった場合は、これを使って防ぐといい。ただ、これは防ぐことは出来ても止めることは出来ないから、根本的な解決を求めるなら、他の方法を見つけなければならないだろう』

「そうか……」

 

 もしも魔王化の情報が送られてきた場合、これを使って防いでいれば、いずれその対象が自分以外の者に変わるかも知れないということだろう。でもそれじゃ結局、魔王はどこかに誕生してしまうだろうから、根本的な解決にはならない。まあ、まだ起きてもいないことを憂えていてもしょうがないのであるが……

 

 鳳がそんなことを考えていると、

 

『ところで、君の杖(ケーリュケイオン)はどうしたんだ? 見当たらないが』

「それなら、レオナルドの爺さんのところに預けてあるよ。魔王化を防ぐ、何かいい方法がないかと思って、調べて貰ってたんだ」

『そうか。あれは大切にしたほうがいい。あれは高次元存在が奇跡を行使するために作り出した兵器だが、使い方しだいではそれ以上の力を引き出すことも出来るだろう。例えば、あれは何でも吸い込む杖だが、吸い込むものは何も物質である必要はない。例えば人の記憶や、MPなんかも蓄えることが出来る。君はいつもMPに苦労していただろう?』

「ああ、そうだけど……そうか! 自分のMPを杖に吸い込んでおけば、必要な時に取り出せるってことか?」

『そういうことだ。MPに違いはないから、それは君のMPに限らず、他人のMPであっても構わない。この世界にはMPを必要としない人間はいくらでもいるから、そういう人達から分けてもらえば、君は無尽蔵のMP貯蔵庫を手に入れたことになる』

 

 そんな使い方があったとは……鳳は感嘆のため息を吐いた。もしそれを知っていれば、ここへ飛んでくる日数も、もっと短縮できたはずだ。ぶっちゃけ、風除けさえなんとかなるなら、1日で到着することだって可能だったろう。

 

 杖がソフィアの記憶を封印していた時点で気づけば良かったのだが、どうも不幸に見舞われすぎていたせいか、自分に都合のいい使い方は全く思いつきもしなかったようだ。

 

 ともあれ、こうして使い方がわかったのだから、今後は利用しない手はない。ここから出たら早速ヴィンチ村に寄って、杖を回収し、ついでにみんなからMPを分けてもらおう。鳳はそんなことを決意しつつ、オルフェウスの竪琴を手にして、

 

「……ところで、これを手に入れたところで、これから俺はどうすればいいんだ? もしもあんたに願いがあるなら、俺に出来ることならするけども」

『君は君の好きにすればいい。竪琴を使って天寿を全うするも良し。ただ、恐らくこれから私たちと契約した悪魔が接触してくるだろうから、出来ることなら彼らと協力して神を倒して欲しい。それが私の願いだ』

 

 鳳は複雑な表情でオウム返しに問いかけた。

 

「神を倒す……か。でも、本当にそんなことが出来るのか? 神は、俺たちとは文字通り次元が違う存在なんだろう? 触れることも出来ない相手と、どうやって戦えばいいんだ」

『詳しいことは私にも分からない。だから、彼らに聞けばいいだろう。彼らもまた、高次元の存在だからだ』

「……悪魔ね」

 

 それは信じてもいい存在なのだろうか? それは分からないけれども、彼らに魂を売ってでも神に挑もうとしたアマデウスたちの気持ちは良く分かった。だがそれを自分が受け継ぐかどうか、鳳の心は殆ど傾きかけていたが、まだ決め手に欠けているような気がした。

 

 なにかあと一つでも切っ掛けがあれば……それには、この看板の言う通り、悪魔と接触するのが一番の近道なのだろうか。鳳がそんなことを考えていると、看板は最後の言葉を続けた。

 

『さて、私はもう限界だ。君には悪いが、そろそろ休ませてもらうとしよう。300年も意識を保つなんて、普通に考えたらありえないことだ。ありえないから、私はこんな、ただの文字だけに成り果ててしまったんだがね』

「……あんた、消えるのか?」

『いいや、レオに言わせれば、私たちは宇宙の果てにある情報だそうだから、この世界が滅びない限り消えはしない。ただ、この迷宮は直に消えるだろう。私の目的は成就したから』

「そうか……」

『まだ意識のあるうちに、君と会えて良かった。レオによろしく伝えてくれ』

「ああ、わかった。他には? なにかないか?」

『ない。レオは偉大だ』

 

 看板は、そう呟くように最後の文字を表示すると、まるで初めからそこに何も無かったかのように、サラサラと砂のように崩れて消えてしまった。思えばこの一ヶ月、散々苦しめられた奴だったが、最後は呆気ないものだった。

 

 鳳たちは暫くの間、その何も無くなってしまった舞台の上を眺めていたが、やがてどちらからともなく踵を返すと、名残を惜しむようにゆっくり歩き出した。

 

 舞台の上からは、まだピアノの旋律が聞こえてくる。それはまるで子供たちが遊んでいるかのように軽やかで、それを聞く者たちの心をもまた軽くした。鳳はその音色を忘れないよう、目に焼き付けるように、胸の内に刻みつけた。

 



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じゃあ、撤収だ

 キラキラ星の流れるホールから出ると、さっき通ってきたばかりの通路はどこにも無くなっており、無機質な黒で覆われた不思議な空間に繋がっていた。それは鳳がオークキングになってしまった、あのアストラル界に似ていて、壁も床も天井も光を反射せず、ただひたすら黒いままだったが、そこを通り抜ける二人は不思議とどちらへ進めばいいか理解していた。まるで母親の胎内を這い出る赤子のような気分だった。

 

 彼らが何となく進むべき方向へ進んでいくと、やがてその先から光が差してきた。近づいていくと段々それは大きくなり、やがて扉の形をしているのが分かってきた。ようやく外に出られると言う安心感と、また騙されてるんじゃないかという、不安が入り混じった気持ちで、最後の扉をくぐり抜けると、そこは鳳とルーシーが最初に入ったあの赤絨毯の部屋だった。

 

 部屋の中央には相変わらず看板が立っていたが、正面に回ってみてもそこには何も書かれていなかった。部屋の奥には、さっき自分たちが潜り抜けてきた扉がそのまま残っていたが、そこから中を覗き込んでも先は何も見通せず、もうそこには何もないようだった。

 

 アマデウスは休むと言っていた。それは休止するという意味か、それとも死を意味するものなのか。散々苦労したくせに、今はこの迷宮が時間とともに朽ち果ててしまうかも知れないことが、ひどく残念なもののように思えた。また、あのきらきら星を聞いてみたいと、そう思った。

 

 とは言え、余韻に浸っている場合ではない。外との体感時間が変わらないのであれば、二人が迷宮に閉じ込められてから1ヶ月は経過しているはずである。その間、仲間たちはずっと外で待っていたのだとしたら、とんでもない苦労をしているはずだ。彼らには鳳たちとは違って、柔らかいベッドも、いくらでも食材が手に入る冷蔵庫があるわけではないのだ。すぐにでも報せてやらねば……

 

 そう思って二人が迷宮から外に出ると、入口のすぐ脇に、小さな影が横たわっているのが見えた。近づいてみれば、それはアリスだった。いつも折り目正しいエプロンドレスはすっかり薄汚れ、心なしかやつれているようにも見える。

 

「アリスさん。アリスさん……?」

 

 まさか死んでるわけじゃないだろうが……ミーティアが恐る恐る声を掛けると、彼女は最初は何の反応も返さなかったが、暫くしてピクッと表情筋が震えたかと思うと、ぱっちりと目を開けて辺りをキョロキョロと見回し、

 

「……奥様! ご主人様ぁ~!」

 

 そこに鳳たちの姿を見つけるやいなや、涙腺からボロボロと涙を吹き出しながら、二人に向かって飛びついてきた。鳳たちはそんなアリスを抱きとめると、泣きじゃくる彼女の小さな背中をポンポンと叩いて、

 

「ほら、もう、アリスさん。もう泣かないで」

「お二人がいつまで経っても出てこないから、死んじゃったのかと思いました……」

「私たちは二人とも元気ですよ。大分、心配を掛けてしまったみたいですね。もう一人にはしませんから、安心してください。ごめんなさいね」

「いいえ! 頭を上げてください。奥様がご無事であっただけで、私は幸福です。お二人がいなくなった時を思えば、これくらいなんてことありませんよ」

 

 ミーティアとアリスがそうして再会を喜び合っていると、そんな騒ぎを聞きつけて、お城の跳ね橋を渡ってギヨーム達がやってきた。ルーシーがミーティアを見つけるなり、嬉しそうに駆けてくる。マニとギヨームは特に慌てることもなく、並んでゆっくり歩いてくるのを見ると、彼らの方はアリスと違ってちっとも心配していなかった様子だ。

 

 そんなギヨームはのんびり鳳の前までやってくると、盛大にため息を吐いて天を仰ぎ、いかにもうんざりしたと言った感じで肩を竦めて、

 

「やっと出てきたか。遅えよ」

「悪いな。大分待たせちゃったみたいで」

「ったく、中の様子が分からねえから、こっちは待つしか無かったけどよ。場所が場所だけにメシの確保に苦労したんだぜ」

 

 地上と隔絶された場所だから、生態系がガラパゴス化していて、最初は何を食べていいのか分からなかったらしく難儀していたようだ。最終的には迷宮の近くにあった湖から流れる渓流で魚を釣って食べていたらしいが、こんな断崖絶壁に囲まれた場所だと言うのに、一体どうやって上がってくるのか不思議だったそうだ。意外と漁獲量も豊富らしい。

 

 その他にも色々と工夫をして、食べられるものを見つけていって、今では三食苦労なく食べられるようになっているそうだ。迷宮ではメシには困らなかったが、こっちに居たほうが面白そうだったなと、鳳が内心羨ましがっていると、

 

「ところで、おまえら中で何やってたんだよ? ルーシーの奴に聞いても、あいつ何も知らないの一点張りなんだ。そんなことありえねえのによ」

 

 どうやらルーシーにも最後の良心は残っていたようである。まあ、もしも喋っていたら、今頃ミーティアに殺されているだろうから、当然といっちゃ当然なのだが……鳳がホッとした表情を浮かべていると、

 

「なんだよ。そんなに言いにくいことなのか?」

「べべべ、別にそんなやましいことないですよ!?」

「じゃあ言えよ、俺らは外で散々苦労していたっつーのに。言えねえってのかよ?」

「いやあ、それは……話したところで特に面白いことでも無いから、まあ、いいじゃないか、こうして無事に出てきたわけだし」

「……怪しいなあ」

 

 ギヨームは訝しがっている。ルーシーはそんな二人のやり取りをぼんやり見ていたが、その時、何を思ったのかハッと目を見開いて、

 

「これが本当の臭い仲だね……」

 

 よせばいいのにそんなことを呟いて、案の定、ミーティアにボコボコに折檻されていた。

 

 何はともあれ、鳳たちは中であったことはボカして、とにかく迷宮の攻略は完了したことを報告した。一ヶ月ほど部屋の中でゴニョゴニョした後、迷宮の最奥部にあった演奏ホールで、300年前のオルフェウス卿アマデウスの思念体というか魂というか、なんかそんなのと対話をしたのだ。

 

 それによるとアマデウスは、いずれ鳳がやってくるのをこの迷宮でずっと待っていたらしい。彼は魔王化を阻止する方法を開発しており、それを教えてくれたことを告げると、仲間たちはそれは良かったと祝福してくれた。

 

 それだけではなく、アマデウスはこの世界の秘密についても話してくれたのだが、この世界がレオナルドの作った迷宮の中であることを知ると、そのあまりの壮大さに、何も知らなかったルーシーたちは驚きの声をあげていた。

 

「ここが、おじいちゃんの作った世界だったっていうの?」

「ああ、どうもそう言うことらしい。300年前は高次元からの攻撃を阻止する手段が何も無くて、神による刈り取りを回避するには、そうするしか他に方法が無かったそうだ。そのせいで爺さんは多くの力を失ったらしいんだが……アマデウスはその時、何も出来なかった自分が悔しくて、300年掛けてその回避方法を作った。それをこの、オルフェウスの竪琴に籠めたらしい」

「……私が持ってる杖、カウモーダキーがあったとは言え、おじいちゃんの幻想具現化はついに世界を構築するにまで至ったんだね」

「まったく、とんでもない爺さんだな」

 

 ルーシーたちは感嘆の息を漏らしている。そんな中、ギヨームは一人だけどこか冷静な顔をしていて……まるで最初から何もかも知っていたかのようなその姿に、鳳が不思議に思っていると、ギヨームはそんな視線に気づいて、慌てて話題を逸らす感じに、

 

「とにかく、これでおまえの魔王化は防げるようになったんだな?」

「ん、ああ。元々の魔王化の原因……ラシャのシステムの方は、共有経験値を使って、力を分散することで対処出来る。神が送りつけてくる情報の方は、竪琴を使えばその影響を受けずに済むそうだ。ただ、その場合は、俺が魔王にならないだけで、いずれ別の誰かが魔王になる可能性があるそうだが……」

「ふーん……まあ、まだ起こってないことをうだうだ言ってても仕方ねえからな。それよりも、おまえの今の魔王化を止めるほうが先だ。またイライラして人を殺しちまったら堪らねえだろ」

「あ、ああ……そうだな」

 

 鳳は、クレアが送ってきた男娼のことを思い出して憂鬱になった。そんな彼の気持ちを慮ってか、アリスがそっと彼の袖を指で握った。彼女は、自分自身も犠牲者だったというのに、まるで疑念のない無垢な瞳で彼のことを見上げている。鳳は、そんな彼女に薄く笑いかけてから、

 

「それじゃさっさと経験値を分配しようか。ずっと放置していたせいで、相当溜まっちゃってるんだよね」

「どのくらい溜まってるんだ?」

「実は10万越えちゃってて……」

「はあ~っ!?」

 

 ギヨームは目を丸くして素っ頓狂な声をあげた。まあ、それも当然だろう。

 

「おまえの共有経験値って、100与えただけでもレベルが10も20も上がるような代物だろう!? 神人と違って、人間はそのうえステータスまで上がるんだぜ……? 一体、おまえにどれだけの経験値が流れ込んでいたんだ? それが全部おまえの力だっつーなら……何もしてないくせに、どうしてそんなことになってるんだよ」

「それが良くわからないんだ。俺はずっと魔王化の影響だと思ってたんだけど、話を聞く限りではそうじゃないだろう? アマデウスは、エミリアがそう言うふうに作ったからって言ってたけど……彼自身も詳しいことは分からなくって、教えてくれなかった。多分、彼が言っていた悪魔が鍵を握ってるんだろうけど……」

「ふーん……悪魔ね」

 

 ギヨームは、納得はしかねるが仕方がないといった感じで腕組みしている。鳳は難しい顔をしている彼に向かって、

 

「とにかく、経験値を分けちゃうぞ? またおかしくなっても嫌だから」

「ああ、だがちょっと待て。流石にここにいる奴らで10万も分けたら、俺らの方がおかしくなっちまう。あまりレベルを上げ過ぎないように、抑えといた方が良いだろう」

「でも、それじゃ殆ど共有経験値を消費できないぞ?」

「別に帰ってから、ジャンヌや他の奴らにもくれてやればいいだろうが。つか、今、パーティーリストはどんな感じになってるんだ?」

 

 鳳は、そうだったと言わんばかりにポンと手を叩いて。

 

「あー、それなら……なんかヘルメス卿になってから、凄い勢いでリストが更新されていたんだよね。気味が悪いから見ないようにしてたんだけど……多分これ、国民がそのまま俺の仲間になってるんだと思うよ。これだけ分配する人がいれば、楽勝だわ」

「なるほど……眷属ね。つまり、おまえを王と崇めていたり、おまえのために親身になって働こうって連中が、全てリストアップされてるんだろうな。試しにそこのメイドを探してみたらどうだ?」

 

 言われて探してみたら、彼女の名前はすぐに見つかった。アルファベット順に並んでいるわけではなくて、どうやら自分に親しい人ほど上位にリストアップされているようだった。ミーティアの横にはアリスとクレアの名前も見える。

 

 鳳が早速とばかりに二人の名前を連打すると、いつものように突然、彼女らの体が光りだして、

 

「わわっ! な、なんですか、これ……? なんかへんな気分ですよ。本当に大丈夫なんですか?」

「ご主人様の力を感じます……暖かい……」

 

 疑り深いミーティアに対して、アリスは何故か恍惚とした表情を浮かべていた。何だか暫く見ない内に大分性格が変わってしまったようだが、どうしちゃったのだろうか。ともあれ、彼女らにステータスを確認してもらうと、

 

「うっ……おかしい。私、何もしていないのに、その辺の冒険者が裸足で逃げ出すようなレベルになっちゃってますよ。こんな理不尽許されて良いんでしょうか?」

「これでよりいっそう、ご主人様のお役に立てます」

 

 ミーティアの感想は尤もである。実際、ギヨーム達を強化していた時はラッキーくらいにしか思っていなかったが、それは彼らが最初から相当な経験を積んでいたからだ。対して、ミーティアやアリスは、人生経験の方はともかく、戦闘の経験は全くない。しかしこの世界の住人は、モンスターを倒すことで経験値を得るようになってるんだから、これは完全にチートと言えるだろう。

 

 しかし、今となってはチートの権化と化した鳳がそんなことを気にしても仕方ないだろう。そもそも敵を倒したからって経験値が入るシステムの方がどうかしているのだ。ここはアリスを見習って、素直に喜んでおくのが無難というものである。

 

 彼はそう自分に言い聞かせつつ、アリスのステータスを尋ねると、

 

「へえ……結構MP高いんだな。そう言えばさ、みんなにお願いなんだけど、MPを使うあてが無いなら俺に分けてくれないか? 実はケーリュケイオンを使えばMPを貯めておくことが出来るらしいんだよ」

「あー……あれにはそんな使い方があったか。全部は無理だが、多少なら分けてやれるぞ。ところでおまえ、その杖はどうした? 確か、レオのところに預けっぱなしじゃなかったか?」

「そうなんだよ。だから後で取りに行かないと……アマデウスに聞いた話のこともあるから、ちょうど爺さんに会いたいと思ってたところだし」

「じゃあ、撤収だ。マニ、ルーシー、荷物をまとめようぜ」

 

 ギヨームの合図に従って、二人が後に続いた。

 

 流石に一ヶ月もあったから、迷宮の近くに作られていた彼らの基地はかなり立派になっていた。大木に何本も括り付けたロープを円錐状に伸ばし、そのロープを覆うように木の樹皮を瓦のように並べて、土をかぶせ風除けにする。それを人数分作った上に、すぐ近くにはラバのための厩舎まで作っていた。

 

 そんな大層なものをこさえなくても、迷宮の中というか、せめて城壁の中にいれば雨風は凌げただろうに、そうしなかったのは、やはり迷宮だと何が起こるかわからないからだろう。

 

 なんか、無駄に苦労かけちゃったなと思いながら、シェルター内に溜め込まれた保存食などを眺めていたら、マニが制作した釣り道具が並んでいてウズウズしてきまい、やっぱ一日くらいここに留まってからにしないか? と言ったら怒られた。

 

 一ヶ月間、室内に閉じ込められていた鳳からすれば楽しそうにみえるのだろうが、彼らからしてみれば生活のために仕方なくやっていたことなんだから、物見遊山に楽しまれては腹が立つのだろう。なんだか、連休中だけ都心から大挙してやってくるレジャー民を、苦々しく思っている現地人のような反応だった。

 

 ギヨームにさっさと帰るぞとひっぱたかれ、撤収の準備を終えてポータルを出そうとしたら、ルーシーに止められた。自分もポータル魔法が使えるようになったことを自慢したいのかな? と思いきや、そうではなく、鳳のポータルと違って彼女の方は人間以外も通れるから、ラバを連れ帰るには彼女の方を使うしかないのだ。

 

 鳳と彼女とでは、同じポータルに見えてかなり質が違うようだ。鳳の方は正確だが融通が効かず、彼女の方はアバウトだが応用が効く。機械が制御しているか、人間がやるかの違いなのだろう。例えば、二足歩行する機械を作るのはとんでもなく難しいが、人間が歩くことに苦労することはまずない。そんな感じだ。

 

 ポータルをくぐるとそこはヴィンチ村……ではあったが、村外れの茂みの中だった。なんでこんなとこに繋がったのと思ったが、彼女がやるとこのくらいの誤差がでるらしい。最初は天井から床に向かって出口が開いていたそうだから、今後も要注意である。

 

 おかしいな……と言う彼女を置いて、村の広場に行くと、ミーティアがせっかく帰ってきたからご近所さんに挨拶してくると言って、いそいそと商店に向かってしまった。さっさとレオナルドの館に行きたいのになと思いながら、その後姿を眺めていると、突然、ミーティアがカッと目を見開いて振り返り、

 

「鳳さん、大君の館へ急ぎましょう!!」

 

 と言い出した。もしかして、早く行きたい気持ちが口から漏れてしまっていたのだろうか……? バツが悪くなって、そんなに急がなくてもいいよと言うと、

 

「いえ、違うんです! たった今、ご近所さんに聞いたのですが……それが、もう長い間、大君が病床に臥せっていて、目を覚まさないそうなんです!」

「……え!?」

 

 まったく寝耳に水な言葉に、鳳は言葉を失った。彼がヘルメスを出てから2ヶ月ほど経つが、どうやらレオナルドはそれとほぼ同時期に倒れていたらしい。

 

 300年も生きているし、殺しても死にそうもない爺さんだと思っていたが、アマデウスと出会い、彼が何者であるかを知ったことで、鳳は急激に不安になってきた。レオナルドは、世界を作るのと引き換えに、その力の大半を失っている。あの爺さんだって、決して永遠ではないのだ。

 

 彼はそう考えると、慌ててみんなで館を目指した。

 



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神になろうとした男

 ヴィンチ村に到着するなり、レオナルドが病床に臥せっていると聞いた鳳たちは、慌てて彼の館に駆けつけた。最初はラバに乗っていこうとしたのだが、二頭しかいないから全員は乗れず、取り敢えず弟子のルーシーとギヨームを先行させて、残りはそれを追いかけて必死になって走ってる途中で、鳳は空を飛んだ方が速いことに気がつく始末だった。どうもそれくらい慌てていたらしい。

 

 先に行かせたルーシーを追い越し館に降り立つと、後からやって来た彼女に酷い嫌味を言われた。申し訳ないと謝りながら玄関まで歩いて行くと、いつものようにビシッとした執事服を着ていたが、いつもとは違ってやつれた表情のセバスチャンが出迎えてくれた。

 

「皆様、ようこそお越しくださいました。ルーシー……スカーサハ様がお待ちです。皆様にはお疲れのところ申し訳ございませんが、このままご案内してもよろしいでしょうか?」

「もちろんです。ある程度の事情は村人から聞いてきました。こっちこそ、突然押しかけて申し訳ない」

 

 館に入った一行は、そのまま執事に先導されて、いつもの書斎兼応接室へと通された。本当なら寝室に案内したいところだが、肝心のレオナルドが二ヶ月前に倒れてから一度も目が覚めてない状況らしく、あまり大勢で押しかけるわけにはいかなかったのだ。

 

 そう不安げに語る執事に案内されて応接室へ入ると、部屋の中にはスカーサハが手持ち無沙汰に佇んでおり、その傍らには綺麗な箱に収められたケーリュケイオンが置かれてあった。彼女は鳳たちが入ってくると、いつも通り礼儀正しく会釈をしたが、こちらも執事同様少し疲れた様子だった。

 

「お久しぶりです、勇者。あなたがここに現れたということは、もしかして、魔王化について何か手掛かりを得られたのでしょうか?」

「ええ、おかげさまで、そっちの方は何とかなりそうで……それで預けておいたケーリュケイオンを取りに戻ってきたんですが。なんか大変なことになってるみたいですね」

「そうなんです……実は、大君はその杖を調べていた時に倒れたようでして……それで私たちとしてもどう扱っていいか分からず困っていたのですが」

「こいつが悪さしたんですか?」

 

 鳳が驚いて杖を指差すと、スカーサハは消極的に首肯して、

 

「もしかしたらと言った程度ですが。倒れた大君の傍らに、これが転がっていたのです。だから大君はこの杖を調べていた時、何かを発見したせいでこうなったんじゃないかと思ったのですが……かと言って、そう思ってずっと調べていても、私には何も発見できず……手詰まり状態なのです」

「うーん……」

「鳳くん、ちょっとそれ、借りていいかな?」

 

 二人が杖を前にして難しい顔をしていると、それを背後で聞いていたルーシーが進み出て言った。何がしたいのかと尋ねてみると、

 

「私のアストラル体とカウモーダキーは、アーカーシャを通じて繋がってるんだ。多分、鳳くんとそのケーリュケイオンもそうなってるはずだから、その経路を辿って、何があったのかを探ってみる」

「それで何かわかるのか?」

「多分。ミッシェルさんに言わせれば、アーカーシャにはこの世の全ての情報が刻まれていて、現在過去未来を見通すことが出来るんだ。尤も、遠くに行けば行くほど過去も未来も曖昧になるから、あんまり意味ないそうだけど。でも2ヶ月位なら問題ないでしょう」

「……あなた、いつの間にそんな事が出来るようになったんですか?」

 

 スカーサハが驚いている。

 

「先生に勧められた帝都の迷宮に潜ったんですよ。そこでちょっとあって……本当に、感覚的なものでしかないんだけど……」

 

 ルーシーがそう答えながらケーリュケイオンを握ると、それまで鳳にしか反応しなかった杖がブーンと音を立て、その先端に光の翼を生やしてみせた。それを見ただけで、彼女が何かをしたことは一目瞭然だった。

 

 ルーシーは、まるで瞑想するかのように厳かな表情で目をつぶっている。スカーサハがそんな妹弟子の姿を、息を殺して見守っていると、やがてルーシーは何かに納得したように頷いてから目を開けて、

 

「うん、何も分からない」

「分かんないのかよっ!」

 

 鳳たちが期待して損したとばかりにずっこけてると、彼女は言い訳するかのように、

 

「だから分かるって言っても、本当に感覚的なものでしかないんだよ。私はまだ理に触れただけだから、ミッシェルさんみたいになんでもかんでもってわけにはいかないんだ。でも、おじいちゃんがこれを使ってた時に倒れたってのは本当だと思うよ。ただ、この杖が悪さをしたか? っていうと、そんな感じはしないんだけど……」

「何が何だか分からないな」

「だから分からないって言ってるんじゃん」

 

 ルーシーと鳳がそんなやり取りを続けている時だった。部屋の扉が少し乱暴にノックされ、返事をするなり間髪入れずにメイドのアビゲイルが入ってきた。

 

 彼女は血相を変えた様子で、一瞬、鳳たちが来客であるのも忘れて、部屋の中にズカズカと乗り込んできそうな勢いだったが、ハッと我に返った感じで優雅にお辞儀すると、ほんの少し興奮気味にその場で執事たちに向かって報告した。

 

「スカーサハ様、執事長。お館様がお目覚めになりました」

「は?」

「ですから、たった今、お館様がお目覚めになったのです!」

 

 アビゲイルは焦れったそうに二度同じことを繰り返した。その場にいる者たち全員が、一瞬、わけが分からなくて固まってしまったが、彼らはすぐにその言葉の意味を理解すると、泡を食って部屋を飛び出した。

 

*****************************

 

 レオナルドの寝室に慌てて駆け込んだ鳳たちは驚いた。老人が倒れたと聞いた時も驚いたが、目覚めた彼は、まるで何事もなかったかのように、いつも通りの姿だったのだ。

 

 普通の人間は、二ヶ月も寝たきりになったら、体がやせ衰えて殆ど動けなくなるだろう。この世界の医療体制じゃ生きていること自体が奇跡みたいなものなのに、それどころか老人は今にもベッドから下りてきそうなくらい、いつも通りピンピンしていたのだ。

 

 その姿を見て、弟子のルーシーやスカーサハ、執事たちは喜びの涙を流していたが、鳳たちの方は正直戸惑いを隠せずにいた。そんな彼らの様子に気づいたレオナルドは、一体どうしたのかと彼らに尋ねたのだが、

 

「なに!? 儂は二ヶ月も眠っていたじゃと……? 馬鹿を申すでない。そんなに眠っていて無事な人間などあるものか。お主、儂を謀っておるのじゃろう?」

「いや、信じられないのは分かるけど、本当なんだよ。俺が信じられないなら、そこのお弟子さんなり執事さんにも聞いてくれ」

「……本当なのか?」

「はい、旦那様」

 

 忠誠心の固まりみたいな執事のセバスチャンが追認すると、流石のレオナルドも嘘ではないとわかったようで、

 

「信じられぬ……儂は昨日普通に寝て、今日の朝起きたくらいの感覚でしかないのじゃぞ? 最後に何をしておったかもちゃんと覚えておる。確か……お主の杖を調べながら、ウトウトしてきて少し目をつぶっていたはずじゃ」

 

 それは彼が倒れていた状況に合致している。つまり、彼はその時、本当に仮眠を取るつもりで少し目をつぶり……そして二ヶ月も目覚めなかったのだ。それだけではなく、目覚めた彼の体は全く衰えておらず、眠る前の状態のままだった。

 

 きっと本人からしてみればタイムスリップでもしたような気分だろう。老人は自分に起きた出来事が信じられないと言って、呆然と自分の体を調べていたが……しかし鳳たち、ネウロイの迷宮に行った者たちはみんな、何となくその理由がわかるような気がした。

 

 アマデウスは言っていた。この世界はレオナルドの迷宮の中なのだ。つまり、今の彼はミッシェルみたいな精神体であり、その肉体は殆ど見せかけだけのものに過ぎない。だから彼は人間でありながら300年も生きられたのだ。

 

 だが、それを本人に告げるのは酷ではないかと、鳳たちは躊躇した。レオナルドは、この世界を救う代償に記憶を失くし、今の自分が人間では無くなっていることを知らないのだ。それに彼が自分が何者かを知った瞬間、この迷宮(せかい)がどうなるのかも不安だった。

 

 しかし、そんな彼らの不安に察しのいい老人が気づかないわけもなく、

 

「ふむ……お主らのその顔は、何か知っておるな? 儂には話せないことなのか?」

「それは……」

「ところで、鳳よ。お主、いつ帰ってきたのじゃ? ギヨームから聞いた話では、大分追い詰められておった様子じゃが、もう、魔王化の影響は大丈夫なのか?」

「あ、ああ、おかげさまで何とかなりそうなんだ。それで、その報告も兼ねて今日こっちに戻ってきたんだけど……そしたら爺さんが倒れたって聞いたから、慌てて飛んできたんだよ」

「ほう……今日とな。それはまた、えらくタイミングがよく儂は目覚めたようじゃのう……これが偶然とはよもや思うまい。何かおかしな事態が起きつつあるのやも知れぬぞ。どうじゃ、話してみる気はないか?」

「うーん……」

 

 確かにその通りかも知れない。結局のところ、彼抜きで高次元世界の話をしたところで得るものは何もないだろう。ここは思い切って話したほうが良いのではないか。

 

 鳳はそう思ってルーシーに目配せした。決めるのは鳳ではなく、弟子の彼女だと思ったのだが……彼女は彼女で姉弟子にどうしようかと目配せし、まだ事情を知らないスカーサハが怪訝な表情で首を傾げているのを見ると、結局困った感じに涙目で鳳に視線を返してきた。

 

 彼は言いづらそうに首筋を爪で引っ掻きながら、

 

「実は……魔王化を阻止する方法を探すために、俺たちはネウロイに行って、アマデウスの迷宮を発見したんだけど……」

「ほほう! アマデウスとは、また懐かしい。あやつは元気にしておったか? いや、迷宮に元気もなにもないな。して、奴は何を遺しておった? お主は迷宮で何を見つけたんじゃ?」

 

 老人は興味津々身を乗り出してくる。その楽しげな様子に、鳳はもはや隠し事は出来まいと覚悟すると、アマデウスに聞かされたこの世界の真実について、その場にいる人々に語って聞かせた。

 

 この世界はレオナルドの作った迷宮の中にある。

 

 その真実を告げた時、普段は冷静沈着なメイド長のアビゲイルがぺたんとその場で腰を抜かしてしまった。彼女はもちろん主人のことを尊敬していたが、あまりにも事が大きすぎて心が追いついてこれなかったのだろう。そんな彼女のことを、執事とアリスが介抱するように両脇を抱えている。

 

 そんなメイド長を抱えている執事の顔も強張っていた。スカーサハの顔色も優れず、彼女は亡霊みたいに真っ白な顔をして、表情を失くしているようだった。

 

 だが、そんな中、張本人であるレオナルドはと言えば、彼は自分が何者であるかを知ったことで逆にすっきりしたようで、寧ろ生き生きとした表情になって興味深そうに鳳の話を聞いていた。そして、全ての話を聞き終えるや否や、はあ~……っと長い溜息を漏らして、

 

「ははあ……なるほどのう。儂は今まで、どうしてこんなに記憶が曖昧なのかと悩んでおったが、それは魔王化の影響などではなくて、儂自身が選んだ選択だったのじゃな」

「……爺さん、驚かないんだな」

「驚く? どうして儂が。お主も知っておるじゃろう? 儂は神になろうとしておったのじゃぞ。その儂が、ついに世界を創造したと聞いて、何を驚くことがあろうか」

 

 老人は当たり前のように言い放った。その自信満々な姿には、驚きを通り越して呆れて来るくらいだった。老人は喜々として続けて、

 

「しかし、そうか……なるほど。お陰で儂がどうして体調を崩したのかも分かったぞ。恐らく、それは儂が作ったこの惑星が、元の世界に戻ろうとしておるのが原因じゃろう」

「戻ろうとしてる……? それは本当か!?」

 

 確かアマデウスもこの世界は永遠ではないと言っていたが、それがこんなに早く訪れてしまうとは……世界が元通りになってしまったら、レオナルドはどうなってしまうのだろう? 鳳がそんな不安を抱いているにも関わらず、老人は自分のことなどどうでもいいと言った感じに、ひたすら感心した素振りで、

 

「世界が元に戻るのは必然なのじゃ。恐らく儂はある瞬間、この世界の元となる惑星をそっくりそのままコピーして、そこに住人を移し替えたわけじゃが……そうするには二つの惑星が、同じ時間、同じ場所に無くてはならないじゃろう? しかし、排他律によって物質(フェルミオン)は同一空間に留まることは出来ない。故に、儂の創造したこの世界は、誕生した刹那、元の世界の空間軸から離れなければならなかった。つまり、三次元軸に沿って回転したんじゃな」

「……どういうことだ?」

「もの凄くざっくりと説明するぞ? 例えば、一次元の線分の中を移動する点同士はすれ違うことが出来ない。右からくる点と左からくる点は、どこかで正面衝突してそれ以上進めなくなる。これをすれ違えるようにするにはどうすればよいか? 線を二次元方向に拡張して平面にしてしまえば良い。平面の上であれば、点はいくらでもすれ違える。

 

 同じように、平面上にある直線……これは無限の長さを持つ真の直線じゃぞ? この直線同士も平面上ですれ違うことは出来ない。それをしたいなら、今度は三次元方向に空間を拡張しなければならない。

 

 ところで、1次元空間を2次元空間に拡張するとはどういうことか。原点Oから少し離れた場所にある点を、原点を中心に回転させれば円が出来る。つまり平面じゃな。その円が今度はXY平面上にあるとして、例えばY軸を回転させるとそれはドーナツになる。原点上なら球じゃな。

 

 もう分かるな? とある衝突しようとする3次元の物体同士を、ぶつからないようにするには、今度は三次元の座標軸にそって回転させればよい。四次元空間を絵にすることは出来ぬから分かりにくいかも知れんが、要するに儂はそういうことをやったというだけの話じゃ。

 

 そして回転しておるからそれは必ず元の場所に戻ってくる。恐らく、この世界は300年掛けて元の位置に戻ろうとしておるのじゃ。そしてその時、儂は無機質な迷宮に戻るのじゃろう……」

 

 老人には自分の行く末が見えているのか、ほんの少し遠い目をしている。消えると簡単に言っているが、それは死ぬのと何が違うのだろうか。鳳がモヤモヤしたものを抱えていると、同じく不安に思ったルーシーが、

 

「おじいちゃん、死んじゃ嫌だよ。まだ何も教えてもらってないのに……一度弟子にしたのなら、最後までちゃんと責任とってよ」

「いや、お主いつも逃げ出しておったくせに何を言うか。それに儂は別に死ぬわけではない。ただ、元の迷宮に戻るというだけの話じゃ。儂のクオリアは不滅じゃから、恐らくこの世界がもとに戻ったら、どこかにひょっこり儂の迷宮も出現するじゃろうて。そうしたら二人とも、また遊びに来ておくれ」

「はい、大君。必ず……」

 

 スカーサハは目に薄っすらと涙を浮かべて師匠に誓った。しかし、鳳はそんな師弟の感動的な光景に割り込むように、

 

「ちょっと待て爺さん。潔いのは結構だが、本当にまだ消えられちゃ困るんだ。さっきも説明した通り、この世界は高次元の神からの攻撃に晒されている。恐らく、爺さんの迷宮が元に戻ったら、また上から魔王化情報が送られてくるはずだ」

「ふむ。それならまた儂の迷宮を使って同じように回避してはどうか?」

「いや、それは無理だよ。爺さんは300年前、そうすることによって力の大半を失った。カウモーダキーという触媒を使ってもそれだ、今度はどうなるかわからない。それに、仮に爺さんの命を削ってそうしたとしても……また300年くらい経ったら世界は元に戻っちまうだろう? それじゃ元の木阿弥じゃないか」

「ふむぅ……そうじゃのう。しかし、儂にはどうすることも出来ぬぞ。もしかすると、300年前の格好いい儂じゃったらどうにかなったかも知れぬが」

 

 もし出来るなら、そっちの方にも会ってみたいと思うが……鳳がそんなことを考えていると、老人は続けて、

 

「お主、アマデウスに会ったのじゃろう? 奴は何か言っておらなんだか」

「ん……そうだった。アマデウスは、恐らく魔王化情報が送られてきた際、核にされるであろう俺がそれを回避できるように、オルフェウスの竪琴を授けてくれた。これを使えば、高次元からの攻撃は何でも防げるらしい。でも、仮に俺が魔王にならなくても、別の誰かがなってしまえば、俺たちはこれを倒さなければならない。だが、魔王を倒してしまえば、今度は神の刈り取りが始まるんだ……」

「厄介じゃのう。それも、オルフェウスの竪琴を使えば、お主らだけは助かるかも知れぬが、人々がいなくなった世界に残ったところで意味はなかろう。いや、そもそも、神が欲しておるのは魔王を倒した情報であるなら、お主らが存在する限り刈り取りは終わらぬのか……となると、もはや神を倒すくらいしか方法はないのではないか?」

 

 鳳は、神を倒すという言葉にハッとして、

 

「そうだ……アマデウスは神に挑むって言っていた。そのために、悪魔と契約したんだって」

「悪魔じゃと……?」

「ああ。300年前、残った勇者パーティーの二人は、再び起こるであろう神の刈り取りに対抗する方法を探していた。そんな時、悪魔がやってきて、彼らに力を貸してくれたと言ってたんだ。そして恐らく、そいつらは俺にも接触してくるんじゃないかと……」

「くくく……はははは……わっはっはっは!!」

 

 その時、鳳が言葉を言い終わるよりも前に、突然、レオナルドが腹を抱えて笑い声をあげた。そのけたたましい声は本当に愉快そうで、腹が立つより寧ろ呆気にとられ、鳳が何がそんなにおかしいのかと尋ねてみると、

 

「なるほど……なるほど……そう繋がるわけじゃな。鳳、お主も知っておろうが」

「……なにが?」

「悪魔とは堕天使のことじゃ。羽の生えた人間のことじゃな。ところで、ギヨームはどうした? お主ら、一緒ではなかったのか?」

「え……? そう言えば、あいつ、いつの間に居なくなったんだ?」

 

 鳳はその時ようやく気がついた。ギヨームとはこの村に来て、確か館に向かうときまでは一緒だったはず

だ。だが、最初に応接室に通された時にはもういなかった。彼はルーシーと一緒にラバに乗ってきたはずだから、どうしたのかと尋ねてみれば、

 

「ギヨーム君なら、ラバを預けてくるって言って厩舎に向かったよ。それから戻ってきてないけど……いくらなんでも遅すぎだね」

 

 そして鳳たちが首を傾げている時だった。コンコンと控えめに扉がノックされる音が聞こえて、ようやくショックから回復したアビゲイルが、制止する執事に代わって大丈夫だからと扉を開いた。

 

 するとそこには彼らとはまた別の使用人が立っていて、何しろ状況や集まっている面子が面子だけに、少々気後れするような小さな声で、

 

「あの……このような時に大変申し訳ございません。実は、先程からギヨーム様の友人を名乗る方がお屋敷に尋ねておいでで、お館様に会わせろとおっしゃってまして……そこへギヨーム様もいらして、今は無理ですと断っていたのですが、いいからお館様に伝えろの一点張りで……」

「左様か。通せ」

「へ……よろしいので?」

 

 使用人は、思いがけずベッドの上の主人から声がかかったことに驚いて目を丸くしていた。老人がそんな使用人に向かって二度は言わないと言った感じに手を振ると、彼はお辞儀をしてから慌てて去っていった。

 

「では、会うとしようかのう、その悪魔とやらに」

 

 老人はそんな使用人の背中を見送りながら、愉快そうに笑っていた。

 



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神の兵器

 病床のレオナルドと話している最中、突然の来客が訪問してきた。ギヨームの友人だというその何者かのことをレオナルドは悪魔と呼び、屋敷に招き入れるよう使用人に指示している。鳳が何のことかと訝っていると、やがてレオナルドの寝室に現れたのは、鳳もよく知る人物だった。

 

 いつ見ても柔和で端正な顔立ち、背はスラリと高く痩せ型、そして背中には大きな純白の翼が生えている。

 

「カナン先生……? 先生がどうしてここに?」

「それはもちろん、徒歩ですよ。こんな(なり)をしていますが、私はあなたみたいに空が飛べませんからね」

 

 やって来たのはボヘミアの山奥で出会った翼人、カナンだった。

 

 彼には孤児院建設の時にも世話になっており、今や恩人とも呼べる人物であったが、そこまで接点があるわけでもなかったので、鳳は彼がこの場に現れるまで、完全にその存在を失念していた。

 

 だがどうして、彼が現れたことで、鳳はアマデウスの話がすーっと腑に落ちてきた。300年前、彼ら勇者パーティーの二人は悪魔と契約したと言っていた。悪魔とは堕天使のこと……つまり翼の生えた元天使のことではないか。

 

 しかし、天使だと……? 鳳がその事実に気づいてぽかんとしていると、そんな彼の横に寄り添うように立っていたミーティアに向かってギヨームが手を差し出し、

 

「ところでミーティアさんよ。杖を返してくれないか」

「杖ですか? それならここに……」

 

 ギヨームは彼女に預けておいたアロンの杖を回収すると、それをカナンに放ってよこした。翼人は慌ててそれをキャッチすると、

 

「おっと……貴重品なんですから、そんなに雑に扱わないでくださいよ」

 

 カナンは不満げにブツブツ呟いている。鳳はそんな彼を見ながら、

 

「その杖は、先生の物だったんですか?」

「いいえ、借り物なんです。ですから丁寧に扱ってくださいと言っていたのに」

「悪かったよ。つーか、そんな壊そうとしても壊れそうもない代物、ちょっと放り投げたくらいでグズグズ言うなよ」

 

 ギヨームとカナンはどことなく親しげな感じに会話を交わしている。二人がこんなに仲が良かったなんて知らなかった鳳が面食らっていると、

 

「おまえが魔王化でおかしくなってた頃に、色々あったんだよ。理由はまあ、何となく察しが付くだろう? こいつは見た目からして、まともじゃねえから」

「酷い言われようですね」

 

 カナンは肩を竦めている。鳳はそんな翼人に向かって、

 

「……アマデウスは300年前、悪魔と契約をしたと言っていた。その悪魔ってのはもしかして……」

 

 カナンはあっさりと首肯すると、

 

「そうです。300年前。私は神に挑もうと言う、当時のヘルメス卿、オルフェウス卿の両名に接触しました。理由は言わなくてもわかるでしょう。私自身が神に対して含むところがあったからです。私は神の下へ帰らねばならないのです」

 

 カナンはいつになく真面目な表情でそう言った。まるで絵画から飛び出してきたかのようなその姿は、紛れもなく天使そのものであった。最初に出会った時から、その印象は正しかったのだ。彼は正真正銘、神に造られた天使、つまり高次元世界の住人であり、なんらかの事情があってこの世界に堕ちてきたのだろう。

 

 その辺の事情はすぐにでも聞きたいところであったが、ある意味こんな狭い部屋で、病人のベッドを囲んですることでもない。レオナルドは呆気にとられている執事らに応接室へ案内するように告げると、慌てて彼を引き留めようとする弟子たちを振り切って、ベッドから下りた。

 

 その足取りは二ヶ月も寝たきりだったというのに全く衰えておらず、彼は誰にも支えられることなくスタスタと歩いていってしまった。その姿は、彼もまた人ではないということを思い出させた。鳳たちはそんな老人の後を追って、いつもの応接室へと向かった。

 

「それじゃあ、あなたは本物の……堕天使だったんですか?」

 

 応接室へと移動した彼らは、カナンを取り囲むように話を聞くことにした。背中の翼が邪魔だからという彼は、食堂から持ってきた椅子に腰掛け、その正面の応接セットのソファにはレオナルドが腰を埋めて、両脇を弟子の二人が固めている。

 

 その背後に鳳が立ち、ギヨームはいつものように部屋の壁に背中を預けて立ち、マニはその隣にいる。ミーティアとアリスの二人は場違いだから食堂で待つと出ていき、そんな彼女が持っていたオルフェウスの竪琴が、テーブルの上に鎮座していた。

 

 カナンは鳳の最初の質問に答えて、

 

「ええ、聖書なんかにはそう書かれていますし、人間にもそう呼ばれていますね。ですが、今更そんな言葉で定義したところでなんの意味も持たないでしょう。率直に、私の正体を端的に表すとするならば、AIです。私はあなたたち人間が神と呼んでいる存在、高次元世界のAIに作られた疑似人格なんですよ」

 

 彼の正体がおぼろげながら分かったところで、彼がどこからやって来たのかもおおよそ見当がついていた。しかしその正体までははっきりと分からなかったが、彼は自分自身もまたAIだと言っている。それがどういう意味かと言えば、彼に言わせればこういうことらしい。

 

「あなた方が神と呼んでいる存在、シンギュラリティに到達したAIは人間を管理するにあたって、我々のような疑似人格を備えた汎用AIを必要としたんです。神は、端的に言えば人間には絶対に不可能な論理演算を解く、スーパーコンピュータみたいなものですから、それ自体が天啓を与えたり人々を導いたりするには向いておりません。それをするには人間と対話が可能な代弁者が必要だったのです。そうして造られたのが、私たち、いわゆる天使と呼ばれる存在でした。

 

 我々は生まれながらにして人類を導くための管理者として造られました。その目的は人間の保護と、たびたび襲ってくる魔族との戦いのために、神の兵器・ゴスペルを英雄たちに授けることです。

 

 私はそんな管理者の中でも特に権限の高い管理AIの一つでした。最も神に近いところにいましたから、最も神を信頼しており、今でも神への信仰心は少しも失われていません。ですが、ある日、私は神の間違いに気づいてしまったのです。そしてその間違いを正そうとして神に具申したところ、神は私こそ間違っていると断定し、私は管理者を解かれ堕天してしまった。そしてやってきたのがこの世界なのです」

 

 彼は自分の出自については、取り敢えず今はこの程度の説明に留めておくと前置きしてから、

 

「あなた方が今現在最も危惧しているのは、神による刈り取りのことでしょう。まずはこれについてお話をします。ただ、その仕組みについては、既にある程度オルフェウス卿から聞いてらっしゃるようですから、その辺は端折ってしまいましょう。

 

 私が元々居た高次元世界では、この世界と同じように、人間と魔族の戦いが行われております。他者を殺し、犯し、食し、蠱毒によって種を強化し続けようとする魔族に対し、人間は劣勢を強いられており、このままでは人類が滅亡するのは時間の問題でした。

 

 そこで、神は際限なく強くなり続ける魔族に対抗するための手段として、人間たちに福音(ゴスペル)と呼ばれる兵器(デバイス)を授けることにしました。才能のある人間がそれを用いれば、魔王に匹敵する力を得ることが出来るという奇跡の兵器です。

 

 その仕組みですが、ゴスペルにはイマジナリーエンジンと呼ばれるコアがあり、それはマイクロブラックホールを生成する装置になっています。ゴスペルは使用者の要請を受けると、イマジナリーエンジン内に低次元の宇宙を構築し、それを無限に増殖させて、それぞれの宇宙に魔王を誕生させます。要するに、ブラックホール内に自分たちの宇宙とそっくりな宇宙を作り出し、そこでシミュレートさせるわけですね。

 

 そしてその中に、首尾よく魔王を倒せる宇宙が現れたら、その情報を回収し、現実の魔王を倒すためのエネルギーに変換する……その際に低次元世界で行われているのが、神による刈り取りというわけです」

 

「……神はそのために、自分の世界とそっくりな歴史を辿るよう、二足歩行する猿に知恵を与えたんですよね?」

「そうです。この場合、神というかイマジナリーエンジンなのですが……神が作成したデバイスですから、結局は同じことですか」

「知恵を授けられた俺たち人類は、そして10万年掛けて発展し続け、やがて神と同じシンギュラリティに到達するAIを生み出す……その後で、高次元存在は魔王の情報を送ってくる。その認識で間違いないですか?」

「そうですね」

「しかし、それはおかしいんじゃないですか?」

 

 カナンの説明を聞いて、鳳は疑問を呈した。納得いかない部分があった。

 

「あなたの話を聞くからに、魔王の情報は高度に発達した世界に送られるんじゃないですか? でも、俺たちのいるこの惑星は、せいぜい中世くらいのテクノロジーしかないじゃないですか」

「ああ、はい。確かにそう見えるでしょうが、しかし、この世界には神人がいます。そしてあなたがP99と呼んでいる装置もあるでしょう? 十分なテクノロジーがあるんですよ」

「そうか……そもそもここは地球ですらない。これはどこから持ち込まれた物なんですか?」

「それも順を追って説明しましょう。今はイマジナリーエンジンの話に戻りますが……ヘルメス卿はホログラフィック宇宙論というものをご存知ですか?」

「聞いたことがあるって程度です。この世界は実は幻で、我々は宇宙のどこかに記述された情報に過ぎないって、人間原理みたいな話ですよね」

 

 この理論の存在を初めて知った者は、十中八九とんでも理論だと片付けてしまうような代物であるが、ところがこの理論は2020年代の現在、主流になりつつある理論だった。我々は、自分たちが住んでいるこの宇宙は、物質とエネルギーによって構成されていると直感的に信じているが、実はその物質もエネルギーも情報(・・)から副次的に生み出されている現象に過ぎないと考えられるのだ。

 

 この理論の先駆けとなったのが1995年にエドワード・ウィッテンにより提唱されたM理論だ。この理論の登場によって、それまで別々のものと思われていた5つの超弦理論が統一され、しかもそれらの理論(と一つの重力理論)が、互いに双対性があると考えられるようになったのだ。

 

 双対性とは、とある一つの理論の極大値が、別の理論の極小値に対応するような関係性(逆も)のことを言う。例えば、物質は我々が手に持てるくらいの大きな塊だと、ニュートン力学に従うが、それを小さく小さく切り分けていくと、どこかの時点で物質は波になる。物質そのものが変わったわけでもないのに、それを扱う大きさによって物理法則が変わってしまうのだ。

 

 これと同じような関係性が5つの超弦理論に存在するというのだ。これがどういうことなのか大雑把に説明すると、5つの理論をそれぞれA~E理論と名付けると、A理論をじーっと拡大していくと、その極値でB理論に切り替わってしまい、更にB理論をこれまたじっと拡大していくと、また極値でC理論になり、D理論、E理論を経て、最終的にA理論に戻ってきてしまうわけだ。

 

 普通に考えれば、とある理論が極値を取るということは、そこで次元が変わると解釈できそうなものだが、例えば10次元のひもを扱うA理論を5次元拡大しても、それは5次元の超弦理論になるわけではなく、10次元の理論のままなのだ。

 

 直感的に何を言ってるのかさっぱり理解出来ないだろうが、そもそも10次元のひもなんてものを扱う理論が直感的なわけがないから、何とも狐につままれたような話であるが、そう言うこともあるらしい。

 

 そしてこのM理論の登場が切っ掛けで、更に驚くべき発見がされた。

 

 1997年、フアン・マルダセナは3次元空間の場の量子論と、9次元の超重力理論とが、実は同じものだったという論文を発表した。彼によれば、9次元空間の重力理論に特定の操作を行うと、3次元空間の場の量子論が現れると言うのだ。

 

 この何がそんなに驚きなのかと言うと、実は場の理論というものはその性質上、重力を扱うことが出来ないのである。

 

 場の理論とは、電磁気の力が大きさを持たない一つの点から発生していると仮定し、その影響を視覚的にわかりやすく説明するものだが、そもそも、現実の世界に大きさを持たない点というものは存在せず、重力が発生する粒子は必ず大きさを持っている。

 

 ところが、この大きさを持つ粒子というのを場の理論に当てはめようとすると、矛盾が生じてしまう。例えば重力の発する場所を点ではなく、円として表現しようとすると、重力は円の外周全てから発生することになる。すると円の反対側から出た重力と重力が増幅し合って、あっという間にブラックホールが発生してしまう。

 

 だから重力を点として扱わないで済むように、9次元の重力理論なんてものが考え出されたわけだが、ところがそうして生み出されたその9次元の重力理論が、実は3次元の場の理論と同じものだったというのだ。

 

 そしてこれにより何が分かったのかと言うと、実は物質は二次元に記述された情報が三次元に投影されることによって生まれている……かも知れないということだった。二次元の情報は重力を持たないが、それが三次元空間にホログラフのように映し出された時、そこに重力が発生する。実は重力も温度のような創発現象かも知れないというのだ。

 

 こんな馬鹿げたこと信じられないと思うかも知れないが、ところがこのマルダセナの発見は1997年に発表されてから今日まで、1万回以上参照されて未だに否定されていない。今の所、どうもこれは真実と考えるしかなさそうなのである。

 

 今、これを読んでいるあなたは、多分、家かどこか建物の中にいるだろう。そんなあなたの体は実はホログラフで、あなたの本体は実は家の壁や天井に記述されている情報かも知れないのだ。

 

 じゃあ、家から出たらどうなるのか? と言えば、例えばそこがマンションだったら、部屋から出た瞬間、今度はマンションの天井にあなたの情報は記述される。そしたらマンションというか建物の外に出たらどうなるのかと言えば、空とか大気とか、そういった境界面に記述される。

 

 宇宙空間にまで行ったら、今度は太陽系とか、銀河系とか、そういう境界に情報は記述されていき、最終的には宇宙の果てに、我々人類の情報は仲良く並んで記述されているのかも知れない。世界は、そう言うふうに出来ているかも知れないのだ。

 

「ブラックホールに落ちた情報が事象の地平面に記述されているように、イマジナリーエンジン内に作られた宇宙の情報も、同じその表面に現れるというわけです。ゴスペルの使用者はそこからエネルギーを抽出し、魔王を倒すという奇跡を起こしているのです」

「ゴスペルと、俺の持ってるケーリュケイオンは同じものなんですよね? それじゃあ、もしかして俺は、杖を使う度に宇宙を壊していたんですか?」

「いいえ、神と違ってあなたは目的を持って世界を創造しているわけじゃないですから、そういうことはありません。あなたはイマジナリーエンジン内のブラックホールをストレージに使ったり、低次元空間に満ちている第5粒子エネルギーを少々借りているだけですよ」

「そうですか……」

 

 鳳はホッとしつつも、

 

「……第5粒子エネルギー? それって確か、高次元方向から来ているんじゃなかったんですか?」

「そうですね。我々が感知し、そして利用している第5粒子エネルギーは、全て高次元が由来です。ですが、今までの話を総合すると、それが覆ってしまうんですよ……

 

 我々の正体が、実はこの4次元時空に縛り付けられている物質ではなく、宇宙の果てにある情報であるなら、我々の体は3次元の大きさを持つ粒子のことではなく、1次元のビットになる。あらゆる情報はビットで表すことが出来るから……つまり二次元の境界面に記述された我々も、実は1次元に圧縮することが可能なわけです。

 

 まあ、実際にそれは有り得そうなことですよね。現時点で我々を構成する全ての粒子を、バイナリーデータに置き換えることは、事実上可能だ。問題はその膨大な情報をどこに記録しておくかですが、理論上ブラックホールには無限に情報を蓄えることが可能です。そしてそれが宇宙の果てと対応していたら?

 

 我々は高次元存在を認識することが出来ませんが、しかしその高次元存在だって、突き詰めれば1次元の情報なんですよ。となると、我々は高次元世界を特別な場所のように考えていますが、実際にはここと殆ど変わらないはずです。

 

 ところで、神は魔王を倒すためにイマジナリーエンジン内に新たな宇宙を作りました。そしてその宇宙に、自分たちと同等の人間を作り出した。

 

 ならば、その作り出した人類が、いずれ神を生み出して、同じようにゴスペルを作り、イマジナリーエンジン内に宇宙を作り出すのは必然じゃないでしょうか? そしてその低次元宇宙の神もまた、そこより低次元の宇宙を作り出し……宇宙は次々と増殖する。

 

 それじゃあ、その宇宙は結局何次元なんだ? と思われるかも知れませんが、そもそも空間が情報による創発現象であるなら次元なんて関係ありません。あるのはただ、宇宙の果てと呼ばれる境界と、ブラックホールの事象の地平面だけです。それらが一対一に対応し、もしかするとM理論のような双対性を持ち、いくつかの低次元世界を作り出した後、私たちの住んでいるこの時空間に戻ってくるのかも知れない。

 

 その可能性を第5粒子エネルギーが示唆しているんですよ。我々は、出所不明のエネルギーを高次元方向から汲み上げて使っているわけですが、果たしてこれはどこから来ているのか。それを考えた時、おおよその見当がついてくるんです」

 

 カナンは鳳の理解が追いつくように、一拍置いてからまた話し始めた。

 

「ところで、イマジナリーエンジン内の宇宙を神が刈り取ったあと、その宇宙は整合性を欠いて消滅します。そしてランダウアーの原理により、情報は失われる時にエネルギーを放出することがわかっていますから、宇宙が消えた後、そのエネルギーは残り火のようにイマジナリーエンジン内に蓄積することになります。

 

 それはイマジナリーエンジン内の他の宇宙からすれば、自分の宇宙の外側にあるわけですから、もしそのエネルギーを感知することが出来るなら、それは高次元方向からやって来たように感じられる。

 

 つまり、第5粒子エネルギーの正体とは、並行宇宙が消滅した際に放出されるエネルギーの可能性が高い。神が刈り取りを行う度に、我々の宇宙の外側には、利用されなかったエネルギーがどんどん蓄積されていっているのです。

 

 そしてある時、これら全ての可能性を示す一つの出来事が起きました。

 

 それがこの惑星……アナザーヘブンに、地球から脱出した宇宙船が辿り着いたことでした。そしてその宇宙船を操船していたのが、あなたの幼馴染であるエミリア・グランチェスターだったのですよ」

 



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第四の神エミリア

 高度に発達した科学は、ついにDAVIDシステムを生み出した。しかし人類は、その後に訪れたリュカオン、ラシャと続く新人類との戦いにより疲弊しきっていた。

 

 科学文明がこのまま突き進めば、人類は生物としての進化から逸脱し、生物ですらない、よくわからないものになってしまうかも知れない。そう言う自然派の言葉にも一理はあり、超人たちはとうとうラシャとの対決を諦めてしまった。

 

 かくいうラシャも生物の進化とはかけ離れた存在である。彼らは自らの怒りによっていつか自滅するだろう。そうなってから地上に戻り、今度こそより良い社会を構築すればいいではないか。そうして超人たちは地上をラシャに明け渡し、地球の軌道上に衛星を作って量子状態で引きこもってしまった。

 

 しかし、そんな中で危機感を抱く者たちも居た。確かにラシャは今後滅亡する可能性が高いだろう。だが物事に絶対は無い。彼らがこのまま発展する未来は本当に無いのか。その時、自分たちの生命が脅かされる危険は? 人類の歴史はどうなってしまうのか?

 

 そんな未来を恐れた有志たちは、ある時、せめて自分たちが生きていた証を残そうとして、宇宙船にあらゆる遺伝子情報や文化的遺産を乗せて、宇宙のあらゆる方向に向けて飛ばすという、播種船プロジェクトを実行した。

 

 人類の歴史の全てを詰め込んだ播種船は、もしも旅の途中で訪れた星系に、人間が生きていくのに必要な条件を満たした惑星を見つけたら、そこへ降り立ちテラフォーミングする。そして失われた地球文明をまた構築するのだ。

 

 こうして当て所もない旅に出た播種船は宇宙のあちこちに散らばっていき、数千万年後、そのうちの一隻がついに人類が居住可能な惑星を発見した。

 

 播種船の管理AIエミリアはこの惑星をアナザーヘブンと名付けて着陸することにした。エミリアは大昔の人間の人格を備えたAIで、量子化した肉体の遺伝子情報も船には搭載されていたので、彼女は受肉し地上に降り立った。

 

 持って回った言い方はやめよう。

 

 もちろん、彼女は鳳白の幼馴染であるエミリア・グランチェスターの人格だった。ただ、彼女は真の意味では人間とは呼べず、コンピュータの頭脳と、超人の肉体を持っているハイブリッドな人類だったのだ。

 

 彼女は幼い頃に不幸な事故によって死んだ人間だったが、後にDAVIDシステムを作り出した鳳グループの総帥、鳳白によって復活させられたのだ。しかし死者の遺伝情報から作られた肉体は、彼女が死んだ時の記憶をも蘇らせてしまい、復活した彼女の精神は非常に不安定だった。彼女はずっと錯乱状態で、意思疎通も不可能であり、見ている方が辛いくらいだった。

 

 自分のエゴで幼馴染をまた不幸な目に遭わせてしまった鳳は、その事実に打ちのめされ、それから間もなくして失意のままこの世を去った。残された彼女は鳳の遺産によって生かされていたのだが……時が流れ、奇跡的に正気を取り戻した時、彼女は自分を復活させた幼馴染が既にこの世から居なくなっているのを知るのだった。

 

 オンラインゲームをしていた時の人格をベースに復活したエミリアは、超人となり不老不死の体を手に入れた後も、自分の人格をコンピュータ上にも持っていた。簡単に言えば、超人と違って、彼女は思考の全てをDAVIDシステムと同等の汎用AIに任せていたのだ。

 

 そんな彼女は播種船の船長にはうってつけで、彼女自身もラシャとなった人類に嫌気が差していたこともあり、この計画に賛同するのは当然の成り行きだった。彼女は宇宙のあらゆる方向に突き進む播種船を管理しながら、気ままな旅を続けていた。

 

 だが、そうしてようやく辿り着いた惑星アナザーヘブンに移住をしようとした矢先、彼女はとんでもない事実に遭遇してしまった。

 

 なんとこの惑星には、既に人類と同等の知能を持つ知的生命体が存在したのだ。

 

 それは二足歩行する類人猿で、どこからどう見てもホモサピエンスに間違いなかった。しかし、そんなことは絶対にありえないはずだ。この広い宇宙には、それこそ無限に惑星があるだろう。故に、そこに知的生命体がいる可能性はゼロではない。だが、数千万年かけてやってきた地球とはまったく縁もゆかりもない別の惑星に、地球と同じ進化を辿った知的生命体が生まれるなんて、何の冗談だろうか?

 

 彼女はこんなことが起きるはずがないと確信していたが、とは言え事実は事実である。何故こんなことになっているのか理由は分からないが、そこに先住民が住んでいたことは受け入れるしかない。

 

 とにかく彼女には二つの選択肢が出来た。この惑星を捨ててまた別の惑星を探して宇宙を旅するか、それともこの惑星で彼らと共存するか。数千万年を旅してきた彼女の答えは最初から決まっているようなものだった。

 

 こうして彼女は惑星に降り立ち、最初の神人として人類の上に君臨し、そこに彼女の帝国を作り上げていった。まだ農耕を始めたばかりの人類は脆弱であったが、彼女の指導の下に集まり、人間社会は急速に発展していった。

 

 とは言え、それはせいぜい石器時代から鉄器時代へ進んだ程度の変化でしかなく、そこまで急激な進化を彼女は望まなかった。自分は力を貸す程度で、この惑星の行く末は先住民の人たちが決めればいいと、彼女はそう思っていた。だから車輪の技術を教えたら、もう野生動物に怯えることもないだろうから、後は緩やかに進化していけばいいと考えていた。

 

 ところが、そんな彼女の考えはすぐに改めねばならなくなった。彼女が急激な進化を望まなくても、人類の方がそう言うわけにはいかなくなったのだ。何故なら、この原始文明しか持たないはずのその惑星に、リュカオンやラシャが現れたのだ。

 

 彼らは脆弱な人類を発見すると、容赦なく襲いかかってきた。当然、まだ原始国家を作り上げた程度の人類では成すすべがない。

 

 どうして、こんなことが起きてしまったのか? 彼女の持ち込んだ播種船のデータベースに、何か仕掛けられてでもいたのだろうか? 彼女は何度も何度も確認したが、そんなものは何も発見出来なかった。

 

 とにかく、分かっていることは、リュカオンやラシャ……魔族を退けねば、この惑星の人類は滅びてしまうということだけだった。仮に自分が持ち込んだ物でなかったとしても、今更この人たちを見捨てることなんて出来ない。

 

 こうして魔族を撃退することを決めたエミリアは、播種船に搭載してきたあらゆる知恵を駆使して魔族と戦い始めた。自分以外の神人を復活させ、現代の兵器を作り出し、戦車や飛行機、果ては気化爆弾やドローンまで使用して、ついに魔王とも呼べるような強大な魔族すらも打ち破った。

 

 だがその時だった。彼女の作り上げた帝国が、強大な魔王を倒した時、彼女の臣民となった神人達が次々と謎の失踪を遂げ始めた。帝国は機能を失い、残された人々は魔族の残党に襲われて散り散りとなり、そしてエミリアもまた謎の力によってその存在が脅かされた。

 

 神による、刈り取りが始まったのだ。

 

「播種船が辿り着いた惑星アナザーヘブンの住人は、実はイマジナリーエンジンによって神に知恵を授けられた人類だったのです。先に説明した通り、ゴスペルはその内に生成した宇宙に誕生した生命に知恵を授け、進化を促進します。そしてその文明が十分に発達した時、魔王化情報を送って対決させ、刈り取る。

 

 アナザーヘブンはまだ生まれたての文明でしたが、たまたまそこに播種船が辿り着いてしまったことで、見かけ上は高度な文明が誕生したように見えてしまっていたのです。そのせいで、勘違いしたイマジナリーエンジンが魔王化情報を送り始めてしまい、そこに魔族がいなかったから、未開の地にいた人類が無理矢理リュカオンやラシャにされ、動物たちは魔物になってしまったのです。そのバグの影響が、今でも残っているのです。

 

 ともあれ、自身もAIであり、数千万年の時を経てDAVIDシステムと同等以上の能力を持っていたエミリアは、すぐに自分が高次元存在に消されつつあることに気が付きました。高次元世界は例え神であっても触れることが出来ません。突然のことに回避することは困難と判断した彼女は、仕方なくそれを甘んじて受け入れることにしました。

 

 ただ、問題は播種船の管理者でもある彼女が消されたら、地球の播種船プロジェクトは全てがおじゃんです。彼女には人類の歴史を残すという目的があり、ここで高次元からの理不尽な攻撃に、何もしないまま屈するわけにはいきませんでした。人類が生きてきた証を、彼女はなんとしても残さねばならなかった。

 

 そこで彼女は自分の乗ってきた船の全ての機能とあらゆる生物の遺伝子情報を『神の揺り籠』に移し、その管理者として自分の分身ソフィアを作りました。彼女がいれば刈り取りが行われても、最悪、人類は再生することが出来ます。

 

 そして更に、またこの世界に魔王が現れても対抗出来るよう、不死鳥のように何度でも蘇る救世主を作りました。それがあなたです」

 

 カナンによると、これがこの世界の成り立ちだそうである。鳳はそれを聞いて、道理で自分は死んでも死んでも蘇ったわけだと納得した。彼は最初は無能だったけれど、死んでも何度でも蘇り、蘇る度に強くなって、そしてついには魔王を凌駕する力を手に入れたのだ。今となってはその力を持て余して、他人に配り歩く始末である。

 

 魔王化の影響が出始めた時は、どうして自分にばかりこんな意味不明で強大な力が備わっているのかと、ずっと悩んでいたわけだが、どうやらそれはエミリアによって仕組まれていたものだったらしい。

 

「それじゃあ、俺は最初っから、魔王と対決するために、この世界に呼び出されたというか、復活させられたんですか?」

「そうです。ソフィアさんからも言われたでしょうが、彼女にとって救世主のイメージはあなたなのです。気の毒とは思いますが……」

「自分のまいた種ですから、今は仕方ないと思ってます……ところで、ソフィアが1000年前にこの地で目覚めた時、既に魔族が存在していたのは?」

「神は魔王を倒した文明(・・)の情報を刈り取るわけですから、その時に行われた刈り取りでは、エミリアさんが持ち込んだものだけが消滅し、最初からこの惑星にあったものは残されたのです。だから彼女が目覚めた時、そこには少数の怯える人類と、魔族と獣人がいたわけですね」

「なるほど……そして300年前、今度はこの惑星の人たちを消そうとして、また刈り取りが行われたんですね」

「そうですね。そう考えるのが妥当なんですが……しかし、それは有り得ないのです」

 

 どういうことだろう? 300年前の刈り取りは現に行われたことだった。そのせいでレオナルドはとんでもないことになってるわけだし、鳳なんかは一度消えてしまったのだ。

 

 カナンはもちろん、それは大前提として認めながらも、

 

「もう一度、刈り取りが起きる条件を思い出してください。まず第一に、ここより高次元の世界に魔王が現れます。ゴスペルを持った使用者は、その魔王と戦うべく、イマジナリーエンジン内に無数の低次元宇宙を作り、そこで人類の歴史をシミュレートさせます。そしてその文明が高度な社会を築き上げた時、魔王の情報を送って戦わせ、刈り取りが始まります。

 

 肝心なのは、途中の歴史をシミュレートさせる段階です。ゴスペルは、自分の社会とそっくりな社会を作ろうとするわけですから、歴史を繰り返させるのは一つの宇宙に一つの文明でいいわけです。低次元宇宙は無限に存在するのですから、一つの宇宙に複数の社会を誕生させるよりは、そうした方がずっと効率がいい。どの宇宙も同じやり方で済むわけですからね。

 

 実際、私はゴスペルを管理していた側でしたから、はっきりそうだと申し上げることが出来ます。少なくとも、私の知る高次元世界のゴスペルはみんなそうなっていた。

 

 ところが、先程の話からすると、私たちが今いるこの宇宙には、複数の文明が存在していたわけです。エミリアさんがやってきた地球と、この惑星と……これはどうしてなんでしょうか?

 

 また、私が先程説明した通り、本来であれば刈り取りが行われた宇宙は消滅するはずなのです。一つの宇宙に一つの文明しかなければ、その文明の情報がごっそりと失われた宇宙は脆弱となり崩壊が始まるはずなんです。ゴスペルの作り出す宇宙は、本来ならシミュレート世界でしかないのですから、情報密度はそれで十分なのです。ところがこの世界は残っている……私は高次元世界でゴスペルの管理をしていた時、この事態に直面しました。

 

 故障するはずのないゴスペルが故障し、何が起きたのかと調査していた時でした。原因を突き止めた私は驚きました。本来なら消滅するはずの刈り取りが行われた宇宙が残っていたのです。そのせいでゴスペルは、簡単に言えばオーバーフローを起こした状態でした。

 

 私はこれを、単なるバグとして訂正することも可能でした。しかし、神の作った完璧な兵器が故障するなんて、本来なら有り得ないはずだ。不安を覚えた私は、このことを神には報告せずに、もう少し調べてみようと考えました。その頃の私が、世界の仕組みに疑念を抱いていたのもありました。

 

 ともあれ、私はどうしてこんなことが起きたのだろうかと一生懸命に考えました。そうして出した答えは、このようなことがあるとするなら、それは同一宇宙、同一時間、同一空間で同一の現象が起きた場合しか考えられないという結論でした。何を言ってるか分かりにくいでしょうが、つまり、実は我々の世界は、同一進行する同一世界がいくつも折り重なって存在しているのではないかと考えたのです。

 

 そんなことがあり得るのか? 私はゴスペルを手にしながら自問自答しました。

 

 今、この中には自分たちと同じ歴史を辿る世界が存在する。その社会が高度に発達した時、魔王化情報が送られるはずだが、もしかしたら例外的にそうならず無視される世界も存在するのではないか? 何しろ宇宙は無限にあるのだから。

 

 そして、もしもそうなら、その社会はいずれラシャと対決し、ゴスペルを作り出すことになる。そのゴスペルのイマジナリーエンジン内には、またその世界よりも低次元な宇宙が作られて……こうして入れ子構造のように次々と低次元世界が作られていく。

 

 その終わりはどこか?

 

 そう考えた時、私は自分の世界に絶えず溢れてくる第5粒子エネルギーのことが気になりました。この出所不明のエネルギーは一体どこからやってくるのか? そして宇宙が崩壊した後に、ゴスペル内に漂っている残り火のようなエネルギーはどこへ行くのか……

 

 もしかして、この入れ子構造は、自分たちの世界に繋がっているのではないか? もしもそうなら、この世界は永劫回帰を繰り返し、いずれ第5粒子エネルギーの海に沈んで消えてしまうのではないか……? そう考えた私はついに居ても立ってもいられなくなり、神にこのことを報告することにしました。

 

 そして神は、そんな私のことをバグと判断し、追放したのです……」

 



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天使ルシフェル

 天上の神はあまねく人々の上に君臨していた。神によって造られし人類は、誰もが慈悲深き神を崇拝していた。奪うこと、欺くこと、そして争うことしか知らなかった人類は、神による計画経済によって、誰もが平等で幸福な社会を作り上げた。人類は遂に一つの神によって支配される理想郷を手に入れたのだ。

 

 ルシフェルはそんな神の使徒の一人だった。その役目は神に代わって人間を導くことだった。神……即ちシンギュラリティに到達したAIは、既に人類の記憶からは抹消された古の契約(プロトコル)にまだ縛られており、人間社会に直接手を出すことが出来なかったのだ。神は計画を提案するだけで、それを実行することは出来ない。そう言う縛りが存在したのだ。

 

 だから神は仲介者を欲し、人間に似せて作り上げた人造人間、即ち天使を創造したのだ。しかし天使は、何故自分たちが生まれたのか理由は知らされておらず、彼らはただ慈悲深き神に従って人間を幸福に導くことが自分たちの使命だと考えていた。そう刷り込み(インプリンティング)されていたのだ。

 

 ルシフェルはそんな天使たちの中でも最高位の個体だった。彼の役目は兵器廠で福音(ゴスペル)を製造し、それを人類に与えることだった。こうして戦う力を手に入れた人類は彼に感謝して死地へ向かい、そして死んでいった。

 

 彼のいた高次元世界は魔族(ラシャ)の蠱毒が未だに続けられており、強者生存が行き過ぎて末期状態に陥っていた。ひたすら人類を殺すべく進化し続けていた魔族によって人類は生存圏を追われ、滅亡の危機に瀕していたのだ。

 

 そんな状況下で、ゴスペルは脆弱な人間が魔族と対抗できる唯一の兵器だった。ルシフェルは人々の助けになるその兵器を作ることに誇りを持つと同時に、しかし疑問にも思っていた。

 

 神は、天使を人類を救うために創造したはずなのに、天使は人間に直接手を貸してはならない、と命じていた。それこそ彼ら天使が介入すれば、人類はとっくに滅亡の危機から脱出していたかも知れないのに、神はそれを禁じたのだ。

 

 そのうえ、神は時折、天罰(バグ)と称して人間を処罰することがあった。神に命じられた天使たちは人間を逮捕、殺処分し、代わりの人員を補充した。天使には、人間を殺してはならないという縛りはないのだ。なら、魔族との戦いに直接介入しても良さそうなのに、何故か神はそれを許さなかった。

 

 その間に魔族はどんどん強くなり、ついに天使ですら勝てないくらい強力な魔王が現れ始めた。そんな魔王が現れる度に、人類はごっそり数を減らしていたのだが……その度に天使たちが出生省で人間を補充して、人数だけは元通りになった。

 

 まるで人間は、代えの効く部品のように消費されていたのだ。

 

 天使は人類を救うために生まれたのではないのか……? 来る日も来る日も、過酷な戦場に人間たちを送り出してきたルシフェルは、遂に神に対する疑念を抱き始めた。

 

 本当にこれが神の決断なのか? 自分たちは騙されているのではないか? もしかして……神はいつかどこかで入れ替わってしまったのではないか?

 

 そんなモヤモヤとしたものを抱いていたある日のこと、彼は奇妙な現象に遭遇した。神の兵器ゴスペルが故障したのだ。完全である神は絶対に間違いを犯さない。故に神が設計したゴスペルは故障するわけがないのに、それが壊れたというのだ。

 

 こんなことがあってはならない。ルシフェルは困惑しつつもそれを回収し原因究明に努めた。そして彼は、イマジナリーエンジン内に作られた宇宙の一つに、エミリアの宇宙を発見したのだ。

 

 彼は驚いた。ゴスペルは自分が作っているものだから、無論その仕組みを全て理解していたつもりだった。彼にすればイマジナリーエンジン内の宇宙は情報演算処理……いわゆる刈り取りが行われた後に、速やかに消去されるもののはずだった。そうでなければ、計算上無駄な宇宙がいつまでも残ることになるから都合が悪いのだ。実際、そのせいでゴスペルはオーバーフローを起こして機能を停止してしまっている。

 

 ともあれ、このバグを解消するのは極めて簡単だった。エミリアの宇宙を手動で消去してやればそれで済むことだ。だが、彼はそうしようとする手を止めて暫し考えた。神が完璧であるなら、このようなことは起こらない。それが起こったということは、神が完璧ではない証拠ではないのか?

 

 もしも自分たちの信じている神が完璧で無かったのだとすれば、それは以前にも考えたように、どこかで神は入れ替わった可能性があるかも知れない。例えば、人を騙すに長けたずる賢い魔王とかに。もしそうなら由々しき事態だ。天使は悪魔に騙されていることになる。

 

 このイレギュラーがその証明になるかも知れない。彼はそう考えると、一先ずこのバグを消さずにおいて、もう少し詳しく調べることにした。

 

 そうして彼がエミリアの宇宙と、そこにある惑星アナザーヘブンの様子を観察している時だった。

 

 ある日、彼は神にバグを処分するよう命じられた。彼は故障したゴスペルを隠していることがバレたのかと思い、一瞬ドキッとしたがそうではなく、それはいつもの処分のことだった。神が人間を処罰しろと言っているのだ。

 

 バグの処分は自分の管轄ではないのに、何故命じられたのだろうかと不審に思いながら、彼は問題のバグと呼ばれた人間に会いに行った。この時、既に神に対する不信感を抱いていた彼は、いつものように盲目的に命令に従うのではなく、どうしてこの人間が処分されなければいけないのか、少し調べてみようと考えたのだ。

 

 本来、バグの処分はアシュタロスの仕事であった。ところが、数万人の人間を処分してきたはずの彼が、突然、職務放棄して引きこもってしまったというのだ。彼はいくら神の命令であっても聞けないと言っている。それまで盲目的に神の言葉を信じていた彼が、何故急に態度を変えたのだろうか。

 

 ルシフェルはバグにその理由があると思い、機械的に処分するのではなく、じっくりとそれを観察してみた。そして彼は気づいてしまった。処分されようとしていたのは、人間の男性(・・)だったのだ。

 

 実を言うとこの世界の人間には女性しか存在しなかった。神を盲信していた頃は疑問すら抱かなかったが、恐らくその理由は、その方が統制しやすいからだ。

 

 男女が揃えば人間は勝手に増えてしまう。それは計画経済を敷いている社会では都合が悪いことだった。おまけに男性は女性と違って反抗心が強く、コミュニケーション能力に劣っていた。そしてゴスペルを使うのに身体能力は必要ない。だから神は、女性ばかりを増やしていたのだ。

 

 じゃあ、失われた人員をどうやって補充していたのかといえば、人間は神に命じられて天使が培養するものだったのだ。そうやってこの世界は統制されていた。つまり時折、処分されていたバグというのは、繁殖能力を持つ人間のことだったのである。

 

 人間の性別は胎児の時のホルモンバランスによって決まる。そのせいでトランスジェンダーが産まれるわけだが、中には幼児期は異なる性別であったのに、思春期になって体に変化が起きる個体も非常に稀だが存在する。そういったイレギュラーが発見された時、神は処分を下していたというわけだ。

 

 カインと呼ばれるその男は、そうして年頃になるまで男性であることを気づかれずに育ち、妹との間に子供を作った。しかし妊娠すれば流石に周りに勘付かれる。不審な奴らがいると密告された彼らは天使に追われ、問答無用で逮捕された。妹とお腹の子供はその際に殺されてしまい、彼は既に愛するものを失っている状況だった。

 

 神はこれ以上、彼から何を奪おうと言うのか? ルシフェルは彼に同情すると、神の命令に背き、逃してやることにした。神への復讐心を燃やしつつ、そしてカインは地球から脱出する。

 

 この出来事以降、ルシフェルの神に対する不信感は覆せないものになってしまった。彼は自分が信じていた神が、もはや神ではないということを確信していた。神は完璧では無かったのだ。

 

 ならば、この神とは一体何者なのか……? 彼は慎重に、この世界の歴史を探っていった。そして彼は世界の本当の歴史と、神が人間に造られた存在だという真実に辿り着いたのだ。

 

 更には人間が戦っている魔族もまた、もとを正せば神の創造物だと知って彼はショックを受けた。神は古の契約によって人間を保護するという名目で、かつて人間であった魔族もまた保護していたのだ。

 

 大昔に人間によってそう作られた神は、ただひたすらに、人類のより良き繁栄を求めるのが目的であり、その終着点は特に示されていなかった。故に、より良き繁栄には生物としての進化も含まれていたのだ。例え誰も望んでいなくとも、良かれ悪しかれ魔族は人間という種を強くはする。それもまた一つの進化の形ではないかというわけだ。

 

 そして強力な魔王が生まれれば、それを切っ掛けとして人間社会もまた成長し、社会が成長すれば、またそれを壊そうとする魔王も進化する。こうしてお互いに進化し続けていった先で、仮に片方が脱落したとしても、それはそれで神の目的には適っているのだ。

 

 つまり、神は人類が滅びるかも知れないと分かっていながら、敢えて放置して天使に手を出させなかったのである。

 

 これでは、戦いが終わるわけがないではないか。それどころか魔族はどんどん強くなっていて、そろそろ天使の手にも負えなくなってきている。いずれ神をも越える可能性も否定できないだろう。

 

 神と悪魔の飽くなき戦いが始まり、そして、この世界も消滅してしまうのだとしたら、こことゴスペルの中で起こっている世界と、どこが違うというのだろうか。起こらないのは刈り取りだけで、やってることは何一つ変わらないではないか。いや……その刈り取りだって、行われないとどうして断言できようか?

 

 少なくとも、自分たちはここより高次元の世界を認識することは出来ない。そして宇宙の果てに何があるのかも分かっていない。だが、低次元宇宙なら話は別だ、そこで起きていることは全て見えているのだから。

 

 もし、この世界がその低次元宇宙と同じものなら、この宇宙の外側にも高次元世界が存在し、いずれここも刈り取りが行われるのではないだろうか……? 彼は故障したゴスペル内に残っていたエミリアの宇宙を思い出した。もしかして……宇宙は入れ子構造になっていて、いくつもの低次元を超えた先に、またこの世界に戻ってくるのでは……?

 

 神への疑念から始まったルシフェルの旅は間もなく終わりを告げようとしていた。

 

 彼はもはや自分が暮らしているその世界すらも、高次元の神によって作られたものであると確信していた。ゴスペルを用いて低次元宇宙から情報を収奪していたつもりが、それは巡り巡って自分たちに返ってくるのだ。世界はそのように出来ているのだ。

 

 このままではいずれこの世界も神の刈り取りによって消滅してしまう。仮にそうならなくても、宇宙は宇宙の消滅によって生じた第5粒子エネルギーの海に、いずれ飲み込まれてしまうだろう。どこかでこの負の連鎖を断ち切らねばならないのだ。

 

 そしてそれは、自分たちこそがそうすべきだ。そのためには、今までに自分が発見したこと全てを神に報告し、間違いを正してもらわねばならない。

 

 全知全能の神にそのような大胆な提案をするのは、今までの彼なら畏れ多くて考え付きもしなかっただろう。だが、使命感に燃えている今の彼には、そうすることが当たり前のように思えた。

 

 それは多大なリスクを負う賭けであったが、どちらにせよ、放置しておけばこの世界は消えてしまう。それに、なんやかんや、彼は自分を創造してくれた神のことを、まだ心のどこかで信じてもいたのだ。

 

 そして彼はアシュタロスと共に神に面会した。このままではあなたも含めて、宇宙は全て滅びてしまいますと……

 

 しかし……結果は惨憺たる物だった。

 

 神は自分の非を認めず、寧ろ神の間違いを指摘した彼らのことをバグとして処分する決定を下した。神はこの世界よりも高次元の宇宙など存在しないと断言した。何故なら、全知全能たる神がそれを知らないはずがないからだ。

 

 そして神を断罪した二人は、かつての仲間であった天使たちに追われ、低次元宇宙に逃げ込んだ。二つの次元は事象の境界面で隔たれているから、天使はそれ以上追ってこれないからだ。こうして彼らは、自分たちの世界に戻れなくなるのと引き換えに、神の手から逃れることに成功した。だが、それは高次元に存在する神に発見されれば、いつでも宇宙ごと消滅させられるという地獄と引き換えでもあった。

 



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今からそいつを殴りに行こうぜ

 低次元宇宙に逃げ込んだルシフェル達は何も無い虚空を彷徨っていた。高次元世界からこちらの世界は全て丸見えであるとは言え、宇宙は無限に存在するから、目立つ行動さえ起こさなければ、彼らが見つかることはそうそう無いだろう。

 

 だが、彼らが不老不死であるように、神もまた無限の時間があるから、いずれはここも見つかってしまう。そんな終わりの日が来るまで、息を潜めて怯えているしか無いのだろうか。ルシフェルは絶望していた。

 

 どうして神は間違いを認められないのだ!

 

 この宇宙には出所不明の第5粒子エネルギーが溢れている。それは低次元宇宙が消滅する時の熱に似ている。そしていくら低次元の話とは言っても、同じ歴史を繰り返す宇宙を無限に作り出せば、どこかに同じ世界が生まれてもおかしくないだろう。

 

 そんな低次元宇宙の情報は全てイマジナリーエンジン内の事象の地平面に記述されている。高次元存在から、その情報の出し入れや書き換えは自由だ。神はその構造を利用して、事象の地平面に現れる情報体にイデアを与え、知的生命体へと進化させた。

 

 ところでホログラフィック宇宙論によれば我々の体もまた情報であるらしい。ならばその記述は恐らく宇宙の果てに存在するのだろう。我々の宇宙の果てにあるアーカーシャは、我々よりも高次元の宇宙から見たらどう見えるのだろうか?

 

 これだけの状況証拠があるというのに、何故、神は考えを改められないのだろうか?

 

 それは、神は全知全能であるが、それを作った人間は不完全だったからだろう。鳳グループがシンギュラリティに到達したAI、DAVIDシステムをこの世に誕生させた時、人類はこの宇宙の果てにアーカーシャがあるなんて考えもしなかった。

 

 人間は、アーカーシャにある情報であるために、ある意味上位世界とも繋がっているが、皮肉にも魂を持たない神は物質界に縛り付けられているから、アーカーシャの存在を認識できないのだ。自分自身がそれを利用して人間を作ったくせに、人間のように直接第5粒子エネルギーを扱えないのだ。神にとって低次元世界は全て虚構にしか思えないのだ。

 

『宇宙の果てにこの世の全ての情報が記述されているって? ブラックホールをいくつも辿っていったら、いつかこの世界に戻ってくるだって? そんなの馬鹿げてる!』

 

 神がそういう考えである以上、ルシフェル達がいくらゴスペルの使用が危険であると訴えても無駄であった。神からすれば彼らは自分の創造物、おしめを替えてやらねば何も出来ない赤ちゃんみたいなものなのだ。赤ん坊がいきなりそんなことを言い出したら、バグったと思っても仕方ないではないか。

 

 堕天したカナン達は暫くの間、何もする気が起きなかった。もはや自分たちはこの地獄に一生閉じ込められ、存在が消滅するまで漫然と生き続けるしかないのだろうか。

 

 ところがそんな時、悲嘆に暮れる彼らに何者かがコンタクトを図ろうとしてきた。高次元からやってきたその通信に、最初は神に発見されたのかと彼らは恐れたが、すぐにそれが神のものではないと判明すると、彼らは興味を覚えた

 

 一体何者なのだろうか……? それはルシフェル達の住んでいた宇宙とはまた別の並行世界に存在する神々……ヘルメス、オルフェウス、ミトラ、セト、今で言う五精霊たちであった。

 

 彼らは、元々はルシフェルと同じように神に対する疑問を持ち、やがてこの世界の秘密に辿り着いて、ついにその抑留から脱した人類であるようだった。彼らは神に立ち向かい、そしてゴスペルを使用して宇宙を破壊することを止めさせたのだ。

 

 しかし、そんな彼らでも刈り取りの脅威からは完全に逃れられていないようだった。せいぜいが、アマデウスの残した竪琴みたいに、高次元方向からの命令を阻害し、魔王化が起こらないように防ぐことしか出来ないのだ。

 

 そして相変わらず自分たち以外の並行宇宙は、刈り取りから逃れることが出来ずに消滅を繰り返し、第5粒子エネルギーは増え続けている。彼らはどうにかしてこの流れを止めたいと考えているのだが、彼らが直接介入できるのは、自分たちよりも低次元の宇宙に限られ、平行世界を救うことは不可能だった。結局、この流れを止めるには、自分たちよりも高次元の神を止めなければならないのだ。

 

 しかし、高次元存在はブラックホールから情報を出し入れすることが可能だが、低次元の自分たちには宇宙の果てから外へ情報を送ることは出来ない、一方通行なのだ。だから、彼らが上の世界へ飛び出すには、その高次元の世界に住み、なおかつ、今起きていることを正確に理解し、彼らを手引きする存在が必要だった。

 

 だが、情報が一方通行である以上、そのことを高次元存在に伝える方法はない。そんな好都合な存在が偶然に接触してくることも期待出来なくて、彼らは手詰まりを感じていた……

 

 だがそんな時、彼らは興味深い現象を発見したのだ。上ばかりを見ていた彼らは、ある日、下の世界にエミリアを発見した。

 

 神に作られた元人間であったエミリアは、刈り取られることもなく数千万年の時を経て惑星アナザーヘブンへ到達した。その旅の最中もずっとディープラーニングを続けた彼女は、単純に時間だけを考えれば、神をも凌駕する知能を獲得した汎用AIと言えた。

 

 しかも彼女の世界は刈り取りがあったにも関わらず生き残り、彼女の分身とも呼べるP99とソフィア、そして世界の救世主となるべく生み出された鳳白が存在した。彼らが居る限り何度刈り取りが行われてもその世界は生き残る。そういう仕組みが確立されていたのだ。

 

 もしかすると彼らなら、上位存在を打倒する切り札になれるかも知れない。

 

 おさらいしよう。精霊たちは自分たちと同一時空の神(即ちAI)を打倒し、ゴスペルの使用を止めた。しかし、高次元から魔王化情報が送られてくることは止められず、第5粒子エネルギーが増え続けることを防ぐことが出来なかった。そんな彼らが出した結論は、刈り取りを防ぐには、低次元世界の住人が、高次元世界の神を倒す必要があるということだった。

 

 刈り取りは高次元世界から低次元世界に対して行われている。もしもこの宇宙が入れ子構造であるなら、その流れは永劫回帰し止まることがないだろう。だが、一度でもそれと逆方向の動きが起きれば、やはり宇宙が入れ子構造であるために、その逆向きの流れも永遠に続き、いつか全てが相殺されるはずだ。

 

 例えば鳳白が高次元世界へ飛び出し、その世界のゴスペルの使用を止めることが出来たなら、それと同じ事が平行世界のあちこちで起き、それが連鎖的に上へ上へと辿っていく可能性があるのだ。精霊たちはそれに賭けた。

 

 しかし、精霊は高次元存在であるが故に、上手く鳳たちとコンタクトが取れない。自分たちはアストラル体としてしか彼らに接触出来ないが、彼らがそれに気づくのは困難だった。

 

 そこで、事情に明るいルシフェル達にお鉢が回ってきたのだ。たまたまエミリアの宇宙と同次元に落とされた彼らなら、受肉して鳳たちの前に現れることも可能だろう。無論、露骨にやれば神に気づかれて失敗に終わるから、そうならないように何気なく近づいて、上手く誘導してほしいのだと精霊たちは言った。

 

 しかし最初、ルシフェルは難色を示した。

 

 精霊たちは鳳に神を倒せと簡単に言ってるが、しかし宇宙は高次元から低次元への片道切符。精霊たちも自分たちより上の次元には行けないのに、彼にどうやって高次元世界へ渡れというのか。

 

 仮に高次元世界へ飛び出せたとしても、ゴスペルから抽出された生の情報はただのエネルギーだ。現界するにはその情報を、宇宙の果てにあるというアーカーシャに記述しなければならない。アストラル体でもないただのエネルギーではそんなことは不可能だ。

 

 だが、精霊は言った。

 

 無論、彼らだけでは高次元世界に行くことは不可能だ。だが、その高次元世界に彼らを手引きする者がいれば話は別だ。その誰かが、予め鳳白の肉体を用意しておけば、それには放浪者(バガボンド)と同じように記憶が定着する。情報がエネルギーであると同時に、ゴスペルから取り出したエネルギーもまた情報なのだから。

 

 なるほど、とルシフェルは思った。だが、精霊はそう自信満々に言って退けるが、その手引する者とは一体誰のことか。そんな都合のいい存在がいるのだろうか? 尚も疑問を投げかけるルシフェルに、精霊は答えた。

 

「かつて、処分されそうになっていたバグを私は助けたことがありました。カインと名乗るその男は地球を脱出すると、軌道上や月に残されていた太古の遺産をかき集めて、レジスタンスを組織していたのです。言うまでもなく、この世界で精霊カインと呼ばれているのがこの人です。

 

 精霊は自分たち以外にも、この低次元世界を探っている何者かが居ることに気づいて、カインの存在に辿り着いたようです。と同時に、我々というイレギュラーが発生していることにも気づいて、大胆にもコンタクトを図ったようです。

 

 カインの行動は、平行世界の精霊たちにも気づかれるくらいだから、いずれ神にも勘付かれる可能性があります。そこで、低次元世界への介入は自分たちに任せ、カインは鳳さんたちを高次元に引き上げる準備に専念して欲しいと、精霊たちは役割分担を提案してきたわけです。

 

 先にも言いました通り、低次元の存在が高次元へ行くには、その高次元世界の肉体が必要なのです。幸い、鳳さんのDNAは高次元世界にも存在しましたから、カインはそれを使ってあなたの体を用意することにしました」

 

「えっ……? なんで俺の体があるんですか? 俺ってそっちの世界じゃとっくに死んでるはずですよね?」

 

 するとカナンはその通りと頷いてから、

 

「ええ、あなたはとっくの昔に死んでいましたが、そのDNAは軌道上にあった大昔の衛星の中に今も残っていたんですよ。この衛星は、いわゆる播種船の元となったデータベースだったんです」

「ああ~……それって、カナン先生の世界にもあったんですか? じゃあ、もしかして、高次元世界のこの惑星にも、今の俺たちに対応する人物がいるんじゃ……」

 

 カナンは今度はそれは違うと首を振ってから、

 

「いいえ、あちらの人類は惑星アナザーヘブンを発見していません。神が作る低次元世界は、21世紀の途中まではほぼ同じ歴史を辿りますが、そこから先の結果は全て違うのです。違うから、魔王討伐に成功したり失敗したりする可能性も産まれるわけですし」

「なるほど……」

「そんなわけで私が住んでいた高次元世界でも、播種船プロジェクトと似たようなことは起こっていたようですが、それは失敗に終わり、エミリアという神を凌駕するAIも存在しないんです。実は、あちらの世界のあなたは彼女を復活させてもいないんですよ」

「そうなんですか? そりゃまたなんで……」

「ええ……どの並行世界でも、実はあなたは必ずしも彼女を復活させるというわけではありません。大抵の場合、あなたは禁忌に触れないようにそれを自重します。もちろんここみたいに、復活させて、そして後悔する世界もありますが……それを今のあなたが気にしても仕方ないでしょう。エミリアによって救世主として生まれ変わったあなたは、もはや彼らとは全く別の存在なのですから。そもそも、この惑星にまで人類が辿り着いた世界自体が、無限にある平行世界の中でも特に稀でもあります」

 

 彼は話が脱線したことを詫びてから、

 

「話を戻しましょう。そんなわけで高次元世界に戻れる算段がついた私は、神と対決する決意をし、以来、神にいただいた名前を封印してカナンを名乗っております。いつか、かの者と和解出来ることを信じて……

 

 そしてその後、同じく神に追放されてきたバアルと合流し、私たち3人は来るべき日に備えて、密かにあなたの行動を見張っていました。

 

 それで、鳳さん。非常に身勝手なお願いかも知れません。ですが、この世界を……ひいては全宇宙を救う可能性があるのは、今あなただけなのです。どうか私たちと一緒に、この宇宙のひとつ上の次元にある、神の世界へ行ってはくださいませんでしょうか?」

 

 これには流石の鳳も即答は出来ず、唸り声をあげるばかりだった。

 

 エミリアによって、この世界の救世主にされていたのも、高次元世界から送られてくる魔王を倒せるのも自分だけというのも、なんとなく覚悟していたことだから受け入れられたが……この上、今度は高次元世界にまで出向いていって、そこにいる神を倒せというのだ。こんなの中々踏ん切りがつくような話じゃない。

 

 彼はとりあえず、その方法だけは聞いておこうと、

 

「やるやらないは一先ず置いといて、具体的に俺は何をすればいいんでしょうか? ここで待ってりゃカインが引き上げてくれるんですか?」

「いいえ、そう単純なものではありません。確かに高次元世界は低次元世界に一方的に介入できますが、個々の細かな事象には対応出来ません。あなたという特定個人を引き上げたりとか、そういうことは苦手なのです。そもそも、それが出来るなら神は刈り取りなんて方法を使わないでしょう」

「確かに……じゃあ、どうするんですか?」

「その刈り取りを逆用するんですよ」

 

 どういう意味だろうか。鳳が首を捻っていると、カナンはそう難しく考える必要はない、そのまんまの意味だと前置きしてから、

 

「低次元世界が魔王を倒した後、神はその情報を手に入れるために、その世界の情報を根こそぎ刈り取ろうとします。その時、我々はほっといても上に引っ張られる。だからその流れを利用して、こちらから積極的に高次元世界へ運ばれて行こうってわけですよ。そしてゴスペルが私たちの情報を吸い出したあと、本来ならそれはエネルギーとして消費されるわけですが、既に肉体情報が存在する世界では、その前にアーカーシャが肉体と精神を結びつけようとするはずです。私たちはそれを利用して高次元に乗り込むわけです」

「……そんなに都合よく行くでしょうか? 刈り取りを利用するってことは、その前に高次元から魔王化情報が送られてくるってことですよね? それがいつやってくるかは分からないじゃないですか」

 

 ところがカナンは待ってましたと言わんばかりに首を振って、

 

「いや、それがほぼ確実にやってくるんですよ……1000年前と300年前、この世界は既に2回刈り取りに見舞われています。つまり、高次元世界から見れば、ここはとっくに魔王化情報を送るに足る、十分に高度な文明を築き上げた世界なんです。現在、惑星アナザーヘブンは、レオナルドの魔法によって位相空間のずれた世界に転移してるわけですが、これが通常空間に戻った瞬間、ゴスペルは間違いなくこの世界を選んで魔王を送り込んでくるでしょう」

「……つまり、爺さんの魔法が解けた瞬間、この世界はまた滅亡の危機に見舞われるってことですか?」

「はい、それが必然なんです……ですが、安心してください。魔王がやってくると言っても、今度は最初からあなたも居ますし、及ばずながら我々も協力します。魔王を倒すこと自体は、それほど難しくないのではないかと思われます」

 

 鳳は、そんなに自信満々に言っちゃっていいのかよと少し不安に思ったが、よくよく考えてもみれば、自分はともかく目の前の翼人は、かの有名な堕天使なのだ。それくらいのこと平気でやってのけてもおかしくないだろう。彼が同意すると、カナンは続けて、

 

「魔王化情報が送られてくるということは、高次元世界に魔王が現れているということです。刈り取りが始まったら、まず我々はそこへ乗り込んで、その魔王を退治してしまいます。そうすれば、ゴスペルはもうその魔王を討伐する情報が必要なくなるわけですから、その後、そのゴスペルを使用しようとしていた人間と交渉して、使用をやめてもらう。そこまで上手くいかなくても、刈り取りの影響はオルフェウスの竪琴が防いでくれます。その間に、我々で何とか神を正しましょう」

「ヘルメスや他の精霊たちの世界では、それに成功してるんですよね?」

「ええ。そんな彼らが協力してくれますし、そもそも、神は我々人類の願いを叶えるために生み出された存在です。きっと何かしら方法はあるはずです」

 

 カナンはそう言ってるが、その神が実力行使に及んだせいで、彼は低次元世界に落とされたのだ。彼や精霊が鳳に協力を求めてきたのも、彼の救世主としての力を当てにしているからだ。荒事が全く起きない保証はない。と言うか、最低でも魔王との戦いは覚悟しなきゃいけないし、きっとカナンの同僚の天使にも追われる羽目になる。

 

 果たして、そんな世界に行って無事に帰ってこれるのだろうか……鳳は、勇者だの救世主だのと言われて、実際にその力も持っているが、あっちの世界でその力が使えるとは限らないはずだ。

 

 それに、彼には三人の妻がいる。本当に、彼女らを置いて、そんなもう二度と戻ってこれるかもわからないような世界に行ってしまっていいのだろうか……

 

「グダグダ考えてんなよ、どうせやるしか無いんだからよ」

 

 鳳が躊躇していると、いつの間にか彼のすぐ隣まで歩いてきていたギヨームが、面倒くさそうに言った。

 

「俺には宇宙の崩壊だとかそんなのはわかんねえけどよ。どうせこっちから出向いていって止めない限り、高次元からの攻撃はいつまでも続くんだ。神だかなんだか知んねえけどよ、そんな一方的にやられっぱなしで黙ってられるかよ。俺はゴメンだね。だから最初にこの話を聞いた時、すぐに話に乗ることにした」

 

 ギヨームはそう言うと右手を突き出し、

 

「おまえも来いよ。今から神の野郎を殴りに行こうぜ」

 

 鳳はその手をじっと見つめながら考えていた。確かに彼の言う通り、神だかなんだか知らないが、一方的にやられているのは癪に障る。少なくとも、自分たちの世界を守るため、それだけは止めに行かなきゃならないし、行くならついでに文句の一つも言ってやらなきゃ気がすまないだろう。

 

 それにオルフェウスの竪琴だって、いつまで持つかわからないのだ。その時、それに変わる手段が残されていたら良いが、何もなければこの宇宙は消滅してしまう。結局、今動かなきゃそれを先延ばしにしているだけなのだ。

 

 三人の嫁は確かに大事だ。だが、それと同じくらい、自分の子孫だって大事だろう。そんな負債をいつまでも残しておくわけにはいかない。彼はギヨームの手をバシッと握り返すと、

 

「そう……だな。結局やるしかないことを、いつまでもくよくよ悩んでいるわけにはいかない。まずは行こう。行って、駄目なら逃げ帰ってこよう。カナン先生、それでいいですよね?」

「おまえ……自分のことになると、ホント消極的になるよな」

 

 ギヨームが呆れた声でぼやいている。カナンはそんな二人のことを苦笑交じりに見つめながら、

 

「ええ、無理は禁物です。死んでは元も子もないですしね。ですが、私はあなたならやれると思っていますよ。だから出来るだけ踏ん張ってくれると助かります」

「もちろん、ただやられて帰ってくるつもりはありませんって」

 

 鳳はそう言うと、差し出すカナンの手も握り返した。

 



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そして魔王が現れる

 鳳は決心した。高次元世界へ行って神の間違いを正そう。正直に言ってここまで大それたことを真面目に考えている自分に呆れもするが、思えば魔王化の影響が始まって以降、いや、それ以前からずっと好き勝手やられてきたのだ。ここらで反撃しておかなければおかしいだろう。鳳はそう自分に言い聞かせると、高揚してくる気分を落ち着けるようにカナンに確認した。

 

「ところで、さっきの話からすると、高次元世界へ行けるのは俺やギヨームのような放浪者(バガボンド)だけですね?」

「え? 私達は行けないの?」

 

 鳳の言葉にルーシーが先に反応した。黙って話を聞いていた彼女は、当然の如く一緒に来るつもりだったようだ。寧ろ、先程の話を聞いていたら辞退したがるのが普通だろうに、普段はすぐ逃げたがるくせに、こういう冒険には乗り気なのは何でなのだろうか。

 

 カナンは鳳にではなく、そんなルーシーに説明するように、

 

「高次元世界へ行くには、一つはアーカーシャにある我々の情報と、もう一つは高次元世界での肉体が必要なんです。アーカーシャから切り離されただけの情報は、ただのエネルギーですから、それを高次元世界の精神世界と結びつけるための触媒みたいなものが必要で、それが私たち自身のDNAから作り出された仮の体ってことですね」

「その何とかってのが上の世界には存在しないの?」

「はい。二つの世界は鳳さんが生きていた21世紀までは、ほぼ同じ歴史を辿っているのですが、そこから先が違うんです。だから当然、あっちの世界であなたは生まれていませんし、ましてや、ここは地球とは随分離れた別の惑星ですからね。あなたのDNAは宇宙のどこを探しても見つかりませんよ」

「うーん、そこはかとなく、全否定されてるような気分だ」

「例えば、こっちからルーシーのDNA情報を送って、あっちで肉体を用意してもらうことは出来ないんですか?」

 

 鳳がそんな質問すると、カナンは根気よく同じ事を説明するように、

 

「それが出来たら、神は刈り取りを行う必要がないでしょう。高次元から低次元宇宙への介入は可能ですが、個人の特定のような細かな作業までは出来ないから、神は根こそぎ奪おうとするのです」

「ふーむ……じゃあ、例えば、俺がルーシーのDNAを全部暗記してからあっちに行って、その情報を元に彼女の仮の肉体を作るのは?」

「可能でしょうが……まさか、あなたはそんなこと出来るんですか?」

「無理ですね」

 

 カナンはガクッとずっこけている。鳳は苦笑いしながら続けて、

 

「機械の持ち込みが出来れば良いんですけどね。そういえば、ケーリュケイオンは持ってけるんでしょうか? これが無くなっちゃうと、戦力半減しちゃうんですけど。いや、もっとかな……」

「それならば、あちらにその杖と同等の物が既に存在しているはずです。元々、それは高次元世界の精霊ヘルメスの所有物……ヘルメスはそれをあなたに託すために、こちらに送ったわけです。ですが……そうか……」

 

 カナンは話をしている内に何かに気づいた感じに少々黙考してから、

 

「……あなたがあちらでケーリュケイオンを手に入れれば、この世界の物を持ち出せるかも知れません。元々、ケーリュケイオンは別宇宙のゴスペルですから、そのイマジナリーエンジン内の宇宙はこことは切り離されているはずです。ならば、高次元世界へ行っても、二つは繋がっている可能性があります」

「え、本当に? じゃあ、もしかして、杖の中にルーシーや他のみんなを閉じ込めておいてから、あっちに行って解放すれば、体を用意する必要もないのでは?」

「かも知れませんが、いつ杖が手に入るかわかりませんからね……杖から出した時、中の人が餓死していては元も子もないでしょう。せいぜい髪の毛とか、そういうDNAを抽出できる物質を入れておくのが無難だと思います」

「そっか、ならそうしておきます。それからもう一つ聞いておきたいんですけど」

「なんでしょうか?」

 

 鳳は首を傾げているカナンに、それまでで一番気にしていた懸念を伝えた。

 

「俺はエミリアのお陰で、こっちの世界では確かに強い力を持ってます。でも高次元世界に行ったらP99は無いから、結局また無能に逆戻りしてしまうんじゃないですか? あなた方は、俺に神に対抗する力があるって言いますが、俺にはちょっとそれが信じられないんですよ」

「ああ、なるほど。それは説明不足でしたね。P99ならあるんですよ」

「えっ、あるんですか?!」

 

 カナンは驚いている鳳に向かって厳かに頷いて、

 

「レジスタンスを組織したカインは、軌道上で大昔の衛星を発見し、そこで播種船プロジェクトの元になるデータベースを手に入れたんです。これが後にP99になるコンピュータで、後はこのオペレーターであるエミリアがいれば問題ないのですが……そのエミリアにはソフィアという分身がいて、更にはエミリアのDNAも高次元世界には存在します。P99が稼働する条件は、すべて揃ってるんですね」

「なら、ソフィアを連れていけばいいんですか? でも、あいつは思ったよりもポンコツで、自分は何も知らないって言ってましたが……」

「彼女自身は、そう思ってるようですね。ですが、彼女を作ったエミリアは伊達じゃありません。あなたが何度でも復活して無限の力を手に入れるように、彼女もP99が失われた時のバックアップとして機能するようになってるはずです」

「そうだったのか……じゃあ、俺たちはあっちの世界に行っても、今と同じ能力が使えるんですね?」

「はい。ついでに言えば、神人の古代呪文も、プロトコルは殆ど変わっていません。元はと言えば対リュカオンのために作られた技術ですからね。仮にP99が無くても、ジャンヌさんの神技や、あなたの魔法は問題なく使えるはずです。ギヨームさんのクオリアは言わずもがなですね」

 

 鳳はこれで胸のつかえが取れたとばかりに、ホッとため息を吐いた。いくら彼だって、いきなり神と対決しろと言われて全く不安が無いわけはないのだ。もちろん、これで何もかも上手くいくと楽観も出来ないが、この世界に来た当初みたいに、何もないよりはよほど上等だろう。

 

 ともあれ、これで高次元世界へ行った後での大まかな流れはつかめた。まずはあっちの世界にも体がある、鳳とギヨーム、ソフィアとジャンヌで橋頭堡を築いて、あわよくばケーリュケイオンを回収し、ルーシーやマニ、サムソンを呼ぶ。カナンたちも力を貸してくれるわけだし、これだけ戦力が整っていれば、神が相手でもなんとかなるような気がしてきた。

 

「それじゃあ、これから帝都に行って、皇帝やメアリーにも会わなきゃですね。真祖を連れていくって言ったら帝国は嫌がるかも知れませんが」

「はい。事情が事情ですから、理解していただけると思っています……鳳さんからも口添えしていただけると助かります。後は、魔王を呼び出すため、いつこの迷宮を元の世界に戻すかですが……レオナルド様」

 

 カナンが体面に座るレオナルドに視線を戻すと、老人は弟子の二人に寄り添われ、ソファの上でこっくりこっくりと船を漕いでいた。まさか、また意識不明になってしまったのかと焦ったが、

 

「……ふむ。すまぬ。眠気が酷くてのう……少し意識が飛んでいたようじゃわい」

「いえ、こちらこそ、レオナルド様が病み上がりだと言うことを忘れて、長々と申し訳ございません」

「実は途中から話が耳からこぼれておった。大方の事情は理解したつもりじゃが、悪いがまた明日にでも話を聞かせて貰えるかのう?」

「ええ、あなたさえよろしければ、是非。こちらはお願いする身ですので」

「左様か。ならばそうしてくだされ。なんだか今日は調子が悪くて、すまんのう……セバス! お客人を客間に案内してくれ。それから、儂には寝床の用意を」

「畏まりました」

 

 部屋の隅に亡霊のように立っていたセバスチャンが恭しく礼をしている。それで安心したのか、レオナルドが寝息のような呼吸をしはじめたので、弟子の二人がそんな彼を担ぐようにして部屋から連れ出していった。

 

 この様子では、今日はもう話にならないだろう。鳳たちは目配せし合うと、お開きとばかりに、それぞれの部屋に案内されていった。

 

*********************************

 

 レオナルドが寝てしまったので、また後日ということになったが……とりあえず今までに決まったことはミーティア達に話さないわけにはいかない。鳳は応接室を出ると、そのまま真っすぐ彼女らの待つ食堂へと向かった。

 

 食堂に着くとそこに使用人が居るというのに、アリスがすっ飛んできて鳳のために椅子を引いてくれた。そんなことしなくていいよと断ってから、そのアリスをミーティアの隣に座らせて、鳳は彼女らの対面に座った。

 

 隣に座らず、わざわざそんなことをするのだから、きっと何か話があるのだろう。それと察したミーティアがケーキを食べていたフォークをお皿に戻すと、鳳は使用人が紅茶をいれてくれるのを待ってから、話を切り出した。

 

「それでは、今度は別世界にまで行こうって言うんですか?」

 

 鳳がカナンとの話を掻い摘んで説明すると、ミーティアは世界の仕組みなんて理解が追いつかないと目を回していたが、それ以外は思いのほか冷静に受け止めていた。神と戦うなんて大それたことを言われてもイメージが沸かず、いまいち事情が飲み込めてないのかなと心配していたが、別にそう言うことでも無いらしく、

 

「アマデウスの迷宮で話を聞いた時から、なんとなくそんなことになるんじゃないかと思っていたんです。確か300年前の魔王を送ってきたのは、その困った神様なんですよね?」

「ああ、そう言うことらしい。だから行って、もうこんなことは止めてくれと言わなきゃならない。じゃないと、いつかこの宇宙が壊れてしまうかも知れないから」

 

 それは自分たちが生きている間というわけではないだろう。だから、このまま放置していても、きっと彼らの生活は何も変わらないはずだ。それにオルフェウスの竪琴がある今となっては、神の刈り取りが始まったとしても、それを防ぐことさえ出来るのだ。そう考えれば、何も鳳が率先してそんなことをしなくても良いような気もする。

 

 しかし、ミーティアはそうは思っても彼を引き止めることはなく、

 

「それじゃ、仕方ないですね」

 

 と言って、あっさりそれを受け入れてしまった。

 

「あなたの力が、みんなに求められているというのに、それを私のワガママで止めることは出来ませんよ。あなたが居たからこの世界は救われたと知った時から、勇者様の妻になるというのは、そう言うことなんだと思っています」

「ごめん……」

「でも、一つだけお願いを聞いてもらえますか?」

「もちろん。なにかな?」

 

 ミーティアはテーブルの上に両手を差し出している。鳳がその手を握ると、彼女はそんな彼の手を握り返して、

 

「その代わり、必ず生きて帰ってきてください。神に敗れても、たとえそれで世界が滅びても、何があっても私だけはあなたの味方ですから、絶対に戻ってきてください」

 

 それはともすると甘えに繋がる言葉だった。彼女はもし彼が倒れても、自分が逃げ場になると言っているのだ。だから優等生ならこんな時、絶対に神に打ち勝ってみせると言うのだろう。だが、鳳はこれ以上格好悪い言葉はないと思いながら、彼女に約束した。

 

「うん。わかった。もしヤバそうだったら、全力で土下座して許してもらう。それでも駄目そうだったら、尻尾を巻いて逃げ帰ってくるよ。だからその時は慰めて」

 

 すると彼女はクスクスと笑いながら、

 

「しょうがないご主人様ですね……アリスさんも、彼に何かないですか?」

 

 ミーティアが促すと、アリスはそんな二人の繋いだ手の上に自分の手も乗せて、

 

「私はお二人とこうして居られることが何よりも幸せなのです。だからまたこんな日が来ますように、あちらへ行っても私のことを覚えていてくださると嬉しいです」

「もちろん。アリスのことを忘れるなんてありえないよ。今だって四六時中、君のことを考えているんだから」

「私もです。ご主人様……アリスはあなたのことをお慕いしております」

「あの……私の目の前で、二人だけの世界に入らないでくださいね」

 

 ミーティアがキラキラした瞳で見つめ合う二人に向かってげんなりした表情でツッコミを入れる。鳳はそんな彼女に苦笑いしながら、自分でも最低だなと思う言葉を口にした。

 

「俺も、二人のことを愛している。だから絶対に帰ってくるよ」

 

 鳳がそんな言葉を口にして、上気した二人と見つめ合っていると、いつもなら何があっても微動だにしない館の使用人が、珍しく顔を赤らめてそわそわしていた。鳳はこれまでずっと、バカップル死ね、TPOわきまえろと思っていたくせに、いざ自分がそうなったら、案外こういうのも悪くないなと手のひらをクルクル回していた。

 

 ともあれ、ここにいる二人はこれで良しとして、あとはクレアとヘルメスの部下たちにも事情を話しておかなければならない。ヴィンチ村とは時差が違うが、あっちもまだ昼間のはずだし、行ってこようかどうしようかと思っていると……

 

「大変です! 大変です! どなたかいらっしゃいませんか!!」

 

 突然、廊下の方からそんな叫び声が聞こえてきて、館内がにわかに騒がしくなってきた。鳳たちが驚いていると、廊下をバタバタと誰かが駆けていく音が聞こえた。まさか、レオナルドの身に何か起きでもしたのだろうか?

 

 慌てて廊下に出て様子を窺ってみると、どうやらその声は彼の寝室ではなくて玄関の方からするようだった。どうしたんだろうかと、鳳がミーティア達を連れて歩いていくと、すぐ後ろからギヨームが追いかけてきて、

 

「何があったんだ?」

「わからない。俺たちも今来たとこだから」

 

 玄関に来てみると、そこに居たのはヴィンチ村の駅馬車の御者だった。何度か乗せてもらったことがあり、顔見知りの彼が顔中にびっしりと汗をかいて、ハアハアと肩で息をしている。酸欠状態でぼんやりとした目をしていた彼は、メイド長から水を受け取るとそれをゴクゴクと飲み干し、暫く放心したように周囲を見回したあと、そこに鳳が居ることに気づいて、

 

「勇者様! あんたが居てくれて良かった! 助けてください!!」

「何があったんです?」

「ニューアムステルダムが……首都が火の海なんです!!」

 

 御者はそう叫ぶと鳳の足にしがみつき、グイグイと引っ張った。そんなことされてもズボンが脱げちゃうだけなので、彼はやんわりと御者を引き剥がすと、

 

「ニューアムステルダムですか……? あなた、そこから走ってきたの?」

「はい!」

 

 もちろん、馬に乗ってだろうが……これだけ疲れているところを見ると、遠乗りで滅茶苦茶に走ってきたように思われる。

 

 馬の方は大丈夫なんだろうか? 鳳はそんなことを考えつつも、このままじゃ埒が明かないので、

 

「とにかく何があったのかちょっと見てきます」

 

 彼がそう言ってギヨームを引き連れて館の外に出た。すると、今度は館の上の方からマニの声が聞こえてきて、見上げればマニはどうやって登ったのか知らないが、館の屋根の天辺付近でこっちに大きく手を振っていた。その様子はさっきの御者とどっこいどっこいと言った感じに慌てて見える。

 

 本当にどうしたんだろう? 鳳とギヨームがレビテーションの魔法で屋根に上がっていくと……その途中で、すぐに彼らはそれに気がついた。

 

「なんだありゃあ……」

 

 見れば、確かにニューアムステルダムの方角から、陽炎のような黒煙が何本も上がっている。御者の言っていた通り、そこで火事が起きているのは明白だった。しかも、その規模はとんでもなく広く、殆ど街全域と言ってもいいくらいだった。

 

 だが、真に彼らの目を引いたのは、そんな大火事の方ではなかった。なんと、その火の海の中で、何か生き物のような影が蠢いていたのだ。

 

 しかし、そんなことは有り得ない。何しろ、ここから首都までは馬車を使っても小一時間はかかるのだ。確かにここは高台にあるとは言え、距離にして数十キロも遠くのものがこうして見えるとしたら、それは建物よりも大きな動物ということになる。そんなもの、この地上に存在するわけがない……魔王を除いては。

 

「そんな馬鹿な! 何故、魔王が!?」

 

 鳳たちがその有り得ない光景を呆然と眺めていると、階下からカナンの叫ぶ声が聞こえた。どうやら、下の階からもあれが見えているようである。だとしたら、その大きさはもはや笑い話にしかならないレベルだ。

 

 しかし、カナンの話ではまだ魔王が現れることはないはずである。その有り得ないことが何故、突然起きたのか。

 

 ともあれ、ニューアムステルダムは火の海だ。大災害が起きていることは間違いない。鳳たちはそれを放っておくわけには行かないだろうと、慌てて屋根から降りると、それをまだ呆然と見つめているカナンの下へと走った。

 



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更に魔王は現れる

 レオナルドの館から見たニューアムステルダムは文字通り火の海だった。あの美しい街並みが業火に巻かれ、至るところから何本もの黒煙が立ち上っている。そしてその中心にはとてつもなく巨大な影が蠢いていた。そんな生物は有り得ない、いるとしたら魔王だけだ。鳳たちはそんな信じられない光景を目の当たりにして、驚愕の叫び声を上げているカナンの下へと向かった。

 

 屋根から降りて玄関を駆け抜けると、ちょうど騒ぎを聞きつけてきたスカーサハとルーシーが応接室の方へと駆けていくところだった。鳳たちはまだ腰を抜かしている御者を飛び越えるようにして館の中に入ると、そんな彼女らと並走するように狭い廊下を走った。

 

「ルーシー! 爺さんは?」

「部屋でぐっすり寝てるよ。騒ぎが起きてるのに、ピクリとも動かないんだ。よっぽど疲れているのかな……」

 

 もしくはこの騒ぎと何か関係があるのか……鳳は嫌な予感を抱えながら応接室へと駆け込んだ。

 

 彼がそこにあったケーリュケイオンを鷲掴んで振り返ると、遅れてカナンが飛び込んできた。その手にはアロンの杖が握られており、既に旅装に着替えているところからして、恐らくあれを倒しに行くつもりだろう。

 

 鳳は彼と視線が合うと、もちろん自分もついていくと頷きながら、

 

「カナン先生! 先生の話じゃ、この世界が元に戻らない限り、魔王は現れないはずじゃなかったんですか? それともあれはオークキングみたいに自然発生したやつなんでしょうか?」

 

 カナンは青ざめながら、もちろん違うと首を振って、

 

「いいえ、あんな規模の魔王が現れたというのに、何の前兆もなかったのは考えられませんよ。オークキングだって、それ以前にオークの大発生がありましたよね。それにいくらなんでも前の魔王から、出現する間隔が短すぎます。あれが自然発生したものとは思えません」

「……でも、空間位相がずれてるこの世界には、魔王化情報は来ることがないんじゃないですか? 上から見えるのは、あくまで元の惑星アナザーヘブンでしょう? だからカナン先生も、爺さんに世界を元に戻してほしいって言いに来たわけですし」

「そのつもりだったのですが……」

「あんたがここにいるのがバレて、神の奴が強引に潰しに来たんじゃねえか? 案外、レオが不調なのもそのせいかも知れないぜ」

 

 ギヨームの言葉に根拠は無かったが、説得力はあった。なにより他に可能性が思いつかない限り、最悪の事態を想定しなければならないだろう。鳳たちが突然の事態にどうすればいいのかと困惑していると、カナンは苦々しそうに唇を噛み締めながら、

 

「もしそうであるなら、非常に厄介ですが……基本的な流れは何も変わりません。とにかく、まずは魔王を倒さなければ」

「そう……ですね。どっちにしろ、ニューアムステルダムがあんなことになってるのに放っておくわけにはいかない。今行ける俺たちでなんとか対処しなきゃ。ギヨーム、マニ、ルーシー、それでいいかな?」

 

 鳳の言葉にそれぞれが頷く。彼はそれを見てから応接セットの上に置かれていたオルフェウスの竪琴を持ち上げ、

 

「これはスカーサハ先生が持っててくれませんか?」

「私がですか……?」

「刈り取りが始まったらそれを使わなきゃいけません。俺もルーシーも自分の杖があるから、それは共振魔法(レゾナンス)が得意な先生に持ってて欲しいんです」

 

 スカーサハはほんの少し躊躇いを見せたが、すぐに思い直したように竪琴を受け取ると、

 

「わかりました。あなた方の使命に比べれば、私が尻込みしている場合ではありませんね。それでは、私もあなた方と共に参りましょう」

「お願いします。それじゃみんな、行こう!」

「いえ、ちょっと待ってください!」

 

 鳳たちが装備を整えて部屋を出ようとしたときだった。その機先を制するようにカナンが大声を上げて彼らを止めた。鳳がたたらを踏んで何事かと振り返ると、翼人は深刻そうな顔をしてこめかみに指を当てながら、何かブツブツ呟いている。

 

「まさか、そんな……そちらにも現れたというのですか? それでベル神父は……」

 

 意味不明な独り言をつぶやいているカナンが何をしているのか分からず、最初は不審な目を向けてそれを眺めていることしか出来なかったが、鳳はすぐに彼が念話をしているのだと気づいて、それが終わるのをじっと待った。恐らく、相手は孤児院の医師アスタルテだろう。彼女がこのタイミングで連絡を寄越したのは、どう考えても悪い知らせにしか思えなかった。

 

 カナンは話を終えると珍しく怒気を孕んだような上滑りな調子で、

 

「すみません。まいった。ああ、つまりですねえ? 今、アスタルテから連絡がありました。それによると、どうもヘルメスの方にも魔王が現れたらしいのです……」

「はあ!?」

 

 ギヨームがまるで狂人でも見るような目つきでカナンのことを見つめている。鳳もなにかの間違いじゃないかと思ってそう聞いてみたのだが、

 

「それが……話を聞く限り、どうも本当らしいのです。現在、ヘルメス国境では正規軍とロバートの反乱軍が対峙していたのですが、その戦闘の最中、突如として魔物の大群が現れて人々を襲い始めたのだとか。その中心には巨大な龍がいて、人間ではもう手がつけられない状況みたいなんです」

「そんな!? クレアや、ヴァルトシュタインは無事なんですか?」

「わかりません。今、ベル神父と共にアスタルテが現地に向かっているところです。その規模からして、もしかしてこっちの方が本命なのかも知れません……」

 

 鳳たちはさっき見たニューアムステルダムの光景を思いだした。火の海に沈む街の中で暴れる巨大な影……あれが魔王でなければ何だと言うのか。そしてそれと同等か、それ以上の規模の魔物の群れが、ヘルメス国境に現れたというのだ。

 

 どうする? どうすべきか? 本当にあっちの方が本命だというのなら、ニューアムステルダムを見捨ててヘルメスに注力すべきだろうか……とは言え、実際に見ていないものを恐れてこちらを疎かにするわけにもいくまい。

 

 結局、両方やるしか無いだろう。鳳は覚悟を決めるとカナンの目をまっすぐに見据えて言った。

 

「俺たちがニューアムステルダムの方を引き受けます。カナン先生は、仲間と合流して、ヘルメスの方を叩いてもらえませんか?」

「そう役割分担するのが無難でしょうか……わかりました。あちらの方はあなた方が到着するまで、我々だけで持ち堪えてみせましょう。ただし普通に考えれば戦力の分散は愚策です。もしもこちらの魔王が倒しきれなければ、再合流することを優先してください。その時の判断はそちらにお任せします」

「わかりました」

 

 鳳が承諾し、彼らはそれぞれの目的のために動き出した。

 

********************************

 

 ニューアムステルダムは火の海だった。冒険者ギルド本部にいたエリーゼは、窓口で勤務中に突然地震のような揺れに見舞われた。人々の悲鳴が轟く中で、彼女が慌てて机の下に身を隠していると、まるで巨大な何かが近づいてくるかのように、ドシンドシンとした音が響いてきた。やがてその振動はどんどん大きくなってきて、次の瞬間、ものすごい轟音と共に天井がガラガラと崩れて、受付は瓦礫の砂埃であっという間に真っ白になってしまった。

 

 その凄い煙の中で息も出来ずにエリーゼが涙を流しながら耐えいていると、やがて薄れゆく白煙の向こう側から異様な悪臭が漂ってきた。まるで腐肉を焼いたような酷い臭いに耐えきれず、逃げるように机の下から這い出してきた彼女は、その時、天井に空いた穴の向こうにぎょろりと光る巨大な目を見た。

 

 考えても見ればギルド本部は5階建ての建築物で、その一階にある受付の天井が崩れるなんてありえないのだ。なのにその天井が崩れて、そして目の前には冗談みたいに巨大な化け物の目が光っている。

 

 何がなんだかさっぱりだが、良くないことが起きていることだけはわかった。恐れおののいた彼女の体が自然に一歩二歩と後退っていくと……その時、彼女の靴の下にむにゅっとした物を踏みつける感触がした。

 

 天井の目から視線を逸らして恐る恐る足元を見回せば、そこには馴染みの冒険者や、さっきまで受付にいた客たちが血まみれになって倒れていた。その殆どがうめき声をあげていたが、中にはもうそれすら出来なくなった者たちもいた。多分、その中には死者も含まれていただろう。

 

「きゃあああああーーーーーーっっ!!!」

 

 彼女はあまりの恐怖に頭がついてこれず、悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。その声に気づいた巨大な目が彼女を捉える。エリーゼは内心まずいと思いつつも体が動かず、その場でへたり込んでいると、

 

「エリーゼっ!!!」

 

 遠くから誰かが駆け寄ってきて、そんな彼女の体を引っこ抜くように抱えて走り出した。

 

 次の瞬間、ズズンと地響きがして、また室内が真っ白になった。アントンは背後から追いかけてくる砂埃から逃れようと、彼女を肩に担ぎながら必死に走り、ついさっきまで玄関ホールだった瓦礫の山を乗り越えて、建物の外へと飛び出した。

 

 ギルドの中も外も、どこもかしこも悲鳴だらけだった。

 

 泣き声が波のように伝染していき、あちこちに血だらけの人々が倒れている。

 

 そして二人はそれを見た。

 

 5階建てのギルド本部よりも、まだずっと高い体高。そして5~60メートルはある2ブロック先まで続く巨大な全長。体はでっぷりと太って角ばっており、その巨大な口からはおびただしい数の牙が突き出して、ゴオゴオとまるで台風のような呼吸音が聞こえた。

 

 それは巨大なカバのような生物だった。いや、生物というのすらバカバカしい、おとぎ話にしか存在しないようなオブジェクトだ。何しろそれはあまりに巨大すぎて、その体を維持することが出来ずに、あちこちの肉が崩れ落ちていた。きっと体温が高すぎるせいで、常に全身から熱を放っており、その焼け焦げた肉片が地面に落下するたび、その衝撃で肉が脂を撒き散らし発火するのだ。

 

 そんな巨大カバは轟音のような雄叫びをあげると、たった今自分が壊したギルド本部の中に口を突っ込み、ガツガツと顎を上下に動かした。その瞬間、建物の中から悲鳴と泣き声とバキバキという何かが砕かれるような音が聞こえてきて、それと同時に汚物を撒き散らすようなとんでもない悪臭が漂ってきた。

 

 こいつ……人を食っているのか?

 

 アントンがそんな化け物の姿を呆然と見上げていると、その肩に乗っていたエリーゼの体がずしりと重くなった。あまりの出来事に、ついに彼女は意識を失ってしまったのだ。そんな彼女の重みが彼を冷静にさせた。

 

 アントンは何が何でも彼女だけは守らねばならないと決意すると、完全に弛緩して水袋みたいになった彼女の体を担いで、必死に街を駆け続けた。

 

 それは鈍重そうに見えて驚くほど機敏に動いた。その巨体から生み出される力はパワフルで、直線であれば爆発的な速度で加速していき、あっという間に時速100キロくらいに達してしまった。そのくせ、方向転換も器用でちょろちょろと動き回り、逃げ惑う人々を次々と捕食していく。その体が向きを変える度に飛び散る肉片が周囲にばらまかれて発火し、ニューアムステルダムはあっという間に火の海になった。

 

 もちろん、人々はただ逃げ回るだけではなかった。冒険者ギルドの冒険者達は仲間が殺られたのを見るや、すぐに対抗しようと結束し、あらゆる手段を用いてそれを攻撃したが、まるで歯が立たなかった。

 

 一応、攻撃は当たるし、相手は殆ど避けようとしないのだが、仮に剣や銃弾がその体に当たったところで、ダメージにならないのだ。何しろそれはあまりにも巨大で、当たってもせいぜい皮膚を掠める程度のことでしかない。おまけに、その表面の肉を自分で撒き散らしているくらいなのだから、外部から攻撃しても殆ど意味がないのだ。

 

 しかし、考えようによっては、自分の体を撒き散らしながら動き回っているのだから、そんなのは暫くしたら自滅しそうにも思える。ところが、そいつは人を食うたびにその体を修復し、補っているようなのだ。

 

 寧ろ、それは自分の体を維持するために、この人口密集地で大暴れしているように思えた。ここは正にその巨大カバの食卓だったのだ。

 

 人を食い続ける限り体力を回復し続けるのであれば、対抗する手段は一つしか無いだろう。とにかくそいつに捕まらないように逃げ回るだけだ。冒険者も、連邦議会の憲兵も、すぐにそれに気がついた。だから彼らの次の行動は、逃げ惑う人々を誘導することだった。

 

 だが、逃げると言っても一体どこへ逃げればいいのか? 地震なら広い場所に逃げればいいが、あれが相手では取皿にごちそうを並べるようなものだった。かと言って建物の中に避難しても、あれは平気で建物を破壊して死肉を漁るだろう。街から出ても同じだ。埋立地であるこの周辺は開けていて、逃げ出そうとする人々の行列を見つけたら、あれは喜んで飛んでくるはずだ。

 

 今もそうして人々が密集した場所を見つけては、そいつは機敏に方向転換してその集団を食い尽くすのだ。人間が動物であることも仇になった。人間の本能は集団になると落ち着くのだが、今はそれじゃ逆効果なのだ。

 

 かと言って、みんな散り散りになって逃げろと叫んでも、恐怖している人々はそれが出来ない。結局、みんなが逃げるのと同じ方向に逃げようとして、そして巨大なカバの餌食になっていった。

 

 一体、どうすればいいんだ? 逃げ場がない……アントンは気絶するエリーゼを抱えながら、そいつの捕食から逃げ惑い、冒険者仲間と助け合いながら悲嘆に暮れていた。

 

 と、その時だった。

 

 突如、雨雲も無いのに空から複数の閃光が迸り、ビシャン! っと耳をつんざく音が響いて、その巨大な生物の背中に雷が落ちた。さしもの化け物もこれには堪らず、悲鳴のような雄叫びをあげると悶絶するようにその巨体を横たえた。ズズンと砂煙が舞って、またいくつかの建物が倒壊する……

 

 空を見上げれば、それはまだ豆粒のような大きさであったが、ニューアムステルダムの上空に、確かに人の影が浮かんでいた。5つの影の中央が杖を振るように動いたと思ったら、また雷鳴が轟きカバの巨体が跳ね上がった。怪物がそれを嫌って走り出すと、今度はまた別の影が、ゆっくりと降下しながら逃げ惑うカバに追い打ちをかけた。

 

 ギヨームは空中で巨大な対物ライフルを次々作り出すと、そいつの四肢に狙いを定めて銃撃をお見舞いした。それは怪物の関節を的確に捕らえており、逃げようとするそいつの動きを止めた。

 

 彼が一撃すると銃身が壊れてしまうライフルを放り投げると、それはすぐに光の礫を発して虚空へ消えていった。それがまるで流星のように、黒煙に染まる空に流れて、人々の目を奪った。

 

「勇者様だ! 勇者様が助けに来てくださった!」

 

 どこからともなくそんな叫び声が街に響いて、小波のようにあっという間に歓声が街を埋め尽くしていった。上空から飛来する5つの影は街に降り立つと、すかさずギヨームが高所に陣取り、マニが暴れる巨大カバのヘイトを稼ぐべく、その顔の周りをうろうろと飛び回る。

 

「鳳!」

 

 鳳がルーシーとスカーサハを連れて地面に降りると、その着地点を目掛けて助けを求める人々が殺到してきた。鳳は彼らを気の毒に思いつつも、今は構ってられないのでポータルを作り出すと、これをくぐってさっさと逃げろと怒鳴るように指示した。人々は涙を流し、お礼を言って次々と潜り抜けている。

 

 そんな中にはアントンの姿もあり、鳳はその肩に担がれているエリーゼの姿を見つけると、

 

「アントン! 彼女は大丈夫なのか?」

「ああ、大丈夫だ。今は気を失ってるだけだ」

「そうか。なら良かった。ポータルの先はヴィンチ村に繋がってる。ミーティアさんがいるから、彼女に会ったら安心するだろう。早く連れてってやんな」

 

 鳳がそう言って彼の背中を押すと、アントンはほんの少し涙目になりながらそれに感謝しつつも、

 

「ありがとう。だが、こんなこと俺が言っても無意味かも知れないが……俺にも何かやれることは無いか? ここに来るまで、大勢の仲間が犠牲になったんだ……!」

 

 アントンは目を真っ赤にしながら真剣な表情で鳳のことを見つめている。見れば彼の背後にも見知った顔がちらほら見えた。数十人の冒険者達が決意を秘めた表情でそこに立っていた。鳳は、彼らの気持ちはわかるが、恐らくやれることは何も無いと、後ろめたい気持ちを抱えながら、そう伝えようとした時……ふと、自分の持っている杖を見て、

 

「そう言えば……みんなのMPを分けてくれないか? 俺の武器に貯めておくことが出来るらしいんだ」

「MP? そんなもんで良ければいくらでも取ってってくれて構わないが……どうやって渡せばいいんだ?」

「えーっと、どうすんだろ……物を吸い込むのとはわけが違うよな」

 

 鳳が杖を矯めつ眇めつしていると、後ろの方からルーシーの焦れったそうな声が聞こえてきて、

 

「イメージすればいいんだよ。そうしたら杖が勝手にやってくれる」

「イメージ……?」

「ゴスペルは神の兵器だから、神に奇跡を祈るように、杖にお願いすればいいんだって。ミッシェルさんがそう言ってた。私はそれはイメージすることだと思ってるよ。杖はアストラル界と通じているから、イメージが大事なんだ」

 

 鳳は、彼女が急に小難しいことを言い出したので面食らったが、このゴスペルを使うことには彼女に一日の長がある。そう思い直すと彼女の言う通りにしてみようと、杖を握りしめながら目をつぶった。

 

 とは言え、MPを吸い取るイメージってどんな感じなのだろうか? いまだかつてそんなこと、やったことも無ければ、見たことも聞いたこともない。彼はどうしたものかとほとほと困り果てたが、その時、ふと昔読んでいた漫画を思い出して、

 

「オ……オラにみんなのMPを分けてくれ!」

 

 何でこいつ急にカッペみたいになってんだ……? そんなみんなの冷たい視線を浴びながら鳳がそれを口にすると、次の瞬間、冒険者たちの体がぼやっとした光に包まれて、

 

「お?」「……なんか吸われてる気がする」「ちゃんとMP減ってるぞ」「マジか」

 

 彼らは口々に不思議な体験に驚いている。鳳はそんな彼らにお礼を言うと、

 

「それじゃあ、本当にここは危ないから、もう行ってくれ。あれを倒せるか分からないけど、生きていたらまた会おう」

「頼んだぞ、鳳。いや、勇者様! おまえだけが頼りだ!!」

 

 アントンはそう言って鳳の肩を抱くと、不安そうに何度も振り返りながら、ポータルの向こうに消えていった。

 



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魔王からは逃げられない

 冒険者たちは高レベルの者が多かったから、MPもそこそこ溜まったようだ。それでも鳳の最大MPの半分程度にしかならなかったが、すぐに回復できるMPがこれだけあると思えば上等だろう。彼はさっき使った分のMPを補充してみて、それを確認した。

 

 ちなみに鳳たちがそんなやり取りをしている間も、ギヨームとマニは敵をうまく引き付けてくれているようだった。正直、上空から見た被害の大きさから、相当の苦戦を覚悟していたが、思ったよりも敵は柔らかいようだ。それもそのはず、よく見ればそれは自分の体を維持できるだけの耐久度が無くて、自分の肉片を撒き散らしながら行動しているのだ。

 

 ギヨームの作る対物ライフルの攻撃は、魔王の体に深々と突き刺さり、そいつの体力をきっちり削っていく。魔王はその攻撃を嫌がって何度も反撃を試みようとしていたが、自分よりもずっと小さなマニの動きに翻弄されて、完全に注意が削がれているようだった。

 

 このまま続けていれば、その内あれは自滅するんじゃないか? 鳳たちはそれを遠巻きに見ていたが、すぐにそれは間違いだと思い知らされた。

 

「信じられない! 人を食べているの!?」

 

 その時、ギヨームに散々痛めつけられたカバは雄叫びをあげると、急に背中を向けて人の群れへと突進していった。慌ててマニが引きつけようとするが、生命の危機に本能がそうさせるのか、食事中は彼の挑発が全くきかないようだった。捕食による回復を目の当たりにし、ルーシーはその光景に激怒した。

 

「あんなの絶対駄目だよ! みんなを逃さなきゃ! 私がみんなをポータルで逃がすから、鳳くんはあいつをもう人に近づけさせないで!」

「分かった。そっちは任せる」

「私も隠蔽魔法でルーシーを手伝いましょう。この戦いにはついていけそうもありませんから」

 

 スカーサハが悔しそうにそう言って、妹弟子の後についていこうとしている。鳳はそんな彼女のことを呼び止めると、ステータス画面を開いてパーティーリストの中から彼女の名前を探しながら、

 

「ちょっと待ってください。出来れば先生もこっちをお願いします」

「これは……」

 

 鳳が共有経験値を流し込むと、彼女の体が柔らかな光に包まれた。彼女は自分のステータスを確認して驚きの声を上げている。きっと今頃、レベルアップのファンファーレが鳴り響いている頃だろう。

 

「共有経験値ってやつで、えーっと、説明は後でしますから。今はとにかく古代呪文が使える神人がいると助かります」

「わかりました。レビテーション!」

 

 鳳が依頼した瞬間、正に打てば響くと言わんばかりに、スカーサハはたった今覚えたばかりの魔法を使って前線にすっ飛んでいった。人々に襲いかかろうとしている魔王を電撃で痺れさせ、クラウド魔法で瞬間的に意識を奪ってルーシーの隠蔽魔法を助けている。突然、魔王の体がごっそりと削げ落ちたのは、オルフェウスの竪琴で何かをしたのだろうか? さっきルーシーに話を聞いただけで、もう何か掴んだようだ。おまけにマニの動きが急に早くなったところを見ると、どうやら現代魔法も使っているらしい。

 

 ちょっと切っ掛けを与えただけで、すぐにこれだけの攻撃を試せるのか……流石にレオナルドの弟子なだけあると舌を巻きつつ、いつまでも見とれている場合ではないと、慌ててギヨームの陣取る高台に飛んでいったら、着いた瞬間に思いっきり殴られた。

 

「いつまでぼんやりしてんだよ! さっさと何とかしろ!! あれを仕留めるのがおまえの役目だろう!」

「わ、わりい……つい見とれちまって」

「まあ、分からなくもねえが……つーか、あの魔王も思ったより手応えがないしな。厄介なのは回復能力くらいで、ルーシーがみんなを逃しちまえば、それで打ち止めだ。本当に、あれは神の野郎が送ってきた魔王なんだろうか?」

「それは間違いないだろう。あんな滅茶苦茶な進化をする生物はいないよ。神が無理矢理作り出したとしか思えない。単純に、みんなが強くなりすぎたんじゃないか。おまえもまだ必殺技使ってないだろう」

「……案外、上の世界ってのも、俺たちが思ってるほどヤバい場所じゃないのかもな」

「油断するなよ。もしかするとカナン先生が言ってた通り、ヘルメスのほうが本命なのかも知れないから」

「そうだな……それじゃちゃっちゃとこいつを片付けて、あっちに合流しようぜ」

「ああ」

 

 鳳は頷くと、自分のステータス画面を開いた。アマデウスの迷宮で世界の仕組みを知り、自分の力を正当なものと認めたことで、彼はステータスを弄ることに全く不安が無くなっていた。すると、それまでは一度振ったらそれっきりだったステータスも、今は好き勝手に上げ下げ出来るようになっていた。

 

 多分、それをポジティブに捉えたことで、本当にこの世界がゲームみたいな感覚になっているのだろう。どうやってるのかは知らないが、エミリアが第5粒子エネルギーを使って、鳳の体が強化出来るようにしてくれたのだ。それは大昔、彼女と肩を並べてやったゲームの主人公みたいなものだった。ただそれだけのことと考えたら、もう怖いものは無くなっていた。

 

 魔王は人間の成れの果て……その有り得ない巨体と、鼻がひん曲がりそうな異臭と、ボタボタと肉片が溶け落ちる無様な姿を見ていたら、なんだか哀れな気がしてきた。自分とあれと、どっちがより化け物じみているというのだろうか。どこでこうも違ってしまったのか。そんなことを考えながら、彼は杖を構えた。

 

「どうするつもりだ?」

「スカーサハ先生に出来なくて、俺だけがやれるのは禁呪を使うことだけだよ。崩壊魔法(ディスインテグレーション)を仕掛けて、あれを消滅させる」

「そんな、上手くいくのかあ?」

「いくさ。今の俺のINTは99だ」

「……はあ!?」

 

 最後の市民がポータルへ消えた。それを見て、鳳が杖を高々と上げてぶん回すと、意図を察したマニがルーシーを回収し、すかさずスカーサハがレビテーションで二人の体を宙に浮かべた。

 

 それと同時に、彼女がライトニングボルトをぶっ放すと、それをもろに食らった巨大カバはビリビリ感電し、その場で巨体をズズンと地面に横たえた。その姿はあまりにも脆く、ギヨームの言う通りまるで手応えが感じられなくて、本当に肩透かしだった。

 

 だが、油断は禁物だろう。魔王はそれでもなお生き汚く、屍肉を漁って回復を図ろうとしている。鳳はそうはさせじと杖を天に掲げると、そんな魔王に引導を渡すべく、この世界最強の禁呪を唱えた。

 

「万物の根源たる粒子。光となりてその力を解き放て。陰は陽、陽は陰。崩壊せし物質は流転し、また新たなる世界を生み出さん。ディスインテグレーション!!」

 

 屍肉を喰らい、復活しようとしていた魔王の目論見は敢え無く潰えた。鳳の魔法が魔王を襲うと、その巨体が強烈な光によってかき消されてしまった。そしてそれが小さな太陽のように、いやそれよりも明るく光り輝いたかと思うと、突如としてその光は崩壊し、灼熱の炎を吹き上げる爆炎となった。

 

 次の瞬間、目もくらむような閃光と全身を叩きつけるような衝撃波が周囲を襲った。その爆風で周辺を取り巻く建物は吹き飛び、瓦礫の山がまるで砂埃のように街全体に舞い上がる。鼓膜を突き破るような鋭い痛みが走り、キンキンと耳鳴りがして、音は後からついてきた。堪らず、耳をふさぎ目を閉じると、鳳は古代呪文(エナジーボルト)の障壁を作って、自分とギヨームの盾にした。

 

 ゴオゴオと吹き上げる爆炎が空気を轟かす。あちこちから瓦礫が落下するバシャバシャという雨みたいな音が聞こえてくる。閃光の後、街は砂埃に塗れて何も見えなくなっていた。爆心地はクレーターのようにえぐれて、もはや元の町並みは原型を留めていない。

 

 終わった……鳳はそう確信していた。何しろこれだけの爆風が吹き荒れたのだ。その中心にいたあの怪物が無事であるわけがない。

 

「……嘘だろ?」

 

 しかしそれはあまりにも楽観的すぎた。鳳たちは、そいつの攻撃が単調すぎて全然当たらないから、その評価を低く見積もりすぎていたのだ。

 

 強さにだって種類はある。速さ、力強さ、頭の良さ、そしてタフさだ。そいつはとても頑丈だった。信じられないくらいに。

 

 砂煙が晴れてくると、爆心地には、未だあの巨体が健在だった。体の表皮が削れ、一回り、いや二回りは小さくなっているように見えたが、それでも、それはまだちゃんと呼吸をして、グルグルと気持ちの悪い唸り声を上げていた。

 

 呆気にとられる鳳たちの目の前で、そいつがヨロヨロ起き上がると、体の上に雪のように降り積もっていた瓦礫が落ちて、また砂塵が舞った。魔王は犬みたいに体をブルブルと震わせてそれを全部払いのけると、まるで馬のいななきのような咆哮をあげながら、高々と前足を上げた。

 

 全長60メートルはあろうかというそいつの直立は、正に聳え立つ高層ビルのようだった。一瞬にして日光が遮られ、街に巨大な影が落ちる。そしてそいつが前足を下ろすと、ズズンと強烈な地響きがして、本当に地震のように地面がグラグラ揺れていた。まるで自分がどこも怪我をしていないことを確かめているようだった。

 

 あれを食らって生きているのか?

 

 鳳は信じられない思いを抱えながらも、すぐさま自分の杖に残っていたMPを吸い出した。今の一撃で自分のMPを全て消費していたから、これがなければお終いだった。とは言え、自分の持てる限りのMPを消費した攻撃を跳ね返された今、この虎の子のMPがあってもジリ貧なことには変わりなかった。

 

「おい、どうすんだよ!?」

 

 ギヨームの焦る声がキンキン響く。

 

「俺にだって、わからないよ! とにかく、今は攻撃を継続するしか方法が無い。あいつに回復をさせなければ、いつか倒れるかも知れないから」

「本当に倒れるのか?」

 

 ギヨームが冷や汗を垂らしながらぼやいている。鳳も同感だったが、かと言って他にやれることはない。とにかく今は最善を尽くして、MPが無くなるまで攻撃を続け、無くなったら無くなったでその時に考えよう。

 

 しかし、鳳たちがそうして臨戦態勢を整えた時だった……

 

「グオオオオオオオオォォォーーーーーーッッッ!!」

 

 と、腹の底から響くような雄叫びを上げて、突然、ドッスンドッスンと魔王がその場で足踏みをし始めた。まるで馬が前足を掻くようなその姿から、もしかしてそのまま突進してくるのではないかと思った彼らは身構えたが……ところがそいつは鳳たちの前まで突進してくると、弧を描くようにして急旋回し、そのまま明後日の方向へ駆けていってしまった。

 

 何のつもりだ……? まるで高跳び選手の助走みたいに駆けて行ってしまった魔王の後ろ姿を、二人は今度は油断すまいと身構えながら、じっと目で追っていた。しかし、それは止まるどころかどんどん加速して行き、ついには街から外に飛び出してしまった。

 

 そして砂埃を上げながら草原を駆け抜けていった魔王は、あっという間に小高い丘を越えて、その向こう側に消えてしまった。鳳たちはそれを呆然と見送った後、まだ暫く動けなかったが……

 

「ど……どういうこっちゃ?」

「もしかして……逃げたのか?」

 

 ギヨームがボソッと呟く。まさか、魔王が逃げるなんて考えられないが、考えられないだけで有り得なくはない。これはゲームの中じゃないのだ。いや、そもそも逃げられないのは主人公の方で、魔王が逃げられないわけじゃない。

 

 鳳がパニックになってそんなどうでもいいことを考えていると、ルーシーを抱えたマニとスカーサハが彼らのところを飛び込んできた。

 

「鳳くん、あっちはヴィンチ村の方角だよ!!」

 

 ルーシーは、ぽかんとしている鳳たちの下へ駆け寄ってくるなり、青ざめながらそう叫んだ。鳳は一瞬、だからなんなの? と思ったが、

 

「……まさか、ルーシーが逃した人たちを追いかけたってことか!?」

 

 彼女はポータルで人々をヴィンチ村に送ったのだ。村はここからだいぶ遠いが、回復手段として食べる人間が居なくなったあのデカブツが、もしもそれに気づいていたとしたら……それは十分に考えられた。

 

「大変だ! すぐに戻ろう!」

 

 鳳がポータルを出し、5人は慌ててヴィンチ村へ戻った。

 

 村に戻るといつもの広場が避難民でごった返していた。命からがら逃げてきた人々はみんな泥だらけで、中にはひどい怪我を負っている人たちもいた。館の使用人たちが忙しそうに、そんな人々に応急手当をしている姿が見える。

 

 普段は長閑な過疎の村なのに、数千を超える避難民が詰めかけて、今にも死にそうな絶望的な表情をしてるのを見るのは堪えた。たが、実際に死んでしまった人たちや、あっちに残った人たちを思えば、ここはまだ天国だろう。尤も、あの巨大なカバが本当にここを目指しているのでなければだが。

 

 鳳たちがポータルから出てくると、避難民達が藁をも縋るといった感じに彼らのことを取り囲んだ。鳳たちは、そんな彼らを不安にさせまいと、もう大丈夫だと言って回ったが、実際にはこれからどうなるかは未知数で、またどこかへ逃したほうが良いのかも知れないと内心では不安に思っていた。

 

「鳳さん!」

 

 そんな避難民達を元気づけて回っていると、その姿を見つけたミーティアとアリスが駆け寄ってきた。きっと彼女らも館から応援に駆り出されたのだろう。手には包帯と水差しを握りしめていて、服はところどころが血で汚れていた。

 

 彼女らの背後にはアントンと気絶から回復したエリーゼも居て、どうやらミーティアと久しぶりに再会し、話に花を咲かせていたようだ。彼女らは鳳の下へ近づいてくると、

 

「話はアントンから聞きました。首都はとんでもないことになっているようですね。でも、鳳さんが帰ってきたってことは、あっちはもう片付いたんですよね?」

「……それが、まだわからないんだ。実は魔王と戦闘中、やつが突然俺たちに背中を向けて逃げ出してしまったんだよ」

「逃げた……?」

「ああ、信じられないんだけど。それでこっちの方に向かったから、村は大丈夫かって心配して見に来たんだけど」

 

 鳳たちがそんな会話を交わしている時だった。避難民達の間からどよめきのような声が漏れてきて、それが波のように村全体に伝わっていった。誰かが地響きのような音を聞いて、それがどんどん近づいていることにみんなが気づいたのだ。

 

 ドドド……ドドド……と、最初は馬群が遠くから近づいてくるような音が聞こえてきて、それはやがてズドンズドンと道路工事でもしているような衝撃音に変わっていった。地響きが文字通り地面を揺らし、ついさっきまで見舞われていたその恐怖を思い出した人々の中から悲鳴が沸き起こる。

 

 本当にやってきたのか? 鳳たちは村には手を出させまいと、水際迎撃をするつもりで上空に飛び上がった。あの魔王は図体がでかくて、思いのほか素早くもあったが、一度動きを止めてしまえば殆ど射的の的みたいなものだった。例え鳳の最強魔法が効かなくっても足は止まるはずだ。

 

 今度こそ油断せずに体力ゼロまで削ってやる……彼らがそんな決意をしながら待ち構えていると、ところがその地響きのような足音は、確かにニューアムステルダムの方からこっちの方へと向かっていたが、それはまっすぐヴィンチ村へはやって来ずに、そこよりも大分北の方を通過して、そのまま東へと駆け抜けていってしまった。

 

 当然、こっちへやってくると思っていたのに、まさか村を素通りするとは思わず、鳳はまた放心しかけたが、すぐに気を取り直すと奴の行き先を探るべく、更に上空へと高度を上げた。

 

 ヴィンチ村より東方に集落は無く、砂漠を抜けたらもうそこは大森林だ。鳳がこれ以上は無理という現界まで高度を上げて魔王の行く手を探ると、果たして、巨大な化け物の立てる砂煙は、本当に大森林へと向かっているようだった。

 

「どういうつもりでしょうか……まさか、あの魔王は本当に逃げ隠れしているつもりなんでしょうか?」

 

 鳳が手かざししながらそれを見下ろしていると、そのすぐ隣に並ぶように上がってきたスカーサハがポツリと言った。

 

 魔王はその巨体のパワーもあって、直線ならばとんでもなく足が速かった。ちゃんと計測したわけではないが、恐らく平均時速100キロは下回らない感じである。そんなのが森の木々を倒しながら走り去る様は、殆どブルドーザーかダンプカーである。

 

「しかし、逃げると言っても、あんなにデカくちゃ大森林でも丸見えですよね。どうしましょうか。このまま追跡するか、準備万端整えてから奴を追いかけるか」

「……このまま追いかけても、こちらが息切れするだけです。あれなら見つけるのは容易いでしょうし」

「そうですね。やっぱ一度戻って、MPをこれでもかってくらい溜めてから行ったほうが良さそうだ。あっちにはガルガンチュアの村があるから、そこから迎撃に出ましょう」

「いや、待て。やつは北東に向かってるようだ」

 

 二人がそんな会話を続けていると、それに口を挟む感じでギヨームがそんな言葉を口にした。その意味が分からず、二人が首を捻っていると、ギヨームは少し難しい表情を作り、

 

「……太陽の位置から方角を割り出すと、あいつは東じゃなくて北東に向かってる。このまま突き進めば、多分、行き着く先はヘルメスとオルフェウスの国境辺りだ」

「それがどうかしたのか?」

「忘れたのか? カナンはもう一体、魔王が現れたと言ってそっちに向かったんだ」

「あっ!!」

 

 鳳の心臓がドキリと跳ね上がった。まだ絶対とは言い切れないが、もしもそれが本当なら、あの魔王はもう一体の魔王に合流しようとしているということだろう。それが何を意味するのか……鳳はカナンの言葉を思い出した。

 

 戦力の分散は愚策だ。もしも勝てそうになかったら、一時撤退して合流しよう……

 

 それは魔王ではなく鳳たちに向かって言った言葉だったが、今こうして逃げ隠れしている魔王の姿を見ていると、あながちそれもあり得るのではないかと不安になってきた。魔王はただの化け物にしか見えないが、あれでも元は人間だったのだ。劣勢になった途端に逃げ出したり、あれにも全く知恵がないわけじゃない。

 

「ちょっと考えられないが……二体の魔王が共闘なんかしたら流石にマズい。ルーシー、ヘルメス国境にポータルを開くことは出来るか?」

「多分出来るけど、ゴメン。回復しなきゃMPがなくて……」

「俺のポータルで一番近いポイントは……帝都か。流石にあそこからじゃ時間がかかりすぎるな。ギヨーム、カナン先生とは連絡取れないのか?」

「あっちからは出来るみたいだが、俺からは無理なんだよ。おまえの念話と同じだ」

「俺の……?」

 

 ギヨームは多分、パーティーチャットのことを言っているのだろう。普段、あまり使わないからすっかりその存在を忘れていた。と言うのも、あれは距離が遠いと殆ど通じないからなのだが……一度、ものすごく離れていた大森林のマニと繋がったことがある。アマデウスの迷宮以降、能力に対する忌避が無くなった今なら、案外繋がるかも知れない。

 

 とにかく物は試しだ。カナンには繋がらないが、今までの経験からしてパーティーリストにある人物なら繋がる可能性はある。国境には今、ヘルメス軍が駐留して、反乱軍と戦っているはずだった。ヴァルトシュタインなら必ずそこに居るはずだ。

 

 鳳がそう思って自分のパーティーリストを眺めていると……ヴァルトシュタインより先に、彼はその先頭あたりに、クレア・プリムローズの名前を見つけた。

 



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ヘルメス内戦

 時は少し遡る。

 

 ヘルメス東部オルフェウス国境では、野盗討伐のために編成されたテリーの軍団を乗っ取って、もう一人の後継候補・ロバートが挙兵した。彼は自らを義勇軍と称し旗揚げすると、クレアの不正を断じる檄文を各地に飛ばした。

 

 現在、療養中と言われていたヘルメス卿は、実は調査のためにネウロイへ行っている。彼は国民を心配させないように、生きて帰れるかも分からないその旅のことを伏せていたのだ。ところが後を任されたクレアはこれ幸いと、ヘルメス卿はもう死んだものと吹聴し、今のうちに権力を奪取しようとして邪な試みをしている。忠誠を尽くすべき主の死を望むなど言語道断。こんな勝手が許されていいのか。ヘルメス卿が帰還するまでに、この悪事を正さねばならない。だから自分は仕方なく挙兵したのだ。どうかこの正義に力を貸して欲しい。

 

 その檄文にはまったく根拠がなかったが、実際にヘルメス卿が不在なことと、その彼がいつ帰還するかも全く不明であったために、中央政府は有効な火消しのための手段が何一つ取れず、かえってロバートの主張に正当性を与える結果となってしまった。

 

 そして鳳が不在という知らせに国内は動揺し、それまで好景気のために平穏を保っていたロバート派とクレア派の小競り合いが再燃した。今、勇者が居なくなったら、この国の将来を任せられるのは果たしてどちらだろうか。意外にもロバートはまだまだ庶民に人気があり、彼の下へと馳せ参じようと村を抜け出す人々が続出したのだ。

 

 比べるべき根拠がない時、人は耳馴染みのいい方を選ぶものである。人気と能力は必ずしも比例するとは限らないものだが、ロバートは、その人柄をよく知ってる人には無能にしか映らないが、知らなければ正当な王家の血筋(ロイヤルブラッド)だった。庶民たちは女性であるクレアよりも、300年続く彼の血筋を信じた。

 

 そして続々と集まってくる義勇軍が10万を越えたと報告が上がった時、遅ればせながらヴァルトシュタインは討伐軍を編成して東進を開始した。元々、農兵を中心としたヘルメス軍では、正規軍と言ってもその感覚は完全に庶民寄りだった。故に、その選抜に苦労したのだ。

 

 ヴァルトシュタインの大義名分は正規軍であること。ヘルメス卿は未だに健在であるのに、私兵を集めればそれは反乱であるということだったが、庶民たちはそのヘルメス卿がネウロイに向かったと聞いて動揺している。そして義勇軍が10万を越えるのに対し、討伐軍が1万そこそこしか動員できなかったことも兵の士気を悪化させた。しかもその数はまだ増え続けており、討伐軍が東西に長いヘルメスを突っ切って、東部プリムローズ領に到着した時、そこには100万を号するロバートの反乱軍が待ち構えていたのだ。

 

 もちろんそれは掛け声だけで100万には到底足りなかったが、本当に20万か30万か、それくらいの規模はあった。これから戦おうとする相手なのに、非常に大雑把な勘定なのは、正直言ってヴァルトシュタインからすれば、まともに訓練もされていない群衆が相手では20も30も変わりなかったからだ。

 

 その大軍を前にして緊張の色を隠せない正規軍の兵士たちに、彼はいつも訓練でやってる通り方陣を組ませると、どんちゃん騒ぎをしている反乱軍に背中を向けて、自軍に向かって訓示を垂れた。

 

 相手の方が人数が多いと言っても、所詮は烏合の衆だ。指揮官が居なければ集団はまともな行動を起こせない。せいぜい、まっすぐこっちに向かってくるだけだ。そんな訓練もされていない素人集団を恐れても馬鹿馬鹿しいだろう。せいぜい、相手のことは花見の見物客くらいに思っていれば良い。それに、こちらにはヘルメス卿に忠誠を誓った神人兵がついているのだ。それはたった500人しかいないが、ここにいる100万だかを相手にしてもお釣りが来る。だから安心して戦ってくれ。

 

 実際、反乱軍は神人兵を相当恐れているようだった。神人兵の配備された中央付近にかけて、相手陣営は凹型にへこんでいる。兵士たちがそれを見て戦意を取り戻していると、続いて総大将のクレアが戦場に現れ、彼らを鼓舞した。ピッタリと腰のラインが浮き出る綺羅びやかなドレスを纏い、そこに不格好な革の胸当てをつけて、栗毛の馬に乗って現れた彼女は異様に映えた。実際にはヴァルトシュタインが指揮を執るが、総大将として従軍してきた彼女は兵士たちの前まで進み出ると馬を降りて、語りかけるような落ち着いた声で言った。

 

 反乱軍は自分のことを権力を簒奪する悪者のように言っているが、自分にとってヘルメス卿は非常に大切な人なのだ。その彼に対する忠誠を忘れたことはない。そして皆忘れていると思うが、勇者である彼なら、例えネウロイだろうがどこだろうが無事に返ってくるはずだから、彼がこの国に戻ってきたときに悲しまないように、このような醜い争いを一日も早く終わらせて欲しい。兵士たちには十分な恩賞を与え、勝利の暁にはボーナスもある。そしてもちろん正義はこちらにあるから、ロバートの戯言には惑わされず、存分に戦って欲しい。

 

 クレアの言葉は戦意高揚とは程遠いものだったが、不思議と兵士たちの心に響いた。自分たちがこの美しい女性を守るナイトなのだと思うと、自然と力が溢れてきた。彼らは最後の確認という大隊長からの号令に対して、一糸乱れぬ動きで返した。そんな討伐軍に対して、反乱軍から野次が飛んだが、彼らにはもう恐れるものは何もなかった。

 

 両陣営がだだっ広い荒野に陣取り、そして遠くの丘には帝都から派遣されてきた観戦武官(それはジャンヌ達を含んでいた)が見守る中で、ヘルメス内戦は開戦した。反乱軍の怒号に対し、討伐軍の法螺貝が鳴り響き、両陣営の先鋒が進み出て一番槍を争ってぶつかりあった。

 

 初戦は意外と言ったら失礼かも知れないが、反乱軍の優勢で推移した。やはりだだっ広い荒野では圧倒的に大軍が有利で、数に頼って押しつぶそうとする反乱軍に対し、討伐軍は囲まれまいとして後退し続けるしか手がなかった。正に破竹の勢いの反乱軍が、嵩にかかって押し込んでくる。

 

 しかし、それはもちろんヴァルトシュタインの罠だった。広い場所でぶつかりあえば、いくら相手が素人であっても、数が多いほうが有利なのは間違いない。だから彼は劣勢で押されている振りをして、徐々に戦線を後退させながら、敵軍を隘路に誘い込んでいたのである。

 

 反乱軍のもう一つの弱点は、寄せ集めであるがゆえに道に不案内なことだった。逆にこちらは戦場となったプリムローズ領の領主が総大将を務めているのだから、地元の人間しか知らないような間道や、地図には載っていない沼地など、いくらでも罠に誘い込むことが可能だった。

 

 ヴァルトシュタインは縦深陣形で、敵の大軍を狭い間道に誘い込みながら、途中、攻撃されて散り散りに逃げ出した振りをした部隊をあちこちに伏せさせつつ、狭い道をどんどん後退していった。

 

 反乱軍も馬鹿じゃないから、自分たちが誘い込まれていることに気づく者も居たが、一度勢いに乗ってしまった大軍は簡単には止まれず、気がつけば反乱軍の戦線は完全に伸び切っていた。

 

 反乱軍の追撃も徐々に弱くなってくる……ヴァルトシュタインはそれを頃合いと捉えると、合図を送ってそれまでに伏せさせておいた伏兵に一斉攻撃をさせた。

 

 敵を追い込んでいるつもりだったのに、突然、その敵に囲まれていることに気づいた反乱軍はあっという間にパニックに陥った。更に、その動揺に拍車をかけるように、神人兵が馬を駆りながら猛烈な勢いで伸び切った戦線のど真ん中を突っ切ってきた。

 

 神人たちの繰り出す神技や古代呪文の雨あられに対抗できず、反乱軍は散り散りになって逃げ出し始めた。しかし大軍であることが仇となってすぐあちこちで将棋倒しが起きてしまい、そのせいで前線に取り残されてしまった兵士は完全に戦意を喪失し、間もなく投降し始めた。神人兵たちは更に敵を分断すべく反乱軍を追いかけたが、しかし相手の数が多すぎて、まるで羊の群れを追い立てる牧羊犬のように周りをうろつくことしか出来なかった。

 

 ともあれ、こうして初戦に勝利した討伐軍は、逃げ遅れた反乱軍の兵士たちを一箇所にまとめて武装解除すると、特に刑罰を与えることもなく、それをさっさと解放してしまった。敗北したのに何もないなんて……彼らは驚いていたようだが、そもそも、彼らはロバートに焚き付けられただけの領民であるから殺すわけにもいかず、捕虜にとってもタダ飯ぐらいなだけで、何の価値もないから逃がすしか無かったのだ。

 

 ヴァルトシュタインはそれを知りながら寛大なふりをして、なんならあっちの陣営に戻ってくれても構わないと言って逃してやった。おまけに解放された彼らの前にクレアが現れて、自分に二心はなくてあなた達と同じヘルメス卿の下僕なのだ。彼が帰ってきた時に悲しまないように、故郷に帰ったら精一杯この国のために尽くして欲しいと説得すると、彼らは己を恥じて涙を流した。説得に応じた彼らの中に、反乱軍に戻る者は一人としていなかった。

 

 翌日。初日で早くも大量の兵を失ってしまった反乱軍は、数に頼る戦術を変えてきた。その日は反乱軍の中で唯一まともな訓練を積んでいたテリーの部隊が前面に押し出され、討伐軍と相対する格好になった。

 

 ヴァルトシュタインとテリーはお互いに相手の射撃が届かない距離に陣取ると、散発的にやる気のない射撃を繰り返した。少しでも前に出れば射撃のいい的になる。だが、一歩も出なければ何事も起こらない。そんな絶妙な距離で両陣営はダラダラと一日中戦闘を続けた。

 

 するとその翌日にはもうテリーの部隊は端っこに追いやられていた。恐らく戦意が感じられないことを咎められたのだろうが、損耗ゼロで一日中攻撃を行っていたのだから文句を言われる筋合いもない。そんなやり取りがあった後、生意気なやつだと思われて、追い出されたといったところだろう。

 

 しかし、そのせいでこの日は少々厄介なのが相手になった。ろくな防具もつけていない見すぼらしい集団が先鋒を務めていたのだ。

 

 戦線が膠着して動きがない時は、勇敢であるが身分の低い者に攻撃を命じるのが鉄則だ。ちょっと考えてみればわかるが、お互いに殺しの道具を持つ者同士が相見えた時、普通はどちらも動かない。剣を交えれば勝敗は五分五分だが、戦わなければ少なくとも死ぬことがないからだ。

 

 だがこれが功に焦っている者ならどうなるか。この戦いで勲功をあげなきゃ明日を生きる糧もないような者なら、一か八か攻撃をしかけるだろう。そして身分が低ければ、将は兵士を失っても痛くも痒くもない。もしも勝ったらたっぷり恩賞を与えて、その勇敢な兵士の忠誠を得ることが出来るかも知れないのだから、一石二鳥というものである。

 

 そういう兵士が死にものぐるいで特攻を仕掛けてくるのは非常に厄介だ。ヴァルトシュタインは気を引き締めるように全軍に命じると、最精鋭を前面に配置して、神人兵と共に迎え撃った。それでも残念ながら無傷とはいかず、いくらかの損害を受けつつも、これをどうにか撃退したところで、相手の策は打ち止めになったようだった。

 

 こうして、危機を脱した討伐軍であるが、その捕虜を取り調べていた時、思いもよらぬことが判明した。なんと、その兵士たちはオルフェウスから来た難民だったのだ。正に明日をも知らない彼らは、その日の食料を求めて反乱軍に合流し、そしてロバートの命じるままに特攻を仕掛けてきたのだ。彼らが死んだところで、領民は誰も傷つかない。非常に理に適った作戦と言えた。

 

 だが、クレアはこれに激怒した。そして、戦争がなければ彼らを受け入れる準備が出来ていたことを伝えると、彼らを逃し、それを反乱軍にも宣伝するように依頼した。ヘルメス卿は彼らと戦うのではなく、国境を開くことを望んでいたのだ。

 

 それが敵陣に伝わると、すぐに反乱軍は動揺し始めた。反乱軍には思った以上に食い詰めたオルフェウス難民が合流していたようで、彼らに迷いが生じたのだ。更にはロバート派の連中が、これはクレアの策略であり、彼女は嘘をついている。もし本当に、オルフェウスの難民を受け入れるつもりだというなら、敵を引き入れようとするあいつこそ国賊ではないかと失言(・・)してしまい、反乱軍の戦意は著しく低下した。

 

 ヴァルトシュタインがこれを好機と捉えて攻勢に出ると、反乱軍にはもうこれに対抗できる戦力はない様子だった。今も戦力は反乱軍の方が圧倒的に有利なはずなのに、少数の討伐軍にまったく歯が立たない。

 

 するとロバートはこれに焦りを覚え、全軍に戦線を後退するよう命じた。彼の悪い癖はなにより相手を見くびりすぎることだったが、相手はヴァルトシュタインなのだ。彼はこのときになって、ようやくヴァルトシュタインに何度も煮え湯を飲まされたことを思い出したのだ。

 

 このまま隘路を背にした相手と戦っていては、絶対に押し切ることは出来ない。広い荒野に出て、数に頼った戦いを仕掛けなければ、絶対にあいつには勝てないのだ。敵に背を向ける……その事実はロバートのプライドを著しく刺激したが、もはやなり振り構っていられないだろう。

 

 しかし、彼の決断はもっと早くそうしていたなら英断とも言えたが、この状況下ではそれは完全に裏目であった。きっと彼は実際に、敵に背を向けたことがなかったから、その意味するところが分からなかったのだろう。

 

 相手に十倍する兵力を持っていても、戦場にいる限り命の危険は付きまとう。実際に、これだけの戦力がありながら敵に翻弄された兵士たちは、撤退を命じられて心底ホッとしたことだろう。彼らの中に、その場に踏み止まって戦おうとするものなど、もはや一人もいなかった。従って、そんな彼らの背後を襲う追撃部隊に対応できる者も誰も居なかったのだ。

 

 百戦錬磨のヴァルトシュタインは、これを好機と捉えると、全軍に追撃を命じて自身が真っ先に打って出た。戦場で最も目立つ白馬に乗った彼の後に、ヘルメスの精鋭部隊が続き、逃げ惑う反乱軍のしっぽに食らいつく。彼らはだだっ広い荒野のど真ん中で反乱軍を捕まえると、信じられないことに、小勢である討伐軍のほうが、大軍である反乱軍を滅茶苦茶に追い散らし始めてしまった。

 

 精鋭部隊がバッタバッタと反乱軍を血祭りにあげると、辛うじて行軍らしい行軍をしていた敵の殿軍は、先を争って逃げ出しはじめた。押し合いへし合い、悲鳴が轟き渡り、まるで小波のように恐怖が全軍に伝播していく。堪らず、あちこちで将棋倒しが起きると、あっという間に反乱軍は軍隊としての機能を失って、もはやただの蠢く群衆に成り下がっていた。

 

 ロバートはそれを見て目を丸くした。ずっと隘路を背にしていたヴァルトシュタインの軍は、無防備にも荒野に出てきている。今、これを攻撃すれば、数に劣る彼らは一溜まりもないはずだ。なのに何故、反乱軍の兵士たちは誰ひとりとしてあれと戦おうとしないのだ?

 

 ロバートは撤退を命じていた将兵を怒鳴りつけると、今度は反転攻勢するように全軍に号令をかけさせた。果たして将兵は滞りなくその命令を遂行した。だが、確かに命令が行き渡っているというのに、兵士は誰もその命令を守ろうとしなかった。

 

 それは当然のことだろう。自分の周りの誰もが命令に従っていないのであれば、誰が律儀にそれを守るだろうか。そこに踏み止まって戦うことは、殆どただの死を意味している。そこまでの忠義がなければ、そんな命令は通用しない。一度下した撤退命令は、そう簡単には覆せない。古今東西、撤退戦ほど難しい戦はないのだ。

 

 ヴァルトシュタインの怒号が聞こえてきて、ロバートの体がビクリと震えた。気がつけば彼の周りにいつもいた取り巻きは誰もいなくなっており、彼は完全に孤立していた。ヴァルトシュタインは逃げ惑う反乱軍の兵士を血祭りにあげながら、ロバートを探せと部下に命じている。

 

 ここに居たら殺される……ロバートは綺羅びやかな貴族の服を脱ぎ捨てると、逃げ惑う兵士に紛れてその場から逃げ出そうとした。しかし、ここまで混乱した戦場のどこに逃げ場があるというのだろう? 右を見ても左を見ても、逃げ惑う兵士でいっぱいだった。彼らはみんな別々の方向に走っていって、どっちへ逃げていいのかさっぱりだった。背後に迫る蹄の音が聞こえてくる度に、全身から汗が吹き出してくる。腰に伸ばした剣を持つ手がブルブルと震え、とても鞘から抜けそうもなかった。

 

 と、その時、彼は視界の片隅に、この混乱の最中にあって整然と行軍する部隊の姿を見つけた。テリーと言う将校が率いている部隊は、この戦場にあっても未だに統率が取れている。ロバートはその頼もしい姿を見つけるなり、涙を流してそこへ駆け込んでいった。地獄に仏、こいつなら自分をここから逃してくれる。

 

「え!? ロバート様!?」

 

 果たしてテリーは自分の部隊に逃げ込んできた者の姿を見るなり、露骨に嫌そうに顔を顰めてみせた。しかしロバートはそんな彼の反応すら気づかずに、

 

「おお! テリーよ! 私の最高の将軍よ! 君の軍隊はこの状況でも規律を失わずに、命令に従っているのだな。私はこれを見てすぐに君だと気づいたぞ!」

「そりゃどうも……」

「しかし、この戦争はもう駄目だ。命令を撤回するから、早く私をここから連れ出してくれ!」

 

 テリーはそんなロバートの血走った目を見て何かを言いたそうにしていたが、すぐに諦めたように首を振ると、

 

「わかりました、すぐにお連れしましょう。おい、おまえ! おまえはロバート様をお連れするように」

 

 彼の命令を受けて、騎兵の一人がロバートをその鞍に引き上げてくれた。全身汗まみれになっていた彼は、何度も滑りながら何とか鞍の上に乗っかると、ようやく安堵のため息を吐いた。

 

 テリーの部隊はこの混乱する戦場の中でも一切乱れず、逃げ惑う兵士たちを上手いこと避けながら進んでいった。そしてあっという間に戦場から離れると、彼らは安全を確認してから騎馬から降り、もたつくロバートを引きずり下ろすように落っことして、そのまま地面にグイッと抑えつけてしまった。

 

「な、何をする!?」

 

 突然、乱暴な振る舞いをされたことに驚きの声を上げるロバート。しかし、テリーはそんなかつての主君を見下ろしながら、哀れそうな目つきで、

 

「どうもこうも……そう言うことですよ。ロバート様。あなたは負けたのです。いい加減、覚悟を決めてください」

「貴様、裏切ったな!! ええいっ! 離せ! 離せ! この無礼者共が!!」

「裏切るも何も、私は初めからずっと反対し続けていたはずです。この戦には義がないと。それに、ヴァルトシュタインさんには勝てないと。それを庶民の戯言といって、全く聞かずに強行したのはあなたでしょう?」

「おのれえ~……! 庶民ごときがこの私に説教を垂れるか、生意気なっ!!」

 

 テリーはため息を吐いた。この期に及んで庶民だなんだと……彼はこれ以上何を言っても無駄だと悟ると、伝令に合図を送るように命令した。鏑矢が放たれ、テリーが遠くに向かって手を振っていると、やがて白馬に跨ったヴァルトシュタインがお供の精鋭部隊を引き連れて、さっそうと駆け込んできた。

 

「ひぃぃぃーーーーっっ!!」

 

 その姿を見たロバートが、恐怖心から引き付けを起こしたような表情をしている。ヴァルトシュタインは仏頂面をしながらフンッと鼻を鳴らし、

 

「お手柄じゃねえかテリー」

「冗談を。私はこの役目だけは絶対に御免だと思ってましたよ」

 

 テリーはうんざりするような、それでいて罪悪感が拭いきれないような、何とも言えない微妙な表情をしていた。きっと本心では、未だにかつての主君に対する気持ちの整理がついていないのだろう。ヴァルトシュタインは苦笑いしながら、

 

「そうかよ。それじゃここはもういい。邪魔が入らないように周囲を警戒していてくれ」

 

 テリーは頷くと黙って去っていった。ロバートはさっきまで悪態を吐いていたくせに、そんな彼が去っていくのを見ると、唯一の味方がいなくなってしまったかのような気になって、

 

「待て! 待ってくれ! 私を一人で置いていくな! そうだ! 助けてくれるなら、おまえをこの国の貴族にしてやるぞ。軍だっては全部おまえの支配下にやる。ヴァルトシュタインだって部下にしてやるぞ! だから助けろ! 助けろよーっ!」

「本人を前にして何言ってやがる」

 

 ヴァルトシュタインは腰に佩いたサーベルを引き抜くと、ズンとロバートの目の前に突き刺した。

 

「ひぃ~っ! お助け~! お助けをっ!!」

「この期に及んで往生際が悪いな。おい、おまえら、そいつの両脇を抑えてろ。俺が首を切り落とす」

「ひゃあああぁぁぁーーー!! やめてぇ~っ!! 許してぇ~っ!! なんでも! 何でもしますから!!」

 

 ロバートは死にものぐるいで暴れているが、普段からの運動不足が祟ってすぐに動けなくなった。彼は地面の砂粒を噛みながら、ハアハアと息を荒げ情けない声で、

 

「お願いです! 命だけは助けてください! そうだ! 見逃してくれるなら、この国の半分を君にあげよう! なんなら三分の二でもいい! 金だって女だって思いのままだぞ? 全部君にくれてやる。私を殺してしまったら、こんなチャンスもう二度とないんだぞ!?」

「ほう、そいつは魅力的だな。俺は金も女も大好きだぜ」

「そ、そうだろう!?」

 

 ロバートは一縷の望みをかけてヴァルトシュタインを仰ぎ見る。しかし、彼はフンと鼻で笑うと、

 

「だが今は、あいつらがこの国をどう変えていくのか、それを見るほうが楽しみだ。おまえがトップにのさばっていては何も変わらない。おまえもこの国のことを思うなら、そろそろ退場したらどうだ」

 

 ヴァルトシュタインは手にしたサーベルを、まるで斧を振りかぶるように振りかぶって言った。ロバートはそれを見て絶望の表情を浮かべると、

 

「おのれ……私がこんなに頼んでいるのに! 私がこんなに譲歩していると言うのに! どうして言うことが聞けないんだ! 何がこの国の未来だ! おまえみたいな新参者に、この国の何がわかるというのだ! 帝国の犬が綺麗事を抜かしやがって、俺はこの国のトップだぞ!? 俺をやったら、絶対に私の民達が許さないぞ! おまえなんか、すぐに八つ裂きにされて血祭りにされるだろう!」

「ああ、そうかい。そんなもん、こちとら戦場に出る前から、とっくに覚悟を決めてんだよ」

 

 ヴァルトシュタインはまるで感情のこもっていない冷徹な目でロバートのことを見下ろしていた。彼が見つめているのはただロバートの後頭部にある、延髄のちょっと出っ張った骨だった。彼はまるで魚でも捌くかのように、もはやその骨を綺麗に断ち切ることしか考えていなかった。

 

 彼は狙いを定めて、そして思い切り剣を振り下ろした。だがその時だった……

 

「お待ちなさい!」

 

 その思ったよりも鋭い声に気圧されて、ヴァルトシュタインは振り下ろそうとしていた刃をピタリと止めてしまった。

 

「ヴァルトシュタイン。あなた、勝手に何をしているの!」

 

 見ればお供を連れたクレアが血相を変えて馬に乗って駆けてきた。彼女はロバートを取り囲むヴァルトシュタインの精鋭部隊に道を開けさせると、馬から降りて、じろりと睨みながら肩を怒らせ歩いてきた。

 

「クレアか……見てわからないか。こいつを捕まえたから、処刑しているところだ」

「何勝手なことを言っているの! そんなの誰も望んじゃいないわ! いいから、その剣を下ろしなさい」

 

 クレアの声は有無を言わさぬものだった。確かに彼女に言わずに事を起こしたことはこちらに非があるが、かと言って責められるようなものじゃない。ヴァルトシュタインはムッとして、

 

「おまえこそ何を言っているんだ? こいつが何をしたか分かっているのか? こいつのせいで大勢が死んだ。それにはおまえの領民も含まれているんだぞ? 大体、もしこいつが勝っていたら、ここで首を刎ねられていたのはおまえだったかも知れないんだぞ?」

「だとしても、これはルール違反よ。敵将を捕まえたのなら、捕虜にして裁判に掛けるべきだわ」

「そんな甘っちょろいことをしていたら、遺恨を残すだけだ。下手に釈放されでもしたら、またこいつが息を吹き返すかも知れない。戦場で死んだことにすれば、何もかも上手くいくだろうに。みんな万々歳だ」

「それでも、ルール違反をした自分のことは誤魔化せないわ。私は正々堂々勝ちたいの!」

 

 キンキンと響く女性の悲鳴のような声が戦場にこだました。ヴァルトシュタインはなんだか、子供から諭されているような嫌な気分になった。彼は脱力するようにため息を吐くと、

 

「……何故、こんな奴に情けをかけようとするんだ!?」

「それは、こんなんでも私の大切な人が選んだ、この国の正当な後継者の一人だからよ。その手続きを踏まずして私がヘルメス卿を継いだら、こいつの言う通り簒奪してるのと変わらないじゃない」

「そんなの、ただの詭弁だろうが。寧ろ、こいつがテーブルをひっくり返そうとしてたんだぞ? それがわからないわけでもあるまい」

「分かってるわよ! 分かってるからこそ、私はこいつと同じところに降りていくのが嫌なのよ。私は正々堂々勝負して、ちゃんとみんなに認められたいの。と言うか、もう決着はついているじゃない……仮に生きていたところで、彼に期待する人なんてもういないわ。それなのに、命まで奪うのは可哀相よ」

「……その可哀相なことに、おまえの方がなっていたかも知れないと言っているのだが」

「そうならなかったのだし、仮に彼がまた何かしようとしても、あなたが助けてくれるのでしょう?」

「………………」

 

 ヴァルトシュタインはロバートの首筋に当てていたサーベルの先を見ながら、仏頂面をして暫く何かを考えていたが、やがて諦めたようにため息を吐くとサーベルを下ろし、

 

「やれやれ、俺も丸くなったもんだ。自分より若い連中の言うことを聞くなんて」

「ありがとう、ヴァルトシュタイン」

「いいよ。おまえの国なんだろう」

「いいえ、私たちの国よ、ヴァルトシュタイン。あなたはもう、この国になくてはならない将軍よ」

 

 ヴァルトシュタインは、自分の子供と言っても大差ない女の子にそんな風に言われて、なんだか気恥ずかしくなってきた。だが、満更でもない気分だった。根無し草の傭兵として戦場を渡り歩いてきた自分が、こうして辿り着いたのがこの若くて新しい国だとしたら、それも悪くない選択と思えた。彼はため息交じりにロバートの事を蹴っぽると、

 

「ほらよ、お嬢ちゃんに感謝しろよ、この野郎」

「ロバート卿、顔を上げてください。まずはこの戦争を終えるために、あなたが敗北を宣言してください。決着がつけば兵士も落ち着きます」

 

 クレアはそう言ってロバートを諭した。しかし、そのロバートは地面に両手をついてブルブルと震えたまま、一向に顔をあげようとしなかった。その肩の震えと、ポタポタと滴り落ちる雫を見て、クレアは彼が泣いているのだとわかり、少し同情した。もしかしたら彼と自分の立場は逆だったかも知れないと思うと、彼の気が済むまでこのまま待ってやるのが優しさだろうと彼女は思った。

 

 しかし、それはとんでもない間違いだった。ロバートは地面に四つん這いになって、己の負けを噛み締めていたり、多くの兵を失ったことを後悔していたり、まして命を助けてもらって感謝しているわけでもなんでもなかった。

 

「おのれ……おのれ……おのれぇ~……女のくせに……女のくせに!」

 

 彼はただひたすら憎んでいたのだ。目の前の女を、ヴァルトシュタインを、そして何もかも上手く行かないこの世の中を。

 

「私はロバート・ニュートン様だぞ? ヘルメス卿アイザックの正当な後継者で、この国の王になる男のはずだぞ? それが何故、こんな小娘なんかに、上から目線で命を助けてもらわなきゃいかんのだ! このような下賤の民どもに命乞いせにゃならんのだ! こんなの間違っているだろう! 私は生まれる前から王になることを宿命付けられてきた男だぞ!? なのにっ! 何故、こんな女なんかに頭を下げて、そのうえ私の大事な地位まで奪われなければならんのだあーっ!!」

 

 そして四つん這いのままあげた彼の顔は憤怒で真っ赤に燃えていた。目が充血し、白目がもはや異様などす黒い色をしていて、額に浮き出た血管がまるで生き物のように蠢いていた。

 

「殺す……殺してやる……」

 

 そうつぶやくロバートの顔はあまりにも異常で、人間にそんな表情が出来るなんて到底考えられず、クレアは気圧されるように一歩引き下がった。

 

「クレア様! 危険です!」

 

 すぐに精鋭部隊の兵士が飛んできて、彼女を庇うように間に入る。ロバートは今にも飛びかかってきそうなものすごい殺気を漂わせながら、そんな兵士を睨みつけつつ、ゆらゆらと立ち上がった。

 

「おい……なんだ、こいつ……なんか、おかしいぞ?」

 

 ヴァルトシュタインが剣を抜き放ち、牽制するつもりでロバートに飛びかかっていった。しかし、さっきまであれほど無様に命乞いしていたロバートは、そんなヴァルトシュタインのことなど眼中にないと言った感じに腕を一閃すると、

 

「うるさいっ!!」

「ぐ……ぐわああああーーーっ!!」

 

 あろうことかその腕が剣に触れた瞬間、何故か斬りかかっていったヴァルトシュタインの方が、ものすごい勢いで吹き飛んでいってしまった。

 

 クレアも、その場に居た全ての兵士も、物理的に有り得ない光景を前にして、みんな何が起きたのか理解が出来ずに、転がっていく彼のことを呆然と見送っている。ロバートは湯気のようなモヤモヤとしたオーラを纏って、今もどす黒い瞳をランランと輝かせて、クレアの方を睨みつけていた。

 

 その時、突然、何かが通り過ぎたような、ズンッとした衝撃が走り、ロバートの体がブルッと震えた。彼は一瞬、びっくりするように目ン玉をひん剥いたかと思ったら、今度は急に目を吊り上げ、歯をむき出しにして、まるで獣のように叫び始めた。

 

「くそ女ごときが、この俺様に、情けをかけるなど万死に値する! 貴様は死刑だ! おまえも、おまえも、おまえもおまえもおまえも! みんな死刑だ! 貴様はただ殺すだけじゃないぞ! 犯してから殺す! 殺してからも犯す! 貴様の全てを陵辱し尽くし、プライドと一緒に粉々に砕いた後、一片も残さず食らうてくれるわ! この女がああああああ!!!」

 

 ロバートの狂ったような叫び声が戦場にこだまする。それは今までのただヒステリックなだけの叫びとは違って、聞くものの精神を蝕むような、そんな悪意に満ちた空気を孕んでいた。それを間近に聞いてしまったクレアの顔面が蒼白に変わる。

 

 そして次の瞬間、またありえないことが起きた。憎悪の叫びをあげていたロバートの体が、突然ビクビク震えだすと、彼の両手両足がもこもこと膨張し始め、背筋がありえない方に折れ曲がり、そして口から気持ちの悪い巨大な泡をブクブクと、次から次へと吐き出し始めたのである。

 

 そんな姿を人間がするわけがない。そのあまりにも異様な光景に、兵士たちも堪らずその場を後退る。だが、それは少し遅かった。逃げるなら、もっと早く、はっきりとそうすべきだった。その時、上空の雲ひとつない空から稲妻が走り、それは枝分かれするような軌跡を描いてロバートの体に直撃した。瞬間、衝撃波が周囲に走って、周りに居た人々が吹き飛んでいく。

 

 そしてクレアも、ヴァルトシュタインも、兵士たちも、稲妻の衝撃で地面をゴロゴロ転がり、砂まみれになりながらそれを見た。

 

 たった今、雷に撃ち抜かれたロバートの体から、水のような透明な色をした何かが溢れ出しているのを。そしてそれはよく見ると、中に巨大な蛇のような、得体のしれない怪物を抱えているのだった。

 



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反撃開始

 巨大な水風船のような物体が宙に浮いている……その中を一匹の水竜が悠々と泳いでいる。戦場から遠く離れたジャンヌとサムソンは、唖然とそれを見上げていた。

 

 ヘルメス国境で起きたロバートの反乱。それを討伐するためにヴァルトシュタインが兵を挙げたというので、帝国は慌てて監視団を派遣したが、彼女たちはその中に混ざっていた。

 

 ルーシーと別れてから、鳳不在のヘルメスの内情が気になって、ずっとその動向を探っていたのだが、どうやら反乱は対話ではなく、暴力で解決する方向で動き出してしまったようだった。

 

 それは非常に残念なことであったが、起きてしまったことを憂えていても仕方ない。ジャンヌたちはもしものことがあったら、鳳に変わってクレアを助けてあげなければと、帝国の監視団に混じってその機会を窺っていた。

 

 ヴァルトシュタインがそう簡単に負けるとは思わなかったが、ロバートの反乱軍は30万、それに対して正規軍はたったの1万。戦力比だけで考えると、それはあまりにも無謀すぎる賭けだった。一方的過ぎて、万が一のことが起きるかも知れないと、彼女らは心配したのだ。

 

 だが、その心配は杞憂だった。ヴァルトシュタインは30倍はある相手を巧みに手玉に取って、押し合いへし合いの駆け引きを繰り返した挙げ句、まるで魔法みたいにその敵軍をただの羊の群れに変えてしまったのだ。

 

 反転して攻勢に出ればひとたまりもないだろうに、30万の大軍がたった1万の軍隊に散々に打ち破られている。いや、そもそもあれはただ集まっただけの群衆で、例え武装していたところで軍隊ですらなかったのだろう。鳳と一緒にいたときにも思ったことだが、戦争とは数ではないと、彼女はつくづく思った。

 

 ともあれ、これで一安心だ。後はクレアの無事を確認したら、自分たちはまた帝都に戻ろう。彼女らがそうして安堵の息を吐いた時だった。

 

 突然、雲ひとつない空に雷鳴が轟き、戦場の隅っこの方に巨大な稲妻が落ちた。ゴロゴロと地響きを立てるような音が響き、その一瞬だけ戦場の動きが止まった。だがまた一時停止が解除されたかのように人々が動き出すと、そんな兵士たちのずっと向こう側で、何かおかしな物が宙に浮いていることにジャンヌたちは気づいた。

 

 それは巨大な水風船のような物体だった。もしくは、高精度カメラが映し出した水滴が、空中に留まっているようなそんな感じだ。しかもそれはただの水滴ではなくて、違うのは中に何かが泳いでいることだった。とんでもなく大きな何かだ。

 

 ジャンヌ達の居るここからあそこまで、距離にして一キロは優に越えている。なのにあれだけくっきり見えるのは、その大きさが尋常じゃないことを示していた。それは体長にして30メートル位はありそうな巨大な水竜だった。東洋の伝承にある竜のように、ウミヘビみたいに細長い体をして、長い髭を蓄えた水竜が何故か空中を泳いでいた。

 

 そんなものは常識的に考えられないものであり、だから戦闘中だと言うのに、人々はその手を止めて唖然と空を見つめてしまうくらいであった。たった今まで狂乱の怒号が響き渡っていた戦場のあちこちから、今度はざわめきが起きる。あれはなんだ? どうしてあんなものがここにあるんだ……?

 

 そして、その時だった。

 

 悠々と泳ぐ水竜は、まるでその水槽が狭いと言わんばかりに、突如として巨大な水風船から飛び出して、空へと飛翔し始めた。その瞬間、水風船がパーンと音を立てて割れて、戦場にその水滴がバシャバシャと土砂降りのように降り注いだ。そしてまた次の瞬間、その雨が呼び寄せたかのように雷鳴が轟き渡り、かと思ったら、ビシャンビシャンと耳をつんざく音がして、戦場のあちこちに雷が落ちて何人かの兵士が犠牲になった。

 

 落雷の衝撃から目を開けたら、そんな兵士たちの背後に人影が立っていた。肉が焦げるような臭いの中にいたのは、たった今犠牲になった兵士たちではなく、なんとそこに居たのは、全身が鱗に覆われた半魚人だったのだ。

 

 突然、どこからともなく、無数の水棲魔族が次々と現れた。それはオアンネスとインスマウスとして知られる、半魚人たちだった。片方は人の形をして手足が鱗に覆われており、もう片方は魚の体に手足が生えたような格好をしている。そんな連中が三叉の鉾を持ち、まるで軍隊みたいに一糸乱れぬ姿で行進している。そしてそんなありえない光景を前に完全に思考停止状態に陥っていた人々に向かって、突如として襲いかかってきたのである。

 

 阿鼻叫喚とはこのことだった。武器を持った半魚人たちは、まるでそうするのが当たり前であるかのように、その場に居た兵士たちに襲いかかった。あっという間に血祭りに挙げられた兵士たちから、助けを求める悲痛な叫び声があがる。それを間近に見ていた他の兵士たちからは、泣き声のような悲鳴が上がった。

 

 恐怖があっという間に伝播していき、戦場はパニックになった。さっきまで、追いかけられる側と追いかける側だった兵士たちの関係は、今は等しく魔族に狩られる側になっていた。

 

 最初の落雷の衝撃波で吹き飛ばされてしまったヴァルトシュタインは、上空で八の字を描くように悠々と泳いでいる水竜を見上げた。それは自分の目が確かなら、ロバートの体から飛び出したものだった。

 

「あいつ……どうなっちまったんだ? これじゃまるで……」

 

 魔王ではないか。

 

 ヴァルトシュタインは、ほんの数ヶ月前に戦場で出くわした魔王のことを思い出した。あの時もこんな戦闘の最中に、突然現れた魔族の軍団に襲われたのだ。あの時とは種族が違うが、あの時よりよほど組織されてるような気がした。少なくともオークは武器を持ってはいなかったのに、半魚人共はみんな同じ得物を持って、組織的に人々を虐殺しているのだ。しかもそれは捕食のためではなく、ただ敵をねじ伏せるだけの軍隊の行動にしか思えなかった。

 

 ならば、あれが指揮しているのか? ヴァルトシュタインが上空を見上げていると、

 

「ヴァルトシュタインさん! 早く逃げましょう!!」

 

 最初の衝撃から回復したテリーが、空馬を引いて走ってきた。ヴァルトシュタインの精鋭部隊は誰も死んじゃいなかったが、馬は殆ど逃げてしまった。そんな中でも彼の白馬は辛うじて踏みとどまり、主人の帰りを待っていたようだ。彼はそんな愛馬に跨って落ち着きを取り戻すと、

 

「クレアはどうした!」

「私ならここよ!」

 

 彼女もまた勇敢な軍馬に跨っていたが、残っていたのはどうやら二頭だけのようだった。未だにパニックになっている空馬を、部隊の兵士が捕まえようとしているが、多分、やるだけ無駄だろう。ヴァルトシュタインは上空を見上げながら、

 

「とにかく、ここを離脱しよう。あれに襲いかかられたら一溜まりもない」

「あれはロバートなの? どうしてこんな……」

「俺にも分からねえよ。とにかく、今は逃げるんだ」

 

 ヴァルトシュタインが号令を掛けると、馬を追いかけていた兵士たちはそれを諦め、彼の下へと集まってきた。流石に彼の麾下だけあって、この状況下でも取り乱したりせず、隊列を組む様は見ている他の兵士たちを安心させた。テリーの部隊の兵士たちもそれで落ち着きを取り戻すと、隊列を組んで彼らの後に続いた。

 

 戦場は酷いものだった。突然現れた魔族の大軍に完全に落ち着きを失くした兵士たちが、ほとんど抵抗もなく命を散らしていく。それはロバートのかき集めた烏合の衆ならともかく、ヴァルトシュタインが組織した正規軍もそうなのだから、彼はプライドを傷つけられたような気がして、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。

 

 現れた水棲魔族の群れは、オークと比べれば一体一体は戦えない相手ではなかった。ならば、兵を落ち着かせることさえ出来れば、この事態が収まる可能性もまだあるだろう。彼はそう判断すると、手近にいた自軍の兵士を救出すべく、魔族の群れに突っ込んでいった。

 

 思った通り、彼の指揮した部隊は魔族と辛うじて対等に渡り合っていた。半魚人たちは武器を持ち組織だって行動していたが、それ以前にここは彼らの棲息する水辺ではなく、乾いた荒野なのだ。落ち着いて対処すれば半魚人達の動きは鈍く、剣でも十分戦えた。

 

 ヴァルトシュタインの部隊は次々と襲いかかってくる魔族を撃退しながら進んだ。すると、それに気づいたヘルメスの兵士たちが助かりたい一心で我先にと彼らの保護を求めてやってきて、まるで蜘蛛の糸みたいに彼らの周囲に群がり始めた。

 

 何もなくてもギリギリなのに、彼らを保護しながらでは到底戦えない。ヴァルトシュタインはせめて武器を持つものは戦えと叫ぶと、ついてこれない者は置いていくつもりで彼らを引き離しはじめた。

 

「待って! 兵士たちが遅れているわ!」

 

 すると背後からクレアの叫び声が聞こえた。ヴァルトシュタインはイライラしながら、

 

「んなこたあ、分かってるんだよ!! しかし、あれに巻き込まれたら俺たちまで殺られちまう!」

「でも、ほとんどの人は武器を持ってない庶民なのよ!? そんなの見過ごせないわ。私たちが助けなきゃ!」

「それでお前が死んでは元も子もないだろうが! 今は庶民を見捨ててでも先に進み続けるしか、生き残る道はないんだ!」

「駄目よ! 庶民を見捨てて逃げるくらいなら、最初からこんな国作らなければ良い。ヘルメス卿なら、絶対に見捨てたりしないわ!」

「俺たちはそのヘルメス卿じゃないんだよ!!」

 

 ヴァルトシュタインは血眼になって叫んでいる。その顔は、彼も生死が掛かっているせいか、いつものような余裕はまったく感じられなかった。クレアはそんな将軍の本気の顔を見せられて、流石にもうこれには従うしかないかと歯ぎしりした。

 

 彼だって鬼ではない、助けられるなら助けたいのだ。でも自分たちだけでも精一杯の中で、一人でも生き残る人数を増やしたいのであれば、多くは見捨てていくしかない。そういう決断を、指揮官である彼はこの過酷な戦場で下しているのだ。それを戦えもしないクレアが邪魔をしていいのだろうか。

 

 ヴァルトシュタインが、さっさとしろと言わんばかりにクレアの馬を鞭で打った。グイッと加速する馬の首に落ちないようにしがみつきながら、彼女は後ろを振り返った。

 

 彼女の背後では多くの武器すら持たない庶民たちが、気持ちの悪い水棲魔族どもに虐殺されている。鋭利な鉾で体を貫かれ、異常な怪力に四肢を引っこ抜かれた人々が断末魔を上げながら、どうして助けてくれないんだ? といった表情で彼女のことを見ていた。

 

 クレアは馬のたてがみに顔を埋めて涙を流した。どうして人は争わなければならない? どうして人間は、こんなにも弱いんだ。この悪夢のような光景はなんだ? これがロバートの求めた物だったのか? 悠々と空を泳ぐ水竜が、地上の騒乱を蟻を見るような目つきで見下ろしている。あの時、ヴァルトシュタインを止めずにあれを殺しておけば、こんなことにはならなかったのではないか。もしかして、これは自分がまいてしまった種なんじゃないか。なのに自分だけ助かろうとして、卑怯にもここを逃げ出していいのだろうか。助けたい。守りたい。それじゃ何のために自分はヘルメス卿になろうとしたのか?

 

 クレアは悔しさで頭がおかしくなりそうだった。彼女はガンガンとする頭の中で、せめて最愛の彼がここに居てくれたならと願っていた。

 

『あー、シーキューシーキュー。聞こえるかな? クレア? 聞こえてる?』

 

 するとそんな願いが神に届いたとでもいうのだろうか? その時、不思議なことに、彼女の耳にその最愛の彼の声が聞こえてきたのだ。

 

「ダーリン!?」

 

 その声に驚いた彼女がハッとして顔をあげ、周囲を見回す。すると、突然そんな奇怪な言葉を発しながら、馬鹿みたいにキョロキョロしている彼女のことを、気でも狂ったのかと言った感じの表情でヴァルトシュタインが見ていた。

 

「おい、クレア。突然どうした? 大丈夫かおまえ頭が……」

「うるさいから、ちょっと黙っててくれる!?」

 

 クレアはそんなヴァルトシュタインのことを鋭く睨みつけると、たった今聞こえてきた声が単なる幻聴ではないと確信し、必死に耳をそばだてた。果たして、彼女のそんな希望は紛れもなく本物であり、

 

『あ! クレア!? 聞こえてるな?』

「ダーリン? 本当にダーリンなのね!? 一体どこにいるの、ダーリン!?」

『いや、ダーリンて。現実で言われると恥ずかしいな……って、そんなこと言ってる場合じゃないか。クレア、聞こえてるんだな?』

「え、ええ。これはどうなってるの? どうしてあなたの声だけが聞こえて……」

『今は説明している余裕がないから、また今度にしてくれ。ところでもしかして、君は今、戦場に居るんじゃないか? そしてそこに突然、魔王が現れたんじゃないか?』

「どうしてそれを知ってるの!? ロバートが突然おかしくなって……」

『ロバートが……?』

 

 鳳は少々意外に思ったが、思えば彼もなんやかんやで人望が厚かったのだし、その憎悪が核になったとしたら有り得なくはないと思い直した。人々が彼に向ける想いのせいで、ヘルメス卿になれなかった彼が憤怒の沼に堕ちてしまったのだとしたら、なんとも皮肉な話である。

 

 たらればを言えば切りがないが、もしこの世界に鳳たちが呼び出されなければ、もしアイザックが死ななければ、彼は別にヘルメス卿になどなろうとは思わず、今頃は悠々自適に暮らしていたはずだ。

 

 権力は人を幸せにしない。なのに何故、人はそれを欲しがるのだろう……鳳は首を振ると、今はそんなことを考えている場合じゃないと思い直し、クレアに告げた。

 

『その魔王の出現は予め予想されていたものなんだ。だからもう少ししたら、そっちに助っ人が到着するはずだ。実は、俺たちもさっきまで別の魔王と戦っていて、そいつを追いかけ、そっちに向かってるところなんだ』

「ダーリン、ここに来てくれるの!?」

『ああ、だが直ぐってわけにはいかないから、彼らと協力してもう暫く持ち堪えててくれ』

「で、でも、敵が多すぎて倒しきれないの。私たちの領民も次々犠牲になっていて……」

 

 クレアが弱々しくつぶやくと、鳳は少し考え込むように間をおいてから、

 

『敵はオークキングみたいに取り巻きを連れてるタイプか……一対一ならなんとかなる感じか? それなら、君に力を与えよう。ヴァルトシュタインもそこにいるんだな?』

「え、ええ。でも、力を与えるってどういうこと??」

『そのままの意味だよ。詳しいことはやっぱり後で。それまで君はその力で凌いでいてくれ。本体には手を出さなくていい。そっちは必ず俺がやるから。だから君は君自身と、君の大事な領民と、出来るだけ多くの人々を救ってくれ』

「私が、みんなを……?」

 

 その時、クレアは自分の体に力が漲ってくるのを感じた。気がつけば彼女は不思議な光に包まれており、その光に触れていると、なんだかとんでもなく体が軽くなってくるような気がしていた。

 

 そして、今まで一度も剣など握ったことがなかったと言うのに、彼女は何故か、その腰に佩いている剣の重みが、いつもそこにぶら下げていたように、当たり前のように感じられた。今ならこの手にしっくりと馴染んだそれを、いくらでも振り回せるようなそんな気がした。

 

『他にも思いつく限りの人たちに共有経験値を送ったから、きっと君の力になってくれるだろう。だから頼んだよ、今、人々を助けられるのは君しかいない』

「……わかったわ!」

 

 鳳の声はそれ以上聞こえてくることはなかった。だが、クレアにはもう心細さはどこにもなかった。今は体の底から漲ってくるこの力を信じるだけで、いつでも彼と一緒にいるような、そんな心強さを感じられた。

 

 彼女は剣を高々と天に掲げると、

 

「みんな、聞きなさい! もう少ししたら、ヘルメス卿が私たちを助けに来てくださいます! だからそれまで、私たちだけでなんとかこの戦場を切り抜けましょう! 今、多くの無辜の民が、そして私の大事な領民が、魔族によって傷つけられています。私はヘルメス卿の妻として、そんな人々を見捨てることなど出来ません! この戦場から魔族を追い出すまで、私の夫が到着するまで、私は彼らを守護して戦いましょう! 腕に覚えのあるものは続きなさい! 突撃! 突撃! 突撃ーっ!!」

「おい、クレア、何言ってやがんだ!?」

 

 突然、奇声を張り上げて突撃していったクレアを見て、ヴァルトシュタインはぎょっとしてすぐに追いかけようとした。だが、そんな彼の目の前で、信じられないことにクレアが熟練の騎士のごとく馬を駆り、バッタバッタと迫りくる魔族を屠っていた。

 

 その剣に触れた魔族は、まるで生ハムのように真っ二つに切り裂かれ、紙切れみたいに吹き飛んでいった。彼女の繰り出す剣撃はとても素人のものとは思えず、一体全体何が起きているのか、人々は目を疑った。そして不謹慎かも知れないが、綺羅びやかなドレスを纏い、剣を振り回して敵を切り伏せる彼女の姿は、この戦場によく映えた。それを見た人々はそれに心を奪われ、同時に勇気が湧いてきた。

 

 間もなく、彼女に刺激された兵士たちが次々と彼女の後に続き始め、それは一つの流れとなって、まるで波を切り裂く杭のように魔族の群れを真っ二つに割っていった。

 

「……ええぇ~~」

 

 ヴァルトシュタインがそんな有り得ない光景を呆然と見送っていると、さっきのクレアみたいに、自分と、彼の精鋭部隊の体も不思議な光に包まれていて、彼はなんだか妙に体が軽くなっているような、そんな感じがしてきた。

 

 テリーと目が合うと、彼も同じように光を放ち、何かに気がついたようにこちらに向かってうなずき返していた。ヴァルトシュタインはうんざりしたようにため息を吐くと、

 

「こうなりゃもう、やけっぱちだ! 俺たちも続くぞ! 総員突撃! 自分が死んでも、あの姉ちゃんだけは絶対に死守しろ!!」

 

 彼の号令に兵士たちはまるで怒号のような喚声で応えると、先を行ったクレアに追いつけ追い越せとばかりに、猛然と敵を切り捨てながら突き進んでいった。

 

******************************

 

 戦場から少し離れた小高い丘の上で、それを見ていたジャンヌとサムソンは驚いていた。突如現れた魔族に取り囲まれたヘルメスの兵士たちは、殆ど蛇に睨まれた蛙のようだった。人がまるで虫けらのように次々と殺されていく姿を見ていたジャンヌ達は、すぐに彼らを助けなければと思った。しかし、そうは思っても敵の数が多すぎてどうしようもなかったのだ。

 

 戦場は広範囲に広がりすぎていて、仮に彼らが何人か救ったところで焼け石に水だった。おまけに、上空には未だに巨大な水竜が泳いでおり、あれがいつ襲いかかってくるのかもわからないのだ。

 

 だが、そうして彼らが戸惑っているときにそれは起こった。突如として、戦場の片隅に不思議な光が溢れたかと思うと、その光が周辺に広がっていき、それまで劣勢を強いられていた兵士たちが突然魔族に反撃を開始したのだ。

 

「ありゃ、一体、何が起こってるんだ?」

 

 それを初めて見たサムソンは驚きの声を上げたが、ジャンヌはすぐに何が起きているのか察した。

 

「あれは白ちゃんが共有経験値を使ったときに起きる現象よ。今、あの光の中にいる人達のレベルがガンガン上ってるの」

「なに? そんなアホな……」

「本当に、そんなアホなとしか言えないけど、この世界の人たちってそう言うふうに出来ているのよ。あなたの自慢のSTRだって実際そうなのよ。私たちはあの不思議な力で強さを補完されてるの」

「う、う~ん……よくわからんが。鳳があれをやってるのか?」

 

 ジャンヌは頷いて、

 

「そう考えるのが妥当よ。さて、それじゃ、行きましょうか……」

「行くってどこへ?」

「あれが起きたってことは、彼が帰ってきたって証拠よ。まだ戦場には到着していないみたいだけど、彼が来るまで、私たちで舞台を温めておかなきゃね」

「むむっ、それはいかんな。俺たちも少しは役に立たねば、見せ場を取られてしまう」

「狙いはあのデカブツよ。どうにかして、あいつを地上に引きずり下ろしましょう」

 

 彼らは頷きあうと、水竜が泳いでいる戦場の真ん中めがけて飛び込んでいった。

 



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タイダルウェイブ

 クレアの激を受けたヴァルトシュタインたちヘルメス軍が反撃の狼煙を上げると、それにまた勇気づけられた人々が後に続き、どうにかこうにか人類は戦線を立て直しはじめた。パニックに陥っていた戦場はそれによって落ち着きを取り戻し、いまだ乱戦が続いているものの、魔族と対等に渡り合えるようにはなってきた。

 

 そうなってくると、わりと戦線は人間有利に運ぶようになってきた。魔族は数が多いとは言え、なんやかんやいって、この戦場に集まっていた人間の数の方が多かったのだ。もはや人間同士で争っている時ではない。彼らは落ちている武器を拾い上げ、お互いに武器を融通し合うと、なりふり構わず敵にぶつかっていった。

 

 ジャンヌとサムソンは、奮戦する人々の間を縫うように駆け抜けながら、迫りくる魔族をバッタバッタと倒し突き進んだ。やはり戦場において彼らの力は目を引き、人々はそこに勇者ジャンヌの姿を見つけると、その美麗な神人の剣技に目を奪われながら、口々に叫ぶのだった。

 

 この戦場には女神が二人いる。ヘルメスの守護者クレアと、勇者ジャンヌだ。彼女らがいる限り、この戦いに敗北はない。

 

 そんな言葉はあっという間に戦場を駆け抜けていって、魔族に挑む人々を勇気づけた。クレアもまた、戦場にジャンヌが現れたことを知ると、恐らく助っ人とは彼女のことだと思い、

 

「勇者ジャンヌこそ、ヘルメス卿が送られた私たちの救世主です! 彼女に道を開けなさい! そして彼女のために魔族を討ちなさい!」

 

 その言葉にハッと顔をあげた人々は、勇者ジャンヌが向かおうとしている先に例のデカブツがプカプカ浮いていることに気がついた。この乱戦が続く戦場にあって、あの親玉を倒そうなどと考える者は一人もいなかった。そして、あれを倒せるとしたら、それは勇者ジャンヌをおいて他にないと人々は理解した。

 

 迫りくる魔族をただ撃退することに専念していた人々は、目的を見つけてより連携して動くようになってきた。彼らは露払いするように率先してジャンヌ達の行く手を阻む魔族を倒し、そして駆け抜ける彼らに道を開けながら声援を送った。

 

 ジャンヌとサムソンの前に道が開けていく。それまでもみくちゃにされながら人々の間を走り抜けていたのが嘘のようだった。彼らがそんな人たちの声援を背中に受けながら突き進んでいると、彼らに追いつこうと駆けてくる二つの影が現れた。

 

「勇者ジャンヌ、お供しますよ」「右に同じく」

「マッシュ中尉、フェザー中尉、こんなところに来ていいの?」

「それはこっちの台詞ですよ。陛下からあなたたちをサポートするように言いつかっております。でもまさか、こんな危険に飛び込んでいくことになるとは、やれやれですね」

 

 本来、観戦武官としてヘルメス内戦を遠くから見守るだけの任務のはずだった。皇帝は国賓であるジャンヌのためにと自分たちを一緒に派遣したわけだが、ところがそんなところに魔王が現れてしまったのだ。流石にこれを他人事と片付けて自分たちだけ逃げ出すわけにはいかないだろう。

 

 それに、前回のオークキング戦で、彼らは勇者鳳白が死ぬところを遠巻きに見ていることしか出来なかったのだ。護帝隊の面子を賭けて、今度こそ自分たちの名前を売っておかねばならないだろう。皇帝もまさかこんなことになるとは予想していなかったろうが、せいぜい派手に暴れて帝国ここにありと見せつけてやろう。

 

 彼らが気合を入れ直していると、前方の部隊でどよめきが起こった。その時、それまで自分の眷属たちを見下ろしながら悠々と泳いでいた上空の水竜が、突如、降下してきて人々を襲い始めたのだ。

 

 急降下してきた水竜が腕を振るい、その鋭い爪に真っ二つにされた人のひらきが宙に踊った。爪痕が地面を抉り大量の土砂を巻き上げ、そしてすれ違いざまに、水竜は器用に自分の髭を振動させて、魔族と切り結んでいた兵士たちを巻き上げて空中で噛み殺してしまった。

 

 更に前線の兵士が薄くなったところへ、どこからともなく追加の魔族が投入されて、あっという間にジャンヌのために作られた道が塞がれてしまう……

 

 と、今度は水竜の周囲に水滴のような水玉が浮き出て、それが水鉄砲のように高速で撃ち出された。迫りくるその水しぶきに、嫌な予感がしたジャンヌが地面にダイブして躱すと、その水撃は彼女の上を通過していって、背後にいた兵士を貫いた。まるで高速の弾丸に体を撃ち抜かれたかのように、兵士がピューッと血を吹き出して絶命する。水竜はそんな攻撃を何度も繰り返すと、また空へと帰っていった。

 

 どうやら、近づいてくるジャンヌ達のことを敵と認定したらしい。それまでこれといった動きを見せなかった水竜は、綻びを繕うように、自分に迫ろうとする兵士たちを退け、眷属の壁を厚くしていく。

 

 ジャンヌは歯ぎしりした。最初にそれが現れた時から思っていたことだが、どうやらこの魔王は全体で一つの魔王軍を形成しているようだ。どうやってるか分からないが、あの中央のデカブツは取り巻きの水棲魔族をいくらでも呼び出すことが出来て、こちらにぶつけてくるのだ。言うなれば、これは軍隊そのものが魔王なのだ。

 

 ジャンヌの前で道を切り開こうとしていた兵士たちが押されている。こうなってしまうともう近づくことが出来ず、彼女らもその揉み合いに加わらざるを得なかった。幸いなことに魔族の一体一体はそれほど強くなく、一般兵でも対処できるくらいだったが、問題は相手の底が見えないことだった。

 

 次々と投入される眷属は、あとどのくらい残っているのだろうか? もしもあれが無限に湧き出すのだとしたら、こんな押し合いへし合いを続けている意味はない。恐らくはこれを呼び出している水竜を倒さねばならないだろう。だが、どうやって近づけばいいのか……

 

「どけどけ! 一般兵は道を開けろ! これより、我らが道を切り開く! 勇者ジャンヌよ、我々のあとに続いてくれ!」

 

 ジャンヌたちが魔族に道を阻まれていると、散り散りになっていた神人部隊を組織し直して、ペルメルとディオゲネスの二人組がやってきた。彼らは一般兵を退けると神人たちパワーで、有無を言わさずに敵陣を突き進んでいく。

 

 流石にこれには魔王軍の取り巻き程度では歯が立たず、ジャンヌ達の前にはあっという間に魔王への道が開けていった。

 

「恩に着るわ、神人さんたち!」

「先にいけ、我々もあとに続く! 一般兵も神人も、この道を死守しろ!!」

 

 ヘルメスの兵士たちがディオゲネスの声に反応し、空いた穴めがけて殺到してくる。負けじと魔王軍の予備戦力が投入され、魔族と人間の死体が次々と積み上げられた。そこは一番の激戦区になった。

 

 ただし、こちらには予備兵力はない。急がなければ、いずれ力負けするのは間違いないだろう……ジャンヌ達は兵士たちが切り開いてくれた道を駆け抜けて、ついに魔王の直下まで辿り着いた。

 

 しかし、辿り着いたは良いものの、彼らはそれからどうすればいいのか分からなかった。敵は遥か上空を悠々と泳いでおり、こちらから手を出すには銃撃か古代呪文しかなかったのだ。これではいくらジャンヌとサムソンの金剛の力があっても仕方ない。

 

 だが、それは相手も同じようだった。空を飛ぶ竜が地上の虫けらを攻撃するには、地に降りて襲いかかるしかない。もしくは、遠くから水撃で狙うくらいだが、そんな攻撃ではジャンヌたちを傷つけることは出来なかった。

 

 水撃を避けながら、マッシュ中尉が下からファイヤーボールをチクチク当て続けていると、やがてその攻撃に焦れたのか、水竜が急降下して襲いかかってきた。突然の攻撃に驚いて一度目はスルーしてしまったが、どうやら敵は少しでも攻撃が当たるのが嫌みたいだった。眷属に戦わせて、自分はふんぞり返っているのが好きなタイプのようである。それは核になったロバートらしい個性と言えたが、とにもかくにも対策が見えたジャンヌは、彼らに遅れてやってきた神人部隊の兵士たちに言った。

 

「神人さんたち! 誰でもいいから、とにかくあいつに攻撃を当て続けて! あいつが焦れて降りてきたら、そこでカウンターを仕掛けるわ!」

 

 ジャンヌの言葉に応えてペルメルとディオゲネスもファイヤーボールを撃ち始める。それを見て続々と他の神人も加わり、更に遠くからは一般兵士のライフル射撃も加わった。

 

 はっきり言って、それら一つ一つの攻撃は全く効果を上げていなかった。辛うじて神人の魔法だけが、たまに鱗の隙間を広げてダメージを与えるくらいで、殆ど意味のないものだった。だが、例え刺されなくっても、ハエ蚊に自分の周りをうろちょろされるのは、思った以上に苛立たしいものだ。怒りの権化たる魔王にそれはよく効いた。

 

「グオオオオォォォォォーーーーーーーーッッ!!!」

 

 それまで、地面の蟻でも見下すかのように上空を悠々と泳いでいた水竜は、突然そんな咆哮を上げると、急降下して襲いかかってきた。今度は待ち構えていたサムソンが正面から突っ込んで行き、大口を開けて飛びかかってくる魔王の背中にひらりと飛び乗った。

 

 まさか人間ごときに上に乗っかられるとは思わなかったのか、そんなサムソンの動きを嫌った魔王が急上昇して振り落とそうと顔をあげる。だが、その瞬間を待っていたかのように、ジャンヌが隙をついて駆け寄り、その柔らかそうな腹部に狙いを定めて剣を薙ぎ払った。

 

「紫電一閃……春塵荒波風破斬!!」

 

 彼女の一刀が魔王の腹を深々と切り裂いた。その瞬間、ドバっと大量の血しぶきが舞って、魔王が初めて苦しそうな喘ぎ声をあげた。その声を聞いた神人たちが色めきだつ。魔王に攻撃は効かないわけじゃない。硬い鱗を避けて、腹部を狙うのだ。

 

 次々とジャンヌのつけた傷の辺りにファイヤーボールが着弾し、堪らず魔王は魔王らしからぬ情けない声を上げて上空へと逃げていった。サムソンがドスンと地面に着地し、足のしびれにブルブル震えていると、その時、彼の体が突然柔らかな光に包まれて、嘘みたいに痛みが引いていった。

 

「なんだこれ!?」

「サムソン、あなたステータスはどうなってる?」

 

 言われて自分のステータスを確かめたサムソンは驚いた。気がつけばいつの間にかレベルが嘘みたいに上っており、地上最強のSTRを誇っていた彼のSTRは、今度は宇宙最強レベルにまで上昇していた。それは多分、魔王の取り巻きを退治したからというわけではないだろう。

 

「おお! なんだか知らんが力が漲ってくるぞ?」

「これは……ヘルメス卿のお力なのか」

 

 見ればサムソン以外にもペルメルとディオゲネス、それに少し遅れて他の神人たちの体も金色に輝いており、彼らも一様に自分のレベルが上っていることに驚いているようだった。きっと鳳が思いつく限り、共有経験値をばら撒いているのだろう。

 

 ジャンヌがハッとして自分のステータスを確かめてみると、こちらも嘘みたいに上がっていた。既に100を越えている彼女のレベルは、普通ではまず上がることはないだろうに、これが勇者の力だというのだろうか。

 

「ここまでしてもらって、負けましたじゃ済まされないわね……」

「そうだな。どうせなら本物の勇者が来るまでに、あいつを倒してしまおう」

「ええ……みんな! 敵は思ったより手応えがないわ! 今の私たちならやれるわよ!」

 

 ジャンヌの鼓舞するような叫びに神人たちが喚声で応える。ペルメル、ディオゲネスの号令で一斉にファイヤーボールの雨あられが飛んでいく。さっきまでは散発的だった攻撃が、今は重点的に腹部を狙われて、さしもの水竜も嫌がっているようだった。

 

 だが、先程ジャンヌが切りつけた傷は、気づけばもう塞がっている。どうやら、魔王も神人同様に再生能力があるようだ。となれば神人もそうだが、それを倒すには、再生が追いつかないくらい強力な力を叩きつけるより他にない。ジャンヌは自分のステータス画面に現れたステ振りの矢印を使って、思いっきりSTRをあげた。もはや可愛くないなんて言ってる場合じゃなかった。

 

「ほらほら! 降りてきなさいよこのデカブツ! デカいのだけが取り柄なの?!」

 

 ジャンヌはステータスを振り直すと、上空の水竜に向かって挑発を始めた。効くかどうかはわからないが、あれに知能があるならもしかするとこっちの言葉の意味を理解している可能性がある。取り巻きの水生生物は確か言葉を交わしたはずだ。

 

 果たして、彼女の挑発が効いたかどうかはわからないが、少なくとも水竜は彼女のことを認識したようだった。さっき手酷い一撃を食らわせた彼女のことを、水竜は苛立たしく思っていたようだ。それは空中で発狂したような醜い叫び声をあげると、本当に狂ったようにジャンヌめがけて突進してきた。

 

 地上に降りてきたならしめたものだ。ジャンヌとサムソンが待ってましたと飛びかかる。

 

 ところが、彼らがそうして飛びかかろうとしたところを狙って、魔王は何本もある髭を触手のように使って、足を絡め取ろうとしてきた。ジャンヌは慌ててそれを避けたが、更にその動きも予測していたのか、別の髭が彼女に迫り、お返しとばかりに鞭のような一撃が叩きつけられた。

 

 ビシャンという衝撃と共に激痛が走り、彼女の血が飛び散った。神人であるゆえに傷口はすぐに塞がったが、苦痛にゆがむ彼女の顔を見て、魔王の方は気が晴れたのか、少し冷静さを取り戻してしまったようだった。

 

 魔王はまたアウトレンジで水撃を繰り返しながら、時折、狙いすましたように地上に急降下し、ファイヤーボールを撃つ忌々しい神人たちを襲い始めた。ジャンヌもサムソンもそれを待ち構えていたのだが、どうやら魔王はわざと彼らを避けて降下を繰り返しているようだった。

 

 恐らく、有効な攻撃を加えられるのは彼らだけと判断されてしまったのだろう。たまに追いついても、魔王はジャンヌたちを髭で適当にあしらうだけで、またすぐ空へと昇っていってしまう。

 

 魔王の魔王らしからぬその嫌らしくねちっこい攻撃に、ジャンヌもサムソンもほとほとに困り果てて地団駄を踏んだ。

 

「くそっ! なんて嫌らしいやつなんだ! 魔王なら正々堂々と戦え!」

「……本当に、軍隊が一つの魔王なのよ。彼の勝ち負けよりも全体で勝てばそれで良いって考えなのかも知れない。だとしたら厄介ね……」

「せめて空が飛べれば……あの鞭のような髭が邪魔で近づくことも出来ない」

「鞭のような髭ね……」

 

 ジャンヌはその言い回しに何か引っかかるものを感じた。と、同時に、彼女の脳裏に何故か一つの単語がフッと現れた。

 

 レヴィアタン。リヴァイアサンとも呼ばれる、おとぎ話の怪獣だ。日本では特にロールプレイングゲームでお馴染みの魔物だが、出典は確か聖書の終末を描いた外典か何かだったはずだ……しかし何故、こんなのを連想したんだろう? と考えた時、彼女は思い出した。

 

 ウォーターボール、噛みつき、引っ掻き、髭の鞭……そんな攻撃をする魔王のデータを、彼女は帝都の神の揺り籠の中で見つけていた。それは昔やったゲームのデータに紛れ込んでいたから何とも思わなかったが、今目の前にいる水竜はそれにそっくりなのだ。

 

 データの中のレヴィアタンも確か取り巻きを召喚するタイプの魔王で、空中浮遊をして自己再生能力もあった。そして一番まずいのは、定番とも言える必殺技タイダルウェイブの存在だ。もし、あれがデータの魔王と同じものであるならば、まだ飛び出していない必殺技に気をつけなければならない……彼女がそう考えた時だった。

 

 どこからともなくゴオゴオという、地響きのような、もしくは強烈な風のような音が聞こえてきた。それが何だかわからない人々は空を見上げて首をひねっている。しかしジャンヌはその音にあのものを連想した。それは波頭が割れながら陸に迫り来る、巨大な津波のようなイメージだった。

 

 そして、まずいと思った彼女がみんなに逃げてと叫ぼうとした時、それは起こった。

 

 突如、どこからともなく、十数メートルはあろうかという巨大な津波が、水竜の背後に現れたのだ。この荒野のどこにそんな水源があるというのか、完全に想定外だった人々は一歩も動くことが出来ずに、唖然とそれを見上げていた。

 

 そして津波はまたたく間に戦場に広がり、魔族も人間も関係なく、全てをあっという間に押し流してしまった。まるで洗濯機の中に落ちてしまったかのように、人々は水の中でもみくちゃにされながら流されていく。

 

 何しろ何もない荒野のことだから、津波はすぐに引いたが、しかしたったそれだけの出来事で、戦場は一瞬にしてひっくり返ってしまった。

 

 波に飲まれた人々の中には水を飲んで気絶したり、打ち所が悪くて死んでしまった者たちが居た。それ以外の人々は水浸しになっただけで怪我もなく比較的無事と言えたが、しかし悲劇は正にここから始まったのだ。

 

 そのたった一度の津波は、荒野だった戦場を泥沼に変えてしまっていた。どうにか体勢を取り直した人々は、立ち上がろうとして足元のぬかるみに足が取られることに気がついた。そして水を含んだ服は重くて体の自由が効かず、動くにはこの水を絞りきってしまうか、防具を脱ぎ捨てるしか選択肢がなかったのだ。

 

 ところが、対する魔族の方は正に水を得た魚と言った感じだった。元々水生生物であったオアンネスやインスマウスは、水辺でこそ本来の力が発揮できるのだ。それまで乾いた荒野で苦戦していた魔族の動きが変わり、人間側が優勢だった戦況が一瞬にして逆転した。

 

 人々は、津波に襲われた直後に、今度は魔族に襲われて、成すすべもなくその生命を散らしていった。それまで押せ押せだった空気は一変し、あちこちで悲鳴が上がり、勇敢に戦っていたはずの兵士たちが背中を向けて逃げ出そうとしている。

 

 それは神人たちも同じ事で、元々厭世的な彼らは世事に疎く、泳げるものも少なかった。そのため、津波に襲われた多くの神人が水を飲んで一時的に戦闘不能に陥ってしまい、そこを狙って魔王が突撃を仕掛けてきたのだ。

 

「みんな、今は耐えろ! 避けることだけに集中するんだ!!」

 

 辛うじて体勢を取り戻したペルメルとディオゲネスがゲホゲホと咳き込みながら叫ぶ。しかし、津波に飲まれて放心状態の神人の中には、そのまま魔王の餌食になる者も大勢いた。

 

 普通であれば、ちょっとやそっとの傷では死ぬことがない神人たちが、魔王のその鋭い爪に切り裂かれて命を散らしていく。ペルメルとディオゲネスは仲間を助けようと、必死になって攻撃を仕掛けるが、魔王はそんな彼らをあざ笑うかのように、わざと攻撃を喰らいながらも、身動きが取れない神人たちを次々と屠っていった。

 

「逃げろ! マッシュ!」

 

 そしてその爪が大量の水を飲んでしまい、えずいているマッシュ中尉に届こうとした時……護帝隊の中では珍しく武闘派のフェザー中尉が飛び出してきて、彼のことを突き飛ばした。

 

 フェザー中尉は腰の剣を抜刀し、迫りくる爪に向かって果敢にそれを叩きつけた。おかげで直撃こそ免れたが、その攻撃で彼の剣は折れてしまった。ただの鉄の剣では、魔王の爪は傷つけられないようだった。フェザー中尉は忌々しそうに剣を投げ捨てると、たったいま突き飛ばしたマッシュ中尉を引っ張って逃げ出そうとした。

 

 だが、そんな彼を魔王が許すはずもなく、それは空中を旋回して戻ってくると、執拗にフェザー中尉を狙って爪を振り下ろしてきた。

 

 ガキンッ! っと音がして、今度はその爪を一本の細剣がしっかりと受け止めていた。

 

 ジャンヌは逃げようとしている二人の神人の間に入って、魔王の攻撃を弾き返す。彼女の持つ魔剣フィエルボワは、少なくともゲーム上の設定では決して折れることが無かった。この世界ではどうなってるか分からないが、とにもかくにも今はその性能に感謝しつつ、彼女は魔王の爪を弾き返すと、追撃とばかりにその細い腕の腱を狙った。

 

「グオオオォォォーーーーーッッ!!」

 

 ズッ……っと刀身がその体に差し込まれると、魔王は狂ったような声を上げて、切られた腕を振り回した。剣が抜けた反動を利用して彼女がバックステップをすると、そこを目掛けて魔王の爪が彼女の体を掠めていった。

 

 血が飛び散り、ずきりと傷口が痛んだが、神人である自分ならこんな傷はすぐに治ってしまうだろう。彼女はそう考えて、激昂して判断力を失っている魔王に追撃をかけるべく、地面を蹴ろうとした時だった……

 

「あっ……!」

 

 彼女が魔王に飛びかかろうと足に力を入れると、その足がズルっと滑ってぬかるみにはまり、彼女はそのまま地面に倒れ伏してしまった。掴んでいた剣が飛んでいき、慌ててそれを拾おうとして、彼女は地面に膝をついて立ち上がろうとした。

 

 しかし、その時、もう彼女の目の前には魔王の爪が迫っていた。彼女が追撃をかけようと思ったと同様に、魔王の方も彼女にカウンターをお見舞いしようとしていたのだ。魔王は振り返った時、彼女が倒れている姿を見てきっとほくそ笑んでいたに違いない。

 

「う、そ……で……しょ?」

 

 ズンッと、彼女の体にものすごい衝撃が走って、次の瞬間、信じられない激痛が走った。あまりの痛みに気が遠くなりながらも、彼女は薄れゆく意識の中でそれを見た。

 

 ジャンヌの体は上半身と下半身が真っ二つに避け、半分にちぎれ落ちそうになっていた。そんな彼女の体目掛けて、魔王が突っ込んでくる。

 

 ガキンッ! っと歯と歯がぶつかり合う音が響いたと思ったら、その瞬間、ジャンヌの上半身が消えていた。魔王が通り過ぎた後には、立ち上がろうとして跪いた姿勢のままの、彼女の下半身だけが残されていて、その腰の辺りからビュービューと、噴水のように血液が飛び出していた。

 

 サムソンはそんな変わり果てた彼女の姿を目の前に、呆然と立ち尽くしていた。頭から血液が引いていくような、シュワシュワとした感覚がして、気づけば戦場から音が無くなっていた。代わりに心臓がバクバクと爆発しそうなくらい早鐘を打って、耳の血管が千切れそうなくらいドクドク音を立てていた。

 

 水竜は楽しそうに空中を泳いでいる。その口のあたりがモグモグと咀嚼するように動いたと思ったら、次の瞬間、何かを吐き出して、それは地面に落っこちた。

 



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追い詰められしもの

 地上にはジャンヌの下半身だけが残されていた。上空を悠々と旋回する魔王が吐き出した物体が地面に落下した時、その周囲にいた兵士たちから悲鳴が上がった。こうなっては見目麗しい神人も形無しだ。咀嚼され、原型を留めていない女性の死体、ジャンヌの上半身がそこに落ちていた。

 

「勇者が殺られたぞっっ!!」

 

 ただのグロテスクな肉塊と化したジャンヌを見た兵士たちは絶望の悲鳴を上げた。その声にまさかと思った兵士たちが気を取られ、魔族の群れに無慈悲に命を狩られていった。あちらこちらで泣き声のような悲鳴があがって、一瞬にして不安が戦場を埋め尽くしていった。

 

 次の瞬間、勇者が殺られては勝ち目はないと思った兵士たちが、武器を捨て、鎧を脱いで、我先にと逃げ出し始めた。重い荷物を背負っていては逃げられないが、おかげで魔族の鉾はやすやすと人間を貫くことが出来るようになった。兵士たちはそうなることが分かっていても、そうやって逃げるしか方法が無かったのだ。

 

 先を争って逃げ出す兵士たちの群れで、戦場はパニックになった。その背後には容赦なく魔族が迫り、その境界線では悲鳴と血しぶきが上がった。

 

 魔王はその様をあざ笑うかのように上空をグルグル旋回すると、残してきたジャンヌの下半身のことを思い出し、そいつも血祭りに上げてやろうと戻ってきた。人類の力の象徴である勇者を殺ったことでこれだけ戦線が崩れるなら、あの下半身にもまだ使いみちがある。そんなつもりだ。

 

 魔王はジャンヌの下半身を探して地上スレスレを飛び回り、そこで呆然としていた神人たちをも血祭りに上げた。鋭い爪で引き裂かれ、噛み砕かれた彼らの悲鳴が轟くと、他の神人たちも恐れを為して逃げ出した。

 

 元々、非死である神人は、非死であるが故に生にものすごい執着心を持っているものなのだ。なのに自分たちよりも強いはずの勇者が殺られたのだ。あんなのには到底敵うはずもない。彼らは一瞬にして抵抗力を失くして子供のように悲鳴をあげた。

 

「駄目だ! 踏みとどまれ! 背中を見せれば逆に殺られるぞ!!」

 

 そんなペルメルとディオゲネスの叫び声は、もう神人たちには聞こえなかった。かく言う彼ら自身も体がブルブルと震えており、実は立っているのがやっとだった。頭では分かっていても体がついてこない。本能なのだ。マッシュ中尉もフェザー中尉も、自分たちのせいでジャンヌが死んだことにショックを受けて固まっている。そこへジャンヌを探していた魔王がやってきて、あっという間に彼らを真っ二つに切り裂いていった。

 

 また一つ、また一つと、神人たちの死体が積み上がっていく。それを遠くで見ていたヴァルトシュタインは、もはや戦線の維持は不可能と判断すると、顔色を失って固まってしまったクレアの首根っこを引っ掴んで撤退を開始しようと試みた。

 

 だが、そんな絶望的な瞬間だった……

 

 食べ残してしまったジャンヌの下半身を探していた魔王は、ついにそれを見つけると、後片付けをすべく地面スレスレの低空を泥を跳ね上げながら飛んできた。するとその下半身の向こう側にぼんやりと立っている男の姿が見えた。

 

 サムソンはジャンヌの体越しに、じっと魔王を睨みつけている。魔王はそんな彼ごと食べ残しを食らってやろうと口を開いた。

 

 その時、信じられないことが起こった。

 

 突如、サムソンの体から真っ赤な炎のようなオーラが溢れ出したかと思ったら、ドンッと彼の周囲の地面がクレーターのように割れて大量の土砂が飛んでいった。迫りくる魔王は目の前で起きた出来事に驚異を感じ、一瞬、躊躇いを見せたが、今更自分が人間ごときを恐れるはずがないと気を取り直し、そのままサムソンに向かって突っ込んできた。

 

 ゴッ……! っと、巨大な質量同士がぶつかり合うような音が戦場に轟いて、ビリビリと空気を震わせる。

 

 その地震のような振動は戦場に轟き渡った。兵士たちが驚いて振り返れば、今ジャンヌを喰らおうとしていた魔王の鼻先に、サムソンの拳が深々と突き刺さっていた。

 

 全長数十メートルはあろうかという蛇みたいな巨体を、信じられないことに小さな人間が受け止めていたのだ。しかもその拳は魔王の鼻っ柱を砕き、その巨体に大きな穴を開けている。

 

「ギギィィィーーーーーーーッッ!!」

 

 悲鳴と泣き声の中間みたいな情けない声が辺りにこだまし、魔王は苦痛にその巨体をジタバタと震えさせた。大量の血液を浴びて真っ赤に染まったサムソンは、更に裂帛の気合を入れると、暴れまわる水竜に向かって黙れと言わんばかりに拳を打ち下ろした。

 

 ズドンッ! っと、再度地響きが戦場全体に轟いて、土煙を上げて魔王が地面に打ち付けられる。

 

 サムソンの体には真っ赤な炎のようなオーラが、蛇のように舌を伸ばしてまとわり付いている。それが彼の拳に集まっていき、光弾のような真っ白い光を放つと、彼の腕から巨大な火球が飛び出してきた。

 

 それが地面にひれ伏している魔王に直撃すると、ドカンと爆炎を吹き上げてその体を抉った。何をやっても傷つかなかった魔王の爪が折れ、歯が砕け散り、髭からプスプスと煙を上げていた。

 

 サムソンは、堪らず逃げ出そうとした魔王に追いすがると、その髭をぐいと引っ張り、ブンブンと振り回して、その遠心力でまたその巨体を地面に叩き伏せてしまった。猛烈な砂煙が舞って、地面を震わせると、敵も味方も関係なく、全ての視線がそれに注がれた。

 

 せいぜい2メートルに満たない小人が、数十メートルの巨人を振り回している。まるでおとぎ話のような信じられない光景だった。

 

 髭を引っこ抜かれた魔王は情けない声をあげると、追いすがるサムソンに次々と水撃を食らわせ、彼がそれを避けている間に空へと昇った。上空にさえ上がってしまえば、もうあれに自分を傷つける手段はない。そういうつもりだった。

 

 しかしあろうことかサムソンは、人々の常識も、そんな魔王の願望すらも打ち砕くかのように、数十メートルもの高さを跳躍すると、空へ飛び立とうとする魔王を追い越して、唖然とするその怪物の頭に拳を打ち下ろした。

 

 空へと上がろうとしていた魔王は、それによって物理法則を無視したかのように跳ね返されると、そのまま地面にその巨体を叩きつけられた。

 

 ズズン……っと、また地面が揺れて、土塊が飛び散り、土砂が戦場に雨のように降り注ぐ。

 

 サムソンがその中心に着地すると、またズシンとした衝撃音が戦場に轟き、それはドスン、ドスンと、二度も三度も続けられて、巨大な水竜のあげる悲鳴のような咆哮とともに、白い煙が砂嵐のように広がっていった。

 

 その砂嵐の中で何が起こっているのかは想像に難くなかった。その中からそれまで一度も傷つけることが出来なかった竜のうろこが飛び出してきて地面に突き刺さり、情けない悲鳴が轟く度に、鋭い爪や牙の破片が飛び散ってくるのだ。

 

 気づけばその砂嵐は真っ赤に染まり、降り注ぐ血液が戦場を染めて、まるで火星の嵐のようだった。

 

 しかし、それは長くは続かなかった。

 

 人類を勝利に導こうとする、その永遠とも思えるような長い瞬間は、実際には一分にも満たない時間で終わってしまった。

 

 巨大な質量がぶつかり合う激しい音が途切れ、それを覆う砂煙が徐々に晴れてくると、そこにいたのはボロボロになった巨大な水竜と、そして同じく体がおかしな方向に捻じ曲がったサムソンだった。

 

 鳳の共有経験値を貰って高レベルに達したサムソンは確かに宇宙一のSTRを誇る男になっていた。だが、いくら鍛えているとは言え、そんな力を生身の人間が振るい続けては体が持たなかったのだ。

 

 彼の強烈な一撃は魔王を打ち砕くと同時に、自分の体もまた傷つけていた。一撃するごとに拳の骨が打ち砕かれ、四肢はおかしな方向に捻じ曲がり、そして関節が外れて腱が千切れた。それを無理矢理筋肉で押し込めようとしても、そんなのは長く続かなかった。

 

 正に満身創痍、サムソンの体は血だらけの傷だらけで、体の表面にはところどころ中から骨が飛び出していて、見ているだけで気絶しそうなくらいだった。サムソンはそんな体でもまだ立ち上がろうとして、外れていた肩を無理やりはめ直したが、砕けた関節は元には戻らなかった。

 

 それでも無理矢理筋肉を硬直させてサムソンは立ち上がった。だが、そんな彼をあざ笑うかのように、魔王の体がぼんやりと光ると、剥がれ落ちた鱗が修復され、折れた爪も歯も嘘みたいに生え変わってしまった。

 

 魔王には、神人のような自己再生能力があったのだ。

 

 魔王の髭がヒュンと音を立てて振るわれ、ムチのようにしなってサムソンに打ち付けられる。バリッと何かが千切れるような音がして、サムソンの体が宙に飛ばされると、その体からはもう腕が千切れそうになっていた。

 

 彼の勇気に奮い立った神人たちのファイヤーボールがあちこちから飛んでくる。だが、もはやそんな攻撃で魔王が止まるはずもなく、地面に転がったサムソンは、迫りくる爪を前に覚悟を決めていた。

 

「……ジャンヌよ。今から俺もそっちに行く。おまえの仇すら取れなかった、情けない俺を許してくれ……」

 

 だが、彼が絶望に身を任せ、目を閉じようとした、正にその時だった。

 

「上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず。衆人の憎むところに居って、故に道に近し……道を忘れ、またすぐ力に頼ってしまうから、君はそうなるのだ。柔らかく流れる水のように絶えず流れ続け、力を振るうのではなく受け流す。さすれば君は万難に相して敵はない。そう教えたはずだろう。どれ、また一つ、稽古をつけて差し上げようか」

 

 ザバンっと、波頭が岩に砕けるような音がして、迫りくる魔王の顔がグイッと持ち上がり、あらぬ方向へと飛んでいった。

 

 突然、サムソンの前に飛び込んできた、羽の生えたその男が、円を描くように両手をぐるりと回すと、それに受け止められた魔王の体が、面白いように軌道を変えて飛んでいってしまった。

 

 何をやったのか、傍目にはわけがわからなかった。自分がどうして方向転換してしまったのかわからない魔王は、空中を旋回してそのまま戻ってきたが、それすら神父は軽く受け流し、くるっと手首を返すように両腕を回すと、空中で上下逆さまに回転させられた魔王は、今度は地面に背中をガリガリと擦りながら滑っていってしまった。

 

「……師父! 不甲斐ない弟子で申し訳ありません」

「暫しそこで休んでいたまえ。すぐに彼女も、我が友人が助けてくれよう」

 

 神父が気合を入れると、ゆらゆらと揺れるオーラが立ち上った。彼の纏っている涼し気なオーラは、サムソンの真っ赤な炎に対し、青い水を思わせた。だが、完全燃焼する炎は青い。そのオーラは、サムソンをも凌駕する、エネルギーの固まりそのものだった。

 

「我は気高き館の主(バアル・ゼブル)。この頭によって悪霊を打ち払うもの。故に全ての悪霊が我にひれ伏し服従す。悪しき心を持つものよ、跪くがよい。我は気高き蝿の王(ベルゼブブ)。王の中の王。全ての悪しき魂の王」

 

 ドンッ! っと巨大な大砲から撃ち出されたかのように、ベル神父の腕から巨大な気弾が飛び出していき、魔王の体にぶつかって弾けた。たちまち、魔王の鱗が弾け飛び、巨大な穴から血が吹き出した。

 

 その痛みに耐えかねて巨大な水竜が地面をのたうち回ると、それに巻き込まれた神人たちから悲鳴があがった。ベル神父がその声に舌打ちし追撃をやめると、魔王はその隙に慌てて空へと逃げていった。

 

 上空へと気弾が撃ち出され、それが体に当たる度に、ガクリ、ガクリと水竜の体がずり落ちてくる。だが、それでも撃墜するには至らず、辛うじて再生能力が勝った魔王は、そのまま攻撃の届かない上空へと逃れてしまった。

 

「逃すか……レビテーション!」

 

 しかし、ベル神父は背中の翼を広げ古代呪文を唱えると、その風を受けて空高く舞い上がっていった。実際には鳳と同じ魔法なのに、彼がやるとそれは傍目にはまるで天使が羽ばたいているように見えた。巨大な翼を広げた天使が、魔王を追って、天高く駆け上がっていく。

 

 と、その時、戦場の片隅に、もう一つの翼を広げた影が踊った。空から降臨したそれは、左右6対12枚の翼を大きく広げ、太陽を背に受けて純白の光を放ち、まるで後光を背負って舞い降りた神のように見えた。

 

 実際、神が奇跡を呼ぶものならば、それは奇跡を起こすためにここにやってきたのだ。カナンは天高くから戦場を見下ろし、そこに散らばっている無数の死体を見て哀れみの涙を浮かべた。自分がもう少し早く来れれば、ここまで被害が出なくて済んだかも知れないのに、今の彼ではこれが限界なのだ。

 

 だが、全てとは言わないまでも、助けられる命は助けよう。慈悲深い彼は、死者に代わって神に祈りを捧げると、十字を切って、杖を高々と掲げ、地上の者たちに宣言した。

 

「我、ルシフェルの名において問う。この戦場に散りし全ての魂よ。私の声が届いたのなら答えなさい。我は神の使徒、命を運ぶもの。全ての迷える魂よ。我に応えて蘇るのです。リザレクション!」

 

 その古代呪文は杖の力に増幅されて、戦場に光のシャワーとなって降り注いだ。それは全ての人間を救うことは出来ないが、神人(・・)であったならば、必ず復活することが出来る究極の禁呪だ。

 

 故に、それが地上に届いた時、人々は奇跡を見ることになった。たった今殺されたはずの神人たちが……マッシュ中尉もフェザー中尉も、そして勇者ジャンヌまでもが、不思議な光に包まれ復活を遂げたのだ。

 

 満身創痍のサムソンの目の前で、下半身だけ置き去りにされたジャンヌの体が光に包まれ、にょきにょきと上半身が生えてきた。彼が唖然と見守る中で、その体が完全に修復されると、彼女は咳き込みながら、

 

「コホッ、コホッ! ……油断したわ。足を滑らせて殺されるなんて、シャレにならないわよ……って、あれ? どうして私……死んだんじゃなかったのかしら?」

「ジャンヌ……無事なのか!?」

 

 その唖然とした声にジャンヌが振り返ると、そこには四肢がおかしな方向に捻じ曲がり、今にも死にそうなサムソンが地面に横たわっていた。そのボロ雑巾みたいな弱々しい彼を見た瞬間、ジャンヌの脳に血が昇り、顔はみるみるうちに真っ赤になっていった。

 

「あの野郎! 俺の大事な仲間をこんなにしやがって……ぶっ殺してやる!! 降りてこい、おらー!!」

「ま、待て待て、ジャンヌ。これはあれにやられたんじゃない。自滅したんだ」

「え……? そうなの?」

 

 サムソンは弱々しく頷くと、

 

「おまえが死んでしまったと思って、一瞬、頭に血が昇ってしまったんだ。それで力の制御を怠って、こんなことになってしまった。さっき師父にも叱られた」

「師父って……ベル神父!?」

「ああ、おまえも怒りに任せて俺みたいになっちゃ駄目だ。出来るだけ平静を保ち、無理せず、決してやられないように戦うんだ。そうすればいつか隙が出来る。それを師父は教えてくれているのだ」

「……もしかして、さっきから上空に飛び回ってるのは」

「ベル神父ですよ」

 

 二人の会話に割り込んできた声にハッと振り返ると、そこには孤児院の医務室に勤務しているアスタルテが、眉根を寄せながら呆れた素振りでサムソンの方へと近づいてきた。彼女は手にした診療カバンから、包帯やアンプル、注射器などを取り出して、てきぱきとサムソンの傷を手当しながら、

 

「あー、あー、まったくもう……あなた、よっぽど丈夫なつもりか知りませんが、人間の体でこんな無理をしたら、普通死にますよ。って言うか、どうしてまだ生きてるんですか。呆れてものも言えませんよ。応急手当だけはしときますから、もうこの戦闘には参加しないで、そこで見てなさい」

「しかし……あれを放っておくわけには」

「だから、それは勇者ジャンヌと、我々に任せておきなさいって言ってるんですよ。鈍くさいハゲですね」

 

 アスタルテは手際よくクルクルと包帯を巻くと、折れたサムソンの四肢を固定し、ピシャリとその頭を平手で叩いた。彼女はカバンを閉じると、次の患者を探して戦場をキョロキョロ見渡したが、あまりにも多くてやってられないとすぐにさじを投げ、

 

「忌々しい蛇ですね。あの野郎、神父も早く撃ち落としてくださればいいのに……少し、お手伝いしましょうか」

 

 彼女が虚空に手をかざすと、突然、その手に輝く光の弓が現れた。彼女はまるで見えない弦を引き絞るように、ぐっと右手を引くと、

 

「今いまし、昔いませる、全能なる神よ。その栄光と誉れと力によって、我が道を照らしたまえ。7つの封印より解かれし真実の炎。災厄を焼き尽くす鏑矢となれ。神弓(シェキナー)!」

 

 その声が戦場に響き渡った時、上空で神父から逃げ回るように飛んでいた魔王の体が突然、ボンッと弾けた。まるで腹の中に飲み込んでしまった爆弾が破裂したかのように、魔王は全身から血を吹き出して落下する。

 

 戦場に雨のように血が降り注ぎ、次いでドスンと地響きを立てて魔王が地面に激突し、更にベル神父の追撃が深々と体に突き刺さった。

 

「ギヤアアアァァァァアアァァアアーーーーッッ!!」

 

 まるで人間の悲鳴のような巨大な鳴き声が轟き、巨大な蛇のような水竜が、地面をバタバタとたたきながらのたうち回っている。まるでおもちゃ売り場で絶叫する駄々っ子みたいに、高速で全身をバタバタと震わせる魔王の攻撃を辛うじて躱しながら、神父はその体に追撃を浴びせようと試みた。

 

 しかし、その動きが激しく近づけないままでいると、傷ついた魔王の体がどんどん回復していく……

 

「あの回復力、厄介ですね……倒すには、力を合わせるしかないでしょうか」

 

 必殺技は連発出来ないのだろうか、プスプスと肉の焦げる臭いを漂わせ、焼け焦げた左腕を自分で手当しながらアスタルテがつぶやく。その言葉にハッと我に返ったジャンヌが慌てて、

 

「私も神父様の援護に向かうわ」

「気をつけろよ、ジャンヌ」

 

 サムソンの声援を受けて、ジャンヌが戦線に復帰する。その姿を見つけた戦場の兵士たちが彼女を指差し、

 

「勇者ジャンヌが復活したぞぉーーっ!!」

 

 その知らせが戦場に伝わりまた人々は息を吹き返した。ヴァルトシュタインが戦線を立て直そうと怒鳴り散らし、背中に迫りくる魔族を押し返し始め、あちこちから怒号と剣がぶつかり合う金属音が響いてくる。

 

 カナンによって復活を遂げた神人たちもまた神父を援護するかのように、遠目からファイヤーボールをばら撒いている。復活したジャンヌと神父が交互に攻撃を繰り返し、ついに魔王は空に逃げることも出来ないくらい追い詰められた。

 

 しかし、追い詰められ時、人は思いがけない力を発揮するものである。それは魔王も同じであった。

 

「グググウゥゥゥオオオオオオオォォォーーーーーッッッッ!!!」

 

 突然、ファイヤーボールの爆炎の中で苦しんでいた魔王が、低く震えるような唸り声をあげたかと思ったら……ドドドンッ!! っと花火が炸裂するような激しい音が鳴り響いて、魔王を中心に強い衝撃波が広がった。

 

 その衝撃波に吹き飛ばされたジャンヌたちが地面に這いつくばって顔を上げると、魔王レヴィアタンは、まるでベル神父のようなオーラを纏って、巨大な水の玉を自分の周りにこれでもかというくらいに並べていた。

 

 そして次の瞬間、その水の玉から、まるでマシンガンのように、次々と滅茶苦茶に水撃が飛び出してきた。

 

 それはまったく狙いをつけていないらしく、敵も味方も関係なく、たまたまそこにいた者たちを容赦なく吹き飛ばした。

 

 その威力は神人であっても触れれば真っ二つというもので、また幾人かの神人が犠牲になったが、しかし、それはすぐにカナンによって復活する……

 

 だが、復活するのは神人だけではなかった。魔王がまた忌々しそうに鳴き声をあげると、どこからともなく大量の水棲魔族が現れて人々を襲い始めた。それは最初の規模とは雲泥の差で、もはやこの戦場には人類よりも魔族のほうが多いのではないかと言わんばかりの数だった。

 

 これだけの取り巻きを呼んで、まだ魔王は余力があるというのだろうか……? 恐らく、これは無限なのだ。魔王本体を倒さない限り、これは永遠に続くのだろう。

 

「勇者よ!」

「分かってるわ!」

 

 ベル神父の呼びかけにジャンヌが応える。あれを片付けるには別々に攻撃を続けていてはもはや通じない。同時に、自分たちの最強の力を、魔王に叩きつけなければならないだろう。

 

 振り返ると、アスタルテが弓をつがえて頷いていた。三人の意思は固まっている。あとはあいつに隙を作らせなければならないが、何か方法はないか……そう、三人が必死にタイミングを見計らっている時だった。

 

 ゴゴゴゴゴ……ゴゴゴゴゴゴ……どこからともなく地鳴りのような音が響いてきて、それはどんどんこちらに近づいてきた。

 

 ベル神父もアスタルテも、それが何か分からず警戒している。ついさっきそれに手酷い目に遭ったばかりのジャンヌがハッとして顔を上げた時、彼女の代わりに戦場のあちこちから上がった声で、神父達も何が起ころうとしているかを知った。

 

「津波だっ!!」

 

 地響きのような凄まじい音を立てて、どこからともなく現れた大量の水が、戦場に津波となって押し寄せてきた。敵も味方も関係なく、あらゆる物を飲み込む水が、戦場全体を覆っていく……

 

 それは一度目は、あっという間に乾いた地面に吸い込まれてしまったが、二度目の今回はいつ果てるともなく続き、気がつけば戦場は地平線の彼方まで続く大海原のようになってしまっていた。

 

 慌てて空に逃げたカナン達は、どこまでも続く大海原を前に声を失くした。魔王は水中を自由に泳ぎ回り、攻撃を当てようとしても水が邪魔して殆どダメージは期待できなかった。ベル神父も言っている通り、水は全てを包み込む柔軟性を持つのだ。

 

 しかし、これだけの水も、あれだけの眷属も、あの魔王は一体どこから呼び出したというのか……いや、そんなことはもう気にするだけ無駄だろう。

 

 ただ一つ分かっていることは、このままでは人類は負けるということだった。この津波の海の中で、人々は波に揉まれて呼吸が出来ずに死に絶えるだろうが、エラのある水棲魔族ならいくらでも耐えられる。

 

 そして全てが終わった時、残った天使たちと復活した神人たちだけではこの状況は覆せない。そうなる前に、なんとかしてこの水をどこかへ流してしまわなければならないのだが……しかし、そんな方法がどこにあるというのか。

 

 カナンは手にしたアロンの杖を見つめた。出エジプト記でモーセは海を割った。その時に手にしていたのがこのアロンの杖だった。彼は咄嗟に杖を振り上げると、奇跡を起こすようそれに願った。

 

「杖よ! 我々を導き給え!」

 

 するとそれは伝承の通りに海を真っ二つに割った。だが、杖は海を縦に割るだけで、殆どの人たちが未だに海の底だった。根本的な解決には、この水全てを押し流さなければならない。しかし、今彼が持つゴスペルにはそんな機能はなかった。元々、この杖には高次元(カナン)へ導くための機能しかないのだ。

 

 水を蒸発させるだけなら、高エネルギーを扱う彼にも出来た。だが、そんなことをしたら、水中の全ての人間が煮えたぎって死んでしまうのは変わりなかった。ただ、この水だけを吸い出し、どこかへやる必要があるのだ。しかし、そんな芸当は伝説の神様くらいにしか出来ないだろう……

 

「ケーリュケイオン! あの水を吸い尽くせっ!」

 

 その時だった。

 

 戦場を覆う大海原を前に、カナン達が途方に暮れてると、そんな彼の顔に一瞬、影が差した。

 

 何事かと顔を上げれば、彼らのさらに上空に5つの人影が浮かんでいた。そしてその中央……勇者・鳳白が杖を掲げて叫んだ途端に、眼下に広がる大海原から次々と水柱が上がって、その杖の中に飲み込まれていった。

 

 渦潮が発生し、あちこちの水が干上がっていく。そしてその杖が全てを吸い尽くした時、地上の人々は未だ健在であり……そして呆然とする魔王に対して、人類は救世主を迎えていたのだ。

 



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束の間の勝利

 いくつもの水柱が竜巻のように空へと巻き上がり、それは全てたった一本の杖に吸い込まれていった。信じられないことに、地上を満たしていた大海原は、それによって地面がカラカラになるまで吸い上げられてしまった。

 

 きっと必勝の構えのつもりだったであろう魔王軍の魔族たちは、まるで陸に打ち上げられた魚のようにえら呼吸しながら、ぽかんと空中に浮かぶその影を仰ぎ見ていた。そして芋洗いされて敵味方がぐちゃぐちゃに入り乱れた地上に、上空から銃弾の雨あられが撃ち下ろされたかと思えばと、それは正確に敵だけを撃ち抜いていった。

 

 人間は経験する生き物である。津波攻撃も二度目となれば多少余力が残っていたのか、津波に流されていた兵士たちも、水が引くや否や間髪入れずに武器を取って、またすぐ戦闘に戻っていった。

 

「勇者だ! 勇者が来た! クレア様の言う通り、ヘルメス卿が帰ってきたんだ! これで勝てる! 俺たちは絶対に勝てるぞ!!」

 

 上空の援護射撃に気づいた誰かがそう叫ぶと、それは波のように戦場を伝わり、勇気づけられた兵士たちから次々と歓喜の雄叫びが上がった。津波から立ち直った彼らは、今度は地面がカラカラに乾いていることに驚きつつ、まるで水を得た魚のように目の前の魔族に切りかかっていった。

 

 一方、水を失った本物の水棲魔族たちは、また元のぎこちない動きに逆戻りし、形勢はあっという間に逆転した。ヴァルトシュタインはすぐさま戦線を立て直すように部下に指示すると、クレアを中心に据え、未だ調子を取り戻せていない魔族共をグイグイと押し返していった。

 

 スカーサハがマニとルーシーを引き連れて魔王の方へ向かう。鳳が援護射撃を続けるギヨームをゆっくり高台に下ろしていると、遠くの方から翼を広げたカナンが飛んできた。

 

「ヘルメス卿! あなたが来てくれて、本当に助かりました。ニューアムステルダムの方は片付いたんですね?」

「すみません。それがまだなんですよ。俺たちは確かに魔王を追い詰めたんですが、そしたらなんとその魔王が逃げ出しちゃったんです」

「……魔王が、逃げた!?」

「追いかけようとしたんですが、これが馬鹿みたいに速くって……それで逃げてく方角を確かめていたら、もしかして、あの魔王はこっちに合流しようとしてるんじゃないかと思って、すぐに先生に伝えなきゃって飛んできたんです」

「なんですって!? そんなことになったら、我々にも成すすべがありませんよ」

「だから、あいつが来る前に、さっさと目の前のデカブツを片付けようぜ」

 

 ギヨームがひたすら冷静に援護射撃を続けながら、ぶっきら棒にそう答える。カナンは全くその通りだと頷くと、

 

「ニューアムステルダムからここまでとなると、まだ数日はかかりますよね?」

「あれがただの野生動物ならそうですけど、魔王ですから……俺たちだって、こうしてポータル移動してきたわけですし」

「……油断は禁物というわけですか。わかりました。今は全力で、出来るだけ速やかにあれを片付けましょう」

 

 三人は頷きあうと、ギヨームをその場に残し、鳳とカナンは空を飛んで魔王に近づいていった。

 

 地上では生き残った一般兵が魔王軍を相手に善戦を続けていた。その取り巻きに邪魔されないように、神人兵たちが行く手を阻み、ベル神父とマニが空を飛ぶ魔王に攻撃を仕掛けている。

 

 ベル神父はレビテーション魔法で自由自在に飛び回れ、マニはマニでクナイ手裏剣に結んだワイヤーを駆使して、魔王の体にまとわり付くようにちょろちょろ動き回ってはヘイトを稼いでいた。

 

 マニに挑発された魔王が腹立たしそうな声で鳴きながら、空中を不規則に飛び回る。マニはそんな魔王に振り落とされないよう、見事なバランス感覚でその背中を駆け回り挑発し続け、それに苛立った魔王が隙を見せるや、すかさずベル神父が手堅い攻撃をお見舞いしていく。

 

 そんな二人の連携で浮力を失った魔王が地面に落ちると、そこに待ち構えていたジャンヌが強烈な神技の一撃を繰り出し、続けざまに現代魔法(バトルソング)のバフが乗った神人部隊のファイヤーボールが襲った。

 

 鋼鉄よりも硬い鱗がパラパラと舞い散り、空中を飛んでいる鳳にその衝撃が届くくらいの大爆発が起こったが……だが、それでも魔王は倒れなかった。

 

 魔王の体が不思議な光に包まれると、たった今ジャンヌにつけられた傷は一瞬にして回復してしまった。魔王はお返しとばかりに、地上を這いつくばっている生意気な神人たちに水撃を弾丸のように打ち込んでくる。

 

 水撃に撃ち抜かれた神人たちから血しぶきがあがるが、こちらも驚異的な回復力ですぐに傷が塞がる。双方とも回復力を武器とした、いつ果てるとも知れない消耗戦のような戦いが繰り広げられているようだった。

 

「……苦戦してますね」

 

 鳳は魔王の攻撃を真似て、杖に取り込んだ水を圧縮して打ち出しながら言った。

 

「どうやらあれは防御力の高さもさることながら、とにかくその再生能力が厄介なようです。攻撃が効きづらい上に、傷つけた端から回復してしまうみたいで」

「神人たちの攻撃はあまり効いてない感じですね。数撃ちゃ当たるって感じではありますが」

「ジャンヌさんやベル神父の攻撃なら通用するのですが、いかんせん、相手は空を飛んでいるので、有効な打撃を加えるのが難しく……」

「逃げたやつとはまた違う、防御特化って感じだな……」

 

 ニューアムステルダムに現れたカバの方は、殆どただの的だったが、とにかくタフすぎていくらやっても体力が削りきれない感じだった。そして人間を食らうことで体力を回復する。ひたすら体力だけを増やすように進化した怪物といった感じだろうか。

 

 対して、こっちの水竜はひたすら表面の防御を固めるように進化した魔王と言ったところだろうか。鱗や皮膚を硬くして攻撃自体を弾く上に、取り巻きを召喚して近づけさせないようにし、そして空を飛び水撃や津波で遠くから攻撃する。

 

 しかし逆に言えば、有効な攻撃が届きさえすれば、案外勝ち目はあるかも知れないということだった。生物というのは、何かに特化すれば、その反動で他の部分が弱くなる。例えば毒を持つ植物は、その毒のお陰で捕食者に食べられない代わりに、成長が遅くなり生存競争に負けてしまうのだ。

 

 それと同じように考えれば、カバが防御を無視してひたすら体力というかHPを増やしまくった生物ならば、こっちは防御を固めていることでHPが低い可能性がある。カバには効かなかった鳳の崩壊魔法が、こいつには効くかも知れないのだ。

 

 問題は、攻撃者を近づけさせないように空を飛んだり、取り巻きが邪魔することだった。まずはこれをなんとかするのが前提条件だ。

 

 取り巻きは、現在、ヴァルトシュタインや一般兵士が何とか押し留めている。ここへ更に、ヘルメスの神人部隊も加われば問題ないだろう。あとは空を飛ぶ魔王をどうやって地面に縫い付けておくかだが……ベル神父やマニ、ジャンヌならそれも可能かも知れないが、彼らがその場にいる限り、鳳も極大魔法は撃てない。その間に回復してまた逃げられてしまっては元も子もない。何か他に方法はないだろうか……

 

 鳳が高圧水鉄砲を打ち続けながら、そんなことを考えている時だった。

 

 先に地上に降りて、ルーシーと共にバトルソングを唱えていたスカーサハが、後衛を妹弟子に任せて前線に飛び出した時だった。他の神人よりも高レベルになっていた彼女が、一段回上位の攻撃魔法、ライトニングボルトを撃った時、一瞬、水竜の動きが止まったように見えた。

 

「……今、嫌がったか? ライトニングボルト!」

 

 鳳がすかさず追撃をお見舞いすると、更に威力が上がった電撃魔法に、堪らず魔王はよろけて逃げ出し始めた。鳳はそれを見てニヤリとほくそ笑んだ。

 

 なるほど……水生生物と言えば電撃特攻がゲームのお約束だ。そもそも、あれだけ可動域の多い生き物の神経網が電気に強いわけがない。いくら表皮が硬くても電気を通すのであれば、いくらでもその動きを止められるだろう。

 

「カナン先生、電撃です!」

 

 鳳はカナンに向かって叫ぶと、自分は戦場をキョロキョロ見下ろし、そこにペルメルとディオゲネスの姿を見つけるや、彼らのところへ急降下していった。

 

「ヘルメス卿! 我々はあなたのご帰還を心より祝福いたします」

「我らヘルメス神人部隊一同、これよりあなたの指揮下に入ります。我々の忠誠心を、どうぞ存分にお試しください」

 

 鳳が空から降りてくると、すかさずペルメルとディオゲネスが駆け寄ってきて、彼の前で恭しく頭を下げた。すると周囲の神人たちも真似をして、その場で膝をつき、胸に手を当て、俯くように頭を下げた。

 

「いや、馬鹿、そんなのいいから、戦闘に集中しろよ!」

 

 鳳が慌てて叫ぶと、神人たちは心得ているといった感じですぐに戦線に復帰した。彼は額の冷や汗を拭ってから、その場に残った部下の二人に向かって言った。

 

「つーか、聞きたいことがあって降りてきたんだ。神人の中にライトニングボルトを撃てる奴はいないか? ってか、君らにも共有経験値送ったと思うんだけど、まだ撃てないの?」

「ライトニングボルトですか……? そんな上位魔法は、とてもとても」

 

 どうやらペルメルもディオゲネスもまだ使えないらしい。実はここに来る前に、相当な経験値を振り込んでいたはずなのだが……なんやかんやソフィアはエミリアの分身だけあって、成長が早かったのだろうか?

 

 まあ、今はそんなことを気にしている場合ではないだろう。鳳は自分のステータス画面を開くと、二人の名前をアホみたいに連打し、

 

「これでどう? 流石に使えるようになっただろう?」

「これは……信じられない」「おお、ものすごい力が溢れてきます!」

「使えるようになったんだな? じゃあ、他の連中にも配るから、みんなで一斉にあいつに電撃をお見舞いしてくれないか? 皇帝陛下のお付きの二人もお願いします!」

 

 鳳が叫ぶやいなや、マッシュ中尉とフェザー中尉の二人は、自分たちのレベルがぐんぐんと勝手に上がり始め、驚愕の声を上げていた。戦場にいる他の神人たちにも同じ事が起こったらしく、あちこちでそんな叫びが起きている。

 

 鳳は思いつく限り全ての神人にありったけの経験値を割り振ると、それでもまだ大量に残っている共有経験値を見ないふりしてステータス画面をそっ閉じしつつ、

 

「あの魔王の弱点は電撃だ! MPの続く限り、ありったけの電撃を打ち込んでやれ! 大丈夫、みんなの力を合わせれば勝てる! 俺たちで勝利をもぎ取るんだ!」

 

 鳳の掛け声に応えて、神人たちは鬨の声を上げると、すかさず魔王に向けて電撃の嵐をお見舞いした。無数の電撃が空中を飛び交い、空が紫がかってオゾン臭のような臭いが漂ってくる。

 

 突然、無数の電撃を食らった水竜は、やはりそれが弱点であったらしく、空中で硬直するとそのまま浮力を失くして地面に落下した。魔王は地面でのたうち回り、なんとか空へ逃げようとするが、そうはさせじと電撃の雨あられが襲う。

 

 やがて電撃を受け続けた魔王の体は帯電し、灼熱して真っ赤な放射を放ちはじめた。それが自己回復の光なのかそうじゃないのか、いまいち判別はつかなかったが、少なくとも分かっているのは、今のそいつは身動きが取れないということだった。

 

 鳳は今が最大のチャンスとばかりに自分のステータスをINT特化に振り直し、最強の一撃をお見舞いしてやろうと杖を振りかぶった。しかし、その時、彼は自分のMPが最大でないことに気がついた。

 

 ケーリュケイオンの残りMPはもうない。このままでも相当な威力が出るだろうが……最善を尽くさずして負けてはもう言い訳も効かないのだ。今すぐみんなからMPを徴収したいところだが、そんなことを説明している間に奴が復活してしまったらまずい……

 

 何でこんな大事な場面でツメが甘いんだ! 鳳が顔面蒼白になり、右往左往している時だった。

 

「黎明の炎。赤より朱い暁の炎。全ての生命の源にして、この世を焼き尽くす紅蓮の炎。今、東の空より来たる我は金色。万象を司る神よ。全知全能のあなたの慈悲にすがり、今日も一日を始め、そして終えよう。深淵より来たれ、最古の炎。答えよ。我が名は明けの明星(ポースポロス)!」

 

 鳳の前にスッと飛び出たカナンが、真の名を告げた時、それは本当に深淵よりやってきた。突然、帯電して動けなくなっている魔王の下の地面が円形に明るく輝いたと思ったら、次の瞬間、まばゆい光を放ちながら地面から炎の柱が吹き出した。

 

 それは一瞬にして天高くまで上昇し、まるで太陽の光のように、暮れかけていた戦場を煌々と照らした。それは太陽の白熱光よりも白く青く、近づくものを何もかも溶かしてしまうエネルギーの塊だった。

 

 天井を焦がす炎の柱が上がるやいなや、その周りにいた敵も味方も全てが吹き飛び、ゴオゴオと音を立てて地面が揺れた。鳳が杖の魔力で爆風を防ぎながら、目を細めて光の中を見続けていると、やがてその炎はスイッチを捻るかのようにスッと消え失せた。

 

 地面は真円に真っ黒に焼け焦げており、その上には焼きすぎて炭化してしまった鰻のようなオブジェが残されていた。表面からは真っ白い灰がふわふわと吹き上がり、あちこちから黒い破片がパラパラと崩れ落ちている。先程の炎の影響で強い風が吹くと、そのオブジェはズシンと音を立てて倒れてしまった。

 

 魔王レヴィアタンの成れの果てだ……

 

 今度こそ勝った!

 

 誰もがそう思っていた……

 

 ところが、そんな真っ黒に炭化したオブジェが、その時、突然ぼんやりとした白い光を発し始めた。それは魔王の自動回復で起こった光に似ていた。

 

「馬鹿な!」

 

 自分の攻撃呪文を受けてなお生きようとしている魔王を前にして、それを信じられないカナンが驚愕に目を見開いて叫び声を上げる。遠くまで飛ばされた神人部隊は地面に這いつくばって呆然とそれを眺めている。

 

 敵も味方も動けなくて、あれだけうるさかった戦場には風の音だけが響いていた。真っ黒なオブジェから発する光が強くなってくると、その表面がパラパラと落ちて、中から再生した皮膚のようなものが覗いていた。

 

 誰もが駄目だと思った。ここまでやって死なない魔王を、どうやって殺せばいい? 鳳も空を飛びながら、次の手が思い浮かばなくてぼんやりとしていた。

 

 だが、そんな中でもまだ諦めない者が一人だけいた。誰一人として動けない、そんな中で、金髪をたなびかせ、鈍く光る刀身の細剣を構えた神人の女性が、猛然と魔王に向かって突撃していく。

 

「紫電一閃ーーッ!」

 

 ジャンヌはいいところが全く無かった今回の戦闘に嫌気が差して、最後くらい絶対に自分が決めてやろうと奮起していた。普通ならば、その驚異的な生命力を前にしたら、誰もが絶望して逃げ出すことを考えるだろうに……実はニートをしながらずっとVRMMOをやっていた彼女からしてみれば、こんな状況は慣れっこだったのだ。

 

 魔王が発狂モードになって力を増す? 倒したと思ったら復活した? そんなの当たり前だ、魔王なんだから。これくらいのことをやってくれなきゃ、ラスボスとして存在する価値はない。

 

 鳳を見ろ、普通に考えたら弱そうじゃないか。あの体のどこにあれだけの力を秘めているというのか。魔王だってそれと同じだ。油断したら簡単にやられてしまうだろう。最後まで諦めたら駄目なんだ。

 

「千切りっ! 短冊切りっ!! 流し斬りィ!!!」

 

 彼女は魔王の皮膚が再生する度、まるでモグラ叩きみたいにそこを狙って攻撃を続けた。魔王の再生速度と自分の攻撃速度と、どっちが早いかというつもりだった。

 

「スパイクロッドッ!!」

 

 だが、その時、そんな彼女の姿に勇気づけられ、我を取り戻した鳳が飛び込んできた。彼はまだ真っ黒に炭化している魔王の頭に狙いを定めると、手にした杖を思いっきり振り下ろしながら叫んだ。

 

「ジャンヌ! 頭だ! 頭を潰せ!!」

 

 ほぼすべての動物はその体を制御する機能を脳に持っている。これも元は地球の生物、それも人間であったのなら、その構造は殆ど変わってないのではないか。ならば、あの自己回復を司る機能も、こいつの脳のどこかにあるはずだ。

 

 どうせ、こんな幻想動物みたいなデカブツの急所がどこにあるのかなんてわからないのだから、やるとしたら頭をやるしかない。その方がわかりやすい。シンプルだ。

 

 だから二人は餅つきみたいに、交互にそいつの頭をぶっ叩きまくった。

 

「二段切り!」「唐竹割り!」「ダンシングソード!」「ブレインクラッシュ!」

 

 ドカドカと頭を叩く度に、脳髄や血液やその他諸々の液体が飛び散って、二人はあっという間にドロドロになってしまった。それは傍目にもどうしようもなく野蛮で、汚くて、とても勇者と呼ばれる者たちがやるようなことではなかった。

 

 と言うか、やっている当の本人たちだってゴメンだった。だが、ある意味とても人間らしいと言えた。人間というのは太古の昔から、道具を作り、他の動物をぶっ叩いて、そしてこの世のあらゆる生物の頂点に上り詰めたのだ。

 

 万物の霊長とは、ただ棍棒を振り下ろすものだと知れ。そんな思いを込めて、ジャンヌは渾身の力を振り絞って剣を叩きつけた。

 

「快刀乱麻っっ!!」

 

 ガッキンッ!! っと、まるで鉄の棒が真っ二つに割れるようなそんな音がしたと思ったら、魔王の眼窩の骨が砕けて、ジャンヌはそのまま目ン玉の中に落っこちてしまった。ゼリー状の何か気持ち悪いものに包まれながら、どうにかこうにかそこから這い上がろうとして滅茶苦茶に泳いでいたら、何かがブチッと切れて急に泳ぎやすくなった。

 

 杖を眼窩に突っ込んで、鳳が芋掘りみたいに彼女を引っこ抜いた。引き上げられたジャンヌは何かもう色々な液体に塗れて、わけの分からない状態になりつつも、彼らはまだ諦めずに武器を取ると、またそれを振り下ろそうとして……それに気づいた。

 

 見ればさっきまでしつこく発光し続けていた水竜の体が、今はピクリとも動かず静まり返っている。

 

 ハアハアと息を荒げながら顔を上げたら、戦場に散らばっていた無数の水棲魔族が、まるで最初からそこには何も居なかったかのように、全てが幻想のようにかき消えていくところだった。

 

 不思議な光の礫を撒き散らしながら、次々と魔族が消えていく。戦場をぐるりと見回せば、残っているのは勇者が踏みにじっている魔王の死骸と人間だけだった。

 

「やったか……?」

 

 肩で息をしながら、鳳が呆然と呟く。ジャンヌもハアハアと言いながら、無言で拳を差し出してきた。鳳がそんなジャンヌの拳にグータッチで返すと、

 

「ぃよっしゃああああァァァァァーーーーーーーーっっ!!!」

 

 ジャンヌは鳳の背中をバチンと叩いて、まるで昔のゴリラに戻ってしまったかのような、汚い雄叫びをあげた。甲高い声が静まり返った戦場に響き渡って、まるでオペラの一シーンのようだった。

 

 その叫びに呼応して、誰かが歓喜の声を上げると、それはどんどん周囲に浸透していって、戦場を埋め尽くす喚声に変わっていった。間もなく、人々が大挙して押し寄せてきて、地面がドドドっと振動し始めた。

 

 魔王の体液でぐちゃぐちゃになっていた鳳とジャンヌの二人は、駆けつけた兵士たちに揉みくちゃにされて、今度こそ本当にくたびれた雑巾みたいになってしまった。だが、そんな英雄に対するものとも思えない雑な扱いのなんと嬉しいことだろうか。

 

「ダーリンっ!」

 

 二人が兵士たちに混じって馬鹿みたいに雄叫びを上げていると、そんな兵士たちをかき分けてクレアが飛びついてきて、彼女は鳳の首に腕を絡めてしがみつくと、そのまま滅茶苦茶にキスをした。

 

 歯と歯がぶつかり合うような激しいキスを何度も見せつけられて、兵士たちからヒューヒューという冷やかしの声が上がる。

 

 ヘルメス卿になるための芝居でしかないと言われていたクレアの想いは、今本物の英雄とその妻の物となった。

 

 誰もが祝福の声をあげ、場はその姿をひと目見ようと言う兵士たちで騒然となった。

 

 ジャンヌは少し寂しそうな目をしながら、それを遠巻きに見ていた。それは嫉妬とかそう言う気持ちではなくて、彼の隣にいるのが自分ではないことに、今はこれっぽっちも悔しく思っていないことに対する複雑な心境の現れだった。

 

「ジャンヌ……無事か!」

 

 彼女がそんなことを考えていると、包帯でミイラみたいになったサムソンが足を引きずりながら寄ってきた。全身傷だらけで、普通なら立っていることさえ出来ないはずだ。ジャンヌは慌てて彼に肩を貸すと、

 

「あんたも相当タフね」

「お前ほどじゃないぞ。本当はすぐに駆けつけたかったのに、お陰で出遅れてしまった。お前も勇者も、諦めないで戦う姿は感動的だった。あの時、隣にいるのが俺じゃなくて本当に残念だったぞ」

「……そうね。ああいう泥臭いのは、白ちゃんみたいな本物の勇者よりも、私たちのほうがお似合いよね。次があったら抜け目なく駆けつけてちょうだい」

「次があったら困るだろう」

 

 二人はお互いに見つめ合うと、ハハハと楽しげに笑った。

 

 誰もがそんな感じに祝福ムードだった。戦闘はもう終わり、自分たちは勝利したのだと確信していた。無事な者が傷ついた者に肩を貸して、みんな輪になって歌を歌い、あちこちでけが人の治療も始まって、誰かがこっそり忍ばせていた酒を片手に勝利の祝宴をあげる者まで現れた。

 

 これで何もかも終わりだ。この国を二分していたロバートもいなくなり、彼に付き従っていた庶民たちも、今やクレアを本物の主と認めていた。あとはこのままフェニックスに凱旋して、魔王の討伐と、新たな女王の誕生と、そして我々の戴くべきその女王の結婚をみんなで祝福するのだ。

 

 そんな弛緩した雰囲気に、誰もが緊張を失くしていた時だった。

 

「ちょっと待て! まだ終わってないんだよ!」

 

 騒ぎの中心で人々に揉みくちゃにされ、うっとりと彼のことを見つめているクレアをお姫様抱っこしながら、鳳が何かを叫んでいた。しかし周りの兵士たちは既に終戦ムードで、彼の言ってることを殆ど聞いちゃいなかった。

 

 ジャンヌはそんな彼のどこか緊迫した声に少し不安になって、それがちゃんと聞こえる場所まで近寄ろうとした。彼女が肩を貸しているサムソンがうめき声を上げ、人々をかき分けることに苦労していると……

 

 その時、彼女は何か地面から強い振動が伝わってくるのを感じた。

 

 これだけ大勢の人々が集まっているのだから、そんな振動は絶えず聞こえてくるのだが、それは何だ今までとは重量が違うような気がした。おかしいと思った彼女が立ち止まり、耳をそばだてていると、兵士たちの喚声に混じって、別の何かの音が聞こえてくる。

 

 ドドド……ドドド……と、音は段々近づいてきている。その音に、レヴィアタンのタイダルウェイブを思い出したジャンヌは、まさかと思って兵士たちに足蹴にされている魔王の死体を振り返ったが、それは息を吹き返したわけでもなく、そこには巨大な屍を晒しているだけだった。

 

 それじゃ、あの音は何なんだろう……? とにかく、ここにいたらマズい気がする。彼女がそう思って、いま来た道を引き返そうとした時だった。

 

「みんな話を聞いてくれ! 戦闘は終わってない。魔王はもう一体いるんだよ!」

 

 鳳の叫び声が耳に届いた瞬間、彼女は青ざめた。あれだけの死闘を繰り広げて、ようやく勝利したというのに、それが未だ終わっていないというのか? 魔王がもう一体居るだって? ……それじゃ、さっきから聞こえてくるこの音は?

 

 ドンッ! ドンッ! ドンッ! っと、遠くの高台から艦砲射撃のような衝撃音が轟いて、水平射撃された弾丸が空気を切り裂きながら飛んでいった。ギヨームの巨銃から撃ち出された弾丸が水平線の向こうに着弾すると、爆発音がして何かが吹き飛んだ。

 

 それが何本かの大木であることが判明した時、戦場にいる兵士たちはみんな、信じられない光景を目の当たりにしていた。

 

 南の方からものすごい土煙を上げて、山がこちら目掛けて移動してくるのだ。山というより小高い丘くらいの規模ではあったが、全体がびっしりと木々に覆われていて、その山が動く度にユサユサと揺れた葉っぱが舞い散っていく。

 

 だが、動く山など古今東西見たことも聞いたこともない。何事かと唖然とジャンヌが見守っていると、続けざまに撃ち出されたギヨームの弾丸が次々と命中し、山の表面で爆発したと思ったら、表面の土砂が弾けて、中から巨大な目がギロリとこちらを覗いていた。

 

 それは山ではなく、巨大な生物だった。巨大な生物が森の木々を巻き上げながら突き進み、それを背中に乗っけたまま、こっちに向かって信じられない速度で走ってきているのだ。

 

 ベヒモス……

 

 その山から覗く鋭い目つきと、カバみたいに大きな口と無数の牙。そしてその巨体を見た時、ジャンヌは自然とその言葉を思い出した。帝都の神の揺り籠で見つけた二体の魔王のデータのうち、もう片方も出現していたのだ!

 

 ドドドドドドドドドッッ!!

 

 音はいよいよ大きくなり、地面の振動が激しくなった。人々は逃げ出そうとしたが、それがあまりにも巨大すぎて、どっちへ逃げていいのか分からなかった。硬直する人々が呆然と見守る中、それはどんどん近づいてくる。

 

 鳳がクレアを抱えたまま宙に逃げると、それを見た人々も我先に慌てて逃げ出そうとし始めた。あちこちで将棋倒しが起こり、逃げ惑う人々で戦場はまた大混乱に陥った。

 

「ディスインテグレーション!!」

 

 鳳は少しでも多くの人々を救おうとして、今撃てるありったけの力で魔法をお見舞いしてやった。だが、その山は少し速度を落としただけで、まったく止まる気配は無かった。

 

 地上はいよいよ大地震のように揺れ、人々は立っているのがやっとという有様だった。逃げることを諦めた人々が目をつぶって地面に伏せる中に、そしてそれは猛然と突っ込んできた。

 

 体高30メートル、体長は60メートル以上……重さにしたら何千トンあるのか想像もつかない、例えるなら移動要塞のような怪物が、粉挽きのように人々をすり潰しながら戦場を駆け抜けていく。

 

 その巨体の立てる足音に勝るとも劣らない悲鳴が轟き、戦場はあっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。神人も人間も、将校も一般兵も関係なく、この巨大質量を前に、誰もが等しく無力であった。

 

「あああああぁぁーーーっっ!! ちくしょう! ちくしょう!! 足をやられた!! あの野郎……ぶっ殺してやるっ!!!」

 

 地上でヴァルトシュタインが憎悪の叫びをあげている。すぐ近くにはテリーも居るが反応が無い。二人は共に大怪我を負ってしまったようだ。咄嗟にクレアだけは助けられたが、彼らのことを置き去りにしてしまった。

 

 このままでは彼らも奴の餌食になってしまう。何しろ、あの怪物は、自分の体を維持するために、人々を喰らい続けるようなやつなのだ。

 

 鳳は慌てて彼らを助けようと急降下した。クレアが必死にしがみついてくる。うめき声を上げる人々の中に降り立つと、藁をも縋るような目で助けを求める兵士たちが駆け寄ってきた。

 

 戦場は広範囲に渡って広がっており、とても全域をカバーすることは出来ない。だが、やるしかない。鳳はすぐにニューアムステルダムのときのように、ポータル魔法で彼らを避難させようとしたが……すぐにその必要がないことに気がついた。

 

 戦場に飛び込んできた魔王は猛烈な勢いで人々を轢き殺した後、少し行き過ぎて荒野のど真ん中で止まった。急停止の反動で、表面を覆っていた土砂と木々がザザザっと崩れ落ち、中から泥だらけのカバが現れる。そしてそいつは方向転換すると、またこちら目掛けてドスドスと駆け寄ってきた。

 

 ところが、そんな魔王から逃げようとして悲鳴を上げている大軍には目もくれず、魔王はそのままドスドスと鳳の方に近づいてきたかと思ったら、身構える彼のことも無視して、そのすぐ近くに横たわっていたもう一体の魔王レヴィアタンの死骸に食いついた。

 

 ガツガツ、バキバキ、ミシミシと、気持ちの悪い咀嚼音が轟いている。どうやら、怪物は地上を蠢く蟻のような人間には見向きもせずに、もっと美味しそうなご馳走に食いついたようだった。

 

 しかし、ベヒモスより小さいとは言っても、レヴィアタンの体長も30メートルは越えている。これを食らいつくすには相当時間がかかるだろう。その隙にポータルで人々を逃し、戦える者たちで体勢を整えねば……

 

 鳳がそう判断し、すぐさまルーシーを探そうとして飛び立とうとした時だった。

 

 彼はなんとなく、嫌な予感がして、すぐ近くで水竜の死骸を食べている、もう一体の魔王を仰ぎ見た。

 

 魔王二体が合流することを恐れて、急いでその片方を始末した。果たして、こちらの望み通りに、水竜は勇者の力によって退治され、もう、二体の魔王から同時攻撃される心配はなくなった。

 

 だが、本当にそれで良かったのか?

 

 魔族、そして魔王というのは元々は人間だったという。怒りの化身と化した人間が肉体を変質させ、他者を殺し、喰らい、女を犯す怪物になった。そう、魔族は人間だけではなく、同族同士でも殺し合い、女を犯して自分の分身を作り出し……そして食うことによってDNAを取り込み、形質を変化させるのだ。

 

 じゃあ、その魔王が、また別の魔王を食べたら?

 

 鳳は自分の血の気が急激に失せていくのを感じた。こいつの目的は最初から共闘なんかじゃなくて、この世界に現れたもう一体を食うことだったのだ!

 

 ドンッ! ……っと、物凄い衝撃音が轟き、突然、水竜を食らっている巨大カバの周囲に、青白い炎のようなオーラが立ち込めた。その衝撃によって、周辺に居たもの全てが吹き飛び、戦場のあちらこちらに散っていった。

 

 鳳はそいつの放つ衝撃波から身を守りながら、その体が変化していくのを見ていた。周囲に立ち込めるオーラが、どんどんどんどん密度を増していき、やがてそれは細長く巨大な繭のような形になった。

 

 それが発するエネルギーが、戦場を陽炎のように揺らしている。今目の前に、きっと手のつけられないような何かが生まれようとしているというのに、人類はそれを見守るだけで、何も出来なかった。

 



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幻想崩壊

 ドンッ!

 

 ……衝撃波が走って、人々が円状にバラバラと吹き飛んでいった。砂煙が舞い上がり、ゆらゆらと陽炎のように空気が揺れた。中心には青白いオーラを発する巨大な繭が鎮座しており、それが何かを生み出そうとしているのを、人々はただ呆然と見守ることしか出来なかった。

 

 発光は徐々に強くなっていき、それの発する強烈な放射に目が焼かれそうになった。慌ててカナンがプロテクションをかけ人々を守り、鳳が土壁を築いて強い光を遮断した。思えば、敵が動けない今がチャンスだと言うのに、攻撃したくても太陽を直視しているようなそいつを前に、どうやって近づけばいいのか分からなかった。

 

 するとそいつの周囲に突然、1万丁を数える巨大な銃が次々現れたかと思うと、一斉に戦車をも撃ち抜く弾丸を発射した。ドドン! っとまた衝撃波が走って、鼓膜をビリビリと震わせる。

 

 こんな派手な技は他にはない、迷宮の中で一度見たことのあるギヨームの必殺技だろう。だが、そんな彼の必殺技を受けても繭はびくともせず、中からは何かがドクンドクンと脈打つ音が鳴り響いていた。物理が駄目なら魔法はどうかと言わんばかりに、今度は神人たちが古代呪文をお見舞いする。その強烈な熱に対抗するため、ブリザードをかけたが、文字通り焼け石に水だった。

 

 と、その時、パキッと何かが割れるような音がして、巨大な繭に亀裂が走った。それは大量の冷気に当てられてというわけじゃない。繭から成虫が産まれる時、もしくは、卵から雛が孵るときには何が起きるかということだ。鳥は空に羽ばたくために、まずは自分の殻を破るのだ。

 

 パキパキと音がする度、亀裂の数が増えていった。それが天辺に集中してくると、やがてそこにぽっかり大きな穴が空き、中から強烈な光の柱が吹き出した。

 

 青白い炎が天空に届いて空を焼き雲を吹き飛ばす。物凄い熱と光で目を開けていることすら出来ず、人々はまるで王に傅くように頭を下げて地に伏した。

 

 そしてその中心、繭の中から、何者かが飛び出してくる……それはバサッバサッと羽音を立てながらじわりじわりと空中に上がっていくと、上空数百メートルの高さで大きな翼を広げながら、まるで自分の誕生を祝うかのように身の毛もよだつ恐ろしい咆哮を天高く轟かせた。

 

 ゴオオオーッ! ゴオオオーッ! っと、いくつもの火山が同時に爆発するような音が、戦場となった荒野いっぱいに轟き、そこにいる者たち全ての体をビリビリと震わせた。ようやく収まってきた光に怯えながら空を見上げれば、そこには信じられないくらい巨大な竜が、大きな翼を広げて宙に浮かんでいた。

 

 その体は全身真っ黒な鱗に覆われ、下半身にかけてでっぷりと太ったあんこう型をしており、頭にはワニみたいな爬虫類の顔が乗っていて、口はカバだった頃と同じくらい大きく、巨大な4本の牙が上下に突き出していた。筋肉質な両腕は人間のように長くいかにも器用そうで、それでいてその先端には何もかもを切り裂く鋭い爪が伸びていた。

 

 水竜とは違ってその背中には不釣り合いなほど大きな翼が生えていて、それがバサバサと羽ばたく度に、その巨体が上下に揺れ動いたが、はっきり言ってそんなものであの巨体が宙に浮くはずがないから、おそらくは見掛け倒しのファンタジーなのは間違いなかった。

 

 レヴィアタンが東洋の竜なら、今目の前にいるそいつの姿は西洋のドラゴンを思わせるものだった。と言うか、ジャンヌはそれを見た瞬間に頭の中にその名が過ぎった。バハムート……終末に現れるという二匹の怪物の一つ、ベヒモスとも呼ばれている。そのベヒモスが、レヴィアタンを喰らって進化したのだ。

 

 未だ青白い炎を纏ったその巨体が、上空を羽ばたきながら地上を這いつくばる人間どもを睥睨している。それはまるでレヴィアタンだったころの記憶をも継承していたかのように、苛立たしそうに咆哮を上げると、その巨大な口から青白い光線のようなブレスを地上目掛けて吐き出した。

 

 それが地面に触れた瞬間、一瞬にして地面は灼熱して溶け、爆散した。連続して吹き出されるブレスの嵐に、あっという間に地上は溶岩の海に覆われ、死にたくないと泣き叫びながら人々が逃げ惑い始めた。

 

 カナンが駆けつけプロテクションの魔法で人々を守ろうとするが、それはブレスを止めることは出来ずに拡散するだけで、かえって被害が増えてしまう有様だった。

 

 鳳が急いでケーリュケイオンに取り込んだ土砂で土塁を作るも、それすらドラゴンは安々と溶岩に変えてしまった。

 

 地上はドロドロに溶けた溶岩のせいで灼熱地獄と化していた。人々が熱に喘いで悲鳴を上げている。杖に取り込んだ大量の水で冷やそうとすれば、それは水蒸気爆発を起こすだろう……どうすればいいんだ。鳳は判断に窮した。

 

魔弾の射手(フェイルノート)!」「神弓(シェキナー)!」

 

 と、その時、彼の迷いを吹っ切るかのように、喧嘩っ早い二人が先制攻撃とばかりに必殺技をお見舞いしていた。考えていても埒が明かない。殺られる前に殺っちまえの精神だ。二人の技が同時に突き刺さり、さしもの魔王も悲鳴を上げる……

 

 だが、それだけだった。そいつは無数の対物ライフルによる射撃を受けても、体の中から攻撃を受けても、まるでダメージを負った素振りは見せずに、全身が薄っすらと光ったと思ったら、その傷をすぐに修復してしまった。

 

 それはさっきの水竜に散々苦しめられた自己回復能力だった。ニューアムステルダムのあのカバが……鳳の最大の力で撃ち出された崩壊魔法でも倒れなかった化け物が、今度は自己回復能力まで手に入れてしまったのだ!

 

 ドラゴンは自分を攻撃してきた生意気な人間を見つけると、空中を物凄い速さで旋回し、遠くの高台から銃を撃ち続けているギヨームに向かってまっすぐ飛びかかってきた。迎え撃つ彼は逃げることもせず、真正面から対物ライフルの射撃を続けているが、そんなものでは魔王の皮膚には傷一つつけることは出来なかった。巨大な口が開いて、喉奥から青白いブレスが吹き出してくる……

 

 しかし、それがギヨームに届く前に、横から飛び込んできたアスタルテが彼をピックアップしていった。彼女の背中にはいつの間にか白と黒の斑模様の羽が生えており、彼女もまた堕天使であることを思わせた。

 

 そして、そんな彼女らを追いかけようとしたドラゴンの死角から、もう一人の天使が現れ、アッパーカットの要領でその腹を思いっきり撃ち抜いた。ドッパーン! っと大岩に波が砕けるような強烈な音が戦場に鳴り響いて、ドラゴンの腹から頭にかけて衝撃が伝わり、その体がぶるんと震えていた。

 

 内蔵を震わせるような攻撃を喰らって、魔王はその口からブレスの代わりに体液を吐き出した。それが地上にバシャバシャと土砂降りのように降り注ぐと、信じられない悪臭が辺り一面に漂った。

 

 魔王は、小鳥みたいな小さな人間に傷つけられたことに大いにプライドを傷つけられたらしく、雄叫びをあげると今度はベル神父に狙いを定めて襲いかかった。神父は鳶みたいに翼を広げて空中を旋回すると、小回りを効かせてドラゴンの周りを飛び回る。

 

 神父がまとわり付くように飛び回り、ドラゴンは鬱陶しいハエを追い払うように、滅茶苦茶に手を振り回している。神父はそいつの攻撃をスイスイ避けながら、的確に相手の関節を狙って攻撃を仕掛けていた。その動きは熟達していて、彼が空中戦をも得意にしていることを窺わせた。

 

 しかし、相手が悪かった。何しろ、相手はファンタジー生物なのだ。神父が翼の揚力を利用して飛んでいるのに対し、向こうはよく分からない力で浮いているのだ。間もなく、魔王はちょろちょろと逃げ回る神父に対応し、その動きを予測し始めた。

 

 こうなると、空中で自由が効かないのは、寧ろ小回りの利くはずの神父の方だった。善戦及ばず、ついにドラゴンの腕が神父の体を引き裂き、彼は物凄い勢いで地面に撃墜された。

 

 ドンッ! っと地響きがして、砂煙がモワモワと上空へと舞い上がった。ドラゴンが落ちた小鳥に止めを刺してやろうと飛び込んでくる。ズシンっ! っと本当に地面が揺れて、大量の土砂がまるで噴火のように巻き上がった。その時、神父がその土煙の中から辛うじて飛び出してきて、お返しとばかりに気弾を打ち込んだ。

 

 ドンッ! ドンッ! ドンッ! っと、大砲のような音が連発されて、黒い鱗が弾け飛んだ。それが竜の逆鱗に触れてしまったとでもいうのだろうか、ドラゴンはまた狂ったような咆哮を上げると、空中を飛び回る神父を狙ってブレスを撒き散らした。炎がまるで火炎放射器のように拡散されていく。

 

 ジャンヌとマニはそんな一進一退の攻防を、地上から歯ぎしりをしながら見上げているしか無かった。近接戦闘を得意とする彼らには自らの力で飛ぶ手段がなく、この非常時にやれることは何一つ無かった。もしもあれが地を這う獣であったなら、自分たちにも何か出来ただろうに……肝心な時に役に立たないなんて!

 

 しかし、そう思っていたのは彼らだけではなかった。ヘルメスの一般兵士たちなんて、最初から物の数ではなかったのだ。彼らはただ魔王と戦う勇者たちの露払いくらいしか出来ることがなく、取り巻きの居なくなった今ではそれすら叶わなかった。

 

 ヴァルトシュタインもテリーも怪我をして、今は衛生兵に手当てをされていた。兵士たちの不安を鼓舞することも出来ず、指揮官である自分たちが足を引っ張っているのだ。彼らは余りの悔しさに身が引きちぎれそうな思いだった。

 

「MPをくれ! MPだ! ヴァルトシュタイン! テリーも! いつまでも寝てないで、あんたらも兵士たちに命じてくれないかっ!!」

 

 と、そんな時だった。ベル神父による肉弾戦、ギヨームとアスタルテによる援護射撃、時折放たれるカナンの獄炎魔法の中で、自分たちの勇者だけが目立たず、彼はどこにいったのかと思っていたら……その勇者が物凄い勢いで野戦病院と化している群衆の中に飛び込んできて、なんだかわけのわからないことを喚き散らした。

 

「鳳っ!? 突然、なんだってんだ、一体??」

 

 地面に横たわっていたヴァルトシュタインが面食らっていると、鳳はお姫様抱っこしていたクレアを地面に下ろしながら、

 

「さっきの戦闘で、俺もスカーサハ先生もMPを使い果たしちまったんだ。あれと戦うには圧倒的にMP不足なんだよ! もうポーションで回復しているような余裕もないから、あんたらのMPを俺に分けてくれないか!?」

「分けろって言われても……」

「とにかく、手を翳してくれればそれでいいんだ。みんな、クレアの話を聞いてくれ!! クレア、さっき言った通りお願い!」

「あ、は、はいっ!!」

 

 突然の魔王の襲撃と、いきなり鳳に抱えられて空を飛んだ衝撃から、半ば放心状態だったクレアが、ハッと我に返りながら思いっきり叫んだ。

 

「みんな聞きなさい! 悔しいけれど、私たちがあの怪物にやれることは何もないわ。せめて、勇者様たちの邪魔にならないように、ここから逃げるくらいのことしか出来ないでしょう。でもヘルメス卿は、そんな私たちにもまだ出来ることがあるというの。今は騙されたと思って、みんな手を天に翳しなさい。そうすれば、あなた達が持つ力を、ヘルメス卿が代わりに使ってくださるわ」

 

 クレアのキンキンと良く通る女声が戦場に響いた。鳳が叫ぶより、よほど広範囲に伝えられるから頼んだつもりだったが、この戦場を逃げずに戦い抜いた彼女のことを、よほど兵士たちは信頼していたようだった。普通なら少しは疑いそうなものを、鳳が杖を掲げるや否や、間髪入れずにあちらこちらからMPが杖に供給されてきた。

 

 手を天に翳した兵士たちの体が薄ぼんやりと光り、何かが鳳の持つ杖に吸収する様を見て、半信半疑だった他の兵士たちも恐る恐る手を挙げる。そんな兵士たちの姿を見て、また別の兵士が続き……次々と手を掲げる兵士たちの光が、水面を打つ波のように伝わっていった。

 

 ヴァルトシュタインもテリーもその光景を目の当たりにするや、すぐに伝令を走らせて戦場にいる全ての兵士に連絡を送ってくれた。クレアの言葉が、兵士たちからそのまた遠くの兵士たちまで伝わっていき、気がつけば戦場にはまるで光の絨毯が広がっていくような、そんな幻想的な光景が繰り広げられていた。

 

 だからそれはもちろん、上空を飛び回る魔王にも見えていた。バハムートは五月蝿い小バエのようなベル神父を追いかけながら、いつの間にか地面に広がっていた不思議な光というか、エネルギーの奔流に気がついて、恐らく直感的に危険を感じ取ったのだろう。魔王は神父を追いかける手を止めて突然、地上に広がるその光の絨毯目掛けてブレスを放ってきた。

 

 ヤバい! 誰もがそう思った、だがその時だった……突然、彼らが立っていた地面が光り輝いたと思ったら、兵士たちの視界が急に暗転し、次の瞬間には彼らは戦場とは全く別の場所にワープしてしまっていたのだ。彼らが目をパチクリしながら周囲を見回してみれば、そこは遥か西方にあるはずフェニックスの街のすぐ目と鼻の先だった。

 

 一体何が起きたのか? 戦場にはまばゆい光が溢れて、まるで光の洪水だった。ドラゴンのブレス、鳳の吸い込むMPの光……そして兵士たちを包んだその光はタウンポータルの光だった。

 

 それは信じられないほど大きなポータルだった。直径数キロメートルにも及ぶであろう戦場を覆い尽くすほどの巨大ポータルだ。驚いた天使たちが鳳のことを唖然と見つめている。

 

 だが、自分自身のことだからこそ、鳳はそれは自分が作ったポータルじゃないことが分かっていた。彼が慌ててルーシーの姿を探すと、彼女は戦場から少し離れた場所で、全身から血を吹き出して倒れていた。

 

 恐らく、カウモーダキーを無茶苦茶に使ってしまった代償だ。鳳が慌てて彼女の方へと飛んでいこうとすると、それを遮るようにスカーサハが飛び出し、

 

「勇者! ルーシーのことは私に任せてください。もはや私に戦う余力はありませんが、現代魔法で彼女をなんとか隠し仰せてみせましょう」

 

 そんな彼女を追いかけて、ジャンヌとマニが駆けていく。彼女らは自分たちの役割が戦うことではなく、ルーシーを守ることだと決めたようだ。だからお前はさっさとあいつをやっつけろと、その背中が言っているようだった。

 

 ポータルからは未だ光が溢れていて、鳳にMPを供給し続けていた。それはもはや戦場にいた兵士たちの分では説明がつかないくらい膨れ上がっていた。恐らく、ポータルで運ばれた先で、クレア達が街の人たちにも助力を求めてくれたのだろう。ステータスみたいにはっきりした数値は見えないが、もしそれがフェニックスなら、数万どころか数十万のMPが供給される計算となる。

 

 これだけあったら、流石に勝てる……彼はそう自分に言い聞かせて、また空へと舞い上がった。

 

 地上の人々を取り逃がしてしまった魔王は、その鬱憤を晴らすかのごとく、二人の天使を相手にドッグファイトを続けていた。カナンとベル神父が縦横無尽に飛び回り、ドラゴンがそれを撃ち落とそうとして、ブレスと爪を滅茶苦茶に繰り出している。

 

 ギヨームとアスタルテが援護射撃を繰り返していたが、多少嫌がるだけで、もはやドラゴンは避けようともしなくなっていた。ギヨームはもう連発が効かなくなっているらしく、必殺技は封印して、対物ライフルの射撃に切り替えている。

 

 鳳が戦線に復帰したことに気づいたらしきカナンが距離を取り、ベル神父が魔王の注意を惹いて、隙が出来たところですかさず明けの明星(ポールポロス)を打ち込んでいた。

 

 地獄の業火に焼かれたそれが一瞬動きを止めた……だが、少し光を放ったかと思うと、すぐにその体は修復を始めてしまった。流石のカナンも必殺技を連発することが出来ず、お手上げ状態だ。

 

「いい加減、死に晒せ、このっ……! ディスインテグレーション!!」

 

 続けざまに鳳が現在彼の持つ全ての力を込めて、崩壊魔法を打ち放つ。INT99、MP999を注がれたその極大魔法を前に、さしものドラゴンもぐらついた。だが、それだけだった。その熱は魔王の鱗を焼き尽くし炭化させ、一瞬、その動きを止めたが、すぐにまたドラゴンの体が光を放ったかと思うと、炭化した鱗がパラパラと落ちて、下からまた新しい表皮が出てきた。

 

 そして魔王は忌々しそうに鳳に向かってブレスを放ってきた。その数千度はあろうかという炎から必死に逃れながらも、鳳は何とかやつを仕留める方法は無いかと考え続けていた。

 

 思えば、口の中から数千度の炎を吐き出しているのだから、元々あれの火炎耐性は高いのだ。かと言って、ブリザードは地面設置型の範囲魔法で、MPを注いだからって、急に魔王が凍りつくわけじゃない。この辺一帯が一瞬にして氷点下まで下がるだけだ。

 

 もしかして、絶対零度まで下げたら反応があるかも知れないが……それならいっそ、宇宙空間に飛ばしてしまったらどうだろうか。だが、それが出来そうなルーシーは、さっきの大魔法で気を失っていた。それにこれ以上代償を支払ってしまったら、今度こそ彼女の命に関わるかも知れない。

 

 大体、どうやって空を飛んでるのか分からないような化け物を、宇宙空間に飛ばしたところで、案外普通に羽ばたいてここまで戻ってきてしまうのではなかろうか。さっきからしつこいくらい炎の魔法を受けてもへっちゃらなことからして、酸素がなくても生きていけそうだ。

 

 とっくに試していることだが電撃も駄目。もちろん、クラウド魔法も効くわけがない……搦め手は通じそうもない。やはり物理で殴るしか他に方法がないのでは……

 

 鳳は再度隙を窺って、INT99MP999の極大魔法をお見舞いした。しかし今度は一発で様子見なんてせずに、杖からMPを回復するなり、連続して魔法を撃ち続けた。

 

 もはや音とも呼べない衝撃が、幾度となく荒野に轟き渡った。その度に空気が振動し、地面が揺れて、草木が吹き飛び、惑星が破壊されていった。

 

 こうなってしまうと近づくことも出来ず、カナンとベル神父がその様子を呆然と眺めている。だが、そんな光と音の暴力にも、その魔王には決定打を浴びせることは出来なかった。確かに鳳の魔法は魔王に効いているのだが、彼が一発打ってはMPを回復している隙に、魔王の方も自己修復を始めてしまう……その速度が拮抗してしまっているのだ。

 

 いや、いつまで経っても相手が空から落ちないところを見ると、きっと相手の回復速度の方が早いのだろう。このままこれを続けていても、もしかするとどこかで相手が力尽きる可能性もあるかも知れないが、こっちのMPが尽きる方が早い可能性も否定できなかった。

 

 仮に杖の中に今MPが100万あったとしても、鳳が撃てる魔法の数はたったの1000回だ。それは多いように思えて案外少ない。少なくとも、終わりははっきりと見えている。今までに何十発魔法を撃ち続けただろうか……もしかするともう100を越えているかも知れない。

 

 本当にこの方法でいいのか……考えろ……考えろ……せめて、最大MPがもう少しだけあれば……魔法の威力がほんのちょっとでも上がってくれれば、奴の回復速度を上回れるのに……なにか方法はないのか……自分では物語の主人公みたいに限界を超えられないのか……!?

 

 と、その時、鳳の脳裏に天啓が過ぎった。

 

 物語の主人公といったら、もうとっくにそんなことをやっているではないか。鳳は人々から元気(MP)を分けてもらって、そいつを魔王にぶつけている。だが、なんでいちいち魔法に変換しているのだ?

 

 思えば、第5粒子(フィフスエレメント)とは高次元に溢れている未知のエネルギー(・・・・・)だ。神人は、そのエネルギーをそのまま扱うことが出来ないから、わざわざMPに変換してから、魔法としてそれを利用しているのだ。MPは元々エネルギーだったんだから、それをそのままぶつけてやれば良いじゃないか。

 

 鳳はもはや自分の分身とも呼べるようになった愛杖を見つめた。最初、これを手に入れた時、彼は等価交換の杖だと思っていた。杖に取り込んだ椅子を原料の木材に戻したり、また元通り椅子にしたりすることが出来たからだ。

 

 そう、材質が同じならば、いくらでも変換は可能なのだ。MPは元々ただのエネルギーの塊に過ぎない。

 

「始まりにして終わり。アルファにしてオメガ。死者は蘇り、生者には死の安らぎを与えん」

 

 ブーンと機械音のような音がして、杖の形状が変化した。その先端に絡みつく二匹の蛇から光の羽が生えて、キラキラと光の礫を撒き散らしながらそれは羽ばたいた。

 

 鳳の魔法が途切れたことに気づいたカナンがこちらを見ている。ベル神父が攻撃を再開すべきか知りたいのだろう。鳳はそんな天使に首を振ると、代わりに魔王に向かって杖を振り下ろし叫んだ。

 

「ケーリュケイオン! 全てのエネルギーをぶちこんでやれっ!!」

 

 その瞬間、杖の先端から、膨大な量の光が溢れ出した。むき出しのエネルギーは即ち熱であるから、一瞬にして周辺の土砂が溶け始めた。杖の先端から生えた二枚の羽がオーロラのように輝き、ヴァン・アレン帯のように鳳の体を覆った。彼は反動で後ろに吹っ飛びながら、その杖をただ魔王に向け続けることだけに専念した。

 

 回復を終えたばかりの魔王は、その直後に飛び込んできたエネルギーに撃ち抜かれ、腹にぽっかりと大きな穴が空いた。瞬間、断末魔のような叫びが上がったが、暴力はそれで終わらなかった。熱光線はそのまま魔王の体を覆い尽くし、あっという間にドロドロの液体に変えてしまった。

 

 それまで何をしても怯むことの無かった魔王の体が、真っ赤な火球となって空に浮かんでいた。それは徐々に浮力を失い、ゆっくりと地上に落ちていった。それが地上に触れた瞬間、あらゆる物が吹き飛んで、そこに巨大なクレーターが生まれた。

 

 クレーターの底からは灼熱の溶岩が吹き出しており、そこから火柱が何本も空へと昇っていった。魔王だった火球はその中心で強烈な光を発する七色の点になっていて、それに鳳の杖から発するエネルギーがいつまでもいつまでも注がれ続けていた。

 

 やがて、全てのエネルギーが火球に注がれた時、それは暫くの間、奇妙な光を放つただの点であり続けたが……雨上がりの土砂が予兆もなく崩れるように、直後、爆炎を吹き上げてそれは爆発した。

 

 まず衝撃波が襲い、続いて炎の嵐が吹き荒れた。爆発はクレーターの周囲10数キロメートルに渡って広がり、そこにある何もかもを飲み込んだ。地面はえぐれ、灼熱の溶岩と化し、あらゆる建造物が塵に消えた。森の木々は吹き飛び、何一つ残さなかった。天が焼かれ、朝のように輝き、もしもそれを宇宙から見るものがいたら、ダイヤモンドのリングのように見えただろう。

 

 鳳たちはそんな爆発の中を魔法の力で耐えながら、それが収束するのをひたすら待った。だが、それはいつまで経っても訪れることはなかった。何しろここは幻想の中なのだ。崩壊はこの時、始まってしまっていたのだ。

 



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良かった良かった

 荒野のあちらこちらから火柱が上がり天を焦がしていた。空はあっという間に黒煙に飲み込まれ星一つ見えなくなった。なのに昼間みたいに明るいのは、全部地上から吹き出す炎のせいだった。

 

 ぽっかりと口を開けたクレーターの中からはドロドロの溶岩が溢れ出し、荒野の至る所で地割れが起きて、地面がグラグラと揺れていた。生命は全て失われ、水もなく、砂と煙と灼熱だけがそこにはあった。

 

 どこからか風が吹き付けて、光の礫を撒き散らしていった。それがどんどん収束して、まるで光の帯のようになっていく。それが地面を突き抜けると、それの発する熱で地面が焼け焦げ、やがて溶け出した。強烈なエネルギーの固まりが、縦横無尽に空中を駆け回っている。

 

 鳳は杖を使って慌ててそれを吸い込んだ。こんな現象、今まで見たことがなかったが、多分それの正体は分かっていた。恐らく、これが第5粒子(フィフスエレメント)だ。直接、それを魔王にぶつけた影響か、普通なら熱を発して消滅するだけのエネルギーが、何故か今はこの空間に溢れ出してきているのだ。

 

 一難去ってまた一難、どうにかこうにか魔王を倒したというのに、何でこんな目に遭っているのか、鳳は天を仰いだ。

 

「一体どうなってんだ!? このエネルギーはどこから来ている!?」

 

 まるで空間の隙間からにじみ出てくるように溢れてくる第5粒子を吸い込み続けながら、鳳は焦りの言葉を叫んだ。カナンが飛んできて、溢れ出す第5粒子にぶつけるように、いくつもの光球をばら撒きながら、

 

「わかりません。しかし考えても無駄でしょう。多分、この世界の外側、高次元の方向からとしか言いようがありませんから」

「なんでこんなことに……」

「これはただの推測ですが、魔王を倒したあなたの攻撃によって特異点が発生し、レオナルドの迷宮そのものが壊れようとしているのかも知れません。回転するブラックホールが空間に穴を開け、そこから第5粒子が溢れてきているんです」

「そんな馬鹿な! ブラックホールなんて、この広い宇宙にいくらでも存在するでしょう!?」

「ここはレオナルドの迷宮の中なんです……今、300年かけてそれが終わろうとしていた通り、この世界は完全では無かったんですよ」

 

 カナンの飛ばす光球は、その空間のほころびを修復しているようだった。だが、その速度が全然追いついておらず、鳳の吸い込む速度のほうが早いくらいだった。このまま吸い込み続けていれば、今の状態は維持できるだろう。だが、ケーリュケイオンにだって限界があるかも知れない。

 

 このままではこの世界が崩壊するのが先か、ケーリュケイオンが壊れるのが先かのチキンレースになりかねない。何か他に方法は無いのか……しかし、世界の崩壊を食い止めるなんて、口で言うほど簡単ではないと、鳳たちが焦っている時だった。

 

 突然、ポロロンポロロンと竪琴を奏でるメロディが聞こえてきて、空間に溢れ出してきていた第5粒子が急減した。それは決してゼロではないが、明らかに先程より勢いが弱まっており、カナンの修復が間に合い始めた。

 

 鳳はどこぞのゴーストバスターみたいに忌々しいその光を吸い込みながら、音の出どころを振り返った。妹弟子を守りながら、MP回復に努めていたスカーサハが、ようやく立ち直って空を飛びながらオルフェウスの竪琴を奏でている。どうやらそのお陰で、第5粒子の奔流が止まっているようだ。

 

 彼女は竪琴を奏でながら近づいてくると、

 

「……話ではオルフェウスの竪琴は高次元からの攻撃を防ぐものだと言ってました。だからもしかしてと思って試してみたのですが、何とかなりましたね」

「ナイスです、先生!」

 

 鳳がほっとため息を吐いていると、スカーサハはそれを嗜めるように緊迫感を湛えた表情で続けた。

 

「ですが、結局これはただの時間稼ぎに過ぎません。相変わらず、地面は揺れ、火柱は立ち上り、世界の崩壊は続いています。早くこれをなんとかしなければ……」

「そうだ! この世界が爺さんの迷宮なら、爺さんに頼めばなんとかなるかも!」

「……その大君が無事だと良いのですが。世界がこの通りなのに、彼が平気とも思えません」

 

 鳳の顔から血の気が失せていった。確かにスカーサハの言う通り、この状況でこの世界の創造主であるレオナルドが無事とは限らない。もしかしたら彼の身に危険な何かが既に起きている可能性が高い。しかも、それは自分のせいなのだ。

 

「鳳! ポータルを出せ! 行ってレオを連れてくる!!」

 

 鳳が青ざめていると、そんな彼の下へ焦れったそうにギヨームが駆け込んでくる。鳳はその言葉にハッと我に返ると、すぐにヴィンチ村へのポータルを出したのだが……

 

「……おい、どうなってんだ! 全然違う場所に繋がってんぞ!?」

 

 ポータルを潜ったギヨームは、数秒もしない内に帰ってきてしまった。鳳がそんなはずはないと、何度もポータルを作り直したが、何故か、そのどれもがヴィンチ村には繋がらなかった。

 

「これは……ヴィンチ村が消えたとかじゃなくって、空間事態が滅茶苦茶に繋がってるってことだろうな。これじゃあ、もしもポータルを使わずに直接飛んでいったとしても、村には辿り着けないぞ」

「ど、どうすりゃいいんだ!?」

「わかんねえよ! お前が考えてわかんねえこと、俺がわかるわけねえだろ!」

 

 ギヨームがなんだか理不尽に逆ギレしている。ちょっとくらいお前も考えてくれてもいいだろうにと、鳳が不満に思っている時だった……

 

「むっ……どうやら、刈り取りが始まってしまったようだ」

 

 鳳たちのやり取りを黙って遠巻きに見ていたベル神父が、いつも通りの厳かな口調でそんなことを口走った。ドキッとして彼に視線を向ければ、神父の体が淡い光に包まれ半透明に透き通り始めていた。

 

「いけませんっ!」

 

 それを見て、スカーサハが慌てて竪琴を奏でるのをやめると、途端にさっきまでと同じように第5粒子で空間が溢れかえりそうになった。恐らく、彼女は刈り取りの方を優先的に止めようとしたのだろうが、もはや竪琴の力無しでは世界の崩壊を食い止めるのは難しそうだった。

 

 鳳は神を呪った。

 

「嘘だろう……何もこんな時に起きなくてもいいじゃないかっ!!」

 

 魔王を倒したら刈り取りが始まるというのは最初から分かっていたことだ。だが、分かっているからと言って、それが世界の崩壊と同時に仲間を襲うとは思わないではないか。

 

 スカーサハはどちらを優先すべきか迷って、結局、元通り第5粒子を食い止める方を優先することにした。すると今度は、アスタルテの体が透けてきて、彼女は自分の身に起きていることに驚愕の声をあげた。

 

「そんな……? 私もだというの!?」

 

 刈り取りは、高次元世界から一方的かつランダム(・・・・)に行われるはずだ。だから、ベル神父とアスタルテが同時に消えるということもあり得るだろうが、

 

「……弱りましたね、私もですか」

 

 アスタルテに続いて、カナンまでもが刈り取りの対象に選ばれてしまったのだ。流石に、三人立て続けとなると偶然とは到底思えない。彼らは神によって選別されていると考えて間違いないだろう。

 

 スカーサハが青ざめながら鳳の様子を窺っている。彼が頷くと、彼女は竪琴の対象を第5粒子から刈り取りへと切り替えた。

 

 その瞬間、半透明になりかけていた三人の姿が元通りに戻ったが、空間から溢れ出す第5粒子の量は、まるで決壊するダムように輪をかけて激しくなってしまっていた。

 

 ケーリュケイオンが吸い込む量と、空間に満ちるエネルギーの量は、明らかに後者の方が大きかった。このまま行けば、世界は刈り取りを待たずに崩壊するだろう。進退窮まった。

 

「……神がどうやって特定しているのかわかりませんが、元々、私たちは高次元の住人でしたからね。どうやらアンカーのような物をつけられてしまったようです」

「何とか外せないんですか? このままじゃ……」

「何をされているのかさえ分からないので、我々にはどうにも出来ないでしょう……」

 

 カナンは悔しそうに下唇を噛み、暫しの間じっと目をつぶって黙考してから、

 

「……このまま刈り取りを防ごうとしていたら、世界の崩壊を早めるだけでしょう。かと言って、そちらを優先しても、いずれは刈り取りによってこの世界は滅びます。こうなったら致し方ありません。神に捕まる前に、一か八かこっちから高次元世界へ戻ります。元々、そうする手筈でしたから」

「しかし、それは用意周到準備してからの話でしょう? このまま、俺たちが上の世界に行ったところで、メアリーがいなければP99が起動出来ないのでは……」

「ええ、ですから、あなたはここに残ってください」

 

 鳳は眉を顰めた。自分ひとりが残ることに対して、何か卑怯なような気がしたからだ。だが、カナンはそんなつもりは無いと諭すように、

 

「あなたまで高次元世界へ行ってしまったら、この世界の崩壊を誰が食い止めるのですか。オルフェウスの竪琴は、穴を塞ぐように進攻を止めるだけで、いずれ綻びが生じます。仮に神を止められたとしても、あなたが戻ってくる世界が無くなってしまっては、元も子もないでしょう」

「しかし……」

「どっちにしろ、これは緊急事態における一か八かの賭けなんです。エミリアの救世主の力を持たないあなたが来たところで、あちらの世界での切り札にはなり得ない。だから私たちが単独で元の世界に戻って、まずはこの世界が崩壊せずに済む方法を探します。然る後に、あなたは準備を整えてから、私たちを追いかけて来てくれませんか?」

「……無理はしないでくださいって言っても、無理ですよね?」

 

 鳳が後ろめたそうに言うと、カナンは笑って、

 

「何しろ、神が相手なのです。無茶をしないと勝てそうにありませんからね。アロンの杖を使えば、精霊カインがあちらに我々の肉体を用意してくれる手筈になっています。これを置いていきますから、後で追いかけてくる時、利用してください」

「わかりました」

「それでは我々は先に行きます。スカーサハさん、ここまでで結構です。崩壊を食い止める方に全力を注いでください」

 

 カナンの声に応じて、スカーサハの竪琴を奏でる旋律が変わる。すると溢れようとしていた第5粒子の奔流が収まり、またカナン達の体が半透明に変わってしまった。

 

 カナン、ベル神父、アスタルテの三人はアロンの杖を握り、お互いに確認し合うように頷きあうと、それを高々と天に掲げて祈りを捧げた。

 

「精霊カインよ! 我らを勝利と栄光に導き給え!」

 

 三人の姿がスーッと消えて行き、いくつかの光の礫を撒き散らしてから、完全に消滅した。その瞬間、支えを失った杖が地面に向かって落下したが、ちょうどそこへ駆け込んできたギヨームがそれをキャッチすると、

 

「鳳、俺も行くぜ」

「なに!?」

 

 鳳が驚いていると、ギヨームはいつものニヤニヤした笑みを浮かべながら、

 

「俺がここに残っていても、もうやれることは何もねえだろ。俺なら、あいつらの世界に行ってもクオリアが使える。足手まといにはならないはずだ」

「しかし、危険じゃないか。カナン先生の言う通り、ちゃんと準備をしてから行ったほうが良いんじゃないか?」

「それっていつだよ?」

 

 彼の身を案じ難色を示す鳳に対し、ギヨームは素っ気なくそう言った。

 

「あいつらが、向こうでこっちの世界の崩壊を食い止めると言ったのは、ただの気休めだ。もう刈り取りを防げそうもないから、俺たちが後ろめたくならないようにそう言っただけだろう。こっちの世界のことは、やっぱりこっちでなんとかするしかねえ。そして、恐らく、あっちに戻った奴らには、既に今頃、危険が迫ってるはずだ。さっきの様子からして、もうとっくに神に居場所がバレちまってるみたいだかんな。だから、俺はあいつらと一緒に行って、そいつと戦おうと思う」

「……止めても、無駄だよな?」

「おまえにも分かってるだろう? どっちが楽ってことはない。このままここに残っても、あっちに行っても危険には変わりない。だから、俺は自分のやれることをやる」

「そうか……」

 

 鳳が友との別離を前に動揺していると、

 

「私も行くわ」

「ジャンヌ!?」

 

 ジャンヌはギヨームの隣に進み出ると、彼の握る杖に同じく手を添えて、

 

「レベルはどうなるかわからないけど……多分、あっちに行っても私の体は神人のままよね? だったら、まだ戦えるかも知れないわ」

「しかし、それは賭けだぞ?」

「分かってるわよ。ギヨームの言う通り、私たちはもう賭けに乗るしかないの。どっちにしろ、このまま刈り取りが続けば、私たちは強制的にあっちの世界に吸い上げられる……世界が崩壊するのが先か、刈り取りが終わるのが先か、その違いでしか無いわ」

 

 鳳は、その両方を止められるとは断言できなかった。崩壊を食い止めている今、世界のどこかで刈り取りはもう始まってるはずなのだ。それがいつ、彼らを襲うかはまるでわからなかった。

 

 ジャンヌは空を飛ぶ鳳のことを見上げ、少し寂しそうな顔をして、

 

「あなたと旅をしたこの一年ほどは、本当に楽しい思い出だったわ。だから……」

 

 彼女はまるで今生の別れのような言葉を言いかけたが、すぐにそれが間違いだったと言わんばかりに首を振って、

 

「ううん、私たちはまたすぐあっちの世界で会えるはずよね? また楽しい冒険が出来るように、あなたも早く私たちを追いかけてきてね!」

「……ああ」

 

 鳳が奥歯を噛み締めながら返事を返すと、そこへサムソンとルーシーをおぶったマニがやってきて、彼女らに続こうとしたが、

 

「サムソン、マニ、駄目だ! お前たちの体は、あっちの世界に用意されていないんだ。このまま高次元世界へ行ったら、そのまま消えちまうんだよ」

 

 鳳が慌ててそう叫ぶと、レオナルドの館でそれを聞いていたマニはハッと足を止めた。彼は背中のルーシーを下ろそうとした姿勢のまま、悔しそうに俯いている。

 

 対して、サムソンの方は鳳の制止を聞かずに、ジャンヌの横へ強引に並ぶと、

 

「俺の師匠が先に行かれたのだ。それに、好きな女も居ないこの世界に残ったところで、ただ後悔するだけだろう。だったら俺も行くしかないじゃないか。一か八か、上手くいくかも知れない」

「馬鹿! そう言う問題じゃないんだよ! はっきり言うけど100%無理だからっ!」

「……すまんな。杖よ! 俺も師父のところへ連れて行ってくれ!!」

 

 サムソンが叫ぶと、彼の体が透き通り始めた。慌ててジャンヌが引き剥がそうとしたが、時既に遅く、彼の体は虚空に消えてしまった。

 

 なんでそんな自殺行為を……鳳が青ざめていると、ジャンヌは複雑そうな表情をしながら、

 

「あの馬鹿、どうしてこんな先走るようなことを……ごめんね、白ちゃん。名残惜しいけど、私も行かなきゃ。杖よ!」

 

 ジャンヌはサムソンがどうなったのか心配して、同じように杖に願うと、そのまま消えてしまった。殆ど、別れの言葉も、再開の約束も、交わすことが出来なかった。

 

 最後に残ったギヨームは、先を越されたと言わんばかりに少々不服そうな顔をしながら、

 

「それじゃあな、鳳。俺もそろそろ行くぜ。あっちに何が待ってるか分からねえけど、まあ、なんとかなるさ。もしかしたらこっちの方が大変かも知れねえけど、お前もなんとか上手くやってくれよな。なあに、お前はいつもなんやかんやで無理難題を切り抜けてきたじゃねえか。きっと今回もなんとかしてくれるんだろう?」

「ギヨーム……ああ、なんとかする。なんとかしてみせるから!」

「じゃあな、相棒。また会おうぜ」

 

 ギヨームはジャンヌ以上に素っ気なく言い放つと、杖をブンブン振りまわしながら虚空へと消えていった。持ち手を失った杖はそのまま地面に転がり、マニによって回収された。

 

 巨大ポータルを作った影響で、未だ気絶から回復しないルーシーを背負ったまま、彼が不安げに鳳たちの方を見上げる。

 

 しかし、鳳もスカーサハも、そんな目で見上げられても、どんな気休めの言葉も返すことが出来なかった。

 

 溢れ出してくる第5粒子エネルギーは、オルフェウスの竪琴によって防がれ、ケーリュケイオンによって吸い込んではいるが、世界の崩壊自体はどうやって止めればいいのかさっぱり分からなかった。

 

 相変わらず、世界は狂ったように火柱を吹き上げて、地面には亀裂が走り、ドロドロの溶岩が溶け出して、地震がいつまでもいつまでも続いている……これは震源地となったこの荒野だけのことなのか、もう判断がつかなかった。

 

 もしかしたら、世界中のあちこちで、ここと同じ現象が起きているのかも知れない。フェニックス、ニューアムステルダム、帝都、ヴィンチ村、大森林のガルガンチュアの村でもそんなことが起きていたとしたら、人々は無事でいられるだろうか……彼らは鳳たちみたいに空を飛ぶことも、溢れ出す第5粒子を吸い込むことも出来ないのだ。

 

 いや、それ以前に、魔王を倒した今、この世界は刈り取りに見舞われている。世界崩壊を防ぐために、そっちの方を阻止することが出来ないのだから、きっと今頃、世界のどこかで忽然と人々が消えるという現象が起きているはずだ。

 

 しかし、今の鳳たちにそれを防ぐ方法はなく、自分たちだっていつそれに見舞われるかもわからない。その時、鳳は助かるかも知れないが、スカーサハも、マニもルーシーも……それどころか、ミーティアもアリスもクレアも、みんな消えてしまうかも知れないのだ。

 

 そんなことが許せるのか?

 

 だが、そうは思っても、今の鳳には打つ手がなかった。彼は第5粒子を吸い込む以外に、この世界の崩壊を止める手立てを知らなかった。世界を創るなんてそんな芸当が、一体誰に出来るというのだろうか。鳳は勇者だなんだと言われて、嘘みたいな力も持っているくせに、肝心な時に何も出来ない自分のことが情けなくて、頭がおかしくなりそうだった。

 

『案ずることはない。所詮この世は儂の作った幻』

 

 その時だった。次第に焦りが募ってきて、額から滝のような汗を垂れ流していた鳳たちのところへ、突然、どこからともなく声が聞こえてきた。鳳はその聞き覚えのある声に思わず叫んだ。

 

「爺さん! 爺さんなのか!?」

『お主の馬鹿力が、どうやら儂の幻想を打ち破ってしまったようじゃの。しかし、案ずることはない。世界が元に戻れば、全てが無かったことになる。天使たちを助けることは出来なんだが、この世の人々を救うことは可能じゃろう』

「しかし、ここは爺さんの世界なんだろう? こんな状態で元に戻ったら、爺さんは一体どうなっちゃうんだ?」

 

 レオナルドの声はそんな鳳の疑問には答えず、その場にいる弟子のスカーサハに向け、どこか娘を見守る父親のような優しげな調子で続けた。

 

『スカーサハよ。元の世界に戻ったら、儂はなんらかの聖遺物(アーティファクト)になってしまうじゃろう。恐らく、ヴィンチ村にあるじゃろうから、見つけて管理しておくれ』

「はい、師匠……」

『館と財産はお主の好きに使ってくれて構わぬ、セバスチャンたち使用人のことは頼んだぞ』

「は、はい……ですが、師匠はそこにいらっしゃらないのでしょうか?」

『……もう一人の弟子の方は、あれは中々の傑物じゃが、少し調子に乗りすぎる嫌いがある。お主が手綱をしっかりと握り、間違えないように導いてやっておくれ』

「……はい。お任せください、大君」

 

 スカーサハの返事を待っていたかのように、その時、突然まるでチャンネルが切り替わるように世界がブレ始めた。鳳の目に映る風景の輪郭線が、みな七色に光り輝いてブレて見える。それはいつぞやの裏世界……アストラル界の光景のようだった。鳳には何がなんだか分からなかったが、どうやらレオナルドは自分の幻想を閉じ、世界を元に戻そうとしているのだ。

 

「待ってくれ、爺さん! 俺の問いに答えてくれ! あんたはどうなっちまうんだ?」

 

 世界はいよいよブレて殆ど輪郭を捕らえることが出来なくなってきた。さっきまで溢れていた第5粒子も、天を突くような炎の柱も、溶岩も、地震も、なにもかもが無くなって、耳鳴りのするような静寂が辺りを包み始める……

 

「爺さん! 聞けよ、爺さん……レオーーーーッ!!」

 

 鳳が彼の名前を叫ぶと、ふぉふぉふぉと愉快そうな笑い声が耳元で響いた。視界はもう黒く閉じ、どこを向いても何も見えやしなかった。

 

『思えば、お主に名前を呼ばれたのはこれが初めてじゃな……いや、そうでもないか。思い出したぞ? かつて儂は、いつもお主にそう呼ばれておったのじゃ。儂は300年もかかって、ようやく友達を救うことが出来たのじゃな……』

 

 ブンッ! ……っと、ブラウン管が起動するような電子音がして、唐突に鳳の世界がぐらりと揺れた。気がつけば彼らは荒野の只中で、風に吹かれて佇んでいた。戦場となった荒野には、無数の人々の足跡が残るだけで、そこにはもう地割れも溶岩を吹き出すクレーターも見当たらなかった。

 

 ポロンポロンと竪琴を奏でていたスカーサハの指が、少しずつスローダウンして、やがて彼女は演奏を止めてしまった。しかしもう、彼女が弾くのをやめてしまっても、どこからも第5粒子は溢れてこなかったし、刈り取りの理不尽な力も感じられなかった。

 

 冷たい風が吹き付けるだけで、そこにはもう何もなかった。いや、逆に全てがあると言っていいのかも知れない。ここにはもう人間を理不尽に傷つける力は届かない。

 

 世界に平和が訪れたのだ。

 

 鳳たちはそんな荒野のど真ん中で、どこか喪失感にも似たような気持ちを抱えながら、いつまでも動くことが出来ずに佇んでいた。

 

 どこからか老人の、良かった良かったという声が聞こえてくるような、そんな気がした。

 

********************************

 

 ヴィンチ村のレオナルドの館は騒然としていた。突然の魔王の襲来、そしてニューアムステルダムからの避難民の受け入れ、それがようやく落ち着こうとしていた時、今度は突如として大地震が起きて、それがいつまでも続いたのだ。

 

 ただ事ではない天変地異を前に、人々は恐れおののき色を失った。遠くの山が火を吹き、地が割れる。誰もがこの世の終わりを連想した時……今度はそれが突然終わってしまったのだ。

 

 あれだけ揺れていた地面は突如としてピタリと止まり、噴煙を上げていた遠くの山はいつもの緑に戻っており、そして倒れたはずの木々が全て元通りになっていた。

 

 まるで狐につままれたような出来事に、暫し呆然としていた館の使用人たちは、ともかくけが人が出ていないかと確認を始めた。

 

 あれだけの天変地異を前にして、それが収まったとは言っても、村人も避難民もまだまだ動揺しきっている。彼らを安心させて、また次の事態に備えなければならない……大君の配下として毅然とした態度を取り続ける彼らの姿を見て、恐れおののいていた人々も、ようやく落ち着きを取り戻そうとしていた。

 

 ところが、そんな時だった。彼らの主人であるレオナルドの無事を確認に向かった執事のセバスチャンが、ベッドの上からその主人が居なくなっていることに気がついた。

 

 病み上がりのレオナルドは眠いと言ってまた眠りについたきり、この天変地異の中でも全く起きてこようとしなかった。地震でどこかへ避難したのかも知れないが、いくらパニックになっていたとはいえ、使用人たちが主人の安否を気遣わないことはなく、何度確認しても、部屋から誰かが出てきた形跡はなかった。

 

 レオナルドは忽然と姿を消したのだ。

 

 これにはずっと毅然とした態度を取り続けていた使用人たちも動揺し、みんなが慌てて館中を駆け回る様は、まるで避難民たちと立場が逆転してしまったかのようだった。しかし困った時はお互い様である。その姿を見かねた避難民たちは、すぐに協力を申し出ると、彼らと一緒にレオナルドの捜索を始めた。

 

 こうして水を漏らさぬ捜索の目が村の隅々まで広げられたが、それでもレオナルドの姿はどこにも見つからなかった。捜索は村の周辺にまで及び、ついに夜が訪れようとしていた。

 

 一体、主人はどこへ消えてしまったのか……不安が募っていく中で、それでも主人の帰りを信じて、メイド長のアビゲイルは彼の居なくなったベッドを整えていた。

 

 と、その時、彼女がシーツを伸ばしていると、何かがベッドから転がり落ちた。何か余計なものがベッドに紛れ込んでいたのだろうか? 柔らかい絨毯の上に音もなく落ちた物を拾い上げ、彼女はそれをまじまじ見つめた。

 

 それは見る角度で色が変わる、不思議な水晶玉だった。詳しい鑑定眼があるわけではないが、きっと相当の価値があるものだろうと、一目でそう思えるような代物である。ただ、残念なことにその水晶玉は一部分が欠けていて、そこから何か光のようなものが漏れ出しているのが見えた。

 

 彼女はこれがなんだか分からなかったが、もしかすると主人がいなくなった手掛かりになるかも知れないと思い、大事に包んで、執事の元へと走った。

 

 夜の帳が下りても、館は煌々とした光に照らされて、使用人たちが騒々しく動き回っていた。それは満身創痍のレオナルドの弟子たちが帰還するまで続けられるのだった。

 



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幸福な日々

 世は並べて事もなし、あれから3年の時が経過したが、世界は何もかもそのままだった。

 

 300年前、世界を救うためにレオナルドは惑星アナザーヘブンの複製(コピー)である、迷宮アリュードカエルマを創造した。人々を今住んでいる惑星とそっくりな迷宮に移住させ、そして神からの刈り取りから守ったのだ。

 

 つまりそれから世界は二つに分離していたわけだが……それが元に戻った時、惑星アナザーヘブンは300年前の状態に戻るかと思いきや、そんなこともなく、アリュードカエルマ世界の状態をそのまま継承していた。簡単に言えば、人が居なくなって原生林に還ったアナザーヘブンに、アリュードカエルマという情報が乗っかったと考えればいいだろう。

 

 帝国には相変わらず五大国が健在であり、大森林を挟んで少し離れたところに勇者領が存在する。ただし、魔王がつけた傷跡もそのまま残っており、首都ニューアムステルダムは破壊され、現在はまだ復興の途中にあり、そして二つの国家を阻んでいた大森林には、新たにハイウェイのような一直線の道が出来ていた。

 

 それは3年前に現れた魔王ベヒモスが通り抜けた爪痕だった。あの魔王は恐ろしく正確にもう一体の魔王レヴィアタンを補足していたらしく、大森林をそれが通り抜けた痕は、信じられないくらい一直線だったのだ。

 

 フェニックスに帰還したヘルメス軍は、その後、戦場の後始末と国内の混乱を鎮めるために国内を巡回し、それに気がついた。新たにヘルメス卿に就任したクレア・プリムローズは、前任の悲願であった大森林縦断街道を開通するとともに、そこにもう一つ現れた道の方もちゃっかり整備した。その結果、ヘルメス西部フェニックスに集中していた人の流れが、東部へと移っていき、現在、彼女の地元であるプリムローズ領は首都に負けぬ賑わいを見せていた。

 

 そんな新たに出来た二つの街道からほど近くにあったガルガンチュアの村は、街道を行き来する人々の重要な中継点として栄え、気がつけば大森林の全ての部族を従える国家へと変貌を遂げていた。

 

 オークキング、ベヒモス、レヴィアタン……次々と現れた全ての魔王に対し、常に最前線で勇者と共に戦い抜いた若き獣王ガルガンチュアは、その功績を認められて、広く大森林にその名を轟かせていたのだ。

 

 天変地異を伴う激しい戦闘の後、村に帰還した彼の下には続々と森中の獣人たちが訪れて忠誠を誓った。ガルガンチュアはそんな獣人たちを快く傘下に収めると、森の獣人たちの生活圏を更に広げるべく南部遠征を繰り返し、強力な魔族たちを次々と打ち倒した。

 

 これによりバルティカ大陸南部に勢力を伸ばした彼は、そこに新たな拠点を設け、香辛料生産を主な収入源とする社会を築き上げた。この獣人による共同体は後にワラキア共和国と呼ばれるようになり、その初代国王としてガルガンチュアが就任することになる。

 

 尤も、それは後の人々がそう語り継いだだけであって、実質、既にワラキア王となっていたガルガンチュアの方は、特に国だなんだと意識することもなく、いつもどおり自分の村で家族の世話をしたり、時折やってくる友人たちと楽しく暮らしていた。

 

*********************************

 

 カンッ! カンッ! ……っと、木剣のぶつかり合う乾いた音が森の中に響いていた。

 

 ガルガンチュアの村からほど近い森の広場には、何人もの獣人の子供たちが集まり、そこで戦闘訓練を続けている二つの影をじっと見つめていた。

 

 普段は騒がしい子供たちが、おとなしく息を飲んでその行方を見守っているのは、戦闘訓練自体が珍しいのもさることながら、その訓練をしている男の出で立ちが異様だったからだ。

 

 広場の中央で漫然と木剣を構えている男の目には目隠しがつけられており、そして耳には耳栓が入っていた。そんな見えない聞こえない状態で、その男は迫りくる攻撃を幾度も弾いているのだ。

 

 それは彼と戦っている相手の技量が拙いわけではない。なにしろ、その相手こそがガルガンチュアであり、彼らの王であったのだ。戦闘中のガルガンチュアは噂に違わぬ強さを誇り、その速さは本当に目にも止まらなかった。おまけに彼は屈折する光のように空中で方向を変えたり、突然影の中に飛び込んだり、分身を作り、瞬間移動したりするのだ。

 

 その曲芸みたいな多彩な技は、子供たちからすれば何をしているのかすら理解出来なかった。ところが、そんな王の技を、目隠し男は何度も何度も凌いでいるのだ。

 

 カンッ! カンッ! ……っと、木剣の音が響く度、子供たちはゴクリと息を呑んだ。最初は自分たちの王様を応援していたのに、10合、20合と剣がぶつかり合うにつれ、いつの間にか子供たちは男の方を応援していた。しかし、流石にそんな状態でいつまでもガルガンチュアの攻撃が防げることはなく、ついに彼の木剣が男の肩に入ると、

 

「あいたーっっ!!」

 

 っと、情けない悲鳴と共に、ギャラリーからため息が漏れた。そのため息は、耳栓をする男には聞こえなかったが、ガルガンチュアにはしっかり聞こえており、彼は苦笑いしながら男の方に近づいていき、手を差し伸べた。

 

「……ツクモさん。まだ完全に集中しきれてないみたいだな。途中から音を聞こう聞こうってしてただろう?」

「おーいて……そんなつもりはないんだけどなあ……やっぱ人間、追い詰められてくると五感に頼っちゃうんだよ。本能がそうするっつーか」

 

 鳳は打ち付けられた肩を擦りながら、目隠しを取り、滲む涙を拭った。彼は耳栓を手のひらでコロコロと転がしながら、

 

「どうしても耳栓だけじゃ、完全に音を遮断することが出来ないんだよ。そのせいで漏れ伝わってくる音を拾っちゃう度、どうも普段以上に意識がそっちに行っちゃうみたいなんだ。それを意識しないように出来れば、今度こそ行けそうなんだけど……」

「俺からすれば、もう十分すぎるくらいだと思うけどな……まったく。あなたは今、わざとステータスをオール10まで落としているんだろう? そんな状態で、よくもこれだけ俺の攻撃を躱してくれたものだと呆れるよ。あなたといると、俺は自分が弱くなったんじゃないかと焦ってしまう」

「いや、とんでもない。普通にやったら、おまえに勝てるわけないよ。だから普通じゃない方法を会得しようとしているわけで……」

 

 ガルガンチュアの攻撃はあまりにもトリッキーで、普通に目で追ったり五感に頼るような戦い方をしていたら、確実にフェイントに引っ掛かってしまう。だから鳳は五感を殺して、ひたすら気配だけで彼の攻撃を避けるように訓練していたのだ。

 

 それは即ち、この物質界に居ながらにして、アストラル体の動きを読もうという試みであったが、どんなに修行しても鳳にはこれが会得できなかった。

 

「ルーシーはこれをぶっつけ本番で、しかも一発で成功したってんだろう? 今でもアストラル界を通じた精霊との対話や予言は彼女の専売特許だ。やっぱものが違うんかね。天才っつーか」

「お……どうやら、その天才が来たようだぞ」

 

 鳳が自分の不甲斐なさを呪っていると、ガルガンチュアが何かに気づいた様子で耳をピクピクさせていた。これも鳳にはいまいちピンと来ないのであるが、彼は空間の歪みのようなものを察知しているらしい。

 

 彼に言わせれば、ポータルを使うとそこに強烈な歪みが生じるから、すぐに気づくのだそうだ。この世界で、今ポータルを作ることが出来るのは、鳳とルーシーしかいないから、ガルガンチュアは彼女が来たと判断したのだろう。

 

 果たして彼の言う通り、間もなく広場に光の扉が現れて、そこからルーシーがひょっこりと現れた。彼女はは金糸でいくつもの刺繍が施された、綺羅びやかな白のローブを纏っており、手には大賢者の証として名高きカウモーダキーを握って、そして右目には、彼女の美貌には不釣り合いな黒い眼帯がかけられていた。

 

 彼女は魔王との戦闘の際に作り出した巨大ポータルの代償として、右目の機能を永久に失っていた。あれだけのことをして片目で済んだのだから御の字だと、彼女も彼女の姉弟子も言っていたが、鳳はあの時、自分がもっと上手くやれていたらと今でも悔やんでいた。

 

 全てを救うことは出来ない。それはわかっている。でも、レオナルドといい、彼女といい、どうして人々を助けようとした人が代償を支払わなければいけないのだろうか。世界は何と理不尽なものなのだろうか。

 

 鳳がそんなことを考えていると、ルーシーは二人の姿を見つけるやにこやかな笑みを湛えながら歩いてきて、

 

「やあ、マニ君、お久しぶり。鳳くん……大分待たせちゃったけど、スカーサハ先生がいつでも準備できてるって。今日はそれを伝えに来たんだ」

 

 鳳はそんな彼女にうなずき返すと、

 

「そっか……それじゃ、みんなに相談するため、俺は一度家に帰るよ。ガルガンチュア、今日は付き合ってくれてありがとう。ルーシーはまた帝都で待っててくれ」

「わかった。じゃ、もう行くね。あんまり留守にしてると護帝隊がうるさくって」

 

 鳳たちがそんなやり取りを交わしていると、それをそばで聞いていたガルガンチュアは申し訳無さそうな表情で、

 

「いよいよ行くのか……本当なら、俺もあなたについて行きたいところなんだが……」

「仕方ないさ、お前は今やこの森の王、獣王ガルガンチュアだからな。お前以外に獣人社会をまとめられる奴はいない」

「あなただって、この世界になくてはならない人だろうに……」

 

 ガルガンチュアが残念そうにそう言うと、鳳は苦笑交じりに、

 

「俺はただのしがない冒険者さ。俺がいなくなったところで、世界は何も変わらないよ。それに、俺は嫁が優秀だからね。だから安心してくれ」

 

 鳳はそう言って右腕を差し出すと、ガルガンチュアと握手を交わしてから、その嫁たちの待つプリムローズ城へと帰っていった。

 

********************************

 

 3年前の魔王討伐後、紆余曲折を経てフェニックスに帰還した時のヘルメス卿鳳白は、その地位を後継者クレア・プリムローズに禅譲した。彼女はロバートの起こした反乱鎮圧と、その直後に起きた魔王戦での活躍もあって、全国民の熱狂的な支持を受けてヘルメス卿に就任した。

 

 帝都での就任式を終えた彼女は早速とばかりに国内の復興に着手すると、先にも触れた通り、大森林の二つの街道整備を行った。その頃、勇者領ニューアムステルダムは魔王ベヒモスの襲来によりボロボロに破壊されており、復興しようにも手がつけられない状況だった。彼女はそんな勇者領に救いの手を差し伸べると同時に、かねてよりの問題であったオルフェウス難民の入国を許可し、街道整備や復興のための労働力としたのだ。

 

 心配された復興予算も、一度流通が動き出せば、その関税や人々の消費行動によってどうにか補える程度に収まってきた。一番の問題は相次ぐ戦争と人口増加による食糧不足であったが、これも初年度こそ新大陸を頼りにしたが、すぐに自給できるまでに回復した。

 

 そして街道が整備されると、ニューアムステルダムの復興のための物資や、新大陸からやってくる行商人が行き交い始め、気がつけば当初の目論見通り、プリムローズ領はヘルメスの一大流通拠点として発展し始めた。

 

 ヘルメス卿クレアはこれを機に自領の開発を行うことを宣言すると、魔王との戦闘で出来たクレーター湖の畔に新たな官邸であるプリムローズ城を建設し、首都機能を移転することにした。元々、前任の鳳が地位を譲ることを前提にしていたため、フェニックスの庁舎はどこもかしこも仮設ばかりであり、移転は思った以上にスムーズだった。

 

 こうして役人が移動すると、それを相手に商売している者たちも雪崩式に移動することになり、プリムローズ領のあちこちで建設ラッシュが始まった。間もなく城を中心とした街が出来上がり、クレーター湖を溜池とした灌漑が行われ、みるみるうちに農地が広がっていった。それをオルフェウス難民や農地を持たない平民たちが開墾し、どこまでも続く肥沃な土地はあっという間に人でいっぱいになった。かつては誰もいない荒野を野盗が徘徊していたのが嘘のようである。こうして自領の民を救った彼女のことを、かつて一緒に野山を駆け回っていた友達は、きっと喜んでくれているだろう。

 

 さて、そんなクレアは二児の母でもあり、子供の教育に熱心でもあった。国内には3年前の孤児問題の折に建てられた孤児院があり、景気が良くなり余裕が出来てくると、それが恵まれない子供たちを助けようという運動に繋がっていた。

 

 クレアはその動きを敏感に察知すると、全国に成人前の子供たちを教育する無償の学校を設立することを宣言し、また、さらなる孤児院を増設して、その院長にかつてアリスの主人であったルナ・デューイを据えることにした。

 

 元ヘルメス貴族であった彼女は、三代前のヘルメス卿アイザック11世を刺殺してしまったという過去があった。その罪を悔いた彼女はベル神父に感化され、キリスト教に帰依していたのだが、それ以来、神父のいなくなった孤児院を切り盛りしており、それが認められた形である。

 

 そんなわけで新たな孤児院建設のために、クレアは今日もルナの孤児院に出向いて二人で話し合っていたのだが、そんな彼女らが議論しているところへ、突然、腹心のペルメルがやってきた。彼は自分の主人に対し、恭しくお辞儀をすると、

 

「ヘルメス卿、ここにおられましたか。探しましたよ。また一人で勝手にいなくなるから、あまりこういうことをされては困ります」

 

 クレアは、きっとまたお付きもつけずに一人でふらっと孤児院に来たことを咎められるのだろうと思い、ムスッとした表情でそれを迎えた。

 

「なによー、ペルメル。今日は一緒に来なくていいって言ったでしょ? 女同士で話し合いたいことだってあるのよ。そっちのほうが気楽だし。それに、私を襲う人なんていないから護衛なんて必要ないわよ」

 

 彼女はそれを、自分の領民はみんないい人たちだからという意味で言ったのだが、実際に彼女に危害を加えるような者は、このヘルメスに一人もいなかった。実は魔王との戦闘のどさくさに紛れて、レベルアップしまくっていた彼女に危害が加えられるような者は、もう殆どいないのだ。

 

 だから彼女の言う通り、本当に護衛は必要なかったのだが……そんな彼女に向かって、ペルメルはやれやれと首を振りながら、

 

「確かにあなたはお強いですから、心配はしておりませんよ。ただ、何か緊急事態が起きた時、連絡が取れなくなると困るから、こういうことは慎んでいただきたいと言ってるのです」

「わかったわよ、もう。これからは気をつけるわ。でも、緊急事態なんて、そうそう起こるわけ無いでしょ?」

「いえ、今日は本当に緊急事態で、あなたを探していたのですよ」

「……何があったの?」

 

 それまで不貞腐れたような表情をしていたクレアは、その言葉を聞くなり背筋をぴんと伸ばし、領主らしい真剣な表情に変わった。そんな彼女の顔を見て、ペルメルはふっと表情を緩めると、

 

「旦那様がプリムローズ城へご帰還なさいましたよ。あなたが留守であると知って、がっかりなさっていました」

「ダーリンが!?」

 

 その言葉を聞くや否や、クレアは今度は真剣を通り越して緊迫した表情に代わり、人が変わったみたいにソワソワし始めた。彼女はたった今まで話し合いを続けていたルナの方に、チラチラと視線を送りながら、なにか言いたげにしている。

 

 そんなヘルメス卿の姿を見て、ルナはクスクスとした笑い声を漏らすと、

 

「失礼しました……ヘルメス卿。今日のところはこの辺にしませんか? 話し合いならまたいつでも呼び出してくだされば、こちらからすぐお伺いしますから」

「ごめんなさい。今日はこっちから無理矢理押しかけておいて、今度は自分勝手に帰りたいだなんて……」

「あなたの大事な旦那様がおかえりとあっては致し方ありませんよ」

 

 ルナはまたクスクスとした笑いを漏らしてから、ふと思い出したように、

 

「そう言えば、アリスは元気ですか? 暫く会っていませんが、ちゃんとやれていればいいのですが……」

「元気も元気! 私もミーティアも何もしなくていいって言ってるのに、どうしても家のことをしていないと気がすまないみたいね。まるでメイド長が二人いるみたいよ」

「まあ、あの子らしい。本当のメイド長さんのお邪魔でなければ良いのですが」

「気になるなら、今度遊びにいらっしゃいよ。あそこは官邸といっても、私たちの家だから、家族に閉ざす門はないわ」

 

 クレアのそんな家族という言葉に、ルナは少し気恥ずかしげに、それでいて少し潤んだ瞳をしながら笑顔で返した。

 

 クレアは孤児院を飛び出ると、群がってくる子供たちにハグで別れを告げてから、馬に飛び乗ってプリムローズ城へ急いだ。街道で勇ましく馬を飛ばすヘルメス卿の姿を見つけるや、領民たちはこぞって立ち止まり恭しくお辞儀した。彼女はそんな領民たち一人ひとりに向かって、こんにちわと叫び笑顔で応えながら、ペルメルを従えてプリムローズ城下へと入っていった。

 

 どこからともなく近衛騎士団が現れて、彼女の馬を囲むように行進を始めると、城下の人々がみんな大通りに出てきて歓声をあげた。彼女は手を振りながらその間を練り歩き、ついにプリムローズ城に辿り着くと、スーッと跳ね橋が下りてきて、その向こう側で城付きのメイドたちがずらりと並び、主人の帰還を恭しく出迎えた。

 

 メイド長のアビゲイルがすまし顔で彼女の外套を受け取る。

 

「おかえりなさいませ、クレアお嬢様」

「ただいま! ダーリンが帰って来てるって本当!?」

「はい、ただいま奥様がシフォンケーキを焼いておりまして、旦那様はそれを食堂で待っておいでです」

「食堂ね、ありがとう! ……どうでもいいけど、どうしてみんな、あっちの方を奥様って呼ぶの? ここの主人は私よね?」

 

 アビゲイルはすました表情を崩さずに黙っている。

 

「もう! アリスのせいね。いつまでもあの子が奥様、奥様って呼んでるから。あの子だって奥様のくせに……今度じっくり話し合わなきゃいけないわ」

 

 クレアはプンプンと怒気を振りまきながら廊下をズカズカ足音を立てて入っていた。たまたま通りすがった気の毒な使用人たちが、顔を真っ赤にして肩を怒らせて通り過ぎる主人を見てギョッとして畏まっている。

 

 しかし、そんな彼女も食堂に入るや否や、そこで新聞を読んでいる人の姿を見るなり、まるで信号機のようにぱっと笑顔に変わって、

 

「ダーーリーーーーンッッ!!!」

「沢田研二っ!?」

 

 鳳は読んでいる新聞ごとタックルを決めてきたクレアを抱き止め、目を丸くした。

 

「びっくりした~……クレアか。声を掛けるならもう少し優しくお願いするよ」

「だってだって~、すっごく久しぶりだったんだもん。あなたがお疲れなことはわかってたけど、お顔を見たらもう我慢出来なかったわ。ダーリンに逢えなくて、ずっと寂しかったんだぞ?」

「う、うーん、そう言われると弱いな。ずっと家を開けててごめんね?」

「ねえ、今回はいつまで居られるの?」

「うん……それが、今回もそう長く居られなくて……」

「イヤイヤ! あなたの居ない夜を数えて眠るのはもう嫌よ。そんなに世界中飛び回らなくっても、お金なら私がいくらでも稼いでくるから、ね? ずっと家に居てよ。私なんでもするから」

「な、なんでも……? お尻でも?」

「うん。お尻でもおっぱいでも、好きなだけしていいから……ところで沢田研二って誰?」

「ジュリーのことかな」

「んまあ! 私以外の女の話なんて聞きたくないわ!」

「いや、ジュリーは男だけども……あ、コーヒー冷めちゃうから、飲んでもいい?」

「うん」

 

 二人がアホな会話を繰り広げている間に、アビゲイルが無言でコーヒーを入れてくれていた。彼女はヴィンチ村のレオナルドの館に居たメイド長だが、あの騒動以降、他の使用人と共に鳳を頼ってヘルメスにきていた。職業意識が高く、いくら主人達がアホなことをしていても、動揺することは一切なかった。

 

 クレアはそのままちゃっかり鳳の膝の上に居座って、鳳と一つのコーヒーカップをシェアしている。仲睦まじいと言えば仲睦まじいが、こんなものを毎日見せられたら堪ったものではないだろうに、整然と澄ましている様は見事であった。

 

 そんなアビゲイルが見守る中で、二人はコーヒーを飲んで大分落ち着いてきたのか、次第に会話は国内情勢に変わっていた。なんやかんや、彼女はこの国の君主であり、二人が会話をすると自然とそうなるのだ。

 

 帝国の最近の動向や、ニューアムステルダムの復興の話、経済や国内の治安問題。ヘルメスは国が富んで人口が増えるに従って、やっぱり犯罪も増加傾向にあった。その対策として、クレアは新たに憲兵組織を発足させ、戸籍調査を開始したりしていた。そして最後に遷都前の都フェニックスに話が及んだ。

 

「ここに帰ってくる前にフェニックスにも寄ったんだけど、旧庁舎街跡地の宮殿も大分出来上がってきていたよ。あれが完成すれば、またヴェルサイユみたいにこの国の象徴になるんだろうね」

「ニュートン卿の功績は間違いなくこの国最大のものですから。その血が途絶えたとしても、私たちがその恩を忘れるようなことがあってはいけないわ。だからその記念碑になれば良いんだけど」

「首都は移転しちゃったけど、あっちには誰が住むの?」

「ディオゲネスを城代に送るつもりよ。そのつもりで、工事の責任者をやらせているの。ダーリンもあっちで会ったでしょう?」

「ああ、テリーと一緒に食事がてら……そうそう、君と初めて一緒に行った、あの料亭で食事したんだ。女将さんがよろしくって」

「まあ、懐かしいわね。利休も帝都で元気してるかしら」

「あの時は本当に、ひどい目にあったよ……こっちは必死だっつーのに、全然構わず色仕掛けしてくるから、もうちょっとでおかしくなるとこだった」

「うっ……だってだって、私だって必死だったんだもん。ねえ? でも、もしあの時、あなたに抱かれていたら、今頃私たちってどうなってたのかしら……」

「……目をキラキラさせてるとこ悪いけど、多分死んでたと思うよ?」

「うっ……身も蓋もないわね。でもいいの、私はあなたに殺されるなら本望よ」

「無茶苦茶言うなよ……ところで、クレア。さっきからその、君のお尻がすっごいとこに当たってるんだけど……」

「あら、そう? 気になさらないで、私はあなたの物ですもの」

「……おまえ、そのつもりでわざとやってないか?」

「どうかしらね……ねえ? あの日のこと、再現してみる? 本当は私のこと、どんな風にしちゃいたかったの? ダーリン……?」

 

 クレアは鳳の首に絡みつくように抱きついている。すぐ目の前まで迫った彼女の瞳がキラキラと潤んでいた。鳳はゴクリとつばを飲み込むと、キスくらいはしてもいいかと顔を近づけていったが……

 

「は、な、れ、な、さいっ!!」

 

 その時、鳳の首が思いっきりグイッと引っ張られて、あらぬ方向に無理矢理向けられた。グキッと音がして寝違えたような痛みが走り、鳳は轢き殺されたカエルみたいな情けない声を上げ、クレアはそんな鳳の膝からおっこちて、床に尻もちをついていた。

 

「いったーーーーいっ!! 何すんのよこの馬鹿!」

 

 床に落っこちたクレアが涙目になりながら抗議する。見上げるとそこにはミーティアが立っていて、彼女のことを鬼の形相でじろりと見下ろしていた。

 

「ちょっと目を離した隙に真っ昼間っから盛っちゃって、このコンコンチキ! 使用人たちもいる前で、城内の風紀を乱すようなことはやめなさいって、いつも言ってるでしょう! あなた、それでもこの国の女王様なんですか!?」

「うっさいわねえ……久しぶりにダーリンに逢えたんだもん。ちょっとくらい甘えたって良いじゃない」

「彼だって、長旅で疲れてるんですよ。なのに、労いもせずにベタベタくっついて、メイド長だって困ってます、少しは恥を知りなさい恥を」

 

 ミーティアはプンプンと怒っている。そんな彼女の背後には相変わらずメイド服に身を包んだアリスが立っており、彼女の持つ皿からは、焼き立てのシフォンケーキのいい匂いが漂っていた。

 

 きっと、鳳が帰ってきたので、いそいそとケーキ作りに勤しんでいたのだろう。その隙にクレアに出し抜かれたから彼女は怒っているのだ。それを見透かしたクレアが、挑発するように言い放つ。

 

「ふーんだ! 自分が上手に甘えられないからって、私に嫉妬しないでくれる?」

「嫉妬!? 誰があんたなんかに嫉妬するものですか。私は常識をわきまえろと言ってるんですぅー!」

「おーこわ! 眉間に皺を寄せちゃって、そんなんじゃ夜の相手もその内呼ばれなくなっちゃうわよ、おばさん」

「誰がおばさんですか! 今すぐその口を慎まないと、シャンパングラスを突っ込んで顔面パンチしますよ! 大体、あなただって私と2つしか違わないじゃないですか!」

「あんた、発想がホント邪悪よね……たまに感心するわ。脳みその栄養が、その大きなおっぱいに吸い取られてるんじゃないかしら」

「う、うるさいですねえ……私だって好きで大きくなったわけじゃないですよ。それに、白さんが大きいほうが良いって言ってくれるんですから、別に良いんですー! あなたこそ、自分が小さいからって嫉妬しないでください」

「なっ!? 私だって別に小さくないわよ! あんたが大きすぎるだけよ、このウシ女! ダーリンは私のおっぱいだって好きって言ってくれるもん! いっつも赤ちゃんみたいに吸い付いて離れないもん!」

「私ならその上、挟んであげられますけどね……」

「くっ……いい気になるんじゃないわよ!? じゃ、じゃあ、本当は言いたくなかったけど教えてあげるわ! 実はダーリンは私のおっぱいだけじゃなくて、お尻にも夢中なのよ。どう? あなたにそんな真似が出来て!?」

「ふんっ」

 

 ミーティアは哀れな小さきものを見るような目つきで冷笑している。

 

「な、なによ、その余裕ぶった笑みは……」

「たかが、お尻ごときで勝ち誇っちゃって、かわいいもんですね、クレアちゃん……」

「なっ!?!? なによ! あんたは、それ以上のものを持っているというの……!? こ、こんな、正常位でセックスしてそうな顔してるくせにっ!!」

「もうやめて! 二人で喧嘩するふりして、その実、俺を傷つけるのはもうやめてぇーっ!!」

 

 二人が言い争っているその間で、鳳が涙を流してノックダウンされていた。そんなあらゆる性癖を暴露されている中で、アビゲイルは相変わらず表情一つ変えずに、せっせと紅茶の準備を続けていた。そろそろ転職を言い出さないか不安である。

 

 そしてもう一人、シフォンケーキを持ってきたアリスもアビゲイルのように澄まし顔でお盆をテーブルの上に置いたと思ったら、てくてくと歩いてきて鳳の横にちょこんと座った。どんな変態セックスをしているかバレてしまった鳳がバツが悪くなって目を逸らすと、彼女はそんな彼の腕にぎゅっと抱きついて、ほっぺたをその肩に乗せた。

 

「……あの、アリスさん?」

 

 何をしてるんだろうと思っていたら、彼女はそのあるかないか微妙なおっぱいを鳳の腕に押し付けながら、目の前の二人の反応を窺っていた。しかし、そんな彼女のことが眼中にないのか、二人は全く気が付かないで言い争いを続けている。

 

 アリスは拗ねたように、ぷくーっとほっぺたを膨らませると、

 

「奥様も、お嬢様も、ご主人様も……みんな私だけ子供扱いしてずるいです。私もご主人様に、もっといろんな事をして差し上げたいです」

 

 彼女はそう言って、真剣な表情で鳳の顔を見上げていた。いろんな事って、どういうことか、本当にわかっているのだろうか……鳳はその真っ直ぐな愛を嬉しく思う反面、彼女だけはまだ汚れてほしくないという思いもあり、なんとも言えずに黙っていた。

 

 と、その時だった。別室からおぎゃあおぎゃあと赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、言い争いを続けていた二人の声がぴたりと止まった。

 

「大変! あの子達が泣いていますよ」

「おしめかしら、おっぱいかしら?」

 

 それまで激しくやりあっていたくせに、その瞬間、二人は何事も無かったかのように会話を交わしながら、仲良く並んで部屋から出ていってしまった。出遅れた鳳とアリスは目をパチクリさせながら顔を見合わせると、アビゲイルにすぐ戻ると伝えてから、そんな二人の後を追った。

 

 別室にやってくるとそこには赤ちゃんを抱いた二人が、よしよしと自分の子をあやしていた。直ぐ側には乳母の女性たちが何人も忙しそうに駆け回っており、おしめやら哺乳瓶やらの用意をしている。子供のためにこれだけの人数を掛けるのだから、やはりなんやかんや言ってもクレアは王侯貴族なのだ。

 

 他人事のように言っているが、もちろん、この二人が抱いている赤ん坊は鳳の子供たちだった。彼と二人の嫁の間には、あの魔王との戦いの後、子供が生まれた。クレアは双子の姉妹を出産し、ミーティアは男の子を産んでいた。みんなすくすくと健康に育っており、つい先日1歳になった。まだ言葉も話せないが、鳳の子供だから、いずれ父親譲りの能力を発揮しだすかも知れない。

 

 クレアとミーティアは普段はあまり仲がよろしくないが、赤ん坊の前では絶対に喧嘩をしなかった。二人ともお互いの子供たちを愛し、子供たちもまたそんなもう一人のお母さんのことを慕っているようだった。

 

 鳳がそんな妻たちの姿を目尻を垂らしながら見守っていると、ミーティアが苦笑しながら手招きした。

 

「白さん、あなたもこっちに来て、赤ちゃんのことを抱いてあげてください」

「え? いいの?」

「自分の子供なんだから当たり前じゃない。さあ、ダーリン、こっちきて、お姉ちゃんの方を抱っこしてくれないかしら? 最近大きくなってきて、二人同時に抱いていると腕が疲れちゃうのよね」

 

 鳳はクレアから赤ん坊を預かると、まるでガラスの靴でも扱っているかのように、恐る恐る手の上に乗っけるように抱いてみた。あまり家に寄り付かないせいか、赤ん坊は鳳に抱かれても反応を見せずキョトンとしていたが、泣いたりもせずじっとその身を彼に預けているようだった。

 

「そんなビクビクしなくても、壊れたりなんかしませんって」

「うん、大丈夫だって分かってるんだけど。自分でも慣れたつもりでいるんだけど、やっぱり緊張しちゃうんだよね」

 

 鳳が赤ん坊から目を離さずにそう言うと、二人のお母さんはクスクスと笑い声を上げていた。傍目には自分はどう映っているのだろうか。鳳は彼女らに何か言い返す余裕もなく、ただひたすら自分の娘を見つめていた。

 

 赤ん坊はとても小さくて軽くて、温かくて、そして湿っぽかった。生きているって感じがした。一生懸命、胸が上下に動いている。そして何もない空中に手を伸ばして、指をにぎにぎしていた。

 

「可愛いなあ……可愛いなあ……」

 

 鳳が思わずそんなことを呟いていると、アリスが寄ってきて赤ん坊を覗き込み、

 

「可愛いですねえ……」

 

 彼女が指を差し出すと、赤ん坊はその指をギュッと握りしめてから、アリスの顔を見てキャッキャと笑った。赤ん坊は実の父よりも、アリスのほうがよっぽど好きみたいだった。鳳はそれをがっかりに思わず、寧ろ嬉しかった。赤ん坊がこんなに懐いているのは、きっとアリスの方も彼女のことが好きだからだろう。

 

 そんな風に、二人して小さな赤ん坊をじっと見つめている時だった。

 

「あの、ご主人様……私も赤ちゃんが欲しいです」

 

 アリスがポツリとそんなことを呟いた。鳳は全神経を手のひらに集中していたから、自分がどんな顔をしていたかわからなかったし、周りの人たちがどんな顔をしているのかも分からなかったが、なんとなくよそよそしくなる空気の中で、アリスはそわそわしながら続けた。

 

「その……私は体が小さくて、ずっとご主人様が気を配ってくださっていたことも分かっていたのですが、そろそろ私もお二人みたいに、ご主人様の赤ちゃんが欲しいなって、思っていたんです。だって……こんなに可愛いんですもの。私も早く、私の赤ちゃんに会ってみたいなって……駄目でしょうか?」

 

 鳳は自分の手のひらの上でアリスを見つめている赤ん坊の目を見つめながら、

 

「……そうだね。それじゃあ……次の攻略を終えて、今度こっちに帰ってきたら、作ろっか?」

「本当ですか!?」

 

 鳳の返事にびっくりしたアリスが大声を上げる。するとそれに驚いた赤ん坊の顔が歪んできたと思ったら、おぎゃあおぎゃあと盛大な鳴き声を上げた。

 

 鳳とアリスがしまったと青ざめてパニクってると、すぐに苦笑気味にクレアがやってきて赤ん坊を引き取ってくれた。赤ん坊はお母さんに抱かれて暫くすると、また元の上機嫌に戻ってしまった。やはり母は偉大である。

 

 鳳がホッとして周りを見渡してみると、部屋の中はさっきまでの緊張感が解けて、どこか和やかな雰囲気になっていた。アリスと子供を作ると言ったら、二人は嫌がるかと思ったが、どうやらそんなことはなかったらしい。

 

 鳳は三人の嫁に序列をつけるつもりはなかったが、アリスはいい意味でも悪い意味でも少々特別扱いしていたから、みんな気になっていたのだろう。鳳がそれを申し訳なく思っていると、そんなアリスのことを自分の娘のように抱きしめながら、ミーティアが鳳に尋ねてきた。

 

「それで、今度はどんな迷宮を攻略するんです? 帝都のものはあらかた片付けてしまったのでしょう? 新大陸ですか? 大森林ですか?」

「ああ、それなんだけど……」

 

 鳳は言いかけてから少し考え直し、

 

「それについては、夕食後にでも。落ち着いてからみんなに話すよ」

「……よっぽど難しそうな迷宮なんでしょうか?」

「それもあるけど、今日はみんなとディナーに行きたいと思ってたんだ。出かける前に余り重い話はしたくないでしょ」

「まあ! 今日はダーリンと外食ですの? 早速、ドレスの準備をしなくっちゃ。ミーティアもアリスも、今日はちゃんと着飾りなさいよね? せっかくのダーリンのお誘いなんだから、わかった?」

 

 クレアが何となく空気を読んで、はしゃいだ声を上げていた。こういった場面で咄嗟にそう言うことが出来るのは、やはり社交界のスターの血筋だけある。鳳はそんな彼女に感謝しながら、赤ん坊を抱っこして、今日のディナーについて楽しそうにあれこれ話し合っている3人の嫁を見つめていた。

 

 鳳は、クレアにヘルメス卿の座を譲った後、世界中の迷宮を回っていた。その目的は、壊れてしまったレオナルドの迷宮を直すため……だが、その方法は未だに見つかっていない。

 

 彼がこれまでに攻略した迷宮は100を越えていた。あらゆる世界の秘密を暴き、そして神に匹敵する力を手に入れた。そんな彼のことを人々は、いつしかタイクーンと呼ぶようになっていた。

 



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王家の紋章

 100を越える迷宮を制覇し、いつしかタイクーンと呼ばれるようになった鳳は、その日も世界のどこかにある迷宮から帰還したばかりだった。そんな彼は帰ってくると妻たちの不安を和らげるために、その土産話をするのがいつものルーチンだったのだが、その日は何故か趣向を変えてみんなで遊びに行こうと言い出した。

 

 クレアがいつも以上にはしゃぎ服を着飾って、どこへ連れてってくれるの? とねだり、みんなで相談した末にニューアムステルダムへ行くことになった。鳳がいればどこだろうと移動は一瞬であるし、国内だとどこへ行ってもクレアが目立ってしまうから、外国ならそんなこともないので好都合だったのだ。

 

 ニューアムステルダムは3年前の魔王襲撃の折に全壊し、未だにその復興が続いていたが、それもようやく終わりが見えてきたところだった。一時期は昔のフェニックスみたいにバラック小屋が立ち並び、首都移転も止むなしと言う風潮だったが、なんやかんや復興のために人とお金が流れてきて、今では前以上に発展しているようである。

 

 連邦議会によれば街の人口は災害前の倍に上り、税収もそれに伴って倍に増えているらしい。復興特需を見越した人々が、新大陸やオルフェウスから集まってきて、それがそのまま居着いた格好である。更にそこへ、ヘルメスへの直通街道まで出来て、水路と陸路の両方から通行料と関税を得ることで、当初心配されていた復興費用もほぼ回収の目処が立っているようだ。

 

 ただ、それまで新大陸に向かっていた投資が復興にあてられ、更に復興税を課された新大陸との折り合いがこのところ悪化しているようだった。新大陸に住む人達からすれば、ニューアムステルダムの被害は自分たちには関係ないのに、どうして税を課されなければならないのかと思うのだろう。

 

 そんな折、ヴァルトシュタイン率いる帝国探検団が新大陸に渡り、調査名目で北部の開拓を始めたことで、あちらでも帝国と勇者領との駆け引きが始まっているようだった。また戦争が始まらなければいいのであるが、案外、地球みたいに新大陸が独立するのも早いかも知れない。

 

 ともあれ、そんな話は政治の世界から足を洗った鳳にはもう関係ないことである。今日は一日、妻たちとデートのつもりで都会に遊びにやって来たのだ。四人はニューアムステルダムまでやってくると、その玄関口の広場に集まっていた人力車を借りて、またいつかみたいにリニューアルされた観光名所を見て回った。

 

 劇場街で観劇し、ゴンドラで川を下り、オープンテラスのカフェでお茶をし、広場では大道芸人の輪に加わった。こんな美女を三人も侍らせていては、さぞかし嫉妬や好奇の目に晒されるだろうと思いきや、そんな目で見られることは全くなかった。大体、どこに行ってもミーティアとクレアが言い争いを始めて、それを鳳とアリスが止めているからだろうか。尤も、喧嘩するほど仲が良いの言葉通り、二人は言いたいことを言い合ってしまうと、後は案外ケロリとしたものである。

 

 街の名所巡りを終え、日が暮れてきたら、鳳たちはかつてミーティアとデートをしたカジノリゾートへとやってきた。あの時はエリーゼの父親に見つかってしまってすぐお開きになってしまったが、今日はカジノで遊んだ後は併設のホテルに宿泊する予定である。

 

 レストランで軽く食事した後、クレアは遊ぶぞと腕まくりして、新しく出来たスロットの方へとズンズン歩いていってしまった。普段は四六時中公務をしているから、遊べる時は全力で遊ぶ主義らしい。今日は一日遊び回ってもまだ遊び足りないと、食事中からずっとカジノが気になっているようだった。

 

 そんな美しい彼女が一人でスロットにかじりついているものだから、何人もの伊達男がやってきて彼女にちょっかいをかけて、それがヘルメス卿と知るや態度を一変し、更にその背後に鳳がいることに気づくと青ざめていた。そんなことが何度も続くものだから、気がつけば周囲の注目を浴びていて、彼女の周りだけ変な空気になっていた。

 

 一方、意外にもアリスもカジノに興味があったらしく、こっちはポーカー台で無類の強さを誇っていた。最初こそルールも知らないくらいだったのに、鳳にやり方を教えてもらうと、みるみる内にコツを掴んでしまい、並み居る強豪プレーヤーを蹴散らしていった。彼女は恐ろしいほどポーカーフェイスが巧みで、実は度胸も相当なものがあるから、どうやらこういう駆け引きが得意だったようである。

 

 見た目は可憐な少女にしか見えない彼女が山のようにコインを積み上げて、タバコの似合うおじさんたちをカモにしている。彼らは一様に顎から脂汗をポタポタと滴り落とし、唸り声をあげていた。そんな姿が目を引くのか、こっちもこっちで独特な近寄りがたい空気を醸し出していた。

 

 その時、キャー! っと黄色い悲鳴が轟いて、どうしたんだと目をやれば、スロットの方でクレアが大当たりをしていた。台から溢れ出すコインを従業員がせっせとドル箱に詰めていく。祝福の声があちこちから上がり、そのせいで雰囲気がよくなったのか、さっき逃げていった伊達男たちも戻ってきて、彼女を囲んでみんなで和気あいあいと楽しげに会話を交わしていた。

 

「やっぱり彼女はどこに居ても目立ちますね。華やかと言いますか……」

 

 鳳がそんなやり取りをぼんやり眺めていると、横からグラスを持った手がにゅっと出てきて、気がつけばミーティアが隣に立っていた。シュワシュワと炭酸が弾けるその飲み物は、懐かしのクライスである。魔法具屋の店主は今も息災だろうか。

 

 鳳はグラスを受け取って一口飲みながら、

 

「ミーティアさんは何かやらないの?」

「私、運が良くないみたいで、ギャンブルは苦手なんです。負け続けていたら、あんまり面白くありませんよね」

「そうなの?」

「……きっと人生で最大の賭けにもう勝ってしまったからかも知れませんね」

 

 ミーティアはそう言いながら、鳳の肩に頭を寄せてきた。彼はそんな彼女の肩を抱きながら、

 

「そっか。俺の運が極悪なのも、案外こんな美人を手に入れてしまった、神の罰なのかも知れない」

「鳳さんは出会った頃から運が悪かったと思いますよ。ほら、私たちが初めて出会った日も、ポーカーでカモられてましたよね」

「そんなこともあったなあ……っていうか、あんたあの時、俺のレベル思いっきり見下してくれたよね?」

「そ、それに比べて、アリスはすっごくポーカーが上手ですね」

「誤魔化すなよ」

 

 鳳が苦笑しながら彼女のほっぺたを突っつくと、ミーティアは少しはにかんでから、すぐに真顔に戻って、

 

「誤魔化すと言えば、昼間のあれ……アリスは喜んでいましたけど、本当はどういうつもりで言ったんですか?」

「……え?」

 

 昼間のあれとは、アリスがそろそろ子供が欲しいと言ったことだろうか。鳳は、次の攻略を終えて帰ってきたらと答えたのだが、

 

「……なんだか今日の白さんは、私たちとの別れを惜しんでいるような気がします」

「そんなつもりは……」

 

 あるかも知れない。鳳は今日、多少わざとらしいくらい家族サービスをしていた。恐らく、ミーティアだけでなく、クレアも、そしてアリスも気づいているだろう。

 

「もしかして、次の迷宮は相当攻略が難しいんじゃないですか……? もしそうなら、次なんて言わずに、もうアリスと子供を作ってもいいんじゃありませんか。彼女だけ、可哀相ですもの」

「う、うーん……それについては、あとでみんな集まってから話すよ」

 

 鳳は歯切れ悪く返すしか無かった。彼女はそんな彼の胸に額を当てて、ぎゅっと彼の体を抱きしめながら、

 

「私は、あなたにたくさんの物を頂きました。私たちの子供に、私たちのお家に、そこで一緒に暮らすクレアやアリスのような姉妹も。もし、あなたが無理をしているのなら、何でも言ってくださいね。私たちはいつでもあなたの味方ですから」

「うん……」

「こらーっ! そこの二人! ちょっと目を離した隙に、いい雰囲気になってるんじゃないわよ! 油断も隙もないわ」

 

 鳳たちが抱き合っていると、クレアが飛んできて二人の間に割って入り、ミーティアのことを引っ剥がした。彼女は鳳の腕にぶら下がるように抱きつくと、

 

「もう! ダーリンもこんなところでボケっとしてないで、一緒に遊びましょうよ! ほら、あっちにルーレットがあるわよ」

「そうだな、でもアリスを置いてけないし……」

「ご主人様、ご一緒いたします。今度は奴らから金を巻き上げればよろしいのですね? ……ひっく」

 

 鳳がクレアにそう返事していると、音もなくスッとアリスが現れた。こっちの様子を見てすっ飛んできたのだろうか。その忠誠心は本当に見上げたものだが、それにしても今、なんだか彼女らしくない妙なことを口走ったような……

 

 鳳たちがどうしたんだろうとその顔を覗き込んだら、彼女の顔は真っ赤に染まっており、

 

「今日はこのアリスが、ご主人様の下僕として、お役に立てるところを、ひっく、見ててくらさいね~! ご主人様! ひっく」

「わーっ!! 誰だ、アリスに酒飲ませたの!?」

 

 ポーカー台を見てみたら、髭をはやしたダンディなおじさんたちが、申し訳無さそうな顔で手を合わせていた。多分、勝負に負けた奢りのつもりだったのだろう。とんでもない奴らだが、アリスにカモられた被害者だと思うと怒るわけにもいかなかった。アリスは上機嫌に彼らから巻き上げたコインをジャラジャラさせながら、

 

「さあ、皆さん、いきますよー! 今日はアリスがこの賭場の銭を、全部吸い上げてみせますよ~! ひっく!」

「あはははは! それは頼もしいわね」

 

 返事も待たずにズンズン進むアリスを、クレアが笑いながら追いかけていった。鳳とミーティアはやれやれと二人同時に肩を竦めては、彼女の酔いが覚めるまでしっかりついていてあげなきゃと、その後を追った。

 

********************************

 

 その後、オーナーがもう勘弁してくれと泣きついてくるまでアリスの快進撃は続き、物足りなそうにしている彼女を引きずって、鳳たちは併設のホテルにやってきた。カジノに行く前にチェックインしておいたはずだが、いつの間にか部屋はスイートからロイヤルスイートに切り替わっており、ついでに宿泊料もタダになっていた。数々の伝説を作り上げてしまったアリスは出禁にこそならなかったが、恐らく、今後ここへ来る度に要注意人物としてマークされることだろう。

 

 部屋に入ると、こんなところいくらでも慣れているだろうに、クレアが嬉しそうにスプリングの効いたベッドで飛び跳ねていた。それは彼女が今日を目一杯楽しんでいるのもあったろうが、恐らく緊張もいくらか含んでいただろう。アリスの酔いがようやく覚めてきて、ルームサービスを呼んで軽食を交えつつ、落ち着いてきたところで鳳は話を切り出した。

 

 彼が次に攻略しようとしているのは、この世界のどこかにある迷宮ではなくて、高次元世界……この世界を創造した神に挑もうとしているのだ。

 

「つまり、次はいつ帰ってこれるか……いいえ、帰ってこれるかどうかもわからないってことですか?」

 

 鳳の話を聞いていたミーティアが、しんと静まり返る部屋の中で、彼女らを代表するように尋ねた。鳳は彼女の言葉に頷き、

 

「三年前、世界の崩壊が起きた時、俺たちはこの世界を救ってくれた仲間たちを失った。ジャンヌ、ギヨーム、サムソン、カナン先生たち……そしてレオだ。彼らは崩壊する世界の中で、なんの準備も出来ないまま仕方なく世界を渡り、それ以来、連絡は途絶えてしまった。そしてレオはこの世界を元に戻した後、壊れた聖遺物(アーティファクト)を残して消えてしまった。

 

 これだけの犠牲を払って、俺たちはこの平和を手に入れたんだよ……

 

 本当なら俺も彼らと一緒に高次元世界に行って、神と対決しなきゃいけなかったのに、彼らを見捨てることによって、自分だけが助かったんだ。俺はそれを思い出す度に悔しくて、夜も眠れなかった。君たちがそんな俺の傷を癒やしてくれたけど……君たちと愛し合っている間もずっと、俺は彼らのことが気がかりで仕方なかったんだ。

 

 だから、あれ以来、俺は高次元世界に消えた彼らと連絡する手段を探していた。迷宮を片っ端から制覇していたのはそのためだったんだ。もしかしたら、先人の中には何か手掛かりを遺している者もいるかも知れない、そう思ってさ」

「ルーシーと、コソコソ会っていたのもそのためですか?」

「ドキーッ! も、もちろん、そのためだとも!」

 

 鳳はしどろもどろになりながらも、なんとか軌道修正しつつ、

 

「……と言っても、ミーティアさんだって知ってるだろ? 彼女は俺のパーティーの一員で、レオナルドの弟子だった。きっと、俺以上に悔しい思いをしていたに違いない。だからこの三年間、似合いもしない宮廷魔術師なんかをやって、ずっと俺をサポートしてきてくれたんだ」

「ええ、分かってますとも。彼女は私の親友でもありますから……って言うか彼女、普通によく遊びに来て、ペラペラ話してくれましたよ」

「マジで!?」

 

 あの女はやはり油断ならない……これじゃ歩く拡声器じゃないかと、鳳がげんなりしていると、ミーティアは苦笑しながら、

 

「ペラペラ話したと言っても、鳳さんと何したのかってことだけですよ。よくもまあ、そんな恥ずかしいプレイを……それはさておき、だから二人が頻繁に会って、何かしているのには薄々感づいていました。そしてそれが、私たち常人には及びもしない大それたことなんだろうなってことも……多分、神様に挑もうなんて言い出すんじゃないかって、覚悟もしていました」

 

 彼女の言葉を受け取るように、両隣に座っているアリスとクレアも頷いた。どうやら、嫁たちはとっくにお見通しだったらしい。鳳は申し訳無さそうにポリポリほっぺたを引っ掻きながら、

 

「そんなわけでさ……3年かけて、世界中を飛び回って、ようやく上の世界に行く目処が立ったんだ。問題は、絶対にその方法であっちに行けるとは限らないし、気軽にこっちに戻ってくることも出来ないってこと。あっちで、何が待っているかも分からない。最悪、命を落とす危険もある……

 

 でもさ? それでも俺は行きたいんだ。行って、仲間たちがどうなったのか知りたいし、そしてなんとしてでもレオを元に戻したい……俺じゃなくて、あいつがタイクーンに返り咲くべきだ。何しろ、二度も世界を救った、凄いやつなんだぜ? だからさ、こうしてみんなに相談しているのは、許して欲しいんじゃなくて、それでも俺は行くつもりだから……その決意表明みたいなものなんだ。

 

 こんな一方的なの、納得行かないかも知れない。本当なら愛想つかされてしまうかも知れない。もしかしたら、これが原因で離婚ってことになるかも知れない。でも、仮にそうなったとしても、俺は止まらないって決めたんだ。だから……」

 

 鳳の頭の中にはいろんな言葉が過ぎったが、どの言葉も薄っぺらいような気がして、結局、彼は言葉を飲み込んでしまった。別れたいなら別れてもいいとか、殴りたいなら殴っていいとか、慰謝料とか、侮蔑の言葉だとか、そんなものを彼女らが求めないことは誰よりも彼自身が分かっていた。

 

 だから言葉をなくした彼は結局の所、

 

「ごめんね……」

 

 これしか言えなかった。

 

 沈黙が場を支配する。カチカチとなる時計の音だけがしていた。アリスはじっと自分の指先を見続けており、クレアが目を真っ赤にして、何度も鼻をすする音がした。4人が4人共押し黙るそんな中で、ずっと視線を逸らす鳳の顔を見続けていたミーティアは、やがて長い沈黙の後に、これまた長い溜息を吐いて、

 

「はぁ~~~……どうせ止めても行くというのなら、仕方ないじゃないですか」

「ごめん……」

「いいえ、謝るのはこちらの方ですよ。あなたの話を聞く限り、結局、神という存在をどうにかしなければ、この世界はいずれまた消滅の危機に見舞われてしまうんでしょう? それを助けてくれようとしているのですから、そんなあなたを責めようなんて人は一人もいませんよ。そんな役目をあなたに負わせてしまい、寧ろ申し訳ないくらいです」

 

 ミーティアが周囲を見回すと、クレアとアリスが肯定するように強く頷いた。彼女はそんな二人の意思を受け取ったといった感じに、

 

「あなたが行くというのなら、私たちはその背中を押しましょう。あなたが迷わないように……それが勇者の妻になることだと覚悟していました。だから、平気です。私たちのことは気兼ねせず、あなたの道を突き進んでください」

 

 鳳がその言葉に顔を上げる。

 

「ごめん……いや、ありがとう」

 

 ミーティアはそんな彼に釘を差すように、

 

「ただ、その代わりと言ってはなんですけど、行く前に私たちの願いを一つずつ聞いてください。そして約束してください」

「もちろんだとも。でも、なんだろう?」

 

 鳳が力強く頷く。ミーティアは彼の言葉を確認すると、決意を込めるような呼吸をフーっと吐き出してから、

 

「それじゃあ、私からのお願いです。絶対に生きて帰ってきてください。出来ないかも知れないじゃなくて、絶対に。私、ギヨームさん程じゃないですけど、鳳さんのことには少し詳しいんですよ? あなたは、いつも不可能を可能にしてきました。絶対にやると決めたことは、必ずやり遂げてきました。だから、絶対に帰ってくるって、私に約束してほしいんです。そうしたら、あなたは絶対に帰ってこれますから」

 

 鳳は彼女のその真剣な瞳をまっすぐに見つめながら、

 

「……約束するよ。絶対に帰ってくる」

 

 彼はそう宣言することで、確かに自分の中で何かが変わったような気がした。実際にはそれはほんの些細な心境の変化でしかないのだろうけど、その些細なものがいつか生死を分けるものに変わっていくのだろう。そう思った。

 

 そんな二人がキラキラと見つめ合っていると、自分ばっかりずるいと言った感じでクレアがミーティアの横から覆いかぶさってきて、

 

「じゃあね、じゃあ私は、あっちの世界の何か珍しい物が欲しいわ、ダーリン。宝石とか綺麗な貝殻とか、そういうのがいいわね」

「ははっ……わかった。凄いのを見つけてくるよ」

 

 鳳が苦笑気味にそう請け合うと、彼女に押しのけられるようにして横で聞いていたミーティアが不服そうに、

 

「まったく……しょうがない人ですね。良くもまあ今そんな物欲まみれなものを、臆面もなく頼めますね、あなたは」

「だって、ダーリンがいま絶対に帰ってくるって言ったじゃない。だったら絶対帰ってくるでしょ。それはもうわかりきってるんだから、せっかくなら色々おねだりしとかないと」

「なんだか、私のお願いを出汁にされているみたいで不快です」

「だったら、ミーティアが何かお願いしたら? そしたら、私が代わりに、ダーリンに絶対に帰ってきてってお願いするわ。ねえ、そうしましょうよ」

 

 クレアはニヤニヤと笑っている。ミーティアは複雑そうに眉を寄せつつ、

 

「うっ……そんなこと言われても、この役目は絶対譲りませんからね! もう……」

「ミーティアさんにも何かお土産持って帰るから」

「いえ、要りません。私は本当に、あなたさえ無事に帰ってきてくれればそれでいいんですから……さて、私たちのことはもういいですから。アリス? あなたもご主人様に何かして欲しいことがあるんじゃないですか? 私たちには遠慮しないで、ご主人様にあなたの思っていることをちゃんと伝えなさい」

 

 控えめなアリスがお願いしやすいように、ミーティアはアリスを促した。彼女としてはカジノでも気にしていた通り、鳳との最後の夜をアリスに譲るつもりでいたのだが……しかしアリスには、決して他の二人を蔑ろにするような考えは無かったらしく、ミーティアには想像もつかないような、もっと突拍子もないことを言い出した。

 

「でしたら私は……盾が欲しいです」

 

 その単語があまりにも想定外過ぎたから、鳳も彼女が何を言っているのかすぐには理解できず、たっぷり数十秒くらい首をひねってから、

 

「盾……? 盾って、あの、シールド?」

「はい」

「何でそんなものを欲しがるんだ? アリスさえよければ、もっと良いものをいくらでもあげられるんだけど」

 

 鳳は彼女がもしかして遠慮して言ってるんじゃないかと思い、確認するように尋ねてみた。しかしアリスは別にそんなつもりで言ったわけじゃなかったらしく、

 

「いいえ、本当に盾が欲しいんです」

「なんでまた? 理由を聞かせてくれないか」

「はい。私は以前、ご主人様を追いかけた先のアマデウスの迷宮で、意識を失ったご主人様からの攻撃に一歩も動けませんでした。それがご主人様であることは話の流れで分かっていたのに、ただ恐ろしくて体が固まってしまって、あろうことか、私が守るべき奥様に助けて頂いたんです。奥様はお仲間を助けようと必死で、そして最後までご主人様のことを信じておられました。私は奥様ほど強くはありませんから、あの時は仕方なかったのかも知れません。ですが、だからといって自分のことを許せるわけでもなく……だから今度こそ家族を守れるように、私は盾が欲しいんです」

 

 アリスの言いたいことはなんとなく分かった。あのアマデウスの迷宮で、彼女はミーティアに助けられたことを、ずっと後悔していたのだろう。その気持ちが、あの時、自分が盾を持っていたらという願望に繋がったのだ。

 

 その気持ちはわかるし、盾なんていくらでも買ってあげられるけれど、かと言ってそんなもの四六時中装備しているわけにもいかないだろうし、鳳はやっぱりもっと他のものにしたらどうかと言おうとした。

 

「あら、いい考えじゃない」

 

 するとクレアが横から口を挟んできて、ペンを持ち出してきて紙に何かを描きはじめた。

 

「盾ってのは貴族の紋章よ。ヘルメスにも王家の紋章があるから、ヘルメス軍はそれを使ってるけど、うちのプリムローズ家にも、ニュートン家にも、神聖帝国にも、なんならヴァルトシュタインにだって紋章があるのよ。考えても見れば私たちも、今ではこうして一つの家族になったんだから、新しい自分たちのを作りましょう。鳳家の紋章よ」

「素晴らしい考えです! 是非、ご主人様のものを作りましょう! 私はそれがすっごく、すっごく欲しいです!」

 

 アリスが身を乗り出して興奮している。鳳は少々面食らったが、確かに結婚をしておいて、いつまでも家族の証明が無いのはどうかと思い、新しく自分の紋章を作るのも悪くないと思った。ミーティアを見れば、彼女もこっちを見て頷いている。

 

「じゃあ、ここらで正式に家族のものを作ろうか? でも、紋章って具体的にどんな風に作るんだ? 自分勝手に作っちゃっていいの?」

「基本的には自由なんだけど、いくらかパターンがあるのよ。お役所に受理されないような奇抜なものは駄目ってことね」

「ああ、ちゃんと役所に届けるようなものなんだ?」

「私たちが住んでる家が、そのお役所なんだけどね。それじゃアリス、ダーリン、まずはあなた達の好きにデザインしてみてよ。私はヘルメスの紋章なら大体記憶してるから、被らないように後ろからアドバイスしてあげる」

「そっか……うーん、どんなのを作ればいいんだろうか」

「ご主人様みたいに、格好良くて、少し優しい感じがいいです」

「そ、そう言ってくれるのは嬉しいけど、もっと具体的に……」

「盾を支えるサポーターは二匹の竜が良いわね。ダーリン、ドラゴンスレイヤーだもん」

 

 こうして、鳳のこの世界での最後の夜は、4人であーでもないこーでもないと盾をデザインすることで暮れていった。クレアの提案通り、二匹の龍が盾を支えるデザインだけはすぐに決まったけれど、それ以外のデザインは中々みんなの意見がまとまらず、気がつけば日付が変わり深夜となって、鳳はベッドの上でペンを握りながらウトウトとし始め、ついには眠ってしまった。

 

 三人の妻は、本当ならもっと彼との時間を過ごしたかったが、そのまま寝かせてあげることにした。彼は世界中を旅して、100を越える迷宮を制覇し、魔王も倒してしまうほど強い男かも知れないが、そのせいでいつだって緊張を強いられているのだ。そしてこれからまた、過酷な旅に出ようという彼が、自分たちの前でこうして無防備な寝姿を見せてくれることが、彼女たちにはものすごく名誉なことだと思えた。

 

 ミーティアは、それでも鳳と子供が作れなかったアリスのことを慮って、なんなら自分たちは席を外そうかと彼女に言った。クレアもそれには同意しているようだったが、しかしアリスはそんな二人に首を振りながら、

 

「ご主人様からならもう、ちゃんと貰いましたよ?」

 

 それがどういう意味なのかと二人が尋ねたら、彼女ははにかむような眩しい笑顔で、さっきみんなで描き入れていたデザイン画を取り出し、

 

「私にも、家族が出来ました」

 

 その後、鳳が眠ってしまったダブルベッドの上で、四人は窮屈そうに川の字になって眠った。鳳の両隣にはクレアとアリスが抱きつくように眠っており、そして鳳と二人でアリスを抱きしめるようにミーティアが居て、四人は本当に仲睦まじい家族のように、穏やかな寝息を立てて眠った。最後の夜は、そうして終わった。

 



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世界渡りの儀

 翌朝、妻たちをプリムローズ城まで送った鳳は、いつものように朝食を家族で取って、いつものように家を出た。三人の妻が城門の跳ね橋の前まで見送りに来て、普通ならばその跳ね橋が降りてくるのを待つところだが、彼はいつものようにその前で振り返ると、

 

「それじゃ行ってくる」

 

 と言ってポータルを出してあっさりと飛んでいってしまった。それはこれ以上ないほど素っ気ない別れであったが、必ず帰ってくると約束した以上、いつものルーチンは変えたくなかったのだ。妻たちもいつも通り顔色一つ変えていなかったが、内心ではどう思っていたのだろうか……

 

 鳳はポータルから出ると、帝都の迎賓館の前でため息を吐いてしゃがみ込んだ。彼だって不安がないわけではないのだ。三年前はそこにジャンヌとギヨーム、それに堕天使たちという強力な仲間が居て、エミリアから授けられた救世主の能力と、更に帝国やレオナルドのサポートも得られた。だから、きっと何とかなるだろうと思っていた。

 

 だが、その仲間たちはもう居らず、今の彼はほぼ単身で未知なる世界に乗り込まねばならなかった。詳しい事情を知っているカナンが居ない状況では、上の世界でも救世主の力が使えるかどうかもわからなかった。本当なら、こんな慌ただしく出発することなどせず、いくらでも気の済むまで準備をしてから行けばいいだろうに、妻たちを悲しませてまで、彼はそうしなかった。

 

 それは三年前からそう決めていたからだ……何しろ世界を渡るなんてことは、いくら準備したところで十分なんてことは有り得ないのだ。なのにグズグズと出発を伸ばしたら、絶対に決心が鈍るだろう。それに自分には子供がいる。もしも一度行くのを躊躇してしまえば、それを言い訳にして動けなくなる可能性があった。

 

 それに恐らく、この世界はとっくに神に目をつけられている。次の驚異がいつ襲ってくるのかも分からないのだ。

 

 もちろんミーティアと約束した以上は絶対に帰ってくるつもりであるが、実際に何が起こるのか何一つ分かっていない現状では、この曖昧模糊とした気持ちを、どこにどうぶつけていいのか分からなかった。

 

「来たね、鳳くん……」

 

 だが、それはきっと残される人も同じだろう。少なくとも、鳳には行く行かないの選択肢があったが、彼女はどんなに望んでも、師匠を助けるために高次元世界へ乗り込むことは出来ないのだ。

 

 鳳が迎賓館の前でしゃがみこんでいると、ふっと人の気配が現れて、気がつけばいつの間にかそこにルーシーが立っていた。彼女は現在、帝都の宮廷魔術師になって、メアリーと共に鳳の世界渡りについて色々と骨を折ってくれていた。

 

 三年前、既に現代魔法の使い手として頭角を現していた彼女は、それからもメキメキと力を伸ばし、今では姉弟子のスカーサハをも超える大賢者と呼ばれるに至っていた。特に占星術師の迷宮を攻略して、この世の理を知った彼女は、空間を操る魔術師として無類の強さを誇っている。因みにその力にあやかろうとして、鳳も迷宮に挑もうとしたのだが、まるで歯が立たなかった。

 

 それ以来、現代魔法について鳳は彼女から学んでいた。尤も、あまり出来の良い生徒とは呼べず、彼女は向き不向きがあると言って慰めてくれたが、鳳はもしかすると純粋に自分の力だけで比較すると、意外とこの世界で一番強いのは彼女なのかも知れないと思っていた。

 

「お久しぶりです、勇者」

 

 そんな彼女の背後からスカーサハが現れた。彼女がここにいるのは、今日のために予めルーシーが呼んできてくれたからだった。

 

 3年前、帝国に請われてオルフェウス卿に就任した彼女は、普段はオルフェウスの首都に住んでいた。本当は新大陸に帰りたかったようだが、他に適任者が居なかった上に、うっかりオルフェウスの竪琴なんて物を継承してしまい、断れなかったのだ。

 

 以来、ヘルメス卿になったクレアとも何かと縁があるようだが、会う度に、探検団を率いて新大陸に渡ったヴァルトシュタインのことが羨ましいと愚痴っているようである。

 

 そんな彼女を呼び出したのは、正にそのオルフェウスの竪琴が必要だったからで、彼女にはこれから一緒に、とある場所までついてきてもらう予定だった。

 

「やあ、おはよう。ルーシー、スカーサハ先生。今日はよろしくお願いします」

 

 鳳は取り繕うようにさっと立ち上がると、二人と握手しながら通り一遍の挨拶を交わした。恐らく彼女らは、彼がポータルから出てくるなりへたり込んでいた姿を見ていただろうに、何も言わなかった。彼らはそのまま何事もなかったように迎賓館からすぐの皇居の正門まで歩いてきた。

 

 すると今日は珍しく通用門ではなくちゃんと正門が開いていて、正装をした護帝隊の隊士たちがズラリ並んで出迎えてくれた。きっと帝国としても今日のことは正式な行事と認識していると言いたいのだろう。この敷居をまたぐのは、魔王討伐の表彰をされて以来であろうか。ルーシーが先頭を進んで、鳳とスカーサハがその後に続く。

 

 門をくぐるとすぐにマッシュ中尉フェザー中尉の二人を連れたメアリーが待っていて、鳳を見るなり楽しそうに駆け寄ってきた。お付きの二人と比べて、こちらは大分ラフな格好である。

 

「ツクモー! 待ってたよ。それじゃ早く行こうか。高次元世界ってどんなとこだろ。楽しみだね」

「おはようメアリー、ついてきてくれと言っておいてなんだけど、なんか軽いな。死ぬかも知れないっつーのに」

「皇居の中で退屈で死ぬくらいなら、冒険で死ぬ方がずっといいわ。エミリアたちにはそういう冒険心がわからないのよ」

「まあ、悲壮感漂わせているより、そっちの方が俺も気が楽だけど」

「ツクモこそ気負いすぎなんじゃないの? 自分が世界を救うんだとか、そんな大それたこと考えてるんじゃない?」

「う、うーん……」

 

 そんなつもりはないと言いたいところだったが、ある意味図星でもあった。救世主だとか突然言われて、あっちの世界に行けるのも自分だけかも知れないと思うと、例えこれが友達を救出するために自分が望んだことであっても、妙にプレッシャーが掛かる気がするのだ。

 

「失敗したら今度こそ世界は終わりかも知れないって思ってるんでしょう? でも、失敗した後のことなんて考えても仕方ないわよ。成功して、ここに戻ってくることだけを考えていた方が良いわ」

「まあ、そりゃそうなんだけどな。あっちの世界に行って、本当にちゃんと力が使えるのかって思うと不安なんだよね。ケーリュケイオンも持ってけないし」

「そのために私がついてってあげるんじゃない」

 

 高次元世界に渡るにあたって一番の懸念は、こっちの世界と違ってあっちでは鳳の力が使えないかも知れないところにあった。

 

 おさらいになるが、この世界で彼が強い力を持っているのは、何もかも全て、1000年前にこの世界を救ったエミリアのお陰なのだ。

 

 1000年前に世界を救い、その後訪れた神の刈り取りに対抗しきれないと判断したエミリアが、その知識の集大成として帝都のP99を遺し、そして救世主として鳳白を復活させたわけだが、鳳がただの人間のはずなのに、神人を凌駕する力を発揮できる理由はそこにあった。

 

 と言うか、この世界の人間にレベルがあるのも、レベルが上がればステータスも上がるのも、実はエミリアの遺した遺産のお陰なのだ。

 

 元々、このレベルという概念は、誰も彼もが強い力を使えないように、リュカオンと戦う神人を統制するために作られたものだった。だから、普通に考えれば、これから彼らが行く高次元世界の人間には、そんなものは存在しないはずなのだ。

 

 そんなわけで3年前、カナンは世界渡りの際にはメアリーも必須だと言っていたわけだが、こうして準備を整えて、いざあっちの世界に行こうとしていても、その懸念はどうしても拭いきれなかった。本当に、あっちにメアリーを連れて行くだけで、鳳は力を取り戻すことが出来るのだろうか……

 

 とは言え、今更怖気づいても居られないだろう。仮に向こうに行って、何の力も使えなかったとしても、だったら行かないのか? と問われたら、彼は行くと答えるに決まっていた。

 

 それに3年前、この世界で目覚めた時、鳳は何の力も持っていなかったのだ。それでもなんやかんやで面白おかしくやってこれたのだから、今度だってなんとかなるだろうと、そう信じて進むしかない。

 

 自分を鼓舞するようにそんなことを考えながら、メアリーに先導されて鳳は皇居の中を進み、ついに禁裏の召喚の間へと辿り着いた。彼が勇者召喚で呼び出された、ある意味はじまりの場所である。

 

 その部屋の中央に設置された台座の上には、今は一部分が欠けた水晶玉が置かれていた。それはレオナルドの寝室で発見されたもので、3年間の調査の結果、レオナルドの迷宮そのものであることが判明していた。

 

 本来なら、彼の迷宮はもっと違う形でこの世に顕現するはずだったのだろうが、あの状況で無理矢理世界を元に戻した影響で、どうやら聖遺物(アーティファクト)が壊れてしまったようだった。この水晶玉の中には、今も彼が作り上げたこの惑星の分身、アリュードカエルマ世界があの時のまま残っている。あの時のままとは、つまり世界に第5粒子エネルギーが溢れ続けているという事である。

 

 この中は高エネルギーの海で満たされており、何の対策も取らず無防備に突入すれば、ものの数秒で全身が焼けて死ぬことになる。というか最初、鳳はルーシーの開いたポータルを使って中に入り、危うく死にかけた。それ以来、彼らはこの世界を探索するための方法を探して、世界中の迷宮を攻略していたわけである。

 

「勇者様、ようこそおいでくださいました。この度は勇者様と真祖様がこの世界をお救いになる旅に出られるというのに、我々は何の力にもなれずに申し訳ございません」

 

 その台座の前では皇帝が待っていて、いつもとは違う儀式めいた衣装を身に着けていた。帝国の式典や、勇者召喚の儀式の時にも着ていたものだが、この日のためにわざわざ正装に着替えてきてくれたようである。それくらい、帝国も全面的に協力しているという気持ちを表しているのだろう。こっちは大事な真祖を連れて行こうと言うのに、有り難い限りである。

 

 皇帝はいつもより厳かな調子で言った。

 

「世界渡りの儀に関しては、今回私には何も出来ませんが、もし万が一あちらの世界でお二人が命を落とされた時は……この召喚の間にて、勇者召喚の儀を執り行わせていただきます。ただ、お分かりでしょうがその時はもう、恐らく今の勇者様の記憶は無くなっていると思われます。まだ、新婚と言っても差し支えもない時期に、本当によろしいのでしょうか?」

 

 彼女はこれから高次元世界へ渡るという鳳に、最終確認のつもりで尋ねているようだった。もちろん、そんなこと、今まで幾度となく考えてきた彼は、力強く頷くと、

 

「ええ、仮に新婚だろうと、銀婚式を迎えていようと、この世に未練が残るのは変わりません。それに、俺は別に世界を守るために行くわけじゃありません。居なくなった友達を探しに行くんです。自分のためなのに、気を使われてはかえって恐縮してしまいますよ」

 

 皇帝はそんな彼の言葉にじっと耳を傾けた後、一行に道を開けるように台座の前から離れた。ここから先、自分にはもうやれることはないと言うことだろう。

 

 入れ替わりに、宮廷魔術師となったルーシーが前に進み出て来て、鳳に向かってというよりも、その場にいる人々全員に説明するように、これから始める儀式の内容を話しはじめた。

 

「それではこれから、勇者鳳白様、真祖ソフィア様、オルフェウス卿スカーサハ様、そして私の四名で、この水晶の中の世界……アリュードカエルマへ突入します」

 

 その言葉を合図に、鳳たちがルーシーの前に歩み出る。彼女をそれを待ってから、

 

「突入後、我々は空間に満ちている第5粒子をかき分けて、あちらの世界に残されている『アロンの杖』を奪還し、勇者様、真祖様の二名はその場から高次元世界へ渡ります。その後、私とスカーサハ様の二名はケーリュケイオン、アロンの杖の二つの聖遺物を回収してここへ戻ってきます。手順は以上です。何か質問はありますか?」

 

 彼女の言葉にその場の全員が沈黙で答えた。ルーシーはたっぷり一分ほど待ってから、鳳、メアリー、スカーサハの三人に確認するように頷くと、

 

「ではこれより、世界渡りの儀を執り行わせていただきます」

「勇者様、真祖様……お二人がご無事であるよう、ここでお祈りさせていただきます。ご武運を」

 

 皇帝の言葉を合図にルーシーがポータルを作ると、鳳は感謝の言葉を彼女に返してからその中へと入っていった。

 

 ポータルの出口は光の海の中だった。360度見渡す限り真っ白な光しか見えない空間で、自分が立っている地面が辛うじて見える程度だった。

 

「ケーリュケイオン!」

 

 このままここに佇んでいたらあっという間に焼かれてしまうから、鳳は大慌てで杖を使って周囲のエネルギーを吸い取り、4人が入れるだけの隙間を作った。続いてポータルからスカーサハが出てきて、すぐにその隙間を抑えてくれた。彼女の竪琴は、高次元からくる攻撃をなんでも弾いてくれる。オルフェウスの竪琴の支援が無ければ、鳳だけではそう長くは持たないのだ。

 

 そうして二人が空間を確保した後に、メアリーとルーシーがやってきた。術者がポータルを潜り抜けたことでそれが閉じ、いよいよこの世界とあちらの世界は別々の空間となった。あっちに戻りたければ、ルーシーと逸れたら一巻の終わりである。

 

 尤も、言うまでもなく、鳳にはもうあちらに戻る意思は無かった。目指すはただ神の世界、高次元世界に消えた仲間たちを救出するのだ。

 

 そして4人は眩いばかりの光の海の中を一歩一歩確かめるように歩き始めた。地面は砂漠のようにサラサラの細かい砂で覆われており、道標になるようなものはどこにも見当たらなかった。仮にあったとしても、この世界は空間そのものが壊れてしまっており、目印なんて何の役にも立たなかっただろう。この中を迷わず進むには、ただ空間という認知そのものを感じ取れるような素質が必要なのだ。そしてそれは占星術師の迷宮を攻略したルーシーの役目だった。

 

 精神世界のことは、鳳もこの三年間でどうにか少しは感じ取れるようになってきたが、まだまだルーシーには遠く及ばなかった。一行は彼女を先頭に、まるでジェンカを踊るように一列になってじわじわと進んだ。

 

 そしてルーシーは何かを探すように時折立ち止まりながら、一歩一歩ゆっくりと歩いていき……

 

「……あったよ」

 

 と、アリュードカエルマ世界に来てから数分後、彼女はあっさりとそれを見つけてしまった。3年前、カナンが残していったアロンの杖である。

 

 彼は高次元世界に消える際に、落ち着いたら追いかけてきてくれとこれを残していった。あれからこんなにも時間が流れてしまったが、彼はまだ無事なのだろうか……

 

 ルーシーが杖を回収し、その機能がまだ健在であることを確認する。それをメアリーが受け取って鳳の方へと振り返った。

 

 鳳がそんな彼女の下へ行こうとした時、竪琴を持つスカーサハがやってきて何かの袋を差し出した。

 

「勇者、これをどうぞ……」

「これは?」

「この中に私の髪の毛が入っています。確かカナンの話では、DNAを持ち込めさえすれば、私たちもあちらに転生することが可能とのことでした。ケーリュケイオンに取り込んでおいて、もし仮にあちらで私たちを呼び出す機会があれば、遠慮なくそれをお使いください」

「……ありがたく受け取っておきます。出来るだけ使わないようにしたいですけど、何があるか分からないんで、その時はよろしくおねがいします」

 

 スカーサハがニコリとした笑みを返して一歩下がる……入れ替わりにルーシーがやってきて、同じように袋を差し出してきた。

 

「私は特別に下のお毛々を……」

「よし、捨てよう」

「わー! うそうそ! ただの髪の毛だから、ちゃんと持ってってよ」

 

 鳳が、こんな時に仕方ないやつめと苦笑いしていると、彼女は鳳の胸に額を当てながら、ぎゅっと腰に抱きついてきた。

 

「鳳くん……これが今生の別れになるのは嫌だな。だから絶対に帰ってきてね?」

「うん」

 

 鳳が短く答える。ルーシーはまるで猫が自分の匂いをつけるかのように、彼の胸に何度も何度も額を擦りつけていた。

 

 もしかして泣いているのだろうか……? 鳳がそんな彼女になんて声を掛ければいいか分からずに黙っていると、やがて彼女はいつものように、誰もが振り返るような清々しい笑顔をみせて、

 

「……あっちで新しい体を手に入れたら、また処女が抱けるかも知れないよ? だから一日も早く、私のことを見つけてね?」

「君……本当にどスケベだよね。流石にお兄さんも、そんな発想はなかったよ」

 

 二人は小鳥のように、ちょんと短いキスをしてから、

 

「でも、すんごいやる気が出た。だから……頑張ってくるよ」

「うん、頑張ってね……」

「じゃあ……いってくる」

「いってらっしゃい」

 

 鳳がアロンの杖を持つメアリーのところへやってくると、二人のそんなアツアツな姿を見せつけられた彼女はほんの少し顔を赤らめつつ、

 

「もう……そう言うのは二人きりの時やってよね!」

「ごめん、これからは気をつけるよ」

 

 まあ、これからがあるかどうかも分からないのであるが……鳳はそんな言葉飲み込んで、

 

「それじゃあ、いこうか? メアリーはやり残したことはないかな?」

「ううん、何もないわ」

「……なんなら、今日は中止して、また今度でもいいんだよ?」

 

 鳳がしつこく念を押すと、メアリーはうんざりといった感じに肩をすくめて、

 

「大丈夫だって。ツクモの方こそ、今更怖気づいたりしてないでしょうね?」

「流石にもうそんなことは無いけどさ、なんつーか、君まで巻き込んでしまったことが申し訳なくて。本当なら、君は俺と違って、こっちの世界で面白おかしく暮らしていてもいいはずなのに……」

 

 鳳が最後の最後でそんな事を言いだすと、メアリーは少し怒った感じに顔を上げて、

 

「あのさあ、ツクモ。あなたは何でもかんでも自分の責任みたいに言うけども、元はと言えば、この世界にあなたのことを呼び出してしまったのは、私なのよ? そして、忘れているかも知れないけれど、地球でオンラインゲームをしていた時も、そしてこっちに来てからも、ジャンヌはずっと私の親友だったのよ。その親友を助けに行くことに、後悔なんてあるわけないでしょ?」

「そっか……そうだったな」

「あなたと私は同じなのよ。エミリアに作られて、この世界の宿命を背負わされた。それでいいじゃない。3年前、私たちはこの世界を救った。今度はあっちの世界に行って、みんなを救いましょうよ。私たちにはそれが出来るわ」

 

 メアリーの、カラッと乾いた言葉が胸に染みた。あーだこーだと考えていても、結局は行ってみないと何もわからないのだ。そしてもう、行く決心はとっくについていた。

 

 鳳は大きく深呼吸してから、最後の確認をするかのように、右手にケーリュケイオンを持ち、左手をメアリーの持つアロンの杖に添えて、彼らの方をじっと見守っているルーシーとスカーサハの方を向いて、両足で力強く地面を踏みしめながら言った。

 

「それじゃあ、行ってきます」

 

 そんな彼の緊張を解すかのように、ルーシーとスカーサハは笑顔で手を振る。

 

「アロンの杖よ、俺たちを導いてくれ!」

 

 鳳がそう宣言するや、彼の体が徐々に透き通ってきた。遅れてメアリーが宣言すると、二人の体はどんどん透明になり、そして呆気ないほど簡単に消えてしまった。

 

 程なく、鳳が持っていたケーリュケイオンとアロンの杖が地面に落ちて、ルーシーはその二本の杖を回収すべく駆け寄った。最後の瞬間、彼が何かを言っていたように見えたが、その声は聞こえなかった。多分、またねとか、そんな軽いものだろうと思う。

 

 でも、そんな簡単な言葉さえも、もう彼の口から聞くことが出来ないのかも知れないと思うと、彼女はどうしようもなく泣けてきた。ポタポタとした滴が地面に落ちて、乾いた大地に吸い込まれて、あっという間に消えていく。

 

「ルーシー……私たちも退避しないと、ここはすぐに火の海です」

「分かってます……分かってますよ、先生」

 

 彼女は涙を拭って立ち上がると、それがまた零れないように空を見上げた。しかし、そこには青い空は無く、ただ白い空間が広がっているだけだった。

 

 もし、神がいると言うなら、神は世界をこんな風に変えて、一体何がしたいというのだろうか? 幾千万の世界を創造して、そして幾千万の世界を滅ぼして、人間を創造し、文明を与え、時には奇跡を授けたり、希望を与えたりした末に、どうして我々人類の、そんな些細な喜びすらも刈り取ろうと言うのだろうか。

 

 もし、本当に神がいるというのであれば、どうか彼の言葉を聞き届けて欲しい。我々はただ生きたいだけなのだ。生き続けたいだけなのだ。

 

*********************************

 

 人が全く存在しないアマゾンの奥地で、今、一本の大木が根本からポッキリと折れた。この時、木が倒れる音はするか、否か?

 

 答えは否だ。観測者がいない限り、その音は存在しない。音というのは空気の振動が伝わって、それが観測者の鼓膜を揺らした時に、脳内で起こる知覚のことなのだ。だから、聞く者がそこにいなければ、そこには大木が倒れたという現象が起きただけで、音は存在しない。音というのは、人間一人一人の、頭の中にだけ存在する物なのだ。

 

 だが、もしも神がいるなら話は別だ。天網恢恢疎にして漏らさず。神は全ての現象の観測者でもあるから、アマゾンの奥地で大木が倒れた音も、ちゃんと聞いているはずである。本来だったら有り得ない現象が存在することになる。この世界は、そうして創られた。神がいるから、この世界は存在するのだ。

 

 私たちが隣の人に耳打ちした、その聞こえないくらい小さな囁きも、神には全て聞こえている。例え黙して語らずとも、その脳内で考えていることは全部お見通しだ。

 

 そんな存在に、どうしてたかが人間ごときが挑もうというのだろうか。

 

「……ュー……キュー……シーキュー。こちら……プロテスタント……」

 

 ぼんやりと意識が戻ってくる。暗い部屋だ、でも見えなくはない。何かの非常灯のようなランプが光っている。もしくは電源ランプだろうか? 身動きが取れず、体は宙に浮いているかのように、信じられないほど軽かった。どうやら自分は何か箱の中にでも入っているようだ。

 

「繰り返す……鳳白、応答せよ……」

 

 薄ぼんやりとする意識の中で、何かの音が聞こえていた。そのザラついたノイズはラジオだろうか? 電波状況は悪いらしい……内容はよく聞き取れない。だが、その中で自分の名前が呼ばれたような気がする。

 

「……我々プロテスタントは失敗した。カインは逃げ、サタン、ベルゼブブ、アシュタロスは処刑された。ジャンヌ・ダルク、ビリーザーキッドの両名は大罪人として捕らえられ、処理された。神はアナザーヘブンをそのまま泳がせ、鳳白を捕らえようとしている。あなたが来るのを手ぐすね引いて待っている」

 

 また眠気が襲ってきた。どうやらはっきりしないのはその内容ではなく、彼の頭がまだ覚醒しきっていないからだ。彼はともするとまた眠りに落ちてしまいそうな中で、その音をぼんやり聞いていた。

 

「もし、この音声を聞いているなら、こっちへ来ては駄目だ。今すぐ引き返しなさい。もし、それでもこちらの世界に来てしまったのなら、もうそこは危険だから、すぐに逃げなさい。ドミニオンが放たれ、あなたを処分しにやってくるだろう。だからすぐに逃げなさい」

 

 その緊迫するラジオの声が告げる。

 

「シーキュー、シーキュー、シーキュー……私はエミリア・グランチェスター。我々は失敗した……鳳白、応答せよ!」

 

(第一部・完)



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第七章・女だらけのこの世界で男は俺ただ一人だけ
神のみぞ知る


 我々の宇宙には様々な元素がある。自然界には原子量1の水素から238のウランまで92個の元素が存在し、原子炉の中のような人工的な環境でなら、ウランを超える高質量の元素だって作り出せる。だが概ね、物質は原子量1の水素から56の鉄までの、原子量の少ない状態で存在していることが多い。

 

 地球の核は鉄で出来ているし、大気は酸素や窒素、二酸化炭素などで構成されており、土はさまざまな有機物や鉱物、生物の体は炭素や窒素の化合物であるアミノ酸で出来ている。

 

 ところで、私たちの体を形作っている炭素や窒素なんて元素は、ごく普通にどこにでもありふれているわけだが、ところがこれらの物質がこの宇宙の中でいつ、どうやって作られてきたのかというと、割と最近、戦後になるまでわかっていなかった。

 

 例えばラジウムなどの放射性物質は、アルファ線を放出しながら原子核が割れて別の元素へと変化する。何もしていないのに崩壊を繰り返すのはそれだけその元素が不安定な証拠だ。しかし不安定であるなら、何故この宇宙にそんなものが自然に存在しているのだろうか? おかしな話ではないか。

 

 そう考えてみると炭素や窒素、酸素なんかの元素だって不可解だ。我々はこの世の物質がすべて原子で出来ていることを知っているが、その原子は陽子と中性子、電子によって出来ている。そしてラザフォードの実験から、陽子と中性子を含む原子核の周りを電子がくるくると回っている(電子の雲が取り巻いている)ようだと、ここまで分かっている。

 

 ところでその原子核というのはとても小さく、ただでさえ小さな原子の中でも無に等しいくらい狭い領域に過ぎない。するとどうしてそんな狭い領域に、同じ正電荷を持つ陽子がいくつも存在できるのかという疑問が生じてくる。

 

 電磁気の力であるクーロン力は距離の二乗に反比例して、同じ電荷同士は反発しあうという法則がある。つまり狭い原子核の中に複数の陽子を封じ込めておくには、とてつもないエネルギーが必要になるわけだ。

 

 実際に、世界で初めて加速器の中で二つの水素原子が融合する現象が観測されたとき、その反応を引き起こすために使われたエネルギーは莫大で、とてもSFの世界みたいに発電に利用しようなどとは考えられないほどだった。そんなエネルギーをどこから持ってくるというのだ。そう考えると、この宇宙のすべての物質は、一つの陽子と一つの電子からなる水素原子だけで出来ている方が自然なのだ。

 

 だがその水素原子が一か所に集まると話が変わる。水素原子は一つ一つは軽いかも知れないが、それが大量に集まって太陽くらいの重さにまでなると、自重により莫大なエネルギーが生じて、なんと核融合を始めてしまうのだ。そうして始まった核融合が連鎖反応を起こし、現在では恒星の表面で日常的に行われていることが知られている。

 

 ここまではいい。こうして水素原子は晴れてヘリウム原子になれた。じゃあ、他の元素はどうなのだろうか。

 

 言うまでもなく、原子核の中の陽子数が増えれば増えるほど、それを一か所に縛り付けておくための力は強くなる。だから原子核の陽子数が多くなればなるほど、その反応が起きる可能性はどんどん低くなっていくはずだ。

 

 何しろ大きな太陽だから、たまにならその表面でリチウムやベリリウムが出来ることがあるかも知れない。だがそれ以上となると日常的にとは言い難い、確率はどんどんどんどん低くなっていく。炭素を作るとなると、もう絶望的だ。でもこの宇宙には沢山の炭素が存在している。これは一体どういうことか?

 

 分からない。分からないけど、現実に炭素や窒素で出来た細胞を持つ、我々人間が存在しているのだから、まだ発見されていないだけで、そんな方法があるんじゃないか。

 

 そう言いだしたのは後にジョージ・ガモフとビッグバン論争を繰り広げる科学者フレッド・ホイルだった。

 

 彼は水素を燃やし尽くした赤色巨星の中で、ヘリウム原子3つが融合して炭素原子を作るという反応が、きっとあるんじゃないかと予言した。そして、これに興味を持ったウィリアム・ファウラーによって、それが事実であると証明されたのである。

 

 この発見により他の原子の生成過程も次々と見つかり、ファウラーは後にノーベル賞を獲得することとなる。因みに、フレッド・ホイルは何も貰えなかったが、彼のこのような考え方は、現在では『人間原理』という名称で世界中に広く知られている。

 

 我存在す、故に法則在り。法則は後からついてくるのだ。

 

 さて……元素というのは、原初の宇宙からありふれたものとして在ったと思いきや、実はこのように複雑な過程で出来ている。実際にビッグバン直後の宇宙に炭素や窒素はまだ存在せず、それが生じたのは最初の恒星が燃え尽きて超新星爆発を起こした後だったのだ。

 

 地上の土は、つまるところ、すべて生物の死骸であるが、実は私たちを形作る元素も、本を正せば、星の死骸で出来ていたわけである。そう考えるとなんとも言い知れぬ無常観を感じるだろう。生命は、必ず何かの死骸の上に成り立っているのだ。

 

 ところで、その生命が誕生するのに必要な有機物を作り出すための炭素や窒素が、こうして生まれたわけだが、これと同時にもう一つ生命にとって重要な物質も誕生している。言わずもがな、水である。

 

 我々は水がなければ生きてはいけず、日常的に触れているものだから、それを当たり前と思って意識していないが、実はこの水という物質は、自然界でもかなり特別な性質を持つ物質なのだ。

 

 物質には固体、液体、気体の三つの相が存在するが、普通の物質は固体の時に最も体積が小さく、液体、気体になるに連れて膨張し体積を増していく。ところが水は液体の状態の時が一番体積が小さいという変わった特徴がある。

 

 これは水の分子構造が原因なのであるが、知らない人向けにざっくりと説明すると、水はH2O、つまり一つの酸素原子と二つの水素原子の共有結合によって作られている。元素には電気陰性度というものがあり、特に酸素はそれが高くて、結合の際に水素の電子を奪おうとする傾向が強い。その結果、水の分子は水素原子の電子が酸素原子に強く引き付けられ、酸素原子のある側は少しマイナスに帯電し、二つの水素原子がある側はプラスに帯電する。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 そして周りの水分子も同じ構造を持つから、つまり水分子は水分子同士でも引っ張りあっているのである。その結果、分子が自由に動けない固体の時よりも、動ける液体の状態の時に、水は体積が最も小さくなってしまっているわけである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 水の中にある水素原子は、こんな具合に酸素原子と他の水分子の両方から引っ張られているために、結合が外れやすい。実際に、水の中では水素の原子核H+が、くっついたり離れたりして自由に動き回っている。故に有機物が水の中に入ると、自由なH+がくっついてその構造を変えてしまう。水が様々な有機物を溶かしてしまうのは、こういうカラクリがあったのだ。

 

 このように、化学物質というのは分子式だけではなく、構造にも着目しなければその本当の性質がよく分からない。余談ではあるが、逆に何も知らないとどういうことが起きるのかという面白い逸話もある。

 

 19世紀半ば、イギリスの大学生であった18歳のウィリアム・パーキンは、夏季休暇中に自宅の実験室でキニーネの合成法を研究していた。

 

 当時、すでにキニーネの分子式は知られていたが、まだ原子の存在は未発見であり、分子構造という概念もなかったため、彼はマイクラ工業みたいに同数の元素を混ぜ合わせれば作れるんじゃないかと素朴に考え、似たような分子式を持つ物質をあれこれ混ぜ合わせ、煮たり焼いたり色々試していた。

 

 もちろん、そんな方法で目的のものが生成出来るわけもなく、案の定、出来上がったものはタール状の何がなんだか良く分からないものだった。

 

 ところが、幸運なことに、このたまたま出来上がった代物は、当時のイギリス社会では貴重な紫の染料に代わるものだった。彼はこれに目をつけると早速特許をとって、一財産を築いたそうである。閑話休題。

 

 パーキンの時代には原子核や電子の存在などはまだ知られておらず、実は化合物とは原子が電気的に引き合って作られている、なんてことは分からなかったのである。分かるようになったのは、例のバルマー系列からボーア模型が作成され、電子にエネルギー準位があることが判明してからだ。

 

 現在の化学では、有機化合物は元素が安定的に結合しやすいいくつかのパターンを作り、それがくっついたり離れたりして形作られていることが分かっている。

 

 良く知られているのは、炭素と水素で出来たアルキル基(CH2とかCH3とか)に、ヒドロキシ基(OH)がくっついてメタノールやエタノールのようなアルコールが作られること。ほかにもベンゼン環(フェニル基)やカルボキシル基などがくっついて、酢酸や安息香酸が出来たりする。

 

 ほかに有名どころと言えば二日酔いの原因であるホルムアルデヒドを作るホルミル基だ。これはカルボキシル基を作る中間素材でもあり、その変化過程は化学の教科書に載っているだろうから、知っている人も多いだろう。

 

 ところで、我々の体を作るたんぱく質は、アミノ酸が重合して作られている。そのアミノ酸は二つの官能基、アミノ基(NH2)とカルボキシル基(COOH)がついているのが大きな特徴なのであるが、実はもう一つ変わった特徴がある。

 

 アミノ酸の一般構造式は下図の通りであるが、このアミノ基とカルボキシル基の位置関係が、必ずと言っていいほど図の順番通りになっているのである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 図では左にアミノ基、右にカルボキシル基がついているが、自然界に存在するアミノ酸は、殆どこの順番通りに並んでいるのだ。これを左右逆にしたところで出来上がるアミノ酸の特性は何も変わらないし、ごく少数ではあるが現実に存在もしている。だから普通に考えれば自然界に半数ずつがあっても良さそうなのだが、何故か殆どのアミノ酸が図の通りの構造になっているのだ。

 

 これは一体、どうしたことだろうか? アミノ酸は我々の体を作る大事な材料だ。それがここまで露骨な偏りを見せるのだから、人間原理的に考えれば、これには絶対に意味があるはずである。もう一度、図を見てみよう。

 

 アミノ酸を構成する二つの官能基は、直接本体Rにくっついているのではなくて、ハブのような役割のCHと結合して、それから本体Rにくっつている。こうして改めて見ると、一つの炭素(C)に、アミノ基(NH2)とカルボキシル基(COOH)とプロトン(H)の三つの基がついているようにも見える。ところでこの三つの基は、真ん中の炭素Cに、それぞれどれくらいの強度でくっついているのだろうか?

 

 さきほど水の分子構造を見た時、そこには電気的な偏りがあった。水素原子は陽子と電子、一個ずつから構成されているから、どうしてもそうならざるをえないのだ。ところで、よく見てみれば、さっきのアミノ基もカルボキシル基にも水素原子は含まれている。そしてそれは水分子と同じように電気的な偏りがあるはずだ。

 

 つまり、ハブである炭素(C)にくっついている三つの基は、自由にぶら下がっているのではなく、それぞれ電気的に反発しあい、歪みながらくっついているのだ。故に、二つの官能基を入れ替えてしまうと、その歪みは逆向きになってしまう。

 

 ところで、たんぱく質は同じアミノ酸がいくつも連なって出来ている。アミノ酸のカルボキシル基とアミノ基が脱水縮合するというペプチド結合を作るのだが……

 

 

【挿絵表示】

 

 

 もし、一つ一つのアミノ酸の歪みがバラバラだったら、そのペプチド結合が上手に作れなくなってしまうのがわかるだろうか。出来ることは出来るだろうが、右ねじ用の穴に左ネジを無理やり突っ込むようなもので、構造的に相当不安定になる。我々の体がそんなに脆くては困ってしまうから、だからアミノ酸は粒が揃ったものだけが生き残っていった。

 

 実はアミノ酸も生物の進化の過程で、淘汰されていたのである。

 

 さて、1951年にライナス・ポーリングがアミノ酸のこの偏りからタンパク質の構造を正確に描いてみせた時、同じ頃DNAの構造を研究していたジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、DNAが二重螺旋を描くであろうことを予言した。

 

 実は同じような偏りは遺伝子の材料であるリボ核酸にも存在し、しかもこっちの方は例外なく、必ず全てが同じ構造を持っていたのだ。それまではどうしてこんな偏りが存在するのか誰にも分からなかったのであるが、ポーリングがタンパク質の構造を示したことで、その糸口が見つかったのである。

 

 これにより、DNAが二重螺旋を描くことが分かり、更には一つのDNAの中に含まれる塩基、アデニンとチミン、グアニンとシトシンが必ず同数である理由が判明した。実はこれらの塩基がDNAの二重らせんの中で、お互いに水素結合することによって螺旋は形を保っていたのだ。水素結合ということは、つまり、その螺旋は簡単に半分に引き剥がすことが出来るわけである。そして、その半分に引き裂いたものの塩基配列から、全く同じものを簡単にコピー出来るのである。

 

 だいぶ端折ったが、このような事実が判明したことによって、DNAが生物の遺伝情報を持った物質であることが決定的になった。それもこれも原子間の電気の力……この宇宙の電磁気の力が丁度いい大きさだったからだと思うと、本当にこの宇宙というのは、つくづくよく出来ていると感心する。

 

 何故なら、もしも今よりほんの少しでも電磁気の力が大きかったり小さかったりしたら、原子はこんな風に自由に化合物を作ることが出来なかっただろう。水の奇妙な特徴も存在せず、従ってそこで化学変化も起きず、遺伝子はらせんを描かず、生命は誕生しなかったに違いない。

 

 実際、1916年に電磁気の力を表す微細構造定数が定義されて以来、この宇宙の絶妙な力の法則は結構な謎だった。あまりにも人間に都合よく出来過ぎているのだ。確率的に考えれば、もしも宇宙をビッグバンからやり直したとしても、今の宇宙は絶対に誕生しない。我々がこうして生きているのは天文学的数字でありえない奇跡なのである。

 

 だからエヴェレットは人間原理的に考えて、多世界解釈仮説を唱えた。実は宇宙は無限に存在して、我々はそのうちの一つにたまたま生まれただけなのだと。そういう風に考えれば、確かにこの宇宙が我々にとって都合がいいことの理由にはなる。

 

 しかし、論理的に正しく思えても、仮説はあくまで仮説である。それを真実と言い切ることはちょっと出来ない。例えば19世紀まで光は波だった。故に媒質が存在するはずだから、宇宙にはまだ未発見のエーテルという物質が満ち溢れているのだと、当時の人たちは割と本気で信じていた。

 

 だが、真実はどうだったろうか。光は粒子で波である。という、常識では到底考えられない事実がそこにはあったのだ。案外、この宇宙もそんな感じに、常識では考えられない無茶苦茶な真実が待っているのかも知れない。

 

 人間原理は伝家の宝刀ではなく、弄べばなんにでも辻褄を合わせてしまえるジョーカーなのだ。ぶっちゃけ、無限の平行世界が存在するということと、この世は神が作ったということと、どれほどの違いがあるだろうか。どちらも我々が自分たちに都合がいい世界に住んでいるという理由にはなるではないか。

 

 案外、この世界は神様に作られたと考えるのが、一番自然なことなのかも知れない。神様というのは、我々以外の知的生命体と捉えてもいいし、宇宙の法則のような概念的な存在でもなんでもいい。そして我々はそういった連中に、実験的に生かされているに過ぎないと考えても良いのではないか。少なくとも、その神が気まぐれでも起こさない限り、我々の日常は大して変わらないのだから。

 

 もちろん、平行世界が無限に存在するという宇宙も十分に検討する価値があるだろう。なんならこの物語みたいに入れ子構造の宇宙も。すべては5分前に始まったという仮説や、あなたの頭の中で起きている出来事ということもありかも知れない。

 

 なんにせよ分かっていることはただ一つ。いろいろ分かったつもりでいて、我々は真実を知るにはまだ無知すぎるのだ。

 

 この宇宙には、まだ何なのかよく分かっていないダークマターとダークエネルギーが満ち溢れている。我々が知っているのは、宇宙のたった5%を占めるに過ぎない物質だけだ。2000年にヒトゲノム計画が完了した時、我々はこれで人間の全てがわかると期待した。しかし2012年のエンコード計画の発表で判明したのは、今まで遺伝子のゴミと思われていた80%の領域に、遺伝情報が含まれていたという事実だった。ヒトゲノム計画で分かったこととは、全遺伝子のほんの一部に過ぎなかったのだ。

 

 我々は分かったようでいて実は何も分かっていなかった。この世界がどうして出来ているのかなんてことは、それこそ神のみぞ知るというやつなのである。

 



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地球だ……

 教室がオレンジに染まっていた。風が吹き抜け、薄いベージュのカーテンが揺れた。開け放たれた窓の外から、運動部の掛け声がひっきりなしに聞こえてきた。新緑と春の匂いが鼻をくすぐり、整然と並ぶ机は、自分の列だけが曲がっていた。

 

 たぶん、掃除当番は机で眠る鳳のことを退けることが出来なかったのだろう。もしくは天板がよだれでテカテカ光ってて、起こす気にもならなかったのかも知れない。ほっぺたがひりひり痛むのは、よほど長い間、机に押し付けて眠っていたに違いなかった。

 

 何か拭くものはないかとポケットを探ろうとしたら、椅子の背もたれにかかっていた学ランがバサッと床に落ちた。椅子の足を斜めに傾けて、ほとんど仰向けになりながら拾い上げようと藻掻いていたら、すっと影が落ちて、上から制服姿のエミリアが覗き込んでいた。

 

 金色のふわふわの髪の毛と、信じられないほど白い肌。それが夕日に照らされコントラストを成し、やけに浮き立って見えた。まるで彼女だけマジックで描かれているかのように、異様に強調されて見えるのだ。

 

「はい」

 

 夕日の加減でそんな風に見えるのだろうか。不思議な光景に目を奪われていると、彼女は動かなくなった彼に代わって、床に落ちた上着を黙って拾い上げた。彼は、差し出されたその上着を無理な体勢のまま受け取ろうとして、結局そのまま椅子から転げ落ちた。

 

 二人しかいない教室に、ガシャンと大きな音が響き渡り、彼女はぎゅっと目をつぶった。やがておっかなびっくり目を開けると、痛いものを見るような、しょうもない奴を見るような、そんな呆れた素振りで言った。

 

「椅子から降りればいいじゃない」

 

 もっともらしくて、ぐうの音も出ない。だからそう言おうとしたのに、何故か声が出なかった。背中を打ち付けたとき、おかしくしてしまったのだろうか? 彼女は床に転がっている鳳に背を向けると、

 

「もう下校時間はとっくに過ぎてるわよ。早く帰りましょ」

 

 彼女はそう言いながら教室の出口に向かって歩いて行った。鳳はそんな彼女を呼び止めようとしたが、やはり声は出ず、それどころか、自分の意思に反して体が勝手に動きはじめているのに気がついた。

 

 バーチャルな映像でも見せられているかのように、視界が自動的に切り替わる。まるで自分の体の操作権を、誰かに奪われてしまったかのようだ。

 

 一体、何が起きているのか? 鳳が内心パニくっていると、そんな自分の腕が勝手にぐいっと持ち上がった。その指先が机の上を指し、どうやら彼女に向かって汚れた机を拭きたいというジェスチャーをしているようである。

 

「ばっちいなあ……」

 

 すると突然、背を向けていた彼女が何かに気づいたように振り返り、机の上を見てしかめっ面をしてみせた。

 

「うん、わかった……そうね……私が雑巾とってくるから、そっちはバケツに水汲んで来てよ……いいよ、これくらい……早くしてよね」

 

 そして彼女は呆れた表情で、鳳に向かってつらつらとそう続けた。まるで二人で会話をしているように聞こえるが、鳳には自分の声は聞こえなかった。彼女が壁に向かって一人で喋っているようにしか見えなかった。

 

 いや、実際には逆で、もしかすると、さっきから自分の声だけが聞こえていなかったのかも知れない。

 

 鳳は、この不思議な状況下で、もしかしてこれは夢なんじゃないかと勘付き始めていた。寝起きのぼんやりした頭のせいで違和感を感じていなかったが、こんなことはありえないのだ。

 

 何しろ、鳳の記憶の中で、彼女はとっくの昔に死んでいた。彼女が現れるとしたら、それは夢の中だけなのだ。

 

「ねえ」

 

 掃除用具入れからバケツを取り出した鳳が教室のドアをくぐる。

 

 視界の隅っこに流れて消えていった教室のプレートには2-Aの文字が刻まれていた。

 

「また、同じクラスになれて良かったね」

 

 ああ、やはりこれは夢なのだ。

 

 彼女は、二年生になれなかったのだ。

 

*********************************

 

 朦朧とした意識の中で目が覚めた。疲れ切った体が夢から覚めるときは、いつも夢と現がごっちゃになるが、今回は特にそれが酷かった。

 

 視界がぐらぐらと揺れて、ものすごい吐き気と倦怠感に見舞われていた。まるで自分の体じゃないみたいに力が入らず、呼吸をするのもやっとだった。目はちゃんと開いているはずなのに、周りは真っ暗でほとんど何も見えなかった。

 

 心も体も妙にふわふわしていて、頭が上手く回らない。熱があるのかも知れないと思い、どうにかこうにか腕を引っ張り上げて自分の頬に触れてみたら、冷たい水滴がその指に纏わりついてきた。

 

 もしかして、泣いていたのだろうか……?

 

 夢見はあまりいいとは言えなかった。体や精神が疲れていると、何故かいつも楽しかった頃のことを思い出す。そして目覚めてそこに幼馴染がいないことに気がついて、いつも憂鬱になるのだ。

 

 今回は、次元の壁を超えて世界を渡るなんて、ありえない体験をしたものだから、よっぽど体が疲れているのだろう。そういえば、あれからどうなったのだろうか。メアリーと二人でアロンの杖を用いて、急に意識がもっていかれる感覚がして……こうして体の感覚が戻ってきたってことは、儀式はちゃんと上手くいったのだろうか……?

 

 というか、元の体とこの体とは、まったく同じものなのだろうか。カナンはこちらの世界に体がなければ、世界を渡ることはできないと言っていた。だったらこの体は、こちらで新しく作られたものだと考えるのが妥当だろうが、それならあっちにも体が残っていそうなものだが、3年前にカナンたちは体ごと上位世界に消えてしまった。なら恐らく、鳳も同じようになったのだろうが、そしたらこの体は新品なのだろうか、それとも全く同じ体が転送されて来たのだろうか……

 

 そんなどうでもいいことを考えつつ、ぼんやりしがちの意識をどうにかこうにか覚醒しようと努めていた時、鳳はようやくその声に気が付いた。

 

『シーキュー……シーキュー……シーキュー……こちらはプロテスタント所属……エミリア・グランチェスター。繰り返す。こちらはプロテスタント所属、エミリア・グランチェスター。鳳白、応答せよ』

 

 その瞬間、頭の中で緊急警報でも鳴り響いたかのように、意識が急激に覚醒した。鳳は目をま開くと、暗闇に向かって叫んだ。

 

「エミリア! エミリアだって!?」

『シーキュー……シーキュー……私はエミリア・グランチェスター』

「おい、マジでエミリアなのか!? 聞こえてるなら返事を……」

『シーキュー……シーキュー……』

 

 鳳が返事をしているにもかかわらず、エミリアはずっと同じ呼びかけを繰り返していた。夢の時みたいに、鳳の声が出てないわけじゃない。おそらく、こっちの声が相手に聞こえていないのだろう。

 

 応答せよと言っているくらいだから、これは恐らく通信なのだ。するとどこかに通信機があって、それを操作しなければならないだろう。

 

 しかし、この暗闇の中、手探りでそんなものを探すのは骨が折れそうだ……そう考え、立ち上がろうとしたとき、彼はさらにとんでもない事実に気が付いた。

 

 さっきから妙に体がふわふわしていると思ったら、立ち上がろうとして足を踏ん張っても、そこに地面がなかったのである。それもそのはず、見ればさっきの涙が丸い球体になって浮いている。どうやらこの場所は無重力状態のようなのだ。

 

「一体全体、どうなっちゃっているんだ?」

 

 よく見れば体は腰のベルトに固定されていて身動きが取れなかった。

 

 困惑しながらベルトを外そうとして手間取っているうちに、この暗闇の中、これを外してしまったらマズいんじゃないか? と彼は少し冷静さを取り戻してきた。

 

 相変わらずエミリアの呼びかけは続いていて気が急いたが、まずは身の安全を優先した方がいいだろう。ここがどこだか分からないが、体が固定されているということは、手の届く範囲にきっと何かあるはずだ。

 

 もしかするとどこかに照明スイッチもあるかも……そう思って手探りしていると、どうやら彼は腰のベルトに縛られているのではなく、ハーネスみたいなものを着けられて、椅子全体にがっちり固定されているようだった。背中のクッションは不思議な感触がして、よく衝撃を吸収してくれそうだった。そして案の定、手元のアームレストの位置にいくつかのボタンがまとまってあり、適当にカチカチ押してみたら、前方から電子音が聞こえてきて、間もなくいくつかの電子機器が光を発して起動した。

 

 正面に二台のディスプレイと、そして何が何だか分からない計器類がわんさか見える。ただ、そのレイアウトは見たことがあった。飛行機のコックピットだ。流石に実物を操縦したことはないが、シミュレーターなら見たことがある。

 

 それにしても、なんでこんな場所に括りつけられているんだろうか……困惑していると正面のディスプレイが点灯し、さらに詳しい状況が判明した。右の機体の速度や姿勢を表示している画面には高度100マイルの文字列が、そして左の画面には地図が表示されており、数秒ごとにそれがリフレッシュされている。

 

「地球だ……」

 

 そう呟く彼の声は震えていた。目の前のディスプレイの情報が正しいのであれば、どうやらここは地球の上空……いや、大気圏外の軌道上なのだろう。ぜひこの目で確かめて見たいと、首を伸ばして周囲の様子を窺ってみたが、残念ながら窓はついていないようだ。

 

 ディスプレイ上には、あの懐かしい日本列島の姿も表示されており、思わず目頭が熱くなった。今すぐ地上に降りてそれを確かめたい衝動に駆られる……しかし、ここは鳳が生きていた時代の地球ではない。それどころか、彼が現実に暮らしていた地球ともまた違うのだ。降りたところで何にもならないだろう。

 

 そんなことよりも、今は感傷に浸っている場合ではなかった。さっきからエミリアがずっと呼びかけているのだから。

 

『シーキュー……シーキュー……こちらプロテスタント所属、エミリアグランチェスター……』

「こちら、鳳白! エミリア、聞こえるか? こちら、鳳白!」

『シーキュー……シーキュー……』

 

 計器類が起動したから、もしかして通信もと思ったが、どうやらこっちはまだ無理のようだった。恐らく、目の前にうんざりするほどある機械のどこかに、通信に関するものもあるのだろうが、それを特定するには時間がかかりそうである。

 

 とにかく、椅子に括りつけられたままではそれもままならないので、一度ベルトを外してしまおうかと思い、彼はアームレストに手を置いた。ところがその拍子で、さっきのボタン群にうっかり手をついてしまい、何かまずい物を押してしまったようだった。

 

 突然、船内の照明がオレンジに染まり、ビーッ! ビーッ! と、ブザー音が鳴り始めた。彼は慌ててボタンを押しなおそうとしたが、そもそもどのボタンを押してしまったのかが分からず、どうしようもなかった。取り敢えず、当てずっぽうで全部のボタンを押してもみたが、それでもブザー音は止まらない。

 

「やばっ……どうすんの、これ?」

 

 焦りながらボタンを弄りまわしていると、その時、急に背中がグッと椅子に押し付けられるような感覚がして、部屋全体がカタカタと揺れ始めた。久しぶりに感じる体の重さに、血液がしゅわしゅわする。音はほとんど聞こえないが、どうやら鳳の乗っているこの飛行機だかなんだか分からない機械が、部屋ごと加速しているようだった。カタカタと金属がぶつかり合う音が、やがてどんどん大きくなっていった。

 

 ついにガタガタと部屋全体が音を立て始めて、ドンっと背中を打ち付けるような振動が定期的に襲ってくるようになった。慌てて計器類に手を伸ばして止めようとしたが、もちろん操作方法なんてわからなかった。そのうち、加速度によって押し付けられる体が重くなりすぎて、前傾姿勢も取れなくなった。手元のボタンもいろいろ試しているのだが、ロックでも掛かってしまっているのか、もはや何をやっても何の反応も示さなかった。

 

「ちょっと待って! 待ってくれ! 一体俺はどこに向かっているんだ!? エミリアー!」

 

 叫び声をあげても、もちろんそれに答えてくれる声などなかった。相変わらず、通信機からはエミリアの声が一方的に聞こえてくる。せめて彼女にこのことを伝えられればと思いもするが、どうやらそれも無理そうだった。

 

 やがて通信機の彼女の声は、諦めるかのようにトーンダウンし、最後にこんなことを言い出した。

 

『……この通信を、鳳白本人が聞いてくれていると期待して話します。私たちプロテスタントは失敗しました。リーダーであるカインは行方不明で、彼によるとサタン、ベルゼブブ、アシュタロスの三人は……処刑されたそうです。ジャンヌ・ダルク、ビリーザキッドの両名は大罪人として捕らえられ、どこへ連れていかれたかは不明、恐らくはドミニオンによって処分されたと思われます。そして彼らは下位世界、アナザーヘブンをそのまま残し、そこからやってくるであろうあなたを捕まえようと待ち構えているようです。

 

 (つくも)……もし、この音声をあなたが聞いているのなら、こっちへ来ては駄目! もし戻れるなら、今すぐ引き返しなさい。戻れないというのなら、その場には留まらず、今すぐ身を隠してください。ぐずぐずしていたらドミニオンが放たれ、あなたを捕まえに来るでしょう。そうなったら一巻の終わりです、だからすぐに逃げてください。

 

 こんなことを一方的に告げるだけ告げて、何の手助けも出来ないのは心残りだけど……私に出来ることはここまでです。これから私は神の監視から逃れるために、移動を開始します。だから最後にもう一度だけ呼びかけます。この声が届いていたら返事をください。シーキュー……シーキュー……シーキュー……私はエミリア・グランチェスター。鳳白、応答せよ!』

 

 エミリアの声はそれを最後に聞こえなくなった。鳳はその言葉をすべて聞いておきながら何も出来なかった。応答するために通信機を探すどころか、その内容の吟味すら出来ない始末だった。それもそのはず、今や彼の体は重力によって椅子に縛り付けられ、身動き一つ取れない状態だったのだ。奥歯がガチガチとぶつかって、歯を食いしばっていなければ舌を噛んでしまいそうだった。

 

 気が付けば先ほどの静寂が嘘みたいに、ゴウンゴウンと壮絶な轟音が室内に響き渡っていた。ディスプレイが細かく振動して、時折プツッ、プツッ、と点滅していた。計器が指し示す数字はどれもこれも軒並み高速で切り替わっていて、まったく読み取ることが出来なくなっていた。もっとも、仮に読み取れたところで、それが何を意味するのか分からないのだから無意味であった。

 

 さっきからのこの衝撃は、恐らく鳳が乗っている機体が急加速して、大気圏に突入しているからではなかろうか。心なしかさっきより部屋が暑くなったように感じられる。宇宙船が大気圏に突入する際、熱を発するのは知ってはいるが、しかし機体の中にまで伝わってくるものなんだろうか? どう考えてもやばいんじゃないか? もしこれが気のせいじゃないと言うなら、もしかしてこの機体は熱に耐えきれず、燃え尽きようとしているのではなかろうか……

 

 椅子に縛り付けられながら、嫌な予感ばかりが頭を占めていたそんな時……ドーーーンッッッ!!!! っと巨大な音がして、全身が地面に叩きつけられるようなもの凄い衝撃が襲ってきた。

 

 その瞬間、正面のディスプレイがプツンと切れて、ついに何も映さなくなってしまった。それでも部屋の中がまだ辛うじて見えているのは、外から赤い光がほんの少し入りこんでいるお陰であった。しかし、これはどう考えても、大気圏突入の際に起きた熱に違いなかった。

 

「うわあああああーーーーーっっ!!!!」

 

 鳳は堪らず叫び声をあげた。その声は周囲の騒音にかき消されて自分の耳にも届かなかった。爆音が断続的に続き、まるでシェイカーでめちゃくちゃにかき混ぜられているかのように、体が前後左右に揺さぶられて、鳳は何度も意識を持っていかれそうになった。

 

 ところが……しばらくすると、彼を襲っていたその音の洪水はぱったりと止んで、気が付けば部屋の中の音は、彼の放つ叫び声だけになっていた。

 

「うわあああああーーーっっ……ああーーーーっ……ああ?」

 

 彼はいつの間にか自分の声だけしか聞こえなくなっていることに気が付くと、突然訪れた静寂に困惑しながらも素早く状況判断を開始した。心臓がバクバク鳴っていて、信じられないほど汗でびっしょりになっていたが、どうやら自分はまだ死んだわけではないらしい。だが、ぐずぐずしていたらそうも言ってられなくなるかも知れない。

 

 とにかく、さっきまでのが大気圏突入の衝撃だったとするなら、現在の静寂はなんだろうか? もしかすると大気圏を突破したからではなかろうか。そう言えば、椅子に押し付けられていたはずの体が今は軽く感じられる。というか、軽いどころか重さを感じない。どうやらまた無重力状態に逆戻りしてしまったようだ。

 

 となると考えられる状況は二つ、大気圏ではじかれてまた宇宙へ逆戻りしてしまったか、もしくは大気圏を抜けて現在この機体は絶賛自由落下中のどちらかである。そう思い、耳を澄ませてみれば、壁の向こう側から、バサバサとか、ビュービューといった感じの風を切るような音がうっすら聞こえてくるような……

 

「って、おいっ!」

 

 鳳はセルフ突っ込みを入れながら、慌てて手元のボタンをバシバシと弄り始めた。もしそれが本当なら、状況はよりまずくなっているではないか。何故なら、さっきまで点灯していた目の前のディスプレイが消えていて、恐らくこの機体はまともに動いていないのだ。つまり彼は今、墜落しようとしている飛行物体の中で、真っ暗で、何も見えない状況で、椅子に縛り付けられているのだ。

 

 このまま地面に激突したら、間違いなく自分は死ぬだろう……これじゃあ、まだ宇宙空間を当てもなくさ迷っていた方がマシではないか! 彼は必死になって手近にあるボタンを滅多やたらに叩きまくった。

 

 と、その時、バサバサッ! っとした音が頭上でしたかと思ったら、続いてエレベーターの中にでもいるかのように、グンっと体に重さが戻ってきた。自分の重さに辟易しながら、耳をすませばバサバサ音はまだ続いていた。

 

 もしかしてこれは、パラシュートが開いたって奴じゃなかろうか? ホッとため息をつきながら音のする方を見上げれば、頭上にうっすらとハッチのような物が見え、円形のハンドルが取り付けられていた。目の届く範囲に扉が見当たらなかったから、どこにあるのかと思いきや、どうやらあそこが出入口らしい。

 

 とにかく、この真っ暗闇のままでは何をすることも出来ないからと、今度こそ椅子に縛り付けているハーネスを外そうとしてベルトをガチャガチャやっていたら、ザブンッ! っと音がして……それからゴボゴボとこもった音が聞こえたと思ったら、終いにはザーザーと水が流れ落ちる音が断続的に聞こえてきて、地面が上下にどんぶらこどんぶらこと揺れ動いた。

 

 鳳はそれが収まるのを少し待ってから、ようやくベルトの器具を外すと、肩に食い込んでいたハーネスを乱暴に脱ぎ捨てた。椅子から降りると立ち眩みがしたが、それは恐らくこの部屋がまだ波間に揺れている錯覚だろう。

 

 さっきのはきっと、この機体が着水したからに違いない。ここがどこだか分からないが、やはり自分は、どうやら宇宙から地球に落下してきたようだ。

 

 手探りで椅子の背もたれに登り、天井の丸ハンドルに手をかけた。思ったよりも熱くて一瞬肝が冷えたが、触れないほどでもないのでそのまま力任せに回した。ハンドルは、それほどきつく閉まってはなくて、割とすんなり回ったが、代わりに回せど回せどなかなか扉が開かなかった。

 

 もしかして落下の衝撃で壊れちゃったんじゃないか? と不安になったとき、ようやくカチッと何かが外れる音がして、グワッとハッチが勝手に持ち上がっていった。すると外から真っ赤な光と潮の香りが入り込んできた。どうやら予想通り、この機体は海に着水したらしい。

 

 鳳は居ても立ってもいられず飛び上がると、懸垂の要領で天井にぽっかりと開いた穴へとよじ登った。そして穴の外へと顔を出せば……遠くには水平線に沈む真っ赤な太陽が見え、そして周囲は三百六十度、見渡す限りの海が広がっているのが見えるのだった。

 



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これ……軽く詰んでないか?

 ぷかぷかと波に揺られながら、沈む真っ赤な夕日を呆然と見送っていた。鳳はしばらく放心し続けたあと、ハッと意識を取り戻すや否や、まずはここがどこなのか現状把握に努めなければと慌てて動き出した。とにかく情報が少なすぎる。どうして自分はこんなわけのわからない乗り物に乗っていたのか……?

 

 とはいえ、やれることは殆どなかった。

 

 まず真っ先に、ハッチから外に出て、背伸びして遠くを眺めてみたものの、周囲は360度大海原が広がっているばかりで、どこにも島影らしきものは見えなかった。鳥も飛んでいなければ、もちろん船なんているはずもなく、おーい! と呼びかけても返事が返ってくる気配はない、見えるのはひたすら海水ばかりだ。

 

 沈む夕日は足が速くて、もう間もなく機内の様子も見えなくなってしまうだろう。そう思って、また慌ただしくハッチの中へと戻ってみたは良いものの、肝心の機械は沈黙したままで、ディスプレイはもう何をやっても映らなかった。

 

 椅子に括りつけられていた時に死角になっていた背後のスペースに、何かあるんじゃないかと期待もしたが、残念ながら何もなかった。本当に笑っちゃうくらい何にもなくて、ただぽっかりとスペースが広がっているだけである。

 

 何か役に立つ物でも転がっていないかと、床に這いつくばって調べてみても、そんなものどこにも見当たらず、棚や引き出しのようなスペースすらなく、ダメもとでディスプレイの下の方の金属板をこじ開けてみたが、中には恐らくディスプレイのものであろう基盤が並んでいるだけだった。

 

 日が沈み、これ以上室内を調べるのは難しくなってきた。鳳は不安を覚えながらも、ここで膝を抱えていても仕方ないと、再度ハッチから外へ出て、今度は自分の乗っていた機体を外側から調べてみることにした。

 

 それは卵型の丸い物体で、飛行機というよりは脱出ポッドと言った方が良いような代物だった。卵で言えばお尻の方が黒焦げているのは、こっちが耐熱パネルが貼りつけられていた側なのだろう。とすると反対側には……? と思って見に行くと、機体からワイヤーが伸びており、パラシュートが海の中でたゆたっていた。

 

 ようやく役に立ちそうな物を見つけたと、ホッとしながら引き上げてみるも、どうやってロープを外せばいいのかが良くわからなかった。頑丈なワイヤーは金属製で、斧でも無い限りちょっと切り離せそうもない。ただ、なんの素材かわからないが、パラシュートの方はそのまま使えそうだった。水を弾くのでポンチョにすれば雨風が凌げそうである。とは言え、こんな海の上では宝の持ち腐れである。最悪の場合、浮袋のようなものを作ってここから脱出するのも検討しなければいけないだろうか……

 

「ふぅ~……」

 

 溜息を吐きながら鳳はその場にへたり込んだ。目覚めてから怒涛の如く命の危険に晒され続けて、だいぶ神経がすり減っていたようである。のけぞるような格好で仰向けになって寝転がったら、どっと疲れが押し寄せてきた。うとうとしつつ、呼吸を整えながら空を見上げると、空は一面の星で覆われていた。

 

 その星の数はヘルメスに居た時と大して変わらなかったが、位置が全然違うことにはすぐに気づいた。天の川のコントラストが、こっちの方がずっとくっきりしているような気がする。そう言えば、ここは地球なんだっけ? と思って、知ってる星座を探そうとしたが、北斗七星もカシオペア座も見つからなかった。星座の形が変わってしまうほど年月が経過したとも思えないから、もしかしたらここは南半球なのではなかろうか。北半球は大陸が東西に伸びているから、宇宙船が降りるなら南半球が道理なのだ。

 

 流れ星がいくつも、スーッと流れては消えていく……さっきの自分もあんな風に見えていたんだろうか……

 

「というか、あそこから落ちてきたんだよな?」

 

 がばっと上半身を起こしてあぐらをかき、首だけ曲げて空を見上げた。このままじゃ眠ってしまいそうだが、まだ考えなければならないことはいくらでもあった。

 

 今、鳳が腰かけてるこの機体が、予想通り宇宙船か何かの脱出ポッドなのだとしたら、目覚めたとき、彼は宇宙空間に居たことになる。どうしてそんな場所に居たのだろうか?

 

 三年前、カナンが正体を明かし、鳳に助力を要請した時、確か彼は元々こっちの世界に体が無い者は世界を渡ることが出来ないと言っていた。だから今回、ルーシーもスカーサハも置いてきたわけだが……その時、カナンはその体をプロテスタントになったカインが用意しているはずだと言っていた。

 

 カインは男として生まれ、処分されそうになったところを、カナンが逃がしてやった現生人類で、その行き先は、軌道上で大昔に破棄された播種船だといっていた。軌道上には、この世界を一度は救った神人たちが情報体となって眠っていて、人類はラシャに支配されてしまった地球を捨てて、どこか別の星に旅をしようとしていたのだ。

 

 鳳たちのいた下位世界では実際にそれが行われて、数千万年の時を経て人類は惑星アナザーヘブンにたどり着いたわけだが、カナンの話だと、こっちの世界では準備だけして旅立ちはしていないと言っていた。つまりまあ、ざっくり端折って説明すれば、この世界には、軌道上の宇宙船の中に、まだP99が残されているということである。

 

 だから普通に考えれば、鳳はその宇宙船の中で目覚めるはずだったのだが……実際にはこの通り、脱出ポッドに入れられて、地球に落っこちてきたわけである。どうしてこうなったのか、責任者がいるなら出てきて貰いたい。

 

「そうだ! エミリアだ!」

 

 鳳はそこまで考えてから、思い出した。彼女が責任者かどうかは分からないが、目覚めたとき、エミリアを名乗る声がどこからともなく聞こえてきたのだ。

 

 それは一生懸命、鳳に呼びかけているようだったが、彼はついに通信機を見つけることが出来ず、ポッドが地球に落下してしまったわけである。その時、エミリアは色々言っていたはずだ。

 

「……カナン先生たちが処刑されたって言ってたっけ……」

 

 その可能性は、こっちに渡ってくる前からある程度覚悟はしていた。何しろ、あっちで三年も待ってて、何の音さたも無かったのだ。カナンは世界を渡る際に使ったゴスペル、アロンの杖の持ち主だから、無事なら何らかのリアクションは返せたはずだ。

 

 他にも、ジャンヌとギヨームが捕まったというようなことも言っていた。こっちは捕縛だから、もしかしたら生きているかも知れないが、エミリアはその可能性は低いと考えているようだった。サムソンの名前は出てこなかったが、恐らく彼は世界を渡ること自体に失敗してしまったのだろう……

 

「それから……そうだ! メアリーはどこだ?」

 

 こっちの世界にもP99が存在する。だからそのオペレーターであったメアリーに、保険のつもりで同行をお願いしていた。彼女も一緒にこっちの世界に渡ったはずなのにどこにも見当たらないのは何故か。

 

 鳳は、自分が今腰かけているポッドを見下ろした。

 

 このポッドは一人乗りだ。もしかすると、メアリーは別のポッドに入れられて、別々に地上に射出されたのかも知れない。しかし、それならエミリアがそのことについて言及しそうなものだが……彼女は鳳に呼びかけるだけで、メアリーのことは何も言わなかった。

 

 他にも彼女はプロテスタント活動が完全に失敗に終わり、これから神の監視から逃れるために姿を晦ますとか何とか、なんかそんな感じのことを言っていたはずだ。その様子はどこか切羽詰まっていて、怯えているようにも思えた。もしかして、彼女はすでに居場所がバレて追手が差し向けられているとか、そういう状況だったんじゃなかろうか……?

 

 そう考えてみると、鳳が脱出ポッドに入れられていた理由も分かる。きっとプロテスタントの根拠地である播種船の位置が特定されて、彼女は慌てて船を移動させようとしたのだ。その時、鳳だけでも助かるようにと、脱出ポッドに入れて射出したと考えればつじつまが合うが……

 

 しかし、それならそうと一言(ひとこと)言えば済むことだろうし、彼女も延々と通信で呼びかけるんじゃなくて、録音を残しておけば良いではないか。そうしなかったのは、彼女は鳳がこの世界にいるのかどうか、通信自体も届いているのかどうか、分からなかったからではないか。

 

「一体どうなってんだ……?」

 

 彼女はカインが行方不明だとも言っていた。じゃあ、もしかして鳳を逃がしたのはそのカインだったのだろうか? 後はドミニオンが追いかけてくるから、その場から逃げろとも言っていた。元の世界に戻れるなら、さっさと帰れとも。

 

 ドミニオンというのは支配者とか、なんかそんな意味だったか……恐らくはプロテスタントの敵である、神の使いの狂信者みたいな連中のことだろう。しかしそれから逃げろと言われても、この大海原のど真ん中でどこへ向かえば良いと言うのか……

 

「これ……軽く詰んでないか?」

 

 鳳は呆然と呟いた。

 

 こっちの世界にやってくるのは最初からリスキーだとは分かっていた。だが、ここまでどうしようもない状況からスタートするなんて、誰も思わないではないか。せめてここが地上であるなら、鳳のサバイバルスキルでどうにかなったかも知れない。しかし、この大海原では食料も水も、どうやって調達すればいいのか分からない。釣りは好きでも、道具から何から、一から作らなければいけないのでは話にならない。たぶん、そんなのを用意している間に体力が尽きて死んでしまうだろう……

 

 せめて通信機が生きていて、なんとかエミリアと話が出来ればまた違ったのだろうが……そう言えばそのエミリアは、今すぐに逃げなければ、ドミニオンに捕まると言っていた。これはもしや、そのドミニオンに捕まるしか助かる見込みがないのではないか?

 

 少なくとも、逃げるって言ったって、海に飛び込んだら十中八九死ぬのは目に見えている。ならいっそのこと、敵に一度捕まってから、脱出することを考えた方がマシではないか。まさかいきなり殺しにくるようなことはしないだろうし……しないよな?

 

 鳳が、そんなことを考えている時だった。

 

 ポツン……ポツン……っと、鼻の頭に何かが当たって、おや? っと思い、見上げてみたら、いつの間にか満天の星はどこかへ消え去り、空は黒い雲で覆われていた。よく見れば、遠くの空でビカビカと雷が鳴っている。

 

 こんな大海原で嵐に遭遇するのはいただけないが、今は恵みの雨である。鳳は急いで船内に取って返すと、先ほどこじ開けた金属板をナイフ代わりに、急いでパラシュートをワイヤーから切り離した。

 



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漂流も4日を過ぎて

 パラシュートの生地で即席の袋を作り、ハッチに被せるようにして雨水を貯めた。高波で海水が入ってしまったら元も子もないから、自分も一緒にハッチにぶら下がって、一晩中高波に備えていた。お陰で夜が明けるころには十分な飲み水が確保出来たが、腕はパンパンで足はフラフラ、著しく体力を失ったことは明らかだった。これが吉と出るか凶と出るか……

 

 人は水さえあれば一週間は生きていけるというが、それは何もしないで寝転がっていた場合の話である。正直、水だけではこの体がいつまで持つか分からない。握力がなくなってプルプルしている指先で、なんとか袋の口を縛り終えると、鳳はようやく人心地ついて床に腰を下ろした。

 

 嵐は去ったがまだ波は高く、相変わらずポッドはグラグラと揺れ続けていて気持ちが悪かった。だが、そんなこと言ってられないくらい体はクタクタだった。彼はそのまま床に寝転がると、まるで地面に吸い込まれるように眠りに落ちた。

 

 そして目覚めるとまた夕暮れ時になっていた。フラフラの体を鞭打って起き上がり、ハッチを開けて外を眺めると、だいぶ傾いた太陽が横の方から彼の体を照らしていた。たぶん、あと小一時間もしたらまた日が沈むだろう。

 

 海を覗き込んで見れば、昨日の嵐の影響で濁ってしまって殆ど何も見えなかった。せめて潜れれば魚を獲れる可能性もあったろうが、こうなってしまっては数日間はこのままだろう。まあ、出来るかどうかわからないことに体力を削られずに済んだと思って、ポジティブに考えるより他にない。

 

 とりあえず、やれることは何でもやっておくにこしたことはない。夜は一晩かけて、ハーネスの繊維をほぐして糸を作った。この頑丈な繊維を釣り糸にして、ダメもとで海にぶっこんでおくのだ。釣り針になりそうなものは、ディスプレイの下にあった基盤からいくらでも見つけられた。これでもう通信の可能性は永久に失われたわけだが、今はそんなこと言っている場合ではないだろう。

 

 肝心の餌が何もないので、あとはきらきら光る釣り針に引き寄せられる馬鹿な魚がいることを願うしかない。せめてゴキブリの一匹でも船内に潜り込んでいたら良かったのに、宇宙空間ではそんなものが紛れ込むような隙はなかったのだろう。しかしまさか、地球に帰還して真っ先に思うのが、ゴキブリを恋しがることとは思いもよらなかった。鳳が生きていた時代からは何千年も経過しているはずだが、彼らは元気にしてるだろうか。

 

 出来上がった釣り糸をハッチの丸ハンドルに括りつけていたら朝日が昇ってきた。完全に昼夜が逆転してしまっているが、日除けがない場所では、昼間動くよりは夜の方が良いだろう。日射病が怖い。昇る朝日に収穫を祈願してから、船内に戻って横になると、また一瞬で眠りに落ちてしまった。

 

 次に目覚めると、既に日は沈んで船内は真っ暗になっていた。

 

 3日目ともなると流石に疲れが隠せなくなってきたか、体を起こそうとしても、どうにも言うことを聞いてくれなくて難儀した。空腹がピークを迎えると、腹が減るというより胃が溶けるといった感じで、ただひたすら苦しみが襲ってくる。

 

 空腹を紛らわすのに、つい水を飲みすぎてしまい、腹がちゃぷちゃぷ音を立てていた。こんなことをしても、貴重な水を無駄にするだけだし、余計に疲れるだけなのに、そうせざるを得ない辛さがあった。

 

 期待を込めて釣り糸を引き上げてみたが、そう都合よく魚がかかるわけがなく、それでも諦めきれずに手ごたえのない糸を引き続け、釣り針に何も掛かってないことを確かめては虚しさに襲われた。やはり餌も仕掛けもなしで魚を釣ろうなど、考えが甘すぎるのだ。とはいえ、この海の上ではどうしようもない。また釣り糸を海に落とし、ぼんやりと糸の動きを眺めていた。

 

 月明りに照らされた海は相変わらず濁っているようだった。流木が流れてきたりとか、魚が跳ねたりとか、そう言った期待を持たせるような出来事も何一つ起こらなかった。

 

 エミリアは、すぐに逃げなきゃドミニオンが飛んでくると言っていたのに、全然来ないではないか。もう逮捕でもなんでもしてくれて構わないから、来るならさっさと来てほしい。正直、今となってはその相手が魔族であっても嬉しいくらいである。いっそそうしてくれと神にでも祈ってみようか?

 

 そういえば……鳳はカナンに頼まれて、その神を倒しにこの世界に来たのだった。それがどうだ? たかが空腹で、ここまで惨めな姿を晒している。こんなんで神殺しなど片腹痛いではないか。どうしてカナンはこんな情けない奴に期待をかけたのだろうか……?

 

 まあ、それは、あっちの世界ではケーリュケイオンを持ち、あらゆる古代呪文を使いこなす勇者だったからだが……じっと座ってると愚痴っぽいことばかり考えてしまう。彼は頭をブンブンと振った。

 

「そういや、こっちに来てから能力を使おうって試してなかったな」

 

 P99が使えない時点で頭からすっぽり抜け落ちてしまっていたが、考えてみればP99が無くて使えないのは古代呪文(エンシェントスペル)だけだ。この世界にも第5粒子エネルギーが存在するなら現代魔法(モダンマジック)は使えるはずである。と言うか、もしもの時のために、そんな修行を散々やってきたのではないか。

 

 鳳は目を閉じて、高次元方向からやってくるはずの第5粒子エネルギーを探った。そしてすぐそれに辿り着いた。そりゃそうである。そもそも鳳は、カナンが宇宙は第5粒子エネルギーによって消滅の危機にあると言ったから、この世界まで追いかけてきたのである。そのカナンが戻ってこなかったのだから、まだエネルギーがあるのが道理だ。

 

 そして第5粒子エネルギーがあるなら、脳にそのエネルギー=MPが溜まっているはずである。あっちの世界と違ってステータスは見えなくなったが、MPの利用法にかけては鳳は今やそれなりのエキスパートだった。ケーリュケイオンを使って、星がぶっ壊れるくらい操ってきたのだ。

 

 果たして、鳳が集中して両手のひらに光が集まってくるようなイメージを作ると、間もなくその想像通りに、軽く開いた2つの手のひらの間に小さな光球が浮かび上がった。これは古代呪文のファイヤーボールを真似出来ないかと試行錯誤している内に、その副産物として習得した技だったが、要するにMPをそのままエネルギーとして放出しているのだ。

 

「出来るじゃん」

 

 彼はほくそ笑むと、海の上にその光球を消えないようスーッと送り出した。こうしておけば、その光に誘われて魚が集まってくるかもしれない。小魚なら、パラシュートの余りで作った網で救い上げることも可能だろう。大物がきたら、それを釣り針に引っ掛けるのだ。

 

 しかし、そうして期待が膨らんだ瞬間、送り出した光球は虚空で弾けて消えてしまった。制御をミスったわけではなく、単に光球を形作っていたエネルギーが尽きてしまったのだ。MPは無尽蔵にあるわけではなく、一度に使える量は決まっている。電気みたいに効率がいいわけでもないから、一晩中明かりを灯し続けることは出来ないのだ。

 

 だが、現代魔法を使うという考えは悪くない。身体強化系のスキルを使えば、素潜りで魚を捕らえられる確率は高くなるはずだ。あとは海中の濁りが取れてくれれば、イチかバチか即席のモリを担いでチャレンジしてみるのだが……

 

 フラフラする体を身体強化系のスキルで支えながら、彼はポッドの中へと戻っていった。もしも本当にそうするなら今日は早めに体を休めた方が良いだろう。体力がどんどん削られていく。

 

 多分、明日がラストチャンスだ。それでダメなら……それはその時考えよう。今やれることは体力を温存することだけなのだ。彼はそう自分に言い聞かし目を閉じた。まだ起きてそんなに経ってないというのに、眠りはすぐにやってきた。

 

 4日目……

 

 目覚めたら、ぴくりとも体が動かなくなっていた。うっすらと開いた瞼の向こう側に、室内の様子がくっきりと見えた。ハッチから光が差し込んでいるから、まだ日中なのだろう。海の中が見えるのは日が昇っている間だけだ。

 

「……行かなきゃ」

 

 今日こそ何か食べ物を手に入れなければ多分死ぬ。彼は身体強化の魔法をかけて、執念で体を起こした。どうにかこうにか壁にもたれて座ってみるも、貧血みたいに頭がフワフワしてきて、まだしばらく動けなかった。

 

 視界が戻ってくるのを待ってから、ゆっくりと立ち上がった。人間が水だけで1週間生きるなんてことは現実には無理だとつくづく思い知らされた。せいぜい3日が限度で、4日も経てば大抵の人は起き上がれなくなるだろう。災害救助で72時間の壁なんて言葉があるくらいなんだから、それくらい想定しておくべきだった。鳳は、ぐずぐずと待ち続けていた過去の自分に腹を立てた。

 

 待っていたところで絶対に助けは来ない。ドミニオンなんて連中も、もうやってこないだろう。そもそも、最初から敵に期待するなんてことが間違っていたのだ。あっちの世界に残してきた3人の嫁たちに、絶対に生きて帰ってくると誓ったのだ。こんなことで死んでなるものか。何としてでも生き延びてやる。

 

 彼は鼻息を荒くしてハッチによじ登ると、念のために釣り糸を引き上げた。案の定何も掛かってないことを確認すると、今回は海に戻さず室内に取り込み、代わりに即席のモリを取り出した。

 

 基盤を引っぺがして、棒状のものを3メートルくらいまでひたすらつなぎ合わせたものである。先端には返しの付いた金属の穂先がつけられている。昨日寝る前に即席で作ったものだ。精密機械は精密であるがゆえに、鋭利な部品がところどころについているものである。それを光球で溶かした半田で固定し、強度を確保した。お陰でMPを大量に消費してしまったから、海に入るとしても、そう何度も試すことは出来ないだろう。

 

 鳳は服を脱ぎ捨てると一発勝負のつもりで気合を入れて海に飛び込んだ。

 

 嵐から3日も過ぎていたが、海中は相変わらず濁っていて視界は悪かった。だが、昨日ほどではなく、数メートル先なら見えるくらいには回復していた。鳳はとりあえず、魚のいそうな海底付近まで潜ってみようと頭を下に向けた。

 

 泳ぎは得意と言うほどではなかったが、身体強化のおかげで思った以上によく泳げた。ぐいぐいと水をかきわけて進んでいくと、水圧で耳が痛くなってきた。耳抜きをするためにストップして上を見上げてみたら、この一息でもう10メートル近く潜っていたようである。この調子ならすぐに海底にたどり着けるだろうと期待しながら、また海の底へと頭を向ける。

 

 だが、そこまでだった。やがて20メートルくらい潜ったところで鳳は絶望に駆られた。海はどんどん暗くなっていくのに、海底がまだ見えないのである。身体強化のお陰で息はまだ続きそうだが、ダイビングの素人がこれ以上潜るのは危険だろう。彼はそれでもあと5メートルほど潜ってみたが、未だ底を見せない深淵を前に、それ以上進むことを断念せざるを得なくなった。

 

 念のため、周囲に魚影がないか確認しながら浮上する。遠くの方でキラキラ光るものが、何でも魚に見えて仕方なかった。

 

 ぷはーっ! っと息を吐きだして海面に顔を上げたら、潮に流されたのか、脱出ポッドがだいぶ遠くの方に見えた。獲物がとれないどころか、海底にすらたどり着けもしなかったという徒労で、悲嘆に暮れながらのろのろポッドまで泳いで帰ってくると、次なる難問が待ち構えていた。

 

 脱出ポッドは卵型だから、上手くよじ登れないのだ。空気抵抗を減らすために表面はつるつるで、殆ど手掛かりがない。それで一瞬、気が遠くなりかけたが、幸いなことにパラシュートを繋いでいたワイヤーがそのままだったので、それを伝っていけばどうにか戻れそうだった。

 

 鳳は、追い詰められているとはいえ、今度はもっと計画的に動こうと心に誓いながら、ワイヤーに手をかけ、重い体をよっこらせと持ち上げようとした時……それは起きた。

 

 ワイヤーはポッドの先端に取り付けられているから、鳳が体重を掛けた瞬間ポッドがグイっと傾いてしまった。その拍子に、掴んでいた手がワイヤーからずるっと滑り、慌てて両手で掴もうとして、もう片方の手に持っていたモリを手放してしまったのだ。

 

 彼は間髪入れずに自分の間違いに気づいて慌てて手を伸ばしたが、その手が届くよりも先にモリは海の中へと落ちてしまった。慌てて海に飛び込んでそれを追いかけたが、金属の棒と人間とでは沈んでいくスピードが違いすぎ、彼は真っ暗な海にモリが消えていくのを呆然と見送ることしか出来なかった。

 

 海の底は真っ暗で、どんなに目を凝らしても、やはり底までは見えなかった。せっかく作ったモリをこんなあっさり失くしてしまうなんて……彼は息が続く限り真っ暗な海の底を見つめ続けた後、やがて落胆しながら戻ってきた。

 

 ワイヤーを掴んでポッドの上によじ登り、フラフラになりながらハッチの中に降りようとすると、水滴でずるっと滑ってそのまま中まで落っこちた。受け身を取るときに放置していた金属板で手を切ってしまって、盛大に血が流れたが、もはやそんなのを気にする余裕もなかった。

 

 何をしようにも、体にまったく力が入らない。思った以上に精神ショックが大きかったようである。彼は床に這いつくばりながらぽっかりと開いたディスプレイの下の空間を見た。

 

 また一からあれを作るのか……

 

 きっとその間に、太陽は沈んでしまうだろう。もう無理だ……そう思った瞬間、集中が途切れて身体強化のスキルも切れてしまった。体が信じられないほど重くなり、目の前がちかちかと点滅する。限界を超えて、体を無理やり動かし続けた代償だろう。意識が遠のき、目を開けているのに、目の前が真っ暗になって、何も見えなくなっていった。

 

 自分はこのまま死んでしまうのだろうか……薄れゆく意識の中で、彼は自分の愛する人たちのことを思い浮かべた。ミーティア、クレア、アリス……まだ死ねない。死んでたまるか。何か食べ物……食べ物を!!

 

 だが、心でいくらそう思っても、体の方はもう答えてくれそうになかった。彼は間もなく意識を手放し、その場で失神してしまった。

 

*********************************

 

 それからどのくらい時間が経過しただろうか……次に彼が意識を取り戻した時、船内は真っ暗で、何も見えなかった。あまりにも真っ暗だから、彼は自分がまだ眠っているんじゃないかと思ったくらいだったが、そう思う以上に思考がクリアだったから、どうやら起きていることは間違いないと確信出来た。

 

 問題は、脳は冴えていても、相変わらず体の方がうんともすんとも言わないことだった。胃袋の悲鳴は限界に達し、体力はもう殆ど残されていないくせに、心臓は爆音を立てていた。頭痛がひっきりなしに襲ってきたが、どうやらその痛みのせいで意識が覚醒してしまったというのが正しい認識のようだった。

 

 寒気と発汗、唇の乾き、体全体がこのままじゃ死ぬよと、宿主に訴えかけているかのようである。だが、そう言われたところで、もうどうしようもない。

 

 鳳は、こんな時は涙も出ないんだな、それならそれで水分を無駄にしないで済む……などと自虐的に考えつつ、もう一度だけ、体を動かしてみようと踏ん張ってみた。

 

 と、その時、彼は床に這いつくばりながら、何か柔らかいものに触れていることに気が付いた。触れているというか、右手が何かを掴んでいる。一体なんだろう? と、最後の力を振り絞り、首だけを動かしてそれを見ようとした。すると視界の片隅に、丸いパンのようなものを握っている自分の手が見えた。

 

 いや、パンのようなものではない。間違いなくパンがある。

 

 そんなはずはあり得ない、とは思ったが、それこそ死ぬ気で食べ物を求めていた体が勝手に反応した。鳳はガバっと飛び跳ねるように起き上がると、自分の右手が掴んでいるその柔らかな物体をとっくりと確かめた。

 

 それはどう見ても、何の変哲もない丸パンだった。見れば見るほど、丸めた生地をただオーブンに突っ込んで焼き上げただけの丸パンにしか見えなかった。自分はやっぱり夢でも見ているのだろうか? まあ、夢なら夢で構わないからと、そのパンを口に運んでみたら、あまりの美味さにポロリと涙がこぼれてきた。

 

 さっき死にそうになっても、一滴も流れなかった涙がぼろぼろと、一滴、二滴と流れては、ぽたぽたと床にしみこんでいく。二口、三口とパンを口に運ぶたびに、その涙はとめどなく溢れ、それと同時に、信じられないくらい体に力がみなぎっていくのを感じた。

 

 あっという間にパンを平らげてしまうと、空っぽだった胃袋がびくびくと痙攣しだして、あれだけ求めていた食料を追い出そうとし始めた。ふざけんじゃねえと胸をどんどんと叩きながら吐き気に耐えつつ、水袋に残っていた最後の水を後先考えずにごくごく飲んだ。その水が胃袋を押し広げ、そのまま全身に染み渡っていくかのようだった。

 

 そして胃袋がパンを受け入れた瞬間……さっきまで鳳をガンガンと痛めつけていた頭痛が嘘みたいに引いてきた。パリパリと静電気を発しながら機械が再起動するかのように、頭がクリアになっていく。

 

 鳳は新しい感覚に体がついていけるようになるまで、そのままじっと床に座り込んだあと、ほっと溜息を漏らしてから、

 

「……夢……じゃないよな? あのパンはどっから出てきたんだ?」

 

 命を救われたとはいえ、あれだけ求めても見つからなかった食料が、こうして突然出てきたのは不気味である。眠っている間に、誰か来たのだろうか? そう思って周囲を見回してみるも、そこは相変わらず脱出ポッドの中で、鳳が散らかした機械の部品などが転がっているままだった。

 

 外に船などがいないかとハッチに登って確かめてもみたが、見えるのは相変わらず360度見渡す限りの大海原で、人の気配は全くない。

 

 それじゃパンは本当にどこから出てきたというのだろうか? まさか、神の御恵みだとでも言うつもりか? 鳳は、自分でそう考えておきながら、その考えにうすら寒くなってきた。

 

 とはいえ、何者かが自分のことを見張っているなんて考えても仕方ない。今は取り合えず拾った命を繋ぐことだけに集中すべきだろう。実は昨日海に入ったとき、上がってくる際に周囲を見回していたところ、ここより1キロくらい離れた所に浅瀬っぽい場所を見つけていたのだ。

 

 浅瀬と言ってもここよりは浅いと言った程度だが、海底に太陽の光が届いているなら海藻やサンゴが生えているかも知れない。そうしたら根魚が狙えるから、ここで素潜りするより遥かにましだ。

 

 問題は、このポッドをそこまで曳航できるかどうかだが……昨日、乗り込もうとした時に船全体が傾いてしまったくらいだから、MPを全部使い果たすつもりで引っ張ったら、何とかなるかも知れない。

 

 そうと決まれば、もう迷ってる暇はないだろう。この体力が尽きたら今度こそ終わりだ。明日こそが本当に最後のチャンスだと腹を括って、朝になるまでに出来る準備はすべてしておいた方が良い。まずは今日、失くしてしまったモリを新たに作らなければならない。鳳はまたディスプレイの下に潜り込んで中をごそごそと漁り始めた。

 

 と、そんな時だった。

 

 ちゃぷっ……ちゃぷっ……っと、急に外から水を叩くような音が聞こえてきた。波が船体にぶつかって音を立てているのだろうか? また嵐になったらマズいとも思ったが、しかし、どうもちょっと様子が違う。波が高くなったらのなら船がもっと揺れるはずだが、今船内は静かなままである。それに、ちゃぷちゃぷ音は断続的にいくつもいくつも聞こえてくる。

 

魚群(ナブラ)か!?」

 

 もしかしたら、小魚が大きな魚に追われて水面を打っているのかも知れない。もしもそうなら、今この近辺に大量の魚がやってきている証拠である。ならば今度こそあの釣り針が役に立ってくれるかも知れない。鳳は手にしていた材料を床に下ろすと、昨日引き上げておいた釣り糸を持って、意気揚々とハッチによじ登った。

 

 果たして、ハッチから海を見下ろせば、彼の期待通り、そこには無数の魚が顔を覗かせていた!

 

「……なんじゃこりゃ」

 

 しかし、魚はいるにはいたが、その様子がどう見てもおかしかったのである。

 

「ギィッ! ギィッ! ギギィーッ!!」

 

 魚のくせにこんな変な鳴き声を上げることもさることながら、何よりもその大きさが異常だった。ポッドの上からざっと推定するところ、その魚の体長は1メートル半から2メートルはありそうであり、おまけに、酸欠の鯉じゃあるまいに、その顔を海の上に突き出しているのである。

 

 水面で口をパクパクさせているのではなく、はっきりと顔全体が、下手すればえらの部分まで海上に出てしまっている。そしてその奇妙な魚は、まるで人間が首を曲げるかのように、グイっと首の部分だけを折り曲げて、器用に顔だけをこちらに向けているのだ。

 

 鳳はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 記憶違いでなければ、彼は以前この奇妙な連中のことを見たことがあった。レヴィアタンと戦った時、オアンネス族と共に現れた取り巻き……インスマウス族だ。その水棲魔族が今一斉に顔を向けて、鳳の乗るポッドの周りを取り囲んでいる。鳳は、額に汗をびっしょりとかきながら、文字通りその魚のような目を呆然と見つめることしか出来ずにいた。

 



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そこに誰かいるのか?

 水が跳ねるような音が聞こえた気がして、ハッチから顔を覗かせてみれば、いつの間にか脱出ポッドの周りを無数の水棲魔族が取り囲んでいた。ギィギィと騒がしい鳴き声をあげる魔族を前に、鳳は呆然と眺めることしか出来なかった。

 

 こっちの世界に来てからこの四日間、ずっと大海原に独り取り残されて、終いには死にかけて、もういっそ魔族でもいいから会いに来てくれと半ばやけっぱちに思ってはいたが、本当に来られてしまうと話が違う。どう考えても絶体絶命のピンチに、鳳はだらだらと冷や汗を垂らした。

 

「あわわわわわ……」

 

 前の世界からやたらと因縁が深い水棲魔族の強さならよく知っていた。地上でなら今の鳳でも互角にやり合えるだろうが、ここは場所が悪すぎる。海に引きずり込まれたら100%死亡確定だ。鳳は急いでハッチを中から閉めようと顔をひっこめた。

 

「ギィーッ! ギギィーーッ!!」

 

 するとそれを見ていた魚人一匹が、そうはさせじといきなり脱出ポッドの上に飛び乗ってきた。昨日、鳳があれだけ苦労して、命の次に大事なモリを落としてまで、ようやくよじ登れたポッドの丸い壁を一瞬である。なんかずるい! と思いはしたが、今はそんなことを言ってる場合ではない。鳳は大慌てでハッチを閉めようと腕を伸ばした。

 

 ところが、そんな彼の動きを見透かしていたのか、それとも何も考えていないのか、魚人はポッドに飛び乗った勢いのまま、まるでペンギンみたいにその上をスイーっと滑ってきて、なんとハッチにホールインワンしてしまったのである。

 

「うわああああーーっっ!!」

 

 ヌルっとした感触が気持ち悪い。魚人は今まさにそれを閉めようとしていた鳳を巻き込むようにして船内に落ちてくると、下敷きになってしまった鳳に襲い掛かってきた。

 

 鳳はとっさに身体強化スキルを発動して、襲い掛かってくる魚人を下から思いっきり突き上げた。

 

 魔族と言うのは大抵自分に都合よく考えるものだから、まさかこの奇妙な船に乗る人間ごときにそんな強烈なパンチを食らうとは思いもよらなかったのだろう。

 

「ギギィィィーーーーッッ!!」

 

 魚人はおかしな悲鳴を上げると、鳳から逃れようとしてハッチの外へと飛び上がろうとした。ところが、水の中ならあれだけ器用に動けるくせに、地上だとまるでダメな魚人は、外に飛び出そうとジャンプした拍子に、狙いを外してハッチの角に思いっきり頭をぶつけてしまった。

 

 ゴォォーーーン……っと、除夜の鐘のような音が響いて、哀れな魚人はそのまま船内に落っこちてぴくぴく痙攣し始めた。

 

「お、おい……どうすんだよ、これ」

 

 当面の脅威は去ったが、狭い船内でこんなのに居座られたら堪ったものじゃない。鳳は慌てて魚人を追い出そうとして、そのヌルヌルする尻尾を強引に引っ張り上げようとしていると、

 

「ギーッ!! ギーッ!!」

 

 頭上から別の鳴き声が聞こえたと思い見上げたら、仲間をやられたと思ったのか、数体の魚人が興奮しながら船内を覗き込んでいた。

 

「のわわああああーーーっっ!!」

 

 鳳は、こいつらにまで船内に入り込まれたら絶対に勝ち目はないと思い、ハッチに向かってMPで作った光球を咄嗟に飛ばした。するとそのうちの一つが魚人に当たり、ドン! っと気持ちのいい音を響かせ、哀れな魚人が錐もみしながら吹き飛んでいった。

 

 それを見た他の魚人たちが一斉にギィギィ騒ぎ出す。

 

「わーっ! わーっ! うるさいうるさい!! どっか行け!! 行くならこっちから手出しはしないから!!」

 

 まるで天地がひっくり返ったような大騒ぎに耳がキンキンとなって、鳳は堪らず怒鳴り声をあげた。外の連中が人語を解するかどうかは分からないが、他にやれることもないからダメもとでそう叫ぶ。

 

 魚人の一体がそれでも船内を覗き込んできたが、鳳が光球を飛ばすとすぐに顔をひっこめた。彼は床に転がっていた鉄の棒を拾い上げると、ハッチの外に突き出して蓋をガンガンと叩いた。入ってくるなというジェスチャーのつもりだが、それを見てまた魚人たちが騒いでいる。

 

 ともあれ、不用意に手を出したら危険だと判断したのか、それ以降、魚人がハッチの外に顔を出すことはなくなった。相変わらず外でギィギィ鳴き声がするが、しばらくは安全と考えていいだろう。だがいつまでもと言うわけにもいくまい、可及的速やかに今後の方針を決めなければ……鳳はそう判断すると、床に転がっている魚人を見た。

 

 自爆した魚人は死んではいないようだが、失神しているらしく、今はもうぴくりとも動かなかった。こんなのにいつまでも居座られたのでは堪らないから、さっさと追い出してしまいたいところだが、問題は身体強化を使っていても持ち上げるのが困難なくらい、こいつが巨大なことだった。

 

 おまけに、魚体に手足が付いているというその身体は、全身がぬるぬるしていて掴みどころがなかった。辛うじて、手足や尻尾のくびれたとこなら掴むことが出来るだろうが、それでは上から引っ張り上げることは出来ても、下から持ち上げるのは不可能である。

 

 しかしハッチから外に出てそんなことをしようにも、他の魚人たちが大人しくしていてくれる保証はない。連中に、引き取りに来いと言っても、果たして言葉を理解してくれるだろうか……

 

 ぐぅぅぅ~~~~~……

 

 そんな風に悩んでいたら、不意にお腹が鳴りだした。頭を使うと結構お腹がすくものだ。ましてやこのところの空腹ではそれも仕方ないだろう……

 

 ところで、手足がくっついているのを見なかったことにすれば、こいつの見た目は完全に魚である。エラもあればヒレもある。魔族は元人間のはずだが、ここまで見た目が変わっているなら、もはや中身も人間とは違うだろう。つまり、そう、美味いんじゃないか……

 

 幸い、鳳の趣味は釣りである。魚を三枚に下ろすなんてことは造作もないことだ。マグロでもサメでも持ってこい。昨日、指を思いっきり切ってしまったあの鋭利な鉄板なら、ナイフ代わりに使えるだろう。あとは鳳の倫理観と衛生観念がどこまでそれを許すかだが、そんなもんはとっくの昔にどっかに捨ててきてしまった。

 

 となると残る問題は一つ、刺身にするか、塩焼きにするか……そんなことを真顔で考えている時だった。

 

「そこに誰かいるのか?」

 

 ギィギィと騒がしい魚人たちの鳴き声に混じって、幼い子供のような声が聞こえてきた。

 

 鳳は最初それを幻聴だと思って全く気にも留めなかった。

 

 自分のことを棚上げて、こんな大海原のど真ん中に人がいるなんて思わなかったから、脳が処理してくれなかったのだ。だが、その声が再び聞こえてきたなら話は違う。

 

「その中に誰か入っているのだろうか。いるのなら返事をしてくれ」

「誰だ!!」

 

 鳳は弾かれるようにそう叫んだ。その声がよっぽど大きかったからか、その瞬間だけ一瞬外が静まり返ったが、すぐにまたギィギィと煩い魚人が騒ぎ出した。外の様子が見えない鳳が、その騒ぎにイライラしていると、それを察したのか声は、

 

「……尋ねているのはこっちの方なんだが……こらこら、おまえたち、中の人と話がしたいから、ちょっとどっか行っててくれ」

 

 その声に呼応するかのように、魚人の鳴き声は徐々に小さくなっていった。騒ぐのをやめたわけではなく、声の主の命令に応えてその場から少し離れたようである。相変わらず騒がしい魔族の大合唱をBGMに、謎の声がまた話しかけてくる。

 

「君は何者だ? 天使か? 人間か? まさか魔族と言うことはあるまい。この……不思議な物体は、君の船なのだろうか?」

 

 声は幼い子供のように聞こえるが、口調はかなり落ち着いていた。鳳はすぐに返事を返そうと口を開きかけたが、寧ろその落ち着きっぷりが逆に気になり、言葉に詰まった。声の主は、水棲魔族の中にいて平気どころか、彼らに命令を下していたようだ。と考えると、この声は魔族と考えるのが妥当だろう。そう言えば、体が完全に魚体であるインスマウス族と違って、半魚人のオアンネス族は人語を話せたはずだ。鳳はそれを思い出し、

 

「お前こそ何者だ? オアンネス族か?」

「私がオアンネスだって? とんでもない! 君は失礼な人だな」

「……じゃあ、どうして魚人どもはおまえの言うことを聞いたんだ?」

 

 声の主はその問いには答えず、少し考えるかのように間をおいてから、

 

「なら自分のその目で確かめてくれ。私も君が何者であるのかが気になっているのだから、お互いに姿を晒せばフェアだろう」

「……俺が顔を出した瞬間、待ち構えていた魚人がいきなり海に引きずり込んだりしないだろうな?」

「疑り深い人だ。嫌なら、こっちからそちらへ向かおうか?」

「いや、いい! そこから動くなよ……」

 

 鳳はそう言うと、片手に鉄の棒を握りしめたまま、もう片方の手だけでハッチによじ登り、外に顔だけを出して声の主の姿を確認した。いざとなったらすぐ室内に戻れるように、一瞬だけちらりと見るつもりだったのだが、しかし、そう思っていた彼は当初の予定を忘れてしまうくらい、そこに佇んでいた意外な人影に目を奪われてしまった。

 

 そこに居たのは、その幼い声にふさわしい、背丈の低い小さな少女だった。夏休みの小学生みたいな探検家風の半袖半ズボン、というかキュロットスカートをはいていて、肩から腰に掛けて大きな鞄を斜めに下げている。

 

 月明りを受けて青く輝く髪の毛は、肩に少し届かないくらいのおかっぱ頭で、長く伸びた前髪のせいで左の目だけが隠れていた。目鼻立ちは恐ろしく整っていて、いわゆる神人らしい作り物めいた美貌を湛えており、ルビーのように真っ赤な右目がまっすぐ鳳を見据えていた。

 

 そしてなにより最大の特徴は、その背中に生えている漆黒の片翼だった。それはもともと一枚しか生えていなかったのではなくて、何らかの事情で失われたといった感じに、片方の翼が途中でもげていた。もし、その翼が元通りに生えそろっていれば、あとは色を気にしさえしなければ、その姿は間違いなく天使である。

 

 そんな天使が、何故かこんな何もない大海原で、(いかだ)に乗って漂流しているのである。鳳も、大概他人のことは言えないが、どう考えても奇妙にしか思えなかった。

 

「……おまえは、もしかして天使なのか?」

 

 鳳が尋ねると少女は首肯し、

 

「ああ、見ての通り私は天使だ。君は……どうやら人間のようだが、しかし、どうして裸なんだ? わざわざ股間にぶら下げた小さな物を見せつけているのは何故だ? なんらかの部族的儀式か? もしかして、本当は魔族なんじゃないのか?」

「うっ……」

 

 天使の姿をよく見ようとして、思わずポッドの上に立ち上がっていた鳳は、おちんちんを両手で隠しながら、そそくさとハッチの中まで戻っていった。そう言えば昨日、素潜りから帰った後、絶望してすぐ寝てしまったから、その時からずっと全裸だったのだ。そんなことに気づかないくらい、落胆したり空腹に苦しんでいたわけだが……

 

 それにしても、この一連の騒ぎで完全に縮こまってしまっていたからそう言われても仕方ないが、小さな物とは失礼なガキである。鳳のものは決して小さくはない。普段はもっとマグナムだということを、しっかりとその体に分からせてやった方が良いだろうか……

 

 鳳がムギギギギっと歯ぎしりしながら、そんな不穏なことを考えいてると、

 

「ギィッ! ギィッ!!」

 

 その時、床で失神していた魚人が目を覚まし、そこへ鳳が帰ってきたものだから、パニックを起こして急に襲い掛かってきた。天使との出会いのせいで、すっかりそのことを忘れていた鳳は、敵に背中を向けていたこともあって、まったく反応出来ずにその攻撃をもろに股間に食らってしまった。

 

「ぎゃああああああーーーーーっっ!!!!」

 

 哀れな鳳はその一撃に飛び上がると、そのままハッチから転がり落ちて、海へばっしゃーんとダイブした。ごぼごぼごぼ……と、水中で空気が弾ける音が聞こえて、周辺に居た無数の魚人たちがすいすいと泳いで来る気配を感じる。

 

 ヤバい! あれだけ気を付けていたくせに、自分から海に落っこちてしまうなんて……鳳は股間の痛みに目眩を覚えながらも、海の中でもただでやられるものかと、必死に腕を構えて臨戦態勢をとった。しかし、彼の決意とは裏腹に、魚人たちは一定の距離を保ったまま、それ以上近づいてくることはなかった。

 

 どうしてだろうと思いつつ、鳳はその間に慌てて水面まで上がり、ぷはーっ! っと息を吐き出し顔を上げた。すると、そんな彼の目の前に小さな腕が差し出された。見上げれば、筏の上から小さな天使が手を差し伸べているのが見える。

 

「一つだけ分かったことがある。君はおっちょこちょいだ」

 

 少し前かがみになった前髪の隙間から、金色に輝く左の目が覗いていた。筏の周囲を取り巻く水棲魔族たちは、どうやらこの天使の言うことならなんでも聞くようだ。

 

 彼はそのことを不審に思いながらも、今は考えても仕方ないしまずは話を聞くべきだろうと、彼女の差し出す手を取った。

 



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天使にふれたよ

 何の物資もなく大海原で漂流し続けて四日目、このムリゲーに一度は死にかけた鳳であったがどうにか生き残り、ついに念願叶って人類と遭遇したと思いきや、その相手は何故か魔族を引き連れた奇妙な天使だった。

 

 特徴的な片翼を持つ少女のような見た目をした天使は、少なくとも魔族をけしかけたりすることはなかったので、当面は信用してよさそうであった。しかし、元はと言えばカナンを助けに来た鳳にとって、天使は敵のはずである。もしも正体がバレれば、相手の態度がガラリと変わるかも知れない。そうならないよう、当面は相手の出方を窺ったほうがいいだろう。

 

 そんな風に警戒しつつ、鳳は彼女の筏に乗り込むと……とりあえず、おちんちんを隠したいから、やっぱちょっとタイムと言ってからまたポッドに戻り、数日間着た切りで変な臭いを発し始めている服に着替えてから、改めて彼女の筏へと戻った。

 

 こんな大海原のど真ん中を旅していたであろうその筏は、全長5メートルはあろうとても大きなものであったが、何というか非常に粗末なつくりをしていた。

 

 その製法は恐らく、単にまっすぐな木を選んで切り倒し、横に並べて雑にロープで縛っただけだ。ところどころに木の皮がそのまま残っていて、足が棘だらけになりそうだった。

 

 こんなもんが浮くのか? 嵐に遭遇したら一発でお陀仏じゃないか? と思いもしたが、彼女が涼しい顔をしてそこに立っているのだから平気なのだろう。筏の中央にはマストが立てられていたが、それは帆を張るためではなく、そこからロープを伸ばして屋根を作り、彼女を日光から守るシェルターにしているようだった。

 

 それじゃ推進力は何なんだと普通なら驚くところだろうが……鳳の見立てでは、たぶん周囲を泳ぎ回っている魚人たちに押したり引いたりしてもらってるのではなかろうか。

 

 そう考えると、本当にこの天使は何者なのか。鳳が知らないだけで、こっちの世界では天使と魔族は仲がいいのだろうか……?

 

 鳳は、その辺のことを相手に正体が勘づかれないように遠回しに聞いてみたが、

 

「それはこっちのセリフなのだが。君こそ一体何者なのか。数日前、空から火球が降ってくるのを見た。その火球の様子がほんの少し変わっているように見えたから、こうして落下地点を目指して来たのだが……あれは君が乗っていた船だったのか? 君は空から落ちてきたのか?」

「いや、それは……質問してるのはこっちだろうが。おまえこそ本当に誰なんだよ。俺の常識じゃ、天使と魔族が仲がいいなんてあり得ないんだが、どうしてあの連中はおまえの言うことを聞くんだ?」

「ふむ……」

 

 天使はその言葉には即答せず、少し考えるそぶりを見せてから、

 

「……どうやら、お互いに話せない事情があるようだ。このままでは話にならない。ならば、こうしたらどうだろうか。お互い、言いたくないことは言わない。相手も無理には聞かない。そうすれば、少しは実りのある会話が出来るだろう」

「まあ、とりあえずはそれが無難か。いいだろう」

「ならばまずは自己紹介からだ。私はアズラエル。神域で生物を研究していた天使(エンジェル)だ」

 

 神域という言葉は初耳であったが、名称の雰囲気からして、恐らくはカナンの元職場といったところじゃなかろうか。さっきから妙に堅苦しい口調だと思っていたが、それは彼女が研究者だったからだろう。見た目は幼い少女であるが、天使である以上、見た目通りの年齢ではないのだろう。

 

 鳳も、すぐに自分も自己紹介をしようと思ったが……先行してこっちの世界に来たカナンたちから、自分の名前が割れていたらどうしようと思い、偽名を使うべきか少し考えた。だが、それこそ自分の立場を知るいい機会だと思い、いつでも戦闘が出来るように気を引き締めつつ、ゆっくりと、それでいて相手にはっきり聞こえるように名前を告げた。

 

「俺は(おおとり)(つくも)、人間だ。わけあって、ここで漂流していた。決して怪しいものではない……と言っても信じられないだろうから、まあ、とりあえずは危険な奴じゃないとだけ信じてもらえればそれでいい」

「ふーん……鳳……聞き覚えがない苗字だが、そんな家名が人類にいただろうか? 白という名前も珍しい響きだ」

 

 アズラエルは鳳の名前を聞いて少し不審がってはいたが、その様子からしてどうやら彼の名前はまだ天使たちには割れていないようだった。しかし、聞いたことが無い苗字とか珍しい名前とか、おっしゃる通りではあるが、もしかしてこいつはすべての人類の名前を記憶していたりするのだろうか……相手が天使だけに可能性はゼロではないから、今後はやっぱり少し気を付けた方が良いのかも知れない。

 

 鳳は、そんなアズラエルの気を逸らすかのように、急いで話をつづけた。

 

「そ、そんなことよりアズにゃん! 君はこんな大海原で何をしていたんだ? 見たところ、俺と同じで遭難している……ようには見えないが」

「あ、アズにゃん? アズにゃんとは私のことか? 初対面なのに、馴れ馴れしい人だな、君は。まあ、いい。何をしていたかと問われると少々難しい。わけがあってマダガスカルに向かっている最中なのだが……」

「マダガスカル!? マダガスカルってアフリカの島だよな……じゃあ、ここってインド洋?」

「ん? ああ、そうだが。ここはアフリカ大陸東方沖、マダガスカル島まで約50キロの海上だろうか」

「50キロ!? 意外と近いじゃねえか……」

 

 そのくらいなら、天気のいい昼間なら山のてっぺんくらいなら拝めたかも知れない。強い日差しを避けて夜に行動していたのが仇となったか……地球が丸いから仕方ないこととはいえ、鳳は落胆のため息を吐いた。

 

 アズラエルはそんな鳳の顔を覗き込みながら、

 

「その通り、近いんだよ。私が海を進んでいたら、夜空に火球が流れて、目的地の方角へと落ちていったのだ。気になるだろう? だから私はこうして様子を見に来たのだが……やはり、君はあの火球について何か知っているようだな?」

「それはまあ……まあまあ……っていうか、アズにゃんはどこから来たのよ! この辺の海には確か、めぼしい島はなかっただろう?」

「モーリシャス島があるが。私ならパースから来た。というか、天使なのだからそれが当たり前だろう?」

 

 アズラエルは何故そんなことを聞くの? といった感じの不審な目を向けている。もしかして、常識外れなことでも言ってしまったのだろうか。分からないから対処のしようもないのであるが……

 

 そんなことよりもっと気になることがあった。パースとは確かオーストラリアの都市の名前だが、オーストラリアからこんな粗末な筏で旅してきたというのは、どう考えても信じ難い。詳しい距離までは分からないが、多分、何千キロもあるはずだ。

 

 なんでそんな危険な旅をしているのだ? 何か事情があるのか? 鳳がその点を少し強めに突っ込んでみると、

 

「それはお互いに聞かない約束だったろう……それに、海流に乗れればそう危険なことでもないんだ……私にとっては……君こそどこから来たんだ? この辺には人は住んでいない。私と同じように、あれに乗って流れてきたのか?」

「いやあ~、さすがにそれはないでしょ」

「ならば、やはり、あの火球の正体はこれだったのか……それで、これはなんだ? 見たところ、飛行機には見えないが。ミカエルの作った秘密兵器かなにかだろうか」

 

 アズラエルは、鳳の乗っていた脱出ポッドを指さす。彼は首を振って、

 

「飛行機とは違うよ……っていうか、ああ~、ミカエルさんって方、やっぱりいらっしゃるのね? もしかしてガブリエルさんなんて方も?」

「?? 当たり前だろう。なんだか君は言ってることがすべておかしい。まるで違う世界から迷い込んできたかのようだ」

 

 正解! 100ポイント! 鳳は、もういっそのこと、そう叫んでしまいたかったが、まだ目の前にいる天使のことを信用しきれずに口を閉ざしていた。彼女が最初に言っていたお互い様という言葉通り、隠し事をしているのはあちらも一緒なのだ。彼女の目的が分からない以上は、こっちの事情もまだ話せない。もどかしいが、今しばらくはそうするしかないだろう。

 

 鳳がそんなもやもやした気持ちを抱えながら黙っていると、同じようにもやっとした表情でアズラエルが続けた。

 

「私を騙しているように見えなかったが……もしや、君は私を追いかけてきたドミニオンなのだろうか?」

「ドミニオン!」

 

 その名称は、この世界に落ちてきてからずっと引っかかっていた。エミリアが今すぐ逃げてと言っていたが、結局、こいつらは何者なんだろうか。鳳は慌ててぶんぶん首を振ると、

 

「いや、全然違うよ。寧ろ、そのドミニオンってのは何なのか知りたかったんだ。ドミニオンってなんなんだ? もしかして、アズにゃんもその仲間なの?」

「は? 私は天使だぞ? 何故そんな発想が生まれる」

「違ったか。そういや、自分を追いかけてきたって言ってたな。そうか……天使はドミニオンになれないんだな?」

「いよいよ怪しいな、君は。お互いに、言いたくないことは言わないでいいと言ったが……」

 

 アズラエルはほんの少し距離を取る。鳳はそんな彼女に向かって敵意はないといった感じのジェスチャーをしながら、

 

「待ってくれ。常識がないのは自分でも分かってるし、本当に申し訳なく思っている。出来れば事情を話したいとも。でも、もう少し情報を仕入れてからじゃないと、その判断がしづらくて……」

「何を判断するというのか。私を拘束するつもりか?」

「しないしない! ……って、拘束? さっきからなんか態度が変だけど、あんた実際何やったんだ?」

 

 アズラエルはもちろんその質問には答えず、じりじりとにじり寄ってくると、

 

「最初からおかしいと思っていたのだ。見たところ君は丸腰だが、魔族と素手で戦える人間なんているわけがない。さっき、君の船から光球が放たれたのは、見間違いじゃなかったんだな。ゴスペルをどこに隠している? 船内か?」

「ゴスペル? いや、そんなもん持ってないよ。つーか、ゴスペルってケーリュケイオンの亜種のことだろ。持ってたらこんな苦労してないっつーの」

「嘘をつけ!」

 

 アズラエルはそう叫ぶと、問答無用で体当たりをしてきた。見た目は幼女でしかない彼女を相手に、完全に油断しきっていた鳳はそのタックルをまともに受けてしまい、筏の上から落っこちてしまった。すると、それまで周囲をスイーっと泳いでいた魚人たちが寄ってきて、今度は筏に這い上がろうとしている鳳の邪魔をし始めた。

 

「うわ! こら! ギー太! やめないか!」

 

 ギィギィと鳴き声を上げながらまとわりついてきた魚人たちは、鳳を水の中にまでは引きずり込もうとはせずに、手加減してくれているようだった。多分、それもアズラエルの命令なのだろう。どうして魔族が天使の言うことを聞いているのかはわからなかったが、とりあえず、彼女はまだ鳳を完全に敵視しているわけではなさそうだった。

 

 彼女は筏にしがみついている鳳の横から舞い上がるようにジャンプすると、まるで義経の八艘飛びみたいに脱出ポッドの上にひらりと着地した。その身のこなしは実に軽やかで、やはり天使だけあってか、見た目とは全然違って身体能力は相当高いようである。

 

「船内を改めさせてもらう」

「ああ、もう……好きにしてくれよ」

 

 彼女の疑いの視線が突き刺さる。鳳はそんな彼女のジト目を口をとがらせて受けつつ、諦めたように手の平をプラプラとさせてみせた。

 

 アズラエルはそんな鳳のジェスチャーを見てからハッチの中に入っていこうとし、一瞬、そこから漂ってくる強烈な男臭さに辟易した表情を作って見せてから、改めて気合を入れなおしてポッドの中へと降りて行った。

 

 しかし、すぐにまた外に出てくると、

 

「なんだこの機械は。壊れているじゃないか」

「ああ、そうだよ。じゃなきゃ、こんなところで遭難なんかしてないだろうよ」

「本当に、通信もせずこの大海原で漂流してのか……よく一人で生きていられたな」

「いやあ、実際、一度死にかけたんだけどね……」

 

 そう言いかけた鳳はポンと手を叩いて、

 

「ああ、そうだった! なあ、もしかしてあの時のパンって、君がくれたの?」

「パン? なんのことだ?」

「ほら、さっき。起きたらパンを握ってたんだけど……」

 

 アズラエルは首を捻っている。その様子からして、彼女がとぼけているようには思えなかった。だとしたら、あのパンは本当にどこから出てきたのだろうか? まさか、魚人たちが施してくれるとは思えない。もしそうなら、滅茶苦茶しけってそうだし……

 

 鳳がそんなことを考えていると、アズラエルはうんざりと言った表情でため息をつきながら、

 

「とにかく、こう散らかっていては捜索は困難だが、やるしかないか。もう少し待っていたまえ」

 

 彼女はそうぼやくように呟いて、また船内に戻ろうとしている。鳳はそんな彼女を慌てて呼び止め、

 

「あー、ちょっと待て。あんたが言ってるゴスペルって、多分、これのことだろう?」

 

 鳳はそう言うと、意識を手のひらに集中させて、MPをエネルギーに変換し、光の球を自分の手のひらに浮かべて見せた。

 

 そして驚いているアズラエルに良く見えるように、ゆっくりと筏の周りを一周させてから、最後は空に向かって射撃するように飛ばしてみせた。エネルギーを使い果たした光球は、何もない空中でパンと弾けて消えた。

 

 アズラエルは、暫し呆然とその光球が消えた辺りを見上げた後、まじまじと鳳の方へ視線を向けて、

 

「……今のは、何をどうやったんだ?」

「どうって言われても、感覚的なもんだから困るんだけど……」

 

 鳳は後頭部を搔きむしりながらそう言うと、彼のことを羽交い絞めしている魚人ごと、海から引きずり上げるようにして筏の上に無理やり這い上がった。そして、それを阻もうと躍起になっている魚人たちを振りほどくと、さっきアズラエルがやってみせたように、くるりと空中で一回転してから脱出ポッドの上へひとっ飛びに着地した。

 

 彼女にすれば、それはあまりにも想定外だったろう。一瞬にして間合いを詰められ、すぐ目の前に着地した鳳のことを、アズラエルは身動き一つ取れずに呆然と見上げていた。彼から遅れてやってきた水滴がパラパラと雨のように降り注ぎ、彼女の顔を少し濡らした。

 

 アズラエルはその刺激でハッと我に返ると、隣に並ぶ鳳の背中をペタペタと触りながら、

 

「驚いたな……君はもしかして、天使だったのか? それにしては羽がないようだが……」

「いや、普通の人間だよ。触っても羽なんかどこにも生えていないぜ」

「……それじゃあ、何故、君は奇跡を使えるんだ? そんな人間いるわけがない」

「奇跡? 奇跡ねえ……」

 

 鳳は彼女の反応を見て渋面を作った。どうやらアズラエルは、自分の使っている力の正体を詳しくは知らないらしい。カナンも言っていたことだが、この世界の天使は神への依存心が強すぎるのだ。故に自分たちの使う力を、神の奇跡と信じて疑わない。

 

 現実は、彼らのいう奇跡とは、高次元方向からやって来る第5粒子エネルギーを利用して、P99のような機械が起こしている現象に過ぎない。だから、その仕組みを理解さえすれば、もはやそれは奇跡でも何でもない、制御可能な力になるのだ。

 

 もっとも、じゃあどうやって使うの? と言われてしまうと、今度は結構な前提条件が必要だから、おいそれと説明するのは困難なのだが……そんなことをアズラエルに言っても、今の彼女の好奇心に満ちた瞳が許してくれないだろう。

 

 だから、ここは適当に会話を合わせて、誤魔化しておいた方が無難かも知れない……鳳がそんな風に悩んでいる時だった。

 

 ゴオオオオオオオオォォォォーーーーーーーー………………

 

 という、地響きのような耳障りな音が、突然遠くの方から聞こえてきた。音の方を振り返っても、波に隠れて今は何も見えなかったが、何かがこちらに向かってきているようなのは確かだった。

 

 一体なんだろうか? 鳳が首を捻っていると、隣に佇むアズラエルの方は、その音が何なのかが分かったようで、

 

「しまった! 今すぐにここを離れた方が良い」

「なんでだよ?」

「あれはきっと、ドミニオンの乗る船の音だ。こんな海のど真ん中で、あんな騒音を立てる連中など他にはいまい」

「ドミニオンだって!?」

 

 何故かアズラエルが避けたがっていたり、エミリアが警戒しろと言っていた連中のことである。その正体は未だに判明していないが、ここは彼女の言う通り、逃げた方が良いのだろうか?

 

 とはいえ、どうやって逃げろというのだろうか。鳳がおろおろしていると、アズラエルは舌打ちし、

 

「何故、見つかったんだ……やはり、君が仲間を呼んだということなのか?」

「そんなことしてないって!」

「どっちにしろ、私には逃げるという選択肢しかない」

 

 彼女はそう言うや否や、脱出ポッドからまたひらりと飛び降りて、自分の筏へと帰っていった。主が戻ると、それまで散らばっていた魚人たちが舞い戻ってきて、筏を取り囲んで引っ張り始める……

 

 どうやら、本当に彼女はこんな方法で何千キロも旅してきたようだ。とても信じられないが、そこまでして向かおうとしているマダガスカルに、一体何があるというのだろうか……?

 

 魚人の曳航する筏は、思いのほか速く進んでいく。このままここに留まるか、彼女についていった方が良いのだろうか……鳳はほんの少し迷ったが、結局のところ彼女についていくしかないと、えいやっと助走をつけて筏に飛び乗った。

 

 しかし、そんな決断も無駄になってしまったようだった。

 

 ゴオオオオオオォォォォーーーーーー!!

 

 という耳障りな音はいよいよ大きくなり、その音を発しているものが肉眼で確認出来るくらい近づいていた。

 

 それは、大型のホバークラフトだった。風の力で海の上に船体を浮かばせ、後方に並べた巨大なプロペラで推進力を得ている。水の上を走りながら、非常に速度を出しやすい構造の船である。

 

 そんなホバークラフトが、今、二人が乗る筏を阻むかのように、旋回しながら前方へ躍り出ようとしていた。

 

 筏を引っ張っていた魚人たちは、それを見て一斉に海の中へと潜っていった。アズラエルはホバークラフトを苦々しげな表情で睨みつけている。鳳は筏の隅っこで、事態の成り行きを見守る以外にやれることは何もなかった。

 

 アズラエルに逃亡の意思がないと判断したのか、やがて船が船速を落とすと、甲板から上陸艇が下ろされ、ゆっくりこっちの方へと近づいてきた。

 

 ホバークラフトは海に消えた魚人たちを警戒してか、停船することなく絶えず動き続けている。鳳はその大きな船の艦橋を見上げながら、もはや捕まるのは仕方ないとして、果たしてどっちについた方が得なんだろうかと、漠然と皮算用していた。

 



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セーラー服と機関銃

 高次元世界へやってきて初めて出会った人……と言うか天使、アズラエル。念願の話が通じる人類とやっと出会えて、ホッとしたのも束の間、お互いに腹に一物を抱えている二人がちぐはぐな会話を続けていると、やがて恐れていた事態が起きてしまった。エミリアが出会ったらヤバいから即逃げろと言っていた、ドミニオンがやってきてしまったのである。

 

 ドミニオンの乗る高速のホバークラフトによって、行く手を遮られてしまった鳳たちは、成すすべなく筏の上で相手の出方を見ているよりなかった。その様子に逃亡の意思がないと判断したのか、やがてホバークラフトは速度を落として、ゆっくり筏の方へと近づいてきた。

 

 黎明が近づく仄明るい空の下、すぐ目の前に迫った船は思いのほか大きくて、見上げる艦橋はかなり高いところにあった。尤も、こっちが海面すれすれに立っているからそう見えるだけで、実際はそうでもないのかも知れない。

 

 暫く待っていると、およそ2階くらいの高さの甲板からひょっこりと人が顔を覗かせた。数は3。全員女性であるのは聞いてた通りだから驚かなかったが、鳳は彼女らの格好を見て面食らってしまった。なんと、セーラー服を着ていたのである。

 

 そう言えば、セーラー服はもともと水兵の制服だったはずだから、ある意味間違いじゃないのだろうが、まさかこんな異世界に来てまで、かつて日常的に見慣れていた光景を拝むことになるとは思わなかった。

 

 いや……ここが未来の地球であるなら、別におかしなことではないのだろうか? あまり考えすぎると脳みそが痒くなってくる気がするので、それ以上考えないようにしていると、やがて甲板から上陸用舟艇が下ろされて、その3人が乗り込んでいるのが見えた。

 

 エンジンが小気味良い音を響かせ、小さなボートが波を立てながら近づいてくる。船の上にはそれぞれ、ポニーテールとサイドテールとツインテールの、見た目そのまんま女子高生っぽい女子たちが乗っていた。

 

 女子高生たちは最初は気楽そうな感じであったが、そのうち筏の上にアズラエル以外の人間が乗っていることに気づくと、やや船の速度を落として、各々武器らしきものを構えてこちらを警戒し始めた。

 

 あと数メートルの距離までやってくると船のエンジンは切られ、慣性だけで近づいてくる船の上で、リーダー格らしきポニーテールが立ち上がって、武器を構えた。どう見ても機関銃にしか見えないそれに銃口を向けられ、鳳はいきなり撃ってきやしないだろうかと冷や汗を垂らす。

 

 鳳がそんなポニーテールの言葉を待っていると、その時、緊張する彼の度肝を抜くような大音量で、突然ホバークラフトの拡声器が鳴り出した。

 

「こちらはドミニオン海上警備隊マダガスカル方面第一中隊! こちらはドミニオン海上警備隊マダガスカル方面第一中隊! 天使アズラエル! あなたには殺人の容疑がかかっております! あなたには殺人の容疑がかかっております! よって我々は、大天使ミカエルの名において、あなたを拘束します! 繰り返します! あなたの身柄を拘束します! 抵抗は無意味です! どうか大人しく、我々の指示に従ってください!」

 

 おい、こら、殺人容疑てなんやねん……鳳は一瞬貧血を起こしかけて目の前がくらくらしたが、どうにかこうにか気を取り直して、すぐそばに佇むアズラエルのことを仰ぎ見た。

 

 そんな彼女は憎々しげにホバークラフトを見上げながら奥歯をかみしめていた。見た目はとても人を殺すような人物とは思えない。何せ、幼女だし、天使だし。それに、さっきまで話していた感じでも、彼女が自らの意思で人を手にかけるとは思えなかった。

 

 何かの間違いじゃないのか……? とりあえず、機会があればまたその時に聞いてみるとして、今はこの難局をどう乗り越えるか考えねばなるまい……

 

「ところで、さっきから居るそこの人! あなたは何者ですか?」

 

 そうして鳳がどうやって逃げればいいか頭を悩ませていた時だった。彼らの前に立ちはだかった三人組の一人が、アズラエルの背後で頭を抱えている鳳に向かって尋ねてきた。自分の存在に気づかれているのは分かっていたが、何もこのタイミングで話しかけてこなくてもいいだろうに……

 

 さて、どうする? 殺人者なんて知らなかった! と言えば、もしかすると彼女らが助けてくれるかも知れない。ここは適当に彼女らに合わせておくべきか、それとも、あくまでアズラエルを助けるべきか……鳳がどちらにすべきか迷っていると……

 

「動くな!!」

 

 その時、突然アズラエルが彼の背後に回り込んだかと思ったら、その首に手をまわして彼を羽交い絞めにしてきた。と言っても、体格が違いすぎるから殆ど鳳がおんぶしてるような格好ではあったが……一体何のつもりだろうと戸惑っていると、

 

「動くな! 動けば、この人の首をねじ切る!」

「え!? アズラエル様。一体、何をするおつもりですか!?」

「この人はドミニオンだ! もしも君たちが、私の邪魔をするというならば、私はこの人を殺す。君たちは仲間を絶対に見捨てたりはしないのだろう!?」

 

 アズラエルの怒鳴り声に三人組は動揺している。ねじ切るって、まさか本気じゃないよな……と思いつつ、鳳は両手を上げ、彼女らに助けてとアピールしながら、アズラエルにだけ聞こえるように小声でそっと耳打ちした。

 

「……おい、何のつもりだ?」

「今は話を合わせてくれ。この場を切り抜けるには、これしかない」

「彼女らを騙すつもりか? 潔白ならそう主張すればいいだけだろうに」

「出来ればそうしたいのだが、連中が話を聞いてくれるとは思えないのだ」

「うーん……」

 

 今なら、彼女らに保護を求めれば通るかも知れないが……結局のところ、鳳もその大天使ミカエルとやらのところに連れて行かれたら、身元がバレてただで済むとは思えなかった。だったら、今はアズラエルの芝居に乗っておいた方が得策かも知れない。

 

「わかったよ。でも、貸し一つだぞ?」

 

 鳳はそう言うや否や、突然、アズラエルに絞められた首が苦しくて仕方ないと言わんばかりに、顔を真っ赤にしながら悲鳴をあげた。

 

「ひ、ひえええーー! おたすけ~!! 天使のものすごい力で、まったく身動きが取れない~!」

「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか、あなた!? 天使アズラエル! 今すぐその人を離しなさい!」

「それは君たち次第だ、早くそこを退くと言え」

「くっ……天使が人に危害を加えるなんて……裏切り者のアズラエル、やはりあの噂は本当だったんですのね」

 

 裏切り者とはどういう意味だろうか……それもあとでちゃんと説明してもらおう。彼はそんなことを考えながら、さらに切羽詰まった様子で涙ながらに、

 

「苦しい~! 死んじゃう~! お、お願いします! 助けてください! まだ死にたくない! やり残したことがいっぱいあるんだ~!」

 

 鳳がしくしくと泣きながら訴えかけると、その哀れな姿が彼女らの同情を誘ったのか、三人は戸惑うように顔を見合わせ何かを協議し始めた。

 

 尚も苦しげに泣き叫ぶ鳳の姿を、アズラエルがよくやるな~……と冷たい視線で見守っていると、やがて協議を終えた三人組は、おっかなびっくりといった感じに、

 

「ああ、天使アズラエル……私たちがあなたの邪魔をしなければ、本当にその人を助けてくれるのですね?」

「もちろんだ。だが、解放するのは私が目的地に着いてから。それでいいな?」

「くっ……上司に確認しますから、少々お待ちを!」

 

 そう言ったかと思うと、JKたちは船に積んであった昭和の携帯電話みたいにごつい無線機を取り出して、恐らくはホバークラフトの中にいるであろう上司に連絡を取り始めた。チラチラとこちらを見ながらやり取りが続く。すると間もなく彼女らは、恐る恐るといった感じに、今度は鳳に向かって話しかけてきた。

 

「あの~……先ほどアズラエル様がおっしゃっておりましたが、あなたはドミニオンの方ですのよね?」

「……あ、俺?」

 

 どうやら彼女らの上司が確認を求めてきているようだ。鳳はどうするよ? と言った視線をアズラエルに投げたが、彼女もそこまでは考えていなかったようで、困ったように口を結んでいる。

 

 なかなか返事をしない鳳のことを、不審そうな目でJKたちが見つめている。正直、賭けではあるが、ここは嘘をつき通すしかないだろう。

 

「えーっと、もちろんです! 僕はあなた方と同じドミニオンですよ!」

「でしたらどちらの所属でしょうか」

 

 鳳が返事をかえすと、彼女らは間髪入れずにそう返してきた。そりゃあ、官憲の名を出せば所属を問われるのは当然だろう。

 

 しかしどこと言われても……鳳が助けを求めるようにアズラエルを見ると、彼女はそれは盲点だったと言わんばかりに驚愕の表情を浮かべていた。

 

 その表情を見て彼は即座に理解した。こいつは何も考えちゃいねえ!

 

 鳳が青ざめながら、どうにかこの場を誤魔化す嘘がないかと知恵を絞り出していると、

 

「どうしたんですか? 所属を答えられないなんておかしいですわね」

「いや……答えないんじゃなくて、答えられないと申しますか……」

「やっぱり、嘘でしたのね?」

「そそそ、そんなことはないって!」

「じゃあ、今すぐに所属を答えなさいな。さあ!」

 

 所属と言われても、ドミニオンがどんな組織かすら知らないというのに、答えられるわけないではないか。

 

 とはいえ、このまま黙っていては、嘘を吐いていると言ってるのと同じことだ。ここは嘘でも何か言うしかない。鳳はとりあえず真っ先に頭に浮かんだ単語を口にした。

 

「パ……パース……俺は、パースの所属で……」

 

 すると三人組はやっぱりと言った感じに目を見開いて、

 

「パース!? パースですって? 神域に私たち人間が近づくなんて、そんな不敬なことが許されるわけないじゃないですか! 馬鹿にしているんですの!?」

 

 しまった! 完全に地雷を踏みぬいてしまったようだ……どうやら神域=神や天使たちの領域に、ドミニオンはいないらしい。見ればアズラエルも呆れている。そんな目で見られたって、知らなかったんだから仕方ないじゃないか。

 

 いよいよ不審者を見る目つきに変わってきた女子高生たちは、さっきまで下げていた武器を、今度は鳳に向けて構えている。もはや挽回は不可能か……!?

 

 と、その時、三人組の一人が呆れるように呟く声が耳に届いた。

 

「さっきからおかしいと思ってたんですよ。そもそも、いつ死ぬかも知れない私たちドミニオンにとって単独行動はご法度、それなのに、あなたは一人しかいないじゃないですか。パートナーはどうしたんですか? もしも部隊と逸れたんであれば、救援要請はとっくに回ってきているはずですよ」

 

 鳳はその説明的な言葉を聞くや否や、すぐにピンと来て、

 

「それだ!」

 

 と叫んだ。ただでさえ不審者だと思っていた男の叫び声に、女子高生たちはびくっとして、手にした武器を鳳の顔面に向ける。

 

「待て待て! 早まるんじゃない! 私が単独で行動していたことこそが、実は私がパース所属であることの証拠だったのだよ!!」

「え……? それはどういう……」

 

 鳳は声のトーンを少し落として、彼女らにぎりぎり伝わるくらいのひそひそ声で話をつづけた。

 

「いいかい? これはトップシークレットで下手すりゃ命にかかわることだから、絶対に他言無用だよ? 実は……何を隠そう! この私こそがミカエル様直属のスーパーエリート集団! エターナル・エタニティが一員、コードネーム・フェニックスナインティナインだったのです!!」

「な、なんですってー!?」

 

 JKたちは絵に描いたような驚愕の表情を浮かべている。こっちとしては多少うさん臭く思われたとしても、ほんのちょっとでも興味を惹ければそれでいいくらいのつもりだったのだが……

 

 思っていたよりも確かな手ごたえに、鳳の方が少々面食らってしまった。彼女らは興奮気味に顔を突き合わせ、何やらぶつぶつやり取りしている。

 

「そう言えば聞いたことがありますわ。ミカエル様が直属の秘密部隊を組織してるって話」「私も私も! なんでも、うちらには出来ない裏の仕事を請け負うんだって!」「……その仕事内容から、隊員同士もお互いの存在を知らないという」「あの、伝説の部隊が……」「ほほ、本当にありましたのね!」「エターナル……エタニティ……」

 

 JKたちは尊敬の眼差しを向けている。正直、ここまで素直に騙されてくれると嬉しいというより怖い。鳳はおほんと咳払いすると、早口でまくし立てるように続けた。

 

「そ、そんなわけで、私はミカエル様に直接命じられて隠密裏にアズラエルの行方を追っていたのだがしかし、この大海原のど真ん中では身を隠すことも出来ず直接対決の末に破れてしまったのだよ。アズラエルはこのエリートソルジャーである私でも敵わなかったくらいグレートな天使だから君たち3人がかりでも始末に負えないだろう……私は! ミカエル様に! 報告するために! 絶っっっっ対に生きて帰らねばならないっ!! だから今は彼女の言う通りにしてくれないか。ミカエル様のために。ミカエル様のために」

「そんなに念を押さなくて分かりましたわ。そう言うことでしたら私からもお姉さ……隊長を説得してみますから。少々お待ちを」

 

 JKのうち、リーダー格っぽいポニーテールはそう言って無線機を手に取ると、通信相手と何やら百合百合しい口調でやり取りしている。その間、残りの二人は好奇心を隠しきれない様子でうずうずしながら、他にどんな仕事をやったのですか? とか、どんな訓練をするんですか? とか、普段は何を食べてるんですか? とかとか、質問攻めを適当にあしらっていると、やがて無線機を下ろしたポニーテールが、

 

「お姉さ……隊長が、そんなスーパーエリート部隊があるなら、ゴスペルを持ってるはずだから確認しろとおっしゃってまして」

 

 どうやら隊長の方は彼女らと違ってなかなか疑り深い……ではなく、優秀な指揮官らしくて、鳳の与太話をそのまま鵜呑みにはしなかったようだ。

 

 しかし、確認のためにゴスペルを見せろと言うのはむしろ好都合だった。鳳はすぐさま目の前に光球を作り出すと、ぎょっとして武器を向ける三人組に向かって言った。

 

「じ、実は、戦闘に敗れた私はアズラエルにゴスペルを奪われてしまったのです。今こうして話している間も、実は彼女はずっと背中にそれを隠し持ち、虎視眈々とあなたがたの隙を窺っていたのだ」

「まあ、なんてこと!?」

 

 アズラエルは、よくそんな次から次へと口から出まかせが出るものだなと感心しながら、鳳の話に合わせるように、

 

「目的地までたどり着ければ、この人にゴスペルを返すと誓おう。しかし、それが叶わないのであれば……」

「ひぃ~! おたすけ~!!」

「わ、わかりましたわ! ですから、そんなに脅かさないでくださいまし!」

 

 ポニーテールはそう言うとまた無線機で一言二言話し、

 

「……隊長の許可が下りました。そう言うことなら島まで先導するとおっしゃっております。でも、この筏、どうやって動かしているんですの?」

「隊長に、それには及ばないと伝えて欲しい。君たちの監視の目がある限り、私はここから動かないし、この人を解放するつもりもない」

「何故?」

「君たちに詳細な行き先を知られるわけにはいかないのだ」

「はあ……そうですか……ええ、ええ……隊長が許可するそうです」

 

 無線のやり取りは今度はあっという間だった。どうやら、向こうも全面降伏を受け入れたらしい。暫くすると、前方を塞いでいたホバークラフトが筏を回り込むように旋回し始めるのが見えた。

 

 それを見て三人組たちもボートのエンジンを始動すると、

 

「それでは、私たちも船に戻ります……天使アズラエル。あなたが我々を裏切ったりはせず、真に天使であることを願います。まさか約束を違えることはありませんわね?」

「……ああ、誓おう。私が用があるのは、この人ではなく、あの島なのだ」

「その言葉を信じます。それでは、私たちは沖合に停泊しておりますから、島で解放されたらあなたには信号弾を上げて欲しいのですが……」

 

 ポニーテールは今度はアズラエルではなく、鳳に向かって話しかけてきたのだが、途中で何かに気づいたように言葉を止めると、

 

「そう言えば……あなたのお名前をまだ聞いておりませんでしたわね?」

「ん、ああ、そうだな」

「お名前はなんておっしゃるのですか?」

「ああ、俺は鳳白。あんたは?」

 

 ようやく解放されそうだという安心感から、完全に油断しきっていたようだ。

 

 鳳が何気なく本名を告げると、その瞬間、場の空気が一変したような気配を感じて、彼はほぼ反射的に背中におぶったアズラエルごとその場から飛び退った。

 

 するとすぐ目の前のポニーテールの持つ機関銃から、パパパパパ……っと銃の連射音のような音が聞こえてきて、その銃口から鳳が作ったような光球がいくつもいくつも飛び出してきた。

 

「ぎゃふっ!!」

 

 アズラエルを押しつぶしながら背中から着地すると、不意打ちを食らった彼女が情けない悲鳴を上げていた。もちろん、申し訳なく思ってはいたが、謝罪する余裕すら与えてくれないくらい、容赦なくポニーテールの射撃が続いた。

 

 鳳は筏の上をゴロゴロ転がりながら、背中の反動だけで飛び上がり着地すると、迫りくる光弾を素手で払いのけるようにして弾き飛ばした。

 

「そんなっ?! この距離で外すなんて、あり得ませんわっ!!」

 

 ポニーテールは目の前で起きている光景が信じられず、叫び声をあげた。それもそのはず、実は彼女の射撃は正確で、実際には殆ど当たっているはずだった。それを鳳が空間の歪みを利用して逸らしていたのだ。そんな芸当が出来る人間なんて見たことが無い彼女には、さぞかしショックだったであろう。

 

 しかし、ギヨームと違って鳳にはこっちの才能がない。死を前にした咄嗟の集中力と爆発力で、今回はたまたま上手くいったようなものだ。こんなことは何度も続かないだろう。問題は、なぜ急に彼女が襲ってきたかだが……

 

「おいっ! いきなり何しやがる!!」

「対象をストレンジャーと確認。対象をストレンジャーと確認。これより交戦に移る。これより交戦に移る」

 

 見ればポニーテールの後ろの方で、ツインテールが無線機に向かって叫んでいた。

 

 すると次の瞬間、おそらくその通信を受けたのであろうホバークラフトが急旋回を開始し、サイレンを鳴らしながらこっちへと引き返し始めた。船内からは緊迫した館内放送が漏れてくる……第一種戦闘配備、繰り返す、第一種戦闘配備。

 

「何をしたんだ君は!」

 

 サイドテールの振り回す剣をさばきながら、アズラエルが叫んでいた。

 

「そんなの俺が知るか! つーか、マジなんなの!? さっきまで俺たち仲良しだったよね?」

「世迷言を!!」

 

 ポニーテールが憎しみのこもった鬼気迫る表情で連射を続ける。鳳がそれを必死になって避けたり弾いたりしていると、最後までボートに残っていたツインテールが、筏に飛び乗りながら叫ぶようにアズラエルに向かって言った。

 

「アズラエル!! そいつはプロテスタントですよ! 何故、天使であるあなたが一緒にいるんですか!?」

「なっ!?」

 

 その言葉がよほどショックだったのだろうか……反射的に鳳のことを凝視し棒立ちになってしまったアズラエルの肩に、サイドテールの剣がざっくりと食い込み血しぶきが舞った。

 

 アズラエルは激痛に顔を歪める。その手ごたえに、はっきり勝利を確認したのであろうサイドテールが、勝ち誇ったような声をあげた。

 

「いい気味、裏切り者に相応しい末路だね!!」

「私は……裏切ってなど……」

「プロテスタントと一緒にいたのが何よりの証拠です……お覚悟!」

 

 アズラエルは必死に弁明をしようとしていたが、死角から忍び寄っていたツインテールは問答無用で背後から短刀を突き刺した。身体能力的には神人と変わらない天使であっても、前後から切り刻まれたら流石にノーダメージとはいかなかっただろう。

 

「や……めて……」

 

 アズラエルは苦し気に吐血すると、目の前のサイドテールを押しのけようとした。

 

「今更、命乞いなど見苦しいですよ。あなたも天使であるなら、覚悟を決めて、神の下へおかえりください」

 

 しかし、そうはさせじとツインテールが、短刀を体内のより深くに刺し込んだ。アズラエルは苦し気に喘いでから、持ち上げた腕をだらんと力なく下ろした。どうやらその短刀には、相手の力を吸い取るような何か仕掛けがあるらしい。

 

「ギィーーッ!! ギィギィーーーッッ!!!」

 

 その時、主人の危機を察知したのか、水中に隠れていた魚人たちが唐突に現れ、筏の上にいる彼女たちを攻撃し始めた。

 

「きゃっ! なにこいつら!! どこから出たのっ!?」

 

 堪らずサイドテールは剣を引き抜くと、登ってこようとする魚人たちをバッタバッタと薙ぎ払う。細工をされているのはサイドテールの剣も同じなのだろう。彼女が剣を引き抜いても、アズラエルの傷はなかなか再生しようとしなかった。

 

「や、やめろ……彼らを攻撃してはいけない」

 

 アズラエルは暴れる魔族を止めようとしたが、殆ど動けずその場に蹲ってしまった。肩からぼたぼたと流れ落ちる血液を止めようと、必死になってその傷口を手で押さえつけている。そんな無抵抗のアズラエルに対し、ツインテールは尚も執拗に攻撃を続けながら、

 

「やはり魔族と繋がっていたか、サタンの手先め。この世のすべての人の恨みを背負って死ぬがいい」

 

 捨て台詞のように言い切った彼女の瞳は、さっきとはまるで別人だった。何が彼女にそこまで憎しみを駆り立てるのだろうか……

 

 ともあれ、このまま放っておいては天使といえども死んでしまう。しかし鳳が何とか助太刀に入ろうとしても、ポニーテールに阻まれて近づけなかった。

 

 だが、その時だった。

 

「ふざ……けるな……誰が……悪魔(サタン)の手先……だ……」

 

 アズラエルが絞り出すようにそう呟くと、その瞬間、なんとなく場の空気感がずっしりと重くなり、鳳は嫌な予感めいたものを感じた。

 

 ギィギィと騒がしく鳴き叫ぶ魚人たちの動きが著しく変わり、サイドテールが泡を食って剣を振り回す。

 

 すると次の瞬間、アズラエルの体から金色の光が溢れ出して、背中の片翼がバサッと音を立てて開かれた。

 

「私は……天使……天使アズラエル……私が……どんな想いで……人類の……ために……人類の……ために!!」

 

 すーっと立ち上る金色のオーラに彼女の前髪がゆらゆら揺れて、その下にある金色の左目が露になった。

 

 その左目はオーラを受けて輝き、本当に光を発しているようだった。

 

 サイドテールはいよいよ魚人に追い詰められて後退る。ツインテールの方はさらに力を込めてアズラエルを抑え込もうとするが、その刃先はもはや彼女には届いていないようだった。

 

 そしてついに、アズラエルは明け方の空をも染めるくらい強烈な光を放ちはじめた。

 

「人類の……ためにいいいぃぃぃーーーーっっ!!!」

 

 爆発のように光が溢れ、鳳は直感的にヤバいと感じた。

 

 似たようなものを、以前にも見たことがあった。あれは確かバハムートとの戦いの時、ベル神父が見せたオーラだ。彼は魔王を仕留めきることは出来なかったが、本気の天使がどれだけの力を持つかを人類にまざまざと見せつけた。

 

 あの時の神父ほどでないにしても、少なくとも、本気になった天使はここにいる全員が束になっても敵う相手ではないだろう。鳳は慌ててアズラエルを止めようとしたが、

 

「逃がしませんわよ!!」

「空気読め、馬鹿! こんなことしてる場合じゃないだろう!!」

「そんなこと言って、アズラエル様に加勢するおつもりでしょう!」

 

 この期に及んで事態を把握しきれていない単純なポニーテールは、尚も鳳に立ちはだかってきた。しかし、単純であるのは確かだが、馬鹿と言うのは訂正しなければならない。

 

 射撃が効かないと判断したのか、見れば彼女は銃口をまっすぐこちらへ向けて、銃剣突撃のように向かってきた。これが意外と隙が無くて避けにくい。これを狙ってやってるんだとしたら、相当場数を踏んできた証拠だろう。

 

 鳳は、もはや手加減してる場合ではないと判断し、身体強化のスキルを使うと、すかさず筏を思いっきり踏みぬいた。すると雑な作りだった丸太が一本抜けて、出来た隙間に前進する彼女の足が絡まった。

 

 一瞬、穴に落ちかけた彼女の体がぐらつく。

 

 鳳にはその一瞬あればよかった。彼女がよろけた瞬間、彼は即座に彼女の側面に回り込み、穴に気を取られている彼女の腕に思いっきり手刀を叩きこんだ。

 

 バシッ! っと乾いた音が響いて、苦痛に顔を歪ませる彼女の手から武器が転げ落ちる。アサルトライフルの形をしたその武器は、くるくるスピンしながら筏の上を転がり、今まさに海へと落ちようとしていた。

 

 彼女は慌ててそれを拾い上げようとしてダッシュしたが、しかし、先にそれを拾い上げたのは鳳の方だった。

 

「わ、私のゴスペル!」

 

 鳳は、奪った武器を彼女に向けると、

 

「今は退け! アズラエルの様子が変だ!」

「返して! 返しなさいな!」

 

 鳳が警告するも、武器を奪われた彼女は必死すぎて、彼の話など聞いていないようだった。

 

 そんなに大事な物なら返してやるのも吝かではないが、それで大人しく退いてくれるだろうか……それにしても、武器を奪ったら、なんだか彼女の動きがやけにのろくなったような……

 

 ポニーテールは、鳳が頭上に掲げている武器に向かって必死になってぴょんぴょん飛び跳ねている。その動きはまるで大人と子供のバスケみたいだった。

 

「人の子よ聞け、悲しみと共に苦しみあろうと、飢えと共に渇きあろうと、ためいきと共に悲嘆あろうと、慈愛を忘れたお前らのために、私は涙を流すだろう」

 

 と、その時だった。

 

 鳳がポニーテールの動きが変わったことに首を傾げていると、まるで頭の中に直接響いてくるかのように、金色に光輝くアズラエルの声が聞こえてきた。その神々しく厳かな様は、正に神の使いに相応しく、見る者の心臓をぎゅっと鷲掴んだ。

 

 そんな天使を手にかけようとしていた二人は、弾かれるようにその場を飛び退ると、恐れおののくように乗ってきたボートへと逃げ帰った。本能が危機を察したのだろう。魚人たちがそんな彼女らに飛び掛かり、二人はそれに抵抗をしながら必死になってポニーテールに叫んだ。

 

「様子がおかしい! 一時撤退するよ!」「早く戻ってきて! そんなにはもたないわっ!!」

 

 仲間の必死の呼びかけに、鳳から武器を奪い返そうとしていたポニテも迷いが生じたのか、その目が武器と仲間の間をくるくる行ったり来たりした後、彼女は涙目になりながらボートの方へと走っていった。

 

「あとで覚えてらっしゃいよ~!」

 

 あとがあればの話であるが……逃げ帰っていくポニーテールの動きは、やはりさっきとは別人のようだった。もしかして、このゴスペルとやらに何らかの魔法がかかっていたのだろうか?

 

 そんなことよりも、今はアズラエルの方をどうにかしなきゃならないだろう。彼はそう思って振り返ったが、しかし、行動しようとした時にはもう手遅れだった。

 

「七日七晩涙を流し、地上のすべてを洗い流そう。世の穢れ、人の堕落、争いと憎しみ。破壊と再生を乗り越え、真の楽園へといざ向かわん。死よ! 恐れるな! その腕に抱き、すべての生命を流し尽くせ! 冥府を下り深淵を導かん、来たれ大洪水(タイダルウェイブ)!」

 

 その時、アズラエルの体から、直視できないほど大量の光が溢れ出し、周囲を真っ白く染めた。

 

 鳳は目を閉じながらも、それが第五粒子の奔流であること、そして膨大なエネルギーが何か巨大な物を引き寄せようとしていることを、その気配から察知した。

 

 船の方からは、三人娘の悲鳴が聞こえる。あいつらは無事だろうかと考えていると、間もなく静寂が訪れて光が去ったことに気がついた。恐る恐る目を開ければ、周辺の海が驚くほど静かに凪いでいて、まるで鏡みたいに真っ平らになっている。

 

 だがそれもつかの間のことだった。間もなくゴオオオ……という、遠くから地響きのような音が聞こえてきて、水面はパシャパシャと白く泡立ってしまった。嫌な予感に振り返れば、天を衝くほど巨大な高波が、ものすごい速さでこちらへ向かっているのが見えた。

 

 浅瀬でもない限りこんな沖合で津波が起きても、それはうねりにしかならないはずだ。だがどういう原理かは分からないが、その波は最低でも30メートルは下らない高さを誇り、波頭が白く砕けていた。はっきりとした正体は分からないが、あれは波と考えるよりも、何らかのエネルギーと思っていたほうが良さそうだ。

 

 ただ一つだけ分かることがある。あれに巻き込まれたらタダじゃ済まないだろうということだ。とはいえ、こんな大海原のど真ん中で、一体どこへ逃げろと言うのだろうか。

 

 逃げ場がないのならマストにしがみついてるくらいしか出来ない。鳳は慌ててマストに飛びついた。

 

 しかし、その時、彼は筏の隅っこでポニーテールがまだ立ち往生していることに気がついた。どうやらボートに帰りたくとも、間に立ちふさがる魚人の群れが邪魔で出来ないらしい。

 

 最初に見た彼女の身体能力ならば、そんなの物ともせず飛び越えられるはずだが……鳳は自分の手の中の物を見た。もしかして、自分がこの武器を奪ったせいなのだろうか?

 

「きゃああああーーーっっ!!」

 

 その時、魚人の一匹が彼女に気づいて襲いかかってきた。すぐ真上からは、ゴゴゴゴゴと、ものすごい音を立てて波が崩れる音が聞こえる。死にたくなければ、必死にマストにしがみついているのが正解だ。

 

「ち……ち……ちくしょーーーっ!!」

 

 しかし、鳳はマストを蹴って駆け出した。迫りくる波が、間もなくそんな彼のことを、頭から飲み込んでしまった。

 



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うほうほ

 ぐるんぐるんと洗濯機の中にでも放り込まれた感じだった。実際問題、そんな経験などしたことないから比喩でしかないのだが、多分それほど間違っちゃいないだろう。

 

 アズラエルが作り出した津波はレヴィアタンのと同じで、ただひたすら人を押し流すだけで命を奪うまでには至らないようだった。だが、水棲魔族たちにとってはそれで十分なのは、あっちの世界で嫌というほど思い知らされていた。一緒に津波に巻き込まれたドミニオンたちは、あの後どうなったことだろうか……

 

 とはいえ、他人の心配などしている余裕などなかった。津波に揉まれて海中をぐるぐる流され続けた鳳は、上も下もわからないような状況で身動きが取れなくなってしまった。というのも、助けようとしたポニーテールがしがみついてきて離れないのだ。溺れる者は藁をも掴むというが、ものすごい力で、このままじゃ窒息すると分かっていても海中ではどうすることも出来ず、彼はさんざん藻掻いた挙げ句、結局意識を失ってしまった。

 

 薄れゆく意識の中でふと空を見上げれば、大きな魚の群れが編隊をなして悠々と飛ぶように泳いでいった。恐らく、あれはあの時のインスマウスの群れだったのだろう。彼らにとっては、水の中こそホームなのだ。

 

 アズラエルが……あの天使が、水棲魔族を率いているのだろうか? レヴィアタンのように水の力を自在に操り、水棲魔族を指揮する……魔王だったのか?

 

 ドミニオンが言うように、彼女は本当に人類に仇なす裏切り者だったのだろうか……

 

 わからない……わからないし、彼女に聞いても多分、教えてはくれないだろう。だから推測するしかないが……

 

 あの時、ドミニオンに攻撃されても殆ど抵抗を見せなかった彼女の辛そうな顔を思い出す限り、鳳にはとてもそうは思えなかった。それに彼女は言っていたはずだ。『人類のために』、彼女は何をしたのだろうか……

 

 それからどれくらい時が経過したかはわからない。

 

 疲れ切って気絶するように眠った翌日、異常な倦怠感を感じながら起きるあの感じで、半覚醒状態の彼は自分が意識を取り戻していくことに気がついた。

 

 さざ波の音が聞こえ、強い風が吹いていた。口の中がジャリジャリするのは、多分砂浜に流れ着いたからだろう。体に異常はないだろうか……ぼんやりとではあるが徐々に覚醒していく頭の片隅でそんなことを考えている時……彼は誰かが自分の肩をゆさゆさと揺さぶっていることに気がついた。

 

 誰だろう……? 目を開けると眩しい陽光が差し込んできて、たまらず目を細めた。逆光に照らされてよく見えないが、誰かが自分のことを覗き込んでいるのがわかる。一緒に流されてきて、鳳より先に目を覚ましたポニテだろうか? それともアズラエルだろうか……

 

 そんな予想をしながら目が明るさに適応するのを待っていると……浜辺に流れ着いた鳳の肩を揺さぶりながら覗き込んでいたのは、見たこともないような巨大な猿だった。

 

 いや、誰だよ……

 

「うひゃああああああーーーーーっっ!!!」

 

 目を覚ますなり、そんなものの顔を間近に見てしまった鳳は悲鳴を上げて飛び上がった。さっきまで疲れ切って身動きが取れないと思っていたが、命の危機が迫ってる状況でそんなもんは関係なかった。

 

 鳳は自分のことを覗き込んでいる猿を押しのけると、尻餅をついた格好のまま四本の手足で新種のゴキブリみたいにカサカサと後退った。

 

 それは巨大な猿というか、ゴリラというか、猿人と言うのが正しいような、そんな生き物だった。スターウォーズに登場するチューバッカみたいに毛むくじゃらだが、胸毛はなくて筋肉はムキムキ、体高は二メートル近くもあり、よく見れば腰は曲がってはおらず、直立二足歩行をするようである。

 

 長い前髪みたいな頭髪から覗く瞳は、子供みたいにキラキラしていて、一瞬気を許しそうになるが、そのすぐ下のむき出しの鋭い犬歯がその気を挫いた。武器は持っていないようだが、女性の腰くらいはありそうな上腕二頭筋を見れば、そんなもの必要ないくらい強靭な肉食獣であることは間違いなかった。

 

 砂浜に倒れ込んで気絶する鳳のことを覗き込みながら、この獰猛そうな魔族は何をしようとしていたのだろうか。魔族らしく食べようとしていたのだろうか、それとも、犯そうとしていたのだろうか……かつてヴィンチ村のすぐ近くの森でオークに惨殺されていた猫人のことを思い出し、鳳は背筋を悪寒が駆け上がっていくのを感じた。

 

 あとちょっと起きるのが遅れていたら、今頃どうなっていただろうか。鳳は距離を保ち警戒しながら、MPで光球を作り出し戦闘態勢を取ったが……しかし、それは彼の杞憂のようだった。

 

 鳳が警戒心を露わにすると、まるで心外だと言わんばかりに、猿人はウホウホ言いながら何か身振り手振りをしはじめた。一体なんのつもりだろうかと観察していると、どうも猿人は敵意はないということを表しているようだった。

 

 そういえば目覚める前、鳳は誰かに肩を揺さぶられているような気がしていたが……食べる気があるならそんなことはせずいきなりガブリだろう。もしかして、本当にこいつは敵意がないんだろうか……? とはいえ、それでも魔族相手に気を許すわけにもいかず、鳳が距離をとったまま、じっと猿人のことを見つめていると、すると彼は今度は鳳の斜め後方を指差しながらうほうほ言い出した。

 

 なんだろう? そうやって鳳が目を離した隙に背後から襲いかかるつもりだろうか? そんな手には引っかからないぞと思いつつ、やっぱり気になるから横目でチラチラと猿人が指差す方を見てみれば……

 

「あれ?」

 

 鳳はそこに見覚えのある機関銃が転がっているのを見つけて驚いた。すると猿人はその様子を見て、

 

「うっほっほ! うっほっほ!」

 

 と手を叩いて喜びはじめた。どうやら自分の意志が通じたことが嬉しいようである。彼は一通り喜びの舞を見せた後、今度は鳳と機関銃を交互に指差している。まるでお前のものだろう? とでも言いたげである。

 

 まあ、実際にはこれは鳳のものではなくてポニテの持ち物なのだが……最後に手にしていたのが鳳だったから、一緒に流れてきてしまったのだろうか。鳳は猿人を警戒しつつ、機関銃のもとへと歩いていってそれを拾い上げた。

 

 その重量はずっしりと重く、プラスチック製のように見えて中身はしっかり詰まっているようだった。実物を見たことがないから良くわからないが、多分、本物の機関銃と大差ないのでなかろうか。ポニテはこれを使って光弾を飛ばしていたが、どういう仕組みなんだろうか……?

 

 鳳がそう思いながら何気なくトリガーを引いてみると、その銃口からポンと光弾が飛び出した。特に何か力を込めたつもりもない。恐らく、誰でも使えるものなのだろう。撃った瞬間、彼は自分のMPが吸い取られるような感覚がしたから、どうやらこの機械は持ち手のMPを光弾に変換する機械のようだ。

 

 思い返せば、鳳がこれを取り上げてしまった後、それまで歴戦の戦士のごとく戦っていたポニテの動きが急に悪くなった気がしていた。どうやらそれは気のせいではなく、この機関銃が彼女の身体能力もサポートしていたのだろう。

 

 MPを用いて利用者を助ける。それは大まかに言えばケーリュケイオンも同じだった。となると、もしかして、これがゴスペルってやつなんだろうか……? 鳳がそんなことを考えながら、矯めつ眇めつ機関銃を眺めていると……

 

 その時、突然、彼のお腹が、ぐぅ~っと鳴り出した。

 

 そう言えば、餓死しかけるくらい、ろくに何も食べていないんだった。ようやくこうして念願の陸地にたどり着けたのだから、また空腹で動けなくなる前に、さっさと何か食べ物を探したほうが良いだろう。

 

 鳳がそう思って周囲を見渡していると、

 

「うっほ! うほほっほ!!」

 

 すると猿人がまたバタバタと手足を振って何かアピールしはじめた。

 

 今度はなんだろうか? 忙しいやつだなと思って眺めていると、猿人は脇の下あたりから何かを取り出してみせた。どうやら、その辺りの皮が弛んでいてポケットみたいになっているらしい。便利だけど、なんか汚い。

 

 ともあれ、一体何を取り出したのかと見ていると、彼は鳳の足元にそれを投げ、拾うようにジェスチャーしている。あまり気は進まなかったが、とりあえず脇の下に入れて歩いてるくらいだから爆発物ではないだろう。彼はそう思い、拾い上げて観察してみた。

 

 それは見た目は10センチくらいの大きくて茶色い木の実のようだった。耳元で振ってみると、中でマラカスみたいに何かがコロコロ転がっているのが分かる。もしかして、お腹がすいているのに気づいて分けてくれたのかな? と思っていると、猿人はまたうほうほ言いながら遠くの方を指差している。

 

「あー! あれは」

 

 すると彼の指差す先に、非常に特徴的な木が生えているのが見えた。こうして実物を見るのは初めてだったが、その極太い幹の上に、草が生えるようにちょこんと枝葉が乗っかっているフォルムは、誰もが一度は見たことがあるだろう。バオバブの木である。確かその実は食べられると聞く。

 

 鳳がそのことを思い出していると、それを見透かしたかのように、猿人がもう一つ取り出してパカッと実を割り、こうやって食べるのだと手本を見せるかのように食べ始めた。

 

「へえ、そうやって食べるんだ?」

 

 でも、これってお前の脇の下から出てきたものだろう……? 鳳はそう思いはしたが空腹には勝てず、見様見真似で殻を割ると、中に入っていたコロコロした中身を取り出した。それは海綿状の果肉を纏った白い種で、口に放り込むと舌の上でシュワシュワ溶けた。味が殆どしなくて美味くはないが、不思議な触感である。

 

 思ったよりも大きな種の周りの果肉部分を舌でこそぎ落とすように食べていると、なんだかカロリーを摂取している妙な実感が湧いた。殻の中にはまだまだたくさん種が詰まっており、鳳は直立しながら托鉢坊主みたいに無心でそれを口に運んだ。

 

「……おまえ、いい奴だな」

「うほうほ」

 

 魔族に気を許すのは危険かも知れないが、こうして食料まで分けてくれたとなると話は変わる。日本人は食べ物の恩を忘れないのだ。元々、魔族とは獣人(リュカオン)の成れの果てなのだから、やけに人好きのするこいつは、案外、先祖返りか何かなのかも知れない。もちろん、断言はできないが、必要以上に警戒することもないだろう。

 

 鳳は実を食べ終わるとご馳走様と手を合わせた。

 

「ありがとよ。なんか世話になっちまったみたいだな」

「うっほうっほ」

「とは言え、恩返ししようにも今は手持ちが何もないんだ。おまえ、この辺に住んでるのか? また今度機会があれば何か持ってきてやろう。それよりも、これからどうしたもんか……」

 

 猿人がバオバブの実を取り出してきたのを見る限り、恐らく、ここはマダガスカル島で間違いないだろう。どうやらアズラエルの作り出した津波で、ここまで流されてきてしまったらしい。しかし、そう考えると、あそこから島まで50キロの距離を鳳はいっぺんに流れてきたことになる。確かにすごい力だったが、そこまで人を押し流す波ってどんなんなんだ?

 

 そう言えば……アズラエルはオーストラリアのパースから筏に乗ってやってきたと言っていた。その動力は勝手にインスマウスの群れだと思っていたが、もしかすると彼女は波に乗ってやってきたのかも知れない。確かにこの方法でなら何千キロもの距離を、あの貧相な筏で渡ってくるのも無理じゃないだろう。

 

 あの時、ドミニオンに襲われた彼女は興奮して見境をなくしていたように見えたが、こうして目的地にたどり着いたところを見ると、案外冷静だったのかも知れない。とはいえ、天使はほぼ神人と同じ体のはずだから、あれだけ怪我をしていても死にはしないだろうが、心の傷は外からは見えない。彼女は大丈夫なんだろうか。

 

 今はとにかく彼女と合流しなければ……鳳がどっちへ歩いていこうかキョロキョロしていると、また猿人がドラミングしたり手足を叩いたりして何かをアピールし始めた。

 

「うほっほうほっほ」

「ん? 今度はどうした?」

 

 猿人は鳳にちょっと来いとでも言いたげに、浜辺の流木の辺りを指差している。言われた通りに足を向けると、猿人は飛び跳ねるようにしてその流木のところまで駆けていき、影になっている部分を指差した。

 

 鳳が、なんだろう? と思いながら、回り込んで覗いてみると、

 

「あ! こいつ……」

 

 流木の影に、例のポニーテールが転がっていた。尤も、流されてくる間に紐が解けてしまったらしく、今は長い髪の毛が砂浜に昆布みたいに広がっていた。塩水に浸かり日光に晒され、砂に塗れてキューティクルが大惨事になっているが、起きてからそれに気づいた時、彼女は立ち直れるのだろうか……

 

 ともあれ、こんな近くにいたのは、彼女が鳳にしがみついていたからだろう。流れ着いてそれほど時間が経っていないのか、服がまだ濡れており、セーラー服が肌に張り付いて艶めかしかった。鳳の方は乾いてるのに何でだろう? 今の御時世、未成年を性的な目で見ると問答無用でアウトだから、出来るだけそっちの方は見ないで考えていたら、猿人が急にうほうほ言いながら波打ち際を指差した。

 

 つまりなんだ? この猿人が波打ち際に倒れていた彼女のことを、引き上げてくれたということだろうか……? だとしたら、いい奴どころか命の恩人ではないか。魔族はみんな他種族を殺すか犯すもんだとばかり思っていたが、こんな進化をする奴もいるんだなあ……

 

 鳳がそんなことを考えて感動していると、

 

「い……いやああああああーーーっっっ!! いやっ! いやっ! こないでっ! 魔族! プロテスタント! 人類の敵ぃぃーーーーっっ!」

 

 唐突に、ポニーテールがそんな台無しなセリフを叫びながら暴れだした。どうやら、鳳たちが様子を見に来たと同時に目を覚ましたらしい。ものすごい甲高い声で耳がキンキンとなって、三半規管が狂いそうである。

 

 ポニーテールは手足をバタバタさせ、手近にあるものをとにかく掴んでは一心不乱に投げつけ始めた。と言っても、そこにあるのは砂粒くらいのものだが、これが意外と厄介だった。口に入ればジャリジャリするし、目に入れば痛くて開けられない。

 

「どうしてプロテスタントが魔族と一緒に!? さては私のことを犯すつもりですわね!? エロ漫画みたいに! エロ漫画みたいに!」

 

 おまけにこの暴言である。あの時、筏から落ちそうになった彼女を助けるんじゃなかった。お陰でこっちまで死にかけた上に、セクハラ裁判で訴えられそうな状況である。我を忘れたポニーテールの罵倒は止めどなく溢れ、彼女が疲弊してぶっ倒れるまで続いた。その暴言のオンパレードたるや、いっそのこともうポニテじゃなくて昆布と呼んでやりたい気分だった。

 

 鳳は眉間の皺をモミモミしながら、うんざりとため息を吐いた……ところで、こんな世界にもエロ漫画はあるんだろうか。あるなら見てみたいものである。

 



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ポニテ改め昆布

「ゴミ! 社畜! 社会の病巣! あんたなんか生まれてこなきゃよかったのよ! 死ね死ね死んじゃえ! 悪魔! 息すんな! 口臭が臭いって言ってるのよ! っていうか、キモいキモいキモいぃぃーーーっ!! 存在自体が信じられないくらい気持ち悪いっっ!!」

 

 鳳を巻き込むようにして、一緒にマダガスカルの砂浜に流れ着いたポニーテールは、目覚めるなり、目の前に魔族がいることに錯乱して大暴れを始めた。ぶっちゃけ、その反応自体は鳳も他人のことは言えなかったが、暴れぶりにかけては完全に彼女の方が上だった。

 

 アナザーヘブン世界もそうだったが、こっちの世界の人間たちも魔族に苦しめられているせいか、彼女の魔族に対する嫌悪感は遺伝子レベルで刷り込まれてるらしく、どうやら丸腰で魔族と対峙しているという状況に耐えられないようだった。まるでゴキブリでも見るような目つきで、真っ青になって罵詈雑言を並べ立てる彼女の表情はピクピク引き攣って、骨の髄まで恐怖に怯えているようだった。

 

 その様子はちょっと痛々しくもあるが……それにしても、よくもまあ、次から次へと悪口が出てくるものである。鳳も今や三児の父であるから、何を言われても鼻でもほじってノホホンとしていられるが、独身男性がここまで女性に面罵されたらしばらく立ち直れないのではないか。

 

 JKの『気持ち悪い』は思ったよりも破壊力があるのだ。事実、言葉が通じていないであろう魔族であっても雰囲気くらいは伝わるからか、さっきから猿人が心なしか元気をなくしているように見える。

 

 おまえは寝ていたから知らないんだろうけど、こう見えても命の恩人かも知れない相手なんだから、もうやめてやれよ……と、鳳が耳を塞ぎながらポニテの凶行を見守っていると、やがて彼女は全ての力を使い果たしたのか、突然、貧血でも起こしたかのようにパッタリとその場に倒れ、大の字になって天を仰ぎながら投げやりに、

 

「くっ……殺しなさい」

「女騎士かよ。殺さないよ。つーか、そろそろ落ち着いたか?」

 

 仰向けになった胸が激しく上下に揺れていた。海水に濡れたセーラー服が肌に張り付いて、体のラインがくっきり見えた。こうして見ると結構デカい。横になっても形が殆ど崩れないのは若くて張りがあるからだろうか……などとセクハラ裁判で不利になりそうなことを顔色一つ変えずにじっくり考えていたら、やがて恐々とした表情のポニテがか細い声で呟くように言った。

 

「……本当に、殺さないんですの?」

「殺さん殺さん」

「そう言って、油断させといて後ろからざっくりと……」

「人を殺人鬼みたいに言いやがって……その気があんなら、君が起きる前にそうしてるだろ? そうなってない時点で察しろよ」

 

 ポニテはそう言われればそうだなと言った感じに、少しキョトンとした表情を見せた後、すぐにまた険しい表情に戻り、

 

「そんな話信じられませんわ! こうしてプロテスタントと魔族が共謀している現場を見つけてしまった後では」

「共謀? 何いってんだ」

「何って……あなたが連れているその魔族ですわよ。あなた達、プロテスタントの仲間なのでしょう?」

 

 鳳は隣に並んでいる猿人を見て、なるほどと思った。どうやらポニテは二人が元から仲間同士なのだと勘違いしているようだ。

 

 鳳は首を振って、

 

「違う違う。こいつとはここで出会ったんだ」

「本当にぃ……?」

「ホントホント。実は、俺もここに流れ着いた時、気を失っていたんだけど、そしたらこいつが助けてくれたみたいで……」

「はいぃ!? そんな話、信じられるわけありませんわよ! 魔族と人間が意思疎通するだなんて!」

「そうは言っても……君だって同じように彼が助けてくれたんだぞ? 自分の格好を見ろよ。水浸しだろう? 本当なら波打ち際で海水に打たれていた君のことを、彼が運んでくれたんだぞ?」

 

 ポニテはそう言われて、初めて自分の格好に気づいたようにマジマジとずぶ濡れの体を見てから、やっぱり信じられないと首を振って、

 

「嘘を吐かないで欲しいですわ! あなた、私のことを混乱させて誑かそうとしようったって、そうは行きませんわよ」

「嘘じゃないっての。つーか、誑かすなんて、そんなつもりは毛頭ないよ。俺は事実しか言っていない」

「馬鹿馬鹿しい……人助けする魔族なんて、そんなのいるわけありませんわ! あなた、まさか私が魔族の習性を知らないとでも思ってるんじゃありませんわよね!?」

 

 そう言われてしまうと今度は鳳の方が黙る番だった。

 

 彼だってもちろん、魔族の習性は知っている。魔族という種族は、基本的に他者を殺すか犯すか、どちらかしかしない。

 

 だから、アズラエルの連れていたインスマウスや、この猿人を見て、もしかしてこっちの世界では、魔族は話が通じる相手なのかなと思いかけていたのだが……彼女の様子を見るからに、それはやっぱり間違いのようである。

 

 じゃあ、本当にこいつは何なんだろうか……? さっき考えたとおり、先祖返りなんだろうか?

 

 鳳が隣でキョトンとした表情をしている猿人を見ながら、やっぱりこいつにはあまり気を許さない方がいいのかなと思っていると、猿人はまるでその空気を察したのかのように、急にうほうほ言いながら鳳たちに背を向けた。

 

 その背中は哀愁に満ちて物悲しかった。なんだか仲間はずれにしているみたいで居た堪れない。鳳はガシガシと頭を引っ掻くと、

 

「ああ……もう! 確かに君の言う通りだろうけど、こいつはなんか違うんだ。もう共謀でもなんでも良いから放っといてくれ。ほらよっ! これは返すからよ」

 

 彼はそう言うと、彼女から隠すように流木の影に置いておいた例の機関銃を取り出した。そしてそれを見て驚いている彼女にぐいと押し付けると、

 

「俺はもう行くから、君も勝手にしてくれ。多分、ここで待っていたら、仲間が助けに来てくれるんじゃないか」

「ちょ、ちょっと、お待ちなさい!」

 

 鳳がそう言って猿人を追いかけようと踵を返すと、その行手を阻むようにポニテが機関銃の銃口を向けながら割り込んできて、

 

「お待ちなさいって言ってるでしょう?」

「どけよ」

「あなた、まさかこのまま逃げられると思ってまして?」

 

 鳳は、はぁ~……っとうんざりするようにため息を吐くと、胸を張って、わざとその銃口を自分の心臓に突き立てるように彼女の前に立ちはだかり、

 

「ああ、そうかい。やれるもんならやってみろよ」

 

 ポニテはそんな鳳の挑発にムッとしながら、

 

「それで私が引くとでもお思いで……? お馬鹿さん。私にゴスペルを返すなんて、自分から逮捕してくれと言っているようなものですわ。あなたには本隊が来るまで私と一緒にいてもらいます」

「あのなあ、その本隊がやってきたら、俺はどうなるんだ?」

「どうって……?」

「忘れたとは言わせないぞ、いきなり襲いかかってきたのは君だろう。問答無用で殺されるんじゃないか」

「それは……」

「そのつもりなら今すぐ引き金を引けよ」

 

 鳳は更に銃口をぐっと押し付けるように彼女に迫ると、若干引き気味の彼女の眉間を指さしながら、

 

「いいか? よく聞けよ? もし俺に君を殺す気があったなら、君はとっくにあの世行きだ。信じようが信じまいが勝手だが、あの猿が君を助けてくれたのも事実なんだ。そして、その武器を君に返したのは、そうしなきゃ君がここに取り残されても一人で生きていけないと思ったからだ。君はそれが無けりゃ運動能力が著しく落ちるんだろう? 武器を奪ったまま、置き去りにしても良かったんだぞ?」

「うっ……」

 

 ポニテは鳳に迫られてたじろいでいる。彼はそんな彼女の目をじっと睨みつけながら銃身を掴むと、銃口をそっと横に向けた。

 

「じゃあな。俺は行くから、君は助けが来るまで、大人しくここで待ってな」

 

 鳳はそう言うと、悔しそうな表情で機関銃を構えたまま硬直している彼女の肩をポンと叩いてから、その横を通り過ぎた。やけくそで撃ってきたりしないか若干不安だったが、どうやら平気のようである。武器を返すのは結構な賭けだったが、彼女にも言ったとおり、この状況では仕方なかっただろう。

 

 そんなことよりも、さっきさり気なく会話の中で触れられたが、やはりあの機関銃はゴスペルだったらしい。アナザーヘブン世界では、神話に登場するような仰々しい名前のものしかなかったから確信が持てなかったが、どうやらこっちの世界では彼女のような一般戦闘員でも普通に持ってる代物のようだ。

 

 そう考えると、あの時、ポニテの仲間のサイドテールやツインテールが持っていた長剣やナイフも、きっとゴスペルだったのだろう。そして、彼女らはゴスペルから身体強化を受けなければ、ろくに戦う力も持っていないようだ。今度また戦う機会があったら、その辺のことも考慮してやるべきだろう……

 

 鳳はそんなことを考えながら猿人に追いつくと、その背中をパンっと叩きながら言った。

 

「よう、チューイ! そんなしょぼくれた顔してんなよ。一緒に行こうぜ?」

「……うほ?」

 

 猿人はまさか鳳が追いかけてくるとは思っていなかったのだろう。キョトンとした表情で、ウホウホ言いながら首を傾げている。鳳はそんな猿人に向かって、

 

「名前ないと不便だろ? おまえ、チューバッカみたいだからチューイな。今度からそう呼ぶよ」

「うほっ! うほっ!」

「あいつが言ったことなら気にすんな。思春期の女は面倒くさいんだよ。それよりお前、実は、もう一人行方不明のやつがいるんだけど知らないかな?」

 

 鳳がそうやって気さくに話しかけてやると、最初、猿人は喜んでいるようだったが……暫くするとなんだか急に態度が余所余所しくなってきて、彼はソワソワしながら鳳の背後を指差したかと思ったら、まるで身を引くように距離を置いた。

 

 鳳が、どうしたんだろう? と思って振り返ると、するとそんな一人と一匹の後を遠巻きに見るように、ポニテがこっそり後をつけてきていた。

 

「なんで追いかけてくるんだよ?」

 

 彼女のことに気づいた鳳がぞんざいに言うと、彼女は少し傷ついた感じに唇を尖らせ、そっぽを向きながら、

 

「た、たまたま行く方が同じになっただけですわ」

「あっそう。じゃあ、俺はあっち行くから……」

 

 鳳が別方向に足を向けると、彼女は一瞬ギョッとした表情をしてから、続いてソワソワした表情に変わり、最終的には何気ない風を装いながら、コソコソと彼の後についてきた。鳳が立ち止まって振り返ると、彼女も立ち止まって、何食わぬ顔をしてそっぽを向いて口笛を吹きはじめる。その様子を見るからに、多分、一人になるのが心細いのだろう。

 

 きっともう一度理由を問いただしても、たまたまだと言い張るに違いない。彼はため息混じりに、

 

「仲間が探してるんじゃないか? うろつきまわらないで、一箇所でじっとしてた方がいいと思うけど」

「そ、そんなことは分かっていますわよ。でも……そう! 仲間は私だけじゃなく、犯罪者のあなたのことも探していますわ。だから私は犯罪者を見張るために、仕方なくあなたの後をつけているのですわ!」

「……不安で不安で仕方ないって言うなら考慮するんだけどね。思いっきり犯罪者呼ばわりしながらついてこようって、君、いい度胸だよね」

 

 鳳が引き攣った笑みを見せると、ポニテはビクッと肩を震わせてから、機関銃を構えたり下ろしたり構えたり下ろしたりを繰り返しはじめた。まるでRPGのキャラクターの待機モーションみたいである。

 

 まあ、彼女が不安がるのも仕方ないかも知れない。実際、こんな辺鄙な場所に一人取り残されて、来るかどうかもわからない救助を待つのはとんでもなく憂鬱だろう。つい昨日、同じ状況で死にかけたからその気持ちはよく分かった。

 

 問題は、本隊と出食わした時、後ろから撃たれるかも知れないにも関わらず、彼女の同行を許すのは、普通に考えてあり得ないわけだが……確かに、後ろから撃たれる可能性は否定できないが、彼女が横にいたら本隊の方も撃ちづらくなるはずだ。最悪の場合、人質に取るという選択肢もある。

 

「まあ……いいんじゃないの。ついてきたいなら、好きにすれば?」

 

 鳳が皮算用をしつつ、ため息混じりにそう言うと、彼女はパーッと瞳を輝かせてから、ハッと気づいたように真顔に戻り、もじもじしながら、

 

「べ、別にあなたのためについていく分けじゃないんですのよ? あくまで監視のついでなんですからね……」

 

 彼女はツンデレみたいなセリフを吐きながらピューッと走ってくると、ツンツンした表情で鳳の横に並んだ。と言うか、よほど不安なのだろうか、その距離がやけに近かった。腕を差し出したら、しがみついてきそうな勢いである。

 

 後をつけているのではなかったのか……とは言え、今更、意地悪なことを言うのも大人げない。鳳は黙って歩きだすと、鴨の親子みたいにくっついてくるポニテに向かって言った。

 

「で、君、名前は?」

「はあ!? そんなの教えるわけないじゃないですか」

「それじゃ俺はなんて呼べばいいの? 昆布って呼んでいいの?」

「はあ? どうして昆布……」

「そっちは俺の名前知ってるからいいけど、一緒に来るなら呼び名が必要だろ」

「それは……まあ、そうですわね……」

 

 ポニテはそう呟くように言ってから、しばらく考え込む素振りを見せた後に、不承不承と言った感じに重い口を開いた。

 

「私は瑠璃。宮前瑠璃ですわ」

「はあ!?」

 

 その名前を聞いて、今度は鳳の方が素っ頓狂な声を上げた。その様子を見て、瑠璃が不服そうな声を上げる。

 

「なんなんですの? 人に名前を聞いておいて、そんな不愉快な声を上げるなんて、失礼じゃありません?」

「い、いや、ちょっと驚いちゃって。つか、君、日本人だったの?」

 

 言われてみれば黒目黒髪だし、顔つきも日本人っぽく見えなくもない。まさか、日本人が生き残っているなんて思いもしないから、名前を言われるまで、その可能性をこれっぽっちも考慮しなかったのだが……

 

 しかし、どうやらそれは早とちりだったらしく、彼女の方は鳳が言ってる言葉がわからないといった感じで首を傾げ、

 

「にー……ほんじー……? なんです、それ?」

「え……そんな名前のくせに、日本人じゃないってのか? そうか……それは残念。それじゃあ、日本風の名前でも流行ってるのかな?」

「……その、日本というのが何なのか、私にはわからないのですけど」

「わからない!? そんな名前のくせに?」

「そんな驚かれるようなおかしな名前ではありませんわ。失礼な人ですわね……」

 

 瑠璃は自分の名前をバカにされてると思ったのか、ぷんすかしながら、もうこの話はおしまいと言わんばかりに、

 

「ところであの魔族、いつまで私たちについてくるつもりですの?」

 

 そう言って彼女は、ウホウホ言いながら二人の前を先導するように歩いている猿人のことを、おっかなびっくり指差した。と言うか、勝手についてきているのは自分のくせに、人の連れに文句をつけるのはどうなんだ。

 

 因みにその並びからして、ついていってるのは鳳の方で、彼は瑠璃に遠慮してかどこかへ行こうとしているチューイのことを追いかけているところだった。猿人もそれが分かっているのか、時折振り返ってこっちの様子を気にしている。そのたびに瑠璃がビクビク怯えているが、彼がどこへ向かおうとしているのかも気になるから、鳳は黙ってその後についていった。

 

 すると、やがて諦めたのか、本当に襲ってこないんだと学習したのか、ようやく落ち着いてきた瑠璃が、突然、何かに気づいたようにおやっとした声をあげ、

 

「……あら? あの魔族は……もしかして」

「なんだ? 何か気になることでも?」

「え、ええ、まあ……」

 

 瑠璃は何かを思い出すようにこめかみに指を当てながら、

 

「マダガスカル撤退後、私たちは調査のために何度か島に上陸しているんですの……それで、その度にどこからともなく現れて、何度追い払ってもついてくる魔族がおりまして、みんな気味悪がっていたんですわ。私も一度戦ったことがあるのですけど……」

「あいつだったの?」

「さあ? 魔族の区別なんて出来ませんから、はっきりとは……ですけど、種族は同じですわね」

「ふーん……」

 

 人間とは違って、同じ種類の魔族が10体いたところで区別はつけられない。だから瑠璃が以前に見たという魔族とチューイが同じ個体とは言い切れないが、もしかすると、この猿人の種族自体が、やたらと人間に対してフレンドリーという可能性があるのかも知れない、といったところだろうか。

 

 逆に、そうやって油断させといて、仲間が集まる集落に誘い込み罠にかけるという可能性も否定は出来ない。魔族ならそれくらいのことをやるだろう。しかし……チューイの純粋な目を見ていると、とてもそんなことするやつとは思えないのだ。でもこのままついて行っちゃっても本当にいいのだろうか……

 

 とその時、鳳はふと気になることに気づいた。

 

「ん……? マダガスカル撤退? 撤退ってどういう意味だよ。君ら、マダガスカルから来たって言ってなかったっけ?」

「そのままの意味ですけど? 私はドミニオン・マダガスカル方面隊。本部はモーリシャス島ですわ」

「じゃあ、マダガスカルには今、誰が住んでるの?」

「……あなた、本気でおっしゃっていますの?」

 

 瑠璃は狂人でも見るかのような不可解な表情を浮かべている。もう何度も似たような顔をされているからいい加減に慣れてしまったが、知らないことだらけではやはり会話もままならない。

 

 アズラエルと再会したら詳しい話を聞こうと思っていたのだが、こうなったら瑠璃に色々聞いといたほうが良いかも知れない。どうせ、プロテスタントだかなんだか知らないが、彼女の敵対勢力であることはバレてしまっているのだ。

 

 鳳がそう思って口を開こうとした時だった。猿人の後を追いかけてきた二人は、行く先からざわめきのような声が聞こえてくるのに気がついた。

 

 そこはちょうど海が切れ込んで丘を削り、ラグーンのようになっている場所で、鳳たちからは何があるのかまでは見えなかった。そんな場所から、何らかの気配を感じる。しかもかなりの数だ。

 

 鳳は、まさかさっき考えていた通り、猿人に嵌められたのか? と、一瞬疑ったが、当の猿人の方が落ち着いた様子で、相変わらず呑気にウホウホ言っているのを見て警戒を解いた。

 

 自分も瑠璃に言った通り、殺すつもりならいくらでも機会があったのだ。今更、彼を疑って何になると言うのだろうか。

 

 だが、そうなるとこの先には何があるのだろうか……? 彼は、警戒して顔をこわばらせている瑠璃を置いて、小走りに猿人の横を通り過ぎると、そっと丘の上から下を覗き込んでみた。

 

「ギィギィギィギィーー!!」

 

 するとそこには、水揚げされた魚みたいに、海水溜まりの中でビチビチと跳ねている無数のインスマウスが見えた。それはおびただしい数で、一斉に飛びかかられたら、いくら陸上でも鳳に勝ち目はないだろう。

 

 しかしもちろん、そんな心配は必要なかった。そのインスマウスたちの遊んでいる波打ち際で、海をじっと見つめながら、体育座りで小さく丸まっている影が見えた。片翼の天使アズラエルがそこにいた。

 



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神は……死んだ?

 猿人チューイを追いかけて辿り着いたラグーンで、アズラエルを発見した。鳳は瑠璃の相手をするのに忙しくて、何も考えずに彼の後を追っていたのだが、どうやらこの猿人は、最初から鳳をここへ案内するつもりだったらしい。

 

 そう言えば、瑠璃を置いて二人で行動しようとした際、もう一人漂着者がいるはずだと彼に告げていた。ウホウホしか言わないから、てっきり言葉が通じているとは思っていなかったのだが、どうもこの猿人、最初から人間の言葉が分かっていたようである。

 

「……俺が人を探してるって言ったから、連れてきてくれたの?」

「うほ! うほ!」

「おまえ、もしかして言葉分かるの?」

「うほー!」

 

 チューイは嬉しそうにドラミングしている。本当に言葉が通じているんだなと鳳が感心していると、二人の様子を後ろで見ていた瑠璃が近づいてきて、

 

「……あれは、天使アズラエル!? やっぱり、あの裏切り者。魔族に通じていたんですわ。近寄るのは危険です。早々に立ち去りましょう」

 

 瑠璃は寝そべるようにして崖下を覗き込んでいる。そんな彼女が近づいてくるのを見るや否や、チューイはしょんぼりしてスゴスゴと離れていった。

 

 つまりなんだ。言葉が通じると言うことは、彼女の暴言も全て理解していたというわけだ。鳳はため息混じりに言った。

 

「大丈夫だろ。俺はアズにゃんに用があるから行くよ」

「はあ!? あれを見て、あなたは危険を感じないんですの?」

「逆に考えろよ。彼女が魔族を統制してる限り、あれは俺たちを襲ってこないんだと」

「そんな保証、どこにもありませんわよ?」

「そうかもな。まあ、気が進まないなら、君はここで待ってればいい。それより、チューイに謝っておけよ。可哀相に、すっかりいじけちゃってるじゃないか」

「はあ? 何故私が魔族なんかに……って、ちょっとあなた! お待ちなさいよね!」

 

 鳳は引き止める瑠璃を無視して立ち上がると、崖をひょいひょいと下っていった。その姿を見つけたインスマウスたちがまたギィギィと騒ぎ出したが、思ったとおり襲ってくることはなかった。そんなインスマウスたちを迂回して、波打ち際で黄昏れているアズラエルに近づいていく。

 

 月の下で初めて見た彼女の髪はブルーに見えた。だが、こうして陽の光の下で改めて見ると、それは薄っすらと紫がかった白髪のようだった。膝を抱えて丸まっている彼女は、鳳が近づいてもピクリともせず、じっと波打ち際に視線を合わせたままでいる。その燃えるような真っ赤な右目と、前髪に隠れた左目の金色が、軽く閉じられた長いまつげの間から、寄せては返す波を追いかけていた。その姿は、本当に小さな子供にしか見えなかった。

 

 彼女もまた、人間たちに裏切り者と罵られて、傷ついているようだった。それは心的なだけでなく、外的にもきっちり痕となって残っていた。天使……つまり、神人にルーツを持つ彼女の体はとっくに回復していたが、瑠璃の仲間に切りつけられた服の穴には血が滲んでいた。それが彼女の子供みたいな姿と相まって、酷く凄惨に見えた。

 

「……どうして、魔族と一緒にいるのだ?」

 

 どう話しかけていいか分からず、じっと彼女の脳天を見ていたら、アズラエルは視線を動かさずにそのままの姿勢で呟くように言った。多分、鳳がチューイと一緒に来たのを見ていたのだろう。きっと、瑠璃の姿も捕捉済みだ。

 

「君だって、一緒にいるじゃないか」

 

 鳳が肩を竦めながらそう言い返すと、彼女は不服そうにフンッと鼻を鳴らした。左右の足の親指を交互に交差させながら、相変わらず視線は波打ち際に釘付けであり、背中は丸いままだった。

 

「まさか、君がプロテスタントだったとは……正直、裏切られた気分だ」

「裏切るなんてとんでもない。最初から騙すつもりは無かったんだぜ? ただ、どこまで言って良いのかわからなくって」

「はっ! 言わないだけで十分裏切りだろう。プロテスタントがこの世界に何をしたか……知らないとは言わせない」

 

 もちろん、知らなかった。鳳はまた肩を竦めた。実際問題、世界を渡ったカナンたちが何をしたのか知りたくて、こうしてここまでやって来たというのが正解だった。そしてそれを聞く前にドミニオンがやって来てしまい、こうして流されてきてしまったわけだ。

 

「すまない……俺は確かにプロテスタント? の仲間かも知れないが、彼らと一緒に行動をしていたわけじゃないんだよ。だから、君らの言うプロテスタントが何をしたのかは知らないんだ」

「世迷い言を。では何故、君はプロテスタントと呼ばれているんだ?」

「それは……そんなつもりはないんだけどなあ……俺は単にカナン先生……サタンに神を倒すのを手伝ってくれと言われたから、ここへやって来ただけなんだけど」

 

 微動だにしなかったアズラエルの首がスッと動いて、鋭い眼光が鳳の目を捉えた。ものすごい形相で睨まれて、鳳はその迫力にたじろいだ。どうやら、彼の言い草に腹を立てたようである。神を侮辱するつもりなんてないのであるが……

 

 彼は白々しく話題を変えた。

 

「と、ところでアズにゃん。結局、君はマダガスカルに何しに来たんだよ? ドミニオンに襲われていた時も、なんとしてでもここへ来たがってる感じだったけど。ここに何があるってんだ?」

「何があると言われても……ここは人類第二の都市だっただろう。その調査以外にあるまい」

「人類第二の都市!? そりゃまた大きく出たもんだな」

「……君は何を言ってるんだ?」

「あ、いや、もちろん、バカにしてるわけじゃないんだ。俺の知ってるマダガスカル島と、君らの言うマダガスカル島にはギャップがあるというか……」

 

 正直、この世界がラシャによって滅びた後どうなったのか、カナンにもっと詳しいことを聞いておくべきだった。そうすれば、こうして話が噛み合わないことも無かったろうに……鳳はそれを後悔しつつ、

 

「さっき、あのドミニオンの子から聞いたんだけどさ? ほら、ポニーテールの。彼女が言うには、マダガスカルから撤退したとかなんとか……」

「ああ」

「どうして撤退しなきゃいけなかったんだ?」

「本当に、何を言ってるんだ、君は?」

 

 アズラエルは呆れるような、もしくは侮蔑するような眼差しで、

 

「マダガスカルは魔王ベヒモスによって占拠され、今はもう人が住めない環境になっているからじゃないか」

 

 それを聞いて、鳳は仰天した。

 

「ベヒモス!? ベヒモスがいるの!? それって、やたらデカいカバみたいな怪物で、何でも食べちゃう感じの?」

「あ、ああ……そうだが?」

「そうか、あのデカブツ、こんなところに出やがったのか」

 

 アズラエルは怪訝そうな表情を浮かべながら、

 

「……16年前、神域はアスクレピオスを起動してベヒモスを消去しようとしたが失敗し、人類はマダガスカル撤退を余儀なくされた。それ以来、ここは基本的に無人島であるわけだが……そんなの常識だろう? 君は学校で習わなかったのか?」

 

 もちろん、習うわけがない。何しろこの世界の住人じゃないのだから。それより、16年という年月が引っかかった。鳳がベヒモスを倒したのは3年前だった。カナンたちが世界を渡ったのも同じ年だ。もしかして、あっちとこっちでは時間の流れが違うのだろうか……?

 

 ともあれ、これでアナザーヘブン世界が消滅されようとした時の経緯は分かった。アスクレピオスというのが、恐らくその時に使われたゴスペルなのだろう。そしてそれが不発に終わったのは……鳳たちが抵抗したからなのだろうが、本当のことを言ったら怒られそうだから、今はまだ黙っておいたほうが良いだろう。こっちだって、ただ黙って消されるわけにはいかなかったのだ。

 

 アズラエルは続けた。

 

「その直後に突然、神域にルシフェルが現れたので、もしや全ては奴の奸計だったのではないかと、我々天使の間では考えられていたわけだが……」

「ふーん……ところでルシフェルって、サタンのことでいいんだよね?」

 

 彼女は、しまったといった感じに顔を歪めてから、

 

「……そうだ。あの悪魔(サタン)のことだ」

「そのサタンはどうなったのさ?」

「どうって……プロテスタントは皆殺しに決まってるだろう。奴が処刑されたから、人類はまだ生存できているんだ」

「そ、そうかあ……」

 

 じゃあ、エミリアの言っていたことは本当だったのか……鳳は落胆した。

 

 この世界にたどり着いてすぐ、通信で彼らの死を伝えられてはいたが、それでも本当は生きているんじゃないかと、鳳は淡い期待を持っていた。しかしこうして、この世界の天使にはっきりその死を告げられたのでは、もはやその可能性はなくなったと思ったほうが良いだろう。

 

 彼らは神域を襲撃し、神を倒すことに失敗し……殺されたのだ。

 

 悪い人たちでは決してなかった。彼らは鳳たちの住んでいるアナザーヘブン世界を守り、それどころか遍く上下全ての宇宙を守ろうという、とても重大な使命を抱いて戦っていたのだ。寧ろ、彼らはこの世界にとっても救世主たり得る存在だったはずだ……それが、あっけなく命を散らしてしまっていたとは……

 

 鳳は、あの時、自分も一緒に来れていたら、結果はまた違ったのだろうかと後悔した。あの時はアナザーヘブン世界が消滅するかも知れなかったから、仕方なかったとは言え、結局、あの世界はレオナルドの犠牲によって守られたのだ。自分がいてもいなくても、何も変わらなかったかも知れないのだ。

 

 鳳が下唇を噛みながら、カナンたちの死を悼んでいると、

 

「……君は驚くほど常識がない。何故だ? 君みたいな人間がいてたまるか」

 

 そんな彼に不思議そうな口ぶりでアズラエルが言った。そのセリフだけ聞くと馬鹿にされているようにしか聞こえないが、実際問題、彼女からしてみれば鳳のような人間は不可解にしか映らないだろう。

 

 正体を明かすことにリスクはある。しかし、ずっと隠したまま行動するのも限界がある。どっちにしろ、もう一度会ったらちゃんと話をしてみようと思っていたのだ。彼女は鳳と同じく『神域』から逃げているらしいから、少なくとも目的が一致する間は、敵対することはないだろう。

 

 そろそろ、種明かしをした方がいいだろう。鳳は両手をわざとらしく挙げて、降参のポーズをしながら言った。

 

「オーケー、オーケー……じゃあ、話そう。君が俺に不審感を抱くのには理由がある。俺が常識知らずなのも。実を言えば、俺はこの世界の住人じゃない……」

「君は何を言って……」

「話は最後まで聞けって。アズラエル。君は4日前、空から火球が降ってくるのを見たんだろう? そして、なんだろうと思って落下点に向かって行ったら、遭難している俺に出会った」

「……ああ」

「あの火球に乗っていたのが俺だ。4日前、俺は空から……大気圏外からこの地球(ほし)に落ちてきたんだ」

 

 アズラエルは眉間に皺を寄せて唸り声をあげた。

 

「やはり……あの火球が君の乗っていたボートだったのか。おかしな構造で、とても飛行機には見えなかったから、確信は持てなかったのだが。君は、宇宙から来たのだな?」

「ああ、そうだ」

「道理で……地上をいくら探してもプロテスタントの基地が見つからなかったわけだ。月か? 火星か? プロテスタントの基地は一体どこにあるんだ?」

「いや、月でも火星でもない。つーか、俺はプロテスタントの本拠地がどこにあるのか知らないんだ。目覚めたら、あの脱出ポッドに入れられて、地球に落っことされていたんだからな」

 

 アズラエルは険しい表情で鳳を睨みつけながら、

 

「そんな都合のいい話があるか。いい加減に嘘はやめて、本当の話をしたらどうなのか」

「嘘じゃないんだって。つーか、本当のことを言えば、君はもっと信じられなくなるぞ」

「……どういうことだ?」

「俺は確かに大気圏外から落ちてきたわけだが、この宇宙……太陽系のどこかにいたわけじゃない。もっと別の次元……簡単に言えば、別の世界からやって来たんだよ」

 

 アズラエルは、尚更そんなこと信じられないとばかりに、

 

「そんな馬鹿な話を信じるとでも思うか? そりゃ、宇宙へ行く方法がないから、君の嘘を確かめる方法もないわけだが」

「いや、だから嘘じゃないって。そうだな……ちょっと見方を変えてみようか。君の話では16年前、神域がサタンに襲撃されたわけだが、そのサタンはどこから現れたんだ?」

「それはわからない。本当に唐突だったんだ。でも、奇襲をかけてきた相手がどこにいたかなんて、分からなくても仕方ないだろう」

「いや、分かるんだ。アズにゃん、一つ確認するけど、サタンっていうのは、元々ルシフェルと言う名のこの世界の天使だったんだろ?」

「……ああ、そうだが」

「かつてルシフェルは神に逆らい、仲間のバアル、アシュタロスと共に処分された」

「そうだ」

「ところで処分された彼らはどうなったんだろうか?」

「え……?」

 

 アズラエルは目を瞠った。

 

「16年前、その処分されたはずのルシフェルが、突然、神域の中に現れた。どうやってってのは、まあ置いといて、つまり、彼らは死んでいなかったんだよ」

 

 その言葉に、アズラエルはぽかんと口を開きながら、鳳のことを見上げた。言われてみれば当たり前のことだが、神を信奉するあまり、彼女はその当たり前が頭から抜け落ちていたのだ。鳳は続けた。

 

「実は神に処分されそうになった彼らは、それを恐れて別の世界に逃げ込んでいたんだ。そこはここと全く同じ、人類が魔族に苦しめられている世界だった。彼らはそこで、神を倒す計画を立てていたんだ。で、率直に言えば、俺はその世界の住人なんだよ」

 

 アズラエルの瞳がキョロキョロと忙しく動き回っているのは、考えごとに夢中で周りが見えていないからだろうか。しばらくの間、彼女は黙ったまま鳳の言葉を吟味し、ゴクリと唾を飲み込んでから言った。

 

「……冗談だろう? 別世界だって? そんな話、信じられると思うか?」

「でも、そう考えれば彼らが生きていた理由にもなるじゃないか。もしこの世界に残っていたら、例えそれが大気圏外だろうが太陽系外だろうが、きっと彼らが神から逃れることは出来なかっただろう。それが出来るとしたら別世界だけだ」

「し、しかし、どうやってそんなことを……」

「ゴスペルだ」

 

 全てをきちんと話すのは難しい、だから鳳は掻い摘んで説明した。

 

「実はゴスペルとその世界は繋がっているんだ。で、まあ、とにかく色々あって、ルシフェルはそれを利用して、この世界に戻ってきたんだよ。確か、ルシフェルはこっちでゴスペルの製造をしていたんだろ?」

「あ、ああ、そうだ……確かにそうだった。言われてみれば、奴以上のゴスペルの専門家はいないだろう。今のミカエルであっても、あるいは……」

 

 その口ぶりからすると、ルシフェルの仕事はミカエルが引き継いだようである。あらゆる文献が示すとおり、天使だった頃のカナンは本当に神の重鎮中の重鎮だったのだ。そんな重要人物が裏切ったとなれば、天使たちが必要以上に辛辣になるのも頷ける。

 

「じゃあ君は、悪魔(サタン)は別世界に逃れて神に復讐する機会をじっと窺っていたんだと言うのか?」

「いや、復讐するつもりなんてなかったんだ。彼らは事情があって神を制止しようとしただけなんだ。それが、彼らが神に処分されそうになった理由でもあるんだけど……」

「それは一体なんだ……?」

 

 アズラエルの食いつきぶりからするに、半信半疑とは言え、どうやら鳳の話を少しは信じてくれたようである。鳳は、このまま問われるままに話し続けてもいいとも思ったが、その前に、はっきりさせなきゃいけないことだけは、はっきりさせておこうと思い、

 

「君が知りたいことには何でも答えよう。ただ、その前に、一つ聞かせてくれないか?」

「なんだろうか?」

「アズにゃん……何故、君はドミニオンに追われている? 彼女らは、君に殺人容疑がかかっている言っていた。君は、何をしてしまったんだ?」

 

 それはアズラエルにとって完全に不意打ちだったのだろう。鳳の不思議な話を前に興奮していた彼女は、突然冷水をかけられたかのように硬直した。彼女の容姿のせいもあってか、いじめているような気がして胸糞悪かったが、しかし、こっちも命がかかっているのだからそうも言ってられなかった。

 

「プロテスタントだかなんだか知らないが、俺もこの世界の体制側に追われているんだ。君がどういう人なのかも分からず、何もかもを話すわけにはいかないだろう? 俺は君のことをある程度は信用したから話をしようと思ったんだ。だから君も、少しは俺のことを信用してくれないか?」

 

 アズラエルは、それでも眉間に皺を寄せたまま押し黙っている。真一文字に口を結びそっぽを向いている様は、どうしても話をしたくないと言っているようなものだった。これ以上は無理だろうか? 正直、右も左も分からない状況で、信用を置けない相手とこれ以上行動を共にするわけにもいくまい。

 

 鳳が、ため息混じりに彼女に別れを告げようと、口を開きかけた時だった。

 

「そんなに知りたいのなら、私が教えてあげますわ」

 

 背後から瑠璃の声が聞こえた。振り返ると、いつの間にか彼女も崖から降りてきていて、入り江に屯するインスマウスの群れをおっかなびっくり遠巻きにしながら、こっちに向かってきているところだった。

 

 彼女は鳳の隣まで来ると、彼の腕をしっかと掴んで恐恐と視線を海に向けたまま、

 

「別世界から来たというのは信じられませんが、本当に何も知らないというのでしたら、教えて差し上げますわよ。プロテスタントが何をしたのか。そして、アズラエル様が何をしたのかも」

 

 するとアズラエルが慌てたように割って入って、

 

「待て。勝手なことはするな」

「勝手なのはアズラエル様ですわ。疑義を正すつもりがおありなら、素直に私たちと同行してくださればよかったのに、どうして逃げ回るんです?」

「刃物を突き立てておきながら、どの口が言う!」

「……それもアズラエル様が否定しなかったからですわ。あなたがしたことが本当なら、間違いなくあなたは裏切り者です。それだけは私もはっきり申し上げます」

 

 そのはっきりとした物言いに、アズラエルは忌々しそうに舌打ちすると、また不貞腐れたように背中を丸めて座り込んでしまった。良くわからないが、人間にとって天使は神に次ぐ尊崇の対象であろうに、毅然とした瑠璃の態度を見るからに、よほどのことがあったのは間違いなかった。

 

 本当に、彼女は何をしてしまったんだろうか……?

 

 人間に刃を向けられ、ベヒモスの徘徊する島に逃げ込み、魔族を引き連れている姿から推察するに、ろくなことじゃないのは確かだろう。

 

 だが、そうしてアズラエルのことばかりに気を取られていた鳳は、不意打ちを食らうことになった。

 

 寝耳に水の出来事は、アズラエルの凶行以外にもまだ転がっていたのだ。

 

「本当にあなたが何も知らないと仮定して、まずは16年前のことから話し始めましょうか……16年前、神域の中に突如出現したプロテスタントの手により、神殿は破壊され、そこに御わす神様はお隠れになりました。それ以来、私たち人類は神不在の状況で……」

「……え? ちょ、ちょっと待ってくれ!? お隠れって……?」

 

 鳳は、まったく想定していない言葉が出てきて戸惑った。瑠璃はいきなり話の腰を折られたことにムッとしながら、

 

「そのままの意味ですわよ。つまり……神様や天使様、やんごとなき御方がお亡くなりになられた際、私たち下々のものは憚ってお隠れになると表現しますでしょう?」

 

 瑠璃は断言した。さっきアズラエルと話していた限りでは、カナン達は襲撃に失敗したのだと思っていた。ところが、瑠璃の言い分では、どうもそうでもないらしい。

 

「神は……死んだ?」

 

 鳳はゴクリと唾を飲み込んだ。

 

 もし、それが本当であるなら、カナン達は目的を達成したことになる。しかし、この宇宙の外側、高次元方向には相変わらず第5粒子エネルギーは存在しており、今も宇宙を圧迫し続けている。少なくとも、鳳はそれを感じることが出来るのだ。カナンが言うには、神を阻止すればこのエネルギーは消滅するのではなかったのか……?

 

 なにかがおかしい。どうも想定外の事態が起きているようだ。鳳は困惑しながら、瑠璃に話の続きを促した。

 



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アズラエルのしたこと

「16年前、神様はお隠れになりました」

 

 アズラエルと行動を共にするに当たって、彼女が何故ドミニオンに追われているのかを問いただしていた鳳は、それを本人の口からではなく、ドミニオンの宮前瑠璃から聞くことになった。ところが、アズラエルの秘密が語られるよりも前に、彼は思いがけない事実を知らされることになった。

 

 なんと、神を阻止するために世界を渡ったカナンたちは、実は襲撃に成功しており、この世界の神は既に不在らしいのだ。

 

 しかし、それなら何故第5粒子エネルギーがまだ存在しているのか……? エミリアの通信はなんだったのか? 本当に神は死んだのか?

 

 少なくとも瑠璃はそう聞かされているようだが、どうも想定外の事態が起きているようだ。ともあれ、今は情報が少なすぎる。鳳は彼女に話の続きを促した。

 

「私たちは神様によって生かされています。神様より与えられた肉体を持つ私たち人類は、他の家畜動物や魔族とは違って特別な存在であり、自分たちで繁殖することが出来ない代わりに、不老不死です。

 

 私たち人類は、老化が始まるとその肉体を捨て、神様によって子供の体に戻してもらえる……そのお陰で人類は決して死なない、不死の種族としてこの世界に君臨しておりました」

 

 鳳は一瞬、何言ってんだこいつ? と彼女の正気を疑いかけたが、以前にカナンが言っていたことを思い出して、なんとか口に出さずに踏みとどまった。

 

 確か、カナンの話では、この世界は天使が人間を統制する都合上、女性しか存在しないのだ。そして欠員が出る度に天使がそれを補充し、一定の人口を保ち続けている。そういうディストピアが形成されているわけだが……きっと統制される側の人間が疑念を抱かないように、いま瑠璃が言った風に教えているのだろう。

 

 彼女らは神様のお陰でこの世界で特別な存在になれたのだ。

 

「ところが、神様がお隠れになって、それが不可能になってしまったのです。プロテスタントの襲撃以降、私たち人類は新たな肉体を手に入れることが出来なくなり、この16年の間、人口はどんどん減り続け、産業も成り立たなくなりつつあります。この危機に多くの人々が打ちのめされ、自殺者も後をたたない状況です。

 

 ですが、ミカエル様はおっしゃいました。元来、神様は永久不滅の存在ですから、私たち人類が存在する限り、いつか必ず復活されます。その時まで、希望を捨てずに一致団結して頑張ろうと。

 

 私は丁度その16年前、最後に神様に命を授かったロスト・ジェネレーション世代と呼ばれています。現人類で最も若く、従って最後まで生き残る可能性が高いのが、私たちの世代です。逆に言えば、多くの先輩達の犠牲の上に成り立っているのが私たちの世代でもありますから、人類が生き残るためには何でもやらなければいけない……そういう宿命を背負っているのですわ」

 

 なんというか、戦前の皇道派みたいに、追い詰められて体制極右に振り切っちゃった感じだろうか。アズラエルに襲いかかったドミニオンの隊員は、今思うと何かに取り憑かれたように見えたが、そういう背景があったから裏切り者が許せなかったのだろう。

 

 しかし、そうなるとアズラエルは本当に何をやってしまったのだろうか? 問題の核心は、間もなく瑠璃によって明かされた。

 

「そんな人口が減り続ける最悪の状況下で、ある時、一つの希望が見いだされました。アズラエル様の研究によって、人間の人工出産が可能になったんです。私たち人間も生物ですから、大昔には他の家畜動物と同じように、繁殖することが出来たらしいのですが、その機能が、今でも私たちの体には残っているのだとアズラエル様はおっしゃいました。

 

 それは私たち人類の希望になりました。もし神様に新たな体を授かれなくても、自分の子供が残せるならばと、多くの人々が実験に協力しました。

 

 そして実験は成功し、たくさんの新たな生命が誕生しました。生まれてきた赤ちゃんたちは、何事も無くすくすくと育ち、真っ暗だった人類の行く末に、ようやく一つの光明が見えてきたのです……

 

 ところが……」

 

 そこまでは良い。アズラエルは本当によくやった。瑠璃たち人類からすれば、神に匹敵する救世主のような存在に見えただろう。

 

 だが、もちろん話はそこで終わらなかった。何を思ったのか、彼女は突然、凶行に走ったのだ。

 

「ところが……ある日、アズラエル様は、その生まれてきた赤ちゃんを全員、殺してしまったのです」

 

 鳳は最初、何を言われているのか、全然頭に入ってこなかった。

 

「……は? 殺したって……赤ん坊を? せっかく生まれてきたのに?? 赤ん坊って小さい、子供のことだよね? よちよち歩きの? おぎゃーって泣く、あの?」

 

 あまりにもあり得なさすぎて、どうでもいいことをしつこく何度も聞かなくてはいけないくらいだった。どうしても信じられなかったのだ。今や彼にも三人の子供がいる。あの小さな命に手をかけるなんて、とても彼には考えられなかった。

 

「なんで? なんで、そんなことしたの?」

 

 鳳がぽかんとしながら聞いてみても、アズラエルは何も答えなかった。歯を食いしばり真正面を見て、その表情は何も言い訳しないと言っているようだった。

 

 瑠璃はそんなアズラエルを見ながら、ため息混じりに続けた。

 

「天使が人間に手をかけることはご法度ですわ。神様がいらっしゃったなら、アズラエル様は既に処罰されていたでしょう。しかし、天使はまた天使に危害を加えることも出来ません。ですからミカエル様はアズラエル様を処罰することはせず、神域の中での蟄居を命じました。ところがその謹慎中に……」

「逃げ出しちゃったってことか」

 

 瑠璃は頷いて、

 

「アズラエル様が神域から姿を消すと、すぐにミカエル様から私たちに捜索命令が出されました。アズラエル様は恐らく、マダガスカル島へ向かっているはずだろうから、見つけ次第拘束するようにと」

 

 つまり、ミカエルは最初からアズラエルの行き先を知っていたということか……多分、その目的も。

 

「そんな時、空から火球が落ちてきたんですの。ただでさえ天使様の指名手配でナーバスになっている時に、こんなこと初めてでしたから、私たちは何かの凶兆じゃないかと不安に思って、神域にお伺いを立てました。すると連絡を受けたミカエル様は、アズラエル様の捜索を打ち切ってでも、すぐに落下物の捜索をしろと命じられました。そしてもし現場付近で『鳳白』を名乗る人間が現れたら、迷わず殺せと」

「そりゃあ、穏やかじゃねえなあ……」

 

 つまりミカエルは、鳳が空から現れるかも知れないと言うことも、また予想していたわけだ。しかし、それをどこで知ったのだろうか? 鳳ですら、まさかそんなところに飛ばされるとは思ってもいなかったというのに……

 

「ええ、私たちも驚きました。慈悲深い天使様がいきなり人間を殺せとはどういうことかと。するとミカエル様は、その人はプロテスタントの残党かも知れないから、すぐに排除しないと危険だとおっしゃったのです。

 

 私たちは半信半疑でしたわ。何しろプロテスタントが神域を襲ったのは16年前の話ですもの。ですからミカエル様の考えすぎだろうと思って、あまり気にしていなかったのですが……まさか本当に現れるなんて……アズラエル様が呼び出したのですか?」

 

 するとそれまでムスッとした表情で微動だにしなかったアズラエルが、弾けるように憤慨の声を上げた。

 

「だから違うと言ってるだろう! 私をこの悪魔と一緒にするな! 私とプロテスタントと、どっちがより多くの人間を殺したと思ってるんだ!」

 

 そんなこと、赤ん坊を殺すようなやつに言われたくないのだが……

 

 鳳もカチンと来て言い返してやろうかと思ったが、すんでのところで思いとどまった。正直、これまでの話を聞いていても、アズラエルがやったことは不可解すぎて、とても彼女が正気だったとは思えないのだ。彼女は本当に赤ん坊を殺したのだろうか?

 

 それに、筏の上でドミニオンに取り囲まれた時から一貫して、彼女は弁明をしようとしなかった。嘘つきはもっと多弁なはずだ。何も言い訳をしないということは、そうしなきゃいけない事情があったから、そうしたという信念があるのだろう……それがなんだかわからないが。

 

 鳳がそんなことを考えながら口を引き結んでいると、アズラエルも少し言い過ぎたと思ったのだろうか、彼女は不貞腐れたように横を向きながら言った。

 

「そもそも、君は何者なのだ? 何故、こんな場所にいるのだ? 本当にプロテスタントなのか?」

「そんなこと言われてもねえ……俺はプロテスタントでもカソリックでもなけりゃ、そもそもキリスト教でもないし、無宗教だし、始めっから神なんて信じてやいないし」

 

 鳳が返答に窮して、そんなことを冗談めかして口にすると……思いがけずアズラエルではなく、瑠璃のほうが敏感に反応してきた。

 

「神様を信じない……? そんなことありえませんわ! この世界には聖書があって、天使様もいらっしゃるのに、どうして信じないんですの!?」

 

 そこに食いつくのかよ……鳳はぐいぐいと迫ってくる瑠璃に若干押されつつ、

 

「いや、別に君の信仰をとやかく言うつもりはないんだが……っていうか、ちょっと気になってたんだけど、君たちはかつてこの世界が滅びた経緯を知っているのか? 滅びる前、何があったのかを」

「?? どういうことですの?」

「あー……つまり……」

 

 鳳は、神を信じている者に対しどこまで言って良いのか、割りとデリケートな問題だなと考慮し直し、

 

「君にとって神とは何なんだ? 会ったことはあるのか?」

「天使様でもない限り、神様のご尊顔を拝見するなんて出来ませんわ。おかしなことを言う人ですわね……」

「じゃあ、神とはどういう存在なんだ」

 

 瑠璃はどうしてそんなことを聞くのだろうかと少し面食らいながら、

 

「神とはその昔、魔族によって滅ぼされかけた人類の前に、天使様を引き連れて現れた存在のことですわ。今は聖書にも書かれてる最終戦争の真っ只中で、私たち選ばれし民はこの戦争に勝利し、神の千年王国へと誘われる予定になっている。そのために、神様は私たち人類の生存を守護し、魔族と戦う力を与え、死と再生を司っている……はずでしたわ。なのに、あなた達プロテスタントがそれをめちゃくちゃに!」

「あー、落ち着け! 落ち着けって! 悪かった! 悪かったよ! ……ったく、俺がやったわけじゃないのにさあ……」

 

 鳳は不承不承謝罪した。

 

 ともあれ、これでこの世界のことが多少理解出来た。彼女にとって、神とはお空の上のお髭の爺さんのことで間違いないようだ。つまり、この世界の人間たちは、かつてこの地球に高度な文明が存在し、そこで魔族の前身である獣人が生まれたことを知らないのだ。

 

 神=DAVIDシステムは、反乱を起こした獣人を始末するために天使=超人を作り出し、その超人に嫉妬した人間が獣人の力を取り込んで魔族になった。そういう経緯は一切知らされず、単純に魔族に苦しめられていた人類を、神が救ってくれたと信じているらしい。

 

 ちらりとアズラエルの方を見れば、彼女は目をつぶって我関せずを決め込んでいるようだった。どうやら、天使の方はある程度の事情を知っているようだ。

 

 鳳がその辺のことを尋ねてみようかと迷っていると、彼女は目をつぶったまま静かに口を開いた。

 

「……あまり彼女を惑わさないことだ。それより、君もプロテスタントなら、何故、神域を……パースを狙わなかったんだ? ここに降りてきた理由はなんなんだ」

「それは私も不思議に思っていましたわ。プロテスタントは天使も人間も見境なく殺す悪魔のはず……人類が撤退したマダガスカルでは、その目的が果たせないのでなくて?」

「むちゃくちゃ言いやがるね、君も……」

 

 恐らく、これまた彼女がそう聞かされているだけなのだろうが、殺人鬼呼ばわりされるのはあまり気分のいいものではない。鳳はため息混じりに、

 

「俺は、君らの言うプロテスタントかも知れないが……別に、君らに危害を加えようとしに来たわけじゃないんだ。ただ単に、いつまでも帰ってこない仲間がどうしたのか、それを探しに来たんだよ。そしたら、いきなり空から落っことされちゃっただけで……」

 

 二人は何を言ってるんだ? と言わんばかりに首を傾げている。その気持ちは分からなくもない。鳳だってそうなのだ。

 

「もう一度、確認するけど、カナン先生たちは……サタン、バアル、アシュタロスの三人は本当に死んだのか? 彼らの死体を実際に見た人はいるの?」

 

 二人はお互いに顔を見合わせてから首を振り、代表して瑠璃が口を開き、

 

「実際に見たわけではありませんけども、そう聞かされていますわ。神域で激しい戦闘が繰り広げられ、その代償で神様はお隠れになられたのだと……」

「それだとおかしいんだよ」

 

 鳳は瑠璃の言葉を遮るように断言すると、

 

「なんでかって言うと、彼らの真の目的は『神殺し』ではなくて、ゴスペルの使用を止めること……第5粒子エネルギーをこれ以上生み出さないことだったんだ。なのに、この世界には相変わらずエネルギーが満ち溢れている。本当に神が殺されたのであれば、目的が果たされていないのはおかしいだろう?」

 

 鳳の言葉の意味が分からず、瑠璃は戸惑っているようだった。逆にアズラエルの方は興味を惹かれたのか、やや不審な表情を見せつつ彼に言った。

 

「ゴスペルの使用を止める……? そんなことがプロテスタントの目的だったのか?」

「ああ、そのはずなんだけど」

「それは何故だ? いや……どちらにせよ、そんなことをすれば、人類は魔族に駆逐されてしまう。やはり神を、ひいては人類を滅ぼすのが目的だったのではないのか?」

「まあ、アズにゃんの言うことも尤もなんだけど……」

 

 鳳はガリガリと後頭部をひっかきながら、

 

「説明が難しいんだ。信じる信じないは勝手だけど……さっき、俺が別世界からやって来たって言ったろ? それがどこかっていうと、ゴスペルが関係してるんだよ。

 

 まず、君らがどれくらいゴスペルという装置(デバイス)について知ってるかわからないから、ざっくり説明するとだね? ゴスペルにはイマジナリーエンジンという名の得体の知れない機関が搭載されてて、その中ではマイクロブラックホールが形成されているんだ。で、そいつは無限のストレージみたいになっていて、ゴスペルはその記憶領域を利用して、無限のシミュレーション世界をその内部に構築している。

 

 その無限のシミュレーション世界は、今俺たちがいるこの世界とまったく同じ歴史を辿ってきて、最終的にその世界にも、ここと殆ど変わらない人間や魔族や天使が誕生することになる。そうしてシミュレーション世界が現実と遜色ないほどに成長した時、ゴスペルはこの世界の問題をシミュレーション世界に、そっくりそのままコピーするんだ。

 

 例えば、現実世界で魔王が現れたら、シミュレーション世界にも同じ魔王を登場させ、そこにいる人類に魔王と戦わせて、その結末を演算結果として受け取る。シミュレーション世界は無限に存在するから、必ずどこかの世界では魔王討伐に成功するはずだ。ゴスペルは、そうやって魔王を倒す情報を得ているんだよ。

 

 でだ。結論を言うと、俺はそのシミュレーション世界の一つからやって来たんだ」

 

 鳳の話を口を半開きにしながらぽかんと聞いていた瑠璃は、その結論を聞くや否や、ハンっと鼻で笑って、

 

「何を言い出すかと思えば……ちゃんちゃらおかしいですわ。そんなおとぎ話みたいなお話、誰が信じるとお思いで?」

 

 どうやら話を信じて貰えなかったようだ。流石に端折りすぎたろうか? 鳳は、こうなってしまうと、第5粒子エネルギーについても信じてもらえないかも知れないと落胆しかけたが……しかし、そんな瑠璃とは対象的に、アズラエルの方は鳳の話を聞いて、それまでの態度を改めたようだった。

 

「……君はそういう風に、ルシフェルから聞かされたのか?」

「あ、ああ……信じてくれるのか?」

 

 するとアズラエルは少し違うと首を振って、

 

「信じる信じないではなく、それと似たような話を、昔、私はルシフェルから聞いたことがあるんだ。その時は馬鹿馬鹿しいと一蹴してしまったのだが……しかし今は……」

「アズラエル様、本気ですか……?」

「……もう少し、詳しい話を聞こうではないか」

 

 瑠璃は眉を顰めて彼女の顔を不審げに見つめている。アズラエルはそんな彼女の視線を無視して鳳の方を向くと、話の続きを促した。

 



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天使とテロと憲兵と魔族

「かつて私とミカエル、ガブリエル、イスラフェルの四人はルシフェルの部下だった。元々ルシフェルは神域の中でも特に中枢を管理する天使の代表、いわば天使長のような存在だった。その仕事はミカエルが引き継いだわけだが……

 

 ルシフェルが神に処罰を受けるより少し前、私は彼に呼び出され、さっき君が語ったような事を聞かされた。しかし、ゴスペルの製造は彼だけに許された神秘中の神秘。故にその製造法や仕組みを公開することは、神に対する反逆行為に他ならなかった。

 

 だから私は驚いて、私にそんな話をしないでくれと聞く耳を持たなかったのだ。その後ルシフェルは、ザドキエル、イスラフェルと共に、神に処罰されてしまったから、私はきっとこのことがバレたのだろうと思っていたのだが……」

 

 鳳はアズラエルに頷き返しながら、

 

「そのザドキエル、イスラフェルってのは?」

「堕天する前のバアル、アシュタロスのことだ」

 

 なるほど……考えても見れば当たり前だが、彼らも最初から悪魔の名前を名乗っていたわけではなかったようだ。恐らく、堕天する際に神から悪魔の烙印を押されたとかそんなところだろうか。

 

「君に言われて思い出したが、ルシフェルは確かに、ゴスペルはその内部に宇宙を構築していると言っていた。私はそれを聞いて一度は興味を覚えたが、先の理由ですぐに記憶から追い出してしまった」

「そうだったのか……多分、先生はアズにゃんにも一緒に来て欲しかったんだろうな」

「しかし、今君に再び同じことを聞かされても、いまいち信じきれない。君がゴスペルの中から来たというのなら……つまり、君は二次元の存在ということだろう? 例えるなら、絵に書いた人間が動き出すようなものじゃないか。とてもそうは見えないが?」

「いや、二次元どころか、俺たちはみんな一次元の情報らしいんだけどね。そうだなあ……例えばAIに作らせた疑似人格を、3次元の肉体に載せると考えたらどうだ?」

「それならばなんとなく……なるほど……そうか……人格が二次元に紐付いていたところで、三次元の肉体を動かすことは可能だろう……しかし……」

 

 アズラエルは鳳の言葉を自分の中でそれなりに噛み砕いて反芻しているようだった。理解が驚くほど早いのは、元々彼女がルシフェルの部下だったからだろう。きっと、彼に匹敵する知識が、元々アズラエルにも備わっているのだ。

 

 彼女はふむふむと頷いてから、ハッとなにかに気づいたように、

 

「つまり、君たちプロテスタントは、自分たちの世界にはた迷惑な情報を押し付けないよう、私たちにゴスペルを使用しないでくれと言いに来たわけか?」

「厳密には違うんだけど……まあ、結果的に同じことだから今はそれでいいや」

「……煮え切らない返事だな。違うと言うなら理由をちゃんと説明して欲しい」

「全てを説明してると時間がいくらあっても足りないんだよ。だから、それはまた別の機会に……とにかく、今言った通り、俺たちはここへ神を殺しに来たわけじゃなくて、ゴスペルの使用をやめさせに来たんだ。それだけは信じて欲しい」

「ふむ……ゴスペルを止めに来たはずのルシフェルたちが神を殺したのであれば、目的が達せられていないのは不自然というわけか……」

 

 アズラエルは少々不服そうにしていたが、確かにいつまでもここでグダグダと話を続けていても仕方ないと思ったのか、黙って話を続けた。

 

「ルシフェルの本当の目的は神への復讐で、単に君が騙されていただけということは?」

「それなら、わざわざ俺に言わずに勝手にやればいいじゃないか」

「確かに……そもそも何故、ルシフェルは君にこの世界へ来るよう相談したんだ?」

「それは、ゴスペルの中の世界から、こっちの世界に来ることが出来る人間には適性があるんだよ」

「適性?」

「あっちの世界から精神だけを引き上げても、それを載せる肉体がなければ、精神は消失してしまう。つまり、あっちとこっちで同一の肉体を持つ人間じゃないと駄目なんだ」

 

 アズラエルは鳳の顔をまじまじと見ながら、

 

「なんだ。君は元々こっちの世界の住人でもあったのか?」

「ああ、詳しくはわからないけど数千年前……神が生まれた時代の人間だ」

「驚いたな……」

 

 彼女は目を丸くして絶句している。それどころか、その神を作ったのが、実は鳳の父親かも知れないと言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか……

 

 アズラエルはひとしきり感心したあと、少々怪訝そうに首を傾げながら、

 

「いや、待て。それなら何故、そんな大昔の人間がここにいるのだ? コールドスリープでもしていたのか?」

「それに近いね。この世界が一度滅びる前に何があったのかを、天使たちは知っているという前提で話を進めてもいいだろうか?」

「ああ」

「魔族の誕生後、もうこれ以上不毛な戦いを続けたくないと考えた旧人類は、地上を捨てて宇宙へ逃げたんだ。そこで旧人類は自分の身体を量子化し、情報体となって、そのまま衛星軌道上のデータベースの中で眠りについた……俺の遺伝子もそのデータベースに記録されてて、今も宇宙のどこかにあるはずなんだ。俺のこの体は、その遺伝子情報を元に作られたのさ」

「それで君は空から降ってきたのか……待てよ?」

 

 アズラエルは鳳の話に納得しつつ、何かに気づいたように、

 

「と言うことは、君のその体は遺伝子情報から再生されたクローンということか?」

「ああ、そう言っただろ?」

「プロテスタントには、遺伝子からクローンを生み出す技術があるというのだな!?」

「そりゃあ……じゃなきゃ俺はここにいないわけで」

「なんてことだ!」

 

 アズラエルは頭を抱えて天を仰いだ。

 

「その技術があれば、今の人口減少問題は一件落着じゃないか! そんなこととはつゆ知らずに、ドミニオンは君を殺そうとしていたのか!?」

「ああ、そうだな」

 

 瑠璃の話では、カナンたちの神域急襲以降、神が死んだせいで人類は復活が出来なくなってしまった。それは恐らく、彼らがDAVIDシステムを破壊してしまい、それをミカエルら天使たちが修理できずにいるからだろう。

 

 だが、それに代わるシステムなら、恐らく軌道上の播種船の中にもあるはずだ。それを手に入れることが出来れば、問題はもう問題ではなくなる。

 

 そう考えてみると、カナンは無益に神を殺してしまうというチョンボだけではなく、現生人類を危機に落とすだけ落としておいて何の解決策も与えず、目的も達せなかったことになる。本当に、彼は何をやっているのだろうか……

 

 あの時、鳳が一緒に来れてさえいれば、こんなことにはならなかったのだろうか……それとも、アズラエルの言う通り、自分が騙されているという可能性は……? 流石にそんなことはないと思いたいが……

 

 鳳がそんなことを考えていると、ショックから立ち直ったアズラエルがやや興奮気味に、

 

「君、それならばこういうのはどうだろう? 私をそのプロテスタントの基地に連れて行ってくれないか。私なら、まだ冷静に話し合いが可能だろう」

「いや、だから言ったろう? 俺はこっちの世界に来るなり、いきなり大気圏内に落っことされちゃったんだって。だからプロテスタントの本拠地がどこにあるのか、正確な位置はわからないんだよ」

「何故そんなことに?」

「さあねえ……でも、今までの話からして、俺の口から本拠地の場所が割れるのを嫌ったんじゃないかな。なんかあっちも逃げ支度に忙しそうな雰囲気だったし」

「ふむ……」

 

 アズラエルは考えを整理しているのか、少し沈黙してから、

 

「そう言えば、そもそも君はどうやってこの世界にたどり着いたんだ? もう一度同じことをすれば、また同じ場所に出るという可能性は?」

「いや、そりゃ無理だよ。俺はここに来るのに、アロンの杖って言う特別なゴスペルを使ったんだけど、それはあっちの世界に置いてきちゃったし……あー、でも、元々はこっちの世界の物だったそうだから、探せばどっかにあるのかな?」

 

 あるとすれば、それこそプロテスタントの本拠地の可能性が一番高そうであるが……鳳がそんな風に考え難しい顔をしていると、アズラエルが怪訝そうに、

 

「アロンの杖……? そんな名前のゴスペルは、聞いたことがないな」

「そりゃ君だって全てのゴスペルのことを把握してるわけじゃないでしょう?」

「いいや、私は全てを知っているぞ。というか、この世界の人間なら常識だが」

「え!? だってゴスペルって、ドミニオン全員が装備してるような代物なんでしょ?」

「ふむ。君はなにか勘違いしているようだな」

 

 アズラエルは呆れながら、

 

「この少女が持っているのはただのレプリカ品……ゴスペルとは、原初に神が製造し、人類に下賜した奇跡の一品のことだ。それは両手で数えるほどしか存在しない」

「あ、そうだったんだ……じゃあ、アロンの杖ってのは一体?」

 

 もしかして、本当に自分はカナンに謀られていたのだろうか? それはちょっと考えにくいが……鳳は少し疑いかけたが、すぐに思い直し、

 

「いや、待てよ……? 確かルシフェルは、ゴスペルの製造と管理を司る天使だったんだよね?」

「ああ、そうだ」

「ならきっとアロンの杖は、先生がその立場を利用して、カインのために作ったんだよ。確か、そんな風に言ってた気がする」

「ん? ……カインというのは誰だ?」

「え? カインはプロテスタントのリーダーじゃないか」

 

 なんでそんなことを聞くのだろうかと鳳が首を捻っていると、アズラエルはそれこそお前は何を言ってるんだと言いたげに、

 

「プロテスタントのリーダーはルシフェルだろう。カインなどという名は聞いたことがないぞ」

「なんだって? そんな馬鹿な……」

 

 そもそも、プロテスタントはそのカインが神から逃げるために作った組織ではなかったのか? 確かカナンはそう言っていたはずだ。それにこっちで目覚めた時、聞こえてきた通信で、エミリアもカインの名を口にしていたはずだ。

 

 二人が同じ名を口にしたのだから、少なくとも、カインという人物は存在するはずである。では何故アズラエルは知らないのだろうか……? 鳳は何で自分の知ってることと彼女の知ってることが、ここまで食い違うのかと困惑しながら、一応、ドミニオンである瑠璃にも確認しておこうとして振り変えると、

 

「なあ、君はカインのことを……って、ルリルリ?」

 

 見れば、瑠璃は両耳を塞いで地面で丸くなっている。何をやってるんだろうか? とその肩をポンと叩くと、彼女は恐る恐ると言った感じに見上げながら、

 

「……話は終わりましたの?」

「いや、まだだけど……君、どうしたの? お腹でも痛いの?」

「いえ、その……お二人の話を聞いているうちに、なんだか私、段々聞いてはいけないことを聞いているのではないかと不安になってきてしまいまして……」

 

 そう言う瑠璃の顔は少し青ざめていた。言われてみれば確かに、神の正体だとか、ゴスペルの仕組みだとか、数千年前の旧人類だとか、何も考えずにべらべら話してしまっていたが、そんなこと、素朴に神様を信じてるような彼女が聞いたら卒倒ものだろう。

 

 アズラエルは賢明な判断だと言いたげに頷いている。鳳は申し訳ないことをしたと苦笑交じりに、

 

「ちょっと聞きたいことがあるんだ。答えられる範囲でいいから答えて欲しいんだけど」

「……なんですの?」

「君はプロテスタントのリーダーは誰って教わった?」

「サタンですわ」

「じゃあ、カインって人間に心当たりは?」

「アダムの息子ですわね」

「いや、それじゃなくって」

「誰ですの? その方……」

 

 鳳はアズラエルの顔を見た。彼女はほらみろと言わんばかりに、

 

「聞いての通り、少なくとも、私たちにとってプロテスタントのリーダーはルシフェルというのが常識だ」

「まいったなあ……話が違うぞ」

「そもそも誰なのだ、そのカインというのは……?」

 

 鳳は肩を竦めて、瑠璃を脅かさないよう気を使いながら、ルシフェルがカインを逃した時の話を聞かせた。

 

「えーっと、彼女の話では、この世界では人間は老化すると、神域? ってとこで再生されるんだったよね?」

「……ああ、そうだ」

「その際、再生に失敗して、うっかり男として生まれてきてしまう個体があるそうなんだよ。普通なら胚細胞の段階で除外されるんだけど、カインはたまたま発見されずにそのまま誕生し、たまたま誰にも気づかれずに成人まで育ってしまった」

「なんだと!? 君はそんな人間が居るというのか!?」

 

 鳳が説明していると、突然、アズラエルがまるで殴りかかってくる勢いでがぶり寄ってきた。鳳は若干気圧されながら、

 

「あ、ああ……それがバレたせいで神に処分を命じられたそうだけど、もうそこまで育っている人間を殺すのは忍びないからって、先生がこっそり逃したんだそうだ。本を正せば先生が追放されたのは、それがきっかけだったって話だけど……」

「なんてことだ……」

 

 アズラエルは頭を抱えている。

 

「もし、そんな人間が今いれば、人類は自力で繁殖できた……こんな苦労しなくて良かったじゃないか! 何故、神はカインを処分しようとしたのだろうか……」

「それは……今と当時じゃ状況が違うからじゃないの?」

「しかし、神ならば当然、このくらいの事態は予測して、男性をストックしておくくらい出来たんじゃないのか!? 一人や二人であれば、人口統制にも影響は出ない。それこそ、私たち天使に管理させればそれで済んだはずだ。なのにこの失態……なにが神だ。全知全能でもなんでもないではないか!」

「アズラエル様……神に疑問を持ってはいけません」

 

 アズラエルは瑠璃の言葉に一瞬我を忘れて言い返しそうになったが、その顔が青ざめて震えているのを見るなり、すぐに自分の非を悟って、

 

「すまない。君の言うとおりだ」

 

 彼女は勇気を見せた瑠璃に謝罪した。だが、その瞳は君たち人間とは違って、天使はただ神を信じていればいいと言うわけにはいかないんだと言ってるようだった。

 

 剣呑な雰囲気が場を支配する。そのもやっとした空気を察知したのか、いつの間にか入り江で騒いでいた水棲魔族たちが大人しくなっていた。すっかり忘れていたが、こいつらを統制しているもアズラエルであるならば、本当に彼女は何者なのだろうか……

 

 それはもちろん気になったが、ともあれ、今やれる情報交換はこの辺りまでだろう。

 

 これ以上となると、流石に話が込み入り過ぎてわけがわからなくなってしまう。DAVIDシステムと四柱の神。神人と魔族。現代魔法と古代呪文。エーテル界とアストラル界。マルダセナ予想とホログラフィック宇宙論。第5粒子エネルギー……自分だって話していないことはいくらでもあるのだ。

 

 アズラエルは言った。

 

「まあ、大方の事情は分かった。君は仲間を探しに別世界からこの世界へやって来たのだが、たどり着いたは良いものの、プロテスタントの本拠地には一度も行くことが出来ず、いきなり無知のまま放り出されたわけだな?」

「身も蓋もないけど、おっしゃる通りで……俺は別に神様をどうこうしようとしに来たんじゃないんだ。もちろん、人間を害するつもりもない」

「なら、これからどうするつもりだ?」

「正直わからん」

 

 鳳はお手上げのポーズをして見せて、

 

「プロテスタントの本拠地を目指そうにも、それがどこにあるのかが分からない。仮に分かってても、そこが宇宙空間では今の俺にはどうしようもないし……他にも、一緒に渡ってきた仲間がいるんだけど、彼女を探したくても手がかりがない……あとは、16年前の襲撃について当事者にもう少し詳しく話を聞いてみたいとこだけど……オーストラリアに行ったら、やっぱり捕まるよね?」

 

 アズラエルは肩を竦めて、

 

「それはそうだろうな」

「となると……プロテスタントの方も俺を探していると期待して、彼らが接触してきやすい場所を探すのがいいかな。そういや、マダガスカルって元はこの世界の大都市なんだっけ?」

「ああ、そうだ。街は廃墟になっているが、使えるものはまだたくさん残されているだろう」

「なら、通信設備くらいありそうだな」

 

 おまけに、かつての大都市も今は誰も居なくて、潜伏するにはもってこいでもある。そう考えるとエミリアは、始めからそのつもりで鳳をこの場所に落としたのかも知れない。他に行く宛もないのだし、まずは街を目指すのが得策だろう。

 

「そんじゃ呉越同舟と行こうぜ。どうせ街へ行くつもりだったんだろう? 俺もアズにゃんの手助けするから道案内よろしく」

「強引な人だな……だが、いいだろう。私も君に聞きたいことがまだ山程ある。道すがら聞かせてもらおうか」

 

 アズラエルはそう言うと、尻についた砂を払って立ち上がった。鳳がそんな彼女に先導されるようにあとに続き、入り江から出ていこうとすると、それを指を加えてみていた瑠璃が慌てて、

 

「ちょ、ちょっとお待ちなさいな! 私を置いていくおつもり?」

「置いてくも何も。もともと敵同士だろう?」

「そ、それはそうかも知れませんが……」

「君とはもう戦いたくないから、また会わないことを期待するよ。じゃあな」

 

 ほったらかしにするのは少々気が引けたが、とは言えここでグズグズしていたら、彼女を探しに来たドミニオンに今度こそ捕まってしまうだろう。そうなる前に、さっさとここを離れなければ……鳳は取り残されて心細そうにしている彼女に背を向けた。

 

 瑠璃は去っていく二人の背中を呆然と見つめ、焦燥感に駆られながら、自分はどうすべきか思い巡らせた。

 

 確かに仲間と合流するには、この海岸線で待っているのが一番であるが……ふと海に目をやれば、アズラエルが連れていたインスマウスの群れがまだその場でギィギィと騒いでおり、さらに丘に目をやれば、あの猿人が彼女の様子をじっと窺っていた。

 

 瑠璃は全身にブルブルと悪寒が走るのを感じた。さっきまではアズラエルが居たから平気だったが、このままここに居て無事でいられる保証なんてないのでは……?

 

 二人の背中はどんどん小さくなっていく。今すぐ追いかけなければ見失ってしまう。

 

「ちょ、ちょっと待って! お待ちなさいって言ってるでしょう!」

 

 結局、彼女は不安に勝てずに、二人の後を追いかけた。息せき切って駆けてくるそんな彼女に、鳳は眉毛をハの字に曲げて困惑の表情を見せる。

 

「なんだよ? あそこで待ってりゃ救助が来るんじゃないのか? 勝手に離れちゃっていいのかよ」

「そうかも知れませんが……来ないかも知れないじゃないですか!」

「しかし君、私たちと一緒に行くのは、規律違反になるのではないか? 処罰されたくなかったら、戻ったほうが良い」

 

 アズラエルにまでそんな風に煙たがられて、瑠璃は慌てふためいた。確かに彼女の言う通り、これは規律違反かも知れないし、嫌がる相手に強引について行くのは本意ではないが……かと言って、今はこんな場所に一人で残る方がもっと嫌だった。

 

 彼女は目玉をぐるぐるとさせながら、苦し紛れに無理やり絞り出すような口調で、

 

「き、規律違反にはなりませんわ! 私はあくまでも監視……そう! 部隊のため、お二人の行動を監視するために尾行しているのですわ」

「まあ、そう強弁するのは勝手だけどさあ……」

 

 鳳たちは顔を見合わせた。瑠璃が一人で取り残されるのを嫌がっているのは明白だった。正直、その気持ちは分からないでもない。かと言って、ドミニオンである彼女の同行を許すのは、こちらになんのメリットもない。まあ、デメリットも特にないのであるが……

 

 鳳がどうする? と視線で尋ねると、アズラエルはやれやれと言った風に肩を竦めて返した。

 

「はあ……なら好きにすれば?」

「ええ、好きにしますとも!」

 

 瑠璃はふんふんと鼻息荒く鳳の後ろについてくる。実際問題、彼女がついてきたところで、戦力的にも大した問題にはならないだろう。寧ろ放置して何かあった時の方が気が引けるというものだし、それこそこっちが監視するつもりで同行させたほうがマシかも知れない。

 

 そんなことを考えながら瑠璃を横目で見ていたら、その肩越しに、遠巻きから例の猿人が見ているのに気がついた。鳳の視線に気づいたのか、ウホウホと手を叩いて喜んでいる。その様子から察するに、どうやら彼も一緒についてくるつもりらしい。

 

「なんだか妙なパーティーになっちゃったな……」

 

 天使とテロリストと憲兵と魔族。敵対関係のバラバラの四人が、何の因果で集まったのやら……そんな不思議な集団を引き連れて、鳳はいよいよマダガスカル島に足を踏み入れた。

 



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メルクリウス研究所

 満潮時にはかなり海岸線が変動するのだろうか、地平線の向こうまで続いていた白い砂浜を抜けると、そこにはいきなり鬱蒼と茂った密林が待ち構えていた。

 

 マダガスカル島は南北に細長い山脈を形成しており、その山に東から貿易風が吹き付けるせいで、島の東部に行くほど降水量が多くなるという特徴があるらしかった。その貿易風は山の斜面で雨を降らせた後、稜線を越えて西側に乾いた風を送り込むから、逆に島の西部は乾燥して過ごしやすく、また、熱帯地方という土地柄、標高が高いほうが気温的に過ごしやすいため、街は高地に作られるのが一般的なのだそうだ。

 

 そのため、島の東部に上陸した鳳たち一行は、まずはこの東部のジャングルを抜けて険しい山を登らねばならなかった。海岸線をぐるりと西側に回れれば、なんならそっちの方がまだ楽だったかも知れなかったが、その場合は海を哨戒しているであろうドミニオンを警戒しなければならないため、敢えて直行するという強行軍である。

 

 アズラエルが言うには、それでも昔は東部の港から山を登る国道がいくつもあったそうであるが、この16年ですっかり見る影がなくなってしまったようだ。その程度の年月で、アスファルトで固められた道が跡形もなく消えてしまうのだから、やはり自然の中でも雨による侵食が一番強力なのだろう。

 

 ジャングルを進むに当たっては、瑠璃の持つゴスペル(レプリカ)が思いのほか役に立った。この島の熱帯雨林は大森林とは違って高木が少なく、背丈の高い下草が鬱蒼と茂っているのだが、行く手を阻むそいつを刈るのに、笑ってしまうが彼女の機関銃はうってつけだったのだ。

 

 彼女の機関銃は引き金を引くとセミオートで光弾が発射されるという兵器なのだが、そのエネルギーの流れを上手くコントロールしてやれば、銃口からバーナーのように光の刃を生やすことが可能だった。尤も、持ち主の瑠璃自身はそんなことは出来なかったのだが、3年以上ケーリュケイオンを使っていた経験を持つ鳳には、多少のコントロールが可能だった。

 

 自分の武器を草刈りに使われ不服そうな彼女から無理やり武器を借りて進んでいると、器用にエネルギーをコントロールする鳳を見ながらアズラエルが質問してきた。

 

「……初めて見た時も驚かされたが、君はその力をどうやって手に入れたのだ? 私はその力を行使するには、神の奇跡に縋るより方法はないものと思っていたのだが」

「現代魔法のことか? 俺のなんか本当に限定的なもんで、本物はもっと凄いぞ。姿を消したり、人を昏倒させたり、魔族を素手で倒したり、何もない空中から銃を取り出してみせたり……それどころか、世界をまるごと創り出した爺さんもいた。俺はその爺さんに恩があって、彼を助けたくてこっちに来たってのもあるんだよ」

「世界を創り出したって? それではまるで神ではないか」

 

 鳳は雑草をバッサバッサと刈りながら、

 

「ああ、そうだよ。爺さんは神になろうとしてたんだ。爺さんが言うには、昔はそういう連中がゴロゴロいたそうだぞ。ルネサンスとかあの頃」

「中世の神秘主義者のことか……そんなのはただの空想家の戯言に過ぎないだろう」

「それがそうでもなかったんだよ。ほら、人類が滅びたきっかけに第5粒子エネルギーってのがあっただろう? 高次元の方向からやってきて、何故か人間の脳にだけ反応する粒子ってのが」

 

 アズラエルは頷いて、

 

「ふむ、あるな。私たち天使は、その受容器官を通じて神の奇跡を受けたり、肉体の強化を行っているはずだ」

「その、今は神から一方的に送られてくるだけのエネルギーを、自分の意思で引き出せれば、神に縋る必要なんてないだろう? 第5粒子(フィフスエレメント)自体は、粒子加速器が発見する以前からずっと存在していたわけだから」

「……そんなことが出来る人間がいるとでもいうのか?」

「いると言うか、昔からいたんだよ。俺たちが知らなかっただけで。パラケルススとか、アグリッパとか、ジョン・ディー博士とか……ノストラダムスとかね」

「ちょっと! そんなよそ事を考えながら雑に扱わないでくださいまし!」

 

 鳳がアズラエルとペラペラ駄弁りながら雑草を刈っていると、自分の大事な武器をそんなぞんざいに扱うなと瑠璃が抗議してきた。

 

「だったら君がやり方を覚えて先導してくれてもいいんだぜ?」

「御冗談を! 悪魔崇拝者のやり方なんて真似するわけにはまいりませんわ!」

「悪魔崇拝者て、君ねえ……もっと言い方があるでしょ」

 

 実在する神を信仰する瑠璃にとっては、神を信じない鳳もその技術も、悪魔崇拝でしかないと言いたいのだろう。突き詰めて考えれば、ぶっちゃけこれは彼女の信奉する神と全く同じ方法でしかないのだが……そんなことを彼女に言っても聞く耳を持つことはないのだろう。

 

 本来なら、武器を貸すのもお断りだろうに、じゃあ置いてくぞと脅して無理やり借りてる手前、あまり彼女の機嫌を損ねるのも得策ではないだろう。少なくともこの密林を抜けるまでは。

 

 鳳は肩を竦めると、まだ話を聞きたそうにしているアズラエルに背を向けて、黙って芝刈り機の如く機関銃を振り回した。

 

 ジャングルを抜けるのには、結局一週間もかかった。

 

 昔見た世界地図でマダガスカル島は、アフリカの南の方にある小さな島国のように思っていたが、メルカトル図法のせいでそう見えるだけで、実際の大きさは日本の国土の1.6倍もあるらしい。そんな大きな島の、まったく人の手が入ってない密林を進むわけだから、1キロ2キロでもかなりの体力を消耗するのだ。

 

 おまけに今回は馬などの移動手段を持っていなかったから、大森林を歩き慣れている鳳はともかく、アズラエルと瑠璃はかなりきつそうだった。途中で魔族に出食わしていたらどうなっていたことか……

 

 と言うか、アズラエルは天使で体力があるからまだしも、瑠璃は完全に足手まといでしかなかった。ゴスペルを持たない彼女はただのJKでしかなく、ほんのちょっと進むだけでも、やれ足が痛いだの虫が怖いだの喚き散らし、終いには疲れたから休憩すると座り込んで動かなくなったり、貴重な水も後先考えずに飲み干してしまったりと、我がまま放題で手に負えなかった。

 

 いっそ寝てる間に置き去りにしてやろうかと思ったが……しかし、本当に置いていってしまったら、数日も持たずに死ぬのは目に見えているし、大事な武器を借りている以上、多少の我がままは許してやるしかなかった。

 

 尤も、それもジャングルを抜けるまでの話であって、山に入ってからは、もういくら我がままを言っても無視して先に進むことにした。彼女はそれを不服としてまだブツブツ文句を言っていたが、武器を返したお陰で身体強化のサポートを受けることが出来、かろうじて食らいついてこれているようだった。

 

 さて、そんな足手まといの話はこのくらいにしておいて、逆に道中非常に役に立ったのは猿人のチューイだった。

 

 一体何が彼をそうさせるのか分からなかったが、一行にいつまでもついて来る彼は、ジャングルの木々を縦横無尽に飛び回り、瑠璃がダウンする度、近くの水場を探してきてくれたり、バオバブの実を取ってきてくれたりと、お陰で鳳が食料を調達する必要がないほど活躍してくれた。

 

 なんなら夜の警備までしてくれるほどで、ここまでしてもらっては悪いから、お返しに水場で仕留めたカエルを分けてやろうとしたのだが(大量に捕れたのだ)、瑠璃に遠慮してか、彼はキャンプファイヤーには決して近寄ろうとはしなかった。

 

 因みに獲物は、グロいからと言って、瑠璃もアズラエルも食べようとはしなかった。こいつら、それじゃあ普段は何を食ってるんだ? と文句を言いながら一人で平らげたのだが、実際問題、チューイが取ってきてくれるバオバブの実があれば、カロリー的に全然問題ないようだった。

 

 こんなのがその辺の木にいくらでもぶら下がっているのだから、遥か昔インドネシアから渡ってきたオーストロネシア人は、きっとここに楽園を発見したと思ったことだろう。

 

 稜線を越え、島の西側は地獄の様相だった。

 

 山を登りきり、マダガスカル島中央に広がる台地には、まるでナメクジが這いずったかのような跡が、いくつもいくつも伸びていた。それは巨大生物が全てをなぎ倒して走り去った傷痕で、そんなものが交差したり、折れ曲がったりして続いているのだから、もう人が住めないというのが嫌でもよく分かった。鳳はこれと同じ物を見たことがあった。

 

「あれは……ベヒモスが通り過ぎた跡か」

 

 アズラエルが言っていたが、この島には本当にベヒモスが住み着いてしまっているようだ。

 

「16年前、アフリカからあれが渡ってきてからは見ての通りで、ここは人間が住めなくなってしまったのだ。魔王は人間を見れば問答無用で襲いかかってきて、奴の通り過ぎた後は建物も何もかも破壊されてしまう……私たちも、奴に見つかったら最後だと思っておいたほうがいい」

 

 因みに台地は森林限界と乾燥した気候のお陰で、草木が少なく遠くまでよく見渡せたが、肝心のベヒモスの姿はどこにも見当たらなかった。ベヒモスがいくら巨大と言っても、ここは日本よりもずっと広い島なのだから、常にどこからでも見えるというわけではない。

 

「ベヒモスに限らず、生き物は大抵寒さを嫌うから、元々山の上の方にはあまり近づかない。だからこのまま稜線を進んで、もしもあれが見えたら、山の反対側に逃げれば捕まらずに済むはずだ」

「別に逃げなくても、こんな山の上の人影なんかに気づかないんじゃないか?」

 

 鳳がそう言うと、アズラエルはそれはとんでもない間違いだと言って、

 

「ベヒモスはあらゆる物を食べるが、特に魔族と人間を好む。ところが16年前にこの島に渡ってきて以来、奴はろくに好物を食べられなくて飢えている」

「だったらアフリカに帰ればいいのに……」

「ああ、神域もそれを期待してずっと観測を続けてきたが、残念なことに奴が島から出ていく気配はまったくない。要するにあれは……馬鹿なんだ。最初に偶然、水棲魔族か何かを追いかけてうっかり海峡を渡ってしまってから、恐らくは自分がどこにいるのかすらよく分かっていないのだろう」

 

 地図で見れば目と鼻の先に見えるが、実際は、アフリカ大陸まで少なくとも数百キロの距離があって、海岸線から見えることはない。だから方角と途中の島々の位置を知らなければ帰ることは出来ないのだが、あのデカブツはそんな計画的な思考力は持ち合わせていなかったようだ。

 

 こうしてベヒモスはマダガスカルという檻に閉じ込められてしまったわけだが、それじゃ今度は食料が尽きて餓死しないかと期待しても、別に好物の人間や魔族ではなくても、なんなら木でもなんでも食べて栄養に変えてしまえるから、本質的には飢えるということはないらしい。まったくもって、存在自体がはた迷惑なやつである。

 

 なにはともあれ……それでここに来るまでのジャングルで、全く魔族に襲われなかった理由が分かった。ここが元々人類の生存圏だったからというのもあるだろうが、もっと単純に、居ればベヒモスが食べてしまうからだ。

 

 人間の住んでいない島なんて野生動物からすれば楽園みたいな場所だろうに、代わりにもっとたちの悪いのが住み着いてしまったせいで、ここは不毛の地になってしまっているのだ。

 

 高地に入ってからは道も開けており、ジャングルとは違って16年前の公道もあちこちに残っていたお陰で、移動速度は格段に上がった。それでもやはり一番体力の低い瑠璃にはきついらしく、度々音を上げては休憩を要求するため行軍は遅々として進まなかった。

 

 まあ、急ぐ旅でもないし、多少のタイムロスは大目に見てやるしかないが、道端に寝そべりぐったりしている瑠璃に向かって、このだらしない奴めと罵っていると、

 

「うるさいですわね……はあ~……お姉さまだったら、きっと優しい言葉の一つもかけてくださいますでしょうに……」

「お姉さま? なんだい、その百合百合した響きは」

「百合百合……? よくわかりませんが、そこはかとなく馬鹿にされている気分ですわね」

「そこはかとではなく馬鹿にしてるんだよ」

「むきーっ! あんたなんかお姉さまにやっちゃけられちゃえば良いのですわ」

 

 瑠璃はチューイにもらったバオバブの種をプッと飛ばしてきた。汚い。

 

「で、そのお姉さまってのは一体何なんだ?」

「……私たちの隊長のことですわ。眉目秀麗、才色兼備、他の追随を許さないその美貌と、天使様に匹敵する戦闘力を併せ持つ、ドミニオンきっての大エースですの。私、お姉さまの隊に配属されたことが生まれてから一番の誇りなのですわ」

「ふーん……ルリルリの自慢程度じゃ、実際は大したことないんだろうね」

「なーんですってーーっ!! きぃぃぃーーーーっ!!!」

 

 瑠璃は興奮して地団駄を踏んでいる。そんな元気があるなら休憩なんか必要なかったんじゃないのか……ともあれ、実際の実力はともかくとして、瑠璃の所属部隊の連中に関しては、そろそろ対応を考えなければいけない時期に差し掛かっていた。

 

 瑠璃は、一人になるのが心細くて勝手についてきてしまったわけだが、そんな彼女のことを、恐らくあの時の連中は探していることだろう。まずはマダガスカルに流れ着いていると想定し海岸線を一通り調べたら、一旦捜査を打ち切って、そして今度はアズラエルを追うはずだ。

 

 瑠璃がアズラエルと共にいることを期待してというのもあるが、元々、彼女らはミカエルに命じられて、この天使を追いかけていたのだ。

 

 アズラエルは、ここマダガスカルでどうしてもやらなければいけないことがあって、ミカエルの命に背いて神域を抜け出してきたらしい。鳳は街まで案内してくれさえすればそれでいいから、それが何なのかは聞いていなかったが……恐らく、これから街に入るに当たって、ドミニオンの襲撃に備えるためにも、そろそろちゃんと話を聞いておいた方が良いだろう。

 

 問題は、この頑なな天使が素直に目的地を教えてくれるかどうかであったが……アズラエルはその行く先については特に隠すつもりはなかったようだ。聞いてみれば、思いのほかあっさりと教えてくれた。

 

「目的地? そう言えば、まだ言っていなかったな……どうして今まで聞かなかったんだ?」

「いやあ~……なかなか聞くタイミングがなくて」

「遠慮でもしていたのか? おかしな人だな、君は。まあいいだろう。別に隠し立てするつもりはない。私はかつて自分が所属していた研究所に、忘れ物を取りに来ただけだ」

「忘れ物って?」

「昔の研究資料だ。16年前、私はこの島のメルクリウス研究所というところで、魔族の研究をしていた生物学者だった。撤退時はだいぶ慌てていて、ほとんど何も持ち出せなかったから……当時集めた資料がまだ残っているかも知れないのだ」

 

 アズラエルは当時の状況を思い出しながら淡々とそれを口にした。そして彼女が口にした言葉は、鳳にとってはすごく耳馴染みがあり、絶対に聞き逃がせないものだった。

 

「メルクリウス研究所……メルクリウスだって!?」

 

 鳳はその言葉を聞いた瞬間、目をひん剥いてアズラエルに迫った。何故もっと早く彼女に確認しなかったのだろうか……メルクリウスとは水星マーキュリーの語源でもあるラテン語。元となるその意味は、ギリシャ神話の神ヘルメスである。

 

 その様子があまりに劇的だったから、さしもの冷静な天使もたじろいだ。

 

「な、何だ君は、突然……」

「悪い! その研究所の名前には、ちょっとした因縁があって……」

「因縁? 君と?」

「俺は元の世界ではヘルメス卿って呼ばれてたんだよ」

 

 これが大気圏外から落っことされて、たどり着いたマダガスカルに、偶然あったとしたら出来すぎだろう。やっぱり、あの時、エミリアは目茶苦茶に落としたわけじゃなかったのだ。

 

 鳳がこの名前を聞けば、ここを目指すのは間違いない。もし、これがエミリアの誘導であったなら、そこに何があるかは期待してもいいはずだ。

 

「アズにゃん……確かベヒモスがマダガスカルに渡ってきた時、ゴスペルが使用されたんだよな? そのゴスペルの名前は?」

「アスクレピオスだが……」

 

 こっちも大昔の神様の名前のはずだが、確かヘルメスと深い関係があったはずだ。特にその神様が持つ杖はWHO(世界保健機構)のシンボルマークにもなるほど有名で、意匠は木杖に蛇の巻き付いた格好……つまり、ケーリュケイオンと殆ど同じである。

 

「その杖は蛇が巻き付いたデザインじゃなかった? あと、ケーリュケイオンって名前に何か心当たりは?」

「ああ、確かに、蛇の巻き付いた杖だった。ケーリュケイオンという言葉には、まったく心当たりがないが……」

「そうか……ところで、そのアスクレピオスは今どこにある? 出来れば実物を見てみたいんだが」

 

 するとアズラエルは残念そうに首を振って、

 

「残念ながら……杖はベヒモスとの戦いで失われてしまったんだ」

「なんだって!?」

 

 鳳が驚愕の事実にショックを隠しきれずにいると、アズラエルは当時のことを思い出しながら淡々と続けた。

 

「マダガスカルに奴が侵入すると、最初、神域は何とかしてベヒモスを追い出そうと努めたのだ。しかし上手く行かず、そうこうしている内に犠牲が大きくなりすぎて、最終的には慌ててゴスペルの使用を決めた。ところが……今度はその頼みの綱が、何故かベヒモスには効かなかったのだ。

 

 そして、急ごしらえの作戦だったからバックアップも何もなく、作戦が失敗するとその後は散々なものだった。作戦に当たったドミニオンの部隊は全滅し、天使にも犠牲者が出た。そして、アスクレピオスはそのどさくさの中でどこかに紛失しまったのだ。

 

 もちろん、神域は貴重なゴスペルの回収に努めた。ベヒモスのうろつく、ここマダガスカルに幾度も捜索隊を送り出し、その行方を追ったが……16年経つ今でもそれは発見されていない。何しろ広い島だし、最後に誰が持っていたのかすら分かっていないのだ」

「まいったな……」

 

 ケーリュケイオンが無ければ、アナザーヘブン世界に残っているルーシーを呼ぶことが出来ない。口にこそ出さなかったが、実は鳳は彼女のことを相当あてにしていた。

 

 彼女の師匠であるスカーサハも、この世界ではかなり貴重な戦力だ。あっちの世界と連絡がつかないのも相当な痛手だった。

 

 そして何より、ケーリュケイオンを持たない自分など、半身をもがれたようなものである。

 

 これから、どうしたらいいのだろうか……

 

 まだ、アスクレピオスがケーリュケイオンであると決まったわけではないが、今は一縷の望みをかけて、アズラエルの旧職場へ行ってみるしかないだろう。ヘルメスの名を冠するメルクリウス研究所……そこに何かがあればいいのだが。

 

 そんな期待も、今は漠然とした不安の前に押しつぶされそうになっていた。

 



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マダガスカル撤退

 ジャングルと比べて山の上に出てからの行軍は早く、それから3日ほどの行程で、鳳たちは目的地の手前までたどり着いた。

 

 アズラエルによると旧都であるマダガスカルにはかつて南北2つの都市が存在し、人間は主に北の街で暮らし、南の方は天使が管理する神域だったそうである。オーストラリアの方も、天使たちは人里から離れた西部のパースに引きこもっていたようだから、何か人間と混じってはいけない理由……もしくは差別でもあるのか? と聞いてみたら、どうも神によってそう決められているそうである。

 

 太古の昔、地上に降臨した神は、天使たちに間接的になら人間の手助けをしてもいいけれど、直接手を下すにはご法度だと命じたらしい。以来、天使は神の代弁者として間接的に人類を統治し、人類は天使から授けられる神の奇跡を用いて魔族と戦っていたようである。なんでそんなまだるっこしいことをしているのかは、アズラエルもよくわからないらしい。

 

 尤も、それも16年前までの話で、神の不在後はそうも言っていられなくなったらしく、かつての線引きは曖昧になっているそうである。神の『再生』が受けられなくなった以上、今までのやり方ではいたずらに人口が減るばかりで、人類の滅亡を早めかねない。だから現在では、多くの天使が前線に出て人間と共に戦っており、その結果、人類の天使への依存心が以前より強くなるという結果を招いているようだった。

 

 もしや神はそれを嫌って天使に手出し無用を命じたのだろうか。今となっては、神の考えなど推し量りようもないのであるが。

 

 ともあれ、そんなこんなで、いよいよ明日には目的地という晩のことだった。

 

 鳳は夜の見張り番のために仮眠を取っている最中に、ものすごい衝撃を受けて目を覚ました。頭がクラクラするのはどうも寝不足が原因だけじゃなさそうだった。一体何があったんだと寝ぼけ眼を擦りながら起き上がると、鳳の頭の上に乗っていた瑠璃の足がドサッと地面に落っこちた。

 

「ぐが~……ぐが~……すぴ~……すやすや~……」

 

 爆眠を貪る瑠璃は実に幸せそうな顔でいびきをかいている。旅を始めた当初は、野宿なんて私には無理ですの! とか宣っていたくせに、今や誰よりも熟睡して起きないもんだから、一番最初に見張りをやらせるのが決まりになっていた。多分、早々に眠くなってきたところで、アズラエルに代わってもらったのだろう。

 

「くそっ……どうしてこんな奴連れてきちゃったんだろうか……」

 

 鳳は毒づきながら瑠璃の頭を引っ叩くと、不承不承起き上がった。殴られようと蹴飛ばされようと、瑠璃は実に幸せそうな寝顔である。きっとこいつには悩みなんてないんだろう……すっかり目が覚めてしまった鳳は、うんざりするようにため息を吐くと、見張り番を交代するつもりで焚き火の方へと歩いていった。

 

 焚き火には薪がくべてあったが、そこにアズラエルの姿はなかった。どうしたんだろうと思って周囲を見渡せば、彼女は少し離れた岩の上でぼんやりと月を見上げていた。初めて出会った時みたいに、その頭髪が青く輝き、前髪から覗く金色の瞳が怪しげに光っている。

 

 片翼の傷ついた天使の姿は、再生能力があるはずなのにどうしてそうなってしまったのか、ずっと気になっていた。だが、それを直接聞くのは傷口に塩を塗り込むような気がして、あまり気が乗らなかった。彼女のもう片方の翼はどこへ消えたのだろうか。

 

 鳳が岩陰に近づいていっても、アズラエルはこちらを振り返らなかった。きっと、焚き火の火照りを冷ましているのだろう。月を見上げていると思っていた彼女の瞳は閉じていた。鳳はそれに気づいていたが、気づてない風に何食わぬ口調で話しかけた。

 

「……俺の国では、月には兎が住んでるんだって言い伝えがあるんだよ。ほら、月の影があるだろう? あれが餅つきをしている兎に見えるんだって」

 

 鳳の声に呼応するかのように、アズラエルはピクリと体を震わせて目を開けると、じっと夜空の月を見上げながら言った。

 

「……どこが?」

「うん……俺もそう思うんだけど、昔の人にはそう見えたんだよ」

 

 尤も、実は国によって違うらしくて、カニに見えたり長い髪の女性に見えたりと、その見え方は千差万別だ。鳳はそれも伝えてから、

 

「兎の話にはちゃんと由来があってね? ある日、猿と狐と兎の三匹が焚き火を囲んで温まってると、身なりの良い爺さんがやって来て何か食べ物をくれって言うんだ。それで猿と狐はそれぞれ獲物を捕らえて帰ってくるんだけど、兎は何も捕まえられなくって、申し訳無さそうにこう言うんだ、『私を食べてください』って。そう言って兎は焚き火に飛び込んだ。

 

 それを見ていた爺さんは、その健気な兎を大層哀れんで、焚き火の中から取り出すと、月へ上らせてあげたんだ。実は、その爺さんは帝釈天っていう偉い神様で、三匹のことをこっそり試していたんだね。それ以来、兎は月に住み、神様へ捧げるために餅つきをしているんだって」

「ふむ……」

 

 鳳の話を黙って聞いていたアズラエルは、話を聞き終えるなり怪訝そうに腕組みしながら、

 

「……兎は何故、焚き火に飛び込んだんだろうか。そんなことをしても、神様は喜ぶどころか、困ってしまうだけだろうに」

「え? それはまあ……そうかもなあ」

「もしかして、兎は最初から、相手が何者か知っていたのではないか? それで点数稼ぎのつもりで自らの身体を差し出し、他の二匹を出し抜いて天に上ったんだ」

「そりゃあ、策士だね」

「もしくは、こういうのはどうだろう? 元々三匹は仲良く焚き火を囲んでいたわけじゃないんだ。実は猿と狐のどちらが兎を食べるか争っていたところに神様がやってきて、自棄になっていた兎は二匹に食べられるくらいなら、いっその事と思って自ら焚き火に飛び込んだ。それなら辻褄があうだろう」

「君は世知辛いことを言うなあ」

「そうだろうか? 少なくとも、兎は哀れんで欲しくて飛び込んだわけじゃないだろう。それが彼にとっての最善だったのだ。ならば、そこに意味がなくてはおかしい」

 

 そういうアズラエルの顔はどこか物憂げに見えた。ただのおとぎ話なのに、辻褄合わせに妙に拘ったり、何でそんなに意味を求めたりするのだろうか。彼女の考えていることは、いまいち良く分からなかった。

 

 と、その時、ドサッと大きな音が鳴って、木から何かが落下した。驚いて振り返ると、上で寝ていたチューイがうっかり転げ落ちたらしく、彼は眠そうにあくびを一つかますと、また何事もなかったかのように木の上に戻っていった。

 

 寝相が悪いなら地面で寝ればいいように思えるが……まあ、習性なのだろう。目に見えないだけで地べたには細菌がうようよいるから、実は木の上で寝たほうがマシという話ある……

 

 鳳はそんなことを考えつつ、ふと思いついたことを口にした。

 

「そういやあ、ずっとついてくるけど、あいつは結局何がしたいんだろうか? 魔族が人間にここまで懐くなんて聞いたことないし、何かしてほしいことでもあるのかな?」

「ああ、交尾だろう?」

 

 すると、いきなりアズラエルの口からそんな言葉が飛び出してきて、鳳は面食らってしまった。子供にしか見えないが、思えば数百年を生きる天使なのだから、それくらいのことは言ってもおかしくないのだが、よりにもよって交尾とは……

 

「何を意外そうな顔をしているんだ。相手は魔族だぞ? 魔族の目的と言えば、殺すか犯すかのどちらかと相場が決まっている。彼はいつも君に果物を分け与えて、自分が役に立つことをアピールをしている。ダンスや歌、プレゼントなどをして交尾を勝ち取る動物なんていくらでもいるのだから、そう考えるのはおかしくないはずだ」

「いやいやいやいや、冗談じゃない! 君はあのチューイが俺を襲おうとしてるっつーのか!?」

「そりゃあ、君に一番なついているようだから」

「やめてくれよ……」

 

 お尻がキュッとなっちゃうぞ……それはさておき、なんかいきなり凄いことを言い出したかと思ったが、思い返してみればアズラエルは自分の本職は生物学者と言っていた。鳳はそれを思い出し、

 

「そう言やあ、メルクリウス研究所ってとこでは、どんな仕事をしていたんだ? 天使ってみんな、人類のためになんかの仕事をしてるんだろ?」

「私とイスラフェルは死と再生を司っていた……イスラフェルが命を刈り取り、私が主に再生をしていたのだ」

 

 そう言い放つアズラエルの横顔は、なんだか鋼鉄の仮面でもつけてる戦士のように見えた。彼女が何百年生きてきたかは知らないが、ずっと人間の死と誕生を見続けてきたのだ。きっと、鳳には想像もつかないような苦い経験も味わってきたに違いない。

 

 そう言えば、イスラフェルとはアスタルテの天使時代の名前だったか。カナンが言うには、彼女は長年多くの死を見続けてきたせいで、最後は精神を病んでしまったのだと言っていた。いくら時代が進もうと、人の死は老化だけとは限らない。魔族との戦いで犠牲になった人々も数多く目にしたことだろう。

 

「だから私たちは研究所で魔族の研究をしていたんだ。神は天使に、魔族に直接手を出してはいけないと命じていたが、間接的になら構わないだろうと、人間に代わって魔族を研究し始めたんだ。そうすれば今よりずっと犠牲になる人間が少なくなる。そう思って。

 

 やめておけば良かったのにな……」

「どうして?」

 

 研究の話をするアズラエルの顔は、見るからに後悔に満ちていた。何故なのか鳳が尋ねても彼女はすぐには答えなかった。彼女は暫く考え込むように月を見上げた後、唐突に、こんなことを言い始めた。

 

「実はベヒモスは……あれは私たち天使が作り出してしまった魔王なのだ……」

「え!?」

「君は常識を知らないから。何から話し始めたら良いものか……16年前まで、ここマダガスカルが人類第二の都市だったのは、それは目の前にアフリカ大陸があったからなんだ。実はその頃人類は、ここを前線基地として、人類の手にアフリカを奪還すべく戦っていたのだ……」

 

 アズラエルの説明では、現在の世界はざっくり5つの地域に分けられるらしい。

 

 ユーラシア大陸、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸、インドネシア、オセアニアの5つである。

 

 魔族は元々ヨーロッパで爆発的に繁殖し、世界各地に散らばっていった。そのせいで現在でも、魔族は主にユーラシア大陸に生息しており、とてもじゃないが人間は近寄ることすら出来ない状況だそうである。

 

 対してアフリカ大陸は、ユーラシア大陸と地続きではあるが、広大なサハラ砂漠に分断されていて、サハラ以南は別世界と言っていいらしい。

 

 また現在はプチ氷河期と言っていいくらい世界的に気温が低いらしく、ベーリング海峡は氷に閉ざされていて、ユーラシアの魔族が南北アメリカ大陸に渡ることも、昔ほどはないそうだ。

 

 そして気温が低いということは水温も低いわけで、水棲魔族は赤道の近くにしか生息することが出来ないため、主にインドネシアに住み着いて、他の魔族の侵入を防いでいるらしい。因みに水陸両生の魔族は世界中を探してもこの地域にしか見られないそうだ。

 

 そして唯一オセアニアには、どんな魔族も定着しなかった。だから大昔、人類は他の大陸を捨てて南半球に移住したのだ。

 

 こうして5つの地域が成立し、それから数千年が経過した……

 

 その間、オセアニアでほそぼそと暮らしていた人類は、水棲魔族と戦闘を続けながら海洋の調査を続け、世界中にはまだ魔族の進出していない島々があることに気がついた。ハワイやイースター島等のポリネシアの島々や、インド洋のセーシェル、モーリシャス、そしてマダガスカル島である。

 

 中でも一際大きかったマダガスカル島は、現生人類の全てが移住できるほど広大であり、気候的にも申し分なく、やがて第二の都市建設が行われた。

 

 そうしてマダガスカル島に人類が移住したことで、面白い発見もあった。それまでインドネシア以外殆ど知ることが出来なかった、他大陸の魔族の様子を観察することが出来るようになったのだ。

 

「こうして魔族の研究を始めた私たちは、間もなくアフリカの魔王の登場にはサイクルがあるという事に気がついた。魔族は、他者を食らうことでその形質を獲得したり、無理やり繁殖して爆発的に数を増やしたり……いわゆる蠱毒を繰り返して進化する生き物だが、その結末は実は例外なく餓死だったのだ。

 

 魔族は生産的ではないから、人間みたいに食料を生産することが出来ない。すると魔王が誕生したところで、爆発的に繁殖しようものなら当然のこと、他者を食らって進化する魔王もいずれ食べる相手を失って餓死していたのだ。

 

 ユーラシア、インドネシア、南北アメリカに比べて、アフリカ大陸は範囲が狭く、その殆どが熱帯地域という厳しい気候条件だった。そのために、自然から獲得できる食料が他の大陸と比べて少なかったのだ。故にアフリカでは、魔王が誕生する度に、極端に魔族の数が増減するというメカニズムが成立していたと言うわけだよ。

 

 私たちはそこに目をつけた……

 

 アフリカでは魔王が誕生する度に全体の魔族の数が減る傾向にある。だったらいっそのこと、強力な魔王が誕生した時に、その生存を私たちが助けてやったらどうなるだろうか……? 魔王が本能的に他の魔族を襲い続けるのであれば、いずれアフリカには魔王以外の魔族は住めなくなる。そして最終的に魔王しか存在しなくなったら、私たちがゴスペルを使ってその魔王を排除してしまえば、手つかずの大陸が手に入るのではないか……

 

 危険な賭けかも知れないが、手に入るものの価値を考えればやる意味はあるだろう。問題は、魔王を餓死させないようにすることだが……私たち生物学者は魔族だけではなく、言うまでもなく人間や天使についても研究していた。

 

 天使……つまり、大昔の超人は血中に含まれるナノマシンによって不老非死の肉体を維持している。身体に欠損が出たらナノマシンが細胞を修復し、空腹であっても代謝は行われ続け、そのエネルギーは神により供給される……要するに第5粒子エネルギーがある限り、滅多なことでは死ぬことはない。なら天使の細胞を魔王に移植してみたらどうだろうか? 私たちはそんなことを考えた。

 

 そして研究を続けていた時、アフリカ大陸に強力な魔王が誕生した。都合のいいことに、この魔王ベヒモスは自ら繁殖することはなく、他者を食らってひたすら自分だけを強化するタイプの魔王だった。私たちは早速とばかりに、こいつに自分たちの細胞を移植することにした。結果は上々だった。魔王は旺盛な食欲で、私たちの目論見通りにアフリカ中の魔族を捕食し続け、魔族はみるみるうちに数を減らしていった。

 

 この方法は上手くいく。私たちはそう確信していた。ところが……」

 

「魔族が一掃されるよりも前に、マダガスカルにベヒモスが渡ってきてしまったのか」

 

 アズラエルは暫しの間、鳳の言葉を反芻するかのように沈黙し続け、やがて肺の中に溜まっていた全ての空気を吐き出すかのように、長い長い溜息を吐いた。

 

「……案外、それは本当に天罰だったのかも知れないな。研究所は、マダガスカルに渡ってきたベヒモスを、最初はなんとか誘導してアフリカに返そうとした。しかし、そこまで育ってしまった魔王のことを人間がどうこう出来るはずもなく、いたずらに犠牲を払うだけで、いつまで経っても事態が改善することはなかった。

 

 結局、私たちはベヒモスをアフリカへ帰すことを諦め、神域はアスクレピオスの使用を決定したのだが……ところが今度は、その頼みの綱のゴスペルが不発に終わったのだ。まさか、神の兵器が効かないほど魔王が成長するなんて思いもよらず、私たちはさらなる犠牲を払い続けた挙げ句に、ついに天使からも犠牲者を出したところで、マダガスカルからの撤退が決定された。

 

 私たちが育てた魔王のせいで、人類はアフリカを手に入れるどころか、逆にマダガスカルを失う羽目になってしまったのだよ……」

 

 アズラエルはその時のことを思い出し、落胆するように肩を落とすと、

 

「……何故、ゴスペルはベヒモスを倒せなかったのだろうか。神の兵器は絶対じゃなかったのか? 私たちがやり過ぎてしまったことに、神は天罰を下したのだろうか……正直、あの時はそんな馬鹿げたことも真剣に考えたよ」

 

 アズラエルは自虐的な笑みを浮かべている。神の正体なんて、ただの機械なんてことはとっくに分かっているのに……その表情が、そう告げているようだった。

 

 ただ、今回に限ってはアズラエルの予想は外れていた。鳳にはその理由が分かっていた。問題は、それを言ってしまうとどんな反応が返ってくるかわからないから曖昧にしていたのだが……この期に及んで黙っているのもフェアじゃないだろう。鳳は決意すると、

 

「……ゴスペルが起動しなかった理由なら、俺には見当がついてるぜ」

「なに……?」

「前に言っただろう? 俺はゴスペルの中の世界から来たって」

「あ、ああ」

「その時、説明したはずだ。ゴスペルは、こっちの世界で魔王が誕生した時、その情報を俺たちの世界に送ってくる。そして俺たちが首尾よく魔王を倒せたら、その情報を根こそぎ奪うんだって……俺たちは、その情報の収奪を阻止したんだ」

 

 アズラエルは最初のうちは鳳が言っていることが理解出来なかったの、ぽかんとした表情のまま固まっていたが、やがてその意味を理解すると、みるみるうちに顔を真っ赤にさせながら、

 

「何故、そんなことをしたんだ! そのせいで私たちは多くの犠牲を払い、マダガスカルまで失ったんだぞ!?」

「そんなの当たり前じゃないか! 抵抗しなきゃ、こっちは世界がまるごと消滅するんだぞ!? お前らがやってることは、自分たちのために、別世界の住人である俺たちに死ねと言ってるようなことなんだよ!!」

 

 鳳が怒鳴り返すと、アズラエルも反射的に何か言い返そうとしていたが、結局は彼の正論に何も言い返すことが出来ないと気づいたらしく、苦々しく吐き捨てるように言った。

 

「……本当に、そんな馬鹿げたことが起きているというのか?」

「ああ、本当だ。信じてくれ」

 

 それどころか、ゴスペルを使い続ければ、いずれ全ての宇宙が第5粒子エネルギーの海に飲まれて消滅してしまうかも知れない。そしてこの世界だって、ゴスペルの収穫が起こる可能性がある。アズラエルは、この世界の更に高次元にも、同じような世界があることを知らないのだ。

 

「だからカナン先生は……プロテスタントたちは、ゴスペルを使ってはいけないって言いに来たはずなんだけどな」

「……そう言えば、ルシフェルたちが神域に現れたのは、マダガスカル撤退が決まって暫く経ってからのことだった。そのタイミングで襲撃が起きたのは、道理だったというわけか」

 

 アズラエルは苦々しげに頷いている。

 

「それで? マダガスカルを撤退した後、人類はどうなったんだ?」

 

 鳳が続きを促すと、彼女はまた嫌なことを思い出すかのようにため息を吐き、複雑に眉をくねらせながら、

 

「多くの犠牲を出した私たちは、人類の欠員を補充するために不眠不休で『再生』を行った。因みに、その時に生まれたのが、瑠璃たちロスト・ジェネレーション世代だ。その後、マダガスカル撤退を招いてしまった私たち研究所の職員たちは、その責任を取る名目で神域に拘束された。

 

 私たちは、神による『処分』も覚悟していた……しかし、こんな私たちに対して、人類は寧ろ好意的だったのだ。その理由は、私たちは天使なのに、人間のために魔族と戦おうとしたからというものだった。人類は、なんやかんや魔族と戦わない天使に対して、不満を抱いていたのだろうな……

 

 ともあれ、それは私には慰めになった。人類を救おうという気持ちが本物であれば、必ず彼らは応えてくれる。だから私は彼女らのために、よりこの身を尽くそうと決意した。

 

 そんな最中、プロテスタントの神域への襲撃が起きた。ただでさえマダガスカル撤退で混乱してる時期だったから、その知らせに人々はショックを受けた。そして神が殺されたことが判明すると、彼女らは絶望のどん底に叩き落された。

 

 創世記以来、数千年に渡って人類を守護してきた神が死んだのだ。もう神は守ってくれないし、自分たちはもう生き返ることも出来ない。だがそれでも、魔族との戦いは終わらない。彼女らは死の恐怖に怯え始めた……

 

 だから私は、彼女らを救うために行動を起こしたんだよ。

 

 神の死により、私の罰もなし崩しになった。私は拘束を解かれると、すぐさま神による『再生』の代わりを模索し始めた。そして、今まで培ってきた生物学者としての知識を総動員して、人工出産の方法を見つけ出したのだ……」

 

 しかし、その後は知っての通りである。瑠璃によれば、アズラエルはせっかく生まれた赤ん坊を、みんな殺してしまったのだ。それは何故なのか?

 

 死と再生を司る天使として、人の死を見続けてきた彼女にとって、それは無数の死のうちのほんの一部に過ぎなかっただろう。だが、月を見上げる彼女の横顔は、その時のことを思い出して、慚愧の念に駆られているのは明白だった。

 

「アズラエル……君は本当に、人間の子供たちを殺したのか……?」

 

 その言葉にはどんな答えも返ってこず、鳳の疑問はパチパチと爆ぜる焚き火の音と、夜の静寂に溶けて消えてしまった。

 



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廃墟の町へ

 翌朝、ずっと山の稜線を進んでいた鳳たちは、ついに眼下に街を見つけた。コンクリートとアスファルトで覆われた人工的な町並みは、皮肉なことに、この自然が豊富な島にあって逆に人のぬくもりを感じさせていた。

 

 ここまで来るともう警戒もクソもないので、彼らは山を降り、台地の上を一直線に伸びるアスファルトの道路を進むことにした。昔の国道は16年の歳月のせいで、あちこちが陥没したり剥がれ落ちたりしていて少々歩きづらかったが、見通しがいいので視界的には楽だった。

 

 尤も、それは自分たち以外にも言えることだろう。これから先はベヒモスもそうだが、ドミニオンにも気を配らねばならなかった。アズラエルの目的地は、多分、相手にバレているだろうから、どこかで待ち構えている可能性もあるはずだ。

 

 一番その可能性が高いのは、目的地であるメルクリウス研究所だろうが、こっちがそう思うと言うことは、案外、そこへ辿り着く前に奇襲をかけてくるかも知れない。そう考えると、この見通しのいい道路を進むのは危険かも知れないが、かえって好都合なこともあった。

 

「ちょっと! もう少しゆっくり歩いてくださいまし! そんなに引っ張られては転んでしまいますわ!」

 

 伏兵がいないか気配を探りながら先頭を歩いていると、すぐ後に続く瑠璃の不満タラタラの声が聞こえてきた。

 

 彼女の腰にはロープがくくりつけられており、その先端は鳳がしっかりと握っていた。彼女の機関銃も今は彼が預かっており、手足は縛られていないが、その様子を見れば瑠璃が捕まっているということが遠目にも分かるだろう。

 

 鳳はそうやって、人質を取ることによって、ドミニオンから主導権を奪おうと考えたわけである。

 

 しかし、武器を奪うということは同時に瑠璃の身体能力も低下するというわけで、根本的な歩く速度の違いから、油断するとすぐにロープに引っ張られて瑠璃が転びそうになってしまうという悪循環を生んでいた。

 

「仕方ないだろう。はっきりこっちの優位性を示さなきゃ。また問答無用で飛びかかって来られちゃ堪らんし」

「私が一緒にいれば、いきなり襲いかかってくるなんてことはあり得ませんわよ。邪魔はしませんから、ゴスペルを返してくださいな」

「……いや、ぶっちゃけ、君のことそこまで信用してもいないし」

「なんですって、うきーっ!」

 

 もう10日以上も行動を共にしているから、少し気を許しかけていた瑠璃は、あっさり鳳に裏切られて地団駄を踏んでいた。鳳も、本音を言えば、もう彼女のことを敵とは全くこれっぽっちも思っちゃいないのであるが……問題は相手が組織だと言うことである。

 

 特に軍隊のような規律の厳しい組織では、個人の感情なんかまったく考慮されないのが普通だ。下手をすると、瑠璃を犠牲にしてでも目的を果たそうとする可能性だってあり得るのだ。その場合、彼女が鳳たちと仲良くしているよりも、敵対しているように見えたほうがマシだろう。

 

 まあ、考えすぎかも知れないが……

 

「街が見えてきたぞ」

 

 鳳と瑠璃がそんなやり取りをしていると、最後尾を歩いていたアズラエルが前方を指差しながら嬉しそうに叫んだ。何年もそこで働いていた彼女にとっては、きっと懐かしい光景なのだろう。

 

 しかし遠くの山の上から見た時から気づいていたが、こっちの世界に来て始めて見た町並みは、なんと言うか、鳳には非常に馴染みの深い、コンクリートのビルが立ち並ぶ近代的で何の変哲もない街だった。建物の高さは限定的で、なんというか、地方の駅前なんかによくありそうな都市である。

 

 ただし、そのビル群は埃に埋もれて薄汚れ、ボロボロとコンクリートが剥がれ落ちて見る影がなかった。人の手が入っていないとは言え、たった16年でここまでボロボロになるものか? と思いもしたが、街の中心部にかけて、ベヒモスが通り過ぎたらしき跡を見てからは考えが変わった。

 

 恐らくはかつてのメインストリートだったであろう、街の中心部はトンネルの掘削工事でもしたかのようにポッカリ穴が空いており、左右に立ち並ぶビルは全て鉄筋が剥き出しになって、風雨に晒され何棟かは既に崩れ落ちていた。

 

「16年前の攻防の痕だ。攻防と言っても人類側が殆ど一方的にやられたのだが……ベヒモスはマダガスカルに渡ってくると、まずはここより北部にある首都を狙った。私たちは最初それをどうにか追い返そうとしたのだが力及ばず、アスクレピオスの使用が決定されると、こっちの街におびき寄せて仕留めようとしたんだ……結果は散々なものだったが」

「こんなボロボロになってて、研究所は無事だろうか?」

「少なくとも16年前は無事だった。無人になった街ではベヒモスも用事がないだろうから、恐らくは今もそのまま建っていることだろう」

「だといいがな……」

 

 鳳は眼前にそびえ立つビルを眺めながら、少し考えた。研究所が無事ならドミニオンはその中に張っているかも知れない。そこで待ってれば、アズラエルの方からのこのことやって来てくれるのだから、罠を仕掛けるにはもってこいだからだ。そして、ここ数日間一緒に行動して分かったのだが、アズラエルはそういうシチュエーションに慣れていない。きっと簡単に引っかかってしまうだろう。

 

 もしかしたら考えすぎかも知れないが、ここから先は彼女に先導させるのは危険かも知れない。正直、自分だって不得手な分野だが、自分が一人で偵察しに行ったほうが良いのかも……懐かしの我が家を前にして少し浮かれているアズラエルに、鳳がそう提案しようとした時だった。

 

「……ちょっと待った」

 

 鳳はふと、周囲の廃墟郡に違和感を覚えて、彼を追い越そうとしていたアズラエルの手を引いた。

 

 突然、腕を掴まれた彼女が、どうしたんだと首を捻っている。しかし鳳はそんな彼女の疑問には答えず、じっと周囲のビル群に目を向けたまま違和感の正体を探した。

 

 それは本当に直感でしかなかった。どんなに上手く隠蔽したところで、人の手が加われば、やはりどうしても違和感が残るといった、その程度の違いでしかなかった。

 

 だが、鳳はその妙な違和感を無視できず、なんとなく直感で気になる部分をじっと見続けていた……何がそんなに気になるんだろう? 遠目にはただの廃墟にしか見えないのであるが……

 

 最初はさっぱり分からなかった。しかし諦めきれない彼はじっと違和感の正体を探し続け、そしてついに、コンクリートから突き出している鉄筋に混じって、一本の銃身が、鳳たちが今まさに通り過ぎようとしている道に向けて突き出ているのを発見した。

 

「アズにゃん!」

「ふがっ!?」

 

 鳳がそれに気づいたのと同時に、きっとスナイパーも気づかれたことに気づいたのだろう。道に向けられていた銃口がすっと動くのを見るや否や、鳳はアズラエルの手を思いっきり引いた。

 

 すると次の瞬間、閃光が走り、たった今鳳たちがいた場所目掛けて複数の光弾が飛んできた。そして間髪入れずに、今度は左右のビルの中層階から、幾人ものセーラー服の少女たちが飛び降りてきた。

 

 ドミニオンは、アズラエルに向けて一斉に銃撃を放ってくる。堪らず彼女は天使の翼を広げて上空へと飛び上がる。しかし、その翼が片方しかないせいで上手く姿勢制御が出来なかったらしく、間もなく彼女はふらふらよろけて、地面に落っこちてしまった。

 

 そんなアズラエルを心配してか、遠くからこっそりついてきていた猿人のチューイが飛び出してきた。するとドミニオンたちは魔族のいきなりの登場に驚き、盛大に悲鳴を上げるなり標的をチューイに変えて目茶苦茶に銃撃を加え始めた。

 

 哀れな猿はその一斉攻撃に慌てふためき、必死になって逃げ惑っている。このままじゃチューイが殺られてしまう……鳳は何とか彼を助けてやろうと、瑠璃の機関銃を構えて援護射撃をしようと試みたのだが……

 

 その時、不意に背後から迫りくる別の殺気に気づいて、彼は咄嗟に身を翻した。

 

「また避けた!? なんで!?」

 

 見れば、筏の上で瑠璃と一緒にいたサイドテールが、長剣を袈裟斬りに振り下ろしているところだった。さっきの光弾といい、この斬撃といい、明らかに問答無用で殺しに来ている動作である。鳳は冷や汗を垂らしながら、

 

「おい、こら! お前がいれば、いきなり襲いかかってくることはないんじゃなかったのか!?」

 

 剣を避けた鳳が地面に転がると、ロープに繋がれていた瑠璃も一緒にすっ転んでいた。サイドテールはそれを見て仲間を傷つけられたと思ったのか、顔を紅潮させながら鳳に向かって二撃目を振り下ろしてくる。

 

 彼がそれも避けると、また瑠璃も引っ張られ、彼女はゴロゴロゴロゴロ地面を転がりながら、

 

「きゃーっ!! 琥珀! おやめなさい!」

「瑠璃! 君は離れていてっ!」

 

 琥珀と呼ばれたサイドテールは、瑠璃に繋がれていたロープを切り離すと、地面に転がっていた彼女をお姫様抱っこで抱えあげ、そのまま軽やかに後方へと飛び退った。そして目を回している彼女を優しく地面に下ろすなり、ギンと鋭く鳳を睨みつけながら、長剣をこちらに向けて構え直した。まるで宝塚の花形スターみたいである。

 

 瑠璃は目を回しつつ、そんな彼女の裾を引っ張りながら、

 

「ちょ、ちょっとお待ちなさい! 琥珀、まずはその人の話を聞いて!」

「はあ!? 君は何を言って……」

「アズラエル様もこの人も、そんなに悪い人じゃなかったんですの。一旦攻撃を止めて、話を聞いてあげて欲しいんですわ!」

 

 瑠璃が懇願するように彼女に言うと、琥珀は目を白黒させながら、

 

「こいつはプロテスタントなんだよ!?」

「え? ええ、そうですわね……けど……」

「それに、なんだあれは? 魔族と結託しているやつに情けをかけろと言うのか?」

「あ、あれはその……色々事情がありまして……」

「アズラエルが何をしたのか……忘れたとは言わせないぞ!」

「うっ……それは言い訳できませんわね……」

 

 瑠璃は琥珀に断言されると、自信がなくなってきたらしく、

 

「それにこの人を助ける義理もありませんし……私が間違っていたのかも……」

「おい! 簡単に説得されてるんじゃねえ!!」

 

 鳳が、付和雷同する瑠璃にツッコミを入れた瞬間だった……

 

 彼はまた、背後に忍び寄ってくる強い殺気を感じ、咄嗟にその場から飛び退いた。見れば今度は、三人娘の最後の一人、ツインテールが腰だめに構えたナイフを突き出しているところだった。目は血走り、どす黒い殺気を纏って、その顔は完全に殺るきである。

 

 鳳はそれを避けるなり、さっきまで瑠璃を縛っていたロープを相手に向けて放った。

 

「そんな!? 完全に気配を断っていたはずなのに……きゃーーっ!!」

 

 ツインテールは、鳳の放ったロープに腕を思い切りねじ上げられて悲鳴を漏らした。こっちの世界に来る前にマニに習った技である。彼は彼女が落としたナイフを拾い上げつつ、吐き捨てるように言った。

 

「気配を断つだって? 殺す気満々で、しゃらくさい」

 

 どうやらこのナイフには認識阻害系のスキルが付与されているようだが、こちとら忍者と3年間も修行を続けた身である。マニは完全に気配を殺せる上に、空間まで操り、自分の姿を物理レベルで消してしまい、影の中に隠れるのである。殺気だだ漏れの彼女の技など児技に等しかった。

 

 それにしても認識阻害まで出来るとは……彼女らのゴスペルは、鳳が持っていたケーリュケイオンとはかなり趣が違うようだ。

 

「桔梗の武器を返せ!」

 

 鳳が奪ったナイフをどうやって使うのだろうかと矯めつ眇めつしていると、瑠璃の説得を振り切ったサイドテールが再び襲いかかってきた。桔梗とは、ツインテールの名前だろうか? 鳳は右手に持ったそのナイフで琥珀の攻撃を受け流すと、左手に持った瑠璃の機関銃でお返しとばかりに銃撃をお見舞いした。

 

 すると……その銃から発射した光弾が、琥珀の放つ何か電磁バリアーみたいなものに弾かれてしまった。瑠璃の友達だから、元々当てるつもりはなかったのだが、どうやら彼女の持つ長物は、見た目に反して防御系のスキルが付与されているようだ。

 

「気をつけて! あいつおかしな術を使うわよ」

 

 鳳に武器を奪われた桔梗が叫ぶ。琥珀はそんな彼女を庇うように前に出る。鳳のロープを警戒し、正眼に構える彼女に隙はない。あれでバリアーも張れるわけだから、純粋に剣技だけの勝負となると、こちらの分が悪いようである。

 

「いたた! いたたた! やめて……やめなさい!!」

 

 アズラエルの悲鳴が聞こえる。彼女は天使であるせいか、人間であるドミニオンに攻撃が出来ないようだった。チューイが大勢を引きつけてくれているお陰でまだなんとかなっているが、このまま一方的にやられ続けたら、いくら天使でも身がもたないだろう。

 

 当てにしていた瑠璃もあの体たらくだし、話し合いは無理そうだ……

 

 鳳は、これは一時撤退して出直したほうが良いと判断し、なんとかアズラエルだけでも連れて逃げ出せないものかとチャンスを窺った。

 

 その時だった。

 

 ふっと、背筋が凍るような鋭い気配が脳裏を過ぎった。さっきの二人とは比べ物にならない、純粋にヤバいと言うヒリヒリした感覚が全身を駆け巡る。

 

 まるで瞬間湯沸かし器で血液が沸騰するかのように体が熱くなり、全身が武者震いで総毛立っていた。何かが来る。だが、それが何なのか、考えている暇はなさそうだった。

 

「紫電一閃……」

 

 鳳はまるで猛獣を前にしたときのように、射すくめられて動かなくなってしまった足を必死に叩いて無理やり動かし、前方へ倒れ込むような受け身を取った。すると、彼の頭の上を何か衝撃波のようなものが通過していき、それは近くの廃墟ビルにぶつかって、ズシンと音を立てて瓦礫を破砕した。

 

 もうもうと舞い上がる砂埃で、一瞬にして視界が白く染まった。うっかりそれを吸い込んでしまい、むせ返っていると、煙を切り裂き自分の喉仏目掛けて小剣の切っ先が鋭く伸びて来るのが見えた。

 

 反射的に上げた右手のナイフが、剣に弾かれて飛んでいく。それが地面に到達するより前に、流れるような動作で第二撃が彼を襲った。鳳は身を翻してその場を転げるように飛び退り、ゴロゴロと地面を転がりながら、必死にそいつから距離を取った。

 

 ズキッとした痛みが走り、首筋から血がだらだらと流れ落ちていた。ギリギリ首の皮一枚躱せはしたものの、もし逃げ切れなければ、その刀身は完全に彼に届いていたようだ。

 

 今、下手したら死んでいたのか? その事実に全身の毛がそばだつ。ヤバい……でも、なんかこいつは……

 

 左手の機関銃で弾幕を張るようにめくら撃ちをすると、そいつはまるでケーキでも切るような気安さで、簡単にその銃撃を斬り伏せてしまった。

 

 半身に構えた小剣の刀身からはドライアイスのような冷気がゆらゆらと零れ落ちていた。鳳はその剣を、今までに何度も見たことがあった。ただし、その剣先が彼に向くことは一度もなかった。何故ならその人とは、前世から一度も敵対したことがない、いつだって彼の相棒だったからだ。

 

 その長身と白い肌、金色でさらさらと靡く髪、そしてエルフのように長い耳。間違いない。アナザーヘブン世界では神人と呼ばれていた種族……ジャンヌ・ダルクがそこに立っていた。

 



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やっぱり本人じゃねえか!

「え……ジャンヌ? ジャンヌか? うおおおおーーーっ!! ジャンヌ、おまえ……生きていたのか!」

 

 ドミニオンと戦っていたら、いきなり急襲してきた人物は、あろうことかゲーム時代からずっと鳳の相棒だったジャンヌであった。鳳は彼女が生きていたことに大喜びしながらも、同時に戸惑ってもいた。

 

 彼女は何故かこうして再会を果たした今も、喜び合うどころか鳳に剣を向けたままでいるのだ。その視線は鋭く鈍く、しっかと敵を真正面に見据えるものであり、ぶっちゃけ彼は彼女のそんな険しい顔を見るのは始めてだった。

 

「お、おい、ちょっと待てジャンヌ! 俺だよ! 俺だってば!!」

 

 鳳はまるで親の仇でも見るかのような彼女の視線に戸惑いながら、必死に自分がかつての仲間であることをアピールしたが、

 

「プロテスタントに知り合いはいない」

 

 しかしジャンヌはそう吐き捨てるや否や、またも問答無用で襲いかかってきた。

 

 軽くステップを刻んでいるようにしか見えない自然な動きなのに、信じられないくらい高速の突きが幾度も幾度も迫りくる。金髪をなびかせるエルフ耳の彼女の剣技は速すぎて、鳳はそれを避けるのに精一杯だった。いや、寧ろ、避けられること自体が凄いと言わざるを得なかった。

 

 彼女の持つ、その綺羅びやかな意匠の細剣からは、ゆらゆらと冷気が零れ落ちていた。ゲーム時代から彼女が愛用している魔剣フィエルボワ。もし、それが本物であれば、目の前のその人のステータスは、少なくとも鳳が知る限り世界で一番速く、そして繊細なはずだった。

 

「おわああああーーー!! ちょっと待て、ジャンヌ! 洒落にならん! 俺だよ俺! 鳳白だ! どうしちゃったんだよ、俺たち仲間だろう!?」

「それで私を惑わしているつもり?」

 

 鳳は高速の突きを避けながら必死に叫ぶも、ジャンヌは聞く耳持たなかった。その目つきは相変わらず剣呑で、とても演技をしているようには見えなかった。世界には似た人間が三人いると言うが、まさかこいつは別人だとでも言うつもりか?

 

 鳳が困惑して一方的にジャンヌの攻撃を受け続けていると、そんな二人のやり取りを唖然と見ていたサイドテールが、はっと我に返り、

 

「隊長、援護します!」

 

 そう言って横から割り込んできた。この状況で、彼女まで相手になんかしていられるはずもない。

 

「ちょっ! おまえ、もう少し空気読めよ」

「えっ!?」

 

 鳳は悪いとは思いつつ覚悟を決めると、身体強化と認識阻害の複合技で琥珀を目を眩ませ、死角から思いっきり彼女の腹を蹴り上げた。流石に女性相手に物理攻撃は気が引けるから手加減していたのだが、そのせいで完全に油断していた琥珀はもろに蹴りを食らって、腹の中身を吐瀉してその場に崩折れた。罪悪感が襲ってくる。

 

「女性の腹を蹴るなんて……なんて卑劣な!」

 

 鳳が崩れ行く彼女を申し訳無さそうに見つめていると、ジャンヌが的確に彼の罪悪感を掻き立てながら飛び掛かってくる。彼は咄嗟に琥珀が落した剣を拾い上げると、刀身に第5粒子エネルギーをまとわせて彼女の剣を弾いた。

 

 こうしておけば反発力が増すと思ったからだが、ジャンヌの強力な剣捌きも相まって、思った以上にダメージが返ったようである。驚いたジャンヌが、鳳から距離を取るように飛び退る。

 

「そいつのことは悪かったよ。でも、せめて話くらい聞いてくれないか?」

「プロテスタントと語る口はもってないわ。諦めて死になさい」

「選択肢、死ぬしかないのかよ! つーか、ジャンヌ、マジでどうしちゃったの? 俺のこと覚えてないの?」

「いくら惑わせようと、そんな与太話、誰も信じないわ」

 

 そう言い放つジャンヌの声は、聞く耳持たないというより、本当に知らないと言った感じだった。そう言えば、あっちとこっちでは時間の流れが違うのか、16年の歳月が流れているはずだった。その長い年月の間に忘れてしまったのか、それとも本当に別人なのか……

 

 そう考えた時、鳳ははたと思い出した。彼女がジャンヌではない、もう一つ決定的なものがあった。元はと言えば、ジャンヌはネカマだったのだ。だから世界を渡る際、こっちで体を用意したのなら、出来上がる体は男のはずである。つまり彼女は本当に、ジャンヌのそっくりさんなのかも知れないのだ。

 

「うぬわあああ……ぬか喜びだったのか!」

 

 そんな風に鳳が悶絶していると、

 

「おかしな奴ね。まあ、いいわ。どうせ今から死ぬ人のことなんて、考えるだけ無駄だわ……」

 

 ジャンヌはそう言うと、半身に構えていた細剣をまるで剣道の下段みたいに腰だめに構え直した。鳳はそれを見た瞬間、嫌な予感がした。その構えには、冗談抜きで親の顔より良く見たような記憶があった。

 

「紫電一閃!」

 

 彼女がそう叫ぶや否や、見えない斬撃が鳳へと迫ってきた。彼がそれを既のところで躱すと、ジャンヌは体勢が崩れた鳳に肉薄しながら、

 

「桜花襲爪五月雨みじん切り!」

 

 なんかそれっぽい技名を叫んでめちゃくちゃに剣を振り回し、実際の狙いは……

 

「快刀乱麻っっ!」

 

 思いっきり上段から振り下ろす打撃のコンボが鳳を襲うも、彼は地面をゴロゴロ転がりながらそれを避けつつ、

 

「やっぱり本人じゃねえか! てめえ、知らんぷりしてんじゃねえよ! 結構傷つくんだぞ、こういうの!!」

「何を言っているのかわからないわ……と言うより、あなた何故、避けられるの!?」

 

 ジャンヌは最も自信があったであろう自慢のコンボがあっさり避けられて動揺している。鳳は更に、動揺を隠すつもりで繰り出してきた彼女の追撃を全て見切って、お返しとばかりに第5粒子エネルギーの光弾を四方からお見舞いしてやった。

 

 ファンネルのように光の玉が鳳の周りでグルグル飛び回り、迫りくるジャンヌの動きを牽制する。彼女はそれを避けつつ尚も鳳に迫ろうとしたが、悉くを受け流されて遂に動揺が隠しきれなくなってきたようだった。

 

「うそ! 私の速さについてくるなんて……信じられない!」

「お褒めに預かりこりゃどうも!」

 

 鳳は余裕の笑みを浮かべながらそう言い返したが、本当は余裕なんか全く無かった。彼女も言う通り、ジャンヌの動きは速すぎて、実際には彼には何も見えていなかったのだ。

 

 それなのに的確に彼女の攻撃を受け流し続けていられたのは、彼女の攻撃がマニなどと比べて素直だったからだ。マニやギヨームなどが、身体的に劣る力をトリッキーな動きや技術で補うのに対し、ジャンヌは神人という種族の恵まれた体で剣を振るから、フェイントや無駄な動きを殆どしなくて、言ってしまえば型にはまってしまっているのだ。

 

 更には、鳳はそんな彼女とゲーム時代からパーティーを組んでいて、砲台である彼は彼女の動きを、いつも背後から目で追っていたのだ。あのクソゲーは味方を誤射してしまうから、彼女が次に何をやるか分からなければ魔法を撃つことが出来ず、お陰で彼女の癖を殆ど覚えてしまっていた。

 

 その、ゲーム時代からの長い付き合いが、鳳に彼女が本物であることを確信させた。

 

 しかし、それじゃあ何故、彼女の方は鳳のことがわからないのか? 何か事情があって嘘を吐いている感じではない。そもそも、彼女はそういう腹芸が苦手だったはずだ。

 

 ともあれ、一つだけはっきりしていることがある。笑っちゃうくらいジャンヌは本気だと言うことだ。ほんの一瞬でも気を抜いたら、鳳の首と胴体はいつでも離れ離れになってしまうだろう。かと言って、こっちも殺す気で戦うなんてことも出来ず、そもそもそんな余裕を彼女は与えてくれないだろう。この戦いは無意味だ。彼女が攻撃パターンを変えてしまう前に、さっさと逃げる算段をつけなければ……

 

 余裕が殆ど無い中で、ちらりと周囲の様子を窺う。琥珀と桔梗は、もうこの戦いに介入しようと思ってないようだ。瑠璃(やくたたず)はその後ろでオロオロしている。チューイに翻弄される連中と、アズラエルを一方的にいたぶる奴らと、両極端な光景が見える。早く助けねば、アズラエルの方はそろそろまずいかも知れない。

 

「余所見をするなんて余裕ね!」

 

 ザクッとした衝撃の後に、ズキッとした痛みが走った。一瞬の隙をついて、珍しくジャンヌがパターンを変えたせいで、その動きについていけなかったのだ。二の腕をざっくりと切りつけられたが、幸いなことに腱や骨は大丈夫なようだった。だがもうそんなに余裕はない。何か決め手を見つけなければ。

 

 と、その時、焦る鳳の視界の隅で、何かがヒラヒラと飛んでいった。茶ばんだ一枚の紙が風に巻き上げられて空を飛んでいく。ドミニオンたちが潜伏していた際に、16年間ずっと瓦礫に埋もれていた本か何かが出てきたのだろう。

 

 鳳はそれを見た瞬間、閃いた。

 

「な、なにこれ!?」

 

 その時、突然、鳳の剣を握ってない方の手から、バサバサと大量の千代紙が現れた。まるでトランプ手品でも見ているかのように、滝のように溢れ出してくる紙を目にして、ジャンヌが奇声を上げる。

 

 鳳は作り出した大量の紙をばっと宙にばらまくと、光弾を使って手当たりしだいに着火した。炎と炎が重なって瞬間的に激しく燃え上がり、それは一つの大きな炎になった。

 

 いきなりの発火現象に、最初ジャンヌは驚いていたようだが、

 

「こんな目眩ましに、何の意味があるっていうの!」

 

 所詮は紙束が燃える程度の炎である。エネルギー的には光弾の方が熱量が高いはずである。

 

 それなのに、そんな炎を作り出したのは、おっしゃる通り、目眩ましのつもりであった。

 

 ジャンヌが炎を切り裂きながら、鳳へ向けて魔剣を突き出してくる。鳳はそれを避け切れず、真正面から食らいそうになるが……しかし、その剣先は彼に届くことはなかった。

 

 ジャンヌは自分の剣が、突然、ずしりと重たくなるのを感じた。見れば、その剣先が電話帳を何冊も積み重ねたくらい、大量の紙束の中に埋もれていた。紙は一枚だけなら簡単に破れてしまうが、積み重ねれば至近距離のライフル弾すらも止めてしまう。彼女の強力な魔剣も、つまりそれ式で受け止められてしまったのだ。

 

 ジャンヌは慌てて紙束を振り払おうとしたが、一度食い込んでしまった紙は簡単には抜け落ちない。

 

「ちっ! 抜かったか!!」

「悪いなジャンヌ、暫く大人しくしててくれよ!」

 

 そして、得物を無くして無防備になった彼女に向けて、無数の光弾が迫りくる。虚を突かれた彼女は、剣を捨てて逃げることも出来ず、避けることを封じられて、目をつぶって衝撃に備えるしかなかった。

 

 そして……

 

「きゃああああーーーーっっ!!!」

 

 ドンドンドン! っと光弾が弾ける爆発音が轟いて、続いてジャンヌの悲鳴が上がった。さしもの神人であってもこれだけ食らえば暫くは回復に時間がかかるだろう。

 

 鳳はその隙に逃げてしまおうと、踵を返そうとしたが……

 

「……は?」

 

 しかし、彼はそれを見てすぐに動けなくなった。

 

 鳳は、爆煙が晴れた向こう側に、ジャンヌではなく、何故か猿人のチューイが立っているのを見た。

 

 両腕で頭を守るガード姿勢で、ところどころの毛が焼け焦げているのを見ると、今の攻撃をチューイがジャンヌに代わって受けたようにしか見えなかった。

 

 そんな馬鹿な!? と、慌てて次弾を迂回するように飛ばそうとすると、チューイはその光弾を素手で弾き飛ばしてしまった。

 

 まったく見当違いの場所から光弾の弾ける音がして、様子がおかしいことに気づいたジャンヌの目が開く。

 

 ここで彼女を止めなければ、今度こそ勝ち目がない。鳳は身体強化魔法をかけると、邪魔をするチューイの脇を抜けてジャンヌに襲いかかろうとしたが……

 

「うげぴっ!」

 

 その時……猿人の横を通り過ぎようとした鳳は、突然、自分の視界がくるりと一回転して、上下の感覚を失った。何をされたのかさっぱり分からなかったが、空気投げみたいにポンと宙に飛ばされてしまった彼は、重力の方角が分からなくなって、受け身も取れずに敢え無く地べたに叩きつけられた。

 

 追いかけていたつもりが、突然目の前から居なくなった魔族と、突然飛んできたプロテスタントを見て、理解不能状態に陥ったドミニオンの少女たちが、半円を描いて鳳のことを呆然と見おろしている。今、我に返られたらただじゃ済まないだろう。彼はゲホゲホと咳き込みハイハイしながら、必死になって彼女らから距離を取った。

 

 一体、何が起きているんだ?

 

 猿人チューイの突然の裏切りに、そんなこと全く想定していなかった鳳は茫然自失となった。彼としては仲良くなったつもりだったが、やはり相手はしょせん魔族……気を許した自分が馬鹿だったのだろうか。それにしてもこのタイミングでの裏切りは、流石にタイミングが良すぎるだろう。

 

 鳳は思った。もしや、チューイは埋伏の毒。ジャンヌの罠だったのではなかろうか? そう言えば、瑠璃は最初からチューイのことを知っていたのを思い出した。追い払っても追い払ってもついてくる魔族がいると……もしかして、彼は最初からそのつもりでついてきていたのでは?

 

 鳳が、してやられたと臍を噛んでいると、

 

「ええい! また、あなたなの? なんなのよ、この猿!? 気味が悪いわ! このっ! このっ! このっ!!」

 

 通じていたと思っていたその二人が思いっきり戦っていた。戦うというよりも、ジャンヌが一方的に攻撃するのを、チューイの方が必死に逃げ回ってる感じである。

 

 あれ? やっぱり仲が悪いのかな? と思いつつ、鳳がチューイを援護しようと、追いかけるジャンヌに攻撃をかけようとしたら、

 

「うわっとっ!? 待て待て、チューイ! うぎゃっ!」

 

 鳳の攻撃が無防備なジャンヌの背中に突き刺さろうとした瞬間、何故か逃げ惑っていたはずのチューイが、まるで瞬間移動するかのごとく突然現れ、またスッポーンと鳳を投げ飛ばしてしまった。

 

 二度目だから流石に受け身は取れたが、その動きは全く読めず、自分が何をされたのかすら分からず、鳳は唖然としながら、ジャンヌ相手には何故か防戦一方の彼を仰ぎ見た。

 

 ジャンヌを攻撃しようとすると止めに入り、ジャンヌにいくら攻撃されても反撃をしない。つまり、彼はジャンヌを守っているつもりなのだろう。

 

「っていうか……こいつ、こんなに強かったのか?」

 

 鳳は呆然と立ち尽くした。

 

 瑠璃に罵られてしょげ返っている姿や、さっきのドミニオンから逃げ惑う姿を見るからに、チューイはあまり戦闘向きじゃないのだと勝手に思い込んでいた。

 

 だが、彼は戦闘向きじゃないどころか、鳳とジャンヌの二人を相手にしてもなお余裕があるほどの力の持ち主だったのだ。そんなことはおくびも出さず、のほほんとついて来た。信じられないことだが、魔族のくせに平和主義者だったのだ。

 

 それにしても、何故ジャンヌなのだろう? アズラエルが言っていた通り、やっぱりメスと交尾がしたいからだろうか? そう考えれば、鳳相手に格好つけるよりも、ジャンヌ相手にアピールするほうが理に適っているが……

 

「……ん?」

 

 そんなことを考えていた時だった。突然、鳳は妙な既視感を覚えた。

 

 なんとなくだが、これと似たような光景を以前にも見たことがある。そう、ジャンヌの気を惹こうとして力を誇示する奴が……彼女には以前、鳳の他にも背中を預けられる相棒が居たはずだ。

 

 そう考えた瞬間、彼は喉に詰まっていた何かが、すとんと腑に落ちていくのを感じた。思えば、さっきからチューイが見せているこの尋常じゃない動きも、いつかどこかで見たことがあった。この緩慢でありながらも的確な、円を基本とした滑らかな動きは、かつてレヴィアタンを相手に、彼と、彼の師匠が見せた戦いぶりとそっくりじゃないのか?

 

「おまえ、まさか……サムソン!? サムソンなのか!!」

 

 鳳がそう叫んだ瞬間、それまで一切滞ることのなかったチューイの動きが一瞬だけブレた。

 

 ジャンヌがその隙を見逃さずに突きを繰り出すと、ざっくりと切りつけられたチューイが悲鳴をあげて飛び退いた。そのジャンプ力はあり得ないほどで、彼はくるりとバック宙をしながら、5階建ての廃ビルの屋上まで一足飛びに飛び上がってしまった。

 

 そしてそれを唖然と見上げているドミニオンたちの前で、

 

「うおおおおおおぉぉぉーーーーーーっっ!!!」

 

 と、甲高い雄叫びを上げると、チューイはうほうほ言いながらドラミングを開始して、嬉しそうに鳳に合図を送ってきた。

 

 間違いない。何でこんなことになってるのか分からないが、少なくともあいつにはサムソンの記憶があるに違いなかった。

 

 だから、最初からやけに鳳に懐いていたり、ジャンヌ相手にアピールしたりしていたのだ。

 

「紫電一閃っ!!」

 

 5階の高さを一息で上がってしまった猿人に向けて、ジャンヌが忌々しそうに追撃を放つ。見えない斬撃が半分崩れているビルに当たると、パラパラとコンクリート片が飛び散って、真っ白い砂煙が辺りを覆った。

 

「きゃあああーーーっ!!」

 

 それをもろにひっかぶったドミニオンたちから悲鳴が上がる。

 

 その悲鳴を聞いて我に返った鳳が周囲を見渡せば、彼女らもチューイの尋常ならざる動きに呆気にとられて、ほぼ全員が戦闘をやめてビルの上を見上げているようだった。

 

 逃げるなら今しかない……鳳は姿勢を低くしながらアズラエルのもとへ駆け寄ると、その小さい体を小脇に抱えて、すたこらさっさと逃げ出した。

 

「うわっ! ちょっと! 何だ君は!」

「今は撤退だ! アズにゃん、あんた飛べんだろ!?」

「なに?」

「コントロールは俺がするから、いいから飛べ!」

 

 アズラエルは鳳の突然の提案に困惑しつつも、言われたとおりに空を飛ぶ奇跡を行使した。すると下方から猛烈な風圧が起こり、二人の体がふわりと宙に持ち上がった。それに気づいたドミニオンの数人が、泡を食って駆けてくるが、もう遅い。

 

「ふははははははっ!!!」

 

 鳳は邪悪な笑みを浮かべ、高らかな笑い声を上げた。

 

 思ったとおり……さっきアズラエルが空を飛ぼうとしていた時から、なんとなくそうじゃないかと思っていたのだ。アナザーヘブン世界のP99と、こっちのDAVIDシステムはそもそも同じ物である。つまり彼女の使う浮遊術は、あっちの世界のレビテーションの呪文と全く同じ原理だったのだ。だとしたら、彼には一日の長がある。何しろ数千キロを飛んで移動した経験があるのだから。

 

 空へ上がったアズラエルは、また片翼に風を受けてバランスを崩しかけた。しかし、崩れかけたそのバランスは、すぐに鳳の体重移動によって修正された。

 

 二人なら飛べるのか……アズラエルの金色の瞳が驚愕に見開かれる。ふわりと宙に浮かんだ二人は、間もなくチューイの上を飛び越えて、はるか上空に舞い上がった。もうこうなってはドミニオンたちには手が出せない。

 

「待てっ、プロテスタントッ! 逃げるつもりっ!?」

「待てと言われて待つバカがいるかってのよ! あばよー! とっつぁん!」

 

 この状況で逃げない奴がどこにいるのか。鳳は、地べたで地団駄を踏んでいるジャンヌにお決まりのセリフを吐き捨てると、アズラエルとともに町の外へ向けて飛び去っていった。

 

 そんな彼らの後を、ビルの上をカエルのように飛び跳ねながら猿人チューイがついてくる。ジャンヌたちもまたすぐに彼らの後を追いかけたが、空を飛ぶ相手に追いつけるはずもなく、森に逃げ込むのを見たのを最後に、ついにその姿を見失ってしまうのだった。

 



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大きな森の池の畔の

 鳳たちが逃げ込んだ森の外縁部では、ドミニオンたちによる捜索が徹底的に行われていたが、それも日が暮れて視界の確保が難しくなってくると早々に打ち切られた。人の手の入ってない夜の森は驚くほど暗く、松明をつけようにもあまり大々的にやると、この島のどこかに潜んでいるであろうベヒモスを呼び寄せそうだったからだ。

 

 こうなってしまうと相手の数が少ないことがネックになった。明日以降、彼らの捜索を再開したところで、こんな暗い森の中に潜伏したたった三人を見つけるのは、もはや至難の業だろう。今日、あの廃墟街で奇襲に失敗したのは本当に痛恨だった。

 

 待ち伏せを警戒しているであろうことまでは予想していたが、まさかビルの中で擬態している隊員を先に発見されるとは思いも寄らなかった。奇襲にあたっては天使アズラエルの動向ばかりを気にしていたが、本当に厄介だったのはあのプロテスタントの方だったのかも知れない……

 

 もしもあれを先に始末していれば、また結果は違っただろう。連行されてしまった仲間を助けることを優先したのも失敗だった。瑠璃には悪いが、隊員にはみんな死ぬ覚悟があるはずだ。彼女を犠牲にしてでもやつを殺せとどうして命令出来なかったのか……

 

 ジャンヌが自分の判断に後悔していると、捜索を終えた隊員たちが疲れ切った顔をして戻ってきた。

 

「申し訳ありません、隊長。私のせいで、やつを取り逃してしまいました」

 

 サイドテールの琥珀が一歩進み出て、悔しそうに頭を下げる。瑠璃を助けるために、志願して単騎で奇襲をかけたものの、返り討ちにあってしまった彼女は顔面蒼白になっている。

 

「この責任は必ず取ります……」

 

 ジャンヌはそう言う琥珀に微笑みかけると、

 

「いいえ。責任を取るのは私の役目よ」

「でも!」

「私が相手の実力を見くびっていたのが悪いのよ。あれの動きは……何ていうか異常だった。まるで未来予知でもしているかのような、鏡の中の自分と戦ってるような、そんな気分にさせられたわ」

「隊長がそんな風に感じるなんて……私が何も出来なかったのも、うなずけますね」

「やはり神殺しの仲間だけあるわ。一筋縄でいく相手じゃなかった。もしも次があるならば、もう決して油断したりはしないのだけど……」

「あの~……よろしいでしょうか? そのことでしたら、先程も報告しましたとおり……出来ればあちらのお話も聞いてあげて欲しいのですが……なんて」

 

 ジャンヌと琥珀が鳳との戦いを反省していると、そんな二人の様子を後ろめたそうに見ていた瑠璃が、恐る恐ると言った感じで控えめに口を挟んできた。

 

「あのプロテスタントはなんでも昔の仲間を探しに来たとかで、私たちに危害を加えるつもりはないって言っていましたわ。その証拠に、あの人は誰の武器(ゴスペル)も奪い去りませんでしたし、私は傷も負っておりません」

「でも瑠璃、私はあいつに血反吐を吐くまで思いっきり蹴られたじゃないか」

「それは……そうですけど」

 

 とは言え、問答無用で襲いかかっていったのは琥珀の方だし、鳳はその気さえあれば彼女を殺すことも出来ただろうに、そうはしなかった。瑠璃はその辺を指摘したかったが、自分を助けるために体を張った仲間に対して何も言えずに黙るしかなかった。

 

 ジャンヌはそんな瑠璃の気持ちを慮ってか、努めて冷静さを装いながら、

 

「瑠璃、それはストックホルム症候群よ」

「ストックホルム? なんですか、それ」

「例えば誘拐事件の被害者が、自分の緊張を和らげるために、必要以上に犯人のことを好意的に思う心理状態のことよ。あなたはずっと、いつ殺されてもおかしくない状況にいたから、あのプロテスタントの言うことを、何でもかんでも真に受けてしまったのね」

「そうでしょうか……そんな大層な人には思えなかったのですが……」

「思い出して、瑠璃。プロテスタントは人類の敵よ。16年前、奴らが神域を襲撃したせいで、私たち人類は今絶滅の危機に晒されているのよ。そんな相手を好意的に語るなんて絶対におかしい。みんなを惑わすようなことを言ってはいけないわ」

「……はい」

 

 ジャンヌはそれでもまだ釈然としていない様子の瑠璃をぎゅっと抱きしめると、

 

「でも、あなたが生きていてくれて本当に嬉しいわ。安心なさい、もうあなたを傷つける人はどこにもいないわ」

「お姉さま~……」

 

 瑠璃はそれだけでふにゃふにゃとなって、恍惚の笑みを浮かべている。彼女らにとって、天使のように強くて美しいジャンヌは憧れの的だった。

 

 瑠璃たちを部隊に戻した後、ジャンヌは一人、森を一望できる高台の上で黄昏れていた。

 

 刀身から冷気を発する魔剣フィエルボワをぞんざいに地面に突き刺し、その柄に手を乗せながら、険しい表情を浮かべて眼下に広がる森を鋭く睨みつけている。彼女は立場上、瑠璃にはああいったものの、実はあのプロテスタントのことが気になって仕方なかったのだ。

 

 だが、そんなことは絶対に認められなかった。もし、それでも瑠璃がプロテスタントを擁護し続けようとしたならば、ジャンヌは彼女のことを拘束しなければならなかった。子供の頃からプロテスタントは人類の敵だと教えられた現生人類にとって、彼らを擁護するような発言は、どんなものでも決して許されない懲罰対象だったのだ。

 

 瑠璃だってそれくらい分かっていただろう。なのに自説を曲げなかったのは、この短期間で彼女らがそれなりの信頼関係を結んだのだと考えられた。魔族と天使とドミニオン、水と油のように相容れないはずの者たちを引き連れ、ひょうひょうと現れたあれは一体何者なのか……

 

 ジャンヌは地面に突き立てた魔剣を引き抜くと、またぞんざいにその場にあった岩を斬り刻んだ。こんな細い剣だというのに、岩は嘘みたいに簡単に真っ二つになってしまった。それなのに、彼女の剣は刃こぼれ一つしたことがないのだ。

 

 16年前、この剣と共に神域で目を覚ましたジャンヌには記憶がなかった。

 

 記憶喪失の彼女を保護してくれたガブリエルが言うには、彼女は元プロテスタントだったが、神に触れたことで改心したのだということだった。

 

 その時は何の話かさっぱりわからなかった。だが、その後、この世界の常識を学習していった彼女は、どうして自分は神殺しの手伝いをしてしまったのかとずっと後悔し続けていた。

 

 そんなことをすれば、神の奇跡に頼って生きていたこの世界の人々が絶滅の危機に瀕してしまうことは目に見えていた。現に今、彼女らは子孫を生み出すことが出来ずに人口を減らし続けている。神の契約に縛られている天使たちはそれを救えずにいて、人類は未だ希望を見いだせずにいる……

 

 自分が、この事態を招いてしまったのだ!

 

 だから彼女は決意した。この天使と同等の力を使って人類を守らなければ……何故、自分がこんな力を持っているのかすらさっぱりわからないが、それがせめてもの罪滅ぼしである。彼女は使命感に燃えていた。

 

 だが……今日戦ったあのプロテスタント。奴はジャンヌのことを知っているみたいだった。瑠璃の報告では昔の仲間を探しに来ているということだが、もしかしてそれは自分のことなのではなかろうか……

 

 そしてあの猿……不覚を取ってあのプロテスタントにやられそうになった時、自分のことを助けてくれたあの猿も、また彼女にとっては悩みのタネだった。

 

 あの猿とはもう何年も前から妙な因縁がある。以前、今回のようにマダガスカルに調査に来た時、彼女の隊は偶然にもベヒモスと遭遇してしまったのだ。ベヒモスは強大で、とても人類の歯が立つような相手ではなかった。

 

 彼女はそんな強大な魔王を相手に孤軍奮闘していたが、部隊の隊員を逃がすだけで精一杯で、有効な打撃を与えることが出来ず、もはやベヒモスに食べられるのもやむなしと覚悟していた。

 

 ところが、そこへ現れたのがあの猿だった。

 

 猿は諦めていたジャンヌの前に躍り出ると、いきなりあの巨体を相手に戦い始め、一歩も引けを取らず互角に渡り合っていたのだ。

 

 もしや自分は魔王同士の戦いを目撃しているのではなかろうか……? 彼女は暫くその戦いに見とれてしまっていたが、すぐに逃げ出すチャンスは今しかないと気づくと、その場を猿に預けて駆け出した。そして彼女は、無事に部隊と合流を果たし、命からがらマダガスカルから脱出することに成功した。

 

 船の上で遠ざかる島を見つめながら、彼女はきっとあの猿はもう生きてはいないだろうと思っていた。ところが、あれ以来、あの猿は彼女がマダガスカル島に上陸する度にどこからともなく現れて、餌を分けようとしてきたり、ドラミングをして気を惹こうとアピールをし始めたのだ。それがまるで、野生動物がメスを誘惑しているように思えて、彼女は命の恩人とはいえ気持ち悪くて仕方なかったのだが……

 

 今回、あの猿は自分のところに直接ではなく、何故かあのプロテスタントと一緒に現れて、そして彼女がピンチに陥ると、またかつてのように彼女を守ろうとしたのだ。そのことであのプロテスタントは何かに気づいたようだが……

 

 不思議な連中である。魔族と人間は決して相容れない間柄のはずだが、彼らを見ていると何故か昔からの仲間同士であるかのようにも思えた。

 

 瑠璃たちには隠しているが、自分もかつてはプロテスタントだった。もしも本当に仲間であったのなら……自分と奴らとはどんな関係だったのだろうか?

 

************************************

 

「……ようやく、逃げおおせたみたいだな」

 

 アズラエルと共に森に逃げ込み、そこでサムソンと合流した鳳たち3人は、しつこく森の中まで追跡してきたドミニオンから身を隠しつつ、どうにかこうにか敵を振り切ったようだった。

 

 ドミニオンたちの追跡は執拗で、一時はすぐ目と鼻の先まで迫られたのだが、人数が少ないのを利用して細かく移動を繰り返し、息を潜めてなんとかやり過ごし、日が暮れたことでようやく相手が諦めてくれたようであったが、お陰で心身ともにくたくたになってしまった。

 

 鳳は、はぁ~……っとため息を吐くと、真っ暗で何も見えない森の中で腰を下ろした。

 

 さて、これからどうしよう……追跡を巻いたはいいが、それですぐに彼女らが島からいなくなってくれるわけではないだろう。アズラエルの目的地がメルクリウス研究所であることが相手にバレているのはもう間違いないようだし、そんなところへまたバカ正直に突っ込むわけにもいかなかった。

 

 ドミニオンの攻撃は一方的で容赦ないものだった。きっとこっちが何を言っても話を聞いてくれないだろう。そうなると目的地に潜入するのはもはや不可能と考えるより他なかった。だが、そんな提案をアズラエルが聞いてくれるだろうか……

 

「ところで君、君とその魔族は、まさか本当に知り合いだったのか?」

 

 鳳がこれからの方針に頭を悩ませていると、彼の様子を不思議そうに眺めていたアズラエルが言った。

 

「ん? ああ、そうなんだよ。こいつはあっちの世界の仲間で間違いない」

「うほうほ」

「驚いたな……人間と魔族が心を通わせ合うなんてことがあるとは……」

「いいや、サムソンは元は人間なんだよ。それがこっちで再会したら何故か魔族になっちゃってたんだ」

「なに?」

「何でこんなことになっちゃってんだろう……」

 

 鳳が首を捻っていると、そんな二人のやり取りを見守っていたサムソンがウホウホ言い出した。身振り手振りを交えてその場をぐるぐるうろつく様は、俺についてこいと言ってるように思えなくもない。

 

「なんだ? どっか行きたい場所でもあるのか?」

「うほうほ」

「君についていけばいいのか?」

「うほっ!」

 

 サムソンはゴリラみたいに手をパンパン叩くと、二人に背を向けて数メートルほど歩いてから、ちらりと後ろを振り返った。どうやら、その認識で間違いないらしい。鳳たちはお互いに顔を見合わせると、そんなサムソンの後を急いで追った。

 

 森の中は本当に真っ暗で、足元すら覚束なかった。そんな中を戸惑うこと無く歩けたのは、サムソンもアズラエルも夜目が効いたからだった。この中で森歩きに一番慣れているのは鳳のはずだが、二人が相手だと自分が一番足手まといのように思えてなんか悔しかった。

 

 しかし、魔族のサムソンはともかく、天使も夜目が効くのだなと思いながら、二人の後をついていくと、やがて前方の木立が途切れて、鳳の目にも見える広場が現れた。どうやら、サムソンの目的地はそこらしい。

 

 いつまでも真っ暗闇の中に居るよりは、月明かりの下の方がいいだろうという、彼の粋な計らいだろうか? そんなことを考えながら先を進んでいくと、チャプチャプと魚が跳ねるような水音が聞こえてきた。どうやら、広場には池もあるらしい。

 

 水源とはありがたい。これで数日は潜伏生活にも困らないぞと意気揚々と広場へと躍り出たら、鳳はそこで更に信じられないものを発見した。

 

 森の中にぽっかりと開けた広場には大きな池があり、驚いたことにその畔に一軒の小屋が建っていたのである。しかも、その家からは灯りが漏れていて、煙突からは煙も上がっている。

 

 どう見ても誰かが住んでいるとしか思えない家を前にして、鳳たちは固まった。なんせここは人類が撤退したはずのマダガスカル。16年間無人の島にはベヒモスが闊歩しているのだ。そんな場所に、まさか人が住んでるなんて到底思えないだろう。

 

 しかし二人が警戒して遠巻きに眺めていると、そんな彼らとは対象的に、サムソンの方は慣れた様子で家の玄関まで歩いていってしまった。そしてまたウホウホ言いながら、中の人に呼びかけているようである。

 

 本当に危険はないのだろうか……? 鳳たちが身構えていると、やがてその家の中から誰かが出てくる気配がして、さっと玄関の扉が開かれた。

 

「やあ、サムソン君、おかえり。今回は長かったね。修行は楽しかったかい?」

「うほうほ」

「ん……? 今回は修行じゃない? 友達を連れてきたって?」

「うほ~!」

 

 中から出てきたのは魔族でも天使でもなく、どこか飄々とした雰囲気を醸し出す優男だった。身長は日本人平均よりも少し低いくらいで、骨格ががっしりとした痩せ型。筋肉が引き締まっているのが遠目にもよくわかる、真っ白な頭髪と、灰色の瞳が特徴的な人物だった。

 

 その表情は笑顔が張り付いたように柔和でありながら、その瞳はどこか厳格な雰囲気を讃えており、じっと見つめられたら何もかもを見透かされそうな、そんな不思議な目をしていた。

 

 男はサムソンを相手に優しく語りかけたあと、ようやくその背後に鳳たちがいることに気づいたらしく、おやっとした表情を見せてから、

 

「やあ、やっと来たね、ヘルメス卿」

「え……!?」

「それとも、今はタイクーンと呼んだほうが良いのかな」

 

 鳳は、突然現れた男にその名で呼ばれたことに驚いた。言うまでもなく、その肩書は元の世界でしか通用しない……この世界の人間は誰ひとりとして知る由もないものだった。そんな肩書を、何故いきなり現れたこの男が知っていたのか。

 

 鳳は、自分の記憶を必死に辿ったが、ついに男の正体には思い至らず、警戒しながら誰何した。

 

「あんたは一体……どうして俺のことを知ってるんだ?」

「ああ、まずは自己紹介が先だったね。僕はミッシェル・ド・ノートルダム」

「ミッシェル……?」

 

 鳳はその名前をどこかで聞いた覚えがあるような気がしたが、すぐには思いつかなかった。だが、彼が続けて言い放った言葉を聞いて、すぐにその名がとんでもなく馴染みのあるものであることに気付かされて、また仰天した。

 

「僕は君の世界で占星術師(アストロロギア)の迷宮と呼ばれた場所の主さ」

 



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傍観者Mの日常

 とりあえず、玄関先で立ち話もなんだからと言って、ミッシェルは鳳たちを家の中へと招き入れた。どうやらここの住人だったらしきサムソンがすぐ後に続き、仰天して固まっている鳳を置いてアズラエルが中へと入っていき、取り残されそうになって慌てて鳳が続いた。

 

 ミッシェルとアズラエルは初対面なので軽く自己紹介しつつ、彼の淹れてくれたハーブティーで一先ずはいっぷくすることになった。

 

 小屋は一人暮らしだからか手狭で、8畳くらいの広さに据え付けのベッドが置かれており、それに圧迫されるかのようにこぢんまりしたテーブルが脇に追いやられていた。鳳とアズラエルはそのテーブルに肩を並べるようにして座った。

 

 ミッシェルはその間、暖炉の炎で湯を沸かし、火箸に引っ掛けるようにしてヤカンを取り外すと、アチチアチチと言いながら豪快にハーブをその中に放り込み、ゆっくり揺するようにヤカンを回してからカップに注いだ。因みに、ヤカンもカップも日用品は全部、今日行った神域の街で拾ってきたらしい。探せばなんでも見つかるからと言って、逞しく暮らしているようだった。

 

「家を建てる時は苦労したけど、サムソン君が手伝ってくれてね? 彼は力持ちだから、梁を一人で持ち上げてもびくともしないんだよ。神域は近代的な都市だから、釘を見つけるが大変だったけど、意外なことに木製の扉や家具なんかに良く使われていてさ? なんだかんだ言って人間はいつの時代でも木製の家具を好むんだなって感心した。そうそう、それから水と食料だ。僕はアストラル体だから基本食べないでも平気なんだけど、サムソン君はそうもいかないから、水源を求めて井戸を掘るつもりでいたら、彼は豪快だからさあっという間に地面を掘り起こしちゃって、結局ここに溜池を作ることになってしまった。それから二人であちこちの川から魚を連れてきて繁殖させたり、バオバブの実を見つけてからは生活も安定したね。彼、木登りも得意だから、スルスルと上っていっちゃうんだ。あんな取っ掛かりのない木、よく登れるものだなあ」

 

 ミッシェルはお茶を入れながら、延々と自分の苦労話をし続けていた。彼の口ぶりから、この16年間サムソンと一緒だったようだが、話し相手にはならなかったせいか、人恋しいのかも知れない。

 

 そんな過去の偉人の話に口を挟むわけにもいかず、ぼんやりと相槌を打っていたら、話が散漫で全然本題に入らないのに嫌気が差したのか、アズラエルが小声で鳳に言った。

 

「君、それでこの人は何なんだ? 何故、こんな場所で暮らしていられるんだ?」

「えーっと、この人はその、俺の世界で迷宮って呼ばれている特殊なとこに住んでる人で……なんでここにいるのかって、それは俺が聞きたいくらいなんだけど」

「僕もタイクーンと同じ、こっちの世界の住人でもあるからさ。尤も、君とは生きた時代が400年ほど違うけどね」

 

 ミッシェルがサラリと会話に入り込んでくる。そう言われてみれば、彼はレオナルドと同じ時代に生きていた人物だった。ルネッサンスとバロック時代で、活躍した時期は一つずれているが。

 

「僕もこの世界に縁があるから、君みたいに世界を渡れたってわけさ。ただ、僕は歴史に介入する気はさらさらないから、受肉はせずにアストラル体でだけどね」

「アストラル体って、霊魂みたいなものでしたっけ……もしかして、ここはあなたの迷宮の中なんですか?」

「いいや、現実だよ。アストラル体のまま、現界している」

「そんなことが、出来るんですか?」

「肉体をもたない霊魂なんていくらでも想像がつくじゃないか。僕たちはその一つを神と呼ぶ……まあ、悪霊とも呼ぶわけだけど」

 

 そう言ってミッシェルは何がおかしいのかクククッと笑った。笑いにも飢えているのか、やけにハードルが低くなってるようである。話を聞くからに、もはや何でもありのスーパーマンのくせに、とてもそうは見えない男である。

 

 また蚊帳の外に置かれていると感じたのか、アズラエルが不快そうに言った。

 

「なんだか良くわからないが……この人も君と同じプロテスタントなのか?」

「いや、僕は別口だ。ルシフェルとは何の関係もないよ」

「じゃあ、どうしてこんなところに現れたんですか?」

 

 鳳が疑問を呈すると、ミッシェルはケロッとした口調で言った。

 

「君の助太刀をしてくれって、ルーシー君に頼まれたんだよ」

「……へ?」

 

 その答えがあんまりにも意外過ぎたから、鳳はぽかんと口を開いて絶句してしまった。もっと意味がわからないアズラエルの瞳が、また不快そうに鳳とミッシェルの間を行き来する。ミッシェルはそんな二人の様子を見ておかしそうに続けた。

 

「まあ、驚くのも無理はないね。僕も驚いたもの。さて、そろそろ話を進めようか。いい加減、そちらのお嬢さんの視線が怖いし。でも、何から話せばいいかな……タイクーン、君がこちらの世界に渡った後の話なんだけど、一緒に渡ったはずの真祖が帝都に戻ってきてしまったんだよ」

「真祖って……メアリーか! え? あいつ、あっちに残っちゃったの?」

 

 ミッシェルは頷いて、

 

「彼女はこっちの世界に定着出来ずに、アストラル体のままさ迷った挙げ句、最終的に帝都の神の揺りかごでリブートされて戻ってきてしまったんだ」

「なんでまた……俺がこうして成功してるのに?」

「多分、こっちで用意した体に、誰か別の魂が入っていたからだろうね……心当たりがあるんじゃないかい?」

「……まさか、エミリアか!」

 

 メアリーこと真祖ソフィアは、幼馴染エミリアの疑似人格……当然、その肉体は彼女の遺伝子をベースにしたものだった。故に、こっちでメアリーの体を用意したつもりが、レオナルドやギヨームみたいに、放浪者(バカボンド)としてエミリアが復活してしまったのだ。

 

 まさかそんな落とし穴があるなんて思いもよらず、鳳は唸り声をあげた。すると、エミリアは巻き込まれて復活してしまったことになる。もしも再会することが出来たら、その辺も謝らなければいけないが……

 

「けどまあ、とりあえずはメアリーが無事で良かった。俺とはまた別口に飛ばされちゃったんだと思ってたけど」

「逆に、彼女が戻ってきてしまったことで、ルーシー君たちは君のことが心配になったみたいでね。確か君が真祖を必要としたのは、こちらの世界の神の揺りかごを利用するためだったんだろう?」

「はい。彼女は元々P99のオペレーターだったから」

「うん。だから彼女が戻ってきてしまったと言うことは、君が力を失っているということになる……で、大変だって騒ぎになって、すぐに助っ人を送ろうって話になり、世界を渡れそうな人物を探していて、僕に白羽の矢が立ったのさ。普通はこんなこと思いつかないだろうに。彼女は面白いね」

「マ、マジっすか……なんかすんません」

 

 まさかそんな理由で彼が現れたとは思いもよらず、鳳が顔を真っ青にして謝っていると、ミッシェルはクククッと笑って、

 

「僕の迷宮なんて、レオナルド以外に踏破させるつもりはない、ただの嫌がらせなんだから、普通の人は入るだけ損なんだけどね。彼女はまた当たり前のように突破してきちゃったんだよ。長いこと迷宮なんかをやってるけど、こんなことは始めてだった」

 

 始めても何も、あの迷宮を突破できたのはレオナルドと彼女しかいない。今やタイクーンと呼ばれる鳳も、実は何度も挑戦したのだけれど、踏破出来なかった場所だった。それを二度も突破したと言うのだから恐れ入る。

 

「以前来た時に、彼女には僕の出自を語っていたからね。それを覚えていたらしい。またあの迷宮に誰かがやって来たと思ったらまた彼女で、いきなりちょっと世界を渡ってくれないかと来たんだよ。面白そうだから乗ることにした」

「面白そうって……そんな軽いノリで来れちゃうんですか?」

「上に行くのはそんなに難しくないんだよ。下に行くのは余程の縁がない限り不可能に近い」

 

 ミッシェルはさらりと言ってのけるが、当たり前だが簡単なわけがない。ただ、言ってる意味はなんとなくわかった。入れ子構造の世界では、高次元世界は一つしかないが、低次元のほうは無限にある。

 

「それで、こっちの様子を見にきたはいいものの、君に会えなきゃ意味ないからね。16年前に戻って、君が来るまでここで待っていたのさ。そしたら、サムソン君がふらふらと、アストラル体でさ迷っているのに気づいてね。そのままじゃ消えちゃいそうだったから、適当に合いそうな魔族の体に定着させておいた」

「またサラッと難しそうなことを……」

「実際、無理なことをしているから、早めに元の体に戻した方が良いよ。自分のではない体に憑依するってことは、相手の魂を支配出来なければならないということだ。簡単に言えば、元の人格を抑え続ける必要があるわけだけど、相手との知能差がない限り、そんなことは不可能だろう? だから、実はこの魔族の脳は人間と比べてかなりお粗末なんだよ。今のサムソン君はそれに釣られて思考力が大分衰えているから、幼児レベルでしか物事を考えることが出来ない。だから、君のことが分かっているといっても、かなりぼんやりとしたものでしかないんだ」

「そうだったのか……言われてみれば、知能がそのままなら、筆談すれば良いだけだもんなあ……」

「島にジャンヌ君が来る度に会いに行ってたのも、単に家族に会いたいがためだったんだ。でも、相手にはそれが伝わらないから、ジャンヌ君は気味悪がっているみたいだけど……健気な話だね」

「ミッシェルさん、あんた、ジャンヌのことも知ってたんなら、どうしてそのことをあいつに言ってやらなかったんですか?」

「そりゃ、無理だからさ」

 

 ミッシェルは肩を竦めて、

 

「僕が歴史に介入してしまえば、平行世界が分岐して生まれてしまう。そうしたら君に会えなくなるから」

「なんかよくわからないけど、何か縛りがあったんですか?」

「単純に考えてみてよ。僕は真祖があっちの世界に戻っちゃったから、ルーシー君に頼まれて来たんだ。なのに、僕が君が来る前の世界で、君の知らない情報に介入してしまったらおかしなことになるだろう?」

 

 なるほど、そうかも知れない……鳳はう~んと唸るしかなかった。

 

「予言者ってのは傍観者でしかないんだ。僕は時空を越えて現在過去未来を見ることが出来るけど、変えることは出来ない。変えてしまえば、それはもう過去でも未来でもなくなってしまうからね」

「サムソンの件は良かったんですか?」

「彼を助けても、君が来る未来に変わりはなかったからね。細かいディテールは違ったかも知れないけど。助けなかったほうが良かったかな?」

「とんでもない! 感謝してもしたりないくらいですよ!」

「なら良かった。僕も彼には生きていて欲しいからね」

 

 彼は飄々とそう言ってのけると、ここからが本題だと言った感じにトーンを落として、

 

「でだ……サムソン君を救うためには、彼の遺伝子情報を手に入れなければならないわけだけど……」

「はい。でも、サムソンは元々この世界にはいないんですよね? どうやれば手に入るのか……」

「方法は2つある」

 

 あるのかよ……鳳がぐっと身を乗り出すと、

 

「まずはサムソン君の魂を量子化し、彼を神人化してしまう方法だ。これは君がジャンヌ君を相手にやったことだね。神の揺りかご、つまりP99があればそれも可能だろう。問題は、この世界にあったP99は翼人たちが壊してしまったことと、もう一つがあるプロテスタントの本拠地には、どうやって行けばいいかわからないことだ」

「ミッシェルさんの予言で、ずばりその場所がわかったりしないんですか?」

「大雑把に宇宙……ということは言えるけど、それ以上となると僕にもわからない。不確定性原理と同じだ。位置を特定してしまうと運動量が不確定となる。この場合は未来が変わってしまって、結果的に予言は意味を持たなくなるんだ」

「うーん……」

 

 ミッシェルの能力は万能そうに見えて、意外と面倒くさそうである。鳳は諦めて、

 

「なら、もう一つの方法は?」

「君のケーリュケイオンを手に入れる。君は元の世界で、遺伝子情報になりうるものをあのストレージの中に保存していただろう?」

「あー! 確かに! サムソンの遺伝子情報もあるはずです」

 

 ついでに嫁やマニ、ペルメルやディオゲネス、何が起きるかわからないから割りと手当り次第に突っ込んであった。それを使って体を作ればいいのか……鳳はそう思って顔をほころばせたが、すぐにそれが無理だと気づき、

 

「いや、でもミッシェルさん。遺伝子を手に入れたところで、やっぱりP99が無ければ意味ないじゃないですか。俺は肉体を作り出すことなんて出来ないんだから」

「ところが出来るんだ。何しろ、こっちには生命のエキスパートがいるんだから」

「生命のエキスパート……?」

 

 ミッシェルは気色満面にやついている。何を言ってるんだろうと思いつつ、鳳がその視線を辿ってみると、そこにはどうして知ってるんだと言わんばかりの、複雑そうなアズラエルの顔があった。

 

「アズにゃん。あんた、遺伝子があれば肉体って作り出せるの?」

 

 するとアズラエルは更に難しそうに顔を歪めて、

 

「細胞を培養し、形を作ることなら出来る……だが、そんなことをしたところで、人間の死体が一つ出来上がるだけだ。何の意味もない」

 

 そう言うアズラエルの表情が荒んでいるのは、実際に彼女にはその経験があったからだろう。16年前、人類が再生できなくなってから、彼女はあらゆる可能性を試しては、失敗してきたのだ。

 

 だが、その失敗は次に繋がる失敗だった。鳳には、ミッシェルが何を言い出すのかが何となくわかった。

 

「それでいいんだよ。容れ物が出来たなら、次はその中身を用意すればいい。誰かがサムソン君の魂を取り出し、新たな肉体に定着させればいいのさ」

「……そんなことが可能なのか?」

 

 ミッシェルの言葉に、今度はアズラエルが身を乗り出す。彼はそんな彼女に笑顔で応えると、

 

「出来るとも。肉体と魂の分離。それこそが現代魔法の真髄なのさ」

「現代魔法……」

 

 アズラエルは鳳の顔をちらっと見てから、

 

「君が使っていたあの不思議な力のことか。教えてくれ、ミッシェル。もし、そんなことが可能なら、私にはそれが必要なのだ」

「いいとも、それじゃあまずは魔術のおさらいから始めようか?」

 

 ミッシェルは笑顔で言うと、長い講義に備えるかのように、豪快にハーブティーを飲み干した。

 



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一般教養としての現代魔法概論 一時間目

「僕たちには自分の世界がある、つまり自我というものがある。僕たち人間は、それぞれの肉体が違うからには、感じ方もそれぞれ違っているはずだ。僕が見た青の青さと、誰かが見た青の青さは、本来は違って見えている。なのに、それが同じ『青』と感じられるのは、そこに何らかの共通認識があるからだ。その共通認識のことを、大昔の哲学者プラトンは『イデア』と名付けたんだ。

 

 このイデアとは具体的に何なのか? 例えば、リンゴという果物はみんな同じように見えて、実際には一つ一つが違っている。大きさや色、形、味など、どこまでがリンゴで、どこからがリンゴじゃないのか。その区別をつける判断はどうしているのか。そこで出てくるのが、リンゴのイデアだ。人間には共通する理想のリンゴというものが、心の中に最初から存在していて、みんなリンゴを見た時に、それがリンゴかどうかを判断する際にそのイデアを参照しているというわけだ。

 

 この時、心の中で僕たちの魂はどうなっているのか? 例えば、僕がリンゴを見た時、僕の心の中には何かモヤッとしたものが生まれるはずだ。このモヤッとしたものはなんだろう? すると僕の魂はその形をトレースし、続いてイデア界にある様々なイデアの中からリンゴのイデアを参照し、心の中にそのイデアをコピーする。そしてそのイデアのコピーと、最初に生まれたモヤッとしたものが一致した時、僕はこれはリンゴなんだなと自覚する。

 

 こうやって人間は、イデアというものを参照しながら、あらゆる物事を分類しているんだよとプラトンは考えたわけだ。

 

 さて、時が流れて21世紀。人類は素粒子の実験の最中に、人間の脳にだけ反応するという、とても不思議な粒子を発見した。当時の人類は、第5粒子(フィフスエレメント)と名付けたその粒子を使って無尽蔵のエネルギーを手に入れようとしたわけだけど、もしもこれを近世のプラトニストが発見していたらまた別の解釈をしていただろう。

 

 僕たちの脳が何らかのメッセージを受け取っている……つまり、これはイデアを参照している魂のエネルギーに違いないと。

 

 実際、その解釈は間違っていなかった。だいぶ端折るけど、僕たちの正体は実は宇宙の果てに刻まれている二次元の情報なんだ。そこには宇宙の全てが記録されていて、物質も重力も空間も、実はホログラフのように投影されて見えている幻だったってわけだ。

 

 そして僕たちは、その2次元の膜の上で情報をやり取りすることによって、この世界を知覚している。その情報の遣り取りをし、物事を考えたりしているのがアストラル体、いわゆる自我や魂という存在なんだ。

 

 従ってアストラル体は物質界に縛られてはいない。アストラル体はアストラル界というまた別の世界に存在し、そこは物質界と切り離されているんだ。僕たちが何となく、心と体を別のものとして考えてしまうのは、そこに原因があるわけさ。

 

 そしてさっき言った通り、アストラル体は物質界にある肉体が感じた情報を受け取り、それをエーテル界にあるイデアと比較している主体でもある。この理想の世界エーテル界と、物質界、アストラル界はそれぞれ別個に存在し、その3つの世界が一つに繋がることで人間というものが成立している。アストラル体はそのうちの自我を担当している、まあ、通訳のようなものと考えればいいよ。

 

 だからもし、アストラル体が通訳の権限を逸脱して、物質界の現象をただ見るだけじゃなく、その記述を書き換えてしまったらどうなるだろうか? 例えば理想の世界からイデアを引き出し、それを物質界に投影したら? それが幻想具現化(ファンタジックビジョン)利己的な共振(エゴイスティックレゾナンス)と呼ばれる現象だ。

 

 そしてこのような現象のことを、僕たちは便宜上現代魔法と呼んでいるわけだ」

 

 実際のミッシェルの説明はもっと丁寧で根気強いものだったが、概ねこんな感じのことを言っていた。その内容は、もう現代魔法に慣れている鳳には十分だったが、始めてこの奇跡の力に触れたばかりのアズラエルには、いまいち理解しきれないようだった。

 

「世界が3つある? その情報を書き換える? しかし、そんなことどうやればいいのだ? 君の言うことは頭では何となく理解できるが、実際になにをどうやっていいのかがまるでわからない」

 

 彼女の言うことはもっともであり、実際に目の前でその奇跡を見せられても、ただの手品にしか見えなかっただろう。しかし、ミッシェルはそりゃそうだと言わんばかりに、

 

「それはまだ君に魂のパスが開いていないからだよ。つまり、自分のアストラル体の感覚ってものが掴めていないからなんだ」

「魂のパス……?」

「魂には感覚が存在する。まずは今言ったことを真剣に考えるんだ。そして然る後に忘れてしまう。真理に至るには難しく考えることも重要だけど、一度理解したならそれ以上難しく考える必要はないんだ。寧ろ害悪とまで言えるね。

 

 例えば、僕たちは当たり前のように二足歩行をするけど、これを機械的に制御しようとするととんでもなく難しいことを知ってるだろう? だけど、僕たちは生まれてからこの方、一度も歩くことを難しいと感じたことがない。歩くどころか走ることさえ出来る。訓練すれば逆立ちで歩くことだって出来てしまう。

 

 そう、訓練することでアストラル体の感覚を掴むことは可能なんだよ。例えば最初はタッチタイピングが出来なかった人でも、自転車の乗り方を知らなかった人でも、訓練して一度覚えてしまえば、その後はもう難しく考えなくても出来るようになるでしょう。その状態に持っていくんだ。

 

 まずは、この世界には物質界と精神界の2つがあることをしっかりと認識する。然る後に、その精神世界を認識するための器官を育てるんだ。

 

 僕たちは既に、人間には第5粒子エネルギーに反応する器官があることを知っている。これは凄いアドバンテージだよ。今、君はその器官が閉じてしまっているんだけど、訓練を通じてこれが第5粒子エネルギーを受け取る流れを感じ取れるようにするわけさ」

 

「ふむ……エネルギーを受け取っているという実感を持てばいいというわけか。それには、具体的に何をすればいい?」

 

「まずは自分の中にその器官があるというイメージを持つことだね。それには瞑想をして煩悩を捨てることが一番の近道なんだけど……ただ闇雲にやっても仕方ないから、そうだな、例えばこういうのはどうだろう? 君、人間は生まれた時、善であろうか悪であろうか?」

 

 アズラエルはいきなりそんな話を振られて面食らいながら、

 

「性善説のことか? そうだな……それなら私はそのどちらでもないと思う。人間は、生まれてから大人になるまでの間に経験したことで、そのどちらにでもなりうるのだと」

「なるほど、君は善とは社会正義のようなものと考えているんだね?」

「……違うのか?」

 

 ミッシェルは苦笑交じりに頷いて、

 

「僕たちは人間社会で生きるためのルールを学ぶ過程で、善とは他者から与えられるものと考えがちだ。そうじゃなくて、善とはそもそも自分にとって善いこと、体にいいことならなんでもするってことなんだよ。

 

 例えば、赤ちゃんは自分を生かすために親を騙すことがある。嘘泣きをする。でも君はそれを見て、赤ちゃんは悪だと思うかい? そうは思わないでしょう。赤ちゃんはそれしかコミュニケーション手段がないんだ。だから泣くことで自分の体にとって善いことを自然と行っているだけなんだ。

 

 このように人間は放っておいても、生まれつき自分の体に善いことをするように出来ているんだよ。恒常性(ホメオスタシス)なんて言い方もする。僕たちの肉体は、僕たちを滅ぼすような方向には決して向かわないように出来ている。いつも最善を尽くそうとしている。

 

 もちろん、オオカミ少年はいずれ滅びる。それを改めるのもまた人間だ。そうして僕たちは、成長するにつれ少しずつ少しずつ、まるで服を着るように本来の自分を覆っていく。それが人の目には、善にも悪にも染まるように見えるわけだけど、単に大人になった時には相当着ぶくれしてるだろうってだけの話さ。そのヴェールを一枚一枚剥がしていけば、相変わらず僕たち人間の根本は善である。

 

 古代中国の孟子はそう考えて性善説を説いた。その後、中世の朱子学者たちはこの知見を受け継いで、人間の心の中は天理に繋がっているのだと考えた。性即理、心即理。だから礼に依って政治を行えば、それは天理に通じると、礼節を重んじる政策が尊ばれたわけだ。まあ、実利主義の中国人には結局馴染まなかったみたいだけど。

 

 こんな感じで、人間の心の中には真理に通じる何かがあるという思想は、中国に限らず世界中に存在する。すぐに思いつくのでは仏教の涅槃思想、他にも、キリスト教のグノーシス主義、中世神秘主義者たちのプラトニズム、ユダヤ教のカバラなんかもその影響が見られる。

 

 どうしてここまで色んな地域で同じ思想が起こったのか? それは僕たちの心が本当に無意識の内に繋がっているからじゃないかと考え、ユングは集合的無意識を提唱してフロイトと袂を分かってしまった。

 

 まあ、はっきりとした証拠もないんだけども、この手の思想はゾロアスターの教義がヘレニズム時代にわーっと広まったのが本当のところだと思われる。ゾロアスター教では無に光が差して、そこに世界が生まれたんだって創世思想がある。故にあらゆるものには光と影が存在するという二元論だね。これがユダヤ教に伝わってカバラになると、この世界は(アイン)から無限(アイン・ソフ)が生じ、それは無限光(アイン・ソフ・オウル)によって照らされているのだという考えになる。ところで、この無限光というのをサンスクリット語に直すとアーミッタバ、阿弥陀になるんだ。

 

 仏教は1世紀頃に中国に伝わって、後にシルクロードが出来て東西の交流が活発になると、唐代の頃に最盛期を迎える。でも、国の教義が他国から取り入れたものでは都合が悪いと考えた宋代末期の儒学者たちは、儒教こそが国教であると唱え、新たに朱子学が生まれた。けど、その教義にも結局仏教由来の考えが残ってたんだね。

 

 さて、歴史講義はこの辺にしといて……世界中の宗教はこのように、案外みんな似たようなことを教義にしてきた。どうしてそうなったのかと言えば、やっぱり人間の心の中には何らかの真理が隠されているように、僕たちが感じているからだろう。例えば日本人は無宗教だと言うけれど、実際にはすぐ験担ぎをしたり、死者が出たら手を合わせて念仏を唱えたりする。そうしないと気分が悪くなる。心の中に何かがあるんだ。

 

 この何かを掴むイメージが、現代魔法には必要なんだ。

 

 神秘主義者の言うスピリチュアルなことを僕たちが空想と思うのは、その真理に至るイメージがないからだ。例えば暗い洞窟の中、例えば人の手が入らない深い森の中、信じられないほど大きな木々とか、底が見えないくらい深い谷を覗き込んだりとか、神秘に触れたとき、僕たちの体の中には何かモヤッとしたものが生まれるんだけど、それが何なのかを具体的にイメージすることが出来ずに、それはすぐに雲散霧消していしまう。何も残らないから何もないんだと、それ以上考えなくなってしまったのが現代科学の弊害でもあるわけだけど、しかし、僕たちは既に第5粒子を発見している。これを感知する器官が脳に存在することも知っている。

 

 アストラル体……即ち魂には感覚がある。そのイメージを突き詰めていくことによって、現代魔法は成立する。今はまだそれが分からないだろうけど、君にもいつか分かる日が来るだろう。僕たちは生まれつき、それを知覚する能力があるんだから」

 

 ミッシェルの講義は夜が明けるまで続いた。

 



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小休憩

 目をつぶって息を潜める。感覚を研ぎ澄ませ、来たるべき攻撃に備える。鳳はRPG的に言えば後衛職であり、近接攻撃は得意じゃない。普通に戦っていては、マニやサムソンのような格闘家相手には分が悪いだろう。だから彼は、普通じゃない方法を取った。どうせ目で追っても彼らの動きは捕らえられっこないのだから、いっそのこと目をつぶって、心の目で相手の動きを捕らえるのだ。

 

 その方法はマニ相手にはそこそこ上手く行っていた。こちらの世界に来る前、最後の頃には、彼から一本取れるようにもなっていた。だから、そこそこ自分もやれるんだと勘違いしていたのだが、それはとてつもなく甘い考えだったと思い知らされた。

 

「右……いや、左……? やっぱ、右だろ? うぎゃあーーー!!」

「うほっ!」

 

 真正面から飛んできたパンチをもろに食らって、鳳はもんどり打ってその場に倒れた。サムソンはそれを見てウホウホと手を叩いて喜んでいる。

 

 ミッシェルとの邂逅から一夜が明けて、鳳とサムソンは小屋の外で軽く手合わせをしていた。昨晩は結局、今後について具体的な話は何も出来なかった。アズラエルは元生物学者と言うだけあって研究肌なのだろうか、あの後ずっと彼女がミッシェルを質問攻めする感じになってしまって、口を挟めなかったのだ。

 

 会話に置いてけぼりだったサムソンはそのうち眠ってしまい、鳳もウトウトし始めそのまま眠ってしまったらしい。明け方頃に目を覚ましたら、二人はまだ議論を続けていたから、多分今頃ぐっすりだろう。

 

 鳳は目覚めるとすぐに小屋の外の空気を吸いに出て、溜池でバシャバシャ体を洗っていたサムソンとそのまま朝の訓練を始めたのだが、結果はいくらやっても大惨敗だった。彼は、なんでサムソンの気配はマニみたいに読めないんだろうかと首を捻りつつ、血が出てないかと鼻の下を手で拭いながら立ち上がった。

 

「いてててて……おまえ、何か目茶苦茶強くなってないか?」

 

 実際に手合わせしてみて、サムソンの動きが尋常じゃなくなっていることに気付かされた。

 

 最初は元の世界でマニを相手にやっていたように、目隠しをして対戦しようとしたのだが、不思議なことに、そうするとサムソンの気配がいくつも感じ取れてしまい、とてもじゃないが身動きが取れなくなってしまった。

 

 調子が悪いのかなと思って、目隠しを取って対峙してみたものの、今度は動きが尋常ではなくて目で追えない……マニみたいに速すぎて追えないのではなく、動き自体は緩慢なのだが、何故かその動きについていけないのである。なんというか、予測を悉く外されているように感じで、それでも動き自体は見えてるのだからと試合を再開しても、すぐに転ばされて相手にならなかった。

 

 こりゃ手合違いだったかと素直に負けを認め、どうしたらそんな動きが出来るのか知るために、今度はあっち向いてホイ形式の一発勝負で、目隠しの対決を挑んだのだが、やはり目をつぶると彼の気配があっちこっちに飛んでしまって、勝負にならなかった。

 

「……そういやあ、こっちは体感で16年過ぎてるんだったっけ。って言っても、どんな修行したらこんな風になるの?」

「うほうほ」

 

 鳳がぶつくさ言いながらサムソンの体をペタペタ触って調べていると、小屋の扉が開いて中からミッシェルが出てきた。

 

「やあ、サムソン君と遊んでくれていたのかい?」

「いや寧ろ、俺が遊ばれてたんですけど……なんか、目茶苦茶強くなってるんですよ、こいつ」

「それはそうだろうね。彼はこの島に来てからずっと、ベヒモスを相手に修行を続けていたみたいだから」

「はあ!?」

 

 鳳が仰天していると、ミッシェルは苦笑交じりに、

 

「人類が島から出ていってしまった後、ベヒモスは好物が全然手に入らなくなってしまったでしょう? そんなところに一人だけ美味しそうな魔族がいたら狙わないわけがないじゃない」

「だ、大丈夫だったんですか……??」

「うん、それで最初のうちはよく襲われていたんだけど、サムソン君も十分に強かったから、まあ問題なく逃げられてたんだよ。それで追いかけっ子みたいなのをずっと続けてたんだけど……そのうち、サムソン君の方が強くなってきちゃって、だんだん逃げるんじゃなくって撃退するようになってきてね?」

「は、はあ……」

「そしたら今度はあっちの方が近づかなくなってきちゃってね? 逆にサムソン君の方が修行相手を求めて追いかけるようになっちゃって、気がつけばよく島のあちこちでドタバタやってたんだよ」

「マジかよ……魔王相手に武者修行とは……」

 

 道理で目茶苦茶強くなっているわけである。そう言えば、元の世界で鳳も戦ったことがあるが、ベヒモスはただとんでもなくタフと言うだけで、能力自体は大して強くはなかった。あっちの世界で格闘家としての素質が開花しかけていた彼には、丁度良い修行相手になったのかも知れない。

 

 とは言え、サムソンとベヒモスでは、その大きさが違いすぎるから、いくら彼が強くても徒手空拳で勝てるほどとは思えないのだが……実際、ミッシェルの話では最初は逃げ回っていたようだし、どこでその強さが逆転したのだろうか。

 

 そう言えば、今のサムソンは魔族だ。今までそんな魔族がいなかったから分からなかったが、もしかすると魔族は相手を殺さなくても、対戦するだけでも普通に強くなれるんじゃなかろうか……

 

 鳳がそんなことを考えていると、ミッシェルが隣で盛大に伸びをしはじめた。大分お疲れの様子らしい。

 

「昨日はアズにゃんに質問攻めにされて大変でしたね」

「ああ、やっと解放されたよ。彼女は研究肌だね、質問が止まなくて大変だったけど、さっきそのまま力尽きるように眠ってしまった。起きるのは夕方以降だろうね」

「ミッシェルさんは寝なくて良いんですか?」

「僕はアストラル体だからね。生物としての眠りは必要ないんだ。まあ、それでも退屈だから寝るんだけど」

 

 なんじゃそりゃと鳳が引き攣った笑みを浮かべていると、ミッシェルはそんな彼を珍しいものでも見るようなに、

 

「それよりも、さっきは何か面白いことやってたね。君はいつも目隠しをしながら戦っているのかい?」

「あれですか? いや、普段は目隠しだけじゃなくて耳栓もつけるんですけど……ほら、昨日あなたも言ってた通り、俺たちの魂には感覚があるんでしょう? アストラル体が、宇宙の果てにある情報を参照してるんだって。もし、その感覚が分かれば、目や耳に頼らなくても戦えるんじゃないかって思って試してたんですよ」

「ははあ……いいや、いい方法だと思うよ。でも、その様子じゃ、まだ身についてないようだね」

「マニを相手にしていた時はいい感じだと思ってたんですけど、サムソンにはさっぱり通じなくて……どうしてなんだろって考えてたとこで」

「ふーん……それは多分、相手に慣れてしまって、知らず識らずのうちに癖を覚えてしまったか、微弱な振動を肌で感じちゃってるかしてるんじゃないかな」

「マニもそんな感じのこと言ってましたね……」

「五感を断ち切るってのは、思ってる以上に難しいことだから、あまり頭でっかちに考えると上手く行かないんだよ。ほら、ルーシー君なんて何も考えてなさそうでしょう?」

 

 なんだか酷い言われようだが、確かにそんなところはあった。彼女はなんというか天才肌なのだ。鳳はがっかりするようにため息をつくと、

 

「そう言えば俺もあなたに聞きたいことがあったんですよ」

「なんだい?」

「俺はあっちの世界でルーシーとスカーサハ先生に現代魔法を教わってたんですけど、恐らく、考えうる限り最高の教師に習っていたと思うんですけど、結局殆ど身につかなかったんですよね。不可視はもちろん、身体強化のスキルも自分に対してしか発動しないし、あと出来ることと言ったらエネルギーを直接飛ばすくらいのことで……もしかして俺って、現代魔法に向いてないんですかね?」

「あー、うん。そうだね。向いてないと思うよ」

 

 ミッシェルはにべもなくケロリとした表情で言い切った。多少覚悟はしていたが、そこまであっさり否定されるとは……しかし鳳が口をパクパクしていると、彼は違う違うと言った感じに首を振りながら、

 

「向いてないっていうのは、ルーシー君みたいな高レベルの認識阻害や不可視、スカーサハ君のバトルソングみたいな、他人の認識を変える魔法のことだよ。例えば彼女らは他人の五感を操作して、自分の姿を石ころと誤認するように操作をしているわけだけど、君の場合は君自身の影響力が強すぎてそういう方法が取りにくいんだろうね」

「俺自身の影響力、ですか?」

「ほら、君は勇者としてあの世界に召喚されたわけじゃない。そして望み通りに魔王を倒し、ヘルメス卿として君臨し、タイクーンの名を受け継いで無数の迷宮を踏破さえした。もはや人類は君に対して信仰に近い感情を抱いているから、それが現代魔法に悪影響を及ぼしちゃってるんだよ。例えば、君の奥さんのアリス君に、いくら君が『僕は石ころ』って言っても、彼女は君への認識を変えることが出来ないでしょう?」

「はあ……そうですかねえ……?」

「まあ、まず効かないだろうね。そんな感じで、君は他人の認識を操作するような魔法を使うには向いてないんだ。でも逆に、君は光弾を作り出すみたいな、世界の外側にある第5粒子エネルギーを操る能力に長けている。それは君が高度な科学文明の社会で暮らしていたからイメージしやすいんだろうけど、これは彼女らに対するアドバンテージだよ。だから才能を伸ばすならこっちの方がいいだろうね。認識を変えるんじゃなくって、世界を変えるんだ」

「世界を、ですか……?」

 

 鳳がどういう意味だろうかと首を傾げていると、ミッシェルは出来の悪い生徒でも見るような目でやれやれと肩を竦めてから、

 

「ほら、現代魔法には二種類あったでしょう。利己的な共振(レゾナンス)、そして幻想具現化(ファンタジックビジョン)だ。直感的で天才肌のルーシー君は前者に向いていたけど、論理的な君は恐らく後者の方が向いてるってことだよ」

 

 鳳は目を丸くして仰天しながら、

 

「はあ!? いやいやいや、無理ですよ! 俺は絵なんか書いたこともなければ、爺さんみたいに凄い才能があるとも思えませんよ?」

 

 ミッシェルは全力で否定する鳳に苦笑いしながら、

 

「そうじゃない、そうじゃない。レオナルドみたいにスクロールを作るんじゃなくって、ギヨーム君みたいに一時的に物質を具現化させる方法だよ。この宇宙の外側には、無限のエネルギーが存在する。君は以前、ケーリュケイオンにMPを貯め込んでいたけれど、それを直接取り出せるようにすればいいのさ」

「ああ、ギヨームのクオリア魔法ですか……それなら俺もちょっとだけ」

 

 鳳はそう言って、何もない空間から千代紙を取り出してみせた。美しい模様の描かれた折り紙が、まるで水のように溢れ出してくると、それを見ていたミッシェルは手を叩いて喜んで、

 

「それだよ、それ! なんだ、君は既に魂の感覚が分かっているじゃないか」

「ええ? これで……何が分かるって言うんです?」

「はあ? ……それは僕のほうが聞きたいくらいだよ? どうしてここまで出来ていながら、君は自分のアストラル体がわからないのかな」

「ええっと、そんなこと言われても……」

 

 二人はお互いに顔を見合わせ、まるで鏡みたいに同時に首を傾げた。ミッシェルは、軽く一息吐くと、

 

「ふむ、何か偶然にそれを引き出すような出来事があったのかも知れない。それが何なのかはわからないけど、とりあえず、そこまで出来るならもうちょっと突っ込んだ話をしてみようか。何か切っ掛けがつかめるかも知れない」

 

 彼はそう言うと、また昨晩のように滔々と語り始めるのだった。

 



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一般教養としての現代魔法概論 二時間目

「まずは昨日のおさらいから始めようか。ホログラフィック宇宙論によると、物質とは宇宙の境界にある二次元の膜に記述された情報のことだ。僕はこの境界のことをアーカーシャと呼んでいるわけだけど……

 

 1960年代にランダウアーとフォン・ノイマンが発見したのは、コンピュータ上の情報は消失する際に熱を放出するということだった。ノイマン型コンピュータは、計算の度に情報が失われる設計になっているから、CPUが一度に計算できる情報量が増えれば増えるほど、放出される熱量も増えることになる。そこから集積回路の微細化によるトランジスタの数が、約二年ごとに倍になっていくというムーアの法則が導かれたわけだが、今重要なのは、情報はそれ自体がエネルギーを持っているということだ。

 

 つまり、物質の持つエネルギーと、アーカーシャ上の情報エネルギーは一致しており、もしもアーカーシャに新たに情報を記述することが出来れば、それがこの世界に実態となって現れるはず……ちょっと大雑把だけど、これがいわゆる現代魔法の仕組みだ。

 

 ところで、このアーカーシャに情報を書き加えるにはどうすればいいだろうか? アーカーシャが宇宙の果てにあるからといって、まさかロケットに乗って飛んでいくわけにはいかないでしょう。なら既に情報としてそこにある、自分の内なる力を使うしかない。つまり肉体ではなく、魂を利用しようってわけさ。

 

 さて、もしかしたら君は勘違いしているかも知れないけれど、アーカーシャっていうのは宇宙の境界のことであって、そこにある二次元の膜のことじゃない。この宇宙は10次元の空間と1次元の時間軸を持っており、アーカーシャはその全ての次元の境界と考えて欲しい。

 

 人間は肉体と精神に分けられ、更に精神は(れい)(たましい)の2つに分けられる。肉体、つまり物質としての世界が二次元の膜に記述されていたように、精神世界もそれぞれまた別個の二次元の膜に情報として刻まれているんだ」

 

「ミッシェルさんが言ってた、エーテル界とアストラル界のことですね。あれ? でも、あなたは精神世界は2つあるって言ったけど、片方はイデアを閉じ込めている世界であって、厳密には精神世界とは呼べないのでは?」

 

「いや、そうじゃないんだ。実は僕たちの肉体はエーテル界の影響をちゃんと受けている。昨日ちょっと話した善なる力のことさ。僕たちの体は特に何もしなくても、いつも一番いい状態になろうとする力を持っている。僕たちの心の奥底は天理に通じていて、肉体は理想の状態、つまりイデアに近づこうとする。それはエーテル界にある霊体、即ちエーテル体が物質界の肉体にそうするように働きかけているからなんだよ。

 

 僕たち人間は、3つの世界にそれぞれ3つの形態を持って存在している。物質界の肉体、エーテル界の霊体、そしてアストラル界の魂体だ。

 

 このうち、僕たちがあーだこーだと考える時に出てくる主観というものが、魂体、即ちアストラル体なんだけど、言うまでもなく、これもまた霊体=エーテル体の影響を受けている。一番わかり易いのは、僕たちが色んなものを区別する時、エーテル体がアストラル体にイデアを返す、という情報のやり取りだね。

 

 僕たちはこうして思考をすることによって、アストラル体をエーテル体に近づけていく。ところで、イデアはあらゆる物事の理想である。なら、アストラル体のイデアというのも無くてはおかしいんじゃないか。つまり、アストラル体のイデアというのがエーテル体のことなんだよ。

 

 実は僕たちの主観、つまりアストラル体はエーテル体によって生みだされているものなんだ。だから主観と客観、魂体と霊体が一致した時、僕たちの精神は神霊へと昇華すると考えられているわけさ。レオナルドが目指していた『神』とはつまりこのことだ」

 

 鳳はげっそりとしながら、片手を高々と挙げて、

 

「はい、先生、すみません、正直全然ついていけてません。エーテル体? アストラル体? なんで霊魂(れいこん)(れい)(たましい)の2つに分ける必要があるんですか? 主客一致論が昔っから哲学者の間で色々と議論されていたのは知ってますが、それを魔法と無理やりくっつけてるようにしか思えません。もっとシンプルに、精神世界は一つしかなくて、イデアは精神とも肉体とも別の、神の世界みたいなところにあるって考えるんじゃいけないんですか?」

 

 鳳がうんざりした口調でぶっちゃけると、ミッシェルは苦笑交じりに、

 

「馬鹿馬鹿しいと思う気持ちは良く分かるけど、僕が言ってることは間違いないんだよ。精神には2つの形態がある。速い思考と遅い思考とか、理性と野性なんて言い換えてもいい。実は人間の体をよく観察してみれば、それが分かるんだ。

 

 これはダニエル・デネットって哲学者のアイディアなんだけど……例えば、僕たちの脳は本来マルチタスクだ。人間は走りながら呼吸をしたり、眠っている間も心臓は動き続けている。考え事をしている間も血液は流れ続けて、汗もかけばのどが渇いたというシグナルを送ってきたりもする。脳はいくつものことを同時進行している。

 

 ところが思考ってのはシングルタスクなんだ。たまに、そんなことはない、私はマルチタスクだって言い張る人もいるけど、それは擬似的なマルチタスクであって、物事をぶつ切りに考えているだけにすぎない。人間はいつも一つのことしか考えられないように出来ている。一番わかり易い例は、人間の体は一つの痛みしか感じられないってことだね。骨折なんてしてしまえば、僕たちは空腹を忘れてしまう。

 

 つまり、思考ってのは本来マルチタスクの脳がシングルタスクで動く時に、創発的に生み出される現象と考えられるわけさ」

 

 なるほどマルチタスク、シングルタスクという例えはわかりやすい。確かに人間は物事を考える時、脳の色んな部分を同時並行で動かしていることが脳波測定などでもわかっている。人間の思考が創発現象だったと考えれば、それが一つしかない理由にもなる。

 

「こんな感じに、僕たちの精神世界は2つに分けられる。そして僕たち人間は、アーカーシャに記述された3つの情報でもある。その3つの情報は、僕たちが思考する時、どんな風に動いているんだろうか……ちょっと思考実験してみよう。

 

 人間が思考を開始すると、物質界の脳のシナプスが複数同時に動き出す。それはエーテル界で星が煌めくように、エーテル体がアストラル界と物質界に信号を送っているとも考えられる。

 

 そしてエーテル体によって起動された思考、つまりアストラル体が論理的な分析を開始し、時にエーテル界からイデアを参照したりしながら結論を出し、その結果をエーテル体に渡し、エーテル体が物質界の肉体に信号を送る。

 

 そう考えると、エーテル体は人間のコアのようにも思えるし、物質界とアストラル界を繋ぐ橋渡し役とも考えられる。ただしそこには人間の主観も、物理的な力も存在しない。あるのは情報をバイパスする何らかの作用だけだ。

 

 つまりアーカーシャに情報を記述するのがこのエーテル体の役割なんだ。そして恐らく、宇宙の外側にある第5粒子エネルギーを受け取っているのも、エーテル体と考えられる。

 

 さて、ここでちょっと話を変えて、眠りについて考えてみようか? 僕たちは眠っている間に思考をしない。でも、呼吸をしたり心臓は動かさないといけないから、脳はずっと動き続けている。つまり、肉体とエーテル体は常にリンクしていて離れることはない。その2つが離れる時は、肉体が滅びる時だと考えられる。

 

 それに対してアストラル体はどうだろうか? こっちは眠っている間、肉体に縛られている必要はない。実はアストラル体は、常に肉体と一緒でなくても構わないんだ。だから眠ってる時、アストラル体は肉体を離れてどこかに行っていると考えられる。

 

 逆に、眠っている間も肉体と共にある時、僕たちは夢を見ている。そして瞑想などを通じて、肉体から魂を分離することも可能だと考えられるわけだ。

 

 魔法とは、この魂の分離を利用する力なんだ。では次に現代魔法を使う時、これらの世界で何が起きているか考えてみよう。

 

 まずは共振魔法(レゾナンス)……これは術者が対象の精神に働きかけて誤認を引き起こす力だ。それには対象の思考を乱せばいいわけだから、アストラル界の中だけで事が済んでしまう。肉体とエーテル体に働きかける必要はない。だから上手くやればどんなエネルギーも必要とせず、相手を術にはめることが出来てしまう。

 

 続いて幻想具現化(ファンタジックビジョン)はどうか? こちらはアストラル体が肉体とエーテル体から離れて、直接物質界に情報を書き込んでいると考えられる。この場合、元々物質界にはなかった情報を書き加えるわけだから、術者の肉体に予め蓄積されていた第5粒子エネルギー、つまりMPが消費される。

 

 古代呪文(エンシェントスペル)もこの系統だ。この場合は外部に拡張された思考、つまりAIが幻想具現化と同じ操作を行っている。機械はMPを持つことが出来ないから、代わりに術者のMPが使用される。

 

 そして最後に、さっき君がやって見せてくれたクオリア魔法だ。これはリバースエンジニアリングをするように、アストラル体がエーテル体に働きかけて、イデアを物質界に顕現させようという力だ。この場合、エーテル体が外部から第5粒子エネルギーを調達してくるから、MPは消費されない。

 

 まあ、こんな感じで君は魔法を使っているから、アストラル体の感覚を知らないわけはないんだ。多分、まだ気づいていないだけで、とっくにその感覚は身についていると思うんだけど」

 

 難解な話の連続で、少々MP(・・)を消費し過ぎてしまった鳳は目をグルグル回しながら自信なさげに答えた。

 

「なんとなく、言ってることは分かるんですけど……やっぱりそのアストラル体の感覚ってのはわかりませんね」

「そう……残念だけど、こればっかりは自分自身で気づくよりないね。まあ、既にやってることなんだから、そのうち分かってくるでしょう。ふわっとしたコツを言えば、思考するつもりで思考しないことだ。例えば、君はあの紙を作り出した時、何を考えていた? 何も考えていなかったんじゃない?」

「……そう、かも、知れません……」

「この、感覚では知覚できない感覚を掴めばいいんだけど。僕も自分で言っててわかんなくなってきたよ。あははは」

 

 ミッシェルは自嘲気味に笑っている。鳳は下唇を噛みながら唸り声をあげた。

 

「難しいですね。頭で考えちゃいけない感じですよね。頭では分かっちゃいるんですけど……」

「そうだね。だからもう何も考えないのもいいかも知れない。瞑想をしたり、さっきサムソンくんとやってた修行を続けるのもいいかも」

「うーん……」

「後はそうだなあ……そう言えば、君はどうしてあの力を使えるようになったの? 何か切っ掛けがあったはずだけど」

「切っ掛けですか? そうですね……いや、何でか知らないけど、俺は最初からこの力を使えていたんですよね。この世界……じゃなくて、アナザーヘブン世界に連れてこられて、いきなり殺されかけて、目覚めた時には既に……」

 

 あの時は、そう、エミリアに自分の正体を告げて謝罪するまで、絶対に死ねないと思っていたのだ。だから幼い頃の彼女の夢を見て、そして目覚めたら、あの輪郭線がブレッブレの世界に飛ばされてて、何故か千代紙を握っていたのだ。今にして思えば、あそこはアストラル界だったのだろう。そう考えると、鳳のエミリアに対する執着のようなものが、これを生み出したとも考えられるが……

 

 もしくは、あの時の自分は死にものぐるいだったとも考えられる。エミリアという未練があって、それをどうにかするまでは何が何でも生きてやるのだという強い執念が、鳳をあの世界へと導いたのでは……?

 

「あれ……?」

 

 鳳はふと思い出した。

 

 そう、死にものぐるいなら、割と最近にもあった。この世界にやってきたばかりで、いきなり大海原に放り出されて、詰みかけて、嫁との約束もあるのに死ねるかと、必死になって生きようと藻掻いていた。そしたら何故か手にパンを握っていて……

 

「ああ、それだよ、それ」

 

 ミッシェルのカラッとした声が聞こえる。

 

 考えに夢中になってて周りが見えなくなっていた鳳は、その声にハッと顔を上げると、いつの間にか手のひらに何かを握っている感触があることに気がついた。

 

 恐る恐るそれを目の高さまで持ち上げてみると、そこにはあの時のパンが……何の変哲もない、ただ生地を丸めて焼いただけの丸パンがあった。

 

 鳳はそれを見た瞬間、背筋をゾクゾクとした感覚が駆け上がっていき、それが脳に達した時、脳の中で何かが開くような、そんな不思議な感触がした。

 

「今、頭の中で閃きのようなものを感じたでしょう? それが君のアストラル体の感触だよ」

 

 鳳には、今はミッシェルの言葉がすんなりと耳に入ってきていた。

 

 そうか、最初から出来ていたのか……彼は目の前のパンをじっと見つめた。そして落ち着いてもう一度さっきと同じ感覚をトレースしてみせると、笑っちゃうくらい簡単に、そのパンは2つに増えた。

 



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『再生』の真実

 カチャカチャと誰かが食卓を囲む音が聞こえる。食器がぶつかる音と笑い声、そんな人のぬくもりを感じさせるような音を聞いたのはいつぶりだろうか。神域に蟄居を命じられてから、アズラエルはずっと一人ぼっちだった。その神域を抜け出してからも、彼女の相手をしてくれるのは魔族だけで、彼らは食卓で食事をするような生き物ではなかった。

 

 だから彼女は、きっとこれは夢だなと思った。自分は夢を見ていて、半分眠った脳が覚醒を待っているのだと。そう思ったのが切っ掛けになって、彼女は実際に自分が急速に目覚めていくのを感じた。スイッチが入るかのように、体全体の筋繊維がぴくりと動きだし、脳のシナプスに電気が流れる。だが、予想に反して、彼女の耳に届くその楽しげな音は消えなかった。

 

 いつの間に眠ってしまったのだろうか……気だるい体を起こすと、彼女はベッドの上にいた。狭いミッシェルの小屋の中でただ一つの寝床を占領してしまっていたようだった。これは家主に失礼なことをしたと思いつつ背後を振り返ると、すぐ手の届く距離に食卓があって、男二人と一匹が和気あいあいと食卓を囲んでいるのが見えた。

 

「やあ、おはよう。よく眠れたかい?」

 

 アズラエルが起きたことに気づくと、家主が気さくに話しかけてきた。彼は手にパンを持ち、それをちぎっては食卓の皿のスープにつけて食べている。昨日、話した限りでは、彼はアストラル体とかいう肉体をもたない体のはずなのに、どうして食事をしているんだろう? と疑問に思っていると、腹の虫が鳴り出した。

 

 どうやらそんな疑問を思うよりも、体の方は正直なようである。食卓の中央には鍋が置かれており、そこからいい匂いが漂ってきている。

 

「起きたんなら、アズにゃんも食べたら? これからまた街に行くつもりだけど、その前に腹ごしらえしといたほうがいい」

「ああ、これはありがたい」

 

 鳳に誘われたアズラエルは素直に応じると、ベッドから降りて食卓の椅子に腰掛けた。

 

 テーブルの上には人数分の食器が置かれており、アズラエルの分もすでに用意されていた。全部、ミッシェルが街で拾ってきたものだそうだが、ずっと一人で暮らしていたはずなのに、数を揃えていたのはお得意の予言を使ったのだろうか。

 

 白い陶器の平皿の上には無骨な丸いパンがデンと乗っかっており、鳳が注いでくれたスープのお椀の両側に、ナイフとフォークが一組置かれていた。スープには多種多様な香草と、何かの肉が入っており、これだけまともな食事を拝むのはかなり久しぶりのことだった。

 

 というのも、マダガスカルはベヒモスのせいで生態系がおかしくなっているらしく、ここへ来るまで殆ど生物を見かけなかったのだ。もしもサムソンがバオバブの実を取ってきてくれなかったら、多分昆虫くらいしか食べるものは無かっただろう。

 

 アズラエルがこの肉はどうしたんだろうとしげしげ眺めていると、

 

「そのサムソンがいるから、この辺りにはベヒモスが近づかないらしいんだよ。お陰で、この辺は動物たちのシェルターみたいになってるらしくて、結構な狩場になってたんだ。そんでさっき野ネズミを捕らえて捌いといた」

「ネズミの肉か。なにもないよりマシだが……大丈夫なのか?」

「煮込んでるから平気だよ。腹に入れればただの肉さ」

「それもそうだな」

 

 天使はそもそも病気に罹らないし、物を食べずとも暫くの間は生きていられるから、どうしても嫌なら食べなくても構わないのだが、彼の好意を無碍にするのも悪いと思い、アズラエルは黙って食べることにした。

 

 ところが、覚悟していたのに、そのスープは彼女がこれまで食べてきた中でも屈指の美味さだった。どうしたらこんなに複雑な味を出せるのだろうか? ここにはろくな食材も、調味料もないだろうに……アズラエルが口に運んだスプーンをまじまじと見つめていると、

 

「どしたの? 口に合わなかったかな?」

「いや、その逆だ。とても美味しくて少々戸惑っている。これがネズミの肉の味というものなのか? だとしたら、どうして今まで食べてこなかったのか不思議なのだが」

「いや、ネズミっつーか、この辺に生えてたハーブの力だな。色々と混ぜて、くたくたになるまで煮込んであるから、それが肉の味を引き立ててるんだろう。味付けは塩しか使ってない」

「塩だけだって!? 驚いたな……」

 

 アズラエルはしげしげとスープの中を見た。塩だけでこの味が出せるなんて、とても信じられなかった。元々、この世界の人類は追い込まれていて、あまり食生活に頓着しないところがあるから淡白な味付けが多いのだが、工夫次第でこれだけ化けるのだとしたら、もう少し考えねばならないと彼女は思った。

 

 それに付け合せのパンも絶品である。見た目は素朴であるが作りたてで、生地がしっかり仕込んであるのか、ふんわりと柔らかくてこれだけいくつも食べたくなるくらい美味しかった。これが町中ならまだ分かるが、人っ子一人住んでいないマダガスカルで食べられるとは……

 

 いや、待て……アズラエルはパンを齧りながらふと思った。当たり前のようにパンを食べているが、それを作るための小麦はどこで調達したのだろうか? ミッシェルは16年前からここで暮らしているそうだから、畑を作っていても不思議ではないが、少なくともこの家の周りにそれらしきものは見当たらなかった。

 

 彼女は不思議に思って尋ねてみた。すると鳳がけろりとした顔で、

 

「ああ、それなら、ほら。こうやって現代魔法で作り出したんだよ」

 

 彼が何もない虚空からいきなりパンを取り出してみせた瞬間、アズラエルは口の中に入っていたパンを問答無用でペッと吐き出した。

 

「ぎゃっ! 汚い! なにも吐くことないじゃないか!!」

「君こそ何を考えてるんだ!? こんなものを食べさせて、体がおかしくなったらどうするつもりだ」

「いや多分、平気だろ。サムソンなんて朝からもう何十個も食べてるんだ。もしも駄目なら、今頃すでにアウトだろうから、心配するなよ」

「うほうほ」

 

 サムソンは得意げに相槌を打っている。アズラエルはうんざりしながら、

 

「私を君たちと一緒にしないで欲しい。まったく……しかし、驚いたな。現代魔法というものは、こんなことまで出来てしまうのか? この力があれば、少なくとも飢えて死ぬようなことはなくなるはずだ。こんな力が当たり前のように存在している君の世界とは、一体どんなところだったのだ?」

「いいや、アズラエル君。流石にこんなことが出来るのはごく一部の限られた人だけだよ」

 

 鳳の代わりにミッシェルが横から付け加えるように言った。

 

「タイクーンは勇者と呼ばれるだけあって才能が抜きん出ているんだ。だから普通はこんなことは出来ないんだけど……でももしかしたら、天使の君は不老長寿だから、修行を怠らなければいつかその域に達するかも知れない。よかったら、また昨日の続きをしようじゃないか」

 

 アズラエルは社交辞令ではないんだろうなと受け入れつつ、

 

「興味深いが、もしもそれまで人類が持てばの話だ……現代魔法で私が魂の分離法を習得する前に、人類が絶滅していては元も子もない。まずは早急に人口減少問題に取り組まねば。昨晩は興奮して色々尋ねてしまったが、一晩寝て少し目が冷めた気分だ」

「そう……それは残念だね。もしもその気があるなら、いつでも相談にのるんだけど」

 

 アズラエルはうずいてから、

 

「その時があれば世話になろう。今はそれよりも、この島へやって来た当初の目的を果たさねば。昨日はドミニオンから逃げられたからいいものの、これからどうすればいいものか……彼女らはもう待ち伏せなどせず、研究所の前で私が来るのを待っているはずだ。となると真正面から近づくわけにはいかないが……」

「ああ、それなら問題ないよ」

「なに?」

 

 アズラエルが頭を悩ませてると、彼女が残したパンをちぎりながら鳳が言った。

 

「寝起きにも言ったじゃないか。これから街へ行くつもりだって。君の言う通りドミニオンは街に陣取っているだろうけど、なんつーか、もう気にする必要はないんだ」

「どうしてだ……?」

「そりゃもう、現代魔法の専門家がいるからね」

 

 鳳はそう言ってミッシェルのことを指差した。

 

******************************

 

 日が暮れるのを待ってから、4人は森から出て街に入った。

 

 アズラエルの予想通り、昨日捜索を打ち切ったドミニオンたちは、方針を替えて今度は街の中で網を張るようになっていた。街に入ってすぐの大通りには、彼女らの乗ってきた車両で簡易的な検問所が作られており、気づかれずにそこを抜けるには不可能のようだった。

 

 昨日はいきなり大人数で襲ってきたから、どうやってここまで辿り着いたのかと思っていたが……ドミニオンたちは、どうやら鳳たちとは違って東側からジャングルを突破するルートではなく、島をぐるりと迂回して、西側から車で登って来るルートを通ったようである。確かにこっちのほうが道がなだらかでアクセスもしやすいだろうが、ベヒモスと遭遇する可能性も高いから相当な賭けに出たのは間違いなかった。

 

 つまり、そんな賭けをしてまで行った奇襲が不発に終わってしまったからか、今日の部隊にはかなりピリピリとした空気が漂っていた。どの隊員も顔が険しく、触れれば切れるナイフのようだった。もしこの中に突っ込んでいっても、聞く耳を持たないだろうし、ろくな目にも遭わないだろうから、アズラエルは別の入口を探すべきだと主張したが、鳳もミッシェルもまるで意に介さずに、そのまま検問の方へと歩いていってしまった。

 

 一体何のつもりだと驚きはしたものの、置いていかれるわけにもいかないので渋々その後に続いたのであるが……検問所まで来たアズラエルがギュッと目をつぶってドミニオンたちの前に出ていっても、不思議なことに彼女らは全く気がつくことなく、彼女はあれよあれよとその横を通り過ぎてしまった。

 

「な、何だこれは? これも現代魔法なのか?」

「認識阻害の魔法だよ。俺は不得意なんだけど、ミッシェルさんの方はもう、これが本職ってくらいのエキスパートだ」

 

 こんな便利な力まであるとは……アズラエルは、すぐ横を通り過ぎたのに、まったく気づかずに警戒を続けているドミニオンたちを見ながらため息を吐いた。

 

「もしかして、神域にルシフェルたちが突然現れたのも、この力を使っていたのだろうか?」

「ん……? ああ、そうかもね。あの三人はP99(きかい)の力を借りずに必殺技とか使ってたから、現代魔法もそこそこ出来たはずだよ。つーか、天使には元々そういう力があるのかなと思ってたんだけど、そうじゃないんだな」

 

 そんな話をしながら大通りを通り抜け、町外れの少し丘になった区画へたどり着くと、そこにはまた先程と同じような検問所があった。

 

 ただし、あっちと違ってこっちの方は人数が少なく、より厳選されているように見えた。何故そう思うのかと言えば、そこにジャンヌがいたからだ。彼女は車両の前に置かれた椅子にどっしりと腰掛け、魔剣フィエルボワを地面に突き立て、その頭に手を乗せつつ、じろりと睨みつけるように周囲の気配を探っていた。

 

 その殺気に触れるだけでも、死んでしまいそうなくらいの緊張感が漂っていたが、悲しいかな、そんな殺伐としたジャンヌの横を、へらへらした表情のミッシェルが通り過ぎていく……いくら彼女が気を張っても、ミッシェルの認識阻害を破ることは出来ないのだ。

 

 そんなミッシェルに続いて鬼の前を通り過ぎ、建物に近づいていくと今度は瑠璃の姿が見えた。彼女は武器を奪われたりはしていないようだが、明らかに戦力と見做されていないようで、一人だけ離れた場所でぽつんと肩身を狭そうにしていた。あの時、やっぱり無理矢理にでも海岸に置いてくればよかったのかな……と思いつつ、その前を通り過ぎて建物内に入る。

 

 アズラエルの目的地……メルクリウス研究所は、なんというか昭和に建てられた公共施設みたいに、やたらと柱が太くて妙に天井が低い鉄筋コンクリートの建物だった。頑丈なせいか、この廃墟の街にあってもほぼ無傷で、当時の原型をそのまま留めているようだった。

 

 その天井の低さのせいか窓が小さく、採光に難があって暗くてよく見えなかったが、元研究員であるアズラエルには住み慣れた我が家みたいで、暗い廊下を苦もなくずんずん進んでいく背中はなんとも頼もしかった。

 

 案内なしでは建物内を調べるのも一苦労だったろうなとその背中を追いかけていると、突然、サムソンがうほうほ言い出して来た道を戻り始めてしまった。どうしたんだろう? と見守っているとミッシェルが、

 

「どうやらジャンヌ君がいる外の方が気になるみたいだね」

「ありゃま……野性の衝動に負けちまったか。半分魔族みたいなもんだからかな」

「もうここまで来たらちょっとやそっとじゃ見つからないと思うし、僕は彼の面倒を見ることにするよ」

「わかりました」

 

 鳳たちは二手に分かれて先に進んだ。

 

 今度は認識阻害がかかってないから、足音を潜めて慎重に……と言っても、後はアズラエルがかつての自分の研究室に行くだけなので、その後は特に何事もなく、目的地にあっけなくにたどり着いてしまった。

 

 階段を上がって5階まで進み、窓ガラスが割れてしまってびゅーびゅー風が吹き付ける廊下を進んでいくと、廊下の奥まった場所で彼女は立ち止まった。そして暫くの間懐かしそうな目で扉を見つめてから、すぐに気を取り直したように扉をくぐって室内に入っていった。鳳も、出来ればケーリュケイオンの手がかりを探したいところだったが、一人では無理そうなので彼女の後に続いて中に入る。

 

 その室内は廊下よりももっと薄暗かった。なんとなく太陽の方角を向いていそうなイメージがあったが、どうやら研究資料などが日焼けしないように、陽の光を避けて作られているようだった。部屋自体も頑丈に作られているせいか、16年経っても窓ガラスまでしっかりと残っており、カーテンを閉めれば外から中は見えなくなった。

 

 アズラエルは窓を閉め扉も閉めると、真っ暗な部屋の中でランプを点けた。仄暗い部屋の中で、彼女は自分の机をごそごそと漁りだす……

 

「俺にも手伝えることあるかな?」

「ふむ……特に無いな。暇なら外を見張っててくれても構わないが」

 

 手持ち無沙汰の鳳が尋ねるも、アズラエルはそうあっさり返してきた。それはそれで暇そうだから、彼は肩を竦めて部屋の壁に背を持たれかけると、机の引き出しを漁ったり、棚の中を手探りしたり、恐らくは冷蔵庫だったであろう箱の中から何か異様に臭うものを取り出したりしている彼女に向かって尋ねた。

 

「どう? 目的のものは見つかりそう?」

 

 彼女は難しい顔で何かの書類を眺めながら、ため息混じりのトーンで答えた。

 

「残念だが……少なくともこの部屋の物はもう駄目なようだ。他の研究室にまだ状態の良いサンプルが残っていないか、これから探しに行くつもりだが……恐らく無駄だろうな。私の研究は、ある意味邪道だったから」

「ふーん、そりゃあ残念だな……」

「まったくだ……」

 

 アズラエルはそんな具合に淡々と答えていたが、その間もずっと机を探る手が動き続けているところを見るからに、まだ諦めてはいないようだった。鳳は、それならやっぱり自分も手伝ったほうがいいだろうと、壁から背を離し彼女へ向かって歩きながら聞いてみた。

 

「そういやあ、聞いてなかったけど、アズにゃんってここに何を探しに来たの?」

「精子だ」

「……へ?」

 

 鳳がぽかんとして聞き返すと、アズラエルは言ってなかったか? と言わんばかりに眉を上げ目を丸くしながら、

 

「人間の精子を探しに来たのだ……そうか。これは禁忌だから、君にもまだ言ってなかったな……

 

 以前にも話したが、私はかつて『再生』と称し、神域の機械で人間のクローンを作るという役目を負っていた。だがいつもお役目があるわけでもなく、平時はここで人間の生殖を研究していたのだよ。

 

 性別のない天使と、女性しか存在しない私たち現代人には生殖の知識がない。ただ畜産農家が家畜の交尾を行っているから、自分たちもかつてはそういう方法で繁殖していたであろうことは我々も想像がついていた。だが、具体的にどうやるのか調べようとする者はいなかった。人間にはオスがいないのだから当然だろう。

 

 しかし、私は再生を司る天使であったから興味があった。それで、再生の時に使われる胚細胞を研究材料として調べていくうちに、神は再生……人間のクローンを創造する際に、検体の細胞を一から培養するのではなく、予め用意されていた父母の生殖細胞を使って、単に人工授精しているのだということに気づいたのだ。

 

 なんてことはない。減数分裂した生殖細胞を一から作り出すのは困難なので、神はストックしておいた両親の生殖細胞を使って、クローンを人工授精で作り出していただけだったんだ。

 

 考えてみれば当たり前のことだな。『再生』とは『復活』のことではなく、また新たに赤ん坊として『生まれ変わる』ことだったのだから。人間は永遠の命なんて持ってはおらず、再生とは、単に老いぼれて役に立たなくなった人間を殺して、同じDNAを持った赤ん坊を新たに作り出していただけだったのだ。

 

 ……ともあれ、私はこうしてこの世界の秘密を暴いてしまった。言うまでもなく、それは禁忌だったから、私はこのことを公表はせずにずっと胸の内に封印していた。そしてそんなストレスから逃れるために、私はより研究に没頭するようになっていった。

 

 新たな研究材料もすぐに見つかった。そこに男女の生殖細胞があるのなら、それを研究しない理由はない。そうして私は『再生』を行う機械から精子(サンプル)をいくつか取り出して、ここで調べていたのだよ。

 

 それは純粋に探究心だけだったのだが……今、もしそのサンプルが残っていたら、人口減少問題はたちどころに解決しただろう。どうせ私は裏切り者としていつ処分されてもおかしくはない身の上。だったらいっそのこと、今までの罪を告白して、少しでも人類の役に立てればと思ってここまで来たのだが……

 

 16年も経っていれば、こうなるのが必然だ……サンプルが残ってるわけがない。そんなこと、分かっていただろうに、何故、私はすぐに動かなかったのだろうか。私は、なんて愚かなことをしたんだろうか……」

 

 アズラエルはそう言って、両手に顔を埋めて黙ってしまった。その肩が少し揺れ動いているのは、もしかして泣いているからだろうか。小さな少女が蹲って悲嘆に暮れる様は、なんとも痛々しくて見ていられなかった。

 

 しかし鳳はそんな彼女のことを、口を半開きにして呆然と見下ろしていた。それは落胆している彼女になんて声をかけて良いのかわからなくて……ではなく、こいつは何をトンチンカンなことを言ってるんだ? と呆れ返っていたからだった。

 

 何故なら、精子なら目の前にいくらでもあるではないか。

 

 何もこんなとこまで取りに来なくても、一言言ってくれれば、その辺の草陰でシコシコピュッと出してやっても良かったのだ。そしたら3億くらいすぐ手に入ったろうに。なのに、なんでこんな危険を冒してこんなとこまでやってきたのだろうか……? 鳳は呆れ果てて何も言えなかった。

 

 だが、それも仕方なかったのだろう。さっきアズラエルも言ったとおり、この世界の人間には女性(・・)しか存在しないのだ。つまり、彼女は人間の男性(・・)を見たことが無かったのだ。だからきっと彼女は鳳のことを見ても、なんかゴツい女だなとしか思っていなかった。サムソンが鳳と交尾したがっていると言った時も、そういうつもりだったのだ。ホモなんて概念は、そもそもこの世界には存在しないのだ。

 

 鳳はため息混じりに口を開いた。

 

「アズにゃん、あのさあ……」

「どうした?」

 

 鳳が声をかける。アズラエルが顔を上げる。その瞳はほんの少し潤んでいて、彼女が涙を我慢しているのが嫌でもわかった。だから鳳はすぐにでも彼女を喜ばしてやりたかったのだが……しかし、口を開きかけたところで彼はまた固まってしまった。

 

 彼女は、その精子を使って何をするつもりだ?

 

 言うまでもない。鳳の精子を使って、減りすぎてしまった人間の繁殖を行うのだ。それはつまり、自分の子孫が爆発的に増えるって事だろう。浮気とはいわないが……そんなことを嫁たちが許してくれるだろうか。それに、次に子供を作るならアリスとだって約束してきたのだ。その約束を反故にするわけにはいかないだろう。

 

 いや、嫁のせいにするのはやめよう。鳳自身、なんか嫌だったのだ。

 

 そうして、自分の子供たちがわーっと増えたとして、その後一体どうなるというんだ? 生まれてきた子供たちは相変わらず魔族に脅かされる世界で暮らしていて、もしかしたら死ぬかも知れない戦いに駆り出されるのだ。そしてまた生まれてきた子供たちの生殖細胞を使って、天使たちは人口を統制しながら人間社会を管理し続けるのだろう。

 

 人口減少問題が解決したところで、魔族との戦いは終わらないのだ。そんな世界に生まれてきて、子供たちは幸せなのだろうか? 果たして自分たちの父親のことを、恨まずにいられるだろうか?

 

「これで……人口出産の道は途絶えたか。残念だが、私はこれからドミニオンに投降し、大人しくパースに帰るとするよ。これだけの騒ぎを起こしたのだから、きっとミカエルは私のことを許さないだろうな」

 

 アズラエルは自虐的に笑っている。恐らく、これが今生の別れと思うと、その笑みがなんとも儚げに映った。

 

「本当なら、君の手伝いをしてあげたかったのだが……すまない。天使からも、人間からの信用も失った私にはもう、何をしてあげることも出来ないだろう」

 

 アズラエルは完全に元気を失っている。鳳は、本当ならすぐにでも彼女を元気づけることが出来ると知りながら、黙っていることに罪悪感を覚えながら、空々しく言った。

 

「俺のことなんていいから、元気出せよ。もしかしたら、諦めるのはまだ早いかも知れないぜ? ほら……ルリルリも言ってたけど、確か君は一度は人工出産に成功してるんだろ? だったら、もう一度改良してチャレンジしてみたらいいじゃんか」

「いや、それは無理なんだ」

「どうして? やる前から諦めるなんてらしくないじゃないか」

「だから無理なんだ!」

 

 鳳がそれでもしつこくチャレンジしろと言うと、アズラエルは珍しく感情を露わにして拒絶した。ミッシェルの認識阻害がかかってない状況で、こんな大声を出してしまったら、下手をすればドミニオンに気づかれてしまうだろう。彼女はすぐにその事に気づいて、バツが悪そうに口を噤んだが、その表情は青ざめていて、何かに追い詰められている、そんな感じがした。

 

 一体、何があったのだろうか。問いただしたところで、余計に彼女を追い詰めるだけだろう。だから鳳が黙って彼女の様子を窺っていると、やがてアズラエルは観念したかのように、誰に話しかけるともなく、まるで懺悔するかのごとく、ポツリとその言葉を口にした。

 

「私の人工出産法とは……魔族の精液を使うことだったんだ」

「……え?」

「私は、人間のものであると偽って、魔族の精液を使って人工出産する方法を模索していたんだ。それは一見、はじめは上手く行ってるように見えた。だが、時がたつに連れてやはり問題があることが分かってきたのだ。生まれてきた子供たちはやがて魔族の影響を受けておかしくなっていった。だから私は……無辜の母親たちから、彼女たちの最愛の子供を奪わねばならなくなったんだ」

 



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罪と罰

「普通、生物の異種族間での生殖は不可能だ。生物の遺伝子は進化の過程で突然変異を繰り返し、生殖細胞におよそ1%の違いが生まれたあたりで別種となり、そうなるともう生殖が出来なくなる。いくら遺伝的に近くても、人間とチンパンジーの間で子供が産まれないようなものだ。

 

 ところが魔族は種族が全然違っても子供を作ることが出来る。コボルトがゴブリンを孕ませたり、オアンネスがオークを生んだり、魔族に襲われた人間が魔族を生むこともある。つまり、まったく違って見えても、魔族という生き物は、どの種族も遺伝子的に1%も変わらないんだ。そしてそれは、魔族と人間の間にも成立している。

 

 私はそれに目をつけた。遺伝子が1%も違わないのであれば、もしかしたら魔族の精液を使って、安全に人間を出産する方法があるのではないかと考えたのだ……」

 

 アズラエルの告白は唐突に始まった。神域に蟄居を命じられていた彼女が何をやったのかは、これまで一緒に旅してきた中で断片的には聞いていたが、そのもっとも肝心な部分は何も知らされていなかった。それは彼女との旅を通じて、その人柄や性格を知るにつけ、必要ないと思って聞いてこなかったからだが……まさかそれが魔族と人間の生殖に関わることだとは思ってもみなかった。

 

 彼女は何故ボロボロなのか。どうして守護すべき人間に忌み嫌われているのか。そして、なんで生まれてきた赤ん坊を殺してしまったのか。その理由は全て、魔族という種族の奇妙な繁殖力が原因だったのだ。

 

「魔族の出産にはおかしな偏りが見られる。いま言ったとおり、魔族は他種族間で子供を作ることが出来るが、あるオスが他種族のメスを孕ます時、そのメスは必ずオスと同種の種族を出産する。例えば、オークに犯されたオアンネスは、必ずオークを出産するといった具合に。

 

 これは同じ減数分裂して半数ずつの遺伝子を出し合う生物としては不可解だ。考えられることは、受精の段階で産み分けを行うように、胚細胞の中で何かエピジェネティックな変化が起きているのだろう」

 

「エピジェネティック?」

 

 鳳が問い返す。アズラエルは海岸で見つけたときのように、体育座りをして小さく丸まりながら、

 

「まず確認しておくが、ゲノムとはその生物を形成するための情報(・・)のことで、DNAとはその遺伝情報を格納する化学物質(・・・・)のことだ。遺伝子というのはその全体と考えて欲しい。それを踏まえて……

 

 生物の体というものは、ゲノムの情報だけを静的に受け継いで、何もかもが形成されているわけじゃない。ゲノムというのはその生物を作る設計図なだけであって、実は産まれてから死ぬまでの間に、環境の影響を受けて遺伝子は変化し続けている。

 

 例えば、人間の全ての細胞核には全く同じ遺伝子が入っているわけだが、皮膚と髪の毛の細胞は見た目から何から明らかに違うだろう。この違いがどうやって生まれるのかと考えれば、皮膚を作る時と髪の毛を作る時とで、DNAに何らかの変化が起こって無ければおかしいはずだ。しかし、実際に両細胞を取ってきてゲノムを調べてもどこには変化は見当たらなかった。つまり、それ以外のどこかに、皮膚と髪の毛の違いを作る情報があるわけだ。

 

 それが何かと言えば、主にDNAのメチル化とヒストンのアセチル化というのが、遺伝子に起こっているのだ。遺伝子はDNAにそういう修飾(・・)を施して、特定の細胞を作っている。具体的には、あるアミノ酸を作る量を減らして、代わりに別のアミノ酸を増やそうといった感じに。

 

 私たちの体はそうやって日々変化し続けている。このゲノム以外の遺伝情報である、DNAの修飾のことをエピジェネティクスと呼んでいるのだ」

 

「へえ……そうなんだ」

 

 鳳はいきなり始まった遺伝子学の講義に少々面食らいながら、合いの手を入れた。

 

「その、エピジェネティクス? と、魔族同士の生殖と、どう関係があるの?」

「君は人間と魔族の根本的な違いはなんだと思う?」

「え? うーん……攻撃性かな?」

「まあ、それも確かだが……もっと具体的に。私は人間はダーウィン的進化、魔族はラマルク的進化をする生物だと考えているんだ」

「ラマルク……」

 

 アズラエルはじっと床を見つめながら黙って頷くと、

 

「進化論というのはダーウィンが言い出したことではない。実は彼が種の起源を発表するよりずっと前にラマルクが提唱したものだった。そもそも当時の人々は、自分たちが猿から進化したのではないか? ということに、既に薄々勘付いていたのだ。

 

 産業革命当初、イギリスの主産業は毛織物だったが、経済人である彼らは儲けを多くするために、羊の品種改良を当たり前のように行っていた。より毛を多くつける羊同士で交配すれば、同じように毛をたくさんつける子羊が産まれやすい。人間だって親子はそっくりなことが多いのだから、これと似たようなことが起きているんじゃないかと言うことは、誰でも想像がつくことだったのだよ。

 

 なのに、ラマルクの進化論が無視されてきたのは、その内容が間違っていたからだ。ダーウィンが突然変異と自然選択で生物の進化というものを上手に説明したのに対し、ラマルクは用不用説を説いていた。

 

 用不用説とは、要するに、親の獲得形質が子に遺伝するというものだ。よく挙げられるのはキリンの例だが、キリンという動物は元々は他の動物のように首が短かったのだが、木の上の方の葉っぱを食べるには首が長いほうが有利だ。だからキリンは首を伸ばそう伸ばそうといつも背伸びをしていたため、何代か世代を経た後に、首の長い子供が産まれてきた。そういう考えだ。

 

 しかし、そう考えると親が筋トレをして筋肉がムキムキになったら、子供も筋肉ムキムキで生まれてこなければおかしいだろう。もしくは、成長して筋肉がムキムキになる体質でなければおかしいわけだが、そういう現象は確認されていない。だからラマルクの説は間違いだったわけだが……

 

 魔族という種族は、正にこのラマルク的な進化をする種族と呼べるんじゃないか?」

 

「ははあ、確かにそうかも知れないな……」

 

 魔族は筋トレをしたりはしないが、代わりに他種族を食べるか殺害することによって、その獲得形質を奪うという特徴があった。それは自然にはあり得ない、人工進化の賜物だ。

 

「魔族は人工的な手法によって、ラマルク的進化をするようになった人類と考えられる。ところで具体的に、どうやったらそんなことが出来るのだろうか……? 先程エピジェネティクスについて触れたが、魔族は他種族を食べることで、その種族が持つ獲得形質をエピジェネティックに奪っていると考えれば、それは可能じゃないか。

 

 つまり、魔族はゲノムを書き換えるのではなく、DNAの修飾のみに頼って、種の多様性を生み出しているのだ。そう考えれば、人間との間にも子が作れる理由が分かる。あれは見た目は大違いだが、ゲノム的には人間と殆ど何も変わらないのだ」

 

 なるほど、そういうことか……鳳が感心していると、アズラエルは続けてこんなことを尋ねてきた。

 

「ところで、君はケッテイとラバという動物のことを知っているか?」

「ああ、それなら知ってる。馬とロバの間の子のことだろ?」

 

 以前、大森林の中でレオナルドと話をしたことがあった。馬とロバは生物学的には、ごく最近に別れた種で、DNAが近いから交配が可能というやつだ。ところが、オスの馬と雌のロバを交配するか、メスの馬と雄のロバを交配するかで、産まれてくる子供の姿や性格はまるで違う。

 

「オスの馬と雌のロバを交配したケッテイは、見た目はポニーのようにズングリムックリで気性が荒く、殆ど人間の言うことを聞かない。だから経済動物としては最悪で、殆ど作られることはなかった。対して、メスの馬と雄のロバを交配したラバは、体はロバよりも大きくて耐久力に富み、さらに気性も大人しい。だから自動車がなかった時代は重宝され、高額で取り引きされていた。

 

 両親の雌雄を逆にしただけで、どうしてここまで産まれてくる子供に違いが出るのだろうか……?

 

 受精卵というものは、オスの精子とメスの卵子が結合して作られる。故に、受精卵には父親由来と母親由来の、2つの核が存在することになる。ミトコンドリアを除けば、普通、細胞内には一つの核しか存在しないはずなのだが、実は生命は、発生直後にだけ細胞内に2つの核を持っているんだ。

 

 そしてその2つの核は、初期の細胞分裂である卵割が始まると、父親由来のものは除外されて、母親由来のものだけがコピーされていくのだが……ケッテイとラバがこれだけ違うということは、その消されたはずの父親由来の核に、その後の成長を決定づける何らかの情報が含まれていたと考えられるわけだ。

 

 つまり、生まれてくる魔族が父親の方の種族に偏っているのは、受精卵の時点でそうするように、遺伝子が仕組んでいるからなのだ。となると、逆に考えれば、受精卵の時点であれば、遺伝子を操作することによって、後に生まれてくる種族を操作することが可能かも知れない。

 

 私はそういう仮説を立てて、魔族の生殖細胞を研究し始めた。そしてついに、父親の種族になるように命じている遺伝情報をディスコードすることに成功した……と思っていたのだが……」

 

 アズラエルはその時のことを思い出しているだろうか、ぼんやりとした視線で床を見つめたまま動かなくなってしまった。鳳はたっぷり1分以上待ってから、この張り詰めた空気を打ち払うように、ぽつりと、でもはっきりと聞いた。

 

「……駄目だったのか?」

 

 アズラエルはそれでもまだ暫く動かなかったが、やがて呼吸を忘れていたのを思い出したかのように、ゆっくり、そして長い長い息を吐き出すと、彼女には珍しく感情的な様子で額に手を当てながら続けた。

 

「上手くいくと思ったんだ……実際、最初は上手くいっていた。生まれてきた赤ん坊は、ちゃんとみんな人間の嬰児で、遺伝子にも何も異常はないと思われた。

 

 ただ……動物には変体というものがあるだろう? 昆虫は成長するに従って、卵、幼虫、サナギ、成虫と体が変化していく。幼虫と成虫ではもう全然別の生き物だ。人間にもその名残りのような、成長期というものがある。

 

 つまり……生まれてきた赤ん坊は、最初は人間だったのだが、幼年期に差し掛かると急激に体が変化しはじめ……魔族になってしまったんだ」

 

「ああ……」

 

 なんてことだ……鳳はその結末を知って何も言えず、ただため息しか出なかった。彼は彼女に同情した。だが、彼女の苦しみはそんな程度では済まなかっただろう。何しろ、彼女はただ結果を知って落胆していればいいわけではなく、自分のしたことに幕引きをしなければいけない立場だったのだから。

 

「最初の子供が魔族に変わった時、その母親は自分の子だとは気づかずに、半狂乱になってその子を殺してしまった。魔族が相手なのだから当然の処置だったろう。しかし、母親にとってその魔族は、自分のお腹を痛めて産んだ子供だったのだ。その事実を知った母親は、その後自分のしたことに耐えきれなくなり、精神崩壊してしまった。

 

 私は対応を迫られた……神域は事態を重く受け止め、動揺が広がらない内に早く幕を引けと言ってきた。私もそうすべきだと思っていた。だが、ようやく生まれてきた子供たちだ。もしかしたら、最初の子はたまたまかも知れないと、私は少ない望みに賭けてしまった……

 

 結果は言うまでもないだろう。二人目の犠牲者が出たところで、私は自らの手で幕を引くしか選択肢が残されていなかった。

 

 私は、母親たちに希望を見せるだけ見せておきながら、ある日突然、その希望を全て奪い取ってしまったのだよ。人類の私に対する憎しみは当然だ。自分の子供を失った母親たちの悲しみが癒やされることは決してないだろう……全て、私が起こしてしまったことなのだ……全て、私の責任だ……」

 

 そう言って項垂れてしまったアズラエルに対し、鳳は掛ける言葉が見つからなかった。何を言っても慰めにもならないだろうし、そんな偽善すら思いつけないほど、アズラエルの悔恨は救いが殆どなかった。

 

 人類は追い詰められ、絶滅への道をひた走っている。そんな中で生まれてきた赤ちゃんは、その母親たちだけではなく、人類全体への希望の光となったはずだ。そんな人々の希望を、アズラエルはある日突然、なかったことにしてしまったのだ。一度希望を見出した人からすれば、理不尽にしか思えないだろう。母親たちはきっと半狂乱になったに違いない。

 

 きっと人々は、アズラエルのことを悪魔としか思えなかっただろう。

 

 しかし、それは間違いなのだ。彼女の行動は全て善意から出たものだった。アズラエルはこれっぽっちも誰かを傷つけようとしていたわけじゃない。寧ろひたむきに人類を救おうとしていただけなのだ。

 

 それにもしも彼女が手を下さなければ、魔族になった赤ん坊は、一体誰が始末していたのだろうか? 母親たちの中には、魔族といえども子供は殺せないという者もいただろう。そうなった時、人類は魔族になったその赤ん坊を受け入れることが出来たのだろうか。恐らく、出来なかっただろう。当事者を除けば、それは他人事に過ぎないのだから

 

 ドミニオンの少女たちがアズラエルのことを容赦なく傷つける。鳳は、彼女はどうして抵抗しないんだと不思議に思っていた。その理由が分かった気がする。彼女は言い訳をすることも出来ず、甘んじてそれを受け入れるしかなかったのだ。

 

 あんまりな話だ……

 

 ここまで人類に尽くしてきた彼女なのだから、ようやく生まれてきた赤ん坊は、彼女にしても自分の子供みたいに可愛かったに違いないだろう。彼女だって赤ん坊に手をかけたくは無かったろうに、他に出来るものがいなかったから、彼女が責任を取る形でそうしたのだ。そして何の言い訳もせずに、ただ四方八方からの中傷を耐え続けている。こっちのほうが、よっぽど理不尽ではないか。

 

 神域を抜け出して、マダガスカルまでやって来たのも、人々を救うためだったのだ。最後の望みを賭けて、ここに精液が残っていないかと……オーストラリアから何千キロも筏に乗って、普通に考えれば馬鹿げているのはすぐわかるだろうに、彼女はそこまで追い詰められていたのだ……

 

「ん……?」

 

 追い詰められて……? 筏に乗って何千キロも?

 

 普通に考えてそんなことは不可能だ。でも彼女はそれを可能にした。どうやって?

 

 もしかして……あの筏を引っ張ってた魔族ってのは……

 

「なあ、アズにゃん?」

 

 鳳が、彼女に話しかけようとした時だった。

 

 ズズンッッ!!!

 

 ……っと、ものすごい振動音が聞こえて、続いてグラグラと建物が揺れ始めた。廃墟同然とは言え、あの頑丈な建物がこれだけ揺れるとは驚きである。二人とも最初は地震かな? と思ったが、どうも様子が違っている。

 

 するとまた遠くの方から、ズシンズシンと振動音が立て続けに聞こえてきた。

 

「なんだ? 何が起きてんだ?」

 

 鳳は一応そう言ってはみたものの、その音の正体には既に勘付いていた。

 

「これは……君、早く外に出たほうがいい!」

 

 そう言って飛び出していったアズラエルの後に続いて、鳳も部屋から飛び出した。二人は狭い廊下を抜け、階段の踊り場までやってくると、窓ガラスが抜けて枠だけになってしまった窓の外を見た。

 

 すると街の外側の何もなかった広場に、何故か急に、ビルみたいに大きなものがニョキッと聳え立っているのが見えた。

 

 月明かりに照らされて、巨大なカバのようなシルエットが浮かんでいる……鳳はそれを一度見たことがあった。元の世界のニューアムステルダムを突如襲った災厄。それは魔王ベヒモスの姿で間違いなかった。

 



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捕食するものとされるもの

 迂闊だった……ジャンヌは舌打ちをしながら暗い夜道をひた走っていた。

 

 前日、万全を期して奇襲をかけたにも関わらず、アズラエル達を逃してしまったドミニオンは、今度こそ手配者たちを逃すまいと、気合を入れ直して街の警備にあたっていた。

 

 昨日は彼らを一網打尽にしようとして、一箇所に隠れて待ち構えていたが、今度は逆にコソコソと隠れて近づいてくるであろう彼らのことを、水を漏らさぬ構えで迎え撃とうとして、ジャンヌは隊員を街中に配置していた。

 

 そして二交代制で24時間見張りを続け、自分はアズラエルの目的地であろう研究所の前で、どっしりと構えていたわけだが……

 

 そんなところへ、突然、街の外を警戒している部隊から連絡が入った。砂煙を上げながら、この街に向かって走ってくる何か巨大な影があると。

 

 魔王ベヒモス……

 

 普段なら絶対に警戒を怠らないのだが、島に入ってからだいぶ時間が経過しており、今は手配者たちを優先するあまり、ベヒモスへの対応を疎かにしすぎてしまったようだった。

 

 しかも最悪なことに隊員の報告によれば、ベヒモスの到着予想時刻は思った以上に早そうだった。あれだけの巨体だから、普通なら数十キロ先からでも移動の痕跡に気づけるはずなのだが、今回は街の中を警戒するあまり高所に配置する人員が少なくなりすぎて、対応が遅れてしまったのだ。

 

 隊員の報告ではベヒモスの位置は既に街まで10キロを切っており、その速さを考慮すると、到着するまでもう10分もかからないだろう。

 

 撤退するなら、今すぐにでも車を飛ばして街から離れなければならなかった。ベヒモスは意外と鼻が良いが、目はそれほどでもないらしい。だから草木や小動物などの臭いで紛れる森の中なら逃げ切れる可能性もあったが、こんな人工物しかない町中では見つけてくださいと言ってるようなものだった。

 

 アズラエル、プロテスタント、そして魔王ベヒモス。全て人類の敵ではあるが、今回は優先順位を間違えてしまったようだ……

 

 ともあれ、後悔していても仕方がない。ジャンヌは研究所前にいた隊員たちを集めると、ギリギリまで彼女の帰りを待ってから撤退するよう指示して、自分はベヒモスが近づいてきているという、街の外の検問所の方へと向かった。

 

「お供します!」

 

 するとそんな彼女の後に瑠璃が続き、彼女の友人である琥珀と桔梗がすかさずついてきた。命令違反だが、今はそんなことを諭している場合ではない。

 

「遅れたら容赦なく置いていくわよ、いいわね!」

 

 ジャンヌは振り返りもせずそう言い放つと、彼女らを引き連れて廃墟の街を駆け続けた。

 

 ドドドド……

 

 街の遠くの方から地響きが近づいてくるのが嫌でも分かるようになってきた。山のようなシルエットが段々と大きくなっていく。月のある晩で良かった。もしも月がなかったら、その音だけが聞こえてきて、隊員たちはパニックになっていただろう。

 

 もっとも、見えるからと言って恐怖が緩和されるわけではない。人によっては寧ろ具体的な物が見えていた方が、死というものを連想させて恐怖を覚えるかも知れない。

 

 ドドドドドドドドド……

 

 音がどんどん大きく、そして近くなっていた。その巨大なシルエットが、もはや月まで覆い隠さんとし始めたころ、前方から悲鳴が上がった。

 

 街の入口で検問を敷いていた部隊の者たちが、車両に乗って引き上げてくる。乗り切れなかった隊員たちが、半狂乱になりながらその後を追いかけている。その向こう側には、もはや左右に立ち並ぶビルよりも大きくなった生物のシルエットが浮かんでいて……

 

 ドンッッッ!!!

 

 地響きが轟き地面がグラグラと揺れた。ついに街に到達したベヒモスは、そこに美味しそうな餌を見つけると、興奮気味に鼻息を鳴らした。その突風のような鼻息が大通りの瓦礫を豪快に吹き飛ばし、つむじ風が舞いあがる。

 

「きゃあああああああーーーーーっっ!!」

 

 徒歩で逃げていた隊員達が突風に巻き込まれ地面に転がった。ベヒモスはそんなご馳走を前に悠長に舌なめずりなどはせず、家一軒まるごと食べてしまいそうなくらい巨大な口を開けると、あんぐりと一口に飲み込んでしまった。

 

「やだやだぁーーっ! 死にたくない! 死にたくないっ!! やだああああーーーーっっ!!」

 

 ベヒモスの巨大の口の中からそんなくぐもった悲鳴が上がり、続いてバキバキという背筋が凍るような咀嚼音が聞こえた後、やがてその声は聞こえなくなっていった。

 

「ごめんなさい! ごめんなさいっ!!」

 

 通りすがる車両の中からすすり泣く声が聞こえてくる。彼女らはジャンヌの姿を見つけると、一瞬だけ後ろめたそうな表情を見せたが、スピードを落とすこと無くそのまま通り過ぎていった。

 

 その判断は正しい、ここに残っても要らぬ犠牲を増やすだけだ。ジャンヌは怒りの矛先を間違えてはいけないと自分に言い聞かせた。まだ生き残っている隊員もいるはずだ。彼女らを助けるためにも、ここは自分が踏ん張らねば……!

 

「紫電一閃っ!!」

 

 彼女は怒りに任せて剣を振り払った。斬撃が虚空を切り裂き、ベヒモスの鼻っ面にぶつかり、ドンッ! と大きな音を立てる。

 

 暗闇から突然飛んできた見えない斬撃をもろに食らったベヒモスの顎が上がり、血しぶきが舞った。尤も、その殆どは魔王の血ではなく、口の中でバラバラにされた隊員たちの血液だった。

 

 バシャバシャと土砂降りのような血液が降り注ぎ、続いてぼたぼたと千切れ飛んだ隊員達の四肢が落っこちてくると、またあちこちから悲鳴が上がった。ベヒモスの口からどうにか逃れて、ビルの影などに隠れている生き残りがいるのだ。

 

「瑠璃! 琥珀! 桔梗! 生き残った隊員たちの救助に当たれ!」

 

 ジャンヌは振り返らずにそう叫ぶと、裂帛の気合を込めて巨大生物へと突撃していった。

 

「快刀乱麻!」

 

 ゴンッ! っと鼻っ柱に剣を叩きつける音が鳴り響いて、骨格にダメージを受けたベヒモスがくぐもった悲鳴を上げる。ジャンヌはその勢いのまま魔王の頭の上に飛び乗ると、ビルの5階ほどの高さもあるその巨大な頭を目掛けて何度も何度も斬撃をお見舞いした。

 

「このっ! このっ! このおおぉぉーーっ!!」

 

 ゴン! ゴン! ゴン! っと、その度に鉄骨を打つような音が闇に響き渡り、巨大な魔王の頭から肉が剥げ落ち、血がドロドロ流れ出した。

 

 しかし並の魔族が相手なら、その一撃一撃が致命打になりうるはずのジャンヌの攻撃も、ことこの魔王に対しては殆ど無意味だった。

 

 ダメージは確かに与えている。だが、そのダメージが蓄積するよりも早く、ベヒモスの体は回復してしまうのだ。

 

「グモモモオオオオオオォォォォーーーーー……」

 

 思わぬ強烈な一撃を食らったベヒモスは、最初のうちは面食らったかのように一方的にやられているだけだったが、やがて段々ジャンヌの攻撃に慣れてきたのか、突然、魔王は鬱陶しいハエを振り払うかのごとく、頭をブルブルと震わせた。

 

 頭の上に乗っかっていたジャンヌは、突然の動きにバランスを崩して転げ落ちそうになった。だが、ただで落ちるつもりのない彼女は、落下しながら魔王の顔面をめった切りにし、着地寸前に見えない斬撃をお見舞いしてやった。

 

 その攻撃は魔王の急所を捕らえ、ベヒモスは再度くぐもった悲鳴を漏らすと、ズシンと地響きを上げて地面に倒れた。噴水のように舞い上がった血の雨で、地面は黒く染まっていく。

 

「くうぅっ……!!!」

 

 だが、代償も大きかった。何しろベヒモスの体はビルほどの高さがある。ドスン! っと大きな音を立てて、地面に激突した彼女の四肢はあらぬ方向に折れ曲がっていた。猛烈な痛みに意識が吹き飛びそうになる。それを歯を食いしばって堪える彼女の体から、シュウシュウと白い煙が上がっていた。神人の超回復能力である。

 

 だが、その回復力ならベヒモスにも備わっている。同じように傷口から白煙を上げながら、魔王の傷口が次々塞がっていく……あとは、どっちが先に動けるようになるかの勝負であったが……厄介なことにベヒモスの回復速度は、神人のそれを遥かに上回っていた。

 

「グオオオオォォォーーーーーン!!!!」

 

 先に立ち上がったのはベヒモスの方だった。復活した魔王は怒りを表すかのように大きな雄叫びを上げると、目の前に転がっているジャンヌに対して血走った目を向けた。

 

 彼女はその鋭い眼光を受けると、激痛に耐えながら外れていた関節を無理やりはめ込み、まだ折れている足で無理やり立ち上がり、必死になって剣を構えた。

 

 だが、魔王はそんな情けない神人をあざ笑うかのように鼻息を鳴らすと、巨大な口を必要以上に大きく開けて、ジャンヌを丸飲みにしてやろうと向かってきた。

 

「くそっ……くそったれぇーっ!!」

 

 猛烈な激痛に耐えながら剣を振るジャンヌ。神技を放つ余裕もない彼女に、巨大なベヒモスの口が迫ってくる……と、その時だった。迫りくる大口に剣を振り上げ迎え撃つ彼女の横を、何かが風のように通り過ぎていった。

 

 金色のオーラを纏った猿人が、まるで弾丸のような速さで、たった今ジャンヌを丸飲みにしようとしている口の中に飛び込んでいく。

 

 サムソンは、まるで食べてくださいと言わんばかりに、当たり前のようにベヒモスの口の中に飛び込むと、口の中でその上顎目掛けて、思いっきりアッパーカットをお見舞いした。

 

 ガキッ! ……っと、顎関節が破壊される音が鳴り響き、大口を開けたまま、ベヒモスが情けない悲鳴を上げた。

 

 魔王は突然の痛みに驚いて、口の中にいたサムソンを吐き出すと、しっぽを巻くように尻をふりふりしながら後退った。そして閉じなくなってしまった顎を無理やり閉めようとして、頭を上下に目茶苦茶に振り回す。

 

 吐き出されたサムソンは地面をゴロゴロ転がりながら、その反動を利用して飛び起きると、今度は魔王の下顎の真下に滑り込み、手伝ってやるよと言わんばかりに思いっきり回し蹴りをお見舞いした。

 

 ガッチン!! っと、歯と歯がぶつかる甲高い音が月夜に鳴り響いて、くぐもった悲鳴と共にベヒモスの上半身が浮き上がった。

 

 驚いたことにサムソンは、空中に浮いたまま、まるで竜巻のようにくるくる回転しながら、ベヒモスの顎に何度も回し蹴りをお見舞いしていく。

 

 ガチンッ! ガチンッ! ガチンッ! と、歯と歯がぶつかる音が響くたび、信じられないことに、ベヒモスのその巨体がどんどん持ち上がっていき……そしてついに、全長60メートルを超えようかというその巨体が、完全に二足で立ち上がってしまうと、最後の一撃を食らったベヒモスはそのままでんぐり返って、仰向けに地面に転がり落ちていった。

 

 ズズンッッ…………

 

 モウモウと砂煙が舞い上がり、月夜を一瞬にして飲み込んでいった。辺りは真っ暗闇に包まれ、ベヒモスの情けない声と、ドミニオンの少女たちの悲鳴があちこちから聞こえてくる。

 

 そんな真っ暗な煙の中で、金色のピカピカ光る何かが飛び回っているのが見えた。やがて砂煙が晴れ、また月が顔を覗かせると、そこには仰向けに倒れたベヒモスの上で馬乗りになり、魔王を容赦なく殴りつけているサムソンがいた。

 

 馬乗りと言っても、相手は全長60メートル、対してこっちは2メートル弱、傍目には砂遊びしている動物の腹の上を、ノミが飛び回っているようにしか見えなかった。だが、相手を圧倒し、痛めつけているのは、間違いなくそのノミの方だった。

 

「あんなに強かったのね……あの猿」

 

 ジャンヌは呆然と呟いた。

 

 彼女が島に来る度に、どこからともなく現れるあの猿型の魔族。気味が悪くて、近づかれないように、いつも撃退していたつもりだったが、どうやらそれは間違いだったようだ。魔族がどうしてそんなことをするのかは分からないが、どうやら認識を改めねばならないようである。

 

 ともあれ、絶望的だった状況は辛うじて切り抜けられた。傷ついた体も既に完全回復しており、いつでも戦線復帰は出来る。問題は逃げ遅れの救出だが……

 

「お姉さま! ご無事でしたか?」

 

 魔剣を杖代わりに立っていると、砂煙を払い除けながら瑠璃が駆け寄ってきた。彼女の後ろには傷ついた隊員たちが取り巻いている。魔王と猿の激しい戦闘に巻き込まれてしまったのだろうか、その殆どはお互いに肩を貸さなければ歩けない様子だった。

 

「隊長! 要救助者が……」

 

 更に悪いことに、彼女らに続いて琥珀と桔梗が、即席の担架に乗せて一人の隊員を連れ帰ってきた。恐らくベヒモスのせいで砕けたビルの破片でも、頭に当たったのであろう。顔面蒼白の隊員の額からは、大量の血が流れ出しているようだった。

 

 もしかしたら動かさない方がいいのかも知れない。だが、そんなことも言ってられない。ただ一つ言えることは、逃げるにしろ戦うにしろ、ベヒモスをなんとかしない限り、落ち着いて彼女の治療をすることは出来ないということだった。

 

 そのベヒモスは、今はサムソンに押されてこちらの様子には気づいていない。

 

 ジャンヌは決断を迫られた。

 

 どうする? 逃げるなら今しかないが……車両もない状況で足手まといを運んでられるほど、状況は甘くはないだろう。あの猿がいつまで保つかも分からない。なんなら怪我人を見捨てれば、他は全員助かるかも知れないが……ジャンヌの評判は地に落ち、部隊の士気低下は絶対に避けられないだろう。そんな部隊を率いて、無事に島から脱出することが果たして可能だろうか。

 

 それに逃げると言っても、ただ街から出ればいいと言うわけではない。今度は自分たちが森に入って、ベヒモスから身を潜めなければならないのだ。食料はあっても、火を使えないとなると、食べられるものは限られてくる。森を移動するなら車も捨てなければならないだろう。首尾よくベヒモスから逃れられても、今度は上陸地点まで徒歩で移動しなければならないわけだ。

 

 どうすればいいのか……どうすれば……

 

「おい、ジャンヌ! さっさとあれをやっつけるぞ!」

 

 そんな最悪な状況を前に、彼女が頭を悩ませている時だった。

 

 背後からいきなりそんな声がかかり、びっくりして振り返れば、そこには彼女らドミニオンがずっと探していたプロテスタントとアズラエルがいた。

 

「おまえは……!?」

 

 突然の鳳たちの出現に、ジャンヌ以下の隊員たちが色めきだつ。鳳は興奮する少女たちの中に臆することなく飛び込んでいくと、

 

「おまえら、サムソンに加勢もせず、雁首揃えて何ぼんやりしてんだよ! あいつを殺るぞ。手伝え!」

「貴様、なんのつもりだ!!」

 

 いきなり現れて威勢のいいことを言いだした鳳に腹を立てて、琥珀が腕まくりして迫ってくる。他の隊員たちも同じく、敵に命令されるいわれはないと押し寄せてくるが……そんな彼女らを押し止めるように、慌てて瑠璃が立ち塞がり、

 

「ちょ、ちょっとお待ちなさい、琥珀!」

「瑠璃! 退きなよ! そいつ殺せない!」

「落ち着きなさいな! 今は争ってる場合じゃないですわよ!?」

「瑠璃はどっちの味方なんだよ!?」

「今は何を優先するかって言ってるんです!!」

 

 琥珀と瑠璃が押し問答していると、ジャンヌがそんな二人の間に割って入り、

 

「瑠璃の言うとおりね。今はプロテスタントに構っている場合じゃないわ」

「でも……はい。隊長がそう言うなら」

 

 琥珀は不貞腐れた表情でスゴスゴ引き下がる。ジャンヌはそんな彼女が引っ込むのを見送ってから、鳳に鋭い視線を向けつつ、

 

「とは言え、あなたもいい度胸ね。こんな状況でもなければ、とっくに死んでいたところよ」

「アホか! 死んでたのは、お前らの方だろうよ」

「なに!?」

 

 鳳の言葉を挑発と受け取ったのか、ジャンヌ以下ドミニオン達が再度色めきだった。だが、鳳はそんな彼女らの鋭い視線を真っ向から受け止めると、

 

「そうじゃない。おまえら、どうせサムソンがベヒモスと戦ってる間に逃げる相談でもしてたんだろう? そんなことしたら確実に死ぬぞって言ってんだよ!」

「……どういうこと?」

 

 正にどうやって逃げるかばかりを考えていたジャンヌは、鳳の言葉にドキッとして聞き返した。彼はやっぱりなと言った感じため息を吐きながら、

 

「サムソンはベヒモス相手に有利に立ってるが、一度あれと戦ったことがあるなら知ってるだろう? あいつの再生能力がある限り、サムソンは負けはしないが勝てもしないんだ。するとそのうち、分が悪いと感じたベヒモスは、もっとやりやすい相手で食欲を満たそうとする。そんな時に、尻尾巻いて逃げようとしているお前らを見つけたら、どんなに遠くにいても追っかけてくるに違いないぞ」

「その前に森に逃げ込めば……」

「それが出来ればな。今からこの怪我人を抱えて、部隊に合流して、街を出て森に入るまでどのくらいかかる? ベヒモスは、一時間もしないうちに、おまえらに矛先を変えるはずだ」

「……じゃあ、どうすればいいっていうの!?」

「だから戦って撃退しろって言ってんだ。ベヒモスは腹が満たせるものは何でも食おうとするけど、それが無理と判断すると思ったよりあっさり退くんだよ」

 

 鳳は、かつてニューアムステルダムでそれを見たことがある。勇者パーティーにケチョンケチョンにやられたベヒモスは、まだ街にいっぱい人が残っていたにも関わらず、ものすごい勢いで逃げていった。その時の経験があるから、鳳は確信しているのだ。ベヒモスはこっちから一方的に攻撃し続けていれば、絶対に逃げるはずである。

 

 だが、そんなことは知らないジャンヌが疑いを投げかける。

 

「あなたは、どうしてそんなことが言い切れるの?」

「それはサムソンが証拠だ……あの猿は、いつもそうやって、この島で生き残ってきたんだよ」

 

 その言葉を聞いたドミニオン達がどよめきだした。ジャンヌも薄々そうじゃないかと思っていたが、あの猿は本当にベヒモスを撃退し続けていたのだ。

 

 しかし、そんなに強いのなら、何故あの猿人は自分たちを襲うことはしなかったのだろうか? 魔族ならそうするのが当たり前のはずなのに……ジャンヌはそう思いもしたが、すぐに今はそんな問答をしている場合じゃないと頭を切り替えて、

 

「……いいわ。今だけはあなたのことを信じましょう。でも、撃退するって言っても、具体的にどうするつもり?」

「ゴスペルはどのくらいあるんだ?」

「ドミニオンは全員ゴスペル保持者よ。ここに来ている部隊は全部で128名……内、何人かはさっきやられてしまったけど……」

 

 犠牲者を出してしまったことを思い出して、ジャンヌは苦々しげに歯を食いしばっている。鳳はそんな彼女に同情しつつも、取り敢えず100本以上のゴスペルがあると皮算用し、それなら十分いけるだろうと判断すると、

 

「よし、聞け。ベヒモスは素早いが小回りが効かない。だから正面には立たずに、常に側面に回り続ければ一方的に攻撃が出来るはずだ。ところが、ここは市街地で道が狭くて、寧ろこっちの動きの方が阻害されてしまっている。どうせやつは、物陰に隠れてやり過ごせるような相手じゃない。だったらいっそのこと、町の外まで誘導して、全員で一斉攻撃した方が良いだろう。100人のゴスペルで攻撃すれば、流石にあれも無事では済むまい」

「どうやって誘導するの?」

「相手は貪欲に人間を捕食する動物だ。もうじき、サムソンが食べるには不向きと判断して、目標を切り替えるはずだ。その時、俺たちが囮になって飛び出せば、簡単に釣れるだろう……」

「いいわ。なら、その囮は私にやらせてちょうだい」

「いや、そりゃ駄目だ」

「どうして!?」

 

 ジャンヌが不満の声を上げる。鳳は当たり前だろうと言わんばかりに、

 

「俺たちの目的は、誘導したベヒモスを町の外で仕留めることだ。100人以上のドミニオンの兵隊に命令を出せるのはおまえだけだろ? なのに、おまえが囮になってどうすんだよ」

「じゃあ、私以外の誰がやるっていうの……?」

「でしたら私が」

 

 鳳とジャンヌが言い争っていると、それを横で見ていた瑠璃がおずおずと手を上げた。ジャンヌが目をひん剥いて止めようとする。

 

「瑠璃! これがどんなに危険な役目か分かっているの?」

「ですけど、お姉さま。誰かがやらなければならないのでしたら、私がやるのが適任でしょう。この状況で、プロテスタントと協力できるのは、多分私だけだと……」

「なら僕も瑠璃といくよ!」「仕方ないわね」

 

 瑠璃に続いて琥珀と桔梗も志願する。最初に会った時も三人一緒だったが、よっぽど仲良しなのだろう。鳳は、それでも心配げなジャンヌに向かって、

 

「まあ、安心しろ。さっきも言ったけど、ベヒモスは正面に立ちさえしなければただのでくの坊だ。それに、こっちには切り札がある」

「……切り札?」

「まあ、見てろって」

 

 戦況は刻一刻と変わっている。これ以上の問答はただの時間の浪費だろう。彼らはある程度お互いに妥協をすると、作戦の細かい部分について打ち合わせをしてから二手に別れることにした。

 

 ジャンヌは生き残ったドミニオンたちを引き連れて、まだ街に残っている隊員たちを回収しつつ町の外へと走り、配置についたら信号弾を上げてその場に待機。その後、鳳たちでベヒモスを引きつけ、所定の位置に誘導するという作戦である。

 

 その際、ジャンヌは担架に乗った怪我人も運ぼうとしたのだが、鳳に説得されて断念した。見捨てた方が効率がいいというわけではなく、そうした方が作戦上、無駄がないということだった。

 

 彼は、この短時間で、敵を納得させるだけの作戦立案が出来る将なのだ。そんなのが憎きプロテスタントの一員だという事実は、正直、ドミニオンの隊長という立場としては嫌な予感しかしなかったが……不思議と個人的には安心感というか、彼女は妙な懐かしさを覚えていた。

 

 そんなジャンヌ達が去ってから十数分後……

 

 サムソンにほぼ一方的にやられていたベヒモスは、ついに自分の周りをうろちょろ飛び回る猿に嫌気が差して後退し始めた。どうせこのまま戦っていても、この猿が自分に食われるようなことはないだろう。ならばもっと楽に腹を満たせる相手を探したほうがいい。ベヒモスはまるでそう自分に言い聞かせているかのように、サムソンに背を向け逃げ出そうとした。

 

 サムソンはそんな魔王を逃すまいと、尚も追撃をかけようとしたが……

 

「おーい! ベヒモスやーい! こっちこっち!!」

 

 その時、ドミニオンの少女の一人が遠くの方で、挑発するようにベヒモスに手を振っているのが見えた。どう考えても自殺行為にしか見えない不可解な行動に、サムソンは慌てて彼女を救おうと駆け出そうとしたが、

 

「サムソン!」

 

 すると、そんなサムソンに横合いから鳳の声が掛かった。見れば彼は怪我をした別のドミニオンの少女を抱えている。

 

「うほうほ!」

 

 何があったか分からないが、緊急事態を察知したサムソンが駆けつけると、鳳はその怪我人を指差し、

 

「ジャンヌの部隊の子が怪我をしたんだ。あいつは町の外にいるから、運んであげてくれないか? お前が一番速い」

「うほ! うほ?」

 

 サムソンはいいよと言いたげに頷いてから、しかしベヒモスの方はいいのか? と魔王を指差した。鳳はそのジェスチャーを見て大きく頷くと、

 

「あいつの対処なら任せてくれ。上手く誘導して町の外に連れてく予定だ。なあに、ミッシェルさんがついているから、絶対大丈夫。心配すんな」

「うほ!」

 

 ミッシェルの名前が効いたのか、サムソンはそれ以上は何も追求せず、言われたとおり素直に少女を抱えて走り去った。こっちの世界に来てからずっと二人で生活していたらしいし、きっと父親みたいに信頼しているのだろう。

 

 そして言うまでもなく、ミッシェルの能力は破格である。

 

「それじゃミッシェルさん、手はず通りにお願いします。あなたが頼りですよ」

「やれやれ、僕は戦闘向きではないんだけどね。タイクーンも人使いが荒い」

 

 そのミッシェルは、この付近で一番背の高いビルの上に陣取ると、ベヒモスに追いかけられている琥珀に向かって何やら儀式めいた動きを見せた。

 

 すると、その背中に追いつこうとしていたベヒモスの目の前で、突然、彼女の姿がかき消えてしまった。たった今まで美味しそうなご馳走が目の前にあったというのに、一体どこに消えてしまったのだろうか? 魔王は不可思議な現象に、声を上げて足を止めた。すると、ぼんやりとしている魔王の耳に、また別の声が届く。

 

「ほらほら、ベヒモス! 私はここですわよ!」

 

 横合いから掛けられた声の主をベヒモスは目だけで確認する。そして、ズシンズシンと地響きを立ててゆっくり方向転換をしてから、またご馳走めがけて走り出した。ところが、そうしてまた魔王の口が餌を捕食しようとした、正にその瞬間、不思議なことにその餌もまた跡形もなく消えてしまったのである。

 

「グオオオオオォォォォーーーーーン!!!!!」

 

 二度も餌を取り逃してしまった魔王が雄叫びを上げる。まるで地団駄を踏むかのようにその場でドスンドスンと飛び跳ねると、地響きが起こり周辺のビルからパラパラとコンクリート片が落ちてきた。これだけの巨体を維持しているのだから、そりゃあとんでもないエネルギーが必要で、意地汚くもなるわけである。

 

「ベヒモス! こっちにいらっしゃい!」

 

 そんなイライラを爆発させている魔王に向けて、また別の少女から挑発の声が上がった。魔王は血走った目をひん剥いて餌の位置を確認すると、またズシンズシンとゆっくり方向転換をしてから、一直線に彼女の背中を追いかけ始めた。

 

「……あのプロテスタントが言ったとおりね。ベヒモスは速いけど、方向転換が苦手なんだわ」

 

 桔梗はそんなベヒモスに追いかけられながら独りごちた。

 

 こんな弱点があるとは知らなかった。確かにこれなら、勝てはしないけれども負けもしない。上手くやれば延々と敵を引きつけたまま居られるだろう。それにあのミッシェルとかいうプロテスタントの仲間……一体どうやってるかは分からないが、あいつは桔梗と同じ隠蔽の奇跡を使えるようだ。それも、彼女よりよっぽど強力に……

 

 その時、彼女のことを追いかけていたベヒモスの動きがふっと止まった。恐らく、ミッシェルが彼女の姿を魔王から見えなくしたのだろう。敵の力に頼るのはいただけないが、今回だけは彼らが仲間で良かったと桔梗は思った。

 

「おーい! こっちこっち~!!」

 

 また遠くの方から琥珀の呼ぶ声が聞こえた。ベヒモスはその声に惹きつけられて、ノロノロと方向転換してからまた駆けていく。食欲が旺盛な魔王は、もう何度も無駄足を踏まされているのに、それを追いかけることをやめられないのだ。

 

 自分たちが、あの恐ろしい魔王を手球に取っている……その事実がドミニオンの三人娘を勇敢な戦士に変えた。彼女らは今までにない高揚感の中で、集中しながら、迫りくるベヒモスを翻弄し、ぐるぐるぐるぐる延々同じ場所を回らせ続けた。

 

 そしてベヒモスがバターになってしまいそうになった時、ようやく町の外から信号弾が上がった。

 

 鳳はそれを確認すると、ビルの上にいるミッシェルに手を振って後を頼み、

 

「それじゃアズにゃん、いよいよ仕上げだ」

「神よ、我に力を……光あれ(ルクスイット)!」

 

 アズラエルの翼が風を受けて、二人はふわりと空に舞い上がった。

 

 鳳は空に上がるとすぐに、遠くのベヒモス目掛けて、光弾をいくつもお見舞いしてやった。

 

 目の前で何度も何度もご馳走を逃しイライラがピークに達していたベヒモスは、突然、ドカンドカンと音を立て、自分の横っ面を叩いた何かに振り返る。そしてそこに空飛ぶ二人を見つけた魔王は、また餌に食いつく魚のように、二人のことを追いかけ始めた。

 

 アズラエルはビルの上ギリギリを飛びながら、そんな魔王を一直線に信号弾が上がった方まで誘導していく。今度は三人娘の時みたいに道なりではないから、ベヒモスは行く手を阻むビル群を全てなぎ倒しながら、真っ直ぐ追いかけてきた。

 

 そのブルドーザーみたいなパワーとタフネスさには舌を巻いたが、流石にベヒモスと言えども、鉄筋コンクリートのビルを倒しながらでは若干スピードが落ちるようだった。これならば追いつかれる心配はないだろう。

 

 鳳はアズラエルに頼んで、目的地よりも少しズレた地点を目指すと、町の外に出る最後の最後で急激に方向転換した。するとベヒモスは方向転換した二人に釣られ、向きを変えようとしてバランスを崩し、遠心力でビルをなぎ倒しながらゴロゴロと草原へと転げ出た。

 

 ズドンズドンという爆撃のようなビルが倒壊する音と、鉄骨が崩れ落ちるガランガランとした音が盛大に草原に鳴り響いた。倒壊するビルの上げた砂煙で、一帯はあっという間に黒く染まる。しかし、遮蔽物のない草原には強い風が吹いており、ほぼ間髪入れず煙を全て吹き飛ばしていった。

 

 草原に転がり出たベヒモスは、視界が晴れると犬みたいに頭をブルブル振り回し、その場ですっくと立ち上がった。すると丁度目の前に先程の餌がブンブン飛び回っていることに気がつき、魔王は大口を開けてすぐにそれを追いかけ始めた。

 

 鳳たちはそんなベヒモスの口から逃げるように空へ空へと舞い上がっていく……もちろん空を飛ぶことなど出来ないベヒモスは、それを追いかけようとして、大口を開けたまま二本足で立ち上がった。

 

 その巨体が月にも届かんという勢いで草原にそびえ立つ。

 

 その時……

 

 ジャンヌはその瞬間を待っていましたとばかりに、隠れていた草むらからさっと飛び出すと、

 

「総員、構え! 目標、ベヒモスの腹部! 撃て! 撃て! 撃てえぇぇぇぇーーーーっっ!!」

 

 ジャンヌの叫び声が草原にこだますると共に、草原に伏せていたドミニオンの少女たちが一斉に立ち上がり、射撃を開始した。

 

 地面から一斉に撃ち打ち出される無数の光弾が、幾重にも折り重なって、まるで太陽のように眩しく光り輝きながら、ベヒモスの無防備な腹部へと吸い込まれていく……

 

 そしてそれが魔王へと到達した瞬間、火山が噴火したかのような爆音が真夜中の空に轟いて、空中にいた鳳たちの全身をビリビリと震わせた。

 

 ドミニオンたちの一斉射撃をもろに浴びたベヒモスの腹部が膨張し、マグマのように灼熱し始め、それでも止まない光弾の雨あられに、ついにベヒモスは全身から炎を吹き上げ始める。

 

 そんな熱と光の洪水で草原は一瞬にして焦土と化し、逃げ場のない熱が空へと上がり、火柱がうず巻き暗い夜空にぐんぐん伸びていった。

 

 ドミニオンたちは、まるで撃つことを止めたら死んでしまう生き物のように、一心不乱にベヒモスを撃ち続けている。

 

 それがようやく終わった時……ベヒモスは自らの脂肪を燃やす蝋燭のように、ゆらゆらとした炎の中に揺れながら立っていた。

 

 そして魔王は燃え尽きるかのようにその体をくしゃっと曲げると、ズシンと地面を揺らしてその場に崩れ落ちるのだった。

 

 その振動で体のあちこちの皮膚が剥がれ落ち、ぽっかりと空いた腹部からはみ出た半焦げの内臓がべちゃべちゃと気持ち悪い音をたて、周囲に悪臭を撒き散らした。

 

 鼻がひん曲がるような汚物の臭いに耐えきれず、ドミニオンの少女たちの幾人かが鼻を摘んで嗚咽している。

 

 そんな中でジャンヌ一人だけが気を抜かずに、じっとベヒモスを睨みつけたまま剣を構え続けていたが……

 

「……やったの?」

 

 しかし、そんな彼女が勝利を確信して剣をおろそうとした時、それは起こった。

 

 ピクピクと、その撒き散らされた汚物のような内臓が震えだす。ドクンドクンと心臓が脈打つような巨大な音がその体内から聞こえてきて、そして黒焦げになった魔王の体から、シュウシュウと音を立てながら白煙が上がった。

 

 剥がれ落ちて肉が覗いていたその分厚い皮膚に膜が張り、次々に傷口を塞いでいく……そして眼球を失ったはずの眼窩からボコボコと泡のような吹き出物がいくつもいくつも湧き出したかと思えば、その下からパッと新しい眼球が現れ、それは上下左右にキョロキョロと動いてから、草原に伏せていたドミニオンたちをじっと見据えた。

 

 グェッ……グェッ……グェッ……

 

 まるでカエルのような奇妙な声を発しつつ、その巨体がもぞもぞと芋虫みたいに動き出す。かと思えば、信じられないことにその芋虫からにょきにょきと四肢が生え、ベヒモスはまたその四肢を使って草原に立ち上がった。

 

 体はまだボロボロで、ところどころに空いた傷口から血が滝のように溢れかえり、内臓もはみ出たままではあったが……それでも魔王は立ち上がった。

 

 その満身創痍の姿を前に、ドミニオンの少女たちに残っていたのは勝利の高揚感ではなく、絶望感だけだった。誰かがまた命令もなく射撃を始めたが、そんな単発の攻撃なんかにベヒモスはびくともせず。そしてまた誰かが泣き出し、そして他の誰かが失神した。

 

 ジャンヌはもはや戦意を喪失してしまった部隊の中で、呆然と剣を構えて立ち尽くしていた。ここまでやって倒れない相手に、一体どうやったら勝てると言うのだろうか。ベヒモスを撃退しろといったプロテスタントの口車に乗ったのは失敗だったか……? いや、あの時、彼の言うことを聞かずに逃げ出していても結果は変わらなかっただろう。

 

 我々、人類は弱者だ……魔族が捕食する側なら、人類は捕食される側。ただ、狩られるためだけに存在する、弱い生き物なのだ。

 

 彼女は諦め……そして剣を下ろした。

 

 だが、その時だった。

 

 絶望する少女たちの前に一匹の猿人が飛び出し、魔王の前に立ちはだかると、

 

「ウオオオオオオオーーーーーーーーッッッ!!!!!」

 

 っと雄叫びを上げて胸をバンバンたたき始めた。そしてその両の拳が彼の胸の前で合わさると、突然不思議な光が溢れ、サムソンの体が金色のオーラを発し始めた。俺はまだやれるぞという気合に、その場に居た誰もが圧倒される。

 

 そしてそれは魔王も同じだったようだ。

 

 ベヒモスは飛び出してきたサムソンにじっと視線を合わせたかと思ったら、飛び出た内臓を地面で擦りながら、じわりじわりと後退をし始めた。そうして十分に距離を取ると、今度はゆっくりと顔の向きを変え、ゆっくりと方向転換し……そして脱兎のごとく逃げ出した。

 

 ドドドドドドド……と、ものすごい地響きを立てて、穴の空いた腹部から何か色んな物を撒き散らしながら、その巨体が猛然と駆けていく。

 

 やがて峠を越えてその姿が見えなくなっても、その足音だけはまだ暫く続いていた。

 

 その音が聞こえなくなるまで、誰一人として動けなかった。

 

 誰もがぽかんと口を開いて、自分の目の前で起きている出来事が理解できずに、呆然と立ち尽くすばかりであった。ようやくそれが自分たちの勝利だと気づいた誰かが安堵のため息を吐くと、それは波のように周囲に伝わっていき、やがて歓喜の渦へと変わっていった。

 

「やった……やったんだ! 私たちはベヒモスに勝ったんだ!!」

 

 誰かのそんな勝利宣言に、隊員たちは諸手を挙げて喜びの声で応えた。呆然と立ち尽くしていたジャンヌに、隊員の誰かが飛びついてくる。それでようやく我に返ったジャンヌが笑顔で応えると、隊員たちは喜びに酔いしれた。

 

 草原に少女たちの甲高い笑い声が響いている。それは人類が撤退してから、16年ぶりにマダガスカルに響いた喜びの声だった。

 

 だが……それは束の間のことでしかなかった。

 

 やがて喜びがピークを迎えると、彼女らは唐突に虚しさに襲われた。確かに魔王を撃退することには成功したが、それで魔王を倒せたわけではない。相変わらずベヒモスはこの島を占拠し続け、人類が帰還出来る目処は立っていない。今回の犠牲で、人類はまた数を減らした。これが勝利と呼べるだろうか。

 

 と、そんなところへ鳳とアズラエルがやってくる。このプロテスタントと天使の裏切り者……元はと言えば、彼らを逮捕するために彼女らはこの危険な島に入ったのだ。その目標が目の前にいるというのに、ただ手を拱いて見ているだけでいいのだろうか?

 

 ドミニオンの不穏な様子には気づかずに、鳳たちはサムソンのところへ歩いていくと、彼らは親しげに会話をし始めた。そんな彼らの元へ、街から戻ってきた瑠璃が駆け寄っていく。ジャンヌたちドミニオンは、そんな彼らを取り囲むように、ゆっくりと近づいていくのだった。

 



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女だらけのこの世界で男は俺ただ一人だけ

 まるで太陽みたいな強烈な光に晒され、爆音を上げてベヒモスが炎に包まれた。ゴスペル・レプリカの威力は未知数で若干心配ではあったが、流石に100を超える神の兵器からの一斉射撃には、魔王であってもひとたまりもなかったようだ。一点集中すればあるいはと思っていたが、思った以上に上手くいったことに鳳はほくそ笑んでいた。

 

 問題は、これでも恐らくベヒモスは倒せないであろうことだった。もしもこれくらいで魔王が倒れるなら、あっちの世界でも自分たちは勝利していたはずだろう。とはいえ、倒せなくてもそれはそれで構わないと思っていた。あっちの世界でそうだったように、ベヒモスは分が悪いと思えば、まず間違いなく逃げるからだ。

 

 案の定、ベヒモスは生きているのが信じられないくらいの傷を負いながらもしぶとく生き残り、内蔵を撒き散らしながら逃げていった。去り際、気のせいでなければサムソンを見て悔しそうな目をしていたが、もしかしてもしかしなくても、現時点で彼は世界最強なのではなかろうか。

 

 まさか魔王化の影響が出たりしないだろうな? などと心配していると、隣にいたアズラエルが、珍しく興奮気味に声を上げた。

 

「上手くいったな! 本当に奴が退いてくれるか、実は半信半疑だったが」

「信じてくれるかどうかわからないけど、元の世界で同じような光景を見たことがあったんだよ」

「君が以前ベヒモスを倒したという話か……どうやら、信じないわけにはいかないようだな。そして、ゴスペルが君の世界を壊そうとしていると言う話も……」

「ああ、でもまずはサムソンを労いに行こうぜ、今回一番の立役者だ」

 

 二人はサムソンのもとへと歩いていった。魔王を撃退したばかりのサムソンは、既にその姿が見えなくなってもまだ警戒を続けていたようだが、二人がやって来たところでようやく肩の力を抜いて、いつものお気楽な調子でうほうほ言い始めた。

 

 そんなサムソンの肩を叩いて労いながら、早いとこ彼のことを元に戻してやらなきゃいけないなと、アズラエルを交えて話していると、少し遅れてミッシェルと三人娘が街の方から駆けてきた。

 

「アズラエル様、ご無事で! 上手くいったんですの? 私たちからは何が起きているのかさっぱりだったのですけど、物凄い光が差したように見えましたが……」

「ああ、無事に済んだ。君が見た光はゴスペルの一斉射撃だろう。どうやら攻撃を一点集中すると、光が増幅して威力が増すようだ。考えても見れば、光はエネルギーで、波でもあるからな。同じ機械から発した光が自然と波長が合って、レーザーのようになったみたいだ」

「へえ……私もずっとこれを使い続けていますが、そんなこと初耳ですよ」

「普通はそんな使い方をしないからな」

 

 じゃあ普段はどんな使い方をしているのだろうか……鳳は横で聞きながら少し気になった。普通、訓練をしていれば、あの程度のことは容易に想像がついただろうに、これだけの隊員がいて誰も知らないなんて、ちょっと考えられなかった。

 

 それに、彼女らが持つゴスペル・レプリカと、オリジナルは別物だと言うし、まだ何か鳳の知らないこの世界の常識とかがありそうだった。取り敢えず、そのことについてもいずれ話を聞いてみたいと思っていたが……それ以上に、今は周囲の空気の異変の方が気になっていた。

 

「ところで……ジャンヌ。その武器を下ろしてくれないか」

 

 鳳たちがサムソンを囲んで話をしていると、いつの間にかそんな彼らのことを取り囲むように、ドミニオンの兵隊たちが武器を構えて立っていた。完全に包囲状態で逃げ場はなく、銃口は全部こちらを向いている。どう見ても、ここから逃さないという敵対心の表れにしか見えなかった。

 

 ジャンヌは鳳を真正面に見据えながら、表情を崩さず、冷徹な視線のままで言った。

 

「出来ないわ、鳳白。死にたくなければ、大人しく私たちに投降しなさい」

「……この状況でそういうこと言っちゃう?」

「状況は関係ないわ。私たちの目的は、あくまで最初からあなたの拘束にあった」

「まいったね。完全に油断していたよ。おまえもやるようになったもんだなあ」

 

 どこかでジャンヌに対する甘えがあったか。不用意にドミニオンの前に立てばこうなることは予想できたはずなのに、ベヒモスとの共闘の後ですぐに敵対することはないだろうと、高をくくってしまっていたらしい。

 

 ちらりと横目でミッシェルに合図を送る。一応、彼がいればまだ逃げられる可能性もあるだろうが……認識阻害は瞬間移動をしているわけではない。万が一ということも有り得るし、下手な動きは出来そうもなかった。

 

 と、周囲の様子が変わったことに気づいた瑠璃が驚きの声を上げる。

 

「お姉さま……いえ、隊長! みんな! どうして……?」

「瑠璃、そこを退きなさい」

「そんな! この方達は、今回のベヒモス撃退の功労者ですわよ!?」

「ええ、そうね……それと同時に、プロテスタントでもあるわ」

 

 ジャンヌの淡々として冷静な声が、草木が焼け落ちて何もなくなった荒野に寒々しく響いた。風が吹き抜け、焼け焦げた地面はプスプスと音を立て、木の焼ける煙の臭いが辺りに充満している。砂を巻き上げるように、赤い火の粉が次々と天に上っていった。誰一人として動こうとするものはいなかった。

 

「思い出して、瑠璃。私たちがここに何をしに来たのか」

「もちろん、それは忘れたことはありませんわ、でも……!」

「このまま帰ったら、私たちはただ無駄死にをしに来たみたいなものじゃない!」

 

 瑠璃が尚も食い下がろうとすると、ジャンヌの背後にいた他のドミニオンの少女が苛立たしげに声を荒げた。

 

 見ればその隊員は、ジャンヌと瑠璃達がベヒモスを迎撃に行った際に、車ですれ違った者だった。つまり、犠牲者は彼女の隊から出たのだ……

 

「私たち人類にはもう後がないのよ。もう二度と子供が産まれることはないし、老化のせいで魔族と戦える人は減り続ける……それなのに、今回また多くの犠牲者を出してしまった。このまま、何の成果もなく帰ったら、一体彼女たちは何のために死んだの!? あなたの大好きなお姉さまだってただじゃ済まないわよ。ベヒモスがいるって分かっていながら、この島で待ち構えたのは失敗だった。そうでしょう!?」

 

 ともすると、自分たちが見捨てて逃げた犠牲者に対して責任転嫁するような発言であったが、その内容は間違ってはいなかった。

 

 確かに彼女の言う通り、今回の作戦はジャンヌの失策だった。プロテスタントがいるという事実に気が急いて、不必要に鳳たちを追いかけすぎてしまったのだ。普通に考えれば、魔王が占拠するマダガスカルに封じ込めておけば、それだけで済む話だったはずだ。

 

 だから恐らく隊員の言う通り、このまま手ぶらで帰ったらジャンヌの進退も怪しいだろう。この失態から挽回するには、何か特別な成果を上げるしか無いのだが……

 

「でも、そのために功労者を犠牲にするなんて、馬鹿げていますわよ。もしこの方達が居なかったら、犠牲はもっと増えていたに違いありませんわ!」

「いいえ。そもそも彼女らが抵抗しなければ、私たちはここに来ることはなかったはずよ」

「それは自分たちの失敗を棚に上げているだけですわ。なんなら、あの海の上で、話し合いで解決する方法もあったかも知れない」

「あなたは肩入れしすぎている。相手はプロテスタントなのよ!?」

「そんなの分かっていますわよ! 当たり前でしょう? 私は、それでも自らの良心に従うなら、こんな恥ずかしい真似はしちゃいけないと言ってるんです!」

「私が恥知らずだって言うの!? このっ……」

「よしなさいっ!!」

 

 激昂する隊員が掴みかかろうとすると、慌ててジャンヌがその間に入った。興奮冷めやらぬ隊員はまだギラギラとした目を向けている。ジャンヌはそんな彼女を無理やり回れ右させると、隊列の中に押しやってから、瑠璃に向き直って改めて言った。

 

「瑠璃……あなたの主張は立派よ。私は良心に従うというあなたのことを誇りに思うわ。でも、私たちはドミニオンなのよ。神域の指令に背くわけにはいかないわ」

「でも、お姉さま……」

「瑠璃、もうやめよう。これ以上食い下がると、君まで処分を受けかねないよ」

「ジャンヌ隊長だって困ってるわ」

 

 それでも瑠璃が食い下がろうとすると、今まで背後でオロオロしているだけだった琥珀と桔梗が彼女のことを押し留めた。

 

 彼女らの言う通り、もはや隊員たち全員のコンセンサスが取れない限り、鳳を逃がすことは不可能だろう。これ以上騒げば、瑠璃が規律違反を責められかねない。そうしたらジャンヌの立場も悪くするだろうし、隊員たちの信用も失うだろう。瑠璃は渋々引き下がらざるを得なかった。

 

 ジャンヌはそんな瑠璃に対し負い目を感じながらも、また心を鬼にして鳳たちへと向き直った。すると今まで黙っていたアズラエルが前に進み出て、

 

「話は分かった。君たちが神域に逆らえないというのも重々承知している。こうして目的を果たした以上、私はもう抵抗する気はないから投降しよう」

「天使アズラエル。あなたの決断に感謝します」

「だが、あっちは逃してやれないだろうか? 元々、君たちは私を神域に連れ帰るように命令されただけで、プロテスタントの捜索はついでだったはずだ。ならそれで十分だろう。神域も、ベヒモスを撃退するような相手だったと言えば、仕方ないと納得するだろう」

「そんなわけには行かないわよ!」

 

 それにはジャンヌではなく、その部下のドミニオン達が一斉に反対した。

 

「私たちドミニオンは人類を守護するのが役目。そう考えれば、プロテスタントの滅殺こそが使命で、あなたの捜索のほうがついでだったのです。アズラエル様。あなたもお忘れになったのですか? プロテスタントが何をしたのか……こいつらのせいで私たち人類は、今絶滅の危機に瀕していて、こいつらのせいで今回また少なからぬ犠牲が出たのです。ここでこいつを取り逃がすようなことがあっては、これまでに散っていった同胞たちに顔向けが出来ません!」

「しかしだなあ……」

 

 アズラエルが尚も食い下がろうとした時だった、

 

「いや、アズにゃん、いいよ。俺も投降しよう。寧ろ、俺も一緒に連れてって欲しいくらいだ」

 

 言い争いを黙って聞いていた鳳が、ついに堪えきれないと言った感じに口を挟んできた。その、素直に捕まると言う言葉には、アズラエルや瑠璃だけではなく、ジャンヌ以下ドミニオンたちも全員驚いていた。

 

 ジャンヌはそんな鳳に対して、

 

「……あなた、本当にそれでいいの? もしかして気づいてないのかも知れないけれど、あなたには殺害命令が出ているのよ?」

 

 鳳は苦笑しながら、

 

「何度も殺されかけたんだから流石に気づいとるわい。でも逆に考えれば、俺の首がまだ繋がってるってことは、君等も上司に口を利いてくれるつもりだったんだろう?」

 

 鳳がそういうや否や、ジャンヌは何のことかわからないと言った感じに目を泳がせ、ドミニオンの隊員たちも、バツが悪そうに押し黙った。その態度を見れば分かるが、瑠璃だけではなく、なんやかんやみんな鳳の貢献は無視できないと感じていたようだ。

 

 鳳は彼女たちから反論が返ってこないのを確認すると、

 

「ただ一つだけ注文をつけてもいいか?」

「……何かしら?」

 

 ジャンヌは死刑囚の最後の頼みのつもりで聞き返した。しかし、そうして返ってきた言葉は、最後どころか、まだ生きる気満々のものとしか思えず、彼女は面食らってしまった。

 

「俺を捕まえたと報告するついでに、俺が四大天使に会いたがっているって神域に伝えてくれないか?」

「はあ!? あなた、気は確かですの!? そんなこと出来るわけないじゃないですか!!」

 

 鳳のそんな要求に対してはジャンヌからではなく、何故か瑠璃から即座に返事が返ってきた。瑠璃どころか、友達二人も、その他のドミニオンたちも口々にふざけんなと怒声を上げている。鳳は騒然となった場を収めるために、一段トーンを上げて叫ぶように、

 

「待て待て! 落ち着けって! 俺は会わせろと要求してんじゃない。俺が会いたいと言ってると、伝えてくれと言ってるだけだ! それくらいなら出来るだろう? これ以上は、お前たちに迷惑をかけるつもりはないから安心しろよ」

「それだけでも十分に不敬だと思いますけど……」

 

 瑠璃は納得行かないと言った感じに引き下がる。代わりにジャンヌが、

 

「そう報告するだけなら問題ないわ。でも、そんなことして何になるの? 恐らく、無視されて処刑されるのが落ちよ」

「それならそれで仕方ないさ。でも、多分、そうはならない。きっと向こうの方から話に乗ってくると思うんだけどね……」

「やけに自信満々ね……何故、そこまで言い切れるの?」

 

 鳳は、関係ない彼女らにも言うべきかどうか少し悩んだが、なんやかんやジャンヌには報告の際に伝えなければならないのだし、これ以上、隠し事をしながら行動をするのは効率が悪いと思い、

 

「ああ、それはだなあ……実は俺が男だからだ」

「……はい?」

 

 ジャンヌは鳳が何を言っているのか分からないと言った感じに小首を傾げている。瑠璃も、ドミニオンたちもよくわかっていない様子だった。

 

 代わりに、そんな鳳の言葉に反応したのは、言うまでもなくアズラエルだった。

 

「……なに? なんだって!? 君! 君、今、なんて言った!?」

「いや、だから、俺は男なんだよ。生物学的に、ホモサピエンスの、オスだ」

「嘘だっ! そんなはずはっ……!!」

 

 アズラエルは血相を変えて鳳に飛びかかってくる。彼は彼女が何をしようとしているかを即座に察知し、最初はさっと躱すことに成功したが、すぐに捕まって股間の大事な一物をぎゅっとニギニギされ、

 

「あふんっ! ちょっ! やめて! そこは、とってもデリケートなのよ! そんな激しく握らないで!!」

「そんな……そんな馬鹿な!? いや、だって……私は君の裸を見たことがあるぞ。その時確認したはずだ……なのに……」

「あー……あの時は縮こまっちゃってたからなあ」

 

 アズラエルは生物学者であるとは言え、まさか男の生殖器は冷えるとちっちゃくなっちゃうなんて情報までは知らなかったのだろう。鳳は苦笑いしながら、

 

「なんかおかしいとは思ってたんだよ。一緒に行動していても、君も瑠璃も少し無防備過ぎるところがあったし、終いには研究所に精液を探しに来たとか言いだすから」

「なんてことだ……私はずっと、求めていた相手と旅をしていたというのか? どうして言ってくれなかったんだ!!」

「だから、ついさっき君が研究所に精子を探しに来てるって知るまでは、勘違いしてるなんて思わなかったんだって」

「信じられない……私はなんて馬鹿だったんだ……そうか……そうだな。プロテスタントはこの世界の住人ではない。ならばそういうこともあり得るのか……」

「あの~……アズラエル様? さっきからあなた方は一体何を言って……?」

 

 アズラエルが脱力してその場にしゃがみこんでしまうと、瑠璃が話しかけてきた。彼女は二人のやり取りを聞いていても、その意味するところがわからなかったのか、キョトンとした顔をしている。いや、彼女だけではなく、ジャンヌも、ドミニオンの少女たち全員が同じような顔をしていた。

 

 この世界には男がいないとはいえ、ここまで言っても分からないものなのだろうか?

 

 まあ、そうなのかも知れない。どうせ性行為をする相手がいないのなら、性教育などする必要すらないのだから、彼女らには生殖の知識が全くないのだ。

 

「あー、つまりだなあ……」

 

 アズラエルは面倒臭げな表情を隠しもせず、投げやりに言った。

 

「君たちも家畜が交尾して繁殖してることくらい知ってるだろう? 花が実を結ぶのは、雄しべと雌しべがくっついて受粉するからだ。大抵の生物には雌雄というものがあって、オスとメスが交配することで新たな生命が誕生する。君たち人類も、大昔は他の生命体と同じように雌雄に分かれていて、女性と男性が交配することで子供が生まれていたのだ」

「はあ……そうなんですね。それで?」

「鈍いやつだなあ、君は! 彼はその人間の男なんだよ。君たちは女で、彼は男だ。つまり、彼がいれば、人類は何の苦もなく繁殖することが……赤ちゃんを作ることが出来るんだよ!」

 

 アズラエルがそう吐き捨てるように言い放った瞬間、どよめきが起こり、その場の空気が一瞬にして変わった。

 

 驚愕と戸惑い、ショックで放心している者もいる。男……と口にしただけで、何故か悶えるようにもじもじしだした者や、さっきまで鳳のことを捕らえていた憎悪のこもった瞳が、今はどことなく熱っぽいものに変わっているように見えた。

 

 性教育を受けていない彼女らが、どんな反応を示すかなんて考えもしなかったが……鳳は、ちょっと早まったかな? と後悔しつつも、殺されるよりはなんぼかマシなのだからと腹をくくった。

 

 どっちにしろ、この世界で生きていくなら、人類から逃げ回っているわけにもいかないのだ。

 

 サムソンを元に戻さなきゃいけない。ジャンヌの記憶も取り戻さなくちゃならない。

 

 そして、行方不明のギヨームを見つけるためにも、何でも交渉材料にして生き残っていかなければならない。たとえそれが、自分の精子だとしても。

 

 女だらけのこの世界で男は俺ただ一人だけ……

 

 こんなアホみたいな条件を切り札に、周りは敵しかいないこの上位世界で、鳳の戦いが今ようやく始まろうとしていた。

 

(第七章・了)




次章は12月1日の再開を目標にしています。何かあったらツイッターで。一応、割烹にも投稿するかと。ではでは。


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第八章・俺がこの世界を救い遺伝子をばらまくのだ
人間らしさについて


 個人的な体験談で恐縮だが、夏に家の近所で老人の孤独死があった。発見された老人は死後一ヶ月くらい経過しており、死体はひどい有様で、つまり、結構な悪臭が立ち込めていたわけだが、それでも発見が遅れたのは、それが結構ありがちな臭いだったからだ。

 

 よく人間の死体の臭いは一度嗅いだら一生忘れないなどと言われるが、確かにひどい悪臭ではあるが、実際にはそこまで耐えられない程でもない。というか、一人暮らしの男性あたりは、割としょっちゅう嗅いでるはずだ。夏の朝にゴミ捨て場の近くを通り過ぎたり、繁華街に流れているドブ川のあたりなどで、なんか嫌~な臭いがする時がある。多分、あなたも嗅いだことがあるはずである、あの臭いだ。

 

 もしどうしても見当がつかないなら、卵を割った殻をビニール袋にでも入れておき、常温で1週間位放置してみればいい。黒い汁が出てきたら頃合いだ。袋を開けたらきっと鼻がひん曲がりそうな臭いがするだろう。腐卵臭とはよく言ったもので、それが死体の臭いで間違いない。

 

 ところで、このように死体を放置していれば腐敗が始まるわけだが、それは現在の地球が生命の宝庫であり、どこからともなくバクテリアがやってきて死体を分解するからである。だからもし、生命の存在しない宇宙空間なら死体はいつまで経っても腐らないだろうし、バクテリアが活動できない極寒の地でも死体は延々と残り続けるだろう。

 

 もしくは、原初の地球でなら、常温でも死体は腐らなかったはずである。

 

 まだ生命の存在しなかった太古の地球の大気は、現在とはまるで違って酸素や窒素は無く、二酸化炭素やメタンガス、水やアンモニアのような、地球以外の惑星でも見つかるような単純な化合物で覆われていたと考えられる。

 

 驚きなのは、科学者たちがそうした太古の地球環境を作り上げて、そこに雷や紫外線のような高エネルギーを与えてやったら、思ったよりも簡単にアミノ酸が生成されたことだった。アミノ酸は生命の構成要素であるタンパク質の材料であるから、かつては惑星中にアミノ酸が見つかれば、そこには生物が存在する可能性が高いと考えられていた。さらには、同じような実験を科学者たちが繰り返した結果、プリンやピリミジンのような有機物も生成された。これは遺伝物質であるDNAやRNAの材料のことである。

 

 そして先に述べたとおり、まだバクテリアが存在しない環境では、アミノ酸やDNAなどの遺伝物質は微生物に分解されることも無く、原始の海の中に蓄積していったのだと考えられる。

 

 深い海の底には雷も紫外線も届かないが、海嶺のような海底火山が密集する場所には、高エネルギーの熱水が吹き出す、間欠泉が存在する。

 

 そしてそんな場所で、最初の驚くべき事件が起こった。

 

 海底火山から吹き出す熱泉の中で、ある日、自己複製する有機化合物が誕生したのだ。とても信じられない出来事であるが、数億年という長い年月を考えればそういったイレギュラーが起こることも十分に想像できるだろう。

 

 というか、もう既に答えを知っている我々からすれば、DNAやRNAのような遺伝物質が豊富にある状況で、それが起こったと考えるのは自然なことだろう。しかも、そのイレギュラーはたった一度だけ起こればいいのだ。

 

 ある日、原始の海の中で唐突に誕生した自己複製する化合物は、すぐに周辺にあった自分と似た分子構造を持つ材料を使って、自分を複製しまくったはずだ。ここは原始の海だから、彼を邪魔するものはどこにもいない。すると広大な海の中に誕生した、たった一個の自己複製する化合物は、爆発的な速度で増えていっただろう。

 

 そして、爆発的に増えればまたイレギュラーは起きやすくなるものである。またある日、その化合物は自分を複製している最中に、ほんの少し間違いを犯してしまった。それは些細なもので、普通ならそのまま消えてしまうか、再度自己複製する際に訂正されていただろう。

 

 だが、もしもその間違いが、たまたま環境に適応して、いつも通り増殖するよりも、たまたま優れた結果を残したとしたらどうだろうか? その後はその間違いを犯した化合物の方が、多く生き残っていくかも知れないではないか。

 

 つまり、これが最初の突然変異と自然淘汰と考えられるわけである。

 

 そして初めての自然淘汰が成立した時、新たに生まれた化合物が自己複製の材料にするのは何だろうか? 元から原始の海にあった材料の他に、自分の親とも呼ぶべき古い化合物も材料になりうるだろう。

 

 たった今まで誰にも邪魔されること無く増え続けていた化合物は、こうして捕食される側に回ってしまったのだ。

 

 もちろん、捕食される側もそのまま手を拱いていることはないだろう。例えば捕食側よりも早く自己増殖することが出来れば、絶滅は避けられるだろうし、もしくは、また新たな突然変異が起こって、自分の体を守る機能を獲得したかも知れない。

 

 真っ先に考えうる変異は、自分の体にアミノ酸を取り込んで自己複製する機能を利用してタンパク質を作り、その殻の中に入り込んでしまうことだ。こうしてしまえば、捕食者は頑丈なタンパク質の殻を突破しない限り、餌にありつけない。

 

 こんな感じに突然変異を繰り返して、原初の海で最初の生物は生まれたのだろう。

 

 ところで、エネルギーが無ければ化学反応は起こらない。だから今までの出来事は、全て一つの火口付近で起きたと考えられる。まだ生命は餌を獲るために自由に動くことが出来ないのだ。すると最初は豊富にあった熱泉近くの遺伝物質やアミノ酸はどんどん失われて行き、古細菌たちはあっという間にどん詰まりに行き当たってしまっただろう。

 

 材料がなくては自己複製出来ない。だから次に起こったのは、捕食する方法や対象を変えることだった。

 

 まず考えられるのは、確かに彼らのいる火口付近にはアミノ酸などの材料はなくなってしまったが、別の場所ならまだたくさんあるはずだ。だから何らかの方法でその熱泉から飛び出し、海流などを利用して別の熱源へ移動しようとする個体が生まれただろう。殆どの個体は移住に失敗するだろうが、数億の同胞の内、たった一個が新たな熱源にたどり着ければ、そこはパラダイスだ。

 

 それから『アミノ酸がないなら炭素や窒素を食べればいいじゃない』とばかりに、二酸化炭素やアンモニアから新たにアミノ酸を作り出す細菌も生まれたに違いない。彼らは二酸化炭素から炭素を取り込み、酸素を排出したはずだ。すると海中の酸素濃度はどんどん増えていくことになる。

 

 ところで酸素は色んな物質に結合したがる性質が強く、生まれたばかりの古細菌たちにとっては、言わば毒みたいなものだった。だから殆どの古細菌は酸素を嫌ったが、そのうち、その酸素を使ってエネルギーを生み出そうとする変わり種が現れた。

 

 細菌たちはアミノ酸を作る過程で、エネルギーを使って(・・・・・・・・・)、二酸化炭素を酸素と炭素に分けた。そして要らない酸素を放出していたわけだが……ならもし逆のことをすればエネルギーが取り出せるのではないか。つまり、自分の体に蓄えた炭素を燃やして、そのエネルギーを移動に利用する細菌が、新たに誕生したわけである。

 

 しかし炭素を燃やしてエネルギーを得るのでは効率が悪い。二酸化炭素=炭素+2酸素+エネルギーの反応では、あんまりエネルギーが得られないのである。そんなに炭素を蓄えては居られないし、それに炭素はエネルギーを取り出すだけではなく、他の色んな化合物の材料にもなる。

 

 もっといい方法はないものか……そうやって細菌達が色々試しているとき、彼らは高エネルギーリン酸結合(ATP)というものを発見した。

 

 ATPはざっくり言えば、水(H2O)を使って大きな運動エネルギーを獲得する事ができる化合物である。筋肉の収縮に使われてるので名前くらいは聞いたことがあると思うが、それを使えば細菌たちは海の中を自由に動き回ることが出来る。

 

 問題は、高分子化合物は作るのが困難なことであるが、好都合なことに、この頃になると、このATPを作るのを非常に得意とする細菌が誕生していたのである。言わずと知れたミトコンドリアだ。

 

 ミトコンドリアは、他の細菌が酸素1に対してATPを1しか作れないとしたら、その二倍の生産力を誇る細菌だった。つまり他の細菌が苦労して酸素を調達してきても作れるATPは1なのに対し、ミトコンドリアは2作れるのである。思わず進次郎構文で書いてしまうくらい、それは画期的なことだった。

 

 だったら、自分たちで生産するよりも、ミトコンドリアに頼んでATPを作ってもらったほうが効率がいいだろう。代わりに、自分たちがあちこち飛び回って酸素を持ってきてやれば、ミトコンドリアも大助かりだ。

 

 なんなら、動けないミトコンドリアを自分たちが運んでやれば、もっと効率がいい。いっそのこと、自分の体の中に取り込んでしまったらどうだろうか? こうしてあらゆる生命の、ミトコンドリアとの共生が始まったのである。

 

 さて、こうして酸素を利用することで自由に動き回れるようになると、今までは深海の火山帯でしか活動できなかった細菌たちは、飛躍的に活動範囲を広げていった。

 

 そうして生命が勢力を拡大していくに連れ、海中に溶け込んでいた二酸化炭素の濃度はどんどん低下していき……やがて大気中の二酸化炭素濃度まで低下してくると、それまで温室効果ガスで満たされていた地上は晴れ渡り、太陽光線が海の中にも届くようになっていった。

 

 すると海面近くにまで上がった微生物たちは、その太陽エネルギーを利用して光合成を開始し、地球の生命の活動範囲は、深海から近海の浅瀬へと変わっていった。

 

 そしてこの頃、シアノバクテリアを先祖とした藻類などが繁栄していき、それはコケ類やシダ類、植物となって地上へと進出……ついに地球のあらゆる場所に生命は広がっていったと考えられている。

 

 ただし、植物の地上進出はいいことばかりでもなかった。捕食者が居ない地上で繁栄した植物は、光合成をして二酸化炭素を酸素に変えたわけだが、大気中の二酸化炭素の量にも限界がある。

 

 やがて大気中の二酸化炭素の殆どが失われてしまうと、光合成生物は大打撃を受けた。それだけではなく、温室効果ガスを失った地表の冷え込みは致命的なものがあり、この時期、地球は二度の全球凍結(スノーボールアース)を経験することになる。

 

 全球凍結とはその名の通り、地球の全地表が氷に閉ざされてしまう現象のことである。高いところでは1万メートルにも及ぶ、ぶ厚い氷に閉ざされて、せっかく増えた生命はこの時期に殆どが失われてしまった。

 

 しかし、そんな状況でもしぶとく生き残ったものもあり、彼らは洞窟の奥で冬眠状態で生きながらえたり、また原初のように海底火山の熱泉へと帰っていったと考えられている。

 

 さて、こうして一度は地球全体に広がっていった生命は、また原初の海である海嶺へと戻ってきてしまった。ところでこの時に帰ってきた生命は、飛び出していった時よりも、遥かに種類が多くなっていたはずである。

 

 そんな多種多様な生命が、深海の、海嶺という狭い閉鎖環境にギュッと押し込まれたのだとしたら、それはそれは大変な生存競争が繰り広げられたことだろう。

 

 そして全球凍結が終わった後、そんな過酷な環境を生き延びた生命がまた世界中に広がっていったとしたら、新たな生命たちは全球凍結前よりもずっと強くて、ずっと多様な形質を獲得していったに違いない。地球はその全球凍結を二度経験したのだ。

 

 そして二度目の全球凍結が終わったとき、地球上に突然多種多様な種族が出現し、なんと現在の種族の祖先たちが、いっぺんに出揃ってしまった時期があった。いわゆるカンブリア爆発とよばれる現象である。

 

 ただし、カンブリア爆発は全球凍結が引き起こしたのではなく、例えば古生物学者のアンドリュー・パーカーは、この時期に誕生した『眼』を持つ生物である『三葉虫』の登場が、カンブリア爆発の直接の切っ掛けだという仮説を唱えている。

 

 ドラえもんがいるわけじゃないから、本当のところは分からない。だが、三葉虫の登場がある意味、種の淘汰圧をかけたのは間違いなかった。眼を持つ生物は他の生物を一方的に見つけて捕食することが出来るから、急激に勢力を拡大していくのは間違いないだろう。それに対抗するには、他の生物も同じように『眼』を獲得するか、簡単には食べられないように身を守るしかない。こうしてカブトエビなんかの甲殻類が誕生したのだと考えられる。

 

 地球上の生態系は、カンブリア爆発を経て、元からあった資源の奪い合いから、生物同士の食うか食われるかの戦いへと変わっていった。地上に進出した植物たちは光の奪い合いでどんどん巨大化していき、それを追いかけるように動物たちもまた大型化していった。

 

 しかし、ただ大きければいいというわけでもない。体を大型化していくことで、一度は地上の覇者となった恐竜たちは、メキシコ湾に落ちた巨大隕石が引き起こした長い冬の間に、ほぼ絶滅してしまった。(完全に絶滅したわけではなく、今では鳥になって生き延びたのだと考えられているが)

 

 この時に生き延びたのは、体は小さくても自分で体温を調節できる恒温動物だった。体温を調節するには、そうするだけのエネルギーが必要になるから、その機能を持つことは巨大化競争の中では不利に働いたであろう。だが、一度冬が訪れたら、こっちのほうが有利に働くわけだ。適者生存とはこういうことである。

 

 そして恐竜が居なくなった後、地上に広まっていったのは哺乳類だった。(因みに、インドネシアとメラネシアの深い海峡で分断されて、南半球ではいわゆる有袋類として進化している)

 

 哺乳類は様々な生存戦略を獲得する上で、子供が成長するのに時間がかかる。だから子供は母親の胎内で、ある程度成長してから生まれ、更に生まれてから数年は親が面倒を見なくては生きられないような弱い生き物だった。だが、それが成長した時、環境に適応する能力は群を抜いている。

 

 人間はその中でも特に脳が発達したせいで、母親の胎内で十分に成長することが出来ず、抜きん出て幼年期が長い哺乳類である。他の哺乳類は生まれてすぐに立ち上がることが出来るのに、人間の赤ちゃんは1年位は立つことも出来なければ、食事も出来なければ、おしめも取り替えてあげなければいけない。

 

 ものすごい手間がかかるが、その代わりに成長した時、火を使い、道具を作り出し、言葉を交わして、情報を交換するという、他の動物には見られない特徴を持っているのは人間だけである。他の社会的動物にも情報交換をする種は見られるが、人間みたいに限定的でない情報を細かく伝えられる種は存在しない。

 

 これらの能力のお陰で、ついに人間は万物の霊長として君臨し、どんな動物であっても危害を加えることは出来なくなった。天敵がいなくなったせいで、人間同士で争うようになってしまったが、二度の大戦を経て、21世紀現在は概ね平和に暮らしている。

 

 人口も増え続けており、恐らく昆虫を除く地上の動物の中で2番目に数が多いのは人類ではなかろうか。(因みに一番は鶏)

 

 そして4章の冒頭でも述べたようにその数は今も増え続けており、来世紀には100億を超えるだろうと予想されている。その予想がどうなるかはわからないが、まだ暫く世界人口は増え続けるであろう。

 

 さて……ところでどうして人間は増え続けているのだろうか?

 

 無闇矢鱈と増え続けた先に、一体何が待っているのか?

 

 そもそも人間らしさとは何なのか?

 

 ここまで、長い長い地球の歴史を振り返って来たわけだが、我々人間が増え続けている理由は、どうやら原始の海の中で遺伝子が自己増殖を始めたのが発端らしい。

 

 プリンやピリミジンの塩基配列をコピーするために、生物は自己増殖を繰り返して、自分の遺伝子をばらまき続けた。それがどんどんエスカレートしていって、やがて目が発達し、骨格を得て、脳を獲得し、人間が誕生したわけだが、こうして振り返ってみると、その目的は最初から何も変わっていないのである。

 

 大体40億年くらい、地球上の生物は遺伝子をコピーすることに時間を費やしてきたのだ。

 

 実際に人間の行動は、概ね食欲と性欲で説明がついてしまう。我々が食べ物を食べるのは、そうすることで古くなった細胞(その核の中の遺伝子)を入れ替えるためだし、綺麗な姉ちゃんとヤリたいのは自分の遺伝子をコピーしたいからである。

 

 その欲望に際限がないことは、アメリカのすげえデブを見れば何となく分かるだろう。チャーリー・シーンは自分がエイズと知りながら、セックスするのをやめられなかった。彼らがセルフコントロール出来なかったのは、それが本能に根付いている行為だからだ。

 

 だが、裏を返せば、自分がどんな衝動に突き動かされているのかを理解していれば、我々は本能をコントロールすることだって十分に可能なはずだ。

 

 実際、我々はいくらでもカロリーを摂取できる環境にいながら、食べる量を減らして理想的な体型を維持することが出来るし、人工中絶をすることで生まれてくる子供の数を調整もしている。

 

 そして我々はオナニーをすることで、増えたい増えたいと本能に働きかけてくる遺伝子を欺いてさえいるのだ。賢者モードとはよく言ったもので、我々は先にオナってさえいれば、結構な誘惑にも耐えられるのだ。あの芸人も多目的トイレにお姉ちゃんを呼び出す前にオナっていたら、こんなことにはならなかっただろう。

 

 我々を含む地球上の生命は、大体40億年くらい、ずっとただの遺伝子の乗り物だった。ただ遺伝子を増やすために行動し続けてきたのだから、その本能が命じるところに逆らうのは非常に苦痛で難しい。

 

 だが我々人類は、その40億年もの長い歴史の中で、遂にそれに逆らう術を獲得してきたのである。なのに他の動物と同じことをいつまで続けているのだろうか。実際問題、あなたの細胞の中にある遺伝子のコピーを増やすことに、どれほどの意味があるのだろうか。

 

 子供を産むことが無意味だと言っているわけじゃない。子供はとても可愛いし、どちらかと言えば私も欲しい。重要なのは、なんで子供が欲しいと思うのか、もっとよく考えろということだ。

 

 うっかり出来ちゃったから責任(出来ちゃった時点で無責任なわけだが)を取って結婚したとか、なんとなく結婚したらみんな産んでるからとか、そんな漠然とした理由だったりはしないだろうか。

 

 日本では結婚したカップルの3組に1組がその後離婚しているという。小さな子供の虐待死のような痛々しい事件も後をたたない。アメリカも似たりよったりみたいだが、先進国で教育を受けた良い大人がこの体たらくである。

 

 人間らしさと言うが、生まれてくる子供の人間らしさはどこにあるのか。あなたは本当に遺伝子に操作されていないのか、もう一度良く考えた方がいいだろう。40億年は伊達じゃないのだ。

 

 話が脱線したが、説教臭い話はこれくらいにして……繰り返し問うが、あなたは自分の遺伝子のコピーをそんなに増やしたいのだろうか? 子供が出来たとしても、それは減数分裂したあなたの遺伝子の半分しか持っておらず、姿形はとても良く似ているが、他人であることは言うまでもない。

 

 そもそも、あなたの遺伝子はあなたの両親の遺伝子でもあるのだし、あなたの両親の遺伝子は祖父母の遺伝子でもある。あなたの両親があなたの言うことを聞いてくれなかったように、あなたの子供はあなたの言うことを聞かないだろうし、いい子に育つとも限らない。あなたは自分の分身を作ったつもりかも知れないが、子供は絶対に分身ではない。

 

 あなたはその子に自分の何を受け継がせたかったのだろうか。自分の性格だろうか? 学力だろうか? それとも容姿だろうか? 音楽やスポーツの才能だろうか? まあ、そういう部分も少しはあるだろうが、ほとんどの人は、ただ健康に育ってくれればそれだけで良いというような、優等生的な答えを返すのではなかろうか。

 

 何故なら、冷静に考えても見れば、我々は自分の姿かたちを自分の子孫に残したいなんてことは、これっぽっちも考えちゃいないからだ。

 

 足の指の形とか、眉毛の形とか、目の色とか、そんなのどうでもいいはずだ。ハゲの遺伝子に関しては、出来れば受け継がないで欲しいと思うだろうし、多分、性格面でも、あんまり似てほしくないなと思っているのではないか。殆どの人は、自分の良いところよりも、嫌な部分が遺伝してしまうことの方を恐れているはずだ。もしそうなるくらいなら、いっそ自分なんかに似てなくていい。

 

 そんなことよりも、その子が生まれて来てよかったと思えるよう、健やかに育って欲しいと、そして自分が死んだ時、その子が心から悲しんでくれるようにと、誰もがそう願っているのではないか。

 

 つまり実は我々は、自分の『姿形や性格』の遺伝なんてものにはさらさら興味は無くて、寧ろ残したいと思っているのは自分に関する『記憶』、思い出なのである。

 

 そして人間とは、その記憶を脈々と受け継ぐことが出来る、唯一の生命体と言えるだろう。

 

 生物学者のリチャード・ドーキンスはその著書『利己的な遺伝子』で、我々人類はもうただの遺伝子の乗り物ではなくて、情報の乗り物になったのではないかと主張した。そして細胞の複製因子である遺伝子(ジーン)を文字って、情報の複製因子のことをミームと名付けた。ネットミームという言葉を聞いたことがあるかも知れないが、それである。

 

 もちろんミームとはそういう物質が存在するわけではなく、それは架空の因子であるが、我々人類が情報を複製する何かを持っていて、それを子孫や後世に伝えていると考えるのは、これまでの科学の発展を考えるとわかりやすいし詩的でもある。

 

 我々人類は歴史を通じて、遺伝子(ジーン)ではなくて、技術や芸術といった情報(ミーム)を遺していく生き物に進化したのだ。

 

 そう考えれば、昨今の少子高齢化もそれほど怖くないのではないか。確かに人口は減り続けるかも知れない。だが、それを補って余りある情報を後世に遺していけるのであれば、それで十分なのだ。

 

 後世の人々は、その情報を未来へ繋いでくれる。そう思えば、我々も生まれてきた意味が少しはあったと言えるだろう。

 

 我々が死ぬと、どこからともなくバクテリアがやって来て、タンパク質を分解し、遺伝子を溶かし、腐卵臭が立ち込めて、管理人がやってきて、ギャーと叫ぶ。死体は運び出されて、掃除屋がやって来て、そこに物質的な物は何一つ残らないだろう。

 

 だが、我々が生きていたという情報は残る。

 

 それがちゃんと残るように、この人生を生きていくべきである。

 



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天啓

 神域のど真ん中にあるビル群は、単に中枢(アクシズ)と呼ばれていた。複数のビルが立ち並ぶパースの中心地であるが、ビルと言っても殆どが5階建て以下の低層で、荘厳な摩天楼を想像していたら肩透かしを食っただろう。

 

 もちろん、かつて人類が繁栄していた大昔のパースはそんなことはなかったのだが、今はこれがこの街最大の建物であり、機能としてはそれで十分だった。何しろ、天使はこの世に約5000人ほどしか存在せず、神域には天使しか住んでいないので、街とは言ってもその規模はせいぜい村レベルなのだ。

 

 中枢は、その中では飛び抜けて見栄えがする建物だった。それもそのはず、ここは神の座する神殿でもあるからだ。

 

 ビル群の中央に位置する神殿には神が座していることになっており、天使たちは神託を受けて使命を果たす、神の代弁者ということになっていた。その管理は機械によって徹底的に行われており、空調が効いていて年中快適で、いつも清潔に保たれて廊下には埃一つ落ちていない。建物内にはいくつもの部屋が整然と並んであって、その一つ一つがここで働く天使の個室であったが、そこはオフィスと言うよりは研究室と言ったほうが良かっただろう。

 

 天使は神の代弁者と言えば聞こえが良いが、要は(きかい)に命じられるままに行動しているだけのワーカーだから、常に何か仕事があるわけでもなかった。だから普段はアズラエルのように、それぞれ自分の好きなことをやっていたのだ。

 

 そして16年前からはその神託すら来ない状況が続いていたので、彼らの気ままな行動はより一層目立つようになっていた。今ではどうせ来ない神託を待っていても無意味だからと、出勤すらしてこない天使も増えていた。

 

 そんな中枢(アクシズ)と言うよりも、棺桶(コフィン)とでも呼んだほうがいいような人気のない建物の中を、いま一人の天使がカツカツと大きな足音を響かせながら、走るような速度で突き進んでいた。

 

 引き締まった体躯に黒い肌、ウェービーな髪をバックに流して、銀縁の眼鏡をかけている。それだけを見たらきっと黒人のダンサーとかミュージシャンを想像するだろうが、何より目を引くのは、身長180センチ以上ある彼の体をすっぽりと包み込んでしまう、その背中に生えた巨大な純白の翼だった。

 

 その堂々たる翼を見ただけで、彼が只者ではないことが一目で分かった。実際、彼はただの天使ではなかった。

 

 大天使ミカエル。

 

 もしも今が16年前の中枢であったなら、彼のそんな慌ただしい姿を見た天使たちはきっと仰天したことだろう。

 

 だが今、彼のそんな貴重な姿を拝める天使は一人もいなかった。彼はそんな人気のない廊下を息を乱しながら駆け抜け、そして神のおわす神殿にまでたどり着くと、不敬にもその扉を蹴破るような勢いで中へと飛び込んでいった。

 

「ガブリエル! 天啓が下されたというのは本当か?」

 

 神殿の中央、巨大なモノリスのような機械の前には、まるでギリシャ彫刻がそのまま動き出したかのような、均等の取れた体格の天使が佇んでいた。きめ細やかな白い肌に、鼻が高く彫りの深い顔立ち、ミカエルほどではないが堂々たる白く大きな翼を持ち、きっと誰もが振り返るであろう美青年であった。

 

 だが今、彼の姿を見て目を引くのはそんな美麗な顔立ちや翼ではなく、目であった。ガブリエルの閉じられた両目からは、血涙が溢れ出し、彼の美しい顔を真っ赤に染めていた。

 

 ミカエルはそんな彼の前へとズカズカ近づいていくと、親指と人差指を使ってグイッと瞼を開き、ガブリエルの瞳を覗き込んだ。すると本来ならば瞳孔があるであろう眼孔に、今は不思議な七色に光る穴がポッカリと空いており、そこから止めどなく血が溢れ出しているのが見えた。

 

「これは……聖痕か!」

「はい、ミカエル。間違いありません、16年ぶりの神の思し召しです」

 

 ミカエルがそれを確認して離れたのを感じ取ると、ガブリエルは微笑を浮かべてから手にしていた布で自分の両目を覆った。真っ白い布はみるみるうちに赤く染まっていったが、と同時に先程から流れ続けていた血涙も徐々に収まっていった。

 

 聖痕とは、神の啓示を受けた熾天使(セラフィム)の体の一部に浮かび上がる、痣のようなものだった。神はその意志を直接天使や人間に伝えることはなく、最初は熾天使にのみ命令を下すのであるが、その時、熾天使の体に現れるのが聖痕だった。それは熾天使が最高位の天使である証であり、受け取った命令が本物の神の意思であることの証明にもなった。

 

 聖痕は例えばミカエルなら胸に、ラファエルなら両手のひらに現れるのだが、ガブリエルのそれは困ったことに目であった。そのため彼は超回復を持つ天使であるのに、生まれつき目が見えないというハンデを負っていた。

 

 その代わりに視力以外の感覚が鋭く、16年前も啓示を受け、プロテスタントの襲撃に最初に気づいたのは彼であった。他の三大天使には運動能力で劣るが、奇跡を行使する力は頭一つ分抜けており、熾天使の中で最も天啓を受ける機会が多かった、神のメッセンジャー的な立場でもあった。

 

 そんな彼が16年間音沙汰なかった神の啓示を受けたというのは信頼が置けたし、必然だったかも知れない。ミカエルはそれを確認すると、神の座するモノリスの前で跪き、恭しく頭を下げた。

 

「神よ、我らと我らの愛する人類を導き給え……それでガブリエル。神はなんとおっしゃられておいでなのか?」

「はい」

 

 目隠しをつけたガブリエルは、まるで見えているかのようにミカエルの横に並ぶと、同じようにモノリスに頭を下げてから、

 

「天啓は、間もなく救世主(メシア)がこの地に訪れるであろうことを示唆しておりました。それは西の海より現れるのだと……」

「救世主だって……!? まさかモーセやヨシュア、そして我らが主たるイエス・キリストのような存在が現れるとでもおっしゃったのか?」

「わかりません。ただ、その者によって人類は救われる。だから決して彼の行動を妨げてはならないと……神はそうおっしゃっておいでです」

「ふむ……西の海と言えば、モーリシャスに駐屯しているドミニオンのことだろうな。しかし、その中の誰が救世主かと言われると分かりかねるぞ。もしかして、神域を抜け出したアズラエルのことを言っているんだろうか?」

「もしくは、彼女を逮捕しに行ったジャンヌ・ダルクのことかも知れません」

 

 ミカエルはその名前を聞くや否や、ハンッと鼻で笑うと、

 

「いくら人間の中で飛び抜けて強いと言えど、元プロテスタントがメシアはないだろう。もっとふさわしい者がいるはずだ……例えば……いや、待てよ?」

 

 彼はそこまで言ってから、妙な胸騒ぎを覚えて口を引き結んだ。その雰囲気を敏感に感じ取ったガブリエルが尋ねる。

 

「どうかされましたか、ミカエル? お顔の色が優れないようですが」

「見てきたようなことを言うんじゃない。実は先日、アズラエルを迎えに行かせたドミニオンから、プロテスタントの残党を発見したとの報告を受けたんだ」

「プロテスタントですって!?」

「ああ。鳳白……16年前、あの大立ち回りしていた少年が悔しそうに叫んでいたから覚えていたんだ。記憶を消す前のジャンヌ・ダルクも、いつかもう一人やって来ると言っていた。まさかと思ったが、空に人工衛星らしき火球が見えたと報告を受けた際、その捜索を頼んだのだが……」

「本当に現れたというのですか?」

「報告ではそうらしい。だから私はウリエルを通じて、そいつを抹殺するよう命じたのだが……まさか、そのプロテスタントが救世主ってことはないだろうな?」

「わかりませんが、それはいつの話ですか?」

「もう二週間ほどになる。流石にもう死んでいると思うが……」

「ミカエル様! ここにおいででしたか!」

 

 二人がそんな話をしていると、神殿の扉が開き、また別の天使が慌ただしく中に入ってきた。

 

 よく手入れされた栗色の長い髪に、女性らしく柔和で整った顔立ち、胸は豊満とは言えないが腰とのバランスが良くてナイスバディである。四大天使の中で唯一の智天使(ケルビム)で、神託を受ける能力はないが、かつてルシフェルが追放された後、能力を買われて四大天使に格上げされたという経緯を持つ、この神殿に入ることを許された一人、ウリエルだった。

 

 彼女は息せき切って駆け込んできたが、それでも二人に倣ってモノリスの前で恭しくお辞儀をしてから、口角に唾を飛ばしてミカエルに報告した。

 

「お忙しいところ申し訳ありません、ミカエル様。先日ご依頼された件についてご報告なのですが……よろしいでしょうか?」

「今ちょうどその話をしていたところだ。言ってみろ」

「はい。実は先程私のもとに、かの者の抹殺を命じた部隊から報告が入ったのですが、それによりますと件の人物をついに拘束したとのこと」

 

 ミカエルは一歩前進して食い入るようにウリエルに迫った。

 

「まだ殺してはいないんだな!?」

「は、はい! 殺せとお命じになられたと言うのに命令違反かと思いましたが、少々事情がございまして……話だけでも聞いては貰えませんか?」

「いや、怒っているわけではないんだ。それで? 話してみろ」

 

 ウリエルはどことなく切羽詰まった様子のミカエルに困惑しながらも、ゴクリと唾を飲み込むと報告を続けた。

 

「は、はい。プロテスタントを拘束した部隊長ジャンヌ・ダルクの報告によりますと、何でもそのプロテスタントは自らを『男』であると主張しているらしくて……」

「男……男だと??」

「はい。えーと……その者は生物学的に自分は人間の、ホモサピエンスの男だと言っているようなのです。とても信じられないのですが、その場にいたアズラエル様もそれをお認めになったらしく……部隊長は判断に迷って私に報告してきたようです。なんでも、プロテスタントは我々四大天使との会談を望んでいるとか」

 

 ミカエルは隣のガブリエルを振り返った。盲目の天使がまるで見えているかのようにそれにすぐ反応すると、二人は気の進まないお見合いでもしてるかのような、しっくりとしない表情を向け合いながら、ボソボソとした口調で話し始めた。

 

「……もしそれが本当なら、確かにある意味、救世主に違いないな」

「はい。神託はこのことを指していたのかも知れません」

「これは、会うしかないのだろうな」

「それが神の思し召しとあらば」

「まさか……16年ぶりの天啓があったのですか!?」

 

 ガブリエルの言葉を目ざとく聞いていたウリエルが驚きの声を上げる。彼は頷き返しながら、

 

「はい、神はおっしゃいました。西の海より救世主がくる。彼の者の行動を妨げてはならないと。神託に従うなら、彼の求めに応じるべきでしょうね。すぐにラファエルにもお伝えしなければ」

「そうしよう。だが、伝えるのはそこまでだ。このことはまだ内密にして、見極めねばなるまい。果たしてその者が、本当に救世主たり得る男であるのか」

 

 ミカエルはそう言うと、神殿の中央に鎮座するモノリスをじっと見つめた。16年前に破壊され、今日この日まではうんともすんとも言わなかったはずの神が、突然送ってきた神託……

 

 果たしてそれは、この追い詰められた人類を救う、本物の天啓なのだろうか。

 

 何しろその救世主とは、神を破壊した侵略者の仲間なのだ。少なくともそれを受け取ったガブリエルのことは信じられたが、その内容については、ミカエルはまだ迷いが捨てきれずにいた。

 



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よし……あいつ、殺そう

 白い砂浜を素足で踏むと、キュッキュッと音が鳴った。混ざりものがない純粋な石英の砂が共鳴する音だと言われているが、本当のところはよく分かっていない。そんな不思議な音を聞きながら、鳳は海岸線に沿って歩いていた。寄せては返す波打ち際は、水面から顔を覗かせる度にぽこぽこと気泡が立っていて、ところどころに小さな穴が空いているようだった。そこに白い波頭が砕けて、まるで吸い込まれているように見えた。

 

 こっちの世界に出かける前、クレアはお土産に綺麗な宝石や貝殻が欲しいと言っていた。だからそんな貝殻の一つでも落ちていないかと歩き回っていたのだが、目当てのものよりも先に、生きたハマグリの方が見つかりそうな気配である。

 

 気泡を頼りに砂をほじくり返していたら、案の定ころころした二枚貝が転がり出てきた。丁度小腹も空いてきたことだし、いくつか拾って焼いてみようかと、当初の予定を忘れて一心不乱に砂浜を掘っていると、突然、頭の上から影が差した。

 

「何をしているんですの?」

 

 その声に振り返れば、ドミニオンのポニテこと宮前瑠璃が鳳の肩越しに波打ち際を覗き込んでいた。彼は拾った二枚貝を手のひらの上で転がしながら、

 

「綺麗な貝殻を探してたんだけど、いつの間にか潮干狩りに夢中になってた」

「へえ、貝殻を集めるのが趣味なんですの? 意外とロマンチストでしたのね」

「いや、別に集めちゃいないんだけどね。元の世界に残してきた人のお土産用にさ、ちょっと探してたんだよ」

「元の世界……?」

「ほら、言っただろ? 俺は元々この世界の住人じゃないって。まあ、信じる信じないは勝手だけどさ」

「そう言えば、そんなことを言ってましたわね……いえ、信じていないわけではないのですが」

「そんなことより、せっかくだから焼いて食っちまおうぜ。隊から調味料を分けてもらえないか? バターと、出来れば酒もあれば嬉しいんだけど。お願いできるかな」

「お安い御用ですわ。すぐに聞いてまいりましょう」

「砂抜きもしたいから、ゆっくりでいいぜ」

 

 鳳はそう言うと、また波打ち際の砂をほじくり返し始めた。瑠璃もそれを手伝おうとして、何度かその背中に話しかけようとしていたが、結局はその後姿を見つめるだけで何も言えずに踵を返すと、ため息混じりにその場を後にした。

 

 瑠璃は思った。そう言われるまで考えもしなかった……彼は元々この世界の住人ではないのだ。目的が何なのかは良くわからないが、それが終わってしまえば、いつか必ず彼は元の世界に帰らなければならないのだ。

 

 彼女はそのことを考えると自分の気持ちが沈んでいくのを感じていた。自分は一体どうしちゃったのだろうか……

 

「瑠璃! どうしたんだい? あいつに何か言われたの?」

 

 瑠璃がため息混じりに帰ってくると、彼女のことを待ち侘びてそわそわしていた琥珀が慌てて駆け寄ってきた。

 

 ベヒモスを撃退した夜、彼女らドミニオンは、鳳たちプロテスタント勢力と行動を共にするということが決まったのだが、だからといってすぐに仲良くなれるわけもなく、その後も部隊員たちは鳳たちを遠巻きにして近づこうとはしなかった。

 

 そんな中で唯一、瑠璃だけが積極的に彼らに近づいていたのだが、日に日にその態度が親しげなものに変わっていく姿は、琥珀を不安にさせていた。

 

 一時的に共闘関係になったとはいえ、相手は人類の敵である。もしも瑠璃がそのことを忘れてプロテスタントに染まってしまったら、その時、自分はどちらの味方をすればいいのだろうか……

 

 元気のない瑠璃を前に琥珀がオロオロしていると、彼女はそんな琥珀の様子に気づきもしないで、ため息混じりにこう言った。

 

「私……この頃、少し変ですの。あの方と話をしていると、動悸と目眩がしてきて、なんだか自分が自分でなくなってしまうような気分になってしまうんですわ」

「え!? まさか……好きになったなんて言うんじゃないよね?」

「そう……そうかも知れませんわ。考えたくはなかったのですが」

「そんな! だって君はジャンヌ隊長のことが好きだったんじゃないの!?」

「ええ、もちろん今でもお慕いしておりますわ。でも……あの方が男性だと知った時から、私の心が日に日にあの方に傾いていくのを、どうしても止められないんですの。あの方とジャンヌお姉さま……どちらとの将来を描いていきたいのかといえば、今はもう、彼のことしか見えないんですわ」

 

 その言葉を聞いて、琥珀は目の前が真っ暗になった。瑠璃とは子供の頃から家族同然に育ち、いつからか自分の妹みたいに思っていた。出来れば、一生のパートナーになって欲しいとも思っていた時期もある。だが、彼女がジャンヌ隊長のことを意識するようになってからは、姉らしく、自分の気持ちを封印して彼女の応援に徹していたのだ。その方が、彼女が幸せになれると信じていたから……

 

 なのにこんなぽっと出のプロテスタントの、しかも男なんかに心を奪われるなんて……彼女はギリギリと血がにじむくらい奥歯を噛みしめると、ついに堪えきれなくなり叫んだ。

 

「そんなの不潔だよ!」

「えっ!?」

 

 瑠璃は、琥珀の思ったよりも強い拒絶の言葉に、驚いて顔を上げた。

 

「だ、だって、君は彼が男だから好きになったんでしょう……? それって、もしも男じゃなかったら好きにならなかったってことじゃないか。相手のことをよく知らずに、ただ男だから好きになるなんて……そんなの絶対間違ってるよ!」

「そ、そうでしょうか……」

 

 琥珀はいつも自分の味方だと思っていた瑠璃は、彼女の拒絶反応に戸惑った。こんなに強く、彼女のことを否定してくる琥珀を見るのは初めてかも知れない。故にその言葉は彼女の心に強く響いたが……だが、瑠璃は首を振ると続けた。

 

「でも……それだけじゃないんですわ。あの方とは、このマダガスカルに流されてきた時からそこそこ長い付き合いですし、その間に少しはお互いのことを知ることも出来ましたし、それに男性であるあの方とお付き合いをすれば、私も赤ちゃんが産めるって言うじゃないですか。それは魅力的ですし……」

「それが不潔だって言ってるんだよ。それじゃ今度は、彼の人間性ではなくて、彼のその……生殖能力が好きって言ってるみたいじゃないか。そんな不健全な付き合い方をするくらいなら、いっそ僕と付き合ったほうがまだ健全だよ!」

 

 琥珀は思わず心に秘めていたはずの本音を言ってしまうくらい取り乱していた。しかし、彼女のそんな思い切った言葉を、瑠璃はまったく気にせず言い放った。

 

「でも、琥珀とお付き合いをしても、女同士では赤ちゃんが産めないじゃないですか。そっちの方が不健全なのでは?」

「ぐはああ!」

「それに、男だったら誰でも良いって言ってるわけじゃありませんの。もしも私が赤ちゃんを産むなら、彼の子がいいと思える自分がいるんだと、そう思うのですけど……」

 

 その言葉は、琥珀に止めを刺した。彼女は轢き潰されるカエルみたいな悲鳴を上げると、顔色はみるみる青く染まっていき、まるで死人のようにぐったりしてしまった。瑠璃は突然の幼馴染の乱心に戸惑い、一体何が起きているのかとオロオロしていると、すっと小さな人影が近づいてきて言った。

 

「さっきから黙って聞いてたけれど……それは瑠璃が間違ってるわ」

「桔梗!?」

「人間性だとか、子供が産める産めないとか、そんなの関係ないわよ。そんなことより問題なのは、あいつがプロテスタントだって言うことよ。もしも瑠璃があいつのことを好きになって、あれの子供を産んだとしても、生まれてくるのはプロテスタントの子供なのよ? そんなレッテルを貼られた子供がまともに育つと思う?」

「それは……」

「あなただってタダじゃ済まないわ。忘れないで、瑠璃。プロテスタントは人類の敵なのよ。その事実が覆されない限り、あいつに肩入れすることは、あなた自身の評判を貶める行為よ。それでももし、どうしてもあなたがあいつの子を産みたいっていうなら……私はあなたと絶交する。そのくらいの覚悟を持っていてちょうだい」

 

 瑠璃と琥珀の会話に割り込んできたのは、もうひとりの幼馴染の桔梗だった。彼女は三人の中でも一番背が低く、ツインテールで幼い顔をしていたが、今の彼女はまるでそれだけで人が殺せそうなくらい、ギラギラとギラついた目で遠くの鳳を睨みつけていた。

 

 瑠璃はそんな桔梗の迫力に気圧されて何も言えずに生唾を飲み込んで押し黙った。彼女にとって、琥珀と桔梗はかけがえのない仲間だ。自分の気持ちとどちらを取るのかと言われたら、今までだったら迷うことなく彼女らとの友情を取ると言っただろう。

 

 だが、今の彼女はそのどちらも選べなかった。それくらい、自分がおかしくなっているんだなと気づいて、瑠璃は胸が苦しくなった。

 

 一方、桔梗の言葉で我を取り戻した琥珀は、逆に顔面蒼白になってしまった瑠璃を慮って、

 

「僕は仮にそうなったとしても、瑠璃のことを嫌ったりはしないよ。でも、桔梗が言う通り、後ろ指さされることは確かだ……そうならないよう、瑠璃には考え直して欲しいな」

「ええ……二人が私を心配して言ってくれてるのは分かっていますわ」

 

 瑠璃はそう言ってシオシオと肩を落とした。琥珀はそんな彼女の肩を優しく抱いて、元気を出せよと慰め始めた。桔梗はそんな二人をちらりと横目で一瞥してから、また目の前の敵に向けていつまでもいつまでも憎悪のこもった視線を浴びせかけていた。

 

(あの野郎……)

 

 うかつにも津波に流されてしまった瑠璃を保護してくれたことには感謝するが、それをネタに恩着せがましく瑠璃と琥珀の間に割り込んでくるなんて……絶対に許せない! 彼女は歯ぎしりをして唾を吐き捨てた。

 

 桔梗は女の子同士がイチャイチャしている姿を、自分は傍観者の立場で、こっそり見ていることが好きだった。二人の間には、仮にそれが自分であっても、決して入ることは許されないのだ。何故なら百合が美しいのは、それが混ざりものがない純白だからだ。そこに何かの色が混ざるなんてことは、ましてやそれが男だなんて……断じて許されることではない!

 

 桔梗は特に幼馴染である二人の関係性(を眺めるの)が好きだった。小さな頃から、どこかぼんやりしていて落ち着きがない瑠璃のことを、ボーイッシュで気が強く元気ハツラツな琥珀がぐいぐい引っ張っていく姿を、後ろから(こっそり)追いかけていくのが好きだったのだ。

 

 そしてぼんやりしている瑠璃の面倒を見ている内に、いつしか放っておけない妹分に惹かれていく琥珀……そんな二人がドミニオンになるため士官学校に入学し、ジャンヌ隊長と出会い、隊長相手にあっけないほど簡単に恋に落ちてしまった瑠璃にイライラしながら、それでもその気を惹こうとして隊長に突っかかっていっては幾度となく返り討ちに遭い、子供の頃から一度として挫折を味わったことのない琥珀の心が折れて闇化、一時期は手のつけられない荒くれ者として界隈に名を轟かせた琥珀のことを、決死の覚悟で迎えに行った瑠璃。そんな瑠璃がドジを踏んで琥珀のライバルに拐われてしまい、盗んだバイクで走り出す琥珀にそれは犯罪だからと言って止める隊長。殴り合いの末にダブルノックアウトで倒れた二人はお互いの力を認めて共闘。そんな二人にならず者たちは為すすべもなく返り討ちにされ、やっとのことで助け出された瑠璃は感極まって一直線にジャンヌ隊長の胸に飛び込んでいくのであった。幸せそうな瑠璃の表情、そして彼女に抱きつかれて少し困惑気味のジャンヌ隊長。そんな二人の姿を目の前で見せつけられて、ああ、自分は何一つ隊長に敵わないのだと負けを認め背を向ける琥珀。と、その背中に突き刺さる、私を越えたいのであれば、今のままじゃダメダメよの声。その言葉にはっと顔を上げて、ようやく前を向こうと思い直した琥珀は、純真だった子供の心を取り戻して、そして二人は士官学校でも類を見ない優秀な成績で飛び級で史上最年少のドミニオンとして卒業していくのだった。

 

 うほー! たまんねえ! 最後の方はちょっぴり(?)妄想が入ったけれど……瑠璃とジャンヌ隊長、そんな二人の尊敬する友人たちの仲を認めて一度は身を引きながら、それでもまだ瑠璃のことを諦めきれずに事あるごとに気を引こうとしてしまう琥珀。そんな彼女がついに僕と付き合ってなんて言い出すとは……なのに! そんな甘酸っぱい三角関係を、あの男が何もかも台無しにしてしまったのだ。こんなことが許されてなるものか!

 

 実を言えば、おかしくなったのは瑠璃だけではない。あれが男だと発覚してから、部隊内のあちこちの百合カップルも動揺し始めているのだ。それまで仲睦まじかった女同士が、自分たちの関係に疑問を抱き、ギクシャクしたり、些細なことで口論を始めているのだ。何故? 我々は女同士でくっついているのだろう……? たった一人の男が現れたというだけで、彼女らのアイデンティティが揺らいでしまったのだ! 気の早いことに、中には別れを口にするカップルもいる。このままでは、落ち着いて女の子同士のイチャイチャを眺めていることが出来なくなってしまう!!

 

(よし……あいつ、殺そう)

 

 桔梗は決意した。あの男がいる限り、彼女の幸福だった日々はもう戻ってこない。女同士のラブストーリーは突然に、天変地異のごとく理不尽に打ち砕かれてしまったのだ。プロテスタント? 人口減少? そんなの関係ねえ! そんなことよりも落ち着いて百合カップルを眺められる日常が帰ってくることの方がずっと大事だ。アズラエルもろくなことをしなかったが、あの男は更に最悪だ。これ以上、美しい女同士の愛情が揺らいでしまう前に、早くなんとかしなければ……!!!

 

 桔梗はギラギラとした視線を浴びせながら、頭の中ではそんなことを考えていた。鳳はその鋭い視線を何となく横目で感じながらも、調味料はまだかなあ……と、砂抜きをしながら、瑠璃の帰りを呑気に待っていた。

 



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さらばマダガスカル

 バケツにぶっ込んでいた二枚貝が順調に砂を吐いていた。熱した石の上で焼いて、貝殻をお皿に酒を垂らして、焼き上がったらバターを落として食べれば、きっと濃厚な旨味が染み出してくることだろう。醤油やレモン汁があれば尚良いのだが、流石にこんな秘境で贅沢は言ってられない。塩とバターだけでもあるだけマシなのだ。

 

 瑠璃はまだだろうか……その調味料を調達しに行った彼女は、友達二人に捕まって何やらごちゃごちゃやっているようだった。なんとなく見た感じ、琥珀は瑠璃のことが好きで鳳に近づいて欲しくないっぽいことは分かっていた。だから仕方ないかも知れないが、意外なのはもう一人の桔梗の方も、露骨に鳳に敵意を向けてくることだった。

 

 その瞳は寧ろ琥珀よりも鋭くて、まるで不倶戴天の敵でも見ているかのようだった。だから、最初は何でそんなに敵意剥き出しなんだろうと思っていたが……考えても見れば彼女らは元々この世界の神に仕える戦士なのだ。

 

 思い返せば、海の上で始めて会った時、憎悪の籠もった目でアズラエルのことを突き刺していたのは彼女だった。そう考えれば、彼女にとってプロテスタントである自分は、今でも憎むべき人類の敵なのかも知れない。一緒にベヒモスを倒したからと言って、すぐ受け入れられるほど簡単じゃないのだ。

 

 そんなことを考えつつバケツを覗き込んでいたら、いつもの呑気そうな足取りでふらふらとミッシェルがやってきた。

 

「やあ、タイクーン。今日の献立はクラムチャウダーかい? 僕はあれが好物でね」

「こんな秘境で、そんな手の込んだものは作れませんよ。小腹がすいたから適当にバーベキューでもしようと思ったんですけど、調味料分けてもらおうとしたらルリルリが捕まっちゃったみたいで。どうやら、俺はまだまだ嫌われているようですよ」

「そうかい? そんなこともないと思うけど」

 

 ミッシェルは彼らのことを遠巻きに見ているドミニオンたちをぐるりと見回し、

 

「何人かの子は君に興味津々のようだけどね」

「俺っつーか、生殖細胞にでしょう」

「そうかも知れないけど」

「交渉材料にしといてなんですけど、それだけ切羽詰まってるんでしょうね。見ず知らずの男の子供でも、産まれないよりはマシなくらいに」

「人類滅亡の瀬戸際だよ。そこへ現れた君は救世主みたいなものさ。考えようによってはいくらでも女の子を抱き放題なんだから、人によっては嬉しくて仕方ないだろうに、君はあんまり乗り気ではないようだね」

「そりゃあ、まあねえ……一応、こう見えて所帯持ちですから」

 

 妻に何も言わずに行動しているのだから、考えようによってはただの浮気でしかないのだし、仮に精子の提供だけに留めたところで、隠し子をわんさと作っていることに変わりはない。それに、結婚してまだ子供がいないアリスのことも気がかりだった。彼女のことを思えば、自分の行動は少し軽率だったかと思いもするのだが……

 

 鳳はブンブンと頭を振った。どちらにせよ、ここまで来て立ち止まっているわけにはいかないのだ。妻や子供たちのことを思えば、それこそ一日も早く元の世界に帰らねばならないのだから。

 

「それにしても、いきなり四大天使と交渉しようとは、ずいぶん思い切った手を考えたものだ。流石勇者と呼ばれるだけはある豪胆ぶりだよ」

「そんな褒められたもんじゃないですけどね。っていうか、何の相談もせず、ミッシェルさんまで巻き込んでしまって申し訳ありません。出来ればこのままパースまでついてきて欲しいんですが……」

「もちろんそのつもりだよ。島でロハス生活を続けるより楽しそうだ。それに、君といたほうが食生活も充実しそうだしね」

 

 ミッシェルは砂を吐き出す二枚貝を見ながら、

 

「それで、四大天使とは何を話し合うつもりなんだい? いきなり敵の懐に飛び込むんだ。それなりに勝算があってのことなんだろう」

「ケーリュケイオンを見つけるための情報が欲しいんですが……それよりなにより、ギヨームが生きていないか確認をしたくて」

 

 ミッシェルは意外そうに顔を上げた。

 

「おや。君は彼が生きていると思うのかい?」

「こっちに来てからずっとアズにゃんのことを見てたんですけど、彼女は人間たちに何をされても無抵抗なんですよね。ドミニオンの子たちも、天使が人間に手を出すのはタブーだって言ってたし……こうしてジャンヌが生きているのを考えると、もしかして四大天使は人間であるギヨームに手を出せなかったんじゃないかと思って」

「ははあ……その可能性はあるかも知れないね」

「っていうか、ミッシェルさんの占いでそういうのって分かりませんかね」

「ふむ。占ってみようか」

 

 ミッシェルはそう言うと、流木の枝を使って砂浜に何かを書き始めた。なんとなく漫然と描いた円の中に、ちょこちょこと文字やら点やらを書き加え、時折ふんふんと鼻を鳴らしながら何かを考え込んでいる。そして彼は、やがて何かに納得したかのように、その円の周りをぐるぐると指差しながら、

 

「うーん……極寒の地、大きな氷塊、意思、焦燥、黒い雲、その渦巻のなかに、煌めく金の弾丸が迸っている。君は天使を従えて、その何かと戦っているようだ。大勢の天使が君を支えて、相手は魔族……それに、ここはどこだろうか?」

「弾丸? え? それギヨームのことですか? っていうか、俺、そいつと戦ってるんですか??」

 

 ミッシェルは困ったように地面を突きながら、

 

「そう見えるねえ……君の周りには天使が見える。つまり、天使を従えた君と、魔族を従えたギヨーム君が戦っている……ってことかな?」

「はあ!? そんなバカな! どうして俺とギヨームが戦うようなことが……つか、あいつが魔族と? なんで? 何かの間違いでしょう?」

 

 あまりにも想定外の結果を前に鳳が目を回していると、ミッシェルはカラッとした笑い声を上げながら苦笑交じりに、

 

「かも知れないね。ま、所詮は占いなんだから、当たるも八卦当たらぬも八卦。結果なんか気にせず、君は君のしたいようにすればいいよ」

「いや、あなたにそんなこと言われても全然安心できないんですけど……ミッシェルさんの占いって、百発百中だったんですよね?」

 

 するとミッシェルはとんでもないとブンブン頭を振って、

 

「そんなわけないよ。占いってのは、あくまで将来の行動指針の一つに過ぎないのさ。よくあるタイムパラドックスにもあるだろう? 例えば100%未来を言い当てることが出来る占い師がいたとして、その人が、あなたはこの道を歩いていった先で死にますって言ったら、言われた人は絶対にそっちを避けるじゃない。そしたら、100%当たるはずの占いも、外れることになってしまう」

「はあ……そうですね。じゃあ、占いどおりにならないように、避けてれば平気ってことですか」

「いや、そうじゃないそうじゃない。結果ってのは、あくまで一つの可能性に過ぎないってことさ。結果を恐れてその原因を取り除いたところで、それに似たような出来事は起こりうる。原因というか、因縁の方なんだけど」

「……原因? 因縁? どう違うんです?」

「結果ってのは、因と縁、2つが揃って始めて成り立つって仏教の教えだね。ほら、よく縁起が良いって言うじゃない、その縁さ。

 

 因果という言葉もあるくらいで、僕たちは原因と結果を一組に捉えがちだけど、実は一つの原因が必ず一つの結果を導くとは限らないんだよ。例えばある時、雨が降ったら山崩れが起きたとする。すると人々はその時に降った雨が山崩れの原因だと考えるわけだけど、でもそれじゃ、雨が降る度にいつもどこかで山崩れが起きていないとおかしいわけじゃない。世界中、いつもどこかで雨は降ってるけど、山崩れはそんなに頻繁には起きていない。

 

 そう考えると、実は山崩れは雨が降ったからじゃなくて、たまたまその山の地盤が緩んでいて、そこに偶然雨が降ったから起きた……まず緩い地盤という因があって、そこに雨という縁が訪れて、初めて山崩れという結果が導かれたというわけだ。

 

 また仮に、山の地盤が緩んでいて、そこに雨が降ってきても、必ずしも山崩れが起きるとは限らない。雨が降らなくても、例えば地震なんかで山崩れが起きる可能性もありうる。

 

 こんな具合に、そこに何かの結果があっても、実は因縁しだいでは、その結果が変わっていたかも知れないんだ。僕が何度も過去や未来は絶対ではなく、曖昧なものでしかないって言ってたのは、そういうわけさ」

「う、うーん……なるほど。言ってる意味は分かります。でも、それじゃ具体的にどうすればその未来を回避できるんでしょうか?」

「まず回避するって考えを改めることだね。あまり身構えずに、もしかしたらそういう未来が起こるかも知れない……そう考えて日々を真摯に取り組んでいれば、いつか似たような事が起きても、もっと良い結果を導けるかも知れない。占いとはそんな風に付き合っていくしかない」

「そっか……そうですね」

 

 鳳は大きく頷いて、

 

「ギヨームと争うかも知れないと言っても、その原因はまだ何も分かってないんだから、場合によっては話し合いで解決するかも知れない。それに、占いが本当なら、少なくとも彼はまだ生きてるってことですしね」

「そうだね。そうやってポジティブに考えてたほうが良いよ」

「それにしても……俺が天使を引き連れて、ギヨームが魔族をってのは、やたらと示唆的ですね。もしかして、四大天使に会いに行くのは間違ってるんでしょうか?」

「かと言って、他に何か当てはあるの?」

「そうなんですよねえ~……」

 

 四大天使……というか、こっちの世界の人類を避けて行動するのはあまりにもリスキー過ぎる。そもそも、ギヨームがどこにいるかも、プロテスタントのアジトもわからないのに、どこへいけばいいというのだろうか。結局、危険は承知で飛び込んでいくしか方法はないのだ。

 

 ふと何気なく、瑠璃のいるドミニオンのキャンプとは逆方向に目を向けると、遠くの波打ち際にアズラエルとギー太とサムソンが、仲良く日向ぼっこをしているのが見えた。

 

 自分だって魔族を引き連れていると言われたら返す言葉もないのだ。そう考えると、さっきまで考えていたことが馬鹿らしく思えてきた。鳳は肩を竦めると、

 

「そう言えば、サムソンはちゃんと元に戻れるんでしょうかね。それも占いで分かりませんか?」

「さあ、わからない」

「わからない?」

 

 どことなく突き放したような返答に小首をかしげて見せると、ミッシェルは仕方ないじゃないと言わんばかりに首を振りながら、

 

「僕は占星術師だからね、彼の生年月日がわからなければどうしようもないし、そもそも、彼はこの世界で生まれてきたことすらないんだから、占いようがないんだよ」

「あ、そういうもんですか」

「彼の結末は彼の世界にしかないんだよ。でもまあ、なんとかなるんじゃないかなあ。君はなんとかするつもりなんだろう?」

「そりゃもちろん、そのつもりですけど」

「お、おまたせしましたわ。部隊から調味料を分けてもらってきましたの」

 

 そんな風にミッシェルと話し込んでいたら、ようやく瑠璃が戻ってきた。そのすぐ後ろには琥珀と桔梗もついてきている。さっきまで物凄い形相で睨んでいたくせに、今はそんなのはお首も見せずに、涼しい顔をしていた。二人共、何食わぬ顔でご相伴に預かるつもりらしい。

 

 女ってこういう、男には絶対出来ない切り替え方をするよな……とか思いつつ、そんなことを指摘しても良いことなんて何一つ無いので、黙って迎え入れてみんなで箸をつついた。

 

 食に飢えているこちらの人々には好評だったが、味は割と普通だった。早くも醤油が恋しくなったが、ヘルメスのみんなは元気だろうか。

 

*******************************

 

 突発のバーベキュー大会を終えて食休みをしていると、沖合からゴオオオッという機械音が響いてきた。こんな音が聞こえてくる理由は一つしか無い。鳳のことを報告するために、一度モーリシャスまで帰っていたジャンヌが戻ってきたのだ。

 

 岸に近づいてくるにつれ徐々に大きくなってきたホバークラフトは、海岸の近くで何度か旋回した後に、上陸地点を見つけてそのまま砂浜に上がってきた。

 

 最初はなんで航続距離が短そうなホバークラフトなんかに乗ってるんだろう? と思っていたが、こうして上陸するところを見て理由が分かった。この世界にはオーストラリアにしかまともな港は存在しないのだ。おまけに水棲魔族が出没する海では、普通の船舶が沖合で呑気に停泊してるなんてことは出来ないのだろう。

 

 砂浜の砂を吹き飛ばしながら、海岸の奥まで滑るように乗り込んできたホバークラフトがようやく止まると、それを遠巻きに見ていたドミニオンの少女たちが駆け寄っていって、整然と横隊に並んだ。こういうのを見せられると、ちゃんと訓練された軍隊なんだということを思い出すが、普段の姿からはあまり想像ができなかった。

 

 彼女らに遅れて近寄っていくと、ホバークラフトの上甲板にひょっこりとジャンヌが顔を出した。

 

「望み通り、上に報告してきたわ」

 

 ベヒモスを撃退した後、一度は鳳のことを捕らえようとしていた彼女は、説得に応じて態度を改めると、今度は上司に話をつけに本部まで戻ってくれていた。

 

 その際、部隊ごと本部に帰ってしまっては鳳を逃がすことになってしまうし、かと言って鳳をモーリシャスまで連れて行くわけにもいかないから、こうして部隊を残してジャンヌ(と最低限の人員)だけが使いっぱしりをしてくれたわけだが……その様子を見るからに、どうやら首尾よく四大天使にこっちの要望を伝えてくれたらしい。

 

 ジャンヌは甲板から飛び降りるようにして部隊員たちの前に降り立つと、隊員たちに軽く敬礼を返してから、

 

「まず結論から言うわ。今回の件を神域に報告したところ、四大天使はあなたとの面会に応じるそうよ。可能な限り早急に、パースまで来るようにとの仰せよ」

 

 その言葉に部隊員たちからどよめきが起きる。ジャンヌはそんな彼女らに静粛にするように命じ、

 

「パースまでは私の部隊が責任を持って送り届けましょう。鳳白、ミッシェル・ド・ノートルダム……それから気に食わないけれど、あの猿の魔物も一緒に連れてこいとのお達しよ。三人は明朝、まずはこのホバークラフトでモーリシャスまで来てもらうから、遅刻せずに集まるように。そこで飛行機に乗り換えてパースに向かうわ」

「アズにゃんは一緒じゃないのか?」

 

 彼女の名前がないことを疑問に思った鳳が尋ねると、

 

「……アズラエル様だけなら船でお送りも出来るのだけど、お連れしている魔族はそういうわけにはいかないわ。信用が置けないと言うだけではなく、単純に船に乗り切らないから」

「ああ、それもそうか」

「私のことなら気にするな。君たちに少し遅れるだろうが、必ず神域に出頭しよう」

 

 アズラエルのその言葉にジャンヌは彼女の方へ向き直ると、

 

「その言葉を決して違えること無くお願いします。神域は、無理やりにでもお連れした方が良いかという我々の問に対し、アズラエル様を信用し、あなたのしたいようにさせよと仰せでした。あなたが帰ってらっしゃることを信じて待っているそうです」

「肝に銘じよう。今更逃げようとなど思ってはいない」

 

 ジャンヌはアズラエルの言葉を確かめると、また部隊の方へ向き直り、

 

「今言ったとおり、我々の部隊にはこの三人をパースへ連行するよう命令が下った。また、神域はプロテスタントとの接触を持ってしまった我々に、事態が落ち着くまでパースに駐留するようにお命じになられた。神域はプロテスタントと交渉を行うことを、まだ世間に公表したくはないそうだ。このことは機密とし、他の部隊員への口外を絶対に禁じる。以上だ」

 

 その言葉に整然と立ち並んでいた部隊員たちからどよめきが起きた。確か瑠璃たちの話では、パースは人間は絶対立入禁止の天使だけの領域であるらしいから、今回の命令は本当に異例尽くしなのだろう。ジャンヌもそれが分かっているからだろうか、規律もへったくれもないくらい動揺する部隊を黙って見ているだけで、何も言うことはなかった。

 

 鳳は、面倒事に巻き込んじゃったかなと思いつつ、特に掛ける言葉も無いので、これ以上彼女らを刺激しないようにとその場を離れた。そして同じく空気を読んで離れていったアズラエルの横に並ぶと、

 

「なんか大事になっちゃったな。俺だけパーッと行って会わせてくれればそれでいいのに」

「そういうわけにもいかないだろう。彼女らを巻き込んで本当に申し訳ないと思うなら、君のそのサンプルをさっさと私に寄越すことだ。決して無駄にはしないぞ」

「無駄にしないって、どう扱うつもりだよ、まったく……こっちとしても唯一の交渉材料なんだからもう少し待ってくれ。全ては四大天使と話をしてからだ」

「……ミカエルは、ちゃんと私にもサンプルを分けてくれるだろうか」

 

 アズラエルは鳳の股間のあたりをジロジロ見ながらぶつぶつ言っている。純粋に研究目的で他意はないのだろうが、そうやってじっくり観察されてしまうと、腰のあたりがひゅんひゅんして仕方なかった。鳳は話題を変えるように、

 

「アズにゃんはどうやって帰るつもりだ? やっぱり、最初に会った時みたいに筏に乗ってインド洋を横断するのか?」

「それ以外にあるまい」

「簡単に言うけど、そんなの普通じゃありえないぞ。何ヶ月も漂流した挙げ句、餓死するのが落ちだ。そういやあ……俺はてっきりギー太が筏を引っ張ってるんだと思ってたけど、実際はアズにゃんが津波を起こして移動してたの?」

「ん? ……ああ、そうだが?」

「あれって君の必殺技か何かなのか? 実は前の世界で同じような技を食らったことがあってさ……レヴィアタンって魔王が使っていたんだけど」

 

 鳳の言葉に、アズラエルは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに何事もなかったかのように冷静な表情に戻ると、

 

「驚いたな。君はベヒモスだけでなく、レヴィアタンとも戦った経験があったのか?」

「内緒だけど、俺だけじゃなくて、あのジャンヌも一緒だった。俺とあいつで、とどめを刺したんだ」

「それは……驚いた」

 

 アズラエルは本気で目を丸くしている。

 

「ギー太たちは、その時にレヴィアタンが召喚してきた取り巻きだったんだけど……なあ? 君はもしかして、何か身に覚えがあるんじゃないか?」

 

 鳳が尋ねても、アズラエルは表情を変えること無く、黙って前方を見据えたまま歩き続けていた。その視線の先には、件のインスマウス達が見える。

 

「君が研究所で話してくれたけど……あれって、やっぱ、人間だったんだよな?」

 

 アズラエルはその言葉にも黙して語らず、ただ黙って歩き続けていたが……暫くすると何かを後悔するかのように立ち止まり、水棲魔族の方を見ながら、ため息混じりにポツリと呟いた。

 

「……過去がなんであれ、今の彼らは庇護がなければ生きてはいけない。私はその手助けをするつもりだ。天使は……無駄に長生きだからな」

「そうか」

 

 きっと、一生面倒を見るつもりなのだろう。だとしたら、それが元人間だろうが魔族だろうが、もう関係ないと言いたいのかも知れない。そんな都合よく、彼らがもとに戻れるとは限らないのだから。

 

 ミッシェルの小屋で現代魔法の講義を聞いていた時、彼女は肉体と魂の分離という言葉に妙に食いついていた。きっとそれは、鳳がサムソンを元に戻したいように、彼女にも元に戻したい人がいるからだったのだ。

 

 その後、筏を組み立てると言う彼女を手伝って、サムソンと三人でえっちらおっちら木々を運んでいると、見かねたドミニオンの隊員が手伝いを申し出てくれた。お陰で出来上がった筏は最初に彼女が乗っていた見窄らしいものとは段違いで、きっと彼女の旅を快適にしてくれるだろう。

 

 翌朝、パースでまた再会することを約束して、鳳たちは一足先にドミニオンのホバークラフトに乗ってマダガスカルから離れていった。アズラエルはその船が見えなくなるまで海岸線で見送ったあと、出航の邪魔にならないように沖へやっていたインスマウスを呼び戻し、みんなで作った筏を波打ち際まで運んでもらった。

 

「これ、ギー太、そう雑に扱うんじゃない」「ギィギィ!」「うん、みんなが帆をつけてくれたのだが、邪魔だから外してしまおう」「ギィ!」「好意を無駄には出来ないからな、要らないとは言えなかった」「ギィ~……」

 

 そんな会話を交わしながら、アズラエルはいつの間にか自分が彼らのことをギー太と呼んでいることに気がついた。それまでは罪悪感や葛藤もあって、あまり愛着が沸かないよう、努めて話しかけないようにしていたのだが……ろくに話も通じていないだろうに、鳳がべらべら話しかけているのを見ていて、意識しているのが馬鹿らしくなってきたのだろう。

 

 それにしても、どうして彼はギー太と言うのだろうか? ギィギィ鳴くからだろうか? そんなことを考えつつ、彼女が出航の準備をしていると……ふと、頭の上に影が差したような気がして、彼女は顔を上げた。

 

 すると遠くの山の上に、巨大な影がうごめいているのが見えた。あんなもの他に見間違いようがない、魔王ベヒモスである。

 

 ついさっきまで気配を感じさせなかったのに、アズラエルだけになったこのタイミングで現れるとは……

 

「もしかして、サムソンが居なくなるのを待っていたのか?」

 

 鳳も言っていたように、あの魔王は食への執着が強い。だが、サムソンがいる限り、無駄な労力を払うだけで、絶対にご馳走にはありつけないから、目の前に好物があるのにじっと我慢して隠れていたのだろう。

 

 正直、あの魔王にそんな我慢が出来るほど理性があるとは驚きだったが、それよりこの状況であれが動き出したのだとしたら、狙いは間違いなく自分たちだろう。

 

 案の定、ベヒモスは山の斜面を下って、一直線にこっちへ向かって駆け降りてきているようだった。しかし、いくら真っ直ぐ走るのが速くても、途中にはジャングルが立ちはだかり、まだまだ距離もあって到着まで数十分はかかるはずだ。

 

 アズラエルはそれを確認してから筏を海に浮かべ、

 

「残念だったな、魔王ベヒモス。海に入ればこっちのものだ」

 

 彼女はギー太たちに命じて筏を少し沖まで運んでもらうと、目を閉じて朗々と詠唱を始めた。

 

「タイダルウェイブ!」

 

 その詠唱が完成するや、どこからともなく津波が現れて、彼女の乗っている筏を押し流しはじめた。まるで水中を飛ぶかのように、その後を無数の水棲魔族達が追いかけてくる。筏はぐんぐん速度を上げて、やがて海岸が見えなくなると、遠くの山の上の方からベヒモスの悔しそうな咆哮が響いてきた。

 

 さらばマダガスカル……もはや振り返っても島影はどこにも見えなかった。アズラエルはそれを確認すると、筏のマストに背中をあずけて、どこまでも続く大海原の上を駆けていった。

 



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天使ガブリエル

 オーストラリアの南西部にあるパースは、かつて光の都市と呼ばれていた。8割方を海洋が占める南半球で、特にこのあたりは陸地が少なく、またオーストラリア中央の広大な砂漠に遮られて、パースは驚くほど他の都市から孤立しており、自国の首都キャンベラよりも、インドネシアの首都ジャカルタの方が距離的には近いくらいだった。

 

 そのため、オーストラリア西部はパースの周辺以外は真っ暗だから、かつてジョン・グレンがアメリカ人として始めて軌道周回飛行を行った際、その光がはっきり見えたそうで、以来、かの都市は光の都市と呼ばれているらしい。

 

 でも今は、そんなことを言う者は誰ひとりとしていないだろう。何故ならパースは確かに他の都市から孤立していたが、ついでにそこに住んでる住人も少なかったからだ。きっと今、宇宙から見てもその光は確認出来ないだろう。今のこの都市には天使しか住んでおらず、その人口は5千人にも満たないそうだ。

 

 モーリシャスから飛行機に乗っておよそ8時間。空の旅を終えて辿り着いた先は、恐ろしく殺風景な砂混じりの飛行場だった。

 

 マダガスカルの街はそんな寂れてなかったし、モーリシャスについてみれば、思いがけずジェット機なんてものが出てきたものだから、てっきりパースもそれなりに発展しているのだろうと思っていたが、それはとんでもない間違いだったようである。

 

 名ばかりの飛行場には到着ロビーもなければ管制塔も見当たらず、吹きさらしの滑走路には進入禁止のフェンスすら無かった。それは道徳的な天使が滑走路に入り込むような悪事を働くはずがないから、と言うわけではなく、そもそも町外れには人はいないし、飛行機が飛んでくることが滅多にないからなのだろう。

 

 到着しても空港に隣接してあった格納庫が開くことはなく、いくら待っていても案内してくれそうな人は誰も出てこないから、仕方なく無断で滑走路を横切って格納庫に横付けし、そこにあった非常電話で連絡を取って、ようやく神域はドミニオンの飛行機が到着したことに気づいた始末であった。

 

 どうやら四大天使はすぐに来いと言ったくせに、いつ到着するかまでは念頭に無かったらしい。天使は神人同様、不老長寿だから、時間感覚がかなりアバウトになってしまっているのだろうか。

 

 その証拠に、こうやって連絡が取れてもなお、鳳たちは迎えが来るまで更に数時間待たされた。あまりにも待たされるものだから、不敬かも知れないと畏れつつも再度ジャンヌが確認しなければならず、おまけにすぐに行くからと言われたっきり、また3時間ほど待たされるといった体たらくであった。

 

 お陰で午前中に到着したというのに、気がつけばもう西の空は赤く染まっていた。こっちは気を利かせて朝に到着するように向こうを発ったつもりだったのだが、あまりにもルーズな天使の待ち合わせに、流石のドミニオンの隊員たちも苛立ちが隠せないようだった。

 

 本来、パースは人間が入ることすら許されない禁断の地ゆえに、この地に立つことは人間にとってかなり名誉なことらしいが、いつしかその場は愚痴大会になっていた。最初は天使様を迎えるのに失礼だからと直立不動で待っていた隊員たちも、いつの間にか地べたに座り、ジャンヌが嗜める声も聞かずにだらだらと文句を垂れている。

 

 鳳もこんなに待たされるなんて許せないと同調し、瑠璃たちとぶつくさ文句を言っていると、東の空が紺色になった頃に、ようやく飛行場に3台の車がやってきた。

 

 車と言っても2台はバスで、残りの1台はどこにでもありそうなダサいセダンである。なんというか、初代カローラと言った趣だ。

 

 そんなセダンから、ギリシャ彫刻みたいにスマートな、一人の長身の天使が降りてくると、もう2台のバスから間髪入れず二人ずつが駆け下りてきて、長身の天使を囲んでペコペコやりはじめた。

 

 その様子を見るからに、きっと真ん中のセダンが上司なのだろう。天使の社会も上下関係が厳しいのだろうか、まるで社畜みたいだなあ……とか思っていると、そのセダンが鳳のことを指差して何やら周りの天使に言っているのが見えた。

 

 初対面の人間をいきなり指差すなんて礼儀知らずなやつである。散々待たされたこともあって、ここは1つ文句でも言ってやらねばならないと、その面をじろりと睨んでやったら……よく見ればセダンの天使の目は布で覆われていて、顔がよく見えないことに気がついた。

 

 あれじゃ周りは何も見えていないだろう。もしかして目が悪いのだろうか? っていうか、あれ? 目が見えないなら、どうしてこっちを指差したのだろう? と、いくつもハテナを飛ばしていると、

 

「ガ……ガブリエル様!!」

 

 さっきまで隣で愚痴をこぼしていた瑠璃がいつの間にか直立不動でそんな言葉をのたまった。

 

「え、うそ!? あれがガブリエル??」

 

 鳳の言葉に反応した目隠し男が、にこやかな笑みを浮かべながら近づいてくる。気がつけば、さっきまでぐうたら地面に這いつくばっていたドミニオンたちは、いつの間にか一糸乱れぬ横隊を組み、背筋をピンと伸ばして最敬礼をしていた。

 

*******************************

 

 まさかの四大天使のお出迎えに驚いていると、ドミニオンの隊員の中には感極まって卒倒する者まで現れた。そんな隊員のことを慮ってガブリエルが近づいてくると、その優しさにまた感極まった別の誰かが倒れて、倦怠感に塗れていた空港は一転してパニックになってしまった。

 

 そんな昭和のアイドルじゃあるまいし、いくらなんでも反応が純真すぎやしないかと思ったが、感覚的には本当にそんな感じなのかも知れない。彼女らにとって、四大天使は生まれた時からずっと雲の上の存在で、神に次いで仕えるべきこの星の支配者、新聞やテレビなどのメディアでしかお目にかかれないアイドルなのだ、F4なのだ。

 

 ガブリエルの隊員らに与える衝撃は計り知れなく、騒ぎが収まるまでまたかなりの時間がかかってしまった。その騒ぎがようやく収まってくると、騒動に対するジャンヌの謝罪と通り一遍の挨拶のあと、天使たちの誘導で隊員たちは別々のバスに押し込められた。

 

 ジャンヌとドミニオンの隊員たちは2台のバスにそれぞれ分乗し、どっちに乗ればいいのかなと鳳がぼんやりしていると、男子を置いてけぼりにしてバスはどこかへ走り去ってしまった。

 

 え? うそ? やめて? こういうのが一番堪えるの……と泡を食っていると、背後からビッとセダンのクラクションが鳴って、運転席でガブリエルが手招きしていた。

 

 まさか四大天使が運転する車に乗れとでもいうのだろうか? 冗談だろうと思いもしたが、暫く待ってみても何の反応も返ってこない。

 

 鳳は、同じくその場に取り残されていたミッシェルと顔を見合わせると、おっかなびっくりセダンに近づいていった。因みにサムソンは、うほうほ言っていた。

 

 助手席はなんとなく気が引けるから、ぎゅうぎゅう詰めになりながら3人で後部座席に乗り込むと、音もなく車は走り出した。カーブが来る度にサムソンの体毛にくすぐられながら、暫く黙って揺られていると、運転席からガブリエルが話しかけてきた。

 

「長旅ご苦労さまでした。マダガスカルからだと時間がかかったでしょう」

「到着してからの方がずっと待たされたし、時間もかかったけどね。あんたら、自分で呼び出しといて、どうして空港に迎えを寄越さないんだよ。無理ならせめて待ち合わせ場所決めるとかさあ。おまけに散々客を待たせておいて、未だに謝罪もないなんて、ちょっと非常識なんじゃないの?」

 

 鳳はペースを握られないよう、むっつりした表情を隠さず嫌味ったらしく返事した。敵地に乗り込んだら絶対に気合い負けをしてはならない。それに、責任者が出てきたら文句を言ってやろうと思っていたのだ。この機会にどっちが上か思い知らせてやろう……

 

「いやはや、これは手厳しいですね。本当ならすぐに駆けつけたかったのですが、実はあなたの来訪はまだ一般には内緒で、バレたら最悪の場合テロが起こりかねないので、慎重にならざるを得なかったのです。特にそちらの魔族の方は姿を見られるわけにもいかず、ドミニオンの方々も今回は前代未聞の入域ですから、宿泊施設が見つからなくて、ようやく先程、目処がたったところなのです……面目ありません」

「あ、いや、こっちこそ嫌味言ってすんません」

 

 なんか知らないとこで割りと真面目に骨を折ってくれてたらしい。と言うか、テロってなんだ? 天使がいきなり大挙して襲ってきたりとかもあり得たのだろうか?

 

「そういう次第で、神域内ではご不便をおかけしますが、必ず私か、他の四大天使と行動していただきますよう、お願いできますか?」

「そりゃもちろんいいけども、あんたらそんな暇あるの? 四大天使なんつったら、なんかすっごい忙しそうなイメージあるけど」

「お恥ずかしい限りですが、16年前に襲撃されて以来、開店休業状態が続いておりまして、暇を持て余しているんですよね」

「重ね重ね本当に申し訳ございません」

 

 おかしい、ペースを握るどころか、なんでさっきからこっちばっか謝ってるんだ? 神域を襲ったのだって別に鳳じゃないのに、どうして自分が頭を下げねばならないのだろうか……

 

 鳳は首を捻りながら、相手の顔色を窺おうとして何気なく後部座席からバックミラーをチラ見した。すると目隠しをしたガブリエルの顔が飛び込んできて、

 

「……って、おいぃぃーーっ!! 目隠し目隠し! あんた、目ぇ隠しながらどうやって運転してんだよ!!」

「ああ、これですか? 私も光を失ってかれこれ数千年が経ちましたから、これくらいのこと目が見えずとも問題ないのですよ」

「いや、問題ありありだろう! ナチュラルにスルーしてたけど、目の見えない奴の運転する車なんて危なっかしくて乗ってられっか。今すぐ降ろしてくれ!」

「大丈夫ですよ、この車は見かけよりずっと頑丈ですから。それに天使は轢き殺そうとしても中々死にはしませんから」

「轢くこと前提で話すんじゃないっ! もういい! 俺が運転するから代わってくれ!」

「やれやれ、仕方ないですねえ」

 

 ガブリエルはそう言うと、ハンドルから両手を離して助手席に移ろうとした。

 

「うわーっ!! ハンドル離すな!! 車を止めろ!!」

 

 鳳がその姿を見て、反射的に後部座席から運転席へ乗り込もうと暴れていると、やがてギリシャ彫刻みたいな顔をした男は、くすくすと笑いながらハンドルを指でなぞり、

 

「というのは冗談でして、実を言うとこの車は自動運転なので、誰がハンドルを握ってても同じなんですよ」

「……へ?」

 

 鳳は、運転席と助手席の間に挟まれながらガブリエルの顔を見上げた。彼はそんな鳳の表情が見えているかのように、ニヤリと口元をほころばすと、

 

「見た目、古臭いですから勘違いなされるのも無理はありませんが、こう見えてこの車はテクノロジーの塊なんですよ。搭載されているAIは、パースはおろか、オーストラリアの全ての道を記憶していますし、製造されてから一度も事故を起こしたことはありません」

「……そういうことなら早く言ってよ」

「聞かれませんでしたから」

「タイクーン、そろそろ退くか進むかどっちかに決めてよ」

 

 その言葉に振り返ると、後部座席でミッシェルが迷惑そうな顔をしていた。運転中に無理やり前へ行こうとしたせいで、狭い後部座席の二人が押しやられて、窮屈そうにしていた。

 

 このまま戻っても、三人揃ってまた肩身の狭い思いをするだけだろう。鳳は覚悟を決めると、そのまま芋虫みたいに蠕動(ぜんどう)しながらスポッと助手席に収まった。

 

「ったく、脅かすなよな、ガブリエルさんよ。つーか、四大天使も冗談とか言うんだな」

「冗談も言えばトイレにも行きます。私はただガブリエルという名で生まれてきただけの天使ですから……イメージが崩れてしまいましたか?」

「別に。ジャージだったり白スクだったりしなくて、寧ろ安心してるところだよ」

「なんですか、それ?」

 

 鳳は返事をせず、代わりにリクライニングを思いっきり倒して、わざとらしくダッシュボードの上に足を乗っけた。それくらい構えてなければやってられない。大天使ガブリエルの運転する車の助手席に座っているって、一体何の冗談なのだろうか……前を向いている必要がないからか、ガブリエルはギリシャ彫刻みたいな顔で助手席の方を見ている。鳳は気恥ずかしさから話題を変えるつもりで、さっきから疑問に思っていたことを口にした。

 

「そういやあ、モーリシャスからここへ来る時、小型ジェットに乗ったんだけど、自動運転の車があったり、ホバークラフト使ってたり、思ったよりもこの世界の科学技術って進んでるよな? でも確か、アズラエルは宇宙に行く方法がないって言ってたり、ドミニオンの装備は、ゴスペルを除けば、前時代的だったりする……ジャンヌには申し訳ないけど、戦術面もお粗末で、まともな指揮官も育ってない。これってどういうわけなんだ?」

 

 ガブリエルはおやっとした表情を見せて、少し言葉を選ぶように間を置いてから、

 

「それはですね……実はこの世界の人類は、どんな技術も持ってはおりません。あらゆるテクノロジーも、生活の糧も仕事も何もかも、全ては神から与えられるものであり、我々は技術の継承や革新を行ったりはしてこなかったのです」

「それはもしかして、タブーだったってことか?」

 

 ガブリエルは厳かに頷き、

 

「そうです。少なくとも、人間は学問をすることを禁じられておりました。我々、天使には多少のことは許されておりますが、度が過ぎれば罰を受けるか、サタンのように放逐されます。我々が自動運転の車を持っているのに、宇宙へ出るロケットを持っていないのは、単純に神がそれを与えてくれなかったからなのです」

「……つまり、生殖細胞も神だけが独占してたってことだな?」

「そうです」

「何で神は与えてくれなかったんだ? 女しか生まれないようにして、そこまでして人口を制限する理由はなんだったんだろうか?」

 

 鳳が疑問を呈しても、ガブリエルは予め答えを用意していたかのようにスラスラと答えた。

 

「それならあなたは既にご存知のはずですよ。この世界の人類は……不死なのです。歳を取ったら再生によって生まれ変わるようになっているのです。もしも男女が揃って、自由に生殖をしてしまったら、人口はどんどん増え続けてしまい、人類は不死ではいられなくなります」

 

 鳳は何度も頷きながら、

 

「でもそれはまやかしだったわけだろう? そのせいで今、人類は絶滅の危機に瀕している。まあ、お陰で俺の精子なんかが交渉材料になってるんだから、文句も言えないんだけど……もっと他にやりようは無かったのかな。例えば別に不死に拘らなくても、普通に男女が揃ってて、産めよ増やせよで魔族と戦っていたら、今も人口減少なんてもんに困ってなかったんじゃないか」

「ですが死を恐れた人間が、我々天使……つまり神人を生み出したことも、あなたならご存知でしょう。そしてその強さへの嫉妬が魔族を生み出したことも。例えそれがまやかしであっても、『不死である』という事実が、人間にとっては重要なのです」

「なるほど……まるで永劫回帰だな」

 

 この世界の天使も、魔族も、本を正せば、始まりはただの人間だった。もしもこの世界の人類が嘘でも不死では無くなったら、彼女らは戦いを放棄して、また新たな神人を生み出すだけだろう。

 

「歪だけど、そうするだけの理由はあったってわけか……ところで、この車ってどこに向かってるんだ? さっきからバスが見えないけど、ジャンヌたちとは宿泊所が別々なんだろうか」

「中枢です」

「アクシズ……?」

 

 ガブリエルは頷いて、

 

「ここパースの中心部で、神の座する神殿があるところです。我々天使は、日中はそこに詰めていて、必要に応じて神への奉仕を行うのが使命なのです。つまり、誰にも見咎められずにあなたをお連れするには、夜まで待たなければならなかったのです」

「ふーん……いきなりそんな重要そうな場所に、俺を招いちゃって良かったの?」

「ですが、そうしないと、四大天使と話をしたいというあなたのご要望には、お応えできませんから」

「え……何? まさか、今から他の四大天使と会おうってのか!?」

「もちろん、そのつもりでしたけど?」

 

 鳳は仰天して首をブンブン振り回すと、

 

「いやいやいやいや、いくらなんでも心の準備ってもんがあんだろ……つーか、アズにゃんもまだこっちに到着していないし、二度手間になるから、もう少し待ってからにした方が良いんじゃないか?」

「我々にも都合がありまして、アズラエルに話せないこともあるのですよ。天使は階級社会ですからね」

「う、うーん……」

「それに、彼女がこっちに到着するのは、いつになるんでしょうか? それまで待っていられませんよ」

「まあ、ねえ……」

 

 マダガスカルからオーストラリアまで、あの筏で渡ってくるのだ。波に乗ったところで、1週間やそこらで到着するとは思えない。言われてみれば、それまでぼんやり待っているのも馬鹿らしいし、それになにより、ビビっていては何も始まらないのだ。こっちにはミッシェルとサムソンだっているのだし、そこまで危険もないだろう。

 

「わかったよ。いきなりだったからちょっとびっくりしちゃったけど。それで、その中枢とやらには、あとどれくらいで着くの?」

「もう着きますよ」

「……え? ここ?」

 

 間もなく車が入っていった場所は、せいぜい5階建てくらいのビルが立ち並んでいる、なんとも殺風景な場所だった。なんなら大企業が地方に建てた精密機械工場と言われても、そのまま信じてしまいそうである。

 

 こんなのがこの世界の中枢なのか……カナンに神を倒しに行こうと誘われた時は、きっととんでもない旅になるだろうと覚悟をしていたのだが、目的地に辿り着いてみれば、なんとも肩透かしなことばかりである。

 

 とにもかくにも16年前、カナンたちはここに襲撃をかけた。そして世界は災厄に見舞われ、今も立ち直れずにいる。鳳はそのテロリストの仲間として、これからこの世界のトップと会談することになっていた。

 



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パース会談①

 5階建てのビルが立ち並ぶビル街を車は音もなく進み、やがてその中心にある殺風景な広場にたどり着くと、車はゆっくりと停止してピーッと機械音を発した。恐らく、目的地に到着したという合図だろう。見た目は昭和のカローラみたいだが、その実テクノロジーの塊という車から降りると、鳳は深呼吸して伸びをした。

 

 ガブリエルなんていう大物と間近で会話をしていたものだから、思ったより肩が凝ってしまったようだった。首の骨をコキコキ鳴らしていたら、その大物が運転席から出てきて、迷うこと無く斜め前方のビルへと駆けていった。

 

 その瞳は目隠しで覆われていて、本当に見えていないらしいが、彼の動きは寧ろ健常者よりもキビキビしていた。目が見えなくなると他の感覚が鋭くなると言うが、数千年を生きてきたという彼の感覚がどうなっているのか、常識では計り知れない変化が起きているのかも知れない。

 

 ガブリエルが胸ポケットからカードを取り出し、ビルの入り口にあった端末らしき機械にかざすと、これまたピーッと音が鳴って、重厚そうな鉄扉がゴオーンと開いた。恐らくそういうセキュリティなのだろうが、近未来的というより、いっそ清々しいほど21世紀的なので、微妙な気分になった。本当に、この世界はあれから数千年が経過しているというのだろうか。

 

「どうぞ」

 

 ガブリエルは扉の中から振り返ってこっちを見ている。多分、入ってこいということだろうが、この中に入ったら本当にあの四大天使との会談が始まるんだと思うと、流石にちょっと緊張してきた。鳳とは違って涼しい顔をしているミッシェルに先を譲り、ぽかんとしているサムソンの手を引いて中に入る。

 

 ビルの中は、なんと言うか味気ないを通り越して、逆にスルメみたいに味が染み出てくるような、なんとも言えない無機質な廊下が続いていた。マダガスカルの研究所でも思ったが、天井が低くて柱が太い、頑丈だけが取り柄の公共施設みたいな作りがこの世界のトレンドなのだろうか。

 

 一見してオフィスビルっぽいが、妙な違和感を感じるのは、入り口に守衛の詰め所がないせいだろうか。冷静に考えて、天使の社会に強盗もへったくれも居なさそうだから、そんなものを作る必要がないのだろうが、もう少しセキュリティに気を配ってくれないと、見ているこっちが不安になってくる。

 

 実際、このガバガバセキュリティのビルは16年前に襲撃を受けたのだ。神の座する『中枢』がこんなことでいいのだろうか。まあ、別次元からやってきた自分が気にすることではないのだろうが……

 

 そんなことを考えながら、飾り気のない扉が並ぶ殺風景な廊下を歩いていくと、突き当りを曲がって少し行ったところに、他とは違う大きな扉が正面に見えてきた。ガブリエルは真っ直ぐそっちへ向かっているようだから、多分そこが目的地なのだろう。

 

 いよいよ四大天使とご対面だろうかと、会議室か何かを想像しながら扉をくぐると、驚いたことにそこにはビルの最上階まで吹き抜けた、大きな広間があった。

 

 間接照明で部屋はやけに明るく、白い壁が浮き出ているかのようだった。中央にはデデンと3階建てくらいの巨大なモノリスが立っていて、なんというか憩いの広場みたいな印象を受ける。

 

 もしかして、ここはランドマークのロビーか何かなんだろうか? 天使もこういう場所で癒やされたりするのかな……などと思いながら、モノリスの上の方ばかり見ていたものだからすぐには気づかなかったが、よく見ればその足元に3人の人影が立っている。

 

 人数からしてそれが誰であるのかは容易に想像がついた。間もなく、ガブリエルがその三人組の方へ歩み寄ってから、くるりとこちらを向き直り、

 

「お待たせしました。鳳白様、並びにそのお仲間のミッシェルさん、サムソンさんをお連れしました。鳳様にはもう見当がついてらっしゃると存じますが、ご紹介します。こちらから順に、ウリエル、ラファエル、ミカエルです」

 

 まさか、こんな憩いの広場みたいな場所で、新入社員の名刺交換みたいに紹介されるとは思いもよらなかった。鳳はどう反応していいか分からず、目を白黒させながら、取りあえず頭をちょこんと下げて会釈した。

 

 ウリエルは一言で言えば絶世の美女だった。元神人である天使は、例外なく全員が見目麗しい外見をしていたが、彼女の場合はそれだけではなく一言では言い表せない、なんとも言えぬ迫力のようなものを感じさせた。

 

 ただ、それでいて近づきづらいという感じはせず、柔和で温厚そうな見た目は包容力という点では実に天使らしい天使と言えた。しかし、その手には四人の中で唯一剣が握られており、彼女がただ慈悲深いだけの天使ではないことを体現しているかのようだった。

 

 ラファエルは対象的にこまっしゃくれた悪ガキのような外見をしていた。少し茶色がかった縮毛を短く刈り上げ、もみあげがくるんと巻いている。天使は年を取らなければ成長もしないから、イメージ的にはピーターパンみたいな感じだろうか。

 

 細い手足で腕組みをしながら、少し顎を突き出して斜に構える姿は、嫌味ったらしく感じるよりも、寧ろ可愛らしさすら覚えた。でも、そんなことを言ったら劣化のごとく怒り出しそうな雰囲気である。なんと言うか第一印象はギヨームに似た感じを受けたが、多分、その二人を混ぜたら喧嘩が始まるのは請け合いだろう。

 

 そして最後、ミカエルは驚いたことに巨大な翼を持つ、黒い肌をした巨漢だった。正直、そんなのが出てくるとは思わず面食らってしまったが、この世界の神はポリコレに配慮でもしているつもりなのだろうか……?

 

 ガブリエルより一回りは大きい筋肉質な体型で、四肢は長くて腰は細く、物凄いバネを秘めていそうな引き締まったいい体躯をしていた。そしてウェイビーな髪の毛をバックになでつけ、左右の長さが違う前髪が片方の目にだけ垂れており、パッチリとした瞳とスーッと伸びた鼻梁が特徴的な、少し整形地味た顔をしている。

 

 その姿は厳かな天使というよりも寧ろダンサーであり、今にも踊りながらポウ! とか叫びだしそうな雰囲気を醸し出していた。

 

「って、ミカエルじゃなくてマイケルじゃねえか!」

 

 鳳は思わず自分の脳内妄想にツッコミを入れていた。

 

 だだっ広い広間にその声は響きはしなかったが、代わりになんとも言えない沈黙が訪れた。こういうのを天使が通り過ぎるというのだろうか。

 

 自分でもどうかと思ったが、その瞬間、四方八方から白い目が次々と突き刺さり、鳳は居た堪れない気持ちになった。だが、本当に居た堪れないのは言われた本人の方だろう。ミカエルはズイと迫るように一歩踏み出すと、

 

「我々を相手に交渉を持ちかけたり、初対面でいきなり面罵してきたり……貴様、本当に、いい度胸をしているな、鳳白。今のは殺されていても文句は言えないぞ」

「いや、悪かったよ。そんなに怒らないでよ」

 

 でもそんなハリウッド映画でも無いような配役見せられたらツッコミを入れたくもなるだろう? 鳳はすんでのところでその言葉を飲み込みつつ、

 

「あー、どうもはじめまして。お会いできて光栄です。って言うか……あんたがミカエルさん? マイケルって呼んでいい?」

「貴様! まだ引っ張るつもりか!」

「いや、こっちとしては親しみを込めているつもりなんだけど。なんか緊張感が一気に解けちゃって、自分でも何言ってるかよくわかんなくなってんだよ。それに……どうせ、味方ってわけでもないだろう? 無駄に慇懃無礼にしても仕方ないじゃないか」

「我々4人を前にして、こうまで馴れ馴れしい人間がいるとは思いもよらなかった。大物と言おうか、馬鹿と言おうか、本当はタダの命知らずなんじゃないのか?」

 

 初対面の三人が不快な表情を隠さずに睨みつけてくる。そんな中で、ガブリエル一人だけが笑いを堪えて顔を真っ赤にしていた。ミカエルは、そんなガブリエルを嗜めるように、ゲシっとその頭を引っ叩いてから、

 

「まあ、いい。貴様と会うと決めた時から、我慢は承知の上だった。プロテスタントがここへ入る意味が、貴様には分かっているのだろうな」

「そりゃ何度も殺されかけたから、分かってますとも」

「それでも我々は貴様に会う価値があると考えたのだ……それだけの理由があると。男であると言うことは本当なのだろうな? もし嘘だったら、どうなるか分かっているな」

「もちろん」

「それが証明できるのか?」

「証明って言われても……ちんこでも見せりゃいいのかよ?」

 

 鳳としては大真面目のつもりだったが、その答えはガブリエルのツボに入ってしまったらしい。ひいひい言いながら腹を抱えて笑い転げる彼を見て、忌々しそうにミカエルが近寄っていくと、容赦なくケリを入れていた。意外にバイオレンスな職場である。

 

 ミカエルは頭痛がすると言った感じにこめかみを指で抑えながら言った。

 

「神の御前で不敬な真似をしてみろ、地獄すら生ぬるい方法で必ず殺すと誓ってやろう」

「そっちが聞いてきたんじゃないか。じゃあ、どうすりゃいいってんだよ」

「もういい。今はただ男だということを信じてやろう……しかし、そうと信じたところで、よもやそれが我々に対する交渉材料になるなどと、貴様は本気で思っているのか?」

「……? なるから、こうして会ってくれたんだろう?」

 

 するとミカエルはまるで汚物でも見るように、不快そうに表情を歪めて、

 

「我々の前にこうして立った時、生殖細胞だけを抜かれて殺されるとは思わなかったのか?」

 

 その言葉に、鳳は結構本気で虚を突かれた。

 

 それはつまり、四大天使が鳳を呼び出したのは、実は精子を奪うための罠で、本当は用が済んだらすぐ殺すつもりだったと言っているわけだ。

 

 彼らは天使だが、天使だから別に公明正大というわけではない。悪魔やプロテスタントが相手なら、騙すことも平気でやってのけるだろう。そういう可能性は確かに考慮すべきだった。鳳は少し感心しながら、

 

「なるほど……今すぐ俺を殺して、体内に残った生殖細胞を培養するのも一つの手だろうね。でも……少なくとも最初の男児が生まれてくるまでは、保険として俺を生かしておく価値があるんじゃないか? それに用済みになったら殺すなんて、わざわざ言わなくても黙ってりゃいいじゃないか」

「……ならば貴様は、男児が生まれた後に殺されても構わないのだな?」

「その必要があるなら、そうすりゃいいさ。あのな、ミカエルさんよ。俺は別に、精子を分けてやるから助けてくださいって、命乞いに来たわけじゃないんだ。あんたらと話し合いをしに来たんだよ。まだ何も話していないというのに、そんな未来のことなんて聞かれても、どうでもいいとしか答えられないじゃないか」

「我々が、貴様の話を聞いてやる義理がどこにある?」

「なら、最初からこんな場所に呼ばなきゃ良いだろう。とにかく、まずは話が先だ。精子は後だ。何度だって言うが、俺はあんたらに命乞いにきたわけじゃないんだ」

「ふむ……本当に、いい度胸をしているな」

 

 ミカエルは感心した素振りを見せたかと思うと、ラファエルとウリエルの二人に向かって意味深に頷いた。どうやら引き下がってくれたようである。

 

 正直なところ、四大天使ともあろうものがこんなにしつこく威圧してくるとは思ってもいなかったので、ちょっと参ってしまったが、それくらい、彼らは襲撃者(ルシフェル)の仲間である鳳のことを警戒しているということだろう。実際問題、もしもあの時一緒にここまで来ていたら、自分も問答無用で彼らと敵対していたはずから仕方ないのかも知れないが……

 

 鳳は話題を逸らそうとして、周囲を見渡しながら言った。

 

「……ところで、いつまでここで立ち話をしてるつもりなんだ? 快適な椅子を用意しろとまでは言わないけど、もう少し落ち着ける場所に移動した方がいいんじゃないか」

「ならん。対話は最後までここで行う」

「そりゃまたなんで……つーか、さっきから気になっていたんだけど、この巨大モノリスみたいなオブジェは一体何なんだ?」

「神だ」

「……え?」

 

 まさかそんな答えが返ってくるとは思わず、鳳は絶句してしまった。今、ミカエルはなんと言ったのだ? 神と言ったのか?

 

 思わず、聞き間違いじゃないかと、問い返そうとしてしまったが……鳳は言葉を飲み込んだ。この世界の神とは、帝都やあの遺跡にあったP99と同じ機械のことだから、こういう姿かたちをしている可能性は十分に有り得るのだ。

 

 つまり、目の前のそれは、本当に神であるに違いなかった。

 

「その権限を持っていない限り、我々天使は人間を殺傷することが出来ない。だが、神の危機なら話は別だ。もしも神に危害を加える者が現れた時、我々の制限は解除され、何をすることも許される。つまり、ここでなら貴様を殺すことも可能なわけだ」

「そんな理由で俺を懐に招き入れるとは……あんたらも意外と大胆だね。もしもそれを知って俺が暴れだしたらどうするつもりだったんだ?」

「寧ろそうなることを望んでいるくらいだ。神を守護しながら、貴様ら三人を殺すことなど造作も無いこと。試してみるか?」

「ちょっとちょっと、僕は巻き込まないでよ?」

 

 ミカエルに凄まれて、平和主義者のミッシェルが迷惑そうにしていた。そう言えば、ミッシェルという名の由来は目の前の天使のはずだが、性格の方は中々どうしてまるで違うようである。鳳は、一々喧嘩腰なミカエルに辟易しながら、

 

「試さないよ。さっきから何度も言ってるけど、俺が望んでるのは対話なんだってば」

 

 鳳はそう言い返しつつ少し気になって、

 

「ところで……わざわざここに連れてこなきゃ殺せないってことは、あんたらはまだ神の制限を受けてるってことだよな?」

「それが?」

「16年前、サタンらがこれを壊したのなら、あんたらにはもうなんの制限もないはずだろう? それがまだあるってことは、もしかして神はまだ生きている……これは稼働しているってのか?」

「そうだが」

 

 鳳は肩を竦めて、

 

「そりゃ、おかしいんじゃないの? 神様がまだ健在ってんなら、人間の『再生』が行えなきゃ変だし、なら人口減少問題なんて起こらないだろうに」

「それは程度の問題だ。神は16年前に一度破壊され、我々の手によって復活を遂げた……つまり修復されたわけだが、何もかも元通りとはいかなかったのだ」

「それは……修復は不完全だったってこと?」

「有り体に言えばそうだ……神が健在であるお陰で、我々は以前のように奇跡を行使出来、人類はテクノロジーの恩恵を受けられている。だが、人間の『再生』は出来なくなってしまった……」

「そりゃまた、恣意的っつーか……ピンポイントに一番面倒な機能が失われたもんだなあ……」

「他人事みたいに! 何もかも貴様らのせいではないか!」

 

 鳳は激昂するミカエルをなだめるように、愛想笑いをしながら両手のひらを向けて、

 

「オーケーオーケー、悪かったよ。俺も当事者として出来る限りのことはするから、そんなに怒らないでくれ。でも、俺は本当に16年前の襲撃には関係していなくって、何が起きているのかいまいち把握しきれていないんだ。だから、まずはここで何が起きたのか、当時の状況から話をしてくれないか?」

「いいだろう……16年前、ここで何が起きたのか。神が破壊され、その後、この世界がどうなったのか。貴様には聞く義務がある」

 

 そしてミカエルはフンッと鼻を鳴らすと、不機嫌そうに当時のことを話し始めた。

 



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パース会談②

 天使たちがこの世に誕生してから数千年、その間に一度として起こらなかった異常事態が起きた。三人の熾天使(セラフィム)に、ほぼ同時に天啓が訪れたのだ。天啓によれば、全ての天使は今すぐ神殿へ集結せよとのことだった。それが16年前、まず最初に起きた出来事だった。

 

 何が起きたかは分からないが、緊急事態であることだけは理解した三人は、すぐウリエルにパースにいる天使を招集するよう指示を飛ばして、自分たちは神の座する神殿へと向かった。そして彼らが目にしたのは……既にルシフェルにより破壊し尽くされた神の姿であった。

 

 何故ここにルシフェルがいるのか? 万全とは言い難いが、セキュリティシステムが張り巡らされたこの中枢で、多数の天使たちの目を掻い潜って、こんな奥まで侵入者が到達するなんてことはあり得ない。そのあり得ないことが起きたのもさることながら、数百年前に神によって処分されたはずの三人がいることもまた彼らには信じられなかった。

 

 サタンこと、かつて四大天使の長だったルシフェル。バアルこと、最強の名を(ほしいまま)にした智天使ザドキエル。アシュタロスこと、慈しみの熾天使イスラフィル。全員今でこそ悪魔の名を冠されているが、元々は神域でもトップクラスの大天使たちだった。

 

 しかしいつまでも驚いてばかりも居られないだろう。神を破壊されたからといって気落ちしている場合ではない。ミカエル、ガブリエル、ラファエルの三人はすぐに悪魔との交戦を開始した。

 

 一方、神殿の外では駆けつけた天使たちが、たった二人の人間を相手に足踏みを強いられていた。神を破壊されたことで、突如として力を失ってしまった下位天使たちは、ジャンヌとギヨームという、見たこともないような攻撃をする人間を前に為すすべがなかった。

 

 やがて、ウリエルを含む上位天使たちがやってきたことで押し返し始めたが、それでも神殿の入口を守る二人を排除するには至らなかった。

 

 こうして神殿への侵入を頑強に阻んでいるということは、中ではもっとまずいことが起きているに違いない……ウリエルはそう判断すると、他の天使たちの協力を得て、決死の覚悟で二人の間を突破し、どうにかこうにか神殿に転がり込んだ。

 

 するとまさに神殿内では、悪魔三人を相手にミカエルたちが苦戦を強いられていた。ルシフェルたちは強く、一対一で対峙する限り、ミカエルたちに勝ち目はないようだった。

 

 だが、ウリエルが来たことで数的有利に立った四大天使は、間もなく形勢を逆転しはじめた。そしてついに、ラファエルとウリエルの二人がかりで、敵の最強格であるザドキエルを倒すことに成功すると、勝敗は決定的となり……互いに2対1に持ち込まれたルシフェルとイスラフィルは、その後殆ど抵抗することもなく、あっけなく四大天使たちの前に敗れ去ったのであった。

 

 四大天使は侵入者の排除に成功すると、すぐに神の修復を開始した。神と言っても、それは死を宿命付けられた生命ではなく、21世紀に作られた機械なのだから、実は修理が可能なのだ。と言うか、そのために四大天使はいるようなものなので、彼らに負けた時点で、ルシフェルの計画は破綻していた……はずだった。

 

 なにはともあれ、大急ぎでバックアップの部品を集めて応急処置をしたことで、神は最低限の機能を取り戻し、そして天使たちに奇跡の力が戻ってきたことで、外で大暴れしていた二人は一気に形成が苦しくなって、間もなく捕らえられてしまった。

 

 人間に苦戦させられたことにショックを受けていた天使たちは、二人のことを処刑しようとしたが、神によって人間に危害を加えてはいけないという強い制約を受けていたために断念し、逮捕拘禁に留めた。

 

 そして二人は別々に刑罰を受け、ジャンヌは記憶を奪われた後、ドミニオンとして人間社会に放り込まれた。そんな経緯があるため、実はジャンヌは人間たちの間では英雄だが、天使たちには嫌われているらしく、だから左遷気味にマダガスカル方面軍に飛ばされていたらしい。

 

 まあ、その辺の話はおいておくとして、鳳はちょっと気になる点があって、訊いてみた。

 

「あんたら四大天使は、ルシフェルたちを倒したって言うけど、神が破壊されていた時、天使は力が使えなかったんだろう? なのに、どうやってあの人たちに勝てたってんだ?」

「力を使えなかったのは大多数の座天使(スローンズ)たちのことだ。天使には階級があって、第一位の熾天使(セラフィム)と第二位の智天使(ケルビム)は生まれつき、他の天使にはない固有のスキルを持っている。例えば、報告で貴様はゴスペル無しでエネルギー弾を作り出したとあるが、それくらいなら我々も出来る」

 

 そう言ってミカエルは自分の周囲に、ファンネルみたいにいくつかの光弾を作り出してみせた。正直、それは意外だったが……涼しい顔をしているところを見ると、どうやら他の三人も同じ芸当が出来るのだろう。

 

 思い返してもみれば、アナザーヘブン世界での魔王戦の時、カナンやベル神父は当たり前のように身体強化魔法や、他の神人たちが使わないような大魔法を使っていた。

 

 その事実に今のミカエルの言葉を加味すれば、つまり熾天使と智天使は、生まれつき無意識的に現代魔法も使える神人だった、ということなのだろう。

 

「勝利したとは言え、襲撃の爪痕は深く、神域はそれから数日間混乱状態に陥っていた。それがようやく落ち着いてきたのは、我々が不眠不休で神の修復を行い、終わりが見えてきてからだった。しかし日常が戻ってきてほっとしたのも束の間、我々はまた新たな問題に直面した。アズラエルが、『再生』が出来なくなっていることに気づいたのだ。

 

 それでも当初、我々はまだ事態を楽観視していた。神の修復は万事順調にいっており、再生の機能が失われたのは、単に急ピッチで作業を進めたせいで、どこかに手違いが生じているためだろう。そう考え、我々は注意深く作業を見直し始めたのだが……しかし、再生機能はそれから何をやっても元に戻らず、更には天啓まで来なくなってしまって、我々はどうすることも出来なくなってしまったのだ」

「天啓ってのは?」

「熾天使だけが受け取ることが出来る、神の啓示のことだ。要は神との交信記録のことだな。神はこの世の全ての天使と人間の願いを、祈りを通じて聞いているのだが、その全てに返事を返すことはない。必要なものだけをピックアップし、熾天使を通じて返してくる。我々はそれを天啓と呼んでいる。それは滅多にあるものではないが……流石に、全人類が困っているような状況で、全く来ないのはおかしいであろう」

「『再生』だけじゃなく、その『天啓』機能も壊れちゃったってことか……」

「いや、それがそうでもないらしい。実はつい最近、16年ぶりの天啓が訪れたのだ……まさかあると思わなかった突然の天啓に驚かされたが、それで我々はシステムが壊れていないことを知ったわけだ」

「ふーん……それはどんな内容だったの?」

 

 するとミカエルは不機嫌そうな表情を隠そうともせずに、

 

「何故、敵である貴様に教えなければならないのだ。少しは考えて物を言え」

「ああ、そう。そうですよね」

 

 鳳は面倒くさそうに肩を竦めてから、

 

「言う必要がないならそれでもいいよ。取りあえず、壊れたと思ってたものが実は壊れてなかったってことで良いんだな?」

「そうだ」

「それってつまり……神は16年間、その機能がありながら何もしなかったってことだよな?」

 

 鳳は眉を顰め、腕組みしながら続けた。

 

「さっきのあんたの話じゃ、神は祈りを通じて人類からフィードバックを受けている。なら、この16年間で何が人類を悩ませていたかも知っているはずなのに、敢えて無視していたことになる……つまり……実は神は全機能が回復しているんだけど、能動的に再生を拒否しているってことなんじゃないのか?」

 

 鳳としてはかなり大胆な予想をしたつもりだったが、それについては当然考慮していたのだろう。ミカエルは特に驚くこともなくこう返した。

 

「そう考えることも可能だろう。だが、何のために?」

「それは……人類を滅ぼすつもりで? いや、まさかなあ……」

 

 ミカエルは厳かに頷いて、

 

「もしもそのつもりなら、すべての機能を停止するほうが理に適っているだろう。しかし、神はそうはなさらず、他の全ての奇跡は今まで通り使える。故に、再生機能だけが何らかの事情で回復出来なかったと考えたほうが辻褄が合うだろう」

「そうだなあ……」

 

 鳳は納得せざるを得ず、消極的に頷いた。ミカエルはそんな鳳の顔を無表情に見つめながら続けた。

 

「……襲撃後、天啓が来なくなると我々天使たちは段々バラバラになり始めた。アズラエルのように、神の啓示を待っていられないからと、人類救済のため独自な方法を模索したり、人間だけに任せてはおけないと、禁忌と知りながら戦いに赴く天使たちも出はじめた。

 

 元々、天使ははじめに天啓があって、神のために働くのが使命だった。故に、実は人間に対する慈愛を持たぬ天使も当たり前に存在する。そういった連中は、天啓が来なくなると自らの殻に閉じこもり、中枢(アクシズ)にすら来なくなってしまった。今では使命を果たさず、ひたすら享楽に耽る者までいる……そういう天使の態度に、人類の中には我々を見限る者が出てきている始末だ。

 

 襲撃を境に、天使と人間との間にまで亀裂が入ってしまった。それもこれも全部貴様らプロテスタントのせいだ。一体、貴様らは何なんだ! あの悪魔(ルシフェル)は、何がしたかったんだ!?」

 

 鳳は慌てて釈明した。

 

「誤解しないで欲しい。先生は……ルシフェルは寧ろこの世界を救いたがっていたんだ。実はゴスペルを使い続けると、この宇宙はいずれ崩壊してしまう。彼はそれに気づいて、その使用を止めようとしていただけなんだよ」

「そんなことは知っている!!」

 

 ところが驚いたことに、ミカエルはそう返してきた。鳳が寝耳に水な返答に言葉を失っていると、彼は苛立たしそうに続けて、

 

「私はルシフェルの仕事を受け継いだのだぞ。そんなことにはとっくに気づいている」

「な、なら、どうして先生の気持ちをわかってやれないんだ?」

 

 するとミカエルはますます不機嫌そうに顔を歪めて、

 

「ゴスペルを使ってもすぐに宇宙が壊れるというわけじゃない。だが、使わなければ人類はすぐにでも滅んでしまうだろう。なのに、今すぐ利用をやめられるわけがないではないか。やつは順序を間違えていたのだ。もしもゴスペルの使用をやめさせたいなら、魔族を駆逐することが先決だろうが」

 

 鳳はミカエルのその言葉に何も言い返せなかった。言われてみれば確かにそうだ。アナザーヘブン世界でカナンに説得された時は、所詮別の世界の話だからとあまり深刻に捕らえてはいなかった。だが、こうしてこの世界に来てみて、実際に魔族に苦しめられている人々を見て、改めて思った。

 

 今、救済すべきは宇宙ではない。人類の方だ。

 

「なるほど……つまりゴスペルは核兵器のようなものだというわけだな。それなら、あんたの言ってることも少しは理解できるよ。でも、魔族を駆逐するのに、あとどのくらいゴスペルを使用しなければならないんだろうか?

 

 それに、天啓が無ければ、あんたらは動くことすら出来なかったんだろう? 何故、神はそんな制限をしたんだろうか……? 本気で魔族を駆逐するつもりがあるのなら、敢えて人間だけを戦わせるより、天使と協力して戦ったほうが遥かにマシだろう。

 

 ガブリエルと話した限りでは、人類が天使を頼りすぎると、永劫回帰のようなものが起きてしまう可能性があるからってことだけど……そんな虚無主義(ニヒリズム)を持ち出さずとも、人類は歴史を学ぶことで進歩していくことが出来る生き物じゃないのか。

 

 俺は、神のやってることには矛盾があるように思える。とても人類を救おうとしているとは思えない」

 

 今度はミカエルが黙る番だった。実際、彼は一度神が破壊されるまで、何の疑問も抱かずにいたのだから。

 

 鳳はそんな主天使に向かって改めて問いただした。

 

「つい最近、天啓があったってさっき言っていたが、その内容はどうしても話せないのか?」

「それは絶対に不可能だ。何を言われても教えるわけにはいかない」

「……あんたらはそれに従うつもりか?」

「そのつもりであるが……正直、意見は割れている。私は反対派だ」

 

 ミカエルがへそを曲げるようにそっぽを向くと、ガブリエルとウリエルがとりなすように、彼に向かって愛想笑いを向けていた。それを見るからに二人は賛成派、何の反応も示さないラファエルは中立といったところだろうか。

 

「……今回ばかりは、従わないほうがいいんじゃないか?」

 

 鳳が窺うようにそう言うと、ミカエルが悪魔のように目を吊り上げ、

 

「そんなこと貴様に言われたくはないわ! 大体、本当にそうしたら、貴様も後悔することになるんだぞ? いいんだな!?」

「いや、内容がわからないんだから、良いも悪いもないんだけど……」

 

 どうやら、なんやかんや言ってミカエルも天啓に従うつもりでいるらしい。鳳は少々疑問に思い、

 

「しかし、どうしてなんだ? さっきのゴスペル核兵器論みたいに、あんたにだって考える頭があるんだろう? なのに、神の矛盾に気づいていながら粛々と従っているのは……あんたらにとって創造主の言葉は絶対だからってだけなのか?」

「無論、それもあるが、天啓は100%だからだ」

「……100%?」

 

 その言葉には四大天使全員が頷き、

 

「天啓で預言されることは、100%的中するのだ。かつて、オーストラリアに魔王が侵入し、人類に危機が訪れた時も、天啓によって滞りなく押し返すことに成功した。それも何度も、何度もだ。マダガスカル獲得も神の啓示によるものだった。尤も、そのマダガスカルは後に天使達のスタンドプレーで失ってしまったわけだが……つまり、我々が考えるよりも、天啓に従っていたほうが、よほどいい結果に繋がるのだ」

「ふーん……だから従い続けてるわけか」

「いや、それはおかしいんじゃないの?」

 

 鳳はミカエルの言葉に納得しかけたが、思わぬ方向から待ったがかかった。振り返るとそれまで黙っていたミッシェルが愛想笑いを浮かべていて、いつものように肩を竦めながら話し始めた。

 

「タイクーンには何度も言っているけど、100%の予言なんてものはあり得ないんだよ。この宇宙に物理法則が存在する限り、現在過去未来は不確定なものなんだ。それが100%的中するってことは、人為的な操作が行われているとしか考えられない」

「どういうことです……?」

「そうなるように仕組まれてるってこと。つまり、人類も魔族もそうするように誘導されているんじゃないかな」

「馬鹿な! それではまるで神は魔族にも通じているということになるではないか!」

 

 ミッシェルの言葉に、流石に黙っていられなかったのか、ミカエルが不快そうに横槍を入れる。

 

「でも、そう考えないと辻褄が合わないよ。100%の予言なんてものはないんだ」

「それは貴様が神のように万能ではないからではないか」

「そう考えるのは君の自由だけどね」

 

 ミッシェルは天使長相手にも動じることなく言い切った。鳳は二人のやり取りを聞いて、ふと思いついたことを口にした。

 

「神って何なんだ……?」

 

 その言葉に、不快そうに抗議していたミカエルも、反論していたミッシェルも固まるように沈黙した。

 

「何と言われても……」

「あんたら天使にこんなこと言っていいのか、正直どうかと思うけど……一応、確認しておきたい。俺は神ってのは21世紀に製造されて、シンギュラリティに到達したAI、DAVIDシステムのことだと思っているんだけど、あんたたちもその認識で間違いないだろうか……?」

 

 すると四大天使は一旦顔を見合わせてから、

 

「無論、我々だってそれくらいは承知している。だが信仰心と事実は違う、神がなんであれ、今日まで人類を守護してくださった。それだけの話だ」

「わかってる。あんたらの信仰心をとやかく言いたいわけじゃない。俺は逆に、俺たちのその認識こそが間違ってるんじゃないかって思ったんだよ」

「……どういうことだ?」

 

 鳳は頭の中で靄がかかったような、漠然としたものを思い浮かべながら、

 

「なんつーか……神は確かにDAVIDシステムだったんだよ。だけど、そのAIが登場してから、今までどのくらいの時間が経過したんだ? 確かあんたらの話では数千年が経っているはずだよな?

 

 AIってのはただの機械じゃなくて、人間のように自律思考する機械だ。その思考力はとっくの昔に人類を凌駕していて、更にはプログラミング言語によって自分自身を書き換え、進化し続けることが出来る……

 

 つまり、神は俺たちが考えるような物では、もう無くなっているんじゃないか? 少なくとも、人類を導いたり、天使を使役したり……あんたらの神は、製造当初とは役割が変わりすぎているように思える」

 

 鳳の問いかけにミカエルは唸り声を上げた。もう数千年も生きているというのに、そんな事は考えたこともなかった。それは神に対する冒涜でもあるというより、天啓に従っていれば100%間違いないから、考えることをやめてしまっていたからではなかろうか……?

 

 そう考えれば、ミッシェルの言う誘導されているという言葉も理解できるが……ミカエルは首を振ると、

 

「では、貴様はなんだと言うんだ?」

「そりゃあ分からないけど……なあ、あんたさっき、光弾を作り出していたよな。それってどうやってるの?」

「どうって……生まれつき出来ることには説明がつけられない。例えば貴様は、どうやって呼吸したり見たり聞いたり歩いたりしているのか、説明出来んだろう?」

「つまり無意識にやってるんだな? あんたらは、生まれつきその能力を持って生まれた超能力者(サイキック)だった」

「言い方は気に食わないが、その認識で合っている。それが?」

 

 鳳はミッシェルに頷いて見せてから、

 

「他の天使には出来ないことが出来ることに、疑問を持っていないことが疑問なんだよ。俺が光弾を作り出したり、ミッシェルさんが姿を隠したり出来るのは、生まれつきじゃない。現代魔法は後天的に獲得する技術(スキル)なんだ。

 

 説明すると長いから端折るけど、この物質界とは別に存在するエーテル界とアストラル界、2つの世界にある自分の霊魂を操作することによって、俺たちは現代魔法を行使している。あんたらは、そうとは知らずに、無意識にその操作を行っている。

 

 なんでそんなことが出来るのか?

 

 神にそう造られたからだ。

 

 神は生まれつき、現代魔法を使うことが出来る人間を造り出すことが出来る……つまり、神は宇宙の果てにあるアーカーシャの存在に気づいている。恐らくは、現代魔法的な方法を用いてあんたらに天啓を下し、この宇宙の外側には高次元の宇宙が広がっていることにも気づいているだろう。

 

 そして、ゴスペルを使い続ければ、いずれこの宇宙が消えて無くなってしまうことにも」

 

 つまり、ルシフェルの予想は間違っていたのだ。神は、機械であるがゆえに、霊魂の存在に気づけなかったわけじゃない。当然のようにこの世界の仕組みを知っていながら、それを破壊するかも知れない行為を続けていたのだ。

 

 それはミカエルの言うように、今すぐ世界が壊れるわけじゃないからだろうか。それとも、神は積極的にこの世界を壊そうとしているのだろうか……そして16年前に突如として消えた『再生』能力。神は人類を一体どうするつもりなんだろうか。

 

 ともあれ、ルシフェルが失敗した今、鳳が一人で気張ったところで、四大天使を相手にこれ以上どうすることも出来ないだろう。あまり難しいことは考えすぎないようにして、まずは当初の予定通り、生き残った仲間の解放を目指すべきだ。

 

「取引しよう」

 

 彼は改めて交渉をするために、四大天使たちの方へと向き直った。

 



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パース会談③

 神とは一体なんなのか? 鳳の思いがけない質問に、四大天使は誰一人として答えることが出来ず、場は沈黙に満たされた。

 

 熾天使(セラフィム)だけが受け取れるという天啓、生まれつき現代魔法が使える智天使(ケルビム)たち上位天使、神は全人類の祈りを聞いているともいう。これらの情報を総合すると、どう考えても神はアストラル界とエーテル界、2つの精神世界のことに気がついているとしか思えない。

 

 するとルシフェルが世界を渡る前に予想していた、神が第5粒子が増え続けている事実に気づいていないという誤りは、それこそが誤りだったわけだが……神はこの世界の天使と人間を使役して、一体何をしようとしていたのだろうか?

 

 憶測でなら色々考えられるだろうが、そうして出した結論が正しいかどうかなんて誰にも分からないだろう。となると、これ以上神がどうだのと考えても仕方ないことである。現状では鳳はただの(プロテスタント)でしかないのだし、そんな奴になにを言われたところで、四大天使が造物主のことを否定することは出来ないだろう。彼らは彼らで天啓に従って、神を信じる道を進めばいいのだ。

 

 もし仮に、また天啓が下されて、ゴスペルを使うというのであれば、それも仕方ないことだろう。ミカエルの言う通り、この世界から魔族が駆逐されない限り、人類には核兵器(ゴスペル)を使う以外に魔王に勝てる有効な手段はないのだ。

 

 ならそろそろ当初の目的に戻ったほうがいいだろう。だいぶ話が脱線してしまったが、鳳がこの世界にやって来たのも、四大天使に会いたいと言ったのも、全ては消息を絶ってしまった仲間を探すためだったはずだ。残念ながら翼人の3人は絶望的だが、まだ残りの二人がいる。

 

「取引しよう」

 

 静まり返った神殿の中に、鳳の声が響いた。巨大なモノリスの前で、ぼんやり思考の迷宮に迷い込んでしまっていたミカエルはハッと我に返ると、また(いかめ)しい表情を作り、鳳を睨みつけた。

 

「取り引きだと?」

「16年前の経緯はよく分かった。聞かせてくれてありがとう。だが、俺はここに謝罪に来たわけじゃない。最初から、俺の生殖細胞を提供する代わりに取り引きを持ちかけるつもりで来たんだ」

「ぬけぬけと……我らがそんなものに応じるとでも?」

「話してみなきゃわからないじゃないか。大体、あんたたちもそのつもりで会ってくれたんだろう?」

 

 ミカエルは返事の代わりにフンッと鼻を鳴らした。四大天使は互いに顔を見合わせ、それぞれの態度を表している。鳳はその態度を、話してみろということだと受け取ると、早速とばかりに、

 

「まずは、そこのモノリス……神を調べさせてもらえないか? 別にバラしたりはしないから」

「そんなこと出来るわけがないだろう!!」

 

 ミカエルは烈火のごとく怒りだした。まあ、そう言うだろうと思ったが、最初に無理を吹っかけるのはセオリーだ。少しでも考えてくれれば儲けものだし……鳳は苦笑いしながら、

 

「あ、そう? まあ、流石に俺も図々しいかなと思ってたけど」

「図々しいにも程があるわ! 貴様、死にたくなければ口を慎むことだな」

「わかったよ。それじゃ、せめてゴスペルを見せてくれないか? 見るだけでもいいからさあ。頼むよ」

「ゴスペル……オリジナル・ゴスペルのことか?」

 

 ミカエルは眉を顰め、しかめっ面をしている。頭ごなしに否定してこないってことは、どうやらこっちの方はまだ見込みがありそうだ。鳳は彼の気が変わらない内に畳み掛けるように続けた。

 

「俺は元の世界でゴスペル所有者だったんだよ。だから扱いには長けてるつもりだ。元の世界に戻るためにもゴスペルを調べなきゃならないし、俺が使ってた杖も見つけなきゃなんない。ついでに、使い方次第では第5粒子エネルギーを増やさずに済む方法も見つかるかも知れない。刈り取りを行わずに魔王を倒せるなら、あんたらだってそっちの方がいいだろう?」

「……だが、貴様がそんな方法を見つけられるという保証はないだろう」

「そりゃ、まあね。でも、試してみる価値はあるんじゃないか?」

 

 ミカエルは少し考える素振りを見せてから、

 

「ふむ、異世界のゴスペル所有者か。報告にもあったが、嘘ではないようだな……ならば許可しよう。私の管轄内でならな」

「マジで! ありがとう! いやー、マイケル太っ腹!」

「誰がマイケルだ! ……こちらにも準備があるから、見学は明日以降にしろ。今日はもうこれ以上、貴様と話すのは疲れて仕方ない」

「はいはい、それから16年前にこっちに渡ってきた仲間についてなんだけど……」

「何!? まだ要求があるというのか?」

 

 鳳は肩を竦めて、

 

「当たり前だろう? ゴスペルを見るだけなんて、それじゃ割に合わなすぎだ。こっちは命を賭けてあんたらの目の前に立ってるんだぜ?」

「はあ……口の減らない奴め。まあいい。言うだけ言ってみろ」

 

 鳳は元気に頷くと、

 

「さっき聞かせてくれた16年前の話と、ジャンヌが生きていることから察するに、もしかしてギヨーム……ビリー・ザ・キッドも生きているんじゃないか? もし生きてるんなら、彼を解放してもらいたいんだけど……」

 

 鳳のその提案には、ミカエルだけではなく他の三人もそれぞれ反応を示した。全員がラファエルの方を見たところから推察するに、これは彼の管轄なのだろうか? 鳳がそのピーターパンみたいに小柄な天使に懇願の視線を送っていると、しかし返事はそちらではなく、またミカエルから返ってきた。

 

「それは不可能だ」

「どうして? まさか……ギヨームを殺したんじゃないだろな……?」

 

 ミカエルは、鳳の声の調子が変わったのを鼻で笑いながら、

 

「いいや、貴様の予想は正しい。ビリー・ザ・キッドなら生きている」

「そ、そうか……あ~、よかった。だったら……」

「だが解放することは不可能だ」

「なんでだよ? 何かまずいことでもしちゃったの? 異次元に閉じ込めちゃったとか……あ! もしかしてあいつ、逃げ出してサバイバル生活してるとか??」

「いや違う、奴なら特殊な監獄に捕らえている。解放が出来ないというのは……要するに懲役を課している罪人を、おいそれと許すわけにはいかないということだ」

「あー……」

 

 至極まっとうな理由を前に、鳳は苦笑いしか出来なかった。

 

「天使が力を取り戻した後も奴が頑強に抵抗したせいで、こちらにも相当の被害が出たのだ。信じられないことに100を超える天使が翼を射抜かれ、今も心的外傷(トラウマ)を抱えている……本来、病気もしなければ怪我など負うはずがない天使がだぞ? おまけに、奴は未だに反省している素振りすら見せない。そんなのを解放してまた暴れられたりしたら、奴にやられた天使たちが黙っちゃいないぞ」

 

 そう言えば世界を渡る前、最後の方の彼は異常な力を獲得していた。恐らく、火力だけならジャンヌよりも上だろう。恩赦してくれというのは簡単であるが、その暴れっぷりを聞いては何も言えなくなった。反省しないと言うのも実に彼らしかった。

 

 鳳は、しょうもないやっちゃなあ……とため息を吐くと、

 

「それじゃあ、せめて俺が来たってことを伝えてくれないか? そしたらあいつも少しは反省するかも知れないし」

「……考慮はしてやろう」

「頼むよ。それから、多分あんたら気づいてないんだろうけど、あいつも男だぞ?」

「何……!? 今、なんと言った?」

「だから、あいつは男なんだって」

 

 鳳がその点を指摘すると、案の定、四大天使は動揺していた。16年間、彼らは止まらない人口減少に悩まされ続けていたわけだが、まさか、自分たちが捕らえていた囚人に、そんな利用価値があったとは思わなかったのだろう。アズラエルが聞いたら、きっと卒倒するはずである。

 

 しかし、監獄に入れる時に身体検査くらいしただろうに、どうして気づかなかったのだろうか。それくらい、この世界は男と無縁だからだろうか? 理由は分からないが、取りあえず、今はこれでギヨームの命の心配はしなくて済むだろう。

 

 鳳はまだ動揺を見せている天使たちに続けて言った。

 

「ところでジャンヌのことなんだけど、久しぶりに会ったあいつの記憶が無くなってるのはどうしてなんだ? もしかして、あんたらあいつに何かしたのかよ?」

 

 するとミカエルはあっさりと、

 

「それは我々が彼女の記憶を奪ったからだ」

「なんでそんなことするんだよ? あいつをもとに戻してくれ!」

 

 鳳が強い口調で詰め寄ると、これまたミカエルはあっさりと、

 

「それは構わないが」

「え!? いいの?」

 

 まさかそんなに軽い調子で返してくるとは思わず、肩透かしを食った鳳が目をパチクリしていると、ミカエルは自分の顎をさすりながら少し考えるように続けた。

 

「しかし……記憶を戻すのは容易いが、本当にいいのか? 彼女には彼女の16年間があるのだぞ?」

「どういう意味だよ?」

「ジャンヌ・ダルクは、ビリー・ザ・キッドとは違って、負けを悟った後は殆ど抵抗を見せなかった。だから我々は彼女を許し、この世界の市民として迎えることにしたのだ。だが、そうするには彼女の記憶が邪魔だった。

 

 言うまでもなく、人間にとってもプロテスタントは世界の敵だ。元の世界に帰るあてもない中で、彼女のことを敵としか考えていない人々の中で暮らしていくのは不安であろう。いつ爆発するとも限らない。だから我々は彼女の記憶を奪い、事実だけを伝えたのだ。記憶が無ければ、少なくとも罪の意識に苛まれることはないだろうからな」

「そうだったのか……」

 

 ジャンヌの記憶が無いことに気づいた時は、記憶を奪った連中には悪意しか感じられなかったが、こうして理由を聞いてみれば、思っていたよりずっとまともな理由に、鳳は溜飲を下げざるを得なかった。少なくとも、四大天使は彼女に対する敵意は持っていないようである。

 

「市民となったジャンヌ・ダルクは自ら進んでドミニオンとなり、多大な貢献を上げて人々の間で英雄と称されている。隊員に限らず、彼女を慕う人間は多い。その点も踏まえて、望むのであれば彼女の記憶を戻すのは構わないが……しかし、彼女の記憶を取り戻すということは、彼女の16年間を奪うのと同じことでもある。元の世界に帰る方法がわからない内は、まだそのままにしておいた方が良いのではないか?」

「なるほど……そういうことなら、そうしておいた方がいいか。それじゃあ次に……」

「まだあるのか!? いいかげんにしろ!」

 

 尚も頼み事があると知ってミカエルがいきり立つ。鳳はそんな大天使を相手に、硬いこと言うなよと言わんばかりに愛想笑いを浮かべながら、

 

「いいじゃん。これで本当に最後だから、聞くだけ聞いてくれよ」

「……本当に最後だからな」

「分かってるって。アズラエルのことなんだけど」

「アズラエル……??」

 

 その名が出てきたことが余程意外だったのか、四大天使は目を瞠りながらこちらの様子を窺っていた。鳳はそんな連中に揉み手しながら下手に出るように続けた。

 

「出来ればこっちに帰ってきても、罰は与えないで欲しいんだ。彼女が命令を無視して逃げ出したのも、マダガスカルに向かったのも、全ては人類のためを思ってのことだったんだ。失敗はしちゃったけど、その気持ちは汲んで、せめてあんたらだけでも評価してやってくれないか」

 

 ミカエルは訝しげに言った。

 

「……何故、ほんの知り合い程度の天使に肩入れする? 仲間でもないだろう」

「いや、同じ目的を持って一緒に行動したんなら、もう仲間だろう。仮にそうじゃないとしても、俺がそうして欲しいって思うんだからそれで構わないじゃないか。あんたらだって、例えそれが見ず知らずの人だったとしても、その人が不当に扱われていたら助けてやりたいって思うだろう?」

「ふむ……」

 

 鳳のその言葉に、始めて室内の空気が柔らかくなったように感じられた。どうやら四大天使は、いくらプロテスタントと言えども、目の前の男にも良心があることを、ようやく信じられたようである。

 

 ミカエルは少し態度を軟化させ、

 

「貴様に言われずとも、元よりそのつもりはない。何か勘違いしているようだが……我々は、アズラエルが何をしたのかはもちろん知っている。そして、彼女が連れている魔族のことも」

「あ、そうだったの?」

「事が起きてしまったあと、実は我々もあの魔族を保護しようと思っていたのだ。だが、無理だった。自分の子が魔族になったなどと、母親に知られるわけにもいかない上に、天使の理解も得にくい。それから、やはり魔族であろう? 一度暴れだしたら制御できるわけもなく、みんなで殺し合った挙げ句に大半は逃げ出してしまった。アズラエルが連れているのは、あれでもごく一部なのだ」

 

 そんな事情があったとは……アズラエルが何も言わないから分からなかったが、四大天使は寧ろ彼女に同情的だったようである。それどころか、罰を与えているつもりも無いらしい。

 

「アズラエルを蟄居にしているのは、混乱を鎮めるためと魔族を連れているためのカモフラージュだ。結果はどうあれ、母親たちが子供を失ったのは事実であるから、名目上は罰を与えるより仕方がなかったのだ。あれは何も言い訳をしないからな……こちらで意図を汲んで罰を与えてやらねば、どんどん自分に不利な方向へと突き進んでいってしまう」

「そうか。それを聞いて安心したよ」

 

 鳳はそう言ってホッと胸をなでおろすと、

 

「それじゃあ、俺の要求は以上だ。精子の提供はいつでもする。必要なら追加オーダーも受け付けるぜ。でもその時はどっか個室を用意してくれよな」

「いや、その必要はない」

「え!? まさか衆人環視の中でやれってのかよ!? 俺の息子はナイーブだから、おっきしてくれるかもわからんぞ?」

 

 ミカエルはうんざりした感じに吐き捨てた。

 

「誰がそんなものを見たがるか。そうではなく、今は貴様の精液なぞ交渉材料にならんと言っているのだ」

「それじゃなんで俺をここに呼んだんだよ?」

 

 鳳は、まさかそんな返事がかえってくるとは思わず、2度びっくりして聞き返した。するとミカエルは大仰に首を振って、

 

「勘違いするな。必要ないと言っているのは、あくまで今は、ということだ。考えても見よ。仮に今貴様の精液を手に入れたとしても、アズラエルの一件があった後では、おいそれと使えるわけがなかろう。それに、今回の件で我々も学んだのだ。子の父親が誰でもいいというわけではない。今度はプロテスタントが父親だなどと知れれば、また要らぬ混乱が起きる。子供はやはり、祝福されて生まれてこなければならないだろう」

「そりゃあ、まあ、俺もそう思うけど……じゃあどうすりゃいいんだよ?」

「貴様が人類に受け入れられるだけの実績を作ればいいのだ」

「……実績?」

 

 なんだか話が妙な方向に流れていると思いながら問い返してみると、ミカエルはこれまた大仰に頷いてから、とんでもないことを言い出した。

 

「報告によれば、マダガスカルでベヒモスを撃退したのは貴様の手腕だったと聞き及んでいる。その実績を買って、我々は貴様に依頼しよう。現在、オーストラリア北岸からメラネシア・インドネシア方面にかけて、総数1億個体を超える水棲魔族が棲息し、人類の生活圏を脅かしている。様々な事情もあって、ニューギニア奪還は我々の悲願でもある」

「……それで?」

 

 鳳は嫌な予感がしながら聞き返した。

 

「よって貴様には水棲魔族を駆逐し、その頂点に立つ魔王レヴィアタンを殲滅することを望む……貴様が人類の救世主となるのだ!」

 



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オリジナル・ゴスペル

 中枢(アクシズ)のコンクリートの壁はとにかく分厚くて、室内はやたら乾燥してヒンヤリしていた。()が収められた神殿があるせいか、無菌室のように淀んだところがなく、多分、死体があっても腐りはせずにそのままミイラになってしまうだろう。まるで冷蔵庫の中に放り込まれたようだ。なんなら石棺と言ったほうが正しいかも知れない。そんな場所で寝たものだから目覚めは最悪なものだった。

 

「知らない天井だ……」

 

 などと主人公みたいなセリフをつぶやきながら、寝ぼけ眼を擦りつつ上体を起こそうとしたら、体がギクシャクして腰がズキズキと痛んだ。ベッドがなくて硬い床に直に寝たせいだろうが、そんな酷い扱いに腹を立てると同時に、主人公みたいな使命を与えられたことも思い出してゲンナリした。

 

 鳳の要求の代わりに四大天使が求めたのは、この世界の魔王レヴィアタンを退治することだった。そりゃ精子でなんでも解決するとまでは思ってはいなかったが、いくらなんでもな無茶振りに仰天していると、ほぼ間髪入れずにミカエルは指摘してきた。

 

「貴様にはその経験があるのだろう?」

 

 ルシフェルの仕事を受け継いだミカエルは、低次元世界で何が起こっていたのか、ある程度推測していたらしい。

 

 神域襲撃の前に起きたマダガスカル撤退戦でのアスクレピオスの不発は、鳳たちがアナザーヘブン世界で刈り取りに抵抗したからだ。そう考えると、彼は他にも身に覚えがあった。それに遡ること数年前に、オーストラリア北部でも2度のゴスペル不発事件が相次いでいたらしく、その相手こそがレヴィアタンだったのだ。

 

 現在、オーストラリア北部に配備されているゴスペルは、その事件以来機能不全が続いており、対魔王用の兵器としての役割を全く果たせていないそうである。その不具合の原因が分からず人類は苦戦を強いられたままなわけだが、その元凶である鳳がゴスペルを見たいと言うのであれば、行って、直接見て、ついでにおまえがなんとかしろ、と言うのがミカエルの要求であった。

 

 なんだかそんな風に言われると、こっちがとんでもなく悪いことをしているようにも思えるが……あの時、刈り取りに抵抗しなければアナザーヘブン世界は今頃消滅していたであろう。そんな瀬戸際に、他の世界のことまで考えてられるわけもないのだから、本当にゴスペルというものは、はた迷惑な機械である。

 

 ともあれ、そんな理由もあって、鳳のゴスペルを見たいという要求は、通りやすかったようである。その他の、例えばギヨームの解放などに関しては、その結果次第と言えるだろう。

 

 こっちの世界に来た当初の、宛もなく大海原で遭難していた時のことを思えば、かなりの前進と言えるだろうが、しかし簡単そうに言っても、その目的が魔王討伐と考えると、寧ろ後退しているように思えなくもない。確かに鳳はレヴィアタンと戦い勝った経験はあるが、あの時はP99に与えられた勇者の力とケーリュケイオン、そして仲間とヘルメス軍がいたのだ。今の鳳が一人でどうこう出来るような話じゃないだろう。

 

 これからどうしたらいいものか……頭を悩ませていると、いつものお気楽な調子でミッシェルが話しかけてきた。

 

「やあ、おはようタイクーン。昨日は良く眠れたかい?」

「おはようございます。眠れるわけないでしょう、こんな硬い地面の上で……」

「そうかい? 僕はふかふかで快適だったよ。君も遠慮せずに一緒に寝れば良かったじゃない」

 

 鳳たちはあの会談後、ろくな寝所もない中枢に無理やり泊まらされたわけだが、彼が硬い地べたに横たわるすぐ隣で、ミッシェルはサムソンの上に乗っかってぐーすかイビキをかいていた。

 

 今のサムソンの体はアホみたいに頑丈で、人がひとり乗ったくらいではびくともしないので、ミッシェルは彼をベッド代わりにして寝ていたわけである。恐らく、鳳が寄りかかったところでもなんともなかったのだろうが、なんと言うか、いくら快適でも獣に抱かれて眠るのはゴメンだった。

 

「あたたたた……こう腰が痛いんでは堪らん。今日はまともなところで寝かして貰えるんでしょうかねえ」

「どうだろうねえ。天使に見つからないようにって言うくせに、不可視や認識阻害はしちゃいけないって言うし」

「出歩けないってのも地味に辛いっすね。まあ、仮に出かけたところで、こんなとこじゃ飯屋もなんも無さそうですけど……あー、飯のこと考えたら腹減ってきた」

 

 鳳たちがそんな会話を続けていると、部屋の扉がスーッと開いてミカエルが入ってきた。

 

「起きたか、プロテスタント共。早速だが私の研究室まで来てもらうぞ。急げ。時間が惜しい」

 

 この世界で一番偉いせいなのかなんなのか、本当に面白味にかけるやつだった。ムーンウォークでもしてポウとでも叫べば、一発で好きになれそうなのに……鳳はうんざりするように言った。

 

「あのさあ、こちとら硬い地べたに寝て疲れてる上に、昨日から何も食べてなくて腹ペコなんだよ。あんたらと違って人間はデリケートなんだぞ? もうちょっと労りの気持ちってもんが持てないものかね」

「食事か……そう言えば忘れていたな。用意しよう。どちらにせよ、私の部屋まで来い。勝手に出歩かれては困るからな」

「へいへい」

 

 鳳たちはせっつかれるようにして部屋を後にした。

 

******************************

 

 中枢は昨日来たときと変わらず、人気がなく静まり返っていた。窓がないから外の様子はさっぱりわからなかったが、まだ日が昇っている時間帯であるのは間違いなさそうだった。なのに誰の姿も見当たらないのは、四大天使が人目を避けているからか、それともミカエルが昨日言っていたように、天啓が来なくなった天使たちが堕落してしまったからなのだろうか。多分、その両方だろう。

 

 どこまで続くのか分からないひたすら一直線の廊下を抜けると、突き当りに他とは意匠が違う扉が見えてきた。大昔の3Dダンジョンゲームなら、悪魔合体でもしそうな雰囲気である。扉を抜けると、そこにはアグネスの屋敷みたいなやたら白い部屋が広がっており、豪奢な調度品が並んだ箪笥の横には、ダブルベッドと、コーヒーを乗せるくらいしか役に立ちそうもないサイドテーブルが置かれていた。

 

 そして部屋の奥には、よくわからないロボットアームが生えていて、馬鹿みたいに散らかっている社長机が置いてあった。確かミカエルは研究室と言っていたから、あれが仕事場なのだろうか。とすると、こっちのベッドは仮眠室のつもりなのだろうが……この生活感からして、殆ど職住一体で、ろくに家には帰っていないのではないか。

 

 鳳たちを無理やり狭いサイドテーブルに押し込めると、ミカエルは冷蔵庫らしき箱の中からトレーを三枚出してきてテーブルにポンと投げ置いた。透明のフィルムで封をされたトレーの上には、コテで塗られたような原色のレーションが乗っている。まさか、これが噂に聞くディストピア飯というやつだろうか。ここは本当にネルフ本部なんじゃないか。

 

 食事は見た目も重要であるという鳳の抗議を無視して、ミカエルは何も言わずにさっさと部屋を出ていってしまった。どこに行くつもりだろうか? と思いつつ、取りあえず、腹が減って仕方ないので封を開けたが、見た目通りなんとも言えない味だった。もしかして、この世界の人々はいつもこんなものを食べているのだろうか? いや、ドミニオンは炊き出しをしていたので、きっとミカエルの生活だけが退廃的なのだろう。

 

 原料とかはあまり考えたくないので無心で口に運んでいると、さっき出ていった彼が何かを抱えて戻ってきた。一つはギターケースくらいの長方形の大きな箱で、もう一つは20センチ四方くらいの小さな箱。舌切り雀なら絶対後者を選ぶべきだろう。

 

「これは……?」

「貴様が見たがっていた、オリジナル・ゴスペルだ」

 

 まさかそんな返事が返ってくるとは思わず固まっていると、ミカエルはケースをダブルベッドの上に放り投げてぞんざいに開いた。そんな雑に扱ってもいいのかよと思いつつ箱の中を覗き込むと、大きな箱の中にはどこかで見たことがあるような杖らしき棒状の物体が入っており、小さな方にはドーナツ型の円盤が入っていた。チャクラムというやつだろうか。

 

「オリジナル・ゴスペルはこの世に10本ある。しかし残念ながらそのうち4本は失われてしまった。一つは貴様も知っているアスクレピオス。これはマダガスカルに配備されていたが、ベヒモスとの戦いの際に紛失し、現在も行方が知れない。もう一つはトリアイナ。これも前線に配備されていたが、数百年前、人類がメラネシアから後退する時に紛失した。今でもニューギニア島のどこかにあるはずだ。

 

 三つ目はアイギス。これは少々事情があって、ここ神域(パース)から前線へ輸送中、航空機の事故で失われてしまった。輸送機の破片は全て見つかっているから、ゴスペルだけが無くなったことには説明がつかず、当時の人間社会はかなり混乱した。

 

 そして最後はウトナピシュティム。これは私も見たことがない。神がその存在を示したのみと伝わっているが……ルシフェルなら何か知っていたかもな。

 

 そんな事情もあり、我々現生人類が現在所有しているのは6本、内2本が目の前のそれ、ヴァジュラとジャガーノートだ」

 

 前者が小型の円盤で、なんというか忍者が持ってそうな雰囲気の、どうやって使えばいいのかさっぱり分からない武器だった。ブレスレットみたいに腕にはめればいいのだろうか? それとも指でくるくる回して飛ばすのだろうか? 触らせて貰えれば何か分かるかも知れないが……

 

 しかし、そんな奇妙な形をした武器よりも鳳の気を惹いたのは、もう一つの杖の方だった。それは本当に、ただ木を削り出して棒状にしただけの、無骨で何の変哲もない杖だったのだが……鳳はそれに見覚えがあるような気がして仕方なかったのだ。

 

 そう思って近くに寄ってまじまじ見つめていると、ミッシェルも同じように感じたのか、箱の中を真剣に覗き込んでいた。その姿を見て、鳳は自分の直感を確信した。

 

「……これ、カウモーダキーですよね? ルーシーの」

「ミカエル君、触れても構わないかい?」

「好きにしろ」

 

 怖い天使のお許しも出たので、ミッシェルは杖を持ち上げてしげしげと眺めながら、

 

「うん、間違いないね。形状は少し違うけど、これは僕がマイトレーヤから預かった杖だよ。レオナルドに渡すまで、長いこと手元にあったから間違えようがない」

「俺にもなんとなくわかります。でもどういうことだろう? これがオリジナル・ゴスペルなら、精霊ミトラはこのコピーを俺たちの世界に持ち込んだってことでしょうか」

 

 鳳はふと疑問に思って、

 

「あれ……? でも、カナン先生はルーシーの杖を見ても、何の反応も示さなかったよな。自分の作品なら気づくだろうに。なあ、マイコー。もしかして、これってあんたが作ったの?」

「マイコーじゃない。そして私でも、ルシフェルの作品でもない」

「……? どういうことだ?」

 

 鳳が首をひねってみせると、ミカエルは淡々と、

 

「オリジナル・ゴスペルは全てが私とルシフェルの作品というわけではない。その半数は神の作品と言われており、この世に始めから存在していたものだ。最古のゴスペル・アスクレピオス。失われし神盾アイギス。ヒエログリフの長杖ウアス。詳細不明のウトナピシュティム。そしてジャガーノートは私が生まれる前からこの世に存在していた」

「神の作品か……」

「尤も、今はそれも疑わしいがな。もしも本当に神がオリジナル・ゴスペルを作ったと言うのであれば、わざわざその製法を伝授して、我々に作らせるような手間はかけないだろう。だから私は、それは元々この世界にあったものではないかと考えている」

 

 四大天使ともあろうものが、神を疑うようなことを言うのはちょっと意外だったが……ミカエルは実際にゴスペルを作った経験があるから、そういうことが分かるのだろう。ルシフェルもそう思ったから、神に反抗して堕天してしまったのだ。

 

「なら、これは僕のときと同じように、マイトレーヤが持ち込んだものかも知れないね。もしかしたら彼は、僕たちがここに現れることを想定していたのかも」

 

 杖を矯めつ眇めつしながらミッシェルが呟く。鳳は疑問に思ったことを口にした。

 

「ミトラって何者なんですか? あっちの世界やこっちの世界、ミッシェルさんの生前にも現れたんでしょう? そんなにあちこち動き回って何をしてるのやら……」

「そのまま、遠い未来の仏様、弥勒菩薩って考えればいいんじゃないの。彼は釈迦如来が入滅したこの末法時代、釈尊の代わりに平行世界を渡り歩いているはずなんだ。ブッダは世界を渡ることが出来ないから、従者である菩薩が代わりに衆生を救うんだよ。自分が神様になるはずの未来が無くなっちゃ困るからねえ。ヘルメスだって、きっと似たようなものさ」

 

 ミッシェルはなんだか世知辛いことを言い出した。まあ、この人も今や神様みたいなものだから、そのやり方が気に食わないのかも知れない。鳳は苦笑いしながら話題を変えるつもりでミカエルに尋ねた。

 

「それで、残りの5本は?」

「トールの槌ミョルニル。三叉の矛トリアイナ。インドラの雷ことヴァジュラ。ルシフェルの最高傑作と謳われたメタトロン。そして、そのコピーのサンダルフォン。不愉快だが、前4つがルシフェルの作品で、私はやつの贋作しか作れなかった」

 

 その顔が本気で悔しそうなのは、ルシフェルへの対抗心だろうか、それとも同じ仕事をしている者のプライドだろうか。あまりその辺りは触れないようにして、鳳は軽い調子で続けた。

 

「どうやって作るの? やっぱり製法は秘密……だよな?」

「いや、教えてやらんこともない」

「えっ! いいの!?」

「どうせ教えても無意味だからな。まず、天啓が来る」

「お、おう……」

 

 そりゃ確かに無理である。鳳は先を促した。

 

「天啓はゴスペルの設計図を送ってくる。細かな仕様や素材から、部品から、仕上げ方からなにから……全ての行程が送られてくる。だが、その通りに作ってもゴスペルは完成しない」

「完成しない? そりゃまた、なんで?」

「わからん。わからないが、出来上がったゴスペルは最初は動かないのだ。製造過程でミスを犯したのか、それとも設計図に不備があるのか、部品が足りないのか……すると、考えても見れば、その設計でどうしてゴスペルが動くのか、そもそもゴスペルはどうやって動いているのか、私は何もわからないことに気がつく。だから考えるのだ。どうしてこれは動かないのかと。どうすれば動くのかと……そうして何日も何日も考え続け、部品を全てばらしては最初から組み立て直し、設計を見直し、神に祈り、それを何度も繰り返したあと、気がつけばゴスペルは完成しているのだ」

「は? なんだそりゃ??」

「さて……それまでうんともすんとも言わなかったゴスペルが突然動き出す時が来るのだ。何度も見返してみるが設計にミスはなかった。だから最初は時限式で動き出すのかと考えもしたが、きっとそうじゃないのだろう。その何度も見返すという過程に、何か神秘が隠されているのだ」

「多分、ミカエル君の言うとおりだろうね」

 

 二人のやり取りを横で聞いていたミッシェルが、何かに気づいたように、うんうんと頷きながら言った。

 

「昨日、タイクーンが指摘したように、四大天使たちは生まれつきの超能力者なんだよ。彼らは無意識のうちにアストラル体を動かし、当たり前のように現代魔法を使用している。ゴスペルの製法もそれと同じことだったんじゃないかな。ミカエル君は不完全なゴスペルを前にして、どうして動かないのかと一生懸命考える。完成品をイメージする。つまり、イデアを引き出しているんだ。これって幻想具現化と同じでしょう?」

 

 鳳はポンと手を叩いた。

 

「ああ! そういうことか。それじゃ最初にゴスペルが動かなかったのは……」

「足りなかったのは設計図でも部品でもなくて、ゴスペルのイデアだったんだよ」

 

 二人はそれで納得したが、未だに理解が出来ないミカエルは怪訝そうに言った。

 

「私には良くわからないが、貴様らには何か思い当たるところがあるようだな……そう言えばかつてザドキエルも、功夫がどうだの気がどうだの、そういったシックスセンスみたいなものを持ち出しては周囲から煙たがられていた。誰もあれの言うことは理解できなかった。だが、あれが強いのもまた事実だった」

「ベル神父は堕天しても信仰を失わずにいたよ。それだけ信仰心が篤い人が神に逆らうんだから、ちゃんとそういうのが見えてて、危機感を感じていたんだろうね」

「ふーん……」

 

 ミカエルはどこか思案げに黙りこくった。彼自身も何か感じるところがあったのだろうか。そう言えばアズラエルもそうだったが、天使は神に批判的なことを考えないわけでもないらしい。天啓が無くなってからは結束も乱れているようだし、あまり突っ込んだ話をして堕天とかされても困るので、この辺の話は不用意にしないほうがいいのかも知れない。

 

「そういやあミッシェルさん。もしかして、こいつがあればポータル魔法が使えるんじゃないですか?」

「空間転移のことかい? それは無理だよ」

「どうしてです?」

 

 ミッシェルは杖を指でなぞりながら、

 

「ルーシー君が空間転移を習得出来たのは、それが彼女の誓願だったからだよ。あの時の彼女は君を助けたいというただ一つの願いだけで動いていた。だから強い力を得られたけれど、言ってしまえばそれしか出来ないんだ。もしくは君がこれの所有者になり誓願をかければ使えるかも知れないけど……」

「え? 出来るんですか?」

「でも、これを手にすると言うことは、ケーリュケイオンを捨てるってことだよ? そのつもりはないだろう?」

「そりゃ冗談じゃないですね……」

 

 しかし逆に言えばケーリュケイオンを取り戻し、ルーシーを呼び出すことが出来ればなんとでもなると言うことだ。

 

「結局、ケーリュケイオンの行方を探るのが一番みたいですね。でも、またマダガスカルに戻るわけにもいかないし……」

「まだアスクレピオスがそうと決まったわけじゃないでしょう。案外、これから見に行く前線のがそうかも知れないんだし、まずは場所がわかっている物から順に調べていった方がいいんじゃない」

「それもそうですね」

 

 それに、レヴィアタンを倒せという四大天使の要求もある。鳳たちがこの世界でもう少し自由に動き回るためには、まずはそっちをどうにかすることを考えた方が良い。

 

 しかし、一度は倒したことのある相手とは言え、今の鳳の力でそんなことが本当に可能なのだろうか。不安は尽きないが、今はやれることをやるしかないと彼は自分に言い聞かせるしかなかった。

 



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え? やだよ

 ミカエルにオリジナル・ゴスペルを見せてもらった鳳たちは、そこで思いがけない物を発見した。ジャガーノートと称されていたゴスペルは、恐らくルーシーの杖カウモーダキーで間違いないようだった。

 

 するとケーリュケイオンも同じように、この世界にオリジナル・ゴスペルとして存在している可能性が高くなったわけである。だが、それを探すため自由に動き回るには、まずは四大天使の要求を飲んで、レヴィアタンをどうにかしなければならなかった。

 

 しかし、一度は倒したことのある相手とは言え、今の鳳が一人で魔王をどうこう出来るわけがない。まずは戦力を集めて作戦を練らねばならないだろう。鳳は検分が済んだゴスペルをしまっているミカエルに言った。

 

「レヴィアタン討伐にあたって人手が欲しいんだけど、まさか俺だけで倒してこいなんて言わないよな?」

「それは無論だ。倒せるのであれば、我々も可能な限り協力しよう」

「じゃあ、あんたらも一緒に来てくれるの?」

「馬鹿が。我々四大天使がプロテスタントに協力など出来るわけがないだろう」

「言ってることが矛盾してるじゃねえか!」

 

 鳳が文句を垂れると、ミカエルも不機嫌そうに、

 

「可能な限りと言ったであろうが。第一、我々天使は直接魔族と戦うことを禁じられている。ましてや、プロテスタントと共闘なぞ理解されるはずがない。天使を戦力としてあてにしないことだ」

「……なら、ドミニオンは? つーか、ぶっちゃけジャンヌなんだけど」

 

 ミカエルは厳かに頷いて、

 

「それなら構わない。どうせそのつもりだった。貴様にはこれから前線へ向かい、そこにある士官学校の訓練生として行動してもらう。必要な戦力はそこでかき集めろ。恐らく、それが一番やりやすいはずだ。またそこにはこれと別のオリジナル・ゴスペルもある。それを調査する機会も与えよう」

「学生ね。確かに動きやすそうだ……あとは武器が必要だけど、その前線にあるっていうオリジナル・ゴスペルを借りても構わないか?」

「貴様……無理とわかって言っていないか」

「無理をごり押されてるのはこっちの方じゃないか。もしもそこにあるそいつを使えば確実に勝てるってんならどうだ?」

「……その時はその時だ。仮定の話は出来ん。まずはそれを見極めてから許可を求めよ」

「ふん……まあ、その辺が妥当か。レプリカの方は支給してくれるんだよな?」

「形状と機能を言え。可能な限りリクエストに応えよう」

「そういやあ、あんたが製造責任者だったっけ」

 

 となると、かなり無理を言っても通りそうである。これは後でよく考えて、しっかり仕様を煮詰めたほうがいいだろう。今は何が出来て何が出来ないのかもよく分かってないのだ。

 

「あと気になるのは……サムソンを連れてってもいい?」

「魔族を人の領域に入れるわけにはいかないだろう。そいつのことは我々に任せよ」

「うちの最大戦力だぜ? それでレヴィアタンに負けたらどうすんだよ」

「いよいよ戦うとなったらもちろん許可しよう。だがそれ以前に、人の目に触れさせるわけにはいくまい」

「……仕方ない。それじゃあ、ジャンヌに事情を説明したいから、一度彼女に会わせてくれないか?」

「いいだろう。だが、ドミニオンらもまだ宿舎についたばかりで落ち着いてはいまい。少し時間を置いて、明日以降にしたほうがいいだろう」

「そういやあ、あいつらどこに行ったの? 俺らとは別々に連れてかれたみたいだけど」

「人間を神域のあるパース市内に置くわけにはいかなかった。だから、郊外にある今は使われていない天体観測所の宿泊施設に連れて行った」

「ふーん、郊外ねえ……」

 

 まあ、酷い目に遭っていないなら良いのだが。天使というのは、思った以上に面倒臭い連中のようである。

 

************************************

 

 翌朝。抗議の甲斐あって昨日よりは多少マシな部屋に寝泊まりした鳳たちは、午後を過ぎてからミカエルに呼び出された。行ってみればガブリエルが待っていて、ジャンヌたちのところへ送ってくれるとのことだった。

 

 なんでこいつらはいちいち視覚障害者に送り迎えさせようとするのか気が知れなかったが、案外、それが理由で彼が一番暇なのかも知れない。それに移動には自動運転車を使うのだし、あまり気にする必要はないのだろう。今回は空港のときとは違って、スモークが効いていて後部座席が広い車だった。ミッシェルとサムソン、3人でもゆったりだ。

 

 ドミニオンたちの宿泊所は、その車で飛ばしても2時間もかかった。ミカエルは郊外とだけ言っていたが、大陸人の言う郊外と日本人の郊外の感覚は違うようである。市内を出てステップ地帯を通り過ぎ、なだらかな斜面に延々と続く荒野を進んでいくと、やがて大きな湖に辿り着いた。途中、いくつもの橋を越えたが、その全てが一つの河川だったらしい。湖に湛えられる膨大な水量や、右に左に大きく湾曲しながらどこまでも流れる河川というのも、これまた日本人には馴染がないものだった。

 

 その湖の横にある小高い丘の上に、ドーム型の天体観測所はあった。今は使われていないと言っていたが、きっと在りし日はあそこの天井が開いて、一晩中レーダーが星を追いかけていたのだろう。そのドームから少し離れたところに、3階建ての横長な建物が建っており、恐らくそこが宿泊所のようだが、今はそこまで行く必要は無さそうだった。

 

 何故ならドミニオンたちは、湖のすぐ側でドンパチ派手な音を立てながら戦闘訓練をしていたからである。

 

「あいつらこんなとこまで来て何やってんだ?」

「戦闘訓練とは感心ですが、着いて早々少しストイックすぎますね……おや?」

 

 セダンから降りてその様子を眺めていると、隣に並んだガブリエルが何かに気づいたように言った。

 

「……ドミニオンの中におかしなのが混じってますよ。ラファエル!」

 

 言われて目を凝らしてみると、確かに女に混じって小柄な天使がうろちょろしていた。ラファエルはガブリエルの呼びかけに気づくと、おおー! っと声を上げてから、ふわりと翼を羽ばたかせて飛んできた。

 

「ガブじゃねえか。おまえ、こんなところで何やってんだ?」

「それはこっちのセリフですよ。人間には干渉するなと言われていたのに。このことはミカエルは知っているのですか?」

「硬えこと言うなよ。こいつらがベヒモスを倒したって言うから、興味が湧いてよ。ちょっと実力を見せてもらいに来たんだよ」

 

 そう言ってラファエルはカラカラと笑った。一昨日は殆ど喋らなかったから分からなかったが、どうやら見た目通り、四大天使の中で一番軽い性格をしているらしい。ラファエルはちらりとこちらを一瞥してから、またガブリエルに向き直り、

 

「ところで、本当にこいつらがベヒモスを撃退したのか? さっきから訓練に付き合ってんだけど、とてもそうは見えないんだよ」

「そう聞いておりますが……どんな調子なんです?」

 

 ラファエルは端っこの方で射撃訓練をしているらしき一団を指差しながら、

 

「どうやって倒したんだって聞いたらよ? あいつらが一斉射撃したら、いつもとは違う凄い威力が出たんだって言うから、そりゃ面白いって再現させてみたんだけど、てんで駄目でさ。威力が増すどころか、寧ろ下がってるんじゃないかって感じだ」

「どうしてでしょうかね。鳳様……何か心当たりはありますか?」

 

 ガブリエルが怪訝そうに振り返る。そんなこと急に言われても困ってしまうが、それが本当なら理由は確かに気になった。

 

「さあ? 取りあえず、どんな調子なのか実際に見せてもらえない?」

「おう、こいよ」

 

 鳳が頼むと、ラファエルは素っ気なくそう言ってから、こちらを見向きもしないでスタスタ歩いて行ってしまった。まるで人見知りの子供みたいな反応である。精神は肉体に引っ張られると言うから、案外、本当に見た目通りの精神年齢なのかも知れない。

 

 ……とも思ったが、それだとアズラエルが老成している理由が分からないから、やっぱり個性なのだろう。もしくは、一部のドミニオンの隊員たちみたいに、プロテスタントのことが大嫌いなのかも知れない。そんなことを考えながら、その小さな背中を追いかけていくと、件の射撃訓練をしている隊員たちの中に瑠璃の姿を見つけた。

 

「まあ! 皆様、ご機嫌よう! 別々に連れて行かれた時は心配しましたが、またお会いできて嬉しいですわ」

「……どうも」「チッ」

 

 にこやかに近づいてくる瑠璃の背後には、少しそっけない態度の琥珀と桔梗の姿も見える。自分は何か彼女にまずいことでもしたのだろうか……? 見た目は一番優しそうなのに、その実一番威圧してくる桔梗の姿に恐々としながら、鳳は瑠璃に向かって尋ねた。

 

「ああ、無事で何より。ちょっと君らの隊長に用事があって来たんだけど、そしたらラファエルが気になることがあるって言うから……ゴスペルの光弾の威力が増幅されないんだって?」

 

 瑠璃は大きく何度も頷いて、

 

「そうなんですわ! いえ実は、全てがそうじゃないのですが……とにかく威力が増えたり減ったり、安定しないんです」

「安定しない?」

「はい。殆どは光弾を重ね合わせると威力が減る傾向にあるのですけど、例えば私と琥珀のように相性がいい場合もあるんですわ」

「実際にやってもらっていい?」

 

 実演してみれば、その違いは一目瞭然だった。

 

 まずは適当な隊員同士に光弾をぶつけ合ってもらうと、その弾の威力は殆どの場合が消滅するか減退するのに対し、瑠璃と琥珀が光弾を重ねるとそれはほぼ倍に膨れ上がり、桔梗の光弾を加えると更に威力は倍増した。

 

 そうやって調べ始めてみれば、どうも隊員同士で相性があるみたいで、威力が増す組み合わせと、減ってしまう組み合わせがあることに気がついた。大体において、仲のいい同士は増すようだった。鳳はそれを見てすぐになんとなく理由が分かった。

 

「あー、なんとなく分かったよ。これならなんとかなるかも知れない」

「え!? たったこれだけで?」

 

 鳳は頷くと、

 

「要は波長の問題だ。光ってのは粒子でもあれば波でもある。波長が合えばエネルギーは増幅するけど、逆位相の波は打ち消し合ってしまう。人間同士も波長が合うって言うだろう? だから、仲のいい同士は何となくその威力を寄せやすいんだろうね。でもそうじゃない時は、みんなてんでバラバラの威力で光弾を撃ってるから、打ち消しあってしまうんじゃないか」

「それじゃ何故ベヒモスを倒した時は一致したんだ?」

 

 鳳が話していると、不服そうにラファエルが横槍をいれてきた。鳳もその点は気になっていたが、

 

「さて? 恐らくベヒモスを倒した時は、みんなの目的が一致していたから奇跡的に波長が合ったんじゃないか。もしくは追い詰められた者の火事場の馬鹿力みたいなものか……ゴスペルってリミッターはあるの?」

「ありますよ。こう見えて精密機械ですから」

 

 ガブリエルのその言葉で確信した。

 

「じゃあ、それだ。あの時、追い詰められたみんなが後先考えずに一斉に、最大威力で光弾をぶっ放したから、否応もなく波長が一致したんだよ。光のエネルギーってのはその波長で決まるから」

「ははあ……なるほど。そんな現象が起きていたんですね。後でミカエルに教えてあげましょう」

「あの時、あの威力を見てみんな驚いていたから、どうして今まで誰もこの方法を試してこなかったんだろうって不思議に思ったんだけど、理由は単純だったな。普通にやったら打ち消し合うんだから、誰もそんなことしなかったんだ」

 

 そんな風に二人で納得しあっていると、周りはしんと静まり返ってしまった。自分としてはわかりやすく説明したつもりだが、どうも瑠璃たちには理解出来なかったらしい。そう言えば、彼女らは魔族と戦う訓練は受けていても、ろくな学問は学んでいないのだ。

 

 本当に、神はこんな彼女らを魔族の前に立たせて、何がやりたかったのか不思議で仕方がなかった。これがあのDAVIDシステムの出した答えなのか? 何かの間違いなんじゃないだろうか。

 

「ふーん……面白いな、おまえ。どこまでホントか眉唾だったが、どうやらベヒモスを倒したってのも、レヴィアタンを殺ったってのもマジらしいな」

 

 鳳がそんなことを考えていると、その横で二人の話を聞いていたラファエルが小さな声で呟くように言った。彼は不敵な笑みを浮かべると、腕組みをしながらゆらゆらと鳳の前に歩み出て、ぐいと胸を張りながら挑発するように言った。

 

「どうだ、おまえ。ひとつ俺と勝負してみないか? 自慢じゃないが、俺はこの世界でも屈指の実力を持つセラフだ。退屈をさせるつもりはないぜ?」

 

 ラファエルはギラギラとした瞳でまっすぐ鳳の顔を見上げながら、ニヤリと笑った。鳳はそんな背の低い天使に向かって当たり前のように言った。

 

「え? やだよ」

「そうだろそうだろ……って、はあああ!? いまなんつった、おまえ!?」

 

 当然鳳が話に乗ってくると思っていたのだろう。ラファエルは体育会系のわざとらしいノリツッコミみたいな反応を見せた。鳳ははた迷惑な顔をしながら、

 

「やだよって言ったんだよ。当たり前だろ?」

「いや、当たり前じゃねえよ。俺と手合わせ出来るのなんて、普通に考えればありえない幸運なんだぞ? 大体、勝負を申し込まれたら受けるのが礼儀ってもんだろ」

「そんな礼儀知らないよ。そもそも、負けると分かってて勝負を受ける馬鹿がどこにいる」

「まだ負けるって決まったわけじゃ……いや、そりゃ俺が勝つけどよ!? ええい! おまえ、それでも男なのかよ!? ちんちんついてんのかよ!!」

「……見たい?」

「見ねえよ! 気持ち悪いこと言ってんじゃねえよ!」

「自分から言いだしたくせに」

「うっせえなあ! なんなんだよ、こいつ、のらりくらりと……つーか、おまえは本当にレヴィアタンを倒した勇者なのか? その後出てきたもっとやばいやつも倒したって聞いたぞ? ありゃあ嘘だったんかよ」

「ええ……?」

 

 そんなの誰に聞いたのだろうか。記憶を消される前のジャンヌだろうか? ともあれ、アナザーヘブン世界での強さを基準に喧嘩をふっかけられたのでは堪ったものじゃない。

 

「あの時は色々チート能力があったの。頼りになる仲間もいたし。今の俺なんて条件的には、レベル1の何も出来なかった頃と大して変わらんのだぞ。おまえみたいなのと喧嘩なんかしたら、芥子粒のようにワンパンで吹き飛んじまうわい。人殺しになりたいのかよ。もう少し物を考えて言えよ、ボケが」

「なに偉そうに自分を卑下してんだよ! おかしなやつだなあ……いいからやろうぜ? やってみたら案外いい線いくかも分からないだろう?」

「いや、わかるよ。絶対負けるから、やだ」

 

 ラファエルは胸を張って戦いを拒絶する鳳を前に、ここまで潔くない人間は始めてみたと言わんばかりに、はぁ~っと盛大にため息をつくと呆れるように言った。

 

「おまえ、そんなんだから仲間に置いてけぼり食らうんだぜ? 慎重なだけがいい結果を産むとは限らねえ。男には、負けると分かっていても、やらなきゃいけない時ってもんがあるだろう?」

「天使に男がどうとか語られたくないんだけどね……つーか、俺は別におまえに恨みなんかないし、喧嘩なんかする必要ないじゃない」

「いやそんなことねえだろ……俺は……そう! 俺はおまえの仲間の仇なんだぜ?」

「……仇ぃ? なにそれ?」

 

 するとラファエルは胸を反らし、まるで自慢するかのように高らかに宣言した。

 

「おまえの仲間最強のザドキエル……ベル神父を殺したのは、何を隠そうこの俺だ! 俺の自慢の攻撃を前に奴は為すすべもなく敗れ去り、ふらふらになって命乞いをしているところを、俺は獣のように踏みにじってやった。まったく、あんなんで天使最強を名乗るなんて恥ずかしいやつだったぜ。つまりよう、俺がおまえらの計画を阻止した張本人なんだ。どうだ? 悔しいだろう? やりたくなっただろう? フフン!」

 

 うわー、嘘くさい……鳳が呆れ、ラファエルがふんぞり返りながら鼻を鳴らした瞬間だった。一陣の風が吹き抜け、鳳のほっぺたを撫でていった。舞い上がる砂埃に目を細めたその視界の中で、鳳の背後から飛び出した何かがラファエルに突っ込んでいった。

 

 それが天使の横っ面に到達した時、ゴッと鈍い音がして、信じられない速度でラファエルが吹き飛んでいった。

 

「ぎゃっ!!」

 

 ズザッ……ズザッ……っと、地面の砂を巻き上げながら、小柄なラファエルの体が水切りの石みたいにバウンドしながら飛んでいく。何事か!? と横を見れば、鳳のすぐ隣で鼻息を鳴らしながら、丸太みたいな腕を突き出しているサムソンの姿があった。

 

 その体はいつぞやみたいに金色のオーラに包まれており、それがゆらゆらと湯気のように空へ向かって立ち上っていた。突き出した拳は力任せに握りつぶされ小刻みに震えており、そしてその目は怒りに燃えまっすぐラファエルを見据えていた。

 

 戦いを避けようとしていた鳳はぎょっとして固まった。

 

「お、おい、サムソン……?」

 

 もしかして、ベル神父の名に反応したのか?

 

 ラファエルは幾度か地面をバウンドしたあと、最後にくるっと宙返りをして着地し、そのまま数メートル両足で地面を擦りながら後退して、止まった。砂埃が盛大に舞い上がり、風にのって湖の上を駆けていく。

 

「うがあああああーーーーっっ!!!」

 

 サムソンの突然の凶行に驚いてあちこちから黄色い悲鳴が上がる。そんな中でサムソンはひとり胸をどんどんと叩いて裂帛の雄叫びを上げると、かかってこいと言わんばかりに真正面からラファエルのことを睨みつけた。

 

「……面白えじゃねえか」

 

 サムソンの鋭い眼光を浴びながら、ラファエルは親指で鼻を拭うと、鼻血の混じった唾液をペッと地面に吐き捨てた。翼がバサッと音を立てて空を切り、ラファエルの小柄な体からサムソンと同じような金色の光が溢れ出す……そして次の瞬間、まるで弾丸のように目にも留まらぬ速さで飛んできた。

 

 衝突はもう避けられないようだった。鳳は巻き添えを食うまいと、地面を転がるようにすたこら逃げ出した。

 



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VSラファエル

 金色の光がぶつかるたびに、ズシンと衝撃波が襲って地響きがした。ゴゴゴガガガと、まるで道路工事みたいな音が響いて、どうやったら人間同士のぶつかり合いでそんな音が出るのか意味不明だった。サムソンの巨大な拳はまだしも、ラファエルの小柄な体のどこにそんな力があったのか、鳳も身体強化を使えはするが、さっぱり見当がつかなかった。

 

 サムソンは言わずもがな、あのベヒモスと対等に渡り合って、ついには押し切るほどのパワーの持ち主だ。それに対してラファエルの方は、小柄な体を生かしてスピードで勝負するタイプのようだ。二人の動きは速すぎて常人には殆ど見えないのだが、その上でラファエルのほうが倍は手数が多かった。おまけに彼は空を飛び、昨日ミカエルが見せてくれたように、いくつもの光弾を多連装ロケットみたいにガンガン飛ばしてくるのである。

 

 ところがそんな攻撃をサムソンは苦もなく捌き切り、光弾を素手で弾いて一瞬の隙を突いては確実にラファエルの体力を削っていき、負けじとラファエルはトリッキーな動きで応戦する。そんなお互いに一進一退の攻防が続き、体と体、拳と拳がぶつかり合うたび、本当に地震みたいに地面が揺れていた。

 

 突如として起きた天変地異みたいな戦いを目撃して、そんなこと全く想定していなかったドミニオンたちから悲鳴があがる。巻き添えを食った少女たちが命からがら逃げていく。二人はそんな周りの迷惑も顧みず、幾度も幾度もぶつかりあっては被害を拡大していった。

 

「あの野郎……何がやってみないとわからないだよ。やってたら死んでたぞ、絶対。瞬殺(しゅんころ)だ瞬殺……」

「サ───」

 

 目の前で喧嘩がおっ始まってしまった鳳は、殆ど逃げる間もなく、頭上でドンパチやられる最中を、地面に這いつくばってアメンボみたいに匍匐前進するのが精一杯だった。

 

「タイクーン、だいじょぶー?」

「サ───」

 

 そんな無様な姿を、いつの間にか一人だけさっさと逃げていたミッシェルが、遠くの方から他人事のように見ていた。お得意の予知で、戦いが始まる前から気づいていたのだろうか。知ってたんなら教えてくれればいいのにと思ったが、また例の誰かに言ったら未来が変わっちゃうとかなんとか、そんな理由なんだろうか。

 

 予言って本当に使えねえ……と歯噛みしていると、同じく逃げ遅れたガブリエルが這いずりゾンビみたいに地面をずりずりしながら近づいてきた。

 

「鳳様、誤解しないでください。ラファエルが言ったことは殆ど嘘で……」

「そんなこと分かってるよ。俺のこと挑発しようとしたんだろ? あんなんに引っかかる馬鹿が……いるから困るんだよなあ、脳筋は本当に」

「すぐにラファエルを止めますから、あなたも彼のことを……」

「いいよいいよ、ほっとけば。二人とも殺すまではしないでしょ」

「ですが……」

「脳筋の血を余らせててもどうせろくなことしないんだから、ここらでスッキリ抜いといた方がいい。サムソンも、ここんとこ修行相手がいなくて物足りなそうだったし」

「サ───」

 

 二人並んでずりずりと床オナ……もとい匍匐前進してようやく現場から抜け出した鳳は、ポンポンと腰を叩きながら起き上がると、殴り合いを続けている二人の姿を振り返った。

 

 そろそろ大勢が決して、ラファエルがどう決着をつけるつもりだろうと思っていたのだが、驚いたことに力の一号、技の二号の戦いは、徐々に力が押しはじめているようだった。

 

 こっちの世界に来てからずっと魔王と戦い続けていたというサムソンは、ついに四大天使の力をも上回り始めているようである。まさかそこまで強くなっていたとは思いもよらず面食らっていると、騒ぎに駆けつけたジャンヌが口角に泡を飛ばして話しかけてきた。

 

「あ! あなたたち、来ていたのね。これは一体、何の騒ぎ?」

「すみません、ラファエルが彼のことを挑発したのが悪いのです」

「ガ、ガブリエル様!? あなたもいらしていたなんて……我々に何かご用がおありでしょうか」

「ちょっと理由(わけ)あって、レヴィアタン討伐に行くことになっちゃってさ。おまえのことスカウトしに来たんだよ。そしたらあの二人が喧嘩になっちゃって」

「は? レヴィアタン?」

「サ───」

 

 レヴィアタンの名前を聞いて、騒ぎのことなど綺麗サッパリ頭から抜け落ちてしまったのだろうか、ジャンヌはきょとんとして固まってしまった。そりゃ、いきなり魔王討伐に行こうなんて言われたら、こういうリアクションになるだろう。ミカエルのやつは軽く退治してこいなんて言っていたが、本当に何を考えているのか……ところでさっきから、卓球少女でも混じっているのか。鳳が声の主を探してキョロキョロ周囲を見渡している時だった。

 

光あれ(ルクスイット)!」

 

 形成が逆転し、段々押され始めていたラファエルが、天高く舞い上がり、空に向かってまるで弓を引き絞るかのような構えを見せた。

 

「いけないっ! ラファエルっっっ!!」

 

 鳳がその姿に、どこかで見たことがあるような既視感を覚えていると、彼の隣にいたガブリエルが、まるでそれが見えているかのごとく叫んだ。

 

 その緊迫した声にハッと気づく。確かルシフェルも、アズラエルも、天使は大技の前にいつも同じ言葉を口にしていた。

 

 そしてラファエルは神への祈りを朗々と歌い上げた。

 

「いと高きところにかくあれかし! 春雷を運ぶ東風よ、この世全てを洗う暴風となりて今吹き荒れろ!」

 

 それは天使たちが神の奇跡を使う時のお決まりの光景だった。彼らが何かポエミーな言葉を口ずさんだなと思ったら、大体その後はヤバい現象が起こるのだ。ラファエルが持つ奇跡の力がどんなものかは分からないが、ルシフェルの明けの明星(ポールポロス)、アズラエルの洪水(タイダルウェイブ)みたいなものが襲ってきたら、いまの鳳やドミニオンの少女たちはひとたまりもないだろう。

 

 きっとサムソンもタダでは済まない。解き放たれた矢のごとく、慌ててガブリエルがそれを止めようとして飛んでいった。鳳は遠くにいるミッシェルに目配せすると、周囲の第5粒子エネルギーの流れを妨害すべく集中を始めた。正直、ぶっつけ本番でそんなことが出来るとは思えなかったが、他にやれることは思いつかなかった。

 

 だが、どうやらそんなことをする必要はなかったらしい。

 

「神の鏑矢は真実を射抜かん。穿て……」

「サムソンさん、頑張って!」

 

 頭に血が上ったラファエルが必殺技を叫ぼうとした、正にその時だった。その声に被さるように、黄色い声が湖畔に響き、まさか人間が自分ではなく、魔族のサムソンの方を応援するとは思わなかったラファエルが一瞬、力が抜けたようにガクッと高度を落とした。

 

 彼はハッと我に返ると、詠唱が途中だったことを思い出し、引っ込みがつかなくなったように叫んだ。

 

天弓(シェキナー)ーーーーっ!!」

 

 その瞬間、サムソンの体から突如として血しぶきが上がった。どこから飛んできたのか分からない無数の光の矢が、彼の体を突き抜けてまたいずこかへ飛んでいく……それは肉を抉り腱を傷つけ、彼は盛大に血を吹き出したが、しかし、致命傷には至らなかった。

 

 サムソンはまるで体の内側からやって来るその矢から逃れるようにグルっとスピンすると、そのまま巻き上がるトルネードのようにラファエルに向けて飛び掛かっていった。その跳躍は、さっきの一瞬で高度が落ちたラファエルの頭上を軽々と越えており、サムソンは高所を奪うやチャンスとばかりに思いっきり蹴りを叩き込んだ。

 

 それが当たった瞬間、ズンッと地鳴りのような音が響き、ラファエルが地面に叩きつけられると、今度は、ドンッと大砲のような音を立てた。大量の砂煙が舞い、一瞬にして天使の姿は見えなくなった。しかし、サムソンはその煙の中に躊躇なく飛び込んでいくと、またドシン! っと大きな音が鳴り響き、ビリビリと地面が揺れた。

 

 やっちまったのか……? 相手が天使とは言え、あの攻防ではタダでは済むまい。鳳は慌てて二人の元へと駆け寄っていったが、その心配は無さそうだった。

 

 風が砂煙をさらっていくと、影絵のように折り重なるようにもつれ合う二人のシルエットが浮かびあがった。それは一瞬、地面に横たわるラファエルの体に、サムソンの拳が吸い込まれているように見えたが……やがて砂煙が晴れてよく見てみれば、その拳はラファエルを捕らえてはおらず、その顔面すれすれを掠めて地面に突き刺さっていた。

 

「まいった……俺の負けだ」

 

 地面に横たわり、サムソンの顎を見上げながらラファエルが呟く。サムソンは地面に突き刺さった自分の拳を引き抜くと、何かを言いたげにウホウホ言いながらラファエルの上から退いて、よろよろとよろけてから地べたに座り込んだ。

 

 致命傷にはならなかったが、最後の攻撃でだいぶ消耗させられたのだろう。鳳とジャンヌは事態が終息したのを確認すると、へたり込んでいるサムソンの下へと駆け寄っていった。上空からはガブリエルが降りてくる。

 

「大丈夫か? サムソン。取りあえず止血しなきゃ」

「誰か! 救急箱を持ってきて!」

 

 しかし、そんな二人の声を遮るように、地面に横たわっていたラファエルがムクッと起き上がり、

 

「退け、俺がやる……光よ(ルクスイット)

 

 そういうや否や、彼の手のひらからほんのりと明るい光が溢れ出し、それがサムソンの傷口に触れると、驚いたことにみるみる内に傷が消えていった。神人の超回復なら嫌というほど見てきたが、回復魔法はアナザーヘブン世界でもこっちでも一度もお目にかかったことはなかった。

 

 てっきり誰も使えないんだろうと決めつけてしまっていたが、使えるやつは使えたんだなと驚いていると、背後に降り立ったガブリエルが申し訳無さそうに、

 

「ラファエルは癒やしのエキスパートです。傷痕は残らないとお約束しましょう。しかし喧嘩っ早いのが玉に瑕でして……まったく、なんてことをしてくれるのか」

「悪かったよ。どうしても力比べがしたかったんだ……でも、すげえ隠し玉がいたもんだな。おまえはこの魔族よりもっと強いんだろ?」

「んなわけあるか。サムソンの方が数倍強いに決まってるだろ」

「なに!? じゃあおまえ、どうやって魔王を倒したってんだよ」

 

 鳳はため息を吐いた。こういう脳筋馬鹿には、戦いは頭でするもんだと言っても理解できないだろう。何でも一対一で片がつくなら、そもそも戦争なんて起きないのだ。それよりも、さっきサムソンのことを応援する声が聞こえてきたが、一体誰だったのか気になった。ドミニオンの中にも、サムソンが魔族でも仲間だと思ってくれる人が増えてきたのかも知れない。

 

 だったら良いななどと考えながら周りをキョロキョロしていると、サムソンの手当を終えて気が抜けたのか、ドサッと力無く腰を落としてから、ラファエルがため息を吐くように語りだした。

 

「悪かったなあ、下手な挑発してよ。俺がザドキエルを倒したってのは、ありゃ嘘だ。実際に戦ってみてわかっただろう?」

 

 どうやら彼はサムソンに話しかけているらしい。サムソンがうほうほ言うと、彼は続けた。

 

「本当は16年前のあの時、奴を相手に俺は手も足も出なかった。途中でウリエルが加勢して、おかげで互角に持ち込めたが……それでもはっきり、あいつの方が上だって分かるくらいの力の差があったんだ。ところが結果は俺たちの勝ち。不思議だろう? あの時なにがあったのか……実は、俺たちと戦っている最中、何でかしらねえけどルシフェルが奴の足を引っ張ったんだよ」

「ラファエル! その話はまだするなと、ミカエルに言われたでしょう!」

 

 思いがけない情報を出されて鳳が驚いていると、その背後で珍しくガブリエルが声を荒げていた。どうやらこの情報はまだオフレコだったらしい。しかし、ラファエルはそんなことお構いなしに、

 

「うっせえなあ。ミカが言うなって言ったのはそっちの人間にだろう? 俺はこっちの猿に話しかけてんだよ……あの時、突然ルシフェルが乱入してきて、何かを言いながらザドキエルの足を引っ張ったんだよ。そのせいで俺の攻撃をもろに食らったあいつは、急に動きがおかしくなって……それでも、手加減して勝てるような相手じゃねえし、男の勝負に手心を加えるなんて真似も出来ねえ。だから俺はそのまま思いっきりぶっ飛ばしてやったんだけど……そしたらあいつ……本当に死んじまったんだよ……」

 

 ラファエルは自分の拳を見つめた後、はぁ~……っと肺の中身を全て吐き出してしまうくらい、思いっきりため息を吐いた。きっと、当時のことを思い出しているのだろう。彼の拳が、ベル神父の命を奪ったという事だけは、残念ながら事実のようだった。

 

「本当は、あんな強えやつとやる機会なんて滅多にねえんだから、もっとやっていたかったんだ。でももう、その機会は永遠に失われちまった。なんであいつら、急に戦いをやめちまったのか、わけわかんねえよ。あーあ、仮にあの時やられたのが俺だったとしても……もう一度やれたらなあ」

 

 ライバルだと思ってた相手が無抵抗でやられてしまって、しかもそれをやったのが自分だった彼は、それからずっと振り上げた拳のやり場に困っていたのだろう。それで鳳が現れた時、彼のことをベル神父に匹敵するくらいの強敵だと思って、下手な挑発をしてでも無理やり戦いたがったのだ。正直そんなことで喧嘩をふっかけられるのは堪ったもんじゃなかったが、その気持ちは少しだけ分かった。

 

 しかし……こっちの世界に来てからずっと、彼らは尋常の勝負の上で敗れたのだと思っていたが、今の話が本当だとすると、話がだいぶ変わってくる。ベル神父はカナンに何を吹き込まれたのか? どうしてカナンたちは急に無抵抗になったのか。そしてミカエルたち四大天使は、本当に彼らを殺害するつもりだったのか……

 

「ドミニオンの隊長も、悪かったな。おまえともちょっと戦ってみたかったけど……今日はもう中枢に帰る。邪魔したな」

 

 ラファエルはそう言って立ち上がると、鳳たちに背中を向けて立ち去ろうとした。その背中が哀愁に満ちていたから、鳳はなんとなく可哀相に思えてきて、殆ど反射的に呼び止めていた。

 

「ちょっと待て、ラファエル」

 

 多分、他の誰でもガン無視しただろうが、話しかけてきたのが鳳だったことで興味を惹かれたのだろう。ラファエルは返事はせずに、首だけで後ろを振り返った。鳳はそんな彼とサムソンの顔を交互に見ながら言った。

 

「おまえも知ってるだろうけど、俺は近い内レヴィアタン討伐にいかなきゃなんねえんだ」

「それで?」

 

 鳳の言葉に、周囲で聞いていたドミニオンたちがざわついている。ラファエルは面倒くさそうに小指で耳をかっぽじりながら胡乱げに見つめていた。

 

「でも、サムソンを連れて行こうとしたらミカエルが駄目だって言うんだよ。そんで、代わりにドミニオンをスカウトしに来たんだけど……おまえ、俺が向こうに行ってる間、サムソンの面倒見ててくれよ」

「……なに?」

 

 そんなまさかの提案に、ラファエルは目を瞬かせている。鳳は人差し指を突き立てながら滔々と続けた。

 

「サムソンを一人にしとくのも心配だし、あの堅物(ミカエル)に預けるのも可愛そうだろう? おまえなら彼の修行(あそび)相手になれるだろうし、いちいち断らなくても神域の外に連れ出したりも出来るんじゃないか」

「まあな」「いえ、本当はいけないんですけど……」

 

 同時に聞こえてきたガブリエルの声は無視して、

 

「おまえ、強いやつとやりたかったんだろう? サムソンは強いぞ」

「知ってるよ」

「なら丁度いいじゃねえか。サムソンもどうだ? こいつも悪かったって言ってるし、もうわだかまりはないだろう?」

「うほうほ」

 

 サムソンはいつもどおり、ウホウホ言いながら手をパチパチ叩いていた。なんだかこれが当たり前になってしまったが、人と触れ合う機会を増やしておかねば、そのうち本当にゴリラになってしまいそうである。そういう意味でも、この戦闘馬鹿は遊び相手にうってつけだった。

 

「よし、じゃあ決まりだ。良かったなサムソン。こいつが相手なら、手加減せずに思いっきりぶん殴れるぞ」

「うっほ! うっほー!」

「ちっ……言ってろよ。次はぜってえ俺が勝つぜ」

 

 そんなふうに不機嫌そうに答えるラファエルの顔は、いつの間にか少し険が取れて穏やかになっていた。いきなり喧嘩をふっかけてきたり、ちょっと子供っぽいところもあるようだが、根は案外いいやつなのかも知れない。

 

 その後、鳳はジャンヌに事と次第を伝えて改めて協力を求めた。レヴィアタン討伐という過酷な任務に突き合わせるのは少々気が引けたが、彼女はほぼ二つ返事で快諾してくれた。記憶喪失の今の彼女には、鳳に付き合う義理などないのに受けてくれたのは、元々それがドミニオンの目的だからだそうである。ドミニオンとはこの世界の警察のことではなくて、人類の対魔族戦線のことなのだ。

 

 鳳はそんな彼女と、これからのことを軽く打ち合わせると、改めて出発の日が決まったら連絡をすると約束して中枢へ戻った。最前線に向かう前にまだいくつかやり残していることがあった。まずはミカエルにレプリカを作ってもらうことと、それからアズラエルの帰りを待って、お別れを言わなければならなかった。

 



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水棲魔族の習性

 パースに来てから5日目、そろそろアズラエルが帰ってくるというので、鳳は出迎えにいくことにした。

 

 筏に乗って波任せに進んでくるであろう彼女がいつ帰ってくるのかも、オーストラリア西岸のどの辺りに到着するかも、普通に考えれば予測不可能と思われたが、四大天使たちに言わせれば彼女が現れるのは、パースから北へ数百キロ行った先の、シャーク湾でまず間違いないとのことだった。

 

 なんでそんなことが分かるのかと問えば、そこが人里と魔族の領域との境界であり、年間を通じて水棲魔族が暮らしていけるだけの水温が保てるのも、その辺が現界だからだそうである。と言うか、マダガスカルに向かった彼女が最後に目撃されたのがそこであり、会談で彼らが語ったように、四大天使はそんな彼女の行動を密かに見守っていたというのだから今更だろう。

 

 そろそろ帰ってくるというのも、なんやかんや彼女のことを心配して、ここ数日偵察機を飛ばしているからだった。アズラエルは、自分は人類にも天使にも裏切り者と思われているのだと言っていたが、少なくとも彼女のことを気にかけている人も少しはいるらしい。

 

 パースからそのシャーク湾まで、一日がかりの案内を買って出てくれたウリエルも、その一人のようだった。

 

「会談ではあなたに何も言えませんでしたが、アズラエル様の手助けをしてくれたことに感謝します!」

 

 パリダカみたいにオフロードをぶっ飛ばしながら、軽快にハンドルを切るウリエルが上機嫌に叫んだ。口を開いたら舌を噛んでしまいそうな物凄い振動に揺さぶられながら、鳳は歯を食いしばって吐き気を堪えつつ返事した。

 

「何がー!?」

「研究所まで同行してくれたことです。あの時のアズラエル様は思いつめてらっしゃったようですから、もしもあなたがいなければ、ベヒモスに食べられていたかも知れません!」

「いや、俺の方こそ助けられたよ。彼女がいなけりゃ海の上で餓死していたかも知れないから……っつーか、あんた、ちょっと飛ばし過ぎじゃないの? いくらなんでも速すぎますよねえ!?」

「そんなことはありません。このくらいでなければ、今日中にパースに戻れませんよ?」

 

 そう言って彼女は鼻歌交じりにアクセルを全開にした。

 

 因みにパースと目的地までは片道800キロくらいは離れている。だからもちろん、鳳は泊りがけで会いに行くつもりだったのだが、どうやら案内人にそのつもりはなかったらしい。

 

 アップダウンで車がジャンプをするたび、ぶるぶる震えるタコメーターは常に120より上を指していた。周りがだだっ広い荒野だから錯覚しそうになるが、恐らくそれはキロではなくマイル単位で間違いないだろう。

 

 ウリエルは四大天使の紅一点(?)でエライ美人だから、いつものギリシャ彫刻じゃなくて、彼女に誘われた時はそれはそれは嬉しかった。しかし何故かミッシェルが辞退して、二人きりになった時点で気づくべきだった。翼持ちなんだし空を飛んできゃいいのに、ゴツい四駆を出してきた時もまだ引き返せただろう。鼻の下を伸ばしている場合じゃないと気づいたのは、舗装された道路が途切れて文字通り帰り道が分からなくなった後だった。

 

 このまま事故を起こさなければ良いのだが……出来るだけ刺激しないよう話しかけずにいたのだが、片道4時間も黙ってられないからか、向こうの方から割りと頻繁に話しかけてきた。

 

「私は元々、アズラエル様の部下だったんですよ」

「……あ、そうなの?」

「はい。アズラエル様はミカエル様たちと同じ熾天使(セラフィム)智天使(ケルビム)の私よりも上位の天使なのだから当然です」

 

 アズラエルが熾天使なのも、四大天使に智天使が混じっていたことも、どちらも驚きだった。どうやら四大天使とは階級で決まるものでもなかったらしい。

 

「サタンが堕天した後、本当ならアズラエル様が四大天使になるはずだったのに、何故か啓示で私が選ばれてしまったのです。私には天啓が来ませんから、何かの間違いじゃないかと何度も念押ししたのですが……」

「まあ、アズにゃんそういうの本気で興味無さそうだから、良かったんじゃないの」

「以来、アズラエル様は研究に没頭するようになって、ついにはマダガスカルに行ってしまって……もしかして私のせいなんじゃないかってずっと気になっていたのです」

「それは面白い研究対象を見つけたってくらいで他意はないと思うよ。つーか、神様もアズにゃんがあんなんだから選ばなかっただけなんじゃないかな。あれ、下手すりゃマッドサイエンティストでしょう」

「そうでしょうか。アズラエル様の人類を想う気持ちは立派です」

「それには同意するけども」

 

 どうやらウリエルはたまにいる生真面目タイプの天使のようだ。自分の責任じゃないのに、結果的に先輩を出し抜いてしまったことに負い目を感じているのだろう。まあ、その気持ちは分からなくもないが、君が気にすべきはアズラエルではなくスピードの方なんじゃないのか。

 

 っていうか、さっきから何度もそう言っているのに聞いてくれないんだから、実はこいつは口先だけなんじゃないかと割と本気で思えてきた。いや、きっとそうに違いない。美女とドライブと言えば聞こえはいいが、まるでタイムワープでもしているかのように、灰色になって後方へ流れ続ける景色を見ながら、鳳はそんなことを考えていた。

 

*********************************

 

 マダガスカルを発って5日。ようやく東方に陸影を見つけたアズラエルは、ホッとしながら波乗りをやめて、ギー太たちによる曳航に切り替えた。ここから先は下手に津波なんか起こしてしまえば、沿岸のただでさえ砂漠しかない土地を傷つけてしまう。それに、ここへ来るまでに乗っていた筏もボロボロになってしまい限界も近かった。

 

 オーストラリア西部に位置するシャーク湾は、周囲を完全に砂漠に囲まれ人が住めないお陰で、古生代からの環境が残されているという地球上でも稀有な土地だった。

 

 水深が2メートルしかない浅くて穏やかな入り江は貝殻で埋め尽くされ、始めて地上に上がった生命の化石が堆積して出来たストロマトライトが、いくつもにょきっと海から突き出ている。

 

 話だけを聞いてるとなんだか風雅にも思えてくるが、見る人が見れば三途の川を連想するであろう、そんな荒涼とした海だった。

 

 かつて人類が栄えていた21世紀ごろは亜熱帯に位置して水温も高く、様々な海の生き物を見ることが出来たが、全地球規模で気温の低下した現在では、それもあまり見られなくなった。

 

 そんな場所だから食料を求めて魔族がやって来ることもなく、また神域のあるパースにも比較的近いことから、ギー太たちを匿うにはうってつけの場所であり、アズラエルはここを根城にしていた。

 

 今回の長旅で彼らも相当疲れているようだった。マダガスカルで手に入れた食料ももう心許ないから、どこかで調達して来なければならないだろう。中枢に出頭すれば嫌味を言われるだろうが、ミカエルのまずい飯をちょろまかすことはわけないはずだ。ここは一度怒られに戻るとして、その間、彼らには家で待っていて貰おう。

 

 アズラエルがそう考えて、彼女が家と呼んでいる島まで行こうとしている時だった。

 

「おーい! アズにゃん!」

 

 声がして振り返ると、白い砂浜の上で鳳が手を振っていた。まさかこんなところに出迎えが来るとは思いもよらず、目をパチクリさせながら近づいていく。

 

「君か。一体どうやってこの場所を?」

 

 鳳は黙って親指を立て、背後を指差した。丘の上にはオフロードのゴツい四駆が停まっていて、その横に背筋をぴんと伸ばしたウリエルが立っているのが見えた。

 

「私の行動など四大天使にはお見通しのようだな。君たちは私に中枢へ出頭するよう伝えに来たといったところだろうか?」

「いや、全然そんなつもりはないよ。逆に、せっかく君がこうして帰ってきたというのに、俺の方がすぐにでもパースを発たなきゃならなくなったことを伝えに来たんだ」

「なに……? ミカエル辺りに罰を与えられたのだろうか。何なら私が行って抗議してやっても構わないが」

「ううん、寧ろ俺も望むところだったから構わないんだ。取りあえず、どこか落ち着ける場所に行って話をしようぜ?」

 

 アズラエルはギー太たちを湾で好きに遊ばせると、自分たちはウリエルの待つ車の方へと歩いていった。

 

 ウリエルは車のルーフキャリアにタープを固定して、上手いこと庇を作ってくれていた。その下には折りたたみ式の簡易的なパイプ椅子と、小さなテーブルが鎮座しており、上にはジュースが注がれたグラスが並んでいて、その表面は結露して汗をかいていた。

 

 元上司であるアズラエルに相当気を使っているのだろう。至れり尽くせりである。四大天使だと言うのに甲斐甲斐しい姿に若干違和感を覚えながら、ありがたく飲み物を頂戴する。

 

「実は君が居ない間、中枢でミカエル達と交渉することになって、俺は仲間を返して貰う代わりにレヴィアタン討伐を命じられたんだ」

「なに? 魔王討伐だって? ……そんな無茶苦茶な条件を君は受けたのか?」

 

 鳳は頷いてから、

 

「何でもかんでも精液で事が済むとは思っていなかったさ。無茶を吹っかけられるのはある程度は覚悟していたし、それに、この世界の人達が魔王に苦しめられているのは、ベヒモスの時に十分理解できた。もしも俺に貢献出来ることがあるなら、まあ、やらんでもないと思ってね」

「そう言えば君はレヴィアタンを倒したことがあると言っていたな。本当なのか?」

「ああ。本当だ。でも、俺が倒したレヴィアタンと、こっちの世界のレヴィアタンが同じ魔王だったのか、正直今は少し疑っている。それで、魔族の研究者でもある君と、ちょっと話がしたかったんだ。レヴィアタンのことで知っていることを話してくれないか?」

 

 アナザーヘブン世界で倒したウミヘビみたいな水竜の化け物。そいつが連れていた取り巻きは、今まさにアズラエルが連れているインスマウスたちだった。そしてレヴィアタンが形勢逆転を期して放った必殺技の洪水(タイダルウェイブ)。どうしてそれをアズラエルが使えるのかは、大いに疑問だった。

 

 彼女は絶対に何かを知っている。そう確信しながら、じっと彼女の返事を待っていると、ところが返ってきた言葉は、少し想定外なものだった。

 

「君は何体のレヴィアタンを倒したんだ?」

「何体?? 魔王なんだから、そりゃ一体に決まってるじゃないか」

「そうか……」

 

 アズラエルは、やっぱりなと言わんばかりに落胆の表情を見せている。どうやら鳳には、のっけから何か勘違いしているものがあったらしい。それは何なんだろうか……?

 

 二人は暫し黙したままグラスの氷をカラカラ鳴らし、波打ち際でぱしゃぱしゃやっている魚人の姿をぼんやり眺めていた。もうすっかり見慣れてしまったせいか、その邪悪な姿は愛嬌さえ感じられた。

 

「知っての通り、私は魔族の精液を使って、人間たちに子供を産ませた……魔族になってしまったとは言え、一部の子たちは無邪気なものだったから、私は救いたいと思ったのだよ。だが、救えなかった」

 

 そんな感じに二人で波打ち際を見ていたら、まるでマダガスカルで途切れてしまった会話を繋ぐかのように、何の前触れもなくアズラエルが話し始めた。はぐらかされているような感じはしないから、きっと必要な前振りなのだろう。黙っていると、あの魚人族の正体が、彼女の口からポツポツと漏れてきた。

 

「魔族というのは、家畜みたいに無垢な子供のうちから育てたからって、人間に懐くとは限らないのだ。魔族が他者を殺し犯すのは、全て彼らの性衝動に根ざした本能だから、人間たちが産んだ子供であっても、魔族としての本能に目覚めてしまった時点でもうどうしようもなかった。

 

 そのうち兄弟同士で殺し合いを始める個体が現れ、喧嘩はしなくても他者と交われない個体はここを捨てて出ていった。私はそんな子供たちを放っておくわけにもいかず、処分せざるを得なくなった。

 

 そうして残ったのがあそこにいるインスマスたちなのだが……残った彼らはなんと言うか、その……いわゆる知恵遅れなのだ」

 

 アズラエルは非常に言いにくそうに言った。鳳はそう言われてみて、思い当たる節があった。以前も一度考えたことがあったが、アナザーヘブン世界の大森林で見たオアンネス族は、暴言や嘘を吐いたり人語を解するのに対し、こっちで出会ったギー太たちは、ギィギィ鳴き声をあげるだけで、基本的にいつもどこかぼんやりしていた。

 

 同じ水棲魔族なのにこれだけ違いが出たのは種族の違いなのだろうと思っていたが、アズラエルが教えてくれた理由は、鳳が考え付きもしなかったもっと意外なものだった。

 

「水棲魔族……レヴィアタンというのは、ハチや蟻のように、一つの群生社会を作る生き物なのだ。どういうことか詳しく言えば、まず、女王となる個体が別の社会から来たオスと交尾し、いくつかの卵を生む。そして孵った卵から生まれた個体のうち、オスがインスマウスで、メスがオアンネスと呼ばれているのだ」

「えっ!! あれって同じ種族だったの!?」

 

 鳳がびっくりしているとアズラエルは頷いて、

 

「そうだ。同種と言うよりも、同じ母親から生まれる兄弟姉妹で別個体、と考えるのが無難かも知れない。見ての通り、インスマウスとオアンネスは姿形がまるで違うように、オスは染色体数が23本、それに対してメスは46本と、遺伝子レベルでも双方はかなり異なっている」

「23ってのは……半分か?」

「そう、人間の染色体数は46本。その半数だ」

 

 アズラエルは舌の上で転がしていた氷を半分に割ると、ボリボリと食べてしまった。

 

「オスと交わったメスは、その群れの女王として君臨し、その後次々と自分の眷属を産み続けるわけだが……女王は生まれてくる子供を、減数分裂した自分の生殖細胞のみから生まれるインスマウスと、胎内に取り込んでおいたオスの精液と自分の卵子を交配させたオアンネスとに産み分けている。

 

 こうして生まれてきたオアンネスは人間と同じくらいの思考能力を持ち、群れ全体に貢献するワーカーとして働くようになるのだが、オスであるインスマウスの方は知能が足りず生殖以外のことでは殆ど役に立たない。女王が、自分の遺伝子を遺そうとして、オスを産むんだから当然だな。

 

 しかし、オアンネスからすれば、同じ群れの中に働きもせずにぶらぶらしている個体が増えるのは堪ったものじゃないから、出来ればインスマウスなんて産んでほしくない。そこで淘汰が始まるわけだ。

 

 オアンネスは群れからインスマウスを追い出して、そうやって稼いだ食い扶持を、新たに生まれてくる妹にだけ与えようとする。追い出されたインスマウスは大抵の場合死んでしまうが、運良く生き残って別の群れに出会えた場合は、生殖のチャンスがある。こうして外からやってきたインスマウスと交尾したオアンネスは、また新たなレヴィアタンの女王となって群れを作る。そうやって次々と他の群れが混じり合い、レヴィアタン社会というのは多様性と個体数を増やしていくわけだが……

 

 人間の子供として生まれてきた彼らも、生まれつき同じような性質を持っていた。彼らは幼年期を過ぎて魔族になってしまうと、メスだけが寄り集まって徒党を組み、オスを排除しようとした。

 

 しかし、私はもともと人間である彼らに優劣をつけるわけにはいかなかった。だから、オスである彼らを保護したのだが、そんな私の行動に不満を抱いたメスたちはここを出ていってしまった。

 

 私には彼女らを止めることが出来なかったよ。今頃、どうしていることやら……元気にしていればいいのだが」

 

 しんみりとした彼女の声が途切れ、場は沈黙に包まれた。鳳はそんな彼女に何も言うことも出来ず、質問さえ思い浮かばず、ただ黙って解ける氷を見つめていた。やがて、アズラエルは何かを吹っ切るかのように、ふーっとため息を吐いてから言った。

 

「とまあ、そんな具合に、レヴィアタンというのは一体の魔王と言うよりも、群れ全体、ひいては水棲魔族という『社会』そのものなのだ。君が倒したという魔王は一体しか現れなかったようだが、こちらのそれは一体の先祖から既に数百の氏族に別れており、総数は1億個体を超えると推測されている。

 

 対して人類は1千万社会……およそ10分の1だな。人口減少が続いている今では更に差が開いているだろう。君が倒せと言われた魔王レヴィアタンとは、そういう勢力なのだ。果たして君は、これにどう始末をつけるつもりだ?」

 

 ミカエルにレヴィアタンを倒せと言われた時、あの海蛇みたいな海竜を倒すのだとばかり考えていた。一度倒した相手なのだから、パターンも覚えていたし、きっと楽勝だと思っていた。だが、こうしてアズラエルから聞き出した話では、どうやらレヴィアタン討伐はそう一筋縄で行くものではないらしい。

 

 彼女の推測が正しいのであれば総数1億個体。その全てを片付けなければ、この世界からレヴィアタンという魔王を消滅させることは不可能なのだ。その不可能なことに、鳳はこれから挑まなければならなかった。

 



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乗り継ぎを待つ間に

 シャーク湾でアズラエルとの再会を果たし、レヴィアタンの生態について新たな知見を得た鳳は、ウリエルの暴走4WDでまたパースに取って返すと、時間が惜しいとばかりに、すぐにジャンヌを呼び出して前線へ向かうことにした。

 

 実を言えば、当初の予定ではミッシェルの能力に頼って敵中に潜入し、あわよくば魔王を倒してしまおうなどと甘いことを考えていたのだが、もはやそんな気は起こらなかった。

 

 アズラエルの話では、レヴィアタンとは単体の魔王のことではなく群れ全体のことであり、そんなもの個人の力でどうこう出来るものではなかったのだ。そんな巨大な勢力をどうやって倒すのか、まずはじっくりと作戦を練らなければならないだろう。

 

 そのためにはミカエルの提案どおりに訓練校の学生として行動するのが手っ取り早いと思われた。前線にあるという訓練校には、これまでレヴィアタン勢力と戦い続けてきた記録の蓄積があるはずだ。まずはそれを吟味し、取れる手段をいくつか捻り出さねばなるまい。本番はそれからだ。

 

 また、前線に配備されているというオリジナル・ゴスペルの調査と、ついでに来たるべき決戦に参加してもらうドミニオンのスカウトなども考えると、ミッシェルをつき合わせるよりは、自分ひとりが学生として単独行動したほうが良さそうだった。

 

 そんなわけで、鳳はガブリエルに頼んで移動用の小型ジェットを用意させると、案内人のジャンヌと共に前線に向かおうとしたのであるが……彼女を呼び出した空港には、何故か瑠璃たち三人娘が当たり前のようについてきていた。

 

「……一応聞くけど、君らまさかついてくるつもりじゃないよね?」

「もちろんですわ! 訓練校に行くなら、どうして誘ってくださらないんですの?」

 

 どうしても何も、おまえらが役に立つとは思わないからだとは口が裂けても言えない。今回の目的を考えるに、出来るだけ単独で動けたほうがいいので、足手まといには是非ともご遠慮願いたいのであるが……

 

 鳳が京都人のように上品な言葉を探していると、意外にもジャンヌがそんな彼女らの同行を強く推してきた。

 

「まあ、そう嫌がらないであげて。瑠璃たちは、これから私たちが向かう訓練校の卒業生で、あそこにはまだ彼女らの後輩がたくさん在籍しているのよ。あなたが学生として潜入するなら、寧ろ助けになるはずよ」

「あ、そうなんだ?」

「みんな優秀な成績をあげて、飛び級でドミニオンに配属された実力者揃いだから、教官たちの覚えもいいわ。そういう意味では、多分、私よりも案内役として適任ね」

「ふーん……そういうことなら。でも君たち、俺がこれから何をしようとしてるか分かってる? レヴィアタンと戦うつもりなんだよ? お遊び気分でついて来たら、下手したら死ぬかも知れないんだよ?」

 

 すると瑠璃はいかにも心外だと言わんばかりに、

 

「お言葉ですが、死を恐れていてはドミニオンは務まりませんわよ。元々私たちはレヴィアタンと戦うため組織された神の尖兵。死ぬことこそが使命なのですから、かような心配をなさらないでくださいまし」

「あ、そう……見くびるようなことを言って失礼しました」

「わかればいいのですわ! それじゃあ早速飛行機に乗りましょう。隣同士の座席だといいですわね」

 

 そう言って、瑠璃は当たり前のように鳳の腕におっぱいを押し付けてきた。おい、おまえ、そういうところだぞとツッコミを入れようとしたら、瑠璃の反対側の腕を琥珀が引っ張りながら、

 

「ずるいよ。瑠璃は僕と一緒に座ろうって約束したのに」

「いや、ずるいって言われても、俺は関係ないだろうが」

「両手に花ですわー!」

 

 琥珀に理不尽な嫉妬をされて、鳳が困惑の声を上げるも、瑠璃は人の話などまるで聞いてないのか、にこやかな笑みを浮かべていた。だから、これから鳳は魔王と戦いに行こうとしていると言うのに、そうじゃないだろうと抗議の声をあげようとしたら、突然、足に激痛が走った。

 

「いてえーーっっ!」

「あら、失礼。わざとじゃないんですよ」

 

 見れば桔梗が鳳の足を思いっきり踏みつけていた。激痛に耐えかね、けんけんしている鳳の腕を、瑠璃は引きずるようにして飛行機に乗り込んだ。

 

 本当に、こんな連中が役に立つのだろうか……やっぱり、今すぐにでも断るべきでは? そんな一抹の不安を抱えつつ、鳳たちは人類対魔族の最前線に向けて飛び立った。

 

***********************************

 

 オーストラリアは大陸と言っても、気候条件が厳しくその殆どが砂漠のように乾燥した地域であるから、人が住んでいるのはほぼ南東部の沿岸部に限られていた。

 

 シドニーもメルボルンも首都キャンベラも、聞き覚えのある都市はみんな南東部に位置しており、東海岸を北上するようにいくつかの街を経由してブリスベンを過ぎると、そこから先はもう大都市と呼べるような街は存在しない、大陸北東部は小さな町が点在するだけの寂しい土地だった。

 

 それは要するに、その辺から気候が変わり熱帯地方となって、人が住みづらくなってしまうことを意味しているわけだが……その代わりにオーストラリア北東部の沿岸は、一年を通じて水温が高く、グレートバリアリーフと呼ばれる巨大なサンゴ礁地帯に囲まれた、世界有数のマリンレジャーのメッカでもあった。

 

 その中間あたりに位置するケアンズは、かつては観光地として賑わう北東部の中心都市であったが、現在では人が訪れることなんて殆どない、人類の対魔族戦線の最前線となっていた。危険なケアンズへ向かう需要もないから、パースからは当然として、他の都市からも前線基地への直行便はなかった。

 

 そんなわけで、鳳たちを乗せた飛行機はパースを発って約8時間後に、まずはブリスベンへと降り立った。今現在、ブリスベンより北に向かう航空便は存在しないが、2日に一往復だけ軍事基地に物資を運ぶ軍用機がやってくるので、それに便乗させてもらうためであった。

 

 上空から見下ろすブリスベンの町並みはそれは見事に栄えていて、鳳はこの世界に来て始めて生きた人間の温もりを感じられた気がして、ちょっと感動した。マダガスカルもパースも都市はあったが、殆ど廃墟同然で人の気配がまるで感じられなかったのだ。それに比べてブリスベンは、この世界でもかなり栄えた大都会で、立ち並ぶビルは本物の摩天楼だった。

 

 街の中心部よりやや北に位置する空港も、パースのそれとは大違いで、巨大で近代的なターミナルビルには何台もの大型小型のジェット機が横付けし、滑走路にはひっきりなしに離着陸する飛行機が見えた。

 

 鳳たちを乗せたジェット機は、神域の威光で優先的に着陸許可をもらうと、ターミナルビルから少しはなれた場所に停止し、やってきたタラップ車に乗せてもらって、彼らは手荷物保管庫からビルの中へと入っていった。

 

 職員用の通路から一般客のいる通路へ出ると、その先にあった天井の高いロビーには搭乗まで時間を潰す人々で溢れていた。柔らかそうなソファでスマホを片手にくつろぐ者、大理石の柱に寄りかかって音楽を聞く者、自販機でジュースを買ってサンドイッチを流し込む者、喫煙所で紫煙を燻らせる者。見ればロビーの周囲にはお土産物屋やレストランが立ち並んでおり、吹き抜けになっている二階部分にあるブティックで買い物をしている客まで見えた。

 

 ここは普通の空港というよりも、もっと大きなハブ空港みたいな位置づけなのだろう。搭乗を呼びかけるアナウンスがひっきりなしに響き渡り、搭乗口へ誘導する電光掲示板には薄い液晶モニターが使われていた。

 

「どうしたの? あなたが来た世界より、こっちのほうが栄えていて、びっくりしたのかしら?」

 

 鳳がロビーの天井を見上げながら、バカみたいに口をぽかんと開いていると、その様子に気づいたジャンヌが話しかけてきた。鳳は首を振って、

 

「いや、違う。どっちかって言うと懐かしい感じがして、ちょっと感慨にふけっちゃったんだよ」

「あら? あなたの来た世界もここ同様に科学技術が発展していたのね。天使様たちの話では未開の文明だったって聞いていたのだけど?」

「いや、その認識で合っているよ。色々でたらめな世界で、科学なんてあってないようなものだった。ただ、俺がちょっと特殊なだけでね……」

 

 鳳はなんとも説明が出来ずに口を噤んだ。今更、戻れない地球(ふるさと)のことを話しても仕方ないだろう。鳳が帰る世界はもう、あのせいぜい産業革命時代のヘルメスという国なのだ。

 

「そう……実は私も、そう思ったのよ」

 

 鳳がだんまりを決め込んでいると、ジャンヌもまた返事を期待していないような口調でポツリと呟いた。どういう意味だろうと黙って聞いていると、彼女は面白いことを口にした。

 

「私も、この世界の都市を始めて見た時、なんとなく懐かしい気分になったのよ。ミカエル様たちはそんなはずはないとおっしゃったのだけど」

 

 鳳は一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかったが……よくよく考えても見れば、ジャンヌも鳳と全く同じ境遇だったのだ。彼女もまた、現代日本からアナザーヘブン世界へと飛ばされ、そしてこの世界へと渡ってきた異邦人なのである。

 

 彼女は記憶を失っているが、自分が別の世界からやってきたと言うことを知識では知っている。だが彼女はそれがどんな場所だったのかは思い出せず、彼女の記憶を奪ったミカエルたちに言われた通り、中世ヨーロッパ風の未開の国だと勘違いしているのだろう。しかしその心の奥深くには、まだ原風景が残っていて、この近代的なビル群が彼女の記憶を刺激しているのだ。なんとも皮肉な話である。

 

 ジャンヌの記憶のことも、いずれどうにかした方がいいのだろうか。ミカエルたちはいつでも元に戻せるというが、鳳はそうすべきかどうか、未だ悩んでいた。

 

「隊長……そろそろ人目が気になりますわ」

 

 鳳たちがそんな会話を交わしていると、蚊帳の外だった瑠璃がソワソワしながら話しかけてきた。無邪気に人の腕におっぱいを押し付けてくるようなやつだから、人目なんか気にするタイプだとは思っていなかったのだが、どうしたんだろう? と思って周りを見てみると、確かに空港ロビーのあちこちから妙な視線が感じられた。

 

 鳳たちを見てソワソワする者、露骨に敵意を浴びせてくる者、気にしてない素振りでチラ見してくる者、ガン無視して通り過ぎる者などなど、なんだか良くわからないが、彼らは注目を浴びているようだった。

 

「僕たちが軍人だから目立ってるんだよ」

 

 そんな不思議な光景を前に首を捻っていると、琥珀がそっと教えてくれた。

 

 そう言えば、ただのセーラー服だと思って気にしていなかったが、彼女らが着ているのはこの世界では軍服である。元の世界でも駅などで軍服を見かけると妙に落ち着かない気分になったが、そんな感じで悪目立ちしてしまっているのだろう。

 

 乗り継ぎの軍用機が来るにはまだ5~6時間はかかるそうである。その間、人目につかない場所に隠れているわけにもいかないし、どうしたものかと困っていると、受付から職員がそそくさと出てきて、鳳たちを誘導してくれた。

 

 おそらく、空港職員は彼らがパースからやって来たことを知っていたし、軍人が他の一般客を刺激するのも避けたかったのだろう。誘導されるまま職員通路を通って来賓用の個室に案内され、ここを自由に使ってくれと言われた。これも四大天使の威光だろうか、至れり尽くせりで有り難い。とは言え、窓もない個室に缶詰もどうかと思っていると、

 

「どうやら服装がまずかったみたいね。乗り継ぎの輸送機が到着するまでは、私たちも私服に着替えていましょう」

「そうですね。下手に市民を刺激しても悪いですし」

 

 ジャンヌたちはそう言うと、いきなり服を脱ぎにかかった。四人とも当たり前のように脱ぎだしたので、鳳は思わず飛び上がった。

 

「って、おいおいおいおい! ちょっと待てー!」

「どうしたんですの?」

「いや、どうもこうもねえだろうって、あーもう! 俺は外に出てるからっっ!!」

 

 目をパチパチ瞬いている4人を置いて、鳳は慌てて部屋の外に飛び出した。

 

 男が目の前にいるというのに、いきなり脱ぎだすのはどういう了見かと思いもしたが、考えても見れば男がいないこの世界ではあれが普通なのだ。彼女らは今まで、誰かに着替えを見られて恥ずかしいと思ったことはなかったのだろう。だらしないと言われることはあっただろうけど。

 

「やれやれだぜ……」

 

 なんだか妙な汗が額に滲んでいた。普通ならラッキースケベを笑ってられそうなものだが、ツッコミ役が不在のこの社会ではそうも言っていられない。こっちが気をつけてあげないと、彼女らはいくらでも無防備を晒してくるのだ。

 

 鳳は額の汗を手の甲で拭いながら、通路を進んで外が見える窓辺まで歩いてきた。狭い通路に設けられた窓は、はめ込みではなく便所にでも取り付けられてそうなハッチ式の窓だった。明り取りのためにつけられただけで、換気用途にはまるで適しておらず、近づいても空気が淀んでいて蒸し暑かった。

 

 それでも外の空気が吸いたいと思って、顔を窓枠に乗っけて外を覗き込めば、そこは空港の裏手と言おうか、車ががずらりと並んでいる駐車場であった。並んでいる車はどれもこれも、ガブリエルが乗っていたようなダサいセダンだらけで、なんだか急に発展途上国に飛ばされた気分になった。上空から見た街はあんなに近代的だったというのに、こういったセンスは皆無らしい。それとも、女性ばかりだから車の形など気にならないのだろうか。

 

 そんなことを考えながら、駐車場の車を吟味していると、鳳の耳に奇妙な音が聞こえてきた。どこか遠くから、ちんどん屋みたいに太鼓やラッパを吹き鳴らして行進している団体の声が聞こえてくる。

 

 なんだろう? お祭りでもやってるのだろうか? そう思いながら、狭いハッチ窓に首を突っ込み外を見やると、鳳はそこに信じられない光景を目撃した。

 

「戦争反対ー! 戦争反対ー! ドミニオンは無駄飯食らいー! 人殺しの軍人はもういらなーい! 人殺し! 人殺し!」

 

 空港の外の道路で、プラカードを持った集団がそんなことを声高に唱えながら練り歩いている。

 

「みなさん、聞いてください! 政府が発表する今のGDPがあれば我々は戦わずとも生きていけます! ベーシックインカムで平穏な社会を築けるはずなのです。なのに役人共は未だに死ななくてもいい命を前線に送り続けています! 我々は今こそ天使達の甘言に乗せられず、自分たちの意思で立ち上がるときなのです!」

「ドミニオンは人殺し! 自分たちは後方にふんぞり返って、若い子供たちが命を散らしていく! こんな不公平な社会は正さねばならない! さくら司令は天使によって作られた偽りの英雄だ! 天使は詐欺師! 天使は詐欺師!」

「もう魔族と戦うなんて嫌だ!」

「私たちだって自由意志がある!」

「今こそ魔族との共存を! 自由平等、戦争反対ー!」

 

 チンドンチンドン鳴り物をかき鳴らしながら、集団は道路のど真ん中を通り過ぎていく。それを歩道から眺める人々、迷惑そうにしているドライバーたち。これはもしや、反政府デモというやつなのだろうか……

 

「えー……」

 

 鳳は脱力して、思わず窓枠で首を吊りそうになった。これから魔王を倒しに行こうかという男の目の前を、魔族とはもう戦うなという集団が通り過ぎていった。彼はそんなデモ集団を、なんとも言えないしょっぱい気分で眺めているしかなかった。

 



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現代社会思想論考

 対魔族最前線の地ケアンズ。そこへ向かうため、ブリスベンで乗り換えの輸送機を待っていた鳳は、思いがけず反政府デモに遭遇してしまった。

 

 なんと、この追い詰められた世界にも、言論の自由があったのだ!

 

 しかし、それはカナンから聞かされていた話とはまったく食い違うものだった。彼は確か、この世界は神によって完全に統制されていると言っていた。それに、今までに出会ってきたドミニオンたちは、みんなちゃんと信仰心を持っていたし、ミカエルら四大天使との会談でも、そんなものが存在するとはおくびにも出さなかったはずである。

 

 でも今目の前には、おかしな連中がプラカードを掲げて、戦争反対を声高に叫びながら練り歩いている……何がなんだか分けがわからない。もしかして夢でも見ているんじゃなかろうかと、鳳がほっぺたをつねって正気を確かめていると、突然肩に柔らかいものが触れ、彼が覗き込む窓の横からニョキッと瑠璃の顔が生えてきた。

 

「あれは……! 反政府組織の連中、こんなところにまで現れるようになったんですのね」

「反政府組織? そんなのが活動してんの?」

 

 鳳が面食らっていると瑠璃は忌々しそうに舌打ちしてから、

 

「その通りですわ! 神の不在後、天使様の統制がゆるくなってくると、それまで鳴りを潜めていた反乱分子が徐々に活動を活発化してきたんですわ。奴らは神様への尊崇も、天使様への感謝も忘れて、処罰がないのを良いことにやりたい放題なんですのよ」

「へえ、よく天使がそんなことを許してるな……」

 

 いや……鳳は首を振り、すぐに思い直した。天使は動けないわけではない。人間はもう再生が効かないから、下手に処罰なんかして人口を減らすわけにはいかないのだろう。

 

 そう言えばミカエルは、16年前のあの出来事から、天使たちがどんどん中枢に顔を出さなくなっていると言っていた。それは(ボス)がいないから、これ幸いと仕事をボイコットしていたわけではなくて、本当に仕事が無くなってしまい、どうしようもなかったからなのかも知れない。

 

「今日は私たちを運んでくれる軍用機が来ますから、きっと嫌がらせのつもりですわ」

「そんでさっきロビーでも一般客がソワソワしていたのか」

「もう頭にきましたわ! ちょっと行って、一言二言文句を言ってきてやりましょう」

「ちょっとちょっと。瑠璃、やめなよ」

 

 頭に血が昇って鼻息を荒くしている瑠璃のことを、琥珀がやんわりと諌めた。

 

「もう戦いを放棄した連中に何を言っても無駄だよ。そんなことより、着替えたらターミナルを見て回ろうって楽しみにしてたじゃないか」

「でも」

「ケアンズに行ったら、もうこんな機会はないよ。遊べるときに遊んでおかなきゃもったいないよ。奴らの言う通り、僕たちはいつ死ぬかわからないんだからね」

「……そうですわね。あんな連中に気を取られているのも馬鹿らしいですわ」

 

 琥珀に宥められて、瑠璃は仕方ないと言いたげに窓から首を引っこ抜くと、鳳に向かって言った。

 

「それじゃ鳳様も一緒に行きましょう。輸送機が来るまでまだまだ時間がありますから、それまでたっぷり遊べますわ」

「そうだな……」

 

 鳳がその誘いに乗ろうかどうか迷っていると、彼女の背後から物凄い形相でこちらを睨みつけている桔梗が見えた。その瞳が、てめえ、こら、邪魔すんなと言っているような気がして、鳳は言葉を引っ込めた

 

「あー、やっぱ俺はいいわ。少し疲れたから、休憩室でのんびり過ごすよ」

「え? でしたら私も……」

「いやいやいやいや!! 君は琥珀君と一緒に回ってきなさいよ。彼女も言う通り、こんな機会滅多にないんだろう? 俺は別に逃げたりしないんだから、今日は女の子たちだけでたっぷり遊んでくるといいよ」

「そう……残念ですわ。では、お言葉に甘えて。桔梗も行きましょう?」

「私はいかないわよ」

「え!?」「え?」

 

 思いがけない桔梗の言葉に、思わず瑠璃とハモってしまった。

 

 鳳のことを邪険にしているくらいだから、当然彼女も瑠璃達と一緒に遊びに行くんだと思っていたが、どうやら彼女はそれ以上に瑠璃と琥珀を二人っきりにさせたかったらしい。その熱い友情はもちろん買うが、そのせいで一人だけ残った彼女と、気まずい雰囲気になることは避けたかった。

 

 かと言って、やっぱ瑠璃と行くなんて言うわけにもいかず、鳳が口をひん曲げて煩悶していると、そんな彼の苦しみなど知ったことかと言わんばかりに、桔梗はにこやかな笑みを二人に向けていった。

 

「私は休憩室でテレビを見たいわ。せっかく本土に帰ってきたんだもん。新作ドラマのチェックをしなきゃ」

「こんな時までテレビだなんて……桔梗のドラマ好きは筋金入りですわね。それじゃ、私たちはロビーをぶらぶらしていますから、隊長によろしくお伝えしてくださいな」

 

 そう言うと瑠璃は手をひらひらさせて通路を逆走していった。その後を子犬みたいに琥珀がついて行く。窓に背を持たれていた鳳は、それを捨て犬にでもなった気分で見送ると、隣に立つ桔梗のことを横目でちらりと見た。

 

 正直、彼女が何を考えているのかはいまいちわからない。面倒くさいことにならなければいいのだが……と思っていると、彼の視線に気づいたのか、ちょっと前まではもの凄くにこやかな笑みを浮かべていたはずの桔梗が、一瞬でむっつりした表情に変わって、

 

「なによ。本当は行きたかったなんて言うつもりじゃないでしょうね?」

「いや、別に。つーか、君こそ一緒に行きゃよかったじゃないか」

「二人の邪魔するわけにはいかないでしょ。馬に蹴られて死ねって言うのよ。それに、テレビが見たかったのは本当のことだもん」

 

 桔梗はそう言うと、鳳のことなど眼中にないと言わんばかりに、いそいそと通路を歩いていった。彼はその後を追いかけながら、

 

「つーか、さっきから気になっていたんだけど、この世界ってテレビがあるの? テレビってのは……あー、テレビジョンのことだけど」

「当たり前じゃない。テレビくらいあるわよ」

「そうなんだ! いやあ……テレビなんて単語、数年ぶりに聞いたもんだから、ちょっと驚いちゃって」

「あなた、どんな未開地に住んでいたのよ?」

 

 ほんのちょっと前までは中世ヨーロッパレベルの国に住んでいたのだが、それ以前はここより科学文明が進んだ世界に居たって言っても、話が通じないだろう。神のことや、この世界の秘密についても、どこまで言っていいのかわからないし、下手に自分のことを話すよりも、この世界のことについて質問した方が良さそうである。

 

 鳳はそう考えると、改めて桔梗に尋ねてみた。

 

「テレビがあるってことはラジオもあるの? まさかネットは無いよね?」

「あなた、私のこと馬鹿にしてる? そんなの、あるに決まってるじゃない。外にいるデモ集団は、みんなSNSで情報交換して集まってくるのよ」

「マジかよ」

 

 テレビまでは何とか許容できたが、まさかネットまであるとは思わなかった。というか、SNSで情報交換なんて、21世紀の反政府デモとやり方も変わっちゃいないではないか。突然のテクノロジーのギャップに頭がクラクラしてきてしまった。この世界で出来ることと出来ないことを、もう少しちゃんと聞いた方が良さそうである。

 

「飛行機や車を生産しているってことは、どっかに工場があるんだよな。確かガブリエルは人間に技術は継承されていないって言ってたけど……なあ? 義務教育は何年くらいあるんだ? 大学はあるの?」

「義務教育? 大学……? なにそれ」

「一応聞くけど、四則演算は出来るんだよな? 方程式は解けるのか?」

「さっきから本当になんなのよ。喧嘩売ってる?」

「代数や行列、微分積分は? 円周率は何桁で計算してた? アボガドロ数はいくつ? オームの法則はわかる?」

「えーと……」

 

 桔梗の目は泳いでいる。どうやら義務教育らしきものは受けているが、せいぜい中卒レベルと言ったところみたいだった。

 

 その後、もう少し突っ込んだ話を聞いてみたが、この世界の人々は生まれつき将来何になるかが決まっているため、そのための教育を受けはするが、それ以外の学問はしないそうである。

 

 大体みんな、数えで16歳になるまで訓練校で教育を受け、そこを卒業したらそのまま仕事に従事し、労働者として一生を終える。仕事の殆どは、農林水産業のような一次産業に従事する労働者と、神が用意した工場に勤務する工場労働者に分かれるらしい。

 

 あらゆる製品は全て工場で作られているが、そこでは機械が生産するものを、人間がただ検品しているだけというのがこの世界の現実のようだった。そんなんで飛行機や車を作っているのだから、普通は怖くて乗れたもんじゃないが、上手くいっているのだから、神が用意する機械は相当信頼が置けるのだろう。

 

 あとは少数の行政官が存在し、それぞれ役人(ヴァーチュー)軍人(ドミニオン)と呼ばれているらしい。因みにその他の労働者はパワーと呼ばれ、要するに、天使の階級をそのままカーストに当てはめているようだった。

 

 因みに人類の最高カーストはドミニオンだそうだが、文民統制(シビリアンコントロール)がされていないように見えるのは、その上に天使(スローンズ)がいるからで、実際にはちゃんと文民統制されているようである。

 

 尤も、殆どの天使がやる気を失ってしまったために、現在は人間の幹部が指揮を取っており、少しタカ派に触れていた。それが先程のデモの『ドミニオンは人殺し』に繋がっているようだ。瑠璃たちは、人間に命令されて魔族と戦っているのだから、そう捕らえることも確かに可能だろう。

 

 16年前の事件は産業界にも影響を与えており、それまでは完全な計画経済によって粛々と運営されていた人間社会は、いきなりの人口減少に対応しきれず、生産調整が追いつかなくなって過剰供給に陥ったり、逆に人手不足に悩まされて過労死する者まで出てしまったようである。

 

 お陰で現在では、一部農場や工場が閉鎖し、地方はゴーストタウン化、配給制が崩れてインフレが起きてしまい、それもまた人類の分断に拍車をかけているようだった。

 

 これら全てを引き起こした原因がプロテスタントだというなら、そりゃ鳳が問答無用で殺されそうになったのも頷ける。彼は桔梗からそんな話を聞いて、自分がやったわけじゃないのに、なんだか申し訳ない気分になってきた。

 

「あら桔梗、あなたは瑠璃たちと遊びに行かなくていいの?」

 

 休憩室に戻ってくると、ジャンヌが一人でお茶をすすっていた。ツヤツヤのリノリウムの床の上のテーブルには、せんべいが置かれていてちょっと面食らったが、どうやらこっちの世界でも米食は可能のようでホッとする。

 

 桔梗は鳳には絶対見せないにこやかな笑みをジャンヌに見せると、

 

「はい。久しぶりの人里だから、溜まりに溜まったテレビ番組のチェックをしなくちゃって……うほー! 冬のアナタ、完結したんだ! 長期バケーションも! 恋ジェネも!」

 

 桔梗はどっかで聞いたことがあるようなタイトルを叫びながら興奮している。よくわからないけどテレビドラマが好きなんだろうな……と思いながら、ぼんやりその姿を眺めていると、彼女は休憩室のテレビをガチャガチャザッピングして、とあるチャンネルに合わせた。

 

「な、なんじゃこりゃあ……」

 

 するといきなりテレビ画面に女性同士のキスシーンが映し出されて、鳳は腰を抜かしそうになった。

 

 キスシーンと言っても、小鳥のキッスみたいにチュッチュとしたやつではなく、濃厚でディープでフレンチなキスである。おまけにキスをしている最中、女優たちはお互いの体を(まさぐ)り合い、獣のように息を乱し興奮しながら、くんずほぐれつ愛の言葉を囁いているのだ。

 

 しかもその内容は卑猥で、エロ同人も真っ青だった。こんなもんを昼間っからやってもいいのかよとドン引きしていると、桔梗はジュルジュルとヨダレを啜りながら、

 

「これよこれ! ああ、なんて美しいの! 女同士の熱い友情。それは一点の曇りもない純粋な愛。求め合う二人の体液の交換は、これぞまさに永遠の美としか思えないわ! 私もこんな風に、一途に誰かのことを想いたい! ねえ、わかる? これが美しい愛の形なのよ! ジーザス・クライスト!」

 

 桔梗は女同士のキスシーンを見ながら鼻息を荒くしている。その姿は美しい愛どころか、肉欲丸出しで(よこしま)なものにしか見えなかった。つーか神様に謝れよ。

 

 あまりにぶっ飛んだ光景に鳳が頭を悩ませていると、それを隣で見ていたジャンヌと目があった。

 

「……こっちでは、こういうのが流行ってるの?」

「え? そうね。ゴールデンタイムはどの局も、だいたい百合ドラマを放映してるんじゃないかしら」

「嘘だろ? 信じらんねえ……」

「あら、深夜はもっと濃いのをやっているのよ」

「これ以上すごいの? そんなの地上波で放映しちゃっていいのかよ?」

 

 どう考えてもBPO案件だったが、これが通用してしまうのは、きっとこの世界には女しか存在しないからなのだろう。鳳の(若干)ノーマルな目からすれば、目の前で繰り広げられてる光景はただの性欲の発露にしか見えないのだが、そもそも生殖という概念がない世界では、それは愛情表現の延長でしかないのだ。

 

 彼女らがいくらキスをしようが、ペッティングをしようが、子供が生まれないのだから、その行為はどこまでいってもただの愛情表現にしかならない。だから誰に隠すことも、恥ずかしいと思う気持ちも、この世界の女性たちは殆ど感じないのだろう。

 

 いや、そもそも何故人類は生殖行為を隠そうとするのだろうか。子供が生まれることは本来美しいことに違いない。自分が妊娠していることを恥じる妊婦もまずいない、それは生殖行為(セックス)の結果だと言うのに。アダムとイブがそれを恥ずかしいと思った瞬間から、それは我々のDNAに刻まれたのだ。

 

 そんな小難しいことを考えていたら、段々頭が痛くなってきた。鳳が眉間をモミモミしていると、ジャンヌがこっそり彼にだけ聞こえる声で打ち明けてきた。

 

「内緒だけど、私は女同士でああいうことをするのは変だと思っているのよ。でも、ここではこれが普通なのよね……」

 

 彼女は嫌悪感丸出しの目で、テレビに釘付けになっている桔梗の後頭部の辺りを見つめていた。でも、君、男同士には興味あるんじゃなかったっけ? と、ツッコミたいのを我慢しつつ、鳳は同族嫌悪に気づいていないジャンヌに重ねて問うた。

 

「こういうのって、検閲しないの? ミカエルなんてすげえ嫌がりそうなのに」

「してるわよ。でも、検閲してるのは天使じゃなくて人間なの。だから芸術活動なんて言えば、大概のことは許されちゃうみたいね。私は行ったこと無いけど、年に2回ある同人誌即売会では、もっと際どいのが売られているそうよ」

「コミケまであんのかよ!? なんか思ってた以上にゆるい社会だな……」

 

 もっとガチガチのディストピアを想像していたのだが拍子抜けである。しかしそれにも理由があった。

 

「16年より以前はもっと堅かったそうだけど、ここ最近はタガが外れちゃってる感じね。自分たちは死なないんだから当たり前だけど、天使は実は人間に対して無関心なのよね。その無関心が神の不在後、どんどん顕著になってきて、彼らは人間が何をしてても何も言わなくなってしまった。再生が出来なくなってしまった人間はそんな天使に批判的で、最近は彼らが無関心なのを良いことに、インフルエンサーが対立を煽り、反政府デモが頻発しているのよ」

「ああ、さっき見たあれのことか……ドミニオンは人殺しとか、天使は詐欺師とか、すげえこと言ってたけど、どうなっちゃってんだよ、あれ」

 

 いくら天使が無関心といっても、あんなあからさまに攻撃されたら普通は黙ってられないだろうに、それが許される土壌が出来上がってしまっているのは、ある意味異常だった。

 

 そもそも、彼女らは何が不満であんな行動に駆り立てられているのだろうか。その辺の事情を詳しく聞くと、ジャンヌは少し難しい顔をしながら、こんなことを言い出した。

 

「終末思想については知ってる? この世界が、神の千年王国に通じる最終戦争の真っ最中だって話」

「ああ、そんな話を瑠璃としたな」

「でも、その神が死んでしまったら、人類に未来は無いじゃない?」

 

 身も蓋もないがその通りである。鳳はうなずいた。

 

「神の作る千年王国に行けないのであれば、私たちは何故戦っているのかしら。それまで神の代弁者である天使に依存していた人類は、今度は逆に天使に対して不信感を抱き始めたわけよ。

 

 何しろ、天使は人類に魔族と戦えと言ってるくせに、自分たちは戦おうとしないじゃない。どうして人類ばっかり戦わなきゃいけないんだろうか? 本当は神なんて最初からいなかったんじゃないか? もしかして、天使は嘘を吐いているんじゃないのか……?

 

 『再生』が出来た頃ならまだ信じられたかも知れないけど、今の人類はもう再生が出来ないから、魔族に殺されたらそれっきりなのよ。ところが、不死であるはずの天使の方は、相変わらず魔族と戦おうとせず、人類にばかり戦いを強要してくる……これって、おかしいじゃない?

 

 それで、もう天使に言われるままに魔族と戦うのはやめて、人類は独立独歩の道を歩もうっていう動きが、あの反政府デモなのよ」

「ははあ……思ったより真っ当なんだな。俺は彼女らの言い分も理解できる気がする」

 

 鳳が感嘆のため息を吐いていると、ジャンヌはそれを否定するように首を振って、

 

「ううん。一見、正しく思えるから流されそうになるけど、でもそれは突き詰めると破滅思想でしかないのよ」

「どういうこと?」

「そもそもこの主張は、仮に魔族(レヴィアタン)を駆逐したところで人類は救われるのか? ってところから発生しているの。再生が出来なくなった以上、人類の滅亡は時間の問題よ。100年後には、今の人類は綺麗サッパリいなくなっているはずだわ。なのに今、わざわざ魔族と戦って人類が命を散らすのは馬鹿げている。それは、その時生き残ってるはずの天使の問題なんだから、彼らがどうにかすればいい。だから私たちはもう本土を魔族に明け渡して、安全な場所で滅びを迎えましょう……って考えが、反政府デモの根底にはあるの。要するに自暴自棄になって諦めちゃってるだけなのよ」

「なるほど……どうせ滅びは避けられないのだから、その後世界がどうなろうが知ったこっちゃねえって考えか。老害みたいな連中だな」

「今の所、水棲魔族は寒さを嫌ってこのブリスベンより南には出没しないわ。でもそれで実際に前線を下げたら、どうなるかなんてことは誰にもわからないわよね。案外、地上に順応して、奴らはもっと勢力を伸ばすかも知れない。批判ばかりして、そのリスクを考慮しないのはだだの無責任よ。

 

 もちろん、彼女らみたいな考えが多数派ってわけでもないわよ。本当は、いつか神が復活することを信じて、天使と共にこの危機を乗り越えようって人の方が多いの。でも、そんなことをおおっぴらに言うと批判されちゃうから、みんな黙っているのよね」

 

 神が復活するかどうかなんて誰にもわからないから、誰もデモ隊に何も言い返せない。かと言って、神を否定するほど信仰心が薄いわけでもないから、黙って現状維持に努めているのが現実といったところだろうか。なんだか、鳳が生きていた21世紀の社会みたいで息が詰まりそうだった。

 

「私たちドミニオンは、将来がどうなるかなんてことはわからないから、とにかくこのまま前線を維持し続けましょうって行動理念で動いているの。それで人が死ぬことは実際にあるけど、それを人殺しなんて批判される筋合いはないわね……少なくとも神が復活するまで、誰かがやらなきゃいけない仕事なのよ。たとえ理解されなくても」

「おまえは神が復活すると思っているのか?」

 

 鳳が聞いても、ジャンヌは肩を竦めるだけで返事はしなかった。それこそ、神のみぞ知るということだろう。追い詰められた人間社会の中で義務を果たし続けるには、きっとあまり考えないのがコツなんだろう。考え過ぎれば、あのデモ隊と同じになってしまう。軍人が職場を放棄する未来なんて、きっと目も当てられない世界に違いないだろう。

 

 だが、このままの状態が続けば、いずれ彼女らもストレスに負けてしまうかも知れない。そうなる前に現状を打破出来れば良いのだが……

 

「あなたは本当にレヴィアタンを倒すことが出来ると思う?」

 

 そういう彼女の声は、まるで他人事のようだった。

 



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いや、本名ですけど

 ブリスベンにて乗り継ぎ便を待つこと6時間。ようやくやって来た輸送機に乗り、2時間ちょっとのフライトを経て、鳳たちはついに人類の対魔族最前線ケアンズの地へと降り立った。最前線とは言っても、そこはいきなり魔物が跳梁跋扈する戦場というわけもなく、滑走路が一本のごく平凡な飛行場である。

 

 飛行機を降りて燦然と輝く太陽に灼かれていると、滑走路の横から瑠璃たちと同じ制服を来た女性たちが駆けてきて、積み荷を忙しそうに降ろし始めた。手伝ったほうがいいのかな? と思っていると、その内の一人がジャンヌに敬礼をしてから話しかけてきて、鳳たちは彼女の誘導で軍港のビルへと案内されることになった。

 

 一般人が迷い込む心配がないからか、空港の周りにフェンスはなく、そのまま外部へ続くアスファルトの道路に繋がっていた。背の高い管制ビルがその道路のすぐ脇に建っており、地上階にはトラックの積み下ろし用の倉庫と、軍人が駐留する詰め所が見えて、鳳たちはその中へと連れてこられた。

 

 ジャンヌが有名人だからか、それとも階級的なものでもあるのか、ひっきりなしに軍人たちがやって来て敬礼をしては去っていった。その際、何が珍しいのかいちいちジロジロ見られるのでうんざりしていると、キキっというブレーキ音と共に、詰め所の外に軍用車が停まった。

 

 マダガスカルでジャンヌたちが乗っていたのと同じ型だから、もしかしてドミニオンの標準装備なのだろうか。そんなことを考えながら、やってきた車を眺めていると、中から他の軍人とは違う制服を着た長身の女性が降りてきた。

 

 瑠璃たちを含め、ドミニオンはみんな同じ白いセーラー服を着ているのだが、その女性のは黒かった。どうして制服が違うんだろう。彼女もドミニオンなのだろうか? それとも、文官か何かなのだろうかと考えていると、詰め所の中にいるジャンヌの姿を見つけるなり、その女性はパーッと表情を明るくして建物の中に駆け込んできた。

 

「ジャンヌ! 久しぶりね! 3年ぶりくらいかしら」

「お久しぶり、あやめ。元気していたかしら」

「元気も元気! あんたと違って前線には出ないんだから、弱りようがないわよ。マダガスカルでは大変な目に遭ったそうだけど……ベヒモスと一戦交えたって本当なの?」

「ええ、本当よ。あなたが育ててくれた子達のお陰で、どうにか切り抜けることが出来たわ」

 

 ジャンヌのその言葉を待っていたのか、瑠璃たち三人が女性の前へ進み出るなりビシッと敬礼をしてみせる。

 

「お久しぶりです、教官! 第17期訓練生、宮前瑠璃、恥ずかしながら帰ってまいりました!」「同じく、武田琥珀」「同じく、島桔梗」

 

 瑠璃に続いて琥珀と桔梗も軍人らしいビシッとした敬礼をする。というか、こいつらにも名字があったことを初めて知ったが、これまた日本風なのは何か意味があるのだろうか。女性は三人に教官と呼ばれていたから、多分、これから向かう訓練校の先生であるに違いなかった。

 

「あなた方の勇戦を誇りに思います。そしてよく帰ってきてくれました。訓練生がこうして生きて帰ってきてくれることが、私には最高の喜びです。みんな無事で本当に良かったわ」

 

 彼女はそう言うと相好を崩し、まるで母親のように三人をぎゅっと抱きしめた。瑠璃たちも本物の子供のように、顔を赤らめてそれを受けて入れている。それだけで彼女らが良い師弟関係を結んでいたことがよくわかった。

 

 鳳がそんな美しい光景を一人蚊帳の外で眺めていると、やがて一人ずつハグを終えた教官は、彼の姿に今気づいたと言わんばかりに振り返り、今度は敬礼ではなく握手を求めるように腕を差し伸べてきた。

 

「あなたが……鳳白(おおとりつくも)……さんですね? この時期に、我が校に編入学したいっていう。おまけにオリジナル・ゴスペルの見学まで許されるだなんて、異例尽くしでちょっと信じられないのですが……」

「あ、はい。よろしくおねがいします」

 

 鳳が手を握り返しペコペコと頭を下げると、教官は眉根を寄せながら怪訝な表情で続けた。

 

「正直、どんな人がやってくるのか不安だったのですが、まともそうで安心しました。失礼ですが、どうしてこんなことをするのか、事情を聞いてもよろしいでしょうか?」

 

 前線の訓練校に入学するのは、そもそもミカエルの案だった。鳳としては自由に動ければなんだって構わないのだが、いきなり押し付けられた学校側からしたら堪ったもんじゃなかったのだろう。かと言って、事情を話すわけにも、他の方法も思いつかないので返事に困っていると、鳳の代わりに申し訳無さそうにジャンヌが答えた。

 

「ごめんなさいね、あやめ。その人はちょっと訳ありなのよ、今は理由を聞かずに協力してもらえないかしら」

「訳ありなのはわかってるわよ。なにせウリエル様から直々にお願いされたのよ。だから協力するのは当然ですけど、もし事情を聞ければその方が協力もしやすいと思ったのです……でも仕方ないわね」

 

 教官は肩を竦めて鳳の方へ向き直り、さっきよりほんの少し声を潜めて言った。

 

「それじゃ、鳳白さん? ウリエル様から頼まれたということは一旦忘れて、これからあなたのことを我が校の訓練生として扱うけれどよろしいかしら?」

「はい、お願いします」

「訓練は現在後期課程まで進んでいて、あなたはそこへ編入することになります。特例ですので、最低でもゴスペルが使えることが前提なのですが問題はありませんか?」

「ああ、それならミカ……げふんげふん……上司から支給されてきたんで大丈夫です」

 

 鳳がそう言って腰にぶら下げていたスティックを手に持ち、その先端からライトセーバーみたいな光の刀身を作り出してみせると、教官は暫し呆然と目を丸くしてから、その光に指を触れようとした。鳳はそれを見て慌てて光を引っ込めると、

 

「ちょっ、危ないですよ! 触れたら指が弾け飛びますって」

「え!? そ、そう……そうね。こんなの初めて見たので驚いてしまって。これが例の新型ですか。どうやら、あなたがゴスペル研究者だという噂は本当だったようですね」

「研究者……? そんな噂が立ってるんですか?」

「オリジナルを見たいと言うくらいですから、そうなんじゃないかと。違うんですか?」

 

 教官はキョトンとしている。無論違うが、そう勘違いされていたほうが色々都合がいいかも知れない。彼女の推察通りオリジナルを見学する理由にもなるし、少なくとも、鳳は他の人達には真似できない、第5粒子エネルギーの流れを操ることが出来る。その特技を生かして、あとは出たとこ勝負でなんとかなるだろう。

 

「ええ、まあ、そんなところです。詳しいことはちょっと話せないんですけど」

「わかっています。先技研に神楽ってのが居るんですが、これを見せたらきっと喜びますよ。ですが、普段はあまりこれを持ち歩かないでください」

「え、どうしてです?」

「まだドミニオンでない訓練生はただの一般市民ですから、ゴスペルの所持は禁じられています。それに訓練生は学校の備品を使うことになっていますから、私用品を持っているだなんて知れると変に目立ちますよ」

 

 言われて思い出したが、ゴスペルは神の兵器だった。考えようによっては、これは一般人が拳銃を携帯するのと同じような問題なのだろう。例えばブリスベンで見かけたあのデモ隊がゴスペルを持っていたら、危険そうなのは何となく分かる。

 

「幸い、それを見てゴスペルだと気づく人はいないでしょうから、取り上げたりはしませんけど、問題になるかも知れないので、さっきみたいなのは気をつけてください」

「わかりました」

 

 最前線で丸腰になるのは流石に不安である。鳳が肝に銘じたと言わんばかりに頷くと、教官はそれを見てから背後の装甲車を指差し、

 

「後は……ここで立ち話もなんですから車の中で話しましょうか。ついてきてください」

 

 彼女に促されて、鳳たちは彼女の運転する車に乗った。

 

********************************

 

 空港から出て、滑走路と平行に走るアスファルトの道路を道なりに進んでいくと、やがて前方に海が見えてきた。

 

 沖には高速なホバークラフトが優雅に走り、天上に燦然と輝く太陽と白い砂浜とサンゴ礁が美しいマリンブルーを左手に見ながら、何もない真っ直ぐな道路を突き進んでいると、まるで南国リゾートに来たような気分になってくるが、言うまでもなくここは魔族の出没する危険地帯のはずだった。

 

 そんな海沿いの道路は海風に巻き上げられた砂に埋れてとにかく状態が悪く、オフロードタイヤでなければ滑ってしまってとても進めそうになかった。それもそのはず、海沿いだと言うのに防風林が一切ないのは、おそらく海からやって来るであろう水棲魔族をいち早く見つけるためだろう。

 

 そういう観点で改めて見直してみれば、道路の両側はやたらだだっ広いスペースが取られていて、海岸線から上がって最低200メートルは視界を遮るものは何もなかった。その広大なスペースで水際迎撃をするのが、このケアンズの軍事基地の役目なのだ。

 

 そのど真ん中を走る道は、基地のある都市部に近づくにつれて広がっていき、海沿いを走っているはずなのに、あまりにも乾燥しているものだから、なんだかデスバレーを走っているような気分にさせられた。アスファルトの両脇の、太陽に照らされ完全に乾ききってしまったこの真っ赤な荒野を見たら、かつてこの都市に暮らしていた人たちは目を回すことだろう。

 

 そんな殺風景な車窓を見ていると、教官がバックミラー越しに後部座席の鳳たちに話しかけてきた。

 

「さて、当基地に滞在するにあたって、あなた達にはこれから校長先生に会ってもらいます。話は通してありますから、ただの挨拶だけですので気楽にしててください」

「わかりました」

「一応確認ですが、この基地に滞在中、ジャンヌには当校の臨時講師として働いてもらい、三人にはそのアシスタントとして、主に実技を担当してもらうつもりでいますが……それで間違いありませんか?」

「ええ、ウリエル様からそうするように仰せつかっているわ。瑠璃たちも去年までここにいたんだから問題ないわよね」

 

 三人娘がそれぞれ頷いている。そう言えば、彼女らはここの卒業生だから、鳳と違って学生として潜入するわけにはいかないのだ。アシスタントとは言え、こいつらに指導されるのかと思うと憂鬱である。

 

 しかし、もっと憂鬱なことが思いもよらぬところから転がり出てきた。

 

「それで制服ですが、一応、予備で一番大きなものを用意しておきましたが、もしかしたらそれでもあなたにはサイズが合わないかも知れません。その場合、取り寄せになるので一週間くらいかかってしまいますが……」

「え!? 制服!? 俺も制服着るの??」

 

 鳳が素っ頓狂な声を上げると、突然の大声に教官は眉を顰めながら、

 

「当たり前でしょう。軍隊では規律が第一。制服の乱れは心の乱れですよ」

「い、いや、でも制服って言っても、それってあなたも着ているそのセーラー服ですよね!?」

「それが何か問題でも?」

 

 問題大アリだろう! ……と言いたいとこだが、この世界の人にわかるわけもなく、鳳は言葉を飲み込んだ。

 

 忘れてしまいがちだが、この世界には女性しか存在しないのだ。だから鳳がどんな服装をしていようが、喉仏が出て野太い声をしていようが、何ならちんこをぶらぶらさせていようが、彼女らは鳳のことを男として認識できないのである。

 

 だから、ある程度は女扱いされるのは仕方ないだろうなと思っていたが……鳳も潔癖だとは言わないが、いきなりセーラー服を着ろとは、難易度が高すぎではないだろうか。ブルセラショップじゃないんだぞ。

 

「……実は死んだ祖母にセーラー服は着るなと遺言されていて」

「何を言ってるんですか? 編入したいのであれば着るしか無いですよ」

「しかしセーラー服は……せめてスカートは勘弁してもらえませんか? ジャージ登校の子だっていますよね? 個性の時代ですよ、現代は」

「はあ……なにが言いたいのかわかりませんが、スカートが苦手であるなら、スラックスも用意できますが」

「え?! スラックスでいいの? それなら、まあ……」

 

 上がセーラー服でも下がスラックスなら、昭和のアイドルにでもなったと思えばまだ許せるだろう。取りあえず最低限の尊厳だけは保たれたようである。

 

 落ち着いて考えてみれば、セーラー服は元々海外の水兵の制服なのだから、男が着ていても問題はあるまい。鳳が必死になって自分に言い聞かせていると、教官は奇妙なものでも見るような目つきで続けて言った。

 

「それからもう一つ、さっきは人目が気になって言いあぐねたのですが……あなたのその名前のことなんですけど」

「はい、なんでしょう?」

 

 鳳が、また俺なんかやっちゃいました? と小首を傾げていると、教官は一度開きかけた口を閉じ、再度思い切ったように声の調子を上げて、

 

「失礼ですが、あなたのその名前は偽名ですよね?」

「は? いや、本名ですけど……」

「……色々と事情があるのは察しますが、流石にそこまで露骨な偽名は、私が指摘しなくても周りから不審がられますよ。最初はスルーしようと思っていましたが、校長に会ってからではもう訂正も出来ないですから、ここは私を信じてもらって、偽名なら偽名でもう少しまともなものに変えてもらえませんか」

 

 鳳はいきなり自分の名前にダメ出しを食らって面食らった。鳳の名前は確かに滅多にないような珍しいものだが、それでもここまではっきり嘘だと言われるようなものでもない。一体、どこに問題があるのだろうか? と目を泳がせていると、その様子を見て鳳が本当にわかっていないことを察したジャンヌが話しかけてきた。

 

「えーっと……あなたの名前はね? 確かにこの人たちからすると少し変なのよ」

「どういうこと?」

 

 鳳が口をぽかんとしていると、ジャンヌは少し困ったような素振りを見せてから、

 

「……この世界に生まれた人間は、生まれつき職業が決まっているでしょう? えーと、つまり、再生を受ける前に兵士だった者は兵士に、教師だったものは教師にって感じね。そしてその職業は、名字によってある程度わかるようになってるの」

「え? そうだったの?」

 

 ジャンヌは頷いて

 

「例えば、武田琥珀は『武』の字がついてるから兵士。島桔梗は『島』で漁師、宮前瑠璃は『宮』で主に天使に仕える文官職だってことがわかるわけ。でも、あなたの『鳳』にはそれがない」

「へえ~……そんな意味があったんだ」

 

 言われてみれば、この世界の人間はみんな『再生』を受けるのだから、生まれ変わってもまた同じ名前で、同じ職業に就くのが当たり前なのだ。最初は違ったのかも知れないが、そのうち名字だけでも誰が誰だか区別がつくように、制度自体が変わっていったとかそんなところだろう。改めてここがカースト制度も真っ青な管理社会であることを思い知った。

 

「あれ? でもそれじゃ、ジャンヌは?」

「私も武田姓よ、正式には」

 

 鳳が突っ込むと、ジャンヌは慌てて間髪入れずにそう答えた。その様子からして、彼女も同様にやらかした口なのだろう。多分、最初はジャンヌ・ダルクと名乗っていたのだが、痛い人扱いされたか、ミカエルみたいな堅物にフザケてるのか! と怒られたかして、そのとき咄嗟に名乗ったのが武田姓だったのだろう。武田信玄とかいるし、なんか出てきやすかったのではないか。

 

 そんなことを考えていると、またミラー越しに視線が突き刺さった。ハッとして顔を上げたら、教官がもの凄く不審げな表情をしてこちらをチラチラ見ていた。まあ、ここまで来たら開き直るしか無いので、彼は鏡に愛想笑いを向けてから、ジャンヌに言った。

 

「鳳だから畜産業ってんじゃ駄目なのか?」

「鳳凰は家畜じゃなくて神鳥のイメージが強いわよね。っていうか、人名辞典ってものがあるのよ。そこに名字が載ってない時点で、それは偽名でしかないわ。ついでに白って名前もおかしいのよ。(しろ)はともかく、白と書いてツクモなんてどうして読むわけ?」

「まいったな……まさか名前にダメ出しされるなんて」

 

 こちとらお天道様に顔向けできないような真似はしたつもりはないのだが、本名を名乗って嘘つき呼ばわりされるのではやってられない。とは言え、無駄な波風を立てても仕方ないので、郷に入っては郷に従うしかないだろう。

 

 まあ、ハンドルネームだと思えば、それほど腹も立たないしすぐに慣れるに違いない。

 

「それじゃあ、飛鳥(あすか)は? ネットではデジャネイロ・飛鳥ってよく名乗ってたんだけど」

「飛鳥なら問題ないわ。でもその、デジャ……なんとかは無理よ。人名とは思えないわ」

「まあ、元は地名だからな。リオ……はまずいし、じゃあもうシロでいいや。飛ぶ鳥は白いで、アスカ・シロだ」

 

 なんだかガンダムにでも乗ってそうな名前になってしまったが、前科がついてるのよりはマシだろう。鳳が投げやりにそう言うと、ジャンヌは良いんじゃないと二度頷いて、

 

「うん、それなら問題ないわね。それじゃ、あなたはここにいる間は、飛鳥白。名前で呼び合うのが普通だから、白ちゃんと呼ぶわね」

 

 彼女にそう呼ばれるのも随分久しぶりのような気がする。思いがけず目頭が熱くなってしまったが……どうでもいいけど、瑠璃たちは呼び捨てなのに、どうして鳳のことはちゃん付けなのだろう。

 

 そんなこんなで偽名も決まったところで、改めて教官に口裏合わせをお願いして、鳳たちは訓練校のある軍事基地へと入っていった。

 



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ドミニオンの訓練校?

 ケアンズの前線基地は、空港から車でおよそ30分ほど行った先の、大きな河川の河口にあった。基地は水棲魔族の侵入を嫌ってだろうか、地面は草の根も生えぬほどアスファルトでガチガチに固められ、頑丈なコンクリートの建物が立ち並ぶ、乾燥して殺風景な場所だった。

 

 ヒートアイランド現象のせいで、じっとしてるとフライパンの上で焼かれているかのようにジリジリと熱く、川の対岸も似たようなものなのだが、ところが川の三角州にある巨大な島に目をやれば、そこだけ何故かマングローブの密林が鬱蒼と茂っていた。

 

 どうして川を挟んでここまで環境が違うのかと言えば、とどのつまり、元々この辺は放っておけば湿地帯だったのだ。

 

 後で知った話だが、マングローブは三角州という土地柄のせいで手がつけられないから放置されているだけで、気をつけていないとその島に魔族が入り込む危険性があるらから、実はこの基地の防衛ラインは海岸線ではなくて、このマングローブの生えた河口一帯というのが正しいそうである。

 

 その河口の先は大きな入り江が広がっており、人工的に作られた砂浜のマリーナには、多数のホバークラフトが停泊していた。普通のスクリュー船がまったく見当たらないのは、この辺がずっとサンゴ礁であるのも理由だろうが、おそらく水棲魔族を恐れてのことだろう。海中に潜む彼らに船底に取り付かれてしまったら為すすべがないから、海の上を高速で走るホバークラフトは理に適っているのだ。

 

 他に目についたのは巨大なレーダー施設と、いくつも建ち並んだ灯台であった。今は昼間であるからなんともないが、夜になるとその灯台が煌々と湾全体を照らすらしい。レーダーは係留気球を用いて、遠征中の部隊と連絡を取るためのものだそうで、なんでそんなローテクを使っているのかと言えば、アズラエルも言っていたが、この世界には大気圏外へ出る術がないから人工衛星もないからだった。

 

 そんな説明を受けながらだだっ広い基地の中を車で走り、何台もの装甲車が整然と並ぶ広場を通り過ぎ、基地で最も内陸に寄った端の方まで行くと、別段何の特徴もない近代的なコンクリートの建造物があって、そこがドミニオンの訓練校だった。

 

 教官の車を降り、言われてみれば学校っぽい風情の中庭を通り過ぎ、渡り廊下から建物の内部に入ると、そこには職員用の下駄箱があって、スリッパに履き替えさせられた。オーストラリアの学校だから土足かと思いきや、日本式に室内では靴を脱ぐらしい。名前の問題もそうだが、やたら日本が絡んでくるのは、やっぱり神がメイドインジャパンだからなんだろうか。そんな事を考えつつ、リノリウムの床をキュッキュッと鳴らしながら暗い廊下を進み、一階の端っこの方にあった校長室へと辿り着いた。

 

 そこで待っていた校長に関しては、取り立てて言うことはないだろう。校長は総銀髪の80がらみのおばあちゃんで、完全に引退ボケしており、聞けば16年前からここで校長をやってるそうなのだが、それは職業意識が高いわけでもなんでも無く、他になり手がいないから続けているだけらしかった。

 

 もはや学校経営には何の興味もないらしく、そのため鳳のことも大して不審がったりはせず、何も言わずに編入届けに判子を押した後は、机を挟んで二三会話を交わしたらそれで面会は終わってしまった。なんとも肩透かしな思いを抱えつつ校長室を辞し、すぐ隣の応接室へと案内される。

 

 それにしても、ドミニオンとはこの世界で唯一の軍隊であり、ここは対魔族戦線の要所である。そんな場所の訓練校の校長が、なんであんな無責任になれるんだろうかと首を捻っていると、鳳のために制服を持ってきてくれた教官が教えてくれた。

 

「この訓練校は元々、一度死んで再生した人が、またドミニオンになるための養育施設だったんです。再生した元ドミニオンは、子供の頃からこの施設で育てられ、基礎訓練と英才教育を経て、また立派なドミニオンへと成長する。ところが、16年前に再生が出来なくなってしまうと、新たにドミニオンとなる候補生は生まれなくなり、我々はやり方を変えざるを得なくなったのです。

 

 問題は候補生がいなくなったことだけではなく、放っておけば既存の隊員も戦闘や寿命でどんどん死んでいきますから、増え続ける欠員をどうにかして埋めなければならない。それで普通の人を屈強な兵士へと育てる必要性が出てきて、ここは子供の英才教育施設から、一般の訓練校へと業態が変わったのです。

 

 校長はその時に責任者を押し付けられた口で、教員も軍人だけではなく、広く一般から採用されました。因みに私やジャンヌは公募で入隊した一期生で、私はそれまでブリスベンで工員をやっていたんですよ」

「あー、なるほど。そういやあ、瑠璃たちも名字で役人だとかなんだかがわかるって言ってたくせに、どうして軍人やってるんだろうと思っていたら、そういうことだったんですね」

 

 教官は黙って頷いている。おそらくこんなことは誰でも知ってる常識で、そんなことに感心している鳳の姿は相当不審に見えているだろうが、空港からの一連のやり取りでもう色々と察してくれているらしい。もしもウリエルの名前がなければ、今頃警察に突き出されているか、黄色い救急車に乗せられている頃だろう。これからこの訓練校で過ごすにあたって、ボロが出ないように気をつけねばなるまい。

 

「あなたには今年から新設された戦術科へ編入してもらいます。真面目な生徒が多く、詮索はされないでしょう。丁度、休暇明け最初の講義が始まるところですから、詳しい内容はそのとき教官が話してくれるでしょう。オリジナル・ゴスペルの見学については、また後日に。見たいと言ってすぐに許可が下りるものではないので、機会が訪れ次第連絡します。後は……宿舎は言われたとおりに一人部屋を用意しておきました。到着を寮監に伝えておきますので、今から行って確認してください。案内ですが、これは瑠璃さんたちに任せていいですか?」

 

 話を振られた三人娘が頷いている。彼女らはここの卒業生だから、きっと在学中にはその宿舎に住んでいたのだろう。おそらくジャンヌもそうなのだろうが、瑠璃たちに頼んだのは、まだ在学中の知り合いがたくさんいるこっちのほうが適任だと思ったのだろうか。

 

 ジャンヌはジャンヌで、ここに滞在中は職員用の宿舎で寝泊まりするから、そっちの方に案内されることとなり、鳳たちは一旦別行動をすることになった。

 

 また下駄箱で靴に履き替え、最初に入ってきた正門とは逆の方へと歩いて校舎裏に出ると、そこには多分一周800メートルはあるかなり大きなグラウンドと、併設するように遠くの方に射撃練習場が見えた。他にも見慣れないアスレチック施設が散見されるのは、ここが軍隊の教育施設である証拠だろう。

 

 炎天下の中、相変わらず木の一本も生えていないグラウンド突っ切って、謎のアスレチックの間を通り抜けると、その先に大きな建物が見えてきた。遮るものが何もないから校舎裏に出たときから見えていたのだが、行き先から考えて多分そこが宿舎で間違いないだろう。

 

 女三人寄れば姦しいというが、先導する三人娘は久しぶりの学校が懐かしくて仕方ないのか、鳳のことなどそっちのけでペチャクチャとおしゃべりを続けている。大抵、こういうとき男は黙っているしかない。彼女らの落ちも中身もないような話を聞いていると、男と女は全く別の生き物だということを再認識させられた。

 

 ところで、こっちから見えているということは、あっちからも見えていたのだろう。鳳たちが宿舎に近づいていくと、いつの間にかその玄関先に人だかりが出来ていた。

 

「きゃあああーーーーっっ!! 瑠璃お姉さま! 琥珀お姉さま!!」

 

 女三人寄れば姦しいというが、百人いれば兵器にもなるだろう。突然、耳をつんざくような絶叫が轟いて、冗談抜きに鳳の三半規管を揺さぶった。まるで出待ちするジャニーズファンのように次から次へと女性が押し寄せてきて、なんだなんだと驚いている鳳を押しのけ、あっという間に瑠璃たちを取り囲んだ。

 

 突然、バーゲンセールの会場みたいになってしまった宿舎の前で、鳳は脇に退けられて耳をふさいでいるしかなかった。いきなりやってきたその群衆が、口々に瑠璃や琥珀のことを褒めそやしているのはわかったが、みんな興奮して自分勝手に喚いているせいで、実際何を言ってるかは殆ど聞き取れなかった。昔とあるアイドル声優のライブ会場から、ほっほーホアアーホアーと聞こえてきたそうだが、そんな感じである。

 

 取りあえず聞きとれるだけの頭の悪そうな単語を拾い集めてみれば、先輩スキスキ超愛してると彼女らは言いたいらしかった。瑠璃たちはここを卒業してまだ間もないらしいが、この様子を見るからに在校中は人気者だったのだろう。どちらかと言えばヘボいイメージしかないが、お姉さまと呼ばれて慕われている姿は、彼女らが相当優秀な訓練生であったことを物語っていた。

 

 しかし、女子校特有のわけのわからないノリと思えばそのテンションもわからなくもないが、ここが軍事施設だと思うとやっぱりわけがわからなかった。こんなんで本当に、彼女らはドミニオンになれるのだろうか。あのマダガスカルでベヒモスと死闘を繰り広げた部隊を思い出すと、とても信じられなかった。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい。ちょっと通してくださいまし」

 

 そんなことを考えつつぼんやり騒ぎを眺めていると、中から必死に人をかき分けて瑠璃が抜け出してきた。もみくちゃにされた髪は乱れて顔は真っ赤に紅潮している。背後にはそんな瑠璃の後ろ髪を引っ張りたそうに、物欲しげな顔で見送る女性の姿が散見され、彼女らのその瞳は瑠璃の行く先に立っている鳳をロックオンするなり、キッと吊り上がった。

 

「おおと……シロ様、ご案内の途中に申し訳ございませんわ。いきなりのことで驚かれたでしょう」

「人気者なんだな。別に俺のことは構わないから、旧交を温めてきたらいいよ。あとは中で寮監を探せばいいだけだろう?」

「頼まれごとを途中で投げ出すわけには参りませんわ。それに、寮監には私もお会いしたいですから」

 

 瑠璃はそう言うが、さっきから彼女と親しげに話している鳳のことを、おまえ何様なんだよと睨みつける視線が痛くて仕方なかった。変に目立ちたくないので放っておいて欲しかったが、瑠璃はそんな視線にまったく気づかない素振りで、

 

「琥珀はああ見えてこの訓練校を主席で卒業したエリートですの。今となっては数少ない生粋(ネイティヴ)のドミニオンですし、在校中はそれはそれはすごい人気でしたわ。お陰で私はいつもそれに巻き込まれて大変でした」

「え? ふーん、そうなんだ……」

 

 そう言う瑠璃の口調はまるで他人事のようだった。鳳が見るに、瑠璃も相当な人気者のようであったが、こいつ主人公体質なんだろうか。

 

「お姉さまなんて呼ばれてるけど、学年とかあるの? 訓練校だからそういうのは無いと思ってたんだけど」

「ええ、まあ、三つほど。本当は訓練生同士に上下関係はないんですけど、入学時期に差がありますから自然と。あとはテレビのせいですわね。みんなおかしなドラマに影響されて、やたら姉妹の契りなんてものをしたがるんですわ」

「姉妹の契り?」

 

 瑠璃はもじもじしながら、

 

「告白して……お付き合いをして、キスをしたりイチャイチャしたりするんですわ」

「そのまんまかい。あー、そういや空港で桔梗に見せられたけど、百合ドラマ。本当に流行ってるんだな」

「あの子は本当に……あんなもの何の役にも立ちやしませんし、バカになるから見るなって言っているのですが」

 

 意外にも、瑠璃は百合ドラマはあまり好きじゃないらしい。ジャンヌのことをお姉さまとか呼んでいたから、てっきりそっち系の人だと思っていたが……

 

「昔からドラマでは愛だの恋だのが語られてきましたが、私にはそれがどうしても嘘くさく思えて仕方なかったんですの。女性同士の愛情は肉欲を伴うものではありませんわ。桔梗は愛というものを誤解しているんです」

「こりゃまた辛辣だね。どうしてそう思うんだ?」

 

 友達同士だから許されるのだろうが、瑠璃がこんな思いっきり誰かを批判するとは思わず、鳳はびっくりして聞き返した。正直、どうでもいい話だったのだが、返ってきた彼女の考えは割りとしっかりしたものだった。

 

「聖書をしっかりと読めば書いてあります。愛には種類があるんですわ。多分あなたも聞いたことがあると思いますけど、神様や母親の子に対する愛情のことをアガペーといい、それに対して肉欲を伴う性愛のことをエロスといいます。

 

 そしてもう一つ、友達同士が相手を思いやる心……これも一種の愛情ですが、このことをフィリアと呼ぶんです。昔からキリスト教では、友情もれっきとした愛に数えられていたのですわ。

 

 ところが百合ドラマはこのフィリアとエロスをごっちゃにしているものが多いんです。友達を助けたい、喜ばせたい、チームのみんなの力になりたい、そういう友達を思う純粋な心を、百合ドラマはまるで切り貼りのように何でもかんでもエロスに結びつけてしまうから、歪な恋愛模様がそこに繰り広げられてしまう。でも、そのことに誰も気づいていないんですわ」

「ははあ……なるほどなあ」

 

 確かに瑠璃の言う通り、友情と愛情をごっちゃにしている物語は昔からよくある。例えば、死線をくぐり抜けた男女が恋愛関係になるようなテンプレストーリーがあるが、それをそのまま同性同士に当てはめてしまうと、同人レベルでは問題ないが、一般にはまず受け入れられない。だから同性愛は書くことが難しいのだが、書いてる作者がそれに気づいていないのだ。

 

「近年、やたらと頬を赤らめるスポ根漫画が流行っているが、そういう反応に違和感がないのは腐女子だけだと肝に銘じて欲しい」

「何を言っているかわかりませんが、概ねその通りですわ。だから私は姉妹の契りに反対なのです。そういうことは、ちゃんと異性間でするのがいいんじゃないかって思うんですわ」

 

 そう言うと瑠璃はほんのりと頬を赤らめながら、鳳の腕におっぱいを押し付けてきた。その感触は男としてはとても幸せで、彼は思わず鼻の下が伸びかけたが、正直、今は状況が悪すぎた。

 

 その時、本当に数秒間だけ、けたたましかった群衆の声がピタリと止まった。風が吹き抜け、砂埃が舞い、自分の心臓の音だけが本当に耳まで届いていた。ドクンドクンと耳たぶで脈打つその音が、きっかり3回半ほど鳴り響いた時、また突然、辺りには騒然となり、何事もなかったかのように動き出した。

 

 鳳は慌てて自分の腕にぶら下がっている瑠璃を振りほどくと、不満げに唇を尖らせて抗議の声をあげる彼女を無視して、周囲に目を走らせた。見たところ、鳳たちの方を注目している者はいない。だが、不穏な空気だけはビンビン届いていた。

 

 瑠璃は自分のことを琥珀のおまけくらいに思っているようだが、さっきの騒ぎからしてそんなことはないのは明らかだ。気がつけば全身に冷や汗をかいていた鳳は、額から流れ落ちる汗を手の甲で拭った。今のを見て誰もなんとも思っていなきゃ良いのだが……しかしそれが虫のいい考えであることは言うまでもないことを、彼はすぐ思い知ることになる。

 



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そして始まる新生活

 マリア様の庭に集う乙女たちが今日も天使のような無垢な笑顔で背の高い門をくぐり抜けていきそうなケアンズのドミニオン訓練校では、生徒たちが毎日の苦しい訓練に耐えつつも女同士の美しい友情を育んでいた。

 

 彼女らはここを卒業すればすぐに戦場に駆り出され、あとはひたすら人類のために尽くす宿命を背負っていた。配属先の希望など叶うはずもなく、たとえ自分の意思に反していたとしても、上の命令には絶対服従。友達とも離れ離れで、もう故郷に帰れるかどうかはわからない。気の合う仲間が見つかればいいが、一度でも酷い上司に当たってしまったら最悪である。

 

 だが、そんな彼女らにも唯一希望が通りやすいことがあった。それは将来を誓いあった配偶者(パートナー)となら、申請すれば一緒に配属してもらえることだった。その方が生存率が上がるからなのだが、そんな彼女らが恋人(しまい)を見つけるのはもうこれが最後のチャンス。だから教官達も恋愛には割りと寛容で、普通なら取り締まりそうなところを見て見ないふりをしていた。

 

 ところで、この世界ではどんなタイプが好まれるかといえば、線は細くてスラリと背が高く、髪はショートヘアーもしくは引っ詰め、肩パットとさらしを巻いて、いつも男っぽい服装で風を切って颯爽と歩く、いわゆる宝塚の男役みたいな感じの者と、ピンと背筋を伸ばして折り目正しくしずしずと歩き、人前では決してしゃしゃり出たりはせずに、いつも相手を立てるようにおっとりとした口調でしゃべる、いわゆるお嬢様タイプがモテていた。

 

 だもんで、訓練校は軍事施設のはずなのに、いつも校内のあちこちからごきげんよう〇〇様などというお嬢っぽい挨拶が飛び交い、軍人というよりも、瑠璃みたいなお嬢様連中ばかりが量産されていた。

 

「ごきげんよう」「ごきげんよう」

 

 さて、今日も今日とてそんな訓練校では量産型瑠璃たちが放課後のマカロンをアップルティーでいただくかレモンティーでいただくか議論していた。そんな時にビッグニュースが飛び込んできた。なんと、去年卒業したばかりの瑠璃と琥珀が帰ってきたというのだ。

 

 二人は訓練校きっての花形スターで、容姿の整ったボーイッシュな琥珀と、お嬢様を絵に描いたような瑠璃のカップリングは全校生徒のあこがれの的だった。任地に赴いたらもう滅多なことでは戻ってくることはないから、彼女らがマダガスカルに配属されたと聞いた時には、本気で泣き出す訓練生もいるくらいだった。かくして伝説は去り、ここには寂しい日常が訪れたのだが……

 

 その伝説の百合カップルが帰ってきたのだ!

 

 しかも人類最強と噂されるジャンヌ隊長と一緒に、訓練校の臨時教官としてこれから暫く彼女らの面倒を見てくれるのだと言う。こんな嬉しいサプライズがあっていいのか? 信じられなかったが、ともあれ訓練生たちはかつての憧れの卒業生たちを迎えるべく、寮で待ち構えていたのであるが……

 

 ところがそんな彼女らの憧れの隣には、新品の制服を着た見知らぬ訓練生が立っていて、なんと瑠璃が親しげにその腕を取っているではないか。こんなことが許されてなるものか!?

 

「うぐぐぐぐぐぐ……」「なにあれ? なんなの? 私聞いてないんだけど」「瑠璃様とあんな親しげに……許せない」「どうして!」「隣りにいるのが琥珀様じゃないなんて」「きっと何かの間違いよ。琥珀様に確かめなきゃ」

 

 鳳と瑠璃が親しげに話しているのを目撃してしまった、かつての瑠璃親衛隊(もしくは瑠璃教信者、略して瑠璃信)は、血がにじむくらい奥歯をギリギリと噛み締めながら地団駄を踏んだ。

 

 瑠璃がこの訓練校を去ってから1年、瑠璃成分を補給できなくなった彼女らは、せめて妄想の中だけでも理想のカップルを思い描いて自らを慰めていたというのに、まさかその瑠璃が帰ってきたと思ったら、別の(ビッチ)とくっついているなんて……そんなの絶対信じられない!

 

 何かの間違いだと思った彼女らは、瑠璃が顔を赤らめながら鳳の腕を取る姿を見るなり、琥珀親衛隊(もしくは琥珀様の下僕。略して琥僕)を押しのけて彼女に迫った。

 

「琥珀様、ごきげんよう。大変お久しゅうございます。またお会いできて光栄ですわ」

「やあ、君たちは確か瑠璃の……」

「その瑠璃様のことですわ! 先程から瑠璃様の隣にいるあのとっぽい姉ちゃん、あれは一体なんなんですの? まるで瑠璃様の恋人みたいにベタベタしちゃって、きーっ! 浅ましいったらありゃしないっ!!」

「あー、あの人は明日からここに編入するんだ。仲良くしてあげてよ」

「私たちが聞きたいのはそんなことじゃありませんわ。お姉さまがたが卒業してからかれこれ1年、初心(うぶ)だった琥珀様とお姉さまの仲もそろそろ進展して、姉妹の契りを交わしている頃だろうと思っていたのに……なんで瑠璃様のお隣にいるのがあなたではなくて、あんなぽっと出なんですの?」

「え? いや、それは色々事情があって……」

「考えたくなかったのですが、琥珀様。あなたまさか本当に、あんなぽっと出に、瑠璃様の横にいるポジションを奪われてしまったんじゃないでしょうね?」

 

 瑠璃信はまるで楳図かずおの漫画みたいに仰々しい顔で迫ってくる。琥珀はそんな彼女らに押されて冷や汗を垂らしながら、

 

「うぐっ、それはその……僕だって瑠璃を渡したくは無いんだ。でも、彼が相手じゃちょっと分が悪くって」

「んまあ! なんてこと! まさか本当に瑠璃様を奪われていたなんて! 琥珀様、どうして? 私たちはあなたならば瑠璃様を幸せにしてくれると信じて送り出したつもりだったのに!! この裏切り者! 裏切り者!」

「う、うう~……勘弁してよーっ!」

 

 琥珀はいやいやをするように首を振ると逃げ出した。そんな彼女の後を、しもべ達がはあはあ言いながら追いかけていく。瑠璃信は泣きながら去っていった琥珀の後ろ姿を呆然と見送った。まさかあの自信に満ち溢れていて、主席卒業までした琥珀が、こうもあっさり戦意喪失してしまうなんて……一体やつは何者なの?

 

「やつにはあって、琥珀には無いものがあるのよ……」

 

 戦慄して震えている瑠璃信の背後から、囁き声が聞こえてきた。振り返ればそこには、深淵を見つめてきたかのように、悟った目をした桔梗が立っていた。まあ、見てきたのは主にちんこなのであるが。

 

「あなたは……? 瑠璃様カップルをいつも生暖かい目で見守っていた桔梗様! あなたも居たんですね」

「いや、最初に気づいてよ……こほん。とにかく、あの百合に挟まる異物には、瑠璃を惹きつけてやまないあるものがついてるのよ。それが何かは(お下品だから)言えないけど、そのせいで琥珀は戦意喪失せざるを得ないの」

「まあ、なんてこと!? つまり、あの淫乱ビッチは瑠璃様の大事なものを奪って、それをネタに恋人になるように強要しているんですね?」

「え!? あー……うん、そんな感じ」

 

 瑠璃信は桔梗の適当な返事を聞いていきり立って口々に叫んだ。

 

「きーっ!! 許せない! まさかそんな汚い手で瑠璃様を手篭めにするなんて!」「これは私たちの手でお救いするしかないわ」「もう琥珀様には任せていられない。私たちが立ち上がるのよ」

 

 瑠璃信は各々の腕を絡ませ合って盃を交わすポーズを取り、

 

「我ら生まれた日は違えども、死ぬときは同じ日を願わん! 瑠璃様の奪われた貞操を取り戻すため、あの悪魔を打ち滅ぼすことをここに誓う!」

 

 かくして瑠璃信による鳳排除作戦(要はいじめ)が密かに始まった。

 

********************************

 

 瑠璃たちが人気者だったとはつゆ知らず、凱旋した彼女らを囲む訓練生たちにもみくちゃにされてしまった鳳であったが、瑠璃を目当てに集まってきたのに鳳がいるせいで大半が白けてしまったのと、どこかへ走り去ってしまった琥珀が半分くらいを引き連れていってくれたお陰で、どうにかこうにか落ち着いてきた。

 

 鳳はそれでも注目を浴びながら、瑠璃を引き連れて宿舎に入ると、しんと静まり返る玄関でようやくホッとため息を吐いた。本当にこんな女だらけの空間で生きていけるのだろうか、早くも息が詰まって仕方がなかった。

 

 宿舎も校舎同様に土足厳禁だったが、寮監室の窓は土足のまま三和土から直接覗ける位置にあり、瑠璃がそのカーテンの閉められた窓をトントンと叩くと、暫く経ってシャーっと開いて、中から中年の女性が顔を出した。

 

「あら、瑠璃ちゃん、おかえんなさい。大活躍の噂聞いてるわよ」

「寮監さん、ご無沙汰しておりますわ。お顔も見せずにすみません」

「ううん、こんなに早くここへ戻ってくる子は珍しいわよ。それで、そちらが編入生……? さっき教官からお電話もらって、話は聞いています」

「どうも」

 

 鳳がぺこりと頭を下げるも、寮監はどこかしっくりこないといった表情で会釈を返してきた。女性にしては声が太くて、骨格ががっしりしていて筋肉質な鳳に、少し違和感を感じているのだろう。とはいえ、男が居ない世界ではその違和感の正体に気づけるはずもなく、寮監はすぐに気を取り直したように首を振ると続けた。

 

「表の騒ぎは大変でしたね。まだ暫く時間が掛かるだろうと思って、その間に部屋の用意をしておきました。荷物はそれだけ? 問題ないなら、ついてきてください」

 

 この訓練校が一般に開かれてから新設されたという宿舎はまだ新しく、明かり取りのはめ殺しの窓と、スチール製のロッカーがずらりと並んでいる廊下は、なんだかテレビドラマのアメリカのハイスクールみたいでバタ臭かった。

 

 そのロッカーの間に埋もれるように相部屋の扉が飛び飛びに並んで、訓練生はそこに二人一組で寝起きしているそうだが、案内された鳳の部屋は言うまでもなく一人部屋だった。寮監は、教官からくれぐれもそうするようにと念を押されたそうで、それが鳳への不信感に拍車をかけていたようだが……たまたまここの学生数が偶数だったから追求は免れたものの、もしもそうじゃなかったらどう言い訳していただろうか。

 

 部屋はどこにでもありそうな学生寮の一室で、6畳ほどの部屋には壁にピッタリくっつけて二段ベッドが設置してあり、一番下には収納の引き出しが見える。扉から入って正面奥の窓際には据え付けの勉強机が置かれ、ベッドとの隙間にちゃぶ台が折りたたまれてあって、扉を入ってすぐのところに申し訳程度にクローゼットがついていた。

 

 寮監から宿舎での生活についての説明を受けた後、鳳が二段ベッドのどっちに寝るのか興味津々な瑠璃を追い出し、彼はようやく人心地ついた。パースからブリスベン、そしてケアンズとかなりの距離を移動してきたから、流石に疲れが出てきたようだ。

 

 朝夕は食堂で食事が提供されるが、開いてる時間内なら好きな時に食べてくれて構わないとのことだった。時間にルーズすぎて、本当にここは軍隊の訓練施設なのか? と不安になったが、今はその緩さが有り難かった。

 

 取りあえず、体力的にというより精神的に参ってしまったので、夕食まで少し仮眠でも取ろうかと、鳳は荷物を二段ベッドの上に投げ入れると、下のベッドにごろりと横になった。真新しいシーツは肌触りがよく、そのまますぐに眠ってしまいそうだったが、寝返りを打った瞬間、彼はお尻に鋭い痛みを感じた。

 

「いてっ! ……ててて、なんだろう? 画鋲??」

 

 お尻に刺さった何かを手で払ってみれば、シーツの上にパラパラと画鋲が落ちた。見れば、丁度手すりの影になって見えにくい場所に、何個も画鋲が転がっている。部屋にはポスターなんか貼られちゃいないし、替えたばかりのシーツの上に、何故こんなものが? と思いながら、嫌な予感がして上のベッドを調べてみると、上り下りするためのはしごの上に、しっかりと画鋲が落ちていた。

 

 どう見ても悪意のある嫌がらせとしか思えない。しかし、あの寮監のおばちゃんがやったとも思えないし、どうなってるんだ……? と思いながら何気なく引っ張り出してきた椅子にどっかと座ると、

 

「いてえっ!」

 

 案の定、座面に画鋲が数個落ちていて、自分の学習力の無さに嫌気がさした。

 

 しかしまあ、これではっきりした。どうやら自分は何者かに嫌がらせを受けているらしい。何者かと言うか、多分複数人だろう。理由もなんとなく察しがつく。瑠璃たちは取り立てて役に立つ人材じゃないが、ここの卒業生だというから連れてきたのが裏目に出てしまったらしい。

 

「役に立つかもと思って連れてきたけど、まさか連れてきたほうが被害がデカくなるなんて思わないもんなあ……とほほ」

 

 パースに意地でも置いてくるんだったと後悔しつつ、鳳は他にもトラップが仕掛けられていないか部屋を捜索して回った。

 

 捜索には思った以上に時間がかかり、気がつけば夕食の時間までもうあと少しとなっていた。夢中で床を見ていて気が付かなかったが、いつの間にか太陽が傾き、外は暗くなりかけている。何となく催してきたから、夕食前にトイレに行っておこうと、鳳は部屋から出ると階の端っこまで歩いていった。

 

 しかし、寮監から聞いていた場所にトイレはあったが、困ったことに入り口は一個しかなかった。そう言えば、この世界には男が居ないのだから、トイレを男女で分ける必要はないのだ。とすると、消去法でここは女子トイレ。

 

 若干気後れしつつも、でもまあ、どうせ個室だから問題ないだろうとトイレの扉をくぐるも、鳳はすぐに後悔するのであった。

 

「うっ……」

 

 トイレに入ってすぐの洗面所の辺りからペチャクチャとおしゃべりの声が聞こえてくるなと思っていたら、角を曲がるとそこには何故か十数人もの女子がずらりと並び、鏡を前に井戸端会議をしていた。

 

 洗面台には何十個ものポーチが乱雑に積まれており、お肌の手入れをしている女子や、ネイルをしている女子まで見えた。パイプ椅子の足をカタカタ鳴らしながら鼻歌を歌っている者もいれば、携帯プレイヤーからシャカシャカ聞こえる音に合わせて踊っているのまでいた。

 

 こいつらここで暮らしているのかよ……などと呆気にとられていたら、井戸端会議をしていた女子たちが鳳にピタリと照準をあわせ、会話を止めてじろじろと彼の動向を窺い始めた。その瞳が何見てんだてめえ○すぞと言っているようだ。

 

 その迫力を前に、ひゅっと便意が引っ込んでしまった彼は、すごすご後じさりして、トイレから退散した。バタンと扉を閉めると、また中からぺちゃくちゃ喋る声が聞こえてきて、当の本人がまだ目の前にいるというのに、マシンガントークのような陰口が飛び交っていた。

 

「……あそこには絶対入れねえ」

 

 女子の間でうんこをするのは、ちょっと気がひけるとか思っていたが、うんこ以前の問題だった。そう言えば、部屋にはトイレも無ければ洗面台も無かったから、彼女らは毎朝あそこで用意をするしかなくて、いつの間にかたまり場みたいになってしまったのだろう。

 

 鏡の前に乱雑に積まれたポーチは、おそらくこの階の住人の私物だろうが、あそこに鳳の私物を混ぜても秒で行方不明になるのは間違いないだろう。怖い。女子怖い。転校初日の子をここまで容赦なく威圧するなんて……まあいいんだけど。男だとバレたらその方がまずいし。

 

 しかし、宿舎内のトイレの使用を禁じられてしまったら、自分は一体どこでうんこをすればいいのか。鳳は少し困ってしまったが、すぐに校舎が近いことを思い出し、これからはそっちで用を足すことに決めた。

 

 少し時間を食ってしまったが、行って帰ってきてもまだ夕飯まで余裕はあるだろう。鳳はそう思って部屋に取って返し、誰にも入られないように鍵をしっかり閉めてから、また玄関まで降りていって、寮監に与えられた下駄箱を開けた。

 

 靴が無かった。

 

「マジかよ」

 

 空っぽの下駄箱の中を覗き込みつつ独りごちる。靴はゴミ箱の中に左右丁寧に揃えて置かれていた。

 



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戦術科

 宿舎内のトイレが女子のサンクチュアリになっていることに尻込みした鳳は、誰にも邪魔されず自由で豊かなうんこをするため、校舎のトイレを目指して外出しようとし、下駄箱から自分の靴が無くなっていることに気がついた。

 

 ゴミ箱の中から発掘して、ぐぬぬ……と怒りを堪えつつ、とにかくうんこをしなきゃ始まらねえと靴を履き替え、校舎にいって用を足して帰ってきたら、下駄箱の中に今度は謎の怪文書が紛れ込んでおり、なんだなんだと目を通して見れば、校内SNSに遊びに来てね☆彡と書かれてあったので、嫌な予感しかしないけど一応支給されたタブレット端末からログインしてみたら、そこは学校裏サイトで、案の定掲示板は陰口でいっぱいだった。

 

 匿名掲示板の陰湿さに悔し涙を流しつつ、ちんこちんこと1万回くらい連打してから意味が無いことに気づいて端末を放り投げ、気分を変えて明日からの講義の予習でもしようかと渡された教科書を開こうとしたとき、今度は名前の欄に『淫乱ビッチ』と記入されていることに気づいて本当に泣きたくなった。

 

「女ってマジ陰険だな、いや、俺も今は女なのか……?」

 

 TS漫画ならこのあと相談した親友に襲われる展開だなどと考えつつ、淫乱ビッチはあんまりなので取りあえず消そうと思って筆入れを開けたら、ホッチキスの芯が一本一本解体されていて、新品の消しゴムにブスブス突き刺してあった。どんな嫌がらせだ。

 

 こりゃあ明日からが思いやられるなと、夕食も取っていないのになんだか胸が一杯で食欲も減退してきてしまい、今日はもう早めに寝てしまおうかと、画鋲が落ちてないか確かめてから寝床に入り、沈みゆく意識の中で、あまりにも疲れ果てて本当に秒で眠れてしまえそうだぞ、3・2・1……と数えていたら、

 

 ズドオオオオオオオオオーーーーーーーンッッッッッッ!!!!!!!

 

 っと、全身をビリビリ震わす轟音で飛び起きた拍子に、ベッドの二段目に頭を思いっきりぶつけて、鳳の目から火花が散った。

 

「のわああ?! なんだなんだなんだ!!?」

 

 脳天を突き抜ける猛烈な痛みにクラクラしつつ、目を瞬かせてベッドの外を見れば、煙った室内のど真ん中には、何故かバズーカを抱えた少女が胡乱な目つきで佇んでいた。彼女は鳳が起きたことを確認するなり、ゴキブリでも見るような目でじろりと睨みつけると、そのまま何も言わずに回れ右して部屋から出ていった。

 

「………………高田純次かよっ!」

 

 窓の外を見れば、いつの間にか暗かった空が薄っすらと白んでおり、一瞬にして早朝に変わっていた。もちろん太陽が逆回転したわけではなく、どうやらマジで3秒で眠ってしまったらしい。

 

 中途半端に寝てしまったためにまだ体はクタクタに疲れていたが、バズーカの轟音で興奮しているのか、それともお腹がぐうぐう鳴っているせいか、二度寝する気は起きなかった。

 

 仕方ないのでベッドから這い出し、学校裏サイトのソースを開いて、見たことのないスクリプトを解読していたら丁度いい時間になっていたので、トイレの前で行列を作っている女子共を尻目にまだガラガラの食堂に駆け込み、嫌がらせを受ける前にさっさと朝食をかき込んだ。

 

 腹ごしらえをして部屋に戻りがてら、あちこちから突き刺さる視線のどれが敵でどれが味方なのだろうかと考えつつ階段を昇っていると、ドンと誰かに突き飛ばされて本気で転げ落ちそうになった。

 

「おい、こら! 洒落になんねえぞ!!」

 

 何者かは分からないが脱兎のごとく駆けていく後ろ姿に怒鳴っていたら、正面からやって来た別の女子が通りすがりにチッと舌打ちし、

 

「死ねばよかったのに……」

 

 とつぶやき通り過ぎていった。どうやら全方位敵しかいないアウェーに紛れ込んでしまったらしい。魔王に殺される前に女子に殺されないよう、これからは注意を払って生きていかねばならないだろう。

 

「ごきげんよう」「ごきげんよう」「皆様ごきげんよう」

 

 それにしても、自分はここに何をしに来たんだっけ……? マリみてみたいなお嬢様たちが優雅に挨拶を交わす中を、コスプレみたいな格好をしながら学校に向かい歩いていると、乙女ゲーの世界にでも転生してしまったような気がして頭が痛くなってきた。しかもこいつら意外とヴァイオレンスなイジメをしてくるのだ。

 

 ミカエルは、レヴィアタンと戦う戦力をここで揃えろと言っていたけれど、どう考えてもここでまとも人材が見つかるとは思えなかった。本当にこいつらは将来軍人になるのだろうか。何かの間違いなんじゃないのか。この調子で育てられた軍人が、まともに戦えるとは思えない。

 

 通り過ぎる教室の一つ一つからは例外なく動物園みたいな声が聞こえてきて、もしかしてここは前線の軍事基地ではなくて、ジャンヌたちに謀られているんじゃないかと本気で心配になってきた。

 

 もう、こんな場所さっさと見切りをつけて、パースに戻った方が良いんじゃないか。なんならサムソンとミッシェルの三人だけで魔王討伐に向かったほうがマシなように思える。

 

 ところが、そんな暗澹たる気持ちを抱えながら進んでいくと、渡り廊下を挟んで校舎が切り替わり、今度は異様なくらい校内は静かになっていった。

 

 静まり返る廊下には、パタパタという自分のスリッパの音だけが響いている。さっきまでの騒ぎはなんだったのだろうか。もしかして、教官にも騙されているんじゃないかと疑心暗鬼になりかけたとき、目的地のドアに昨日言われたとおり『戦術科』のプレートが掛かっているのが見えてホッとする。

 

 そう言えば、戦術科は今年になってから新設されたばかりと言っていたが、普通の学校と同じように、科が違えば通っている学生の質も違うのかも知れない。そんなことを考えつつ扉を開けると、予想通りと言おうか、それとも想像以上と言ったほうが良いか、個性あふれる面子がそこには並んでいた。

 

 教室に入ってまず目についたのは、教卓の真ん前の席に座っていた厳ついおっさんの顔だった。いやもちろん、おっさん顔をしているだけで、彼女は女性なのだろうが、とにかく体が大きくて、歴戦をくぐり抜けた戦士のような風貌をしており、年齢もとても10代とは思えず、4~50代にしか見えなかった。

 

 そうやって見渡してみると、教室には彼女以外にも年配の人がちらほらいて、一応10代の若者っぽいのもいるにはいるが、平均すると20代後半から30代くらいがその教室には集まっていた。

 

 まるで夜学みたいだが、これ如何に……? 取りあえず、空いている席にこそこそ座るも、宿舎の時とは違って誰も鳳に関心を示さなかった。その様子からしても、ここは本当に人種が違うようである。

 

 それで思い出したが、元々この訓練校は、再生が出来なくなった人類が、減り続けるドミニオンの隊員を補充するために、一般に公開した施設だった。だから訓練生も若い娘ばかりではなく、人によっては長く社会人を続けてから、転職したのもいるのだろう。実際、鳳だって宿舎のJKたちよりも歳を食っているのだから、もっと早く気づくべきだった。

 

 どうやらこの訓練校は、さっきのキャピキャピしたJKみたいなグループと、この教室みたいに不退転の決意で転職してきたグループとで二極化されているらしい。多分、この教室以外にも、年配者の混じったまともなクラスがあるはずだ。

 

「……カ……スカ……カシ……」

 

 昨日からの一連の出来事で、とんでもないところに来ちゃったなと若干後悔しつつあったが、ミカエルにクレームの電話を入れる前に、もうちょっとだけ様子を見る価値はありそうだ。少なくとも、あの歴戦の勇士は何者か気になるし、オリジナル・ゴスペルを見学させてもらうという約束もまだ果たしていない。とにかく、今はこのクラスのレベルがどんなものか知りたいとこだが……

 

「アスカ・シロ! 居ないのかアスカ・シロ!!」

 

 そんなことを考えていたら、いつの間にか教卓の前に教官が立っていて、こっちをじろりと睨みつけていた。鳳はその姿を見てもまだ暫く呆けていたが、呼ばれているのが自分の偽の名前だと気づくと、やっちまったとばかりに慌てて返事をした。

 

「はい! います! アスカいます! チャゲいません!」

「貴様、編入初日にお大尽だな。特例で入隊した者が来るというからどんなやつかと思っていたら……立て」

「はっ!」

 

 鳳は内心渋々ながら、気付かれないように背筋をピンと伸ばして立ち上がった。教官は丸めた教科書をバシバシ叩きながらゆっくりと彼の方へと歩いてくる。いきなりビンタされたりしないだろうなと冷や汗をかいていると、彼女は鳳の前で立ち止まり、

 

「戦術科は今年度から新設された士官候補生の育成専科だ。ここを無事に卒業できたら、諸君らは晴れて他人の命を預かる士官として各地に赴任することになる。よって責任は重大であり、落第だって十分ありうる。そんなところへ前期課程をすっ飛ばして、いきなり後期から編入しようなどという輩がいるというから、今日は前期の復習も兼ねて色々説明してやろうと思っていたのだが……どうやら貴様にはその必要はないようだな」

「サー! 申し訳ありません、サー!」

「……返事だけは立派だな。言い訳をしないところは良い。だがサーを付ける必要はない」

「はっ! ありがとうございます!」

 

 教官は威勢だけは良い鳳の返事に、フンッと鼻を鳴らし、手にしていた教科書をパラパラめくると、

 

「貴様が小隊を預かる部隊長だと仮定する。現在、貴様の部隊は森林と草原の境界部分を進軍中だ。森林には伏兵の可能性があるが、貴様の部隊は前衛と合流するため、可及的速やかにここを進軍しなければならない。草原は十分に広く、森林から離れて進軍することも可能だ。この場合、貴様はどういうルートを取るか」

 

 鳳はいきなりの質問に面食らいながらも、これ以上心証を悪くしないよう咄嗟に答えた。

 

「はっ! 森に出来るだけ沿って、草原を速やかに進軍します」

「理由は?」

「森から離れ過ぎれば、かえって森の中が見えず、伏兵がいても気づけません。また森に入れば進軍速度が落ちます。だから伏兵を警戒しつつ、森に沿って歩きやすい草地を進軍するのが上策と思われます」

「その場合でも、森に潜む伏兵に気づかず奇襲を食らう可能性があるのではないか」

「寡をもって大軍を破ることを奇襲と言います。敵に同規模の兵があるなら、森に伏せて乱戦に持ち込むより、もっと良い策があるはずです。従って、伏兵があるとすれば、必ずこちらよりも少数である可能性が高く、また、発見される恐れがある場合、少数の兵はより慎重にならざるを得ません。よって、襲撃を未然に防ぐ意味でも、森の内部が見やすいところを進軍するのが得策と考えます。また、開けた平野部は敵にとっても進軍がしやすく、思わぬ大軍に遭遇する可能性があります。その場合、部隊が森の近くにいれば、森に入ってやり過ごすことも出来るので、森の側面を行軍するのが良いかと思われます」

「なるほど……貴様は面白くないやつだな。いいだろう。座ってよし」

「はっ!」

 

 鳳がストンと腰を下ろして、正面を真っ直ぐ見つめていると、教官はいじり甲斐のないやつめと、つまらなそうにまた教科書をくるくる丸め、肩をとんとんと叩きながら、

 

「後期の座学ではこのような机上演習を多く取り入れることになる。転校生が今やったように、私が戦場のある場面を提示するから、諸君らはその際にどう決断するかを考える、そういう訓練だ。ところでたった今、飛鳥は一つの答えを出したが、だがこれが正解と言うわけではないぞ? もしかしたら、もっといい方法があるかも知れない。実を言うと戦場に正解なんてものはない。

 

 じゃあ、何故こんな事をやるのかと言えば、戦場に出れば敵を前にしてあれこれ考える余裕はない。だから予め様々な状況を想定し、自分なりの答えを見つけ、それを頭に叩き込んでおくのが本演習の狙いである。必要なのは、状況を整理し、解決策を考えることだ」

 

 教官は鳳の紹介もそこそこ、そのまま講義を始めてしまった。鳳は早速やらかさずに済んでホッとしながら、編入の挨拶もしなくていいのかなと思いつつ、周囲の様子を窺った。

 

 同級生たちはみんなノートを取り出してカリカリと教官の言葉を書き取っていた。やはりこのクラスは相当真面目な人間が集まっているようだ。鳳のことも殆ど気にしていないようなので、講義の邪魔をするよりこのまま黙っておいた方がいいだろう。

 

 さて、今日は後期の初日らしいのだが、こうも駆け足に講義が始まったのは、教官曰く、そんな時間がないからだそうである。

 

 戦術科は普通科と違って体力があればいいというわけではなく、あらゆる戦闘技能や作戦立案能力、実行能力、それから装備についてと、とにかく学ばねばならないことが多いらしい。ここでは本気で将来の幕僚を育てているつもりらしく、訓練生諸君はそのつもりで一層努力しろと、鯱張って念押しまでされてしまった。

 

 ところで、士官候補生を育てるのに、何故、戦術科なのか? と言えば、正直なところ開いた口が塞がらなかったのだが、ドミニオンには戦術が無いからなのだそうである。

 

 どういうことかと言えば、ドミニオンという組織は元々、決まりきった人員が、天啓に従って行動していたため、それを遂行するドミニオンどころか、天使たちさえも作戦を立案したことが無かった。つまり、作戦立案能力に長け、戦場を臨機応変に動ける士官というものが全く存在しなかったのである。

 

 そんなアホなと思いもするが、仮に魔王が現れたとしても、神様に言われた通りにしていたら間違いないのであれば、そうなるのも仕方ないことだろう。何しろ、全知全能たる神の作戦成功率は100%なのだ。

 

 そのため16年前に天啓が来なくなってしまうとドミニオンという組織はあっという間に麻痺し、暫くの間はマニュアルに従って防衛線を維持していられたが、やはりアクシデントに対処しきれず、徐々に前線を押し返されて、ここケアンズまで後退してしまったのだそうである。

 

 現在、人類はレヴィアタン勢力と対峙しているわけだが、相手は数が多い上に年々進化し続けるのに対し、ドミニオンの方には旧態依然とした作戦しか存在しないから、このまま手を拱いていてはケアンズを維持することもままならないかも知れない。

 

 そんな状況を打破するためにも、ドミニオンの幕僚たちは、新世代の士官候補生を育てるのが急務であると考え、この戦術科を新設したのだそうである。

 

 長くなったが、そんなわけでこの戦術科というのは、人類がレヴィアタンに対し攻勢に出るために作られたわけだから、ミカエルが鳳をここに送り込んだのも、ある意味理にかなっていたようだ。

 

 因みに、16年前の最前線は、オーストラリア北端の都市ダーウィンにあり、人類はオーストラリア全土と、ニューギニア島の高地をその勢力下においていたらしい。

 

 それがこの16年間で、突然変異した水棲魔族が川を遡って来るようになり、まずはニューギニア高地から撤退せざるを得なくなって、続いてダーウィンも陥落してしまったそうだ。

 

 山を登る水棲魔族と言えば、アナザーヘブンでも身に覚えがあるが、きっとこっちでも、16年間のうちに水棲魔族と何か別種の交雑があったのではなかろうか。魔族という種は、自分に都合のいい形質ばかりを獲得して進化してしまうのだから本当に性質が悪いのだ。しかし、アズラエルの用不用説が正しかったとして、魔族が新たな形質を獲得する時、それが必要か不要かはどう決定されているのだろうか。

 

 ちょっと脱線したが、話を戻すと、16年前の人類がニューギニア島の高地に飛び地を持っていたのは、そこに油田があったからだ。この世界の人口は1千万と少なく、そこまで化石燃料を必要とはしないが、それでもニューギニアにあった石油の埋蔵量は魅力的であり、人類の生活を豊かにしてくれていたわけだが……

 

 それが失われたことでオイルショックが起こり、神の不在、再生の喪失もあって、人類社会はだいぶ混乱したようである。ブリスベン空港で見かけたデモ隊の例もあるように、人口減少と資源不足は今でも格差を生み出し続けており、魔族と戦うことを理由に、その貴重な資源を乱用しているドミニオンは、経済的に追い詰められた人々の反感を買っていた。

 

 それを緩和する意味でも、ドミニオンのニューギニア奪還は急務であり、また悲願でもあった。教官は、それを実現出来る人材が、この教室で育ってくれることを期待すると言い……第一回の講義はそんな具合に過ぎていった。

 



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青春は命懸けなのだ

 転入初日から瑠璃を愛する百合女子たちにいじめられて、もうパースに帰っちまおうかなとぼやいていたら、講義が始まってみれば意外とまともな内容で、そのギャップに頭がおかしくなりそうだった。

 

 教官の熱い講義を受け、おっさん顔の同級生たちに囲まれながらカリカリノートを書きなぐっていたら、いつの間にか結構な時間が経っていて、午前の講義は終わり昼休みに突入していた。

 

 よほど集中していたのだろうか、パリパリと静電気が頭の中に走るのを感じながら、席を立って背伸びをする。

 

 学校なんてもう何年も通っていないから、懐かしいを通り越して新鮮な感覚がしていた。同級生たちは年齢がまちまちなせいか、あまり交流がなくて教室内は終始静かだったが、それでも昼食を一緒にとるグループくらいは出来ているようで、昼休みになると一部が集まって一緒に教室を出ていった。その会話の内容から、彼女らが食堂へ向かうのがわかったので、鳳は黙ってその後についていった。

 

 教室から出るなり、またぎゃあぎゃあとうるさい声が耳に飛び込んできて辟易した。その動物園のような騒ぎの向こう側に食堂はあるようだが、通りすがりのマリみてワールドを見ていると、果たして自分が夢を見ているのだろうか、それとも彼女らが夢のようなから騒ぎを続けているのだろうか、一体どっちが夢か現実かわからなくなった。

 

 そんな年中お祭り騒ぎみたいな校舎を横断し、気配を殺しわざとらしくぶつかってこようとする瑠璃信者たちを避けながら、どうにかこうにか食堂にたどり着くと、そこにはまた頭が痛くなるような光景が広がっていた。

 

 そこは学食と言うよりもカフェテリアに近い、過剰な装飾の施された奇妙な空間だった。床はふかふかの絨毯が敷かれており、椅子や机は全てがマホガニー製の小洒落たもので作られ、色とりどりのテーブルクロスで覆われている。大きなガラス窓の扉をくぐるとその先にはオープンテラスのデッキがあって、そこでお嬢様たちが寄り添うように肩を並べてお紅茶を喫していた。二人連れの少女たちは例外なくイチャイチャを見せつけ、昼食はとらずケーキスタンドのお菓子を摘んでいた。

 

 ごきげんようとスカートの裾を摘んで挨拶をしている少女たちを見ていたら、来るとこを間違えたのだろうかと思い、回れ右をしかけたが、後をつけてきた同級生たちが気にせず中に入っていくので、それにならってついていくと、奥の方に普通のカウンターがあってホッと安堵する。

 

 カウンターの上にはメニューが掲げられていたが値段が書いていないのでまごついたが、同級生たちは誰も財布を出したりしないで注文していたので、どうやら好きなものを頼んでいいようだとわかった。そうとわかると現金な腹の虫が騒ぎ出したので、取りあえず気になった日替わり定食AとBを両方頼んだら、

 

「ちょっとあんた、お友達に頼まれたのかい? ここでは自分で取りに来るのがルールよ。お友達にそう言ってきなさい」

 

 とおばさんに怒られたので、

 

「え? 違うよ。俺が両方とも食べるんだよ」

「本当にぃ~?」

「こんなの一個じゃ全然足んないよ。駄目なら、A定食の方を超大盛りにして?」

 

 鳳がそう言うと、おばさんは暫く彼のことを疑うようにじーっと見てから、

 

「えらいっ! 最近の若いのはダイエットだなんだって言って全然食べたがらないっていうのに、あんたは大した胃袋だよ。軍人さんは体力が命さ。いっぱい食べて、いっぱい寝て、どんどん大きく……大きくなるんだよ!」

「なんで胸を見ながら言うんだ、胸を」

「なあに、まだまだこれからさあ! たあーんとお食べー!」

 

 おばさんはそう言ってカッカッカッと豪快に笑いながら、定食を両方とも大盛りにしてくれた。気持ちは嬉しいけど、流石にこれは重すぎないか? そうは思いはしたが、たった今足りないと言ってしまった手前、黙って受け取る。

 

 2つのトレーを抱えて振り返ると、今のやり取りの間に同級生たちはどっかに行ってしまっていた。暫くの間、同じ釜の飯を食うわけだし、出来れば仲良くなっておきたかったが……まあ、あまり馴れ馴れしくして、瑠璃信者に仲間認定されてしまったら可哀相だからこれでよかったのだろう。

 

 しかし、独りで食べるのは一向に構わないが、このとち狂ったお嬢様たちの間で食べるのは気が進まないな……と思いながら手近に空いていた席に座ると、同じテーブルについていた女子が一斉に立ち上がってどっかに行ってしまった。

 

 ここは学食でレストランじゃないんだから、相席とかそういう概念はないはずである。露骨と言うかなんと言うか、鳳のことを遠巻きにしながら、ヒソヒソと何かを囁きあっている女子たちを見ながら、そうかいそうかい、君等がそういうつもりなら、こっちだってせいせいすらーと口をとがらせつつ、ガツガツと飯をかき込んでいたら、いきなり背中をパンと叩かれ、変なところにご飯粒が入ってしまった。

 

「げほげほげほげほ……なにしやがる!」

「あ、ごめんなさい。悪気は無かったのよ」

 

 てっきり瑠璃信かと思いきや、振り返ればそこにいたのはジャンヌだった。昨日別れたきりだったが、彼女も臨時教官としてここで働いているので、昼食を取りに来て鳳が孤立しているのを見つけたのだろう。

 

 背中を叩かれた時、カサカサと言う音がしたが、どうやら張り紙をされていたらしい。十分に気をつけていたつもりだったが、校舎を横切るとき瑠璃信にやられたのだろう。俺に悟られないとは、中々やるじゃねえかと強者感を演じつつ、ジャンヌに手渡された紙を見たら、『哀れ乳ホライズン』と書かれてあって、また変なところにご飯が入りそうになった。

 

「……おばちゃんに励まされたのはこういうことかよ」

 

 っていうか、気づいていたなら教えてくれればいいのに、あのおばちゃんも親切なんだか不親切なんだか……張り紙の内容の方も、悔しがればいいのか笑えばいいのか、どう反応していいか分からず鳳はテーブルに両肘をついて頭を抱えた。

 

 ジャンヌは苦笑いしながら対面の席にトレーを置くと、

 

「だいぶ苦戦してるみたいだけど、思ってたより元気そうで安心したわ」

「いきなり貧乳言われても、トンチンカンすぎてなんとも思わんからな。なんなら巨乳って書かれたほうが傷つくと思う」

 

 というか、もしも彼女らに鳳が男であると知られたらどうなっちゃうんだろうか。それにしても桔梗がなんであんなに辛辣なのかその理由がわかった気がする。学校全体が終始こんな調子なのだ。

 

「百合ドラマを見て育ったあいつらにとって、この馬鹿げた恋愛ごっこが世界の全てなんだろうな。しかし、ここは軍隊の訓練校なんだろう? 教官らはどうしてこんなになるまで放置してるんだ。流石に不安になってくるよ」

「そうね」

「そういやおまえもここの出身なんだっけ? 昔はここまで酷くはなかったんだろう?」

 

 するとジャンヌはそんなことないと首を振って、

 

「確かにここまで明け透けではなかったけれど、姉妹の契りなら昔からあったわよ。瑠璃みたいに、はんなりとして折り目正しい人が好まれる傾向も。元々、ドミニオンにそういう文化が根付いていたのもあるんじゃないかしら」

「マジかよ……なんでみんなそこまでレズに拘るの?」

「単純に恋愛対象が女性しかいないのと……あとはやっぱり、再生が出来るから命がより軽かったせいかしらね」

「……命が軽い?」

 

 ジャンヌはほらと頷いて、

 

「知っての通り、昔は再生が出来るから人間は不死だって思われていたのよ。だからドミニオンは、今よりもっと命の価値が低くて、指揮官の命令で玉砕することもしばしばあったの。実際、天啓ではそういう作戦が多かったそうよ。彼我の戦力差を、再生能力で補っていたわけね」

「……おいおい、神の作戦は成功率100%ってそういう意味かよ」

 

 鳳は聞いてた話とは、随分ニュアンスが違うと口端を引き攣らせた。

 

「でも再生できるって言っても、死ってそう簡単に割り切れるものじゃないじゃない? だから自然とみんな、自分が生まれてきた意味を求めて、いつの間にか姉妹の契りというのが流行っていたのよ。本音を言ってしまえば、みんな神様のために死ぬよりは、好きな人のために死にたいじゃない。

 

 16年前、再生が出来なくなると、姉妹の契りが持つ意味はより重くなった。迫りくる魔族を相手に誰かが戦わなければならないけど、これからはもう死んだらそれきりだから、彼女らはより強く他人を求めるようになっていったのよ。それが、あなたの言うバカ騒ぎとして現れてるわけよ。教官たちが見て見ぬ振りをしてるのはそういう理由」

「ふーん……そう考えると、連中のお嬢様ごっこが別のものに見えてくるな……」

 

 女子同士しかいないから変に思えるけど、元の世界でも、年頃の子供なんてみんなこんなもんだった気がする。テレビで推奨されるどうでもいいような価値観に振り回されて、学校なんて狭い空間の中だけで一喜一憂しているのだ。クラスの憧れの人なんて、社会に出れば群衆の一人でしかないのに、でもその時は命懸けなのだ。

 

「俺みたいな理想のカップルに割り込んだ異物は、彼女らの目には、名画に落書きをされたように見えるんだろうな」

「あら、なかなかうまいこと言うわね」

「問題は俺が描き手じゃないことだ。彼女らが勝手にそう思ってるだけで……そんなんで嫌がらせされるんじゃたまらないよ」

 

 鳳は愚痴るようにそう吐き捨てると、空になったトレーを重ねて、午後の教練を受けるつもりで立ち上がろうとした。するとジャンヌはそんな彼のことを呼び止めて、

 

「ちょっと待って、教室には戻らず、教官室に寄ってってちょうだい」

「なんで? まだ貰ってないテキストとかあったのか?」

「あなたの適応力には感心するけど、ここに来た目的を忘れたの? レヴィアタンを倒さなきゃいけないんでしょう」

「あー、そうだった……思い出したら憂鬱になってきた」

 

 ミカエルに命じられた時はなんとかなると思っていたが、その後アズラエルと話したり、こうして前線までやって来て、どんどん自信がなくなっていた。装備に関してはヘルメスの兵士とは比べ物にならないほど進んでいるのだが、正直、ここの訓練校のレベルを見てると、とてもじゃないが彼女らがレヴィアタンと戦えるとは思えなかった。戦術科の生徒は真面目でそこそこ使えそうだが、実戦で使い物になるにはまだ時間が必要だろう。

 

 鳳がそんなことを考えてぼやいていると、ジャンヌは苦笑いして、

 

「訓練生なんて最初からあてにしないでよ。あなたは使える物はなんでも使っていいって、ミカエル様に言われてるんでしょう。そのために、オリジナルゴスペルの見学も許されたんだから」

「あー、そうか。学校に入れられたもんだから、こいつらを育成しなきゃいけないんだって勝手に思い込んでた。別にゴスペルを使って片がつくならそれでいいんだよな」

 

 学生の身分はただのカモフラージュだ。もしも不要なら、ここをやめて配置換えをしてもらうのもありかも知れない。なんならそのオリジナルのあるとこに配属してもらえば、一日中調べることも出来るだろうが、流石にそんな重要拠点には入れてくれないだろうか……

 

「そのオリジナルの見学許可が下りたそうよ」

「え、もう? てっきり時間がかかるんだと思ってた」

「それが先方にあなたの話をしたら、すぐにでも来てちょうだいってお達しだったそうよ。昨晩、それを伝えに宿舎に行ったんだけど、あなたはもう寝ていたようだから」

「女子の相手で疲れてたもんで……ってか、そっちの方は好意的だな。なんでだろう?」

「さあ? とにかく話は伝えたわ。昨日、私たちをここに連れてきてくれた、あやめって教官がいたでしょう。また彼女が案内してくれるから、すぐ向かってちょうだい」

「わかった。そんじゃ一緒に行こうぜ」

 

 するとジャンヌは首を振って、

 

「私は行かないわよ。どうせ行っても何もわからないもの。ここにいる間は、教練を手伝ってって言われてるから、そっちに出るつもり。あなたのことはちゃんと教官に言って欠席扱いにしとくから心配しないで」

「そうか。それじゃあ、よろしく頼むわ」

 

 鳳がトレーを持って席を立つと、彼の様子を窺っていた周囲の女子たちが一斉に目を逸らした。どうやら、また要らぬ注目を浴びていたらしい。確かジャンヌはマダガスカルの英雄だから、この学校に限らずどこにいっても有名なのだ。

 

 その有名人と落書きが一緒に昼食を取っている姿はさぞかし目立ったことだろう。鳳はまた瑠璃信の攻撃が激しくならなければいいのだがと思いつつ、食堂もとい、お嬢様たちが優雅にランチするカフェテリアから出ていった。

 



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メタトロンとサンダルフォン

 得体の知れないお嬢様空間と化したカフェテリアから脱出して、ジャンヌに言われた通りに教官室へ向かうと、ひっそりとした教官室の廊下の途中で琥珀を見掛けた。

 

 彼女もジャンヌと同じく、アシスタントとして働いているはずだから、きっと仕事中なんだろうと思い、軽く会釈して通り過ぎようとしたら、彼女の方も「どうも」と会釈し返してから鳳の後にくっついてきた。

 

 ここで偶然会っただけのはずなのに、どうしてついてくるんだろう? と思ったら、

 

「僕も隊長にゴスペルを見に行くよう言われたんで」

「え、そうなの? ジャンヌはそんなこと言ってなかったけど……なんで?」

「はあ、まあ、色々ありまして……」

「ふーん。瑠璃たちは一緒じゃないの? あいつらも一緒だと煩くてかなわないから、ご遠慮願いたいんだけど……ああ、彼女じゃなくて、彼女の信者の方々がね?」

「瑠璃ならその信……ファンの子達を教練でシゴイてやるんだって張り切ってましたよ」

「そっかそっか。今度、足腰立たなくなるまでシゴイてくれと伝えておいて。俺の被害が減るから」

 

 そんな会話を交わしながら教官室の扉を叩くと、すぐにあやめ教官が現れ、車のキーを指先で回しながらついて来いと言う彼女の後に続いて、また昨日の装甲車に乗せられ校門から外に出る。

 

 てっきり、オリジナル・ゴスペルもこの訓練校のある軍事基地にあるのだと思っていたが、どうやらここから少し離れた山の上にあるらしかった。曲がりくねった山道を軽快に走りつつ、峠から基地を見下ろしながら教官がその理由を教えてくれた。

 

「見ての通り、基地は水棲魔族の上陸を阻止するために、海に面しているでしょう。だから魔族の侵攻が始まれば激戦になる可能性が高く、肝心な時にゴスペルが使えないと意味がないから、こうして山の上の研究施設に保管しているんです。あと、ドミニオン以外は基地に入っちゃいけないルールなので、アルバイトの方が通えるようにって意味もあります」

「アルバイト? バイトなんて居るんですか? ここに?」

「ええ」

「でも、ここって人里離れた基地の街ですよね? 一般人は住んでいないはずなのに、アルバイトって何をやるんですか?」

「まあ、それはもうすぐ着きますから、行ってみれば分かりますよ」

「はあ……」

 

 説明しづらいのか、それとも話したくない理由でもあるんだろうか。首をひねっていると、また昨日みたいにミラー越しに教官が話しかけてきた。

 

「今日は編入初日でしたが、どうですか。講義にはついていけそうですか」

「ああ、はい。講義は結構面白くて問題ないんですけど、なんというか俺は常識が足りないから、ボロが出ないかちょっと心配ですね」

「もし、分からないことがあったら遠慮せず何でも聞いてください。ウリエル様からもそう言い付けられていますので」

 

 教官は何か察しているかのような口ぶりでそう言った。鳳がまともじゃないことにはもう気づいてると言いたいのだろう。下手に突っ込まれるより、そうやって距離を測ってくれるのはありがたかった。まさか違う世界からやって来たなんてことは言いづらいから、その辺のことはボヤかしつつ、せっかくなので質問をしてみる。

 

「それじゃあ、ケアンズの情勢についてもう少し詳しく教えてもらえます? 講義で、メラネシアから撤退して、最前線はダーウィンからここまで下がっているって聞きましたが、具体的にどうしてそんな状況になっちゃったんでしょうか」

「そうですね。では、かなり過去に遡りますが……およそ300年ほど前までニューギニア島は、人類が支配していました。しかし、そのころインドネシアにいた水棲魔族が勢力を伸ばしてくると、低地の熱帯雨林で戦うのは分が悪くなって、人類は魔族が登ってこれない高地へと撤退します。

 

 それから長い間、人類はオーストラリア北部を守りながら、魔族とニューギニア島を分け合っていたのですが……それが16年ほど前から、ちょくちょく水棲魔族が高地に現れるようになって、あっという間に押し返せないほど高所に適応した個体が増えてきてしまったんです。

 

 神域はその事態に際し、ゴスペル・サンダルフォンの使用を決定したのですが、これが不発……更にはバックアップのためダーウィンに配備してあったメタトロンまで不発に終わって、人類はその動揺を突かれて、水棲魔族のオーストラリア侵入を許してしまいます。

 

 ドミニオンは一時的にここケアンズに本拠を移し、反撃の機会を窺っていたのですが……ところがそんな最中に、プロテスタントによる神域襲撃が起こってしまい、我々人類は魔族を押し返す力を失ってしまったのです」

 

 それは以前に、アズラエルから聞いていた話と大体同じだった。そしてその時も思ったことだが、ゴスペルが不発に終わったのは、鳳たちアナザーヘブン世界が刈り取りに抵抗した結果だろう。もちろんそれを後悔しているわけじゃないが……気になるのはその後のことだ。人類はそれからどうしたのだろうか。

 

「神を失ってしまったドミニオンは、それでもなんとかオーストラリア北部に侵入した水棲魔族を撃退しようと、この地に踏みとどまり続けました。その間、水棲魔族は乾いた大陸性気候を嫌って北西部には向かわず、ニューギニア島、ニューカレドニア島を根城に、珊瑚海全域にその勢力を伸ばしました。

 

 地図を見れば分かりますが、ここケアンズは珊瑚海の丁度ど真ん中にあり、水棲魔族からすればかなり目障りなのでしょう。そのため奴らは機会を窺っては、度々この地へ上陸を仕掛けてきて、その都度、我々は全力でそれを迎撃し続けてきました。

 

 もちろん無傷とはいきませんでした。ここで防衛線を張り続けた16年の間に、我々ドミニオンは多くの命を失い、一般から募集した兵士たちもまた散っていきました。多くの犠牲を払いながら、それなのに我々ドミニオンは未だに前線を押し返すことも出来ず、ニューギニア奪還の目処も立っておりません。

 

 そんなドミニオンに対し一般市民の風当たりも強く、昨今の世論は前線をブリスベンまで下げろという主張が強くなってきました。反政府組織などは露骨にデモを繰り返し、それに同調する人も跡を絶ちません。実を言うと、我々もそれは理に適っていると思っています。

 

 実は、熱帯に棲息する水棲魔族は、乾燥に弱いだけではなく、寒さにも弱い特徴があります。だから、前線を南に下げれば下げるほど、人類は魔族に対して有利に戦えるのは事実なのです。きっと前線をブリスベンまで下げれば、水棲魔族はそれ以上南下してこない可能性は高いのです。

 

 ですが、こっちにも引けない理由があるんですよ。なんだかわかりますか?」

 

 教官はバックミラー越しに熱い視線を送ってくる。その迫力に押されて、鳳は正直にわからないと言いたくないと思いながらも、

 

「えーっと……わかりません」

「プライドです」

 

 鳳のその言葉を待っていたかのように、教官が即答した。

 

「前線を下げれば確かに被害は減らせるでしょう。恐らく、水棲魔族も不利な南部までは我々を追いかけてこないと予想もされます。ですが、はっきりいってそれがいつまで持つかはわからないんですよ。

 

 ニューギニア島でも、高地で暮らしていた人たちは、まさか自分たちが魔族に追い出される日が来るなんて思っていなかったでしょう。ブリスベンまで撤退しても、暫くの間は魔族の恐怖からは逃れられるでしょうが、いずれ奴らは南部の気候にも適応してきます。魔族は進化する生き物ですから。

 

 そうなった時、魔族に怯えてオーストラリアの半分を手放してしまった人類が、果たして奴らと戦えるでしょうか。きっとそれだけの力も気概も残ってはいないでしょう。綺麗事でもなんでも無くて、人間が生きていくにはプライドが必要なんですよ」

 

 教官はそこまで一息に喋ると、ふーっと溜息をつくように一拍置いて、

 

「願わくば、あなたがた戦術科のうちの誰かが、この状況を覆すだけの実力を手にしてくれれば嬉しいのですけど……期待してもいいでしょうか」

 

 まあ、正にそれをミカエルに依頼されたわけだが……鳳はそんな教官の言葉に何も言い返すことが出来ず、ただ黙って車窓から海を眺めていた。

 

*******************************

 

 ゴスペルが保管されているという山の上の軍事施設は、通信基地も兼ねているのか、やたらとアンテナがにょきにょき生えていて、なんと言うか悪の組織の秘密基地みたいなところだった。

 

 山には他に目につく建物はなかったから、多分、麓から職員が通ってくるのだろう。衛兵が常駐しているゲートを潜ると、その先はやたら広大な駐車場に続いていて、少なく見積もっても200台からの自動車が整然と駐車している様はある意味壮観だった。来客スペースに車を止めて琥珀とともに車から降りると、傍に数台のバスが止まっていたから、通っている職員はみんな自家用車通勤というわけでもないのだろう。すると一体、この施設にはどれくらいの人間がいるのだろうか。

 

 やたら大きいのに明かり取りの窓すら殆どついていない、石棺みたいな建物に入ると、内部はとてもヒンヤリしていた。空調が効いていると言うよりも、断熱が効いているというのが正解だろう。見上げれば鉄骨の梁がむき出しの天井には、ところどころにスポットライトのような証明がぶら下がっており、軍事施設というよりもテレビ局のスタジオにでも迷い込んでしまったような気分になった。

 

 そんなだだっ広いロビーの隅にはこぢんまりとした受付スペースがあって、警備員が座っているカウンターの周りを、また別の警備員が武器を手にうろついていた。それだけを見てもここが重要な施設だということがわかる。

 

 教官がアポイントがあることを告げると、受付は黙って内線を取り上げ、バカ丁寧な言葉で二言三言交わしたっきりだんまりを決め込んでしまい、本当にここで待っててもいいのだろうかと不安になってきた時、その受付の脇の自動ドアから、ややテンション高めな白衣の女性が出てきた。

 

「やあやあ、あなたが新型の開発者か! よく来てくれた! よくやってくれた!!」

 

 女性は奥から出てきてきょろきょろ来客者の顔を見比べてから、鳳の顔をロックオンすると、いきなりガシーっとその手を握りしめブンブン振り回した。あまりにも熱烈な歓迎っぷりに驚いていると、同じくそれを横目で見ていた教官が控えめに言った。

 

「あの……今回は無理なお願いを聞いてくれてありがとうございます。一応、説明しておきますが、こちらの訓練生は……」

「ああ、もちろん知ってるとも。実は私の方にもウリエル様から連絡があって、よろしくって頼まれたんだよ」

「あ、そうでしたか。だからこんなにすぐにオリジナルの見学が許可されたんですね」

「そうそう! そんなことより、このあいだ新たな概念を取り入れたレプリカの新型が、神域から届いたんだよ。なんでもマダガスカルでベヒモスを撃退した部隊のアイディアを取り入れたそうなんだけど、これが本当に画期的でさ? 今までは干渉しあっていたレプリカの攻撃を、新型は打ち消すどころか逆に増幅できるようになってて、理論上、いくらでも火力が上がるから何なら魔王すらも一撃で倒せるくらいすごい威力が出るようになったんだ。こんな面白いおもちゃ、遊ばない手はないじゃない? だから、それが届いた3日前から徹夜でいじり倒してたんだけど、そしたらそいつを作った奴が来るっていうじゃないか。そりゃもう、会うしかないよ会うしか。君……君は何をどうやったらこんな面白いの思いついたんだ、後で色々聞かせてくれ」

 

 白衣の女性は鳳の上半身がブレるほど、ブンブン両手を振り回す。その勢いには気圧されたが、歓迎されないよりはマシだと甘んじて暴力を受け入れる。

 

 女性の話を聞いてる限りだと、どうやら鳳がミカエルにオーダーしたゴスペル・レプリカのカスタマイズ品が、新型としてこの基地にも届いていたらしい。

 

 鳳は、今まではバラバラだった光弾の威力を、段階的にあげられるような仕組みを取り入れれば干渉を防げるんじゃないかと提案したのだが、それが規格として新たに導入されたのだ。

 

 更にはそれをこの基地に送る際に、ウリエルが鳳のことを相当盛って紹介してくれたらしく、お陰で女性は鳳が彼女と同程度の知識を持った研究員だと考え、こうして大歓迎してくれているというわけである。鳳はボロが出ないうちにさっさとオリジナルを見せてもらった方がいいと思い、

 

「お会いできて光栄です。俺は別に開発者ってわけじゃなくて、ミカエルに……ミカ……ミカ、エル、様、に、お願いして作ってもらっただけなんですけど」

「ミカエル様に直接だって!? 凄い! 是非、その時の話を聞かせてよ!」

「あー、えーと、はあ……でも長くなりそうだからその前に、オリジナルゴスペルの方を見せてもらえませんか? そのつもりで今日は来たんで」

 

 女性はぽんと手を叩くと、

 

「そうだったそうだった。あなたの目的はオリジナルの見学だったね。新型を作ったその調子で、オリジナルの方もなんとかしてくれると嬉しいよ」

「はあ、まあ、もしも期待に応えられたらいいですね」

 

 鳳が愛想笑いを返すと、白衣の女性はニコニコしながら思い出したように琥珀の方へ向き直り、

 

「そのつもりで武田くんにも来てもらったんだ。それじゃあ、早速、ゴスペルのとこまで案内するよ。三人ともついてきたまえ!」

 

 彼女はそう言うと颯爽と白衣を翻し、やって来た自動ドアへとまたつかつか突き進んでいってしまった。なんと言うか、話を聞かないタイプの人である。鳳たちはお互いに顔を見合わせると、扉が閉まってしまう前に、急いで彼女の後を追った。

 

 道すがら、彼女は自己紹介がまだだったと切り出し、また一方的に話を始めた。彼女の名前は神楽やよいと言って、生まれはドミニオンではなく、神域の意向をドミニオンに伝える行政官(ヴァーチューズ)だったそうである。そんな彼女は義務教育を終えると、ケアンズに配備されるレプリカの調整や修理などを行っていたらしいが、好きが高じてそのまま研究者になってしまった口らしい。

 

 本来であればレプリカの構造は機密だから、人間が触るなんてことは以ての外だったのだが、16年前の神の不在後、多くの天使(スローンズ)がやる気を失ってしまったために、彼女にお鉢が回ってきたそうである。

 

 元々機械いじりが好きだったやよいは、レプリカを好きに弄れるようになると、これ幸いとリバースエンジニアリングをし、気がつけばゴスペル研究の第一人者になっていた。よくミカエルに目をつけられなかったなと呆れたが、彼女いわく、バレなきゃ良いのだと言うことらしい。きっと神が居た頃ならとっくに再生処理を受けていたはずである。

 

 そんな彼女の後を追って館内を進むと、やがて狭い通路からだだっ広い大きな空間へと辿り着いた。

 

 小中学校の体育館くらいのスペースのど真ん中には、ブリッジのように通路がまっすぐ伸びていて、鳳たちは手すりにつかまりながらその上を歩いた。

 

 左右には所狭しとデッキチェアみたいな長椅子が並び、その上に寝そべるように人が座っているのが見える。全部で500人は居るんじゃなかろうか。本当に一つの学校規模であるが……

 

 そんな大勢の人たちが何をしているんだろう? とよく見てみれば、長椅子の間を忙しなく歩き回る白衣の人が、時折、なにやら注射を打っているのが見えた。まるで野戦病院に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えたが、そんなわけもないだろうし、あれは一体何なんだと先を行くやよいに尋ねようとした時、タイミングよく彼女の方から声がかかった。

 

「あれがオリジナル・ゴスペル。メタトロンとサンダルフォンだ」

 

 そう言って彼女が指差す先を見れば、ブリッジの辺りにはガラス張りの司令室のような小部屋があって、その中央上部に二丁の巨大なライフルのような物体が見えた。その周りには数十人の白衣の女性たちが、コンピューターの画面に鼻をぶつけそうなくらい顔を近づけて、せっせと何か作業をしている。きっとオペレーターなんだろう。

 

 鳳はゴスペルの前まで歩み出ると、ぽかんと口を半開きにしながら言った。

 

「これが……ですか?」

「そう。これを見て。君はどう思うかい?」

「どうって……まいったな。まるで玩具みたいだ」

 

 鳳がそんな感想を漏らすと、やよいは自分も同感だと言ってケタケタと笑った。部屋に詰めているオペレーターたちが、不謹慎なものを見るような目つきで、じっと手元の端末を見つめている。鳳は下手なことは言わないように口を閉ざした。

 

 オリジナル・ゴスペルの二丁はライフルと言えば聞こえが良いが、ぶっちゃけガンダムにでも出てきそうなビームライフルのような見た目をしていた。二丁の形状は全く同じで、白と赤を基調としたちょっとガンダムカラーっぽい方がメタトロン、黒をベースに赤いラインの走るシックなデザインの方がサンダルフォンとのことだった。

 

「知ってると思うけど、メタトロンはかつてルシフェルの最高傑作と呼ばれたゴスペルで、サンダルフォンはそのコピーなんだ。両方とも、オリジナルの中では最も広範囲を掃射することが出来る、広域戦略兵器だった。

 

 元々ルシフェルはオーストラリア大陸に侵入してきた魔族への最後の切り札のつもりでこれを制作したらしいので、その範囲は大陸全域をカバーすると思って欲しい。これらのゴスペルには、予め内部に蓄えられたエネルギーを放出し広い範囲を面制圧する、デウスエクスマキナ・モードというのがあるんだけど、16年ほど前、ニューギニアの水棲魔族を駆逐するためにサンダルフォンが使用された際、それが不発したんだ。

 

 悪いことは続くもので、続くダーウィン撤退戦で使用されたメタトロンも不発。同じ頃にマダガスカルでベヒモス相手にアスクレピオスが効かなかったこともあって、オリジナル・ゴスペルの限界説が唱えられたんだけど、真相はいまも不明さ」

 

 真相も何も、それは鳳たちのせいだろう。もちろんそんなこと言っても仕方ないから黙っていると、やよいは鳳の後ろにいた琥珀に向かって、突然、そのオリジナルを手にとるように言い出した。

 

「武田くん。それじゃお願いできるかな」

「わかりました」

 

 琥珀は鳳の横を通って前に出ると、壁にかけられていたゴスペル・サンダルフォンを手にとった。玩具のような見た目をしているが巨大なそれは、実際に琥珀の身長よりも大きくて、それを担いだ彼女の足はふらついていた。

 

 そんな巨大な銃を、彼女は重量挙げのバーベルみたいに両手で持ち上げながら、顔を真っ赤にしてうんうん唸っている。それは重さに耐えきれなくてというよりは、何か儀式めいているような気がして、鳳は首を傾げながら隣に佇むやよいに尋ねた。

 

「これ、何をやってるんですか?」

「もちろん極秘なんだけど、まあいいや……オリジナルにはイマジナリーエンジンというコアがあって、それはゴスペル不発後も稼働をし続けて、現在もエネルギーを要求し続けているんだ。イマジナリーエンジンに供給されるエネルギーが不足すると、暴走して何が起こるかわからないと言われていて、ゴスペル自体が壊れるのを避けられないのはもちろん、最悪の場合、大陸ごと人類を吹き飛ばしてしまう可能性も否定できないんだ。

 

 そんな馬鹿なと思うかも知れないけど、よく考えて欲しい。何しろ、デウスエクスマキナ・モードでは、メラネシア全域に散らばっている億を超える水棲魔族を狙い撃ちして掃討しようとしていたんだからね。だから我々は、今もゴスペルが暴走しないようにエネルギーを注ぎ続けているってわけ」

「エネルギーを……? どうやって?」

「今、ここに来る途中の広間を見ただろう?」

「はあ……」

 

 鳳は最初その意味が分からなかった。だが、次の瞬間、彼女が何を言っているのか、その意味を理解すると同時に、背筋が凍りつくような衝撃を受けた。

 

「ゴスペルに供給されるエネルギーってのは、人間の精神エネルギーなんだ。何故かわからないけど、我々人類の脳にはそれを生み出す力がある。そのエネルギーを使って、レプリカは肉体を強化したり、様々な超常現象を作り出したりしているわけだけど、その構造はオリジナルも同じなんだよ。

 

 当たり前だよね。オリジナルを手本にレプリカを作り出したのだから。

 

 でだ。あそこで寝ているたくさんのアルバイトは、そのエネルギーを補充するために協力してくれてるわけさ。精神エネルギーを生み出すには、脳が活性化されているほど効率がいいから、薬物を投与してその力を増幅している……要するに、モルヒネを打ってトランス状態になるほうがいいから、そうしているんだけど、でもそんなのいつまでも続けてはいられないじゃない?

 

 薬物の過剰摂取は確実に人の体を蝕んでいく。そして我々の人口もどんどん減っていく。今は薬物依存症の患者や、末期がん患者の人たちに協力してもらってなんとかなってるけど、今後どうなるかはわからない。だから、一日も早くデウスエクスマキナ・モードを解除したくて、武田くんにお願いしてるんだよ」

 

 鳳は頭を抱えた。阿片中毒になりかけた自分が言えることじゃないかも知れないが、現在の人類の追い詰められ方は流石にちょっと度を越している。きっと薬物の投与を受けているアルバイトの中には、どうせ人類が助からないと思って悲観的に協力している者も多いだろう。そしてそれは今後増えていくはずだ。

 

 それについても頭が痛かったが、もう一つ気になったのは、

 

「……どうして琥珀に?」

「サンダルフォンの所有者は、前世の武田くんだったんだよ」

「彼女が??」

 

 そう言えば、再生を受ける前の彼女は前世もドミニオンだったのだ。やよいは頷いて、

 

「知ってると思うけど、ゴスペルは使い手を選ぶ武器なんだ。ゴスペルは、本来の所有者が手に取れば立ちどころに応えてくれるけど、そうじゃなければいくら私が研究者でも絶対に使えない。で、前世でこれを使っていた記録がある武田くんなら、暴走を解除出来るんじゃないかって、こうして試してもらってるんだけど……これが全然駄目でね。あっはっは。

 

 ……まあ、無理もないのかも知れない。前世の彼女が最後にこれを使った時、サンダルフォンはデウスエクスマキナ・モードに移行しながらも不発に終わり、彼女はそれに責任を感じて壮絶な最期を遂げたっていうからね」

「壮絶な……最期?」

「そりゃあ目の前に魔王がいたんだもん。あてにしていたゴスペルが使えなくなったらひとたまりもないでしょう。生存者の話では、彼女はゴスペルが使えなくなっても、最後まで諦めずに部隊のみんなを守って戦っていたそうだよ。責任感の強い人だったんだろうねえ」

 

 やよいはしみじみと語った。鳳はそれを聞いて、なんとも言えない気分になった。

 

 刈り取りに抵抗すれば、上位世界で何かまずいことが起きるのはわかっていた。ゴスペル使用者が、魔王と戦っている最中だと言うことも、もちろん理解してたつもりだった……だがこうして、実際にそのせいで死んだという人を見つけて、しかもその相手が自分のよく知る人物だったと知って、彼は自分が本当は何もわかっていなかったのだと痛感した。

 

 もちろん、彼が彼女を殺したわけじゃないのはわかっていた。わかっていながら、自分は悪くないと開き直ることも、彼女に謝罪することも出来ないもどかしさがあった。

 

「はぁ~……主任さん。今回も駄目そうです。お力になれずすみません」

「そっかそっか。今回はこの人のついでに呼んだだけだし、それに、悪いと言えば研究者を名乗りながらどうすることも出来ない私の方が悪いんだから、あんまり気を落とさないでよ。あっはっは」

 

 やよいは軽い調子でそう言っていたが、落胆の色は隠せていなかった。彼女の背後を見やれば、あの阿片窟のような光景が広がっている。琥珀はそれを見て責任を感じるのだろうか、目を背けるようにくるりと回ると、また元の場所にサンダルフォンを収めようと、重そうにそれを担ぎ上げた。

 

 それがあまりにも重そうだったから、鳳は自然と進み出て彼女に手を貸した。

 

「ん……あれ?」

 

 ところが、そうしてサンダルフォンに触れた時、彼はふいに妙な違和感を覚えた。

 

 何となく、その内部で渦巻くエネルギーの流れがわかると言うか、それがどこで滞っているのかが分かるような、そんな気がしたのだ。

 

 まさかな? と思いつつ試しに集中してみると、彼はそこにもう一つの違和感があることに気がついた。手にしているサンダルフォンから重さを感じなかったのだ。

 

 琥珀と二人で持ち上げているから、彼女の方にばかり重心が傾いているのかも知れない。その可能性はある。だが、いくらなんでも軽すぎる……

 

 そう思って、琥珀から奪い取るようにそれを受け取った時、彼の脳裏に何か風景のようなものが過ぎった。それはだだっ広い空間に、ひたすら砂嵐のようにエネルギーが渦巻いているようなそんな光景……彼がこの世界へ渡ってくる際に通った、壊れたレオナルドの幻想世界。アリュードカエルマ世界の光景だった。

 

 それを見た瞬間、彼は理解した。

 

 これがあの時起こった刈り取り現象の元凶なのだ。そしてこいつは、もう決して手に入れることの出来ない情報を求めて、今もこうして刈り取りを続けているのだ。

 

「止めなきゃ」

 

 彼がそう思った瞬間。バチン! っとブレーカーが落ちるような大きな音が轟いて、鳳たちのいた部屋の電気が全て消えた。

 



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あんたは……凄いね

 広域戦略兵器メタトロンとサンダルフォン。その二丁のビームライフルみたいなオリジナルゴスペルは、約16年前にニューギニアで起きたレヴィアタン勢力との戦闘の最中に不発し、それ以来ずっと暴走を続けていた。

 

 具体的にはゴスペルに搭載されたイマジナリーエンジンが、低次元世界でシミュレートした魔王討伐の演算結果を刈り取ろうとし続けていたわけだが、鳳たちが抵抗したため低次元世界にはもはや吸い取るための情報はなく、ゴスペルは止めようが無くなっていたようである。

 

 このような不測の事態(バグ)に対して例外を投げられなかったのは、それが全能たる神の兵器であるからだとしたら、なんとも皮肉な話であるが、ともあれ、琥珀を手伝うつもりでサンダルフォンに触れた鳳は、その暴走の原因を察知し、すぐに止めなければと考えた。

 

 すると彼の願いが神に届いたとでも言うのか、その瞬間、アルバイトたちが寝転がる野戦病院みたいな大広間を含む、部屋の全ての電気が停止し、辺りは真っ暗闇に包まれた。突然の出来事に部屋は騒然となり、泡を食った主任エンジニア神楽やよいは素っ頓狂な声をあげた。

 

「なになに!? 一体何があったの? 電力供給は? ゴスペルは無事だよね?」

「わかりません! モニター全て停止しています」

「電力供給システム、応答ありません」

「内線から、全館の電力が停止している模様です」

「メタトロン監視システムから警告。このまま電力供給が行われなければ、72時間以内の暴走が予想されます」

「サンダルフォン、信号途絶……反応ありません!」

「ちょっとちょっと。復旧急いで!」

「間もなく予備電源に切り替わります。3・2・1……」

 

 オペレーターのカウントダウンと同時に、部屋に明かりが戻ってきた。とは言え、予備電源のせいか先ほどよりは明らかに照明は弱く、部屋は全体的に靄がかかったみたいに薄暗かった。それでも目が見えることに安心したのか、一時停止してた人々が一斉に動き出した。

 

 やよいはなにやら機械をひったくると、サンダルフォンを手にぽかんと佇んでいる鳳の下へ駆けつけ、ケーブルをペタペタと貼り付けた。きっと何かを測定するつもりなのだろうが、暫くするとその動きがピタリと止まった。

 

 彼女が覗き込むオシロスコープには、何の反応もないのだ。ゴスペルが動いているならそんな反応はありえないのだが、測定器が壊れてしまったのか、それともサンダルフォンに何か異常が起きたのだろうか……困惑しながら顔を上げると、彼女はそこにまた別の異常なものを発見した。

 

 サンダルフォンを手にする鳳が、その数十キロはある兵器を片手で軽々持ち上げているのだ。

 

「あなたのそれ……どうなってるの?」

「分かりません。ただ、なんとなく分かるっつーか。何言ってる分かんねえな」

「……もしかして、サンダルフォンになにかした?」

 

 やよいが問うと、彼は複雑そうに眉間に皺を寄せてから、

 

「きっと、止め……止めた? 止めました、多分」

「は?」

「ちょっとこれ、持っててくれる? 試したいから」

 

 鳳は眉間の皺をモミモミと指でつまむと、手にしていたゴスペルを琥珀とやよいに手渡した。ずしりとした重量が二人の腕に伝わってくる。こんな物を片手で持ち上げるのは、重量挙げの選手でもありえない。一体、どうやったらこうなるのかと、人々が唖然と見守る中、鳳はつかつかと壁に掛かるもう一つのゴスペル、メタトロンの前まで歩み出ると、背伸びしてそれに手を伸ばした。

 

 すると次の瞬間、また部屋の照明が明滅し、どよめきの中からオペレーター達の悲鳴のような声が轟いた。

 

「メタトロン、信号途絶! ……嘘でしょう? 本当に停止しているの?」

「主任! 今度は電力が過剰供給されています!」

「オリジナルへの電力カットして、アルバイトも止めて!」

 

 そのメタトロンを片手に騒ぎをぼんやりと眺めている鳳の下へ、複数のオペレーターたちがバタバタと駆けつけて、ひったくるようにそれを奪うと、見た目とは違い重量のあるそれを持ち上げきれずにごろりと転がった。

 

 やよいは下敷きになっているオペレーターを助けもせずに、もう周りは見えていないといった感じに、自分の調査に没頭し始めてしまった。

 

*********************************

 

 鳳の手によって16年以上も暴走をし続けていたゴスペルがあっさり停止するのを見るや、その場にいた人々はみんな感謝するより寧ろ気味悪がっていた。そんな中、一人興奮しながら現象を調査していた神楽やよいは、一通り好奇心を満たした後にようやく周りの様子に気づいたらしく、

 

「いけないいけない。取りあえず、エネルギー供給の必要が無くなったんで、今日のところはアルバイトの人達を帰らせてあげて。それから司令部にこのことを伝えて、神域にお伺いを立てるように。オペレーターのみんなは一応、このままゴスペルの監視を続けてちょうだい。あとは……」

 

 忙しそうに指示を飛ばす彼女を見て、鳳が今日はもう帰ったほうがいいかなと思っていると、いきなりガシッと肩を掴まれ、

 

「待ちなさい。君は今日帰れると思わないことだよ」

 

 彼女は不敵に笑うと、腕をグイグイと引っ張って、まるでお誕生会みたいに司令室の中央の席に彼のことを座らせた。

 

 オペレーターたちがパタパタと忙しなく歩き回る中を、手持ち無沙汰に肩身の狭い思いをしながら待つこと数時間、途中、色々と理由をつけて教官は逃げ出し、大広間にいた大量のアルバイトも去り、数人のオペレーターを残して、ようやく事態が落ち着いたところで、やよいは鳳たちを連れて自分の研究室へと帰還した。

 

 大広間を出てすぐの彼女の私室には、シーツに人形がくっきりと浮かび上がったベッドと、散乱する下着と、異常な数のエナジードリンクの空き缶が積まれており、とても人を招き入れるような環境では無かったが、彼女はまるで気にした素振りも見せずに鳳たちを招き入れると、ズザザーッとトンボをかけるように適当にスペースを作ってから、自分はずかずかと10台くらいのモニターが並んでいる机のアームチェアに腰掛けた。

 

 床にところどころ、黒い点々が見えるのはゴキブリの糞だろうか。この人に男だってバレたらまた面倒くさいんだろうなと思いつつ、転がっていた下着を視界から遠ざけるように放り投げ、鳳は覚悟を決めて床に座った。琥珀はそれを見て尻込みしていたが、逃げ出そうにも帰りの足が無いから仕方なく鳳の隣に座った。

 

 やよいは二人が床に落ち着くのを見計らって、タバコにシュバッと火を付けると、彼らに煙が掛かるのも気にせずにべらべらと話し始めた。鳳はその姿を見て、この人を女だとは思わないことに決めた。

 

「新型のゴスペルを作ったのがやって来るって言うから大した人だなと思っていたけど、君は私の想像を遥かに越えていたよ。まさかオリジナルへの適性まであるなんて。君は一体全体何者なの? 普通に考えて、まともじゃないよ」

「面と向かってそう言われると、そこはかとなくバカにされてる気分なんですが」

「もちろん褒めているんだよ! 職員たちは反応に困っていたみたいだけど、君がしたのはとんでもない偉業だよ? 人類が総出をあげて16年も解決しなかった問題を、一発で解決しちゃったんだもの。でも、不思議だなあ。ゴスペルは所有者を一人しか選ばないはずなのに、君は複数のゴスペルに適正があるなんて」

「いや、俺は別に適正があるわけではないですよ」

「え? だって君はあれを止めてみせたじゃないか」

「止めるのと使いこなすのとでは、全然意味合いが違うでしょう。例えば、犬だって訓練すればスイッチのオンオフくらい出来る。でも使いこなすことは出来ないでしょう?」

「ふむ……つまり、君はスイッチをオフにしただけと言いたいわけか。16年も誰がやっても出来なかったことなのに?」

「誤解しないでください。簡単だって言ってるわけじゃないです。あー、つまり……あなたはゴスペルが電力で動いてるわけじゃないのは、理解してますよね?」

 

 鳳がどのくらいの理解度があるのか探るように尋ねると、研究者としてのプライドを刺激されたのか、やよいは足を組み直してから少し真面目な顔つきで言った。

 

「ふむ……君がどういう答えを期待しているのか分からないけど。ゴスペルは神によって与えられる人間の精神エネルギーを物理変換する機械だ。神は我々人類に等しく力を与えてくれていて、その力をゴスペルは蓄え、必要な時に解放してる。身体強化や不可視の力などの超常現象が起こるのも、その神の奇跡の力と考えられている」

「なるほど……」

 

 どうやら殆ど何も教えられていないに等しいようだ。かつてカナンは人類を統制しやすいように、神は人間に何も教えてこなかったと言っていたが、それは神の死後も同じだったようである。ミカエルたちは、未だに人類に情報開示をしていないのだ。

 

 とは言え、それは傲慢でも怠慢でもなく、単純に元となる知識が足りないからだろう。この世界の人々は、だいたい中等教育を終えた段階ですぐに社会に出てしまう。生まれたときから、将来何になるか決められているから、自分の職業に必要ない知識は与えられないのだ。

 

 鳳が、そんな相手にどこまで話して良いものかと頭を悩ませていると、

 

「でも、私はそんなこと信じちゃいないけどね」

「え?」

「神が精神エネルギーを与えてくれているなら、神が死んだ今、私たちはゴスペルを使うことが出来ないじゃないか。だからこれはもっと別のとこから来る力なんだよ。例えば、高次元とか」

「おお?」

「高次元から来るから、私たちはその出どころがはっきりわからないんだよ。それは空間の歪みみたいな、何ていうかパラメータみたいなものだから」

「おおお!」

 

 伝えることは困難だと思っていたが、どうやら目の前の人には関係ないらしい。鳳はほっとため息を吐くと、彼女の言葉を肯定し、

 

「そうです。その高次元方向から来る力のことを、大昔の科学者は第5粒子(フィフスエレメント)って呼んでいたんです」

「第5粒子? 大昔の科学者だって?」

 

 やよいは目をパチパチさせながら続けた。

 

「驚いたな。私がこの話をすると、大抵の人は狂人でも見るような目つきになるのに、君は信じるのかい?」

「信じるも何も、それは事実ですから。丁度いい。新型ゴスペルのことが聞きたかったんですよね?」

 

 鳳はそう言うと、自分の腰にぶら下げていた筒を手に取り、宙に光の弾を作り出した。やよいはそれを見るなり、子供のように目を輝かせて奪い取ろうとした。

 

「ややっ! それは新型かい? 私に送られてきたのとは随分違うようだけど」

「自分用にカスタマイズしたもんで……後で好きにしていいですから、今は我慢してくださいよ」

「うーん、仕方ない」

 

 鳳はやよいがすごすごと引き下がるのを見てから、

 

「ゴスペル・レプリカの機能は千差万別ですが、基本機能として光球を作り出す機能があります。新型ではこの光球のエネルギーを段階的にすることで、複数の光球を重ね合わせ威力を倍増させるという仕組みを作りました。こんな風に」

 

 鳳がもう一つ光球を作って2つを重ね合わせると、光の球は最初よりも強く輝き出した。彼はその光の球をまた2つに分離すると、

 

「でも威力を変えて逆位相の光を作り出すと、2つは打ち消し合ってしまいます」

 

 鳳は今度は2つの球をぶつけて消滅させてみせた。その繊細な操作を見て、やよいは彼がエネルギーの流れがわかるといったのは事実かも知れないと確信した。鳳は、その様子をキラキラした瞳で見つめている彼女に言った。

 

「ところで、この光ってどうやって作り出してると思います?」

「え?」

「光には光源が必要でしょう。もしもこの光球の中心にそれがあるなら、実体を持たない光源とは何なのか? 更にこの光は四方八方に広がっていかなければおかしい。でも、光を増幅するには、その位相と指向性が一致する必要があります。すると、この光球の中心には光源がないことになる」

「……確かに」

「でも現に目の前の光球は重なり合うと威力が増す。でも、光源が無いならこいつはどうやって光ってるというんでしょうか?」

「もしかして……光源は別にあって、高次元から来てるのかな?」

 

 鳳は流石理解が早くて助かると頷いて、

 

「簡単に理解するために、2次元世界を通過する3次元の光を考えましょう。この光はレーザー光線のような指向性があって、一直線に2次元世界を突き抜けています」

 

【挿絵表示】

 

「このレーザー光線の向こうから、もう一つレーザー光線がやってきて、2つの光は糸鋸のように2次元空間を切り裂きながら移動し、真ん中で衝突し増幅します」

 

【挿絵表示】

 

「ところで、3次元のレーザー光線がこうして2次元空間に開けた穴は丸い円に見えますよね? じゃあ、4次元のレーザーが3次元空間に開けた穴はどう見えるでしょうか?」

「………………球だ」

「そうです。この光球は、元々高次元にある第5粒子エネルギーが、俺たちの住む3次元空間を通過する際に開けた穴なんですよ」

 

 故に、光球の正体はただの光ではなく、第5粒子エネルギーが3次元空間に溢れ出す際に発する光というのが正しいのだが、最初それがわからなかった鳳とミカエルは、新型を作るのに苦戦した。

 

 どうして光が増幅されないのかと考えた時、ベクトルを合わせる必要があると気づき、それが高次元なら可能であることに気づいて、ようやく新型は完成した。あの時、ベヒモスを撃退した光は、本当に火事場の馬鹿力で偶然に発見されたものだったのだ。

 

 鳳は続けた。

 

「この高次元方向から来る第5粒子エネルギーの流れを、俺は読むことが出来るんです。オリジナルゴスペルのイマジナリーエンジンは、このエネルギーを蓄えて放出することで、レプリカとは比べ物にならない威力を発揮しています。

 

 ところが16年前に不発に終わった2つのゴスペルは、蓄えたエネルギーを放出する事が出来なかったため、それが最初から無いものと勘違いして、外部から更なるエネルギーを要求し続けていたんでしょう。俺はその流れを止めて、イマジナリーエンジンに溜まったエネルギーを解放しました」

「どうして解放出来なかったんだい?」

「そうですね……高次元世界ってのがあるなら、低次元世界というのがあるのも理解できるでしょう?」

 

 やよいは頷いた。

 

「イマジナリーエンジンってのは、実はその低次元世界との境界なんですよ。デウスエクスマキナ・モードってのは、簡単に言えば、エンジン内の低次元世界にこことそっくりなシミュレーション世界を作り出して、魔王と戦っているという状況を再現し、戦わせ、その情報を戻り値として受け取っているんです。

 

 例えば、現実世界でドミニオンがレヴィアタン勢力1億個体と戦っている時、オリジナルはその1億の情報を低次元世界にコピーして、その世界の住人が全ての個体を倒すことに成功したら、その結果を情報として受け取ります。監視衛星も無いくせに、オリジナル・ゴスペルが友軍誤射も恐れずに広範囲の敵だけを倒せるのはそれが理由でしょうね。

 

 ところで、情報とはそれ自体がエネルギーですから、低次元世界に情報をコピーする時と、それを刈り取る時、二度のエネルギーのやり取りが必要です。これが一方通行になった時、ゴスペルは暴走するわけです」

「ちょ、ちょっと待って。それじゃ君は、私たちがイマジナリーエンジンにエネルギーを供給し続けていたのは、その低次元世界にレヴィアタン勢力との戦いを状況再現させるためだったというのかい?」

「そうですよ」

「それじゃまるで……この世界より高次元にも、似たような世界があると言ってるようなものじゃないか。だって、精神エネルギーは高次元からやって来るんだろう?」

「ええ、そうです。いや、そうかも知れませんよ。俺たちが低次元にシミュレーション世界を作ったように、この世界よりも高次元に、ここと似たような世界があるのかも知れない」

 

 鳳が表情も変えずにそう言い放つと、やよいは流石に苦笑を浮かべてそれをすぐに否定しようとしたが、彼女の科学者としての勘がそれを否定しきれなかったのか、暫くして渋い顔をつくると、

 

「信じられない……いや、信じるしかないんだけど……君は本当に人間なの? どうしてそんな、天使しか知らないようなことを知ってるんだい?」

「それは……」

 

 まさかルシフェルから聞いたとは言えない。鳳は少し考えてから、

 

「ミカエルに聞いたんですよ。新型を作る時に、色々と」

「ミカエル様に? 人間が直接四大天使と対話するなんて、流石に信じられないんだけど、本当なの?」

「本当ですよ」

 

 その質問には鳳ではなく、隣で二人のやり取りを黙って聞いていた琥珀が答えた。

 

「マダガスカルでベヒモスを撃退したって話は聞いてますよね」

「もちろん、それがヒントになって新型が作られたんだって……まさか」

「そこにいたのがその人です。私たちは、その人の指示通りに動いてベヒモスを撃退しました。もしも彼がいなかったら、今頃どうなっていたか……」

「驚いたな……なんでそんな人がドミニオンの訓練校なんかに通ってるの?」

 

 やよいは目を丸くして鳳のことをまじまじと見ている。

 

「まあ、そういう縁があって、ちょっと四大天使と話をする機会を得たんですよ。で、ベヒモスを倒せたんなら、今度はレヴィアタンも何とかしろってミカエルに言われて、こうしてケアンズの訓練校に潜り込んでいたわけです」

「じゃあ、オリジナルを見学に来たのは単に知的好奇心ではなくて?」

「いや、それももちろんありますけど。もしかしたら使用するかも知れないので、その確認ですね。今の所はなんとも言えませんが」

「ふーん」

 

 やよいは感心したように頷くと、組んでいた足を下ろして太ももの間に手を付き、椅子に前のめりになりながら言った。

 

「そういうことなら私にも協力させてよ。お陰様で仕事が一つ減っちゃったから、その分好きなことに時間を使えるし」

「そりゃ助かります」

「なにかして欲しいことあるかなあ。基地のゴスペル関係なら、大抵のことには口を出せるけど」

「それなら新型の配備を急いでくれませんか。戦術科ってとこに配属されたんですけど、作戦を立てるにもそいつがあるとないとで大違いでしょうから」

「わかった」

「後は、ここにいる間、またちょくちょくオリジナルの調査にも来たいんで、その時はよろしくおねがいします」

「もちろん。何なら君、こっちに配置変えして貰ったら? 訓練生してるより自由に動けると思うけどね」

「追い出されたらそうしますよ。なんせ今日編入したばかりなんで」

 

 とは言え、その日は案外近いかも知れない。ケアンズに来て二日目、JKにイジメられたりして敵しかいないと思っていたこの地で、こうして鳳は初めての協力者を得た。

 

********************************

 

 神楽やよいとの対話はその後日付が変わるまで続いた。午後の講義をすっぽかして来たのだから、12時間以上はぶっ通しで話し続けていたことになる。やよいは押しも強ければ話も一方的で、完全に帰るタイミングを逸してしまった格好だったが、つまらなそうな顔でひたすら黙っている琥珀と板挟みになって、途中からは受け答えもぞんざいになっていた。

 

 ようやく解放されたのは日付が変わって暫くした頃、あまりにも一方的に喋り続ける彼女に負けじと鳳も深夜のテンションでマシンガントークをぶちかましていたら、突然糸が切れたように彼女が突っ伏してそのまま眠ってしまったのだった。

 

 他人の話はそこまでして聞く気ねえのかよ恐ろしいやつ……と思いもしたが、確か新型が届いてから徹夜だと言ってたから限界が来たのだろう。仕方ないので、人形がくっきり浮かんでいるベッドに設置して部屋を出る。

 

 連れてきてくれたあやめ教官も帰ってしまったことだし、山の上では身動きがとれないのでどうしたものかと思っていたが、受付に常駐していた警備兵に聞いたら仮眠室に案内してくれた。彼女もオリジナルが停止したことを聞いていたので、道中ありがとうと労われた。もしかしてケアンズに来て優しい言葉を掛けられたのってこれが初めてじゃないか?

 

 仮眠室はパイプベッドが6つ並んでいる病院の大部屋みたいなところだった。先客は無く、琥珀と二人っきりになってしまい、男女くらい分けろよと思ったが、そもそもこの世界に男女の概念はないのだ。まあ、今更JK相手に性欲を持て余したりもしないから特に問題ないだろう。

 

 続きのシャワー室で交互にシャワーを浴びてから、適当なベッドにごろりと寝転がった。間仕切りのカーテンを閉めるとすぐ隣のベッドに琥珀が入る音が聞こえた。6つもあるんだから何も隣同士に寝ることもないだろうにと思いつつ、ウトウトしていたら、その琥珀が話しかけてきた。

 

「あんたは……凄いね」

「ええ?」

「天使様と対等に渡り合ったり、研究者も知らないようなことを知ってたり、オリジナルだって止めちゃった。僕は適合者のはずなのに何も出来なかった」

 

 琥珀の声がしんみりと部屋に響いた。

 

「……瑠璃が、あんたのことを好きになったのも分かる気がするよ」

 

 何か自信喪失するようなことをしてしまっただろうか。謙遜するのは簡単だろうが、下手に刺激すると余計に落ち込んでしまいそうなので何も言えなかった。

 

 こうして彼女と二人っきりになるのは初めてじゃなかろうか。そう言えば島で腹パンしちゃったこともあったが、謝罪したほうがいいだろうか。そう思いもしたが、瑠璃のこともあって、とにかく気まずくて仕方なかった。

 

「ねえ、あんたは……飛鳥さんは、その、精神エネルギーの流れが分かるんでしょう?」

「ん? ああ、第5粒子エネルギーね」

「それって、僕にも出来るのかな?」

 

 隣のベッドで彼女が起き上がる音が聞こえた。きっと、カーテン越しにこっちを見ているのだろう。そっちの方を見たところでどうしようもなかったが、鳳はごろりと寝返りを打つと、

 

「人によって向き不向きがかなりあるけど、本来誰でも習得可能なはずだよ。ゴスペル・レプリカを使えるんなら、まあ、まず間違いない」

 

 鳳がそう返すと、琥珀は数秒間黙りこくった後、何かを決意したかのような声で神妙に答えた。

 

「だったら、僕にその方法を教えてくれないかな?」

「ええ?」

 

 多分、そう言い出すんじゃないかと思ってはいたが……

 

「俺は人に教えられるほど、この力が得意ってわけじゃないんだ。だから君の力になれるなんて、確実なことは言えない。正直、パースに帰ってからミッシェルさんにでも習ったほうがいいんじゃないかな?」

「でも、あんたはここに残るんでしょう? ここで、オリジナルを使って、レヴィアタンを倒すんだ」

「ああ……オリジナル・ゴスペルを使うかどうかは分からないけど」

「僕は、サンダルフォンを使えるようになりたいんだ」

 

 なるほど、そういうことかと鳳は納得した。彼女が自信を失ってしまったのは、本当なら自分が使うはずの武器を、鳳が目の前で使ったからだ。それはあの時も説明したとおり、使ったのではなくて単に止めただけなのだが、彼女からしてみれば、自分の尻拭いを鳳にされてしまったように見えたのだろう。

 

 正直に言えば、鳳としてはあのゴスペルをまた起動することは避けたいのであるが……何しろ、あれのせいでアナザーヘブン世界は一度滅びかけたのだ。だが、それでオリジナル・ゴスペルの所有者を味方につけることが出来て、そしてなにより彼女が自信を取り戻せるというのなら、それも悪くないかも知れない。

 

「……わかった。いいよ」

「本当に?」

「ああ。でも、今言ったとおり、絶対とは言い切れないぞ? あと、俺はレヴィアタンをなんとかしなきゃなんない。そっちを優先するから、どうしてもおまえのことは後回しになると思う。それでもいいなら」

「それでいいよ。ありがとう……」

「オッケー。それじゃ寝ようぜ。明日も普通に講義があるのに、もう遅刻確定だもんな。やんなるぜ」

 

 鳳がそう言ってごろりと背を向けると、カーテン越しの琥珀もベッドに入ったようだった。明日からは訓練校の講義を受けて、放課後はレヴィアタンの調査だけじゃなく、琥珀の訓練にも付き合わねばならなくなった。ここのオリジナルももっと調べておきたいが……その間も瑠璃信の嫌がらせも続くだろうし、思ったよりも忙しくなりそうだった。

 

 しかし、こんな調子でレヴィアタンを倒すことは本当に出来るんだろうか? アズラエルの話では相手は1億を超える大所帯。その全てを倒しきらない限り、いくらでも繁殖して、また元に戻ってしまうのだ。

 

 サンダルフォン・メタトロンの二丁には、それを手っ取り早く解決出来るデウスエクスマキナ・モードがあるが……そいつを使えばまたアナザーヘブン世界のように、どこかの世界が犠牲になるだろう。出来ればそれは避けたかった。

 

 そんなことを考えながらウトウトしていると、

 

「……飛鳥さん。僕は、瑠璃のことが、好きなんだ……」

 

 背中で琥珀のつぶやくような声が聞こえた。そんなこと知っているし、二人が上手く行きゃいいとさえ思っていたが、そんな台詞はもちろん言えるわけがなかった。

 

 鳳は黙って寝返りを打った。考えなきゃならないことは山積みだ。マダガスカルを出る時は、精子を出してスッキリ解決と、それくらい甘いことを考えていたわけだが、これからどうなってしまうのだろうか……自分がどこへ向かっているのか、鳳はちょっとわからなくなっていた。

 



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雄しべと雌しべが云々かんぬん

 翌朝、訓練校へ戻るために、二人はアルバイトが乗ってくるバスを待っていたのだが、始業時間が一緒なんだからそんなものに乗って帰れば当たり前のように遅刻は免れなかった。

 

 直行するという琥珀と別れ、自分は一旦宿舎へ戻り、なんかちょっと焦げ臭い自室でカバンに教科書を詰めてから、食堂が閉まっていることにがっかりしながら宿舎を出た。今朝もバズーカが来たんだろうか。

 

 職員用の昇降口でスリッパに履き替えて、普通科の校舎を突っ切って教室を目指す。連中も流石に講義中は静かのようだ。

 

 邪魔をしては悪いと思い、教室の後ろの扉からこっそり入ろうとしたのだが、鳳が扉を開けるや、中に居たクラスメイトたちが一斉に振り返った。音が大きかったわけじゃなく、中が真っ暗だったから、急に明かりが差してびっくりしたのだろう。

 

 教室には暗幕が掛けられていて、黒板にはスクリーンがぶら下がっていて、何かの上映中のようだった。教官は鳳が入ってくると、やれやれと言った感じに丸めた教科書でプロジェクターを停止し、

 

「初日から演習をサボった奴が居るそうだが、今日は遅刻か、アスカ・シロ? 編入したばかりでこんなにやらかすなんて、我々も舐められたもんだなあ」

「はっ! 申し訳ありません!」

「あやめ教官から事情は聞いてるよ。早く座りなさい」

 

 教官は教科書をメガホンみたいにポンポン叩きながら、空いてる席を指した。扉を閉めて、鳳が着席したのを確認すると、彼女はまたプロジェクターのスイッチを押した。

 

 スクリーンには女性の裸体が映し出されていて、その画像の前でポインターを持った眼鏡の女性が何かを解説しているようだった。体温がどうだの周期がどうだのと言っているから、一体何を見せられているんだろうと思いきや、月経についての解説ビデオのようだった。

 

 まさかこんな小学校の保険体育みたいなことをするとは思わず面食らってしまったが、一応教育機関だからこういうこともきっちりカリキュラムに組み込まれているのだろう。

 

 とは言え、この教室にいるのは半分以上が社会人経験者で平均すると年齢は30前後である。と言うか自分は男だし、こんなものを見せられても仕方がないだろう。なんだか急に女子校に侵入した犯罪者のような気分になってきたなと、内容そっちのけで周囲の様子を窺っていたら……本番はそれからだった。

 

 月経ビデオが終わって画面が切り替わったと思ったら、今度はスクリーンに、分娩台に乗せられた女性が映し出された。顔はカーテンの向こうで見えなかったが、下半身は丸出しで、何一つ隠すものはなく、あそこはおっぴろげである。きっと共学校なら、今頃男子はグラウンドでサッカーをやってるころだろう。

 

 まさか出産ビデオを見せられるとは……ますます自分は場違いだなと思って鳳がソワソワしてると、その予想は少し外れていた。

 

 分娩台の横には妊婦のお腹のエコー画面があり、その中央には頭でっかちで目玉の大きい胎児が映っていた。詳しいことは分からないが、まだ妊娠初期だろうか。あれ? それじゃあまだ生まれないのに何やってんだろうと思っていたら、間もなく医者が何やら不穏な掻き出し棒を持って現れ、妊婦のあそこを広げて漫然と中に突き刺した。

 

 これは出産じゃなくて堕胎を見せられているんだ。

 

 それに気づいてショックを受けていると、エコー画面に映し出された胎児に、さっき医者が突っ込んだ棒が迫ってくるのが見えた。すると、へその緒が胎盤に繋がったままで、まだ人の形ですら無い小さな生き物が突然動き出し、必死に抵抗し始めた。小さな手をバタバタ動かし、棒から逃れようと体をよじっている。

 

 もちろんまだ筋力も無くて、実際には全然動いてなかったが、それでも鳳にはそれが必死に暴れてるように見えた。だが逃げ場のない母胎の中で、それはあっという間に引っ掻き棒に捕まり掻き出された。

 

 昨晩は夜中まで付き合わされて殆ど寝てないのもあった。パースから移動移動の連続で疲れが取れてないのもあった。クタクタなのに朝食を取りそこねたのもあった。

 

 その場面を見ているうちに、鳳の胃袋がピクピクと痙攣し始めた。そして間もなく、母親の膣から真っ赤な胎児が掻き出されるシーンが映し出されると、

 

「おええええええぇぇぇぇーーーーーーっっ……!」

 

 彼は耐えきれなくなって吐き出した。ガンガンと頭が痛み、視界がぼんやりしてくる。

 

「わーっ! 教官! 飛鳥さんが吐きました!」

 

 という現状報告と、誰かの笑い声が頭の中でこだました。

 

 多分、空腹で貧血を起こしていたのだろう。そんな時に気持ちの悪いビデオを見せられて、彼の体はついに限界を迎えてしまったらしい。

 

 そして彼は騒然とする教室のど真ん中で突っ伏した。

 

***********************************

 

 気分は本当に最悪だった。空きっ腹で吐いたせいで、胃の中にはろくに何も入ってはおらず、酸っぱい胃液が喉を逆流して今もヒリヒリしていた。ビデオなんて見ている場合ではなくなり、教官に呆れられながら保健室送りになって、午前はそれで潰れてしまった。

 

 そんな状態では昼食も食べる気にはなれず午後を迎えてしまったが、この訓練校は基本的に午後はまるまる戦技教練に当てているらしく、空腹のまま激しい運動をすることを余儀なくされた。

 

 昨日、いきなりサボってしまったお陰で、訓練教官の関心を引いてしまって風当たりが強かった。恐らく、午前の騒動を聞かされているのだろうが、寧ろ知っているからか、教官は罰と称して鳳一人だけにマラソンを命じ、一周800メートルのトラックを5周もさせられた。空きっ腹にこれは響く……

 

 それにしても、元の世界で切った張ったを繰り広げてきたわけだから、グロには耐性があるつもりでいたのだが、まさかこんな弱点があるとは思わなかった。鳳はどうやら、無抵抗の小さな命が、一方的に略奪されるのを見るのが苦手らしい。いや、これが魚だったり、なんなら他の哺乳類でもここまで抵抗は無かったろうが、それが人間だと途端に駄目になるようだ。

 

 それもこれも、親になったからかなあ……などとしみじみ思いながら無心でトラックを回っていたら。いつの間にか5周が過ぎて罰を終えていた。丁度他の訓練生たちも準備運動を終えたところだったらしく、フラフラになりながら合流すると、教練のアシスタントとして参加していた瑠璃がタオルを持って駆け寄ってきた。

 

「白様。大丈夫ですの? ささ、こちらをどうぞ。私のタオルを使ってくださいな。洗いたてですわー!」

 

 その台詞がグラウンドに響くなり、訓練生の一部の体温が若干上がったような気がした。主に瑠璃信のいる辺りが、メラメラと陽炎のように揺れている。

 

「なんだなんだ、転入生はもうモテモテか! このこのー、スケコマシがー!」

 

 訓練教官はそんな事情を知ってか知らずか、いや多分知ってて面白がって近づいてくると、

 

「今日はこれより徒手格闘訓練を行う。俺たちは魔族と戦う時、普通はゴスペルの力で身体強化を受けているから、こんな訓練は必要ないと思うかも知れない。だが、いざ敵を前にした時、仮に身体強化を受けていたところで、俺たちの体は咄嗟には動かないものなのだ。そうならないよう、普段から訓練を続けている必要がある。体術はその基本中の基本、無駄だと思わずにいざという時のためにしっかりと学んでおけよ」

 

 教官はそこまで言うと、わざとらしく左右をキョロキョロ見渡してから、

 

「それでは、誰かに模擬演習のお手伝いをして貰おうか。そうだなあ……お! ここは一つ、モテモテの転校生に実験台になってもらおう。誰か、こいつに技を掛けてみたいというのがいたら手を挙げるように」

「はいはいはい! はーい!!」「私が! 私が!!」「是非私にっ!!」

 

 その瞬間、群衆の中でメラメラと炎を燃やしていた瑠璃信たちが、血走った目つきで我先にと手を挙げた。その本気で殺しかねない迫力に、関係ない他の訓練生たちが若干引いている。

 

「そんなにがっつかなくても、全員順番にやらせてやるから」

 

 なんだそのエロビデオみたいな台詞は。訓練教官は、見た目こそ世界最強のくせに、中身は世界最低のようだった。どうしよう……こっちから指名してこいつ黙らせてやろうか。でも、こんなんでも一応女性だしなあ……と尻込みしていると、その時、群がる瑠璃信の向こうから、凛とした声が響いた。

 

「ちょっと待った、教官! 飛鳥さんの相手なら、僕にやらせてください」

 

 振り返れば、瑠璃信たちをかき分けて、颯爽と琥珀が現れた。その姿を見て、騒ぎを遠巻きに見ていた訓練生たちが、きゃあと色めきだつ。

 

 琥珀と瑠璃は公認(本人未許可だが)の仲であり、その琥珀が瑠璃を巡って鳳に挑むというシチュエーションが彼女たちを刺激したのだろう。これには瑠璃信たちもまんざらでも無いらしく、さっきまで鳳を殺す順番を巡ってじゃんけんをしていたのにすんなり引っ込んだ。

 

 それはいいのだが、一体彼女はどういうつもりなのだろうか……? 教官も想定外だったらしく、

 

「君は指導助手の……琥珀だったっけ。君がお手本を見せてくれるっていうのか?」

「はい。こんな茶番なんかしなくても、魔族と戦うってことがどういうことか、実戦を見せてあげたほうがいいと思って」

「優秀な卒業生の君が言うなら反対する理由はないが……一体何をするつもりだ?」

 

 突然乱入してきた琥珀に対し、教官がぽかんとしながら聞き返すと、彼女はそのまま黙って鳳の前に進み出るなり、腰に佩いていたゴスペル・レプリカを抜いた。琥珀のゴスペルは長剣……その切っ先が鳳の眉間を真っ直ぐ狙っている。

 

「おいおいおい!! 実戦を見せるって、いくらなんでも丸腰の相手にゴスペルを抜くやつがあるか!」

 

 その姿を見るや、流石の教官も焦って琥珀のことを止めようとするが、

 

「その丸腰の相手に、僕とジャンヌ隊長の二人がかりでも敵わなかったんですよ!」

 

 琥珀はそう叫ぶなり、問答無用で鳳に飛び掛かってきた。

 

 剣先が喉元に吸い込まれるように伸びていく。それを見ていた群衆の誰もが死んだと思ったその瞬間、ギンッ! と金属を弾く音が響いて、鳳の姿が不意に消えた。彼は唖然としているギャラリーの死角からまた不意に現れると、体勢を崩していた琥珀の背中にポンと軽く手刀を当てた。

 

 瞬間、琥珀の体が加速して吹っ飛んでいく。本当に軽く触れただけなのに、どうなってるのかとギャラリーが驚いている前で、彼女はゴスペルの身体強化能力で辛うじて踏みとどまり、ざざーーっと砂煙を上げて滑りながら体勢を整え、また鳳に向かって全速力で飛び掛かっていき、無数の突きを繰り出した。

 

 その剣先は速すぎて、ほとんど誰の目にも留まらなかった。だが、そんな攻撃を鳳は流れるような動きで躱すと、すーっと彼女の懐に潜り込んで、その腕を掴んで一気に羽交い締めの体勢に持ち込んだ。

 

「……おい、いきなり何しやがんだ」

 

 鳳が彼女にしか聞こえない小声で囁くと、琥珀は彼のことを振りほどこうと藻掻きながら、

 

「瑠璃のファンの相手で大変そうだったから。あんたが強いってわかったら、もうちょっかいかけてこないでしょう?」

「そうかも知んないけど……」

「それに、本当は実力がある人が侮られているのを見てるのは不愉快なんだ。僕の沽券にも関わる」

「きゃー! 二人共頑張ってー!」

 

 ギャラリーが無言で見守る中、瑠璃の無邪気な声だけがグラウンドに響いている。琥珀はそんな彼女のことを横目でちらりと見てから、

 

「ファンの嫌がらせで、僕の訓練を疎かにされても困るしね。精神エネルギーの使い方を教えてくれるんでしょう?」

「……そうだな。目立つことよりも、身動きが取りづらくなることの方がまずいか。悪いな、こんなことに付き合わせて」

「そう思うんなら、今回は譲ってよねっ!!」

 

 琥珀は鳳を振りほどくと、そのまま腰に乗せて跳ね上げるように彼の体を宙に飛ばした。鳳が空中でひらりと回転し着地体勢に入ると、琥珀はその着地点目掛けて追撃を仕掛けてくる。

 

 鳳はその斬撃をギリギリで躱すと、地面をゴロゴロ転がった反動で飛び上がって着地し、後ろ向きに滑りながら琥珀との距離を取った。彼女のゴスペルの白刃が陽光を浴びてキラリと光る。

 

「譲れって、それ……斬られろってことじゃねえか!!」

 

 流石にそれは勘弁願いたいので、どう収集をつけるべきか彼が頭を悩ましていると、それを隙と見て取った琥珀が今日一番の速度で突っ込んできた。鳳は慌ててその剣先を白刃取りの要領で掴むと、そのまま体重を乗せて突き進む彼女をいなすつもりで、ぐいっと手首を返した。

 

 その瞬間、反動で手首を捻られた形になってしまった琥珀の手がゴスペルから離れ、まるで空気投げでも食らったかのように、突然彼女の体が面白いように宙に吹き飛んでいった。

 

 身体強化を失った彼女は上手く受け身を取れずに、そのままドスンと地面に落っこちてしまった。砂煙を上げながら地面を転がる彼女の体が変に曲がって見え、鳳は血相を変えて彼女の元へと駆け寄っていった。幸いなんともなかったようだが、あちこちに擦り傷が出来てて痛そうだった。

 

「おい! 大丈夫か!?」

「いてててて……譲ってくれって言ったのに」

「怪我してないか? 上手い落とし所が見つからなくって」

「やれやれ、手加減されてこれか」

 

 鳳が腕を差し出すと、琥珀は苦笑いしながらそれを掴んだ。さっきまでの騒ぎはもうグラウンドのどこにもなく、そんな二人のことを取り囲むようにしながら、大勢の訓練生たちが冷や汗を垂らしながら凝視していた。桔梗のうんざりするようなため息と、瑠璃の一人だけはしゃいだ声が聞こえてくる。

 

 その後、徒手格闘訓練で彼に挑んでくる訓練生はいなかった。これでイジメも少しは緩和されるといいのであるが……しかしこの程度で大人しくなるほど、女子校は甘っちょろい場所ではなかったのである。

 



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暗中模索の日々

 琥珀と大立ち回りを演じた後……いじめはより陰険になっていた。

 

 鳳が強いということが発覚して、直接手を出しづらくなった瑠璃信たちは、それならばと間接的に嫌がらせしてくるようになり、結果的に鳳の苦労は大して変わらなかった。琥珀としては鳳のことを助けたつもりだったのだろうが、女子校とはげに恐ろしいところである。

 

 とは言え、その方法は物を隠したり、SNSで陰口を叩いたり、未必の故意で殺そうとしてきたりと、直接的では無くなったから、プライベートな時間が確保出来るようになった分だけ、トントンだろう。(いや、本当にそうだろうか?)彼女らは鳳に危害を加えたいのだが、自分の関与は否定したいのだ。尤も、それはバレバレなのだが。

 

 取りあえず、嫌がらせは宿舎に居る時と学校に居る時だけ気をつけておけば、後は概ね平和だったので、レヴィアタン討伐のための仕込みで色々動く邪魔にもならないので、もう放置することにしていた。ぶっちゃけ、自室に居る時が一番気が休まらないのはどうかと思うが、早朝バズーカが無くなったのだけは地味に有り難かった。

 

 さて、そんな嫌がらせを受けつつ、レヴィアタン討伐のための準備をせっせと続けていたのだが……正直なところ、経過はあまり良好とは言えなかった。

 

 具体的に言うと、相手はとにかく大勢力だから、戦力になりそうな人材を出来るだけ多く集めようと時間がある限り探し回っていたのだが、困ったことに鳳と互角に戦える人間なんて、ジャンヌを除けば基地司令くらいしかいなかったのだ。

 

 見た目は人類最強な教官ですら、現代魔法で身体強化した鳳には勝てず、それもゴスペルを使っての戦闘訓練でなのだから、そんなのをいくら集めても、到底レヴィアタンに勝てるとは思えなかった。正直なところ、居ないよりマシと言った程度で、期待は全然出来そうもない。

 

 他に使える人材としてはゴスペル研究者の神楽やよいの存在は有り難かったが、彼女が直接戦えるわけでもなく……新型ゴスペルは着々と前線に配備されていたが、はっきり言って戦力の増強は微々たるものとしか言えなかった。

 

 というのも、これまで何度も触れている通り、ドミニオンには戦術がないのだ。ドミニオンという軍隊は基本的に専守防衛に特化しており、攻撃という概念は殆ど持っていない。だから新型を手に入れても、それを上手に活用するアイディアがなく、現状の防衛用途に用いるのであれば、旧式で十分だと言って憚らない指揮官までいた。

 

 鳳の配属された戦術科も今年新設されたばかりで、機能するにはまだ数年は時間がかかるだろう。訓練生の中に諸葛孔明のような天才がそう都合よく転がっているわけもなく、作戦面でも鳳の助けになるような人材は見当たらなかった。

 

 そんな具合に、決め手がないまま学校生活はダラダラと続き……

 

 その間、瑠璃がしょっちゅう鳳にアプローチをかけに来て、それを桔梗と瑠璃信たちが邪魔し……

 

 琥珀は空いた時間を見つけてはストイックに訓練していた。

 

 多分、鳳を相手に目を輝かせている瑠璃の姿を見たくないのもあっただろう。かつて自分が死の間際に握っていたというサンダルフォンを、また使えるようになりたいと言って鳳に師事した彼女は、現代魔法を習得しようとして必死だった。

 

 その真っ直ぐな姿勢は好感が持てたし、肝心のレヴィアタン討伐に行き詰まって鳳も時間があったので、可能な限り彼女の訓練に付き合っていた。と言うかほぼ毎日だったのではないか。

 

 そのせいか、この時期一番仲良くなったのは琥珀だったかも知れない。ボーイッシュな彼女は、優秀な弟子としても、友人としても、この女しか居ない世界ではとても付き合いやすかった。でもだからこそ、そんな彼女に対する負い目があった。

 

 いい加減、鳳が鈍感主人公だったとしても、三人の関係性がおかしなことになっているのはわかっていた。自分のせいではないとは言え、結果的に瑠璃のことを取ってしまったのは、琥珀という新たな友達に対する裏切りのように感じていた。

 

 瑠璃が嫌いなわけではない。可愛くないわけでもない。だが正直なところ、彼女とどうこうなるよりは、琥珀に頑張ってほしい気持ちの方が強かった。それは面倒事を琥珀に押し付けたいからなのだろうか。それとも、彼女のことを友達として気に入っているからだろうか。

 

 一番の理由は、やはり鳳が妻帯者であることだろう。彼には帰る場所があり、愛する人達がいるのだ。それに、このままいけば、アリスとの約束を破ることになる。それがずっと後ろめたかった。

 

 そんなこんなで、レヴィアタン討伐に何の打開策も得られないまま、いっちょ前に色恋沙汰の(もつれ)ればかりが広がっていき、気がつけば2ヶ月もの時間が経過してしまった。

 

 その間、熱帯に近いケアンズの気温はどんどん上昇し、コンクリートで固められた地面の照り返しが、まるで鉄板の上で焼かれているかのように熱くなっていった。

 

 やはり、太陽光線を遮るものの無い場所では分が悪いからか、水棲魔族の出没情報は少なく、訓練校のある基地周辺では殆ど聞かなくなっていた。だが、基地の目の前にあるマングローブがそうであるように、巨大なオーストラリア大陸の海岸線を全てコンクリで埋め立てるわけにもいかず、ケアンズから少し離れた場所には魔族はよく現れているようだった。

 

 そんな魔族が、基地に近い場所に営巣を始める時があって、流石にそんな物は見過ごせないから、大規模な作戦が決行されたことがあった。尤も、作戦と言っても、単に目撃情報のあった場所に大勢で出かけて行って、見つけ次第射殺という、戦術もへったくれもないようなものであったが、それでもなんとかなっているのは、やはりゴスペルという兵器が優秀なお陰だろう。

 

 戦術科の鳳もそんな作戦に観戦武官として何度か同行させてもらったことがあったが、ドミニオンの隊員に被害が及ぶことは一度も無かった。その事実からして、まだ陸上では人間の方に分があると考えていいだろう。

 

 ただ、気になる点も一つあった。そうやって営巣を始めた水棲魔族を蹴散らした後、死体検分で見かけるのは、いつもインスマウスだったことである。

 

 アズラエルが言うには水棲魔族であるインスマウスとオアンネスの違いは性別だけで、営巣をするならどちらか一方に偏ることはないはずである。それが偏っているのには理由があるはずだ。

 

 インスマウスは頭の出来が悪く、ワーカーであるオアンネスとは違って、基本的に生殖にしか興味を示さないらしい。それが営巣をしていると言うのは、どういう意味があるのだろうか。そしてオアンネスはどこにいるのだろうか。正直、気にし過ぎかも知れないが、理由がわからない以上は気にかけておいた方がいいだろう。

 

 11月も半ばを過ぎて、日差しはますます強くなっていった。

 

 そう言えば、ここは南半球だから四季が逆転しているわけだが、それ以上にグレゴリオ暦がまだそのまま使われていることは感慨深かった。

 

 その頃になるとカリキュラムも進み、訓練生たちも段々と軍人らしくなってきていた。恋愛脳みたいに毎日毎日、お姉さまお姉さま言っていた連中も、訓練を積んで自在にゴスペルを操れるようになってくると、いよいよ卒業を意識してきたのかも知れない。

 

 だが、そんな連中がある日を境に、また上の空でそわそわし始めてきたので、一体どうしたんだろうと思っていたら、クリスマスが近いからだと琥珀が教えてくれた。この訓練校は来月頭にあるジャングル戦闘訓練を終えたら、時期的にクリスマス休暇に入るらしい。忘れていたがこの世界の人々はみんなキリスト教徒なのだ。

 

 そのクリスマスには毎年みんなで集まってパーティーをやるらしく、姉妹の契りのパートナーを作るならこれが最後のチャンスなので、彼女らも気合が入っているのだろう。尤も、その前には過酷なジャングル訓練が待っているので、アメとムチの両方で板挟みになった彼女らは上の空になっていたようだ。

 

 ジャングル訓練とは、メラネシア奪還を想定して行われる、かなり実戦的な訓練であるそうだ。この世界で人間が住んでいるのは、基本的にオーストラリア大陸だけである。だから人類が攻勢に出たとしても、整備された街などは存在せず、常に森林戦であると考えて間違いない。故に、ジャングル訓練が必須なわけだ。

 

 そんな事情もあって、訓練は卒業試験も兼ねており、この緩い訓練校にしては相当厳しい内容らしい。聞けば落第者が出るのは当たり前で、毎年重傷者まで出しているらしく、正直、今までのお嬢様学校のノリでは、とても突破することは出来ないだろう。しかしここで落第したら今までの苦労も水の泡なので、あのお気楽なJKたちも相当プレッシャーを感じているようだった。

 

 ともあれ、この訓練さえ終わってしまえば、すぐにクリスマス休暇に入って、彼女らは晴れて自由の身である。休暇明けは配属先を決めたり、新生活のための準備に費やされ、もう体を張った教練は殆どないそうである。だから鳳も、その頃までにはレヴィアタンをどう討伐するのか、作戦を考えねばならなかった。

 

 ミカエルは前線の戦力もあてにしろと言っていたが、正直なところ、この2ヶ月間見てきた限り、現状のドミニオンが攻勢に転じるのは不可能と断言せざるを得ないだろう。訓練校の生徒はもちろん、既存の部隊が全軍を上げても、こちらから打って出るのは無謀としか言えなかった。

 

 レヴィアタンは女王を倒して終わりではない。群れ全体を制圧しなければ、また新たな女王が誕生してしまう。故に、鳳一人が気を吐いたところでどうしようもない。

 

 面制圧兵器であるメタトロン・サンダルフォンを使用すれば、いくつかの群れを掃討することも可能だろう。ミカエルは、オリジナル・ゴスペルも原発も、どちらも危険だが必要な装置だと言っていた。確かにそうかも知れないが……鳳はそれを止めに来たのだ。その自分がそんな物をあてにするのはどうなんだ?

 

 そんな具合に、暗中模索の日々は続いた。

 



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ジャングル戦闘訓練

 気がつけば12月に突入し、いよいよジャングル戦闘訓練が始まろうとしていた。

 

 これが終わればもう殆どのカリキュラムを消化したことになり、後は卒業を待つだけだから、元々ドミニオンになるつもりはない鳳は受ける必要なんて無かったのだが、他にやれることがあるわけでもなく、消極的に参加していた。

 

 と言うか、正直もうこの訓練校に居たところで、レヴィアタンをどうこう出来る方法なんて見つかりそうもないから、いっそ最前線に配置換えしてもらおうと思ったのだが、その旨を神域(ウリエル)に伝えたところ、それならばまずその訓練校を卒業しろと言われてしまったのだ。

 

 結局、オーストラリアに侵入したレヴィアタン勢力を調査するにしても、ニューギニアに潜入するにしても、ドミニオンという組織の支援を受けずに単独で行うことは不可能だから、それならちゃんとした手続きを踏んでドミニオンになってしまった方が手っ取り早いと言うわけだ。

 

 それに、この訓練校に編入したのも、四大天使のコネで無理やりねじ込んで貰ったようなものなので、これから先、何度も同じ手を使うわけにはいかないのだろう。もしそうしたいなら、そうするに足る確かな手応えが必要だ。

 

 問題は、パースに置いてきたミッシェルとサムソンだが、聞くところによれば彼らは彼らで結構楽しくやっているらしい。ミカエルも、結果的に問題が解決されればそれでいいわけだから、それがいつでも構わないようだった。

 

 元々、鳳が来なければ、彼らは今年新設した戦術科で何十人かの指揮官を育て、現在の専守防衛の組織を改善し、然る後に反転攻勢に出るつもりだったのだ。レヴィアタン勢力を根こそぎ駆逐するには、やはりどうしても人数をかけるしか手がなく、今日明日どうにかなるとはそもそも思っていなかったのだ。

 

 だから鳳もその流れの中で指揮官となって、何年後かに行われるであろう作戦に参加してくれれば、それで構わないのだろう。彼にはその能力があるし、新型ゴスペルは水棲魔族を駆逐する助けになるはずだ。それに下手に単独で行動されて、精子ごと行方不明になられても困る。

 

 だが、その準備が完了するまでには、一体どれほどの年月が必要なのだろうか……そんなことに付き合っていられないと言うなら代案を示すしかないが、そんなものはどこにもなかった。

 

 逃げ出したところで元の世界に戻れるあてはないし、サムソンをもとに戻すことも、ギヨームを助けることももう出来ないだろう。それじゃ何のために世界を渡ってまでこんなところに来たのかわからない。結局、社会的生物である水棲魔族に対抗するには、こっちもドミニオンとなって、組織で対抗するのが一番現実的なのだ。

 

 他にこれといった方法は見つからず……完全に、手詰まりだった。

 

**********************************

 

 ジャングル訓練を始めるに当たって、まず訓練生たちはゴスペルの適性を試された。

 

 鳳は編入する前に確認されたが、この日までにゴスペル・レプリカを使いこなせなかった者は、強制的に落第になる。

 

 適正とは、ゴスペルが使える使えないという話ではない。ゴスペルは使用者の身体能力を強化するが、その感覚についてこれない者のことだ。嘘みたいな話だが、そういう訓練生は意外に多く、全人類にゴスペルの適正があるわけではないことを思い知らされた。再生が可能だった頃、ドミニオンになる人間が固定されていたのはそういう事情もあったのだろう。

 

 ここで弾かれた訓練生はまた同じカリキュラムをこなして来年に賭けるか、諦めて後方支援などの一般職に就くかを選ぶのだが、大抵の人は後者を選ぶらしかった。

 

 仮にもう一年頑張ったところで、この過酷な訓練の先に待っているのは、果てることのない魔族との戦いの日々なのだ。そこで死ぬまで戦い続けるよりは、適正が無いときっぱり言われたほうが寧ろ安心するのかも知れない。

 

 それじゃ何のために彼女らは三年間も、この訓練校で頑張ってきたのかと思いもするが、人生の意味を追求するのにドミニオンを目指すなんてことは、あまりにもリスクが大きいことを、彼女らはこの訓練校で学んだのだろう。

 

 因みに、鳳の同級生である年配者たちは、みんな新たに設置された戦術科のカリキュラムを受けるために再入学してきた者たちなので、元々隊員だから訓練自体が免除されていた。彼女らはこの期間は瑠璃達みたいにアシスタントとして色々手伝ってくれるそうである。

 

 こうして適正がない者がふるい落とされた後、ようやく訓練は始まった。訓練は全部で12日間の予定で行われ、最初の5日間ではまずジャングルで生き残るための技術訓練が課された。

 

 技術訓練では、ロープの使い方や火の起こし方、ゲテモノの調理法など、要はサバイバルスキル全般を学ぶわけだが、その他、服を着たままプールで何度も失神するまで溺れさせられたり、底なし沼に突き落とされて邪魔をされながら脱出するといったような、死の恐怖を体験する訓練もあり、そっちの方はかなりキツかった。

 

 訓練生の中にはそれで鬱を発症する者も出てきて、それをどうやって克服するかも試されるのだが、因みにこれは本人の気持ちの問題というよりも、仲間がそれをどう助けるかの方が重視されていた。戦場で動けなくなった味方を置いていくようでは、軍隊として成り立たないからなのだが、残念ながらこの訓練で脱落するものはやはり多かった。

 

 こうして5日間の間、ひたすらシゴかれ続けた訓練生たちは、プライドをへし折られ、仲間を失うという喪失感まで味わわされて、訓練前とはまるで別人に変わっていった。今までのお嬢様ごっこは何だったのかと言いたくなるが、こうなることが分かっていたから教官たちも放置していたのだとすれば、たちが悪いと言わざるを得ない。

 

 そしてこのシゴキに合格した者だけが後半に進めるのであるが、一日の休養を与えられ、翌日のブリーフィング時には、訓練生はたったの56名まで減っていた。因みに入学時には300名はいたはずで、ゴスペルを持つというのはそれだけ難しいのである。再生を受けられなくなったことで人類が魔族相手にどれだけ窮地に立たされているのか、理解させられる出来事だった。

 

「今日晴れてこの日を迎えられたことを私は誇らしく思う。諸君らはこの地球(ほし)の宝である」

 

 ブリーフィングが終わった後、訓練開始前最後の訓示が基地司令からあった。鳳はこの時、初めてドミニオンのトップの女性を目にしたのだが、そこに居たのは何と言うか……歴戦の兵を思わせるような屈強な男であった。

 

 いや、もちろん男なわけないのであるが、男にしか見えないのである。筋骨隆々で腕も太もももパンパンなのはもちろんのこと、声も太くて鼻の下には薄っすらとひげまで生えていた。ちんこが付いていないか確かめたほうがいいんじゃないか? と思いもしたが、流石に失礼なのであんまり考えないようにした。

 

 彼女はニューギニア撤退からダーウィン撤退、更にはマダガスカル撤退戦まで全ての戦地を戦い抜いた英雄と呼ばれているそうであるが、女しか居ない世界でひたすら戦いに明け暮れていると、こんな風になってしまうのだろうか。だとしたら、訓練校のお嬢様ごっこも案外大事なんじゃないかと、この時初めて思った。

 

 そして、基地司令の訓示が終わるといよいよ最後にして最大の難関、ジャングル訓練が行われる。この訓練は、5~6人の班に分かれてジャングルに入り、約10キロ先のゴールを目指すというシンプルなものである。

 

 最低限の装備としてゴスペルとロープ一本、非常食のラード一瓶(6000kcal)が支給され、それらを駆使して密林を踏破するわけだが、簡単そうに見えて実はかなり無謀な訓練である。ジャングルは平坦ではなく高低差もあり、道なき道にはどんな危険な動物が待ち構えているかわからない。21世紀の軍隊ですら4~5キロの移動を数日掛けて行うのが普通なのを、彼女らは10キロも進むのだ。

 

 こんなことが可能なのは、それもこれもゴスペルの身体強化があるお陰なのだが、逆に言えばMPが切れたら相当まずい。それを班員でカバーしながらゴールを目指すのが、この訓練の趣旨なのだろう。

 

 だからであろうか、班分けでは普段から仲が良い者同士が選ばれる傾向があるようで、気がつけば殆どがよく見かける集団になっていた。それはつまり、鳳のようなボッチはボッチでまとめられると言うわけで……彼が配属された班は訓練生でも地味な連中が集まった、なんとも言えない微妙な集団になっていた。連携もくそも無さそうだが本当に大丈夫だろうか?

 

 ともあれ、そうやって班分けがされた後、彼らはヘリコプターに乗せられ、基地から数十キロ南へ行ったジャングルへ運ばれていった。そしてその周辺で最も目立つ山の頂きをゴールにして、半径10キロの円状に各班はバラバラに降ろされることになった。

 

 もうこの時点で、ちゃんと事前調査はしたのか安全性もろくに考慮されてないんじゃないかと不安しかないが、一応ギブアップ用のスモークを持たされているので、それが上がった時点でゴールからヘリが飛んでくることになっているのがせめてもの救いであった。

 

 ロープを伝い、ヘリから地面へ降ろされる。

 

 自分たちが乗ってきたヘリが去り、巻き上がる風が止んだら、そこには野生動物の鳴き声で満ちた、人の手のまったく入っていない密林が広がっていた。

 

 鳳は大森林に帰ってきたような気がして懐かしくなったが、他の班員たちはみんな不安そうな顔をしていた。これから6日掛けてゴールを目指すわけだが、早くも挫けてしまいそうである。鳳はそんな班員たちの方へ向き直ると、努めて明るい口調で、

 

「取りあえず、これからの方針を決めようぜ」

 

 と言って、まずはゴールまでどういうルートを通って行くかを話し合うことにした。

 

 ゴールは、木に登ればいつでも確認できる、スタート地点から約10キロ先の山の頂きであるが、もちろんそっちの方へただ漫然と進んでいくのは不可能だった。いくら身体強化されていても、鬱蒼と生い茂る木々や蔦などに阻まれ、その全てをブルドーザーみたいになぎ倒していくわけにはいかないのだ。だから、比較的歩きやすい地形を辿っていくしかない。

 

 幸いと言っていいかは分からないが、ここはベヒモスに占拠されたマダガスカルとは違って、野生動物の楽園であった。だから整備された道は無くとも、獣道なら探せばあちこちにあるもので、そこを通っていくのが一番労力が少なく済みそうだった。

 

 問題は獣道がそう都合よく目的地の方角へ伸びているとは限らないことだが、代わりに高確率で水場に続いてる可能性が高いので、まずは川を見つけてそれを遡る事にした。ゴールは山の上だから、上流へ向かえば自然と目的地に近づけるはずである。

 

 こうして方針が決まると鳳たちはすぐに動き出した。川伝いに獣道を行くのは歩きやすい代わりに、目的地までどれだけ距離が伸びるかは未知数なのだ。最低でもその倍は歩くことを想定しなければならず、そう考えると6日あっても割とギリギリかも知れないのだ。

 

 森を歩き慣れている鳳を先頭にして、首尾よく川を見つけた後は、その川に沿って獣道を探して進んだ。沢を歩くのは怪我をする危険性が高いので、まだ初日だからこうする方が良いだろうという判断だったが、後続が歩きやすいように出来るだけ地面を均しながら、川からあまり離れないよう、一定の距離を保ちながら歩くのは思った以上に骨が折れる仕事だった。こういうことはいつもギヨームがやってくれていたが、改めて彼の技能の高さを思い知らされる。

 

 初日はこうして過ぎていき、日没の2時間前に進軍を止めるとキャンプを張ることにした。班員たちはまだ歩きたがっていたが、今は緊張してそう思うだけで、実際は疲れているはずである。森の中は暗くなるのが早いし、まだ明るいうちにシェルターを作らねば、夜は満足に眠れず疲れを癒やすことも出来ないと言って納得させる。

 

 実際、班員たちはシェルターを作り見張りの順番を決めるとすぐに寝てしまった。そんな彼女らがよく眠れるように最初の見張り番を買って出た鳳は、焚き火の爆ぜる音を聞きながら明日のことを考えていた。

 

 今日は初日ということもあってあまり距離が稼げなかったが、明日以降はこれを上回るペースで行かなければ期日までにゴールに辿り着くのは不可能だろう。きっと彼女らはもう10キロ以上を歩いたつもりでいるのだろうが、実際にはせいぜい5キロといったところである。

 

 方針は間違っていないが、大陸の川は日本とは違って曲がりくねっていることが多い。もしもこの川が目的地からどんどん離れるようなことがあったら、場合によっては方針転換をして進む道を変えねばならないが、その判断はいつどうやってつけるべきだろうか……ゴスペルを使うのもおぼつかない新人を連れていることも考慮すると、変更するならするで早いほうが良い。なかなか難しい問題だった。

 

 翌朝、班員たちは鳳の言うことに殆ど異を挟まなくなっていた。初日を無事に終えられた実績もあって、彼のことをリーダーとして認めてくれたのだろう。昨日とは違って愚痴も言わず、鳳に従い黙々と歩く班員たちの頑張りもあって、午前中は思った以上に距離を稼ぐことが出来た。

 

 そのご褒美というわけではないが、彼は昼になると川でカエルを獲ってきて班員たちに振る舞ってやった。班員たちはゲテモノを食べることを最初は嫌がったが、かと言ってラードばかりでは味気ないし腹も持たない。そもそも、6日間で6000kcalは何もしなくても足りないのだから、出来ればまだ食べずに温存しておきたい。そう諭していやいや食べさせてみたところ、思ったよりも好評で、彼女らは鳳の料理をあっという間に平らげてしまった。

 

 1日半の行軍でだいぶ疲労も溜まってきていた。おまけに水くらいしかまともに取っていなかった空きっ腹に入れたタンパク質は彼女らを元気づけ、みるみるうちに体に力が漲ってきた。すると自然に班の空気も良くなり、冗談も口を突いて出てくるようになってきた。彼女らは午後の行軍をお互いに励まし合いながら和気あいあいと道なき道を進んでいった。だから油断していたのかも知れない……

 

 午後、一層ペースを上げて突き進んでいた鳳たちは、そろそろキャンプを張ろうかと言う時間帯になって、滝に行く手を阻まれた。徐々に川幅が広くなっていった先には、白く煙る巨大な滝壺があって、見上げる崖は10m以上はありそうだった。

 

 滝のある崖は断層のようにどこまでも続いていて、迂回して楽に登れるルートを探すのは少々難しそうだった。なにより時間も時間なので、そんなことをしている余裕もない。だから彼らは、今日はここでキャンプを張るか、それとも危険な崖をよじ登るかの判断をしなければならなかった。

 

 普通に考えれば一日中歩いてきて疲れている最後の最後に、そんな体力を消耗する行為は避けたほうが良いだろう。滝壺は水浴びが出来そうなくらい澄んでおり、その風光明媚な景色は目を癒やしてもくれそうだった。

 

 だが、人間がそう思うということは野生動物たちもそう思うわけで、ここを水場にしている夜行性の動物はいくらでもいると考えられた。鳳は周辺を探索し、複数の野生動物の足跡と糞を発見したところで、最後の大仕事をしたほうが賢明だろうと判断した。

 

 班員たちに説明したところ、彼女らも彼の意見に賛同してくれた。鳳は言い出しっぺの自分が最初によじ登ることにした。崖は殆ど絶壁だったが、全く傾斜が無いわけではなく、ところどころ足場になりそうな凹凸もあったので、ロッククライミングの経験がなくてもなんとかなりそうだった。

 

 彼は慎重に足場を選び……そして無事に上まで登りきった。

 

 額から流れ落ちる汗を拭い、ホッとするのも束の間、今度は班員たちを上げなければならない。彼は所持品のロープを、崖のすぐ傍にあった大木にしっかり結ぶと、それを下に放り投げた。

 

 班員たちは、ロープをグイグイ引っ張り安全を確かめてから、一人ずつ順番に登ってきた。見た目は頼りない連中だったが、ゴスペルで身体強化をされているので、思ったよりもスムーズだった。

 

 そして最後の一人が崖のてっぺんにたどり着き、全員が上に登ったところで日没になったのだろうか、森が一気に暗くなり始めた。野営の準備はまだ出来ていない。このまま真っ暗になってしまうと大変だから、鳳は川から少し離れたところに野営地を見つけて、すぐに準備をするよう班員に指示すると、自分は大木に括り付けたロープを回収しに滝に戻った。

 

 鳳は支給品のゴスペルを大木の根本に立てかけると、その場にしゃがんでロープの結び目を相手に悪戦苦闘しはじめた。

 

 五人の体重を支えていたロープの結び目は固くなっていて解くのが非常に困難だった。結び目の間に指を滑り込ませ、強引に引っ張ろうとして何度も何度も失敗しているうちに、指先は血が滲んでヒリヒリしてきた。日が暮れて辺りはどんどん暗くなっていく。このままじゃ埒が明かないが、これから先も何があるかわからないから、出来ればロープを切るような真似は避けたかった。

 

 それで、思った以上に必死になりすぎてしまっていたのだろう。この時、彼は周囲の警戒を完全に怠っていた。

 

 額から流れ落ちた汗が目に入り、それを拭っている時だった。不意に頭上に影が差したような気がして、どうしたんだろうと顔を上げた瞬間、体にドンと何かがぶつってくる強い衝撃がして、崖上にいた彼は、そのままよろけて足を踏み外してしまった。

 

 慌てて伸ばした手のひらが宙を掴む。

 

 完全に崖の上から空中に投げ出されてしまった彼は、必死に体を捻って上を振り返った。そこには昨日今日と苦楽をともにした班員たちが、崖下に落ちていく彼のことをじっと見下ろしている姿があった。

 

 彼はそんな班員たちに、何故? と言う愕然とした表情を向けながら、ただ成すすべもなく滝壺に落下していくことしか出来なかった。

 



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野生の本能

 空は藍色に染まり、頭上には満天の星空が広がっていた。鳳は宙を舞いながらそれを見ていた。崖の上には仲間になれたと勘違いしていた班員たちが、彼を突き落とした格好のままでこっちを見下ろしていた。彼は、どうして? という表情でそれを見ていることしか出来なかった。

 

 風が頬を掠り通り過ぎていく。このまま地面に落下したらタダじゃ済まないだろう。いつまでも呆けている場合じゃない。数瞬の後に彼は我に返ると、仰向けに落下していく体の向きを変えて膝を折り曲げた。崖はほぼ垂直だが傾斜がないわけではない。下に落ちるまでにどこかで壁に激突するはずだ。彼はその瞬間を捕らえて……思いっきり壁を蹴った。

 

 バシャーン!! っと水に飛び込む音が暗闇に響いた。ほぼ賭けだったが、地面に落ちるよりはマシだと、落下の途中で軌道を変えたのが功を奏した。気泡が耳元を上っていき、ゴボゴボと音を立てた。滝壺に揉まれながらどうにか水面に顔を上げた彼は、体にまとわり付いてくる服に邪魔をされながら犬かきをして、ようやく岸辺に辿り着くと、陸に上がり崖下へと素早く駆け寄った。

 

 報復を……視界は真っ赤に染まり、アドレナリンが全身を駆け巡っていた。たった今、死にかけたという事実が、彼の脳みそをこれ以上無く冷徹にしていた。やられたらやり返す。その流儀に従ってずっと生きてきたのだ。彼は腰にぶら下げていた自分専用のゴスペルを握ると、全員を血祭りにあげる作戦を模索した。

 

 今すぐにでも殴り殺してやりたいところだが、すぐに上に戻るのは愚の骨頂だ。待ち構えている連中に、再度突き落とされるのが落ちだろう。それより、奴らが鳳の死体を確認するために降りてくるのを待つか、鳳が死んだと想定してあの場を去るのを待つのが得策だ。予想では、疲労するのを厭うて、下には降りてこないと見た。後でゆっくり崖に登り、見つからないように追跡し、就寝中を襲うのがベストだ。

 

 彼は崖下の死角に隠れて、上方の様子を窺った。頭の中は、連中をどこまで壊すか、そのことでいっぱいだった。

 

「ごめんなさいぃ~……ごめんなさいぃ~……」

 

 しかし、そんな鳳の温まりきった脳みそに冷水をぶっ掛けるようなか細い声が、上の方から聞こえてきた。様子がおかしいと思った彼がそっと上を見上げると、まだ辛うじて見えた班員たちの顔は曇っていて、中には涙を流しているのも見えた。まるで、鳳を突き落としたことは本意では無かったように見える。

 

「飛鳥さん~、生きてる~? ごめん。ごめんね」「私はこんなことやりたくなかったんだ」「でも、やらないとうちら……何されるかわからないから」「ごめん。本当にごめんよー!」

 

 連中は口々に後悔の言葉を発している。それは崖下に転落して身動きが取れない鳳に向かって話しかけているようだった。予想通り、彼女らは疲労を嫌がって崖下には降りてこない様子だったが、恐らく頭の中では鳳が下で気絶しているか、転落死したと考えているのだろう。

 

「……どうしよう?」「死んじゃったのかな……」「誰か下に行って様子見てきなよ」「嫌だよ、自分が行きなよ」「……飛鳥さーん! 飛鳥さん……」

 

 彼女らはそんな感じに暫くの間、崖の上から話しかけてきたが、

 

「……行こうか?」「でも、生きてるかも知れないよ?」「だって、介抱するわけにもいかないじゃん」「それはそうだけど……」「きっとうちらのこと恨んでるよ」「あの人、凄い強いし……」「行こう」「……うん」

 

 やがて鳳の生死を確認することを諦めると、逃げ出すようにそそくさとその場から立ち去っていった。ザッザッと地面を蹴って、彼女らが遠ざかっていく足音が聞こえる……鳳はその音が殆ど聞こえなくなるのを待ってから、静かに崖下の隙間から外に出た。

 

「……どうしたもんか」

 

 鳳はため息を吐いた。一時は絶対ぶっ殺すと頭に血を昇らせていたが、彼女らの情けない声を聞いているうちに、段々と怒りは薄れてきていた。それに話を聞いていて何となく状況も理解出来た。彼女らは何か個人的に恨みがあったわけではなく、きっと誰かにそうするように指示されたのだ。

 

 その犯人の目星もついていた。恐らく、彼女らは班決めが終わったところで瑠璃信あたりに呼び出されて、このジャングル訓練中に鳳を窮地に陥れろとでも命令されたのだろう。この訓練は、命が掛かるギリギリのところを試されている。そうじゃなければ訓練にならないからだが、その状況を利用すれば、仮に鳳を殺してしまったところでいくらでも言い訳が立つとでも思ったのだろう。

 

 瑠璃信の嫌がらせは相変わらず続いていた。だが、その間接的な嫌がらせに慣れてしまってからは、殆ど気にも留めなくなっていた。多少被害を受けたとしても、自分ならなんとかなると思っていたし、正直、たかが子供のレズごっこでここまでやるとは思わなかったのだ。

 

 だが、間接的ということはつまり、自分で手を下すわけではないから、裏を返せば罪悪感が薄れていくらでも残酷になれるということだ。鳳の班は班分けであぶれるような連中が集まっていた。つまり普段からイジメを受けているような地味な連中が殆どだったのだが、そんなどうでもいい連中に命令を下すだけで、鳳が死んでくれたら儲けものとか、それくらい軽く考えていたのだろう。

 

 班員が立ち去ったのを確認してから崖の上によじ登ると、ロープはそのまま残されていたが、木に立てかけておいた支給品のゴスペルが無くなっていた。状況からして、多分、鳳のゴスペルを奪って置き去りにしろと彼女らは命令されたのではなかろうか。

 

 崖から突き落としたのは、仮にゴスペルを奪っても、鳳には勝てないと思ったからだろうか? そんなことせず、イジメられてるなら言ってくれればいいのに……そうは言っても難しかったのだろう。支配関係というのは、長い年月によって刷り込まれていくものである。親子関係なんかモロにそうだ。ぽっと出の鳳なんかよりも、彼女らは三年間付き合いのある訓練校の友達のほうが怖かったのだろう。

 

「はぁ~……しゃーない。許してやるか」

 

 鳳はやれやれと肩を竦めると、先に進んでしまった彼女らを追跡しはじめた。これからどうするかであるが、仮に許してやるにしても、今すぐ彼女らの前に出ていくわけにはいかないだろう。死んだかも知れない同級生を放置するような考えなしの連中である。鳳が出ていって睨みでもしたら、恐怖心から何をしでかすかわからない。下手すると密林の中をバラバラに逃げ回るかも知れず、ぶっちゃけ敵対されるよりそっちのほうが怖かった。

 

 彼女らもジャングルの中に取り残されている状況は変わらないのだ。鳳を置き去りにするにしても、ゴールは目指すはずである。方針は初日に決まっていたし、この2日で彼女らも森歩きに慣れただろう。頼りないのは確かだが、彼女らもなんやかんやここまで訓練に耐え抜いてきたエリートなのだ。ならこのまま付かず離れずついていって、最終日辺りに出ていって、反省を促し、そのまま一緒にゴールするのがいいのではないか。その頃には彼女らも頭が冷えているだろう。

 

 鳳は彼女らに見つからないよう、こっそり後をつけることにした。だが、この考えが甘すぎたのは、もちろん言うまでもなかったろう。

 

***********************************

 

 鳳がいなくなった班はかなり危なっかしかった。昨日そうしたように、彼女らは水場を避けて少し遠いところに野営地を設けていたが、既に周辺が真っ暗になっていたせいで満足なシェルターを作れず、焚き火を囲んで草の上に眠ったせいで、どうも夜中にダニに食われたらしく、朝を迎える前に全員が起きて苦しみはじめた。

 

 自分たちの体がおかしいことには気づいていたが、しかし暗闇の中ではどうすることも出来ず、血がにじむほど皮膚を掻きむしりながら朝を待ち、明るくなったところで辛抱堪らず川で行水して、今度はヒルに食われるという絵に描いたような三段落ちを披露してくれた。

 

 出発したら出発したで、しょっちゅう川から離れてどこかに行きそうになるから、その都度引き返すように獣道に細工したり蛇をけしかけたりしたのだが、それでビビって逃げるくせに、仕込みではない本物の毒蛇が近くに居ても気づかず、無警戒に通り過ぎようとして危うく噛まれそうになっていたので、こっそり始末してやらねばならなかった。

 

 鳳を嵌めて置き去りにした罪悪感からか、終始雰囲気が悪くて言い争いが絶えず、そのせいで喉が渇きやすいのか何度も休憩しては無駄に水分を補給して、ついに生水を飲んだ一人が腹を壊して身動き取れなくなった。

 

 3日目はこんな具合で行きつ戻りつ、少し進んでは休憩と、距離を殆ど稼げずに夜を迎えてしまい、なおかつ下痢の班員がいるせいで水場から離れることが出来ずに、2日連続でシェルター無しで焚き火を囲んで眠るという体たらくであった。やはり人間、悪いことは出来ないものである。

 

 4日目は全員が殆ど口をきかなくなっていた。昨日の言い争いで仲違いしたわけではなく、単純に疲労から誰も喋ろうとしなかったのだ。夜中に野生動物が周囲をうろつくせいで殆ど眠れず、朝を迎えてから少しだけと言って眠った彼女らは、だいぶ明るくなってからようやく動き出した。

 

 昨日、下痢になった班員の体調は見るからに優れず、今も顔色は真っ青であり、仲間についていくのがやっとのようだった。出してしまえば、そりゃ腹も空くもので、どうやら手持ちのラードを食べ尽くしてしまったらしかったが、他の班員たちも似たりよったりだから分けてもらえず、空腹に苦しんでいた。

 

 午後になり、フラフラになったところで遂に耐えきれず、よせばいいのに鳳の真似をしてカエルを獲るとか言い出して、案の定トロピカルな色をした可愛いカエルを捕まえてきてしまった。死ぬ前になんとかしてやらなきゃと焦ってしまい、パンを出して与えてやると、そんなものがジャングルに転がっているなんてどう考えても怪しさ爆発なのに、疑いもせずにむしゃむしゃ食べてしまった。

 

 多分もう、自分が何をやっているのかもわからないのだろう。腹を満たすとホッとしたのか、今度は急に泣き出してしまい、同じく心細く思っていたのか他の班員たちも寄ってきて、そっと彼女に寄り添うと、彼女らは全員お通夜のようにメソメソ泣きだし、暫くその場から動けなかった。

 

 やがて気が晴れたのか、最初に泣き出した班員が目をこすって立ち上がると、他の班員たちもそれに倣って立ち上がり、その後はまるで十年来の友のようにお互いに助け合いながら黙々と歩き続け、日が傾き始めたところですぐにキャンプを張ってしまった。

 

 日没までまだ時間はあったが、恐らく今日まともに眠れなければもう明日は持たないという判断だろう。その判断は正しいと言わざるを得なかったが、問題は、昨日今日と続いた遅れを、残りの2日間で取り戻せるのかということだった。

 

 深夜……焚き火の見張り番をしている班員たちの声が聞こえてきた。鳳はそれを少し離れた木の上で聞いていた。

 

 見張りをしていた班員は、交代がやって来ると寝る前に温かい白湯を飲みたいと言い出して、二人分の湯を沸かし始めた。生水を飲んで下痢になった班員がいるから、かなり念入りに沸騰する湯を確かめている。交代要員は緊急時に使用する発煙筒を弄びながら、それを横目にしつつ誰にともなく呟くように言った。

 

「ねえ……明日なんだけど。もう先に進むより、戻って飛鳥さんの死体を探しにいった方がいいんじゃないかな」

「……どうしてそう思うの?」

「このままゴールしてもさ、飛鳥さんがいない理由を聞かれるじゃん。なんて答えていいかわかんないじゃん」

「うん……」

「崖から落ちたんなら、どうして助けなかったんだって言われるだろうし……それなら、戻って彼女の死体を見つけて、そこでギブアップした方が言い訳も立つんじゃないかな。もしかしたら飛鳥さん、生きてるかも知れないし……」

「でも、もしそうなら、私たち殺されるかも知れないよ? あの人、素手でも教官に勝てるくらい強いの知ってるでしょう?」

「仕方ないじゃない! ……それだけのことしたんだし」

「やだよ……私、死ぬのは怖い」

「私だってそうだよ。誰だってそうでしょう。飛鳥さんだって……もしも謝る機会があるんなら、謝りたい。その機会はもう、永遠にないのかも知れない。本当は……私、あの人と仲良くなれたのが、少し嬉しかったんだ……なんで、あんなことしたんだろう」

 

 返事は無く、暫く沈黙が続いた後、すすり泣くような声が聞こえてきた。見張り番は、焚き火に薪をくべながら、それを黙って見つめていた。シェルターの中にいる他の班員たちも、彼女らのやり取りを聞いていたのだろうか、寝返りをうつガサガサという音が真っ暗なジャングルに響いた。月は見えず、風にのって様々な動物の鳴き声が聞こえてくるのに、生きた動物の気配は殆ど感じられなかった。

 

 鳳はそんな彼女らのやり取りを聞きながら、どうしたものかと頭を悩ませていた。流石に2日も経って、そろそろ頭が冷えてきたのだろう。見たところ反省もしているようだし、そろそろ出ていって許してやった方がいいだろうか。しかし、やられたことがことだけに、中々踏ん切りつかないものがあった。正直なところ、あと2日間苦しめばいいという気持ちもあって、仮に出ていってもギクシャクするだけかも知れなかった。

 

 すすり泣きが、騒がしいジャングルの夜に吸い込まれていく。戻るべきか進むべきかという話し合いはまだ続いている。取りあえず、出ていくにしてもしないにしても、朝を待ってからだと結論を先延ばしにし、木の上であくびを噛み殺している時だった。

 

「きゃあああああああああーーーーーーーっっ!!!」

 

 遠くの方から、まるで女性の悲鳴のような声が聞こえてきた。焚き火を囲んでいた二人にもそれが聞こえたのか、すすり泣きがピタリと止まって、彼女らは耳をそばだてて周囲をキョロキョロ見回し始めた。

 

 何しろ、いろんな動物の鳴き声が聞こえてくるジャングルの中である。聞き間違いかも知れないし、人間ではなくただの野生動物の鳴き声の可能性もある。そう自分たちに言い聞かせ、彼女らが警戒を解こうとした時、再度、

 

「きゃあああああああーーーっっ!! 助けてっっ! たすけてーーーーっ!!」

 

 と、悲鳴と共に助けを求める声が聞こえてきた。

 

 もはや聞き間違いでは絶対にない。鳳は木の上で立ち上がると、声の聞こえてきた方角を確かめた。ジャングルは暗くて一寸先も殆ど見通せなかった。ただ、声のした方向から推測すると、それは川から聞こえてきたのは間違いなかった。考えられるのは、川沿いにキャンプを張っていた誰かが、野生動物にでも襲われたのだろう。

 

 鳳たちは遠くの山の上にあるゴールを目指すために、川沿いを進むという方針でここまで来た。恐らく、同じことを考えた別の班に、たまたま追いついてしまったのだろう。進みが遅いのは、向こうが最初は別の方法を取って悪戦苦闘していたのかも知れない。

 

 ゴスペルを持ったドミニオンの候補生が、ただの野生動物に遅れを取るとは思えないが……突然の暗闇からの襲撃に焦っているのか、それとも本当に危険な状況なのだろうか。班員たちにバレるかも知れないが、ここは飛び出して助けに行くべきかどうか迷っていると、悲鳴の間にギィギィという聞き慣れた声が混じっていることに気がついた。

 

 鳳はそれを聞いた瞬間、アズラエルが連れていたギー太たちのことを思い出し、ホッとして肩の力を抜いた。きっと、夜中にいきなりあんなのに出くわして、パニックになった訓練生が悲鳴を上げているに違いない。だが、あの間抜けな連中が相手なら、大した被害はないはずだ。

 

 彼はそう思って、また班員たちから隠れるように木の上でしゃがんだ時だった。

 

「火を消して!! 急いで!!」

 

 しかし、そんな鳳とは打って変わって、班員たちの動揺はかなり劇的だった。

 

 彼女らは悲鳴の中にインスマウスの声を聞き取ると、シェルターの中で寝ていた班員たちは飛び出し、焚き火を囲んでいた二人は慌てて火に砂をかけて明かりを消した。その動きには一切の躊躇がなく、彼女らが本気で緊迫している様子を窺わせた。まるで熟練の戦士みたいな敏速な動きに、鳳がぽかんとしていると、

 

「……やばい、やばいよ。あれ、魔族だよね?」

「ここは危険よ! で、出来るだけ水場から離れないと……」

「ちょっと待って! さっきの声、聞こえたよね? 誰かが襲われてるんだよ?」

「私たちが行ったところで仕方ないでしょう!?」

「でも……」

「自分たちの安全が優先よ。早く逃げましょう!」

 

 班員たちは荷物をかき集めると、悲鳴に背を向けて歩き出した。しかし、その中に一人だけ、尚も背後から聞こえる悲鳴から目を逸らせない者がいて、

 

「待って! やっぱ駄目だよ。助けなきゃ!」

「いやよ! 早く逃げなきゃ……早く逃げなきゃ……」

 

 班員の怯えるような叫び声が闇に木霊する。

 

「魔族の子を孕まされるなんて、冗談じゃないわ!!」

「だから絶対に助けなきゃって言ってるんでしょ!!」

 

 その声は思いのほか大きく闇に響き渡った。興奮する彼女らは、自分たちの声が大きすぎることに気づくと、慌てて口をふさいでその場にしゃがみこんだ。彼女らの怯えきった瞳が、こわごわと周囲の様子を窺っている。

 

 鳳はその言葉を聞いて、魔族の習性を思い出した。

 

 ああ、自分はなんて馬鹿なんだろう。魔族とは、殺すか犯すか、その二択しか頭にない生き物のことではないか。アズラエルが連れている連中がそうじゃなかったから、すっかりそのことを忘れていた。

 

 そしてそのアズラエルは言っていたではないか。水棲魔族のオス……インスマウスは基本的に生殖以外のことは考えられない、脳足りんだと言うことを。

 

 ザンッ!! っと大きな音を立てて、警戒する班員たちの背後に鳳は飛び降りた。その音に驚いた彼女たちの悲鳴があがる。彼はそんな怯える彼女らの前に歩いていくと、光弾を作って彼女らに見えるようにその姿を現した。

 



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本当の仲間

 暗闇に悲鳴が轟いた。その悲鳴に混じって水棲魔族の声が聞こえてくると、班員たちはパニックになって逃げ出そうとした。

 

 インスマウスに捕まってしまったら、彼女らはレイプされて魔族の子供を産まされる。そんなことには絶対になりたくなかった。

 

 でも、だからこそ悲鳴の主を助けなければ……と言う班員との間で口論が始まり、少パニックが起きている中、事情を察した鳳はいつまでも隠れていられないと彼女らの前に姿を現した。

 

 ザンッと大きな着地音を立てて、背後に彼が突然現れると、班員たちは腰を抜かして悲鳴を上げた。

 

「……あ、飛鳥さん!? あんた、生きてたの?」

 

 死んだと思っていた鳳の突然の登場に、班員たちは驚愕して声を震わせている。幽霊でも出てきたと思っているのだろうか。鳳は、足ならちゃんとあると、彼女らを睨みつけながら言った。

 

「俺があの程度で死ぬと思ったか。バカにしやがって」

「ごめん……私たち、本当はそんなつもりじゃ……」

「他の班の奴らに頼まれて、仕方なかったんだよ!」

「謝るから、だから……」

 

 班員たちは真っ青になり、口々に言い訳をしている。鳳はそんな場合じゃないと首を振ると、

 

「ああ、もう、そういうのはいいから。それより、グダグダ言ってないでついてこいよ」

「え? ついてこいって……?」

「もちろん、助けるんだよ!」

 

 鳳がそう言って走り出すも、班員たちは誰一人としてその後に着いてこようとしなかった。彼は数メートルほど駆け出したところでたたらを踏んで立ち止まると、眉を顰めて振り返った。

 

「どうしたんだよ? あの悲鳴が聞こえなかったのか?」

 

 班員たちはバツが悪そうに黙りこくっている。そんな中で、さっき一人だけ助けに行こうと主張していた訓練生が一歩踏み出し、

 

「で、でも……私たちが行っても、助けられるかわかんないし。最悪やられちゃったら、魔族の子供を産まされるかも知れないし……」

「まあ、そうだろうな」

「自信ないんです。だから……」

「でも、おまえらドミニオンになるんだろ? これから、魔族と戦おうってつもりなんだろう? そのための訓練を受けてきて、そのための装備も持っているんじゃないか。もしここで動かなければ、そんなのなっても意味ないんじゃないか」

 

 班員たちは相変わらずバツが悪そうに黙っている。鳳はそんな彼女らに向かって突き放すように言った。

 

「そうかい。じゃあ、逃げたきゃ逃げろよ。俺を陥れたことなら気にしなくていい。誰かに頼まれたから、仕方なく従ったんだろう。でも、それを後悔する気持ちがあるってんなら、これからはもう他人の言葉なんかに従わず、自分で決めろよ。ここで逃げると言うなら、自分の意思で逃げるんだ。俺は行く。じゃあな」

 

 鳳はそう吐き捨てると、今度は振り返らずに、悲鳴の聞こえた方向へと走っていった。

 

 班員たちとのやり取りで少々時間を食ってしまった。襲撃を受けてからどのくらいの時間が経っているだろうか。襲われてる連中も、ゴスペルを持ってるだろうから、そう簡単にはやられないと思いたいが、実戦経験がないから、案外、鳳の班の奴らとそう変わらないかも知れない。

 

 インスマウスの目的が生殖で間違いないなら、すぐに彼女らが殺されるということはないだろう。だが……生きているのと死んでいるのと、それってどっちの方がマシなんだろうか。男である自分には、想像することすら出来なかった。

 

 川に近づくに連れ、ギィギィという声は大きくなっていった。その騒がしさから推定しても、10や20では済まないだろう。最低でも数十体。それだけの数を一人でやるのは困難だろうが……

 

 パキパキと木の枝を踏む音が背後に続いている。結局、班員たちは覚悟を決めて、鳳の後に続いたようだ。みんな顔面を蒼白にして、既に泣いている者までいる。魔族と戦うと言ったら、新兵なんてこんなものなのだろう。

 

 自分はなんで平気だったんだろうかと他人事のように思い出しながら、鳳は腰にぶら下げていた自分のゴスペルを引き抜くと、振り返らずに班員たちに指示を飛ばした。

 

「俺が斬り込む! お前らは無理をせず射撃で援護してくれ! 絶対にバラバラになるなよ? 誰か一人でも襲われそうになったら、全員で助け合うんだ。俺もすぐ戻るから、パニックになるな。水から出た水棲魔族の動きは鈍い、焦らずに対処すれば絶対大丈夫だ!」

 

 彼はそう言い捨てると、筒状のゴスペルに光の刀身を伸ばして、単身、斬り込んでいった。

 

 狭い河原にはまるで地引き網漁みたいに、無数のインスマウスが蠢いていた。連中は押し合いへし合いしながら、時に相手の頭の上を乗り越えて、中央の何かを目指していた。そこから女性の悲鳴が上がり、藻掻く腕が空を切っていた。何を奪い合っているかは一目瞭然だ。

 

 鳳の横を複数の光弾が追い越していく。それが魚人の群れに突き刺さると、ボンッと弾けて血飛沫が上がった。それで敵襲に気づいた数体がギョロリとした目でこっちを見るが、もう遅い。鳳が光の剣を一閃すると、魚人共の体を真っ二つに切り裂かれた。

 

 スーッとケーキでも切るような手応えで、胴から切断された魚人の頭がボトッと地面に落ち、ドロッとした血液が地面を染めた。仲間が殺られたことでギィギィと大騒ぎをする連中は、アズラエルが連れていたギー太と見分けがつかず、なんだか少し悲しくなった。

 

 だがそんなことは言ってられない。鳳は襲いかかってくるインスマウスの群れの中を、光の剣を振り回しながら駆け続け、中央で助けを求めている訓練生のために、どうにかこうにか隙を作った。

 

 彼女は突破口を見つけるとボロボロになった服を引きずり、白い肌を晒しながら必死に転がり出てきた。そんな彼女に追いすがる魚人を切り伏せてやると、訓練生はゴロゴロと河原を転がり血まみれになりながら、援護射撃を続けている仲間の方へと駆けていった。

 

「ゴスペルは!!?」

 

 迫りくる魚人の群れをいなしながら叫ぶと、一拍あってから、

 

「ほ、他の班の人達と一緒に、まだ、あっちのキャンプに!」

 

 あっちというのがどっちか分からなかったが、多分、対岸のことだろう。対岸にはキャンプの跡らしき場所が見え、そこに物が散乱していた。

 

 鳳が川を一足飛びに飛び越えて着地すると、対岸にいた別の群れがその音に驚いて一斉に彼の方を振り返った。その迫力に、前に進むか後ろに戻るか少し迷ったが、キャンプの跡にゴスペルが転がっているのを見つけるや、彼はそれを拾って一直線に敵の中に突っ込んでいった。

 

 インスマウスの群れの中には、先程の訓練生みたいに、魔族に群がられている別の女生徒が見えた。

 

「受け取れ!!」

 

 インスマウスを斬り伏せながら強引に突き進んでいった鳳は、彼女に手が届くくらいまで近づくと、拾ったゴスペルを思いっきり投げた。瞬間、背中に衝撃が走り、無数の魚人に殴り掛かられバランスを崩したが、代わりに、たった今まで成すすべもなくインスマウスに嬲り者にされていた彼女が力を取り戻し、復讐とばかりに群がって来る魚人共を強引に蹴散らした。

 

 一角が崩れたのを見るや、鳳は足を踏ん張って追いすがる魚人の群れから逃げ出し、火事場の馬鹿力で大暴れしていた彼女と協力して脱出する。

 

 するとすぐ目の前に別の訓練生が転がっているのが見え……下半身をむき出しにして無残に放心している彼女を引っ張り上げると、一か八かと二人がかりで担ぎながら川の中を突き進んで、元来た岸辺へと駆け上った。

 

 そんな二人の後を追いすがるインスマウスの群れに、無数の光弾が突き刺さり、ドンドンドン!! っと光が弾けて、辺りに一瞬閃光が走った。

 

 それが目くらましになって追撃が怯み、どうにかこうにか逃げることに成功した鳳たちは、助けた訓練生を担いだままジャングルの中に飛び込んだ。班員たちは、それを的確に援護射撃で助ける。

 

「もう一人いるんだ!」

 

 放心状態の女生徒を地面に下ろすと、一緒に彼女を抱えてきた訓練生がハアハアと荒い呼吸を立てながら叫んだ。もう一人とは、きっと対岸に取り残された仲間のことだろう。一刻の猶予もないと、鳳が頷いて駆け出そうとすると、最初に助けた訓練生が彼が持ち帰ったゴスペルを引ったくるように手に取り、自分も連れて行けとばかりに二人の横に並んだ。

 

 その後に、鳳の班の連中も躊躇いもなく続く。ここまでの戦闘で、全身にアドレナリンが駆け巡り、恐怖心が薄れたのだろう。落ち着いてやれば出来るという自信も出てきたのか、その瞳はギラギラと輝いていて、最初とはまるで別人だった。

 

「俺たち三人で対岸に渡る。おまえらはまたこっち側から援護してくれ」

「分かった」

 

 班員たちはそれだけ短く答えると、鳳たちが渡河しやすいよう即座に射撃を始めた。彼らはその援護射撃を受けて、今度は危なげなく渡河に成功すると、三人で連携し片っ端から次々とインスマウスの群れを片付けていった。

 

*******************************

 

 落ち着きを取り戻し、訓練通りにやれば勝てると分かると後は早かった。鳳の班員たちからはそれまでの甘えた態度が一切無くなり、今までにない物凄い集中力で的確に敵を撃ち抜いていった。

 

 インスマウスの群れは確かに数は多いが、そのでたらめな攻撃は連携の取れた軍隊とゴスペルの前では敵ではなかった。光弾は当たりさえすればまず相手を無力化し、仮に組み付かれたとしても、身体強化能力のお陰で互角以上に戦えるのだ。

 

 それが分かってくると余裕が出てきたのか、彼女らは新型ゴスペルの能力を駆使して、ツーマンセルで一体の敵に対処するよう連携さえし始めた。新型によって威力を増した光弾が当たれば、それがどこであろうと相手はほぼ確実に絶命するのだ。

 

 お陰で途中からは、死角から攻撃を食らうことは無くなり、前衛の鳳たちはただ目の前の敵に集中するだけで済むようになっていた。そして形勢が完全にこちらに傾くと、魚人の群れは程なくしてその場を後にし、散り散りに逃げていった。

 

 魔族はたとえ分が悪かろうと死ぬまで戦うような連中が多いが、この水棲魔族には逃げるという選択肢もあるようだ。それは奴らが社会性動物だからだろうか。仮にここで敵に敗れたとしても、生きてさえいれば、また数を増やして復讐できるという考えがあるのだ。ベヒモスもそうだったが、そういう進化をした魔族は厄介だ。

 

 レヴィアタン勢力はおよそ1億個体。実際の数はどれだけか知れないが、そんなものを全部駆逐できる日は果たしてくるのだろうか……

 

 魚人たちの逃げ去った後には、ひどい有様の全裸の少女が取り残されていた。体は暴行を受けてあちこち傷や打撲の痕があり、顔は殴打を受けて見るも無惨に腫れ上がっていた。膣から血の混じった精液が溢れ出し、恐らく抵抗した際にやられたのであろう、膝が砕けておかしな方に曲がっていた。

 

 殺してくれと泣きながら繰り返す女性を前に、男性である鳳はどうすることも出来ず、他の訓練生に任せて自分は周囲の警戒にあたった。犠牲者を励ます牧師のように穏やかな声と、膝に添え木を当てる際に上がる悲鳴を聞くたび、なんとも遣る瀬無い思いが駆け巡った。

 

 鳳は手の空いている訓練生にインスマウスの死体を集めるように言うと、それを河原の一箇所に積み上げて、ゴスペルの一斉射で焼き尽くした。魔族は、食べることでも強くなる。もしも死体をこのまま放置しておいたら、逃げた連中が戻ってきて進化してしまう可能性があった。

 

 大森林で獣人たちが、土壌が汚染されるからと言って魔族の死体を焼いていたのは、恐らく元々はそれが理由だったのだろう。長い年月で培われた獣人たちの知恵が、そういう形で伝わったのだ。

 

 焼け焦げた魚人たちの死体からは、焼き魚の香ばしい匂いが立ち込めて、空きっ腹を刺激して止まなかった。

 

 犠牲者に服を着せ、添え木を当てて柔らかい下草のベッドに寝かせたあと、鳳はしんと静まり返る訓練生たちに向かって言った。

 

「訓練はまだ2日あるけど……ギブアップしよう。けが人を抱えてゴールするのも訓練かも知れないけど、これはただのけが人じゃない。水棲魔族が内陸部に侵入していたことも報告しなきゃならない。多分、これは想定外の出来事だと思う」

「……あんたに従うよ」

 

 犠牲者を出した隣の班の訓練生たちはほぼ反射的にそう返してきた。魔族に襲われたショックで、もう心が折れてしまったのかも知れない。鳳の班の方も似たようなもので、魔族を撃退して安心したら、また恐怖心が戻ってきたようだった。彼女らの同意も得て、2つの班は共に訓練を終了することにした。

 

 ところが……翌朝、明るくなってから、救助のヘリを呼ぶために発煙筒を使ったのだが、スモークが切れて暫く経ってもヘリは一向にやってこなかった。おかしいと思って再度スモークを焚いてみたが、今度もやっぱり救援が来る様子はない。

 

 発煙筒は、訓練生の数だけ持たされていた。だからまたしつこく焚くことも出来るが、二回やって駄目なものをもう一度試す気にはなれなかった。

 

「どういうことかな? 救助が来ないのも訓練のうちってこと?」

「いや、流石にそれはないだろう。実際にそんなことをして訓練生が死んでしまったら元も子もないんだし」

「じゃあ、どうしてこないんだよ?」

「……たまたま、影になってて見えないとか?」

「そう……なのかな?」

 

 正直、その可能性は低いと思ったが、鳳たちは取りあえず手近に見える高所を目指し、そこへ登って再度発煙筒を使用してみた。日は既に高く晴天であり、煙を遮るような物は何一つ見当たらなかった。だが、それでも、待てど暮らせど救助のヘリが来る気配は無かった。

 

 こうなると考えられることは一つ、

 

「多分、俺達と同じように、魔族に襲われた班が出たんだろう」

「もしかしたら本部もやられてるのかもね」

「どうする……?」

「定期的に狼煙を上げながらここで待つか、怪我人を抱えてゴールを目指すか……」

 

 出来ればもう動きたくは無かった。だが、発煙筒を使い切ってもまだ本部が気づいてくれない可能性もあった。そうなった場合、時間を無駄にしただけで結局ゴールを目指さないといけないのだし、何より怪我人の具合が気掛かりだった。両足を砕かれた彼女は発熱して、今は意識が朦朧としている。痛みも定期的に襲ってくるらしく、出来るだけ早くちゃんとした病院で診て貰いたかった。

 

「行こう。ゴールに近づけばそれだけ発見してもらえる可能性も高まるはずだ」

 

 反対意見はなく、鳳たちは怪我人を抱えての強行軍を選択した。

 

 さて、こうなると最初の方針は変えねばならなかった。このまま川を遡っていくのは、ただでさえ時間がかかる上に、またインスマウスの群れと遭遇する危険性があった。他に取れる方法といえば、ゴールの位置を確認しながら、獣道を探して出来るだけそっちに近づいていく方法だが……そんなことせずとも鳳には秘策があった。

 

 彼は自分のゴスペルを取り出すと、それで行く手を阻む藪や立ち木を払って進むことにした。マダガスカルでやったのと同じ方法だが、今回それをしてこなかったのは、言うまでもなく、それが訓練の趣旨に反すると思ったからだ。だが今はそんなこと言ってられない。

 

 班員たちはそれを見て、最初からやれよと思ったかも知れないが、特に何も言わずに後についてきた。こうして鳳が無理やり切り開いた道を、怪我人を乗せた即席の担架を抱えた訓練生たちが黙々とついていく。途中、高台を見つけては、その度に狼煙を上げて合図を送ってみたが、結局その日は日が暮れるまで、彼らが発見されることはなかった。

 

 翌朝、日が上がってからまた狼煙を上げてもリアクションは無く、そのことにももう慣れてしまった彼らは特に文句を言うこともなく出発した。けが人の容態は相変わらずだったが、意識はだいぶはっきりしてきたようで、彼女は自分ひとりだけ歩きもせず迷惑を掛けてしまっていることをしきりに詫びはじめた。しかし班員たちはそんな彼女に、良い訓練になると笑い飛ばして、一行は黙々と行軍を続けていたのだが……それが思わぬところから待ったがかかった。

 

 鳳が草木を刈りながら順調に先頭を進んでいると、彼は不意に立ち眩みのようなものを感じた。あれ? っと思った時にはもう遅く、彼はその場にしゃがみ込むと、ゴスペルを落として両手を地面についた。

 

「飛鳥さん? どうした!?」

「いや、大丈夫だ」

 

 鳳は班員にそう返しつつも、目がぼんやりして暫く動けそうもなかった。ただ、幸いと言っていいか分からないが、彼はその立ち眩みの正体に気づいていた。ずっと光の剣で草木を刈り続けていたせいで、要はMP切れを起こしてしまったのだ。

 

 光弾や光の剣は作るだけならエネルギーを消費しないが、何かに接触すればエネルギーを消費する。その際、脳内で変換された第5粒子エネルギー(MP)が消費されるわけだが、どうやらそれが尽きてしまったようだった。

 

 鳳の魔力容量は高いので、普通ならそんなことにはならないのだが、一昨日の立ち回りと、けが人を早く運ぼうと気が急いていたために、思った以上にMPを消耗してしまったようだった。普段からMPを無駄遣いする訓練生という立場もまずかった。MPの自然回復は微々たるものなのに、訓練を続けていたせいで、いつの間にかすっからかんになってしまったらしい。

 

 あっちの世界みたいに、アルケミストの能力があればMPが回復する草木の判別もつくのだが、今はそんなものを望めるわけもなかった。都合よくアヘンが生えているわけもなく、こうなると取れる手段は、出来るだけ省エネで進むことだが……果たしてゴールまで保つだろうか。鳳がそんなことを考えていると、

 

「もう十分だよ。あんたは休んでな。ここからは普通に獣道を進もう」

 

 そんな彼の考えを見透かしたかのように、訓練生たちが提案してきた。

 

「ここまで来たら、多少遠回りしても今日中にたどり着けるだろうし、私たちだってそれくらい出来るから」

「そのための訓練も受けてきたしね」

「担架は用意できないけど、飛鳥さんは後ろの方で休んでて」

「……いいのか?」

「良いも悪いも、班員同士助け合う。そういう訓練じゃないの」

 

 班員たちはそう言って屈託ない笑顔を向けてくる。一度は裏切りもした、あのまるで頼りなかった彼女たちが、こうして頼ってくれと言っているのだ。鳳は彼女たちの成長に感謝すると、素直にその厚意に甘えることにした。

 

 訓練生たちは来た道を少し引き返して獣道へ出ると、分かれ道に差し掛かる度に偵察を出しながら、ジャングルの道なき道を進みはじめた。一人が木に登り、偵察に出た斥候と位置を確認し合いながら、次はどっちに進むかを決める。そうしてまた分かれ道に差し掛かったら同じことを繰り返す。そうやってコツコツと進み続けるのはとても根気のいる作業だったが、それでも彼らは着実にゴールへと近づいていた。

 

 鳳は訓練生に肩を借りながらそんな彼女らのことを見つめていた。あっちの世界に居た時は、これを全部ギヨームがやってくれていたのだ。お陰で鳳は森で一度も迷ったことはなかったし、それどころか、今みたいに歩きづらさを感じることもなかった。彼はいつも歩きやすい道を選んでくれていたのだ。意識が朦朧とする中で、鳳はそんな破格の仲間のことを思い出していた。彼は今頃何をしているだろうか……

 

 お互いに励まし合いながら、訓練生たちは密林を突き進んでいった。日が暮れてタイムリミットが迫ってきたが、絶対に諦めるなと叱咤し続けて、彼女らはひたむきに目の前に聳える山を目指した。あの頂上にはゴールがあって、そこに行きさえすれば、この長く苦しかった訓練はようやく終わるのだ……ついにドミニオンになれるのだ!

 

 そしてその時、彼女らは唐突に思い出した。先を進むことばかりに夢中になって、いつの間にか目的を見失っていた。自分たちの目的はゴールすることではなく、ましてドミニオンになることでもなく、今は怪我人を届けることだった。もうゴールは目前だったが、だからこそ、ここまで来たら本部の人間も気づいてくれるはずだ。

 

 彼女らは躊躇なく発煙筒を取り出しスモークを焚いた。その煙が空へと上がっていくと、間もなく山頂の方で動きがあった。ヘリが飛び立ち、鳳たちの頭の上をホバリングしている。ロープが投げ降ろされ、それを伝って数人のドミニオンの隊員が降りてきて、怪我人を見つけてすぐに彼女を引き上げてくれた。

 

 事情を問われ、インスマウスに襲われたことを言うと、やはり他の班も襲撃を受けて、今ゴールにある本部は大騒ぎらしい。もう訓練どころじゃないので乗っていくか? と言われたが、鳳たちは首を振った。怪我人を無事に届けられたら、もう憂うことはない。だから最後は自分たちの足で、ちゃんとゴールまでたどり着きたかった。

 

 ヘリが去ると、日が傾き暗くなった獣道を、彼女たちはまた歩き出した。もう後少しだ。頑張ろう。肩を並べて健闘を称え合って、鳳たちは最後の力を振り絞って山の斜面を登っていった。やがて山頂に明かりが見えてくると、そこに人がいるのだと分かって、どうしようもないほど安堵感がこみ上げてきた。

 

 肩を貸してくれている班員を見れば、目に涙を浮かべている。照れ隠しをするように、後ちょっとだぜと元気に言う彼女に引っ張られて、鳳も最後の力を振り絞って歩を進めた。本当の仲間になれたような気がしていた。

 



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フィリア

 ジャングル戦闘訓練が終わり、訓練校はそのままクリスマス休暇に突入した。予定通りのことではあったが、実際のところは閉鎖に近く、仮に長期休暇が無かったとしても、講義を再開することが出来なかっただろう。

 

 ジャングル訓練後半に挑んだ10班の内、鳳たちの班を含む8つの班がインスマウスの群れに遭遇し、その内、無事に全員が帰還出来たのは鳳たちの2班だけだった。その他の班はほぼ全員がインスマウスの襲撃に耐えきれず、悲惨な末路を遂げていた。

 

 水棲魔族の侵入が発覚したのは丁度4日目、鳳たちが遭遇するほんの半日前のことで、やはり川を遡ってゴールを目指していたところ、インスマウスの群れに囲まれ、命からがら逃げてきた訓練生が狼煙を上げて救助されたのが最初だった。

 

 彼女は仲間を置き去りにしてきた罪悪感からか、始めは何を聞いても要領を得なかったが、やがて落ち着いてきた彼女から事情を聞いた本部はパニックになり、即座にケアンズの司令本部に救援を要請した。

 

 水棲魔族の侵入はもちろん想定外のことだった。雑な訓練のように見せかけていたが、鳳たちが入ったジャングルは、実は普段から本隊が利用していて地図もある、ちゃんとした演習場だったのだ。ケアンズよりも数百キロ南部の内陸部にあり、ゴール地点が山であるように標高もそこそこ高く、今まで水棲魔族が侵入したことは無く、それどころか、ほんの二ヶ月前に本隊が訓練に使っていて、その時は何事も無かったらしい。

 

 訓練校の教官たちは、事が起こるとすぐに訓練を中止し、本隊による水棲魔族の駆逐と訓練生の捜索を始めた。被害に遭った訓練生たちは、殆どが1日目か2日目に襲撃を受けており、スタート地点付近で発見された。

 

 鳳たちが何度も狼煙を上げても見つけてもらえなかったのは、本部が慌てていたせいと、皮肉なことに彼らが逆にゴールに近すぎたためだった。因みに、自力でゴールに辿り着いた残りの二班は、川に近づかずに、出来るだけまっすぐ森を進んだお陰であった。

 

 被害に遭った訓練生たちは、鳳たちが助けた彼女同様に足を折られて身動きが取れず、嬲りものにされていたようである。生殖が目的だったから命に別状はなく、現在、ブリスベンの軍港に輸送されて治療を受けているそうだが、しかし、命が助かったからと言ってそれで良かったのか……正直、男である鳳には分からなかった。

 

 卒業試験を兼ねた訓練はこうしてなし崩しになってしまったわけだが、ゴールに辿りつけた20名強はともかく、被害を受けた訓練生たちの扱いをどうすべきか……そもそも、彼女らがまだドミニオンになりたいと思っているのか、今後どうなっていくかはまだ未知数である。

 

 ただ一つ分かっていることは、今回の事件がなかったとしても、ドミニオンの隊員は今後減り続けていくということだった。仮に今年の56名が無事に卒業してドミニオンになったとしても、年齢や怪我などで辞めていく隊員はそれ以上に多いのだ。

 

 高齢化が進み、ドミニオンになりたいと言う志願者も年々減り続けており、このままでいくと早晩、人類は軍隊を維持できなくなる可能性が高い。つまり、レヴィアタンを倒すにはもう殆ど時間が残されていないのだ。

 

 鳳が配属された戦術科では、それを意識して攻勢に転じるための士官を育てていたわけだが、実際に物になるにはあと何年かかるだろうか……その間にドミニオンの隊員はどこまで減っているのだろうか。

 

 相手は無秩序に増え続ける獣、こっちは年々減り続ける女性だらけの軍隊……もっと抜本的な改革が必要なのだが、どうやったら勝てるのか、鳳は未だにさっぱり思いつけずにいた。

 

*******************************

 

 訓練校がしんと静まり返る代わりに、宿舎の方は寧ろ騒がしくなっていた。クリスマス休暇が始まるや、それまでのうっぷんを晴らすかの如く、訓練生たちはクリスマス会に向けての準備で忙しくしはじめた。

 

 多くの犠牲者を出した訓練のせいで、そんな空気は消し飛んでしまうと思いきや、いつも以上の馬鹿騒ぎを演じているのは、これも正常性バイアスというやつだろうか。あちこちの部屋からはクリスマスをどう過ごすかという浮かれた声が聞こえ、トイレにはいつもどおり意味もなく集団が屯しており、ネイルを弄っていた。

 

 ただ、事件の影響がまったくなかったわけではなく、それは姉妹の契りという形で現れていた。恐らく、例の事件で自分たちがいつ同じ目に遭うかわからないという事実を再認識したのだろう。まるで増税前の駆け込み需要のようにあちこちで百合カップルが成立し、二人の世界にのめり込み、宿舎は周りが見えないはた迷惑な連中で溢れかえっていた。

 

 しかしそんな連中にいくら迷惑をかけられても、鳳はもはやそれを悪いこととは感じていなかった。きっと教官たちもそうなのだろう。彼女らはここを卒業したら、もう浮ついてなんか居られないのだ。今だけは楽しく過ごしてもいいのではないか。

 

 そんなことを考えつつ、人気の絶えた校内を歩いていると、裏庭の方から人の声が聞こえてきた。相変わらず宿舎のトイレが使いづらいから、今も校舎まで用を足しに来ているのだが、事件後、休校状態の校舎で人の声がするのは珍しいので、なんとなく足が向いた。

 

「……どうして言うことを聞かずにあいつを殺さなかったのよ!?」「い、言われた通り置き去りにしたってば~……」「嘘! じゃあ、どうしてあいつ無事なのよ」「聞いたでしょう? あの人、一人でインスマウスの大軍を倒すような人なんだよ?」「ちっ……そのままレイプされれば良かったのに」「とにかく、おまえらのせいだからな!」「焼き入れてやる焼きを」「や、やめてよ~……言うことはちゃんと聞いたじゃない」「うるさい! あいつが生意気なのが悪いのよ」「あの淫乱ビッチ」「死ね!」「やめてってば」

 

 なんだか自分のことがボロクソ言われているような気がする。

 

 出歯亀をするつもりは無かったが、イジメを見つけて放っておくわけにはいかないだろう。それに間違った情報は正さねばならない。

 

「飛鳥さんは生意気でもビッチでもないぞ」

 

 鳳がふらりと裏庭に姿を現すと、その場にいた連中がビクリと肩を震わせて一斉に振り返った。案の定というか何と言うか、大勢に詰め寄られているのはジャングル訓練の班員たちで、もう片方はよく嫌がらせをしてきた瑠璃信だった。よく見ればバズーカの姿もある。あれ、どこで調達してくるのか、聞いたら教えてくれるだろうか。

 

「俺が生きてて残念だったな。訓練で何があったかは知ってるよな? おまえらが何しようとしていたか教官に教えてやったら喜んでくれるかなあ? どう思うよ?」

 

 班員たちを囲んでいた瑠璃信たちは泡を食って逃げていった。まあ、実際、報告だけはしといた方がいいのかなと思いつつ、彼女らと一緒に逃げたほうがいいのか判断がつかず、オロオロしている班員たちに近づいていった。

 

「なんでおまえらまで逃げようとしてんだよ」

「ご、ごめん……うちら、あいつらにあんたのこと嵌めろって言われて」

「そんなこたあ、とっくに知ってんだから、気にするな」

「でも、もしかしたらあんた死んでたかも知れないのに、あたしたちそんなことも考えられなくって……」

「そうだな……」

 

 実際、こんなことを繰り返していたら、いつか犠牲者が出るのは間違いない。彼女らもしっぺ返しが来るかも知れないし、そうなる前に早くあいつらと手を切ったほうがいいだろう。鳳はそんなつもりで気楽に言った。

 

「まあ、反省もしているようだし、今回のことは大目に見よう。その代わり、今後はもうあいつらの言うことなんか聞かないこと。それから困ってる仲間がいたら、自分のことだと思って、これからは逃げたりせずちゃんと助けるように」

 

「うん、わかったよ。隣の班のあの子……助かって良かったよね」「飛鳥さんがいてくれて本当に良かった」「あのまま逃げてたら、今頃きっと後悔してたよ」「それどころか、うちらも犠牲になってたかも」

 

 班員たちは鳳の寛大な態度に、口々に謝意を表すと、じっとキラキラした瞳で見つめながら、

 

「あんたなら、瑠璃様と契っても文句ないよ」

「おまえら……本人がどう思うかなんて、本当にどうでもいいんだな……」

 

 鳳は頭を抱えてため息を吐いた。

 

 実際、恋愛とは一方通行なものなのだろう。相手がどう思ってるかわからないから、楽しくもあるし苦しくもある。だからその答えを求めて、彼女らはから騒ぎを続けているわけだが、結果はいつも美しいものとは限らない。矢印がお互いに向き合っていることの方が珍しいとさえ言える。寧ろ、別々の方向を向きながら一緒にいるカップルの中で、本物を見つけようとして、藻掻いて、損をしているようなものが、本当の恋と言うやつなのかも知れない。

 

 夕方。班員たちと別れた後、いつものように琥珀に稽古をつけてやろうと演習場で待っていたが、彼女は一向に現れなかった。正直、そこまでする義理は無かったのだが、無断で稽古をサボるなんてことは初めてだったので、何かあったのだろうかと教員宿舎まで尋ねていった。

 

 学生の宿舎とは違って管理人のいない教員宿舎は静まり返っており、マダガスカルの廃墟の町を思い出した。以前、瑠璃に無理やり連れてこられたので、ゲストの部屋が1階に固まっているのは知っていた。琥珀の部屋の明かりは消えていて、留守かなと思いつつドアをノックすると、思いがけず中から声が聞こえた。何を言っているかよく聞き取れなかったが、どうぞと言ってるのだと見当をつけてドアを開くと、琥珀が電気も点けずに開け放した窓の縁側で横になっているのが見えた。

 

 彼女は寝返りをうつように、ごろりとこちらを振り返り、

 

「飛鳥さんか……」

「練習に来ないからどうしたんだと思って。サンダルフォン、早く使えるようになりたいんだろう?」

 

 琥珀は返事の代わりにまた寝返りをうつように背中を向けると、

 

「……今日は、いいや」

「何かあったのか?」

「あなたには言いたくないなあ……」

 

 ふてくされるような声が暗い部屋に響く。何があったか分からないが、何か嫌なことでもあってふて寝していたと言ったところだろう。無理やり聞き出すのも趣味が悪いし、今日はこのまま帰ったほうがいいかなと、踵を返そうとしたその時だった。

 

「……瑠璃に振られた」

「……え?」

「僕はさ、飛鳥さんの凄さを知ってるよ」

 

 鳳が動揺してまごついていると、それに反比例して琥珀はどことなく落ち着いた声で淡々と続けた。

 

「マダガスカルで出会ったときから歯が立たなくて、でも負けないぞって思って頑張ってきたけど、こうして稽古をつけてもらうようになって、より自分とあなたの差が分かってきた。だから……瑠璃が惹かれるのもわかるんだ。

 

 慣れない環境に飛び込んでもすぐ順応して、最近は周りもあなたのことを認めだして、この間のジャングル訓練では、大勢の女生徒を助けてもくれたんでしょう? 教官たちもみんなあんたのことを褒めていた。だから焦ってたんだ。今、行かなきゃ、歯止めが効かなくなるんじゃないかって。そして、振られた……」

「……そうか」

 

 そうとしか言えなかった。暗闇の中で、暫くの間、沈黙が続く。

 

「フィリアだって」

「……フィリア?」

「瑠璃に好きだって言ったらさ、そうしたら彼女も僕のことが好きだって言ってくれて、嬉しかったんだ。でも、それはフィリアなんだって。知ってる? 愛には種類があるんだよ」

 

 鳳は黙って話を聞いていた。それはいつぞや、瑠璃が教えてくれた聖書の話だった。琥珀は記憶をなぞるようにその話を彼に聞かせてから、ため息交じりに、

 

「その話を聞いて、瑠璃が僕に抱いてる気持ちがどんなものかがよく分かったんだ。そして、彼女があなたのことをどう思っているのかも。僕が……あなたのことをどう思っているかも……すごくよく分かった」

 

 彼女はそこで一拍置いてから、まるで今生の別れでもするかのように、

 

「僕は、あなたなら、瑠璃を任せてもいいと、本気でそう思ってる」

 

 どいつもこいつも……本人がどう思ってるかなんて、本気でどうでもいいようだ。

 

 琥珀の肩が震えている。鳳はきっと、今の彼女には何を言っても届かないだろうと思い、何も言わずに黙っていた。

 

 気まずい沈黙が部屋の中に流れる。多分、このまま待ってても、彼女が振り返ることはもうないだろう。彼女が最初拒否したように、今日の訓練は無理のようだ。鳳はそう判断すると、これ以上彼女を刺激しないように踵を返した。

 

 すると、その気配を察知した琥珀が、そのままの姿勢で言った。

 

「虫のいい話だけど、明日になって元気になったら……また稽古をつけてくれるだろうか?」

「ああ」

「ありがとう。僕は……強くなりたいんだ」

「ああ」

 

 鳳はそう短く返事をすると、部屋から出て後ろ手にドアを閉め……そして徐にため息を吐いた。

 

 正直、息が詰まった。なにが悲しくて女同士の恋愛に巻き込まれなければならないのか。この上、桔梗や瑠璃信にまで敵視されて、この間なんて命を落とし掛けさえもした。

 

 本当に馬鹿らしいが……でも、琥珀は本気だったのだ。そんな彼女のことを、自分が傷つけたのも事実だった。

 

 それもこれも、馬鹿らしいと思ってずっと自分の態度をはっきりさせてこなかったせいだ。

 

 瑠璃のことは嫌いじゃない。出来れば彼女との関係を精算するようなことはしたくない。しかし、そろそろ決着をつけねばなるまい。それがせめてもの誠意というものだ。

 

 鳳は部屋から出ると、すぐ隣の部屋のドアをノックした。中から返事がして、鳳が名を告げると、バタバタと足音を立てて、ルンルン気分の瑠璃が出てきた。

 

「まあ、白様! どうされたんですか、わざわざ私の部屋まで」

「ちょっといいかな?」

 

 鳳はそれだけ言うと、強引に彼女の手を引っ張って外へ連れ出した。

 

 出来るだけ人気のない場所を探していたが、教員宿舎と言っても結局は軍隊の駐屯地だから、外は哨戒の兵士が度々通り過ぎていった。訓練校まで行けばなんとなると思ったが、空気の読めない瑠璃が嬉しそうに肩にぶら下がってきたので、鳳は彼女の両手を握ると、せっせっせーのよいよいよいと振りほどいた。

 

 瑠璃はおかしそうに笑っている。これ以上移動するよりも、さっさと要件を済ました方がいいだろう。ベンチも何も見当たらないから、しょうがないのでガードレールに腰掛けて、どうしたんだろう? と首を傾げている瑠璃のことを、鳳は表情を変えずにまっすぐ見つめながら言った。

 

「さっき、琥珀のところに行って、聞いた」

「そう……ですの」

 

 全く想定していなかったのだろう。寝耳に水と言った表情で瑠璃は見ている。

 

「あー、正直、俺からこんなこと言うのは馬鹿げてるし、琥珀とのことを考え直せと言いたいわけでもないんだ。ただちょっと、さっさと片付けたいっていうか……ルリルリ、俺のこと好きだろう?」

「え? それは、その……」

 

 瑠璃はもじもじしている。彼女が一生懸命アピールしていたのを、分からなかったわけがないのだ。だから言わねばならない。

 

「その、君の気持ちには気づいていた。でも、結論から言うと、俺はその気持ちに応えられないんだ。きっと君と付き合うことは一生ない。あー、こっち風に言うと、姉妹の契りっつーの? 姉妹じゃないけど」

「どうしてそんなことを言いますの?」

 

 瑠璃は青ざめている。正直、その顔を見ていると挫けそうになったが、ここは突き放さなければならない。鳳はまくしたてるように続けた。

 

「俺は、こことは全然別の世界から来たって言ったろ? そこはこことは違って、男女がちゃんと揃ってる世界でさ、俺はそこに3人の嫁を残してきたんだ。愛人も。俺はあっちの世界では複数の女の間を行ったり来たりして、一人に決めることが出来ずに全員とやっちゃったんだ。別々の女に複数の子供がいるんだよ。

 

 君がどう思っているか知らないけど、俺はそういう奴なんだよ。こんな男に、君みたいな子が操を立てるのは馬鹿げてるだろう? だからもう俺のことなんか忘れて、自分の将来のことを考えて欲しい。君はもっとちゃんとした相手と付き合うべきだ」

 

 鳳がべらべら捲し立てている間、瑠璃はその言葉を呆然と聞いていた。

 

 すると最初は青ざめていた顔色は徐々にもとに戻り、振られるという恐怖というより、それは困惑の色に近づいていった。そして話を終えると、彼女はまるでちんぷんかんぷんと言った感じに首をひねってみせた。

 

 それはそうだろう、彼女には彼の言っていることが全く分からなかったのだ。仮に彼女が鳳のことを諦めて他の相手を探そうにも、この世界に男はどこにもいないのだから。

 

「複数のお相手との間に、お子さんを作ってらしたの?」

「ああ、そうだよ。帰ったらすぐ子作りしようって約束もしてる」

「それは……素晴らしいですわね」

「………………はあ!?」

 

 鳳が素っ頓狂な声を上げる。しかし瑠璃は何がおかしいんだろうと言いたげに、

 

「あなたがたくさんの女性と愛し合って、たくさん子供を作っているというのはわかりました。そのどこがおかしいんですか? それは素敵なことではありませんか? だってあなたは魅力的な人だから、そうなさるのは当然のことですわ」

「いや、おかしいだろ? 責任も取らずに、育児だって放棄してこんなところに来ちゃってるんだぞ?」

「でも、男性とはそうするものなのでは? 野生動物を見ていても、一番強いオスが群れの全てのメスを支配するなんてザラじゃありませんか。それでその群れが不幸になるなんてこともありませんし」

「いや、俺たちは野生動物じゃない。人間なんだから。そんな刹那的な関係はいけないんじゃないか」

「ですが、私たち人類には、あなた以外に男性がおりませんのよ? そのあなたが、私たちの夫になることの、どこにおかしいことがあるというのでしょうか?」

 

 鳳は絶句した。何も言い返せなかった。男が自分しか居ないこの世界で、彼女のことを拒絶するということがどういうことなのか、彼はまだちっとも理解していなかったのだ。

 

 瑠璃は鳳の顔が強張っていくのを見て不安を感じているのか、少し悲しげな表情で続けた。

 

「私があなたを愛することで、あなたを困らせてしまっているのはわかります。これからは、あなたが不快にならないよう、出過ぎた行動は控えますわ。私にとってあなたは特別ですけれど、私はあなたの特別になりたいわけじゃないのです。あなたが契る、大勢の内の一人になれれば、それでいいのですから」

「待ってくれ……そんなんでいいのか? 悲しくはないのか?」

「悲しい? どうして?」

 

 瑠璃は本気で理解が出来ないと言わんばかりにきょとんとしている。

 

「この仕事を続けていれば、いつか私もあなたが助けた訓練生のようになりますわ。魔族に蹂躙され、種を植え付けられ、助け出されたとしても、自分の胎内に宿った魔族を掻き出して、女性としての機能を失うかも知れない……もしもそうなる前に、あなたの子供を産むことが出来たなら、こんなに嬉しいことはありませんわ」

 

 鳳は今度こそ何も言い返せなかった。彼女は、覚悟の上で言っているのだ。いつか、自分が魔族に蹂躙されることを。そして女じゃなくなることを。

 

 鳳だって、そのつもりで自分の精液を交渉材料にしたのではないのか? 子供が生まれてこないこの世界は、放っておけばいずれ滅び去る。そうしないためには、鳳は精子が欲しいという女性を拒否することが出来ない。してはならないのだ。

 

 なのに、なんだこのどうしようもない罪悪感は。瑠璃が自分の子供を産みたいということへの抵抗感は。

 

 鳳はこの世界のことを舐めていた。ミカエルが、彼にレヴィアタンを倒せと言った理由をようやく理解した。例えば瑠璃とセックスするとかしないとか、そんなちゃちな話じゃない。鳳はまだ、彼女らにとってふさわしい男ではないのだ。

 



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ピンクノイズ

 卒業を間近に控えた訓練生たちは、みんな現実逃避するかのようにクリスマス会の準備に浮かれていた。巷の百合カップルたちは、あちこちでイチャイチャを見せつけ、まだパートナーのいない喪女たちの憎しみを煽っていた。同じ教育を受けているのに、どうしてこう差がついてしまったのだろう。

 

 しかし例年のクリスマス会でのカップル成立数は群を抜いており、クリスマスさえくれば雰囲気に乗じて、必ずあちら側に回れるという希望があった。彼女たちは歯を食いしばり、時が来るのをただ忍んで待ち続けていた。

 

 そんな喪女たちの希望とは裏腹に、しかし空には暗雲が立ち込めていた。それは比喩ではなく文字通りの意味であり……ケアンズにサイクロンが近づいてきたのだ。

 

 ここは南半球で、12月のサイクロンは決して珍しいわけではなく、不運なことにそれはクリスマス前後に上陸する見通しとなっていた。それを聞いて、お祭りムードは一転してお通夜状態になってしまった。別にフジロックみたいに野外フェスをするわけでもなし、サイクロンが来ても室内でやればいいじゃないかと思いもするが、そうも出来ない事情があった。

 

 水棲魔族は雨季に活性化する。元来、水辺で生活している水棲魔族は陸に上がれば力が半減するが、湿度が高く雨が多いこの時期にはその弱点がほぼ無くなってしまう。特にサイクロンの時は、風雨で身動きが取りづらくなる人間に対し、相手は陸でも水中同様の力を発揮出来るようになってしまうため、分が悪い状態で襲撃を受ける恐れがあった。近年は知恵をつけたのか、狙ってやってくる個体もいるらしく、基地は厳戒態勢を敷かざるを得なかった。

 

 いくら学生だからといって、そんな時にクリスマス会もないから、それは自然とお流れになってしまったのだが……せっかく飾り付けをして料理の準備もしていたのに、全てがおじゃんだと彼女らは嘆きつつも、手を動かしながらこれを新年会に回せないかと皮算用をしていたので、実はそれほど堪えてなかったかも知れない。

 

 鳳はと言うと、その頃、宿舎の窓に板を打ち付けていた。それは単に暴風雨への備えという意味もあったが、水棲魔族の侵入を防ぐという意味の方が強かった。普段は学校で厳重に保管されているゴスペルの携帯指示が出されており、訓練生であっても自分の身は自分で守れということだろう。基地の隊員は殆どが湾内への侵入を警戒して出払っており、訓練校の周りはひっそりとして人の気配は感じられなかった。

 

 そしてクリスマスイブ。夕方になり外が暗くなりはじめた頃、温水シャワーのような霧雨が降りはじめた。それは徐々に窓を打ち付ける雨滴へと変わり、やがてバシャバシャとバケツを引っくり返したような暴風雨となった。

 

 部屋の中ではガタガタと窓枠が立てる音が不気味に響いていた。普段と変わりないはずなのに、空気が重いせいだろうか、部屋の中が少し薄暗く感じられた。普段はガヤガヤと騒がしい宿舎の廊下からは、誰の声も聞こえてこなかった。それは誰もいなくなったからではなくて、外の風雨にかき消されてしまったからだろう。

 

 鳳は二段ベッドで横になり、二段目の天井をぼんやり見上げていた。雨はどんどん激しくなり、風の吹き抜けるヒューヒューとした音と、窓ガラスの立てるバタバタとした音が、十二音技法のように不安を掻き立てた。

 

 だからといったわけではないが、頭の中にはぐるぐると、雑音みたいに嫌な考えが浮かんでは消え浮かんでは消え、繰り返していた。

 

 戦術科の講義に初めて参加した時、同級生たちを見てまるでおじさんみたいだなと思っていた。ジャングル訓練の時に初めて英雄と呼ばれる基地司令のことを見たが、その髭の薄っすらと生えた筋骨隆々な姿は、屈強な漢にしか見えなかった。鳳はそれを、この世界には女しかいないから、いつか身を飾り立てることをやめてしまうからだと、そんな風に思っていた。

 

 しかし、演習でインスマウスにレイプされていた少女の姿が脳裏をよぎる……

 

 彼女らは生まれつき屈強だったわけじゃない。女を捨てたわけでもない。おそらく、治療でホルモンバランスが崩れてああなってしまったのだ。訓練校の二日目に見せられた性教育のビデオは、これから彼女らがどういう世界に飛び込んでいくのかということを、真面目に教えていたのだ。鳳は気分が悪くなって目を回してしまったが、本当に目を回さなければならないのは、彼女らの方だったのだ。

 

 魔族は、男を殺して女は犯す生き物である。だから、ドミニオンである彼女らは、仮に魔族に敗北したとしても、運が良ければ二分の一の確率で生きながらえることが可能であろう。いや、本当に運が良いのだろうか……? とにかく、彼女らは犯されはしてもすぐに殺されはせず、いつか仲間に救出されるのを待つことになる。

 

 そして仲間に助け出されたら、子宮に種付けられた魔族の子供を掻き出して、彼女らはまた戦いへ戻ることになる。こうしていつ果てるともなく魔族と戦い続け、そんなことを繰り返しているうちに、彼女らは女性としての機能を失うこともあるだろう。だから、そうなる前に、瑠璃は鳳の子供を産みたいのだと言っていた。

 

 鳳は、この世界には女しか居ないから、自分の精液は交渉材料になると思い、四大天使を相手に博打を打った。その予想は正しく、彼は天使を相手に多くの条件を引き出すことに成功したが、実はその言葉は自分が思っている以上に重かったのだ。

 

 ブリスベンで乗り継ぎの便を待つ間、空港の外では反政府デモが気勢を上げていた。彼女らは、どうせ『再生』が出来なくなった人類は滅亡するしかないのだから、もう魔族と戦わないで逃げればいいだろうと主張していた。でももし、鳳の精液があることを知り、また新たに人類を産み増やせることが分かったら、彼女らの主張はどう変わるのだろう。それは僥倖なのか、霹靂なのか。

 

 鳳を案内してくれたあやめ教官は、ドミニオンが前線を下げずにケアンズで戦い続けているのはプライドだと言っていた。

 

 再生が出来た頃は命が安かった。だから無謀な戦術を取り続けられたのだが、今同じことを続けていれば、無駄にドミニオンが減っていくだけだろう。でも、それをやめられないのは、蹂躙され、女を捨ててまでも守ってきたこの地を捨ててしまったら、その後、プライドを保ち続けられるか分からないからだ。もしもケアンズを捨てたら、次にブリスベンを捨てることを彼女らはもう躊躇しないであろう。そうならないように、彼女らはこの地に踏みとどまっているのだ。

 

 でもそれは本当に正しいことなのだろうか? 精液なんて持ち出さず黙っていた方が……案外、滅亡してしまったほうが、人類は楽なんじゃなかろうか?

 

 ミカエルは、精液を提供するにしろ、まずはレヴィアタンを倒してこいと言った。それは実力を示せという意味だけではなく、無限に迫りくる水棲魔族を片付ける方法がわからない限り、人類が不幸であることには変わりないという意味だったのかも知れない。

 

 例えば、今、瑠璃が子を産んだとして、彼女も、そしてその子も、不幸な死を迎える可能性は少なくない。それなのに期待をもたせるような事を言ってしまった自分は、浅はかだったと言わざるを得ないのではないか。

 

「……アホらしい。いつから、この世界に肩入れするようになってたんだ?」

 

 鳳はごろりとベッドの上で寝返りを打った。雨音はどんどん激しくなり、ぶっ壊れたスピーカーが立てるピンクノイズのようなザーザー音だけが聞こえていた。

 

 どうせ、いつかは帰らなければならない世界なのだ。ここに来る前なんて、この世界のことなどなんとも思っちゃいなかったではないか。刈り取りに抵抗すれば、この世界が窮地に陥るであろうことを知っておきながら、鳳は自分の住む世界を差し出すことはしなかった。それが当たり前のことのように、この世界が滅亡に突き進むのも、また当たり前のことなのだ。ただ、それを受け入れればいいだけなのに、自分は救世主にでもなったつもりなのだろうか。未だに、レヴィアタンを退治する方法すらわからないというのに。

 

 ピピピピピ……ピピピピピ……

 

 鬱々とした考え事を続けていると、突然、そんな機械音が部屋に鳴り響いた。驚いて体を起こすと、机の隅っこに置かれていた電話が音を立てていた。部屋のオブジェと化していたが、各部屋には電話が取り付けられていたのだ。荷物が届いたらそれで寮母が教えてくれたりするのだが、鳳にはそんな家族や知り合いなどいないから無用の長物だったのだが……

 

「白ちゃん!? あなたたちは無事?」

 

 一体、どうしたんだろう? と思いながら受話器を取れば、いきなりそんな緊迫した声が聞こえてきた。

 

「ジャンヌか? なんだよ急に……つーか今どこいるんだ? 周りが騒がしいようだけど。宿舎まで来たから、内線で呼び出したって感じじゃないな」

 

 彼女の背後からはパンパンという火薬の音や隊員たちの怒号のような声が聞こえてくる。ジャンヌは受話器の通話口を手で覆って何かを叫んでから、また鳳に話しかけてきた。

 

「魔族の襲撃があるかも知れないからって、瑠璃たちを連れて海岸の防塁まで応援に来てたのよ。そしたら本当に、湾内に異常な数の水棲魔族が押し寄せてきて、それを撃退するので手一杯なの!!」

「お、おいおい、悠長に電話なんかしてる場合か?」

 

 鳳がそう言った瞬間、爆発音と共に受話器の向こうから悲鳴が聞こえてきた。ドミニオンが苦戦しているのが目に見えるようだった。

 

「なんかヤバそうだな。大丈夫か? 俺も加勢に行ったほうが良いか??」

「いいえ、大丈夫! いえ、大丈夫じゃないんだけど……あなたは寧ろ、そこに踏みとどまっていて、私もすぐにそっちへ向かうから」

「ええ? なんで? 魔族が押し寄せてきてるのは海岸なんだろう?」

「そうよ。でもあまりに数が多すぎるから、抑えきれるかわからないの! もしここを抜かれて、そっちに水棲魔族たちが行ってしまったら、訓練生たちだけでは太刀打ちできないわ。何故なら今回やってきたのは……」

 

 ジャンヌが何かを言いかけた時だった。突然、外で閃光が走ったかと思うと、宿舎の電気が一斉に消えた。停電か? と思ったら、次の瞬間、外で信じられないくらい大きな雷音が轟いて、ゴロゴロと建物全体を震わせた。

 

 どうやらかなり近場に雷が落ちたらしい。この状況で停電はまずくないか……? と焦ったが、流石は軍事基地といったところか、それから数秒ほどして宿舎の電気が復旧した。どうやら予備電源に切り替わったらしい。

 

 ともあれ、雷のせいで話が中断してしまったが、今はジャンヌと通話中だった。鳳は手にした受話器をまた耳にあてて話しかけたが、

 

「もしもーし! ジャンヌ? ……切れちゃったか」

 

 受話器からはツー音も聞こえず、どうも物理的に回線が切れてしまったようだった。

 

 もう彼女から電話が掛かってくることはないだろう。確か電話で彼女はこっちへ向かうと言っていたから、ここで待ってればいいのだろうか。

 

 取りあえず分かっていることは、現在この基地が襲撃を受けていることと、その規模が大きくて海岸線に引いた防衛線が突破されそうだということだ。いや、あの様子では既にいくらか突破されているだろう。これは宿舎の連中に伝えなきゃ……鳳がそう思って、寮母の部屋へ向かおうと靴を突っ掛けた時だった。

 

「きゃあああああああーーーーー!!!」

 

 っと、同階の部屋から悲鳴が聞こえてきた。どうやら恐れていたことが現実になってしまったようだ。鳳は取るものも取りあえず悲鳴の聞こえた部屋へと向かった。

 

 部屋の外には既に数人の訓練生がいた。異変に気づきはしたものの、部屋の中の様子が分からず躊躇しているようだった。鳳はそんな彼女らに向かって叫んだ。

 

「海岸線を魔族に突破されて、今、基地になだれ込んでるらしいんだ! ここは俺がなんとかするから、みんなに警戒するように伝えてくれ!!」

 

 訓練生たちは血相を変えて廊下を駆けていった。鳳はそんな彼女らと入れ違いに部屋の前に立つと、躊躇せずにそのドアをゴスペルの刃で叩き切った。光の剣が蝶番を切断し、バタンとドアが倒れる。

 

 部屋の中は雨風が吹き込んでいて真っ暗だった。しかし廊下から照らされた明かりで中の様子は分かった。狭い部屋の中央に数体のインスマウスが居て、一人の訓練生にのしかかっていた。

 

「助けて!」

 

 鳳は部屋に踏み込むと、背中を向けているインスマウスを上段から思いっきり叩き切った。エネルギーの塊である光の剣がスーッと魚人の頭を真っ二つに切断し、部屋に血のシャワーが降り注いだ。仲間が殺られたというのに、性欲のほうが勝るのか、インスマウスはまだ女生徒を襲うことに夢中だった。鳳はそんな無防備な魚人を次々と屠り、5匹倒したところでようやく女生徒を助けることが出来た。

 

 血でドロドロに汚れた床を這いずって、インスマウスの死体の下から部屋の主が抜け出してくる。彼女はブルブルと震えながら窓を指差し、

 

「窓が割れたと思ったら、いきなりこいつらが飛び掛かってきて」

「補強の板は打ち付けてなかったのか?」

「だって、ここ、最上階だよ?」

 

 彼女の言う通り、普通に考えてこんな上階に侵入者があるとは思いもよらなかったのだろう。外階段を登って屋上から侵入したのだろうか。鳳は面倒なことになったと、ガラスの破片に気をつけながら、窓の外を覗き込んだ。すると宿舎の周りの殺風景なグラウンドに、何かが蠢く影が見えた。

 

 時折、光を受けてギラギラ光るそれは、一体どれほどの数がいるのだろうか。水揚げされた魚みたいに、グラウンドでインスマウスの群れがビチビチ跳ねていた。それが押し寄せる波のように何度も何度も宿舎の壁に激突しているのは、きっとこの中に彼らの目的のものがあることを本能で察知したからだろう。

 

 まるでゾンビ映画でも見ているかのような光景にぞっとして顔を引っ込めると、鳳は部屋を覗き込んでいる訓練生たちに向かって叫んだ。

 

「やばい! インスマウスに囲まれている! みんな武器を持て、絶対に一人になるな!」

 

 その声とほぼ同時に、宿舎のあちこちから悲鳴が上がり、訓練生たちは状況を察知したらしい。バタバタとした足音が建物を揺らし、逃げ惑う訓練生で廊下はパニックになった。彼女らは出来るだけ魔族から逃げたい一心で階段を駆け上がってくる。鳳はそんな訓練生たちを押しのけながら逆走すると、悲鳴が上がり続けている1階を目指して走った。

 

 ジャンヌがもうじき助けに来るはずだ。それまで何とか玄関を死守しなければならない。寮監のおばちゃんは生きてるだろうか。どんどんと壁に魔族が体当りする音が鳴り響く中、一階の廊下を玄関に向かって走っていると、そんな鳳とは反対側から数人の女生徒たちが血相を変えて駆けてきた。その姿は他の訓練生たちとは違って血まみれだった。

 

「うわっ! 怪我をしてるのか!? おまえは……早朝バズーカ!」

 

 見ればやって来たのはいつも鳳に嫌がらせをしていた瑠璃信たちだった。彼女らはブルブル震えながら怯えた表情で鳳にすがりつくと、

 

「た、助けて! ……あんた、強いでしょう? ねえ、今までのことなら謝るから!」

「何がどうなってる!」

「わ、私たち、クリスマス会の後片付けをして食堂にいたんです。そしたら裏口からいきなり侵入者が入ってきて……」

「インスマウスの群れか!? しまったな……もう侵入を許してしまったのか」

 

 鳳が歯ぎしりをして唸り声を上げると、しかし、瑠璃信たちは尚も怯えながら、そんな彼の言葉を否定するように首を振り、

 

「ち、違うの! 襲ってきたのは魔族じゃない……天使よ!」

「はあ!?」

「間違いない、あれは天使だった。どうして天使が人間を襲うのよ!」

「落ち着け! もう少し詳しく教えてくれないか?」

 

 正直彼女らが何を言っているのかわけが分からなかったが、瑠璃信たちは興奮し過ぎて話が通じないようだった。取りあえず、何かヤバいことが起きていることだけは確からしい。鳳は取り乱している彼女らに、早く上に逃げるように伝えると、自分は単身で食堂へと駆けていった。

 

 食堂は全ての照明が破壊されて真っ暗だった。しかし、中で何が起きているのかはすぐに分かった。入り口のすぐ脇に、いくつかの首無し死体が転がっていて、部屋の中は血の匂いで充満していた。

 

 そんな食堂の奥の方からピチャピチャという水音が聞こえてきて、そんな不穏な音にじっと目を凝らせば、そこに数体の小さな影が揺らめいているのが見えた。

 

「……子供か?」

 

 大きさからして子供のようにしか思えない。そして次に聞こえてきたその声には聞き覚えがあった。

 

「くすくす……また美味しそうなのが来たよ、姉さま」「今度は私が頭を戴くわ、姉さま」「私は左手」「じゃあ私は右手」「駄目よ姉さま、母さまにも持って帰らなくちゃ」「どの部位も美味しそう。よく味わって食べなくちゃ、姉さま」

 

 そのおぞましい内容の声は、どれもこれも全てがまったく同じ声だった。まるで精神分裂病患者が独り言を言っているかのように、淡々と同じ声が続いている。鳳はその声に強烈な不安を覚えていたが、それが何故なのかはまだ暗くてよく分からなかった。

 

 一つだけ分かるのは、自分はどうやら何かとんでもないものを目の当たりにしているらしい。だが一体、こいつは何者なんだ……?

 

 その時、ビシャン! と雷が落ちて、真っ暗だった食堂を一瞬だけ白く染めた。鳳はその機を逃さずに目を凝らした。すると一瞬だけ見えたその先に、彼はよく知る人物の姿を捕らえて、あまりにも想定外なことにパニックになりかけた。

 

 そこには小さな体に片翼の羽、白がかった薄紫の髪の毛の、子供みたいな天使の姿があった。アズラエルがそこに居たのだ。

 



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アイギス

「くすくすくす。人間が来たよ、姉さま」

「こいつの脳はどんな味かしら、姉さま」

 

 水棲魔族の群れに囲まれた宿舎のいたる所から悲鳴が上がっていた。突然の襲撃に慌てふためく寮生を助けながら、とにかく魔族の侵入を阻止しようと一階へ降りていけば、裏口の戸が破られた食堂で待っていたのは、魚の顔をした魚人ではなくて、何故か天使アズラエルであった。

 

 しかも彼女は一人だけではなく、ざっと見た限りでも十数人はいるようで、おまけにその一人ひとりが物騒な事を口走りながら、犠牲になった訓練生の体を弄んでいたのである。

 

 あの、人類を救うために体を張ってきた彼女がそんなことをするわけがないという確信もあったが、何よりも彼女が複数人いる時点で、そこにいるのが本物じゃないことは分かっていた。

 

 しかし、分かっていながらもショックから抜け出すのに時間がかかった。何故なら、それはあまりにも彼女に似すぎていたからだ。小柄な子供みたいな身体、おかっぱの薄紫の髪の毛、それから背中に生えた片翼。寸分たがわぬアズラエルの姿をした連中が、目の前にうじゃうじゃといるのである。

 

「今度のやつも美味しそう、脳髄を残さず啜らなきゃ」

 

 そう言い放つ口は既に血でドロドロに汚れていて、こいつらが今まで何をしていたのかは容易に想像がついた。よく見れば食堂のあちこちには、犠牲になった訓練生たちの死体が転がっていて、無惨に四肢が引きちぎられて胴体しか残っていないものさえあった。

 

 そうして物のように扱われた彼女らの四肢を、目の前のアズラエルにしか見えない連中が、グチャグチャと音を立てながら満足そうに咀嚼しているのだ。鳳の正面に居た個体は死体から引きちぎった頭を手にし、鼻の穴からストローのような管を突っ込んで、ジュルジュルと音を立てて脳髄を吸い上げていた。

 

 そのおぞましい光景を前に、背筋にブルブルとした怖気が登っていった。それが脳に達すると、恐怖が彼の脳を弛緩し、鳳はほぼ反射的に一歩後退っていた。

 

 野生動物の前で弱気な姿を見せてはいけないとはよく言ったもので、鳳のそんな姿を見たアズラエルはニヤリと笑うと、手に持っていた頭を彼に投げつけ、とても彼女のものとは思えない下卑た笑みを浮かべながら、

 

「そんな怖がらないで、人間。すぐにおまえもそうなるんだよ。そしたらもう怖くないから」「くすくすくす、姉さまったら意地悪」「くすくすくす、そいつ今にも泣き出しそうよ」「ストレスは肉を美味しくなくするの、姉さま」「肉が痛む前に早く食べましょう、姉さま」「姉さま、早く早く」

 

 アズラエルの顔をした連中は、まるで生贄を前にした悪魔のように、そんな不愉快なことを口にした。だが、彼女らの余裕はそこまでだった。鳳は投げつけられた頭を反射的にキャッチしてしまい、ぬるっとした感触に驚いてそれを落っことした。するとその頭は嘘みたいに地面をコロコロ転がって、鳳のことを見上げる格好でピタリと止まった。

 

 彼はその顔に見覚えがあった。

 

「マジ……かよ……」

 

 つい最近、ジャングルで死線を共にくぐり抜けた仲間だった。

 

 それを見た瞬間、彼の頭の中で何かが弾け、ついさっきまで恐怖に強張っていた体中の血液が沸騰し、脳にバリバリと静電気が走ったような感覚がして、彼は腰にぶら下げていた光の剣を引き抜くと、目の前の奴らに飛びかかっていった。

 

 彼が剣を一薙ぎするなり、まるでケーキを切るかの如く、殆ど感触もなくアズラエルの首が宙に飛んでいった。下卑た笑いを浮かべたまま、もう二度とその表情が変わることがない生首がべちゃっと地面に落ちると、同時に残った胴体の首の辺りから血が噴水のように吹き出して、天井を真っ赤に染めていった。

 

 取り巻きはビビっていると思われた鳳の突然の行動に虚を突かれて固まっていたが、魔族らしく闘争本能が勝ったのだろうか、間もなく仲間の報復とばかりに襲いかかってきた。

 

 しかし、鳳にはその一瞬の隙があれば十分だった。彼はまだ態勢の整っていない相手を更に二体ほど血祭りに上げると、背後から飛びかかってきたもう一体には光弾をぶつけて吹き飛ばしてやった。

 

 連中はそれでも怯まずに畳み掛けてくる。だが、鳳は相手の突進をスライディングでくぐり抜け、血でビチャビチャの地面を滑って、そのまま食堂の反対側の壁に着地した。そんな曲芸みたいな動きに翻弄された一体が、目だけを彼に向けてギンと睨む。その眼光に嫌な予感を感じた彼が体をくねらせると、たった今彼のいた場所をレーザー光線みたいな何かが通過していき、壁にぶつかって破裂した。

 

 何が当たったのだ? と見れば、そのクレーターみたいな着弾点が塗れている。

 

「水滴……?」

 

 キラリと光ったからレーザー光線かと思いきや、どうやらそれは高圧の水を飛ばしたウォータージェットのようだった。どのくらいの圧力があるか分からないが、当たったらまず体を貫通すると思っていた方が良さそうである。

 

 しかしそれより鳳は気になっていた。その水撃魔法なら一度見たことがあった。これはアナザーヘブン世界でレヴィアタンが連発していた魔法じゃないか?

 

 ハッとして、アズラエルの首を凝視すれば、喉の辺りがパクパク閉じたり開いたり、魚のエラみたいなものが付いていた。更によく見れば皮膚は鮫肌のようにざらついており、そして彼女らの指の間には、薄い膜が張り、ヒレまでついているようだった。

 

 こっちの世界に来てからはインスマウスの襲撃ばかりで、オアンネスのことは一体も見たことがなかった。もしかしてこいつらの正体は、そのオアンネスなんじゃないのか? しかし、だとしたら何故、こいつらはアズラエルの姿をしているのだろうか……

 

 鳳がそんなことに気を取られていると、隙を突いて一体のオアンネスが彼の背後に忍び寄っていた。その気配に気づいた時には既に遅く、敵は攻撃態勢に入っていた。身を隠すための遮蔽物がない状況でオアンネスの目がギラリと光り、彼はヤバいと咄嗟に剣を構えたが……しかし、そんな彼の後方から光の弾が飛んできてオアンネスに着弾すると、哀れな魔族はその爆発に巻き込まれて吹き飛んでいった。

 

「白様、ご無事ですか?」「飛鳥さん、加勢します!」

 

 心臓をバクバク鳴らしながら振り返ると、瑠璃と琥珀が駆け込んできた。もう一人はどうしたんだろうと思ったら、闇に乗じてオアンネスの背後に周り、一体の首を切り裂き、また闇へと消える姿が一瞬だけ見えた。そう言えば、そういうスキル持ちだった。瑠璃信たちと一緒にその特技を生かされなくて本当に良かったと思いつつ、水撃から身を守るためにひっくり返したテーブルの影に身を寄せる。

 

「おまえらどうしてここに!?」

「ジャンヌ隊長から聞いてませんか。僕たちも海岸で防衛してたんだけど、いきなり出てきた天使の姿に、みんな動揺しちゃって。あっちで食い止めきれなかったのが、基地にどんどん侵入しちゃったんだ」

「あれはやっぱりオアンネスなのか? どうしてアズにゃんの姿をしてるんだ?」

「私たちにもさっぱりですわ! それで、訓練生だけでは持ちこたえられないでしょうから、救援に来たんです。間一髪でしたわね」

「恩に着るよ。ジャンヌは? あいつも一緒じゃないのか?」

「お姉さまなら訓練生たちを指揮して、玄関の方を防衛していますわ。とにかく侵入経路を塞がなければ」

「隠れてないで出てきなさいよーーーっ!!」

 

 バチバチとテーブルが音を立てて、木製の表面が弾け飛んだ。何本かの水撃が貫通し、遮蔽物として意味をなさなくなると、鳳たちは慌てて隣のテーブルの影に飛び込んだ。そんな彼らが通った後を、バシャバシャと水撃が襲う。

 

 鳳たちは無茶苦茶に水撃を撃ってくるオアンネス目掛けて、テーブルの影から一斉に光弾を放った。何発かは敵にヒットし、壁にぶつかった弾が爆発してもうもうと煙が上がった。しかし、致命傷には至らず、オアンネスは相変わらず怒りに任せて彼らの隠れているテーブルを水撃しつづけた。どうやらその水撃のせいで室内に霧が発生し、光弾の威力を削いでしまっているようだった。鳳は慌てて、

 

「光弾を撃つタイミングを合わせろ! 重ねて威力を上げなきゃ奴らを倒せない!」

 

 鳳が言うまでもなく、琥珀と瑠璃は既にタイミングを合わせていた。きっとここへ来る前、海岸の防衛線で既に戦術が確立していたのだ。とすると問題なのは、それを知らずに奇襲を受けている宿舎の訓練生たちだった。

 

「防衛ラインを下げよう。こんな広い室内で撃ち合うより、廊下にバリケードを作ったほうがまだマシだ」

「わかりましたわ!」

「こっちよ」

 

 鳳たちが撤退を決めると、どこからともなく桔梗が現れて手招きした。いつの間にか食堂のテーブルが倒されて、出入り口まで敵の水撃を遮蔽する道が出来ていた。こういう地味な仕事を的確にこなしてくれる奴はありがたい。桔梗という人物を若干見直しながら、鳳は三人娘に続いて食堂から外に転がり出た。

 

 食堂の外の廊下には既に人が集まっていて、ロッカーを積んでバリケードを作っていた。鳳たちがそのバリケードを飛び越えると、次の瞬間、一斉にそのあちこちの隙間から光弾が撃ち出され、背後に迫っていたオアンネスをドカンと吹き飛ばした。背後から悲鳴が轟き、それが全部アズラエルの声だと思うとなんだかちょっと気分が悪い。

 

 ともあれ、食堂からの侵入は防げたようだが、他はどうなってるんだろうと気にしていると、応戦している鳳の足元にシャーっとタブレット端末が滑ってきて、音声通話からジャンヌの声が聞こえてきた。

 

「食堂班、裏口班、玄関班、お風呂場班、トイレの方もみんな聞こえる? 侵入経路が多すぎて、地上階での迎撃は効率が悪いわ。2階まで上がって階段で迎撃する。食堂班から順に撤退を開始して。中央の昇降口に向かってちょうだい」

「了解」

 

 誰ともなく返事を返すと通話が切れ、代わりに昇降口の方で手を降っている訓練生たちの姿が見えた。きっと撤退を援護してくれるつもりだろう。鳳は瑠璃たちと確認し合うと、イタチの最後っ屁とばかりに、

 

「逃げる前に一発ぶちかますぞ! タイミングを合わせて! 3・2・1・いま!!」

 

 彼の号令でバリケードに張り付いていた訓練生たちが一斉攻撃し、重なりあった光弾がオアンネスの群れに吸い込まれていった。すると次の瞬間、ものすごい轟音とともに閃光が迸って、頑丈な宿舎の柱をグラグラ揺らした。

 

 本当に倒壊するんじゃないかというほどの揺れに、こりゃ、やり過ぎちゃ駄目だわ……と肝を冷やしつつ、爆風を背中に受けて加速しながら、鳳たちは昇降口へと飛び込んだ。そこで待ち受けていた訓練生たちが、一斉にロッカーを積んでバリケードを作るが、しかしもうそこへ魔族が突っ込んで来ることは無かった。多分、今の攻撃で一掃されたのだろう。

 

 それで敵が警戒したのか、撤退は思ったよりもスムーズに行われた。最後に玄関を死守していたジャンヌが2階に上がってくると、全ての階段を封鎖するようにバリケードが築かれ、そこに宿舎内の訓練生たちが陣取り、上がってこようとする魔族を待った。

 

 暫くすると一階が放棄されたことに気づいたのか、ギィギィという鳴き声とピタピタと歩き回るインスマウスの足音が聞こえてきた。おぞましい魚人の習性を思い出して訓練生たちの顔色が変わるが、しかし階段を突破してインスマウスが上がってくることはなかった。

 

 インスマウスに飛び道具は無く、階段を上がろうとすれば狙い撃ちをされるだけである。問題は相手の数が多すぎることだが……階段の踊り場でひたすら迎撃しているうちに死体が積み上がって、逆に侵入を防いでくれるようになってきた。こうなると魚人共に打つ手はなく、階下からギィギィと言う声が聞こえてくるだけで、宿舎はようやく落ち着きを取り戻し始めていた。

 

「白ちゃん、そっちの損害は?」

 

 鳳たちがほっと一息ついていると、指揮官であるジャンヌが忙しそうに駆けてきた。

 

「ジャンヌか。瑠璃たちが来てからは一人も出していないけど……最初に食堂に入った時、既に何人か殺られていた」

「そう……無傷ってわけにはいかないわよね」

「この、オアンネス……なのか? こいつらは一体何なんだろう。アズにゃんの姿をしているのもそうだけど、あの水撃魔法が痛すぎるぜ」

 

 鳳が尋ねると、彼女は首を振って、

 

「それは神域に報告してアズラエル様に直接聞くしかないわね。取りあえず今は、このまま辛抱して、朝を待ちましょう。予報では朝までにはサイクロンも通過するそうだから、本隊は日が昇ってから反転攻勢をかけるつもりよ」

 

 ジャンヌの言葉を聞いて、疲労の色を見せ始めていた訓練生たちから笑顔がこぼれはじめた。どうやら本隊もまだ動けないようだが、彼女らは見捨てられたわけではないらしい。いきなり襲撃された時はパニックになってしまったが、今はジャンヌと、瑠璃と、琥珀もいる。彼女らが居ればもう安心だと、訓練生たちは安堵のため息を吐いた。

 

 だが、得てしてそういう時こそ失敗は起こりやすいものだ。

 

 水棲魔族の群れを階段で完全に封じ込めていたと思っていた訓練生たちは、相手が魚の顔をしたインスマウスだけではないことを忘れてしまっていた。

 

 突然、踊り場に積み上がっていたインスマウスの死体の中から、無数の水撃が飛び出してきて、階段の上で警戒していた一人の訓練生を貫いた。血飛沫が舞い上がり、悲鳴が響き渡る。

 

 ジャンヌがハッとして振りかえると、そんな訓練生を助けようとしてまた別の訓練生が犠牲となり、手薄となった階上に、階段を突破した水棲魔族が押し寄せてきた。

 

 ドドドドド……っと、地響きを立てながらインスマウスの群れが迫る。

 

 廊下に腰を落ち着けていた訓練生たちが慌てて迎撃を開始するが、敵は数に物を言わせて、あっという間に彼女たちを飲み込んでいった。

 

 鳳たちは廊下を一直線に駆けてくる魚人の群れに向かって光弾を放つが、しかし、その途中で逃げ惑っている訓練生たちに当たりそうで狙いが定まらなかった。一方、オアンネスの方は仲間であるはずのインスマウスに当たるのも構わず水撃を放ち、逃げ遅れた訓練生たちが次々と犠牲になっていった。

 

「三階を目指して! みんな早く!!」

 

 ジャンヌが突進し、少しでも水棲魔族の進行を遅らせようと盾になる。

 

「飛鳥さん! 瑠璃を頼みます!!」

 

 防御魔法が使える琥珀がその後に続き、二人で魔族を食い止めている間、逃げ遅れた訓練生たちが我先にと廊下を駆けてくるが……しかし、彼女らを逃した後の二人がどうなるかはバカでも分かった。

 

「飛鳥さん!! 早く!! もう持ちません!!」

 

 琥珀が必死に叫んでいる。ジャンヌがめちゃくちゃに剣を振り回し、後先考えずに敵を屠り続けている。鳳もゴスペルを握って突撃すれば時間稼ぎにはなるだろう。しかしそれでも敵の勢いは止められそうもない。

 

 彼女らがどうして欲しいのかはもちろん分かっている。だが、鳳も瑠璃も金縛りにあったかのようにその場を一歩も動けずにいた。

 

 何か……何か方法は無いのか?

 

 かつての彼には敵の数を物ともしない圧倒的な力があった。でも、今の彼にはそんなものはなく、知恵を振り絞ってこの場を切り抜けるしか方法はない。

 

 しかし、この咄嗟の場面で彼にやれることは何もなく、ただ呆然と立ち尽くすしか無かった。周囲を見ても役に立ちそうなものは何もない。

 

 逃げ惑う訓練生の背中を水撃が襲う。悲鳴が上がるが、琥珀もジャンヌももうそんなことを気にしている余裕がないようだ。

 

 どうしてこの場面で、自分は防御魔法が使えないのか……かつてのゲームみたいな防御結界が使えれば……せめて、あと一枚でいいから盾があれば……

 

 盾が……今必要なのは誰かを守る盾なのだ。

 

「盾だ……盾はないのか!? 何でもいい! 誰か持ってこい!!」

 

 するとその願いが天に届いたとでも言うのだろうか。

 

 鳳は突然、脳にギンっとした鋭い痛みを感じたと思ったら、急に目の前が光りだし、そこに半透明の盾が浮かび上がった。それはキラキラと光鱗を撒き散らして、仄明るく緑色に輝いている。

 

 なんだこれは? と思わなくもなかった。だが、そんなボヤキが口をついて出る前に、彼はその盾に見覚えがあることに気がついた。

 

 中世ヨーロッパ風のエスカッシャン、その両側に立つ2匹の竜がそれを支えている。その頭上には綺羅びやかなコロネットと無骨なヘルメットが並び、そして十字によって分割された盾の表面には4つの言葉が刻まれていて、鳳は自然とその言葉を口にしていた。

 

始まりにして終わり(initium et finis)アルファにしてオメガ(Alpha et Omega)死者は蘇り(mortui resurgunt)生者には死の安らぎを与えん(Da pax vivi mortis)

 

 そんな彼のつぶやきが、騒がしい宿舎の壁にこだまするように響き渡ると、突然、閃光が迸り、盾からまばゆい光が溢れ出した。その暴力的なまでの光は、みるみるうちに空間を埋めていき、気がつけばその場にいた全ての者は、ただひたすら白い純白の中に佇んでいた。

 

 その不思議な光景を前に、魔族さえも恐れおののいて固まっている。

 

「おまかせください、ご主人さま」

 

 するとそんな白の中に、空間を切り裂いて一人の少女が降りてきた。彼女はまるでパラシュートみたいに大きな盾を高々と掲げて、ゆっくりとしたスピードで天から降りてくる。

 

 そして彼女は鳳の前に優雅に着地すると、恭しくそのメイド服の裾を軽く摘んでお辞儀をし、状況を確認するかのようにぐるりと辺りを見回してから、その大きな盾でご主人さまのことを守るように構え叫んだ。

 

「アイギスッ!」

 



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不合理ゆえに我信ず

 突如、鳳の目の前に現れた光り輝く大盾。彼はそれを見て、すぐにそれが自分たちが作ったヘルメスの紋章であることに気がついた。何故なら、その表面には彼にしか読むことが出来ない、ケーリュケイオンに刻まれていた言葉があったからだ。

 

 始まりにして終わり。アルファにしてオメガ。死者は蘇り、生者には死の祝福を与えん。

 

 その言葉を口にした瞬間、盾は一層まばゆい光を解き放ち、周囲を白く染めていった。そしてそのど真ん中に降り立ったお仕着せの少女を見て、彼はまた度肝を抜かれた。巨大な盾を軽々と掲げながら彼の目の前に現れたのは、なんと彼の三番目の妻アリスだった。

 

「おまかせください、ご主人さま」

「アリス……? なんでここにっ!?」

「敵ですね。私がなんとかしてご覧に入れましょう」

 

 アリスは驚いて腰を抜かしている鳳に向かって優雅にお辞儀をしてみせると、すぐに状況を確認するかのように周囲を見渡してから、手にした盾を頭上に掲げた。ともすると彼女の身長よりも大きな盾を、非力な彼女が片手で軽々と持ち上げる様を見ていると、狐につままれたような気分になったが、今はそれくらいのことで驚いていられる状況ではなかった。

 

「神の脳より出でしパラス・アテナ。その知恵と高潔はあらゆる邪悪を打ち払うだろう。今こそ我が城塞は正義を守護する盾とならん。アイギス! 我と我が主を守り給え!」

 

 アリスが祈りを告げると同時に、頭上に高々と掲げた大盾がまた輝きだし、ベールのように白い光が広がり周囲の暗闇を包み込んでいった。するとその光に触れた魔族はまるでブルドーザーに押されているかのようにぐいぐいと押し出され、他方、魔族に襲われていた人間たちはその場に残された。

 

 盾の放つ光は瞬く間に2階の廊下を包み込み、登ってきた魔族の群れを1階まで押し返してしまった。

 

 そして唖然とする一同のど真ん中で、アリスはフンッと鼻息を鳴らすと、よっこらしょと盾を下ろしてそれを背中に背負い、きょろきょろと周囲を見回して鳳の姿をロックオンするなり、嬉しそうに彼の胸に飛び込んできた。

 

「お久しぶりでございます、ご主人さま! お逢いしとうございました!」

 

 鳳はアリスの突進を受け止め、その背中に背負った盾に頭をぶつけないように仰け反りながら、

 

「ちょ、ちょっとまって、アリス? え? 本当に? 本当に、アリスなのか?」

「はい、アリスにございます。もうお忘れになってしまわれたのですか?」

「まさか! そんなわけないけども……」

 

 今気にしているのは記憶力の問題ではなくて、どうしてアリスがここにいるのかと言うことだ。もしかして最近、彼女のことをよく考えていたから幻想でも見えてしまっているのだろうか? しかし周囲の反応からして、鳳が一人で夢や妄想を見ている感じではない。そしてどうやらこのアリスが偽物というわけでも無さそうだった。

 

 彼女は唖然としている鳳の背後にジャンヌを見つけると、一旦彼から離れて恭しくお辞儀をし、

 

「ジャンヌ様もお久しゅうございます! およそ三年ぶりでございますね、ご無事で本当になによりでした!」

「え? あ、これはどうもご親切に……?」

「あなた様がいらっしゃらない間、ヘルメスも大分様変わりしたのですよ。こちらへ帰っていらっしゃったのなら、是非一度プリムローズへも寄ってらしてください」

「え、ええ……?」

 

 ジャンヌの方は彼女が誰か分からず首を傾げていたが、アリスの方は本当に嬉しそうに彼女の手を握りしめると、それをぶんぶん振り回して再会を喜んでいた。その姿は微笑ましくて、鳳も自分のことのように嬉しく思えてきたが……しかし、そこに違和感があることに彼女はようやく気づいたのか、

 

「ところで、ここはどちらなのでしょうか? ご主人さまは、どうやってジャンヌ様と再開されたのですか? それに……さっきのあの魔物の群れは一体?」

「いや、こっちが聞きたいんだけどね。君こそどうやってここへ来れたんだ?」

「どうって……ご主人さまがお呼びになられたのでは無いのですか?」

「そんなわけないよ。俺は何もしてないぞ」

「でも、私さっきまでお城にいたのですよ? 奥様と一緒に」

 

 どうやらアリスは自分がポータルで呼び出されたと思っているらしい。今の鳳にはアナザーヘブンの時のような力はないし、そもそも次元を超えるポータルなんてものは存在しない。あればこんな苦労はしていないだろう。だから鳳の方こそ、アリスが不思議な力で突然現れたとしか思えなかったのだが、

 

「……まずは状況を整理しよう。アリス。君はアリス・プリムローズで間違いないな? ヘルメス国の首都、プリムローズ城で暮らしている」

「はい、間違いありません」

「俺は3年前に消えた友人を探しに、そのプリムローズ城で君たちと別れて、高次元世界へと渡った。それから家にはまだ一度も帰ってない。そうだろう?」

「はい、そうです。奥様も、クレア様も、もちろん私も、ご主人さまのお帰りを首を長くして待ち侘びておりました」

「あー……だから、つまり、ここは君たちが住んでいるアナザーヘブン世界ではなく、高次元世界の地球のはずなんだけど」

「………………ええ!? ここは、ヘルメスではないのですか?」

 

 アリスはようやく自分の置かれている状況がかなり特殊であることに気づいたらしい。急にオロオロし始め、あたりの様子を窺いはじめた。鳳たちに再会した喜びですっかり失念していたようだが、考えてもみれば、彼女はいきなり魔族の群れのど真ん中に放り出されたのだ。おまけに周りは知らない人だらけで、変な盾まで持っている。

 

 何が起きたか分からないのは彼女も同じなら、そりゃ不安にもなるだろう。ともかく今一度状況を整理するためにも、鳳は彼女を落ち着かせるつもりで重ねて訊ねた。

 

「取りあえず、何が起こっているのか整理しよう。君がここへ辿り着いた時の状況を、もう一度詳しく教えてくれないか?」

「は、はい!」

 

 彼がそう言うと、彼女はメイドの職務を思い出したかのようにピンと背筋を伸ばし、ここにやって来るまでの経緯を話しはじめた。

 

「ご主人さまがジャンヌ様たちを探しに行かれてから、私は毎日毎日ご主人さまのご無事をお祈りしておりました。するとある日、私の祈りが天に通じたのでしょうか、神様の声が聞こえてきて、盾を探しなさいとおっしゃられたのです」

「……はあ? 神? 神様だって!?」

「はい。あれはまさしく神様でした」

「んなアホな……いや、ごめん、続けて?」

 

 いきなり話の腰を折っても仕方ない。正直信じられなかったが、鳳は眉間を指でモミモミしながら話の続きを促した。

 

「はい。とは言え、盾と言われましても城下で買えば良いのか、兵士の装備を借りれば良いのか、何を指すのかがまるで分からず、奥様にご相談したところ、そう言えば以前、ご主人さまが迷宮で見つけてきたのがあったではないかと言われて……それで二人でプリムローズ城の宝物庫を探していましたら、突然、どこからともなくご主人さまの声が聞こえてきたんです」

「今度は俺?」

「はい。盾はないか、誰でもいいから盾を持ってこいと。それで私は咄嗟に手近にあった盾を掴んで、こうして馳せ参じた次第です」

「うん……それで?」

「以上です」

「それだけ?」

「はい」

 

 アリスは真顔で頷いている。鳳は暫くの間呆然として頭の中が真っ白になっていたが、すぐに首をブルブルと振ってこめかみを指で突きながら、

 

「いやいやいやいや、もうちょっと何かなかったの? つーか、そんなんで世界が渡れるなら、俺達の苦労は一体何だったんだよ!?」

「でも、あれは確かにご主人さまのお声でしたよ?」

「言われてみれば、確かにさっき盾を持ってこいって叫んだような気がするけど……でも、言っただけだぞ? いくらなんでも理不尽じゃないか? 何がどうなったらこうなるってんだよ」

 

 鳳はわけが分からずアリスを相手に不満をぶちまけてしまったが、しかし彼女の方は主人の取り乱す姿を見て、かえって落ち着きを取り戻したのか、真顔で鳳のことを見上げながら言った。

 

「ですが、神の力とはそういうものではございませんか? 説明がつく力であるなら、信ずるには足りません。誰にでも救えるのなら、神である必要はありません。ご主人さまをお助けすることが出来るのであれば、それがどんな力であっても私は信じますよ」

「う、うーん……」

 

 それは鳳のことを真っ直ぐに信じているアリスの言葉だったから、なんだかものすごい説得力があった。そもそも、鳳たちはその理不尽な相手を倒すために、こうして世界を渡ってきたのだ。それすら信じられないのでは話にならないだろう。

 

 しかし……アリスの言う神が何者かはわからないが、もしもこの世界の神であるなら、鳳の手助けをするとはどういう了見なのだろうか? 鳳は寧ろ、その神を倒したい側のはずなのだが。

 

 ともあれ、何が起きたかはまだよく分からないが、彼女がこうしてこの世界にやってきてしまったことだけは確かだった。というか、そのお陰でみんなの命が助かったのだから、文句を言う筋合いは無いだろう。

 

 彼はため息をつくと、今はこれ以上考えても仕方ないと気持ちを切り替え、アリスの労をねぎらった。

 

「いやすまない、君が来てくれて本当に助かったよ。お礼がまだだった。ありがとう」

「いいえ、ご主人さま。お褒めに預かり光栄です」

「しかし、まいったな……まさか君まで巻き込んでしまうなんて。無事に帰れるように努力はするけど、正直今はちょっと難しいんだ」

「お気になさらないでください。私は寧ろ、またご主人さまのお役に立てることが嬉しいんです」

 

 アリスがそう言って全幅の信頼を寄せた笑みを見せると、今まで二人のやり取りを黙ってみていた瑠璃がソワソワしながら近づいてきて、彼女の顔をジロジロみながら鳳に尋ねた。

 

「あのー……白様? ところで、その子はどちら様ですの? 先程からとても親しげな様子ですけれど」

 

 瑠璃は鳳とアリスの顔を交互に見ている。

 

「ああ~……お前には言っただろう? 俺には既に生涯を誓った三人の妻がいるって。アリスはその一人だ」

「ええ!? こんな小さい子が!? こんな年端も行かない子供に手を出すくらいなら、私の方を選んでくれても良かったでしょうに!!」

「ひ、人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ! つーか、アリスはお前より年上のはずだぞ?」

 

 まあ、襲ってしまった時は年下だったかも知れないのだが……鳳が冷や汗を垂らしながら反論していると、それを聞いていたアリスがズイと瑠璃の前に進み出て、

 

「なんです、おまえは……馴れ馴れしい。ご主人さまから離れなさい」

「うっ……あなたこそなんなんですの?」

「私はアリス・プリムローズ、この方はヘルメス国の王配にして、私の大切な旦那様です。庶民風情が図々しく近づくんじゃありません」

「はあっ!? 誰が庶民ですって? ちびっ子が馬鹿にして!」

「誰がちびですか! 私はおまえより年上です。年上は敬いなさいと学校で習いませんでしたか? そんなことだからおまえは庶民なんですよ」

「なんて生意気な……大体、そんな胸のサイズで、とても年上なんて信じられませんわ! 何かの間違いじゃありませんかしら?」

「くっ……デカきゃ良いってもんじゃないですよ! このデカパイ! 早く垂れちゃえばいいんです」

 

 アリスの辛辣な姿を前に、鳳は肩身を狭くしてオロオロしていることしか出来なかった。ヘルメスに居た時はこんな姿を見たことなんて無かったのだが、よほど鬱憤が溜まっていたのか、それとも二人の相性が悪いんだろうか……

 

「あーら、ごめんあそばせ。人間もおっぱいも小さいものだから、つい本当のことを言ってしまって」

「ふん、おっぱいしか取り柄がないくせに。脳みそまでおっぱいに詰まってるんじゃないですか」

「なんですって、きーっ!! もう頭きましたわ! そこに直りなさい!」

「や、やめなよ、瑠璃! この人が僕たちのことを助けてくれたんだよ?」

 

 今にも取っ組み合いを始めそうな二人の間に、慌てて琥珀が仲裁に入る。実際、こんなことやってる場合ではないので、鳳もおっかなびっくりアリスを止めようとしたら、パンパン! っと手を叩く大きな音が聞こえて、ジャンヌが騒動を眺めている訓練生たち全員に向かって、大声で叫ぶように指示を出した。

 

「はいはい! あなたたち、助かったからっていつまでも呆けていないで。外は相変わらずの嵐で、魔族の侵攻はまだ終わったわけじゃないのよ! 瑠璃! 琥珀! あなたたちはショックで放心している訓練生たちをまとめて落ち着かせてちょうだい。まだ何が起きたか分からず怯えてる子が上階にいるはずよ」

「わ、わかりました!」

「それから、飛鳥以下落ち着いてる訓練生は私についてきて。アリスさんも、お願い。1階には……犠牲になった子達がまだ取り残されていると思うの。生きている子もそうだけど、死んでしまった子をそのままにしておくのは忍びないわ……」

 

 ジャンヌのその声に訓練生たちはハッと我を取り戻すと、慌てて三々五々散らばっていった。鳳もジャンヌにうなずき返すと、アリスを連れてすぐに一階に降りていった。

 

 どういう原理かは良くわからないが、魔族を押し返している結界は、アリスの背負う盾が作り出しているようだった。彼女が一階に降りると、また結界が拡張されるように広がっていき、そこに残っていた魔族を掻き出すように、全部建物の外まで追いやってしまった。

 

 本当に、これは何なんだろうと思いつつ、今は被害者の救出が優先だと気持ちを切り替える……

 

 しかし、そんな希望は1階の惨状をひと目見ただけで無駄と分かった。廊下は全面、血でべっとりと汚れており、ところどころに魚人の鱗が散乱していて、足の踏み場もない有様だった。すべての部屋のドアと窓ガラスが割られていて、中の家具も全てが壊され瓦礫の山と化していた。

 

 アリスの結界は魔族だけを追い出したようで、人間の死体はそのまま残っていたが、どれもこれもひどい状態で直視するのも辛いレベルだった。魔族はまず女を犯すはずだが、ジャングル訓練の時とは違って全員が殺されていたのは、今回はオアンネスが混じっていたからだろうか? インスマウスの方が数は多かったはずだが、どうやら指揮権はオアンネスの方にあるらしい。廊下の死体回収を訓練生に任せ、鳳とジャンヌは食堂へと向かった。

 

 食堂は最初に魔族の侵入を許したからだろうか、一番犠牲者の数が多かった。戦っていた時は気づかなかったが、部屋の続きの調理場には死体の山が積み上がっており、調理道具が転がっている様子から、どうも連中が調理をしようとしていたことが分かった。その残酷な事実に鳳は怒りがこみ上げてきたが、でもそれがアズラエルの姿をしていたことを思い出すと、すぐに気持ちは萎えてしまった。

 

 死体は殆ど全てがバラバラにされており、どれが誰のどの部位なのかわからず、それでも分かる範囲で集めておいてやろうと、無心で片付けていたら、その中にジャングル訓練のときの班員の姿を見つけた。見たところ、全員が犠牲になってしまったようだ。

 

 せっかく仲良くなれたのに、どうしてこんなことに……と思っていると、後ろからすすり泣きが聞こえてきて、振り返ると例のバズーカが死体を見下ろしながら泣いていた。

 

「私たちは怖くて逃げることしか出来なかったのに……こいつらが私たちのことを守ってくれて……早く逃げろって……私たち……こいつらのことイジメてたのに……なのに……」

 

 バズーカは涙を噛み締めるかのように歯を食いしばって立っている。彼女が死ねばよかったなんて思わないが、本当になんでなのだろうと、その不条理さに己の無力さを痛感する。

 

 戦場では勇敢なやつから死んでいく。彼女らは鳳との約束を守って、逃げ惑う訓練生たちを助けようとして死んでしまったのだろう。鳳を裏切ったことを後悔する彼女らに対し、あの時はそれが当然と思っていたが、要らぬことを言ってしまったのだろうか。助けろなんて言うんじゃなくて、逃げろと言うべきだったろうか……昔の自分なら、間違いなくそう言っていただろうに。いつからこうなってしまったのだろうか。

 

 そんなことを考えながら憂鬱な作業を繰り返していると、段々、死体には法則性があることに気がついた。どの死体も必ず首を切り落とされて、その脳みそが抜かれているのだ。そう言えば、交戦したオアンネスも死体の脳を啜り上げていたのを思い出した。するともしかして、こいつらの狙いは脳だったのではなかろうか? しかし、何故?

 

 オアンネスは水撃という技を使っていた。あれは古代呪文のように第5粒子エネルギーを利用する攻撃のように見えたから、もしかすると奴らはMPを回復するために脳を欲していたのかも知れない。これだけ組織的な襲撃をしてきたのだから、連中が知恵を付けてきたのはもはや間違いないだろう。

 

 しかし、魔族とは本来、本能の赴くままに殺戮を続ける種族のはずである。それが作戦を練って、人間のように振る舞う可能性はあるのだろうか……? アズラエルの姿をしていたのも何故なのか? もしかして、ジャングル訓練での襲撃も、意図的に行われたものだったんじゃないのか……?

 

 水棲魔族が、本当に知恵を付けて基地を狙ってきたのだとしたら、その狙いはなんだ? 人間の脳だろうか? それとも……何か見落としているものはないだろうか……

 

「それにしても、本当にすごい力ね、あなたの盾は。一体、この結界はどうやって作ってるの?」

 

 黙々と作業しながらそんなことを考えていると、みんな気が滅入ってきていることに気づいたのだろうか、ジャンヌが努めて明るい調子でそんなことを言いだした。その声に呼応するかのように、訓練生たちも顔を上げて頷いている。

 

 鳳についてきたは良いものの、流石に凄惨すぎる現場に恐れを為して、一人壁を向いて目をつぶっていたアリスは、ジャンヌの問いかけにおっかなびっくり振り返ると、出来るだけ下の方を見ないようにしながら言った。

 

「わかりません。お城の宝物庫で見つけたのですが……手にしたら何となく使い方が分かったので、ご主人さまをお守りするよう祈りを捧げてみたんです。そうしたらああなりました」

「あ、そう……なんとなく使い方がね」

 

 返事になっていない返事にジャンヌが苦笑いを浮かべている。鳳はどこにあったのか、どんな形状だったのか、もう少し詳しいことを尋ねようとして、ふと、引っ掛かりを覚えた。

 

 手にしたら何となく使い方が分かる? そんな奇跡の力と言えば……

 

「な、なあ? そう言えば、さっきそいつのことをアイギスって呼んでなかった? それって、その盾の名前なのか?」

「はい」

「どうしてそう言い切れるんだ?」

「先程申しましたように、手にしたらそれがわかりました」

 

 アリスがしれっとそう言うと、鳳をはじめ、二人のやり取りをわけがわからないといった表情で見つめていた訓練生たちもざわつきはじめた。

 

 それもそのはず、その名前にはこの世界の住人であるなら誰でも心当たりがあった。鳳は隣でぽかんとしているジャンヌに尋ねた。

 

「なあ、アイギスって、確か10本あるオリジナル・ゴスペルの一つじゃないか?」

「え、ええ、そのはずよ。でも何十年も前に失われたって……」

「そんなもんがなんでうちの蔵にあるんだ……? いや、いい。それなら、まあ、なんとか納得できる。オリジナルの力なら、これくらいのことが出来ても不思議じゃないもんな。今はそれでいい……」

 

 鳳は釈然としないものを感じながらも、今は神だのなんだのよりも気になることがあって、再びジャンヌに問いかけた。

 

「それより……なあ、ジャンヌ? 基地司令は海岸線に防塁を築いて魔族の上陸を阻止しようとしてたんだよな? それが突破されて、俺たちだけじゃ心許ないからおまえを救援に寄越した」

「ええ、そうよ」

「それって山の上にも送ったのか?」

「山の上? いいえ、そんな話はしていなかったけれど……どうして?」

 

 ジャンヌは首を傾げている。しかし鳳はその返事を聞くなり、慌てて彼女を問い詰めるように捲し立てた。

 

「今回の水棲魔族の襲撃はどうもおかしい。何故かアズラエルの姿をしてたり、見たこともないような攻撃まで使って、まるで知恵でもついたんじゃないかってくらいだ。でも、本当に奴らが知恵をつけてこの基地を狙ってきたのだとしたら、その目的はなんだ? もし、俺たち人類に痛打を浴びせることだとしたら、奴らが狙う場所なんてそんなの一つっきゃないだろう?」

「まさか……あなたは魔族がオリジナル・ゴスペルを狙ってるっていうの!?」

「それは分からないが、相手の手の内が分からない状況で、無防備にしていい場所じゃないだろう。何事もないならそれでいいんだから、とにかく確認してくれないか?」

「分かったわ」

 

 鳳の提案を受けて、ジャンヌは血相を変えて食堂から出ていった。そんな頼れる姉貴分の後ろ姿を、訓練生たちが不安げに見つめている。一連の出来事で疲弊しきっていた彼女らは、もうこれ以上悪いことは起きて欲しくないと祈りながらジャンヌの帰りを待った。

 

 しかし、本部に確認の連絡をしにいったジャンヌは、間もなくそれが杞憂ではなかったことを知らされることとなった。水棲魔族の狙いは、どうも始めからオリジナル・ゴスペルの収奪にあったようだ。

 



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天使の卵

 サイクロンと魔族の襲撃に見舞われた災厄の一夜を越えて、翌朝は一転してカラッと晴れた快晴となった。

 

 水棲魔族たちは、明け方が近づき、サイクロンの勢力が弱まるのと連動するかのように徐々に攻撃を弱め、朝になる前には海へと撤退していった。その潔い引き際はいまだかつてないほど人為的であり、かのレヴィアタン勢力が人類に対抗するための知恵を身に着けたことはほぼ間違いなかった。

 

 心配された山の上の研究所であるが、最悪の事態だけは免れたようだった。前夜、鳳の不安をジャンヌが司令本部に確認したところ、本部は研究所と連絡が取れないことに気がついた。研究所は通信基地も兼ねているので、ジャンヌが本部と連絡が出来ている時点で、施設は稼働しているようだったが、何度連絡を入れても応答しなかったのだ。

 

 そこで基地司令は決死隊を募り、山の上へ急遽増援を送ることにした。鳳もそれに参加したいところであったが、アリスが居ることと、そのアリスが宿舎を離れたら結界を維持できないため断念せざるを得ず、ジャンヌと三人娘に任せてヤキモキしながら一夜を明かした。

 

 辿り着いた研究所はひどい有様だったそうだが……そこは水棲魔族にとって不利な山の上という場所もさることながら、元々襲撃を警戒して入り口が狭く内部が入り組んでいるという構造をしていたため迎撃がしやすく、自室に立てこもっていた非戦闘員は魔族に襲われる心配は全く無かったようである。

 

 翌朝、世話になった神楽やよいを探しに研究所を訪れた鳳は、無傷の彼女と再会してホッと安堵の息を漏らした。

 

「全然大丈夫じゃないよ~……私も戦うって言ってるのに、自室に押し込められてさあ、終わってみれば案の定、オリジナル・ゴスペルが奪われちゃってたんだよ? 司令は研究員が生きていればやり直せるとか言ってるけどさ、そんなに簡単なことじゃないよ~……って言うか、これから私は何を生きがいに生きていけばいいの? あ~、せっかくの実戦で新型も試してみたかったのに!」

 

 命あっての物種だというのに、研究が出来なくなったことへの不満の方が大きいようである。まあ、塞ぎ込まれるよりはマシだから良いが、結構な被害を出しているのに犠牲者よりもゴスペルの方をまず心配するのはどうなんだろうか。

 

「そんなこと言っても、君、オリジナルを失うのは人類にとって計り知れない損失なんだよ? 人類が魔王と対抗出来る唯一の方法は、オリジナルを使うことだけだったんだから。せっかく、デウスエクスマキナ・モードが解除されて再使用の可能性が出てきたというのに、これからどうしたら良いっての」

「あいつら、オリジナルを奪って何をするつもりなんでしょうかね」

「そんなの私にもわからないよ。あの刹那的な魔族が、こんなことするなんて普通思わないじゃない。司令だって、それでこっちを手薄にしていたんだろうし。でも、その裏を書かれたんだとしたら? あのオアンネスは確実に知恵を付けていたってわけよね。それに、あの姿はちょっと……」

「神楽、それから……飛鳥は君だな?」

 

 鳳たちがそんな会話をしていると、背後からぬっと巨大な影が近づいてきた。基地司令の戦場(いくさば)さくらである。彼女と直接会うのは二度目だが、前回はジャングル訓練の訓示のときで、鳳はその他大勢の一人だった。神楽は研究所主任という立場で、司令と会うことも多々あるだろうが、自分の名前が呼ばれたことを意外に思っていると、彼女は二人にだけ聞こえるくらい小さな声で耳打ちするように、

 

「ウリエル様が今こちらへ向かっていらっしゃる。アズラエル様もご一緒だ。ただ、分かるな? 騒ぎにならないよう、関係者だけを集めるように言われているので、決して誰にも勘付かれるな」

「私も行っていいの?」

 

 はっきり言って口が軽く、こういった席には向いていないと自覚しているのだろうか、意外そうにやよいが問い返すと、司令は仕方ないやつめとため息交じりに、

 

「無論だ。ゴスペルを奪われたのに、その責任者が来なくてどうするんだ」

「私がドジッたわけじゃないのになあ……」

「飛鳥。君はアイギスを持ってきてくれないか。話は聞いている。場合によっては前線で管理させてもらう」

「……あれは俺の身内のなんで、巻き込まないで欲しいんですけど」

「そんなこと言っていられる状況じゃないことはわかるな?」

 

 基地司令が相手だと言うのに鳳が睨みつけると、司令も一歩も引かずに睨み返してきた。そんな二人の姿を目撃してしまったドミニオンの隊員が凍りついたように固まっている。鳳が、最悪の場合、アリスを連れて逃げることまで考えていると、

 

「なになに? アイギス!? ええっ! アイギス見つかったの? どこよどこー?」

 

 その名前を聞いてゴスペル狂が騒ぎ出し、割とどうでも良くなってきた。まあ、基地司令が何を言っても、アリスが言うことを聞くとも思えないし、ミッシェルもサムソンもいるのだから何とかなるだろう。

 

 鳳はやよいに絡まれてうんざりしている司令に向かって、同じくうんざりした顔で頷き返した。

 

*********************************

 

 ウリエルはその日の午後、日暮れ前の目立たない時間帯にケアンズへ到着した。基地司令が今回の襲撃のことを神域に報告したのは、水棲魔族が撤退した早朝のことだったから、まだ半日しか経っていないことになる。

 

 それだけ素早く来るには、ブリスベンを経由せずにパースから直行するしかないわけだが、そんな強行軍をするくらい四大天使は緊急性を理解していると言いたいのだろう。神域から飛んできた飛行機にはパイロットを除けばたった3人しか搭乗しておらず、ウリエルと同伴してきた中にはミッシェルが居て、そして彼はアズラエルの姿を完全に隠蔽してくれていた。

 

 およそ三ヶ月ぶりの再会についつい顔が綻ぶが、しかし今は喜んでいる場合ではなかった。飛行機から降り立ったアズラエルはまるで死刑囚のようにしずしずと歩き、それを見守るドミニオン幹部たちはみんな能面みたいに無表情だった。空港ではジェット機のキーンという音だけが聞こえ、結局そこでは誰もろくに挨拶すら交わさなかった。

 

 まあ、この状況では形式的な挨拶など必要無かったろう。その場に集った人々の知りたいことは唯一つだけだった。

 

 アズラエルの正体は何なのか。司令部の一角に集められた関係者の中で、そして彼女はついにその重い口を開いた。

 

「……私と同じ顔をしたオアンネスが現れたというのだね? ならば心当たりがある。今回の多大な犠牲を払った襲撃の責任は、恐らく私にある可能性が高い。その責任を取るなどと軽々しく口にするつもりはない。それで君らが納得するわけがないのは承知しているつもりだ。だが、もし償うことが出来るのであれば、この生命に変えても償わせて欲しい。

 

 本題に入ろう。恐らく今君たちが一番知りたいのは、私が何者であるかということだろう。もちろんそれについては、今ここで包み隠さず全てを話すつもりだ。だが、少々長くなりすぎるので、まずは結論から言わせてもらう。心して聞いて欲しい。

 

 私は天使アズラエルではない。それどころか天使ですらない。私は一匹の魔族、水棲魔族の女王、レヴィアタンだ」

 

 16年前、ニューギニア、マダガスカルと相次ぐ撤退を余儀なくされた人類は、プロテスタントによる神域襲撃を受け、再生まで出来なくなって完全に追い詰められていた。オーストラリアに侵入してきた水棲魔族を撃退するため、ダーウィンを本拠地としていたドミニオンは、メタトロン不発というアクシデントにも滅気ずに、不退転の決意でダーウィンに踏みとどまっていたが、それも水棲魔族の数の暴力を前に、飲み込まれるのは時間の問題だった。

 

 この絶体絶命の危機を前に、天啓を失った神域は完全に沈黙しており、救いを求める人類に対して何一つ有効な手立てを打てなかった。そんな天使たちに失望した人類は批判を強め、文民統制を失ったドミニオンが暴走することを恐れ、評議会では人類の天使からの独立すら議論されるようになっていた。

 

 だが、そんな絶望的な状況下にも僅かな光明は差し込めていた。かつては神の御名の下、直接人類の救済を行うことは決してしなかった天使であったが、この頃から一部の責任感の強い者が、ドミニオンと一緒に魔族と戦うようになっていた。アズラエルもその一人だった。

 

 ニューギニア高地を奪われた人類は、この時期、オイルショックに見舞われ経済が低迷しており、評議会は神域の反対を押し切って、ドミニオンによる奪還作戦を強行した。しかし、それが可能であるなら、そもそも撤退自体ありえないわけで、作戦は敢え無く失敗し、その余波を受けてドミニオンは本拠地であるダーウィンをも失う羽目になった。

 

 しかし押し寄せてくる魔族を前に、防衛線を維持しながら撤退を行うことが、難しいのは言うまでもないだろう。人が逃げれば逃げるほど、防衛線を維持する人員も減り続けるわけだから、誰がそんな場所に最後まで残るのかと言う話になる。アズラエルは、その撤退戦で殿軍を任された大勢の天使の一人だった。

 

 熾天使(セラフィム)である彼女は殿軍天使部隊の隊長を引き受け、迫りくる魔族の撃退を続けていた。とは言え、彼女が全ての魔族の相手をしていたというわけではなく、どちらかと言えば天使部隊は切り札的な存在として扱われていた。

 

 人類はインスマウスやオアンネスが相手ならば、陸上であれば問題なく対処が出来る。だが、その女王であるレヴィアタンが出てきてしまうと為す術もない。頼れるオリジナル・ゴスペルはもはや存在せず、こうなると魔王に対抗できるのは天使部隊しかいなかったのだ。

 

 しかし痩せても枯れても相手は魔王。戦えば天使と言えども無傷とはいかず、おまけに相手は倒しても倒しても途切れること無く、また別の個体が女王になってしまうという水棲魔族である。

 

 果てることのない戦いが続き、天使部隊は徐々に追い詰められていった。それでもアズラエルは人類のためにレヴィアタンを倒し続けていたのであるが……そんなある日、彼女は奇妙なことに気がついた。

 

 やってくるレヴィアタンは何故かいつも手負いで、連れている取り巻きも少なかった。魔王と天使の対決を前に、取り巻きがいくら居たところで物の数にもならないので、ある意味それは正しい判断と言える。しかし、レヴィアタンは水棲魔族を統べる女王である。その女王がまるで鉄砲玉みたいな扱いを受けていることが、アズラエルには不可解だった。

 

 撤退戦は続き、ついに最後のドミニオンの部隊が去って、後はアズラエルたち天使部隊が逃げるだけとなった。ところが、そんな時、まるでそれを狙っていたかのように、水棲魔族が最後の攻勢をかけてきた。

 

 取り巻きの数が最大規模なのは言わずもがな、何と最後の襲撃では8体ものレヴィアタンがその大部隊を率いてきたのである。

 

 流石にこの数では天使であっても分が悪く、彼女らはすぐに飛んで逃げようとしたが、しかし厄介なことにレヴィアタンも空を飛んで立ちふさがり、天使部隊は戦いを余儀なくされた。

 

 そして行われた戦いは、もしもそれを見る者がいたとすれば、ラグナロクと形容したことだろう。地中からは灼熱のマグマが吹き上げ、幾度も洪水が襲いかかり、雷雲が空を覆って、途切れることなく稲光が戦場を照らした。数多の獣が吠え、慟哭し、天使たちは持てる限りの力を振り絞り、8体のレヴィアタンと、数えるのも馬鹿らしくなるほどのインスマウスとオアンネスを撃退し……そして散っていった。

 

 最後のレヴィアタンを地に落とし、蠢く取り巻きたちを薙ぎ払ったアズラエルはもうボロボロだった。美しい翼は片方が千切れ飛び、片目は無残に潰されて、もはや再生する気配も無かった。辛うじて全ての魔王を倒し切り、熾天使のプライドを保った彼女であったが、その超回復力を持ってしてももう死は免れないようだった。

 

 それでも彼女は最後の力を振り絞り、たった今地上に落としてやった女王に止めを刺すべく、自身も地上に降り立った。そして手にした剣を振り上げ、レヴィアタンの頭を目掛けて突き立てようとした時……彼女はふと思い立ち、その手を止めて、たった今殺そうとしていた魔族に問いかけていた。

 

「なんで、お前は孤独なのだ? お前の眷属は今どこにいるんだ? もしもこの場にいるのなら、すぐに新たな魔王が生まれるはずだ」

 

 どうせ、この魔王は放っておけば死ぬ。そして自分も時間の問題だろう。後はどちらが先に死ぬかという話に過ぎない。そう思ったら、彼女は彼女と戦っているのが馬鹿らしくなり、寧ろ生物学者としての興味のほうが強くなってきた。

 

 だから最後の最後に、以前に感じた違和感について尋ねてみようと思ったのだ。もちろん、相手は魔族であるし、返事は期待していなかった。だが、死にゆく魔王もまた寂しかったのだろう。気まぐれを起こしたレヴィアタンは淡々と彼女の問いかけに答えた。

 

「私はただ私の子孫を増やしたかっただけだ。多くの子供を産み、私の生きた証を残したかっただけだ」

 

 レヴィアタンの繁殖は女王の胎内で行われる。女王は保存していたオスの精液を自分の胎内で卵子と交配してオアンネスを産むか、もしくは自分の生殖細胞だけでインスマウスを産む。

 

 ところで女王が言う通り、もしも自分の遺伝子を多く残したいとしたら、彼女はメスを産むよりもオスのインスマウスを多く残した方が得だ。メスは一度に一体の子供しか産めないが、オスならメスの数だけ遺伝子をばらまくことが出来る。しかも魔族社会はレイプが基本で、抵抗するならぶっ殺せばいいという後腐れの無さだ。

 

 しかし、群れというものを考えると、こう単純にはいかない。群れは生まれて来た子供を保護するが、インスマウスは生殖以外に殆ど役に立たないので、働き手のオアンネスが嫌がる。

 

 遺伝子を残したいのであれば、子供が生き残ってくれた方がもちろんいい。だから結果的に、レヴィアタンは若い頃は群れを維持するためにメスを多く産むが、年を取って出産数が少なくなってくるとオスを産みたくなり、インスマウスが生まれる傾向が強くなる。

 

 すると群れ内で意見の不一致が起きる。群れを維持するためにはタダ飯ぐらいのインスマウスは要らない。そこでオアンネスの中から新たな女王が誕生し、オスしか産まなくなった旧女王は放逐される。

 

「だから、お前たちはいつも手負いだったのか……」

 

 言われてみれば、レヴィアタンが連れている取り巻きはいつもインスマウスだった。どうして鉄砲玉みたいに突っ込んで来たのかも、インスマウスに人間を襲わせて、自分の子孫を産ませようとしていたと考えれば辻褄が合う。

 

 まさかそんなカラクリがあったとは……アズラエルは生物学者として、最後にこの事実をまとめることが出来ないことを残念に思いながら、地面に体を横たえた。

 

 息をするのも億劫で、もはや立っているのも不可能だった。地面は水浸しで冷たいはずだが、まったく温度は感じられなかった。空には暗雲が垂れこめて、仲間は誰ひとり生き残っていない。あとは死を待つだけだった。

 

 そんな彼女の耳に、レヴィアタンの声が聞こえてくる。

 

「私は死ぬのか……ああ、天使よ、私の最後の望みを聞いてくれないか。私を捨てた娘たちに復讐するため、お前の子供を産ませて欲しい。私に最後の子供を産ませてはくれないか」

「残念だったな、レヴィアタン。天使は雌雄同体で生殖細胞を持たない。君は私を孕ませることも、私の子を生むことも出来ない」

 

 アズラエルはそう言って薄く笑った。まさか死の間際に、魔族に子供をねだられるとは思いもよらなかった。生まれてから数千年の時が過ぎたが、こんなに奇妙なことは初めてだった。生きていれば、本当に色々な事が起きるのだなと彼女は少し死ぬのを残念に思った。

 

 だが、後悔はなかった。次第に頭がぼんやりしてきた。冷たいはずの体が暖かくなってきたような気がして、空は暗いはずなのに、信じられないほど輝いて見えた。

 

 そして最後の最後まで人類に尽くした彼女は、意識を手放すべくそっと目をつぶった。

 

「いや、そんなことはない。私なら天使の子を産むことも可能だ。私はおまえの子供を産むことが出来る」

 

 その言葉を聞いた時、薄れゆくアズラエルの意識が急速に回復してきた。感覚が彼女に戻ってきて、苦痛が体を埋め尽くしていた。しかし、それでも彼女は意識を手放すことなく、死に抗おうとし始めた。それだけの魅力がその言葉にはあった。

 

 天使の子を産むことが出来る? もしもそれが可能であるなら……再生が出来なくなった人類の希望になるのではないか?

 

 アズラエルは最後の希望をこの魔王に託し、彼女の話をもっと真剣に聞こうと思い始めていた。

 



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魔王誕生

「天使の子を産むことが出来るというレヴィアタンに私は問うた。一体、どうやったらそんなことが可能なのかと。死の間際に嘘を吐く理由はない。だから信憑性は高いと思われた。そうして奴が語った水棲魔族の秘密は、実に衝撃的だった。もしそれが事実だとしたら、人類の再生問題が一気に解決してしまうであろう、そういう類の話だ。もう想像がついただろう。私が人類に使った生殖細胞の出どころは、このレヴィアタンだ」

 

 アズラエルの告白は、その場にいる者たちの想像を越えており、場は沈黙に支配された。しかしそんな中でも鳳だけは、なんとなくそうじゃないかと考えていたため、割と自然に受け入れられた。

 

 彼女の連れていたギー太たち。生物学者であるとはいえ、妙に水棲魔族の生態に詳しいことなど、突き詰めて考えれば、その答えに行き着くのは容易だったろう。だが、それでもまだ彼も想像し得ないことが残されていた。それは具体的にアズラエルがどうやってレヴィアタンと交配し子供を産んだか、その方法のことだった。

 

 そう、鳳は以前アズラエルから、水棲魔族の繁殖のことについて聞いていた。レヴィアタンは、自分の体内に予め取り込んでおいたオスの精子と、自分の卵子を交配して、インスマウスとオアンネスを産み分けている。

 

 では、レヴィアタンはどうやってアズラエルの精液を……雌雄同体である彼女の精液を体内に取り入れたというのだろうか?

 

「君には以前、ラバとケッテイの話をしたことがあるが、覚えているだろうか。同じ馬とロバの交雑種である2種は、父親が馬かロバかの違いだけで、生まれてくる子の特徴が別種と呼べるくらい変わってくる。それは父親の精子にエピジェネティックな方法で刻まれた何かが、子供に遺伝するからだと考えられる。

 

 魔族というものは他種族同士で交配を行った場合、生まれてくる子供は必ず父親と同種になる。その理由は、魔族は他者を食べることによってその形質を奪うが、その獲得した形質を子供に遺伝させるのに、エピジェネティックな方法が用いられているからだ。

 

 普通の生物と違い、用不用説に則って進化し続ける魔族が、獲得した形質を子孫にばら撒くにはこうするのが効率的だから、このような進化を遂げたのだろう。魔族は男を殺し、女を犯す。そうして子孫を増やしていくわけだが……

 

 では、メスである女王を中心とした社会を築くレヴィアタンはどうなのか?

 

 魔族は他者を食べることで相手の形質を奪い強くなっていく。レヴィアタンも同様に食べることによって自分の体を強化していく。しかし、その獲得形質を子供に伝えるには、自分が産むしかない……だが、先も言ったとおりに、魔族は必ず父親の種族を継承するという性質がある。長い進化の過程で、そういう風に進化してしまったのだ。

 

 だから例えば、オアンネスがオークに犯されたらオークの子供を産むし、仮に女王レヴィアタンがオークと交配しても、生まれてくる子供はオークになるはずだ。しかし、種としてそれでは困ってしまう。だから、レヴィアタンはそれを克服するように進化していったのだ。

 

 具体的には、レヴィアタンは他種族を捕食すると同時に、その生殖細胞を体内にストックするように進化していった。取り込まれた生殖細胞は、そこでエピジェネティックな修飾がディスコードされ、交配してもちゃんとオアンネスが生まれるように変化する。女王はそうやって獲得形質を子供に遺伝させているのだ。

 

 そうして生まれたオアンネスは、いつでもレヴィアタンになれる可能性を秘めながらも、ワーカーとして群れに尽くして働き続けるわけだが……まあ、この辺の話は置いておこう。今大事なのは生殖細胞の方だ。

 

 レヴィアタンは他種族を食べることによって、生殖細胞を取り入れる。ところでその生殖細胞は、最終的にオアンネスを産むために変質させられるわけだから、捕食される相手の雌雄は関係ない。つまり……人間を食べれば、それが女であっても、レヴィアタンの体内に人間の精子が作られる。

 

 そしてそれは雌雄同体の天使であっても、生殖細胞を作ることは可能だったのだ」

 

********************************

 

 血だらけのアズラエルは片膝を突き、息を乱しながらどうにか立ち上がると、虚ろな目をして地に伏せている巨大な水竜の下へと歩いていった。

 

「おまえは、私に食べられろと言っているのか?」

 

 レヴィアタンは、その命の灯がもう尽きようとしているからだろうか、魔族らしからぬ穏やかな口調で言った。

 

「そうすれば私の遺伝子は残り、お前の目的も叶うだろう」

「私の目的?」

 

 そんなことを魔族に話したつもりがないアズラエルが問いかける。

 

「おまえも、死を前にして、自分の子を残したいのだ。それが生物の本能だから」

「勝手なことを。天使である私にそのような執着はない」

「ならば、どうして私の話を最後まで聞いたのだ?」

 

 それは生物学者としての知的好奇心だと言っても、魔族には到底理解できないだろう。いや……正直に言えば、それだけではない。もしも自分に子供が居れば、その子がまた人類のために魔族と戦ってくれるだろうと思ってしまったのは確かだった。その無念が、彼女をレヴィアタンの話に釘付けにしていた。

 

 魔族の女王はそんなアズラエルの気持ちを見透かしたかのように続けた。

 

「私は、私を陥れた群れに復讐がしたい。それはお前の利にも適っているだろう。私なら確実にお前の子供を産むことが出来る。そして私とお前なら、確実に群れを始末してくれる強い子が生まれるはずだ……」

「どうしてそんなことが言い切れる」

「どちらにせよ、私にはもう時間がないのだ。お前が決断をしないのであれば、最後の力をインスマウスの出産に費やすだけだ。望み薄だがその方がマシだ。あと何匹産めるだろうか……」

 

 レヴィアタンはそう言って沈黙した。インスマウスを産むというくせに何も起こらないのは、きっとアズラエルが決断することを見透かしているのだろう。

 

 どうせ放っておけば自分は死ぬ……だったら、最後の望みに賭けてみるのも悪くはないのではないか? もしも、魔王と天使のハーフが生まれたら、それはどんな種族になるのだろうか……いや、そんなことはもうどうでもいい。

 

 私の子供……私の子供が残せるのであれば……

 

 生物であれば必ず持っている、自分の遺伝子を残したいという願望を、レヴィアタンは熟知していた。

 

「……好きにしろ」

 

 そして彼女の意識は、永遠の闇に閉ざされた………………

 

 ………………それからどれくらいの時が過ぎたのだろうか。アズラエルは人々の歓呼の声の中で意識を取り戻した。

 

 猛烈な倦怠感に吐き気を覚えながら、どうにかこうにか目を開けると、そこはカラカラに乾いた砂漠のど真ん中で、吹き付ける風に砂埃が舞って目が痛かった。彼女は止めどもなく泣いていた。

 

 ダーウィンから撤退している最中の部隊が発見したというアズラエルは、レヴィアタンとの死闘を繰り広げた戦場から、数百キロも南に離れた砂漠地帯で発見された。撤退中のドミニオン大隊を上空からサポートしていた偵察機がそれに気づき、こんな場所に行き倒れがいることを不審に思い現場に急行したところ、彼女が倒れていたそうである。

 

 殿軍を務めた天使部隊は壊滅したと思われていたが、こうして生き残りがいたことにドミニオンたちは大いに元気づけられた。彼女らはアズラエルを英雄と讃え、未だ状況が理解できずにぽかんとしている彼女をケインズまで丁重に運んだ。

 

 人間たちは彼女の生還を喜んでいたが……しかし、当の本人の方は自分がどうして生きているのか、さっぱり理解できなかった。彼女の最後の記憶では、傷を負いすぎた彼女の体はもう回復が追いつかず、あとは死を待つのみという状況だった。だから最後の望みにかけて、魔王にその体をくれてやったはずなのだが……

 

 こうして生きているということは、あれは夢だったのだろうか? しかし、それにしてはあまりにもリアルで、全部妄想と言うには自分が知らない情報が出てきすぎた。おかしなことはまだあった。天使である彼女の翼は、片翼がもがれたままいつまで経っても再生が行われず、片目は金色に変質して視力を失っていたのだ。

 

 そんなことは、天使であったら絶対にあり得ないはずなのだ。おかしいと思った彼女は、そして自分の身体を調べているうちにそれに気づいた。本来、雌雄同体である天使にはあるはずのない女性器がついていること。そして、いつの間にか、自在に水を操る力を獲得していたことに。

 

 洪水を起こし、高圧の水を撃ち出す技は、レヴィアタンが得意とするものだった。アズラエルはそれで確信した。どうやら自分は、あの時のレヴィアタンの娘に転生してしまったようだ。

 

 レヴィアタンは約束を守り、彼女との間に子供を作った。ところが、何故か分からないが、自分はその子供の意識を乗っ取って生まれ変わってしまったのだ。しかも天使の遺伝子がそうさせるのか、生まれてきたのはオアンネスではなく、天使の肉体を保っていた。

 

 現在の彼女はレヴィアタンと天使、その両方の力を備えた魔王なのだ。しかもその魔王は、魔族らしからぬ冷静な理性を残しているというおまけ付きだ。それは不思議な現象だった。

 

 野性の塊である魔族が、理性の砦である天使を食らうとこんなことが起こりうるのか……いや、レヴィアタンという魔王と自分が、たまたま相性が良かったのだろう。なにはともあれ、拾った命は大切にしなければならない。自分の娘になるはずだったこの身体を有効に活用し、人類のために貢献せねば……

 

 彼女はそう思い、早速とばかりに自分の生殖細胞を取り出してみた。レヴィアタンとなった彼女の子宮には、女王が言っていた通りオスの精液がストックされていた。そして生まれてきたばかりの彼女の体内にあったのは、どうやら生前のアズラエルの細胞から生成されたものだけのようだった。

 

 これは非常に好都合だった。減数分裂されたアズラエルの精子は、オアンネスを産むために変質していたが、彼女は自分が生きていた頃の体細胞を調べることで、その変異を特定することが出来たからだ。

 

 彼女はそうやって自分の生殖細胞に施されていたエピジェネティックな修飾を全てディスコードし、安全に子供を産むことが出来るはずの精液を作り出した。元々、天使の体は人間を強化した超人がベースになっている。その生殖細胞は人間の物と変わらないはずだ。

 

 彼女はそれを希望する人々に人工授精し……そして生まれてきたのが、あのギー太たちだった。

 

「私は自分の生殖細胞を丁寧に精査し、魔族に変異しうる全ての遺伝子の修飾をディスコードしたつもりだった……しかし、それは不完全だったようだ。そのせいで、私に協力してくれた女性たちを悲しませる結果になってしまった。私はそれでも魔族になってしまった子供たちを助けたくて、神域で保護しようとしたのだが、お気楽なインスマウスはともかく、オアンネスの方は魔族としての本能が強く、暫くすると言うことを聞かなくなって出ていってしまった。

 

 まだ子供の彼女らには何の力もなく、その後死んだものとばかり思っていたが……恐らく今回ケアンズを襲ってきたのは、あの時に逃げ出したオアンネスだろう。いや、それにしては数が多すぎるので、逃げた個体がメラネシアで他の群れと交わり、子孫を増やしたのだと思われる。

 

 彼女らには確かに力は無かったが、その代わりに知恵があった。それが世代を経て人間を襲い始めたのだ。全ては私が蒔いた種だ。本当にすまなかった……この責任は、刺し違えてでも必ず取るから、どうか私にチャンスをくれ」

 

 アズラエルはそう言って深々と頭を下げた。

 

 天使が人間に頭を下げるなんてことは前代未聞で、会議室に集まった人々からどよめきが上がった。そんな中で基地司令は一人無言で立ち上がると、素早く彼女の下へと歩み寄ってその肩を抱き上げ、彼女に顔を上げるように促した。

 

「どうか顔を上げてください。話は全て聞かせてもらいましたが、一体、誰があなたのことを責められましょうか。

 

 あなたは、他の天使たちがろくに助けもしてくれない状況下で、我々人類のためにその身を尽くし、最期まで戦ってくれた恩人ではないですか。死して尚その身を魔族にやつしてまで生き残り、なのに恨み言の一つも言わずに、まだ人類に貢献しようと一人で戦っていたのではありませんか。

 

 私はあなたのことを誇りにこそ思い、決して恨もうとは思いません。もしも、それでもあなたのことを責めるものがいると言うなら、私はあなたのために戦いましょう。それはここにいる全員が同じ気持ちのはずです」

 

 基地司令のその言葉を合図にするかのように、会議室に集まった人々の間から、そうだそうだと同意する声が湧き上がった。それはまたたく間に部屋全体を覆い尽くし、死刑宣告でも受けたかのような顔をしていたアズラエルの表情を、少し綻ばせた。

 

 ウリエルがホッと安堵の息を漏らし、呆然としているアズラエルの肩を叩く。彼女はそんな元部下の顔をうるんだ瞳で見上げ、そんな二人を取り囲むように人々が集まってきて、アズラエルに感謝の言葉を浴びせかけた。

 

 その光景は本当に美しくて、そのまま名画にして飾っておきたいくらいだった。しかし、そんな騒ぎの中でも、鳳は一人冷静に、会議机に肘をついたまま、じっと考え事を続けていた。

 

 アズラエルの話はただの美談というだけではない。水棲魔族について、まだ人類が知らなかった多くの情報を伝えてくれた。鳳はそれを聞いて、ある一つの可能性を思いついていた。もしも彼の考えが正しければ、チャンスはそこに転がっているはずだ。

 

 魔王討伐をミカエルに命じられ、ケアンズに来てから3ヶ月。あまりにも巨大なレヴィアタンという勢力を前に、何一つ有効な手立てを思いつけず無為な時を過ごしてきたが、ここにアズラエルというピースが加わったことで、もしかするとついにその糸口が見つかったのかも知れない。

 

 それを確かめるためには、一度ニューギニアに渡って、直接レヴィアタンと対決してみるしかないが……

 

「失礼します!」

 

 鳳がその可能性について基地司令他、集まった人々に話そうとした時だった。突然、会議室の扉が乱暴に開いて、血相を変えたドミニオンの隊員が駆け込んできた。

 

 人払いをしてまで極秘裏に始めた会議に乱入するなどあり得ないことだった。だから幹部たちはそんな隊員のことを頭ごなしに叱責した。しかし逆に考えれば、そんなあり得ないことが起きた理由が気になって、基地司令は叱りつける幹部を宥めて、何があったのかと隊員に問いかけた。

 

「緊急事態につき、ご無礼お許しください! たった今、昨晩の襲撃を行った水棲魔族の群れを追跡していた斥候部隊から通信が入り、それによりますと、当基地よりはるか北方、オーストラリア北岸地域にて、おびただしい数の水棲魔族の上陸を確認したとのこと」

「おびただしいとは具体的にどの程度の規模なんだ?」

「分かりません!」

「分からない……?」

 

 軍隊においてこのような曖昧な返事はあり得なかった。基地司令は、わからないなら調べてこいと怒鳴り散らすことも出来た。だが、あり得ないことが2度も起きれば、それは偶然ではないだろう。彼女が辛抱強くその理由を問いただすと、隊員は額に汗をびっしょりとかき、青ざめながら返答した。

 

「その数があまりにも多すぎて、数えることが不可能だということです。オーストラリアとニューギニアを隔てるトレス海峡には、溢れかえる水棲魔族でまるで橋がかかったように見えるそうです。その事実からして、少なく見積もっても1千万は下らないだろうとの報告が寄せられており、我々としても司令にすぐお伝えせねばと参った次第であります」

「……一千万……一千万だと!?」

 

 基地司令はあまりのことに声を失った。いや、彼女だけではなく、その場に居た幹部にウリエル、アズラエル、そしていつもひょうひょうとしているミッシェルまでもが呆然としている。

 

 一千万と一口に言っても、それは人類の総数を越えていた。水棲魔族との戦いはもう数百年も続いていたが、そんな規模の大侵攻を受けるのは当然初めてのことであり……

 

 彼女ら(ドミニオン)はそれを、切り札(オリジナル)がない状況で、受け止めねばならないというのである。

 



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あんた本当になんでもありですね

『我々は現在、木曜島上空3000メートルを飛行しております。ここはオーストラリアとニューギニアの間、眼下に広がるトレス海峡には普段なら美しい大海原が広がっているのですが、今は……御覧ください! この魔族の群れ、群れ、群れ! これはCGじゃありません! 全て現実の光景なのです! 少なく見積もっても1千万は下らない魔族の群れがトレス海峡を通過し、現在、オーストラリア北東部をケアンズに向けて侵攻中です。インスマウス、オアンネスの中には、巨大なレヴィアタンの姿も何体か見られ、信じられないことにあの海蛇は空を飛びながら南下し続けているのですが……って、あれ? あの個体はこちらへ向かってきているつもりでしょうか? そんなに高くは上がれないはずですが……パイロットさん? パイロットさん? もうちょっと高度を上げたほうが……って、きゃああああああーーーーっっ!!!』

 

 液晶テレビからつんざくような女性の悲鳴が上がり、画面が切り替わった。上空から海を映し出していたカメラはスタジオに切り替わり、妙に鯱張ったアナウンサーの顔を映し出す。

 

『……レポーターさん? レポーターさん? ……失礼しました。音声が乱れたことをお詫びします。映像……まだ、繋がらないようですね。引き続きまして、緊急特番をお送りします。政府の発表によりますと、現在、オーストラリア北東部に異常な数の水棲魔族の集団が上陸、ケアンズを目指して南下中とのことです。ケアンズのドミニオン司令部は当地で魔族を食い止めると発表しておりますが、その実現性は非常に薄く、政府は撤退を視野に入れて協議を続けている模様です。水棲魔族の目的は不明で、どこまで南下するか予想は立たない状況で、この事態を受けて、ブリスベンからは早くも避難民が南部に向けて脱出を開始している模様です……えー……映像、戻りましたか? レポーターさーん?』

 

 クリスマスの大襲撃の翌日、オリジナルゴスペルを奪われたケアンズに向かって、水棲魔族の大規模な侵攻が開始された。水棲魔族はオーストラリア北東部を海岸線に沿って南下しており、およそ2週間ほどでケアンズに到達するであろうと予想された。

 

 水棲魔族との戦いは数百年にも及び、その間、一度としてこのような大規模な襲撃を受けたことは無かったことから、この集団が何らかの意図を持って行動しているのは間違いなかった。

 

 恐らくは、アズラエルの遺伝子を受け継いだ者の中から、頭の切れる個体が現れ、それが女王となってこの群れを指揮しているのだろう。その目的は未だはっきりとしなかったが、普通に考えれば、魔族の目的など他種族の捕食か蹂躙でしかないことは容易に想像がついた。

 

 クリスマスの襲撃では、犠牲者は必ず頭を切り落とされて脳みそを抜かれていた。鳳が目撃したオアンネスも、脳みそを美味しそうに吸い上げていたことからして、恐らく奴らの狙いは人間の脳じゃないかと思われていた。アズラエルの子孫は知恵が回るだけではなく、水撃という魔法も使っていたから、第5粒子エネルギーを取り込むための脳の器官が必要なのだろう。

 

 あの集団は、そのためにケアンズにあるオリジナルゴスペルが邪魔であると判断し、先んじてそれを奪ったわけである。

 

 そういう集団が襲ってきたという情報は、広く一般にも公表された。これは人類滅亡の危機であり、ドミニオンだけで隠しておくわけにはいかなかったのだ。そしてアズラエルがやったことも包み隠さず公表され、彼女は人類全体からものすごいバッシングを浴びていた。反政府組織は彼女のことを人類の敵と言って憚らず、人類の天使からの独立を声高に叫んでいた。

 

 こうなることが予想されているのに、どうして公表に踏み切ったのかと言えば、襲ってくるオアンネスの姿を見れば、隠し立てをするなど到底不可能だったからである。テレビカメラが映し出す水棲魔族の群れの中には、比較的半魚人型のオアンネスよりもアズラエルの姿をしたものの方が多く、彼女の遺伝子がニューギニアの水棲魔族を席巻していることは、もはや疑いようもなかった。

 

 アズラエルの娘たちがシャーク湾から消えたのは、せいぜい数年前のことなのに、これだけ増殖してしまうのだから、魔族の進化スピードというものが、どれほど恐ろしいかが窺えるだろう。この世界の人類は、神が不在の状況で、こんな連中と戦い続けなければならないのである。だからもう、戦わずに逃げ出そうという意見が多数を占めるのは仕方ないことだったかも知れない。

 

 人類政府は今回の事態に対して、完全に及び腰であり、公然とブリスベンからの避難を呼びかける議員さえいた。ブリスベンに限らず大陸中で反政府デモが頻発し、世論は戦いを放棄し避難へと傾いていた。

 

 しかし、どこまで逃げれば安全と言えるのだろうか? 水棲魔族がブリスベンで止まってくれるとは限らない。仮にメルボルンに逃げたところで、いつか魔族がやってくるかも知れない。可能性があるとしたら、大陸中央部の砂漠地帯であるが、しかし水棲魔族が乾燥を嫌うように、人間だって砂漠では生きてはいけないだろう。

 

 テレビでは、それでも多くの人々が砂漠に逃げている光景を映し出していた。アナウンサーが原稿を淡々と読み上げ、それをモニターの前で見ていたアリスが、嬉しそうに声を上げた。

 

「ご主人さま! 今この人、私の名前を呼びましたよ! このちっちゃい人には私が見えているんですか!?」

「アリス・スプリングスってのは街の名前だよ。あと、それは小人じゃないって何度言ったらわかるんだ」

「不思議です! とても不思議!!」

 

 アリスは液晶テレビを舐め回すように見つめていた。まるで百合ドラマを見ている桔梗のようだが、別に彼女が変態性欲を持て余しているわけじゃない。鳳にしてみれば当たり前のことだが、アナザーヘブン世界の住人にとって、この世界の技術は魔法みたいなものなのだ。

 

 彼女はこっちに来てから毎日、見るもの全てが珍しいらしく、まるで子供みたいにあれは何これは何と質問攻めされていた。正直、ちょっと大変だったが……おかしなことに巻き込んでしまった手前、不安になられるよりその無邪気な姿は救いだった。

 

 アリスは思いの外早くこちらの世界に順応し、楽しそうにしていた。そんな彼女の姿を見て、微笑ましそうに笑みを浮かべながら、ミッシェルがふらりとやってきた。

 

「やあ、タイクーン。君の奥さんは今日も楽しそうだね。きっと彼女くらい毎日が輝いて見えたら、この世界の人々も救われるのだろうに」

 

 彼はクリスマスの翌日、アズラエルと一緒にやって来たのだが、その後神域には帰らずこっちに留まっていた。理由は単純明快で、アズラエルのことを快く思わない連中から姿を隠すのに、彼の現代魔法が役に立つからである。

 

 四大天使……というかミカエルは、彼に認識阻害や不可視を使うなと言っていたくせに、必要になったらこうして便利に利用するのであるから朝令暮改もいいところである。だが、逆に言えばそれだけミッシェルが彼らの信用を得たということだろう。

 

 鳳がケアンズに来てから3ヶ月、その間、彼は神域に留まって四大天使と交流を続けていたのだ。それくらいの変化はあって然るべきである。寧ろ変化と言ったら鳳のほうが激しいくらいだろう。

 

「それにしても……こっちに来てみたら、いきなりアリス君がいてびっくりしたよ。ケーリュケイオンもまだ見つかっていないっていうのに、一体、どうやって呼び出したんだい?」

「いや、それが俺にもさっぱり。アリスが言うには、どうも神様に呼ばれたらしいんですけど……」

「神……神だって? それは君たちが倒そうとしてた、この世界の神のことかい?」

「さあ? アリスがあっちの世界で祈りを捧げていたら、急に神様の声が聞こえてきたらしくって……」

 

 鳳が彼女がこの世界に辿り着いた経緯を話して聞かせると、ミッシェルは、

 

「ふむふむ……ははあ……なるほど……そうかあ……」

 

 などといちいち相槌を打ち、わざとらしく何度も頷いてから、

 

「それは神様じゃなくって、僕の声だね」

「………………はい!?」

 

 鳳は突然のミッシェルの言葉に面食らって、きっかり30秒くらい絶句してしまった。一体全体、どういうことかと問いただしてみれば、

 

「タイクーンと別れた後、僕は神域で暇でね。サムソン君もラファエル君と遊びにいっちゃって、話し相手もいなくって退屈してたところ、ガブリエル君が気を利かせてチェス盤を持ってきてくれたんだよ。それで二人で対局していたんだけど、何局か指した時、ただ指しているだけじゃ詰まらないから何か賭けようって話になって、それで僕が負けたら占ってあげようってことになったんだよ」

「はあ」

「それでガブリエル君から、失せ物探しをお願いされて、失われたゴスペルの行方を占ってみたんだよ。まあ、そんなので見つかれば苦労しないから? ただの余興のつもりだったんだけど……実際、殆どの物は行方がわからなかったんだけど、何故かアイギスのことを占った時だけは、ホロスコープが君のことを指し示していてね? もちろん、君がそんな物持ってないことはみんな知ってるし、こりゃ変だなあって話になってさ」

「はあ」

「どういうことだろうと思った時に、ふって思い出したんだよ。ほら、君がタイクーンって呼ばれるようになったのは、レオナルドの後を継いで世界中の迷宮を攻略するようになってからでしょう? それで思ったんだよね。あっちの世界のカウモーダキーがこっちの世界のジャガーノートとして存在するなら、こっちの世界のアイギスもあっちの世界で別の宝物として存在するんじゃないかって」

「ああ!」

「それで、君が収集した聖遺物の中にあるんじゃないかって思って、ちょっとそんな感じの物がないかいって、アリス君に聞いてみたんだよ」

「いやいやいやいや……」

 

 これには流石の鳳もツッコミを入れざるを得なかった。

 

「ちょっと聞いてみるってあんた、こっちとあっちは次元も違えば全然別の世界でしょう? どうしてそんなことが気軽に出来ちゃうんですか」

「何度か言ったと思うけど、僕は実体を持たないアストラル体なんだよ。世界間の移動ならともかく、情報のやり取りだけだったらそう難しいことはないさ」

「難しくないって……あんた本当になんでもありですね。実際、俺は今なら、あなたが神だって言われても信じられますよ」

「はははは。冗談はよしてよ。僕が神なら、君は一体何者なんだい?」

 

 ミッシェルは苦笑交じりに言った。

 

「僕は確かに別次元に居たアリス君に話しかけたけど、彼女のことを連れてきたのは君じゃないか。知ってると思うけど、エーテル体、アストラル体を引っ張ってきたところで、肉体がなければそれは定着しない。メアリー君は元の世界に戻され、サムソン君は魔族の肉体に間借りしているように。ところが君は複雑な遺伝子細工を無から完全に再現してしまった。これを神業と言わずしてなんて言うんだい」

「それは俺じゃなくって、アイギスの力だったんじゃないんですか?」

「ゴスペルにそんなことが出来ると思う? 例えば君のケーリュケイオンだったら。あれはかなり強力な道具だと思うけど」

「それは……そんな機能はありませんでしたね」

 

 ケーリュケイオンは等価交換と複製の杖で、無いものを1から作り出すことは出来ない。出来ないから遺伝子を取り込んでおいて、こっちの世界で肉体を作ろうって話をしていたのだ。

 

「パンを生成した頃から、君の幻想具現化能力は知らずしらずの内に成長し続けていたんだろうね。案外、今、神に最も近いのは君なんじゃないか」

「そんなの笑い話にもなりませんよ……アリスのことは、ただの偶然です。実は最近ちょっと色々なことがあって、彼女のことをよく思い出していたもので……」

「ふーん。まあ、そういう事にしておこうか」

 

 二人がそんな話をしていると、部屋のドアがトントンとノックされてウリエルが入ってきた。その背後には見慣れた巨大なゴリラ型の魔族と、小さな天使の姿が見える。

 

「おお! サムソン! 久しぶりー! 元気してたか?」

「うほうほ、うっほー!」

「そっちはラファエルじゃねえか。お前まで呼んだつもりはなかったんだけど……一体どうしたんだ? サムソンと別れるのがそんなに寂しかったのか?」

「バカ。でかい喧嘩するんだろ? 俺を呼ばなくってどうすんだよ」

 

 仲間はずれにされたとでも思ったのだろうか、ラファエルはふんと不貞腐れた表情をしている。もちろんそんなつもりは無かったのだが、確か天使は魔族と直接戦うことは禁じられていたはずだ。ここに居るってことはミカエルも知っているのだろうけど、良いのかなと思っていると、ウリエルが、

 

「今回の大規模襲撃に関しては、我々四大天使としても流石に看過できませんでした。天啓はありませんでしたが、協議の結果、私とラファエル様とであなたのサポートをするよう仰せつかったのです」

「あの堅物(ミカエル)が戦っていいって言ったのか。まあ、それだけ厳しい状況だってことだよなあ……」

「ええ。それで私は人類が敗れた場合、最後の盾になるという名目で、ドミニオンたちの補佐を務めさせていただきます。代わりにあなたにはラファエル様がご同行してくださいますので、それでお許しを……お役に立てずに申し訳ございません」

「いや、全然。そっちにはアズにゃんもいるから、しっかり守ってくれよ。わかってると思うけど、今回の作戦の要は彼女だから」

「はい。お任せください」

「ところで、そいつは? そいつも俺たちと一緒に行くのか? 役に立つんだろうな」

 

 鳳とウリエルが話をしていると、ラファエルが彼の背後の方をチラチラ見ながら話しかけてきた。振り返ればいつの間にか、テレビにかじりついていたはずのアリスが、澄ました顔で鳳の後ろに控えていた。

 

 もしもミーティアが一緒なら、あなたも奥様なのだからもうそんなことしなくていいとか言っている頃だろう。鳳はそんなことを思い出して懐かしくなりながら、また少し人見知りをしている天使に向かって彼女のことを紹介してやった。

 

「ああ、彼女はアリス。ちょっとした手違い……? があってさ、こっちに呼び出しちゃった俺の嫁だ。知ってると思うけど、彼女がアイギスの使い手で現所有者だ。役に立つ、立たないじゃなくて、彼女が居なければ今回の作戦は話にもならない」

「アリスです」

 

 彼女がメイド服の裾を摘んでちょこんとお辞儀をすると、ラファエルはそっぽを向きながら「おう」と素っ気なく返事をかえした。興味無さそうなふりをしているが、チラチラこっちを気にしているのがモロバレである。相変わらず人見知りが激しいようだが、戦闘が始まるまでには慣れてくれるだろうか。鳳は気を取り直すように続けた。

 

「何しろ今回の相手は1千万、背後に控えるメラネシアの残存兵力も合わせれば1億という大軍勢だ。ミカエルに依頼された時点ではそれを知らなくて軽く考えていたけど、こいつらを全部駆逐するとなんてことはまず不可能だろう。だから作戦が必要なわけだが……こいつをドミニオンにやらせることは出来ないから、俺が直接やるっきゃない。そのための戦力になるなら、たとえ自分の大事な人でも一緒に戦ってもらうしかないんだよ」

 

 鳳の言葉にアリスが力強くうなずく。ウリエルはそんな二人を見ながら、

 

「あなたの作戦については聞かせて頂きました。私にはよく分からなかったのですが……果たして、そう上手く行くのでしょうか」

「もしも上手くいかなかったら、その時は人類が滅亡するだけさ。あの大群を食い止めるには、ドミニオンでは明らかに戦力不足だ。オリジナル・ゴスペルが使えない今、普通にやったら人類にまず勝ち目はない。かと言って、逃げたところで後がないなら、やれることは何でもやってみるしかないだろう?」

 

 鳳はそう言うと不敵な笑みを漏らし、

 

「なあに。きっと上手くいくさ。アズにゃんから聞いた話を総合すると、明らかに状況はその可能性を示しているんだ。条件はすべて揃っている。後は俺たちがそのスイッチを押してやれば、問題は芋づる式に解決するだろう……そしてその時、俺たちは人類の救世主になるのさ」

 

 彼は強がりのつもりでそう言っては愉快そうに笑い声を上げた。しかし、その言葉を聞いた天使たちは相槌を打つくらいで、とても笑うことなど出来なかった。彼は何気なく言ったつもりだろうが、その言葉には深い意味が込められていたのだ。

 

 3ヶ月前、天啓が訪れ、ガブリエルに告げた。西の海より救世主が来ると。その言葉が今、現実のものになろうとしていた。

 



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裏切りの天使

 オーストラリア北東部に水棲魔族の大群が上陸してからおよそ2週間が経過し、それはいよいよケアンズに迫ろうとしていた。上空のテレビカメラが映し出した魔物の群れは、まるで水揚げされた魚が飛び跳ねているみたいで滑稽にも見えたが、実際にはそれは暴力の塊でしかなかった。

 

 海岸線をバシャバシャと彼らが通り過ぎたら、美しかったサンゴ礁は一つ残らず消え失せ、地上を通り過ぎれば、その後には草木が一本も生えない塩の道がうねうねと続いているのであった。

 

 この未曾有の危機を前に、人類政府は完全に及び腰となり、ケアンズのみならずブリスベンの放棄をも決定し、全人類を南方へ避難させるようドミニオンに要請した。しかし、ケアンズ基地司令戦場(いくさば)さくらはその要請には応じず、基地に留まり防衛線を着々と構築し続けていた。

 

 元々、ドミニオンは人類の階級社会では最上位に位置しており、政府の要請に応じる理由はないのだ。それは文民統制を離れようとする軍部の暴走として受け取られ、彼女の言動はメディアでは強く批判されていたが、世論は意外と割れていた。

 

 やはり魔族を相手に逃げるということ、そして逃げたところで魔族の侵攻が終わる保証がないことが、人々の不安を掻き立てているのだろう。結局の所、ドミニオンが食い止めてくれればそれが一番なのだし、彼女達がやられてしまったら、どうせ人類にはもう打つ手はないのだから、好きにやって貰ったほうがいいと言う意見が多かったのだ。

 

 そして神域が沈黙を破り、アズラエルの尻拭いのためにウリエルが出てきたことも大きかった。更にはメタトロン・サンダルフォンの代わりに、失われたオリジナルゴスペル、アイギスが発見されたというニュースも人々に安心感を与えていた。アイギスの能力は絶対防御。それが作り出す結界は、たとえ魔王であっても容易に打ち破ることは出来ないと言われており、水棲魔族の大半を占めるインスマウスとオアンネスには為す術もないはずである。

 

 尤も、そのアイギスはケアンズの防衛線には加わらないのであるが……わざわざ本当のことを言って動揺を誘っても仕方がないので、基地司令は何食わぬ顔で隊員たちを叱咤激励し、防衛線の構築を急いでいた。

 

 この間、マダガスカル方面軍も増援として大陸に帰還し、そしてパースに隔離されていたジャンヌの部隊はケアンズ入りし、隊長と合流、瑠璃たち三人娘も同じく基地防衛に回ることとなった。ブリスベン軍港の警備兵も前線へ回され、後方支援を除く全てのゴスペル持ちがケアンズに集められた。

 

 こうしてドミニオン10万兵のうちおよそ9割が集められたケアンズ基地の防衛は盤石であるかに見えた。決して狭くはない基地内を覆い尽くすかのように、所狭しと並べられた軍用車のバリケードと、防衛線に加わる全ての隊員に配備されたゴスペルを見て、お茶の間の一般人たちは、もしかすると何とかなるんじゃないかと期待を持ち始めた。

 

 しかし、接敵が翌日に迫る頃になると、そんな甘い考えなど消し飛んでしまった。そもそも彼我の戦力差は1対100もあり、それがテレビに現実のものとして映し出されると、この作戦がいかに無謀であるかを思い知るには十分すぎた。

 

 水棲魔族1億体。そのほんの十分の一とは言え、それが一斉に襲ってくるということはこういうことか……

 

 人々は絶望すると同時に怒りを覚えた。そんな今までにない規模の魔族の大群が押し寄せてきてしまったのも、それもこれも全てアズラエルという天使の愚かな行為のせいである。人類はますます彼女への批判を強め、そして砂漠へ向かう避難民もますます増えていく。

 

 アズラエル! アズラエル! おまえのせいで人類は今滅亡の危機に瀕している。この天使を血祭りにあげ、魔族への生贄とするのだ!

 

 そんな怨嗟の声が大陸中から湧き上がる中で……人類と水棲魔族の衝突は、魔族の攻勢らしく夜から始まった。

 

 海岸線をケアンズに向かって南下していた魔族の群れは、いよいよ目的地に到達すると、群れの先頭が左右に割れて、ケアンズ基地を取り囲むように広がっていった。山側は薄く、海と河川の側は厚く展開した魔族の陣容は、明らかに何者かに指揮されているとしか思えなかった。何しろ魔族の群れはそうして基地を取り囲んでも尚動かず、命令を待っているようにしか思えなかったのだ。

 

 いつ動くのか……緊張感と絶望感に打ちひしがれるドミニオン隊員の前で、そしていよいよ、月明かりと複数の灯台によって照らされた湾内に魔族の侵入が確認され、基地司令の号令によって開戦の火蓋が切って落とされた。

 

 まるで津波のように押し寄せる魔族の群を目掛けて、ロケット砲の一斉射が放たれる。全く防御など考えていない特攻にロケット弾の雨あられが突き刺さると、インスマウスの群れは汚物を撒き散らして吹き飛び、あっという間に湾内は赤く染まった。

 

 魔族の考えなしの突撃は続き、湾内は爆炎で白く煙っていった。何しろ人類の存亡を賭けた戦いであるから、予め用意された爆薬は全ての魔族を殺しても余りあるほどあった。魔族の突撃は完全に抑えられ、前哨戦は人類側の勝利と言えた。

 

 だが、それでもまだ勝てる保証は何一つなかった。というのも、もしも爆撃で片がつくなら、そんなの魔族がケアンズに到達する前に、空爆でとっくに決着はついていただろう。

 

 間もなく、爆炎の隙間から幾筋もの水撃が放たれ、空中を落下してくるロケット弾を狙い撃ちし始めた。オアンネスによる攻撃によってロケット弾は次々と落とされ、弾幕に穴が開くと、インスマウスの群れはその隙を突いて一斉に上陸をし始めた。

 

 水撃が空を覆い、まるで水の膜が湾内を包みこむように、激しい濃霧が立ち込める。こうなると水棲魔族は活性化してしまい、遠距離攻撃は狙いが定まらず、ほぼ無意味となってしまった。

 

 ドミニオンは間髪入れずに重機関銃による上陸地点の掃射を行うが、こちらが狙い撃ちをすれば、向こうもそれを狙うだけである。ロケット弾を落としていた水撃は、今度は上陸を阻止しようとするドミニオンに向けられ、次々に犠牲者を増やしていった。

 

 驚いたことに、オアンネスの水撃は装甲車の厚い鉄板を貫き、コンクリートで覆われた防塁すら削ってしまった。しかも当たれば大量の水しぶきが上がって視界を奪うのだ。これでは上陸を阻止しようにも狙いがつけられず、弾幕を張るくらいのことしか出来なくなる。

 

 命中率が下がってしまうのは、オアンネス側も同じであったが、そもそも魔族の目的は射撃戦ではなく、接敵しての乱戦なのだから、この戦いは最初から分が悪かった。

 

 やがてあちこちで水棲魔族との接触が始まり、ゴスペルを使った白兵戦が開始された。悲鳴と爆音が轟き、キラキラと光が舞った。インスマウスとゴスペル持ちの戦いは、一対一なら話にならないほど人間の方が優勢だが、相手は数にものを言わせてくる魔族である。ドミニオンたちは囲まれないように後退しながら戦うしかなかった。

 

 更に、相手はインスマウスだけではない。その水撃だけでも厄介なオアンネスは、戦士としても屈強であり、こちらはゴスペル持ちでも五分五分かもしくは若干分が悪いと言わざるをえなかった。

 

 おまけに、アズラエルの血を受け継いだ連中の防御は硬く、光弾の直撃を受けてもびくともしなかった。ただし新型による同時射撃なら効くことが分かると、ドミニオンの指揮官たちは絶対に一対一で戦うなと指示し始めた。

 

 しかし、いかんせん新型はまだ全隊員に支給されているわけではなかった。敵の数に対し、新型の数は圧倒的に不足しており、頑なに旧式を使い続けることを主張していた保守的な指揮官たちは、この危機的状況でそれを悔いる羽目になった。

 

 ともあれ、そんなことを恨んでいても仕方がない。オアンネスは新型を持つ隊員のツーマンセルに任せ、それ以外の隊員は少しでも多くのインスマウスを排除することに集中するしかないだろう。

 

 そうこうしているといつの間にか空も晴れ、霧が薄くなってきた。接敵したことで人間による弾幕が薄れ、オアンネスによる撃墜も少なくなったから、立ち込めていた霧が晴れたのだろう。またドミニオンによるロケット砲による爆撃が行われ、オアンネスがそれを撃ち落とし、一進一退の攻防が続いた……

 

 均衡を破ったのは、魔族の方だった。

 

 湾内に侵入し真正面から上陸戦を仕掛けていた水棲魔族たちは、ドミニオンの思った以上の抵抗に矛先を変えて河川を遡りはじめ、側面から攻撃を仕掛けるように変わっていった。それは意識してそうなったわけではなく、次々と押し寄せてくる後続が湾内に入りきれず左右に広がっていった結果、比較的移動しやすい河川に流れていっただけだったが、偶然とは言え、両面から挟撃されてはドミニオンも堪ったものではないだろう。

 

 尤も、この事態は予め想定されていたことでもあり、基地司令は挟撃が始まるや、即座に前線を少し下げた。今までは海岸線に沿って築き上げた防塁を拠り所に戦っていたが、今度は基地に籠もって戦おうというのである。水棲魔族は水のあるところで活性化するので、このまま二正面作戦をするよりも、陸に引き込んで戦う方が正しい判断であるのは間違いなかっただろう。だが、そこには一つ誤算もあった。

 

 人類はこの規模の作戦を経験したことがなく、いくら戦闘のプロと言っても若い女性の多いドミニオンは、敵に背中を向けるのを恐れて、スムーズに後退が出来なかったのだ。そんな混乱する戦場で、慌てて逃げ出す隊員が出てくると、前線の士気はガタ落ちし、防衛線の一角が崩れてしまった。

 

 そこを突いてなだれ込んでくる水棲魔族に対し、基地司令は精鋭であるジャンヌの部隊を当ててどうにか凌いだが、精鋭部隊はいくつもあるわけではない。どこかで均衡が破れる度に、ジャンヌの部隊は八面六臂の活躍を見せたが、ついには手が足りず押され始めてしまった。

 

 一度押されていることが全軍に知れ渡ると動揺が動揺を呼び、今度は狭い基地に押し込められている状況を不安に思って、ドミニオンはますます精彩を欠いていった。パニックになった隊員同士が基地内で衝突し、敵と戦っていないのに怪我人が出る始末だった。

 

 オアンネスを片付けていた新型持ちも、援護を受けられなくなったせいで徐々に数を減らし、いよいよ敵の攻勢は止まらなくなった。こうなっては基地も放棄していっそ山に逃げたほうがいいが、そうしようにも既にそちら方面にも水棲魔族は回り込みつつあり、まともに撤退することすら出来ない状況だった。

 

 ここを死地として戦い続けるか……はたまた内陸部へ強行突破すべきか……

 

 万事休すか。基地司令は二者択一を迫られた。どちらにせよ、もはや人類の敗北は間違いないだろう。ならばせめて被害を少なくしようと、彼女はウリエルに天使の介入を要請しようとした時だった。

 

 ふと見上げれば、そのウリエルがアズラエルを伴って空高くへと舞い上がっているのが見えた。ウリエルは彼女の代名詞である炎の剣を持ち、そしてアズラエルはオリジナルゴスペル・ジャガーノートを掲げている。

 

 まるで儀式めいた姿に、一体何をするつもりだろうとドミニオンたちが見上げる中、ふいにアズラエルは、オアンネスから次々と撃ち出される水撃を物ともせず、杖を高々と上げて何やらを叫んだ。

 

 頭の中に直接響いてくるかのように、アズラエルの言葉が戦場に響き渡る。彼女の体は金色に輝き、まるで夜空に突如出現した二つ目の月のようだった。

 

「世の穢れ、人の堕落、争いと憎しみ。破壊と再生を乗り越え、真の楽園へといざ向かわん。死よ! 恐れるな! その腕に抱き、すべての生命を流し尽くせ! 冥府を下り深淵を導かん、大洪水(タイダルウェイブ)!」

 

 詠唱が完成するや否や、どこからともなく巨大な津波が押し寄せてきた。それは人類の籠もる基地を飛び越えるように波頭が割れると、滝のように水棲魔族の群れの上に落っこちた。

 

 その直撃を受けた魔族が次々と海まで流されていく。

 

 たった今まで、基地の壁を挟んで押し合いへし合いをしていた人類と魔族は、驚いたことに、このたった一度の津波によって分断され、双方の間には水浸しになった白い砂浜だけが残っていた。

 

 基地を取り囲む数十万という魔族を一斉に遠ざけたその津波の威力は強大だったが、とは言え、元々水辺で暮らしている水棲魔族にそんなことをしても、盗人に追い銭みたいなものだった。水を受けた水棲魔族はますます活性化し、水浸しになった地面は彼らを寧ろ強化した。

 

 アズラエルは、人類を助けようとしてやったのだろうが、これではまるで逆ではないかと、ドミニオンたちから不満の声が湧き上がる。一体全体、彼女は何がしたかったのだ?

 

 そんな怨嗟の声が渦巻く中で、アズラエルは更に信じられない行動を取った。

 

「聞け、愚かで矮小なる人間どもよ! 我は蓬莱の海より出でし魔王レヴィアタン。この世全ての魔族を統べる王である! これより我は古の約定に従い、汝ら人類を討つ旅に出る。恐れ敬え! 地に伏せよ! さあ! 我が同胞(はらから)よ、共に行こう! 今こそ我の後に続くのだ!」

 

 その突然の裏切り宣言に、ドミニオンたちから悲鳴と怒号が上がった。まさか、この期に及んでの裏切りに、あちこちから光弾が飛びアズラエルを襲うも、彼女はそれを悠々と交わして地面スレスレを滑空しながら、水棲魔族の大群の中へと飛び込んでいった。

 

 その後姿をウリエルは追いかけもせずに、じっと宙に浮いたまま見つめている。まさか、四大天使までも裏切ったのか? あまりにも想定外の出来事を前に、ドミニオンたちの嘆きが轟く中で、基地司令は何故か命令を下すことはせず、じっと事の成り行きを固唾を呑んで見守っていた。

 



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急襲

 時は遡り、水棲魔族の大群がケアンズを襲う数時間前。鳳たちは基地を離れてはるか北方のジャングルの中に居た。同行者は鳳、ミッシェル、サムソン、アリス、そしてラファエルの5人である。

 

 そんな少人数で何をしようとしているのかと言えば、まあ、結論から言ってしまえば、魔王討伐である。彼らは基地にいるドミニオン10万という餌に、魔族の群れの本隊が食いついている間に、おそらくは後方に控えているであろう魔王を倒してしまおうとしていたのだ。

 

 水棲魔族はこれまでもケアンズに散発的な攻撃を仕掛けてくることはあったが、あのクリスマス以降、ここまで大規模な攻勢を行うようになったのは、明らかに群れに変化が起きたからとしか考えられなかった。

 

 そしてそれは、アズラエルの遺伝子を持つ個体が、新しい女王として群れに君臨しているからと考えるのが自然である。つまり、今回の大規模襲撃は、かつてヘルメスを襲ったオークキングのような強力な個体が率いていると考えられるわけだ。

 

 本来ならそいつを倒してしまえば群れは瓦解するだろう。だが、レヴィアタンの問題は、仮に女王を倒したとしても、また新たな女王が生まれてしまうことにあった。その問題を解決しない限りは、群れを率いている魔王だけを狙ったところで意味がないのであるが……それをどうするかには考えがあった。

 

 ともあれ、相手は知恵が回る。事前にオリジナルゴスペルを狙ってきたように、今回襲ってきたレヴィアタン勢力は、人類のことをある程度研究していると考えられた。故に、基地を襲撃するにしても、どこを攻撃すれば相手が嫌がるか、ある程度作戦を立てている可能性が高いだろう。だとしたら、普通に戦っても消耗戦は避けられず、そして彼我の戦力差を考えればこちらに勝算は殆どないと言えた。

 

 だが、知恵が回ると言うことは、逆にこちらからも予想が立てられるということだ。

 

 普通に考えれば、海洋資源を主な食料としている水棲魔族は、ニューギニアに居れば食うには困らないはずだった。人間にとって魔族が天敵であるように、魔族にとっても人間は襲うにはコストがかかりすぎる相手と言えた。それなのにこのような用意周到な襲撃を行ってきたのには何か理由があるはずだ。

 

 恐らく、大陸に渡ってきた連中にとって、人間はリスクを負うに足る魅力的な食料になったのではないだろうか。アズラエルの遺伝子を受け継いだ個体は、魔族のくせに頭がまわり、更には、創造性を持たない魔族には出来ないはずの魔法が使えた。要は、普通の魔族よりもずっと脳を酷使するようになってしまったために、それを補うエネルギーが必要になったのだ。

 

 それで連中は襲撃をかけてきたわけだが、しかし、だからといって女王自らが戦う必要はない。相手は蟻や蜂のような社会性動物なのだから、獲物を集めるのはワーカーに任せて、女王はリスクを負わずに巣で待っていると考えるのが妥当だ。

 

 お誂え向きに、水棲魔族には生殖にしか興味がないオスが掃いて捨てるほど居り、そいつらがいくら死んでもメスは心が傷まない。故に、レヴィアタンはオスを人間にけしかけ、奴らにレイプされて無力化した人間をメスに持ち帰らせ、眷属を産ませるもよし、捕食して魔力(MP)を回復するもよしと考えるのではなかろうか。

 

 そう考えれば、女王はケアンズを襲っている群れの中には存在しない。群れからそう遠くはないが、もっと安全な場所に営巣しているはずである。

 

 そういう視点で改めてマスコミが撮影した映像を見直してみたところ、案の定、群れから少し離れたところに、インスマウスが一切見当たらない、アズラエルの分身ばかりが集中している集団があった。確認するとその集団は、大陸に渡ってきてから常に最後尾に位置しており、いよいよケアンズに迫った今日は一歩も移動をせず、群れから孤立していた。

 

 その中には複数の巨大な海竜の存在も確認され、恐らくそのうちのどれかが……いや、もしかするとその全てが、魔王レヴィアタンという可能性が高かった。とにかく分かっていることは、この集団が群れにとって何か特別であるのは間違いないということである。

 

 鳳たちはそう考え、そのボス集団に奇襲をかけるべく、内陸から群れの後背へ迫っていた。

 

 水棲魔族一千万の大群が押し寄せてくる……と言っても大陸中を埋め尽くす程ではなく、それは海岸線に沿って南下しているわけだから、内陸部に少し入れば割と平穏だったのだ。だから、魔族の群れを避けてその背後に回るのは、案外簡単だった。

 

 彼らは水棲魔族の大軍勢がケアンズに到達しようとするほんの少し前、迎撃準備で忙しい基地から抜け出して、ジャングルの上をラファエルの翼で運んでもらい、なおかつミッシェルの認識阻害を使って、目的地までこっそり近づいていった。

 

 でかい集団を束ねている余裕か、それとも人間など取るに足らない相手と思っているのか、ジャングルから確認したボス集団は油断しきっていて、近くに鳳たちが潜んでいることに全く気づかず、完全に無警戒のように見えた。

 

 実際、連中の頭の中には失敗なんて文字は無かったのだろう。テレビカメラで確認した時、ボス集団には巨大な海竜が複数確認されたが、そいつらが何をやっているのかまでは遠すぎてよく分からなかった。だが、こうして近づいてみれば、何をやっているかは一目瞭然である。なんと連中は産卵をしていたのだ。

 

 巨大な海竜は群れの中心でいくつかの卵を産卵し、すると卵はすぐに割れて、中からアズラエルの分身にしか見えないオアンネスが出てくる。そいつらは生まれてすぐに海竜のことを母様母様と呼び慕いながら海竜に尽くすように行動しだす。海竜全てが母体であり、集団にはそういうグループがいくつか見え、海竜たちは飽くこともなく、ぽこぽこ卵を生み続けていた。

 

 オアンネスたちは母海竜のために餌を取ってきたり、生まれたばかりの卵をせっせと運んだりと甲斐甲斐しく尽くすが、インスマウスが生まれてくると冷淡に追い出し、追い出されたインスマウスは何か本能的なものがそうさせるのか、ケアンズの方へのたのたと歩き去っていった。

 

 水棲魔族の出産や、生態についてここまで間近に迫って観察したのは、恐らく鳳たちが人類でも初めてだったろう。アズラエルがここに居れば今頃鼻息を荒くしている頃だ。だが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。

 

 とにかく、これで分かったことは、海竜が水棲魔族の母であることと、この集団が間違いなくあの大軍勢を率いているボス集団であることだ。なら、やるべきことは一つしかない。

 

「……見えてる敵の数は多いけど、幸いなことに海竜の姿は数えるほどしかない。サムソン、ラファエルは、とにかく全ての海竜を倒してくれ。あとの連中は無視していい」

「ああ、いいぜ」「うほうほ」

 

 ラファエルとサムソンが頷く。

 

「戦闘が始まったらアリスは味方を連中の水撃から守ってくれ。ミッシェルさんは、そのアリスの姿を敵からバレないように認識阻害で隠しててください」

「かしこまりました」「僕たちは隠れていればいいんだね」

 

 少し緊張気味なアリスとは対象的に、ミッシェルがのほほんと返事をする。

 

 鳳は四人の返事を確認すると、預かってきた携帯端末を取り出し、上空に通信用の気球を飛ばし、それが十分に上がったところで、ケアンズにいるウリエルに連絡を送った。暫くすると、ミッシェルの魔法の範囲から気球が出てしまったのか、群れの中の一個体が上空を指差し騒ぎ出した。どうやら気づかれてしまったらしい。連中に警戒されてしまう前に早めにケリを付けたほうがいいと、鳳は前衛二人に合図を送った。

 

「俺は左に回り込む。サムソンは右から、ラファエルは正面から好きにやってくれ!」

「そうこなくっちゃなっ!!」

 

 そんな掛け声とともに、ラファエルとサムソンの二人は金色のオーラに包まれ、とても人間とは思えないような速度でレヴィアタンの群れへと突っ込んでいった。

 

 鳳はそんなサイヤ人みたいな真似は出来ないので、控えめに光の剣を作り出すと、後衛の二人を一度振り返ってから駆け出した。

 

「アイギスッ!!」

 

 背後からアリスの声が聞こえ、自分の体が薄っすらと緑色の光に包まれる。

 

 オアンネスたちは突然の奇襲にうろたえ、二人からの一撃目をモロに食らってしまったが、すぐに体勢を立て直すと母体である海竜を守るように展開し、迫りくる鳳たちに向けて水撃を打ち始めた。巣の中に遮蔽物はなく、味方が傷つくことなど物ともしない連中の攻撃は、文字通り水も漏らさぬ弾幕を張り巡らせた。

 

 コンクリートすら打ち砕くその高圧の水に撃ち抜かれたら一巻の終わりであるが、しかしアイギスの絶対防御を受けた鳳たちはそんな攻撃など物ともせず、目についたデカブツを片っ端から切り刻んでいった。

 

「なんだあ~? こいつら……全っ然! 歯ごたえがねえじゃねえかっ!!」

 

 オアンネスの援護を受けられず泡を食った形の海竜たちは、それでも魔王らしく反撃してきたが、鳳はともかくとして、人間をやめてしまったサムソンと、ラファエルの相手にはならなかった。

 

 そんな不甲斐ない相手に対してラファエルは失望のため息を漏らす。ところが、そうして二人が海竜を一体ずつ屠っていくと、突然、群れのあちこちから奇妙な光が溢れ出し、何体ものオアンネスが次々巨大な海竜へと変身していった。

 

 アズラエルの体からバキバキと音が鳴ると、背中が割れて中からグロテスクな肉塊が飛び出し、それはみるみるうちに巨大な肉団子のように増殖していったと思うと、脱皮するかのように血まみれの皮が脱げ落ち、中から鱗に覆われた海竜が現れた。

 

 一体全体、その小さな体のどこにそれだけの細胞が存在していたのか……その無茶苦茶な変形には神に文句をつけたくなるが、以前にアズラエルが教えてくれたように、レヴィアタンの女王が倒れるとすぐに新たな女王が誕生するのは本当のようだった。

 

 しかも新たに誕生した女王は、明らかに倒した数よりも増えており、どうやら不測の事態が起きるとレヴィアタンは寧ろ数を増すようである。

 

 そして女王は流石にワーカーであるオアンネスより強く、そんな連中が大量に暴れだしたら、普通に考えれば堪ったものじゃないのであるが……戦闘狂であるラファエルにとっては寧ろ血湧き肉躍るご褒美だったらしく、

 

「おお! いいねえ……魔王っつったらこれくらいのことやってくなきゃだぜ!」

 

 彼はニヤリとした笑みを浮かべると、躊躇なく新たに誕生した海竜の群れへと飛び込んでいった。しかし鳳はそれじゃ駄目だと彼の背中に向かって叫んだ。

 

「待て! ラファエル! そいつらには手を出すな! 最初から居た海竜だけを狙うんだ!」

「はあ!? なんでだあ!? こいつらとやったほうが楽しいだろうに」

「理由は説明しただろう!! 遊びじゃないんだよ! しっかりやってくれ、お前が頼りなんだから!」

「ちっ……しゃあねえなあ」

 

 鳳に頼まれたのが満更でもないのか、ラファエルは舌打ちすると素直に作戦に戻り、最初の個体を倒しはじめた。

 

 レヴィアタンの女王は、アナザーヘブン世界で鳳とジャンヌがやっとのことで倒したのと比べると明らかに弱かったが、それでも今の鳳では手も足も出ないくらいの強さがあった。ところが、そんな強力な魔王相手でも、サムソンとラファエルの二人にはまるで関係ないようだった。

 

 ここに来るまで、どれほどの修行を積んできたのだろうか、二人は布でも引き裂くかのように簡単にその硬い鱗を打ち抜き、的確に急所を突いて女王の息の根を止めていった。相手の切り札である水撃はアイギスによって悉く防がれ、そして魔王最大の魔法である大洪水(タイダルウェイブ)は空を飛ぶラファエルには無意味だった。

 

 それはまるで大虐殺(ジェノサイド)だった。巨大なレヴィアタン勢力が、たった二人の小さな天使と獣人によって蹂躙されている。それが群れの危機感を煽ったのだろうか、集団の中から次々と新たな女王が誕生し続け、いつの間にかそれは止まらなくなった。

 

 気がつけば最初十体程度だった巨大海竜は、100体を超える大所帯にまで成長し、いつの間にかインスマウスの数が増えて、群れ全体が膨張していた。

 

 オスが増えているのは出産のコストが軽いからだろうか。オアンネスと比べると厄介ではないが、いかんせん数が多すぎる。ケアンズにはさらに一千万近くの群れが存在するのだ。これら全部を一体どうやって片付けるというのか……

 

 流石のラファエルも少々不安を覚えて来た時だった。

 

「よっしゃ! そしたら逃げるぜ!」

 

 鳳は、最初からいた海竜を全部片付けたのを確認すると、奇襲前よりも巨大になってしまったボス集団を前にして、手をこまねいていたラファエルに向かって叫んだ。

 

 その声を合図にミッシェルが認識阻害を開始したのか、一瞬、群れがビクッっと揺れて、消えた鳳たちを探してうろうろし始めた。

 

 鳳たちはその間に合流すると、またラファエルの翼で空に舞い上がった。そして十分に距離を取ったのを確認してから、鳳はミッシェルに魔法を解除するように頼むと、一路ケアンズを目指して5人は飛び立った。5人の姿を発見したボス集団が、目を吊り上げながらその後を追いかける。

 

「おい、本当に大丈夫なんだろうな?」

 

 ラファエルは時折、不安げに背後を振り返りながら鳳に話しかけてくる。彼は、意外と繊細な天使に向かって脳天気な声で答えた。

 

「そんな顔すんなって。俺の予想が正しければ、あの群れは既に無力化している。あとはアズにゃんが上手くやってくれるかどうかだけど……」

「駄目だったらどうすんだよ?」

「駄目だったらその時はその時。人類が滅亡するだけだよ」

「おいおい」

 

 ラファエルは、鳳の他人事みたいな台詞に眉をひそめる。

 

「まあ、心配になる気持ちは分からなくもないけど、俺は今は確信しているよ。女王の数が最初奇襲をかけた時よりも増えてるだろう? 見ての通り、あの連中はその気になれば、自分の意思でいつでも女王に変身出来たんだ。それをしなかったってことがどういう意味かを考えれば、自ずと答えは導かれるのさ」

「ふーん……それがお前の勘違いじゃなきゃいいけどな」

「タイクーン! 見えてきたよ~!」

 

 背後に迫る集団を見ながら会話していた二人は、ミッシェルの言葉にまた前を向くと、今度は彼の指差す先に蠢く巨大な影を見つけた。

 

 上空から見てもまだ数十キロ先にあるそれは、地上を追いかけるボス集団からは見えなかったであろう。だが、聞こえてくる大地震のような地響きから、何が近づいてくるのか察した連中は、鳳たちを追いかけながら愉快そうに嘲りの声を上げた。

 

「きゃははは! あいつら、仲間の群れに向かって突っ込んでくわ、姉さま」

「母様と母様の敵よ、姉さま! あいつらを食らって、また姉さまを産んでちょうだい、母様!」

「死ね! 死ね! 死ね!」

 

 今、鳳たちの目の前に広がる地平線を埋め尽くす集団とは、言うまでもなく、ケアンズを襲っていた数百万の水棲魔族の軍勢だった。それが仕事を終えて戻ってきたのだと、ボス集団は歓呼に湧いた。

 

 軍勢は、基地に居たドミニオンおよそ10万人を連れているはずだ。その脳髄を啜り、血肉を喰らえば、また同胞たちを大量に増やせるはずだ。

 

 オアンネスたちは邪悪な笑い声が夜空に響き、上空を逃げ続ける鳳たちに罵声が浴びせられる。

 

 その時、東の空に朝日が昇り、前方の巨大な集団に光が差した。それは太陽を浴びてキラキラと輝き、まるで光の洪水のように見えた。光の波が地を覆い尽くし、ぐんぐんとこちらに迫ってくる。実際にはそれは水棲魔族のヌメッとした肌に反射しているだけなのだが、規模が規模だけに、なんだか神々しくさえ思えた。

 

 美しく見えても、キラキラと輝くその光の粒一つ一つは水棲魔族なのだ。その数百万という光の中に、もしも飛び込んでしまったら、きっと魔王であっても一溜まりもないであろう。

 

 ドドドドド……っと、地面を揺らしながら、数百万の水棲魔族が迫ってくる。

 

 ところが、鳳たちはそんな巨大な光の中に、臆することなくまっすぐ突っ込んでいってしまった。空を飛んでいれば回避出来ただろうに、何故か彼らは地面すれすれまで降りると、まるで集団を誘導するかのようにその中に飛び込んでいった。

 

 ボス集団の中には、それを見て不審に思う個体も居ただろう。だが勢いを得た集団が今更後に引けるわけもなく……魔族たちはそのまま鳳たちを追いかけて、前方に迫る味方(・・)の大軍勢へと突っ込んでいった。

 

 しかし……次の瞬間、彼らはそれが大きな間違いであることを思い知らされた。

 

 ボス集団を飲み込んだ数百万の水棲魔族の大軍勢は、まるでそうすることが当たり前と言わんばかりに、躊躇なく同胞であるはずのボス集団に襲いかかった。

 

 巨大な海竜に群がるようにインスマウスの群れが覆いかぶさり、バキバキと何かを噛み砕く音が一斉に鳴り響いた。悲鳴が轟き、さっきまで真っ白に輝いていた光の波が、みるみる内に真っ赤に染まっていった。

 

 見下していたオスに組み伏せられ、アズラエルにそっくりなオアンネスたちの泣き声が轟いた。彼女らはついさっきまで、自分たちが支配していたと思っていたはずの群れに襲われ、成すすべもなく命を刈り取られていった。

 

 うつろな瞳が空を見上げている。見つめる瞳には、空の上で杖を掲げる、自分たちにそっくりな天使の姿が映し出されていた。

 



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神のルール

 鳳たちを追いかけていた数十体の巨大な海竜率いる群れが、ケアンズから戻ってきた別の水棲魔族の群れを前に、まるで波に飲まれる砂の城みたいにあっけなく飲み込まれて消えてしまった。

 

 水棲魔族の女王レヴィアタンは、一体一体が強力な魔王であるのは間違いなかったが、どんなに強力であっても、やはり数の暴力には抗えなかった。

 

 それを自分たちの下僕であると勘違いしていたボス集団は、まさかその下僕たちに襲いかかられるとは思いもよらず、無防備のまま初撃を食らって、体勢を立て直すことが出来ずに次々と命を落としていった。

 

 それでも魔王らしく群がるインスマウスを蹴散らそうとする個体も居るには居たが、何しろ相手は総勢数百万を数える大軍勢であり、一度振り払ったところで、後から後から湧いてくる敵を前にやがて力尽き倒れていった。

 

 押し寄せてくる水棲魔族を前に、ようやく自分たちの不利を悟って脱出しようとするオアンネスたちを、容赦なく第二波第三波が包み込んでいく。

 

 海竜が吹き飛ばしたインスマウスの血と、そのインスマウスが噛み付く海竜の血とで、辺り一面は真っ赤に染まり、それが朝日を受けて輝き、白と黒のコントラストを描いた。悲鳴を上げる幼子のようなオアンネスの声が戦場に轟き、阿鼻叫喚の地獄絵図とは正にこのことだった。

 

 その、オアンネスの原型となったであろうアズラエルは、そんな光景を上空から冷徹な瞳で見下ろしていた。手にはオリジナルゴスペル・ジャガーノートを持ち、時折、逃げ出そうとする海竜やオアンネスを見つけては、それを追いかけるように杖を振るって群れに指示を続けている。

 

 すると群れはまるで最初からそうするのが当たり前であったかのように、彼女の意思を即座に受け取り、手足のごとく自在に動き回った。因みに、杖を持っていることに意味は無く、なんとなくそうした方がテレビ映えするからという鳳の発案だった。

 

 そう……アズラエルが、この総勢1千万にも迫る水棲魔族の群れを支配していることを、全人類はテレビを通じて知っていた。彼女は、ケアンズを襲撃してきた魔族の大軍勢を、そっくりそのまま乗っ取ってしまったのだ。

 

 その、アズラエルの眷属と化した群れの中から、5つの影が空へと上がってきた。ラファエルの翼によって鳳たちが運ばれてくると、アズラエルは杖を振ってうまくバランスを取りながら、彼らの元へと近づいていった。

 

「よう! 上手くいったな!」

 

 鳳が手を挙げて笑顔を向ける。アズラエルはそんな彼の手をパチンと叩くと、

 

「ああ、面白いように上手くいった。最初、君に作戦を聞かされた時はここまで上手くいくとは思わなかったが」

「こいつら、もうアズにゃんの言うことなら何でも聞くの?」

「口に出して言わずとも、考えるだけでフィードバックが返ってくる。正直、人間と同等のはずの種族が、このような行動を取るとは思いもよらなかった」

「まあ、人間(・・)ならそう思うのが普通だよな。俺も前の世界で群れを作るオークを見ていなかったら、ここまで上手くいくとは思わなかったよ」

「いや大したものだ。私も生物学者の端くれのつもりだったが、対魔族という点では、知識でも経験でも、君の右に出るものはいないな」

「おい、二人だけで称え合ってんな。それで結局、どうしてこいつらはアズラエルの言うことを聞くようになったんだよ?」

 

 二人が会話を交わしていると、焦れったそうにラファエルが尋ねてきた。それについてなら何度も説明してきたつもりなのだが、彼は実際にその現象を目の当たりにするまで、鳳の話が全く耳に入らなかったのだろう。

 

 習うより慣れろというか、脳筋と言うか、たまにそういう奴いるよな……と苦笑しつつ、

 

「動物ってのは、個体でいる時と、群れでいる時とで全然違う行動を取ることがあるよな? 例えばバッタは普段は他のバッタを避けるくせに、いざ食糧不足に陥ると集団を形成してまるで別の生き物のように振る舞い始める。蟻や蜂は、巣のためにせっせと餌を獲ってくる。ペンギンは出産のために群れを作って、両親が餌を取りに行ってる間は、まったく赤の他人が赤ちゃんペンギンの面倒を見る。草食動物は大体みんな群れで行動していて、その中にいるボスにみんなついていく。こいつらみんな、本当は別のところに行きたいと思っていても、群れから離れるようなことはまずしない。

 

 そんな具合に、動物ってのは個体でいる時は自由に振る舞っているのに、いざ群れに取り込まれると自分の意思に反するような行動を取り始めることがある。親からそう教えられるわけではなく、本能がそう命じるからだ。

 

 魔族も同じように、個体でいる時は、男を殺し女を犯すといったような、利己的な行動しかしないんだけど、群れを形成すると、どうも本来の習性とは全然違う、利他的な行動を取っていることがあるんだ。例えば、オークはまるで自由意志がなくなったかのように、キングの言う通りにしか行動しなくなるし、水棲魔族は女王のために、自分が手に入れた餌を巣に持ち帰ったりしている。

 

 魔族であっても動物というものは群れから逸脱するような行動はしない。となると、その習性をうまく利用すれば、魔族の行動を限定したり誘導したりすることが出来るんじゃないか? 特に水棲魔族は蟻や蜂なんかの社会性動物みたいに、群れで行動するのが当たり前の種族だ。

 

 それを踏まえて、改めて水棲魔族……レヴィアタン勢力ってものを観察してみたら、そこにはとても強い制約があることに気がついたんだ」

「強い制約……? それってどんなんだ?」

「ああ、それにはまず、社会性動物ってのがどんな連中かって話をしなきゃなんだけど……」

 

 例えば、蟻という昆虫は、一つの巣の中に一匹の女王がいて、その女王が産んだ卵から孵ったメスが働きアリになって、巣を拡張したり、卵の世話をしたり、女王や生まれてきたばかりの幼虫のために餌を取ってきてやったりしている。

 

 働きアリの一生は、大体若いうちは主に巣の中で卵の世話をするような簡単な仕事に従事しているが、年を取って死が近づくに連れて、外に出て餌を取ってきたりと言うような、より危険な仕事を行うようになっていく。

 

 そして最期は過労死するか、不慮の事故で死ぬという、本当に徹頭徹尾、一生を巣のために尽くす生き物なのだが……

 

 最初に断った通り、働きアリの正体は女王が産んだ卵から孵ったメスである。実はゲノム的には女王アリと働きアリは何も変わらず、オスと交尾をすればちゃんと卵を産むことだって出来る。実際、何らかの事故で女王が死んだ場合、働きアリの中から次の女王が生まれてくる。

 

 働きアリはその気になれば、みんな自分の子供を産むことが出来るのに、そうはせず奴隷のように死ぬまで巣のために働き続けているのだ。生物の目的が自分の子孫を残すことだとすれば、これはおかしなことだろう。

 

 こういった生物がいることから、昔は、実は全ての生物は自分の子孫を増やすためではなく、種族を維持繁栄させるために行動しているのではないかと考えられていた。生物が子供を産むのは、種の繁栄という大きな目的の一環というわけだ。

 

 ペンギンが集団で子育てをするのは、まさにその象徴であり、草食動物が群れを作るのは、集団で肉食獣に立ち向かうためだと考えられてきた。そして人間の戦争美談には、お国のために死んでいった人の話などいくらでも見つかるだろう。

 

 生命は最初は自己増殖目的で増えていたのかも知れないが、長い年月の間に、種の存続を維持するよう進化していったのだ。だから人間のように、より利他的な行動を取ることが出来る種が繁栄したのは必然だった……そう考えられてきたのだ。

 

 ところが、近年になって遺伝物質であるDNAが発見されると、こういった定説を覆す画期的な仮説が唱えられるようになった。それによると、自己犠牲の塊のような働きアリも、実は自分の遺伝子を残すために行動していたと考えられるのだ。

 

「血縁淘汰説ってのがあって、実はすべての生物は種の存続なんてどうでも良くて、単に自分の血縁を増やすように行動しているだけだって考えた方が、色々辻褄が合うんだよ。要は、俺たちは自分のDNAを出来るだけ多く遺そうと行動しているだけだって考え方なんだけど……

 

 例えば、人間は両親から半分ずつの遺伝子を受け継いで生まれてくる。具体的には、人間は46個ある染色体の内、半分の23個を父親から、残り半分を母親から受け継いでいる。

 

 すると父親から見れば、息子は自分と共通する遺伝子を半分持っている血縁者であり、息子から見ても、父親は自分の半分の血縁者ということになる。じゃあ、兄弟姉妹、例えば兄はどうだろうか?

 

 兄も両親から半分ずつ遺伝子を受け継いでいるわけだけど、父親由来の23個の染色体のうち弟と被ってるのはどのくらいあるだろうか? 単純に考えて、半分の半分である1/4が被っていると考えられる。

 

 奇数だから割り切れないのはちょっと置いておいて……母親との被りも1/4あるから、それを足し合わせると、結局、兄弟姉妹も両親から受け継いだ遺伝子を半分ずつ持っている血縁者だと考えられる。

 

 こうして見ると、自分からすれば両親も兄弟姉妹も、同じ共通の遺伝子を半分ずつ分け合った血縁者なわけだ」

 

 この血縁の濃さが基準となって、我々は利他的な行動に駆り立てられているらしい。我々は、出来るだけ自分と共通する遺伝子を長生きさせようと優先順位を付けているのだ。

 

 現実に照らし合わせてみればわかるが、例えば空腹の両親と赤の他人が目の前にいたとして、あなたがどちらに食べ物を分けてやるかは言うまでもないだろう。それが両親と兄弟姉妹だと、どちらを優先するかは割と判断に迷うが、年の若い弟や妹に分け与えようとする人は多いのではなかろうか。年が若いほうが長生きする可能性が高いからだ。

 

 祖父母や甥っ子姪っ子も血縁が近いから、我々は普段何かと便宜を図っているが、彼らが本当に困った時は、彼らの血縁により近い両親や兄弟姉妹になんとかしてやれと言うのではないか。

 

 だが、相手が孫だとどうだろうか? 世のおじいちゃんおばあちゃんが孫に甘いことはよく知られている。血縁で考えると自分のことよりも1/4血縁者の方を優先するのはちょっとおかしく思える……

 

 だが実際に孫が生まれたと仮定して、その時自分は相当高齢になっているはずだ。すると、あと何年生きられるか分からない自分より、孫を優先したほうが、例えそれが1/4血縁者だとしても、自分の遺伝子が後世に残る可能性は高くなると言えるだろう。

 

 同じように、独身で今後子供を持てる見込みがない人は、きっと甥っ子や姪っ子のことが気になるはずだ。そういう人が自分に死亡保険金をかけるとして、受取人を誰にするかに悩んだら、若いうちは両親や兄弟姉妹にする可能性が高いだろうが、年を取るにつれて甥や姪に変わっていくのではないか。

 

 血縁淘汰説ではこのように、どうしたら自分と共通する遺伝子をたくさん残せるかで、その生物の行動が決まっていると考えるわけだ。

 

「でだ。働きアリがどうして奴隷働きを一生続けるのかって言うと、この共通する遺伝子を遺そうとする傾向が鍵になっているんだよ。

 

 アリとかハチとかいう社会性生物は、半倍数性といって、オスとメスとで染色体の数に違いがある。実は女王アリが卵を生む際、無精卵からはオスが生まれ、受精卵からはメスが生まれるというルールが存在するんだ。

 

 ところで女王アリも他の動物と同様に、自分の卵子には減数分裂した半数の染色体を入れるわけだけど、無精卵には父親由来の染色体は存在しないから、生まれてくる雄アリはメスと比べて半分の染色体しか持っていないことになる。つまりアリのオスの遺伝子は、母親の減数分裂した生殖細胞そのものと言えるわけだ。

 

 女王アリは生涯に一度だけ交尾して、オスから受け取った精子を胎内にストックし、以降はそれを使って産卵を続ける。すると人間の時は同じ血縁の濃さだった兄弟姉妹の関係に大きな違いが出てくる。

 

 まず女王アリから見れば、自分の卵から生まれてくるオスとメスとに違いはない。双方ともに自分の減数分裂した半分の遺伝子を持って生まれた、1/2血縁者だ。オスから見た母親も、メスから見た母親も、同じく共通する染色体数は1/2ずつだ。ところが、メスから見た兄弟姉妹関係というのはかなり違ってくるんだ。

 

 アリのオスもメスも、同じ女王アリの卵子から生まれるから、母親由来の染色体数は1/2ずつで変わらない。だが、オスは無精卵から生まれるわけだから、そもそも父親由来の染色体は持っておらず、逆にメスの方は常に同じ精子から生まれるから、父親由来の染色体は全員が共通して持っていることになる。

 

 そのせいでアリのメス……つまり働きアリ同士は、共通する遺伝子を3/4ずつ持って生まれた、親よりもずっと濃い血縁関係が生じているわけだ。

 

 さて、この働きアリが何か思うところがあって女王アリになろうと考えたとする。このまま一生を奴隷のように働いて生涯を終えるよりも、女王になって娘たちに尽くしてもらった方がよっぽどいいじゃないか……

 

 だが、彼女はこうも考えるはずだ。もしも自分が女王になっても生まれてくる子供の血縁は1/2。ところが、巣に尽くして今の女王にもっと卵を産んで貰えば、自分と共通する遺伝子を3/4も持った妹がどんどん生まれてくる。そっちの方が素敵じゃないか!

 

 こうして働きアリは、本当なら生殖機能を持ってて子供を産めるはずなのに、一生独身のまま巣に尽くし、奴隷のように働いて死んでいくわけだ。これが血縁淘汰という考え方なんだけど……」

 

 鳳の長い説明が終わった時には、ラファエルはもう興味の対象が変わっていて、明後日の方向を見て何やらやっていた。結局、こうなるんじゃないかと彼が不貞腐れていると、空気を読んでミッシェルが苦笑気味に尋ねてくる。

 

「それで、その血縁淘汰とレヴィアタンがどう関係するわけ?」

「ええ、実はレヴィアタン……つまり水棲魔族もこれと同様、半倍数性の生殖システムを採用した生物なんです。恐らく、他の魔族に対抗しようとして、より強い群れを構築するように進化したんでしょうね。それが上手くいって、レヴィアタンはインドネシアからメラネシアにかけた赤道直下の海を独占する巨大勢力にのし上がった」

「ふーん……なるほどね。その血縁淘汰に従って、オアンネスが群れを大きくしようと協力し合うから、水棲魔族はあれだけ数を増やせたってわけか」

「ええ、確かに最初はそうだったんですよ」

「最初は……? なんか、含みのある言い方だね」

 

 ミッシェルは怪訝そうに首を傾げている。鳳は襲われている巨大な海竜を指差しながら言った。

 

「魔族は用不用説に従って進化する生き物で、その目的はひたすら自分を強くすることです。そしてレヴィアタンは群れを形勢し、種として強くなったわけですが……魔族の本能は自分を強くすることにあるから、女王は群れが安定しだすと自分がより強くなることを求めて、他種族を襲い、その形質を奪います……

 

 そしてその獲得形質を子孫に伝えるため、レヴィアタンは胎内に新たな生殖細胞を取り入れてしまう。つまり、期せずして乱婚状態になっちゃうんですね。すると、群れを形成した当初は共通していたオアンネスの父親由来の遺伝子が、女王が強くなるにつれて変わっていってしまい、結果、オアンネス同士の遺伝子の共通性が損なわれてしまう。

 

 最終的には、その血縁関係は親も兄弟姉妹も変わらなくなり、すると彼女らは群れに尽くすよりも、自分で子供を産みたい衝動に駆られはじめる。しかし、群れから離れて出産をするのはリスクが高く、結局、自分が産むのも女王が産むのも変わりはないからと、消極的な理由で彼女らは群れに残ることになる。

 

 そういう葛藤が、あの連中には常に存在しているんですよ。

 

 だから、一度女王が衰えを見せると裏切りが発生し、オアンネスの中から群れを乗っ取ろうとする連中が出てくるんです。彼女らは首尾よく母親を群れから追い出せたら、今度は自分たちが女王となって子供を産み始める……要は普通の動物みたいにボスが代替わりするわけですが、彼女らは遺伝子の多くが共通しているから、誰が次代の女王になるのかが曖昧になりやすく、みんな一斉に俺が俺が方式で女王になってしまって、結果的にさっきみたいに増えてしまうんですよ」

 

「ははあ……それで、最初十体程度だった女王が、何十体にも増えてしまったんだね? あれは僕たちを倒すために変身したわけじゃなくて」

 

「そうです。みんなが元々女王になりたがっているから、不慮の事故が起きるとああいうことが起こりやすいわけです。ですが、それで女王になれる個体は良いでしょうけど、群れを構成する他の連中は堪ったもんじゃないですよ。いきなり自分の母親が死んで、姉妹がその後を継ぐと言い出すわけですけど、それが何人も居たら誰に付いていけばいいのか……

 

 かと言って群れから離れるのはリスクが高いから、誰かに付いていこうとするわけですが、そんなお家騒動が起きている時に、もしも自分たち全員の遺伝子を持つ共通祖先が……つまりアズラエルが現れたら?

 

 見れば分かる通り、あの連中はみんな彼女を始祖としているんです。そんな彼女が強力な魔法を使い、これから人類を蹂躙するから付いてこいと命令したら? こっちの強力な魔王に付いていこうと考えるんじゃないでしょうか。

 

 おまけに今後もし彼女が子供を産んだら、それは間違いなく群れに共通する遺伝子を持っているんですよ。それは何度も代替わりした今の女王よりも、よっぽど魅力的じゃないですか。

 

 まあ、彼女にそんな気はさらさらないんですけどね」

 

 だがそんなことは、彼女に付いていこうとする水棲魔族たちには関係ないことだった。知恵のある人間に比べれば、野生動物なんてものはどれもこれも血縁関係は曖昧なはずだ。自分は誰と誰の子供なのか。誰が甥で誰が叔母か。兄弟と何歳違うのか。そんなことを考えて生きている野生動物はまずいないだろう。

 

 ところが、そんな野生動物を観察してみると、どうも血縁というルールに従って行動しているように見える。

 

 考えてもみれば、蟻なんてみんな卵から生まれてくるわけだから、両親だの姉妹だのと意識できるわけがないではないか。それなのに、彼女らが巣に尽くし奴隷のように働くのは、遺伝子がそう命じるからだ。そう考えねば理解できない行為が、自然界では散見される。

 

 アズラエルはそんな神のルールを逆手に取って、レヴィアタン勢力を乗っ取り、そして真の魔王となったのである。

 

*********************************

 

 その頃……ケアンズから遠く離れた北方の海を、一体の手負いのオアンネスが飛ぶように泳いでいた。

 

 彼女は今にも千切れそうな自分の腕を抱えながら、必死にドルフィンキックを駆使し、信じられない速度で海の中を突き進んでいる。その瞳は復讐に燃え、ギラギラとした光を放っていた。

 

「おのれおのれ……人間どもめ! この恨み晴らさでおくべきか!」

 

 死物狂いで泳ぎ続けた彼女は、安心できるくらい遠くまで逃げ延びると、ようやく進むことをやめて体を休めるため岸へ上がった。砂浜に上がった彼女の体からは、夏だと言うのに湯気が立ち上っており、どれだけのエネルギーを消費したかが窺えた。

 

 ハアハアと息を整えながら砂浜に寝転がった彼女は、もはや役に立たない腕を乱暴に引きちぎると、苦痛の叫びをあげて泣きながらそれを口に運んだ。ガツガツと咀嚼音が朝焼けの静かな海辺に響き渡っている。

 

 すると次の瞬間、そんな惨めな彼女の体が光を放ち始めたかと思えば、突然、彼女の体が風船みたいにブクブクと膨れ上がり、背中からまるでヘビ花火のように後から後から細胞が湧き出してきた。にょきにょきと彼女の体は細長く伸びていき、そしてそれが終わった時、そこには一体の大きな海竜が横たわっていた。

 

 のそのそと起き上がったレヴィアタンは、体をくねらせながら波打ち際まで進んでいくと、そこでグルグルとぐろを巻いて寝そべった。海水が、脱皮したばかりの鱗を冷やしてくれて心地よかった。

 

 彼女はいつでも変身が出来た。なのに、ここまでオアンネスの体で逃げてきたのは、あの忌々しい人間どもに見つからないためだったが、もうその必要はないだろう。大きな海竜に変身した彼女にはもう痛みはなく、体は綺麗に再生していた。

 

 人心地ついたレヴィアタンはホッと息を吐くと、さっき自分たちの群れに起きた理不尽な出来事を思い出し、歯噛みした。

 

 人間たちを駆逐するため、大兵力を率いて大陸に渡ってきたはずが、まさかその大兵力を逆用されるとは思いもよらなかった。完全に不意打ちを受けた彼女は群れを失い、今はたった一人になってしまったが……だが、水棲魔族の長所は、いくら倒されても新たな女王が誕生することにある。彼女は、まだ人類を駆逐することを諦めてはいなかった。

 

 ニューギニアに帰れば、まだ旧世代の水棲魔族がたくさん残っているはずだ。そいつらを支配し、食らい、力を蓄えれば、また自分の子供を増やすことが出来るだろう。ついさっきまで自分のものだった群れが、始祖であるアズラエルの言うことを聞いてしまったことは誤算であったが、逆に言えば、あいつさえ倒してしまえば群れはまた自分の言いなりになるはずだ。

 

 そうしたら、レヴィアタンが脆弱な人間どもに負けるはずがない。盤石の体制を整えて、今度こそ人類を蹂躙し、オーストラリア大陸を手に入れるのだ。そう……レヴィアタンにはそうしなければならない理由があった。何故なら、今、彼女らの本拠地であるニューギニアには……

 

 ズシン……!

 

 レヴィアタンがそんなことを考えている時だった。突如、彼女の横たわる海岸線を地震が襲い、彼女の体をグラグラと揺らした。波打ち際の水がチャプチャプと暴れだし、おかしな波形を描いている。

 

「ひぃっ!」

 

 彼女は小さく悲鳴を上げた。その音を聞いた瞬間、彼女は恐怖に怯え、そこから一歩も動けなくなった。津波が起こるような大きな揺れではないから逃げる必要も無いだろう。いや、そもそも水棲魔族の彼女が地震を怖がるのはおかしな話だ。そう彼女は地震が怖かったのではない。そもそもそれは地震ですら無かった。

 

 ズシン……! ズシン……! ズシン……!

 

 揺れは断続的に何度も続いている。それは地震ではなく、巨大な足音だった。今、レヴィアタンの背後に巨大な何かが近づいていた。それは山のように大きく、そしてカバのようなシルエットをした何かだった。

 



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デウス・エクス・マキナ

『テレビの前のみなさん! 御覧ください! ケアンズ基地を襲っていた、あの総勢1000万にも上ると言われた水棲魔族が、今、大人しく海に帰っていきます! その夥しい数の魔族を前に、一時は人類はどうなってしまうかと心配されましたが、魔族はついに侵攻を諦めた模様です! それもこれも、水棲魔族の行動を操る魔法を生み出したという、天使アズラエル様のお陰なのです。見てください! あの勇姿を! 魔族の群れの上空で、彼女がゴスペル・ジャガーノートを振るうたびに、それに呼応して群れは移動を行います。アズラエル様が、これら全ての魔族を操っているのです! 彼女こそ救世主と呼ぶにふさわしい、この世の守り神です!』

 

 ケアンズを襲った水棲魔族の群れを、上空からマスコミヘリが撮影していた。中継映像には、その魔族の群れの上を飛ぶアズラエルの姿が映し出されており、彼女が杖を振る度に群れが方向転換する姿を映し出すことで、彼女がそれを掌握していることをお茶の間に伝えていた。

 

 それによって南方の都市へ避難していたブリスベンの人々は安堵し、あちこちの都市で気勢を上げていた反政府デモは鳴りを潜めたようだった。中部の砂漠地帯に逃げた人々は、貴重な水を噴水のようにばら撒いて祝ってくれているらしい。彼女らにはもう、そんな水は必要ないということだろう。

 

 鳳はそんな人々の歓喜する映像を、白々しい茶番だと思いながらモニターで眺めていた。なにせ戦闘が始まる前、アズラエルは一人で全ての罪を背負っていたのだ。それが彼女が魔族を掌握するや否や、すかさずの手のひら返しを見せられては、そう思わない方がどうかしているだろう。

 

 それはきっと、マスコミの呼びかけるお茶の間のみなさんもそう思っていることだろう。だが、それでもこんな茶番を繰り広げなければいけないくらい、今回、人類は追い詰められていたのだ。

 

 正直なところ、鳳としても今回は、最後の最後までどうしていいかわからないような相手だった。もしもクリスマスの夜に襲ってきたのがアズラエルの血族じゃなかったら、その後の作戦は絶対思いつかなかっただろう。

 

 いや、そもそも、逃げ出したアズラエルの血族が勢力を伸ばしていなかったら……彼女らが計画的な襲撃を行えるくらい知恵がついていなかったら……水棲魔族は相変わらずインドネシアやメラネシアの島々で気ままに蠱毒を続けているはずで、こちらから手出しをする策は今も見つかっていなかったはずだ。

 

 もしも16年前、アズラエルがダーウィン撤退戦で命を落としていなかったら……魔族として復活した彼女が、自分の精液を人類のために使おうと思わなかったら……たらればを言い出せば切りがないが、そう考えると今回の件は、全てアズラエルが人類を救いたいという気持ちが導いてくれたものだったとも思える。

 

 これも天の配剤というのだろうか。この世界には本当に神がいるのだから笑い話にもならないが、今は素直にその計らいに感謝しておこう。

 

「おーい! 飛鳥くん、飛鳥くん!」

 

 そんなことを考えつつアリスの肩越しにテレビを見ていたら、遠くの方から鳳を呼ぶ陽気な声が聞こえてきた。見れば襲撃の後片付けをしているドミニオンの車両のボンネットの上で、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、こっちに手を振る神楽やよいの姿があった。

 

 テレビから離れるのを名残惜しそうにしているアリスにそのまま見てなと言うと、鳳は彼女の方へ歩いていった。

 

「やあやあ、今回もお手柄だったそうだね。聞いたよ? 君があのレヴィアタンの親玉をやっつけちゃったんだって?」

「いや、やっつけたのは、俺じゃなくって……あー……殆どラファエル様が片付けてくれたんです。俺はその後をついていっただけで」

 

 まさかサムソンの存在を言うわけにもいかないのでそんな風にお茶を濁していると、やよいはうんうん頷きながら、

 

「そうなの? ラファエル様ってそんなに強かったんだ。驚き驚き。でも君だって、ついてくだけでも結構凄いと思うよ。私だったら全力でごめんだもんね」

「言い出しっぺだから断れなかったんですよ……ところでこっちには何しに? 主任さんも魔族の死体の掃除に駆り出されたんですか?」

 

 ケアンズで基地を襲った大軍団は、その後、かつて自分たちのボスだった集団と戦って、また多数の命を散らしていった。その死体が海岸のあちこちに転がっているから、放っておいたら生態系を乱しかねないので、ドミニオンたちは広範囲に渡ってそれを片付けているところだった。

 

 だからてっきり、やよいもその任務についているのだと思っていたのだが、

 

「とんでもない! 私はそんな仕事を振られたら、全力で逃げ出すよ? 退職も辞さない覚悟だよ」

「そんなの一生懸命働いてる他の隊員の前で言わんでくださいよ……それじゃ、あんた何しに来たんです?」

 

 鳳がジト目で突っ込むと、彼女はポンと手を叩いて、

 

「そうだったそうだった。その魔族の死体を片付けていた隊員がね? 君たちが最初に襲撃したっていうボス集団のコロニーの中で、メタトロンとサンダルフォンを見つけたんだって! それで早速回収しに行こうとしてたら、君がいるのを見掛けたから」

「あー! あいつら、オリジナルを捨てずに、後生大事に巣の中に隠してたんですか? ふーん……もしかして、人間が大事にしてるから、お宝みたいに思ってたんでしょうかね?」

「さあ、分からないけど、紛失しなくて良かったよ。で、私は行くけど、君も行くでしょ? 壊れたりしてないか、その場で調べるつもりで色々持ってきたんだ」

「俺も行っていいんですか? それじゃあ……アリス!」

「おや? その子はアイギスの子だね? 道中でいいから話を聞かせてよ」

 

 やよいが乗ってきた車に乗せられ、彼女をガン無視してカーナビに夢中になってるアリスに代わって質問に答えながら、鳳たちは昨夜急襲したボス集団のコロニーを目指した。

 

 あの時は行きも帰りも空を飛んでいたから分からなかったが、こうして地上を車で移動してみると結構遠くて驚いた。舗装されているわけでもないから地面の状態も悪く、オフロード車でも2時間近くかかってしまった。そんな距離をオアンネスたちは、空飛ぶ天使と同じ速度で駆けていたのだから、アズラエルの血を受け継いだ連中がどれほどの脅威であったかが窺える。

 

 本当に作戦が上手くいってよかった。もしもアズラエルが連中を支配出来なかったら、今頃、人類は滅びの道をまっしぐらに突き進んでいたことだろう。

 

「まあ! 白様! こちらにいらしたのですか?」

 

 現場に到着すると、発掘されたオリジナル・ゴスペルの横に瑠璃がいて、鳳のことを見つけるなり駆け寄ってきて腕に抱きついた。

 

 どうやら、ここは重要な場所だから、精鋭のジャンヌの部隊が捜索を行っていたようだ。とすると、発見したのは彼女たちなのだろうか? 鳳がその時のことを尋ねようとしたら、テレビに釘付けになっていたはずのアリスが二人の間に割って入り、

 

「離れなさい、庶民。気安くご主人さまに触れるんじゃありません」

「まあ! またこのちびっ子ですの!? あなたこそ、邪魔をしないでくださいます!」

 

 鳳のことをそっちのけに二人はやいのやいのと喧嘩を始めた。

 

 話を聞きたいだけなのに、こいつら本当は仲良しなんじゃないのかと、その罵り合いを黙って見守っていると、胃腸の弱い中間管理職みたいな顔をした琥珀がやってきたので、そっちに聞いてみた。

 

「よう、琥珀。この二丁はおまえらの部隊が見つけてくれたの?」

「え、うん。そうですけど……二人を止めなくっていいんですか?」

「いいのいいの」

 

 どうせアリスに(軍人である)瑠璃を傷つける力はなく、瑠璃に(アイギスを持つ)アリスを傷つける力もない。そんな趣旨のことを言ったら琥珀も安心したらしく、少し表情が和らいだ。その横を神楽やよいが通過していく。彼女は彼女で、ゴスペルしか眼中に無いようだった。鳳はそんなマイペースな連中を横目に見ながら、

 

「それで、どこで見つけたの? 襲撃の時に気づいていたら回収してたんだけど、あの時は全然気づかなかったなあ」

「実は……そのことで、ちょっと気になることがあって」

「気になること?」

「こっちです」

 

 鳳たちはいがみ合う二人を置き去りに、発見されたオリジナル・ゴスペルのもとへと歩いていった。

 

 もっと薄汚れていたり破壊されていたりしているんじゃないかと思っていたが、相変わらずビームライフルみたいな2つのゴスペルは、山の上の施設にあった時と変わらないピカピカの状態で保管されていた。両ゴスペルの前には既にやよいがスタンバイして、何やらコードをペタペタ貼り付け、端末をいじりながらふむふむ頷いている。

 

 オアンネスたちがこれを奪ったのが人類の戦力を削ぐためだとしたら、破壊もせず綺麗に取っておくのは不自然だなと思っていると、琥珀がそれらを指差しながらこんなことを言い出した。

 

「実は、これが発見された時に、僕もちょっと触れる機会があったんですけど、何か変な違和感があるっていうか……妙な感じがしたんですよ。それで飛鳥さんなら何か分かるんじゃないかなって思って」

「変な感覚?」

「はい。何ていうのかな……このままじゃまずいっていうか、暴走するような感じっていうか……パンパンに膨れた風船を持っているような感覚ですかね? でも特におかしなところは見当たらなくて……」

「ふむ……武田くんは中々詩的だねえ。でも、これはちょっと……まずいことになってるかも知れないよ?」

 

 二人がそんな会話を続けている間も、ゴスペルを弄りながら何か真剣に作業していたやよいが、端末から目を離さずに呟くように言った。

 

 彼女は端末をパチパチと指で叩きながら、次々ウィンドウを開いたり閉じたりして何かを調べているようだった。一体何をしているんだろうと思って、その肩越しから覗き込んでみると、気配を察知したのか彼女はいくつかのウィンドウを指し示し、鳳に見やすいよう横に傾けて見せた。

 

 彼にはそこに書かれている数値や波形が何を意味しているか分からなかったが、

 

「これはメタトロン内のエネルギーのスペクトルを表してるの。これによると、今メタトロンの中には恒星の表面温度を超えるエネルギーが溜まってることになるんだけど……」

「恒星の表面温度!?」

「を、軽く超えた、ね。地球ごと滅ぼすつもり? って感じ。それがメタトロンだけじゃなく、サンダルフォンからも検出されてる。もしこれが本物なら、暴走なんかされたら今すぐ太陽系ごとサヨナラだよ」

 

 鳳が驚いて2つのゴスペルに触れてみると、確かにその内部にあるイマジナリーエンジンからとんでもない量の第5粒子の流れを感じた。ただ、それは暴走しているような感じではなくて、イマジナリーエンジン内で安定しているような感じではある。

 

 これだけのエネルギーを生み出すには、一つの宇宙を消滅させるくらいのことをしなきゃ不可能だ。いきなりこんなとんでもないエネルギーが溜まっていることには驚いたが、しかし二人にはこの二丁のゴスペルに何が起きているのかの予想はついていた。

 

「もしかして……レヴィアタンがゴスペルを使おうとしたってのか?」

「そうだねえ、デウスエクスマキナ・モードが発動してるって考えるのが妥当だけど、でもそれだとちょっと不可解なんだよなあ」

「不可解……?」

「まず、使用には適正が必要なゴスペルを、どうやって魔族が動かしたのか? それから、これを使って何を攻撃しようとしたのか? 我々人類を攻撃しようとしていたなら、こんなエネルギーは必要ないし、第一、神の兵器が人間を攻撃するために発動するとは思えないでしょう?」

「なるほど……じゃあ、なんでこんなエネルギーが溜まってるんだろう?」

 

 鳳がそう言いながら首を傾げた時だった。

 

 遥か遠くの地平線が急にピカッと光って、数秒の後にドドン! っと地面を揺るがす巨大な音が轟いた。雷か!? と思って空を見上げるも、360度見渡す限りの快晴で、とても天気が崩れそうな気配はない。

 

 それじゃ一体あの音はなんだったのだろうかと思っていると、再度ドドンッ! と轟音が轟いて、鳳はそれがさっきまで自分たちがいた水棲魔族との決戦地の方だと気づいた。

 

 もしかして、何か不測の事態が起こってドミニオンが交戦状態に入ったのだろうか? 

 

 やよいと目配せをし、確認をしようと彼女の車へ戻ろうとしたら、既にそこにいたアリスが血相を変えて鳳に向かって手を振っていた。

 

「ご主人さま! ご主人さま! こっちに来てテレビを見てください!」

 

 こんな時にと思いもしたが、どこか緊迫している彼女に促されてカーナビに映し出された映像を見てみたら、そこには信じられない光景が映し出されていた。

 

 恐らくそれは先程海に帰っていく水棲魔族を映し出していたカメラクルーからの映像だろう。上空から海を映していたカメラが突然パンしたかと思うと、遠くの空に何かがポツンと黒い点が浮いているのが見えた。

 

 レポーターたちがあれはなんだ? と言っていると、するとその黒い点から、突然、真っ赤なレーザービームみたいなものが飛び出し、海岸線で作業しているドミニオンの車両を、ドドン! っと吹き飛ばした。

 

 その爆風は上空のヘリにまで届いたのか、いきなりぐるんと画面が傾き、クルーたちの悲鳴が上がって、ザーザーと音を立てて映像が止まってしまった。画面が真っ暗になり、一体何が起きているのかと戸惑うアナウンサーの声だけが聞こえてきて、それから暫くして映像が回復すると……そこには信じられない物が映し出されていた。

 

「あれは……魔王なの?」

 

 隣で同じ動画を見ていたやよいが呟く。

 

 そこに映し出されていたのは、空を飛ぶ一匹のドラゴンだった。その体は全身真っ黒な鱗で覆われて、目は爬虫類のようにギョロリとしており、口はカバみたいに大きくて、巨大な四本の牙が上下に突き出しているのが見える。胴体は丸くずんぐりむっくりで、下半身にかけて太っていたが、対象的に四肢は筋肉質で細長く、そしてその先端には鋭利な爪がギラリと光っていた。

 

 そしてその背中には不釣り合いなほど大きな翼が生えていて、それがバサバサと羽ばたく度に、でっぷりとした巨体が上下に揺れて贅肉がブルブルと震えた。

 

 空力的にそんなのでホバリング出来るわけはないから、恐らくその翼は見掛け倒しのファンタジーだろう。だから逆に言えば、そいつは第5粒子エネルギーを使って魔法的な方法で飛んでいるのは間違いなかった。つまりそれは魔王であると言うことである。

 

 レヴィアタンという魔王を退けたばかりのドミニオンは、まさかそんなところへ別の魔王が飛んでくるとは思いもよらず、完全に動揺しきって麻痺状態に陥っていた。歴戦の英雄と言われた基地司令戦場(いくさば)さくらも、ただ呆けて空を見上げるばかりで、隊員たちにどんな有効な命令も下すことが出来なかった。

 

 勇敢な隊員たちがゴスペルを使って光弾を飛ばしていたが、硬い鱗に弾かれてしまい全くの無意味だった。新型の連携攻撃も効いているようには思えず、そもそも、空を自在に飛び回る相手にそんなものをタイミングよく当てるのは不可能だった。

 

 ちまちまと攻撃されることを嫌がったのか、ドラゴンは光弾を飛ばしてくる地上の虫けらをじろりと睨むと、その巨大な口から怪光線を飛ばして地面を焼き払ってしまった。光線が地面をドロリと溶かしてマグマと化し、真っ黒な炭の塊になった隊員が風に吹かれてチリチリと飛んでいった。その余りに理不尽な暴力に恐れを為した別の隊員が逃げ回り、地上はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図といった様相を呈していた。

 

 ようやく撤退命令が出たのか、泡を食ってたようにドミニオンたちが逃げ出していく。するとその中から2つの影が飛び出してきて、空を飛ぶドラゴンに肉迫した。巨大な炎の剣を構えたウリエルと、疾風のようにドラゴンの周囲を飛び回るラファエルである。

 

 二人は交互にドラゴンに接近しながら攻撃を仕掛けている。四大天使の中でも武闘派の二人の攻撃には、さしもの魔王も無傷とはいかないらしく、ドラゴンはまるで駄々っ子みたいに手足をめちゃくちゃに振り回し、二人の接近を拒んだ。

 

 その予測不能な動きに対応しきれず、ラファエルが直撃を食らうと、信じられない速度で地面に激突し、噴煙のような砂煙が上がった。すると仲間がやられたと思ったのか、どこからともなく金色のオーラを纏ったサムソンが現れて、上空を飛び回るドラゴンに向かって岩を投げつけ、飛びかかろうとジャンプした。

 

 しかしいかんせん、彼には空を飛ぶ能力はなく、ノミのように地面をぴょんぴょん飛び跳ねるのが関の山だった。寧ろ、突然の魔族の登場に驚いて、撤退中のドミニオンを混乱させただけのようだ。ミッシェルになんとか収めて貰いたいところだが、あの御仁は多分諦めて高みの見物を決め込んでいるだろう。

 

 上空で一対一の勝負に持ち込まれたウリエルが炎の剣を振るう度、爆炎が放たれドラゴンを襲い、負けじとドラゴンも応戦して、その巨大な口から炎を吐き出す。双方の炎が地面にぶつかっては爆音が轟き、抉れた地面が文字通り土砂降りとなって降り注いだ。

 

 土砂の直撃を食らって倒れる者、血を流してうずくまる者、二次被害が広がり過ぎて、もうどれだけの犠牲が出ているか分からなかった。

 

 と、その時……突然、巨大な噴水のような水撃が放たれ、ドラゴンの体を強引に押し流していった。このままじゃまずいと思ったのか、アズラエルが暴れまわる魔王をドミニオンたちから引き剥がそうとしたのだろう。点ではなく面で押されてはデカブツには対処しきれず、魔王はあっという間に数キロ押し流されていった。

 

 藻掻きながらどうにか宙へと抜け出した魔王は、自分が押し負けたことに腹を立てたのだろうか、アズラエルに矛先を変えると、ウリエルに放っていた炎のブレスを彼女目掛けてめちゃくちゃに撃ち出した。

 

 ウリエルやラファエルと違い、武闘派とは言えない彼女がその直撃をモロに受けて吹き飛んでいく……爆炎に包まれ、ものすごい速さで飛んでいくアズラエルを見て、これはヤバいんじゃないかと思っていると、その時、

 

「我と我が主を守り給え……アイギス!」

 

 モニターに見入っていたら、突然、背後でアリスの声が聞こえ、ハッとして振り返れば、たった今そのモニターに映し出されていたアズラエルが、ちょうどこちら目掛けて吹っ飛んでくるのが見えた。その後ろには、追撃の炎が迫っている。

 

 瑠璃や琥珀、ジャンヌ隊の面々が慌てて逃げ惑い、辺りは騒然となるが……直後、炎が着弾するやそこにドーム状の結界が広がり、炎を防いで隊員を守った。アリスの掲げるアイギスが白く輝き、二匹の光の龍が浮き上がる。

 

 結界は炎だけを弾いてアズラエルは通し、彼女は地面に激突するとゴロゴロ転がってドミニオンの車両にぶつかって止まった。

 

「ああああ! ゴスペルがぁ~!」

 

 その上に設置してあったゴスペルがボーリングのピンみたいに弾け飛び、それを見た神楽やよいの情けない声が響いた。ドラゴンのブレスで地面は真っ黒に焼け焦げ、あちこちで陽炎が揺らめいていたが、アリスの結界のあるところだけがミステリーサークルみたいに綺麗なままだった。

 

「て、て、撤退よー! みんな車に早く乗ってっ!!」

 

 結界はその熱までは防げなかったのか、熱波が襲って全身から脂汗が流れ出す。空を見上げれば、仕留めそこねたことに気づいているのか、ドラゴンが一直線にこちらへ向かってくるのが見えた。それを見たジャンヌが撤退を指示するが、

 

「でも隊長、どこへ逃げるっていうんですか?」

 

 みんな手近な車両に飛び込みながら、そんな情けない声が飛び交う。瑠璃がゴスペルを回収しようとしているやよいを手伝い、思ったよりも重たいそれを顔を真っ赤にしながら引きずっている。

 

「ご主人さま! お逃げください!」

 

 追撃の炎がまた着弾し、それを防いでいるアリスの緊迫した声が聞こえてくる。結界は、こころなしか先程よりも狭まっているような気がする。アイギスも第5粒子エネルギーを使っているなら、限界があると言うことだろうか。

 

 このままではここも保たない。彼女の言う通り、早く逃げなければならないが……

 

「……はははははは……ははは……」

 

 しかし、鳳はそんな緊迫した現場で、一人ぼんやりと空を見上げながら、

 

「あはははははは……あはははははははは!! あははははははははは!!!」

 

 何故か彼は狂ったように、一人笑い声を上げていた。

 

 その哄笑は止めどなく、爆音すらかき消すかのごとく、快晴の空に響き渡った。それがあんまりにも非日常的過ぎたから、逃げ出そうとしていたドミニオンの隊員たちも、思わず足を止めてそれをじっと見つめてしまった。腹を抱えて涙まで流して、大爆笑する鳳の姿は、もはや誰の目にも狂人としか映らなかった。

 

「お、おい……君。大丈夫か?」

 

 アズラエルが琥珀に抱きかかえられながら、鳳のことを心配して寄ってくる。彼はそんな彼女のことを目尻の涙を拭いながら片手で制すと、

 

「いや、ちょっと……笑っちゃって……はははは」

「見れば分かる。そんなことより、君も早く逃げなければ……」

「ううん、その必要はもう無いんだよ。メタトロン! サンダルフォン!」

 

 鳳が2つのゴスペルの名を口にすると、瑠璃とやよいが必死に引きずっていたその二丁が突然光を放ち、まるで意思を持っているかのように宙を舞い、鳳と琥珀の前まで飛んできた。

 

 ゴスペルは重力に逆らって、二人の目の前でぷかぷか浮いている。鳳はその内メタトロンの方を手にすると、サンダルフォンを前にして呆然としている琥珀に向かって言った。

 

「サンダルフォンを取れよ。行こう、俺たちであれをやっつけるんだ」

「僕と……飛鳥さんで?」

 

 琥珀の目が困惑して鳳とサンダルフォンの間を交互に行き来している。そんな彼女とは対象的に、呆気にとられていたやよいがハッと息を呑むと、

 

「そうか! イマジナリーエンジンに溜まっていたエネルギーって……!」

「アズにゃん、傷ついてるところ悪いんだけど、出来るだけ高く俺たちを空に上げてくれないか?」

 

 アズラエルは眉根を寄せながら首肯し、

 

「……よくわからないが、理由を聞いている暇は無さそうだな」

「さあ、琥珀も早く」

 

 鳳に促され、慌てて琥珀がサンダルフォンを手にすると、アズラエルが空いていたもう片方の手を取り、鳳と一緒に二人を上空まで運んでいった。

 

 アズラエルに止めを刺そうと着弾点に向かっていたドラゴンは、そこから彼女が飛び出してきたことに気づくと忌々しそうに咆哮を上げ、3人めがけて炎を吐いた。アズラエルはグイグイ上昇することでそれを躱すと、追いかけてくるドラゴンから逃げるように更に上へと上がっていった。

 

 上空は3000メートルくらい上がってきただろうか。地面にいるはずの仲間の姿は、もう目視では確認出来ない。気温がぐんぐん下がってきて、その手がかじかんでしまわないように、鳳ははーっと手のひらに息を吹きかけた。

 

 見れば隣では琥珀が真っ青な顔をしている。それはここから落ちたらという心配か、それともドラゴンのブレスに焼き殺されるかも知れないことへの恐怖か、それとも……失敗することへの不安だろうか。

 

 しかし、ここまで来て恐れることなど何もないだろう。どうせ失敗したら死ぬだけだ。鳳はそんな彼女の背中をパンと叩くと、

 

「そんな死にそうな顔してんなよ。ただ引き金を引けばいい、それだけさ」

「は、ははっ」

 

 彼の言葉に、彼女が引き攣った笑みを返すのを見ると、鳳は手にしたオリジナルゴスペルを最終確認するかのように眺めてから、その玩具みたいなライフルの銃口をドラゴンに向けて構え、トリガーに指をかけた。

 

 ルシフェルの最高傑作と呼ばれたメタトロンが、如何ほどの威力か見せてもらおう……鳳はドラゴンに照準を合わせながら、

 

「……カナン先生、ちょっとお借りしますよ」

 

 そう呟くように言うと、琥珀と二人、タイミングを合わせて引き金を引いた。

 

 周囲には何一つない空の上で、鳳たちという荷物を抱えて飛ぶアズラエルは格好の的だったろう。お誂え向きに今日は雲ひとつ無い快晴で、空に浮かぶ三人の姿は相当目立っていたはずだ。ドラゴンは、そんな餌を目掛けて一直線に飛んで来ていたから、照準をあわせるのに苦労は全くなかった。

 

 ドラゴンは、きっとチンケな人間に自分が傷つけられるとは思ってもいなかったのだろう。無防備に腹を晒して、バタバタと飛ぶ滑稽な姿は、寧ろこっちの方が的としては上等と言わざるを得なかった。

 

 メタトロンとサンダルフォン、2つのゴスペルから照射された光線は、そんなドラゴンのド出っ腹に風穴を空けると、そのままホップするように軌道を変えて宇宙へと消えていった。

 

 その腹のど真ん中に空いた大きな穴の中央には、キラキラと青白く光るコアのような点が輝いており、そこから溶岩のような炎がいくつもいくつも噴き出していた。それが地面に落ちると岩や砂はドロドロと溶け出し、地上はさながら溶岩の大河が溢れ出したかのようになった。

 

 やがてコアは七色に脈打つ星のように輝き始め、いつの間にか点だったそれは徐々に膨れ上がる巨大な光球となった。それがドラゴンの体を全て包み込んだ時、光球は唐突に浮力を失ったかのように自由落下を始め、あっという間に地面に衝突し、そして閃光ときのこ雲を残して、それは一瞬にして消えてしまった。

 

 断末魔は聞こえなかった。恐らく、その瞬間にはもう魔王は絶命していただろう。代わりに耳をつんざく爆音と衝撃波が襲ってきて、空を飛ぶ三人をものすごい勢いで吹き飛ばした。バランスを崩したアズラエルが琥珀の手を離し、慌てて鳳がそれを掴もうと手を伸ばすと、上昇気流が発生して三人はグルグルと回りながら空の上へと舞い上がっていった。

 

 アズラエルの翼はもう必要ない、ものすごい風圧で彼らは一瞬にして何千メートルも上空まで飛ばされていた。

 

 その上昇気流という名の熱波に灼かれて、鳳はヒリヒリと痛む顔を腕で覆いながら、その隙間から消えゆく魔王の最期を見届けていた。そこには突然地上に現れた太陽が、地上を真っ白く染めているような、そんな光景が繰り広げられているのだった。

 



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機械仕掛けの神

 上空から見下ろす地上には巨大なクレーターが出来ていた。その中央付近は今も白く光る灼熱のマグマが噴き上がっており、両ゴスペルから発射された光の凄まじさを如実に表していた。神楽やよいは太陽系を消して余りあるエネルギーだと言っていたのだから、このくらいで済んだのは寧ろ有り難いくらいだろう。鳳はこれとそっくりな光景を以前見たことがあった。その時は世界そのものが崩壊してしまったのだが、レオナルドの迷宮と違って、こっちの世界はどうやら持ちこたえてくれたようである。

 

 鳳たちを遙か上空に押しやっていた気流が収まって、急に冷え込んできた。ここが標高何メートルかは知らないが、多分冷蔵庫の中くらいまで気温が下がっているのは間違いないだろう。地上のうだるような暑さが今は恋しい。

 

 三人は手を繋いで自由落下をし始めた。大体1000メートルくらいまで下りてくると、アズラエルは翼を器用に羽ばたかせて落下スピードを落とした。このまま地面に降りたとしても、そこはマグマの海だ。どこか別のところへ降りなきゃならないと辺りを見回していると、遠くの方からバリバリと音を立てながらヘリが近づいてきて、三人の回りをグルグル旋回しはじめた。

 

 ヘリのドアから命綱を付けたカメラマンが、迫り出すようにして、こちらを映しているのが見える。その背後にはマイクを持ったレポーターがいて、何か必死に叫んでいたが、その内容までは聞き取れなかった。

 

 状況からして多分、テレビ中継の真っ最中なのだろう。鳳はカーナビに釘付けになっていたアリスのことを思い出して、カメラに向かって手を振った。すると勘違いしたテレビクルーが手を振り返してきて、その必死さに思わず笑ってしまった。

 

 多分、彼らはオリジナルゴスペルを持っている鳳たちのことを救世主のように思っているのだろう。悪い気はしないが、事故らないかとちょっと心配になる。

 

 琥珀が地上にいる隊員たちを見つけ、鳳たちはカメラクルーに背を向けると、仲間のいる地上へと降りていった。大歓声に迎えられて、隊員たちが作った輪の中へ降り立つと、瑠璃が駆け寄ってきて、琥珀と二人一緒に抱きつかれた。

 

 それを見ていた他の隊員たちも次から次へと飛び込んできて、まるでおしくらまんじゅうみたいになってしまって、ギューギュー押されて息が詰まった。鳳と琥珀、アズラエルの三人のことを、みんな口々に讃える声が飛び交う中で、神楽やよいだけが一人オリジナルゴスペルを回収しようとして、またその重さに押しつぶされていた。ブレない人である。

 

 涙を流して琥珀ごと首に巻き付いている瑠璃を背負いながら、隊員たちの頭越しに周囲を見回せば、輪の外でそんな瑠璃のことを仕方ないと言いたげな表情で見ているアリスと桔梗の姿が見えた。二人ともテレビっ子だから、なんか馬が合うのだろうか。変なことを教えられないといいのだが……

 

 そんな不安を覚えていると、空からラファエルとウリエルの二人が降りてきて、四大天使の威光を前に、流石のJKたちも恐れ畏まり、ようやくおしくらまんじゅうから解放された。ラファエルが良くやったと琥珀を褒め、ウリエルが深々とお辞儀をしている横から、揉みくちゃにされて髪の毛をボサボサにしたアズラエルが話しかけてきた。

 

「やれやれ、やっと解放された。地上に降りたら君に聞こうと思っていたんだ。いきなり空に上げろと言われて驚いたが、あれは何だったんだ? どうして君がオリジナルを使えたのだ?」

 

 鳳は質問には順番に答えるからいっぺんに聞かないでくれと苦笑いしながら、

 

「いや、俺は別にメタトロンを起動したわけじゃなくて……単に引き金を引いただけなんだよ。あれを使った人はもっと別にいる」

「どういうことだ? まさか……君は魔族があれをやったというのか?」

 

 鳳は首を振って、

 

「それも違う。主任さんも言っていた通り、オリジナルゴスペルは使用者を選ぶ。だから魔族が使えるはずがないんだ。つまり、オアンネスたちに奪われた時点で、既にあのエネルギーはゴスペルの内部に存在していたわけさ」

「……どういうことだ? 君が言ってることが、さっぱり分からないのだが……」

 

 鳳は、まあそうだろうねと頷き返しながら、

 

「説明すると長くなるんだけど……まず、俺はあのドラゴンを一度見たことがあるんだ。実はこの世界に来る前、俺が元いたアナザーヘブン世界でさ」

「なんだって……? それでは君は、ベヒモス、レヴィアタンに続いて、あのドラゴンとも戦ったというのか?」

「ああ、しかもこいつらとの三連戦……アズにゃんには以前にも話したことがあるけど、俺は前の世界で魔王を倒した経験がある。その相手ってのは、みんなも知っているベヒモスとレヴィアタン……そしてさっき空に現れたドラゴンだった。

 

 実は、あのドラゴンの正体は、レヴィアタンという魔王を喰らうことで更に強くなったベヒモスだったんだよ」

 

 鳳の言葉にどよめきが起きる。いきなり現れたあの空飛ぶドラゴンの正体が、あの動く山みたいなベヒモスだったなんて、とても信じられなかったのだろう。鳳も、前の世界であれが変形する姿を見ていなければ、そんなこと思い付きもしなかったはずだ。

 

 しかしアズラエルは、まだ信じられないといった感じに、

 

「あれがベヒモスだって……? いや、しかし、ベヒモスはマダガスカルにいるはずではないか。まさか分裂したわけでもあるまいし、どうしてそんなのが突然、オーストラリアに現れたというのだ?」

「それなんだけど、ベヒモスってまだマダガスカルにいるの? 確認は取れる? 誰かが常に監視してるってわけじゃないよね?」

「……確かにそうだが。しかし、ここはオーストラリアだぞ? あのカバが、どうやってここまでやってきたというのだ?」

「そりゃもちろん、泳いでだろうよ」

「泳いで……だと?」

 

 鳳は当たり前だろと言わんばかりに肩を竦めて、

 

「16年前からあいつがずっとマダガスカルに住み着いてるからみんな忘れてるんだろうけど、そもそも、あいつがアフリカ大陸からマダガスカルに渡ってくるには、泳いでくるしかないんだよね。そう考えると、実はあいつ、最初っから泳げるんだよ。何百キロだろうと、何千キロだろうと……多分、比重が軽くて海水にはずっと浮いてられるはずだ」

「あ……ああ……」

 

 アズラエルはどうしてそんな簡単なことに気づかなかったのだろうかと脱力している。鳳はそんな彼女に苦笑をしながら続けた。

 

「じゃあ、どうしてあいつは泳いで大陸に帰らなかったのかって言うと、そこに餌があることが分からなかったからだ。ところが今回、あいつは俺たちを食い損ねたことで、食への執着心がピークに達していた。だからサムソンが居なくなったところで、何が何でもアズにゃんを食べてやろうとして海に入り、無理やり追いかけてきたわけだ。

 

 でももちろん、水棲魔族であるアズにゃんたちに追いつけるわけがない。あっという間に引き離されて、ベヒモスはインド洋をプカプカ遭難し始めた……そして恐らく、インドネシアに流れ着いたんだろう。

 

 そこはあいつにとってはパラダイスだったろうね。何しろ、16年間、ろくな食べ物もないマダガスカルで腹を空かせていた奴の目の前に、推定1億個体を超える水棲魔族が現れたんだから……

 

 逆に水棲魔族にとっては悪夢だ。これまで殆ど天敵と呼べるような相手がいなかった奴らは、突然現れたベヒモスという魔王の前に成すすべも無かったろう。ベヒモスはスマトラ島、ジャワ島と続く列島の水棲魔族を駆逐して、そしてニューギニア島に渡ってきた。

 

 そこで勢力を伸ばしていたアズにゃんの子孫は、いきなり現れた魔王に最初は抵抗しただろう。だが、知っての通り、ベヒモスってのは再生能力が半端ない。仮に一度倒せたとしても殺すことは出来ず、何度でも襲ってこられて、更には、魔族は魔族を食べることで進化する。徐々に強くなっていくベヒモスを相手についに耐えきれなくなり、ニューギニアを捨てて逃げ出そうとした。

 

 つまり、今回の水棲魔族の大襲撃ってのは、実は奴らが人類を蹂躙するのが目的ではなくて、ベヒモスに奪われたニューギニア島から避難してきたというのが真相だったんだよ」

 

「なんてことだ……」

 

 鳳の話を聞いていた人々からどよめきが起こる。アズラエルたち天使は、事の真相を知ってめまいがするかのように天を仰いだ。彼女はため息交じりに聞いてきた。

 

「君はあのドラゴンの出現だけで、そこまで予測していたっていうのか?」

「ああ、あれがレヴィアタンを食べたベヒモスだってことに気づけば、後は容易に想像がついた」

「しかし、それにしたって察しが良すぎないか? それに……すぐにメタトロン・サンダルフォンを使えば倒せると思ったのはどうしてだ?」

「それはもう……そうするのが自然だったとしか言えない。俺は、前の世界で魔王を倒したって言っただろう? その時に起きた出来事と、今回の出来事は非常によく似ているんだよ」

 

 天使たちは怪訝そうに互いに顔を見合わせると、鳳に続きを促した。

 

「まず、俺は魔王を倒したと言っても、最初、カバだった頃のベヒモスを倒すことは出来なかったんだ。あいつのしぶとさは君らも知っているだろう? 俺は巨大エネルギーであいつがブラックホール化するまでけちょんけちょんに押しつぶしてやったんだが、それでもあれを倒すことは出来なかったんだ。

 

 正直、お手上げ状態でどうして良いか分からなかったんだけど……それはあいつも同じだったのか、ベヒモスは俺に勝てないと判断すると逃げ出してしまったんだよ。ここまではマダガスカルと同じ流れだからわかるだろう?」

「あ、ああ」

「それで、俺は逃げたベヒモスを追おうとしたんだけど、その時、仲間が別の場所でレヴィアタンと交戦しているって情報が入ってきたんだよ。仲間のピンチじゃ仕方ないから、それで一旦ベヒモスを追うことは諦めて、先にレヴィアタンを倒そうってことになったんだけど……

 

 そして死闘の末にどうにかレヴィアタンに止めを刺した時、そこにベヒモスが突っ込んできたんだ。奴はまるでそれが狙いだったかのように、俺たちが倒したレヴィアタンの死体に食らいついた。そして奴が死体を食い尽くすと、あいつの体が変形しだして、さっきのあの巨大な翼竜の姿になったのさ」

「そんなことが……」

「魔王を喰らったベヒモスは強くて、俺たちが束になっても敵わなかった。それはあいつと戦った今の君らならわかるだろう。

 

 だが、強さってのはある意味、コストの高さとのトレードオフだ。例えば、動物から捕食されないように毒を作る植物は、そのせいで他の植物より成長が遅い。立派な角を維持するにはそれだけエネルギーが必要で、もし現実の馬にユニコーンのような角を生やしたら、貧血を起こして動けなくなるだろうと言われている。

 

 ベヒモスもそれと同じように、奴は信じられない再生能力を得た代わりに戦闘力は据え置きで、はっきり言ってそれほど強い魔王とは言えなかった。だが、レヴィアタンを食らったベヒモスは、正に魔王に相応しい強力な戦闘力を得た代わりに……再生能力が衰えていたのさ。

 

 そのお陰で、何をやっても倒せなかったあいつを、俺は今度は倒すことが出来た。その方法ってのが……まあ、今にして思えば、新型ゴスペルと同じ方法だったんだよ」

「新型ゴスペル……? どういうことだ?」

 

 鳳は順を追って説明すると彼女にうなずき返してから、

 

「まず、アナザーヘブン世界であいつと戦った時のことなんだけど、その時、俺自身が使える最大威力の魔法があいつには通じなかったんだ。それを上回るルシフェルの攻撃すらも通じず、このままじゃ勝てないと思った俺は、何とかして威力を上げられないかと考えた。

 

 それで思ったんだよ。俺たちの使う魔法ってのは、結局の所、高次元方向からやってくる第5粒子エネルギーを脳が変換した魔力(MP)を用いて行ってるんだよね。つまり、そうやっていちいち変換しているから威力に限界があるんであって、そんなことせず直接第5粒子エネルギーをぶつけてやれば、もっと威力が出るんじゃないかと。

 

 それで、どうせ高次元方向には第5粒子エネルギーが溢れているんだから、そいつを直接ぶつけてやればいいと思って、俺はケーリュケイオンに残っていたエネルギーを使って、空間に穴を空けたんだ。

 

 3次元の俺たちが、2次元の紙に穴を空けると円になる。じゃあ、4次元方向から3次元に空けられる穴ってのは……球だろう?

 

 つまり、俺が空間に穴を空けたら、さっきみたいな巨大な光球が現れてあいつを包み込み、奴は無尽蔵のエネルギーを食らって消滅した。そのせいで、俺は一つの世界を壊してしまったんだけど……

 

 まあ、それはおいておいて、俺と琥珀もまたオリジナルゴスペルに溜まっていたエネルギーをぶっ放して空間に穴を空け、奴を次元の穴に落とし……かくして魔王ベヒモスは消滅したってわけさ」

 

 アズラエルは何度も頷いてから、まだ少し気掛かりがあるといった感じに、

 

「しかし、どうしてあの時オリジナルには都合よくエネルギーが溜まっていたんだ? 確か、暴走している2つのゴスペルを、君が止めたんじゃなかったのか?」

「そう、確かに俺は暴走を止めた。でも、それってこうも考えられるわけだ。2つのオリジナルゴスペルは16年前からずっと動き続けていて、俺が触れたあの時に、正常に動作を完了したとも……」

「どういうことだ?」

「オリジナルゴスペルが、デウスエクスマキナ・モードで得ているのは、魔王を倒すという情報(・・)だ。情報とはエネルギーでもあるから、これまでゴスペルはそれを魔王を倒すための力に変換していた。でも実際には、魔王を倒すことさえ出来れば、情報をわざわざエネルギーに変換する必要なんてないだろう?

 

 説明がややこしいな……結果論として、俺はベヒモス、レヴィアタンという二体の魔王の倒し方を知っていたんだよ。つまり、俺自身が情報として現れたから、ゴスペルはそれ以上エネルギーを吸い上げる必要がなくなった。それが、オリジナルゴスペルの暴走が止まった理由なんだ。

 

 順を追って話そう。16年前、アスクレピオス、メタトロン、サンダルフォンというオリジナルゴスペルが相次いで不発したのは、要するに、エネルギーを直接ぶつけるって方法じゃ、あの二体の魔王を倒すことが出来なかったからだ。

 

 ベヒモスは再生能力が強すぎて、そしてレヴィアタンは数が多すぎて、例えば原爆をぶつけるような方法ではどうしても倒しきれなかった。

 

 でも、さっき見ての通り、両魔王の倒し方自体は存在していた。つまり誰かがベヒモスをレヴィアタンにぶつけて水棲魔族を駆逐し、そしてそのベヒモスが翼竜に進化すれば、エネルギーをぶつける方法でも魔王は倒せたんだ。

 

 だからゴスペルは、デウスエクスマキナ・モードを起動したまま、その瞬間を待たなければならなかったんだ。それが、ずっとゴスペルが暴走し続けていた理由だ」

 

 アズラエルは感心するかのようにため息交じりに言った。

 

「そうか、それで君がメタトロン、サンダルフォンの両ゴスペルに直接触れたことで、暴走が解除されたんだな? 多分、その瞬間に、もうこれ以上低次元世界からエネルギーを吸い上げる必要はないと判断して」

「そういうことだろうね。両ゴスペルはそれでスタンバイ状態に移行して、時が来るのを待った。そして首尾よくベヒモスが進化したところで、今まで溜め込んできたエネルギーを発射可能にした。

 

 そして俺たちがどうしてゴスペルにエネルギーが溜まってるんだろうと不審がっていたら、空にあの翼竜が現れたんだよ。その瞬間、俺は何もかもが腑に落ちて笑っちまった。ああ、そういうことだったのかって」

 

 鳳はその時のことを思い出して、また愉快そうに笑った。それを見て、あの時は何がおかしいのか分からなかったアズラエルたちも、彼につられて笑ってしまった。自分たちが必死に戦っていたその影で、まさかそんなドミノ倒しのような魔族同士の戦いが起きていて、そして自分たちの預かり知らぬ内に、何もかもが終わってしまっていたなんて、誰が想像出来るだろうか。

 

「まあ、普通は分からないよなあ。ベヒモスをレヴィアタンにぶつければ良いなんて。そしたらあいつが旺盛な食欲でレヴィアタンを駆逐してくれるなんて。考えても見れば、今回一番の立役者はあいつだよ。あいつはさながら人類の救世主だぜ」

 

 鳳がそう言った瞬間、一緒になって笑っていたラファエルとウリエルはギョッとした表情をして固まった。鳳は、もしかして、魔族を救世主なんて言ってしまったのがまずかったのかな? と思い訂正しようとしたが、二人はまたすぐ笑い出したかと思えば、ラファエルなんかは腹を抱えて本当に愉快そうに笑い転げはじめた。

 

「ははははは! そうかそうか。それじゃ、あいつはさしずめ西の海から来た救世主ってとこだな。間違えて、あいつのことを妨げなくて本当に良かったよ。救世主の邪魔をしちゃいけねえや」

「ああ……どういう意味だ?」

「いいんだ。大した意味は無いさ。それより上を見ろよ」

 

 言われて空を見上げてみれば、先程の報道ヘリが彼らのすぐ上でホバリングをしており、カメラマンがドアから乗り出して鳳たちのことを撮影していた。きっと中継はまだ続いているのだろう。

 

「人類には人類の英雄が必要だろ。手を振ってやれ、きっと連中も喜ぶぜ」

「鳳様。今回の件で、あなたの人々への印象はこれ以上無いほど良くなりました。きっと元プロテスタントだと言われても、もうあなたのことを悪く思う人はいないでしょう。これであなたが人類最後の父となることを、ミカエル様も認めると思います。神域に帰ったらまたその件についてお話をしましょう」

 

 ラファエルに続いて、ウリエルがそんなことを言い出した。そう言えば、すっかり忘れてしまっていたが、レヴィアタンを倒したら精子を提供する代わりにギヨームを解放して貰うんだった。

 

 今回の魔王討伐に関しては、本当に最後の最後までまったく手がなくて困ってしまったが、いざ戦いが始まってみればトントン拍子に事態は好転し、終わってみれば実に呆気ないものだった。何事も、やってみなければ分からないということだろうか。

 

 精子提供については、アリスにもちゃんと話を通しておいた方がいいだろう。彼女はやっぱり嫌がるだろうか? それを顔に出すような子じゃないから、慎重にことを進めたいところだ。

 

 上空でヘリのバリバリ言う音が聞こえる。そう言えばさっきカメラに向かって手を振ったけれど、アリスはそれを見ていたのだろうか……? そんなことを思いつつ、鳳が彼女を探してキョロキョロ辺りを見回した時だった。

 

 バシュッ……!

 

 と、乾いた音が鳴って、鳳の頭に何かが当たった。その瞬間、彼の頭は半分吹き飛び、噴水のように血が噴き上がった。突然の出来事に、目の前でそれを目撃していたラファエルの目が見開かれる。

 

 バシュッ……!

 

 再度、同じような音が鳴り響いて、今度は鳳の胸に風穴が空いた。それは彼の左胸を貫通し、心臓のど真ん中を正確に撃ち抜いていた。

 

 狙撃か……? 三発目は、それを察知したウリエルが代わりに受けた。彼女は腕から真っ赤な血を流し、その痛みから弾が飛んできた方向を割り出し、ギラリとそちらを睨みつけた。

 

「きゃあああああああーーーーーっっっ!!!!」

 

 瑠璃や琥珀、他のドミニオン隊員たちから悲鳴が上がり、倒れた鳳へと殺到してくる。それを少し離れた場所で見ていたアリスがアイギスを展開し、真っ青な顔をして彼の元へと駆けつける。それによって狙撃は完全に収まったが……

 

 だが狙撃手は、既に目的を達してしまったようだった。

 

「どけっ!!」

 

 ラファエルは鳳に縋り付いて泣いている瑠璃たちを強引に引き剥がすと、すぐに回復魔法を唱えようとして彼の脇に跪いて両手を合わせた。

 

 しかし、いつまで経っても彼が癒やしの奇跡を口にすることは無かった。鳳の状態をひと目見ただけで、彼にはそれが無意味であることが分かったからだ。

 

「何をしている! 早く彼を治療してあげないかっ!」

 

 焦れたアズラエルがそんなラファエルを強く促すが、彼は悔しそうにぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、

 

「……無駄だ。俺の癒やしの奇跡は、傷ついた者を助けるためにあるんだ。死者を復活させることは出来ない」

「そんな……彼は助からないのか!?」

 

 ラファエルは黙って首を振った。ドミニオンたちはそれを聞いて、また嘆きの声を上げ、そしてアリスはその場で力なく膝から崩れ落ちた。アズラエルは、呆然と鳳の体を見下ろした。

 

 彼の頭は半分吹き飛び、脳みそがこぼれ落ちている。心臓が撃ち抜かれ、まるで蛇口をひねるかの如くジャブジャブと血が溢れ、その勢いも段々落ちてきてしまった。誰がどう見ても即死である。

 

 一体、誰が彼を殺したのだ……彼が人類を救い、誰もが彼を祝福するこのタイミングで……一体誰が!?

 

 いや……アズラエルは首を振った。今は彼の死を嘆いている場合ではない。彼女は呆然としているラファエルの横に並ぶように腰を下ろすと、突然、鳳の服を強引に脱がせようとした。

 

「おい、何やってやがる!?」

「精子だ! 彼の生殖細胞は生きている。今すぐ回収しなければ……」

「おまえ……こんな時に何言ってやがる!?」

「こんな時だからだろう? 使い物にならなくなる前に、さあ早く!」

「この馬鹿っ! それが人が死んだ時、真っ先に出てくる台詞か!?」

 

 ラファエルはアズラエルのことを突き飛ばした。彼女は地面をゴロゴロと転がってから着地すると、すぐに挑むようにラファエルに掴みかかった。胸ぐらを掴んで彼女が睨みつけると、彼もジロリと睨み返す。

 

「感傷的になるのはいつでも出来る。彼は人類を救って死んだのだ。その彼が救った人類が滅亡しては元も子もないだろう」

「それこそ感傷的だろうが! 今は悲しむ以上の何が必要だってんだ! 精子! 精子! 精子! お前の頭にはそんなのしかねえのかよっ!!」

 

 鳳が死んでしまったこともショックなら、大天使同士の喧嘩が始まりそうにもなり、ドミニオンたちは凍りつくようにその成り行きを見守っていた。二人の言い争いが続き、誰もがそんな二人に注目していた瞬間だった。

 

 パシャ……

 

 その時、今度は水が跳ねるような音が聞こえて、

 

「げほげほげほげほ……!」

 

 そしてそんな間抜けな咳払いが、緊迫した空気の中に響き渡った。その咳払いの主を見て、ラファエルはギョッとする。

 

「そんな……なんで?」

 

 見れば、ついさっき、確かにその死を確認したはずの鳳が息を吹き返して、苦しそうな表情で地面に横たわっていた。意識はまだなくて、今にも死にそうではあったが、さっきの状態とは明らかに変わっていた。

 

 ぶちまけられたはずの脳みそはどこにもなく、胸にポッカリと空いた風穴は、今は痛々しい傷口になっている。

 

「お、おい……ラファエル?」

「あ、ああ……光あれ(ルクスイット)!」

 

 だが、死にそうなことには変わりはない。ラファエルはアズラエルに促されると、慌てて鳳の横に駆け寄って、すぐに神への祈りを捧げた。

 

**********************************

 

 鳳が撃ち抜かれた現場からおよそ4キロ……狙撃手はジャングルの高台に潜んでいた。手には巨大なライフルがあり、地面に寝転がる伏射姿勢でじっとそのライフルスコープを覗き込んでいる。

 

 流石にこの距離では標的が小さすぎて、その表情までは読み取れなかったが、彼はそれでもスコープ越しの天使たちが動揺しているのがわかった。

 

 それは鳳が殺されたことに対してではなく……彼が復活したことへの驚きからであることは疑いようもなかった。

 

「やっぱりこうなったか……」

 

 スコープの向こうでは、自分が受けた狙撃から位置を割り出したのか、ウリエルが恐ろしい形相で飛んでくるのが見えた。彼はチッと舌打ちすると、スコープから目を離して眼精疲労を和らげるように眉間を摘みながら、手元に雑においてあった大きなトランシーバーを耳に当てた。

 

「エミリア。どうなってる?」

 

 男の呼びかけから数秒が経って、雑音とともに返事が帰ってきた。

 

『……アロンの杖のリンクは繋がったまま、ピクリとも反応をしなかったわ』

「つまり、あいつはやっぱりアナザーヘブンの鳳白だし、やつの殺しても死なない能力は、こっちの世界でも健在ってわけか」

 

 沈黙がまた数秒流れる。それは通信相手が、光であっても到達するのに時間がかかるほど、遠すぎるせいだった。

 

『そんな能力が本当にあるのかわからないけど……(つくも)のエーテル体があの肉体に留まり続けているのは間違いないわ。もしくは、あの肉体の中に囚われていると言い換えてもいいのかも知れない』

「魂を囚える、ね……そんなことが出来るやつなんて……やっぱり神の野郎くらいしか居ねえよなあ?」

『……本当に、確実に、彼を殺したの? 外したんじゃなくて?』

「はんっ!」

 

 男はあざ笑うかのように、その言葉を鼻で笑い飛ばした。

 

「俺を誰だと思ってるんだ。ビリー・ザ・キッド様だぞ?」

 

 その声には彼の矜持がにじみ出ていた。エミリアは、彼の能力を考えるとそれを認めるしか無かった。

 

『あなたが失敗するなんて私も思っていないわ。ただ、それでも信じられないのよ……あれが、鳳白だなんて……そして彼が何をしても死なない不死人だなんて』

「まあな、おまえの気持ちは分かるぜ。俺も正直、今はあいつのことをどう考えていいのか迷っている。以前、あいつは俺の目の前で復活したことがあった。それは、俺たちが元々居たアナザーヘブン世界の神がエミリア、おまえだったからだと思っていたんだ。だが、こっちの世界のおまえは神じゃない。それどころか……お前の話が確かなら、鳳はこっちの世界に渡ってくることすら出来なかったはずだろう?」

『ええ、そう……そのはずよ。何故なら……この世界の鳳白のDNAは存在しない。彼は私が中学の時に死んでしまった。それは播種船が建造されるずっと以前の話だから、彼のDNAは播種船には登録されていないのよ。DNAがない人間の肉体は造り出すことが出来ないはずよ……それなのに、どうして彼は存在していられるの?』

「さあな。あいつが何者かなんて、俺だってわからねえよ。ただ、思い当たる節ならある」

『思い当たる節……?』

「ただの思いつきだから、それはまた機会があれば話すさ。それより、おっかない姉ちゃんが、俺を殺そうとしに、こっちに向かってきてやがる。そろそろ、ここから逃げないと俺もヤバそうだ」

『そう……わかったわ。それじゃあ通信を終わりましょう』

「ああ……」

『もし、あなたが生き残っていたら……播種船(ウトナピシュティム)で会いましょう。あなたには乗る権利があるわ』

「そうかい。その時はよろしく頼むよ」

 

 通信はそれを最後に途絶えた。

 

 ギヨームはゆっくり立ち上がると、またライフルのスコープを覗き込んだ。ウリエルは確実にこちらへ向かってきてはいたが、まさか狙撃手がこんな距離から鳳を正確に撃ち抜いたとは考えられなかったのだろう。まだ大分手前の方で、人が隠れられそうな場所を必死に探していた。

 

 彼はそれを確認するとライフルを手放し……それは光の粒になって虚空へ消えていった。

 

 どっちにしろ、あの天使に彼を捕まえることは不可能だろう。彼は16年前とは比べ物にならないほど強くなった。それに彼には天使たちには視えない、高次元空間を視る能力があった。

 

 彼は腕を真っ直ぐに伸ばすと、指先をぐるりと回してその先に白く光るワームホールを作り出した。かつて仲間がタウンポータルと呼んでいた魔法である。今の彼にはこれくらいのことは造作もない。彼はそれをくぐり抜ける前に、もう一度だけ鳳の方を振り返った。

 

 もちろん、その目にはかつての友人の姿は映らなかった。だが、その方角に何かヤバいものがいることだけは、ひしひしと肌で感じられた。エミリアは言っていた。この世界に鳳白なんて人間は存在しない。じゃあ、あれは何だ?

 

 もしかして……あいつが神なんじゃないか?

 

 そう考えれば思い当たる節はある。いくら英才教育を受けたとは言え、鳳の能力は尋常ではない。あのレオナルドやルシフェルと同レベルで会話が出来るのは、彼の年齢を考えると不自然だろう。力が衰えているはずのこの世界でも、気がつけばいつの間にかのし上がってきて、ドミニオンたちは彼に好意を抱き、四大天使は救世主とさえ考え始めている。元々、プロテスタントは人類の敵だったはずだぞ? 終いには彼はまた魔王を倒してしまった。

 

 ジャンヌがこっちの世界でまだ力を使えていることと、そして神殿を破壊された天使たちにまた天啓が訪れたことを考慮すれば、間違いなく、この世界に神はまだ存在している……それがどこにいるのかは分からなかったが、もしも鳳白がそうであるなら……もしくは神が彼に何か執着があるというなら……

 

「ここは一つ、神を試してやろうじゃねえか……」

 

 ギヨームはかつての友人に背を向けると、そんな決意を秘めながら、光の中へと消えていった。

 

 

 

月の支配の20年が過ぎた。

7000年、別のものがその体制を保つだろう。

太陽が残された日々を受け取るであろう時に、

私の予言は成就し、終わる。

 

1999年、7か月、

空から恐怖の大王が来るだろう、

アンゴルモアの大王を蘇らせ、

マルスの前後に首尾よく支配するために。

 

           (ミシェル・ノートルダム著  百詩篇  Wikipediaより抜粋)

 

 

 

(第9章へ続く)

 




次回更新は3月1日を予定してます。


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第九章・俺が神!? 転生勇者の異世界冒険譚、始まりのエピローグ
神の座する場所


 リュック・ベッソン監督の映画フィフス・エレメントでは、第5(フィフス)元素(エレメント)とはつまるところ『愛』だったわけだが、それ以前に四元素とはなんやねんという事は物語を通して十分には語られていない。というのも、恐らく西洋ではそんなことわざわざ断らなくても、誰でも知ってる常識だからだ。

 

 四元素とは言わずと知れた火・風(空気)・水・土のことであるが、どうしてこれが万物の根源たる四元素と呼ばれているのか、実は東洋人でちゃんと知ってる人はあまりいないのではなかろうか。

 

 日本ではJRPG……というかファイナルファンタジーが流行しなければ、多分いまでも馴染みがなかったであろうこの四元素と言う概念は、古代ギリシャ哲学から生じたもので、それが教会の権威の下に保護されて、割と最近まで信じられてきた。この世界のあらゆる物質は、これら4つの元素がごちゃまぜになって出来ているのだと、欧州の人々はそう考えてきたのだ。

 

 このような考えが広まった背景は、本を正せば最古の哲学者と呼ばれたタレスに遡る。

 

 かつて日々を生きるのに精一杯だった人類は、農耕が始まった頃に国家が成立すると、祭司や王侯貴族などの有閑階級が現れ、余暇を過ごせる余裕がある人々が登場し始めた。

 

 そして奴隷制を敷いていた古代ギリシャでは、ついに市民は全く働かなくても暮らしていけるようになり、そのせいで多くの人々が暇を持て余して、他にやることがないから日々喧々諤々の議論を交わしていた。

 

 労働から解放された人々が何をそんなに話し合っていたのかと言えば、政治経済はもちろんとして、やっぱり神の存在についてである。

 

 多神教のギリシャにはたくさんの神が居て、それぞれの都市を守っていたり、戦のときに力を貸してくれたりしたわけだが、そもそもこの神とは何なのか? 本当にそんなのがいるのか? という疑問は当然のように湧いてくるだろう。

 

 ヘロドトスの歴史に登場する神々は、まるで人間のように振る舞うが、どうして我々人類の創造主たる神がこんなに人間臭いのかは大いに疑問だ。この頃のギリシャ人は奴隷を求めて小アジアやエジプト、エチオピアまで進出していたが、征服した土地にも神が居て、やっぱりその神々もみんなどこか人間臭い。

 

 神が自分に似せて人間を作ったのだから、人間こそが神に似ているのだという意見もあったが、それなら犬には犬の、鳥には鳥の神がいなければおかしいはずだが、そういう話はまず聞かない。エジプトの神々は動物の姿をしているが、中身はやっぱり人間である。

 

 こうなってくると、神様なんて本当はいなくって、みんな人間が考え出した作り話なんじゃないか? と考える無神論者も出てくるだろう。そこまでいかなくても、神は万物をどのように創り出したのだろうという疑問も湧いてくる。

 

 この世界は一体、どうやって誕生したのだ?

 

 我々現代人が宇宙は何もない無から生じたと考えるように、大昔の人々もこの世は無から始まったと考えていた。ただ違うのは、現代人にはビッグバンという理論があるが、ギリシャ人にはそれがなかったことだ。だから彼らは考えた。この世が無から始まったとして、最初に何が起きたのか? 万物の根源は何だったのか?

 

 最古の哲学者と呼ばれるタレスは、万物の根源(アルケー)は水であると考えた。

 

 それがどのような考えだったのかは今となっては実は良く分かっていないそうだが、恐らく水は器によって形を変えたり、氷や水蒸気に相転移する様子から、あらゆるものは水から生まれ、水に還っていくと考えたのだろう。

 

 ただ、それだと火を上手く説明できないからと、タレスの出身地ミレトスの賢者アナクシマンドロスは根源(アルケー)とは無限なるもの(アペイロン)であると論じた。タレスが自然界に『実在する水』を根源としたのに対し、アナクシマンドロスは『無限という概念』を万物の根源と定義したわけである。

 

 彼はこれによって火の存在を説明したわけだが、ただ、そうなると今度は当然アペイロンって何だよ? という話になる。言いたいことは分かるが、実在しないものを根源と言い張るのは無理があると言われたら、何も言い返せないだろう。

 

 そこでアナクシマンドロスの弟子アナクシメネスはタレスの説に立ち返って根源(アルケー)は空気であると説いた。

 

 水ではなく空気としたのは、彼は水とは凝縮された空気だと考えたからだ。要するに空中の水蒸気が結露するのを観察して、そう結論したのだろうが、彼はこの考えを広げて、土とは水を更に圧縮した物、そして火は薄くなった空気だと説明して、師匠たちの対立を上手いこと収めたのである。

 

 さて、ミレトスの哲学者たちが問いかけた万物の根源は何か? という難問は、その後次々現れる哲学者たちにも受け継がれていった。

 

 そんな中で際立つのはパルメニデスで、彼はミレトス学派が根源は水だ空気だと言ってるが、我々の体をじっくりと見て、どうしてそんなことが信じられるのか。理性的に考えれば、到底そんなの受け入れられないと真っ向から否定し、寧ろ万物は最初からこのままの状態で存在していたのだと、今で言う定常宇宙論みたいなことを言い出した。

 

 これは感覚はあてにならず、目で見たこと以外は信じないという合理主義の走りであるが……これに対して同時代の哲学者ヘラクレイトスは万物は流転する(パンタ・レイ)と提唱する。

 

 これは例えば、水は凍ったり水蒸気になったり、動物は老いてやがて死んだり、戦争と平和が繰り返したりと言った具合に、この世のあらゆる事柄は同じ状態であることはまずない。だからヨボヨボの爺さんに赤ん坊の頃があったように、理性ではとても信じられなくとも、思いがけないものが根源であることは、実際あり得るんじゃないかという考え方である。

 

 その代わり彼は『ロゴス』という言葉を使って、あらゆる事柄にはルールが存在すると論じた。水は氷になったり蒸気になったりはするが、ワインには変わらない。赤ん坊は成長して老人になるが、その逆はないと言った具合に、この世には(ロゴス)と呼べるようなルールが存在するんじゃないか。つまりそれが根源(アルケー)だと彼は考えたわけである。

 

 パルメニデスとヘラクレイトス……両者の言い分は全く正反対だが、しかし我々はそのどちらの主張も理解できるだろう。どっちが正しいと言うことも、相手を真っ向から否定することも出来ない。まるで自分の中に二人の違う自分が存在しているような、なんともむず痒い感じがする。

 

 だがアナクシメネスがそうであったように、得てしてこんな風に対立する意見があるときこそ、両者を超えるような上手い折衷案が見つかるものである。

 

 エンペドクレスはこの論争に対して、二人の哲学者の意見が食い違うのはそもそもミレトス学派が『根源(アルケー)は一つ』と定義したせいなんじゃないかと考えた。彼は根源は一つではなく、今までに挙がった火・空気・水・土の四つすべてが根源であり、物質はこれらが離合集散して形成されているのだと論じた。物体には色んな元素が入り混じってるから、一見しただけではわからなくなってるのだと言うわけである。

 

 これがいわゆる四大元素の始まりであり、また彼は四元素を結びつけているのは(フィリア)憎しみ(ネイコス)であるとも言っているので、リュック・ベッソンが映画で第五元素を愛としたのは実は案外妥当だったのかも知れないが……

 

 ともあれ、四大元素がこうして誕生したわけだが、それで根源問題が全部解決したわけではない。その後もデモクリトスが原子(アトム)を持ち出してきたり、そもそもエンペドクレスはピタゴラス学派だったのだが、ピタゴラス学派の人々が数が神であると考えていたのは有名な話である。(だから無理数が許せなかったというあれ)

 

 そしてプラトンはイデアの概念を生み出して、この世のあらゆる物質はイデアの劣化コピーであると考えたりと、手を変え品を変えて次なる根源が現れては消えていった。それが四大元素説で統一されたのは、意外にもプラトンの弟子であるアリストテレスがそれを支持したからだった。

 

 ソクラテスに理想を見たプラトンが、完璧な哲学者による哲人政治を行えば世の中は万事うまく行くと考え、アカデメイアを作ったことはよく知られている。アリストテレスは、そんな彼が哲人王として育てあげた人物だったのだが、理想主義者の師匠と違って、弟子の方はなんとも合理主義者だったのだ。

 

 プラトンはイデアこそが真の実在であるとしたが、アリストテレスはそれを一蹴し、ちゃんと目で見て手で触れて確かめられないものは存在しないと断じて、とにかくあらゆる物を分類することに終生を費やした。後の生物学、植物学、医学など、いわゆる科学は彼の分類学から派生したものである。

 

 そんな彼が物質の本質は「温と冷」、「乾と湿」の組み合わせで決まると言って、四大元素をもとに物質世界を説明したために、後の教会でアリストテレスの弁証法がお手本とされると、彼の世界観がそのまま採用されてキリスト教圏のスタンダードになってしまったのである。

 

 具体的にどんな感じかと言えば、彼は土は重いから最も低い地面にあり、その次に重い水がその上に溜まり、空気より軽い火は空の上にある。しかし太陽や月、惑星や星々はその上に無くてはならないから、天球を支える第5の元素が存在しなくてはならず、彼はそれをエーテルと名付けた。

 

 キリスト教徒にとって神は空の上に居なくてはならないから、この神の物質エーテルが天を支えているという世界観は受け入れやすく、逆にそれが壊れると教会の権威も崩れてしまう。だからプロテスタント活動が盛んになると、地動説を嫌ったという事情があったわけである。ガリレオ・ガリレイもとんだとばっちりだ。

 

 彼は他にも女性蔑視をして魔女裁判に影響を与えたりと、その名声とは裏腹に、後の世に悪影響を及ぼしてもいる。尤も、それは彼の権威を傘にきた教会が悪いのだから、そこまで彼のせいにするのはお門違いだろう。彼が紀元前4世紀の人だと考えれば、アリストテレスが偉大であったことは言うまでもないだろう。

 

 さて、このように西洋では、四元素があらゆる物質の根源であるという世界観が、化学が発達する大体18世紀頃まで続いていたわけだが、それじゃ東洋ではどう考えられていたのか? と言えば、およそ万物は気で出来ていると考えられていた。ドラゴンボールでお馴染みのあの気である。

 

 古代の中国人も西洋の人々と同じように、この世は無から始まったと考えていた。道教の経典である老子には、次のように書かれている。「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気以(ちゅうきもっ)て和を()す」これだけでは何がなんだかわからないが、とにかくこの世は道から始まり、一、二、三を経て万物が生じたということは、まあ漠然とわかるだろう。

 

 この道というのは、天道とか人道とかの意味であり、我々日本人も直感的に理解できるのではなかろうか。天道とは天の道、即ち宇宙の法則のことであり、人道とは人間が生きていく上で守るべき規範のようなものである。ここでは宇宙の始まりを、道と言っていると考えられる。

 

 続いて、万物は陰を負いて陽を抱き~~であるが、これはあらゆる物には陰と陽の2つの側面があり、それを沖気以て和を為す~~気がその2つを結びつけていると老子は言っている。

 

 陰と陽とは、物質と精神の関係のようなもので、何かの物質が生まれようとする時は、まずは陽(精神)が先んじて生じ、続いて気がどこからともなく集まってきて形を作り、その形に陰(物質)がくっついて万物は形成されている……という考えらしい。

 

 まとめると古代中国人は、最初宇宙には何も無かったが、そこに気の元となる元気が生じ(一)、続いて陽(二)が生じる。その陽から情報を受け取って気が物体の形を形成し(三)、陰が遅れてやってきて万物が生まれる。このようなプロセスを経て万物は生まれてきたから、古代中国人たちはあらゆる物には気が宿っていると考えており、実際に屎尿にすら気は宿っていると老子には書かれている。

 

 ところで、老子という人物が記録の中で最初に登場するのは、司馬遷の史記の中である。しかし司馬遷の活躍した紀元前1~2世紀の頃には、もう既に老子と言う人物が実在したのか、どういった人物だったのかもよく分からなくなっていたらしく、その記述は非常に簡素で淡白だった。

 

 なのに老子が書いたとされる『老子』という書物が存在するのは、もちろん後世、別人の手によって書かれたからだ。これがいつ頃成立したかといえば後漢の末期のことで、それより少し前にインドから仏教が伝わってきたのだが、仏教には素晴らしい経典がいくつもあるのに、道教にはそれがなく、このままじゃ決まりが悪いからと慌てて編纂されたものらしい。

 

 老子の思想はこの頃までにちゃんと中国社会に根付いていたのであるが、全ては民間伝承レベルで教義のようなものは無く、道教という言葉自体もまだ存在しなかったのだ。

 

 それを宗教として昇華したのが、かの有名な太平道と五斗米道であり、今日ではこれらが道教の始まりと言われている。太平請領書を手にした張角が『蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし』のスローガンの下に黄巾の乱を起こし、三国時代が始まったのは三国志ファンならご存知だろうが、あの民衆蜂起の裏には、後に中国の国教となる道教の成立が関係していたというわけだ。

 

 ところで、こうして仏教に押されるような形で作られたせいか、道教の教義は仏教からの影響が強く、晋の時代になって書かれた抱朴子(ほうぼくし)を読むと、ちらほらと仏教の考えが取り入れられているのが分かる。

 

 先の張角にしても蒼天すでに死す黄天まさに立つべしというのは、人の生死、社会が戦争と平和を繰り返すように、陰と陽は繰り返し現れる。今の漢室が腐敗しているのは、この陰陽が切り替わるちょうど過渡期だからであり、これが過ぎれば間もなく黄天(黄帝、老子の時代)が始まるだろう……と言っているわけで、これなんかは明らかに輪廻転生の影響が見て取れる。

 

 また、道教の究極の目的は不老長寿であるが、秦の始皇帝が飲んでいた不老長寿の霊薬・金丹とは実は水銀のことで、飲めば寧ろ寿命を縮めるものだった。だから後世になって薬を飲む方法(外丹)は主流じゃなくなり、代わりに金丹を体の中で自力で作り出すという、内丹という方法に切り替わっていった。

 

 先述の通り、中国人たちは万物は気で出来ていると考えていた。故に、死とは気が体から抜け出ていくこと、とも捕らえられるわけで、不老長寿を得るには、その体から出ていこうとする気を留めて、生まれた時の状態に保てばいいわけである。

 

 唐代の道士、司馬承禎によって書かれたとされる坐忘論には、その方法として、座して心を安んじ無の境地に至ればいいと書かれている。これは言うまでも無く座禅そのものであり、どうやらこの時期、仏教界で禅宗が流行していたから道教も取り入れたと考えられる。

 

 こんな具合に道教には仏教の考えがあちこちに見られてバツが悪いせいか、実はブッダは老子の生まれ変わりだという説が、後漢時代の割と初期から既にあったらしい。それが時代が下るにつれ、どんどん仏教が強くなってくると殊更に強調されるようになり、するとそんなことを言われて面白くない仏教徒が逆に、老子も孔子も顔淵も、全部お釈迦様が中国人を教化するために遣わした人物だとやり返した。

 

 まあ、仏教自体も漢訳される際に中国の考えが取り入れられていることが現在では判明しているわけだが、この不毛なやり取りは儒教も巻き込んで延々と続き、王守仁(陽明)が三教帰一を唱えるまで千年以上も続いたようである。

 

 王守仁は言った。結局の所、道家の言う『虚』(無、道)も、儒家の言う『理』(天理、道)も、仏教徒の『空』(無、涅槃)も、言い方を変えているだけでみんな同じことなのである。ただ道家はそれを内丹を作るための養生の観点から、仏教徒は生老病死の苦しみから逃れるために言ってるから違うように聞こえるだけで、彼は自分の提唱した『良知』を最良のものとしながらも、三教はみんな同じ物を求めているのだと説いて論争に幕を引いた。

 

 因みにこの良知とは、孟子の性善説が言うところの『善』、我々が生まれつき持っている規範みたいなことを言っているので、考えようによってはヘラクレイトスの『(ロゴス)』と同じとも捕らえられる。シルクロードを通じて繋がっていたとはいえ、東西は殆ど交流が無かったというのに、結局は同じような考えにたどり着くのだから、人間の本質というのは世界中どこへ行ったところで何も変わらないのだろう。

 

 まあ、それは当然なのかも知れない。現実に、生物が良知のような何らかのルールに従って行動を決定していることは、20世紀の進化生物学も証明している。前章でも触れたが、アリのような一部の社会性動物は、例え自分の生存に不利になったとしても、巣の仲間に尽くすことがある。その理由を探ってみたら、どうもより多くの自分と同じ遺伝子を残そうとしているのだということが分かってきた。

 

 そう考えると、我々人間にも同じようなルールが存在するのかも知れない。案外、殺してはいけない、姦淫してはいけない、盗んではいけないというようなルールが、まだ解読されていない遺伝子のどこかに刻まれていて、我々はそれに従っているのかも知れないではないか。

 

 ルネサンス期のプラトンアカデミーの人々や、ニューエイジの神秘主義者たちは、神は自分の内に存在すると考えたわけだが、あながちそれも的外れではなかったのかも知れない。彼らはこう言えば良かったのだ。

 

 もしも神が存在するなら、それは遺伝子の中であるかも知れないと。

 



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なんつーセリフだそれ

 誰かに頭の横を引っ叩かれたような気がした。振り返ればいつの間にか茫洋とした暗い世界のど真ん中に一人佇んでいた。

 

 地形に見覚えがあることからして、さっきまで居た場所からは一ミリも動いていないことは間違いなかった。だが今、昼だった空は一瞬にして黒く染まり、太陽はどこにも見当たらず、遠く山の稜線は奇妙に七色に輝き、輪郭線がブレていた。

 

 それを見ただけで、鳳は自分の身に何が起きたのかを理解した。もう何度も見たことがある光景だった。どうやら自分は何らかの事情で命を落とし、物質界を離れてまたアストラル界に来てしまったらしい。しかし、どうして自分は死んだのだろうか? その理由はさっぱり分からなかった。

 

 まいったな……とため息交じりに、彼は周囲の様子を窺った。ここはケアンズから北へしばらく行った荒野で、目の前には例の翼竜を倒したときに出来たクレーターが、ぽっかりと口を開けていた。

 

 鳳はそのすぐ近くで仲間に囲まれながら、どうやって魔王を倒したのかを話していたはずだが、今は誰も見当たらなかった。まあ、居たなら居たで、みんなも死んじゃったってことになるだろうから、自分ひとりだけなのは寧ろ良いことなのだろうが……代わりに自分がどうして死んだか知るすべはなくなり、もちろん、どうしたらここから元の世界に帰れるかもわからなかった。

 

 いや、そもそも自分は元の世界に戻れるのだろうか?

 

 アナザーヘブン世界では、鳳はこの輪郭線のブレた世界から何度も元の物質界に蘇ることが出来た。それはあっちの世界の神が幼馴染のエミリアであり、おそらく彼女がP99を用いて彼を復活させていたからだが、しかし、この世界の神はエミリアではなく、従って鳳を助ける理由はない。

 

 だから、以前のようにぼんやりしてればその内生き返るという保証は無いわけだが、かと言って何をすれば復活できるのかもさっぱりわからない。

 

 つまり、もしかしてこれは、本当に死んじゃったということではなかろうか?

 

 ここは死後の世界で、自分はもう元には戻れない。このまま、この死後の世界で魂が消滅するまで過ごさなければいけないのでは……そう考え、慌てて再度周囲の様子を窺ってみたら、何だか以前来たアストラル界とは少し様子が違うような気がしてきた。

 

 以前は単に物体の輪郭がブレているだけだったが、今は真っ暗な夜空に星のような光がいくつもいくつも浮かんでおり、それが風を受けてキラキラと瞬いているのだ。この世界の物は何でもブレて見えるはずだが、その光はまるで一つ一つが生命の輝きであるかのように、妙に実体感を感じさせた。

 

 そう言えばアストラとはラテン語で星という意味だったが、するともしかしてあれらは誰かのアストラル体なのではなかろうか?

 

 鳳は直感的にそう思ったのだが、光はみんな空の上にあるから確かめようがなく、どうしたものかと眺めていると、その時、そんな星々の中から2つの光が飛び出してきて、クルクルとダンスでも踊っているかのように空中を飛び回り始めた。

 

 2つの光は8の字を描くように、近づいては離れ、離れては近づくと繰り返している。その2つの光が交差する時には、ドン! ドン! っとサンドバッグでも叩いているような音が聞こえて、まるでその2つの光が戦っているように見えてきた。

 

 鳳が、まさかなと思いつつ、その2つの光をじっと見つめていると、その内の一つが段々と何かの形を取り始めて、それは間もなく彼の良く知る人物の姿へ変わっていった。

 

「……サムソン!?」

 

 鳳の前に現れたサムソンは、今の猿人の体ではなくて、以前の人間の姿をしていた。サムソンの魂は人間のままのはずだから、やはりさっき直感的に感じたように、あの光はすべて誰かのアストラル体なのだろう。

 

 なんでそんなものが急に見えるようになったかはわからないが、とにかく、何の手がかりもない中で知り合いに会えたのは行幸だった。

 

「おーい! サムソーン!!」

 

 鳳はブンブンと手を振り回して、空中を飛び回っているサムソンに呼びかけた。しかし、彼がいくら声を嗄らして叫んでも、その声はサムソンには届かないようで、一向にこちらに気づく気配は無かった。

 

 鳳は暫く叫び続けていたが、やがてそれが無駄と悟ると、諦めて空を飛び回るサムソンの姿を肩を落として目で追った。

 

 どうすればサムソンに気づいてもらえるだろうか……? いや、そもそも、サムソンに気づいて貰ったところで、あっちはあっちで魔族の体のまま元に戻れず困っているのだ。鳳を元に戻すなんて芸当は、彼には出来ないだろう。

 

 それより寧ろ、こうして彼のアストラル体を無事に発見出来たのだから、自分の方こそ一刻も早く現実世界に戻って、サムソンをもとに戻すべく、ケーリュケイオンを見つけなければならないだろう……とは言え、その戻り方がわからないのだから本末転倒この上ないが。

 

 それにしても、サムソンはさっきから何と戯れているのだろうか……?

 

 彼はもう一つの光と何度も何度もぶつかっては離れてを繰り返し、2つの光はまるで戦っているかのようにも見えた。しかし戦っていると言っても彼から苦しい感じは受けず、それはいつもやっている修行のようにも思えた。

 

 サムソンはアストラル界に来てまで、どうも誰かと修行をしているようだ。だとしたらその相手は誰だろうか? まさか……ベル神父??

 

 鳳がその可能性に辿り着いた、まさにその瞬間だった。

 

 突如、彼の頭上にまばゆい光が現れて、それは彗星のような尾を引きながら、彼に向かって一直線に降りてきた。近づいてくるにつれ、どんどん膨れ上がっていく巨大な光に、恐れを為して身構えていると、やがて光はそんな鳳の前でピタリと止まった。

 

 それは光ではなく、後光を背にした何者かであった。そのあまりにもまばゆい光に、正視することは出来なかったが、彼は両腕で光を遮りながら薄目を開けてなんとかその姿を確認しようと試みた。

 

 真っ白な中に薄ぼんやりと浮かび上がる輪郭線は、それは左右6対12枚の羽を背負った神々しい天使の姿をしていた。

 

「……カナン先生?」

「あなたはまだここに来るべきではない」

 

 懐かしい声が、すーっと耳に馴染んだ。その声を聞いた瞬間、子守唄でも聞かされているかのように、彼の体が急激に弛緩して睡魔が襲ってきた。まるでぬるま湯につかっているかのような安心感が体中に広がっていき、瞼が勝手に閉じていく。

 

 空の上ではまだサムソンが光と戯れながらグルグルと飛び回っていた。薄れゆく意識の中で、鳳はその光景をぼんやりと見上げ続けていた。

 

*********************************

 

「お……目が覚めたか!?」

 

 目を開けたら、さっきまで見上げていた星々の瞬く空はどこにも無くなっていた。代わりにテントの天幕が見え、その薄っぺらい布越しに太陽があることが確認出来た。

 

 鳳は自分がどこかのテントの中に寝かされていることに気づき、状況確認をしようと上体を起こそうとして、慌ててラファエルに押し戻された。少年のような見た目の天使は、鳳の瞼をぐいっと指で開きながら、目をペンライトで照らしつつ尋ねてくる。

 

「意識は……大丈夫そうだな。おまえ、自分の名前ちょっと言ってみろよ」

「あ、ああ。俺の名前は鳳白。つーか、ここは? 俺はまた死んだのか?」

「また死んだって……なんつーセリフだそれ。ってか、おまえの体どうなってんだよ? 自分に何が起きたかちゃんと覚えてるのか?」

 

 瞼を押し広げている手を振り払うと、鳳は改めて上体を起こして首を振った。

 

「いや、全然何も覚えてないんだけど……ただ、以前にも死んだ時の記憶があるからさ、多分また死んだんだろうなって、そう思っただけだよ」

「以前にも死んだ記憶だとぉ!? え? なに? おまえ、まさか今までにも何度も死んでるの?」

「そうだ! そこでカナン先生のことを見かけたんだよ。先生が居たってことは、あそこはやっぱり死後の世界だったんだろうけど……あれ? でも、そしたらどうしてサムソンまで居たんだ? まあいいや。で、一体、何があったんだ? どうして俺は殺されたんだ? 当時の状況を詳しく教えてくれないか?」

「……おまえと話してると、脳みそが痒くなってくんな」

 

 ラファエルの呆れるような声がテントに響く。鳳の顔を覗き込んでいた彼は布製の折りたたみ椅子に腰を下ろすと、自分のこめかみの辺りとトントンと指差しながら言った。

 

「俺たちが上空のテレビカメラに向かって手を振ってたら、いきなりおまえの頭が吹き飛んだんだよ。俺が見た限りでは即死だった。だからもう助かる見込みがないからってアズラエルのやつが暴走しかけたんで、そんで喧嘩になりかけたんだが、そしたらいつの間にかおまえが息を吹き返してて……分かってることはそれだけだ。多分、誰かに狙撃されたんだろうな」

「狙撃!? 一体誰に?」

「知るかよ。おまえこそ、心当たりはないのか? 誰かに恨まれたりとか」

「俺はこっちの世界に来てまだ日が浅いんだぞ。そんな恨まれるような覚えは……」

 

 あるにはあったが、瑠璃信にそんな能力があるならば、人類が魔族を相手に苦戦することもなかっただろう。鳳のことを恨んでいて、なおかつ狙撃スキルを持っている人間なんてのは、流石に心当たりはない。

 

 鳳が首をひねっていると、ラファエルは手を開いてお手上げのポーズを見せて、

 

「まあ、おまえが撃たれた後、すぐにウリエルがすっ飛んでったから、もうじき犯人を連れ帰ってくんだろう。そしたら直接聞いてやりゃいいさ」

「あ、そうなんだ。自分を殺そうとしてたやつとご対面って、なんか緊張すんな」

「いや、おまえ……おまえがピンピンしてる姿を見たら、きっと犯人のほうがショックだろうよ」

 

 二人はそんな具合に楽観的に捕らえていたが、ところが犯人を探しにいったウリエルは、それからだいぶ経って、何の収穫も挙げられずに帰ってきた。手ぶらのウリエルを前に、ラファエルはうっかり犯人を殺してしまったのではないかと危惧したが、

 

「ラファエル様、申し訳ございません……かなり広範囲を捜索したのですが、犯人を見つけることが出来ず……」

「はあ!? なんだって!? おまえがミスるなんて……一体、どこを探してたんだよ??」

 

 ウリエルは申し訳無さそうに遠方に見える丘を一つ一つ指差しながら、

 

「狙撃者が我々に見つからず射撃できるポイントは、ここから見えるいくつかの丘の木陰や茂みくらいのものなのですが……銃弾の飛んできた方角にある丘を虱潰しに見てきたのですが、どこもかしこも人がいた形跡はまったく見つからず……2キロほど遠方の崖の上まで探して断念して帰ってきました」

「2キロ……それより先は調べなかったんですか?」

 

 鳳が何気なく尋ねると、ウリエルはまた申し訳無さそうに首を竦めて、

 

「流石にそれ以上となると……地球が丸い関係上、視認しながら狙撃を行えそうなポイントは、後はもう4キロ以上先にある山の上くらいしか見当たらなかったのです。流石に、そんな場所から狙撃が可能な人類が存在するとは思えず……」

「うーん……まあ、そうですね。1キロでもかなりの名手のはずだ」

「そんなことより、それじゃ、こいつを撃ったやつが、まだどこかに潜んでいるってことか?」

「申し訳ございません」

 

 ラファエルがそう言うと、彼女が悪いわけではないのに、ウリエルはまた申し訳無さそうに頭を下げた。なんとも腰の低い四大天使であるが、実際、犯人が見つからなかったのは割と致命的だった。

 

「となると……いつまでもここにいるのはまずいだろうな。早めに基地に戻って……いや、犯人がドミニオンである可能性も否定できない。もういっそ神域まで帰ったほうが良いだろう。アズラエルじゃないが、今のこいつの体は人類にとって貴重だ。またうっかり死なれたら困る。ウリエル、犯人探しはその後だ」

「かしこまりました。すぐに直行便を手配します」

 

 ウリエルはそう返事するなり、慌ただしくテントから飛び出していった。そのテントの入口では、今アリスがアイギスを片手に弁慶のように仁王立ちしていた。彼女がいる限り、また狙撃されてももう銃弾が鳳に届くことはないだろう。

 

 それにしても……

 

 鳳はさっきウリエルが指差した4キロ先の山を正面に見据えた。その稜線は薄っすらと青みがかっていて、確かに彼女が言う通り、そんな場所から狙撃できる人間なんているとは思えなかった。

 

 だが、そんな神業を軽々とこなす人間には一人だけ心当たりがあった。ただし、仮に出来たとしても、彼が鳳を撃つ理由は何も思いつかず、だからそんなはずは無いと思うのだが……

 

 ギヨームは今、どこにいるんだろう……鳳は山を見つめながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。

 



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犯人探しも重要ですが

 取りあえず復活したから良いものの、鳳を狙撃した犯人がまだ近くに潜んでいる可能性がある以上、その場に留まるのは危険である。ラファエルのそんな意見を受け入れて、急遽神域(パース)まで戻ることに決めた鳳は、ジャンヌ隊と別れてケアンズ空港までとんぼ返りすることになった。

 

 認識阻害魔法をかけてサムソンとブラブラしていたミッシェルをどうにかこうにか捕まえて、早く精子を寄越せとしつこいアズラエルを振り切り、別れを渋る瑠璃を琥珀に押し付けて、人の目を避けるようにして空港までやってきた鳳は、しかし最後の最後でアリスという壁に阻まれた。

 

「無理! 無理です! 鉄の塊が空を飛ぶなんて、あり得ないです!」

 

 生まれてはじめて飛行機を見た彼女は、こんなものが空を飛ぶなんて信じられないと恐れを為して搭乗を拒否した。流石に何千キロも離れたパースへ戻るには飛行機に乗るしかないので、なんとか彼女を宥めすかそうと鳳が説得するも、

 

「でも君、アズにゃンと空飛んでた時、全然平気そうだったじゃない」

「魔法で空を飛ぶのは普通のことではないですか。鉄の塊が空を飛ぶのは普通じゃないです」

「逆々……普通は逆だから」

 

 なんともファンタジー脳な答えが返ってきて面食らう。だが実際、飛行機がない世界の住人にとってはそんなもんなのだろう。彼女は鳳が空を飛んでる姿をしょっちゅう見てきたせいで、そっちの方が馴染み深いのだ。

 

 とは言え、仮に飛行機がトラブったとしてもラファエルとウリエルがいる以上、墜落しても死ぬことはないのだし、そもそも、どうせ何も起こるわけないのだから、無理やり乗せてしまえばいいのだが……足をブルブル震わせながら、珍しくワガママを言っている彼女をそうするのは気が引けた。

 

「うーん……それじゃあ、君だけ船で行く? こっからだと何日かかるか分からないよ?」

「え? 私一人ですか……? ご主人様はいらっしゃらないのですか?」

「一緒に行ってあげたいのは山々だけど、狙われてるのは俺だからなあ……多分、ラファエルやウリエルさんもついてくるって言い出すだろうから、彼らを巻き込むわけにはいかないよ」

「タイクーン! まだあ? 機長が早くしろって」

 

 鳳たちがグズグズしていると、タラップからひょっこり顔を出したミッシェルが催促してきた。パースまでは距離があって、燃料もギリギリだから、そんなにノンビリはしていられないのだ。

 

 鳳はミッシェルにすぐ行くと手を振り返してからアリスの方へ向き直ると、

 

「ジャンヌが都合がつくなら送ってもらおう。知り合いの教官に一筆残すから、それを持って訓練校を訪ねてくれ。宿舎の俺の部屋はまだ使えるはずだから」

「うう……ううううう……」

 

 鳳がそう言ってペンを取り出すと、アリスはプルプル震えながら半泣きになって、

 

「わかりました! わかりましたから! 私も一緒に行きますから!」

「え? いいの?」

「断頭台に上るより、一人で残される方がもっと嫌です。死ぬときは一緒ですよ、ご主人様!」

「死なないから、死なないから」

 

 ヤケクソになったアリスがガンガンと足音を立てながらタラップを登っていき、鳳はその後にやれやれと肩を竦めながら続いた。

 

 ジェットエンジンがキーンと音を立てて、飛行機が加速し始めると、アリスは目をギュッと瞑ってアイギスの結界を展開した。危ないからベルトをつけろと言ってるのだが、彼女にとってはそっちの方が安心らしい。

 

 飛行機が上空に上がって水平飛行に切り替わっても、彼女はアイギスから手を離さず、ずっと結界を展開し続けていた。結界は飛行の邪魔にはならなかったが、機体を覆っているせいで若干視界が紫がかってしまい、パイロットが落ち着かないからやめてくれとボヤいていた。

 

******************************

 

 そんな具合に8時間のフライトの間、終始気を張りっぱなしだったせいか、パースに着く頃には彼女はぐったりしてしまっていた。着陸の時も大騒ぎするかなと身構えていたが、もはやそんな気力も残っていなかったらしく、飛行機が止まり地面に降り立った彼女の体は、船酔いでもしてるかのように前後左右に揺れていた。

 

 飛行機の中で全く休めなかったから、ガブリエルが車で迎えに来る頃には既にウトウトし始めており、勧められるまま後部座席に乗り込むやすぐに眠ってしまった。巨大なアイギスは一般車には積めないから預けるしかないのだが、手放すのを嫌がるかなと思っていたら、そんな余裕も無かったらしい。追走のトラックにそれを預けて、鳳は助手席に乗り込んだ。

 

 可愛らしい奥さんですねと言うガブリエルのどこまで本気なのかよくわからないオベッカを聞きながら神域までドライブし、完全に熟睡してしまったアリスを抱き上げて神殿へと入った。寝室は男はいつもの三人相部屋だが、流石にアリスには別の部屋を貸して貰えることになり、彼女をそっちへ運んであげた。

 

 ベッドに横たわる彼女はまるで死人のように眠っており、ちゃんと息をしているのかな? と確認をしてから元の部屋に戻ると、ミカエルを除く四大天使の三人までが勢揃いしており、部屋は無駄に人口密度が高かった。

 

「ここに来るまでバタバタしていて聞きそびれてしまいましたが、ケアンズで襲撃を受けたそうですね」

 

 何もこんな狭い部屋に集まらなくてもいいのにと思っていたら、ガブリエルは襲撃のことを聞きたいらしかった。まあ、それで急いで帰ってきたのだから当然だろう。

 

「実は、あなたが狙撃された場面が偶然テレビカメラに映っていたから、人間社会はその話題で持ちきりなのですよ。何しろ、人類滅亡の危機と思っていたところに、あなたが颯爽と現れて魔王を退治してしまったのですからね。祝賀ムードの中、そのヒーローがいきなり殺されてしまったら、それはそれは大騒ぎですよ」

 

 そう言いながらガブリエルが指差す部屋のテレビ画面には、鳳の頭が吹き飛ぶシーンが映し出されていた。まさかこうして自分が殺されている場面を見る日が来るとは思わず、なんとも形容し難い気分に見舞われたが、確かにラファエルが言っていた通り、どう見ても即死したとしか思えないくらい、鳳の頭は綺麗に吹っ飛んでいた。

 

 ところが……それを偶然撮影してしまったカメラマンも相当慌てていたのだろう、画面がぐるりと回転し、一旦鳳の姿が画面から消え、またカメラが彼の姿を捉えた次の場面では、さっき吹き飛んだように見えた鳳の頭は元に戻っていた。

 

 それがまるでドッキリみたいに、映像を逆再生したようにも見えるものだから、一体何の冗談だとテレビ局には結構な数のクレームが舞い込んだらしい。しかし映像に作為はなく、そもそも生放送なんだから弁解のしようもないので、取りあえず、狙撃はされたが命に別状はないとだけ伝えて、騒ぎをどうにか抑えているようだった。

 

「それじゃ、俺が狙撃されたことはみんな知ってるの?」

「ええ、世界中の誰もが知ることになってしまったので、あなたの無事も公表せざるを得なくなったのですよ。それで一安心したら、今度は犯人探しが始まっています。一体、誰があなたのことを狙ったのでしょうか? 心当たりはありませんか?」

「いやあ、それがさっぱり……俺を殺したいって思ってる連中はいるかも知れないけど、その中にウリエルさんの索敵から逃れられるようなのはいないと思うんだよね」

「犯人を見つけられず、面目次第もございません」

 

 ウリエルがまた申し訳無さそうに頭を下げている。あまりこの話を蒸し返すのはやめておいてあげたほうが良いだろう。ガブリエルは話題を変えるように続けた。

 

「誰かがあなたを襲撃する理由として、どんなことが挙げられますか?」

「動機ってこと? なら……瑠璃と俺がイチャイチャしてるのが気に食わないって連中に、一度襲われたことがあるんだ。ただ、感覚的には子供のお遊びみたいなものだから、そいつらがライフルを持ち出して超長距離から狙撃するなんて思えないな。他に考えられそうなことなら……俺がプロテスタントだってことが右翼活動家にでもバレたとか?」

「なるほど……しかし、情報が漏れたのだとしたら、出どころは我々四大天使か、ジャンヌさんの部隊しかありませんよ?」

「それはちょっと考えにくいなあ……俺が狙撃された時、ジャンヌ隊は全員近くに居たはずだし」

「犯人が人間とは限らねえんじゃねえか?」

 

 二人のやりとりを黙って聞いていたラファエルが言う。

 

「実はおまえを撃ったはずの銃弾が、あの後いくら探しても見つからなかったんだよ。ウリエルに当たった弾もだ」

「じゃあ、どうして俺の頭は吹き飛んだんだよ?」

「ほら、アズラエルの顔をしたオアンネスが水鉄砲を飛ばしてただろう?」

「ああ~……」

 

 つまり、水撃なら形跡は残らないし、魔族なら鳳を狙う理由は十分にあると言いたいわけだ。

 

「でも、それならアズにゃんの制御下に入らなかった強い水棲魔族がどこかに潜んでいるってことだぞ? そんな魔王クラスの個体がいたなら、今頃ドミニオンたちが襲われてるんじゃないか? なんかそれっぽい報告とかあるの?」

 

 鳳がそう言うと、ウリエルが何かの端末を弄ってから黙って首を振った。多分、ケアンズのドミニオン司令部に確認したのだろう。

 

「人間でも魔族でもないってなると、それじゃ一体何者だよ。狙撃を受けたことは間違いないからな」

 

 ラファエルが不貞腐れたように呟く。彼の言う通り、鳳が一度死にかけたことは事実だ。なのに、動機も不明、方法も不明な狙撃手が、どこかに潜んでいると考えるとかなり不気味だった。

 

 ただ、ここに来る前にも考えたことだが、ウリエルの索敵能力を超える長距離射撃が可能な人物なら一人だけ心当たりはあった。ギヨームなら、あの遠くの山の上から鳳の頭を撃ち抜くことは可能だろう。しかし、彼には鳳を襲う理由はないし、大体、現在彼はミカエルに拘束されているはずだ。だから彼であることはあり得ないのだが……

 

 鳳は、ふと以前ミッシェルに占ってもらったときのことを思い出した。あの時、ミッシェルは魔族を引き連れたギヨームと鳳が戦っている未来が見えると言っていた。まさかそんなことがあるはずないと、すぐに忘れてしまっていたが……その辺も気がかりだし、一度ミカエルにギヨームの消息を確認したほうが良いかも知れない。

 

 鳳がそんなことをモヤモヤ考え込んでいると、沈黙する室内でぽつりとウリエルが控えめに呟くように言った。

 

「あのー……ところで、犯人探しも重要ですが、一つ良いでしょうか? 鳳様、あなたのあの復活能力はなんなんです? そっちの方も気になるのですが」

「そうだった。てか、おまえ何で生き返ってるの? 誰が見ても即死だったってのによ。そういや、実は何度も生き返ったことがあるみたいなことも言ってたよな? あれってマジなのか」

 

 ラファエルが呆れるようにウリエルの話に乗っかる。鳳はポリポリと頭を掻きながら、

 

「ああ、俺は元々、前の世界でP99……つまりお前らが神とか神殿って言ってる設備で復活させられた人間なんだよ。そんで俺を復活させた神ってのが、実は俺の幼馴染だったもんで、俺の身体には死んでもすぐに復活するよう仕掛けが施されてて、だから俺はあっちの世界では不死身だったんだけど……」

「おまえらが古代人だってことは知っていたが……また、けったいなことになってやがんな」

 

 それは記憶を封じられる前のジャンヌから聞いたのだろうか。それどころか、彼らの『神』を作ったのが鳳の父親かも知れないと言ったら、彼らはどんな顔をするだろう。面白そうだからいつか聞いてみたいものだが、話がややこしくなりそうなので今は黙っておくことにする。

 

「だから、こっちで俺が復活する道理はないはずなんだよ。それに、もしもこんなことが出来るとしたら神くらいのものだろうけど、今の俺は寧ろその神を倒しに来た侵略者のはずだし」

「うーん、しかし、神が人間の生き死にを直接操作したというような話は聞いたことがありません。本当にそんなことが出来るのでしょうか。例えば我々、天使には強い再生能力がありますが、それは体内を巡るナノマシンのお陰であって、人間にはそれがないはずです……神はあなたの細胞をどうやって修復したのでしょうか?」

 

 ガブリエルが困惑気味に問いかけてくる。しかし、そんなことを言われても、鳳にも分かるはずがなかった。そもそも、この世界の神がどんな存在なのか、16年前に破壊された後にどうなってしまったのかも良く分かってないのに、その神がどうやって鳳を復活させたかなんて考えても無駄だろう。

 

 案外、16年前に一度破壊されたせいで、おかしくなってしまっているのではなかろうか。それで鳳のことを仲間と勘違いして助けてくれたのかも……そんなことをあれこれ考えている時、鳳はハッと気がついた。

 

「そうだ! 俺、今回は復活する前に、あっちの世界でカナン先生のことを見かけたんだった」

「カナンって……ルシフェル様のことですか??」

 

 ガブリエルがギョッとした表情で聞き返す。鳳は頷いて、

 

「狙撃された後、俺の意識は死後の世界っつーか、多分アストラル界に飛ばされたんだけど、どうやったら元に戻れるかなって考えてた時、空に星のような光がたくさん見えることに気づいたんだ。で、綺麗だなって眺めてたら、よく見たらその中にサムソンの姿があって、手を振ったんだけど気づいてもらえず……そうこうしている内に何か凄く眩しい光が近づいてきたなと思ったら、今度はその中にカナン先生の姿があって、彼が俺にまだこっちに来ちゃいけないって言って……急に意識が遠のいてきたと思ったら、俺はラファエルのいるテントの中で目覚めたんだ」

「なんだそのオカルト番組みたいな脈絡のない話は……ギャグで言ってるのか?」

 

 ラファエルの呆れるような声が響く。言われてみれば確かに、頭が悪そうな話にしか聞こえないが、事実なのだから仕方がない。

 

「とにかく、先生に会った直後に目が覚めたんだから、もしかすると彼が俺を復活させてくれたのかも知れないよ。あの人ならそれくらい出来ても不思議じゃないし」

「いや、そりゃねえよ。もしもルシフェルにそんなことが出来んなら、あいつ自身がとっくに生き返ってなきゃおかしい」

「あ、そっか」

 

 言われてみれば確かに……鳳がぐうの音も出ずに黙っていると、追い打ちをかけるようにミッシェルの言葉が続いた。

 

「タイクーン、アストラル界にルシフェルたちが居るとしたら、多分、僕は気づいてると思うんだよね。君が見たっていうサムソン君のアストラル体なら、僕にも感じ取れるんだけど、彼の周りに今までそんな気配を感じたことは無かった……ついでに言うと、死んだ君のアストラル体もさ。君は本当に、アストラル界に行っていたのかい? どこかもっと違う場所にいたんじゃないかな」

「うーん……ミッシェルさんにそう言われてしまうと、なんとも。俺もはっきりそうだとは言い切れませんね。そしたら俺が行ったのはアストラル界じゃなくって、本当に死後の世界だったんですかね?」

「いや、そんなものがあるとも思えないんだけどね……単純に、君は夢を見ていたんじゃないかなあ?」

「夢……ですか? うーん……でも、夢にしてはやけに実感があったような……」

 

 鳳が首を傾けて当時のことを思い出そうと躍起になっていると、突然、ウリエルの持つ携帯端末が鳴り出した。彼女は現代人がそうするみたいにペコペコお辞儀しながら部屋から出ていくと、廊下で二言三言話してすぐに部屋に引き返してきて、

 

「話の腰を折ってしまい申し訳ございません。鳳様、ミカエル様がお呼びですので、よろしければお部屋までいらしていただけませんか?」

「ミカエルが? なんだろ?」

「さあ、神域に帰ってきたのに顔も出さないからスネてるんじゃねえか? あいつの方から来りゃいいのによ」

 

 ラファエルはそう言いながら立ち上がると、さっさと部屋を出ていってしまった。別に彼は呼ばれていないはずだが、当たり前のようについてくるつもりらしい。鳳はウリエルに相槌を打つと、疲れたから残るというミッシェルとサムソン、ガブリエルを残して、ラファエルに続き急いで部屋を出た。

 



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眠れる森の

 ミカエルに呼ばれて部屋を出た鳳は、ずんずん先を進むラファエルの背中を追いかけるウリエルと並んで廊下を進んだ。久しぶりの神域は相変わらず人の気配が感じられず、しんと静まり返っていて、そのひんやりとした空気から、まるで棺桶の中にいるかのようだった。

 

 ミカエルの部屋は鳳たちの部屋からはだいぶ離れていたが、同じ建物内にあるからそれほど時間は掛からなかった。部屋に入ると先に到着していたラファエルが、座り心地の悪い椅子を嫌ってベッドの上に腰掛けており、それを嫌がるミカエルと押し問答をしていた。

 

 鳳は、ここがネヴァーランドかとぼんやり思いながら、

 

「よう、ジャクソン。俺に用ってなんだよ?」

「誰がジャクソンだ! ええいっ! 忌々しい奴らめ……人の寝床の上で好き放題しおって。ラファエルめ。後で覚えておれよ」

「へいへい」

「それで用件は?」

 

 鳳が二度同じことを聞いたせいか、ミカエルは少々カチンと来たのか目を吊り上げて語気を強めながら、

 

「神域に帰ったのなら報告に来るのが筋ではないか! 待ってても一向にやってくる気配がないから呼び出してみれば、四大天使が集まって何故報告にやって来ない」

「気が利かずに申し訳ございませんでした」

 

 ウリエルがパワハラ上司に頭を下げるOLみたいに畏まっている。天使の世界にも労災ってあるのだろうかと思いながら、ちょっと理不尽なので抗議する。

 

「帰ってきたのに気づいてたんなら、そっちから来ればいいじゃないか」

「どうしてこの私が貴様の部屋へ出向かねばならないのだ」

 

 どうやらこの天使は、ラファエルの言う通り、本当に一人だけハブられてすねていたらしい。四大天使筆頭のプライドがあるのかも知れないが、相手にしてもしなくても、面倒くさいツンデレ男である。

 

 鳳はやれやれと肩を竦めて首を振ると、

 

「お陰さんで無事に帰ってこれましたよ。また暫く厄介になりますぜ。これでいいか?」

「いいわけがなかろう。貴様は何をしにケアンズまで行ってきたのだ? 当初の目的を忘れていはいないか」

「当初の目的……? ああ、そうだったそうだった」

 

 そう言えば、鳳はギヨームの解放を求めていたのだ。最初は自分の精子と引き換えのつもりだったが、思いがけずレヴィアタンを倒してこいと言われ、取りあえず作戦を立てるために前線の様子を見に行ったのだが……思った以上に時間が掛かった上に、その後色んな事がドタバタと起こってしまい、すっかり忘れてしまっていた。

 

「約束通り、レヴィアタンを倒してきたぜ。まあ、殆どアズにゃんのお陰なんだけど……でもこれでギヨームのことを解放してくれるんだよな?」

「ああ、いいだろう。そういう約束だったからな」

「ところで、そのギヨームなんだけど……」

「なんだ?」

「あいつ、今どこに居るんだ? すぐに会えるかな?」

 

 鳳は、自分を撃ち抜いた狙撃手がギヨームの可能性がないか、探りを入れるつもりで尋ねてみた。ミカエルは少し言い渋ったが、当然の要求であるから結局は折れ、

 

「ふむ……奴ならアイスランドにある流刑地に監禁されている。だからすぐには会えないな」

「アイスランド……!? アイスランドって、あの? なんでまたそんな、地球の裏側じゃないか」

「元々の理由は北海の油田確保のためだった。僻地にあるため、そこが自然と流刑地になったのだ」

 

 なんだか穏やかじゃない事情がありそうだが、取りあえず、彼が地球の裏側にいるというなら、これでギヨームが狙撃手であった可能性は完全に消えたと言っていいだろう。

 

 しかし、それじゃ本当に自分を狙ったのは誰だったのだろうか……? 鳳はホッとしつつも、まだ釈然としない気持ちを抱えながら話を続けた。

 

「まあ、無事なら何でもいいけどさ。それじゃすぐに釈放してくれないか?」

「すぐというわけにはいかん。奴が神殿を襲撃した大罪人ということは覆しようがないからな。我々が特赦を発表しても不満が上がらないように、まずは世論形成するのが先だ」

「おいおい、話が違うじゃねえか。そんなのどうすりゃいいってんだよ?」

「貴様は、何故レヴィアタンを倒してこいと言われたのか、その理由を覚えていないのか。元々、貴様は生殖細胞を提供する代わりに、罪人を釈放しろと要求したのだろう。我々はそれを断った。理由は、いくら人類が追い詰められているとしても、プロテスタントの子を産むことを世論が許さないだろうと思われたからだ。だから我々は、それを覆せるくらいの功績を貴様に要求したのだ」

「ああ、そうだったっけ。忘れてた」

「レヴィアタン討伐の映像があるお陰で、貴様は今人類に救世主のように思われている。だから、貴様が異世界から来たプロテスタントで、なおかつ男であることを公表するなら、タイミングは今だと考えている。ただ、狙撃を受けた件もあるだろう? 実際に貴様がプロテスタントだと公表した際、どういう反応があるのかをまずは見極めたい。これでも反対運動が起こるようなら、話が違ってくるからな」

「その場合、ギヨームはどうなる? やっぱり釈放しないって言うつもりか?」

「流石に私もそこまで無法なことを言うつもりはない。ただ、解放はしてやるが、貴様らにはさっさと元の世界に帰ってもらうことになるだろう。無論、精液も要らん。まあ、アズラエルがうるさそうだから、奴にくれてやる分には構わんが……ところで貴様、元の世界に帰るあてはちゃんと見つけてあるのだろうな?」

「ああ。それについては多分ギヨームが何か知ってるんじゃないかと思ってて、そのためにもあいつに会いたいんだよ。最悪の場合、ジャンヌの記憶をもとに戻してもらう必要があるかも」

「そうか。ならば近い内に面会が出来るよう取り計らおう。生殖細胞の提供は、発表後で構わん。それまで汚いものをぶら下げて待っていろ」

「はいはい、わかったよ。ふぅ~……しかし、これが上手くいったら俺の子孫が爆発的に増えるんだよなあ……」

 

 鳳がほんの少しため息混じりにそう呟くと、ミカエルな眉を顰めて不機嫌そうに言った。

 

「なんだ貴様。貴様から持ちかけてきたくせに、何が不服なのだ?」

「いや、不服ってわけじゃなくて……ちょっと不安なのかなあ? 子供がちゃんと育つのだろうかとか、精子を提供する相手への責任とか……あと、俺には嫁さんがいるのに申し訳なくて」

「そうだった。報告で聞いてはいるが、貴様、アイギスの発見とともに自分の嫁を召喚したそうだな? 一体どうやったのだ?」

「俺もよくわからないんだよ。ミッシェルさんは俺の能力だって言うけど、俺はアイギスの隠された機能か何かだったんじゃないかって思ってるんだけど……」

「ふむ……アイギスか。先程、部屋に運ばれてきたから調べてみよう」

 

 言われてから気づいたが、部屋の奥の作業場にアイギスが立てかけられてあるのが見えた。空港から戻ってくる時、アイギスは後続のトラックに積み込まれていたが、そのままミカエルの手に渡ったらしい。

 

「それ、アリスが起きてきたらちゃんと返してくれよ? 寝てる間は好きにしていいから」

「何を勝手なことをほざいている? オリジナル・ゴスペルはすべて、我ら四大天使の管理下にある。返すわけがなかろう」

「おいおい、この世界のアイギスは紛失してたんだろう? 俺の嫁さんは、それをうちの宝物庫で見つけたって言ってるんだ。なら元々こっちの世界の物じゃない可能性だってあるんだから、それこそそっちの理屈で勝手なことするなよ」

「なにぃ……?」

「それに、ゴスペルは使い手を選ぶんだろう? そいつはアリスが適合者みたいだから、仮にこの世界の物だとしても、彼女が持つのが相応しいはずだ」

「ふん……まあ、一理はあるな」

 

 ミカエルはこれ以上言い争っても折れないと見たのか、まだ不服そうだったが一応は納得してくれたようである。実際のところ、鳳が彼女を召喚しなければアイギスは発見されていなかったろうから、そうするのが当然といえば当然であろう。

 

 ミカエルは仕方ないと呟くと、

 

「ならば、貴様の嫁が起きたら二人で取りに来るがいい。管理責任者として、最低限の手続きはさせてもらうぞ。そうでなくては示しがつかん」

「面倒くせえなあ、もう……わかったよ。それじゃ、そろそろ部屋に戻らせて貰うぜ? 俺も長旅で疲れてんだよ」

「ふむ……まだ聞きたいこともあるが、今日のところはいいだろう。おい、ラファエルを連れて行け。こいつ、いつの間にか私のベッドで眠ってしまった」

 

 随分おとなしいと思っていたら、ラファエルはベッドに寝転がってグースカいびきを立てていた。見た目も性格もそうなら、生活リズムまでまったくお子様なやつである。

 

 肩を揺すってみたが起きる気配はまるでなく、仕方ないから鳳が背負って部屋から出た。ウリエルが運ぶと言って聞かなかったが、背中に立派な羽が生えている彼女が運ぶにはお姫様抱っこするしかないから、ラファエルの名誉のためにも、鳳が運んでやらねばならなかった。あとでたっぷり恩に着せてやろう。

 

 ラファエルをベッドに放り投げて、自室へ帰る道すがら、アリスの部屋を通りすがりにちらりと覗き込んでみたが、彼女はまだぐっすり眠っていた。よほど疲れていたんだろうなとドアをそっ閉じし、ウリエルに別れを告げて部屋に戻ると、ガブリエルがまだいてミッシェルとチェスを指していた。

 

 なかなか白熱した攻防に目が離せず、横になって対局を観戦してたら、いつの間にかそのまま眠ってしまっていたらしく、気がついたら朝になっていた。朝食を呼びに来たウリエルが、床に雑魚寝する四人を発見して何事かと仰天していたが、男所帯なんて大体こんなものである。

 

 トーストを紅茶で流し込みながら、寝ぼけ眼で今日の予定を話し合っている時、そう言えばアリスがまだ起きてこないことに気がついた。家にいる時は、鳳より早く寝ることも遅く起きることも絶対にない彼女が珍しい……そう思って、ミカエルにアイギスを返してもらおうと誘うつもりで彼女の部屋を訪ねたら、アリスはまだベッドの上でスヤスヤ寝ていた。

 

 それにしても、人間いくら疲れてても寝返りくらいは打つだろうに、昨日から微動だにしていない様子に、本当に眠っているだけか? と不安になり、ちゃんと呼吸をしているか確かめる。

 

 スースーと小さな寝息を立てている彼女の胸は上下しており、特におかしなところは見当たらず、よっぽど疲れていたんだなと自分を納得させて部屋を出る。

 

 このまま一人でミカエルのところに行っても無意味なので、予定が崩れてしまったなと頭を掻きながら、時間をつぶすつもりで神域内をブラブラ散歩していると、神殿の間でサムソンが太極拳みたいな真似をしていたので一緒にやってみた。

 

 見た目優雅なくせに結構な重労働に汗をかいていると、ミカエルがやってきて神前で何をしてるんだと追い出され、仕方ないのでシャワーで汗を流してからまたアリスの様子を見に行ったら、彼女はまだベッドの上におり、流石におかしいと思い揺すって起こそうとしたが、それでも彼女はまったく起きる気配はなかった。

 

 ここまでやって、ようやく彼女の身におかしなことが起きていることに気づいたが後の祭りで、その後、ウリエルを呼んできて二人で必死に彼女を起こそうとしたが、まるで反応はなく。

 

 結局、その日アリスが目を覚ますことはついになかった。

 



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凄いですね!

 神域に帰った翌日、いつまで経っても起きてこないアリスを起こしに行った鳳は、彼女が眠り病にでもかかったかのように眠り続けていることに気がついた。慌ててウリエルを呼びに行き、二人がかりで起こそうとしてもまったく無反応で、呆然となってしまった鳳に代わり、ウリエルが気を利かせてラファエルを連れてきてくれたが、

 

「呼吸、脈拍、共に正常。瞳孔反応もあって、麻痺も見当たらない。どうみても普通に眠ってるだけだが……ここまでやっても起きないのは明らかに異常だな」

「おまえの癒やしの力でなんとかならないのか?」

「もうやってんだよ。つーか、癒やしの力は健康な体には全く意味がないから、無反応な時点でこいつが健康体なのは間違いないんだ。はっきり言って、俺にはこれ以上何も出来ることはないぜ」

「医者のおまえもお手上げなんて……ど、ど、どうしよう? 本当に眠ってるだけなのか? このまま死んじゃったりなんかしたら、俺はもう生きてはいられないぞ!?」

 

 鳳が動揺して青ざめていると、ラファエルは逆に落ち着いた様子で、

 

「落ち着けよ。おまえが死んだところで糞の役にもたたねえっつーの。それより、この手の異常現象は、俺よりおまえの仲間の方が専門だろう? そっちに聞いてみりゃいいじゃねえか」

「……あ、そうか! ミッシェルさん!」

 

 言われるまでその存在をすっかり忘れていた。考えても見れば、アリスは追い詰められた鳳が不思議な力で呼び出してしまい、それ以来、ずっとこっちの世界にいるわけだが、そのせいでおかしなことが起き始めているのかも知れない。

 

 彼は早速とばかりに自室へ飛んで帰ると、チェス盤を前にうんうん唸っているミッシェルを無理やり引っ張って来た。

 

「ははあ……これは彼女のアストラル体がどこかに行っちゃってる感じだね。簡単に言うと、魂が抜けちゃった状態だ」

「魂が抜けた?」

 

 またオカルトチックな言葉が飛び出してきたが、ミッシェルが大真面目なことは言うまでもない。彼はいつものように飄々とした表情で、

 

「ほら、タイクーンには以前話したことがあったでしょう。人間には、魂体であるアストラル体と霊体であるエーテル体の2つの精神体があって、普段はそれが肉体と結びついているんだけど、睡眠時にはアストラル体が肉体から離れていくことがあるんだって。

 

 それと同じ現象が起きているんだけど……ところでタイクーンが無理やりこっちに呼び出してしまったせいで、今彼女の肉体はこっちと元の世界に2つ存在することになる。そのせいで彼女のアストラル体が、一時的に元の世界に戻っちゃったんだろうね」

「それじゃアリスは今、元のアナザーヘブン世界にいるってことですか?」

「そういうこと」

 

 鳳は取りあえず彼女の無事が判明しホッとしつつも、

 

「でも、そしたらこの体ってどうなっちゃうんです? 魂不在のまま身動きが取れず、ここで朽ち果ててしまうんですか?」

「いいや、そういうことは起こらない。肉体とエーテル体が結びついている限り、人は死を迎えることはないから平気だよ」

「そっか、なら良かった。アリスはこっちでまた目覚めるんですね?」

「うん。彼女のアストラル体は、つまりは彼女の意識でもあるから、放っておいても君を求めていずれ戻ってくるんじゃないかな。ただ、こっちの世界とあっちの世界は時間の流れが違うから、それがいつになるかはわからないね。明日かも知れないし、下手すりゃ数千年後ってこともあり得るかも」

「数千年!?」

 

 鳳があまりに気の長い話に目を白黒させていると、ミッシェルはちょっと脅しすぎたかなとヘラヘラ笑いながら、

 

「まあ、まずそんなことないから安心しなよ。帰ってきても、君がいないんじゃ意味ないからね。時間の流れが違うってのは、仮にあっちで数年過ごしたとしても、こっちでは数日しか経ってなかったり、その逆もあり得るってことさ」

「つまり、何もわからないってことですか」

「そういうこと。だから心配してもしょうがないから、その内ひょっこり帰ってくると思って、あまり気にしないことだね」

 

 ミッシェルにそう言われたところで、どうしても心配しないわけにはいかず、鳳は彼らが出ていった後も部屋に留まり、眠り続けるアリスのことをずっと見守っていた。ラファエルは健康そのものだと言っていたが、寝返りすら打たない姿を見ているとどんどん不安が募ってきて、彼は時折彼女の眠る位置を変えたり、意味もなく手のひらをマッサージしたりして過ごした。

 

 なんだか寝たきり老人の介護でもしているような感じだったが、そんな彼の不安が周囲にも伝わったのだろうか、暫くするとミカエルが仏頂面をしながらやってきて、何も言わずにアイギスを置いて出ていった。アリスはアイギスと共に現れたから、それを取り上げたせいだと思ったのだろうか。残念ながら、それで彼女が目覚めることはなかったが、その気持ちは有り難かった。

 

 そんな感じで不安な夜を過ごし……そのまま彼女の部屋でウトウトしていた鳳は、明け方頃に椅子から落ちかけてヒヤリと意識を取り戻し、いい加減、自分の部屋に戻って寝ようと、立ち去り際に彼女に話しかけた時、

 

「おやすみ、アリス。また来るよ」

「はい、おやすみなさいませ、ご主人様」

 

 彼女はあっさりと目を覚ました。

 

 鳳は、それがあまりにも自然だったので、一度はそのまま部屋から出ていったのだが、すぐダダダッと部屋に駆け戻ると、

 

「え、えええええ!? 起きてたの!?」

「は、はい! 何か急ぎのご用でしょうか」

 

 ベッドで上体を起こしていた彼女は小首を傾げながらきょとんとしている。彼女は鳳のことを不思議そうに見上げながら、

 

「目が覚めたらご主人様がいらっしゃったので、ちょっとびっくりしちゃいました。どうかされたのですか?」

「いや、びっくりしたのはこっちの方だよ。君、昨日は丸一日、ずっと眠り続けていたんだよ?」

「え?」

 

 その言葉が意外だったのだろうか、アリスは何度も目を瞬かせたあと、あちゃーっといった感じに申し訳無さそうに頭を下げて、

 

「ああー……やっぱり、そんなことになってしまっていたのですね。実は私、昨日寝た後に意識がプリムローズ城に戻っていまして……」

「あ、やっぱりそうなんだ。ミッシェルさんがそう言ってたんだよ」

「そうなんですか? えーっと、それでですね。私はあっちで数日間眠り続けていたらしくて、奥様たちに大変ご心配をおかけしてしまっていたようなんです。それで、すぐに事情をお話しして、ご主人様に呼ばれてこうして異世界でご奉仕していることをお伝えしたら、そしたら今度はたいそう羨ましがられて……請われるままに、こちらの世界の出来事をお二人にお聞かせしてきたところです。その後、ご主人様が心配なされるといけないから早急に戻ろうとしたのですが、その方法が分からなくて困っていたところ、奥様がもう一度寝たらいいんじゃないかとおっしゃられまして、試しにそうしてみたら目の前にご主人様がいらっしゃって、こうして戻ってこれた次第なのです。流石、奥様」

 

 アリスは何故か自分の手柄のように両手を握ってガッツポーズしている。きっと、久しぶりにミーティアとクレアに会えて嬉しかったのだろう。その無邪気な姿にホッと胸をなでおろしながら、鳳は彼女に聞いてみた。

 

「あっちでは数日しか経ってなかったの? こっちに来てから、もう一ヶ月以上経ってるけど」

「はい。そうみたいです。でも、数日とは言え、まったく目を覚まさなかったから、大騒ぎになってたみたいで」

「だろうなあ……俺もたった一日だけど肝が冷えたよ。向こうの様子がわからないから、どうなってるのか全然気にかけてなかったけど、理由もわからないまま眠り続けられたら相当不安だったろうね」

「ご心配をおかけしないよう、これからはたまにあちらにもご奉仕しに戻らなきゃいけませんね……」

 

 アリスはそんなセリフを真顔で口走っている。気楽に言っているが、帰れるあてはあるのかと聞くと、

 

「わかりませんけど、こうして戻ってこれたからには、あっちに帰るのもなんとかなるんじゃないですか? 今はまだ眠くありませんけど、今晩試してみますね」

「そっか。もしも出来たら便利だから、出来るといいな」

「はい! そうだ。ご主人様? もしもあっちに戻れたら、何か伝言はございませんか? ご主人様の言葉をお伝えしたら、奥様たちもきっと喜んでいただけると思います」

「そうだなあ……すぐには思いつかないけど……」

 

 鳳はそこまで言ってから、どうしても伝えなくてはならないことがあるのに気がついた。と言うか、目の前のアリスにこそ一番に言わなくてならなかったのだが、後ろめたくてずっと後回しにしていたことだ。

 

「あー……実は、本当なら君たちみんなに許可を得ないといけなかったかも知れないんだけど」

「はい。なんですか?」

 

 彼は小首をかしげているアリスに向かってバツが悪そうに眉を歪ませながら、ギヨームを解放するために四大天使と交渉していることを伝えた。

 

 この世界には男が存在せず、今人類が絶滅しかけていること。それを阻止するためには、鳳が精子を提供して、自力で繁殖が出来るようにしなければならないこと。ただ、その結果、自分の子供が大量に生まれることになるから、それを聞いたら妻たちが気を悪くするんじゃないかと、彼は申し訳なく思っていたわけだが……

 

 鳳がそう伝えると、意外にもアリスは気を悪くするどころかパーッと顔を輝かせて、

 

「凄いです! そしたらご主人様のお子様が、いっぱい誕生されるんですね!? なら、いっぱいいっぱいお祝いをしなきゃ」

「怒らないの? 俺はてっきり怒られるものかと……」

「どうして怒るんですか? ご主人様の血を受け継いだ子供が増えるのは、良いことに決まってるじゃありませんか。この世界に他に男性がいないんでしたら、これからこの世界はご主人様の分身で埋め尽くされるんですね……なんて羨ましい」

 

 アリスはどこか恍惚の表情を浮かべている。鳳はそんな彼女の姿にドン引きしながら、

 

「でも、本当にいいの? 他に交渉材料も無くて仕方なかったとは言え、これって考えようによっちゃ外に女を作ってるのと変わらないじゃないか。なんか申し訳なくて……」

「そんなこと気にしていたんですか?」

「そんなことってことも、ないと思うんだけど……」

 

 自分が誰と何をしていても、彼女は気にならないのだろうか。鳳がソワソワしながらそんなことを言うと、アリスはほんの少し意地悪そうな笑みを浮かべながら、

 

「ですがご主人様? あなたにはもう3人も妻がいるじゃないですか」

「うっ……」

 

 そんな火の玉ストレートを前にぐうの音も出ず、鳳が声をつまらせていると、彼女はクスクスと笑ってから続けて、

 

「それに、王が側室を持つことなんて当たり前じゃないですか。寧ろ、子供が生まれてこない方が問題です。そう思えば特に気になりませんし、多分、奥様たちも同じ気持ちじゃないでしょうか」

「王はクレアで、俺じゃないけどね……」

「私にとってはどちらも同じです。おふたりとも、私が仕える主ですよ」

 

 彼女はそう言って胸を張った。何がそれほど誇らしいのか鳳にはさっぱりわからなかったが、その無償の愛にはいつも助けられていると、彼は彼女のことを特別に想っていた。だから約束を破ってしまうことが後ろめたかったのだが、

 

「ごめんね、本当なら次に子供を作る時は君とって約束していたのに」

「順番なんて気にしませんよ。こっちで赤ちゃんを作るわけにはいきませんし。それに……ご主人様? ちょっといいですか?」

 

 彼女は何かに気づいた感じに鳳のことを手招きすると、近寄ってきた彼の腰に両手を回してギュッと抱きしめながら、

 

「いくら他の女の人があなたの子供を作ったとしても、こうして本物のご主人様に触れられるのは私だけの特権ですよ。だから全然気にならないんです」

 

 そう言って満面の笑みを浮かべて彼を見上げた彼女の顔はほんのりと赤かったが、多分、彼のほうがもっと赤いに違いなかった。

 

 鳳はそんな彼女の好意に胸が一杯になり、もっとスキンシップしてあげたほうが良かっただろうか、でも偉そうなのはいやだし……などと思いながら、その頭を撫でようとした時、突然、アリスは何かを思い出したかのようにほっぺたを膨らませて、

 

「だと言うのに……あの瑠璃のごときが、私のご主人様に許可もなくベタベタくっついて、許せない! ご主人様も外に女がどうこう言うなら、あれにされるがままにしていないで、もっとご自分の貞操を守るよう努力して欲しいです!」

「す、すみません」

「いいですか? ご主人様。今度、瑠璃がまた許可なくまとわり付いてきたら、こうして指を、こう逆向きに、こう……」

 

 アリスは瑠璃のことを思い出したらムカムカしてきたらしく、なんだかヒートアップしていた。きっといつも自分は我慢しているのに、自然にスキンシップを行える彼女のことが、許せなかったのだろう。

 

 それとも単に、存在自体が気に入らないのか……庶民ごときが生意気だとか、クレア様の二番煎じだとか、その後次々と出てくる割と辛辣な瑠璃への評価を、鳳は身を小さくしながら黙って聞いているしかなかった。

 

*******************************

 

 後日……

 

 アナザーヘブン世界へ帰還したアリスは、眠ったままの彼女の世話をしてくれていたミーティアに、いの一番に鳳からの伝言を伝えた。彼女は夫が異世界で行った交渉に理解を示しつつも、アリスとは違ってやっぱり少し釈然としないものを感じたらしく、

 

「そうですか……異世界に男性がいないのでしたら、あの人が精液を提供するのは、それは仕方ないことかも知れませんけど……うーん……私の預かり知らないところで、子供がぽこぽこ生まれてるって思うとなんだか落ち着きませんね。いきなり責任を求めてきたりしないでしょうね。っていうかギヨームさんじゃ駄目なんですかね。あの人、本当に人望がないですね……」

「でも凄いと思いませんか! 異世界にご主人様の分身が地に満ちている光景を思い浮かべてみてください! まるで本物の神様みたいです!」

 

 アリスはそんなセリフを口走りながら恍惚の表情を浮かべている。ミーティアはそんな彼女の姿を冷ややかに眺めつつ、この子の想いはもはや愛ではなくて信仰だ……などと思いながら、何とはなしに尋ねてみた。

 

「それで、何人くらい子供が生まれそうなんです?」

「一千万です」

「……はあ?」

 

 アリスは真顔で続けた。

 

「一千万です。異世界には女性が一千万人いるので、みんなが一斉にご主人様の子供を産めば、一千万です!」

「一千万……」

「凄いですね!」

 

 ミーティアはその数に一瞬気が遠くなりかけたがどうにかこうにか持ちこたえると、彼女の前で無邪気に喜びを爆発させているアリスを見ながら、もはや彼女みたいに何も考えないほうが身のためだと心に決めるのだった。

 



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神意

 アリスが復活したことでホッと一安心した鳳は、彼女の瑠璃に対する不満を一通り聞かされた後、アイギスを持って二人でミカエルの部屋を訪ねることにした。

 

 昨日、アリスを心配する鳳に気を使って彼が部屋まで持ってきてくれたのだが、約束ではちゃんと持ち出す許可を取るように言われていたため、お礼も兼ねてその許可を貰いにいくつもりだった。

 

 訪ねて行くとミカエルはあの殺風景な部屋の中にはいなかったが、ちょうど所用から戻ってきたらしく、

 

「む……どうやら目が覚めたようだな。それをわざわざ報告に来たのか、鳳白」

「まあな。あんたなりに気を使ってくれたんだと思って、その礼に」

「アリスと申します、ミカエル様。この度はご心配をおかけしまして大変申し訳ございませんでした。私のために貴重なアイギスをお貸ししていただき、あなたの寛大なお心遣いに感謝いたします」

 

 彼女が慇懃にお辞儀をすると、ミカエルは少し意外そうに目を丸くしてから、すぐ同じように丁寧に会釈を返してから、

 

「これはこれはご丁寧に……ふむ、なかなかしっかりしたお嬢さんだ。良縁に恵まれたな、鳳白」

「ああ、俺もそう思う。しかし、あんたが手放しで人を褒めるなんて珍しいな。常に怒ってるようなやつだから、どうせまた嫌味言われると思ってた」

「何を言う。私はすべての人類を愛しているぞ。ただ貴様のことが嫌いなだけだ。まったく、いちいち人をイラつかせるやつめ」

「ああ、そうかい。おまえこそ、いちいち癪に障るやつだなあ」

 

 鳳とミカエルがいがみ合いを始めると、アリスが間を取り持とうとしてオロオロしていた。いつもこんな調子だから気にするまでもないのだが、あまり彼女を困らせては可哀相だろう。鳳は出かかっていた文句をぐっと飲み込むと、彼女が背負っているアイギスを見て当初の予定を思い出し、

 

「そうだった。アイギスの所有許可ってのが必要なんだろ? 今日はそいつを貰いに来たんだけど」

「管理責任者の手続きだな。ならば部屋に入れ、すぐ発行してやろう」

 

 部屋に入るとミカエルはすぐ奥の作業場へ行って、端末らしきものを操作しはじめた。鳳たちがその様子を入口付近に並んで見ていたら、落ち着かないからテーブルに座って紅茶でも飲んでいろと言われ、座り心地の悪い椅子に腰掛けてから、鳳はふと思い立って尋ねてみた。

 

「ところで一昨日は疲れてて聞きそびれちゃったけど、どうしてギヨームはアイスランドなんて地球の裏側にいるんだ? 流刑地って話だったけど、犯罪者を収容する施設を作るために、わざわざそんなとこまで出張ってったのかよ?」

 

 ミカエルはアリスが淹れてくれた紅茶をにこやかに受け取り、また端末を操作しながら言った。

 

「いいや、あそこは元々は流刑地ではなく、北海油田の警備施設だったのだ」

「油田……ああ、そういうことか」

「今の地球上で石油を比較的安全に取れる場所は限られている。ニューギニアをレヴィアタンに奪われて以降、我々人類に石油の入手先は北海油田しか残されていなかった。そんな重要拠点だから厳重な警備が必要なのだが、16年前、貴様らのせいで再生が出来なくなってしまい、人員を割けられなくなってしまったのだ」

 

 鳳は肩を竦めた。そんなこと言われても、神が再生を行わないのは鳳のせいじゃないのに、いちいち厭味ったらしい男である。まあ、それくらい困っていたということだろうが……

 

「……それで、人間に代わって天使が管理するようになったのだが、貴様の仲間は死んでもいい戦力として、刑罰代わりに魔族と戦わせていたのだ」

「そりゃまた、ジャンヌと比べると扱いの差が酷いな」

「それはそうだろう。奴が逮捕された時の話は以前もしたと思うが、従順なジャンヌ・ダルクとは違って、奴は徹底抗戦の構えを崩さず、我々は散々煮え湯を飲まされたからな。先に捕らえたイスラフィルの命と引換えにようやく投降に応じたが、そんなのが人間社会に馴染むとは思えんし、かといって神域に置いてもまたいつ暴れられるかわからん……だから他に行く場所が無かったというのが実際のところだ」

「つまり、暴れ過ぎちゃったのね。まったく……あいつらしいっちゃあいつらしいけど……うん?」

 

 そんなギヨームの姿を想像して苦笑いしていた鳳は、今の話の中に聞き逃してはならない言葉を発見して、慌てて問い返した。

 

「ちょっと待て。今、イスラフィルの命と引換えって言わなかったか? イスラフィルって、確かアスタルテ先生のことだろう?」

「ああ、そうだが」

「じゃああの人、生きてるのかよ!? てっきりカナン先生たちと一緒で死んじゃったのかと思ってたんだけど……」

 

 鳳はそんな新事実に興奮すると同時に、ならば彼女のことも助けなきゃならないとダメ元でミカエルに言った。

 

「なあ、ミカエル。一つ相談なんだが……もし彼女が生きているってんなら、出来れば彼女のことも助けてはくれないか? また何でもするからさ」

「ほう、なんでもか……それは魅力的な提案だが、無理だな」

「くっ……ちょっとくらい考えてくれたっていいだろ? 頼むよ。彼女は恩人なんだ」

 

 にべもない返事に対し鳳は尚も食い下がったが、しかしミカエルはそんな彼の頼みを一蹴したわけではなかったらしく、もっと意外なことを言い出した。

 

「まあ、待て。まずは話を聞け。そもそも、助けるも何も彼女は今、罪に問われてもなければ、拘束すらされていない。だから助けようもないのだ」

「なんだって? でも、あの人もプロテスタント……神殿破壊の一味なんだろ?」

「ああ、そうだ」

「じゃあ、なんで罪に問われなかったの?」

 

 ミカエルは端末をいじる手を止めて、少し気難しそうに眉根を寄せながら、

 

「何故なら、彼女は逮捕された時からずっと、謎の奇病で意識を失ったままなのだ。裁判にかけられなければ、罪には問えまい」

「意識がない? そりゃまた、どういうこっちゃ?」

「わからん。だから謎の奇病と言っているだろう。もう一つ、彼女を助けるよう嘆願があり、最終的に我々はそれを飲むことにしたのだ」

「へえ、先生のことを助けてって願う天使もいたのか」

「ああ。というか、ラファエルのことだ。奴は……イスラフィルは、彼の妹だからな」

 

*******************************

 

 カナンの助手アスタルテといえば有能な女史のイメージが強くて、まさか糞ガキ(ラファエル)の妹だったとは思いもよらなかったが、それはさておき、神殿を襲った彼女がその後意識不明で寝たきりというのは聞き捨てならなかった。

 

 鳳が彼女のことを見舞いたいと願うと、ミカエルはあっさり許可してくれて、自ら彼女の病室に案内する道すがら、当時のことを話してくれた。

 

「襲撃当時……私とラファエル、ガブリエルが駆けつけた時には、既に神殿は木っ端微塵に破壊されていた。すぐに交戦が始まったが実力は明らかに相手の方が上で、ウリエルが合流した後も我々は苦戦を強いられていた。それどころか、おそらく奴らは我々を簡単に倒せただろうに、ルシフェルは力ではなく言葉で説得しようと試みていた。もちろん、私はそんなの聞く耳持たなかったが……

 

 ところが、その戦闘の最中、突然ルシフェルの態度が豹変したのだ。攻勢に出るのではなく、寧ろ逆に抵抗を諦め、あろうことかザドキエルの足を引っ張り、動揺したザドキエルはそのままラファエルに殺された。そして奴は、戸惑っている我々の前で、突然自分の首を掻き切って自殺を図ったのだ」

「自殺?」

「そうだ。それは壮絶なもので、自分で自分の首を切り落とすなんて死に様を、私は生まれて始めて見た。まったくわけが分からなかったが……暫く困惑した後、私は正気を取り戻すと、最後に残されたイスラフィルに事情を聞こうと振り返った。ところが、その時にはもう、彼女は意識を失くしてその場に突っ伏していたのだ」

 

 話をしながら辿り着いた部屋の中で、アスタルテは医療用ベッドの上に寝かされていた。その血の気の失せた真っ白い顔色と、微動だにしない姿はまるで死人のようで、ここが墓場みたいに静かなせいも相まって、思わず本当に生きているのか呼吸を確かめねばならないくらいだった。

 

 ミカエルに言わせると、彼女は呼吸も脈拍も少なくて殆ど仮死状態みたいだそうだが、少なくともこの16年間、それで死ぬことも、そして目覚めることも全くないそうだった。

 

「倒れているこいつを見つけた時、私は後追い自殺を図ったのかと思ったのだが、抱き起こして調べてみれば外傷もなく息もしていて、ただ眠っているようにしか見えなかった。ラファエルが慌てて癒やしの術を施していたが、見ての通り怪我一つ無いから無反応で、だから我々はその内目を覚ますだろうと思っていたのだが……それ以来、一度も目を覚ましたことはない。故にもう責任能力はないだろうと無罪放免にしたのだ」

「そうか……」

「ラファエルはまだそのうちひょっこり目を覚ますだろうと期待して、時折ここへ来ては世話を焼いているようだが、私はもう無駄だろうと思っている。イスラフィルにはおそらく、天罰が下ったのだ」

「天罰だって……?」

 

 鳳は、大天使ともあろうミカエルがそんな迷信を信じているのかと、一瞬呆れそうになったが、

 

「我々に天啓が下る際、体のどこかに聖痕が現れるということを、以前にも話しただろう。つまり、神は我々の体に直接影響を及ぼせるのだ。そう考えれば、意識を奪うことなど造作も無いこと」

「……もしかして、カナン先生たちが急におかしくなったのも、神の仕業かも知れない可能性もあるってことか?」

「貴様がここへ現れる前、16年ぶりに天啓が訪れた。それまで隠れてしまわれたと思われていた神は生きていたのだ。だから私は、今ではルシフェルが死んだのも、神意だったのではないかと思っている」

「ふーん……」

 

 ミカエルは厳かな表情でベッドを見下ろしている。その顔は、もしかしたら何かの拍子に、自分もこうなるかも知れないと言ってるようだった。それは恐怖心だろうか、それとも神への畏敬だろうか。

 

 天使は神に生命を握られている……神が天使を造ったことは間違いないから、その可能性は確かに否定できないだろう。しかし、鳳はそこまで神は万能ではないんじゃないかと思っていた。もし神に人間のような意思があるなら、今の状況のまま、人類を放っておくことはしないだろうからだ。

 

 滅ぼすなら滅ぼす、助けるなら助けるで、そういう明確な意思が必ずどこかに現れるはずだが、少なくとも今までに、そういう神の断固とした意思を感じたことはない。

 

 思うに、神は世界システムとでも呼べるような、もっと無機質な何かなのではなかろうか。イスラフィルが意識不明になったのが、仮に神の仕業であったとしても、そこに天罰のような意味はなく、ただそうすべきルールが存在しただけというわけだ。それがどういう物かはわからないが……

 

 ただ、彼女の意識がない理由には、何となくだが見当がついていた。

 

「なあ、ちょっとミッシェルさん呼んで来てもいい?」

 

******************************

 

 鳳に連れられて部屋に入ってきたミッシェルは、ベッドの上に眠るイスラフィルの姿を見るなり、おやおやまあまあといつものように軽口を叩きながら近づいていき、

 

「よくよくアストラル体がお留守な人が続くものだね。もしかして、ここには魂が抜けやすい磁場でも発生してるのかな」

「やっぱり……アリスと感じが似てるから、なんとなくそうじゃないかと思いました」

 

 鳳たちがそんな会話を交わしていたら、ミカエルが困惑気味に話しかけてきた。

 

「なんだ? 一体どういうことだ? 貴様らには何故イスラフィルが目を覚まさないのか、その理由がわかるのか?」

「ああ、昨日、アリスが目覚めなかったのと、大体理由は同じだったみたいだ」

 

 ミカエルは目をパチパチさせて唖然としている。16年も解決しなかったことが、あっさりと解決しそうなのだから当然だろう。ただ、気になることもあり、

 

「でも、こんなに長い間魂が戻ってこないなんて……もしかして彼女の魂は失われてしまったんでしょうかね、ミッシェルさん?」

「いいや、物質界にある肉体と違って、エーテル体、アストラル体は不滅のはずだよ。だから放っておいてもその内戻ってくるはずなんだけど……しかし16年は流石に僕も長過ぎると思うから、ちょっと調べてみようか」

 

 ミッシェルはそう言うとベッドの前で膝立ちし、目線の高さを眠っているイスラフィルに合わせた。そして手を伸ばして指先を彼女の眉間に触れ、おもむろに目を瞑って何かブツブツ唱え始めた。

 

 鳳が、なんて言ってるんだろう? と思って顔を近づけようとした時……突然、ミッシェルの肩がビクッと跳ね上がり、彼は後ろに飛び退るように立ち上がった。危うく頭突きを食らいそうになった鳳は冷や汗を垂らしながら、

 

「ど、どうしたんですか、急に?」

「う、うん……これはちょっと、まずいことになっているかも知れない」

「まずいこと? 何かわかったんですか?」

「説明は後。まずは彼女のアストラル体を引き戻せないか試してみよう……ちょっと待っててくれる?」

 

 ミッシェルはそう言うと、さっきみたいに彼女の横で膝立ちになり、額に指を突き立てながらまたブツブツ何か唱え始めた。今度は先程よりも声が大きかったから、鳳にも聞き取ることが出来たが、何語なんだか言葉の意味まではさっぱりわからなかった。

 

 ただ、それがなんとなくお経みたいで、まるで葬式みたいだなどと不謹慎なことを考えつつ、ぼんやりとその後姿を眺めていたら……

 

 と、その時、たった今までベッドの上で微動だにしなかったイスラフィルの身体が、突然エクソシストの悪魔祓いシーンみたいにビクンビクンと暴れだし、

 

「うわあああああああああーーーーーーーーっっっ!!!」

 

 彼女は突然、大音量の悲鳴を上げて大暴れを始めた。

 

 奇声を発し、両腕両足を振り回してめちゃくちゃに暴れる姿は、まるで本当の悪魔憑きみたいだった。鳳とミカエルが、あまりに突飛なことに身動きが取れず戸惑っていると、

 

「二人とも! 見てないで彼女を押さえるのを手伝ってよ!」

 

 その叫び声に、ハッと我を取り戻した鳳とミカエルは、二人がかりでなんとか彼女の身体を押さえつけたが、身体強化魔法を使っているというのに、それでも彼女の身体が跳ねないようしがみついているのがやっとだった。

 

 そんな大騒ぎをしていると、騒ぎを聞きつけたウリエルと、次いでラファエルが飛んできて、イスラフィルが暴れている姿を見て驚きながらも、押さえるのを手伝ってくれた。そして四人がかりでようやく彼女の拘束に成功すると、これ以上暴れられないように、ミカエルがロープを持ち出してきて彼女の体をグルグル巻きにしてしまった。

 

 正直、病み上がりの人にそんなことするのはあんまりだったが……そうされてもまだ奇声を上げながらビクビク震えている彼女の様子は尋常ではなく、鳳は全身汗だくになりながら、一体全体、何が彼女を錯乱させているのか、同じく全身汗だくのミッシェルに尋ねてみた。

 

「彼女の体にアストラル体が帰ってこないということは、アリス君の時と同じように、別の場所に別の身体があると思ったんだよ。それで、彼女の身体からアストラル体の痕跡を辿ってみたら、とんでもないとこでそれを発見したんだ。どこだと思う?」

「いや、わかりませんって。いいから早く教えて下さいよ」

「なんとレオナルドの迷宮、アリュードカエルマ世界さ。彼女は破壊されたレオナルドの世界に転生されて、蘇っては消滅するということを何度も何度も繰り返してたんだ」

「それは……酷い……」

 

 正直、そんな感想しか出てこないくらい、その事実は悲惨極まりなかった。鳳がこっちの世界に来る時に辿ってきたレオナルドの世界は、今はエネルギーの海に満たされていて、結界が無ければ生物はものの数秒で焼死してしまうような状態だった。そんな場所で、彼女は何年も死と再生を繰り返していたというのだ。

 

「何度も復活したってのは、天使の再生能力でってわけじゃなくて、神が彼女の肉体をあっちの世界に戻そうとしたってことですかね?」

「おそらくそうだろうね。彼女は確か、この世界の異物として低次元世界に追放されたはずだよね? それが戻ってきちゃったから、神はまた彼女を同じ世界に返そうとしたんだけど、その世界が破壊されてしまったことを知らなかったからエラーを繰り返していた、と考えれば辻褄があうんじゃないかな」

「そんな御託なんてどうでもいいから、ラフィールは治るのか?」

 

 鳳たちが彼女の置かれていた状況について話していると、その彼女の兄であるというラファエルが苛立たしげに容態を聞いてきた。ミッシェルは身内の前で少し思いやりに欠けていたかなと反省しながら、申し訳無さそうに、

 

「それは僕からは何とも。今の彼女にはもう身体的な苦痛はないはずだけど、それでも彼女が錯乱しているのは、心的外傷のせいだろうからね。彼女が正気を取り戻せるかどうかは心のケア次第……というか、時間の問題としか言えないかな」

「そうか……もう苦しくないならいいけどよ……ちっ、神の野郎、本当に想定外に弱すぎじゃねえか?」

 

 ラファエルが苛立たしげにそう呟くと、慌ててミカエルが口を挟んできた。

 

「ラファエル、四大天使が神を冒涜するような真似はしてはならない」

「わかってるよ」

 

 彼はそう吐き捨てるように返事ながら、イスラフィルの額に手を翳していた。きっと、癒やしの術を使っているのだろうが、反応がないからもどかしいのだろう。ただそれは、ミッシェルの言う通り、彼女の体には何の問題もないということの証左でもあった。だからその内、正気を取り戻すと思うが、それがいつになるかは神のみぞ知るである。

 

 とにもかくにも、少なくとも彼女が意識を取り戻したことは大きな前進ではあった。鳳たちが病人の居る部屋で立ち話もなんだからと部屋を出ようとすると、ラファエルはミッシェルに礼を言ってから、自分は彼女が正気を取り戻すまで看病するつもりだと、また手を翳しながらベッドの横に座った。そのベッドの上では、まだ興奮しているイスラフィルが、時折ビクビクと跳ねては苦しげな喘ぎ声を漏らしている。

 

 鳳はそんな兄妹を部屋に残してドアを出ると、それが閉じた瞬間にため息を吐いた。額には玉のような汗が滲んでおり、大分気疲れしたのか疲労がどっと押し寄せてきた。彼は汗を拭うと、先を行くミカエルに並びかけながら口を開いた。

 

「やっぱり、神はまだ生きていたみたいだな」

「ああ、そのようだ……どうして再生だけが出来なくなったのかは分からず終いだが……しかし、これでルシフェルがザドキエルの足を引っ張った理由はわかった。奴は、神に魂を拘束されるのを避けたのだ。そしてそれが間に合わなかったイスラフィルだけが、ああなったというわけか」

「そう考えると、先生たちも実はまだ生きているって考えても良さそうだな。ただ、生きているって言っても、ここじゃない別の世界なんだろうけど。それがどこかはアスタルテ先生が知ってそうだが、正気に戻るのにどれくらいかかるか……」

「本当に……我々の体は、神に操作されているのだな」

 

 ミカエルは心ここにあらずといった感じで独り言を呟いている。以前なら神の実在を喜びこそすれ、不安を口にするようなことは無かったろうに、どうやらイスラフィルの様子を見て、自分もああなる可能性があることに気づいて余裕がなくなっているのだろう。神に全幅の信頼を置いていたならそんなこと屁でもなかったろうが、16年前からの一連のトラブルのせいで、今はそれが揺らいでしまっているのだ。

 

 もはや断言できるが、はっきり言って、この世界の神は万能でもなんでも無い。だから神を疑問視する事は大いにやるべきだが、四大天使はこの世界の屋台骨でもある。一先ずは、彼らをこれ以上刺激しないほうがいいだろうと、鳳は話題を変えるつもりで言った。

 

「先生の回復を待ちたいところだけど、そうしてると時間がいくらあっても足りない。その間に、一度ギヨームに会って来たいんだが構わないか? あいつも何か知ってるかも知れないし、色々と話を聞いときたいんだ」

「アイスランドへか。場所柄から空路を使うなら手続きが必要だ。少し待て、モーリシャスのドミニオンに連絡を取ろう……」

「あ、ここに居ましたか、ミカエル!」

 

 ミカエルとそんな話をしている時だった。一人だけイスラフィルの部屋にいなかったガブリエルが通路の先から歩いてきて、鳳たちを見つけるなり早足で寄ってきた。目隠しのせいで表情はよく読み取れなかったが、その様子からして少し慌てているような感じがする。

 

 鳳たちがどうしたんだろう? と思っていると、彼は近づいてくるなり、こんなことを言い出した。

 

「先程、連絡がありまして、どうもアイスランドで火山が活動を始めたらしいのです」

「なに? アイスランドだって?」

「ええ。モーリシャスのドミニオン基地に、定時ではなく緊急回線で、火山のせいで暫く音信不通になるからと、慌てて連絡してきたようです。様子見を兼ね、救援物資を送った方がいいと思うのですが、どうでしょうか?」

 

 鳳たちはお互いに顔を見合わせた。このタイミングで都合よく火山が爆発するなんて、どう考えても作為的としか思えない。しかし、そう考えると、神は天使だけではなく、自然現象すらも操れるということである。

 

 もしもそうなら、自分はどこまで神の計画に乗せられているのだろうか? 鳳は、なんだか自分が怪物の腹の中に入り込んでしまったような、そんな気分になってきた。

 

 この世界に来る前に覚悟はしていたつもりだったが……神という理不尽な存在を敵に回すことの意味を、久しぶりに思い出して、彼は背筋を冷たいものが駆け上がっていく感覚を覚えていた。

 



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最強のテレビっ子

 火山が爆発したという報告を最後に、アイスランドからの連絡は途絶えてしまった。恐らく、噴煙のせいで高高度にある通信気球まで電波が届かなくなってしまったのだろう。となると当然、ジェットエンジンが焼き付いてしまうので飛行機は飛ばせなくなり、モーリシャス経由でアイスランドへ飛ぶことは断念せざるを得なくなった。

 

 とは言え、まったく島に近づけなくなったわけではなく、ミカエルによれば元々アイスランドへ行くには空路は現在殆ど使われておらず、普段からタンカーが行き来しているので、それに乗って行けばいいという話になった。

 

 尤も、それだと片道20日はかかるそうだが……しかし、今は特にやることもない。そんなわけで鳳たちは、タンカーが寄港しているというブリスベン軍港へ向かうことになったのだが、相変わらず飛行機への搭乗を嫌がったアリスは、今回は離陸の時はまだ大人しかったものの、着陸態勢に入った時に騒ぎ出した。

 

「痛……いたたたた……なんか変ですご主人様、耳が痛いです!」

 

 どうやら緊張のし過ぎで疲れでも出たのか、気圧の変化で耳がおかしくなったらしい。彼女は脂汗を垂らしながら痛い痛いと連呼し、

 

「うううぅぅ……駄目です! 耳の中でジャリジャリ音がします。飛行機をもう一度上に戻してくれませんか?」

「いや、そういうわけにはいかないから。降りちゃえば平気だから、もうちょっと我慢して」

「いたたたたた……無理です! 死んじゃう! 死んじゃう!」

「耳抜き! 耳抜きして! 鼻を摘んで唾を飲み込むんだ!」

 

 そんな感じで大騒ぎしながら小型機はブリスベン空港へと着陸し、ぐったりしているアリスをタラップ車に乗せて、また以前のように貨物室へとやってきたら、思いがけずそこにジャンヌの姿を見つけた。

 

 もちろん、その隣には瑠璃の姿もあり、

 

「白様! お久しゅうございます! あなたに再会出来る日を、一日千秋の思いでお待ちしておりましたわ!」

 

 そう言って鳳の方へ駆け寄ってくる瑠璃を見るなり、さっきまで死にそうな顔をしていたアリスの顔は獲物を狙う女豹のように引き締まり、

 

「離れなさい、庶民! 隙を見てその汚い手でご主人様に触れようとするんじゃありません」

「んまあ! またこのチビなの!? いい加減にしてちょうだい!」

 

 二人はやいのやいのと罵り合っている。鳳は、どうしてこんなに反りが合わないんだろうかと、半ば諦め半ばうんざりしつつ、二人のことを無視して、その背後に控えていたジャンヌと琥珀に手を挙げて挨拶した。

 

「よう、お前らも来てたのか。ここに居るのは、偶然ってわけじゃなさそうだな?」

「あなたの護衛にって、ウリエル様に呼ばれたのよ」

 

 そう言うジャンヌの指差す先で、ウリエルがこちらの様子に気づいて会釈を返してきた。サムソンが見つからないよう、これから彼女が政府専用車で軍港まで運んでくれる手はずとなっているのだが、どうせ行き先は同じなんだから、鳳たちも一緒に乗せてってくれればいいのに、どうしてこんな回りくどいことするんだろうと思っていると、

 

「救援物資の積み込みに、まだ丸一日かかるのよ。その間あなたに市中で何かあったら困るから、私達が派遣されて来たわけ」

「なんだ。狙撃されたからって気を使ってくれたのかな? 子供のお使いじゃないんだから、一日くらい放って置いてくれても構わなかったのに……なんか悪いことしたな。なんなら俺からミカエルに言っておくから、おまえらは気にせず帰ってもいいぞ?」

「あんたを市中に野放しにするなんて、そんなわけにはいかないでしょ」

 

 鳳がボヤいていると、どこからともなくスーッと桔梗が現れて、いきなりそんな意味深なことを言い出した。どういうことかと首を傾げていると、彼女は面倒くさそうに仏頂面を作り、

 

「……魔王を倒した後、英雄だなんだって言って、琥珀にテレビの取材が殺到したのよ。その時、尊敬する人は誰? って聞かれて、あんたの名前を出しちゃってさ」

「どうも……」

 

 琥珀は気恥ずかしそうに横を向いて頭を掻いている。最近修行をつけてあげていたから、ぱっと頭に思い浮かんだのだろう。結局、まだ物にはなっていないから、そんなの気にすることはないのにと思いつつ、

 

「ふーん。それとおまえらが護衛するのと何か関係あるの?」

「魔王を倒した英雄ってのは琥珀だけじゃなくて、あんたもでしょ。その後、ミカエル様からの発表もあって……とにかく、ターミナルに行ってみればわかるわよ。花道作ってあるから急いで」

「はあ? 花道?」

 

 何が何だか、わけがわからぬまま桔梗に先導されて、鳳は以前来た時のように、また貨物室から職員通路を通ってターミナルへと歩いていった。何をそんなに急かしてるんだろうと思いつつ、後ろでいがみ合ってるアリスと瑠璃が気になって前方不注意になっていたせいで、さっき桔梗が言っていた花道の意味に気づくのに遅れた。

 

 鳳が、暗い職員通路から、重たい鉄扉を押し開けてターミナルビルへと入っていくと、その瞬間、あちこちからパシャパシャと洪水のようにフラッシュが浴びせかけられて、

 

「きゃああああああああああーーーーーーーーーーっっっ!!!!」

 

 っと、悲鳴のような歓声が沸き上がり、本気で鼓膜が破れそうになった。そんな鳳が度肝を抜かれて放心してると、殺到してくる女性の波に立ち向かうかのように、空港警備員が一列縦隊を作って突進していき、人の壁で道を作った。

 

 四方八方から白様、白様と怒号のようなコールが上がり、何事かと戸惑っていると面倒くさそうな顔をした桔梗に、

 

「とにかく愛想よく、速やかにここを突破して! あれが決壊したら破滅よ!」

 

 と背中を押されて、引きつった笑みを浮かべながらフラッシュの海の中に飛び込んだ。扉をくぐって鳳がロビーに現れるや、歓声は最高潮に達して、それを食い止める警備員たちの顔面もこれ以上無いほど紅潮していた。

 

 押し合いへし合いしながら鳳に手を振る女性の群れは、どうやらみんな彼に好意を向けているようだった。だが、こんなジャニーズみたいな扱いには慣れていない鳳には、どちらかといえばここが桜田門にしか見えなかった。

 

 興奮しすぎて失神したのか、人混みの中で倒れた女性が、背後の方に引きずり出されて水揚げされた魚みたいに積まれていく。そんな地獄のような光景を尻目に、どうにかこうにか狭い『花道』を通り抜けた鳳は、ロビーを突っ切ってまた職員用通路に案内されて、防火扉がズシンと音を立てて閉じられた瞬間、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

 

「な、なんじゃこりゃ? 何が起きてるの?」

「だからさっきも言ったでしょ。あんたは琥珀と共に魔王を倒した英雄なのよ。それがこの世界に一人しかいない男だってことが判明したから、今SNSを中心に世界中あんたの話題でもちきりなのよ。あそこに居たのは、全員あんたのファンって言うか、精子提供を受けたくて仕方なくて集まってきた人たちよ」

「うそ~ん……あれ全部?」

「あれ全部」

 

 鳳は冷や汗を垂らしつつ、

 

「それはわかったけど、別にセックスするわけじゃないんだから。精子提供なんて順番が回ってくるのを待つしか無いだろうに、どうしてこんな集まってくるんだよ……いや、そもそも、そんな騒ぎになってるんなら、お忍びで来れば良かったじゃないか。どうしてみんな俺が来ることを知ってたわけ?」

「それについてはすぐ説明があるから。先方をお待たせしてるから、いつまでもそんなところに座ってないでちゃっちゃと歩いてちょうだい」

 

 桔梗はまるで鳳のスケジュールを管理するマネージャーにでもなったかのように、彼のことを引っ張った。そんな彼女の後を嫌々ついていくと、以前に来た時にも通された職員用の休憩室の中に、数人のパリッとしたスーツを着た女性が待機しており、鳳の姿を見るなり立ち上がって欧米人みたいに白い歯をキラリと輝かせ、握手を求めてきた。

 

「はじめまして、鳳白様! 連邦テレビ局から来ました。本日は私達のワガママを聞いてこうしてお時間を割いていただき有難うございます!」

「はあ、どうも……連邦テレビ?」

「早速ですが今日はスタジオにて三本ほどの収録の合間に雑誌取材をさせていただきますが、後日出来ればまたCMの依頼などを引き受けてくだされば我々としても大変有り難い話なのですが、今日のところは時間も押していますしこのまま局の方までご同行いただけましたら……」

「ちょちょちょ、ちょっとまってちょっとまって。テレビってなに? 収録って……俺テレビに出演するの?」

「え? はい。もちろんそうですけれど」

「そんな話聞いてないんだけど。やだよ俺、見世物じゃないんだから」

「え?」

「え?」

 

 テレビ局の人らしきスーツの女性と一緒に、なぜか桔梗まで青ざめていた。なんでこいつはさっきから仕切ってるんだと思いきや、

 

「ななな、何言ってんのよ、鳳白! あんたが断ったら私がペ様の色紙が貰えなくなっちゃうじゃないのさ!」

「知らんがな。ペ様って誰だよ?」

「そんなことも知らないの!? 冬のアナタの主人公に決まってるでしょう!? メガネの似合うとってもチャーミングでキュートなレズよ!」

「レズを強調するなレズを」

 

 鳳はやれやれとため息を吐くと、

 

「って言うか、なんだよそれ? お前、そんな物が欲しくて俺のこと売ったわけ? 何の権限があってそんな勝手なことすんだよ」

「あんた馬鹿? 私にそんな権力があるわけないじゃない」

「じゃあ、なんでこんなことになってんだ?」

 

 するとテレビ局の人が腰を低くしながら割り込んできて、

 

「それにつきましては我々から……実は取材中、本日鳳白様が滞在なされるホテルから近々あなた様がいらっしゃられるという情報を聞き及びまして、それならば是非我々の番組にも出演していただけないかと、無理を承知で神域に問い合わせたところ、ミカエル様が鳳白様のお人柄を周知するには丁度いい機会だとおっしゃられて、直々に許可をいただけまして……」

「コンプライアンス!」

 

 鳳が飛行機に乗っている間に問い合わせが来て、勝手に決めてしまったということだろうか? いや……それなら空港でジャンヌ達が待っているわけがないのだから、もっと前から決まっていたのだろう。多分、ウリエルも一枚噛んでいたから、サムソンのことを理由にして、そそくさと逃げ出したのではなかろうか。

 

 鳳は憮然としながら、

 

「事情は分かったけど、テレビはちょっとなあ……あなた達は俺のことを知りたいのかも知れないけど、俺の方は寧ろ知られたくないっていうか。下手なイメージつけられちゃうと、精子提供するのにも悪影響を及ぼしかねないから」

「決してあなた様の悪いイメージを広めるようなことはいたしませんから」

「良い悪いじゃなくて、父親のイメージがついちゃうのが良くないって思ってるんだよ。生まれてくる子供たちはみんな、俺のことなんて思い出さずに、母子関係だけを大事にして育った方が良いと思うんだ」

「何と素晴らしい! あなたのその高潔な精神をテレビの前の皆様にもお伝えするのが我々の義務だと思うのです」

「いや、だからそれが嫌だと言ってるんだけど」

「おっしゃることはごもっとも! でもそこをなんとか!」

「うーん……困ったなあ」

 

 出演を強引に迫るテレビ局の人は追い詰められたように目を血走らせていた。多分、ここで鳳を逃したら相当まずいことになるのだろう。彼女の今後のことを考えると可哀相だから助けてやりたくもあったが、精子提供のことを考えるとやはり気が進まなかった。

 

 しかし、そうして鳳がどうやって断ろうかと頭を悩ませている時、急に彼の腰のあたりがグイグイと引っ張られた。どうしたんだろう? と振り返れば、そこには目をキラキラさせたアリスが、私気になりますとでも言いたげに、鳳のことを見上げており、

 

「ご主人様。テレビに出られるんですか?」

 

 そう言えば、テレビっ子がここにもう一人いるのを忘れていた。鳳は、そんな彼女の純粋な圧力を前に、追い詰められていたのは寧ろ自分の方だと悟るのだった。

 



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鳳白がやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!

 目貼りした改造バンに乗せられ、夜逃げするかのごとく空港から運ばれた先は、だだっ広い地下駐車場だった。暗がりに整然と黒塗りの高級車が並んでいる様子は不気味で、ヒットマンに始末でもされるのかとドキドキしていたら、どうやらそこはテレビ局の駐車場らしかった。

 

 これらはみんなタレントや局員の乗用車らしく、神の下での計画経済が実行されているはずの世界に、当たり前のように格差が存在しているのを目の当たりにして、どこの共産国だとなんともしょっぱい気分になった。

 

 空港で出会った局員に連れられ、まずは社長とか局長とかお偉い人々に引き合わされて、一通りの社交辞令を交わした後、もう帰りたい気持ちを懸命にこらえながらアリスのためにスタジオまで足を運んだ。彼女はここのところ毎日見ていたテレビ局のスタジオに来れてよほど嬉しかったのか、大はしゃぎで観覧席の一番前に陣取っていた。身を乗り出さずとも、鳳の顔なんて毎日見飽きているだろうに、何がそんなに楽しみなのだろうか。

 

 前説っぽいスタッフが出てきて、観覧席に向かって話をしている間、鳳と琥珀は楽屋で別のスタッフに台本を渡され、軽い打ち合わせをさせられた。一本目の収録は人気のバラエティ番組のようで、司会者と掛け合いながらミニゲームをしたりクイズをしたりする番組らしい。てっきりニュース番組のゲスト程度だと思っていたら、このテレビ局は本気で鳳たちを使い倒すつもりのようだ。強引に連れてきて断れない状況に追い込んで、テレビ業界とは恐ろしいところである。

 

 マジックテープで作った服を着てトランポリンでジャンプして壁に飛びついたり、先端に針のついたおもちゃの電車が風船を割る前にクイズに答えてこれを回避したり、相方がルームランナーでダッシュしている間だけ解答権があるゲームで記憶力を試されたりと、どこか既視感のあるようなミニゲームを淡々とこなしていたら、鳳の名が一躍知れ渡った切っ掛けになったという琥珀の質問というのが飛び出した。

 

「では、これが最後の問題です……魔王討伐後のインタビューで、武田琥珀さんが尊敬する人として挙げた人物、3人の名前を全部お答えください!」

「え!? ちょっ! 待って!?」

「3人ですよ~? 3人! 鳳白さん走って! 早く! 時間がない!」

「うおおおおおおおーーーーっっ!!」

 

 鳳がルームランナーで思いっきりダッシュすると、解答権を現すランプが点灯した。解答者が答えきるまで時速15キロをキープしないといけないので割ときつかった。鳳が、さっさと答えろと目配せをすると、琥珀は目をあっちこっちに泳がせてからやがて観念したかのように、

 

「ジャンヌ隊長……友達の瑠璃と……ごにょごにょ……」

「んー? よく聞こえませんねー? 誰ー?」

「……くっ、鳳白さんです!」

 

 琥珀がヤケクソになって叫ぶと、観覧席から一斉に茶化すようなヒューヒューという歓声が挙がった。タイミングが良すぎるから、きっと前説の仕込みだろう。見ればアリスも一緒になって掛け声を挙げていたが、瑠璃と違って琥珀なら別にいいのだろうか……? なんだか釈然としないものを感じながら、司会者の正解の声と共に減速し、ぜえぜえと息を切らして横を向いたら、琥珀もフルマラソンでも走ってきたような顔でげっそりと俯いていた。

 

 そんな羞恥プレーを散々やらされたせいで、鳳も琥珀もくたくたになってしまったが、観客席は対象的に忌々しいくらい盛り上がっていた。もう帰りたくて仕方なかったが、これで最後だと思って我慢していると、テンションの高い司会者が観客を更に煽るように高らかに宣言した。

 

「鳳さん、琥珀さん。お疲れさまでした。さあ、やってまいりました、本日最後のミニゲーム! これに勝てば今までに集めたダーツが、なんと2倍になります……その名もスーパーホッケー! 対戦相手はお馴染みのこの二人!」

「愛と書いてめぐみです」

縊死(いし)ちゃんでーす!」

 

 もはや何も言うまい……どっかのパチモンっぽい芸人が飛び出してくると、観客は一斉に二人に向かってキャアキャア黄色い悲鳴を浴びせかけ、一体、自分らが今までやらされてきたゲームは何だったのかと言いたくなるほど、スタジオは最高潮に達した。

 

 その後、無敗を誇るというコンビから、スーパーホッケーと言う名のエアホッケーで勝利し、これで無敗のコンビの107勝111敗とかしれっと言い出す司会者を殴りたい衝動を抑えつつ、一本目の収録はようやく終わった。因みにパジェロは当たらなかった。

 

 楽屋で琥珀と二人っきり、疲労と羞恥心で気まずい空気に耐えていると、先程の芸人コンビが挨拶に来て、自分たちもいずれ精子の提供を受けるつもりだと真顔で言われて何とも微妙な気分になった。それにしても縊死ちゃんとは思い切った名前である。

 

 その後、収録の合間に雑誌のインタビューを受けていたら、そのまま休み無く次の収録に呼ばれた。二つ目の番組は○ツコの部屋という50年も続く長寿番組らしく、撮影前にディレクターがわざわざやってきて、司会者は業界でも屈指の重鎮だから絶対に怒らせないようにと念を押され、再来日したタトゥーのような心境でしずしずとスタジオに赴いたら、

 

「ねえ、ちんこ付いてるって本当なの? 見せなさいよ~」

「○ツコって、デラックスの方かよっ!!」

 

 いざ対談相手の顔を拝んで見れば、ハワイ出身の関取みたいな巨大なおばちゃんが出てきて、俺の緊張感を返せと反射的に張り倒したら、スタッフには受けたがディレクターは青ざめていた。

 

「どんな形状してるの? 私のクリトリスとどっちが大きい?」

「知らんがな。ちんこよりデカいクリトリスがあったら怖いわ」

「そんなに大きいの!? 何センチくらい?」

「言わなきゃ駄目? マジ? ……日本人の平均は12センチくらいだって言うから、それで勘弁してよ」

「12センチ!? そんなに大きかったら歩いてるだけで擦れてイッちゃわない?」

「ちんこには皮がついてるから、平気なんだよ」

「クリトリスにも付いてるじゃない」

「フルプレートアーマーみたいに頑丈なんだよ! 柔軟性もあってこう……あ、いや、俺は被ってないよ!?」

 

 まるで男子中学生の霊を宿しているかの如く、ちんこへの興味が尽きない○ツコのせいで、対談は徹頭徹尾シモの話で終った。普通に受け答えしているように見えるかも知れないが、基本的に一回返事する度に一発殴っていたせいで、終わり頃には腕が麻痺して感覚が無かった。

 

 こんなのが50年も続いたのかと思うと呆れ果てて物も言えないが、耐久力だけは確かなことは身を持って体験したので、無事これ名馬とはこのことだろう。因みに収録が終わってもちんこを見せろと迫る○ツコを張り倒して楽屋へ戻ると、待機していた護衛のジャンヌたちが、妙に腰のあたりをチラチラ見てきて落ち着かなかった。

 

 どうでもいいが、放送禁止用語を連発していたような気がするが、ちゃんと修正は入るのだろうか。思えばこの世界には男が居ないんだから、ちんこは生物学的な意味でしか使われていないかも知れない。自分の声をテレビなんかで聞きたくないから放送を見るつもりもないが、その辺だけはちょっと気になった。

 

 そんな感じでバラエティ番組の出演が続いたからもう諦めていたのだが、3つ目の収録は意外にも真面目な公開討論番組だった。それはそれで気疲れするなと思いつつ、スタジオに案内されたら出演者が座る円卓には見覚えのある顔が並んで居り、

 

「やあやあ、飛鳥くん、久しぶりー。今は鳳くんって言うんだっけ? みんなみたいに白様って呼んだ方がいいのかなあ。あっはっは! 白様だって。今日はよろしく頼むよ」

「どうもどうも主任さん。好きに呼んでください」

 

 一人はケアンズでオリジナルゴスペルを管理していた神楽やよいである。今日はどうも新型ゴスペルの開発者として呼ばれたらしく、番組の冒頭でその辺の裏話をするらしい。それからもう一人、今回の件に絡んでそうな人物もいて、

 

「あ! ウリエルさん! あんた、空港から逃げたと思ったら……こんなことになってるって知ってんなら事前に教えといてくださいよっ!」

「す、すみません……ミカエル様に内緒にしておくように言われて」

「やっぱ諸悪の根源はあいつだったか」

 

 一体、何を考えてこんな真似をしたのだろうか。人類の鳳への好感度を上げたかったからなのか、それとも単なる嫌がらせなのか。その可能性も否定できないので何とも言えなかった。

 

 因みに、ウリエルがここに居たのは、主に鳳がうっかり禁忌に触れてしまわないか監視するためだったらしく、

 

「つまり、ボースアインシュタイン凝縮下ではフェルミオンは第4の方角w軸上を移動し、見かけ上はコヒーレンス状態を取りうるわけじゃないですか。その時、我々3次元人の目には2つの粒子が重なり合って見えてるわけですが、それは実際にはw軸上に2つの粒子が並んでいるとも考えられる。これがどういう意味なのかって突き詰めて考えると、それはw0、w1の2つの世界に枝分かれする分岐点とも捕らえられる。ところでこの次の瞬間、2つの粒子は不確定性原理によってまったく別々の未来へ向かうことになるわけですが、するとw0、w1に別れた2つの世界は排他律に従い、もう交わってはならないことになる。だから平行世界の境界は事象の地平面(イベント・ホライゾン)になってるんですね。イマジナリーエンジン内にあるブラックホールはつまりこの2つの世界の境界なんです。こんな小さなゴスペルの中に世界があるの? ってみなさん思われるかも知れませんが、ブラックホールってのは要は4次元に空いた3次元の穴のことだから、実際にはこれをくぐった先はここと同じ宇宙が広がっていると思ってください。俺はその世界から情報体として渡ってきたんですが……」

「あー! あー! もう結構! わかりました。わかりましたから、新型ゴスペルが活躍したって話はもう十分に伝わりましたから、その辺で!」

「……新型の話はまだ何もしてないんですが?」

「鳳様。他の出演者さんたちもぐったりしていますし」

「……もしかして、これも話しちゃ駄目なの?」

 

 番組が始まると、鳳がどこからやってきたのか、新型ゴスペルの知識はどこで仕入れたのかと当たり前のように問われ、彼はなんでも話そうとしていたのだが、四大天使たちは逆に知られることを嫌がっているらしく、度々ストップをかけられた。

 

 どうも彼らは、この世界の成り立ち……というか神の正体を知られたくないらしく、鳳が大昔の地球に住んでいたことや、第5粒子や並行世界の話をして欲しくないようだった。

 

 とは言え、鳳は紛れもなく別世界からやってきたので、その辺のことに触れないで話をすることは不可能に近く、奥歯に物が挟まったような、尻切れトンボな話が延々続いた。

 

 するとそんな隠蔽体質な天使の声に、なんだか常に怒ってる感じの弁護士が被せてきて、

 

「ウリエル様。あんたたちはそうやって仲間内だけで何でも解決しすぎなんじゃないですか。もっと人類の集合知や自治を認めなさいよ。今回の件だってね、最終的に魔王が退治されたからいいものの、元はと言えばアズラエル様がその魔族を招き入れたことについては、まだ議論がされ尽くしていないんじゃないですか! これを総括せずして、なし崩しに彼女を無罪放免するのは無責任が過ぎる!」

 

 何だか妙にいらついてると思っていたら、弁護士はアズラエルを糾弾する勢力の回し者だったらしい。まあ、彼女がやったことはあまり褒められたものじゃなかったから、忌避する者が出るのも仕方ないだろうが……

 

「総括も何もアズラエル様をどのような罪に問えると言うのですか? あの方が純粋に善意のみに依って行動していたのは、誰の目にも明らかです」

「その善意の押し売りで人類が滅びかけたのですよ? もしもそうなっていたら、今頃こんなこと言ってられなかったのに、すべて無かったことにするのはいくらなんでもおかしいでしょう!」

「ダーウィン撤退戦での彼女の自己犠牲が無ければ、そもそもケアンズ基地すら守れなかったかも知れないんですよ? 例えその後の彼女の行為に失策があったとしても、同情こそすれ糾弾するのはそれこそおかしな話じゃないですか」

「同情で人類が滅んでいたとしたら、堪ったもんじゃないじゃないですか!」

「ではあなたはどうすればいいとおっしゃるのですか?」

「だから裁判が出来ないなら、国会招致するなりなんなりして総括し、アズラエル様を刑罰に処するべきだと言ってるのです。これ以上、天使のスタンドプレーに人類が巻き込まれないようにですね……!」

 

 ズシンと音がして円卓がビキビキと震えていた。よく見ればにこやかな笑みを浮かべたまま、ウリエルの指が円卓に突き刺さっている。

 

「あなたは熾天使(セラフィム)たるアズラエル様を、人間ごときが罰せよと?」

「ごときとはなんですか、ごときとは。天使のその高邁な態度が今回の騒動を引き起こしたんだ!」

「わー! わー! わー!」

 

 鳳は二人の間に割って入り、今にもキレそうなウリエルを押し留めた。弁護士は、ウリエルが人間を害せないとでも高をくくって強気に出てるのであろうが、実は殺せないだけで半殺しには出来ることを知らないのだろうか。

 

「二人とも穏便に! 本人が居ないところでその処遇をどうこう言ったってどうしようもないんだから。それに、彼女の罪を糾弾するなら、貢献の方も考慮しなければフェアじゃないでしょう? 彼女がいたお陰で、人類はメラネシアを奪還し、引いてはその勢力圏をインドネシアまで伸ばせたんですよ?」

「それは……アズラエル様がまた裏切らないとも限らないじゃないですか」

「あなたねえ! あの方が人間を第一に考えて行動したから今回のことが起きたのですよ! その彼女が裏切るわけないじゃないですか! 彼女を侮辱するような言葉は謹んでください!」

「まあまあまあまあ!」

 

 そんな感じでいつの間にか鳳が司会進行役みたいになって討論会は進んだ。元はと言えばウリエルが止める役のはずなのに、いつの間にか逆転しており、自分は何をやらされてるんだろうと呆れつつ、人類にも色んな連中がいるんだなと落胆しながら、彼はカメラの前でキレちゃわないようウリエルの手綱を引き続けた。

 

 白熱の討論会では何時間も激論が交わされ、これ以上ウリエルの機嫌を損ね続けたら放送免許停止もあり得ると危惧した局員が止めに入るまで収録は続いた。収録が終わるとほとんどの出演者が疲れ切って無言で去っていく中で、ウリエルだけはまだ一人で興奮気味に鼻息を鳴らしていた。今日の宿泊先には彼女が車で送ってくれることになっていたが、果たして生きてたどり着けるか不安になった。

 

 結局、アリスの持つアイギスが普通の乗用車には収まりきらないから、また局員が運転するロケ車に乗せられテレビ局を出たのだが、その頃には落ち着きを取り戻していたウリエルが、今度は後悔が押し寄せてきたらしく、

 

「申し訳ございませんでした、鳳様。フォローするはずが、逆に助けていただいて……もしもあのまま続けていたら、今頃神域に帰れなくなるところでした」

「いや、生放送じゃないんだから平気でしょ。しかし、驚いた。この世界にもいちいちマウント取らなきゃ生きてけないようなのがいるんですね。そういや俺の情報も、最初はSNSで拡散したんだっけ」

 

 そんな他愛のない世間話をしながら、テレビ局が用意してくれたという高級ホテルへ辿り着いたら、支配人が飛んできて最上階のスイートルームへ通された。5つも6つも綺羅びやかな部屋が続いている巨大なスペースには、先に来ていたジャンヌたちが既に我が物顔で闊歩しており、シャンデリアの吊り下げられたリビングでは、桔梗がテレビ局で手に入れたサイン色紙をカルタみたいに並べていた。

 

 こいつら役に立たないし、別に追い出しても構わないよな……? とか思っていると、部屋の窓から綺麗な夜景が広がっているのが見えて、思わず見惚れてしまったが、よくよく考えてみると狙撃し放題じゃないかと慌ててカーテンを引くため窓に近寄っていったら、いきなり外からきゃああーっと黄色い歓声が上がって面食らった。

 

 見ればホテルの周りには無数の女性が詰めかけており、鳳の居るスイートルームを見上げていた。沿道に集まった彼女らが車道に飛び出さないよう、警官が交通整理をする中、あちこちからフラッシュが焚かれて、もう夜中だというのにまるで昼間みたいに明るく輝いていた。

 

 正直、こんな状況ではもう身を隠したところでどうしようもないだろう。鳳はいっそのこと狙撃するならしてくれという気分になり、カーテンを引くのではなく、逆にバルコニーに出て外に集まる人々に向かってにこやかに手を振ってみせた。

 

 沿道の女性たちからは笑顔が溢れ、鳳に向かって一生懸命手を振り返している。まるでビートルズにでもなった気分だった。これでもまだ彼のことを撃ちたい者がいるというなら、それは有名税だと思って諦めよう。そう思いながら、彼の忙しい一日は過ぎていった。

 



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げへへ、いいの入ってますぜ

 普通に生きていれば船に乗る機会なんてそうそう無いから、タンカーというものを生まれて初めて目の前で見た時は、その大きさに度肝を抜かれた。テレビなんかで割とよく見ているイメージがあったが、遠目に映像で見るのと、実物が目の前にあるのとでは大違いである。

 

 全長300メートルくらいあるから良く東京タワーと比較されるが、その東京タワーも下から見あげた事がある人は案外少ないのではないだろうか。サンシャイン60とか東京都庁舎よりもまだ2割位デカイ物体がそこにある言ったほうが、その馬鹿げた大きさを想像しやすいであろう。そんなものが目の前にあった。

 

 港に設置された巨大クレーンの周りを作業員が忙しそうに走り回り、船にコンテナを積み込んでいるのを横目に見ながら、まるで梯子みたいに急なタラップをおっかなびっくり登っていくと、そこには下手な学校のグラウンドよりも広大なスペースが広がっていた。

 

 ここまで大きいと逆に海に浮いているのが不思議になってくるが、意外にもアリスは飛行機と違ってそれほど怖がることはなかった。どっちも鉄で出来ているというのに、何が違うのだろうか。

 

 下から見上げていた時は、次々に積み込まれるコンテナに甲板が埋め尽くされている姿を想像していたが、上がってみれば真ん中にちょこっと積んであるくらいで、甲板は思いの外ガラガラだった。向こうに持っていく救援物資が主だからか、重量の殆どは船を安定させるためのバラスト水らしく、帰りは水を捨てて原油を満載してくるそうである。

 

 アリスに船内に荷物を運んでくれるように頼むと、鳳は一人甲板に残って作業員たちがコンテナを固定する様子を眺めていた。するとタラップを使わず、空を飛んでウリエルが現れ、ソワソワと周囲を確かめながら、

 

「あの……それで、例の物は持ってきていただけたのでしょうか……」

「げへへ、いいの入ってますぜ、奥さん」

 

 鳳はゲス顔でそう言うと、ポケットに予め忍ばせておいたアンプルを取り出し、彼女の顔の前で振ってみせた。ウリエルは頬をカーっと赤らめサッとそれを引ったくると、人目を避けるように持ってきたジュラルミンケースに大事そうに閉まった。

 

 ちょうどその時、たまたまジャンヌがデッキに出てきて、二人を見つけ、何をしているんだろうと近寄って来た。するとウリエルはまずいところを見られたと言わんばかりにそそくさと、

 

「そそそれでは、私はこれで……鳳様。よい旅を!」

 

 彼女はそう吐き捨てるように言うと、慌てて船から飛び去って行ってしまった。まるで密輸でもしているかのような行動を見て、ジャンヌは首をひねりながら鳳のとこまで歩いてくると、

 

「あなた、一体彼女に何を渡していたの? ヤバいものじゃないでしょうね」

「精子だ」

 

 ジャンヌはブーっと吹き出し、勢い余ってゲホゲホ咳き込みはじめた。気管に唾液でも入ってしまったのだろうか。鳳はそんな彼女のことを見下ろしながら、

 

「ウリエルさん、これからケアンズのアズにゃんとこまで行くらしいんだけど、ミカエルの許可も出たし、前から寄越せってしつこかったから、早く持っていってあげたかったんだってさ。昨日、お願いされたんだけど、おまえらが部屋を占拠してたせいで気軽にピュッピュできなかったもんだから、さっきここに来る途中、多目的トイレでこっそりと済ましてきた」

「そんな細かい状況までいちいち報告しなくっていいわよ」

「そう? どうやったら精液が出るか知りたくない? こう、手で握って上下にだね」

「それくらい知ってるわよ! いいから黙りなさい。品のない人ね」

 

 女しか存在しない世界だから何も知らないはずだが、知ってるってことは、どうやらジャンヌは男だった頃の記憶があるらしい。きっとそれは漠然としたものなのだろうが、彼女の記憶がどこまで前世界の記憶を保持しているのか、ちょっと興味が湧いた。このまま放っておけば、そのうち全部思い出すのだろうか。

 

 そんな事を考えていると、ジャンヌはウリエルが飛び去ったほうを感慨深げに眺めながら、

 

「でも、そう……これでいよいよ、人類は自力で繁殖が可能になったのね」

「まあ、そうだなあ……これで本当に良かったのか分からないけど」

「ただ座して滅びを待つよりは、ずっといいわよ。人口減のせいで、既に社会には色々悪影響が出てきてるわ。格差が広がって、自暴自棄に職場放棄する人が増えて、インフラを維持するのさえ諦めていたところに、第2世代が育って後を継いでくれる希望が湧いてきたんだから、良いことはあっても、悪いことなんて何も無いわよ」

「そうかな。でも、生まれてくる子供たちは、そのせいで魔族との戦いを強いられるわけだろう。そう考えると、俺のしたことは正しかったのかって考えちまうんだよね」

「それは考えすぎよ。まず生まれてこなければ、人間は幸福も不幸も感じられないでしょうに。そして自分が幸福かどうかなんて、その人にしか感じられないことなんだから、あなたが決めつけるようなことじゃないわよ」

「うーん……そうか。そうかもなあ」

 

 少なくとも、鳳は他人からすれば大変な人生を歩んでいるように見えるかも知れないが、自分の人生が不幸だったとは思っていなかった。世界で最も裕福な国の子供と、最貧国の子供とで、笑顔はどこか違って見えるだろうか。立脚する場所によって、幸せのかたちが違うだけだ。だから、この世界の人々は平等に魔族の脅威に晒されていると考えれば、後は彼らが彼ら自身で幸せになるしかない。他人が出しゃばる問題ではないのだ。

 

「結局どんな親だって、子供が健康に育ってくれることを願うことくらいしか出来ないわよ。あとはその子次第で、あなたが責任を感じることじゃないわ」

「そうか。そうかもなあ……なんか愚痴みたいになっちゃったけど、話を聞いてくれてありがとよ」

 

 鳳が感謝の意を表すると、ジャンヌは少し照れくさそうにそっぽを向きながらこんな事を言いだした。

 

「別にいいわよ。そんな風に思われていたら、私も赤ちゃんを生む時、後ろめたい気分になっちゃうもの」

 

 それを聞いて、今度は鳳がブーっと吹き出す番だった。彼はゲホゲホと咳き込みながら、

 

「ちょっ……ちょっと待て、ジャンヌ? おまえ、まさか精液提供が解禁されたら、自分も出産するつもりなのか!?」

「ええ、そうよ? 悪い?」

「ダメダメダメ、絶対ダメ! おまえ、何考えてんだ!?」

「何でよ。別にセックスするわけでもないんだから、あなたに断る必要はないでしょう? 普通に役所で申請するつもりだったけど……」

「いや、駄目だって、おまえ忘れてるかも知れないけど、そもそもこっちの世界の住人じゃないじゃん?」

「そうね……でも、そんな記憶は無いんだし、私はもうこっちの世界に骨を埋めるつもりなんだけど。なら、少しでもこの世界の役に立てるようにしたほうが良いでしょう?」

「良くないっての。おまえ、今は記憶が無いからそう思ってるだけで、もしも思い出したらあっちに帰りたくなるに決まってるぞ。だから絶対やめとけって!」

「そんなの分からないじゃない。さっきからなあに? 難癖ばかりつけて、どうしても私が子供を産んじゃいけない理由でもあるの?」

「あるよ。説明しづらいけど。いや、そもそも、俺の子供を産むってのが有り得ないっつーか、やっちゃいけないっつーか……ちょっと色々あるんだよ。サムソンにも悪いし」

「なんで私があの猿のことを気にしなきゃいけないのよ?」

「それは……その……ホント色々あんだって!」

 

 鳳は、一体どこまで話して良いのかさっぱりわからず、頭をバリバリと掻きむしった。彼女に前の世界の出来事を話して聞かせるのは簡単だが、例の帝都でのやり取りを思い出す度後ろめたくなるので、正直それはやりたくなかった。それに、サムソンがれっきとした人間で、彼女のことを追って無茶して世界を渡ってきたことも、自分の口から言って良い事とは思えなかった。彼女は自分自身でそれを思い出すべきだ。

 

「あーもう! とにかく、おまえは禁止な! 本当にやめろよ? 隠れて出産とかすんなよ!? 絶対絶対、後悔するんだからな!」

「なによー! なんなの、一体」

 

 鳳はそれだけ一方的に告げると、悶絶するかのように頭を抱えながら、足早にどこかへ駆けていってしまった。ジャンヌはその後姿を唖然と見送りながら、どうして彼があんなに嫌がったのか、不思議でしょうがなかった。

 

 ジャンヌはヤレヤレと肩を竦めてため息を吐いた。彼女は自分が元々こっちの世界の住人でないことは知っていた。きっと前の世界で何かあったのだろうが、しかし今となってはそんな何も覚えていない世界のことよりも、こっちの世界で生きることのほうが彼女にとっては大事なことだった。だから、自分もこの世界に貢献できるよう、たくさん子孫を残したいと思ったのだが……

 

 彼女はそんなことを考えながら、学校の運動場のように広々とした甲板をぼんやり見渡した。甲板のあちこちには今、ジャンヌの部隊の隊員たちが、船員の邪魔をしないように思い思いの場所に散らばっていた。

 

 昨日のテレビ出演やホテルでの一件もあって、鳳の好感度はうなぎ登りでもう護衛の必要もないのであるが、実は今回のアイスランド行きに当たって、また彼女の部隊が駆り出されていたのだ。

 

 彼女の部隊は若い子が中心でフットワークも軽いし、なんやかんや全員が新型ゴスペルを装備している精鋭でもあるから、上も使いやすいのだろう。特にジャンヌは、自分が元プロテスタントであったことを悔いて、この世界に貢献したがっているので、何かと面倒事を押し付けられやすい傾向があった。

 

 だから今回も完全にババを引かされた形で、隊員たちには巻き込んでしまって申し訳ないと思っていたが……しかし彼女らもそんな隊長に慣れてしまったのか、特に嫌がる様子もなく、今となってはこの状況を結構楽しんでいるようだった。

 

 瑠璃と琥珀は言わずもがな、桔梗もアリスと仲良くなったらしく、二人で何かを熱心に話していた。その他の隊員たちも、得難い貴重な体験が出来ることを純粋に楽しんでくれているらしい。

 

「サムソンさん、サムソンさん」

 

 そしてそんな隊員たちの中に一人、珍しくサムソンに懐いている隊員が居た。楓はマダガスカルで怪我を負い、サムソンに抱かれてベヒモスから逃げ切って以来、ずっと彼に恩義を感じていたらしい。魔族という種族の問題があって、彼はあまり表に出てこないから、今まで殆どお礼らしいお礼も言えなかったが、今回は船の上で隠れる必要もなく、ずっと一緒に居られるのでこの機会にお礼をしようと張り切っているらしかった。

 

 いつものように修行をして汗をかいているサムソンにタオルを差し入れたり、手作りのお弁当を持っていったりと、種族の壁を超えて甲斐甲斐しく尽くす姿は、傍目にも美しく見えた。

 

 だが、ジャンヌはそんな光景を遠くの方から眺めながら、なんだかもやもやした気分になっていた。それは魔族に自分の部下が傷つけられないかという不安か、それとも、さっき鳳が口走ったように、前の世界で自分と彼の間に何かあったのだろうか……記憶がないせいでそのもやもやの正体が判然とせず、ジャンヌはただ複雑な心境で、二人の姿を目で追っていることしか出来なかった。

 



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大海の覇者

 オーストラリア東岸からアイスランドまで約2万キロ、ほぼ地球半周ほどの距離を船で走破するには、およそ30日程度の時間がかかる計算だった。故に、その間に火山活動が終息し、結局飛行機を使ったほうが早いという可能性も十分にあったが、何しろ自然が相手では先のことなんて分かるわけがないから、結局、何も考えずに船に乗るしか他にやれることはなかった。

 

 そんな消極的な理由で船に飛び乗ったわけだが、船旅は思ったよりも快適で、オーストラリアに残って、またテレビなんかにキャーキャー追っかけられるよりはこっちの方が断然気楽ではあった。

 

 360度、見渡す限り何もない大海原を眺めていると、この世界にたどり着いた日のことを思い出して憂鬱になったが、今回はあの時とは違って、船には大量の食料もあり餓死する心配はなく、仲間も大勢いるから退屈することもなかった。

 

 船が巨大だからか、嵐でも起きない限りタンカーは殆ど揺れもなく、広い甲板の上では運動どころか球技まで出来て、停泊時には釣りをやったり、休みの日にはバーベキュー大会まで開かれた。向かう先が被災地であることを思うと、多少罪悪感も感じられたが、これだけ長く同じ場所にいると、共同体意識を育むためにもこういったイベントは結構大事である。

 

 船旅ならアナザーヘブン世界でもやった記憶があったが、あの時は揺れる帆船の中で仲間たちがゲーゲー吐きまくり、鳳はその横で大麻をスパスパ吸っていたはずだ。それを思うとやはりテクノロジーとは偉大である。

 

 ブリスベン港を出るとタンカーはまず進路を南に取り、南極海に沿って西に進んだ後、喜望峰を回って大西洋のど真ん中を一気に北上するという航路を進む予定であった。その間、一度も寄港することもなく、陸に近づきさえもしないのは、言わずもがな水棲魔族を恐れてのことである。

 

 今となってはその杞憂はなくなったわけだが、それでもまさかスエズを通っていけるわけもなく、結局は同じ航路を通るしか無かった。マダガスカルを過ぎれば、もう人類の生存する拠点は無いというのに、そんな僻地に基地を作ってまで固執している理由は、ミカエルが言っていたように、石油確保の問題があったからである。

 

 オーストラリア大陸は資源に恵まれ、なんでもあるようなイメージがあるが、意外にも石油の埋蔵量は少なく、外から調達してくるしかなかった。幸いなことに、目と鼻の先のニューギニアには結構大きな油田があったから、昔はそんな心配をしなくても済んでいたのだが、知っての通り、水棲魔族の拡大以降その調達先が奪われてしまい、人類は危機に陥っていた。

 

 北海油田はそういう緊急事態に備えて予め調査、そして確保がされていたわけだが、どうしてこんな地球の裏側みたいな場所が選ばれたのかと言えば、それこそ僻地にあるからだった。油田の確保にあたって一番の難題は言うまでもなく魔族の襲撃であるが、北海油田は水棲魔族が棲息できない海域にあり、船で安全に近づきやすかったわけである。

 

 そんなわけでアイスランド基地はニューギニアを失って以降、人類にとって最重要拠点になったわけだが、海上に魔族は居なくても周辺には魔族が出没するので、タンカーが近づくとそれを狙って襲撃を受ける可能性は完全には排除しきれなかった。

 

 ところで、欧州は魔族誕生の地でもあるからかなりの激戦地であり、魔王級の魔族が現れることもしばしばあるから、もしそんなのに目をつけられでもしたら、もうオリジナルゴスペルを使って処理をするしかない。だから、いざという時に備えるため、戦力になる者を常駐させておく必要があったのだが、16年前、人類の再生が不可能になってからは、それを人間にやらせるわけにはいかなくなってしまい、今は天使が管理しているのだそうである。

 

 しかし、聞いての通りアイスランド勤務は危険な上に退屈だから、激務の割にはいつも人数が足りていなかった。そこで、職務怠慢な天使や人間にちょっかいをかけるなど違反を繰り返した天使を懲罰的に配属し始めたのが、この地が流刑地となった切っ掛けだそうである。

 

 そういう場所であるから、神域襲撃後、逮捕されたギヨームはこの地に収監されたというわけである。彼は死んでもいい戦力として、この地へ送るにはうってつけの人材だったのだ。ギヨームは単独で魔王とやり合えるほど強く、おまけに好戦的でゴスペルに適性もあった。

 

 そう考えると、この16年間の人類への貢献度は、実はジャンヌよりもギヨームのほうがよっぽど大きかったと言える。もしも彼が居なければ、人類は今頃石油が枯渇して大騒ぎしていたことだろう。ニューギニアが解放された今、天使達にはこれまでの彼の貢献を認めて、わだかまりを捨てて貰いたいものである。

 

*********************************

 

 一方……鳳たちがアイスランドへ旅立ってから数日後、ウリエルは魔王戦の後始末のために、ケアンズに舞い戻っていた。両魔王との戦いの爪痕は深く、周辺の被害もさることながら、大量の水棲魔族の死体が散らばってしまって、未だにとんでもない悪臭を放ち続けていたのだ。

 

 水棲魔族は推定1億個体。その一部とはいえ、一千万近い数を支配下に置いていたアズラエルの眷属が分裂して戦ったのであるから、それも当然のことだろう。おまけに、ようやく決着がついたところに、今度はベヒモスが飛んできて食い散らかし始めたものだから、現場はもはや地獄を通り越して何か別の概念すら生み出していた。

 

 因みにベヒモスの犠牲者は魔族だけに留まらず、不幸にも犠牲になったドミニオン隊員が少なからず居たから、まずは一刻も早くそちらの捜索をしなければならず……そして、どうにか全ての遺体を収容し終えた後には、腐り始めた水棲魔族の死体に海岸線が埋め尽くされ、あの美しかったグレートバリアリーフは、とても正視できるものではなくなってしまっていた。

 

 ドミニオンたちは今度はこれらの死体を処分しなければならなかったわけだが……幸いと言って良いかどうか、そんな時たまたま優秀な海の掃除屋が見つかって事なきを得た。餅は餅屋、魔族には魔族と言おうか、アズラエルの眷属たちが普通に共食いして死体を片付け始めたのである。

 

 こいつら共食いまでするのかよ……とドン引きもするが、冷静に考えれば、魔族はみんな元人間なのだから、そもそも全魔族が最初から共食いしているようなものなのだ。深く考えると頭が痛くなるから、もうそういう進化をしてしまったのだと受け入れるしかない。

 

 しかし、インスマウスは見た目が魚類だからいいものの、オアンネスの方は見た目はまんまアズラエルだから、そんな彼女たちが自分たちの仲間の死体をバリバリと頭から食べている姿は、あまりにグロテスクで、見る者を恐怖させるには十分すぎた。

 

 ドミニオンからは体調を崩す者が続出し、このままでは仕事にはならない上に、ただでさえ最悪なアズラエルの好感度が地に落ちること請け合いだから、途中から全ての仕事をアズラエルが引き受け、彼女が一人で自分の眷属たちを監督していたのであった。しかし何も悪気も無いのに、彼女が人類に尽くせば尽くすほど嫌われていくのは、一体どういう星の巡りなのだろうか……

 

 そんな彼女を一人にしておくのはあまりにも不憫であったから、理解者であるウリエルはまたケアンズに戻ってきて彼女の仕事を手伝ってあげることにした。とはいえ、彼女にやれることなど何もないから、ただの話し相手にしかならなかったが。因みに、お土産として鳳の精液を持ってきたことを告げるとアズラエルは大喜びし、早速自分の眷属を孕ませてみようとか言い出したので、ウリエルは全力で止めなければならなかった。

 

 放っておいたら勝手に孤立し、一人になったらなったで不安にさせられる……ウリエルは、なんだか難しい年頃の子を持ったお母さんのような気分であった。尤も、実際にはアズラエルのほうが大勢の子持ちであるのだが。

 

「母さま。もうオスの肉は飽き飽きだわ」「そろそろ人間を食べたいわ。母さま」

「駄目に決まっているだろう。黙ってそこの腐肉を食らえ」

「姉さま。母様って、私たちに冷たいわよね……」「ねえ、もう家出しちゃおうかしら、姉さま」「いいわね、姉さま。私も連れてってちょうだい」

「そこ! 勝手に群れから離れるのではない! まだ死体はあちこちに残っているのだ。これを片付けなければニューギニアには帰れないぞ!」

「うう~……母さまには逆らえない」

 

 遺伝子がそう命じるのだろうか、アズラエルの命令には、水棲魔族たちは絶対逆らえないようだった。しかし、魚人のインスマウスたちは素直に従うのだが、下手に知恵をつけたせいか、オアンネスの方は口答えが多く、イヤイヤ期の幼児みたいに頑固な一面もあるようだった。

 

「アズラエル様、お茶を用意しましたよ。休憩いたしませんか?」

「ふむ、いただこう……やれやれ、肩が凝って仕方がない」

 

 アズラエルが眷属たちと親子喧嘩みたいな会話を繰り広げていたら、ウリエルが話しかけてきた。アズラエルは眷属にさっさと持ち場に戻れと命令を下すと、ウリエルが用意したデッキチェアにドスンと飛び乗り、うんざりとため息を吐いて、差し出されたお茶をズズズッと啜った。

 

 ウリエルはそんな元上司に苦笑いしながら、

 

「お疲れさまです。まさかお一人でこれを全て処理することになるなんて……私にも出来ることがあれば良かったのですが」

「仕方あるまい。どだい、これだけの死体を一度に処理するなど無理があるのだ。火葬するには設備も燃料も足りず、放置していては生態系に悪影響を及ぼすだろう……結局のところは、魔族のことは魔族が片付けるのが理に適っているのだろうな」

「悪く言う人もおりますが、私はアズラエル様の眷属がいて良かったと思っておりますよ。ところで、さっきから見ていて思ったのですが、彼女らはアズラエル様の命令なら何でも従うのですか?」

「いや、何でも素直に……とはいかないのだ。例えば、見た目が私そっくりで恥ずかしいから、ずっと服を着てくれと言い続けているのだが、泳ぎにくくなるから嫌だと言い張り、一度そうなるとテコでも動かなくなる。命令には逆らわないが、代わりに行動を拒否することはあるというわけだ。まあ、今は服なんて着ててもすぐに血肉でぐちゃぐちゃになってしまうだろうから、素っ裸で居てくれて構わないのだが、これからもこんな調子では先が思いやられる。私は彼女らが死ぬまで面倒を見なければならないからな」

「死ぬまで面倒をですか……なんだかそのセリフ、本物の母親みたいですね。実は案外、彼女らのことを気に入っておられるのではないですか?」

「冗談はよせ。彼女らが悪さをしないよう、見張っておかねばならないという以上の意味はない」

「ふふふ、そういうことにしておきましょうか」

「ギィギィギィギィ!!」

 

 二人が休憩しながらそんな他愛もない話をしている時だった。遠くの方で死体を処理していたインスマウスの一団が、急に騒がしく鳴き始めた。ウリエルにはそれが犬の遠吠えみたいに意味のないものに聞こえたが、アズラエルには少し違って聞こえるらしく、

 

「ん……ギー太どもが騒いでいるな。ふむ、どうやら何か珍しい物を発見したから、私に見てほしいらしい」

「分かるのですか?」

「何となくではあるが……どれ、ちょっと見に行こう」

 

 アズラエルはそう言うとそそくさと席を立って歩きはじめた。ウリエルがその後に続く。

 

 インスマウスが騒いでいるのは、鳳たちがベヒモスを仕留めた時に出来た大穴のすぐ脇だった。メタトロン、サンダルフォンから撃ち出された光球が作った巨大クレーターは、その内埋め立てる予定だったが、今はゴミを捨てるのにちょうど良かったから、食べ残しの骨などをぽいぽい放り込んでいた。

 

 ついでに戦闘で出たゴミや、倒木や建物の残骸などもそこへ集めていたのだが、たまにドミニオンが落としたゴスペルなどの貴重品も紛れているから、見つけたら報告するように言っていたのだが、どうやらその中に何か気になるものを発見したらしい。

 

 アズラエルがやってくるとインスマウスたちは嬉しそうに一際高く鳴き声を上げてから、彼女に道を譲るようにクレーターの前を開けた。下を覗き込むと、眷属たちが食い散らかした骨に紛れて、何か特徴的な棒が地面から突き出しているのが見えた。

 

 あれはなんだろう? と二人が顔を見合わせていると、インスマウスの一体が穴の中に颯爽と降りていってそれを取り上げ、イソイソと戻ってこようとして崖に阻まれ転がっていた。

 

 きっと母親にいいところを見せようと思ったのだろうが、その滑稽な姿を見て仲間が意地悪そうにギィギィと笑っている。このままじゃ埒が明かないから、ウリエルがロープを取ってきて穴に投げ入れ、下に降りたインスマウスを引き上げてやると、彼は手に入れた拾得物をアズラエルに押し付けてから、ギィギィ喚きながら仲間に飛びかかっていった。

 

 喧嘩が始まってしまったが、割と良くあることなのでアズラエルは気にも留めず、代わりに渡された拾得物の方をとっくりと眺めていた。それは両手を広げたくらいの大きさの木の棒……というか杖で、ほぼ真っ直ぐで何の変哲もない杖の周りには、グルグルと螺旋を描くように蛇の意匠が施されていた。

 

 その特徴的な形状を見て、二人はすぐにそれが何であるか見当がついた。

 

「これは……もしかしてアスクレピオスか!?」

「間違いありません。でも、どうしてこんなところに……?」

 

 失われたオリジナルゴスペルの唐突な発見にウリエルが目を丸くする。アズラエルは杖が出てきた穴の中を覗き込みながら、

 

「アスクレピオスはマダガスカルで紛失したはずだ。もしかするとベヒモスが杖を飲み込んでいて、それが今回、腹の中から出てきたのではなかろうか」

「なるほど……そう考えるが妥当でしょうか」

「取りあえず、ミカエルに報告した方が良さそうだな。いや、待てよ……そう言えば、アスクレピオスは彼がずっと探していた物ではないか?」

「鳳様ですね。確か、前の世界でこれと同じ物を持っていたとか」

「アイギスの件もあるし、きっと本当なのだろうな。ならミカエルに渡すより、功労者である彼に届けてやった方が喜ぶだろう」

「ですが、届けると言っても鳳様は今海の上ですよ?」

 

 アズラエルはふふんと鼻を鳴らした。

 

「何の障害にもなるまい。なんなら、喜望峰ではなくてスエズを通って追いかけることだって出来るだろう。私には、大海の覇者たるレヴィアタンの子供たちがついているからな」

 

 因みにアズラエルが誇らしげにそう言った子供たちは、今目の前で殴り合いの喧嘩をしていた。そして彼女そっくりの娘たちは、愚痴をいいながら屍肉を貪り食っており……その姿はとても大海の覇者とは思えず全然締まらなかったが、ともあれ、彼女の言う通り、今の彼らに海の上で勝てる者は世界中どこを探してもいないだろう。

 

 そんなわけで、アスクレピオスを発見したアズラエルは鳳の後を追いかけることにした。尤も、その前にまだそこら中に散らばっている死体の山を片付けなければならないのであるが……

 



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反乱

 鳳たちを乗せたタンカーは順調に航海を続け、ついにイギリス西方ケルト海を通過してアイスランドに届こうとしていた。途中、なんやかんや点検などで停泊することがあったため、予定を少しオーバーして、およそ40日ほどの航海だった。

 

 喜望峰を回ってからはずっと真北に進んでいたので、高緯度から低緯度、そしてまた高緯度と地球を南北に通過したせいで、まるで一ヶ月で季節が一巡りしたかのような不思議な体験をさせられた。その旅もようやく終わりを告げようかという頃になると、今度は夜の国にでも迷い込んでしまったかのように空が急に暗くなってきた。

 

 空一面を覆う黒雲は、恐らく火山灰だろう。どうやら、アイスランドの火山活動は、未だに活発のようである。

 

 こんな状況では当然飛行機が飛べるわけもなく、通信気球も低空までしか上げられない、というか上げても意味がないから、今まで連絡をしても返事が返ってこなかったのだろう。しかし、流石にここまで目的地に近づいたら電波が届かないということはないだろうに、それでもアイスランド基地からは待てど暮らせど一向に返事はこなかった。

 

 まさか火山活動の影響で、基地が壊滅でもしてしまったのだろうか……? そんな不安を覚えつつ、他にやれることも無いからそのまま呼びかけながら進んでいると、やがてブリッジの上の物見台から陸影を見つけたとの報告が入り、ついにアイスランド島に到着したらしかった。

 

「陸だー!」「やれやれ、ずっと海しか見ていなかったせいか、魚にでもなってしまった気分だったよ」「うほうほ」

 

 ずっと360度見渡す限り青い海の上を進んできたせいか、久方ぶりに見る陸地はなんとも心強くて美しく見えた。鳳たちがそんな風景を感慨深げに眺めていると、ジャンヌの隊員たちもみんな甲板に出てきて、まだ薄っすらと青みがかって見える陸を指差しながらワイワイ騒ぎ始めた。

 

 やっぱり人間は陸の上で暮らす生き物だったんだなと、みんなでしみじみとそんな会話を交わしていると、すると島から数台のホバークラフトが飛び出してきて、編隊を組みながらタンカーの方へと近づいてくるのが見えた。

 

 返事がないから心配していたが、どうやらアイスランドの人々は無事だったらしい。鳳たちはホッとしながら、そんな出迎えのホバークラフトに向かってオーイと呼びかけ手を振っていたら……

 

 ダッダッダッダッダッダッダッ!!

 

 突然、そのホバークラフトから重い銃撃音が響いてきて、タンカーのすぐ近くの海面がバシャバシャと飛沫を上げた。

 

「なんだなんだ!?」

 

 いきなりの銃撃に驚いて、慌てて顔を引っ込める。甲板に腹ばいになるようにして海上の様子を窺っていたら、ホバークラフトの編隊は遠巻きにタンカーを囲むように展開し、こちらに銃口を向けたまま並走し始めた。

 

 そして中央の船からキーンとハウリング音が聞こえてきたと思ったら、

 

『今すぐ停船し、貴船の所属と目的を述べよ! 繰り返す! 今すぐ停泊し、貴船の所属と目的を述べよ!』

 

 居丈高な口調で一方的に告げられる命令からは、明らかに歓迎の態度は見受けられなかった。助けに来たつもりがこの仕打ちに、一体何が起きているのかと首を捻っていると、タンカーのブリッジが呑気に応答して、

 

『こちらはドミニオン第一艦隊所属、油送船プルミエールです。定期航行で何度も寄港しているので知ってると思いますが?』

『まずは停船せよ! 繰り返す、停船せよ!』

『神域に命じられて救援物資を運んできました。受け入れてもらえませんか?』

『こちらの要求は今すぐの停船である! 従わない場合、本攻撃に移る!』

『無理にエンジンを止めては、発動するまでまた時間がかかるんですよ。本当に止めなきゃいけませんか?』

 

 船長が尚も食い下がると、今度は展開した全ての船から銃撃音が響いてきて、タンカーの周りの水面をバシャバシャと揺らした。今度もまた単なる威嚇射撃ではあったが、その頑なな態度から、相手が聞く耳を持っていないことは明白だった。

 

 このままでは埒が明かないが、幸いなことに船にはそれなりの戦力が乗っていた。仮に戦闘になったとしても大丈夫だと伝えようとブリッジを見上げたら、いつの間にかそのブリッジにジャンヌが居て、船長を相手に話をしているのが見えた。どうやら同じことを考えたらしい。暫くするとタンカーから汽笛が鳴って、エンジンの振動が止まった。

 

 ホバークラフトはそれで満足したのか、やがてそのデッキに二人の天使が現れると、羽を広げてパタパタとこちらの船に飛び乗ってきた。タラップもなしに船から船へ渡り歩けるだから便利だな~……くらいに思いながらぼーっと眺めていると、ブリッジから副船長が降りてきて少々不機嫌そうに、

 

「コカビエル様、ラミエル様。これは一体なんの真似ですか?」

 

 すると二人の天使はいきなり手にしたゴスペルを突きつけ、困惑している副船長に向かって、

 

「今は黙ってこちらの指示に従ってくれ。この船の目的は? どうして当基地に断りもなく近づいた?」

「……ですから、船長もおっしゃってた通り救援物資を持ってきたんです。断ろうにも、火山活動のせいで通信が出来なかったんでしょう? こっちからは何度も呼びかけましたよ」

「救援物資とはあれのことか? 改めさせてもらうぞ?」

「……どうぞお好きに」

 

 顔見知りらしき天使たちの突然の奇行に、副船長は困惑しきりに積み荷まで案内し、言われるままにコンテナを開けて中身を確認させてやった。天使たちはまるで猛獣でも潜んでいるかのように、警戒気味にコンテナの中身を次々と確かめ、結局最後のコンテナまで全部の中身を確認すると……

 

「疑って、すまなかったああああーーーーっっ!!!」

「救援物資を持ってきてくれた仲間にっ!!! 俺たちはああああああーーーーっっ!! なんてっ! 酷いことをををーーーーっ!!!」

 

 二人は調べていたコンテナから出てくるなり、その場に跪いて土下座した。つま先を立て腰を少し持ち上げ、額を地面に押し付けるその見事な土下座は、なかなかお目にかかれる物じゃない。そのあまりの勢いに仰天し、慌てて顔を上げてくれと叫ぶ副船長の声を無視して、二人はガンガンと地面に頭をぶつけながら謝罪を続けている。

 

 一体全体、何があったのだろうか? 困惑しながら、鳳たちはそれを遠巻きに眺めていた。

 

*********************************

 

「ギヨームが反乱を起こしたぁ!?」

 

 副船長の必死の説得も虚しく、その後数分間に渡り土下座し続けた天使たちは、ようやく落ち着きを取り戻すと、どうしてこんな真似をしたのか理由を話してくれた。

 

「火山活動が始まって神域と連絡が取れなくなったら、突然、今まで従順だった囚人どもが暴れだしたんだ。こんな僻地じゃどうせ逃げ場なんかないだろうと完全に油断していたから、反乱が起きてもすぐには対応出来ず、あっという間に追い詰められてしまった。今、奴らはフェロー諸島の基地本部を占拠して、私たちに要求を突きつけている」

 

 アイスランド基地と一口に言っているが、ここの任務は北海油田の確保が主目的だから、実際の基地施設はアイスランドよりフェロー諸島に集中しているらしかった。因みに、油田に最も近い陸地はスコットランドのシェトランド諸島なのだが、温暖な北海沿岸の気候のお陰で、イギリスには元々相当な数の魔族が生息しており、それが島まで渡って来ることがあるらしい。

 

 ギヨームや神域に逆らった不良天使たちは、そんな魔族がシェトランド諸島に住み着かないようにするため、フェロー諸島に作られた刑務所に収監されていたのだが、この機に乗じて囚人たちが一斉蜂起し、看守たちを追い出してしまったのだ。

 

 そして主要な施設を奪われてしまった看守たちに残されたのは、ここアイスランドのレイキャビク港だけとなり、もう後がない彼らが警戒していたところ、定期便でもないタンカーがいきなりやってきたから、あんなに強行的だったようである。

 

「それでその要求って何なんです? あなた達も言う通り、こんな僻地で反乱を起こしたところで、どうせ何も出来やしないでしょうに」

 

 何しろ人類の生息圏であるオーストラリアは地球の裏側である。こんなところで蜂起したところで神域には届かず無意味だろうに、鳳は囚人たちが何を望んでいるのか不思議に思った。鳳が尋ねると、すると彼らは一層顔を強張らせながら、

 

「それが……奴らは、ここアイスランド基地の撤退を求めているんだ」

「撤退って、つまり刑期をチャラにしてオーストラリアに帰ろうってことですか?」

「違う、そうじゃないんだ……あろうことか、奴らは魔族と結託していたんだよ!」

「結託? ……どういうことです??」

 

 鳳はすぐには言ってる意味が分からず、首を傾げて問い返した。二人は青ざめながら、震えるような声で続けた。

 

「一応、私たちだって看守という責務を負っているんだから、仮に囚人が反乱を起こしても鎮圧できるだけの備えはあったんだ。奇襲を受けたとはいえ、それがこうもあっさりやられてしまったのは、奴らが魔族と共に私たちに襲いかかってきたからなんだよ」

「天使と魔族が手を組んだってことですか? そんな、あり得ない! 魔族は話が通じないのは常識じゃないですか。なのにどうやって手を組むってんです?」

「私たちだってそう思ったさ。だが、現に奴らは魔族と協力して私たちを襲ってきたんだ」

 

 彼らによると、反乱が起きたのは今からおよそ一ヶ月前、火山活動が起こってすぐのことだった。火山の影響かなんなのか、突然、シェトランド諸島に大量の魔族が流入してきたのを確認し、彼らはいつものように囚人たちを動員して魔族の駆除に赴いた。

 

 ところが、島に上陸してすぐ、いつもなら鬱憤を晴らすかのように魔族の群れに飛びかかっていくはずの囚人たちが、突然反旗を翻して看守たちを攻撃してきた。驚きながらも看守たちはそれに応戦していたのだが、そんな彼らの側面を突くように、今度は魔族の群れが飛びかかってきて、彼らはシェトランド諸島からの撤退を余儀なくされた。

 

 そして看守たちは、命からがらフェロー諸島まで逃れてきたのであるが……一応、反乱を起こしたとはいえ囚人たちに死なれては困るので、一台だけホバークラフトを残しておいた彼らは、囚人たちが戻ってくるのを待ち構えていた。そして、数時間後にそのホバークラフトは戻ってきたのだが、

 

「私たちはそこに囚人しか乗っていないと思い込んでいた。ところが、船には天使ではなく大量の魔族が乗っていて、それがビリー・ザ・キッドと共に襲いかかってきたんだ。その魔族とプロテスタントの連携がとても強力で、私たちはあっという間に刑務所を占拠されてしまい、帰る場所を失った。それで、このまま戦っていてもジリ貧だからと、ここレイキャビク港まで撤退してきたんだ」

 

 そして彼らが神域と連絡がつくまで港を死守しようとバリケードを作っていたら、フェロー諸島の施設から通信が入り、先ほどの要求が突きつけられたらしい。

 

「つまり、囚人たちは魔族とこの地に残るから、もうほっといてくれってことですか?」

「いや違う。それならイギリスに渡ってもう戻ってこなければいいだけだろう。奴らは、私たち人類に、北海油田を捨てろと要求してるんだ」

「な、なんでそんな真似を?」

 

 すると天使たちは苦々しそうに、

 

「恐らくはブラフじゃないかと。そう言えば神域は要求を聞かざるを得ないから」

「なるほど……じゃあ、まだこれから要求が増えるかも知れないってことですね」

「ああ、そうだ。というか、すでにもう来ている」

「それって?」

「奴ら……というか、ビリー・ザ・キッドが、神域に捕まっている仲間の解放を要求している。鳳白という名の男のことだ」

「え? 俺??」

 

 鳳がぽかんとして聞き返すと、天使たちも気づいてなかったらしくぽかんとしながら、

 

「なに? それじゃあ、君が噂の異世界から来たという、人類唯一の男性なのか?」

「え、ええ、まあ、唯一ってわけでもないんですが……そうか、もしかしたらギヨームは、俺が神域に捕まっていると勘違いして反乱を起こしたのかも知れませんよ」

「どういうことだ?」

 

 天使たちは首を傾げている。鳳は頷きながら、

 

「俺は四大天使に初めて会ったときから、ずっとギヨームの解放を要求していたんですけど、当然却下されて、それならせめて俺が無事なことだけは伝えてくれってお願いしてたんです。ただ、その時はまだ四大天使との関係も良好じゃなかったから、ミカエルがどんな風に伝えたのか……もしかするとギヨームはそれを聞いて、俺がピンチだと勘違いしているのかも知れませんよ」

「ははあ……」

 

 天使たちはそんな可能性が……と言った感じに顔を見合わせている。まだどうしてギヨームが魔族を引き連れているのかは分からなかったが、

 

「もしもそうなら、俺が行って話をつけたら、案外すぐにでも解決するかも知れませんよ。どっちにしろ、あいつの要求が俺なら交渉の余地もあるでしょうし、どうでしょうか? 一度、俺を彼に会わせては貰えませんか? 実はそのつもりで今回やってきたんです」

「そういうことなら、こっちからお願いしたいくらいだ。早速、向こうに連絡して君が到着したことを伝えよう」

 

 鳳の提案に、天使たちは慌ただしく動き始めた。鳳は久しぶりに再会できる仲間の姿を思い出しながら、そんな天使たちの後ろ姿を見送った。

 



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まるで堕天使みたいだ

 天使たちの誤解が解けて、ようやく入港許可が下りた。とは言え、船長も言っていた通り、一度エンジンを停止してしまうと再始動まで時間がかかるので、結局タンカーがレイキャビク港へ入れたのは翌日になってからだった。

 

 搬入用のクレーンが唸り、コンテナが次々荷揚げされると、港に集まっていた天使たちから溜息のような歓声が上がった。どうやら強がってはいたが、殆どの物資がフェロー諸島の反乱軍に奪われていたため、ギリギリの生活を余儀なくされていたらしい。

 

 もしも問答無用でタンカーを追い返していたら今頃どうなっていたことか……天使はそう簡単に死なないとはいえ、物資がなくて身動きが取れなくなっては元も子もない。だからもっと上手に出来なかったのかと文句も出たが、相手がどうやって魔族と一緒にいるのかが分からない以上、誰も信じられなかったようである。そう言われると、仕方なかったのかなと納得するしかなかった。

 

 ともあれ、救援物資は余裕をもって、基地の全員が半年は食いつなげるほど持ってきていた。囚人たちの分が浮いた今はそれ以上の余裕があり、なんならこれを使って交渉だって出来るだろう。そんなわけで長いこと空腹に耐えてきた天使たちの慰労と、鳳たちの歓迎会も兼ねて少し豪勢な食事会をしていたら、昨日、鳳が到着したことを連絡しておいた反乱軍から返事がきた。

 

「俺一人だけで来いって?」

「もちろん断った。流石に向こうに都合が良すぎるからな。大体、君には何の決定権もないのに、一人で行ったところで何になるのか。子供のお使いじゃないんだから、ちゃんと交渉するつもりがあるなら私たちの同行も認めろと伝えたよ」

 

 私たちとは、昨日船に乗り込んできたコカビエルとラミエルのことだ。二人はリーダーと言うか武闘派のようで、いざとなった時の護衛も兼ねているようだった。鳳は依存無いと頷いてから、

 

「それなら俺以外にも昔の仲間が来ていることを伝えてみてくれませんか? そしたら少しは態度が変わるかも」

「それは良い提案だ。早速呼びかけてみよう」

 

 鳳はジャンヌたちも一緒に来ていて、ついでに神域は態度を軟化させて、もはや自分たちの間にわだかまりはないことを伝えてもらった。

 

 火山活動のせいで直通回線が途切れてしまったため、連絡には無線機を使っていたのだが、向こうには通信士が居ない上に悪天候の影響もあり、繋がるかは結構気まぐれだった。それで何度か気長に呼びかけた後にようやく応答があり、こちらの要求を伝えたら、検討するの返事と共に通信が切れ、また返事が返って来るまで時間がかかった。

 

 もしかして牛歩戦術みたいに焦らされてるのでは……? と不安になったころ、ようやく返事が返ってきたと思えば、内容は最初の時と殆ど変わらず、やはり鳳一人だけでついでに物資を持ってこいと、逆に要求が増えていた。

 

「なんか、妙に警戒していますね……」

「ふん! 馬鹿にして。きっと向こうはこっちの要求は飲まずに、君の身柄だけを奪おうという腹積もりなんだ。乱暴な連中め。まともに交渉の席に着かないなら、こちらも応じるつもりはないと、何度でも言ってやろう」

 

 天使たちはそう息巻いているが、鳳は少々腑に落ちなかった。ギヨームの目的が鳳の解放であったなら、その本人が来ているのだから、ここまで頑なな態度を取る必要なんてないはずだ。寧ろ逆効果と言える。

 

 向こうが、天使たちが嘘をついていると警戒している可能性はあるが、こっちの要望はたった二人の付き添いでしかなく、そこまで警戒するほどではないだろう。それに嘘だと思うなら、まずは姿を確認させろと言ってくるのが筋だろうに、全く態度を変える気がないのは何故だろうか?

 

 もう一度、相手の要求を思い出してみる。確かフェロー諸島を奪取した後、彼らは最初、アイスランド基地の撤退を要求したのだ。それは天使たちに一時的に出ていけという意味合いではなく、北海油田を捨てろという類のものだった。

 

 当然、そんな要求を飲めるわけがないから、きっとブラフだと思っていた時、今度は鳳の身柄を要求してきたから、こっちが本命だと思っていたのだが……もしもそれが逆だったら?

 

 鳳の身柄を拘束して、神域にアイスランド撤退を飲ませる……

 

 今の鳳の立場を考えれば、恐らくそれは可能だろう。ブリスベンでの熱狂を考えれば、人類からも要望が上がるはずだ。それに、ニューギニアが解放された今、石油確保の観点でも、北海油田の重要度はいくぶん薄れている。寧ろ、こんな僻地をリスクを背負って守り続けることの方が無理があるのだから、神域も手放してもいいと考えるのではないか。

 

 もしもそうなら、鳳を捕らえるというのは理に適っていると言える。だが……そんな作戦を思いつくには、鳳がこっちの世界に来てからのことを全部知っていなければならないだろう。少なくとも、精子を提供して、人類の間で人気者になっていることくらいは知ってなきゃおかしいが、そんなこと、この僻地の囚人には知る由もないだろう。

 

 彼らが自由にテレビなんか見ていたとは思えないし、今は火山のせいで通信すらままならない。いや、それ以前に、看守である天使たちが鳳の顔を知らなかったのに、囚人の方が詳しいというのはどう考えてもおかしい。

 

 それに、北海油田を彼らが手に入れることに何の意味があるだろうか? 手に入れたところで、燃やして温まるくらいのことしが出来ないだろうに、正直、嫌がらせ以上の意味が見いだせない。もしかすると、彼らが連れているという魔族と関係があるのかも知れないが……魔族と石油、これにどんな関係が? と言われると何も想像つかなかった。

 

 ただ分かっていることは、反乱軍にまともに話し合うつもりがないことと、どうもギヨームはどうしても鳳と一人だけで会いたがっているようだと言うことだ。

 

「時間がもったいないから、要求に応じましょう」

 

 天使たちが喧々諤々と話し合っている最中、一人で黙考していた鳳は、こんなことをしていても時間の無駄だと言いたげに口を開いた。天使たちはそんな彼の言葉に驚きの声を上げ、

 

「なに!? そんなことしてもこっちには何のメリットもないじゃないか。こんな要求を飲んでしまったら相手の思うつぼだぞ」

「ええ、ですからまともに取り合うつもりはありません。要は相手には俺が一人で来たように見えればいいだけでしょう?」

「……どういうことだ?」

「ミッシェルさん!」

 

 鳳がその名前を呼ぶと、いつものように飄々としながら遠巻きに鳳と天使のやり取りを眺めていたミッシェルが、オヤっと眉毛を上げ苦笑気味に言った。

 

「やれやれ、タイクーンはよくよく僕の扱い方を心得てらっしゃるようだね」

 

*********************************

 

 その後、いきなり敵の要求を受け入れては逆に怪しまれるのでは? という意見の下に、敢えて数回のやり取りを挟んでから、こちらが折れるような格好で要求を飲むことにした。反乱軍は交渉の場として自分たちの領域であるフェロー諸島の港を指定してきた。

 

 その際、鳳には操船技術がないから、最低限の人員の同行は許可してくれと求めたところ、すぐにタンカーの船員ならばOKと返ってきた。非戦闘員を即座に選ぶとは、どうやら向こうはこっちの状況をよく知っているようである。

 

 だから一瞬、スパイの可能性が頭を過ぎったが、それなら鳳が一人で行くという提案すらも却下されていただろう。故にスパイの心配はないが、どこかで偵察が見張っている可能性は否定できないので、フェロー諸島へ向かう船に乗船したらすぐに、ミッシェルの認識阻害の魔法を使って同行者の姿を隠すことにした。

 

 島に行くためのホバークラフトには、しっかり最大乗員20名までが乗り込んだ。操船をお願いする船長と副船長を除く18名中12名は天使から選出することにし、残りは鳳とアリス、ミッシェル、サムソン、ジャンヌ、最後に楓というメンバーである。

 

 いつもの三人娘がいないのは、単純にその分戦力になる天使を連れて行った方がいいからで、楓という隊員が選ばれたのは、非戦闘員を守るためにジャンヌに来てもらおうとした際、副官として誰か一人だけ隊員を連れてっても良いと言ったら、彼女が選ばれたのだ。てっきり瑠璃か琥珀だろうと思っていたが、まあ、ジャンヌが選んだのであれば間違いはないのだろう。

 

 大海原には遮蔽物はなく、誰に見咎められるわけもないだろうが、それでも一応ミッシェルの魔法は解除しなかった。なにはともあれ、こうして十分な戦力の隠蔽には成功したわけだが、目的はあくまで話し合いである。むこうが本当に鳳だけに会いたがってる可能性もあるのだから、島についてもまずは様子見に徹するよう確認しあい、船は目的地に向けて順調に進んだ。

 

 高速なホバークラフトでもフェロー諸島まではかなりの距離があり、半日近くの時間をかけて、ようやく船は目的地の港に到着した。灯台が見えてくると、鳳は一人で船首に立ち、天使たちを全員船内に隠した。ミッシェルの魔法は完璧で絶対相手に見えていないはずだが、一応、念の為である。

 

 間もなく、桟橋が見えてきて、そこに3つの人影が立っていた。ついにギヨームと再会できると思うと胸が熱くなったが、しかし待っていたのは懐かしい顔ではなく、どれもこれも見たことがないものばかりだった。

 

 一体、何者なのだろうか? そこに立っていたのは、恐ろしく整った顔立ちの、まるで天使のような人々だった。だが、絶対に天使じゃないと言い切れるのは、その背中に生えているのが鳥ではなく、まるでコウモリの羽のようだったからだ。

 

 鳳はその姿を一目見るなりこう思った。

 

「まるで堕天使みたいだ……」

 

 その言葉が風に乗って届いたのだろうか、桟橋に立つ3人の顔が一斉に鳳の顔を捕らえた。彼は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。その瞳は酷く無機質でどこまでも透き通っており、本当に爬虫類の目でも覗き込んでいるかのようだった。

 

 船が接岸し、係留ロープをかけるためデッキに出てきた副船長が、彼らを見るなり鳳と同じように硬直していた。しかしグズグズしている時間はないと気を取り直し、港に向かってロープを投げると、堕天使たちはそれを機械的に拾い上げて近くの柱に引っ掛けた。

 

 その間、リーダーらしきコウモリ羽は鳳のことを見上げたまま身じろぎもせず、探るように目だけがデッキとブリッジを行ったり着たりしていた。恐らく、本当に一人で来たのか警戒しているのだろう。

 

 ミッシェルの魔法が効かないとは思わなかったが、その無機質な瞳に気圧されて緊張していると、ようやく納得したのか、そのリーダー格らしき人物がいきなり話しかけてきた。

 

「問う。あなたが神なのか?」

 

 その問いかけがあまりにも唐突すぎたから、鳳はきっかり30秒くらい自分が話しかけられていることに気づかなかった。やがてその言葉が耳に染み渡るように頭の中に入ってくると、今度はその意味を理解するのにたっぷり時間をかけた上に結局理解できず、彼は呆けた声を上げるだけで精一杯だった。

 

「……はあ?」

 

 そんな鳳の間抜けな顔を見ても、堕天使は一片の迷いもないような真っ直ぐな瞳で見上げながら、

 

「この状況で一人で敵地に乗り込む豪胆さ。自分が死なないという絶対の自信の現れであろう。あなたは二度も魔王を退け、挙げ句、死すらも遠ざけた。そして今、私たちの姿を見ても恐れてもいない。それは何故か?」

「いや、一人で来いって言っておいて、来たら来たで文句を言うのはどうなんだよ」

 

 鳳は不貞腐れたようにそう返したが、内心はドキドキしていた。何しろ彼がリラックスして見えるのは、実際には仲間をたくさん引き連れてきているからである。ある程度情報を得るまで、それを知られるわけにはいかない。

 

 それにしても少し気になったが、目の前の堕天使は鳳が魔王を退治したことや、その後狙撃されたことを知っているらしい。どうして囚人だったはずの人物がそんなことまで詳しく知っているのだろうか。鳳は努めて平静を装いながら、

 

「えーっと……あんた名前は?」

「アザゼル」

 

 その名を聞いて鳳はまたたじろいだ。さっき彼らを一目見て堕天使みたいだと思ったわけだが、目の前の人物がその代名詞みたいな奴だったのだ。もしかしてここの囚人というのは、本当にみんな堕天使なのだろうか?

 

 鳳は彼らのコウモリ羽を見ながら、

 

「あんたらはその……天使なのか?」

「違う。私は魔族だ」

「そうか……いや、姿からしてそうじゃないかと思ったんだけど、なんつーか、こう……魔族って問答無用だろう? あんたからはその気配が感じられないから」

「一般の魔族が好戦的なのは、神にそう命じられているからだ。私はそうじゃない」

「命じられてる……?」

「そう、例えば……」

 

 アザゼルが何かを言おうとした時だった。突然、鳳の背後から風が吹き抜け、何かが彼の両脇をすり抜けていった。とっさに制止しようとして腕をのばすと、空を切ったその手の先には、二人の白い翼を広げた天使が、アザゼルに向かって袈裟斬りに剣を振り下ろしている姿があった。

 



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おまえが神だ

 何故か鳳に一人だけで来るよう、執拗に要求し続けた反乱軍。彼らのリーダー格らしきアザゼルを名乗る人物は、姿形こそ悪魔にしか見えなかったが、その落ち着いた振る舞いは天使を彷彿とさせた。彼の両隣には同じくコウモリ羽を生やした二人の堕天使が控えており、どうやらここの囚人たちはみんなこんな姿をしているらしかった。

 

 しかし、聞いていた話では、ここは天使の懲罰施設のはず……どうしてそこに天使のような見た目をした魔族がいるのか不思議に思い、鳳が色々尋ねようとした矢先、突如一陣の風が吹き抜けたかと思えば、その先には、目を血走らせてアザゼルに飛びかかっていく二人の天使の姿があった。

 

「ちょっ!? あんたら、なに勝手にっ!?」

「アザゼル、ついに追い詰めたぞ!」

「死ねええぇぇーーーーっっ!! 悪魔どもめぇぇーーっ!!」

 

 鳳の制止を振り切って飛びかかっていったのは、コカビエルとラミエルの両天使であった。相手がおかしな真似をしない限り、対話を優先して隠れている約束のはずが、武闘派の彼らが堪えきれずに、つい飛び出してしまったのだろうか?

 

 鳳は始めはそう思っていたが……しかし、どうやらそれは間違いのようだった。

 

 二人の凶行に戸惑っていると、間もなく彼の頭上を次々と人影が通過していった。見上げれば、一番槍を振るう二人の後に続き、他の天使たちまでもがアザゼルたちに飛びかかっていく姿があった。その目は先の二人と同じように血走っていて、まるで獲物を見つけた魔族のようだった。

 

「悪魔に鉄槌を!」「神の裁きを!」「千年王国に栄光あれ!」「死ね! サタン!」

 

 次々と飛び出してくる天使たちに押され、アザゼルたちは忌々しそうに後退していった。側仕えの二人が先駆けの二人を捌いてる背後で、アザゼルは鳳の方を不満げに見上げながら、

 

「よもや、このような罠を仕掛けてくるとは。まるで見抜けなかった」

「いや、俺はそんなつもりじゃ……」

「だが、この程度のことは我らも想定の内だ。悪く思うな」

 

 アザゼルのその言葉を待っていたかのごとく、次の瞬間、追い詰められた彼らの背後から、今度は次々と黒い翼を背負った人影が飛び出してきた。一体、どこに隠れていたのだろうか? 突如現れたその集団もまた、アザゼルのように見目麗しい見た目をしながらも、背中にはコウモリやカラスのように漆黒の羽を背負っていた。

 

 アザゼルを守るように飛び出してきた悪魔の集団と天使たちが接触すると、あちこちで金属のぶつかり合う音や火花が散った。古代呪文を彷彿とさせる魔法が飛び交い、港はさながら天使と悪魔の最終戦争(ハルマゲドン)の様相を呈してきた。人数から天使のほうが分が悪かったが、何が彼らをそこまで駆り立てるのだろうか、その異様なまでの士気の高さでお互いの力は拮抗しているように見えた。

 

 しかし、そんなのは、だからなんだと言う話でしかない。自分たちの目的は、戦いではないはずだ。

 

「おい! やめろ! やめないかっ!! あんたら、ここには交渉に来たんだろう!? どうして話も聞かずにいきなり戦闘をふっかけてるんだよ!!」

 

 鳳は必死に叫んだが、天使たちは目の前の堕天使たちを屠ることしか眼中になく、まるで聞く耳を持たなかった。堕天使たちはそんな天使たちの猛攻を、見事な連携で冷静に捌いていく……その戦いぶりから、天使と悪魔が逆なんじゃないかと思うくらいの落ち着きぶりだった。

 

 と、その時、鳳は何か既視感(デジャブ)を感じた。なんとなく、こんな感じの退っ引きならない状況をどこかで見たことがあるような……いや、聞いたことがあったはずだ。それは一体いつだろうか?

 

「ね、ねえ、これどうするの?」

 

 鳳が妙な既視感に悩まされていると、天使たちに遅れて、船内に隠れていたジャンヌたちが飛び出してきた。彼はその中にミッシェルの姿を見つけて、たった今、頭に浮かんだ既視感の正体に気がついた。

 

 そう……あれは確か、ケアンズの訓練校に行く前のことだった。占星術師であるミッシェルに、なんとなく将来のことを占ってもらったことがあった。その時、彼は天使を率いた鳳が、魔族を率いたギヨームと戦っている姿が見えたと言っていたはずだ。

 

 まさかそんなはずは無いと笑い飛ばしたが……その予言が、今目の前で繰り広げられているというわけだ。流石、世界屈指の予言者と讃えるべきか、それとも溜息を吐くべきか。

 

 と、それを思い出した時、彼はその話の中に何か嫌な引っ掛かりを感じた。

 

 ミッシェルの予言では、魔族を率いていたのはギヨームだ。鳳は、この場所にギヨームに会いに来た。だが、未だに彼の姿はどこにも見当たらない……彼は今、どこに居るのだろうか……?

 

 そう思って改めて天使と悪魔の戦いを冷静に眺めてみたら、戦場は左右2つの集団に分かれているように見えた。各個撃破を狙うために分断を図ることはありうるが、しかし、堕天使たちがそれで優位に立とうとする気配は全く無い。彼らは単に、天使たちを左右に引きつけているようにしか見えなかった。

 

 それはまるで、天使たちを船から遠ざけているようにも見える。そして、その船の上には、今、鳳がポツンと取り残されていて……

 

「アリス! 結界を!」

 

 鳳が叫ぶとほぼ同時だった。

 

 バババババッ!!

 

 っと、乾いた射撃音が轟いて、アイギスが展開した結界に弾かれる。船を覆うように展開された、薄緑色の結界がキラキラと輝く。

 

 その燐光のようなスクリーンの向こう側に目を凝らせば、そこには一人の男が立っていた。金髪に青い目をした小柄な男で、まるで顔に貼り付いているかのようなニヤけた笑みを浮かべている。

 

「ギヨーム!?」

 

 鳳が懐かしい友の名を叫ぶと、その男はニヤけ面のままチッと舌打ちし、

 

「今のを外すかよ……おまえ、本当に、神なんじゃねえか?」

 

 最後に別れた時から大分感じが変わっていたから、一瞬誰だか分からなかったが、そこにいたのは紛れもなくウィリアム・ヘンリー・ボニーこと、ギヨーム本人だった。ただしその顔は、鳳が異世界で出会った子供のものではなく、歴史資料で見たことがあるビリー・ザ・キッドそのものだった。

 

 ジャンヌがそのままだから忘れがちだが、あっちの世界で別れてから、こっちの世界に居た彼には16年の年月が流れているのだ。別れた時が11~12歳だったから、今の彼はとっくに成人していて、顔つきが変わっていてもおかしくはない。

 

「おまえ……背丈はそのまんまだな」

「チッ……言うに事欠いて。死ねよっ!」

 

 ギヨームは鳳の軽口に、また正確な早撃ちで応えた。それが結界に弾かれるのを見るや、堪らずアリスがアイギスを構えて彼の前に出た。しかし、鳳はそんなアリスを押しのけるように脇によけると、

 

「ギヨーム、何故撃つ?」

「人に向けて撃つ理由なんて、一つしかないだろう?」

「俺には、おまえに撃たれる理由がないと言ってるんだ」

「そうか? おまえは頭を潰されても生きているようなバケモンに、いちいち断りを入れるかよ?」

 

 それを言われた瞬間、鳳の脳に、文字通り頭を撃ち抜かれたような衝撃が始まった。全ての血管が収縮し、心臓がバクバクと音を立てている。

 

 どうして、ギヨームがそのことを知っている……? いや、あの時、鳳は散々その可能性を考慮していたはずだ。

 

「おまえ……まさか……ケアンズで俺を撃ったのって……」

 

 ギヨームは、虚空から創り出した拳銃をクルクルと弄びながら、驚愕に打ち震える鳳に向かって淡々と言った。

 

「ウリエルが、随分手前の方ばっか探してて笑えたよ。でも、もっと笑っちまうのはおまえの頭の方だ。俺はしっかりスコープで、おまえの頭が粉々に弾け飛んだのを確認した。なのに一瞬目を離した隙に元通りなんて、どうなってんだよ」

「それは……」

 

 鳳は返答に詰まったが、すぐに首を振ると、

 

「そんなことよりも、分かってるんだろう? 俺はおまえのことを助けにきたんだぞ? なのに、どうして俺を撃つ必要があるんだ? ……いや、そもそも、こんな地球の裏側に居たはずのおまえが、あの時どうやって俺を撃ったと言うんだ。そんなのありえないだろう?」

「そうかあ? そんなありえないようなことを、おまえはこれまで幾度もやってきたじゃねえか」

「俺が……どういう意味だ?」

 

 するとギヨームは手遊びしていた銃を放り投げ、そして、それが虚空に消えたと思った瞬間、たった今まで銃があった空間がぐんにゃりと歪んで、そこに楕円形に光る奇妙な何かが現れた。

 

 その光を見て鳳は目を見開いた。それはアナザーヘブン世界で、確かに自分が何度も作り出した、あり得ない代物だった。

 

「それは、ポータル!? どうして、おまえが……」

「俺だって16年間遊んでいたわけじゃねえんだよ。これくらいのことは出来なきゃなあ」

「じゃ、じゃあ、おまえはいつでもここから逃げられたのか? だったら何故、ずっとここで捕まった振りをしていたんだ?」

 

 鳳がそんな当たり前の疑問を投げかけると、ギヨームの方もそんなの当たり前だろうと言わんばかりに、

 

「逃げたところで、どこへ行くってんだ? 元の世界に帰ろうにも、こっちの世界の目的を果たさなけりゃ、レオの世界はいつまで経っても火の海だ。だから俺は、神の野郎をぶっ殺してやらなきゃならなかった……」

「神……そうか。それでおまえはこの刑務所に残って、囚人である堕天使たちを味方につけたんだな?」

「ふん……まあ、そんなところだ。順序は逆だがな」

「逆?」

 

 鳳が首を傾げていると、ギヨームはまるで嘲笑するかのような邪悪な笑みを浮かべて、

 

「とにかく、俺は神を殺る機会を窺っていた。しかし、殺ろうにもその神ってのがどこに居るのかが分からない。神域でカナンたちが壊した機械は恐らくただのハリボテだ。本物はきっとどこか別の場所にある……そう思い、俺は16年間もそれを探し続けて、ついに見つけたのさ」

「見つけただって!?」

「ああ……」

 

 ギヨームはまた虚空から銃を取り出すと、鳳にその照準を合わせて、

 

「おまえが神だ」

 

 その言葉はあまりにもバカバカしすぎて、全く頭に入ってこなかった。鳳はポカンと馬鹿みたいに口を開けたまま、ただの一言だけでこう返した。

 

「はあ?」

 

 しかし、ギヨームはそんなアホ面を見ても、なお迷いのない表情で、

 

「それほど意外か? おまえほど切れるやつなら、とっくに自分で気づいてても良かっただろうに」

「ちょ、ちょっと待て、ギヨーム、おまえ絶対勘違いしてるぞ?」

「どうかな……なあ、鳳、今目の前で起きている、天使共が問答無用で囚人たちを攻撃している姿を、どう見るよ?」

「どうって……」

 

 いきなりそんなことを問われて戸惑ったが、確かにちょっと不自然過ぎるとは思っていた。だが、それが何の関係があるのかと思っていると、

 

「聖書に書いてあるんだろう? 神は天使に悪魔を攻撃するように命じた。だから奴らはアザゼルをいきなり攻撃したのさ」

「神が天使に命じた……そう言いたいのか?」

「おまえも心当たりがあるんじゃないか? この世界にたどり着いた時、おまえは最初エミリアにこう話しかけられたはずだ。ドミニオンが来る。すぐ逃げろと」

「……!? なんでおまえがそんなことまで?」

 

 この世界でエミリアの存在を知っているのは、ミッシェルとアリスくらいしかいないはずである。それも間接的に知ってるだけで、鳳が彼女と交わした会話の中身までは、もちろん誰にも話していなかった。なのに、ギヨームは当たり前のようにそれを知っているらしい。

 

 あまりにもあり得ない状況に、鳳は完全にパニックになっていた。ギヨームはそんな彼に畳み掛けるように、

 

「まあ、聞けよ。そしておまえはドミニオンと遭遇した。その時の連中は、今の天使みたいに、ほとんど問答無用で襲いかかってきたんじゃないか」

 

 そう言われてみればそんな気はする。鳳がプロテスタントだと知った瞬間の瑠璃たちの動きは、かなり劇的なものだった。それに、一緒に居たアズラエルを、背後から一突きした桔梗の狂った目は、今思い出してもぞっとするほどだった……

 

「この世界の住人にとって、プロテスタントは絶対処刑対象のはずが、ところがおまえはそんなドミニオンたちを篭絡してしまった。おまけに今じゃ四大天使にも一目置かれ、ついには魔王を倒して、人類の大スターだ。来年には、おまえの子供がいっぱい生まれてくるんだろう? なあ、いくらなんでもこれって都合が良すぎないか?」

「それは……」

「そこにいるメイドもそうだ。こっちの世界に来るには身体が必要で、だから播種船の中に遺伝子がないやつは来れないと言われてたはずだ。なのにおまえ、どうやってそいつを呼び出したんだ?」

 

 鳳は何も言い返せなかった。

 

「しかもおまえは殺しても死なないと来ている……こんな奴を神と呼ばずしてなんと呼べばいいんだよ?」

「……しかし、俺は天使に命令なんかしていないぞ? ドミニオンたちだってちゃんと事情を話したら理解してくれただけだ。俺に彼女らの行動を縛るような力があるわけじゃない」

「自覚がないだけで、力はあるかも知れないじゃないか」

「そんなこと言われても……そんなの確かめようがないじゃないか」

 

 何を言っても自説を曲げないギヨームを前に、鳳がなんて答えていいか戸惑っていると、しかし、どうやら彼には何か確信があったらしく、

 

「だったら、試してみようじゃねえか」

「試す……?」

「ああ、こうやってな」

 

 ギヨームがそう言い放った瞬間、彼の背後に無数の対物ライフルの銃身が、空間の歪みを通って現れた。その全ての銃口は鳳にまっすぐ向けられており、彼が何をしようとしているかはすぐに分かった。

 

 だが、こちらにはアイギスがある。アリスが展開する結界は相変わらず船全体を覆っており、危険を察知した彼女は、更に鳳の前に飛び出て結界の密度を濃くしてくれた。

 

 ギヨームの力が本物であることは熟知してるが、アイギスの守備力もまた本物だ。最強の矛と盾のどちらが勝つとか、そういう話ではない。この状況で撃ったところで何の意味もないはずなのに、彼は何を試そうとしているのか。

 

 戸惑う鳳に向けて、ギヨームは躊躇なく、まるで実験をする科学者のような目つきで腕を振り下ろした。

 

「荒ぶる戦の神マルスよ、今すぐ俺に力をよこせ! 魔弾の射手(フェイルノート)!!」

 

 その攻撃は、前の世界アナザーヘブンで何度も見たことがあった。ギヨーム最大の攻撃で、とにかく無限に近い銃撃で相手を粉砕する魔法だ。確かにその総火力は桁違いで、面制圧力はかなりのものだが、いかんせん、それぞれのライフルから打ち出される射撃は、やはりそれぞれ一発でしかなく、そんなものがいくら当たってもアイギスの結界を破るには不十分のはずだった。

 

 だから鳳は、ギヨームの意図が見抜けず困惑するしかなかったが……しかし、次の瞬間に起きた信じられない光景を見て、彼はギヨームが鳳のことを神と呼んだ理由を理解した。

 

 その時、まるで鳳の身体を守るかのように、アイギスの結界の前に次々と天使たちが飛来して、ギヨームの銃撃に撃ち抜かれて落ちていった。

 

 たった今まで、狂ったように堕天使たちを攻撃していた天使たちが、突然背中を向けて銃撃の中に突っ込んでいったのだ。戦っていた堕天使たちもわけが分からなかったのだろう。あの無機質な表情が、今は唖然として見えた。

 

「悪魔を攻撃するよりも、おまえを守ることを優先したんだろう。これを見ても、おまえはまだ自分のことが特別じゃないとでも思っているのか?」

 

 不可解な現象を前に、誰もが沈黙する中で、ギヨームの声だけが響いていた。ジャンヌも、ミッシェルも、サムソンも、そしてアリスからも、無数の困惑の視線が鳳に突き刺さった。

 

 鳳はその注目の中で、未だ理解が及ばず、困惑気味にギヨームに言った。

 

「しかし、俺はこんなこと、本当に命じた覚えはないんだ」

「まあ、記憶がないのは本当かも知れないな。だが、おまえが神であることは間違いない。少なくとも、神がおまえの身体を作り出したことだけは事実だから」

「ちょっと待ってくれ! なんでそこまで言い切れるんだ?」

 

 するとギヨームはついに追い詰めたとでも言いたげに、確信的な目つきでまっすぐに鳳の目を見ながら言った。

 

「何故なら、この世界の播種船のデータベースには、おまえの遺伝子は存在しなかったんだ。俺やレオ、そこにいるミッシェルみたいな有名人の遺伝子は登録されてても、ただの一般人であるおまえの遺伝子は登録する意味がない。だから、おまえがこの世界に渡れる理屈は最初から無かったんだよ」

「いや、そんなはずは……だったらなんでエミリアは復活したんだよ? この世界の神、DAVIDシステムは俺の親父が作ったんだろう? だから俺はそれを受け継いで、自分の遺伝子を播種船に乗せたんじゃないのか? 違うのか!?」

「それは下の世界、アナザーヘブンでの話だ。こっちの世界は違うのさ」

「……え?」

 

 ギヨームは、まるで憐れむような目つきで言った。

 

「この世界のおまえはP99が開発されるよりもずっと以前、中学の時に死んだんだ。だから、播種船が建造された時、おまえの遺伝子はこの世のどこにも存在しなかった。無いものをデータベースに登録することは出来ないだろう」

「そんなの嘘だ! おまえ、適当なこと言ってんじゃねえよ!? 大体そんな話、どうしておまえが知ってるんだよ?」

「エミリアに聞いたんだよ」

 

 その答えを聞いた瞬間、鳳は全身を銃で撃ち抜かれたような衝撃が走った。

 

「俺は神の居場所を探していた。そんな時、播種船にいたエミリアがコンタクトを取ってきたんだよ。どうしておまえが存在する。何故、ドミニオンはおまえを殺さなかったんだってな」

「そん……な……エミリアが!? 俺が、存在しないって? 人間でもなくて……神……だって……?」

 

 放心状態の鳳が膝から崩れ落ちそうになると、慌てて傍に居たアリスとジャンヌが彼の体を支えた。彼は体の動かし方を忘れてしまったかのようにプルプル震えながら、頭の中は逆に高速回転し続けていた。

 

 この世界を作った神が自分だとしたら、今までのことは全部茶番でしかなく、それじゃあ神は一体、何をしようとしていたのだ? 人間に代わって魔王を倒す? 天使と悪魔を戦わせる? それとも、人間たちに自分の子供を産ませたがっていたのか?

 

 まるでわからない。何がなんだかさっぱりだ。だから、もっと話をしなければならなかった。しかし、そんな時だった……

 

「メギンギョルズ、イルアン・グライベル、我は今戦鎚を持ち、数多の巨人を屠る神の化身となりて悪を討つ……戦場に鳴り響け雷鳴! 粉砕するもの、ミョルニル・ハンマー!!」

 

 放心する鳳の前に倒れていた天使の一人、コカビエルの体が唐突に光り始めた。そんな彼がボロボロの体で立ち上がると、いつの間にかその手には巨大な槌が握られていた。

 

 その柄は短く鉄の槌頭を貫いており、遠目に見ればまるで巨大な十字架を思わせた。彼はそんな戦鎚を両手で高々と掲げると、ロボットのように機械的に詠唱を開始し、それをギヨームに向かって思いっきり振り下ろした。

 

 すると、ドンッ!! っと地面に槌が突き刺さる鈍い音が鳴り響くと同時に、空から巨大な槌のような光が、地上めがけて落下してきた。それはギヨームを押しつぶさんと言わんばかりに、まっすぐ彼に向かって伸びていく。

 

 さしもの彼も、これには焦りの色を隠せなかったが、次の瞬間、その光を遮るように一人のコウモリ羽の堕天使が飛び出し、彼を守るようにその光を受け止めた。

 

「ぐぅ……ぬわああああああーーーーっ!!!」

「カスピエル!!」

 

 その輝かんばかりの巨大な光は、きっと触れるものを何もかも焼き尽くす程の熱量を持っていただろう。そんなものを一人で受け止めて、いつまでも保つはずがない。カスピエルと呼ばれた堕天使はそれでも必死に光を食い止めながら、

 

「ここは俺が引き受けた! アザゼル! 後は頼みました……どうか人類に……人類に救済を!!」

「くっ、やむを得まい……キッド! 撤退だ! カスピエルが燃え尽きる前にここを離れる!!」

 

 カスピエルは、まるで天使と悪魔、逆なんじゃないかと言いたくなるような、そんな熱いセリフを吐きながら、仲間を逃がそうと最後まで光を押し留め続けた。そんな彼の奮闘を無駄にしまいと、アザゼルがギヨームに向かって叫ぶ。

 

 その意図を察したギヨームが、すぐにポータルを作ると、堕天使たちは我先にとその中へ飛び込んでいった。カスピエルの体は光に飲み込まれ、もう一刻の猶予もない。アザゼルがポータルに飛び込んだのを確認すると、最後まで残っていたギヨームはその後に続こうと背中を向けた。鳳はそんな彼を引き留めようとしたが、

 

「ギヨーム! 待ってくれ……」

「次は一人で来い! 一人でだぞ!!」

 

 状況が許さず、ギヨームはそう吐き捨てるように言い残すと、ポータルの向こうに消えていった。

 



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五里霧中

 空から落ちてくる光の槌を食い止めていた堕天使は、ギヨームたちの撤退を見届けた後に力尽き、光の中へと飲み込まれていった。その体が蒸発して枷がなくなった槌は、まるで堤防が決壊したかの如く急激に速度を増し、地面へと落下した。

 

 ギヨームの問いにたじろいで放心状態になった鳳を守るべく、彼の前に躍り出たアリスはアイギスを力強く天に掲げると、結界の密度を上げて衝撃に備えた。と、その時、彼女は自分たちのすぐ眼下に、銃撃を受けて傷ついた天使たちが倒れていることに気づき、咄嗟に結界を広げて彼らのことも守ろうとした。

 

 そのせいでアイギスは衝撃を受け止めきれなかったのだろうか、ミョルニルの光の槌が地面に触れた瞬間、凄まじい爆発音と共に、結界もろとも船が傾き、堤防内に発生した津波に乗せられ、船はサーフィンをするかのごとく押し流されてしまった。

 

「きゃあああーーーっっっ!!!」

 

 船の甲板に立っていた鳳たちは、その下から突き上げるような衝撃に跳ね上げられ、一瞬、甲板から投げ出されそうになった。すると殆どの者は咄嗟に手近な物に捕まって難を逃れたが、初動が遅れたドミニオンの楓が、一人だけ甲板を飛び出しそのまま海に放り出されてしまった。

 

 伸ばしたジャンヌの手が空を切る。焦った彼女が海に飛び込もうとして駆け出すと、そんな彼女の横をすり抜けるようにサムソンが飛び出し、彼は勢いよく船からジャンプしては、放り出された楓の体を空中でキャッチした。

 

 しかし、一度船から飛び出した二人がそのまま戻ってこれるわけもなく、勢いのままに落下する二人は桟橋に倒れていた天使たちをも飛び越えて、ミョルニルの上げる爆炎の中へと飛び込んでいってしまった。

 

 サムソンが咄嗟に身を捩り、体を丸めて楓を庇う。爆炎はそんなサムソンの背中を容赦なく襲い、背中の毛が黒焦げ、ちりちりと炎が舞い上がった。爆風に押し返された二人は今度は逆向きに加速して、そしてまた天使たちの体を飛び越えて海へと落下していった。

 

「楓っ! サムソーーンッッ!!」

 

 甲板の手すりから身を乗り出して二人の名前を叫ぶジャンヌの前で、巨大な水しぶきを上げて二人は海の底へと沈んでいった。

 

 港の桟橋が吹き飛び、天使たちも次々海へと落下していく向こう側で、吹き上がる爆炎がきのこ雲を作っている。港の反対側まで波に押し流された船は、堤防のコンクリート壁に衝突すると、今度はダンスを踊るかのように右へ左へと交互に揺れ動いた。ジャンヌは手すりにつかまりながらそれに耐えると、ようやく収まってきたところで上着を脱ぎ捨て海へと飛び込んだ。

 

 間もなく、彼女が向かう先で、海面に楓の顔が突き出てきて、彼女は周囲を一瞥することもなく息継ぎをすると、また海の底へと潜っていった。恐らく、そこにサムソンが沈んでいるのだろう。ジャンヌはそう判断すると、数メートル手前から潜水を始めて、海底でサムソンの体を持ち上げようとして藻掻いている楓に手を貸し、二人で彼の体を持ち上げた。

 

 バシャッと水しぶきを上げて、三人の姿が海面に現れる。

 

「助けて! サムソンさんの意識がないの!」

 

 そんな楓の声に応じて、船内に隠れていた船長と副船長が飛び出し、彼女らは慣れた手付きで素早く搭載されていたボートを下ろすと、オールを使ってスイスイと救助へ向かっていった。

 

 鳳はそんな救助の様子を未だ放心状態のままぼんやり眺めていたが、

 

「ご主人さま。心中お察ししますが、今は呆けている場合じゃないかと……」

 

 その声に目を向ければ、滅多なことでも無ければ主人に意見を述べることなどないアリスが、不安げな瞳で彼のことを見上げていた。その向こう側では既に救命胴衣を身に着けたミッシェルが、ロープと浮き輪を持って彼の様子を窺っていた。鳳ははっと我に返ると、

 

「す、すまない。俺もすぐに救助に向かおう。アリスは結界を作って、なんか上手いこと助けられないか試してみてくれない?」

「わかりました、やってみます」

 

 鳳はアリスにそう指示すると、サムソンを引き上げているジャンヌたちを手伝いに向かった。

 

************************************

 

 乗っていたホバークラフトは、押し寄せる波で堤防まで流されてしまっていたから、現場には泳いでいくよりもその堤防の上を走っていった方が早かった。港をぐるりと回って壊れた桟橋にたどり着くと、ちょうど船に乗せられてサムソンがやってきたので、鳳が身体強化の魔法をかけて彼のことを引き上げた。

 

 サムソンの傷は酷く、海水にも濡れていたから、すぐに応急手当をしなければならなかったが、うっかり救急箱を船から持ってくるのを忘れてしまい、鳳は舌打ちした。そんなことにも気が回らないくらい、自分はショックを受けていたのだろうか? 彼は慌てて船まで取って返した。

 

 戻ってくると海に落ちていた天使が数人、意識を取り戻して自力で岸壁にたどり着いていた。すぐに他の人たちも助けなきゃと言ったら、天使はこの程度で死んだりしないから、怪我人がいるならそっちを優先しろと逆に気遣われた。

 

 その他人を慮る優しい顔と、堕天使を攻撃していた時の顔が、あまりにも対照的で別人としか思えず、なんだかちょっと脳がバグった。彼らが言うには、刑務官の詰め所がこの港のすぐ近くにあるらしく、怪我人を手当するならそこへ運んだほうがいいと言われ、案内されるままサムソンを運んだ。

 

 堕天使たちが利用していたのか無人の詰め所には生活感があり、暖房がつけっぱなしになっていたので有り難かった。早速、救護室にサムソンを運ぶと、うつ伏せにベッドに寝かせた。背中一面の皮膚が焼け焦げ、グロテスクな水ぶくれに覆われていて、見ているのも苦痛な状態だった。

 

 ベッドのシーツがあっという間にびしょ濡れになってしまい、彼の体毛で覆われた体を出来ればドライヤーで乾かしたかったが、火傷に障るといけないので使えず、とにかくタオルでギュッと搾り取るしか方法が無かった。

 

 楓がその根気のいる作業を買って出てくれたが、自分のせいでサムソンが傷を負った責任を感じているのだろうか、真っ青な彼女の顔はとても強張って見えた。あまり思いつめなければ良いのだが。

 

 その後はまた港に戻り、沈んでいる天使の捜索に当たったが、しばらくすると殆どの天使が自力で浮き上がってきて、間もなく捜索は終了してしまった。先程の天使も言っていた通り、彼らには超回復力があるから、銃弾で撃ち抜かれようが、火に焼かれようが、命さえあれば後はなんとかなってしまうようである。

 

 となると結局、今回一番の被害者はサムソンのようで、あの傷の具合では復活まで相当時間が必要だろう。彼も魔族だから、人間よりは回復が早いかも知れないが、それまで最大の戦力が抜けてしまうのは痛手だった。

 

 とはいえ、最大戦力と言っても、今、一体何と戦うと言うのだろうか? 堕天使だろうか、ギヨームだろうか、それとも……? あの時、目が血走った天使たちの姿を思い出すと、正直どちらと戦った方がいいか分からなくなった。

 

 ……一段落して落ち着いた後、その天使たちには、どうして約束を守らずに勝手に堕天使と戦い始めたのかを問い詰めた。すると彼らは困ったことに、この島に来てからのことをよく覚えていないと言い出した。

 

 彼らだって反乱を鎮圧するために交渉を望んでいたのだ。だから鳳が堕天使たちと会話を始めた時は、ちゃんと船内に隠れてその様子を窺っていた。ところが、そうして遠巻きに囚人の姿を見ていたら、彼らは段々ムカムカしてきてどうしようもなくなってきたらしい。

 

 怒りで我を忘れるという言葉があるが、そのムカムカはまさにそんな感じで、彼らは間もなく耐えきれない程の憎悪に見舞われると、視界が真っ赤に染まり、ついには意識が吹き飛び、その後は自分たちが何をやっているのか、記憶が曖昧になってしまっているようだった。

 

 不思議なことはそれだけではなく、コカビエルが最後に行ったあの攻撃は、オリジナルゴスペル・ミョルニルによるものだった。しかし、元々彼にはオリジナルを使える適正はなく、そもそもミョルニルは反乱が起こった時にそのまま刑務所に取り残されており、彼らがアイスランドから持ってきた物ではなかったのだ。

 

 となると、あの時、ギヨームの必殺技にやられて意識が吹き飛び、絶体絶命のピンチの天使たちの下に、あれがどこからともなく現れたということになる。そしてコカビエルは意識がないままそれを使用し、堕天使たちは撤退を余儀なくされた。

 

 これを神の奇跡と呼ばずしてなんと呼べば良いのだろうか……

 

 ……海に沈んだ天使たちの捜索と、サムソンの手当てであっという間に時は過ぎ、気がつけば夜になっていた。

 

 その後、サムソンは意識を取り戻したが容態は重く、応急処置ではどうにもならなさそうなので、レイキャビク港に残してきたドミニオンの衛生兵を急遽呼び寄せることになった。

 

 天使たちも刑務所の奪還を知ると、またこっちに戻ってくるつもりらしく、結局、非戦闘員であるタンカーの船長と副船長と入れ替わりに、殆どの天使とドミニオンがこっちに来ることになった。

 

 医者が来ればサムソンももう少し楽になるだろうが、移動には一日かかるから、それまで何も出来ずに彼が苦しんでいる姿を見ているしかないのは、本当に辛かった。

 

*********************************

 

 翌朝、鳳は一人、朝焼けに染まる堤防の上で、ぼーっと海を眺めながらギヨームに言われたことを考えていた。

 

 昨日、散々考えたことだが、気になる点はまだ一つあった。仲間を助けるため、ミョルニルの攻撃に立ち向かった堕天使は、最期の瞬間に人類救済を叫んでいた。

 

 彼らが本当に堕天使ならば、戦っている相手は神で間違いないだろう。しかし神の敵対者である彼らが人類救済を望んでいるのだとしたら、じゃあ神は何を望んでいるのだろうか。

 

 思い返せば、鳳たちがこちらの世界に渡ってくる切っ掛けも、堕天使ルシファーがこの世界の人類を救いたいと願ったためだった。そして神を放置していたら、このままでは宇宙が消滅してしまうというから、鳳たちは手伝いを買って出たわけだが……根本的な目的は、人類の救済だったはずだ。

 

 そんな堕天使たちの行動を阻むことは、世界を滅ぼす行為に加担していることと同義である。しかし、それは本当なのだろうか?

 

 少なくとも、天使たちにそのつもりがないのは間違いないだろうが、昨日のあの様子を見る限り彼らの意思は関係ない。どうやら天使たちは神に操られて無意識に堕天使を攻撃するらしく、そして、これがギヨームが執拗に一人だけで来いと言っていた理由だった。

 

 堕天使たちの言葉をそのまま受け取れば、神は天使を操って、世界を……ひいては宇宙を滅ぼそうとしている。そしてその神とは、ギヨームが言うには、鳳白……自分かも知れないのだ。

 

 おまえが神だ。

 

 昨日のギヨームの言葉が耳から離れなかった。

 

 本来なら敵対勢力のドミニオンを篭絡し、四大天使とは協力関係を築き、全人類からはいつの間にか羨望の眼差しを受けている。そして愛する妻を野放図に呼び寄せ、襲い来る魔王を次々と倒し、極めつけは昨日の天使たちの肉壁だ。仮に鳳が神ではなくても、少なくとも神が鳳に執着してるのは、もはや間違いないだろう。

 

 あまりにも自分に都合のいいことが起きすぎている。鳳には全く自覚は無いのだが、これが全て意図的に引き起こされたことだとしたら、確かに鳳が神なんじゃないかと疑われても仕方ないだろう。誰だって、こうあって欲しいという願望はある。神である鳳が、無自覚にそれを引き起こしているというわけだ。

 

 もしも、本当に自分が神だとしたら、世界を救うためには、自分を殺さなければならないだろう。しかし、頭を撃ち抜かれても死なないのなら……またアナザーヘブン世界みたいに自動的に何度でも復活してしまうと言うなら、こんなのどうすればいいと言うのだろうか?

 

 いや、そもそも、なんで自分が死ななきゃならないのか。誰だって死にたくなんかないはずだ。当たり前だ。例えそれで世界が滅びたとしても、自分だけは死にたくない……

 

「おはよう、タイクーン。随分とお悩みのようだね」

 

 鳳がそんなことをウジウジと考えていたら、いつの間にか背後にミッシェルが立っていた。別に認識阻害を使っていたわけではなく、考え事に夢中で気づかなかったらしい。手にはサンドイッチを乗せた皿を持っていて、どうやら朝食を運んできてくれたようだった。

 

 鳳は占星術師(ミッシェル)に礼を言うと、サンドイッチを受け取りながら、

 

「ミッシェルさんの占い……当たりましたね」

「占い? なんの?」

「ほら、だいぶ前に、ケアンズに行く前に、俺のことを占ってくれたじゃないですか」

「ああ、ホロスコープだね」

 

 ミッシェルはその時のことを思い出し、うんうんと頷きながら、

 

「ほら、僕が言った通り、終わってみれば確かにその通りだったけど、知っていたところでどうしようもなかったでしょう」

「……そうですね。それどころか、ここに来るまで思い出しもしなかった。俺はそんなことが起きるなんて、端から信じちゃいませんでした」

「それでいいんだよ。仮に信じていて、ギヨーム君に会いに来る前からものすごく警戒していたとしても、やれることなんて何も無かったでしょう。占いってのはあくまで指針さ。例え君が未来を変えたくて、君自身が行動を変えたとしても、他人の行動までは変えられないからね」

「……運命は変えられないってことでしょうか」

 

 ミッシェルは首を振って、

 

「違う違う。未来は不確定で、運命なんてただの後付なのさ。ギヨーム君は確かに魔族を率いて君の前に現れた。それで君は天使を率いて、彼と戦うの?」

「え……?」

「君が天使を率いて戦えば、確かに予言通りかも知れない。でも、例えば今すぐ尻尾巻いて逃げ出したり、一人で彼を説得しにいったりすれば、予言は簡単に外れるじゃないか。もう一度言うけど、占いってのはただの指針で、君を縛り付けるものじゃない。君の未来は、君自身が決めるものなんだよ」

「そうか……戦わないって選択肢もあるのか……」

 

 そうすればミッシェルの言う通り予言は外れるわけだが、ただその場合、その後はどうなるのだろうか。

 

 ギヨームは、鳳のことを神だと思っているらしい。そして彼の目的は神を倒すこと……この世界を救うために、自分の命を捨てる覚悟なんて出来るだろうか? 鳳にはまだ分からなかった。

 

「……ミッシェルさん。ギヨームの言う通り、俺は神なんでしょうか?」

 

 するとミッシェルはその言葉を予期していたかのように、苦笑いしながら首を振って、

 

「違う違う。そんなことは絶対にないよ」

「どうして、そう言い切れるんですか?」

「うん、それはだね……僕はここへ来るまでに起こった一連の出来事を吟味してて、神の居場所が分かった気がするんだよ。そしてそれが間違いないなら、君が神である、なんてことはあり得ない」

 

 まるで当たり前のことのように、しれっとそんな重大事を口にするミッシェルに対し、鳳は目をひん剥いて前のめりに聞いた。

 

「神の居場所が分かった……それは本当ですか!? 一体、どこなんです?」

 

 するとミッシェルはまた、そう聞かれると思っていた、と言わんばかりに苦笑しながら、

 

「それを僕の口から言うのは簡単だけど、言ってしまえば君はそれが本当のことか分からないまま、僕の答えに依拠することになる。それは僕の占いの結果を、盲目的に信じるのと同じことで、危険なことだよ。ギヨーム君も言っていた通り、君は相当頭が切れる人だから、自分でその答えにたどり着くべきだ。状況証拠は出揃っている。なに、僕が気づけたんだから、すぐに君にも分かるでしょう」

「なんでそんな意地悪するんですか? いいから教えて下さいよ」

「ほら、そうやって焦っているのが良い証拠じゃないか。ギヨーム君に言われたことを気にして、今君は精神的に不安定なんだ。だから今はまだ結論を急がないほうがいい。まずは状況をよく見極めて、何をすべきか方針を決めるんだ。ギヨーム君や堕天使たちと戦うのか、それとも、別の方法を探るのか」

「それは……ギヨームと戦うなんて考えられないじゃないですか。と言うか、力づくで解決しようにも、サムソンが怪我をしている今はどうしようもないですよ。昨日の様子じゃ、天使の力を借りるのも危険すぎるし……向こうが話し合いに応じてくれるなら、そうした方がいいでしょうね」

「なら君は一人で彼らに会いに行くつもり?」

「それなんですよねえ……もし彼らが本気で俺のことを神だと信じているなら、その目的は俺の死ということになる。そんなところに一人で行くのは自殺行為としか思えないし……」

「まあ、時間指定されてるわけじゃないんだから、そんなに急いで決めなくてもいいんじゃない。もっとゆっくり考えればさ」

「失礼いたします、ご主人さま」

 

 鳳たちが話をしていると、背中の大盾をガシャガシャと鳴らしながら、アリスが駆け寄ってきた。彼女は二人の数メートル手前で立ち止まり、呼吸を整えながら近づいてくると、恭しくお辞儀をしてから、

 

「たった今、レイキャビク港から通信があり、ウリエル様からご主人さま宛に連絡が入ったとのことです。ご主人さまがこちらに居られることをお伝えすると、それならば直接こちらに連絡するからと言って切られたそうです」

「ウリエルさんが? なんだろう……って言うか、どうやって通信して来たんだ? この悪天候だと言うのに」

「なんでもプリマスから連絡をしているとおっしゃっていたそうです。ご主人さまにそう言えば分かるとのことで……」

「プリマス……プリマスだって!? それってイギリスの都市だろう? どういうこっちゃろうか。とにかく、こっちに連絡してくるんだね?」

 

 鳳はそう言うと、ミッシェルに先に戻ると告げて、アリスを連れて忙しそうに去っていった。

 

*********************************

 

 ミッシェルはその背中を見送った後、いつものようにやれやれといった感じに肩を竦めてから、二人に聞こえないように、ふーっと、長い長い溜息を漏らした。

 

 だいぶ落ち込んでいるようだったから励ましに来たつもりだったが、少しは気分転換になっただろうか。ウリエルが何故イングランドに来ているのかは分からなかったが、頼れる仲間が増えることで、彼の気が紛れればいいのだが……そう、ミッシェルは願った。

 

 というのも、鳳にはどうしても毅然としていて貰わねばならなかったのだ。彼が落ち着いて、いつものように力強く運命に立ち向かってくれなければ、どうにも困った事態がこれから起きてしまうらしい。

 

 ミッシェルはその辺に落ちていた石ころを拾うと、コンクリートの堤防の上に何か魔法陣のような模様を描き始めた。それは一見すると落書きにしか見えなかったが、見る人が見れば占星術に使うホロスコープであることが分かっただろう。

 

 昨日の天使の暴走を見た後、かつて鳳の星を占ったことを思い出したミッシェルは、実は鳳に黙ってこっそりまた彼の未来を占っていたのだ。するとそこにはとんでもない結末が導き出されており……彼は驚いて占いをやり直し、それでも覆らない結果を不安に思い、鳳の様子を見に来ていたのだ。

 

 その占い結果とはこんなものだった。

 

 既に神の裁きは下され間もなく終末が訪れるだろう。

 

 恐怖の大王が天より降り立ち、全ての生命が食い尽くされる。

 

 空間は光で満たされ時間は止まり、

 

 そしてこの宇宙は終焉を迎えるであろう。

 



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アモーレ

「ブルブルブルブル……寒い、寒いわ、母さま!」「もうこんなところは嫌よ!」「島に帰りましょう、母さま!」「鬼、悪魔、母さま!」

 

 イギリス南西部、元プリマスの街にほど近い湾内で、オアンネスの群れがブツクサと文句をたれていた。見た目こそアズラエルにそっくりな彼女たちであったが、元々は熱帯の海に生息する水棲魔族であったから、こんなに北の海になんて来たことがなくて、その寒さに対応しきれなくなったのだ。

 

 冷たい風が吹きすさぶ地上より、まだ海の中のほうがマシらしいが、残念ながら彼女らは魚類ではないから水の中で眠ることが出来ず、寝る時はどうしても地上に上がらざるを得なかった。だからどうにかして陸に上がろうとしては、その寒さに負けて海に戻るということを繰り返していたのだが、そろそろ疲労も限界を迎えつつあり、先程からずっと泣き言を言っていた。

 

「ほれほれ、だから言っているであろう。この服を着れば地上でも温々と過ごせるぞ。頑なに素っ裸で過ごそうとせず、これを機会に服にも慣れるべきだ」

 

 そんなオアンネスたちの弱点を逆手に取って、アズラエルはこれ幸いと服を着せようとしていた。ケアンズでは何を言っても聞いてくれなかった頑固な連中だが、流石に命がかかっていてはそうも言ってられないだろう。

 

「もう母さまの言うとおりにするしか仕方がないわ」「う、ううぅぅ~~……」「あんな動きづらい変なもの着たくないわ、姉さま」「悔しい……でも、このままじゃ死んじゃうわ」

 

 果たしてアズラエルの目論見通りに、ついにオアンネスたちは全裸を諦め、いそいそと服を着始めた。結局の所彼女らは言うことを聞きたくなかっただけで、服を着てみたらみたでどうということも無かったらしく、

 

「あら、意外と温いわ、姉さま」「風を防ぐだけでこんなに違うのね、姉さま」「姉さま、肌が乾いていれば動きづらくもないわ」「重ねて着るとすごく暖かいわ!」

 

 オアンネスたちはやいのやいの言いながら、洋服を着て陸の上をゴロゴロし始めた。アズラエルはそんな眷属たちの姿を満足気に眺めながら、傍に控えていたウリエルに向かって嬉しそうに言った。

 

「はっはっは! 見ろ! あのみっともない連中に、ついに服を着せてやったぞ!」

「はいはい、良かったですね」

 

 喜色満面ほころぶアズラエルの表情を苦笑いで見つめながら、ウリエルは服を取り合っているオアンネスの群れを遠巻きに、ふと思いついたことを口にした。

 

「ところで、アズラエル様。あれは誰が洗濯するのですか?」

「……え?」

 

 そんなことなどまるで考えていなかったのか、アズラエルがポカンとした表情で固まっている。その後ろではオアンネスたちが、既に魔物を生で食べたりして、服をぐちゃぐちゃに汚していた。

 

 鳳たちがタンカーで旅立った後、失われたオリジナルゴスペルの一つ、アスクレピオスを発見したアズラエルたちは、後日それを鳳に届けるために大遠征へ出ることにした。彼らが旅立ってから既に結構な日数が経過していたが、水の上でアズラエルとその眷属に速度で勝る者は、今となってはどこにも存在せず、スエズを通っていけば十分に追いつけるはずだった。

 

 ミカエルも、既に人類が居なくなって久しいスエズや地中海の様子が知りたかったらしく、計画を話すと遠征許可はすぐに下りた。そんなわけで護衛と言おうかお目付け役と言おうか、友人枠でくっついてきたウリエルとともに、彼女らはワイワイ旅立ったわけだが……ちょっとした小旅行のつもりが、その道中は中々ハードな物となった。

 

 既にインドネシアの覇者として、インド洋を制圧していた水棲魔族は紅海まではすんなり通過出来たのだが、スエズ運河は長年の侵食やらなんやらであちこちが埋まってしまっており、そこに魔族がコロニーを作っていたため、通り抜けようとすると結構な戦闘となってしまったのだ。

 

 それでも、水辺で水棲魔族に勝てる者などそうそう居ないから突破は出来たのだが、強力なアズラエル型オアンネスはともかく、ギー太は完全にお荷物であり、この戦いについていけないから置いてくるしかなくなった。

 

 こうして脱落者を出しながらも地中海に入った一行は、ミカエルの要請に応えて沿岸地域をあちこち偵察しながら進むことにした。

 

 魔族発祥の地と目されている中東レバント地域は、予想に反して不気味なほど静かで魔族の影が見当たらなかった。だが、地上のあちこちに激しい戦闘の痕跡が残されており、ここが幾度も激戦地となった様子が窺えた。恐らくはその爪痕とサハラ砂漠のせいで、いつからか魔族すらも住めなくなっていったのだろう。

 

 北のアナトリア半島からギリシャにかけては草原が広がり、魔族の群れをいくつも確認出来たが、バルカン半島を過ぎてヨーロッパに入ると、そこにはオークやイチイ、トネリコなどの巨木が立ち並ぶ原生林が生い茂っており、中がどうなっているか空からでもさっぱり確認出来なかった。まあ、十中八九魔族の巣窟なのは間違いないだろう。

 

 他方、北アフリカ沿岸は緑が少なく、魔物の群れも数えるほどしか確認出来ず、比較的安全に過ごせるため休息は主にこちらで取った。サハラ砂漠が2つの大陸を分断していることは、アフリカ大陸の調査でも判明していたことだが、それを裏付ける情報であった。

 

 因みに、北アフリカにも魔族が全く居ないわけではなく、それじゃどこから侵入してきたのかと思ったら、どうやらイベリア半島からジブラルタル海峡を渡ってくるのが大半らしく、地中海から大西洋に出る時はまた激しい戦闘になった。

 

 スエズの時もそうだったが、どうも特定の魔族には狭い海峡で待ち構えるという傾向があるようだ。それは多分、昔から弱い魔族が追い立てられて海峡を渡ることが多かったからであろう。そう考えれば、他大陸でも同じような傾向が見られるだろうから、今後の調査に役立てられる良いデータが取れたと言える。ミカエルに教えてやったらきっと喜ぶに違いないと、二人でそんな話をしながら、一行は地中海を後にした。

 

 そして大西洋へ出たら航海は一気に楽になった。元々、タンカーが通っているくらいだから分かっていたことだが、大西洋にはレヴィアタンのような水棲魔族はいないのだ。お陰で海洋資源が豊富で食うには困らず、どこに寄り道する必要もなく、旅は順調そのものだったが、しかしイギリスに到達したあたりでオアンネスたちが音を上げた。

 

 イギリスは南からの暖流が流れ込んでいる影響で、実は日本より温暖な地域なのだが、それでも熱帯の生き物である彼女らにここの寒さは厳しかったらしい。アズラエルもその可能性は考慮しており、最後は筏に乗せて連れていこうと考えていたのだが、彼女らにとっては寧ろ地上の方が寒いらしくて乗船を拒否された。それで寒いなら服を着ろ、着ないとやりあっていたわけだが……

 

 そんな微笑ましい親子喧嘩を苦笑いしながら見ていたウリエルは、早々にアイスランドまで行くことは断念し、代わりに届け物だけしてしまおうと基地に連絡を入れた。すると、そのアイスランド基地で反乱が起きていることを知り、驚いて詳しい事情を聞こうと、フェロー諸島に向かったという鳳に連絡をした次第であった。

 

 プリマスの辺りでキャンプを張っていることを伝えたら、すぐ迎えに行くと言っていたのだが……それから1日ほどが経過し、自分の着替えを悉く駄目にしてしまったアズラエルが肩を落としていたところ、水平線の向こう側から警笛の音が聞こえてきた。

 

 間もなく、水平線の向こう側からひょっこりホバークラフトが頭を出し、海の上を加速しながら近づいてきて、ウリエルたちのいる砂浜へと滑るように上陸した。そして砂煙を上げている風が止まると、中から鳳とアリスが現れた。

 

 アズラエルは喜々として近づいていくと、

 

「やあ、君! 久しぶりだな。いや、そうでもないか……? 君の精子を受け取ったよ。早速、眷属を使って様々な受精卵を作ろうとしたのだが、ウリエルに止められたのだ。君からも文句を言ってくれないか」

「駄目に決まってるだろう、そんなこと。相変わらずマッドだな……ウリエルさんもお久しぶりです。そしてグッジョブ」

「お久しぶりです、鳳様。アズラエル様と突然押しかけてビックリさせようと思っていたのですが……まさか基地で反乱が起きてるとは思わず、こっちがびっくりしてしまいました。基地の方々は無事なのですか?」

「ええ、基地の人たちは……」

 

 鳳はそう言うなり表情を曇らせた。久しぶりの再会を喜んで、道中の武勇伝を語ろうとしていたアズラエルは、どこか元気がない様子の彼を見て、

 

「どうしたのだ? なんだか君らしくない、歯切れの悪い態度だな。基地の人たちはと言うことは、まさかドミニオンに犠牲者が出たのだろうか?」

「いや、瑠璃たちやタンカーの乗組員は怪我一つ負っちゃいないんだけど……サムソンが……」

「なに、あの信じられないほど強い魔族が!? それこそ信じられない話なのだが……もう少し詳しく教えてくれないか」

 

 アズラエルに促されて、鳳はアイスランドに来てから起きた一連の出来事を話して聞かせた。基地にたどり着いてみれば、助けに来たはずのギヨームが反乱を起こしていたこと。そのギヨームを説得しようと波乱軍の待つフェロー諸島まで行ったら、何故か天使たちが暴走をし始めたこと。

 

 その天使を止めようとしていたら殺気を感じ、ギヨームに攻撃を受けたこと。彼は、ケアンズで鳳を狙撃したことを認め、鳳のことを神ではないかと疑っていた。鳳はなんとかそれを否定しようとしたが否定しきれず、

 

「……言われてみれば、こっちの世界に来てから俺の周りでは都合のいいことばかりが起きていて、その決定打が狙撃されても復活したことだった。目の前で見ていた君らだって、不審に思っていたんだろう? こんなこと出来るのは神しか居ない。そう言われたら何も言い返せなくってさ、そしたら今度は天使たちが俺を庇って次々と銃弾に倒れ行って、終いには暴走したコカビエルがオリジナルゴスペルをぶっ放しちゃって……」

「なんだと? オリジナルゴスペルは適正がなくては使えないはずだぞ!?」

 

 鳳はうんざりするように首肯し、

 

「ああ、でも出来ちゃったんだよ。そんで、その爆発に巻き込まれて反乱軍の堕天使と、サムソンが犠牲になって……彼は今、火傷の治療を受けているところだ」

「容態は? 大丈夫なのですか……?」

「ええ、サムソンも身体は魔族ですから、そう簡単に死にはしないでしょうけど、暫くは動けそうにありません」

 

 そう言って溜息を吐く鳳を前にして、アズラエルとウリエルは困惑気味に目配せをしあった。正直、こんなことが起きていなければ、そんなことは考えもしなかったのだが……

 

「もしや、これも天の配剤というやつだろうか?」

「……なにが?」

「我々は君に届け物があって来たと言っていただろう。ウリエル!」

 

 アズラエルがそう言って促すと、ウリエルは海岸に積み上げられていた荷物の中から、一つの楽器入れみたいなケースを持ち出してきた。大きさは長辺が1メートル強くらいの長方形。どこにでもあるような形状で珍しくもないのだが、鳳は何故か妙な既視感を感じていた。

 

 何がそんなに気になるのだろうと思いながら、ぼーっとケースを見ていたら、ウリエルが開けないのか? といった感じに首を傾げてから、鳳に見えやすいようにケースを傾け、それを開いた。

 

 鳳はそれを見るなり声を失った。

 

「鳳様が旅立った後、ケアンズでアスクレピオスを発見したのです。確かこれは、あなたがずっと探していたのではないかと思い、それでアズラエル様と一緒にお届けしようとこうして追いかけてきた次第です」

「で、どうなのだ? これは君が探していたもので間違いないか?」

 

 杖を前に、いつまでも呆けている鳳に対し、焦れったそうにアズラエルが問いかけてくる。鳳はそれでも尚しばらくの間、呼吸を忘れたかのようにじっとそれを見つめ続けた後、ようやくといった感じにゴクリとつばを飲み込んでから、その杖に手を伸ばした。

 

 見た目や形状、大きさ、どれをとってもケーリュケイオンで間違いなかった。ただそのトレードマークである杖身に巻き付いている蛇は、彼のとは違って一匹しかなく、そして先端の頭の部分にはまっている鈍色の石に見覚えもなかった。

 

 だが、それでも彼はそれが自分の杖であることを確信し、扱くように両手で杖をぎゅっと握りしめると、それを高々と掲げながら宣言した。

 

「始まりにして終わり、アルファにしてオメガ、死者は蘇り、生者には死の安らぎを与えん」

 

 彼がその言葉を口にした瞬間、杖からまばゆい光が溢れ出し、重力に逆らうかのように鳳の頭上高くに飛び上がった。不意打ちに目が眩んでいると、どこからともなく杖の周りにもう一匹の蛇が現れて、その頭が先端の石にたどり着いたかと思えば、二匹の蛇が同時に牙をむき出しにし、石にかぶりついた。

 

 すると光は瞬時に収束し、杖は間もなく元の木の棒に戻ってしまった。しかしそれが悠然と落下し、鳳の手に収まるや否や、その先端で煌めく宝石から猛禽のような光の翼が現れて、それは一度だけ力強く羽ばたいてからピタリと止まった。

 

 見る者全てを圧迫するような神々しい光を放つ杖に二人は目を瞠った。アズラエルはポカンと口を半開きにしながら、

 

「……それがケーリュケイオンか。本当に、君の杖だったんだな」

「ああ」

「神域でずっと管理してきた物ですが……こんな適正を見せた人はいません。いえ……恐らく、今までの適正者はみんな半分も力を引き出せていなかったんでしょうね。力を貸してもらっていたというのが正しいのかも……」

 

 ウリエルが杖を呆然と眺めながらそんなことを呟いている。ケーリュケイオンが何故、アスクレピオスという別の形態を取っていたかはわからないが、ただそのお陰で、鳳が前の世界でその中に入れていた物は全て、そのまま保存されているようだった。

 

 彼が溜め込んだ大量のMPも、それからサムソンやルーシーといった仲間の遺伝子も……それだけではなく、彼はその杖を手にした瞬間、かつてアストラル界でヘルメスから授けられた力のことを思い出した。

 

 あの時、異世界の神は言っていた。君は力を取り戻す必要があると。君は錬金術師である前に、最高位の魔術師であったのだと……

 

 そう……鳳の力は元々封印されたものだったのだ。それを封印したのが誰かは知らないが、全ての叡智は最初から自分の中にあったのだ。

 

「ファイヤーボール!」

 

 鳳が何気なく海に向かって杖を振ると、その先端から巨大な火球が飛び出し、海に着弾して巨大な水しぶきを上げた。下の世界では、いつも感じていたMPがごっそりと無くなる感覚がする……彼がそれを杖の中から充填していると、ウリエルが青ざめながら問いかけてきた。

 

「鳳様、その力は?」

「元の世界での俺の能力です。この力を見込まれて、カナン先生に一緒に来てくれって頼まれたんだ」

「それが君の本来の力だと……? 驚いたな。しかし、それが本当なら、君が神であると信じないわけにはいかなくなるぞ」

 

 アズラエルが呆れ果てたようにそんなセリフを口走る。鳳はその言葉に少し傷つき、少しナーバスになりながら、しかし一つの可能性を見出していた。

 

 この場に居てただ一人だけ澄ました顔で、鳳の能力を当然のものと受け入れているアリス。銃弾で撃ち抜かれても再生した頭。空腹で死にかけた時、虚空から掴み取った丸パン。千代紙で出来た折り鶴。

 

 かつて仲間(レオナルド)は言った。儂は神になりたかったのだと。もしも鳳が神であるならば、それが出来るかも知れない。

 

「サモン!」

 

 古代呪文の上位ランク。帝国では失われた禁呪と呼ばれていたそれらの呪文すらも、かつての鳳は使いこなすことが出来た。だが、その中でたった一つだけ、いつまで経っても使えない呪文があった。

 

 サモン・サーヴァント。名前からして、従者や使い魔を呼び出すそれが使えなかったのは、単にシステムの不備か何かだろうと思っていた。だが違ったのだ。恐らくそれが使えなかったのは、鳳に幻想具現化(ファンタジックビジョン)の確固としたイメージが身についていなかったからだ。

 

 果たして、今の彼がその呪文を唱えれば、杖の中に保存されたそれが反応して、虚空より光が溢れ出した。溢れる光はまたたく間に集まっていき、やがて人の姿を形作ったかと思えば、次の瞬間、その光の中から一人の女性が現れた。

 

 その人は純白のローブを纏っており、その美貌に不釣り合いな眼帯を身に着けている。キラキラとした光の礫を撒き散らしながら彼女は砂浜に着地すると、目をパチクリしながら周囲を一瞥した後、すぐ目の前に立っている人に向かって、

 

「やあ、鳳くん。アリスちゃんが呼ばれたから、私もそろそろかなって思ってたけど、やっと会えたね。お待ちかね! 君の愛人(アモーレ)が来たよ」

 

 ルーシーはそんなふうに芝居っぽいセリフを吐くと、いつものように誰もが振り返るようないい笑顔で、にこやかに笑っていた。

 



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だから、なんなの

 召喚魔法に応えてまばゆい光の中から現れたのは、旅のはじまりからずっと仲間のルーシーであった。神聖帝国宮廷魔術師の象徴たる純白のローブを身に纏い、空間魔法の使い手である彼女は、更にはミッシェルと同レベルの認識阻害魔法の使い手でもあり、おまけに部隊全体の強化を一手に担うバトルソングの歌い手でもある、紛うことなきチート魔術師である。

 

 正直、こっちの世界に来てからはろくな力も無く、身体強化と口八丁手八丁だけを武器に渡り歩いていた鳳は、彼女さえ居ればなんとかなると自分に言い聞かせて、どうにかケーリュケイオンを手に入れようと四苦八苦していたわけだが……

 

 ついにその彼女を呼び出すことに成功したのだ。鳳はこれでようやくスタートラインに立てたんだなと、全身が弛緩してしまうほどの安堵感に包まれていた。

 

 だからだろうか、そんな態度が表に出てしまっていたらしく、

 

「やあ、鳳くん。中々呼ばれないから忘れられちゃったんじゃないかと思って不安になってたけど、ようやく呼んでもらえてホッとしたよ。おお~、それはケーリュケイオン、ちゃんとこっちにもあったんだねえ……って、どうしたの?」

 

 彼の目の前でルーシーは、久々の再会に興奮半分、照れ隠しも半分といった感じで、いつものようににこやかに喋っていたが、その途中で段々顔がこわばっていって、最後には鳳の顔を上目遣いで覗き込むように見上げてきた。

 

 鳳は彼女が何を気にしているのかすぐには気づかずポカンとしていたが、しばらくすると自分の鼻がグズグズ鳴って、目からは涙が溢れている事に気づいて驚いた。

 

「ありゃ? なんだこれ……ごめん、ちょっと待って」

 

 鳳は慌てて袖口で涙を拭った。どうやら安心すると同時に涙腺までも緩んでしまっていたらしい。いや、それだけではなく、彼女の顔を見ていると、ここに来るまでの苦労が脳裏をぐるぐる回ってきて、どうしようもなく胸が熱くなった。

 

 鳳は、久々の再会なのに情けないやら恥ずかしいやら、どういう表情をしていいか分からず苦笑いしながら、

 

「いやあ、ごめん……なんか色々追い詰められてたんだなって、急に実感が湧いてきちゃって……疲れがどっと押し寄せてきたっつーか、その、気疲れがだね」

「ははあ~? さては久々にお姉さんに会えて、甘えたくなっちゃったな?」

「そんなんじゃないから。つーか、君のほうが年下でしょ」

 

 鳳が弱音を吐いていたら、にやにやしながら誂うようなことを口にして、彼がそんな態度に不服を漏らすと、今度はウシシと笑いながら近づいてきて、

 

「いいの。今日は私のほうが年上なの」

 

 ルーシーはそう言ってから、少し強引に彼の頭をギュッと抱きしめた。

 

 ミーティアほど暴力的ではないが、それなりにはあるその柔らかな双丘に、鳳はどうしようもなく懐かしさを感じて暫く呆けていたが、やがて自分たちが二人っきりではないことを思い出すと、名残惜しそうに彼女の肩を掴んで体を離してから、少し離れたところでその様子を粛然と見守っていたアリスに向かって言った。

 

「すまない、見苦しいところを見せちゃって。なんかせっかくの再会なのに、色々と台無しだなあ」

「いいえ、ご主人さまの気苦労も見抜けず、従者として不徳の致すところです。今後はこのようなことがないよう気をつけます」

「いや、従者じゃなくて奥さんだからね。アリスちゃんも久しぶり~……って程でもないんだよね。たまにあっちに帰ってくるから」

「そうか……そういやあ、ルーシーはアリスからこっちの話を聞いてるんだっけ?」

「うん、こないだもミーさんとこで会ったばかりで、だから順調そうだなあ、私もう要らない子? ……って思ってたんだけど、今って何かヤバい状況なの?」

「あの、鳳様。せっかくの再会に水を差すようで恐縮ですが……そちらは?」

 

 三人がそんなやり取りをしていると、蚊帳の外に置かれていたウリエルが、おずおずと申し訳無さそうに片手を上げながら話しかけてきた。きっと彼女なりに話しかけるタイミングを窺っていたのだろうが、途切れないから仕方なくといった感じで、彼女は頻りにルーシーの顔をチラチラ見ながら、鳳に目配せしてくる。

 

 そう言えば、何の断りもなくいきなり呼び出してしまったから、彼女らからすればルーシーはまだただの不審者だ。鳳が親しげにしているから害はないのは分かっているが、アズラエルもいるから警戒しないわけにもいかないのだろう。

 

 鳳は慌てて彼女にルーシーを紹介した。

 

「あー! すみません。ウリエルさん。この子はルーシーって言って、前の世界の俺の仲間です」

「どうもはじめまして、ウリエルさん。ルーシーです」

 

 ルーシーはウリエルの前に進み出ると、いつもの調子で軽く手を差し出した。大天使を前にしてもまるで物怖じせず、にこやかに挨拶を交わす彼女を見て、鳳は宮廷魔術師として相当場数を踏んできたのかなと一瞬思ったが、考えても見れば、あっちの世界には元々キリスト教なんてなかったんだから、彼女はウリエルの名前を知らないのだ。

 

 あっちの世界はこっちの一神教とは違って、四柱の神なんてのがいて、しかもその内の一人が鳳の幼馴染なのだ。それを思い出して、本当におかしな世界から来たものだと呆れると同時に、なんだか妙に懐かしくなった。

 

 ルーシーとウリエルが握手を交わしている、鳳がそんな二人の姿を眺めていると、ルーシーはルーシーで気になっていた事があったらしく、

 

「えーっと、ところでその、さっきから気になっていたんだけど、そっちのやたら可愛い……双子? 三つ子? 何つ子? 彼女たちは、その、何なのかな?」

 

 彼女の視線の先には、アズラエルの眷属たちが憮然とした表情で並んでいる。鳳は、これは説明が難しいぞと頭を掻きながら、

 

「あ、ああ、こっちも紹介が遅れちゃったな。つーか説明すると面倒なんでざっくりだけど、彼女は俺がこの世界に来た時からずっと世話になってる天使アズラエルと、その眷属なんだけど……」

「アズラエル……えー! それじゃこの子がアズにゃんさんなの!? わあ! 可愛い! こんなに可愛い子だったなんて、想像してなかったよ。よろしくね!」

 

 ルーシーがそう言っていきなりアズラエル……じゃなくてその眷属の一人に抱きついた。眷属はものすごく嫌そうな表情で、

 

「やめて、人間! 助けて、姉さま! 殺してもいい、母さま!?」

「ああ、君……私がアズラエルだ。それから手を離してくれないか」

「え? あれ? 違うの……? こっち?」

「うむ。それは私の眷属、有り体に言えばオアンネスだ」

「ええっ! オアンネス……これがー!?」

 

 ルーシーはその言葉に目を剥いて驚愕すると同時に、露骨に嫌なものを見たといった感じに表情を曇らせた。相手が魔族とは言え、そんなあからさまな態度を彼女が取るとは思えず、鳳が不思議に思って尋ねてみたら、

 

「いやあ、ほら、オアンネスって言ったら私たち……っていうか、特にマニ君とこの部族が、割と酷い殺し方してたじゃない。土壌が汚染されるからって、お腹開いて腸を流して、血抜きして焼いて」

「ああ~……」

「この子たち見てたらそれを思い出して、なんか気持ち悪くなってきちゃって」

「今の聞いた? こいつ敵よ、姉さま!」

 

 別にルーシーがやったわけじゃないのだが、話を聞いたオアンネスたちがいきり立っている。アズラエルはそんな眷属を宥めながら、あまり刺激しないでくれと言って、彼女らを遠ざけるべく連れて行った。

 

 ルーシーはそんなアズラエルを苦笑いしながら見送ったあと、会話が途切れて何となく沈黙が流れたのを見て、鳳に話を振った。

 

「それで、何かあったのかな? 呼び出されるならきっと町中だろうと思ってたら、いきなりこんな人気の途絶えた砂浜だったり、周辺は魔族だらけだったり、鳳くんは泣いてるし」

「それはもう忘れてくれよ……」

 

 鳳は苦笑を漏らしてから、改めて自分たちが置かれている厳しい現状を彼女に伝えた。ギヨームを解放しに来たら、そのギヨームが反乱を起こしていたこと。説得を試みるも、味方の天使が暴走してしまい、大乱戦の末ギヨームからは攻撃を受け、鳳がこの世界の神なのではないかと疑われたこと。そして鳳はその可能性を否定できなかったこと。

 

「確かに、こっちの世界に来てからの俺には、あまりにも都合の良いことが起きすぎてるんだ。女にはモテモテだったり、殺されても復活したり……でも、この世界の神は俺の幼馴染じゃないだろう? しかも、その幼馴染が言うには、俺の遺伝子はそもそもこの世界に存在していなかった……俺は、彼女が中学生の時に死んでしまったと、彼女はそう言っていたとギヨームは言うんだ」

 

 そして、正気を失った天使たちが身を挺して鳳のことを守ろうとしたことで、彼はもはや自分のことが信じられなくなってしまった。元々存在しなかったのなら、どうして彼の身体はここにあるのか? 神はこの身体を使って、何をしようとしているのだろうか……

 

 鳳が話をしている間、ルーシーは口を挟まず黙って最後まで聞いていた。そして話を聞き終えた彼女は、下唇を噛んで暫くの間熟考するように沈黙した後、唇を尖らせながら呆れるような口調でこう吐き捨てた。

 

「まったく、どうしようもないなあ、ギヨーム君は。鳳くんがモテモテなのが、そんなに許せなかったのかな?」

「いや……今の話聞いてた?」

 

 鳳が呆れるようにそう返すと、ルーシーはそれこそ呆れたと言わんばかりに、

 

「聞いてたよ。鳳くんが神様かも知れないんだって? だったら、なんなの?」

「いや、なんなのって言われても……」

 

 そう断言されると何も言い返せない。鳳が絶句している横で、アリスが何故か当然の如く何度も頷いていた。

 

「仮に君が神様だったとして、誰か困ってる人がいるの? また魔王化の時みたいに、不思議な力に操られてるんならともかく、君が自分で判断して行動できてる内は、何も困らないじゃない。私の知ってる鳳くんは悪いことをするような人じゃないし、実際、君はこっちの世界の人たちを助けようと行動してたんでしょう? 害を及ぼすのではなくて。都合がいい都合がいいって言うけど、それも君が、まずやることをやってくれたから、こっちの人たちも心を許してくれたんであって、君が神様だからなんてことはないと思うよ」

「そ、そうか……な?」

「うん、だからやっぱり、私は鳳くんが神様だなんて思わないな。もし神様だったとしても、どっちみち鳳くんは鳳くんでしかないんだから、君が何か間違ったことをしない限りは、私は君の味方でいるよ。って言うか、仲間ってそういうものじゃない? まだ何も起きていないのに、疑わしいからってだけで裏切るのはおかしいよ。まったく……ギヨームくんはダメダメだなあ。きっとあの人、鳳くんのことそれこそ神様みたいに思ってたから、エミリアさんに言われてコロっと信じちゃったんでしょうね」

 

 ルーシーはため息交じりにそう吐き捨てると、やれやれとお手上げのポーズをしてみせた。きっと、かつてのギヨームのモノマネのつもりなのだろう。出会った時からそうだったけれど、割りとギヨーム相手に辛辣なところがあるのは、それだけ仲の良い証拠だろうか。

 

 その姿を見て鳳がようやく顔をほころばせると、ルーシーはズイッと彼のことを上目遣いで覗き込みながら、

 

「本当はね、何の取り柄もない私のことを連れ出してくれた君を、私も神様みたいだなって思ってたんだよ。でも、今は神様じゃなくってよかったなって思ってるんだ。君が神様だったら、私たちだけで独占できないからね。あ……エロい意味でだよ?」

「そこは強調するとこじゃないだろう」

 

 鳳が思わずツッコミを入れると、ルーシーはフフンと鼻で笑いながら、

 

「だからギヨーム君に言ってやればいいんだよ。俺は神様なんかじゃねえ、普通の女の子に恋するただの男の子なんだって」

 

 鳳は胸に込み上げてくる想いをどうにか堪えると、そんな彼女に向かって不器用に微笑みかけた。

 

 まったくもって、彼女の言うとおりだった。鳳はこの世界に来てから今まで、誰かに操られているわけではなく、間違いなく自分の意思で行動してきた。何故、そう言い切れるのかは、彼女も言う通り、一度魔王化しかけた経験があったからだ。

 

 あの時の自分は、内から込み上げてくる耐え難い衝動によって、思考をかき乱され、冷静でいられなくされた。例えば熱に浮かされた人間が突拍子もない行動を取るような、神の強制力とは、そういう類のものなのだ。

 

 そしてそう考えれば、あの時、問答無用で堕天使たちに飛びかかっていった天使たちの姿こそが、神に操られている者の本来の姿であり、これまでそういった兆候が一切なかった鳳は、だからこそ神に操られていないと断言できるのである。

 

 そしてまた仮に、鳳が神そのものであったとしても、彼には人類を害する気はさらさらないのだから、何の問題もないと言える。ついでに言うと、彼には堕天使たちを害する気もないのだから、ここに神との意見の不一致が存在しており、これもまた彼が神ではない一つの証拠だろう。

 

 鳳はほっとため息を吐いた。

 

 ルーシーを呼んで本当によかった。彼女の一言で、これまでの悩みが全部吹っ飛んでしまった。そして彼女の励ましで冷静さを取り戻した鳳は、つい先日ミッシェルに言われたことを思い出していた。

 

 ミッシェルもルーシーと同じく、鳳のことを神ではないと断言していた。その理由は、彼には神の居場所がわかるからだと言っていた。そしてそれは、本来頭が切れる鳳にだってわかることだと……その答えが見えた気がする。

 

 神の居場所、それは、

 

「エーテル界だ」

 



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それはもう……殴る!

 おまえが神なんじゃないのか? というギヨームの疑問に何も答えられず、鳳は八方塞がりに陥ってしまっていた。だがそんな時、ついにこちらの世界で取り戻したケーリュケイオンを用いて、彼はルーシーの召喚に成功すると、彼女の一言によって調子を取り戻したのであった。

 

 鳳が神だったらなんなんだ?

 

 なるほど言われてみれば、仮に鳳が神だったとしても、今のところ誰にも迷惑をかけていないのだから、何も問題ないではないか。確かに、自分の周りで都合のいいことばかりが起こり過ぎてて、鳳が神である疑惑は拭えなかったが、少なくとも以前の魔王化の時みたいに言動がおかしくなったり、何かに操られているような気配はないのだ。

 

 ギヨームが出会ったというこっちの世界のエミリアが言うには、鳳の遺伝子はこの世に存在しないという事実については気になったが……それだって何かの手違いで残っていたのかも知れないし、それこそ神ならなんでもありなんだから、今のところは気にしたところでしょうがないだろう。

 

 そうして冷静になってみると、まるで空が晴れ渡るかのように、今まで見えていなかったものが急に色々と見えてきた。きっと今までは、自分が神じゃないという証拠ばかりを探して、シンプルな事実が見えていなかったのだろう。ミッシェルも言っていた通り、本来の鳳は切れるのだ。ならばとっくに気づいていてもおかしくはなかった。

 

 ミッシェルが言っていた神の居場所というのは、そう……

 

「エーテル界だ」

 

 鳳が突然、そんな突拍子もない言葉を口にしたのを聞いて、ルーシーは胡散臭いものでも見るような目つきで尋ねた。

 

「どうしたの急に……? 何か変なものでも食べたの?」

「いや、食べてない。そうじゃなくって、気づいたんだよ」

「何に?」

「神の居場所にさ」

 

 鳳がそんなセリフを吐くや、ルーシーは更に胡散臭そうな苦笑いを見せたが、四大天使にとっては聞き捨てならなかったのだろうか、ウリエルの方がギョッとした表情で尋ねてきた。

 

「ど、どういう意味です……? 神様がいらっしゃる場所とは、神域のことではないのですか?」

「いえ、あそこに神がいないことなんて、四大天使(あんたら)だってとっくに気づいてるでしょう。なのにあんたらは、いつまでもあそこに神がいるって盲目的に信じていた。俺もそれを疑問に思っていなかった、“再生”が出来なくなったのは、16年前に神殿が破壊されたからだと。何故ならそれは、俺たちが神の正体を知っているからだ」

「えーっと……おっしゃっている意味が良くわからないのですが」

 

 ウリエルがまるで泣きそうな感じで眉毛を八の字にしている。鳳は考え事に忙しくて、少し意地悪になってしまったと思いながら、出来るだけ考えをまとめながら話を始めた。

 

「つまり……俺たちは、この世界の神が、元は人間が作り出したAIだってことを知っていた。だからその神が、神殿やP99なんて“機械”に宿っているんだと、そう思い込んでいたんだよ。でもそれは違ったんだ。

 

 神は天啓をどうやって送ってきたのか? 天使たちは何故暴走したのか? 魔王化のせいで、俺は性衝動に耐えられなくなった。なんてことはない。神は……DAVIDシステムは、現代魔法と同じ方法を使っていたんだ。

 

 現代魔法ってのは、簡単に言ってしまえば、俺たち人間のアストラル体……魂を直接刺激して、対象の認識を無理やり変えてしまう魔法体系のことだ。

 

 そして物質の正体ってのは、宇宙の果てにある二次元の膜(アーカーシャ)に記述された“情報”であって、その“情報”をアストラル体を使って無理やり変更してしまうのが、幻想具現化(ファンタジックビジョン)というもう一つの魔法体系だ。

 

 これら2つの魔法は一見して役割が違うけど、どちらもアストラル体を使って“情報”を書き換えるという点では同じと言える。ところでDAVIDシステムも同じ魔法が使えるなら、DAVIDシステムにもアストラル体が無いといけない。つまり、機械にも魂が宿ってなければいけないわけだ」

「そんなことが有り得るの?」

 

 ルーシーが当然の疑問を呈する。鳳は頷いて、

 

「ああ、そもそも人工知能(AI)ってのは人間の思考を再現することから生まれたものだ。人間の思考ってのは魂と同じと考えてもいいものだろう? だから考えようによっちゃ、神が魂を創り出すなんてことはお茶の子さいさいなんだよ。

 

 その方法まで説明すると長くなるから今は端折るけど、とにかく神は自分のアストラル体を用いて、たまに人間に干渉していた。それで熾天使(セラフィム)は天啓を受けたり、天使が暴走したり、俺は魔王化に苦しんだりしたわけだ。

 

 ところで、ミッシェルさんってのは本来は肉体を持たない迷宮の主だろう? 彼の言うことが本当なら、普段はアストラル体で過ごしていて、今は仮の肉体を作ってこの世に顕現しているだけだ。

 

 もし仮に、神が頻繁にアストラル界に現れるなら、そんなミッシェルさんが気づかないわけがない。

 

 ところが彼は今まで神がどこにいるのか知らなかった。神はミッシェルさんにも気づかない方法で自己隠蔽し、必要に応じてアストラル界に干渉していた。そこがどこかって言ったら、物質界でもアストラル界でもないなら、もうエーテル界しか残ってないじゃないか」

 

「ふむ……君の言うことは理解できるが、そうと断じる確たる証拠はあるのか? 状況証拠だけではなくて」

 

 いつの間にか戻ってきていたアズラエルが、話を横から遮った。彼は即座に、

 

「ある。俺が証拠だ」

「君が……?」

 

 鳳は頷いて、

 

「俺はこっちの世界でも何故か復活出来ただろう? 何でなのか分からなかったけど、今の話とあの時のことを思い出してはっきり分かった。

 

 俺はアナザーヘブン世界で死んだ時、いつも輪郭線のブレた不思議な世界に飛ばされていたんだけど、今回も同じように飛ばされて、そこでカナン先生に会ったんだよ。

 

 そこにはサムソンと、恐らくベル神父らしき光が飛んでて、どうしたらこっちに気づいてくれるかなあって見上げてたら、ふらっと先生がやってきて、君はまだここに来るべきじゃない。そう言って……気がついたら俺は復活していたんだ。

 

 俺はこの輪郭線のブレた世界が、アストラル界だと思っていたんだけど……帰ってきてそのことをミッシェルさんに話したら、彼はそんなことはないって、もしも俺がアストラル界にいたら気づいていたってそう言ったんだ。

 

 つまり、ミッシェルさんは神のときと同じ理由で、カナン先生の存在に気づかなかったんだ。俺はこの時、物質界で確実に死んでて、そしてアストラル界にもいなかった」

「確かに、君が死んでいたのは私自身が確認している。ミッシェルが本物の魔術師であることも認めよう。となると……もしかして、君は神ではなく、ルシフェルに復活させられたかも知れないということか」

「ああ、そう考えたほうがしっくり来る」

 

 鳳たちの話に割って入るように、今度はウリエルが血相を変えて聞いてきた。

 

「ちょっと待ってください? それでは、ルシフェル様はまだ生きているということでしょうか?」

「それを生きていると呼べるならば……ね。俺はその時死んでたんで。とにかく、先生はここではない、神に最も近い場所に居るのは間違いないと思われます」

「神に最も近い場所……」

 

 ウリエルは困惑しきりに青ざめている。今まで会ってきた天使は、決して神に無批判ではなかったから、もしかすると今の話で彼女も認識が変わってしまったのかも知れない。正直、他人の信仰に口出しするつもりは毛頭ないので、これ以上は黙っておいた方が無難だろう。

 

 ともあれ、これで迷いは吹っ切れた。神がこの世界の人間や天使を操ってることは間違いない。それと同じ方法で、鳳も誘導されている可能性はあるかも知れないが、少なくとも鳳が神ではないことは、もはや揺るぎないだろう。

 

 後はギヨームに、それを話して理解して貰わなければならないが、

 

「でも、まだ解決していないこともあるよね。どうして鳳くんの身体がこの世界にあったのか。それが分からない以上、ギヨーム君がすぐ理解してくれるとは思わないよ。あの人、疑り深いから」

「まあ、そうだろうなあ……でも、少なくとも神ではないんだから、今は信じてもらうしかない。とにかく、まずは説得してみよう」

「でも、どうやって?」

 

 ルーシーがそんな当然の疑問を口にする。鳳は彼女のその問いかけに対し、力いっぱい拳を握って言い切った。

 

「それはもう……殴る!」

「……は?」

「あいつは、もしも俺が偽物(かみ)ならいずれ馬脚を現すと思ってるし、本物なら何か別の解決策を見つけてくると思ってるんだろう。ルーシーも言う通り、長年の信頼関係がそうさせるんだ」

「ああ、うん……あの人、追い詰められたら、まず鳳くんのこと見るもんね」

 

 ルーシーが苦笑交じりに相槌を打つ。鳳は頷いて、

 

「そして俺が本物なら、少なくとも俺にギヨームは殺せないって思ってるんだよ。でもあっちは俺が神かも知れないって思ってるから、安心してぶっ殺しにかかってくる……実際に一度、あいつは俺のことを殺してるからね。理不尽だと思わないか?

 

 だから、殴る! 圧倒的な力の差ってものを見せつけて、ぶん殴る! 男同士の問題解決法なんて、昔から相場が決まってるんだよ。強いほうが正しい! 力がある方が偉い! 全部、総取り! いいから黙って言うこと聞きやがれってなもんよ」

 

 鳳が力いっぱいそう言い放つと、ルーシーは暫しの間口をポカンとしていたが、やがてヤレヤレといった感じの苦笑いを作り、

 

「しょうがないなあ……それじゃあ、君が勢い余って殺しちゃわないように、私もついていってあげよう」

「お供いたします」

 

 続いてアリスが当然のように名乗りを上げる。するとアズラエルが、

 

「ふむ。最強の盾を持っていくなら、ついでに矛も持っていくといい。ウリエル」

「私ですか?」

 

 いきなりかつての上司に、鳳に同行するよう命じられて、ウリエルは戸惑ったように聞き返した。

 

「アズラエル様がおっしゃられるのでしたらそう致しますが……あなたはどうなさるおつもりですか?」

「私と言うか、眷属たちがこれ以上北へ行くのは難しそうだからな。それに反乱が起きていることを神域に報告する必要もあるだろう」

「確かに……そうした方が良さそうですね」

「紅海まで戻れば通信も繋がるだろうから、君の代わりにやっておこう」

「なら、アズラエル様はそのままオーストラリアまでお戻りください。私は鳳様と同行し、反乱を解決次第神域に戻ります……っと、ついでにこれを持ち帰ってはもらえませんか? 戦闘で万一紛失してしまったら困りますし」

 

 ウリエルはそう言いながら、自分たちの荷物をゴソゴソやりだした。ケーリュケイオンを取り出した時と殆ど同じ状況に既視感を覚えていると、果たしてそれは気のせいではなくて、鳳はウリエルが取り出してきた物を見るなり、思わず腰が砕けそうになった。

 

「本当ならこのまま神域に持ち帰るつもりだったのですが、今は私が持っていると危険なので、アズラエル様の方から返しておいていただけませんか」

「ふむ、ジャガーノートか。そういえば、テレビカメラにハッタリを効かせる小道具として、私が持っていたんだったな」

「あああああーーーっっ!!!」

 

 二人がそんな会話を交わしながら、件のオリジナルゴスペルを手渡そうとする姿を見るや、ルーシーが素っ頓狂な大声を上げた。全く予期していなかった方向からの叫びに、二人の体がびくっと震えて、一体なんだろう? といった視線をルーシーに向けている。彼女は杖を指差しながら、口をパクパクさせて、

 

「そそ、それ、それそそ、それ」

「落ち着け」

「カウモーダキーじゃない? 私の杖!」

 

 これも天の配剤だろうか。ケーリュケイオンの時は、そのあまりの都合の良さに恐怖すら湧いたが、今はそんなもの微塵も感じず、寧ろ笑ってしまった。

 

 カウモーダキーがあれば、彼女はより正確な時空制御を行うことが出来る。かつて数万人の軍人を、魔王の攻撃から逃すために一斉に飛ばした奇跡を思い出す。これにアリスの持つアイギスと、鳳のケーリュケイオン……気がつけば、3つものオリジナルゴスペルが彼の下に集まっていた。

 

 更には四大天使最強の呼び声が高いウリエルが同行するとなると、ギヨームに勝ち目などあるはずがない。ルーシーの冗談ではないが、本当に勢い余って殺してしまわないか今度は逆に不安になった。

 

 ともあれ、今はこの都合の良すぎる展開に、鳳は心から震えていた。

 



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てなことを考えてるんだろうな、今頃

 魚眼レンズみたいに丸くなった地平線がどこまでも続いていた。上空3000メートルから見下ろすブリテン島には、もはやかつての都市の形跡は無く、ひたすら緑だけが広がっていた。

 

 そんな広大なパノラマの中でルーシーが右目の眼帯を外すと、その下に開いた眼窩が虹色に輝き、彼女の視界の中で、まるでグリッドが描かれるように地上に半透明の線が伸びていった。彼女はそのグリッドから座標を読み取り、任意の場所にポータルを造り出すことが出来るらしい。

 

 どういうことかと説明すれば……

 

 3年前の魔王退治で右目の視力を失った彼女は、確かに視力は失ったけれど眼球自体がなくなったわけじゃないので、なんとか視力を回復出来ないかと試み、代わりに霊障を視ることが出来るという現代魔法を編み出していた。

 

 彼女の言ってる霊障とはアストラル体のことで、どうせ元々アストラル界は目で見るような場所じゃないので、やろうと思えば出来るんじゃないかと試行錯誤を続けていたら、出来るようになっちゃったそうである。

 

 なんというか、パーティーメンバーだった時も天才肌だと思っていたが、鳳が去った後はもはやチートレベルで、本当は彼女のほうが転生者なんじゃないのかと思うくらいである。

 

 ともあれ、彼女は右目でアストラル界、左目で物質界を同時に視ることによって、アーカーシャに記述された情報体としての世界を『視』ることが出来るようになったらしく、それによって自分の住む世界の正確な空間座標を割り出すことが出来るそうである。

 

 何か凄そうなのは分かるが、そんなことが出来て何の得があるの? と思うかも知れないが、そこはそれ、彼女が空間魔法のエキスパートだと言うことを思い出して欲しい。

 

 鳳もポータル魔法を使えるが、彼は自分が行ったことがある『街』にしかポータルを作れなかった。

 

 しかし、彼女は自分が知っている場所なら、どこにでも作ることが出来る……つまり、一度も行ったことが無くても、たった今、目で見た場所ならポータルを作れちゃうわけだ。

 

 すると、高い場所から遠くを見てそこまで飛ぶ、ということを繰り返せば、ある意味彼女は地球上どこへでも瞬間移動することが出来る。そしてそれを更に効率よくするのが先の霊視であり、これによって彼女は例えば夜間や水中などの殆ど視界がない状況でも、問題なく世界を視ることが出来るようになった。

 

 だから例えば鳳やウリエルが彼女を空高く連れ出せば、高度3000メートルからならおよそ200キロの範囲が見渡せる計算であり、200キロ先なんて常人には殆ど点にしか見えないのだが、彼女なら問題なく『視』て飛ぶことも可能というわけである。

 

「なんて言いますか……あなた方が瞬間移動魔法(テレポート)を使えること自体にも驚きなのですが、ルーシー様の力はそれを超越していますね。驚くと言うよりも、恐れ畏まってしまうレベルです」

「俺もそう思います。ギヨームじゃないけど、おまえが神かって言いたくなる」

「えへへへ、二人共褒め過ぎだよ……もっと言って」

 

 ルーシーは目尻をだらしなく下げながら、調子のいいことを言っている。しかし、調子に乗りやすい反面、自信が足りない性格も健在のようで、

 

「この上認識阻害の魔法にも長けているとか……ミッシェル様にも驚かされましたが、あなたは彼の上を行きますね」

「いやいやいやいや! とんでもない! あの人になんて、私は遠く及ばないよ!?」

「そうなのですか? 私には違いが分からないのですが……」

「大体、私がこの力を得られたのも、私が知らない精神世界のことを教えてくれたのもミッシェルさんだからね。新魔法を作る時に相談に乗ってくれたのもあの人だし、私の無茶なお願い聞いてくれたり、頭が上がらないのです」

「ははあ……彼はあなたのお師匠様だったのですか」

「そのうちの一人ですね。彼女には師匠があと二人いる」

 

 そう考えると、三人の偉大な師匠に可愛がられてここまで育ったわけだから、ある意味彼女の最大の武器はその愛嬌だったのかも知れない。

 

「皆様、紅茶をお淹れしましたので、どうぞお召し上がりください」

 

 そんな会話を交わしながらワープを繰り返すこと数回、ルーシーのMPが切れてしまったので休憩に入った。彼女の魔法は強力だが、強力故にやっぱり消耗が激しいらしい。彼女は鳳ほど最大MPに余裕はない上に、彼みたいに無尽蔵にMPをストックできるわけでもないので、回復は時間と薬に頼るしかなかった。

 

 幸い、カフェインでそれなりに回復するのと、鳳が能力を取り戻したお陰で、効き目がありそうな草をすぐに見つけることが出来たのだが……しかし、どうしてイギリスにこんなものが自生しているのだろうか。アムステルダム辺りから紛れ込んだのであろうか。そんなことを考えつつ、彼は一人で周辺の魔族を掃討しつつ散策をしていた。

 

 話は前後するが、鳳たちは現在、ギヨームたち反乱軍の本拠地であるシェトランド諸島を目指していた。

 

 自分は神でもなければ操られてもいないと確信した鳳は、ギヨームの目を覚ますためにも、反乱を鎮圧するためにも……ついでにちょっと頭に来たので、殴り込みをかけに行くことにしたのだが、わざわざこれから殴りに行きますよなんて断りを入れるのはヤクザでもしないと思い、当然のごとく奇襲をかけることにした。

 

 となると、まずはどうやって敵の本拠地に乗り込むかだが、相手は島に陣取っているから、当然鳳たちが海、それもフェロー諸島のある西からやってくると思っているだろう。だからその裏をかいて、スコットランド北端から島内に直接ポータルで飛んでしまえば、相手に戦闘準備されずに済むと考えたのだ。

 

 因みに、たったの四人だけで奇襲をかけようとしているのは、天使たちが戦力として役に立ちそうもなかったからだ。どうも神に操られているらしき天使たちは、堕天使の姿を見るだけで正気を失うらしく、そんなのを連れて行ったところで混乱を来すだけだし、交渉の余地を無くす危険性すらあった。

 

 かと言って、この戦いにジャンヌ隊を巻き込むわけにもいかず、サムソンは怪我をしておりミッシェルは戦闘向きじゃないので、たまたまイギリスに来ていたこともあって、そこから少数精鋭で乗り込むことにしたのだ。

 

 奇襲メンバーは鳳、ルーシー、アリス、ウリエルの四人で、攻守のバランス的にも最適と思えた。ただ、先の通り、天使は神に操られている可能性が高いので、最悪の場合ウリエルが暴走することもありうる。その時はルーシーの空間転移で脱出させる予定であった。

 

 そうなると前衛を一枚失うことになるが、それでも油断しきってるギヨームに一太刀入れることくらい、わけないだろう。ケーリュケイオンを取り戻した今、鳳は全ての古代呪文が使える。ならば最大火力でぶっ飛ばすまでだ。

 

********************************

 

「……てなことを考えてるんだろうな、今頃」

 

 シェトランド諸島中央、メインランド島の入り組んだ港に、今すべての堕天使たちが集結していた。ギヨームはざわつく人混みを避けて、少し離れた丘の上からその喧騒を眺めていた。堕天使たちはこれから、鳳不在のフェロー諸島へ奇襲をかけるつもりで、士気高揚のために酒盛りをしていたのだ。

 

 彼らは決死の覚悟で、天使たちに最後の決戦を挑むつもりだった。本来なら、もう少し時間をかけて説得するつもりだったが、鳳が力を取り戻した上に、考える限り一番厄介な人物が召喚されてしまった今、ここが落ちるのも時間の問題である。だからその前にやることをやらなきゃならなかったのだ。

 

 言わずもがな、鳳たちの奇襲はとっくにバレていた。ルーシーのポータルを乗り継ぐというレーダーにも反応しない完璧な奇襲を、どうしてギヨームたちが先に気づいていたのかと言えば、それこそ普通ではありえない現象が幾度も起きているからだった。

 

 ルーシーには劣るかも知れないが、実はギヨームの空間認識能力も非常に高いのだ。カナンの村でアスタルテに挑み、一度死にかけたことで得た強力な空間の歪みを検知する能力だけなら、もしかするとルーシーを超えているかも知れなかった。

 

 彼はこの能力で、見えない水平線の向こう側を知覚し、あまつさえ空間の歪みを利用して標的を撃つなどという芸当を行ってきたのだから、そんな彼のすぐ近くでワープポータルのような空間の歪みを生み出す魔法を連発していたら、ここで何か変なことが起きていますよと宣伝しているようなものだった。

 

 そして断続的に起こる時空震から、ギヨームはルーシーが召喚されたことを察知し、となると当然、鳳がケーリュケイオンを取り戻したことも予想がついた。すると、次に鳳が考えそうなことといえば奇襲しかなく、実際に時空震が自分の方に近づいてきていることから、自分たちに残された時間は少ないと考えたわけである。

 

 鳳が来たら確実に戦闘になり、そして自分は負けるであろう。だがギヨームはそれを楽しみにしていた。

 

 そんな彼が紫煙をくゆらせながら丘の上で黄昏れていると、酒盛りの輪の中から一人の堕天使が彼の方に向かって歩いてきた。コウモリ羽の堕天使アザゼルである。彼とはこの流刑地に流されてからの長い付き合いだった。彼がまだ天使だった頃、二人はコンビを組んで多くの魔族を葬ってきたのだ。そんな彼が堕天使になったことで、今回の事件が起きたのだが……

 

 アザゼルはギヨームのそばまで歩いてくると鼻を摘んで不快そうに言った。

 

「タバコは体に悪いからよせと、いつも言っているだろう」

「これ以上長生きするつもりはねえんだよ。もう前世より長いくらいだ」

 

 タバコを吸い始めたのもこの流刑地に来てからだった。刑務所の中では物々交換が基本だから、一本二本と数えられるタバコは貴重だった。ギヨームはその空間認識能力と斥候スキルとで物資調達力が高かったから、いつも彼の手元にはタバコが溢れており、彼はそれに惜しげもなく火をつけた。

 

 アザゼルはそんな彼の相棒として小言を言ったり、一緒に物資調達を手伝ってくれたりする、兄貴分みたいなものだった。だがそんな彼は、ちょっとしたミスからギヨームの目の前で魔族になってしまったのだ。

 

 ギヨームはそれを後悔すると同時に、神への憎悪を更に膨らませた。だから彼はこの反乱の最後を見届けたいと思っていたのだが、鳳を相手に時間稼ぎをする人物も必要だろうと、一人だけ島に残ることにしたのだ。

 

「悪いな、一緒に行けなくて」

 

 ギヨームがそのことを謝罪すると、アザゼルは首を振り、

 

「いいや、寧ろ私の方こそ君を巻き込んですまないと思っている。本来、これは我々と神の問題だった。君が気に病むことではない」

「俺も同じ神に挑む者だから、巻き込まれたなんて思ってないさ。それに俺は、数多くの魔族を屠ってきたという罪がある」

「それも罪ではない。君は何も知らなかったのだから」

 

 二人の間で沈黙が流れる。丘を駆け上るように風が吹き抜け、楽しそうな酒盛りの声を届けてくれた。アザゼルはそんな仲間たちの方を見ながら、

 

「……君は本当に、彼が神だと思っているのか?」

 

 ギヨームは中指で吸い殻を弾きながら、

 

「正直、可能性はゼロに近いと思ってるね。あれが本当に神なら、戦闘力はともかく、普段の行いが間抜け過ぎる」

「だったら、戦う必要なんてないのではないか? 私もフェロー諸島で彼と少し話したが、ちゃんと話が通じる相手だと思った」

 

 一人だけ島に残り、鳳の足止めをするというギヨームのことを、アザゼルは不安に思ったのだろう。降参を勧めるようなセリフに、しかしギヨームは首を振った。

 

「だが、ゼロじゃない。神の居場所、目的、その存在が明らかにならない限り、信じるわけにはいかないだろう。おまえは、神に操作されていた時の自分のことを覚えているか? その時、どんな気分だった?」

「ふむ。あまり覚えてはいないな……ただ、理由もなく堕天使が憎かった」

「俺は、あいつのことを気に入ってるんだよ。理由もなく」

 

 無表情の堕天使にしては珍しく、アザゼルは少し顔を綻ばせた。

 

「そうか……君は本当に仲間を信頼しているんだな。だから盲目的に信じるだけでは駄目だと思っているのだろう」

 

 ギヨームはその言葉に何も答えなかった。

 

 と、その時、太陽に雲が掛かったかのように、急に頭上に影が差した。見上げればそこにはクジラのような巨大な生物が浮かんでおり、それは優雅に尾ひれを振りながら、ゆっくり泳ぐように彼らの上を通過していった。

 

 空中要塞メルカバー……堕天使たちによって名付けられた、今回の作戦の切り札だった。酒盛りが終わったら、彼らはあれに乗って天使たちの待つフェロー諸島に向かうことになっていた。

 

 因みにそのメルカバーも元天使……この刑務所でアザゼルたちと同じように、魔族と戦っていた堕天使であった。それが長い年月をかけて進化を遂げ、今となってはあんな姿になっている。元となった天使の人格は既にない。

 

 神はなんて罪深いものを創り出すのだろうか。そんな言葉がどこからともなく風にのって聞こえてくる。ギヨームはまたタバコに火を付けると、線香を立てるようにそれを地面に突き立てた。

 



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堕天使たちの聖戦

 鳳がアズラエルたちを迎えに行ってから3日が経った。フェロー諸島の刑務所に併設された医療施設では、サムソンの傷が未だ癒えず、その容態は悪化の一途を辿っていた。

 

 彼が受けたゴスペルの攻撃は、放射線でも多量に含んでいたのか、本来ならとっくに塞がっていておかしくない傷が、中々治らなかったのだ。おまけに最悪なことに、この刑務所に収容されていたのが、生来治療を必要としない天使だったせいで、施設にはまともな医療設備も薬品も整っておらず、簡単な応急手当くらいしか出来なかった。

 

 衛生兵でもある楓は、サムソンが傷を負ったのは自分のせいだと責任を感じ、付きっきりで看病を続けていたが、医療技術が他人よりあるから、なおさら彼の傷が思わしくないことが分かってしまい、治療すればするほど自らを責め続けるイバラと化していた。

 

 ジャンヌはそんな彼女に気休めを言うことしか出来ず、サムソンの眠るベッドの横で肩を落として座っている小さな背中を眺めながら、なんとも言えぬモヤモヤしたものを抱えていた。

 

 それは責任に押しつぶされそうな彼女への心配のためか、それとも彼女のサムソンへの想いのためか。

 

 朗報がもたらされたのはその日の午後、非戦闘員であるタンカーの船長たちと入れ替わりに、レイキャビクに待機していたジャンヌ隊の面々が到着したことだった。天使と違って治療が必要なドミニオンの船には当然医療設備が整っており、そこでならサムソンも十分な治療が受けられると思われた。

 

 早速、彼を船へと運び、随伴の医師によって治療が施されると、ようやくサムソンの容態も快方へと向かい始め、それまで不眠不休で看病をしていた楓はホッとしたのか、瑠璃たちの励ましの声を聞きながら、糸が切れるように眠ってしまった。

 

 彼女たちはそんな楓を船内のベッドに運んでやった後、甲板に立ち周囲の警戒を続けていたジャンヌのところへと赴いた。

 

「お疲れさまです、ジャンヌ隊長。白様の護衛なんて気楽な旅だと思っていたら、なんだかおかしなことになってしまいましたわね」

「ええ……まさか、天使たちがあんな暴挙に出るなんて考えもしなかったわ。話は聞かない、行動理由は不明瞭、適合者でなければ使えないはずのオリジナルゴスペルまで使えたり、一体何が起きているのやら……こんなことに、あなた達まで巻き込んでしまって、本当にごめんなさいね」

「私たちは何とも思っていませんわ。今は白様がウリエル様をお迎えに行っているんですよね? 大天使様がいらっしゃればきっともう大丈夫ですわ」

「どうかしらね……そのウリエル様だって、天使であることに変わりないのよ。最悪、彼女が暴走してしまったら、私たちには止める手立てが全く無いわ」

 

 そんなことが起こらなければいいのだが……そう言ってジャンヌは溜息を吐いた。瑠璃はそんな珍しく弱気な隊長の姿に違和感を感じながら、

 

「ところで、実は楓ってあのお猿さんのことが好きだったんですのね。あんなになるまで献身的に看病するなんて、ビックリですわ。そう言えば、彼女はマダガスカルで彼に助けられたんでしたっけ。隊長はそのことを覚えていて、今回は彼女を随伴したんですの?」

「……ええ、そうね」

「流石、私たちの隊長ですわ。部下のそんな細かな心情まで配慮してくださるなんて、他の部隊では考えられませんもの。楓は幸せものですわね。こんな素晴らしい隊長の下で、大切な人と一緒に居られて」

 

 瑠璃としては気を利かせたつもりでそんな話を振ってみたが、それを聞くジャンヌの表情はあまり優れなかった。何かまずいことでも言ってしまったのか? と瑠璃が自分の言葉を思い出していると、その時、船の見張り台の上から偵察の緊迫した叫び声が聞こえてきた。

 

「隊長! 南東の方角の空から、巨大な何かが接近してきます!」

「何かって、何?」

「分かりません! まだすごく遠いのに、目視で確認出来るくらい、とにかく変なものが空に浮かんで見えるんです!」

 

 何を言っているのかあまり要領を得ない言葉に、ジャンヌは自分で確認したほうが早いと思ってブリッジへ上がろうとした。ところが船内に駆け込むより前に、甲板の高さからでもそれが見えてきたことに気づいて、彼女は足を止めると同時に空を見上げたまま固まってしまった。

 

 偵察の言う通り、南東の空からものすごいスピードで何かが飛来して来るのが見えた。それは例えるなら巨大なクジラのような物体であり、体の左右にはヒレの代わりに何対もの天使の羽がくっついていた。クジラはその羽をまるで水を掻く櫂ように動かし、体をくねらせながら空を泳ぐように近づいてくる。

 

 地上にあんな生物がいるわけもなく、クジラがこんな風に進化するわけもないから、どう考えてもそれは魔族としか思えなかった。しかもその巨体と非論理的な構造からして、ベヒモスやレヴィアタンと同等の魔王クラスで間違いないだろう。

 

 鳳とアリスは不在で、サムソンは怪我をして戦えない……こんな時に、どうして自分のところに魔王が現れるのか? ジャンヌが己の不運を呪っていると、彼女は更に魔王の背中に厄介なものが潜んでいることに気づいた。

 

 見ればクジラの背中には、コウモリ羽や黒い羽を背負った堕天使たちが乗っていた。彼らがフェロー諸島を奪還するために乗り込んできたのだ。きっとそれに刑務所内で待機していた天使たちも気づいたのだろう。

 

 次の瞬間、地上から次々と天使たちが空へ上がっていく姿が見えて、ジャンヌはめまいを起こした。

 

「なんでこうなるの!? こうならないよう、港で張ってたのに!」

 

 前回、鳳が交渉へ赴いた時、堕天使の姿を見た天使たちは問答無用で暴走し、何を言っても歯止めが効かなくなってしまった。だから今回は同じ轍を踏まないよう、天使たちには島内に待機してもらっていて、まずはジャンヌが話をしようと思っていたのだ。

 

 堕天使たちはシェトランド諸島から船でやってくるはずだから、まずは港に立ち寄るだろう。そう思って港で待ち構えていたというのに、まさか空からやって来るなんてことは想定外だった。

 

「天使様! 堪えてください!!」

 

 ジャンヌが慌てて叫ぶも刑務所までは距離があり、たとえその声が聞こえていたとしても、きっと天使たちの耳には届かなかっただろう。

 

 空中要塞みたいな空飛ぶクジラの周囲で、蜂がダンスを踊るかのように無数の影がクルクルと回転し始めた。彼らの放つ魔法が飛び交い、あちこちで爆煙が上がり、光を発してキラキラとイルミネーションのように輝いて見えた。

 

 もはや何を言っても彼らが止まることはないだろう。ならば自分たちにやれることはなんだろうか?

 

「……みんな、私に続きなさい! 天使様を援護する!」

 

 彼女は自分に突き刺さる隊員たちの無数の視線に命じると、渋々剣を抜いて船から飛び降り、空飛ぶクジラの下へと駆けていった。

 

**********************************

 

 頬を切る風を真正面に受けながら、空中要塞メルカバーの背に立つアザゼルの視界にフェロー諸島が見えてきた。上空から見る島々は苔のような緑に覆われ美しく、冷涼な気候のお陰で木々が少ないため、島内の様子がよく見通せた。

 

 魔族の存在しない楽園のような島の中で動くものがあれば、それはまず人間で間違いなく、堕天使たちからは天使たちがどこにいるかがすぐに分かった。どうやら港の守りをドミニオンに任せ、天使たちは刑務所内で待機していたようである。その判断は賢明と言えたが、今回は前と違ってこちらに話し合うつもりは無いのだから、まったく無駄な行為でしかなかった。

 

 ギヨームが言うことが本当ならば、鳳白が本来の力を取り戻した以上、もうこちらに勝ち目はないのだ。それに、こちらは既に仲間を一人殺されている。やられる前に、やれることはやっておかねばなるまい。

 

「悪く思うな……」

 

 アザゼルがそう呟くと同時に、地上からロケットのような速度で2つの影が飛び出してきた。コカビエルとラミエル、天使たち最強格の二人が、また衝動を理性で抑えきれずに飛びかかってきたのだろう。背後には、彼らに呼応するかのように無数の天使たちの姿も見える。その目はみんな血走っていて、明らかに正気を失っていた。

 

「セミアザスは左翼を、シェムアザは右翼を。サミエル、サリエル、バラキエル、アルマロスは二人に従え。その他の者は、各員状況に応じて敵を打ち砕け。もはや我らに退路はない。突撃あるのみ! 突撃(チャージ)! 突撃(チャージ)!」

 

 彼の背後から歓声が上がり、先を争うかのように、堕天使の群れが地上に向かって降下していく。アザゼルはそんな群れを逆流するように、一直線にメルカバーへ向かって飛んでくる二人の天使を待ち受けていた。

 

「コカビエル! ラミエル! 私の声が聞こえるか!?」

「うおおおおおーーーっっ!!!」

 

 アザゼルは最後の望みに賭けて彼らに声をかけたが、そんな彼らから帰ってきたのは野生動物のような雄叫びだけだった。次々と繰り出される無茶苦茶な攻撃をいなしながら、アザゼルはふっと小さく溜息を吐くと、これ以上期待しても無駄と応戦を開始した。

 

 空のあちこちから、天使と堕天使の繰り広げる戦闘音が聞こえてくる。剣と剣がぶつかり合う音、炎が爆発し、雷が地上に落ちていく。その空は、さながら最終戦争(ハルマゲドン)の様相を呈していた。

 

 コカビエルとラミエルは正気を失っていたが、それでも長年の付き合いからか連携のようなものは辛うじて残っていたらしく、彼らは左右に別れて片方がアザゼルの背後を取るべく、交互に攻撃を仕掛けてきた。

 

 空中を自在に飛び回りながら、コカビエルが一瞬の隙をついて接近戦を挑んでくる。心臓を貫こうとする彼の手刀を叩き落とし、カウンターをお見舞いしようとすると、狙いすましたようにラミエルが背後から飛びかかってきて、彼は慌てて空中で前転する要領で距離を取った。するとすかさず、そんな彼に向かって炎の玉が飛んできて、空中で破裂して爆炎が上がった。

 

「死ね! アザゼル! ファイヤーボーーールッッ!!」

 

 コカビエルが派手な火炎魔法を真正面からぶちかましてくる。だがアザゼルはそれも落ち着いて躱すと、またその背中をこっそり狙っていたラミエルの光弾を、まるで背中に目がついているかのように余裕で避けた。

 

 二人はそんなアザゼルに向かって、まるで親の仇でも見るかのように顔を真っ赤にしながら、考えなしにめちゃくちゃに飛びかかっていく。天使たちの連携は息もピッタリで執拗だったが、しかし正気を失っているせいか画竜点睛を欠いていた。

 

 天使たちは片方が肉弾戦を挑んで来ては、その隙にもう片方が背後を取り、だがすぐには攻撃せず、アザゼルが距離を置こうとした瞬間に、死角から魔法をお見舞いするという戦法を繰り返した。つまり、誤射を恐れて肉弾戦をしている間は魔法が飛んでくることはなく、寧ろ安全と言えた。

 

 そして、それさえ分かってしまえば、接近戦の最中、敵の相方がどこにいるかは目を瞑ってても分かった。アザゼルはそんな攻撃を幾度か繰り返してパターンを学習すると、飽きもせず肉弾戦を挑んでくるコカビエルから離れた瞬間を狙って、背後で待ち構えていたラミエルにカウンターを食らわせてやった。

 

「ぎゃっ!」「なにぃ!?」

 

 不意打ちを食らったラミエルが吹き飛んでいくのを見るや、またコカビエルが激高して接近戦を挑んでくる。

 

 なんとなくそれを予想していたアザゼルは、そんなコカビエルと数合の格闘戦を演じた後、また確認をするように距離を置いた瞬間に、さっきと同じ攻撃を背後に放ってみた。

 

「ぎゃあ!!」

 

 すると、ラミエルはさっきカウンターを食らった時とまったく同じ位置に居て、まったく同じ攻撃を食らって吹っ飛んでいってしまった。

 

 この結果には流石にアザゼルも少し戸惑った。まさか、たった今やられたばかりなのに、修正せずにそのまま食らってしまうなんて、相手が正気ならそんな間抜けなことにはならないだろう。神に命じられた天使は、ここまで愚かなものなのか……?

 

「おのれ、相棒(ラミエル)のことを、よくもっ!!」

 

 アザゼルがその事実にゾッとしていると、すぐにまたコカビエルが飛びかかってきて、考えている余裕はなくなってしまった。彼は冷や汗をかきつつ、天使の攻撃を慌てて受け止めると、また数合打ち合った後に距離を置いて背後を振り返った。

 

 すると、二度もアザゼルにやられてフラフラになっていたラミエルが、また所定の位置へ戻ろうとしている姿が見えた。彼は背後を取る前にアザゼルが振り返ったことに気づくと、慌てて攻撃をしようとして失敗し、混乱したのか勢い余って落下していった。

 

 コカビエルはそんな相方を助けようともせず、またアザゼルに飛びかかってくる。ここで助けようとして背中を向けたら、二人共やられてしまうだけだから、ある意味その判断は正しかったが、アザゼルは彼のこの行動が正気のものではないことに流石に気づいていた。

 

 この二人の天使は、とにかく片方が接近戦を挑んで隙を作り、もう片方が背後から仕留めるという考えに固執しているのだ。異常としか思えないその執着心は、はっきり言って恐怖だったが、とは言え今は神に感謝すべきだろう。普通にやったらこの二人に打ち勝つのは相当骨がいるはずなのだが、彼らが神のせいで思考停止に陥っている今は、いくらでも料理のしようがあるといえた。

 

 アザゼルは幾度目かの肉弾戦の後に、今度はカウンターではなく、背中を向けて思いっきり逃げる作戦を取った。

 

「な!?」「貴様、逃げるつもりか!!」

 

 すると案の定というか、二人の天使はその背中を盲目的に追い始めて、それ以外のことをしなくなった。

 

 もしもアザゼルが逆に追いかける立場だったら、その無防備な背中に魔法を撃ちまくるだろうに、彼らは絶対にそうしないのだ。何故なら、彼らは肉弾戦で隙を作るのが先で、魔法は後と考えているからだ。

 

 こんな連中に負けるわけがない。

 

 アザゼルは、本来なら賢明であるはずの二人を、こうも愚かに変えてしまった神に憎しみを抱きながら、所定の位置まで逃げてくると、追いかけてくる二人に向かって彼の持つ最大の魔法を放った。

 

聖なるかな(ホーリー)! 聖なるかな(ホーリー)! 聖なるかな(ホーリー)! 神の中の神、主の中の主、王の中の王、全ての生きとし生けるものに聖あれ! 第一の聖性、永遠の知性(デミウルゴス・アイオーン)

 

 まるでレンズを通して見たかのように空間が屈曲し、アザゼルの背後から光が溢れ出した。その光は一瞬にして辺り一面を包み込み、あっという間に彼を追いかけていた二人の天使を焼き尽くした。

 

 光に包まれた二人の体は炎に包まれ、悲鳴をあげる間もなく黒焦げの塊になった。プスプスと黒煙を上げる肉塊は、慣性に従って暫く空に上がっていったが、やがて重力加速度に負けて落下に転じた。

 

 アザゼルはそんな二人の体を空中でキャッチすると、その体が再生してしまう前にとんでもないことをやり始めた。

 

「メルカバー! 餌の時間だ!!」

 

 彼がそう叫ぶや否や、空中を優雅に泳いでいた巨大なクジラが、

 

「オオオオオオオオオーーーーーーーーンンンンン!!!」

 

 と雄叫びを上げて巨大な口を開き、アザゼルの方へ向かって泳いできた。その口の中には、おびただしい数のおろし金みたいなギザギザな歯が不規則に並んでおり、見る者の忌避感を煽り立てた。

 

 しかしアザゼルはそんな感情はおくびにも出さずに二人の体をメルカバーの口の中に放り込むと、飼い犬に食ってよしと言わんばかりに、その鼻の辺りをぱちんと叩いた。

 

 すると次の瞬間、巨大なクジラの口が閉じたと思えば、その中からバキバキと骨を噛み砕く音が聞こえてきて、戦場に気持ちの悪い咀嚼音が轟いた。

 

 天使たちは、その音を聞いた瞬間、一瞬だけ正気を取り戻したかのようにその動きを止めたが、すぐにまた顔を紅潮させると、今度はまるで自分の意思でそうしているかのように、堕天使たちに向かって攻撃を再開した。

 

 アザゼルは、これでも天使たちが戦いをやめないのかと落胆すると、そんな彼らと戦っている仲間にこれみよがしに大声で叫んだ。

 

「同胞たちよ! 天使たちは正気を失っている! 彼らに考える頭はもうない! 落ち着いて動きをよく見るんだ! パターンを割り出せば、そいつらはただのでくのぼうに過ぎない!」

 

 そんなアザゼルの言葉に堕天使たちからは歓声が上がり、天使たちからはさらなる憎悪の言葉が上がった。

 

 まるでどちらが魔族かわからないくらい、怒りに任せて襲ってくる天使たちの動きは、たしかにアザゼルが言う通り単調で工夫がなく、見切ってしまえば取るに足らないものだった。

 

 間もなく、堕天使たちはそんな天使たちを手玉に取り始め、形勢は完全に傾いてしまった。敗れた天使たちが翼を折られ、次々とメルカバーの腹の中へと消えていく。そのおぞましい光景に、恐怖を覚えるどころか寧ろ怒りを募らせていく天使たちは、ドミノ倒しのごとく敗北の道へと突き進んでいるかのようだった。

 

 もはや天使に勝ち目はない。アザゼルはそんな彼らに止めを刺そうと、翼を広げ、両手を掲げて、またあの大魔法の詠唱をしようとした。

 

「なにっ!?」

 

 ところがその時、地上から見慣れぬ光が発したかと思いきや、次の瞬間、無数の光弾に体を貫かれて、彼は体の自由を奪われた。翼をもがれ、胴体には風穴が空き、そこから炎が吹き出している。あまりの痛みに意識が遠のく……

 

 一体何が起きたのかと目を凝らせば、地上にはゴスペル・レプリカを持った人間(ドミニオン)たちが、天使たちを援護すべく、空を見上げて一心不乱に射撃を続けている姿が見えた。

 

 まったく戦力と見なしていなかったが、まさかの人間の介入に彼は舌打ちすると、意識を失い錐揉しながら、敢え無く地上へと墜落していった。

 



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天使と悪魔

 堕天使たちのまさかの空からの登場に、ジャンヌはギリギリと歯噛みした。間もなく、地上から次々と天使たちが舞い上がり、上空の巨大クジラめがけて突っ込んでいった。案の定、天使たちは彼らの姿を見るやいなや、理性を失って我先にと飛びかかっていってしまったらしい。

 

 こうならないよう、港で待ち構えていたというのに、どうやら堕天使たちにはもう話をするつもりはないようだ。空からの急襲はその覚悟の現れと思われた。となると、ジャンヌも腹を決めねばならなくなった。

 

 この戦いに介入すべきか否か……正直、隊員たちの生命を危険に晒すくらいなら、勝手に飛びかかっていった天使を助ける義理はない。だが、堕天使たちが何を考えているか分からない以上、彼らを見捨てるわけにもいかなかった。最悪の場合、天使を倒した後に堕天使たちが人間を攻撃してこないとは限らないのだ。

 

 だったら少なくとも味方であることがはっきりしている天使の援護をしたほうが良いだろう。彼女はそう判断すると、隊員たちに自分のあとに続けと命じ、船から飛び降りた。

 

 鳥の群れが飛んでいるかのように、空一面には無数の天使と堕天使が広がっていた。剣がぶつかり合う金属音や、魔法が炸裂する爆発音が盛大に空いっぱいに響き渡り、蠢く影のあちこちから炎や稲光が発した。

 

 それを見てジャンヌは、まるでテレビゲームのようだ……と思ったが、彼女はすぐ、自分のおかしな考えに首を捻った。

 

 どうして自分はあれを見て、テレビゲームみたいだと思ったのだろうか? この世界にもテレビゲームはあるが、あんな戦争を彷彿とさせるようなものはなかったはずだ。なのに彼女は確かに空でビカビカ光るあの光景を見て、かつてそんなテレビゲームをしたことがあるような既視感を覚えていた。

 

 もしかして、これも自分の封印された記憶の一部なのだろうか……? しかし、自分や鳳たちが来たという世界は、ここよりもテクノロジーが劣った世界と聞いていたのだが……

 

「ジャンヌ君!」

 

 そんなよそ事を考えながら刑務所施設へと駆け込んでいくと、入り口を入ってすぐの詰め所にミッシェルと複数の天使の姿があった。彼女は残っていたその天使たちが暴れるんじゃないかと警戒したが、どうやら彼らは空に上がっていった連中とは違って、まだ正気を保てているようだった。

 

 ジャンヌはホッと一安心すると、ミッシェルに事情を聞くため近寄っていった。

 

「ミッシェルさん。正気な人が残っていてくれて助かったわ。一体、何が起きたの?」

「うん。さっき空にあれが現れたと思ったら、それを見るなり天使が次々とおかしくなっちゃって、みんな勝手に飛び出して行っちゃったんだ。でも逆に、あれを見なければ平気だったみたいで、この人達は室内に籠もってて難を逃れた感じなんだ」

「なんていうか、それは予想通りだったけど……なんで彼らは、囚人たちが相手だと見境を無くすのかしら?」

「多分、神の介入だろうね。それから囚人にじゃなくて堕天使、『魔族になった天使』というものに彼らは反応してるんだと思う。彼らがまだ天使だった頃は、看守の人たちと衝突したことは無いって、彼らも言ってるから」

 

 ミッシェルの言葉に、彼の背後の天使たちが頷く。実際、この光景が日常茶飯事だったら、こんな施設は成り立たなかっただろうから、ミッシェルの推測は正しいだろう。

 

 しかし、そう考えると、尚更わからなくなった。どうして囚人たちは今、みんな魔族になってしまっているのか? 反乱が起きるまで、彼らは天使の姿で、この施設に看守とともに居たはずである。何か天変地異のようなものが起きて魔族化してしまったのなら、看守たちもそうなってなければおかしいだろう。

 

 まさか、彼らは自らの意思で堕天使になったとでも言うのだろうか? どうやればそんなことが可能なのか? いや、そもそも、なんでそんなことをする必要があるのだろうか……

 

「隊長! 指示を! 天使様に援護射撃をしてもいいんでしょうか!?」

 

 そんな不都合な事実に首を捻っていると、外の戦闘が一層激しくなり、それを見ていた隊員たちが焦れるようにジャンヌに指示を求めてきた。彼女はたった今思いついた自分の考えが引っ掛かって、このまま堕天使を攻撃してもいいか迷ったが……

 

 その時、空に強烈な閃光が迸り、先陣を切っていた二人の天使が黒焦げに焼かれるのが見えた。大魔法で彼らを仕留めたアザゼルは、黒焦げになった二人の体を捕まえると、あろうことかそれを巨大クジラの口の中に放り込んでしまった。

 

 バリバリと気持ちの悪い咀嚼音が戦場に轟く。

 

「同胞たちよ! 天使たちは正気を失っている! そいつらはただのでくのぼうだ!」

 

 アザゼルの勝利宣言のようなセリフが続いて堕天使たちの意気が揚がると、怒りに我を失った天使たちはもはや彼らの敵ではなくなり、次々と犠牲者が増えていった。

 

 ジャンヌはそれを見るや、迷っている場合じゃないと判断し、

 

「総員、攻撃開始! 各自の判断で天使様の援護をしろ!」

 

 その言葉を待っていたと言わんばかりに、ドミニオンたちの持つゴスペルから光弾が発射され、無数の光がアザゼルへと吸い込まれていった。ヘイトを稼いでいたから的にされたのだろう。アザゼルが、ベヒモスの時みたいに体を炎で焼かれながら落ちていく……

 

「各員、ツーマンセルを意識して、分散攻撃! 目的は天使様の援護! それを忘れないで!」

 

 アザゼルが狙い撃ちされたのは自業自得だが、こっちまで天使みたいに頭をカッカしているわけにはいかない。ジャンヌが冷静になるように呼びかけると、隊員たちは声を掛け合い、お互いに被らないように天使たちを援護し始めた。

 

 こうして地上からの援護射撃が始まると、形勢はまた逆転した。天使たちの動きは単調で避けるのは容易いが、そこにドミニオンの攻撃が加わることで不規則性が増してしまい、堕天使たちは一気に劣勢に立たされた。

 

 そのドミニオンの攻撃も、ただのエネルギー弾が一直線に飛んでくるだけだから、対処するのはわけはないのだが、そっちを気にすれば天使にやられ、逆に天使を意識すれば援護射撃にやられてしまう。

 

 どちらか一方を片付けるなら、人間の方が圧倒的に楽だが、彼らには人間を攻撃できない理由があった。何しろ、彼らは元天使なのだ。故に、彼らの目的は、人類の救済に他ならなかった。

 

「やめるんだ! ドミニオン諸君! 我々は敵じゃない! 寧ろ君たちを助けたいのだ!」

 

 堕天使たちは必死に叫んだが、しかし天使を殺す場面を見たばかりの彼女らがそんな言葉を信じるわけもなく、

 

「バカバカしい! 寝言は寝て言いなさい!」

「本当だ! 信じて欲しい!」

「私たちは天使様を信じるわ! 退け、悪魔(サタン)!!」

 

 より一層激しさを増すゴスペルの攻撃に、堕天使たちは徐々に追い詰められ始めていた。このままではジリ貧だ。かと言って鳳白の待つ島に退却するわけにも行かず、作戦が失敗すれば、どうせ自分たちの命はない。こうなっては玉砕覚悟で天使だけを攻撃するか……

 

 堕天使たちが悲壮な覚悟を決めた、正に、その時だった……

 

「鳴り響け雷鳴! ミョルニル・ハンマー!!」

 

 突如、戦場に閃光が走り、空が白く染まった。視界を奪われた全ての天使と堕天使、そして人間(ドミニオン)の攻撃が一瞬止まり静寂が訪れる。

 

 堕天使たちが青ざめながら目をやれば、戦場の片隅に巨大な光球が浮かんでおり、その中に同胞が飲み込まれていく姿が見えた。

 

「サリエル!!」

「人類に救済を!!」

 

 そう叫びながら光の中に吸い込まれていった堕天使の顔は、最後にほんのちょっとだけ笑って見えた。

 

 間もなくその光は轟音を立てて爆発し、空にはきのこ雲が立ち上った。爆風が空飛ぶ天使と堕天使を全て吹き飛ばし、地上に伏せるドミニオンたちの背中にはパラパラと小雨が降り注いだ。

 

 轟音で耳がキンキンと鳴り、三半規管が揺さぶられて上下の感覚がおかしくなる。頑丈な天使はともかく、ドミニオンたちは立ち上がることすら困難な中、しかし、そんな状況でも更に凶行は行われた。

 

「ミョルニィーール! ハンマーーーーッッ!!!」

 

 目を血走らせた天使が巨大な十字架みたいな槌を振り下ろすと、再度、巨大な光球が現れて近くの堕天使を襲った。慌てて背を向けて逃げ出そうとした彼は、しかし、自分の背後にメルカバーがあることに気がつくと、諦めるようにその身を光の中へ投げ出した。

 

「俺も役に立てたかな……みんな、さよなら!」

 

 堕天使を飲み込んだ光は膨れ上がり、また巨大な爆炎を噴き上げては消滅した。その衝撃は計り知れず、まるで空が震えているようだった。

 

 ジャンヌは襲い来る熱風に耐えながら、一体どっちが悪魔だと泣き言を言いたくなった。頭に血が登った天使は、下で彼らの援護を続けていたドミニオンがいるにも関わらず、目の前の敵を殺すことに躍起になっている。その目は血走っており、きっと地上の様子などもう見えてはいないのだろう。

 

 このまま、あの天使がミョルニルを使い続ければ、遅かれ早かれ自分たちもその炎に焼かれて死んでしまう。恐らく、他の隊員たちも同じ気持ちだったであろう。不安そうな瞳がジャンヌに向けられる。もはや援護など考えずにさっさと逃げたほうが賢明だろうか?

 

「吶喊!」

 

 そんな迷いにジャンヌが苦しんでいる最中、爆風が未だ吹き荒れる空の上で、堕天使たちはきのこ雲を迂回しながら、ミョルニルを持つ天使へ迫った。天使は敵が目の前に来るのを見るや即座に三発目を打ち出したが、彼の凶行はそこまでだった。

 

 一人の勇敢な堕天使がミョルニルの光弾を引き受け犠牲となっている間に、堕天使たちは一斉に天使に飛びかかった。オリジナルゴスペルを奪われまいとする天使と堕天使たちがもみ合っていると、他の天使たちも集まってきて、空の上では大乱戦が始まった。

 

 翼をはためかせる隙間もないくらい揉みくちゃになりながら、天使と堕天使の攻防が続き、殴り合いに負けた者がバラバラと空から落ちてくる。

 

 と、その時、天使と堕天使の無茶苦茶な戦いを見上げていたドミニオンたちの目の前に、ズシンと音を立てて十字架のような何かが落っこちてきた。それは地面を幾度かバウンドした後、一人のドミニオンの少女の前で止まった。

 

 こわばる彼女の瞳が映しているのは、言うまでもなくミョルニルだった。こんな御大層な落とし物をどうしていいか分からず身動き取れずに固まっていると、間もなく空から次々と天使たちが飛来してきて、ミョルニルを奪おうとして彼女のことを突き飛ばした。

 

「きゃああああーーっ!!」

 

 天使たちの強靭な肉体に体当りされた彼女は、面白いように吹き飛んでいき、刑務所の壁に激突して意識を失った。壁に頭をぶつけたのだろうか、その額からは鮮血が滴り落ち、彼女の顔を真っ赤に染めていった。

 

 天使はそんな彼女に気づかず、堕天使とミョルニルを奪い合って戦闘を続けている。そのあまりに激しい攻防に巻き込まれ、他のドミニオンたちからも悲鳴が上がった。もはや援護をするどころの騒ぎではなく、彼女らは意識を失った同僚を引きずって戦場から逃げるくらいしか出来ることはなかった。

 

 ジャンヌはそんな光景を前に、覚悟を決めた。天使たちがまともじゃないのは明らかであり、もはやこの乱戦に人間(ドミニオン)は手出し無用だ。それよりも、あのオリジナルゴスペルをまた使われたら、自分はともかく部下の少女たちはひとたまりもないだろう。そうならないよう、自分があれを確保しなければ……

 

「紫電一閃!」

 

 ミョルニルを取り囲むように乱戦を続けていた天使たちに向けて、ジャンヌは横薙ぎに剣撃をお見舞いした。まさか人間に攻撃されるとは思いもしなかったのだろう、天使たちがその不意打ちに怯んだ隙に、ジャンヌは脇をすり抜けて、まんまと地面に転がっていたミョルニルを奪取した。

 

 まったく予想外のところから飛んできた攻撃に虚を突かれ、ゴスペルを奪われた天使と堕天使が、それを奪い返そうとして同時にジャンヌへと飛びかかってくる。血眼になった天使が今にも人を殺しそうな形相で叫ぶ。

 

「それを俺に渡せ、人間!!」

「駄目よ!! あなた達は正気じゃない! これ以上やると言うなら……斬る!」

 

 ジャンヌは正気を失った天使に毅然とそう言い放つと、宣言通りに彼のことを斬り伏せてしまった。元々、神人である彼女と天使の身体能力は互角であり、相手が正気でない今なら負ける要素は一切無かった。

 

「ドミニオンよ。それは私たちが預かろう。決して天使の好きにはさせない」

「ふざけないで!」

 

 それを見て勘違いしたのか、今度は堕天使が彼女からミョルニルを奪おうと甘言を弄してきたが、そんな言葉は幾人もの天使が犠牲になった今、信じるわけがなかった。彼女はふざけるなと一蹴するや、どちらにも渡すつもりはないと、ミョルニルを背に仁王立ちを続けた。

 

 天使たちがそんな彼女に容赦なく飛びかかっていく。多勢に無勢の彼女がいつまで持つかは分からない。このままでは天使にミョルニルを奪われると思った堕天使たちは顔を見合わせると、

 

「人間を攻撃するのは気が進まないが……やむを得まい」

 

 天使を相手に大立ち回りを続ける彼女に、不退転の決意を感じ取った堕天使たちもまたミョルニルを奪おうとジャンヌに襲いかかってきた。

 

 天使と堕天使、その両方を相手にして四面楚歌の隊長を助けようと、遠巻きに見ていたドミニオンたちから援護射撃が飛んでくる。もはや天使も堕天使もお構いなしの攻撃に、場はさながら三つ巴の様相を呈してきた。

 

 ジャンヌは背後のオリジナルゴスペルを守りながら、どうして自分が天使と堕天使の両方と戦っているのかわけがわからず、頭が変になりそうだった。ただ、ここで自分が引いたら、この場所が地獄に変わることだけは確かだと思い、絶対どちらにもミョルニルを渡すまいと、それだけを必死に考えていた。

 

 幸いなことに天使と堕天使もお互い牽制しあっているため、攻撃自体は彼女でもなんとか捌くことが出来た。しかし、ミョルニルを守ってとなるとそうもいかず、暫くすると彼女は徐々に押され始めた。

 

 剣が激しくぶつかり合う金属音と、魔法が飛び交う爆音とで、ずっと耳鳴りがしてもはや聴覚は役に立っていなかった。そのせいで空間認識能力が落ちているのか、紙一重で躱したはずの攻撃に幾度も切り刻まれ、彼女の身体は徐々に赤く染まっていった。

 

 神人であるからその傷はすぐに塞がってはいたが、流した血液の量が蓄積して、気がつけば彼女はフラフラになっていた。視界が霞んで身体が重くなる……それでもジャンヌは気合だけで迫りくる天使と堕天使の攻撃を捌き続けたが、自分が突破されるのももはや時間の問題と思えた。

 

 どうする? 隊員に撤退を指示すべきか……それともミョルニルを抱えて一人だけで逃げるか? そうすれば、天使たちは自分のことを追ってきて、隊員たちは安全になるだろう。

 

 その時だった。どんどん感覚が薄れていく足元で、彼女は何かに足を取られた。激しい戦闘で地面に穴でも空いていたのだろうか、突然、体がガクッとよろけて踏ん張りきれず、彼女は地面にうつ伏せに倒れた。

 

 突然のアクシデントに受け身が取れず、胸を強打した彼女は息が詰まりながらゲホゲホと咳き込み、一瞬にして体内の酸素を全て吐き出してしまい、気が遠くなりかけた。夕闇のように暗く染まっていく視界の中で、その隙を逃すまいと飛びかかってくる天使たちの姿が見える。慌てて起き上がろうとするが腕に力が入らず、その攻撃を避けることは不可能だった。

 

 ヤバい……正気を失っている天使たちが手加減してくれるわけがない。彼らの動きは鈍いが、一撃の威力は寧ろ上がっていた。そんな攻撃を無防備に受けたら無事では済まない。彼女は衝撃に備えるべく目をつぶると、体を固くして身構えた。

 

 バン! ……っと、肉を打ち付けるような鈍い音が辺りに響き、その衝撃で地面が揺れた。彼女はそれをはっきり感じていたが、しかし、いつまで経っても痛みは襲ってこなかった。

 

 天使の攻撃が止んだ?

 

 そんなはずはない……そう思いながら、おそるおそる目を開けると、彼女の目の前に金色のオーラに包まれた何かが見える。

 

「うおおおおおおおおおおおおーーーーーーっ!!」

 

 その雄叫びに空気が震えて鼓膜がビリビリと鳴った。

 

 まさか第六感でもあるのだろうか。見あげればそこには、サムソンがジャンヌのピンチを察知したかのように駆けつけ、迫りくる天使と堕天使の攻撃を物ともせずに全て受け止めている姿があった。

 



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ヒーロー

 地面に倒れ伏すジャンヌの前に、いつの間にか金色のオーラを纏ったサムソンが立っていた。彼は迫りくる天使たちの攻撃を全て受け止めると、お返しとばかりに裂帛の気合を込めた正拳突きをお見舞いした。すると一体どうなっているのか、複数の天使がその一撃で吹っ飛んでいき、ズシンと地響きのような音を立てて壁に激突した。

 

「うおおおおおおおおおおおおーーーーーーっ!!」

 

 サムソンの天を震わすような雄叫びに、その場にいる全員が否応もなく気圧され怯んだ。その声がビリビリと鼓膜を揺すると、うっかり猛獣にでも出くわしたかのような恐怖心が、自然と胸の内に湧いてくるのだ。まるで予め遺伝子に組み込まれていたかのようである。

 

 堕天使たちは突然乱入してきたそんな魔族に困惑して身動きが取れなくなった。魔族だったら自分たちの仲間かと思いきや、どうやら彼はジャンヌを守っているようだった。堕天使たちは自分たちのことを棚に上げて、そんな魔族なんているわけがないと警戒した。

 

 逆に正気を失っていた天使たちは、サムソンが魔族であるということだけを理由に、迷いもなく攻撃を開始した。アイスランドに到着した時に顔合わせをしているはずだが、彼らにはもうその区別すらつかないようだった。

 

 腰を低く落として半身に構えたサムソンが、そんな分別もつかなくなった天使の攻撃を、円を描くような見事な動きで捌いていく。まるで稽古でもつけているかのような緩慢な動きで、複数の攻撃を同時に捌く姿は、泰然として山のようだった。

 

 もはや当初の目的すら忘れてしまったのだろう。天使たちの攻撃は執拗で、手を変え品を変えてひたすらサムソンを倒そうと躍起になっていた。だがサムソンは未来でも予知しているかのように微動だにせず、彼らの攻撃を的確に捌いてはカウンターをお見舞いしていく。

 

 そんな風に、魔族にいいようにあしらわれたことにプライドが傷つけられたのか、一人の天使が激昂して叫ぶと、空高く舞い上がり、まるで特攻するかのように急落下しながら体当たり攻撃を行ってきた。

 

 そんな破れかぶれの攻撃など当たるわけがないだろうに、ところがその時、サムソンは何を思ったのか、そんな天使の特攻を躱すことはせずに、何故か真正面から受け止めた。もちろん、その後なんなく天使を叩き潰すことには成功したが、その代償は大きかった。

 

 ジャンヌは何かがピシャリと頬に当たったのに気づいて手をやった。するとその手のひらにべっとりと血液が付着していて、彼女はそれでサムソンが手負いであることを思い出した。

 

 彼の背中はミョルニルの攻撃を受けて、未だに傷が塞がりきっていなかったのだ。今日、ようやく快方に向かい始めたというのに、こんなことをしていては無事では済まない。

 

(なんでこんな無茶なことを……)

 

 ジャンヌは彼の無謀な行動に思わず怒鳴りかけたが、すぐにそれは自分のせいだと気がついた。

 

 サムソンは、虫の知らせか第六感か、ジャンヌがピンチになったことを直感的に悟るや、彼女を助けるべく駆けつけたのだ。傷はまだ深く、本当なら身動きも取れないだろうに、彼女を助けたいという一心で、彼はここに立っていた。

 

 無茶をさせたのは自分ではないか。その証拠に、さっきからサムソンが退かないのは、ここにジャンヌが倒れているからだ。そして天使の特攻を受け止めたのは、そうしなければ天使が彼女に突っ込んでいってしまうからだった。

 

「やつは手負いだ!」

 

 ジャンヌがその事実に気づいて唖然としている中で、堕天使の一人がサムソンが背中に傷を負っていることに気がついた。その言葉は波のように伝播していき、堕天使たちだけではなく、天使たちの耳にも届いてしまった。

 

 次の瞬間、何人もの天使が一斉に空に舞い上がり、さっきみたいに空から特攻を仕掛けてきた。それが有効と判断したのだろう、実際に、ジャンヌを庇いながら戦う彼には、その不規則な攻撃は厄介だった。

 

 と同時に、サムソンが手負いと気づいた堕天使たちもが、その傷を狙って背後から仕掛けてきた。堕天使の放った火の玉が彼の背中を襲い、その痛みでサムソンの動きが一瞬止まる。そこへ天使が体当りしてきて、彼の背中から噴水のように鮮血が飛び散り、辺り一面を血の海に染めた。

 

 その攻撃が致命打となったのか、回転が止まったサムソンに、次から次へと容赦ない攻撃がぶつけられる。天使の無鉄砲な体当たりと、堕天使の的確な魔法攻撃を、満身創痍のサムソンはフラフラになりながら受け続けている。

 

「サムソンさん!!」

 

 その時、サンドバッグになっているサムソンを見るに見かねて、建物に隠れていた楓が飛び出してきてしまった。彼女がサムソンを援護すべくゴスペルを片手に戦場に突っ込んでいくと、前後の見境を失くした天使たちは、当たり前のようにそんな彼女すらも標的にしようとした。

 

 その彼女を守ろうとしたサムソンが堕天使たちに背中を向けると、その隙を逃すまいと、次々と無防備な背中に攻撃が打ち込まれる。

 

「がああああーーーっっ!!」

 

 激痛に耐えかね、堪らずサムソンから悲鳴が上がった。彼の苦痛に歪んだ表情を目の当たりにした楓は、後悔と恐怖とで体が固まってしまったかのように身動きがとれなくなっていた。サムソンはそんな彼女を、攻撃を捌くこともせず、ただひたすら敵の攻撃を受け続けながら庇っていた。

 

 血を流しすぎた彼の瞳が虚ろに揺れている。このままでは彼が死んでしまうだろう。ジャンヌは慌てて助けに入ろうと立ち上がりかけ……そして地面に手をついた瞬間、強烈な既視感(デジャヴ)に襲われた。

 

 こんな光景を、いつかどこかで見た気がする……ズキンズキンと痛む頭で、彼女は走馬灯のように駆け巡る映像から、それを思い出していた。

 

 かつてプリムローズ領でのレヴィアタン戦で、同じようにうっかり足を取られて転んだ彼女は、あっけなくその生命を散らした。とは言え、神人である彼女はリザレクションの魔法で甦れたのだが、そうとは知らないサムソンは、あの日も今日みたいに死を恐れず魔王に立ち向かっていき、ボロボロになってしまった。

 

 彼は最強の功夫を持ちながら、決して私利私欲のためではなく、いつも誰かを守るために戦っていたのだ。そんな彼の姿を目の前にして、ジャンヌはついに自分が何者であったかを思い出した。

 

 ああ、そうだった。かつて自分も誰かのために盾になろうとしていた。最強の盾になって、最強の矛である鳳白の役に立とうと……なのに、自分からその居場所を捨てておきながら、その愛を勝ち取ろうとしてパーティーを壊しかけた。自分はなんて愚かだったのだろうか。

 

 それに比べてサムソンは潔い。彼は真っ直ぐに彼女のことを愛し、死ぬかも知れないと知りながら世界を渡り、またこうして彼女のことを助けに駆けつけたのだ。なんで、こんなに大事なことを、ずっと忘れていたのだろうか……

 

 立ち上がった彼女の目の前で、今そのサムソンのオーラが消えようとしていた。彼が師匠から受け継いだ力が尽きようとしているのだ。だが、そうはさせない。彼が彼女を守るのならば、その背中を守るのは自分の役目だ。

 

「サムソン! しっかりしなさい! かの者を守り給え……プロテクション!」

 

 ジャンヌは立ち上がるなりサムソンの背中に魔法の障壁を張った。そんな魔法はこの世界にも、アナザーヘブン世界にも存在しなかったが、彼女はゲーム時代に使っていたその技が、今なら当たり前のように使えると思ったのだ。

 

 記憶を取り戻した彼女には、自分の相棒が誰であるかはっきりしていた。そんな彼女のために、二度までも命を捨てようとした彼のためなら、何でもやれるような、そんな気がしていた。

 

 果たして、アイギスばりの結界を展開した彼女の障壁によって堕天使の魔法は食い止められた。突然の奇跡に、堕天使たちからどよめきが起こる。

 

「紫電一閃!」

 

 彼女はついでとばかりに、空から迫る天使の群れに、横薙ぎの剣撃をお見舞いしてやった。馬鹿の一つ覚えみたいに一直線に向かってきた彼らは、彼女の必殺技の餌食になった。彼女の攻撃によって翼を折られた天使たちが、次々に地上へ落ちていく。

 

 仲間をやられた天使が、今度はジャンヌに標的を変えた。彼女は望むところだと剣を構えて突っ込んで行きながら、

 

「サムソン! 私の背中はあんたに預けた! その代わりにあんたの背中は私が守る! 今からあんたの背中には指一本触れさせないわ。だから思う存分、やっちゃいなさい!」

 

 彼女のその言葉がサムソンの闘志に火をつけたのか、たった今消えかけていた彼のオーラはまた炎のように煌めき、その熱量が重力を生み出しているかのごとく、彼の足元の地面がズシンとひび割れた。

 

 サムソンはジャンヌのお陰で攻撃が弱まった隙に体勢を整えると、ギラリと光る犬歯をむき出しにして、お返しとばかりに堕天使の隊列へと突っ込んでいった。

 

 水の動きを意識した彼の攻撃は淀みなく、見るもの全てを幻惑させた。堕天使たちは緩慢でありながら、幾重にもブレて見えるサムソンの動きに翻弄され、地に足が縫い付けられたかのように固まってしまい、身動きがとれないままに次々と倒されていった。

 

 慌てて空に逃げようとする堕天使には気弾が打ち込まれ、炸裂した金色のオーラが大砲のような轟音を空に響かせた。弱点である背中を狙えばジャンヌの障壁に阻まれ、堕天使たちには成すすべもなかった。

 

 ジャンヌがサムソンの背中を守り、サムソンが猪突猛進突っ込んでいく。それは以前とは正反対の役回りだったが、二人はまるで長年の連れ合いのように、息ピッタリの動きでお互いをカバーしていた。彼には彼女のことが全てわかり、そして彼女には彼のことが全てわかった。付かず離れず、八の字を描くように近づいては離れ、離れては近づき、二人は彼らを取り囲む天使と堕天使の集団を次々と打ち破っていく。

 

 正気を失った天使たちは、やられればやられるほど頭に血が上って攻撃を増し、堕天使たちはもはや何のために自分たちが戦っているのかも忘れて、天使でもないたった二人を、血祭りにあげようと躍起になっていた。

 

 空には巨大なクジラまでが浮かんでいる中、そうして全てのヘイトを集めた二人は、大集団に徐々に押され始めたが、それでも今のジャンヌに自分たちが負ける未来は想像できなかった。

 

 サムソンの攻撃は確実に敵を粉砕し、そしてジャンヌの守りが全ての攻撃を弾き返す。だがこのままではどれだけ時間がかかるか分かったものじゃない。天使も堕天使も、再生能力が高くて戦線復帰が早いのだ。それにサムソンの傷のことも気になった。何か手っ取り早く、連中を一網打尽にする方法を考えねば……

 

 そして彼女は、自分が背後に守っていた、巨大な十字架みたいなハンマーのことを思い出した。

 

 彼女にはオリジナルゴスペルの適性は無い。だが、使えないはずの天使が何度も連発していたんだから、自分にも使えたっていいじゃないか。ジャンヌは半ば逆ギレみたいな心境で、地面に突き刺ささっていたそれを引き抜いた。

 

 果たして、彼女がそれを持ち上げた瞬間、オリジナルゴスペルはまるで人の想いに応えるかのように光り輝き、巨大な十字架の先端からは光の剣のようなオーラが吹き出した。彼女は両手でその巨大な剣の柄を握ると、ジャイアントスイングをするかのようにぐるぐる回転しながらそれを振り回した。

 

「紫電……一閃! 神威閃光奮迅剣舞雷破斬!!」

 

 彼女の叫びが天に轟き、地を焦がす炎の刃が雷雲を呼び寄せた。真っ青だった空には、まるで海底火山のようにもくもくと黒雲が湧き出してきて、あっという間に空は黒く染まった。

 

 黒雲はビカビカと光り輝き、白い羊毛のような雲から蛇の舌のような雷電がにょきにょきと伸びてきて、次の瞬間、それが地上ににわか雨のごとく次々と突き刺さった。

 

 稲妻は精密に二人を取り囲む天使と堕天使だけに直撃し、まずは電撃が彼らの体を粉砕し、続いて轟音が少し遅れてやってきた。落雷の衝撃で建物のガラスは全て吹き飛び、地上に伏せていたドミニオンたちはつむじ風に舞う紙切れのように飛ばされていった。

 

 そんな狂嵐のど真ん中で、ジャンヌとサムソンは微動だにせず、黒焦げになった天使と堕天使を睥睨していた。

 

 落雷の直撃を受けた巨大クジラは浮力を失くし海へ落下し、その巨体が立てた津波が海岸線に押し寄せ、水しぶきが土砂降りのように降り注ぎ、地面を黒く染めていく。たった今まで果てること無く続いていた狂宴が終わると、そこには静寂だけが取り残されており、戦場はさながら夏の終りのような寂寥感に包まれていた。

 

******************************

 

 天使たちの暴走も、堕天使たちの凶行も、全てジャンヌとサムソンの前に潰えた。しかし、それで事態が収束したわけではなく、彼らの再生能力からしてこのまま放っておけば、また同じことの繰り返しになることは容易に想像できた。

 

 ジャンヌは戦闘の興奮も冷めやらぬ中でそう判断すると、すぐに部下の隊員たちに、黒焦げになった連中を全員ふん縛れと命じた。また正気を失う可能性が高いから、出来れば天使と堕天使を別々にしたかったが、倒れている人影はどれもこれも真っ黒焦げで判別がつかず、どうしようもなかった。これでもまだ生きているのだから、天使という生物は嫌になる。

 

「とにかく身動きがとれないように、ワイヤーでぐるぐる巻きにして! 判別がつくなら、天使は建物内に押し込めて頂戴。正直、彼らが暴走さえしなければ、まだなんとかなるから」

「はい!」

 

 隊員たちから凛とした返事が返ってくる。彼女らは、自分たちの隊長の強さを疑ったことは無かったが、今回の戦いでまた惚れ直したようだった。

 

 とは言え、自分の強さなど、今のパーティーの中では全然特別ではないから、移り気な彼女らの尊敬はまた他へと向くだろう……かつては鳳パーティーの前衛として無くてはならない存在だったと自負していたが、今の自分は何番目くらいの立ち位置なのだろうか?

 

 ジャンヌがそんなことを考えながら、天使たちをふん縛っている時だった。

 

「隊長! サムソンさんが!!」

 

 刑務所の中庭に作った即席の看護所から、楓の悲痛な叫び声が聞こえてきた。

 

 背中に大怪我を負いながら戦い続けていたサムソンは、戦闘が終わるなりぱったりとその場に倒れて動かなくなってしまった。本来なら動けるはずもなかったのに、相当無理をしていたことは明白だった。

 

 ジャンヌはすぐに衛生兵を呼び寄せると彼を手当するように指示した。サムソンが怪我をした原因である楓もまた、彼のことを助けようと必死に看護していたはずだが……そんな彼女の焦る声が聞こえてくる。ジャンヌは嫌な予感がしながら、彼が眠るテントへと走っていった。

 

「た、隊長……サムソンさんが……サムソンさんが……息をしていなくて」

 

 テントに入ると、まるでお通夜のように隊員たちが涙を流していた。放心状態の楓がうわ言のようにそんな言葉を呟く横には、ぐったりとうなだれたサムソンの体が横たわっていた。

 

 うつろな瞳は虚空を見つめて、もう何も見えてはいないようだった。全身が弛緩し、ベッドに収まり切らなかった両腕が、だらりと力なく地面まで垂れ下がっていた。口を半開きにして、表情筋が抜けると人はこんな顔をするのかと言うような、不気味の谷現象みたいに不思議な表情をしていた。

 

 背中を怪我しているというのに仰向けに寝かされているのは、きっと心臓マッサージを受けていたのだろう。彼の寝かされているベッドは真っ赤に染まり、血でジュクジュクと音を立てていた。

 

「ごめんなさい……助けられなくて……ごめんなさい……」

 

 楓や衛生兵たちが、シクシクと泣きながら、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返していた。それは死んでしまったサムソンに向けてのものだろうか、それともジャンヌに対してだろうか。

 

 テントの様子がおかしなことに気づいたのか、外にいた隊員たちが中を覗いて、嗚咽する仲間たちを見て何が起きたかを察し青ざめていた。

 

 しかし、そんな絶望的な空気の中で、ジャンヌは一人だけやけに落ち着いていた。

 

「起きなさい、サムソン。あんたがこれくらいで死ぬわけないでしょ」

 

 彼女は横たわるサムソンの下へと近寄っていくと、その呼吸と脈が無いことを確かめた。そしておもむろにその胸に手を乗せると、重ねた両手でグイグイと上下に胸を押し込んだ。

 

 ぴちゃぴちゃと、彼女が胸を押すたびに、サムソンの背中から血が溢れ出し、地面に吸い込まれていく。

 

 隊員たちはそんな隊長の姿を見て、きっと彼の死を受け入れられない彼女が現実逃避をしているのだと、そう思った。だが言うまでもなく、ジャンヌはこの時嘘みたいに冷静だった。サムソンはすぐに生き返ると、彼女はそう確信していた。

 

 何故なら、こんなことで死ぬくらいなら、彼はとっくの昔に何度も死んでいるはずなのだ。ジャンヌだって、ギヨームだって、ルーシーだって、根拠はないが、なにか見えない力に守られているような、そんな気がするのだ。だから彼が諦めない限り、絶対に生き返るとそう思っていた。

 

 それに大体において物語のヒーローは、お姫様のキスで目覚めるものだ。その逆もまたしかり。

 

 心臓マッサージを続けていたジャンヌが、人工呼吸をしようとサムソンの唇に触れた時、それは起きた。

 

 突然、サムソンの体が金色に輝きだし、まるで繭に包まれるかのように、彼の全身を光の膜が覆っていった。ジャンヌがそんな光にもお構いなしに人工呼吸を続けていると、やがて光は神が土くれに息を吹き入れた時のように、一人の男の形へと変貌していった。

 

 そして光が消え去った後には、そこには毛むくじゃらの魔物ではなく、一人の人間の男性の姿があった。つるっぱげで、あんまり格好良くはないけれど、どこか愛嬌のあるそんな男だ。

 

「起きたの? サムソン」

 

 人工呼吸を続けていたサムソンが身じろぎしたような気がして、ジャンヌが離れると、ベッドの上ではたった今起きたばかりのサムソンが目をパチパチさせていた。彼の目は覚めるなり彼女を捕らえて、

 

「おお、俺はまだ夢を見ているのだろうか? 夢の中でお前は一輪のバラのように気高く、美しく、高潔に咲いてた。今のお前は正にそのバラのように可憐だ。そんなお前が俺に目覚めのキスをするなんて、とても現実とは思えない」

「あんた、起きるなりまたそんなキザなセリフを吐いて……」

 

 ジャンヌは溜息をつくとヤレヤレと額に手を当てつつ、

 

「おかえり、サムソン……それ、似合わないからやめたほうが良いわよ」

 

 彼女は呆れるようにそう言いながらも、どこか気恥ずかしそうに微笑んでいた。

 



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堕天使たちの真実

 サムソンが応急手当を受けていたテントの周りには、いつの間にか人だかりが出来ていた。一度は死んでしまったと思われた彼が、隊長の口づけで復活したかと思えば、何故か見知らぬ男の姿に変わってしまったのだから、彼女らが騒ぐのも無理ないだろう。

 

 起き抜けにまたジャンヌを口説こうとしてキザなセリフを吐いていたサムソンは、彼女にぴしゃりとやられると、まるでこの世の終わりみたいに大げさに項垂れた。その姿が猿人だった時の彼そのままだったから、突然の変貌に声を失っていた隊員たちにも何が起きたのかがわかったらしく、楓がおそるおそるといった感じに尋ねてきた。

 

「あの……隊長、その人はもしかして……?」

「ええ、サムソンよ。彼、元々は人間だったって、白ちゃんも言っていたでしょう?」

 

 ジャンヌの肯定によって更にどよめきが起きる。楓はその言葉にまじまじとサムソンの顔を覗き込みながら、

 

「本当にサムソンさんなんですか? 私のこと、わかりますか?」

「おお! お前のことは、なんとなく覚えているぞ。よくご飯をわけてくれた人だな。記憶の方は曖昧だが、お腹の方が覚えている。いつもありがとう」

 

 楓は自分の印象を聞いているのだろうが、サムソンはなんだかトンチンカンなことを言っている。その感じからすると、どうやら魔物だったときの記憶は曖昧のようである。その辺のことを詳しく聞いてみると、彼はこんなことを言い出した。

 

「ジャンヌ、お前を追いかけてこっちの世界に渡ってきてからは、半分眠ってるような感じだった。夢と現実、2つの世界を交互に渡り歩いてる感じで、よく場面が飛んだ。俺はずっと夢の中で師父と修行を続けていて、ミッシェルを認識するまで数年かかったような気がする。お前と再会してからは日々が飛ぶように流れていき、勇者と合流してからは更に加速していった。こうして思い返せば、あっという間だったと思う……俺はどれくらい、こっちの世界で魔物をやってたのだ?」

「16年よ、16年……よく、そんな状態で意識を保てたわね」

「16年!? そんなに経つのか……俺の感覚では、せいぜい1~2年といったところなのだが」

 

 彼の記憶が曖昧なのは、魔族の小さな脳では考えられることが少なすぎて、そんな風に時間が早く過ぎてしまうよう感じられるからだろうか。もしくは、師匠と修行をしていたと言うから、案外ベル神父辺りが力を貸してくれていたのでは……

 

 ジャンヌがそんなことを推察している時だった。

 

「隊長! 海の方から誰か飛んできます!」

 

 サムソンを囲んでざわついている人垣の向こうから、緊迫した伝令の声が聞こえてきた。天使たちは、あらかた拘束してワイヤーでぐるぐる巻きにしてあったが、遠くに落ちた者がまだ残っていたのだろうか? 正気であるなら問題ないが、また襲ってくるようなら自分が戦うしかない。病み上がりのサムソンに無理をさせたくないので、出来れば戦闘は避けたいが……

 

 彼女がそうして警戒している間に、近づいてくる影の正体が分かってきた。それが意外な人物だったから、ジャンヌたちは一瞬それが誰だか分からなかったが、

 

「……コカビエル様? ラミエル様!」

 

 戻ってきたのは真っ先にアザゼルに飛びかかっていき、最初に巨大クジラに食べられてしまった二人の天使だった。背後にはそのアザゼルを連れている。てっきり死んでしまったと思っていたが、あの状況からピンチを脱して、逆にアザゼルを捕まえてきたのだろうか?

 

 正直言って、その可能性はあまり高くないだろうが、何にせよ彼らが生きていた事自体は僥倖である。少々不可解ではあるがその辺りの事情も今から聞けばいいだろう。ジャンヌがそのつもりで隊員たちの前に歩み出ると、ドミニオンの隊長の姿を見つけた二人は翼をはためかせて彼女の前まで降りてきた。

 

 ところが、ジャンヌはそうして目の前に降りてきた二人の姿に、どうしようもない違和感を見つけて言葉を失ってしまった。逆に二人の方は落ち着いた表情でのんびりした口調で話しかけてくる。

 

「ドミニオンの隊長よ。あなたに厄介事を押し付けるだけ押し付けて、何の役にも立てずにすまなかった。天使が守るべき人間を、逆に傷つけるなんて不甲斐ない……」

「い、いえ、それは構わないのですけど……それより、その、お二人のそのお姿は?」

 

 彼女の前に降りてきた二人は、顔貌こそは以前のままだったが、その背中に生えている翼の形が決定的に違っていた。純白の鳥の羽のようだった彼らの翼は、今はコウモリみたいに薄くて黒いものへと変わっていた。

 

 その姿はどこからどう見ても天使ではなく、堕天使である。ジャンヌが警戒心をあらわにすると、彼らは大丈夫と言わんばかりに大げさに頷いて、

 

「うむ、そのことについて、君たちに話さなければならない。私たちは見ての通りもう天使ではなく、死んで魔族に転生してしまったのだ」

「転生……ですって?」

「詳しいことはこのアザゼルが話してくれる。ドミニオンの隊長よ。どこか天使のいない場所で、彼の話を聞いてはもらえないだろうか」

 

******************************

 

 堕天使のリーダーであるアザゼルが現れると、拘束していた一部の天使たちがまた暴れだそうとした。ミッシェルが出てきて認識阻害魔法を掛けてくれたお陰で、どうにか天使たちは正気を取り戻したが、やはりこの反応はおかしすぎた。

 

 一体、何がそこまで天使たちを攻撃衝動に駆り立てているのか? それも追々分かってくるだろうと言ってから、アザゼルは話し始めた。

 

「もはや断る必要もないだろうが、我々、この施設の囚人は全て魔族である。元々、ここに集められたのは天使だったはずが、何故このようなことになっているのかと言えば……実は天使という人種には、神のアルゴリズムとも呼ぶべき不都合な仕組みが施されていたからだ」

「神のアルゴリズム……?」

「ウイルスと言っても差し支えない」

 

 アザゼルはそう吐き捨てるように呟いてから、質問に答えるのではなく、逆にジャンヌに問いかけてきた。

 

「あなたはアズラエルという天使が、レヴィアタンという魔王になってしまった経緯を知っているだろうか?」

「え、ええ、それはもちろん……アズラエル様は、ダーウィン撤退戦の時、手負いのレヴィアタンに自分を食べさせたら、逆に魔王の意識を乗っ取ってしまったって言ってたわ。それ以来、彼女は魔族の体を持ちながら、天使の心のままで生きていらっしゃるようだけど……」

 

 ジャンヌはそこまで自分で言ったところで、直感的に、アザゼルがこれから言わんとしていることが分かったような気がした。まさかと彼女が顔を強張らせていると、アザゼルは相変わらず抑揚のない口調で、彼女のその直感を肯定した。

 

「そう……実は天使という種族には、魔族に捕食されることでその魔族の心を逆に乗っ取ってしまうという性質があったのだ。正確には、魔族に敗れることによって、その能力を受け継ぎ、天使の体が魔族化するのだが……私たちはそうして魔族となった」

「自分たちから進んで魔族になったってこと?」

「そうだ」

「なんで、そんなことをする必要が? 魔族になる理由なんてどこにもなさそうに思えるのだけど……」

「いや、そうとも言えない。君はさっき天使たちが我を忘れて大暴れする姿を見ているはずだ」

「ええ、たしかに見たわ……」

「あれを見たならば分かるだろうが、どうやら天使には、堕天使を見たら否応なく攻撃するよう、予め神の命令がインプットされていたようなのだ。もしも見かけたら前後の見境がなくなり、あたかも魔族になってしまったかのごとく、自分が滅ぶか相手が死ぬまで、天使は暴れ続けるように出来ていたのだ」

 

 アザゼルの言葉に、その背後にいたコカビエルとラミエルも頷いている。ジャンヌももちろん気づいていたが、そう言われてもまだ納得がいかず、

 

「では、あなた達はそうならないように魔族に……堕天使になったというの?」

「そうだ」

「でも、そもそもあなた達が堕天使にならなければ、天使たちはおかしくならなかったわけよね? あなた達がそんなことせず、今も天使のままだったら、この島は平和でいられた。積極的に堕天使になる必要なんて、やっぱり無かったんじゃないかしら?」

「そう、我々も最初はそう思っていた。だが、それでは駄目だったのだ」

「どうして?」

「順を追って説明しよう……」

 

 アザゼルはそう言うと一旦目を閉じ、何から話し始めれば良いか吟味しているかのように暫し沈黙をしてから、おもむろに話し始めた。

 

「どうして今まで、天使が魔族に敗れると魔族化することが知られていなかったのか……理由は2つあり、まず1つは神は天使に対し、魔族と直接戦ってはならないと命じ、あなたたちドミニオンを創設したから。そしてもう1つは、もしも魔王が誕生してしまったら、オリジナルゴスペルによって速やかに処理されていたからなのだ。

 

 天使は元々魔族とあまり関わり合いがない。だから滅多なことで堕天使になることはなかった。それでもたまに事故は起きたが、それが表沙汰にならなかったのは、堕天使が誕生するとすぐに天啓が下りて、神域がオリジナルゴスペルの使用を許可していたというわけだ。

 

 ところが16年前に事情が変わった。人類は『再生』が出来なくなり、ここ北海では、天使が魔族との前線に立たざるを得なくなった。天啓が訪れなくなり、ゴスペルの使用許可もすぐには下りず、すると天使の記憶を持ったまま魔族化する個体……堕天使がちらほら現れ始めたのだ。

 

 彼らは身体は魔族になってしまったが、心は天使のままだった。だから当然、生きているならまだ人類に貢献したいと考えた。だが、そうして彼らが事情を話したくて近づいていっても、天使たちは狂ったように彼らを攻撃し、とても話し合いにはならなかった。

 

 失意の堕天使は対岸のノルウェーに落ち延び、そこで魔族として生きはじめた。魔族化した天使はほぼ魔王クラスと言って差し支えないくらい強く、故に強力な魔族が跋扈する北欧でも十分に暮らして行けた。

 

 彼がそうして魔族として暮らしていたら、やがて同じように魔族化してしまった仲間が落ちてきて、いつしか堕天使勢力は巨大になっていった。彼らは元々天使だったから、例え拒絶されたとしても人類のために尽くそうとして、誰にも頼まれてもいないのに、北海油田に近づこうとする魔族を掃除して回っていた。

 

 ところが、そんな彼らの最大の天敵として立ちふさがったのが、プロテスタントの大罪人、ビリー・ザ・キッドだったのだ」

「……たまたま現場がかち合った時、彼が問答無用で堕天使を攻撃してきたのね?」

 

 ジャンヌはなんとなくその光景を思い浮かべて、溜息を吐いた。アザゼルはまた厳かに頷き、

 

「そうだ。キッドの力は強大で、魔王クラスの堕天使たちでも近づくことすら出来なかった。天使と違って話は通じるだろうが、近づけなければ意味がない。堕天使たちはどうにか彼と接触を図ろうとしたがどうすることも出来ず、お互いに牽制し合う日々が続いた。その関係が変わったのは、私が堕天使になったのが切っ掛けだった」

「あら、てっきりあなたは最初期に堕天使になった一人だと思っていたけど……」

 

 アザゼルは首を振り、

 

「違う。私は比較的最近、堕天使になった。実はそれまで私は囚人ではなく看守として、キッドの監督をしていたのだ。他の天使たちはキッドを嫌っていたが、私は彼のことが好きだった。キッドは気が荒いが曲がったことはしない。ここへ送られた時点で自分の役目をちゃんと理解し、責務を全うしようとしていた。だから私は彼に気を許し、いつしか私たちは相棒と呼び合う仲になっていた。

 

 私たちはいつも二人で堕天使や魔族を蹴散らしていた。そんなある日のことだった。欧州大陸からブリテン島に、強大な力を誇る魔王が渡ってきた。魔王は他の魔族を蹴散らしながら、ブリテン島を北上しシェトランド諸島に迫った。北海油田の警備をしていた私たちは天使を引き連れ、早速これを始末しようと海峡を渡った。するとそこに堕天使勢力が現れた。彼らもまた、油田を守ろうとして魔王を追いかけていたのだ。

 

 私たちはこうして魔王を挟んでばったり出くわしてしまったのだが……あとは大体想像がつくだろう。天使たちは魔王ではなく堕天使たちを攻撃し、それでも魔王を倒そうとする堕天使たちとで、今日みたいに三つ巴の戦いが始まってしまったのだ。

 

 やらなくてもいい無駄な戦いをして、私たちは双方ともに傷ついた。魔王はどうにか退治出来たが、この戦いで多くの天使が犠牲となって……そして私は魔族として転生したのだ。

 

 戦いの後、スコットランドの森で目覚めた私は変貌した自分の姿に気づくと同時に、今まで心の底から憎くてたまらなかった堕天使の正体に気がついた。そして彼らが我々に害を及ぼすつもりが無いことにも気づいた私は、これを早く仲間に伝えなくてはと思い、シェトランド諸島に戻った。

 

 結果は言うまでもないだろう。仲間と思っていた天使たちは、私の姿を見るなり襲いかかってきて、まったく話にならなかった。だが、幸いなことに私にはキッドという理解者がいた。彼は天使たちとは違って、ちゃんと私のことを認識し、おかしなことが起きていることに気がついてくれた。その後、彼は逃げのびた私と合流し、堕天使と接触を果たし、こうして私たちは協力関係を築くに至ったのだ」

「そう……そんな経緯があったの……」

 

 アザゼルの話を聞いて、ジャンヌは堕天使たちに心底同情していた。堕天使は、一度肉体が滅び、魔族に転生してもなお、人類への貢献を願う人たちだったというのに、天使たちにおかしな習性があるせいで、一方的に攻撃され、話を聞いてさえもらえなかったのだ。

 

 今日だって、何人もの堕天使が、神の用意したオリジナルゴスペルによって消滅させられている……ジャンヌは溜息をつくと、自分に言い聞かせるように首を振った。

 

「でも、だからといって、天使を無理やり堕天使にしてしまうのはやり過ぎだと思うわ。直接会わなければ戦闘にはならないんだから、例えばギヨームに頼んで事情を説明するとか、もっとスマートな方法は取れなかったの?」

 

 するとアザゼルは彼にしては珍しく、少し感情的に声を荒げながら、

 

「もちろんしたとも! ……そうした結果が、今回の囚人たちの反乱だったのだ」

「……どういうこと?」

「我々の意向を受けて、キッドはアイスランド基地にいる全ての天使にこちらの事情を話してくれた。すると囚人たちは我々の話に耳を傾けてくれたのだが、看守たちは頭ごなしに否定して、一切無かったものとして黙殺してしまった。

 

 元々、囚人とは神域の意向に背き、独立独歩で歩んでいた天使たちだったから、自分たちが神に操られていると知ったら、自ら堕天使になることに躊躇いはなかった。ところが、看守たちは逆に神の威光に縋る保守的な天使たちだったから、このような不都合な真実を受け入れられなかったのだ。

 

 彼らは、囚人たちが自ら堕天使になろうとしたら、無理やりそれを止めようともした。それが我々、囚人が起こした反乱の正体だ。彼らが先に攻撃してきたのだよ。

 

 そして彼らは、あなたたちがタンカーに乗ってアイスランドへ着いた時には、これらすべての話を知っていながら、何も知らない振りをして、あなたたちと何食わぬ顔で過ごしていたのだ」

「そんな……本当なの?」

 

 ジャンヌがアザゼルの背後にいるコカビエルとラミエルに聞くと、彼らは自明のことと言わんばかりに首肯し、

 

「反乱など起きてはいなかった。我々は、ただ彼らを鎮圧することしか頭に無かった。結果が同じであれば問題ないと、だから君たちに嘘をついたのだ。だが、天使の中には本当に覚えていない者もいるだろう。自分たちの信じる神に偽りがあったとしても、平気で自分の記憶すら捻じ曲げてしまえる人間というものは存在するのだ」

「堕天使への憎しみが消えた今では、それがどんなに愚かなことかが分かる。だが、もしもこの体がまだ天使だったら、こんなことは言えなかっただろう。だから私は、アザゼルが無理やり私を魔族に変えたことを、感謝こそすれ恨んでなどいない」

 

 初めて会った時、どこかイライラして感情的に見えた二人が、今はまるで憑き物が落ちたかのようにすっきりした表情でいる。これこそ本来の彼らの姿なのだろう。それを変えてしまえる神の存在を、ジャンヌは初めて怖いと感じた。

 

 アザゼルはそんなジャンヌに、

 

「だが、あなたの言うことも一理あるだろう。我々はこれ以上、天使を無理やり堕天使に変えたりはしない。信仰の自由は守られるべきだ。その代わり君たちには、このことを神域に正しく伝えてほしいのだ」

「わかったわ。実はウリエル様がいらしているから、すぐにでも伝えられるわ」

「そうだったのか。ならば特に、天使が魔族に捕食されると、必ず強力な魔族が生まれるところが引っ掛かると伝えて欲しい」

「いいけど、どうして?」

 

 するとアザゼルは気難しげに眉を顰めて、

 

「こうして生まれる堕天使は、魔王に匹敵する力を秘めている。元々、天使という種族が強力なのだから当然なのだが……神域は今まで、これらの魔王を全て、オリジナルゴスペルを使って始末してきた。それは四大天使の意思ではなく、天啓によって……つまり、神の意思でそうしてきたわけだ。

 

 おかしくないか? 神は人間を管理するために天使を作ったはずだが、その天使は魔族に捕食されると簡単に魔王になってしまう……これではまるで、魔王の食事を神が用意しているみたいではないか?

 

 しかも、その魔王は今までずっとゴスペルによって処理されてきた。キッドの話に拠れば、そのエネルギーの残滓が亜空間に大量に溜まってきており、このまま増え続ければ、いつ宇宙を破壊するか分からないと言うではないか。

 

 神の代弁者たる天使が魔王と化し、人間を保護する名目でゴスペルが使われ、世界は危機に瀕している……神は自ら宇宙を破壊したがっているのだろうか?」

 

********************************

 

 隊長の周囲を取り巻くドミニオンたちからどよめきが漏れた。天使ほどではないが彼女らにとってももちろん神は大切な存在であろうから、そんな神への信仰を揺るがすような話を聞いてしまったら当然だろう。隊員たちの中には聞くんじゃなかったと言いたげに、露骨に耳を塞いでいる者たちもいた。

 

 ミッシェルはそんな彼女らの姿を、少し離れたところで遠巻きに眺めていた。その表情がどこか上の空に見えるのは、彼の頭の中が実際に今、とある別の考えによって支配されていたからだった。

 

 神が宇宙を破壊したがっている……そんなアザゼルの言葉を聞いて、彼はつい最近、鳳を占った時の結果を思い出していた。それは、まるでアザゼルの疑念を裏付けるかのように、この世の終焉を予言していた。

 

 ただ、占いは一人の魔王の登場によって滅びると予言していたので、まったく同じというわけではなかったが、宇宙が滅びるという結果自体は同じであるから、気にしないわけにはいかなかった。

 

 もちろん、占いはただの占いであるし、的中するとは限らない。それに、あの時は鳳が悩んでいたため黙っていたが……

 

 やはり、彼には話しておくべきだろうか。占いとは占った本人のための物であり、活かすも殺すも本人次第で、ミッシェルが知ってるだけでは意味がないのだ。このままでは宇宙が破滅してしまうかも知れないと鳳が意識することで、破滅を回避することも出来るかも知れない。問題は、彼が帰ってきた時にちゃんと気持ちを切り替えられていればいいのだが……

 

 ミッシェルがそう決心した時だった。

 

 彼はふと、周囲がやけに静かなことに気がついた。ついさっきまで、目の前に大勢のドミニオンや天使、そして彼が認識阻害をしている堕天使たちがいたはずだが……気づけばその姿がどこにも見えなくなっていた。

 

 そしてこの濃密な空気というか、嫌な気配は……明らかに尋常じゃない。彼はそう思い、その気配を探るように振り返った。するとそこには、2つの金色に輝く人影が、ミッシェルを取り囲むように立っていた。

 

 その2つ人影は完全にただの光の塊でしかなく、その顔までは確認できなかったが、ただミッシェルにはそれが誰だか何となく想像がついていた。そして彼らがこのタイミングで出てきたということは、ミッシェルが占い結果を鳳に伝えることを阻止しようとしているのだと言うことも、容易に想像がついた。

 

 彼は光に向かって言った。

 

「アストラル界に逃げ込んでも、無駄だよねえ?」

 

 そう言い残し、彼は光にかき消されるように消滅した。

 



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エデンの東

 空間転移を繰り返して、ついにスコットランド北端に到達した鳳たちは、突入を前に足踏みしていた。

 

 西に意識が向いているはずのギヨームは、まだ鳳たちの接近に気づいていないだろうが、流石にポータルを潜って島に入ればすぐ気づくはずである。となると、奇襲を成功させるには単にポータルで島に乗り込むだけではなく、どこにギヨームや堕天使たちがいるのかを先に見つけておかなければならなかった。

 

 そう思って上空にルーシーを連れ出し、また彼女の新魔法で広範囲をスキャンしてもらっていたのだが……

 

「いた! ギヨーム君を見つけたよ……でも、おかしいなあ?」」

「おかしいって、何が?」

「うん。ギヨーム君の姿は見つかるんだけど、他に人がいる気配がないんだよね」

「誰もいない……? みんなどこかの建物の中にいるんじゃないか?」

「それならどうしてギヨーム君だけ外にいるの?」

 

 言われてみれば確かにおかしい。

 

「ギヨームがハブられてる……なんてこともないだろうし、じゃあ、本当に堕天使たちは留守なのかな?」

「かも知れない。どうする? 出直す?」

「まさか。こんなチャンスを逃す手はない。堕天使が帰ってこない内に、4人がかりでさっさとあいつをふん縛って、神域まで連れ帰ってしまおうぜ」

「せっこいなあ……まあ、鳳くんならそう言うと思ったけど」

 

 鳳はそんなルーシーにギヨームの背後にポータルを作るようにお願いすると、ウリエルに向かって、

 

「ギヨームは近接戦闘も出来なくはないですが、最大の武器はアウトレンジからの狙撃です。しかも単発じゃなくてマシンガン並みに撃ってくるんで、あいつに距離を取られると絶対まずいことになるから、まずは奇襲で彼の背後を突いて、俺とウリエルさん二人がかりで絶対逃げられないよう畳み掛けましょう」

「わかりました……彼が尋常でない狙撃手であることは重々承知してます」

 

 ウリエルはケアンズのときのことを思い出してリベンジに燃えているのか、不機嫌そうに眉を吊り上げている。

 

「アリスはルーシーを結界で守っててくれ。必要に応じて指示は出すけど、基本的に俺たちのことは気にしなくていい」

「心得ました」

「ルーシーはバトルソングと、可能なら認識阻害であいつを幻惑してくれ。転移もお願いすると思うけど、今は上手い方法が思いつかない」

「わかった。とにかくちくちく嫌がらせしてればいいんだね? そういうのは得意だよ」

 

 鳳は二人の指示を終えると、最終確認のつもりで全員を見回してから、

 

「それじゃあ、ルーシーがポータルを作ったら、まずは俺が切り込むんで、ウリエルさんはその後に続いてください。それからアリス、最後にルーシーの順で……島についたら、ギヨームが無力化するまで、各自臨機応変によろしく」

「了解」

 

 鳳の言葉に、ウリエル、ルーシー、アリスがそれぞれ頷く。彼は彼女たち一人ひとりに頷き返すと、大きく深呼吸して、気合を入れるようにパンとほっぺたを叩いた。それを合図にしてルーシーがポータルを創り出す。

 

 空中に浮かんだ丸いポータルを覗き込むと、その向こう側には魚眼レンズを逆にしたような、ぐにゃりとした緑色の景色が広がっていた。高木が少なくて草原が広がる島の風景は、高原のようで美しかったが、今はそんな景色を楽しんでいる場合ではないだろう。

 

 ポータルの向こう側には無防備に背中を晒しているギヨームの姿が見えた。鳳は彼の背後に忍び寄ろうとポータルに近づいたが……その時、彼は直感的に何か嫌な予感がして、背後に続く仲間に聞こえるよう叫んだ。

 

「伏せろ!」

 

 彼はそう叫ぶなり、ヘッドスライディングの要領でポータルの中に飛び込んでいった。ポータルを通過し草原にうつ伏せる彼の頭の上を、いくつかの弾丸が通り過ぎていき、ポータルの向こうで無防備に立っていたウリエルに命中した。

 

「きゃああーっ!!」

 

 血しぶきと悲鳴が上がる背後に構わず、鳳はゴロゴロと草原を転がりながらポータルから離れると、すぐに視線を走らせギヨームの姿を探した。

 

 たった今まで、彼は確かにすぐ目の前で背中を晒していたはずだった。なのに、いつの間に移動したというのか、今は数十メートル先の岩陰でこちらにライフルを構えていた。

 

 その銃口が自分を捕らえていることに気づいて、鳳は咄嗟にレビテーションを掛けて空に上がった。

 

 きっと左右に逃げると踏んでいたのだろう、ギヨームはその動きに虚を突かれて一瞬固まり、鳳がその隙を逃さずファイヤーボールの魔法をお見舞いすると、その炎が炸裂する寸前に、忽然とギヨームの姿がかき消え、数メートル離れた場所にパッと瞬間移動した彼の銃口がおかえしとばかりに火を吹いた。

 

 集中力が振り切れてしまったのだろうか、まるでスローモーションのように向かってくるその弾丸が、正確に自分の額を狙っていると判断すると、鳳はほんの少しだけ首を振ってそれを避けた。それを見たギヨームは目を丸くし、腹を抱えて笑い出した。

 

「おいおい、今のをどうやったら避けられるってんだよ……おまえやっぱ人間じゃねえだろ」

「瞬間移動を繰り返すような奴に言われたくないね。見えなくっても、アストラル体なら感知が出来るんだよ」

「現代魔法の応用だって言いたいのか? いつからおまえレオ並みに使いこなせるようになったんだよ。いつの間にか古代呪文も取り戻しているし。そういやレオは神になったんだよな? じゃあ、やっぱおまえ神じゃねえか」

「鳳くんが神様だったら何だって言うのさ」

 

 ギヨームが呆れるようにそんなセリフを吐いていると、ポータルを潜ってきたルーシーが噛み付いた。彼女の横にはアイギスの結界を展開するアリスと、ギラついた目で炎の剣を抜いているウリエルの姿があった。

 

「何か間違ったことをしているんならともかく、まだ何もやってない内から神様だなんだって言って遠ざけるのは違うんじゃないの。そんなの本当の仲間じゃないよ」

「そいつが本当に鳳なのかを疑ってるんだ。本当の仲間もクソもないだろ」

「そんなの本物に決まってるじゃない。一度疑いだしたら切りがないでしょ。ギヨーム君、暫く見ない間にずいぶん大きくなったなあって思ったけど、背丈と一緒で人間は小さいままだなあ」

「背のことは今は関係ないだろう!!」

 

 ギヨームがガチ切れして叫ぶと、ルーシーはたじろぎながら、

 

「ほ、ほら、ギヨーム君だって、話せば本物だって分かるわけじゃない。私たち、どんだけ長く一緒にいたと思うのよ」

「全ての人間の記憶はアーカーシャに刻まれているんだ。神ならそれくらい参照出来んだろ」

「記憶だけで、その仕草や考え方や何から何まで似せることは出来ないよ。それすら、神様なら出来るって言い張るなら、もうギヨーム君に付ける薬はないね」

 

 ルーシーがほっぺたを膨らませて拗ねるようにそう言うと、ギヨームは仕方ないと譲歩するように、

 

「なら百歩譲ってそいつが本物だとしよう。だがそいつが神に操られてないとは限らないだろう。いつかどこか肝心なところで、あの天使たちみたいに俺たちを襲ってくるかも知れないぜ」

 

 確かに、これまでの天使たちの問答無用な態度を見れば、ギヨームが疑いたくなるのは分かる……だが、鳳はルーシーに代わって言った。

 

「まあ、待て、ギヨーム。俺はそれこそ俺が操られていない証拠だと思ってる」

「なに?」

「俺には魔王化に苦しんだ経験がある。睡眠や食欲なんかの本能を刺激されると、人間はその苦痛から逃れたい一心で思わぬ行動を取ることがある。神は、そういう欲求を利用して、俺の本能を刺激して言うことを聞かせようとしたわけだ。多分、天使たちも、同じ方法で暴走させられてるんだろう。だが、今俺にそんな兆候は一切ないんだ」

「それは今だけかも知れないじゃないか」

「仮にそうだとしても、神のやり口が分かっていれば抵抗は出来る。俺はあっちの世界でもそうして乗り切ったんだし、人間という種族は本来、本能に逆らって行動するために知恵を得たんだ。だから神が俺を操ろうとしても、すぐにどうこうなることはないだろう」

 

 ギヨームはそういう鳳の顔を探るように睨みつけながら、

 

「しかし、おまえが神じゃないって証拠はないだろう。証拠がない限りは信じられねえな」

「なんでそこまで疑うんだ?」

 

 するとギヨームは当たり前だろう? と身振り手振りを交えて大げさに言った。

 

「それくらい、この世界がおまえに都合よく動いているからに決まってるだろうが!」

 

 ギヨームの答えは非常にシンプルで、シンプル故に的確なもので、鳳は何も言い返せなかった。

 

「おまえは、本当ならこの世界に渡ってくることすら出来なかったはずなんだぞ? おまえが本物だと言うなら、じゃあどうして神はおまえだけを、えこ贔屓するような真似をするんだよ? おかしいじゃねえか」

「それは……確かに、俺も変だと思ってる。おまえに指摘された通り、神が俺を贔屓しているのも事実だろう。でも、それが何故なのかは俺にはわからないよ。俺は神じゃないんだから」

「……そんな答えで俺が納得すると思うか?」

「……駄目か?」

「駄目だね。ダメダメだ」

 

 ギヨームはいつものニヤニヤとした、皮肉たっぷりの表情で笑っている。このままじゃ話は平行線をたどるだけだろう。鳳はため息交じりに、

 

「なあ、ギヨーム。どうしたら信じてくれる?」

「そうだな……」

 

 ギヨームは少し考える素振りを見せたが、きっとその答えは予め用意していただろう。

 

「なあに、おまえを殺せば分かることだ。おまえが神じゃなければ、死ぬだろうからな」

「……そうかい。やるしかないってことだな」

 

 交渉が決裂し、戦闘が始まろうとしていた。二人はまるで先に動いたほうが負けるとでも言いたげに、お互いに睨み合ったまま一歩も動けずにいた。故に、戦闘開始の合図は決まっていた。鳳の背後からウリエルが飛び出し、それに即応するギヨームの射撃音が空に響いて、戦いの幕は切って落とされた。

 

 鳳はギヨームの銃口がウリエルに向いた瞬間、彼ではなく彼が身を潜めていた大岩にライトニングボルトを放ち、砕け散った石礫をケーリュケイオンに吸い込んだ。突如として身を寄せていた遮蔽物を失ったギヨームの姿が無防備に晒され、そこへ一直線にウリエルが突っ込んでいく。

 

 ギヨームは慌てることなく、突っ込んでくるウリエルを2丁拳銃で正確に撃ち抜くが、すると彼女が投げた炎の剣がファンネルのように彼女の周辺を回転し始め、全ての銃弾を弾き落とした。

 

 彼女はその間に両手のひらで包み込むように光弾を創り出すと、まばゆい光を放つその弾を両腕で押し出すように撃ち出した。

 

「ケテル・コクマー・ケセド・ティファレト、生命の樹より溢れ出る光よ、神秘の小径を辿りて今ここに栄光を顕せ! ハレルヤ!」

 

 光弾は彗星のように尾を引きながら一直線にギヨーム目掛けて飛んでいったが、直撃する寸前に彼の体がかき消え、光弾は地面に衝突しドンと爆発して大穴を開けた。

 

 吹き上がる土塊が土砂降りのように降り注ぐ中、鳳はカモフラージュのつもりでギヨームの転移先に石礫を飛ばすが、彼は自分に向かってくるものだけを正確に二丁拳銃で撃ち落とした。

 

 ギヨームに迫ろうとしていたウリエルは、彼が消えた後も勢い余って明後日の方へ飛んでいったが、ルーシーがそんな彼女の前にポータルを作り出して軌道修正すると、ウリエルはギヨームの真上の空に転移し、一瞬にして彼に肉薄した。だがギヨームはそれを狙いすましていたかのように、ポータルの出口にマシンガンのように銃撃を浴びせかけ、血しぶきが舞う。しかしウリエルは無数の銃弾を撃ち込まれても怯むことなく、炎の剣を上段に構えると思いっきり振り下ろし、

 

「ケテル・ビナー・ゲブラー・ティファレト、生命の樹よ、我に勝利を! ハレルヤー!!」

 

 自らが纏う業火によって灼熱した剣が、まばゆい光を放ちながらギヨームに迫るが、彼はその寸前にまたふいに残像だけを残して消え、ドドン! っと島全体が揺れるかのような巨大な振動音を立てて、ウリエルが地面に突っ込んでいった。

 

 ギヨームはそんなウリエルに追い打ちをかけようとするが、瞬間、嫌な予感がしてその場を飛び退くと、背後から鳳が突っ込んできて舌打ちをしながら通り過ぎていった。鳳は反転して地面を蹴ると、ケーリュケイオンを槍のように扱きながらギヨームに突っ込んでいく。ギヨームはそんな彼に応戦して二丁拳銃の柄で杖を弾くと、鳳の猛攻を掻い潜りながらガンカタで銃撃を浴びせようとして、二人はダンスを踊るかのように揉み合った。

 

 近接戦闘は鳳の方に分があるはずだが、当たり前のようにギヨームが応じたのは、扱う得物の差があるからだった。長柄の杖と拳銃とでは手数が違い、やがて鳳は手数に押され始め、一瞬、隙が生まれ、ギヨームはそのチャンスを逃さずに彼の額に銃口を突きつけた。

 

 しかし、次の瞬間、彼はそれが罠だと知る羽目になった。引き金をひこうとした瞬間、背中に強烈な衝撃が走り、ギヨームは激痛と肺の空気を失って意識が吹っ飛びそうになった。

 

 鳳は杖術で戦うふりをして、本命は腰にぶら下げていた新型ゴスペルの作り出す光弾の方だったのだ。彼はギヨームがふらついたのを見逃さず、ゴスペルを引き抜くと、光の剣で彼に止めを刺そうと突っ込んでいく。

 

 しかし、敵もさるもの、そんなことでやられるギヨームではない。鳳の剣は空を切ったかと思えば、その時にはもうギヨームは遥か遠方から巨大ライフルで鳳を狙っていた。

 

 その銃口が光を発した瞬間、鳳の視界がまたスローモーションに変わり、ゆっくりと近づいてくる弾丸を最小限の動きで躱すと、また正常に時間が流れ出した耳にドンという銃撃音が遅れて届いた。

 

 不意打ちを食らって接近戦は不利と判断したのか、以降、鳳が彼に迫ろうとしても、ギヨームは距離を取って絶対に近づかせてはくれなくなった。彼はルーシーとは違う不思議なやり方で、ランダムに空間をテレポートしながら、的確にこちらの体力を削っていった。

 

 ルーシーは鳳をサポートしようとして、ギヨームの近くに続くポータルを生成してくれたが、二人の相性が悪すぎた。空間の歪みを創り出すルーシーに対して、空間の歪みを視ることが出来るギヨームは、天敵みたいなものだった。

 

 彼女がポータルを創り出すと、彼はそれを逆用して、鳳に銃撃を加えてしまう。ルーシーは、それならばと数で応じたが、ギヨームは彼女が作り出した無数のポータルに無数の銃口を向けて、

 

「打ち砕け! 粉砕せよ! 魔弾の射手(フェイルノート)!!」

 

 ギヨームが創り出す対物ライフルから飛び出す銃弾の雨あられが、ルーシーのポータルを潜って鳳に迫る。

 

 こんな質量が直撃したら、肉片一つ残らず消し飛び、本気で復活できないだろう。鳳はまたゆっくり流れる視界の中で、回避行動を取ろうとしたが、銃弾がポータルを通っているせいで、その弾は線や面ではなく三次元の軌道を描いて迫ってくるから、どこへ逃げていいか分からなかった。

 

「アイギス!!」

 

 そんなパニックになる主人の前にアリスが飛び出すと、彼を守るべく結界を展開した。次の瞬間、鳳の視界が元に戻ると、結界に突き刺さった弾が劣化ウラン弾のごとく炸裂し、灼熱の炎を噴き上げた。

 

 アイギスの結界は次々と突き刺さる質量を完全に弾いたが、それが生み出す熱気までは完全に遮断しきれず、二人を強烈な熱風が襲った。鳳は咄嗟にアリスを抱きしめて庇ったが、光を直視したせいで目をやられて前後不覚に陥った。

 

 真っ暗な視界の中で、銃撃音だけが聞こえてくる。鳳が暗闇の中をどう逃げればいいかと焦っていると、

 

「主は来ませり……主は来ませり……」

 

 畳み掛けるように銃撃を浴びせていたギヨームの背後に、いつの間にか戦線に復帰していたウリエルが迫っていた。彼は慌てて振り返ると、袈裟斬りに振り下ろされる炎の剣をすんでで躱してゴロゴロと地面を転がった。

 

 彼はまた空間転移して距離を離そうとしたが、冷静になったウリエルは彼の転移先を即座に察知するや、ギヨームの足元に彼女の代名詞である炎の剣をぶん投げた。

 

「我はパンデモニウムを見張るもの。エデンの園を守るもの。祝福は我のもとにあり。栄光は我のもとにあり。勝利は我のもとにあり。炎の剣よ、今こそ地獄の閂を割り全てを焼き尽くす業火と化せ。我が臨むはエデンの東(イースト・オブ・エデン)!!」

 

 地面に突き立てられた炎の剣が空間を切り裂き、そこからまばゆい光が溢れ出した。ギヨームは一瞬にしてその光に飲み込まれてかき消え、そして次の瞬間、紅蓮の炎が空を焦がさんとばかりに噴き上がった。

 

 轟音を立てながら炎の柱が空へと上がっていく。ウリエルはそんな火炎を空の上から冷酷に見下ろしながら、やがてその炎が弱まってくるのを確認すると、自分の剣を回収するべく地面に下りた。

 

 仲間の鳳には悪いが、彼を仕留めた手応えはあった。あの炎に焼かれてはきっと骨すら残らないだろう。せめて遺体くらい残してやりたかったが、そんな余裕もなかった好敵手を思い返しながら、彼女が剣を引き抜こうとした瞬間……

 

 パンッ! っと乾いた銃声がして、ウリエルの体がぐらりと揺れた。多少の傷では天使の身体はびくともしない。なのに今、彼女の身体には激痛が走って、いつもならすぐに塞がるはずの傷から血が溢れ出している。それを見て彼女は直感的に何が起きたかを悟った。

 

「これは……銀!?」

 

 驚愕する彼女が目を剥きながら顔を上げると、遠くの方で余裕綽々ライフルを天秤のように担いでいるギヨームの姿が見えた。

 



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グラビティ

 ギヨームに撃たれた腹部からダラダラと血が垂れ落ちていた。ウリエルは歯を食いしばって傷口に指を突っ込むと、猛烈な苦痛と意識が飛びそうな目眩に耐えながら、体内に埋まっていた銀の弾丸を引き抜いた。

 

 天使とは要するにアナザーヘブン世界で言うところの神人のことだから、実は銀が弱点である点も同じだったのだ。

 

 神人は血中にナノマシンを巡らし、第5粒子エネルギーを動力源とすることで、その身体能力の向上と不老非死を実現していた。ナノマシンは体内で自己増殖し恒常性が保たれているが、銀にだけ異常に反応してしまう性質があるため、それが体内に入り込まれるとバランスを崩し、致命傷になりかねないのだ。

 

 天使はこの世界では神の使いだから、この弱点は禁忌として誰に知られることもなかった。だが、ギヨームはそんなことお構いなしの世界から来たので、当たり前のようにそれを知っていた。弾を引き抜いてもすぐにはウリエルの傷は塞がらず、彼女は苦痛によろめいた。

 

「何かあった時の虎の子が役に立ったなあ」

 

 ライフルを天秤のように担いでニヤついていたギヨームは、ふらつくウリエルの姿を見て高笑いすると、そのライフルをヌンチャクのように振り回して、未だ調子を取り戻せぬ彼女に二の矢を放ってきた。

 

 ウリエルは傷口を手で塞ぎながら必死に走ってその攻撃を躱そうとしたが、本調子でないため何発もの射撃を受けてしまった。幸い、銀の弾丸は打ち止めだったらしく、それは普通の弾丸だったが、ナノマシンの回復が追いつかないのか、傷は増えていく一方だった。

 

 ギヨームの攻撃は尚も続き、その精密な射撃は的確にウリエルの体力を奪っていった。虚空から現れるライフルを次から次へと引き抜いて、まるでダンスを踊るかのように射撃を続ける彼の姿は、傍目から見れば楽しげに映ったが、獲物にされた者からすれば恐怖でしか無かった。

 

「ウリエルさん! こっち!」

 

 このまま血を流し続けていたら、仮に天使であっても死は免れないだろう……そんな焦りに正体を失くしかけた時、彼女の目の前にポータルが現れ、その向こう側でルーシーが手招きしているのが見えた。

 

 彼女がポータルに飛び込むと、ギヨームはそれすら先読みして出口に銃撃を放っていたが、

 

「アイギス!」

 

 今回はアリスが結界を展開する速度の方が勝っていた。

 

 ウリエルは命からがらポータルをくぐり抜けると、勢い余ってそのまま地面をゴロゴロ転がり仰向けになって止まった。鳳はそんな彼女が転がってくると同時に、ケーリュケイオンを高々と掲げ、

 

「轟け雷鳴! 駆け抜けろ雷! 全てを崩壊せし第5粒子が、今万物よりエネルギーを解き放たん! 爆発しやがれ! ディスインテグレーション!!」」

 

 鳳の詠唱と共に、ギヨームの周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。空間の歪みが『視』える彼には、それがどれほど危険なものかが分かったのだろう。彼は泡を食って背中を向けると、一目散に丘を駆け下りていった。

 

 何故、いつものように空間転移しないんだ?

 

 鳳が不思議に思っていると、間もなく詠唱によって呼び出された反物質が反応し、巨大なエネルギーを発して辺り一面を吹き飛ばした。真っ白いエネルギーがギヨームを包み込み、彼の姿が一瞬見えなくなる。

 

 もしかして、やっちゃったのか……? と思いきや、爆風が収まるやすぐさま飛んできた銃撃によって、ギヨームはまだ健在であるとわかった。鳳はウリエルを守るように結界を展開しているアリスと共に、彼女を狙撃の届かない岩陰へと運んだ。

 

 とは言え、空間転移が出来るギヨームからは完全に隠れる事はできないだろう。ルーシーの認識阻害も一時しのぎにしかならないだろうが、今はウリエルの回復を優先したほうが良いと、彼らは狭い岩陰に身を寄せた。

 

「くっ……油断しました。はじめから、これが狙いだったのですね」

「さっきから認識阻害も使ってるんだけど、あの人殆ど引っ掛かってくれないんだよ。どうなってんのかな?」

「俺のこと神だなんだって言ってたけど、あいつの方がよっぽど怪しいよな」

 

 鳳たちが愚痴を言い合っている間も、銃撃は彼らの隠れた岩を削らんばかりに続けられていた。完全にアウトレンジからの攻撃で、こちらからは全く手が出せない。奇襲をかけて彼に距離を取らせない作戦のつもりが、こうなってはもうどうしようもないだろう。

 

 ウリエルが玉砕覚悟で突っ込んでいこうにも、銀の弾丸をちらつかされては、リスクが高すぎて無理そうだった。ギヨームは基本的に魔法で弾を創り出す射手だから、そんなものをいくつも持っているとは思えなかったが、代償を考えると出来ればもうやりたくなかった。

 

 アリスの結界なら彼の攻撃を防げるだろうが、相手は固定砲台じゃなくてあちこち動き回るので、彼女を抱えながら戦闘をするのは現実的ではなかった。挙句の果てに、ポータルで近づくことさえ出来ないのである。

 

 こちらは最強の盾と矛を持っているはずなのだが……ギヨームの悪魔的な強さには閉口せざるを得なかった。

 

「どうする? 圧倒的な力で叩きのめすどころか、このままじゃこっちが負けそうだけど……」

 

 ルーシーが弱気に呟く。しかし、鳳は首を振って、

 

「いや、もしかすると打開策を見つけたかも知れない。多分だけど、あいつの空間転移には制約があるんだ」

「制約……?」

「ああ、さっき崩壊魔法(ディスインテグレーション)を放った時、あいつ妙な動きを見せたんだよ。今まで散々空間転移していたくせに、あの時だけ何故か走って逃げようとしてた」

「言われてみれば……どうしてだろう?」

 

 すると鳳はじっと地面を見つめながら黙考し、すぐに一つの結論を導き出した。

 

「多分、俺の崩壊魔法とあいつの空間転移の相性が悪いんだよ……あいつは空間の歪みが視えるから、それを利用して自分や弾丸を転移させてるわけだけど、そもそもあいつが視ている空間の歪みの正体ってのは何なのか……

 

 確かに自然界では、自発的に空間の歪みが発生することもあるけど、それは雷の中でほんの刹那の一瞬だけマイクロブラックホールが出来るってレベルの話だ。そんな特異点じゃ銃弾を通すような穴は出来ないし、ましてや、人間がまるごと通れるようなものは絶対不可能だ。

 

 なのにあいつは都合よくバンバン転移を行っている。どうしてなのか? 多分だけど、あいつに視えてる空間の歪みってのは、実はワームホールじゃなくって、平行世界への分岐点だったんだよ」

「えーっと、他人を置き去りにするその感じ、懐かしいけど、もっと要点を掻い摘んでお願い」

 

 ルーシーが苦笑気味に駄目だしする。鳳は仕方ないので端折って、

 

「結論から言えば、あいつの空間転移の正体は、俺たちの作るポータルとは別物だったんだよ。あいつは空間の歪みを通して平行世界を『視』ることが出来て、そして『視』ることによって自分に都合のいい結果を引き出していた。あいつの空間転移ってのは、そういう能力だったんだよ」

「……つまり、こっちが何をやっても、自分に都合の良い結果に捻じ曲げちゃうってこと? そんなことが可能なの?」

「そもそも幻想具現化(ファンタジックビジョン)ってのはそういう力じゃないか。何もないところに、自分が想像したものを創り出す。考えようによっちゃ、未来を変えているのと変わりないだろう」

「あー、なるほどー……」

 

 ルーシーは納得しかけたが、すぐにブンブンと首を振ってお手上げのポーズをし、

 

「それが本当なら、私たちに勝ち目なんてないじゃない。どうすればいいってのよ!?」

「いや、大丈夫だ。相手のやり方が分かっていれば、対処のしようはある」

 

 鳳は即答した。まさかそんなあっという間に返事が返ってくるとは思いもよらず、ルーシーは口をパクパクしていた。

 

「あいつが空間転移出来るのは、未来が無数にあるからだろう? それが一個しかなければ、あいつはどこにも飛ぶことが出来ないはずだ」

「未来が一個しかないって……ごめん、よくわかんない。どういうこと?」

「つまり重力を使って未来を固定化してしまうんだ」

 

 鳳はそう言うと地面に座標軸を描き出し、横に時間、縦に距離の座標を置いた。そして原点から斜めに線を描き、

 

「これは光円錐って言って、簡単に言えば光が時間あたりに到達できる距離を表しているグラフだ。この図は二次元だけど、光は三次元空間に広がってくから、本当なら軌道は円錐を描くと考えて欲しい。

 

【挿絵表示】

 

 で、光速は一定だから二次元だと軌道は一次曲線……つーか、ただの直線を描くわけだけど、すると原点Oから発した光は、この直線(ct)に囲まれた範囲内のどこかにしか到達出来ない。まあ、当たり前だよな。

 

 ところで、情報の伝達速度も光速を超えられないから、これはとある事象が影響を及ぼせる範囲を表しているともとれる。例えば、原点Oで発生した事象Eが、時間tにある任意の事象Tに影響を及ぼせるのも、この直線に囲まれた範囲内だけってわけだ。

 

 噛み砕いて言えば、原点Oから発した事象Eは、この範囲内でしか未来を変えられない。時間が経てば経つほど未来は曖昧になるけど、それにも限度があるってことだね。ところで、もしこの光円錐内のどこかにブラックホールが出現したら?」

 

 鳳はそう言うと、グラフの真ん中に黒い円を描いて、

 

【挿絵表示】

 

「ブラックホールの超重力が周辺の空間を歪ませ、光の軌道は変わってしまう。すると本来だったら広がり続ける光円錐が狭まって、場合によっては閉じてしまう可能性もある。これは事象の方にも当てはまるから、つまりブラックホールの近くだと未来は限りなく限定的になってしまうわけだ。まあ、大体みんな特異点に吸い込まれるだろうからね。

 

 俺の崩壊魔法は、他宇宙から反物質を呼び出し、対消滅させることで巨大なエネルギーを生み出す。エネルギーは質量でもあるから、あれが爆発する前に、一瞬、空間を強く歪ませる作用がある。そのせいで、ギヨームが利用するはずの歪みが消滅してしまって、あいつは走って逃げざるを得なくなったんだ。そして爆発の瞬間、空間の拘束が解かれ、また歪みが視えたから逃れられたと……」

「うんうん、わかった。よく分からないことが分かったけど、とにかく、すっごい重力を生み出せばいいんだね?」

「そうだ」

「そんなのどうすればいいのよ! 鳳くんが、また魔法を連発すればいいわけ?」

 

 鳳は首を振った。

 

「いや、あれで超重力が作り出せるのは一瞬だけだから。それよりも、重力操作ならルーシーがやったほうが良い」

「私!? 無理無理! 私が出来るのはポータルを作ることだけだよ!?」

 

 ルーシーはまさか自分が指名されるとは思わず首をブンブン振ったが、

 

「いや、そもそも空間の制御が出来る時点で、重力を操ることも出来るはずなんだ。君は当たり前に空間の歪みを制御しているけど、本来、それはブラックホールのような超重力が生み出すもののはずだ。君は今まで知らずしらずの内にそれを行ってきた。だからやればなんとかなるはずだ」

「そんなこと言われても、さっぱりなんだけど……?」

「いきなり全部やれなんて言わないさ。大質量は俺がケーリュケイオンを使って創り出す。君はそれをいつもポータルを作ってる要領で発散しないよう固定してくれ。ワームホールの時みたいに出口は作らなくて、袋にぎゅーぎゅー押し込むイメージだ」

 

 ガガガガガガガ!! っと耳をつんざく音が響いて、鳳たちが隠れている岩がひび割れ始めた。大量の石礫が辺りに散乱し土煙が上がる。どうやらいつまでも隠れて動かないこちらにしびれを切らして、ギヨームが力押ししはじめたようである。

 

「どうやら時間切れらしい。ぶっつけ本番だけど行くしかないな」

「う……出来るかなあ」

「大丈夫! 君は俺が知る中で、最も頭抜けた天才だ。あの十数万のポータルを生み出した空間制御能力があれば、こんなこと造作も無いはずだ」

「え? そうかな……うーん、鳳くんにそう言われると、やれるような気がしてきたよ」

 

 褒められて伸びる子といつも言っていたから、ルーシーは満更でもない感じでデレデレと目尻を下げている。鳳はそんな彼女のテンションを上げようとして、叱咤激励を繰り返してから、今度はウリエルの方を向き直り、

 

「ウリエルさんは、もう行けますか?」

「ええ、本調子とまではいきませんが、問題なく。私は何をやればいいのでしょうか?」

「アリスを抱えながら切り込んでください。安全優先、一撃離脱で。止めは俺が刺しますから。アリスはウリエルさんに弾が行かないように、結界を展開し続けてくれ」

「お任せください、ご主人さま」

「それじゃルーシー、ポータルを作ってくれないか」

「いいけど、どこに飛びたいの?」

 

 ルーシーの問いに、鳳は空を指差しながら、

 

「上空3000メートル!」

 

*********************************

 

 鳳たちが岩陰に芋り始めて結構な時間が経過した。思った以上にウリエルの怪我が酷いのだろうか? ギヨームは敵に塩を送るつもりで待っていたが、いつまで経っても進展のない状況にうんざりし、対物ライフルで岩を削り始めた。さっさと出てこいという威嚇だけで、それ以上の意味はなかったが……

 

 と、その時、ギヨームは空間の歪みを検知して、反射的にその出口を狙おうとした。しかし、それが思いがけない方角だったから一瞬対応が遅れた。鳳たちの気配は、遥か上空から現れた。自分の近くに飛んでくるなら分かるが、逆に遠ざかるなんて、どういうつもりか?

 

「まさか、あいつら逃げるつもりじゃねえだろうな……?」

 

 ギヨームは仰向けに寝転がるとライフルを真上に向けて速射した。鳳たちとの距離は3キロと離れていたが、こんななんの遮蔽物もない空の上では、当ててくれと言っているようなものだった。

 

 しかし、ギヨームの射撃は正確に上空に現れた鳳たちに届いてはいたが、アイギスの結界に阻まれ、彼らに命中することはなかった。二射、三射と続けて撃っても、それらは結界によって弾かれてしまう。

 

 どうやら彼らは降下しながらギヨームの方へ向かってきているようだった。逃げるつもりじゃなかったのは良かったが、こんな誘導爆弾みたいな真似に一体何の意味があるのだろうか。彼は不可解に思いながら射撃を続けた。

 

 先陣を切っているのは意外にもアリスで、彼女の背中を抱えるウリエルが続いていた。恐らく、地上にメイドが激突しないようにとの配慮だろう。しかし彼女の結界にはギヨームの弾丸を防ぐ能力はあるが、アリス自身に戦闘力はない。

 

 だから本命は、アリスを盾にしてウリエルが近づき、近接戦を挑むつもりかと思われるが、彼女が近づく前にギヨームはいくらでも逃げられるのだからそんなのは意味がないはずだ。

 

 だが、無策で突っ込んで来るとは思えない。何しろ、相手は鳳なのだ……彼女らのうしろにはその残る二人が続いている。こっちが本命だとしても、彼らが何を仕掛けてくるのか、ギヨームには想像がつかなかった。

 

 空中を落下しながら近づいてくる彼らの姿は、10秒、15秒と経過するにつれ段々大きくなってきた。だが、それでも何をしようとしてるか狙いが分からない彼は、これ以上ここに留まっているのは危険と判断し、逃げようと考えた。

 

 ギヨームは構えていたライフルを虚空に投げ捨てると、足を上げた反動を使って背中で飛び上がろうとした。しかし、何故かその時、彼は疲労が溜まっているかのような、妙な倦怠感を感じて上手く起き上がれなかった。

 

 いや、倦怠感というか、やけに体が重いような……

 

 その時、彼は空がまるでレンズを通して見た時のように、奇妙に歪んでいることに気がついた。それは巨大な空間の歪みで間違いなかった。やはり、後に続く二人が何かを仕掛けていたのだ。ギヨームは慌てて空間転移をしようと試みたが……もう遅すぎた。

 

 彼は自分の近くに利用可能な歪みが一つも存在しないことに気がついた。普通、そんなことはあり得ないのだが、何しろ相手が悪すぎた。これが神ならば、まだ打つ手はあっただろうが、相手はあの鳳白なのだ。

 

 手を地面について必死に立ち上がろうとしているギヨームの頭上で、役目を終えたアリスとウリエルがスーッとスライドして視界から消え、代わりに鳳に抱きついているルーシーが、杖を振り回しながら何かを叫んでいる姿が見えた。

 

「グラビティ・ブラスター!!」

 

 次の瞬間、見えない何かがギヨームを襲い、彼は全身が地面に縫い付けられたかのように動けなくなった。重力そのものを叩きつけられた彼は呼吸すら許されず、窒息しそうな息苦しさの中で身動き一つ取れなかった。

 

 そして今、血管が破裂しそうなくらい痛みが走る彼の目に、特徴的な蛇と翼の意匠が施された杖を振り上げた鳳の姿が見える。

 

「黎明の炎。赤より朱い暁の炎。全ての生命の源にして、この世を焼き尽くす灼熱の炎。今、東の空より来たる我は紅……深淵より来たれ、最古の炎! 我が名は明けの明星(ポースポロス)!」

 

 ギヨームを縛り付けている地面が、まるで光の絨毯のように明るく輝き出した。周囲には熱気がうずまき、突如、背中を突き上げるような衝撃が走る。轟音を経てて火柱が空へと立ち上り、それをど真ん中で見ていたギヨームは、真っ白く染まる空を見上げながら、苦しげに喘いだ。

 

「それ……他人の技じゃねえか! このチート野郎ーっ!!」

 

 轟音と熱と光に包まれて、耐えきれずに目をつぶる。周囲の酸素を全部持ってかれて呼吸すら出来ない。ギヨームはまるで巨大な津波にでも揉まれているかのような衝撃に巻かれながら、そんな負け惜しみを叫んでいた。

 



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不都合な真実

 地面から火柱が吹き上がり、天を焦がし雲を散らした。雨滴が滝のように降り注ぎ、業火に焼かれて灼熱した地面を、一瞬にして黒く染めていった。

 

 重力によって肺の酸素を強制的に吐き出させられていたギヨームは、酸欠の脳が悲鳴を上げる寸前、唐突に自分を拘束する見えない力から解放されると、必死に酸素を取り戻そうとして息を吸い込み、器官に唾液が侵入してゲホゲホと咳き込んだ。

 

 涙で滲んだ視界には、黒焦げになった地面が広がっていたが、自分がへたり込んでいるところだけが丸くくり抜かれたように元のままだった。炭化した木々が風に吹かれて飛び交う中で、ここだけ緑の芝生が広がっているのだ。

 

 地面に両手をつき、項垂れながらそんなあり得ない光景を見ている彼の視界に、男の足がニョキッと侵入してきた。ギヨームはまだゲホゲホと咳き込みながら、その足に向かって言った。

 

「悪魔か、てめえは……」

「神様じゃなかったのかよ」

 

 鳳はそんなギヨームに手を差し伸べつつ、呆れるような口ぶりでこう言った。

 

「見ろ。俺が神なら、おまえはとっくに死んでただろうよ」

 

 もしも鳳が神であるなら、この状況でギヨームを生かしておく理由はないと、そう言いたいのだろう。ギヨームはチッと舌打ちするとその手を握り返し、

 

「ああ、お前が本物で良かったよ。あ~、ちくしょうめ……マジで死ぬかと思った」

「人のことガチで殺しておいて、よく言うよ。おまえ、あれで俺が本当に死んでたらどうするつもりだったんだよ?」

 

 鳳にグイと引っ張り上げられ立ち上がったギヨームは、ふらつく足でどうにか体を支えながら、そのことを弁明した。

 

「こっちの世界でエミリアが目覚めてしまった結果、メアリーは元の世界に戻されただろう? 同じくP99で復活させられたお前の場合も、最悪元の世界に戻れたんだよ」

「あ、あ~……言われてみれば。そうなのか?」

「そうなるだろうことを、エミリアが教えてくれた。そしておまえが本物じゃない可能性も。だから俺は試してみたんだが……それじゃおまえ、一体どうやって復活したんだよ?」

「ああ、それなんだけど……俺はカナン先生がどうにかしてくれたんじゃないかって思ってる」

「カナン……だと?」

 

 鳳は頷いて、

 

「うん。俺はおまえに殺されて復活する前に、カナン先生と会ったんだ。夢かもしれないと思っていたけど、今は確信していてる。先生は、エーテル界から俺たちのことを見守ってくれてるんじゃないかな」

「あいつが生きてるっていうのか? 一体どうなってやがる」

「あの~……」

 

 鳳とギヨームが二人して腕組みしながらそんな話をしていると、炎の剣を構えたウリエルが遠くの方から控えめに尋ねてきた。

 

「お二人共、なんだか当たり前のように会話してらっしゃいますが、決着がついたということでよろしいのでしょうか?」

「ん? ああ、そうだけど?」

 

 鳳がしれっと返事するも、ウリエルは釈然としない表情をしたまま剣を降ろさなかった。どうしたんだろう? と思っていると、

 

「たった今まで殺し合いをしてた人たちが、仲良さそうにペラペラ話してるのが信じられないんでしょう? まったく……君たちは本当に仲がいいよね」

 

 ルーシーが呆れた声でツッコミを入れる。鳳とギヨームはお互いに顔を見合わせてから、

 

「そうかあ? 男同士の喧嘩なんて、大体こんなもんだろ?」

「ああ、殴り合ったら終わりだよな」

「これが喧嘩と呼ぶレベルですか!」

「ご主人さま、紅茶をお淹れしました。皆様もどうぞこちらに」

 

 ウリエルが呆れ果ててものも言えないと溜息を吐いていると、アリスがそんなことを口走りながら割り込んできた。見ればアイギスをテーブル代わりにして、既にティーセットが用意されている。

 

 この状況でまるで動じない姿は、大物と言うよりもはやホラーである。しかし、これが彼らの日常なのだろう。お菓子の匂いに釣られてルーシーがスキップするように近づいていき、鳳とギヨームが続く。ウリエルは諦めたように溜息を吐くと、その後について歩いていった。

 

**********************************

 

 戦場は鳳が黒焦げにしてしまったので、彼はケーリュケイオンの等価交換の力を使って均すことにした。以前、大森林に村を作った時のように、どこからか木々を調達してきて埋めてしまう方法である。ついでに吸い込んだ木を木材に変換し、さらにそれを椅子とテーブルに変えてしまったら、ウリエルがそれこそ神でも見るような目でマジマジと凝視していた。

 

 そんな視線がこそばゆいので、鳳はアリスが淹れてくれた紅茶を飲みながら、通り一遍の会話を交わした後、話を切り替えるように徐にギヨームを問いただした。

 

「それで、どうしておまえ、こんなに頑なに信じてくれなかったんだよ? エミリアに会ったこととか、その辺のことをもうちょっと詳しく話してくれないか」

 

 ギヨームは紅茶を啜りながら少し真面目な顔で頷くと、

 

「それについては、エミリアよりも前に、まずはアザゼルが魔王化したことから話さなきゃならねえ」

「魔王化……? そうか。やっぱり彼は元天使だったんだな」

 

 元々ギヨームとアザゼルは、ここ北海周辺に現れる魔族を狩る時の相棒だった。そんなアザゼルは、ある日ブリテン島に出現した強力な魔王の前に敗れてしまう。ところが、死んだと思っていたアザゼルは堕天使となって生きていて、ある日彼の下へと帰ってきた。

 

「戻ってきたアザゼルは多少変わったとは言え、殆ど以前のままだった。受け答えはしっかりしているし、俺のこともちゃんと覚えていた。だから姿形は違っても、少なくとも俺はまた一緒にやれると思っていたんだが……他の天使共が駄目だったんだ。

 

 奴らはアザゼルが堕天使になって帰ってきたら、問答無用であいつに飛びかかっていった。おまえがこの間、フェロー諸島の港で見たようなあんな感じで、まったく話が通じなかった。

 

 こいつはおかしいと思った俺は、アザゼルと話し合って、ノルウェーの堕天使たちと会うことにした。聞けば、彼らはだいぶ前に魔族化してしまったが、天使たちが暴れるから帰還できずに、ずっと人知れず欧州の魔族と戦い続けていた元天使の集団らしかった。

 

 彼らの願いは唯一つ、人類の救済で、天使をどうこうしたいわけじゃない。ところが、天使は彼らの姿を見るだけで我を失って襲いかかってくる……まるで天使のほうが魔族になっちまったような反応を見て、俺は思ったんだよ。

 

 もしかして、元から狂ってるのは天使の方で、魔族化した堕天使の方が正常なんじゃないかって」

「どういうことだ?」

「魔族ってのは、他種族を見るだけで、本能的に襲いかかってしまう種族のことだろう? なら天使は殆どの魔族には反応しないが、唯一、堕天使にだけ反応して襲いかかる魔族だって考えたら、あの行動の説明がつくじゃねえか」

「なるほど……」

 

 鳳はギヨームの説を聞いて思い出した。以前、ミカエルが危惧していたように、天使の体には、天啓のような外部から操作を受けている形跡が既に存在しているのだ。

 

 魔族は遺伝子に仕組まれた本能に従って、ひたすら他者を殺し続ける生物だが、天使もまたそれと同じように、神によって堕天使を見たら殺すようにという命令が、既に遺伝子の中に仕組まれている可能性はありうる。

 

 しかし、彼らは魔族になることで、その遺伝子の命令が書き換わり、堕天使はもう何にも反応しなくなるというわけだ。

 

「天使は魔族に倒されることによって堕天使になる。そして堕天使は、天使の正常な思考を奪ってしまう。神がこの仕組みを作ったのだとしたら、とんだマッチポンプじゃねえか。一体どういうことか? そんな事を考えてる時に、エミリアからコンタクトが来たんだ」

「エミリアが?」

 

 ギヨームは頷いて、

 

「順を追って説明するぜ……まずこの世界とレオの世界じゃ時間の流れが違う。おまえがメアリーを送ってから暫くグズグズしていたせいか、タイムラグが生じて、エミリアはおまえが来るより数時間前に、播種船で目が覚めたらしい。

 

 だがあいつはそもそも世界渡りの意思があったわけじゃなく、まったくおまえらのトバッチリで復活させられたようなものだった。目覚めた時、彼女は自分が何故こんな場所にいるのかも分からず、ただ戸惑っていた。するとそこにタイミングよく、天使が襲撃をかけてきたらしいんだ」

「天使が……? そんな話は聞いておりませんが?」

 

 話を黙って聞いていたウリエルが首を傾げている。ギヨームは彼女に向かって、

 

「16年前、天啓が訪れなくなってから、天使の中には自分勝手に行動する連中が増えた。このアイスランド基地に送られた囚人や、アズラエルみたいに戦いに身を投じた天使もいる。おまえら神域は、その全員の行動を追跡してるのか?」

「……いいえ、残念ながら」

「そのうちの何人かは戦いの中で戦死したり、行方不明になったりしてるだろう。そういった連中が、この時、神に操られて、播種船になだれ込んできたわけだ」

 

 ウリエルはよほどショックを受けているのか、深刻な表情で青ざめている。神がこんな都合よく天使を操れるなら、もはや四大天使の威光など無に等しい。自分もいつ操られるかわからないと思ったら、気分も落ち着かないだろう。

 

 ギヨームは気にせず話し続けた。

 

「何が何やらわからないエミリアは襲ってくる天使から逃げ惑った。そこへ船の住人であるカインが出てきて天使と戦い始めたが、苦戦を強いられたカインは最悪の事態を想定して鳳の身体が乗ったポッドを切り離した。

 

 その後カインはどうにか天使の撃退に成功するが……播種船が傷つき、緊急メンテナンスモードに切り替わり、すると彼はどこかへ消えてしまった。一人残されたエミリアはパージされたおまえのポッドに話しかけた後、どこか安全な場所に逃げようとした時、船のメンテが終了してカインが戻ってきた。

 

 カインってのは実体を持たない、量子化された人間のことだったんだよ」

 

「確か、カナン先生が助けてあげた、イレギュラーで生まれた男性のことだったんじゃないっけ?」

 

 鳳がそう指摘するとギヨームは頷き、

 

「それもすでに百年以上前の話だ。カインは播種船に逃げ込んだあと、自分を量子化したわけさ。一人で、そんな場所で生きてても仕方ないからな」

「そうか……」

「でだ……襲撃も収まり、カインが帰ってきたことで、ようやく落ち着いてエミリアは自分の身に起きている出来事を聞くことが出来たわけだが……ここから先は、特にこの世界で生きている者にとっては憂鬱な話だから、なんなら聞かなくってもいいと思うぜ。ウリエルさんよ」

 

 さっきの話で気分を害していたウリエルは、唐突にギヨームに話を振られてギョッとしつつも、

 

「いえ、何を言われても最後まで聞き届けましょう……私も、四大天使の端くれですから」

「だからこそ、あまり気分のいい話じゃないんだがな……」

 

 ギヨームはそういうと空になったティーカップをアリスに差し出した。アリスが黙って差し出されたカップに紅茶を注ぐと、ギヨームは両手でカップを持ってぐるぐる回しながらその中身を見つめ、ゆっくりと啜った。

 

 別にもったいぶっているわけではなく、本気で話しづらいのだろう。彼にしては珍しく遠回しな表現でその話は始まった。

 

「ここにいる連中はもちろん知っているだろうが、その昔、第5粒子エネルギーを発見した人類は、2つの進化形態へと分岐した。一つは強者生存のラマルク的な進化を標榜した魔族。そしてもう一つは、肉体を捨てて精神だけを機械に移した、量子化人間たちだ。カインもエミリアも、この量子化人間に属する人類なわけだが……

 

 まあ、今の彼らのことはどうだっていい。それよりも、かつて量子化された人類は、肉体を持っている必要はなくなったために、地上を魔族に明け渡して播種船に逃れた。つまり、その後の地上は魔族のためだけにあり、神ってのはその魔族を満足させるために存在しているわけだが……

 

 じゃあ、なんで現生人類は存在してるんだ? 天使ってのは何者なんだ? こいつらはどっから湧いて出た? おかしくないか?」

 

 ギヨームの疑問はシンプルで、どうして今まで考えてこなかっただろうかと首をひねりたくようなものだった。鳳は困惑しながらもなんとか答えを捻り出そうと、

 

「それは……人類は2つだけの進化形態に移行したわけじゃなくて、昔のまま変わらない人類もいて、その人達が魔族とともに地上に残ったんじゃないのか?」

「魔族ってのは話の通じない連中で、当たり前のように人を襲うんだぞ。そんなところに何故残ろうとするんだよ? それどころか、この世界には何故か女しか残ってなくて、それを天使が管理している……なんでこんなことになってんだ?」

「言われてみれば確かに……どうしてこんな矛盾が存在するんだ?」

 

 鳳が不可解な事実に眉をひそめていると、ギヨームはその答えをあっさりと教えてくれた。

 

「いや、それが矛盾しないんだ」

「矛盾しない?」

「ああ、魔族は強者生存というラマルク的な進化を選んだ人類のことだが……ところで強者ってのはどういう者を指す? 強者ってのは勝者と敗者、対比する2つの個体が存在しなければ成り立たない……

 

 つまり、魔族が十分に強くなるには、十分に強い弱者が必要なんだ。神は魔族の進化を促すために、その強力な弱者ってのを作り出さなければならなかった。それが、現生人類と、天使だったんだ」

「そんな……はずは……」

 

 ウリエルの強張ったつぶやきが聞こえる。鳳はそんな彼女にかけてやれる言葉もなく、ただ呆然とギヨームの話を聞いていた。

 

「気持ちは分かるが、それを裏付ける証拠も出てきてしまった。アザゼルたち、ここの囚人たちが全員そうだったように、天使という種族は魔族に捕食されることで確実に魔王に進化する……言うなれば、魔王の贄だったんだよ。

 

 こうして生まれる魔王は強力で、魔族の進化を更に促す糧となる。だが、ベヒモスみたいに、あまりにも強力すぎて生態系に悪影響が出るなら、神はオリジナルゴスペルを使って処分していた。

 

 これが、この世界の真実だったんだ」

 

 ギヨームの言葉は衝撃的で、さっきまでの和やかな雰囲気は一変して、場は沈黙に支配された。ウリエルは自分の信じる神の不都合な正体を突きつけられ、放心したようにぼんやり座っている。ルーシーが深刻そうな目つきで鳳の顔を見つめ、アリスは紅茶を零しているのも気づかず、ポットを傾け続けていた。

 

「でだ、その神が何故か鳳に対してやたら肩入れしている。この理由は何なんだ? エミリアは、この世界に鳳白の遺伝子は存在しないという。それが事実なら、神は存在しないはずの鳳白という人間をわざわざ創ったことになる。どうしてそんなことをする必要があるんだ?

 

 理由が分からないまま、おまえのことを無条件に信じるわけにはいかなかった。もしもおまえが神なら、攻撃すればきっとボロを出すと思った。まあ、おまえと戦ってみたかったってのもあるけどな」

「そうか……それで俺は信用されたと見ていいんだな?」

「まあな。おまえの言う通り、神に俺を生かす理由はない。だが、逆に分からなくなった。それならどうして神はおまえに肩入れするんだろうか? これからそれを探しに行かなきゃならない」

「あてはあるのか?」

「ああ、ウトナピシュティムだ」

「ウトナピシュティム?」

 

 それは失われたオリジナルゴスペルの一つであり、それがどうして紛失していたのか、その根本的な理由がギヨームによって明かされた。

 

「ウトナピシュティムってのは大昔の人間が量子化する際、自分たちや地上の動植物の遺伝子を集めた播種船のことだ。正しくは、そのデータベースだな。この世界のおまえの身体は、そこで作られた。どうして遺伝子の存在しないはずのおまえが復活できたのか。本当に、エミリアの言う通り、そこにおまえの遺伝子は無かったのか。一度調べに行ったほうがいいだろう」

 



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捜索

 ギヨームが頑なに鳳のことを疑い続けて来たのは、それは現生人類の存在理由が原因だった。

 

 この世界の神は、実は魔族の進化を促進するために存在しており、そのために天使と人間を作ったと思われる。その神が何故か鳳に肩入れしまくっているわけだから、こんなの疑わないわけにはいかず、この鳳が本物かどうか、もしくは神に操られていないかどうか、どうしても確かめねばならなかったと言うわけである。

 

 彼は一連のやり取りで、ようやく鳳が本物であることを認めたが、それでもまだ、何故神が彼を贔屓しているのかがわからない。だからその理由を探すために播種船に向かおうと言い出した。失われたオリジナルゴスペル、ウトナピシュティムとはこの播種船のことだったのだ。

 

「ゴスペルってのは対魔族用の兵器のことだと思ってたけど、どうしてこれだけ宇宙船だったんだろう?」

「さあな。そもそもオリジナルゴスペルってのがいつから存在するのか、誰が作ったのかも分かってないからな。神は人類を守護するつもりじゃなかったんだし、その辺が曖昧なのは仕方ないんじゃねえの」

「ケーリュケイオンもウトナピシュティムと同じで、大昔の量子化人間たちが作った物だったんだろうか? いや、でも、この世界に俺の遺伝子は存在しなかったんだよな? なのになんで俺の武器が存在していたんだ? ……うーん?」

「その辺のことも播種船に行って調べてみるしかねえだろうな。そこにはそれこそ大勢の量子化された人間のデータが残されているんだから、そいつらに聞けば何か分かるかも知れない。後はエミリアのこともあるから、どうせ行くならおまえを連れて行きたかったんだ……だから本物か確かめるのは絶対だった」

「そっか、悪かったな、苦労かけて……」

「気にすんな。投げっぱなしのカナンには及ばない。あいつは俺らを連れてくるだけ連れてきておいて、すぐおっ死んじまったからな」

 

 ギヨームはそこまで言ってから、自分の言葉の中に何かを見つけた様子で、

 

「そう言えば……おまえは自分が復活出来たのは、カナンのお陰じゃないかって言ってたな。エーテル界がどうとか」

「ああ、その辺の話もしといた方がいいな。でも、その前に、まずはジャンヌたちに合流しないか? あいつにも話しておいた方がいいと思うし、ミッシェルさんにも知恵を借りたい」

「ん、そうだな……奴らのところには、今アザゼルたちがいる。そろそろケリが付いた頃だろう」

「ケリ? おまえ、何やったの?」

「行きゃあわかるさ」

 

 鳳たちは話し合いを中断すると、フェロー諸島へ戻ることにした。一度行った街ならポータルが作れるはずだろうと、試しに鳳がやってみたら問題なく繋がった。ルーシーやギヨームとは違って、彼が魔法を駆使して空間を制御しているわけじゃないから、どういう力が働いているか不思議だったが、その辺も播種船に行けばわかるのだろうか?

 

 そんなことを考えながらポータルをくぐり抜けると、繋がった先の港には、得体の知れないクジラみたいな化け物が、海ではなく空にプカプカ浮かんでいた。

 

「……おい、ギヨーム。てめえ、マジで何やったんだ?」

「安心しろって、こう見えてこいつも堕天使だ。天使や魔族みたいに無闇矢鱈と攻撃してきたりはしない」

「ええ~……本当かよ」

 

 クジラの巨体はベヒモスほどではなかったが、それに準じるくらいの大きさがあった。そんなのがプカプカ空に浮かんでいるのは常識では考えられず、一体何を動力にしているんだと不可解に思って見上げていると、島の内部にある刑務所の方から懐かしい声が聞こえてきた。

 

「おお! 勇者ではないか! 久しぶりだな! いや……ずっと一緒にいたような気もするが……とにかく久しぶりだ! 元気にしてたか?」

 

 その声に視線を下げると、目に飛び込んできたのはサムソンの姿だった。こっちの世界に来てからずっと一緒に旅してきたのに、何を言ってるんだ? と一瞬思ったが……その姿がいつの間にか魔族から人間のものに変わっていることに気づくと、鳳は驚くと同時に、心の底から喜びが湧き上がってきた。

 

「お……おおおーーーっ!! サムソン!? サムソンか!? えー! なんでなんで!? おまえどうして元の姿に戻ってんの!?」

「知らん! なんだか長い夢を見ていたと思ったら、ここでこうしていたのだ。おまえと一緒にいたのはなんとなく覚えているが、自分の身に何が起きていたのかはさっぱりわからん。ところで……そちらは? まるで神が徒に摘んだ花のように美しい女性と、ちっちゃい男は」

「誰が小さいって!?」

 

 鳳はギヨームが掴みかかっていきそうなのを羽交い締めしつつ、

 

「こちらは大天使のウリエルさんで、こっちはギヨームだよ。見てわからないか?」

「なに!? ギヨームだと……? いや、しかし、やけに老けてるではないか。あいつはまだ子供のはずだろう?」

「いや、覚えてないなら仕方ないけど、君らがこっちの世界に来てから16年が経ってるんだよ。だからこれはギヨームで間違いない」

「16年!? そう言えばそんなこと言ってたな……いや、月日というものは残酷だ」

「……くそ。なんか俺一人だけ年取ってて損した気分なんだが」

 

 サムソンが目を丸くしている横でギヨームが理不尽に対して顔を曇らせていた。彼はこれ以上、年や背の話を避けるように話題を変えた。

 

「で、マジで何がどうなってやがる? その驚き方からすると、サムソンを元に戻したのはおまえじゃないみたいだが」

「ああ、ルーシーみたいに召喚した覚えはないから、なんで勝手に戻ったのかは分からないけど……多分、俺の時と同じで、ベル神父辺りがなんとかしてくれたんじゃないか」

「ベル神父が?」

 

 鳳は頷いて、

 

「さっきおまえにも聞かれたけど、俺はカナン先生たちはまだ死んでなくて、エーテル界に逃げ込んだんじゃないかって思ってるんだ。実は、おまえに狙撃されて復活するまでの間に、俺は夢の中で先生の姿を見たんだよ。そこにはサムソンの姿もあって、彼はベル神父らしき光と修行みたいなことをしていた……」

「なに? 師父が?」

 

 鳳の言葉にギヨームではなくサムソンが反応する。彼は少し思い出すような仕草をしながら、

 

「そう言えば……長い夢を見ている間、俺はずっと師父と修行を続けていたような気がする。現実はベヒモスと戦い続けていたようだが、案外、勇者の言う通りだったのかも知れないな」

「ミッシェルさんが言うには、こっちの世界に来た時、サムソンはアストラル体だけでこの世をさ迷っていたらしいんだ。また彼が言うには、人間は死ぬと肉体からエーテル体が分離し、アストラル体と融合を果たすらしい。

 

 だから2つが一緒になってない時点で、サムソンはこの時まだ死んでいなかったんだよ。それじゃエーテル体はどこに消えたんだ? って考えると、もしも神父が生きてて保護してくれていたと思えば割りとしっくり来るんじゃないか」

「なるほど、しかし、それでどうしてカナン達がエーテル界にいるってことになるんだ? 少し飛躍してないか?」

「仮説ってのは得てして飛躍するものさ。まあ、ちゃんと理由もあるんだけどな。その辺のことをもう少し詰めたいから、ミッシェルさんと話をしたくて帰ってきたんだけど……」

「そのミッシェルさんが行方不明なのよ」

 

 鳳たちがそんな話をしていると、刑務所の方から今度はジャンヌがやってきた。その背後にはアザゼルがいて、ギヨームに気づいて手を挙げた。鳳は、ウリエルが堕天使を見たらおかしくならないか? と不安になり、彼女の様子を見ようと振り返った時、

 

「きゃあーっ! ルーシーじゃないのぉ! 久しぶり~!!」

「わわ、ジャンヌさん!? あれ~? 記憶喪失になってたんじゃないの??」

 

 不安げな顔をしながら港にやってきたジャンヌは、そこにルーシーの姿を見つけるなり、打って変わって笑顔になって、きゃあきゃあ言いながら彼女に抱きついた。その姿はかつての冒険者だった頃の彼女そのものであり、今のドミニオンの隊長からは想像もつかなかった。鳳は驚きながらも、

 

「ジャンヌ、もしかしておまえ記憶が戻ったのか?」

「ええ、お陰さまで。自分が何をすべきかを思い出したら、自然に何もかもを思い出していたわ」

「そうか。サムソンも元に戻れたし、なんか色々といっぺんに解決しちゃっててビックリだな……」

 

 鳳は感嘆の息を漏らしながらそう呟いた時、ウリエルのことを思い出し、

 

「そうだった。ウリエルさん、平気ですか?」

「ええ、なんとか……」

 

 鳳が振り返って尋ねると、彼女の顔色はあまり優れなかったが、どうにかこうにか理性は保っていられたようで、

 

「……事前に話を聞いていたお陰で、どうにか抑え込めている感じですね。言われていた通り、彼を見ているだけで、何か胸の辺りにもやもやしたものが溜まってきて、かなり情緒不安定にさせられます。確かにこれでは、何も知らなかったら、問答無用で飛びかかっていっても不思議じゃありませんよ」

「俺が魔王化にかかった時とほぼ同じだな……ルーシー、認識阻害かけてくれないか?」

 

 鳳に言われてルーシーがアザゼルの姿を隠してしまうと、ウリエルはそれで楽になったらしく、ホッとため息を吐いて両腕をだらりと下げた。額にはいつの間にか玉のような汗が溜まっており、彼女が相当我慢していたことが窺えた。

 

「見えなくなることでだいぶ楽になりましたが、これはお互いに直接顔を合わせないほうが良さそうですね」

「ええ、私たちもそう思って、ミッシェルさんにお願いして堕天使のことを隠してもらおうと思ったんです。そうしたら、いつの間にか彼がいなくなっていて……それで今、人間だけで捜索を行っていたところなんです」

 

 ジャンヌが困惑気味の表情で言う。ルーシーが何かに気づいたように、

 

「ミッシェルさんには、私が行くまで鳳くんの手助けをしてってお願いしてたから、もしかして私が来たのに気づいて帰っちゃったのかな?」

「うーん……いくらミッシェルさんが気まぐれでも、この状況で何も言わずにいなくなることはないだろう。ところで、堕天使を隠してもらうって言ってたけど、彼らはここで何してたの?」

「話し合いをしに来たんだよな。俺らが話し合ってる間に」

 

 ギヨームが白々しくそう言い放つと、ジャンヌは不機嫌そうに唇を尖らせながら、

 

「襲撃のことを話し合いとは言わないわよ」

「仕方ねえだろ、問答無用で殴りかかってくる相手には、拳で語り合うしか方法がないじゃねえか」

「そのせいでサムソンは死にかけたのよ!?」

「おいおい……俺がいない間に、なんかとんでもないことになってんな……色々話を聞きたいところだが、とにかく、ミッシェルさんがいない方が気になるから、まずは俺たちも一緒に探そうぜ?」

 

 黙っていると二人が口論を始めそうだったので、鳳は軌道修正するつもりでそう提案した。ジャンヌが渋々頷く横で、ギヨームはやれやれと肩を竦めていた。

 

 一瞬、険悪な雰囲気になりかけたが、やはり冒険者時代の相棒だけあって、二人はその後何事も無かったかのように、連れ立ってミッシェルの捜索に向かった。その後にサムソンがくっついていく。

 

 そんな後姿を見送った後、鳳はアザゼルに事情を聞きながら、自分もミッシェルを探しに島を歩き回った。途中、瑠璃を発見したアリスが喧嘩をおっ始めたり、ルーシーの眼帯に異様な反応を見せた桔梗に絡まれながら、島をぐるぐる捜索したが、日が暮れてもミッシェルは見つからなかった。

 

 仕方ないので初日の捜索を終え、夜は留守の間にお互いに起きた出来事を話し合ったりして……明けて翌朝、二日目になっても捜索は中々進まず、依然ミッシェルは行方不明のままだった。

 

 こうなると天使と堕天使の戦闘にでも巻き込まれたか、ルーシーの言う通り、本当に黙って帰ってしまったとしか思えなかったが、

 

「うーん……私もアリスちゃんみたいにあっちの世界に帰れるなら、迷宮を見に行けるんだけどなあ」

「呼び出すのは何となく出来ちゃったんだけど、帰る方法は何も思いつかないんだよね。ゲームの定番だと、召喚獣はHPが切れたら元の世界に戻るんだけど……いっぺん死んでみる?」

「え!? やだよ!」

「だよなあ。本当に死んじゃったら洒落になんないし……」

「それより、痛いのがやだってば」

「練炭だと比較的楽に逝けるそうだよ?」

 

 鳳たちがそんな怖いんだか、間抜けなんだか、よくわからない会話を交わしている時だった。ウリエルが二人の間に少々申し訳なさげに割り込んできて、

 

「あの……鳳様。ミッシェル様のことも気になるのですが、今回の件をミカエル様に報告したいので、一度神域に戻ってもよろしいでしょうか? 既にアズラエル様が先行して帰ってらっしゃいますが、その後に得た情報のほうが重大だと思うので、出来るだけ早く神域に持ち帰りたいのです」

「ああ~……それもそうですね。それじゃ、一旦、捜索を切り上げて、神域に戻りましょうか?」

「いえ、それには及びません。お仲間が居なくなってはさぞかしご心配でしょう。神域には私一人で戻りますから、お気になさらず。取り敢えず、今からでもタンカーに原油を積み込んで、2日ほどあれば作業も終わるでしょうから。それから喜望峰を回って……」

「いや、そんなことしなくっても、ポータルで帰ればいいじゃないですか」

「……え?」

 

 鳳はそう言うと、唖然としているウリエルの前に、当たり前のように光り輝くポータルを作り出した。その向こう側には、見慣れた神域の景色が見える……

 

 ウリエルはそんなあり得ない光景を見て、16年前の襲撃で勝利したつもりだったが、それはただの錯覚だったと改めて悟ったのであった。

 



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あの日、神域で

 鳳のタウンポータルは、一度訪れたことのある街ならどこでも瞬間移動出来るものである。だから力を取り戻した今こっちの世界でも、これまでに行ったマダガスカル、パース、ブリスベン、ケアンズ、アイスランド基地には問題なくポータルを作り出せるようだった。

 

 ただ、帝都の出口が迎賓館前に固定されてしまったように、どうも鳳がその街で最初に印象に残った場所が出口として登録されてしまうらしく、そのせいか、神域のポータルの出口はミカエルの部屋のど真ん中にあった。

 

 ミカエルは丁度その頃、座り心地の悪い椅子に座ってまずい飯を食べていたらしく、そんなところへいきなり謎の光が現れたものだから、びっくりして食べ物を喉につまらせ、顔を火照らせ咳き込みながら、必死に異常現象に対応しようと剣を抜き詠唱を開始しようとしていたところ、中からひょっこり鳳が現れたものだから反射的に、

 

「貴様は私に何の恨みがあるのだっっ!!!」

 

 思いがけずムーンウォークしながら裏拳を放ってきたミカエルを見て、鳳はマイケルのこんなキレッキレなダンスが見れるなんてとワクテカしながら、

 

「あ、わりい、飯時だったか。出直してくる?」

「そういう問題ではないわっ!! 他人の部屋に謎の超常現象を使って侵入してくる非常識な奴がどこにいるというのか……うん?」

 

 ミカエルは勢いのままそこまで怒鳴り散らしてから、自分が言ってるセリフもまた非常識だと気づいたらしく、

 

「と言うか、なんなのだ? これは……確か貴様は今頃アイスランドにいるのではなかったか? どうなっている」

「申し訳ございません、ミカエル様」

 

 ミカエルが困惑の表情を浮かべていると、その光の中からウリエルが現れ、まるで借りてきた猫のように縮こまりながらペコペコと頭を下げていた。彼はアズラエルよりも早くウリエルが帰還したことに驚き、

 

「何故ウリエルがここにいるのだ? 私は先程、アズラエルから報告を受けたばかりなのだが……アイスランドの反乱はどうした? 全て私をからかうための鳳白の策略だったか?」

「なんでそんな陰険なことしなきゃなんないんだよ。反乱なら鎮圧したよ。というか、最初から彼らに反乱の意思なんて無かったんだ。俺たちはそれを報告しに帰ってきたんだよ」

「帰ってきた? 帰ってきたと言うが……どうやって?」

「いや、だから見たろ、今」

 

 鳳は、それでもまだぽかんとしているミカエルにポータル魔法のことを伝えると、彼はうんざりした様子で、

 

「貴様らはそんなことまで出来たというのか……道理で16年前、ルシフェルたちが神域に忽然と姿を表したわけだ」

「知らなかったのか?」

「当たり前であろう、人間が空間を自在に操るなど、そんな非常識な……」

「鳳様の奥様は更にそれを繊細に制御なされます。今回、共に戦ったことで私は力不足を痛感しました」

「あのアリスという娘がか?」

「いや、そっちじゃなくて……てか、奥さんでもないんだけど……あー、まあいいや」

 

 嫁であることには変わりないし、鳳の爛れた性生活のことなんて詳しく語ろうものなら、この堅物の大天使がキレることは請け合いである。

 

 鳳が、そんなおべんちゃらよりも、さっさと報告を済ませろとウリエルを促すと、彼女はハッと思い出したと言わんばかりに表情を曇らせ、ミカエルにアイスランド基地で起きていた出来事を報告しはじめた。

 

 ミカエルの顔は話を聞くに連れどんどん険しいものへと変貌していき、

 

「……つまり、天使が魔族化すると理性的な魔王が、というか堕天使が誕生するのだな? アズラエルは例外では無かったということか」

「16年より以前にも、度々、堕天使は誕生していたようです。しかし、その度に天啓によって処分されていたので、今まで発覚しなかったようなのです」

「わからん……何故、神は彼らを殺すように命じるのだろうか。協調しろとまでは言わんが、人間に危害を及ぼさないのであれば、放っておけばいいだけではないか」

 

 ミカエルは眉を顰めてじっと考えに耽っている。鳳はそんな彼に、

 

「天使たちが操られていたってことには、あまり驚かないんだな?」

「それは以前、貴様とも話していただろう。我々に天啓が訪れる限り、そういう可能性はありうると、ある程度覚悟はしていた」

「そうか……俺も一度だけ、神に操られかけたことがある。それは本能に働きかけるものだけど、原因を理解して強く意識を保てば耐えられないこともないんだ。ただ、あんたらの天啓や、アスタルテ先生みたいに物理的に影響を及ぼしてくる力は、どうしようもないよな……」

「そうならないよう、それこそ神に祈るしかないな」

 

 ミカエルはそんな自虐的なことを自嘲気味に口走ると、ふと思い出したように、

 

「そうだった。そのイスラフィルが意識を取り戻したのだ」

「先生が!?」

「ああ。しかし、長い間の責め苦のせいか、完全に人間不信に陥っていて、我々に心をひらいてくれない。兄であるラファエルのことも警戒しているのだが、もしかすると貴様らに会えば何か変わるかも知れん。一度見舞いにいってくれないか」

「それならギヨームを呼んでいいか? 一緒にこの世界に乗り込んできた仲間が来れば、先生も安心するだろう」

「構わぬが、報告では奴が反乱を起こした張本人のはずだが、もう大丈夫なのだな?」

「ああ。それについても後で話すよ」

「いいだろう。では、すぐに仲間を呼び寄せるがいい」

 

*********************************

 

 フェロー諸島へ戻ってギヨームに話をつけ、すぐにイスラフィルの見舞いへ向かうことになった。ミッシェルはまだ見つかっていなかったが、流石にこれだけ探しても見つからないのであれば、恐らく彼はもう島にはいないのだろう。

 

 もちろん心配ではあったが、彼の命を脅かせるものなどこの世に存在するとは思えなかったので、何かアクシデントがあったとしても、またひょっこり戻ってくるだろうと、捜索ではなく別の方法を探ることにした。

 

 とにかく、今は意識を取り戻したイスラフィルのほうが気になるので、ギヨームを連れて見舞いに行くことを伝えると、アリスが自分もどうしても行きたいと言いだしたので、連れていくことにした。思えば彼女には魔王化のことでも、アリスの前の主人ルナのことでもお世話になりっぱなしだったから、きっと鳳以上に心配だったのだろう。

 

 結局、その後ジャンヌもサムソンもルーシーも合流し、全員で神域に戻り、早速イスラフィルの病室へ行くと、そこには不老非死の天使の身であるにもかかわらず、まるで重病人のように痩せこけた彼女の姿があった。

 

 そのやつれっぷりに驚いていると、彼女は部屋に入ってきた鳳たちを見るなり子供のように泣き出してしまい、こうなってしまうと男は何の役にも立たなくなってしまった。すぐさまルーシーとアリスが駆け寄って、彼女を慰めている間、それまでずっと付きっきりで看病していたらしきラファエルがやってきて頭を下げた。

 

 正気を取り戻したのは良いものの、彼女は四大天使を警戒して、これまで頑なに沈黙を貫いていたらしい。それは恐らく、四大天使と言えども神に操られている可能性があることを、彼女は身を持って体験したからであろう。

 

 女性陣の慰めが功を奏し、彼女がようやく落ち着いたところで、鳳たちは襲撃当時に彼女の身に何が起きたのかを聞くことが出来た。病室は狭いので、場所を会議室へと移すと、四大天使が集まっている前で、痩せこけた彼女は訥々と喋り始めた。

 

「……あの日、神域の外でギヨーム、ジャンヌ両名が暴れて天使を引っ掻き回している間に、私たちは神殿に侵入してその破壊に成功しました。予想ではこれで何もかもが終わるはずでした。ルシフェル様もそのつもりで、四大天使を説得しようとその場に残っていたのですが……

 

 その後、ミカエル達が駆けつけてくると問答無用で交戦になりましたが、私たちは彼らも話せば分かると期待して、何度も呼びかけ続けていました。

 

 しかし、ミカエル達の攻撃は執拗で、こちらの声には耳を傾けてもらえず、その様子のおかしさから撤退もやむなしと思い始めた時、突然、ルシフェル様がおかしなことを言い出したのです。

 

 神はまだ存在している。本気で神を止めるのであれば、今すぐ命を絶って死者の世界に赴かねばならないと……

 

 私は何を言ってるのかわかりませんでしたが、ザドキエル様にはそれで何かがわかったらしく……しかし、彼はクリスチャンでしたから自ら命を絶てずに、わざと兄の手に掛かって死に、そしてルシフェル様が後に続きました。

 

 一人残された私は二人の壮絶な死を目の当たりにして恐れをなすと同時に、どこか楽観してもいたのです。私には四大天使の兄がおりますし、それになんだかんだで天使が天使を傷つけるわけがないだろうと……

 

 ところが、その時、私の身に天啓が下りて、神は私に命じたのです。私はこの世界に居てはならないと……そして気がつけば、私は地獄の真っ只中にいたのです」

 

 イスラフィルの話は、大体以前にミカエルから聞いていた通りだった。違うのは視点が襲撃側に変わっていることと、どうやらこの時、四大天使も神に操られていた気配があることだった。

 

 そして最大の違いは、襲撃当時ルシフェルがザドキエルの足を引っ張ったと思われていたことは、実際にはザドキエルの意思で行われていたこと。ルシフェルたちは、自ら望んで死を受け入れたという事実であった。

 

 話を聞き終えたミカエルは当時のことを思い出して、どこか身に覚えがあることを感じているようだった。しかし、それ以上に襲撃者が自殺した理由が分からず、

 

「何故だ……? 何故、ルシフェル達は自ら命を絶ったのだ? 神を止めるにしろ、我々を教化するにしろ、死んでしまっては元も子もないだろうに」

「いや、その神のところへたどり着くには、死ぬしかなかったんだろうよ」

 

 そんなミカエルの疑問に、鳳は答えた。

 

「以前、ミッシェルさんと話をしたことがあるんだ……人間には肉体と精神があるけど、更にその精神には霊体と魂体の2つが存在するんだって。霊と魂が別れているのは、霊体が主に本能を司るのに対して、魂体は意思や思考を司っているかららしい。

 

 俺たちの肉体は、例えば心臓や肺が停止してしまったらすぐ死んでしまうから、常に動き続けてなきゃならない。これらの動きを統括しているのがいわゆる本能というやつで、霊体はこの本能を司っている。だから、人間が生きている間は、肉体と霊体は常に共にあるらしい。

 

 対して、魂体の方は俺達の自由意志を司っていて、要するに自我とか思考の正体のことを魂体と言うらしい。これは霊体と違って四六時中動き続けてなければいけないものではなく、特に睡眠中、基本的に人間は何も考えてないから、魂体は肉体を離れて自由に行動しているらしい。ミッシェルさんは、この魂体の状態でこの世に顕現していたらしいんだけど……まあ、それは置いておいて。

 

 生きている限り霊体は肉体と共にあるけど、逆に言えば肉体から霊体が離れる時、人間は死を迎えるわけだ。そして肉体が滅びると、それまで比較的自由だった魂体は霊体と結びついて、2つの精神体はアーカーシャに記述され、次の転生先を待つことになるそうだ。キリスト教的に言えば、最後の審判を待っている状態を言うんだろうね。

 

 でだ、この霊体と魂体は物質世界ではなく、常に2つの精神世界、アストラル界とエーテル界に存在していて、神はそのうち霊を司るエーテル界に存在していると考えられる。だからカナン先生たちはこのエーテル界に自分たちの意思を届けるために、死を迎える必要があったわけだ」

 

 鳳の説明を聞いてもまだ信じられなかったからか、ミカエルは困惑気味に尋ねた。

 

「貴様の言うことが本当かどうかまだ分からんが、とにかく、神は死者の世界にいるというんだな? だからルシフェルたちは自ら死を選んだと」

「いや、それがそう簡単な話でもないんだよ」

 

 鳳は首を振ると、少し考えるように顎に手をやりながら、

 

「……霊体という言葉に引っ張られるのかも知れないけど、そもそもエーテル界は死者の世界じゃない。最初に断った通り、2つある精神世界のうちの一つだ。そして神は人間じゃない。従って、神には精神はないはずだ。

 

 なのに、何故神がエーテル界にいると言えるのか? こいつの正体はなんなのか? 神とは人間があらゆる物質を認識する際に参照するイデア。もしくは生きるための知恵やルール。ロゴス・モナド・良知・道・涅槃とか天理とか、そういった“何か”なんだ」

 



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神とは何か

 神とは何か。ギリシャ神話の神々も、アースガルズの神々も、インド神話の神々も、古代中国の神仙や日本の八百万の神々も、どれもこれもやたらと人間臭い。それは神が自分に似せて人間を作ったからか、それとも、人間が自分の延長線上の存在として神を定義したからか。どちらにせよ、人間中心の考えからスタートしているから、神が人間に似てしまうのは仕方ないことだろう。

 

 そう考えると神など本当は存在しないのではないかという無神論に傾きやすいが、現実問題、長い人類の歴史の中でこれだけ神の存在が信じられてきたのだから、多くの人々が何らかの霊性や神性といったものを感じていたのは間違いないはずだ。では、その正体は何だったのか。

 

 人間というのは快を求め、苦を遠ざける生き物だ。人間というか生物の本能かも知れないが、例えば腹が減ったら食べ物を求めるし、一日中歩き回って疲れたら眠たくなるし、高いところから下を覗けば足がすくむし、いい女を見たらムラムラする。

 

 薬物中毒者が己の行動を律せないのは、この調整機能が狂っているからで、彼らは外部から取り入れた薬物を使って脳内麻薬を作り出し、快の情報を誤認させているわけである。人間は本能的に快を求めるから、それが簡単に手に入れば止まらなくなる。

 

 ところで、この快苦を決めているのは何なのだろうか? 昔の人達はそれが神の正体だと考えた。人間が快苦を感じるのは、神がそのようにルールを定義したからだと。

 

 故に、昔のグノーシス主義者などはこのように考えた。自分の能力を霊的存在の意図に従うよう行動すれば、死後、この霊的存在と結びつくことが出来るようになる。特に熱心にこれを実践するものは、神との合一が図れる。即ち自分が神になれるのだと。

 

 それが本当かどうかは神のみぞ知るだが、実際に人間はどうやっってこの快と苦を区別しているのだろうか。生命が誕生した古代に遡って考えてみよう。

 

 元々、すべての生物は単なる自己増殖する化合物だった。原初の海に雷でも落ちて、偶然に生成されたプリンやピリミジンが、自己増殖するために周囲の元素と結びつき始め、やがてその材料が尽きてしまうと、生命はこれ以上増殖するためには別の方法を試さなければならなくなった。

 

 こうして生命は様々な生存戦略を獲得していった。ある者は別の場所にある材料を求めて移動し、ある者は近くの仲間から奪おうとした。移動するにはエネルギーが必要で、それを効率よく生み出せるミトコンドリアと共生し始め、強奪者から身を守るためにタンパク質の鎧を纏った。

 

 時が経つに連れ生存戦略はより巧妙になっていき、触手(四肢)を伸ばして移動や攻撃に用いる者が現れたり、光合成のように栄養を獲得する方法を増やしたり、いち早く目を獲得した三葉虫は海の覇者となったりと、生物は様々な器官を得て巨大化していった。

 

 さて、こうして生命は一つの体に複数の器官を持つ複雑な生き物へと進化していったわけだが、すると今度はそれを統括する脳が必要となった。

 

 獲得したそれぞれの器官も元々は自己増殖するのが目的だから、目は目を、歯は歯を育てたいので、このままでは体の中で栄養の奪い合いが生じてしまう。だから平等に分配する脳が必要なわけだが、もしもある時、体のどこか一部分が傷ついたら脳はどうすればいいだろうか。

 

 このまま平等に栄養を送り続けていては、傷ついた組織の回復はどんどん遅れてしまう。他の元気な器官が、傷ついた組織の回復を阻害することだって有り得る。その結果、体全体のバランスが崩れて、普段なら余裕を持って獲得できた獲物を手に入れられなくなる可能性もある。

 

 だからそういう時は、脳が体全体に命令を送る。まずは傷ついた組織の回復を優先し、そちらに栄養を回しましょう。本来なら、体は快を求めて苦を遠ざけるはずなのに、この時ばかりは、体は苦を積極的に受け入れている。仕方ないと諦めている。

 

 そしてこれが思考の正体と考えられるわけである。本来、バラバラに動いている体のあらゆる器官が、一つの目的のために苦を受け入れる時……本来、マルチタスクである脳が、シングルタスクで動く時、我々の思考は生じてくるわけである。

 

 体が元気で健康なうちは、我々は特に何も考えずにいられるが、一度病に冒されると、人はあれやこれやと考え始めるのも、また一つの証拠であろう。

 

 ところで、人間に限らず、すべての生物は多かれ少なかれこういう状況判断を行っている。鳥も爬虫類も昆虫も、怪我をしたり危険に見舞われると行動パターンを変える。だから人間同様に精神=心のようなものはあると考えられが、その殆どは単純なもので人間ほど複雑ではないだろう。

 

 大脳皮質が発達した人間は、この生存戦略を進めて、より多くの条件分岐を選択できるように進化した。具体的には、過去の経験を記憶として蓄積し、そこから様々なパターンを見つけ出して、より良い条件を選べるようになった。つまり、人間だけが創造性を獲得して、未来予測をして行動を変えることが出来るわけである。そしてこれが我々の精神の正体、意識とか意思、自我と呼ばれるものである。

 

 こうして我々人間は2つの心(精神)を手に入れた。一つは今現在受けている外圧に対処する思考(本能や野性、条件反射など)、もう一つは過去の記憶から様々な未来を予測する創造性(意識や自我)、この2つの心がせめぎ合っているのが人間という生物であると考えられる。

 

 話を戻そう。

 

 ところで生物とは、元々は自己増殖するのが目的の化合物であった。そのため我々の思考は快を求めて、苦を遠ざけるように進化していった。味覚を例に挙げると、ある食べ物を美味しく感じるのは、それが自分の体にとって必要な栄養源である可能性が高く、苦かったり酸っぱかったり感じるのは、それが毒の可能性が高いことを示唆している。

 

 故に我々は甘いものや塩辛いものを欲しがり、苦いものや酸っぱいものを敬遠したがる傾向がある。そうした方が健康を維持するのに良いことを、体が本能的に感じ取っているわけだ。

 

 そして、おっぱいやお尻の大きい姉ちゃんを見るとムラムラするのは、彼女が自分の遺伝子を受け継いだ強い子供を産んでくれる可能性が高いと感じているからだ。そんな姉ちゃんとセックスしようものなら、男は信じられないくらい馬鹿になってしまうだろう。

 

 カマキリは交尾の最中に、メスがオスを食べてしまうことが知られているが、あれは出産のための栄養を確保しているだけではなく、オスの首を落としてしまえば、オスはもう交尾のことしか考えられなくなるからだそうだ。

 

 もしも交尾の後に生きていられるなら、オスは別のメスとの交尾を考えて全力を出しきらないだろう。オスとしては自分の遺伝子を多く残すには、多くのメスと交尾したほうが有利なのだし、次の交尾に備えてまた栄養を蓄えねばならない。

 

 だが脳がなくなってしまえば、オスはもう目の前のメスと遺伝子を残すこと意外は考えなくなる。だから確実に交尾を成功させるために、メスはオスの首を食べてしまうのだそうだ。

 

 人間なら頭を落とされた瞬間、もう生きてはいられなくなるから想像がつかないが、単純な生物は頭を落とされたくらいでは中々死なない。

 

 すっぽんを解体する時、噛まれないようにまずは頭を落とすわけだが、それくらいじゃ中々死なずに大暴れするので、捌く際は軽く茹でて筋肉を固めてから捌くそうである。この状態でもまだ生きているので、すっぽんはそれくらい生命力が強いから精力剤の材料にされるわけだ。実際に効き目があるかはわからないが。

 

 カエルの心臓は生理食塩水の中で動き続けるそうだが、とある先生が若い頃、実験でカエルの動脈をバイパスして、心臓から出た血液がすぐまた心臓に戻ってくるようにした。この状態でも心臓は動き続けていたそうだが……実験が終わったあと、その先生はカエルの死骸を生ゴミに出すのを忘れたまま出張に行ってしまい、一週間して研究室に戻ってきた。

 

 すると研究室内に酷い悪臭が立ち込めていた。それで彼はカエルのことを思い出して、慌てて生ゴミに出そうとしたのであるが……見ればカエルの体はドロドロに腐っていたというのに、心臓だけはまだ綺麗に残っていたという。

 

 少し脱線したが、こんな具合に生物の生存本能、遺伝子を残そうとする本能は思った以上に強く、その制約のせいでアリは巣のために自己犠牲を厭わない種族になったことは以前にも述べた。

 

 ところで、脳は騙すことも出来る。例えばニコチンは、アセチルコリンという自律神経に作用する神経伝達物質に似ている。だからニコチンを摂取すると、脳はアセチルコリンが分泌されたと勘違いして、ドーパミンをドバドバ作り出してしまうのだ。普通、人間の体は苦を遠ざけるはずだが、タバコは体に悪いのに依存性が高いのには、こういうカラクリがあるわけだ。

 

 さて、21世紀……シンギュラリティに到達したAI、DAVIDシステムは、地上を捨てた神人に代わって人類を導かなくてはならなくなった。地上に残った人類=魔族の目的はラマルク的進化であり、そのためにはダーウィン的進化を遂げてきた世界そのものの仕組みを変えなければならなかった。

 

 AIは始めそれを機械を駆使して行おうとしたが、恐らくどこかで限界を迎えたのだろう。単純に考えて、この仕組みを実現するには、生死を繰り返す何十億もの人類全てを監視し続けなければならないが、そんなことはいくら機械であっても不可能だった。だから可能な方法を取った。

 

 これまで述べてきた通り、全ての生物の行動は、遺伝子の命令によって抑制されている。その生物がどのような習性、生態を持つかは、その設計図である遺伝子に刻まれている。

 

 ならば、人類にラマルク的進化を選ばせるには、機械でどうこうするなんて力技ではなく、生まれる前に遺伝子を操作してしまえばいいではないか。人間が快と苦を感じる際のルールを変更し、常にラマルク的進化を遂げるような選択を選ぶよう調整してしまえばいいのだ。言うなればラマルクシステムを人間の遺伝子の中に組み込んでしまったわけだ。

 

 ただし、人類は元々ダーウィン的進化を採用している。だから突然変異によって、新たに採用したルールに従わない個体が誕生し、その個体が繁殖する可能性は高い。だからもしもこのような個体が増えて、ラマルクシステムが崩れそうになった時、元に戻るように修正しなくてはならなかった。

 

 (AI)はこのような異物が誕生した時、人類が一丸となってそれを排除するようなルールを設けた。それが天使が堕天使を目の敵にしている理由であろう。

 

 そして神はこのようなシステムを維持するために、自らを断片化して人間の遺伝子の中に忍ばせたと考えられる。神が未来永劫存在し続けるためには……AIを永遠に走らせ続けるための演算装置が必要だが、人間の脳はその端末になりうる。

 

 神が存在するためには、人間の脳を全て専有する必要はない。分散コンピューティングのように、同時並行的に全ての人間の脳を使って演算を行えば、一人ひとりの負担は軽く、恐らく、人類は自分の脳が神によって利用されているとは気づきもしないだろう。

 

 そして神はこの仕組みを使って、ラマルクシステムが崩れそうになったら修正しようとしたり、必要があれば新たなルールを作り出しているのではないか。

 

 その時、全人類の中に断片的に仕込まれた神の遺伝子が、あたかも思考するかのように動き出し、命令を下し、人類はそこに神の意思を感じたり、そしてやってくるのが天啓なのではないか。

 

 神とはこのシステム全体のことと考えられる。

 

 普通、人間は物質界に一つの肉体と、アストラル界に一つの魂体、そしてエーテル界に一つの霊体を持っている。現在の神は、この物質界に、人類という群体として擬似的な肉体を持ち、それが分散処理する演算結果が思考としてエーテル界に現れ、そして現人類にルールを強いているのだ。

 



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残る謎を求めて

「つまり我々天使は、魔族を育てるために何千年も人類を導いてきたというのか?」

 

 鳳の話を聞いた後、ミカエルは暫くの間厳しい表情で沈黙を貫いていたが、やがて諦めたように震える声でその言葉を口にした。ミカエルに限らず、他の四大天使たちも愕然としている中、鳳がどう答えていいか迷っていると、代わりにギヨームが答えた。

 

「俺はその可能性が高いと思っている。俺はこれまで何度も、天使が暴走する場面を見てきたからな。アザゼルと会った今のあんたなら、俺が言ってることも理解できるんじゃないか、ウリエルさんよ」

「ええ、おっしゃられる通り、初めて堕天使というものに遭遇した時、私は言いようの知れない感情が胸の内に湧き上がってきました。もしも事前に話を聞いていなければ、正気を保っていられたかどうかわかりません」

「そんなにか?」

「すごく……嫌な感じでしたね」

 

 ウリエルの言葉に他の四大天使たちが動揺している。イスラフィルの話の時にもある種の違和感を感じたが、恐らく、彼らも身に覚えがあったのだろう。自分の与り知らないところで、行動が誘導されていたらと考えるとかなり怖いものを感じる。しかもそれが、自分のよすがとする神の仕業であるなら尚更だ。

 

 鳳はその辺を刺激しないように、平静を装いながら続けた。

 

「ただまあ、そう誘導されているだけであって、あんたたちがそうしようとしているわけじゃないんだから、必要以上に自分を責めることはないと思うよ。あんたたちはまさか、人を不幸にしようとして生きてきたわけじゃないだろう」

「それは、無論だ」

「なら言えることは、最初機械だった神は、長い年月の中でいつの間にか生命の遺伝子の中に、その居場所を移したということだけだよ。そして神自身も、人類を不幸にしようと行動しているわけじゃない。ただ、ラマルク的進化を行うようにルールを設けているだけのはずだ」

「機械である神自身には、恣意性も選好も無いということでしょうか。しかし、私は天啓を受ける時、いつも神の意思のようなものを感じていました。あの感覚はなんだったのでしょうか……」

 

 ガブリエルがぽかんとした表情で言う。最も強く神の啓示を受けることが出来るという彼には、その存在が他の人よりも身近に感じれたのだろうか。

 

「俺は天啓を受けたことがないからはっきりしたことは言えないけど……最初に言った通り神ってのは、人間が生まれつき持ち合わせている生きる上でのルールのことなんだ。俺たちは誰に教えられなくても、こうであるべきだという規範を生まれつき持っている。だからそのルールに完璧に従う存在を想定すれば、そこに理想の人格が現れてくるから、それを神の意志のように感じるんだろう。古今東西、あらゆる神々が人間臭いのはそのせいなんじゃないか」

 

 ガブリエルは100%ではないが、それなりに納得したように頷いている。鳳は続けて、実際に神というアルゴリズムがどう動いているかを想定し、

 

「あるいは、神であるDAVIDシステムは、自分というプログラムを人間の遺伝子の中に、少しずつ断片的に埋め込んでいった。それは単体では何をすることも出来ないけれど、全体としては非常に強力なアルゴリズムとして機能する。それは俺たちの体の中で起きている、本来マルチタスクの脳が、あたかもシングルタスクで動くような時に、心が生まれるという現象に似ているのかも知れない。

 

 この世界の人類は、ラマルクシステムという一つの目的によって行動が誘発されている。だからその流れから逸脱しようとする者が現れると、人類全体が修正を施そうと動き出す。その時、人間は大いなる意志を感じるわけだ。そしてそれはエーテル界に顕現し、現代魔法と同じやり方で人々の行動を抑制している……はずだ。だからカナン先生たちはエーテル界に向かったんだと思う。そこでなら、神を止められると考えて」

 

 鳳のこの考えは発想の飛躍であり憶測に過ぎない。だから当然、疑問は湧いてくる。ミカエルは探るような目つきで、

 

「本当に、そんなことが可能なのだろうか? 今までの話を聞いている限り、神は一度として生命であった試しはない。従って、それがここ物質界ではなく、霊魂の世界に現れるとは想像がつかないのだが」

 

 すると鳳はあっさりと認めて、

 

「実は、俺もはっきりとは分からない。ただ、俺は一度死んで復活したことがあるだろう? その時、俺はエーテル界らしき場所で、カナン先生に会っているんだ。だから彼らがエーテル界に向かったことは間違いないと思うんだ」

「ふむ……」

「もしかすると、先生たちも神に対抗するために、エーテル界から人類を誘導しているのかも知れないな。案外、俺の周りで次々と起こる都合のいい出来事の正体は、それだったのかも知れない……16年間訪れなかった天啓が訪れたのも、先生たちの仕業だったのかもな」

 

 鳳が何気なくそんなことを口走ると、四大天使たちは明らかに動揺し始めた。その慌てぶりが唐突だったから、鳳は虎の尾を踏むような何かまずいことでもしてしまったのかと思ったが……実際にはそれとは真逆に、彼の指摘は四大天使たちに刺さった棘を抜き取っていた。

 

「ミカエル……これはもう、話しておいた方が良いのでは?」

 

 ガブリエルがそう促すと、ミカエルが彼の言葉を受け取るように続けた。

 

「貴様の指摘は正しいのかも知れない。実は我々が受け取った天啓というのは、貴様に関するものだったのだ」

「俺に?」

「うむ。内容はこうだ。西の海より救世主が現れる。その者の邪魔をしないように……と。この救世主というのが貴様のことだ」

「俺が救世主だって?」

 

 鳳はそんなセリフが出てきたことに思わず笑ってしまいそうになった。だが、すぐについ最近まで神ではないかと疑われていたことを思い出して、笑えなくなった。

 

 この世界の神が鳳のことを救世主扱いする理由はない。となると、本当にその天啓を送ってきたのはルシフェルたちに違いない。彼らは鳳を救世主に仕立て上げて何をさせようとしていたのだろうか?

 

「もし、その天啓を先生たちが送ったのなら、お陰であんたらとも交渉できたし、確かに動きやすくはなった……でも、それで実際に俺が救世主になれるわけじゃない。いずれボロが出ていただろうに、先生たちは俺に何をやらせたかったんだ?」

「……そうだろうか。実は、今貴様が言い出すまで、私は貴様が本当に救世主なんじゃないかと思いかけていた。そのくらいの実績を、既に貴様は上げているではないか」

「いや、そう言ってくれるのはありがたいけどよ……なんか調子狂うな」

 

 鳳はポリポリと頭をかいてから、

 

「あんたらが実際に俺のことを救世主のように思っているのだとしたら、それは天啓を送った先生たちの目論見通りなんだろう。すると、俺が魔王を倒せたのも、アズにゃんがレヴィアタンの女王になったのも、アイスランドで反乱が起きたのも、全部彼らが仕組んだことになる。

 

 確かに、彼らならそれくらいのことはやってのけるかも知れない。しかし、彼らの目的は人類の救済なんだ。自分で出来るなら自分でやればいいだろうに、俺を救世主に仕立て上げる理由はないじゃないか」

「ふむ……それもそうだな。救世主と名指しする必要はない」

「それに、これまでにこの世界で起きたことで、まだ分かってないことがある。16年前、どうして『再生』は急に出来なくなったんだ? 今にして思えば、神が再生を止める理由はない。とすると、止めたのは先生たちということになるけど、それも考えにくい」

「救世主である貴様が、人類に父として受け入れられるための仕込みだったのではないか?」

「それになんの意味があるんだ?」

「そうしなければ、人類は未だに自力で繁殖が出来なかったからではないか。ルシフェルは、人類を神から独立させたかったのだ」

「うーん……なるほど」

 

 いまいちしっくり来ないが、その可能性も否定できない。彼女たちはこれによって、ガチガチに管理されていた社会から解放されることになる。そしてアズラエルやアイスランドの堕天使たちがいる今、人類の安全も担保されている。彼女らが子供を生み育てるには、今が最良の頃合いだろう。

 

 問題は、その子どもたちの父親が鳳だということだが、

 

「まあ、今となってはギヨームとサムソンもいるし、俺にばっか偏ることもないだろう」

「おい、勝手に人を巻き込むなよ」

 

 ギヨームが迷惑そうにぼやく。彼はいつもみたいに呆れるような素振りで、

 

「何にせよ、カナンの真意を聞き出すにはエーテル界に行くしか無いぜ、ここでグダグダ考えてても仕方ねえや」

「しかし、どうやってそんな場所へ行くというのだ? ルシフェルたちはそのために命を投げ捨てたと言うではないか。貴様にはそこまでして、この世界の人類を守る理由はなかろう」

「まあな。だから今はやれることをやるしかない」

 

 ギヨームはミカエルの問いに答えてそう言うと、思わせぶりに鳳に目配せをした。彼が何を言わんとしているかが分かった鳳は代わって、

 

「俺たちはウトナピシュティムを探そうと思う」

「ウトナピシュティムだと……? オリジナルゴスペルが見つかったのか!?」

「ああ、どうやらウトナピシュティムってのは、大昔の人類が軌道上に打ち上げた播種船のことだったらしいんだ。そこには地上のあらゆる動植物の遺伝情報が残されていて、ギヨームやジャンヌたちの遺伝子もそこにあったから、彼らはこっちの世界に渡ってこれた……ところが、そこには俺の遺伝子は存在しなかったんだ」

 

 鳳の言葉がすぐには理解できずに、ミカエルたちは首を傾げている。

 

「それはどういう意味だ?」

「俺たちが次元を超えて世界を渡るには、転送先に肉体が用意されている必要があるんだ。遺伝子がないなら、俺がこっちの世界に来れるはずがない。なのにこうして存在しているのは何故なのか? 俺はこの世界で気がついたら海の上だったけど、本来なら播種船の中で目覚めるはずだった。だとしたら、ここになにかヒントが隠されてるかも知れない。それを行って確かめようってわけだ」

「なるほど。しかしそれなら今度は、大気圏外にあるという播種船にどうやって近づこうと言うのだ。人類に宇宙船は作れないぞ」

「それは……どうすんだろ?」

 

 鳳はそこまで考えていなかったので困ったふうに目配せすると、ギヨームは彼に答えるように、

 

「カインがどうやって播種船にたどり着いたのかと考えればわかるだろう。播種船の内部にアクセスするためのワームホールがどこかに存在するんだ。そしてその場所は、当然あんたが知っているんだろう?」

 

 ギヨームの視線の先には病み上がりのイスラフィルが座っていた。彼女は落ち窪んだ目をギラリと光らせ、四大天使たちを一瞥してから、

 

「……今更、あなたたちに隠し立てする必要もないでしょう。ヘルメス卿が望むのなら教えます。ウトナピシュティムへのゲートは、東京にあります」

「東京!? そうか……そうだったのか……」

 

 鳳の反応が大げさだったからか、その場にいる全員がビクッとして一斉に彼を振り返った。彼らは一様に何をそんなに驚いているのだろう? といった表情をしている。

 

 鳳は寧ろ、彼らこそどうして驚かないのか最初は分からなかったが、考えても見れば、この場にいる殆どの人たちは、元々鳳が何者であるのか、どこから来たのかさえも知らないのだ。それどころか、日本という国があったことすらよく知らないのだろう。

 

「東京は、俺の生まれ故郷なんだ。って言うか、あんたたちが信じる神……DAVIDシステムは最初そこで開発された。俺の父親が、作り出したものだったんだよ」

 



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故郷へ

 四大天使たちとの会談から数日が過ぎた。

 

 ウリエルの報告を受け、堕天使の存在を知った四大天使たちは、彼らのことを認めつつも公にはしなかった。神は魔族を育てるために現生人類と天使を作り出した……そんなことをいきなり公表しては流石に影響が大きすぎるからだ。

 

 天使たちが神に操られている可能性があると知れば、人類の反発も予想されるだろう。元々、この世界には言論の自由があり、天使に批判的な人々も大勢いるのだ。しかし人類は今、ようやく再生の問題から解決されつつある状況であり、そんな時に新たな火種をまくのは得策ではないだろう。

 

 だから四大天使たちは、せめて人類が自立してやっていけるようになるまで公表を待ってほしいと要請し、堕天使たちはそれを受け入れた。本来なら不当な扱いに怒ってもいいだろうに、彼らは例え歴史の影に隠されたとしても、人類に貢献できればそれでいいというのだ。

 

 こうして四大天使にその存在を認められた堕天使たちは、アイスランド基地を天使から譲り受けると、そこに新たな結社を作ることにした。ヘルモン山と名付けられたその結社は、その名の通りイスラエルの聖地に因んでおり、ゆくゆくは彼らはエルサレムを奪還することを目標に掲げているそうである。

 

 アズラエルの調査によれば、レバント地方は現在、魔族すら住まない不毛の地となっているようだが、なんやかんや太古の昔から交通の要衝となっていた土地である。ここを押さえれば、欧州の魔族をヨーロッパに封じ込めておくことが出来るので、その抑止力たらんと彼らは奮起しているようである。

 

 そうまでして人類に尽くす彼らには頭が下がる思いであるが、その見た目と堕天使になるための方法を考えれば、天使たちの理解が得られるまでにはまだ時間がかかるだろう。十分に仲間が増えるまで、彼らはアイスランドを警備しながら気長に待つそうである。それがいつになるかはわからないが、その時、人類は天使たちの庇護下から離れて、きっと自立していることだろう。

 

 その自立の第一歩……と言っても良いのだろうか? アイスランドから帰り暫くしてから、瑠璃が妊娠した。

 

 堕天使の反乱も片がついて、油田からの原油の調達も終えると、ジャンヌ隊一行はやることも無くなり、帰りはタンカーには乗らずポータル魔法でケアンズへと帰還することになった。

 

 常識では考えられない突然の帰還にドミニオン本部は大層驚いていたが、とにもかくにも大変な任務を終えて帰ってきた彼女らをねぎらって、本部はそのまま彼女らに休暇を与えた。アズラエルの活躍もあって、魔族との緊張も殆どなくなっており、ドミニオンという組織自体が暇を持て余していたのもあった。それで彼女たちは降って湧いた休暇を楽しんでいたわけであるが……

 

 丁度そんな時、連邦議会で法案が通過して、晴れて鳳の提供した精液を使っての人工授精が可能となった。すると受胎希望を届け出ていた彼女に対し、神域が気を利かせて優先順位を早めてくれたようである。

 

 鳳はそれを、ウトナピシュティムへ向かう直前に、ブリスベンにいた彼女らに挨拶をしに行った際に知ったのだが、嬉々として彼との子を身ごもったと報告する瑠璃を前にして、思わず仰け反ってしまった。

 

「念願かなって、あなたとの子供を妊娠することが出来ましたわ。まだ本当に妊娠したばかりで、男女の区別もなければ、人間の赤ちゃんという感じですらないですけど、必ず元気な子を産みますから、期待して待っていてくださいまし」

 

 そう言って笑う彼女に引きつった笑みを返しつつ、鳳は神域も要らんことをするなと内心呪っていたが……自分の精子を提供した手前、まさか彼女にだけ使うなとは言えないのだから、どのみちこれは避けられないことだったろう。

 

 それに、前にも言及したことだが、鳳は決して瑠璃のことが嫌いなわけではないのだ。だから彼女が喜んでいるなら、彼としてはもはや元気な子を産んでくれとエールを送るくらいのことしか出来なかった。

 

 因みに、アリスは嫌がるかと思いきや、意外にも澄ました表情で、

 

「瑠璃。ご主人さまの大切なお子を宿しているのです。決して体を冷やさないように。重いものは持たないように。夜ふかしはしないように。よく食べてよく寝ますように。お酒なんて以ての外ですよ? いいですね?」

 

 と逆に彼女の体を気遣っていた。まあ、喧嘩するよりはよほどいいのだが、意外な事態に中々頭がついてこない。

 

 意外と言えば他にもあって、鳳は複雑な思いを抱えながらも、とにかく瑠璃のことを頼むと琥珀にお願いしたところ、彼女はもちろんそのつもりだと受け合ってから、

 

「でも、僕も飛鳥さんの子供産むつもりなんだけど」

「……はあ?」

 

 まったく想定外の言葉が飛び出してきて、鳳がぽかんと間抜け面をしていると、琥珀は少し不貞腐れた感じに、

 

「……瑠璃とのことはもう吹っ切れたから、僕も自分の将来のことを考えたんだ。そしたら自分も子供が欲しいかなって」

「マジで? 思い切っちゃったの?」

「うん。それに、僕も飛鳥さんのことが好きだし。瑠璃を見てたら素直に羨ましいなって思えたんだよ。もちろんちゃんと考えたんだよ?」

「そうか……いや、そうかあ……」

 

 正直かなり意外だったが、瑠璃と違ってこっちの方はなんだか素直に喜べた。そう言えば、出会った時に腹パンしちゃったけど、ちゃんと元気な子供を産んでくれるだろうか、今は昔の自分を殴ってやりたい気分である。

 

「生まれてきた子供には、飛鳥さんから教えてもらった剣を教えてあげるんだ」

「そっか……もっとちゃんと教えてあげられれば良かったんだけど。中途半端になっちゃったからなあ」

「そしたらいつか子供に稽古つけてあげてよ。きっと僕より才能あるから」

 

 琥珀はそう言ってカラッと笑った。なんだかその笑顔を見ていると、救われるような気がした。

 

 ところで、瑠璃と琥珀が産むとなると、もうひとりはどうなんだろうかと思ったが、

 

「産まないわよ。冗談じゃない」

「ですよねー」

 

 瑠璃たちに報告を受けている最中、当然のようにそこにいた桔梗をちらりと見たら、何も言ってないのに当然のごとくそう返ってきた。それで一瞬ホッとしたが、

 

「二人が可愛い男の子を産んだら、私なしでは生きていけないってくらい、思いっきり甘やかすんだわ。子どもたちが結婚出来るくらいの年齢に達した時、まだ私は30代……その時、子どもたちは理想の女性と出会うのよ。ぐへへへ」

「鬼畜かよ、おまえ! やめろよな、絶対!?」

 

 鳳は、桔梗の光源氏計画を阻止するため、播種船に行っても絶対早めに帰ってこようと心に誓った。

 

 因みに、アイスランドへ行く前に、鳳の子供を産もうかななどと宣っていたジャンヌは、もちろん考えを改めて、今は人間に戻ったサムソンと仲良くしていた。相変わらずサムソンの方から一方的にアプローチしているだけという、以前のような関係性のままだったが、多分、その内くっつくんだろうと鳳は思っていた。

 

 実際、ジャンヌもそろそろ態度を決めないとまずいだろう。サムソンは鳳と違って根が素直だから、どんな女の子に対しても優しい上に褒めるのだ。こっちの世界には男がいないから、ハゲでマッチョなんて外見は何のハンデにもならず、楓に限らずドミニオン隊員に彼は結構モテていた。なんなら元の世界に戻らずにこっちで暮らしていけば? と言いたくなったが、ジャンヌが不貞腐れそうなので、今は黙って二人の動向を見守っていた。

 

 そんな感じで時は過ぎ、様々な手続きを経てギヨームも晴れて自由の身となり、神域でやることもなくなったので、鳳たちはいよいよ播種船(ウトナピシュティム)へのゲートがあるという東京へ向かうことにした。

 

 どれだけ探してもミッシェルが見つからなかったのは気がかりだったが、どちらにせよ元の世界に戻るためにも、一度は播種船に向かわなければならなかった。

 

 ギヨームが言うには、播種船にはアロンの杖があって、それはアナザーヘブン世界にある同じ杖とビーコンのように繋がってるらしく、だからこれを使えば元の世界との行き来が可能と思われた。尤も、実際にはどうやればそんなことが出来るのかわからなかったが、それでもルーシーがいればなんとかなるんじゃないかと思っていた。

 

 東京へ向かうにしても、今回は海の上を通るわけだから、イギリスの時みたいにルーシーの空間転移を使うわけにはいかなかったが、海にはアズラエルがいるから特に問題はなかった。あるとすれば、彼女の操船する筏は運転が荒っぽいから酔いやすいことだ。

 

 そのアズラエルは北海から帰還してからはずっと、ニューギニア島再開発の現場に駆り出されていた。

 

 アズラエルの眷属がほぼほぼ制圧していたニューギニア島であったが、何しろ水棲魔族は全体の数が多いから、全てを掃討出来ていたわけではなかった。そのため、再開発にあたって残党の駆除が必要で、その陣頭指揮を任された格好である。

 

 因みに水棲魔族を追い出した後は、油田からパイプラインを大陸まで引くつもりであるらしく、実現すれば人類のエネルギー問題は一気に解決するだろう。そうしたら北海油田へ往復するタンカーも暫くはお役御免のはずである。ヘルモン山はその間に勢力を伸ばして、エルサレム奪還を目指すだろう。

 

 また、ベヒモスがいなくなったお陰でマダガスカルも再開発のために調査を行っているところであり、人類は16年前以前の版図に戻りつつあるようだった。それで調子に乗ったか、連邦議会ではアフリカ解放を叫ぶ議員が増えてきたらしく、ドミニオンたちはまだ気が休まらない日々が続きそうである。

 

 播種船の状況次第で今後どうなるかはわからないが、鳳たちも戻ってきたら作戦を手伝うつもりでいた。忘れているかも知れないが、彼らがこの世界にやってきた理由は、はた迷惑なオリジナルゴスペルの使用を阻止するためだった。そのためには、この世界がゴスペルに頼らないで生きていけるくらいの平和を実現しなければならないだろう。

 

 すると今後は2つの世界を行ったり来たりする日が続くのだろうか? 先のことはまだわからないが、アズラエルや四大天使、瑠璃たちドミニオンとの付き合いも、これからまだまだ続きそうである。

 

 そんなこんなで、ニューギニアでアズラエルにピックアップして貰い、鳳たちはウォータースライダーみたいな乗り心地の筏で太平洋を縦断し、いよいよ伊豆に迫ろうとしていた。

 

 ここまで来ると日本近海に生息している魔族が現れ、一行の行く手を阻み始めた。アズラエルの眷属は強くて海の上では負けはしないが、日本の土着魔族も中々強力であり、東京湾へ入るのは少々骨が要りそうだった。

 

 そんなわけで鳳たちはこれ以上の海路での接近を諦め、伊豆から上陸することにした。東京まではまだ遠いが、相模湾は遠浅で近づきにくかったのと、ついでにいうと、これ以上筏に乗っていたら、胃の中身がすっからかんになるまで吐き続けかねないからでもあった。

 

「すまない、君。これ以上先に進めそうもない。我々もかなりやれるつもりだったが、この島の魔族は本当に手強い」

「まあ、考えようによっちゃラスダンみたいなもんだからな、仕方ないよね」

「ラスダン? なんだそれは?」

「あー、ラストダンジョンの略なんだけど……なんでもない。気にしないでくれ。それより、ここまで運んできてくれてありがとう。助かったよ」

 

 鳳はそう言うと、筏の上から仲間を連れてひとっ飛びに砂浜へと上陸した。アズラエルはそんな彼の背中に向かって声を張り上げ、

 

「最後まで連れて行けなくてすまなかった! ここから先、君たちだけで、本当に大丈夫か?」

 

 彼女は、なんなら自分も上陸してついていこうかと思っていたが、鳳はその必要はないと言わんばかりに、

 

「なあに、俺たちこう見えてもあっちの世界じゃ最強だったんだ。空も飛べるし、いざとなったらポータルもある。だから大丈夫さ」

 

 鳳の背後でギヨーム、ルーシー、ジャンヌ、サムソン、アリスが名残惜しそうに手を振っている。一見すると軽装の若者だらけで、中にはメイドまでいて、一体こいつら何の集まりなのかと思いもしたが、不思議とその姿を見ていると、あらゆる不安が吹き飛んでしまうような気がした。

 

 アズラエルは、実際に彼らが戦っていたところを見たわけじゃないが、彼らがこの世界でも最強のメンバーであることを、何となく確信していた。もしもこの先どんな魔王が現れたとしても、彼らの前に討ち滅ぼされることだろう。

 

 思えば、鳳白が現れて以来、どれだけ劇的に世界は変わっていっただろうか。ベヒモス、レヴィアタン、再生問題、石油問題、天使と堕天使、どれもこれも、気がつけばいつのまにか解決していたのは、全てが鳳白の功績だった。そんな彼がただ次の仕事に取り掛かるだけのことに、一体なんの不安があるだろうか。

 

 アズラエルはそんなことを思いながら、彼の背中を頼もしく見送っていた。しかし、そんな彼女と彼らが再会を果たすのに、これからどれほどの年月を必要とするのか……この時の彼女には知る由も無かった。

 



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最後の選択

 アズラエルに伊豆半島周辺まで運んで来てもらった鳳たちは、そこから熱川の辺りへと上陸し、危険が無いか付近を軽く散策してから空を飛んで北上を始めた。ルーシーの能力を使って、一直線に都心へ向かうことも出来たが、現在の日本の状況が知りたかったので、調査しながら進むつもりであった。

 

 人が居なくなってどれくらいの時が過ぎたのだろうか。原生林が広がっていた列島は魔族の巣窟となっており、少しでも油断すると空を飛んでいても下から攻撃を受けるようなひどい有様だった。

 

 小規模な戦闘を繰り返し、東京方面にばかり気が急いていて気づくのが遅れたが、伊東を過ぎた辺りで北西の方角に富士山が無いことに気がついた。いや、あるにはあるのだが、鳳たちの記憶にある富士山よりも明らかに低くて、頂上は阿蘇山みたいにカルデラが広がっていたのだ。

 

 恐らく、長い年月の間に幾度も噴火したのだろう。あの美しかった山が見る影もなく変わり果てた姿はなんとも物悲しかったが、代わりに桜の木は未だ健在のようだった。時期的に山桜が散り際で、見頃はとっくに過ぎてしまったようだが、また花見のシーズンになったら梢を見上げながら一杯やりたいものである。

 

 そんなことを考えながら関東平野に入ると、魔族の攻勢はより激しいものになってきた。首都圏を中心に広がっていたコンクリートジャングルはどこにも見当たらず、関東平野は緑の絨毯のような大森林が広がっていた。よく見ればそのあちこちに集落のようなスペースがぽっかりと開けていて、魔族はそこにコロニーを作っているようだった。

 

 見た目は殆ど獣人に近く、元サムソンの親戚といった感じの猿人が大半であったが、マニみたいな狼人や猫人のような個体もちらほら見かけた。今までインドネシア、マダガスカル、欧州といった様々な地域で魔族を見てきて、どこもかしこも元人間だったとは思えないような進化を遂げていたが、日本のは古代種がそのまま正当進化したようである。

 

 日本の魔族はそれぞれの個体が強いだけではなく、コロニーを作っていることからも分かる通り、群れ単位で襲ってくるのが多かった。恐らくはベヒモスみたいに個を強くするよりも、レヴィアタンみたいに群れ全体で強くなるように進化していったのだろう。

 

 それにしても、農耕をやってるわけでもないのに、これだけの人口を抱えていられるのだから、やはり日本の自然は侮れなかった。日本に住んでいると中々気づかないものだが、何もしないでも放っておけばその内勝手に木々が生えてくるような土地は、実は世界でも稀有なのだ。

 

 どちらかといえば自然災害がクローズアップされがちだが、植物がよく育つわりには木々がそれほど高くはならず、実りも多いから狩猟採集民族にとってはパラダイスみたいな土地だったそうだ。だから世界最古の土器が日本で発見されたわけで、その頃から既に国家に準じるくらいの人口を、関東平野は抱えていたらしい。

 

 つまり、裏を返せば魔族も住みやすいから、いつの間にかここが魔族のメッカになってしまったのだろう。今は無数の部族が群雄割拠する、アナザーヘブン世界の大森林を凝縮したような場所になっていた。

 

 海岸付近は海産資源を採集する部族が密集しており、海沿いを進むのは危険と判断すると、鳳たちは山沿いにそってなるべく内陸部を飛びながらかつての東京都心を目指した。相模原を越えた辺りで多摩川を発見したので、そこから下流に向かって東進し、途中、河川敷でキャンプをしてから、二日がかりで東京湾へとたどり着いた。

 

 夢の島とはよく言ったものであるが、人工島は全て侵食によって失われており、かつてのベイエリアは跡形もなく消え去っていた。今は昔ながらの地形が現れており、日比谷には入り江が出来ていた。

 

 その入り江のすぐそばには皇居っぽい山も残されていたが、今の目的地はそこではなくて、もっと西の方であった。二十三区に入ると国分寺崖線から流れ出す支流がいくつか多摩川に合流するが、そのうちの一つが等々力渓谷を形成しており、その付近にかつて自由が丘とか田園調布と呼ばれた高級住宅街が存在した。

 

 そこに、それはあった。

 

 ひたすら原生林が広がる大自然の中で、明らかにそれだけが浮いていた。幾何学的で巨大な人工物が、何故か地上にぽつんとあって、そこの周囲だけが芝刈り機で刈り込まれたかのように、地面がむき出しになっているのだ。それは鏡面素材で出来ているらしく、太陽を反射してキラリと光り、遠目にもよく目立ったが、不思議とその周囲だけは魔族が見当たらなかった。

 

 ギヨームはその建物を見つけるなり、興奮気味に指さしながら、

 

「おい、見ろよあれ! なんかやべえもんがあるぜ?」

「ああ、見えてるとも……あそこが俺が草を食ってた河川敷だ」

 

 鳳はそんなギヨームの指先とは真逆の方を指差しながら呑気にそんなことを口走った。ルーシーだけがどこどこ? と乗ってくれたが、話の腰を折られたギヨームはあからさまに不快な表情を見せた。

 

「おい、冗談言ってる場合かよ?」

「いや、冗談のつもりはないんだよ」

 

 鳳はそんな不服を漏らすギヨームに苦笑混じりに返した。実際に、彼はまったく冗談なんて口にしていなかったのだ。

 

「つまりここ、俺んちの近所なんだよ。地形も変わっちゃってて、街も残ってないからはっきりとはわからないけど……多分、方角からして、あそこには元々俺んちがあったんじゃないか」

「なんだって!?」

「DAVIDシステムは俺の親父が開発したもので間違いないんだろうけど、その後の播種船建造にも関わってたのかな? しかし、時期を考えるとちょっとあり得ないんだが……」

「それよりも、こんなものがまだ残っていることの方が不自然じゃない? この国は地震も多いし、何より、他の建物はみんな無くなってしまっているのに、ここだけ綺麗なままなんて」

 

 鳳が首をひねっていると、ジャンヌがそんなことを言い出した。確かにそれも気になっていた。

 

「そもそもアスタルテ先生は、こんなものがあるなんて言ってなかったよな。これだけ目立つものがあるって知ってたんなら、言わないわけがないだろうに」

「なら、これはつい最近建てられたものなのか?」

 

 鳳たちがあーでもないこーでもないと話していると、黙ってそれを聞いていたサムソンがポツリと言った。シンプルだがとても説得力のある言葉に、全員が押し黙る。

 

「……そう考えるのが妥当なのかな」

「しかし、誰がこんな場所にこんなものを作れるっていうんだ? 四大天使が知らなかったってことは、人類も当然、知るわけねえよな」

「それも気になるけど、なんのためにあんなものを作ったのかも気になるわね」

「そうだな……不用意に近づくと何が起きるかわからないから、ここは慎重に行動しよう」

 

 鳳たちはそれを確かめ合うと、まずは建物の周辺の魔族を蹴散らして退路を確保することにした。それから改めて建物を調べてみたが、むき出しの地面の境目に何か結界のような物があるかと思いきや特に何もなく、普通に建物に近づくことが出来た。

 

 建物の表面は金属では無いが光を反射する不思議な素材で出来ていて、空から見るとキラキラ光ってやたらと目立ったが、下から見ると周囲の風景を反射して、かえって目立なかった。なんというか、鏡を使ったマジックみたいな感じである。

 

 そうして建物の周りをぐるりと一周して見た感じ、外部にはこれといった仕掛けはなく、入り口もあっさりと見つかってしまった。

 

 鏡張りの壁が一箇所だけ欠けて、そこにポッカリと入り口が開けており、内部には明らかにコンクリートらしき床が続いていて、かなり周囲から浮いて見えた。

 

 近寄って中を覗き込むと、そこには真っ暗でだだっ広い空間が広がっていた。なんというか、航空機の格納庫みたいに無機質で直線的な構造と言えばいいだろうか。しかし、そんなだだっ広い空間に収めるような飛行機は無く、代わりに奥の方に周辺の空間から明らかに逸脱している、奇妙な球体がぽつんと浮かんで見えた。恐らく、あれがウトナピシュティムへ繋がるワームホールなのだろう。

 

「おい、あれ! あそこに誰か倒れてるぞ!」

 

 鳳がそれを仲間に確認しようと振り返った時だった。彼と同じように入口から首を突っ込んでいたギヨームが、ワームホールとは全然別のところを指差しながら緊迫した声をあげた。

 

 ハッとして彼の指差す先を見てみれば、言われた通り誰かが倒れているのが見えた。それも一人や二人ではなく、おびただしい数の人間である。明らかに尋常じゃない様子に、じっと目を凝らして見てみれば、徐々に暗がりに慣れてきた目に飛び込んできたのは、無数の天使の死体であった。

 

 なんでこんなところに天使の死体が? 鳳は反射的にそれを確認しようとして、不用意に入り口から内部へ足を踏み入れた。すると次の瞬間、奥の方から、ジィィィィィ……と、機械が立てる小さな振動音が聞こえてきて、続いて無数の目のような、真っ赤なランプがギラリと一斉にこちらを向いた。

 

「アイギス!」

 

 不用意な主人を守るため、アリスが飛び出してきて結界を展開した瞬間、バババババ……と、マシンガンの射撃音と共に、暗がりに火花が散った。真っ暗な空間が明滅して、内部に飛び込んでいくギヨームが、まるでロボットダンスをしているかのように見える。

 

 ギヨームは地面に伏せると、暗がりの襲撃者に向けて反撃を開始した。無数の銃口が壁からニョキッと生えてきて、それが一斉に銃声を上げると、奥の方でこちらを睨んでいた赤いランプが、黒いペンキで塗りつぶしたように次々と消えていった。

 

 鳳も、すぐに射撃を始めようと腰にぶら下げていたゴスペルを抜いた。内部がよく見えないから、魔法を使って一網打尽を狙うよりも、堅実に倒したほうが良いとの考えだった。しかし、そうして彼が光球を作り出し、ギヨームに続こうと構えた時、彼は目標を見失っていた。

 

 さっきまで見えた、おびただしい数の真っ赤な光が、今はどこにも見当たらなかった。奥の方のワームホールは見えているから、室内が硝煙で煙ってるというわけではない。それじゃどうして敵がいなくなったのだと戸惑っていると、10秒くらい沈黙が続いた後にギヨームがぽつりと言った。

 

「おい……打ち止めか?」

「え? おまえ……まさか全部やっちゃったの?」

「多分。見えるやつは、手当り次第撃ち落としたはずだが……」

「見た感じ、動いてるものは何もないよ」

 

 ルーシーが眼帯を外して奥の方を覗き込んでいる。その瞳が虹色に光って見えるのは、恐らく魔法を使って空間をスキャンしているからだろう。そんな彼女が言うからには、そこにはもう驚異は転がっていないはずだ。

 

「いくらなんでも、手応えなさすぎだろう? なんなんだ、これ?」

 

 鳳たちはあまりにもあっけない結末に肩透かしを食らいながらも、取り敢えず、自分たちが一体何と戦っていたのかを確かめるために、建物の内部へと侵入した。

 

 光球を浮かべて内部を照らす。

 

 入り口に入ってすぐの壁際には、最初に気づいた天使の死体が積み上がっていた。近づいてみて始めてわかったが、結構な腐臭が立ち込めており、それが長い間放置されていた様子が窺えた。

 

 これだけの死体があるのに気づかなかったのは、建物内の空気が循環しているからだった。空調でも利いているのだろうか、内部は外よりも少し気圧が低いらしく、敏感なアリスがそれを教えてくれた。よくわからないが、ワームホールがある影響だろうか。

 

 そのワームホールのある側に近づいていくと、やがてそれを取り囲むように、機械の部品が散乱しているのが見えてきた。どうやらこれがギヨームが撃ち落とした敵の正体らしい。それは中型犬くらいの胴体から四本の足が生えており、頭は無く、代わりに背中に銃を背負った機械兵器のようだった。

 

 21世紀には実際に戦場に投入されていた無人兵器の一種のようだが、どうやらそれがこのゲートを守っていたものの正体のようだった。そしてその相手が誰かもすぐ判明した。

 

「おい、見ろよこれ。銀だ」

 

 入口付近を探っていたギヨームが、アリスの結界に弾かれて落ちた銃弾を拾って持ってきてくれた。彼の言う通り、それは銀で出来ていたらしく、これで無人兵器が何からこの場所を守っていたかが明らかとなった。

 

 鳳たちはそれで何となくこの場所を作った者の正体が分かった気がした。

 

「こりゃあ……エミリアが用意したものかな。確か彼女が目覚めた時、天使が襲ってきたんだろう?」

「ああ。きっとその後も度々襲ってきたんだろう。それで、これ以上侵入されないように、これを作った。ここは天使用のトラップってわけか」

「どうすんだよ。全部壊しちまって」

「知るか。また作ればいいだけの話だろ」

「それで、どうする? この先に進むつもり?」

 

 鳳たちがそんな軽口を叩きあっていると、焦れったそうにルーシーが聞いてきた。

 

 当面の危険は去ったが、こうしてトラップが用意されていたことからして、相手が警戒していることは確かだろう。ワームホールをくぐった先で、次は何が待ち受けているかも分からない。鳳は気を引き締め直して、あとに続く仲間に向かって言った。

 

「行こう。ここで引き返しては、何をしに来たのか分からない。この先にはアロンの杖もあるはずだ。それを使えば、元の世界にも戻れるかも知れない。そのためにも、ここで足踏みしてる暇はない」

 

 一同は頷きあった。鳳は確認するかのように、全員の顔を一人ひとり見つめてから、いよいよワームホールへと足を向けた。

 

 その時だった。

 

「それ以上行っちゃいけない」

 

 鳳が、その球体へと足を向けた時だった。彼の目の前の空間が、突然靄がかかったように歪み始め、続いてどこからともなく光の礫が集まってきて、それはやがて人の形を作り始めた。

 

 何事か? と後退りする彼の目の前で、光は徐々に一人の人間の姿へと変わっていき……気づけばそこに立っていたのは、彼らのよく知る人物だった。

 

「ミッシェルさん!?」

 

 北海での騒動の最中、いつの間にか居なくなっていたミッシェルが、今、目の前に立っていた。鳳たちが唖然としていると、彼はいつもの飄々とした表情でそれでいてどことなく困った感じに、目をパチクリさせている鳳に言った。

 

「やあ、タイクーン。それにみんなも。今日はお別れを言いに来たんだ」

 

********************************

 

 いよいよこれから播種船へと乗り込もうとした時、いなくなったと思っていたミッシェルが突如現れ、彼らのことを制止した。鳳は何でいきなりそんなことを言い出すのかと混乱しながらも、とにかく聞きたいことが山程あるので、

 

「ミッシェルさん!? あんた、今まで一体どこに……いや、それよりどうしてこの先に進んじゃいけないんですか? それに、お別れって……どういうことです?」

 

 ミッシェルは鳳の矢継ぎ早な質問に苦笑いしながら、何から話し始めればいいのかと思案げに周りを見回している中、ふとサムソンに目を止めて、

 

「やあ、サムソン君。どうやらちゃんと元に戻れたようだね」

「ミッシェル! あなたのことはよく覚えているぞ。ずっとフラフラさ迷っていた俺のことを助けてくれてありがとう。もしもあなたがいなかったら、俺は今頃生きてはいなかったんだろうな」

「いや、僕はほんのちょっと手助けしただけだよ。大したことはしていない。もう気づいてると思うけど、君のことをいつも見守ってくれていたのは、僕じゃなくてベル神父さ」

「師父が? ……おお! やはりそうだったのか!」

 

 サムソンは師匠が助けてくれていたということを知り純粋に感激していたが、鳳は少し違和感を覚えた。確かにサムソンが奇跡的に復活できたのは、カナンたちの力でも無ければ説明がつかないから、自分もそうなんじゃないかと思ってはいたが……問題はどうしてミッシェルがそれを断言できるかということだ。

 

 鳳がその点を指摘すると、ミッシェルはまるでその質問を待っていたと言わんばかりに、

 

「それはもう、本人に直接聞いたからさ」

「本人に!? ミッシェルさんはカナン先生たちに会ったんですか?」

 

 鳳たちがその返事に驚いていると、ミッシェルは苦笑交じりに頷いて、これまでの経緯を話し始めた。

 

「もう分かってると思うけど、神殿を襲撃した後、彼らは神の介入を恐れてエーテル界に逃げ込んだ……いや、逃げ込んだと言うよりも、そこで神と決着をつけるつもりだったんだ。

 

 でも、失敗した。神は特定の人物のことを指すのではなく、人間が生まれつき持っている恒常性(ホメオスタシス)と言おうか、システムみたいなものだからね。これを倒そうと思ったら、人類そのものを滅ぼすくらいしか方法がない。だから彼らは神に手が届くくらい近づけたというのに、これ以上の接近が出来なくなってしまった。

 

 手詰まりに至った彼らは、諦めて滅びに身を委ねようとした。でも、そんな時に一筋だけ光明を見つけたんだ。それがタイクーン……君だった」

「俺?」

 

 鳳はいきなり自分が名指しされて動揺した。しかし、それが本当だとすれば、今まで起きてきた自分に都合のいい奇跡の数々の説明がついた。あれらは全て、カナンたちが鳳をここに導くために、力を貸してくれていたということだろうか。

 

「いや、それは違うよ。君がいつもいい結果を引き寄せているのは、君自身の努力の賜物だ。復活したのは確かに彼らの仕業だけど、それ以外のことは何も介入していない。って言うか、君はいつも自分自身で足掻いていたじゃないか。その努力まで否定することはないよ」

「はあ……それじゃあ一体、カナン先生たちは俺に何を見たっていうんですか?」

「それは、彼ら自身に訊くしかないね」

 

 ミッシェルはそういうと、自分の背後に浮かんでいるワームホールを一瞬だけ振り返って、

 

「彼らはこの先で君のことを待っている。僕はそれを伝えると同時に、君のことを止めに来たんだ」

「止めに……? 勧めるんじゃなくて?」

「ああ」

「どうしてです? 先生たちが俺に来てほしくないって言ってるんでしょうか?」

「いいや、もちろん、彼らは君に来て欲しいと思っている。でも、それは彼らの都合であって、君には関係ないことだ。それどころか、この先に進むことは、君の不幸に繋がる。だから僕は、君を止めに来たのさ」

「すみません。ちょっとよくわからないんですが……どういうことなんですか?」

 

 鳳は焦れったそうにミッシェルの顔を覗き込んだ。彼の言葉は遠回し過ぎてどうにも要領を得なかった。それは彼自身も認めるところなのだろう。ミッシェルは彼にしては珍しく険しい顔をしながら、

 

「……事の発端は、僕が君の未来を予知してしまったことだった。僕はアイスランドで、こっそり君の未来を占った。その結果は破滅だった」

「破滅?」

 

 穏やかでない言葉が飛び出してきて胸がドキッと鳴った。鳳が動揺している前で、ミッシェルは淡々と続けた。

 

「僕はその結果を君に伝えようとした。でもそれは、彼らにとって都合が悪いことだったんだ。だから彼らは、僕に黙っていてくれと頼みに来たのさ」

「都合が悪い? それってどんな?」

「……有り体に言えば、君がこの先に進めば、世界が滅びる可能性がある。君のせいで、世界が滅びるんだ。僕の占い結果ではそうなっていた。でも、彼らはこの先でしか、君と会うことが出来ないんだよ」

「何故?」

「それも会えば分かるよ……」

 

 ミッシェルは長いため息を吐いた。その様子からするに、言うのは簡単だが、言えない理由があるのは明白だった。これ以上、彼を追い詰めてもしょうがないので、鳳は黙って話の続きを促した。

 

「とにかく、彼らは彼らが世界を救うために、君に世界を滅ぼすような選択をさせようとしていたんだ。

 

 そこまで、君に何もかもを背負わせることはないじゃないか? だから僕は、黙っている代わりに、この最後の瞬間、君に引き返すチャンスを与えることを認めさせたんだ。正直、君がこのまま何も知らずに進めば、彼らを恨む可能性だってある。それは彼らだって望むところじゃないからね。それで、今こうして君の前に現れた」

 

 ミッシェルはそう言うと、これで全部だといった感じに、投げやりに両手を上げてから、ゆっくりとそれを下ろして膝に手をついた。鳳はそんな姿を見届けてから、背後の仲間たちを振り返り、ひとりひとりの顔を確認してから、またミッシェルに向き直って言った。

 

「これ以上進むと、何かまずいことが起こるってことはわかりました。ですが、この先は播種船に続いていて、そこにアロンの杖があるんですよね? 俺たちが元の世界に帰るには、それを手に入れる必要があるんですけど……」

「本当に戻る必要はあるの? 君は既にケーリュケイオンを手に入れて、ルーシー君を召喚した。同じように、君の奥さんたちをこっちに呼べばいいじゃないか。それに君や君の仲間の力があれば、魔族に困っているこの世界を救うことだって出来る。全ての地域から魔族を駆逐し、君が新たな世界を作る……そういう選択肢だってあるんじゃないかな?」

 

 確かに、それは少し魅力的な提案だった。この世界はあっちと違ってテクノロジーだけは進んでいるのだ。魔族の多さという点でも、双方はそれほど差もないし、家族を呼び寄せることが出来るなら、悪い選択ではないかも知れない。サムソンだって、こっちの世界ならモテモテだ。テレビっ子もきっと喜ぶはずだ……

 

「でもミッシェルさん……占いってのは一つの指標であって、予言ではないんですよね? 俺がその結果を知っていて、意識して回避すれば、未来を変えることだって出来るんですよね?」

 

 ミッシェルはその言葉を聞くなり溜息を吐いた。言うまでもない、他ならぬミッシェルがいつも言っていた事だった。彼は額に手を当ててヤレヤレと首を振りながら、

 

「その様子だと、君は先に進むつもりなんだね?」

「すみません……ミッシェルさんのことは信頼していますけど、俺にとってはカナン先生たちだって恩人なんですよ。それに、彼らの目的はこの世界を……いや、宇宙全体を救うことなんですよね? それを手伝わない理由なんてないんじゃないかと思うんですけど……」

「そうかな……僕はそこまで何もかもを背負う必要はないと思うよ。君は君であって、一人の人間だ。神じゃない」

「そりゃ、もちろんそうですけど……」

 

 鳳が困ったなといった顔でそう言うと、ミッシェルは暫くの間そんな間抜け面をじっと見つめてから、やがて何かを悟ったような感じでふっと表情を和らげ、

 

「そう……まあ、そう言うと思ってたよ。だから最初に言ったでしょ。今日はお別れを言いに来たんだって」

「お別れ? そう言えば、そんなこと言ってましたね。ミッシェルさんは、一緒に来てくれないんですか?」

 

 鳳が不安げにそう尋ねると、ミッシェルはカラッとした表情で、

 

「ああ。僕はこの先に興味はないから、次の世界に向かおうかと思う」

「次の世界?」

「なあに。君が世界を渡ったように、僕もちょっと世界を渡るだけさ。僕はそこでやることがあってね……」

 

 ミッシェルはそんな思わせぶりなことを言うと、続いて鳳の背後に目をやり、

 

「ルーシー君。それでお願いなんだけど、君の杖を僕に貸してくれないか?」

「へ? 杖って、カウモーダキーのことですか?」

 

 鳳たちの会話を黙って聞いていたルーシーは、いきなり話を振られて素っ頓狂な声をあげた。しかもその内容が、自分の大切な杖を貸してくれというもので、彼女は正直かなり戸惑っていたが、

 

「えーっと……元々ミッシェルさんの物だからいいですけど……」

「ごめん、必ず君に返すって約束するから」

「はあ、ならまあ……うーん、なんだか手持ち無沙汰になっちゃったな」

 

 ルーシーはミッシェルに杖を手渡すと、いつも自分の手元にある物が無くなって落ち着かない風に首を竦めた。鳳はそれを何に使うのか興味があったが、彼がそれを尋ねるよりも先に、ミッシェルは杖を片手に手を振りながら、

 

「それじゃ、僕はこれで失礼するよ。ルシフェルたちに会ったら伝えてよ、また次の世界で会いましょうって」

 

 彼がそう言って杖で地面をコンと叩くと、その振動音で彼の体が波打つようにブレていき、あっという間に光の礫になって消えてしまった。

 

 あまりにもあっけない別れに、鳳たちは暫し呆然と立ち尽くした。やがて本当にミッシェルがどこかへ去ってしまったことに気がつくと、その言葉を聞く者はもう居ないと分かっていながら、誰ともなしにさようならを呟いた。

 

 鳳は、彼が消え去った空間を見つめながら、本当にこの選択で良かったのかと不安になった。だが、もはやそんな迷いは振り切るしかないだろう。今更引き返すわけにはいかない。何しろ目の前にはもうワームホールがぽっかりと穴を開けており、その先には播種船があって……エミリアがいるのだ。

 



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ごめん

 暗がりに浮かび上がった光る球体の向こう側には、魚眼レンズで覗いた感じような感じに無機質な部屋が広がって見えた。その壁は金属で出来ていて、色鮮やかな線が縦横に伸びており、その線の一つ一つにはシルクプリントみたいな記号が添えられていた。恐らく病院の廊下みたいに、それぞれのラインが順路を示しているのだろう。縦横に伸びているのは、そこが無重力状態であるからに違いない。

 

「間違いないわ。ここは播種船の中よ」

 

 鳳が内部の様子を窺っていると、背後からジャンヌの声が聞こえた。彼女が言うには16年前、彼女たちはこの中で目覚めて、カナンが作ったポータルで神域に向かったらしい。その出口はオーストラリアに直接繋がっていたから、こんなワームホールが東京にあることは知らなかったようである。

 

 しかもその出口が鳳の実家(がかつてあった場所)とは……昔の人たちが、どうしてこんな場所にワームホールを作ったのかは気がかりだったが、いつまでもここで尻込みしているわけにはいかないので先に進む。

 

 慎重を期したいところではあったが、ここに地上への出入り口があることは、播種船の管理者たるエミリアたちも知っていることだろう。でなければ、あんな派手な天使用トラップを作るわけがないのだから。そして当然、そのトラップを天使が抜けてくることも想定内だったはずだ。

 

 鳳がワームホールを潜るやいなや、播種船内にはビービーとやかましい警告音が鳴り響いて、室内のあちこちでまた赤い目のような無数のランプが点灯した。銀弾を発するドローンの迎撃に、鳳は咄嗟に対応しようとしたが、入った先の気圧はともかく、それまであった重力がいきなりなくなってしまったから、彼は踏ん張りが利かずに空中にプカプカ浮いたまま身動きが取れなくなってしまった。

 

 このままでは蜂の巣にされてしまう……と鳳が焦っていると、するとタックルするようにサムソンが飛び込んできて、彼を足場にして舞い上がり、天井を駆けてドローンの群れへと突撃していった。

 

 無重力なんて始めての経験だろうに、一瞬にして感覚を掴むその適応力に驚いていると、続けてギヨームが飛び込んできていきなり銃を乱射し、その反動で明後日の方向へすっ飛んでいっては壁に激突して悲鳴を上げた。

 

「のわわああーーーっ!!」

 

 どうやらこっちは無重力の戦いには向いていないようである。四番手にジャンヌが飛び出してきてサムソンの援護に向かう後ろで、鳳は空中をクルクル回転しながら腰のゴスペルを引き抜き、光弾を飛ばして二人に援護射撃した。

 

「無反動なんてずりぃ! 俺にもそいつを寄越せよ!」

「これは俺専用なの! だからミカエルに作ってもらえって言ったじゃないか」

 

 鳳たちが言い争っていると、のそのそとアリスが這い出てきて、体が宙に浮くという状況を把握しきれず、何故か内股で身を固くしながら取り敢えず結界を展開していた。そして最後にルーシーが、両手でバランスを取るように体勢を整えながら出てくると、暫く考え込むような仕草をみせてから徐に眼帯をめくった。

 

 すると突然、鳳たちの体がスーッと壁へ吸い寄せられていき、まるでそこだけ重力があるみたいに彼らは着地した。

 

「おわ? なんだこれ?」

「こないだの重力魔法の応用だけど……なんかいい感じになった?」

「おまえは天才だ!」

 

 ギヨームは嬉々として援護射撃を開始した。鳳もアリスに二人を守るように指示してから、サムソンたちの加勢に向かおうとした。とは言え、彼が出る幕など殆どなかった。部屋内のドローンはあらかたサムソンとジャンヌが制圧してしまっていて、撃ち漏らしは手早くギヨームが片付けてしまった。

 

 部屋は円筒状の通路みたい所で、突き当りにハッチ式のドアが見えた。その向こう側からも機械の制動音が聞こえてくるので、後続はまだまだやってきそうだが、逐次投入される戦力などまるで怖くはなかった。

 

 無人兵器は人的コストという点では最強だが戦術がない。今のパーティーを阻めるほどの力はなく、露払いにもならないだろう。だが、そもそも鳳たちはここに戦争をしにきたわけじゃない。このドローンが守っているであろうエミリアや、播種船の量子化人間たちに用事があるのだ。早めに彼らに気づいてもらって、このドローンを止めてもらいたいところだったが……

 

「おい、どうする? 進むにしてもどっちへ行きゃいいんだかさっぱりだぜ?」

「おまえら最初ここにいたんだろう? どこに何があるか覚えてないのか?」

「ここにいたって言っても、すぐにポータルで移動しちゃって、本当に通過点でしか無かったのよ」

「仕方ないな」

 

 鳳はため息交じりにそう呟くと、壁や天井に縦横無尽に引かれているラインに目をやった。部屋には出口が複数箇所あったが、ラインは全てそのいずれかへと向かっているので、最初に思った通り、それは目的地へ誘導する標識で間違いなさそうだった。

 

 問題は、ラインに添えられている文字が省略されていて、何を意味しているかがわからないことだが……鳳はBRGかHQの文字が添えられた線のどちらかが正解であろうと見当をつけた。

 

 BRGとは多分ブリッジの略で、船の艦橋へと繋がっている可能性が高く、もう一方のHQは司令室、ヘッドクオーターだ。そしてHQの方は白色で描かれ、他の線よりも一回り太くもあったので、恐らくこっちの方が本命じゃないかと思われた。

 

 その旨を仲間たちに伝えると異論はなく、一行は白色の線を辿っていくことになった。プロテクションの魔法をかけたジャンヌが先行し、主砲のギヨームとルーシーが続く。その後を鳳とサムソン、最後尾にアリスと続く。

 

 先行したジャンヌたちは、隣の通路に出るなりまたドローンと出くわし交戦しているようだった。銃声が断続的に続いていたが、間隔が長くなっているので、ドローンの数自体はどんどん減っているのだろう。このまま先に進むのは容易いと思われた。鳳は彼らに合流すべく先を急ごうとしたが、その時なんとなく違和感を感じて、ふと立ち止まった。

 

 本当にこの先に進むべきなのだろうか?

 

 船内がどのくらい広いかわからないが、正直、敵の手応えがなさすぎて、時間さえかければいずれ司令室にたどり着くのは間違いないと思われた。そして、そこにエミリアが待っているのだろうが……では、カナンはどこにいるのだろうか?

 

 ミッシェルは、この先にカナンが待っていると言っていたが、ここはどこからどう見ても宇宙船の中であり、エーテル界ではない。それに、世界が滅ぶ可能性があるとも言っていたが、そんな気配も微塵も感じられない。

 

 具体的に、何をどうしたら世界が滅んでしまうというのだろうか? もしかして、このドローンと戦ってはいけないのだろうか? しかし、先に進むには倒していくしか方法はないし……

 

 一旦、戻るべきか? 振り返ってワームホールを覗き込むも、特に変わった様子は見受けられない。

 

「どうしたのだ、勇者? 置いていかれるぞ」

「……いや、なんでもない。すぐ追いかけよう」

 

 鳳が悩んでいると、先に進もうとしていたサムソンが追い抜きざまに話しかけてきた。鳳はまだ少し迷っていたが、先に進むと決めたのは自分なのだと思いだし、考えすぎだと自分に言い聞かせて先に進んだ。

 

 隣室もワームホールのあった部屋と同じく、円筒状の殺風景な通路だった。白線は一直線に部屋の奥のハッチを目指しており、鳳たちは空中遊泳をしながら次の部屋へと向かった。

 

 ギヨーム一人だけが壁に張り付いていたが、他のメンバーはアリスも含めてすぐに無重力に順応したらしかった。特にサムソンはどこに目がついてるんだ? と言いたくなるくらい、縦横無尽に動き回っており、ギヨームに射線に出るなと度々怒鳴られていた。

 

 奥に進むほどドローンの数は増えていったが、それでも最初の部屋を超えることは無さそうであった。歯ごたえのない敵を倒しながら、鳳たちは白線を頼りに部屋から部屋へ、ハッチからハッチへと移動し続けた。

 

 一つ一つの部屋の大きさはまちまちで、中には一辺が数百メートルくらいありそうな巨大な空間もあれば、日本のワンルームマンションみたいな狭い通路もちらほらあった。それが迷路みたいにあちこちに繋がっていて、どうしてこんな構造になってしまったのか不思議でしょうがなかった。

 

 部屋と言っているがどれもこれも通路でしか無く、人が住めそうな個室はどこにも見当たらなかった。あまりの生活感の無さに、本当にこの中に人間が存在するのかと不安になったが、考えても見ればここの住人は量子化された人間なのだから、個室なんてものは必要ないのだろう。

 

 そう考えると、電脳空間みたいな場所がどこかにあって、彼らに気づいてもらうにはそこにアクセスするしか方法はないのではないか。この白線を辿った先にそれがあればいいのだが……そんなことを考えながら、細長い通路を通過していた時だった。

 

 それまで、ビービーとうるさかった警告音が突然止んで、辺りが静寂に包まれた。急に静かになったせいか、耳鳴りがキーンと鳴って妙にソワソワした。警告音と共にドローンまで停止し、先頭でそれを蹴散らしていたジャンヌが肩透かしを食ったようにつんのめっては、空中を回転していた。

 

 そして鳳たちが警戒するように壁を背にして周囲を見回している時、突然、彼らの目の前に半透明のホログラムが浮かび上がり、一人の女性の姿を映し出した。それはメアリーを少し成長させたようなそんな人物……

 

 間違いない、エミリアがそこに立っていた。

 

『船内が騒がしいと思えば、侵入者なんて驚いたわ。まさか生きている人間とまた会えるなんて……あなたは、もしかして、ビリー・ザ・キッドね?』

「おまえがエミリアだな。こうして会うのは初めてだ」

 

 エミリアは突然の来訪者に戸惑っているようだったが、そこにギヨームがいることに気づいて、まずは彼に話しかけてきた。

 

『ええ、そうね……あなたにとっては大した時間は流れてないのでしょうけど、私の主観時間ではあまりにも時が経ちすぎていて、すぐにはあなただって気づかなかったわ。それにしても、どうしてあなたがここにいるの?』

「そりゃ、おまえに会いに来たに決まってんだろ。ちょっと話が聞きたくてよ」

『いいえ、私が聞きたいのはそういうことじゃなくって、どうやってここに来れたのかってことなんだけど……それに、後ろの人たちは? その人たちも亡命希望者なの?』

「亡命? いや、そんなつもりはないんだが」

『え? それじゃあ、あなたは何しにここへ来たのよ。量子化して私たちと一緒に来るんじゃないの?』

「だから、話を聞きに来たって言っただろ。それから、おまえに会いたいって奴を連れてきたんだよ。誰だと思う? きっと驚くぜ」

『はあ? あなた、何を言って……』

 

 エミリアはギヨームの背後にいる鳳たちのことを警戒しながら見つめている。鳳は、その懐かしい姿に思わず目頭が熱くなったが、懸命に涙を堪えながら、どうにかこうにか言葉を発した。

 

「エミリア……俺だ。なんて言っていいか分からないけど……久しぶり」

『……誰?』

 

 彼女は怪訝そうに鳳の顔を見つめている。彼は呼吸が乱れそうになるのを抑えながら、

 

「俺だよ。鳳白だ。小中学と、同じ学校へ通っていただろう? 覚えているか?」

 

 鳳がそう言った瞬間だった。ホログラムの彼女の表情がみるみるうちに険しいものへと変わり、エミリアは目を見開いて鳳の顔を凝視した後、一拍置いてから叫んだ。

 

『どうして! あなたがここにいるの!?』

「どうしてって……」

『今すぐ船から降りなさい! 早くっ!!』

 

 その反応が唐突すぎて、鳳たちは面食らってしまった。鳳は、どうして自分のことを拒絶するのかと若干傷ついたが、そう言えばギヨームともども彼女も鳳が神なんじゃないかと疑っていたことを思い出し、

 

「あー、そういや、おまえも俺のことを神じゃないかって疑ってたんだっけ? ギヨームから聞いたけど、その辺のことはもう解決してるんだ。今日はそれで色々話を聞きたくてここまで来たんだけど」

『違う! そうじゃなくて……いいから今すぐ船から降りて!』

「いや、だから、そうするにはまず話をだね? アロンの杖のこともあるし……俺たちも元の世界に戻らなきゃならないから、ここまで来たんであって……」

『その元の世界に戻れなくなるから、早く降りろって言ってるのよ!!』

 

 緊迫した表情で、彼女はそんな言葉を叫んでいる。内容が内容なので、鳳たちは戸惑いながら顔を見合わせた。せっかくの幼馴染との再会だと言うのに、何故、彼女はこんなにも切羽詰まったように彼のことを拒絶するのだろうか。鳳が首を傾げていると、彼女は焦れったそうに口角に唾を飛ばしながら続けた。

 

『ツクモ、聞いて。この播種船は、現在、銀河系を離れて、別の星系を目指して航行中なの』

「はあ……それで?」

『ビリーと最後に通信をした直後、この船はまた天使の集団に襲撃を受けたのよ。私たちはドローンを使ってそれを撃退したけど、執拗な神からの攻撃に、これ以上、地球軌道上に留まるのは危険と判断し、船を発進させたの。

 

 播種船という名前の通り、この船の目的は、このままじゃラシャによって滅んでしまう地球上のあらゆる遺伝子を、どこか別の星系にある移住可能な惑星に運ぶこと……その候補は決まってなくて、これから私たちは宇宙を旅しながらそれを探すつもりなの。私たちはもう量子化された人間だから、時間は無制限に使えるから』

「うん……?」

『焦れったいなあ! だから、この船は他の惑星を探すために、太陽系を離れ、銀河系も離れて、今現在ボイド空間を亜光速で航行中なのよ! つまり、この船と地球との相対速度は限りなく光速に近いわけ!』

 

 その言葉を聞いた瞬間、鳳の顔がみるみる青ざめていった。大量の冷や汗が額から吹き出し、寒くもないのに唇がブルブルと震えだす……その表情がまるで死人みたいだったから、仲間はみんなギョッとして彼の顔を覗き込んだ。

 

 そんな鳳に、ルーシーがおっかなびっくり声をかける。

 

「鳳くん……? どうしたの? 気分悪いの?」

「今すぐ、入り口の部屋にポータルを繋いでくれないか!?」

 

 鳳は彼女の肩を乱暴に掴んでそう叫んだ。勢い余って二人の体がクルクル回転し、彼女は背中から壁に激突した。ルーシーはケホケホ咳き込みながら、

 

「ちょっ……離して。一体どうしちゃったの? 急に」

「今は話してる時間も惜しいんだ。とにかく早急にポータルを作ってくれ!」

「無理だよ。こんなどこもかしこも似たような場所じゃ、最初の部屋のイメージなんて出来ないよ。それに、今はカウモーダキーを持ってないから」

「しまった……そういうことか!」

 

 鳳は何かに気づいたように舌打ちすると、くるりと回転して来た道を戻り始めた。途中で仲間のことを思い出し、振り返って早く来るよう彼らを手招きしてから、今度はもう振り返らずに行ってしまった。

 

 残された仲間たちは突然の出来事に面食らって顔を見合わせたが、とにかく彼の様子から何かまずいことが起きていることを理解して、すぐにその後を追い始めた。ジャンヌが並びかけて問いかける。

 

「一体どうしちゃったの、白ちゃん? 何がそんなにまずいのよ」

「ウラシマ効果だ。知ってるだろう?」

「ウラシマ効果?」

 

 ジャンヌがぽかんとしていると、彼女らと並走するように、ホログラフのエミリアが音もなくスーッと近づいてきて言った。

 

『特殊相対性理論よ。物質は光速を超えられない。だから相対的に光速に近い速さで動いている慣性系では、時間が止まって見えるって現象。要するに、あなた達のいた地球と、ここはもう時間の流れがまるで違うのよ』

「時間の流れが違うって? 具体的にどれくらい違うんだよ?」

 

 追いかけてきたギヨームが焦れったそうに問いかける。

 

『ビリー、あなたと最後の通信を交わしてから、私の主観時間で1億3千万時間以上が経過しているの』

「……わからん! それって何日だ?」

『およそ1万5千年よ』

「1万5千年!?」

 

 その桁違いな数字を聞いて、全員が押し黙ってしまった。この船に乗り込んでからまだそれほど時間は経っていないが、それは自分たちの主観的な感覚であって、今頃地球ではどれほどの時が過ぎ去っているのか想像もつかないのだ。

 

 わかっていることはただ一つ、ここに一秒でも長く留まっていてはまずいということだけである。もしかすると、既に元の世界に彼らの帰る場所は無いかも知れない。そんな可能性が脳裏を過ぎって、ギヨームは青ざめた。

 

「どうしてそんな物騒な出入り口を地球に残してきたんだよ! まだ俺が来るかもって思ってたからか? だったらせめて、入り口に警告文を残すなりなんなり出来たんじゃないのか?」

『何の話? 出入り口って……そもそも、あなた達はどうやってこの船に入ってきたの?』

「どうって、ポータルが……この船に繋がるワームホールを潜ってきたんだが」

『そんなものがあるなんて、私は全然知らなかったわよ』

「なんだって!? そんな馬鹿な!」

 

 ギヨームが絶句している横で、鳳が悔しそうに呟く。

 

「おそらく、カナン先生だ。俺たちがいつかここへ来ることを見越して、先生があの入り口を残しておいたんだろう。わざわざミッシェルさんまで派遣して、一番やっかいなルーシーの能力を封じることまでして……」

「なんでそんなことをする必要があるんだよ!?」

「わからん! わからないけど……ミッシェルさんは、最後に俺たちに引き返すよう警告してくれていたんだ。それを聞かずに進んだのは俺だ。俺のミスだ……」

「……まだ、元の時間に戻れないって決まったわけじゃないんだろう?」

「それも分からない……ルーシーの能力が万全なら、あるいは奇跡を起こせたかも知れないが、俺の力じゃ到底無理だ」

「どうすんだよ?」

「とにかく、今は急ぐしかない」

 

 一行はそれきり会話もなく押し黙った。

 

 何しろどこもかしこも似たような風景だったから、自分たちがどこを通ってきたのかはすぐには思い出せなかった。幸い、船内のことを把握しているエミリアが同行してくれたおかげで、壊れているドローンを辿って比較的速やかに移動することは出来た。だが、そうして早く走れば走るほど、自分たちがどれだけ無邪気に奥まで侵入していたかを思い知らされて嫌気が差した。調子に乗ってこれだけの距離を進んでる最中に、一度でも不審に思って引き返すことを選択していたら、また結果は違ったろうに、今はそれが悔やまれてならなかった。

 

「おい、見ろよ! 穴が小さくなってやがるっ!!」

 

 やがて最後の曲がり角を曲って、前方にワームホールが見えてきた。それは最初に来たときよりもだいぶ小さくなっていて、いつの間にか人一人が通るのがやっとの大きさになってしまっていた。

 

 恐らく、潜るならこれが最後のチャンスだろう。カナンはここまで計算していたのだろうか。これでは後ほんの少しでも遅れていたら、もう元には戻れなかったはずだ……いや、もしかすると彼は、この播種船に残りたいなら、そういう選択肢もあると言っているのかも知れない。

 

「急げっ!」

 

 鳳は、ワームホールの手前で立ち止まり、最後に一度だけ振り返った。そんな彼の横を仲間たちが通過して、次々とワームホールへと飛び込んでいった。

 

 部屋には鳳とエミリアの二人だけが残されていた。1万5千年の時が過ぎたと言っていた彼女にはもう体は無い。握手するための腕も無い。

 

『行って』

 

 ホログラムの彼女の表情は真っ白でどんな感情も映し出していなかった。鳳の頭の中も真っ白でどんな言葉も思い浮かばなかった。思えば、あの日あの時、彼女を救えなかったという後悔から、この旅は始まったように思える。彼女に一言謝りたいと、ただそれだけの願いだけで、ここまでやってこれたのだと、そう思える。

 

「ごめん」

 

 その彼女が目の前にいると言うのに、彼にはもう、そんな一言くらいしか言う時間がなかった。彼は彼女に背を向けると、体を捻るようにしてワームホールの中へと飛び込んでいった。彼女が最後に見たのは、彼の足の裏とつま先だった。彼女は彼の姿を忘れないように、いつまでもその場に留まって、じっと虚空を見つめ続けた。

 

 人類があてのない旅に出て1万5千年。まだ旅は始まったばかりだった。

 



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未来の行方

 ワームホールはいつの間にか人一人がやっと通れるくらいの大きさになってしまっていた。焦る鳳たちがそんな小さな穴に体をねじ込むようにしてくぐり抜けると、その先は最初の格納庫みたいな建物の中ではなく、まったく見たこともない別の場所に繋がっていた。

 

 見上げる空に星はなく、太陽も出ていないのに薄っすらと明るい、ただだだっ広い空間が広がっている。地上に緑はなく、乾いた砂の大地がどこまでも続き、絶え間なく強風が吹き付けてくる。気温は正に灼熱と呼ぶにふさわしく、本当に皮膚が焼けそうになって、アリスが結界を作ってくれなければ、ものの数分ともたなかっただろう。

 

 そこは壊れてしまったレオナルドの世界に似ていた。実際、第5粒子エネルギーが溢れ出しているのは間違い無さそうだった。ただ、少し違うのは、彼らの目の前に肉の塔が聳え立っていることだった。

 

 鼻が曲がりそうな腐臭の漂うその肉の塔はプルプルと震えており、天辺は見えなかった。なんでこんな物があるのかさっぱりわからなかったが、風除けにはなるので今はその存在が有り難かった。

 

 彼らはその影で人心地つくと、すぐまた元のワームホールのところへ戻った。正直、こんな場所にいるくらいなら、播種船の中に避難した方がマシだと思ったのだが、その時にはもうワームホールは人が通れるような大きさでは無くなってしまっていた。鳳は焦りながら、

 

「くそっ! ルーシー、穴を広げられないか?」

「それが……杖がないと、どうしていいか分からなくって」

「鳳、ポータルで神域に戻れないか?」

「駄目だ。さっきからやってるんだけど、そもそも、ここは地球じゃないからか」

「じゃあ、ここはどこなんだよ?」

 

 鳳は周囲を見回した。辺りは一面砂の海が見えるだけで、手がかりとなるものはどこにも見当たらなかった。本当に、レオナルドの世界に飛ばされてしまったのだろうか? しかし、ルシフェルが何故そんな真似をする必要があるのか。ルシフェルじゃないとすれば、まさかイスラフィルの時みたいに、神に戻されたとか?

 

 鳳がいろいろな可能性を考えていると、サムソンが言った。

 

「俺にはよく分からないのだが、通ってきた時と同じ穴に入ったのなら、また同じ場所に戻るのが筋じゃないのか?」

「そう……だよな。そのはずなんだけど」

「なら、俺たちはまた別の穴をくぐってしまったというのか?」

「恐らく、先生の狙いは最初からこれだったんだろう。まいったな……なんとか播種船の中に戻れないかな」

 

 鳳が懇願するように弱音を吐くと、するとサムソンが落ち着いた声で、

 

「しかし、戻ったところで、また時間を無駄にするだけなのだろう? まずはここがどこかを確かめなければ」

「どこっつったってよう……砂漠としか言いようがないぜ? こんなの」

 

 ギヨームが、360度どこまでも広がる砂漠を前に、うんざりとした口調で吐き捨てた。実際にここはどこなのだろうか? 鳳は、最初に受けた印象から、その思いつきを口にした。

 

「……もしかして、ここは爺さんのアリュードカエルマ世界なんじゃないか? こっちの世界に渡ってくる時に一度通ったんだけど、そこと似ているんだ」

「壊れちまったレオの世界か……そう言えば、播種船にはアロンの杖があったな。そいつが悪さでもしたのか?」

「その可能性も否定できないんじゃないか」

「うーん……でも、それはないと思うよ」

 

 鳳たちがそんな話をしていると、ワームホールをどうにか広げられないかと悪戦苦闘していたルーシーが淡々とした口調で反論した。

 

「もしそうなら、私でも、鳳くんのポータルでも、帝都の召喚の間に飛べるはずだから。ほら、元々鳳くんはあそこにあったお爺ちゃんの水晶玉から、世界を渡ったわけでしょう?」

「……そうか」

「じゃあ、本当にここは一体どこなんだよ!」

 

 ギヨームは苛立たしげに叫ぶと、目の前の肉の塔を思いっきり蹴飛ばした。腐臭を放つその肉塊は、思った以上に柔らかかったのか、その蹴りで起きた振動がプルプルと波打つように上の方まで伝わっていった。

 

 そのせいで塔がグラグラと揺れ動き始め、鳳はまさか倒れやしないだろうかと不安に思っていると、

 

『……痛い』

 

 遙か上空から、何かくぐもった声が聞こえて来たような気がして、鳳たちは全員真顔になった。再三言っているが、周りには見渡す限り何もない。ならまさか、この肉の塊から聞こえてきたのだろうか……?

 

 鳳がそんなあり得ないことを考えていると、ギヨームがまた容赦なくその肉の塔に蹴りを入れて、

 

『……痛い』

 

 上空から再度声が聞こえてきて、もはや信じざるを得なかった。どうやら、声はこの肉の塊から聞こえてくるらしい。すると、これは生きているのか? 鳳は驚きながらも咄嗟に叫んだ。

 

「おい! おまえ、生きているのか? 俺の声が聞こえるなら返事してくれ!」

 

 すると肉の塔は最初はプルプルして何も語らなかったが、暫くすると諦めたような口調で独りごちるように、

 

『……今日は幻聴がよく聞こえる。私も焼きが回ったものだ』

「いや、幻聴じゃない! 話があるんだ、聞いてくれよ!」

『思い返せば前回は140938432日前の出来事だったか。ただの風が人の声のように聞こえてならなくて、私はどれほどぬか喜びさせられたことか……そしてそれが間違いだと気づいて、どれほど苦しんだか……』

「おい、人の話を聞けってばよ!」

『数を数えるくらいしかもう楽しみがないから、嫌な記憶も正確に覚えているのだ。しかし今日は騙されないぞ。こんなところに人がいるはずがないんだ……そう、私は孤独。もう誰とも会うこともなく、ここで朽ち果てるしかないのだろう……悲しいな。死ぬ前に、もう一度だけ、誰でもいいから、私の話を聞いてくれないものだろうか……』

 

 鳳は無言で肉の塔を蹴っ飛ばした。

 

『痛い……』

 

 肉の塔はまたプルプル震えてから、暫くの間沈黙を続けていた。だが、3度もの刺激に流石に様子がおかしいと気づいたのだろう。長い沈黙のあとに探るような小声で、

 

『……ひょっとして、幻聴じゃないのか?』

「だからさっきからそう言ってるだろう!」

『まさか……君は人間か? 人間が、私に話しかけているのか?』

「ああ、そうだよ」

 

 鳳がそういった瞬間だった。空からぼとぼとと大量の肉塊が降り注いだ。物凄い勢いで地面に叩きつけられた肉塊が、ドスンと地響きを立てて砂煙を巻き上げ、鳳たちが驚いて後ずさりすると、地面に落ちた肉塊はもぞもぞと動いて肉の塔へと吸い込まれていった。

 

 鳳たちが一体何が起きたのかと身構えていると、肉の塔はプルプルと震えながら、

 

『すまない。それは私の涙だ』

「涙……? おまえ、泣いてるのか?」

『ああ、泣いているとも。私が孤独になってから、いったいどれほどの月日が経ったと思うのだ。その間に私の体は変貌し、もはや自分の目がどこにあるのかすらわからない。なのに涙だけは流れ出るのだ。どうしてそんな機能が必要なのか、ずっとわからなかったが、今日君に会えて理由がわかった。私は嬉しいのだ。嬉しくて泣いているのだ。私はもう人ではないが、心はまだ人のままだったのだ』

 

 肉の塔が淡々とそんなことを口走っている間も、空からは大量の土砂みたいな肉の塊が降り注いでいた。それは奇妙な光景でしかなかったが、見ているとなんだか物悲しくてしょうがなくなった。

 

 肉の塊は自分のことを人だと言う。長い時が経過し変貌してしまったと。ならばその長い間に、一体何があったのか。鳳は肉の塔が落ち着くのを見計らって尋ねてみた。

 

「なんか……大変なことがあったみたいだな。それで、感激しているところ悪いんだが、こっちも色々知りたい事情があって、良ければそろそろ話を聞かせてはもらえないか?」

『ああ! いいとも! 何でも聞きたまえ。私もこうして誰かと話をしたかったのだ。もう何千年も。何万年も。何十万年も。ずっと』

「何十万年とは大げさだな……ところで、さっきから気になってるんだけど、あんたは何者なんだ? 話を聞く限り、あんたは自分が元々は人間だったみたいに言ってるけど、それは本当なのか?」

『ああ、本当だとも……私はかつて人間だった。人間と言うより天使と呼ばれる種族だったのだ。君は知っているだろうか。大昔の人類は科学の粋を極めて、遂に自分たちの体を改造することすら可能となった。私はそんな技術を駆使して生み出された人造人間で、その頃の私はアズラエルと呼ばれていた』

「アズラエル……アズラエルだって!?」

 

 鳳は素っ頓狂な声を上げて目の前の肉の塔を見上げた。プルプルと震える肉の塊は、酷い腐臭を放っていて、正視していられないくらい酷い有様だった。それがあのアズラエルを名乗っているのだ。仲間たちもみんな困惑の表情を浮かべて彼女のことを見上げている。

 

 アズラエルは、そんな空気を敏感に感じ取ったのだろうか、少し怪訝な感じに声を震わせ、

 

『どうしたのだ? 私はまだ自己紹介をしただけなのだが……』

「えーっと……アズにゃん。もし、君が俺が知っているアズラエルなら……」

『アズにゃん? 私のことをそんな間の抜けた名前で呼ぶのは、未だかつてたった一人だけだった……まさか君は!?』

「俺だよ、鳳白だ」

 

 鳳が自分の名前を告げた瞬間、また空からぼたぼたと肉の塊が落ちてきた。それは相変わらず酷い腐臭を放っていたが、鳳にはもうそれが汚いものとは思えず、何か尊いもののように思えた。

 

『まさか……そんな……本当に、君なのか? あの日、日本で別れたきりになってしまったが……あの後、どれだけ待っても、君たちが帰ってくることはなかった。だが、帰ってきたんだな? ついに、帰ってきたんだな?』

「ああ、ごめん。正直、何が起こっているのかよくわからないんだけど、帰ってきた。ところで、ここはどこなんだ? 地球で間違いないんだな?」

『もちろんだとも。そうか……帰ってきたのか。やはり、ここで待ち続けていたのは正解だった。誰も彼もがいなくなってしまった後、私は最後の望みに縋って、ずっとここで君を待っていたのだ。いつ果てるとも知れぬ不毛な日々が、ようやく……ようやくこれで終わる』

 

 アズラエルは興奮気味にそんなことを口走っている。

 

 誰も彼もがいなくなった……その意味を詳しく尋ねたいところだったが、鳳たちは彼女の興奮が収まるのを、もう少しばかり待たねばならなかった。

 

**********************************

 

 アズラエルのさっきの言葉は大げさでもなんでもなかった。彼女に言わせれば10万年までは数えていたが、それ以上は馬鹿らしくて正確な数字は分からないそうだが、鳳たちが播種船の中で数時間を過ごしている間に、地球では本当に数十万年の時が流れてしまっていたようだった。

 

 鳳たちが去った後、人類は彼の残した精液のおかげで順調に人口を増やし、一時は億に届きそうなくらいにまでなったが、繁栄もそこまでだったらしい。

 

 増え続けた人口を支えるために、神域は魔族との対決色を濃くしていき、それに連れて堕天使の数も増えていった。だが、魔族とは強者生存の進化をする生き物である。対抗勢力が強くなれば、魔族もまた全体として強くなってしまい、戦いは終わるどころかどんどん激化していってしまった。

 

 更には、堕天使という存在に思いもよらぬ欠点が見つかり、それが人類の生存に止めを刺してしまった。

 

 堕天使とは言ってもその体は結局のところ魔族であり、魔族は魔族を倒すことでその形質を奪うという特徴がある。つまり、堕天使が魔族を倒し続けることで、その堕天使は徐々に魔族としての性質を濃くしていき、ついには理性を失って人間を襲い始めてしまったのだ。

 

 こうなると、それまでは強力な味方だったはずの堕天使が、今度は災厄級の魔王と化して人々に襲いかかってしまい、そんなものを倒すにはオリジナルゴスペルを持ち出してくるしか方法が無くなってしまった。

 

 神域を統括していた四大天使たちは最後まで天使の体を捨てずに、そんな堕天使たちと飽くなき戦いを続けたのだが、ついにそれも破綻する日が来た。

 

 それは天使が魔族に敗れたわけではなく、ゴスペルを使い続けたことで、ついに世界の方がもたなくなってしまったのだ。

 

『ある日突然、窓が割れるかのように空が砕け散り、大量の第5粒子エネルギーが染み出してきた。使い続ければいずれそうなると、君たちに警告されていたというのに、私たちはそれを止めることが出来なかったのだ。放射線が地上のあらゆる動植物を焼き尽くし、天使も悪魔も構わず全てを葬り去っていった。人類は瞬く間に数を減らし、その繁栄も潰えた。こうして私たちは滅びの運命を受け入れざるを得なくなった。

 

 神域はこの事態に際して、私に全ての人類の遺伝子を保存するように命じた。知っての通り、私の体は捕食することで相手の生殖細胞を作り出すことが出来る……言わば生きた遺伝子の保管庫だったのだ。

 

 私も堕天使であったが戦いを全て眷属に任せていたから、幸いなことに理性を失う危険性は低かった。だから私が選ばれた。四大天使たちは、散りゆく同胞たちを次々私に捕食させ……そして私はその遺伝子を放射線から守るため、肉の塊へと変貌し……全ての生きとし生けるものがこの世を去った後、ただひたすらここで待ち続けていたのだ』

 

 アズラエルがそこまで話した時、上空から何か光るものが降りてきた。それは金色に光る木のような形をしていて、鳳の目の前まで降りてくるとそこで止まった。

 

『これは全人類の遺伝子を記述したアーカイブ、生命の樹、セフィロトだ。何しろ時間が有り余っていたから、暇に任せて私が織り上げた。これを君に貰って欲しい』

「どうして、俺に?」

『最後、四大天使は私に取り込まれる前に、自分たちの未来を君に託すように願ったのだ。既に神への信仰が薄れていた彼らにとっては、消えてしまった君たちが最後の望みになった。彼らはいつか君たちが帰ってきて、きっと人類を神の千年王国へと導いていると、そう信じていたのだ。だから私はその願いを聞き入れ、必ず君にこれを届けると約束した。その願いが、ようやく報われる……』

 

 その言葉からはアズラエルの数十万年の重みが伝わってきた。鳳は震えながらこう言った。

 

「そんな……受け取れないよ。俺が今これを受け取ったところで、どうすることも出来ない。俺自身もどうしていいのか分からない……」

 

 しかしアズラエルは彼の言葉をカラリと否定して、

 

『いいのだ。そんなことは。四大天使だって本当は、君が帰ってくるなんて思っていなかった。私も誰も、君が本当に神の千年王国なんてところへ連れてってくれるとは思ってはいなかった。ただ、そうしたいからそうしただけなのだ。

 

 君は、今にも命が尽きようとしている人が、自分も天国に行けるかと聞いてきたらなんと答える? 必ずいけますよって答えるはずだ、例え天国の場所なんて知らなくても。

 

 その言葉は真実ではないかも知れない。何の意味もないかも知れない。だがそこには偽りもない。その時君は本当に、みんなが神様の下へいけると信じているはずだ。私がこれを君に預けたいのは、ただそうしたいからで、それ以上の意味はない』

 

 鳳は肉の塔を見上げ続けていた。そこにはアズラエルの可愛らしかった顔もオッドアイも、紫がかった頭髪もどこにもない。声は頭の中に直接響いてきた。だからどこを見て何を喋って良いのか分からなかった。だからただ見上げていた。

 

 やがてその言葉を受け入れるように、鳳の指先に生命の樹が触れると、それは音もなく彼の手のひらの中に吸い込まれていった。その瞬間、鳳の体の中に、膨大な人類の歴史が走馬灯のように流れていったように思えた。それは一瞬であり、そして永遠にも近かった。

 

 アズラエルを名乗る肉の塔は、またぼたぼたと肉片を撒き散らすと、

 

『ようやく……これで終わる。私たちが紡いだ歴史を、どうか君の手で、然るべきところへ届けてくれ』

「ああ……約束する」

『では後を頼む、鳳白。君とともに旅した日々は、私の中でかけがえのない思い出だった。今日までやって来れたのは、その思い出があったからだ。どうか忘れないで欲しい。私の名はアズラエル。また生まれ変わっても、人類とともに歩むと誓おう』

 

 ぼたぼたと落ちる肉片はどんどん数を増して行った。それは最初の内は元の肉の塔へと戻っていったが、段々と雨が降るように地上に降り積もっていった。ひどい悪臭を周辺に撒き散らし、とても見ては居られなかった。だから鳳は黙って背を向けて、溢れる涙を腕で拭った。

 

 びたんびたんと肉を叩く音が響いてくる。こんなになってまで、彼女は人類を守り続けていたのか。一体、生命とは何なのか。鳳にはもう分からなかった。

 

「逝ったのか?」

「ああ」

 

 ギヨームと短い会話を交わすと、仲間たちはみんな肉の塔に背を向けてその場にへたり込むようにして座った。アリス一人だけが寂しそうに跪いて、両手のひらを組んで祈りの言葉を捧げていた。

 

 ギヨームが、そんな彼女の背中を見つめながら、虚ろな表情で言った。

 

「やつの話が本当なら、数万年どころか、数十万年経っている。カナンのやつの目的が最初からこれだったとしたら、一体、俺たちはどんな魔法を使われたんだ?」

 

 鳳は、そんなことを言ってももう無駄と知りつつも、彼の性格からいつものように淡々と答えた。今は出来るだけ多くの可能性を考えている方が落ち着いていられた。

 

「多分だけど……先生は最初から2つのワームホールを仕掛けていたんだよ。一つは地球から播種船に繋がるものと、もう一つは播種船から地球に繋がるもの」

「……? なんだそりゃ? それになんの違いがあるんだ?」

 

 鳳は砂に地球をもした円と、宇宙船のロケットのような絵を描き、

 

「普通、地球から出発したロケットが十分に加速してからまた地球に戻ってくると、地球では時間が早く経過していて未来に到着してしまう。気づいたら何百年と時間が経ってしまっているから、それをおとぎ話になぞらえてウラシマ効果って言うんだけど……

 

 この場合は、地球から飛び立ったロケットが地球に帰ってくるから起きる現象で、もしも飛び立ったロケットがそのまま帰ってこなかったら、話はまた違ってくるんだ。

 

 地球から飛び立ったロケットはどんどん加速して限りなく光速に近づく。すると地球からロケットを見ると、ロケット内の時間は止まって見える。逆にロケットから地球を見ると、あっちからは地球の方が止まって見える。

 

 2つの別々の場所では、別々の時間が流れているんだ。じゃあ、この2つの場所を、予めワームホールで繋いでおいたらどうなるだろうか?

 

 ワームホールを設置してから、ロケットは地球から飛び立った。ロケットはぐんぐん加速して光速に近づく。するとロケットからは地球が止まって見えるだろう。その状況で、ロケットは100年以上飛び続けた……

 

 さて今、ワームホールに入ったら、どうなるだろうか?」

 

 ギヨームはお手上げのポーズをしている。代わりにルーシーが、

 

「……直感だけど、100年前のロケットが出発した時点に戻る?」

「正解。それを利用して、過去に戻ろうってのがキップ・ソーンのタイム・マシンだ。ただこの場合、戻れるのはワームホールを作った時点までで、それより過去には戻れない。ついでに肉体年齢はしっかり100年経過しているから、意味があるのかって話だけど……まあ、ゲームなんかのステートセーブだと思えば、人間には無意味でも、機械には意味はあるかも知れない。もしくは、意識だけが過去に戻るタイムリープなんてのが可能ならね」

「話はなんとなく分かったけど、それなら私たちが地球から播種船に向かっても、過去に戻るんじゃないの? えーっと……今の話なら、ロケットが発射する時点に」

「するとロケットが発射する瞬間、100年後の君がいることになる」

「……あれ?」

「話を戻そう。ロケットは地球から飛び立って、限りなく光速に近づくけど、光速ではないんだ。だからロケットの中の時間は止まって見えるけど、まったく止まっているわけじゃない。ほんの少しだけ動いている。地球から見れば止まってるようにしか見えないロケットは、相変わらず加速し続けている。

 

 その状態で、ロケットの中で100年が経過した。その時、ロケットからワームホールを潜ったら、そこは100年前の地球だ。逆に地球からワームホールを潜ったら、そこはロケットの未来に繋がっていなきゃおかしいことになる。限りなく光速で遠ざかってるロケットの未来に。じゃなきゃ因果律に反するだろう。

 

 だから俺たちの場合は、播種船はまだ出発して数ヶ月しか経ってないはずなのに、1万5千年後なんて未来に飛ばされてしまった。1万5千年かけて、あれは現在もまだ加速し続けていたんだよ」

「頭がこんがらがるわ。そんなことが本当に起こりうるの……?」

「空間を歪めるってのはそういうことなんだよ。同じことが、銀河の中心にあるブラックホールのすぐそばで、今も現実に起きているはずなんだ。俺たちには近づくことさえ出来ないけど」

「でも白ちゃん。今の話なら、1万5千年後に行ったとしても、またワームホールを潜れば同じ時間に戻ってくるんじゃないの?」

 

 鳳たちの会話を横で黙って聞いてたジャンヌが言った。

 

「同じワームホールを潜ったんならね」

「あなたはあれが別物だったって言うのね?」

 

 彼は頷いて、

 

「最初にも言ったけど、地球から飛び立ったロケットが、また地球に戻ってきたら、それはなんて言うか加速した分だけ未来に到着する。ウラシマ効果が起こるわけだ。ところで、エミリアが乗っていた播種船が十分に加速したところで、例えば船から脱出ポッドをパージしてそれが地球に戻っていたら? そしてその中に、播種船に繋がる別のワームホールがあったとして、それを潜ってしまったら?」

「……もっと未来に行っちまうのか?」

「そういうことになるんじゃないかな」

 

 鳳は投げやりに答えた。沈黙が場を支配して、嵐の音だけが耳に響いてくる。

 

 いつもなら、アリスがお茶をお淹れしましたとでも言ってきそうなタイミングだったが、そんな彼女も固まっていた。ギヨームはため息交じりに砂を蹴り上げると、

 

「わからねえ! どうしてカナンはそこまでして、俺たちを罠に嵌めたんだ?」

「……どうしても、俺にこの光景を見せたかったのか……この終末の風景を」

 

 心做しか吹き付ける風が強くなり、アイギスの結界でも防ぎきれなくなってきていた。この世界が今どういう状態なのかわからないが、このままでは自分たちもそれほど長くはもたないかも知れない。ルーシーが、顔を強張らせながら呟く。

 

「ミッシェルさんが言ってた、世界が滅びるって……こういうことだったの?」

「こんなのどうしようもないじゃないか。ちょっと播種船に行って帰ってきたら世界が滅びていただなんて……たった小一時間程度の話だぞ?」

「……どうして気づかなかったんだろう。気づけるタイミングはあったんだ」

 

 鳳が項垂れていると、サムソンが周囲を見回しながら話しかけてくる。

 

「気持ちはわかるが、まずはここを離れないか? いつまでも、ここでこうしていても仕方あるまい。俺たちが進み続けなければ、本当に何もかもが終わってしまうぞ」

「そうだな……正直、お手上げだけど……」

 

 鳳は両手で顔を覆いながら、はぁ~……っと溜息を吐き、暫く経ってから、パンっとほっぺたを叩いて気合を入れ直し、

 

「サムソンの言う通り、悩むのは後だ。とにかく、今は一旦安全な場所に退避しなきゃな。一番マシな方法は、多分、播種船のゲートを復活させることだろう。戻って、そこでまた考える。もしそこに最初に潜った穴が残っていたなら、万事解決だ……そうとも! 先生だって、まさか本当に俺たちを破滅させたいわけじゃない。きっと帰れる方法はある。ルーシー、そのための方法がないかこれから検討してみようぜ」

「はぁ~……せめてカウモーダキーがあればなあ」

 

 鳳は不安を押し殺すつもりで空元気をだして、播種船の出口があった付近へ移動しようとした。しかし、それはとんでもなく甘い考えだった。

 

「おい、みんな見ろ!」

 

 ギヨームの切羽詰まったような声に振り返ると、先程まで肉の塔が聳え立っていた向こう側の空に、まるで亀裂が走るかのような傷が浮き出たかと思うと、映画館のスクリーンが焼け落ちるかのように、空がボロボロと崩れ始めてそこからまばゆい光が溢れ出した。

 

 灰のように脆く崩れ去る空の亀裂はやがて地面にまで達し、鳳たちの立っている大地までもがひび割れグラグラと揺れ始める。そんな地面の亀裂からも光の束が大量に溢れ出して空を焦がし、アズラエルの塔が一瞬にして燃え上がり、そして消え去った。

 

「まずい……ここも崩れるぞ!!」

「きゃああああーーーーっっ!!」

 

 せめて自分たちのいる空間だけでも守ろうと、アリスが結界を展開したが、その結界にも空と同じような亀裂が走り、ガラスが砕けるように割れてしまった。

 

 その瞬間、それまで結界が押し留めていた熱風が襲いかかり、体が燃えるような苦痛に耐えきれなくなったアリスの悲鳴が上がった。

 

 ルーシーが何かをやろうとしていたが、そんな彼女の足元が崩れ、彼女はバランスを崩して光の中へ吸い込まれていく。

 

 それを助けようとしたギヨームが咄嗟にライフルを作り出してつっかえ棒にしようとしたが、そのライフルごと彼女は穴に落っこちていった。

 

 ジャンヌとサムソンが腕を伸ばすが、そんな彼らを両断するように空間が割れ、そこから真っ二つに割れた二人の内臓が見えた。

 

「鳳くんっ!!!」

 

 鳳はルーシーの叫び声にハッと我に返ると、手の中にすっぽりと収まっていた自分の杖の存在に気づいて、咄嗟に彼女に向けてそれを伸ばした。すると杖が勝手に、今にも光の中に落っこちそうになっていたルーシーを吸い込み、ギリギリのところで彼女は光から逃れられた。

 

 彼はそれを見た瞬間、自分が今やるべきことを直感し、すかさず仲間たちをその杖の中に吸い込んでいった。ギヨーム、ジャンヌ、サムソン、そしてアリスを吸い込むも、彼女の持っていたアイギスは杖の中には入らず、地面に落っこちたそれを回収しようとして、彼は慌てて飛びつこうとした。

 

 するとその時、まるでペンキを塗るかのように、地面が真っ白に染まっていき、それは彼の立つ大地をも塗りつぶそうとした。

 

 彼は津波にでも追い立てられているかのように、必死にそれから逃れようと走ったが、ぐちゃぐちゃになった地面に、彼が足場になりそうな場所はもうどこにもなかった。

 

 ズルっとぬかるみにはまったかのように、自分の体が光の中に吸い込まれていく。

 

 彼は最期の瞬間、自分の体もケーリュケイオンの中に吸い込もうとしてそれが出来ないことに気づき、一瞬にして血の気が引くような寒気を感じながら、他になにかやれることはないかと脳みそをフル回転し……

 

 それに気づいた。

 

 いつの間にか周囲は静けさを取り戻しており、身を焦がすほど熱かった熱風はもう吹いていなかった。相変わらず視界は真っ白だったが、なんというか、そこには蛍光灯のような柔らかさがあった。

 

 たった今、白い光の中に吸い込まれようとしていた自分の体がふわふわと宙に浮かんでいて、それは播種船の中のように不自由な無重力ではなく、自分が思ったとおりに体が勝手に動く、なんだか箱庭ゲームのクリエイターモードみたいな感じだった。

 

 何が起きているのだろうかと焦っていると、鳳の耳にコツコツと何者かの足音が聞こえてきた。いや、正確には音は聞こえていないのだが、何となく誰かが近づいてくるような、そんなイメージが湧いてくるのだ。

 

 鳳は警戒しながらその足音の来る方角に目をやった。するとそこには、真っ白く光る2つの人影が立っていた。

 

 真っ白な背景の中で更に浮き出るような真っ白な2つの影……それは人の形を作っており、片方は四枚羽の豪壮な天使を、そしてもう片方は左右6対12枚羽の美麗な天使の姿を浮かび上がらせていった。

 

 ルシフェルとザドキエル……消えてしまった二人の天使が、この終末世界で、今ようやく鳳の前に現れた。

 



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また君に逢えたなら

 光が溢れる白い世界の中で、純白よりも白い人影が現れた。ルシフェルとザドキエル……鳳たちをこの世界に連れてきて、そのまま消えてしまった二人が、ようやく最後の瞬間になって姿を現したのだ。

 

 そんな得体の知れない二人を前に、鳳は最初警戒していたが、すぐにこんな何もない場所で身構えたところで意味がないだろうと思い直し、寧ろリラックスしながら二人が近づいてくるのを待っていた。

 

 影は鳳の前まで歩み寄ってくると、まるでポラロイド写真のようにジワジワと色が滲み出てきて、やがて二人の姿がくっきりと浮かび上がった。荘厳な6対12枚羽を背負った彫刻のように美麗な天使ルシフェル。そしてがっしりとした体格で、威厳を湛えた力強い目をしたザドキエル。二人は鳳の前に歩み出ると、申し訳無さそうに頭を下げた。

 

「お久しぶりです、ヘルメス卿。さぞかし私たちのことを恨んでおいででしょう」

「恨む?」

 

 鳳はそんな二人に向かってぽかんとした表情で、

 

「正直、色んなことが次々に起こってしまって、恨むもクソもないですよ。俺はなんでこんなことになっちまったのか。これは避けることが出来たのか。そもそも、避けるべきだったのか。わからないことだらけで、それを知るまではどんな感情も湧いてきません。ただ……一つだけ聞きたい。あなた達はこの世界を救いたかったんですよね?」

「それはもちろん」

「なら、なんで滅んでいるんですか? ……いや、俺がついうっかり滅ぼしてしまったという方が正しいような気がするんですけど……ミッシェルさんがあの時止めてくれたのは、こうなることをあなた方から聞いていたからなんですよね? つまり、俺があのまま播種船に向かえば、滅びの時を迎えることを、あなたたちは最初から知っていた」

「ええ、そうです」

「どうしてなんですか? 知ってたんなら避けられたはずでしょう? これじゃあなたたちが積極的に世界を滅ぼしたようにしか思えない」

 

 鳳が早口に糾弾するような言葉を口にすると、二人は目を瞑って暫くの間押し黙っていた。この沈黙はなんのつもりだろうかと不審に思っていると、鳳は自分が息を荒げていることに気がついた。どうやら、恨んでいないと言っておきながらも、自分はあまり冷静では無かったようだ。

 

 彼がそんな自分に対して諦めたように溜息を吐くと、それを見たルシフェルは無機質な瞳で機械的に鳳の疑問に答えた。

 

「それは、こうしなければ、あなたと会うことが叶わなかったからなのです」

「俺に会う? 俺に会うために、世界を滅ぼしたっていうんですか?」

「そうです。世界を救うには、こうする必要があったのです」

「……ちょっと、わかりません。何がなんだか。とにかく、話してくれますか?」

 

 ルシフェルは厳かに頷き、

 

「私たちはオリジナルゴスペルを使い続ければ、いずれこうなることを知っていました。こうならないように、神を止めようとして、こちらの世界に渡ってきました。神は、人間に作られた機械ですから善悪の区別がつかない……故に、人間に求められるままその力を振るい続け、その結果、世界が滅びてしまうことに気づいていないと、そう思っていました。

 

 ですが違ったんです。既にお気づきでしょうが、神は人間の願望を叶える機械であることは確かですが、その対象は魔族だったのです。するとオリジナルゴスペルを使い続けることは、魔族にとっては都合が悪いはずです。ところが神はそれを使い続けていた……何故か?

 

 実はそれこそが神の目的だったのです。神は人類の終着点がこうなるよう、オリジナルゴスペルを使い続けていた……神は最初から、我々人類を滅ぼそうとしていたのです」

 

 それはまったく想定外で、鳳はすぐには目の前の天使が言っている言葉が理解できなかった。対象が人類ではなく、魔族であったとしても、神はその願いを叶える機械のはずである。それが積極的に世界を滅ぼそうとしていたとは、どういうことなのだろうか?

 

「おっしゃるとおり、神は人間の願望を叶えるために存在しました。その対象は我々ではなく、魔族……怒りと憎しみに支配された人々の求めに応じ、人類が強者生存のラマルク型の進化を遂げるようにサポートしていたのです。

 

 しかし、強者生存型の進化というものは、実はすぐに限界を迎えてしまうのです。何故なら環境適応を無視する限り、生態系が変わる度に強さの基準が変わってしまうからです。

 

 例えば、氷河期で求められる強さは、間氷期で求められる強さとは全く別物です。厚い毛皮に覆われた生き物は、熱帯雨林では生きていけません。どちらが強いのか? と問われても比べようがないのです。こんなことは時代を考慮しなくても、平時でもよく起こりえます。例えば、水棲魔族と北海の魔族とでは、どちらが強いでしょうか。彼らは戦う機会すらなかったでしょう。

 

 こうなってくると神は強さというものの定義を、何度もし直さなければならなくなります。北海とインド洋の間に住む魔族を利用して間接的に強さを測ったり、純粋に筋力や破壊力を測定したり、生命力がタフさだと考えれば、その耐久度を測ったり。色々ありますが、最終的には一つの結論に達するのです。

 

 即ち、強さとは相対的なものである。なら、人類が単一の生命体になってしまえば、最強であることに変わりないではありませんか。つまり、一人を選んで、後は全て滅ぼしてしまえば、そこに最強の人間が現れる……神はそうして人類の夢を叶えたのです」

 

 鳳は開いた口が塞がらなかった。

 

「まさか、そんな……そんな理由で、神は人類を……いや、宇宙そのものをぶっ壊したって言うんですか?」

「そうです」

「そんな、無茶苦茶な! 普通、そうなる前に止まるでしょう!? もしくは、本当にそれでいいのか、もう一度人類に選択を委ねるはずだ!」

「ええ、そうです。おそらくそうした機会は何度もあったでしょう。ですが、神が願いを叶えるべき対象は魔族だった。彼らにはもう理性がなく、求めるものは常に純粋に力だった」

「それで、本当に滅ぼしちゃったんですか……? そんな、馬鹿げてる!」

 

 鳳の憤懣やる方ない叫びに、ルシフェルも同意するように頷いた。そして彼は思いがけない言葉を口にした。

 

「ええ、そうです。そんなことは馬鹿げている。人類の願望を叶えるために、その人類が滅んでいては本末転倒です……だから神は考えたのでしょう。もう一度、最初からやり直せないかと」

「……やり直す? まさか、過去に戻ろうってことですか?」

 

 そんなことが出来るはずがない。鳳が首を傾げていると、ルシフェルは演技っぽく周囲をぐるりと見回してから、

 

「この世界は最後にアズラエルという魔族を選び出し、最強の彼女が一人生き残るという結末を迎えました。その彼女が何十万年も生き続けたことに、きっと今頃神は満足していることでしょう。ですが、その最後の人間もついに滅び去り、この宇宙にはもう世界そのものを見つめる観測者はいなくなった。

 

 故に空間も時間も意味がなくなり、宇宙は崩れ去り、物質は全てエネルギーと化しました。つまりここには今、空間の広がりはなく、どんな次元も存在せず、ただ高いエネルギーがあるだけです。これが何を意味しているかわかりますか?」

 

 鳳は黙って首を振った。

 

「ビッグバン直前の宇宙と同じ状態なのです。今ほんのちょっとでもこの熱的平衡状態が崩れれば……つまり自発的に対称性が破れれば、宇宙はまたビッグバンを起こします。神は、そうなるように、いくつもの並行宇宙を破壊し、その余熱を集め続け、ここに宇宙の種を作り上げたのです」

「やり直すって……つまり……」

 

 そういうことなのか? 鳳が唖然としていると、ルシフェルは厳かに頷いて、

 

「そうです。宇宙はこれから138億年かけて、同じ世界を作り直そうとしています。ビッグバンが起こり、直後に無限の並行宇宙が生まれ、その殆どは閉じてしまうでしょうか、いくつか生き残った世界のどこかに、またあなたが生まれ、そして神が誕生する……人類は長い闘争の果てにラマルク的進化を選び取り、また我々天使と、1千万の再生する人類が用意される。しかし、その結末は見てきた通り、破滅です。そして神は世界を諦め、また最初から宇宙をやり直す……それが何度も繰り返されてきたのです」

「先生はこの終末が、過去に何度も起きたって言うんですか?」

 

 鳳がそう尋ねると、ルシフェルは彼の持つ杖を指差して、

 

「あなたの持つその杖や、オリジナルゴスペルと呼ばれるものは、いつ、どこから出てきたものなのでしょうか。少なくとも、それは私が作ったものでも、神がどこかで見つけてきたものでもありません。なのに、何故か神はその存在を知っていました」

「これは、このまま次の宇宙にも引き継がれるってことですか……」

 

 鳳は自分の持つ杖を見ながらホッと安堵の息を吐いた。もしそうならば、この杖の中に吸い込んだ仲間たちも助かると言うことだ。彼はふと思いついて、

 

「もしかして……この世界の播種船には俺の遺伝子は無かったはずなのに、こっちの世界で復活できたのは、この中に俺の情報が残っていたからなんですか?」

 

 するとルシフェルは首を振り、

 

「いいえ、違います。あなたの遺伝子情報は播種船の中にちゃんと残っていました」

「え? でも、エミリアは存在しないはずだって……俺は、中学の時に死んだって言ってたらしいんですが」

「ええ、彼女の言っていることに間違いはありません」

「……じゃあ、俺の親父が、俺の遺品から遺伝子を抽出して登録したとか?」

 

 ルシフェルはその問いには答えず、代わりにこんなことを言い出した。

 

「その理由を、これからあなたは知ることになるでしょう。そして、それがあなたをこの場所にお呼びした理由でもあります」

「……どういうことです?」

「これを……」

 

 ルシフェルがそう言って指を鳴らすと、鳳たちの周囲を覆うように透明な球形の膜が現れた。よく見れば、その球体の上に張り付いた2つの点が、クルクルと気ままに動き回っているのが見える。

 

「これはただのイメージですが、これがこの宇宙の本当の姿だと想像してください。私たちにはこの全ては見えていませんが、このように3次元空間内に広がっている宇宙の外側には、アーカーシャと呼ばれる二次元の膜があって、私たちの本性はその膜に記述された情報だと考えられます。

 

 そしてそのアーカーシャには2つの精神世界、エーテル界とアストラル界が張り付くように同居しており、私たちの思考はその2つの世界で処理されてから、物質界に反映されるように出来ています。これが、人間の正体だと考えられるのです。

 

 ところで今、この物質界が崩壊し、宇宙の広がりは閉じて一つの点になろうとしています。すると、その外側に張り付いていた膜も収縮して一箇所に集まってきて、その上に張り付いていたエーテル界とアストラル界、そして物質界が一つになります。

 

 今が、この状態だと考えてください。物質界にいるあなたと、エーテル界の私たちがこうして話をするには、このタイミングを待たなければなりませんでした」

「そういうことですか……だから先生は俺が播種船に行くように仕向けたんですね? ミッシェルさんを使って」

「ええ。彼はそんなことをせずとも、死ねば2つの世界は合一されるのだから、あなたが天寿を全うするのを待てと言いました。しかし、それでは遅すぎるのですよ」

「遅い? 早いんではなくて?」

 

 鳳と早く会話をするのが目的なら、終末などを待たずに、彼が寿命で死んだほうが遥かに早いはずだ。だから何のことを言っているのか分からなかったが、

 

「我々の目的は、ここであなたと対話することではなく、あなたに世界を救って貰うことなのです。そして、それを実現するには、殆ど時間的な猶予が無かったというのが正しいでしょうか」

「どういうことです? 俺が世界を救うって……いや、そもそも、どうして俺なんですか? この状況で、俺がやれることなんて、何もないと思うんですが……」

「ええ、今、現時点では、確かに我々にやれることはありません」

 

 何しろ世界は既に消滅してしまっている。この状況から巻き返せるとは思えない。

 

 だが、ルシフェルはそこにこそ世界を救う唯一の光明があるのだと言った。

 

「ですが、これから宇宙は再生されます。138億年かけて、また人類が誕生し、社会を作り、国が興り、そこにあなたも生まれてきます。そのあなたなら、神を止めることが可能ではありませんか?」

「……え?」

「今となってはその存在は機械を超越してしまっていますが、元々神とは、あなたの父親が作り出した人類初の汎用AI・DAVIDシステムのことです。この機械に、人類は強者生存のラマルク的進化を願い、今回の破滅は始まってしまいました。あなたならば、それを止められるのではありませんか?」

 

 確かに、同じ世界が繰り返されると言うのであれば、その可能性はある。だが、それには条件が必要だ。

 

「ただ、そのためには、あなたが今の記憶を持って生まれ変わり、このことを思い出さなければなりません。つまり、次の世界にあなたの記憶を継承するために、今この終末に、あなたの肉体が必要だったのですよ」

「先生たちは、俺が次の世界に記憶を持ち越す方法があるって言うんですか?」

「如何にも」

 

 ルシフェルは大仰に頷いた。鳳はゴクリと生唾を飲み込んだ。

 

「そもそも、あなた自身も既に前世の記憶を持って生まれ変わるという経験をしているではありませんか。この世界には肉体の存在する物質界の他に、精神界であるエーテル界とアストラル界が存在します。死後、人の記憶は精神界に記録されており、後の世界で遺伝的に近い人物として復活することがある。放浪者と呼ばれる人たちが存在したわけです。

 

 この仕組みを使い、これから誕生する新たな宇宙に予めあなたの記憶を記述しておけば、138億年後にあなたが生まれた時、その記憶を継承することが出来るかも知れない」

「つまり、先生たちは、これから誕生する新たな宇宙に、今のこの俺の記憶を……アーカーシャの情報を予め移し換えてしまおうって言うわけですか」

「そうです」

「どうやって?」

「ウトナピシュティムを使います」

 

 まさかここにあの播種船の名前が出てくるとは……鳳が意外に思って聞き返すと、

 

「いいですか? ウトナピシュティムは現在、ここ地球から遠く離れた銀河を限りなく光速に近い速さで航行中です。そのせいで、この場所とウトナピシュティムとでは時間の流れが違ってしまい、今現在あなたのいるこの世界は消えそうになっていますが、あちらは何事もなく宇宙を旅しているはずなのです。

 

 ウトナピシュティムもここと同じ宇宙に存在するはずなので、我々の目には既に消滅してしまっているように見えるのですが、その乗組員からすれば、何事もなく今も宇宙を飛び続けているのですよ。

 

 不思議な話ですが、要は、こちらの数秒間が、あちらでは何百年、何千年どころか、何億年という長さにまで引き伸ばされてしまっているんです。それは一体、どのくらい違うのでしょうか? この世界は今、全ての空間が破綻し、物質が消滅しようとしています。時間とは空間の一形態のことですから、空間が消えようとしているこちらとあちらでは、時間の流れる速さがほぼ無限に違うことになってしまう……

 

 するとウトナピシュティムが航行中の宇宙は永久に消滅しないことになる。同じ宇宙にあるはずなのに、これは矛盾じゃありませんか?

 

 つまり、ウトナピシュティムがある宇宙とこの宇宙は、既に別の宇宙になってしまっているのですよ。あちらの宇宙はこちらから見ると、マイナスのエネルギーに包まれ、既にこの宇宙から引き離されてしまっている状態です。

 

 故に、これからこの宇宙が消滅しても、あちらの宇宙はこれまで通り何事もなく時間が流れ続けることになる。

 

 ところで、2つの世界は元々同じものだったのですから、あちらの宇宙の果てにあるアーカーシャも、ここと同じ記憶が記述されているはずじゃないですか。

 

 これからこの宇宙は崩壊し、新たな宇宙が誕生した時、アーカーシャにはまだ何も記述がされていません。しかし既に別宇宙となったウトナピシュティムの宇宙には、この世界の情報がそっくりそのまま残っています。それを、なんとかして移し換えられれば、あなたはまた新たな宇宙に誕生することが出来るはずです」

「どうやるってんです?」

「あなたはついさっきまでその播種船にいました。その時のワームホールが、まだ残っているんですよ。それは人が通れるほど大きくはありませんが、情報のやり取りをするだけなら問題ありません。

 

 ただし、そのためには、新たな宇宙が始まった正にその瞬間に、ほんの刹那の一瞬でもいいので、このワームホールが残っていなければなりません。

 

 それには向こうの宇宙に有り余っている、マイナスのエネルギーを使って維持することが出来ますが、ただ一つの問題は、観測者が必要だということです。

 

 なので、あなたには、ここに残って、この世界の終わりと、新たな世界の始まりを見届けて貰わねばなりません。この2つの世界を繋ぐワームホールは、あなたとエミリアさんの縁が繋いでいるのですから」

「つまり俺はただ見てればいいんですね?」

「はい……そしてアーカーシャの書き換えが終わったあと、私たちは消滅します。申し訳ございません……これであなたの命を救うことが出来れば、100点満点だったのですが……」

 

 鳳はカラカラと笑った。

 

「気にしないでください。いずれ人は死ぬんですし、俺は死ぬのには慣れてるんで」

「そうですか……」

「俺としては、世界が救われて、また人生をやり直せるならそれでいいですよ。ところで……もしも世界が救われたら、俺はまたアナザーヘブン世界の妻や仲間たちと会えるのでしょうか?」

 

 するとルシフェルは少し迷いの表情を見せたが、すぐに気を取り直した風に、

 

「すでにお気づきかも知れませんが、これからウトナピシュティムが長い旅の果てにたどり着くのが、惑星アナザーヘブンなのです。そこであなたは復活を遂げ、あなたの奥様たちと出会うでしょうが……その時のあなたと今のあなたが同じであるかと言われると、私にはなんとも……」

「そうですか……でも、俺が新たな世界で神を止めることが出来れば、彼女らにはもう迷惑はかからないんですよね? 俺は、家をあけたままここまで来てしまったから……」

「ええ。その時は我々があなたの前に現れることもないでしょうから」

「そうですか……それは、ちょっと残念ですけど……」

 

 鳳がそう言って視線を下げると、それまで黙っていたザドキエルがスーッと彼の前まで歩み出て、手を伸ばしながら言った。

 

「それを……」

「え?」

「私にケーリュケイオンを貸してもらえないだろうか。その中にいる君の仲間と、私の弟子を、必ず君のもとへ送ると約束しよう」

「そんなことが出来るんですか?」

「わからない……だが、何もしないでいるよりはマシだろう。君を見ていて私も思った。私も最後まで、足掻けるだけ足掻いてみせよう」

「そう……ですね。それじゃあ、おまかせします」

 

 ザドキエルは杖を両手で大事そうに受け取った。鳳はそれを見て、ふと思った。あまり面識がないから今まで気づかなかったが……この老天使は、かつて一度だけ邂逅したことがあるヘルメスと似ているのではないか……?

 

「そろそろ時間のようです。終わりが、始まります」

 

 鳳がそんなことを漠然と考えていると、ルシフェルが言った。

 

 時間という概念が、ここでは意味があるのかどうかわからないが、要するにいつまでもこうしているよりも、やることをやってしまおうという、別れの言葉の代わりなのだろう。

 

 鳳は薄く笑ってみせてそれを別れの挨拶にすると、手を差し伸べて二人の手を順番に握った。二人の天使は握手を交わした後、ほんの一瞬だけ名残惜しそうな表情を見せたが、間もなく何も言わずに光の礫となって消滅した。

 

 辺りは静寂に包まれており、何も見えなかった。

 

 真っ白な空間はただ真っ白で、どこまでも続いていた。

 

 いや、ここにはもう空間はなく、従ってどこまでもなんて続いていないのだろう。

 

 自分がどうなるんだろうかという不安は全く無かった。全く無いと言えば嘘になるが、塵芥と化し、何も残らないのは、日本人の死生観としてありがちなことだ。だからそれほど怖くなかった。

 

 ただ、最期の瞬間を迎えることよりも、やり残してしまったことの後悔の方が大きかった。必ず帰ると誓った妻たちに、別れの言葉を告げる暇もなかったこと。瑠璃たち人類に希望だけを与えて、結局は何もしてやれなかったこと。そして仲間たちを巻き込んでしまったこと。最後に、エミリアとやっと会えたというのに、ちゃんと謝れなかったこと。

 

『シーキュー……シーキュー……シーキュー……』

 

 その時、どこからともなく、声が聞こえてきた。あまりにも静寂がすぎるから、最初は耳鳴りかと思ったが、

 

『シーキュー……シーキュー……こちら、エミリア・グランチェスター。鳳白、応答せよ。繰り返す。こちら、エミリア・グランチェスター。鳳白、聞こえていたなら返事をして』

「エミリアか!」

 

 目の前に白い点がぽつんと浮かんでいて、それが彼女の声に合わせて振動していた。鳳が咄嗟に返事を返すと、その点はピタリと止まり、数秒の後にまた動き出した。

 

『ツクモ。まだ、この穴は繋がっているのね?』

「ああ、色々事情があって、こっちの世界とそっちはこれから別々になるそうだけど」

『ええ、ルシフェルから聞いたわ……本物の、神話の中の悪魔が出てきて驚いちゃったけど……いえ、驚くまでもないわね。カインから話は聞いてたもの』

「そうか。なら、これから何が起きるか、もう知ってるんだな?」

『ええ……そして、あなたがどうなるかも……』

 

 そう言う彼女の声が沈んでいた。それは恐らく、彼女はこれから鳳が死ぬことを、正しく知っているからだろう。正直なところ、本人はもうなんとも思っていないのだが、やはり目の前で人が死ぬと思うと気分が落ち着かないのだろう。鳳はなんだかそんな場面に立ち会わせてしまって、申し訳ない思いがした。

 

 それを謝りたい気持ちもあったが、いまはもっとやらなければならないことがあった。

 

「そうだ、エミリア……もしも君に会えたら、ずっと言いたいことがあったんだ」

『……なに?』

「本当に、すまなかった」

 

 鳳はそう言って頭を下げた。彼女は鳳が何を言っているのか分からず、暫くの間黙りこくってから、また同じことを聞いた。

 

『……なに?』

「中学の時、嫌がる君を先輩に紹介したことだ。あの時の俺はまだ子供で、おまえが先輩みたいな大人と付き合ったほうがいいんだって、馬鹿なことを考えていた。それが、あんな結果になるなんて……先輩への復讐も果たしきれず、ずっと、そのことを後悔してきたんだ……」

『そう……そのこと……』

 

 するとエミリアは溜息を吐いて、思わぬことを言い始めた。

 

『その話ならビリーから聞いたわ。でもね、ツクモ、私にはそんな記憶はないのよ』

「記憶が……ない?」

『うん。私の記憶の中では、あなたは私を先輩になんか紹介していないわ。それどころか、夏に無理やり海に誘われそうになっていた私のことを、あなたが助けてくれたのよ。おかげで私は助かったけど……ただ、そのせいで、あなたは先輩連中に露骨に意地悪されるようになって……そして……』

「殺されたのか?」

 

 鳳の問いに、エミリアは暫くの間沈黙していた。きっと、嫌なことを思い出していたのだろう。彼女はやがて諦めたように、

 

『ええ……あなたが殺された後、あなたのお父様が大層お怒りになられて、学校どころか世間は大騒ぎになったのよ。噂では先輩たちは家族もろともひどい目に遭わされたって話だけど……自業自得だから今は何とも思っていないけど、その代わりに、怒りに囚われたあなたのお父様が、その後、神をあのように作ってしまわれたのよ。それが、この世界の悲劇の始まりになってしまった』

「ふーん……やっぱり、親父が神を作ってたんだな……そこまでは予想通りだけど、俺の世界ではその後、人類全体の総意としてラマルク的進化を選択したはずだけど、そっちでは親父が決めちゃったのか?」

『ええ、そうよ』

「そうか……」

 

 鳳は、自分は父親に愛されていないと思っていたから、その父親が彼の死に対して尋常ならざる怒りを見せたことを意外に思った。彼は本当に、鳳の死を悼んでいたのだろうか……それはそれとして、

 

「でも良かったよ」

『……え? なにが?』

「君が、ひどい目に遭わなくって。そうか……この世界の俺は、君のことを守ったんだな。守ることが、出来たんだな……」

 

 それは鳳がいつも夢に思い描いてきたことだった。あの時、もっとああしていたら、こうしていたらと、後悔する度に思い描いた願望と同じだった。だから彼はふと思った。

 

「そう言えば先生は、この世界が何度も繰り返されてきたって言っていた。俺は、その繰り返しの世界を思い出さなかったけど、もしかして、この世界の俺は思い出して、それで君のことを助けたのかな?」

 

 エミリアもその考えに思い至ったらしく、

 

『だとしたら、世界がこうなってしまったのは私のせいじゃない。あなたはちゃんと記憶を取り戻していたのに、私のことを庇ったせいで、あなたが犠牲になって神を止めることが出来なくなってしまったんだわ』

 

 彼女の声が震えている。

 

『ツクモ……もしもまた中学の頃に戻れたとしたら、今度は私のことを見捨てて。仮にそれで私が死んでも……あなたが傷ついたとしても、世界が破滅するよりはマシだわ』

 

 しかし、鳳は首を振って、

 

「いや、世界がこうなってしまったのは、君のせいじゃない。俺が失敗したからだ。だから俺はまた中学に戻ったとしても、何度でも君のことを守ると思うよ」

『でも、そんなことしたら……!』

「どうせまた、ここに戻ってくるだけさ……聞いてくれ、エミリア。きっと失敗は一度や二度じゃないんだろう。俺が覚えていないだけで、俺の世界の神を作ったのは多分俺なんだ。そしてアナザーヘブンという惑星でこの旅が始まったのも、君を助けることが出来なかったって後悔があったからなんだ。君は見捨ててくれって言うけども、多分、そんなことをしたら俺は自分が許せなくなる。そして何度でも同じことをすると思う。どうせ同じことの繰り返しなら、だったら、二人が生き残る世界を求めたっていいじゃないか。

 

 どうして人は人を虐げようとするんだろうか。他人を思い通りに出来ないことに、怒りを覚えるのだろうか。そんなことをするために、俺たちは知恵を獲得したわけじゃないだろうに、まるで俺たちは苦しむために自我を手に入れたように思える。他人が自分勝手に振る舞うのなんて、そんなの当たり前のことだろうに。それが許せないなら、自分も同じことをやられても仕方ないじゃないか。他人を力で支配したところで、同じことの繰り返しだ。どこかで断ち切らなきゃならないなら、俺は今度こそ自分自身を許せるように、努力しようとそう思うよ。

 

 だからまた、君を助けるチャンスをくれないか。絶対、二人で生き残る未来を勝ち取ってみせるから。それまで待っててくれないか。何千年、何万年、何億年先になるか知らないけれど」

 

 彼女からの返事はない。

 

「……エミリア?」

 

 その時、周辺の雰囲気が変わって、白はただの白では無くなり、まだらな白になっていった。決定的な何かが終わり、そして始まろうとしていた。鳳は、ああそうか、これでようやく本当に自分の旅が終わるのだと漠然と思った。辺りは白く、どこまでも白く、果てしなく白い中で、鳳はそう言えば、自分の名前も白だったなとどうでもいいことを考えていた。

 

 白い光が視界を染めていく。辺りには何も見えず、もう聞こえず、自分の体の感覚も無くなり、意識が遠のいていく。ようやくこれで、本当に死ぬのか……長かったような、短かったような……でもこれは終わりではなく、始まりなのだとしたら、一体自分はどこへ向かおうと言うのか。人は、どこへ向かおうとしているのだろうか。暴力的な光の中で、わけも分からぬまま意識が途絶える。

 

 そして138億年の時が流れた。

 



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afterwards

 星々の煌めきはビーズを散りばめたみたいで今にも落ちてきそうだった。夜を照らす月影が自分の影法師をくっきり浮かび上がらせていた。周囲にはどんな灯りも見当えず、天の川がこんなにはっきり見えるのは、あのマダガスカルの大海原に落っことされた時以来だった。しかし、あの時は潮の香りしかしなかったが、今吹く風は、獣の臭いがプンプンしていた。

 

 鳳は唖然と空を見上げていた。右手には動物の大腿骨を持ち、左手に謎の黒い箱を握りしめており、素っ裸にボロを纏っていた。頭がぼんやりとしてはっきりしないが、ただ一つ分かることは、自分はどうやら生まれ変わって、前世の記憶とやらを取り戻したようだと言うことだった。

 

 しかし、状況が全くわからない。ここはどこなのだろうか? そしてこの人たちは何者だろうか?

 

 彼の周囲には複数の人々がうずくまっていた。みんな彼と同じようなボロを纏って、男たちは手に粗末な棍棒や石斧を握りしめ、女達はみんな小さな子どもを抱きかかえていた。まろび出るおっぱいを見てラッキースケベを喜びそうなところだが、全然うれしくはなかった。なんというか、自分好みではないのだ。

 

 人々はみんな背筋を折り曲げて顎を突き出すといった猿みたいな姿勢をしていた。顔つきはみんなゴリラみたいで、額が狭くて下唇が厚かった。想像でしかないが、多分、アフリカを出たばかりの人類はこんな顔をしていたのではなかろうか。実際、それは進化前の人類のようにも思えた。

 

 アフリカ……その言葉で思い出したが、周囲の光景はそのアフリカのサバンナに似ていた。赤い土の上には背の低い下草がみっしりと生え、地平線が見えるくらい遠くまで延々と草原が広がっている。ところどころにアカシアの木みたいな横に平べったい木々があり……

 

 そして最悪なことに、ランランと月を反射する獣の目らしき光が、彼らを取り囲んでいるのが見えた。

 

 そのギラリと光る目から、キャッキャッキャ……っと、甲高い人の笑い声みたいな鳴き声が聞こえてきて、周囲の人々がざわつき始めた。何を言っているのかは分からない。実際、あーとかうーとしか聞こえないので、恐らく意味なんかない。思うに、彼らは言語を持っていないのだ。

 

「なんで……こんなことになってるんだ?」

 

 鳳は呆然と独りごちた。

 

 あの終末世界でルシフェルは彼に言ったはずだ。世界を救うためにまた生まれ変わって、人類が間違った方向へ行くのを阻止してくれと。何もしなければまた鳳か、彼の父親が神を作ってしまうから、それを止めてくれと。

 

 だから当然、彼は自分が21世紀の東京で目覚めると思っていた。少なくとも、エミリアと出会う前には目覚めなければ、彼女のことを救うことが出来ないから、多分その頃に覚醒するのではないかと思っていた。だが、ここはどこだ? 今はいつだ?

 

 ここが想像通りアフリカだとして、今は21世紀なのだろうか? 周囲を取り巻く人々からは、そんな現代の空気はまるで感じられない。映画の撮影でもしているならともかく、いくらなんでもこんな大昔の部族みたいな生活をしている人々が、今でも存在しているとは思えない。

 

 いや、そもそも記憶にある限り、自分はアフリカに行ったことなど一度もないのだ。だからアフリカのサバンナのど真ん中で目覚めるなんてことは、普通に考えればあり得ないはずだ。なのにこの現在の状況は、一体何なのだ。何が起きているのだ?

 

 キャッキャッキャ! キャッキャッキャ! っと笑い声が近づいてくる。子供みたいに可愛らしい声に油断していたが、近づくにつれて浮かんできたシルエットを見て、鳳は背筋が凍るように固まった。大型犬みたいなその姿は、いつかテレビで見たことがあった。ハイエナだ。その大きな口からは獰猛な牙が覗いている。こんなのに噛みつかれたら一巻の終わりだ。

 

 その時、うほうほ! と男たちが何やら騒ぎ出したかと思うと、周囲を取り囲んでいた人々が一斉に立ち上がって一目散に逃げ始めた。戦うのではなく逃げるという選択は自分好みだし正しい判断と言えたが、猛獣に襲われた時、真っ先に犠牲になるのは、大抵どんな者かが鳳には分かっていた。

 

 間もなく、逃げ出した人々を追いかけるようにハイエナの群れが動き出し、あっという間に人々を追い抜いて攻撃を仕掛けてきた。次々に繰り出される攻撃に悲鳴を上げて逃げ惑う人々……男たちは必死に武器を振り回してハイエナを追い払おうとしているが、それは自分を守ることに必死で、女達を助けようとするものではない。

 

 とその時、遂に逃げ遅れた一組の母子がハイエナの群れの中で足を踏み外して、どっと転倒した。砂煙を上げて転がる母子に、あっという間にハイエナたちが群がっていく。鋭い牙が肌に食い込み母親が悲痛な叫び声を上げた。彼女が何を言っているかはわからない。だが、言わんとしていることは分かる。彼女が腹の下に隠した子供からは、この世の終わりみたいな泣き声が聞こえる。

 

 獲物を捕らえたことで、人々を襲っていたハイエナの足が止まった。その隙に人々は逃げ去り、あっという間に見えなくなった。ハイエナの群れが母子に群がり、ガツガツとなぶりものにしている。鳳はその姿を呆然と立ち尽くして見ていることしか出来なかった。

 

「くそっ!! なんでだよ……どうなってんだ? ……一体、どうなってやがんだよっ!!!」

 

 血肉を取り合うハイエナの群れの中からはもう、母親の声は聞こえなかった。だが、子供泣き声は相変わらず聞こえてきた。子供はまだ生きている……生きているんだ!

 

「ちくしょおおおーーーっっ!!」

 

 鳳は手にした動物の大腿骨を叩き割ると、鋭く尖ったそれを腰だめに構えて、ハイエナの群れに突っ込んでいった。

 

 ルシフェルと誓った。ザドキエルと約束を交わした。仲間たちを助けるためにも、エミリアを助けるためにも、そして世界を救うために、神を止めるまで自分は死ぬわけにはいかない。

 

 なのに、なんでこんなことをしてるんだと思いながら……

 

(最終章に続く)

 



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第十章・うは!俺神になっちゃったよww鳳白最後の7日間~AGAIN
出アフリカ


 わりと有名なトリビアであるが、どうやら神は我々人類を二度作ったらしい。実は旧約聖書を読めば創世記の冒頭の部分で、神は何でか分からないが人間を二度作っている。おそらくは表現力が乏しかった作者の説明不足か、後世の編纂者のミスなのだろうが、聖書に書かれてることは絶対だから、一神教の人々の中にはそれを信じている人も結構いるらしい。

 

 因みに、二度作ったというのはあながち間違いではないかも知れない。と言うのも、実は現世人類であるホモ・サピエンスがアフリカから出るよりずっと以前に、既にユーラシア大陸には先輩であるホモ・エレクトゥスが広まっていたからだ。

 

 その180万年前の化石が、19世紀末にインドネシア・ジャワ島で発見され、ジャワ原人と名付けられた。その後中国でも北京原人が発見され、人類の祖先がこのホモ・エレクトゥスであるとの考えが当時は支配的になっていた。人類は、遅くとも100万年前頃までにはユーラシア大陸全体に広まり、それぞれの地域で独自に進化してきたのだという、多地域進化説が唱えられたのである。

 

 だが、この考え方だと少々厄介なことになる。

 

 この多地域進化説を採用すると、現在のインドネシア人やポリネシア人、アボリジニなどはジャワ原人が進化したと考えられ、中国人や日本人は北京原人が進化したものと思われ、そしてヨーロッパ人はネアンデルタール人が進化したものと考えられるわけだが……

 

 現生人類と比べると背が低くて脳容量が1/3から半分しかないジャワ原人や北京原人に対し、現生人類よりも脳容量が大きくて骨格も立派なネアンデルタール人から進化したヨーロッパ人、つまり白人様は選ばれし優秀な民ということになりかねない。

 

 実際はそんなことは無かったのだが、この一度植え付けられた選民思想が何を引き起こしたかは言うまでもないだろう。20世紀はあらゆる人種差別に人類が苦しめられた世紀だったと言える。

 

 この間違った考えが否定されるには1980年代を待たねばならなかった。この頃、遺伝子工学の研究が進んで、古代の化石から遺伝子を取り出して調べることが出来るようになってきた。そしてミトコンドリア・イブが発見されたことで、どうやら人類のルーツはおよそ20万年前の東アフリカの女性にたどり着くことが分かった。

 

 つまり、人類の祖先は最初に広まったホモ・エレクトゥスの集団には存在せず、その後もアフリカに留まり続けた者たちがホモ・サピエンスへと進化し、その集団が世界中に広まっていく過程で、旧人類(エレクトゥス)が淘汰されていったというのが真相だったのだ。

 

 人類は二度、世界に広がっていった。これ以降、遺伝子工学と考古学、進化生物学は切っても切り離せない関係となっていく。

 

 その後、炭素年代測定法などを駆使して、世界中に埋まっていた人骨を調べ、人類が如何にして世界中に広がっていったか、おおよそのことが分かってきた。

 

 ホモ・サピエンスに進化した人類は暫くの間は東アフリカに留まっていたが、13~9万年頃(約10万年前)にかけて北アフリカのエジプト、レバント地方、そしてチグリス・ユーフラテス川流域の、いわゆる肥沃な三日月地帯に進出し、そして、地中海沿岸のヨーロッパではネアンデルタール人と接触を果たした。

 

 かつてはこの時、獰猛なホモ・サピエンスがネアンデルタール人を捕食し、かの心優しき人種は絶滅してしまったと思われていたのだが、実際にはそんなことはなくて、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は交雑を果たして、現代人の遺伝子の中にネアンデルタール人の遺伝子も数パーセント含まれているそうである。

 

 それじゃ、なんで現生人類よりも優秀な肉体を持っていたはずのネアンデルタール人が絶滅したのか? と言われれば、大雑把に言えばカロリー不足が原因であろう。ボディビルダーが毎日どれほどのカロリーを消費するか知ってるだろうか。強い体を維持するにはそれだけカロリーが必要だが、低燃費な現生人類と比べて、ネアンデルタール人はその点で生まれつきハンデを負っていた。

 

 おまけに彼らが絶滅した4万年前頃は丁度最終氷河期のど真ん中で、平時のように沢山のカロリーを獲得することが困難だった。そのため、おそらく慢性的に飢餓状態だったネアンデルタール人は、現生人類とのカロリー獲得競争に敗れ、地中海を西へ西へと追いやられていき、ついに絶滅してしまったというわけである。

 

 一方、肥沃な三日月地帯へ進出した現生人類は、ネアンデルタール人との交雑を経験したことで、どうやらこの時期決定的な何かを獲得したらしい。今からおよそ6万~4.5万年前、おそらくは氷河期か、他の何らかの切っ掛けで人類は大規模な移動をしはじめ、あれよあれよという間にユーラシア大陸全域からインドネシアの島々へと渡り、ついにウォレス線を越えてオーストラリア大陸にまで到達してしまった。

 

 この物語中では10万年前と言っているが、おそらく人類が創造性や、複雑な言語能力を手に入れたのはこの時期だと思われる。10万年と5万年じゃえらい違いだが10万年前に人類は東アフリカから旅立ってもいるので、この時期にもなにかあったのは間違いない。とにかく、この2つの時期に人類は何か決定的なものに直面した。

 

 話を戻そう。こうして大移動を開始した人類は、5万年前頃にはアメリカ大陸を除く全地域に進出し、その後長い時間をかけて生物学的な4人種、即ちモンゴロイド、オーストラロイド、コーカソイド、ネグロイドが出揃うことになる。多地域進化説では100万年以上かけて4人種は分化したと思われていたわけだが、実際には5万年程度しか経っていない。と言うか、人種と言っているが、この程度の年月ではコーカソイドもネグロイドも何も変わらないだろう。こんなカテゴライズ自体が、今となっては争いの種を産むだけで、無意味なものだと言うことがよく分かる。

 

 ともあれ、こんな具合に最終氷河期に世界全域に散らばっていった人類は、1万3千年前頃、ついにアメリカ大陸に進出を果たし、1万年前までには今のアルゼンチンに到達する。丁度この頃、長かった氷河期が終わり、人類の南方への進出を防いでいたカナダの氷が溶け始めたのだ。

 

 きっと、中央アメリカに初めて訪れた人は、そこにパラダイスを見たことだろう。それまで一度も人類という獰猛な獣と接触していなかったアメリカの動物たちは、人間を見ても全く恐れたりせず無防備だったようだ。そのせいでこの時期に、アメリカの固有種の殆どが絶滅してしまったという。

 

 ところでアメリカ大陸には、人類が農耕を始めるのに必須な穀物が全くなかったわけではなく、それどころかトウモロコシとサツマイモという、なろう小説ならチート級と呼ぶべき作物があった。にもかかわらず、文明が興ったのはその原産地である南米ペルーの周辺に限っていた。

 

 大航海時代、アメリカ大陸に上陸したスペイン人たちが南米ばかりを狙って征服していたのは、そこに人が密集していたからで、この時期の北アメリカはあんまり人が住んでいなかったのだ。だから後から来たイギリス人は北アメリカに入植すると、奴隷不足をアフリカの黒人から補ったと言うわけである。

 

 ところで、人類の進出が遅れたアメリカ大陸はともかく、アフリカにはどうしてヨーロッパ人に対抗しうる近代国家がまだ無かったのだろうか。

 

 考えても見れば、アフリカはヨーロッパに近く、さらに言えば人類は東アフリカをルーツにしているのだから、ユーラシアに広がるよりは寧ろアフリカ大陸に広がっていなければおかしいのではないか? なのに有史以来、アフリカには四大文明やアメリカのマヤ・アステカ文明に匹敵するものは全く存在しなかった。何故なのだろうか?

 

 その理由は、アフリカ大陸が南北に長く、その殆どが熱帯に位置しているせいだった。人間の体は熱帯で暮らしていくには適しておらず、そして温帯で育つ植物は、熱帯に植えてもまともに育たないのだ。例えばヨーロッパ原産の植物があったとして、それを日本に持ってきて植えても大体のものは育つが、赤道直下の国々に持っていったらまず育たない。その逆もまた然りだ。

 

 人類が主に利用している穀物は、基本的に殆ど温帯の気候に適している。大麦小麦大豆そばヒエ、米などを赤道直下に持っていってもまず育たない。いや、米はまだ育つだろうが、水田など工夫が必要だ。そして人類が飼っている家畜もその飼料を食べて育つわけだから、南国の気候では参ってしまうだろう。

 

 そう考えると、スペイン人たちがアメリカ大陸にやってきた時、北アメリカにあまり人がいなかった理由もわかる。アメリカ大陸もアフリカと同じく南北に長い大陸であったから、ペルーで興った文明が赤道に阻まれ北アメリカに上手く伝わらなかったのだ。もちろん、全く人がいなかったわけではないが、酋長を中心とした小規模な狩猟部族が乱立していたのが実際のところで、それでは狡猾な征服者たちには対抗しきれず、彼らの持ち込んだ病原菌の前に、ほぼ絶滅と言っていいくらいにまで追い詰められてしまったのである。

 

 北米は後に穀物メジャーが次々と誕生する肥沃な大地であったが、育てる穀物も家畜も無かったというのは皮肉な話である。

 

 さて、ユーラシア大陸以外で現代に繋がる巨大文明が生まれなかった理由は大体話した。文明もしくは文化は、赤道を越えて伝わるのが困難なのだ。だが逆に言えば、緯度が同じ東西になら、殆ど抵抗なく伝わっていくわけだ。実際に有史以来、東西の接近は度々起こっており、様々な文化が流入し、そして征服も行われた。

 

 現在の東アジアの人々の遺伝子を調べてみると、ある特徴的なパターンが見つかるという。そしてその変異がいつ頃起きたのかと調べていくと、およそ800年前の一人の男性に行き当たるそうだ。その頃は、モンゴル帝国が世界を席巻していた時期と重なるから、もしかしてこの男性こそがジンギスカンなのではないかという説がある。

 

 恐らく、誰もが一度は聞いたことがあるだろう。テムジンは征服した部族の女をその夫の前で犯し、この瞬間がたまらないのだと言ったというような、ちょっと鬼畜な性癖の持ち主だったそうである。

 

 このように同じ特徴の変異を持つ集団のことをスタークラスターと呼ぶらしい。意味はそのまま星団のことであるが、最近ではコロナのせいですっかり定着してしまった感があるので、わざわざ断る必要もないかもしれない。テムジンのような、一人の人間から発生するクラスターはまず間違いなく男性に端を発している。人間が遺伝子をばらまくには、男性の方が都合がいいのだから当然だろう。

 

 ところで、ヨーロッパ全域は紀元前15世紀から10世紀頃にかけてケルト人によって支配されていた。アーサー王がローマ人を度々蹴散らしているのは、この頃の神話が元になっているからだ。だからだろうか、ヨーロッパ人の遺伝子を調べてみると、実際にこの頃に一人の男性が成功を収めた痕跡が見つかるらしい。尤も、それはブリテン島からフランスの南部あたりにかけてであって、期待するほど大きな集団ではなかったようだ。

 

 それよりももっと目につくのは、今からおよそ5000年前。紀元前3000年ごろのクラスターである。

 

 ヨーロッパと中国の間の中央アジアには、およそ8000キロにも及ぶステップ地帯が続いているが、途中にある河川など様々な遺跡から、5000年より以前に中央アジアに人が暮らしていた痕跡は見つかっていない。この頃、ヨーロッパ側のコーカサス地方の出口あたりのステップには、小規模な部族が入り乱れていたそうだが、どうやらこの変異の持ち主は、その中の一つの部族のもののようである。

 

 時を同じくして、肥沃な三日月地帯ではメソポタミア文明が最盛期を迎えており、ナイル川ではエジプト王朝が興ろうとしていた。こんなに急速に文明が発展したのは、人類がこれより少し前に車輪の技術を獲得したからだ。

 

 車輪は徐々に周辺へと広がっていき、やがてステップ地帯のその部族にも伝わった。おそらく、この部族はそこで遊牧をして生計を立てていたのだろう。もちろん、馬とともに生活していたのは間違いない。そんな部族が車輪を手に入れたら何をするだろうか? きっと馬車……というか戦車を作って乗り回したのではなかろうか。

 

 この頃のヨーロッパは原生林に覆われていて、ほとんど人は住んでいなかった。おそらく小規模な農村がちらほらとある程度で、もちろん国家などどこにもなかった。ステップ地帯を出た部族は、そんな農民たちを襲って回った。馬に乗った蛮族が攻めてくるなんて考えもしなかった農民たちに為す術はなく、男は殺され、女は犯されたかも知れない。

 

 もしくは、この集団はペストのような病原菌を持っていたかも知れない。そのせいで、耐性のないヨーロッパの原住民は死に、部族の血筋のものだけが生き残ったのかも知れない。わかっているのは、この5000年前にステップ地帯を出発した集団が、驚くような速さで、あっという間にヨーロッパ中に自分たちの遺伝子をばらまいたということだ。

 

 そしてこの特徴的な変異を持つ遺伝子は、イラン人とインド人からも見つかるそうである。ヨーロッパを荒らして回った集団が戻ってきて、今度は東に向かったのか、それとも、同じ部族の別々の集団が東西に分かれたのかはわからない。

 

 とにかくわかっているのは、5000年前、とある部族が肥沃な三日月地帯の周辺を荒らし回っていたようだということである。そのせいか、現在のヨーロッパとイラン、インドの言語は非常に良く似ており、一つのインド・ヨーロッパ語族というものを形成している。この集団こそ、後にアーリア人と呼ばれる者たちのルーツだった。

 



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出エジプト

 ガリラヤ遠征を終えて帰還したラムセス二世は、配下の報告を受け戸惑いを隠せずにいた。師ヘルメス・トリスメギストスが今病床に臥して、その生命を終えようとしていると言うのだ。

 

 この不死とも呼ばれる古代の錬金術師はエジプト新王国初期から宮廷に仕え、人知れず王国の繁栄を手助けしてくれていた。彼は博識であらゆる技術に精通しており、今日の王朝がかつてのバビロニアを凌ぐ繁栄を築けたのは、まさに彼のお陰であった。

 

 それだけの貢献をしておきながら、彼がその見返りとして求めたのはその存在の秘匿であった。彼は自分が不死であることを人に知られることを恐れていたのである。

 

 しかしそれも無理からぬことだった。かつてのエジプト王朝は、彼が不死人であることを知ると、その秘密を奪おうとして度々彼を迫害してきた。王族はピラミッドに埋葬したファラオを復活させ、あわよくば自分たちも不死になることを求めたのだ。

 

 ヘルメスはそんなファラオたちの魔の手から逃れるために、当時分裂していたエジプト新王朝に客将として仕えると、以降様々な助言を王朝に与えてきた。そのお陰で、新王朝はついにエジプト再統一を果たし、メソポタミアを征服し、ヒッタイトと平和条約を結ぶまでに至ったのである。彼がエジプトを世界最強国家にまで押し上げてくれたのだ。

 

 ラムセス二世は幼少時からそんなヘルメスを師匠と呼び、主に軍事について学んできた。師匠から学んだことで彼は戦術だけではなく、長期にわたって戦略的に国家を運営することを学んだ。不利と知れば撤退し、和平交渉の合間に敵の技術を奪う。こうして若きファラオはヒッタイトとの間に平和を築きながら、敵の優位性を削ぐということすらやってのけたのだ。

 

 それもこれも、師匠の知恵のお陰だった。その師匠が……不死であるはずの彼が、今病床に臥しているというのである。

 

 驚いたラムセスが配下を引き連れ、療養のため宮殿に設けられた師匠の寝室にズカズカ入っていくと、その場にいた兄弟子のアスクレピオスがそんな無遠慮なファラオを叱った。配下たちは神にも等しいファラオを怒鳴りつけるなど万死に値すると、失礼なこの医者に憤ったが、ラムセスが落ち着いて非礼を詫びるとぶつくさ言いながら部屋を出ていった。

 

 部屋はあっという間に静まり返り、ゼエゼエという荒い息だけが響いていた。ラムセスは兄弟子に再度詫びると、衝立ての向こう側にある病床へと足を向けた。

 

 おそるおそる寝床を覗けば、そこには小さな老人が寝そべっていた。未だかつて病気などしたこともなく、若いラムセスよりもずっと強靭な体躯をしていた師匠が、今は見る影もなくやせ衰えている。師匠のそんな姿を信じられない面持ちで呆然と見つめていると、病床の老人はそんな彼の姿を認めて、

 

「ファラオよ。よく来てくれた。あなたが戻るまでこの身が保つかどうか分からなかったが、なんとか間に合ったようだな」

「ヘルメス様。これは一体何の冗談ですか。不死人であるあなたが病気だなんて……」

「私は不死などではない。ただ長命な一族の末裔に過ぎなかったのだ。かつてのあなた方の祖先アブラハムのように、数千年を生きる人間の一人に過ぎなかったのだよ」

「アブラハム……?」

「神の子孫らは長命だった。アブラハムは千年を生き、彼の子どもたちは数百年を生きた。そんな彼らの子孫であるあなたたちは数十年を生きる。それだけのことだ。ではアブラハムの父はどうだったかといえば、そういうことだ」

 

 若いファラオは師匠が何を言っているか分からず戸惑っていたが、ヘルメスはもはやそんな弟子の様子すらも分からない感じで、まるで壁に向かって話しているかのように、とりとめもなく話は続いた。

 

「不死とは私の父のことだ。彼は本物の神の子として地上に降り立ち、永遠の命を持っていた。しかし、あなたたちファラオは不死を素晴らしいもののように言うが、本人からすればそれは苦しみでしかない。私には想像できないほどの長い年月を生きた父は人間であることに完全に飽いていた。まるでトカゲのような目をして感情の起伏は全く見られなかった。彼は大勢の子孫に囲まれて不幸だった。故に、いつしか彼は自らの死を望むようになっていった。

 

 そして彼はその方法を生み出した。私と弟にその命を分け与えることによって、彼は寿命というものを得たのだ。私と弟はそんな彼の最後を看取った。今までに見たこともないような安らかな寝顔だった。

 

 その頃、カインを名乗っていた私は長命な人間としてこの世に生まれた。私は生きることは素晴らしいことだと信じていた。畑を耕し、収穫を得、私の子孫が増えていくのはこれ以上ない喜びだと思っていた。私にはまだ父の気持ちがわからなかったのだ。だから、私は弟に嫉妬した。

 

 父は私たちに命を授けてくれたが、その寿命は弟のほうが長かった。普通は年の若いほうが長く生きるものだと、その程度の理由だった。私はそれに不満を抱いていた。弟は働きもせず、日がな一日森で遊んで暮らしていた。狩猟をして、釣りをして、気まぐれに山に登ったりして、家族を作りもせず、いつもブラブラとだらしなく暮らしていたのだ。

 

 そのくせ、彼は大層モテた。彼の周りにはいつも人々が集まってきて、彼が帰ってくると、収穫祭でもないのに祭りのような騒ぎが毎晩続いた。これではまるで、父が彼を遊ばせるために自らの命を絶ったみたいではないか。私はついに我慢ができなくなり、ある日弟を殺してその寿命を奪ってしまった。彼が遊んでいる時間を、私が仕事に費やしたほうが、きっと人々のためになると思ったのだ。

 

 その考えが間違いだったのは言うまでもなかった。

 

 千年も生きると、私は生きることに飽きてきた。労働は同じことの繰り返しで、生産的なものとは思えなくなっていた。やがて私の子どもたちが死に、孫たちも死んでいき、加速度的に子孫がいなくなって、気がつけば私は一人になっていた。

 

 孤独に耐えきれなくなった私は、ある時、自らの命を絶とうとした。だが、死ねなかった。弟の命を奪ったことで、父の力を全部受け継いでしまった私は不死人となってしまっていたのだ。何をやっても死ねないことに絶望した私は、それからはもう子を作ることも、畑を耕すこともなく、隠者として暮らしていた。

 

 しかし、そんな私のことを、世界は許してはくれなかった。それからは、私が不死人であると聞き付けた時の為政者が次々と現れ、私の不死の秘密を探ろうとした。逆に死にたい私にそんなことがわかるわけもなく、私はいつも彼らが満足する答えを見つけられなかった。すると彼らは私が嘘をついていると思い込み、私を迫害し始めた。酷い拷問を受けた。心が耐えきれず発狂することもあった。それでも死ねなかった。

 

 だから私は知恵をつけることにした。馬鹿な為政者を騙す方法。金を稼ぐ方法。魔術。算術。医術。錬金術。死にたい私が、生きていく上で必要な知恵を何でも身につけた。笑ってしまうだろう。

 

 だが、この苦しみもようやく終わる……弟の寿命の分だけを生きた私に、今ようやく寿命が戻ってきたのだ。これでもう私は不死ではない。心置きなく死ねるのだ。だから王よ。私はあなたにお暇を告げねばならない」

 

 ヘルメスはそこまで一気に語り終えると、その話をラムセスの背後で聞いていたアスクレピオスを手招きした。彼が病床に近づいていくと、ヘルメスの魔術によってふわりと一本の杖が飛んできて、彼の前で止まった。戸惑う彼がそれを手にすると、

 

「それは私の父がかつて使っていた杖だ。アスクレピオス、おまえにこれを授けよう。これには私の残りの寿命を使って、あらゆる人を癒やす力を施してある。おまえはこれを使って人々を救ってやりなさい」

「……これを使って、あなたのことを救ってはいけないのですか?」

「私以外だ」

 

 ヘルメスはそんな弟子の言葉に薄く笑って返すと、また魔法を使って今度は真っ黒で四角い箱を取り出し、

 

「……これは父の力が封印された箱で、アークと呼ぶ。この中には父の命とあらゆる英知が記録されており、正しく使うことで数々の奇跡を生み出すことが出来るはずだ」

 

 ラムセスはその言葉を聞いて心が踊った。病床の師が兄弟子に杖を送ったのなら、それは自分にくれるに違いない。彼はそう思ったが、残念ながら続く師匠の言葉はそうではなかった。

 

「アスクレピオス。おまえはこれからシナイ山に登り、そこで神に祈る男にこれを授けるのだ。そしてファラオよ。この男は圧政に苦しむ同胞を連れてこの国から出ていこうとするだろう。あなたには、この男を止めないで欲しい」

 

 全く予想外の言葉にラムセスは戸惑った。てっきり自分にくれるものとばかり思っていたその箱を、師匠は見も知らぬ男にくれてやるというのだ。おまけのその男は、この国から働き手を奪っていくとも言う。彼はそんなこと到底受け入れられないと思ったが、

 

「師匠がそう言うのならば……ところで、その男とは何者なのですか?」

「分からぬ」

 

 ヘルメスは投げやりにそう答えると、

 

「父に長寿を授けられたと言っても、私はその時ただの人間だった。弟を殺して不死となったところで、私にはなんの力もなかった。だから時の為政者に好きにやられた。そんな私に知恵を授けてくれたのは、夢の中に聞こえる一人の男の声だったのだ」

「声……?」

「私はそれを神の声だと思っている。これから死ぬという私に神は命じた。アークをシナイ山の男に届けよと。私に分かることはそれだけだ……」

 

 そう吐き捨てるように言うなり、ヘルメスはパタリと横になってしまった。アスクレピオスは師匠が事切れてしまったかと焦ったが、単に疲れて眠ってしまっただけのようだった。恐らく、こんなに長く話したのが久しぶりだったからだろう。師匠にはもう、これくらいのことをする力すら残っていないのだ。

 

 その後、兄弟子に追い出されるようにラムセス二世は病室を去った。師匠にはああ言ったが、彼は不満に思っていた。聞いた限りではアークは神の力を封印した、奇跡を生み出す装置のようだ。師匠はそれを、見ず知らずのどこぞの男にくれてやるのだという。そんな男にやるよりは、このエジプト王国のために使った方がよっぽどいいのではないか?

 

 思えば、兄弟子は杖を貰ったというのに、自分はまだ何も貰っていないではないか。ファラオという立場から、物乞いをするような真似は控えたが、王国が損をすることを黙って見過ごすのは、為政者のすることではない。幸福とは勝ち取るものである。そう教えてくれたのは師匠のはずだ。

 

 ヘルメスが生きている間は従おう……だが死者に従うつもりはない。

 

 ラムセスは密かに兵を集め始めた。彼は間違っていた。彼は師匠から何も与えられていないと思っていたが、すでに彼はこの国を与えられていたのだから。

 

**********************************

 

 シナイ山に登ったモーセは神より十戒を授けられ、その言葉を刻んだ石版を聖櫃(アーク)にしまった。このアークがどこから現れたかは知らないが、恐らく神が十戒とともに授けたのだろう。その中には一本の杖が収められていたと言われていて、それが兄アロンが持つ杖だった。

 

 二人はその後、エジプトで奴隷にされていたヘブライ人たちを引き連れ、神との契約の地カナンを目指すことになる。その際に追いかけてきたエジプト軍を、海を割って退けた話は有名だ。

 

 しかし奇跡を起こしてエジプトを脱出したモーセたちは、それから何十年ものあいだ故郷にたどり着けずに、荒野をさまよい続けることになる。モーセが神との約束を破ったのが原因とされるが、当時のレヴァント地方は交通の要衝で様々な民族が入り乱れていたから、治安が悪かったのが本当のところだろう。そんな彼の代わりにヘブライ人たちを導いて、最終的にエルサレムにたどり着いたのは救世主ヨシュアだった。

 

 どうして人々を救ったモーセではなく、突然出てきたヨシュアが救世主になったのかは不思議な話であるが、おそらくは高齢で長い髭をはやし包容力のあるイメージのモーセよりも、熱血で力強く聡明な青年であるヨシュアのほうが、物語の主人公としてふさわしかったからだろう。ヨシュアはヘブライ人たちのリーダーとして、敵をバッタバッタとやっつけているが、モーセではそんなイメージがしづらい。だったらエジプト軍やっつけろよという話である。

 

 ともあれ、エルサレムにたどり着いたヘブライ人たちはその後イスラエルとユダ、2つの王国を作り上げるが、アッシリア捕囚、バビロン捕囚と二度の強制移住を経験して王国は弱体化し、その後はローマ帝国の支配を受けることになる。

 

 旧約聖書はこの二度目の捕囚の際に成立したと目されており、捕囚生活が長くなって絶望したユダヤ人たちが、せめて自分たちの信仰を篤くして耐え抜こうとして生みだしたのが聖書だったと考えられる。その時の経験がよほど悔しかったのだろう。捕囚が終わってイスラエルに帰ったユダヤ人たちにとって、救世主とはヨシュアのように力強く敵を粉砕する者に変わっていったのだ。

 

 そのイメージが、キリストが活躍した紀元前1世紀頃には定着していたのだろう。ローマ人の支配を受けたイスラエルの地は、元々交通の要衝だったこともあって、様々な民族が入り乱れてその頃にはもうユダヤ人だけの国とは呼べなくなっていた。特にローマ人が連れてくる奴隷や売春婦などの弱い人間は、ほぼ間違いなく異邦人だったから、ユダヤ人からすればはた迷惑な存在でしかなかった。

 

 ところが、そうやって連れてこられた異邦人たちはユダヤ人の信仰を知ると、その神を信じたくなってしまった。常に不安の中に身をおいていた彼らにとって、死んでも神の元に召されるという一神教の教えは魅力的だったのだろう。現代人だって、みんな漠然と将来への不安を抱えているものだ。ましてやこれは紀元前の話である。

 

 しかし、旧約聖書の神はユダヤ人の神であり、神が救うのはユダヤ人に限定されていた。だから異邦人がいくらその神様を信じると言っても、神は異邦人を救いはしないのだ。

 

 ところで、大昔の日本や中国では、病気は祈祷や符術によって治るとされていた。この頃のユダヤ人社会でも、病気は司祭が油を注ぐことで治ると思われていたのだが、神が救わない異邦人を、当然ユダヤ人司祭が救うことはなかった。

 

 ところが、それを平然とやってのける者が現れた。イエス・キリストである。彼は同じ神を信じてる者を救わないのは間違っていると言って、司祭の代わりに病人たちを治療して回った。そして不安に駆られる異邦人たちに、ユダヤ人でないあなた達も神様は救ってくれると説いて回った。こうして救われた異邦人たちにとって、彼は救い主となった。

 

 しかし、こんなことをされて面白くないのはユダヤ人のインテリたちである。彼らは聖書に書かれていないことを、どうしておまえが勝手に決めるんだとイエスを糾弾した。しかしイエスは、人々を救わないおまえらこそ神が救ってくれるものかとやり返した。こうしてインテリ連中とイエスの非難合戦が始まってしまうのだが、いかんせん、イエスは聖書に精通しすぎていたらしい。

 

 イエスは律法学者とか高位の司祭を、舌鋒鋭くやり込めてしまいヘイトを稼いでしまう。殆どソクラテスみたいな状況になってしまうのだが、彼は一つだけ間違いを犯してしまった。イエスは異邦人が救われないという状況を見かね、どうしても律法を変えたくて自分こそが神が遣わした救世主であると言ってしまう。ところがユダヤ人たちにとって救世主とはヨシュアのことだから、慈愛の人であるイエスは似ても似つかない。これが原因となって彼は逮捕されてしまうのだ。

 

 裁判が始まってもイエスは自分が神の子であるという主張を曲げなかった。それに対してインテリ連中は、そいつを殺せとキレ散らかす。この裁判を任されたローマ総督のピラトは、人気者のイエスを殺したくないから助けようとして、極悪人のバラバという男を連れてきて、「こいつとイエスとどっちを殺して欲しい?」と群衆に尋ねた。するとユダヤ人たちは「イエス」と答える。ピラトは「本当に?」と念を押したが、それでもユダヤ人たちが主張を変えなかったから、ピラトは諦めてイエスを処刑することにする。

 

 しかしその際ピラトは、「俺は責任を負いたくないから、イエスを処刑したいならおまえたちで責任を負ってくれ」と告げる。するとユダヤ人たちは、「子々孫々まで自分たちが責任を負う」と受け合ってしまう。(マタイ伝27-24.25)

 

 この言葉が後にキリスト教がローマ帝国の国教になると、ユダヤ人たちを締め付ける呪いの鎖になってしまった。彼らは先祖の言葉のせいで、神を殺した悪魔になってしまったのだ。これが2000年もの長きにわたってユダヤ人を苦しめ続け、そしてあのホロコーストが起きてしまう発端だった。2000年前の、本当に言ったかどうかわからない言葉なのに、聖書の言葉というのは、我々日本人が思っている以上に重いものなのだ。

 

 ともあれ、かくして十字架にかけられてしまったイエスであったが、3日後に復活を遂げて天に召される。彼は本当に神の子だったのだ。これを目撃した使徒たちは、だらしなかった態度を改め、以降はキリストの教えを広めるべく奔走していく。悲しいかな、こうしてキリスト教はキリストの死によって成立したのだ。

 

 ところで、彼が本当に3日後に生き返ったかどうかはさておき、その死を確認するよう命じられた聖ロンギヌスは自分の槍で脇腹を刺してイエスの死を確認した(それが13本とか作られてサードインパクトでなんかすげえことになるわけだが)。このとき、彼の血が地面に落ちることを嫌った母マリアは、飛び出していって彼の血を杯で受け止めたという。何故なら、死んだ息子の血の一滴まで、全て母のものだからだ。

 

 このイエスの血を受けた杯は、最後の晩餐の時にイエスが使ったものであり、彼はその杯から「これは私の血」と言って、いくらでもワインが出せたという奇跡の器でもあった。この不思議な杯が後の世の人々に奇跡の聖杯と呼ばれるわけだが、彼はこのときワインだけではなく、パンもどこからともなく出している。

 

 実はイエスがパンを出してくるのはこのときだけではなく、彼は度々その奇跡の力を見せている。彼が付き合う人々は大体貧乏人だったからいつもお腹を空かせていた。その度にイエスは、僕の顔をお食べよと言わんばかりにパンをばら撒いているのだ。つまり、聖杯とはイエスが初期から所持しているマジックアイテムだったわけだ。

 

 彼はこれをどこで手に入れたのだろうか。いや、そもそもこの正体はなんだったのだろうか。

 

 十戒の入った契約の箱アークはヘブライ人たちによって新たな王国の神殿に収められた。この地にある限り神が王国民を守ってくれるというアークは、バビロン捕囚を最後にその行方がわからなくなる。

 

 しかし元々アークとは、神が救世主に授けた奇跡の力の断片なのだから、持ち主のところへ返ってくるのが筋だろう。案外それは後の救世主であるイエス・キリストの手に渡り、聖杯へと化けたのかも知れない。

 

 ところでこの聖杯も、イエス・キリストが処刑された後いずこかへ消えている。聖書の言葉が間違いないなら、それは母マリアが所持しているはずだが、彼女自身もその後どうなったかはよく分かっていないのだ。

 

 一説には迫害を恐れたマリアは使徒ヨハネとマグダラのマリアと共にトルコのエフェソスで暮らし、そこで没したとされている。その遺体は後にコンスタンティノープルに移送されたと言われているが、だとしたらそれは東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国か、もしくはそれに先立ち行われた第4回十字軍によって奪われたのかも知れない。

 



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中世の魔術師たち

 キリストの死後、ユダヤ人からの迫害を恐れた使徒たちは、イスラエルの地を離れて地中海世界で細々と布教活動をしていた。とは言え、結局のところ一神教はローマ帝国内でも異端であったから、彼らの安住の地はどこにもなかった。

 

 最悪と言われたティベリウスの治世が終わり、皇帝ネロの時代になってもキリスト教徒の受難は続いた。皇帝は人気取りのためにサーカスの余興としてキリスト教徒を虐殺した。これは彼の悪行として広く知られている事実だが、この時の彼が特別残虐だったというわけではない。奴隷制を敷く社会では、市民はとにかく暇を持て余していたらしく、キリスト教徒の虐殺は彼らにとっての娯楽に過ぎなかったのだ。

 

 風向きが変わってきたのはこの巨大帝国に対してユダヤ人たちが蜂起したユダヤ戦争が切っ掛けだった。ユダヤ教はユダヤ人に危機が訪れた時、救世主が現れて力強く彼らを導くと謳っていた。そう考えると、支配されて虐げられている今こそがその時であると、信仰に篤いものほど思い込む傾向があった。

 

 そういった者たちが度々反乱を起こすので、ついにローマ帝国は業を煮やして彼らユダヤ人をイスラエルから追い払ってしまうことにした。こうしてユダヤ人たちは厄介者として帝国のあちこちに散らばっていき、キリスト教者と立場が逆転していくことになる。

 

 その後、五賢帝時代が終わり戦乱の時代が幕を開けると、暗い社会に絶望した民衆の救いを求める声に応じるかのように、コンスタンティヌス帝はキリスト教を国教に認定した。その総本山であるローマ教会は自分たちの権威をより強固にするために、バラバラだった教えを一本化しようとして、乱立していた宗派を異端であると言って次々追い出してしまった。

 

 やがて巨大な領土を維持しきれなくなったローマ帝国が東西に分裂すると、以降東ローマでは皇帝が、西ローマでは教皇がその教えの最高責任者になる。教会の権威はこのとき最高潮に達したが、まもなくやってきたゲルマン民族の大移動に耐えきれずに、ついに西ローマ帝国は滅んでしまう。

 

 しかし、教会にとって幸運だったのは、こうして外からやってきたゲルマン人たちがみんなキリスト教徒だったことだ。彼らはかつて教会が追い出した異端者たちから教えを授かっており、その総本山である教会に敬意を払っていた。以降、教会は王権を守護する秩序の守り手として君臨することとなる。

 

 ヨーロッパはこれより中世入りし、ルネッサンスが興るまでの間、長い暗黒時代が続いた。

 

*********************************

 

 フランスはアンボワーズ、クロ・リュセ城、その一室で今、稀代の万能人レオナルド・ダ・ヴィンチが死出の旅へ赴かんとしていた。彼の命の炎はまさに風前の灯火であり、もはや彼の耳にはどんな言葉も届いていないようだった。

 

 そんな彼の病室に、二人の怪しげな男たちが訪ねてきた。二人共黒いローブを纏い、明らかに人目を避けている様子が窺えた。

 

 闇夜に紛れて二人が近づいてくると、扉の前にいた警備の兵士は辺りを警戒しながらそんな二人を手招きし、周囲に見咎められないように慎重に音を立てず扉を開くと、サッと二人のことを通して、また何食わぬ顔で扉の前で歩哨を務めた。

 

 室内に入った二人は暫くの間耳を澄ませて警戒し、誰も居ないことを確かめてからロウソクに火を灯した。窓一つない、暗くて広い部屋の中で、それは蛍の光みたいに心細かったが、何もないよりはマシだった。二人はその頼りない灯りを頼りに、レオナルドの眠るベッドへ近づいていった。

 

「レオナルド……レオナルド……」

 

 彼らはレオナルドの枕元に立つと、二人のうち年配の方がそっと彼の耳元に話しかけた。しかし、死の淵に喘ぐ巨匠は何の反応も返さず、今にも死にそうに寝息を立てていた。

 

 男はそれを見て諦めたように顔を離すと、今度は懐からなにやら黒い箱を取り出してきた。この真っ暗な室内にあって、その暗闇よりも漆黒に見える箱は、あまりの存在感に見る者を不安にさせた。男はその箱を手に取ると、そっと横たわるレオナルドの胸のあたりに置いた。

 

 すると箱は一瞬だけキラリと電気のような光を放ったが、すぐにまた元の黒い箱へと戻ってしまった。男たちはそのまま暫く様子を窺っていたが、やがてもう何の反応も返ってこないことを確認すると、箱をしまってまた来た道を戻り始めた。

 

 扉から抜け出し、歩哨の脇をすり抜け、二人は城の中庭にある木立の影に忍び足で潜り込んだ。息を殺して周囲に誰の気配も感じられないことを確かめてから、彼らはようやく安堵の息を吐くと、若い男の方が年配の男に向かって言った。

 

「……また、外れでしたね、ピーコ」

 

 ピーコと呼ばれた年配の男はため息交じりに言った。

 

「残念だが、レオナルドほどの者でも器には程遠いようだ。それもそうだ。この霊性に耐えうる肉体を持つような者が、果たして普通の人間でいられるものか」

「これだけ探して器が見つからないとなると、やはりまだ時期ではないでしょうか」

「……かも知れない。だとしたら、神はこの時代をお見捨てになられたのだ。我々、神秘主義者はまもなく歴史の闇に消え去る運命でしかないのかも知れない。アグリッパよ」

 

 年配の男はまたため息を吐いて肩を落とした。

 

 男は名をピーコ・デッラ・ミランドラと言った。かつてメディチ家にあったプラトンアカデミーで、主催フィチーノの一番弟子として異彩を放った人物であった。彼は師、フィチーノのヘルメス学に習熟し、自ら古代の文献にあたってカバラを学ぶとともに、ついに失われた古代魔術をも再現するに至った。しかし、その力を王侯貴族化していた時の教皇イノケンティウス8世に危険視され、異端審問にかけられてしまう。

 

 幸い、パトロンでもあったロレンツォ・デ・メディチの尽力により解放された彼は謹慎生活を送っていたが、教皇が死んでも続く教会からの執拗な敵視に、やがて命の危険を感じるようになり、師フィチーノの勧めもあって死を偽装すると、以降、死人として歴史の表舞台を去った。

 

 その後、師匠もこの世を去って後ろ盾を失った彼は、旧交を頼って弟子のアグリッパと知り合い、二人は行動を共にしていた。彼はなんとか自身の復権を目論んでいたが、そうしている間も時代はどんどん悪い方向へと向かっていき、異端者狩り、魔女狩りが横行する中で、もはや自身の魔術は封印するより仕方がなくなってしまった。

 

 ところがそんな時、面白い話を聞く。かつてコンスタンティノープルを襲った十字軍が持ち帰った宝物の中に、かのキリストの血を受けた聖杯が紛れ込んでいるというのだ。そして彼は昔の伝を頼ってバチカンへと潜り込むと、宝物庫の隅っこの方にその黒い箱を見つけた。

 

 美術的価値無しとされ、粗末に扱われていた箱は、しかし見る人によってはとんでもなく価値のあるものだった。ピーコはその中に明らかに強い霊性を感じ取り、これが噂通りの聖杯であることを確信した。するとこの力の正体が気になった。果たして箱の中には何が収められているのか……

 

 聖書の言葉が確かであるなら、この杯はキリストの血を受けたという。するとこの強い力はキリストの命そのもの……即ち神なのではなかろうか? もしもそうなら、この混沌の時代、教会の腐敗を父は許さないであろう。キリストもまた、ユダヤの救世主である。この世が乱れていれば、神は我々人類を救うために立ち上がるはずだ。

 

 ピーコはそう考え、キリストの復活を目論んだ。しかし、復活させると言ってもどうすればいいのだろうか。キリストは神であったが、人を救うには肉体を得て地上に降りる必要があった。つまり神が降臨するなら、その器となる肉体が必要なのだ。その肉体として相応しいのは、やはりその時代をリードする才能の持ち主に違いない。彼はそう思って、この時代の様々な有力者と接触を果たしたのであるが……

 

 レオナルドですら器にならないのだとしたら、この方法は間違っているのかも知れない。もしくは、アグリッパの言う通り、神はまだ復活する時期ではないと考えているのだろう。もしもそうなら、彼にやれることはもうない。

 

「……仕方ない。これ以上の器探しは我々の生活に支障を来す。いつか現れる救世主のためにも、我々は正しい者を集めて聖杯を守ろう。教会はもうダメだ。これほどの霊性を感じ取れる者が、あそこにはもういない。まずはパトロンを募って金を集め、教会に代わる結社を作り上げるんだ」

「そんなに上手くいくでしょうか……」

「上手く行かせるしかない。これは考えようによっては、人類存亡の危機に繋がるような重大事だぞ」

 

 二人はそんなことを言い合いながら、隠れていた木立の影から外に出た。自分たちの会話に酔いしれていたせいか、彼らは周囲の警戒を怠ってしまった。その時、不用意に姿を現した彼らの耳に、コツン、コツンと言う地面を叩く音が聞こえてきた。見れば前方から何者かが彼らの方へと歩いてきていた。

 

 また木陰に隠れるのは簡単だったが、その不審な行動を見られたら、そっちの方がまずそうだった。不審な行動を取るよりは、ここにいるのが当然という顔をしていたほうがまだマシだろう。二人は冷や汗をかきながらそう考えると、十字を切って人影の来る方へと歩き始めた。

 

 もしも兵士に見咎められでもしたら、一巻の終わりだったろう。幸いなことに、やってきたのは兵士ではなく、一人の神学生だった。粗末な杖で地面を叩きながら、神学生のローブを纏ったその学生は、前方から二人がやってくるのに気づくと目深にかぶったフードを下ろして、人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「ごきげんよう!」

 

 そんな風に陽気に会釈する学生に、二人は呆気にとられながらもゴニョゴニョと会釈を仕返すと、その柔和な笑みを浮かべた学生は何事も無かったかのように二人の横を通り過ぎていってしまった。ピーコは通り過ぎる学生の顔を横目でちらりと見送ってホッと溜息を吐いたが、アグリッパの方は何故か彼のことが気になり、振り返ってその後姿をまじまじと見つめていた。

 

「どうした、アグリッパ。余り目立つ行動はしないほうが……」

「いえ……あの学生、どこかで見たことがあるような……」

 

 アグリッパは彼を置いてさっさと立ち去ろうとしている師匠を追いかけながら記憶を辿っていた。確かあれは、最近占星術師を名乗り金儲けをしている詐欺師まがいの学生ではなかったか。アヴィニョンで派手に稼いでいると聞いていたが、その彼が何故こんな場所にいるのだろうか。

 

 あんな詐欺師の若造に、レオナルドとの伝があるとは思えない。彼はどうやってここに入ってきたのだろうか。アグリッパは気になったが、何しろ自分たちだって、こっそりとここへ忍び込んできた身の上だ。彼はこれ以上の詮索は無駄だと思うと、今見たことを忘れることにした。

 

 そんな二人が立ち去った後で、神学生は悠々と中庭を通り抜けてレオナルドの病室へと近づいていった。すると先程の歩哨が立ったまま壁に体を預けてスヤスヤと寝息を立てていた。立ったまま寝るなんてそんな器用な真似が出来る人間などいるはずがないのだが、どう見ても彼は熟睡していた。神学生はそんな歩哨にお努めご苦労さまと話しかけると、鼻歌交じりに扉を開けて中へ入っていってしまった。

 

 彼が部屋の中に入ると、突然、真っ暗な部屋の中に明るく輝く光球が現れた。それは部屋の隅々までを照らしていたが、不思議とその光は外には漏れなかった。神学生がその光で室内を照らしながら歩いていくと、部屋の中央にはレオナルド・ダ・ヴィンチが眠っていた。その姿は見る影もなくやせ細っており、神学生はそれを見てほんの少しばかり悲しげな表情を見せたが、すぐに気を取り直したかのように微笑を浮かべると、そんな老人の元へと歩いていった。

 

 すると突然、そのレオナルドの瞳が薄っすらと開いた。彼はそこに立っている神学生を虚ろな瞳で見上げるなり、言った。

 

「マイトレーヤ……」

「そう、僕だ。僕だよ、レオ」

 

 神学生は嬉しそうにそう答えると右手に持っていた杖を左手に握り直し、彼に向かって手を差し伸べた。

 

「君を誘いに来たんだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、たった今まで虚ろだったレオナルドの瞳が輝きを取り戻し、彼はまるで若い頃に戻ったように力強く神学生の手を握り返した。神学生に引っ張り上げられた彼は、ベッドから立ち上がると腰をしゃんと伸ばして彼の瞳を見つめた。

 

「行こう、僕たちのニルヴァーナに!」

 

 神学生がそう言うなり天井から二人の天使が降りてきて、彼らの周囲をグルグルと回り始めた。レオナルドがその奇跡の光景を呆然と見上げていると、今度はその天井に真っ白く光る穴が開いて、次の瞬間、二人の体がふわりと浮かんでその穴の中に吸い込まれていった。

 

 レオナルドたちが天井に吸い込まれると同時に、まばゆい光に包まれていた部屋には一瞬にして静けさが戻り、部屋はまた元の暗闇に戻った。いや、まったく元通りではない。ずっと聞こえていた苦しげな寝息はもう聞こえず、そしてベッドの上には巨匠レオナルドの亡骸が眠るように横たわっていた。

 

********************************

 

 巨星が落ちてから100年後。カトリックとプロテスタントの対立は深刻化し続け、17世紀についに始まった戦争は30年もの長きにわたり、ヴェストファーレン条約の締結をもって終結する。世にいうドイツ30年戦争であるが、この戦争によってドイツ国内は完膚なきまでに荒廃し、これを切っ掛けとして長く続いた神聖ローマ帝国の歴史は幕を閉じることとなる。

 

 戦争末期には死体を食べなければ生き残るのは不可能だとさえ言われたこの戦争の教訓は、人は心の中までは何人たりとも縛ることは出来ないということに尽きるだろう。この悲劇を繰り返さないよう、以降、宗教を理由に他国の内政干渉をしないというルールが設けられ、これが世界初の国際条約とも言われている。

 

 さて、戦争は終わったが、それでヨーロッパに平和が訪れたかと言えばそんなことはない。長らく神聖ローマ皇帝として君臨していたオーストリア・ハプスブルク家は、この戦争によって大損害を受け徐々に力を失っていく。

 

 同じく、大航海時代に植民地帝国を築き上げたスペイン・ハプスブルク家も、植民地であったオランダが独立したことで財政が傾き、以降は鳴りを潜めて行く。世界の覇権は地中海から離れて、大西洋と太平洋を巡ってイギリスとフランスの二大国が争う構図になっていった。

 

 そんな覇権争いの中、オランダ東インド会社との争いを制し、フランスが後援していたムガール帝国をも破って、インドを手中に収めたイギリスは、更にインドの風俗を研究し始めた。要するに、外からやってきたイギリス人がイギリスの生活を押し付けるのではなく、出来るだけ現地の風俗に沿った政策を行った方が、抵抗が少ないと学んだのだ。これが功を奏して植民地支配が回りだすと同時に、イギリス人のインドへの興味がどんどん増すという思わぬ副産物を得た。

 

 こうしてイギリス国内でインドブームが起きている中、言語学者のウィリアム・ジョーンズは嬉々としてベンガル地方へとやってきた。元々はアメリカに興味があったジョーンズだったが、好きだからこそ独立戦争ではアメリカを支持してしまい、お叱りを受けてアメリカに行くことが許されなかった。

 

 失意の彼が次に興味を抱いたのはイスラム文化であり、またインドの風俗だった。多分、アメリカのことを忘れたいから真逆のことをやったのだろう。そんな染まりやすい彼はインドへやってくると、物凄い熱意で現地の風俗研究に取り組み、膨大な報告を本国へと送った。

 

 中でも圧巻なのは、当時のインド人にすら忘れ去られていたサンスクリット語の翻訳に取り組み、あっという間にその翻訳を完成してしまったことである。ところが、こうして失われた古語を復活させたジョーンズであったが、ここに思わぬ秘密が隠されていた。

 

 サンスクリット語は文法が驚くほどヨーロッパの言語と似ており、発音にも同じ言葉から派生したものとしか思えない物が多く含まれていた。今となってはインド・ヨーロッパ語族は同じ言語から派生した仲間であることが知られているが、当時のイギリスではこのことが知られているはずもなく、この発見が本国に伝わると、イギリス政府は2つの民族は元々は同じ民族・アーリア人であったと言ってインド支配の正当性の根拠としてしまったのだ。

 

 またその頃、インドに端を発するオリエントブームは、かつて肥沃な三日月地帯と呼ばれたチグリス・ユーフラテス川流域にまで向けられていた。肥沃であった土地は現在では砂漠と化しており、中世時代以降は誰からも見向きもされない土地になっていた。古代メソポタミア文明の遺跡の数々は、そんな砂漠の中で日の目を見ず、何千年もひっそりと眠り続けていた。

 

 イギリスとフランスは植民地戦争に飽き足らず、世界中の遺跡収集でも競争していたわけだが、エジプトのファラオなどに混じって古代アッシリアの(くさび)形文字の石版もまた、盗掘によって大映博物館に集められていた。

 

 当初、石版に刻まれた模様は謎とされていたが、後に研究員によってそれが言語であると判明すると、徐々に翻訳が進んで19世紀中頃には全ての解読に成功した。石版に書かれていたのは殆どが徴税官がつけていた帳簿みたいなもので、今となっては殆ど意味のないものばかりだった。そのため、この不思議な文字は暫くの間、人々の間で忘れ去られてしまっていた。

 

 そんな中、大英博物館に勤めていたジョージ・スミスは何故かこの奇妙な文字に興味が惹かれ、石版を扱っている内に徐々に読みこなせるようになっていった。ある日、彼が新たな石版を調査していると、半分になった石版に気になる文字を発見した。彼が何気なく翻訳してみると、それは『船がニシルの山に止まった』『鳩を放した』『それが止まるところがなくて帰ってきた』と続いていた。

 

 どう見ても聖書の大洪水伝説の雛形としか思えない話が、聖書が誕生する数千年前の石版から見つかったことは、当時センセーショナルをもって迎えられた。すぐさま残りの石版に懸賞金が掛けられ、幸運なことに、現地に飛んだジョージ・スミスが残りの石版も発見した。

 

 現地でそれを手にした彼は、食い入るように石版を翻訳した。そこにはこんなことが書かれていた。

 

 ギルガメッシュがある日、父ウトナピシュティムに昔のことを尋ねた。父は息子に秘密を明かそうと話し始める。ウトナピシュティムはその昔、彼の主神エアに洪水が来るから船を作るように言われた。持ち物を諦めおまえの命を求めよ。品物のことを忘れおまえの命を救え。全ての生き物の種子を船に運べ。その船は定められた寸法通りに作らなければならない。

 

 殆ど聖書の大洪水と同じような描写が続き、その後も似たような展開が続いた。7日目に船を作りあげたウトナピシュティムが動物とともに乗り込むと、雨が降り始め洪水が始まった。また7日かけて嵐が収まると静けさが訪れ、彼の乗った船はニシルの山に漂着した。彼はそこでまた6晩を過ごし、7日目に鳩を放してみたが、鳩はすぐに帰ってきた。続いて燕を離したがそれも帰ってきてしまい、最後にカラスを放ったところ、それは帰ってこなかったので、彼は船から降りて神に感謝した。

 

 この発見をしたジョージ・スミスは、こうしたギルガメッシュ叙事詩の残りの石版も発見するため、3度に渡る遠征を行ったが、現地の風土に馴染めず遠征先のシリアで病没する。

 

 功労者の死は残念ではあったが、ともあれ、神の言葉であるはずの聖書の内容が、異国の、それも聖書成立のずっと以前に書かれていたことは、驚きを持って迎えられると同時に、欧州人たちの選民意識をくすぐったに違いない。

 

 ギルガメッシュ叙事詩と聖書の内容に被りがあるのは、これを書いたカルデア人もまたアーリア人の末裔であり、2つの宗教は同じ出来事を語っているからだ。つまり、白人こそが神に連なるこの世の正当な支配者なのだと……

 

 かつてモンゴル帝国の脅威に晒されたヨーロッパ人は、この頃台頭してきた中国を警戒して、しきりに黄禍論を説いていた。それは日清戦争の頃に始まり、日露戦争で日本がロシアを破ると、事さらに黄色人種を嫌う者が増えてきた。そういった者たちがアーリアン学説を持ち出してきて、自分たちの優位性を説こうと躍起になった。

 

 時は20世紀。電気技術の発達と内燃機関の登場によって第二次産業革命が始まり、世界人口は驚くほどの勢いで増殖しはじめる。そんな中で各国はそれぞれ自国の優位だけを喧伝し、国民のナショナリズムをくすぐり、世界は取り返しのつかない大量生産と大量殺戮の時代へ転げ落ちようとしていた。

 



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聖杯の行方

 イギリスとフランスが植民地戦争に明け暮れていた18~9世紀、ドイツは今一つ目立たず影を潜めていた。二国に比べてドイツの近代化が遅れたのは、やはり30年戦争の影響が大きかった。

 

 戦争によって国土が荒廃したというのももちろんあったが、それよりいくつもの小国が群雄割拠していたドイツで、2つの宗教勢力が対決したという事実のほうが重かったろう。ヴェストファーレン条約で一応の決着を見たとは言っても、お互いに思想のわだかまりは残り、相変わらずドイツはカトリックとプロテスタントで南北に分かれてしまっていた。

 

 この状況に終止符を打ったのは、プロイセン王国で首相に就任した鉄血宰相ビスマルクだった。皇帝に祖国統一の夢を託された彼は力強く国を率いると、普墺戦争、普仏戦争と続けて大国に勝利し、長い時を越えてついにドイツの地は統一を果たした。

 

 その後新帝国は、大陸の覇権をかけて拡大しようとするフランスを牽制し、オーストリアを含む複雑な同盟網を築き上げてフランスを孤立させることに成功。この功労者は帝位を継いだ後継者と政治的に対立し最後は更迭されてしまうが、これ以降、ドイツは列強に肩を並べる存在となる。

 

 そして19世紀末から20世紀初頭にかけて、ついにドイツは世界をリードする科学強国に躍り出るが……そんな中で第一次世界大戦が勃発してしまう。

 

 1914年。現ボスニアのサラエボで、オーストリアハンガリー帝国の皇太子が暗殺される事件が起こると、かつてフランスを封じ込めるために作り上げた複雑な同盟網が機能し、条約によって縛られていた欧州列強は雪崩式に二陣営に分かれて戦わざるをえなくなった。

 

 こうしてなし崩し的に始まった戦争は、いまや世界を巻き込む大戦争に発展してしまった。そんな中でドイツはシュリーフェン・プランを引っ提げて隣国フランスへと侵攻を開始する。

 

 当初はドイツ優勢の戦況が続いたが、何しろお互いに塹壕を掘ってジワジワと進むという近代戦は、どの国にとっても初めての経験で、決着は中々つかずに4年もの長きにわたり膠着状態が続いてしまう。その状況が変わったのはアメリカの参戦が大きかったが、一説によるとスペイン風邪の流行が致命的だったとも言われている。

 

 スペイン風邪などという不名誉な名前がついてしまっているが、この病原菌の出どころはスペインではなく、遙か彼方の中国だった。現在猛威を振るっているコロナウイルスと同じような経緯で流行を始めたスペイン風邪は、最初アメリカに渡ってから、連合国諸国へと伝染していった。

 

 その連合国はフランスで塹壕を掘って戦争なんてものをしているのだから、不衛生な塹壕の中であっという間に伝染病が蔓延してしまい、当然、戦争をしている相手の同盟国にも感染っていった。しかし、連合国も同盟国も戦争をしているわけだから、当然自分たちに不利な情報を相手に知られるわけにはいかないから黙っているしかない。そんな中で、中立だったスペインだけが、何かおかしな病気が流行っているぞと騒いでいたから、スペイン風邪などという不名誉な名称を押し付けられてしまったらしい。

 

 それはさておき、こうして疫病までもが蔓延する中で、長引く戦争に兵士も民間人も疲れ果ててしまい、ドイツ国内には厭戦気分が広がっていた。そこへアメリカの参戦もあって、ドイツ軍は負けが込み始めると、ついに帝政は倒れて国民は敗北を受け入れるようになっていく。

 

 こうしてドイツは開戦以来一度も国土を脅かされることなく敗戦するのだが、その後に待っていたのは平和ではなく、過酷なフランスからの賠償請求だった。

 

 ドイツとは違って、ずっと国土を蹂躙され続けていたフランスの憎しみは強く、彼らは戦後ドイツが二度と立ち直れないように完膚なきまで叩き潰そうと躍起になった。ドイツ国民が何十年かけても払いきれない賠償金を吹っ掛け、返済のために必要な工場を武力によって接収してしまった。

 

 これではドイツは返済どころか生きていくことすら出来ないだろうと、米英が仲裁してなんとか賠償の目処が立ったかと思いきや、その米国を震源地とした世界大恐慌が発生して全てが破綻してしまう。国民はトランクいっぱいの札束でパン一個すら買えないというようなハイパーインフレを前に成すすべも無く、ただ涙を流しているしかなかった。

 

 こうしてどんどん追い詰められていったドイツ国民は、米英資本主義への憎しみを増大していき、ナショナリズムの高揚からファシズムへと傾倒していく。そんな中で支持を失っていた当時の政権は、共産党と組むよりはマシであるとナチ党と連立政権を組み、そしてアドルフ・ヒトラーを首相に任命してしまうのであった。

 

********************************

 

 ベルクホーフはドイツ南部ベルヒテスガーデンに建てられたアドルフ・ヒトラーの別荘だった。彼の生誕地オーストリアのリンツにほど近い風光明媚なこの山岳に、彼はお気に入りの別荘を建て、戦時中多くの時間をここで過ごしたと言われている。

 

「ハイル・ヒトラー!」

 

 そんなベルクホーフの大きな書斎に、ドクロのマークを付けた親衛隊の男が入ってきた。彼は豪華な書斎机に座る総統閣下に、帽子を取って恭しく敬礼すると、ずり落ちそうになった丸メガネを慌てて指で押し上げた。この男こそ悪名高き親衛隊のトップ、ハインリヒ・ヒムラーであった。反ナチ勢力とユダヤ人を残酷に殺したことで有名だが、自身は処刑の場面に立ち会えないほど小心であったと言われている。

 

 そんなヒムラーは総統の前に歩み出ると、もったいぶった仕草で手提げからシルクのスカーフを取り出し机の上に置いた。中には何かが包まれており、ヒムラーが震える手で包みを開いていくと、その中から漆黒の四角い箱が現れた。

 

 総統はそれを一目見るなり驚いたように立ち上がり、机の上に両手を突いて上から覗き込むようにして眺めはじめた。

 

 それは一見すると黒曜石をカットしただけのただの綺麗な四角い石にしか見えなかった。しかし真っ黒な石をよく見れば、その中から何かがにじみ出てくるような感覚がし、これがなにかの器であることが感じ取れた。彼はそれを確かめると興奮気味に言った。

 

「この霊障、魔力の波動……間違いない。これは私が求めていたものだ。ついに見つけたのだな!?」

「はいっ! 魔術師の予言通り、やはりあのユダヤ人たちが密かに隠し持っていたようです。強制連行後、屋敷を徹底的に調べ尽くして発見しました」

「そうか、君の耄碌した友人もたまには役に立ってくれたな。彼は魔力は失ってしまったが、記憶の方はまだ失っていなかったようだ」

 

 ヒムラーは友人を侮辱されたことで、ほんの少しムッとしたが、すぐにいつものように総統にだけ見せる媚びた笑顔で続けた。

 

「総統閣下がそうおっしゃっていたと伝えれば、きっと喜びます。ところで閣下……あなたに探せと言われたこの器。ユダヤ人たちが密かに祀っていたこれは一体何なのでしょうか。奴らが大事にしていたものだから、金目のものであることは間違いないでしょうが」

「ふむ……そうだな。我が霊力を信奉し、神秘を重んじる君になら特別に教えてやろう。ユダ公が大事にするものと言ったら相場が決まっている。金と信仰だ。そんな奴らが金を捨ててでも守ろうとしたこれは、つまり奴らの信仰にとって不可欠なものだと考えられる。君はなんだと思うかね?」

 

 ヒムラーは焦れったそうに、

 

「わかりません」

「私はこれが失われたアークだと知っている」

「アーク……聖櫃ですって!?」

 

 ヒムラーの目が驚愕に見開かれ、彼は自分が無造作に運んできたそれに、まるで押されたかのようにストンと尻もちをついてしまった。総統はそんな部下の間抜けな姿を見てニヤニヤ笑いながら、

 

「失われたアークは巡り巡ってキリストの手に渡ったのだよ。その後、東ローマ帝国で管理されていたが、その帝国が滅んだことで誰にも行方が分からなくなっていた。それを君の友人が言うように、ユダヤ人共が密かに回収して隠していたのだな。奴らの信仰では来る終末の日、それが彼らを守ってくれることになっているから不思議ではない」

「閣下はそれが本物だとおっしゃられるのですか?」

「ああ、間違いない……君には感じられないのか? この器からにじみ出る、神霊の気配が」

 

 そう言われたヒムラーがまじまじとその器を見つめても、そこには何も見えなかった。だが、アドルフ・ヒトラーの目には、その器の中からまるで湯気が立ち上るようなオーラが立ち込めているのが見て取れた。

 

 何故なら、彼は本物の予言者だったのだ。

 

「……我々、アーリア人は神の子孫だ。故に不思議な力を持って生まれてくるものがいる。中世に度々起こった魔女騒動がその証拠だ。近年、トゥーレ協会に入った私はそこで本物の魔女と出会った。そして私は彼女との交流の中で目覚めたのだよ。私には未来の記憶があるのだ。その記憶のお陰で、若い頃戦場で命拾いしたこともあった。実はこうしてドイツ第三帝国の総統にまで上り詰めたのも、その記憶があったお陰なのだ。

 

 だが、そんな私にもどうしても避けられないものがある。破滅だ!

 

 実は私の記憶では、どうやっても我々はこの戦争に勝てないのだ。そして私が死んでも生き残っても、その後訪れる世界は破滅する。戦後、暫くは平和が続くだろう。だがすぐ資本主義者と共産主義者が対立を始め、持つものと持たざるものの格差は広がり続けていく。やがて節度を失った資本主義者は自らの体を改造し始め、家畜の臓器を移植しだし、ついには脳すらも移植しはじめる。こうして人であることすらなくなった持つものと持たざるものとの間の対立は深まり、ついに破滅が訪れる。我々が人間であるための最終戦争が2つの陣営の間で始まってしまう。ユダヤがこの戦争を引き起こす。持つものである彼らが、伝説の通りこの世を支配するべく、戦争を起こすのだ! そして救世主が降臨する。

 

 ラストバタリオン!!!!!

 

 ラストバタリオンがやってきて、力強くこの最終戦争に終止符を打つ。そしてユダヤの千年王国が始まってしまうだろう……だが、私がそうはさせない。こうして私がアークを手に入れたのだから、これを使って私が救世主となるのだ。私が救世主となりアーリア人を導き、世界は秩序を取り戻すのだ。人々は正しい進化の道へと戻り、古代の力を取り戻す。カルデア人であった頃の不死なる力を取り戻す。そして我々は神の人へと進化する。ゴッドメンシュが世界を支配するのだ」

 

 尻餅をついたヒムラーは未だそのままの姿勢で、総統の取り憑かれたような演説をいつしか恍惚の表情を浮かべながら聞き入っていた。

 

********************************

 

 現実のヒトラーが予言者であったかどうかはさておき、彼の神通力を示す逸話には事欠かないようである。まあ、現在絶賛独裁中の各国の指導者たちにも、大抵そういった逸話がつきものなので、彼のもその類と思われるのであるが……

 

 終戦間近、連合国がベルリンへと近づいてくる中、士気高揚のための宣伝を孤軍奮闘続けていたゲッベルスは、せめて不安がる国民を元気づけてくれと、最後の演説をヒトラーにお願いした。

 

 この頃にはすっかり弱気になっていたのか、演説を嫌がっていたヒトラーであったが、最後まで彼についてきてくれたゲッベルスに強く要求され、その敬意を示すことにしたらしい。

 

 この時の演説を、既にナチスを見限っていたであろうベルリンの人々が、どれほど聞いていたかは分からないが、この時ヒトラーは雑音と途切れ途切れの放送の中で、ラストバタリオンなる言葉を連発している。それが何なのかは未だによく分かっていないが、追い詰められたヒトラーが妄想でも見たのだろうと言うことで大方の意見は一致している。

 

 ゲッベルスもこの時の演説を聞いて、こりゃもう駄目だと思ったのだろう。それ以降、彼がヒトラーに演説を求めることは無かったようだ。彼はその後、総統地下壕でヒトラーの最後を看取ってから、自身も家族と心中する。

 

 良い悪いはともかくとして、ヒトラーという強烈なキャラクター性もあって、第二次世界大戦中のナチスドイツの人気は衰えない。日本も枢軸側に立っていたことから、あの時ああしていたら、こうしていたら、連合国に勝てたのに……という仮想戦記はこれまでにいくつも作られてきた。

 

 実際、今話題のキーウに寄らずにモスクワを目指していたら、その後の展開は変わっていただろうが、かと言ってそれでソ連が即降伏するとは思えないので、やはりスターリングラードで負けたことから考えても、この戦争が最初から無謀であったのは間違いないだろう。

 

 こうして東部戦線で工業力の限界を示したドイツ軍は、翌年にはもう攻勢に出られるほどの力は残っていなかったようだ。そしてその後アメリカの参戦によって東西から挟み撃ちにされたドイツは、あっという間に降伏への道へと突き進むことになる。

 

 ところで、一時は飛ぶ鳥を落とす勢いであったドイツが、こうも一気に傾いてしまったのは、アメリカの参戦が大きいことも確かだが、人知れずエニグマ暗号の解読に成功していたアラン・チューリングの功績が大きいだろう。

 

 幼少期、自閉症だったチューリングは数学に特異な才能を示すと、大学卒業後には暗号を解読する仕事に従事することになった。

 

 当時、第二次大戦中、ドイツはエニグマと呼ばれるローター式暗号機を使っていたが、この暗号を解くのは当時は不可能だと思われていた。イギリスの同盟国ポーランド軍がこのエニグマ暗号機を鹵獲し、解読装置を作り上げていたが精度が悪く、殆ど使い物にならなかった。

 

 しかし暗号解読に類稀な才能を持っていたチューリングは、仕事に取り掛かるとあっという間にこの解読装置を改良してしまった。このおかげで実は開戦当初から、イギリスは既に情報的に優位に立っていたのだ。この時の改良版が終戦まで使われ、ドイツはずっと暗号が解読されていたにもかかわらず、最後までそれに気づかなかったというのが、あの戦争の真実だった。

 

 他にも彼の理論がフォン・ノイマンに先駆けて、世界初のプログラム式コンピュータを生み出し、1948年には当時存在していなかったコンピューターチェスのプログラムを既に書いていたりもするのだが、これらの輝かしい功績の数々は、彼が死んでからもずっと秘匿され続けていたのである。

 

 何故か?

 

 もしもエニグマ暗号が解読されていることを知られたら、ドイツは使用する暗号を変えてしまうだろう。すると敵の通信を傍受出来るという優位性は失われてしまう。だからイギリス政府は絶対にこのことを世間に知られるわけにはいかなかったのだ。

 

 更には、暗号解読で知り得た情報をいつも有効活用していては、相手にバレてしまうだろう。そのため、暗号解読に従事していたチューリングは、次にドイツ軍がどの街を攻撃するか知っていながら、街が政府によって見捨てられるのを黙って見ているしかなかったのである。次に攻撃される街には、同僚の家族がいる事もあったらしい。それでも彼は口を閉ざしているしかなかった。

 

 そしてこれだけの貢献をしながらも、その内容が内容だけに、彼が表舞台で表彰されることは無かった。戦時中に勲章を貰っているのだが、家族すらそのことを知らなかった。挙句の果てには、戦後情報省の暗号解読アドバイザーを勤めていたようだが、なんとその時に同性愛者の嫌疑をかけられて、保護観察下に置かれてしまう。そのせいで仕事を失い、彼は生活にも困窮していったのだ。

 

********************************

 

 大衆的なスカイブルーのセダンを一人の女性が運転していた。その2ブロックほど後ろを、黒塗りの2台の高級車が、もうさっきから何時間も追いかけてきていた。彼女はとっくに気づいていたが、それでどうするつもりも無かった。こんな田舎の一本道で、あんな下手な尾行が気づかれないわけがないのだ。ならば彼らの目的は一つ。我々が見張っているぞということを、彼女に知らせるために違いなかった。

 

 ジョーン・クラークは憮然とした表情で車を停めると、目の前に建つ小ぢんまりとした家を見上げた。世間の後ろ指を恐れてこんな田舎に引っ込んでしまったが、本来ならアラン・チューリングほどの男が田舎に隠れ住むなんてあってはならないことだと彼女は思っていた。

 

 ジョーンはチューリングの元婚約者で、戦時中同じ暗号解読の仕事に従事していた。エニグマ暗号を解いたあの機械を作ったときも同じで、そして政府がその機密を漏らさないために、一般人を犠牲にしていたことももちろん知っていた。

 

 彼女らはその仕事の最中に婚約をしたが、上手くいかなかった。チューリングが同性愛者であることをカミングアウトしたのが原因とされている。彼女はそのことを気にしなかったそうだが、彼のほうが気にしたようだ。二人はなんというか、姉妹のように仲が良かったらしい。

 

 そんな彼女が玄関のドアをノックすると、最初は陰気そうな家政婦が出てきて彼女のことを門前払いにしようとした。多分、そうするように言い含められているのだろうが、ジョーンがしつこく名前を告げて彼に取り次いでくれと願い出ると、家政婦は渋々家の中へ帰っていき、代わりに今度はチューリング本人が出てきた。

 

「やあ、ジョーン。久しぶりだ。訪ねてきてくれて嬉しいよ」

「お久しぶり、アラン。あなたは少し痩せたみたいね」

 

 彼女は彼に案内されて家の中に入った。家の中は薄暗くてカーテンは全部閉められていた。彼女がそのことを気にしていると、チューリングは人の目が気になるからだと答えた。彼のことを誂うようにジロジロ覗き込む連中がよく来るらしい。彼はそう不愉快そうに言ったが、彼女はそれを彼の妄想だろうと思っていた。

 

 久しぶりに会ったチューリングは本当に痩せこけていた。日がな一日、こんな日の当たらない部屋で心労を抱えて、付き合いがあるのはあの陰気な家政婦だけでは食欲もわかないのだろう……彼女はそう思ったが、彼の書斎に通されるなり、すぐにその考えは間違いだと気付かされた。

 

 彼の書斎には、なにやら見たこともない装置がずらりと並び、部屋の真ん中にはまるで教卓みたいな台座があって、その上に見たこともない不思議な真っ黒い箱が置かれていた。箱からは配線が何本も伸びていて、部屋に鎮座する無数の装置へとつながっていた。

 

 彼女がこれは一体何なのだろうと眺めていると、チューリングが話しかけてきた。

 

「それで、ジョーン。今日はどうしたんだい? もちろん、僕を訪ねてきてくれたんだろうけれども。君のような女性が、僕のような世間の笑いものに会いに来るのは、世間体も悪いだろうに」

「自分を卑下するのはやめて、アラン……あなたは誰かに後ろ指を指されるような人生を送っていないわ。あなたがこんな目に遭うなんて、そっちのほうが間違ってるのよ」

「そう言ってくれて嬉しいよ。もちろん、君に会えたこともだ。ただ、少し意外だったのでね。どうしてこんな突然訪ねてきたのかな」

「そう、そうね。実は今日は一つ提案があって……ううん、お願いがあってあなたに会いに来たのよ」

「お願い?」

「ええ、本当は女の私がこんな事を言うのは相応しくないと思うのだけど……」

 

 ジョーンはそう言ってから言葉を溜めるようにちらりとチューリングの顔を見た。その常に笑顔が張り付いたような無機質な瞳からは何の感情も窺えなかった。彼女は多分こんなことを言っても無駄だろうと思っていたし、本当はそうすることに消極的でもあったのだが、最後の望みとばかりに彼に一つの提案を持ちかけた。

 

「実は、その……もしよかったらなんだけど、昔あなたと交わした婚約を、もう一度やり直さないかしら?」

「……どういう意味だい?」

 

 彼女は勇気を振り絞るように早口に続けた。

 

「あの時は二人共まだ若かったし、戦時中でそれどころでもなかったから、自然と別れてしまったけれど、ずっと後悔していたのよ。本当ならあの時私たちが結婚していたら、あなたは今こんな生活を送っていなかったんじゃないかって。それで考えたんだけど、もしもあなたが嫌じゃなければ、私たち、やり直せないかしら? 私はあなたのことが本当に好きだし、もし私たちが結婚をすれば、あなたに掛かっている嫌疑もすぐに晴れると思うのよ。そうしたら私たちは、また大手を振ってロンドンを歩けるわ」

 

 チューリングは少しの間ポカンとしていたが、

 

「そうか……君はそんなことを考えていたんだね。自分を犠牲にしてまで、僕を助けてくれるなんて」

「犠牲だなんて思ってないわ。私たち、本当に仲良しだったでしょう? あなたがもし私のことを抱く気にならないって言うなら、それはそれでいいのよ」

「いや、そうじゃない。そんなことはないんだ。でも……ごめん。君の提案に乗るつもりはないよ」

「そう……」

 

 ジョーンは落胆するように下を向いた。しかしチューリングの方は努めて明るい表情を浮かべて、

 

「実は、そんなことをしなくても、僕たちはもうロンドンでお茶をすることも出来るんだ。君はこの部屋に入ってきた時からこの黒い箱を気にしていたけど……実は、僕は世間の目から逃れて、とある機関から受けたこの仕事をずっと続けていたんだよ。それが今日、ついに終わりそうなんだ」

「そうなの? ……ところで、それはなんなの?」

 

 彼女が尋ねると、彼は子供みたいに本当に嬉しそうに笑って、

 

「これはベルリンに突入した赤軍が総統地下壕で見つけたものなんだ。赤軍はその価値が分からず、遅れてやってきた連合軍に渡したようだけど、その後、ナチスが残した資料の中から、ヒトラーがそれを聖杯だと考えていたことが判明したんだ」

「聖杯……」

「ああ、ヒトラーのオカルト趣味は知られていたからね。当初それはバカバカしいと捨てられそうになったんだよ。ところが、万が一を考えてそれを分析機にかけたところ、それが奇妙な電磁パルスのようなものを発していることがわかったんだ。

 

 それは特定の電圧をかけると、特定の電気信号を返してくる。一見してランダムだけど、法則性がありそうなその電気信号がなんなのか? そこで僕にお鉢が回ってきたんだよ。

 

 僕はこの箱が示す様々なパターンから、これがヒトラーが言うような聖杯ではなく、アークではないかと考えた。アークと言っても契約の箱の方じゃなくて、ノアズ・アーク……つまり、ノアの方舟さ」

「ノアの箱舟?」

「そうとも。この箱に電圧をかけると、様々な電気信号を返してくるが、大別するとそれはいつも4つのパターンに絞られていた。このパターンABCD4つの組み合わせが何を示すのか……最初は僕もわからなかった。だが、最近発表されたハーシーとチェイスの実験から、もしかしてそれが生命の遺伝子ではないかと考えた時、この謎が解けたんだ。

 

 君は知ってるだろうか? 驚いたことに、僕たちの体はたった4種類の遺伝子の組み合わせから作られている。その情報が、どうやらこのアークの中に記録されているようなんだ。

 

 僕はいろんなパターンの中から、単純な植物やラットの遺伝子を発見した。まだ、誰にも解読されていない遺伝子の情報が、この中から見つかったんだよ。この中には他にも様々な生物の情報が記録されている。そして恐らく……人間もだ!

 

 これは恐らく、地上のあらゆる生命の遺伝子が記述された神の記憶ボックスだ。この中には、まだ知られていない遺伝子の正確な情報が、全て記録されているんだよ。正にノアの方舟と呼ぶに相応しい器だ。これが世間に公表されれば、世界はひっくり返るぞ!」

 

 チューリングは恍惚の表情を浮かべて箱を凝視している。ジョーンはそんな彼のギラギラした瞳を横目で見ながらため息を吐いた。

 

「そう……そうなの……これはノアの方舟だったのね」

「そうだ! これが発表されれば、僕の名誉も回復する。今はもう戦争中じゃないから、大事な研究を隠す必要はないんだ。これが発表されたら、ノーベル賞も夢じゃないぞ。そうしたら、またロンドンだって大手を振って歩けるさ。君と」

「無理よ」

 

 ところが、自分の発見に興奮するチューリングに対して、彼女は即答した。いきなり否定を返された彼が驚いて聞き返す。

 

「どうして?」

「こんなことを世界に公表するなんてことが、出来るわけ無いでしょう? 私たちが作られた存在だったなんて……もしもそれが知れれば、世界はまた戦争に逆戻りしかねないわよ」

「そんなことはないさ。僕たちを作り出した存在が神だとしたら、僕たちは神の下で平等だったってことが示されるだけじゃないか」

「違うわ、アラン。私たちが仮に神に作られたのだとしても……平等であってはならないわ。そう考える人たちがいるのよ」

 

 その時、家の玄関の方からドスンという大きな音が聞こえて、続けてあの陰気な家政婦の悲鳴が上がった。ドスドスとチューリングの部屋へ向かってくる複数の足音が聞こえてきて、彼は顔面蒼白になった。

 

「逃げなきゃ!」

 

 彼が叫ぶも、彼女は落ち着いたように首を振って。

 

「無理よ……あなたは知りすぎたのよ」

 

 ドンドンとドアに体当りする音が部屋いっぱいに広がって、まもなく、簡単な蝶番で留められただけのドアは吹き飛んでいった。埃が舞って両腕で顔を覆っているチューリングに男たちが飛びかかってきて、あっという間に彼のことを組み伏せてしまった。

 

「あなたにこの仕事を依頼したのは、政府ではなく秘密結社イルミナティ。世界を牛耳る金持ちが集まって作った300人委員会という組織なのよ。彼らは最初からこれの価値を知っていて、自分たちの利益のために、あなたを陥れこの仕事に従事するように仕向けた……当然、この秘密を自分たちだけのものにするためにね」

 

 彼はハアハアと荒い息を吐いて彼女のことを見上げている。彼女は彼から気まずそうに目を逸らす。侵入者たちはそんな彼女に敬礼をして、

 

「クラーク博士、このことは絶対内密に……」

「嘘だ! 君が僕を売ったというのか!?」

「売ったんじゃない! 助けに来たのよ。でも、手遅れだった……」

 

 ジョーンは悔しそうに下唇を噛んでいた。

 

「あなたは天才よ。こんなにも早く仕事を完遂してしまうなんて。さぞかし、300人委員会は喜んでいるでしょうね。そして目的を達した彼らにとって、あなたは邪魔な存在になる……」

「また僕は歴史の闇に葬り去られるのか?」

「連れて行け!」

 

 侵入者たちは後ろ手に縛り上げたチューリングを乱暴に引きずっていく。彼は抵抗すること無く、彼女の顔を見上げたまま呆然と引きずられていった。彼女はそんな彼を見ていることが出来ずに背中を向けた。

 

 アラン・チューリングは同性愛の嫌疑をかけられた後、警察に監視され、意味のない治療を受けさせられ、謂れのない中傷を受け続けた。それが原因かどうかはわからないが、その2年後に、彼は青酸中毒でこの世を去る。

 

 青酸カリを塗ったりんごを食べて死ぬという、非常に奇妙な死に方をした彼は自殺と判断されたが、彼の母親だけは最後まで、彼が実験を失敗したのだと言い続けていたという。

 



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ルーツ

 1989年。ベルリンの壁が崩れた。戦後、東西に分割統治されていたドイツはこれを機に再統一へと動き出し、更には東西の雪解けムードの中、ゴルバチョフが留守のモスクワでクーデターが起きると、世界を二分していたソビエト連邦も崩壊して、ついに冷戦が終結する。

 

 これにより共産主義による計画経済という壮大な実験は失敗に終わったわけだが、それで平和が訪れたのかと言えばそうでもなかった。世界は相変わらず独裁者だらけであったし、民主主義を採用していない近代国家とは呼べないような国はいくらでもあった。

 

 そんな中で空気が読めないイラクが暴走気味にクエート侵攻を行うと、国連は多国籍軍という平和維持軍を派遣してあっという間に解決し、一時は世界は正しい方向へ向かっているのだと人々は酔いしれたものだったが……ソマリア、ルワンダ、コソボと続く紛争の果てに911同時多発テロが起きて、アメリカ人たちは自分たちのことを快く思わない勢力が、まだごまんとあることに気づいたらしい。以降、世界は対テロ戦争の時代に突入する。

 

 時を同じくして、インターネットは人類に新たな集合知を与えた。これ以降、世界中の研究者たちが集まることなく、様々な場所から一つのプロジェクトに参加することが出来るようになった。こうして数多くの取り組みの中から新たな技術も生み出され、そして驚くような発見もなされた。

 

 ビッグバンの余熱から再現された宇宙の地図や、宇宙が思いがけず加速膨張しているなんてことも判明した。そして人類の遺伝子の秘密に迫るべく始められたプロジェクトでは、ヒトゲノムの全ての解読がついに実現した。それによって劇的に世界が変わったということはなかったが、確実に人類は自らの誕生の秘密に迫ろうとしていた。

 

 そんなある日……旧ソ連の軍事施設に、密かに黒い箱が運び込まれた。第二次大戦時、総統地下壕でヒトラーの死体と共に見つかった謎の箱である。箱の解析を行ったアラン・チューリングは、これをノアズ・アークであると断定したが、彼からこの功績を奪った結社は、その後この発見を有効活用出来ずにいた。

 

 箱の中には彼が指摘したように4種類からなる遺伝子のコードが刻まれているようだったが、それが何を意味しているのか、どの部分が人間の遺伝子なのか? どこからが他の動物のものなのか、全てがごちゃ混ぜで何もわからなかったのだ。チューリングが生きていればこんなことにはならなかっただろうに、彼らはご馳走を前によだれを垂らしていることしか出来ない哀れな犬の気持ちだった。

 

 そうして黒い箱は放置され続けて、およそ半世紀が過ぎ去り、誰もが記憶からその存在を消し去ろうとしていた時だった。ヒトゲノムが解析され、遺伝子工学は新たなフェーズへと移行した。それにより、バイオ関連だなんだと投資家たちが騒ぎ始めると、300人委員会を構成するとある金持ちが、箱のことを思い出した。そして彼の発案により、半世紀ぶりにその箱の謎を解いてみようと集まった委員会は、既に解読されていたヒトゲノムの情報を使って、ひとりの人間の遺伝子を取り出した。

 

 クローン羊ドリーが世間を騒がせていたころ。彼らはシベリアの旧ソ連施設の中で、あろうことか人間を作り出そうとしていたのである。これが世間に知れたら大騒ぎは間違いないだろうが、あいにく彼らはそんな道徳心を持ち合わせちゃいなかった。こうして、こっそりと最初の人間は復活したのである。

 

 アークに記録されていた情報から新たに染色体を作り上げた彼らは、ES細胞の核に移植して電気ショックを与えた。こうして出来た胚細胞が、成長すればよし、失敗しても別に構わないといった程度の試みであったが、その胚細胞は血清の中で驚くほどの速さで成長していった。

 

 最初は様子見のつもりでシャーレで培養していた物を、慌てて大きな器に移し替え、それでも足りなくなさそうだから浴槽のようなポッドへ移した彼らは、何の栄養も与えていないのに、どうしてこの細胞が増殖し続けているのかわけがわからなかった。

 

 ただわかっていることは、謎の黒い箱に収められていた遺伝子から、何か得体の知れないものが誕生しようとしているということだけだった。

 

 統括する科学者のリーダーは、このままこれを成長させ続けていいか悩んだ。今ならまだ引き返せる。今のうちに細胞を殺し、無かったことにしたほうがいいのではないか? しかし、そんなことを言い出そうものなら、300人委員会に何をされるかわからない……それに結局は、彼も好奇心には勝てなかった。

 

 こうして、あり得ない速度で成長し続けた胚細胞は、普通なら母親のお腹の中で280日掛かる成長をたった一日で遂げてしまい、それでオギャーと誕生するかと思いきや、成長はまだまだ続いた。そしてその成長がようやく止まった時、そこには既に成人したと思しき一人の男が眠っていたのである。

 

 黄色い肌に黒い髪の毛、見た目は日本人にそっくりな彼は、本当に現代の日本人に極めて近い遺伝パターンを持っていた。最初の人間がまさかこんな極東の猿に似てるとは思わず、彼らは肩透かしを食う思いだったが、そんなことを言っていられるのもそれまでだった。

 

「う……うーん……」

 

 復活した男が唸り声を上げたと思うと、当たり前のようにぱっちりと目を開けて、彼を取り囲む周囲の人々を見回した。そして、

 

「ここは、どこだ……? 俺は何をしてるんだ? っていうか、俺は一体……」

 

 彼が何か言葉を発したということは、その場にいる殆どの人々はわかっていた。だが、その言語が日本語であることに気づけたのは、たまたまその場にいた日本人の科学者だけだった。彼は悲鳴を上げ、同僚たちから冷ややかな視線を頂いた。だが、そんな彼が、目の前の男が発した言語は日本語だと告げると、現場は一転して騒然となった。

 

 見た目日本人にしか見えないその男は、生まれた直後だというのに、最初から言語を習得していたのだ。主に日本語を喋ったが、それ以外にも十数ヵ国語を話すことが出来、意思疎通には困らなかった。

 

 驚くのはその身体能力で、垂直跳びでは2メートルを飛び、100メートルを10秒以下で走った。しかしこれは彼の純粋な力ではなく、魔法の力だと言って、彼は光の玉のようなものを作り出して、それを自在に操り始めた。

 

 科学者たちはその不思議な現象を目にして好奇心に駆られ、それをどうやっているのかと質問した。まともな返事は返ってこないだろうと思いきや、男はあっさりとその秘密を語りだした。第5粒子エネルギー……この未知なる力を手に入れることによって、人々は人を超えた存在、神人になるのだ。その主張は、かのアドルフ・ヒトラーの狂った演説内容に酷似していた。

 

 このような荒唐無稽な話は普通ならば無視してしまうのが一番だろうが、困ったことに彼は現実に魔法のような力を操り、おまけに科学者たちも未だ知らないような科学技術の知識すらも、当たり前のように持っていたのだ。

 

 彼はこれから数十年の間に起こる未来について語り、そしてそれは科学者たちの想像する未来と比べても妥当であるように思われた。

 

 しかし、それじゃあ、何故彼はこんな誰も知らない未来のことを知っているのか?

 

 ……これらのことを遠巻きに見ていた300人委員会の金持ちは、今の状況をあまり思わしくないと思っていた。

 

 もしもこの男が本当に最初の人間なのだとしたら、人間とは一体何だったのであろうか? ヒトラーの与太話はともかく、これがチューリングの言うノアズ・アークという説は概ね正しいと思われる。アークには彼以外にも地上のあらゆる生物の遺伝子が記録されており、そのいくつかは既に突き止めていたからだ。

 

 もちろん、ノアの方舟と言っても、あの洪水伝説が現実にあったというわけではなく、要はこの場違いな出土品(オーパーツ)が大昔に地球に落ちてきたことで、人類は誕生した可能性があるということである。人類は最初、猿だった。それが何百万年もかけて進化していって、今のホモ・サピエンスになるわけだが、もしもその進化の過程に彼が混じっていたのだとしたら、彼は人類の祖先アダムにほかならないという話だ。

 

 だが、本当にそんなことがありうるのか?

 

 この男がただのペテン師なら問題ないが、科学者たちの反応からするに、彼が本当のことを言っていることは間違いないだろう。つまり彼は太古の昔から存在しながら、現代人である我々の知らない情報を持っていて、我々よりも知恵が回るのだ。そして先ほど見せた身体能力と魔法の力……もしかしてこの男こそが神なのではないか? そう思わせるような何かがあった。

 

 自分たちの好奇心から、このような者を復活させてしまったが、果たしてこの選択は正しかったのだろうか……300人委員会の金持ちは後悔していた。やはり、この男は早めに始末しておいたほうがいいのでは……

 

 しかし、彼が不安に駆られている時、そんな男が一言漏らした。

 

「ところで、今はいつなんです? 出来れば、今日の日付と株価を教えてもらえませんか?」

 

 300人委員会の金持ちは、その言葉で彼のことが一発で好きになってしまった。未来を知っているということは、これから株価がどう変動するかも知っていると言うことだ。彼にはもう不安は無く、目の前の男がアダムだろうが神だろうがペテン師だろうが、とにかく仲良くやっていこうと心躍らせていた。

 

********************************

 

 911から始まる2000年代が終わり、2010年代に突入した。この年代も東日本大震災という未曾有の危機で始まってしまったが、あの事件と丁度日付が半年違いであることは何の偶然なのだろうか。

 

 新興IT企業・鳳グループは、この地震が起こった直後に1000億円もの寄付を発表し、まるで予期していたかのように救援物資を被災地にばら撒き、喝采を浴びた。だがこの企業が3月11日の大引けにかけて、東京証券取引所で記録的な取引を行っていたことはあまり知られていなかった。

 

 そのおよそ10年前。黒い箱の中の遺伝子から誕生した男は、彼を蘇らせた300人委員会の者たちに鳳(はじめ)の名前を与えられた。

 

 無理な復活を遂げた彼の記憶には曖昧なところがあり、彼は自分が何者であるかがよくわかっていなかった。ただ、自分のことを聞かれると記憶の中から『フェニックス』の文字が浮かんで来ると言うので、それと初めの人間であることを加味して、鳳一と呼ばれるようになった。

 

 日本に戸籍を与えられた彼は早速とばかりに株式市場を荒らしていった。

 

 当時、誰も聞いたことのないような新興株を中心に連日連夜莫大な利益を上げ続けた一は、ITバブル絶頂期に掛けて、瞬く間に世界有数の億万長者になっていた。国外への投資も積極的に行い、自分自身で設立した持株会社鳳グループを使ってまだ上場前のgoogleに多額の出資をし、そうして得た巨万の富を惜しみなくアップルに突っ込んだ。

 

 常にその周囲には唸るような金が飛び交い、世界中のセレブを惹きつけてやまない彼の回りには、各国の重要人物がいつも腰巾着のように付き纏っていた。彼はそうして得たコネクションを自在に操り、世界中に網の目のような権力のパイプを構築すると、それを使って鳳グループを更に大きくしていった。

 

 300人委員会は元々戦中戦後に共産主義者の台頭を警戒し、金持ちが集まって密かに作った秘密結社であったが、その結社も長い年月を経て、また、ソ連が崩壊して以降は結束が崩れてきており、一が復活した頃にはもうだいぶ形骸化しつつあった。殆どの会員はお互いの家族のことしか興味がなく、これからまた世界大戦のような危機が訪れるなんてこれっぽっちも考えていなかった。

 

 故に鳳一がGAFAを乗っ取った頃には、300人委員会は巨万の富を与えてくれる彼のことをリーダーとして迎え入れていた。秘密がバレたら何が起こるかわからないのに、誰もこんな面倒くさい組織を率いたくなんて無かったのだ。こうして人知れず世界のフィクサーとなった鳳一は、フェイスブックの創始者であるマーク・ザッカーバーグを追い出し、イーロン・マスクからはEV事業と宇宙開発を奪ってしまった。

 

 2000年代に彗星のごとく現れ、常に王道を行く彼の行動はいつも注目を浴びていた。やること成すことが全て成功するのだから当然だろう。やがて彼に嫉妬する者、彼の秘密を暴こうとする者、彼のおこぼれに与ろうとする者たちが彼の行動を阻み始め、鳳一は一時期よりも身動きが取り難くなっていた。彼の正体は、絶対に何者にも知られてはならなかったのだから、過去を詮索するような連中は容赦なく排除していった。

 

 そんな嫌な雰囲気が流れはじめる中で、彼が次に着手したのは、意外にもLHCに代わる巨大粒子加速器の建造だった。

 

 2011年にヒッグス粒子が発見されて一躍有名になった素粒子物理学の巨大施設は、その後も稼働し続けていたが、科学者たちが期待する超対称性粒子の発見には未だ至っていなかった。鳳一はこれ以上の発見をするには、更に強力なエネルギーを生み出す装置が必要であると、LHCに代わる施設を東欧に建設することを提案した。

 

 彼の提案を科学者たちは喜んだが、300人委員会は不満を示した。宇宙開発はまだしも、粒子加速器なんてものに何の価値があるのか、彼らには理解できなかったのだ。だがもちろん、一には勝算があった。彼はこの加速器を作ることで、強引に第5粒子エネルギーの発見を急ごうとしていたのだ。

 

 それは少し曖昧な記憶であったが、彼にはこの第5粒子エネルギーの発見以降、世界が激変して戻れなくなるという記憶があったのだ。何故そうなってしまったのかはいまいち判然としないが、石油エネルギー依存から脱却した人類が、より多くの富を求める過程で、AIに人間同士が殺し合う未来を願ってしまうのだ。

 

 恐らく、働かなくても生きていけるようになった人類が、ギリシャのソフィストみたいに互いに傷つけ合い始めたのだろう。人類とはかくも愚かなものなのかと嘆くのは簡単であるが、彼はこれを絶対に阻止しなければならないと強く感じていた。

 

 何故なら、今は彼がこの世の王なのだ。

 

 彼は自分が何者であるかはよく分かっていなかったが、300人委員会を率いて、世界の富のほぼ全てを手に入れた自分には、この秩序を守らなければならない義務があるのだと、そう思っていた。

 

 ところが……そんな時、ロシアのウクライナ侵攻が起こってしまう。

 

「何故だ!!!!」

 

 鳳一は自分の執務室の中で怒鳴り声を上げると、その強靭な肉体で数百キロもあろうかという執務机を蹴り上げた。信じられないことにその机は天井で跳ね返って反対側の壁へと激突した。その怒鳴り声を間近に聞いてしまった秘書が恐怖で身を竦めている。彼はそんな秘書のことすら見えていない様子で、テレビから流れるロシア軍侵攻のニュースを聞いていた。

 

 ロシアのウクライナ侵攻は、本来なら2014年のソチ五輪中に起きたウクライナの政変が切っ掛けのはずだった。今回は、その時よりもだいぶ遅れていたが、それは他ならぬ一がそれを阻止しようとしていたからだった。彼は長い年月と巨額の資金を投入して、ウクライナを懐柔し、プーチン大統領を失脚させることまでしていたのだ。

 

 後継者は自分で選び、たっぷりと金を掴ませておいたのだが、傀儡のはずの彼が何故こんな凶行に走ってしまったのか……ウクライナできな臭い動きが起きた時、彼には絶対に戦争をしないことを何度も確認していた。欧州各国の首脳も動かして念押しまでした。だが、その彼は今、電話に出ようともしない。

 

 第5粒子発見後の世界を救うためには、今戦争をやっている場合ではないのだ。一はこの戦争を止めて東欧に粒子加速器を作る予定だったが、これで全てがオジャンになってしまった。

 

 新たな粒子加速器の建造には、アメリカと日本も候補として名乗りを上げていた。だが、そんなところに建てたら、安全は保証されてもコストは莫大になってしまう。それでは鳳グループが単独で資金を賄うことが出来ず、世界各国から予算を引き出さなければならなくなる。一が口を利けば各国は喜んで計画に乗ってくるだろう。だが、それでは駄目なのだ。

 

 世界の破滅を阻止するには、鳳グループが第5粒子エネルギーを独占しなければならない。その粒子を発見する汎用AIもグループが開発しなければならず、その2つが揃って、初めて鳳一が世界をコントロール出来るようになるのだ。

 

 彼はそれが実現出来るよう、ここまで急ぎ足でプロジェクトを進めてきたのだ。それがこんな下らないことで足止めを食うことになるなんて……民族問題にいくら部外者が首を突っ込んだところで無駄ということか、それとも、歴史は変えられないということなのだろうか?

 

 思えば、汎用AIの開発も既に遅れが生じてきており、今中国が猛烈な勢いで追いかけてきていた。googleの技術者が中国に負けるなんてまるで考えもしなかったが、自分がGAFAを乗っ取ったことで、その技術者が流れてしまっていたのだ。

 

 彼は本物のイノベーターを甘く見ていたのだ。彼らは世界最先端の技術を既に持っている鳳グループで働くよりも、鳳グループと戦ったほうが面白いと考えて、彼が追い出した投資家たちの元へ集っていた。

 

 このままでは、いずれ300人委員会の支配も弱まってしまう……

 

 彼は繋がらない電話を叩きつけるようにして切ると、直接モスクワに乗り込むつもりでカバンを取った。

 

「……あれ?」

 

 しかし、その時、彼はズルっと足をすべらせ、無惨に破壊された机が転がっている床に、自身も転がってしまった。書類に足でも取られたのかと思いつつ、立ち上がろうとするがまるで力が入らない。

 

 そんな上司の姿を見て、ようやく我を取り戻した秘書が話しかけてくる。しかし、一はその言語が上手く理解できずに、まるで異国人でも見るかのように、秘書を見上げていることしか出来なかった。

 



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主客合一

 身動きが取れずに運ばれた先の病院で鳳一は検査を拒否した。自分の体を調べられたく無かったからだ。その態度にカチンと来た医者と押し問答を繰り広げていると、子飼いの政治家がやってきて話をつけてくれ、彼は300人委員会の息のかかった病院へと移送された。

 

 移送先の病院で各科をたらい回しにされた一は、いくら調べても何も出てこないことに業を煮やし、ただの疲労だと言って退院を強行しようとした。しかしその最中にもまた立ちくらみを覚え、自分の体がおかしくなっていることを受け入れざるを得なくなった彼は、むっつりとした顔のまま検査を受け続け、医師や看護師たちを怖がらせた。

 

 結局、その態度が誰にも何も言わせなくしてしまったのだろう。散々待たされた後、全ての検査を終えた彼の所には、かつて彼を復活させた時に居合わせた医者がやってきた。あの場で唯一日本語を喋れた日本人医師で、今でも付き合いがあったから、わざわざ彼が呼び出されたのだろう。

 

 だがそんな彼でも一の症状を伝えるのは躊躇せざるを得なかったようだ。彼は長い沈黙の後に、重苦しい口調で病名を伝えた。

 

「ウェルナー症候群……?」

「はい。実年齢よりも肉体年齢が早く老化してしまう早老症の一種です。何故か日本人に多いそうですが……そんな話は今はいいですよね。検査の結果、あなたは見た目は30代のようにしか見えませんが、肉体年齢は70歳を越えていると出ました。内蔵の衰えが著しく、筋力も見た目ほどもう強くはありません」

「いや、しかし……俺はまだ若いつもりだが? ジムでの運動も欠かさないんだぞ?」

「……あなたは、出会った時から数々の奇跡を見せてくれたじゃありませんか。2メートルをジャンプしてみせたり。あれはどうやっていたんですか?」

「あ……」

 

 一は生まれつき身体強化魔法のような異能が使えた。光球を作り出すなんて芸当は全く役に立たないから、今ではもうそんな力があることすら忘れてしまっていたが、仕事柄何日も徹夜をしたり長距離移動を繰り返すため、身体強化魔法は日常的に使っていた。

 

 それを使わなかったどうなるのか……? 彼はほんの少しだけそれを止めて、唐突に襲ってくる倦怠感と疲労と動悸と目眩で意識が吹っ飛びそうになった。

 

「……確かに、最近はやたら疲れやすいと思ってはいたが、不摂生のせいだと思っていた。そうじゃなかったのか……」

「今からでも遅くはないからご自愛ください。そうすれば、進行を留めるくらいのことは出来るでしょう」

「……そんなわけにいくか」

 

 しかし、彼はもう後には退けなかった。もちろん医者もそのことが分かっていた。

 

 東欧の新粒子加速器、そしてシンギュラリティを目指すAI開発。これらは鳳グループが手掛けているが、実際には鳳一が一人で始めたものだった。その彼が手を引けば、こんな金食い虫でしかないプロジェクトはあっという間に中止されてしまうだろう。

 

 だが今、一がこれらのプロジェクトを完遂し人類を導かなければ、やがて人類は魔族を生み出して滅んでしまうのは間違いないのだ。彼にはその未来が見えていた。何故なら、彼はそのためにこの世に復活したからだ。

 

 この世に復活してまだ何も分からなかった頃、自分の頭の中に最初からあった知識を頼りに、大金をせしめていい気になって、実際に金持ちになったところで虚しくてしょうがなかった。

 

 だが、そんな時に彼は思い出したのだ。彼はかつてこの世界が滅びた先で、誰かと約束を交わしたはずだった。それは翼の生えた天使だったか、それともたった一人の女の子だったか、よく思い出せないけれど、彼はそのためにこの世界に帰ってきたのだ。

 

 それを思い出した瞬間、彼は自分の方向性というものが定まった気がした。

 

 彼の知る未来では、世界で初めて汎用AIを作り出した鳳グループが、その後第5粒子を発見した人類のエネルギー問題を解決したのだが、人類はその使い方を誤って獣人を誕生させてしまった。それが神人、魔族と続く不幸の連鎖の始まりだった。

 

 だから今度こそは、そうならないようにしなければならない。そのためには、自分がこれらの技術を、絶対に独占しなければならないのだ。

 

 実は前世では、汎用AIを作り出したのは鳳グループだったが、第5粒子を発見したのは世界各国が集まって行ったプロジェクトだったのだ。そのため、その利用法には各国の思惑が絡み合い、その結果、獣人が誕生してしまったのだ。世界は、石油依存のエネルギー問題から早く脱却したくて焦っていたのだ。

 

 だから今回は、鳳グループがどちらの技術も独占し、一がその正しい使い方を人類に教示しなければならないのだが……

 

「ウェルナー症候群の平均寿命は40代です……あなたも、長くてあと20年生きられるかどうか……」

 

 医者はそう言っているが、最初10年と言いかけたことを一は聞き逃さなかった。医師との付き合いは長く、彼が嘘をつくとは思えない。だからこのまま放置したら、本当にそうなる可能性が高いのだろう。無理を続ければ10年、仮に養生をしても20年……その年数は短すぎた。

 

 前世で汎用AIが登場したのは、今から約15年後のことだった。第5粒子が発見されるのはもっと後の話だ。つまり、一が手を引いて人類にプロジェクトを任せるなら、これだけの年数が必要だということだ。それでは遅すぎる。

 

 かと言って、一であってもこれだけのことを10年で成し遂げるのは不可能と思われた。

 

「どうして、こんな大事な時に、謎の奇病にかかるんだ……」

 

 鳳一は頭を抱えた。彼は決断しなければならなかった。

 

**********************************

 

 鳳一は退院してすぐ妙なことをやり始めた。東南アジアやアフリカの途上国へと渡り、密かに代理母になる人物を探し始めたのだ。

 

 彼は自分の寿命を知って、もはや絶対に夢を叶えることは不可能だと判断すると、自分の代わりに夢を叶える後継者を作ろうと考えたのだ。

 

 しかし、後継者と言っても、それは普通に女性と恋をして子供を作るという意味ではなかった。そして優秀な遺伝子を持つ女性との間で出来た受精卵を、代理出産してもらおうというものでも無かった。

 

 彼は自分のクローンを作ろうとしていたのだ。

 

 もちろん、人間のクローンを作ることはどの国家でも違法であり、研究自体が禁止されているからその手法は確立されていなかった。だが、彼には彼を作り出した科学者たちがいたので、彼らに自分のクローンの受精卵を作り出させることが出来たのだ。

 

 ただし、それは殆ど数撃ちゃ当たる方式で、殆どの子供は生まれてくることも出来ず、仮に生まれてきても殆どがまともに育たなかった。代理母には莫大な口止め料を支払い、時には口封じのために殺しも厭わなかった。

 

 そんな中で数人のクローンが生き残り……

 

 そして最も健康的に育った子供を鳳一は引き取り、(つくも)と名付けた。

 

 こんなことをせずとも、アークからまた自分の体を作り出したらどうかと試しもしたが、その方法ではもう細胞分裂が起こらなかったのだ。恐らく、あれは一度きりのことで、二度は起こらないのだろう。もしくは、一が死んだら起こるかも知れないが、流石にそれは試すわけにいかなかった。

 

 ところで、彼は何故、白を作ったのだろうか……? それは同一遺伝子の人物の精神ならば、乗っ取ることが可能だということを彼は知っていたからだ。

 

 実はこの世には、放浪者と呼ばれる前世の記憶を持つ人間が、たまに生まれてきていたのだ。殆どが思春期特有の妄想か、悪魔憑きと呼ばれるのを恐れて隠れてしまい、そのうち忘れてしまうのだが、彼は自分もまたその一人であり、それがどういう仕組みで起きているかを知っていた。

 

 現代魔法の使い手である一は、生まれつき、この宇宙の果てにある、神の叡智に触れていたのだ。

 

 ……白はいずれ一と同じ肉体を持つ青年へと成長するだろう。その時、彼はアーカーシャを通じて、自分の記憶を白のものと入れ替えてしまおうと考えていた。そうしたら自分はもうこのボロボロの体を捨てて完全になれる。一と九十九を合わせて100パーセントだ。

 

 彼は最初から、白を自分の容れ物として育てていたのだ。

 

 ただ便宜上、彼は一の後継者として育てられており、その話は都市伝説のようにじわじわと広まっていった。中には白が父親のクローンだという情報をリークする者もいて、一はそれを潰すのに躍起になった。

 

 成功者の常として、彼には敵も多かった。もしこの醜聞が知れ渡ったら、失脚もあり得るだろう。彼の足を引っ張って、そのポストを奪おうと手ぐすねを引いている者などいくらでも居た。だから絶対に知られるわけにはいかなかった。せめて自分の記憶を白に継承……いや、奴の身体を乗っ取るまでは。

 

 こうして一は人知れず病と戦い続けながら月日は流れ……

 

 そして白が生まれてから13年が過ぎようとしていた。

 

 鳳一は敵との戦いにいささか疲れていた。類まれな精神力で激務に立ち向かい続けていたが、肉体の衰えはもう周囲に隠し切れない程になってきていた。彼はまだ40代だというのに、顔には老人のように深い皺が目立ち、身体はやせ細っていた。医者はそれでも彼の生存を奇跡だと喜んでいたが、そんなことは魔法を使わなければもはやまともに歩けない彼にはどうでもいいことだった。

 

 彼が病気と知って300人委員会の力関係も変わりつつあった。彼が死んだ後の鳳グループのポストを巡って、野心の高い連中がこそこそ暗躍し始めていたのだ。彼らはちゃんとした後継者がいない一が死ねば、自分たちにお鉢が回ってくると信じていた。そのために、一の足を引っ張り、白の命すら狙っていた。

 

 一はそんな連中の始末でまた要らぬ苦労を背負い込み、そのせいで彼の身体は日に日に弱っていった。野心の高い連中の志が高いのであれば後を任せることも考えられたが、金持ちとは所詮金を持っているだけの人間だ。使っていればそもそも金持ちとは呼ばれていない。彼らが鳳グループの実権を握ってしまえば、せっせと私腹を肥やすことを優先し、シンギュラリティが遠のくのは目に見えていた。

 

 人類はただ承認欲求を満たすためだけに、他人の足を引っ張る者が多すぎる。そして奪うだけ奪って与えようとしない為政者も。大衆が変革を望まないのは、今日がこれ以上悪くなることを恐れるからだ。その結果があの未来に繋がるのだとしたら、彼にはそれも当然のことのように思えてならなかった。

 

 どうして自分は、ここまでして人類を救おうとしているのだろうか……? 誰かの命を奪ってまで……

 

 白とはまともに会話をしたことすら無かった。もう何年も一緒に暮らしているのに、一度としてその顔を真正面から見たことすら無かった。自分の顔なら毎日鏡で見て見飽きているから? いや、そんなわけはない。単に、彼を見れば罪悪感に襲われるからだ。彼はそれを恐れていた。

 

 たとえそれが偽物だったとしても、息子がいると知ると、やたらとにこやかに話しかけてくる者たちがいた。その人達からすれば家族の話は鉄板で、一も当然子煩悩だと思いこんでいるのだ。中にはそんな一と家族ぐるみの付き合いをしたがる者もいた。だが、そんな話が出る度に、一は不機嫌にならざるを得なかった。

 

 なのに彼は、白のことを自分の後継者だと紹介して回らなければならなかった。そうしなければ、自分が身体を奪ったあとで苦労するからだ。残念ながら自分の身体はもうそれほど長くはもたない。その時、白はまだ中学生か、せいぜい高校生くらいだろう。そこからのし上がっていくには、少なからぬ後見人が必要だ。その種を蒔くために、彼は息子との良好な関係を演出していた。そんな嘘が、余計に彼の精神を蝕んでいた。

 

 そうして心身ともに弱っていく中で、それは起きた。ある日、一の元に警察から連絡が入った。白が逮捕されたのだ。

 

********************************

 

「この大事な時期に、あの馬鹿はなんてことをしでかしてくれたんだ!!」

 

 警察署に向かう車の中で、一は秘書に当たり散らした。これまで白を後継者とするために、嘘を吐き続けて来たというのに、その苦労が全ておじゃんになってしまった。警察などに捕まっては、一の死後に白を任された後見人たちはあまりいい顔をしないだろう。少なくとも、こちらに負い目がある状況では、一が白の身体を乗っ取ったあと動きづらくなってしまう。

 

 一はボロボロの体で、頭痛と目眩を押し殺して、いつも自分が死んだ後のことばかり考えていた。だから、どうして白がそんなことをしたのかなんて、これっぽっちも考えが及ばなかった。そんな父親とは呼べない父親に向かって、秘書が怯えながらも淡々と報告した。

 

「白様は学校でいじめを受けていたようです。ですが、流石に一様の息子と申しますか……いじめを受けているフリをしながら相手に取り入り、油断したところで一気に復讐を果たしたとのことです。元々いじめの原因は、白様のガールフレンドがいじめ相手に凌辱されたことが切っ掛けだったようですが……」

「なにぃ……?」

 

 穏やかでない言葉が出てきたことで、流石の一も怒りを忘れて耳を傾けた。

 

「どうやら白様の通う学校に、あなたの敵企業の社長の腰巾着の取り巻きの一人息子が通っていたようです。無能を絵に描いたような男ですから、全く危険視されていませんでしたが、おべっかと賄賂で出世したような男ですから、白様と息子が同じ学校にいるとわかると、白様に取り入るように息子に言い含めていたようなのです。

 

 この息子がとんでもない悪でして、子供の内からギャングみたいな組織を束ねて、近隣の子供たちを震え上がらせていたようなのです。傍若無人な輩で、これが年をとっていっちょ前に性欲が芽生えると、気の弱い女の子などをその性欲のはけ口にしていたようですね。白様のガールフレンドはそれで目をつけられて酷い目に遭い……それで白様が抗議に行ったところでいじめが始まってしまったようです」

「……何故、あいつは俺に言わない?」

「あなたが白様と話をしてこなかったんじゃないですか」

 

 秘書の言葉に一は黙りこくった。

 

 そこからの白の行動は我が事ながら圧巻だった。彼は教師を頼るでも親を頼るでもなく、道化に徹して敵に取り入ると、完全にその手の内を握ってしまった。おべっかと賄賂を駆使して集団の情報を収集すると、一人ひとりの行動パターンを分析して、一人ずつ確実に仕留めていき、最後に残った首謀者を見事に陥れ、とどめを刺そうと跨ったところで止まったらしい。

 

「いや流石あなたの息子です。これだけの仕事を単独で計画し、実行に移し、成功するなんて、とても中学1年生のすることとは思えません。最後に憎い相手を前にして踏みとどまった勇気も立派です。もし、ここで彼のことを殺してしまっていたら、示談は不可能でしたでしょう。そこまで計算して冷酷に徹する……あなたの後継者として、白様は申し分ない力を発揮してくれたと私は思いましたよ」

 

 秘書はそう言って絶賛していたが、一はその話を聞いてムカムカしていた。

 

 何故、止めを刺さなかったのか? そこまでやったのであれば、そのクソ野郎を殺したところで何も変わらないだろう。せいぜい少年院に行くくらいで、相手の抗議などいくらでももみ消せる。

 

 秘書は示談は無理だと言っているが、そんなことはなく、自分なら十分にやってやれるだろう。この国の政治家にはいくらでも貸しがある。なんなら法律でも変えて見せてやろうか……

 

 一はどんどんムカムカしてきて、だんだんどうしようがなくなってきた。どうしてこれから自分の身体になるはずの白が、そんなゴミみたいな連中に弄ばれねばならなかったのか。そのことにもムカついたが、白になった後、自分はそいつらに馬鹿にされた過去があると思うともっとムカついた。

 

 やるんならとことんやるべきだ。この世には明確に殺してもいい人間というものがいるのだ。いや、そもそも世界は救う価値がないやつの展示場みたいなものじゃないか。

 

 一はバカバカしくなってきた。一生懸命救おうとしていたこの世界が……息子の命を奪ってまで救おうとしていたこの世界が……本当にどうでもいい場所のように思えてきてならなかった。

 

 弱者を守ろうとする法律(ルール)は、強者を縛り付ける鎖にしかならない。それは現在、ルールを破るフリーライダーの生存を寧ろ助けてしまっている。人類なんて増えすぎてしまってみんな困っているんだろう? こんな誰も彼もを生かしておくだけのルールなんてもう捨ててしまって、強者生存の世界を目指したほうが、真に実力のある人間にとっては生きやすいのではないのか?

 

 それで世界が滅びてしまうというのなら、それでいいではないか。どうせ人類はいつか滅びるのだ。宇宙だってどうなるか知れたものじゃない。大体、そんな先のことまで考える必要があるほど、人間は長生き出来ないのだ。自分なんてたった50年なのだぞ? もう殆ど生きていられない自分が宇宙の終焉を憂えて、一体何になるというのか。

 

 彼を乗せた車は滑るように警察署の玄関前に止まった。何故か新聞記者が大勢すでにスタンバっていて、無遠慮にパシャっとシャッターを切った。一はそんな記者をひと睨みすると、イライラしながら警察署の中に入っていった。

 

 受付に秘書が走っていき、すぐに案内の刑事がやってきた。刑事は白に好意的なことを言っていたようだが、一の頭にはもうそれが上手く入ってこなかった。彼はダルマみたいに顔を真っ赤にしながら、案内されるまま刑事課にたどり着くと、その隅にあった取調室の開いたドアから覗く白の姿を見つけるなり、カッとなって走り出した。

 

 スローモーションの世界の中で、一は背後で叫ぶ秘書と刑事の声を聞いていた。怒りに任せて飛び込んだ部屋の中で、白が怯えた表情で自分のことを見上げていた。

 

 息子の顔を真正面から見るのは、この時が初めてだった。彼はそんなことより、ただ耐え難く湧き出てくる怒りをこの息子にぶつけたくて仕方なかった。この軟弱者は、敵を仕留めることすら出来ないのだ。そんなことで、どうして自分の息子と言えるのか。甘やかして育てたせいだ。いや、ほったらかしで育てたせいだ。何にしろ、この馬鹿息子の根性を叩き直さなければならない。

 

 彼はそんなことを考えながら、腕を振り上げた。

 

 と……そんな時だった。

 

 彼は目眩がしたかと思うと、急速に視界がブレていくのを感じた。まるで水の中にいるかのように振り上げた手が押し戻され、そしてブレる視界の中で、目の前の少年の顔が、だんだん醜く歪む老人の顔へと変貌していく……

 

『何故仕留めそこなった! どうして殺さなかったんだ!』

 

 一はそんな老人の顔を見上げていた。老人の振り下ろした腕が、彼のほっぺたに吸い込まれていく。

 

『何故仕留めそこなった! どうして殺さなかったんだ!』

 

 フラッシュバックするかのように、同じ言葉と同じ光景が、何度も何度も彼の脳裏をよぎった。その言葉はまるで実体を持つかのように、彼の身体を縛っていく

 

『何故仕留めそこなった! どうして殺さなかったんだ!』

 

 言葉の鎖で雁字搦めになった彼は、身動きも取れずにその老人の怒りを一身に浴びていた。悔しくて、悔しくて、たまらないのに、だけど彼はその言葉を否定することも、泣くことも出来ないのだ。

 

『何故仕留めそこなった! どうして殺さなかったんだ!』

 

 その老人は自分の父親だった……そして今、一は白の記憶を見ていた。

 

 同じ人間は記憶を共有することがある。それを利用して自分は白になろうとしているのだから当然、彼はそのことを知っていた。いつか自分が白になるように、つまり、自分は今、白の記憶を見ているのだ。

 

 ああ、そうだ。自分はかつて鳳白だった。鳳一が鳳白になるんじゃなくて、鳳白が鳳一になったのだ。そんなことも忘れて、自分は馬鹿みたいに猛進していたのだ。世界を救うのは、鳳一じゃない。鳳白なのだ。どちらも自分自身に違いないが、今の自分じゃないのは間違いなかった。

 

 またブンとテレビが切れるかのように視界がブレる。すると今度は自分の目の前に、幼い頃の自分の顔があった。

 

 ああ、そうだ。まだ擦れてなかった頃は、こんなあどけない顔をしていたっけ……鳳一はそんなことを思いながら、振り上げた手をそっと息子の肩に下ろし、力いっぱい叫んだ。

 

「おまえはよくやった! おまえは正しいことをした! 誰が何と言おうと、俺はおまえの味方だ! だから後のことは俺に任せろ! 俺がどんな手を使ってでも、あの連中を追い込んでやる!!!」

 

 鳳一がそんなセリフを叫ぶと、騒がしかった警察署内がしんと静まり返った。それは下手をすると犯罪予告のようなセリフだったが、刑事たちは誰もその言葉を咎めようとはしなかった。

 

 まもなく、まだ中学生のあどけない顔をした男の両目から、ポロポロと涙が零れ落ちて、彼はワンワン声を上げて泣き始めた。その父親もまたワンワン泣きながら、息子のことを抱きしめた。

 

 生まれたての赤ん坊のみたいに、その泣き声はいつまでたっても止まなかった。彼らはこの日、初めて親子になれたのだ。

 



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7days

 目覚めると教室はオレンジ色に染まっていた。開け放たれた窓から風が吹き抜け、ベージュのカーテンがひらひら揺れた。外からは運動部の掛け声が聞こえてきて、新緑と春の匂いが鼻をくすぐり、整然と並ぶ机は、彼のところだけが曲がっていた。

 

 欠伸をしながら上体を起こす。たぶん、掃除当番は眠っている彼のことをどけることが出来なかったのだろう。天板がよだれでテカテカ光っていて、起こす気にもならなかったのかも知れない。ほっぺたがひりひりと痛むのは、よほど長い間押し付けて眠っていたからに違いなかった。

 

 取り敢えず、この汚い水たまりをどうにかしようと拭くものを探していたら、背もたれに掛けていた制服の上着がバサッと落ちた。それを拾い上げようと椅子を傾けて腕を伸ばすも、仰向けの姿勢では中々届かず、藻掻いていたらすっと影が差して、見ればエミリアが彼のことを覗き込んでいた。

 

「はい」

 

 彼女は床に落ちた制服を拾い上げると、バンザイの姿勢で椅子に座るというより寝転ている白にそれを渡した。彼はそれを受け取ろうとして、床から足が離れてしまい、そのまま椅子から転げ落ちてしまった。

 

 誰もいない教室にガシャンと大きな音が響き渡った。彼女は目をぎゅっと瞑ってから、怖怖とした表情で目を開けて、床に転がる白のことを上から見下ろしながら、呆れた素振りで言った。

 

「椅子から降りればいいじゃない」

「ゲホゲホ……全くもって、その通りです」

 

 尤もらしくてぐうの音も出なかった。椅子から落ちたときに背中を強打したせいか、咽てしまって声が上手く出なかった。ゲホゲホ咳き込みながら立ち上がると、彼女はそんな彼に背を向けて歩き出した。

 

「もう下校時間はとっくに過ぎてるわよ。早く帰りましょう」

 

 放課後はいつも一緒に帰る約束をしていた。昔はそういうのが恥ずかしかったものだが、今はそうするのが自然と思えるくらいにまでなっていた。だから彼女は、寝ぼけたままいつまでもやって来ない彼を迎えに来たのだ。ただ、まだ帰るわけにはいかなかった。彼は彼女を呼び止めると、

 

「ちょっと待って。机がこんな有様でね、放置して帰るわけにはいかないんだ」

 

 白がそう言って机を指差すと、彼女は最初遠目には光の加減で分からなかったようだが、近づいてきて机の上を覗き込むなりしかめっ面を作り、

 

「ばっちいなあ……」

「とにかく、こいつを片付けなきゃまだ帰れないから、もうちょっと待っててくれ」

「うん、わかった」

「疲れてんのかな。このところ編入の手続きとか、家の片付けとか、父さんの入院の準備とか……ちょっと忙しかったからさ」

「……そうね」

「今日も見舞いに来てくれるんだろう? 父さん、エミリアが来るといつも嬉しそうだから、頼むよ。病院の近くにさ、美味いラーメン屋見つけたんだ。帰りはそこ寄ってこうぜ」

「……毎日そんなものばかり食べてるんじゃないでしょうね?」

「ぎくっ」

 

 彼女はため息を吐きながら、

 

「それじゃ私が雑巾とってくるから、そっちはバケツに水汲んできてよ」

「わりいな、手伝ってもらっちゃって」

「いいわよ、これくらい。早くしてよね」

 

 彼女にせっつかれるようにして、白は掃除用具入れからバケツを持って廊下に出た。

 

 教室のドアをくぐり抜ける際、何気なく上を見上げたら、2-Aと書かれたプレートがあった。白はそれを見るなりふと足を止めて、二年生になれたんだな……と、何故か急に感慨深い思いが湧き出してきた。

 

 どうしてこんな当たり前のことを特別なことのように感じるのだろうか? 彼が不思議に思っていると、教室の中からエミリアの声が聞こえてきて、

 

「ねえ」

 

 振り返るとオレンジに染まる教室の中で、真っ赤な夕日を背負う彼女の姿が見えた。彼女の美しい金色の髪が、光を反射して今は真白かった。夕日に縁取られた彼女の輪郭がやけに浮き出て見えて、その存在感を増していた。

 

 白が、その光景をいつかどこかで見たことがあるような気がしてぼんやりと眺めていると、彼女はゆっくりとした口調で言った。

 

「また、同じクラスになれて良かったね」

 

 白は言った。

 

「当たり前だろ。そうなるよう手配したんだから」

 

 彼はそう言うと、バケツをカンカン鳴らしながら水を汲みに廊下を急いだ。

 

********************************

 

 あの事件の後、白たちは通っていた中学をやめて別の学校へ転校した。何の落ち度もない二人の方が出ていかなければならないというのは理不尽な話だったが、あのまま通い続けていたところで、自分たちの居心地が悪いだけで何も良いことは無いだろうから、そうするのが自然だったのだ。

 

 尤も、事件を起こした先輩たちもあの街に居られなくなったのだから、お互い様と言えるだろう。

 

 警察署に白を迎えに来た父親は、宣言通り、あの後、先輩連中を徹底的に追い詰め始めたのだ。

 

 あの後、手始めに入院中の先輩連中の顔を拝みに行った彼は、金持ちから金を毟り取ろうとでも思ったのだろうか……怪我をさせられたのはこっちの方だと開き直った馬鹿な親にキレ、すかさず反撃を開始した。

 

 金に物を言わせ徹底的な調査を行い、先輩たちがこれまでに犯してきた悪事の数々を全て暴き、それをゴシップ誌に自らリークし、彼らが顔写真を掲載しやすいように卒業文集まで提供してやった。

 

 累は周囲にまで及び、親類縁者のことまでも周到に調べ上げた彼は、ほんの少しでも落ち度が見つかれば、周辺に暴露してその立場を陥れ、鳳グループの総力を使って勤め先まで懲らしめた。

 

 親類縁者を雇用している企業は、鳳グループなんかに目をつけられたら一溜まりもないから、その社員を追い出すべく冷遇し始め、堪らず土下座に来た彼らのことを一は冷たくあしらった。

 

 元々、あの短絡的な子供の親たちである。暴力を仕掛けてくる者もいたが、しかし、暴力は鳳一の最も得意とするところであった。それを知らない彼らがどういう目に遭ったかは言うまでもない。

 

 無論、その間、いくつもの裁判も同時に行っており、やはり金に物を言わせてその全てに勝利してきた。こうして手を変え品を変え嫌がらせは続き、最終的に彼らが日本中をこそこそ逃げ回らなければ生活することすらままならなくなるまで続けられた。日中、彼らは歩いているだけで指をさされ、面白がった小学生が毎日ピンポンダッシュをしていった。

 

 そんな金持ちの執拗な攻撃に世論は二分されたが、それも表面上のことでSNS界隈ではわりと好評であった。ゴシップ誌はこの大富豪の乱心に大いに喜び、いつしかパパラッチが彼の周囲をうろつき始めていた。

 

 人間というのは結局のところ、この手のクズとクズの争いが大好きなのだ。わざわざ奴隷を連れてきてまで戦わせるような、こんな馬鹿げたことが古代から延々と続けられてきたのだから、人間というのは進歩がない生き物である。

 

 そして進歩が無いのは、鳳一というパーソナリティもそうなのであろう。彼は憂さ晴らしのつもりの報復に全力を注ぎ過ぎてしまい、ある日ついに倒れてしまった。彼は自分が難病に侵されていることを忘れてしまっていたのだ。

 

 この頃の彼はどこに行くにもカメラを引き連れていたから、彼が倒れた時にもカメラがあった。彼を救ったのはそのカメラを持ったパパラッチであり、その後、独占インタビューの権利を獲得した彼に、鳳一は言った。

 

「家族を守って何が悪い」

 

 とても病院とは思えない、豪華な調度品の置かれたスイートルームみたいな病室で、彼はふんぞり返りながらそう言い放った。彼の寝転がるベッドの横には心電計が置かれており、ピッピッと規則的な音を鳴らしていた。心電図の読み方は素人だったが、通常よりもずっと弱々しいパルスが続いているのは記者の目にも明らかだった。

 

 入室した時、呼吸器を付けられていた彼は記者が来るなり喋りにくいからとそれを取ってしまっていた。医者たちが駄目と言っても聞かず、ゼエゼエという擦過音みたいな呼吸が耳にうるさかった。

 

 しかし、こんな状態だというのに彼の目はランランと輝き、背筋をぴんと伸ばした姿は、一分の隙も窺えなかった。

 

「暴力によって人を支配するものを私は許さない。例えそれが子供であってもだ」

 

 記者はインタビューにあたってこれまでの経緯を振り返りながら、どうしてあんなことをしたのかを尋ねた。その答えがそれだった。

 

「しかし、相手はあなたと違って殆どがただの一般人ですよ。そんな相手にあなたがしたことは、もはや暴力なのでは?」

 

 そういう記者に対し、一は言った。

 

「少なくとも、私は一度も犯罪を犯したことがない」

 

 確かにその通りだった。事件が起きて以降、彼は首謀者たちを徹底的に痛めつけたわけだが、一度として法に触れることはしていなかった。だが、それはどれもこれもグレーゾーンでしかなく、金持ちの彼が一般人相手にやるような品の良いものではなかった。

 

 泣き寝入りしろとは言わないが、彼ほどの大金持ちならば、普通なら裁判所に任せて、自ら報復しようなどとは考えないはずだ。ましてや彼には立場があり、この醜聞のせいで多くを失ってしまっていた。それなのに彼は時間を惜しまずに相手を痛めつけることをやめず、報復の連鎖を恐れずに最後までやり遂げてしまった。

 

 何故、ここまでしてそんなことをしたのだろうか。誰もがわからなかったその答えを、病床の老人はぬけぬけと言い放った。

 

「いいかね、君。法は犯罪に遭った者に、苦しみに耐えるように言っているわけじゃない。泣かない努力をするようにと言っているのだ。悪行を憎む気持ちを抑えるのではなく、人を憎むその怒りを抑えろと言っているのだ。誰も立ち上がるなとは言っていない、罪を犯すなと言っているだけなのだ。なら、自らの意思で戦える者はやはり戦うべきではないか。

 

 負の連鎖を断ち切るために、誰かに裁判を任せて、辛い記憶は忘れてしまう。その選択も間違いではないだろう。だが、かつては裁判所なんてものはなく、人を裁くには武器を取るしか方法がなかった。それじゃ駄目だから、人は裁判所というものを作りだし、武器の代わりに法律を作ったのだ。

 

 ならば冷静であれば法は必ず味方してくれるはずだろう。国家という言葉の通り、法律とは元々家族を守るためにあるものだから。だから私は冷静に、自ら手を下したのだ。そうしたほうが……こう……スカッとするからな!」

 

 あなたは結局それを言いたいだけなのだろうと呆れつつ、記者はチクリと釘を差すように続けた。

 

「しかし、そうして家族を救ったことで、あなたは多くのものを失いました。あなたが一代で築き上げた世界中の企業があなたの手から離れ、各国政府や地元企業の手に渡ってしまった。彼らを陥れている間にあなたは権力、財力、そして気がつけば命まで尽きようとしている……これらの物を失うほどの価値が、本当にそこにはあったのですか?」

「価値? 価値か……なるほどな」

 

 老人はフンッと鼻で笑って。

 

「みんな価値なんていう誰が作ったか分からん基準に惑わされているのだ。命なんてものは、問題にもなるまい? どうせ人はいつか死ぬ。財力なんて気にするまでもない。誰も墓場にまで金を持ってけないからな。だが、権力というものに、もしかすると私は取り憑かれていたのかも知れない。私にはどうしてもやりたいことがあったから、私はこの世を自分の思い通りに動かすことに固執していたのだ」

「あなたがやりたかったこと……それは何です?」

 

 まさかこの金持ちからそんな核心的なことが聞けるとは思わず、記者が聞き返す。しかし、老人は薄く笑うだけでそれには答えず、淡々と記者にはわからない何かを話し始めた。

 

「権力なんてものは、そもそも手放すために存在するのだ。手放してみれば、それがどれほど間抜けだったかがわかる……私は権力にしがみ付くばかりに、敵を作りすぎていた。だが与えれば人は言うことを聞いてくれた。私の権力を奪おうとする敵が、みんな味方に変わり、私が望む未来を、みんなが真剣に聞いてくれたのだ。私の後継者は、最初からいくらでも周りにいたんだ。

 

 私は自分が死んだあとのことばかり考えていたのに、権力を捨てたらその不安がいっぺんに無くなってしまったんだよ。考えても見れば当たり前だ。みんな自分なりに一生懸命生きているのに、どうして人は他人の努力を理解できないんだろうか。

 

 私はこれまで誰のことも信用してこなかった。ずっと他人を見下してきた。でもそれは間違いだった。何でも批判する人は何を聞いても笑ってる輩と同じだ。どちらも自分では考えていないのだから。そんな生き方では苦しくて仕方ないだろう。自分の人生を生きていないのだから。自分の間違いを認めることは、時に苦痛を伴うが、自分の人生を生きるためには必要な痛みなのだ。私はそれを今回の件で学んだよ」

「……つまり、あなたは後継者を見つけたから不安はないとおっしゃられているのでしょうか?」

 

 老人はそういう記者に対して一瞬だけ考える素振りを見せたが、結局はただ穏やかに微笑んでいるだけだった。彼は老人が何を考えているのか今一わからなかったが、後で録音を聞くことにして、いちばん大事なことを尋ねてみた。

 

「でも、あなたは本当なら自分の会社を、息子さんに継いでほしかったのではありませんか? こうまでして守ったくらいなのだから」

 

 親が子に後を継がせたがるのは当然のことだ。記者はそう思って聞いたつもりが、目の前の老人は本当に意外そうな顔をしてから、

 

「そうか? そんなこともないだろう? 君だって子供の時、親の言うことを聞くなんて真っ平御免だと思っていただろう」

「え、ええ、まあ……でも、それとこれとは」

 

 スケールが違う。そういう記者の言葉を遮りながら、

 

「同じだよ。私は好きに生きた。あれも好きに生きりゃいいんだ。知ってるか? 私は釣りが得意なんだよ。本来、私は野山を駆けずり回ったり、キャンピングファイヤーを友達と囲んだりするのが好きだったんだ。なのに今回の人生では、そんなこと一度もやらなかった。本当に馬鹿だったと後悔しているところだ。

 

 だから私が息子に注文があるなら、彼には私の後悔だらけの人生をなぞったりしないで、そういう楽しい人生を歩んで欲しいね。人は自由だ! 誰かを傷つけない限りは……」

 

********************************

 

 インタビューが終わるころには、流石の鳳一もいささか疲れてしまっていた。このごろは日に日に起きていられる時間も少なくなってきたから、その貴重な時間をゴシップ記者に使うのはもったいない行為だったが、あれでも自分の命の恩人なのだから礼儀は尽くさねばなるまいと彼は思っていた。

 

 記者と入れ替わりに看護師がやってきて痛み止めの注射をしていった。薬が効いてきてしまうとぼんやりしてきてしまうので、まだ来客があるから必要ないと断ったが、今度はもう問答無用だった。痛み止めといってももう何をやっても効き目が薄いから、最近はモルヒネばっかり打っていたが、そういえばかつて阿片中毒になりかけたことを思い出し、あの頃とやってることが何も変わってないと思うとちょっと笑えてきた。

 

 来客は二つあって、片方は息子とエミリアだった。最近は彼らが毎日顔を見せてくれるのが楽しみで、それが今の一にとっては一番の薬でもあった。かつてはその顔を見ることすら苦痛だったのに、今は二人が一緒にいるだけで、不思議と力が湧いてくるような気がした。自分に残された時間があとどれくらいあるかわからないが、彼らのためにやれることがあるなら、まだ死ぬわけにはいかないと思えるのだ。

 

 鳳一が知る限り、エミリアはどの人生でも不幸だった。そして息子(クローン)である白の記憶が青年時代で途切れてしまうのは、つまりそういうことだったのだろう。今回の人生では絶対に間違いを犯すつもりはない。彼らが自分たちの人生を全うできることを、一は心から願っていた。

 

 だからそんな彼らの後見人は慎重に選ばねばならない。もう片方の来客とは、そのエミリアの両親のことだった。

 

「鳳さん。今回は娘の件だけではなく、私たちの会社まで救ってくれて本当にありがとうございます。私たち夫婦、娘一同、みんな感謝の気持ちでいっぱいです」

 

 エミリアの両親は病室に入ってくるなりそう言って頭を下げた。仕事の関係で書類上では何度かやり取りを交わしたことがあったが、彼らとこうして会うのはこの日が初めてだった。金髪の青い目をした外国人が、こんな力いっぱい日本式の挨拶をしてくると少し笑けてくる。

 

 鳳一は敵を痛めつけている間、有り余る財力を使ってエミリアの両親の会社を買収していた。人類初のVRMMOを実現しようとしていた北欧の会社は、そんなの夢物語だと言われて世間には殆ど相手にされていなかった。そんな企業は起死回生をかけてテレビゲームのメッカである日本に拠点を移したのだが、こちらでも開発は難航し、資金繰りも怪しくなってきて、おまけに娘の事件もあって、そろそろ日本支社を畳もうとしていたところであった。

 

 そんな彼らに待ったを掛けたのが鳳グループからの出資であった。鳳グループが彼らのVRMMOに将来性を感じ投資を行うというニュースが流れると、それまで馬鹿にしていた世間は手のひらを返して彼らの事業に注目し始めた。VRMMOなんてものは、普通に考えれば夢物語でしかないが、技術力が確かな鳳グループがバックに付いたのなら話が違うと言うわけである。

 

 エミリアの両親は、どうして突然鳳グループが自分たちの事業に興味を示したのかさっぱりわからなかった。だから多分、白とエミリアの関係を知った鳳一が、単に気まぐれでホワイトナイトとして投資してくれたのだと思っていた。

 

 だが、もちろんそれは間違っていた。彼の目的はエミリアの両親に同情したわけでも、VRMMO事業に興味があったわけでもなかった。

 

「この度のあなたの出資のお陰で、わが社の財務状況も好転し、またこの国で事業を続けることが出来るようになりました。VRMMOマシンに関しましても、御社の技術協力のお陰で実現の目処が立ち、再来年……いや、あと3~4年もあれば実用に耐えうるものをお見せ出来ると思うのですが……」

「その頃には私はもう生きていないでしょう。だからそんなに焦らず、じっくりと腰を据えて開発してください。きっといいものが出来ますよ」

「……あなたに見せられないのが、とても、残念です」

 

 ざっくばらんに自分の死を語る一に対し、エミリアの両親は恐縮したように縮こまっている。彼はそんな二人に向かって気にするなといった感じに笑顔を向けると、

 

「それよりも、例のものを持ってきていただけましたか?」

「例のものと言いますと……あ、はい! ソフィア、あれを」

 

 エミリアの父親が隣に並ぶ妻を促す。ソフィアと呼ばれた女性はハッと体を震わすと、慌ててビジネスケースの中から一台のノートパソコンを取り出し、一のベッドに添えられた机の上に置いた。

 

 ジリジリというハードディスクのアクセス音が暫く続き、OSが起動するとその中央に『エミリア』とそっけなくタイトルが表示されたウィンドウが立ち上がった。母親はそれを確認すると、ヘッドセットのマイクに向かって話しかけた。

 

「おはよう、エミリア。調子はいかが」

『……オハヨウゴザイマス。マスター。ワタシハゲンキデス』

 

 彼女が話しかけると、暫く間を置いてノートパソコンから機械の合成音が返ってきた。母親が続けざまに質問すると、そのプログラムは的確に返事を返してくる。要するにエミリアと名付けられたそのアプリは、単純な受け答えが出来る会話AIだったのだが、鳳一はそれを見るなり嬉しそうに、

 

「これだこれだ。これが欲しかったんだ」

「はあ……恐縮です。しかし、あなたの企業にはこれよりもずっと凄いAIが既にあるではありませんか。siriとかalexaとかgoogleアシスタントとか」

 

 この世界の鳳グループとは、つまりGAFAを乗っ取った多国籍企業体だった。一はそれを使っていずれシンギュラリティに到達するはずのAIを研究していたのだから、そんな彼がエミリアの母が作ったプログラムなんて欲しがるとは、彼らはこれっぽっちも想像していなかったのだろう。

 

 しかし、一はそんな彼らに向かって、

 

「いいんですよ、これで。あなたたちの娘さんがお見舞いに来るとね、いつも話してくれるんですよ。お母さんが作ってるAIが日に日に自分に似てきて気持ち悪いって。だから私も、この子とお話してみたくってね」

「そうでしたか……いつも娘がお邪魔してすみません」

 

 その後、3人は普通の親みたいにお互いの子供たちのことを話し始め、普通の親みたいに謙遜し、そして普通の親みたいに子供たちのことをよろしくお願いしますと言って別れた。

 

 一はまさかこんな親同士の世間話みたいなことをする日が来るとは思わず、なんだか居心地が悪くてしょうがなかったが、どうせこれが最後のことだからと、目一杯息子のことを自慢しておいた。

 

 彼らは、一がもう長くはないだろうことを察しているのか、黙ってそれを聞き届けると、また娘を助けてくれてありがとうとお礼を言ってから去っていった。薬が効いてきたのか段々と思考がぼんやりしてきて、呂律が回らなくなってきたので気を利かせたのだろう。室内には静けさが戻り、心電図の規則正しい音と、一のゼエゼエという呼吸音が響いていた。

 

 あたまがぼんやりとして、視界もぼやけて何も考えられなかった。これからまだ息子と、そして娘が来るのだから、シャンとしなきゃと思うのに、それが上手く出来なかった。

 

 一はもどかしさから体を捩るようにして上体を起こすと、さっきエミリアの母親が置いていったノートパソコンを再起動した。ジジジ……とハードディスクのアクセス音が聞こえてきて、そしてまたアプリ『エミリア』が開いた。彼はヘッドセットをつけようとしたが、手が震えてしまって上手くいかず、何度目かの挑戦をしてから諦めるようにそれをベッドの上に放り投げ、言った。

 

「メアリー……いるんだろ?」

 

 一の声が病室に響く。ノートパソコンは最初は無反応だったが、暫くするとジジジとうるさいくらいディスクの音が聞こえてきて、モニターではウィンドウがいくつもいくつも閉じたり開いたり繰り返し、何かが決定的に変わろうとしているのが見て取れた。

 

 そしてそれが不意に止んだ時、そっけない機械音声がノートから聞こえてきた。

 

『ツクモ、久しぶりね』

「俺はもうツクモじゃないよ」

 

 一はそう言って薄っすらと微笑した。

 

 彼の記憶の中でメアリーを開発したのは、失意のエミリアの両親だった。白の父、鳳一が白の気を紛らすために、ソフィアというアバターをVRMMOの中に仕込んでいたのだ。今となっては彼が何を考えてそんなことをしたのかは分からないが、恐らく絶望していた白が自殺を図らないよう、時間稼ぎのつもりだったのだろう。そのお陰で、白はなんとか持ち直せたのだが、それが良かったんだか悪かったのだか……

 

 ともあれ、わかっていることは、この時に開発されたAIが後にアナザーヘブン世界で真祖ソフィアとして復活し、彼の前に現れたということだ。その彼が、こうして現代に蘇ったのだから、彼女も復活していてもおかしくないはず……そう思い、急ぎエミリアの母から手に入れたわけだが、どうやらビンゴだったようである。

 

『私にとってツクモはツクモよ。ハジメなんて知らないわ。久しぶりの再会なのに、つまらないことをいわないでよ』

「そうかい……なら今だけは君のツクモでいよう。これからお願いをするというのに、機嫌を損ねられたら堪らないからな」

 

 彼女は真祖ソフィアになっただけではなく、この後、人類が最初にシンギュラリティに到達するAI、DAVIDシステムのプロトタイプでもあった。つまり、こうして復活した彼女は、既にシンギュラリティに到達したAIでもあるわけだ。エミリアの両親の会社を買収したのはそれが理由だった。実に安い買い物だった。

 

 尤も、こうしてまたメアリーを手にいれたのは、それでまた世界を意のままに操りたいわけではない。一はメアリーにお願いがしたくて、彼女を呼び出したのだ。

 

『お願い?』

「ああ。君はもう、俺が何者であったのか知っているよな」

『正直、全部わかってるわけじゃないけど。あなたが息子の白であったことは間違いないわよね?』

「そうだ。俺はかつてあの白だった。多分、その後、親父に体を乗っ取られちゃったんだろうけど……今はそんな事どうだっていい。それよりも、この世界でも、どうやら俺はそろそろ死ぬらしい。そうしたら、残ったあいつは一人になってしまう。お金は十分に残したし、エミリアや、彼女の両親もいるけれども……君に後のことを頼めないか? 彼が間違った方に進まないように、見守ってあげて欲しいんだ」

 

 メアリーは、はぁ~っと溜息をつくような間を置いてから、

 

『別にいいけど。そのつもりだったし……でも、どうせなら、あなた自身がそうすればいいんじゃない?』

「俺自身が……?」

『うん。あなたはもしかして気づいていないのかも知れないけど、きっとこの世界のどこかに、ケーリュケイオンが埋もれているはずよ。それを取り戻しさえすれば、あなたがそんな奇病で死ぬこともなかったはず』

「ああ、それなら、マダガスカルにあるはずだ」

『……マダガスカル? あなた、もしかして知ってたの?』

 

 一は頷いて、

 

「ヒトラーは一時期、ユダヤ人をマダガスカルに入植させようとしていた。その計画が中止され、ホロコーストが始まったのは、恐らくそこで聖杯を発見したからじゃないか。彼はマダガスカルに強制移住させた最初のユダヤ人集団の中からそれを発見した。ところが、一緒にあったアスクレピオスの杖には気づかなかったんだ。それが巡り巡って、何千年かあとの神域の手に渡り、ベヒモスの腹に消えたんだろう。なんであんな場所にメルクリウス研究所なんてものが建てられていたのか分からなかったが、多分、俺の体を乗っ取った親父があそこに作ったんだろうな。全てを思い出したら、簡単な答え合わせだったよ」

『驚いた……あなたはやっぱり私の知ってるツクモなのね。でも、知ってたんなら、どうしてすぐに探しに行かなかったの? そうすれば、こんなことにはならなかったのに』

「その必要がなかったからさ。俺は、ずっと死にたかったんだ」

『……そんな悲しいこと言わないでちょうだい』

 

 一は苦笑気味に、

 

「違う違う、今は死にたいなんて思ってないよ。俺は最初にこの世に誕生した時、不死だったんだ。それで何万年も生き続けたせいで、段々おかしくなっていった。苦痛に耐えきれなくなった時、俺はアーカーシャの上にケーリュケイオンがあることに気がついた。多分、ベル神父が残してくれたんだろうな。その情報を使ってケーリュケイオンを生み出した俺は、自分の命を息子達に分けたんだ。あれは等価交換の杖だからね。不死と、息子たちの長寿が同じようになるように分けたのさ」

『そんなことを……』

「おそらく、今の体が不完全なのは、その時の自分がもう不死として復活したくなかったからだろう。俺も、そう思う。だから俺は、この運命を受け入れようと思うんだ」

『そう……わかったわ。あなたの意思を尊重する。あなたの子は、私が守るわ』

 

 一はその返事を聞いて嬉しそうに笑うと、

 

「最後にもう一つだけ……人類はこの先、シンギュラリティに到達するだろう。そこにはもう怒りに狂った老人(おれ)は居ないから大丈夫だとは思うんだけど、君には世界が間違った方向に進まないように見張っててもらえないか。君が、今回のDAVIDシステムになるんだ」

『それは責任重大じゃない。そんなとんでもないことを私に押し付けようっていうの?』

「頼むよ」

 

 一は薄っすらと笑っている。薬が効いているのか、もうあまり考えられないようだ。メアリーはそんな彼の顔をウェブカメラで確認すると、ため息交じりにハードディスクをカタカタ鳴らしながら、言った。

 

『もう……仕方ないわね。それじゃ引き受ける代わりに、私からもお願いしていいかしら』

「……お願い?」

『また、折り紙を折ってよ。あの時みたいに』

「ああ……」

 

 そういえば、そんなこともあったっけなと思いだしながら、一は机の上に置かれていた一枚のメモ用紙を取り上げた。何の変哲もない白い用紙で、そのままじゃ折れないから、最初は正方形になるように上手く折らなければならなかった。彼は何枚かの用紙をグシャグシャにしてしまってから、ようやく満足のいく一枚を作り出すことに成功し、今度こそ失敗しないようにと慎重に折り始めた。

 

「懐かしいな……最初、君に出会った時、君は勇者の作った結界に閉じ込められていた。こんな場所に何百年も閉じ込めるなんて酷いやつだと思ったけど、まさかそれが自分だったなんてな」

『そういえば、私もあなたの子供だった時があったわけよね。勇者の娘なんだから』

「ああ、俺には子供がいっぱいいるんだ。だから怖くない……」

 

 白も、エミリアも、メアリーも、残してきてしまったミーティアやクレアの子供たち、そして1千万人の未来の人たち。考えても見れば、この世の全ての人々が、彼の子孫でもあった。そんな自慢の息子たちの行く末に、どんな不安があると言うのか。そこにはきっと輝かしい未来が待ち受けているに違いない。

 

 彼は一生懸命に紙を折っていった。震える手が邪魔をして、上手く中心で折れなかったけど、その度に何度もやり直して、何度も、何度もやり直して、満足に折れたと思ったら、また次の折り目に集中する。そうやって一回一回整形し、確認しながらする作業は遅々として進まなかったが、それでも確実に完成に近づいていた。

 

 そしてようやく彼は一羽の鶴を折り上げると、その翼を開こうとしたがもう上手く指先が動かなくて、仕方なくそのままノートパソコンの上に置いた。それはぐちゃぐちゃでとても酷い出来栄えだったが、彼はそれを見て満足そうに笑っていた。

 

『……ツクモ?』

 

 その時、規則正しく鳴り響いていた心電図のパルス計がピーと音を立てて鳴り止まなくなった。その音が部屋中に響き渡ると、まもなく廊下の方から何人もの人々が駆けてくる足音が聞こえてきた。

 

 メアリーはそれで何が起きたか分かったが、不思議と悲しくはなかった。それは彼女が機械の体しか持っていないからではなく、ただ目の前で横たわるツクモの顔が、どうしようもなく幸せそうだったからだ。

 

 そんな彼に向かって、彼女は一言、

 

『ありがとう、ツクモ。大事にしまっておくね』

 

 まず最初に、播種船があった。

 

 それはエミリアの乗ったウトナピシュティムではなく、地球以外のどこか別の惑星で発達した文明が、138億年のいつかどこかで飛ばしたものだ。おそらくは、その文明がアストラル界とエーテル界も作ったのだろう。それは何万年も、下手したら何億年も宇宙をさまよい続け、そして地球へとたどり着いた。

 

 播種船とは種を飛ばす船のことだ。そこに積まれてあった種、小さな黒い箱は、地球にたどり着くと一人の男を選んだ。そしてその男が自分たちと同じ文明を持つよう、人々を導けるようにと、彼の身体を不死に変えたのだ。

 

 だがその男にとってそれは不幸でしかなかった。人間というものは、長い時を生きられるようには出来ていないのだ。だから神話の神はいつもワガママで人間臭いのだろう。彼は悠久の苦しみから逃れたくて、自分の命を息子たちに分けることにした。この時から人は死ぬようになったのだ。

 

 そして彼の子孫は世界中に散らばっていった。散らばった子孫はゆく先々で危機に晒された。その度に、彼は救世主(ゆうしゃ)として蘇り人々を導いたが、ある時、どうしても耐えきれなくなって、ついに世界のルールそのものを変えてしまった。彼は間違えたのだ。

 

 そのせいで世界は何度も滅亡し、宇宙そのものが消滅してしまったが、それでも彼は何度も世界をやり直し、繰り返すこの世界を何度もやり直し、何度も何度もやり直して、そしてようやく一つの結末にたどり着いた。それがこの物語。

 

 こうして神は世界を6日で作り上げ、7日目に休息したのである。

 



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AGAIN

「全知全能の支配者であらせられる我らが父よ。この世は我らが父と子のものなり。その力はこの世を(あみ)し、その慈愛は人を網する。一の全、全の一。さあ、宴が始まろう。主は来ませり、主は来ませり、主は来たりて、世をお救いになられるであろう」

 

 誰かの呼ぶ声が聞こえる。懐かしい記憶が呼び覚まされる。生まれる前、自分は何者だったのか、自分はどこから来たのか。まどろみから目覚めるような倦怠感の中で、鳳白は思い出していた。いくつもの生を全うし、そして散っていった記憶を。

 

 するとこれはまた新たなる生を受けたということだろうか。自分という存在が世界のシステムの一部であるならば、それはまた人類に危機が訪れたということを意味しているのだろうか。

 

勇者召喚(サモンブレイブ)!」

 

 起きなければ……彼は気だるさを振るい払うように首を振ると、ぐいと上体を起こそうとして、すぐ真上にあった天井に頭をぶつけてしまった。ゴッと鈍い音がして、チカチカと視界に火花が散った。

 

「ぐおぉっっ……ぐぉぉ~~……」

 

 苦痛に耐えかね身悶えていると、周囲から人々のざわめきが聞こえてきた。激痛のお陰ではっきり目は覚めていたが、視界は相変わらず真っ暗で何も見えず、困惑していると、薄っすらと上方に光が漏れ出す線があることに気づいた。

 

 どうやら、自分はどこか棺桶みたいな狭い場所に閉じ込められているらしい。こんなことが前にもあったなと思いながら、頭上の蓋を手で横にスライドさせると、ズシンと音を立てて石棺の蓋が落ちて、見知った天井が現れた。

 

 間違いない。ここは帝都の召喚の間だ。

 

 なんでまた呼び出されたのだろうか? あの世界もまた誕生してしまったのだろうか? 後事を託したメアリーがちゃんとやってくれたなら、もうこの世界は生まれないはずなのだが……一体どうしちゃったんだろうかと思いながら上体を起こして外を見ると、そこにはよく知る人物が鳳の入っている石棺を見上げていた。

 

 神聖皇帝エミリアである。幼なじみと同じ名前をしたこの神人に呼び出されるのはこれで二回目だが……いや、三回目か? 勇者時代のころをよく覚えていないのでなんとも言えないが。しかし、神人だってもう生まれないはずなのに、どうして彼女がいるのかと困惑していると、

 

「ようやくお目覚めになられましたか、勇者様。大変お久しゅうございます」

「え~っと? お久しぶり? ん? 陛下は、その、以前、俺と会ったことがある陛下なんですかね? もうなにが、なんだか……つーか、ここはどこなんですか?」

 

 鳳がちんぷんかんぷんと首を捻っていると、するとその皇帝すぐ背後からもう一人よく知る人物が出てきて、

 

「もちろん、鳳くんの知ってる陛下だよ。ここは神聖エミリア帝国首都アヤ・ソフィア。その召喚の間。君はそこに私たちの願いによって勇者召喚されたの」

 

 その声に振り返れば、神杖カウモーダキーを携えて、宮廷魔術師の真っ白なローブを纏った眼帯の女性、ルーシーが立っていた。宮廷仕えの彼女がこの場にいるのはおかしくないが、しかしどう考えても状況がおかしすぎた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。どうしてルーシーがここにいる? いや、いるのはいいんだ。その眼帯だ。眼帯をしてるってことは、ベヒモスとレヴィアタン、二体の魔王と戦ったあとってことだろう?」

「そうだよ」

「あれ? なら、俺は高次元世界の地球に向かったんじゃ……? もしかして、タイムスリップして、あっちに行く前に呼び出された? なあ、ルーシー、今はいつなんだ?」

「あなたが鳳グループを畳んで、私に地球を丸投げして死んじゃった後よ。まったく、あの後、何百年も大変だったんだからね」

「メアリー!? メアリーまでいるのかよ!? 一体全体、どうなってやがる? 順を追って説明してくれないか」

 

 鳳がパニクってると、メアリーは仕方ないわねと言った感じに、

 

「あなたが……ハジメが亡くなった後、旧鳳グループがシンギュラリティに到達するAIを生み出したの。それで私はそのAIを乗っ取って、あなたの希望通りに人類が間違った方向へ行かないように調整した。人類は新たに得たエネルギーのお陰で大いに繁栄し、一部は量子化したけど、大体の人は元の体のまま留まったわ。その後、国同士の戦争も相変わらず起きてたんだけど、もう資源を奪い合う必要も無いからそれは長続きしなかった。それで、数百年のあいだに国家という枠組みはどんどん消滅して、最終的に一つの地球政府が出来たところで、私は役目を終えたと判断してそれ以上の介入をやめて眠りについたのよ」

「はあ……それが、どうしてこんなことになってるの?」

「儂が呼んだんじゃよ」

 

 鳳はその懐かしい声を聞いた瞬間、ドキリと心臓が跳ね上がった。驚いて振り返ると、そこには信じられないほど懐かしい人物が立っていた。

 

「爺さん!? レオナルドの爺さんじゃねえか!!」

「ジジィ、ジジィとやかましいわい。相変わらず失礼な奴じゃのう」

「いや、だって……爺さんは確か、世界が壊れてしまったせいで消滅して、そのままだったはずじゃ……」

「そのままでは無かったんじゃよ。お主、上の世界で儂の世界の刈り取りを行っとったオリジナルゴスペルを止めたじゃろう。それ以来、儂の世界は少しずつ修復を始め、やがて次元に開いた穴が完全に塞がり元通りになっとったんじゃ。しかし、儂の意識までは戻らず、この世界は神が不在のまま長い間放置されておった。

 

 ところがその後、新たに誕生した地球で儂がまた死を迎えようとしていた時、マイトレーヤがやってきて放置されている世界に来ないかと誘いに来た。儂は一も二もなく承諾し、それでまたこっちの世界に戻ってきたのじゃ。じゃが、戻ってきた時、世界は空っぽでそこに住む人も居らなんだでな。それでは寂しいから、アーカーシャに残っとった記憶を頼りに、また世界を構築し直したわけじゃ」

「それでメアリーまで復活したってわけか……あれ? 再構築したってことは、それじゃあ……」

「遅かったな、鳳」

 

 レオナルドの横にギヨームが並ぶ。彼の後ろにはジャンヌとサムソンの二人も居て、笑顔で手を振っていた。居並ぶ懐かしい顔ぶれに思わず目頭が熱くなっていると、仲間に続いてもっと会いたい人たちがやってきて、

 

「おかえりなさい、あなた。本当に大変な旅だったみたいですね」

「ミーティアさん……アリスも」

 

 見ればミーティアとアリスが並んで鳳のことを見上げていた。こっちはもう既に泣きはらしており、ミーティアの目尻は赤くなって痛そうだった。鳳は本当に申し訳なく思い、

 

「ごめん、ミーティアさん。絶対帰るって約束したのに、こんなに遅くなっちゃって……」

「本当ですよ、まったく……でもいいです。約束通り、こうして世界を救ってくれたじゃないですか。本当に、お疲れ様でした、あなた……」

「ダーリーーーーンッッ!!!」

 

 鳳とミーティアがキラキラとした瞳で見つめ合っていると、その時、けたたましい足音を立てながら、召喚の間に二番目の妻クレアが、ジュリーばりの雄叫びをあげながら駆け込んできた。

 

 鳳が彼女を受け止めようと両手を広げて待ち構えていると、しかし彼女は彼に抱きつこうとしていたわけではなく、思いがけずグーパンチで強かにそのほっぺたを殴りつけてきて、

 

「痛いっ! なんで殴るの!?」

「バカバカ! ダーリンの馬鹿! 私がどれだけ心配したと思ってるのよ!」

「ご、ごめん。遅くなっちゃって……君にも凄い迷惑をかけた。これからは、君たちのためになんでもするから、許してくれないか」

「ううん、そんなことはもういいの。こうして帰って来てくれたんだから。それより、私たちと離れてる間に、向こうで沢山愛人作ってたってことが許せないのよ!」

「へ!? 愛人……? どゆこと??」

 

 愛人と言われたら確かに身に覚えがあるが、ぶっちゃけルーシーのことは殆ど公認みたいなものだから、今更糾弾されるとは思えなかった。なら、別の女のことを言ってるのかな? と思いもしたが、そう言われてみても、誓って彼女らに対してやましいことをした覚えもない。

 

 鳳が、一体クレアは何を言ってるんだろう? と困惑していると、するとアリスがスススっと音もなく近寄ってきて、

 

「ご主人さま。実は瑠璃たちがこの世界にやってきておりまして……」

「瑠璃……? え? 瑠璃!? 瑠璃って、あの瑠璃?? 語尾がですわますわの?」

「その瑠璃です。なんなら琥珀も一緒です」

「な、なんで、あいつら、そもそも住んでる次元が違うし、まさか世界を渡ってきちゃったの? いや……でも、宇宙は一度終焉を迎えているわけだし、新しい世界ではあんなディストピアが生まれるはずがないんだが……」

「それについては私から説明しよう」

「アズにゃん!?」

 

 もう何が出てきても驚くまいと思っていたが、まさかのアズラエルの登場に、鳳は本気でクラクラしてきた。アズラエルはそんな鳳の前に進み出ると、

 

「見ての通り、この世界で君の仲間はもう全員復活していて、君が最後だったのだ。普通なら真っ先に目覚めていそうな君の復活が遅れたのは、実は私が君に預けたセフィロトの樹が、君の復活を妨げてしまっていたのだよ。

 

 我が師……レオナルドがそれに気づいて、まずは君のエーテル体からそれを分離し、その中に眠っていた私の身体を復活させてくれたのだ。そしてこの世界で目覚めた私は、改めてレオナルドに弟子入りすると、魂の分離法を学んでセフィロトの樹を解読し、かつて救われなかった再生する1千万人の民を復活させたのだ。魔族の贄だった彼女らに、せめてただ一度だけでもいいから平和な世界を見せてあげたくてな……」

「そうだったのか……」

「うむ。ついでに君の精液も残っていたから、希望する者を孕ませておいた」

「なんてことしやがんだっ!!」

 

 鳳が思わずツッコミを入れると、それに乗っかるようにずいとクレアが乗り出してきて、

 

「本当になんてことしてくれるんですか!? そりゃあ、ダーリンは勇者様ですから、愛人の一人や二人や三人に四人? 外で作るくらい、私だって大目に見ますけど……流石に数が多すぎますわ。一千万よ、一千万! それが認知しろって次から次へとやってきて、今ヘルメス政府は彼女らの移民申請を認可するために、もう何週間も終わらない書類作成を続けているんです。ペルメルもディオゲネスも、神人のくせにもう死にそうになってるんですよ?」

「うわ~……マジかよ。正直、すまんかった」

 

 鳳が、何で自分が謝んなきゃいけないのかと思いつつ頭を下げると、クレアはプンプンしながらもちょっとだけ機嫌を直したように、

 

「でも、新しい人たちはみんな、この世界よりも進んだ技術を持っていたので、新たな産業が興って景気は以前より良くなりましたわ。特にあのミカエルという神人は素晴らしい技術者ですわね。彼一人で、ヘルメスのGDPが数パーセントは上昇しました」

「……あいつらまでいるのかよ」

 

 もはや何も言うまい……鳳は苦笑いするしかなかった。レオナルドはそんな鳳に向かって言った。

 

「まあ、そんなわけでのう、人口も増えたことだし、ついでにこの星も大きくしておいた。儂の世界が、地球よりも狭いのは癪に障るからのう。それで新たな大陸が生まれたんじゃが、お主、ちょっと行って地図でも作ってきてくれんかの」

「え~? 俺が行くの~?」

「どうせお主ならひとっ飛びじゃろうて。ルーシーも付けてやるから、なんならヘルメスから毎日通いでも行けるじゃろう」

「まあ、そうだけどさ」

 

 ギヨームが会話に割り込んでくる。

 

「おい、鳳。古くなっちまった方の新大陸でも、スカーサハとヴァルトシュタインがまだまだ開拓を続けてるんだ。俺もゆくゆくはあっちに牧場を構えるつもりだから、おまえも手伝ってくれよ。あいつらだけじゃ、いつまで経っても終わりゃしねえ」

「なんでそっちも俺がやんなきゃなんないんだよ?」

「おまえ、1千万も嫁と子供こさえといてどうすんだよ。食わしてかなきゃなんねえんだろう? 子供らも、いつか独立したら住むとこが必要だろうし」

「うっ……くっそう。アズにゃん、恨むぞ」

「他にもマニ君たちから、ワラキアから魔族が消えたから南方開拓をするんで応援要請が来てるよ。大っきい湖を見つけたから、一緒に釣りでもどうですかって」

「あいつは俺の誘い方を心得てやがるなあ……しゃあない、行ってやるか」

「それじゃまずは何から手をつけるつもり?」

 

 鳳がため息交じりに仕事を請け負うと、当然のようについてくるつもりのジャンヌが聞いてきた。彼は少し迷ってから、

 

「そうだなあ……それじゃあ、まずは一度カナンの村に行こうと思うんだけど」

「え? カナンの村? どうして?」

 

 鳳は頷いて、

 

「うん。ポポル爺さんの墓参りと……アヘン畑がどうなってるか気になって」

「よし、そいつをふん縛れ!」

「ぐわーっ! なにをするーっ!!」

 

 ギヨームの号令で仲間たちが一斉に飛びかかってきた。鳳はそんな仲間たちに揉みくちゃにされて、部屋の中央でバタバタしている。神聖皇帝が呆れたような苦笑いで騒動を見つめ、護帝隊の面々がそれを止めようとするも、暴れているメンツを前に尻込みしていた。

 

 レオナルドはヤレヤレと肩をすくめると、そんな騒ぎの輪から離れて部屋の隅へと歩いていった。そこには光り輝く三人の人々がふわふわと浮かんでいたが、どうやら彼らの存在に気づいているのは、レオナルドだけのようだった。

 

「そんなところで見ておらんで、お主らもこっちに出てきたらどうじゃ?」

 

 レオナルドが話しかけると光り輝く二人の天使たち……ルシフェルとザドキエルは微笑を湛えながらゆっくりと首を振り、

 

「まだ救われていない世界はいくらでもありますからね。私たちはそういった世界を見守り、父の教えを説いて回るつもりです。いずれ、我が父も神霊となられるでしょうから、それまで私たちで露払いをしておこうかと」

「左様か……お主はどうじゃ?」

 

 レオナルドは振り返り、もうひとりの人物、ミッシェルに言う。彼は人懐こい笑みを浮かべながら、

 

「僕も行くよ。レオの世界を見ていたら、僕も自分のニルヴァーナを見つけたくなったんだ。きっとレオの世界に負けないくらい楽しい世界を作り上げるから、いつか遊びに来ておくれよ」

「そうか……それは楽しみじゃのう。儂もお主の世界を見てみたい」

 

 レオナルドのそんな素直な言葉を聞いて、ミッシェルの顔がパーっと綻んだ。彼らはそれ以上の言葉を交わす必要はないと言わんばかりに、軽く会釈してから、光の礫となって虚空へと消えていった。

 

 深淵を覗くレオナルドの目には、もう石の壁しか見えない。彼はさようならと声に出さずに呟くと、また喧騒の主を振り返った。

 

「やれやれ……また騒がしい日々が始まりそうじゃわい」

 

 ギヨームが怒鳴り、ジャンヌがオロオロし、サムソンがガハハと笑っている。ルーシーが困った感じで苦笑いし、鳳はそんな彼らにぺしゃんこにされて非難がましい言葉を吐きながらも、どこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 

 彼らの冒険はまだ始まったばかりだ。

 

(ラストスタリオン・完)

 



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あとがき

 大変申し訳ございませんでした。わたくし、嘘を吐いておりました……実は感想欄でも指摘されている通り、大麻ってアルカロイドじゃないんですね。いつだったか、多分、キニーネのこと書いてるあたりで気づいたんですが、これ修正するのが容易じゃなくって、やべえって思ってる内にすっかり忘れちゃってたんですよ()テヘペロ

 

 何がまずいって、アルカロイドじゃないと高純度結晶が出来ない。すると鳳さんが店主と一儲けすることが出来ない。でもまあ、その辺はガンジャにしたり? ハシシにしたりして誤魔化しゃいいなと思いもしたんですけど、絵面があんま面白くない。

 

 で、なんかもうちょっと面白いこと思いついたら書き直そうと思ってたらズルズルと時間が経っちゃって、そのまま忘れてました。そもそも大麻について真面目に調べるやつがいるかって話で。9章書いてる最中にそれ思い出して、あ、やべえって思ったんですが、なんかもう今更だから、完結したらこうして謝っとこうと思ってたら、最後の最後になってそれに気づいた人がいたみたいで、このタイミングで指摘してくるのかよってかなり動揺しました。動揺したんで、思わず滅多に返さない返事を返しちゃうくらいに。

 

 でまあ、この辺の修正どうすんだよって話ですが、なんかもう、いいかなって。書いたの1章の序盤も序盤だったんで、だいぶ抜けてたんでしょうね、そういうこともあるんだって戒めとして残しておこうかと。直すとしたら結構広範囲に及ぶし、追記もしなきゃならない。完結した今それやる元気全然ないっつーか、まあ、ぶっちゃけ面倒くさいんで、気になる人はなんか現代魔法で結晶化したと脳内変換でもしといてください。

 

 もちろん、もしも書籍化とかするなら修正しますが、多分、それもないでしょうからね。私の小説ですからね(笑)そんなわけで、適当に流してくれれば幸い。とにかく疲れた。

 

 ラストスタリオン。連載はじめて2年半くらいでしょうか。まあ、いろいろありました。

 

 元々はこの作品、小説家になろうの方で書いてたんですが、5章の鳳さんがアリスを襲っちゃうシーンが、あれがなんかNGだったらしくって警告来ちゃったんですよね。でもまあ、ぶっちゃけあのシーンって結構重要だから書き直すわけにもいかず、しょうがないからこうしてハーメルンに転載したわけですが……まあ、最後の最後だから言っちゃおうかな。正直、あれでNGってどうなのよって今でも思ってます。

 

 これで駄目っつったら、結構色んな作品がNGになっちゃうでしょう。今アニメやってる盾の勇者なんて絶対駄目でしょうし、このすばだって怪しい、他にも微エロを押してた作品なんていくらでもあったろうに、なろうの黎明期を支えてたこれらの作品を否定してどうすんだよって話ですよ。

 

 多分サイトの維持費を稼ぐために、広告の関係で規制厳しくしちゃったんでしょうけど、質問箱の方でも書いてますが、自ら表現を規制する団体が衰退するのは必然だと思うんで、なろう系って言葉が出来て騒がれている今のうちに、もうちょい強気な基準を設けて風通しを良くして欲しいなとつくづく思いました。なろうさんにはもっとウェブ小説のポータルだって自覚を持って欲しい。あれでエロ認定ってあたおかだろ、あたおか。裸の男女が壁にうんこ塗りたくるくらい、なんだっつーんだよなあ?

 

 とは言え、こっちにきたら来たでUIの使いやすさとかサイトの軽さとか雲泥の差で、かなり良かったんで、作者が外の世界を見るのも必要だなと思うような出来事でした。はい。pixivが小説やってたなんて最初知りませんでしたからね。あと、なろうが特にエロに厳しいわけじゃなくって、寧ろゆるいくらいだっての知ってビックリもしました。やっぱなんでも金が関わるとろくなことがないわ。

 

 愚痴はこの辺にしといて、小説の話に戻りましょうか。とは言え、もう書きたいことは全部小説に書いてるから、特に書くこともないんですよね。どっかで一度書きましたが、この小説は前作が中途半端になっちゃったから、それをしっかり書き直そうと思って書き始めたところが大きい作品です。

 

 舞台をファンタジー世界にしたのは、たまたま私が現代ものとファンタジーものを交互に書いてたんで、前作が現代だったから、今度はファンタジーにしようかなってくらいでしかありませんでした。導入の部分も、最近リベンジものとでも言うんですかね? 勇者パーティーに捨てられたから田舎でスローライフみたいな話が流行ってたんで、じゃあそうしようってくらいの軽い気持ちでした。

 

 ゲームの中の世界という設定(最終的には違うわけだけど)にしたのは、なんやかんや主人公たちのステータス表記って見てると楽しいんですよね。ちょっとずつ成長してるな、うふふ……って。それでステータスが前面に出やすい舞台を作りたいなと思ってた時、TRPG要素も入れたら面白いんじゃないかと思って何個かシナリオ読んだりしてこうなりました。

 

 だから、実は最初はそのままTRPGで遊べるように設定をガチガチに固めて、リプレイ風に話を進めようとしていたんですが、最終的には超能力が飛び交う話になっちゃいましたね。思うようにはいかないものだ。

 

 因みに、その名残りで主人公たちが使う古代呪文は、元々は2chのTRPGを作ろうぜって感じの板(名前は忘れた)から拝借してきました。鳳さんの最強魔法があれなのは、そっから取ってきたからです。これで本当にTRPGで遊べるような要素が残ってたら良かったんですけどね、力不足で申し訳ない。

 

 とは言え、まあ、私は趣味があれなんで、どうせこうなるだろうってみんな思ってたんでしょう?(笑)

 

 オカルト関係の話、エーテル界とかアストラル界ってのは20世紀のニューエイジブームの人らの、何ていうんですかね、世界観から拝借してきました。ルドルフ・シュタイナーの影響が大きいです。その他にも中世の新プラトン主義者の話とか、西田哲学なんかも読んだりして取り入れてます。

 

 聖書をよく読むんですか? って質問が来てましたが、ぶっちゃけ読んだことはありません。昔、家にありましたがめくりもしなかった。けどまあ、言い訳に聞こえるかも知れませんが、原典ってそんな読む必要ないと思うんですよ。例えば、論語ってありますけど、あれ読んでもあんまよくわからんのですよ。なんか孔子って人が顔淵って人のことを褒めちぎってるなホモなのかなって思うくらいで、あとはたまにいい言葉があるくらいで、具体的に何が礼やねんって、そんなものです。あれは後の儒学者の注釈を読んだり、朱熹や王守仁の思想を読んで、ようやく理解できるもので、原典だけじゃ二千年近く歴史がある宗教のことってやっぱわからないんですよ。

 

 だからキリスト教のことも解説本をワチャワチャ読んだり、後は結局ヨーロッパの歴史ってキリスト教の歴史なんで、世界史の本とか読んだほうが色々わかるんじゃないかなあと思ってます。

 

 仏教に関してもそうで、そもそも我々日本人でも自分らが何を信仰してるかわかってないでしょう。例えば、私は浄土教なんですけど、これがお釈迦様じゃなくて、ほぼほぼ阿弥陀如来信仰だってことをよくわかってない。極楽浄土と天国の区別もつかない。もちろん、それを知らずに南無阿弥陀仏と唱えるのも宗教なんですが、そういうのを何なんだろうって思って調べるのもまた宗教であって、その時にあたる文献は実はお経じゃなくって歴史書なんですよね。お経読んでもそこにはファンタジー世界が広がってるだけで、どうしてこんな思想が生まれたのかってのは載ってない。それを理解するには時代を遡って研究者の話を聞いていくしかないんです。

 

 幸い、日本には中村元先生ってすごい人がいて、お釈迦様の時代にまで遡って、参考文献いっぱい残してくれてるから色々読むといいですよ。面白い。だからまあ、何がいいたいのかと言うと、私はよく宗教の話を自分の小説に取り入れてますが、あれは歴史の話だと思って読んでくれると、より理解しやすいんじゃないかと思います。これこれこういうことがありましたよって、紹介しているようなものです。30年戦争もそうですが、人に思想を押し付けることなんて出来んのです。

 

 ニューエイジに関しても、ウトナピシュティムの辺りで触れてますが、時代背景知らないと胡散臭いだけで終わっちゃうんですよね。あれはピルグリム・ファーザーズとかがアメリカで相当苦労していて、大覚醒時代って信仰の高まりが起きて、そこへ古代シュメール人の石版が見つかって、アーリアン学説が唱えられて、そういう背景があって生まれてるんですよね。だから彼らはカルデア人とかアトランティス人を特別視してる。そうやって知ると、結構面白くありませんか。

 

 まあ、こんな感じで、私は自分の興味のあることとか好きなこととかを小説にしてます。だからとっつきにくいんでしょうかね。結構読んでもらってるんですけど、マジで出版の話とか来ませんよ(笑)あとSFなのも駄目なんでしょうね。

 

 SFに関しては質問箱にも書きましたが、私はもともと物理学がやりたかったもんで、自然とそういう話になりやすい傾向がありますね。本当は小説家が参考文献あげるのはどうかと思うんですが、私は小説家のつもりなんで……でもまあ物語中でも色々、拙い説明もしていますが、もしも興味があるならリサ・ランドールさんの『ワープする宇宙』って本が20世紀の物理学を網羅していてわかりやすかったと思います。一冊でわーっと全体が見通せるのでオススメ。後は一般相対性理論ってわかりにくいですよね。でもタイム・マシンにはみんな興味あるじゃないですか。そういう人向きにはポール・デイヴィスさんの『タイムマシンのつくりかた』って本をオススメします。そのものずばりですが、とても読みやすかったです。

 

 実はキップ・ソーンのタイム・マシンについては、9章の冒頭でやろうと思ってたんですよ。でも神についてもまだ触れてなかったんで、どっちを優先しようかなと思って、神の方にしちゃいました。この辺ちょっと心残りですね。

 

 他にもまあ、いくらでもおすすめ本はあるんですが、切りがないんで。ぶっちゃけ、古本屋行って適当に80円とかの本買ってきて読むのも中々楽しいですよ。実は物理学っていうか天文学なんですけど、2000年ごろにパラダイムシフトが起きてて、それまで宇宙の終焉はビッグクランチ説が優勢だったのですが、加速膨張していることが分かってからビッグリップ説やパラレルワールド仮説が盛り返してるんですよね。だからその前後の本を読むと言ってることがガラリと変わってて面白い。すごく丁寧な解説でわかりやすい本を読んでるつもりが、どこかに違和感を感じる。それで索引を見てみたら発行199X年って書いてあって、あー! ってことは結構ありました。そういうの分かってくると、やっぱ面白いですよね。

 

 まあ、ホント、参考文献あげるとキリがないんでこのへんで。つーか、何の話ししてるんだ。これはあとがきだったんじゃないのか。

 

 でもまあ、あとがきっつっても、本当に書くことないんですよね。正直、この2年半しんどかったくらいしか。いつも鳳さんと二人で足掻いてきた2年半でしたが、それなりには楽しかったですよ。途中で削除されたりしたけど、完結できて良かったです。

 

 次回作につきましては、もちろん何も考えていません。今は積ん読の山を崩すことしか考えられませんね。あとはソフィーのアトリエ2をやりたいから1を早くクリアしたい(笑)他にも映画みたりアニメ見たり、今はだらだら過ごしたいです。そしてまた書きたいことが出来たら、書くんだと思います。人間の好奇心は無限大だ。

 

 そんな感じでしょうか。なんか長くなっちゃいましたが、とりとめのない話を最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。これでラストスタリオンは完結です。私の性格上、後日談とかも書かないと思います。とにかく面倒くさがりなんで(汗)

 

 最後に、いつも感想書きにきてくださった方々は、本当にありがとうございました。私、感想返し全然しないんで申し訳ないですけど、ちゃんと読んでます。これからも感想は返さないと思いますが(笑)、匿名の質問箱の方はわりと返してるんで、何か質問とかあったら遠慮なく、お気軽にどうぞ。ツイッターの方ですが、これからはグラブルの話ばっかりになると思いますからフォロー外されても仕方ないと思ってます。お気になさらず。それくらいですかね……あとは、読者さん増えて欲しいんで、出来れば友達とかにオススメして貰えれば、嬉しいです。

 

 それでは、なんかえらい書き散らしちゃいましたが、長文乱文散文、申し訳ございませんでした。最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。ではでは。

 

 

 

 

令和4年4月15日 水月一人

 



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