負社員 (葵むらさき)
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第1話 極めて前向きに検討させて頂くと共に、一切の関与を否定致します

 時はゆっくりと、過ぎてゆく。

 

 ず

 ずず

 ず

 ……

 ず

 

 そしてそれは果てしなく悠長な、運動だった。

 

 ずず

 ず

 ず

 ……ず

 

 鉱物の粒子は水に浸され、水に泳ぎ、互いに擦れ合い削り合った。小さな、ほんの小さな粒たち。けれどそれは、決して小さな、意味のなき存在ではないのだ。

 そのことを解っているものが、この世界にいったいどれだけいるだろうか。

 

          ◇◆◇

 

「ふうーう」女神は頬を桃色に染め、大きく息を吐いた。「今日の酒、いいわ」

「へえ。旨いか」男神は喰う方に専心しながらも興味を示して訊いた。

「旨い」女神は杯を眸の高さに持ち上げ、とろりとした眼差しで答える。「なんていうのかしら……いつまでも、この世に存在していたくなる気分にさせるわ」

「ほう」今一柱の男神も肩をすくめながら言葉を添える。「その酒を供えた人間、相当な強運を授かりし者だのう」

「そうね」女神は杯を唇に運び、堪能する。「この酒を醸した杜氏ともども、あたしの護りの下に置いてやるわ」

「ははは」先の男神は背を丸めて低く笑う。「強運即ち幸運、とは」

「限らねど、な」後の男神が、ほとんど息だけの囁きで続ける。

「ふうーう」女神は自分の満たされし声のもと、そんな悪態を耳に届けずにいられたのだった。

 透明な酒の面が、女神の手の動きに合わせてきらきらと光彩を放つ。

 それを、うっとりと見つめる女神の眸もまた煌きを映し、そしてふいにそれは、どこか物哀しげな色になった。男神二柱はすぐに気づいたが、特に何事も口を挟みはしないでおいた。

「あたしは」女神の方が、自分からそう言った。「もしかすると、いまだに忘れられないでいるのかも知れないわ」

 男神たちはそれにも特に答えることをせずにいた。それはもう何度となく女神が口にしてきた言葉であるし、それに対してどう答えればよいのかということもまた、男神たちにはいまだ知れずにいたのだ。

「こんなに、長い時が経ったというのにね」女神は遠くを見つめるような眼差しでそう言い、また酒を一口すすった。「何も変わらない」

 それは違うさ。

 男神たちは、そう言いたかった。何も変わらぬことは決してない。少しずつ、確かに、何かは――すべては、変わってゆきつつあるのだ。気づかぬほど少しずつ、ほんの僅かずつ。

 けれど男神たちはそれもまた、口に出せずにいたのだった。

 ――いつまでも、この世に存在していたくなる気分にさせる――

 女神の心中を思えばまた、そう言った先刻の女神自身の言葉にも何かしら深き想いが込められているのを感じる。ゆっくりと、とろりと、瞬きをして遠くを見つめる女神の面差しに、男神たちはそっと、その酒を醸し奉献してくれた人間たちに感謝の意を抱くのだった。

 

         ◇◆◇

 

「結城修さま、あなたの採用が決定しました。9月25日、来週の水曜日に当社にお越しください。ご来社の際には年金手帳と雇用保険被保険者証をご持参ください」

「はいっ。はい、わかりました。ありがとうございます」

 結城はスマホを耳に当てながら、見えない相手に向かって幾度もお辞儀をした。

「それではお待ちしています」

「はいっ。よろしくお願いします」

「失礼いたします」

「はいっ。失礼いたします」

 最後に深くお辞儀をし、見えない相手が電話を置くまで、結城は下げた頭を上げなかった。

 まさかの、スピード採用だった。面接試験を受けたのは一昨日であり、筆記試験を受けたのは五日前であり、履歴書を持参し初訪問したのは七日前であり、そもそも求人に対して応募したのは九日前であった。

 無論、正社員としての雇用である。正社員の雇用に際してこれほどまでのスピード採用をとるなどという企業が、果たして「良い会社」といえるものかどうか、中には疑問を抱き調査を計る向きも、いるかも知れない。だが結城修、彼にとってこの、たった今自分を採用すると通知して寄越したこの企業――名を『新日本地質調査株式会社』という――は、実に76社目の応募先であったのだ。

 そう。それだからこそ、見えない相手に向かい彼は幾度も、下げ足りぬと叫び出さんばかりに幾度も幾度も、スマホを耳に当てながら頭を下げ続けたのだ。

 深く、自身の体の柔軟性の限度を幾分か超えるレベルにまで、深く。

 

 初出社日は、よく晴れた日だった。いちど面接に訪れた企業の建物なので割合緊張もなく訪問でき、電車の窓から見る景色にも前よりは意識を向けることができた。

 どんな仕事を任されるのだろう、という、わくわくした気分が結城の中を占めていた。地質調査……ドリルで穴を掘ったり岩を削ったり、何がしかの鉱物を取り出したり調べたり、するのかな。けど募集内容としては「イベントスタッフ募集」という事だったよな? 地質調査に関わる、イベント……ドリルで穴を掘ったり岩を削ったり、何がしかの鉱物を取り出したり調べたりしながら歌ったり、踊ったり、するのかな。そんな妄想を走らせると、ますますわくわくしてくる。

 ああ、楽しみだ! 俺はこの企業で精一杯、全力で頑張るぞ!

 結城は揺れる電車の中、力を込めて拳を握り締めた。

 

「ではこちらをよくお読みになり、署名、捺印をお願いします」濃紺のスーツに身を包んだ女はそう言いながら、初登社した三人――結城と、三十代くらいの長身の男と二十歳そこそこぐらいの小柄な女――に、A4サイズの書類を2枚ずつ配った。

『労働契約書』と、その紙の一番上には書かれてあった。

 でかい字だな、と結城は一見して思った。労働契約書と称される書面について結城が持つイメージによれば、それは大変小さなサイズの文字により綴られ、また漢字、それも画数の多い、黒っぽい漢字を多用され、とても読む気になれない、小難しくて堅苦しくて近寄りがたい、事務的形式上の通過アイテムだった。次の扉を開くためだけに使用する、小さなカギのようなものだ。だが今手渡された書類に書かれてある文字は、十インチだろうか、大層大きな、読みやすいものだった。使われている漢字も、労働契約書にしては少ない気がした。

 これは、リアルに読んどけ、という暗黙の指示なのか?結城はそのように思った。そして実際に書面に目を通した。二、三行読んだところでちらりと他の二人を見ると、二人も同様、手元の労働契約書に目を落としていた。きっと彼らも“暗黙の指示”を肌に感じたのだろう。

 俺は一人じゃない――ふっと、結城の中にさわやかな風が流れた。

 労働契約書の内容は、ごく普通の労働契約書だった。会社の名称は「新日本地質調査株式会社」であり、その後は「甲」と称されていた。一方結城は例に洩れず「乙」だ。勤務時間と休憩、勤務日数、給与、交通費についての記載。業務内容については「地質調査にかかるイベントの準備、進行、及び後片付け」と書かれてある。結城が求人誌で見た『仕事内容』と寸分違わないものだった。

「乙は、甲の業務内容及び乙の職務内容について、一切口外しない事とする」

 紙の真ん中辺りに、そういう一文が印字されていた。

 土地を掘り起こしている最中に、何か重大な発見とかがあったりするのかもな――結城は十インチの活字を視覚野に受容させる作業の裏で、そのような妄想を走らせた。金塊、とか、小判、とか、遺跡、とか、白骨、とか――

 一通り読み終えた後、結城はボールペンを手に取り署名し、印鑑を押した。

「ありがとうございます」労働契約書の一枚を三人から回収した濃紺スーツの女は、薄く微笑んで言った。「では改めまして、皆さん、この度はご入社おめでとうございます」深く一礼する。「総務部の木之花と申します」

 新入社員三人は、座したまま机の上に頭を下げた。

「ではお一人ずつ、簡単に自己紹介をしていただきましょう」

 木之花の指示で、まず長身の男が席から立ち上がった。

「時中伸也です。金村市出身です。よろしくお願いします」実に簡単な自己紹介であった。

 次に、小柄な女が起立した。

「本原芽衣莉です。よろしくお願いします」更に簡単な自己紹介であった。

 約一秒半、室内に人の声は響かなかった。

 結城は本原を見、木之花を見、その目の頷きに促されて起立した。

「えー、結城修と申します、えー、この度こちら、新日本地質開発様にお世話になる事になり、えー、とにかく明るく、元気に、前向きに、いろいろ勉強させていただいた上で、えー、努力、邁進、して参りたいと思います、えー、わたくしは趣味でスキューバダイビングをやっておりまして、えーそれで、この広川市の海にも何度も潜っておりまして、えー、まあいってみればこの辺りの海は私の庭のようなものでして」

「二年前に人おぼれて死にましたよね」突然時中が割り込んできた。「あの時も潜ってたんですか」

「いやっ」結城は声量を大にして否定した。「あいや、もちろんその事故のことはもう、昨日の事のように、記憶させていただいてますが、えーと、わたくしは当時はこの近辺の海には潜っておりませんでした、つまり事件とは無関係で」

「事件、だったんですか」本原も言葉を差し挟んできた。「事故、ではなく」

「いえっ、えー、あれは事故、ですね、事故です、はい」結城は更に声量を大にした。「ですので、わたくしは一切、関与しておりません」

「ああ、まあご趣味はスキューバダイビングをやっていらっしゃるということなんですね」木之花が後を引き取った。「まあこれから毎日、皆さん顔をお合わせになる事となりますので、また追い追いお互いに理解を深めていただければと思います」

「はいっ」暗に『話が長い』ことを指摘された点には思い及ばず、ただ闇雲に結城は、元気よくまとめた。「とにかく頑張りたいと思います。よろしくお願いいたします」深々と礼をする。

「では皆さんに、今後のスケジュールについてご説明します」木之花は再びA4サイズの紙を新入社員たちに配布した。

 その言葉通り、それには「研修スケジュール」という見出しが振られていた。

「おお」結城は感動詞を口にした。「早速明日から研修が始まるんですね」

「はい」木之花はにっこりと頷いた。「明日も本日と同時刻にこの部屋に来て頂きたいと思います。そしてまず業務の内容についての説明を私からさせて頂きます。その後、教育担当の天津という者が皆さんに」そこで木之花は、自分の手に持つ「研修スケジュール」紙に目を落とした。「『地質について』の基礎座学を行います」

「『地質について』」結城が興奮気味に復唱した。「それはやはり地学的なゲンブガンとかカコウガンとかマントルがどうのとかそういう」

「よくご存知ですね」木之花は目を細めて結城の言葉を遮った。「その通りです。地球内部の話から、実際に私たちが扱う土壌の構成物まで、さまざまな知識を学んでいただきます」

「おお」結城は再び感動詞を口にした。「壮大なスケールですね」

「アマツさん、という方は、地質学者の方なのですか」本原が質問した。

「専門、というわけでは、ないのですが」木之花は言葉を選ぶように視線を天井に向けた。「仕事に必要な知識については、豊富に持ち合わせていますのでご安心下さい」目を本原に戻し、また細める。



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第2話 疲れて溜息をつく、それはヒトに与えられた最高の特権

「どうだった。今回の新人さんたちは」大山が問う。

「そうねえ」木之花はふう、と息を吐きながら書類の挟まったファイルをばさりとデスクに置いた。「まだ初日だからなんとも言えないけれど……一人、やたらテンション高いのがいるわね」

「へえ。どの子?」大山は木之花が置いたファイルを取り上げ、中の書類の角ををぱらぱらとめくる。

「結城、って子」木之花が答え、肩を竦める。「もう一人の男子、時中って子と同い年だけど、そっちの方はやたらクールで。この二人、ちょうど正反対の性格みたいだわ」

「ふうん」大山は書類――新人の履歴書――を見比べながら二、三度頷く。「本原さんは? どう」

「彼女もそうね、どっちかというと時中くんのタイプに近いようね。冷めたのが二人に、暑苦しいのが一人ってとこかしら」

「あれ、うちらと似た感じじゃない?」それまで黙って缶コーヒーを飲んでいた天津が顔を上げ、面白そうにコメントした。「クールな男女と、熱い野郎一人って」

「――」

「――」

 木之花と大山は揃って天津を見たが、二人ともすぐに返答しなかった。

「あれ、」天津は立場を失いきょろきょろと二人を交互に見返した。「えと、ごめん」

「熱い野郎っていうのは、どっちなわけ?」大山が自分と天津を交互に指差し問う。

「え、そりゃもちろん社長っすよ」天津は大山を手で示して笑う。「だってこの中では一番立場上だし」

「へえー、そうだったんだ」大山は眉を上げ大げさに驚いた顔を作った。「俺って偉いのか」

「何ってんすかあ」天津は上司の肩を指で小突いた。「社長ー。しっかりして下さいよう」

「ハハハハ。すまんすまん、天津くん」大山は頭に手をやり肩を揺すって笑う。

「はい、面白かったです」木之花はとうにPCに向かい何かをタイピングしていた。「明日から研修開始になりますので、スケジュール把握お願いしますね」そこまで言うとエンターキーをぽんと押し、天津の方を見た。「ヒラ教育担当社員さん」

「――」天津は笑顔のままで数秒沈黙した。

 はい、という彼の小さな返事は、書類を印刷し始めたプリンターの作動音にかき消された。

 

「じゃあ皆さん、これからどうぞよろしくお願いします」結城は敷地の門のところで、時中という長身の男と本原という小柄な女に向かい礼をした。「また明日、お会いしましょう」

「よろしくお願い致します」本原も礼をする。

「よろしくどうも」時中は頷くように首を下げ、言った。

「そのうち皆で、同期会みたいな感じで飲みに行きましょう」結城は右手で杯を傾ける仕草をし、ハハハと笑った。

 二人はそれに対し、何も答えなかった。

「あ、お嫌いですか、そういうの」結城は架空の杯を手にしたまま訊いた。

「酒云々ではなく、まだそういう気分に持って行けるものかどうかという点がはっきりわからないので」本原が解説する。「現時点では、承諾致しかねます」

「あ、そう」結城は架空の杯を持つ指を開きながら答えた。「時中君、も?」確認するように男の方を見、名前を呼ぶ。

「私も今の時点では同期になれるものかどうかすら危ういと思う」時中は眼鏡の奥の瞳を揺るがせることもなく答えた。

「え、同期でしょう」結城はもう一度笑いを試みた。「だって一緒に入社したんだし」

「三ヶ月は試用期間ですよ」本原が言葉を挟む。

「あ」結城は目を見開いた。

「そう」時中は小さく頷く。「お疲れさんをする前に、まずは疲れることのできる身分になるのが先決だ」

「わあ、厳しいなあ。ハハハ」結城は感嘆しながら笑った。「でも、確かにそうだね。うん、じゃあまずは、お互い頑張りましょう。お互いに、助け合うってことで」だがすぐに声のトーンを復元し、結城は再度発破をかけた。

「助け合わない」だが時中はまたしても否定した。「私はそういうものを信用しない」

「えっ、どうして」結城はまたしても慌てふためく魚のように首を一振りし訊いた。「なんで信用できないの」

「人は人を裏切るものだから」

「そんな、縁起でもない」

「そうだ、演技。人は演技をする生き物だ」

「いやそうじゃなくて」

「では私はこれで失礼します」本原がもう一度お辞儀をし、特に二人と視線を合わせることもなく振り向き立ち去った。

「では」時中ももう一度首を頷かせ、本原とは反対の方向にくるりと向きを変えて立ち去った。

「あ、うん、お疲れさん」結城は右側の本原と左側の時中を交互に見送った。

 夕焼けの中を烏が鳴きながら飛び去って行く、その黒い影が結城の視界の片隅に小さく映っていた。

 

    ◇◆◇

 

 翌日、三名の新入社員は再び同室で顔を合わせた。

「おはようございます」

「おはようございます」

「おはようす!」

 会釈、頷き、片手挙げ、とそれぞれの所作で挨拶を交わす。

 ほどなく、昨日入社手続きをすすめてくれた木之花が、今日はクリーム色のスーツ姿で新たなる書類を手に現れた。

「おはようございます」

「おはようございます」

「おはよう、ございまーす!」

 新入社員達はまたしてもそれぞれの所作でそれぞれ挨拶の言葉を口にした。

「昨日お渡しした研修スケジュールに沿って、本日からは研修期間となります」木之花はそう言って三人を見渡す。

 昨日木之花から渡された書類上には、まず業務内容の説明、それに続き業務に必要な知識に関する研修という流れが書かれてあった。机上研修が四日、公休を二日挟んだ後現場でのOJTつまり実地訓練が五日、計九日間、のべ約二週間の予定だ。その期間が長いものなのか短いものなのか、現時点では誰も判断がつかずにいた。

「それでは早速ですが、まず皆様にお願いする職務内容の概要を、ご説明させていただきます」木之花は黒のマジックを取り、ホワイトボードに文字を書き始めた。

 イベント

と、彼女は横書きに書いた。

「イベント」結城は口に出して呟いた。

 他の二人は無言でホワイトボードを見ていた。

「はい」木之花はマジックにキャップをはめながら、結城の呟きに答えた。「イベントです。皆さんには、労働契約書の中にもありましたように、地質開発にかかるイベントの実行をお願いいたします」

「その“イベント”というのは、何の目的で行われるものなんですか?」時中が質問した。「宣伝のためですか? 何か新製品とか、キャンペーンの告知のような」

「宣伝、ではありません」木之花はゆっくりと首を振った。「これは、わが社の社名にあります通り、地質を調査するためのイベント、というものになります」

「地質を調査するためのイベントですか」結城は木之花の言葉を復唱した。

「はい」木之花はゆっくりと、瞬きをした。睫毛が長い。「言い換えれば、わが社では、イベントにより地質を調査している、ということになります」

「開けゴマ的な?」本原が質問した。それは冗談めかした言い方ではまったくなく、ごく真面目な“真声”での質問だった。なので誰も笑わなかった。

 そして木之花はその質問に対し「はい」と答え、頷いた。

「開け、ゴマ」結城が復唱した。

「はい」木之花はやはり頷いた。

 こほん、と時中が控えめな咳払いをし「それは」と質問を口にした。「何の為の呪文なのですか?」

「それは開くためだろう」結城が目を見開き、木之花の代わりに答える。

「何を」時中は苛立たしそうに眉根を寄せ、一瞬だけ結城に視線をくれた。

「それはあれだろう」結城は天井を指差した。

 しん、と室内が静まり返った。

「あの、あれ」結城は天井を指差したまま繰り返した。「あの、ゴマ」

「岩盤をです」木之花がやっと後を継いだ。

「そう、岩盤。それ」結城は指を木之花に向け、十回にも及んで頷きを繰り返した。「それを開くための、あれ」次に指を時中に向ける。

 時中は右目の下をぴくりと震わせたが、結城と視線を合わせることはしなかった。

「呪文で開くのですか?」本原が質問した。「ドリルとか、何か掘削する機械などではなく」

「はい」木之花は本原の方を見てまた頷いた。「機械は、大型のものは一切使いません」

「じゃあ、私にも出来るということですか?」本原は自分の胸に手を置いてまた訊く。

「はい」木之花は頷く。

「おお、よかったねえ、本原さん」結城は顔を太陽のように明るく輝かせ本原を見て言った。「じゃあ、俺にも出来るということだ」

「結城さんには」木之花が少し微笑んだ。「若干、機械を使っていただくことになります」

「えっ本当ですか」結城は両手を大きく開き肩の高さに持ち上げ驚きのジェスチャーをした。「機械を」

「じゃあ何か免許とか資格が必要になるということですか」時中が質問する。

「いえ、免許も資格も必要ありません」木之花は首を振る。「小規模の、簡単に操作できるものです」

「じゃあ大丈夫だ」結城は大きく頷いた。「私にも出来る」

「ちなみに」時中は腕組みをし顎に拳を当てた。「基本的なことですが、そもそも開けるんですか」

「――」木之花は微笑みを絶やさず、少しだけ首を傾げた状態で時中を見た。

「その、呪文とやらで」時中も真っ直ぐに木之花を見据え、問いの言葉を続けた。「言い方は悪いですが、たかだかそんな程度のことで、岩盤なんかが」

「時中君、まずいよ」結城が片眉をしかめて声をひそめる――が、ひそめたにも関わらずその声はやはり大きかった。「会社のやり方にいちゃもんをつけるとか」

「いちゃもんではない」時中は冷たい視線を一瞬だけ結城に投げつけた。「正当なる質問だ」

「開けます」木之花は静かに答えた。「許しが得られれば」



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第3話 ぎゃっふー

「許し?」

「許し?」

「許し?」

 三人の問い返しが珍しくもまったくシンクロした。

「はい」木之花が頷く。

「許しって、誰の?」結城が目をまん丸くして訊く。

「洞窟の神様?」本原が真顔で訊く。

「――」時中は無言で小鼻に皺を寄せる。

「一言で言い表すのは難しいです」木之花は微笑みを維持したまま、変わらず静かに答えた。

「どうして?」結城が問う。

「洞窟には」木之花はゆっくりと瞬きをした。「神聖なる存在が数多く棲んでいます」

「神聖なる」時中が呟く。

「存在?」結城が叫ぶ。

「まあ、素敵」本原がため息まじりに囁く。

「それらから見て私たち人間というのは」木之花はまたゆっくりと瞬きした。「汚れた、忌むべき存在です」

「汚れた」時中が呟く。

「忌むべき?」結城が叫ぶ。

「まあ、そんな」本原がため息まじりに囁く。

「なので、私たち卑しくも汚れた人間たちは」木之花はまたゆっくりと瞬きした。「洞窟を掘る時に、その大それた罪深き行為を許していただけるよう、儀式を執り行わなければなりません」

「儀式」時中が呟く。

「執り行う?」結城が叫ぶ。

「まあ、素敵」本原がため息まじりに囁く。

「それをやっていただくのが」木之花はまたゆっくりと瞬きした。「あなた達、つまり『洞窟イベントスタッフ』の皆さんなのです」

「我々が」時中が呟く。

「洞窟イベントスタッフ」結城が叫ぶ。

「まあ、そんな」本原がため息まじりに囁く。

「これは大変重要なお仕事です」木之花はまたゆっくりと瞬きした。「このイベントが成功するか否かで、我が社の調査、研究、そして当然利益につながるか否かが左右されるわけですから」

「成功するか」時中が呟く。

「否かで?」結城が叫ぶ。

「まあ、素敵」本原がため息まじりに囁く。

「そうです」木之花はまたゆっくりと瞬きした。「社運の係っている、一番大事な仕事といって差し支えありません」

「――」時中が黙り込む。

「うわあ」結城が叫ぶ。

「まあ、そんな」本原がため息まじりに囁く。

「すいません」時中が片手を肩の高さに挙げる。

「はい、何でしょう」木之花は微笑んでそちらを向く。

「もしそのイベントに失敗した場合、我々にはペナルティが課せられるのですか?」時中が訊く。

「ペナルティ?」結城が叫ぶ。

「まあ、素敵」本原がため息まじりに囁く。

「素敵?」結城が本原を見て叫ぶ。

「順番からいって、これになります」本原が真顔で答える。

「会社から皆さんにペナルティを課す事は一切ありません」木之花は否定した。

「減俸とか、解雇されたりとかは」時中が更に訊く。

「社内規定に反する行為があまりにも目立って繰り返される場合を除きそういう事はありません」木之花は明確に答えた。

「じゃあ、イベントに失敗しちゃっても別に、そんなに落ち込むことはないんですね」結城は両掌を上に向け肩をすくめて言った。

「もちろん、次のイベントに向けまた再出発していただくだけです」木之花はにっこりと頷いた。

「その再出発というのは、確実に来るんですか?」時中が訊いた。

「――」木之花は言葉を切った。

「どういうこと?」結城が時中に訊き返す。

「我々がもしイベントに失敗した場合でも我々の“命の保証”はしてもらえるんですか?」時中は結城に一瞥もくれず、ただ真っ直ぐに木之花を見て問いかけた。

「保障は」木之花はそこまで言うと、くるりと向きを変えホワイトボードに再びマジックで書き記した。

 そこには、四文字の漢字と、三文字の漢字が並び書き記されていた。

「――」三人は無言でそれを凝視した。

「労災保険」木之花はゆっくりと瞬きをした。「並びに遺族への慰謝料という形でお支払い致します」

 労災保険

 慰謝料

 ホワイトボードにはそう記されていた。

 

「説明、済んだ?」室内に入ってきた木之花に、天津は声をかけた。

「済んだわ」木之花はばさりとファイルをデスク上に置きながら答えた。「いつも通り、ごく大まかに話したんだけど……今回の子たちは、かなり考えの回る子たちのようね」

「ほう」天津はコーヒーを口に運びながら頷いた。「いろいろ質問出た?」

「ええ」

「で、理解はしてもらえた?」

「そうね」木之花は右手の人差し指を唇に当て視線を上に向けた。「理解することを見越した上での採用だったのでしょうから、後は社長の人選力を信じるのみというところね」

「なるほど」天津は缶を机に置き、自分のファイルを持って立ち上がった。「それじゃここからは、俺の出番だな」

「よろしくね、ヒラ教育担当さん」

「その『ヒラ』付けるの、やめて」天津は眉尻を下げた。

「見苦しく媚びるからよ」木之花は眼を細めた。「社長に」

「媚びるって、そりゃ」天津は出て行こうとした足を止め肩越しに振り向く。「気は使わなきゃでしょ。主神だもん」

「ふん」木之花はそっぽを向く。「あたしだって使ってるけど」

「――」天津はそれ以上何も言わず、肩をそびやかすように部屋を出てドアを閉めた。

 廊下を、三人の新人の待つ部屋へと向かう。かつかつかつ、と自分の靴の踵が小気味好い音をリズミカルに奏でる。それを聞きながら天津はそっと、己れの胸部に片手を当てた。

「もう」小声でそっと呟く。「咲ちゃんの視線ってホント……痛え……」

 

「なあなあ、どういうことなんだろうね」木之花が退室してから、早速結城は他の二人に振り向いて疑問を投げかけた。「保障は労災と慰謝料って……慰謝料」

「遺族に、と言った」時中が眼鏡のレンズを光らせる。「つまり我々がイベントに失敗し岩盤を開き損なった場合、それは」

「それは?」結城が目を丸くして訊く。

「我々の家族が“遺族”と化す、という事だ」

「じゃあ、私たちはどうなるんですか」本原が問う。

「無論、棺の中に収められる存在になるということだ」時中がやや天井を見上げて答える。

「死ぬってこと?」結城が叫ぶ。「ぎゃっふー」

「なんですか『ぎゃっふー』って」本原が問う。

「衝撃の事実を知った時に使う感嘆詞だよ」結城が人差し指を立てて答える。

「そうなんですか、ぎゃっふーって言うんですか」本原が確認する。

「言わなくていい」時中が唇の端を歪めて言い捨てる。

「けどこれは衝撃だよ、死ぬって」結城はホワイトボードを見ながら言った。そこに書かれてあった文字は今すべて消されているが、元はそこに「労災保険 慰謝料」と書かれてあったのだ。「慰謝料って」

「しかしそんな重大な労災事故が起きれば無論ニュースに取り上げられるはずだが、ここの社名がニュース上で流れたのを見聞きした記憶はない」時中が冷静に話す。「ということは、実際にはそんな労災事故は起きていないという事か」

「なあんだ」結城は両肩を持ち上げすとんと落とした。「ただの脅しか」

「脅されたのですか」本原が確認する。「私たちは」

「まあ、最悪の場合のリスクヘッジはされているという事を言いたかったのだろう」時中は眼鏡を人差し指で押し上げながら考えを述べた。

 コツコツ、とその時、ドアにノックの音がした。

「先生がお見えになりました」本原が言い、三人の新入社員は揃ってドアの開くのを見た。

 入ってきたのは頭髪を大雑把なポニーテールに縛り、無精髭を疎らに生やした三十路ほどの男だった。服装はチェックのシャツにチノパンといったビジネスカジュアルだが、ヘアスタイルと無精髭の影響であまり“きちんと感”というものは演出しきれていなかった。顔立ちは整っていて、入ってきて最初に三人に向けにこりと笑いかけたことから、性格は温和そうに見えた。

「どうも、初めまして」ビジカジ男はホワイトボードの前に立ち、挨拶した。「天津といいます。研修担当を勤めさせていただきます。よろしくお願いします」頭を下げる。

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「はいっ、よろしくお願いいたしますっ」

 新入社員たちも座したままそれぞれ頭を下げる。

「えーとまず、出席を取ります……出席っていうと大げさかな、まあ、名前をお呼びしますんで、お返事お願いします」ふふふ、と静かに笑う。

 温和そうな、言い換えれば気弱そうな男に見えた。

「えーと、時中さん」手に持つクリップボードを見下ろして呼び、顔を上げる。

「はい」時中が口元だけを動かして返事する。

「はい」代わりに天津が大きく頷く。「えーと、本原さん」

「はい」本原は右手を肩の高さに挙げ返事する。

「はい」天津はやはり大きく頷く。「それから、結城さん」

「はいっ」結城は右腕を頭上に真っ直ぐ上げ、その弾みで右半身を僅かに飛び上がらせて叫ぶ。

「あ、はい」天津は逆に仰け反りながら硬直したが、すぐに元の姿勢に戻った。「えー、では皆さん、早速ですが研修資料をお配りします」

 三人の着座する机の上に、天津はA4サイズの紙を綴じたものを置いていった。『岩盤について』と、その表紙にはタイトルが付されてあった。

「岩盤について」結城が口に出して読む。

 だがその読み上げに対して返事する者はいなかった。



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第4話 それはさっくりと、心臓だけをえぐり取るような視線だった

「つまりリソスフェアの下部にはアセノスフェアがありアセノスフェアの下部にはメソスフェアがあります。リソスフェアを作るのがプレートというものでこれはアセノスフェアの対流に乗って水平運動をしている、というのがいわゆるプレートテクトニクス理論です」

 天津はホワイトボードに描いた「地球の内部」の図を手で示し指で差ししながら三人の新入社員に説いた。

「テクトニクス論には他に、プリュームテクトニクスというのもあります。これはマントルの動きについての論で、マントル深部から出て来る上昇流、ホットスポットなどと呼ばれるものなんかの現象についての理論です」

 三人は無言でそして無表情で天津の示し差すホワイトボードと、天津の手と、天津の顔を見ていた。その中の一人、結城だけが、基本的に口を開け、天津の語りを聞きながら恰もその単語群を復唱するかのごとくにぱくぱくと、あるいはあうあうと、その唇を時折上下させていた。

「えーとじゃあ、ここまでで何か質問、ないですか」天津は三人を見回して言った。

 誰も何も答えず、身動きもしなかった。

「……」天津はしばらく口を閉ざし、三人をゆっくり見回したが、三人は何ひとつ反応を示さずにいた。「何か……ないですか?」天津は独り言のように小さく呟き、「本原さん、何か質問はないですか?」と指名した。

「何を質問すればいいんですか?」本原は対応した。

「え」天津は眉を上げ目を見開いて訊き返した。「あいや、ここまででわからない事があれば」ホワイトボードに振り向き、そこに書かれたことを手で示す。

「何がわかってて何がわからないんですか?」本原は特に表情を変えもせず続けた。「私は」

「――」天津はまた目を見開き本原を見た。「……あ、そうか」やがて頷き始める。「そうだよね。うん、そういう事ね」自らを納得させるように、計十回ほど彼は頷きを繰り返した。

「まだ、質問ができるほどにも理解できていないって事ですよね、ハハハ」結城が口を添え、明るく笑って空気を和ませる。

 だが本原及び時中は無表情のまま返答もなく、結城と天津の笑い声が室内に数秒響き渡った後、消えた。

「えー、じゃあ、続けていきます」天津は俯き加減に言葉を繋げた。「じゃあ次は、岩盤というものの構成について」手許のテキスト――A4サイズの紙を簡単にホッチキスで止めたもの――をめくる。「テキストの十四ページを開いてください」

 ぱらぱら、と、三人がテキストを繰る音が室内に響く。

 

「お疲れ様」昼休みの指示を出した後事務室内に戻ると、木之花がタイピングの手を止め声を掛けてきた。

「はー」天津は深くため息をつきながら自分の席にどかりと腰掛けた。

「今の子たちの研修って、大変よね」木之花が僅かに苦笑を見せながら言う。「これまでのどの子たちより教える内容が濃厚になってるし」

「そう」天津は背もたれに上半身を預けて嘆いた。「人間たちも頑張ったからねえ……この短い期間に実にたくさん発見してくれちゃって」

「何年になるっけ」木之花はふと天井を見上げて問いかけた。「前の研修から」

「んーと」天津も天井を見上げる。「かれこれ……三百年ぐらいじゃ、ない?」

「そっか。宝永地震の頃よね」

「うん」天津は視線を下ろし、壁の方を見てはいるが遠い眼差しとなっていた。

「――」木之花は少しの間それを見ていたが、やがてPCに向かいタイピングを再開しはじめた。

「水の星」天津は独り言なのかどうなのか判別の難しいトーンの声で呟いた。「天と地と、水があった」

「ナマズと」木之花がPCを見たまま付け足す。

「ナマズと」天津は繰り返す。

「けど三百年って」木之花がまたタイプする手を止める。「人間たちには長い時なんだろうけど……地球にしたら、ほんの瞬きする間なのかもね」

「瞬きは大げさだよ」天津は薄く笑う。「お茶ひと口飲むぐらいじゃない?」

「どっちにしても、うぜえって思ってるんでしょうね」木之花は顎を引き、PCを睨みつける。「勝手にクニとか創りやがって、って」

「最初に言わないからだよ、ここに立ち入んな、出てけ、もう来るな、って」

「高をくくってたんでしょ。どうせ大した事もできないだろう、って」

「それかもしくは」天津は頭のうしろで手を組んだ。「――」少し考える。

「何よ」木之花が天津の方を見る。

「どうせ」天津は目を瞑る。「お茶何杯か飲んでる間に滅び去るからいっか、ってな」

「――」木之花は目を細めて天津を見ていたが、何も返さずPC作業に戻った。

 天津は目を開けて自分の膝元を見ていたが、やがて立ち上がり「コーヒー買って来る」と言って部屋を出て行った。

 

「生物の出現というのが、地球環境に重大な影響を与えました」天津の話は“地球の歴史”という範疇に及んでいた。「藍藻類の光合成が酸素を大量に生み出し、藻類が身につけた炭酸カルシウムの殻は石灰岩を作りました」

「質問です」時中が右手を軽く挙げ発言した。

「あ」天津は眼をしばたたかせたがすぐに「はい、どうぞ」と声を明るくして頷いた。

「その生物の出現というのは、地球にとっては要するに“汚染の始まり”だったんですか」

「え」天津はまた眼をしばたたかせた。「汚染……?」

「木之花さんが、私たち人間は汚れた忌むべき存在だと仰ってました」本原が言葉を添える。

「……ああ……」天津は視線を落とし、何か思い当たる節がありそうな表情となった。

「そんな馬鹿な」結城が、まるで舞台俳優のように両手を広げながら大声で否定した。「誰がそんなことを言うんだ。失礼じゃないか」

「洞窟に棲むフェアリーたち」本原が結城の問いかけに対し真顔で答える。

「フェアリー?」結城が声を裏返して訊き返す。「羽が生えてて、魔法を使って勇者を助けたりとかするやつ?」

「話が逸れすぎだ」時中が苦虫を噛み潰したような顔で間に割り込む。「人間を汚れた忌むべきと言ったのは洞窟内に棲む“聖なる存在”だ」

「だからフェアリーなの」本原も引かない。「フェアリーにはいろんなタイプがいるの」

「フェアリーだったら人間を助けるのが筋だろう。汚れたとか、なにその上から目線」結城がまたしても両手を大きく広げて叫ぶ。

「はい、一旦落ち着きましょう」天津が苦笑しながら両手で空気を抑えるジェスチャーをした。

 三人は取り敢えず口を閉じ教育担当を見てその答えを待った。

「確かに、洞窟内には不思議な存在がいます。聖なる存在にしろフェアリーにしろ、その呼び方というものは定まっていません。どちらも“似たような感じ”です」そこまで言うと天津は一度大きく息を吸い込んだ。「しかし」

 三人の新入社員は回答の受け入れ態勢となりわずかに頷く。

「たとえ人間が、生物が汚れた存在だと忌み嫌われているにせよ、その当事者である人間だって、ちゃんと生きているわけです。もう存在しているんです。だったら、排除ばかりでなく共存の方法というものを、構築していくべきだと僕は思います」

 天津が一息にそこまで言った後、室内は静かになった。天津は顔をやや俯けて、眉をしかめるように眼を閉じた。その顔は、まるで何かに耐えているように見えた。

 ――来ない、な……

 天津は内心、そんなことを思っていたのだ。来ない、つまり――“反撃”が、だ。今の自分の“身の程をわきまえぬ、大それた発言”に対する“しっぺ返し”が、だ。ふうぅ……と、天津は多少震えた吐息を洩らした。

 

 ごつん。

 

 その瞬間、足の裏から脳天まで貫くような衝撃と大きな音が、走った。

「あっ――」天津は思わず顔を歪めて床に座り込み、新入社員三人も同様に顔をしかめ自らの頭を両手で押さえ仰け反るかまたは机に突っ伏した。

 皆しばらくは、全身に響きわたる金属塊をぶつけ合わせたような振動の余韻をやり過ごすため身動きが取れなかった。

「な、何今の」結城が椅子から立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回しながら叫んだ。「地震?」

「揺れてはいない」時中が眉を最大限にしかめ、片耳に手を当てながら答えた。「何かが建物にぶつかったか」

「頭が痛い」本原は両手で自分の頭を抑えていた。「きーんって来ました」

「皆さん、大丈夫ですか」天津は顔をしかめたまま片目を開け聞いた。「すみません、僕がちょっと、楯突くような事言ってしまったんで“警告”が来たんですね」

「警告?」時中が眉を更にしかめて訊き返した。「誰からの?」

「えーと」天津は下を向き、恐る恐るのようにもう一度顔を挙げた。「聖なる存在、からの」

「大丈夫ですか、皆さん」叫びながら木之花がドアを勢いよく開け飛び込んできた。「怪我はないですか」

「木之花さん」結城が眼を丸くする。

「怪我はしてないです」本原が冷静に答える。「でも頭がきーんってなりました」

「大丈夫ですか」木之花は本原の傍に駆け寄りその背に手を当てた。「痛いですか」

「もう大丈夫です」本原は小さく頷いた。

「何やってんの」木之花は天津に振り向き言った。「また何か怒らせるようなこと言ったんでしょう」

「――」天津は気まずそうな表情で木之花を見た。

 声と口調は静かなものだが、彼女の眼は細められ、瞬きもせず天津を真っ直ぐ貫いていた。天津は頭の中でだけそっと、自分の心臓を手で抑えた。そして彼は両手を合わせ頭を下げた。「ごめん。すみません、皆さん」

「怒らせる、つまり“聖なる存在”を、ですか」時中が質問する。

 天津と木之花はすぐに答えなかった。

「まじで?」結城が大声で叫ぶ。「あのゴツンって来たの、聖なる存在の人がやったってこと? フェアリーが?」

「一体、何なんですか」時中は木之花と天津に視線を向けたまま質問した。「聖なる存在とは」

 木之花は僅かに俯き、天津は木之花の顔を見、それから時中を見た。

「地球、です」無精髭の教育担当は、答えて言った。



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第5話 東海道五十三次を描く側とそれを鑑賞する側の違いとは

「ちきゅう?」結城が唇を尖らせて大きく繰り返す。「地球って、我々が住んでるこの」足下に向け何度も人差し指を突き下ろしながら叫ぶ。「ぼくらの地球?」

「――」天津は少しの間視線をさ迷わせたが「ぼくらの、と思っているのは結局、ぼくら側の方、なんですよね」と、結城のものと比べれば砂粒ほどの声量で答えた。

「つまり我々がイベントによって岩盤を開くための許しを乞うのは、地球に対してというわけですね」時中は質問を続けた。

「はい」この問いに、天津と木之花は揃って頷いた。

「しかし当初木之花さんは、聖なる存在は『たくさんいる』と仰いました」時中は木之花の方に顔を向け、彼の眼鏡のレンズが蛍光灯の光を映して一瞬白く輝いた。「地球がたくさんいる、というのはどういう事ですか」

「それは」木之花が視線をさ迷わせ、

「まだよく、わかっていないんです」天津が後を続けた。「いわゆる“聖なる存在”として姿を現すのは、間違いなく地球の――意志、なのは確かなんです」

「地球の」時中が呟く。

「意志」結城が叫ぶ。

「地球さまは、私たちを嫌っているのですか」本原が質問した。「だから排除しようとするのですか」

「――」木之花と天津が揃って視線をさ迷わせた。

「地球さまって」結城が目をぎゅっと瞑って笑った。「どうよ」

「聖なる存在なのだから『さま』をつけました。いけませんか」本原は銀の刃のごとく視線と声を結城に突き刺した。

「それでその“意志”が結局、さまざま怪奇な姿で現れるというのですね」時中が話を戻す。

「はい」天津と木之花は揃って頷く。「予測不能な形で」

「その一つが、さっきのゴツンだった、と」時中は再度確認する。

「はい」天津と木之花は再び揃って頷く。

「わかりました」時中は頷くこともなく、唇だけを動かして答えた。

 しん、と静寂が訪れた。

「へえー」結城が声を挙げる。「地球が怪奇現象起こすのか」

「怪奇ではなく、ヒエロファニー、つまり聖なるものの現れといった方がよいのではないですか」本原が反論する。「怪奇というと何か、ホラーのような、恐ろしい現象という印象になります」

 しん、と再び静寂が訪れた。

「――恐ろしく、ないですか?」天津が小さく問いかける。「さっきの、ゴツン、とか」

「不思議ではありますけれど」本原は天津の方を向いて答えた。「特に恐いという印象ではありませんでした」

「――凄いな」天津は溜息交じりに言い首を振った。「さすがクシナ」

 木之花が天津を横睨みして肘で小突き、言葉を遮った。

「なんですか?」本原が小首を傾げる。

「ああ、以前に研修した方の名前と間違えてしまいました。すいません、本原さん」天津は笑う。

「では皆さん、少し時間は早いですが、今日はここまでと致しましょう。明日また十時に、出社して下さい」木之花は三人の新入社員を見回して告げた。「お疲れ様でした」

 

「ヒエロファニー、か」大山は頭の後ろに手を組み、そう言ってふう、と息をついた。「確かに、受け入れ力最強だね、本原ちゃん」

「“ちゃん”づけはセクハラになりますよ」木之花は注意した。「社長」

「あそう、ごめん」大山は口を尖らせぶつぶつと謝る。「んじゃ、クシナダヒメ」

「――」木之花は黙っていたが、眼を細め大山を睨む。

「まま、本人にはその名では呼ばない、悟られない、そういう方向で、ですよね」天津が両掌を二人に向けやたらと愛想笑いを振りまく。

「そもそも、本人じゃありませんからね、彼女」木之花は天津と大山を交互に見ながら確認を取るようにゆっくりと告げる。「あたし達が勝手にそう位置づけてるだけで」

「そう。そういうことだ」大山は大いに頷く。「だから本人に、自分が人身御供にされるなんて事を決して悟られちゃあいけない。いいね、天津君」

「は、はい」天津は慌てて大きく頷く。

「研修の方はどうだ。皆、順調に知識を身につけていけてるかね」大山は天津の肩にポンと手を載せる。「岩盤だけでなく、儀式の事も」

「あ……儀式については、まだこれから取り掛かる所です」天津は全身で萎縮するように見えた。「明日から、追々やって行こうかと」

「うん」大山は笑いながら頷いた。「期待してるよ」

「――ええ」天津も笑いを返しながら、小さく返事した。

「よし。じゃあ、後は任せた。よろしく! お疲れ!」大山は元気よく片手を挙げ、勢いよくドアを開け出て行った。

「――は」木之花が短く息をつく。

「期待してるよ、か」天津はぼそぼそと、呟いた。「最高のパワハラだよ」

「ねえ」木之花が何事か思いついたらしい目つきで天津に振り向いた。「社長と結城君って、似たタイプだと思わない? ある意味」

「そう?」天津は天井に眼を向けた。「ああ……まあ、やたら元気ってとこ?」

「とか、後先考えなさそうなとことか」木之花はそう言った後、またなにか思いついたらしく腕組みをし片手で顎に触れた。「やっぱりさ」

「え?」天津は眉を持ち上げる。

「彼が……スサノオ、なのかしら」

「――」天津はしばし無言だった。「わからないな」

「よね」木之花は苦笑した。「暴風雨の神、って感じでも、なさそうだしね」

「意外と、時中君の方がそうだったりして」天津はそう言って笑った。「一旦怒ると手がつけられなくなったりして」

「どうかな」木之花は首を傾げる。「まあ、そのうちわかるかもね」

「がっかりさせられる可能性も高いけどね」

「くく」木之花は手で口を抑え、肩を震わせて笑う。

「ん、何?」

「それ、“最高のパワハラ”ですよ」木之花は訊ねる天津を指差す。「ヒラ社員さん」

「――あ」

「ま、そもそも期待すんなって事よね。スサノオにも、ヒラにも」木之花はそう言うとバッグをひょいと肩にかけた。「じゃ、お疲れ様。お先に」

「あ、ああ、お疲れ」天津は片手を挙げ、バタンと閉まったドアをしばらく茫然と見つめていた。

 

     ◇◆◇

 

 みちゃ。

 みちゃ、みちゃ。

 ――

 みちゃ。

 

 鯰が動くたび、粘質な音がする。

 鯰は岩盤の上に半身を乗せ、そこから上に昇るでも下に降りるでもなく、ただみちゃみちゃと時折体をくねらせていた。

「だいたいね」

 やがて鯰は独り呟きはじめた。

「人間っていうのは、――特に若い世代の奴らは、この世のすべてが簡単な、単純な式に収束できるもんだと思い込んでんのよ。そういうとこが、なんか嫌い」

 

     ◇◆◇

 

「いやあー、びっくりしたねえ今日は」門の所で結城は他の二人に向かい、眼を剥いてコメントした。「一体何なんだろうね、あれ」

「地球の意志だ」時中が答える。

「ヒエロファニーです」本原が答える。

「うん、うん」結城は一旦受け入れ、そして「で、それって何?」と問う。

「要するに、警告だ」時中が答える。

「メッセージです」本原が答える。

「うん、うん」結城はまた一旦受け入れ、そして「何の?」と問う。

「我々に『来るな』と言っているのだろう」時中が答える。

「『ようこそ』と言っているのでしょう」本原が答える。

「うん、うん」結城はまた一旦受け入れ、そして「いや、どっち?」と問う。

 二人を見渡すも、二人は特に視線を合わせるでもなく、互いに無表情に佇んでいた。

「まあ、いっか」結城は結論を延べ、それから「いやあ、それにしても今日の研修って内容濃かったよねえ! マントルがどうとかプレートがこうとかって、解ったあれ?」と、話の矛先を別次元に向けた。

「敵を知らずんば、という奴だな」時中が答える。

「私たちがこれからお会いする聖なるお方についての知識です」本原が答える。

「うん、うん」結城はまた一旦受け入れ、そしてもう何も言わずにいた。

「それにしても、悠長な話だ」代わりに時中が話を繋げる。

「えっ、悠長? 何が、何が?」結城は餌を求める池の鯉のごとくに喰いついた。

「警告にしろヒエロファニーにしろ、地球は人間が――恐らく生物が誕生した時から、何らかの形でそれを発し続けていたのだろう」時中が言い、首を振る。「ずっと、この長きに渡る時間」

「ああー」結城は大きく顎を上げ大きく振り下ろした。「確かに! そりゃあまた、気の遠くなるような話だよな! 俺らの寿命なんてその時間からしたら、ほんの一瞬みたいなもんだろうよ。大体俺ら、ほんの五十年後だってどうなってるのかわかりゃしないけどな」

「そうですね」本原が同意する。

「ねえ!」結城はそれに機嫌をよくし、眼を大きく見開いた。「本原さんなんて、自分がお婆ちゃんになるなんてこと想像もできないでしょう」

「私は、結構なスピードで歩くおばあちゃんになりたいです」本原は真顔で答えた。

「え?」結城は金縛りに遭ったかのように硬直した。

「時々いるでしょう、結構なスピードで歩くおばあちゃんって」本原はにこりともせず続ける。

「ああー」結城はすぐに大頷きを再開させた。「わかる! はいはい、いるね、いるよ。結構なスピードで歩くおばあちゃん」

「何故そんなものになりたいんだ」時中もまた表情を緩めるでもなく訊ねる。

「憧れだからです」本原は時中に向かい答える。「多分ああいう人が、日本最初の地図とか東海道五十三次とか作ったんだと思います」

「おおー」結城は感動を口にし首を振る。「なに、本原さんのおばあちゃんがそういう人なの?」

「はい」本原は今度は結城に向かい答えた。「私のおばあちゃんは恐らく、東海道五十三次を描く側の人だと思います」

「おおー」結城は大頷きを止めることなく繰り返した。

「では失礼します」本原が唐突にお辞儀をして立ち去る。

「では」時中が軽く頷き背を向ける。

「あ」結城は左を向き右を向きする。「ああ、うん、お疲れさん」そして二人の背にそれぞれ挨拶する。

 夕焼けの空に、烏が二羽飛び去って行く。

 結城はそれを見上げ「また明日」と声をかけた。

 烏は答えない。無言で、茜の空を飛んでゆく。

「俺は、どうだかな」結城はその影を見送りながら独り呟いた。「東海道、五十三次……描く側か、はたまた眺めてホウホウ言ってる側か」

 誰も、何も答えることはなかった。



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第6話 其れを目の当りにした際は是非「けゃー」と

 鯰(なまず)は、水の中に体を沈めた。丁度よい頃合に濁った水だ。鯰はこのくらいの濁り加減が好きだった。その水の濁り具合は、鯰の元いた場所を思い出させる。その場所を、何と呼べばよいのだろう。冥界? カオス? 天地開闢のはじまりの海?

「だいたいさ」ともかくも鯰は体をうねらせながら、また独り呟いた。「性格占いを血液型に固執するのとか、そうだよね。よりシンプルな形式に収束して、簡単に分かりやすい方に持っていこうとする。そーんな単純なもんじゃないのにさ」濁り水の中を悠々と、どこまでも泳ぎ進む。「そのくせ言葉遣いだけはやたら難しげにしたがる。『方向性が違う』とかって。方向『性』って? 方向が違うんじゃなくて?」

 水の中は、夜のようだった。鯰は夜が好きだ。とはいえ、昼というものを最後に見たのがいつだったのか。もう思い出すのも億劫なほど、それは遠い昔のこととなっていた。

「それに若い奴ってのは、種別は何であれ、間違う事を恐れない。次行こ次! ってなっちゃうのよね。散らかしっ放しで。後始末もしないでさ。けゃー恐ろしい」ひとしきりぶつくさ言い終えた後、鯰は黙って泳いだ。しばらく泳ぎ、それからもう一度「けゃー」と発音した。

 それは水中に棲む他の生物たちに対して、充分な威嚇、脅威となった。

 

     ◇◆◇

 

 研修は、昨日突如として途切れた箇所から再開せざるを得なかった。天津はふうぅ……と長い溜息をつき、心中を整えてから話を切り出した。

「ひとつ確実に言えるのは……人間という存在が、地球の生物エネルギーの自然なサイクルに、大きな変革をもたらした、という事ではあります」いつものぼそぼそした喋り方で、淡々と告げる。

「ほう」例によって唯一声高に反応したのは結城だった。「変革」

「はい」天津は頷いた。「いわゆる弱肉強食、食物連鎖、というサイクルを、人間の編成した新たなるシステム――農耕というものが――極端に言うと、かき乱したわけです」

「ほうほう」結城は腕組みしさらに頷いた。「我々は罪を犯してしまったのですね」

「――」天津は何もコメントしなかった。

 何しろまたゴツンと来られては困る。まだ今日の研修は始まったばかりだ。

「ならば我々は定住せず、ずっと狩猟採集生活を続けるべきだったのか」時中が眼鏡の奥の眼を細めて述べたが、その表情を見た瞬間その心中に「まさか。冗談じゃない」という続きがあることが解った。

「けれど、それもまた自然をかき乱す結果となるものだったのではないでしょうか」本原が疑問を口にする。

「え、どうして?」結城が眼を丸くして訊き返すのと同時に、天津もまた驚いたような眼で本原を見た。

「だって人間って、狩りをする対象の動物たちよりも小さかったり弱かったり遅かったりするじゃないですか」本原は答える。「本当なら、人間って猛獣の餌になる側の生き物なんじゃないでしょうか」

「それはそれ、叡智の結晶だよ」結城が得意げに指を立てる。「我々人間は、道具というものを発明したからね。飛び道具とか、罠をしかけるとか」

「だからです」本原は頷く。「農耕のシステムもですけど、狩猟採集だけで生きてきたとしても、人間は次々に新しい武器や罠を作り出して、自然のサイクルをかき乱したに違いないと思います」

「おお」結城と天津は揃って声を挙げた。「確かに」

 時中は無言で無表情だった。

「なんで人間だけが、こんなに脳みそ発達しちゃったんだろねえ」

 結城が暢気に発した言葉に、天津は大きく息を吸い込んだ。時中が眼鏡を光らせ、その研修担当の反応に視線を送る。

「あ、いや、まあそれは置いといて」天津は時中と眼を合わせず言葉を継いだ。「じゃあ岩石関連の地球の歴史の続き、やっていきます」

 

「お疲れ」

 木之花の労いの言葉に片手を挙げる所作のみで応え、天津はオフィスチェアにどっかりと深く腰を下ろした。

「予定通りに進んだ?」木之花が続けて訊く。

「んー……何とか、午後からは儀式の方に移れそう」天井に向けふうぅ……と息をつく。「疲れたあ」

「何がそんなにやりにくいの?」木之花は肩を竦める。

「いや……」天津は両手で顔を覆いしばらく置いた後、再び手を下ろして「今回の子たち……かなり、穿ってくるのよ」と答えた。

「穿ってくる……って、真実を追究してくるってこと?」

「うん」頭の後ろで腕を交差させ伸びをする。「どこまで知らせとくべきなのか……その返答次第でまたガツンやられやしないのかって、もう脳細胞パンク寸前くらい気ぃ使うのなんの」

「はは」木之花はしかめ面で笑う。「お疲れ」

「咲ちゃん」天津は頭の後ろで腕を組んだまま木之花を見た。「俺を、癒してくれよ」

「まだ日が高いわよ」木之花は窓の外に眼をやる。

「え」天津は腕を解き椅子の上で身を起こした。「それって、じゃあ夜になったらOKってこと?」

「鯰に頼めってこと」木之花は眼を細めて答える。

「――」天津はがくりと肩を落とした。「ですよね……」

 

     ◇◆◇

 

 岩は、静かにそこに存在していた。

 岩が何かを想っているとしても、誰もその内容を知ることはできないのだ。岩は、不動だ――少なくとも人間の眼からは不動であるように見えるのだろう。『無機物』と名付けられる所以だ。そう、岩からは、何も生産されることはない――人間たちは多分、そのように想っている。

 だがそれは違うのだ。岩は、少なくとも今に至る少し前――惑星レベルの時間概念から見れば――まで、次々に生み出していた。それが世界となり、最終的に人が生まれ出た。

 生まれ出た――だが岩は、そこで(比喩的に)首を傾げる。人間たちを生み出したのは、果たして自分なのか? と。もしそうだとしたら、なにゆえに? 一体何をさせる為に、自分はそれを――神に似た姿かたちで、生み出したのだろうか?

 神――

 岩は(比喩的に)溜息をつく。そうだ。人間を生み出したのは、自分ではない。神たちだ。そうだ彼奴らは――何を想ってか、人間が必要だと判じたのだ。そこが、わからないのだ。わからない、そのことに岩は、溜息をつかざるを得ないのだった。何故なら――

 太古、神を生み出したのは――神が生まれ出るのを許したのは、岩自身であったからだ。

 

     ◇◆◇

 

「もし珪藻岩の中で奇跡的に生きてるケイソウがいたら、びっくりするだろうなあ」結城は弁当を頬張る時も話を止めずにいた。「あれっ、俺どこにいるんだろ、ここは一体……って、うわっ周り全部死体じゃねえか! ってさ」

「死体というか、カラ、ですよね」本原がプラスチックのカップに入ったオレンジジュースをストローで吸い上げる口を止め言葉を挟んだ。「カラだけなら、そんなにびっくりしたりもしないんじゃないでしょうか」

「そうかなあ、でもあたり一面だぜ。いくら仲間のものとわかっていても、やっぱり不気味だろうよ」

「人間に例えるならば差し詰め、洋服があたり一面脱ぎ散らかされているところに突然存在することになるのだろうな」時中がいち早く完食したコンビニ弁当の殻をポリ袋に入れながらコメントした。

「それなら、まったく不気味ではないですね」本原がその光景を想像しているのか否か判じかねる程に目線を毛の一本分も動かすことなく応えた。

「えー、でもさ、じゃあそれが、普通の服じゃなくって、パンツとかだったら?」結城は若干むきになって言い募った。「はき古しの」

「いやだ、下品」本原がジュースを飲む口を止め、顔をしかめた。

「下劣だ」時中も小鼻に皺を寄せ吐き捨てるように言った。

「だってさ、結局そういう事じゃないのよ」結城は興奮した時の癖で声を裏返らせ女言葉になった。「カラっていったらパンツよ。普通」

 時中と本原は不快そうな表情のまま何も返答せずにいた。

 

「はい、では皆さん、ここからは、実際に皆さんに行っていただく“イベント”の手順というものについて、学んでいただきたいと思います」

 昼休憩明け、天津は三人の新入社員を見回しながら説明した。

「大雑把に言いますと、イベントの目的は、これから岩盤に手を入れ、開き、ある程度破壊を伴う工事を行いますという、事前報告というものになります」

「地球に対する報告ですか」時中が質問を入れる。

「――」天津は時中に視線を移し「そうです」と答え、頷く。

「単なる報告、ですか」時中はもう一度訊く。「それとも事前許可申請ですか――つまりそれに対する返答が、何らかの形で返ってくるのですか」

「――」天津は少しだけ微笑を浮かべ「はい」と頷く。「仰る通り、報告というよりも実際のところは許可申請ですね。返答は……ほぼその場で、返ってきます」

「ゴツン」時中が間髪を入れずに指摘する。「の、ような?」

「――」天津は微笑した顔を凍りつかせたまま「はい」と答えた。

「その結果が」時中は更に続ける。「労災保険や慰謝料になる、と」

「ああ」天津はそこで口に拳を当て咳払いした。「そういう事には、なりません――というか、させません」

「というと?」時中が問う。

「無論そういう時には我々が、全力でお守りしますので」もう一度、にこりと微笑む。「皆さんには怪我ひとつ、させませんよ」

「ありがとうございます」本原が両手を机の上に重ね、僅かに頭を下げる。

「まことに恐れ入ります。どうぞよしなに、よろしくお願い奉ります」結城は勢いよく深々と頭を下げ、こ、と僅かに机に額の触れる音が聞えた。

「本当に、ですか」時中は一人、疑いを払拭できずにいる様子だった。「間違いなく、我々の命の保証はしてもらえるんですか」

「はい」天津は眼を閉じ深く頷いた。「我々の生命に代えても」

「具体的に、どういった手段で?」

「まあ、いいじゃないか時中君、その時にならないとそれはわからないだろう」時中の執拗なまでの問いかけを、結城が諌める。

「そんな軽い気持ちで挑めるのか、君は」時中が、今度は結城を攻める。「命が懸かっているんだぞ。命だ」

「仕事というのは何の仕事であっても、命を懸けるものだろう。違うのか」結城は己の胸部を手で抑えつつ論じた。

「そういう一般的な精神論とはわけが違う、というか、今時どんな仕事であってもそんな精神論はないぞ。精神論なんて、ない」

「精神論自体はあると思います」本原が異を唱える。「ただ命を懸けることを会社から強制されるのは法的にあり得ないですよね」

「そういうことだ」時中が勝ち誇ったように結城を指差す。「法的にあり得ない」

「まあまあ」天津が空気を両手で抑える。「もちろん命を懸けることを会社が強制することはまったくありません。皆さんの命の保証は我々が」

 その直後、三人の新入社員の周囲にほの白い光がふわりと生まれ、心地よい暖かさと芳香が三人を包み込んだ。

「あれ」

「何」

「まあ」

 三人はそれぞれ虚を衝かれ驚きつつも、深い安堵の感覚に瞳を閉じ息を吐いた。

「神力にかけて、お守りします」柔らかく、天津の声が三人の耳に響いた。



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第7話 いきおいキャパオーバーするモチベーション

「ジンリキ?」時中が訊き返し、

「人力車?」結城が訊き返し、

「神通力?」本原が訊き返した。

「はい」天津が頷き、ふっと白光が消える。

「あなたは、――あなた方は何者なんですか」時中が問う。

「我々は」天津は言いかけて止め、口を紡ぎじっと床上を見た。「強いていうなら、岩から生み出されたもの――岩の子、ですね」

「岩?」時中が訊き返し、

「岩鋸?」結城が訊き返し、

「岩の精霊?」本原が訊き返した。

 

     ◇◆◇

 

 長く生きると、いきおい経験が増え、それにつられて知識も増え、結果として、この先何が起こるか「先の予測」というのが勝手に立つようになる。それも、「悪い方の予測」ばっかりが、だ。

 何か、おや、と思うような事が起こる。例えば他人から「あなたにとって良いお話があります」とか「前向きにご相談させて頂きたく」とかいう言葉をかけられた時だ。恐らく若い者であればその文字面通り「良いお話」や「前向き」な、つまり素敵なことが、この先自分を待っているのに違いないと信じて疑わないことだろう。だが長く生きてきた者は、そう容易くは思えない。

「なーんかあるんだろどうせ」

と思う。というか、としか思えない。

 そうだ。叶うものであれば、長く生きた者だって「きっと素敵な事がこの先自分を」とか、思いたい。そう、思えるものであるのならば。

 否。恥を承知で告白させてもらうならば、そういう風に、まったく思わないこともない。そう、どれだけ長く生きた者であっても、心のどこか片隅で「もしかしたら」という淡く儚い期待というものは、やっぱり天然の心理として抱くものなのだ。

 脳みそというのはまことに愚か、かつ哀れなもので、命の灯火の消える寸前まで

「もしかしたら、何かいいことがあるかも知れない」

という思いを、生み続けるのだ。

 そんな事を胸中に思いながら、鯰は泳ぎ続けた。そんな事を思う時間だけは、たっぷりあるのだ。思うことを面倒くさいと思っていてさえ、思うことは止められない。

 めんどくさい、めんどくさい。すべからく、めんどくさい事ばかりだ。そんな事を胸中に思いながら、鯰はさらに泳ぎ続けた。

 

     ◇◆◇

 

「そう」天津はもう一度頷いた。「僕たちは、岩から生み出されたものの一つです。太古の昔、この世界の誕生初期に」

「――」時中は言葉を失い、

「岩から?」結城が訊き返し、

「世界の誕生初期に?」本原が訊き返した。

「まあこう見えても、かなり年食ってるんすよ」天津はそう言ってくすくすと笑った。「月よりは、年上っす」天井に指先を向ける。

「――」時中は口を閉じ、

「え」結城は目を見開き、

「お月さまも、ヒエロファニーをなさるのですか」本原が質問した。

「そうですね。しますよ」天津は軽く頷く。「まあ……そんなに、強烈ではないですが」

「じゃあ、竹取物語のかぐや姫のお話は、実話なのですか」本原は、プレートテクトニクス理論だの珪藻岩だのががっくりと肩を落としそうなほど、今までになく真剣な表情と態度で熱心に興味を示した。

「あれは、まあ昔“何か”に遭遇した人たちが想像を巡らせて創作したものでしょう」天津は眉尻を下げながら説明した。

「それでは私たちもこれから“何か”に遭遇するのですか」本原は身を乗り出さんばかりに訊く。

「――」天津は言葉を失い、半歩退いた。

「何か、って?」結城が訊き返す。「まさか洞窟の中で、かぐや姫に出くわすってこと?」

「なるほど」時中が肩をすくめた。「それはさぞ楽しい『イベント』だろうな」

「ヒエロファニーです」本原が訂正する。「娯楽とかと同じに考えてはいけないと思います」

「そう、ですね」天津の声がぼそぼそとくぐもる。「まあ……可能性は、あると思います」

「――」時中はまた黙り、

「まじすか」結城は再び叫び、

「ああ」本原は感動の溜息をついた。

「思いますが、今のところはそこまで深刻に、その事に囚われる必要はありません」天津は両掌を三人に向ける。「何しろさっきも言いましたが、我々が全力で皆さんを保護しますのでね」

「――」時中は微動だにせず、

「あっそうか、そうっすよね、そうだそうだ」結城は大きく複数回頷き、

「え」本原は眉をしかめて不服を表した。

「あ……すいません」天津はたじろいだように本原に小さく謝った。

「それで、確実にそれはできるんですか、天津さん」時中が珍しく結城ばりに声を大にして訊いた。「あなたに」

「俺は信じる」結城もまた“デフォルト大”の声にて応じた。「天津さんを」

「はい」天津もいきおい声を高め、ひときわ大きく頷いた。「できます。やってみせます、必ず」

 

「キャパオーバー」

 

 突然、誰かがそう言った。室内はしんと静まり返り、それからそこにいる全員がそれぞれ左右を見回した。

「今の、誰が言ったの?」結城が訊く。

「私ではない」時中が首を振る。

「私でもありません」本原も首を振る。

「――」天津は黙って、瞳だけを左右に巡らせていた。何かに、警戒している様子だった。

「じゃあ、天津さん?」結城が研修担当社員に訊く。

「――いえ」天津は小さく首を振り、また左右を見る。

 だがそれきり、変化はなかった。

「え、今の声、何?」結城が眼をまん丸く見開き、ついには立ち上がる。「ヒエロなんとか?」

「ヒエロファニー」本原が言いかけ、

「鯰です」天津が答える。

 三人は一瞬黙り込んだ後「鯰?」と、完璧に声をシンクロさせて訊き返した。



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第8話 うちの上司が屁の役にも立たないんですが

「鯰って、あのナマズ? ぬめっとした奴?」結城が自分の体の周りを自分の両掌で撫でおろし、あたかも自分自身がぬめっとしているかのような表現をした。

「はい」天津は尚も周囲を気にしながら答える。「まあいってみれば、スポークスマンのような存在です」

「スポークスマン?」時中が、特にジェスチャーを交えるでなく質問した。「誰の? ……というか、何の?」

「地球のです」天津の答える声にはすでに、先程「やってみせます」と半ば叫んだ時のような張りもボリュームも失せていた。

「地球の、代弁者ですか」時中が確認し、

「はい」と天津が確定する。

「では今の『キャパオーバー』というのは、地球さまが仰った言葉だというのですか」本原が自分の胸に握り拳を当て質問した。

「いや、今のは多分、鯰の個人的な意見でしょうね」天津は苦笑した。「地球さ……地球がこんな瑣末なことに口出ししてくることはないですから」

 地球さま、と言いかけたところをみると、天津という男は人の影響を受けやすい、別の言い方をすればあまり確固とした“我”を持たない――少なくとも主張しないタイプの人間なのかも知れなかった。人間、だとしたならば。

「喋るナマズさま?」結城が叫ぶ。「あ、違った、喋るナマズ?」

 ナマズさま、とはっきり言ってしまったところをみるにしても、結城という男が“我”を持たない――少なくとも主張しないタイプの人間なのだとは誰一人思わなかった。人間、だとしたならば。

「はい、喋ります」天津は頷く。

「喋らなければ“スポークスマン”にはなり得ないだろう」時中が微かに鼻で笑いながら指摘する。

「けどナマズって」結城の声が裏返る。「魚じゃないの。魚が喋るって、変じゃないの」そして女言葉になる。

「今更、何が変なのかという話だ」時中は更に鼻で笑う。「大方これも“ヒエロファニー”の一つなのだろう」

「というか」答えたのは本原だった。「鯰の妖精なのだと思います」

 他の三人の男たちは、本原の意見に答えることができなかった。

 鯰の、妖精――“鯰”と“妖精”それぞれが持つイメージ、特に視覚に訴えるそれぞれのイメージが、三人の男たちの中ではどうあがいても符号し得なかった。鯰が妖精であるわけもないし、妖精もまた鯰になり得るとはどうあがいても思えないのだった。三人の中で符号し得ない情報は、カオスを構築する物質としてしか認識できず、それは平たくいえば

「そんなバカな」

としか、言葉に表し得ないものだった。

「ま」それはともかく天津は、研修担当として研修を先に進めなければならなかった。「まあ、そういった存在もいる、ということだけ知っておいてもらえればいいです。それじゃ説明の続きです――って、どこまで説明してましたっけ」

 無精髭の男は気弱げに笑う。

 ――また、エビッさんだな……

 気弱げに笑いながら、無精髭の研修担当は心中で苦虫を噛み潰していた。

 ――たく……頼むよー。

 

     ◇◆◇

 

「あふ……?」恵比寿は眠りから醒め、第一声をそのように発した。「……ああ……」

 そうか。また、酒に酔い潰れて寝てしまったのだ。

「……あー……」

 これは。

「……………………」

 しまった、……な。

 ふう、と頬を膨らませて溜息をつく。

 また、どやされるに違いない。

「……咲ちゃんにな」

 大山や天津はまだ、多少大目に見てくれる所があるのだが、木之花に甘えや期待は通用しない。あの、眼を細めて睨みつけてくる顔がもう見えている。

「それに大体若い者ってのは、若けりゃ若いほど自分に存在価値があるって信じて疑わないのよ」

 突然、鯰が大きな独り言を喋りながら恵比寿の陣地へ戻ってきた。

「あ」恵比寿はただ一言、というよりもただ一声、発した。

「社会に出る前の子供は、自分に大きな価値があり他に対する大きな影響力があるんだって当然のように思ってる」言いながら鯰は、鯰用にと作られた池の中を泳ぎまわる。「けれど社会に放り出されて一年また一年と年月を重ねるうち、思っていたほど自分には大きなインパクトも、世に与える影響力も、実はないんだってことを思い知らされていく」

「どこ行ってたの」恵比寿はぼそぼそと質問した。

「散歩」鯰はただ一言答える。

「もー」恵比寿は鯰を叩くような手振りをする。「頼むよー。俺が怒られるんだからさ」

「じゃあ怒られないようにしっかり見張っときゃいいのよ。自分の職務怠慢を棚に上げて『頼むよー』もへったくれもないってもんよ」鯰は立て板に水といった体でまくしたてるが、いつまでも喋り続けるということはせず、すっと物言いに幕を引く。

「――そんで、どこ行ってたの」恵比寿は首を引っ込めるようにして訊いた。「なんか、……見た、の」

「――」鯰はすぐには答えなかった。



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第9話 こんなこと言うと自慢に聞こえるかも知れませんげへへへ

「ほい」恵比寿はどこか気の抜けた掛け声とともに、鯰の池の水面に腰から下げた瓢箪をぽんと投げ入れた。

 一瞬、水面に黄金色の波がさわわ、と沸き立ち、それはすぐに消えた。後にはゆらゆらと、水面に瓢箪が長閑な風情でたゆたう。

「はは」鯰が水中でせせら笑う。「かるっ」

「うるさいなあ」恵比寿は口を尖らせる。「でも除けられないくせに」

「ふん」鯰は水中でぷいとそっぽを向く。「鹿島っちのやつの方がずっと重いし」

「わかってるよ、んなこたあ」恵比寿は頭の後ろに手を組んで大きく溜息をつきながら、オフィスチェアーの上にどかりと腰を下ろした。「あの人のんは特別製だし」

「鹿島っち、いつまで出雲にいるの?」鯰が訊く。

「んー」恵比寿は頭の後ろで手を組んだまま、壁のカレンダーに眼をやる。「二十五日までだったかな」

「なんか、いい加減だよね」鯰はまたしても嫌味を言う。「一応会社のくせに、そんなんでいいの? 報連相」

「あーもー」さすがの恵比寿も多少苛ついてきたようだった。「黙れ魚」そう言って缶入りのハイボールを取り上げ、呷る。それはすっかりぬるまっていた。「ていうか、鹿島っちいうな」恵比寿は眼を細めて池の水面を睨んだ、それは木之花の物真似だった。「心配しなくても、お前の好きな要石(かなめいし)がすぐにまたお前を抑えつけてくれるから」

「ふん」鯰はもう一度、池の水の中でそっぽを向いた。

 

「咲ちゃん」室内に入るなり天津は声を掛けた。「ちょっと、エビッさんの様子見て来て」

「どうしたの?」木之花は事務室内の掃除中のようで、片手に化繊のモップを持ったまま振り向いた。「出た?」

「ああ」天津は眉をひそめた。「鯰がうろついてるっぽい」

「は」木之花は短く嘆息した。「また飲んでるのね、あの人」

「鹿島さんいないとホント気ぃ抜くよね」天津は相変わらず眉をひそめたまま腕組みする。

「いても、気ぃ抜く」木之花はスチール棚の上にモップを放り投げ、つかつかと室を出た。「ちょっと行って来る」

「お願いしゃーす」天津はその背に敬礼をし、自分もまたすぐ研修室へと取って返す。

 

「天津さん、急にどうしたんだろうね」結城が、はるか遠くを見透かすように額に手をかざし、実際には三メートルと離れていないドアの方を見遣る。「研修再開したかと思うと突然『ちょっと待ってて下さい』って出てっちゃってさ」

「お手洗いではないでしょうか」本原が推測を述べる。

 時中は興味がないとでも言わんばかりに無反応だった。

「すいません、お待たせしました」直後に天津がドアを開け入って来た。

「ああ、大丈夫でしたか」結城が笑顔で迎える。「間に合いましたか」

「え?」天津はきょとんと眼を丸くするが、「あ、えーと、はい」と適当に頷いた。「では、始めましょう」

 

 ノックもなく、ドアは開いた。

 が、その前にドアの向こうから近づいて来ていたヒールの音で、恵比寿には分かっていた。これから、何が起こるかを。ハイボール缶を口に当てたまま、眉をひょいと持ち上げる。

「お疲れ」ひとまずそう声掛けする。

「三百年前を忘れましたか」木之花は腰に両手を当て仁王立ちになって言った。「恵比寿課長」

「ごめんごめんごめん」恵比寿は笑いを顔に貼りつかせたままひとまず缶を机に置き謝る。「もうしないから」

「今、ここでまた大災害が起きていてもおかしくなかったんですよ」木之花は、先程恵比寿が鯰に向けて物真似したのと同じように眼を細めた。「始末書で済まない事態が」

「あ、うん、ふむん」

「鹿島取締役がお戻りになるまでは、恵比寿課長が鯰を抑えておく責任を担っていらっしゃるんですからね。そのことを今一度弁えていただくようお願いします」木之花の言葉は忌憚なく、真っ直ぐに恵比寿の胸に突き刺さった。

「はい。はい」

「そもそも、業務中に飲酒というのは、懲罰とか厳罰とかいう以前にあり得ないことですよ、課長」木之花は、恵比寿が机の上に置いたハイボールの缶をびしりと指差した。「人間社会においては」

「ああ、うん。はい」

「それでうたた寝した拍子に瓢箪が池から引っ張り上げられて、鯰を自由の身にさせたと、つまり職務が蔑ろにされたと、そういう事ですね」木之花は決して感情に任せて声を大にすることはしない。冷静に、怜悧に、事実をありのまま述べる。

「うん……多分」

「恵比寿課長」木之花は背を向けたまま呼んだ。「今、三人の新入社員が研修中だっていうの、ご存知ですか」

「え」恵比寿はきょとんとした。「あ、そうなの? ははー」何かに納得したかのように、池を振り向く。「それでか」

「何がですか」木之花がにこりともせず訊く。

「いや、鯰の奴それで研修の様子を見に行ってたのかと思って」恵比寿は笑顔を浮かべて木之花に答えた。「若い者がどうとかこうとか言いながら帰って来たから」

「その新人研修が行われている最中、地震ではないですが“ゴツン”というかなり大きな衝撃が、走りました。ご存知ないですか」

「うそ……まじ?」恵比寿はさすがに冷や汗を掻いた。「全然、気がつかなかった」

「では恐らく、現象が起きたのは研修室内と事務室周辺のみの範囲だったのだと思われます。が、これは明らかに、課長の職務怠慢による“鯰解放”が原因の一つと推定できます。この点については、鹿島取締役と社長に報告を上げさせていただきます」木之花は最後にそう言い、くるりと背を向けた。

「えー」恵比寿は無駄と知っていながらもひとまず懇願の声で追う。「そこ何とか頼むよー。咲ちゃん」

「よかったですね」木之花は恵比寿に背を向けたまま言った。「鯰が帰って来てくれて」

「あ、……まあ、ね」恵比寿は視線をさ迷わせた。

「でも次は帰って来ないかも知れませんよ、永久に」

「……」恵比寿は口の端を下げた。「はい」俯きそう言うしかなかった。「気をつけます」

「お願いします」木之花はその言葉とともにドアを閉めた。

 ふう。

 恵比寿は、唇をすぼめて息をつく。

「三百年前、か」机の上のハイボールをじっと見る。「忘れるわけ、ねえじゃんかよ」眼を閉じる。

 

「閃け、我が雷(いかずち)よ」

 

 それが、あの時最後に叫ばれた言葉だった。叫ばれた――誰にか。それは当時の“研修生”であり“新入社員”であった、若者だ。否、当時はそんな呼び方をされていなかった。

 ――確か“人足”とか呼ばれてたな……

 その若い男は、それを叫んだ直後、岩に呑まれた。ほんの、瞬きする間にだ。あの時も、自分の飲酒、うたた寝のせいで鯰は池から脱け出したのだ。

 だがそれが惨事の直接の原因ではないという結論になり、恵比寿は責任を問われることもなく、その身分は護られ、今に至る。それは、鹿島取締役が尽力してくれたお陰だ。恐らく皆、自分が鹿島のお陰で課長の椅子にふんぞり返ってのうのうと酒を喰らっているものと思っているのだろう。

 ――そんなわけ、あるか。

 恵比寿は小鼻に皺を寄せ唇を尖らせた。

 一日だって忘れちゃいない。忘れちゃあいないが、せめて真正面からそいつとぶつかり合うことを避けるために、今日も呑んだくれているだけだ。

 

     ◇◆◇

 

「我々のもとに、イベントの予約申請が届きます」天津はホワイトボードにマジックで書き記した模式図を指の第二関節の外側でコンコンと叩きながら説明した。「そして基本的には届いた順番に、我々が訪問してイベントを執り行います」

「一日何件ぐらい来るんですか、申請というのは」時中がいつものように先陣を切って質問する。

「そうですね、まあ大体一日に一、二件とかそれぐらいです」天津は小首を傾げる。「ぶっちゃけ、そんなに大量に需要があるわけのものでもないです」

「他にも競合会社がいるんですか」時中の質問は続く。「同業他社が」

「――はい」天津は考え深げにゆっくりと頷く。「けどまあ、実質うちがその道一番の専門業者といえると思います」

「というと」時中が顎をつまむ。「他社はそのイベントの専門ではなく、言葉は悪いですが“もののついで”にイベントまでやっている、という形ですか」

「はい」天津は頷く。「イベントにかかる力においては、うちが他社に劣ることは決してないです」

 

     ◇◆◇

 

「新入社員か」恵比寿は再び、ぬるまったハイボールの缶を取った。「今度ぁ、俺は会わない方がいいな……」独り呟く。

 そう、下手にかかずらわって、下手に情なんか沸いた日にゃ、たまったもんじゃない。もう、部下を失う悲劇なんか、まっぴらごめんだ。



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第10話 君、死に給え。事勿れ

 がちゃ、と再びドアが開く。振り向くよりも早く、その声は耳の中に飛び込んできた。「君、何を飲んでいるんだね」

 そして両肩を背後からがっしと掴まれる。恵比寿の体はがくん、と前後に強く揺さぶられた。

「お」

「どこから持って来たんだね、そのハイボールは」次に頭の真上からその声が降ってきた。

「――あそこ」恵比寿は肩を掴まれたまま、右腕を伸ばし部屋の片隅にある小型冷蔵庫を指差した。

「む」肩から手が離れる。「ここか」次にその声が聞こえたのは冷蔵庫の前からだった。次の瞬間、がちゃがちゃと庫内の瓶缶類のぶつかり合う音がし、そして「これか」という声が続く。

「あ、俺にも一本、お願いっす」恵比寿は冷蔵庫を差した指をそのまま上向きに立て直して依頼した。

「ん」そう答える声の主は既に、缶チューハイの一口目を飲んだところだった。「おんなじやつ?」

「いや、チューハイのいちごのやつあるでしょ」

「いちご?」闖入者は驚愕の声を挙げた。「甘いの?」

「いや、飲んだことないからわかんないけど」恵比寿はさきほど掴まれた肩を竦める。

「まじか。これか」闖入者は顔の右半分をしかめつつ請われた飲料を恵比寿の元へ持って来た。

「あざっす」恵比寿は受け取り、それからやっと「お疲れっす、社長」と挨拶した。

「君、社長をこき使ったね」大山は顎をぐいと持ち上げて恵比寿を上から見下ろした。「私はこの会社の長であるぞ」

「咲ちゃんから報告来たの」恵比寿はぷしゅ、と缶を開けつつ訊く。

「なんか怒ってたぞ。まあいつもの事だけど」

「そんで、注意して来るとか言ってサボりに来たわけね」

「――」大山は特に答えもせず、チューハイをぐびぐびと飲む。「俺って、偉いんだって」ふうー、と長い吐息を天井に向けてつく。

「そりゃあそうでしょ、社長だし」恵比寿は笑い、いちごチューハイを飲んで更に苦笑する。「あめー」

「天津君が言ってたの」大山は木之花ばりに腰に手を当て更に飲んだ。

「えーえー、あたしらはこき使われる側の小間使い、鯰番ですよ」

「まあまあ」大山は恵比寿の肩を片手で掴み「日々の業務に感謝しております」頭を下げる。「鹿島さんにも言っといて」

「自分で言いなさいよ」恵比寿はまた苦笑する。「それはそうと、また新人来てるんだって?」

「ん」大山は缶から一口呑みつつ声だけ返し、少し置いて「うん」と小さく答えた。「また」

「大丈夫そう? どう?」

「うーん、俺まだ入社後面談してないから何とも言えないんだけど、天津とか咲ちゃんからの話によると」

「うん」

「――期待はするなって」

「えー」恵比寿は声を高めた。「じゃ今回もダメそうだと?」

「いや、そういう意味じゃなくて」大山はまたチューハイを飲む。「普通に、淡々と“事”を進めて行った方がいいってさ」

「ああ」恵比寿は小さく頷き、追ってチューハイを飲み「淡々とね」溜息まじりに繰り返す。

「まあ、まだ机上研修の段階だからね」大山は笑う。「実際に現場に入ってみないとわかんないよ」

「ま、そうね」恵比寿は肩を竦める。「けど今回、俺は会わないよ」

「ん」

「新人に」

「なんで?」

「――なんでも」

「――そうか」大山は何か思い当たる節でもあるように、それ以上は問わず、男神二柱は揃って酒を呷りつづけた。

 

     ◇◆◇

 

 最初に三人には、それぞれの唱えるべき「呪文」が配布された。それはやはりA4サイズのコピー用紙に印刷された、現代風に素朴なものだった。

「はい、ではそれぞれまず目を通していただいて、それから一人ずつ、それぞれの呪文を読み上げていっていただきます。順番は、時中さん、本原さん、最後に結城さんとなります。では、お願いします」天津は一通り説明を下し、それから時中に手を差し出して促した。

「閃け、我が雷(いかずち)よ」時中は手許の紙に視線を落として読み上げた。

「迸れ、我が涙よ」天津の手が自分の方に向けられたのを見て、本原も読み上げた。

 天津は最後に、結城にその手を向け促した。

「開け、我がゴマよ」結城も読み上げた。

「はい、ありがとうご」

「ゴマ」結城は天津の言葉を遮って目を剥き叫んだ。「ゴマっすか。いや俺ゴマとか持ってないっすけど。我がゴマって」

「ま、私も雷を持っていないと言えば持っていないが」時中が言った。

「でも、脳などで発生する電気信号を、雷と例えても良いのではないでしょうか」本原も意見を述べた。

「じゃゴマは? 臍のゴマ?」結城は二人を交互に見た。

「いやだ、汚い」本原が眉をひそめた。

「――」時中は小鼻に皺を寄せ目を細めた。

「いや、何言ってんのよあんた達。臍のゴマってあれ、服の繊維なんだから全然汚くなんかないわよ」結城は興奮した時の癖で女言葉になった。

「ええと」天津は気弱げながら話を先に進めることを目指した。「結城さん、あなたにはそれを唱えながら、特定の箇所にローターを挿し込んでいただきます」

「え」結城はとたんに声を比較的落とし、天津に注視した。「ローターを、挿し込む? 本原さんに?」

「君、死にたまえ」時中が間髪を入れず結城に告げた。「死なないのなら私が殺してやる」

「いえ、えーとあの、岩の壁に穿たれた、規定の穴の中にです」天津はまたしても場の空気を両手で押えなければならなかった。「まあ、今はまず、呪文、ワードの方だけ憶えていただければ」

「これで何が起こるんですか」本原が顔色一つ変えず質問をした。

「はい、まずこれで、鉱物粒子の間隙を広げます」天津がマジックを取り、ホワイトボードに楕円と、その中に小さな丸をいくつか描いた。「時中さんのワードで粒子間の有機物が消され、本原さんのワードでその空間に水が流れ込みます。その結果粒子間の距離が開き、最後に結城さんのワードと、ローターによる振動によって、岩が開きます」説明しながらホワイトボードの盤面には、有機物、水、といった名をつけられた丸が描かれそしてバツ印で消されていく。

「まじすか」結城が叫ぶ。「すごいっすね、ワード」

「しかし言葉で説明すると簡単に聞こえますが、これは相当難しい仕事になります」天津は数々の丸の描かれたホワイトボードを指でコン、と叩き注意を促した。「まあ当然といえば当然ですが、岩はそう簡単には開いてくれません」

「私もそう思います」時中が平常と変わらぬ声で返した。「というか、どんなに頑張ってワードを唱えたところで、一ミリたりとも開く気がしません」

「そこです」天津はマジックを握り込み、指揮棒のように一振りした。「そういった気持ちが脳内にある限りは、恐らく永久に開いてくれないでしょう」

「ではどういった気持ちになればよいのですか」本原が訊ねる。「信じる気持ちですか」

「というよりも、知識と、意識です」天津は答えた。

「知識と」時中が呟き、

「意識?」結城が叫び、

「まあ、素敵」本原が溜息混じりに囁いた。

「はい」天津は頷く。「まず岩石、地殻、さらには地球というものに関する知識を、脳で覚えるというよりも、血肉として身につけてください。その上でそれら、我々が対峙する岩石、地球というものの存在を、鉱物粒子のレベルで動かすことを、明確に意識してください。そこに我々の神力がほんの少し加われば」天津はそこで言葉を切り、三人を見回し、「岩は、開きます」と言った。



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第11話 魔界への扉を開けてしまったかのような緊迫感も特には

 泥のように眠って眼醒めた朝だった。

 泥――泥岩のように? シルト岩のように? いっそホルンフェルスになっちゃおうかな。結城はぼんやりとベッドの中でそんな事を思い、ぼんやりと笑った。

 昨日までに受けた研修の内容――ノートやテキストに書かれたものを、彼は夜遅くまで熱心に頭に叩き込んでいた。岩石についての知識、イベント時に唱える呪文、儀式の手順、まずまずのところ自分の身についたと言えるだろう。

 だがまだ、机上研修が終わったばかりだ。まだまだこれから、現場の研修において多大なる事柄を学んでいかなければならないのだ。

「よし」結城はベッドの中で力強く頷き、しばらくそのまま静止し、目を閉じ、十秒後にごろりと右向きになり、しばらくそのまま動かなかった。

 

 すう

 

という己れの寝息の音に彼はハッと眼醒め、マットに手をついて体を起こした。目醒し時計は五分経過を示していた。

「うわー、危ねえ」結城は目をこすりながら立ち上がった。「もう少しで泥のように二度寝するとこだった」

 

     ◇◆◇

 

「今日から実技研修となります。まず今日と明日は実際の現場ではなく、練習用として設置された洞窟に入り練習をします。そして明後日から実際の現場での研修、つまりOJTとなります」天津は研修室で三人に説明した。

 結城、時中、本原三人の新入社員らには、ライト付きゴーグルと大きなハンマーが渡されていた。

「練習用の洞窟って、どこにあるんですか」時中が訊く。

「この、地下です」天津は床を指差して答えた。「専用のエレベータで降りて行きます」

 天津は先立って部屋を出てゆき、三人はそれに従って廊下を進んだ。

「いやあー、わくわくするなあ」結城が肩を上下させながら興奮気味に言う。「海に潜る時みたいなワクワク感だよ」

「そういえば結城さんは、スキューバダイビングをなさるんですよね」天津が肩越しに振り返り訊く。

「はいっ」結城は大きく頷く。「この辺の海はもう、私の庭のようなものでして」

「あまり海を荒らさないでね。皆が困るから」本原が結城の話を遮り忠告する。

「あ、もちろん、そんなことはしませんよ」結城は手を振りながら笑う。「ちゃんとルールを守った上で」

「人間のルールだけじゃダメなの」本原はにこりともせず更に忠告する。「海には海の世界のルールがあるの」

「あ、……海の、世界?」結城は目を丸くして訊き返す。

「海の中にはクーたんが棲んでいるの」本原が、真剣至極な顔で言った。

「クーたん?」結城は大きな声で訊き返した。

「クーたんは海の世界の平和と秩序を守るために日夜活躍しているの」頷きもせず無表情のまま、本原は淡々と説明した。「泡の魔力で敵と闘うの」

「魚?」結城は目を丸くして再び訊いた。

「違う。クーたんは海の守護を司る汎精霊」

「反省礼?」結城はみたび訊いた。

「よく対話し続けられるな。まともな神経じゃない者同士だからか」時中の声に結城が振り向くと、彼は歩きながらゾディアックのように眉間と額に忌々しげな皺を深く寄せていた。

「えーと、このエレベータから降りて行きます」天津の声に結城がもう一度前を向くと、いつの間にか一同はぽつねんと存在するそのドアの前に到着していた。

 天津が壁のボタンを押すと、ドアはすぐに左右に開いた。見たところは普通の、どこにでもあるようなエレベータだ。ただその行き先が、通常ではないものだ。洞窟につながる、それはエレベータなのだった。

 しかし乗り心地といい内部の様子といい、見た目はどこまでも普通の、どこにでもあるようなエレベータだった。とはいえ地下へ降りてゆくまでの時間は、さすがに長く感じられた。エレベータはどんどん下っていく。

「何分ぐらいかかるんですか」時中がまたしても質問する。「研修用の洞窟まで」

「そうですね、練習用なのでまあ、二、三分程度でしょう」

「じゃあ実際の現場に行く時はもっと時間がかかるのですか」本原が問う。

「長くかかるところもあれば、そんなにかからないところもあります」天津は説明する。「あ、ちなみにトイレはなるべく事前に済ませといて下さい。中に設備がないわけでもないのですが、行ってる余裕がない事もありますから」笑う。

「余裕、とは」時中が突っ込む。「時間的な余裕ですか、それとも精神的な」

「――えーと」天津は薮蛇といいたそうな表情を垣間見せつつも「まあ、最初は両方、でしょうかね……」ともぐもぐ答える。「皆さん緊張するでしょうし」

「うん、確かにそうですね」結城は大いに納得の声を挙げた。「本原さん、トイレは大丈夫かな」

 本原は答えず、エレベータはその直後減速しゆっくりと止まった。ドアが左右に開く。

「おおっ」結城が叫ぶ。

 だがそこはただのエントランスで、いきなり岩盤が口を開けて三人を待っているわけではなかった。小さな、ビルのロビーと似た空間だ。

「このドアの向こうから、洞窟になります」天津がまた先に立ち、スチール製と見えるドアのノブを握る。「それでは皆さん、参りましょう」そして天津はドアノブを内側に引いてドアを開き、外へ出てから三人に振り向き頷いた。

 出てみると、思ったほど広くはなく、幅三メートルもあるだろうか、ごつごつとした岩に囲まれた道が先へと続いていた。

「こんなところでイベントが行われるんですか」先頭に立った結城は、質問した。

 すぐに天津が返事をしてくれるものと思っていたが、誰の声も聞えない。不思議に思い振り向くと、三人とも各自の耳を両手で塞いでいた。

「すみません、結城さん」天津が申し訳なさそうに、だが眉をしかめつつ結城に答えた。「ここは狭い洞窟の中ですので、音声が反響してしまいます。できればお声はもう少し小さく、控えていただければと」

「あ」一瞬、また普通の声で返事をしそうになったが、修は慌てて「控え」た。「すいません」

「いえ。ええと、イベントは、はい、もう少し進んだところで行われます」天津が取り繕いの笑顔で説明した。

「実際のイベントには、何人参加するんですか」時中が続いて質問した。

「基本的には、皆さんのみです」天津は三人を手で示した。

「我々」結城が訊き返しかけ、

「うるさい」本原がさえぎった。



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第12話 ノットコミュニケーション バットネットワーク

「来た」鯰が言った。

「何が?」恵比寿は訊いた、が、大概予測はついていた。「新入社員?」

 しかし鯰は答えない。池の中で身をくねらせ、向きを変えて泳ぎ続ける。

 ふ、と短い溜息をついて、恵比寿はまた壁のカレンダーを見た。鹿島が戻ってくるまで、あと二日だ。それまでは、先日のような失態なく責任を持って鯰をここに留めておかなくてはならない。新入社員たちへの、自分からせめてもの『支援』であり、まあいってみれば『入社祝い』のようなものだ。

 顔を合わせたり話をしたり、繋がりを持つ気は――今回は――ないのだが、それぐらいはやってやろうと思う。その決意がどれだけ強いものかというと、あの日以来恵比寿は社内で酒を呑んでいない。一滴たりともだ。それほど、彼の決意は固かった。

 とはいえ、まだ二日目だった。

 

「出たか」大山も彼のオフィスの中で一人呟いた。「現場に」

「練習用のですけどね」木之花が彼女のオフィスから返事を返す。

 それぞれのオフィスというのはつまりそれぞれの使う事務机周辺ということなのだが、彼らは好んでその空間を「陣地」と呼んだ。

「けどなんやかんやで、実際の現場と繋がってるわけだからね」大山は彼の陣地の中で肩を竦めた。「油断はできないよ」

「縁起でもないことを」木之花が彼女の陣地の中で苦笑する。「まあ今は緊張するばかりで、何が起きても起きなくても衝撃を受けるでしょうね」

「あー、見に行きてえ」大山が彼の陣地の中で笑う。「面白そう」

「社長」木之花は彼女の陣地の中で眼を細める。「お仕事なさって下さい」

「あーい」

 

「この先天井が低くなりますから、頭を打たないように気をつけて下さい」天津が肩越しに振り返りながら告げる。

 新入社員たちからの返事の声はなかった。彼らは、何処とも知れぬ洞窟の中を、息を切らしながらただ歩き続けていた。額にかけたゴーグルの上から、白い光が数歩先を照らす。だがその先は不気味な闇が続くのだ。足許の道も、平坦な部分など皆無で、常に上るか下るか、跨ぎ越すかしなければならなかった。

「あと、どれぐらい歩く感じですか」結城が荒い息の中質問した。

「もう少しです」天津はにこりと微笑んだが、その回答は数分前、時中が異口同音で問いかけたときのものと同じだった。「川がありますので、それを越えた所になります」

「かわ?」結城は息を切らしながら訊き返した。

「はい」天津は前を向いたまま頷く。「小さい川ですけどね。ただ水はかなり冷たいので、足を踏み入れたりしないように注意して下さい」

「わかりました」本原が息を切らしながら返答する。

「その川の水、飲めますか?」結城は訊いた。

「うーん」意外なほどに天津はその問いに対して考え込み始めた。「まあ、天然ミネラル水といえばそうなんですが……うーん」

 

「やめといた方がいいよ」息を切らしていない声が、どこからか小さく聞こえた。「若い者は体が弱っちいから」

 

「え?」結城が足を止め、きょろきょろと周りを見回す。「誰の声?」

「――」時中はゴーグルの下の眉をひそめる。

「――」本原は両手で口を覆い音を立てて息を呑む。

「――」天津は若干不服そうに唇を尖らせたが、すぐに振り向き「まあ、そうですね。飲まない方がいいと思います」と答え、笑顔を見せた。

「今のは、地球さまのスポークスマンのお方のお声ですか」本原が息を弾ませて問う。「この間の、『キャパーオーバー』の」

「――」天津は口の端を引き下げて本原を見た。「……そうですね」小さく答え、それから岩天井を心配そうに見上げる。

「鯰(なまず)、ですか」時中が問う。

「――はい」

「どうして鯰には我々の事がわかるんですか」時中がさらに問う。「どこかから我々を見ているんですか」

「――」天津は片眉をしかめて時中を見る。「池の中から、です」

「いけ」結城が問い返しかけ、

「うるさい」本原がさえぎった。

「多分、池の中、です」天津は苦笑した。「うちの課長がちゃんと見張りをしてくれていれば」

「どういう事ですか」時中がまた問う。

「ええ、その事についてはまあ、また機会を見てゆっくりご説明します」天津は手で洞窟の奥を示した。「今は、練習場まで行きましょう」

「鯰というのは我々の敵なのですか」時中は更に問う。「我々の研修を邪魔立てしようとしているんですか」

「いえ、それはないです」天津は前を向いたまま首を振る。「ただ、まあ……お喋りが過ぎるところがあって」

 

「叫ぶよ」

 

 鯰の声が唐突に割って入る。

「うわ」天津が肩を竦め両手で耳を塞ぐ。「やめろ」

「え?」結城がまたきょろきょろと見回す。

「――」時中も眉をひそめて左右に眼を走らせる。

「――」本原は両手で口を覆い、息を呑む。

「冗談さ」鯰の声は面白くもなさそうに続けた。「今は恵比寿っちが起きてるからね」

「ああ……」天津は耳から手を離した。「なんだ」溜息交じりに言う。

「恵比寿っちとは誰ですか」時中が質問を続ける。「さっき仰っていた、課長の名前ですか」

「はい」天津はうな垂れるように頷いた。「鯰が池から逃げ出さないように、瓢箪で押えてくれているんです」

「ひょうたん」結城が問い返しかけ、

「うるさい」本原がさえぎる。

「本来は、鹿島取締役が要石(かなめいし)という道具で押えているんですが、今鹿島さんは出雲に出張に行っていて、その間恵比寿課長が代りに瓢箪で押えているんです」

「おお」結城は感動したような声を挙げた。

「押えていないとどうなるんですか」時中が訊く。

「岩盤が、不安定になります」天津は背で答え「川です。足許気をつけて」と言い振り向いた。

 

 ちょろちょろちょろ

 

 川、と称するには程遠いくらいの、細く頼りなさげな水の流れが、三人の新入社員の視界に入った。

「じゃあ、あれですね」結城が、先に川を跨ぎ越す天津に続き脚を目いっぱい広げて跨ぎながら言った。「今我々がこうして無事に研修できているのも、その恵比寿課長のおかげというわけなんですね」

「――」天津は少し驚いたように眉を持ち上げ結城を見た。

「我々は護られていると、そういう事なんですね」結城は顔中で笑って見せた。

「――はい」天津は頷いた。

 だらしなく椅子の背もたれに寄りかかり、缶チューハイを片時も離さない、中年の締りの欠けた男神の姿出で立ちが浮かぶ。だがその男神に対してそのような、感謝の念とも取れる思いを持つ者に、初めて出会った気がした。

 結城の背後で、本原が、そして時中が川を跨ぎ越して来る。

「恵比寿課長、ありがとうございます」結城は両手を合わせ目を閉じて首を垂れた。「皆も言おう。はい。恵比寿課長、ありがとうございます」

「恵比寿課長、ありがとうございます」本原が両手を合わせ復唱するが、表情には一変もなかった。

「――」時中は手を合わせることも首を垂れることも一切行わなかった。

「はは」天津はなんだか自分が礼を言われたかのようにくすぐったい気分になった。

「届きますかね、我々の感謝の気持ちは」結城は岩天井をぐいと見上げて言った。

「ああ……そうですね」天津は頷く。「鯰が、伝えてくれるでしょう」

 

     ◇◆◇

 

「ふん」鯰は池の中でぷいと横を向き、すいすいと蛇行して泳いだ。

「ん」恵比寿は顔を上げ池の方を見た。「何」

 鯰は何も答えず、ただ泳ぎ続けた。恵比寿はしばらくそれを見ていたが、矢庭に背を伸ばし肩を回し首を回し、腰から上体を左右にひねった。

「退屈なんでしょ。呑めば?」鯰が池の中から言う。「酒」

「――」恵比寿は答えに詰まり、しばらく息をすることも忘れ固まっていた。

「あんな、知りもしない新人なんて、どうだっていいじゃん」鯰の声は続く。「別に義理立てする必要なんかないよ」

「――」恵比寿はちらりと、部屋の片隅の冷蔵庫を見る。

 昨日、一本も開けていないから、あとビールが九缶と、チューハイが十三缶と、ハイボールが六缶……つまみはサラミとスモークチーズと、ナッツ類がなんかあったっけ――

 

「恵比寿くん」誰かが呼ぶ。

 

 恵比寿はハッと眼を見開いた。きょろきょろ、と辺りを見回す。だが誰もいない。

「鹿島さん?」そっと呼び返す。

 だが返事はない。しばらくの沈黙の後、恵比寿はふ、と短い息をつき、立ち上がってコーヒーを淹れた。

「ちっ」鯰は池の中でぷいっと横を向き泳いだ。

 ――あー、叫びたい。

 そんなことを、鯰は泳ぎながら思った。

 ――けゃー

 心の中で叫んだつもりになってみる。だがそれは飽くまで“つもり”であって、鯰の叫びは今は完全に封じられていた。



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第13話 夢もロマンもへったくれも身も蓋も元も子もない

「ではここで、イベントの手順を実際に行っていきます」天津は三人の新入社員に告げた。

 川を越えたところは、それまで辿ってきた岩の道よりも幾分広い、小部屋のようなスペースとなっていたが、広大とまではいえない。大人が五人以上一緒に佇めば窮屈だと感じるくらいの空間だ。

「大雑把に説明すると、まず岩を開き、そこから入り込み、しかるべき動作を行い、それからまた出て来て岩を閉じます」天津は言葉通り大雑把な説明をした。

「時間の目安はどのくらいですか」時中が質問する。

「まあ……スムーズにいけば、ものの一、二時間で済むでしょう」天津は眼を閉じ思慮深げな表情で答えた。

「スムーズにいかなかったら?」結城が続けて訊く。

「最悪長い時は、数日を要するときもあります」天津は声を低め、そっと答えた。

「数日」結城は思わず声を高めたが、空間が若干広まっているためか本原から遮られることはなかった。「なんでまたそんなにかかっちゃうんですか」

「例えば、岩がなかなか開かないとか」天津は周囲をぐるりと見渡した。「開いても中に入り込むまでに時間がかかるとか、動作に時間がかかるとか、あと中々」そこで何故か、あ、と口を押さえる。

「中々、出られない、とか」時中が推測し続ける。

「――まあ、まずはやってみましょう」天津は取り繕いの笑顔で頷く。

「岩の中に入った時、何か起きるんですか」時中は質問の矢を止めない。「或いは誰かが、いるんですか」

「岩の精霊?」本原が食いつく。

「いる、かも知れませんし、起きる、かも知れません」天津は例によって曖昧な回答をする。

「私らはその“かも知れない”ものに対して、何をすればいいんですか」時中は問う。

「そうですね」天津は視線を落とし、言葉を選ぶ。「要は、仲良くなっていただきたいです」

「仲良く?」三人の新入社員は声をシンクロさせ、それは洞窟内にシンクロの状態でこだました。

「はい」天津は頷いた。「仲良くなる必要が、あるんです」

「仲良くなる……誰と?」時中が訊く。

「世界と」天津は答える。

「世界」結城が復唱する。

「……としか、言いようがない、ですね」天津は情けなさそうな顔で笑う。「なんと言ったらいいのか」

「森羅万象と、という事ですか」本原が訊く。

「そう、ですね……ありとあらゆる、有象無象、生物無生物、そういうの取っ払って……すべてと」

「そのための、イベント」結城が確認する。

「はい」天津は考え深げに頷いて答えた後「じゃあまず、皆さんにお渡ししたハンマーを取り出して下さい」と指示を与えた。

 三人の新入社員は腰のベルトに差したハンマーを抜き取った。

「それを使って、これから岩の“目”を探っていきます」

「目?」結城が訊く。

「はい。最初はコツも要領も分からないでしょうから、どこか適当な箇所をこのようにゆっくり叩いて下さい」天津は岩壁を、自分のハンマーでこつこつ、と静かに叩いた。「あまり大きな音を立てないようにして」

 すでに頭上にハンマーを振り上げていた結城はぴたりと止まり、ばつが悪そうにその手を肩の高さまで下げてこつこつ、と天津のように叩いてみた。

 

 こつこつ

 こつこつ

 こつこつこつ

 

 三人が適当な場所を適当に叩く音が、洞窟の中でしばらく続いた。

「しばらく叩いてみて何の反応も見られなければ、別の場所に当たってみて下さい」天津は再び指示を出した。

 三人は移動し、再び岩壁を叩き出す。再び、洞窟内にこつこつと音が鳴り渡る。場所を変え、叩き、また場所を変え、叩く。

 どれほどの時間、それが続いただろうか。

「反応って、どういった反応が見られるんですか」時中が叩きながら訊く。

「色々です」天津は小首を傾げながら答える。「音がする時もあれば、色が変わる時もあれば、匂いがする時もあります」

「へえー」結城は驚いて振り向く。「岩の匂いがするんですか」

「はい」天津は微笑む。「花のような甘い匂いがすることもあれば、糠床のような匂いがすることもあります」

「なぜそんなに差が出るんですか」本原が訊く。「日頃の行いのせいですか」

「いや」天津は真顔になり小首を傾げた。「それはまだ解明されていないんですが……まったくのランダムなもののようには思えます」

「気にすることはないよ、本原さん」結城が笑顔を本原に向ける。「たとえ日頃の行いによるものだとしても、まさか本原さんが叩いた時にくさやみたいな匂いとかはしないよ、ははは」それから思いついて「くさやのクーたん、なんてね」

 これまでほとんど表情を変化させたことのない本原が、その時初めて目を見開き歯を噛み締め、憤怒の形相をもってハンマーを頭上高く振り上げた。

「よせ、本原さん」時中が叫び、

「落ち着いて」天津が本原の、振り上げられた腕を掴む。

 本原はすぐに落ち着きを取り戻し、ハンマーを下に下げた。

「この男の話をまともに聞いちゃ駄目だ」時中が眉をひそめ忠告する。「人生の無駄遣いになる」

「わかりました」本原は無表情に答えた。

「おほー、びっくりしたあ」結城は眼を丸くし首を振る。「ごめんごめん、冗談だよ」

 本原は結城に目もくれず、再び岩壁をこつこつと叩き始めた。時中が続き、最後に結城が肩を上下した後、続く。

 

 こつこつ

 こつこつ

 こつこつこつ

 

 岩の叩かれる音が再び洞窟内に鳴り出す。

「よかった」天津はこっそりと息をつく。「もう少しでクシナダがスサノオを殺すところだった」

 その囁きは、三人の耳元までは届かなかった。



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第14話 指図をするというストレス、指示待ちするだけという小狡さ

 新入社員たちは地道にこつこつと、またこつこつと、岩壁を叩き続けた。皆の口から出る言葉は、元からそう多くあるわけではなかったが、それでも次第にますます減ってゆき、ついには

 

 こつこつ

 こつこつ

 こつこつこつ

 

という音だけが、宇宙開闢のときから未来永劫に到るまでただその音だけがこの世界にあったかのように、耳と、脳と、全身とに感知され続けた。

 だが遂に、そこに変化が現れた。

 

 がらっ

 

 それはそういう音だった。全員が瞬時に振り向く。その視線の先には結城がいて、結城の右手にはハンマーが握られており、反対の左手は岩壁に触れており、そして彼の体の前面で土煙が、彼のゴーグルのライトの光の中でもよもよと浮かびあがっていた。

「おっ」最初に声を挙げたのは天津だった。「何かゲットしましたか」

 結城は眼を真ん丸くして振り向く。「先生、これは何でしょう」

「どれ、おお」天津はすぐに傍へ駈けより、そしてすぐに感嘆の声を挙げた。「身代わり土偶ですね」

「身代わり土偶?」三人は声をシンクロさせ訊き返した。

「はい」天津は多少興奮気味に眼を輝かせて頷く。「いにしえの時代、人に災厄が降りかかるのを避ける為に身代わりとして使った、呪術アイテムです。びっくりするほど高価ではないですが、まあまあの値で売れますよ」

「売るのですか」本原が、岩壁の奥に上半身だけを斜めに覗かせている人型の土器から視線を外し、天津に振り向いて訊く。「私たちの身を護る為に使うのではなく」

「あ、ええそれはどちらでも」天津は慌てたように何度も細かく頷く。「ご判断にお任せして」

「売るとしても、誰に売るのですか」次に時中が振り向き訊く。「古物商? というか、どこかの研究機関に提出したりしなくても良いのですか」

「ああ、それでももちろん構いません」天津はまた頷く。「売る場合は古物商ではなく、マヨイガに売ります」

「マヨイガ?」三人は声をシンクロさせて訊き返す。「迷子になった蛾ですか」結城が一人続けるが、他の二人は彼を振り向きもしなかった。

「ではなく、迷子の家、ですね」天津は眉を八の字にして微笑む。「あっちこっちうろうろしてます」

「家が?」三人はまたシンクロで訊く。

「はい」天津は普通に頷く。「たまに、遭遇します」

「どこで?」結城が訊く。

「洞窟の中の、どこかで」天津が答える。

「移動してるんですか」時中が訊く。

「そうですね」天津が答える。

「生き物なのですか」本原が訊く。「お話をしたり、なさるのですか」

「話したりはしません」天津は首を振り「生き物……うーん、微妙ですね」次に首を傾げる。「まあ、死んではいない、かと」

「死んでる家ってどういう家ですか」結城が思わず声を高める。「ホラーだなあ」

 

「うるさい」

 

 突然、声が聞こえた。全員、動きを止め押し黙る。

「いい加減にしてよ、女みたいにぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、ここ洞窟なの、声めちゃくちゃ響くのよわかんないの? うるさいにも程があるのよ」それは女の声、だが本原のものではなかった。

「あ、す、すいません気をつけますー」そして答えたのは天津だった。「じゃあ、どうしますか、あの土偶掘り出して持っときますか?」声を潜めて三人に問いかける。

「え、どっちでもいいんですか?」結城が彼の中では最小レベルの音量で訊き返す。「って、今喋ったの誰っすか? あの土偶?」

「そう、ですね」天津はちらりと横目で土偶を見遣る。「土偶自身なのか、或いは鯰(なまず)が腹話術してきたのかは不明ですが」

「へえー」結城は驚いて口をすぼめる。「やるな、鯰」

「持って行きましょう」本原が真顔で告げる。「私たちを護ってくれるものならば」

「お、そうする? よーし、じゃあ俺が」結城が颯爽と土偶に近づく。

「あ、気をつけて」天津が慌てて後を追う。

「大丈夫ですよ。まさか土偶の眼からビームが出るとかじゃないでしょう? ははは」結城は振り向き、彼の中では普通レベルの音量で軽口を叩く。

 途端、土偶の眼から白い光線が走り対面の岩壁に当たって一部を破壊した。

「あつぁっ!!」結城は叫んで光線のかすめていった左耳を両手で抑えた。

「大丈夫ですか」天津が眼を見開いて結城の肩を支える。「何をするんですか、危ない」土偶に向かって抗議する。

「とても我々を護ってくれる存在とは思えない」時中が首を振る。

「真面目に仕事する者なら護るさ、もちろん」土偶が冷たく言い放つ。「いいかお前ら、これは仕事だからな。忘れるな」

「わかりました」本原が深く頷く。

「俺だって、わかってるけど」結城は口を尖らせていまだ耳をさすりながらこぼす。

「それからお前」土偶の声が高まり、全員が一瞬肩をぴくりと震わせた。「指導者ならもっときちっと、めりはりつけて指示しろ。さっきから黙って見てりゃ、こいつらの好きなようにだらだら任せやがって。だらしないぞ。ぴしっとしろ」

「は、はい」天津が背筋を伸ばして返事する。「すいません」

「うわあ」結城が首を振る。「すげえ体育会系だ」

「つべこべ言わずにさっさと岩眼を探れ」土偶がなかば怒鳴る。「日が暮れるぞ」

「はい」全員がつられて声をシンクロさせ返事した。

「そ、それじゃ、効率よく進めるために叩き方を指示します」天津が人差し指を立て今更ながら指示を出した。「一箇所を五回、叩いて何も変化がなければ五センチ右横に移動してまた五回、叩いて下さい。ええと時中さんが地上一・七メートルの位置、結城さんが一・五メートルの位置、本原さんは一・三メートルの位置でそれぞれ、右横に移動しながら叩いていって下さい」

「わかりました」三人は早速言われた通りの作業に入った。

 そしてその指示通り全員はそれぞれの高さを叩きながら少しずつ横に――つまり洞窟の奥へと進んでゆき、少しずつ、土偶から離れていった。

 だが誰一人、「あ、そういえば土偶は持って行かないの」と言葉にする者はいなかった。

「はっ」土偶は独り、岩壁の奥で毒づいた。「誰も好きこのんで指図なんかしちゃいないっての」

 

「もう、大丈夫だよね」しばらく叩き進んだところで、結城がそう口にし、元来た方向を首を伸ばして見遣った。

 そこは、先程の小部屋のような場所からさらに奥へ続く岩の小道であり、空間としては再び上下左右ともに狭苦しいものになっていた。だが全員、そのことに対して今は不満を抱いてはいなかった。何しろビームが飛んで来るよりはましだ。

「あーびっくりした、さっきの土偶」ゴーグルの上を腕で横に拭いつつ、結城はふうと息をついた。「なんだったんだ、あれ」

「すいません」天津が申し訳なさそうに眉をしかめながら苦笑する。「いきなりあんな野蛮なのと遭遇するとは、迂闊でした」

「いやいや、天津さんの所為じゃないですよ」結城が研修担当を励ます。「運の巡り合せが悪かっただけでしょう」

「ではあんな野蛮なのではないものと、今後また遭遇するという事ですか」時中が、法の網の目を潜る悪徳業者のごとく、揚げ足を取る。彼のゴーグルの下には更に彼自身の眼鏡があり、それらはそれぞれに光った。

「そ」天津はたじろいだ。「それは」

 

 がらっ

 

 その時、また“その音”が響き、全員が瞬時に振り向いた。

 今度掘り当てたのは、本原だった。彼女は両手でハンマーを握りこんでおり、彼女の前面にはライトに照らされて土煙がもよもよと立ち込めていた。

「――あ」天津が眼を見開く。

 その岩壁の奥から覗いていたものは、幅数センチくらい、長さ二十センチくらいの、直方体のものだった。

「何、これ」真っ先に駆け寄った結城が首を突き出すように覗き込みながら声を挙げる。「ペンケース?」

「でもちょっと曲がっています」本原が異論を述べる。「それに形も左右対称ではないようです」

「それは、柄です」天津が二人の背後から声をかける。

 二人、そして時中が振り向くと、何故か天津は三人から――というよりもその“柄”から数歩離れたところに移動しており、そして何故か顔の前に両腕をかざしており、そして何故かその顔は苦痛に苛まれるような表情をしていた。

「どうしたんすか、天津さん」結城が声をかける。

「柄ですか」本原は天津の様子に構わず話を続ける。「何の柄ですか」

「剣です」天津は苦しそうにしながらも答える。「銅剣ですね」

「銅剣」三人はシンクロして復唱する。

「へえー、武器?」結城が続け、その柄に触れようと手を伸ばす。

「あっ」天津が慌てて手を伸ばす。「結城さん、なんともないですか、それ」

「え?」結城はさすがに直前で手を止め、もう一度天津に振り向く。「何が?」

「いや……痛みとか、痺れとか、来ないですか」

「いや特に」天津の問いかけに、結城は己の両手を見下ろしながら答える。「なんとも」

「――」天津は相変わらず両腕を顔の前に――まるで何かから身を庇うように――かざしたまま、その向こうから結城を見て「ですか……であれば……違うのか」呟く。

「違う? 銅剣じゃない?」結城が訊き返す。

「いえ」天津は小さく首を振る。

「というか、どうしてさっきからそんな所に立っているんですか」時中がやっと、天津の異変を指摘した。「天津さんには痛みや痺れが来ているんですか」

「――はい」天津は首をうなだれさせた。「すいません……その銅剣、さっきの土偶と同じ、呪具なんですね」

「呪具?」三人がシンクロで訊き返す。

「はい……元はいわゆる、悪霊とか邪神を祓うための祭器だったんですが」

「まあ」本原が食いつく。「それでは天津さんは、神さまは神さまでも邪神なのですか」

「いえ、違います」天津は慌ててかざしていた両腕を下ろし両手をぶんぶんと左右に振った。「僕はそういうのではないんですが、この銅剣の方が年月経つうちに見境なくなってきちゃってですね」

「へえー」結城がまじまじと、岩壁の奥に鎮座している柄を見遣る。「もう片っ端から祓ってしまえ的なことになってるってことですか」

「はい」天津は相変わらず気分の悪そうな顔で頷いた。

「でもそれじゃさっき、私に『何ともないですか』とお訊きになったのはまたなんで」結城は再び天津に振り向く。「私は人間ですよ?」

「悪霊の疑いがあるということか」時中が答え、

「邪神の仲間かも知れないからではないでしょうか」本原が答える。

「いえ、いえいえ」結城が女言葉で叫び出す前に、天津が否定した。「もしかして人間にも悪影響を及ぼすようになってたらいけませんから。ただそれだけです」

 

 ――つまりスサノオではない、ということか。

 

 そう判断する声は、直接耳に届くものではなかった。その“判断の声”を発したのが自分の心中なのか、それとも別の神なのか、それすらもあやふやであった。いってみればその“判断の声”の主は、会社そのもの、なのかも知れない。

「まあでも、天津さん苦しそうだから、これは見なかったことにして埋め戻そう」結城は独断でそう告げ、崩れ落ちた岩塊を拾い上げて窪みに嵌め込みはじめた。

「勝手にそんなことして良いのですか」本原が意見を述べる。

「うん、まあいいよ」結城は軽く肩をすくめで嵌め込み続ける。「だって先に進めないじゃん、こんなのあったら。それに単純に、天津さん気の毒だし」

「この場での指揮管理権は天津さんにあると思うが」時中も意見を述べる。

「あ」天津は腕を下ろし――実際に結城が埋め戻してくれたおかげで苦痛はすぐに消えた――「えーと」何か指示をしなければと考えを高速で巡らせた。

「まあ、いいっすよ。ねえ」結城は振り向き、声を高めた。

 本原と時中が眉をしかめ耳を塞ぐ。

「万が一掘り出したとしても、指揮管理者の具合が悪くなっちゃあ研修続行不可能でしょう。そんなものは、必要ないどころか廃棄対象ですよ。はははは」

「うるさい」時中と本原がシンクロして抗議する。

「すいません」何故か結城の代わりのように天津が謝罪し、一行は再び細く狭い岩の道を奥へと進んだ。

「……あるいは」天津がそっと呟く。「その力の強大さに“刃”が立たなかった……とか」

 その独り言は、先をゆく三人の新入社員の耳には届かなかった。しかし、会社の者――あるいは会社そのもの――には、伝わったことだろう。



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第15話 もう自分はゾウリムシになってしまいたい病

 PCにてメールチェックをする。

 マウスから手を離し、うん、と腕を上に伸ばして伸びをする。そのまま少しの間、天井を見つめる。

 またPCに眼を戻し、社内SNSの新着記事を確認する。

 マウスから手を離し、上体を左右に捻る。そのまま少しの間、窓から見える外の景色――会社は中心街から電車で小一時間近く離れた地区にあるので、窓からは低めの山とその麓の竹林が見える――を見つめる。

 またPCに眼を戻し、取引先企業のWEBサイトのトピックスを拾い読みする。

 マウスから手を離し、片腕ずつ別の方の手で胸の前に押し付けるストレッチを行う。そのまま少しの間、壁際の冷蔵庫を見つめる。眼を閉じる。

「あと二日ッ」恵比寿は、己れに喝を入れた。「あと二日! 四十八時間! 二回、寝て起きて、六回、飯を食って、二回、風呂に入って、そして」

「きゅーっと、一杯やって」

「きゅーっと、いっぱ」鯰の甲高い声につられて復唱しかけ、恵比寿はハッと眼を剥き息を呑んだ。「お前、いらん事を言うな」部屋の片隅にある池に向かって文句を言う。

「きゃははは」石囲いの中から鯰の甲高い笑い声が響く。「こういうのあれだよね、見るも哀れっていうんだよね」

「うるさい、魚」恵比寿は文句を言うが、顔は情けない表情に歪んでいた。「お前に何がわかる」

「あー、阿呆らしい」鯰はさらに馬鹿にした事を言う。「ていうか、意志よわっ」

「うう」恵比寿は下唇を噛みしめ、何も言葉を返すことができなかった。

 糞、あと二日、どうにかして気を紛らわす手はないか。茶を飲む? いや、便所が近くなって面倒臭い。ガムを噛む? いや、噛むのが面倒臭い。あと捨てるのも。菓子を食う? いや、甘いのはそんなに好きじゃあない。あと買って来るのが面倒臭い。そんな事を心中で思い巡らせる。酒を買いに行くことについては微塵も面倒臭いと思わないのだが、その点についての考察は行われずにいた。

 

 がちゃり

 

 その時突然、ドアが開いた。

 入ってきた人物を見て恵比寿は「あ?」と声を上げ眼を丸くした。

 それは、鹿島常務取締役その人だったのだ。仕立ての良い、濃紺にピンストライプの入ったスーツは、出張帰りといえども抜かりなくかっちりと手入れされており、皺の一つも見つけられない。鹿島はスポーツ選手かと思わせるような逆三角形の逞しい体格をしており、よくアメリカンヒーローみたいだと言われている。その体格でぴしりと姿勢よくスーツを着こなす姿は、まずそれを目にするほぼすべての者の審美眼を、満足させるだろう。

 即ち、格好良い、男だ。

 だが今恵比寿は、格好良いよりも何よりも、不思議の念に包まれるばかりだった。「鹿島常務? あれ?」

 だが鹿島は特に何も言わず、真っ直ぐ彼の“陣地”へ進み行き、がらっと椅子を引いてどっかりと座ったかと思うと素早くPCを起動させ、熱心に打ち込みを始めたのだった。

「あ」恵比寿はもうそれ以上、何も言葉をかけることができなかった。

「あれー、鹿島っちじゃん。お帰りー」恵比寿の代わりに、鯰(なまず)が池の中から声を掛ける。

「うん。ただいま」鹿島はPCを見たまま答える。

「あれえ、帰って来るの二日後じゃなかったの? 早いね」

「ああ、ちょっと先方のスケジュールの都合で予定早めに切り上げになってね」鹿島は打ち込みながら答える。

「へえ、そう」鯰は恵比寿の瓢箪に押えられている為、水面から顔を覗かせたり、増してや池の周囲を囲む石の上に体を乗せたりすることはかなわないのだが、口だけは達者で、池の中を右に左にくねくねと泳ぎながら鹿島と言葉を交わす。

 恵比寿はその会話を耳に入れつつも、所在なさげに自分のPCの方に向き直り己れの仕事を再開するしかなかった。

 

 かちゃかちゃかちゃ

 かち、かち、

 かちゃかちゃかちゃ

 かち、かちかち、かち、

 かちゃかちゃかちゃかちゃ

 かちかち

 

 しばらく室内には、キーボードを叩く音とマウスのクリック音だけが響き続けた。

 どれほど時が経っただろうか。ふと、鹿島は手を止め、それからはた、と恵比寿の方に顔を向けた。「あ」そして眉をひょいと上げ「お疲れ、恵比寿君」と言いながら満面に笑顔を浮かべた。「どう、調子は」

 ――認識モード、オン。

 心中でそう告げる機械音声が鳴る。

「あ、はい」恵比寿は大きく頷いた。「おかげさまで、すこぶる順調です」

「あホント、そりゃ良い」鹿島は笑顔をずっとキーブしたままで頷き返した。「また新体制になるからさ、よろしく頼むよ」

「はい」恵比寿はさらに頷き、全身でお任せ下さいと答えた。

 この人は――鹿島常務取締役という恵比寿の上司は、このように恵比寿の存在を認識する事がある。

 時々。

「あ、じゃあ、鹿島常務」恵比寿は、腰のベルトから垂れ下がっている紐――池に浮かぶ瓢箪につながっているもの――を手に取り、言った。「鯰抑え……代っていただけますか」

「ああ」鹿島は初めて気づいたような顔になり、頷いた。「そうだね。悪い悪い、ありがとう」と言いながらスーツ上衣のポケットに手を突っ込み、少しまさぐって何かを取り出す。そして取り出した“それ”を、池に向かって軽く、ひょいと投げ込む。

 

 ぽちゃ。

 

“それ”は、素朴な音を立てて池の中に落ちた。

「ぐっ」その瞬間、鯰が首を絞められたような声を挙げる。

 池の水の様子には、特に何も変化は見られない。色が変わるわけでも、光が迸るわけでも、妙なる音が鳴るわけでもないのだが、それでも“それ”の凄まじき威力が今、池の水に――そして池の中の鯰に、振り落とされたのだ。

 恵比寿は、相変わらずのんびりと水面に浮かぶ自分の瓢箪の紐をするすると引っ張り上げながら「ありがとうございます」と鹿島に言った。

 だが鹿島からの返事はなく、見るともうPCに向かって作業を始めていた。

 ――認識モード、オフ。

 また脳内に、機械音声のアナウンスが流れる。

 それはともかくとして、不思議なものだ。今鹿島が投げ入れた“それ”――要石(かなめいし)――を、鹿島はいつも、今のように上衣のポケットから取り出す。さっと手を突っ込んで、少しまさぐり、すい、と手を引き抜けば、その手の中に要石はあるのだ。傍から見た感じでは、それは決して大きなものではなく、精々がとこ径一、二センチ程度の、ほんの小振りのものだ。

 だが以前、鹿島が恵比寿に――その時も認識モードがオンとなり――「これ、掛けといて」と脱いだ上衣を投げて寄越した時に、恵比寿はこっそりポケットの部分を上から触ってみた事があった。

 そこに、石が――というか何か物が入っているような感触は、一切なかった。

 まさか上司の上着のポケットを広げてまじまじと中をあらためるなどできるわけもなく、そのままハンガーに掛けラックに吊り下げたのではあったが、しかし確かにそのポケットの中には――左右とも――物は、入っていないようだった。

 それであるのに、鹿島はいつも要石を、そこから取り出す。どこか別の空間に、そのポケットというのは繋がっているのかも知れない。しかし恵比寿はいまだにその事について鹿島に質問できずにいた。何しろ鹿島は恵比寿のことを、時々しか認識しない。その短い時間の間に、あれやこれやの決済をしてもらったり報告をしなければならないので、要石のことを質問している余裕などないのだ。

 否。

 余裕があったとしても、その質問はどこか禁忌めいたものを纏っており、中々どうして口に出せるものでは、なかった。

「鯰ー」鹿島は唐突に鯰を呼んだ。

「んー」要石で抑えつけられている鯰の声は、明らかに瓢箪の時よりも重く沈んで聞こえた。

「お前さ、ゾウリムシって、食う?」PCを打つ手を止め、鹿島は池の方を見る。

「ゾウリムシ? あの小っこいの?」鯰はあまり抑揚のない声で訊き返す。「まあ口に入りゃ飲み込むけど、目の玉ひん剥いてまで探して食うほどじゃあないね」

「あそう。ま、小っせえもんな、あれ」

「なんでいきなりそんな事訊くの?」鯰は逆に質問した。

「うん、まあ出張先の会議で出たんだけどさ。ゾウリムシの話が」

「へえー。ゾウリムシの」

「そうそう。ゾウリムシをね、ちょっとこれから色々使って行こうかねって話でさ」鹿島は、先程恵比寿がやっていたように両腕を上に伸ばしながら答える。

「何に使うのさ」

「それはまあ、これから追々検討していくのよ。まずは培養設備を確保しなきゃだな。見積もりが明日届くからー……」鹿島は鯰と会話しながら再びPCのファイルをあれこれと検索し、確認し、打ち込んでいく。

 恵比寿は、そっと席から立ち上がった。足音を、なんとはなしに忍ばせて、冷蔵庫へと向かう。忍びやかに、ドアを開ける。新発売の、レモン皮ごとすり下ろし入りの缶チューハイを、丁寧な作業をする職人のような手つきで取り出す。

 

 ぷし。

 

 缶のプルタブは、いつも引き開けられる時と同じレベルのトーンで音を立てた。そのまま、少しの間動きを止める。

 

 かちゃかちゃかちゃかちゃ

 かち、かちかち

 かちゃかちゃかちゃかちゃ

 

 咎める言葉は何ひとつなかった。恵比寿はゆっくりと、缶を口元へ持ち上げた。

「けどさ」鹿島が言う。

 ぴくり、と恵比寿の手が止まる。

「ゾウリムシって、あれ、旨いの?」

「あのねえ、それが結構、いい味出すのよ」

「まじで? 旨いんだ」

「あたしは好きだね。ミジンコよりも、ゾウリムシの方が好き。あと藍藻類よりも」

「へえー。そうなの」

 鹿島と鯰の会話はいよいよ盛り上がっている。恵比寿は、運びかけて止めた缶に口をつけ、ぐびり、と呑んだ。

 咎める声は、何ひとつ聞こえて来ない。

 

 ぐびり、ぐびり。

 

 続けざまに、呑む。

「でさ、ゾウリムシって」

 ゾウリムシですか。あの草履の。はいはい。あれでしょ、知ってますはい。

 恵比寿は窓の向こうの竹林を見つめながら、独り心の中だけで相槌を打っていた。

 ――いいなあ、ゾウリムシ……

 それはごくうっすらとした、憧憬にも似た心情なのかも知れなかった。



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第16話 社の看板、背負うか、掲げるか、掌の上で転がすか

 こつこつ

 こつこつ

 こつこつこつ

 

 岩を叩く音は続いていた。

 

 こつこつ

 こつこつこつ

 こつこつこつこつ

 こつこつ

 こつこつこつ

 ひょんひょんひょんひょん

 

 しん、と音が止んだ。皆、無言だった。“音”を再開させたのは、時中だった。彼はもう一度ハンマーを岩壁に打ちつけ始めたのだ。

 

 ひょんひょんひょんひょん

 

「何だ、この音は」時中が眉をひそめる。

「ありましたね」天津が微笑んで告げる。

「え、これ、あれっすか」結城が時中のハンマーの叩いた箇所を指差す。

 本原は特に何も言わず、同所を――彼女の身長からすると、見上げていた。

 

 ひょん

 

 時中が叩くのを止め、天津に振り向く。「つまりここが岩の“眼”だと、いうわけですか」

「はい」天津は頷き、ウエストベルトのポケットから何かを取り出した。「結城さん、これを」

「え」結城は眉を上げ、差し出されたものをひとまず受け取った。

 それは、掌ほどの長さで径三センチほどの、枯れた古木の枝だった。

「これは、何すか」結城はその古木のかさかさした表面を親指の腹で撫でながら訊いた。

「それが、ローターです」天津が答える。

「え」結城は眼を丸くして天津を見た。「これが?」

「はい」天津は頷く。「覚えてますか」

「これあの、臍(へそ)のゴマーとか叫んで突っ込むっていう」結城は古木を握り込み、上下にぶんぶんと振りながら確認する。

「『開け、我がゴマよ』です」天津が眉を下げて拠所なく笑いながら答える。

「ああそう、それ」

「貴様、ばちが当たるぞそのうちに」

「神の逆鱗に触れるのではないですか」三人の新入社員たちはそれぞれ口にした。

「よし、では“眼”が見つかったので、早速イベントの練習をしてみましょう」天津はぽんと手を打ち鳴らした。「まずはその眼の箇所に、ローター設置用の穴を穿ちます」

「これですね」時中が、自分のベルトのポケットから二十センチ長さほどの懐中電灯に似た器具と、細い穿孔パーツを抜き出した。「これで穴を開けながら、あの呪文を唱えるわけですか」穿孔パーツを取り付けながら問う。

「ああ、それでもいいです」天津は軽く頷く。「気持ちさえ籠めていただければ」

「気持ち、というと」時中がまた問う。

「つまり鉱物粒子の間に挟まっている有機物を完全に排除したいという、気持ちです」天津はにっこりと微笑む。「穴を開けながら、心からそれを願うことができるのであれば」

「――」時中はそう言われ、少しの間考えた。

「別々の方がいいよ、時中君」結城が口出しする。「ドリルで穴開けながら、なんだっけ、何々せよー、わが何々ー、とかは、やっぱ気が散っちゃうでしょ」

「――閃け」時中は眉をひそめて言い直しかけたが、ぷいと岩壁の方を向き口を閉ざした。

「天津さん」本原が出し抜けに発言する。「禊(みそぎ)などは、しなくて良いのですか」

「ああ」天津は眉を上げ、またにっこりと微笑んだ。「これを行うのが“人間ならば”、禊や潔斎が必要なんですが、我が社の執り行うイベントでは、そういうのは不要です」

「人間ならば……でも私たちは、人間ですけれど」本原は小首を傾げて訊き返す。

「ああ、仕事を離れれば勿論そうですが、我が社の看板の下で働いてもらう時は、そうではなくなりますのでね」天津は説明しながら、岩天井の方に手を向け“我が社”を示した。

「えっ、てことは」結城が食いつく。「会社の看板の下にいるときは我々、人間じゃなくなるってことですか」

「はい」天津は肯定した。

「じゃあ何になるんですか、猿とか、犬とか? あ、社畜? 社畜ですか」結城は自分の思いつきに興奮したかのように身を乗り出し声を張り上げた。

「いえ、そうでは」天津は両耳を塞ぎ眼をそばめた。

「貴様、黙れ」時中が、自身も叫びたいのだろうがぐっと声を殺しつつ結城を非難した。

「うるさい」本原も、それまでの鈴の音のようなソプラノ声をかなぐり捨て、唸りを挙げた。

「ええと皆さんは、社畜ではなく、つまり我々と同じく“岩の子”になる、ということです」

「岩の子」時中が言い、

「岩鋸?」結城が訊き、

「岩の精霊ですか」本原が差し替えた表現をした。

「岩の子です」天津はその表現から動かさなかった。「穢れというものの本質は、皆さん何だと思いますか」

「穢れの」時中が言い、

「本質?」結城が訊き、

「人間の本能とか欲望とかではないのですか」本原が回答する。

「それが眼に見える形で存在する時は、何になりますか」天津の質問は続いた。

「行動……行為、ですか」時中が言い、

「食ったり寝たり、あとあれか、性欲の行為とか」

「――」本原は顔をしかめ、結城からそれを逸らした。

「では物質として存在する時は?」天津の問いは核心を突いた。「本能や欲望による行動や行為が行われる時、そこには何の物質がありますか?」

「食物、とか」時中が言い、

「布団とか、あとティ」結城が言いかけ、

「分泌物」本原が低く吐き捨てるように回答した。

「そうです」天津は人差し指を本原に向けて振った。「汗とか涙とか唾液とか、皮脂とか血液とか、ですね。そういったものが、いわゆる“穢れ”の本質になるんです」

「えーっ」結城が眼を見開く。「だってそんなの、普通に生きてるだけで分泌されちゃうもんじゃないですか。じゃあ人間って、生きてるだけで穢れてるってことなんですか」

「もちろん我々はそんな風には思ってません、基本的にはね」天津は両手を振って笑った。「そういうのが穢れになる、と考えてくれたのは、古代の人間たちの方です」

「なるほど」時中がドリルを握ったまま腕組みをする。「神事を行う際には自分たち人間の俗に塗れた体を洗い清めなければならないと考えたのは、人間自身の方だったと」

「じゃあ私たちは」本原は自分の胸に手をあてがった。「今は“岩の子”だから、そういう分泌物を出さないという設定になっているのですか」

「設定?」結城が驚いて本原に振り向く。「ステータス“岩状態”みたいな?」

「貴様、呪われるぞ」時中が批判する。

「まあわかりやすく言えば、そうです」天津は否定しなかった。「実際岩は汗や涙や血を流すこと、ないですからね」

「でもこの洞窟内の岩って全員濡れてますよ」結城がぐるりを見渡す。「汗掻いてる」

「それは結露です」天津も周りを見渡す。「水蒸気が岩にくっついて水滴になったやつですよ」

「そうか」結城はぽんと手を打った。「岩が泣いたりおもらししたりしてるわけじゃあないんですね」

「はい」天津は眉を下げて拠所なく笑った。「では時中さん、ドリルで軽く岩に触れて下さい」

「はい」時中はドリルの電源スイッチを入れた。

 予測したよりも遥かに静かな振動音が起き、それは結城の声よりも遥かに静かなものだった。

「しかしこんなレベルのもので、岩に穴が開くのですか」不審げな顔で時中は訊く。「今更ですが」

「まあ、イベントですからね」天津は頷く。「本格的に、大きな穴をがっつり穿つことはしないです。いわば形だけといってもいい感じです」

「形だけ、ですか」時中は確認し、穿孔パーツの先端を言われた通り軽く岩面に触れさせた。

 

「いたっ」

 

 突如甲高い声が聞こえた。時中ははっと息を呑んでドリルを引っ込めると同時に電源を切った。



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第17話 沈黙が金なのか言った者が勝つのか例によって臨機応変に対応要なのか

「ん。どしたあ」鹿島がPCから顔を上げ、部屋の隅に設えられてある池の方を見た。「鯰?」

「べっつにー。大したことじゃない」鯰はゆらりと水中で身をよじりながら嘯く。

「そ」鹿島はまたPCに向き、資料や報告書の確認を続ける。「邪魔すんなよ」一言だけ、そういう。

 鯰は、何も答えなかった。もしかすると、答え“られ”なかった、のかも知れない。恵比寿はそっと肩を竦めた。

 声や言葉は穏やかだが、結局鯰は鹿島に“抑え”られている立場だ。その事を忘れるなよ、という戒めが、鹿島の問いかけ、語りかけには込められているのだ。そして「邪魔すんなよ」の「邪魔」とはつまり、新人研修の邪魔、という意味であることは疑いがなかった。

 恵比寿はそっと、首を振る。鹿島と自分とでは、確かに明らかに“重さ”が、違う――それは要石(かなめいし)と瓢箪という、鯰抑えの道具の重さだけに限った話ではないということだ。

 

 しばらく様子を見ていた天津は、ふう、と短く溜息をつき「大丈夫です」と告げた。「もう一回、やってみて下さい」

「――」時中は少しの間身じろぎもせず目の前の“眼”を見ていたが、指示通り再び小型のドリルを持ち上げ、電源を入れて近づけた。

 

 きしぃぃぃぃ

 

 岩の削れる音が響く。が、それは意外なほどに低レベルの音量だった。そして不思議な事に、削れたはずの岩の破片や石粒が飛び散るという現象も、起きなかった。ゴーグルだけ装着という“軽装”ではあるが、そのゴーグルさえも必要ないものかも知れないと思わせる程に、それは現実離れした穏やかさを持つ作業だった。

 

 きしぃぃぃぃ

 

 その音はしばらく続いた。やがて、「よし、もういいです。止めて下さい」天津が停止の指示を出した。

 時中が言われた通りドリルの電源を切り岩からそれを離すと、そこには直径二センチほどの綺麗な丸穴が穿たれていた。

「これは」時中が眉をひそめる。

「へえー、上手いね時中君」結城が時中の横から顔を覗けて感心する。「何、こういうの経験あるんだ?」

「――ない」時中は短く答え、さっさとドリルをウエストベルトのポケットに差し込んだ。

「ないの? ないのにこのクオリティ? 素晴らしい」結城は眼をまん丸く見開き称賛した。

「天津さんだ」時中は面倒臭そうに眉をしかめ、ぷいと横を向く。「神力というやつだ」

「へえー。 人力?」結城は天津の方を見てさらに感心した。「すごいですね」

「いえいえ」天津は謙遜笑いをし「では皆さん、覚えていただいたワードをここから唱えていって下さい。まず時中さんから」手で時中を示す。

 時中はもう一度自分の穿った穴の方に向き直り、すう、とひと呼吸おいて「閃け、我が雷よ」と唱えた。

「迸れ、我が涙よ」続いて本原が唱える。

 

 す――――

 

 結城が大きく息を吸い込む音が聞こえた瞬間、他の三人は一斉に耳を両手で塞いだ。

「開け、我がゴマよ」結城の声は周囲すべての岩にぶち当たり、馬鹿げたレベルで反響した。

 耳を塞いだ三人は、耳を塞いだまま苦痛に顔を歪め悶絶した。

「行け、ローター」結城は続けざまに叫び、先程天津から手渡された古木の枝を時中の穿った穴に突っ込んだ。

 穴の直径は見たところでは枝の太さよりも若干小さく思えたのだが、にも関わらずそれはまるで吸い込まれるかのように穴の中に――というよりも岩の中に入って行き、結城の手からすんなりと離れたのだった。それは天津が、耳を塞ぎ顔をしかめながらも力を添えたことによる作用であった。

 そして静寂が戻って来た。だがそれはほんの二、三秒の間のことだった。

 

 かっ

 

 岩が、光った。

「うわっ」結城が叫び、他の新入社員二人は無言ながら眼を強く閉じ顔の前に手をかざした。

 一瞬後、その光は嘘のように消え、元の姿のまま岩壁がそこに存在していた。

「な、何今の」結城が瞬きも忘れ自分の差し込んだローターを見る――が、もうそこに古木も、それを差し込んだ穴ぼこも、存在していなかった。

「これで、終了です」天津は微笑んで新入社員たちに頷いた。「お疲れ様」

「終わり? 今ので?」結城はやたらきょろきょろと周囲を見回した。「あれ、ローターは? 何が起こったんですか今? なんか岩がカーッて光りましたけど」

「あれが、まあいわば、OKサインです」天津は過去を指差すかのように人差し指を岩天井に向けた。「我々の申請に対して、岩から許しが出たという」

「あんなにあっさりと?」時中が訊く。「こんなスムーズに行く感じなんですか、いつも」

「――まあ、基本はこんな感じです」天津はほんの少し間を置いて肯定した。「この流れを覚えておいていただければ、大丈夫です」

「地球さまは、何も仰らないのですか」本原がどこか残念そうな声で訊く。「私たちの行うイベントに対して」

「OKの時には、特に何も言って来ないです」天津は頷いた。「まあ言ってくるとしても、鯰を通して言って来るわけですが」

「さっきの『あいたっ』と言ったのは、あれは鯰ですか」時中が質問する。「私がドリルで岩に触れた時」

「ああ……でしょうね」天津は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。「でもまあ、すぐに黙ったから、規制が入ったんでしょう。悪ふざけが好きな奴で、すみません」

「規制というと」

「鯰を抑えている担当からの規制です」天津はまたにこりと笑った。「じゃあ、ここまでで上に戻りましょう。お疲れ様です」

 

     ◇◆◇

 

 鯰はむくれて池の中に漂っていた。確かに、ちょっと油断してふざけ過ぎたかも知れない。

 ただちょっと、新人どもに教えておいてやりたかったのだ。『穢れの本質』とは、何も生きている人間の分泌物だけではないのだと。それであれば“死”が穢れとされる謂れはないはずだ。人間は死んでいてさえも――というより死んでいる方が更に、穢れと見做されるのだ。そう、生きていても、死んでいても人間というものは、ただそれだけで“穢れ”なのだ。

 つまり人間そのものが、まさに“穢れ”なのだ、と。



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第18話 あなたの言ってることのタイトルがわかりません

 天津の説明によると、研修内容としての後半部分「開いた岩の中に入り、その中でしかるべき動作を行い、岩から出てそれを閉じる」というところは午後以降、場合によっては明日行うとのことだった。

「岩が開くのに、そんなに時間がかかるという事ですか」時中の問いに天津は、

「それはその時その時、ケースバイケースで違うんですが、まあ研修期間中は一つ一つの作業をゆっくりと行っていきましょう。上でお昼を食べてから、また降ります」と説明した。

 

「いやあー、午前中だけでも相当色んなことあったねえ」結城は今日も、コンビニ弁当を頬張りながら賑やかにコメントを述べた。「皆、大丈夫?」

 後の二人は黙々と食事をしていた。

「俺、何がいちばんビックリしたかって、あの土偶! いきなり眼から光線出してくるとか、あれは魂消(たまげ)たよねえ」結城もまた猪突猛進的にコメントを続行する。

 他の二人は、或いは脳裡に結城の言う土偶の、岩影から斜めに覗いた上半身姿を浮かべたかも知れないが、相変わらず無言の反応であった。

「もし」結城は箸を持つ手の人差し指を立てた。「もしだよ、あの光線がまともに当たって万一俺あそこで死んでたら、それこそ労災保険と慰謝料の話になるよね」

「――」時中の箸が、ぴたりと止まる。

「でしょ?」結城が眼を輝かせて時中の箸を見る。「実技研修一日目で早速ですかあんたって話だよね?」

「――」時中はすっと眉を寄せ、再び箸を動かし始めた。

「ああでも、もしあそこで死んでたら俺、最後の言葉が『まさか眼から光線とか出るわけじゃないでしょう』みたいなふざけたもんになってたんだよなあ」結城の回想は続く。

 他の二人はやはり反応しない。

「それはやだよね、流石にさ」結城は明るい苦笑を浮かべる。「最後の言葉はもっと、カッコよく決めたいよね。てか、後で人びとが思い出してさ、あれが最後の……! つって、グゥッ! と来るような一言を残して、逝きたいよね」箸を持たないほうの手で拳を握り締める。

 時中は弁当の蓋を閉め、殻をコンビニの袋に入れて持ち手を結びつける。本原は両手に持つサンドイッチを兎のように少しずつ齧り、未だ食事中である。

「うーん、何て言って死にゆくのかなあ、俺」結城は最後のから揚げを頬張りつつ眼を閉じる。「本原さん、俺死ぬ間際、何て言って死ぬと思う?」

「ぇびぐばぅらぼふごゐらげぶぃごびぁ」本原が手にサンドイッチを持ったまま答える。

「何それ」結城は咀嚼も忘れ本原を見る。

「結城さんが死ぬ間際に言いそうな言葉です」本原は答え、またサンドイッチを少量齧る。

「そうだな。何かそんな事を言いそうだ」時中が食後の烏龍茶を飲みつつ同意する。

「どんな死に方するんだ俺」

「皆さん、食事中に失礼します」その時天津がドアを開け入って来た。

「あ、お疲れーっす」結城が元気良く迎える。

「実は皆さんに、ご提案したい事がありまして」天津はにこにこしながら告げる。「今日か明日あたり、皆さん夜時間ありますか?」

「お」結城が眼と口を丸くする。「俺は大丈夫っすよ。なんすか、歓迎会とかっすか?」

「はい」天津はにこにこと頷く。「うちの会社の、まあ行きつけみたいなとこがありまして、そこの経営者が貸切りにしてくれるっていうんで、折角ですから一度会社の者たちと顔合わせしたいかなと」

「おお」結城は眼と口をさらに丸く開く。「いいっすね。有難いっすね。どう皆、今日か明日って」

「急ですね」時中は冷静に回答する。「ですが、時間は取れます」

「おお、いいね」天津を差し置いて結城がぽんと手を叩く。「本原さんは? 急だけど」

「わかりました」本原はサンドイッチを両手に持ったまま頷いた。「どちらでも大丈夫です」

「はい決まり」結城は再度ぽんと手を打ち、天津に向かって言った。「じゃあ急ですが、今日という事でひとつ」

「あ、はい」天津はたじろぎつつ頷いた。「じゃあ、そういう事で伝えておきま……すいません急で」声がしぼんで行く。

 そして研修担当は部屋を出て行った。

「やったねえ、歓迎会かあ」結城は更に手を叩き喜んだ。「会社の皆さんにお会いできるわけだ」

「何人いるんだ」時中は独り言のように呟く。「会社の人間――いや」首を振る。

「ん?」結城が素早く反応する。「何?」

「――人間、ではないのか」時中は特に結城を見るでもなく、独り言の続きのように呟く。「ここの“会社の者”というのは」

「神さまではないのですか」本原がオレンジジュースを飲みながら言葉を挟む。「神力をお使いになるのですから」

「でも天津さん自分で“岩鋸”って言ってたよね」結城も過去を振り返りつつ答える。「実際岩も切ってくれたし」

「――」時中は机の上をじっと見つめた。「まあいい。今夜の飲み会で何か明らかになるだろう」

「お、呑む気満々だね時中君ー」結城が親指を立てて言葉に力を込める。「いける口? ガンガンいこうぜ千鳥足?」

「――」時中は一切答えなかった。

 

「あ、今日ね。オッケー準備しとくわ」スマホの向こうで男は明るく承諾した。

「よろしくっすー、サカさん」天津は礼を言い通話を切った。「さてと。じゃあ、もう一回降りるか」両腕を上に伸ばし、気合を入れ直す。

「本社は全員参加するの? 歓迎会」木之花がPCから顔を挙げて訊く。

「うん、全員」天津は立ち上がりながら頷く。「エビッさんの嬉しそうな顔!」思い出して笑う。

「酒林さん、何か余計なこととか言ってなかった?」木之花は眼を細める。

「ん、余計なことって?」

「今度入った女の子はどんな子か、とか」

「ああ……はは」天津は笑って濁す。

「絶対死守しなさいよ」木之花は人差し指をぶんと振る。「クシナダを」

「それはさあ」天津は苦笑する。「スサノオに言ってよ」

「――」木之花は眼をさらに細める。「まだ、はっきり分かってないし」

「まあ、そうだけど」天津はそそくさと室を出ようとするが、「でも案外、本原さん自身があれだったりしてね」肩越しにもう一度振り返る。

「何?」木之花は眉を上げる。

「スサノオ」

「まさか」木之花は眉をぎゅっと寄せる。

「ばりの、豪傑」

「え?」

「何しろ、クーたんを信じていらっしゃるからね、彼女」

「はい?」木之花は眼を見開く。「クーたん? 何それ?」

「我々には未知の、何かスピリチュアルな存在らしい」

「――何それ」

「まあ少なくとも、魚ではないらしい」天津は肩をすくめる。「特にくさやではないらしい」そして首を振る。

「――ええと?」木之花は混乱しているようだった。

「じゃ、そういうことで」天津はそこで話を打ち切り、研修室へと向かった。

「――」木之花は閉じられたドアをしばらく見つめ続け、それから短く溜息をついた。「なんか、研修担当もだんだんおかしな事になってきてるかもだわ……いったい何の影響? 誰の?」

 

 天津の言葉通り、恵比寿は顔が緩みっぱなしだった。

 ――ああ、天にも昇る気持ちって、こういうのを言うんだろうなあ。俺、頑張ったもん。酒、呑まなかったもん。鹿島さん帰って来るまで。呑まなかったもん!

 ふふふ、と忍びやかに笑う。鹿島は気づかない。ずっとPCに向かい作業中だ。時たま、どこかに電話をかけたりする。恵比寿には、一切振り向かない。増してや言葉など、一切かけてはこない。だがそれでも、よかった。恵比寿は独り、にやにやしていた。

「あー、歓迎会かあ」出し抜けに鹿島が伸びをする。「また急に決めてくれるよなあ!」

「ほんとですね」恵比寿はそっと答えてみた。

「まあいいか、こういうのは勢いでやっとかないと、機を逸するからな、なんやかんやで紛れてさ」鹿島は言いながら首を回す。

「そうですね」恵比寿はまたそっと答えてみた。

「なあ、鯰」鹿島は恵比寿に後頭部を向け、池の鯰に向かって声をかけた。

「あたしにゃ関係ない」鯰はむすくれた声で答えた。「酒とか歓迎会とか、どうでもいい」

「まあまあ、呑めないからってむくれるな」鹿島はからからと笑った。「少しの間だけ、楽にしてていいぞ」

「本当?」鯰の声がぱっと明るくなる。「出てもいいの? 池から」

「それは駄目」鹿島は池に向かって両腕でバツ印を作った。「精々呼吸が楽になる程度ね」

「――ふん」またむすくれた声になる。

 恵比寿は、何も言わずにいた。だが、いいのだ。今日は、いいのだ。今日まで自分は、大好物の酒を呑まずにいた。一日半だったが。だがその努力が、報われたのだ。それはご褒美といってもよかった。誰からの? いや、そんなことはどうでもいい。自分の頑張りに対する、これは報酬なのだ。今宵は、呑もう。ふふふ。また、密やかな笑いが漏れる。

「あ、恵比寿君」出し抜けに鹿島が呼んだ。

 はっと、恵比寿は笑いを消して姿勢を正した。鹿島が、こっちを見ていた。

 ――認識モード、オン。

「今日の夜さ、新入社員の歓迎会やるんだって。空いてる? 急だけど」

「――は、はい」恵比寿は慌てて頷き、その拍子に首がこき、と鳴った。

「あそう、そんなら良かった。例のさ、『酒林』でやるらしいから、業務終了後に現地に行ってて。俺ちょっと遅れるかも知んないから」鹿島はウインクする。

「はい、はいっ」恵比寿は二度三度と頷き、三度目にもう一度首がこき、と鳴った。

 なんという、日だろう。認識モード、オンの電子音声を、一日のうちに二度も聞くなんて!

「た、楽しみですね」恵比寿ははちきれんばかりの笑顔でそう言った。

 だが鹿島はその時すでにPCに向かっており、返答の言葉は皆無だった。

「――」

 ――認識モード、オフ。

 恵比寿は俯き、もう一度ひっそりと、笑った。今日は、良い日だ。そう思う。

 たとえ、今夜歓迎会がある事、空いているかどうかという事、場所が『酒林』である事――それらすべて、さっきここに来た天津から鹿島と一緒に聞かされ、一緒に答えた内容であったとしても。



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第19話 働けど働けど尚楽にならざる我が暮らしよ何とかなーあれっ

「あれ、店長。おはようございます」板長が厨房に入って来るなり眼を丸くする。「びっくりしたあ。シャッター開いてるから」

「魚泥棒が来たとでも思った?」酒林は調理台に向かって包丁を振るいながら笑顔で答える。

「いや、そんな、はは」板長はスーパーの白いポリ袋を三つも提げて来ており、それらを別の調理台の上にどさどさと置きつつ苦笑する。「今日、燻蒸の予約日だったっけかなーとか思って」それから酒林の横に近づく。「お、鯛ですか」

「そ」酒林は頷く。魚をさばく手さばきは一糸も乱れず、板長が思わず見入ってしまうほど鮮やかだ。「歓迎会だからね」

「ああ、入社『めで鯛』っていう」

「いや」首を軽く振る。「『き鯛し鯛』って方」

「なるほど」板長はしみじみと頷く。「覚悟のほどを見せてもらおうか、と」

「まあ、取り敢えず普通に出社して普通に勤務してくれりゃ、良いんだけどね」

「それが一番難しいことなんですよねえ。特に若い者には」板長はまた苦笑する。

「普通、ってのがどこまでなのかの判断が、人それぞれだったりもするしね」魚はどんどんおろされてゆき、半透明の刺身が有田焼の皿の上に並べられてゆく。

「で、その鯛って、恵比寿さんが釣ってきた奴ですか?」板長は俎板の上の魚を指差して問う。

「――」酒林はにやり、と笑うがすぐには答えず「ざんねーん! これは市場で買って来たものなんですねー」とクイズ番組の司会者の口真似をする。

「あ、そうですか」板長は笑う。

「鹿島さんが地方に出張中だから今釣りとかできないのよ、彼」酒林は説明する。「また鯛釣れたつって酒呑んでまた“やらかし”たらコトだからさ」

 鯛が釣れていなくとも恵比寿が今回“やらかし”た事について、未だ酒林は知らないのだった。そんな話をしている内に、鯛の活造りは完成し、皿の上から巨大なラップがかけられた。

「いやー、久しぶりに店長の仕事見させてもらいましたよ。お見事」板長が称賛する。

「ま、たまにはねー。基本はバイト並みだけど」酒林もまんざらではなさそうな顔をする。

「またー」板長は諌める。「そんなブラッキーな発言を」

「いんにゃー、うちの本業に比べたらこの世の企業すべて、ホワイトよ。真っ白け」

「いやいや」板長は苦笑するが――否定までは、できずにいた。

 ブラック企業……といっていいものかどうか、だが確かに酒林の勤める“本業”の方では、話を聞く限りどうも新入社員の離職率が半端なく高いらしい。とはいえ具体的に何をする会社なのかまでは、長い付き合いにも関わらずいまだ聞いたことがないのだが。酒林はその辺りの事を、実に巧妙にかわすのだ。

「さてさて、あと魚何があるっけか」酒林は手早く調理器具を洗いながら明るく仕事を続ける。

 

     ◇◆◇

 

 男は駅構内を、キャリーケースをごろごろと引きながら特段迷う風でもなくすたすた歩いて行く。やがて乗換え先の改札を、やはり迷いもなく抜け、キャリーケースを手に提げてエスカレータに乗る。ホームに上がってからもケースを手に提げたまま、先頭車両の一番前のドアが停まる位置まで、やはり迷いもなく歩く。

「歓迎会、か」歩きながら、独り呟く。「それにしても、相変わらず急に決まるよのう」と、そこで初めて男は足を止め視線を横に滑らせた。

 視線の先にあるのは、自販機だ。男は目指す停止位置に着く前に、缶コーヒーを一本買った。

「晴天の霹靂(へきれき)たるレベルよの。いつもの事ではあるが」コーヒー缶を取り出しながら、また独り呟く。

 それを持ち、キャリーケースはまた転がすことにして、漸く目的の先頭ドア停止位置に辿り着き、缶を開ける。くびくび、と二、三口飲む。ふう、と息をつく。

「まあ、それに対応し得る、我が支社の業務形態もまた如何、であるがの」

 数分後に到着した電車――の、先頭車両の一番前側――に男は乗り込み、コーヒー缶を器用に口に銜えた状態で、運転席に一番近い網棚の上にキャリーケースを軽々と持ち上げて載せ、運転席に一番近い席に腰を下ろした。下ろす間際、ちらりとガラス越しに、これから向かう先の線路が前方にずっと伸びている様を視界に映す。他に乗客がいなければ、ずっと運転室のドアに張り付いて前方の景色を眺めていたいのだが、少なめとはいえ乗客もいるこの場では、大人しく常識ある行動を取ることに努めるのだった。

 ――まあ、精々歓迎してやるわ。新人ども。

 コーヒーをちびりちびりと飲みながら、心の中でそっと呟く。

 電車は、走り出した。窓の外の空は、青い。まことに晴天だ。だが今新入社員たちは、この空の色を見るでもなく、この足下遥か下で、この世のものとも思えぬ物や現象に出くわし、肝を冷やしているところなのだろう。

 ――無事に、来るがよい。歓迎会に。

 空を眺めつつ、ふう、と小さく息をつく。

 ――お前たちの歓迎会であるのだからの。

 五駅目で、男は電車を降りた。エスカレータで降り、通路を歩き改札口の方へ曲がったとたん「おう」と声を挙げる。

 改札の向こうに、約束も期待もしていなかった“迎え”の者が、いたのだ。

「大山よ」歩きながら片手を挙げる。「すまんの」

「宗像(むなかた)さん」迎えの者も手を上げ笑顔を返す。「お疲れです」

「わざわざ来てくれたか」宗像は駅前に駐車されていた大山のセダンに荷物を載せ、自分も後部席に乗り込んだ。

「いやいや、こっちこそ急に呼んでしまってすいません」大山は車を滑るように走らせる。「グリーン車で来ました?」

「いや」宗像は笑った。「新幹線ではちと間に合わぬかと思うて、途中までは空を飛んで来たわ」

「あー、ですよねえ」大山は苦笑する。「俺もつい天津に『今日か明日、歓迎会やるから新人に都合聞いて来い』って言っちゃったけど、まさか新人が『今日がいい』なんて言うとは思わなくて」

「はははは」宗像は大笑いする。「ポジティブじゃの、此度の新人ども」

「そうすね」大山も笑う。「そんで空って、大丈夫でした? ぶつからなかったすか? 民間機とか」ハンドルを緩やかに切りつつ訊く。

「なんのこれしき」宗像は腕組みして身を反らせる。「如何に年を喰うたと言えど、さように低空飛行すべきほど体力落ちてはおらぬ」

「これは、失礼致しました」大山はすぐに詫びる。「天下の大軍神様に、大それたことを申し上げてしまいました」

「気にするな」宗像はそういうが、彼の中の自負心は疑いのないものであった。「しかし昨今は、宇宙ステーションの方に注意せねばならぬからの」指を空に向ける。

「ああそうか。NASAとかに見つかっても面倒ですしね」

 そんな会話を続けながら、大山の車は会社の敷地内へと入っていく。彼らのいう『空を飛んで来た』とは、『宇宙を飛んで来た』という事のようだった。

「新人どもは今は地下に潜っとるのか」宗像はキャリーケースをトランクから引っ張り出しながら訊く。

「ああ、そうですね。後半部分をやってるのかな」大山はトランクのドアを閉めながら答える。

「後半部分とは」

「洞窟イベントの実技演習ですよ。開いた岩の中で、地球と対話する部分」

「おお」宗像は納得して頷く。「まさに命懸けておるところか」

「はは」大山は眉尻を下げる。「まあ、天津が付いてるから無事終わるでしょう」

 

     ◇◆◇

 

 当の新人たちに『まさに命懸けている』という自覚は、無論のこと微塵もなかった。ただ彼らは、揃って“それ”を凝視していた。“それ”――否、“彼”を、だ。

「あれは……?」最初に茫然と口にしたのは、結城だった。

 そこはエレベータホールからドアを開け洞窟内に入り込み、ほんの数メートルほど進んだ所だった。

“彼”は、結城らの進む方向、五メートルほど先に、佇んでいた。ぼんやりと、俯いている。眩しいライトの光が揺らめきながら近づいて来るにも関わらず、顔をこちらに挙げることも、腕で眼を覆うこともしない。

 一行は、午前中に遭遇した土偶のおかげでさほど度肝を抜かれることはなかったが、土偶のときとはまた別の、不気味さ、警戒心、そして戦慄をそれぞれ心に抱かずにいられなかった。

「人間?」結城に続き口にしたのは、時中だった。

「社員の方でしょうか」本原も続ける。

「いや」天津も首を傾げる。「うちの社の者では、ないですね。誰だろう」

「えっ」結城が声を上げ、三人の新人は一斉に研修担当を振り向いた。「不法侵入者っすか」

「うーん」天津は尚訝りながらも、先に立ち“彼”に近づいていった。

 新入社員たちは、そろそろとその後に続く。

「あれ」“彼”からほんの二メートルの位置まで来たところで、天津は声を挙げた。「泣いてる……?」

「えっ」すぐに結城が、天津の肩越しに首を伸ばして覗く。「あっほんとだ、泣いてる」

「泣いているな」時中も天津の横から上体を斜めに覗かせて言う。「何者なんだ」

「頬が涙で濡れています」本原も見たものを言葉で表現する。「哀しいのでしょうか」

「でもこんな洞窟の中で?」結城が疑問を口にする。「なんでまたわざわざこんな所に来てまで哀しんでるの? 彼」目の前の“彼”を指差す。

「借金を断られました」突然、その者は発言した。

 何秒間か、沈黙が続く。

「借金?」最初に発言したのは、またしても結城だった。「ていうか、あなた誰?」

「――」男は、その時初めて一同に視線を向けた。それは、哀しげなというよりも、物憂げな、何かとてつもなく面倒な事情を抱えて悩んでいるような――要するに面倒臭そうな、厭世的な雰囲気を漂わせていた。「デモクラシイ思想のあまりの馬鹿さ加減にしてやられました」

「ああ」反応したのは天津だった。「わかった」

「えっ」結城が天津の横顔を見る。

「誰なんですか」時中も天津に問う。

「精霊?」本原が訊く。

「啄木ですね」天津は“彼”を見つめたまま、答えた。



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第20話 ケアレスミス イズ ヒューマンエラー

「啄木」結城は洞窟に入った当初に注意された内容をすっかり忘却し、叫んだ。「石川啄木?」

「あの、元祖ワーキングプアか」時中が呟く。

「どうして、石川啄木がこんなところに?」結城は天津の顔を、その肩の下あたりから見上げて訊いた。

「恐らく、呪文の副産物でしょう」天津はちらりと結城を見下ろして答えた。

「副産物」結城は天津の肩の下あたりで叫んだ。「つまりあの啄木は、イベント遂行による副作用で出てきたものだと」

「恐らくそうだと思われます」天津は片目を、暗闇の中にも関わらず眩しそうに細めて答えた。「結城さん、あの、少しボリュームを……」

「あ、はい」結城は“口にチャック”のジェスチャーをして見せたが、恐らく“ボリューム調整”の意味のつもりでそうしているものと思われた。

「天津さん」時中が、抑揚のない声で問う。「つまりこれは石川啄木の、幽霊だというわけですか」

「ええと」天津は後頭部に手を当てた。「まあいわゆる、そうですね」

「あれ、でも足ありますよ」結城が目の前の、涙で頬を濡らす男の足下を指差して指摘する。

「ははは」天津は薄く笑う。「まあ、特に気にする必要もありませんから、先に進むことにしましょう」そして佇む幽霊の横をすり抜けて先に行く。

「え、いいんですか」結城は泣き濡れる啄木を眺めながら天津に続く。「供養したりとか、別にしなくても?」

「はい」天津は振り向きもしない。「こういうのは単なる“出現物”ですから」

「出現物?」

「はい」天津は歩きながら頷く。「想いを訴えて来ることはありますが、それ以上の事はしてきません……あの土偶みたいに」

「ああ、なるほど」結城は納得して頷く。「幽霊より土偶の方が怖いってことですね」

「まあ、ケースバイケースですね」天津はまた笑う。

「あれ、じゃああの人」結城はふいに、歩きながら後ろを振り向く。「幽霊ってことは、精霊? 本原さん」

「違うと思います」本原も歩きながら答える。「あの人は人間なので」

 その後、皆黙った。沈黙の中に“若干の混乱”という見えない糸が緩くからまり合っていたが、誰も正面切ってそれに手を伸ばし解く気にもなれずにいたのだった。そうして、泣き濡れる石川啄木は後ろに遠ざかっていった。

 

「天津さん」一行はしばらく進んだが、またしても結城が“それ”を見て最初に口にした。「あれは何すか? あの、真っ赤な岩は」

 指差す方向十メートルほど先に、結城の言葉通りペンキを塗ったかと思わせるほど赤い色を呈する直径五、六十センチほどの岩が、一行のライトが集まり照らす中、ころんと地面に転がっていた。無論、午前中には見られなかったものだ。

「あれも“出現物”の一種ですね」天津は答えた。「オオクニヌシが抱いた石です」

「オオクニヌシが」結城が叫び、

「抱いた?」時中が呟き、

「オオククニヌシノミコトですか、あの神様の」本原が溜息混じりに囁いた。

「はい」天津は頷く。「八十神たちにだまされて、赤猪だと思い込んで抱きとめてしまったものです」

「なんで赤いんすか?」結城が訊く。

「今も、焼けているからです――触らないようにね。オオクニヌシみたいに焼け死にますから」天津がそう忠告したのは、一行が赤岩のすぐ近くまで来たところでだった。

「まじすか」結城は天津の後ろにいたが、既に差し伸べかけていた右手をそっと下に降ろした。

「オオクニヌシはカミムスヒノカミに助けられたんですよね」本原が最後尾から言葉をかける。

「ええ。でもいつも助けてもらえるとは限らないですからね」天津は柔和な笑顔で振り向く。

「出現物、ということは、これは岩の幽霊ということになるのですか」時中が眉をしかめて岩を眺めながら訊く。

「岩の幽霊って」結城が時中を見て叫ぶ。

「静かにしろ」時中が歯を食いしばり制する、それは言う事を聞かない犬に手を焼く飼い主の表情に似ていた。

 焼けているだけあってその岩に近づくにつれ、ぽかぽかと暖かくなってきてはいたが、いざ狭い通路でその横を通り過ぎるとなると、なかなかの試練といえるほどの高温に耐えねばならなかった。

「ふいー」結城はウエストベルトのポケットからペットボトルの緑茶を取り出し、ぐびぐびと飲んだ。「幽霊のくせに温度高いやつだなあ」

「これはある意味で“攻撃”になるといえるのか」時中が考えを述べる。「土偶と同様に」

「そう、ですね」天津は慎重に答える。「まあ、こっちに向かって転がって来な

いだけ、まだ穏便な方かも知れませんね」

「えっ、そんなやついるんですか」結城が息を呑む。「焼けた状態で迫ってくる岩が」

「たまに」天津はさらりと答え、とどまることもなく先に歩いていく。「まあ、川の水で抗戦できるでしょう」指差す方向に、午前中にも見た小川が見えてきた。

「ああ、ほんとだ」結城が額に手をかざす。「もう川まで来た。なんか今回は早いなあ。ねえ、皆」後ろを振り向くが、他の二人はそれに対して特に何も述べなかった。

「抗戦」時中が復唱する。「つまり、戦えと」

「戦うのですか」本原も繰り返す。「あの岩と」

「失礼しました、“抗戦”ではなく“防御”です」天津は眉を八の字にして笑う。「ご自分の身を護るという事です」

「ああ、なるほど」結城が納得して頷く。「冷水浴びて心頭滅却すればいいんですね」

「――ええと、はい」天津はもう適当に受け流すことにしたようだった。

「しかし我々は神力で護られるはずではないのですか」時中が眼を細めて訊く、その表情はふと天津の心に、木之花の顔を思い出させるものだった。

「――それは」天津は俯き、足を止めて振り向いた。「研修中は、そうですね」

 三人は、押し黙った。天津も、それ以上は言葉を重ねない。

「いつも」やがて時中が言った。「助けてもらえるとは限らない、と」

 天津は口を固く引き結んだが、特に言葉は返さなかった。



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第21話 離職率より生き残り率の方がレア率高という確率論

「あ、宗像さん」室内に入ると木之花が顔を上げ、笑顔で立ち上がり挨拶した。

「きゃー」宗像が両手を天井に向かって差し上げ、嬌声を挙げる。「咲ちゃん、元気ー? お久しぶりー」

「どうも」木之花の笑顔にほんのりと苦笑が混じる。「ええとあなたは、タギツヒメ様です、ね?」

「そうよお」宗像はウインクして空中を叩く真似をする。声は、無論男のものだ。「私も、います」だがそれは不意に低く、囁くようなものに変わった。「お久しぶりです、咲耶姉さん」

「あ、イチキシマヒメ様」木之花は眉を上げ、改めて笑顔になる。「お元気ですか」

「イッちゃんでいいですよ、お姉さん」宗像は僅かに身をよじる。「いつもの時みたいに」

「いつもの時?」宗像の背後に佇んでいた大山が顔を覗かせて訊く。

「あ、いえ、まあその」木之花が突然頬を赤くして両手を激しく振る。

「ははは、すまんの」宗像はまた不意に苦笑を浮かべ、床に投げ下ろしたキャリーケースを拾い上げる。「まあ元気そうで何よりじゃ、木之花君」

「あ」木之花の顔が、咲きたての花のように慎ましくも輝いた。「タゴリヒメ様……」机から離れ、宗像の近くに歩み寄る。「お元気でいらっしゃって、何よりです」眼を細めるが、天津を見る時とはまったく別物の、色香に満ちた表情だ。

「鹿島さんも戻って来てますよ」大山がドアの向こうの廊下を手で示す。「顔見に行きますか」

「おお」宗像は木之花の物言いたげな表情に気づく素振りもなく、くるりと背を向けすたすたと廊下に出た。

 木之花は無念そうに溜息をつき、大山の背を恨めしげに睨んだ後、無言で机に戻り無表情に仕事を再開しはじめた。

 

     ◇◆◇

 

「地球が」天津は静かに語り出した。「何を考えているのか、我々にもいまだよくわかっていません」

「地球が」時中が呟き、

「何を考えているか?」結城が叫び、

「まあ、そんな」本原が溜息混じりに囁く。

「はい」天津は視線を下に落とし、ゆっくりと瞬きした。

「ていうか、地球ってもの考えるんすか」結城は首を一振りして訊いた。「人間みたいに」

「もちろん『考える』というのは比喩的な言い方で、なんというか、つまり地球にとって我々は何なんだろう、どういう風な存在なんだろう、という事です」天津は困ったように笑う。

「まあ」本原が胸に手を置く。「まるで、恋をしているようですね」

「ははは」天津はさらに困ったように笑う。「ある意味、似ていますね」

「それで我々はつまるところ、地球から見てどういう存在なんですか」時中が結論を急ぐ。

「――それを探るための方法が、皆さんに行っていただく“イベント”になるわけです」天津は再び俯いて瞬きし、それから視線を三人に上げた。

「探るための」時中が呟き、

「方法?」結城が叫び、

「まあ、素敵」本原が溜息混じりに囁く。

「それを、これから――皆さんに午前中開けて頂いた岩の中で、執り行います」

「我々はそこで、命を懸けることになるんですね」時中が眼光鋭く指摘する。「労災保険が降りるような目に遭うことに」

「――」天津はもう一度瞳を閉じ、それを開けて時中を見た。「最初にお伝えした通り、僕が――というよりも我々が、全霊をかけて護ります」

「わかりました」結城が声を張り上げる。「とにかく、入ってみないと何がどうなるのかわかりませんよね。研修中は安全ってことなんでしょ。もしダメそうなら、その時点で」そこで彼は言葉を切り、ちらりと岩天井を見上げた。「――退職?」首を傾げる。

 しばらく、沈黙が続いた。

「結城さんの、仰る通りです」天津が声を落として言った。「ここでの実技研修と、現場でのOJTをまずは体験してもらった上で――この仕事が続けられそうかどうか、ご判断にお任せします。もちろん、続けて頂ける事を心から期待しています」にっこりと微笑む。

「おかしな話ですよね」時中は咳払いする。「本来会社は、従業員が安全に業務に当れるよう環境を整える義務があるはずなのではないですか。それを、まかり間違えば地球に叩き殺されるかも知れませんが嫌なら辞めて下さいというのは、ハラスメントどころではなく脅迫に等しい行為なのでは」

「――」天津は言葉に窮したように、眉をひそめるばかりで返答せずにいた。

「時中君」結城が助け舟を出す。「でもさ、実際やってみないとあれだけど、相手は地球でしょ。最初から俺たちを殺しに来る前提はないんじゃないかと俺は思うのよ」

「何故そんなことがわかる」時中は珍しく、結城の発言に反応した。

「だって、母なる地球ですよ」結城は両手をオペラ歌手のように広げる。「母なる大地。それが俺たちを、なんで殺す?」

「机上研修の時の話を忘れたか」時中は肩をいからせる。「地球の自然サイクルを、人間は農耕によって変えてしまったんだ。地球が我々をどう見ているかなんて、火を見るより明らかだ」

「でも人間も一生懸命、地球に優しくする努力してるじゃん。地球もその辺のこと位はわかってくれないとだよ」

「人間ごときが今更いくら足掻いたところで、これまで何千年何万年もかけて狂わせた環境を元に戻すことなんて不可能だ。地球は我々を、排除しようとしているんだ」

 

「まさにそれ」

 

 突然、甲高い声が岩壁に反響した。

「うわうるさっ」結城が肩をすくめる。

 本原が結城をじっと見るが、特にコメントはしない。

「鯰か」天津が問いかける。

「今“でもでもだって君”が言ってくれたようなやりとりを、これからイベント会場でやるわけさ。ま、頑張ってー」声は、天津の問いかけに答えることもなく言いたい事だけ言い、そして黙った。

「でもでもだって君?」結城の訊き返しに対する返答も、ない。

「貴様の事だ」時中が代わりに答える。「『でも』とか『だって』とかが多いから――まるで女の腐ったような事を言うからだ」

「あれ」結城は口を尖らせる。「ひどいよそれ。セクハラだよ」

「女が腐ったのではなく、結城さんご自身が腐ったような、とすべきですね」本原も意見を述べる。

「あれ」結城は目を見開く。「それは何ハラ? クサハラ?」

「まあ」天津は空気を押え、溜息をつき「じゃあ……行きましょうか」そして指示を出した。

「うーん」歩き始めた後もなお、結城は考えを述べ続けた。「何万年もかけて狂わせた環境は、確かに変わらないかもだけどさあ」

「――」時中は返事せず、黙って歩く。

「けどだからって、人間を滅ぼしたら元に戻るのかって話だよねえ」

「私もそう思います」本原が珍しく、結城に相槌を打った。「けれど地球さまも、人間を滅ぼしたからといって元に戻らないことはご存知なのではないでしょうか」

「そうですね」天津も歩きながら答える。「だからこそ、地球が我々に対して何を思っているのか……我々をどうしようとしているのか、対話を続けなければならないんです」

「おおー」結城は感動の声を挙げた。「まるであれですね、国連の動きみたいな話ですね」

「ははは」天津は歩きながら乾いた声で笑う。「ある意味、似ていますね」

「我々は恋をしながら国連のように対話をするわけですね」結城がまとめる。

 しばらく、全員黙って歩いた。不思議なことに、午前中に遭遇した土偶や呪いの剣の姿はまったく見ることもなく、一行は開かれた岩の場所に辿り着いたのだった。

 

     ◇◆◇

 

「鹿島」室内に入るなり、叫ぶようにその名を呼ぶ。

「おお」鹿島は椅子の上で組んだ両手を後頭部に当てふんぞり返っていたが瞬時に振り返り、満面の笑みで立ち上がった。「宗像支社長、お疲れです」

「出雲会議は、早ように終わったのじゃな」

「そうなんですよ」宗像の問いに答えながら、鹿島は部屋の窓際の応接コーナーを示す。「まあどうぞ。お茶淹れますから」そして反対側、室内奥の給湯コーナーに歩み寄る。

「あ」恵比寿が慌てて立ち上がる。

「あーお茶なら俺やりますよ」大山が鹿島を制し、その隙に薬缶に手を伸ばす恵比寿に向かって片手を挙げ依頼のジェスチャーをする。

 つまり鹿島は今、恵比寿を認識していないからであった。

「すまんな」宗像もそう言うが、大山にではなく恵比寿に向かって手を挙げる。

 恵比寿は無言のまま笑顔を返し、とびきり上手い茶を淹れることを心に決めるのだった。たとえその茶を淹れたのが、自分の直属の部下である事を鹿島本人が自覚してくれていなくとも。

 

     ◇◆◇

 

 その岩は、まるで新入社員たちを歓迎しているかのように、神々しく光り輝いていた。

「うわあ」結城が声を挙げる。「すっげえ光ってますね」

「そうですね」天津は警戒の視線を岩から外すことなく、ゆっくりと歩を進める。

 それは確かに、午前中彼らが呪文――ワードを唱え、ローターを挿し込み、何らかの力――神力か――が加わった結果、洞窟の岩壁に、縦に大きく裂け目が生じ、そこから左右に壁が割れたように見えた。そのような現象が起きたものとしか、見えなかった。つまり午前中の“作業”が完了し、一旦全員がまた来た道を引き返し、エレベータに再び乗って地上へ戻り、昼食を食べ休憩してまた地下へ降り戻って来るまでの間に、それは起きたのだ。

 その隙間の幅、三十センチほどだ。そしてそこから、眼をすがめざるを得ないほどの光線が溢れ出している。

「つか、狭いっすねこれ」結城が、とくに感動を覚えている風でもなく日常と変わらぬ声音で感想を述べる。「横向きで一人ずつ入らないとだめな感じ」

「そうですね」天津は同じ回答を、さらに警戒の籠もった声音で返した。「少しだけ、様子を見ましょう」

 一行は輝く隙間を取り囲むように立ち止まり、言葉もなくじっと佇んでいた。輝く岩の裂け目の向こう側は、眩しいばかりで一体どのようになっているのか判らない。

「よし」やがて天津が口火を切った。「じゃあまず僕が入ります。一人ずつ、後に続いて入って来て下さい。危険そうであれば声をかけますので、すぐに出て下さい」

「はいっ」結城が叫び、

「わかりました」時中が呟き、

「お気をつけて」本原が囁く。

「お気をつけてって、本原さんも一緒に入るんだよ」結城が振り向いて確認する。

「はい」本原は無表情に頷く。「生きて戻って来られる事を、祈りましょう」

「ええー」結城が肩をすくめる。「そんな、縁起でもない」

「しかし、あながち杞憂でもなさそうだな」時中は岩壁を睨みつけたまま言う。「一体中に何があるのか」

「――」天津はそれ以上何も言わず、結城の感想通り横向きになって体を岩の裂け目に滑り込ませた。

 ――けど、よく逃げ出さずにいるよな……この子たち。

 滑り込ませながら、彼はそんなことを思っていた。

 ――命が惜しくないのか、再就活が面倒なのか、それとも……

 厚さ二メートル弱ほどの壁を潜り抜けた先には、地下とは思えないほど暖かく、乾いて心地よい空気が満ちていた。

 ――興味本位、か。

「うわあー、快適空間じゃん!」背後で結城が叫ぶ。

 その叫びもさして耳障りにならぬほど、その空間は充分な広さを有していた。

「何なんだ、ここは」時中の声が、珍しく上ずっている。

「まあ、すごい」本原は溜息混じりにコメントするが“クーたん”関連のものとどちらがより感動に値するものかは判断がつきかねる。

 ――興味……まあ、それは俺も同じ……だな。

 天津はそう思い、改めて眼を細めながら上を見上げた。



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第22話 屍が死刑台の上に上がる時というのはこんな気分なんだろうか

 その、輝かしくも広々とした空間は、まるでこの世のものとも思えぬ所だった。今まで息を切らしながら歩いて来た洞窟の狭い通路とは比べ物にならない、まったくの別世界だ。眩さに目が慣れてくると、やがてその空間を形づくる構造物――つまりその空間の壁や足下、頭上の天井などの正体が掴めてきた。それは意外なことに、外の暗い世界と同じ、岩石でできていた。

「なんだこれ」結城が茫然と上下左右を見回して言う。「光る石?」

「どこかに、照明がついているのでしょうか」本原も頭上を見上げながら問う。

「何か岩全体が光っているように見えるな」時中も左右を見回しながら感想を述べる。

「これもまあ、地球からの語りかけのようなものですね」天津が解説する。「我々の視覚に、こう見えるように刺激を与えているんですよ」

「へえー、刺激」結城が天津に振り向く。「それってあの、肩こりが治る首輪みたいな感じのやつですか」訊きながら自分の鎖骨の辺りを手で撫でる。

「――ええと」天津は必死で『肩こりが治る首輪』というものを自分の記憶領域から探り出そうと試みたが、遂にそれは実現し得なかった。「肩こり、に効くかどうかは、不明ですね」

「地球が我々の肩こりを治してくれるぐらいなら、我々が命を懸ける必要などないだろうが」時中が苦虫を噛み潰したような顔で言う。「向こうはこっちを殺そうとしてるんだぞ」

「ああ、まあそれもそうか」結城はあまり深く考慮していない様子だった。「でもまあ、暗いよりは明るい方が、対話がしやすくていいよね」

「地球さまはお姿を見せてくださるのですか」本原は天津に、なかば潤んだ瞳を向け問いかけた。「なにか擬人化したお姿で、現れたりするのですか」

「そうですね」天津は下を向いて考えた。「そういう時も、あります」

「まあ」本原の興奮はいよいよ高まったようだった。「どのようなお姿ですか。属性でいうと何になりますか」

「属性?」天津は目を丸くして本原を見た。

「それはやっぱり地球だから、土遁(どとん)の術とかじゃないの」結城が言葉を挟む。

「忍術なのですか」本原は真剣至極な目を結城に向ける。「地球さまは忍者なのですか」また天津に訊く。

「忍者……そのものでは、ない、かと……」天津は今や混沌の中からの離脱を全霊をかけ願い、もがいていた。

「恐らく忍者でも妖精でもないのだろう」時中が冷たく言い放った。「地球は地球だ、それ以外の何者でもない」

「え、では」本原はいささか驚愕したようだった。「地球そのものの姿で、私たちの前にお出でになるのですか」

「おお、いいねそれ」結城が手をぽんと打つ。「こう、丸い頭に手足がついてて、地球くんが『よう』って」片手を挙げ挨拶のジェスチャーをする。

「馬鹿々々しい」時中が首を左右に大きく振り否定する。

「ええと、姿を現すときは」天津が窒息寸前のように苦しげな声と表情で白状した。「老若男女、さまざまなヒトの姿をとって現れます。地球に手足がついている姿で現れたことは、今のところまだありません」

「へえー」結城が頷く。「わりと普通なんだ」

 本原と時中もそれぞれに頷き、続くコメントは特に発せられなかった。

「はい」天津はこの話題が終了したようであることを心から悦んだ。「では、イベントの続きを執り行いましょう」

 

     ◇◆◇

 

「なかなか苦しんでるな」大山が、茶葉に湯を注ぐ恵比寿の横に立って苦笑しながら呟いた。「あまつん」

「ははは」恵比寿も、そっと笑う。「ホントね」

「今回の新人たちは、なかなか手強いみたいよ」大山は微かに首を振る。「もしかして本当にスサノオなのかも」

「へえ。だとしたら楽しみ……というか心配というか」恵比寿は急須に蓋をしながら返す。

「どっちよ」大山はまた苦笑する。

「スサノオが地球にどう対峙してくれるのか、は楽しみだけど」腕時計を見ながら恵比寿自身も苦笑する。「逆に、地球を怒らせるようなことやらかすんじゃないかってとこは、心配」

「言える」大山は腕を組み頷く。

 

「大分、苦戦しとるようじゃの」宗像もソファの上で腕を組み苦笑していた。「天津は」

「そうですね」鹿島も同意して笑う。

「まあ、初戦じゃからの」宗像は、孫の失敗を大目に見てやる祖父のような大らかさで頷く。「新人にとっては。無理もなかろうて」

「確かに」鹿島は頷く。「見るもの聞くもの、受け入れるまでには相当の時間とエネルギーが必要でしょうからね」

「今回の新人は、なかなか屈強なる兵(つわもの)かも知れんのう」宗像は顎を撫でながら、ニヤリと笑った。

 

     ◇◆◇

 

 ――ああ、大分疲れてるみたいだな。天津君。

 酒林は魚のすり身を湯葉で巻きながら、心の中で思う。隣でオードブル用の白身魚をおろしている板長には、言わない。何故ならそれは“本業”の上での話だし、今は“副業”の方に携わっているからだ。

 ――どんな子たちなのか、今夜会うのが楽しみだな。

 心の中で微笑む。

 ――二十歳の女の子もいるっていうし。

 心の中でもっと微笑む。

 ――咲ちゃんの目を盗んで、どうにか連絡先聞き出せればな。

 そんな事を思うと、体が勝手に何かのリズムを取り始めて揺れ出す。

「店長、楽しそうですね」板長が隣で包丁を振るいながら笑う。

「まあね」酒林は笑顔で繕う。「たまに仕事すると楽しいよね」

「いいなあ」板長は溜息混じりに答える。「まあ兼業されてますから、息抜きみたいにはなるんでしょうね、店長にとって」

「そうね」巻き上がった素材を深鍋の底に並べていく。「ここに来ない時は、料理に集中なんてできないからね。外食とかコンビニばっかり」

「でしょうね」板長の声に憐憫の響きがこもる。「今夜の歓迎会は、店長も一緒に喰って呑んで下さいね。給仕はうちらに任せて」

「有難う」酒林はにっこりと笑顔を見せた。

 ――よし。これでゆっくり女の子と話せる。

 心の中で、そう思う。

 

     ◇◆◇

 

 PCから顔を上げ、は、と溜息をつく。「天津君……大丈夫?」木之花は、独り呟く。

 具体的に今、天津と新入社員たちがどのような会話のやりとりをしているのかまでは掴めない。だが天津が、とにかく疲弊していることだけは感じ取ることができるのだ。質問責めに遭っているのか。恐らくはそうだろう。この仕事の本質を知った新人たちが、天津にすべての答えを求めてくるのは当然だ。

「まあ私も、いざという時には彼らからの問いに、充分応えられるよう準備しておかないとだけどね」木之花はPC作業に戻りながらまた独り呟く。「――彼らからの問い、というか」デスクの隅に立てかけてある本の背表紙をちらり、と見遣る。それには『労災保険法概要』と書かれてあった。「彼らの“家族からの”問いに」

 

     ◇◆◇

 

「ではまず、皆さん正三角形の位置に立って下さい」天津は右掌で大気を撫でるように、三角形を描く。

「正三角形」結城が復唱し、他の二人を振り向く。「じゃあ本原さんがそこで、時中君がもうちっとあっちに行って、俺はこっちに行く感じか」手をひらめかしつつ仕切る。

 他の二人は特に言葉もなく、言われるまま三角形の頂点に立つ。それぞれの位置からは二メートルずつ離れている。

「この後は、皆さんそれぞれに問いかけを行って頂きます。内容については皆さんにお任せします。順番だけ、決めておきましょう。時中さん、本原さん、結城さんの順に、思ったままの言葉で対話を試みて下さい」天津の指示は、至極簡単なものであった。

「問いかけ?」時中が呟き、

「って、何を?」結城が叫び、

「まあ、大変」本原が囁く。

「先程、鯰(なまず)が伝えてきたように、地球は我々をどう見ているのか、というような感じでいいですよ」天津は三人を安心させるよう穏やかな表情で答えた。「あるいは他に何か聞きたいことがあれば、自由に問いかけてみて下さい」

「へえー」結城は眼を丸くして感想を述べた。「自由裁量なんですね。逆に責任重大ですね」

「あまり堅苦しく考えなくても、大丈夫です」天津は目を細めて笑う。

「しかしその問いかけの内容如何によっては命に関わる事態を招き寄せることになるのでしょう」時中が鋭く指摘する。「そうなっても責任は我々にあるということになるのですか」

「それはありません」天津は首を振る。「万一のことがあったとしてももちろん業務上の災害という扱いにはなります」

「じゃあ安心だね」結城は時中を振り向く。

「安心なものか。逆だ」時中は間髪を入れずに否定する。「業務災害が起きることが今、保証されたんだ」

「災害保証ですね」本原が囁く。

「文字が違う」時中が拳を握り締める。「必要なのは保証ではなく保障だ。我々の身の安全の」

 

「うだうだいってないで始めましょっての」

 

 甲高い声が、どこからともなく語りかけてきた。全員、はっと息を呑み天井を見上げる。だがどこにも声の主の姿は見当たらない。

「鯰」天津だけが一言、そう呼んだ。

 

「よし、行け」大山が言った。

「頑張れ」恵比寿が言った。

「いよいよじゃの」宗像が言った。

「始まるな」鹿島が言った。

「さてさて」酒林が言った。

「準備OK」木之花が言った。

 全員が、眸に人間のものとは違う性質の輝きを灯していた。

 ――全霊をかけて。

 神たちは時を同じくして、そう思った。

 

「頼みます」天津はそっと、呟いた。



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第23話 今、何かがこの辺りを歩き回っている

 ず

 ず

 ずず

 ずずずず……

 

 岩は、目に見えないほどほんの僅かずつ動きながらも、自身ではなにか、自分が今にもぱちんと音を立てて弾け飛んでしまいそうな“感じ”が、していた。

 ――こういうのを、なんというのだろう――

 なにか、こういう“感じ”がする時に、人間たちが口にする言葉があったはずだ。

 ――何だったか――

 

 ず

 ずず

 ず

 ……

 ずずず

 

 それを思い出すまでに、どれ位の時が経過しただろう。

 そもそも時は、経過したのであったか。 

 

     ◇◆◇

 

「そもそも死ぬのが嫌ならなんでそこに立ってんの」甲高い声は続けて問う。「嫌ならさっさとここから出て行って、住処に帰ればいいだけの事でしょうに」

「――」時中は瞳を左右に動かす。「嫌であっても帰るわけには行かない。雇用契約を取り交わした以上は」相手の姿を見つけられぬまま、答える。

「じゃあ黙って仕事しろってのよ」甲高い声は言う。

「愚痴くらいは言ってしまうと思います」本原が続ける。「仕事というものは楽しくないものなので」

「なんで楽しくもないのに仕事すんのよ」甲高い声が訊く。

「それは、ぶっちゃけ給料の為っすよ」結城が答える。「全員、生活がかかってんすから」

「ふうん」甲高い声は理解を示す。「金の為に、嫌な仕事を我慢してんの」

「多かれ少なかれ、大体の者がそうだろう」時中が考えを述べる。

「まあ大変なことさね。人間ってやつは」

「あなたは、人間ではないのですね」本原が質問する。「天津さんの仰っていた、鯰さまですか」

「そう、鯰」声は初めて自らの正体を明かした。「でもあたしが喋ってるのは、岩っちの代わりにだから」

「岩っち?」結城が問う。「地球のこと?」

「そうとも言う」鯰が答える。

「あ」本原が声を発しかけるが、時中が視線を向けた為口をつぐんだ。発言の順番を守れという、無言の制止を察知したのだ。

「その地球は、我々に対してどう思っているんだ」時中は核心を衝いた。

「さあ」鯰の回答はただ一言だった。

「さ」時中が声を発しかけたが、今度は本原が視線でそれを制止した。

「あなたは」そして本原は問うた。「クーたんですか」

「はい?」鯰は素っ頓狂な声で答えた。「クーたん? 何それ?」

「海を護る汎精霊です」本原は返答した。

「本原さん」時中が例外的に、小声で言葉を挟んだ。「鯰は淡水生物だ。海にはいない」

「ああ、そうそう」結城が平常レベルの声で同調した。「海には鯰、いないよ」

「うるさい」本原は結城を厳しく睨み上げた。「どこにいたってクーたんはクーたんだ」

 しばし、沈黙が洞穴内に流れた。

「あたしは、池の中にいるけど」鯰は、どこか戸惑いを帯びた雰囲気が感じられなくもない声で返答した。「クーたんじゃあ、ない」

「わかりました」本原が、低く答えた。

 またしばし、沈黙が洞穴内に流れた。

「ん」やがて天津が、顔を左右に向け声を挙げた。

「どうかしました?」結城が天津に訊く。

「何か、いますね」天津は、目に見えないその“何か”を鋭く目で追っていた。

「何か?」時中が問い、

「幽霊?」結城が叫び、

「精霊ですか」本原が囁きかける。

「皆さん、その場を動かないで」天津は左手を立て制止の合図をした。「結界を張りますから」

「おお」結城が感動の声を挙げる。「結界。やったね本原さん、結界だって」

「はい」本原もやや興奮気味に頷く。「でも呪文も魔法陣もありません」

「ああ、そういうのは特に必要ないです」天津はほんの僅かに笑った。「僕らには」

「おお」結城はまた感動した。「さすが神様」

「そうなのですね」本原にとってはいささか残念なことのようであった。

 そしてその直後、三人はそれぞれ“何か”に包まれた。それは温かく、優しく、柔らかく、良い香りがし、良い音がし、良い色をしていた。とはいえ決して周りの景色が見えなくなってしまったわけではなく、それはちゃんと見えているのだが、しかしその景色の中にありながらも明らかにその場の空気からは遮断されている――というよりも、護られている、そんな感じがするものだ。

「おおー」結城が感動の声を挙げる。「天国感はんぱねえ」

「下卑た言い方をするな」時中が非難したがその声もまた、棘がすべて取り払われ、柔和なものになっていた。

「素敵」本原がうっとりと囁く。「これが神様のお力なのですね」

「おかしいなあ」鯰が出し抜けに、そう言った。

「何がおかしいんだ」時中が問う。

「岩っちが、なんにも言わない」鯰は、口を尖らせたような喋り方で答える。「いつもなら、人間からなんか訊かれたら答えるのに」

「まあ」本原が口を押さえる。「どうして、地球さまはお答えくださらないのでしょう」

「さあ」鯰は再び、すっとぼけたような喋り方で答える。

「答えってさっきの、時中君が訊いた『我々の事をどう思ってるんだね君』ってやつ?」結城は時中の口真似らしく威張りくさった言い方を混ぜて問うた。

 時中は結城を横睨みに睨んだが、敢えて取り構わなかった。「では別の問いをする。今この辺りにいる“何か”とは、地球の意志とか魂とか、そういう類のものなのか」

 しばらく、鯰は何も返答しなかった。やがて、その答えはあった。「うん。こんな気分の時って、人間の言葉でなんて言うんだっけ、って言ってるよ」

 少しの間、誰も口を開かなかった。

「こんな気分とは、どんな気分なのですか」やがて本原が訊き返した。

「うーんと」鯰は確認のため数秒黙った後「なんかね、ぱちんって弾けそうな感じの時」

「ぱちん?」結城が叫び、

「弾けそうな?」時中が呟き、

「苦しいのでしょうか」本原が囁く。

「苦しいって、食い過ぎで腹が苦しい時のこと? 地球さん、飯食い過ぎたの?」結城が目を丸くする。「何食ったんだ」

「違う」鯰は否定した。「『苦しい』じゃない、って言ってる」

「じゃあ何なんだ。怒りが爆発しそうなのか」時中が問う。

「それも違うって」鯰が答える。「『怒り』じゃない、って言ってる」

「へえ、よかった」結城が胸を撫で下ろす。

「では悲しいのでしょうか」本原が問う。「悲しみで胸が張り裂けそうなのでは」

「地球の“胸”ってどこになるの? 本原さん」結城がまたしても口を挟む。「赤道付近とか?」

 本原は結城に一瞥もくれることなく、また一言も返答しなかった。

「『悲しみ』でもないって言ってる」鯰が否定する。

「あわかった」結城が殊更に叫ぶ。「楽しいんだ。楽しくてふわふわー、わくわくー、てなって、そんでぱちーんってなりそうなんじゃないの?」

 時中が短く嘆息した。

「擬態語」本原が小さく指摘した。

「はは」それまで黙って聞いていた天津も、つい苦笑を洩らした。

「ああ、それだって」鯰が答えた。「『楽しい』だって」

「おお」結城は眼を大きく見開き、他の者たちを見回した。

 だが皆は、絶句していた。



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第24話 カワイゲってどこに生えてる毛ですか

「吸収能が最高だって」鯰が言った。「この空洞放射にアルベドはあり得ないって言ってる」

「んな?」結城が言葉にならぬ問い返しをした。

「シュテファンとボルツマンが踊り狂うのが見えるって」鯰は容赦なく続ける。

「はは」天津だけが笑う。「なるほど、弾けるぐらい楽しいわけだ」

「いや、なるほど?」結城が天津を振り向いて叫ぶ。「何がなるほどなんすか?」

「要するに、この空間内の電磁波が平衡状態に到っているということだろう」時中が説明する。

「それのどこが楽しいのですか」本原が問う。

「なんか地球的にはテンションハイパーレベルな話ってわけか」結城が彼なりに返したコメントもまた、常人にとっては理解困難なものであった。

「それで」時中が問いを続ける。「何の為に地球は――地球の“魂”は、ここを歩き回っているんだ」

「味わってんのよ」鯰が答える。「この、黒体放射の味を」

「味がするのですか」本原が訊いた。「地球さまは、それでお腹がいっぱいなのですか」

「ゾウリムシとどっちが旨いのか知らないけどね」鯰が答える。

「ゾウリムシって旨いんすか」結城が訊いた。「すげえなあ。今日のこの日のワンダーランド」叫ぶ。「不思議いっぱい冒険の旅」

「何言ってんのかわかんないけど」鯰が抑揚のない声で答える。

「それで」時中が深く溜息をつきながら質問する。「地球は結局、我々を殺そうという腹積もりではないと見ていいんだな?」

「岩っちがそんな事言ったことはないよ」鯰が答える。「ただ人間って――」

 しばらく、間があった。

「人間って、何だ」時中が問う。

「人間って、どうなんすか」結城が問う。

「人間って、だめなのですか」本原が問う。

「神たちにとって、どんな存在なんだろう、って言ってる」鯰が答えた。

「神たちに」時中が呟き、

「とって?」結城が叫び、

「どんな存在なのでしょうか」本原が囁き、三人は一斉に、同方向を振り向き見た。

 ポニーテールに無精髭を生やしたビジカジ教育担当者が、端正ではあるが気弱げな表情で、そこに立っていた。

 

     ◇◆◇

 

「よし、じゃあここで一区切り、飯にしましょうか」板長がぱん、と手を打ち合わせる。

「うん、そうね」酒林は壁時計に目を遣る。「もう三時か。ごめん俺ちょっと、ヤボ用で一旦出て来るわ」板長に向き直り、片手を挙げる。

「あ、そうすか。じゃあ俺一人寂しく食っときます」板長が笑う。

「開店までには戻るよハニー」酒林も軽口を叩きつつ、店外に出る。

 町中をしばらく歩き、路地裏に入り込み、小さな川沿いの道をまたしばらく行く。酒林はてくてくと、ただまっすぐ歩き続けた。道は段々細くなり、住宅が並ぶ区画も過ぎ、塵屑が打ち上げられあちこちに溜まっている海辺に出た。

 辺りに目を配る。平日の昼下がり、季節外れの海には、人一人いない。いるのは神だけだ。酒林はすう、と海風を吸い込み、目を閉じ首を仰け反らせてしばしそのまま停まった。それから上空に向けてふうー、と息を吹き、目を開ける。

「よし、では」そう一言呟いた次の刹那、彼は一匹の蛇に姿を変えた。長さ数メートルほど、人の首ほどの太さの蛇だ。「新鮮ぴちぴちの飯を、捕えに行くかな」そう続けて呟いた次の刹那、蛇は素早く身をくねらせながら空に向かって昇り始めた。

 

     ◇◆◇

 

「――我々にとって」天津は、何かを探るようにそっと、注意深く言葉を返した。「本当に、地球はそれを知りたがっているというのか?」

「うん」鯰の答えは拍子抜けするほどに簡易で明るかった。「どうして神は、ヒトを作ったんだろうって」

「――」天津はすぐに答えられずにいた。

「へえー」結城が何度も頷く。「やっぱ人間って、神さまが作ったんだ」

「それは人間という存在が地球にとって邪魔かつ迷惑な存在であるからこそ、何故作ったか知りたいということなのか」時中が問う。

「時中さん」本原が口を挟む。「二回続けてのご質問ではないのでしょうか。順番が飛んでしまっているのでは」

「――」時中は唇を尖らせたが反論できずにいた。

「あーでも、俺もそれ訊こうかと思ってた」結城が時中に向け人差し指を振る。「まあ一回ぐらい順番が入れ替わってもいいんじゃない?」

「入れ替わっているのではなく、飛ばされたのです、私が」本原が自分の胸に手を当て、肩を揺すって抗議した。「結城さんと時中さんが入れ替わっただけではなく、私という存在がスルーされたのです」

「存在をスルーとかはしてないよ」結城は両手をぶんぶん横に振った。「全然そんなつもりで言ったんじゃ」

「私にも対話する権利があるのではないでしょうか」本原の発言は止まりを見せなかった。「地球さまや、鯰さまと」

「彼女、あんまり意見を主張し過ぎると煙たがられちゃうよ」鯰が口出しした。

 人間たちは口をつぐんだ。

「可愛げがないとかってさ。まあ今はそんな事言うとハラスメント問題になっちゃうから、ないかもだけど、影でこっそりなんか言われたりすると、仕事もやりにくくなるでしょ」鯰は続ける。「大人しくしといた方が無難だって」

「ルールを守るという事が、可愛げがない事になるのですか」本原は岩天井をきっと睨み上げて更なる主張をした。「それはおかしいのではないでしょうか」

「いや、俺は陰口なんて言わないよ。俺はね」結城が口を挟む。

「私なら言うというのか。陰口を」時中が口を挟む。

「あんたらが言わなくても、神たちが言うかもよ。陰口」鯰が口を挟む。

「まあ。神さまがそんなことをなさるわけ、ないではないですか」本原が口を抑える。

「我々にとって」天津の声に皆が振り向くと、ポニーテールの神は目を閉じ俯いたまま、唇をそっと動かして答えを口にした。「人間の皆さんは、大切な従業員さんだ」

「大切な」時中が呟き、

「従業員」結城が叫び、

「まあ、素敵」本原が溜息混じりに囁く。

「従、業、員」鯰はその言葉をゆっくりと区切りながら繰り返した。「働かせる為に作ったってわけね」

「端的に言えば、そうなる」天津はゆっくりと瞼を開いた。「我々の為に仕事をし、我々に利益をもたらしてくれる。我々にとっては何より大切な、宝だ」

「おお」結城が感動の声を挙げる。

「まあ」本原が両手で頬を抑える。

「――」時中は無言だったが、天津をじっと見つめていた。

 しばらく、沈黙があった。

「ふうん」やがて鯰が言った。「って、言ってる」

 

     ◇◆◇

 

「やれやれ」宗像が腕組みして首を振る。「ふうん、とは手応えないのう」

「ははは」鹿島が苦笑する。「ふうんって、ねえ」

「そんなもんなんすかねえ」大山も頭を掻く。「ふうんって」

「あっさりだなあ」恵比寿がそっと呟く。「ふうんって」

「何それ」木之花がデスクに頬杖を突き、口を尖らせる。「ふうんって」

 

「はっはっはっ」酒林は飛びながら身をよじって笑った。「さっすが岩っちさま。『ふうん』だけとは恐れ入った」そんな事を言いながらも蛇の眼で“獲物”を追うことは抜かりない。

 彼はすぐに、新鮮でぴちぴちしたターゲットを発見した。「いたいた」直ちに下降体勢に移る。

 それは、スマホを見ながら街路を歩く若い人間の女だった。その向かう先のビルのドアが開き、人間の姿に戻った酒林が現れる。

「あれ、志帆ちゃんじゃん? こんなとこで遭うなんて」酒林は眉を思い切り持ち上げ、驚きと喜びの表情を作りながら呼びかけた。

「え、あれ、サカさん!」女はスマホから顔を挙げるなり同様に眉を持ち上げ同様に驚きと喜びの表情になった。

「これも何かの運命だよね。せっかくだから一緒に飯とかどう? 奢るよ」酒林はするりと女の横に貼り付き、今にも肩を抱き寄せんとしながら誘う。

「えーまじ? やったあ行く行く」女は自分から酒林の脇に抱きつかんばかりの体勢を取り、嬌声を挙げる。「どこ連れてってくれるの?」

「そうねえ、どこにすっかな」

 昼間からべたべたとくっつき合って歩きながらも酒林は心中計算していた。

 ――つってもここはあっさりめで済ませといた方がいいな。何せ今宵は、新人の娘をお持ち帰りって流れになるだろうからな。うん。

 

 ばん、とデスクを叩く。マウスがぴょん、と飛び上がる。

「酒林」木之花が、低く呟く。

 

「おおう」

「うわ」

「まずい」

「やばい」

 神々が一斉に焦りの声を挙げる。

 

     ◇◆◇

 

「ああ、これは」天津が片目を瞑り痛そうな表情で言う。「荒れるな」

「えっ、荒れるって」結城が驚いて反応する。

「地球さまがですか」本原が問う。

「何か起きるとでも」時中も身構える。

「いや」天津は首を振る。「すいません、荒れるというのは地球がではなく……うちの総務担当が、です」



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第25話 業務以上に気を使う業務終了後

「地球さまは今もまだこの辺りをお歩きになっているのですか」本原が質問する。

「姿は見せてくれないんすか」結城も質問する。「幽霊みたいに歩いてないで」

「午前中に見た土偶や剣や、さきほど見た石川啄木なども、皆地球が姿を変えたものなのか」時中も質問した。

「えーとね」鯰は一同に制止をかける。「質問は一人ずつ、一個ずつにしてくれる? 小学生の学級会じゃないんだからさ」

「あなたは、人間の小学生というものをご存知なのですか」本原が質問する。

「よく知ってるよね、この人。鯰なのに」結城が岩壁の適当な方向を指差して他の二人に向かって言う。

「だが言っていることは理に適っている。質問は一人ずつ行うべきだ」時中が意見を述べる。「順番は誰からだ」

「わかりません」本原が答える。

「えーとね、時中君が何か訊いて、本原さんが自分が抜かされたって怒って、鯰君の方が人間って何? みたいな事言い始めて」結城が想起する。

「鯰君、なのですか。鯰さまは男性の方なのですか」本原が質問する。

「質問がぐだぐだ過ぎだ」時中が指摘する。

「そろそろ、帰れ」鯰が言った。

 一同は、口をつぐんだ。

「って、言ってる」鯰の声が続いた。

 天津が腕時計を見「ああ、もう時間ですね。じゃあ、上に上がりましょう」と提言した。

「ええー」結城が叫び、

「もう上がるのですか」本原が口を抑え、

「ぐだぐだだ」時中が眉を寄せ首を振った。

 

     ◇◆◇

 

 ――何がいけないのだろう。

 岩は、そんな風に想った。

 ――何が不満だというんだ――神たちは。

「ふうん」確かに自分はそう言った。本当に、そう感じたからだ。

 この世の中は、知らないこと、わからないこと、意外なことだらけだ。「ああそれなら知ってる」ということの方が、遥かに少ない。何か一つを「知ってる」と思えるようになったとしても、その瞬間に知らないことは何十、何百、何千、何億――数え切れないほど存在しているし、おまけに増え続けている。だから何かを見たり聞いたりした時には大概「ふうん」としか言う言葉はないのだ。

 神たちは人間を「働かせる為に作った、宝」だと言った。それは自分にとって、知らないことだったし、意外なことだった。だから「ふうん」と言ったのだ。それが不満だというのか。じゃあどういえばよかったんだ。「そうだろうと思ってた」か。「そんな事あり得ない」か。「自分の知ってることと違うから、それは嘘だ」か。

 自分にはそれら一切、言えない。そんなこと、言えない。言うことなど、できない。そんな、知った風なことなど。

「岩っち、お疲れ様」鯰が、そう声をかけてきた。

 自分が今どんな気分でいるのか、鯰にはわかっているのだろうと思う。

 

 ず

 ず

 ず

 ……

 

 岩はただ、微かな摩擦音を返すだけだった。だがそんな中で、自分がどんな気分でいるのか、改めて自分で確かめなければならなかった。

 哀しい、のか。

 悔しい、のか。

 腹立たしい、のか。

「みんな、我侭だもんねー」鯰が、そう言う。

 それで岩は、はっきりと知った。

「確かに、そうだ」自分が今この瞬間、そう思ったという事実を。

 まったくコミュニケーションというのは、難しいものだ。

 

     ◇◆◇

 

 そこは、決して大きな店ではないが入り口の造りはしっかりとしており、軒先に杉の葉で作られた球形の飾りが吊るされていて、老舗店の貫禄を醸し出していた。

「ここが『酒林』」先頭に立つ大山が店の玄関を手で示し、自分の後ろについて来ている新人三名に振り向いて説明した。「これも、“酒林”ね」杉玉も手で示す。

「え、この、葉っぱボールがすか?」結城は飾りの“酒林”を見上げて訊き返した。

「そう。酒の神の、まあシンボルみたいなもんね」大山は頷き、玄関の戸を開ける。自動ドアではないようだった。「こんちはー」威勢よく声をかける。

「いらっしゃーい」更に威勢の良い声が返って来た。店内には三人、紺色の作務衣の上衣に似たものを着けた学生バイトらしき少年が一人と、厨房内に白衣の中年男が二人立っていた。

「どうも、お世話になります」大山は丁寧に会釈をする。

「ああいえいえ、こちらこそ有難うございます」厨房の男の一人が調理帽を取って会釈を返す。もう一人の中年男も、無言だが笑顔でぺこりと頭を下げる。

「お座敷の方へどうぞ」ホール係の少年も笑顔で一同を案内する。「お履物はそのまま置いてお上がり下さい」

「あざーっす」結城が先頭となって、十二畳ほどもあろうか、長方形の大きな卓を二つ並べてある和室へと入る。「おお、結構広いなあ」室内を見回す。

 確かに、店の外観からは意外なほど、座敷は広々としていた。壁には山麓の風景画、窓には黒い格子が架かり、落ち着いた雰囲気である。卓上には数人用の鍋が一定の間隔を開けて置かれ、各席に皿やグラスや箸などがずらりと用意されていた。

「結構、集まるようだな」時中が卓上の様子を眺めて言う。

「お名前を早く覚えるようにしないといけませんね」本原も、特に緊張したようには見えないが気合が入っているとも取れる言葉を口にする。

「ようーし、やるぞー」結城は腕まくりのジェスチャーをして見せる。「お酌回りと、サラダの取り分けと、鍋の管理だ」

「管理するのですか」本原が訊く。「火加減とかですか」

「そうだよ、丁度いい煮え具合の時に素早く、それも偉いさんから先に取り分ける。誰が立場的に一番上の人か、具材が煮えるまでに見極めないといけないからね」結城は自分の眦に指を置きながら目玉を左右に揺らめかした。

「でも煮えるまでの間はお酌したりするのでしょう。お酌の順番は、偉い順でなくてもよいのですか」本原が詳細を訊ねる。

「それはね、ヒントは部屋の奥、つまり上座に座ってる人がより偉い人なわけだから、そっちから攻めていくわけさ」結城が人差し指を立てて得意げに説明する。

「ではお鍋も、お部屋の奥に座っていらっしゃる方から取り分けて差し上げないといけないのですか。その間に下座の鍋の具材が煮え過ぎたりしませんか」本原は更に詳細を穿つ。

「この男なら大方」時中が結論づける。「忍者のように分身の術を使って酌なり取り分けなりするんだろう」

「こりゃまいった」結城はぎゅっと目を瞑り額を手で叩く。「時中君、さすがだなあ」

「まあ、そんなに気を使わなくていいですよ」不意に三人の背後から、天津が苦笑しながら声をかける。「今日は皆さんの歓迎会なんですから、ゆっくり座ってて下さい」

「そうですよ、皆さん」木之花も、仕事の時には見られなかった柔らかな笑顔で三人をねぎらう。「今日は初の現場研修で、大変だったでしょうから」

「ありがとうございます」結城が深々と頭を下げ、時中と本原も軽く頭を下げた。

「さあ、皆は一番奥に座ってね」大山が、入り口から一番離れた席、縦長に連ねられた卓の上座側の席を手で示す。「お酌とか取り分けとかはもう、天津君がやってくれるから」

「あ、……はい」天津は苦笑を蘇らせて肩をすくめるように頷いた。「頑張ります」

「まあ」本原が口を抑える。「神さまにお酌をさせるなんて、そんな」

「いいさ、どうせ全員神さまなんだし」大山は笑う。「気を使ってたらきりがないよ」

「まあ」本原は目を見開く。「全員、神さまなのですか」

「社員が、全員?」時中が囁くように訊く。

「ま、後で追々紹介するよ。さあ、座って」大山は三人の背を押すようにして促す。

 三人は、取り敢えず一番上座に結城、その向かい側に時中、時中の隣に本原という位置づけで座についた。

 待つことしばしで、座敷には次々とスーツ姿の男たちが入って来ては、その都度立ち上がろうとする新入社員たちを手で止めつつ、着座してゆく。見たところ上座も下座も考えている風でもなく、来た順に好きな所へそれぞれ腰を下ろしているようだった。年齢層も様々で、一番若いのは天津や木之花あたりの三十路そこそこ位、その少し上らしき大山、更にその上四十路らしいのが数名、いわゆるミドル、シニアと称される世代らしいのが二、三名ずつといった所だ。

 そうして座は埋まり、座敷内は賑やかになって来、少年バイトと白衣の男たちが飲み物やオードブルなどを運び入れ、天津と木之花だけでなく、座敷内にいる全員が“お酌”をし合い始める。

「本原さんビールで大丈夫?」本原の隣に座る木之花が訊く。

「泡がなければ大丈夫です」本原が答える。

「そうなの? 泡のないビールがいいの?」木之花は目を丸くしながらもグラスに、瓶からビールを泡が立たないよう斜めに注ぎ入れる。

「泡のない方がいいです」本原がそれを見ながら頷く。

「泡なかったらビールじゃなくなるじゃん?」結城が斜め向かい側の席から意見を述べる、その手には程よく泡の立った生ビールのジョッキが握られている。

「泡を立てる意味がわかりません」本原は結城の生ビールを見ながら言う。

「あー、うーん、それはー」結城の隣、本原の向かいに座っている初見の男が顎をつまむ。

「泡の立つ意味かあ」その男の隣に座る男が続く。

「なんか風味を保護する役目があるとかいいますよね」木之花のひとつ下座側に座る男が言葉をつなぐ。

「ほんと? それ科学的な根拠のある話?」木之花が訊く。

「いや、わかりません」聞かれた男は首を振る。

「エビッさん調べといて。納期来週末で」大山が比較的下座側から口を出す。

「えっ、私?」木之花の二つ下座側に座っている恵比寿が驚いて背筋を伸ばす。

「適材適所じゃの」恵比寿の向かい側に陣取る宗像が、貫禄たっぷりに頷く。

 宗像のひとつ下座側にいる鹿島は、にこにこと笑うが特に何も発言しない。

「じゃあ社長、乾杯の音頭を」一番入り口に近い位置に座している天津が、大山を促す。

「はい」大山は生ビールを手に威勢よく立ち上がる。「えーではただ今より取締役会を始めたいと思います」

「違う違う」

「社長違います」

「ビール持ってるのに」あちこちから一斉に突っ込みが入る。

「あごめん。えー株主総会?」大山は左右を見渡す。

「ブ――」

「歓迎会歓迎会」またあちこちから声が飛ぶ。

「あ、すいません。歓迎会ですね。じゃあ」大方泡の消えた生ビールを差し出しつつ、大山の張りのある声が宣言する。「取り敢えず乾杯!」

「お疲れさーん」

「入社おめでとうございまーす」

「おめでとーう」座は一気に盛り上がり、グラスやジョッキが高々と差し上げられる。

「ありがとうございます! ありがとうございまーす! あーありがとうございますー」結城は、顔見知りも初見も含め周囲の社員たち一人ずつと丁寧にグラスを合わせ礼を述べていった。

 かくして新入社員と神々との酒宴は、始まった。



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第26話 目標は、地球滅亡までにこの仕事を終わらせる事だ!

「お疲れ」言いながら戸を引く。

「お疲れぃーす」

「お疲れぃーす」厨房の男たちが、妙な発音ではあるが威勢よく返してくる。うち一人は、昼間一緒に仕込みをやった板長だ。

「お疲れっす」座敷から下りてきたホール係のバイト学生もすぐに酒林に気づき、笑顔でぺこりと頭を下げる。「店長、新人の子、隣に木之花さんしっかりついちゃってますよ」背後を親指で差しつつ、苦笑しながら報せる。

「まじか」酒林は笑いながら顔をしかめる。「てか俺、今咲ちゃんと顔合わせたくねえのよ」

「また何かやっちゃいましたか」バイト学生は少し身を遠ざけながら目を細めて訊く。

「やっちゃいましたよ」酒林は学生バイトの頭にぽんと手を置く。「蛇の習性には抗えないからねえ」

「ああ、そっちすか」バイト学生は、今時の子らしく物分りの良い面を見せながら「いらっしゃいませー。ご予約でしょうか」と、玄関から入って来た客に素早く対応する。「あーすみません今日は貸切になってましてー。申し訳ありません、またお願いします! ありがとうございます!」

 酒林はにこにことそんなバイトの仕事振りを見守りながら、靴を脱ぎ縁に上がる。

 

 座敷内では乾杯の後しばらく談笑が続いていたのだが、頃合を見計らって大山が再度立ち上がり「えーではここいら辺で、ほろ酔い加減のいい気分のもと、全員自己紹介をしていただきたいと思います」と述べた。「酒の勢いによる愉快痛快なコメントで場内大爆笑の渦に包まれ、盛り上がってゆける事と期待しております」

「じゃあ最初は社長からお願いします」直ちに声がかかる。

「いいぞ」

「場内大爆笑で」

「期待してますよ」

「えー?」大山は胸を撃ち抜かれたように苦痛の表情を浮かべたが「相わかりました」と襟元を正して一つ咳払いをした。

 全員が口を閉ざし、大山に注目する。

「えーわたくしは新日本地質調査株式会社の代表取締役、大山和志と申します。元々は京都、三嶋神社で鰻(うなぎ)を使って子宝祈願を受けてましたが、生命誕生に関わる面、つまり新人採用と教育という面での担当を、天津君と木之花さんとの三人体制でやっておりまして、えーまた個人的には海と山両方を見るという性質上、会社全体を管理する立場を仰せつかっております」大山は立て板に水を流すかのようにすらすらと自己紹介した。

 少しの間、沈黙が広がる。

「で?」誰かが言う。「そこからの?」

「え?」大山がぽかんと訊き返す。

「爆笑ネタ」別の者が答える。

「ええええ」大山は唇の端を引き下げた表情になるが、すぐに「ああそれはこの後、天津君がぶちかましてくれるそうなんで、私はひとまずここまでと致します」と締め括り、さっさと腰を下ろした。「さ、天津君、次」天津に手を差し伸べ、促す。

「ええええ」天津が同じく唇の端を引き下げながらも渋々立ち上がる。「ええと、えー、私は研修教育担当の、天津高彦と申します。えええと、大山社長と同じく三嶋神社に座してましたが、今はその、あれです、こういう、あの立場になっております」

「あまつん、それ爆笑ていうか、むしろ苦笑ネタだけど」誰かが言う。

「ものすごいふわっとした自己紹介なんだけど」別の者も言う。

「あ、すいません、えええと」天津は顔を赤らめながら必死に言葉を探した。「爆笑ネタは、そのう、あの」

「咲ちゃんは口説き落とせたの?」また誰かが問う。「生命誕生を司れたの?」

「あえ」天津は後頭部に手を置きながら、しんなりとした表情で酒を呑んでいる木之花の方を見る。「いや、それはその」

「駄目だったのか」

「あまつんー」

「駄目だなあ」一斉に駄目出しの声が挙がる。

「す、すいません」天津は重ねて謝る。「じゃ、じゃあ僕はこの辺で、退散しま……」

「あたしを口説くって?」木之花が唐突に発言する。手には猪口を持っている。「十億年早いわ」

 場内に、爆笑が起こる。

「十億年後ならいいのか」

「十億年後って、地球どうなってんの」

「存在してるの?」

「ええと太陽は、あと五十億年ぐらいの寿命だっけ」

「じゃあまだ、あれだな、いけるな」

「あたしは木之花咲耶」木之花が構わず自己紹介を始め、それからくいっと手許の猪口を干した。「まあご存知の通り、総務を担当してるわ」指で唇を一文字に拭い、妖艶に笑う。「自分が死んだ時遺族に幾ら入るか、知りたければいつでも聞いて」

 三人の新入社員は言葉もなく、硬直していた。

「まあまあ、それはそれ」誰かが強制的に場を和ませる。

「そうそう、そんな時てのはまずもってして訪れないからね」別の者が声に熱を込めて続く。

「咲ちゃん、しょっぱなから飛ばし過ぎでは」更に別の者がそっと囁く。

「あれだ、サカさんに頭に来てんだよ」更に別の者が尚そっと囁く。

「よし、では次に儂が参ろう」立ち上がり高らかに宣言したのは、宗像であった。

 場内が再び、しんと静まり返る。ほ、と溜息の漏れる音がする。皆がつい振り向く先には、頬を赤らめうるんだ眸で宗像を見上げる木之花の、しな垂れた姿があった。

「儂は宗像道貴、福岡支社長を務めておる。本社には滅多に顔を出さんが、今回は新入

社員の諸君を激励する為参った。常日頃は福岡の海の傍にて、海上をゆく者たちの見張り、守護をしておる。戦となった際には軍事を司る」

「戦?」結城が声を挟む。「戦って、戦争っすか?」

「さよう」宗像は一筋の迷いもなく即答する。「軍事、外交を司る者は他にもおるぞ」

 ざっ、と一斉に立ち上がる者が、四名あった。

「伊勢照護す」結城の隣に座っていた男が名乗る。「大王の守護神をやってます」

「鹿島健だ」宗像の隣に座っていた鹿島が名乗る。「剣と雷を見ている。あと鯰(なまず)も」にやり、と笑う。

「住吉渉です」木之花の隣に座っていた男が名乗る。「軍船に乗って、航海守護をしてます」

「石上史人」下座、天津の隣に座していた男が名乗る。「剣の神」

「うわあ」結城が感嘆の叫びを挙げる。「まじっすか。皆さんで戦争起こすんすか」

「起こしはせん」宗像は少し吹き出す。「戦になった際は、という話じゃ」

「戦を起こすのは神じゃない」木之花が、緩やかに首を振る。「いつの世でも、人間よ」

 新入社員たちは、相変わらず硬直するのみだった。

 

「俺も、自己紹介とかしないといけない感じかな」酒林が、唇を指でつまみながら呟く。

「ファイトっす」ホール係のバイト学生が、握り拳を小さく振る。

「はは」酒林は僅かに苦笑した後、和室入り口の襖を開けようと手を伸ばした。

「あなた達は、本当に神なのですか」その時、時中がそう問う声が聞こえた。

 

 時中の不意討ちのような質問に、すぐに答える者はいなかった。

 だが「いかにも」と宗像が深く頷くと、社員全員が共に頷いた。

「ですよね。確かに皆さん、普通ではないというか、常人にはない雰囲気を醸し出していらっしゃいますもんね」結城が室内を見回しながら、持ち前の大声でフォローを入れる。

 先輩社員、上司たちは微笑みさえ湛え、再度頷く。

「じゃ、試しになんかこう、神ならでは! っていうの、見せてもらうことできますかね?」結城は次に、同僚のフォローに移る。「例えばこう、パーッと鳩出すとか」

「鳩?」住吉が目を見開く。

「ちょっとちょっと」伊勢が目をぎゅっと瞑る。

「なんで鳩?」恵比寿が茫然と訊く。

「神のイメージって、それ?」大山が瞬きもせず宙を見つめる。

「大山」不意に宗像が社長を呼ぶ。「かの者が、スサノオノミコトか」

「あ、ええと」大山は背筋を伸ばし、返答の言葉を捜す。「それはですね」

「スサノオ、つまり儂らの」宗像がそこまで言った直後「あたし達の、お父さんなの?」突然声のトーンが変わり、叫んだ。「彼がそうなの?」

 座敷内にいる全員が言葉を失ったが、特に表情を変えたり宗像を振り向いたりする者は、神の中にはいなかった。神に限っては全員、実情を知っているのだ。つまり宗像の中には、三柱の“女神”が坐していることを。それはタゴリヒメ、タギツヒメそしてイチキシマヒメであり、彼女らはスサノオノミコトの剣、十握剣(とつかのつるぎ)から生まれ出た神々である事を。

 だが人間の新入社員たちにはそこまでの事情はすぐに飲み込めずにいた。三人は驚愕の表情で初老の男神を凝視し、結城に到ってはその神を指差していた。

「お姉様、落ち着いてはいかがでしょうか」宗像の声のトーンは更に変わり、打って変わって低く沈んだ、冷静な囁き声になった。「まだはっきりと断定されたわけではないのですよね、大山さん」

「あ、はい、まだ」大山は頭を掻いた。

「それよりもそろそろ、席替えを致しませんか」宗像はそう言って、木之花の方に顔を向けそっと微笑んだ。

「タゴリヒメ様」木之花は酒のせいなのか他の要因のせいなのかわからないが顔を真っ赤にして、上ずった声でその名を呼んだ。

「私はイチキシマヒメです」宗像が眉を寄せ、哀しそうに身をよじる。「ひどいわ、咲耶姉さん」

「え、何、どうなってるの」結城は顔をあっちに向けこっちに向け、だが眸をらんらんと輝かせ、この複雑な状況の解説を求めた。「宗像支社長って、あの」

「よせ」時中が結城を睨む。

「オネエけ」結城は睨まれて言葉を断ったが、何を言わんとしていたのかは総員に丸分かりだった。

「すっげえよなあ、宗像さん」密かに憧憬の呟きを洩らすのは、和室入り口の襖の外でそっと中を伺う酒林だった。「あの咲ちゃんをあそこまでくったくたに堕とすなんて……あー俺もあんな親父になりてえ」



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第27話 クニが先かカミが先かニワトリが先かタマゴが先か

「そ」取り繕うべく言葉を差し挟んだのは、天津だった。「それじゃあ今度は新人さんたちの方から自己紹介してもらいましょうか。ええとじゃあ、時中さんから」手を差し

伸べる。

 時中は黙って立ち上がり「時中伸也です。御社の業績にプラスになるべく努力したいと思います。よろしくお願い致します」と自己紹介をして軽く会釈をした。

 盛大な拍手が沸き起こる。

「彼はね、すごいんすよ」結城が地声を張り上げる。「岩に穴開ける係なんすけど、ものすごい綺麗な穴開けるんです。プロ並みなんすよ彼」

「あれは天津さんが」時中が否定しかけるが、

「おお、すごいな」

「手先が器用なんだな」

「いい人材が入ったじゃないか」主に若い層と見える先輩社員たちが反応し、次々に声を挙げた。

「いえ、私は」時中はもう一度否定しかけるが、

「はい、頭も良さそうだし、理屈的なことはもう彼に任せれば、完璧にやってくれる感じっす。歩く洞窟辞典的な存在になってくれると俺は信じてます」結城が更に持ち上げる。

「まじかあ」

「それは頼りになるなあ」

「宜しく頼むよ」先輩社員らもますます盛り上がる。

「――」時中は口を引き結び、無言となった。

「ええとじゃあ次は、本原さん」イニシアティブはすっかり天津から結城に移動し、結城の差し出す手に従うように本原が時中と入れ替わり立った。

「本原芽衣莉です」名を名乗り小さく会釈する。表情は特に動くこともない。静寂の中、本原は着席した。

「彼女もね、すごいんすよ」結城は再び地声を張り上げた。「クーたんっていうのを信じてるんす」

 本原が無言のまま、斜め向かいの結城に視線を向ける。

「このクーたんってのがまたあれで」結城は本原の視線を受け止めつつも両手を空中に差し出すようにして論説を続ける。「とにかく、なんちゅうかすごいっちゅうか、ただ者ではないんす。えーと本原さん、クーたんって何、クローン動物?」質問する。

「――」本原は無言で結城を見ていた。

「クローンのクーでクーたん?」結城は再度、質問した。

「やめて」本原は答えた。

「え?」

「もう二度と、クーたんのことを話さないで」

「ええっ」結城は目を見開いた。「なんで?」

「穢れるから」本原は答えた。

 場に静寂が戻った。

「芽衣莉ちゃん、か」襖の外で酒林がそっとその名を繰り返す。「名前は覚えたけど……入りそびれちったな」

「酒林さん」突如、室内から木之花の声が響いた。店主は思わず肩をすくめる。「酒が足りないわよ。早く持って来て」

「は、はーい今すぐー」酒林は急ぎ声を返し、すでに素早く熱燗と生ビール、焼酎の水割りセットなどを用意し始める学生バイトに振り向き、幾度も頷きながら指を振り指示を示した。

 木之花の酒の催促が、なんとか場の空気を再び盛り上げることに成功した。その木之花はいつの間にか隣に移動して来た宗像と酒を酌み交わし機嫌よく話している。

「伊勢さんは、大王の守護をなさっているのですか」本原が自分の向かい側に座る先輩社員に訊く。

「俺すか、そうすよ」伊勢は満面の笑みで答える。

「まあ」本原は頬を抑える。「では、アマテラス様なのですか」

「うん、いわゆるアマテラス、す」伊勢は頷く。

「けれどアマテラス様は、女性ではないのですか」本原は首を傾げる。

「ああ。区別する為に、男になってるす」伊勢は自分の体を見下ろしつつ答える。

「区別、ですか」本原は首を反対側に傾げる。

「そうす」伊勢はにこにこと頷く。「まあその内追々、分かると思うすよ」

「えっ、男になったり女になったり、自由に選べるんすか」結城が驚いて訊く。

「ははは」伊勢は笑う。「元々俺ら神ってのは姿形のないものすからね」

「では、国生みの時にはどのようにしてお生みになったのですか」本原は真面目な表情で質問した。

「あれっ本原さん、ここから下ネタ話になる?」結城が目を丸くする。

「下ネタではありません」本原が真面目な表情のまま否定する。「国生み神話です」

「国生みはすね」伊勢は、過去を懐かしむかのように天井を見上げ目を閉じる。「これはもう、地球さんの力、それと太陽さんの力、あとその他色々の星さんたちの力すよ」

「では神は何を作ったんですか」時中が質問する。

「主に、生物圏のもろもろすね」伊勢の答えは明確だった。「最初は海ん中で」

「ああ、海っすか。海っすね」結城が何かに感動しつつ目を閉じ、そして手許の生ビールを呷る。「やっぱ生命の根源は海っすよねえ」

「生物圏のはそうす」伊勢も頷き、手許の生ビールを呷る。「俺、焼酎にしようかな。あまつん、焼酎来た?」下座の方に向かって呼びかける。

「あ、今来る」天津がそう言うのと同時に襖が開き、大きな脇取り盆を抱えた酒林が入室して来た。

「すいませーん、お待たせー」

「おっ、サカさんお疲れぃーす」大山が、厨房の男たちと同じような挨拶を飛ばす。「皆も今日の席取ってくれたサカさんにお礼言っといてー」

「あざーす」

「お疲れーす」

「サカさんお久しぶりーっす」続いて次々に挨拶が飛ぶ。

「あ、どうも、新入社員の皆さん初めまして」酒林は脇取りを天津に渡して生ビールのジョッキを一つだけ取り上げ、上座側へ近づいて来た。「遅れ馳せながら本社の末席を汚しております、酒林と申しますー」最初に本原に向かって微笑みかけながらジョッキを差し出す。

「よろしくお願い致します」本原は自分の飲んでいたオレンジジュースのグラスを持ち上げ乾杯をする。「本原です」

「あーどうもどうも」酒林は続いて時中とジョッキを合わせる。「酒林ですー」

「時中です」時中も乾杯する。

「えーとじゃあ、俺間に入っていいかな」酒林はそのままするりと、水が流れ込むかのように時中と本原の間に座ろうと腰を下ろしかけた。

「いいわけないでしょう」木之花が声を高め、瞬時に酒林の首根っこを掴んで引っ張り上げた。「あっち行って」

「うへー」酒林は失敗したという顔で唸った。「やっぱし」

「当たり前よ」木之花は酒に酔おうとも宗像に見惚れようとも、自分の責務を忘れたわけではなさそうだった。「昼間のこと知らないとでも思ってるの」

「勘弁してよお、咲ちゃん」酒林は苦笑いするしかない様子だった。「俺の習性知ってるでしょ? 蛇なんすから」

「蛇だろうがトカゲだろうが、女を馬鹿にしてるっていうのよ」木之花は酒林のうなじを片手で掴んだまますたすたと卓を回り込み、結城と伊勢の間にすいっとしゃがんだ。「はい、結城さんにも挨拶して」

「あ、どうもー酒林ですー」酒林は奇跡のように一滴たりとも溢すことなく運んで来た生ビールのジョッキを結城のものと打ち合わせ「いや俺、馬鹿になんかしてないよって」またすぐに木之花に向けて抗弁する。

「どしたんすか、昼間なんかあったんすか」結城は当然のように会話に割って入る。

「ねえ結城さん、どうせこの世に生きるんなら、楽しく生きたいっすよねえ」酒林はいまだ首根っこを掴まれたまま、もう一度ジョッキを持ち上げて結城に同意を求めた。

「あ、ええ、それはもちろんそうっすよね」結城もジョッキを上げ、大いに賛同した。「それは木之花さんも同じっすよね」

「――」木之花は目を細め、やっと酒林のうなじから手を離した。「酒林さんのは、ただ単に欲望のままに生きてるだけじゃないの」

「あれえ、咲ちゃん」酒林はくるりと後ろに振り向く。「咲ちゃん、あれえ」繰り返す。

「何よ」木之花は多少たじろいだように、体を後ろに仰け反らせる。

「神にも欲望というものがあるんですか」時中が質問する。「それに先ほど伊勢さんが、神は元々姿形がない、だから男にも女にもなれると仰っていましたが」

「ああ、うん」酒林は時中を見て頷く。「けど俺はね、俺的には、男の方が楽しいわ」

「そうなのですか」本原が続けて問う。「どういうところが楽しいのですか」

「お、芽衣莉ちゃん」酒林は卓上に肘を乗せ身を乗り出す。「俺の本当の姿を、知りたいのかな」

「やめなさい」木之花が再び酒林のうなじを掴む。「彼女はクシナ」言いかけて口を閉ざす。

「――」酒林がぴたりと静止し、そして首だけをゆっくりと振り向かせる。

「――」木之花はそれ以上言葉を継げず、二人は無言で少しの間見つめ合っていた。

「そうなの?」酒林が問う。

「わからない」木之花は首を振る。「けど……社長が面接して採用したわけだから」

「ああ」酒林は、下座の方にいる大山に目を向ける。「そうか、そういやさっき宗像さんが、かの者がスサノオかって訊いてたよな――じゃあ」酒林は結城に振り向き、それから時中に視線を移した。「どっちの彼が?」

「――それもまだ」木之花は肩をすくめる。「わからないわ」

「そうか」酒林はもう一度結城を見て、それから手許の生ビールを見下ろし、ぐいと呷った。

「あの」結城が質問する。「なんかさっきから、スサノオがどうのこうのって話がちょこちょこ出て来ますけど、なんなんすか? スサノオノミコトの事すか?」

 室内に静寂が訪れた。

「まさか、結城がスサノオノミコトだと言うのではないでしょうね」時中が問う。「それを確かめるために採用した、とか」

「俺?」結城が自分を指差す。「いや違う違う、俺はれっきとした人間、結城修っすよ。神様の仲間じゃあないっすよ」首と手を振る。

「神は元々、姿形のないものなんです」天津が説明する。

「ああ、それはさっき、伊勢さんから聞きました」結城は頷く。

「それで我々は、実存を維持するために“依代(よりしろ)”を見つけてその中に入り込んでいるんです」天津は自分の胸に両手を当てて説明を続ける。「その一つが、こういった人間の体、なんです」

「他にも木とか岩とか道具とか、もっと大掛かりに山や川を使う場合もある」酒林が後に続ける。「俺みたく蛇、とかね」

「けれどその依代にどの神が入っているのか、今目の前にその依代があったとしても、お互いわからないんです」天津がまた続ける。「今ここにいる面々は、ずっと長い間お互いに依代の姿で一緒に会社をやってきましたからわかり合えていますが、社員以外の神においては、何を依代にしているか、わからないんです」

「へえー、そうなんだ」結城は感心したように幾度も頷く。「神様同士でも、正体がわからないんすね」

「なるほど」時中も納得したように頷く。「つまりこの結城が、本人が何と言おうとスサノオではないとは断言できないと」

「ええー」結城が首を振る。「俺、スサノオじゃないけど」

「そう」大山が言葉をつなぐ。「そしてことスサノオに限っては――」

「多分、あいつ自分がスサノオだってことに気づいてない可能性高いすよ」さらにそう続けたのは伊勢、アマテラスであった。



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第28話 その男、全身馬鹿で出来ている

「気づいて、ない?」時中が眉をひそめる。「何故ですか」

「馬鹿だからす」伊勢は間髪を入れず即答した。「あいつ」

「――なるほど」時中はちらりと結城を見て言う。

「それしか答えようがないす」伊勢は真顔で断言した。

「なるほど」時中は繰り返しながら二、三度頷いた。「ならば結城である可能性は高い」

「いや」結城は目を丸くしたまま手を振る。「俺スサノオじゃないよ」

「私もクシナダヒメではありません」本原が続けて言った。

 木之花、酒林、伊勢、その他神々が一斉に振り向き本原を見る。

「けれど」本原は続けた。「結城さんがスサノオノミコトではないのなら、私がクシナダヒメでもいいです」

「あ」

「え」

「ああ」

「はは……」神々は、きょとんとするやら納得するやら苦笑するやらした。

「クシナダヒメって何? 誰?」結城が訊く。

「ヤマタノオロチに生贄として差し出されるところをスサノオノミコトに救われて、彼の妻になった女性です」本原が説明する。

「あ、そうなんだ」結城が天井を見上げながら頭の中を整理する。「あれ、ええとじゃあ、ヤマタノオロチが時中君? 俺ら三角関係ってこと?」

「馬鹿を言うな」時中が唾棄するかの如くに言う。「誰がヤマタノオロチだ」

「もしかして、酒林さんがヤマタノオロチなのですか」本原が訊く。「先ほど、蛇だからと仰っていましたけれど」

「俺? 俺は」酒林が目を丸くする。「ええとごめん、一応オオナムチっていう神になります」照れ笑いする。

「オオナムチ様」本原は驚いたように口を抑える。「ということは、オオクニヌシノミコト様ですか」

「それそれ」酒林はウインクしながら本原に人差し指を振る。「嬉しいなあ、芽衣莉ちゃん知っててくれたんだ」

「では」本原は口を抑えたまま、さらに言った。「スサノオのご子息、ということでしょうか」

「うん、そう」酒林はあっさりと頷いた。「まあ、いろいろ複雑な事情があってね」

「ほんとっすね」結城が肯定する。「わっけわかんないっすね」

「――まあ、呑みますか」酒林は苦笑しながら、結城ともう一度ジョッキを合わせた。「お父さん、カッコカリ」それから本原のグラスとも合わせた。「と、お母さん、カッコカリ」

 

     ◇◆◇

 

 ――海。そうだよね。

 岩は、比喩的に頷いた。

 ――そうだ。海。それがあったから、神たちはここを――“地球”を、選んだんだ。地球に、来たんだ。金星でも、火星でもなく――あれ。

 岩は、比喩的に首を傾げた。

 ――先にできたのって、どっちだったっけ? 岩と――生物と。

 

     ◇◆◇

 

「エビッさんよ」大山が銚子を手に恵比寿の隣に座る。「挨拶しないの。新人に」

「ん」恵比寿は海鮮鍋をつつきながら、眉を持ち上げる。「んん、まあ……いいでしょ」

「なんでよ」大山は恵比寿の猪口に酒を注ぎ、自分の手に持つ猪口にも注ぎ、乾杯しながら意地悪げな口調で責める。「つれないこと言うなよ」

「だって他の、国津神の皆さんも、わざわざ立ち上がっての自己紹介とかしなかったじゃん。私も」肩をすくめる。「今回は、いいや」

「何それ。今回はいいやって、あなた」大山はわざと大げさに驚く。「新人を選り好みする気? 俺が頑張って面接して採用した子たちなのに」

「いやいや、そういう意味じゃなくてさ」恵比寿は眉を下げ、悲しそうな表情になった。「俺もうあんまり、深く関わらないどこうって、決めたのよ」

「だから何で」大山は猪口をぐいっと呷る。

「――」恵比寿は、言うべきか否か躊躇した。

 大山も黙って、再度互いの猪口に酒を注ぐ。

「万が一の事があった時にさ」恵比寿は俯きながら、ごく小さな声で呟いた。「もう、あんな気持ちにはなりたくないのよ……ああいう、辛い、哀しい、気持ち」

「――」大山は、鍋を見ている。

 鍋の中身はあらかた食べ尽くされ、後は冷え行くばかりだった。

「あの時俺はじめて、地球を」恵比寿はますます肩をすくめる。「憎い、って思った」

 大山は黙ったまま、深く頷いた。「俺もだ」

 

     ◇◆◇

 

 ――憎い、か。

 岩は、比喩的に溜息をついた。

 ――そうだ。怒り。悲しみ。喜び――神は、最終的に生物に、そういうものを付け足した。感情。情緒――けれど働かせるために人間を作ったというのならば、果たしてそういったものは、必要だったのだろうか? 人間にとって?

 神が地球を、岩を憎いと思うのは、まああり得ない話ではない。神が成し遂げようとする事にとって、地球のシステムはことある毎に障壁となるからだ。神にとって、仕事がやりにくいと思うこともしばしばだろう。しかし。

 ――人間たちも同じように思うとしたら。

 岩は、もう一度比喩的に溜息をついた。

 ――人間たちも、地球を憎いと思うことが、あるのだろうか。神たちと同じように。神によって付与された、感情や情緒という“機能”を働かせて。神は――

 岩は、またしても思う。

 ――神は、何がしたくて人間を作ったのだろう――

 

     ◇◆◇

 

「どうじゃ、呑んでおるか」宗像がにこにこしながら、結城の隣にどっかりと腰を下ろす。

「タゴリヒメ様」木之花がたちまちにして色香の漂う表情に変わる。

「ははは、今は宗像と名乗っておこうか」宗像は機嫌よく笑い飛ばす。「ちと新人の皆に、この年寄りから激励の言を贈ろうかの」

「あ……失礼致しました」木之花は唇に指を当て恥じらいの仕草を見せながらも、瞳をきらきらと潤ませている。「是非お願い致します、宗像支社長」

「うむ」宗像は手に持つ湯呑から焼酎をぐいと飲み干す。斜め後ろからついて来ていた天津が直ちにそれを満たす。「お前たちに、はなむけの言葉を与えよう」満たされてゆく焼酎を見ながら、宗像は微笑んで言った。

「はいっ」結城が掘り炬燵から脚を上げ正座し、姿勢を正した。

「これから洞窟の中へ下りて行き、仕事を完遂させるに当り」宗像は人差し指を立て目を閉じる。

「はいっ」結城は力いっぱい答える。

「精々、何度も死にそうな目に遭うがよい」宗像は目を開けた。

「はいっ」結城は力いっぱい答えた後「えっ」と声を裏返した。

「はなむけというより、捨て科白だな」時中が小さく呟く。

「ど、どうしてそんな」結城は泣き出さんばかりに声を上ずらせて訊いた。

「なんとなれば」しかし宗像の表情は変わらず穏やかなものだった。「お前たちには、死にそうな目に遭う度新しい仲間が増えるからじゃ」

「えっ」結城が目を見開き、

「仲間?」時中が眉をひそめる。

 本原は黙って聞いていた。

「そう」宗像は焼酎を呑んだ。「お前たちに新たな力を、そして守護を与えてくれる仲間がじゃ」

「おお」結城は声を震わせた。

「それによりお前たちは、力を増幅させる」

「おお」

「つまり」

「はい」

「パワーアップするのじゃ」宗像は拳を握り締めた。

「おおっ」結城も拳を握り締め、声に力を込めた。

「どこにそこまで感動し合う要因があるのですか」本原が初めて言葉を口にした。

 

「でもね、エビッさん」大山はもう一度、恵比寿の猪口に酒を注いだ。

 恵比寿は猪口を持ち上げ、黙って大山を見る。

「そんなことは、もう」大山は微笑んだ。「起こらないからね。二度と」

「――」恵比寿は猪口を唇に運ぶこともできぬまま、大山を見ていた。「なんでそんな事が言える?」それから気弱げに笑う。

「だってさ」大山はひょいと眉を持ち上げ、上座の方で正座し宗像に向かって頷く結城をちらりと横目で見た。

 つられて恵比寿も新入社員の方を見る。

「今回は、スサノオだよ」大山は声をひそめて恵比寿に言う。「地球に向かってどう対峙してくれるのか、大いに期待できるってエビッさんも言ってたじゃない」

「――」恵比寿は大山を見、もう一度結城を見た。「でも……わかんないんでしょ? まだ」

「うーん、まあ、ね」大山は頭に手を置いた。「けど、どうも見てると、間違いなさそうな感じが強まってくるんだよねえ。彼」

「――」恵比寿は大山を横目で見ながら酒を呑み「馬鹿だから?」と訊いた。

「――」大山は唇を閉ざし、目を細めて何も答えずにいた。



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第29話 石橋を叩いて渡った所割れて川に落ちて損害賠償も請求されたのですが

 一夜明けた翌朝は、どんよりと曇った、肌寒い天候だった。

「おはようす!」結城は天候や気温や気圧に一切関係なく、事務室に入るなりフルボリュームで挨拶した。「昨夜はお疲れ様っした! ありがとうございました!」終劇後の舞台挨拶のように、腰から深々とお辞儀する。

「おはようございます。お疲れ様でした」木之花がにっこりと目を細める。「二日酔いなどはないですか?」

「はいっ、すこぶる元気です」結城は大きく頷く。「会社の諸先輩方とお話できて、大変勉強になり励みにもなりました!」もう一度大きく頷く。

「元気そうっすね」天津が眠そうな目ながら微笑む。「酒強いんですね」

「いやあー、普通ですよ、ってあれ、天津さんは二日酔いっすか?」

「はは……」天津はいつにも増して弱々しげに笑う。「あの後、明け方近くまでつき合わされちゃいまして」

「おお」結城は目を見開く。「神様たちに?」

「ははは、ええ」また弱々しげに笑いながら、天津は木之花をちらりと見る。

 木之花は何も言わず、ただ微笑んでいる。

「豪傑が多いですからね、うちは」天津は眠たげな目を伏せ、肩をすくめる。

「ははは、じゃあ今日の研修は、天津さんにあんまり負担かけないよう、気をつけてやりましょうね。では後ほど!」結城は元気良く事務所のドアを閉め、研修室へと向かって行った。

 ふう、と天津は溜息をつき、ファイルを取り上げて席を立った。

「呑み込まれないようにね」木之花が言葉を送る。

「――」天津は唇をすぼめ、ドアの前で肩越しに振り向く。「昨夜……」

「もちろんすぐ帰ったわよ」木之花は眉を持ち上げペンをくるくると右手で回しながら、訊かれる前に答えた。「宗像さんと一緒に」

「――」天津は唇の端を下げた。「夫を差し置いて?」

「――」木之花はそっぽを向く。「元、ね」

「――」天津は目を閉じ、前を向く。「やっぱまだ、怒ってる?」

「さあ」木之花は首を傾げる。「昔のことだしね」

「――」天津はふう、と溜息をついた。「ごめん」ドアを開ける。

 木之花は、何も返さなかった。

 

 三人の研修社員と一人の研修担当の神は、昨日と同じように練習用の洞窟へとエレベータで降りて行った。

「今日は、昨日の“対話”に加えて、開いた岩の中でいくつかの“作業”をしてもらいます」エレベータの中で天津は簡単に説明した。

「作業」時中が復唱し、

「なんか切ったり、掘ったりするんすか?」結城が質問し、

「さきほど頂いた、この機械を使うのですか」本原がウエストベルトから、黒いリモコンのような物体を取り出しながら訊いた。

 それは縦十五センチ、横五センチ、厚さ一センチほどの、表面がつるりとした直方体だった。特にボタンや何かの挿し込み口がついているわけでもない。ランプ類が点灯している所も見られないが、今は電源が入っていないためかも知れない。

「そうそう、これって何するもんなんすか」結城も本原の持つ物体を覗き込んで訊く。

「これは地球内部の揺れを予測するものです」天津は説明した。

「揺れ」時中が復唱し、

「地震波探知機っすか?」結城が質問し、

「揺れたら何か反応するのですか」本原がその物体の表面を指で撫でた。

「一般的な、地震波と呼ばれる振動とはまた違うものです」天津は説明を続けた。「皆さんが昨日対話した、地球の“声”を探るものです」

「地球の、声」時中が復唱し、

「あの甲高い声っすか?」結城が質問し、

「けれどあの声は、鯰(なまず)さまの声なのではないのですか」本原が物体を両手で握り締めた。

「はい」天津は頷いた。「あの声は鯰のものです。これが予測するのは声というか“意志”ですね、地球の」

「意志」時中が復唱し、

「意志っすか?」結城が質問し、

「これに意志が表示されるのですか」本原が物体を裏返し再度指で撫でた。

「具体的に言うと、地球内部で意志が発動される際、その伝導経路における圧力や密度、非圧縮率、剛性率、それから組成物質などに関連してどのような現象が起きるのかを都度予測するものです。それによってイベントスタッフの作業や動作も違うものになります」

「なるほど」時中が納得し、

「え?」結城が質問し、

「――」本原は黙って物体を再度握り締めた。

 そしてエレベータは昨日と同じように、洞窟入り口へと辿り着いた。

 

 昨日の“出現物”たち――土偶、剣、燃える岩、石川啄木――は、今日はまったく姿を現さなかった。というよりも、今日はそういう“出現物”が、まったく姿を現さずにいた。

「なんか今日は、平和っすねえ」結城が歩きながら両手を頭の後ろに組んで、間延びした声を出す。「平和っちゅうか、暇っちゅうか」

「はは」天津は静かに苦笑する。

 他の二人は黙ったまま、洞窟内の湿った岩の上を歩き続けた。結局何とも遭遇せぬまま、小川まで一行は辿り着いた。

「ん?」

「あれ」

「まあ」だがそこで三人は声を上げた。

 川の中、その流れをせき止めるかのように、その岩は存在していた。高さ一メートル強、幅一・二メートル程の楕円体で、表面はざらざらしており滑らかではない。川の水はその岩の両脇を、まるで蹴散らされるように分かれて流れ、再び合流して先へと流れ進んでいる。

「なんだろ、この岩」結城がいつものように先立ってその岩に近づいた。

「結城さん」天津が呼び止める。「慎重に、まずはよく観察して下さい」

「あ、はい」結城は立ち止まって振り向き、また前方を見てしばらく様子を見た。

 

 ちょろちょろちょろ

 

 小川の水が岩の左右を流れてゆく音だけが、しばらく続いた。

「うーん」やがて結城は腕組みをした。「特に、なんてこともなさそうですねえ」言うと同時に組んだ腕を解き、軽くその岩を叩く。

「結城さ」天津が呼び止めようとした声は、間に合わなかった。

 

 ぐぐ

 

 微かな音が、その岩の中から聞こえてきた。

「え?」結城は一瞬天津を振り向き見ようとした。

 

 ぐぐぐぐ

 

 音が大きくなり、その楕円体の頂点に細い光の線が走った。

 

 ぐぐぐぐぐ

 

「離れてください」天津が岩へと走り、「急いで」珍しく、焦った声で叫ぶ。

「え」三人はきょとんとして天津を目で追った。

「閉じます」そう言うと同時に天津は掌をその岩にかざした。

 

 ぐぐ

 

 岩が最後のきしみを挙げ、細い光の線は少しずつ短くなり、やがて消えた。後は元通り、ちょろちょろと川の水が岩の横を流れ行く音だけが聞こえた。

「――危なかった」天津は手をおろし、震える溜息をついた。

「何だというんですか」時中が問う。

「――」天津は尚も警戒の視線を岩に向け「開いて十秒経つと、魔物が出て来る岩です」と告げた。

「十秒経つと」時中が復唱し、

「魔物が出て来る?」結城が質問し、

「まあ、素敵」本原が溜息混じりに囁いた。

「いや、素敵じゃないよ本原さん」結城が慌てて振り向き再び叫ぶ。

「うるさい」本原は眉をひそめる。

「まじっすか。今のほっといたら、魔物が出て来てたんすか」結城は天津の方に向き直り、尚も叫ぶ。

「――」天津はその声の響きに顔をしかめながら「はい」と頷いた。

「うわやっべえ」結城の興奮はさらに続いた。「え、俺のせい? 俺がぺんって叩いたから?」

「――可能性は、高いです」天津はそう言ってから、結城に視線を移した。「結城さん」

「は」結城は、天津の真剣な表情に背筋を伸ばさざるを得なかった。「はいっ」

「ここで見る物、遭遇する物は、確かに現実離れしていて、好奇心をくすぐるものも多いと思います」天津は静かな口調で話した。「ですが中には、結果的に皆さんにとって危険な効果をもたらすものもあります。それをある程度予測する助けになるのが、今日これから使っていただく、あの黒い機器となります」

「は」結城は真剣に頷いた。「はいっ」

「ですがそれの助けがあるからといって、万全の備えができている、百パーセント安全だということは、まったく言えないんです」天津は首を振った。「これは、しっかりと肝に銘じておいて下さい」

「はいっ」

「今日と明日で、ここでの研修は終わります」天津は他の二人にも目を向けた。「その後は実際に発注を受けた先で、OJTとしてイベント遂行をしていただくようになります。最初の一週間は僕がついて行きますが、その後は皆さんだけでやっていただかないといけなくなります」

 三人は、言葉もなく天津を見つめた。

「もう、僕が護ってあげられなくなっちゃうんです」天津は目を閉じ、自分の胸の前で拳を握り締めた。

「天津さん」結城が一歩、天津に近づく。「すいませんでした、俺うかつに岩叩いたりして。すいませんでした!」深く頭を下げる。「以後気をつけます!」

「結城さん」天津は表情を緩め、結城の肩に手を置いた。「僕もすぐに言えばよかったんですよね。試すような事してすいませんでした」

「天津さん」結城は顔を上げる。「けど俺、今日は天津さんに負担かけないようにつってたのに、しょっぱなからこんなことになっちゃって……すいません」もう一度うな垂れる。

「大丈夫です」天津はもう片方の手で結城の腕を掴む。「これからこういった出現物の性質の予測方法を伝授して行きますから。今はまだ、僕が――我々が、護らせてもらいます」結城に向かい、頷きかける。

「天津さん」結城が呼び、二人は正面から視線を合わせた。

 本原が左右の人差し指と親指で枠を作り、二人をその中に捕らえて眺める。

「何をしているんだ」時中が訊く。

「BL漫画の一コマみたいだなと思って」本原が真顔で答える。

「それでは、先に進みましょう」天津が一同を促した。「繰り返しますが、出現物に対しては、まずは慎重に観察する姿勢で臨んでください」

「はいっ」結城が元気良く答え、他の二人と天津はぎゅっと目を瞑り衝撃に耐えた。



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第30話 現状分析に即して今回打ち立てましたのがこちらの愚対策です

「昨日開いていただいた岩の“目”の位置を、覚えていますか」天津は訊いた。

 前日に、岩盤への入り口を開いた辺りだ。だがすでにその入り口は閉ざされ、あの光り輝く空間は夢幻であったかのように、岩は足下から頭上遥か高くまで無言で立ちはだかる。小さく無力な人間という存在など気にも止めておらぬ風情だ。下手に逆らえば、瞬時に圧し潰されそうな気分を呼び起こす。

「えーと、どこだったかな」結城がきょろきょろと周りの岩壁に視線を巡らせる。

「あの辺りではないですか」本原が腕を持ち上げ自分の身長の少し上辺りを指差す。

「おお、あそこか。さすが本原さん、記憶力抜群」結城が目を剥いて褒める。

「いや」時中がまったく別の方向を指差す。「確かあの辺りだ」

「おお」結城がすぐに振り向く。「さすが時中君、記憶力」結城は勢いでそこまで言ったがその後を続けられなかった。

 少しの間、沈黙が広がった。

「まあ」天津が控えめに咳払いする。「昨日と同じ場所から今日も開いてくれるとは限らないですからね」

「えっ、そうなんすか」結城が驚いて再度目を剥く。「卑怯だなあ」

「まあとにかく、昨日の要領でもう一度、岩の“目”を探っていきましょう」天津は岩壁に掌を向け指示した。

 

 こつこつこつ

 こつこつこつ

 こつこつこつ

 

 昨日と同様に、地道に岩を叩く作業が始まった。

「今日は何が出て来るのかなあ」結城がそんなことを言う。

 だが今日は昨日とうって変わって、妙なもの奇異なもの、邪悪なものは何も転がり出ては来なかった。それは即ち、結果として強い疲労感を覚えさせる事になった。三人は前日に比して短時間でその腕を下ろし、肩や首を回し、腰をさすり、飲料を摂り、溜息をつきなどした。

「今日はきついですね」天津は半分困ったように微笑みながら三人をねぎらった。「お疲れです」

「いやあ、これはもしかして」結城が頭上を見上げながら言う。「嵐の前の静けさってやつかも知れないっすよ。この後何か、ドカーンって来たりして。魔物とか」

 本原が、ぴたりと岩を叩く手を止めた。「また、開いて十秒経つと魔物が出て来る可能性があるのでしょうか」天津に訊く。

「あ、いえ」天津は首を振り、それから「――じゃあ、もうここでさっきの機器の使い方をやっちゃいましょうか」と提案した。「ずっと叩き続けるのも辛いでしょうから」

「おお、名案っすね」結城が表情を明るくする。

「これですか」本原が再びウエストベルトのポケットから、細めで無地のリモコンを出した。

「つまりこの機器によって、叩くと魔物が出て来る岩なのかどうかの判別がつけられるというわけですね」時中が確認する。

「ある程度は、ですね」天津が補足する。「ではまず、陣の位置に皆さん立っていただきます」言いながら地面に向かい手をかざす。

 すると、金色に輝く円形が音もなく三つ、現れた。その三つを結び合わせると、正三角形が描ける位置にだ。

「本原さんを先頭に、その後ろに時中さんと結城さんが並ぶ形で、立ってください」天津はそれぞれの金の円を手で示しながら指示した。

 三人は指示通りの場所に立った。

「では本原さん、そこに立ったまま、その機器を顔の前に持ち上げてください」次の指示が出る。

 本原は指示通り機器を持ち上げた。

「ではこの状態で、まずはイベント開始の時のワードを唱えてください。時中さんから」さらに指示が出る。

「閃け、我が雷よ」時中が声を張る。

「迸れ、我が涙よ」本原が続く。

 すう、と息を吸う音が聞こえ、結城以外の者は反射的に目を閉じる。

「開け、我がゴマよ」結城の声が洞窟中に響き、わんわんと響き合い、響き渡り、やがて静寂が立ち戻って来た。

「しばらくそのままで、待ってください」天津がそっと声をかける。

 その約二秒後「あ」と、本原が声を挙げた。

「どうした?」結城が訊き、

「何だ」時中が訊く。

「これが」本原は手に持つ機器を背後の二人に見えるようにかざしながら上体だけ振り返った。その手の機器の表面に、さまざまなアルファベット文字や記号が赤、青、緑と色とりどりに表示され、流れ、消えて行く。

「うわ」結城が目を見張り、

「何なんだ」時中が眉をしかめる。

 文字と記号は洪水のように次々と現れては画面上を流れ行き、消えて行く。それはスーパーコンピュータが膨大な情報を処理している様子を連想させた。

「なんか計算してるのか」結城が推測を述べる。

「つまり、さっき天津さんが言っていた地球内部の圧力や圧縮率などを調べているというわけか」時中が詳細な推測を述べる。

「そのまま少し待ってください」天津が再び待機を指示する。

 やがて、文字列の流れは止まり、そして消えた。

「消えました」本原が報告する。

「消えた」結城が告げる。

「――」時中は眉をしかめたまま無言で機器を見ていた。

 すると今度はその表面に「31256」という数字の列がぽんと現れ出た。

「何?」結城が訊き、

「何だ」時中が訊き、

「数字が出ました」本原が報告した。

「はい」天津が頷く。「31256、これは地球の意志パターンの一つで、無害な何か単体の物が、約二分後に、半径五メートル以内の、恐らく今の皆さんの位置から時計の六時方向に現れるだろうという表示です」

「まじで?」結城が目を見開いて訊き、

「位置と時間は細かいが、何が出て来るのかという点は曖昧至極だな」時中が眉をしかめてコメントし、

「魔物ではないのですね」本原が確認した。

「まあ恐らく」天津は若干首を傾げながら頷いた。「特に害のない、大人しい出現物か……あるいは岩の“目”がその方向に見つかるのかというところでしょうね」

「実際に出て来るまでは、わからないんですね」結城が背後を振り向く。「もうここから動いていいんすか」

「はい、どうぞ」天津は三人に手を差し伸べる。「数字の読み方は今の要領で、性質、数、時間、距離、方向となります。今回は一パターンだけですが、こんな数列が幾つも、多い時は何十個も現れることがあります」

「まじっすか」結城が叫ぶ。「それ全部が魔物だったりもするんすか」

「――」天津はぎゅっと目を瞑る。「それは」しばらく置き「わかりません」と、罪を白状するかのように声を絞り出す。

「もしそんな事になるとしたら」時中が冷静に述べる。「我々がよっぽど地球を怒らせるような何かをしでかした、ということでしょうね」

「あーなるほど」結城が時中の言葉に頷く。「やらかしちゃった時か」

「ではその時が」本原も確認する。「私たちの家族に労災保険と慰謝料が支払われる時なのですね」

 沈黙が広がった。

「いえ、えーと」天津が静寂の中であるにも関わらず場を収めるために両掌で空気を繰り返し抑える。「その時には緊急警報が我々の方にも届きますから、もちろんすぐに助けに来ますよ。大丈夫です。皆さんは大丈夫です」声は明るいが目は笑っていない。

「そうだよ、大丈夫だ」結城が大きく頷く。「だって母なる地球だよ。話せばわかるよ」

「一体この仕事は、安全なんですか、危険なんですか」時中が腕組みしながら天津に訊く。「我々は護られるんですか、護られないんですか」

「護ります、もちろん護ります」天津は真剣な表情を微塵も崩すことなく、また抑える両掌を下ろすこともなく、繰り返し頷いた。「大丈夫です」

 

「確約は難しい限りだけどね」

 

 出し抜けに、甲高い声が六時の方向から聞こえてきた。全員が、背後を振り向く。だが当然のことながら、そこには誰も存在していなかった。

 鯰(なまず)の、声だけが“出現”したのだ。



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第31話 小人さんの都合によりシステム運営休止とさせて頂きます

 地球にとっては、実は対話どころではなかった。

 ――誰だろう……?

 地球はそんな疑問に囚われ、コア物質の噴出タイミングさえもう少しで誤るところだった。とんでもないことだ。まったく。システムを乱すのは、人間だけにして欲しいものだ。それというのも。

 地殻を構成する花崗岩の中に、いつからいたのだろう――“その者”は?

「あー、冷んやりして気持ちいーい」そんな事をいう。

 実体は見えないが――恐らく神なのだろう――なんとはなしに、ごろりと寝そべっているように思えた。だらしなく、大の字に四肢を伸ばして。

「岩っちー」

 不意に呼ばれ、比喩的にはっとする。鯰(なまず)の声だ。

「あの新人たち、もうすぐ川に着くけど」珍しく、そんなことを報告してくる。

 ――ああ……

 地球はその時初めて、新入社員たちとの“対話”がもうすぐ始まる予定であることに気づいた。

「大丈夫? このまま行かせる?」鯰は訊いてくる。「なんかあいつら、今日は何も出て来ないとか言ってるけど。なんか脅かしとく?」そして笑う。

 ――意地の悪い生物だな。

 そんな風に思ったりもする。が、愛想なしと思われるのも癪なので、開いて十秒経つと魔物が出て来る岩を転がしておいた。魔物といっても、たかが窒素と酸素、水素、あと少しだけ二酸化炭素、そんなものから出来ている出現物に過ぎないのだが。

「あははは」鯰が楽しそうに笑う。「例によって天津が封じたよ。けど皆すごい、真っ青な顔して慌ててる。ばっかみてー。はははは」

 ふう。

 地球は、比喩的に溜息をついた。

 

「何やってんだ?」

 

 その声は、その時聞こえた。比喩的に、だ。

 地球は比喩的に、目を見開いた。外核構成物質の流動速度が上がるかと思うほど、地球にとってそれは大いなる刺激となったのだ。要するに地球は――比喩的に、びっくりした。

「――誰……?」地球は取り敢えず、そう訊ねた。

 寝転がっていた(と思われる)“その者”は、むくりと身を起こした(と思われた)。

「スサノオノミコト」“その者”は、答えた。

 

     ◇◆◇

 

「ごめんだけど、岩っちまだちょっと、準備できてないみたい」鯰は言った。

「準備?」結城が訊く。「対話の?」

「うん、まあそう」鯰が、どことなく曖昧に答える。

「何か、起きるのか?」天津が続けて訊く。「地殻の異常現象のような」

「うーん」鯰はさらに曖昧に答える。

「では」本原が訊く。「地球さまの準備ができるまでは、岩は開かないということでしょうか」

「うーん」鯰はさらに尚曖昧に答える。「まあ、続けてて」そしてそれっきり、鯰は黙った。

 新入社員三人と研修担当の神一柱は、ただ茫然と立ち尽くした。

 

     ◇◆◇

 

「スサノオ……神?」地球は訊いた。

「うん」“その者”、つまりスサノオは、答えた。

「こんなところで、何を?」地球はまた訊いた。

「うん」スサノオは答えた。「ちょっと、核にまで下りて来てみた」

「――」地球は言葉をなくした。「核?」訊く。「私の?」

「うん」実体が見えないにも関わらず、“その者”が頷くのが感じられた。「いやあ、やっぱ熱かったわ」

「何でまた」地球は呆れた。「何をしに?」

「いやあ、面白いからさ」スサノオは笑った。「死にそうになる感じが」

「――」地球は言葉を失った。

「んじゃあ、また」スサノオは立ち去ろうとした。

「あ」地球は比喩的に、手を上げた。「待って」

「ん」スサノオは立ち止まった(ように思えた)。

「あの」地球は、少し比喩的にどきどきした。「ちょっと、話してもいい?」

 

     ◇◆◇

 

 新入社員たちは、地道に岩壁をこつこつ、こつこつと叩いた。少し叩いては止め、水分を摂り、体を休め、雑談を交わした。そしてまた、地道にこつこつ、こつこつと叩く。それはまるで、永遠に続くかのような作業だった。

 岩の“目”は、一向に見つからずにいた。

 

     ◇◆◇

 

「なぜ」地球は訊いた。「神は、人間を作ったの」

「そりゃあ」スサノオはすぐに答えた。「無駄使いさせる為に決まってらあ」

「無駄使い?」地球は思わず、比喩的に声を高めた。「何を?」

「いろいろだよ」スサノオは答えた。「物とか、時間とか、空間とか……人間自身とか、お前――地球とか」

「――何の為に?」

「そりゃあ、面白いからだろ」

「……誰にとって?」

「皆にとって」

「皆って、神たちのこと?」

「いや、皆だよ。神も人間も、地球も、宇宙も」

「何が面白いの?」

「今までこんな事する生物なんていなかっただろ。だからさ」

「――」

「この先どうなるのか、誰にも予測がつかねえ。すげえだろ。わくわくするだろ」

「――そうかなあ……」

「だってさ、こんな短時間の間に人間てのは、地球の、お前の中身がどんな造りになってるかまで、予測してみせたんだぜ。それも実際にほじくり返して中身を見たわけでもねえのによ。すげえじゃん。面白えじゃん。人間ってさ」

「――人間……」

「もしかしたらいつか、宇宙の端っこにまで行くかも知んねえぜ」

「まっさか」地球はつい笑った。

「わっかんねえよ。人間は」スサノオは声を高めて主張した。「今、現時点でさえ、ここまでの知識や技術を『まっさか』手にするとは思ってなかったろ」

「――」

 確かに、そうだ。地球はそれ以上何も言えず、そしてスサノオがその場から立ち去るのをただ言葉もなく見送るだけだった。

「岩っち」鯰が、そっと声をかけてくる。「新入社員たちと、対話する? できる?」

「――ああ……」地球は、比喩的に振り向き、頷いた。「うん」

 

     ◇◆◇

 

 ひょんひょんひょんひょんひょんひょん

 

「おっ」結城が叫ぶ。「来た来た来た来た!」その音を探り当てたのが、今日は彼だったのだ。「よーしよしよし! じゃあここに、はい、時中君たのんます!」

「声のボリュームを落とせ」時中は眉をしかめながら、携帯ドリルで彼の作業をした。

 今日もドリルの作業音の方が、結城の地声よりも遥かに静かで控えめだった。昨日と同じく、三人はそれぞれの“ワード”を唱え、そして岩は開き始めた。昨日と同じく、労働者に取って重要な“イベント”である昼休憩の後、いよいよ地球との対話が試みられることとなるのだ。



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第32話 ああ、月曜日だけ病気になる病気になればいいのに病

「さあて、今日はどんな“対話”をするのかな」結城が例によって、食事しながらも陽気に話し続ける。

 他の二人は例によって、特に返答も反応もしなかった。

「ていうかさあ」結城は今日の弁当――コンビニの生姜焼き弁当の豚肉を頬張りつつ天井に目を向け考えを述べた。「地球の前に、まず俺ら同士が、まだそんなに対話ってしてないよね」

 他の二人は箸を休めるでもなく食事を続行する。

「よし」結城は右手に箸を握り込み、たった今思いついたばかりの決意を述べた。「じゃあ折角だからさ、俺ら新人同士、腹を割って話しようか。皆、彼氏彼女はいるの?」

 他の二人はすぐに返事をしなかった。

「ねえ、時中君」結城は左隣に座る時中を指名した。「彼女いるの?」箸を持たぬ左手に、架空のマイクを持ち差し出す。

「いない」時中は短く答えた。

「じゃあ本原さんは?」結城は時中のさらに左側にいる本原の方へ左手の架空マイクを向ける。「彼氏」

「いません」本原は無表情に答えた。

「そうか」結城は自分の口許に架空マイクを向ける。「俺もいない」

 それで話は終わった。

 結城は右手の箸を正式に持ち直し、飯と豚肉を頬張り咀嚼していたが、また閃きを得て架空マイクを左手に持ち直した。「じゃあさ、本原さんの好みのタイプは? たとえば俺と時中君だと、どっち系が好み?」

「判断致しかねます」本原は無表情に答えた。

「そうかあ、じゃあ、天津さんとかは? 優しそうじゃん」

「天津さんは神さまですよ」本原は、無表情ではあったが結城の顔を見て告げた。「卑しき人間ごときが下劣な感情を抱くなど、死に値する行いです」

「えー、そうかなあ。硬いよ、そんな」結城は頭の後ろに箸を持つ手をやった。「けど天津さんってあれかな、木之花さんに気があんのかな。どう思う?」

「殺されるぞ」時中が告げた。

「えっ」結城は架空マイクと箸を同時に口許近くに引っ込めた。「誰に?」

「その辺の」時中は面倒臭そうに床に向け手をひらりと振った。「出現物に」

「まじか」結城も床を見下ろす。

「皆さん、お疲れ様です」その時研修室に、木之花が入室してきた。その手には小振りのトレーが載せられており、そのトレーにはケーキの載った皿が載せられていた。

「あっ木之花さん、お疲れっす」結城は左手を額に当て敬礼した。

「先ほど、酒林さんから皆さんに差し入れが来ましたので」木之花はそう言いながら、三人の着座している長テーブルの上にケーキの皿を置いていった。「食後のデザートにどうぞとの事です」

「おお」結城が感動の声を挙げた。「酒林さん。俺の息子ですね」

「――」木之花は一瞬硬直したが、微笑みを絶やさず「ああ、何かそんな事を言ってましたね、すみません」と詫びた。

「お疲れです」その後すぐに天津が入室して来た。その手には小振りのトレーが載せられており、そのトレーには紅茶の入ったカップが乗せられていた。「お茶もありますんで、どうぞ」

「ありがとうございます」本原が礼を述べる。「すみません。神さまにお茶汲みなどさせてしまって」

「ははは」天津は困ったように笑う。「いえいえ。しがない研修担当ですから」

「そんなことありません」本原はにこりともしない。「しがない神さまなんていらっしゃるわけありません」

「ははは」天津はただ困ったように笑うしかないようだった。

「あの酒林さんも、この会社の社員なんですか」時中が訊く。「社員でありながら、居酒屋を経営しているんですか」

「はい」木之花があっさりと頷く。「どっちつかずの、適当な仕事をしているんです」

「いやあ、経営の才に長けてるんでしょう。すごいっすよね」結城が持ち上げる。「さすが神。神仕事」

「板長さんやバイトの学生さんのおかげですよ」木之花の言葉はしかし容赦なく続く。「あいつ自身は、くそぼんくらでどたまに来る奴です」

「どぎつい表現だな」時中が俯きながら密かに呟く。

「でも、笑顔は素敵ですよね」本原がフォローを入れる。「あれは、いわゆる営業スマイルなんですか」

「というよりも、詐欺スマイルですね」木之花は容赦なく斬り捌く。「本原さんにまでちょっかいを出そうとするなんて、言語道断です」

「私が母親だと知って、かなり吃驚なさったのでしょうね」本原はそっと気遣った。

 沈黙が流れた。

「――まあ、もしかしたら、という話ですけど、ね」天津が場を取り繕う。「お茶、冷めないうちに召し上がって下さい」

 

     ◇◆◇

 

 ――クラゲの仲間、だったよな。

 地球はふと、そんな事を想った。

 ――クラゲとか、イソギンチャクとか……刺胞動物、だっけ? あの類から、

「岩っちー」また鯰(なまず)が呼ぶ。

 物想いに耽ろうとすると、この鯰がいつも喋りかけてくるような気がするのだが――でもよく考えると、地球は常に、物想いに耽り続けているようなものだから、いつ鯰が喋りかけてきたとしてもそれは常に、地球が物想いに耽っているときと重なるのだ。鯰を責めるわけにはいかない。

「新人たち、もうすぐ来るよー」

「うん」地球は比喩的に頷いた。「わかった」

「今日は何を聞いて来るのかね」鯰はふう、と息を吐いた。というのも比喩的なもので、鯰は魚だから鰓から二酸化炭素を排出したというのが正しかろう。

「今日はね」地球は、さっきふと想った事を伝えることにした。「最初に私から、訊いてみたいことがある」

「へえー」鯰は少し驚いた。「岩っちの方から? 珍しいね」丸い目をくりくりさせる。

「うん」地球はほんの少し、比喩的に照れた。「システム稼働に外れるかも知れないけど……まあ大丈夫だと、思う」

「で、何を訊くの?」

「えっとね……新人の皆さんの、お腹の具合について」

「え?」鯰は素っ頓狂な声を挙げた。「お腹?」

「そう」地球はしかし、比喩的に素直に頷く。「便秘とか下痢とか、してないかどうか」

「なんで?」鯰はさらに訊く。「って、新人たちも多分訊くと思うけど」

「クラゲとかイソギンチャクの仲間とかが作られたとき、初めて消化管が備えられたんだよね」地球は、まるで過去を懐かしむかのように語り出した。「君にもあるでしょ。消化管」

「ああ……まあね」鯰は自分の体を見下ろすようにして答えた。

「その消化管ができたおかげでさ、生物は“食う”ことを必要とするようになって――“食う”為に活動を、仕事をするようになって――時には“食う”為に争いや罪を犯したりも、するようになって」

「――うん」鯰はどこか慎重に頷いた。

「その活動や仕事の為に、私のシステム上にも大きく影響を及ぼしてくるようになって」

「――そう、ね」鯰はますます慎重に頷く。地球が怒っているのかどうかを案じているのだろう。

「で」しかし地球は淡々と続けた。「そんな活動や仕事の為に、今度は人間自らの体や精神を、傷つけられたり病んだりし始めてさ」

「――ああ」鯰には少し、地球が何を知りたいのかが理解できたような気がした。

「消化管は健全さを保たれてるのかな、って……結果としてその器官が生物に備わったのって、良いことだったのかな、って」

「なるほど」鯰は頷いた。「そこでまた天津とかに、鋭く問い正してみるってわけね」

「ははは」地球は少し比喩的に苦笑した。「そんな、苛めるつもりではないんだけどね」

 ただ、不思議なのだ。何が不思議なのか――確かに、神はどうしてそんなことをしたのか、ということも不思議ではあるのだが、それ以上に――生物は、というよりも人間は、この先どうなっていくのか。

 何かまた、今までの生物にはない機能だとか器官だとかを、新たに備え付けたり切り開いたりしていくのだろうか。今はまだ、誰も予測もつかないような何かを。

 そしてそれは“楽しみ”な事、なのだろうか? あの奇体な、スサノオが言っていたように。



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第33話 何、その磁気圏から目線

「腹の具合?」結城が叫び、

「腹の」時中が呟き、

「お腹ですか」本原が溜息混じりに囁いた。

「うん、そう」鯰(なまず)が頷くのが目に見えるようだったが、無論姿はなく声のみだ。「岩っちからの質問」

「何故そんな質問を?」天津が、彼にしては険しい部類の表情で訊く。「地球から、どうして」

「話せば奥深い話になるけどね」鯰は飄々と答える。「生物が食う為に働く、その為に体の具合を悪くする、っていうサイクルはどうなのかってこと」

「――」天津はぱちぱちと瞬きを繰り返し、話を咀嚼している様子だった。

「おお、なるほど」結城が一人腕組みし頷く。「そもそも何の為に働いてんのかってことっすね」

「私は食べる為にだけ働くというのは違うと思います」本原が静かなる異議を唱えた。「仕事とは、人間が、自分の存在意義を確かめるものだと思うんです。自分がこの世に、何をする為に生きているのかを」

「自己実現というやつか」時中が受け応える。「まあ人間の仕事というのは確かにそれが大きいのだろうな。食う事は二の次というか、下層の欲求だ」

「うーむ」結城が腕組みしたまま目を閉じ顔を岩天井に向ける。「深いなあ。うん、これは奥深い命題だ」

「で」鯰は特に感動した風でもなく質問を繰り返す。「あんたらのお腹の具合はどうなの? 健康で健全なの?」

「ああ、はい」結城は腕を解いた。「すこぶる快調っす」

「――特に問題はない」時中が慎重に答える。

「――」本原は応えずにいた。

「彼女は?」鯰が催促する。

「答えないといけないのですか」本原が、天津の方を見て問う。

「いえ、結構です」天津は首を振る。「強制されるようなことは全くありません」微笑む。

「あー、そうだね。女性にこういう質問はちょっと、あれかもねえ」結城は間延びした声で腕を頭の後ろに組む。「セクハラ? じゃないか、何だろう。腹ハラ?」

「ハラスメントになるのか、これが」時中が懐疑的に問う。「健康に関する単純な質問だろう」

「私がハラスメントだと感じるのであれば、ハラスメントになるはずです」本原が厳しい表情で言った。

「そうだよね」結城はまた腕を解いて下ろし、本原に向けて指を振った。「本原さんは腹ハラだと感じるんだよね、これ」

「いいえ」本原は首を振った。「感じません」

「ええっ」結城は頭を両手で抑えた。「じゃあ腹ハラじゃないんじゃん」

「そんなふざけたハラスメントではないと思います」本原は断言した。「ハラスメントになるのだとしたら、これは地球さまから我々弱小なる生き物に対する警告を含めた嫌がらせ、つまり惑星規模のパワーハラスメント、アースハラスメント、アーハラだと思います」

「――」本原の説明の途中から、時中は目を細め何度も首を横に振り始めた。

「おお」結城は両の拳を握り締めた。「アーハラか」叫ぶ。「じゃあクーたんを起動して戦ってもらうしかないのか」

「クーたんは地球さまとは戦いません」本原はぎぬろと音もせんばかりに結城を睨めつけ、かぶりを振った。

「そうか、戦わないのか」結城はふたたび腕組みした。「そうだよな、クーたんて組合の人じゃないもんな」それから不意に口許を抑えて忍び笑いをする。「組合のク」

「結城さん」天津が慌てて両手を上げ、泣きそうな顔で制する。

 本原は何も言わず結城の方に視線も向けてはいなかったが、その手の中に何かを握り締めているようだった。

 

「神は人間を、自分たちの為に働かせる目的で造った」

 

 出し抜けに鯰が言葉を挟んできた。三人の新入社員は同時にはっと顔を上げ、それから揃って天津を見た。いつも優しげに、また気弱げに微笑んでいる研修担当は今、表情を硬くして三人の眸を順繰りに見つめ返していた。

 

     ◇◆◇

 

 ――自己実現、かあ……

 地球は、何というのだろうか、“感慨”と人間たちが呼ぶものに似た感覚を味わっていた。

 ――そうか、ただ食べる為だけに仕事をしているんじゃあ、ないというのか。

 

 ずず

 ず

 ずず

 …………

 

 岩の滑りゆく微かな音が、しばらく聞こえていた。

 ――けど。

 地球はまた想った。

 ――そもそも神は人間を、働かせるために造ったって……言ってたよな。

 

 ず

 ず

 ずず

 ず

 …………

 

 プレートは緩やかに、そうとはわからないほど緩やかに、滑り動いてゆく。それと同じように、地球の想いもまた少しずつ、ごく僅かずつ、現れては儚く消えてゆきながら、それでも確かに積もってゆくのだ。

 ――スサノオは、無駄使いさせる為だって……言ってた。

 

 ずず

 ずずずず

 …………

 ず

 ずず

 

 ――そして人間自身は、自分の存在意義を確かめる為だって……言う。

 

 ず

 ずず

 …………

 

 ――“食う”事は、下層の欲求だって……言う。

 

 ずず

 …………

 …………

 ずず

 

 ――じゃあ人間は、神の為に何をしているというんだろう?

 

     ◇◆◇

 

「神は人間の仕事に、満足してるの?」鯰が訊く。「って、言ってる」

「もちろん」天津はすぐに頷く。「言うまでもない」

「でも人間は、神の為に働いてるなんてこれっぽっちも思っていないんじゃないの?」鯰はまた訊く。「宗教に関わる仕事をしてる人間は別としてさ」

「宗教というのは」天津は目を閉じた。「乱暴に言ってしまえば、人間が作ったものだ」

 沈黙が流れた。

「すみません」天津は小さな声で詫びる。「もちろん我々はその“仕事”に対しても満足して、感謝しています」

「でも人間が考えてやってる“仕事”って、神がやらせたかったことに相違ないの?」鯰の問いは続く。「人間が、勘違いしてることはないの?」

「――」そこに到って天津の言葉は途絶えた。

「勘違い?」結城が叫び、

「何を勘違いしていると言うんだ」時中が呟き、

「私たちは神さまのご意志に添うことができていないというのでしょうか」本原が悲哀の籠もった声で囁く。

「勘違い、というのではない」天津は言葉を絞り出した。「けれど我々の予測していた以上に、人間という生物は」そこで天津の言葉は何かに圧し潰されたかのように途切れた。

「進化し過ぎた」結城が指を振って叫び、

「馬鹿だった」時中が最低音のトーンで呟き、

「神さまを敬う気持ちを忘れてしまった」本原が絶望と畏れの籠もった声で囁く。

「いえ」天津は少しだけ笑った。「人間は、ストイックなんです」

「ストイック?」結城が叫び、

「つまり禁欲的だというのですか」時中が呟き、

「まあ、そんな」本原が溜息混じりに囁いた。

「はい」天津はゆっくりと瞬きした。「それはもう、我々が不思議に思うほどに――先ほどお話にあった自己実現にしろ、宗教にしろ、人間たちが自ら、理論や禁忌、善と悪、正と負、なすべきこととなさざるべきこと、そういったルールを整えて、そして天が、自然が、神がそう告げているのだとして、自らを戒める」

「そうか」結城が突然納得したような声を挙げる。「そういえば歓迎会のとき木之花さんが、戦を起こすのはいつだって人間だっつってましたよね」

「つまり、なんでもかんでも神の所為にする事に神は不満を持っていると?」時中が問う。

「不満、というのではありません」天津は慌てて両手を振った。「ただ、どうして……とは、思います」

「どうして、とは?」時中が更に訊く。

「どうしてそこまで、自分を――つまり人間自身を厳しく律して追い込むのか」

 一同は黙した。

「もっと自分を、赦してあげてもいいんじゃないか――そうすれば自分以外の者に対しても、赦すことができるんじゃないかと」

「赦す?」結城が訊く。「ルールとか守らなくてもいいってことすか?」

「それは無理だ」時中が間髪を入れずに反論する。「それこそ地球崩壊の憂き目を見ることになる」

「そうですね」天津は頷く。「ルール、マナー、モラル、そして時間……人間が生きるのに当って、こういったものはすでに必要不可欠のものとなっています。現に我々でさえこの仕事を、時計の刻む時間に沿って、労働基準法を遵守した社内規定にのっとった上で、行わせていただいてます」

「へえー」結城が目を丸くする。「社内規定ってのがあるんすか」

「研修室の棚に冊子として置いてある」時中が冷たく言い放った。「会社なら社内規定があるのは当然の事だ」

「へえー」結城は目を丸くしたまま時中を見た。「さすが」

「それよりも、赦す話はどうなったんですか」本原が社内規定を圧し退けるように言葉を挟む。

「はい」天津は少しだけ肩をすくめた。「赦す、というと人は、それこそ神が人間に対して行う寛大な行為であると感覚的に思うことも多いようですが、我々にはそんな大それたことなんて、端からできはしないんですよ」

「どうして」本原が茫然と訊き返す。「神さまは人間をお赦しにならないのですか」

「はじめに言った言葉の通りです」天津は微笑んだ。「我々は人間の仕事に満足しているし、感謝している、ただそれだけです」

「――」本原は溜息も囁きも忘れ、ただ茫然と天津を見ていた。

「先ほどの、ハラスメントの件についても、若干関係しているかもです」天津は少し首を傾げた。「地球の活動が要因となって人間が危害を被った時、人間はかつて――それを自然天然の、あるいは神の、怒りだと表現していましたよね」

「――」新人たちははっとしたように一瞬だけ目を見交わし合った。

「ハラスメントを受けた時、もしかしたらそれは自分の能力の低さや努力不足、あるいは人格的な未熟さが要因であって、悪いのは自分なのだと考える事がある」

「逆に自分以外の者に対して能力の低さや努力不足、人格的な未熟さを感じるとき、一歩間違えるとそれはその相手に対するハラスメントにつながってしまう恐れがある」時中が低く続ける。

「はい」天津は頷く。「辛い目、苦しい目、痛い目に遭った時、自分の罪を赦して欲しいと祈る生物は、人間だけです」

「おお」結城が胸に拳を当てる。「そうだ。俺もある。就活うまくいかない時、これからは心を入れかえて真面目に清らかに生きますから助けてくださいって、神に祈った」

「冒涜ですね」本原が溜息混じりに囁く。

「そんなことないわよ」結城は声を裏返して反論した。「あたしは真剣に、真摯な気持ちで神さまに祈ったのよ」興奮した時の癖で女言葉になる。

「そのため」天津は静かに話を続けた。「人間は、危機を事前に察知するという能力を、自ら遠ざけていったんです」



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第34話 (上層部の)言ってることと(現場の)やってることが違。

「危険を察知する能力」結城が叫び、

「自ら遠ざけた」時中が呟き、

「まあ、素敵」本原が溜息混じりに囁き、他の二人が振り向いたがまったく目を合わせなかった。

「はい」天津は目を閉じ俯いた。「神の救済を信じる――その想いを他の人間たちと共有し、コミュニティという安住の地を拵え、人間は個々の力を合わせることで、苦境を潜り抜けるという生き延び方を見つけました。目に見えない不確かな第六感は、用をなさなくなっていったんです」

「ははあ」結城が口をぽっかりと開けて頷く。「野生の勘ってやつが、文明に追いやられて消えてったんですね」

「そこもまた、人間のストイックな面といえるんじゃないかと思います」天津は結城に目を上げまた微笑んだ。「自分独りが勘に任せて助かるのではなく、皆で力を合わせて皆で一緒に助かることこそが、正しいのだと」

「逆に、皆で足を引っ張り合って一緒に滅亡するという悲劇も起こり得る」時中が呟き、他の二人が振り向いたがまったく目を合わせなかった。

「そのリスクは否定できません」天津は哀しげにまた目を伏せた。「独り独りがそれぞれ勝手に逃げ延びれば、終局的には人間という種族全体の維持は可能なはずだと思うんですが……人間たちにとっては“共有”そして“共存”が何よりも重要なものになっている。人間にとっては“種族”の存続ではなく、“社会”の存続こそが必要不可欠なんです」

「そうっすね。俺たち一人じゃなんにもできないっすもんね。山に籠もって自給自足するにしても一人じゃ難しいっすよね。バディが要りますよねバディが」結城が何度も頷きながら他の二人を見回すが二人とも一切目を合わせなかった。

「なので」天津は目を開け、岩天井を振り仰いだ。「今のこの、人間社会の姿というのはあるべくしてあるものだと、我々は考える。決して我々の望んでいた形と違うなどということはない。我々は人間の築いてきたものに満足しているし、築いてきてくれたことに感謝している」

 

「へえー」突然、明瞭な男の声が洞窟内に響き渡った。「そうかねえ。本当かねえ」

 

「誰――」天津が一瞬、辺りを目で見回そうとしたがすぐに硬直し言葉をなくした。

「誰?」代わりに結城が訊く。

「この声は」時中が呟く。

「どなたですか」本原が溜息混じりに囁きかけて訊く。

「――まさか」天津が視線を硬直させたまま、信じられないといった声音で溢(こぼ)す。

「えっ、まさかこの声、地球?」結城が天津を見て問う。

「まさか」時中がすぐに否定するが、その瞼がぴくりと震える。

「地球さまなのですか」本原が確認する。

「――」天津はしかし、答えない。

「岩っちじゃ、ないよ」鯰(なまず)が答えるが、その声にも不審げな色が現れていた。

「誰だ」天津が、岩天井に向けて問う。

「スサノオノミコト」明瞭な男の声が、答えた。

 

「え」

「何」

「どういうこと?」

「――」

「そんな」

「ばかな」社の者たちは同時に、一斉に声を挙げた。挙げざるを、得なかった。

「違うっていうの」木之花もまた、事務室で驚愕に目を見開いていた。

「――」伊勢は何も言わず、表情を変えるでもなく、ただ凝と一点を見つめていた。が、やがて目を閉じ、また開け、ふいと横を向いてふ、と息を吐いた。

 

「え、スサノオ?」結城が叫ぶ。「俺?」自分を指差す。

「誰だよ、お前」明瞭な男の声が少し怒ったように訊く。「スサノオは俺だよ」

「あ」結城は頭に手を当てた。「そうすか」

「本当なのですか」本原が天津に振り向き問う。「この声は、スサノオノミコトさまなのですか」

「だからそうだって」スサノオは呆れたような声でもう一度言う。

「――」天津は言葉もなく、ただ佇み様子を伺っていた。「鯰」呼ぶ。

「何」鯰は甲高い声で答える。

「地球は、何か言っているのか」天津が問う。

「――スサノオだ、って言ってる」鯰が答える。

「まじすか」結城が叫ぶ。「お二人、知り合いなんすか」

「さっき知り合ったって言ってる」鯰が答える。

「どこにいるんだ」時中が眉根を寄せる。「姿は見せないのか」

「それよりもさ」スサノオは委細構わず話を続けた。「神たちは人間の仕事に満足し感謝してるって……それ、一体誰がそう言ってたの」

「それは」天津が答えかけ、しかし言葉を続けることができなかった。

「なんとなく、か」スサノオは少し意地悪げな声色で訊く。「特段はっきりと誰それがそう宣告したわけじゃあなく、なんとなく神々皆そんな雰囲気だっていうのか」

「――」天津はいよいよもって言葉を継ぐことができなくなっていた。

 

「社長、どうする」訊いたのは、恵比寿だった。「天津君に、助け舟出す?」

「――」大山も眉根を寄せた表情で固まっていたが、ゆっくりと唇を開き「いや」と答えた。「会社の理念は充分知り尽くしてるから。天津に任せる」

「けど」恵比寿は更に問う。「……スサノオ、だよ」

「――」大山は再び、言葉をなくす。

「結界だけ、張っとこう」そう言葉を差し挟んできたのは、酒林だった。

「結界か」大山は答え、頷く。「新人たちにね」

「うん」酒林も頷く。「何してくるかわからないからね。“スサノオ”は」

「よし」

 

 かくして三人の周りには、前日と同様の、幸福感に満ちた空間が作られた。

「おお」結城が溜息混じりに囁き、

「結界か」時中が溜息混じりに囁き、

「神さま」本原が溜息混じりに囁く。



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第35話 教会で賽銭投げて経唱え

「ふふん」スサノオは結界を見て、鼻で笑った。「まあ今時の若い奴らは弱っちいからな」

 天津は何も言わず、視線を右に、左にゆっくりと動かした。

「それでも例えば、石礫を無限に一つ所に投げつけ続けたとしたら、そりゃあ幾ら神の張った結界でもいずれは崩れるだろうけどさ」

「なぜそんなことを」天津は眉をしかめた。「新人さんたちに危害を加える気か」

「例え話だよ、ただの」スサノオは呆れたような声で言い、それからケラケラと楽しそうに笑った。「新人を潰したところで、俺には何の得にもなりゃしねえしな」

「おお」結城が頭上を見上げる。「新人クラッシャーか。俺たちを蹴落として自分が出世しようっていう」

「だからそんなこと関係ねえって俺には」スサノオは苛立ったような声を挙げる。「俺が出世して、何になれるっていうんだよ」

「スサノオ様も会社の方なのですか」本原が質問する。

「いえ」天津はどこか疲れたような顔で答えた。「運営には携わってません。ただのクレーマーです」

「馬鹿にすんなよ」スサノオの声に凄味が滲んだかと思うと、天津の体の上に稲光が落ちた。

「天津さん」新人たちは同時に叫んだ。

 地に倒れ伏した天津の体は黒く焦げ、煙を上げていた。無論もはや何も言葉を発しない。

「うわあ」結城が叫び、

「何てことだ」時中が呟き、

「怖い」本原が声を震わせる。

「大丈夫です」天津の声が答える。「皆さん、動かないでください。皆さんには危害は及びませんから」

「天津さん」新人たちは再度、同時に叫んだ。

「え、なんで」結城が叫び、

「なるほど」時中が呟き、

「神さま」本原が溜息混じりに囁き、

「ああそうか、神様だから別に死んだりしないわけか」結城が納得し、

「依代だからな、あの体は」時中が解説し、

「けれどもう二度とあのお姿ではお会いできないのでしょうか」本原が悲哀を訴えた。

「大丈夫です」天津は、人間の姿をしていた時と同じ口調で言った。あたかもあの端正だが気弱げな、多少無精髭を生やした顔のビジカジ男がすぐそこにいて、微笑みながら頷きかけているのが目に浮かぶようだった。「総務の方から“マヨイガ”に、発注してもらっときますんで」

「マヨイガ?」結城が叫び、

「迷子の家ですか」時中が質問し、

「土偶を買って下さるという、生きた家ですね」本原が確認し、

「ていうか、発注? 体を?」結城が再度叫び、

「なるほど、依代の追加発注というわけか」時中が納得し、

「前のものと同じになるのですか、それともバージョンアップするのですか」本原が質問し、

「バージョンアップ?」結城が再々度叫び、

「何か基盤になるモデルのようなものがあるのか」時中が推測し、

「オーダーメイドなども可能なのでしょうか」本原が推測を発展させる。

「ええと基本的には、前と大体同じのがいいかな、とは思うんですけど、正直これは在庫状況次第です」天津は、人間の姿をしていた時と同じ口調で言い、そして「はは」と、人間の姿をしていた時と同じ笑い方で苦笑した。

 

「ちっきしょう、えれえ頑丈な結界張りゃあがって」突然、スサノオが唸り声を挙げた。

 

「え」新人たちが思わず上を見上げると、彼らの頭上遥か高みで、ぴかぴか、ぴか、と白い光が点滅を繰り返していた。「あれは?」

「スサノオの稲光です」天津が答える。「でも大丈夫です。結界が破れるようなことはありません」

「ふん」スサノオは鼻を鳴らした。「そんじゃこれはどうだ」その声に続き、岩壁から次々に石礫が三人を目掛け飛んで来た。

「うわ」結城が叫び、

「何だ」時中が警戒し、

「石です」本原が悲鳴で回答する。

 だが石礫はどれも新人たちに届くことなく、蒸発するかのように彼らの体から二メートル以上も離れたところでしゅうしゅうと煙を上げ消えていくのだった。

「おお」結城が感動し、

「結界か」時中が安堵し、

「神さま」本原が溜息混じりに囁く。

 

     ◇◆◇

 

「皆さん連日お呼び立てしてすいません」会議室で大山が頭を下げた。

 列席するメンバーは、昨夜『酒林』にて酒を酌み交わしていた面子である。

「えー、もうすでにご存知とは思いますが、“スサノオ”が現れました」大山は早速本題に入る。「まあ……本物なのかどうかはわかりかねますが」

「どうだろうね」鹿島が腕組みして慎重論を唱える。「あの攻撃性からすると、あながち偽者だって捨て置くわけにもいかない気がするねえ」

「まさにの」宗像が同意する。「いずれにしろ、今回ばかりはおいそれと新人君たちを独り立ちさせる事はできかねるのう」

「そうですね」住吉も頷き意見を述べる。「取り敢えず様子見という形で、守護態勢維持ですかね」

「しかしあの者、本当の所どうなんだ?」石上が眉をしかめ、首を捻る。

「伊勢君」大山が指名し、問う。「どう思う?」

 問われた伊勢はそれまで目を閉じ皆の声に耳を傾けていたが、その瞼を持ち上げて一同を見回し、それから、ニッと笑った。

 それを見て全員、ニッと笑った。

 会議の終了は電光石火の如くに早かった。

 

     ◇◆◇

 

「ちっきしょう」スサノオは、石礫も効かないとわかるとさらに口惜しげに唸り、「じゃあこいつだ」と叫んだ。

 しばらく、何事も起きなかった。

「何だ?」結城がきょろきょろと辺りを見回し始めたとき、

 

 ごろごろごろごろ

 

 重く震えるような音が、新人たちの耳に入った。三人がそれぞれ見回すと、その音の正体は唐突に岩壁の隙間から姿を現した。人間の背丈の三倍はあろうかという、大岩だった。

「うわ」結城が叫び、

「何だ」時中が警戒し、

「岩です」本原が悲鳴で回答した。

 大岩はしかし、石礫と同様三人から数メートルも離れた所であえなく蒸発するように消えたのだった。

「おお」結城が感動し、

「凄まじい神力だな」時中が首を振り、

「神さま」本原が両手を組み胸で十字を切り、

「本原さんそれ宗教違くない?」結城が問いかけ、

「――」時中が首を振り、

「間違えました」本原が無表情に回答した。

「くっそお」スサノオはいよいよ憎々しげな声で叫んだ。「見てろよっ」

 その後、何かが飛んでくることも、ぴかぴか光り輝くことも、ごろごろ転がる音がすることもなくなった。

「なんだろ、諦めたのかな」結城が辺りを見回し、

「油断はできない」時中が警戒し、

「私たちはいつまでここにいるのでしょうか」本原が帰宅願望を述べ、

「あっわかった」結城が叫び、

「何だ」時中が眉をしかめ、

「まだ動いてはいけないのでしょうか」本原が更なる帰宅願望を述べた。

「クーたんって、ジーザス・クライストのクーたん?」結城が本原を振り向いて高らかに訊いた。

 誰も何も言わなかった。

「あれ、違う?」結城が問い、

「何故そんな何の関係もないくだらない発言をすることができるんだ」時中が全身で苦虫を噛み潰したように苛々と問い返し、

「今までの中では一番ましな部類ですが、違います」本原が冷静に回答し、

 

 ピーッピーッピーッピーッ

 

 出し抜けにアラーム音が鳴り始めた。三人は同時にそれぞれのウエストベルトを見下ろし、そこに差してある各々の機器類を抜き取り検分した。

「E06」結城が叫び、

「E06」時中が呟き、

「E06」本原が溜息混じりに囁いた。



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第36話 何回再起動しても認識エラーが消えません

 ――もうあんな惨状はまっぴら御免だ。

 恵比寿は心の底から強くそう思っていた。

 ――何もできなかった……ただ惨状を見守ることしかしてやれなかった。

 逃げ惑う人びと、阿鼻叫喚、無情にもすべてを呑み尽くす、火砕流。

 ――俺たち神は、実際のところ無力だ。

 焼ける棟々、木々、田畑、真っ白な灰、そして真っ黒な灰。

 ――あの後も地球はずっと変わらず、相変わらずそのシステムを稼動させ続けてる……当たり前だけど、当たり前のように。

 茫然自失の人びとの顔、餓死者、自殺者――絶望。

 ――あのとき人間たちは、神を憎んだのか……けど今でも人間たちは、神を捨てていない。

 

 ピーッピーッピーッピーッ

 

 突然耳に届いたアラーム音に、はっと身を竦める。

「ん」鹿島常務が眉をひそめる。「エラーか?」

「エラー……」恵比寿も茫然と呟く。

 E06。新人たちがそう言い合っている。機器の動作エラー。新人たちを守るために持たせたもの。それを妨害するなんて……でもこれは、地球がやっていることじゃあ、ない。

 地球は、そんなことしない。

「スサノオめ」鹿島が呟く。

 恵比寿は、立ち上がっていた。

 ――行かなきゃ。

 ノーコミュニケーション、接触なし。今回は、そうしようと思っていた。だが無理だ。

 自分に、どれほどの力があるものかはわからない。もしかしたら、行っても何の役にも立たないかも知れない。またあの時のように――三百年前のあの時のように、辛い気持ちになってしまうのかも、知れない。

 けれど行かなければ、駄目なのだ。

「鹿島さん」呼ぶ。

 返事はない。今は認識されていないのだ。

「行くか」鹿島はそう言って、自分が立った。

「――」私も行きます。恵比寿は心の内だけでそう言った。

 何も言わずについて行ったとしても、特に鹿島から責められることはないのだろう。何しろ今は、存在を認識されていないのだから。

 けれど恵比寿は、再び腰を下ろした。鹿島がここから移動するとなると、鯰を抑えている要石(かなめいし)の力が若干弱まることは否めない。その分自分が、持てる瓢箪(ひょうたん)で加勢しなければならないのだ。

 今度こそ。今度は間違いなく、確実に。あの時の痛み、苦しみを、今この時に繋げずして、生かさずして、どうするのだ。恵比寿は瓢箪につないである紐を手に取った。

 

「あ、恵比寿君」

 

 はっと目を上げる。鹿島が見ていた。

 ――認識モード、オン。

「どうも新人たちの機器類にエラーが出てるようなんだ。多分これ、スサノオの仕業だと思うのよ。今回なんでか突然、スサノオが出現したみたいでね、ついさっき緊急会議があったんだけど……俺ちょっと、ひとっ走り下りて来るわ。下に」鹿島は足下を指差しながら口早に説明する。

「はい、はいっ、わかりました! お気をつけて」恵比寿は何度も頷き、上司の安全を気遣った。エラーが出たことも、スサノオが突如現れたことも、緊急会議が開かれたことも、すべて鹿島の隣にいて同時に知っていたのだが、敢えてそこには触れずにいた。「鯰抑えは及ばずながら私が瓢箪でやっておきますので」

 返事はなかった。

 ――認識モード、オフ。

 鹿島は何も言わず、足早に部屋を出て行った。

 

     ◇◆◇

 

「エラーですね」天津が静かに言う。「電源の入れなおしをしてみて頂けますか」

「はいっ」結城が元気よく返事をし、

「変わらないですね」時中が早々に再起動した後報告し、

「壊れたのでしょうか」本原が首を傾げる。

「わかりました」天津は、姿形は見えないが頷いている雰囲気の声で言った。「今、鹿島常務が向かって来てくれてます」

「鹿島常務が?」結城が訊き返し、

「天津さんの代わりにですか」時中が確認し、

「私たちを助けに来て下さるのですか」本原が溜息混じりに感動する。

「機器類とか備品の修理受付担当なんですよ」天津は声だけで説明する。「簡単なものならもう、鹿島さんがその場で直しちゃいます」

「へえー」結城が目を丸くして感心し、

「マヨイガは修理はしないんですか」時中が質問し、

「鹿島さまは、剣と雷と修理の神さまなのですね」本原が上司についての情報を更新する。

「あと、鯰とですね」天津は姿形があったときと同様気弱げに付け足す。「マヨイガはそうですね、新品提供のみしてくれる所です」

「お疲れさーん」そんな話をしているところに、鹿島常務が姿を現した。あたかも普通の部屋のドアを普通に開けて入ってきたかのように、岩壁の影から普通に出てきたのだ。

「あっ、お疲れ様っすーっ」結城が元気よく答え、

「お疲れ様です」時中が僅かに頭を下げ、

「お疲れ様です」本原が溜息混じりに感動した。

「あーあー」鹿島は、黒焦げになって転がっている天津の依代(よりしろ)を見下ろして声を挙げた。「天津君こんなになってー」

「そうなんす、天津さん、スサノオにやられちゃってですね」結城が、まるで自分の業務上の過誤を弁解するかのような声で説明した。「すいませんでした」

「ん?」鹿島は一瞬上を見上げた。「すいませんって、これ、結城君がやったの? スサノオってやっぱり君なの?」

「あいえ、俺じゃないんすけど、なんか別にスサノオがいたみたいで」結城はさらに弁解する。

「天津君?」鹿島は周囲を見回す。「あれ、どっか行った?」

「あーすいません鹿島常務」答えるように岩の陰から、元の姿形と寸分変わらない天津、人間の姿をした天津が、元通りの苦笑を浮かべて現れた。「お疲れです」

「おお」結城が叫び、

「早いな」時中が呟き、

「お帰りなさいませ、神さま」本原が溜息混じりに再会を喜んだ。

「ああ、マヨイガ来てたのか」鹿島は納得したように頷き、また破顔した。「ますます男前になったな」

「変わらないっすよ」天津はさらに苦笑しながら顎をさする。「てか、髭剃ってから納品して欲しかったなあ」

「おおー、髭まで再現されてんすか」結城が新生天津をまじまじと検分し、

「マヨイガが来ていたというのは、外に来ていたということですか」時中が天津の入って来た方向を見遣りながら質問し、

「私たちもマヨイガさまにお会いできるのですか」本原が期待に満ちた声を挙げる。

「すいません、マヨイガは納品が済んだらもう、すぐ消えちゃいまして」天津が謝る。「まあでもそのうちまたひょっこり現れると思います」

「スサノオとやらは、消えたみたいだな」鹿島が上空を見上げて言う。「じゃあエラーの方、見てみようか」

「はいっ」結城が元気よく返事をし、三人はそれぞれ手に持っていた機器類を鹿島に差し出した。

 

 E06

 

 新人たちそれぞれの所持する機器の表面に、そのアルファベットと数字が光り続けている。

「ははー」鹿島は受け取った機器を両掌に載せ、それぞれに視線を巡らせて頷いた。「何から何までエラー表示だな」

「はいっ」結城が力強く頷く。「全部同時にエラーが出ました」

「うん」鹿島は上を見上げる。「あそこにもな」

「えっ」新人たちは揃って上司の見ている方向に顔を上げた。

「うわっ」結城が叫び、

「E06」時中が読み上げ、

「空中にエラーが出ています」本原が実況した。

 確かに、全員の頭上数メートルの空中に、手元の機器と同類の文字列が、何百倍にも拡大されたサイズで浮かんでいた。

「結界だね」鹿島は面白くもなさそうに吹き出す。「結界にエラーが出てる」

「はい?」結城が驚嘆し、

「結界にエラー」時中が超常現象を見る眼で復唱し、

「結界が壊れたのですか」本原が不安に表情を曇らせる。

「まあ、攻撃してくる奴は逃走したみたいだからエラー出てても問題ないとは思うけど」鹿島は肩をすくめた。「ああ、あんな所にもあるな」岩壁の一方向を指差す。

 三人が振り向き見ると、岩壁にぽつんと同類の文字列が、ごつごつした岩の表面に合わせて多少いびつになりながら表示されていた。

「はい?」結城が驚愕し、

「岩にエラー」時中が呆れたように首を振り、

「岩が壊れたのですか」本原が懐疑的な表情ながらひとまず質問する。

「多分あそこに、また何かの出現物があったんだろうな」鹿島が腕組みする。「それがエラー起こして出られなくなったってことだろう」

「えっ、じゃあ例えば土偶とか、剣とか、魔物出て来る岩とかがエラーになったって事すか」結城が確認する。

「多分ね」鹿島が頷く。「残念だったね。せっかくマヨイガ近くに来てたのに、売れなくて」

「あー、そうっすねえ」結城が合わせて苦笑する。「何か価値のあるものだったのかも」

「天津君、今日はここまでで上がるか」鹿島が撤収を提案する。

「はい」天津は素直に頷く。「さすがにここまで想定外の事になるとは……ですね」

「うん、まあ当分は我々の守護態勢続行ってことになったからね、ゆっくりやって行きましょう」鹿島はにっこりと笑って新人たちに振り向き、「あと何か、こんな道具あったらいいなとか備品で足りないものがあったら持って来るけど、何か要るものはないかな?」と言った。

「壊れない物をお願いします」時中が答えた。

「こわ……あ、はい」鹿島は眼をしばたたかせた。

「黒くなくて、もっと可愛い物がいいです」本原が答えた。

「かわ……あ、はい……」鹿島は眼をきょろきょろさせた。「君は?」結城に問う。

「はいっ」結城は待ってましたとばかりに回答を開始した。「私はもう、いただける物でしたら何でも結構です、一切注文はつけません。もう、いただけるというのであれば黒であろうが白であろうが、壊れかけの糞がらくたであろうが、もう何でも」

「くそ……ああ」鹿島は眼を宙に泳がせた。

「ええとじゃあ、上がりましょう」天津は新しく手に入れた両手をぶんぶんと振り場を取り繕った。「鯰」声を高めて呼ぶ。

「あいよ」甲高い声はすぐに返ってきた。「また明日ね」

「お前もお疲れだな」鹿島が労う。「鯰」

「やっぱ瓢箪の方が楽でいいわ」鯰は溜息混じりに強がりを言う。「要石よりよっぽど楽」

「瓢箪?」鹿島が首を傾げる。「何のことだ」

「あー、じゃあ上がりましょう」天津が慌てて繰り返す。「皆さん、お疲れ様です」



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第37話 クライアントの悪口はマントルまで持って行け

 翌日、研修室に集合した新人たちに最初に告げられたのは、研修内容の変更についての事だった。

 正確にいうと、研修内容の前倒し、である。つまり、本来の予定ではあと一日、練習用の洞窟にてイベント遂行手順の演習を行い、その後から現場でのOJTになるはずだったのだが、急遽それを一日分繰り上げ、本日ただ今より実際に受注した現場に向かい、天津立会いのもとでイベントを執り行うというのだ。

「大丈夫なのでしょうか」本原が無表情ながらも不安げな言葉を口にする。

「大丈夫です」天津は大きく頷く。「実際に傍にいるのは私ですが、もうおわかりの通り、我が社の者全員が影からサポートしますので」

「結界ですか」時中が確認する。

「はい」天津はまた頷く。「例のスサノオがまたちょっかいをかけてくる事を思えば、下の洞窟よりも現場の方が、却って安全なのではないか、という見解のもとで対応する事になりまして」

「へえー」結城が何度も頷く。「それはあれですか、下の洞窟だと向こうも勝手がわかっちゃってるから、妨害工作とか実行しやすいって事ですか」

「そうですね」天津は肩を竦めた。「有り体にいえば、練習用洞窟だと狭くて、いざという時逃げるのが困難になる可能性がありますのでね」

「結局最後は逃げるんですか」時中が鋭く眼鏡を光らせる。「結界を捨てて」

「万が一、の場合です」天津は慌てて両手を振る。「万が一、地球システムが良くない方向に連動してしまった場合にはもう、イベントを中止して、逃げます」

「労災にならないようにする為ですね」本原が溜息混じりに頷く。

「はい」天津は頷く。「皆さんの安全を最優先します」

「ようーし」結城は腕を九十度に曲げ体の前後に振り回し、肩甲骨の運動をした。「頑張るぞ!」気合の声を飛ばす。

「では」天津は結城に近い側の眼をぎゅっと瞑った。「行きましょう。表のワゴン車に乗って下さい」

 

「おお、皆、おはよう」ワゴン車の傍には、鹿島が佇んでおり、新人たちを認めるといつもの爽やかな笑顔を向けた。「いよいよ現場デビューだな」

「おはようございまーす!」結城が鹿島の言葉をかき消すボリュームで挨拶を返した。「今から現場デビューしに行って参ります!」

「うん」鹿島は笑顔を絶やさないながらも片目をぎゅっと瞑った。「じゃあ皆、はいこれ」両手に、リモコンサイズの機器類を並べて差し出す。

「おお、修理完了して頂けたんすね」結城は感動の声を挙げた。「ありがとうございます!」

「まあ、可愛い」本原が溜息混じりに頬を抑えて言う。

 三つ並んでいる機器のうち一つだけ、表面にきらきらと輝く花とハート柄のデコレーションが施されていた。

「スワロフスキーでね」鹿島は、照れくさそうに笑う。「気に入ってくれるといいんだけど」

「素敵です」本原は特に笑うこともなかったが「ありがとうございます」と頭を下げ受け取った。

「えっ、これ、鹿島さんがやったんですか」結城が本原の手に持つ機器を覗き込みながら目を丸くする。「さすが神。神仕事」

「いや、これは委託業者さんに発注したんだよ。急ぎでね」鹿島は苦笑混じりに説明する。

「おお、人間の仕事ですか」結城はそれでもなお感心する。「自己実現のあれですね」

「神さまはご満足なのですか」本原も手に持つ機器を鹿島の方に差し向けながら問う。「この、人間の仕事に」

「ははは」鹿島は楽しげに笑う。「もちろんですとも」頷く。

「じゃあ、そろそろ行きますか」天津も気弱げに笑う。「皆さん、乗って下さい」

「はいっ」結城が元気よく答え、全員が一瞬片目をぎゅっと瞑った。

 そして一行は鹿島常務に見送られ、天津の運転するワゴン車で初のOJT現場へと出立した。

 

 車は街とは逆の方向に向かっていった。対向車も信号も、次第に少なくなってゆく。やがて川沿いの、カーブの多い道に入り、さらに山へ向かい遡ってゆく。

「いやあ、いい天気っすね」結城が窓外の景観を眺めながら感動する。

「綺麗な景色ですね」本原が溜息混じりに囁く。

「山の中に入っていくんですか」時中が質問する。

「はい」運転しながら天津が頷く。「もし気分が悪くなったらすぐに止めますので、仰ってくださいね」

「いやあ、大丈夫っすよ」助手席の結城が、後部座席の二人を振り向きながら答える。「天津さん運転うまいっすよね。カーブの曲りとかもスムーズで」

「いえいえ」天津が照れ笑いしながら、緩やかにハンドルを切る。

「さすが神」結城は首を振り、さらに感心する。「神運転」

「いやあこれは、車の性能がいいからですよ」天津はさらに照れ笑いする。「神運転じゃなくて神スペックですね」

「またまた、ご謙遜を」結城は手揉みし、胡麻をする。「神謙遜」

「神氾濫だな」時中が呟く。

「神さまの価値が下がってしまいます」本原も指摘する。

「神株価平均、とかね」結城は振り返って後部座席の二人に軽口を叩くが、返事はなかった。

「もうすぐ、着きます」天津がそっと伝えた。

 

 そして車は橋を渡り、広大な田の中を真っ直ぐ貫く形に伸びる一本道を突き進んで、その“洞穴”に辿り着いた。小さな二階建ての現場事務所らしきプレハブが建っており、その奥に洞穴がぽっかりと、黒い口を開けている。ワゴン車がブレーキをかけ始めるのとほぼ同時に、二階の事務所入り口のドアが開き、中から三人、出て来た。四十代と見える男が一人。少し若い、天津より少し年上に見える男が一人。そして最後にその二人よりももっと年上と思しき女が一人である。

「あ、どうもお世話になります」天津が車から降りながら三人に声をかける。

「おはようございます」二人の男は答えて頭を下げ、親しげな笑みを浮かべる。「いよいよ新人さんの登場ですね」

「はい、宜しくお願いします」天津もにこやかに応じ、車から降り立つ三人を振り向く。「こちらが今回お世話になる、磯田建機の磯田社長、相葉専務、城岡部長です」

「あっ、わたくし新日本地質調査の結城と申します」結城が叫ぶ。「どうぞ宜しくお願い致します」

「おお」相葉専務が親しげな笑みを浮かべたまま片目を瞑る。「これはパワフルな新人君ですな」

「ありがとうございます」結城は尻尾を振らんばかりに全身で喜びを表した。

「時中です」時中はいつもと変わらず手短に名乗った。「よろしくお願いします」

「まあ、可愛らしい男の子が入ったのねえ」熟女の貫禄に満ちたアルトが響いた。「二人も。いいわねえ」

 一瞬の間、誰も言葉を発することができずにいたが「あ、ええ今日から現場での業務に当たりますので、宜しくお願いします」と、天津がにこやかに受け答えをした。

「まあまあ」磯田社長は結城と時中を順繰りに眺め渡しながら機嫌よさそうに唇を横に拡げ、貫禄のある笑顔を維持した。「いいわねえ。うちにも欲しいわあ、若い男の子が」

 再び、誰も言葉を発することができずにいた。

「ははは」天津が恒例の半苦笑で間をもたせる。

「本原と申します」本原が軌道修正のごとくに自己紹介をする。「宜しくお願いします」

「ああ、どうも宜しくお願いします」それに対しては相葉専務が素早く対応した。「ははは、女の子も入ったんですねえ」

 磯田社長は唇にだけ笑みを浮かべ続けていたが、本原には一瞥もくれなかった。

「それじゃあ、早速これから現場に向かわせていただきますが」天津は、あたかもそこに救いがあるかの如く、洞穴に向かい手を差し伸べた。「何か引き継ぎ事項はありますでしょうか」

「ええーと」相葉専務は矢庭にきょろきょろと首を巡らせ、傍に立つ城岡部長に「何かある?」と訊いた。

「ええーと」城岡部長もよく晴れた青空を見上げ大急ぎで思案し「特に何も、ない、ですね……まあお怪我のないよう、お気をつけて」とにこやかに答えた。

「ありがとうございます、では」天津がくるりと向きを変えようとした時、

「天津君」磯田社長のアルトが、若干笑いを含みながら天津を呼んだ。

「あ、はい」すぐに返事をし た天津に社長は、

「もちろん君も、相変わらず可愛いわよ」と言い、フフフフと笑った。

 すぐには誰も言葉を発することができずにいた。

「ははは、どうも」天津はぺこりと頭を下げ、すぐに歩き出した。

 

 三人の新人と天津は、黒くぽっかりと口を開けた“洞穴”の中へ、クライアントの経営者と役員たちに見送られ入っていった。

 洞穴の奥には、エレベータが設置されていた。岩肌に、少し錆び付いたパステルグリーン色の両開きのドアが埋め込まれており、天津がボタンを押すとそれは静かに口を開いたのだ。三メートル四方の箱の中に四人は立ち並び、OJT現場へと降り始めた。

「女性の社長さんなんすね」結城が、エレベータの天井を見上げながら言った。

「はい」天津が頷く。「磯田真貴子社長、御年六十八歳です」

「へえー」結城はなおも天井を見上げたまま感心する。「うちの親より上っすね」

「それで我々の事を子供扱いするような眼で見ていたというわけですね」時中が面白くもなさそうに問う。

「ははは」天津は気弱げに笑う。「そう、ですね……あの社長ご自身は独身の方なんですけどね」

「へえー」結城が天津に顔を向ける。「仕事一筋で生きて来たんですか」

「しかし、はっきり言ってあの社長は」時中が首を振りながら腕組みをする。「曲者ですね」

「ははは」天津はまた気弱げに笑う。

「うん、まあ強烈な感じではあるよね」結城は時中に同意した。「ぶっちゃけ男好きだよね」そして同様に腕組みし、からからと声を響かせて笑う。

「ははは」天津はやはり気弱げに笑う。

「だってさ、本原さんの方ぜんっぜん見てなかったもんね。俺らにばっかり色目使ってきてさ」結城は他の三人を見回しながら目を剥いて話した。

「色目なのか、あれは」時中が眉を寄せる。「子供を見る眼、もしくはペットの犬を見る眼のようだったぞ」

「どっちにしても俺らばっかり見てたよね。ねえ本原さん、むかつかなかった?」結城は本原に問う。

「あの方、昔の化粧品の匂いがしました」本原は答えた。



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第38話 女を褒める時は行動や結果よりもセンスを褒めるべし

「昔の化粧品?」天津が訊く。

「はい」本原が答える。

「何故昔の化粧品の匂いを知っているんだ」時中が訊く。

「私の祖母が使っていた化粧品と同じ匂いだからです」本原が答える。

「祖母ってあの、東海道五十三次のお婆ちゃん?」結城が訊く。

「それは父方の祖母です。化粧品の祖母は、もう亡くなりました」本原が答える。

「そうでしたか」天津が声を落とし、

「ではあの匂いは」時中が声を落とし、

「本原さんにとっては、懐かしい匂いなのかあ」結城が比較的声を落とした。

「はい」本原が答える。

「言ってあげればいいよ」結城が微笑む。「あなた、私のお婆ちゃんの匂いと一緒ですねって。そしたらお近づきになれるかも」

「わかりました」本原が頷く。

「いえ」天津が素早く両手を挙げて制した。「それは、言わない方が」

「殺されるぞ」時中が警告する。

「あはは、そこまではしないよ。天下の会社社長の人がさ」結城は笑い飛ばす。

「いえ、あながちそんな事はないとも言い切れないです」天津は肩をそびやかした。

「えっまじすか」結城が眼を丸くする。

「はい」天津は頷く。「彼女は、自らのことを“アマテラス”だと言う人なんです」

「アマテラス?」三人はシンクロして訊き返した。

「はい」

「えっ、でもアマテラスって伊勢さんでしょ?」結城が人差し指を立ててシステムの仕組みを想起し直す。

「はい」天津はやはり頷く。「もちろん、磯田社長も自分が人間だということは充分自覚なさってますが、まあ比喩的にご自分をアマテラスと称しているんですね」

「ははー、なるほど」結城が納得し、

「自分がいなければ会社は真っ暗闇になるという意味ですか」時中が確認し、

「まあ、すごい」本原が溜息混じりに囁いた。

「そうですね」天津は頷く。「しかし、自分のことを“アマテラス”だと言う女性は他にも、結構あちこちにいっぱいいるんですよ」

「おおっ、アマテラス・ワールドっすね」結城が感嘆し、

「何故、そんなに」時中が疑問を持ち、

「まあ、大変」本原が溜息混じりに囁いた。

「まあやはり日の神ということで、人気高いんでしょうね」

「へえー」結城が納得し、

「そうなのですね」本原が納得し、

「しかし神の間でもどの依代に神が入っているのかわからないと仰ってましたよね」時中が質問した。「それ程にまで自分がアマテラスだという者がいる場合、本物がどれに入っているのか見分けがつかなくなったり混乱したりしないんですか」

「だから伊勢は、男の体に入ったんです」天津はにっこりと答えた。「アマテラスは女だと一般には思われてますから、区別する為にね」

「ああ」結城が大きく頷いた。「そういう意味かあ」

「では、女性で自分の事をアマテラスだという方はすべて偽者という判断が下されるのですね」本原が確認する。

「はい」天津は肯定した。「我々の業界用語でそういう人のことを“ガセアマ”と呼んでいます」

「厳しい表現だな」時中が小声でコメントした。

 

 エレベータが停止し、扉を潜り抜けて出た先は、練習用洞窟の比ではなく広大な洞穴の中だった。真っ暗な穴の奥から、それこそ精霊なり神霊なりスピリチュアルなものがあたかも頬を撫でていくように、ひんやりとした空気が流れてきて肌を粟立たせる。

「うっひゃー広いなあまた!」結城の叫ぶ声が岩壁に当った後木霊となり戻って来る。「おお響く! やっほーう」

「よせ」時中が顔をしかめる。

「うるさい」本原が顔をしかめる。

「結城さん、静かに」天津が顔をしかめる。

「あ、すいませんつい」木霊がやっほーうと返してくる中、結城は振り向き頭を掻いた。

「学習するという事を学習しろ」時中が苛々と言い募る。

「やっぱり結城さんがスサノオなのではないでしょうか。それなら私はクシナダではありません」本原が表情を消して言い募る。

「ま、まあとにかく、先へ進みましょう」天津が洞穴の奥を手で示す。

 一行は歩き出したが、練習用の洞窟の狭さを思うとそこは、頭上に目一杯腕を伸ばしながらでも、通常の五割増しの歩幅でも、上体をぶんぶんと左右に振り回しながらでも歩けるという、恵まれた環境だった。それを立証したのは結城で、それらのすべてを試しながら彼は歩いた。その為他の者たちは、彼からおのおの少なくとも二メートルずつ離れて行かなければならなかった。

「あれ、出て来ないっすね」そんな結城は機嫌よく振り向き、天津に問う。「出現物」

「ああ、ええ」天津は周囲を軽く見回して答えた。「地球も、用心しているのかな」

「用心?」時中が訊く。

「ええ……スサノオに」

「私たちがここにいることを、地球さまもスサノオさまもご存知なのですか」本原が訊く。

「はい」天津は淀みもせず頷く。

「じゃあここでもおんなじように、岩の“目”を探って、地球と対話するんすか」結城が訊く。

「そうです」天津が頷く。

「鯰(なまず)を介してですか」時中が訊く。

「はい」天津が頷く。

「すごいっすね、鯰ここまで声届くんすか」結城が興奮する。「どんだけサイコな鯰なんすか」

「一度お会いしてご挨拶しておきたいと思います」本原が積極的な発言をした。「会社にいらっしゃるのですか」

「あ、ええ、はい」天津は若干眸を泳がせた。「いつもは鹿島部長と恵比寿さんが、管理してくれてます」

「そういや、恵比寿さんって」結城が人差し指を唇に当て、岩天井を見上げて誰にともなく訊いた。「歓迎会の時いたっけか」

「わかりません」本原が無表情のまま首を傾げる。「ご挨拶はしなかったように思います」

「ああ……いるには、いたんですが」天津が苦笑する。「なんか本人的に、あんまり目立ちたくないような事情があるようで……挨拶もなく、失礼しましたと言ってました」

「へえー」結城は指を唇に当てたまま足下を見下ろした。「どの人だろ」

「顔を覚えているのか」時中が問う。「歓迎会の参加者全員の」

 結城は時中の顔を見上げ「ううん」と首を振った。「そういや覚えてない」

「さあ、では」天津が三人の意識を岩に差し向けた。「いよいよこの、本番の現場で、岩の目、探っていきましょうか。用意をお願いします」

 

     ◇◆◇

 

「いやあ、また若い子たちが入りましたねえ」相葉専務は事務所の扉を引き開けながらハハハと笑った。「皆、地質学を勉強して来たんでしょうねえ」

「しかしこの、新日本地質調査の人たちって」城岡部長が、磯田社長の後ろから言葉を続ける。「いつも軽装で、大した装備もなく現場に入って行きますけど、大丈夫……なんですかね」

「あら、何が?」磯田社長は入り口を通りながら振り向き、眉を吊り上げて城岡部長に訊き返した。「何が大丈夫なの」

「いや、まあつまり」城岡部長が瞬時に全身汗を掻き緊張状態に陥ったことは想像に難くなかった。「その、ちゃんとわかるのかな、と」

「何が?」磯田社長は入り口を通り抜けた所で脚を止め、若い部長の眼前に仁王立ちで立ちはだかった。「何がちゃんとわかるの?」

「つ」城岡部長の咽喉はすでに大気の吸い込み動作を停止しかけていた。「まり、地質のちょ、調査に、ついてですね」

「天津君がついてるのよ?」磯田社長はもう一度眉を吊り上げた。「彼が何年、新人教育の担当をしているか知ってるの? 君」

「あ」城岡部長は今、眉間に弾丸を撃ち込まれたことを自覚した。「そ、そうですよね。ハハハ、それもそうですよね、天津さんがついていてくれるわけですもんね、ハハハ」

「君さ」最後にじろり、と一瞥をくれた後、磯田社長は城岡部長に背を向けた。「もういいから、機材メンテの確認に行って」

「あ」城岡部長は今、首をすぱーんと一刀両断に斬られたことを自覚した。「は、あのでも、今から東海土木の東浦さんがお見えに」

「いいわよ」磯田社長はぴくりと眉を眉間に寄せた。「他の人にやってもらうから。あれだったらあたしがやるわ。早く行って」手で、一瞬だが城岡部長を追い出す仕草をする。

「あ」城岡部長はその手、自分を事務所から追い出す手を見下ろした後、磯田社長の顔に視線を上げることもできず「はい」としか言えず、そのまま回れ右をして階段を降りることしかできなかった。

 がらぴしゃ、と冷淡な音が城岡部長の背後で立てられ、事務所のドアは冷たく閉ざされた。



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第39話 酸素を吸おうとすると彼奴が瞬時に硫黄に変えるのです

 ――地球を憎いと思った、か。

 地球は、比喩的に溜息をついた。

 それは多分、ほんの数百年前のことについて言っているのだ。地震、噴火、津波。それに続く飢饉、病疫。

 神たちの目の前で、彼らの為に仕事をしていた人間たちが、たくさん命を落していった。神の為に仕事をしているという自覚は人間の方にはなかったかも知れないが、当時も神たちは人間の仕事に感謝し、満足していたものだろう。

 人間たちは当時の為政者の政策をなじり、地震や噴火を天の――つまり神の怒りだと考えた。神たちは確かに怒っていた。しかしそれは人間に対してではなく、地球に対してだったのだ。

 ――けどじゃあ、あの時のことはどうなんだ?

 地球は、比喩的に首を傾げた。

“あの時のこと”――それは、神たちが地球を憎んだ時のものとは比にならぬほどの規模で、地球の環境が一瞬にして大変化した時のことだ。大地は震撼し、海は狂ったように高くせり上がり、山は燃え、そしてその後地表は凍りついた。気違いじみた、あの諸現象。当時そこに多く存在していたのは人間たちではなかったが、彼らもまた、何の手立てもなく滅ぼされていったのだ。飢えと、寒さに耐え切れずに。

 六千五百万年前。

 神は無論、その時すでに地球であれこれ画策していたはずだ。地球の上で、何かをしてやろうと目論んでいた。その為に、爬虫類という生物種を多く生み出していた。それがあの日、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。

 しかし神たちはそのことを言い連ねたりしなかった、してこなかった。何故か。

 確かにあの時の“災害”は、外部からの巨大な衝突物によりもたらされたアクシデントではあった。しかし数百年前の“災害”にしたところで、地球システムの普遍的な活動がもたらした結果であり、仕方のなさでいえばどちらも同じようなものではないだろうか。

 にも関わらず神たちは、宇宙を憎いとは思わず、地球を憎いと思った。何故か。

 それは失われたものが、違うからだ。六千五百万年前に失われたのは、恐竜をはじめとする多くの生物種で――人間たちではなかったからだ。

 どうして神は、人間を愛してやまないのだろう――

 

 こつこつこつ

 こつこつこつこつ

 こつこつこつ

 

 新人たちは、幅の広い洞窟で練習用のときと同じように地道に慎重に岩壁を探り始めた。しかし内心、練習用のときとは比べ物にならないくらいの疲労がやがて我が身を襲うであろう事に不安を抱かざるを得なかった。

 研修担当の神はいつものように、端正で気弱げではあるが慈愛に満ちた微笑で頷き、背後から見守ってくれている。ただそれだけで、心の中に淀む影のような不安がまるで風に圧されて退散するかのように、不思議なほどに、ほっとするのだ。

 天津は、そして今は目に見えないところにいる神たちは、今こうして地道に岩を探っている新人たちの仕事に対してもやはり感謝と満足をしてくれているのだろう。

 どうして神は、人間を愛してやまないのだろう――

 

     ◇◆◇

 

 城岡部長が“締め出され”た後の事務所内の雰囲気というのは、緊張の二文字以外のなにものでもなかった。磯田社長は何事もなかったかのように、まっすぐ自席に向かいどっしりと腰を下ろすと同時に机の上に置いてあった書類を手に取り目を通し始めた。

 事務職に従事している畑中は、覚悟を決めた表情でそのデスクに近づいて行った。「あの、社長」声帯が震えぬよう、腹に力を込めて声をかける。「今朝、要処理フォルダに入っていたこちらの書類なんですけど」差し出すA4サイズの綴じ物はしかし、小刻みに震えた。

 磯田社長は書類から目を離すこともなく、返事もしなかった。

「ど」畑中はその生物学的本能が『逃げろ』と命じている事にも気づかぬまま、爪先を数センチ前に進めた。「のように、処理すれば」

 磯田社長はさらに二秒間を置いてようやく顔を動かし、手描き作品である眉を思い切りしかめながら若き女性事務員の手にある書類の面を確かめ、そして言った。「この前教えたでしょ、あの通りにやって」

「あ」畑中の大脳は猛スピードで検索を開始した、だが彼女の海馬から『この前教えられた記憶』は引き上げられてこなかった、だが彼女は言った。「はい」

 その書面に書かれたタイトルの一文字とて、今までに見た覚えがなかった。畑中はそれにも関わらず、必死で類推し始めた。これと似た形式の書類は何か。それの処理方法はどうなっているか。社内LANの中のマニュアルにその書類について説明が載っていないか――もっともそれはすでに何十回となく検索済みで、徒労に終わっていた。

 恐る恐る、磯田社長の方をもう一度見る。社長は相変わらず微動だにせず、さっきの書類に目を通し続けている。

 だがそれはフェイクではないのか。畑中の胸中に、不意にそんな考えがよぎる。磯田社長は書類を読む振りをして、今こうして息もできずもがき苦しんでいる自分の様を視界の片隅で観察しているのではないか。

 自分を試す、或いは――単に、楽しむ為に。

 思わず涙がこぼれそうになる。周囲の社員たち――といっても小さな会社の現場事務所であるから、相葉専務と高島課長だけだ――は、見て見ぬ振りをして何も言わずに、否言えずにいる。

 その方が、逆にありがたい。何故なら今助け舟など出されたら、きっと自分の涙腺は崩壊しその場にくず折れ泣きじゃくり始めるに違いないからだ。

 窓の外は、日差しが眩しい。今日は好い天気だ。ああ、早く帰りたい。親兄弟の待つ、温かく愛に満ち溢れたあの家に。

 どうして私は、社長に愛されないんだろう――

 

 ガレージ内は大小高低の金属音と、シューッというジェット音、ピピピピという電子音が入り混じり響いている。城岡部長は足早に機器類の傍をすり抜け、コードをまたぎ、奥へと進んでいった。そこでは現場担当の社員が三名、油差しを手に機器の周囲にへばりついていた。

「どう?」とかけた言葉に、

「問題ないっす」と返事が返る。

“メンテナンス確認”は実質それで終了だ。現場のものは現場に任せているから、彼らが問題なしとすればそれ以上の介入は不要なのだ。

「婆さんの機嫌損ねちゃったよ」城岡は相好を崩す。

「やべえ」作業服の一人が苦笑で答える。

「今日あれでしょ、“お祈りさん”来る日でしょ」別の作業服の者が続ける。

“お祈りさん”とは、新日本地質調査株式会社に対し、この会社の現場担当たちの間でつけられた呼び名である。

「あの担当の人、名前なんでしたっけ」

「天津さん?」

「そうそう、天津さんのことお気に入りなんじゃなかったでしたっけ、社長」

「うん」城岡は困ったように顔をしかめつつ笑う。「俺がさ、あの人たちいっつも軽装だけど大丈夫なんすかねーつったから、それで機嫌悪くしちゃって」

「あー」

「うわ面倒くせー」

「怖えー」作業服の者たちもそれぞれ顔をしかめて笑う。

「ははは」一緒になって笑うが、城岡はこの目の前に並ぶ笑顔たちも、決して社長に楯突いてまでは自分の味方になどなってくれない事実を知っていた。

 それは、致し方のないことだ。皆誰しも、一番大切なのは自分の身であり、家庭である。それを脅かしてまで、他人の為に動くことはしない。微かな良心の呵責に目を瞑り背を向け、目の前のやるべきことに必死で心を集中させる。

 自分は、孤独だ。そう思う。

 中小企業とはいえど、若くして部長格にまで昇進し、学生時代の友人たちの中では最高値の収入とステータスを手にしている。この地位を与えてくれた会社、つまり磯田社長とその兄である磯田会長には、感謝してもし切れない。少し前の時代ならば、自分は生涯をこの企業に捧げると声を大にして誓っていたことだろう――いや、今の時代においてもそういう精神は息づいているものか。

 けれどそれは、果たして自分の、職務能力以外の部位を見てくれた結果の抜擢だっただろうか? 自分の、人格、性格、話し方、立居振る舞い、人とのコミュニケーションのとり方、そんなものを――いわば仕事における自分の“行間”までをよみ取ってもらえた、結果だったのか?

 何故そんな疑問が沸き起こってしまうのか。どうしても、拭い去れないからだ。自分は社長に嫌われているのではないか、という、恐れが。そうだ。自分は社長に、少なくとも好かれてはいない。笑顔が歪む。

 どうして俺は、社長に愛されないんだろう――

 

     ◇◆◇

 

「いやあー、今日の初デビュー戦はなかなか大変だねえ」結城が額の汗を拭いながら言い、ペットボトルから緑茶をぐびぐびと飲む。

「初デビュー戦というのはおかしいです」本原が指摘し、ペットボトルから麦茶を飲む。

「あそうか、腹痛が痛い的な言い方か」結城が岩天井を見上げて言い、再度ペットボトルから緑茶を飲む。

「――」時中は言葉もなく、溜息をつきペットボトルから烏龍茶を飲む。

「お疲れ様です」天津は笑顔で労わりの言葉をかける。

「この岩壁をすべて、叩き続けなければならないんですか」時中は訊いた。「無限に」

「そういうわけでも、ありません」天津は首を振る。「まずはコツを掴んでいただこうと思って、特にヒントなども出さなかったんですが、ここからはある点に注意を向けながら進んでいってもらいます」指を立てる。

「おお」

「まあ」

「注意点」三人はペットボトルのキャップを締め始めた。

「はい」天津は頷く。「岩の“目”というのは、開いて中に入るとご存知の通り、金色に近い色の光を放った空間になっています。この光は何から発せられているのか、実はまだ解明されていません」

「へえーっ」結城が叫び、

「まあ」本原が溜息混じりに驚き、

「超常現象ですか」時中が質問した。

「はい、俗にいう超常現象の類にはなります」天津は頷く。「ですがこの光が何であれ、それを外部から捕捉する技術を、我々は手にしています」にこりと笑い、三人の腰のホルダーを手で示す。

「あえ」結城が目を丸くし、

「これですか」本原がきらきらとさんざめく機器を取り出し、

「これで?」時中も取り出しながら質問する。

 結城が二人に一歩遅れ、慌てて機器を引っ張り出すがその拍子に落っことしそうになりあたふたと暴れすんでのところで手に収める。

 

 ――一度や二度すらっと駆け抜けただけで、記憶も理解もできるものじゃないだろうに。

 天津はにこにこしながら、そんなことを想っていた。彼だけでなく、もしかしたら社の者全員が想っていたかも知れない。

 ――教えたあと、ちゃんと呑み込めているか伝わっているか、フォローとチェックはしたのか? それなくして『この前教えた通り』というのでは、職務怠慢と謗りを受けても文句は言えないぞ。

 そっと、岩天井を見上げる。

 ――社員のコミュニケーション能力云々を言う前に、その社員自身に対するコミュニケーションのあり方について確認はしたのか? やる気のあるなしを問う前に、モチベーション維持を図る措置は取られていたか?

 磯田建機。ここも、余り人が続かない、離職率の高い企業だと聞く。とはいえクライアントの運営方針に、そこまで立ち入ることなど無論できない。何しろ自分たち『新日本地質調査』は、あくまで人間のルールに則って 立ち上げ、業務を執り行っているものだからだ。

 ――しかし、どうして……

 天津は心の中でそっと溜息をついた。

 ――どうして人間は、人間に対してこうも厳しいのだろう。

 

「はい」天津は頷いた。「ではこれからあの光の捉え方を、じっくりレクチャーしていきます」



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第40話 開く神あれば塞ぐ神あり

 時中が手にした機器を岩壁の方向に向け、ゆっくりと、自分の体を中心にして機器の先端で円を描くように回る。それが洞窟の奥へ向けられた時、黒く沈黙していた機器の表面にふっと、ほの白い光輝が灯った。ふわ、ふわ、ふわ、と音もなく点滅を繰り返し、そして消える。

「こっちにあるということですか」時中が訊く。

「そうですね」天津が頷く。「行ってみましょうか」

 一行は、白い光が灯った方向へと足を進めた。時中は機器の先端を同じ方向に向け続け、その表面には時折、ふわ、ふわ、と、気まぐれとも取れそうな頻度で光輝が灯っては消えた。

「この白い光の強弱で、あの空間までの距離が測れます」天津が説明する。「今のこの状態だと、まだ百メートル以上は先にあるという感じです」

「近づいて行くと、もっとはっきり光るということですか」時中が確認する。

「はい、正しい方向に進んでいればそうなります」天津が頷く。「しかし距離が長い分、ほんの僅かでも方向がずれてしまうと、もうまったく光らなくなってしまう事になります」

「それで岩壁を叩くのはどういう状態になってからですか」

「もう少し近づくと、今度は青い光に変わってきます。その辺から、探り始めるといいですね」

 この二人のやり取りの隙間に、結城の「へえー」または「ほおー」そして本原の「まあ」が、差し挟まれた。

 一行はやがて、時中の手の機器が青白い光を点灯させっ放しの状態になる所にまで辿り着いた。

「では、始めましょうか」天津が指示を出す。「“目”を探します……が、今度はこの、時中さんの機器の様子に気をつけながら探っていって下さい」

「どうなるんですか」時中が、自分の手の中の機器を見下ろしつつ訊く。

「青い光が、さらに近づくと今度は緑、そして黄色と偏移していきます」

「赤色偏移のようですね」

「はい、でもオレンジ色から赤色になってしまうと今度は逆に、離れてしまったという合図になります」

「では、黄色よりこっちには来ないよう、見ておく必要があると」

「その通りです」

 この二人のやり取りの隙間に、結城の「なるほど」または「ほうほう」そして本原の「まあ」が、差し挟まれた。

「さあ、ではお願いします」天津がにっこりと微笑む。

 

     ◇◆◇

 

 今もその存在に、地球は気づいていた。

 スサノオだ。海洋圏、地圏、大気圏と、実にあちこち自由に飛びまわっている。別の言い方をすれば、落ち着きがない。

「ねえ」試しに、声をかけてみた。「君はどこから来たの」

 スサノオはぴたりと止まり、しばらく様子をうかがうようにじっとしていた。地球は答えを待った。

「百五十億光年の彼方」スサノオはぽつりと呟いた。

 地球はわざと返事しなかった。

「なんて、な」スサノオはばつが悪いのか、やたら明るい声で続けた。「かっこいいだろ」

「自分は特別だっていいたいの?」地球は、我ながら意地悪だと比喩的に思いつつ訊いた。

「俺は好きにやってるだけさ」スサノオは、こちらも比喩的にそっぽを向いた。

 それ以上、互いに何も言わずにいた。

 やがてスサノオはまた元通り、海洋圏、地圏、大気圏と方々を飛び回り始めた。地球は、神たちの仕事の方に比喩的に意識を向けてみた。神たちの“仕事”――それも比喩的で、しかも諧謔的な言い方だ。

 ――神が、人間の真似事をしているんだもんな。

 地球はそんなことを思って、比喩的にくすくすと笑った。

 

     ◇◆◇

 

 新着メールが一件あった。開くと、本社の総務からだ。担当の名を見ると、入社時の本社研修で少し話をした事のある先輩女性社員だった。用件はごく事務的な、某月某日までに何某の件につき、まとめ報告願いますとの事だった。しばらく茫然と、その文面を見る。

 ――わかってますよ、その件は。

 脳の表面でそう思う。

 ――あと二件、数値の確認を取るだけだから……期日の二日前には確実に報告できます。

 ごく微かに、ほとんど心の中だけで、溜息をつく。

 ――ご心配ありがとうございます。

 

 「ほら、そこ」天津は畑中の、華奢な肩の上から呼びかけた。PC画面の、メールの文面を指差しながら。

 

 畑中の眸が、はっと見開かれた。

 ――あ……そうだ!

 畑中の指は素早くキーボード上で踊り、僅か一分後、彼女はそのメールに個別返信を送信した。思わず両手を組み、ぎゅっと眼を閉じる。何分、かかるだろうか。或いは、何十分か。或いは、何時間――最悪でも今日中に、届きますように!

 二分後だった。

 開いてボディの内容を目に映すまでに五秒、内容すべてを理解するのに十秒、そこに記してあった通りに“謎の書類”を処理し終えるのに一分だった。

 すべて、終わった。畑中は背もたれに身を預け、やはり密かに、安堵の吐息を洩らした。大きく息を吸い、もう一度。さらにゆっくりと、息を吸う。

 ――ああ、神さま。

 PCの、先輩から届いた書類の処理方法についての返信文面を見ながら、思う。

 ――ありがとうございます!

 心から、思う。

 

「どういたしまして」天津は笑顔で、その華奢な肩の上から答えた。「先輩にもね」

 

 ――あそうだ、お礼のメールしなきゃだ。

 畑中は、返信の返信への返信を打ち込み始めた。先輩から来ていた「処理方法」のメールの最後には、先輩にしては珍しく――また業務メールとしては“違法”ながら、笑顔の顔文字がついていた。畑中もそれに応え、“法”を密かに破って笑顔の顔文字をつけて送った。

 

     ◇◆◇

 

 天津がそんな“副業”を行っている間にも新人たちは岩の“目”を探りつづけ、その結果、

 

 ひょんひょんひょんひょんひょん

 

という例の音とともに、その作業の終焉を迎えた。今日それを、文字通り叩き出したのは、本原だった。

「見つかりました」特に表情を変えることもなく、彼女は振り向き皆に報告した。

「おおっ」結城が叫ぶ。「やったね本原さん、岩の目初ゲットだ! じゃあ、時中君」振り向き、同期に指図する。

「――」時中は何かを耐え忍ぶ顔で無言のまま、岩に穴を穿った。

 そして三人は、結城を中心にしてその穴の前に並び、姿勢を正した。

「閃け、我が雷よ」時中が言う。

 鹿島が、PCを打ち込みながら小さく頷く。

「迸れ、我が涙よ」本原が言う。

 答えて雨、風、水、火、天候の神と呼ばれる存在たちが、頷く。

「開け、我がゴマよ」結城が叫ぶ。

「社長のセンス」木之花が小さく首を振る。

「え?」大山はとぼけた顔で訊く。

 岩壁に輝く亀裂が走る。全員、目を細めずにいられなかった。

 何秒経っただろうか。漸くその眩しさに目が慣れた頃、声が聞こえた。「またやりやがったな。塞ぐぞ」

「えっ」結城が全身で振り向き、

「何だ」時中が眉をしかめ、

「どなたですか」本原が問いかけた。

 問わずともわかっていた。

「スサノオ」天津が苦々しげに、呼んだ。



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第41話 嗚呼この状況で社用携帯で発信する事は赦されるのでしょうか神様

「スサノオっすか」結城が天津を見た後、岩天井を振り仰ぐ。

「塞ぐだと」時中が岩壁を左右に見回す。

「できるのでしょうか」本原が首を傾げ疑う。

 その直後、暗闇が訪れた。

「うわっ」結城が叫び、

「塞いだのか」時中が呟き、

「できましたね」本原が溜息混じりに囁いた。

 は、と天津が溜息をつき「何のつもりだ」と苦言を呈する。

 スサノオは答えない。

「くっそー、もう一回やろう」結城は先ほど突き刺したローターを岩壁から引き抜いた。

「できるのか」時中が闇に慣れた目で先ほど穿った穴を見る。

「念のために叩いてみましょうか」本原がハンマーを持ち上げる。

 

 こつこつこつこつこつ

 

 先ほど異質の音を放った部位は、普通に叩かれる音しか発してこなかった。

「岩の目を他に移したんですね」天津がふう、と溜息をつく。「性質の悪い」

「なんで奴はこんな事するんすかね」結城は口を尖らせて言った。「意味わかんねえ」

「まともな神経の持ち主ではないのだろうな」時中が考えを述べた後ちらりと結城を見た。

「嫌がらせでしょうか」本原は岩壁に向けてハンマーを構えたまま首だけ振り向いた。

「またイチから、目え探し直しっすか」結城は若干力の抜けた声で天津に確認した。

「そして見つけた端からまた塞がれるのか。冗談じゃないぞ」時中が怒りの声で続けた。

「永久に岩を叩き続けなければならないのでしょうか」本原が危惧する。

「いえ」天津は首を振った。「今度は最初から、結界を張っておきますので大丈夫です」

 新人三人は頷き、再び岩の目捜索の作業にとりかかった。

 

「野郎」伊勢は片手で頬杖を突きながら、低く唸った。「ほんと何のつもりだか」

「ほんと意味わかんないよね」大山が頭の後ろに手を組み呆れた顔で言う。

「結界の高さの設定は如何しますか」石上が確認する。「五メートルぐらいまでで宜しいですかね」

「ああ」鹿島が頷く。「あまり広げ過ぎて効力が弱まってもいけないしな」

「まあ、相手が“スサノオ”となると、慎重にいく必要がありますからね」大山は表情を引き締める。

「取り敢えず」伊勢が俯き溜息をつく。「何してきやがるかわからんて意味で、危険すからね」

 

「新日本の皆さん、上がって来ないですね」相葉専務が壁時計を見上げながら言う。

「――」磯田社長は頬杖を突き横目で同じく時計を見上げた。

 午後二時を回ったところだ。磯田建機の地上にいる社員たちは皆、とうに昼休憩を終えて午後の稼動に入っていた。

「特に連絡とかも、ないですね」城岡部長もスーツの胸ポケットから社用携帯を取り出し着信履歴を確認して言う。「事故、とかではないんでしょうけども」

「うん」相葉専務は窓の外――地下へ降りるエレベータの扉を見遣る。「特段異常がある様子でも、ないしねえ」

「連絡してみなさいよ」磯田社長がやっと口を開いた。「天津さんに」

「あ」城岡部長は、眸を揺らした。

 契約時、緊急の場合以外は、社から天津への連絡は控えて欲しいという、新日本地質調査からの要望があったのだ。それを破るほどの、事態といえるのか。

「もしかしたら、電話をする余裕もない程大変な目に遭ってるのかも知れないでしょ」

「あ」城岡部長は繰り返し、「は、はい」と携帯を握り締め立ち上がって事務所の外へ出た。

 階段を下りながら、そして下りてからも、本当にかけていいものかどうか城岡部長はまだ迷っていた。

 

「二時過ぎ、か」天津の方も気にしてはいた。「相葉さんたちが心配するはずだよな」彼には地上の契約先社員たちの様子も把握できているのだ。

「二時過ぎですね」時中が自分の腕時計を見る。「このまま作業を続けるべきなんですか」

「あーそういや昼飯食ってないよねえ」結城が胃の辺りを撫でる。「腹減ったなあ」

「上に上がるのですか」本原が訊く。「スサノオさまのことは置いておいて」

「――」天津は周囲を見回し「そうですね。上がりましょう」と指示した。

 

 ごごごごぅ

 

 腸がせり上がるような不快な響きが、どこからか小さく聞こえてきた。それはすぐに音量を増した。

 

 ごごごごご

 

「何だ何だ」結城が叫ぶ。

「また何か来るのか」時中が戦慄する。

「怖い」本原が自分の肩を抱く。

「大丈夫です」天津が本原を庇うように両腕を広げその目の前に立つ。「我々が護ります」

 音の正体は、すぐに視界に入ってきた。岩だ。

 高さが何メートルあるのか――少なくとも十メートルは下らないと見える。三人が、これまで一度も見たことのない程巨大な一枚岩が、洞窟の奥の方から迫り来ていた。転がるのではない。その岩は、洞窟の奥の方から、地を滑ってこちらへ向かって来るのだ。

「おわあっ」結城がフルボリュームで叫ぶ声さえもいまや岩の地滑り音にかき消された。

「岩か」時中は幻想ではないのか確かめるように眉をしかめ眼を細めた。

「怖い」本原は目の前の天津のシャツを両手で強く掴んだ。

「皆さん、そのまま動かないで」天津は落ち着いた声で告げた。「結界の中にいれば問題はありません」

「まじっすか」結城は迫り来る岩と天津を交互に見た。「でもあの岩、この通路幅めいっぱい塞いでますけど」

「信用していいんですか」時中は眉をしかめたまま岩だけを凝視していた。「あなた方の神力というのを」

「神さま」本原は天津のシャツを掴んだままその背だけを見ていた。「これは労災保険の対象になるのですか」

「は」天津は一瞬肯定しそうになったがすぐに「いや、我々が護りますからそもそも災害にはならないですよ、大丈夫」と言い直した。

「スサノオバーサス神か」結城は結界の中で特撮ヒーローの真似事のように両手を手刀に立てて構えた。「来いっ、スサノオ! 返り討ちにしてやる!」

「――」時中は眉をしかめたまま首を横に振った。

「スサノオさまも神さまなのではないでしょうか」本原は天津の背後から片目だけを覗かせて質問した。

 

 ごごごご

 

 怒号のような大音響とともに岩は三人の眼前数メートルの所まで迫ると、突如夢幻のように姿を消した。

「あらっ」結城が叫び、

「消えた」時中が呟き、

「どこに行ってしまったのですか」本原が訊く。

「――」天津は答えず、怪訝な表情で辺りを見回した。「これは」

 

「消えた?」大山が怪訝な表情で訊く。

「どこ行った?」鹿島が怪訝な表情で訊く。

「何処へ」石上が怪訝な表情で訊く。

「上す」伊勢が叫ぶ。「城岡部長を護るす」

 

 城岡部長はいまだ社用携帯を持ったままエレベータのドア前を行ったり来たりしていた。かけるべきか、このまま待つべきか、逡巡していたのだ。

 

 ごつん

 

 その足の裏に突然、下から何かがぶつかった。

「え」下を見下ろす。

 何もない。両足を持ち上げて靴の裏を見てみるが、何ら異常は確認できなかった。

「ん?」もう一度、肩幅に開いた両足の間の地面を見下ろす。

 

 ぴしっ

 

 その、コンクリート貼りの大地に黒い亀裂が走った。声を挙げる暇もなく、亀裂は一瞬の内に数メートル先まで走ったかと思うと激しい振動が城岡部長の足下に起き、彼は尻餅を突いた。

「わあっ」叫んだ時には彼の座り込んだ大地が盛り上がり、コンクリートは裂けその下の土が溢れ出して来た。

 ――地震、じゃない!?

 城岡部長の頭脳は不思議なほど冷静にそんな事を思った。地震の揺れ方とは違う。異質だ。何かが、地下からせり上がって来たのだ。

 ――まさか新日本の人たち、これに――

 そう思った直後、城岡部長はせり上がって来た土に乗せられたままエレベータホールの天井が猛烈な勢いで眼前に迫るのを目の当りにした。

「わあ――ッ」

 激突死。その言葉が最後に頭の中を走り、そして城岡部長の意識は切れた。



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第42話 ザ・ブラックタカマガハラ

「あー……っぶなかったぁ」低く囁くように声を洩らしたのは住吉だった。

「まこと」石上も安堵に肩を落とす。「罪なき人の命の無益に奪われゆくところであった」

「ってかあいつ」伊勢は苛立ちを顔に表していた。「どこに隠れていやがんだ」

「地球に」大山がぼそりと提案する。「……は、わかるのかな」

「地球に?」皆が訊く。

「うん」大山は頷く。「スサノオのいる、場所が」

 

「鯰」天津が洞窟の中で声を張り上げる。「地球と話せるか」

「えーここで?」鯰の甲高い声はすぐに返事をよこした。「まだ準備できてないでしょ」

「無理か」天津は多少困ったような声で問いかけた。「準備しようにも、あいつが邪魔立てするからな」

「岩っちに何か訊きたいことがあんの?」鯰は訊く。

「スサノオが今、どこに潜んでいるか」天津が答える。

「ちょっと待って」鯰は取り次いでくれるようだった。

「親切っすね、クーたん」結城が明るい声を挙げる。

「クーたんではありません」本原が否定する。

「皆さん、お腹空いてるとは思いますが、すみません」天津は頭を下げる。「今すぐに動いていいかどうか見るので、少しだけお待ちいただけますか」

「わっかりましたあ」結城は手に持つローターを頭上高く振り上げて元気よく答えた。

「何故そんなに機嫌がいいんだ」時中が問いただす。

「いやあ、なんかさ」結城は明るく笑う。「スサノオが出てきてくれたから、もう俺がスサノオだっていう可能性なくなったわけじゃん。ちょっとスッキリしたよ」

「残念ではないのですか」本原が問う。「ご自分がスサノオではなかった事が」

「いやあ、ぜんっぜん」結城は首を振る。「俺はれっきとした普通のまともな人間だっていうのが証明されたわけだからさ、もうすこぶる嬉しいの一言だよ」

「普通の?」時中は疑い、

「まともな」本原は疑った。

「スサノオ、リソスフェアにはいないってさ」鯰がだしぬけに地球の回答を伝えてきた。

「そうか」天津は腕組みをした。

「リソスフェアって何だっけ」結城が他の新人二人を見る。「なんか聞いたことあるような」

「岩石圏です」天津が親切に教示する。「地球の一番外側、マントル上部と地殻を含む所です」

「あっそうか、そうでしたね。すいません覚えてなくて」結城は明るく笑いながら謝った。

「じゃあ……上がりましょう、か」天津はなおも用心深く辺りの様子をうかがいながら、出口方向へ一歩進んだ。

 

 エレベータから降りると、磯田建機の社員たちが数名、ドアから三メートルほど離れた前方に集まって来ており、さらに工場の方から走ってくる者も数名いた。そして彼らに囲まれて二名ほどが地に膝を突いてしゃがんでおり、その二名に支えられるように城岡部長がぺたりと地の上に座り込んでいた。

「あれ」結城が言い、

「どうしたんだ」時中が言い、

「事故でしょうか」本原が言った。

 天津は素早く人だかりに近づき「どうしましたか」と真剣な声で訊いた。

「いやあ、部長がなんか倒れてて」しゃがんだ内の一人が振り向き、天津を見上げて答える。

「あ、大丈、夫です」城岡も天津を見上げ、どこか安心したような笑顔になり答えた。「皆さんこそ、大丈夫ですか」

「あ、ええ」天津は背後の新人たちを振り向き、頷いた。「すみません、上がるの遅くなってしまって」

「ははは」城岡部長は座り込んだまま笑ったが、あまり元気のある声ではなかった。「社長が連絡取れって言ってたんですが、連絡していいものかどうか迷っちゃって」

「それで迷い過ぎて気を失ったんですか?」しゃがんだ内の一人が目を丸くして訊く。

「あいや」城岡部長はさっと真顔になり、自分の座り込んでいる周囲の大地を前後左右と見回した。「――」ぽかんと口を開けたまま、言葉をなくす。

 周囲の大地には何ら異常はなかったのだ。

 天津も城岡に倣って周囲を見た、そして微かに頷き、それから城岡部長に手を貸した。「これから病院にいらっしゃるわけですか」

「あ、いえ」なんとか立ち上がった城岡部長は慌てたように手を振った。「もう大丈夫ですから……社長にも怒られますし」ハハハ、と慌てたように笑う。

「けど」社員たちは心配気味に、立ち去ることもしない。

「ああごめん、ホント大丈夫だから。もう仕事、戻っていいよ。社長に見つかるとまた面倒だしさ」城岡部長は周りにやたら愛想を振りまき、両手で見えない誰かの背を押すような仕草をした。「ホントごめんだったな、ありがとう皆。うん、お疲れさん」

「大丈夫っすか」

「まじで」

「何かあったら言って下さいよ」社員たちはそれでも心配そうな顔をしながら、少しずつ持ち場へと戻って行った。

「いい会社だなあ」結城が比較的ぽつりと呟く。

「皆さん、お優しいですね」本原も同調するが無表情ではある。

「――」時中は特にコメントしなかった。

 社員たちが全員立ち去ったところで、城岡は肩をすくめるようにして振り向き天津に言った。「あ……じゃあ皆さんも、今からご休憩ですね」

「ああ、はい」天津は頷く。「遅くなりましてすみません。休憩後また続きをしに下りますので」

「――はい、……天津さん」城岡部長は目をきょろつかせながら、またぱちぱちとしばたたかせながら、どこか言いにくそうに言った。

「はい」天津はそんな城岡の顔を覗き込むようにして訊き返す。

「あの、下で……何か、トラブルとかありましたか」ぼそぼそと城岡部長は訊く。

「……いえ」天津は考えながら首を振った。「城岡部長の方には」訊く。

「――」城岡部長は顎を少し震わせ、恐怖を目の当りにした人のように怯えた表情になった。

「皆さん、食事を――今日はすみません、あのワゴン車の中で摂って来ていただけますか」天津は振り向く。

「あっ、はい」結城が敬礼せんばかりに背筋を伸ばして答え、

「車の中でですか」本原が訊き、

「――」時中は特にコメントしなかった。

「すみません、ちゃんとした休憩室をご用意できればいいんですが」城岡部長が恐縮する。「小さい会社でして、どうも」頭に手をやる。

「いえ」天津が言いかけたが、

「いえいえいえいえ」結城が倍のボリュームで両手を振りつつ追い被せる。「そんな休憩室なんてもったいない、お気持ちだけで充分ですよ。あざーっす! よしじゃあ皆、メシ行こう」他の二人に手招きをし、持参した弁当を積んだままのワゴン車に向かって小走りし始める。

 三人の後姿を見送った後、茫然とした体で城岡部長は天津を見た。

「何か、ありましたね」天津は穏やかに、だが真剣な顔で訊いた。とはいえ、彼にはすでに何があったのかわかっていた。他の場所にそれぞれ居る社員たち――つまり神たちが、すんでのところで城岡部長を天井への激突から救い出した、その場面まで知っていたのだ。

「……あのです、ね」城岡部長は俯いていたが、自分の記憶をたどっているらしく目を左右に揺らした。「まあ、信じてもらえないとは思うんですが」

「信じますよ」天津は即答した。「何か妙な事が起こったんですね」

「――」城岡部長は驚いたように目を見開き天津に顔を上げた。「……はい」恐る恐る頷く。

「何か、岩みたいなものが出てきたりとか?」天津は誘導の問いを投げる。

「ここのコンクリが」城岡部長は足下を靴の爪先でコツコツと突いた。「突然ひび割れて、下の土が盛り上がって来て」眉をしかめ頭を振る。「天井まで持って行かれて、俺てっきり」声が震え、言葉も業務用のものではなくただの恐怖に震える一青年のものに変っていた。

「そうなんですか」天津は聞きながら社の神たちと対応の方向性について確認を取っていた。

 

「どう説明しますか?」天津が問い、

「うーん、ここまで鮮明に3D映像見せられてたらなあ」大山が腕を組み唸る。

「難しいすねえ」伊勢も口を尖らせて考え込む。

「ていうかあのスサノオ、実際に人間に危害を加える能力まであるのか」

「我々に対してだけでなく」

「てことは」

「活断層をずらす位しやがるのかな」

「でもそれ地球のシステムに手を加えるってことだよな」

「地球側としてはどうなんだ」

 一瞬の内にではあったが、神々の論議は紛糾の様相を呈した。

「差し向き、城岡部長には?」天津が改めて問う。

「そうだな」鹿島が結論を下す。「我々の行う地質イベントの影響で、本来あるはずのない幻影が見えたと思われる……と回答するしかないだろうな」

「それで、通じますかね」天津はどこか懐疑的だった。

「まあ実際現時点では何の現象も起きていないわけだから、それでいくしかないだろう」大山も社長判断を下す。「それだけ地質調査イベントてなあ特殊なもんなんだってのを匂わせとけば」

「わかりました」天津は大人しく従った。

「てかもう、やっちまいましょうよ」伊勢が暗い目つきでそう提言した。

 神たちは総員、じわりと汗を滲ませた。

「やる、って」住吉が問う。

「あいつを」伊勢が顎をしゃくり上げる。

「如何にして」石上が問う。

「新人たちで」伊勢が答える。

「それはまだ」天津が慌てて異議を唱える。「彼らには荷が重過ぎるのでは」

「そうすかねえ」伊勢は不服そうだった。「できるんじゃないすか? なんやかんや」

「結城君と一騎打ち、か」大山がにやりとほくそ笑む。

「いや、それは」天津がさらに慌てて異議を唱える。「危険過ぎますよ」

「三騎打ちならいけるんじゃないか」鹿島もにやりと笑う。

「本原さんもですか」木之花がぴしりと口を挟む。

「だってイベントって三人がかりでやるもんすからね」伊勢もにやりと笑う。

「まだ、無理です」天津は珍しく強い拒否を示した。「あの三人には荷が重過ぎます。今日でやっと実地研修三日目なんですよ。彼らは一応、普通の人間たちなんですから」

「そうですよ」木之花が加勢する。「私たちの軽い思いつきでやらせていい事と悪い事があります。ブラック企業になっちゃいますよ、うちが」ばん、と何かを叩きつけるような音が続いた。木之花の機嫌がどういった状態にあるのかを示す音だった。

 神たちは、しゅんとしおらしくなった。



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第43話 右の頬を打たれたら左の法を差し出しなさい

「城岡部長、すみませんでした、怖い思いをさせてしまって」天津は誠意を込めて謝罪した。「それは多分、我々の行う業務の影響による幻覚症状だと思います」

「――」城岡部長は絶句した。「――幻覚……?」そっと、訊き返す。

「はい」天津は深く頷く。「幻覚です。ただ、まあ、あまり騒ぎにはしたくないので……虫の好いお願いではありますが、どうか今回の事は内密にしておいて頂ければ」もう一度深く、頭を下げる。

「――」城岡部長は自分がへたり込んでいたコンクリートの床を茫然と見下ろした。「まあ……誰かに話したところで、頭打ったかなんかでおかしくなってんじゃないかって思われるだけ、でしょうからね……ははは」面白くもなさそうに乾いた笑い声を上げる。

 天津は困ったような、同情するような表情でただ城岡部長に眼差しを送るのみだった。

「でもなんで」城岡部長はふと真顔になる。「新日本さんの業務で幻覚症状なんて、起きちゃうんですか?」

「それは、ですね」天津は一・五秒をかけて社に相談し回答を得た。「こんな事言うのもあれですが……城岡部長は、いわゆる霊感の強い人、ではないですか?」逆に問いかける。

「俺? あ、いや、私?」城岡部長は目を見開いて自分を指差した。「いや、そういうのは」

「潜在的に、という事もありますよ」天津は探るような視線を城岡に向ける。「ご自分でまだ気づいていないだけかも」

「まじですか」城岡部長はすっかり信じ込んでしまったようだった。「え、洞窟に近づいたからそういう潜在的なものが目覚めたとか?」

「あり得ますね」天津は心の中で両手を合わせて頭を下げながら頷いて見せた。「もしかしたら一時的に目覚めさせてしまっただけで、今後はもうないかも知れませんが」

「へえー」

「まあ何にせよ、申し訳ありませんでした。怖い思いをさせてしまって」天津はもう一度言い、深く頭を下げた。

「ああ、いえいえそんな、気になさらないで下さい。不用意に近づきすぎた私に責任があるんですから」城岡部長は慌てて手を振る。

 

     ◇◆◇

 

 地球は、スサノオを探していた。リソスフェアには、いない。鯰にそう伝えたことは、嘘ではない。

 ――また、コアまで下りて行ってるのかな。

 地球のコアには流体の外核と、ほとんど鉄とニッケルの塊である内核とがあるが、この内核付近ともなると、構成物質の比重が大きいため地球自身にもそこで何が起こっているか、正確な状況が把握しにくいのだ。

 ――それとも、上の方に行ってるとか。

 上とはつまり、地殻から離れ上空に飛び上がっているということだ。地殻から浮き上がられてしまうとそこもまた、地球にとってはエネルギーの放出先でしかないので、手に触れるようにすべてが把握できるわけではない。

 ――ま、しょせん私は“岩っち”だからな。

 比喩的に嘆息する。

「岩っちー」その名付け親である鯰が声をかけてくる。

「何?」地球が答えると、

「あのスサノオ? って、一体何なの?」鯰は訊く。

「うーん」地球は比喩的に考え込む。「何だろうね?」

「神? のわりには、さ」

「うん」

「あんまり、なんていうか、あれだしね」

「ぷっ」地球はつい吹き出す。「あははは」

「何よ」鯰は文句を言うが、その声にも苦笑じみた笑いが滲む。

「いや、言いたい事はわかるよ。確かに“あれ”だ」地球は言い訳する。

「他の神たちも手ぇ焼いてるみたいだし、それにさっきは人間に対して岩っちがなんか危害を加えたような錯覚を起こさせてたしさ」

「ああ……」地球は比喩的に顔をしかめた。

 確かに、困ったことである。そんなことをされたら、地球のシステム稼動のあり方が悪意のあるものと見做されてしまいかねない。地球は一度だって、故意に生物たちを攻撃したことなどないのに。

「けど神のわりにはさ、今まで全然あたしらにもの言ってきたことないよね?」鯰は魚の首を捻っているかのように疑問を述べた。「神だってんならさ、ずっと昔から地球に来てたはずだもんね」

「いや、それはわからないよ」地球は答えた。「もしかしたら最近になって、他の天体から移って来たのかも知れないし」

「えー、じゃ今までどこか他の星にいたの?」鯰はまた訊く。「でもスサノオって、他の神たちもよく知ってる名前みたいだけど」

「もしかしたらあんな奴だから、あっちこっちの星をぴょいぴょい飛び回ってるのかもね」地球は比喩的に肩をすくめた。「それで神たちにも私たちにも馴染みがないのかも」

「そっかー」鯰は得心したのかどうか、それ以上は疑問を口にしなくなった。

「さあ、今からまた対話が始まるのかな」地球はのんびりとあくびした。「それともまた、スサノオが邪魔しに来るのかな」

「助けてあげないの?」鯰が他意もなさそうに訊く。

「私にできるのは、空洞を作るところまでだよ」地球もまた他意もなさそうに答える。「私の意志を伝えるための」

 

     ◇◆◇

 

「天津さんと城岡部長、やけに話し込んでるな」結城が車の中から様子をうかがう。

「城岡部長の身に何か起こったのだろうな」時中が推測する。「もしかしたら、スサノオが何か危害を加えたのかも知れないな」

「まあ」本原はいつものようにサンドイッチを、くるみを齧るリスのように齧りながら心配した。「何の関係もない人にまで、ひどいです」

「そうだよねえ」結城が同意する。「もしそれのせいでここの会社がうちとの契約を切っちゃったら、営業妨害だよね。そしたらスサノオに損害賠償請求することになるのかな」

「神に賠償金を請求するのか」時中が眉をしかめる。「罰が当るぞ」

「そうかあ、神には日本の法律って効力ないのかなあ」結城は腕を組み、車の天井を見上げる。「神の世は治外法権か」

「けれど神さまたちも日本の法律に従って業務を行っていると仰っていました」本原は小首を傾げた。「スサノオさまにも従っていただくおつもりなのではないでしょうか」

「しかしスサノオは社員ではない」時中が否定する。「ただのクレーマーだと天津さんが言っていた。クレーマーということは会社側から見れば、顧客の一人ということになる」

「ええー」結城が嫌そうな顔をする。「あいつをお客さんとして扱わなきゃいけないわけ? あんな、わけのわかんねえ、性質の悪い、やな奴を」

「悪口はやめて下さい」本原が注意し、

「殺されるぞ」時中が警告した。



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第44話 お客様の貴重なご意見を今後の我が社の炎上に役立てて参ります

「皆さん、食事はお済みですか」天津が運転席のドアを開けて声をかける。「狭いところですみません」

「はいっ、いえいえっ」結城は肯定の返答と否定の返答を返した。

「僕は今から社の方に連絡を入れて、これからの事を相談してみます。下りても大丈夫だろうという事になれば、また迎えに来ますので、それまでは待機していて下さい」天津は三人を見回しながら告げた。

「車の中にいなければならないのですか」本原が質問する。

「いえ、中にいても外にいても、どちらでもいいですよ」天津は微笑む。「ただまあ、余り離れたり、洞窟の様子を見に行ったりとかは、しないでいただければ」

「わかりました」

「わかりました」

「わっかりましたあ!」

 三人の承諾の返事の中、天津は運転席ドアのポケットに突っ込んであったタブレット端末を取り出し、もう一度にこりと笑うとドアを閉めエレベータの方へ走って行った。

「あれで、会社の回線に繋げて会議とかするのかな」結城は小さくなってゆく天津の背を見送りながら言った。

「洞窟の中の様子を動画で送るのでしょうか」本原がオレンジジュースを飲みながら言った。

「回線を通じなければ様子がわからないのか」時中が疑問を口にした。「神ならばこの世の現象はすべからく手に取るようにわかるものではないのか」

「本当だ」結城は脳みそに灯りがともったかのように目をぱちくりさせた。「神様ならWi-Fiなんて必要なさそうだけどねえ」

「では通信以外の目的で使うのでしょうか」本原が小首を傾げる。

「あのタブレットを?」結城が親指で天津が立ち去った方向を指す。「何に?」

「例えば、スサノオ様に対抗できるような武器にするとか」本原が考えを述べる。

「あのタブレットを?」時中が眉をしかめる。「どうやって?」

「そりゃあれだよ、時中君」結城がフォローを入れる。「スサノオが岩転がしてきたら、あのタブレットですぱーって縦割りにしてさ、あと雷落してきたらあのタブレットでさっと頭を守って、そいでスサノオがついに姿を現した暁には、あのタブレットで奴の頭をごすっ、ごすって」結城は架空のタブレットを持つ手を空中に振りかざす。「角で」

「原始的すぎて話にならん」時中はげんなりした顔で首を振る。

「大丈夫です」本原は結城に向かって告げた。「スサノオ退治はホモ・サピエンスがやりますから、ネアンデルタール人は黙って見てて下さい」

「ネアンデルタール人って、俺のこと?」結城は自分を指差して訊いた。

「はい」本原は頷く。

「時中君。俺、ネアンデルタール人って言われた」結城は時中に報告した。

「哺乳類なだけましだ」時中はコメントした。

 

     ◇◆◇

 

「時中」スサノオは比喩的にメモを取った。「こいつは頭でっかちで、機動力に欠ける、と。もう少し身軽にさくさくっと動けりゃな」

 ぴちょん、と水の滴る音が聞こえる。

「本原」またスサノオは比喩的にメモを取る。「紅一点で頑張ってるが、何しろこの子は表情に欠ける。愛想なし。コミュニケーションスキル、ゼロ」

 ぴちょん。

「結城」さらにスサノオは比喩的にメモを取る。「応用とハッタリは効くが、基本をすぐに忘れる」

 ぴちょん。

「まあ要するに、馬鹿野郎ってことだな」溜息混じりにまとめる。

 ぴちょん。

 その時、エレベータのドアが静かに開いた。

 

「この辺で、いいですか」天津はタブレットの前面を自分の眼の高さの岩壁に押し当てて確認した。

 エレベータから降りてすぐの所だ。

「うん、OK」鹿島が返事をする。「じゃそのまま動かないでね」

 天津は言われた通り、タブレットを岩壁に押し当てたまましばらく待った。沈黙は数十秒の間、続いた。

「あー、いたいた」やがて鹿島が声を挙げた。

「いましたか」天津も顔を上げ声を挙げる。「スサノオ」

「うん。すごいなこいつ、地球からも姿見えなくさせるなんて」鹿島は首を振る。

「めっちゃステルス性能高いすね」伊勢が興奮気味に続く。

「こいつ自身で空洞作ってたんだな。地球の真似事か」鹿島が解説する。

 

「よくわかったじゃん」スサノオが叫ぶように声をかけてきた。

 神たちは一斉に、警戒態勢に入る。

「丁度よかったよ。あんたらのとこの新入社員、フィードバック用に評価まとめてやったからさ、使えば」

「何」

「フィードバック?」

「うちの新人の?」神たちは突拍子もないスサノオからの提言に、一瞬気を抜かれた。

「あつっ」その直後、天津が叫んでタブレットから手を離し、地面に落下しそうになるそれを慌てて別の方の手で受け止めた。

「あまつん」

「どした」

「大丈夫か」神たちは驚き天津に声をかけた。

「あ、はい、すみません……突然タブレットに電気みたいなのが走って」天津はぺこりと頭を下げる。

「データ送っといたから」スサノオが状況説明をする。「見といて、研修担当」

「お前に指図される謂れはないぞ」天津は刺激を受けた側の手を振りながら怒って言う。

「まあまあ」だがスサノオはどこ吹く風といった様子だ。「新人それぞれの今後の課題も含めて、業務遂行にあたり注意した方がいい点とかもピックアップしてるからさ。無償でやってんだぜ俺。すげえ優しいと思わない?」

「誰がいつ頼んだんすか」伊勢は陰口のごとく密かに毒づいた。

「俺は親切心で言ってんだよ」スサノオはひるみも臆することもせず、堂々と言い募った。「今のままじゃあ、新日本地質調査の将来を考えたときにいささか危ういものを感じざるを得ないから、こうして今のうちに、若い芽のうちに、改善できるところはしていこうじゃないかと、提案してるわけさ」

「危うくしてるのは誰なんだよ」大山が苦笑混じりに訊く。「うちの将来を」

 

     ◇◆◇

 

「あれっ」地球は比喩的にびっくりした。「いたの?」

「へえー」鯰も物珍しげに声を挙げる。「岩っちの目を盗んで洞窟の中に隠れるなんて、なかなかのもんだねえ」

「うーん」地球は比喩的に考え込んだ。「なんで?」

 しかし答えはすぐに出た。この場合、地球の時間のスケールでいうと、ほとんど“瞬時”といえるほどの短い時間をおいて、答えは出たのだった。

「ははあ」地球は、比喩的に頷きを繰り返した。「こいつは、神じゃないな」

「え、そうなの?」鯰が驚く。

「うん。大方コアかマントルからリソスフェアに流出した組成物が、なにかの拍子で常軌を逸した化合サイクルに乗っかって出来上がったものなんだろう」

「へえー……じゃあこいつは?」鯰が訊く。

「こいつは、出現物だ」地球は答えた。「スサノオではないよ」



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第45話 行き詰まること死体に発破をかけるが如し

 しかし、と地球は思うのだった。じゃあ神は“出現物”ではないと言えるのか? 神は何でできている? 神は、いつからそこにいたのか? そもそも何処にいたのか? 宇宙が始まり地球が形成された頃、もうすでに神は神の姿で存在していたのか? ジャイアントインパクトが起きていた頃、神は宇宙の中にふわりと佇みそれを眺めていたというのか?

「案外」地球は我知らず呟いていた。「ジャイアントインパクトって、神が私にあれこれぶつけてきてたやつだったりして」

「え?」鯰が甲高い声で訊き返す。

「なんでもない」地球はごまかした。

「教えてやるの?」鯰は訊いた。「神たちに……あいつの正体のこと」

「うーん」地球は比喩的に首を傾げた。「いいでしょ」

「そう?」

「うん」地球は比喩的に頷いた。「必要ないと思う」

 

「これを預かりさえすれば後はうちの業務に手出ししない、ということでいいんだな?」天津はタブレットを岩壁から離しながら確認した。

「改善策を俺に伝えろ」スサノオは文字通り、上から威圧の声を落としてきた。「三人にどういう指導をして具体的にどういう対策を講じたのか」

「はい?」答えたのは住吉だった。「何に対しての対策って?」

「決まってるだろ。あいつらのぐだぐだした業務姿勢と世の中に対する甘い認識を正す対策だ」スサノオは更に威圧的な声を飛ばす。

「うわ」大山が密かにこぼす。「普通の人間のクレーマーでもここまで突っ込んでくる事はないぞ」

「あの三人はぐだぐだもしてないし、世の中を甘く見てもいないぞ」天津が抗議する。「言いがかりはやめろ」

「あーあ、教育担当がそういう認識だから甘やかしちまうんだよなあ」スサノオは呆れたように溜息混じりで言った。「そもそもさあ」

「――」天津は唇を引き結び、端正だが厳しい表情のまま無言になった。

「あの三人には地球と闘ってもらわなきゃいけないわけでしょ」スサノオは言った。

「違う」

「そうじゃない」

「闘うんじゃない」神たちは一斉に否定した。

「嘘つけ」スサノオは否定を否定する。「あの黒体放射の空洞で地球に脅しをかけるのがあいつらの仕事だろ。『大人しく黙って見てろよ』って」

「はっきり言っておく」天津は穏やかな声ながら通告した。「スサノオ、お前にうちの新人さんたちへの研修指導のあり方について報告は一切しない」

「なんで」スサノオは訊き返した。

「よしんばお前がうちの会社に業務委託をする立場だとしても、我が社の人事は我が社の裁断で決めるものでお前に立ち入る権利などないからだ」

「権利がない、か」スサノオは声に笑いを含ませた。

「増してやお前はただ言いがかりをつける目的しか持っていないだろう。土台からして我が社に利益を供する者でもないし、我が社の成長や発展を望む者でもない」

「ああ、うるっせえ」スサノオは大声を挙げた。「ごたく並べやがって。面倒臭えからやっぱ最初のやり方でやってやるよ、新人教育をな」

「何をする気だ」

「野郎」

「天津、急いで上へ」

「はいっ」

 

 これも。

 今洞窟の中で丁々発止と取り交わされている、スサノオと神たちとの口論も、実のところは“出現物”同士の諍い、縄張り争いに過ぎないのかも知れない。神たちは、自分らの正体さえ知らずにいるのかも、知れないのだ。

 ――まあ、単なる推測だしな。

 地球は、スサノオのいる場所とは別に空洞を作り、その中にエネルギーが蓄積されていくのをのんびりと眺めた。あとは、新入社員らによる対話が再開されるのを待つだけだ。対話なのか、闘いなのか、どっちにせよ。

 

     ◇◆◇

 

「天津さん、遅いねえ」結城が車内で斜めに伸びをしながら言った。

 他の二人は特に同意も否定もしなかった。

「様子見に行ってみるか」結城は続けて言い、座っていた助手席のドアを開けた。

「様子は見に行くなと言われました」本原が言い、

「様子は見に行くなと言われただろう」時中が言った。

「うん、けどさあ遅いよ」結城は二人に振り向きながら助手席から地に滑り降り「何かあったっ」着地のバランスを崩して大地にしゃがみ「のかもがっ」急いで立ち上がろうとして車のドアに頭をぶち当て「――」最終的に声を失い頭頂を両手で押さえ込んだ。

「そらみろ」時中が顔をしかめる。「神の思し召しだ」

「神さまが結城さんを引き止めていらっしゃるのですか」本原が確認した。

「皆さん、大丈夫ですか」天津が息を切らして駆け寄り、運転席のドアを開け飛び乗る。「異常なことは起きませんでしたか」

「はいっ、大丈夫っす!」結城も叫びながら助手席に飛び乗った。「天津さんこそ大丈夫でしたか」

「はい」天津は頷きながらシートベルトをかちりと締める。「皆さん、急なんですが今回の仕事、別のルートから下に降りて行います。今から移動します」

「えっ、そうなんすか」結城がシートベルトを締めながら驚く。「ここの会社の人たちには」

「ええもちろん、緊急ということで説明してご了承いただきました」天津はエンジンを始動しながら頷き、後部座席の二人を振り向いて「出発して大丈夫ですか」と訊いた。

「はい」時中が頷き、

「はい」本原が頷く。

 そしてワゴン車は発進し、人通りのほとんど見られない川沿いの道を更に川上に向かって走り出した。

 

 天津が息を切らして走って来るのと同時に、事務所のドアが開き相葉専務が外付けの階段を足早に下りて来た。「天津さん」声をかけてくる。「お宅の車、何処か行きましたが、また戻っては来るんですよね?」どこか気まずそうに訊ねるところを見ると、また磯田社長に何か命じられて下りて来たのかも知れない。

「――」天津はすぐに返事もできず、ワゴン車が停めてあった場所と、その遥か向こうまで続く田舎道と、エレベータと、天と地を眺め渡した。

「天津さん?」相葉専務は目をきょときょとさせて再度呼びかける。

「あ、ええ、はい、すみませんすぐに戻って来ます」天津は慌てて何度も頷いた。「相葉専務、あの車誰が運転して行ったか、おわかりになりますか」

「え」相葉専務は目を丸くした。「あいえ、私はたった今出て来たばかりなんで、もう車出て行っちゃってたんで……えっ、まさかあなたの許可なしに新人さんたちだけで行っちゃったとかじゃ、ないですよね」

「あ、いえいえいえいえ」天津は必要以上に手を振り愛想笑いを撒き散らした。「時中という者だったらこの辺りの道もよく知っているので、彼なら帰りが早いかなと、思ったわけでして、はははは、あでもすぐに戻るようには言ってありますので、ご安心下さい。戻り次第また下りますので、大丈夫です、はい、ええ」

 傍から見れば口からのでまかせのようだが、無論それは社の会議で神たちが次から次へ提出してくる対策案を瞬時にまとめあげたシナリオだった。

「ああ」相葉専務は納得の表情で頷き、笑顔になった。「もちろん、新日本さんにすべてお任せしますんで、よろしくお願いしますね」

 相葉専務が階段を昇りドアの向こうに姿を消した次の瞬間、天津は自分の入っている依代(よりしろ)を天高く持ち上げ、ゆるりと空に円形を描いたかと思うと西北の方向へ向かって流れ星のように音もなく滑り始めた。

 依代はまたたく間に凍りつき、固く動かなくなりすべての生体活動を止めた。

 ――また、マヨイガに発注しないといけないな。

 大気の中彷徨えるワゴン車を追いつつ、天津はそう思った。



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第46話 45億年のエイジングギャップは埋められるのか

「結局、新人対スサノオの形になっちまったすね」伊勢が、特別嫌味のようでもなく、ただ深刻な色の声で呟いた。

「――」木之花は、もはや何も言い返すことができないでいた。

「新人さんたちだけにはしない」天津はそれでも言い返す。「必ず追いつく」

「ああ」大山が頷く。「我々も状況見て、すぐに態勢つくるから。ひとまずは任せる」

「はい」

 天津に化けたスサノオが運転して行ったと思われるワゴン車の姿は、なかなか見つからずにいた。よもや、すでに地下へ潜ってしまっているのか――そんなことまで神たちは考えざるを得なかった。

 

 ワゴン車は実際のところ、新人たちの目から見て何やら人里離れた、周囲に鬱蒼たる樹木の生い茂る山道、それも次第に幅も狭まってゆき、所々舗装も剥がれているような、心細く頼りない道を走っていた。

「すごいっすね」結城が前方を食い入るように見つめて言う。「これ、どこに続いてるんすか」

「現場です」運転している天津は微笑みながらあっさりと答える。「これから皆さんに、地球と対話していただく場所ですね」

「へえー」結城は数回頷いた。「さっき、午前中に探り当てたところはやっぱりもう、使えないんすか」

「はい」偽天津も頷く。「もう、潰されてしまいましたからね」

「ああ、スサノオにっすか」結城は偽天津の横顔を見ながら納得の声を挙げる。「何が気に入らないんすかねえ、あの人」

「そうですね」偽天津は考え深げな目をして答えた。「彼が言うには、新人さんたちが世の中を甘く見過ぎているだの、だらだらしているだのという話でしたけどね」

「えっ、俺たちが? あいや、私たちが?」結城は吃驚して自分を指差した。

「はい」偽天津は頷く。「もちろん我々は、そんなことはないと反論したんですが……聞き入れてはもらえませんでした」

「具体的に、どういうところが甘くだらだらしていると言っていたのですか、スサノオは」時中が後部座席から問う。

「そうですね」偽天津は再び考え深げな目で答える。「例えば、緊張感が足りない、あと畏怖の念、つまり自分たちよりも偉大なる存在、自然現象に対する畏れの精神というものに欠ける――そんなところでしょうか」

「おお、なるほど」結城は簡単に納得する。「確かに我々、神様たちに護られているというのがわかってるから、すっかり安心しきって、そういう意味ではダラダラしていたのかも知れませんね。確かにそこは反省するべきっすね」

「ありがとうございます」天津は運転しながらにっこりした。「しかし今の時代、自然現象に対する畏れといわれても、なかなかピンと来ないですよね」

「ああ、それはありますね」結城はまた頷く。「科学が発達して、いろんな現象のメカニズムとか解明されてきてますもんね。プレートテクトニクスとかね」

 道はますます狭くなり、申し訳のように舗装の痕跡を残すアスファルトの残骸の上には、鮮やかな緑色の苔が好きなだけ繁殖している。穴ぼこだらけの道のため、さしもの最新スペック車といえども昔の馬車のごとくにがたごと跳ね返る。

「本原さん、大丈夫?」結城が後部座席を振り返り訊く。「酔わない?」

 本原は返答せず、ただ手許を見下ろしていた。

「酔ったのか」時中が横から問う。

 本原はやはり無言で顔を上げ、その手に持っていたデコレーション豊富な黒い機器を持ち上げた。その表示面には、数字の“0”がずらりと並び、煌々と輝いていた。

 

「何処だ」空の上の天津は、凍った依代(よりしろ)の姿のままワゴン車を捜し続けた。依代は固く眼を閉じ、端正ながら永遠の眠りに就いた顔をしているが、天津によって冷たく希薄な大気の中滑空し続けた。

「早く見つけないと、その依代が人の眼につくのもまずいよね」大山が多少苦笑いの混じった声でコメントする。

「ごめん」鹿島が割って入る。「GPSに入り込もうとしてるんだけど……」語尾が濁る。

「どうしたんすか」伊勢がすかさず訊く。「いないすか」

「うん」鹿島はなおしばらく探索を諦めることに抵抗し続けていたが「駄目だ」ついにそう結論づけた。「見つからない」

「やっぱり、潜ったんだな」大山が推測する。「地下か、或いは奴独自の空洞に」

「大丈夫。当たりはつけてある」更に割り込んで来た声は、酒林のものだった。「遅くなって、悪りぃ」

「サカさん?」

「お疲れっす」

「いつの間に来てたんすか」神々は驚いてそれぞれ声をかけた。

「お疲れ。あまつん、そのまま真っ直ぐ来てくれ」酒林は挨拶もそこそこに天津に指示した。「奴が潜り込んだ地点の目星、つけてるから」

「わかりました」天津は指示通り冷たい大気の中を滑り続け、やがて空中に浮かぶ蛇の姿を見つけた。「サカさん」声をかける。

「おう」蛇は振り向き「うわ、死体」と驚く。

「依代だけ地上に置いておくわけにもいかないですからね」天津は真面目な死顔で説明する。

「ああ、まあ……そうだよな。中身なかったらどっちにしろ死体が転がってるのと一緒だもんなあ」酒林の入った蛇は考えながらそう言い、「よし、じゃあ行こうぜ」先に立って地上へと下り始める。

「はい」天津も続く。

「頼むぞ」

「頑張れ」

「急げ」神々は口々に声援を送った。

「今回ちょっと依代代が予算オーバーだけど、まあ良しとするわ」木之花が呟く。「任せたわよ」

 そして蛇と凍死体は、苔むした細い山道の上に出た。そこは緑に染まる光の降り注ぐ、まさに神々しき異世界と呼ぶに相応しい景色を呈する場所だった。

 

「おおっ」結城が後部座席を振り向き眼を剥いた。「その表示は」

「これは」時中が眉をしかめる。

「すぐ近くに、出現物がいるということでしょうか」本原が考えを述べる。

「まじで?」結城が叫ぶ。「すぐ近くって、どこに? まさかこの車の中とか?」

「まさか」時中が眉をしかめたまま疑問を口にする。「また不具合を起こしているんじゃないのか」

「ありゃ」結城は指をくわえる。「やばいっすね。どうします、天津さん」

「ん?」偽天津はルームミラーで本原の手にする機器を見遣り「へえ……そんなのも持ってたんだ」と呟く。

「え?」結城が偽天津の横顔を見る。「だってこれ、天津さんが持たせてくれたものっすよ」

「――」偽天津は黙り込み、じっと前方を見つめた。

「天津さん」結城はその横顔をじっと見た。「っすよね」

「どういうことだ」時中が鋭く言葉をかける。「違うのか」

「天津さんではないということですか」本原が確認する。

「さっすが」偽天津は破顔した。「あったまいいなあお前ら」

「誰だ」結城が叫ぶ。「お前、あれか、スサノオか」

「スサノオ」時中が再び眉をしかめる。「天津さんに化けたのか」

「まあ」本原は機器を持たない方の手で口を押えた。「そっくりです」

「えっそれ、やっぱりマヨイガで調達したの? その依代」結城が偽天津の体を指差す。「おんなじの下さいつって発注したの?」

「これか、これはな」スサノオが答えかけるが、

「それどころじゃないだろう」時中が割って入る。「我々をどうする気だ」

「ではスサノオさまが出現物だということなのですか」本原が確認する。「神さまは出現物なのですか」

「ええー」結城が驚く。「んじゃ神さまと魔物の出て来る岩って、仲間ってこと?」

「そんな」本原は衝撃を受けたかのように口を押えたが、顔は無表情だった。

「あのなあ」スサノオが説明しかけるが、

「それどころじゃないだろう」時中が割って入る。「何処へ行くつもりだ」

「だから、現場だっての」スサノオは怒鳴った。「お前ら、ほんとうるさい」

 新人たちは、しんとなった。

「うわあ」しかし結城には黙っていることが不可能なようだった。「怒鳴る天津さんって、新鮮だよなあ。いつもは『はは、皆さん、はい、どうぞ』って感じなのに」顔にほんのりとした微笑を浮かべて片手を差し伸べ、細い声で物真似をする。

「全然似ていません」本原が無表情に切り捨てる。

「いや、少しだけ似ている」時中が恐らく初めて、結城の行ったことを認めた。

「あのね、お前ら」天津の形をしたスサノオは、運転を続けながら低い声で言った。「本当なんていうの、仕事しに来てるっていう意識とか、今危険にさらされてるっていう危機感とか、緊張感とか、そういうのってないの? 馬鹿なのお前ら?」

「はあ? 誰が馬鹿だって?」結城が叫び、他の二人は結城を見た。

「そもそもあれだよな、お前らに仕事教えてるのも、今こうして説教してやってる俺にしても、神だぞ。畏怖の念、って言葉、お前ら知ってる? 知らないだろ。ほんと友達感覚だもんな。フレンドリーにフランクに、本音で、自分のありのままで、思うことをすべて言葉にして伝えればきっとうまくいく、互いに理解し合える、それがコミュケーションだと思ってる。ああうんざりだ」スサノオは心底いやそうに首を振った。

「おお」結城が感心したような声を挙げた。「じゃああれか、ですか、言葉のやり取りじゃないのがコミュニケーションだというわけなのですか」

「慮る」スサノオは運転を続けながら一言告げた。「お前ら若造に欠けてるのはそれだ」

「オモンパカル」結城がくり返す。「オモンパカらなきゃいけないんすね、俺ら、いや私たちは」言いながら何故か両手を握り込み、馬の走る動作を真似する。

「けっ」スサノオは運転席側の窓の方に顔を向けた。「散々、こいつらの仕事に感謝だの満足だのしてきてやってた結果がこれだよ。大した成果だ」

「さっきから聞いていると、随分我々に敵意を持っているようだな」時中が静かに問いかける。「神であっても、人間を嫌っている者もいるというわけか」

「教育だよ、教育」スサノオは投げ槍な声で言い放った。「これからお前らに、真の意味での教育を施してやろうっての」

「畏怖の念を身につける為のですか」本原が確認する。

「ああ」スサノオは首を後部座席に振り向け、にやりと笑った。「俺に跪いて泣いて叫んで助けを乞うまで、鍛えてやるよ」

「暴力だ」時中が指摘する。「パワハラ以外の何物でもない」

「言ってろ」スサノオは凄味のある顔と声で告げた。「俺がその気になりゃ、お前らを二度と日の当たる世界に戻れなくする事だってできるんだぞ」

「出た」

「パワハラだ」

「定型文ですね」新人たちはある意味で衝撃と驚愕を表にあらわした。

 その時ワゴン車の車窓の外の景色は、それまでの美しい緑のものから一転し、真っ暗闇となったのだった。



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第47話 有休申請の理由ですか、働かないで給料貰いたいからです

 温度。圧力。組成物質の密度。熱伝達率。それから、融解点。破壊強度。粘性率。弾性係数。数々のデータがディスプレイ上を流れるように走る。方程式が解かれてゆく――が、それが完了する前すでに、神の中には“予測”がついていた。

「サカ、保護の手は届いてるか」鹿島は厳しい声で問う。

「なんとか、ぎりぎり」酒林が答える。「けど車はまだ見えない」

「そうか、方向は今向かってるので間違いはなさそうだが」鹿島は画面上の数列を目で追いつつ眉を寄せる。

「鯰」恵比寿がそっと池に向かって呼びかける。「地球は何も言って来てないか」

「別にー」鯰は退屈そうな間延びした声で答える。「何、新人たちもう仕事できなくなっちゃうの?」

「そんな事あるわけないだろ」恵比寿は肩をいからせる。「今一生懸命やってんだよ、俺らが」

「へえー、瓢箪(ひょうたん)で?」

「うるさい」恵比寿はむっつりと言い捨てる。

「瓢箪?」鹿島が池の方を見て問う。「何独りごと言ってんだ、鯰」

 恵比寿は背を丸め、自分のPCで鹿島とは別の地点でのデータ採取作業を黙々と続けた。

 

「あれ」結城が車内で周囲をぐるりと見渡す。「真っ暗になった」

「地下に下りたのか」時中が呟く。

「頭の中で鈴が鳴っています」本原が機器を持たない方の手で耳を押える。

「鈴?」結城が振り向いて訊き、

「頭の中で?」時中が横を向いて訊く。

「はい。しゃーん、しゃーんって」本原が頷く。「虚無僧がいるみたいです」

「虚無僧?」結城が叫び、

「何故虚無僧なんだ」時中が怪訝そうな顔をする。

「なあるほど」スサノオが運転席で両手を頭の後ろに組み納得の声を挙げる。「さすが、妄想担当に選ばれるだけあるな」

「妄想?」結城が横を向いて訊き、

「担当?」時中が斜め前方を見て訊く。

「そうそう、お前らの担当がさ」スサノオは天津の顔で振り向き、三人を見渡した。「地脈拾い担当、妄想担当、あとなんだっけか、何とか担当って風に、分かれてるんだ確か」

「なんだそれ?」結城が吃驚して叫ぶ。「地脈はまだわかるけど、なんで妄想担当が必要なの?」

「この依代(よりしろ)の中身が説明したろ」スサノオは自らを指差した。「鉱物粒子の間隙を開いて、その隙間に水を流し込んで」

「あー」結城は車の天井に目を向けた。「なんか、あったね」

「それが地脈拾いと妄想のなせる業だというのか」時中が確認する。

「では結城さんの『開けゴマ』は何なのですか」

「格好つけじゃねえか?」スサノオはすっとぼけた声で答える。「二人じゃなんか心細いし、かといって三人目には大した役目もねえけど、まあ儀式的に締めの意味で付け足してるんだろ」

「ええっ」結城は自らを指差した。「俺って、付け足し要員?」

「補欠のようなものか」時中が推論し、

「では本来もっと控え目に行動するべきなのではないでしょうか」本原が希望的意見を囁いた。

「あーでも、そうかあ、本原さん妄想担当かあ」結城は感慨深げに顎に手を当て幾度も頷く。「さすが、クーたん信奉者だけあるなあ」

「つまり妄想力が強いほど、粒子間に水が流れ込みやすくなるというのか」時中が確認する。

「さあね」スサノオは肩をすくめる。「神たちの理屈ではそうなんだろ。まあ奴らは昔から人間どもの妄想のお陰で飯食ってきたようなもんだからな。そりゃ感謝もするし満足もするだろうよ、その妄想力とやらに」

「では地脈取り担当というのは、何の能力を買われた結果なんだ」時中は真剣な顔で、自分の認められた点を聞き出そうとした。

「地脈は真反対だな」スサノオは振り向いて時中を見た。「妄想のかけらも夢もロマンも希望もない、現実主義の堅物ってことだろ」

「ははあ」頷いて納得したのは結城だった。「なるほど合ってる」

「知った風なことを言うな」時中が鋭く攻撃する。「現実主義の何が悪い」

「悪いなんて思ってないよ」結城は右手を立てて左右に大きく振った。

 

「新人たちがいなくなるんだったら、あたしもまたやることなくなるからさあ」鯰は言う。「なんだっけ、長期休暇? 有給休暇? 取ってもいいよねえ」

「何いって」恵比寿が答えかけたが、

「ははは、いいよ」鹿島がPCを見たまま笑って承諾した。

「ほんと?」鯰の声がさらに甲高く高まり、

「えっ、まじすか」恵比寿が思わず鹿島を見て素っ頓狂な声を挙げた。

「いいよ、ただし俺の要石(かなめいし)と同伴休暇だけどな」鹿島はPCを見たまま頷いた。

「えー」鯰の声がさらに甲高く高まり金属的なものになる。「そんなん休暇の意味ないじゃん」

「要石外したら俺そのものの意味がなくなるからな」鹿島は両手を組み、うん、と頭上に伸ばした。「ようし後はサカと天津が追いついてくれるのを待つだけだ」

「ははは」恵比寿は二重の意味で安心し、思わず笑った。「さっすが鹿島さん」

「ああ、恵比寿くん。お疲れ」鹿島が答える。

「――」恵比寿はハッと息を呑み、背筋を正した。「は、はいっ」

「スサノオがさ、新人たちさらって地下に逃げ込んだらしいのよ」鹿島は眉をしかめて現状を伝える。もちろん恵比寿自身もよくよく理解している現状だ。「いま、構成方程式で大体の到達予測点を割り出してね。まあサカと天津に追ってもらってるし大丈夫かなと」

「は、はいっ」恵比寿はただそうくり返すしかなかった。

「そうそうそれでさ」鹿島は池の方を親指で差す。「鯰の奴が有休くれとか言いやがんだぜ。どう思う?」

「ははは」恵比寿は笑って見せた。「鹿島さんの要石と同伴休暇にしないと無理っすよね」

 だがその言葉に対する返事は返ってこなかった。既に鹿島は、PCの画面にまっすぐ集中していた。

 

「ああ」酒林は焦りに表情を歪めた。「やっべえ」

「やばいすね」天津も、表情は凍ったままだが声に焦りを滲ませた。

「離れちまう――」そう言った直後、神たちは自分たちの保護の手から新人を乗せたワゴン車がスサノオによって引き離される衝撃を感知したのだった。

「そのまま急げ」大山が直ぐに指示を出す。「鹿島さんの割り出した地点まで、まっすぐ」

「皆、どうか持ちこたえてくれ」住吉が神頼みならぬ人頼みを口走る。「俺らが追いつくまで」

「スサノオの目的が、新人の生命ではない事を祈る」石上も拳を強く握り締め、神ながら祈った。

 

「眩暈がします」本原が機器を膝に置き、両手で耳を押さえる。「鈴の音が大きくなりました」

「大丈夫?」結城が振り向き、それからすぐにスサノオに「スサノオさん、ちょっと車停めてもらえますか」と要望した。

「駄目」スサノオは即却下した。「現場まであと少しだから我慢しろ」

「でも五分ぐらいいいでしょう」結城は口を尖らせる。「本原さん具合悪そうなんで」

「その五分で取り返しつかない事になってもいいのかよ」スサノオは取り合いもせずブレーキをかけもしなかった。

「取り返しって、でも業務に当る人間の体の方が大事でしょうが」結城も引き下がらない。「本原さんがここでげろっぱしてもそのまま行く気っすか」

「げろっぱはしません」本原が耳を押さえたまま否定したが、その無表情の顔は蒼ざめていた。

「絶対にするな」本原の隣に座る時中が真剣な表情で伝えた。

「だから停めて」結城はついに、スサノオの握るハンドルに手をかけた。

「あっお前何しやがる」さしものスサノオも焦りの声を挙げた。

「あそうか、どうせ真っ暗で道なんかないわけだから、ぶつかるとか道交法とか気にしなくていいんだよねえ」ハンドルを握りながら、結城は後部座席を振り向き確認する。

 後部座席の二人は、賛同にしろ否定にしろすぐに返答できなかった。

「ようしそんなら俺が停めてやる」結城は俄然張り切り出した。

「やめろよ」スサノオは抵抗の声を挙げる。

 二人はハンドルを巡って争ったが、傍から見ているとその姿は小学生二人が触ってはならないものを玩具にして争っている姿のようにも捉えられた。

「結城」時中が声をかける。「停めるのならハンドルではなく、ブレーキを踏め」

「えっ」結城が振り向き、「あそうか」と言ってハンドルから手を離しブレーキペダルを勢い良く踏みつけた。

 車は激しく前のめりになり、運転席と助手席でエアバッグが膨らむ。座っている全員はシートベルトが身体に強く食い込む苦痛に耐えねばならなかったが、実際には結城がハンドルに手をかけた時点でスサノオの足もアクセルから離れており減速していた為、乗員の怪我もなく車は停まった。

「よし、降りよう」結城が素早くシートベルトを外しドアを開ける。

「待て」スサノオが手を伸ばすが結城の滑り降りる方が早く、後部座席の二人も続いて車外に出た。

 しかし外は真っ暗だ。

「お前ら、車に戻れ」というスサノオの叫びを背に、三人の新人たちは文字通り闇雲に走り出した。

「大丈夫、きっと天津さんとか神様たちが追いついてくれるって」走りながら結城が叫ぶ。

「虚無僧」時中が走りながら呟きかけ、すぐに口を閉ざし「鈴はまだ鳴っているのか」と本原に問いかけた。

「はい」本原は頷き「けれど虚無僧は飽くまで例えなので、実際には頭の中に虚無僧はいないです」と答えた。

「わかっている」時中は走りながら唾棄するかのように言い捨てた。

「スサノオ、追って来ないね」結城は走りながら振り向き、速度を落した。「この辺で少し、様子見ようか」息を切らして提案する。

「ああ」

「わかりました」答える二人も息を切らして立ち停まった。

 しばらく誰も何も言わず、ただ全員の息の切れる音だけが聞こえた。辺りは闇だ。だが目が慣れて来たのかどうか、三人は互いの立つ位置を確認する事はできた。また足許も、ただ黒い地面が続いているだけで特に障害物があるわけでもない。

「どこなんだろね、ここ」結城が片足の踵でとんとんと地面を叩く。「洞窟の中なのかな」

「しかし洞窟ならこんなに地面が平坦なはずはないだろう」時中が暗い周囲を見回す。

 目が慣れたのだとしても、周囲を岩盤が囲んでいる様子はまっ たくなかった。

「洞窟の匂いもしません」本原が息を大きく吸い込んで言う。

「おお、さすが妄想担当」結城が感心する。「洞窟の匂いって、凡人にはわからないよね」

「匂いは誰にでもわかる」時中が否定し、

「妄想は関係ありません」本原が否定する。

「ははは、そうか」結城は笑いながら振り向いたが、すぐ真顔に戻った。「あれ」

「どうした」時中が眉を寄せて振り向き「何」掠れた声を挙げた。

「どうしたのですか」本原も振り向き「まあ」両手で口を塞いだ。

「これ」結城が茫然と二人に問う。「妄想じゃ、ないよね。皆見えてるんだよね」

「ああ」時中が掠れた声で答える。「現実だ」

「見えています」本原が口を塞いだまま答える。「現実です」

 三人の目の前には家が――昔話の絵本に出て来るような藁葺き屋根、平屋造りという民家が建っていた。

 庭があり、色とりどりの花が咲いているのが見える。不思議なことに、周囲は暗闇であるにも関わらず花の放つ色はくっきりと見えるのだ。庭の向こうには家畜小屋もあり、牛らしき鳴き声が長閑に届いて来る。なんとも懐かしく素朴で、そしてひどく場違いで違和感を醸し出していた。

「な」結城が瞬きも忘れてもう一度問う。「なんでこんなとこに家があんの?」

「まさか」時中が微かに首を振り答える。「これは」

「もしかして」本原は口を塞いだまま囁いた。「マヨイガ様でしょうか」



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第48話 肉食系も草食系も食べているものは生命体

 天津と酒林も今、暗闇の中に飛び込んだところだった。さらに前方へ、新人たちを乗せた車を追い飛び続ける。

「かなり、高温になってきてますね」天津は暗闇に入ってすぐ、生体的機能を果たさなくなった依代(よりしろ)を脱ぎ捨てており、声だけがそう言った。

「そうだな」酒林の方は蛇の姿のままで飛び続けながら答える。「スサノオと一緒にいれば、無事でいるはずだ……ろうけど」

「――」天津の姿形は見えないが、苦渋に顔をしかめているだろうことは八百万の神々にとっても想像に難くなかった。「すみません」搾り出すように謝る。

「あまつん一人の所為じゃないよ」酒林は蛇の首を振り、すべての神社員たちも同様の心持ちを言葉なきままに伝えた。

 二柱の神は、ともかくも先を急いだ。

 

     ◇◆◇

 

「中に入ってみようか」結城は、突如姿を現した民家に向かって歩き出した。

「大丈夫なのか」時中は立ち止まったまま、問いかける。

「マヨイガ様ならば大丈夫なのではないでしょうか」本原は肯定的意見を述べ結城に続いて歩き出した。

「お茶か何か出してくれるかもよ」結城は歩きながら背後を振り返り希望的意見を述べる。

「お饅頭も出るのでしょうか」本原も歩きながら追加注文的意見をさらに述べる。

「罠が仕掛けられているんじゃないのか」時中は否定的意見にして絶望的意見を述べたが、それでも歩き出した。

 玄関と思われる引戸を開け、土間に入り込む。真っ直ぐ入った奥の方が台所のようで、昔の竈や水瓶などが薄暗い中見えている。左手は床が高くなっており、靴脱ぎ用の直方体の石が下に置いてある。襖で、手前の玄関側が居間、奥の台所側が食事用の部屋という風に分けられている。さらに左手奥側にも襖があり、その向こうにも部屋がありそうだ。

「ごめんくださーい」結城が声を張り上げる。だが返事はない。「誰かいますかー」再度声を張り上げる。やはり返事はない。

「お留守なのでしょうか」本原が意見を述べる。

「留守ならば入り込むわけにはいかないだろうな」時中が踵(きびす)を返しかける。

「すいませーん」結城はさらに声を張り上げながら数歩入り込んだ。

「おい」時中が眉をしかめる。

 

 ぶるるる

 

 突如馬のいななく声が響き、三人は土間で飛び上がった。

 声のした右手側を見ると、玄関の右手に厩(うまや)が設えてあり、その中に馬が一頭つながれていた。薄暗い中に黒っぽい毛色の馬が大人しく佇んでいたため、家に入った時点では誰もその存在に気づかなかったのだ。

「馬だ」結城が驚愕して叫び、

「馬か」時中が茫然と呟き、

「馬です」本原が溜息混じりに囁いた。

 馬はただ一度いなないただけで、その後特に何を言うでもなく佇み続けていた。

「おっす、馬くん」結城が片手を挙げながら馬に近付いて行った。

「おい」時中が眉をしかめる。

「大丈夫なのですか」本原は今回結城について行かなかった。

「君、ここの馬かい?」結城は馬の前で立ち止まり問いかけた。「君のご主人はお留守かな?」

 馬は特に何も言わなかった。

「君、大人しいねえ」結城は手を上げ、馬の首の辺りに触れようとした。

 馬は「あ」を言うように口を開き、次の刹那首を素早く結城の手の方に振り向けて噛み付こうとした。

 

 がちいっ

 

「わあっ」結城は数ミリのところでかわしたがそのシャツの袖が馬の歯に一瞬捕えられ引っ張られた。それはすぐに馬の歯を離れ難を逃れたが、結城に与える打撃としては充分なものだった。「わあっ、この馬、わあっ、俺、食われそうになったよ!」目をまん丸に見開いて叫びながら二人に振り向く。「見た? 今の!」

「不用意に近付くからだ」時中が耳を抑えながら苦々しげに答える。

「馬は草食動物だから人は食べないと思います」本原も耳を抑えながら冷静に答える。

「あ、そうか」結城は人差し指をなかばくわえるように口許に持って行き、民家の天井に目を向けた。「じゃあ今のは食おうとしたんじゃなくて、馬にしてみたら、挨拶かな」

 馬はもう一度口を開け、結城の頭上にそれを持って来た。

「食われるぞ」時中が叫ぶ。

「危ないです」本原も地声で危機を告げる。

「えっわっ」結城は咄嗟に馬から一歩遠ざかる。

 

 がちいっ

 

 馬の歯が再び鳴った。馬の歯は、結城の頭のあったところを噛んでいた。

「挨拶なんかじゃない」時中が眉をしかめて意見を述べた。「威嚇だ」

「やはり不法侵入者ということで怒っているのでしょうか」本原が口を手で抑えて悲観した。

「そうなのかなあ」結城はまだ諦めきれない様子で家の奥を覗き込んだ。「けど、じゃあなんでいきなり現れたの? このマヨイガって人」

「人なのですか」本原が質問する。「マヨイガさまは」

「出現物だろう」時中が答え、「もしかすると、この家自体が生きていて意志を持っているのかも知れないぞ」と推測する。

「このお馬さんがマヨイガさまの使者なのではないでしょうか」本原も推測する。

「そうか」結城は人差し指を天井に向けて立てる。「じゃあ、使者の馬が俺を食おうとしたってことは」

 三人は言葉をなくし、馬と同様に無言で佇んだ。

 

     ◇◆◇

 

「いた」天津が叫ぶ。

「あれか」酒林も続く。

 二人はワゴン車をついに発見したのだ。

「三人は――」天津が車窓の中を確認する。

「――いない」酒林が戦慄の声を挙げる。

「遅えよ」運転席のドアが開き、運転席で胡坐をかく天津が頬杖を突き溜息を吐き、二人を迎えた。

「スサノオ」天津が怒りの声で呼び、

「三人は」酒林が詰問の声で問う。

「あいつら、勝手に飛び出して行きやがったよ」天津型依代の姿のスサノオは、だるそうに首を右に左に倒しながら答える。

「行きやがったって、どこへ」酒林はさらに問う。

「さあ」スサノオは肩をすくめる。「すぐに俺にも見えなくなっちまった」

「なんだって」天津が声を失い、すべての神々が声を失った。

「消えた?」酒林が茫然と、決してあってはならぬ事態を疑う呟きを洩らした。

「やめてよ!」叫んだのは木之花だった。「嘘よ! あの子たちは、あの子たちだけは、――嫌よ!」いつもの冷静な声とはかけ離れ、取り乱した様子の声だ。

「咲ちゃん」天津が反射的にその名を呼ぶ。「大丈夫、すぐに探し出す」

「お願い」木之花の声は震える。「天津君、お願い――」

「どっち方向に行った」酒林はスサノオに向かって訊く。「――つっても、方向なんて関係ないか、この空間じゃあ」

「ひとつわかってる事はある」天津型スサノオは依代の顎の無精髭を撫でながら言った。

「何だ」姿なき天津が鋭く問う。

「あんたがあいつらに渡した黒い装置、あるだろ」スサノオは天津の声のする方に向かって答える。「あれにさ、出現物とやらがすぐ近くに出て来てるっていうような表示が、出てたようだ」

「出現物?」天津が訊き返す。

「そう」スサノオは頷く。「それのせいで、あの三人はすぐに見えなくなったんだ」

「それのせいで?」酒林が訊き返す。「一体、何の出現物だ?」

「それも、見えねえんだ」スサノオは天津型の眉をしかめる。「何だと思う?」

「――」酒林は考え込んだ。

「サカさん」天津がそっと呼ぶ。

「――うん」酒林は頷く。

「咲ちゃん」天津は総務に伝えた。「このワゴン車、マヨイガに売りに出してくれる?」

「売る?」素っ頓狂な声を挙げたのはスサノオだった。「この車を? なんでだよ」

「マヨイガだ」酒林が答える。「お前にさえ新人たちを見えなくさせるほど大きな出現物というと、恐らくマヨイガが出て来てるんだろう」

「マヨイガって」スサノオは自分の身体を見下ろす。「こういう依代とか備品を提供してる奴か」

「平時はな」酒林がまた答える。「けど本来は、武器商だ」

「武器商――そいつがなんで今、出て来てるんだ?」スサノオはまた訊く。

「査定してるのかもな」酒林が推測する。「使える“武器”かどうかを」

「何が?」

「決まってるだろ」酒林は蛇の頭をもたげる。「新人たちがだよ」

 

     ◇◆◇

 

「じゃあ、帰ろうか」結城が提案する。「お邪魔みたいだし」

「どこへ帰るんだ」時中は疑問を述べながらも踵を返しかけた。

「スサノオ様の所まで帰るのですか」本原が確認する。

「いや、あいつはあれだし」結城は首を傾げる。「でもまあ、ともかくここから出て」

 

 こぷこぷこぷ

 

 不意に奥、台所の隣の食事の間から、何か液体を注ぐような音が聞えた。三人は言葉をなくした。

 

 かちゃかちゃ

 

 続いて、何か陶器のぶつかるような音が小さく聞えた。

「誰だ」結城が叫んで、土間の奥へ向かい走り出した。

「おい」時中が叫び、

「何がいるのですか」本原が口を手で抑えて質問する。

「あっ」居間の向こう側に辿り着いた結城はそう叫んで立ち竦んだ。

「何がいるんだ」時中が叫んで走り、

「マヨイガ様ですか」本原が質問して走る。

 そこには誰も居らず、ただ湯気のたつ茶と饅頭の載った皿が三人分、卓の上に並べ置かれてあった。



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第49話 ご注文を承りました。商品のお届けまで今しばらくお待ち下さい

 ――なんだってスサノオはこんなところに“空洞”を作ったんだろう――

 地球はつい、そんな事を思ってしまうのだった。そこは、深い、深い海の底にある、煙突のような突起からマグマに温められた熱水が噴出している場所だった。その真下に、スサノオは“対話”の場を設けたのだ。

 ――なんだってまた、こんなところに――

 しかしそう思いながらも地球は同時に、そうか、ここでこそ“対話”が行われるべきだというのも、確かにうなずける――そのようにも思うのだった。

 何故ならそこは、神たちが最初に“手を入れた”場所だからだ。言い方を変えると、そこは最初に“生命体”が生まれたところだからだ。

 しかし今、スサノオのその“野望”も、阻まれているようだった。

 ――マヨイ、ガ……?

 地球は、神たちがそれをそのように呼んでいるのを聞いた。そのものの存在は、知っている。時折気まぐれに、そちらこちらに“出現”する“物体”だからだ。とはいえ、ああそこにいるな、位の意識でしかそのものを見たこともなかったので、そのものがどういう目的で何をしに現れているのかなど、詳しいことは知らなかった。神たちに、任せていたのだ。

 そのマヨイガは、スサノオが新人たちを連れて行こうとしていた“生命発祥地”まであと少しのところに突如現れ、新人たちをスサノオから引き離してしまい、自分の中に取り込んでしまった。

 ――どうするつもりなのだろう――

 地球は、“対話”の準備ができるまでのんびり待っていようと思ってはいたのだが、自分にとっても予想外の出来事に、つい気を向けてしまうのだった。

 

     ◇◆◇

 

「どういうつもりだ」時中が茫然と呟く。

 三人の新人たちは土間に立ち竦んだまま、板の間に置かれた座卓の上に並ぶ茶菓を見つめるばかりだった。

「え、これ、マヨイガさんが淹れてくれたってこと?」結城が板の間に両手を突き、体を床の上に乗り出しながら問いかける。「だよね?」

「どうするつもりだ」時中が眉をしかめ結城の背に問い返す。

「いただくのですか」本原が確認する。

「毒が盛られているかも知れないぞ」時中が眉をしかめたまま本原に警告する。

「えっ毒?」結城が床の上に突いた両手を離して胸の前で交差させ鎖骨を押さえる。「本気で俺らを殺る気なわけ?」

「先ほど、ここへ来る前に私たちが『お茶を出してもらえるかも』と話していたのをお聞きになっていたのではないでしょうか」本原が推測する。

「あー」結城は頷き、両手を鎖骨から離した。「じゃこれって、俺らの発注したものを納品してくれたって事か」再び体を床の上に乗り出し、さらに片足の膝を床の上に乗せて今にも上がり込みそうな勢いとなる。

「そうだとしたら何か対価を要求されるはずだろう」時中が推測する。「我々の生命で支払えといわれたらどうする気だ」

「えー」結城は上がり込みかけた足をもう一度下に降ろす。

「なぜマヨイガさまが私たちを殺すつもりでいると決めてかかるのですか」本原は異議を唱えた。「マヨイガさまは、私たちを歓迎しようとして下さっているのかも知れないではないですか」

「最悪の事態を想定すべきだと言っているんだ」時中は自論を曲げなかった。「殺す気だと思って用心していた結果歓迎されたというのなら問題はないだろう」

「あると思います」本原もまた反論を止めることはしなかった。「マヨイガさまのお気持ちを害してしまうと思います」

「相手の気持ちを尊重した結果殺されたら話にならないだろう」時中もさらなる反論をつなげた。

「あっいいこと思いついたよ俺!」結城が仲介の言葉を叫んだ。「馬馬! あいつにさ」厩を親指で指す。「この饅頭とお茶、やってみようよ。毒味係で」

 時中と本原は言葉を失った。

「はいはい、では早速」結城は飛び上がるように板の間に上がり込み、茶の入った湯呑と饅頭の乗った小皿を両手にそれぞれ取って再び土間に降りた。

 厩の中の馬は、新人たちの騒ぎに特に関心も示さず、大人しく佇んでいた。

「ほい、馬くん」結城は飼葉桶の中、馬の餌である草や雑穀類の上に、湯呑と小皿を無造作に置き呼びかけた。「おやつだよー。さあ召し上がれ」馬に向かい手を差し出す。

 馬は、微動だにしなかった。結城は、片手を差し出した格好のまましばらく待った。馬は、時折瞬きをする以外特に目立った動きもせず、佇み続けていた。

「あれ」結城はついに口にした。「食べないのかな? てことは」振り向く。「毒入りって事なのかな、やっぱし」推論を述べる。

「そもそも馬は茶や饅頭を食べないだろう」時中が批判し、

「お馬さんはお茶やお饅頭は食べないと思います」本原が批判した。

「えー」結城は片眉を寄せて馬を見た。「そっか、君は草と水しか食わない奴かあ。えーと、じゃあ」飼葉桶の中の湯呑と皿を見下ろす。「これ、どうしよう」

「気分を害したかも知れないぞ」時中が危惧する。「せっかく淹れた茶を馬に与えるとは」

「マヨイガさまは傷ついたかも知れません」本原は頬を手で押さえ嘆いた。

「えー」結城は二人を見、また馬を見た。

 

 ぶるるっ

 

 馬は一度だけ、首を振り鼻を鳴らし、その後また静かに佇み続けた。

 

     ◇◆◇

 

「申請したわ」木之花が告げた。「少し待機してみて。“向こう”から、近くに来るはずだから」

「了解」天津は答えた。

「ついでに、天津君の依代も追加発注しといたから、受け取りお願いね」木之花の声が続けて告げた。

「あ、……ありがとう」声だけの天津はどこか照れ臭そうに礼を言った。「大事に使います」

「これで、新人たちと再会できる」蛇から人間の姿に変わった酒林がふうと息をつきながら言う。

「無事ならな」スサノオは笑いを含んだ声で言った。「もうマヨイガに食われてたりして」

「馬鹿言うな」酒林は否定する。「今度の新人たちはちょっとやそっとじゃやられないよ」

「なんでわかる」スサノオは面白くなさげに問う。「何が違うってんだ」

「だって今度の新人は」酒林が言いかけるが、

「“スサノオ”じゃあ、ないよな」スサノオが先立って否定する。「だろ」

「――」酒林は口をつぐみ、依代なき天津の声の方にちらりと目配せする。

「まあ、とにかく待とう」天津は声だけでそう告げ、「お前も、新人たちと地球に“対話”させたいんだろ」少し間を開けて「スサノオ」と呼んだ。

 天津顔のスサノオは、頭の後ろに両手を組んで面白くもなさそうに前方を睨みつけた。そこは相変わらずの、暗闇だった。

 

     ◇◆◇

 

 がたがたがた

 

 突如として、部屋の奥の方から物音が聞えた。三人は土間で飛び上がった。

「何だ」

「何の音?」

「何でしょうか」

 

 がたがた ばたん ごとん しゅるしゅるしゅる ぱちん

 

 物音は、決して大きくはないがしばらく続いた。それは、茶菓の置かれてある板の間の奥にある襖の向こうから聞えていた。

「誰だ」結城が叫ぶ。

 

 かたかた かたん

 

 最後にそういう音が聞え、そして静けさがやって来た。三人はしばし物も言わずに様子をうかがった。

「よし」やがて結城が言葉を発した。「上がってみよう」

「危険だぞ」時中が警告する。

「結城さんが行くのですか」本原が役割をなかば指定する。

「え、皆で行こうよ」結城は自分を含め三人をぐるりと指で指し回した。「いっせーのせ、でさ」

「危険だ」時中が拒否する。

「結城さんが行く方がいいと思います」本原が役割をなかば強制する。

「いー」結城は歯を噛み締めて眉を寄せながらも靴を脱ぎ板の間に再び上がり込んだ。「あ、じゃあそっと中覗いて、危険そうでなかったら皆で乗り込むっていうのでどう?」

「危険でないのならばそれでいい」時中が承諾し、

「危険でなければ大丈夫です」本原が『一たす一は二』と同類の理論を述べた。

「じゃあ、開けます」結城は宣言し、板の間の奥側の襖に手をかけ数センチほど開いた。

 襖の向こうは畳敷きの和室で、薄暗く、奥の方に押入れと、掛け軸を飾った床の間が見える。青畳の香りが漂ってくる。そして畳敷きの床の真ん中に、長さ二メートル、幅六~七十センチ、高さ四~五十センチほどの木箱が置かれてあった。

「うわ」結城はそれを見て思わず身を引いた。「棺桶?」

「何だと」時中が強く眉をしかめる。

「まあ」本原は口を押える。

「誰もいないよ」結城は彼にしては声をひそめて和室の中をぐるりと見渡す。「皆、上がっといでよ」手を背後に伸ばして手招きする。

 結城の誘いに時中と本原は顔を見合わせ、まず首を振りながら時中が靴を脱いで板の間に上がり、次に本原が続いた。

 結城が棺桶と呼んだ木箱にはしかし、蓋がされていなかった。

「開けるね」そう言うと結城は、襖を左右に大きく開いた。

 畳の香りが一層強く感じられる。和室は薄暗く、空気はひんやりとしていたが、人の気配もなく怪しい瘴気がとぐろを巻いているという雰囲気もなかった。田舎の民家の一室にしか、それは見えない空間だったのだ。

「天津さん」かすれた声でその名を口にしたのは、時中だった。

「え」結城が時中を見、

「天津さんがいらっしゃるのですか」本原が時中を見た。

「あの箱の中を見ろ」時中が箱を恐ろしげに指差す。

 言葉通り、その木箱の中には天津が目を閉じて、仰向けに静かに横たわっていたのだった。



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第50話 上司さまは神様です

「天津さん」結城が叫び、

「天津さま」本原が口を押えた。

「天津さま?」結城が本原を見て訊き返す。

「天津さまは神さまです。気軽に“さん”づけではお呼びできません」本原が口から手を離し真顔で回答する。

「あー、そうかあ」結城は天井を見上げ納得したが「いや、ていうか天津さん、死んでるの?」すぐに眉根を寄せて棺桶様の木箱に納められ横たわる天津を見て言う。

「そんな」本原は再度口を押える。

「神様ならば死ぬはずはない」時中が理屈立てる。「あれは……替えの依代じゃないのか」

「替えの?」結城が目を丸くして時中に訊き返し「あー、そういや前スサノオに雷で真っ黒焦げにされた時も、マヨイガに追加発注してたよね。え、てことは」再び箱の中の依代を見る。「まさかまた、天津さんスサノオにぶっ殺されたのか」

「天津さんの依代が、だ」時中が訂正する。「これからマヨイガはこれを納品するのだろう……ということはもうすぐ、天津さんがここに来てくれるはずだ」

「おっ」結城は手をぱんと打ち合わせた。「ようし! 感動の再会だ」

「けれどマヨイガさまがここにいることを、天津さまはおわかりになるのでしょうか」本原が首を傾げる。「私たちはかなりの距離を車で走って来てここに辿り着きましたけれど」

「あー、そうかあ」結城は天井を見上げる。「迎えに行ってあげたいけどねえ」

「前の時は、マヨイガの方が天津さんや我々の居る場所に出現したはずだ」時中が記憶を辿る。

「あー」結城は引き続き天井を見る。「そうだったよねえ。てことは」

「マヨイガさまは今から天津さまのいる所まで移動なさるのでしょうか」

「どうやって?」結城と時中の声が完全シンクロした。

「いや」時中がすぐに否定する。「マヨイガはじめ出現物というのは、移動するのではなく“出現”するもののはずだ。そこに突然、いつの間にか出現するんだ」

「そうか」結城が時中を見る。「てことは」

「一度お消えになって、それからまた出現なさるのですか」本原が確認する。

「お消えになる」結城が本原を見て復唱する。「え、消えちゃうってことは、俺らはどうなるの?」

「理屈でいえば、ここに置き去りにされるのだろうな」時中が周囲をぐるりと見回す。

 馬が厩の中で首を下げ水を飲んだ。

「まじか」結城が目を見開き、

「まあ、そんな」本原が口を押える。

「まずい事態になるかも知れないぞ」時中が眉根を寄せて馬を見る。「そもそもここは洞窟の中でもなさそうだし、スサノオのいる所まで戻るにしても方向さえわからない」

「じゃあさ、必死でしがみついといたらどうかな」結城が人差し指を立てて提案する。「その辺の、柱とかにさ。そしたら置いてけぼりは食わないかもよ」

「消滅するんだぞ」時中が首を振って異議を唱える。「置いてけぼりを食わないとしても、一緒に消滅することになる」

「まじか」結城はぎゅっと目を瞑って天井に顔を向けた。

「あのお馬さまも出現物なのでしょうか」本原が厩を指差す。「見たところ、普通のお馬さまですけれど」

「あ」結城が続いて馬に注目する。「そうだよ。馬もおんなじ生き物なのに、マヨイガが消滅してまた出現しても無事なんじゃないの」

「しかし実際に我々はその現場を見ていないだろう」時中が否定する。「マヨイガと一緒に馬が消えて出現するところを」

「うーん」結城は腕を組んだ。「それはそうだけどねえ」

「それに、天津さまの依代も、一度消滅してまた再出現することになるのでしょうか」本原はさらに穿つ。「もし品質が変ったり劣化したりするのならば、納品できないのではないでしょうか」

「しかし依代は、今の時点では“生きていない”ものだからな」時中もさらに穿つ。「生き物に比べれば、再出現しやすいのかも知れない」

「うーん」結城はぎゅっと目を瞑り腕を組み直して天井を見上げた。「なんか色々考えたら、頭疲れて来たなあ。お茶と饅頭、食おうか」板の間の方を見る。

「いただくのですか」本原が確認し、

「――」時中が眉根を寄せた。

「いいんじゃない」結城は笑いながら板の間を親指で指す。「どうせ消滅するんならわけのわかんない饅頭ぐらい食ってもさ」

「そういう理屈は成り立たないだろう」時中は否定する。

「けれどお茶も冷めているでしょうし、さっきお馬さまに一人分差し上げましたから結城さんのがないですよ」本原が指摘する。

「あそうか。え、あれ俺の分なの」結城は自分を指す。

 

 こぷこぷこぷ

 

 その時また、板の間の方から茶を注ぐ音が聞えた。三人は一瞬目を見合わせ、直後板の間へ走り出た。

 板の間には、誰もいなかった。ただ卓の上の茶菓が、増えているだけだった。六人分。すべての湯呑から白い湯気が立っている。六人分すべて、淹れ立てのようだ。

「何、これ」結城が目を丸くする。

「誰が淹れていたんだ」時中が周囲を見回す。

「マヨイガさまが一瞬でお淹れになったのでしょうか」本原が口を押える。

 

「皆、大丈夫か」

 

 突然玄関から響いた叫び声に、三人は飛び上がった。振り向くと、酒林が板の間の上がり口に駆け寄って来るところだった。

「えっ、酒林さん?」結城が目を丸くし、

「何故ここに」時中が疑問を口にし、

「オオクニヌシさま」本原が口を押える。

「怪我とか、してない?」酒林はまず本原を気遣い、それから他二名の男子にも「無事?」と訊いた。

「はいっ、問題ありません」結城は背筋を伸ばして大きく頷く。

「ここまで、どうやって来たんですか」時中が質問する。

「マヨイガさまの方が、お近くに出現なさったのでしょうか」本原が追加質問する。

「うん」酒林は笑って頷く。「あまつんが、ワゴン車を売ったからね。買い取りに来てくれたよ」

「ワゴン車を?」三人が同時に訊く。

 そこへ、天津が両手を頭の後ろに組み、どこかかったるそうに玄関の方から歩いて来た。

「あっ、天津さん」結城が叫ぶ。「お疲れっす」

「天津じゃねえよ」天津は口を尖らせた。「俺はスサノオ」

「あ」結城の笑顔が消える。「お前、スサノオか」

「僕はここです」柔和な、いつもの天津の声が、板の間の奥から聞えた。

 振り向くと、畳の上に置かれていた木箱の中に天津が立って、いつもの微笑みを投げかけていた。

「皆さん、無事でよかったです。すいませんでした、本当に」木箱の中からぺこりと頭を下げる。

「おお」結城は二人の天津を交互に見た。「天津さんが二人」

「だから俺は違うって」土間に立つ方の天津が口を尖らせる。

「その依代は別のものに取り替えられないのか」時中がスサノオに対し要望を述べる。「同じ姿でいられると混乱する」

「そうだな」酒林が頷き、畳の部屋から板の間に出てきた方の天津に訊く。「経費で落とすとか、可能? こいつの依代代」訊きながら土間側の天津、つまりスサノオを親指で指す。

「いや、それはさすがに」天津は嫌そうな顔で首を傾げる。

「だよなあ」酒林は苦笑する。「咲ちゃんぶち切れるよな。じゃあお前、自腹で取り替えろ」スサノオを指差して命じる。

「やだよ、高いのに」スサノオはますます口を尖らせ「てかさっきからお前だのこいつだのって、お前俺の息子だろ。なんつう口の利き方すんだよ」酒林を指差し返す。

「まあまあ皆さん、まずはお茶でもいただきましょうよ」結城が仲裁に入る。「せっかくマヨイガさんが、二度も三度も淹れてくれたんすから」説明しながら板の間の床を手で示す。

「二度だけです」本原が訂正する。

「マヨイガはいつの間に、酒林さんたちの近くに行ったんだ」時中は腑に落ちない顔で疑問を呟く。「一度消えたのか」

「まあ、そうだろうね」酒林は微笑でその疑問に答えながら板の間に上がる。「いつものように、突然音もなく出現したからね」

「てっきりお前ら全員、食い殺されてると思ったけどな」スサノオもせせら笑いをしながら板の間に上がる。

 その憎まれ口に新人たちは目を見合わせたが、何も言えなかった。

「だからそんなわけないって」酒林は眉をしかめてスサノオに反論した。「マヨイガは備品の提供をしてくれるだけなの」

「じゃ何、こいつらに何か提供するつもりで誘拐したのかよ、マヨイガの奴」スサノオは目を細めて確認し「お前ら、何かもらった?」新人をぐるりと見渡して訊く。

 新人たちはやはり言葉に詰まったが、

「いや、何ももらってない」と時中が答え、

「いや、お茶とお菓子もらいました」と結城が答え、

「いえ、まだいただいてはいませんでした」と本原が答えた。

 

「天津君、査定額来たわよ」

 

 木之花の告げる声が届いたが、それを聞いたのは天津と酒林とスサノオだけだった。

「おっ」天津が右耳を片手で押えて反応する。「幾ら?」

「え、何がすか」結城が訊くが、神たちは伝えられた金額の確認に集中していた。

 そして、

「うへー」

「それだけ?」

「買い叩かれ過ぎだろ」と、神たちは嘆き、笑い、それぞれコメントを述べた。

「え、ワゴン車の値段すか」結城が再度訊く。

「はは」天津が、懐かしき気弱げな微笑を浮かべる。「まあ、今回は皆さんの保護をしてもらえたという事で、金額は問題ないです」

「天津の依代代の半分以下じゃねえか」スサノオがせせら笑いながら企業機密をばらした。「コスパ悪っ」

「えーっ」結城が目を見開き、

「幾らなんだ」時中がさらなる詳細を知りたがり、

「まあ、素敵」本原が溜息混じりに囁き、

「お前、何機密情報漏洩してくれてんだ」酒林が憤り、

「法的措置を取るぞ」天津が珍しく厳しい事を口にした。

「しかし本来、神の依代と一般的な自動車メーカーの車が同列の金額で取引されるというのは、どうなのか」時中がさらなる疑問を独り呟いた。

「桁が違う話になるのではないでしょうか」本原がコメントした。

「まあとにかく、これでマヨイガの用は済んだってことで」酒林が茶を飲み干して言った。「行きましょうか」

「行く、って」結城がきょとんとして訊く。「どこへすか」

「“対話”だよ」スサノオ側の天津が溜息混じりに答える。「せっかく俺様が空洞用意してやったんだからな」

「いや」本家の天津がぴしりと拒絶する。「クライアントに妙な心配をさせるわけにはいかない。新人さんたちはまだOJTの途中だ。元いた洞窟に戻る」

「なんでだよ」スサノオは声を荒げる。「このまま帰ったって、こいつらには何も残らねえぞ。やるならきちっと、最後までやらせねえと駄目だろ」

「お前のやり方は危険過ぎる」酒林が加勢する。「新人さんたちを鍛えるどころか、下手すると命の危険にさらしてしまうだろ」

「えー」結城が肩をすくめる。「それはちょっと」

「へっ、よく言うよ」スサノオ天津はぷいと横を向いた。「今までお前とこの企業、何人の新人を見殺しにして来たよ」

 全員が、黙り込んだ。



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第51話 従業員って企業にとっての宝なんだよねそういえば

「見殺しにした?」時中が眉根を寄せて繰り帰した。「つまり、この業務上で命を落とした社員が過去にいた、ということですか」

「――」天津も酒林も、俯いてすぐに返答することができなかった。

「え、でもいつの話?」結城が時中を見て問う。「前にさ、そういうニュースは聞いたことがないから単なるリスクヘッジだろうとかって話、しなかったっけ」

「事件がもみ消されたという可能性もある」時中は低い声で言った。

「社員、ではありませんでした」天津は顔を上げ、ゆっくりと説明しはじめた。「確かに、我々の為に仕事を――今でいう“イベント”を執り行おうとしてくれた者たちが、命を落としたという過去は、ありました」

「まじすか」結城は目を見開いて天津を見た。「いつ?」

「もう、三百年前ぐらいになるのかな」酒林が拳で唇を押えながら答える。

「三百年前?」結城は引き続き目を見開いて酒林を見た。「そんな前からこの仕事ってやってたんすか」

「だけじゃねえだろが」スサノオは肩をすくめる。「千年前も、二千年前も、もっと前にも――てか“人類”に限らず言うなら、四十億年前からずっと見殺しにし続けて来てるだろ」

「え」結城が叫び、

「まあ」本原が溜息混じりに言い、

「四十億」時中が眉根を寄せ繰り返した。

「見殺しっていうな」酒林が怒った声で反論した。「俺らだって何も、最初から結果が予測できてたわけじゃない」

「けど確かに」天津が俯いたままで目を強く閉じる。「多くの命を失ったことは――スサノオの言う通りだ」

「一体、なんで」結城は茫然と天津を見て訊いた。

「――まあ、つまりは」酒林が声を絞り出して言う。「地球との“対話”が、その時点では……うまくいかなかった、ってことだな」

「――」新人たちは数秒の間言葉を失った。「つまり」時中が発言を再開する。「我々が今やっている業務の結果が、その時点でよくなかった為に」

「ぎゃっふー」本原が言った。

 皆が本原に注目した。

「衝撃の事実を知ったので言いました」本原は無表情に解説する。

「え、地球との対話に失敗したって事すか」結城が質問を再開する。「それってつまり、地球が怒って俺らの先輩たちを飲み込んだってことすか」

「怒ったのかどうか、はわかりません」天津は首を振った。「言い方を替えるなら、まだ我々に地球の活動システムについての知識が充分でなかったという事ですね」

「では対話の内容が地球の気に入らない事だったわけではないということですか」時中が確認する。「我々の方に非はなかったと」

 

     ◇◆◇

 

 ――いつまで、そこにいるんだろう。

 地球は比喩的にふとそう思った。いつまで、そこに――“そこ”というのは深海底、そのさらに下、海洋地殻の中に設えられた空洞の中だ。

 ――早く立ち去った方がいいんじゃないのか。

 また、比喩的にふとそう思う。何しろその空洞のすぐ近くには、どろどろに融けた岩石、つまりマグマが存在している。

 その空洞が今現在、どんな力で――誰の“神力”で存在を維持しているのかわからないが、誰の力にしたってそれを構成している物質は炭素と酸素と水素とケイ素、そんなものに違いはないはずだ。それがマグマの熱で温められたら、周りの地殻に含まれるイオン群と何かしらの化学反応を起こしてしまうだろうことは予測がつく。

 その結果、空洞はどうなってしまうのか。それは実は地球自身にもわからなかった。今まで、対話のために設えられた空洞がこれほどまでに長く維持されているのを見たことがないからだ。この四十六億年間、いちども。 

 ――もしかしたら、生命体が発生してしまうんじゃないか。

 地球はふとそんなことまで思ってしまった。まさか、とすぐに打ち消す。しかし。

 ――マヨイガ……

 その“出現物”は、一体どうやって“出現”したのか。

 ――まさかね……

 地球にとってそれは想像の及ばぬ領域だった。“神の領域”だ。何しろ物理法則の効かない世界を取り仕切り統べるのは神の役目だ。

 ――いや……神の“趣味”なのかな?

 どちらにしても。

 ――そろそろ、そこはひとまず引き上げた方がいいんじゃないのかな……

 地球はもう一度そう思い、比喩的にふう、と溜息をついた。

 

     ◇◆◇

 

「非は」天津は答えようとしたが、時中の眼に眼を合わせることができなかった。「なかった、と……我々としてはそう思います」

「こっちがどう思っていても、向こうがそれを“非”だと感じたならそれは“非”になる」スサノオが付け足した。

「あー」結城が頷く。「パワハラとかと一緒すね」

「地球さまに対するパワハラですか」本原は結城に確認した。

「神は地球にパワハラをしたというのか」時中がまとめる。

「結果として地球側がそう取るなら、我々に何も言い訳することはできません」天津は敗北を宣言するかのようにうな垂れた。

「神は地球で、何がしたかったのですか」時中は天津に質問した。

 その質問を聞いた神たちは、一瞬彫像のように固まった。

 

 神たちだけでなく、その質問を聞いた地球もまた、一瞬比喩的に眼を見開いた。とはいえさすがに、地球のシステム稼動に一ミリたりとも影響を及ぼすことはなかった。

 

「それ、は」天津は言葉を濁らせ、酒林をちらりと見た。

「ごめん」酒林は新人たちに謝った。「今は、言えねえわ。部外者いるし……それも無神経にぺらぺら喋くりまくる奴が」スサノオを親指で指す。

「ああ?」スサノオが眼を細め酒林を睨む。

 酒林はそっぽを向いたままだったが、矢庭にその二人を囲む空間の温度が上昇していくのが新人たちにも感じ取れた。

「うわ、まさかここでバトルモード突入すか」結城が本原の物真似のように口を手で押える。

「ま、まあまあ、二人とも落ち着いて」天津が慌てて空気を押さえる。

「天津君」その時、木之花が天津を呼んだ。

「ん」天津が視線を上げすぐに答える。

 酒林とスサノオもはっとした顔で天井を見、空気の温度は一挙に下がった。

「――何か、来たわ」木之花の声は、どこか茫然とした響きがあった。

「何か?」天津は訊き返し、酒林を見る。

「どした?」酒林も訊く。

「――」木之花はしばし答えられずにいた。

「咲ちゃん?」天津が真剣な表情になり呼び返す。「どうした」

「査定額が」木之花はやはり茫然と答えた。「届いた」

「――」天津と酒林もすぐに答えられなかった。「査定額? 何の――」だがすぐに二柱の神ははっと目を見交わした。

「どしたんすか」結城が天津と酒林を交互に見て訊く。「木之花さんすか」

「ぷっ」スサノオが吹き出し「ははははは」と愉快そうに笑う。

「何だよ」結城が口を尖らせて訊く。

「なるほど」スサノオは笑い続けながら答えた。「査定されたってよ、お前らが」

「え」結城が目を丸くし、

「我々が」時中が眉根を寄せ、

「まあ」本原が口を押える。

「どういうこと?」天津が木之花に訊く。「誰もそんなこと、発注してないよね」

「まさかスサノオ、お前か」酒林がスサノオを睨む。

「してねえよ何も」スサノオは機嫌を損ねた顔でぶすっと答える。

「詳細は?」天津がまた木之花に訊く。「何て言って来てるの、マヨイガ」

 しばし間があった。

 木之花が“詳細”を報せてくる。

「う」天津が声を詰らせ、

「うわ」酒林が仰天し、

「なにこれこの値段」スサノオが目を見開く。

「え、何すか」結城が首をきょろきょろさせ、

「どうだというんだ」時中が首を振り、

「お幾らなのですか」本原が頬を押える。

「おめでとうございます」スサノオが出し抜けに三人に向かってぺこりと頭を下げる。「君たち三人合わせて、天津の依代のざっと百三十倍の値段がつけられました」



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第52話 ブラックまたブラックそして 闇

「え」結城が目を剥き、

「幾らなんだ」時中が眉根を寄せ、

「まあ、そんな」本原が口を押える。

「鹿島さんに確認するわ」木之花は急いでそう報告した。

「今、折衝中」鹿島の声が間髪を入れず届く。「抜かりはないよ。けど……」

「鹿島さん」天津が右耳を手で押えて呼ぶ。「マヨイガは何て」

「新人君たちを買い取りたいって話?」酒林が被せて訊く。「一体なんでまた」

「うん」鹿島の声もまた、どこか戸惑いを帯びていた。「マヨイガはこの三人をこのまま引き取りたいと……今回、地球環境から生体保護をした件の謝礼分を差し引いた買取価格が、さっきの値段になると言ってる」

「う」天津が声を詰まらせ、

「うわ」酒林が仰天し、

「じゃあ百三十倍以上あるってことか、天津の」スサノオが叫ぶ。

「依代代、の」天津が小さく付け足す。

「まじで?」結城が眼を丸くし、

「幾らなんだ」時中が眉根を寄せ、

「お高いのでしょうか」本原が口を押える。

「それで鹿島さん」木之花が割り込む。「当然断ったんですよね?」

「ああ、無論」鹿島は答える。「だがマヨイガは了知の返答をまだ寄越してきていない」

「聞く必要ない」木之花は断言する。「一刻も早く、そこから出て。天津君」

「うん」天津は両腕を広げ、新人たちを囲い込む仕草をしながら頷く。「現場にも急いで戻らないと」

「連絡はしてある」スサノオが告げる。「車のトラブルで、戻りが四十分後になるってな」

「お前が?」酒林がまたしても驚く。「あまつんの声真似で? てか、なんで?」

「うるせえな」スサノオはむすっとしてそっぽを向く。「こいつらを鍛えてやるためだよ」

「けど、じゃあ四十分で戻らなきゃいけないってことだな」天津は自分の依代の腕に巻かれている腕時計を見、「急ぎましょう」新人三人を見回して言った。

「はいっ」結城が叫び、

「帰りは徒歩になるのか」時中が呟き、

「まあ、そんな」本原が眉根を寄せた。

 一行は玄関へ向かおうとしたが、全員が一斉に足を止めた。

 戸口の前に、馬が立っていたのだ。厩の戸は開け放たれ、黒毛の馬はそこから出てきたようで、玄関の戸口の前に一行の方へ顔を向け佇んでいた。玄関――天津たちが入って来た時には開いていた戸口が、いつの間にか締め切られていた。

 馬は首を僅かに上下させたり、尻尾を緩やかに振ったり、前足で少し足踏みをしたりしていたが、特に機嫌が悪いようでも荒くれている様子でもなかった。だが一行は、そこに近づくことを強く躊躇したのだった。

「勝手口」酒林が馬から視線を外せぬまま顔を少し横に向けた。「から、出よう」

「嫌な予感はするけどな」スサノオがぽつりと溢す。

 一行は台所へ向かったが、案の定勝手口の引き戸は誰がどんなに力を込めて引いても、びくとも動かなかった。

「マヨイガは、この新人三名が“次世代地殻”の構成物質として利用できると考えているらしい」鹿島が告げた。

 一行の戸を引く手はぴたりと止まり、誰も口を利くことができなかった。

 

     ◇◆◇

 

 ――次世代、地殻?

 それは地球にとっても比喩的に仰天させられる言葉だった。

 ――どういう、こと?

 地球は比喩的に眼をぱちくりさせた。

 ――次世代……ってことは、今の地殻に代わる、新しい種類の地殻?

 地球は比喩的に想像を巡らせようと試みたが徒労に終った。

 ――どういう、こと?

 ただその問いを、繰り返し比喩的に唱えることしかできなかった。

「鯰、くん」結果として、珍しく――何千万年かぶりに地球は、スポークスマンに自分から呼びかけたのだ。

 

     ◇◆◇

 

「次世代地殻」天津が声をかすらせて呟き、

「って、何?」酒林が視線を宙に泳がせながら誰にともなく問いかけ、

「構成物質って」スサノオが亡羊の体で新人たちを見やる。

「ん?」結城が首を突き出し、

「何だ」時中が眉根を寄せ、

「私たちのことでしょうか」本原が小首を傾げる。

「鹿島さん」木之花も声を震わせる。

「うん」鹿島だけが穏やかな声と口調を保っていた。「もっと詳しく聞いてみるから、ちょっとだけ待って」その声は他の神たちにとって、何にも勝る安全保障のように心に安寧をもたらすものであった。

 神たちは眼を伏せ、口を閉じて待った。

「俺ら、どうなっちゃうんすか」結城が天津にそっと問う。「お買い上げされちゃうんすか、マヨイガに」

「それはありません」天津が首を振り即答する。「マヨイガが何か誤解してるみたいなんで、今鹿島さんが説明してくれてるところです。すぐに帰れますよ。すみません」ぺこりと頭を下げる。

「けどあの値段でもし売ったとしたら、すげえ儲けになるよなあ」スサノオが誰にともなく呟く。「こいつらの遺族に補償金支払っても」

「おい」酒林が声に凄味を利かせて遮りスサノオを睨む。「そろそろ本気でぶち切れるぞ俺は」

 新人三人は同時に目を見開き、体を硬直させていた。

「大丈夫です」天津が真剣な顔ですぐに頷いて見せる。「繰り返しになりますが、我々八百万の神と呼ばれる存在の者が総力を結集して、皆さんの身を護ります。何者であろうと、絶対に危害は加えさせません」

「はい」結城が頷き、

「――」時中は黙して天津を凝視し、

「まあ、神さま」本原は眸を潤ませ頬を押える。

「あれ、本原さんやっぱ天津さんに気があるんじゃないの?」結城が口を尖らせて本原に訊く。

「穢れの言葉を取り下げよ、不浄の輩」本原は自分と結城の間の空間を手刀で切り裂きながら宣告した。

「あれがクーたんの教え?」酒林が天津に訊ね、

「いや……」天津がぎこちなく首を傾げた。

「花崗岩の形成過程に高度生命体の成分を加えることで、地球の火山活動に対する耐性が生まれる可能性があると言っている」鹿島が伝えてきた。

「そんな」天津が声をかすらせ、

「馬鹿な」酒林が激しく首を振り、

「へえ……」スサノオは感心したように頷いた。

「この三人を使えば、地球との対話時に発生させる空洞の強度が倍増する、と」

「へえー」一行が絶句する中、スサノオだけが関心を示した。「そいつは是非、試してみたいもんだなあ、ええ」にやりと笑いながら新人たちを見回す。

「させるかよ」酒林が新人たちの前に立ちはだかり、

「今はここから出るのが先決だろう」天津の広げた両腕からは何か神威を感じさせる光輝が発せられ、新人たちを包み込む。

「あの、何がどうなってんすか」結城は天津の光輝に眼をしばたたかせながら質問し、

「何がどうなんだ一体」時中は首を振りながら呟き、

「マヨイガさまが何か仰ったのでしょうか」本原が口を押えて確認する。

「お前らをマグマと一緒に固めてみたいってよ」スサノオが顎を持ち上げて伝える。

「い」結城が声を詰まらせ、

「マグマと」時中が眉根を寄せ、

「まあ、そんな」本原が嘆息した。

 

「戸口から離れてってさ」その時出し抜けに、甲高い声が響いた。

 

 一行は一斉に、はっと身体をすくませた。

「鯰か」すぐに天津が叫ぶ。

「地球か」酒林も叫ぶ。

「余計な事すんな」スサノオも叫ぶ。

 

 ぶひひひひ

 

 突然、馬がいななく。一行ははっと馬を振り向いた。

 その次の瞬間、マヨイガの天井のど真ん中から、闇が差し込み始めた。闇は最初、染みのように天井の真ん中に現れ、すぐに放射状に広がり始めて壁にまで達し、みるみる土間の床までを呑み込んでいった。

 マヨイガは、黒い絵の具で塗り潰されるようにその姿を消して行った。

 

 ぶひひひひ

 

 馬が顔を仰のかせていななく。天津は両腕から発する光輝で新人たちを包み込み、酒林は両腕を後ろ手に広げて三人を庇い、スサノオはなす術もなく闇に呑まれてゆく周囲の景色を苦々しげに見回した。

 

 ぶひひ

 

 いななきの途中でついに馬自身も黒く塗り潰されるように、闇に消えていなくなった。

「こっちに来るっすよ」結城が慄いて叫ぶ。「俺らも消えるんすか」

「大丈夫です」天津は瞼を伏せながら強く頷く。「我々が護ります」

「神さま」本原が胸の前で両手を組み、それから掌を広げ合掌に切り替えた。

「大丈夫」酒林も肩越しに振り向き笑って見せる。「クーたんに負けないよう頑張るから」

「うわっ」スサノオが驚きの声を挙げる。

 全員がはっとその方を見ると、スサノオの入っていた天津型依代までもが今、闇に呑まれて下半分ほど消えていた。

「うわっ」結城が驚愕して叫ぶ。

「消えるのか」時中が戦慄の声を挙げる。

「神さま」本原は合掌したまま溜息混じりに神を呼んだ。

「やべえな」酒林が自分の身体を見下ろしながら危惧の声を挙げ、

「まずいな」天津も眉をひそめ周囲を見渡す。「まだ替えたばっかりなのに」

「え」結城が二人を見回し、

「消えるのか」時中が戦慄の声を挙げ、

「神さま」本原が合掌したまま天津と酒林を交互に見る。

 そして神たちもまた、闇に呑まれその姿を消した。



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第53話 業務連絡に顔文字の方入れさして頂く形でよろしかったでしょうか

 ――冗談じゃないよ。

 地球は珍しく、比喩的に頭にきていた。珍しく――否、この太陽系宇宙の中に星として誕生して以来、四十五億五千万年来、初めてのことかも知れなかった。

 ――高度生命体を、加えるだって? 岩石の中に?

 そのまま冷えて固まって、地球の――つまり自分の活動システム、ということは多分エネルギー循環サイクルのダイナミズム、或いは遷移するエネルギーそのものへの耐性が生まれる、だって?

 ――冗談じゃないよ!

「岩っちー」鯰が、どこか遠慮がちな声音で問いかけてくる。「あいつら何か、妙なこと言ってたけど……大丈夫なの?」そう問いかけておいて「……大丈夫、だよねえ」と、小さな声で付け足す。

「うん」地球は短く答えた。「大丈夫」

 ――そんなこと、どうして思いつけるんだ?

 生命体というのは、神がこの地球上に――地球が知る限りでは地球上だけに、発生させ大切に護り育ててきたものだ。それを地殻に――いわば“地球のシンボル”ともいえる花崗岩の殻に融合させるという、恐るべき発想。

 ――私を、手中に収めたものとでも思い込んでいるのか?

 そう思ううちにもむかむかと怒りが湧き起こってくる――とはいえそれが地球のコアやマントル、いわんや大気や海洋、それらの活動に圧力や温度の面で影響を与えるということは決してなかった。システムは飽くまでシステムとして、地球の気分や感情とは別の次元で地道に活動し続けるものなのだ。

 ふう、と比喩的に息をつく。安全だ。まず安心していい。システムは狂わない。

 とにかく、そんな、神が拵えた“異物”を、気安くこの星のシステムに組み入れて欲しくはない。誤解しているのかも知れないが、自分は生まれてからこの方、そんな意志をもって神の造りし生物たちを呑み込んできたことなど一度もないのだ。確かに、自分の活動の中に巻き込んでしまった生き物たちは、数え切れないほどいる、けれど。

 ――私は、

 地球は比喩的に、ほんの少し眉をひそめた。

 ――神の影響を、多少受けてしまっているのかな。

 何故そんなことを思うのかというと、

 ――哀しいと、思ってでもいるのかな。

 まさか。地球はすぐに、比喩的に苦笑し否定した。

 

     ◇◆◇

 

「芽衣莉ちゃん。結城君。時中君」酒林が続けざまに呼びかける。「聞えてる?」

「聞えてないみたい」天津が首を振る。

「声が届いてない」木之花が叫ぶ。「恵比寿さん、システム見直して。急いで」

「今やってる」恵比寿が叫び返す。

「てっきり武器として買い取るつもりなのかと思ってたが」鹿島は厳しい表情で呟いた。「まさか防護壁の材料として活用しようとするなんてなあ」

「どっちにしてもあり得ない、ですよね」恵比寿も眉を思い切りしかめて応えた。

 鹿島はただPCのモニタを厳しい表情のまま注視し続けていた。

 

「わあ」結城が目も口も真ん丸く開き呆けた声を挙げ、周囲をぐるりと見渡した。「消えた」

「音もしない」時中が右耳の後ろに手を当て音を探ろうと試みる。「地球が消したのか」

「皆さまどちらに行ってしまわれたのでしょうか」本原は左頬に左掌を当て問いかけた。「お亡くなりになったのですか」

「死んではいないと思う」時中は考えを述べた。「依代だけが消滅させられた……マヨイガは出現物だから、それも消された。我々は生身の人間で、無事――だということは、まだ神の保護下にあるということか」

「おーい」結城が両手を丸めて口に当て大声で呼ぶ。「天津さーん。酒林さーん。スサノオー」

「うるさい」時中は苦痛に顔を歪めコメントし、

「うるさい」本原が耳を塞ぎ苦情を述べた。

「馬ー」結城は最後にそう付け足してから両手を下ろし、「もしかして消えたの俺らの方だったりしてね」と眸をきらきらさせながら二人に向かって思いつきを伝える。

「ある意味ではそうとも言えるだろうな」時中が同意しながらも嬉しそうに顔を輝かせる結城からはすぐに目を逸らした。

「これから私たちはどうすればよいのでしょうか」本原は耳から手を離し問いかけた。

「どの方向に向かえばいいのか」時中は前後左右に視線を巡らせた。「わからないな」

「適当に進むか」結城は大きく一歩を踏み出すが、すぐに止まる。「でもこう真っ暗で後も先も見えないんじゃあなあ」

「ここはどこなのでしょうか」本原が上下を見渡す。「洞窟の中でしょうか」そして思い出したように、ウエストベルトから携帯してきた業務用の黒い端末を引き抜く。

 その表面には、見たこともないような線文字――あるいは記号が並んでいた。

「バグってるじゃん」結城が覗き込んで言う。「使えねえな」

「動き始めました」本原が告げる。

 その言葉通り、機器画面の上を白く輝く文字列――数列がくるくると回り出していた。

 

[皆、無事?]

 

 突如、黒端末の画面にSNSのメッセンジャーさながらの日本語文字列が現れた。

「あれっ」結城が叫び、

「何だ」時中が確認し、

「まあ」本原が口を押えた。

 メッセージ文の左側には、七福神の恵比寿のイラストがアイコンとして表示されている。[私、恵比寿です]そのアイコンから吹き出しが出、その中にそういった文言が示される。それはまさしく恵比寿神の自己紹介だった。

 

「よし、連絡取れた」鹿島部長がPCの前でガッツポーズを取る。

「あ」恵比寿は思わず笑顔を向ける。「はい、何とか」

「頑張れ、恵比寿君とやら」鹿島は恵比寿の方を見なかったが、PCに向かって激励した。「影ながら応援するぞ」

「――」恵比寿は笑顔を固まらせたまま、目をきょろきょろさせた。「――はい」ごく小さく返事する。

 

「恵比寿さん?」結城が訊き返す。「って、恵比寿課長? すか?」

[そうです]メッセージが出る。

「えっ、聞えるの?」結城が目を見開く。「ですか?」

[はい、聞えます]メッセージが出る。[他の社員にも聞えてます]

「皆さまどちらへいらっしゃったのですか」本原が、

「我々は今どういう状況なんですか」時中が、

「おほーすげえすげえさすが神システム」結城が、同時にそれぞれの思いを口にした。

 メッセージが出るまで数秒のラグがあった。[天津君と酒林さんは皆さんの保護を続けています]

「そうなんだ」結城が言い、

「近くにいるのか」時中が言い、

「神さま」本原が両手を胸の前に組み合わせた。

[皆さんがいるのは、マリアナ海溝海底のホットスポットの下辺りです]

「えっ」

「何」

「まあ」恵比寿が返してきたメッセージに、新人たちは驚愕した。

「マリアナ海溝?」時中が眉をしかめ、

「またえらいとこまで来てんなおい」結城が目を見開き、

「車で海底まで来たのですか」本原が口を押えた。

[すぐに皆さんを現場まで戻すようにします]恵比寿のメッセージは続いた。[しばらくそのまま待機していて下さい]

「おお」結城が感慨の吐息を洩らす。

「待機ということは、ここから動くなという事ですね」時中が確認する。

「また車で移動するのでしょうか」本原が質問する。

[車が、出払ってしまってますので]恵比寿は申し訳なさそうな顔文字を交えてメッセージを寄越した。[神舟を差し向けます]

「カミフネ?」結城が訊き返し、

「神の舟か」時中が確認し、

「まあ」本原が頬を押える。「恵比寿さまや弁天さまなどがお乗りになっているお舟でしょうか」

[すみません、あれは宝船というもので、神舟とは別になります]恵比寿は再び、申し訳なさそうな顔文字を入れて返事を寄越した。

「ああ、じゃあ宝は乗ってないってことすね」結城が確認し、

「というか、実存するのか宝船というものは」時中が疑い、

「神さまがお乗りになっている舟なのでしょうか」本原が溜息混じりに囁く。

[一種の光速艇です]恵比寿は説明の文言を寄越した。

「あはは、誤変換してますよ。光の速さのコウソクテイになってる」結城が楽しげに笑って指摘する。

「高速艇なのか」時中が確認する。

「小さいお船なのですか」本原が質問する。

[そんなに大きくはないですが、速いですよ]恵比寿はそういうメッセージに続けて[一応光速で走ります]と繰り返した。

「まじか」結城が驚愕の声を出す。「ですか」

「大丈夫なのか」時中が危惧する。「人間が乗っても」

「三人乗れるのでしょうか」本原も確認する。「座れますか」

[大丈夫です]恵比寿はまた笑顔の顔文字をつける。

 

     ◇◆◇

 

「何邪魔してくれてんだよ」不服そうな声がどこからともなく聞えた。

 スサノオだ。しかし地球は、それほど驚いたりしなかった。こうやって声をかけて来るだろうと、予測はついていたからだ。

「邪魔というか」スサノオはだるそうに息をつきながら続けた。「助けてくれた、てのか」

「あのまま放っておくと、マグマの熱で融けてしまってたからね」地球は答える。「退散してもらおうと思って」

「けど新人たちはまだあそこに残ってるだろ」スサノオは問う。

「対話用の空洞にいない限り、人間を直接扱うことはできないよ」地球は説明する。「出現物と同様の、分子レベルにまで分解するって扱いは」

「マヨイガは分解されたんだな」スサノオはまた問う。「もう奴は出現できないってわけか」

「いや、どうだろうね」地球は比喩的に首を傾げた。「私も出現物がどうして出現するのか、よく知らないんだ」

「ふうん」スサノオは少し考えている様子だった。「また“出現”して新人を攫いに来る可能性も、ゼロじゃあないって事か」

「後は神たちが早々にあの三人を運んで行ってくれればいいだけなんだけど……君は手伝わないの」地球はスサノオに訊ねた。

「俺が?」スサノオは不服そうな声を挙げた。「なんで俺が手伝うんだよ」

「だって君があんな場所まで連れて来たんでしょ、三人を」地球は指摘した。

「ああ」スサノオは悪びれもせず肯定する。「お前と対話させる為の空洞、用意してたんだよ」

「まだ残ってるの?」地球は問う。

「もちろん」スサノオの声に笑いが混じる。「まだあるぜ。お前があいつらを、分子レベルにまで分解できる空間な」



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第54話 持てる全ての力を出し切って考えに考えに考えた結果出した答えはいつも最初の直感のやつ

「おっ、来た来た」結城が背伸びをし、額の上に手をかざす。

 来たのは、恵比寿の言っていた“神舟”と思しき物体だった。

 舟、という名称のついたものではあるが、その形態からは「舟」と呼んでいいものとは到底思えなかった。

 それははじめ小さな綿の塊のように見えた。暗闇の彼方にふわりと白い光が生まれ、音も無く暗闇の中みるみる近づいて来たのだ。最終的に三人の目の前で停止したそれは、白く眩く光輝く、巨大な独楽のように見えた。高さは五メートルを超え、地面(があるとすればだが)に接している面はほんの数十センチ径、上方にいくほど径が広がっている。その設置面と、こちらは十メートル以上の径のありそうな上端との間、ほぼ真ん中辺りから下端まで、これも逆三角形の穴が黒く開く。あたかもそれは、真っ白なのっぺらぼうが出し抜けに口を開けたように見えた。

「うわ、笑った」結城がそう表現したことに対し、他の二人も否定はできずにいた。

「この中に乗れと言うことか」時中は静かにそう述べたが、自ら率先してそれを実行しようとはしなかった。

「大丈夫なのでしょうか」本原も口頭確認した。

[どうぞ、その三角形の入り口から中に入って下さい。中に座席がありますので座って下さい]恵比寿のメッセージが三人を促す。

「わかりました」結城が大きく答え、最初にその神舟に足を踏み入れた。「うひょー、SF映画だよね」声を裏返して感動する。

 入った先は径数メートル程のほぼ円形の室で、壁も天井も白くつるんとしており、特に飾りや窓などもなく、ただ三客の座席が床に無造作に置かれてあるのみだ。その座席というのもまた、綿毛を球形に固めたような白くふわふわしたもので、体重をかけて座ることにいささか躊躇を抱かずにいられないものだった。

 例によって最初に腰掛けたのは結城だった。だがそれは見た目と裏腹に低反発性のもののようで、座り心地良く感じられた。

[では、出発します]恵比寿のメッセージが表示され、すぐに続けて[出発しました]と報告された。

「全然わかんないねえ」結城が周囲をきょろきょろ見回してコメントする。「窓もないし、振動もないし」

「今これは、光速で移動しているということか」時中が誰にともなく問う。

[はい、そうです]恵比寿が文字で答える。

「私たちの体に異常を来したりはしないのでしょうか」本原が確認する。

[ごく短時間の移動なので、問題はありません]恵比寿が文字で請け合う。

「今何時……ああ、もう四時半回ってるのか」結城が自分の腕時計を見て言う。「早く帰らないと、クライアントさんに迷惑かけちゃいますね」

[もう、到着しました]恵比寿が答える。[今、出口を開けますのでもう少しお待ち下さい]

「あれ、もう着いたの?」結城がきょろきょろと周囲を見回して言う。「速いなあ」

「光速だからな」時中がコメントする。「しかし、あの現場にこの乗り物そのままで到着していいのか」

[今はまだ地下の岩石内部にいます]恵比寿が文字で説明する。[出口を通常使う洞窟につなげますんで、一、二分待って下さい]

「クライアント様にはご説明済みなのでしょうか」本原が確認する。「勝手に戻って来て勝手に地下に下りた形になっても良いのでしょうか」

[クライアントには天津君が電話で説明した後、代理で伊勢君が直接説明に来てくれてます]恵比寿は文字で説明した。

「伊勢さんが?」結城が目を丸くする。「へえ、なんか意外」

「確かに珍しいな」時中が独り言のように呟く。「伊勢さんは営業畑の人なのではないのか」

[ここの会社を開拓したのが伊勢君なんですよ]恵比寿はにこやかな顔文字で答える。[今でも繋がりはしっかりありますからね]

「へえー」結城は感心した。「開拓、って恰好好いっすね。フロンティアっぽいすね」

「出口はまだ開かないのでしょうか」本原が話を本題に戻す。「まだここから出られないのですか」

[すいません、もう少しだけお待ち下さい]恵比寿が文字で詫びる。

「ま、焦らずどっしり構えて待とうや」結城が腕組みをして背筋を伸ばす。

 そしてそれきり、恵比寿のメッセージは二度と端末表面に現れなかった。

 

     ◇◆◇

 

 スサノオは、なんだか何もかもが嫌になってしまっていた。

 ――危険予知。自己防衛。行間を読む。視界の隅で状況を捉える……あと、何があるっけかな。

 しばし考える。

 ――そうだな……そうだ、そもそも自分で判断し、決定する。そんなところか。

 それにしても、数え上げてゆくだに苛々する。

 ――一体何が、奴らから奪ったのか。この、本来ヒトに備わっていたはずの能力の数々を。おまけに、自分は護られて当たり前、愛され慈しまれて当然の存在だと信じて疑わないときてる。

 スサノオは苦々しげに舌打ちする。

 ――ああ、もうひとつあったな。

 そして大きく溜息をつく。

 ――権利は主張するが、義務は果たそうとしないってやつ。

 マグマは赤く、灼熱の色に沸き立っている。

 ――たく、反吐が出そうだ。

 スサノオは融解した岩石の中を漂いながら、己の中においてもまた沸き立ち続ける掴みどころのない感情に手を焼いていた。彼の造った空洞は、もろくも崩れ去っていた。ほんの小さな綻びが、光の点のように生まれたと思った次の瞬間にはすべて、灼熱の岩中に呑み込まれてしまったのだ。スサノオは、なんだか何もかもが嫌になってしまっていた。地球に「空洞は残っているのか」と問われた時には堂々と「残っている」と答えたものだったが、その直後にそれはあっけなく、融けて消え去ってしまったのだ。

 ――こいつも、始末に終えないってやつだな。

 また、苦々しく思う。一度傷つけられた構成物が元の姿、状態を取り戻すには、それ相応の時間と繊細適宜なケアが必要なのだ。

 ――面倒臭えっちゃ臭えんだが。

 他にどうする術もない。スサノオは荒々しく息をつき、ごろりとふて寝を決め込んだ。

 ――いや、待てよ。

 ふと、目を開く。とはいえ今はもう依代を持たない身だから――それは地球によって消されてしまったものだ――実際に開く目もないのだが、比喩的に彼はそうした。

 ――ここで“あいつら”をぶち込んでしまえば、空洞構造の強化につながるって事じゃねえのか。

 スサノオはその考えを得た次の瞬間、もうマグマの中からいなくなっていた。

 

     ◇◆◇

 

「出口、開かないねえ」結城が口を尖らせて待ちきれなさそうにそわそわと身じろぎする。

「落ち着いたらどうだ」時中が苦虫を噛み潰したような顔で諌める。「遠足の前夜に寝付けない小学生みたいだぞ」

「――」結城が口を尖らせた顔のまま時中を見る。

「――」時中は目を合わせずにいた。

「ウインナーってさ」結城が問いを口にする。「タコ派? カニ派?」

「――」時中が眉をしかめ結城を見る。

「うさぎ派です」本原が答える。

「うさぎ?」結城が目を剥いて本原を見る。「あれでもうさぎはリンゴじゃないの?」

「りんごもうさぎですがウインナーもうさぎです」本原は真顔で答える。

「えーっ、でもそれじゃあうさぎの天下になっちゃうじゃん? タコもカニも立つ瀬ないじゃん」

「うさぎだけでいいです」本原は真顔で答えた。

「ウインナーはウインナーのままだろう」時中が眉をしかめて言う。「タコだのうさぎだのに変える必要はない」

「えー」結城が納得のいかなそうな声を挙げ、

「食べる時に楽しくならないです」本原が異議を述べた。

「ウインナーは三本線だろう」時中が指を三本立てる。

「三本線って?」結城が時中の三本の指を見つめて問う。

「切り込みを三本入れるということですか」本原が確認する。

「そう、切り込みを三本だ。それがウインナーのあるべき状態だ」時中が喝破する。「タコが食べたければタコを、カニが食べたければカニを入れればいいだけの話だ」

「いやそこはそれ、家庭のお財布事情ってもんがあるからだよ」結城は腕組みをし異論を述べる。「タコはまだしもカニはねえ。カニカマならまだいいけど、でもお弁当つったらやっぱウインナーだよ。うん」

「結城さんはどちら派なのですか」本原が問う。

「俺は斜め半分派」結城が人差し指を立て断言する。「この斜めの部分が長ければ長いほどクオリティが高いのよ」

「タコだのカニだのの立つ瀬はどうなったんだ」時中が批判し、

「食べる時に楽しくならないです」本原が否定した。

「いやいや、甘いよ皆」結城は両手を立て二人を制した。「ウインナーってのはね、あれは弁当におけるコスパ向上の最強アイテムなんだよ。例えばおにぎり」結城は左右の手の人差し指と親指を突き合わせ、三角形を作った。「こう、三角だよね。これをぼん、ぼんと二つ並べてごらん。はいここに、デッドスペースが生まれました」指を動かし、架空の隙間を指差してプレゼンする。「なんか詰めたいとこだよね。ここ、スペースが勿体無いよね。そんな時にははいっ、ウインナー! けど考えてみたまえ」人差し指を立てる。「そこに詰め込むべきウインナーがタコだったり、カニだったり、ましてやうさぎだったり三本線だったりしたとしよう。あらー、おかしいわね、うまく詰め込めないわ、あらー、困ったわ時間がないのに」右手で架空の箸を持ち、左手で頬を押えて困ったお母さんの役を演じる。「タコさんは足が八本もあって邪魔だし、カニさんは顔の右半分が下に隠れて左半分だけ上に覗く形で不細工だし、うさぎさんは下半身が生き埋めになって助けを求めてるみたいで可哀想だし、三本線はそもそもフォルムが卑猥だし」

「馬鹿を言うな」時中が声を大にして反論する。「三本線を入れただけで卑猥になどなるものか」

「斜め半分ならそのスペースに問題なく詰め込めるというのですか」本原が確認する。

「イエス!」結城がウインクして本原を指差す。「斜め半分ウインナーならその下側、つまり丸い端っこの方をおにぎりの隙間に突っ込んでも、斜め部分がちゃんと平らになって見栄えもいいし、蓋も閉めやすい。パーフェクト・ウインナー! ウインナー・ウィン!」両拳を頭上に掲げ声を大にして主張する。

「あり得ない」時中の意見が始まる。「大体おにぎりのすぐ横にウインナーを置くなんて不衛生だ。油分で米がべちゃべちゃになる。下手をすると米が傷んで腹を壊す」

「あれー、そんなこと言ってたら、遠足のお弁当なんてできないよ?」結城が口を尖らせる。「行きにコンビニで何か買って行かなきゃいけなくなるよ? 哀しいぞー」

「私も時中さんと同意見です」本原が右手を小さく挙げて発言する。「おにぎりの横にはお漬物か梅干を入れるべきです」

「ほら見ろ」時中が勝ち誇ったように顎を持ち上げる。「多数決だ。おにぎりの横にウインナーを詰めるのは禁止だ」

「まじか」結城が痛手を負ったような顔で口惜しげに言う。

 場は静かになった。

「出口はまだ開かないのでしょうか」本原が話を本題に戻した。



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第55話 押して駄目なら引いてみな、引いても駄目なら落としちゃえ

「開かない?」天津が厳しい表情で問う。「どういう事?」

「何か、邪魔が入ってる感じだな」酒林が低く呟く。「あの野郎」

「スサノオか」大山が溜息混じりに続ける。

「しつこい輩だ」石上も怒りのこもった声で言う。

「もう『スサノオ』じゃなくていいすよ」伊勢が、拍子抜けするほどに明るい声で言った。

「え?」他の神たちは一瞬驚いたが、「ああ……」とすぐに納得した。

「あの“出現物”野郎」伊勢は声に笑いをすら含んで呼び捨てた。

「あ」大山が思い出したように問う。「クライアントさんの方は、大丈夫そう?」

「あ、はいもう」伊勢が元気良く答える。「全部お任せするからーって、磯田社長が」

「さっすが」住吉が賛辞の声を送る。「マダムキラー」

「俺どっちかっていうと城岡君推しなんだけどね」伊勢が答える。

「あーあのちょっと拗ねたようないっつも斜め下とか見てる感じの子」住吉がさらに答える。

「なんかちょっと守護してあげたくなるよね」伊勢がくすくす笑う。

「まあ」大山が割って入る。「了承もらえたとはいえ、クライアントの業務時間延ばすわけにはいかないからな。急ごう」

「了解」酒林が応える。「鹿島さん、いけそうすか」

「うん、いや」鹿島は肯定して否定した。「スサ……あの出現物が何をどうするつもりなのか」

「まさかさっきのホットスポットに神舟ごと持って行こうってんじゃないだろうな」酒林が推測する。「空洞強化とかなんとかの為に」

「しかし」天津が疑問の声を挙げる。「空洞を造ったとしても、そこに入る新人がいなくなってしまったとしたら意味がないんじゃ」

「やめてよ、縁起でもない」木之花が戦慄の声で遮る。

「ごめん」天津は比喩的に肩をすくめる。

「けどあまつんの言う通りだよな」酒林が続ける。「空洞に入って地球と対話する役割の新人をマグマと一緒に融かしちまったら」

「やめてってば」木之花は金切り声に近い声で遮る。

「ごめん」天津が再度謝る。

「コールドプリュームに、引っ張ってくか」鹿島が提案する。「向こうがホットプリュームまで持って行こうって腹積もりなんだったら」

「コールドプリュームに?」神たちは一斉に繰り返す。

「ああ」鹿島は頷く。「地球システムに乗っからせてもらうって事になるけどな」

「でも、コールドプリュームというとコアの方にまで下ろすって事?」大山が確認する。「大丈夫すか?」

「正直」鹿島はゆっくりと答える。「わからん」

「ええっ」

「鹿島さんにも?」

「まあ確かに、そんなとこにまで手を出したことないもんな」神たちは騒ぎ出した。

「あいつ」伊勢がぽつりと呟く。「何やってんだかな……たく」

 

     ◇◆◇

 

「恵比寿さーん」結城が天井に向かって呼びかける。

 白い壁が湾曲しながら天井まで続くが、窓もなければ昇降口を開くレバーらしきものも付いていない。

「おーい」結城が両手を口の横に当てて再度声をかける。「誰かー」

「何が起こっているのか」時中は苛立ちを隠そうともせず眉根を最大限にしかめて言う。「どうにかならないのか」

「私たちは岩の中にいるのでしょうか」本原が質問する。

「うん」結城が本原に答える。「恵比寿さん、そう言ってたよね」

「ではこのままだと酸素がなくなったりするのでしょうか」本原が再度質問する。

「――」結城そして時中はすぐに回答できなかった。

「これで」本原がウエストベルトからハンマーを抜き出す。「叩いたらまずいでしょうか」三度質問する。

「――」結城そして時中はやはり即答できかねた。

「これは」本原はさらにウエストベルトからデコレーションの施された黒い端末機器を取り出した。「どういう表示なのでしょうか」

「――」結城そして時中は言葉もないまま本原の差し出す端末画面を見た。

 そこには、白い数字が激しく動いていた。激しく数値が上昇していくかと思えば突然ぴたりと止まり、すぐに今度は激しく下降を始める。

「なんだ? この数字」結城が時中ばりに眉根を寄せて端末画面に顔を近づける。

「何を表すものなのか」時中は結城の肩の上から同じく眉根を寄せて端末画面に顔を近づける。

「またマヨイガさまがお越しになるのでしょうか」本原は推測を述べた。

「まさか!」結城は勢い良く否定した。「もういいでしょあの人は。お越しにならなくていいよもう」首を振る。

「何というか、数字がプラス方向とマイナス方向に引っ張り合っているような感じがするな」時中はマヨイガの話には乗らず、冷静に端末画面上の数値の動きを目で追い続けていた。「二つの力が拮抗しているようだ」

「何の?」結城が訊き、

「何のですか」本原が訊いた。

「――」時中は首を傾げた。「妥当なところで言うならば、スサノオと神たちだろうな」

「ほうほう」結城は繰り返し頷く。「俺らを取り合って引っ張り合いっこしてるのか」

「では私たちはどうなるのでしょうか」本原が質問する。

「神さまたちが勝てば無事に出られるんだろうけど」結城が腕組みする。「スサノオが勝ったらどうなるの? マグマと一緒に固められるってこと?」

「ばかな」時中が唾棄する。「正気じゃない」

「まあ、スサノオだもんねえ」結城が溜息混じりに言う。

「――」時中と本原は言葉もなく結城を見た。

「ん?」結城が二人を見返す。

「スサノオはお前ではないのか」時中が問う。

「俺?」結城が自分を指す。「いやいや、違う違う」両手を広げて振り、首も振る。「俺は俺」

「けれどスサノオは自分がスサノオだということに気付いていない可能性が高いと伊勢さまが仰っていました」本原が問う。「結城さんは自分がスサノオだということに気付いていないのではないのですか」

「えー」結城は自信のない声で疑う。「気付いてないこともないと思うけどねえ」

「では気付いているのか」時中が問う。

「いや、気付いてない」結城は否定する。

「ではスサノオだけれど気付いていないのですね」本原が問う。

「えーと」結城は天井を振り仰ぎ目を閉じた。「天津さーん」

「どっちでもいい」時中が結論を出した。「何とかしろ」白い神舟の壁をぐるりと指差す。

「何とかー」結城は目を閉じたまま何かに呼びかけ、それから「あっそうだ!」と目を開けた。「忘れてた」

「何をだ」時中が問い、

「何をですか」本原が問う。

「あのお方をだよ」結城は両腕を天井方向に向けて伸ばした。「偉大なる、母なる地球さま」

「――」時中と本原はすぐに返答できなかった。

「お――い」結城はひときわ声を大にして呼んだ。「鯰――」

 

「うるさいよ」多少うんざりしながらも甲高い声が答えた。

 

「ああ、鯰さま」結城が両手を額の前で強く組む。「どうか私たちをここからお出し下さい」

「やなこった」鯰は即答した。「あたしにゃ関係ない」

「そんな、そこを何とか」結城は組んだ両手を頭上で前後に振りながら請うた。「地球さまのお力でなんとかしていただけないすか」

「岩っちに何しろって?」鯰が問う。「あんたらをその丼みたいなやつから引っ張り出せっていうの?」

「あ、そうそう、そうっす! 丼から!」結城は意志の伝わったことへの歓喜によりますます声を大きくした。「いけますか!」

「ちょっと待って」鯰はそう言ってしばらく黙った。

「よし!」結城は両の手を拳に握り締め叫び、他の二人を振り向いた。

 時中と本原は共に無言で両耳を塞いでいた。

 

     ◇◆◇

 

「神舟が」神たちは叫んだ。「融けていく」

「いや」木之花が絶望の悲鳴を挙げる。「やめて」

「地球がやってるんだ」天津もかすれた声で言った。「どうして」

「鯰」恵比寿が池に向かって叫ぶ。「何やってんだ地球は」

「あんたらがもたもたしてるからでしょ」鯰はうんざりしたような声で答えた。「新人たちが岩っちに頼んでくれって言うからそうしただけだけど」

「やめろ」酒林が叫ぶ。「今あの子らを出したら熱で融かされる」

「あーそれはしないって」鯰は呑気な声で答えた。「岩っちが言ってた」

「え?」神たちは拍子抜けした。「それはしない?」

「岩っちのシステムの中に人間を加えるのは御免だってさ」鯰は地球の言葉を伝えた。「岩っち、ちょっと怒ってるかも」

「――」神たちは誰も、すぐに返答できなかった。

「あの子たちは」木之花が茫然と問う。「どうなるの」

「さあ」鯰は甲高い声で短く答えた。「どこかの洞窟に解放されると思うけど。後はよろしくねー」

「おい」

「どこの洞窟だ」

「地球に聞き出してくれ」

「鯰」神たちは口々に要望を叫んだ。

「おたくらに教えたらスサノオにもばれるから教えないってさ」鯰が答える。「まあ、運が良けりゃあの子ら自身で戻って来るさ」

「おい」

「待て」

「教えてくれ」

「鯰」神たちは口々に要望を叫んだが、鯰からの回答はなかった。

「まずいな」鹿島が眉を寄せる。「スサノオの手は防げるとしても、他の出現物が出たら」

「どこに」天津が苦しげに声を絞り出す。

「プレートすべてをサーチするか」大山が焦燥の声で言う。「しかし時間がかかり過ぎる」

「まさかマントルじゃないよね」恵比寿がかすれた声で言う。

「くっそ、せめて何かヒントとか手がかりとか」住吉が歯噛みする。

「大丈夫す」伊勢が皆に声をかける。「あいつがきっと動くす」

 神たちははっと顔を挙げた。

「ここで動かなかったら、ぶっ飛ばすす」伊勢は目を細めて言い放った。



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第56話 潤っていますかあなたの心と肌そして地球深部

 自分はあまり、この仕事に向いていないのかも知れないな――そんなことを、たまに思う。そして苦々しく眉を寄せ首を振る。そんなことを思うほど、時間に余裕があるわけではない。だが、気泡がぽこんと浮かび上がってくるように、その思いは突然姿を見せるのだ。

 この仕事――人の上に立ち、指導鼓舞して会社の運営、経営を司るという、仕事だ。この会社が目指すもの、その業務そのものというのは、好きなものだし面白いと思う。だがそれを“趣味”でやるのと“仕事”として、しかも“企業経営者”という立ち位置で“利益”を上げながら、さらに“人”を“雇用”しながらやるのとでは、気が遠くなるほどに違う。世界が、乖離し過ぎている。自分はあまり、企業経営者に向いていないのかも知れないな――そんな思いがどうしても、封印しきれずにぽこん、と浮かび上がる。

 本当は、もしも希望が叶うのなら、ヘルメットを被り地下に下りて行き作業に当たりたい。可能であれば岩を掘って鉱物を取り出し採集したい。岩石というものを眺めたり触ったりする事が、好きなのだ。

 けれど、今自分が経営者の位置に就いているこの企業の創始者である祖父、そしてそれを引き継いだ父、さらに現在会長として座している兄からは、経営者は現場に出るなと言われてきた。危険だからだ。

 経営者の身に万一の事があったら、従業員たちは路頭に迷うことになる。社会的にも多大なる影響を与える。株価にも。最悪の場合、経営が立ち行かなくなる。経営者である以上は地上にいて、企業内外を問わず常に関係各方面とコンタクトを取り、潤滑な業務運営をはかり、さらなる成長と発展そして利益を追うべく目を皿のようにして機を狙い続けなくてはならない。そこには、岩石の手触りも匂いも音も、存在していなかった。

 皮肉なことに、自分は一族の中でも飛び抜けてそういう“機”を読む才に長けていたようだ。対人関係を築くことが、比較的得意だからだ。対人関係――特に、社会においては重き存在とされてきていた、男性たちと。

 愛嬌もあり、会話のセンスも良い自分は、そういう存在の者たちに可愛がられた。けれど企業経営者と名乗り始めた途端、彼らの自分を見る目、その視線は、がらりと変った。もう自分は、可愛い女の子として見られることなど一生ないのだ。ある方面では上司として、ある方面では協力者として、そしてある方面では競争相手として、温かい目もあれば冷酷な目もあるがいずれにしても、経営者としての力量を測るという目で見続けられるしかないのだ。自分は貢がれる側でなく、逆にどれだけ利益をもたらしてくれるのかを問われる側になったのだ。

 初めて伊勢照護が磯田建機にやって来たのは、何年前だったろうか。数年前――十数年前? もっと前か――否、伊勢は三十になったかならないか位のはずだ、新人営業マンとして来ていたとしても、七、八年前くらいのものだろう。しかし、不思議なことにもっと前から――遥か昔から――知っているような気が、する。人懐っこい性格の男だからか。

「重力波の観測かなんかすか?」伊勢は本社オフィスに展示してある作業機械を見て、うわべだけでなく心から興味を持ってくれたようだった。

「その下請けの下請けの下請けよ」磯田は内心、嬉しくもありくすぐったくもあり、多少戸惑いと不安も覚えていた。

 この青年の提案は、どうだろう。地下作業に先んじて、岩盤の安全性を確認し保証する。つまり、掘ると危険な場所、立ち入り禁止とすべきエリアをあらかじめ指定しセーフティマップを作成し提示する。万一御社の業務中に落石などの事故が起きた場合、事前の確認不足という事で全面的に自分たちが補償する。簡単にいうと、そういう提案だった。

「まあ、お守りみたいなもんすね。破魔矢とか」伊勢はそう言って、少年そのままの笑顔で笑ったのだ。

 その笑顔だけで、自分の心は半分――否それ以上、決まった。無論それは誰にも明かしたことのない、自分の心の奥底にしまってある事実だ。

「お祓い儀式の、地質学バージョンと思ってもらえれば」さらにそんな説明も、伊勢はした。

 磯田は面白いと思い、そう口にし、それから細部の条件をあれこれ詰めて、今日のように“お祈りさん”たちがやって来ては地下で調査をしてくれるようになったのだ。今までやって来た“新人”たちは、すべて男子ばかりだった。皆希望と活力に満ちた、元気の好い好青年たちだった。だが今回、二十歳そこそこに見える女子が一人、混じっていた。

 磯田は正直なところ、不審に思わざるをえなかった。女子に、できるのか? それは偏見と言われればそうであろうし、嫉妬、と言われても否定はできないかも知れない。華奢な体に、トレーナーとジーンズ、トレッキングシューズという軽装で、ヘルメットもウエストベルトも実に重そうに見え、どこか痛々しくさえもある。

 磯田はあまりそちらを見ないようにした。自分がやりたくても出来ない事を、この小柄で危なっかしい娘がこれからやるのだという事が、やはり口惜しく面白くなかった。どうせこの娘が事故に遭うことなど、決してありはしないのだ。周囲の男たちが全力で守ってやるに違いないのだから。彼女は、護られる存在なのだ。自分とは違って。どうしようもない気持ちだ。そんな気分の中でも、業務は待ってくれたりしない。

 そしてそれから数時間後、何かトラブルが起きたらしく“お祈りさん”たちが一旦現場を離れたという報告が相葉専務から来た。だが天津が対処に当たっており、すぐに現場に戻る見込みだという話に、磯田はただ頷いた。彼らに全幅の信頼を寄せているのだ。それだけ彼らは、しっかりとした誠実な仕事をしてくれていた。

 相葉や城岡は不安そうに時折窓からエレベータの方や門の方を見やっていたが、無論特に変化もなく、報告も連絡も来なかった。だが一時間後、天津から電話が入った。車が動かなくなり、現場に戻るまで四十分要する見込みだという連絡と、これ以上申し訳なさそうな声はないと言うほどに申し訳なさそうな、謝罪の言葉。磯田は気分を害するどころか、どこか可笑しくなるほどだった。「気にしなくていいから、気をつけて帰っていらっしゃい」笑いながら、天津にそう告げた。

 そしてつい今しがた、伊勢が電話を寄越し、さらにこの現場事務所にやって来たのだった。事務の畑中が胸ときめかせ頬を染める様子が、そっちを見ていなくても判った。

 ――まったく、仕事も半人前の癖にこういう所だけは目ざとい。

 苦虫を噛み潰す思いは決して伊勢の前では顔に出さない。出すとしたら彼が帰った後だ。

「お世話になります。すいません、うちの新人たちがご迷惑かけてしまってて」伊勢は笑顔のあいさつの後、困りきった顔になって陳謝した。

 その困った顔さえも、磯田に安心と潤いをもたらす以外の何物でもないのだ。

「ううん、そんな事ないわよ。よくやってくれてるわよ、お宅の新人さんたち」磯田は、現場を見たわけではないが差し向き伊勢の心を解きほぐす言葉をかけてやりたいと思い、そうした。

「すみません、本当」伊勢はもう一度、困った顔のまま謝りながら笑う。「代車の手配に時間かかってしまったみたいで、もう今こちらに向かって来てるようなんで、もう少しで戻ると思います」

 そんな会話をしていた時、実はもうすでに新人たちが神舟に乗って地下に戻って来ていた事を、当然ながら磯田は知らなかった。そしてその後その神舟が、再びリソスフェアの中で引っ張りだことなり、最終的にその外殻を融かされ消されたことも。

 

     ◇◆◇

 

「どこだあ、ここ」結城が周囲をきょろきょろと見回す。「でもなんか、最初に下りて来たクライアントさんとこの洞窟に似てるよね」

 三人が今立っているところは、懐かしささえ呼び覚ます岩石に囲まれた暗い地下洞穴の中だった。整備もされていない、剥き出しのごつごつとした足下。当然灯りなどもなく、三人のヘルメットのライトが唯一の光源だ。もしここでそれが消えたなら、真の闇が彼らを襲うことになる。

「どっちに向かえばいいのか」時中が前後を交互に見遣る。

「神さまたちとは連絡がつかないのでしょうか」本原が端末の画面を見つめながら問う。

「おーい」結城が上方に向かって呼びかける。「誰かいませんかー」

「鯰はどうなんだ」時中が訊く。

「スサノオさまはいるのでしょうか」本原が訊く。

「鯰ー」結城が呼ぶ。返事はない。「スサノ」

 

「誰だ」

 

 それまで聞いたことのない野太い声が雷鳴のように響き、結城の呼びかけを遮った。三人は言葉もなく凍りついた。

 

     ◇◆◇

 

 ――また、出たな。

 地球は比喩的に瞬きした。

 ――部分熔融が、何か関係あるのかな。

 地球はそう思った。岩石が熱で融け始め、固体と液体の相が入り混じっている状態の時、液相の岩石の成分は元の固体の岩石の時とは異なる。それが冷却され固化すると、元とは組成の違う岩石となる。マントル物質のカンラン岩が、海洋地殻物質の玄武岩に変るというものだ。

 ――それから、熱水循環と。

 マグマによって熱くなった水が海の中に噴出するとき、海洋地殻に含まれる成分が削り取られ持って行かれる。

 ――神たちが人間に、あの新人たちにさせようとしている“イベント”というのは、結局それに似た行為なんだ。

 対話の為の空洞を造る時、岩石を一度融かし、空洞を穿ち広げ、周囲を固める。それを行うのは地球だが、それは本来の地球の物質循環システムからは当然逸脱した行為であり、その逸脱を助ける神たちの“非物理学的力”がなければ実現しないものだ。

 神の、助け――熱水の吹き出るあの深海底で有機化合物を生成した時のような、ほんの偶然とも思えるささやかな“変化”だ。そう考えると、強制的に岩石を融かしまた固める、その時に生成された物質の凝縮したものが、いわゆる“出現物”なのだと考えてもおかしくないのではないか。

 さらにその生成物であるマヨイガが「新人たちを空洞の防護壁に利用すれば」というような発想をし、あまつさえ実現しようとしたというのも、彼にしてみればごく当たり前の考察の流れの結果生まれた、奇妙な理屈なのだろう。

 ――そして。

 今また、奇態な“出現物”が、出現したようだ。自分が神舟を融かした後、新人たちを囲む周囲の岩石をすぐに固めた際に、生成された“物質”なのかも知れない。いってみれば、マヨイガの仲間だ。

 ――またこいつも、新人たちを融かそうなんて言い出すのかな。

 地球は比喩的に、ふ、と嘆息した。



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第57話 昔はそんな罵詈雑言もあったねえ今じゃ省略形で罵られる有様だよ

「誰ですか?」結城が顔を上に向けて訊ねた。

「誰だ」野太い声はもう一度問いかけてきた。

「俺」結城は自己紹介をしようとして詰まった。「私たちは新日本地質調査の社員ですが」

「何だ」野太い声はまた問いかけた。

「はい?」結城は問い返した。「何だ、と仰いますと?」

「何の用だ」

「えーっと」結城は他の二人を見た。

 時中と本原は特に何もリアクションせず、ただ結城を見返した。

「特に何も用はありません」

「なら帰れ」

「はい」結城は頷いた。「帰ります。帰りたいんですが、どこから帰ったらいいでしょうか」

「何を言っとる」野太い声は苛立ちを帯び始めた。「新手の押し売りか」

「はい?」結城はまた他の二人を見た。

 時中と本原は返事せず上を見上げた。

「いや、押し売りじゃないっすよ俺ら」

「押し売りが自分のことを押し売りですと言うものか。馬鹿」野太い声は暴言を吐いた。

「馬鹿って何すか」結城はむっとして言い返した。「あんたこそ誰っすか」

「儂はここの経営者じゃ」野太い声はふんぞり返って威張りくさるような響きで自己紹介した。「磯田源一郎。覚えたか若造」

「磯田源一郎?」結城はきょとんとした顔で他の二人を見た。「誰、有名人?」

「磯田社長に関係のある人か」時中が呟いた。「人というより、出現物だな」

「ここの経営者ということは」本原が確認した。「洞窟を経営していらっしゃるのでしょうか」

「磯田社長って誰だっけ」結城がいまだきょとんとした顔で他の二人に問いかけた。

「クライアントだろうが」時中が眉をしかめて答えた。

「私のおばあちゃんと同じ匂いのする人です」本原が結城にわかりやすい説明をした。

「あ、あーあー」結城は合点が行き大きく数度頷いた。

「お前ら三人も雁首揃えて来やがって。物を売るのに一人じゃ心細いのか。不甲斐ない奴らよまったく」野太い声はますます見下したような色を帯びてきた。

「うわ、何このパワハラ親父」結城は上を見てまた他の二人を見た。

「我々を何かの営業と見ているのか」時中が推測する。

「三人いるというのがおわかりになるのでしょうか」本原が確認する。

「えーと、磯田源一郎さん」結城が出現物をフルネームで呼ぶ。「あなた今どちらにいらっしゃいます? お姿が見えないんすけど」

「はあ?」野太い声は裏返った。「儂はここにおるわ。お前の目は節穴か。このメクラが」

「うわ、何このパワハラ親父」結城はもう一度言って他の二人を見た。

 時中と本原は反応しなかった。

「パーハラ親父とは何だ」野太い声は怒鳴った。「貴様儂を馬鹿にしとるのか。何だ、パーハラ親父って。クルクルパーのパーハラか」

「あ、いや、パワーハラスメントのパワハラです」結城は上を向いて訂正した。「馬鹿になんてしてません。パワハラは上の人に対する敬称です」

「敬称なのか」時中が疑問を口にする。「蔑称ではないのか」

「蔑称なのですか」本原がさらなる疑問を口にする。「罪名ではないのですか」

「この糞餓鬼ども」野太い声は歯に衣を着せぬ勢いで罵詈雑言を吐き散らした。「とっとと家に帰って寝ろ。寝小便たれどもが」

「いや、だからどこから帰ればいいのかって話っすよ」結城が肩をすくめて上に向かい叫ぶ。「どこにいるんすか。ここ、どこなんすか」

「一度にあれこれ質問するな。馬鹿」

「馬鹿ってなんすか」

「きりがないな」時中が呟き、

「姿が見えなくても出現物になるのでしょうか」本原が確認する。

「経営者は洞窟には行っちゃいかん」野太い声は出し抜けにそう言った。「危険だからな」

「ああ」結城は目を丸くした。「そうなんすか」

「経営者以外なら危険でもいいのか」時中が疑問を口にする。

「全員危険なのは同じなのではないのですか」本原も確認する。

「社員には代わりがなんぼでもおるが、儂のような経営者には代わりがおらん」野太い声は断言した。

「なんですと」結城が上に向かって叫んだ。「なんちゅうブラックっすか」

「あり得ない」時中が首を振る。

「使い捨てのコマなのですか、私たちは」本原が確認する。

「そうだ。コマだ。ネジだ。貴様らはちーっぽけな、歯車だ」

「うわ、言い切ったよこの人」結城が茫然として他の二人を見た。

 時中と本原は反応しなかった。

「文句があるのか」野太い声は言った。「あるならここまで来てみろ」

「だからここってどこなんだってば」結城は腕組みし、すぐに解いて「あ、そういえばあれに出てるのかな。端末」とウエストベルトを探る。

 時中と本原も倣う。端末の画面は真っ黒で、文字も記号も何も表示されていなかった。

「ええー」結城は口の端を下げ、端末の表面を指でかつかつとつついたり、振ったり、スワイプしてみたりしたが、状況は何ら改善しなかった。「充電切れ?」

「神力切れではないのか」時中も自分の端末を苦々しげに見下ろしながらコメントした。「万事休すだ」

「バンジキュウスって何ですか」本原が質問した。

「ジ・エンドって事だよ」結城が人差し指を立てて説明する。「もう何もなす術がないじゃんって事」

「万事休すも知らんのか。学のない奴はこれだから困る」野太い声が馬鹿にしたようにせせら笑った。

 本原は無表情に上を見上げた。

「あーそれ、やめといた方がいいっすよ社長」結城が上方に向かって手を振り警告した。「本原さんに下手な口きくとクーたんの呪いにかけられますよ」

「クーたん?」野太い声が訊ねる。

「クーたんは呪いはかけません」本原が否定する。

「それよりこの先、どうすればいいのか」時中は洞窟の周囲をぐるりと見回し眉をひそめる。「我々の今後の方策を早急に練る必要があるな」

「うーん」結城は腕組みをし、頬に手を当てた。「どうしよう」

 

「クーたんに助けてもらえ」声がした。

 

「え?」結城が上を見て訊き返し、

「何」時中が結城を見て訊き返し、

「まあ」本原が背後を振り向き口を押さえた。

「社長?」結城が呼びかける。が、返事はなかった。「あれ、今磯田社長が『クーたんに助けてもらえ』って、言ったよね?」他の二人を見て訊く。

「その声は、お前の方から聞えてきたぞ」時中が結城を指差して答える。

「私は、すぐ後ろから聞えてきました」本原は自分の後ろを肩越しに指差した。

「え」結城は目を丸くし「社長?」ともう一度上方に向かって呼びかけた。

 返事はなかった。



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第58話 人という字は互いに支え持ち上げフォローし信用し腹を割り拒絶し合って、出来ている

「ん?」磯田はふと顔を上げ、窓の外を見た。

「どうかしましたか?」伊勢が直ぐに反応する。

「――」磯田は少しの間動きも表情も止めて窓を見ていたが「ううん」と首を振りまた伊勢の方に向き直った。「空耳みたい」

「そうすか」伊勢は悪戯っぽい顔で興味を示した。「またオーラが見えたとかじゃないんすか、社長の特技の」

「やあねえ、特技じゃないわよ」磯田は眉をしかめながらもまんざらでもなさげな笑いを浮かべ、伊勢の腕を軽く叩いた。

「でも洞窟の方からなんか聞えたとかでしょ?」伊勢は少し背伸びをして磯田の見ていた窓の方を見る。「オーラでしょ、社長の感性鋭いから」冗談交じりながらも磯田の自尊心をくすぐる。

「うふふ」作戦通り磯田は嬉しそうに笑った。「なんかさ、私の祖父の声みたいなのが一瞬聞えたのよ」

「えっ」相葉が顔を引きつらせる。「それって、まさかゆ、幽霊」

「オーラすよ、専務」磯田が相葉を睨むより先に伊勢がフォローする。「怖いやつじゃなくて」

「そもそもこの会社の創業者だからね、私の祖父は」磯田は冷たく説明する。「会社の経営がうまくいってるかどうか、見に来ててもおかしくはないわよ」

「え、あ」相葉は目を泳がせ、唇を震わせた。

「いいすね」伊勢は大きく頷く。「護ってくれてるんでしょうね、皆を。危険から」

「そ、そうですよね」相葉は伊勢の言葉にすがりつく勢いで何度も頷いた。「護って」

「ふん」磯田は席を立ち窓に近づいた。「ちょっと、下りてみようかしら」エレベータの方を見ながら呟く。

「え」伊勢は隣に立ちながら磯田の横顔を見た。「地下にすか」

「ええ」磯田はにっこりと笑った。「君も来る?」

「俺もすか」伊勢は笑顔を返しながら素早く社の者たちの意見を確認した。

 

「磯田社長、出現物に気づくの鋭いからな」大山が言う。「なんか出てきてるのは間違いないだろう」

「しかし、創業者の磯田氏が出て来てるって、本当すかね」伊勢が問う。

「うーん、声まで聞えたって言ってるからなあ」住吉が考え込む。

「下りて確かめてみるのもよかろう」石上が促す。

「行きますか」伊勢はいつもの軽快な調子で頷く。

 

「是非ご一緒させていただきたいす、社長」伊勢は太陽のように笑って言った。

「伊勢君に靴出したげて」磯田は畑中の方に少しだけ顔を向け指示した。

「あっ、はい」畑中は慌てて立ち上がりロッカー室へ小走りに移動した。

「うわー、下に下りさせてもらうの久しぶりすね。楽しみす」伊勢は無邪気に喜んだ。そうしながら引き続き社の者たちと打ち合わせを続けていた。

 

「新人君たちもいるのかな」鹿島が問う。

「どうっすかね」住吉が首を傾げる。「いてくれるといいっすけどね」

「そうだな」大山も言う。「無事でいてくれるといいが」

「大丈夫す」伊勢が請け負う。「見つかり次第、合流するすか」

「いや、あまつんとサカさん今依代なくしちゃってるから、新人ともども洞窟奥にまで進んでる体でいこう」大山が判断を下す。「指導者不在で新人だけが洞窟内にいるってのも、不信感招きかねないから」

「了解す」伊勢は答える。「じゃあ俺は磯田社長の祖父さんに挨拶する位で、その間全力サーチでお願いするす」

「了解」

「わかった」

「承知した」神たちはそれぞれ返答した。

 

     ◇◆◇

 

「クーたんに助けてもらうって、どうするの」結城が本原に訊く。

「わかりません」本原は無表情に答える。

「わからないのか」時中が腕組みする。「通常どのように祈念や祭事を執り行っているんだ」

「特に何もしません」本原は無表情に答える。「クーたんは汎精霊です」

「あーそっか、別にお供え物して願い事を叶えたりするわけじゃないのか」結城が納得する。

「しかしそれならどういった手順を踏めば助けてもらえるんだ」時中が食い下がる。

「大丈夫だよ、トキ君」結城が時中の肩に手を置く。「俺が何とかするよ」

「――」時中は目を細めて結城を見た。「信用できるものか」

「ええっ」結城は本原のように手で口を押さえた。「どうしてなのでしょうか」裏声で質問する。

「口では何とでも言えるからな」時中は回答した。

「そんなことない」結城は大きく首を振った。「俺は心に思ったままを言ってるよ」

「心でも何とでも思えるからな」時中は捕捉回答した。

「ええー」結城は目をぎゅっと閉じた。

「お前は信用できない」時中は繰り返した。

「俺は、トキ君のことを信じてるよ」結城は両手を時中の方に差し出して告げた。

「――」時中は眉根を強く寄せ結城を見た。

「さっき俺がワゴン車のドアで頭打ったとき、トキ君痛そうな顔してくれただろ。だから」

「――」時中は一旦愁眉を開いたがまたすぐ眉根を寄せる。

「俺はトキ君を親友だと思ってるし」結城は自分の心臓の辺りを親指で指した。「トキ君を信じてる」

「――」時中は返答せず横を向いた。

「クーたんに助けてもらえと言った方はどなたなのですか」本原が言葉を差し挟む。

「誰だろうね」結城は本原の方を見た。「本原ちゃん」

「その呼び方はやめて下さい」本原は真顔で拒否の意を示した。

「ええー」結城は亀のように首を肩の間に引っ込めた。

「ではさっきの私の呼び方もやめてもらおう」時中が便乗して拒否の意を示した。

「ええー」結城は口を手で押えた。「まあ、そんな」裏声で嘆く。

「スサノオさまなのではないのですか。本物の」本原が話を元に戻す。

「スサノオ?」時中が眉を寄せ、

「スサノオ?」結城が口から手を離す。

「はい」本原が頷く。

 

「クーたん連れて来てやったぞ」声が答える。

 

 三人ははっと目を見合わせた後それぞれに周囲を素早く見回し、

「何処だ」

「誰だ」

「クーたんがいるのですか」それぞれに問いかけた。

 

「ちょっと、どこよここ」甲高い声が反響する。

 

 三人は声のした方、皆の足許から数メートル離れたところの岩面が、がらがらと音を立てて割れ、崩れるのを見た。

「うわ」

「何だ」

「クーたんですか」

 

 ぼこっ

 

 最後に何か水泡が浮かび上がるような音がして、その次に岩盤上に開いた穴から水が溢れ出し、さらに穴の中から、黒く光る丸味を帯びた形のものがぬるりと姿を現して穴の淵にべちゃんと乗り上げた。

「うわ」

「何だ」

「――」三人はそれを凝視し、それが何かをすぐに悟った。

「鯰?」結城が問い、

「鯰か」時中が確認し、

「――」本原は無言だった。



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第59話 帰りにくい職場には行きたくない

「え」結城が、洞窟内に出現した黒いものを指差して問う。「クーたん、さん?」

「違います」回答したのは黒いものではなく、本原だった。「クーたんじゃないです」

「“クーたんを連れて来た”と言ったのは誰なんだ」時中が疑問を口にする。

「何、あんたらだけなの?」黒いもの――鯰は問いかけてきた。「神はどこへ行ったの?」

「神は消えました」結城が神妙に答える。

「ふうん」鯰は相変わらず甲高い声で答え、それから右に左にと身をよじり、周囲の様子をうかがった。鯰が動くたび、みちゃ、みちゃ、と音がする。「スサノオは?」鯰はまた問いかけた。

 時中と本原は、結城を見た。結城は目を丸くして二人を交互に見返した。

「いや、あんたじゃなくて」鯰はみちゃっと結城を振り返り付け足した。「あの出現物の方の」

「え」結城がさらに目を丸くして鯰を見、

「出現物?」時中が眉をひそめて鯰を見、

「神さまではないのですか」本原が口を押えて鯰を見た。

「さあ」鯰は小さな池のほとりに身体を半分のぞかせた形で小首を捻った。「岩っちは、神も出現物なのかとかなんとか呟いてたけど」

「岩っちって、地球さん?」結城がさらに目を丸くして訊き返し、

「神も出現物なのか」時中がさらに眉をひそめて訊き返し、

「神さまではないのですか」本原が口を押える手を増やして訊き返した。

「でも、そんなこと言い出したらそもそも生物ぜんぶが出現物なのかも知れないし、とか。もしかしたら岩っち自身も出現物なのかも知れない、とか」

「うひー混乱する」結城が頭を抱え、

「哲学的命題だ」時中が首を振り、

「私たちは皆兄弟なのですか」本原が頬を押えた。

「てか、なんであたしこんなとこに来ちゃったんだろ、突然」鯰は出し抜けにひときわ甲高く叫んでぼちゃんと水中に潜った。

「あっ、クーた、鯰さん」結城が慌てて池に走り寄る。

「待て」時中が制止をかける。

「鯰さまは会社にいたのではないのですか」本原が問う。

 結城と時中は動きを止め、本原に振り向いた。

「そういや、そうだよね」結城が池を見下ろして答える。「てことは」

「鯰について行けば、社に戻れるのか」時中が推測を述べる。

「泳ぐのですか」本原が問う。

「ていうか、潜水」結城が回答し、三人ははたと目を見交わし合った。

「結城の趣味だな」時中が話を展開させる。

「俺?」結城が自分を指差す。

「結城さんが潜って会社まで行って下さるのですか」本原が問う。

「まあ、やってもいいけどでも、トキ君と本原ちゃんはどうすんの」結城が二人を交互に指差す。

「神をここに連れて来ればいい」時中が答え、

「その呼び方はやめて下さい」本原が拒否した。

「だめだ、戻れない」鯰が再び甲高く叫びながらぼちゃんと水から飛び上がり、池の傍にべちゃんと上半身を着地させた。

「あ」結城が目を丸くして鯰に振り返る。「お帰り、なさい」

「岩っちー」鯰は岩天井に鼻先を向け甲高く呼びかけた。「聞えるー?」

 特に何も変化はなかった。

「やっばいなこれ」鯰はべちゃっと池の傍に横たわりながら言った。「なんでこんなとこに来たんだろあたし」

「えと、水中どうなってんすか」結城が訊く。「行き止まりっすか」

「行き止まりではないんだけどね」鯰が説明する。「少し先に、メルトがある」

「メルト?」結城が訊き返す。

「うん」鯰が頷く。「融けた岩石」

「え」結城が目を丸くし、

「マグマのことか」時中が眉をひそめ、

「まあ、すごい」本原が頬を押える。

「ここ多分、あれだよ」鯰が推測を述べる。「熱水噴出孔のとこ」

「なんすか、それ」結城が訊き返す。

「地球上で最初に生命体が生まれたとこ」鯰が回答する。

「なんですと」結城が叫び、

「マリアナ海溝の底か」時中が呟き、

「まあ、そんな」本原が溜息混じりに囁く。

「確かスサノオが、あんたらを連れて行こうとしてた所」鯰が付け足す。

「スサノオってあの、天津さんの依代着てた」結城が確認し、

「出現物か」時中が確認し、

「神さまではない方ですか」本原が確認した。

「はー」鯰は大きく溜息をついた。「残業かあー」

「残業?」結城が聞き返し、新人たちは互いに目を見交わし合った。

「そうだよ、もう池でのんびりまったりしてていい時間だったのにまたこんなとこまでいきなり飛ばされてさー、ないわー」鯰は愚痴をこぼし始めた。

「え、そんな時間なんすかもう」結城が確認し、

「我々も残業扱いになるのか」時中が確認し、

「何時までの残業になるのですか」本原が確認した。

「あんたらの場合、死ぬまで残業ってことになるのかもね」鯰は甲高くそう言い、けらけらと笑った。

「なんすか、それ」結城が叫び、

「洒落にならん」時中が苦虫を噛み潰したような顔で言い、

「労災プラス残業代になるのですか」本原が確認した。

 

     ◇◆◇

 

「ん」鹿島が池の方を見る。

 恵比寿も顔を上げ、鹿島を見、その視線の先の池を見る。

「おかしい、な」鹿島は呟きながら立ち上がり、池に近づく。

「どうかしましたか」恵比寿は訊くが、鹿島の返答はない。

 だが恵比寿自身も、その“異変”には半ば気づいていた。瓢箪が、軽い。鹿島の要石(かなめいし)の力には及ばず、ほんのわずかの力添え程度ではあったが、池の中の鯰を抑えつけておく力が、空振りしている感がある。つまりそれはどういうことかというと、

「鯰が、いない」鹿島が独り言を言った。

「まじすか」恵比寿は半ば予測した事が的中したと知り椅子から立ち上がった。

 鹿島は振り向きもせず、池の傍に佇みじっと水中を見下ろしていた。

 

「社長」木之花がPC画面を見たまま大山に声をかける。

「ん」大山はPCからすぐに目を離し木之花を見る。

「新人さんたち、今回出張の扱いで処理していいんですよね」木之花は確認する。

「うん、もちろん」大山は頷く。

「じゃあ」木之花がキーボードを少し操作すると、プリンタから紙が刷り出された。席を立ちそれを取り出して、大山のデスクに置く。「残業代プラス出張費の見積もりは、これになります」

 大山はA4版書式を持ち上げ、その数字を見、一度ゆっくりと瞬きをし、またしばらく黙ってその数字を見つめ「――わかりました」と小さく答えた。



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第60話 ダメダメになっていく過程

「これ」酒林が唸るように呟く。「どうなってんだ」

「ああ」天津も苦悩の声で返す。「きりがない……というか」

「どういう、現象なんだ?」酒林は、依代の姿であれば首を傾げているのだろうと思われる声音で誰にともなく問う。

「うん」天津も同じく、依代の姿であれば眉をひそめているのだろうと思われる声音で返す。「この洞窟……存在位置の座標が、あっちこっちものすごくぶれてる」

「本当すね」住吉が同調する。「磯田建機の地下と、深海底の間で行ったり来たりしてる」

「つまり我々と、スサ――出現物の間で今、この洞窟自体の取り合い、引っ張り合いが続いているという事か」石上が結論する。

「しかしそれにしてもだ」酒林が納得のいかない声で続ける。「あまりにも位置が、ぶれ過ぎる。我々が引き戻そうとするのは磯田建機の地下へだが、それを引き戻そうとする力はあっちこっち違う所へ持って行こうとしてる。海嶺だ海溝だ、でたらめに」

「いや、多分これは」大山が答える。「四十億年前の生命発祥の場所を選んで、巡ってるんだと思うよ」

「生命発祥の場所?」神たちは驚きの声を挙げる。

「ああ」酒林が茫然と呟く。「それで、か……熱水の出口の下ばかり選んで引っ張って行こうとしてるわけだ」

「そう」大山が、どこか遠くを見てでもいるかのような声で続ける。「我々が――最初に手をつけた、所だ」

 

「ん」鯰はもう一度水中を見下ろし、ぼちゃんと沈んだ。

「どうしたんすか」結城が波打つ水面に向かって問いかける。

 数秒後、ばしゃんと鯰はまた飛び上がって池の淵に半身を乗せた。「変なの」甲高くコメントする。

「何がすか」結城が訊く。

「さっきあったメルト、今もうなくなってる」鯰が答える。「今うちら、あの嫌な婆あんとこの地下にいるみたい」

「えっ」

「本当か」

「まあ」三人はそれぞれ驚いた。

「“嫌な婆あ”ってだけで誰のことかわかんの?」鯰が甲高い声で確認を取る。

 新人たちは互いの顔を見合わせ、鯰の方を向き、それぞれ無言で頷いた。

「てことは、今この近くになら神がいるんじゃないのかな」鯰はみちゃみちゃと左右に身体を捻りながら辺りを見回した。「ちょっと呼んでごらんよ」

「天津さーん」結城が口の左右に手を当て研修担当の神の名を呼んだ。

 他の二人は無言で耳を塞いだ。神の声は聞えなかった。

「岩っちー」鯰も鯰で地球に呼びかける。

 しかし地球の返事もやはりないようだった。

「いないのか」時中が眉をひそめる。

「水に潜ってもだめなのでしょうか」本原が池を見下ろす。

「そうか、行ってみよ」鯰がぼちゃんと水中に潜る。

 そして鯰はそのまま戻らなかった。

 

「そうだとしたら」酒林が慎重に考えを述べる。「相手は“自称スサノオ”だけじゃない、って可能性もあるぞ」

「え」天津が驚きの声を挙げる。「だけじゃない、って……他に誰が?」

「もしかしたら」酒林はますます慎重に答える。「マヨイガ、とか」

「えっ」神たちは一斉に驚きの声を挙げた。

「いや、あり得ないこともない」大山が後を続ける。「マヨイガに限らず、他の出現物たちも関わって来てるのかもな」

「出現物がこぞって」住吉が言い、

「新人たちを取り込もうとしているのか」石上が言い、

「何のために――」天津が持てる知識を総動員して推論をまとめようと試みた。

 

「ん」鹿島が池を見下ろしたまま、また声を挙げた。「戻ったか」

「あ」恵比寿は目を見開いた。「戻って来ましたか」確かに恵比寿にも、池を押さえる瓢箪の感覚からそれが感じ取られた。「何だったんすかね、急に消えたりまた戻ったり」ふう、と溜息をつきながら恵比寿は椅子に座り直した。

 鹿島は何も答えず、しばらく池を見下ろした後「そうか」と呟いた。

「え?」PC作業に戻っていた恵比寿はまた目を見開いて顔を上げ鹿島を見た。

「出現物たちが、な」鹿島は顎をさすりながら何度も頷く。

「あ」恵比寿は鹿島が社の者たちとコンタクトを取っているらしい事に気づき、慌てて自分も当該チャネルにログインした。

 

     ◇◆◇

 

「鯰くん?」地球の声が聞えた。

「岩っち?」鯰も呼び返す。「どこ行ってたの?」

「どこも行っていないよ」地球は比喩的に噴き出した。「どこにも行けないよ、私は」

「まあ、そうだよね」鯰はぷいと横を向く。

 自分の気持ち――地球とコンタクトが取れず憔悴していたこと――を悟られないように、ごまかしたつもりなのかも知れなかった。なので地球は、それ以上笑ったりしないでおいた――そしてまた、自分が鯰に対しひどく人間的な配慮をしていることに気づいた。

「でも、あたしの声聞えてなかったってどういう事?」鯰はすぐに気を取り直して疑問を寄越してきた。

「聞えていたけど」地球は答えた。「私が返事をしても、君には聞えていなかったみたい」

「なんで?」鯰が訊く。

「さあ」地球は比喩的に首を傾げた。「出現物のせいなのかな?」

「――」鯰は言葉を失った。「出現物って」呟く。

「え?」

「――何?」鯰は小さな声で疑問を寄越した。

 

     ◇◆◇

 

「なまつさーん」結城が叫ぶ。「あっ違った、天津さーん」訂正する。

 

「うるさいぞ」野太い怒鳴り声が答えた。

 

「うわびっくりした」結城が腕で顔面をかばい叫ぶ。「誰すか」

「さっきも教えただろうが」声は溜息混じりに答える。「儂はここの経営者の磯田源一郎じゃ。物覚えの悪い、まったく」

「あれ」結城が目を丸くする。「戻って来たんすか?」

「ああ?」野太い声は苛立たしそうに訊き返した。「儂はさっきからずっとここにおるわ。まったくわけのわからん」

「我々の方が、戻って来たという事だろうな」時中が整理する。「生命発祥の場所から、クライアントの所へ」

「ではこのまま上へ行けばよいのですか」本原が確認する。「エレベータで」

 

「下に降りるのはどれだけ振りかしら」磯田社長は機嫌よく微笑んでいた。

「そうすよね」伊勢も微笑む。微笑みながら、内心では祈る想いだった――まるで人間のように。今、この地下にある――はずの――洞窟が、どういう状態になっているのかは、社の者たちの焦燥に満ちたやり取りの傍受で理解していた。

 ――ちゃんと辿りつければいいが――もしまた洞窟が深海底に引っ張られて行ったとしたら、このエレベータはどこに降り立つことになるんだ? いや、それよりも出現物どもにまた引っ張って行かれる前に、新人たちと再会したい。

 焦る。エレベータの速度が、今日はなんだかのろのろしているような気がしてならない。

「今も、声は聞えてるんすか?」磯田に確認する。「お祖父様の声」

「そうね」磯田社長はゆっくりと瞬きをする。「なんか、昔みたいに大声で文句ばっかり言ってるみたいな気がするの」

「文句?」伊勢は訊き返す。

「ええ」磯田は苦笑する。「ほんとに頑固親父を絵に描いたような人だったのよ。根はいい人なんだけどね、昔気質ってやつで」

 

「昔って六千五百万年前のこと?」かすれた、弱々しい声が突然聞えた。

 

「え?」磯田社長は眉を持ち上げて伊勢を見た。

「――」伊勢も周りを見回した、だが声の主はどこにもいなかった。

「伊勢君、今何か言った?」社長が訊く。

「いえ」伊勢は首を振る。

 その時エレベータは停止した。伊勢は片眉をしかめた。

 ――まずいかもすね。

 社の方に一言送る。伊勢の予想通り、エレベータのドアは黙したまま開かなかった。



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第62話 草食の俺達はここまで来て死ぬるるん

「のんびりと過ごしていた」新人たちが言葉を失っている間に、その声は言葉を繰り返した。

「誰すか?」結城が問いかける。

 声は止んだが、数秒後「草食の、俺達は」と言葉を続けた。

「俺達さん、どなたすか?」結城が主語不明の問いかけを繰り返した。

 声はまた止んだが、数秒後「喰ったり、寝たり」結城の問いかけとは違う次元の話を繰り出し始めた。「茫としたり、喋ったり、遊んだりしていた」

「何? この人」結城が人差し指を上の方へ向け、他の二人を見て問いかけた。

「新たな出現物でしょうか」本原が答え、

「――」時中は若干眉を寄せ無言のままだった。

「特に不足もなく不平もなく、諍いも」新出現物の語りは続いた。「まったくないこともなかったのだが、さしたる大事になどならず、いつの間にかまた元通りののんびりとした空気に戻っているのが常だった」

「何の物語?}結城はさらに問いかけた。

 他の二人とも、無言のままだった。

「だがある日俺は、その存在に気づいた」出現物の語りは、展開を見せた。「一匹の、肉食獣にだ」

 三人は無言のまま、出現物の声に耳を傾けた。

「名は、沙耶香といった」

「まさか」時中が声を挙げ、他の二人が見遣るとその眉間には深い皺が刻まれていた。

「俺の左目が、その存在を捕えたのだ。俺は警戒した。すぐに走り出してはならないと思った。奴が全力で向かってくれば、造作もなく追いつかれるだろう。今はまだ気づかぬ振りをし、だが相手の動向には神経を尖らせ、機をみて短期に行動を起こすのだ。しかし観察を続ける内、俺はさらに気づいた。沙耶香は俺を狙っているのではない。どうやらその視線は、伸也に向けられているようだ」

「啓太」時中が誰かの名を呼んだ。

「ん? 誰それ?」結城が訊き、

「お知り合いの出現物なのですか」本原が訊く。

「伸也は相変わらずのんびりとしている。気づいているのかいないのか、判らない。俺はさりげなく、伸也に合図を送ってみた。あまりあからさまに警告をすると、猛獣に気づかれ一気に進撃されかねない。そっと、眼で呼びかける。だが伸也は、まったく何も反応せず、ただのんびりとしていた」

「気づいていたさ」時中が首を振りながら言う。「私だって馬鹿じゃない」

「なになになに」結城が目をくりくりと見開き時中と洞窟の上方を交互に見る。「知ってる人? 知ってる出現物なの?」

「こいつは、馬鹿なのか」声が大きくなった。

「えっ俺?」結城が肩をすくめる。

「俺は一瞬、そう思った」声は答えることなく話を続けた。「それとも敵に対するフェイクなのだろうか。油断していると見せかけ、逆に敵に油断させるという作戦でも実行しているのか。俺は迷った。伸也自身の判断に委ねておくべきか。それとも飽くまで俺が伸也を救ってやるべきなのか。伸也の明晰さを信じるべきか、それとも愚鈍さを疑うべきか」

「あっそうか」結城が目を丸くする。「このシンヤって、トキくんの下の名前だよね。え、知り合いの人なの? トキくんの?」

「何故――」時中は結城に答える風でもなく、茫然と宙を見つめ呟くばかりだった。

「だがその迷いもあまり長くは続かなかった」声の語りはなおも続いた。「飽きたのだ。それよりも、のんびりしていよう。俺は、そう思った。そうこうするうちに、伸也は沙耶香の餌食となった」

「えっ」結城が上方を見て声を挙げる。「食われたの?」

「つまり」声は結城への返答という風でもなく、言葉を続けた。「結婚したのだ」

 しん、と静まり返った。

「え」最初に結城が声を出した。「何」

「啓太」時中は上方を見上げ、またその名を呼んだ。「お前、そこにいるのか」

「ちょっと、ちょっと待って、ええーと」結城が時中に向かって手を上げ、上方に向かって人差し指を振り、顔は何故か本原の方に向けつつ「つまりこういうこと?」と問う。「今この、長々と語り尽くしてくれちゃった出現物は、トキくんの知り合いの人で、ケイタさんっていう人なわけ?」

「時中さんは結婚していらっしゃるのですか」本原が質問する。

「あれ、もうそこ行く?」結城が本原に訊く。

「ああ。している」時中が回答する。

「あれ」結城は時中に訊く。「初耳」

「けれど前に、彼女はいないと仰っていたのではないでしょうか」本原がさらに質問する。「結城さんが腹を割ってお話なさった時に」

「彼女はいない」時中は返答した。「妻はいる」

「あれ」結城は目を丸くした。「そうか、そういう解釈か」唇に人差し指を当て、上方を見上げる。

「沙耶香さんと仰るのですか」本原はさらに質問する。「奥様のお名前は」

「ああ」時中は返答した。

「で」結城は先を続けた。「今長々と語ってくれちゃった人が、啓太さん?」

「ああ」時中は返答した。

「って、誰?」結城は訊いた。

「私の、学生時代の友人だ」時中は返答した。

「へえー」結城は数回頷いた。「でもなんで、トキくんの友達が今洞窟の中にいるの?」

「啓太は」時中は瞼を伏せた。「亡くなった」

「え」結城が目を見開き、

「まあ」本原が嘆息した。

「私と妻が結婚してすぐの頃に」

「じゃあ、今、語ってくれてたのは、その」結城が上方を指差す。「啓太くんの、霊?」

「出現物というのは霊なのですか」本原が問う。

「ここまで来て死ぬって、一体どういうことだ」啓太の声は出し抜けに話を続けた。

「うわびっくりした」結城が胸を手で抑える。「啓太さん? 何ですか?」問う。

「我々の生き死になど、どうでもいいんだろうな」啓太は独白を続ける。「魚で言えば、いわし扱いだ」

「いわし」結城は叫んだ。

「いわしなんてまっぴらだ。とんでもない。俺は草食動物でいい。草食動物でいたいんだ」啓太の声は叫ぶように言った。

「同じもののように思えますけど」本原が受けて答える。

「違う。全然違う」啓太の声は叫んだ。

「うん、確かにいわしと草食動物とじゃ、全然違うよ。本原ちゃん」結城が首を振る。

「どちらも、食物連鎖の下側の方にいるものたちですよね」本原が意見を述べる。

「あ、そうか。そういう意味でか。そうだな」結城は簡単になびき頷く。「それじゃあ同じようなものっすよ、啓太君」上方に向けて呼びかける。

「違う。全然違う」啓太の声は再度叫んだ。

「啓太」時中が声を張り上げた。「私だ。伸也だ。わかるか」

 啓太の声からの返答はない。

「啓太」時中は再度呼んだ。

 だがやはり啓太の声からの返答はない。

「啓太君って」結城が時中に訊く。「なんで亡くなったの?」

「――」時中は口をつぐんで結城を見、その隣で自分を見ている本原をも見、そして答えた。「業務中の事故で」

「えっ」結城が目を見開き、

「業務中ですか」本原が確認する。

「ああ」時中は上方を見た。「労災だ」



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第63話 残業要請拒絶は逆パワハラになるのでしょうか

「田中さんと連絡ついた?」磯田はスマホに向かって叫ぶように訊く。「ええ? もう帰ってる? ああもう」唸る。「他の人じゃ対応できないの? 緊急なんだけど。ああそう。どれ位で来てもらえるの? そんなにかかるの? ああもう」再度唸る。

 伊勢は口では黙っていたが、内心では社の者とコンタクトを取っていた。

「“あの出現物”以外にも新人を引きずり込もうとする奴が出て来てるってことなら、やっぱり対処するには、あれしかないんじゃないすかね」

「あれ?」住吉が訊く。

「うん」酒林が頷く。「あれ、だよな」

「あれとは、つまり」石上が確認する。

「対話」天津が答える。「だね」

「対話すね」伊勢が肯定する。「地球との」

「どうにかして伝えたいなあ」大山がもどかしげに言う。「新人君たちに」

「鯰に行ってもらうか」鹿島が提言する。

「鯰に?」神たちは驚く。

「さっきこいつ、新人たちの傍に行って来たらしい」鹿島は池の中を見下ろしながら言った。

「なんだって」神たちはさらに驚いた。「どうやって?」

「わからん」鹿島はあっさりと首を振る。「出現物に引っ張られたのかもな」

「新人さんたちは無事だったんですか」天津が叫ぶように訊く。

「ああ」鹿島は深く頷く。「会っていたのはごく短い間ではあったようだが、怪我もなく元気そうだったとの事だ」

「よかった」木之花が声を震わせる。

「それをもう一度」住吉が呟く。「頼むわけっすね」

「賭け……だな」大山が考えながら言う。

 

     ◇◆◇

 

「引っ張って行かれた時って、どうなったの」地球が鯰に訊ねる。「どんな風に引っ張られたの」

「ぐい、って」鯰は甲高い声で簡単に答えた。「髭を引っ張られたのよ」

「髭を?」地球は比喩的に眼を丸くした。「乱暴だなあ」

「本当よ」鯰はぷんすか怒り始めた。「出現物だか幽霊だか知らないけど、今度やったらただじゃおかないんだから」

「髭を引っ張られて、その後どうなったの」地球はまた訊ねた。「君には意識があったの?」

「うーん」鯰は水面を見上げて考えた。「どうかなあ……そうだ、なんか声が遠くに聞えてた」

「声?」

「そう」鯰は頷く。「声……人間の」

「どんな? 話し声?」

「うん、なんかぺちゃくちゃ喋ってて……笑ったり、怒ったり、なんか叫んだりもあった……けど何言ってんのかは聞き取れなかった」鯰は遠い記憶を探り出すかのようにゆっくりと説明の言葉をつなげた。

「出現物……たち、の声なのかな」地球は比喩的に首を傾げた。

「多分ね」鯰も自信はなさそうだが頷く。

 

「鯰」出し抜けに池の水面の向こうから、鹿島が大声で呼びかけた。

 

 地球の声はほぼ同時にすうっと、色も響きも掻き消えた。

「何よ」鯰はいくぶん疲れを帯びた声で面倒くさそうに答えた。「休んでんだけど」

「そうか。そこを悪いんだが、さっきみたいにもう一回洞窟に行って来てもらえないか」

「いやだよ」鯰は即座に断った。「あたしをなんだと思ってんの」

「鯰くん、頼むよ。君しかいないんだよ」鹿島は水面の向こうで頭を下げながら懇願して来た。「新人君たちに、地球との対話を行使してくれるよう伝えて欲しいんだ」

「自分たちでなんとかしなさいよそんなの」鯰は甲高い声をさらに甲高くして拒否した。「どれだけ残業させる気なのよ」

「緊急事態なんだよ」鹿島は容易に諦めない。「危急の事態では協力してもらえるっていう契約だろ」

「じゃあどこがどういう風に危急なのかデータ出して証明しなさいよ」鯰も容易に首肯しない。「あんたらの好き勝手に使われてちゃあたしの身がもたないってのよ。奴隷じゃないんだから」

「鯰くん」鹿島の声は渋いバリトンをますます低く抑えたトーンで発せられた。

「何が鯰くん、よ。こんな時だけ『くん』付けしたって嬉しくもなんともないわ」対して鯰のソプラノの声はますます甲高く高みへ昇ってゆき、その言葉もますます容赦のないものになって行く。

「――」ついに鹿島の声が止む。

「いっとくけど要石(かなめいし)で痛めつけようってんなら、それってパワハラになるからね。あたしも黙っちゃいないよ」鯰は池の中でぷいと向きを変える。

 ――対話か。

 地球がそっと、囁く。

 ――私が言ってみようか。

「え」鯰が目を剥く。「岩っち?」

「どうした?」鹿島がすぐに反応する。「地球が何か?」

「岩っちが」鯰は茫然と答える。「自分が、言ってみる、って」

「え」鹿島も茫然とする。「地球、が?」

 ――うまく伝わるかどうかわからないけど。

 地球は比喩的に苦笑する。

 ――出現物にできるんなら、岩にできてもおかしくはないよね。

「岩、っち」鯰は池の中できょろきょろする。「待って、岩」

「地球は、何て」鹿島が訊く。

「行っちゃった」鯰は茫然と答える。「あたしも、行こ」

「行ってくれるか」鹿島は感動のバリトンを張り上げる。「ありがとう」

「でも」鯰はいまだきょろきょろし続けている。「どうすればいいの」

「――」鹿島は再度声を失った。「さっきは、どうやったんだ」

「さっきはだから、髭をぐいーって」鯰は説明しかけて、ぴたりと止まった。「出現物に」

「出現物」鹿島はそっと復唱した。「スサノオか」

「いや」鯰は首を振る。「なんか、声がいっぱい聞えてた」

「声?」鹿島は眉を寄せる。「どんな?」

「いろいろ」鯰はまた遠い記憶を探った。「よく聞えなかったけど」

「出現物たちが会話していたのか」

「会話……かどうか。皆勝手に喋くり合ってるみたいだった」

「例えば、どんな事を」

「ええ?」鯰の声は裏返った。「知らないよ、そんな事」

「頼む、何かその中にヒントのようなものがあるかも知れん。なんでもいい、ほんの僅かでも、そいつらが何と言っていたのかを教えてくれ」

「――うー」鯰は溜息混じりに唸った。「――」しばらく考える。

 鹿島も黙って待つ。

 

「常に、切り捨てた方が正解だったんじゃないか」突然、そう話す声が弱々しく聞えた。

 

「え?」鯰は水面を見上げた。「鹿島っち?」

「ん?」鹿島が訊き返す。「どうした」

「――今」鯰が言いかけた時、

 

「そんな想いに囚われているんだよ」弱々しい声が続けてそう言い、そして鯰の髭がぐい、と引っ張られた。

 

 鯰はそれ以上言葉を続けることもできずに、どことも知れぬ深淵のはるか奥へと引きずりこまれて行った。



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第64話 つべこべ言ってると、取り締まっちゃうぞ

「鯰」鹿島は反射的に池の傍で膝を曲げ、その次の瞬間には自らも池の中に頭から飛び込んでいた。

「鹿島さん!?」恵比寿が叫んで立ち上がる。

 池の径は三メートル程もあるが、深さは人間の身長の半分ほどもない筈だ。そこに頭から飛び込むというのは、無謀な行動に思えた。池の水面は大きく波打っている。

「――」恵比寿は茫然と波打つ水面を見詰めた。

 何も、浮かび上がっては来ない。鹿島も、鯰も。

「――ま、さか」恵比寿は茫然と呟く。

「鹿島さん」

「鹿島さん」

「え、今どこにいるんすか」PCのスピーカから社員たちの叫ぶ声が響く。

 はっと顔を向け、慌てて座り直す。緊急会議チャネルの画面は、大山、住吉、石上、木之花ら社員の焦燥の顔を映すものと、無人のデスク周辺の景色を映すものとに分かれていた。無人の景色は、本来鹿島がそこにいた場所を映すものだ。

「鹿島さん、池に飛び込んじゃったよ」恵比寿は子供がべそをかきそうになった時のような声で皆に教えた。

「池に?」全員が異口同音に訊き返してくる。

「うん」恵比寿は途方に暮れた顔と声で続ける。「鯰、追いかけて」

「鯰を?」全員が再び異口同音に訊き返す。

「でもそこの池って、浅いでしょ」住吉が目を丸くして訊く。「飛び込んだら頭打つんじゃないすか」

「それが」恵比寿は池のを方に首を伸ばし、またPCに向かう。「戻って来ない。浮かんで来ないんだよ」

「池の底に沈んでるとか」伊勢が、画面には映らないが声だけを寄越す。

「ええっ」恵比寿は慌てて立ち上がる。

「いや、大丈夫」鹿島の声が答える。

「鹿島さん」恵比寿も、他の社員も皆、異口同音に叫ぶ。

「鯰がね、いないのよ」鹿島は呑気な声で訴える。「すぐ後に続いたと思ったんだけど」

「どこにいるんすか」大山が訊く。「あの池、どこに続いてるの?」

「わからん」鹿島はあっさりと答えた。「海の中なのは確かだが」

「どこに行くんすか」酒林が、やはり声だけで訊く。

「わからん」鹿島はやはりあっさりと答える。「とにかく、しばらくは探してみるよ。鯰と、新人君たちを」

「依代は?」天津が訊く。「人間の体のままで泳いでるんですか」

「いや」鹿島はあっさりと否定した。「さすがにそれやるときついから、さっき捨てちゃった……ごめんね咲ちゃん」心持ち声を張り上げる。

「大丈夫です」木之花が間髪を入れずに答える。「今は緊急事態ですから」

「心強いよね」大山が溜息混じりに言う。「取締役より頼れるものは経理担当だよね」

「手厳し過ぎだよ」鹿島の声が笑う。

「あ、いや鹿島さんのことじゃなくて、俺っすよ俺」大山が慌ててフォローを入れる。

「儂の事も頼ってくれんか」突如、それまで会議に参加して来なかった別の声が挙がった。

「タゴリヒメ様」木之花が叫ぶ「――じゃなくて、宗像支社長」

「海の警護の担当じゃからの。遅れ馳せながら儂も新人君たちの捜索に加わらせてくれ、鹿島」宗像は機嫌の好さそうな声で加勢を宣言した。

「宗像さん」鹿島も感動の声を挙げる。「お疲れす。ありがとうす」

「支社長は、どこからその海の中まで辿り着いたんすか?」大山が質問する。

「ん」宗像は至極穏やかに答える。「いやあ、元々さっきからあっちこっちの海の中を探し回っておったのじゃが、フィリピン海プレートの海嶺近くで鹿島君の気配がしたんで、近づいて来てみたわけじゃ」

「おお」社員全員が感動の声を挙げる。

「新人さんたちの気配というのは、感じられますか?」天津が質問する。

「ううむ」宗像の声は苦渋を帯びる。「すまん。それだけがいまだ、感知できておらん」

「ああ……」社員全員が落胆の声を挙げる。

「大丈夫」鹿島が皆を元気づける。「我々に任せておいてくれ」

「わかりました」大山が深く頷く。「お願いします。お気をつけて」

「ああ」鹿島も、姿は見えないが頷くように答える。「あの彼にも、もう一度頑張ってもらうように伝えといてくれ」

「あの彼?」社員たちはきょとんとした。「誰すか?」

「あのほら、さっき新人君たちと端末でメッセージやり取りしてくれてた彼。ええと、なんてったっけ? エ、エ、エバラ? 違うな、エ、エビラ?」

「――エビスさんすか?」大山がそっと訊く。

「ああそう、エビス君」鹿島が叫ぶ。「通信途絶えちゃったようだけど、再度探ってみて欲しいと伝えといて。彼の技術に大いに期待してると」

「わ」恵比寿は思わず叫んだ。「わかりました! お任せ下さい、鹿島さん!」

 返事はなかった。

「わ」大山がどこかそわそわしながら返答した。「わかりました、伝えときます」

「うん、頼むね」鹿島が答え、その後二柱の神と社員たちとの通信は途絶えた。

「しかし」鹿島が一人呟く。「皆、なんで俺が鯰を追いかけて飛び込んだってわかったのかな」

 宗像は聞えなかった風体で答えを返さなかった。

 

     ◇◆◇

 

「労災」結城が時中の横顔を見ながら繰り返す。

「何のお仕事だったんですか」本原が質問する。

「営業だ」時中はなおも上方を見上げたまま答える。「外回りの車で事故を起こして、亡くなった」

「まじか」結城も上方を見上げる。「啓太さん、聞えますか」

 啓太の声は返答しない。

「仕事の事で、大分追い詰められていた」時中は顔をゆっくりと俯かせながら言葉を続けた。「あれは事故だったという事になっているが、本当のところは」

「事故ではないのですか」本原が確認する。

「――」時中は少しの間無言だったが、また上方に顔を上げ「啓太」と呼んだ。

 啓太は答えない。

「あれは本当に事故だったのか」時中は質問した。

「啓太さん」結城も続けて呼ぶ。「啓太くん」

「勝手だよな」不意に、それまでとは別の方向から声が聞えた。

 

     ◇◆◇

 

「岩っちー」鯰は引きずり込まれながらも必死で呼び続けた。「聞えるー? いるー?」

「鯰くん?」地球が答える。

「ああ、いた」鯰はひどく安心したような声で叫ぶ。「よかった」

「今、妙な声が聞えてきてたんだけど」地球は訊ねる。「君にも聞えた?」

「妙な声?」鯰が訊き返すと同時に、その髭を引っ張る力がふっと消えた。「どんな?」

「うん、何かぶつぶつ言う声」地球は答える。

「勝手も甚だしい話だ」その時、その声が聞えた。

「え?」鯰がきょろきょろと首を巡らせる。

「ほら、この声」地球が教える。「けどこれ、さっき聞えたのとは違う声だ」

「どういう事?」鯰が首を傾げる。

「そもそも己れ自身は諸刃の剣で」声は続いた。

 

     ◇◆◇

 

「聞えるか」宗像が、鹿島に問う。「この声が」

「ええ」鹿島も頷く。「出現物の声ですかね」

「うむ……しかし姿は見えんの」宗像は辺りを探る。

「誰も手を触れずとも勝手にぶんぶん振り回って」姿の見えない出現物の声らしきものは、語り続けた。「他者を傷つけ再起不能に陥らせさえする」

 

     ◇◆◇

 

「何? この声」磯田社長がエレベータの中をきょろきょろと見回し、伊勢の方に近寄る。「やだわ、ちょっと」

「何なんすかね」伊勢もエレベータの上方を見上げながら、静かに言う。そうしながら、会議チャネルで社の者に報告と相談をする。

「そのくせ、その当人自体が傷つきやすくできている」突如聞え始めた声は、そう続いた。

 

     ◇◆◇

 

「聞えてるすか?」伊勢は社員たちに確認する。

「うん」大山が真剣な顔で、伊勢から送られてくる声に耳を澄ませる。

 他の者たちも同じく神経を尖らせていた。

「そんな話、誰が聞いても呆れて物が言えないというのだ」正体不明の声は、続いた。

「目の前にあるものを見ようともせず、そこにないものだけを求めるようにできているんだ、お前の目は」

「また、別の声だ」天津が呟く。

「うん」酒林が慎重に答える。「これは……」

「まあいいさ」また別の声が、別の方向から聞え始めた。

「また来た」天津が声を殺し囁く。「何なんだ一体」

「出現物……にしても」酒林が戸惑いを隠さずに問う。「こんな、いちどきに大量発生なんてしたことないよな」

 

     ◇◆◇

 

「どちらにしろ差し向き言えることはな、お前」謎の声は続く。

「誰?」磯田社長が問う。「誰に話してんの?」だが返答はない。

「もし蛇にそそのかされても」語りだけは続く。「決して善悪の区別のつく果実は喰わない事だ」

 ――お前……じゃ、ないよな。

 伊勢はそっと心の中で呼びかけてみる。

 ――こんな形で、目覚めたとかいうんじゃ、ないよな。

「善悪の区別がつくようになると、多分お前は自殺するからな」

 ――違うよな。うん。

 伊勢は目を伏せ、そっと首を振る。

 ――これはお前じゃなくて、他の一般的な、出現物だ。だってお前は、こんな……

 

     ◇◆◇

 

 鹿島のPCから、メッセージの着信音が流れた。

「あ?」恵比寿は反射的に立ち上がり、その机に近づいた。数秒躊躇はしたが、意を決してメッセージを開く。「え?」叫んだ。



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第65話 お前がストレスに思うのは放置ですか、それとも凝視ですか

「咲ちゃん」茫然と、木之花を呼ぶ。

「――はい」木之花は何かを察知した様子で、慎重に答える。「何か、来ました?」

「うん」恵比寿は相変わらず茫然としている。「納品書」

「納品書?」神たちは異口同音に訊き返した。「どこから――」そして異口同音に問いかけ、異口同音に絶句した。「まさか」

「マヨイガから」恵比寿が答える。「サンプル納品、って」

 

     ◇◆◇

 

「消えちゃったねえ、啓太君」結城が上方を見回しながら残念そうに言う。「まだどっかその辺に漂ってんのかな」

「漂うと言うな」時中が眉根を寄せる。「啓太はクラゲではない」

「幽霊の場合は漂うとは言わないのですか」本原が確認する。「何というのでしょうか」

「なんだろ」結城が考えを巡らせる。「憑依? 出現? 地縛?」

「啓太にはそんな趣味はない」時中が強く首を振る。

「いや、自縛じゃなくてさ、地面の地縛だよ」結城が両手を振り説明する。

「ジメンノジバクって何ですか」本原が確認する。

「わかってるよ」また、か細い糸のような声が聞えた。

「あ、啓太君?」結城が素早く上方に向かって呼びかける。

「いや」答えたのは時中だった。「啓太ではない」

「自分に何の期待もかけられてやしないって事ぐらい」小さな声が言う。

「誰すか」結城がまた問う。

「所詮俺は頭数揃えの役にしか立ってないって事ぐらい」小さな声はさらに言う。

「何か、いじけちゃってるねこの人」結城が視線を下ろして誰にともなくコメントした。

「俺に求められてるのは、ただ無遅刻無欠席で出勤する事だけなんだよな」小さな声はぶつぶつと続ける。

「それは全員に求められていることなのではないでしょうか」本原が質問する。

「あと、辞めない事と」小さな声は呟き続ける。

「それ、かなり大事に思われてるって事じゃない?」結城が質問する。「お前なんか、いつでも辞めてしまえ! って言われるよりは」

「だって辞めたらあれだもんな」声は、本原や結城の質問に答えているのか否か判然とせぬ調子で言葉を続ける。「課長の評価が下がるんだもんな」

「そうだな」時中が同調する。「部下の勤怠の良し悪しは確かに、その上長の責任とされるものだ」

「ああ、まあ」結城が頷き、

「では辞められたら困るというのは、頭数が足りなくなるからという理由でなのですか」本原が確認する。

「俺はどうせ、ネジの一つでしかないんだよな」声の自虐は続く。

「あ、それさっき、磯田源一郎さんが言ってた事じゃん」結城が人差し指を立てて言う。「お前らはネジだ、って」

「まさかこの声の主は」時中が眉根を寄せる。「磯田源一郎の下で働いていた社員か」

「えっ」結城が時中を見、それから上方に向かって「ねえ君、磯田建機さんの社員さん?」と問う。

 声は答えない。

 

     ◇◆◇

 

「この声って」伊勢が磯田社長に問う。「さっき社長が仰ってた、お祖父様の声と何か関係があるとかですかね?」

「祖父と?」磯田は茶色く描かれた眉を持ち上げ、そしてそれをしかめた。「さあ、どうだろ……でも祖父の声はあんなにはっきりとは聞えなかったけど」

「ああ」伊勢は頷いた。「じゃあやっぱりまったく別の、関係ないものでしょうかね」

「若い子の声だったわね」磯田は赤い唇に指を当てた。「うちの子かしら……でもあんな声の子、いたかしらね」首を傾げる。

「社長」伊勢は眸を多少彷徨わせながら、磯田に訊いた。「大変お聞きしにくい事で……どうか、お気を悪くなさらないで頂きたいんすけど」

「あら、何?」磯田はまたしても茶色く描かれた眉を持ち上げる。「改まっちゃって」

「その」伊勢は真剣な目を相手に向けた。「御社で過去“労災”で……お亡くなりになった社員さんは、いらっしゃいますか?」

「――」磯田は目を丸くしてすぐには言葉を返せずにいた。「――亡くなる、までは……ないわ」数秒後、言葉を捜しながら答える。「労災自体はなくもない……まあ、正直にいえば割とちょこちょこあるのはあるけれど」

 伊勢は言葉を挟まず、磯田の回答が終わるのを待った。

「亡くなるところまでの労災事故というのは、私の代になってからは起きていないわ。父の代の時にも、特に聞いた覚えはないわね……祖父の代では」磯田は眉をぎゅっとしかめて考えた。「どうだったのか、よくわからないけど」

 磯田の言葉はそこまでで途切れた。伊勢は、理解したというしるしに大きく頷いた。

 

     ◇◆◇

 

「もしもーし」結城は尚も問う。「あなたはー、磯田ー、源一郎さんのー」

「皆思ってるんだ」小さな声が聞えたが、それもまた別物のようだった。「俺を見てくれよ、と」

「あら」結城は新たな声のする方へ顔を向ける。「また別の」

「でも、俺は問う。『なんで?』」声は続く。

「ふむふむ」結城は腕組みをして数回頷いた。「誰がお前なんか見るかよ、と。そして逆に、俺を見ろ、と」

「何故見たり見られたりが重要な事になるのでしょうか」本原が質問する。

「それは自分に対する自信が持てるようになるかどうかに関わるからではないのか」時中が答える。

「そうかあ」結城が頷く。「誰からも見向きもされないなんて、そりゃあ耐えられないよなあ」

「けれど、あまりじろじろ人を見るのは失礼な事のように思えますけれど」本原が小首を傾げる。

「そうかあ」結城が再度頷く。「見られ過ぎるとまた、俺顔になんかついてんのかなとか、気になるよね」

「何か文句を言われたり怒られたりするのではないか、という事が気になって落ち着かず、ストレスになる」時中が考えを述べる。

「自分を誉めてくれる人だけに自分を見て欲しいという事でしょうか」本原が結論をまとめる。

「まあぶっちゃけていうと、そうだよね」結城が受け止める。「ケチつけるような奴は俺を見るべからず、って」

「しかし会社で仕事をしている時は、文句をつけるために自分を見る人間、つまり上司と、嫌が上にも同じ空間にい続けることになる」時中が考えを述べる。啓太の事を当てはめてでもいるようだった。

「確かに!」結城は膝を打って同意した。「上司ってのは皆、ケチつける気満々だからね」

「そうでしょうか」本原は疑問を挟む。「今の私たちの上司の皆さまは、お優しい方々ばかりです。ケチをつける上司の方はどなたもいらっしゃらないように思いますけれど」

「それはね、本原ちゃん」結城が人差し指を立てる。「うちの会社が、超絶特別なんだよ。だってほら、うちの上司って全員、神じゃん?」

「はい」本原は頷くが「その呼び方はやめて下さい」と拒絶の言を添付した。

 

     ◇◆◇

 

「そうか」大山が、どこか遠くを見つめながら声に出した。「わかった」

「何がっすか」住吉が問う。

「これは」大山が答える。「社員たちの声、だな」

「社員、たち?」神たちが訊き返す。「どこの?」

「わからん」大山は首を振る。「恐らくはどこかの……あちこちの、企業に雇用されていた社員たち」

「――の、幽霊?」恵比寿が訊く。

「わからん」大山は再度首を振る。

「でも、じゃあ……サンプル、って」木之花が言葉を途切れがちに挟む。

「うん」鹿島が後を引き継ぐ。「どういうつもりかは知らんが、マヨイガから我々に提示された、交換条件、といったものだろう」

 神たちは、その言葉の意味するところを呑み込むため言葉を出すこともできずにいた。

「つまり」鹿島は続けた。「あの新人三人とトレードしてくれという、取引の提案だ」



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第66話 被雇用者負けるな弊社ここにあり

「いや、それ完全に嫌がらせですよね」低い声がぼそぼそと言う。

「まただわ」磯田社長が自分の腕を抱き込む仕草をして肩をすくめる。「何なの、これ」

 伊勢は黙したまま視線をエレベータの天井に向ける。

「そう取らないで下さいという前に、そう取れる行動をしないで下さいよ」抑揚のない声はなおも、暗く沈んだ様子で呟いた。

「誰なの?」磯田は不愉快そうに眉をしかめて訊ねた。「名前を言いなさい」

「一人の社員の前で別の社員を褒め称えるってね」別の方向から、多少は明るい声が続く。「それだけで、それを聞かされる社員を貶めてるのと一緒なんですよね」

「はははは」「そうだそうだ」「おいおい」

 続けて不特定多数の声が、どこか遠くから重なり合って聞えた。

 

     ◇◆◇

 

「辞めたい、とは思わないんだ」別の声が話す。

「また」結城が声を挙げかけた時、

「ああ、わかるわかる」さらに別の声が言った。

 三人の新人は上方をそれぞれに見回した。

「辞めたいとは思わない」「そう」「けどたまに、死にたい、と思う」「はははは」「やばいでしょそれ」「けどわかる」次々に、様々違う声が話し始めた。

「なんだこれ」結城がきょろきょろと見回しながら問う。

「出現物同士が話し合っているのか」時中が眉をひそめる。

「会議のような感じでしょうか」本原が質問する。

「だって、辞めたら負け、なような気がすんだよな」

 ほんの僅かの間、沈黙があった。

「死ぬのは負けじゃねえのかよ」「辞める方が駄目なわけか」「ははは」「まあでも、実際そんなもんかもな」「何に負けるのかって話だよ」「上司?」「社長か」「社会制度とか」「政府か?」「大きく出たな」「ははは」目には見えない者たちの声が、狂騒的に言葉を飛ばし合う。

「会議っていうか」結城が上方を見たまま目をぱちぱちと瞬きさせる。「同期同士の飲み会みたいだな」

 

     ◇◆◇

 

「あなたのように人の心のわからない方が、指導とか教育とかする位置に居るという事に、非常に疑問を覚えます」声は叫んだ。「そういう会社では私たち、胸を張って仕事することはできないと、正直に申し上げます」

「あいた」天津がそっと呟く。「耳が痛い」

「まあ、落ち着いて」酒林が慰める。「これはあまつんが教育した人の声じゃあ、ないよ」

「それに人の心なら天津君、必要以上にわかってるじゃない」木之花が呟く。

「え」天津が驚いて訊き返すが、経理担当はそれきり口をつぐんだ。

 

     ◇◆◇

 

「対話、したいな」地球がぽつりと言った。

「え?」鯰(なまず)がぽかんとしたような声で訊く。「誰と――新人と?」

「ううん」地球は否定する。「神たちと」

「神――」鯰は言葉を失う。「なんでまた、突然」

「なんかね」地球は比喩的に、周りを見回した――つまり自分の内部全体を。「少し、見えてきたような気がするんだ」

「何が?」

「神たちがなぜ、この星に来たか」地球は答えた。「この星で、何がしたかったのかが」

「え」鯰はまた言葉を失い、地球もそれ以上は語らず、静かな時が訪れた。

「何か勘違いしているのではないですか」まったく新たな声が、突然割って入る。

「わっ」鯰が甲高い声で吃驚する。

「あなたのお立場は、社員をフォローするというものですよね」

「もう際限なく出てくるようだね」地球は比喩的に苦笑する。

「社員を、支配したり采配を振るったりするのではなく」

「岩っち」鯰がそっと訊く。「さっき言ってたやつ……」

「ん?」地球が訊き返す。

「そうだそうだ」「社員を、自分の思い通りに動かせる駒だと勘違いしてるだろう」「人の気持ちもわからない」「社会的想像力もない」「あんたなんかに使われてたまるか」「そうだそうだ」

「神たちが地球でしたかったことって」鯰が続ける。「この声の主たちと、関係があるの?」

「うーん」地球は比喩的に考え込んだ。「関係、なくはないけど……どっちかというと神の当初の目的からは逸脱してる、ないしそれを邪魔立てする、そんな存在かな」

「んん?」鯰は髭をくるくると激しく巻いたり伸ばしたりした。

「鯰くん」地球は真剣な声で呼びかけた。「あの新人たちに、イベントを執り行うよう伝えてもらえるかな。私が空洞を用意して、待っておくから」

「――」鯰は目をぱちくりさせて言葉もなく凍りついていたが、それでも「わかった」と髭を揺らし頷いた。

「ありがとう」地球は礼を言った。「じゃあ、ここから」

 

 ぼこっ

 

 水底の堆積層の一部が割れ、温度も含有成分も異なる水が細かい泡を立てながら湧き出してきた。

「これは――」鯰が恐る恐るその亀裂の中を覗き込む。

「新人たちのいる洞窟に、つながってるはずだから」地球が促す。「頑張って」

「――わかった」

「って、新人にも伝えといて」

「え」

「待ってるから、って」地球の声は飽くまでも、真剣だった。

 

     ◇◆◇

 

「対話」結城がふとその言葉を口にした。

「対話?」時中が訊き返す。

「対話がどうかしたのですか」本原が質問する。

「いや、飲み会みたいだなってとこからふっと思ったんだけど」結城は二人を交互に見返し、上方を指差した。「対話してるわけじゃん? これ」

「――出現物同士が、ということか」時中が訊き返す。

「対話しているとしたら、どうなのですか」本原が確認する。

「俺らもさ」結城が自分と他二人を指差してゆき提言する。「対話、してみたらどうかって」

「――我々三人で、ということか」時中が訊き返す。

「もう今までにも散々対話してきたのではないでしょうか」本原が確認する。

「いや、俺ら三人でじゃなくて」結城はハンマーを腰から取り出す。「これで」

「――地球と、ということか」時中が訊き返す。

「岩の目を探るということでしょうか」本原が確認する。

「うん、そう」結城は早速岩壁に歩み寄る。「もしかしたらこの出現物同士の対話に俺らも参加できるかも」



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第67話 仕事とプライベートとどっちが大事だと思ってると思ってるんですか

「参加してどうするというのだ」時中が訊き返す。

「仕事上の愚痴をこぼし合うのでしょうか」本原が確認する。

「うーん」結城はハンマーを肩の上に振り上げながら上方に視線を移した。「どうなのかなあ。同じ会社に勤めてるわけでもないしねえ、話が合うかどうか」

「下手に仲間面して祟られたりしたらどうするつもりだ」時中が眉をひそめる。

「祟られるのですか」本原が確認する。「出現物というのは悪霊の仲間なのでしょうか」

「まあ大丈夫だよ」結城はこつこつと岩を叩き始めた。「いざとなったら神様たちが何とかしてくれるんじゃない?」

「その神たちと今、連絡が取れないんだぞ」時中はさらに眉をひそめる。

「じゃあ地球とかさ」結城は肩越しに振り向いて機嫌よく笑う。「さっきもなんやかんや助けてくれたじゃん?」

「わかりました」本原が結城に続いて岩壁を叩き始めた。

「おっサンキュー、本原ちゃん!」結城が岩を叩きながら声を張り上げる。

「その呼び方はやめて下さい」本原が岩を叩きながら拒絶する。

「効率が悪過ぎる」時中は首を振る。「もう少し待てば、またさっきの磯田源一郎のいる所へ戻るかも知れない。そうすればさっきの約束通り正式な謝罪をして帰りのエレベータの位置を教えてもらえる。今は体力を温存しておくべきではないのか」

「でもさあ、じっと待っとくのも気が落ち着かないじゃん?」結城は叩きながら肩をすくめながら言う。「何かしとかないと」

「走る電車の中で駆け足するようなものだ」時中は首を振る。「効率が悪い上に、意味がない」

「職業病とうつ病、罹るとしたらどっちがいい?」出現物の質問の声がした。

「何だよその究極の終末的選択」「うつ病は辛いけど、職業病ってどうなんだ?」「あれはクセのようなもんだから、辛いとかはないんじゃないかな」「あとうつ病は病院とか薬とかで治せるけど、職業病はな」「仕事辞めたら治るんだろ」「その代わり金欠病になる」「あと敗北感からやっぱり精神的になんかダメージ受けそうだな」

「俺は職業病よりはうつ病を取るなあ」結城が岩を叩きながら話に割り込む。

「どうしてですか」本原が岩を叩きながら質問する。

「だって、プライベートの方がやっぱり大事だもんね」結城は岩を叩きながら肩を竦める。「まあ、だから転職したわけだけどさ」

「プライベートが大事にできなかったのですか、前職では」本原は岩を叩きながらさらに質問した。

「うん」結城は岩を叩きながら頷いた。「残業とか休出とか、まあ超長時間労働だったよ」

「人手不足だったのですか」本原は岩を叩きながらさらに質問した。

「うん」結城は岩を叩きながら頷いた。「新しい人も入るんだけど、皆短期間で辞めてっちゃうんだよねえ。きついから」

「結城さんはどうして辞めずにいたのですか」本原は岩を叩きながらさらに質問した。

「もう、取りすがられる感じだよ」結城は岩を叩きながら肩をすくめ笑った。「上司から、頼むからもう少しだけ待ってくれって。何とかするからって」

「何とかなったのですか」本原は岩を叩きながらさらに質問する。

「ならなかったねえ」結城は岩を叩きながら首を傾げた。「多分今も、何ともなってないんじゃないかな」

「戻って来てくれと言われないのですか」本原は岩を叩きながらさらに質問する。

「うん」結城は岩を叩きながら頷く。「言われる」

「戻って来てくれないか」突然、痛々しげな声が響いた。

「え」結城が岩を叩く手を止め上方を見遣った。

「上司の方ですか」本原も岩を叩く手を止め上方を見た。

「来月、新人十名採用の予定にしている。本来四週間の研修期間を二週間に縮めて、早々に現場に出そうと思う。それでなんとか現状改善につなげられると踏んでるんだ、だからあと少しだけ」「研修二週間って、そんなことするから皆辞めてくんですよ」「そうそう」「どうしてわかんないのかなあ、そこ」

「うわびっくりした」結城が再び岩を叩き始める。「うちの会社のことかと思った」

「うちの会社というのは、新日本地質調査のことですか」本原も再び岩を叩き始めながら質問する。

「あ、いや違った、前の会社」結城が岩を叩きながら訂正する。

「どこの会社も似たような状況だということだろうな」時中が言葉を挟み、そして岩を叩き始めた。

「おっトキ君、サンキュー!」結城が岩を叩きながら声を張り上げる。

「その呼び方はよせ」時中は岩を叩きながら拒絶した。

「けどさあ、今こうしてやってることもさ」結城は岩を叩きながら考えを述べる。「結局は業務上の作業だよねえ」

「プライベートではないと思います」本原が岩を叩きながらコメントする。

「業務を終えることができない状況を強いられているからな」時中も岩を叩きながらコメントする。

「これしか、やれる事ないもんねえ……っていうその考え方が、もうすでに職業病なのかなあ」結城が岩を叩きながら考えを述べる。

「毎日職場に通うってのが既に職業病なんじゃねえの?」出現物がコメントした。

「だな」「なんで通うんだろ」「そのモチベーションは何だ」「責任もあるし」「他に行く所もないし」「家族養わなきゃいけないし」

「家族かあ」結城が岩を叩きながら出現物たちの対話に割り込む。「俺は独り者だからなあ……トキ君は、お子さんいるの?」

「いない」時中は岩を叩きながら答えた。

「奥さんと二人暮らしなの?」結城が岩を叩きながら訊く。

「そうだ」時中が岩を叩きながら答える。

「じゃあちゃっちゃと終わらせて早く帰ってあげないとねえ」結城が岩を叩きながらコメントする。「奥さん心配するだろうし」

「警察に通報したりなさるのでしょうか」本原が岩を叩きながら想像したことを述べる。

「てか、浮気してんじゃないかとか疑ったりしてね」結城も岩を叩きながら想像したことを述べる。「今、携帯もつながらないしさ。どういうこと? 電源オフにして、誰と会ってるの? 何してるの? って」

「そんなに信用の薄い間柄ではない」時中は岩を叩きながら否定した。

「じゃあ逆に、もう、帰って来ないのが悪いんだからね! とかって奥さんの方が浮気に走っちゃったりして」結城は岩を叩きながら空想したことを述べる。

「貴様、最低だな」時中が岩を叩きながら怒りの声を挙げた。「最低というか最悪というか、最低だ」

「語彙」本原が岩を叩きながらコメントした。



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第68話 18世紀のあの時、何故誰も奴を止めなかったのか

 気泡は少しずつ大きく成長していく。その中に詰められているのは、主に二酸化炭素だ。地球はそれを少しずつ地表の方へ持ち上げながら、比喩的にふと思った。

 ――でもよく考えたら、今新人たちって神と一緒にいないんだよね……てことは、この“空洞”の中に彼らがそのまま入り込んだら、まずいんだよね?

 神がいれば、空洞の中の二酸化炭素を使ってただちに人間たちの呼吸に必要な酸素を作り出してくれる。けれどその神が傍にいない今――

 ――神たちと対話をする為に、人間たちにイベントを行ってもらおうと思ったけれど……

 地球は比喩的に、ふう、とため息をついた。

 ――そもそもそのイベントに、神の力が必要なわけか……私も何を焦っていたのかな、そんな簡単なことに気づかないなんて。

 しかしもうすでに、鯰に人間たちのもとへ向かってもらっている。今更呼び戻すわけにもいかない。鯰の為に開いた水脈は、閉じてしまったのだ。鯰が戻りたくても、彼はどちらにしろ一旦新人たちのいる洞窟へ“出現”するしかないのだ。

 ――何かに……

 地球はまた、比喩的にふと思った。

 ――試されているのかな、私は……どれだけ能力があるのかを……どれだけ“使える”やつなのかって事を。

 

     ◇◆◇

 

 温かい。

 鯰は、細いけれども泳ぐのに心地よい水の流れの中を進んで行った。泳ぎながら、その存在を髭に感じ取っていた。

 いる。近くに――あるいは、遠くに。まあ、その辺に。

 鹿島と……もう一柱の、神。もう一柱? もう三柱、か? まあ何柱だろうが、向こうも大方気づいてはいるのだろう、自分がここにこうして泳いでいることに。

 どこへ向かっているのか、知りたがっているだろうか? 当然そうだろう。そして大いに期待しているだろう。あの三人の、未熟でか弱いが道具と理屈だけは必要以上に装備した、おばかな新人たちに会えることを……おっと、違った。

 道具と理屈だけじゃなくて、何よりも“強運”を装備した、無敵の新人たち、だ。

 鯰は、温かい水の中をどんどん泳いでいった。暗く光の届かなかった細い水流も、少しずつ青い光を反射させ始めてきていた。もう少しだ。

 

     ◇◆◇

 

「私は何でできているんだろう」出現物の呟きが聞える。

「お」結城がハンマーの手を止め上方を見上げる。

「劣等感と、自尊心と、あとは何だ」別の出現物が比較的元気よく答える。

「欲望と、絶望と、世の中に対する恨みと」

「いや、普通に骨と筋肉と神経とでいんじゃね?」他の出現物たちも次々に答え出す。

「細胞でしょ細胞」

「DNAだよ」

「タンパク質ですね」

「ヒトの体は水でできてるんじゃなかったっけ」結城が再びハンマーで岩を叩きながら言う。「大部分」

「それは大根ではないでしょうか」本原が岩を叩きながら質問する。

「人間とは考える大根だというわけか」時中が岩を叩きながらコメントする。

「ふざけるな」突然怒鳴り声が響き、三人のハンマーを持つ手はぴたりと止まった。

「そんな余計なものは要らない」続けて怒声が響く。

「余計なもの?」結城が肩の上でハンマーを止めたまま上方を見る。

「水のことでしょうか」本原がハンマーを止めたまま質問する。

「この出現物は我々に対して怒っているのか」時中がハンマーを止めたまま疑問を呟く。

「こんな事を言いたくはない、けど私らは命を懸けて自分を守らなきゃいけないんだ」

「すいませーん、お気を悪くさせたなら謝ります」結城は上方に向かって声をかけた。

 だが特に返事はなかった。

「私たちに対して怒っていたのではないのでしょうか」本原が上方を見上げながら確認する。

「命を懸けて自分を守るとは、戦争のようだな」時中は目の前の岩壁を見たままコメントした。

「ああ、そうだね」結城が時中の方に目を移す。

「仕事というのは戦争なのでしょうか」本原も時中の方に目を移して確認する。

「どちらにしろ本来人間にとって、一定の時間を決められ一定の場所に閉じ込められるような生活を毎日送ることは無理なのだ」時中は岩を叩き始めながら言った。

「へえ」結城が口を尖らせながら頷く。

「と、啓太が言っていた」時中は岩を叩きながら続けた。

「それはただ怠けたいだけの言い訳なのではないでしょうか」本原が批判的意見を述べる。

「産業革命が起こった時、工場を滞りなく稼動させる為に経営者がそういう思想を創り上げて人びとに押し付けたのだと、あいつは言っていた」時中は岩を叩きながら述べた。「人間というのは元々は、怠けたい生き物なのだと」

「そうかあ」結城は岩を叩き始めながら答えた。「そういうもんかもねえ……けど毎日仕事してないと、それはそれで心が不安になったりもするよねえ」

「適度に働いて適度に休むというのが一番良いのでしょうか」本原も岩を叩き始めながら確認する。

「そうだね」

「そうだな」結城と時中の返答がシンクロした。

 二人の岩を叩く手は一瞬止まり、結城が時中に顔を向けて大きく笑うと同時に時中は結城に目もくれず空気を切り裂くかのように大きくハンマーを振り上げて引き続き岩を叩き始めた。

 

 ひょんひょんひょんひょんひょんひょん

 

 懐かしくもあるその音が、時中のハンマーの先から響き渡った。

 

     ◇◆◇

 

 さて、どのように対処を講じたものか。地球はその考えを巡らせながらも、空洞の準備を進めていた。この作業も、考えてみればもう何回目になるのか定かでないくらい繰返している。神たちが、初めて自分との“対話”を求めてきた、あの時から――

「あれ?」地球はその時、妙な“異物感”を感じて、マグマの冷却固化促進の手を比喩的にふと止めた。

 ――なんだろ。

 地球は慎重に、その“異物感”の正体を調べた。

 ――二酸化炭素でも、水でもない……これは……

 比喩的に、目をぱちくりさせる。

 ――窒素か? けど、量が多すぎる……

「あれ」地球はもう一度、比喩的に口にした。「なんだ、君か。懐かしいな」

「また会えて嬉しいよ」その“者”は、答えた。「とでも、言っといてやるよ」

「ええと……何て呼べばいいの? 君のこと」地球は訊いた。

「別に、前と同じでいいさ」“出現物”は、肩をすくめた。「“スサノオ”で」



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第69話 あなたと同様俺にだって酸素を吸う権利はある

「どこにいたの? 今まで」地球はスサノオに訊いた。

「どこって」スサノオの声はくぐもった。「その辺に、いたけど」

「その辺?」地球は思わずまた訊いたが、すぐに気づいた。恐らく“彼”自身にも、わからないのだろう。“固定”されるまでの自分が、どこを漂っていたかなど。「今からどうするの?」地球はまたそう訊いてみた。

「そうだな……」スサノオは雰囲気的に頭の後ろで両手を組み、考え込んだ。「あの三人は今、どうなってる?」

「まだ洞窟の中に閉じ込められてるよ」地球は淡々と事実を伝えた。「今から例のイベントを実施してもらおうと思う……というかもうすでに、始めてくれているみたいだけど」

「どこの洞窟だ?」スサノオは重ねて訊いた。「近くか?」

「――」地球はスサノオを比喩的にじっと見た。「教えられないな、悪いけど」

「そうかよ」スサノオは怒ることもなく、逆に面白そうに笑った。「まあ、そのイベントが完了すれば出て行けるだろ、俺も」

「どうしてそう思う?」地球は訊いた。

「神の仲間だからな、俺も」スサノオはあっさりと答えた。「呼び合うのさ」

 地球は何も答えなかった。そんなはずはない、とも、今の段階では言い切ることができないのだった。

 

     ◇◆◇

 

「おっ」結城が叫び、

「ありました」本原が報告し、

「やったな、伸也」出現物の声が称えた。

「啓太」時中はその名を叫び、大きく振り向いた。

 出現物の姿は見えなかった。

「啓太」時中は上方を向いて再びその名を叫んだ。「どこにいるんだ」

「たぶん俺は、特にあいさつしなくてもいい相手だと思われてたんだろうな」啓太の声は唐突に話し始めた。

「啓太」時中は上方と下の辺りまでをもきょろきょろ見回した。

「目の前をすーっと通り過ぎて行かれて、自分じゃないまったく別の人間に『お疲れー』『お先ー』と目の前であいさつされるっていうのがな」啓太はぶつぶつと語り続けた。

「あー」結城が応じた。「いるね、そういう人。相手をセレクトしてもの言う人」

「仲の良いお友達同士だからというだけではないのでしょうか」本原が推論する。「あまり深い意味はないのかも知れません」

「啓太」時中は囁きかけるように呼びながら、いまだきょろきょろと出現物の姿を探し続けていた。

「何かその相手特定の用事とか業務とかなら、まだそんなこともあると思う。けどあいさつってのは、違うと思うんだ」啓太はさらにぶつぶつと語った。「あいさつってのは、俺だったら目の前に見えてる人間全員にする」

「うん」結城が大きく答える。「俺もそうする。あいさつだもんな」

「対話しているのですか」本原が質問する。

「啓太」時中が囁きかける。「お前やっぱり、職場でいやがらせを受けていたのか」

「ハラスメントだね」結城が受ける。「あいさつハラスメント、アイハラだ」

「人の名前みたいです」本原がコメントした。

「本原ちゃんの仲間みたいだよね」結城が笑顔で応える。

 本原は無視した。

「啓太」時中が声を大にして呼びかけた。「お前は悩んでいたのか」

「悩んでいるよ、今も」啓太が応えた。「俺の尻込み人生において」

「尻込み人生?」結城が訊く。

「俺はずっと、尻込みしながら生きてきたんだ。人と関わるとか、現実と向き合うとかいうのがどうも苦手でさ」

「だからあいさつされなかったのではないでしょうか」本原が考えを述べる。

「啓太を批判するな」時中が反論する。

「でもたぶんそうなんだ」啓太は批判を受け入れた。「俺はセレクトされるほど価値のある存在じゃなかったんだ」

「そんなことはないよ」結城が間髪を入れずに返答する。「ていうか、あったりなかったりするよ」

「どういう意味だ」時中が眉をひそめる。「啓太を馬鹿にしているのか」

「いや、違う違う」結城はハンマーを握ったまま両手を振る。「価値なんて、人それぞれじゃん。同じ一つのことでも物でも、人によって価値があったりなかったり」

「というかどうして啓太さんは突然私たちと対話するようになったのでしょうか」本原が質問する。

「なんだろうね」結城は首を傾げる。「トキ君が、岩の目を見つけたからかな――あっそうだ、岩の目岩の目」そして思い出したように大声を挙げる。「イベントしようイベント」

「啓太」時中は応じなかった。「姿を現すことはできないのか」

「トキ君、ドリルで穴開けよう」結城は時中に要請した。

「多くの人から価値があると思われる人間と、まったくそう思われない人間とがいるんだな。俺は完全に後者だ」啓太がぶつぶつと語る。

「そんなことはない」時中が否定する。「私はお前は価値のある人間だと思っている」

「えーと、まずいなこれ」結城が後頭部を掻いた。

「イベントが先に進まないからでしょうか」本原が確認する。

「なんかさ、啓太君にとってイベントやられたらまずい事情があんのかな」結城は上方を見上げた。「啓太くーん」呼びかける。

「啓太? 誰じゃそれは」突然、野太い声が洞窟内に響き渡った。

「あれっ」結城が目を丸くし、

「まあ」本原が口を抑え、

「啓太」時中が眉をしかめた。

 

     ◇◆◇

 

 もう少しだ。もう少しで、新人たちのいる場所に辿り着く。鯰には何となくそれがわかった。水温が、下がってきているからだ。イオンの成分も、少しずつ変化してきている。

「鹿島っち」鯰は全力で水中を縫い進みつつ、叫んだ。「いるんでしょ、どっかそこら辺に」

 応えはない。しかし気づいているはずだ。

「あたし思ったんだけどさ」鯰は叫び続ける。「空洞の入り口開けても、人間だけじゃ入っていけないでしょ。依代が一緒でないと」

 もうすぐ、出口だ。

「どうすんの? 依代」鯰はラストスパートをかけながらまた叫ぶ。 

「基本に立ち戻る、というのかの」応えたのは鹿島の声ではなかった。もっと渋い深低音の、年輪と深く刻まれたキャリアとを彷彿とさせる声だった。鯰にとっては馴染みのない人物――いや、神の声だった。

「基本?」それでも鯰は訊いた。

「うむ」その声は応えた。「ラン藻――シアノバクテリアを使う」

「――」鯰のラストスパートが一瞬ゆるみかけた。「依代、に?」

「まあ、八百万位の数なら借りても文句言わないだろうしな」鹿島が続けて応えた。「だから安心して先導してくれ、鯰」

「――わかった」鯰は再び加速した。「もう少しで着く」

 言葉通り、出口を塞ぐ岩は鯰が激突する寸前に口を開き、鯰は大量の水とともに洞窟内へと飛び泳ぎ出た。



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第70話 いつ・どこで・誰が・何を・何故・どのようにも程がある

「ふぃー」鯰は甲高い一声を挙げた。「煮魚になるとこだった」

「鯰?」結城が叫び、

「鯰さま」本原が口を抑え、

「啓太」時中が茫然と呼んだ。

「啓太? 誰それ」鯰は訊いた。

「トキ君、啓太君じゃないよこれ、鯰だよ。魚類の」結城が足下の地盤に突如開いた孔から顔を出している鯰を指差し、時中に教える。

「わかっている」時中は嫌悪と憎悪が入り混じったような顔で唾棄するがごとくに言い捨てた。

「鯰さまはどこからいらしたのですか」本原が質問する。

「会社会社」鯰は口早に答える。「神たちも一緒だよ」

「えっ」三人は声を揃えて目を見開いた。「天津さんたち?」結城が続けて叫ぶ。

「いや、鹿島っちと、えーとあの人」鯰は一秒置いて「宗像、さんだってさ」

「鹿島さんと、宗像支社長?」結城が再び叫ぶ。「でも、どこに?」

 

「聞えないか」鹿島が苦渋に満ちた声で呟く。「まだシステム復旧に時間かかるのかな」

「鹿島さん、すいません」大山の侘びの声が届く。「今、恵比寿さんが大至急でやってくれてますんで」

「なんか量子の状態も安定しなくてブレブレになっちゃうそうなんすよ」住吉も続けて鹿島に伝える。

 この二人の伝達内容は、二人が鹿島に伝達する直前にまず恵比寿が鹿島に向けて叫んだ内容ではあった。

「そうか」鹿島は恵比寿からの伝達について反応しなかったが、その後の二人の伝達について頷きを見せた。「エビス君とやらに、頑張れ、とくれぐれも伝えてくれ」鹿島がそれを言うのと時を同じくして、それは恵比寿に確かに伝わった。

「頑張れ、俺」恵比寿は誰もいない室内で独り自分に言葉をかけた。

「頑張って、エビッさん」大山も言葉をかけた。

「頑張って下さい」

「がんばっす」

「きっとできるっすよ」

「御武運を祈念致します」続けて他の神らも言葉をかけた。

 

「岩っちがさ」鯰は新人たちに伝えた。「あんたらに、イベントやってちょーだいって」

「地球が? さんが?」結城が地球を呼び捨てにした後訂正し、

「まあ」本原が頬を抑え、

「そうすれば我々は助かるのか」時中が確認した。

 

「地球が?」鹿島は地球を呼び捨てにしたまま訂正せず、

「何を思ってそのような事を」宗像が疑問を口にした。

「岩っち、神たちと対話したいってさ」鯰は新人たちと神たちへ、同時に回答した。

 その回答は、新人たちよりも神たちの方に大いなる驚愕と感慨とを呼び起こした。

「何だって」大山が愕然と声を震わせ、

「地球の方から?」住吉が叫び、

「どういう風の吹き回しか」石上が問いかけ、

「何のための?」木之花が呟き、

「へえー」恵比寿がPCから顔を上げた。

「けど、誰と?」伊勢が問いかける。むろんその声は、彼の隣にいる磯田社長の認知機能には届かない周波数のものだった。

「まあこのままいけば、俺と宗像さんが対象になるんじゃないか」鹿島が答える。

「対話か。経験した事とてないが、まあ社運を懸けて臨むより他あるまい」宗像が覚悟を決める。

「タゴリヒメ様」木之花がため息混じりにその名を呼び、それから「天津君たちは?」と問いかけた。

「ええと?」大山が二柱の神たちの気配を探る。「あれ、ほんとだ。彼らどこ行った?」

「あ、あの」遠慮がちに言葉を挟んだのは、恵比寿だった。「海底ケーブルの、中……」

「え」神らは一瞬、凍りついたように絶句した。

「海底ケーブル?」大山が茫然と訊き返す。「なんで?」

「あの」恵比寿はますますもって遠慮がちに説明し始めた。「光に乗って、ホットスポット巡りすれば早いと思って」

「光か。なるほどな」大山が納得した。「神舟が消されちまったからな」

「ははは」恵比寿は気弱げに笑う。「そう」

「光? って?」鹿島が質問する。

「ああ、エビッさんが代替システム構築してくれてるらしいっすよ」住吉が適当にごまかす。「量子が駄目なら光子だつって」

「ほう」鹿島は感心した。「頑張れ」

「はいっ」恵比寿は別人のように声を高く張り上げ、背筋を伸ばして返事した。

 そして神らのそんなやり取りは、いまだ新人たちの耳には入って来なかった。

 

 出現物たちの声が喧騒の様相を呈し始めたのは、時中が岩の目に孔を穿ち始めた辺りからだった。もはや対話といえる類のものではなく、銘々が好き勝手に声高に発言し合い、誰が誰に対して返事をしているのかも定かでない状況だった。

「こんなんで、大丈夫なのかな」結城が、発する言葉こそ心配しているようだが顔ではにこにこと楽しげに笑いながら辺りを見回す。

「私たちのワードがかき消されたりはしないのでしょうか」本原が、表情こそ無表情ではあるが発する言葉では懸念する。

「やってみるしかないだろう」時中が、作業を終えたドリルをウエストベルトに差し込みながら眉をひそめる。

「あー、にしてもうるっさいわ」鯰が苛々した甲高い声で文句をいう。「何なのこいつら」

「なんなんすかねえ」結城が孔の中に差し込む木片をウエストベルトから引っ張り出しながら笑い、そして「あれっ」と素っ頓狂な声を挙げた。

「何だ」時中が振り向き、

「何ですか」本原が振り向き、

「何」鯰が振り向いた。

「この木」結城が手に持つ木片を見下ろして言う。「なんか、成長してる」

 その言葉通り、ただの木切れだったそれは、鮮やかな黄緑色の柔らかい新芽をまとっていた。

「なぜ葉っぱが生えているのですか」本原が質問した。

「この木は生きているのか」時中が眉をひそめた。

「生きてるんだろうね」結城が頷いた。「へえー」

 三人の不思議を訴える声の背後で、出現物たちの私語はますます盛大になった。

「うるっさい」鯰が再度、甲高く文句を言う。

 

「ああもう、嫌だ」磯田社長はエレベータの中で両耳を塞ぎ、真っ青な顔をしてしゃがみ込んだ。「やめて!」金切り声で叫ぶ。

「――」伊勢は磯田の肩に手を置き、天井を睨み上げた。「早くしろ」呟く声は、エレベータ内に響き渡る数知れない正体不明の声の渦にかき消される。「出て来い」

 がやがやがやがや

 もはや誰が何を喋っているのかなど聞き取れない。もはやそれは人の話す声、言葉ではないのかも知れない。ただの騒音だ。

 がやがやがやがや わははは がやがやがやがや

 時折馬鹿笑いの声が混じり、

 がやがやがやがや 馬鹿野郎 がやがやがやがや

 時折怒声が飛び、

 がやがやがやがや もう駄目だ がやがやがやがや

 時折絶望を訴える悲壮な声がよぎる。

「早くしろ」伊勢は天井に向かってはっきりと呼びかけた。「スサ!」



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第71話 それだけ嬉しげに繰返す新造語も明日にはきっと忘れてる

 成長した木片は、結城の手により孔の中へ差し込まれた。

「では始めよう」時中が眼鏡を指で押し上げる。「正三角の位置に並ぼう」

 新人たちは、そんな昔に行ったものではないにも関わらずひどく懐かしきフォーメーションを今、再現しようとし始めた。

「閃け、我が雷よ」時中が鉱物粒子間に隙間を開けるイメージで唱える。

「迸れ、我が涙よ」本原が粒子間に水を流れさせるイメージで唱える。

「開け、我がゴマよ」最後に結城が何らのイメージも策謀もなく叫ぶ。

 そして次の瞬間、岩壁の下から遥か上方にまで、目に見えぬ巨大な刃物がすぱりと切り裂いたかのように亀裂が走った。

「おお」結城が感嘆の叫びを挙げる。

 裂け目の向こうには、真っ黒な闇があった。闇の色だけが、そこに在った。その闇に、三人のヘルメットのライトが当たり――それは、ゆらゆらと揺らめいた。たゆたっていた。光が照らすもの、その闇の正体は、ゆらゆらとたゆたう大量の水であった。

「これって」結城が目の前に立ちはだかる闇色の水を指差して言った。「海?」

 確かに、そこには海があった。

「海」時中が茫然と繰り返す。

「何故流れ出して来ないのですか」本原が質問する。

「うひょー」鯰が甲高く感嘆する。「水圧高そー」

「えっ」結城が足下の鯰を見下ろす。「じゃあ、この中入ったら、死ぬ?」

「まあ一瞬でぺちゃんこだろうねえ」鯰が甲高い声で戦慄すべき回答をしたがそれは呑気な話にしか聞えなかった。

「瞬ぺちゃ?」結城が叫ぶ。

 真っ黒な水が波打ち、その中に時折、白い小さなものが細かく揺れながら素早く横切ってゆく。

「あれは深海魚でしょうか」本原が確認する。

「未知の生物かもね」結城が楽しげに緊迫感のこもったかすれ声で言う。「ダイオウイカとかいんのかな」

「というかこの中に入っていかなければならないのか」時中が今後の対応について懸念を示した。「大丈夫なのか」

「わかんないけど」鯰は最初低く、だがすぐに甲高く断言した。「やるしかないと思う」

「よし」結城が腕を背後から前方に振り出して叫んだ。「やろう」

「本当に入って行ってもいいのでしょうか」本原が懸念を示す。「鯰さまはこの後どうなるかわかっていらっしゃるのですか」

「よくわかんない」鯰はいい加減なことを断言した。「でもやるしかないと思う」

「鹿島さんと宗像支社長は何て言ってる?」結城が訊く。

 鯰は数秒黙り「そのままやって大丈夫だってさ」と甲高く伝えた。

「天津さんたちは来ないのか」時中は被せて質問した。「天津さんと、酒林さんは」

 鯰は数秒黙り「来ないね」と甲高く伝えた。「もう、やっちゃいなよ」

「けれどあの海の中に入ることはできるのでしょうか」本原が再度確認する。「水圧が高いという事でしたら、入るのは控えた方がよいのではないでしょうか」

「じゃあまず、俺が行くよ」結城が本原を振り向いて言う。「俺が行って大丈夫そうだったら、後から続けて入ってくればいいんじゃない?」

「大丈夫ではなかったら、どうなるのですか」本原はさらに確認する。

「そうしたら、再度確認してどうするか考えたらいいんじゃない?」結城が上方を見て言う。

「その場合結城さんはどうなるのですか」本原が質問する。

「瞬ぺちゃ」鯰が答える。

 新人三人は黙り込んだ。

「大丈夫大丈夫」鯰が甲高く付け足す。「神たちが何とかするって。大丈夫だから」

「うん」結城が頷く。「俺はまあ、大丈夫だと思うよ。普通のあれだったら瞬ぺちゃだろうけど、俺ら神様がついてるからね。まあ、大丈夫だろ」

「文句を言わずに命を懸けろという事だな」時中がコメントする。

「そういえば伸也はなんで転職決めたの?」啓太の声が問いかけてきた。

「啓太」時中ははっとして顔を上方に上げた。「いるのか」

「あちゃー」結城も口角を下げながら上方を見る。「今?」

「確か管理職だったんだよね」啓太は姿を見せないまま語りかけた。「俺なんかと違って給料もいいし、俺なんかよりずっと偉い立場だったのに」

「そんなことはない」時中は上方を見たまま首を振った。「啓太、違うぞ」

「管理職をなさっていたのですか」本原が確認する。

「へえー。すげえ」結城が感心する。

「どうして転職なさったのですか」本原が啓太の質問を繰り返す。

「管理職の業務形態のあり方に疑問を抱いたからだ」時中は上を向いたまま答えた。

「業務形態のあり方というのは何ですか」本原が啓太の代わりにさらに問う。

「早い話がプライベートタイムというものを持つ事を許されない仕事だったからだ」時中はいまだ見えない啓太を探しながら答える。

「ああ~」結城が頷き、

「結城さんと同じ理由という事ですか」本原が確認し、

「そうだね」結城が本原を見てまた頷く。

「違う」時中は顔を正面に下ろし、首を振って否定した。

「そっか、まあ業務上の立ち位置が違うからねえ」結城が時中を見てまた頷く。「あれでしょ、奥さんと二人きりの時間に突然電話かかって呼び出されて、みたいな」

「違う」時中は首を振って否定した。

「あれ、そう」結城が肩をすくめ、

「何の時間だったのですか」本原が質問する。

「ガ」時中は答えかけて止めた。

「が?」結城が訊き返し、

「何でもない」時中が首を振って否定し、

「仕事以上に大切な趣味があったという事なのですね」本原が確認し、

「プライバシーへの詮索はやめてもらおう」時中が眉をひそめ苦言を呈した。

「そうだよね。ごめんな、変なこと訊いて。もう訊かないよ」啓太が申し訳なさそうに謝る。

「啓太」時中がはっとして上方を見る。「違うぞ、啓太」

「もう、早く行っちゃいなよ」鯰が甲高く怒鳴る。

「はいはい、じゃあ俺から行くねー」結城は大声で応じ、亀裂の向こうの黒い海の中に右足から踏み入った。

「会社のクオリティを」「向上させる力になると」「見込まれたのか」言葉が――出現物たちの声が、まるで生まれてはすぐ消え行く泡(あぶく)のように、結城の耳に入ってきては去って行く。「文句を言わずに」「ただ働き続ける」「奴隷となってくれると」「踏まれたのか」「どっちなんだ?」

 結城の周囲は、真っ暗闇だった。出現物たちの泡のような声以外は何も聞えてこない。呼吸は――できている。ガスを吸い、吐き出すことはできる。顔も体も、水に濡れている感覚も、水圧に圧し掛かられている感覚も、ない。

 ただひたすらに真っ暗で、泡のような声のみが次々に聞えてくる。

「価値のあるなしは」「人によって違う」「だから自分に価値があるか」「どうかの判断は人に任せてちゃ」「いけないんだよ」「自分の価値は自分で」「付けていかなきゃ」「きれいごとだ」「いやあ」「汚い作業だと思うよ」「必死こいて汗水垂らして」「なりふり構わず好きなことだけ」「追求するって」

「あれ」結城は暗闇の中、ただ一人目を丸くして呟いた。「この言葉――」

「傍から見たら変人だし」「醜いかもだし」「はぶられるかもだし」「否定も批判も喰らいまくるかもだし」「それでも価値があると」「自分で信じれば」「価値があるのか」「ないかも知れないし」「意味ねえだろが」「意味ねえわ」

「あ、やっぱり」結城は上方を向いて叫んだが、上方にもやはり暗闇しかなかった。「これ、坂田と片倉じゃん」



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第72話 職業:がんばってる弱者

「結城」泡(あぶく)のような声が名を呼びかける。「結城お前」「大丈夫なのか」

「俺?」結城は自分を指差す。「ああ、俺は全然大丈夫、元気だよ。お前らどう」言いかけて結城は言葉を途切れさせた。

「こんなとこにいて」「早く帰った方がいいぞ」

「坂田と片倉って」結城は正面の闇を見るともなく見ながら口にした。「……生きてる、よね?」

「早く帰れ」「ぼちぼち出た方がいいぞ」出現物の声は変らずはかなげに浮かんでは消えていく。

「あれ、何で二人、ここにいんの? バイト?」結城は質問した。

「お前、死ぬぞ」「俺達にはもう」「どうしようもない事だ」「死ぬ前に帰れ」はかなげな声は次第にますますはかなげに、ふっつりと切れそうな灯火のように弱くなって行った。

「俺まだ帰れないんだよ」結城は上方の闇を見上げて答えた。「まだ仕事が残ってるからさ」

「何の仕事だよ」「おかしくないかそれ」「命より大事なのか」「くだらねー」出現物の声は弱々しいながらも小馬鹿にしたような響きを感じさせた。

「確かに、おかしいかも知んないけど」結城は上方を見続けたまま答えた。「この仕事やっちまわないと、ほんと文字通り、生きて帰れないからさ。冗談抜きで」

「そんな仕事辞めちまえ」「おかしくないかまじ」「死ぬぞ」「死んじまうぞ」

「お前ら、ほんとに坂田と片倉か?」結城は何も見えない上方に人差し指を突きつけながら訊いた。「えらい悪意しか向けて来ないけど。何だ、マヨイガ関係?」

「俺らのこと疑うの」「十五年の付き合いなのに」「最近会ってないけど」「冷たいなあお前」

「いや、だってお前ら姿見えないもん」結城は上方を左右に見渡した。「出現物……まさかあれか、スサノオ関係か」

 

 どばしゃっ

 

 突然結城の顔面に、激しく水がぶっかけられた。

「ぶっ」思わず両腕を顔の前にかざす。

 

 ばしゃっ

 ばしゃっ

 どばしゃっ

 

 水は次々に結城を襲い、顔や体がたちまちずぶ濡れになった。

「なんだよこれ」結城は両腕で顔をかばいつつ叫んだ。「お前らがやってんの? 坂田、片倉。てか、出現物!」

 次の瞬間結城は、水の中に全身浸かっていた。

「見えないんだよ」「お前らの目には」「認識できないの」出現物の声は水の中にまで、幻のごとく響き渡って来た。「お前何してんの」「今何の仕事してんだ」「前のとこ辞めたのか」「辞められたのか」「まさかクビじゃないよな」「強者の理論に巻かれて」

 ――自主退社だよ。

 結城の耳に声は聞えていたが、言葉を返すことはできなかった。水中にいるからだ。息を止めていなければならなかった。なので結城は心の中だけで回答した。

「目には見えないって」「見えるものしか存在しないって」「科学で解明されないって」「お前らの能力が追いついてないだけで」「俺らはここにいるから」「すげえシステムの上にいるから」「お前らもそうだろ」「すげえシステムの上に生きてるのに」「気づいてないだけで」

 ――何それ……会社のこと?

 結城は真っ暗な水の向こうに目を凝らしながら、心中で訊いた。

「人間ってずっとそうなんだよな」「すげえシステムの上にいるのに」「どんだけ危険な場所に立ってるか」「自覚のかけらもないし」「いまだに祈ることしかできない」「何万年経っても」「いまだに祈ることしかできない」

 ――これ……誰が言ってんだろ……神様たち……違うな……地球……?

 結城は息を止めていることにそろそろ限界を感じつつ、そう思い到った。

 ――これ……もしかして俺いま、地球さまと対話してんの?

「仕事仕事って」「目の前のものしか見る事ができない」「自分の為の改善しか提案しない」「システムにかかる負荷なんてどうでもいい」「先を読み取る力もない」

 ――いや……違うな……これ、対話じゃないよな……一方的にけなされてるだけだし。

「大体今の職業にどれだけの奴が」「誇りを持ってるのか」「何の職業なら誇れるのか」「どんなに足掻いても結局は」「強者の下にかしずく弱者でしかないのに」「何の力も与えられない」「ただこき使われるだけの」「弱者」

「上等だよ」結城は無意識に水中にて叫んだ。そしてその直後、後悔が走った。息が苦しい。

 昔の、幼い頃の記憶が蘇る。さまざまな懐かしい場面が脳内をよぎる。ほぼすべて、結城がべそをかいている場面だ。

 ――なんだろうトラウマか。いじめの記憶錯綜か。フラッシュバックか。略してフラバか。コーヒー飲むのか。

 思う内に、今度は赤い顔で大口を開け笑っている自分の顔が現れた。それは白いカッターシャツを身に纏いビールのジョッキを片手に持つ、社会人になった後の自分の姿だった。

 ――ああ、そうだ。また、諸先輩方と宴会やらなきゃいけないんだ。あの、気を使い気を使い気を使う、飲み会を。皆、笑って、たまに口論して、呑んで、また笑って――

 意識が遠のく。

 

「あー」頭の中に、知らない声が聞こえる。「このヨリシロもうダメかな」

 

 ――誰……

 結城は薄い意識の中で問うた。

「ゲンキいいからキにイってたが」

 ――お前……

「さてもヒトのココロネのコエはややこしい」

 ――神……?

「ムカシはイノリばかりキいてやればよかったが」

 ――地球……?

「ホウサクだのテンサイチンアツだの」

 ――俺……?

「イマにヲいてはあっちこっちカマビスしくってシチメンドウクサい」

 

 ぽちょん

 

 結城は、自分の意識がひとつぶの雫となって落ちていく感覚を、最後に受け取った。眼を閉じる。

 ――スサノオ……?



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第73話 スゲー・ヤバイ等は使用せず色・形・大きさ等の物理量で報告しましょう

「スサ」伊勢は叫んだ。「起きたか」

「あー」寝ぼけたような声が答える。「ヨリシロ、ダメんなった」

「遅いからだろうが、お前が」伊勢は怒った。「何やってたんだ」

「駄目にはなってないよ」鹿島が言葉を挟む。「宗像さんと俺が、ギリギリで酸素補給したから。気を失ってるだけだ」

「ホント?」声は光を得たかのように明るくなった。「じゃまだウゴかせる?」

「ああ……けど応急処置ぐらいはしてやらないとな……ああ、けどこの依代じゃ無理だよなあ」鹿島が困った声を出す。「後の二人の新人くんたち、入って来れるかな。この空洞に」

「あまつんと酒林さんはどこら辺を走ってるんだ? エビッさん」大山が問いかける。

「もうすぐ近くまで行く」恵比寿はPC画面を睨んだまま答える。「彼らの依代もシアノバクテリアを使いますか?」

 その問いに、最初誰も答えずにいた。

「あ、えと鹿島さん、あまつん達も、シアノバクテリアの中に入ってもらい、ますか」大山がどこかぎこちなく問い直す。

「ん、ああ、それでもいいよ」鹿島が答える。

「君は、誰?」その時届いた声――声、なのだろうか、それとも――

 

 ずず

 ず

 ずずず

 

 岩の、滑り、擦れる、音――? いずれにしても、神たちは一斉に瞬きすら忘れ、その場に凍りつくように立ちすくんだ。ただ一人、たった今目覚めた新参者を除いて。

「ん、オレ?」新参者は訊き返した。「スサノヲ」

「スサノオ?」地球もまた訊き返した。「あれ、でも違うよね?」

「ナニが?」新参者もまた訊き返す。

「こっちの、スサノオ――」地球は今まで会話をかわしていた別の存在、古参者を比喩的に顧みた。古参者はむすっと拗ねたように黙り込んでいる。

「てことは、君……今現れた君が、神の仲間のスサノオなのか」

「ふざけんな」古参者の方が怒りの声を挙げた。「スサノオは俺だ」

「君は出現物でしょ」地球は確認した。「マヨイガとかと同じ類の」

「あんなわけのわかんねえ奴と一緒にするな」古参者はますますいきり立った。

「ケンカするなよ」新参者がなだめる。

「お前のせいだろ」古参者は追い被せるように言い募った。「お前がスサノオだとかなんとか嘘っぱちの名を名乗るから」

「ウソじゃない」新参者は言い張った。「オレはスサノヲだ」

「証拠でもあんのかよ」古参者はクレームをつける。「証拠を見せてみろ」

「わかった」新参者は気軽に答えた。

 そしてその後しばらくは、何の物音も、誰の喋る声も聞えてこなかった。

「おい」古参者が低く呼びかける。「人の話聞いてたのか、ニセ者野郎」

 

 ごろごろごろ

 

 小さく、遠くから地響きが聞えてきた。

 

     ◇◆◇

 

「この辺りか」酒林が海底ケーブルから飛び出す。

「今はもうあっち行ったりこっち行ったりしてないみたいすね、空洞」天津も続く。

「うん。安定してる……っていうのか」酒林はただちに海洋地殻の中に染み入るようにもぐりこんでいく。

「出現物は出て来てるのかな」天津も続きながら懸念を口にする。「ずい分と妨害を試みてたみたいだけど」

「んー」酒林は少し考え「さっき、親父の奴が起きただろ」

「親父――スサノオノミコト?」天津は確認する。光に乗っていながらも、二人にその声は届いていたのだ。

「うん。あれで、マヨイガの奴も大人しくなってるな……様子見してんのかな」

「なるほど」天津は頷いた。「で、今ごろごろ振動音が聞えてきてるこれ、は」

「……」その問いには酒林もすぐに答えることができずにいた。「何だろ」

 

 ごろごろごろごろ

 ごろんごろんごろんごろん

 

「なんか」天津は茫然と呟いた。「数、増えてない?」

 

     ◇◆◇

 

「えーと?」伊勢は眉根を寄せた。「何を持ってきた? スサ」

「イワ」答えは明瞭だった。「サワったらシぬやつ」

「赤岩か」神たちは一斉に驚愕の声を挙げた。「なんでまた」

「あとマモノでてくるやつ」

「なんでそれまで」神たちは再び驚愕の声を挙げた。

「オレはサワってもシなない」新参者は得意そうに説明した。「マモノのはトチュウでみつけたからツイでにもってきた」

「触っても、ってそりゃ今は依代に入ってないからだろ……あ、そうか依代に入ってなければ岩転がすこともできないわけか」伊勢は呟く。

「オレはコロがせる」新参者はまた得意げに説明する。

「スサだ」大山がため息混じりに言う。

「スサ。やっと起きたのか」

「今まで何やってたんだ。本当に寝てたのか」

「結城君の中で? ていうか何で一般人の体に入るんだよ」

「普通はできないもんだけどな。それができるんだから」

「まあ、やっぱり」神たちは一頻り騒ぎ、そして「スサだ」と声を揃えた。

 

「誰と話してるの?」地球は新参者に訊いた。

「うちのナカマ」新参者は答えた。

「あんた、神の声は聞えないのか」古参者が地球に訊く。

「聞えないな」地球は答えた。「神たちには私の声が聞えているの?」

「んーと」新参者は確認した。「カスれたコエがキコえてくるって」

「へえ」地球は少し面白そうに言った。「掠れてるんだ」

 

 ――掠れてるじゃなくて、岩が擦れてる、だよ。

 伊勢は苛立ったため息をついた。

「伊勢君」磯田社長が呼ぶ。「エレベータの保全担当が来てくれたみたいよ。ああ良かった」

「本当ですか」伊勢は依代の声を発声させて喜びを表した。「もう少しで上がれますね」

 ――お前のとこには、行けないかもな。

 そう告げながら、磯田社長に手を貸して彼女を立ち上がらせる。

 ――うまくやれよ。……いや。

 開かないままのドアを見る。

 ――うまくないことは、やるなよ。



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第74話 転がる岩のように使途不明

 ごろごろごろごろ

 ごろんごろんごろんごろん

 

「これは何の音でしょうか」本原が質問する。

「何の音だ」時中が質問で返す。

「何か転がって来る音? 岩?」鯰が推測し、

「岩ですか」本原が確認し、

「岩?」時中が訊き返す。

 

 ごろごろごろごろんごろんごろん

 

 音はみるみる大きくなり、近づいて来た。

「入っちゃえば? あの亀裂に」鯰が促す。

「入れるのでしょうか」本原が懸念を示す。「水があるのではないのですか」

「結城が出て来ないということは」時中が推測を述べる。「中に入っても問題はないということだろう」述べながら一歩踏み出す。

「それか瞬ぺちゃになってるとかね」鯰が続けて推測を述べる。

「――」時中は動きと言葉を止めた。

「鯰さまは入ってみることができるのですか」本原が鯰に振る。「地下から潜り抜けて」

「んー」鯰は面倒臭そうな声を出す。「まあ今は洞窟が定位置にいるみたいだから、んーでもなあ」

「定位置にいるのですか」本原が確認し、

「今までは定位置にいなかったということなのか」時中が掘り下げて訊く。

「あんたら、気づいてなかったの?」鯰が逆に問う。「あんたらがあの小うるさい出現物たちとぺちゃくちゃやってた間、あっち行ったりこっち行ったりしてたんだけど、この孔ぼこ」

「あっちとはどこなのですか」本原が質問し、

「今まではあっちに行ったりこっちに行ったりしていたということなのか」時中が追加の質問をする。

「ざっくり言えば太平洋とかフィリピン海とか、あと黒潮のとことか」鯰が甲高く答える。

「誰が動かしていたのですか」本原が質問し、

「どうやって移動していたんだ」時中が追加の質問をする。

「神とか、出現物とか」鯰は淀みなく答える。「マヨイガとか自称スサノオとか」

「皆さんで動かしていたのですか」本原が確認し、

「この洞窟の取り合いをしていたのか」時中が結論づける。

「ていうか、あんたらをね」鯰が修正する。「うちの社員だー、うちの材料だー、うちのなんかに使える道具だー、つって」

「私たちは道具なのですか」本原が確認し、

「ネジやコマだということか」時中が結論づける。

 

 ごろごろごろごろんごろんごろん

 

 突如として岩の転がる音が大きく轟いた。新人二人と鯰はそろってはっと息を呑み音のした方を見た。真っ赤な岩と、闇のように黒い岩が数十メートル先で並び転がり、近づきつつあった。

「うわ」鯰が甲高く叫び、

「あれは燃えている岩ですか」本原が確認し、

「何故岩が勝手に転がって来ているんだ」時中が疑問を口にした。

 

「あれ、ヒトがいる」新参者がきょとんとした声で言った。

「人? 人間か?」

「新人君たちか」神たちは一斉に応えた。

「赤岩を近づけるなよ、スサ」伊勢がすかさず叫ぶ。「人間たちが死んでしまう」

「わかった」新参者は頭部全部で頷いているような声で返事した。

 

 ごろごろごろごろんごろんごろん

 

「こっちに来る」鯰が甲高く叫んで水中にどぶんと潜り込んだ。

「逃げよう」時中が、岩の転がって来るのと反対方向に向けて走り出そうとし、

「浮かびました」本原が報告する。

「何」時中が立ち止まって振り返る。

 確かに、赤く燃える岩と呪いのように黒い岩は揃って、二人の頭上高くに浮かび上がっていた。そのまま、結城が入って行った岩盤の亀裂の上部の方に二つ揃って突っ込む。

 

 がつんがつんがつん

 

 硬質の音が響き、二つの岩は亀裂のとば口にぶち当たったままそこから先へ進めずにいた。

「どうなっているのでしょうか」本原が質問し、

「亀裂の幅が狭過ぎて通れないんだ」時中が推測を述べ、

「生きてる? どうなった?」鯰が甲高く確認しながら水中より顔をのぞかせた。

 

 がつんがつんがつん

 

 二個の岩は引き続き亀裂のとば口にぶつかり続け、新人たちと鯰は言葉もなくその様を見上げていた。

 

「スサ何やってんだ、遊んでるのか」

「通れないだろそこは」

「無理なんだよそもそも。元に戻して来い」神たちは口々に新参者に言い立てた。

「ダイジョウブ」新参者はしかし、まったく気後れも迷いも遠慮も会釈もなく、けろっとした声で答えた。

「何が大丈夫――」伊勢が言いかけた時、

 

 がらがらがらがら

 

 二個の岩は亀裂を押し退けるようにして、その向こうへ突き進んで行った。

「ほらね」新参者は勝ち誇った声で告げた。

「お前そんなことして。地球を怒らせたんじゃないのか」

「なんて乱暴な奴なんだ。相変わらずだなあまったく」神たちは揃って新参者を批判した。

 

 伊勢は、漸くおずおずと上昇し始めたエレベータの中で大きくため息をついた。

「ああ、動き出したわ」磯田社長が、両手を胸の前に組み泣き声のようなトーンで言った。「神様」

「保全担当様、ですね」伊勢は微笑みながら修正した。

 

「オコった?」新参者は訊いた。

「ん? 私?」地球は訊き返した。

「オコったんじゃないかって、ナカマがいう」新参者は説明した。

「何に?」地球は少し面白がっているような声で答えた。「空洞の入り口を壊された事?」

「たぶん」新参者は頷くような声で答えた。

「今更、そんなことでいちいち怒ったりしないよ」地球はおどけたような声で言った。「人間たちが出現してからこっち、地殻への影響や変革にはすっかり慣れたからね」

「ふうん」新参者は再び、頷くような声で言った。

「けど、この岩」地球は声のトーンを疑問ありの色に変えて続けた。「どうするの?」

「うーん」新参者は首を傾げるような声で言った。「どうしよう」

「馬鹿じゃねえの」古参者が毒づいた。

 

「言われちゃったよ」

「くっそ、あいつにだけは言われたくねえ」

「げに不届きな……しかし」

「まあ、言われても致し方ない、のか……な」神たちは口惜しがりながらも次第に自信を失って行き声のトーンにそれは現れた。

 

 ドアがゆっくりと左右に開く。日はとうに暮れ、事務所と作業所の電灯の灯りだけが世界を照らしていたが、それでも充分過ぎるほどの、それは心に安寧をもたらす輝きだった。

「ああ、やっと出られた」磯田社長がいつもの声より三オクターブほども高い安堵の声を張り上げながら先に外へ出た。

「お疲れ様す」伊勢が苦笑を浮かべながら後に続き、エレベータを出る。

「社員たちは先に帰らせました、皆社長の事心配してたんですが」相葉専務が、疲労と心労の色に充血しきった目をしばたたかせながら報告する。

「ああいいわよ、全員残られたら残業代で破産しちゃうわ」磯田社長は安心からか珍しく自分で軽口を叩いておいて自分で高らかに笑った。「もちろん今残ってくれてる皆には残業代きちんとつけてね。通常残業でね」

 

「ははははは」

 

 大きく口を開けて笑う顔が浮かぶ。それは誰の顔――何の“顔”なのか――いずれの依代のものなのか、判然とはしない。けれど何であっても、それは笑っている。人のものなのか、獣のものなのか、はたまた草木のものなのかわからないが、それは「ははははは」と、大口を開けて笑っているのだ。

「何だよ」伊勢は口を尖らせてため息をついた。「昔のまんまだよなあ」



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第75話 ワンオペもツカれるまではキラクだが

「スサ」伊勢は、依代の身においては磯田社長はじめクライアントの社員たちと笑顔で労いや状況説明の言をかわしつつ、自社につながるチャネルの上では新参者に呼びかけた。「さっきお前が見たヒトの中に、女の子――娘がいただろ」

「いた」新参者は頷く声で答える。

「彼女がクシナダかどうか、わかるか?」伊勢は続けて訊いた。

「あ。そうか」

「うむ。そうだ」

「クシナダだったか?」他の神たちも思い出したように口を揃える。

 新参者は訊き返した。「クシナダって、ダレ?」

「お前の妻だろうが」伊勢は苛立った声を張り上げた。

「ああ……そ、か」

「まあ、な……スサだもんな」

「ううむ……伊勢君、いいんじゃない?」

「うん……いいよ、訊かなくて」神たちは早々に諦めの言葉を口にした。

「たく」伊勢は依代の顔ではにこにこしながら、裏のチャネルでは荒くため息をついた。何度目のため息かも不明だった。

 

「君は、神の仲間なんだね?」地球が確認する。

「うん」新参者は大きく肯定する。

「じゃあ、神たちと私との対話を取り持ってくれる?」

「うん」新参者は大きく了承した後「タイワってナニ?」と質問した。

「こいつ、大丈夫なのかよ」古参者が疑念を抱く。

「言葉を交わすことだよ。私が言うことは神たちに聞えてるといったけど、もし掠れて聞えなくなった時は、何て言ったか教えてあげて。そして私には神たちの言うことが聞えないから、君がそれを私に教えて」地球は親切な説明をした。

「わかった」新参者は理解を示した。

「幼稚園みたいだな」古参者は毒づく。

 

「くそ……確かにそうだが」

「あいつに言われたくねえ。頼むぞ、スサ」神たちは再び口惜しがった。

「じゃあまず、私から神たちに訊きたい」地球が切り出した。

 神たちは、はっと威儀を正し、文字通り天地開闢以来初となる地球からの直接的な質問を待った。

「神たちは、なぜこの星にクニをつくったの?」地球は問いかけた。

「ヨリシロつくるため」新参者の答えは間髪を入れずに返された。

「依代を?」地球は比喩的に目を丸くして訊き返した。

「早いよ、答えが」

「まあ、その通り、だけどな」

「大丈夫なのか? また結城君の中に入ってもらっといた方がいいんじゃ」

「でもそうしたら、俺達の声が聞えなくなる」神たちは戸惑いの余りざわめいた。

「依代……って、つまり人間、ってこと?」地球は確認した。

「チガう」新参者は再び即答した。「キ」

「キ」地球は反復した。「――木?」

「うん」新参者は頷く声で答えた。

「木を作るために、ここに来たの?」地球は確認する。

「うん」新参者は頷く声で答える。

 古参者は言葉を挟むこともなく、ただ黙って聞いていた。

「大丈夫なのか」囁くように心配を口にしたのは、酒林だった。

 

     ◇◆◇

 

「入らないの?」鯰が二人の新人に言った。「対話、始まってるみたいだけど」

「対話?」時中が眉を寄せ訊き返す。「誰と誰のだ」

「岩っちと、神たちの」鯰は淀みなく答えた。

「まあ」本原が頬を抑えため息混じりに驚く。「地球さまと、神さまのですか」

「結城が間に入っているのか」時中が質問する。「あいつは生きているのか」

「いんにゃー」鯰は亀裂の向こうを覗き込むような声で何事かを確かめた後「神と直接喋ってるみたいよ、岩っち」と回答した。

「そんなことができるのか」時中が確認し、

「では結城さんは死んでいるのですか」本原が確認する。

「さあ」鯰は首を傾げた。「だからさ、入ってみたらいいのよ。ちゃっちゃと」

 時中と本原は顔を見合わせたが、どちらも言葉を発することができずにいた。

 

「鯰」天津が呼びかける。「結城さんは生きていると伝えてくれ。入って来ても大丈夫だと」

「しかし、あの岩があるぞ」酒林が懸念する。「親父が持って来たやつ」

「しっかり、持ちこたえてくれるでしょ」天津は微小な依代の中に在りながら、にこりと微笑んだ。「それができる方っすから」

「ん」酒林はどこか照れ臭そうに笑う。「まあ、ね」

 

「――」鯰は少しの間何も言わずにいた。面白くもなさそうに尾鰭で水をぱしゃぱしゃと叩く。

「何かあったのか」時中が変化を感じ取り訊ねる。

「何かあったのですか」本原が追従して確認する。

「大丈夫だから入れって」鯰は面白くなさそうにぼそぼそと告げた。「天津が」

「天津さんがいるのか」時中が目を見開き、

「まあ」本原が口を抑え、

「入ろう」時中がもはや迷いもなく岩の亀裂に足を踏み入れ、

「はい」本原が続いて亀裂に足を踏み入れた。

「ちぇ」一人取り残された鯰は水の中でつまらなさそうに舌打ちした。「もうちょっと怖がらせてやりゃいいのに。たく甘いんだからな、あの研修担当」

 

 空洞の中は、以前練習用として作られたものと同様、金色に眩く輝きを放っていた。無論照明器具が吊り下げられているわけでもなく、何が光源となっているのかも定かではない。そして今回、その空間の中には誰もいなかった。

「誰もいないな」時中が上方を見回しながら言う。

「います」本原が下方を見回しながら答える。

「何」時中が本原を振り向く。

「あそこに」本原が右腕を伸ばして指差す。「結城さんが倒れています」

 言葉通り、数メートル先に結城がうつ伏せに倒れていた。

「結城」時中が歩み寄る。「生きているのか」

「死んでいるのでしょうか」本原が後に続く。

「結城」時中が結城の体の横に立ち声をかける。「生きているのか」

「結城さま」本原が続いて声をかける。

「結城さま?」時中が眉をひそめて訊く。

「間違えました」本原は無表情に取り消し「結城さん」と呼び直す。

 結城は反応しなかった。

 

「時中君。本原さん」天津が呼びかける。

「やっぱ聞えてないな、まだ」酒林がため息混じりに溢す。

「スサ、岩を絶対に下に落とすなよ」伊勢が真剣な声音で注意する。「そのまま持ってろ」

「わかった」新参者は頷く声で返事したが「ツカれてきた」と小さく付け足した。

「我慢しろ。耐えろ」

「スサノオだろお前。本物だってこと証明してみせろ」神たちは口々に激励した。

「はは」古参者がせせら笑う。「パワハラだ」

「何」

「違う。パワハラじゃないぞ」

「言いがかりはよせ」神たちは口々に否定した。

「ぱわはらってナニ?」新参者は質問した。

「いや、気にするな」

「頑張れ、お前はそのままでいろ」

「やっぱパワハラじゃん。かっわいそーに」

 神たちはもはや言い争いを始めてしまい、対話どころではなくなっていた。



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第76話 思った事を何でも話す行動ほどエネルギーを大量消費するものはない

「話の続きだけど」地球は新参者への問いかけを再開した。「何故……どうして神は、木を依代にしようとしたの? その……人間、ではなく」

「あー」新参者は雰囲気的に上方を見上げ、他の神たちの意見を待った。しばらくして「ニンゲンは、ソウテイ、ガイ、だった」と答えた。

「想定外?」地球はまた、比喩的に驚いた。「どういうこと?」

「ドウブツ」新参者は途切れ途切れに話を続けた。「が、シュツゲン、した、のはー、ヨソウ、してなかった」

「動物が」地球は小さく反復した。「つまり、植物だけをつくるのが目的だったってこと?」

「うん」新参者は少し間を置いて頷く声を発した。一つ一つ、神たちに相談しているようだった。「チッソを、カンリ、しようとした」

「窒素を」地球は反復した。「つまり神たちは植物をつくって、窒素の循環に関与して、そこからエネルギーを得ようとしていたってこと?」

 新参者は今までの中で一番長い時間、沈黙した。そしてやっと「うん」と頷く声で回答した。神たちの説明は今回、相当長くかかったようだった。

「で」地球は早々に先へ進めた。「そのサイクルの途中で、想定外のこととして動物が出現した、と」

 新参者はまた長く沈黙した後「うん」と頷く声で回答した。

「つまり想定外っていうのは」地球は確認した。「酸素を吸っても、死なずに生きつづけることができる生き物が現れるとは思っていなかった、と」

「さすがだな。今のスサの説明だけで、すべてを理解するとは」神たちは称賛を惜しまなかった。「さすが地球だ。何もかもお見通しだ」

「サンソってナニ?」新参者は訊いた。

「えーとだから、二酸化炭素から光合成をした結果作られるガスで、もともと生物にとっては毒だったんだよ」

「で、ある時点でその酸素を取り入れる酵素を作り出した奴が現れたの。そんで我々の預かり知らなかったタイプの生物が、この星の上に生まれたの」

「ふうん」新参者は理解しているのかいないのか甚だ危ぶまれる風な声で反応した後「で、どういうの?」と結論を訊いた。

「えーと『うん』だ」

「そう『うん』でいい」

「ああ、頷くんだ」

「うん」新参者は地球に対し、頷きの声で回答した。

「はい、よくできまちたー」古参者が低く嫌味に満ちた声でコメントした。

 

 結城は目を瞑ったまま、死んだように動かなかった。

「生きているのか」時中が呟き、

「死んでいるのでしょうか」本原が質問する。

 二人はそのまま無言で直立していた。

「確認してみたらどうだ」時中が本原を促す。「息をしているのかどうかを」

「お断りします」本原が明確に拒否した。「時中さんがやって下さい」

「結城」時中は再度、上から呼びかけた。

 結城は相変わらずびくともせずうつ伏せに倒れていた。二人はさらにそのまま無言で直立していた。

「人工呼吸をしてみたらどうだ」時中は提案した。

「――」本原は返事をしなかった。

「AEDは近くにないようだ」時中は周囲を見渡した。「本原さん、人工」

「お断りします」本原は明確に拒否した。

「呼吸」時中は残りを言った。

 その後二人は無言で直立していた。

 

「鯰」天津は呼びかけた。

 しばらくの間を置いて「あー?」と、甲高い返答が返って来た。

「お前、そこからこの空洞に移動できないのか」天津は続けて訊いた。「新人さんたちのところに」

「さあ」鯰はとぼけた。

「地球に訊いてみてくれ」天津は粘った。「なんとかして、結城さんを介抱して欲しいんだ」

「あんたらの新しい仲間に頼めば?」鯰はとぼけ続けた。「あの幼稚園児みたいな人に」

「あいつには頼めない」酒林が代わりに答えた。「今地球と対話できるのは奴だけだから」

「それも不思議なんだけど」鯰は逆に問い返した。「あの人なら岩っちと直接対話できるってんならさ、なんでそもそも、今まであたしがあんたらの為に仕事しなきゃならなかったの? 池に閉じ込められてさ」

「それは」

「あの幼稚園児にやらせりゃあよかったじゃん」鯰はここぞとばかりに不平を言い立てた。

「あいつは無理なんだよ」酒林は痛いところを突かれたような声で答えた。

「なんでよ」鯰は容赦なく問い詰めた。

 

「もういちど訊くけど」地球はゆっくりと問いを繰り返した。「動物は、神が造ったものでは、ないの?」

「うん」新参者は頷きの声で答えた。「カッテにハッセイした」

「うわ、無責任な答え」古参者が突っ込みを入れる。「弊社には一切関係ありませんてか」

「神が、動物の発生や進化を止めなかったのは、なぜ?」地球は構わずに問いを続けた。

「キョウゾンできるとおもってたから」新参者は答えた。

「取り敢えず泳がせといて、分捕れるもんがありゃラッキーってなところだろ、どうせ」

「ああもう、この部外者はなんとかならないのか」

「野郎、調子に乗りやがって」

「窒素ガスに戻してやろうか」神たちは怒りをあらわにした。

「けっ、やれるもんならやってみろよ」古参者も決して引かない。

「一体何がしたいんだ。何が目的なんだ」

「新人を鍛えるだの何だの、もう諦めろ」

「お前の手になど新人は渡さない」神たちはきっぱりと通告した。

 

 突如、ウエストベルトのポケットに挿した端末が小刻みに震え始めた。

「何だ」時中が眉をひそめる。

「何か出ています」本原が端末を引き抜いて表示を確認する。「出現物でしょうか」

「出現物?」時中は眉をひそめたまま本原を見、それから上方を見上げた。「あれのことか」彼が見上げた先には、赤く燃える岩と闇のように黒い岩がどのようにしてか岩壁に張り付いていた。二人の頭上はるか高い所だ。

「あれは先ほど転がって来た岩ですか」本原が確認する。

「そうだろうな」時中が推測を述べる。「しかし何故あんな上の方にへばりついてるんだ」

「謝罪の言葉は用意できたのか、お前ら」突如、割鐘声がとどろいた。

「何」時中が眉をひそめ、

「この声は」本原が口を抑えた。「磯田源一郎さんでしょうか」

「何をすっとぼけとるか」声は苛立った口調を帯び吐き捨てるように言った。「五分と言ったはずだぞ。一体何時間経ったと思っとるか。馬鹿者どもが」

 

「何。これは――」

「出現物、マヨイガか?」

「何故、今また」神たちも動揺した。

「けっ」古参者は小鼻に皺を寄せた風な声で言った。「また邪魔が来やがった」

「共存できると思ったんだね」地球は、地殻の上での瑣末なことにいちいち驚異することなど決してなかった。「でも今神たちは、人間たちを何よりも重要視しているよね。私には正直、神たちの目的はもはや植物にはないんじゃないかって思えるんだけど、違うかな」

 新参者の答えは返って来なかった。地球はしばらく待った。しかし答えはやはり返って来なかった。

「ええと」地球は新参者の名を少しためらった後に呼んだ。「スサノオ、君?」

「何をするつもりだ。何故今現れる」

「まだ新人を狙っているのか? こいつも諦めが悪いな」神たちは緊急に対応策を考えねばならなかった。

「さっさと対話を終らせてつまみ出すか」古参者は企みを呟く。「あの三人を」

「ほれ、さっさと謝らんか」出現物のがなり声は輝く空洞の中でも相変わらず耳障りに響きわたった。「儂は忙しいんじゃ」

「ううむ、この微生物の姿ではどう対峙することも適わぬの」

「そうっすね……せめてシステムが復旧してくれたら」

「す、すみません鹿島さん、俺の仕事が遅いばっかりに」

「気にしなくていいっすよ、エビッさん」

「そうそう、今のまま続けてて下さい」

「ん? 皆誰に言ってるの、気にするなとか」

「ええと、もう一度訊くね。神は、人間のことを、今では植物よりも大事な存在として考えているの?」

「あたし、はっきりいうけど残業代とかちゃんとついてないよね? 魚類だからっていいようにこき使ってくれてるよね、しかも要石(かなめいし)なんかで脅されてさ。出るとこ出たらおたくら絶対不利になると思うよ」

「早よう謝らんか、この屑ども。人の話が解らんのか」

「へっ、ふざけた野郎だ。新人たちと直接対話できるのが自分だけだと思って好き勝手できると思うなよ」

 

 ぐわしゃっ

 

 上方で、突然岩の砕ける音がした。新人二人ははっと息を呑み上を見上げた。真っ赤に燃えていた岩が、上方で粉々に砕かれ、原型を止めぬさまと成り果ててばらばらと地面に落ちて来た。



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第77話 対応方法不明の場合は穏便にいなして次へ行きましょう

「あ、やば」

「ス、スサ」

「おい、落ち着け」神たちは息を呑んだ。

「なんだ?」古参者は訝しげな声で呟いた。

 地球は、黙って様子を見ていた。

 

 ごり ごりり ごり ごり

 

 何か、硬質のものが強い力で擦り合わされるような音が響いた。

「何だ? 何してる、スサ」

「おいスサ、やめろ」

「皆さん」伊勢が冷静に皆を制する。「今は、呼びかけないで欲しいす」

「え」

「あ、ああ……」

「うん」神たちは大人しく従った。

「すいません」伊勢は静かに謝った。「なんか高まってきてるす、あいつの破壊衝動と――殺戮衝動が」

 神たちは言葉もなかった。

「何だそれ」古参者だけが、小馬鹿にしたような笑いを含みながら声を発した。「面白えじゃねえか。あのお子ちゃまが、何を殺戮するっての? なんかの微生物か?」

「気をつけろ」伊勢はやはり穏やかな声で答えた。「ろくな目に遭わないぞ」

「へっ」古参者は憎々しげに言い捨てた。「やれるもんならやって」

 

 ごりごりごりごり

 

 耳障りな岩の擦れる音がひと際高く鳴り、次の瞬間、空洞の壁の高いところに貼りついていた真っ黒な岩が、壁にくっついたままぱっかりと真っ二つに割れた。神たちは一斉に、息を呑んだ。それは、十秒経つと魔物が出て来る岩なのだ。誰も何も言わず、ただ静寂が空洞の中を満たした。

「おもっ」最初に甲高く悲鳴を挙げたのは、空洞の外にいる鯰だった。「ぐるじ……ぐぅ」ごぼごぼ、という水泡の音を残して、鯰の声はそれきり途絶えた。

「貴様、何をする」次にがなり立てたのは、磯田源一郎と名乗る出現物の声だった。「儂をどうする気だ。誰だと思っとる。何を」磯田源一郎もそれきり黙り込んだ。

「何だ」時中が周囲を見回す。

「どうしたのでしょうか」本原も見回す。

 この二人には、突然頭上の岩二つが次々に割れたことしか認識できていなかった。神々のやり取りや、地球と新参者の対話や、古参者の茶々入れなどは一切聞えていなかったのだ。そこへ出し抜けに鯰の苦しむ声、そして磯田源一郎の抗う声が続けて聞えてきた。二人の足許には相変わらず結城が伸びている。

 

 しゅうううう

 

 突然、二人の頭上で真っ二つに割れた暗黒の岩から青白い煙が噴出しはじめた。

「何だ」時中が上方を見上げる。

「どうしたのでしょうか」本原も見上げる。

 

 ぼこっ

 

 そして出し抜けに、二人の空洞の壁の上方に、一メートルばかりの大きさの穴が穿たれた。ほんの一瞬の間にだ。

 

 ぼこっ ぼこっ ぼこっ

 

 二人が息を呑む間にも、それは次々と横並びに穿たれていき、空洞の壁の上方は穴ぼこだらけとなった。

「うわ、ス」

「あぶな」神たちもさすがに声を殺してはいられなかった。

「何してやがんだ、こいつ」古参者もさすがに困惑の色を帯びた声で洩らした。「狂ったのか」

「さあ、どっちかな」伊勢が静かに答える。「狂ったのか、それとも正常な状態に戻ったのか」

「どういう意味だ?」古参者が訝しげに訊く。

「まあ、こういう奴なんだよ」伊勢はまた静かに答える。「こういう事を、昔っからする奴だった……けど新人さんたちに被害が及ぶのは避けたいな」

「鯰」鹿島が呼ぶ。「大丈夫か。鯰。生きてるか」

 鯰からの返事はない。

「おかしいよね」「これブラックだっつーの」「ブラックっていうより、ダークだよね」出現物たちの狂騒じみた語り合い、叫び合いが突如として復活した。「ああ」「ダークだね」「仕事が嫌なんじゃなくて、ヒトが嫌だよね」「雰囲気がね」「そこらへんの配慮」「ないない」「もう個人のセンスのレベルだしね」「結局企業も組織も個人レベルの問題なんだよ」「そうそう」「基盤の構成物のセンスがね」「問われ」そしてその喧騒も突然に途切れた。

 

 しゅるるるる

 

 出現物の喧騒がふっつりと途絶えた直後、今度は何か風の巻くような音が盛大に聞え始めた。しかし空洞内に風は巻き起こっていなかった。

「何だ」時中が周囲を見回し、

「どうしたのでしょうか」本原も見回した。

 巻いていたのは上方に出現した青白い煙で、それは自らの意志をもって高速回転しているようだった。そしてみるみるうちに、それは巨大な蛇のフォルムを形成したのだ。

「蛇か」時中が上方を見て叫び、

「蛇です」本原が口を抑えて確認した。

「空洞の外へ」天津は喉を枯らして叫び続けた。「時中さん、本原さん。外へ出て下さい」その叫びはしかし、当の二人に一切届いていなかった。

「まさか人に危害を加えることはしないよな」酒林はシアノバクテリア型依代の中で歯噛みした。「増してや自分の気に入ってた拠代を」

「あー」天津は絶望に空を仰ぐ体の声で呻いた。「結局何の役にも立てないな、俺」

「何いってんの」酒林はすぐに苦笑しながら答えた。「充分すぎるほど」

「立ってないよ」天津も苦笑しながら遮った。「こんな教育担当で……本当に申し訳ない、としか言えないのもまた悔しい」

「あまつん」酒林が再度すぐに答える。「自分のことをそんな風に」

「今までずっと俺は」天津は絶望にうな垂れる体の声で呟くように言った。「失望させてきたのかな、と……皆を」

「――」酒林はすぐには答えられなかった。

「じゃあ俺が役に立ってやるよ」古参者が宣言した。

「何をする気だ」

「よせ、やめろ」神たちは一斉に制止した。

「新人を地殻の材料にするか、気の狂った偽スサノオに殺させるか、どっちがいい?」古参者はせせら笑って言った。「せめて意義のある最期を送らせてやろうぜって事だよ」

「何をする気だ。やめろ」神たちは繰り返し叫ぶより他なかった。

「まあ見てろ」古参者がそう告げた直後、空洞の内部が激しく振動し始めた。

「地震か」時中が上方を見上げて叫び、

「地震です」本原が体を低くして確認した。

「出よう」時中が本原を見て提案し、

「出ましょう」本原が低くした体勢で答えた。

「結城を連れて行こう」時中はしゃがんで結城の両肩を掴み、持ち上げた。「本原さん、足を持って」

「足ですか」本原が結城の足を見て確認し、その両足首を掴んで持ち上げた。

 結城の体は腕と足首を背側に持ち上げられ、強制的に湾曲した形態となった。空洞の振動はその間も激しく続き、周囲の壁から礫がぱらぱらと剥がれ落ちて来ていた。

「出る必要ねえよ」古参者の声が空洞内に響く。「今すぐ俺が助けてやる」

「この声は」時中が結城の腕を掴んだまま上方を見た。「スサノオか」

「スサノオさまですか」本原は結城の足首を掴んだまま上方を見た。

 結城は強制的に湾曲した形態のまま気絶していた。

「人間の」古参者は告げた。「それから、お前らの上司である神の為に、役立ってもらうぜ」

「どうする気だ」時中が訊ね、

「私たちを何かの材料にするのですか」本原が確認する。

「まずは分子レベルに分解だ」スサノオは続けて告げた。「それ」

「やめろ」大山が叫び、

「貴様」石上が叫び、

「よせ」住吉が叫び、

「やめて」木之花が叫び、

「やめ」天津が叫びかけた。

 

 きいいいいいいん

 

 その時、青白い煙でできた大蛇が金属的な大音響を発しながら、頭の先から縦真っ二つに裂けた。

「やめろって」伊勢が静かに制止した。「お前の方が分解されるから」



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第78話 結論そこすか

「カマビスしい」そんな声が、聞えた。

「え?」結城は声のした方を見ようとした。しかしその声がどこから聞えてきたのか、わからなかった。「誰……」体を起こそうとする。しかし思うように自分を動かせない。「ここは……」周囲を見回す。

 そこは薄く水色に染まる、寂しげな場所だった。どこまでも続くかのような、どこまで行っても果てのないような、そして何もなく、誰もいない空間だった。

「ここ、どこだ?」結城は自問した。

「ヘビのナカ」誰かがそう答える。

「蛇の中?」結城はただ驚いて繰り返した。「なんで?」

「んー」“誰か”は少し考えた後「メンドクサいから」と答えた。

「何が?」結城はまた訊いた。

「んー」“誰か”はまた考え「タイワ」と答えた。

「対話? 誰と?」結城はまた訊いた。

「んー」“誰か”は今度は少し長く考え「イロんなヤツ」と答えた。

「色んな奴……あ」結城は目を見開いた。「出現物?」

「シュツゲンブツってナニ?」“誰か”は逆に訊いてきた。

「えーと」今度は結城が考えなければならなくなった。「なんだろ……洞窟の中に出て来る、幽霊みたいなやつ」

「あー」“誰か”は結城の説明に合点がいったようだった。「そう。それ」

「あなたは、誰なんすか?」結城は問いかけた。「出現物ではないの?」

「オレ」“誰か”は、まるで自分を指差しているような声で答えた。「オット」

「夫?」結城は素っ頓狂な声を挙げた。「誰の?」

「えーと」“誰か”は答えを探しているようだった。「ダレだっけ」

「何なんすか」結城はつい、ぷっと吹き出した。「何かのネタ?」

「あー」“誰か”は、思い切り伸びをしているような声で言った。「ツカれた」

「……お疲れ様っす」勇気は取り敢えずそう返した。

「やっぱりキのナカのほうがいいや」“誰か”は続けてそう言った。

「キ?」結城は眉を上げて訊いた。「木?」

「うん」“誰か”は頷いているような声で答えた。「キは、そんなにカマビスしくない」

「かまびすしく、ない」結城は慎重に復唱した。「うるさくないってこと?」

「うん」“誰か”はまた頷いているような声で答えた。「そう」

「うるさいのは人間だけだって?」結城は半分冗談のつもりで笑いながら言った。

「うん」“誰か”は大きく頷くような声で答えた。「ヒトだけ」

「えー」結城は目をぎゅっと瞑って頭に手を置いた。「まあ、そうかもだけど……あれ、じゃああなたは人間じゃない人? あれ、神様?」目を見開く。

「ヒトもオモシロいんだけどな、たまには」“誰か”は、まるで悪戯っぽく笑っているような声で言った。「おマエみたいに、やたらゲンキのいいヤツだったら」

「俺?」結城は自分を指差した。「あ、あざっす! まあ確かに元気の良さだけが取柄だってのはよく言われるんすけど」

「ツマにするのか」“誰か”は問うてきた。「あのムスメ」

「え?」結城は話の展開についていけず、目をぱちくりさせた。「娘? ……えーっと、本原さん?」

「ダレだっけ」“誰か”は考えているようだったが、その声は次第に小さくなり始めていた。「えーと……オレのツマだっていってたけど」

「んん?」結城はいよいよ話が呑み込めずにいた。「あなたの奥さん? を、俺が妻にするんすか? それって重婚の罪に問われるんじゃないすか?」

「あー」“誰か”の声は急激に小さくなっていった。「クー」

「クー?」

 声はそれきり、聞えなくなった。

「クーたん?」結城は問うたが、答えはなかった。

 

          ◇◆◇

 

「皆さん」時中が結城の腕を持ったまま上方を見上げて呼んだ。

「神さま」本原も結城の足首を持ったまま上方を見上げて呼んだ。

 神の姿はどこにも見えておらず、代わりに青白い煙でできた蛇が、縦まっ二つに裂かれた状態で立ちはだかっていた。

「時中さん、本原さん」真っ先に呼び返してきたのは、天津の声だった。「大丈夫ですか、怪我はありませんか」

「大丈夫です」時中が答え、

「怪我はしていません」本原が答えた。

「よかった」天津の声は震え、長い吐息が続いた。

「天津さん」時中が結城の腕を持ったまま呼ぶ。「どこにいるんですか」

「天津さま」本原も結城の足首を持ったまま呼ぶ。「どちらにいらっしゃるのですか」

「僕は」天津の声は返事をしようとして多少言葉を詰まらせた。「近くに、います」

「俺ら今、シアノバクテリアの中にいるんだよ」酒林が代わりに答える。「無事でよかった。時中君、芽衣莉ちゃん」

「シアノバクテリア?」時中が結城の腕を持ったまま眉をひそめ、

「シアノバクテリアとは何ですか」本原が結城の足首を持ったまま質問した。

「藍藻という、原核生物です」天津の声が、研修時と同様の静かな声で説明した。「バクテリアですが葉緑素を持っていて、何十億年も前から地球上で光合成を行い酸素を発生させてきたんです」

「今俺たち、その微生物の体を借りてこの空洞内の酸素供給係してるってわけ」酒林が注釈を付け足す。

「酸素を」時中が初めてその物質の存在に気づいたかのように目を見開き、

「まあ」本原が片手で口を抑えた結果、結城の片方の足はばたんと地面の上に落ちた。

「そういえば」時中は振り向いて落ちた結城の足を見遣りながら質問した。「さっきスサノオの声が聞えましたが、奴は何をしようとしているんですか」

「私たちを分子レベルに分解すると仰っていました」本原が報告する。「これから私たちはどうなるのでしょうか」

「大丈夫です」天津がいつもの、人の心を慈しみ撫でるが如く穏やかな声で回答した。「あいつはもう、始末されましたから」

「始末?」時中が問い返し、

「始末ですか」本原が落ちた結城の足を再度拾い上げながら確認した。

「うん」酒林が答えた。「うちの親父にね」

「酒林さんの」時中が再び眉をひそめる。「ということは、本物のスサノオノミコトですか」

「まあ」本原が再び片手で口を押えた結果、結城の片方の足は再びばたんと地面に落ちた。

「うん」酒林は苦笑を含んだ声で答えた。

「で、スサはどうなった?」大山が訊く。

「あの蛇を縦割りにした後、大人しくなったな」住吉が言う。

「まさか気を失っているのか?」石上が問う。

「伊勢君、わかる?」木之花が訊く。

「そうすね」伊勢は慎重に様子を伺う。「蛇裂きでひとまず、落ち着いたみたいす」

「蛇裂き」時中が、言葉の通りまっ二つに裂かれたままそこに佇み続ける青白い煙の蛇を見上げながら呟いた。「これを、スサノオノミコトがやったのですか」

「私たちをお守り下さったのでしょうか」本原はまたしても結城の足を持ち上げながら確認した。

「いや」伊勢は苦笑を含む声で答えた。「あいつ自体の中で何か爆発しちゃったみたいす」

「爆発?」時中が訊き返し、

「お怒りになっていたのですか」本原が確認した。

「しかし、もしかしたら」鹿島が言葉を挟む。「あいつの中のどこか片隅に、あるいはそういう気持ちもあったのかも知れないな」

「そういう、とは」時中が訊き返し、

「私たちをお守り下さるお気持ちでしょうか」本原が確認する。

「はは」酒林が小さく笑い、

「そうだったら嬉しいすけどね」伊勢が明るく受け流す。

「うー」かすれた呻き声が、大地の近くから聞えて来た。

 時中と本原がはっとして足下を見下ろす。

「たすけ、て」かすれ声はそう訴え、時中と本原はぶら下げていた結城を地面に下ろした。



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第79話 はっきり言わないとわからないしはっきり言うと配慮に欠ける事になるし

「うー」結城は再度、かすれた声で呻いた。

「結城さん」天津が叫ぶように呼び、

「結城君気づいたか」大山が喜びの声を挙げ、

「結城さん」木之花が泣き声になりかけながら呼ぶ。

「あいつ、また戻ったのかな結城さんの中に」伊勢が小さく呟く。

「まあ、何にしてもよかった」酒林が安堵の声で言う。

 神たちはそれぞれに喜びの声を洩らし新人たちを労った。

「結城」時中が結城の頭上から呼びかけた。「動けるか」

「結城さん」本原が結城の足の上から呼びかけた。「大丈夫ですか」

「うー」結城はやはりくぐもった声で呻くように返事をし、両手を地面について上体を持ち上げた。「くらくらする」

「結城さん、気分が悪ければ寝ていていいですよ」木之花が気遣う。

「あざあす」結城は額に手を当てながら頭を下げ、それから頭を上げて上方をきょろきょろと見回した。「あれ」

「どうした」時中が結城の頭上から問う。

「神様たちの声……聞えるようになったの?」結城は時中を見上げながら訊いた。

「ああ。これが」時中はいまだ屹立している青白い煙の蛇を見上げながら答えた。「出現した後、突然聞えるようになった」

「これ……うわ」結城は茫然とその蛇を見上げてから目を見開いた。「蛇」

 

 ヘビのナカ

 

 そして閃くように思い出す。

「俺」結城は青白い蛇を指差した。「この中に、いたんだよ」

「何」時中が眉をひそめ、

「まあ」本原が口を抑え、

「蛇の中に? どうして」

「どういう……スサが?」

「けどそんなことできるのか」

「まあ……スサだしな」

「うん」神たちがそれぞれに思う事を言った。

 

「出せよ」青白い蛇が突然そう言った。

 

「うわ」結城が再度目を見開いて上方を見上げ、

「何」時中が再度眉をひそめ上方を見上げ、

「蛇が喋りました」本原が再度口を抑えて上方を見上げ報告した。

「ここから出せって言ってんだよ」青白い蛇の声はそう続いたが、それは何か分厚いものにくるみこまれてでもいるかのようにくぐもって、もさもさと聞えた。「ふざけやがって」

「あれ、この声」結城が他の二人を見る。「スサノオ?」

「そうだな」時中が頷き、

「スサノオさまです」本原が頷く。

「ガセスサすね」伊勢が答える。

「ガセスサ」結城が復唱し、

「ガセアマのスサノオ版か」時中が解説し、

「ガセスサさまですか」本原が確認する。

「ガセじゃねえ」青白い蛇は怒りを示しながらももさもさと抗弁した。「俺は本物のスサノオだ」

「わかったわかった」伊勢が片眉をしかめているような声で答える。「まあ今後のためにってのも変だけど、教えといてやるよ」

「何――」青白い蛇はたじろいだような声でもさもさと呟いた。

「スサは……スサノオはな、お前みたいな賢げな喋り方なんてできないんだよ」

「かしこ――」青白い蛇は再びもさもさと呟いた。

「もうな、一言なんか言うだけどころか、一声挙げるだけでバカ丸出しなんだよあいつは」伊勢は説明を続ける。

 時中と本原は、無言のまま結城を見た。

「え」結城は眉を上げ二人を見返した。

「お前みたいな、棘のある言い方で他者を言いくるめたり言い負かしたりできるような知性は、あいつにゃないっての」伊勢は人差し指をぶんぶん振りながら言い募るような声で話し続けた。「だからあんな馬鹿げた、信じらんねえぐらい度し難い行動をしやがんだよ奴は」

「何か、怒っているようだな」時中がコメントし、

「結城さん、謝罪をした方がよいのではないでしょうか」本原が提言し、

「えっ、あ、ええ、すいません」結城は頭を下げたが「でもそんなに、バカっぽいとは思わなかったけどなあ」と言いながら頭を上げた。

「何がだ」時中が訊く。

「スサノ、オ?」結城が不確定的に答える。

「知っているのですか」本原が質問する。

「えーと、いや、うん、あいや、なんだろう、どうだっけ」結城は不確定的に答える。

「ま、いいすよ」伊勢は短く答えた。

「神に匙を投げられたな」時中がコメントし、

「正真正銘度し難しといったところでしょうか」本原が詳しくコメントする。

「――わかったよ」ガセスサと呼ばれた青白い蛇は、観念したような声で答えた。「わかったから……ここから出してくれよ」

「無理」伊勢は肩をすくめたような声で答えた。「スサがどっか行っちまったから」

「え」青白い蛇は縦二つに割られた状態で焦ったようなもさもさ声を出した。「じゃあ、俺はどうなる」

「どうなるんだろな」伊勢は首を傾げたような声で答えた。「てかどうするつもりだったのかも、もはや不明だし」

「何言ってんだ」青白い蛇はますます焦ったようなもさもさした声で叫んだ。「ふざけんな。ここから出せ」

「だから無理」伊勢はため息まじりに答えた。「ま、そのうち自然消滅するだろうから大人しく待ってろ」

「おとなし――」青白い蛇はもさもさした声で絶句した。

「それより、対話すよね」伊勢は他の神たちに話を振り向けた。「やっぱ俺らじゃ、地球との直接対話は無理すかね」

「ん……」大山はすぐに回答することができずにいた。「そう……だな」

「もう、地球の声も聞えないっすもんね」住吉が低いトーンの声で言う。

「鯰はどうなった」石上が訊く。

「鯰」鹿島が呼ぶ。「鯰?」

 だが返事はない。

「あれ、鯰さんどうなったんすかね」結城が口を尖らせる。

「先ほど何か苦しがっていたようだが」時中が告げる。

「何か溺れているような感じがしました」本原も当時の様子を語る。

「溺れてって、鯰が?」結城がなかば叫ぶ。「魚類なのに?」

「あいつも蛇の中に取り込まれたのかも知れないすね」伊勢が考えを述べる。「ついでに、あのうるさかった出現物たちも」

「なんと」

「そこまでやるか」

「まあ……スサだしな」神たちは信じ難そうな声を挙げながらも、同様の結論に達するのだった。

「え、じゃあもうみんなまとめて、自然消滅の運命共同体っすか」結城がいまだ地面の上にへたりこみながら上方を見上げて訊く。

「たぶんすね」伊勢が答える。

「マヨイガさまもでしょうか」本原が続けて訊く。

「取り込まれていれば、すね」伊勢が続けて答える。

「そうかあ」鹿島が考え込むような声で言う。「じゃあ今後の備品調達は、考えないとなあ……あ、そういえば」何かを思い出す。

「どうした」宗像が訊く。

「恵比寿君」鹿島が呼ぶ。「お疲れ。ご苦労さん、よくやってくれたねシステム復旧」

「あっ、は、はいっ」恵比寿が叫ぶ。「やっぱりあの、出現物が回線に乗っかってたみたいすね。奴らが消えたら嘘みたいにスムーズに行くようになって」

「そうか、もしかしたらそれもマヨイガだったのかもな」鹿島が腕組みしているような声で答える。「まあ何にしてもよかった。ありがとう」

「は、はいっ、いえっ」恵比寿は肯定し否定した。

「恵比寿さん、俺らここからまた神舟で帰れるんすか」結城が訊く。

「あ」恵比寿は額に一発くらったような声を挙げた後「あっ、はいっ、ええはいっ、すぐに準備します! はははは、おめでとう」祭りのように舞い上がったような声で答えた。「はははは」幸せの絶頂のような笑い声が続く。

「あっれ」大山がごく小さく呟く。「まさか」

「認識……できるようになったのか」

「まさかこれも、スサが?」神たちは信じがたそうな声で呟く合ったがやがてそれは喜びの声に変わっていった。

「よかったすね、恵比寿さん」

「うむ」

「めでたいのう」

「ん? 皆どうした?」鹿島が訊く。

「え」

「あ、いや恵比寿さんのこと」

「見えて……いや聞えてるんすよね」

「恵比寿、さん?」鹿島が訊く。「ん? 誰?」

 神たちは、黙り込んだ。



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第80話 この宇宙が滅び去るその時まで対話を

 縦二つに割られた青白い蛇は、それを形作る煙の粒子が一粒ずつ拡散していくように薄くなり、消えていった。もはやスサノオ――ガセスサの声も、鯰の声も、出現物の声も聞えては来なかった。

 そして楽しげにはしゃいでいた恵比寿もまた、無言の状態に戻り作業を続けているようだった。その証拠に、神舟は数分と待たないうちに空洞の外へ到着したのだった。

「けど、今回俺らって、特に何の働きもしてないよね」結城が、金色に輝く空洞内を肩越しに見返りながら言う。「いいのかな、このまま帰っても」

「もちろん、大丈夫です」すぐに天津が答える。「今日は本当に、遅くまでかかってしまってすみませんでした」

「その空洞に入ってくれただけで、充分だよ」酒林も労う。「お疲れさん」

「クライアントに挨拶しなくてよいのですか」時中が質問する。

「はい、磯田社長には結局、新人さんたちが洞窟に戻って来ている事をお知らせしていませんので、まあ……言葉は悪いですが、このまま……」天津が語尾を濁す。

「とんずらこきましょう」酒林が後を引き継ぐ。

「わあ」結城が目を丸くする。「なんか犯罪行為のようですね」

「そんなことはありません」すぐに天津が答える。「何しろ皆さんは今日、実地研修三日目、OJT初日だった上、大変なトラブルが起きてしまったわけですから……本当に、申し訳ありませんでした」彼は頭を下げているような声で説明した。

「あー、そういえば」結城が空洞の上方を見上げながら今気づいたかのように言った。「俺ら現場研修初日だったんすよねえ」

「磯田建機さんの方でもエレベータ故障のトラブルがありましたので、本日の業務については後日再実施という事で、伊勢君が話を取り付けてくれました」大山が追加説明する。

「料金据え置きで」木之花がごく小さく――神たちにのみ聞える声で付け足す。

「まあ、皆さんよくやってくれました。お疲れ様です」大山がにこにこしたような声で労う。

「お疲れ様っしたあ!」結城が復活した大声で返答し、時中と本原は久しぶりに顔をしかめた。

 

          ◇◆◇

 

 ――お疲れ様でした、か。

 地球は、もはや自分の声が誰にも届いていないらしいことを知った後、比喩的にふう、とひとつため息をつき、その後はゆっくりと、システムの活動を見守りながら、時を待っていた。その空洞から人間たちが、そして神たちが出て行っていなくなるのを。

 いわゆるイベント――対話については、必ずしも期待通りの内容に終ったとは言えなかったが、

 ――まあ、こんなものなのかな。

 地球はそう思っていた。何しろ“解り合う”のには、時間がかかる。どれだけ時間をかければ完結するのかも、定かではない。もしかしたら未来永劫に――つまり地球の、あるいはこの宇宙の寿命では追いつかないのかも知れない。

 

          ◇◆◇

 

「しかし本当に、きれいさっぱり消えちゃったよねえ」結城は、神舟に乗り込む前にもう一度洞窟の暗い岩壁を見上げながらコメントした。「あれだけ騒がしかったのに」

「――」時中も岩壁を見上げながら、何か考え込んでいる様子だった。「啓太も、消えたのか」呟く。

「うーん」結城は腕組みをしてひとまず考えてみたが、結論は出せなかった。

「あの方たちは仕事が嫌いな方たちだったのでしょうか」本原が質問する。「会社に対する不満をたくさん仰ってましたけれど」

「どうなんだろねえ」結城が頭の後ろに手を組む。「でもパワハラとかブラックとか、どこまで摘発すりゃなくなるのか、まるでわかんないしなあ」

「企業と従業員との対話が必要だということか」時中は俯いたまま呟く。

「どうなんだろねえ」結城は再度言う。「対話つってもお互いの都合を主張し合ってるだけじゃ何も解決しないだろうし」

「企業も社員も、我慢が必要なのでしょうか」本原が確認する。

「けど我慢ってのはいつか必ず破綻する前提のもんだからね」結城は人差し指を立てて説明する。「破綻した先にあるのは、大概暴力的なもんだよ」

「暴力ですか」本原が確認する。

「そうそう」結城は人差し指を振る。「ほら研修でやったでしょ、プレートがプレートの下に潜り込んで、歪みが生じてエネルギーが解放されると地震が起きるって。あれと一緒だよ」

「それがパワハラなのですか」本原が確認する。

「いや」結城が人差し指を振りながら回答する。「退職。社員側の」

「退職は暴力なのですか」本原が確認する。

「まあ一種の反体制行動だよね」結城が解説する。「辞められると企業にとっては痛手だもんね。人雇うのにも金かかるし。募集広告の費用とか」

「では退職はよくないことなのですか」本原が質問する。

「いんじゃない」結城はあっさり回答する。「自分で、ここで働く価値ねえと思ったら辞めりゃいいんだよ」

「それでまた自己嫌悪に陥ることになるのだろう」時中が厳しい意見を述べる。

「しばらくのんびりしてれば、また何か見つかるよ。やりたいことがさ」結城は再度頭の後ろで手を組み、楽観的意見を述べた。

「一貫性のない人間として信用を失うのではないでしょうか」本原が厳しい意見を述べ、

「そうだ。社会を甘く見すぎている」時中も厳しい意見を述べた。

「そうかなあ。あいさつする相手としない相手をセレクトしてくれちゃうような社会なんて、それこそ価値ねえと思うけどなあ」結城は神舟の天井方向を見上げて口を尖らせた。

「テロリストの理屈だ」時中が厳しい批判を述べ、

「アナーキストみたいです」本原も厳しい批判を述べた。

「えと、皆さん」大山が遠慮がちに声をかける。「勿論な話なんですが、どうか今日の事で我が社の仕事が嫌だとか、見捨てる、とか、何卒ありませんようひとつ」

「はいっ、もちろんっす!」結城が叫ぶ。

 時中と本原は無言で顔をしかめた。

「ま、まあ、その」大山は口ごもりながらも続けた。「今日の事は、まあこんな事を言うのも我々の能力不足スキル不足をさらすことになるわけでまったく面目ないことこの上もないんですが、その、あまりにも想定外だった……いや本来そんなことがあってはならないんですが、それは我々も重々承知の上で、敢えてその」一息置き「申し訳ありませんでした!」深く頭を下げているような声で謝罪する。

「もしこの次に同様の事態が起きたら、どのように対処されるんですか」時中が質問した。

「はい」大山は神妙に声を落として回答した。「八百万(やおよろず)の神総出でフォーメーションを組み、出現物の攻撃に対して迅速な防御態勢を取ります」

「地球さまとの対話はどのようになるのでしょうか」本原が質問する。「鯰さまがいなくなってしまった後は」

 

          ◇◆◇

 

 ――あれ。

 地球は、比喩的に眼をぱちくりさせた。「鯰くん?」呼びかける。

「……んー……」すこぶる不機嫌そうな声が、こぽこぽと水の泡の音とともに返ってきた。

「君、戻らないの?」地球は訊いた。「神たちのところへ」

「――」鯰は少しの間黙っていた。「だってあいつら、まだ答えてくれてないもん」甲高い声でぶつぶつ文句を言う。「残業代のこととか」

「君にそんなもの必要なの?」地球は少し笑いながら訊いた。「魚類なのに」

「必要とか不必要とかじゃないのよ」鯰は甲高くぷんすか怒った。「気持ちの問題よ、気持ちの」

「わかった、ごめん」地球はさらに笑いそうになるのを抑えながら謝った。

「だから、あいつ」鯰はぶつくさと続けた。「あのスサノオって奴にやってもらえばいいじゃんって話よ」

「ああ……」地球は思い出していた。「でも、彼には……難しいんじゃないのかな」

「なんで」鯰は不服げに訊いた。

「だって」地球には、鯰が何を言ってもらいたがっているのか解っていた。「君じゃないと務まらないことだから」

 鯰は黙っていたが、やはり満足そうな雰囲気ではあった。

「彼は、あまり細かいことまで配慮できなさそうだから」地球はさらに付け加えた。

「まあね」鯰は甲高く満足そうに言い放った。「あいつ、馬鹿だしね」

「ははは」地球は比喩的に苦笑した。

「あいつ、またあの結城って奴の中に戻ったの?」鯰は訊いた。

「うーん」地球は比喩的に首を捻った。

「ん?」

「――」地球は、思い出していた。

 

 カマビスしい

 やっぱりキのナカがいいや

 

 そんな声を残した後、“彼”はふわりと、飛んで行った。結城の体の中に入り込むようにも見えた。けれど――地球はその時に感じた“彼”の行動を、不思議の思いで眺めていたのだ。

「というよりも――」遠くを眺めるような声で、地球は言った。



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第81話 我々に教育担当を選ぶ権利はありますか

「地球との対話」大山は苦いものを噛み締めるような声で説明した。「それと、我々の依代はじめ業務に必要な機器類の調達――こちらに関しては今後、これも社員のフルスキルを使って、代替策を講じて行く所存です」

「依代」結城が呟く。「またあの天津さんの姿の天津さんにお会いできるんすか」

「何とも言えません」大山はますます苦いものを噛み締めるような声で回答した。「もしかしたら、また別の形態の依代で対応することになる、かもです」

「まじすか」結城が叫ぶ。「天津さんが天津さんじゃない形になるんすか」

「別の形態というのは、もしかしたら人間以外のものに入ることになるかも知れないということですか」時中が質問する。

「何の依代にお入りになるのでしょうか」本原が口を抑えて確認する。

「まさか天津さんがイヌになるとかっすか」結城が叫ぶ。

「神が犬に入ることはないだろう」時中が眉をひそめる。「馬や鹿などの有蹄類ならまだしも」

「樹木や岩などではないでしょうか」本原が推測を述べる。「昔から神として奉られてきたもので」

「でも樹木や岩が俺らのOJTにごとごと付き添ってきたら、クライアントさんに変に思われるんじゃない?」結城が疑問を投げかける。「まだイヌがついて来た方がいいんじゃないかな」

「犬では追い払われるに決まっている」時中が否定する。「それならばいっそシアノバクテリアに入ってもらった方がスムーズに現場入りできるはずだ」

「ええと」大山が若干うろたえたような声で割り込む。「まあその辺は、考慮した上で対応、します」

「ときに結城さん」伊勢が訊く。「あの青白い煙の蛇の中に、いたんすか」

「あ、ええ、はい」結城は神舟の天井を見上げて返事する。「多分」

「どんな感じがしたんすか、あの中」伊勢がまた訊く。

「うーん」結城は顔を下げ腕組みをして思い出そうとした。

 神たちも他の新人二人も、関心を持って結城の言葉を待った。

「敢えて言葉にするならば」結城は考えた末に話した。「俺の人生が、夕日のように沈んで行く、と」

「わあ、文学的。結城さん、かっこいいです」本原が無表情だが誉めた。

「えっ本当? 俺、文学的?」結城が目を見開いて本原に確認した。

「はい、文学的です」本原が肯定した。

「俺、かっこいい?」結城はさらに確認した。

「はい、かっこいいです」本原が再度肯定した。

「文学的?」

「はい、文学的です」

「トキ君、俺本原ちゃんに文学的って言われた」結城は時中に報告し、

「本原が文学的って言いました」本原が肯定した。

「--」時中は返事しなかった。

「トキ君、俺本原ちゃんに文学的って言われた」結城は再度時中に報告し、

「本原が文学的って言いました」本原が再度肯定した。

「本原さん、この男を誉めちゃだめだ。つけ上がるから」時中は本原に忠告した。

「わかりました」本原は無表情だが受諾した。

「それで」伊勢はさりげなく先に進めた。「スサノオと、話したんすか」

「えーと」結城は再度上方を見上げて考えた。しかし彼の脳内でその記憶はすでに曖昧模糊たる存在と化しており、具体的に何についてどのように語り合ったかを鮮明に再現することは不可能だった。「話したような、気がします」結果、彼の回答は不鮮明なものとなった。

「そうすか」しかしながら伊勢は特にその点を指摘したり批判したりすることはなかった。それはいつものことながら、神の社会的想像力による海容の態度といえるものだった。「あいつは……スサノオは、どこかへ行くとか、何かやるとかいうような、今後の予定を話してましたか」伊勢は穿った質問をした。

「えーと」結城は再度上方を見上げ「よく、覚えてません」と再度不鮮明な回答をした。

「そうすか」伊勢は再度海容した。

「あっ」結城は突如目を見開き「でも一個思い出した」叫んだ。

 万人が、否八百万の神が一斉に息を呑んだ。

「本原ちゃん」結城が本原を呼ぶ。

「何ですか」本原が結城に問う。

「クーたんのクーって」結城が言う。「クシナダヒメのクーたんだったんだね」

 誰も何も言わなかった。

「あれ、違」結城が確認しかけ、

「じゃあそれでいいです」本原が海容した。

「ほんと?」結城が再度叫ぶ。「クシナダでOK? やったあ、ビンゴ!」

「『ビンゴ』と言える程の到達感も達成感もまるで感じない」時中が結城の左後ろで呟いた。

 それは、八百万の神たちにおいても同様の感覚かも知れなかった。

「皆さん」大山が咳払いをして言った。「明日、ですが……今日の事が今日の事だったんで、急遽明日は特別休暇にしましょう」

 おお、と、人間ばかりでなく神たちからも歓声が上がった。

「今日は本当に、お疲れ様でした」大山が深く頭を下げているような声で締め括った。「ありがとうございました」

 

 神舟が三人を下ろしたのは、会社の外庭、朝ワゴン車に乗り込んだのと同じ場所だった。

「駅まで乗せて行けずすみません」天津が申し訳なさそうな声で謝る。「人目につく所に停めることもできなくて」

「あー」結城が頷く。「絶対UFOと間違えられますもんね、これ」神々しく輝く神舟のボディを撫でる。

「少し前の時代なら、今ほど情報の伝達速度が速くないのでなんとかごまかすこともできなくはなかったんですが」天津はそう言い「はは」と苦笑する。

「まあこいつは動画に録っても映らないけどね」酒林が楽しそうに続ける。「精々金色の光の筋とかにしか」

「まじすか」結城が叫び、自分のスマホを取り出す。「試しに録ってみていいすか」

「企業機密だぞ」時中が眉をひそめて制止する。

「違法行為です」本原が厳しく糾弾する。

「あそうか……ああ、どっちみち電池切れだわ」結城は眉を下げて笑う。

「ではまた明後日、ここでお会いしましょう」天津が笑声で挨拶した。「お疲れ様でした」

「はいっ」結城が声を高めて返事した。「明後日も、磯田建機に行くんすか?」続けて質問する。

「今のところは、未定です」天津は穏やかな声で説明した。「まあ恐らく、うちも先方も状況が落ち着くまで保留ってことになるでしょう、数日内は」

「では他の現場でのイベント実施ということになるのですか」時中が質問する。

「そう、ですね」天津は他の神たちに確認を取りながら、ゆっくりと答えた。「様子を見ながら慎重に、OJTを進めて行きましょう」

「実施できるのでしょうか、イベントは」本原が質問する。

「正直、わかりません」天津は静かな声で答えた。「が……イベントは――地球との対話は今後も、地道に試みて行きたいと思います」

 新人たちは言葉なくゆっくりと頷いた。

「いつか、地球との対話がきちんと成り立って、それが蓄積されていき……地球の“意志”がわかるようになれば或いは、地球の活動によって引き起こされる“地殻変動”や“気象現象”がいつ起きても人間が被る被害を最小限に……もしかすると皆無にできる日が来るのかも知れません」天津は静かにそう語った。

「まじすかあ」結城が感慨深げな声を出す。

「未来の技術力に期待という事だな」時中が呟く。

「私たちはもう生きていない時代ですね」本原が溜息混じりに囁く。

「未来を作っていくのは今の人間たちですよ」天津はにっこりと笑うような声で言った。「今を作ったのが過去の人間たちだったように」

「おお、すげえ」結城が感慨深げな声を出す。

「我々が何をどれだけ残せるかということだな」時中が呟く。

「私たちは何かを残すために生きているのですね」本原が溜息混じりに囁く。

「我々は充分知っています」天津は微笑んでいるような声で告げた。「人間たちの探究、こつこつ積み重ねてゆく叡智、それらの集大成である技術、すべてが常に、我々の予想を遥かに上回る勢いで進化していくものだという事を」

「はいっ」結城が声を高めた。

「では、お疲れ様でした」天津が再度挨拶する。

「お疲れでした」「お疲れす」「充分に休まれよ」「皆ご苦労じゃったの」「お疲れ」「お気をつけてお帰り下さいね」神たちもそれぞれに挨拶した。

「はいっ、皆さんも」結城が姿勢を正して頭を下げる。「お疲れ様でした!」

「お疲れ様でした」時中が頭を下げ、

「お疲れ様でした」本原が丁寧にお辞儀する。

 

     ◇◆◇

 

「天津君」事務室にて木之花が呼びかける。「まだいる?」

「いるよ」すぐに天津の声が答える。「咲ちゃんこそまだ帰らないの?」

「ん、若干確認事項ありでね」木之花はPC画面を見ながら言う。「天津君、次の拠代さ」

「あ、うん」天津は身を乗り出すような声で答える。

「牛にする、鹿にする?」

「――」天津の声は返らなかった。

「それか、あと」木之花は続ける。「リャマ、アルパカって路線もあるわよ」

「えー」天津は小さな声で呟いた。「できたら、皆さんと……同じ類のが、いいかなあ」

「あそう」木之花が確認する。「やっぱホモ・サピエンスがいい」

「う、ん」天津はおずおずと頷くような声で答える。

「それが最終的な答え、なのかしらね」

「え」

「ホモ・サピエンスが」

「……」天津はしばらく考え込むように黙り込んだ。

「私たちにも地球にも予測がつかなかった、この生物種」木之花は静かに続けた。「いちばん手のかかる、複雑で厄介で始末に負えない、馬鹿みたいに頭のいい生き物」くす、と少しだけ笑う。「唯一旨い酒を持って来てくれる、愛しい者たち」

「うん」天津もふふ、と少しだけ笑い「きっとどれほど時間が過ぎても、正しい答えなんていうのは誰にもわからないんだろうと思うよ」と答えた。

「……」

「たとえ十億年後でもね」

「十億年後」木之花はゆっくりと訊いた。「また、あたしを口説く?」

「うん」天津の答えは速かった。「口説く」

「それであたしがあなたの子を身篭ったとしても、もう『俺の子かどうかわからない』なんて、言わない?」

「言わない」天津の答えはまた速かった。「……やっぱ怒ってんだよね……」

「どうでもいい相手なら、何とも思わないもんだけどね」木之花は短いため息混じりに言った。

「はは、そうか」天津は苦笑混じりに答えてから「え」目を丸くしたような声で「じゃあ、え、てことは、え」確認した。

「お疲れ」木之花はトートバッグを肩に引っ掛けながら立ち上がった。「明日はゆっくり休んでね」そそくさとドアから室を出る。

「え、ちょっと待っ――咲ちゃ」天津は慌てたような声で呼びかけながら後を追って行った。



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第82話 踏んだり蹴ったりうんざりがっかり

 ブナの木肌に、朝日の紅が色をつける。あたかもその皮の下に、血潮が流れているかのように、まるでそこには摂氏三十六度ほどの体温があるかのように、温かそうに見える。

 ――君の中には、誰かがいるの。

 ふとそんなことを訊ねてみたくなる。

 スサノオ。

 そう呼んでもいいのか、あの“新参者”は最後、結城の体の中に潜り込むようにも見えたが、同時にこの星に棲息するあらゆる木々の中に潜り込むようにも見えたのだった。どうすればそんなことができるのか、とふと不思議にも思ったが、例えばそれぞれの生物の体――依代、といっていたか――を順繰りに経巡っているのかも知れないし、あるいは真実同時に、あらゆる依代の中に潜り込める性質の神なのかも知れない。

 そんな神がこの星に、一体どこからやって来たのだろう――

 

          ◇◆◇

 

「おはようす!」結城が叫ぶ。

「おはようございます」本原が頭を下げる。

「おはようございます」時中が軽く頷く。

「皆さん、おはようございます」研修室の中で三人を待っていたのは、初めて見る相手だった。「昨日はゆっくりお休み頂けましたか」微笑むその人は、グレージュのパンツスーツを身に纏う、大人っぽく上品で綺麗な女性だ。

「はいっ」結城が叫び、

「はい」本原が頷き、

「はい」時中が軽く頷く。

「それは何よりです」女性は柔らかく微笑む。

「ええと」結城が自己紹介に入る。「初めまして、私は結城修と申します」

「本原です」

「時中です」他の二人も続く。

「あ」女性はきょとんとした顔になったがすぐにまた微笑み「すみません、失礼しました。私、天津です」と自己紹介返しをした。

「あま?」結城が訊き返し、

「天津さん」時中が眉をひそめ、

「天津さま」本原が口を抑える。

「天津さんの、奥さんですか?」結城が訊き、

「天津さんは独身だろう」時中が否定し、

「天津さまの奥様は木之花さまではないのですか」本原が確認する。

「えっ、あの二人そういうあれ?」結城が叫ぶ。

「あの、天津本人です」女性は両手で空気を押さえ、苦笑混じりに説明する。「天津高彦です」自分を指差す。

「天津さん?」結城がいよいよ声を大にして叫ぶ。

「その体は」時中がいよいよ眉をひそめる。

「新しい依代なのでしょうか」本原が両手で口を抑える。

「新しいというか」天津は眉尻を下げ、元の天津らしい表情を見せた。「たまたまうちにも在庫がいくつかあったようで……差し向きこれを使えという事になって」

「まじすか」結城が叫ぶ。「誰の指示すか」

「えーと」天津は白く細い頸を傾げた。「全員?」

「何故女性型の拠代に」時中が首を振る。「男神たちの趣味ですか」

「まあ」本原が溜息混じりに訊く。「セクハラでしょうか」

「いや」天津はますます苦笑する。「ヒト型がこれしかなくて」

 

          ◇◆◇

 

 かたかたかたかた

 かたかた

 かたかたかたかた

 かた

 

 キーボードの打込み音が続いていたが、ふとそれが止む。

「むうう」低く呟く声がする。「なかなか厳しいなあ」

 何がですか、と思わず訊ねたくなるのだが、恵比寿は黙っていた。厳しいのは恐らくコストのことだろう。マヨイガを介さず、人間達の技工品を組み合わせ、そこに神力を発生させるべくシステム改変を加える為にかかる費用は、なかなかに莫大なものとなるのだ。品質を落とすことはしたくないが、ぎりぎりの線までどこまで持って行けるか、試算に次ぐ試算に鹿島は追われていた。

「むうう」再度低い唸り声がする。

 恵比寿は、あまりそちらを見ないでいたかったが、とうとう耐え切れずにちらりと視線を送った。

 PCの前で白黒まだら模様のホルスタインが前足の蹄にて頭を抱えている。「むううう」唸る。

 恵比寿は茶を入れるため立ち上がり、音をしのばせて鹿島の背後を通り過ぎた。

 

 かたかたかた

 かたかたかたかた

 

 再び鹿島は、前足の蹄にてPCの打込みを再開した。

 恵比寿は思わず振り向いた。「鹿島さん」堪らず呼びかける。

「むう」牛の鹿島が頭を持ち上げ、恵比寿に向けた。

「あ」恵比寿は笑顔になるのを止められなかった。「ミルクでも飲みますか?」

「ミルク?」鹿島は黒く潤んだ瞳を見開いて訊いた。「あれ、お茶ないの?」

「あっ」恵比寿は飛び上がり叫んだ。「あいや、はいっ、お茶ですね! お茶ですよね! 入れます今すぐ!」がくがくと幾度も頷く。

 

 ちゃぷん

 

 その時、室の隅っこで小さく水の撥ねる音がした。

 

          ◇◆◇

 

 よく晴れた空だが地平の少し上の辺りには薄い雲が長くたなびくように存在している。OJT一行のその日の訪問先は、磯田建機よりは町に近い場所だったが、単線の無人駅を下りてから三十分程度歩く必要があった。

「おはようございます」守衛棟の小窓から、女型依代の天津が責任者らしき五十代ほどの男性職員に声をかける。「新日本地質調査の者ですが」

「あー?」守衛責任者らしき男は額に深い皺を寄せながら眉を吊り上げ、女型依代の天津を凝視した。「新日本?」

「はい」天津は頷いた。「御社の坑道マップ作成のお手伝いをさせて頂いてます」

「……」責任者らしき男はぽかんと口を開けたまま無言で女型天津を凝視し続けた。

「あ」女型天津は微笑みを絶やさず「東雲主任にお取次ぎ頂けますでしょうか」と問い合わせた。

「……」責任者らしき男は相変わらず無言のまま、体を左に捻りながら視線だけ女型天津に向け続け、デスク横の受話器を面倒臭そうに取った。「東雲さんに取りついでくれっていうのが来てるけど」電話の向こうの相手が何か答えたらしく「あー。はーい」と不機嫌そうに言ったのち受話器を置き「主棟に行って」と顎で右手を示した。

「えーと、あちらの建物、ですかね」天津は手で敷地内奥にある三階建てほどの大きな建物を示して質問した。

 責任者らしき男は無言でデスクの引き出しを開けがさがさとまさぐっていた。

「あ、では失礼致します」天津が頭を下げ、主棟らしき建物に向かおうと歩を進める。新人たちもその後ろに続く。

「ちょっと!」責任者らしき男はそこでがなり声を挙げた。「これに名前書いてってもらえますかね!」引き出しから引っ張り出したものらしい古びた大学ノートを片手にぶんぶんと振ったあと、デスクの上にばさっと投げつける。古びたノートは小窓から斜め半分ほどはみ出したところで停止した。

「あ、はいすいません」天津は急いで向きを変え、古びたノートのページをめくり、ほんの少し周囲を見回した後自分のジャケットの胸ポケットから自前のボールペンを取り出して記入し始めた。

「普通はきちんとそういうの書いて、番号札受け取ってから入るもんですよ」責任者らしき男は記入する天津を指さしながら教示した。「それが常識」

「あ、はい、すいません」天津は記入しながら頭を下げた。記入後、天津は自前のボールペンを背後に待機する結城に渡した。「あ、では皆さんも、記名をお願いします」その表情は常と変わらず穏やかに微笑んでいた。

 三人は教育担当に倣って古びたノートに氏名を書き連ねた。その後全員無言で守衛室の小窓の前に立っていた。

「えーと」天津が言い淀みながら責任者らしき男に声をかける。「番号札、は」

 言い終わらない内に責任者らしき男がどこかデスクの下からネックストラップ付きのラミネート札が並ぶボール紙製の箱を乱暴に引っ張り出し、ノートの時と同様デスクの上に投げ置いた。箱は小窓からはみ出ずに済んだ所で停止した。

「あ、はい」天津は誰にともなく返事をし、ラミネート札に手を伸ばした。

「勝手に取ってもらっちゃ困るよ」責任者らしき男はがなり声を張り上げ、ノートの記入欄に一枚ずつ番号を、自分のデスクの引き出しから取り出したボールペンで書き写しながら放り投げ渡した。

 天津は素早く、誰が何番の札を身につけるべきかを古びたノートから盗み見てそれに従い新人たちに投げ出された札を手渡していった。「では行きましょう」天津は三人を促し、改めて敷地奥の建物の方へと向かった。

「お名前を教えてもらえますか」本原が小窓の上から責任者らしき男に声をかけた。

「……」責任者らしき男は眉根を寄せて本原を下から見上げた。「は?」訊き返す。

「お名前です」本原は無表情に繰り返した。

「あ?」責任者らしき男は左上腕で巧みに左胸のネームプレートを隠しながら、犬が唸るような声を挙げた。

「あ、いえ」天津が戻って来て本原の肩越しに小窓を覗き込む。「失礼しました」それからごく柔らかく本原の肩を押して先へ促した。

 責任者らしき男は一行が立ち去った後、左胸のネームプレートを見下ろし、面白くもなさそうに鼻を鳴らして訪問者リストと番号札ケースを所定の位置に並べ直した。

 

「高木さん」

 

 出し抜けに名を呼ばれ、責任者らしき男ははっと顔を上げた。だが小窓の外には誰もいない。守衛室の中、背後にぐるりと眼を向ける。誰もいない。

「えーと少しは自分の頭使ってもらっていいですか」同じ声がまた聞えた。

 責任者らしき男は大きく音を立てて息を吸い込み、また左右を見回した。誰もいない。

「東雲、さん?」その聞き慣れた声の主の名を呼ぶ。だが返事はない。

「まあ、あの人にもう何言ってもねえ、はは」東雲の声が続けて言う。「あーあ」

「――」責任者らしき男は茫然と座り込んでいた。



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第83話 負社員惑いて星に立つ(了)

「なんなんすかねえ、あのおっさん」結城が建物に向かって歩きながら口を尖らせる。「本原ちゃんが怒るのも無理ないよ」

「ははは」女型依代の天津は元々の天津と同様に苦笑した。「まあ、いろんな人がいますから」

「申し訳ございません」本原が謝った。「神さまに対して、あまりにも許し難い行為だと思ったので」

「いえいえ」天津は歩きながら手を振った。「ありがとうございます」

「ああいう人間に対しても、神は感謝を抱くのですか」時中が質問する。

「はい」天津は淀みもせずに頷く。

「まじすか」結城が眼を丸くする。「神だなあ」

「おはようございます」主棟の正面玄関から三十代ほどのビジネススーツ姿の男が出て来て挨拶する。「あ、今日は天津さんじゃないんですね」女型依代の天津を見てそう言い、にっこりと笑う。「私、担当の東雲です」手馴れた仕草でポケットから名詞入れを取り出し一枚手渡す。

「あ、すいません今日は急遽私、木之花が付き添いさせて頂きます」女型依代の天津は咄嗟に偽名を名乗った。「すいません名刺持参していなくて」東雲の名刺を受け取りながら謝る。

「あーいえいえお気になさらず」東雲は眼を細めて笑った。「もうお名前記憶しましたから大丈夫です。ははは」

 

          ◇◆◇

 

「よし」大山が拳を握り締める。「俺はこいつに賭ける」

「あー」住吉が唸る。「来ますかねえ」

「軽薄そうな男だな」石上が厳しい意見を述べる。

「でもかなり、気に入ってはいそうすね」伊勢も考えを述べる。

「さっきのおじさんよりは、彼だよね」酒林が評論する。

「何の相談ですか」木之花が訊ねる。

「あまつんに言い寄ってくるかどうか賭けてんの」大山が悪びれもせず答える。

「まったく」木之花は荒く溜息をついた。「暇な会社だわ」

「しかしあれは別嬪じゃの」宗像がにこやかに感想を述べる。「ええ女じゃ」

「タゴ……宗像支社長」木之花が拗ねたような声で呼ぶ。「ああいうのがお好みなんですか?」

「いやいや」宗像はからからと笑う。「羨ましいのよ。儂ゃ今、ラクダじゃからのう」

「あ……すみません」木之花は肩をすくめた。「どうか今しばらくのご辛抱を」

 

          ◇◆◇

 

 ――もし。

 地球はふと思った。

 もし、動物が――人間がここに発生していなかったなら、自分の“システム”はどんな風なものになっていたんだろう。それはもしかしたら今よりも穏やかだったかも知れないし、逆に今よりももっと活動的で攻撃的な、激しいものになっていたのかも知れない。それにより自分の――地球という星の寿命は延びたかも知れないし縮んだかも知れない――太陽系の寿命内で。

 ――神は何故、人間を愛してやまないのか――

 ずっとそれが、不思議で仕方なかった。けれど、今地球は思うのだった。

 ――それは多分、人間が、神を愛してやまないからだろうな。

 地球はまた、こうも思うのだった。

 ――もしかしたら、実は神を造ったのは、人間なのかも知れない。

 地球はそしてまた、システムを基本通りに動かし始めた。

 ――いつか。

 基本通りに動かしながら、地球は思うのだった。

 ――地道にこの動きを、辿って、そして……解明するのかな。

 

 ずず

 ずずず

 ず

 ……

 ずずずず

 

 ――私のすべての構造を、形成過程を、メカニズムを、君たちは。

 

 ず

 ずず

 ずず

 

 ――そしていつか、完璧に予測できるように、なるのかもね。

 

 ずずず

 ……

 ず

 

 ――君たちが“神”と呼んだ、この星の運動の法則すべてを。

 

 ずず

 ず

 ずずず

 

 地球は、比喩的にゆっくりと瞼を閉じた。

 

 ぶひひひ

 

 馬のいななく声がどこか遠くに聞えた。

 地球はふと、比喩的に薄く眼を開けたが、小さく笑ってまた瞼を閉じた。

 

          ◇◆◇

 

 OJT一行は主棟から離れた別棟に入り、エレベータで地下へ下りて行った。

「本原ちゃん」到着までの間、エレベータ内で結城が呼びかけた。

「はい」本原が返答した。

「俺は今、どんな顔をしているかな」結城が質問した。

「邪悪な顔をしています」本原が回答した。

「邪悪な顔?」結城が眼を見開いて訊き返した。

「はい」本原は頷いた。

「邪悪な顔か……」結城は復唱した。

「邪悪な顔です」本原は断定した。

「よし」結城は頷いた。「じゃあ、また魔物が出て来ても大丈夫だな」

「邪を以て魔を制するのか」時中がコメントする。

「ははは」女型天津が小さく苦笑する。

「いやあ、今度こそやってやりますよ。まじで」結城は目的も明確でない柔らかな決意を強く表明した。「本原ちゃん」また呼ぶ。

「はい」本原が返答する。

「俺は、決めた」結城は断言する。

「何をですか」本原は質問する。

「ネルンデルタール人の意地を見せてやる」結城は再度決意表明をした。

「ネアンではないですか。ネルンではなく」本原は訂正した。

「いい加減ローションから離れろ」時中は苦言を呈した。

 エレベータのドアが開き、一行はゴーグルライトを頼りに地下の狭く寒々しい岩肌剥きだしの通路を歩き始めた。

「本原ちゃん」先頭に立って歩きながら、結城がまた呼ぶ。

「はい」本原が返答する。

「俺たち、結」結城が続きを途中まで言いかける。

「お断りします」本原が明確に拒否する。

「婚しようか」結城が残りを言う。

 その後、一行は無言で歩き続けた。

 

◇◆◇◆了◆◇◆◇



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